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六の宮の姫君 現代語訳

芥川竜之介あくたがわりゅうのすけ)・1968

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23

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六の宮の姫君の父は、古い宮家の血筋の生まれだった。

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六の宮の姫君の父は、古い宮腹みやばらの生れだつた。

ただ、時代の流れにも乗り遅れがちな古風な人だったので、官職は兵部大輔より上には出世しなかった。

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が、時勢にも遅れ勝ちな、昔気質むかしかたぎの人だつたから、官も兵部大輔ひやうぶのたいふより昇らなかつた。

姫君はそんな父と母と一緒に、六の宮のほとりにある、木々の高い屋敷に住んでいた。

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姫君はさう云ふ父母ちちははと一しよに、六の宮のほとりにある、木高こだか屋形やかたに住まつてゐた。

六の宮の姫君という呼び名は、その土地の名前からきていた。

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六の宮の姫君と云ふのは、その土地の名前につたのだつた。

父と母は姫君をとても可愛がっていた。

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父母は姫君を寵愛ちようあいした。

しかしやはり昔ながらのやり方で、自分から誰かに縁談を持ちかけることはしなかった。

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しかしやはり昔風に、進んでは誰にもめあはせなかつた。

誰か求婚してくれる人が現れればいいと、ただただ待ち続けるばかりだった。

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誰か云ひ寄る人があればと、心待ちに待つばかりだつた。

姫君も父母の教えのとおり、つつましく毎日を過ごしていた。

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姫君も父母の教へ通り、つつましい朝夕を送つてゐた。

それは悲しみを知らないのと同時に、喜びも知らない日々だった。

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それは悲しみも知らないと同時に、喜びも知らない生涯だつた。

でも、世間を知らない姫君は、特に不満も感じていなかった。

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が、世間見ずの姫君は、格別不満も感じなかつた。

「お父さんとお母さんさえ元気でいてくれればいい。」

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「父母さへ達者でゐてくれれば好い。」

姫君はそう思っていた。

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――姫君はさう思つてゐた。

古い池のほとりにしだれた桜は、毎年少ない花を咲かせた。

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古い池に枝垂しだれた桜は、年毎に乏しい花を開いた。

そのうちに姫君もいつのまにか、大人びた美しさを持つようになった。

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その内に姫君も何時いつの間にか、大人寂おとなさびた美しさを具へ出した。

しかし頼りにしていた父が、長年酒を飲みすぎたために、突然亡くなってしまった。

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が、頼みに思つた父は、年頃酒を過ごした為に、突然故人になつてしまつた。

おまけに母も半年ほどの間に、癒えることのない悲しみを重ねた末に、とうとう父の後を追うように亡くなっていった。

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のみならず母も半年ほどの内に、返らない歎きを重ねた揚句、とうとう父の跡を追つて行つた。

姫君は悲しいというよりも、途方に暮れずにはいられなかった。

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姫君は悲しいと云ふよりも、途方に暮れずにはゐられなかつた。

実際、箱入り娘の姫君には、たった一人の乳母のほかに、頼れる人は何もいなかった。

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実際ふところ子の姫君にはたつた一人の乳母うばの外に、たよるものは何もないのだつた。

乳母は健気にも姫君のために、身を惜しまず働き続けた。

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乳母はけなげにも姫君の為に、骨身を惜まず働き続けた。

でも、家に代々伝わっていた螺鈿の手箱や銀の香炉は、いつのまにか一つずつ消えていった。

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が、家に持ち伝へた螺鈿らでん手筥てばこや白がねの香炉は、何時か一つづつ失はれて行つた。

それと同時に召使いの男女も、次々と暇をもらいはじめた。

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と同時に召使ひの男女も、誰からか暇をとり始めた。

姫君にも暮らしの苦しさが、だんだんはっきりわかるようになってきた。

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姫君にも暮らしのつらい事は、だんだんはつきりわかるやうになつた。

しかしそれをどうにかすることは、姫君の力には及ばなかった。

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しかしそれをどうする事も、姫君の力には及ばなかつた。

姫君は寂しい屋敷の対に、昔と少しも変わらず、琴を弾いたり歌を詠んだり、単調な遊びを繰り返していた。

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姫君は寂しい屋形のたいに、やはり昔と少しも変らず、琴を引いたり歌をんだり、単調な遊びを繰返してゐた。

するとある秋の夕暮れ、乳母が姫君の前に出てきて、考えながらこんなことを言った。

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すると或秋の夕ぐれ、乳母は姫君の前へ出ると、考へ考へこんな事を云つた。

「甥の法師が頼んでまいりますのに、丹波の前司の殿が、あなた様にお会いしたいとのことでございます。前司はお顔立ちも美しい上に、心根もよいそうでございますし、前司のお父上も受領とはいえ、上達部のご近縁の方でもございますから、お会いになってはいかがでしょうか。このようにか細い暮らしをなさるよりも、少しはましかと思いますが。……」

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をひの法師の頼みますには、丹波たんば前司ぜんじなにがしの殿が、あなた様に会はせて頂きたいとか申して居るさうでございます。前司はかたちも美しい上、心ばへも善いさうでございますし、前司の父も受領ずりやうとは申せ、近い上達部かんだちめの子でもございますから、お会ひになつては如何いかがでございませう? かやうに心細い暮しをなさいますよりも、少しはしかと存じますが。……」

姫君はひそかに泣き出した。

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姫君は忍びに泣き初めた。

その男に身を任せるのは、苦しい暮らしを助けてもらうために、体を売るのと同じことだった。

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その男に肌身を任せるのは、不如意な暮しをたすける為に、体を売るのも同様だつた。

もちろんそういうことも世間にはよくあると知ってはいた。

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勿論それも世の中には多いと云ふ事は承知してゐた。

でも、実際に自分がそうなってみると、悲しさはまたひとしおだった。

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が、現在さうなつて見ると、悲しさは又格別だつた。

姫君は乳母と向き合ったまま、葛の葉を吹き返す風の中で、いつまでも袖を顔に当てていた。……

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姫君は乳母と向き合つた儘、くずの葉を吹き返す風の中に、何時までも袖を顔にしてゐた。……

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しかし姫君はいつのまにか、毎夜男と会うようになっていた。

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しかし姫君は何時の間にか、夜毎に男と会ふやうになつた。

男は乳母の言葉どおり、優しい心の持ち主だった。

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男は乳母の言葉通りやさしい心の持ち主だつた。

顔立ちもさすがに上品だった。

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顔かたちもさすがにみやびてゐた。

その上、姫君の美しさに夢中になっていることは、ほとんど誰の目にも明らかだった。

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その上姫君の美しさに、何もも忘れてゐる事は、ほとんど誰の目にも明らかだつた。

姫君もちろんこの男を、嫌いではなかった。

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姫君も勿論この男に、悪い心は持たなかつた。

ときには頼もしいと思うこともあった。

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時には頼もしいと思ふ事もあつた。

しかし、蝶や鳥の模様の几帳を立てた陰で、燈台の光をまぶしがりながら、男と二人で親しみ合うときにも、嬉しいとは一晩も思わなかった。

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が、蝶鳥てふとり几帳きちやうを立てた陰に、燈台の光をまぶしがりながら、男と二人むつびあふ時にも、嬉しいとは一夜も思はなかつた。

そのうちに屋敷は少しずつ、華やかな雰囲気を取り戻しはじめた。

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その内に屋形は少しづつ、花やかな空気を加へ初めた。

黒棚や簾も新しくなり、召使いの数も増えていた。

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黒棚やすだれも新たになり、召使ひの数もえたのだつた。

乳母はもちろん以前よりも、いきいきと暮らしを切り盛りした。

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乳母は勿論以前よりも、き活きと暮しを取りまかなつた。

しかし姫君はそんな変化も、寂しそうに見ているだけだった。

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しかし姫君はさう云ふ変化も、寂しさうに見てゐるばかりだつた。

ある時雨が過ぎた夜、男は姫君と酒を酌み交わしながら、丹波の国であったという、気味の悪い話をした。

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時雨しぐれの渡つた夜、男は姫君と酒をみながら、丹波の国にあつたと云ふ、気味の悪い話をした。

出雲路へ下る旅人が、大江山のふもとに宿を借りた。

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出雲路いづもぢへ下る旅人が大江山の麓に宿を借りた。

宿の妻は、ちょうどその夜、無事に女の子を産み落とした。

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宿の妻は丁度その夜、無事に女の子を産み落した。

すると旅人は産屋の中から、正体のわからない大男が、急ぎ足で外へ出てくるのを見た。

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すると旅人は生家うぶやの中から、何とも知れぬ大男が、急ぎ足に外へ出て来るのを見た。

大男はただ「年は八歳、命は自害」

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大男は唯「年は八歳、めいは自害」

と言い捨てたなり、たちまちどこかへ消えてしまった。

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と云ひ捨てたなり、たちま何処どこかへ消えてしまつた。

旅人はそれから九年後に、今度は京へ上る途中、同じ家に泊まってみた。

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旅人はそれから九年目に、今度は京へ上る途中、同じ家に宿つて見た。

すると実際、女の子は八歳の年に不審な死に方をしていた。

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所が実際女の子は、八つの年に変死してゐた。

しかも木から落ちた拍子に、鎌を喉に突き立てていた。——

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しかも木から落ちた拍子に、鎌をのどへ突き立ててゐた。――

話はだいたいそういう内容だった。

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話は大体かう云ふのだつた。

姫君はそれを聞いたとき、運命の逃れようのなさに脅かされた。

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姫君はそれを聞いた時に、宿命のせんなさにおびやかされた。

その女の子に比べれば、この男を頼りに暮らしているのは、まだましな幸せに違いなかった。

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その女の子に比べれば、この男を頼みに暮してゐるのは、まだしも仕合せに違ひなかつた。

「なりゆきに任せるしかない。」

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「なりゆきに任せる外はない。」

姫君はそう思いながら、顔だけはあでやかに微笑んでいた。

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――姫君はさう思ひながら、顔だけはあでやかにほほ笑んでゐた。

屋敷の軒に当たった松は、何度も雪に枝を折られた。

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屋形の軒に当つた松は、何度も雪に枝を折られた。

姫君は昼は昔のように、琴を弾いたり双六を打ったりした。

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姫君は昼は昔のやうに、琴を引いたり双六すごろくを打つたりした。

夜は男と同じ床で、水鳥が池に降りてくる音を聞いた。

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夜は男と一つしとねに、水鳥の池に下りる音を聞いた。

それは悲しみも少なく、喜びも少ない毎日だった。

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それは悲しみも少いと同時に、喜びも少い朝夕だつた。

しかし姫君は相変わらず、このものうい穏やかさの中に、はかない満足を見出していた。

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が、姫君は不相変あひかわらず、このものうい安らかさの中に、はかない満足を見出してゐた。

しかしその穏やかさも、思いのほか急に終わりを迎える時が来た。

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しかしその安らかさも、思ひのほか急に尽きる時が来た。

ようやく春が戻ったある夜、男は姫君と二人きりになると、「あなたに会うのも今夜限りです」

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やつと春の返つた或夜、男は姫君と二人になると、「そなたに会ふのも今宵こよひぎりぢや」

と、言いにくそうに口を開いた。

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と、云ひくさうに口を切つた。

男の父は今度の除目で、陸奥の守に任じられた。

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男の父は今度の除目ぢもくに、陸奥むつかみに任ぜられた。

男もそのため雪の深い奥州へ、一緒に下らなければならなかった。

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男もその為に雪の深い奥へ、一しよに下らねばならなかつた。

もちろん姫君と別れるのは、何よりも男には悲しかった。

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勿論姫君と別れるのは、何よりも男には悲しかつた。

しかし姫君を妻にしたことは父にも隠していたので、今さら打ち明けることはしにくかった。

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が、姫君を妻にしたのは、父にも隠してゐたのだから、今更打ち明ける事は出来悪できにくかつた。

男はため息をつきながら、くわしくそういう事情を話した。

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男はため息をつきながら、長々とさう云ふ事情を話した。

「しかし五年たてば任期が終わります。その時を楽しみに待っていてください。」

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「しかし五年たてば任終にんはてぢや。その時を楽しみに待つてたもれ。」

姫君はもう泣き伏していた。

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姫君はもう泣き伏してゐた。

恋しいとは思わないまでも、頼りにしていた男と別れるのは、言葉では言い尽くせない悲しさだった。

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たとひ恋しいとは思はぬまでも、頼みにした男と別れるのは、言葉には尽せない悲しさだつた。

男は姫君の背を撫でながら、いろいろと慰めたり励ましたりした。

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男は姫君の背を撫でては、いろいろ慰めたり励ましたりした。

しかし男も言葉の二つ目には、涙で声を曇らせるのだった。

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が、これも二言目には、涙に声を曇らせるのだつた。

そこへ何も知らない乳母が、若い女房たちと一緒に、銚子や高坏を運んできた。

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其処へ何も知らない乳母は、年の若い女房たちと、銚子てうし高坏たかつきを運んで来た。

古い池のほとりにしだれた桜も、つぼみをつけたことを話しながら。……

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古い池に枝垂しだれた桜も、つぼみを持つた事を話しながら。……

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六年目の春が来た。

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六年目の春は返つて来た。

しかし奥州へ下った男は、とうとう都には帰らなかった。

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が、奥へ下つた男は、遂に都へは帰らなかつた。

その間に召使いは一人残らず、ばらばらにどこかへ去ってしまうし、姫君が住んでいた東の対も、ある年の大風で倒れてしまった。

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その間に召使ひは一人も残らず、ちりぢりに何処かへ立ち退いてしまふし、姫君の住んでゐた東のたいも或年の大風に倒れてしまつた。

姫君はそれ以来、乳母と一緒に侍の廊下を住まいにしていた。

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姫君はそれ以来乳母と一しよにさむらひほそどの住居すまひにしてゐた。

そこは住まいとはいっても、狭い上に荒れ果てていて、かろうじて雨露をしのげる程度だった。

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其処は住居と云ふものの、手狭でもあれば住み荒してもあり、僅に雨露あめつゆしのげるだけだつた。

乳母はこの廊下に移った当初、痛々しい姫君の姿を見ると、涙を落とさずにはいられなかった。

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乳母はこのほそどのへ移つた当座、いたはしい姫君の姿を見ると、涙を落さずにはゐられなかつた。

しかしまたある時には、理由もなく腹ばかり立てていることもあった。

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が、又或時は理由もないのに、腹ばかり立ててゐる事があつた。

暮らしの苦しさはもちろんだった。

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暮しのつらいのは勿論だつた。

棚の厨子はとうの昔に、米や青菜に替えられていた。

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棚の厨子づしはとうの昔、米や青菜に変つてゐた。

今では姫君の袿や袴も、身に着けているもの以外は残っていなかった。

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今では姫君のうちぎはかまも身についてゐる外は残らなかつた。

乳母は薪が足りなくなると、朽ちかけた寝殿へ、板を剥ぎに行くほどだった。

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乳母はき物に事を欠けば、立ち腐れになつた寝殿しんでんへ、板をぎに出かける位だつた。

しかし姫君は昔どおりに、琴や歌で気を紛らわしながら、じっと男を待ち続けていた。

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しかし姫君は昔の通り、琴や歌に気を晴らしながら、ぢつと男を待ち続けてゐた。

するとその年の秋の月夜、乳母が姫君の前に出てきて、考えながらこんなことを言った。

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するとその年の秋の月夜、乳母は姫君の前へ出ると、考へ考へこんな事を云つた。

「殿はもうお帰りにはならないでしょう。あなた様も殿のことは、お忘れになってはいかがでしょうか。ちょうどこのごろ、ある典薬之助が、あなた様にお会いしたいと、しきりに頼んでくるのでございますが、……」

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「殿はもう御帰りにはなりますまい。あなた様も殿の事は、お忘れになつては如何いかがでございませう。就てはこの頃或典薬之助てんやくのすけが、あなた様にお会はせ申せと、責め立てて居るのでございますが、……」

姫君はその話を聞きながら、六年前のことを思い出した。

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姫君はその話を聞きながら、六年以前まへの事を思ひ出した。

六年前には、いくら泣いても泣き足りないほど悲しかった。

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六年以前には、いくら泣いても、泣き足りない程悲しかつた。

しかし今は体も心も、そうする気力にはあまりにも疲れていた。

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が、今は体も心も余りにそれには疲れてゐた。

「ただ静かに老いてゆきたい。」

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「唯静かに老い朽ちたい。」

……それ以外は何も考えなかった。

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……その外は何も考へなかつた。

姫君は話を聞き終えると、白い月を眺めたまま、ものうげにやつれた顔を横に振った。

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姫君は話を聞き終ると、白い月を眺めたなり、ものうげげにやつれた顔を振つた。

「わたしはもう何もいらない。生きようと死のうと同じことです。……」

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「わたしはもう何もらぬ。生きようとも死なうとも一つ事ぢや。……」

*      *      *

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*      *      *

ちょうどこれと同じ頃、男は遠い常陸の国の屋敷で、新しい妻と酒を酌み交わしていた。

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丁度これと同じ時刻、男は遠い常陸ひたちの国の屋形に、新しい妻と酒をんでゐた。

妻は父が気に入った、この国の守の娘だった。

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妻は父の目がねにかなつた、この国のかみの娘だつた。

「あの音は何だろう?」

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「あの音は何ぢや?」

男はふと驚いたように、静かな月明かりの軒先を見上げた。

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男はふと驚いたやうに、静かな月明りの軒を見上げた。

そのとき、なぜか男の胸には、はっきりと姫君の姿が浮かんでいた。

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その時なぜか男の胸には、はつきり姫君の姿が浮んでゐた。

「栗の実が落ちたのでございましょう。」

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「栗の実が落ちたのでございませう。」

常陸の妻はそう答えながら、ためらいなく銚子の酒を注いだ。

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常陸の妻はさう答へながら、ふつつかに銚子の酒をさした。

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男が京へ帰ってきたのは、ちょうど九年目の晩秋だった。

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男が京へ帰つたのは、丁度九年目の晩秋だつた。

男と常陸の妻の一族と、——彼らは京に入る途中、日取りが悪いのを避けるために、三、四日粟津に滞在した。

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男と常陸の妻のうからと、――彼等は京へはひる途中、日がらの悪いのを避ける為に、三四日粟津あはづに滞在した。

それから京に入るときも、昼の人目につかないよう、わざと日暮れを選ぶことにした。

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それから京へはひる時も、昼の人目に立たないやうに、わざと日の暮を選ぶ事にした。

男は地方にいる間も、二、三度京の妻のもとへ、心のこもった便りを届けさせた。

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男はひなにゐる間も、二三度京の妻のもとへ、ねんごろな消息をことづけてやつた。

しかし使いが帰ってこなかったり、運よく帰ってきたと思えば、姫君の屋敷がわからなかったりして、一度も返事は手に入らなかった。

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が、使が帰らなかつたり、幸ひ帰つて来たと思へば、姫君の屋形がわからなかつたり、一度も返事は手に入らなかつた。

それだけに京に入ったとなると、恋しさもひとしおだった。

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それだけに京へはひつたとなると、恋しさも亦一層ひとしほだつた。

男は妻を妻の父の屋敷に送り届けるやいなや、旅の支度も解かずに六の宮へ向かった。

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男は妻の父の屋形へ無事に妻を送りこむが早いか、旅仕度も解かずに六の宮へ行つた。

六の宮へ行ってみると、かつてあった四足の門も、檜皮葺きの寝殿も対も、すべて今はなくなっていた。

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六の宮へ行つて見ると、昔あつた四足よつあしの門も、檜皮葺ひはだぶきの寝殿やたいも、ことごとく今はなくなつてゐた。

その中にただ残っているのは、崩れかけた土塀だけだった。

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その中に唯残つてゐるのは、崩れ残りの築土ついぢだけだつた。

男は草の中に立ちつくしたまま、茫然と庭の跡を見渡した。

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男は草の中にたたずんだ儘、茫然と庭の跡を眺めまはした。

そこには半ば埋もれた池に、なぎが少し育っていた。

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其処には半ば埋もれた池に、水葱なぎが少し作つてあつた。

なぎはかすかな三日月の光に、ひっそりと葉を群がらせていた。

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水葱はかすかな新月の光に、ひつそりと葉をむらがらせてゐた。

男は政所とおぼしきあたりに、傾いた板葺きの小屋があるのを見つけた。

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男は政所まんどころおぼしいあたりに、傾いた板屋のあるのを見つけた。

小屋の中には近づいてみると、誰か人の気配もあるようだった。

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板屋の中には近寄つて見ると、誰か人影もあるらしかつた。

男は闇の中を透かしながら、そっとその人影に声をかけた。

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男は闇をかしながら、そつとその人影に声をかけた。

すると月明かりの中によろよろと出てきたのは、どこか見覚えのある老いた尼だった。

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すると月明りによろぼひ出たのは、何処か見覚えのある老尼だつた。

尼は男に名乗られると、何も言わずに泣き続けた。

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尼は男に名のられると、何も云はずに泣き続けた。

その後やっと途切れ途切れに、姫君の身の上を話し出した。

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その後やつと途切れ途切れに、姫君の身の上を話し出した。

「お忘れかもしれませんが、手前はお屋敷に仕えておりました、はした女の母でございます。殿がお下りになってからも、娘はまだ五年ほど、お仕えしておりました。でも、そのうちに夫とともに但馬へ下ることになりましたので、手前もその折に娘と一緒に、暇をいただいたのでございます。ところがこのごろ姫君のことが、何かと心にかかりますので、手前ひとりで京へ上ってみますと、ご覧の通りお屋形も何もなくなっているではありませんか。姫君もどこへいらっしゃったのやら、——実は手前もさきほどから、途方に暮れているのでございます。殿はご存じないでしょうが、娘がお仕えしていた間も、姫君のお暮らしのお痛わしさは、申しようもないほどでございました。……」

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「御見忘れでもございませうが、手前は御内みうちに仕へて居つた、はしたの母でございます。殿がお下りになつてからも、娘はまだ五年ばかり、御奉公致して居りました。が、その内に夫と共々、但馬たじまへ下る事になりましたから、手前もその節娘と一しよに、御暇おいとまを頂いたのでございます。所がこの頃姫君の事が、何かと心にかかりますので、手前一人京へ上つて見ますと、御覧の通り御屋形も何もなくなつて居るのでごさいませんか? 姫君も何処へいらつしやつた事やら、――実は手前もさき頃から、途方に暮れて居るのでございます。殿は御存知もございますまいが、娘が御奉公申して居つた間も、姫君のお暮しのおいたはしさは、申しやうもない位でございました。……」

男は一部始終を聞いた後、この腰の曲がった尼に、着ていた衣を一枚脱いで渡した。

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男は一部始終を聞いた後、この腰の曲つた尼に、下の衣を一枚脱いで渡した。

それから頭を垂れたまま、黙って草の中を歩み去った。

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それから頭を垂れた儘、黙然と草の中を歩み去つた。

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男は翌日から姫君を探しに、京中をあちこちと歩き回った。

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男は翌日から姫君を探しに、洛中らくちゆうを方々歩きまはつた。

しかし、どこへどうしてしまったのか、なかなか行方はわからなかった。

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が、何処へどうしたのか、容易にがたはわからなかつた。

すると何日か後の夕暮れ、男はにわか雨を避けるために、朱雀門の前にある西の曲殿の軒下に立った。

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すると何日か後の夕ぐれ、男はむらさめを避ける為に、朱雀門すざくもんの前にある、西の曲殿きよくでんの軒下に立つた。

そこにはほかにも、物乞いのような法師が一人、同じく雨やみを待ちわびていた。

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其処にはまだ男の外にも、物乞ひらしい法師が一人、やはり雨止みを待ちわびてゐた。

雨は朱塗りの門の空に、寂しい音を立て続けた。

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雨は丹塗にぬりの門の空に、寂しい音を立て続けた。

男は法師を横目にしながら、いらだつ気持ちを紛らわせようと、あちこち石畳を歩いていた。

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男は法師を尻目にしながら、苛立いらだたしい思ひをまぎらせたさに、あちこち石畳みを歩いてゐた。

そのうちにふと男の耳は、薄暗い窓の格子の中に、人のいる気配をとらえた。

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その内にふと男の耳は、薄暗い窓の櫺子れんじの中に、人のゐるらしいけはひを捉へた。

男はほとんど何の気なしに、ちらりと窓をのぞいてみた。

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男はほとんど何の気なしに、ちらりと窓を覗いて見た。

窓の中には尼が一人、破れたむしろを身にまといながら、病人らしい女を介抱していた。

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窓の中には尼が一人、破れたむしろをまとひながら、病人らしい女を介抱してゐた。

女は夕暮れの薄明かりの中にも、不気味なほどやせ細っているようだった。

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女は夕ぐれの薄明りにも、無気味な程れてゐるらしかつた。

しかしその姫君に違いないことは、一目見ただけで十分だった。

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しかしその姫君に違ひない事は、一目見ただけでも十分だつた。

男は声をかけようとした。

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男は声をかけようとした。

しかし哀れな姫君の姿を見ると、なぜかその声が出せなかった。

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が、浅ましい姫君の姿を見ると、なぜかその声が出せなかつた。

姫君は男がいることも知らず、破れむしろの上に寝返りを打つと、苦しそうにこんな歌を詠んだ。

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姫君は男のゐるのも知らず、破れ筵の上に寝反りを打つと、苦しさうにこんな歌をんだ。

「たまくらのすきまの風もさむかりき、身はならはしのものにざりける。」

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「たまくらのすきまの風もさむかりき、身はならはしのものにざりける。」

男はこの声を聞いたとき、思わず姫君の名前を呼んだ。

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男はこの声を聞いた時、思はず姫君の名前を呼んだ。

姫君はさすがに枕から頭を起こした。

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姫君はさすがに枕を起した。

しかし男を見るやいなや、何かかすかに叫んだきり、またむしろの上に顔を伏せてしまった。

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が、男を見るが早いか、何かかすかに叫んだきり、又筵の上に俯伏うつぶしてしまつた。

尼は、——あの忠実な乳母は、そこへ飛び込んできた男と一緒に、あわてて姫君を抱き起こした。

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尼は、――あの忠実な乳母は、其処へ飛びこんだ男と一しよに、あわてて姫君を抱き起した。

しかし抱き起こした顔を見ると、乳母はもちろん男さえも、いっそうあわてずにはいられなかった。

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しかし抱き起した顔を見ると、乳母は勿論男さへも、一層慌てずにはゐられなかつた。

乳母はまるで気が狂ったように、乞食法師のもとへ走り寄った。

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乳母はまるで気の狂つたやうに、乞食法師のもとへ走り寄つた。

そして、臨終の姫君のために、何でもいいから経を読んでくれと言った。

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さうして、臨終の姫君の為に、何なりとも経を読んでくれと云つた。

法師は乳母の望みどおり、姫君の枕もとに座った。

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法師は乳母の望み通り、姫君の枕もとへ座を占めた。

しかし経文を読み上げる代わりに、姫君にこう言葉をかけた。

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が、経文を読誦どくじゆする代りに、姫君へかう言葉をかけた。

「往生は人の手でできるものではありません。ただご自身、怠らずに阿弥陀仏のお名前をお唱えなさい。」

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「往生は人手に出来るものではござらぬ。唯御自身怠らずに、阿弥陀仏の御名みなをお唱へなされ。」

姫君は男に抱かれたまま、細々と仏の名前を唱え始めた。

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姫君は男に抱かれた儘、細ぼそと仏名ぶつみやうを唱へ出した。

かと思うと恐ろしそうに、じっと門の天井を見つめた。

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と思ふと恐しさうに、ぢつと門の天井を見つめた。

「あれ、あそこに火の燃える車が。……」

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「あれ、あそこに火の燃える車が。……」

「そのようなものを恐れなさるな。仏様さえ念じればよろしゅうございます。」

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「そのやうな物にお恐れなさるな。御仏みほとけさへ念ずればよろしうござる。」

法師はやや声を力強くした。

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法師はやや声を励ました。

するとしばらく後、姫君はまた夢うつつのようにつぶやき始めた。

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すると姫君は少時しばらくの後、又夢うつつのやうにつぶやき出した。

「金色の蓮の花が見えます。天蓋のように大きな蓮の花が。……」

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金色こんじき蓮華れんげが見えまする。天蓋てんがいのやうに大きい蓮華が。……」

法師は何か言おうとしたが、今度はそれよりも先に、姫君が途切れ途切れに口を開いた。

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法師は何か云はうとしたが、今度はそれよりもさきに、姫君が切れ切れに口を開いた。

「蓮の花はもう見えません。跡にはただ暗い中に風だけが吹いています。」

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「蓮華はもう見えませぬ。跡には唯暗い中に風ばかり吹いて居りまする。」

「一心に仏の名をお唱えなさい。なぜ一心にお唱えにならないのですか?」

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「一心に仏名を御唱へなされ。なぜ一心に御唱へなさらぬ?」

法師はほとんど叱るように言った。

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法師は殆ど叱るやうに云つた。

しかし姫君は今にも息が絶えそうに、同じことを繰り返すばかりだった。

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が、姫君は絶え入りさうに、同じ事を繰り返すばかりだつた。

「何も、——何も見えません。暗い中に風ばかり、——冷たい風ばかり吹いてきます。」

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「何も、――何も見えませぬ。暗い中に風ばかり、――冷たい風ばかり吹いて参りまする。」

男と乳母は涙をのみながら、口の中で阿弥陀仏を念じ続けた。

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男や乳母は涙を呑みながら、口の内に弥陀を念じ続けた。

法師ももちろん合掌したまま、姫君の念仏を助けていた。

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法師も勿論合掌した儘、姫君の念仏をたすけてゐた。

そういう声の、雨に交じる中で、破れむしろを敷いた姫君は、だんだん死に顔に変わっていった。……

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さう云ふ声の雨にまじる中に、破れ筵を敷いた姫君は、だんだん死に顔に変つて行つた。……

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それから何日か後の月夜、姫君に念仏を勧めた法師は、やはり朱雀門の前の曲殿に、破れ衣の膝を抱えて座っていた。

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それから何日か後の月夜、姫君に念仏をすすめた法師は、やはり朱雀門の前の曲殿に、ごろもの膝を抱へてゐた。

するとそこへ侍が一人、悠々と何か歌いながら、月明かりの大路を歩いてきた。

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すると其処へさむらひが一人、悠々と何か歌ひながら、月明りの大路おほぢを歩いて来た。

侍は法師の姿を見ると、草履を止めたまま、さりげなく声をかけた。

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侍は法師の姿を見ると、草履ざうりの足をめたなり、さりげないやうに声をかけた。

「このごろこの朱雀門のあたりで、女の泣き声がするそうではないか?」

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「この頃この朱雀門のほとりに、女の泣き声がするさうではないか?」

法師は石畳にうずくまったまま、たった一言だけ返事をした。

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法師は石畳みにうづくまつた儘、たつた一言返事をした。

「お聞きなさいませ。」

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「お聞きなされ。」

侍はちょっと耳を澄ませた。

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侍はちよつと耳を澄ませた。

しかしかすかな虫の声のほかは、何一つ聞こえるものもなかった。

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が、かすかな虫の音の外は、何一つ聞えるものもなかつた。

あたりにはただ松の香りが、夜の空気に漂っているだけだった。

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あたりには唯松の匂が、夜気に漂つてゐるだけだつた。

侍は口を動かそうとした。

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侍は口を動かさうとした。

しかしまだ何も言わないうちに、突然どこからか女の声が、か細く嘆きを送ってきた。

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しかしまだ何も云はない内に、突然何処からか女の声が、細そぼそと歎きを送つて来た。

侍は太刀に手をかけた。

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侍は太刀に手をかけた。

しかし声は曲殿の空に、しばらく長く尾を引いた後、だんだんまたどこかへ消えていった。

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が、声は曲殿の空に、一しきり長い尾を引いた後、だんだん又何処かへ消えて行つた。

「仏様を念じておやりなさい。——」

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「御仏を念じておやりなされ。――」

法師は月の光に顔を上げた。

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法師は月光に顔をもたげた。

「あれは極楽も地獄も知らぬ、頼りない女の魂でございます。仏様を念じておやりなさい。」

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「あれは極楽も地獄も知らぬ、腑甲斐ふがひない女の魂でござる。御仏を念じておやりなされ。」

しかし侍は返事もせずに、法師の顔をのぞき込んだ。

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しかし侍は返事もせずに、法師の顔を覗きこんだ。

かと思うと驚いたように、その前へいきなり両手をついた。

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と思ふと驚いたやうに、その前へいきなり両手をついた。

「内記の上人ではございませんか? どうしてまたこのような所に——」

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内記ないき上人しやうにんではございませんか? どうして又このやうな所に――」

俗名を慶滋の保胤という、世に内記の上人と呼ばれるのは、空也上人の弟子の中でも、高い徳を持つ尊いお坊様だった。

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在俗の名は慶滋よししげ保胤やすたね、世に内記の上人と云ふのは、空也くうや上人の弟子の中にも、やん事ない高徳の沙門しやもんだつた。

(大正十一年七月)

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(大正十一年七月)