芋粥 現代語訳
芥川竜之介(あくたがわりゅうのすけ)・1968年
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元慶の末か、仁和のはじめ頃の話だろう。
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元慶の末か、仁和の始にあつた話であらう。
どちらにしても、時代はこの話においてそれほど重要な役割を果たしていない。
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どちらにしても時代はさして、この話に大事な役を、勤めてゐない。
読者はただ、平安朝という遠い昔が舞台になっているということさえ知っていてくれれば、それでいい。――
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読者は唯、平安朝と云ふ、遠い昔が背景になつてゐると云ふ事を、知つてさへゐてくれれば、よいのである。――
その頃、摂政・藤原基経に仕えている侍の中に、某(なにがし)という五位の者がいた。
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その頃、摂政藤原基経に仕へてゐる侍の中に、某と云ふ五位があつた。
某と書かずに、きちんと姓名を明らかにしたいところだが、あいにく古い記録にはそれが伝わっていない。
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これも、某と書かずに、何の誰と、ちやんと姓名を明にしたいのであるが、生憎旧記には、それが伝はつてゐない。
おそらく実際のところ、伝わる値打ちもないほど平凡な男だったのだろう。
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恐らくは、実際、伝はる資格がない程、平凡な男だつたのであらう。
そもそも古い記録を書いた人たちというのは、平凡な人間や話にはあまり興味を持たなかったらしい。
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一体旧記の著者などと云ふ者は、平凡な人間や話に、余り興味を持たなかつたらしい。
この点で、彼らと日本の自然主義の作家たちとは、かなり違う。
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この点で、彼等と、日本の自然派の作家とは、大分ちがふ。
王朝時代の小説家は、意外と暇人ではない。――
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王朝時代の小説家は、存外、閑人でない。――
とにかく、摂政・藤原基経に仕えている侍の中に、某という五位がいた。
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兎に角、摂政藤原基経に仕へてゐる侍の中に、某と云ふ五位があつた。
これがこの話の主人公である。
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これが、この話の主人公である。
五位は、見た目がひどく冴えない男だった。
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五位は、風采の甚揚らない男であつた。
まず背が低い。
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第一背が低い。
それから赤鼻で、目尻が下がっている。
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それから赤鼻で、眼尻が下つてゐる。
口髭はもちろん薄い。
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口髭は勿論薄い。
頬がこけているので、あごが人並み外れて細く見える。
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頬が、こけてゐるから、頤が、人並はづれて、細く見える。
唇は――一つ一つ数え上げていればきりがない。
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唇は――一々、数へ立ててゐれば、際限はない。
我らが五位の外見は、それほど並外れてだらしなく出来上がっていたのだ。
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我五位の外貌はそれ程、非凡に、だらしなく、出来上つてゐたのである。
この男がいつ、どうして基経に仕えるようになったのか、それは誰も知らない。
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この男が、何時、どうして、基経に仕へるやうになつたのか、それは誰も知つてゐない。
ただ、かなり前から、同じように色あせた水干に、同じようなくたびれた烏帽子をかぶって、同じような役目を飽きもせず毎日繰り返していることだけは確かだ。
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が、余程以前から、同じやうな色の褪めた水干に、同じやうな萎々した烏帽子をかけて、同じやうな役目を、飽きずに、毎日、繰返してゐる事だけは、確である。
その結果だろうか、今では誰が見ても、この男に若い頃があったとは思えない。
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その結果であらう、今では、誰が見ても、この男に若い時があつたとは思はれない。
(五位は四十を過ぎていた。)
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(五位は四十を越してゐた。)
そのかわり、生まれた時からあの寒そうな赤鼻と、形ばかりの口髭を、朱雀大路の辻の風に吹かせていたという気がする。
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その代り、生れた時から、あの通り寒むさうな赤鼻と、形ばかりの口髭とを、朱雀大路の衢風に、吹かせてゐたと云ふ気がする。
上は主人の基経から、下は牛飼いの童まで、無意識のうちに誰もがそう信じて疑わない。
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上は主人の基経から、下は牛飼の童児まで、無意識ながら、悉さう信じて疑ふ者がない。
こういう外見を持った男が周囲からどんな扱いを受けるか、おそらく書くまでもないことだろう。
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かう云ふ風采を具へた男が、周囲から受ける待遇は、恐らく書くまでもないことであらう。
侍所にいる連中は、五位に対して、ほとんどハエほどの注意も払わない。
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侍所にゐる連中は、五位に対して、殆ど蠅程の注意も払はない。
位のある者もない者も合わせて二十人近い下役でさえ、彼の出入りには不思議なほど冷淡を極めていた。
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有位無位、併せて二十人に近い下役さへ、彼の出入りには、不思議な位、冷淡を極めてゐる。
五位が何か命じても、彼らが仲間同士の雑談をやめたことは一度もない。
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五位が何か云ひつけても、決して彼等同志の雑談をやめた事はない。
彼らにとって、空気の存在が見えないように、五位の存在も目に入らないのだろう。
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彼等にとつては、空気の存在が見えないやうに、五位の存在も、眼を遮らないのであらう。
下役でさえそうなのだから、別当とか侍所の司とかいう上役たちが最初から彼を相手にしないのは、むしろ当然の成り行きだ。
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下役でさへさうだとすれば、別当とか、侍所の司とか云ふ上役たちが頭から彼を相手にしないのは、寧ろ自然の数である。
彼らは五位に対するとき、ほとんど子供っぽくて意味のない悪意を、冷ややかな表情の裏に隠して、何を言うにも手まねだけで用を済ませた。
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彼等は、五位に対すると、殆ど、子供らしい無意味な悪意を、冷然とした表情の後に隠して、何を云ふのでも、手真似だけで用を足した。
人間に言葉があるのは、偶然ではない。
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人間に、言語があるのは、偶然ではない。
だから彼らも、手まねでは用が足りないことが時々ある。
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従つて、彼等も手真似では用を弁じない事が、時々ある。
ところが彼らはそれを、完全に五位の理解力に欠陥があるせいだと思っているらしい。
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が、彼等は、それを全然五位の悟性に、欠陥があるからだと、思つてゐるらしい。
そこで用が足りないと、この男の歪んだ揉み烏帽子の先から切れかけた草履の後まで、くまなく見上げたり見下したりして、それから鼻で笑いながら急に後ろを向いてしまう。
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そこで彼等は用が足りないと、この男の歪んだ揉烏帽子の先から、切れかかつた藁草履の尻まで、万遍なく見上げたり、見下したりして、それから、鼻で哂ひながら、急に後を向いてしまふ。
それでも五位は、腹を立てたことがない。
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それでも、五位は、腹を立てた事がない。
彼はあらゆる不正を、不正として感じないほど、意気地がなく臆病な人間だったのだ。
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彼は、一切の不正を、不正として感じない程、意気地のない、臆病な人間だつたのである。
ところが同僚の侍たちになると、進んで彼をもてあそぼうとした。
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所が、同僚の侍たちになると、進んで、彼を飜弄しようとした。
年上の同僚が彼の冴えない外見を材料に古い冗談を聞かせようとするように、年下の同僚もそれを機会に、いわゆる軽口や洒落の練習をしようとしたからだ。
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年かさの同僚が、彼れの振はない風采を材料にして、古い洒落を聞かせようとする如く、年下の同僚も、亦それを機会にして、所謂興言利口の練習をしようとしたからである。
彼らはこの五位の前で、その鼻と口髭と烏帽子と水干を品評して飽きることを知らなかった。
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彼等は、この五位の面前で、その鼻と口髭と、烏帽子と水干とを、品隲して飽きる事を知らなかつた。
それだけではない。
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そればかりではない。
彼が五、六年前に別れた出っ唇の女房と、その女房と関係があったという酒飲みの法師のことも、しばしば彼らの話題になった。
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彼が五六年前に別れたうけ唇の女房と、その女房と関係があつたと云ふ酒のみの法師とも、屡彼等の話題になつた。
おまけに、どうかすると彼らはひどくたちの悪いいたずらまでする。
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その上、どうかすると、彼等は甚、性質の悪い悪戯さへする。
それを今ここで一つ一つ列挙することはできない。
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それを今一々、列記する事は出来ない。
ただ、彼の篠枝の酒を飲んで、後に小便を入れておいたという話を書けば、それ以外のことはだいたい想像がつくと思う。
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が、彼の篠枝の酒を飲んで、後へ尿を入れて置いたと云ふ事を書けば、その外は凡、想像される事だらうと思ふ。
しかし五位は、これらのからかいに対して、まったく無感覚だった。
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しかし、五位はこれらの揶揄に対して、全然無感覚であつた。
少なくとも傍目には、無感覚であるように見えた。
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少くもわき眼には、無感覚であるらしく思はれた。
彼は何を言われても、顔色一つ変えたことがない。
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彼は何を云はれても、顔の色さへ変へた事がない。
黙って例の薄い口髭を撫でながら、すべきことをしてすましている。
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黙つて例の薄い口髭を撫でながら、するだけの事をしてすましてゐる。
ただ、同僚のいたずらが度を越して、髪の結い目に紙切れをつけたり、太刀の鞘に草履を結びつけたりすると、彼は笑うのか泣くのかわからないような笑顔をして、「いけませんぞ、あなたたちは。」
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唯、同僚の悪戯が、嵩じすぎて、髷に紙切れをつけたり、太刀の鞘に草履を結びつけたりすると、彼は笑ふのか、泣くのか、わからないやうな笑顔をして、「いけぬのう、お身たちは。」
と言う。
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と云ふ。
その顔を見てその声を聞いた者は、誰でも一瞬、なんともいじらしい気持ちに打たれてしまう。
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その顔を見、その声を聞いた者は、誰でも一時或いぢらしさに打たれてしまふ。
(いじめられているのは、一人、この赤鼻の五位だけではない――彼らの知らない誰かが、多くの誰かが、彼の顔と声を借りて、彼らの薄情さを責めている。)――
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(彼等にいぢめられるのは、一人、この赤鼻の五位だけではない、彼等の知らない誰かが――多数の誰かが、彼の顔と声とを借りて、彼等の無情を責めてゐる。)――
そんな気が、おぼろげながら彼らの心に一瞬しみ込んでくるからだ。
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さう云ふ気が、朧げながら、彼等の心に、一瞬の間、しみこんで来るからである。
ただ、その時の気持ちをいつまでも持ち続ける者は、ごく少ない。
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唯その時の心もちを、何時までも持続ける者は甚少い。
その少ない一人に、ある無位の侍がいた。
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その少い中の一人に、或無位の侍があつた。
これは丹波の国から来た男で、まだやわらかい口髭がやっと鼻の下に生えかけている程度の青年だ。
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これは丹波の国から来た男で、まだ柔かい口髭が、やつと鼻の下に、生えかかつた位の青年である。
もちろんこの男も最初はみんなと一緒に、何の理由もなく赤鼻の五位を軽蔑した。
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勿論、この男も始めは皆と一しよに、何の理由もなく、赤鼻の五位を軽蔑した。
ところが、ある日何かの折に「いけませんぞ、あなたたちは」
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所が、或日何かの折に、「いけぬのう、お身たちは」
という声を聞いてからは、どうしてもそれが頭を離れない。
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と云ふ声を聞いてからは、どうしても、それが頭を離れない。
それ以来、この男の目にだけは、五位がまったく別人として映るようになった。
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それ以来、この男の眼にだけは、五位が全く別人として、映るやうになつた。
栄養が足りず血色が悪く、間の抜けた五位の顔にも、世間の仕打ちに泣きそうになった「人間」
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栄養の不足した、血色の悪い、間のぬけた五位の顔にも、世間の迫害にべそを掻いた、「人間」
がのぞいているからだ。
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が覗いてゐるからである。
この無位の侍には、五位のことを考えるたびに、世の中のすべてが急に本来の下等さをさらけ出すように思えた。
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この無位の侍には、五位の事を考へる度に、世の中のすべてが急に本来の下等さを露すやうに思はれた。
そして同時に、しもやけのような赤鼻と、数えるほどしかない口髭とが、なんとなく一種の慰めを自分の心に伝えてくれるように思えた……
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さうしてそれと同時に霜げた赤鼻と数へる程の口髭とが何となく一味の慰安を自分の心に伝へてくれるやうに思はれた。……
しかしそれは、ただこの男一人に限ったことだ。
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しかし、それは、唯この男一人に、限つた事である。
こういう例外を除けば、五位は相変わらず、周囲の軽蔑の中で犬のような生活を続けていかなければならなかった。
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かう云ふ例外を除けば、五位は、依然として周囲の軽蔑の中に、犬のやうな生活を続けて行かなければならなかつた。
まず彼には、まともな着物が一枚もない。
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第一彼には着物らしい着物が一つもない。
青鈍(あおにび)の水干と同じ色の指貫が一枚ずつあるだけで、今ではそれが色あせて、藍とも紺ともつかない色になっている。
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青鈍の水干と、同じ色の指貫とが一つづつあるのが、今ではそれが上白んで、藍とも紺とも、つかないやうな色に、なつてゐる。
水干はそれでも肩が少し落ちて、丸組の緒や菊綴の色がおかしくなっているだけだが、指貫となると裾あたりのいたみ方が普通ではない。
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水干はそれでも、肩が少し落ちて、丸組の緒や菊綴の色が怪しくなつてゐるだけだが、指貫になると、裾のあたりのいたみ方が一通りでない。
その指貫の中から、下の袴もはかない細い足が出ているのを見ると、口の悪い同僚でなくても、やせた公卿の車を引いているやせ牛の歩みを見るような、みすぼらしい気持ちがする。
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その指貫の中から、下の袴もはかない、細い足が出てゐるのを見ると、口の悪い同僚でなくとも、痩公卿の車を牽いてゐる、痩牛の歩みを見るやうな、みすぼらしい心もちがする。
それに差している太刀もひどく頼りない代物で、柄の金具も怪しければ、黒鞘の塗りも剥げかかっている。
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それに佩いてゐる太刀も、頗る覚束ない物で、柄の金具も如何はしければ、黒鞘の塗も剥げかかつてゐる。
これが例の赤鼻で、だらしなく草履を引きずりながら、ただでさえ猫背なのをさらに寒空の下に背を丸めて、もの欲しそうに左右を眺め眺め、小刻みな歩みで歩くのだから、通りがかりの物売りにまでばかにされるのも無理はない。
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これが例の赤鼻で、だらしなく草履をひきずりながら、唯でさへ猫背なのを、一層寒空の下に背ぐくまつて、もの欲しさうに、左右を眺め眺め、きざみ足に歩くのだから、通りがかりの物売りまで莫迦にするのも、無理はない。
実際、こんなことさえあった……
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現に、かう云ふ事さへあつた。……
ある日、五位が三条坊門から神泉苑の方へ向かっていると、子供が六、七人、道ばたに集まって何かしているのを見た。
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或る日、五位が三条坊門を神泉苑の方へ行く所で、子供が六七人、路ばたに集つて、何かしてゐるのを見た事がある。
「こまつぶり」
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「こまつぶり」
でも回しているのかと思って後ろから覗いてみると、どこかから迷い込んできた毛並みの長い犬の首に縄をつけて、打ったりたたいたりしていた。
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でも、廻してゐるのかと思つて、後ろから覗いて見ると、何処かから迷つて来た、尨犬の首へ繩をつけて、打つたり殴いたりしてゐるのであつた。
臆病な五位は、これまで何かに同情することがあっても、周りの目を気にして、一度もそれを行動に表したことがない。
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臆病な五位は、これまで何かに同情を寄せる事があつても、あたりへ気を兼ねて、まだ一度もそれを行為に現はしたことがない。
ただこの時だけは、相手が子供だということで、いくらか勇気が出た。
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が、この時だけは相手が子供だと云ふので、幾分か勇気が出た。
そこでできるだけ笑顔を作りながら、年かさらしい子供の肩を叩いて、「もう、許してやりなさい。犬も打たれれば痛いのだよ」
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そこで出来るだけ、笑顔をつくりながら、年かさらしい子供の肩を叩いて、「もう、堪忍してやりなされ。犬も打たれれば、痛いでのう」
と声をかけた。
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と声をかけた。
すると、その子供はふり返りながら、上目をつかって蔑むようにじろじろ五位の姿を見た。
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すると、その子供はふりかへりながら、上眼を使つて、蔑すむやうに、ぢろぢろ五位の姿を見た。
たとえば侍所の別当が、用が通じない時にこの男を見るような顔をして、見たのだ。
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云はば侍所の別当が用の通じない時に、この男を見るやうな顔をして、見たのである。
「よけいなお世話は焼いてもらいたくない。」
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「いらぬ世話はやかれたうもない。」
その子供は一歩下がりながら、高慢な唇をそらせてこう言った。
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その子供は一足下りながら、高慢な唇を反らせて、かう云つた。
「何だ、この赤っぱなめが。」
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「何ぢや、この鼻赤めが。」
五位はこの言葉が自分の顔を打ったように感じた。
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五位はこの語が自分の顔を打つたやうに感じた。
しかしそれは、悪口を言われて腹が立ったからでは毛頭ない。
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が、それは悪態をつかれて、腹が立つたからでは毛頭ない。
言わなくていいことを言って恥をかいた自分が、情けなくなったからだ。
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云はなくともいい事を云つて、恥をかいた自分が、情なくなつたからである。
彼はきまりの悪さを苦しそうな笑顔に隠しながら、黙ってまた神泉苑の方へ歩き出した。
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彼は、きまりが悪いのを苦しい笑顔に隠しながら、黙つて、又、神泉苑の方へ歩き出した。
後ろでは子供が六、七人、肩を寄せて「べっかっこう」
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後では、子供が、六七人、肩を寄せて、「べつかつかう」
をしたり舌を出したりしている。
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をしたり、舌を出したりしてゐる。
もちろん彼はそんなことを知らない。
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勿論彼はそんな事を知らない。
知っていたとしても、それがこの意気地のない五位にとって何だというのだろう……
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知つてゐたにしても、それが、この意気地のない五位にとつて、何であらう。……
では、この話の主人公は、ただ軽蔑されるためだけに生まれてきた人間で、別に何の望みも持っていないのかというと、そうでもない。
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では、この話の主人公は、唯、軽蔑される為にのみ生れて来た人間で、別に何の希望も持つてゐないかと云ふと、さうでもない。
五位は五、六年前から芋粥というものに、異常な執着を持っている。
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五位は五六年前から芋粥と云ふ物に、異常な執着を持つてゐる。
芋粥とは山芋を切り込んで、甘葛(あまづら)の汁で煮た粥のことだ。
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芋粥とは山の芋を中に切込んで、それを甘葛の汁で煮た、粥の事を云ふのである。
当時はこれが、この上ない美食として、上は天子のお膳にさえのぼせられた。
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当時はこれが、無上の佳味として、上は万乗の君の食膳にさへ、上せられた。
だから、我らが五位のような人間の口に入るのは、年に一度、臨時の客の折にしかない。
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従つて、吾五位の如き人間の口へは、年に一度、臨時の客の折にしか、はいらない。
その時でさえ、飲めるのはわずかに喉を潤すほどの少量だ。
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その時でさへ、飲めるのは僅に喉を沾すに足る程の少量である。
そこで芋粥をお腹いっぱい飲んでみたいということが、ずっと以前から彼の唯一の望みになっていた。
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そこで芋粥を飽きる程飲んで見たいと云ふ事が、久しい前から、彼の唯一の欲望になつてゐた。
もちろん彼は、それを誰にも話したことがない。
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勿論、彼は、それを誰にも話した事がない。
いや、彼自身でさえそれが自分の一生を貫く望みだとは、はっきりと意識したことがなかっただろう。
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いや彼自身さへそれが、彼の一生を貫いてゐる欲望だとは、明白に意識しなかつた事であらう。
しかし事実は、それのために生きていると言っても差し支えないほどだった。――
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が事実は彼がその為に、生きてゐると云つても、差支ない程であつた。――
人間はときとして、叶うかどうかわからない望みのために、一生を捧げてしまう。
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人間は、時として、充されるか充されないか、わからない欲望の為に、一生を捧げてしまふ。
その愚かさを笑う者は、結局のところ、人生に対する傍観者に過ぎない。
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その愚を哂ふ者は、畢竟、人生に対する路傍の人に過ぎない。
しかし五位が夢見ていた「芋粥に飽きるほど食べたい」
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しかし、五位が夢想してゐた、「芋粥に飽かむ」
ということは、意外にも簡単に現実のものとなって現れた。
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事は、存外容易に事実となつて現れた。
その一部始終を書こうというのが、この芋粥の話の目的だ。
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その始終を書かうと云ふのが、芋粥の話の目的なのである。
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ある年の正月二日に、基経の邸で、いわゆる臨時の客が催された時のことだ。
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或年の正月二日、基経の第に、所謂臨時の客があつた時の事である。
(臨時の客は、二宮の大饗と同じ日に摂政関白家が大臣以下の上達部を招いて催す饗宴で、大饗と特に変わりはない。)
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(臨時の客は二宮の大饗と同日に摂政関白家が、大臣以下の上達部を招いて催す饗宴で、大饗と別に変りがない。)
五位も他の侍たちに交じって、その残り物のおこぼれに与った。
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五位も、外の侍たちにまじつて、その残肴の相伴をした。
当時はまだ、食事を持ち帰る習慣がなく、残り物はその家の侍が一堂に集まって食べることになっていたからだ。
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当時はまだ、取食みの習慣がなくて、残肴は、その家の侍が一堂に集まつて、食ふ事になつてゐたからである。
もっとも、大饗に等しいとはいっても昔のことだから、品数が多い割にたいしたものはなく、餅、伏菟(ふと)、蒸し鮑、干し鳥、宇治の稚魚、近江の鮒、鯛の薄切り、鮭の卵、焼きタコ、大きなエビ、大きな蜜柑、小さな蜜柑、橘、串柿などの類だ。
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尤も、大饗に等しいと云つても昔の事だから、品数の多い割りに碌な物はない、餅、伏菟、蒸鮑、干鳥、宇治の氷魚、近江の鮒、鯛の楚割、鮭の内子、焼蛸、大海老、大柑子、小柑子、橘、串柿などの類である。
ただ、その中に例の芋粥があった。
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唯、その中に、例の芋粥があつた。
五位は毎年、この芋粥を楽しみにしている。
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五位は毎年、この芋粥を楽しみにしてゐる。
ところがいつも人数が多いので、自分が飲めるのはわずかしかない。
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が、何時も人数が多いので、自分が飲めるのは、いくらもない。
それが今年は特に少なかった。
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それが今年は、特に、少かつた。
そして気のせいか、いつもより余程味がいい。
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さうして気のせゐか、何時もより、余程味が好い。
そこで彼は飲み終わった椀をじっくり眺めながら、薄い口髭についている滴を手のひらで拭いて、誰に言うともなく「いつになったら、これに飽きることができるのだろうか」
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そこで、彼は飲んでしまつた後の椀をしげしげと眺めながら、うすい口髭についてゐる滴を、掌で拭いて誰に云ふともなく、「何時になつたら、これに飽ける事かのう」
とこう言った。
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と、かう云つた。
「大夫殿は、芋粥に飽きたことがないそうで。」
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「大夫殿は、芋粥に飽かれた事がないさうな。」
五位の言葉が終わらないうちに、誰かが嘲り笑った。
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五位の語が完らない中に、誰かが、嘲笑つた。
渋みのある、おおらかな、武人らしい声だ。
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錆のある、鷹揚な、武人らしい声である。
五位は猫背の首を上げて、臆病そうにその人の方を見た。
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五位は、猫背の首を挙げて、臆病らしく、その人の方を見た。
声の主は、その頃同じく基経の直属になっていた、民部卿時長の子・藤原利仁だ。
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声の主は、その頃同じ基経の恪勤になつてゐた、民部卿時長の子藤原利仁である。
肩幅が広く、身長が群を抜いた逞しい大男で、これはゆで栗を噛みながら黒酒の杯を重ねていた。
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肩幅の広い、身長の群を抜いた逞しい大男で、これは、煠栗を噛みながら、黒酒の杯を重ねてゐた。
もうかなり酔いが回っているらしい。
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もう大分酔がまはつてゐるらしい。
「お気の毒なことで。」
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「お気の毒な事ぢやの。」
利仁は、五位が顔を上げたのを見ると、軽蔑と憐れみを一つにしたような声で話を続けた。
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利仁は、五位が顔を挙げたのを見ると、軽蔑と憐憫とを一つにしたやうな声で、語を継いだ。
「お望みなら、利仁がお腹いっぱい召し上がらせましょう。」
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「お望みなら、利仁がお飽かせ申さう。」
いつもいじめられている犬は、たまに肉をもらっても、なかなか近寄らない。
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始終、いぢめられてゐる犬は、たまに肉を貰つても容易によりつかない。
五位は、笑うのか泣くのかわからないような例の笑顔をして、利仁の顔と空になった椀とを交互に見比べていた。
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五位は、例の笑ふのか、泣くのか、わからないやうな笑顔をして、利仁の顔と、空の椀とを等分に見比べてゐた。
「嫌でございますか。」
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「おいやかな。」
「……」
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「……」
「どうでしょう。」
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「どうぢや。」
「……」
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「……」
五位は、そのうちに、大勢の視線が自分の上に集まっているのを感じ始めた。
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五位は、その中に、衆人の視線が、自分の上に、集まつてゐるのを感じ出した。
返事の仕方一つで、また一同の嘲弄を受けなければならない。
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答へ方一つで、又、一同の嘲弄を、受けなければならない。
あるいは、どう答えても結局ばかにされそうな気さえする。
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或は、どう答へても、結局、莫迦にされさうな気さへする。
彼は躊躇した。
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彼は躊躇した。
もしその時、相手が少し面倒くさそうな声で「嫌なら、無理にとは申しません」
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もし、その時に、相手が、少し面倒臭そうな声で、「おいやなら、たつてとは申すまい」
と言わなかったなら、五位はいつまでも椀と利仁とを見比べていたことだろう。
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と云はなかつたなら、五位は、何時までも、椀と利仁とを、見比べてゐた事であらう。
彼はそれを聞くと、あわてて答えた。
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彼は、それを聞くと、慌しく答へた。
「いや……ありがとうございます。」
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「いや……忝うござる。」
このやりとりを聞いていた者は、皆いっせいに失笑した。
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この問答を聞いてゐた者は、皆、一時に、失笑した。
「いや……ありがとうございます。」
原文を見る
「いや……忝うござる。」
――こう言って、五位の答えを真似する者さえいる。
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――かう云つて、五位の答を、真似る者さへある。
いわゆる橙や蜜柑を盛った窪坏(くぼつき)や高坏の上で、多くの揉み烏帽子や立て烏帽子が、笑い声と共にしばらく波のように動いた。
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所謂、橙黄橘紅を盛つた窪坏や高坏の上に多くの揉烏帽子や立烏帽子が、笑声と共に一しきり、波のやうに動いた。
中でも最も大きな声で、機嫌よく笑ったのは、利仁自身だ。
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中でも、最、大きな声で、機嫌よく、笑つたのは、利仁自身である。
「では、そのうちにお誘い申しましょう。」
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「では、その中に、御誘ひ申さう。」
そう言いながら、彼はちょっと顔をしかめた。
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さう云ひながら、彼は、ちよいと顔をしかめた。
こみ上げてくる笑いと今飲んだ酒とが、喉で一つになったからだ。
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こみ上げて来る笑と今飲んだ酒とが、喉で一つになつたからである。
「……確かに、よろしいな。」
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「……しかと、よろしいな。」
「ありがとうございます。」
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「忝うござる。」
五位は赤くなって、どもりながら、また前の答えを繰り返した。
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五位は赤くなつて、吃りながら、又、前の答を繰返した。
一同が今度も笑ったのは言うまでもない。
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一同が今度も、笑つたのは、云ふまでもない。
それを言わせたくて、わざわざ念を押した当の利仁に至っては、前よりもいっそうおかしそうに広い肩を揺すって、大笑いした。
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それが云はせたさに、わざわざ念を押した当の利仁に至つては、前よりも一層可笑しさうに広い肩をゆすつて、哄笑した。
この北国育ちの荒武者は、生きる方法を二つしか知らない。
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この朔北の野人は、生活の方法を二つしか心得てゐない。
一つは酒を飲むことで、もう一つは笑うことだ。
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一つは酒を飲む事で、他の一つは笑ふ事である。
しかし幸いにして、話の中心はほどなく、この二人を離れた。
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しかし幸に談話の中心は、程なく、この二人を離れてしまつた。
これはもしかすると、他の連中が、たとえ嘲弄にしろ、一同の注意をこの赤鼻の五位に集中させるのが不快だったからかもしれない。
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これは事によると、外の連中が、たとひ嘲弄にしろ、一同の注意をこの赤鼻の五位に集中させるのが、不快だつたからかも知れない。
とにかく話題はあちらこちらへと移って、酒も肴も残り少なくなった頃には、某という侍学生が、行縢(むかばき)の片皮に両足を入れて馬に乗ろうとした話が、一座の興味を集めていた。
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兎に角、談柄はそれからそれへと移つて、酒も肴も残少になつた時分には、某と云ふ侍学生が、行縢の片皮へ、両足を入れて馬に乗らうとした話が、一座の興味を集めてゐた。
しかし五位だけは、まるで他の話が聞こえていないようだ。
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が、五位だけは、まるで外の話が聞えないらしい。
おそらく「芋粥」の二文字が彼のすべての思考を支配しているからだろう。
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恐らく芋粥の二字が、彼のすべての思量を支配してゐるからであらう。
目の前に雉子の焼き物があっても、箸をつけない。
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前に雉子の炙いたのがあつても、箸をつけない。
黒酒の杯があっても、口をつけない。
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黒酒の杯があつても、口を触れない。
彼はただ、両手を膝の上に置いて、見合いをする娘のように、霜に染まりかけた鬢のあたりまで初々しく上気しながら、いつまでも空になった黒塗りの椀を見つめて、うっとりと微笑んでいるのだ……
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彼は、唯、両手を膝の上に置いて、見合ひをする娘のやうに霜に犯されかかつた鬢の辺まで、初心らしく上気しながら、何時までも空になつた黒塗の椀を見つめて、多愛もなく、微笑してゐるのである。……
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それから四、五日たった日の午前、加茂川の河原に沿って粟田口へ通じる街道を、静かに馬を進めてゆく二人の男がいた。
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それから、四五日たつた日の午前、加茂川の河原に沿つて、粟田口へ通ふ街道を、静に馬を進めてゆく二人の男があつた。
一人は濃い縹(はなだ)色の狩衣に同じ色の袴をはいて、打ち出しの太刀を差した「鬚が黒く鬢際がはっきりした」
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一人は濃い縹の狩衣に同じ色の袴をして、打出の太刀を佩いた「鬚黒く鬢ぐきよき」
男だ。
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男である。
もう一人は、みすぼらしい青鈍の水干に、薄い綿入れの衣を二枚ほど重ねて着た、四十がらみの侍で、帯の結び方のだらしない様子といい、赤鼻でしかも穴のあたりが鼻水で濡れている様子といい、身の周り万端みすぼらしいことこの上ない。
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もう一人は、みすぼらしい青鈍の水干に、薄綿の衣を二つばかり重ねて着た、四十恰好の侍で、これは、帯のむすび方のだらしのない容子と云ひ、赤鼻でしかも穴のあたりが、洟にぬれてゐる容子と云ひ、身のまはり万端のみすぼらしい事夥しい。
もっとも、馬は二人とも、前は月毛、後は蘆毛の三歳の若駒で、道を行く物売りや侍も振り向いて見るほどの名馬だ。
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尤も、馬は二人とも、前のは月毛、後のは蘆毛の三歳駒で、道をゆく物売りや侍も、振向いて見る程の駿足である。
その後ろからさらに二人、馬の歩みに遅れまいとしてついていくのは、調度掛と舎人に違いない。――
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その後から又二人、馬の歩みに遅れまいとして随いて行くのは、調度掛と舎人とに相違ない。――
これが利仁と五位の一行であることは、わざわざここで断るまでもないことだろう。
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これが、利仁と五位との一行である事は、わざわざ、ここに断るまでもない話であらう。
冬とはいいながら、穏やかに晴れた日で、白くなった河原の石の間、さらさらと流れる水のほとりに枯れ立っているヨモギの葉を揺らす程の風もない。
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冬とは云ひながら、物静に晴れた日で、白けた河原の石の間、潺湲たる水の辺に立枯れてゐる蓬の葉を、ゆする程の風もない。
川沿いの背の低い柳は、葉のない枝に飴のように滑らかな日の光を受けて、梢にいるセキレイが尾を動かすのさえ、くっきりとその影を街道に落としている。
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川に臨んだ背の低い柳は、葉のない枝に飴の如く滑かな日の光りをうけて、梢にゐる鶺鴒の尾を動かすのさへ、鮮かに、それと、影を街道に落してゐる。
東山の暗い緑の上に、霜に焦げたビロードのような丸い肩を出しているのは、おそらく比叡山だろう。
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東山の暗い緑の上に、霜に焦げた天鵞絨のやうな肩を、丸々と出してゐるのは、大方、比叡の山であらう。
二人はその中で、鞍の螺鈿をまぶしく日に輝かせながら、鞭も加えず悠々と粟田口を目指して行くのだ。
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二人はその中に鞍の螺鈿を、まばゆく日にきらめかせながら鞭をも加へず悠々と、粟田口を指して行くのである。
「どこでございますか、私をお連れになるのは。」
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「どこでござるかな、手前をつれて行つて、やらうと仰せられるのは。」
五位が慣れない手で手綱を繰りながら、言った。
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五位が馴れない手に手綱をかいくりながら、云つた。
「すぐそこだ。心配されるほど遠くはない。」
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「すぐ、そこぢや。お案じになる程遠くはない。」
「すると、粟田口あたりでございますか。」
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「すると、粟田口辺でござるかな。」
「まあ、そう思われたらいいだろう。」
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「まづ、さう思はれたがよろしからう。」
利仁は今朝五位を誘うのに、東山の近くに温泉の湧いている所があるから、そこへ行こうと言って出てきたのだ。
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利仁は今朝五位を誘ふのに、東山の近くに湯の湧いてゐる所があるから、そこへ行かうと云つて出て来たのである。
赤鼻の五位はそれを真に受けた。
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赤鼻の五位は、それを真にうけた。
長い間湯に入っていないので、体中がこの間から何となくかゆい。
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久しく湯にはいらないので、体中がこの間からむづ痒い。
芋粥のご馳走になった上に、入浴もできるなら、これ以上ない幸せだ。
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芋粥の馳走になつた上に、入湯が出来れば、願つてもない仕合せである。
そう思って、前もって利仁が引かせてきた蘆毛の馬にまたがった。
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かう思つて、予め利仁が牽かせて来た、蘆毛の馬に跨つた。
ところが、馬を並べてここまで来てみると、どうも利仁はこの近くへ来るつもりではないらしい。
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所が、轡を並べて此処まで来て見ると、どうも利仁はこの近所へ来るつもりではないらしい。
実際、そうこうしているうちに、粟田口を通り過ぎた。
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現に、さうかうしてゐる中に、粟田口は通りすぎた。
「粟田口ではないのですな。」
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「粟田口では、ござらぬのう。」
「いかにも、もう少し先でな。」
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「いかにも、もそつと、あなたでな。」
利仁は微笑を含みながら、わざと五位の顔を見ないようにして、静かに馬を歩ませている。
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利仁は、微笑を含みながら、わざと、五位の顔を見ないやうにして、静に馬を歩ませてゐる。
両側の人家は次第に少なくなって、今は広々とした冬の田の上に、餌をあさるカラスが見えるばかり、山の陰に消え残った雪の色がかすかに青く霞んでいる。
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両側の人家は、次第に稀になつて、今は、広々とした冬田の上に、餌をあさる鴉が見えるばかり、山の陰に消残つて、雪の色も仄に青く煙つてゐる。
晴れてはいるが、とがったハゼの梢が目に刺さるように空を突いているのさえ、なんとなく肌寒い。
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晴れながら、とげとげしい櫨の梢が、眼に痛く空を刺してゐるのさへ、何となく肌寒い。
「では、山科あたりでございますか。」
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「では、山科辺ででもござるかな。」
「山科はここだ。もう少し先でございますよ。」
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「山科は、これぢや。もそつと、さきでござるよ。」
なるほど、そう言っているうちに山科も通り過ぎた。
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成程、さう云ふ中に、山科も通りすぎた。
それどころではない。
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それ所ではない。
いつの間にか関山も後にして、あれこれするうちに昼を少し過ぎた頃には、とうとう三井寺の前まで来た。
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何かとする中に、関山も後にして、彼是、午少しすぎた時分には、とうとう三井寺の前へ来た。
三井寺には、利仁の親しくしている僧がいる。
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三井寺には、利仁の懇意にしてゐる僧がある。
二人はその僧を訪ねて、昼食のご馳走になった。
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二人はその僧を訪ねて、午餐の馳走になつた。
それが済むと、また馬に乗って道を急ぐ。
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それがすむと、又、馬に乗つて、途を急ぐ。
行く手は今まで来た道に比べると、はるかに人の気配が少ない。
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行手は今まで来た路に比べると遙に人煙が少ない。
特に当時は盗賊があちこちに横行している、物騒な時代だ。――
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殊に当時は盗賊が四方に横行した、物騒な時代である。――
五位は猫背をいっそう低くしながら、利仁の顔を見上げるようにして尋ねた。
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五位は猫背を一層低くしながら、利仁の顔を見上げるやうにして訊ねた。
「まだ先でございますか。」
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「まだ、さきでござるのう。」
利仁は微笑した。
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利仁は微笑した。
いたずらをして、それを見つけられそうになった子供が、年長者に対するような微笑だ。
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悪戯をして、それを見つけられさうになつた子供が、年長者に向つてするやうな微笑である。
鼻の先に寄せたしわと、目尻に溜めた筋肉の緩みとが、笑ってしまおうか、やめようかとためらっているようだ。
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鼻の先へよせた皺と、眼尻にたたへた筋肉のたるみとが、笑つてしまはうか、しまふまいかとためらつてゐるらしい。
そしてとうとう、こう言った。
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さうして、とうとう、かう云つた。
「実はな、敦賀までお連れしようと思っていたのだ。」
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「実はな、敦賀まで、お連れ申さうと思うたのぢや。」
笑いながら、利仁は鞭を挙げて遠い空を指さした。
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笑ひながら、利仁は鞭を挙げて遠くの空を指さした。
その鞭の下には、きらきらと輝いて、午後の日を受けた近江の湖が光っている。
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その鞭の下には、的皪として、午後の日を受けた近江の湖が光つてゐる。
五位は、狼狽した。
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五位は、狼狽した。
「敦賀と申しますと、あの越前の敦賀でございますか。あの越前の――」
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「敦賀と申すと、あの越前の敦賀でござるかな。あの越前の――」
利仁が敦賀の人・藤原有仁の婿になってから、多くは敦賀に住んでいるということも、日頃から聞いていないわけではない。
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利仁が、敦賀の人、藤原有仁の女婿になつてから、多くは敦賀に住んでゐると云ふ事も、日頃から聞いてゐない事はない。
しかし、その敦賀まで自分を連れていく気だとは、今の今まで思わなかった。
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が、その敦賀まで自分をつれて行く気だらうとは、今の今まで思はなかつた。
まず、いくつもの山や川を隔てた越前の国へ、この通りわずか二人の供だけを連れて、どうして無事に行かれようか。
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第一、幾多の山河を隔ててゐる越前の国へ、この通り、僅二人の伴人をつれただけで、どうして無事に行かれよう。
それに近頃は、旅人が盗賊に殺されたという噂さえ各地にある。――
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ましてこの頃は、往来の旅人が、盗賊の為に殺されたと云ふ噂さへ、諸方にある。――
五位は嘆願するように、利仁の顔を見た。
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五位は歎願するやうに、利仁の顔を見た。
「それはまた、とんでもない、東山だと思えば山科、山科だと思えば三井寺、あげくの果てが越前の敦賀とは、一体どういうことでございます。最初からそうおっしゃっていただければ、下人どもなりと連れてきたものを。――敦賀とは、とんでもない。」
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「それは又、滅相な、東山ぢやと心得れば、山科。山科ぢやと心得れば、三井寺。揚句が越前の敦賀とは、一体どうしたと云ふ事でござる。始めから、さう仰せられうなら、下人共なりと、召つれようものを。――敦賀とは、滅相な。」
五位は、ほとんど泣きそうになりながら、つぶやいた。
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五位は、殆どべそを掻かないばかりになつて、呟いた。
もし「芋粥に飽きたい」
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もし「芋粥に飽かむ」
ということが彼の勇気を奮い立たせなかったなら、彼はおそらくそこで別れて京都へ一人で帰ってきていただろう。
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事が、彼の勇気を鼓舞しなかつたとしたら、彼は恐らく、そこから別れて、京都へ独り帰つて来た事であらう。
「利仁一人いれば、千人と思ってください。道中の心配は無用でございます。」
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「利仁が一人居るのは、千人ともお思ひなされ。路次の心配は、御無用ぢや。」
五位が狼狽するのを見ると、利仁は少し眉をひそめながら、嘲り笑った。
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五位の狼狽するのを見ると、利仁は、少し眉を顰めながら、嘲笑つた。
そして調度掛を呼び寄せて、持たせてきた壺矢箙(つぼやなぐい)を背に負うと、やはりその手から黒漆の真弓を受け取って、それを馬の鞍の上に横にしながら、先に立って馬を進めた。
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さうして調度掛を呼寄せて、持たせて来た壺胡籙を背に負ふと、やはり、その手から、黒漆の真弓をうけ取つて、それを鞍上に横へながら、先に立つて、馬を進めた。
こうなった以上、意気地のない五位は、利仁の意志に盲目的に従うほかに仕方がない。
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かうなる以上、意気地のない五位は、利仁の意志に盲従するより外に仕方がない。
そこで彼は、心細そうに荒涼とした周囲の野を眺めながら、うろ覚えの観音経を口の中で唱え唱え、例の赤鼻を鞍の前輪にすりつけるようにして、頼りない馬の歩みをいつもどおりとぼとぼと進めていった。
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それで、彼は心細さうに、荒涼とした周囲の原野を眺めながら、うろ覚えの観音経を口の中に念じ念じ、例の赤鼻を鞍の前輪にすりつけるやうにして、覚束ない馬の歩みを、不相変とぼとぼと進めて行つた。
馬の蹄が響く野は、広々とした枯れ草に覆われて、あちこちにある水たまりも、冷たく青空を映したまま、この冬の午後をそのままいつか凍ってしまうかと思われる。
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馬蹄の反響する野は、茫々たる黄茅に蔽はれて、その所々にある行潦も、つめたく、青空を映したまま、この冬の午後を、何時かそれなり凍つてしまふかと疑はれる。
その果てには、一帯の山並みが日に背いているせいか、輝くはずの残雪の光もなく、紫がかった暗い色を長々と塗りつけているが、それさえ寂しげな枯れ薄に遮られて、二人の従者の目には入らないことが多い。――
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その涯には、一帯の山脈が、日に背いてゐるせゐか、かがやく可き残雪の光もなく、紫がかつた暗い色を、長々となすつてゐるが、それさへ蕭条たる幾叢の枯薄に遮られて、二人の従者の眼には、はいらない事が多い。――
すると利仁が、突然五位の方を振り返って声をかけた。
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すると、利仁が、突然、五位の方をふりむいて、声をかけた。
「あそこに、よい使者が参った。敦賀への言伝を申そう。」
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「あれに、よい使者が参つた。敦賀への言づけを申さう。」
五位は利仁の言う意味がよくわからないので、おそるおそるその弓で指さす方を眺めてみた。
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五位は利仁の云ふ意味が、よくわからないので、怖々ながら、その弓で指さす方を、眺めて見た。
もとより人の姿が見えるような所ではない。
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元より人の姿が見えるやうな所ではない。
ただ、野ブドウか何かの蔓が灌木の一群に絡みついている中を、一匹の狐が、暖かな毛の色を傾きかけた日にさらしながら、のそりのそり歩いていく。――
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唯、野葡萄か何かの蔓が、灌木の一むらにからみついてゐる中を、一疋の狐が、暖かな毛の色を、傾きかけた日に曝しながら、のそりのそり歩いて行く。――
と思う間に、狐は慌ただしく身を躍らせて、一散にどこともなく走り出した。
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と思ふ中に、狐は、慌ただしく身を跳らせて、一散に、どこともなく走り出した。
利仁が急に鞭を鳴らして、その方へ馬を飛ばし始めたからだ。
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利仁が急に、鞭を鳴らせて、その方へ馬を飛ばし始めたからである。
五位も、われを忘れて利仁の後を追った。
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五位も、われを忘れて、利仁の後を、逐つた。
従者ももちろん、遅れてはいられない。
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従者も勿論、遅れてはゐられない。
しばらくは石を蹴る馬の蹄の音がかつかつと、野の静けさを破っていたが、やがて利仁が馬を止めたのを見ると、いつ捕まえたのか、もう狐の後足を掴んで逆さまに鞍の側へぶら下げている。
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しばらくは、石を蹴る馬蹄の音が、戞々として、曠野の静けさを破つてゐたが、やがて利仁が、馬を止めたのを見ると、何時、捕へたのか、もう狐の後足を掴んで、倒に、鞍の側へ、ぶら下げてゐる。
狐が走れなくなるまで追い詰めたところで、馬の下に敷いて手づかみにしたものだろう。
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狐が、走れなくなるまで、追ひつめた所で、それを馬の下に敷いて、手取りにしたものであらう。
五位は、薄い髭にたまる汗を慌ただしく拭きながら、やっとその傍へ馬を乗りつけた。
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五位は、うすい髭にたまる汗を、慌しく拭きながら、漸、その傍へ馬を乗りつけた。
「こら、狐、よく聞けよ。」
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「これ、狐、よう聞けよ。」
利仁は狐を高く目の前へつるし上げながら、わざと大げさな声を出してこう言った。
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利仁は、狐を高く眼の前へつるし上げながら、わざと物々しい声を出してかう云つた。
「おまえ、今夜のうちに敦賀の利仁の館へ行って、こう申せ。『利仁は今すぐ急に客人を連れて下ろうとしているところだ。明日、巳の刻頃、高島あたりまで、男たちを迎えに遣わし、それに鞍置き馬を二匹引かせて参れ。』いいか、忘れるなよ。」
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「其方、今夜の中に、敦賀の利仁が館へ参つて、かう申せ。『利仁は、唯今俄に客人を具して下らうとする所ぢや。明日、巳時頃、高島の辺まで、男たちを迎ひに遣はし、それに、鞍置馬二疋、牽かせて参れ。』よいか忘れるなよ。」
言い終わると同時に、利仁はひと振り振って狐を遠くの草むらの中へ投げ出した。
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云ひ畢ると共に、利仁は、一ふり振つて狐を、遠くの叢の中へ、抛り出した。
「いや、走る走る。」
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「いや、走るわ。走るわ。」
やっと追いついた二人の従者は、逃げていく狐の行方を眺めながら、手を打ってはやし立てた。
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やつと、追ひついた二人の従者は、逃げてゆく狐の行方を眺めながら、手を拍つて囃し立てた。
枯れ葉のような色をしたその獣の背は、夕日の中をまっしぐらに、木の根も石もかまわず、どこまでも走っていく。
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落葉のやうな色をしたその獣の背は、夕日の中を、まつしぐらに、木の根石くれの嫌ひなく、何処までも、走つて行く。
それが一行の立っているところから、手に取るようによく見えた。
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それが一行の立つてゐる所から、手にとるやうによく見えた。
狐を追っているうちに、いつの間にか彼らは、野が緩い斜面を作って水の涸れた川床と一つになる、ちょうどその上の所へ出ていたからだ。
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狐を追つてゐる中に、何時か彼等は、曠野が緩い斜面を作つて、水の涸れた川床と一つになる、その丁度上の所へ、出てゐたからである。
「豪快な使者でございますな。」
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「広量の御使でござるのう。」
五位は、素直な尊敬と称賛を漏らしながら、この狐さえ使いにする野育ちの武人の顔を、改めて仰いで見た。
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五位は、ナイイヴな尊敬と讃嘆とを洩らしながら、この狐さへ頤使する野育ちの武人の顔を、今更のやうに、仰いで見た。
自分と利仁との間にどれほどの差があるか、そんなことを考える暇もない。
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自分と利仁との間に、どれ程の懸隔があるか、そんな事は、考へる暇がない。
ただ、利仁の意志が支配する範囲が広いだけに、その意志の中に包まれた自分の意志も、それだけ自由が利くようになった気がして、心強く感じるだけだ。――
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唯、利仁の意志に、支配される範囲が広いだけに、その意志の中に包容される自分の意志も、それだけ自由が利くやうになつた事を、心強く感じるだけである。――
へつらいというものは、おそらくこういう時に最も自然に生まれてくるものだろう。
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阿諛は、恐らく、かう云ふ時に、最自然に生れて来るものであらう。
読者は今後、赤鼻の五位の態度に、太鼓持ちのような何かを見出しても、それだけでむやみにこの男の人格を疑うべきではない。
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読者は、今後、赤鼻の五位の態度に、幇間のやうな何物かを見出しても、それだけで妄にこの男の人格を、疑ふ可きではない。
投げ出された狐は、緩やかな斜面を転げるように駆け下ると、水のない川床の石の間を器用に、ひょいひょいと飛び越えて、今度は向こうの斜面へ勢いよく斜めに駆け上った。
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抛り出された狐は、なぞへの斜面を、転げるやうにして、駈け下りると、水の無い河床の石の間を、器用に、ぴよいぴよい、飛び越えて、今度は、向うの斜面へ、勢よく、すぢかひに駈け上つた。
駆け上がりながら振り返って見ると、自分を手づかみにした侍の一行は、まだ遠い傾斜の上に馬を並べて立っている。
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駈け上りながら、ふりかへつて見ると、自分を手捕りにした侍の一行は、まだ遠い傾斜の上に馬を並べて立つてゐる。
それが皆、指を揃えたほどに小さく見えた。
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それが皆、指を揃へた程に、小さく見えた。
特に、入り日を浴びた月毛と蘆毛とが、霜を含んだ空気の中に、描いたよりもくっきりと浮き上がっている。
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殊に入日を浴びた、月毛と蘆毛とが、霜を含んだ空気の中に、描いたよりもくつきりと、浮き上つてゐる。
狐は頭をめぐらすと、また枯れ薄の中を風のように走り出した。
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狐は、頭をめぐらすと、又枯薄の中を、風のやうに走り出した。
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一行は予定通り、翌日の巳の刻頃に高島あたりへ着いた。
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一行は、予定通り翌日の巳時ばかりに、高島の辺へ来た。
ここは琵琶湖に面した小さな集落で、昨日と違ってどんよりと曇った空の下に、何戸かの藁屋根の家が疎らに散らばっているばかり、岸に生えた松の木の間には、灰色の小波を寄せる湖の水面が、磨くのを忘れた鏡のように、寒々と広がっている。――
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此処は琵琶湖に臨んだ、ささやかな部落で、昨日に似ず、どんよりと曇つた空の下に、幾戸の藁屋が、疎にちらばつてゐるばかり、岸に生えた松の樹の間には、灰色の漣漪をよせる湖の水面が、磨くのを忘れた鏡のやうに、さむざむと開けてゐる。――
ここまで来ると利仁が、五位を振り返って言った。
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此処まで来ると利仁が、五位を顧みて云つた。
「あれをご覧なさい。男たちが迎えに来たようですぞ。」
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「あれを御覧じろ。男どもが、迎ひに参つたげでござる。」
見ると、なるほど、二匹の鞍置き馬を引いた二、三十人の男たちが、馬に乗った者もあり徒歩の者もあり、みな水干の袖を寒風になびかせて、湖の岸、松の間を一行の方へ急いでくる。
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見ると、成程、二疋の鞍置馬を牽いた、二三十人の男たちが、馬に跨がつたのもあり徒歩のもあり、皆水干の袖を寒風に翻へして、湖の岸、松の間を、一行の方へ急いで来る。
やがてこれが近くなったと思うと、馬に乗っていた連中は慌ただしく馬を下り、徒歩の連中は道端にしゃがんで、いずれも恭しく利仁のくるのを待ち受けた。
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やがてこれが、間近くなつたと思ふと、馬に乗つてゐた連中は、慌ただしく鞍を下り、徒歩の連中は、路傍に蹲踞して、いづれも恭々しく、利仁の来るのを、待ちうけた。
「やはり、あの狐が使者を務めたと見えますな。」
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「やはり、あの狐が、使者を勤めたと見えますのう。」
「もともと、化ける力を持った獣だから、あのくらいの用を務めるのは何でもないことだ。」
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「生得、変化ある獣ぢやて、あの位の用を勤めるのは、何でもござらぬ。」
五位と利仁がこんな話をしているうちに、一行は郎等たちの待っているところへ来た。
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五位と利仁とが、こんな話をしてゐる中に、一行は、郎等たちの待つてゐる所へ来た。
「ご苦労だった。」
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「大儀ぢや。」
と利仁が声をかける。
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と、利仁が声をかける。
しゃがんでいた連中が、急いで立って二人の馬の口を取る。
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蹲踞してゐた連中が、忙しく立つて、二人の馬の口を取る。
急に、すべてが賑やかになった。
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急に、すべてが陽気になつた。
「昨夜、珍しいことがございましてな。」
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「夜前、稀有な事が、ございましてな。」
二人が馬から下りて敷き皮の上に腰を下ろすやいなや、檜皮色の水干を着た白髪の郎等が利仁の前に来て、こう言った。
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二人が、馬から下りて、敷皮の上へ、腰を下すか下さない中に、檜皮色の水干を着た、白髪の郎等が、利仁の前へ来て、かう云つた。
「何だ。」
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「何ぢや。」
利仁は、郎等たちが持ってきた篠枝の酒や破籠(わりご)を五位にも勧めながら、おおらかに問いかけた。
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利仁は、郎等たちの持つて来た篠枝や破籠を、五位にも勧めながら、鷹揚に問ひかけた。
「それがでございます。昨夜、戌の刻頃に、奥方が急に気を失われましてな。『おれは坂本の狐だ。今日、殿から言いつかったことを伝えるから、近くに寄ってよく聞け。』と、こうおっしゃるのでございます。そこで一同がお前に参りますと、奥方のおっしゃるには、『殿は今すぐ急に客人を連れて下ろうとしているところだ。明日の巳の刻頃、高島あたりまで男どもを迎えに遣わし、それに鞍置き馬を二匹引かせて参れ。』と、こうおっしゃるのでございます。」
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「さればでございまする。夜前、戌時ばかりに、奥方が俄に、人心地をお失ひなされましてな。『おのれは、阪本の狐ぢや。今日、殿の仰せられた事を、言伝てせうほどに、近う寄つて、よう聞きやれ。』と、かう仰有るのでございまする。さて、一同がお前に参りますると、奥方の仰せられまするには、『殿は唯今俄に客人を具して、下られようとする所ぢや。明日巳時頃、高島の辺まで、男どもを迎ひに遺はし、それに鞍置馬二疋牽かせて参れ。』と、かう御意遊ばすのでございまする。」
「それは、また、珍しいことでございますな。」
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「それは、又、稀有な事でござるのう。」
五位は利仁の顔と郎等の顔とを仔細らしく見比べながら、両方に満足を与えるような相槌を打った。
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五位は利仁の顔と、郎等の顔とを、仔細らしく見比べながら、両方に満足を与へるやうな、相槌を打つた。
「それだけではございません。いかにも恐ろしそうにわなわなとお震えになりましてな、『遅れるなよ。遅れれば、おれが殿のお怒りを受けなければならぬ。』と、引っきりなしにお泣きになるのでございます。」
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「それも唯、仰せられるのではございませぬ。さも、恐ろしさうに、わなわなとお震へになりましてな、『遅れまいぞ。遅れれば、おのれが、殿の御勘当をうけねばならぬ。』と、しつきりなしに、お泣きになるのでございまする。」
「それから、その後はどうした。」
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「して、それから、如何した。」
「それから、ぐっすりとお休みになりましてな。私どもが出てまいります時にも、まだお目覚めにはなっていないようでございました。」
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「それから、多愛なく、お休みになりましてな。手前共の出て参りまする時にも、まだ、お眼覚にはならぬやうで、ございました。」
「いかがでございますか。」
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「如何でござるな。」
郎等の話を聞き終わると、利仁は五位を見て得意そうに言った。
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郎等の話を聞き完ると、利仁は五位を見て、得意らしく云つた。
「利仁には、獣まで使われますわ。」
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「利仁には、獣も使はれ申すわ。」
「何とも驚くほかはございませんな。」
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「何とも驚き入る外は、ござらぬのう。」
五位は赤鼻を掻きながら、ちょっと頭を下げて、それからわざとらしく呆れたように口を開いて見せた。
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五位は、赤鼻を掻きながら、ちよいと、頭を下げて、それから、わざとらしく、呆れたやうに、口を開いて見せた。
口髭には、今飲んだ酒が滴になってくっついている。
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口髭には、今飲んだ酒が、滴になつて、くつついてゐる。
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その日の夜のことだ。
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その日の夜の事である。
五位は利仁の館の一室で、行灯の火をともなく眺めながら、寝つけない長い夜をじっと明かしていた。
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五位は、利仁の館の一間に、切燈台の灯を眺めるともなく、眺めながら、寝つかれない長の夜をまぢまぢして、明してゐた。
すると、夕方ここへ着くまでに、利仁や利仁の従者と談笑しながら越えてきた松山、小川、枯れ野、あるいは草、木の葉、石、野火の煙の匂い――そういったものが一つずつ五位の心に浮かんできた。
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すると、夕方、此処へ着くまでに、利仁や利仁の従者と、談笑しながら、越えて来た松山、小川、枯野、或は、草、木の葉、石、野火の煙のにほひ、――さう云ふものが、一つづつ、五位の心に、浮んで来た。
特に、夕暮れの靄の中をやっとこの館へたどり着いて、長びつに起こしてある炭火の赤い炎を見た時の、ほっとした気持ち――それも今こうして横になっていると、遠い昔にあったこととしか思えない。
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殊に、雀色時の靄の中を、やつと、この館へ辿りついて、長櫃に起してある、炭火の赤い焔を見た時の、ほつとした心もち、――それも、今かうして、寝てゐると、遠い昔にあつた事としか、思はれない。
五位は綿が四、五センチも入った黄色い直垂の下に、楽々と足をのばしながら、ぼんやりと自分の寝姿を見回した。
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五位は綿の四五寸もはいつた、黄いろい直垂の下に、楽々と、足をのばしながら、ぼんやり、われとわが寝姿を見廻した。
直垂の下に利仁が貸してくれた、練色の衣の綿の厚いものを二枚まで重ねて着込んでいる。
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直垂の下に利仁が貸してくれた、練色の衣の綿厚なのを、二枚まで重ねて、着こんでゐる。
それだけでも、どうかすると汗が出かねないほど暖かい。
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それだけでも、どうかすると、汗が出かねない程、暖かい。
そこへ夕飯の時に一杯やった酒の酔いが手伝っている。
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そこへ、夕飯の時に一杯やつた、酒の酔が手伝つてゐる。
枕元の雨戸一枚隔てた向こうは霜の冷えた広い庭だが、それもこうして心地よくなっていれば少しも気にならない。
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枕元の蔀一つ隔てた向うは、霜の冴えた広庭だが、それも、かう陶然としてゐれば、少しも苦にならない。
何もかもが、京都の自分の部屋にいた時と比べれば雲泥の差だ。
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万事が、京都の自分の曹司にゐた時と比べれば、雲泥の相違である。
しかし、それにもかかわらず、我らが五位の心には、なんとなく釣り合いの取れない不安があった。
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が、それにも係はらず、我五位の心には、何となく釣合のとれない不安があつた。
まず、時間の経つのが待ち遠しい。
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第一、時間のたつて行くのが、待遠い。
しかも同時に、夜が明けるということが――芋粥を食べる時になるということが、そう早く来てはならないような気もする。
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しかもそれと同時に、夜の明けると云ふ事が、――芋粥を食ふ時になると云ふ事が、さう早く、来てはならないやうな心もちがする。
そしてまた、この矛盾した二つの気持ちが互いにせめぎ合った後には、境遇の急激な変化から来る落ち着かない気分が、今日の天気のようにほんのり寒く控えている。
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さうして又、この矛盾した二つの感情が、互に剋し合ふ後には、境遇の急激な変化から来る、落着かない気分が、今日の天気のやうに、うすら寒く控へてゐる。
それが皆、邪魔になって、折角の暖かさも、なかなか眠りを誘いそうもない。
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それが、皆、邪魔になつて、折角の暖かさも、容易に、眠りを誘ひさうもない。
すると、外の広庭で誰かが大きな声を出しているのが、耳に入った。
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すると、外の広庭で、誰か大きな声を出してゐるのが、耳にはいつた。
声の調子からして、どうも今日、途中まで迎えに出た白髪の郎等が何か触れ回っているらしい。
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声がらでは、どうも、今日、途中まで迎へに出た、白髪の郎等が何か告れてゐるらしい。
その乾いた声が、霜に響くせいか、凛々として木枯らしのように一語ずつ五位の骨に響くような気さえする。
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その乾からびた声が、霜に響くせゐか、凛々として凩のやうに、一語づつ五位の骨に、応へるやうな気さへする。
「このあたりの下人よ、聞け。殿のご命令があるぞ。明朝、卯の刻までに、切り口三寸、長さ五尺の山の芋を、それぞれ一本ずつ持って参るようにとのことだ。忘れるなよ、卯の刻までにだぞ。」
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「この辺の下人、承はれ。殿の御意遊ばさるるには、明朝、卯時までに、切口三寸、長さ五尺の山の芋を、老若各、一筋づつ、持つて参る様にとある。忘れまいぞ、卯時までにぢや。」
それが二、三度繰り返されたかと思うと、やがて人の気配が止んで、あたりはたちまち元のように静かな冬の夜になった。
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それが、二三度、繰返されたかと思ふと、やがて、人のけはひが止んで、あたりは忽ち元のやうに、静な冬の夜になつた。
その静かな中に、行灯の油が鳴る。
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その静な中に、切燈台の油が鳴る。
赤い真綿のような火が、ゆらゆらする。
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赤い真綿のやうな火が、ゆらゆらする。
五位は欠伸を一つ噛みつぶして、また取りとめのない物思いにふけり出した。――
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五位は欠伸を一つ、噛みつぶして、又、とりとめのない、思量に耽り出した。――
山の芋というからには、もちろん芋粥にするつもりで持ってこさせるに違いない。
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山の芋と云ふからには、勿論芋粥にする気で、持つて来させるのに相違ない。
そう思うと、一時、外のことに注意を集中したおかげで忘れていた、さっきの不安が、いつの間にか心に戻ってくる。
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さう思ふと、一時、外に注意を集中したおかげで忘れてゐた、さつきの不安が、何時の間にか、心に帰つて来る。
特に前よりもいっそう強くなったのは、あまり早く芋粥にありつきたくないという気持ちで、それが意地悪く、物思いの中心を離れない。
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殊に、前よりも、一層強くなつたのは、あまり早く芋粥にありつきたくないと云ふ心もちで、それが意地悪く、思量の中心を離れない。
どうもこう簡単に「芋粥に飽きたい」
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どうもかう容易に「芋粥に飽かむ」
ということが現実のものとなっては、折角今まで何年となく辛抱して待っていたのが、いかにも無駄な苦労のように見えてしまう。
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事が、事実となつて現れては、折角今まで、何年となく、辛抱して待つてゐたのが、如何にも、無駄な骨折のやうに、見えてしまふ。
できることなら、突然何か障りが起きて、一旦芋粥が飲めなくなってから、またその障りがなくなって、今度はやっとこれにありつけるという、そんな段取りで万事を運ばせたい。――
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出来る事なら、突然何か故障が起つて一旦、芋粥が飲めなくなつてから、又、その故障がなくなつて、今度は、やつとこれにありつけると云ふやうな、そんな手続きに、万事を運ばせたい。――
こんな考えが「こまつぶり」
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こんな考へが、「こまつぶり」
のようにぐるぐる同じ所を回っているうちに、いつか五位は旅の疲れでぐっすりと熟睡してしまった。
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のやうに、ぐるぐる一つ所を廻つてゐる中に、何時か、五位は、旅の疲れで、ぐつすり、熟睡してしまつた。
翌朝、目が覚めると、すぐに昨夜の山の芋の一件が気になるので、五位は何よりも先に部屋の雨戸を上げてみた。
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翌朝、眼がさめると、直に、昨夜の山の芋の一件が、気になるので、五位は、何よりも先に部屋の蔀をあげて見た。
すると、気づかぬうちに寝過ごして、もう卯の刻を過ぎていたのだろう。
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すると、知らない中に、寝すごして、もう卯時をすぎてゐたのであらう。
広庭に敷いた四、五枚の長むしろの上には、丸太のような物が、およそ二、三千本、斜めに突き出した檜皮葺の軒先まで届くほど山のように積んである。
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広庭へ敷いた、四五枚の長筵の上には、丸太のやうな物が、凡そ、二三千本、斜につき出した、檜皮葺の軒先へつかへる程、山のやうに、積んである。
見るとそれが悉く、切り口三寸、長さ五尺のとてつもなく大きな山の芋だった。
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見るとそれが、悉く、切口三寸、長さ五尺の途方もなく大きい、山の芋であつた。
五位は、寝起きの目をこすりながら、ほとんど仰天に近い驚きに襲われて、呆然と周囲を見回した。
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五位は、寝起きの眼をこすりながら、殆ど周章に近い驚愕に襲はれて、呆然と、周囲を見廻した。
広庭の所々には、新しく打ったらしい杭の上に五斛入りの大釜を五つ六つかけ連ねて、白い布の上着を着た若い女たちが、何十人となくそのまわりに動いている。
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広庭の所々には、新しく打つたらしい杭の上に五斛納釜を五つ六つ、かけ連ねて、白い布の襖を着た若い下司女が、何十人となく、そのまはりに動いてゐる。
火をたきつける者、灰を掻く者、あるいは新しい白木の桶に甘葛の汁を汲んで釜の中へ入れる者、
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火を焚きつけるもの、灰を掻くもの、或は、新しい白木の桶に、「あまづらみせん」
みな芋粥を作る準備で、目が回るほど忙しい。
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を汲んで釜の中へ入れるもの、皆芋粥をつくる準備で、眼のまはる程忙しい。
釜の下から上がる煙と釜の中から湧く湯気とが、まだ消え残っている夜明けの靄と一つになって、広庭一面、はっきり物も見定められないほど灰色のものが立ち込めた中で、赤いのは激しく燃え上がる釜の下の炎ばかり、目に見るもの耳に聞くもの悉く、まるで戦場か火事場にでも行ったような騒ぎだ。
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釜の下から上る煙と、釜の中から湧く湯気とが、まだ消え残つてゐる明方の靄と一つになつて、広庭一面、はつきり物も見定められない程、灰色のものが罩めた中で、赤いのは、烈々と燃え上る釜の下の焔ばかり、眼に見るもの、耳に聞くもの悉く、戦場か火事場へでも行つたやうな騒ぎである。
五位は今さらのように、この巨大な山の芋が、この巨大な大釜の中で芋粥になることを考えた。
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五位は、今更のやうに、この巨大な山の芋が、この巨大な五斛納釜の中で、芋粥になる事を考へた。
そして自分がその芋粥を食べるために、京都からわざわざ越前の敦賀まで旅をしてきたことを考えた。
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さうして、自分が、その芋粥を食ふ為に京都から、わざわざ、越前の敦賀まで旅をして来た事を考へた。
考えれば考えるほど、何一つ情けなくならないものはない。
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考へれば考へる程、何一つ、情無くならないものはない。
我らが五位の哀れな食欲は、実にこの時すでに、半分以上が失せてしまったのだ。
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我五位の同情すべき食慾は、実に、此時もう、一半を減却してしまつたのである。
それから一時間後、五位は利仁と舅の有仁とともに、朝食の膳に向かった。
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それから、一時間の後、五位は利仁や舅の有仁と共に、朝飯の膳に向つた。
目の前にあるのは、銀の提子(ひさげ)の一斗ほど入るものになみなみと海のようにたたえた、恐るべき芋粥だ。
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前にあるのは、銀の提の一斗ばかりはいるのに、なみなみと海の如くたたへた、恐るべき芋粥である。
五位はさっき、あの軒まで積み上げた山の芋を、何十人かの若い男が薄い刃を器用に動かしながら、片端から削るように勢いよく切るのを見た。
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五位はさつき、あの軒まで積上げた山の芋を、何十人かの若い男が、薄刃を器用に動かしながら、片端から削るやうに、勢よく切るのを見た。
それからそれを、あの女たちが右往左往に走り回って、一つ残らず大釜へすくっては入れ、すくっては入れするのを見た。
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それからそれを、あの下司女たちが、右往左往に馳せちがつて、一つのこらず、五斛納釜へすくつては入れ、すくつては入れするのを見た。
最後に、その山の芋が一つも長むしろの上に見えなくなった時に、芋の匂いと甘葛の匂いとを含んだいくすじかの湯気の柱が、もうもうとして釜の中から晴れた朝の空へ舞い上がっていくのを見た。
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最後に、その山の芋が、一つも長筵の上に見えなくなつた時に、芋のにほひと、甘葛のにほひとを含んだ、幾道かの湯気の柱が、蓬々然として、釜の中から、晴れた朝の空へ、舞上つて行くのを見た。
これを目の当たりに見た彼が、今、提子に入れた芋粥に向かった時、まだ口をつけないうちから、すでに満腹を感じたのは、おそらく無理のないことだろう。――
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これを、目のあたりに見た彼が、今、提に入れた芋粥に対した時、まだ、口をつけない中から、既に、満腹を感じたのは、恐らく、無理もない次第であらう。――
五位は提子を前にして、きまり悪そうに額の汗を拭いた。
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五位は、提を前にして、間の悪さうに、額の汗を拭いた。
「芋粥に飽きたことがないとのこと。どうぞ遠慮なく召し上がってください。」
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「芋粥に飽かれた事が、ござらぬげな。どうぞ、遠慮なく召上つて下され。」
舅の有仁は、童に命じてさらにいくつかの銀の提子を膳の上に並べさせた。
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舅の有仁は、童児たちに云ひつけて、更に幾つかの銀の提を膳の上に並べさせた。
中にはどれも芋粥があふれんばかりに入っている。
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中にはどれも芋粥が、溢れんばかりにはいつてゐる。
五位は目をつぶって、ただでさえ赤い鼻をいっそう赤くしながら、提子に半分ほどの芋粥を大きな土器(かわらけ)にすくって、いやいやながら飲み干した。
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五位は眼をつぶつて、唯でさへ赤い鼻を、一層赤くしながら、提に半分ばかりの芋粥を大きな土器にすくつて、いやいやながら飲み干した。
「父もそう申しているのだから。どうか遠慮はしないでくれ。」
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「父も、さう申すぢやて。平に、遠慮は御無用ぢや。」
利仁も傍から新しい提子を勧めて、意地悪く笑いながらこんなことを言う。
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利仁も側から、新な提をすすめて、意地悪く笑ひながらこんな事を云ふ。
困ったのは五位だ。
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弱つたのは五位である。
遠慮のないところを言えば、最初から芋粥は一椀も飲みたくない。
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遠慮のない所を云へば、始めから芋粥は、一椀も吸ひたくない。
それを今、我慢して、やっと提子に半分だけ平らげた。
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それを今、我慢して、やつと、提に半分だけ平げた。
これ以上飲めば、喉を越さないうちに戻してしまう。さりとて飲まなければ、利仁や有仁の厚意を無にするのも同じだ。
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これ以上、飲めば、喉を越さない中にもどしてしまふ、さうかと云つて、飲まなければ、利仁や有仁の厚意を無にするのも、同じである。
そこで彼はまた目をつぶって、残りの半分を三分の一ほど飲み干した。
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そこで、彼は又眼をつぶつて、残りの半分を三分の一程飲み干した。
もう後は一口も吸いようがない。
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もう後は一口も吸ひやうがない。
「何とも、ありがとうございました。もう十分いただきました。――いやはや、何ともありがとうございました。」
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「何とも、忝うござつた。もう十分頂戴致したて。――いやはや、何とも忝うござつた。」
五位は、しどろもどろになってこう言った。
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五位は、しどろもどろになつて、かう云つた。
よほど参っているとみえて、口髭にも鼻の先にも、冬とは思えないほど汗が玉になって垂れている。
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余程弱つたと見えて、口髭にも、鼻の先にも、冬とは思はれない程、汗が玉になつて、垂れてゐる。
「これはまた、お食べが少ない。客人は遠慮をされていると見えるぞ。そこそこ、その方どもは何をしておる。」
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「これは又、御少食ぢや。客人は、遠慮をされると見えたぞ。それそれその方ども、何を致して居る。」
童たちは、有仁の言葉につれて、新しい提子の中から芋粥を土器(かわらけ)に汲もうとする。
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童児たちは、有仁の語につれて、新な提の中から、芋粥を、土器に汲まうとする。
五位は、両手をハエでも追うように動かして、平にお断りの意を示した。
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五位は、両手を蠅でも逐ふやうに動かして、平に、辞退の意を示した。
「いや、もう十分でございます。……失礼ながら、十分でございます。」
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「いや、もう、十分でござる。……失礼ながら、十分でござる。」
もしこの時、利仁が突然向こうの家の軒を指して「あれをご覧なさい」
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もし、此時、利仁が、突然、向うの家の軒を指して、「あれを御覧じろ」
と言わなかったなら、有仁はなおも五位に芋粥を勧めてやまなかったかもしれない。
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と云はなかつたなら、有仁は猶、五位に、芋粥をすすめて、止まなかつたかも知れない。
しかし幸いにして、利仁の声が一同の注意をその軒の方へ持っていった。
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が、幸ひにして、利仁の声は、一同の注意を、その軒の方へ持つて行つた。
檜皮葺の軒には、ちょうど朝日が差している。
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檜皮葺の軒には、丁度、朝日がさしてゐる。
そして、そのまぶしい光に、艶のいい毛皮を洗わせながら、一匹の獣がおとなしく座っている。
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さうして、そのまばゆい光に、光沢のいい毛皮を洗はせながら、一疋の獣が、おとなしく、坐つてゐる。
見るとそれは、一昨日、利仁が枯れ野の道で手づかみにした、あの坂本の野狐だった。
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見るとそれは一昨日、利仁が枯野の路で手捕りにした、あの阪本の野狐であつた。
「狐も、芋粥が欲しくて、顔を出したそうだ。男ども、そいつにも食べさせてやれ。」
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「狐も、芋粥が欲しさに、見参したさうな。男ども、しやつにも、物を食はせてつかはせ。」
利仁の命令は、言うが早いかすぐに行われた。
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利仁の命令は、言下に行はれた。
軒から飛び下りた狐は、すぐに広庭で芋粥のご馳走に与ったのだ。
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軒からとび下りた狐は、直に広庭で芋粥の馳走に、与つたのである。
五位は芋粥を食べている狐を眺めながら、ここへ来る前の自分を、なつかしく心の中で振り返った。
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五位は、芋粥を飲んでゐる狐を眺めながら、此処へ来ない前の彼自身を、なつかしく、心の中でふり返つた。
それは、多くの侍たちにからかわれている彼だ。
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それは、多くの侍たちに愚弄されてゐる彼である。
京の子供にさえ「何だ、この赤っぱなめが」
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京童にさへ「何ぢや。この鼻赤めが」
と罵られている彼だ。
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と、罵られてゐる彼である。
色のあせた水干に指貫をつけて、飼い主のない毛並みの長い犬のように、朱雀大路をうろついて歩く、哀れな孤独な彼だ。
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色のさめた水干に、指貫をつけて、飼主のない尨犬のやうに、朱雀大路をうろついて歩く、憐む可き、孤独な彼である。
しかし同時にまた、芋粥に飽きたいという望みを、ただ一人大事に守っていた、幸福な彼でもある。――
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しかし、同時に又、芋粥に飽きたいと云ふ慾望を、唯一人大事に守つてゐた、幸福な彼である。――
彼は、これ以上芋粥を飲まずに済むという安心とともに、顔いっぱいの汗が次第に鼻の先から乾いていくのを感じた。
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彼は、この上芋粥を飲まずにすむと云ふ安心と共に、満面の汗が次第に、鼻の先から、乾いてゆくのを感じた。
晴れてはいても、敦賀の朝は、身にしみるように風が寒い。
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晴れてはゐても、敦賀の朝は、身にしみるやうに、風が寒い。
五位は慌てて鼻を押さえると同時に、銀の提子に向かって大きなくしゃみをした。
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五位は慌てて、鼻をおさへると同時に銀の提に向つて大きな嚔をした。
(大正五年八月)
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(大正五年八月)