六の宮の姫君 小学生向け
芥川竜之介(あくたがわりゅうのすけ)・1968年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23)
一
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一
六の宮の姫君のお父さんは、古い宮家の血を引く人だった。
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六の宮の姫君の父は、古い宮腹の生れだつた。
でも、時代の流れについていけない、昔ながらの考え方の人だったので、役職は兵部大輔(ひょうぶのたいふ)より上には上がれなかった。
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が、時勢にも遅れ勝ちな、昔気質の人だつたから、官も兵部大輔より昇らなかつた。
姫君は、そんなお父さんとお母さんと一緒に、六の宮のそばにある、木が高くそびえたお屋敷に住んでいた。
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姫君はさう云ふ父母と一しよに、六の宮のほとりにある、木高い屋形に住まつてゐた。
「六の宮の姫君」という呼び名は、その土地の名前からきていた。
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六の宮の姫君と云ふのは、その土地の名前に拠つたのだつた。
お父さんとお母さんは、姫君をとてもかわいがっていた。
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父母は姫君を寵愛した。
しかし昔ふうのやり方で、自分たちから進んで姫君を誰かに嫁がせようとはしなかった。
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しかしやはり昔風に、進んでは誰にもめあはせなかつた。
誰か申し込んでくる人が現れればいいと、ただ待ち続けるだけだった。
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誰か云ひ寄る人があればと、心待ちに待つばかりだつた。
姫君もお父さんとお母さんの教えどおり、つつましく毎日を過ごしていた。
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姫君も父母の教へ通り、つつましい朝夕を送つてゐた。
それは悲しみも知らない代わりに、喜びも知らない日々だった。
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それは悲しみも知らないと同時に、喜びも知らない生涯だつた。
でも、世間を知らない姫君は、とくに不満を感じてはいなかった。
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が、世間見ずの姫君は、格別不満も感じなかつた。
「お父さんとお母さんさえ元気でいてくれればいい。」
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「父母さへ達者でゐてくれれば好い。」
――姫君はそう思っていた。
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――姫君はさう思つてゐた。
古い池にしだれた桜は、毎年少しずつ花を咲かせた。
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古い池に枝垂れた桜は、年毎に乏しい花を開いた。
そのうちに姫君もいつの間にか、大人っぽい美しさを持つようになった。
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その内に姫君も何時の間にか、大人寂びた美しさを具へ出した。
でも、頼みにしていたお父さんは、長年お酒を飲みすぎたせいで、突然亡くなってしまった。
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が、頼みに思つた父は、年頃酒を過ごした為に、突然故人になつてしまつた。
おまけにお母さんも半年ほどの間に、悲しみを抱えたまま、とうとうお父さんの後を追うように亡くなっていった。
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のみならず母も半年ほどの内に、返らない歎きを重ねた揚句、とうとう父の跡を追つて行つた。
姫君は悲しいというよりも、どうすればいいかわからなくて途方にくれずにはいられなかった。
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姫君は悲しいと云ふよりも、途方に暮れずにはゐられなかつた。
実際、大事に育てられた姫君には、たった一人の乳母(うば・子守をしてくれた人)以外に、頼れる人は何もいなかった。
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実際ふところ子の姫君にはたつた一人の乳母の外に、たよるものは何もないのだつた。
乳母は健気(けなげ)にも姫君のために、身を惜しまず働き続けた。
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乳母はけなげにも姫君の為に、骨身を惜まず働き続けた。
でも、家に伝わる螺鈿(らでん・貝を使った美しい飾り)の手箱や銀の香炉は、いつの間にか一つずつなくなっていった。
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が、家に持ち伝へた螺鈿の手筥や白がねの香炉は、何時か一つづつ失はれて行つた。
それと同時に、使用人の男女も、誰かから次々に暇をもらって去っていった。
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と同時に召使ひの男女も、誰からか暇をとり始めた。
姫君にも、暮らしがつらいということが、だんだんはっきりわかるようになった。
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姫君にも暮らしの辛い事は、だんだんはつきりわかるやうになつた。
しかしそれをどうにかする力は、姫君にはなかった。
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しかしそれをどうする事も、姫君の力には及ばなかつた。
姫君は寂しいお屋敷の部屋に、昔と少しも変わらず、琴を弾いたり歌を詠んだりと、同じ遊びを繰り返していた。
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姫君は寂しい屋形の対に、やはり昔と少しも変らず、琴を引いたり歌を詠んだり、単調な遊びを繰返してゐた。
するとある秋の夕暮れ、乳母が姫君の前に出てきて、考えながらこんなことを言った。
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すると或秋の夕ぐれ、乳母は姫君の前へ出ると、考へ考へこんな事を云つた。
「わたしの甥の法師が頼むには、丹波(たんば)の前の国司(ぜんじ)殿という方が、あなた様にお会いしたいとおっしゃっているそうです。その方はお顔も美しい上、心も優しいと聞きますし、お父様も受領(ずりょう・国の長官)とはいえ、高い位の貴族の子でもありますから、お会いになってはいかがでしょうか? こんなに心細い暮らしをなさるよりも、少しはましかと思いますが……」
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「甥の法師の頼みますには、丹波の前司なにがしの殿が、あなた様に会はせて頂きたいとか申して居るさうでございます。前司はかたちも美しい上、心ばへも善いさうでございますし、前司の父も受領とは申せ、近い上達部の子でもございますから、お会ひになつては如何でございませう? かやうに心細い暮しをなさいますよりも、少しは益しかと存じますが。……」
姫君はしのび泣きを始めた。
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姫君は忍び音に泣き初めた。
その男に体を任せるのは、貧しい暮らしを助けてもらうために体を売るのと同じことだった。
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その男に肌身を任せるのは、不如意な暮しを扶ける為に、体を売るのも同様だつた。
もちろん、世の中にそういうことはよくあると知ってはいた。
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勿論それも世の中には多いと云ふ事は承知してゐた。
でも、実際にそうなってみると、悲しさはまた格別だった。
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が、現在さうなつて見ると、悲しさは又格別だつた。
姫君は乳母と向かい合ったまま、葛(くず)の葉をひっくり返す風の中で、いつまでも袖で顔を覆っていた。……
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姫君は乳母と向き合つた儘、葛の葉を吹き返す風の中に、何時までも袖を顔にしてゐた。……
二
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二
しかし姫君はいつの間にか、毎晩その男と会うようになった。
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しかし姫君は何時の間にか、夜毎に男と会ふやうになつた。
男は乳母の言葉どおり、やさしい心の持ち主だった。
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男は乳母の言葉通りやさしい心の持ち主だつた。
顔つきもさすがに上品で美しかった。
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顔かたちもさすがにみやびてゐた。
しかも姫君の美しさに、何もかも忘れてしまっていることは、誰の目にも明らかだった。
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その上姫君の美しさに、何も彼も忘れてゐる事は、殆誰の目にも明らかだつた。
姫君ももちろんこの男に、悪い気持ちは持っていなかった。
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姫君も勿論この男に、悪い心は持たなかつた。
時には頼もしいと思うこともあった。
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時には頼もしいと思ふ事もあつた。
でも、蝶や鳥の模様のついた几帳(きちょう・仕切り用のカーテン)を立てたかげに、灯台の光をまぶしがりながら、男と二人で親しく過ごす夜も、うれしいとは一晩も思わなかった。
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が、蝶鳥の几帳を立てた陰に、燈台の光を眩しがりながら、男と二人むつびあふ時にも、嬉しいとは一夜も思はなかつた。
そのうちにお屋敷は少しずつ、にぎやかな雰囲気になり始めた。
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その内に屋形は少しづつ、花やかな空気を加へ初めた。
棚や簾(すだれ)も新しくなり、使用人の数も増えた。
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黒棚や簾も新たになり、召使ひの数も殖えたのだつた。
乳母はもちろん以前よりも、いきいきと家のやりくりをするようになった。
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乳母は勿論以前よりも、活き活きと暮しを取り賄つた。
しかし姫君はそんな変化も、寂しそうに見ているだけだった。
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しかし姫君はさう云ふ変化も、寂しさうに見てゐるばかりだつた。
ある時雨の降る夜、男は姫君と酒を酌み交わしながら、丹波の国であったという、気味の悪い話をした。
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或時雨の渡つた夜、男は姫君と酒を酌みながら、丹波の国にあつたと云ふ、気味の悪い話をした。
出雲路(いづもじ)へ向かう旅人が、大江山のふもとに宿を借りた。
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出雲路へ下る旅人が大江山の麓に宿を借りた。
宿の女将はちょうどその夜、無事に女の子を産み落とした。
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宿の妻は丁度その夜、無事に女の子を産み落した。
すると旅人は、産屋(うぶや・お産をする部屋)の中から、何者かわからない大男が、急ぎ足で外へ出てくるのを見た。
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すると旅人は生家の中から、何とも知れぬ大男が、急ぎ足に外へ出て来るのを見た。
大男はただ「年は八歳、命は自害(じがい)」
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大男は唯「年は八歳、命は自害」
と言い捨てたまま、たちまちどこかへ消えてしまった。
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と云ひ捨てたなり、忽ち何処かへ消えてしまつた。
旅人はそれから九年後に、今度は京へ上る途中、同じ家に泊まってみた。
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旅人はそれから九年目に、今度は京へ上る途中、同じ家に宿つて見た。
ところが実際その女の子は、八歳の年に変わった死に方をしていた。
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所が実際女の子は、八つの年に変死してゐた。
しかも木から落ちた拍子に、鎌をのどに突き立てていた。――
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しかも木から落ちた拍子に、鎌を喉へ突き立ててゐた。――
話はだいたいこういう内容だった。
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話は大体かう云ふのだつた。
姫君はその話を聞いたとき、運命の逃れようのなさに、ぞっとさせられた。
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姫君はそれを聞いた時に、宿命のせんなさに脅された。
その女の子に比べれば、この男を頼りに暮らしているのは、まだましな幸せに違いなかった。
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その女の子に比べれば、この男を頼みに暮してゐるのは、まだしも仕合せに違ひなかつた。
「成り行きに任せるしかない。」
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「なりゆきに任せる外はない。」
――姫君はそう思いながら、顔だけはあでやかにほほ笑んでいた。
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――姫君はさう思ひながら、顔だけはあでやかにほほ笑んでゐた。
お屋敷の軒に当たった松は、何度も雪に枝を折られた。
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屋形の軒に当つた松は、何度も雪に枝を折られた。
姫君は昼は昔のように、琴を弾いたり双六(すごろく)を打ったりした。
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姫君は昼は昔のやうに、琴を引いたり双六を打つたりした。
夜は男と同じ寝床で、水鳥が池に降りる音を聞いた。
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夜は男と一つ褥に、水鳥の池に下りる音を聞いた。
それは悲しみも少ない代わりに、喜びも少ない日々だった。
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それは悲しみも少いと同時に、喜びも少い朝夕だつた。
でも姫君は相変わらず、このけだるいような安らかさの中に、はかない満足を見出していた。
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が、姫君は不相変、この懶い安らかさの中に、はかない満足を見出してゐた。
しかしその安らかさも、思いがけず急に終わりが来た。
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しかしその安らかさも、思ひの外急に尽きる時が来た。
ようやく春が戻ったある夜、男は姫君と二人になると、「そなたと会うのも今夜限りだ」
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やつと春の返つた或夜、男は姫君と二人になると、「そなたに会ふのも今宵ぎりぢや」
と、言いにくそうに口を開いた。
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と、云ひ悪くさうに口を切つた。
男の父は今度の除目(じもく・役職を決める儀式)で、陸奥(むつ・東北地方)の国司に任命された。
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男の父は今度の除目に、陸奥の守に任ぜられた。
男もそのために、雪の深い遠い東北へ、一緒に下らなければならなかった。
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男もその為に雪の深い奥へ、一しよに下らねばならなかつた。
もちろん姫君と別れるのは、何よりも男には悲しかった。
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勿論姫君と別れるのは、何よりも男には悲しかつた。
でも、姫君を妻にしたことは、父にも隠していたので、今さら打ち明けることはできなかった。
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が、姫君を妻にしたのは、父にも隠してゐたのだから、今更打ち明ける事は出来悪かつた。
男はため息をつきながら、長々とそういう事情を話した。
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男はため息をつきながら、長々とさう云ふ事情を話した。
「しかし五年たてば任期が終わる。その時を楽しみに待っていてくれ。」
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「しかし五年たてば任終ぢや。その時を楽しみに待つてたもれ。」
姫君はもう泣きくずれていた。
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姫君はもう泣き伏してゐた。
たとえ恋しいとは思わなくても、頼りにしていた男と別れるのは、言葉では言い表せない悲しさだった。
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たとひ恋しいとは思はぬまでも、頼みにした男と別れるのは、言葉には尽せない悲しさだつた。
男は姫君の背中をなでながら、いろいろと慰めたり励ましたりした。
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男は姫君の背を撫でては、いろいろ慰めたり励ましたりした。
でもこちらも、話をするたびに涙で声を曇らせるのだった。
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が、これも二言目には、涙に声を曇らせるのだつた。
そこへ何も知らない乳母は、若い女房たちと一緒に、銚子(ちょうし・お酒のうつわ)や高坏(たかつき・料理をのせる台)を運んできた。
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其処へ何も知らない乳母は、年の若い女房たちと、銚子や高坏を運んで来た。
古い池にしだれた桜も、つぼみをもったことを話しながら。……
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古い池に枝垂れた桜も、蕾を持つた事を話しながら。……
三
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三
六年目の春はやってきた。
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六年目の春は返つて来た。
でも、東北に下った男は、ついに都へは帰らなかった。
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が、奥へ下つた男は、遂に都へは帰らなかつた。
その間に使用人は一人も残らずばらばらにどこかへ去ってしまい、姫君が住んでいた東の部屋もある年の大風で倒れてしまった。
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その間に召使ひは一人も残らず、ちりぢりに何処かへ立ち退いてしまふし、姫君の住んでゐた東の対も或年の大風に倒れてしまつた。
姫君はそれ以来、乳母と一緒に、侍の廊下(ほそどの・細い渡り廊下)を住まいにしていた。
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姫君はそれ以来乳母と一しよに侍の廊を住居にしてゐた。
そこは住まいとはいっても、手狭なうえに荒れ果てていて、かろうじて雨や露をしのげる程度だった。
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其処は住居と云ふものの、手狭でもあれば住み荒してもあり、僅に雨露の凌げるだけだつた。
乳母はこの細長い部屋に移った当初、いたわしい姫君の姿を見ると、涙をこらえることができなかった。
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乳母はこの廊へ移つた当座、いたはしい姫君の姿を見ると、涙を落さずにはゐられなかつた。
でもまた、あるときは理由もないのに、怒りばかりが込み上げてくることがあった。
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が、又或時は理由もないのに、腹ばかり立ててゐる事があつた。
暮らしのつらさはもちろんだった。
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暮しのつらいのは勿論だつた。
棚の厨子(ずし・引き出しのついた棚)は、とうの昔に米や青菜に変わっていた。
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棚の厨子はとうの昔、米や青菜に変つてゐた。
今では姫君の着物や袴も、身につけているもの以外はなにも残っていなかった。
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今では姫君の袿や袴も身についてゐる外は残らなかつた。
乳母は燃やすものがなくなると、朽ちかけた寝殿(しんでん)へ板を剥ぎに行くほどだった。
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乳母は焚き物に事を欠けば、立ち腐れになつた寝殿へ、板を剥ぎに出かける位だつた。
しかし姫君は昔のとおり、琴や歌で気を紛らわしながら、じっと男が帰るのを待ち続けていた。
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しかし姫君は昔の通り、琴や歌に気を晴らしながら、ぢつと男を待ち続けてゐた。
するとその年の秋の月夜、乳母が姫君の前に出てきて、考えながらこんなことを言った。
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するとその年の秋の月夜、乳母は姫君の前へ出ると、考へ考へこんな事を云つた。
「あの殿はもうお帰りにはなりますまい。あなた様も殿のことは、お忘れになってはいかがでしょうか。それにこのごろある典薬之助(てんやくのすけ・薬や医術を担当する役人)という方が、あなた様にお会いしたいと、しきりに頼んでくるのですが……」
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「殿はもう御帰りにはなりますまい。あなた様も殿の事は、お忘れになつては如何でございませう。就てはこの頃或典薬之助が、あなた様にお会はせ申せと、責め立てて居るのでございますが、……」
姫君はその話を聞きながら、六年前のことを思い出した。
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姫君はその話を聞きながら、六年以前の事を思ひ出した。
六年前には、いくら泣いても、泣き足りないほど悲しかった。
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六年以前には、いくら泣いても、泣き足りない程悲しかつた。
でも、今は体も心もそれにはあまりに疲れすぎていた。
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が、今は体も心も余りにそれには疲れてゐた。
「ただ静かに老いて朽ちてしまいたい。」
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「唯静かに老い朽ちたい。」
……それ以外は何も考えなかった。
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……その外は何も考へなかつた。
姫君は話を聞き終わると、白い月を眺めたまま、だるそうに痩せた顔を横に振った。
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姫君は話を聞き終ると、白い月を眺めたなり、懶げにやつれた顔を振つた。
「わたしはもう何もいらない。生きようと死のうと同じことだ。……」
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「わたしはもう何も入らぬ。生きようとも死なうとも一つ事ぢや。……」
* * *
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* * *
ちょうどこれと同じ頃、男は遠い常陸(ひたち・今の茨城県)の国のお屋敷で、新しい妻と酒を酌み交わしていた。
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丁度これと同じ時刻、男は遠い常陸の国の屋形に、新しい妻と酒を斟んでゐた。
妻は父が気に入った、この国の長官の娘だった。
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妻は父の目がねにかなつた、この国の守の娘だつた。
「あの音は何だ?」
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「あの音は何ぢや?」
男はふと驚いたように、静かな月明かりの軒を見上げた。
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男はふと驚いたやうに、静かな月明りの軒を見上げた。
そのとき、なぜか男の胸には、はっきりと姫君の姿が浮かんでいた。
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その時なぜか男の胸には、はつきり姫君の姿が浮んでゐた。
「栗の実が落ちたのでしょう。」
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「栗の実が落ちたのでございませう。」
常陸の妻はそう答えながら、ぶっきらぼうに銚子でお酒を注いだ。
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常陸の妻はさう答へながら、ふつつかに銚子の酒をさした。
四
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四
男が京へ帰ったのは、ちょうど九年目の晩秋だった。
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男が京へ帰つたのは、丁度九年目の晩秋だつた。
男と常陸の妻の一族たちは、――京へ入る途中、日柄が悪いのを避けるために、三、四日粟津(あわづ)に滞在した。
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男と常陸の妻の族と、――彼等は京へはひる途中、日がらの悪いのを避ける為に、三四日粟津に滞在した。
それから京へ入るときも、昼間に人目につかないように、わざと日の暮れを選んだ。
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それから京へはひる時も、昼の人目に立たないやうに、わざと日の暮を選ぶ事にした。
男は地方にいる間にも、二、三度京にいる姫君のもとへ、心のこもった便りを届けさせた。
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男は鄙にゐる間も、二三度京の妻のもとへ、懇ろな消息をことづけてやつた。
でも、使いの者が帰ってこなかったり、せっかく帰ってきたと思ったら、姫君のお屋敷がわからなかったりして、一度も返事は届かなかった。
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が、使が帰らなかつたり、幸ひ帰つて来たと思へば、姫君の屋形がわからなかつたり、一度も返事は手に入らなかつた。
それだけに、京へ入ってみると、恋しさもひとしおだった。
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それだけに京へはひつたとなると、恋しさも亦一層だつた。
男は妻の父のお屋敷に無事に妻を送り届けるや否や、旅の荷も解かずに六の宮へ向かった。
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男は妻の父の屋形へ無事に妻を送りこむが早いか、旅仕度も解かずに六の宮へ行つた。
六の宮へ行ってみると、昔あった四本足の門も、ひわだ葺きの寝殿や部屋も、すべて今はなくなっていた。
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六の宮へ行つて見ると、昔あつた四足の門も、檜皮葺きの寝殿や対も、悉今はなくなつてゐた。
その中でただ残っていたのは、崩れかけた土塀(ついじ)だけだった。
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その中に唯残つてゐるのは、崩れ残りの築土だけだつた。
男は草の中に立ったまま、ぼんやりと庭の跡を見渡した。
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男は草の中に佇んだ儘、茫然と庭の跡を眺めまはした。
そこには半ば埋もれた池に、水葱(なぎ・水草の一種)が少し育っていた。
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其処には半ば埋もれた池に、水葱が少し作つてあつた。
水葱はかすかな新月の光の中に、ひっそりと葉を茂らせていた。
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水葱はかすかな新月の光に、ひつそりと葉を簇らせてゐた。
男は政所(まんどころ・屋敷の事務所)と思われるあたりに、傾いた板屋があるのを見つけた。
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男は政所と覚しいあたりに、傾いた板屋のあるのを見つけた。
板屋の中には近づいてみると、誰か人影があるようだった。
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板屋の中には近寄つて見ると、誰か人影もあるらしかつた。
男は闇の中に目を凝らしながら、そっとその人影に声をかけた。
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男は闇を透かしながら、そつとその人影に声をかけた。
すると月明かりによろよろと出てきたのは、どこか見覚えのある老いた尼(あま)だった。
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すると月明りによろぼひ出たのは、何処か見覚えのある老尼だつた。
尼は男が名乗ると、何も言わずに泣き続けた。
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尼は男に名のられると、何も云はずに泣き続けた。
そのあとやっと途切れ途切れに、姫君の身の上を話し始めた。
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その後やつと途切れ途切れに、姫君の身の上を話し出した。
「お忘れかもしれませんが、わたしはお屋敷に仕えておりました、下働きの女の母でございます。殿がお下りになってからも、娘はまだ五年ほど、お仕えしておりました。でもそのうちに夫と共々、但馬(たじま・今の兵庫県北部)へ下ることになりましたので、わたしもその折に娘と一緒に、暇をいただいたのでございます。ところがこのごろ姫君のことが何かと心にかかりましたので、わたし一人で京へ上ってみますと、ご覧の通りお屋敷も何もなくなっているではございませんか。姫君もどちらへいらっしゃったものやら――実はわたしも先ごろから、途方にくれておりますのです。殿はご存知ではないでしょうが、娘がお仕えしている間も、姫君のお暮らしのお気の毒さは、申しようもないほどでございました。……」
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「御見忘れでもございませうが、手前は御内に仕へて居つた、はした女の母でございます。殿がお下りになつてからも、娘はまだ五年ばかり、御奉公致して居りました。が、その内に夫と共々、但馬へ下る事になりましたから、手前もその節娘と一しよに、御暇を頂いたのでございます。所がこの頃姫君の事が、何かと心にかかりますので、手前一人京へ上つて見ますと、御覧の通り御屋形も何もなくなつて居るのでごさいませんか? 姫君も何処へいらつしやつた事やら、――実は手前もさき頃から、途方に暮れて居るのでございます。殿は御存知もございますまいが、娘が御奉公申して居つた間も、姫君のお暮しのおいたはしさは、申しやうもない位でございました。……」
男は一部始終を聞いたあと、この腰の曲がった尼に、着ていた下の衣を一枚脱いで渡した。
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男は一部始終を聞いた後、この腰の曲つた尼に、下の衣を一枚脱いで渡した。
それから頭を下げたまま、黙って草の中を歩み去った。
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それから頭を垂れた儘、黙然と草の中を歩み去つた。
五
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五
男は翌日から姫君を探しに、都の中をあちこち歩き回った。
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男は翌日から姫君を探しに、洛中を方々歩きまはつた。
でも、どこへどうしたものか、なかなか行き先はわからなかった。
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が、何処へどうしたのか、容易に行き方はわからなかつた。
すると何日か後の夕暮れ、男はにわか雨を避けるために、朱雀門(すざくもん・都の南の大きな門)の前にある西の曲殿(きょくでん・宮殿の渡り廊下)の軒下に立った。
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すると何日か後の夕ぐれ、男はむら雨を避ける為に、朱雀門の前にある、西の曲殿の軒下に立つた。
そこにはまだ男のほかにも、物乞い(ものごい)らしい法師が一人、やはり雨が止むのを待ちわびていた。
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其処にはまだ男の外にも、物乞ひらしい法師が一人、やはり雨止みを待ちわびてゐた。
雨は赤く塗られた門の空に、寂しい音を立て続けた。
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雨は丹塗りの門の空に、寂しい音を立て続けた。
男は法師をよそ目にしながら、苛立たしい気持ちを紛らわせようと、あちこちの石畳を歩いていた。
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男は法師を尻目にしながら、苛立たしい思ひを紛らせたさに、あちこち石畳みを歩いてゐた。
そのうちにふと男の耳が、薄暗い窓の格子の中に、人がいるようなけはいをとらえた。
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その内にふと男の耳は、薄暗い窓の櫺子の中に、人のゐるらしいけはひを捉へた。
男はほとんど何気なしに、ちらりと窓をのぞいてみた。
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男は殆何の気なしに、ちらりと窓を覗いて見た。
窓の中には尼が一人、破れた筵(むしろ・わらで編んだしきもの)をまとっていながら、病人らしい女を介抱していた。
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窓の中には尼が一人、破れた筵をまとひながら、病人らしい女を介抱してゐた。
女は夕暮れの薄明かりの中にあっても、気味が悪いほど痩せ細っているようだった。
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女は夕ぐれの薄明りにも、無気味な程痩せ枯れてゐるらしかつた。
しかしその姫君に違いないことは、一目見ただけで十分だった。
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しかしその姫君に違ひない事は、一目見ただけでも十分だつた。
男は声をかけようとした。
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男は声をかけようとした。
でも、みじめな姫君の姿を見ると、なぜかその声が出せなかった。
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が、浅ましい姫君の姿を見ると、なぜかその声が出せなかつた。
姫君は男がいることも知らず、破れた筵の上で寝返りを打つと、苦しそうにこんな歌を詠んだ。
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姫君は男のゐるのも知らず、破れ筵の上に寝反りを打つと、苦しさうにこんな歌を詠んだ。
「腕枕のすき間の風もさむかった、わたしの体はこんな暮らしに慣れていないのだ。」
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「たまくらのすきまの風もさむかりき、身はならはしのものにざりける。」
男はこの声を聞いたとき、思わず姫君の名前を呼んだ。
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男はこの声を聞いた時、思はず姫君の名前を呼んだ。
姫君はさすがに枕から頭を起こした。
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姫君はさすがに枕を起した。
でも、男を見るやいなや、何かかすかに叫んだきり、また筵の上にうつぶせてしまった。
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が、男を見るが早いか、何かかすかに叫んだきり、又筵の上に俯伏してしまつた。
尼は、――あの忠実な乳母は、そこへ飛び込んだ男と一緒に、あわてて姫君を抱き起こした。
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尼は、――あの忠実な乳母は、其処へ飛びこんだ男と一しよに、慌てて姫君を抱き起した。
しかし抱き起こした顔を見ると、乳母はもちろん男さえも、さらにあわてずにはいられなかった。
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しかし抱き起した顔を見ると、乳母は勿論男さへも、一層慌てずにはゐられなかつた。
乳母はまるで気が狂ったように、物乞いの法師のもとへ走り寄った。
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乳母はまるで気の狂つたやうに、乞食法師のもとへ走り寄つた。
そして、息も絶え絶えの姫君のために、何でもいいからお経を読んでくれと言った。
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さうして、臨終の姫君の為に、何なりとも経を読んでくれと云つた。
法師は乳母の願いどおり、姫君の枕元に座を占めた。
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法師は乳母の望み通り、姫君の枕もとへ座を占めた。
でも、お経を読む代わりに、姫君へこう言葉をかけた。
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が、経文を読誦する代りに、姫君へかう言葉をかけた。
「極楽往生(ごくらくおうじょう)は人の手でできるものではございません。ただ御自身で怠らずに、阿弥陀仏(あみだぶつ)のお名前をお唱えなさいませ。」
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「往生は人手に出来るものではござらぬ。唯御自身怠らずに、阿弥陀仏の御名をお唱へなされ。」
姫君は男に抱かれたまま、細々と仏の名前を唱え始めた。
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姫君は男に抱かれた儘、細ぼそと仏名を唱へ出した。
と思うと、恐ろしそうに、じっと門の天井を見つめた。
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と思ふと恐しさうに、ぢつと門の天井を見つめた。
「あれ、あそこに火の燃える車が……」
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「あれ、あそこに火の燃える車が。……」
「そのようなものを恐れなさるな。仏様さえ念じればよろしい。」
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「そのやうな物にお恐れなさるな。御仏さへ念ずればよろしうござる。」
法師はやや声を強めた。
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法師はやや声を励ました。
すると姫君はしばらくして、また夢と現実の間をさまようように、つぶやき始めた。
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すると姫君は少時の後、又夢うつつのやうに呟き出した。
「金色(こんじき)の蓮(はす)の花が見えます。天蓋(てんがい・屋根のような飾り)のように大きい蓮の花が……」
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「金色の蓮華が見えまする。天蓋のやうに大きい蓮華が。……」
法師は何か言おうとしたが、今度はそれよりも先に、姫君が切れ切れに口を開いた。
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法師は何か云はうとしたが、今度はそれよりもさきに、姫君が切れ切れに口を開いた。
「蓮の花はもう見えません。あとにはただ暗い中に風ばかり吹いています。」
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「蓮華はもう見えませぬ。跡には唯暗い中に風ばかり吹いて居りまする。」
「一心に仏の名をお唱えなさい。なぜ一心にお唱えにならないのですか?」
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「一心に仏名を御唱へなされ。なぜ一心に御唱へなさらぬ?」
法師はほとんど叱るように言った。
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法師は殆ど叱るやうに云つた。
でも、姫君は今にも息絶えそうに、同じことを繰り返すばかりだった。
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が、姫君は絶え入りさうに、同じ事を繰り返すばかりだつた。
「何も――何も見えません。暗い中に風ばかり、――冷たい風ばかり吹いてきます。」
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「何も、――何も見えませぬ。暗い中に風ばかり、――冷たい風ばかり吹いて参りまする。」
男や乳母は涙をこらえながら、心の中で阿弥陀を念じ続けた。
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男や乳母は涙を呑みながら、口の内に弥陀を念じ続けた。
法師ももちろん手を合わせたまま、姫君の念仏を助けていた。
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法師も勿論合掌した儘、姫君の念仏を扶けてゐた。
そういう声が雨に混じる中に、破れた筵に寝かされた姫君は、だんだん死に顔へと変わっていった。……
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さう云ふ声の雨に交る中に、破れ筵を敷いた姫君は、だんだん死に顔に変つて行つた。……
六
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六
それから何日か後の月夜、姫君に念仏を勧めた法師は、やはり朱雀門の前の曲殿で、破れた着物のまま膝を抱えていた。
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それから何日か後の月夜、姫君に念仏を勧めた法師は、やはり朱雀門の前の曲殿に、破れ衣の膝を抱へてゐた。
するとそこへ侍が一人、ゆったりと何か歌いながら、月明かりの大通りを歩いてきた。
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すると其処へ侍が一人、悠々と何か歌ひながら、月明りの大路を歩いて来た。
侍は法師の姿を見ると、草履の足を止めたまま、さりげなく声をかけた。
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侍は法師の姿を見ると、草履の足を止めたなり、さりげないやうに声をかけた。
「このごろこの朱雀門のあたりに、女の泣き声がするそうではないか?」
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「この頃この朱雀門のほとりに、女の泣き声がするさうではないか?」
法師は石畳の上にうずくまったまま、たった一言だけ返事をした。
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法師は石畳みに蹲まつた儘、たつた一言返事をした。
「お聞きなされ。」
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「お聞きなされ。」
侍はちょっと耳を澄ませた。
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侍はちよつと耳を澄ませた。
でも、かすかな虫の鳴く音以外は、何一つ聞こえるものもなかった。
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が、かすかな虫の音の外は、何一つ聞えるものもなかつた。
あたりにはただ松の香りが、夜の空気に漂っているだけだった。
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あたりには唯松の匂が、夜気に漂つてゐるだけだつた。
侍は口を動かそうとした。
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侍は口を動かさうとした。
しかしまだ何も言わないうちに、突然どこからか女の声が、細々とした嘆きの声を送ってきた。
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しかしまだ何も云はない内に、突然何処からか女の声が、細そぼそと歎きを送つて来た。
侍は刀に手をかけた。
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侍は太刀に手をかけた。
でも、声は曲殿の空に、しばらく長く尾を引いたあと、だんだんまたどこかへ消えていった。
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が、声は曲殿の空に、一しきり長い尾を引いた後、だんだん又何処かへ消えて行つた。
「仏様を念じておやりなさい。――」
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「御仏を念じておやりなされ。――」
法師は月明かりに顔を上げた。
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法師は月光に顔を擡げた。
「あれは極楽も地獄も知らない、あわれな女の魂でございます。仏様を念じておやりなさい。」
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「あれは極楽も地獄も知らぬ、腑甲斐ない女の魂でござる。御仏を念じておやりなされ。」
しかし侍は返事もせずに、法師の顔をのぞきこんだ。
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しかし侍は返事もせずに、法師の顔を覗きこんだ。
と思うと、驚いたように、その前にいきなり両手をついた。
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と思ふと驚いたやうに、その前へいきなり両手をついた。
「内記の上人(ないきのしょうにん)ではございませんか? どうしてまたこのような所に――」
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「内記の上人ではございませんか? どうして又このやうな所に――」
俗名(ぞくみょう・出家する前の名前)は慶滋保胤(よししげのやすたね)、世に内記の上人と呼ばれるこの人は、空也上人(くうやしょうにん)の弟子の中でも、並ぶ者のない高い徳を持ったお坊さんだった。
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在俗の名は慶滋の保胤、世に内記の上人と云ふのは、空也上人の弟子の中にも、やん事ない高徳の沙門だつた。
(大正十一年七月)
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(大正十一年七月)