AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-28)
原文: 申し上げます。
申し上げます。
原文: 申し上げます。
申し上げます。
原文: 旦那さま。
旦那さま。
原文: あの人は、酷い。
あの人は、ひどい。
原文: 酷い。
ひどい。
原文: はい。
はい。
原文: 厭な奴です。
嫌な奴です。
原文: 悪い人です。
悪い人です。
原文: ああ。
ああ。
原文: 我慢ならない。
我慢ならない。
原文: 生かして置けねえ。
生かしておけねえ。
原文: はい、はい。
はい、はい。
原文: 落ちついて申し上げます。
落ち着いて申し上げます。
原文: あの人を、生かして置いてはなりません。
あの人を、生かしておいてはいけません。
原文: 世の中の仇です。
世の中の敵です。
原文: はい、何もかも、すっかり、全部、申し上げます。
はい、何もかも、すっかり、全部、申し上げます。
原文: 私は、あの人の居所を知っています。
私は、あの人の居場所を知っています。
原文: すぐに御案内申します。
すぐにご案内します。
原文: ずたずたに切りさいなんで、殺して下さい。
ずたずたに切りきざんで、殺してください。
原文: あの人は、私の師です。
あの人は、私の師です。
原文: 主です。
主です。
原文: けれども私と同じ年です。
けれども私と同じ年です。
原文: 三十四であります。
三十四です。
原文: 私は、あの人よりたった二月おそく生れただけなのです。
私は、あの人よりたった二か月おそく生まれただけなのです。
原文: たいした違いが無い筈だ。
たいした違いがあるはずがない。
原文: 人と人との間に、そんなにひどい差別は無い筈だ。
人と人との間に、そんなにひどい差別があるはずがない。
原文: それなのに私はきょう迄あの人に、どれほど意地悪くこき使われて来たことか。
それなのに私は今日まであの人に、どれほど意地悪くこき使われてきたことか。
原文: どんなに嘲弄されて来たことか。
どんなに馬鹿にされ、なぐさみものにされてきたことか。
原文: ああ、もう、いやだ。
ああ、もう、いやだ。
原文: 堪えられるところ迄は、堪えて来たのだ。
耐えられるところまでは、耐えてきたのだ。
原文: 怒る時に怒らなければ、人間の甲斐がありません。
怒るときに怒らなければ、人間に生まれた甲斐がありません。
原文: 私は今まであの人を、どんなにこっそり庇ってあげたか。
私は今まであの人を、どんなにこっそりかばってあげたか。
原文: 誰も、ご存じ無いのです。
誰も、ご存じないのです。
原文: あの人ご自身だって、それに気がついていないのだ。
あの人ご自身だって、それに気がついていないのだ。
原文: いや、あの人は知っているのだ。
いや、あの人は知っているのだ。
原文: ちゃんと知っています。
ちゃんと知っています。
原文: 知っているからこそ、尚更あの人は私を意地悪く軽蔑するのだ。
知っているからこそ、なおさらあの人は私を意地悪く軽蔑するのだ。
原文: あの人は傲慢だ。
あの人は傲慢だ。
原文: 私から大きに世話を受けているので、それがご自身に口惜しいのだ。
私にずいぶん世話をしてもらっているので、それがご自身で悔しいのだ。
原文: あの人は、阿呆なくらいに自惚れ屋だ。
あの人は、馬鹿みたいなうぬぼれ屋だ。
原文: 私などから世話を受けている、ということを、何かご自身の、ひどい引目ででもあるかのように思い込んでいなさるのです。
私などから世話を受けている、ということを、何かご自身の、ひどい負い目でもあるかのように思い込んでいらっしゃるのです。
原文: あの人は、なんでもご自身で出来るかのように、ひとから見られたくてたまらないのだ。
あの人は、何でもご自身で出来るかのように、人から見られたくてたまらないのだ。
原文: ばかな話だ。
馬鹿な話だ。
原文: 世の中はそんなものじゃ無いんだ。
世の中はそんなものじゃないんだ。
原文: この世に暮して行くからには、どうしても誰かに、ぺこぺこ頭を下げなければいけないのだし、そうして歩一歩、苦労して人を抑えてゆくより他に仕様がないのだ。
この世で暮していくからには、どうしても誰かに、ぺこぺこ頭を下げなければいけないのだし、そうして一歩一歩、苦労して人を押さえていくより他にやりようがないのだ。
原文: あの人に一体、何が出来ましょう。
あの人にいったい、何が出来るでしょう。
原文: なんにも出来やしないのです。
何も出来やしないのです。
原文: 私から見れば青二才だ。
私から見れば青二才だ。
原文: 私がもし居らなかったらあの人は、もう、とうの昔、あの無能でとんまの弟子たちと、どこかの野原でのたれ死していたに違いない。
私がもしいなかったら、あの人はもう、とうの昔に、あの無能でとんまな弟子たちと一緒に、どこかの野原で野垂れ死にしていたに違いない。
原文: 「狐には穴あり、鳥には塒、されども人の子には枕するところ無し」
「狐には穴があり、鳥にはねぐらがある、けれども人の子には枕するところが無い」
原文: それ、それ、それだ。
それ、それ、それだ。
原文: ちゃんと白状していやがるのだ。
ちゃんと自分で白状していやがるのだ。
原文: ペテロに何が出来ますか。
ペテロに何が出来ますか。
原文: ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、トマス、痴の集り、ぞろぞろあの人について歩いて、脊筋が寒くなるような、甘ったるいお世辞を申し、天国だなんて馬鹿げたことを夢中で信じて熱狂し、その天国が近づいたなら、あいつらみんな右大臣、左大臣にでもなるつもりなのか、馬鹿な奴らだ。
ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、トマス、間抜けの集まり、ぞろぞろあの人について歩いて、背筋が寒くなるような甘ったるいお世辞を言い、天国だなんて馬鹿げたことを夢中で信じて熱狂し、その天国が近づいたなら、あいつらみんな右大臣、左大臣にでもなるつもりなのか、馬鹿な奴らだ。
原文: その日のパンにも困っていて、私がやりくりしてあげないことには、みんな飢え死してしまうだけじゃないのか。
その日のパンにも困っていて、私がやりくりしてあげなければ、みんな飢え死にしてしまうだけじゃないのか。
原文: 私はあの人に説教させ、群集からこっそり賽銭を巻き上げ、また、村の物持ちから供物を取り立て、宿舎の世話から日常衣食の購求まで、煩をいとわず、してあげていたのに、あの人はもとより弟子の馬鹿どもまで、私に一言のお礼も言わない。
私はあの人に説教させ、群衆からこっそり賽銭を巻き上げ、また、村の金持ちから供物を取り立て、宿の手配から日々の衣食の買い物まで、面倒がらずにしてあげていたのに、あの人はもちろん弟子の馬鹿どもまで、私に一言のお礼も言わない。
原文: お礼を言わぬどころか、あの人は、私のこんな隠れた日々の苦労をも知らぬ振りして、いつでも大変な贅沢を言い、五つのパンと魚が二つ在るきりの時でさえ、目前の大群集みなに食物を与えよ、などと無理難題を言いつけなさって、私は陰で実に苦しいやり繰りをして、どうやら、その命じられた食いものを、まあ、買い調えることが出来るのです。
お礼を言わないどころか、あの人は、私のこんな隠れた日々の苦労も知らないふりをして、いつでも大変な贅沢を言い、五つのパンと魚が二つあるだけの時でさえ、目の前の大群衆みんなに食べ物を与えよ、などと無理難題を言いつけなさって、私は陰で実に苦しいやりくりをして、どうにか、その命じられた食べ物を、まあ、買いそろえることが出来るのです。
原文: 謂わば、私はあの人の奇蹟の手伝いを、危い手品の助手を、これまで幾度となく勤めて来たのだ。
言ってみれば、私はあの人の奇蹟の手伝いを、危ない手品の助手を、これまで何度となく務めてきたのだ。
原文: 私はこう見えても、決して吝嗇の男じゃ無い。
私はこう見えても、決してけちな男じゃない。
原文: それどころか私は、よっぽど高い趣味家なのです。
それどころか私は、よほど趣味の高い人間なのです。
原文: 私はあの人を、美しい人だと思っている。
私はあの人を、美しい人だと思っている。
原文: 私から見れば、子供のように慾が無く、私が日々のパンを得るために、お金をせっせと貯めたっても、すぐにそれを一厘残さず、むだな事に使わせてしまって。
私から見れば、子供のように欲がなく、私が日々のパンを得るために、お金をせっせと貯めても、すぐにそれを一銭残らず、むだなことに使わせてしまって。
原文: けれども私は、それを恨みに思いません。
けれども私は、それを恨みに思いません。
原文: あの人は美しい人なのだ。
あの人は美しい人なのだ。
原文: 私は、もともと貧しい商人ではありますが、それでも精神家というものを理解していると思っています。
私は、もともと貧しい商人ではありますが、それでも精神を重んじる人間というものを理解していると思っています。
原文: だから、あの人が、私の辛苦して貯めて置いた粒々の小金を、どんなに馬鹿らしくむだ使いしても、私は、なんとも思いません。
だから、あの人が、私が苦労して貯めておいたわずかな金を、どんなに馬鹿らしくむだ使いしても、私は、何とも思いません。
原文: 思いませんけれども、それならば、たまには私にも、優しい言葉の一つ位は掛けてくれてもよさそうなのに、あの人は、いつでも私に意地悪くしむけるのです。
思いませんけれども、それならば、たまには私にも、優しい言葉の一つくらいは掛けてくれてもよさそうなのに、あの人は、いつでも私に意地悪く当たるのです。
原文: 一度、あの人が、春の海辺をぶらぶら歩きながら、ふと、私の名を呼び、「おまえにも、お世話になるね。おまえの寂しさは、わかっている。けれども、そんなにいつも不機嫌な顔をしていては、いけない。寂しいときに、寂しそうな面容をするのは、それは偽善者のすることなのだ。寂しさを人にわかって貰おうとして、ことさらに顔色を変えて見せているだけなのだ。まことに神を信じているならば、おまえは、寂しい時でも素知らぬ振りして顔を綺麗に洗い、頭に膏を塗り、微笑んでいなさるがよい。わからないかね。寂しさを、人にわかって貰わなくても、どこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけが、わかっていて下さったなら、それでよいではないか。そうではないかね。寂しさは、誰にだって在るのだよ」
一度、あの人が、春の海辺をぶらぶら歩きながら、ふと、私の名を呼び、「おまえにも、世話になるね。おまえの寂しさは、わかっている。けれども、そんなにいつも不機嫌な顔をしていては、いけない。寂しいときに、寂しそうな顔つきをするのは、それは偽善者のすることなのだ。寂しさを人にわかってもらおうとして、わざわざ顔色を変えて見せているだけなのだ。本当に神を信じているなら、おまえは、寂しい時でも素知らぬふりをして顔をきれいに洗い、髪に油を塗り、微笑んでいればいい。わからないかね。寂しさを、人にわかってもらわなくても、どこか目に見えないところにいるおまえの本当の父だけが、わかっていてくださったなら、それでいいではないか。そうではないかね。寂しさは、誰にだってあるのだよ」
原文: そうおっしゃってくれて、私はそれを聞いてなぜだか声出して泣きたくなり、いいえ、私は天の父にわかって戴かなくても、また世間の者に知られなくても、ただ、あなたお一人さえ、おわかりになっていて下さったら、それでもう、よいのです。
そう言ってくれて、私はそれを聞いてなぜだか声を出して泣きたくなり、いいえ、私は天の父にわかっていただかなくても、また世間の者に知られなくても、ただ、あなたお一人さえ、わかっていてくださったら、それでもう、いいのです。
原文: 私はあなたを愛しています。
私はあなたを愛しています。
原文: ほかの弟子たちが、どんなに深くあなたを愛していたって、それとは較べものにならないほどに愛しています。
ほかの弟子たちが、どんなに深くあなたを愛していたって、それとは比べものにならないほどに愛しています。
原文: 誰よりも愛しています。
誰よりも愛しています。
原文: ペテロやヤコブたちは、ただ、あなたについて歩いて、何かいいこともあるかと、そればかりを考えているのです。
ペテロやヤコブたちは、ただ、あなたについて歩いて、何かいいこともあるかと、そればかりを考えているのです。
原文: けれども、私だけは知っています。
けれども、私だけは知っています。
原文: あなたについて歩いたって、なんの得するところも無いということを知っています。
あなたについて歩いたって、何の得もないということを知っています。
原文: それでいながら、私はあなたから離れることが出来ません。
それでいながら、私はあなたから離れることが出来ません。
原文: どうしたのでしょう。
どうしたのでしょう。
原文: あなたが此の世にいなくなったら、私もすぐに死にます。
あなたがこの世にいなくなったら、私もすぐに死にます。
原文: 生きていることが出来ません。
生きていることが出来ません。
原文: 私には、いつでも一人でこっそり考えていることが在るんです。
私には、いつでも一人でこっそり考えていることがあるんです。
原文: それはあなたが、くだらない弟子たち全部から離れて、また天の父の御教えとやらを説かれることもお止しになり、つつましい民のひとりとして、お母のマリヤ様と、私と、それだけで静かな一生を、永く暮して行くことであります。
それはあなたが、くだらない弟子たち全部から離れて、また天の父の教えとやらを説くこともおやめになり、つつましい民の一人として、母のマリヤ様と、私と、それだけで静かな一生を、長く暮していくことです。
原文: 私の村には、まだ私の小さい家が残って在ります。
私の村には、まだ私の小さい家が残っています。
原文: 年老いた父も母も居ります。
年老いた父も母もいます。
原文: ずいぶん広い桃畠もあります。
ずいぶん広い桃畑もあります。
原文: 春、いまごろは、桃の花が咲いて見事であります。
春、いまごろは、桃の花が咲いて見事です。
原文: 一生、安楽にお暮しできます。
一生、安楽にお暮しになれます。
原文: 私がいつでもお傍について、御奉公申し上げたく思います。
私がいつでもお傍について、お仕えしたいと思います。
原文: よい奥さまをおもらいなさいまし。
よい奥さまをもらってください。
原文: そう私が言ったら、あの人は、薄くお笑いになり、「ペテロやシモンは漁人だ。美しい桃の畠も無い。ヤコブもヨハネも赤貧の漁人だ。あのひとたちには、そんな、一生を安楽に暮せるような土地が、どこにも無いのだ」
そう私が言ったら、あの人は、薄くお笑いになり、「ペテロやシモンは漁師だ。美しい桃の畑も無い。ヤコブもヨハネも赤貧の漁師だ。あの人たちには、そんな、一生を安楽に暮せるような土地が、どこにも無いのだ」
原文: と低く独りごとのように呟いて、また海辺を静かに歩きつづけたのでしたが、後にもさきにも、あの人と、しんみりお話できたのは、そのとき一度だけで、あとは、決して私に打ち解けて下さったことが無かった。
と低く独りごとのようにつぶやいて、また海辺を静かに歩きつづけたのでしたが、後にも先にも、あの人としんみり話せたのは、そのとき一度だけで、あとは、決して私に打ち解けてくださったことが無かった。
原文: 私はあの人を愛している。
私はあの人を愛している。
原文: あの人が死ねば、私も一緒に死ぬのだ。
あの人が死ねば、私も一緒に死ぬのだ。
原文: あの人は、誰のものでもない。
あの人は、誰のものでもない。
原文: 私のものだ。
私のものだ。
原文: あの人を他人に手渡すくらいなら、手渡すまえに、私はあの人を殺してあげる。
あの人を他人に手渡すくらいなら、手渡すまえに、私はあの人を殺してあげる。
原文: 父を捨て、母を捨て、生れた土地を捨てて、私はきょう迄、あの人について歩いて来たのだ。
父を捨て、母を捨て、生まれた土地を捨てて、私は今日まで、あの人について歩いてきたのだ。
原文: 私は天国を信じない。
私は天国を信じない。
原文: 神も信じない。
神も信じない。
原文: あの人の復活も信じない。
あの人の復活も信じない。
原文: なんであの人が、イスラエルの王なものか。
どうしてあの人が、イスラエルの王なものか。
原文: 馬鹿な弟子どもは、あの人を神の御子だと信じていて、そうして神の国の福音とかいうものを、あの人から伝え聞いては、浅間しくも、欣喜雀躍している。
馬鹿な弟子どもは、あの人を神の御子だと信じていて、そうして神の国の福音とかいうものを、あの人から伝え聞いては、情けないほどに小躍りして喜んでいる。
原文: 今にがっかりするのが、私にはわかっています。
今にがっかりするのが、私にはわかっています。
原文: おのれを高うする者は卑うせられ、おのれを卑うする者は高うせられると、あの人は約束なさったが、世の中、そんなに甘くいってたまるものか。
自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされると、あの人は約束なさったが、世の中、そんなに甘くいってたまるものか。
原文: あの人は嘘つきだ。
あの人は嘘つきだ。
原文: 言うこと言うこと、一から十まで出鱈目だ。
言うこと言うこと、一から十まででたらめだ。
原文: 私はてんで信じていない。
私はまるで信じていない。
原文: けれども私は、あの人の美しさだけは信じている。
けれども私は、あの人の美しさだけは信じている。
原文: あんな美しい人はこの世に無い。
あんな美しい人はこの世にいない。
原文: 私はあの人の美しさを、純粋に愛している。
私はあの人の美しさを、純粋に愛している。
原文: それだけだ。
それだけだ。
原文: 私は、なんの報酬も考えていない。
私は、何の報酬も考えていない。
原文: あの人について歩いて、やがて天国が近づき、その時こそは、あっぱれ右大臣、左大臣になってやろうなどと、そんなさもしい根性は持っていない。
あの人について歩いて、やがて天国が近づき、その時こそは、みごと右大臣、左大臣になってやろうなどと、そんな卑しい根性は持っていない。
原文: 私は、ただ、あの人から離れたくないのだ。
私は、ただ、あの人から離れたくないのだ。
原文: ただ、あの人の傍にいて、あの人の声を聞き、あの人の姿を眺めて居ればそれでよいのだ。
ただ、あの人の傍にいて、あの人の声を聞き、あの人の姿を眺めていられればそれでいいのだ。
原文: そうして、出来ればあの人に説教などを止してもらい、私とたった二人きりで一生永く生きていてもらいたいのだ。
そうして、できればあの人に説教などをやめてもらい、私とたった二人きりで一生長く生きていてもらいたいのだ。
原文: あああ、そうなったら!
あああ、そうなったら!
原文: 私はどんなに仕合せだろう。
私はどんなに幸せだろう。
原文: 私は今の、此の、現世の喜びだけを信じる。
私は今の、この、現世の喜びだけを信じる。
原文: 次の世の審判など、私は少しも怖れていない。
次の世の審判など、私は少しも怖れていない。
原文: あの人は、私の此の無報酬の、純粋の愛情を、どうして受け取って下さらぬのか。
あの人は、私のこの無報酬の、純粋の愛情を、どうして受け取ってくださらないのか。
原文: ああ、あの人を殺して下さい。
ああ、あの人を殺してください。
原文: 旦那さま。
旦那さま。
原文: 私はあの人の居所を知って居ります。
私はあの人の居場所を知っています。
原文: 御案内申し上げます。
ご案内いたします。
原文: あの人は私を賤しめ、憎悪して居ります。
あの人は私をさげすみ、憎んでいます。
原文: 私は、きらわれて居ります。
私は、きらわれています。
原文: 私はあの人や、弟子たちのパンのお世話を申し、日日の飢渇から救ってあげているのに、どうして私を、あんなに意地悪く軽蔑するのでしょう。
私はあの人や、弟子たちのパンの世話をして、日々の飢えと渇きから救ってあげているのに、どうして私を、あんなに意地悪く軽蔑するのでしょう。
原文: お聞き下さい。
お聞きください。
原文: 六日まえのことでした。
六日まえのことでした。
原文: あの人はベタニヤのシモンの家で食事をなさっていたとき、あの村のマルタ奴の妹のマリヤが、ナルドの香油を一ぱい満たして在る石膏の壺をかかえて饗宴の室にこっそり這入って来て、だしぬけに、その油をあの人の頭にざぶと注いで御足まで濡らしてしまって、それでも、その失礼を詫びるどころか、落ちついてしゃがみ、マリヤ自身の髪の毛で、あの人の濡れた両足をていねいに拭ってあげて、香油の匂いが室に立ちこもり、まことに異様な風景でありましたので、私は、なんだか無性に腹が立って来て、失礼なことをするな!
あの人はベタニヤのシモンの家で食事をなさっていたとき、あの村のマルタめの妹のマリヤが、ナルドの香油をいっぱいに満たした石膏の壺をかかえて宴の部屋にこっそり入って来て、いきなり、その油をあの人の頭にざぶりと注いで足まで濡らしてしまって、それでも、その失礼を詫びるどころか、落ち着いてしゃがみ、マリヤ自身の髪の毛で、あの人の濡れた両足をていねいに拭ってあげて、香油の匂いが部屋に立ちこめ、まことに異様な光景でしたので、私は、なんだかやたらに腹が立ってきて、失礼なことをするな!
原文: と、その妹娘に怒鳴ってやりました。
と、その妹娘に怒鳴ってやりました。
原文: これ、このようにお着物が濡れてしまったではないか、それに、こんな高価な油をぶちまけてしまって、もったいないと思わないか、なんというお前は馬鹿な奴だ。
これ、このようにお着物が濡れてしまったではないか、それに、こんな高価な油をぶちまけてしまって、もったいないと思わないか、お前はなんという馬鹿な奴だ。
原文: これだけの油だったら、三百デナリもするではないか、この油を売って、三百デナリ儲けて、その金をば貧乏人に施してやったら、どんなに貧乏人が喜ぶか知れない。
これだけの油だったら、三百デナリもするではないか、この油を売って、三百デナリ儲けて、その金を貧しい人に施してやったら、どんなに貧しい人が喜ぶかしれない。
原文: 無駄なことをしては困るね、と私は、さんざ叱ってやりました。
無駄なことをしては困るね、と私は、さんざん叱ってやりました。
原文: すると、あの人は、私のほうを屹っと見て、「この女を叱ってはいけない。この女のひとは、大変いいことをしてくれたのだ。貧しい人にお金を施すのは、おまえたちには、これからあとあと、いくらでも出来ることではないか。私には、もう施しが出来なくなっているのだ。そのわけは言うまい。この女のひとだけは知っている。この女が私のからだに香油を注いだのは、私の葬いの備えをしてくれたのだ。おまえたちも覚えて置くがよい。全世界、どこの土地でも、私の短い一生を言い伝えられる処には、必ず、この女の今日の仕草も記念として語り伝えられるであろう」
すると、あの人は、私のほうをきっと見て、「この女を叱ってはいけない。この女の人は、大変いいことをしてくれたのだ。貧しい人にお金を施すのは、おまえたちには、これから先いつでも出来ることではないか。私には、もう施しが出来なくなっているのだ。そのわけは言うまい。この女の人だけは知っている。この女が私のからだに香油を注いだのは、私の葬りの備えをしてくれたのだ。おまえたちも覚えておくがよい。全世界、どこの土地でも、私の短い一生が言い伝えられるところには、必ず、この女の今日のふるまいも記念として語り伝えられるだろう」
原文: そう言い結んだ時に、あの人の青白い頬は幾分、上気して赤くなっていました。
そう言い終えたとき、あの人の青白い頬はいくぶん、上気して赤くなっていました。
原文: 私は、あの人の言葉を信じません。
私は、あの人の言葉を信じません。
原文: れいに依って大袈裟なお芝居であると思い、平気で聞き流すことが出来ましたが、それよりも、その時、あの人の声に、また、あの人の瞳の色に、いままで嘗つて無かった程の異様なものが感じられ、私は瞬時戸惑いして、更にあの人の幽かに赤らんだ頬と、うすく涙に潤んでいる瞳とを、つくづく見直し、はッと思い当ることがありました。
いつものように大袈裟なお芝居だと思い、平気で聞き流すことが出来ましたが、それよりも、そのとき、あの人の声に、また、あの人の瞳の色に、いままでかつて無かったほどの異様なものが感じられ、私は一瞬戸惑って、さらにあの人のわずかに赤らんだ頬と、うすく涙に潤んでいる瞳とを、つくづく見直して、はっと思い当たることがありました。
原文: ああ、いまわしい、口に出すさえ無念至極のことであります。
ああ、忌まわしい、口に出すだけでもこの上なく悔しいことです。
原文: あの人は、こんな貧しい百姓女に恋、では無いが、まさか、そんな事は絶対に無いのですが、でも、危い、それに似たあやしい感情を抱いたのではないか?
あの人は、こんな貧しい百姓女に恋、ではないが、まさか、そんなことは絶対に無いのですが、でも、危ない、それに似たあやしい感情を抱いたのではないか?
原文: あの人ともあろうものが。
あの人ともあろうものが。
原文: あんな無智な百姓女ふぜいに、そよとでも特殊な愛を感じたとあれば、それは、なんという失態。
あんな無知な百姓女ふぜいに、ほんの少しでも特別な愛を感じたとあれば、それは、なんという失態。
原文: 取りかえしの出来ぬ大醜聞。
取り返しのつかない大醜聞。
原文: 私は、ひとの恥辱となるような感情を嗅ぎわけるのが、生れつき巧みな男であります。
私は、人の恥になるような感情を嗅ぎわけるのが、生まれつき巧みな男です。
原文: 自分でもそれを下品な嗅覚だと思い、いやでありますが、ちらと一目見ただけで、人の弱点を、あやまたず見届けてしまう鋭敏の才能を持って居ります。
自分でもそれを下品な嗅覚だと思い、いやなのですが、ちらと一目見ただけで、人の弱点を、誤りなく見抜いてしまう鋭敏な才能を持っています。
原文: あの人が、たとえ微弱にでも、あの無学の百姓女に、特別の感情を動かしたということは、やっぱり間違いありません。
あの人が、たとえかすかにでも、あの無学な百姓女に、特別の感情を動かしたということは、やっぱり間違いありません。
原文: 私の眼には狂いが無い筈だ。
私の眼に狂いがあるはずがない。
原文: たしかにそうだ。
たしかにそうだ。
原文: ああ、我慢ならない。
ああ、我慢ならない。
原文: 堪忍ならない。
辛抱ならない。
原文: 私は、あの人も、こんな体たらくでは、もはや駄目だと思いました。
私は、あの人も、こんなていたらくでは、もう駄目だと思いました。
原文: 醜態の極だと思いました。
醜態の極みだと思いました。
原文: あの人はこれまで、どんなに女に好かれても、いつでも美しく、水のように静かであった。
あの人はこれまで、どんなに女に好かれても、いつでも美しく、水のように静かだった。
原文: いささかも取り乱すことが無かったのだ。
少しも取り乱すことが無かったのだ。
原文: ヤキがまわった。
ヤキがまわった。
原文: だらしが無え。
だらしがねえ。
原文: あの人だってまだ若いのだし、それは無理もないと言えるかも知れぬけれど、そんなら私だって同じ年だ。
あの人だってまだ若いのだし、それは無理もないと言えるかもしれないけれど、それなら私だって同じ年だ。
原文: しかも、あの人より二月おそく生れているのだ。
しかも、あの人より二か月おそく生まれているのだ。
原文: 若さに変りは無い筈だ。
若さに変わりがあるはずがない。
原文: それでも私は堪えている。
それでも私は耐えている。
原文: あの人ひとりに心を捧げ、これ迄どんな女にも心を動かしたことは無いのだ。
あの人ひとりに心を捧げ、これまでどんな女にも心を動かしたことは無いのだ。
原文: マルタの妹のマリヤは、姉のマルタが骨組頑丈で牛のように大きく、気象も荒く、どたばた立ち働くのだけが取柄で、なんの見どころも無い百姓女でありますが、あれは違って骨も細く、皮膚は透きとおる程の青白さで、手足もふっくらして小さく、湖水のように深く澄んだ大きい眼が、いつも夢みるように、うっとり遠くを眺めていて、あの村では皆、不思議がっているほどの気高い娘でありました。
マルタの妹のマリヤは、姉のマルタが骨組みも頑丈で牛のように大きく、気性も荒く、どたばた立ち働くのだけが取り柄で、何の見どころも無い百姓女ですが、あれは違って骨も細く、皮膚は透きとおるほどの青白さで、手足もふっくらして小さく、湖水のように深く澄んだ大きい眼が、いつも夢みるように、うっとり遠くを眺めていて、あの村では皆が不思議がるほどの気高い娘でした。
原文: 私だって思っていたのだ。
私だって思っていたのだ。
原文: 町へ出たとき、何か白絹でも、こっそり買って来てやろうと思っていたのだ。
町へ出たとき、何か白絹でも、こっそり買ってきてやろうと思っていたのだ。
原文: ああ、もう、わからなくなりました。
ああ、もう、わからなくなりました。
原文: 私は何を言っているのだ。
私は何を言っているのだ。
原文: そうだ、私は口惜しいのです。
そうだ、私は悔しいのです。
原文: なんのわけだか、わからない。
何のわけだか、わからない。
原文: 地団駄踏むほど無念なのです。
地団駄を踏むほど悔しくてたまらないのです。
原文: あの人が若いなら、私だって若い。
あの人が若いなら、私だって若い。
原文: 私は才能ある、家も畠もある立派な青年です。
私は才能もある、家も畑もある立派な青年です。
原文: それでも私は、あの人のために私の特権全部を捨てて来たのです。
それでも私は、あの人のために私の特権を全部捨ててきたのです。
原文: だまされた。
だまされた。
原文: あの人は、嘘つきだ。
あの人は、嘘つきだ。
原文: 旦那さま。
旦那さま。
原文: あの人は、私の女をとったのだ。
あの人は、私の女をとったのだ。
原文: いや、ちがった!
いや、ちがった!
原文: あの女が、私からあの人を奪ったのだ。
あの女が、私からあの人を奪ったのだ。
原文: ああ、それもちがう。
ああ、それもちがう。
原文: 私の言うことは、みんな出鱈目だ。
私の言うことは、みんなでたらめだ。
原文: 一言も信じないで下さい。
一言も信じないでください。
原文: わからなくなりました。
わからなくなりました。
原文: ごめん下さいまし。
ごめんなさい。
原文: ついつい根も葉も無いことを申しました。
つい根も葉も無いことを申しました。
原文: そんな浅墓な事実なぞ、みじんも無いのです。
そんな浅はかな事実など、みじんも無いのです。
原文: 醜いことを口走りました。
醜いことを口走りました。
原文: だけれども、私は、口惜しいのです。
だけれども、私は、悔しいのです。
原文: 胸を掻きむしりたいほど、口惜しかったのです。
胸を掻きむしりたいほど、悔しかったのです。
原文: なんのわけだか、わかりませぬ。
何のわけだか、わかりません。
原文: ああ、ジェラシィというのは、なんてやりきれない悪徳だ。
ああ、ジェラシィというのは、なんてやりきれない悪徳だ。
原文: 私がこんなに、命を捨てるほどの思いであの人を慕い、きょうまでつき随って来たのに、私には一つの優しい言葉も下さらず、かえってあんな賤しい百姓女の身の上を、御頬を染めて迄かばっておやりなさった。
私がこんなに、命を捨てるほどの思いであの人を慕い、今日までつき従ってきたのに、私には一つの優しい言葉もくださらず、かえってあんな卑しい百姓女の身の上を、頬を染めてまでかばってやりなさった。
原文: ああ、やっぱり、あの人はだらしない。
ああ、やっぱり、あの人はだらしない。
原文: ヤキがまわった。
ヤキがまわった。
原文: もう、あの人には見込みがない。
もう、あの人には見込みがない。
原文: 凡夫だ。
凡人だ。
原文: ただの人だ。
ただの人だ。
原文: 死んだって惜しくはない。
死んだって惜しくはない。
原文: そう思ったら私は、ふいと恐ろしいことを考えるようになりました。
そう思ったら私は、ふいに恐ろしいことを考えるようになりました。
原文: 悪魔に魅こまれたのかも知れませぬ。
悪魔に魅入られたのかもしれません。
原文: そのとき以来、あの人を、いっそ私の手で殺してあげようと思いました。
そのとき以来、あの人を、いっそ私の手で殺してあげようと思いました。
原文: いずれは殺されるお方にちがいない。
いずれは殺されるお方に違いない。
原文: またあの人だって、無理に自分を殺させるように仕向けているみたいな様子が、ちらちら見える。
またあの人だって、無理に自分を殺させるように仕向けているみたいな様子が、ちらちら見える。
原文: 私の手で殺してあげる。
私の手で殺してあげる。
原文: 他人の手で殺させたくはない。
他人の手で殺させたくはない。
原文: あの人を殺して私も死ぬ。
あの人を殺して私も死ぬ。
原文: 旦那さま、泣いたりしてお恥ずかしゅう思います。
旦那さま、泣いたりしてお恥ずかしく思います。
原文: はい、もう泣きませぬ。
はい、もう泣きません。
原文: はい、はい。
はい、はい。
原文: 落ちついて申し上げます。
落ち着いて申し上げます。
原文: そのあくる日、私たちは愈愈あこがれのエルサレムに向い、出発いたしました。
その翌日、私たちはいよいよあこがれのエルサレムに向かって、出発しました。
原文: 大群集、老いも若きも、あの人のあとにつき従い、やがて、エルサレムの宮が間近になったころ、あの人は、一匹の老いぼれた驢馬を道ばたで見つけて、微笑してそれに打ち乗り、これこそは、「シオンの娘よ、懼るな、視よ、なんじの王は驢馬の子に乗りて来り給う」
大群衆が、老いも若きも、あの人のあとにつき従い、やがて、エルサレムの宮が間近になったころ、あの人は、一匹の老いぼれた驢馬を道ばたで見つけて、微笑してそれに乗り、これこそは、「シオンの娘よ、恐れるな、見よ、あなたの王は驢馬の子に乗って来られる」
原文: と予言されてある通りの形なのだと、弟子たちに晴れがましい顔をして教えましたが、私ひとりは、なんだか浮かぬ気持でありました。
と予言されているとおりの姿なのだと、弟子たちに誇らしげな顔をして教えましたが、私ひとりは、なんだか浮かない気持でした。
原文: なんという、あわれな姿であったでしょう。
なんという、あわれな姿だったでしょう。
原文: 待ちに待った過越の祭、エルサレム宮に乗り込む、これが、あのダビデの御子の姿であったのか。
待ちに待った過越の祭、エルサレム宮に乗り込む、これが、あのダビデの御子の姿だったのか。
原文: あの人の一生の念願とした晴れの姿は、この老いぼれた驢馬に跨り、とぼとぼ進むあわれな景観であったのか。
あの人が一生の念願とした晴れの姿は、この老いぼれた驢馬にまたがり、とぼとぼ進むあわれな眺めだったのか。
原文: 私には、もはや、憐憫以外のものは感じられなくなりました。
私には、もう、哀れみ以外のものは感じられなくなりました。
原文: 実に悲惨な、愚かしい茶番狂言を見ているような気がして、ああ、もう、この人も落目だ。
実に悲惨で愚かしい茶番狂言を見ているような気がして、ああ、もう、この人も落ち目だ。
原文: 一日生き延びれば、生き延びただけ、あさはかな醜態をさらすだけだ。
一日生き延びれば、生き延びただけ、浅はかな醜態をさらすだけだ。
原文: 花は、しぼまぬうちこそ、花である。
花は、しぼまないうちこそ、花である。
原文: 美しい間に、剪らなければならぬ。
美しいうちに、切らなければならない。
原文: あの人を、一ばん愛しているのは私だ。
あの人を、一番愛しているのは私だ。
原文: どのように人から憎まれてもいい。
どんなに人から憎まれてもいい。
原文: 一日も早くあの人を殺してあげなければならぬと、私は、いよいよ此のつらい決心を固めるだけでありました。
一日も早くあの人を殺してあげなければならないと、私は、いよいよこのつらい決心を固めるだけでした。
原文: 群集は、刻一刻とその数を増し、あの人の通る道々に、赤、青、黄、色とりどりの彼等の着物をほうり投げ、あるいは棕櫚の枝を伐って、その行く道に敷きつめてあげて、歓呼にどよめき迎えるのでした。
群衆は、刻一刻とその数を増し、あの人の通る道々に、赤、青、黄、色とりどりの自分たちの着物をほうり投げ、あるいは棕櫚の枝を切って、その行く道に敷きつめてあげて、歓呼にどよめきながら迎えるのでした。
原文: かつ前にゆき、あとに従い、右から、左から、まつわりつくようにして果ては大浪の如く、驢馬とあの人をゆさぶり、ゆさぶり、「ダビデの子にホサナ、讃むべきかな、主の御名によりて来る者、いと高き処にて、ホサナ」
前を行き、あとに従い、右から、左から、まつわりつくようにして、果ては大波のように、驢馬とあの人をゆさぶり、ゆさぶり、「ダビデの子にホサナ、ほめたたえよ、主の御名によって来る者を、いと高きところで、ホサナ」
原文: と熱狂して口々に歌うのでした。
と熱狂して口々に歌うのでした。
原文: ペテロやヨハネやバルトロマイ、そのほか全部の弟子共は、ばかなやつ、すでに天国を目のまえに見たかのように、まるで凱旋の将軍につき従っているかのように、有頂天の歓喜で互いに抱き合い、涙に濡れた接吻を交し、一徹者のペテロなど、ヨハネを抱きかかえたまま、わあわあ大声で嬉し泣きに泣き崩れていました。
ペテロやヨハネやバルトロマイ、そのほか全部の弟子ども、馬鹿な奴らは、もう天国を目の前に見たかのように、まるで凱旋する将軍につき従っているかのように、有頂天の歓喜で互いに抱き合い、涙に濡れた接吻を交わし、一徹者のペテロなど、ヨハネを抱きかかえたまま、わあわあ大声で嬉し泣きに泣き崩れていました。
原文: その有様を見ているうちに、さすがに私も、この弟子たちと一緒に艱難を冒して布教に歩いて来た、その忍苦困窮の日々を思い出し、不覚にも、目がしらが熱くなって来ました。
その有様を見ているうちに、さすがに私も、この弟子たちと一緒に苦難をおして布教に歩いてきた、その苦しさに耐えた貧しい日々を思い出し、思わず、目頭が熱くなってきました。
原文: かくしてあの人は宮に入り、驢馬から降りて、何思ったか、縄を拾い之を振りまわし、宮の境内の、両替する者の台やら、鳩売る者の腰掛けやらを打ち倒し、また、売り物に出ている牛、羊をも、その縄の鞭でもって全部、宮から追い出して、境内にいる大勢の商人たちに向い、「おまえたち、みな出て失せろ、私の父の家を、商いの家にしてはならぬ」
こうしてあの人は宮に入り、驢馬から降りて、何を思ったか、縄を拾ってそれを振りまわし、宮の境内の、両替をする者の台や、鳩を売る者の腰掛けなどを打ち倒し、また、売り物に出ている牛、羊も、その縄の鞭で全部、宮から追い出して、境内にいる大勢の商人たちに向かって、「おまえたち、みんな出て行け、私の父の家を、商いの家にしてはならない」
原文: と甲高い声で怒鳴るのでした。
と甲高い声で怒鳴るのでした。
原文: あの優しいお方が、こんな酔っぱらいのような、つまらぬ乱暴を働くとは、どうしても少し気がふれているとしか、私には思われませんでした。
あの優しいお方が、こんな酔っぱらいのような、つまらない乱暴を働くとは、どうしても少し気がふれているとしか、私には思えませんでした。
原文: 傍の人もみな驚いて、これはどうしたことですか、とあの人に訊ねると、あの人の息せき切って答えるには、「おまえたち、この宮をこわしてしまえ、私は三日の間に、また建て直してあげるから」
傍の人もみんな驚いて、これはどうしたことですか、とあの人に尋ねると、あの人が息せき切って答えるには、「おまえたち、この宮をこわしてしまえ、私は三日のうちに、また建て直してあげるから」
原文: ということだったので、さすが愚直の弟子たちも、あまりに無鉄砲なその言葉には、信じかねて、ぽかんとしてしまいました。
ということだったので、さすがに愚直な弟子たちも、あまりに無鉄砲なその言葉には、信じきれず、ぽかんとしてしまいました。
原文: けれども私は知っていました。
けれども私は知っていました。
原文: 所詮はあの人の、幼い強がりにちがいない。
結局はあの人の、幼い強がりに違いない。
原文: あの人の信仰とやらでもって、万事成らざるは無しという気概のほどを、人々に見せたかったのに違いないのです。
あの人の信仰とやらがあれば、何事も成し遂げられないことは無いという気概を、人々に見せたかったのに違いないのです。
原文: それにしても、縄の鞭を振りあげて、無力な商人を追い廻したりなんかして、なんて、まあ、けちな強がりなんでしょう。
それにしても、縄の鞭を振りあげて、無力な商人を追い回したりして、なんて、まあ、けちな強がりでしょう。
原文: あなたに出来る精一ぱいの反抗は、たったそれだけなのですか、鳩売りの腰掛けを蹴散らすだけのことなのですか、と私は憫笑しておたずねしてみたいとさえ思いました。
あなたに出来る精いっぱいの反抗は、たったそれだけなのですか、鳩売りの腰掛けを蹴散らすだけのことなのですか、と私はあわれみ笑ってお尋ねしてみたいとさえ思いました。
原文: もはやこの人は駄目なのです。
もうこの人は駄目なのです。
原文: 破れかぶれなのです。
破れかぶれなのです。
原文: 自重自愛を忘れてしまった。
自重も自愛も忘れてしまった。
原文: 自分の力では、この上もう何も出来ぬということを此の頃そろそろ知り始めた様子ゆえ、あまりボロの出ぬうちに、わざと祭司長に捕えられ、この世からおさらばしたくなって来たのでありましょう。
自分の力では、この上もう何も出来ないということを最近そろそろ知り始めた様子なので、あまりぼろが出ないうちに、わざと祭司長に捕えられ、この世からおさらばしたくなってきたのでしょう。
原文: 私は、それを思った時、はっきりあの人を諦めることが出来ました。
私は、それを思ったとき、はっきりあの人を諦めることが出来ました。
原文: そうして、あんな気取り屋の坊ちゃんを、これまで一途に愛して来た私自身の愚かさをも、容易に笑うことが出来ました。
そうして、あんな気取り屋の坊ちゃんを、これまで一途に愛してきた私自身の愚かさも、たやすく笑うことが出来ました。
原文: やがてあの人は宮に集る大群の民を前にして、これまで述べた言葉のうちで一ばんひどい、無礼傲慢の暴言を、滅茶苦茶に、わめき散らしてしまったのです。
やがてあの人は宮に集まる大勢の民を前にして、これまで述べた言葉のうちで一番ひどい、無礼で傲慢な暴言を、めちゃくちゃに、わめき散らしてしまったのです。
原文: 左様、たしかに、やけくそです。
そう、たしかに、やけくそです。
原文: 私はその姿を薄汚くさえ思いました。
私はその姿を薄汚くさえ思いました。
原文: 殺されたがって、うずうずしていやがる。
殺されたがって、うずうずしていやがる。
原文: 「禍害なるかな、偽善なる学者、パリサイ人よ、汝らは酒杯と皿との外を潔くす、然れども内は貪慾と放縦とにて満つるなり。
「わざわいだ、偽善の学者、パリサイ人たちよ、おまえたちは杯と皿の外側を清めるが、内側は貪欲と放縦で満ちている。
原文: 禍害なるかな、偽善なる学者、パリサイ人よ、汝らは白く塗りたる墓に似たり、外は美しく見ゆれども、内は死人の骨とさまざまの穢とに満つ。
わざわいだ、偽善の学者、パリサイ人たちよ、おまえたちは白く塗った墓に似ている、外は美しく見えるけれども、内側は死人の骨とさまざまの汚れで満ちている。
原文: 斯のごとく汝らも外は正しく見ゆれども、内は偽善と不法とにて満つるなり。
このようにおまえたちも外は正しく見えるけれども、内側は偽善と不法で満ちているのだ。
原文: 蛇よ、蝮の裔よ、なんじら争で、ゲヘナの刑罰を避け得んや。
蛇よ、蝮の子孫よ、おまえたちがどうしてゲヘナの刑罰を逃れられよう。
原文: ああエルサレム、エルサレム、予言者たちを殺し、遣されたる人々を石にて撃つ者よ、牝鶏のその雛を翼の下に集むるごとく、我なんじの子らを集めんと為しこと幾度ぞや、然れど、汝らは好まざりき」
ああエルサレム、エルサレム、予言者たちを殺し、遣わされた人々を石で撃つ者よ、めんどりがその雛を翼の下に集めるように、私がおまえの子らを集めようとしたことが幾度あったか、それなのに、おまえたちは望まなかった」
原文: 馬鹿なことです。
馬鹿なことです。
原文: 噴飯ものだ。
笑わせる。
原文: 口真似するのさえ、いまわしい。
口真似するのさえ、忌まわしい。
原文: たいへんな事を言う奴だ。
とんでもないことを言う奴だ。
原文: あの人は、狂ったのです。
あの人は、狂ったのです。
原文: まだそのほかに、饑饉があるの、地震が起るの、星は空より堕ち、月は光を放たず、地に満つ人の死骸のまわりに、それをついばむ鷲が集るの、人はそのとき哀哭、切歯することがあろうだの、実に、とんでも無い暴言を口から出まかせに言い放ったのです。
まだそのほかに、飢饉があるだの、地震が起こるだの、星は空から落ち、月は光を放たず、地に満ちる人の死骸のまわりに、それをついばむ鷲が集まるだの、人はそのとき嘆き、歯ぎしりをするだろうだの、実に、とんでもない暴言を口から出まかせに言い放ったのです。
原文: なんという思慮のないことを、言うのでしょう。
なんという思慮のないことを、言うのでしょう。
原文: 思い上りも甚しい。
思い上がりもはなはだしい。
原文: ばかだ。
馬鹿だ。
原文: 身のほど知らぬ。
身のほど知らずだ。
原文: いい気なものだ。
いい気なものだ。
原文: もはや、あの人の罪は、まぬかれぬ。
もう、あの人の罪は、免れない。
原文: 必ず十字架。
必ず十字架。
原文: それにきまった。
それに決まった。
原文: 祭司長や民の長老たちが、大祭司カヤパの中庭にこっそり集って、あの人を殺すことを決議したとか、私はそれを、きのう町の物売りから聞きました。
祭司長や民の長老たちが、大祭司カヤパの中庭にこっそり集まって、あの人を殺すことを決議したとか、私はそれを、きのう町の物売りから聞きました。
原文: もし群集の目前であの人を捕えたならば、あるいは群集が暴動を起すかも知れないから、あの人と弟子たちとだけの居るところを見つけて役所に知らせてくれた者には銀三十を与えるということをも、耳にしました。
もし群衆の目の前であの人を捕えたなら、あるいは群衆が暴動を起こすかもしれないから、あの人と弟子たちだけがいるところを見つけて役所に知らせてくれた者には銀三十を与えるということも、耳にしました。
原文: もはや猶予の時ではない。
もう猶予している時ではない。
原文: あの人は、どうせ死ぬのだ。
あの人は、どうせ死ぬのだ。
原文: ほかの人の手で、下役たちに引き渡すよりは、私が、それを為そう。
ほかの人の手で、下役たちに引き渡されるよりは、私が、それをやろう。
原文: きょうまで私の、あの人に捧げた一すじなる愛情の、これが最後の挨拶だ。
今日まで私が、あの人に捧げたひとすじの愛情の、これが最後の挨拶だ。
原文: 私の義務です。
私の義務です。
原文: 私があの人を売ってやる。
私があの人を売ってやる。
原文: つらい立場だ。
つらい立場だ。
原文: 誰がこの私のひたむきの愛の行為を、正当に理解してくれることか。
誰がこの私のひたむきな愛の行為を、正当に理解してくれるだろうか。
原文: いや、誰に理解されなくてもいいのだ。
いや、誰に理解されなくてもいいのだ。
原文: 私の愛は純粋の愛だ。
私の愛は純粋な愛だ。
原文: 人に理解してもらう為の愛では無い。
人に理解してもらうための愛ではない。
原文: そんなさもしい愛では無いのだ。
そんな卑しい愛ではないのだ。
原文: 私は永遠に、人の憎しみを買うだろう。
私は永遠に、人の憎しみを買うだろう。
原文: けれども、この純粋の愛の貪慾のまえには、どんな刑罰も、どんな地獄の業火も問題でない。
けれども、この純粋な愛の貪欲の前では、どんな刑罰も、どんな地獄の業火も問題ではない。
原文: 私は私の生き方を生き抜く。
私は私の生き方を生き抜く。
原文: 身震いするほどに固く決意しました。
身震いするほど固く決意しました。
原文: 私は、ひそかによき折を、うかがっていたのであります。
私は、ひそかによい折を、うかがっていたのです。
原文: いよいよ、お祭りの当日になりました。
いよいよ、お祭りの当日になりました。
原文: 私たち師弟十三人は丘の上の古い料理屋の、薄暗い二階座敷を借りてお祭りの宴会を開くことにいたしました。
私たち師弟十三人は丘の上の古い料理屋の、薄暗い二階座敷を借りてお祭りの宴会を開くことにしました。
原文: みんな食卓に着いて、いざお祭りの夕餐を始めようとしたとき、あの人は、つと立ち上り、黙って上衣を脱いだので、私たちは一体なにをお始めなさるのだろうと不審に思って見ているうちに、あの人は卓の上の水甕を手にとり、その水甕の水を、部屋の隅に在った小さい盥に注ぎ入れ、それから純白の手巾をご自身の腰にまとい、盥の水で弟子たちの足を順々に洗って下さったのであります。
みんな食卓に着いて、さあお祭りの夕食を始めようとしたとき、あの人は、すっと立ち上がり、黙って上着を脱いだので、私たちはいったい何をお始めになるのだろうと不思議に思って見ているうちに、あの人は卓の上の水がめを手に取り、その水がめの水を、部屋の隅にあった小さいたらいに注ぎ入れ、それから純白の手ぬぐいをご自身の腰にまとい、たらいの水で弟子たちの足を順々に洗ってくださったのです。
原文: 弟子たちには、その理由がわからず、度を失って、うろうろするばかりでありましたけれど、私には何やら、あの人の秘めた思いがわかるような気持でありました。
弟子たちには、その理由がわからず、うろたえて、うろうろするばかりでしたけれど、私には何やら、あの人の秘めた思いがわかるような気がしました。
原文: あの人は、寂しいのだ。
あの人は、寂しいのだ。
原文: 極度に気が弱って、いまは、無智な頑迷の弟子たちにさえ縋りつきたい気持になっているのにちがいない。
極度に気が弱って、いまは、無知で頑固な弟子たちにさえすがりつきたい気持になっているに違いない。
原文: 可哀想に。
かわいそうに。
原文: あの人は自分の逃れ難い運命を知っていたのだ。
あの人は自分の逃れ難い運命を知っていたのだ。
原文: その有様を見ているうちに、私は、突然、強力な嗚咽が喉につき上げて来るのを覚えた。
その有様を見ているうちに、私は、突然、激しい嗚咽が喉に突き上げてくるのを覚えた。
原文: 矢庭にあの人を抱きしめ、共に泣きたく思いました。
いきなりあの人を抱きしめ、一緒に泣きたいと思いました。
原文: おう可哀想に、あなたを罪してなるものか。
ああ、かわいそうに、あなたを罪人にしてなるものか。
原文: あなたは、いつでも優しかった。
あなたは、いつでも優しかった。
原文: あなたは、いつでも正しかった。
あなたは、いつでも正しかった。
原文: あなたは、いつでも貧しい者の味方だった。
あなたは、いつでも貧しい者の味方だった。
原文: そうしてあなたは、いつでも光るばかりに美しかった。
そうしてあなたは、いつでも光るばかりに美しかった。
原文: あなたは、まさしく神の御子だ。
あなたは、まさしく神の御子だ。
原文: 私はそれを知っています。
私はそれを知っています。
原文: おゆるし下さい。
おゆるしください。
原文: 私はあなたを売ろうとして此の二、三日、機会をねらっていたのです。
私はあなたを売ろうとしてこの二、三日、機会をねらっていたのです。
原文: もう今はいやだ。
もう今はいやだ。
原文: あなたを売るなんて、なんという私は無法なことを考えていたのでしょう。
あなたを売るなんて、なんという無茶なことを私は考えていたのでしょう。
原文: 御安心なさいまし。
ご安心ください。
原文: もう今からは、五百の役人、千の兵隊が来たとても、あなたのおからだに指一本ふれさせることは無い。
もう今からは、五百の役人、千の兵隊が来たとしても、あなたのおからだに指一本ふれさせることはない。
原文: あなたは、いま、つけねらわれているのです。
あなたは、いま、つけねらわれているのです。
原文: 危い。
危ない。
原文: いますぐ、ここから逃げましょう。
いますぐ、ここから逃げましょう。
原文: ペテロも来い、ヤコブも来い、ヨハネも来い、みんな来い。
ペテロも来い、ヤコブも来い、ヨハネも来い、みんな来い。
原文: われらの優しい主を護り、一生永く暮して行こう、と心の底からの愛の言葉が、口に出しては言えなかったけれど、胸に沸きかえって居りました。
私たちの優しい主を守り、一生長く暮していこう、と心の底からの愛の言葉が、口に出しては言えなかったけれど、胸に沸きかえっていました。
原文: きょうまで感じたことの無かった一種崇高な霊感に打たれ、熱いお詫びの涙が気持よく頬を伝って流れて、やがてあの人は私の足をも静かに、ていねいに洗って下され、腰にまとって在った手巾で柔かく拭いて、ああ、そのときの感触は。
今日まで感じたことの無かった一種崇高な霊感に打たれ、熱いお詫びの涙が気持よく頬を伝って流れて、やがてあの人は私の足も静かに、ていねいに洗ってくださり、腰にまとっていた手ぬぐいで柔らかく拭いて、ああ、そのときの感触は。
原文: そうだ、私はあのとき、天国を見たのかも知れない。
そうだ、私はあのとき、天国を見たのかもしれない。
原文: 私の次には、ピリポの足を、その次にはアンデレの足を、そうして、次に、ペテロの足を洗って下さる順番になったのですが、ペテロは、あのように愚かな正直者でありますから、不審の気持を隠して置くことが出来ず、主よ、あなたはどうして私の足などお洗いになるのです。
私の次には、ピリポの足を、その次にはアンデレの足を、そうして、次に、ペテロの足を洗ってくださる順番になったのですが、ペテロは、あのように愚かな正直者ですから、不思議に思う気持を隠しておくことが出来ず、主よ、あなたはどうして私の足などお洗いになるのです。
原文: と多少不満げに口を尖らして尋ねました。
と多少不満げに口をとがらせて尋ねました。
原文: あの人は、「ああ、私のすることは、おまえには、わかるまい。あとで、思い当ることもあるだろう」
あの人は、「ああ、私のすることは、おまえには、わからないだろう。あとで、思い当たることもあるだろう」
原文: と穏かに言いさとし、ペテロの足もとにしゃがんだのだが、ペテロは尚も頑強にそれを拒んで、いいえ、いけません。
と穏やかに言い聞かせ、ペテロの足もとにしゃがんだのですが、ペテロはなおも頑強にそれを拒んで、いいえ、いけません。
原文: 永遠に私の足などお洗いになってはなりませぬ。
永遠に私の足などお洗いになってはなりません。
原文: もったいない、とその足をひっこめて言い張りました。
もったいない、とその足をひっこめて言い張りました。
原文: すると、あの人は少し声を張り上げて、「私がもし、おまえの足を洗わないなら、おまえと私とは、もう何の関係も無いことになるのだ」
すると、あの人は少し声を張り上げて、「私がもし、おまえの足を洗わないなら、おまえと私とは、もう何の関係も無いことになるのだ」
原文: と随分、思い切った強いことを言いましたので、ペテロは大あわてにあわて、ああ、ごめんなさい、それならば、私の足だけでなく、手も頭も思う存分に洗って下さい、と平身低頭して頼みいりましたので、私は思わず噴き出してしまい、ほかの弟子たちも、そっと微笑み、なんだか部屋が明るくなったようでした。
と、ずいぶん思い切った強いことを言いましたので、ペテロは大あわてにあわて、ああ、ごめんなさい、それならば、私の足だけでなく、手も頭も思う存分に洗ってください、と平身低頭して頼み込みましたので、私は思わず噴き出してしまい、ほかの弟子たちも、そっと微笑み、なんだか部屋が明るくなったようでした。
原文: あの人も少し笑いながら、「ペテロよ、足だけ洗えば、もうそれで、おまえの全身は潔いのだ、ああ、おまえだけでなく、ヤコブも、ヨハネも、みんな汚れの無い、潔いからだになったのだ。けれども」
あの人も少し笑いながら、「ペテロよ、足だけ洗えば、もうそれで、おまえの全身は清いのだ、ああ、おまえだけでなく、ヤコブも、ヨハネも、みんな汚れの無い、清いからだになったのだ。けれども」
原文: と言いかけてすっと腰を伸ばし、瞬時、苦痛に耐えかねるような、とても悲しい眼つきをなされ、すぐにその眼をぎゅっと固くつぶり、つぶったままで言いました。
と言いかけてすっと腰を伸ばし、一瞬、苦痛に耐えかねるような、とても悲しい眼つきをなさり、すぐにその眼をぎゅっと固くつぶり、つぶったままで言いました。
原文: 「みんなが潔ければいいのだが」
「みんなが清ければいいのだが」
原文: はッと思った。
はっと思った。
原文: やられた!
やられた!
原文: 私のことを言っているのだ。
私のことを言っているのだ。
原文: 私があの人を売ろうとたくらんでいた寸刻以前までの暗い気持を見抜いていたのだ。
私があの人を売ろうとたくらんでいた、ほんの少し前までの暗い気持を見抜いていたのだ。
原文: けれども、その時は、ちがっていたのだ。
けれども、そのときは、ちがっていたのだ。
原文: 断然、私は、ちがっていたのだ!
断然、私は、ちがっていたのだ!
原文: 私は潔くなっていたのだ。
私は清くなっていたのだ。
原文: 私の心は変っていたのだ。
私の心は変わっていたのだ。
原文: ああ、あの人はそれを知らない。
ああ、あの人はそれを知らない。
原文: それを知らない。
それを知らない。
原文: ちがう!
ちがう!
原文: ちがいます、と喉まで出かかった絶叫を、私の弱い卑屈な心が、唾を呑みこむように、呑みくだしてしまった。
ちがいます、と喉まで出かかった絶叫を、私の弱い卑屈な心が、唾を飲み込むように、飲みくだしてしまった。
原文: 言えない。
言えない。
原文: 何も言えない。
何も言えない。
原文: あの人からそう言われてみれば、私はやはり潔くなっていないのかも知れないと気弱く肯定する僻んだ気持が頭をもたげ、とみるみるその卑屈の反省が、醜く、黒くふくれあがり、私の五臓六腑を駈けめぐって、逆にむらむら憤怒の念が炎を挙げて噴出したのだ。
あの人からそう言われてみれば、私はやはり清くなっていないのかもしれないと気弱く認めてしまうひがんだ気持が頭をもたげ、と思うまにみるみるその卑屈な反省が、醜く、黒くふくれあがり、私の五臓六腑を駆けめぐって、逆にむらむらと憤怒の念が炎を上げて噴き出したのだ。
原文: ええっ、だめだ。
ええっ、だめだ。
原文: 私は、だめだ。
私は、だめだ。
原文: あの人に心の底から、きらわれている。
あの人に心の底から、きらわれている。
原文: 売ろう。
売ろう。
原文: 売ろう。
売ろう。
原文: あの人を、殺そう。
あの人を、殺そう。
原文: そうして私も共に死ぬのだ、と前からの決意に再び眼覚め、私はいまは完全に、復讐の鬼になりました。
そうして私も一緒に死ぬのだ、と前からの決意に再び目覚め、私はいまは完全に、復讐の鬼になりました。
原文: あの人は、私の内心の、ふたたび三たび、どんでん返して変化した大動乱には、お気づきなさることの無かった様子で、やがて上衣をまとい服装を正し、ゆったりと席に坐り、実に蒼ざめた顔をして、「私がおまえたちの足を洗ってやったわけを知っているか。おまえたちは私を主と称え、また師と称えているようだが、それは間違いないことだ。私はおまえたちの主、または師なのに、それでもなお、おまえたちの足を洗ってやったのだから、おまえたちもこれからは互いに仲好く足を洗い合ってやるように心がけなければなるまい。私は、おまえたちと、いつ迄も一緒にいることが出来ないかも知れぬから、いま、この機会に、おまえたちに模範を示してやったのだ。私のやったとおりに、おまえたちも行うように心がけなければならぬ。師は必ず弟子より優れたものなのだから、よく私の言うことを聞いて忘れぬようになさい」
あの人は、私の内心が、二度も三度も、どんでん返しのように変化した大動乱には、お気づきになることも無かった様子で、やがて上着をまとい服装を整え、ゆったりと席に座り、実に青ざめた顔をして、「私がおまえたちの足を洗ってやったわけを知っているか。おまえたちは私を主と呼び、また師と呼んでいるようだが、それは間違いのないことだ。私はおまえたちの主、また師なのに、それでもなお、おまえたちの足を洗ってやったのだから、おまえたちもこれからは互いに仲良く足を洗い合ってやるように心がけなければならないだろう。私は、おまえたちと、いつまでも一緒にいることが出来ないかもしれないから、いま、この機会に、おまえたちに模範を示してやったのだ。私がやったとおりに、おまえたちも行うように心がけなければならない。師は必ず弟子より優れたものなのだから、よく私の言うことを聞いて忘れないようになさい」
原文: ひどく物憂そうな口調で言って、音無しく食事を始め、ふっと、「おまえたちのうちの、一人が、私を売る」
ひどく物憂そうな口調で言って、静かに食事を始め、ふっと、「おまえたちのうちの、一人が、私を売る」
原文: と顔を伏せ、呻くような、歔欷なさるような苦しげの声で言い出したので、弟子たちすべて、のけぞらんばかりに驚き、一斉に席を蹴って立ち、あの人のまわりに集っておのおの、主よ、私のことですか、主よ、それは私のことですかと、罵り騒ぎ、あの人は死ぬる人のように幽かに首を振り、「私がいま、その人に一つまみのパンを与えます。その人は、ずいぶん不仕合せな男なのです。ほんとうに、その人は、生れて来なかったほうが、よかった」
と顔を伏せ、うめくような、泣きむせぶような苦しげな声で言い出したので、弟子たちは全員、のけぞらんばかりに驚き、一斉に席を蹴って立ち、あの人のまわりに集まってそれぞれ、主よ、私のことですか、主よ、それは私のことですかと、口々に騒ぎ立て、あの人は死んでいく人のようにかすかに首を振り、「私がいま、その人に一つまみのパンを与えます。その人は、ずいぶん不幸せな男なのです。ほんとうに、その人は、生まれて来なかったほうが、よかった」
原文: と意外にはっきりした語調で言って、一つまみのパンをとり腕をのばし、あやまたず私の口にひたと押し当てました。
と意外にはっきりした語調で言って、一つまみのパンを取り腕をのばし、狙いを外さず私の口にぴたりと押し当てました。
原文: 私も、もうすでに度胸がついていたのだ。
私も、もうすでに度胸がついていたのだ。
原文: 恥じるよりは憎んだ。
恥じるよりは憎んだ。
原文: あの人の今更ながらの意地悪さを憎んだ。
あの人の今さらながらの意地悪さを憎んだ。
原文: このように弟子たち皆の前で公然と私を辱かしめるのが、あの人の之までの仕来りなのだ。
このように弟子たち皆の前で公然と私に恥をかかせるのが、あの人のこれまでのやり方なのだ。
原文: 火と水と。
火と水と。
原文: 永遠に解け合う事の無い宿命が、私とあいつとの間に在るのだ。
永遠に溶け合うことの無い宿命が、私とあいつとの間にあるのだ。
原文: 犬か猫に与えるように、一つまみのパン屑を私の口に押し入れて、それがあいつのせめてもの腹いせだったのか。
犬か猫に与えるように、一つまみのパン屑を私の口に押し入れて、それがあいつのせめてもの腹いせだったのか。
原文: ははん。
ははん。
原文: ばかな奴だ。
馬鹿な奴だ。
原文: 旦那さま、あいつは私に、おまえの為すことを速かに為せと言いました。
旦那さま、あいつは私に、おまえのすることをすみやかにしろと言いました。
原文: 私はすぐに料亭から走り出て、夕闇の道をひた走りに走り、ただいまここに参りました。
私はすぐに料理屋から走り出て、夕闇の道をひた走りに走り、たったいまここに参りました。
原文: そうして急ぎ、このとおり訴え申し上げました。
そうして急いで、このとおり訴え申し上げました。
原文: さあ、あの人を罰して下さい。
さあ、あの人を罰してください。
原文: どうとも勝手に、罰して下さい。
どうとでも勝手に、罰してください。
原文: 捕えて、棒で殴って素裸にして殺すがよい。
捕えて、棒で殴って素っ裸にして殺すがいい。
原文: もう、もう私は我慢ならない。
もう、もう私は我慢ならない。
原文: あれは、いやな奴です。
あれは、いやな奴です。
原文: ひどい人だ。
ひどい人だ。
原文: 私を今まで、あんなにいじめた。
私を今まで、あんなにいじめた。
原文: はははは、ちきしょうめ。
はははは、ちくしょうめ。
原文: あの人はいま、ケデロンの小川の彼方、ゲッセマネの園にいます。
あの人はいま、ケデロンの小川の向こう、ゲッセマネの園にいます。
原文: もうはや、あの二階座敷の夕餐もすみ、弟子たちと共にゲッセマネの園に行き、いまごろは、きっと天へお祈りを捧げている時刻です。
もうとっくに、あの二階座敷の夕食もすみ、弟子たちと一緒にゲッセマネの園に行き、いまごろは、きっと天へ祈りを捧げている時刻です。
原文: 弟子たちのほかには誰も居りません。
弟子たちのほかには誰もいません。
原文: 今なら難なくあの人を捕えることが出来ます。
今なら難なくあの人を捕えることが出来ます。
原文: ああ、小鳥が啼いて、うるさい。
ああ、小鳥が鳴いて、うるさい。
原文: 今夜はどうしてこんなに夜鳥の声が耳につくのでしょう。
今夜はどうしてこんなに夜鳥の声が耳につくのでしょう。
原文: 私がここへ駈け込む途中の森でも、小鳥がピイチク啼いて居りました。
私がここへ駆け込む途中の森でも、小鳥がピイチク鳴いていました。
原文: 夜に囀る小鳥は、めずらしい。
夜にさえずる小鳥は、めずらしい。
原文: 私は子供のような好奇心でもって、その小鳥の正体を一目見たいと思いました。
私は子供のような好奇心で、その小鳥の正体を一目見たいと思いました。
原文: 立ちどまって首をかしげ、樹々の梢をすかして見ました。
立ちどまって首をかしげ、木々の梢を透かして見ました。
原文: ああ、私はつまらないことを言っています。
ああ、私はつまらないことを言っています。
原文: ごめん下さい。
ごめんなさい。
原文: 旦那さま、お仕度は出来ましたか。
旦那さま、お支度は出来ましたか。
原文: ああ楽しい。
ああ楽しい。
原文: いい気持。
いい気持。
原文: 今夜は私にとっても最後の夜だ。
今夜は私にとっても最後の夜だ。
原文: 旦那さま、旦那さま、今夜これから私とあの人と立派に肩を接して立ち並ぶ光景を、よく見て置いて下さいまし。
旦那さま、旦那さま、今夜これから私とあの人が立派に肩を接して立ち並ぶ光景を、よく見ておいてください。
原文: 私は今夜あの人と、ちゃんと肩を並べて立ってみせます。
私は今夜あの人と、ちゃんと肩を並べて立ってみせます。
原文: あの人を怖れることは無いんだ。
あの人を怖れることは無いんだ。
原文: 卑下することは無いんだ。
卑下することは無いんだ。
原文: 私はあの人と同じ年だ。
私はあの人と同じ年だ。
原文: 同じ、すぐれた若いものだ。
同じ、すぐれた若者だ。
原文: ああ、小鳥の声が、うるさい。
ああ、小鳥の声が、うるさい。
原文: 耳についてうるさい。
耳についてうるさい。
原文: どうして、こんなに小鳥が騒ぎまわっているのだろう。
どうして、こんなに小鳥が騒ぎまわっているのだろう。
原文: ピイチクピイチク、何を騒いでいるのでしょう。
ピイチクピイチク、何を騒いでいるのでしょう。
原文: おや、そのお金は?
おや、そのお金は?
原文: 私に下さるのですか、あの、私に、三十銀。
私にくださるのですか、あの、私に、三十銀。
原文: なる程、はははは。
なるほど、はははは。
原文: いや、お断り申しましょう。
いや、お断りしましょう。
原文: 殴られぬうちに、その金ひっこめたらいいでしょう。
殴られないうちに、その金をひっこめたらいいでしょう。
原文: 金が欲しくて訴え出たのでは無いんだ。
金が欲しくて訴え出たのではないんだ。
原文: ひっこめろ!
ひっこめろ!
原文: いいえ、ごめんなさい、いただきましょう。
いいえ、ごめんなさい、いただきましょう。
原文: そうだ、私は商人だったのだ。
そうだ、私は商人だったのだ。
原文: 金銭ゆえに、私は優美なあの人から、いつも軽蔑されて来たのだっけ。
金銭のせいで、私は優美なあの人から、いつも軽蔑されてきたのだった。
原文: いただきましょう。
いただきましょう。
原文: 私は所詮、商人だ。
私は結局、商人だ。
原文: いやしめられている金銭で、あの人に見事、復讐してやるのだ。
さげすまれている金銭で、あの人に見事、復讐してやるのだ。
原文: これが私に、一ばんふさわしい復讐の手段だ。
これが私に、一番ふさわしい復讐の手段だ。
原文: ざまあみろ!
ざまあみろ!
原文: 銀三十で、あいつは売られる。
銀三十で、あいつは売られる。
原文: 私は、ちっとも泣いてやしない。
私は、ちっとも泣いてなんかいない。
原文: 私は、あの人を愛していない。
私は、あの人を愛していない。
原文: はじめから、みじんも愛していなかった。
はじめから、みじんも愛していなかった。
原文: はい、旦那さま。
はい、旦那さま。
原文: 私は嘘ばかり申し上げました。
私は嘘ばかり申し上げました。
原文: 私は、金が欲しさにあの人について歩いていたのです。
私は、金が欲しくてあの人について歩いていたのです。
原文: おお、それにちがい無い。
おお、それに違いない。
原文: あの人が、ちっとも私に儲けさせてくれないと今夜見極めがついたから、そこは商人、素速く寝返りを打ったのだ。
あの人が、ちっとも私に儲けさせてくれないと今夜見極めがついたから、そこは商人、素早く寝返りを打ったのだ。
原文: 金。
金。
原文: 世の中は金だけだ。
世の中は金だけだ。
原文: 銀三十、なんと素晴らしい。
銀三十、なんと素晴らしい。
原文: いただきましょう。
いただきましょう。
原文: 私は、けちな商人です。
私は、けちな商人です。
原文: 欲しくてならぬ。
欲しくてたまらない。
原文: はい、有難う存じます。
はい、ありがとうございます。
原文: はい、はい。
はい、はい。
原文: 申しおくれました。
申しおくれました。
原文: 私の名は、商人のユダ。
私の名は、商人のユダ。
原文: へっへ。
へっへ。
原文: イスカリオテのユダ。
イスカリオテのユダ。