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芋粥 小学生向け

芥川竜之介あくたがわりゅうのすけ)・1968

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23

元慶(がんぎょう)の終わりか、仁和(にんな)の始めごろの話だろう。

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元慶ぐわんぎやうの末か、仁和にんなの始にあつた話であらう。

どちらにしても、時代はこの話にそれほど大事な役を果たしていない。

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どちらにしても時代はさして、この話に大事な役を、勤めてゐない。

読者はただ、平安朝という、遠い昔が背景になっているということを知ってさえいれば、それでよいのである。――

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読者は唯、平安朝と云ふ、遠い昔が背景になつてゐると云ふ事を、知つてさへゐてくれれば、よいのである。――

そのころ、摂政(せっしょう)の藤原基経(ふじわらのもとつね)に仕えている侍の中に、某(なにがし)という五位(ごい)の役人がいた。

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その頃、摂政せつしやう藤原基経もとつねに仕へてゐるさむらひの中に、なにがしと云ふ五位があつた。

この人も、某と書かずに、きちんと姓名を明らかにしたいのだが、あいにく古い記録にはその名前が伝わっていない。

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これも、某と書かずに、何の誰と、ちやんと姓名を明にしたいのであるが、生憎あいにく旧記には、それが伝はつてゐない。

おそらく実際、名前が残るほどの価値もない、ごく平凡な男だったのだろう。

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恐らくは、実際、伝はる資格がない程、平凡な男だつたのであらう。

そもそも古い記録を書いた人たちは、平凡な人間や話にはあまり興味を持たなかったらしい。

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一体旧記の著者などと云ふ者は、平凡な人間や話に、余り興味を持たなかつたらしい。

この点で、彼らと、日本の自然主義の作家たちとはかなりちがう。

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この点で、彼等と、日本の自然派の作家とは、大分ちがふ。

王朝時代の小説家は、案外、暇人(ひまじん)ではなかったのである。――

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王朝時代の小説家は、存外、閑人ひまじんでない。――

とにかく、摂政藤原基経に仕えている侍の中に、某という五位がいた。

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兎に角、摂政藤原基経に仕へてゐる侍の中に、某と云ふ五位があつた。

これが、この話の主人公である。

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これが、この話の主人公である。

五位は、見た目がとてもぱっとしない男だった。

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五位は、風采のはなはだあがらない男であつた。

まず背が低い。

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第一背が低い。

それから赤い鼻で、目じりが下がっている。

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それから赤鼻で、眼尻が下つてゐる。

口ひげはもちろん薄い。

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口髭は勿論薄い。

ほおがこけているので、あごがひときわ細く見える。

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頬が、こけてゐるから、あごが、人並はづれて、細く見える。

くちびるは――一つひとつ数え上げていたらきりがない。

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唇は――一々、数へ立ててゐれば、際限はない。

この五位の外見はそれほど、並外れてだらしなく出来上がっていたのである。

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我五位の外貌はそれ程、非凡に、だらしなく、出来上つてゐたのである。

この男がいつ、どうして基経に仕えるようになったのか、それは誰も知らない。

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この男が、何時いつ、どうして、基経に仕へるやうになつたのか、それは誰も知つてゐない。

しかし、かなり前から、同じように色の褪せた水干(すいかん)という上着に、同じようにしなびた烏帽子(えぼし)をかぶって、同じような役目を、飽きもせず、毎日繰り返していることだけは確かである。

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が、余程以前から、同じやうな色のめた水干すゐかんに、同じやうな萎々なえなえした烏帽子ゑぼしをかけて、同じやうな役目を、飽きずに、毎日、繰返してゐる事だけは、確である。

その結果だろう、今では誰が見ても、この男に若いころがあったとは思えない。

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その結果であらう、今では、誰が見ても、この男に若い時があつたとは思はれない。

(五位は四十を過ぎていた。)

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(五位は四十を越してゐた。)

それどころか、生まれた時から、あのような寒そうな赤い鼻と、形だけの口ひげとを、朱雀大路(すざくおおじ)の風に吹かせていたような気さえする。

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その代り、生れた時から、あの通り寒むさうな赤鼻と、形ばかりの口髭とを、朱雀大路すざくおほぢ衢風ちまたかぜに、吹かせてゐたと云ふ気がする。

上は主人の基経から、下は牛飼いの子供まで、みんな無意識のうちに、そう信じて疑う者がいない。

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かみは主人の基経から、しもは牛飼の童児まで、無意識ながら、ことごとくさう信じて疑ふ者がない。

こんな見た目を持つ男が、まわりからどんな扱いを受けるか、それはおそらく書くまでもないことだろう。

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かう云ふ風采を具へた男が、周囲から受ける待遇は、恐らく書くまでもないことであらう。

侍たちのいる部屋にいる連中は、五位に対して、ハエほどの注意も払わない。

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侍所さぶらひどころにゐる連中は、五位に対して、殆どはへ程の注意も払はない。

位のある者もない者も、合わせて二十人近い下役さえ、彼が出入りするのに、不思議なほど冷たい態度をとっている。

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有位うゐ無位むゐ、併せて二十人に近い下役さへ、彼の出入りには、不思議な位、冷淡を極めてゐる。

五位が何か言いつけても、彼らが仲間同士のおしゃべりをやめたことは一度もない。

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五位が何か云ひつけても、決して彼等同志の雑談をやめた事はない。

彼らにとっては、空気の存在が見えないように、五位の存在も目に入らないのだろう。

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彼等にとつては、空気の存在が見えないやうに、五位の存在も、眼をさへぎらないのであらう。

下役でさえそうなのだから、別当とか、侍所の上役たちが最初から彼を相手にしないのは、むしろ当然のことである。

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下役でさへさうだとすれば、別当とか、侍所のつかさとか云ふ上役たちが頭から彼を相手にしないのは、むしろ自然のすうである。

彼らは五位に対するとき、ほとんど子供のような理由のない意地悪を、冷たい表情の裏に隠して、何を言うのでも手まねだけで用を済ませた。

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彼等は、五位に対すると、殆ど、子供らしい無意味な悪意を、冷然とした表情の後に隠して、何を云ふのでも、手真似だけで用を足した。

人間に言葉があるのは、偶然ではない。

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人間に、言語があるのは、偶然ではない。

だから彼らも手まねでは用が足りないことが、ときどきある。

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従つて、彼等も手真似では用を弁じない事が、時々ある。

しかし彼らは、それをまるっきり五位の頭が悪いせいだと思っているらしい。

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が、彼等は、それを全然五位の悟性に、欠陥があるからだと、思つてゐるらしい。

そこで彼らは用が足りないと、この男のゆがんだ烏帽子の先から、ちぎれかかった草履(ぞうり)のはしまで、まんべんなく見上げたり見下したりして、それから鼻で笑いながら、急に後ろを向いてしまう。

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そこで彼等は用が足りないと、この男の歪んだもみ烏帽子の先から、切れかかつた藁草履わらざうりの尻まで、万遍なく見上げたり、見下したりして、それから、鼻でわらひながら、急に後を向いてしまふ。

それでも、五位は腹を立てたことがない。

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それでも、五位は、腹を立てた事がない。

彼は、どんな不当な扱いも不当だと感じないほど、意気地のない、臆病な人間だったのである。

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彼は、一切の不正を、不正として感じない程、意気地のない、臆病な人間だつたのである。

ところが、仲間の侍たちになると、進んで彼をからかおうとした。

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所が、同僚の侍たちになると、進んで、彼を飜弄ほんろうしようとした。

年上の仲間が、彼のぱっとしない見た目を材料にして、古いしゃれを言おうとするように、年下の仲間も、それを機会に、いわゆるおもしろいことを言う練習をしようとしたからである。

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年かさの同僚が、彼れの振はない風采を材料にして、古い洒落しやれを聞かせようとする如く、年下の同僚も、亦それを機会にして、所謂いはゆる興言利口きようげんりこうの練習をしようとしたからである。

彼らは、この五位の前で、その鼻と口ひげと、烏帽子と水干とを、あれこれ批評して飽きることを知らなかった。

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彼等は、この五位の面前で、その鼻と口髭と、烏帽子と水干とを、品隲ひんしつして飽きる事を知らなかつた。

それだけではない。

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そればかりではない。

彼が五、六年前に別れた、出っぱり口の女房と、その女房と関係があったという酒飲みの法師のことも、しばしば彼らの話題になった。

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彼が五六年前に別れたうけくちの女房と、その女房と関係があつたと云ふ酒のみの法師とも、しばしば彼等の話題になつた。

そのうえ、どうかすると彼らはひどく意地の悪いいたずらさえする。

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その上、どうかすると、彼等ははなはだ性質たちの悪い悪戯いたづらさへする。

それをここで一つひとつ書き並べることはできない。

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それを今一々、列記する事は出来ない。

しかし、彼の竹の枝の酒を飲んでしまって、そのあとに小便を入れておいたということを書けば、その他のことはだいたい想像がつくだろうと思う。

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が、彼の篠枝ささえの酒を飲んで、あと尿いばりを入れて置いたと云ふ事を書けば、その外はおよそ、想像される事だらうと思ふ。

しかし、五位はこういったからかいに対して、まったく感じていないようだった。

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しかし、五位はこれらの揶揄やゆに対して、全然無感覚であつた。

少なくとも、はたから見ると、感じていないように思われた。

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少くもわき眼には、無感覚であるらしく思はれた。

彼は何を言われても、顔色さえ変えたことがない。

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彼は何を云はれても、顔の色さへ変へた事がない。

黙っていつもの薄い口ひげをなでながら、やるべきことをやってすましている。

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黙つて例の薄い口髭を撫でながら、するだけの事をしてすましてゐる。

ただ、仲間のいたずらがひどくなって、まげに紙切れをつけたり、太刀のさやに草履を結びつけたりすると、彼は笑うのか泣くのかわからないような笑顔をして、「いけぬのう、お身たちは。」

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唯、同僚の悪戯が、かうじすぎて、まげに紙切れをつけたり、太刀たちさやに草履を結びつけたりすると、彼は笑ふのか、泣くのか、わからないやうな笑顔をして、「いけぬのう、お身たちは。」

と言う。

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と云ふ。

その顔を見、その声を聞いた者は、誰でも一瞬、なんともいえないかわいそうな気持ちに打たれてしまう。

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その顔を見、その声を聞いた者は、誰でも一時或いぢらしさに打たれてしまふ。

(彼らにいじめられているのは一人、この赤鼻の五位だけではない、彼らの知らない誰かが――大勢の誰かが、彼の顔と声とを借りて、彼らの冷たさを責めている。)――

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(彼等にいぢめられるのは、一人、この赤鼻の五位だけではない、彼等の知らない誰かが――多数の誰かが、彼の顔と声とを借りて、彼等の無情を責めてゐる。)――

そういう気が、うっすらながら、彼らの心に、一瞬の間、しみこんでくるからである。

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さう云ふ気が、おぼろげながら、彼等の心に、一瞬の間、しみこんで来るからである。

ただその時の気持ちを、いつまでも持ち続ける者はごくわずかだ。

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唯その時の心もちを、何時までも持続ける者は甚少い。

そのわずかな中の一人に、ある位のない侍がいた。

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その少い中の一人に、或無位の侍があつた。

これは丹波(たんば)の国から来た男で、まだやわらかい口ひげがやっと鼻の下に生えかかった位の若者である。

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これは丹波たんばの国から来た男で、まだ柔かい口髭が、やつと鼻の下に、生えかかつた位の青年である。

もちろん、この男も最初はみんなと一緒に、なんの理由もなく、赤鼻の五位を馬鹿にした。

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勿論、この男も始めは皆と一しよに、何の理由もなく、赤鼻の五位を軽蔑けいべつした。

ところが、ある日何かのおりに、「いけぬのう、お身たちは」

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所が、或日何かの折に、「いけぬのう、お身たちは」

という声を聞いてからは、どうしてもそれが頭を離れない。

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と云ふ声を聞いてからは、どうしても、それが頭を離れない。

それ以来、この男の目にだけは、五位がまったく別人として映るようになった。

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それ以来、この男の眼にだけは、五位が全く別人として、映るやうになつた。

栄養が足りない、血色の悪い、間の抜けた五位の顔にも、世間のいじめに泣きそうになった「人間」

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栄養の不足した、血色の悪い、間のぬけた五位の顔にも、世間の迫害にべそを掻いた、「人間」

がのぞいているからである。

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が覗いてゐるからである。

この位のない侍は、五位のことを考えるたびに、世の中のすべてが急に本来の低さをあらわすように思われた。

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この無位の侍には、五位の事を考へる度に、世の中のすべてが急に本来の下等さをあらはすやうに思はれた。

そしてそれと同時に、霜焼けした赤い鼻と数えるほどの口ひげとが、なんとなく一つのなぐさめを自分の心に伝えてくれるように思われた。……

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さうしてそれと同時に霜げた赤鼻と数へる程の口髭とが何となく一味いちみの慰安を自分の心に伝へてくれるやうに思はれた。……

しかしそれは、ただこの男一人に限ったことである。

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しかし、それは、唯この男一人に、限つた事である。

このような例外を除けば、五位は相変わらず周囲の軽蔑の中に、犬のような生活を続けていかなければならなかった。

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かう云ふ例外を除けば、五位は、依然として周囲の軽蔑の中に、犬のやうな生活を続けて行かなければならなかつた。

まず、彼にはまともな着物が一つもない。

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第一彼には着物らしい着物が一つもない。

青みがかったくすんだ色の水干と、同じ色のズボンのような袴(はかま)が一つずつあるのだが、今ではそれが日焼けして、藍(あい)とも紺ともつかないような色になっている。

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青鈍あをにびの水干と、同じ色の指貫さしぬきとが一つづつあるのが、今ではそれが上白うはじろんで、あゐとも紺とも、つかないやうな色に、なつてゐる。

水干はそれでも、肩が少し落ちて、組みひもの色がおかしくなっているだけだが、袴になると、すそのあたりのいたみ方がひどい。

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水干はそれでも、肩が少し落ちて、丸組の緒や菊綴きくとぢの色が怪しくなつてゐるだけだが、指貫になると、裾のあたりのいたみ方が一通りでない。

その袴の中から、下に着るものも着ていない、細い足が出ているのを見ると、口の悪い仲間でなくても、やせた貴族の車を引いている、やせた牛の歩みを見るような、みすぼらしい気持ちがする。

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その指貫の中から、下の袴もはかない、細い足が出てゐるのを見ると、口の悪い同僚でなくとも、痩公卿の車をいてゐる、痩牛の歩みを見るやうな、みすぼらしい心もちがする。

それに腰にさしている太刀も、たいへんこころもとない代物で、柄(つか)の金具もあやしければ、黒いさやの塗りも剥げかかっている。

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それにいてゐる太刀も、頗る覚束おぼつかない物で、つかの金具も如何いかがはしければ、黒鞘の塗も剥げかかつてゐる。

これが例の赤鼻で、だらしなく草履を引きずりながら、もともと猫背なのをさらに寒空の下に縮こまって、ものほしそうに、左右を見ながら、小刻みに歩くのだから、通りがかりの物売りまで馬鹿にするのも、無理はない。

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これが例の赤鼻で、だらしなく草履をひきずりながら、唯でさへ猫背なのを、一層寒空の下に背ぐくまつて、もの欲しさうに、左右を眺め眺め、きざみ足に歩くのだから、通りがかりの物売りまで莫迦ばかにするのも、無理はない。

実に、こんなことさえあった。……

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現に、かう云ふ事さへあつた。……

ある日、五位が三条坊門(さんじょうぼうもん)を神泉苑(しんせんえん)の方へ行くところで、子供が六、七人、道ばたに集まって、何かしているのを見たことがある。

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或る日、五位が三条坊門を神泉苑の方へ行く所で、子供が六七人、路ばたに集つて、何かしてゐるのを見た事がある。

「こまつぶり」

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「こまつぶり」

でも回しているのかと思って、後ろからのぞいてみると、どこかから迷い込んできた、もふもふした犬の首に縄をつけて、打ったりたたいたりしているのだった。

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でも、廻してゐるのかと思つて、後ろから覗いて見ると、何処どこかから迷つて来た、尨犬むくいぬの首へ繩をつけて、打つたりたたいたりしてゐるのであつた。

臆病な五位は、これまで何かに同情したくなることがあっても、まわりに気を使って、まだ一度もそれを行動に表したことがない。

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臆病な五位は、これまで何かに同情を寄せる事があつても、あたりへ気を兼ねて、まだ一度もそれを行為に現はしたことがない。

しかし、この時だけは相手が子供だということで、少し勇気が出た。

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が、この時だけは相手が子供だと云ふので、幾分か勇気が出た。

そこでできるだけ笑顔を作りながら、年長らしい子供の肩を叩いて、「もう、許してやりなされ。犬も打たれれば、痛いでのう」

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そこで出来るだけ、笑顔をつくりながら、年かさらしい子供の肩を叩いて、「もう、堪忍してやりなされ。犬も打たれれば、痛いでのう」

と声をかけた。

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と声をかけた。

すると、その子供はふり返りながら、上目を使って、ばかにするようにじろじろ五位の姿を見た。

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すると、その子供はふりかへりながら、上眼を使つて、さげすむやうに、ぢろぢろ五位の姿を見た。

いわば侍所の上役が用が通じないときに、この男を見るような顔をして、見たのである。

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云はば侍所の別当が用の通じない時に、この男を見るやうな顔をして、見たのである。

「よけいなお世話はごめんだ。」

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「いらぬ世話はやかれたうもない。」

その子供は一歩下がりながら、えらそうなくちびるをひん曲げて、こう言った。

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その子供は一足下りながら、高慢な唇を反らせて、かう云つた。

「何だよ、この鼻赤野郎が。」

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「何ぢや、この鼻赤めが。」

五位はこの言葉が自分の顔を打ったように感じた。

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五位はこのことばが自分の顔を打つたやうに感じた。

しかし、それは悪口を言われて腹が立ったからではまったくない。

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が、それは悪態をつかれて、腹が立つたからでは毛頭ない。

言わなくてもいいことを言って、恥をかいた自分が情けなくなったからである。

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云はなくともいい事を云つて、恥をかいた自分が、情なくなつたからである。

彼は、きまりが悪いのを苦しい笑顔に隠しながら、黙ってまた、神泉苑の方へ歩き出した。

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彼は、きまりが悪いのを苦しい笑顔に隠しながら、黙つて、又、神泉苑の方へ歩き出した。

後ろでは、子供が六、七人、肩を寄せて、「べえっ」

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後では、子供が、六七人、肩を寄せて、「べつかつかう」

をしたり、舌を出したりしている。

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をしたり、舌を出したりしてゐる。

もちろん彼はそんなことを知らない。

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勿論彼はそんな事を知らない。

知っていたとしても、それがこの意気地のない五位にとって、何であろう。……

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知つてゐたにしても、それが、この意気地のない五位にとつて、何であらう。……

では、この話の主人公は、ただ軽蔑されるためだけに生まれてきた人間で、別に何の希望も持っていないかというと、そうでもない。

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では、この話の主人公は、唯、軽蔑される為にのみ生れて来た人間で、別に何の希望も持つてゐないかと云ふと、さうでもない。

五位は五、六年前から、芋粥(いもがゆ)という食べ物に、異常なこだわりを持っている。

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五位は五六年前から芋粥いもがゆと云ふ物に、異常な執着を持つてゐる。

芋粥とは山の芋を切り込んで、それを甘葛(あまづら)という甘い蔓(つる)の汁で煮た、かゆのことを言うのである。

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芋粥とは山の芋を中に切込んで、それを甘葛あまづらの汁で煮た、粥の事を云ふのである。

当時はこれが最高のごちそうとして、上は天皇のお食事にまで出されていた。

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当時はこれが、無上の佳味として、上は万乗ばんじようの君の食膳にさへ、上せられた。

だから、この五位のような人間の口へは、一年に一度、特別な宴会のときにしか入らない。

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従つて、吾五位の如き人間の口へは、年に一度、臨時の客の折にしか、はいらない。

その時でさえ、飲めるのはほんのひと口、のどをうるおす程度の少しだけである。

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その時でさへ、飲めるのは僅にのどうるほすに足る程の少量である。

そこで芋粥をお腹いっぱい飲んでみたいということが、ずっと前から、彼のたった一つの望みになっていた。

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そこで芋粥を飽きる程飲んで見たいと云ふ事が、久しい前から、彼の唯一の欲望になつてゐた。

もちろん彼は、それを誰にも話したことがない。

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勿論、彼は、それを誰にも話した事がない。

いや、彼自身さえ、それが彼の一生を貫いている望みだとは、はっきり意識したことがなかっただろう。

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いや彼自身さへそれが、彼の一生を貫いてゐる欲望だとは、明白に意識しなかつた事であらう。

しかし事実は、彼がそのために生きているといっても差し支えないほどだった。――

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が事実は彼がその為に、生きてゐると云つても、差支さしつかへない程であつた。――

人間は、かなえられるかどうかもわからない望みのために、一生をささげてしまうことがある。

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人間は、時として、充されるか充されないか、わからない欲望の為に、一生を捧げてしまふ。

その愚かさを笑う者は、つまるところ、人生に対して道ばたに立っているだけの人に過ぎない。

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その愚をわらふ者は、畢竟ひつきやう、人生に対する路傍の人に過ぎない。

しかし、五位が夢見ていた、「芋粥にお腹いっぱいありつく」

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しかし、五位が夢想してゐた、「芋粥に飽かむ」

ことは、意外にあっさりと現実になった。

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事は、存外容易に事実となつて現れた。

その一部始終を書こうというのが、芋粥の話の目的なのである。

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その始終を書かうと云ふのが、芋粥の話の目的なのである。

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ある年の正月二日、基経の屋敷に、いわゆる臨時の客の宴会があった時のことである。

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或年の正月二日、基経のだいに、所謂いはゆる臨時の客があつた時の事である。

(臨時の客とは、宮中の大饗(だいきょう)と同じ日に、摂政・関白家が大臣以下の公家たちを招いて行う宴会で、大饗と別に変わりはない。)

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(臨時の客は二宮にぐう大饗だいきやうと同日に摂政関白家が、大臣以下の上達部かんだちめを招いて催す饗宴で、大饗と別に変りがない。)

五位も、ほかの侍たちに混じって、その宴会の残り料理のお相伴(しょうばん)をした。

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五位も、外の侍たちにまじつて、その残肴ざんかう相伴しやうばんをした。

当時はまだ、料理を取り食いする習慣がなくて、残り料理は、その家の侍が一つの部屋に集まって食べることになっていたからである。

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当時はまだ、取食とりばみの習慣がなくて、残肴は、その家の侍が一堂に集まつて、食ふ事になつてゐたからである。

もっとも、大饗に等しいといっても昔のことだから、品数が多い割にたいしたものはない。餅、蒸しあわび、干した鳥、宇治の氷魚(ひうお)、近江の鮒(ふな)、鯛(たい)の干もの、鮭の子の入ったもの、焼きだこ、大きなえび、みかん類、串柿(くしがき)などの類である。

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もつとも、大饗に等しいと云つても昔の事だから、品数の多い割りに碌な物はない、餅、伏菟ふと蒸鮑むしあはび干鳥ほしどり、宇治の氷魚ひを近江あふみふな、鯛の楚割すはやり、鮭の内子こごもり焼蛸やきだこ大海老おほえび大柑子おほかうじ、小柑子、橘、串柿などのたぐひである。

ただ、その中に、例の芋粥があった。

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唯、その中に、例の芋粥があつた。

五位は毎年、この芋粥を楽しみにしている。

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五位は毎年、この芋粥を楽しみにしてゐる。

しかし、いつも人数が多いので、自分が飲めるのはほんの少しだ。

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が、何時も人数が多いので、自分が飲めるのは、いくらもない。

それが今年は、特に少なかった。

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それが今年は、特に、少かつた。

そして気のせいか、いつもより、ずいぶん味がよい。

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さうして気のせゐか、何時もより、余程味が好い。

そこで、彼は飲んでしまったあとの椀をじっと眺めながら、薄い口ひげについている滴(しずく)を手のひらで拭いて、誰に言うともなく、「いつになったら、これにありつけることかのう」

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そこで、彼は飲んでしまつた後の椀をしげしげと眺めながら、うすい口髭についてゐるしづくを、掌で拭いて誰に云ふともなく、「何時になつたら、これに飽ける事かのう」

と、こう言った。

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と、かう云つた。

「大夫(たいふ)殿は、芋粥にありついたことがないそうだな。」

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「大夫殿は、芋粥に飽かれた事がないさうな。」

五位の言葉が終わらないうちに、誰かが嘲り笑った。

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五位のことばをはらない中に、誰かが、嘲笑あざわらつた。

落ち着いた、鷹揚(おうよう)な、武人らしい声である。

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さびのある、鷹揚おうやうな、武人らしい声である。

五位は、猫背の首を上げて、臆病らしく、その人の方を見た。

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五位は、猫背の首を挙げて、臆病らしく、その人の方を見た。

声の主は、そのころ同じく基経のもとで働いていた、民部卿(みんぶきょう)時長の子、藤原利仁(ふじわらのとしひと)である。

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声の主は、その頃同じ基経の恪勤かくごんになつてゐた、民部卿時長の子藤原利仁としひとである。

肩幅が広く、背が群を抜いて高い、たくましい大男で、これは、ゆでた栗をかじりながら、黒い酒の杯を重ねていた。

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肩幅の広い、身長みのたけの群を抜いたたくましい大男で、これは、煠栗ゆでぐりを噛みながら、黒酒くろきさかづきを重ねてゐた。

もうかなり酔いがまわっているらしい。

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もう大分酔がまはつてゐるらしい。

「お気の毒なことだの。」

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「お気の毒な事ぢやの。」

利仁は、五位が顔を上げたのを見ると、軽蔑とあわれみとを一つにしたような声で、言葉を続けた。

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利仁は、五位が顔を挙げたのを見ると、軽蔑と憐憫れんびんとを一つにしたやうな声で、語を継いだ。

「お望みなら、利仁がたっぷりありつかせて差し上げよう。」

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「お望みなら、利仁がお飽かせ申さう。」

いつもいじめられている犬は、たまに肉をもらってもなかなか近づかない。

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始終、いぢめられてゐる犬は、たまに肉を貰つても容易によりつかない。

五位は、例の笑うのか泣くのかわからないような笑顔をして、利仁の顔と、空の椀とを交互に見比べていた。

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五位は、例の笑ふのか、泣くのか、わからないやうな笑顔をして、利仁の顔と、からの椀とを等分に見比べてゐた。

「いやですか。」

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「おいやかな。」

「……」

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「……」

「どうですか。」

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「どうぢや。」

「……」

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「……」

五位は、その間に、大勢の視線が自分の上に集まっているのを感じ出した。

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五位は、その中に、衆人の視線が、自分の上に、集まつてゐるのを感じ出した。

答え方一つで、また、一同の笑いものにされなければならない。

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答へ方一つで、又、一同の嘲弄を、受けなければならない。

あるいは、どう答えても、結局馬鹿にされそうな気さえする。

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或は、どう答へても、結局、莫迦ばかにされさうな気さへする。

彼はためらった。

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彼は躊躇ちうちよした。

もし、その時に、相手が、少し面倒くさそうな声で、「いやなら、無理にとは申すまい」

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もし、その時に、相手が、少し面倒臭そうな声で、「おいやなら、たつてとは申すまい」

と言わなかったなら、五位はいつまでも、椀と利仁とを見比べていたことだろう。

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と云はなかつたなら、五位は、何時いつまでも、椀と利仁とを、見比べてゐた事であらう。

彼は、それを聞くと、あわてて答えた。

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彼は、それを聞くと、あわただしく答へた。

「いや……ありがたうございます。」

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「いや……かたじけなうござる。」

このやりとりを聞いていた者は、みんな一度に、吹き出して笑った。

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この問答を聞いてゐた者は、皆、一時に、失笑した。

「いや……ありがたうございます。」

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「いや……忝うござる。」

――こう言って、五位の答えをまねる者さえある。

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――かう云つて、五位の答を、真似る者さへある。

みかん類を盛った器や高坏(たかつき)の上に、多くの烏帽子が、笑い声とともに一しきり、波のように動いた。

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所謂、橙黄橘紅とうくわうきつこうを盛つた窪坏くぼつきや高坏の上に多くのもみ烏帽子やたて烏帽子が、笑声と共に一しきり、波のやうに動いた。

中でも、一番大きな声で、気持ちよさそうに笑ったのは、利仁自身である。

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中でも、もつとも、大きな声で、機嫌よく、笑つたのは、利仁自身である。

「では、そのうちに、お誘い申そう。」

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「では、その中に、御誘ひ申さう。」

そう言いながら、彼は、ちょっと顔をしかめた。

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さう云ひながら、彼は、ちよいと顔をしかめた。

こみ上げてくる笑いと今飲んだ酒とが、のどで一つになったからである。

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こみ上げて来る笑と今飲んだ酒とが、喉で一つになつたからである。

「……よろしいな。」

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「……しかと、よろしいな。」

「ありがたうございます。」

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「忝うござる。」

五位は赤くなって、どもりながら、また前の答えを繰り返した。

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五位は赤くなつて、どもりながら、又、前の答を繰返した。

一同が今度も笑ったのは、言うまでもない。

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一同が今度も、笑つたのは、云ふまでもない。

それを言わせたくてわざわざ念を押した当の利仁にいたっては、前よりも一層おかしそうに広い肩をゆすって、大笑いした。

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それが云はせたさに、わざわざ念を押した当の利仁に至つては、前よりも一層可笑をかしさうに広い肩をゆすつて、哄笑こうせうした。

この北の野育ちの武人は、生き方が二つしかわからない。

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この朔北さくほくの野人は、生活の方法を二つしか心得てゐない。

一つは酒を飲むことで、もう一つは笑うことである。

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一つは酒を飲む事で、他の一つは笑ふ事である。

しかし幸いにして、話の中心は、まもなく、この二人を離れてしまった。

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しかしさいはひに談話の中心は、程なく、この二人を離れてしまつた。

これはことによると、ほかの連中が、たとえ笑いものにするためでも、一同の注意をこの赤鼻の五位に集中させるのが気に入らなかったからかもしれない。

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これは事によると、外の連中が、たとひ嘲弄にしろ、一同の注意をこの赤鼻の五位に集中させるのが、不快だつたからかも知れない。

とにかく、話題はそれからそれへと移って、酒も肴(さかな)も残り少なくなったころには、ある侍が行縢(むかばき)という鹿の皮でできたものの両側に両足を入れて馬に乗ろうとした話が、座の笑いを集めていた。

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兎に角、談柄だんぺいはそれからそれへと移つて、酒もさかな残少のこりずくなになつた時分には、なにがしと云ふ侍学生がくしやうが、行縢むかばきの片皮へ、両足を入れて馬に乗らうとした話が、一座の興味を集めてゐた。

しかし、五位だけは、まるでほかの話が聞こえないらしい。

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が、五位だけは、まるで外の話が聞えないらしい。

おそらく芋粥の二文字が、彼のすべての考えを支配しているからだろう。

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恐らく芋粥の二字が、彼のすべての思量を支配してゐるからであらう。

前にキジの焼いたものがあっても、箸をつけない。

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前に雉子きぎすいたのがあつても、箸をつけない。

黒い酒の杯があっても、口をつけない。

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黒酒の杯があつても、口を触れない。

彼はただ、両手を膝の上に置いて、見合いをする娘のように、霜に触れかかったびんの辺まで、うぶらしく赤くなりながら、いつまでも空になった黒塗りの椀を見つめて、うっとりと微笑んでいるのである。……

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彼は、唯、両手を膝の上に置いて、見合ひをする娘のやうに霜に犯されかかつたびんの辺まで、初心うぶらしく上気しながら、何時までも空になつた黒塗の椀を見つめて、多愛もなく、微笑してゐるのである。……

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それから四、五日たった日の午前、加茂川(かもがわ)の川原に沿って、粟田口(あわたぐち)へ通じる街道を、静かに馬を進めていく二人の男がいた。

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それから、四五日たつた日の午前、加茂川の河原に沿つて、粟田口あはたぐちへ通ふ街道を、静に馬を進めてゆく二人の男があつた。

一人は濃い青色の狩衣(かりぎぬ)に同じ色の袴をして、飾りのついた太刀を腰にさした、「ひげが黒くびんがきれいな」

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一人は濃いはなだ狩衣かりぎぬに同じ色の袴をして、打出うちでの太刀をいた「鬚黒くびんぐきよき」

男である。

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男である。

もう一人は、みすぼらしい青みがかったくすんだ色の水干に、薄い綿入りの着物を二枚ほど重ねて着た、四十前後の侍で、これは、帯の結び方のだらしない様子といい、赤鼻でしかも穴のあたりが鼻水にぬれている様子といい、身の回り全部のみすぼらしいことがはなはだしい。

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もう一人は、みすぼらしい青鈍あをにびの水干に、薄綿のきぬを二つばかり重ねて着た、四十恰好の侍で、これは、帯のむすび方のだらしのない容子ようすと云ひ、赤鼻でしかも穴のあたりが、はなにぬれてゐる容子と云ひ、身のまはり万端のみすぼらしい事おびただしい。

もっとも、馬は二人とも、前のは月毛(つきげ)、後ろのは葦毛(あしげ)の三歳の若馬で、道を行く物売りや侍も振り向いて見るほどの速い馬である。

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尤も、馬は二人とも、前のは月毛つきげ、後のは蘆毛あしげの三歳駒で、道をゆく物売りや侍も、振向いて見る程の駿足である。

その後からまた二人、馬の歩みに遅れまいとしてついていくのは、荷物持ちと従者に違いない。――

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その後から又二人、馬の歩みに遅れまいとしていて行くのは、調度掛と舎人とねりとに相違ない。――

これが、利仁と五位との一行であることは、わざわざここに断るまでもないことだろう。

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これが、利仁と五位との一行である事は、わざわざ、ここに断るまでもない話であらう。

冬とはいいながら、物静かに晴れた日で、白くなった川原の石の間、さらさら流れる水のほとりに立ち枯れているよもぎの葉を、ゆするほどの風もない。

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冬とは云ひながら、物静に晴れた日で、白けた河原の石の間、潺湲せんくわんたる水のほとりに立枯れてゐるよもぎの葉を、ゆする程の風もない。

川に面した背の低い柳は、葉のない枝に飴のようにすべらかな日の光を受けて、梢(こずえ)にいるセキレイの尾を動かすのさえ、くっきりと影を街道に落としている。

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川に臨んだ背の低い柳は、葉のない枝にあめの如く滑かな日の光りをうけて、こずゑにゐる鶺鴒せきれいの尾を動かすのさへ、鮮かに、それと、影を街道に落してゐる。

東山の暗い緑の上に、霜に焦げたビロードのような丸い肩を出しているのは、たぶん比叡(ひえい)の山だろう。

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東山の暗い緑の上に、霜に焦げた天鵞絨びろうどのやうな肩を、丸々と出してゐるのは、大方、比叡ひえいの山であらう。

二人はその中に、鞍(くら)の飾りをまぶしく日に輝かせながら、鞭も使わず悠々と、粟田口を目指して進むのである。

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二人はその中にくら螺鈿らでんを、まばゆく日にきらめかせながら鞭をも加へず悠々と、粟田口を指して行くのである。

「どこでございますか、手前をつれて行ってくださるのは。」

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「どこでござるかな、手前をつれて行つて、やらうと仰せられるのは。」

五位が慣れない手に手綱を操りながら、言った。

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五位が馴れない手に手綱をかいくりながら、云つた。

「すぐそこだ。心配されるほど遠くはない。」

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「すぐ、そこぢや。お案じになる程遠くはない。」

「すると、粟田口あたりでございますか。」

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「すると、粟田口辺でござるかな。」

「まあ、そう思われたらよかろう。」

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「まづ、さう思はれたがよろしからう。」

利仁は今朝五位を誘うのに、東山の近くに湯が湧いているところがあるから、そこへ行こうと言って出てきたのである。

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利仁は今朝五位を誘ふのに、東山の近くに湯の湧いてゐる所があるから、そこへ行かうと云つて出て来たのである。

赤鼻の五位は、それを本当に信じた。

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赤鼻の五位は、それをにうけた。

長らく湯に入っていないので、体中が先ごろからかゆくてたまらない。

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久しく湯にはいらないので、体中がこの間からむづがゆい。

芋粥のごちそうになったうえに、入浴もできるなら、これ以上の幸せはない。

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芋粥の馳走になつた上に、入湯が出来れば、願つてもない仕合せである。

こう思って、あらかじめ利仁が引かせてきた、葦毛の馬にまたがった。

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かう思つて、あらかじめ利仁が牽かせて来た、蘆毛の馬にまたがつた。

ところが、並んでここまで来てみると、どうも利仁はこの近所へ来るつもりではないらしい。

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所が、くつわを並べて此処まで来て見ると、どうも利仁はこの近所へ来るつもりではないらしい。

現に、そうこうしているうちに、粟田口は通り過ぎた。

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現に、さうかうしてゐる中に、粟田口は通りすぎた。

「粟田口ではないのですね。」

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「粟田口では、ござらぬのう。」

「いかにも、もう少し向こうだ。」

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「いかにも、もそつと、あなたでな。」

利仁は、微笑を浮かべながら、わざと五位の顔を見ないようにして、静かに馬を歩ませている。

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利仁は、微笑を含みながら、わざと、五位の顔を見ないやうにして、静に馬を歩ませてゐる。

両側の人家は次第にまばらになって、今は広々とした冬の田んぼの上に、餌をあさるカラスが見えるばかり、山の陰に消え残って、雪の色もほのかに青く霞んでいる。

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両側の人家は、次第に稀になつて、今は、広々とした冬田の上に、餌をあさるからすが見えるばかり、山の陰に消残つて、雪の色もほのかに青く煙つてゐる。

晴れながら、とがった木の梢が目に痛いほど空を刺しているのさえ、なんとなく肌寒い。

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晴れながら、とげとげしいはじの梢が、眼に痛く空を刺してゐるのさへ、何となく肌寒い。

「では、山科(やましな)あたりでございますか。」

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「では、山科やましな辺ででもござるかな。」

「山科は、これだ。もう少し先ですよ。」

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「山科は、これぢや。もそつと、さきでござるよ。」

なるほど、そう言っているうちに、山科も通り過ぎた。

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成程、さう云ふ中に、山科も通りすぎた。

それどころではない。

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それ所ではない。

あれこれするうちに、関山(せきやま)も後にして、だいたい昼少し過ぎたころには、とうとう三井寺(みいでら)の前へ来た。

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何かとする中に、関山も後にして、彼是かれこれひる少しすぎた時分には、とうとう三井寺の前へ来た。

三井寺には、利仁の親しい僧がいる。

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三井寺には、利仁の懇意にしてゐる僧がある。

二人はその僧を訪ねて、昼ごはんのごちそうになった。

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二人はその僧を訪ねて、午餐ひるげの馳走になつた。

それがすむと、また馬に乗って、道を急ぐ。

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それがすむと、又、馬に乗つて、途を急ぐ。

行く先はこれまで来た道に比べると、はるかに人家が少ない。

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行手は今まで来た路に比べると遙に人煙が少ない。

特に当時は盗賊が四方に横行した、物騒な時代である。――

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殊に当時は盗賊が四方に横行した、物騒な時代である。――

五位は猫背をさらに低くしながら、利仁の顔を見上げるようにして尋ねた。

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五位は猫背を一層低くしながら、利仁の顔を見上げるやうにして訊ねた。

「まだ先でございますね。」

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「まだ、さきでござるのう。」

利仁は微笑した。

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利仁は微笑した。

いたずらをして、それを見つけられそうになった子供が年上の者に向かってするような微笑である。

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悪戯いたづらをして、それを見つけられさうになつた子供が、年長者に向つてするやうな微笑である。

鼻の先に寄せたしわと、目じりにたたえた筋肉のたるみとが、笑ってしまおうか、しまうまいかとためらっているらしい。

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鼻の先へよせたしわと、眼尻にたたへた筋肉のたるみとが、笑つてしまはうか、しまふまいかとためらつてゐるらしい。

そして、とうとう、こう言った。

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さうして、とうとう、かう云つた。

「実はな、敦賀(つるが)まで、お連れしようと思ったのじゃ。」

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「実はな、敦賀つるがまで、お連れ申さうと思うたのぢや。」

笑いながら、利仁は鞭を挙げて遠くの空を指さした。

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笑ひながら、利仁は鞭を挙げて遠くの空を指さした。

その鞭の下には、きらきらと、午後の日を受けた近江(おうみ)の湖が光っている。

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その鞭の下には、的皪てきれきとして、午後の日を受けた近江あふみの湖が光つてゐる。

五位は、あわてふためいた。

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五位は、狼狽らうばいした。

「敦賀と申しますと、あの越前(えちぜん)の敦賀でございますか。あの越前の――」

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「敦賀と申すと、あの越前ゑちぜんの敦賀でござるかな。あの越前の――」

利仁が、敦賀の人、藤原有仁(ふじわらのありひと)の婿(むこ)になってから、多くは敦賀に住んでいるということも、日ごろから聞いていないことはない。

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利仁が、敦賀の人、藤原有仁ありひと女婿ぢよせいになつてから、多くは敦賀に住んでゐると云ふ事も、日頃から聞いてゐない事はない。

しかし、その敦賀まで自分をつれて行く気だろうとは、つい今まで思っていなかった。

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が、その敦賀まで自分をつれて行く気だらうとは、今の今まで思はなかつた。

まず第一に、いくつもの山や川を隔てた越前の国へ、このようにたった二人の供を連れただけで、どうして無事に行けようか。

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第一、幾多の山河を隔ててゐる越前の国へ、この通り、僅二人の伴人ともびとをつれただけで、どうして無事に行かれよう。

ましてこのごろは、旅人が盗賊に殺されたという噂さえ、あちこちにある。――

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ましてこの頃は、往来ゆききの旅人が、盗賊の為に殺されたと云ふうはささへ、諸方にある。――

五位は頼むように、利仁の顔を見た。

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五位は歎願するやうに、利仁の顔を見た。

「それはまた、とんでもない。東山だと思えば、山科。山科だと思えば、三井寺。あげくが越前の敦賀とは、いったいどういうことでございます。最初からそう仰せられるなら、下人(げにん)なりと連れてきましたものを。――敦賀とは、とんでもない。」

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「それは又、滅相な、東山ぢやと心得れば、山科。山科ぢやと心得れば、三井寺。揚句が越前の敦賀とは、一体どうしたと云ふ事でござる。始めから、さう仰せられうなら、下人共なりと、召つれようものを。――敦賀とは、滅相な。」

五位は、ほとんど泣きそうになって、つぶやいた。

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五位は、殆どべそを掻かないばかりになつて、つぶやいた。

もし「芋粥にお腹いっぱいありつく」

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もし「芋粥に飽かむ」

ことが、彼の勇気をふるわせなかったとしたら、彼はおそらく、そこから別れて、京都へ一人帰ってきたことだろう。

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事が、彼の勇気を鼓舞しなかつたとしたら、彼は恐らく、そこから別れて、京都へ独り帰つて来た事であらう。

「利仁が一人いるのは、千人いるとお思いなされ。道中の心配は、ご無用じゃ。」

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「利仁が一人居るのは、千人ともお思ひなされ。路次の心配は、御無用ぢや。」

五位があわてふためくのを見ると、利仁は、少し眉をひそめながら、嘲り笑った。

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五位の狼狽するのを見ると、利仁は、少し眉をしかめながら、嘲笑あざわらつた。

そして従者を呼び寄せて、持たせてきた矢筒(やつぼ)を背に負うと、やはり、その手から黒塗りの弓を受け取って、それを鞍の上に横たえながら、先に立って馬を進めた。

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さうして調度掛を呼寄せて、持たせて来た壺胡籙つぼやなぐひを背に負ふと、やはり、その手から、黒漆こくしつ真弓まゆみをうけ取つて、それを鞍上に横へながら、先に立つて、馬を進めた。

こうなった以上、意気地のない五位は、利仁の意志にただ従うよりほかに仕方がない。

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かうなる以上、意気地のない五位は、利仁の意志に盲従するより外に仕方がない。

それで彼は心細そうに、荒涼とした周囲の野原を眺めながら、うろ覚えの観音経(かんのんきょう)を口の中で唱え唱え、例の赤鼻を鞍の前部にすりつけるようにして、頼りない馬の歩みを、相変わらずとぼとぼと進めていった。

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それで、彼は心細さうに、荒涼とした周囲の原野を眺めながら、うろ覚えの観音経くわんおんぎやうを口の中に念じ念じ、例の赤鼻を鞍の前輪にすりつけるやうにして、覚束ない馬の歩みを、不相変あひかはらずとぼとぼと進めて行つた。

馬のひづめの音が響く野は、広広とした枯れ草に覆われて、そこここにある水たまりも、冷たく、青空を映したまま、この冬の午後を、いつかそのまま凍ってしまうかと思われる。

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馬蹄の反響する野は、茫々たる黄茅くわうばうおほはれて、その所々にある行潦みづたまりも、つめたく、青空を映したまま、この冬の午後を、何時かそれなり凍つてしまふかと疑はれる。

その果てには、一連の山並みが、日に背いているせいか、輝くはずの残雪の光もなく、紫がかった暗い色を、長々となすっているが、それさえわびしい枯れすすきに遮られて、二人の従者の目には入らないことが多い。――

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そのはてには、一帯の山脈が、日に背いてゐるせゐか、かがやく可き残雪の光もなく、紫がかつた暗い色を、長々となすつてゐるが、それさへ蕭条せうでうたる幾叢いくむら枯薄かれすすきさへぎられて、二人の従者の眼には、はいらない事が多い。――

すると、利仁が、突然、五位の方をふり向いて、声をかけた。

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すると、利仁が、突然、五位の方をふりむいて、声をかけた。

「あそこに、よい使者が参った。敦賀への言付けを申そう。」

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「あれに、よい使者が参つた。敦賀への言づけを申さう。」

五位は利仁の言う意味がよくわからないので、おそるおそる、その弓で指さす方を眺めてみた。

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五位は利仁の云ふ意味が、よくわからないので、怖々こはごはながら、その弓で指さす方を、眺めて見た。

もとより人の姿が見えるような所ではない。

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元より人の姿が見えるやうな所ではない。

ただ、野葡萄(のぶどう)か何かのつるが、灌木(かんぼく)の茂みにからみついている中を、一匹のキツネが、暖かな毛の色を傾きかけた日にさらしながら、のそりのそりと歩いていく。――

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唯、野葡萄のぶだうか何かのつるが、灌木の一むらにからみついてゐる中を、一疋の狐が、暖かな毛の色を、傾きかけた日にさらしながら、のそりのそり歩いて行く。――

と思う間に、キツネは、あわてて身をはねて、一目散に、どこへともなく走り出した。

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と思ふ中に、狐は、あわただしく身を跳らせて、一散に、どこともなく走り出した。

利仁が急に鞭を鳴らせて、その方へ馬を飛ばし始めたからである。

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利仁が急に、鞭を鳴らせて、その方へ馬を飛ばし始めたからである。

五位も、我を忘れて、利仁の後を追った。

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五位も、われを忘れて、利仁の後を、つた。

従者ももちろん、遅れてはいられない。

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従者も勿論、遅れてはゐられない。

しばらくは、石を蹴る馬のひづめの音が、かつかつと、広い野の静けさを破っていたが、やがて利仁が馬を止めたのを見ると、いつ捕まえたのか、もうキツネの後ろ足をつかんで、逆さまに、鞍の側へぶら下げている。

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しばらくは、石を蹴る馬蹄の音が、戞々かつかつとして、曠野の静けさを破つてゐたが、やがて利仁が、馬を止めたのを見ると、何時、捕へたのか、もう狐の後足をつかんで、さかさまに、鞍の側へ、ぶら下げてゐる。

キツネが走れなくなるまで追い詰めたところで、それを馬の下に敷いて、手でつかまえたものだろう。

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狐が、走れなくなるまで、追ひつめた所で、それを馬の下に敷いて、手取りにしたものであらう。

五位は、薄いひげにたまる汗を、あわてて拭きながら、やっと、その傍へ馬を乗りつけた。

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五位は、うすい髭にたまる汗を、慌しく拭きながら、やうやく、その傍へ馬を乗りつけた。

「これ、キツネよ、よう聞けよ。」

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「これ、狐、よう聞けよ。」

利仁は、キツネを高く目の前へつるし上げながら、わざと大げさな声を出してこう言った。

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利仁は、狐を高く眼の前へつるし上げながら、わざと物々しい声を出してかう云つた。

「お前は今夜中に、敦賀の利仁の館(やかた)へ行って、こう申せ。『利仁は、ただいま急に客人を連れて下ってこようとするところじゃ。明日、巳の刻(午前十時ごろ)のころ、高島のあたりまで、男たちを迎えにやり、それに鞍を置いた馬を二頭引かせてまいれ。』よいか、忘れるなよ。」

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「其方、今夜の中に、敦賀の利仁がやかたへ参つて、かう申せ。『利仁は、唯今にはかに客人を具して下らうとする所ぢや。明日、巳時みのとき頃、高島の辺まで、男たちを迎ひにつかはし、それに、鞍置馬二疋、牽かせて参れ。』よいか忘れるなよ。」

言い終わると同時に、利仁は一振りして、キツネを遠くの草むらの中へ投げ捨てた。

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云ひをはると共に、利仁は、一ふり振つて狐を、遠くのくさむらの中へ、はふり出した。

「いや、走るわ。走るわ。」

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「いや、走るわ。走るわ。」

やっと追いついた二人の従者は、逃げていくキツネの行方を眺めながら、手をたたいではやし立てた。

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やつと、追ひついた二人の従者は、逃げてゆく狐の行方を眺めながら、手をつてはやし立てた。

落ち葉のような色をしたその獣の背は、夕日の中を、まっしぐらに、木の根や石ころをものともせず、どこまでも走っていく。

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落葉のやうな色をしたその獣の背は、夕日の中を、まつしぐらに、木の根石くれの嫌ひなく、何処までも、走つて行く。

それが一行の立っているところから、手に取るようによく見えた。

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それが一行の立つてゐる所から、手にとるやうによく見えた。

キツネを追っているうちに、いつか彼らは、広い野が緩い坂になって、水の枯れた川底と一つになる、ちょうどその上のところへ出ていたからである。

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狐を追つてゐる中に、何時か彼等は、曠野がゆるい斜面を作つて、水の涸れた川床と一つになる、その丁度上の所へ、出てゐたからである。

「なんと大きな気持ちで使いをされるのでしょう。」

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広量くわうりやうの御使でござるのう。」

五位は、純粋な尊敬とおどろきを漏らしながら、キツネさえ使い走りにするこの野育ちの武人の顔を、今さらのように、仰いで見た。

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五位は、ナイイヴな尊敬と讃嘆とを洩らしながら、この狐さへ頤使いしする野育ちの武人の顔を、今更のやうに、仰いで見た。

自分と利仁との間にどれほどの差があるか、そんなことを考える暇はない。

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自分と利仁との間に、どれ程の懸隔があるか、そんな事は、考へる暇がない。

ただ、利仁の意志に支配される範囲が広いだけに、その意志の中に包まれる自分の意志も、それだけ自由が利くようになったことを、頼もしく感じるだけである。――

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唯、利仁の意志に、支配される範囲が広いだけに、その意志の中に包容される自分の意志も、それだけ自由が利くやうになつた事を、心強く感じるだけである。――

おべっかというのは、おそらく、こういう時に、もっとも自然に生まれてくるものだろう。

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阿諛あゆは、恐らく、かう云ふ時に、もつとも自然に生れて来るものであらう。

読者は今後、赤鼻の五位の態度に、太鼓持ちのような何かを見出しても、それだけでみだりにこの男の人格を疑うべきではない。

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読者は、今後、赤鼻の五位の態度に、幇間ほうかんのやうな何物かを見出しても、それだけでみだりにこの男の人格を、疑ふ可きではない。

投げ捨てられたキツネは、なだらかな斜面を転げるようにして駆け下りると、水のない川底の石の間を、器用にぴょいぴょいと飛び越えて、今度は向こうの斜面へ勢いよく斜めに駆け上がった。

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抛り出された狐は、なぞへの斜面を、転げるやうにして、駈け下りると、水の無い河床の石の間を、器用に、ぴよいぴよい、飛び越えて、今度は、向うの斜面へ、勢よく、すぢかひに駈け上つた。

駆け上がりながら、ふり返って見ると、自分を手づかみにした侍の一行は、まだ遠い斜面の上に馬を並べて立っている。

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駈け上りながら、ふりかへつて見ると、自分を手捕りにした侍の一行は、まだ遠い傾斜の上に馬を並べて立つてゐる。

それがみんな、指をそろえた程に小さく見えた。

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それが皆、指を揃へた程に、小さく見えた。

特に沈む日を浴びた、月毛と葦毛とが、霜を含んだ空気の中に、絵よりもくっきりと、浮かび上がっている。

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殊に入日を浴びた、月毛と蘆毛とが、霜を含んだ空気の中に、描いたよりもくつきりと、浮き上つてゐる。

キツネは頭をめぐらすと、また枯れすすきの中を、風のように走り出した。

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狐は、頭をめぐらすと、又枯薄の中を、風のやうに走り出した。

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一行は、予定通り翌日の巳の刻(午前十時ごろ)ばかりに、高島のあたりへ来た。

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一行は、予定通り翌日の巳時みのときばかりに、高島の辺へ来た。

ここは琵琶湖(びわこ)に面した小さな村で、昨日とは違い、どんよりと曇った空の下に、いくつかの藁(わら)ぶきの家が、まばらに散らばっているばかり、岸に生えた松の木の間には、灰色の波を寄せる湖の水面が、磨くのを忘れた鏡のように、さむさむと広がっている。――

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此処は琵琶湖に臨んだ、ささやかな部落で、昨日に似ず、どんよりと曇つた空の下に、幾戸の藁屋わらやが、まばらにちらばつてゐるばかり、岸に生えた松の樹の間には、灰色の漣漪さざなみをよせる湖の水面が、磨くのを忘れた鏡のやうに、さむざむと開けてゐる。――

ここまで来ると利仁が、五位をふり向いて言った。

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此処まで来ると利仁が、五位を顧みて云つた。

「あれをご覧なされ。男どもが迎えに参ったようでございます。」

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「あれを御覧ごらうじろ。男どもが、迎ひに参つたげでござる。」

見ると、なるほど、二頭の鞍をつけた馬を引いた、二、三十人の男たちが、馬に乗っているのもあり、徒歩のものもあり、みんな水干の袖を寒風になびかせて、湖の岸の松の間を、一行の方へ急いでくる。

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見ると、成程、二疋の鞍置馬を牽いた、二三十人の男たちが、馬に跨がつたのもあり徒歩かちのもあり、皆水干の袖を寒風に翻へして、湖の岸、松の間を、一行の方へ急いで来る。

やがてこれが近くなったと思うと、馬に乗っていた連中はあわただしく鞍から下り、徒歩の連中は道ばたにしゃがんで、いずれも恭々しく利仁の来るのを待ちかまえた。

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やがてこれが、間近くなつたと思ふと、馬に乗つてゐた連中は、慌ただしく鞍を下り、徒歩の連中は、路傍に蹲踞そんきよして、いづれも恭々しく、利仁の来るのを、待ちうけた。

「やはり、あのキツネが、使いを勤めたと見えますな。」

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「やはり、あの狐が、使者を勤めたと見えますのう。」

「もともと、不思議な力を持つ獣だから、あの位の用を勤めるのは、何でもないのじゃ。」

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生得しやうとく変化へんげある獣ぢやて、あの位の用を勤めるのは、何でもござらぬ。」

五位と利仁とが、こんな話をしているうちに、一行は、郎等(ろうどう)たちの待っているところへ来た。

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五位と利仁とが、こんな話をしてゐる中に、一行は、郎等らうどうたちの待つてゐる所へ来た。

「よく来てくれた。」

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「大儀ぢや。」

と、利仁が声をかける。

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と、利仁が声をかける。

しゃがんでいた連中が、急いで立って、二人の馬の口を取る。

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蹲踞してゐた連中が、忙しく立つて、二人の馬の口を取る。

急に、すべてが明るく陽気になった。

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急に、すべてが陽気になつた。

「昨夜、不思議なことがございましてな。」

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「夜前、稀有けうな事が、ございましてな。」

二人が馬から下りて、敷き皮の上へ腰を下ろすか下ろさないうちに、檜皮色(ひわだいろ)の水干を着た白髪の郎等が、利仁の前へ来て、こう言った。

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二人が、馬から下りて、敷皮の上へ、腰を下すか下さない中に、檜皮色ひはだいろの水干を着た、白髪の郎等が、利仁の前へ来て、かう云つた。

「何じゃ。」

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「何ぢや。」

利仁は、郎等たちの持ってきた酒や弁当箱のようなものを、五位にも勧めながら、ゆったりと問いかけた。

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利仁は、郎等たちの持つて来た篠枝ささえ破籠わりごを、五位にも勧めながら、鷹揚おうやうに問ひかけた。

「それがでございます。昨夜の戌の刻(夜八時ごろ)ばかりに、奥方が急に意識を失われましてな。『おのれは坂本のキツネじゃ。今日、殿の仰せられたことを伝えようほどに、近うよって、よう聞きやれ。』と、こうおっしゃるのでございます。さて、一同がお前に参りますると、奥方がおっしゃるには、『殿はただいま急に客人を連れて下ってこようとするところじゃ。明日、巳の刻ごろ、高島のあたりまで男どもを迎えにやり、それに鞍を置いた馬を二頭引かせてまいれ。』と、こうおっしゃるのでございます。」

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「さればでございまする。夜前、戌時いぬのときばかりに、奥方がにはかに、人心地ひとごこちをお失ひなされましてな。『おのれは、阪本の狐ぢや。今日、殿の仰せられた事を、言伝ことづてせうほどに、近う寄つて、よう聞きやれ。』と、かう仰有おつしやるのでございまする。さて、一同がお前に参りますると、奥方の仰せられまするには、『殿は唯今俄に客人を具して、下られようとする所ぢや。明日巳時頃、高島の辺まで、男どもを迎ひに遺はし、それに鞍置馬二疋牽かせて参れ。』と、かう御意ぎよい遊ばすのでございまする。」

「それはまた、不思議なことでございますな。」

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「それは、又、稀有けうな事でござるのう。」

五位は利仁の顔と、郎等の顔とを、細かそうに見比べながら、両方に満足を与えるような相づちを打った。

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五位は利仁の顔と、郎等の顔とを、仔細らしく見比べながら、両方に満足を与へるやうな、相槌あひづちを打つた。

「それだけではございません。さもおそろしそうに、わなわなとお震えになりましてな、『遅れるなよ。遅れれば、おのれが、殿のお怒りをうけねばならぬ。』と、しきりにお泣きになるのでございます。」

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「それも唯、仰せられるのではございませぬ。さも、恐ろしさうに、わなわなとお震へになりましてな、『遅れまいぞ。遅れれば、おのれが、殿の御勘当をうけねばならぬ。』と、しつきりなしに、お泣きになるのでございまする。」

「して、それからどうした。」

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「して、それから、如何いかがした。」

「それから、あっさりとお休みになりましてな。手前どもが出てまいります時にも、まだお目覚めにはなっていないようでございました。」

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「それから、多愛なく、お休みになりましてな。手前共の出て参りまする時にも、まだ、お眼覚にはならぬやうで、ございました。」

「いかがでございますか。」

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「如何でござるな。」

郎等の話を聞き終わると、利仁は五位を見て、得意そうに言った。

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郎等の話を聞きをはると、利仁は五位を見て、得意らしく云つた。

「利仁には、獣も使われるわ。」

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「利仁には、けものも使はれ申すわ。」

「なんとも驚くほかはございませんな。」

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「何とも驚き入る外は、ござらぬのう。」

五位は赤鼻をかきながら、ちょっと頭を下げて、それからわざとらしく、あきれたように、口を開いて見せた。

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五位は、赤鼻を掻きながら、ちよいと、頭を下げて、それから、わざとらしく、呆れたやうに、口を開いて見せた。

口ひげには、今飲んだ酒が、しずくになってついている。

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口髭には、今飲んだ酒が、しづくになつて、くつついてゐる。

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その日の夜のことである。

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その日の夜の事である。

五位は、利仁の館の一室に、行灯(あんどん)の灯を眺めるともなく眺めながら、眠れない長い夜をまんじりともせず明かしていた。

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五位は、利仁のやかた一間ひとまに、切燈台の灯を眺めるともなく、眺めながら、寝つかれない長の夜をまぢまぢして、あかしてゐた。

すると、夕方ここへ着くまでに、利仁や利仁の従者と談笑しながら越えてきた松山、小川、枯れ野、あるいは草、木の葉、石、野火の煙のにおい、――そういうものが、一つずつ、五位の心に浮かんできた。

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すると、夕方、此処へ着くまでに、利仁や利仁の従者と、談笑しながら、越えて来た松山、小川、枯野、或は、草、木の葉、石、野火の煙のにほひ、――さう云ふものが、一つづつ、五位の心に、浮んで来た。

特に、夕暮れどきのもやの中を、やっとこの館へたどり着いて、大きな箱に起こしてある炭火の赤い炎を見た時の、ほっとした気持ち、――それも、今こうして寝ていると、遠い昔にあったこととしか思えない。

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殊に、雀色時すずめいろどきもやの中を、やつと、この館へ辿たどりついて、長櫃ながびつに起してある、炭火の赤い焔を見た時の、ほつとした心もち、――それも、今かうして、寝てゐると、遠い昔にあつた事としか、思はれない。

五位は綿が四、五センチも入った、黄色い直垂(ひたたれ)の下に、楽々と足を伸ばしながら、ぼんやり、自分の寝姿を見回した。

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五位は綿の四五寸もはいつた、黄いろい直垂ひたたれの下に、楽々と、足をのばしながら、ぼんやり、われとわが寝姿を見廻した。

直垂の下に利仁が貸してくれた、白みがかった色のたっぷり綿の入った着物を、二枚まで重ねて着こんでいる。

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直垂の下に利仁が貸してくれた、練色ねりいろきぬ綿厚わたあつなのを、二枚まで重ねて、着こんでゐる。

それだけでも、ともすると、汗が出かねないほど、暖かい。

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それだけでも、どうかすると、汗が出かねない程、暖かい。

そこへ、夕飯の時に一杯やった、酒の酔いが加わっている。

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そこへ、夕飯の時に一杯やつた、酒の酔が手伝つてゐる。

枕元のすきま一つ隔てた向こうは霜の冷たい広い庭だが、それも、こうとろんとしていれば、少しも気にならない。

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枕元のしとみ一つ隔てた向うは、霜の冴えた広庭だが、それも、かう陶然としてゐれば、少しも苦にならない。

万事が、京都の自分の部屋にいた時と比べれば、雲泥の差である。

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万事が、京都の自分の曹司ざうしにゐた時と比べれば、雲泥の相違である。

しかし、それにも関わらず、この五位の心には、なんとなくつりあいのとれない不安があった。

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が、それにも係はらず、我五位の心には、何となく釣合のとれない不安があつた。

まず、時間のたっていくのが待ち遠しい。

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第一、時間のたつて行くのが、待遠い。

しかもそれと同時に、夜が明けるということが――芋粥を食べる時になるということが、そう早く来てはならないような気持ちがする。

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しかもそれと同時に、夜の明けると云ふ事が、――芋粥を食ふ時になると云ふ事が、さう早く、来てはならないやうな心もちがする。

そしてまた、この矛盾した二つの気持ちが互いにぶつかり合ったあとには、環境の急な変化から来る落ち着かない気分が、今日の天気のように、うすら寒く控えている。

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さうして又、この矛盾した二つの感情が、互に剋し合ふ後には、境遇の急激な変化から来る、落着かない気分が、今日の天気のやうに、うすら寒く控へてゐる。

それが全部、邪魔になって、せっかくの暖かさも、なかなか眠りを誘いそうもない。

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それが、皆、邪魔になつて、折角の暖かさも、容易に、眠りを誘ひさうもない。

すると、外の広い庭で、誰か大きな声を出しているのが、耳に入った。

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すると、外の広庭で、誰か大きな声を出してゐるのが、耳にはいつた。

声がらからして、どうも今日途中まで迎えに出た白髪の郎等が何かふれ回っているらしい。

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声がらでは、どうも、今日、途中まで迎へに出た、白髪の郎等が何かれてゐるらしい。

その乾いた声が霜に響くせいか、はっきりとして冬の風のように、一語ずつ五位の骨に応えるような気さえする。

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そのからびた声が、霜に響くせゐか、凛々りんりんとしてこがらしのやうに、一語づつ五位の骨に、応へるやうな気さへする。

「この辺の下人(げにん)、聞け。殿の御意(ごい)には、明朝、卯の刻(午前六時ごろ)までに、切り口三寸、長さ五尺の山の芋を、それぞれ一本ずつ、持って参るようにとある。忘れるな、卯の刻までにじゃ。」

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「この辺の下人、承はれ。殿の御意遊ばさるるには、明朝、卯時うのときまでに、切口三寸、長さ五尺の山の芋を、老若各おのおの、一筋づつ、持つて参る様にとある。忘れまいぞ、卯時までにぢや。」

それが二、三度繰り返されたかと思うと、やがて人の気配が止んで、あたりはたちまち元のように静かな冬の夜になった。

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それが、二三度、繰返されたかと思ふと、やがて、人のけはひが止んで、あたりはたちまち元のやうに、静な冬の夜になつた。

その静かな中に、行灯の油が音を立てる。

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その静な中に、切燈台の油が鳴る。

赤い綿のような火が、ゆらゆらする。

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赤い真綿のやうな火が、ゆらゆらする。

五位はあくびを一つかみ殺して、また、とりとめのない思いにふけり出した。――

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五位は欠伸あくびを一つ、噛みつぶして、又、とりとめのない、思量にふけり出した。――

山の芋というからには、もちろん芋粥にするつもりで、持ってこさせるに違いない。

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山の芋と云ふからには、勿論芋粥にする気で、持つて来させるのに相違ない。

そう思うと、一時、外に注意を集中したおかげで忘れていた、さっきの不安が、いつの間にか心に帰ってくる。

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さう思ふと、一時、外に注意を集中したおかげで忘れてゐた、さつきの不安が、何時の間にか、心に帰つて来る。

特に前よりも一層強くなったのは、あまり早く芋粥にありつきたくないという気持ちで、それが意地悪く、思いの中心を離れない。

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殊に、前よりも、一層強くなつたのは、あまり早く芋粥にありつきたくないと云ふ心もちで、それが意地悪く、思量の中心を離れない。

どうもこうあっさり「芋粥にお腹いっぱいありつく」

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どうもかう容易に「芋粥に飽かむ」

ことが、現実になっては、せっかく今まで何年となく、辛抱して待っていたのが、なんともむだな骨折りのように見えてしまう。

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事が、事実となつて現れては、折角今まで、何年となく、辛抱して待つてゐたのが、如何にも、無駄な骨折のやうに、見えてしまふ。

できることなら、突然何か邪魔が起きて一旦芋粥が飲めなくなってから、また、その邪魔がなくなって、今度はやっとこれにありつけるという、そんな順序で万事を運ばせたい。――

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出来る事なら、突然何か故障が起つて一旦、芋粥が飲めなくなつてから、又、その故障がなくなつて、今度は、やつとこれにありつけると云ふやうな、そんな手続きに、万事を運ばせたい。――

こんな考えが、こまのように、ぐるぐる一か所を回っているうちに、いつか五位は旅の疲れで、ぐっすりと熟睡してしまった。

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こんな考へが、「こまつぶり」

のように、ぐるぐる一か所を回っているうちに、いつか五位は旅の疲れで、ぐっすりと熟睡してしまった。

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のやうに、ぐるぐる一つ所を廻つてゐる中に、何時か、五位は、旅の疲れで、ぐつすり、熟睡してしまつた。

翌朝、目が覚めると、すぐに昨夜の山の芋の一件が気になるので、五位は、何よりも先に部屋の雨戸(あまど)をあけて見た。

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翌朝、眼がさめると、すぐに、昨夜の山の芋の一件が、気になるので、五位は、何よりも先に部屋のしとみをあげて見た。

すると、知らないうちに寝過ごして、もう卯の刻(午前六時ごろ)を過ぎていたのだろう。

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すると、知らない中に、寝すごして、もう卯時うのときをすぎてゐたのであらう。

広い庭に敷いた四、五枚の長むしろの上には、丸太のようなものが、およそ二、三千本、斜めに突き出した、ひのき皮ぶきの軒先につかえるほど、山のように積んである。

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広庭へ敷いた、四五枚の長筵ながむしろの上には、丸太のやうな物が、およそ、二三千本、斜につき出した、檜皮葺ひはだぶきの軒先へつかへる程、山のやうに、積んである。

見るとそれが、みんな、切り口三寸、長さ五尺のとてつもなく大きい山の芋だった。

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見るとそれが、悉く、切口三寸、長さ五尺の途方もなく大きい、山の芋であつた。

五位は寝起きの目をこすりながら、ほとんどあわてふためきに近いおどろきに襲われて、ぼうぜんと周囲を見回した。

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五位は、寝起きの眼をこすりながら、殆ど周章に近い驚愕きやうがくに襲はれて、呆然ばうぜんと、周囲を見廻した。

広い庭のあちこちには、新しく打ったらしい杭の上に大きな釜(かま)を五つ六つかけ連ねて、白い布の上着を着た若い女たちが、何十人となく、そのまわりに動いている。

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広庭の所々には、新しく打つたらしい杭の上に五斛納釜ごくなふがまを五つ六つ、かけ連ねて、白い布のあをを着た若い下司女げすをんなが、何十人となく、そのまはりに動いてゐる。

火をたきつけるもの、灰をかくもの、あるいは新しい白木の桶に、甘葛(あまづら)の汁を汲んで釜の中へ入れるもの、みんな芋粥を作る準備で、目がまわるほど忙しい。

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火を焚きつけるもの、灰を掻くもの、或は、新しい白木のをけに、「あまづらみせん」

を汲んで釜の中へ入れるもの、みんな芋粥を作る準備で、目がまわるほど忙しい。

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を汲んで釜の中へ入れるもの、皆芋粥をつくる準備で、眼のまはる程忙しい。

釜の下から上る煙と、釜の中から湧く湯気とが、まだ消え残っている明け方のもやと一つになって、広い庭一面、はっきり物も見定められないほど、灰色のものが立ち込めた中で、赤いのは激しく燃え上がる釜の下の炎ばかり、目に見るもの耳に聞くものすべて、戦場か火事場へでも行ったような騒ぎである。

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釜の下から上る煙と、釜の中から湧く湯気とが、まだ消え残つてゐる明方の靄と一つになつて、広庭一面、はつきり物も見定められない程、灰色のものがめた中で、赤いのは、烈々と燃え上る釜の下の焔ばかり、眼に見るもの、耳に聞くもの悉く、戦場か火事場へでも行つたやうな騒ぎである。

五位は今さらのように、この巨大な山の芋が、この巨大な大釜の中で、芋粥になることを考えた。

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五位は、今更のやうに、この巨大な山の芋が、この巨大な五斛納釜の中で、芋粥になる事を考へた。

そして、自分がその芋粥を食べるために京都から、わざわざ越前の敦賀まで旅をしてきたことを考えた。

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さうして、自分が、その芋粥を食ふ為に京都から、わざわざ、越前の敦賀まで旅をして来た事を考へた。

考えれば考えるほど、何一つ、情けなくならないものはない。

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考へれば考へる程、何一つ、情無くならないものはない。

この五位の気の毒な食欲は、実にこの時もうすでに、半分が消えてしまったのである。

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我五位の同情すべき食慾は、実に、此時もう、一半を減却げんきやくしてしまつたのである。

それから一時間のあと、五位は利仁や義父(ちち)の有仁(ありひと)と共に、朝ごはんの膳に向かった。

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それから、一時間の後、五位は利仁やしうと有仁ありひとと共に、朝飯の膳に向つた。

前にあるのは、銀の容器にたっぷりとたたえた、恐るべき量の芋粥である。

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前にあるのは、しろがねひさげの一斗ばかりはいるのに、なみなみと海の如くたたへた、恐るべき芋粥である。

五位はさっき、あの軒まで積み上げた山の芋を、何十人かの若い男が、薄い刃を器用に動かしながら、端から削るように勢いよく切るのを見た。

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五位はさつき、あの軒まで積上げた山の芋を、何十人かの若い男が、薄刃を器用に動かしながら、片端から削るやうに、勢よく切るのを見た。

それからそれを、あの女たちが右往左往に走り回って、一つも残らず大釜へすくっては入れ、すくっては入れするのを見た。

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それからそれを、あの下司女たちが、右往左往に馳せちがつて、一つのこらず、五斛納釜へすくつては入れ、すくつては入れするのを見た。

最後に、その山の芋が一本もむしろの上に見えなくなった時に、芋のにおいと、甘葛のにおいとを含んだ、いくすじかの湯気の柱が、もうもうとして釜の中から、晴れた朝の空へ舞い上がっていくのを見た。

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最後に、その山の芋が、一つも長筵の上に見えなくなつた時に、芋のにほひと、甘葛あまづらのにほひとを含んだ、幾道いくだうかの湯気の柱が、蓬々然ほうほうぜんとして、釜の中から、晴れた朝の空へ、舞上つて行くのを見た。

これを目の前に見た彼が、今、容器に入れた芋粥に向かった時、まだ口をつけないうちから、すでに、お腹いっぱいのような感じがしたのは、おそらく無理もない次第だろう。――

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これを、のあたりに見た彼が、今、提に入れた芋粥に対した時、まだ、口をつけない中から、既に、満腹を感じたのは、恐らく、無理もない次第であらう。――

五位は、容器を前にして、きまり悪そうに、額の汗を拭いた。

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五位は、提を前にして、間の悪さうに、額の汗を拭いた。

「芋粥にありついたことがないそうな。どうぞ遠慮なく召し上がってください。」

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「芋粥に飽かれた事が、ござらぬげな。どうぞ、遠慮なく召上つて下され。」

義父の有仁は、子供たちに言いつけて、さらにいくつかの銀の容器を膳の上に並べさせた。

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舅の有仁は、童児たちに云ひつけて、更に幾つかの銀の提を膳の上に並べさせた。

中にはどれも芋粥が、あふれんばかりに入っている。

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中にはどれも芋粥が、あふれんばかりにはいつてゐる。

五位は目をつぶって、ただでさえ赤い鼻を一層赤くしながら、容器に半分ばかりの芋粥を大きな土器(かわらけ)にすくって、いやいやながら飲み干した。

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五位は眼をつぶつて、唯でさへ赤い鼻を、一層赤くしながら、提に半分ばかりの芋粥を大きな土器かはらけにすくつて、いやいやながら飲み干した。

「父もそう申すのだ。どうか遠慮はご無用じゃ。」

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「父も、さう申すぢやて。ひらに、遠慮は御無用ぢや。」

利仁も傍から新たな容器をすすめて、意地悪く笑いながらこんなことを言う。

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利仁も側から、新な提をすすめて、意地悪く笑ひながらこんな事を云ふ。

困ったのは五位である。

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弱つたのは五位である。

遠慮のないところを言えば、最初から芋粥は一椀も飲みたくない。

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遠慮のない所を云へば、始めから芋粥は、一椀も吸ひたくない。

それを今、我慢して、やっと容器に半分だけ平らげた。

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それを今、我慢して、やつと、提に半分だけ平げた。

これ以上飲めば、のどを越さないうちに戻してしまう、そうかといって飲まなければ、利仁や有仁の厚意を無にするのも同じである。

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これ以上、飲めば、喉を越さない中にもどしてしまふ、さうかと云つて、飲まなければ、利仁や有仁の厚意を無にするのも、同じである。

そこで彼はまた目をつぶって、残りの半分を三分の一ほど飲み干した。

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そこで、彼は又眼をつぶつて、残りの半分を三分の一程飲み干した。

もう後は一口も吸いようがない。

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もう後は一口も吸ひやうがない。

「なんとも、ありがとうございました。もう十分いただきました。――いやはや、なんともありがとうございました。」

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「何とも、忝うござつた。もう十分頂戴致したて。――いやはや、何とも忝うござつた。」

五位は、しどろもどろになって、こう言った。

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五位は、しどろもどろになつて、かう云つた。

よほど困ったとみえて、口ひげにも、鼻の先にも、冬とは思えないほど、汗が玉になって垂れている。

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余程弱つたと見えて、口髭にも、鼻の先にも、冬とは思はれない程、汗が玉になつて、垂れてゐる。

「これはまた、少食でいらっしゃる。客人は遠慮をされると見えたぞ。それそれそのほうども、何をしている。」

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「これは又、御少食ぢや。客人は、遠慮をされると見えたぞ。それそれその方ども、何を致して居る。」

子供たちは、有仁の言葉に合わせて、新たな容器の中から、芋粥を土器(かわらけ)に汲もうとする。

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童児たちは、有仁の語につれて、新な提の中から、芋粥を、土器かはらけに汲まうとする。

五位は両手をハエでも追うように動かして、丁重に、断る気持ちを示した。

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五位は、両手を蠅でも逐ふやうに動かして、平に、辞退の意を示した。

「いや、もう十分でございます。……失礼ながら、十分でございます。」

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「いや、もう、十分でござる。……失礼ながら、十分でござる。」

もし、この時、利仁が突然、向こうの家の軒を指して、「あれをごらんなされ」

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もし、此時、利仁が、突然、向うの家の軒を指して、「あれを御覧ごらうじろ」

と言わなかったなら、有仁はさらに、五位に芋粥をすすめて止まなかったかもしれない。

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と云はなかつたなら、有仁はなほ、五位に、芋粥をすすめて、止まなかつたかも知れない。

しかし幸いにして、利仁の声は、一同の注意を、その軒の方へ持っていった。

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が、幸ひにして、利仁の声は、一同の注意を、その軒の方へ持つて行つた。

ひのき皮ぶきの軒には、ちょうど朝日がさしている。

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檜皮葺ひはだぶきの軒には、丁度、朝日がさしてゐる。

そして、そのまぶしい光に、つやのよい毛皮を洗わせながら、一匹の獣が、おとなしく座っている。

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さうして、そのまばゆい光に、光沢つやのいい毛皮を洗はせながら、一疋の獣が、おとなしく、坐つてゐる。

見るとそれは、おととい、利仁が枯れ野の路で手づかみにした、あの坂本の野ギツネだった。

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見るとそれは一昨日をととひ、利仁が枯野の路で手捕りにした、あの阪本の野狐であつた。

「キツネも、芋粥が欲しくて、顔を見せたそうな。男ども、こいつにも食わせてやれ。」

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「狐も、芋粥が欲しさに、見参したさうな。男ども、しやつにも、物を食はせてつかはせ。」

利仁の命令は、言った途端に行われた。

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利仁の命令は、言下ごんかに行はれた。

軒から飛び下りたキツネは、すぐに広い庭で芋粥のごちそうにあずかったのである。

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軒からとび下りた狐は、直に広庭で芋粥の馳走に、あづかつたのである。

五位は、芋粥を食べているキツネを眺めながら、ここへ来る前の自分を、なつかしく、心の中でふり返った。

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五位は、芋粥を飲んでゐる狐を眺めながら、此処へ来ない前の彼自身を、なつかしく、心の中でふり返つた。

それは、多くの侍たちに馬鹿にされている彼である。

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それは、多くの侍たちに愚弄されてゐる彼である。

京の子供にさえ「何じゃ。この鼻赤野郎が」

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京童きやうわらべにさへ「何ぢや。この鼻赤めが」

と罵られている彼である。

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と、罵られてゐる彼である。

色の褪せた水干に袴をつけて、飼い主のいないもふもふした犬のように、朱雀大路(すざくおおじ)をうろついて歩く、かわいそうで孤独な彼である。

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色のさめた水干に、指貫さしぬきをつけて、飼主のない尨犬むくいぬのやうに、朱雀大路をうろついて歩く、憐む可き、孤独な彼である。

しかし同時にまた、芋粥にお腹いっぱいありたいという望みを、たった一人大事に守っていた、幸福な彼である。――

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しかし、同時に又、芋粥に飽きたいと云ふ慾望を、唯一人大事に守つてゐた、幸福な彼である。――

彼は、これ以上芋粥を飲まずにすむという安心と共に、顔じゅうの汗が次第に鼻の先から乾いていくのを感じた。

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彼は、この上芋粥を飲まずにすむと云ふ安心と共に、満面の汗が次第に、鼻の先から、乾いてゆくのを感じた。

晴れてはいても、敦賀の朝は、身にしみるように、風が寒い。

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晴れてはゐても、敦賀の朝は、身にしみるやうに、風が寒い。

五位は慌てて、鼻をおさえると同時に銀の容器に向かって大きなくしゃみをした。

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五位は慌てて、鼻をおさへると同時にしろがねの提に向つて大きなくさめをした。

(大正五年八月)

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(大正五年八月)