牛肉と馬鈴薯 小学生向け
国木田独歩(くにきだどっぽ)・1970年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23)
明治倶楽部(めいじクラブ)という集まりの場所が、芝区(しばく)桜田本郷町のお堀のそばに、洋風(ようふう)づくりのあまり立派ではないけれど、それでもかなりしっかりした建物としてあった。建物は今もあるが、持ち主が変わって、今では明治倶楽部そのものはなくなってしまった。
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明治倶楽部とて芝区桜田本郷町のお堀辺に西洋作の余り立派ではないが、それでも可なりの建物があった、建物は今でもある、しかし持主が代って、今では明治倶楽部その者はなくなって了った。
この倶楽部がまだにぎわっていた頃の話だ。ある年の冬の夜、めずらしく二階の食堂に明かりがついていて、ときどき大きな笑い声が外に聞こえていた。
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この倶楽部が未だ繁盛していた頃のことである、或年の冬の夜、珍らしくも二階の食堂に燈火が点いていて、時々高く笑う声が外面に漏れていた。
もともとこの倶楽部は夜に人が集まることは少なく、ストーブの煙はいつも昼間しか立ちのぼっていなかった。
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元来この倶楽部は夜分人の集っていることは少ないので、ストーブの煙は平常も昼間ばかり立ちのぼっているのである。
ところが、八時を過ぎても、人々はなかなか帰る様子がなかった。
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然るに八時は先刻打っても人々は未だなかなか散じそうな様子も見えない。
人力車(じんりきしゃ)が六台、玄関の横に並んでいたが、車を引く男たちはみんな台所の方でさいころ遊びの最中らしかった。
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人力車が六台玄関の横に並んでいたが、車夫どもは皆な勝手の方で例の一六勝負最中らしい。
そこへ一人の男が、コートのえりを立てて帽子を深くかぶり、真っ暗な中からひょっこり現れて、いきなり乱暴に呼び鈴を押した。
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すると一人の男、外套の襟を立てて中折帽を面深に被ったのが、真暗な中からひょっくり現われて、いきなり手荒く呼鈴を押した。
中から扉が開くと、
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内から戸が開くと、
「竹内さんはいらっしゃいますか」
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「竹内君は来てお出ですかね」
と、低くて落ち着いた声でたずねた。
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と低い声の沈重いた調子で訊ねた。
「はい、いらっしゃいます。あなたは?」
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「ハア、お出で御座います、貴様は?」
と、片目が細い顔の、和服を着た受付係の人が丁寧に言った。
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と片眼の細顔の、和服を着た受付が丁寧に言った。
「これを」
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「これを」
と差し出した名刺には小さな文字で「岡本誠夫(おかもとせいふ)」とあるだけで、肩書きは何もなかった。
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と出した名刺には五号活字で岡本誠夫としてあるばかり、何の肩書もない。
受付係はそれを受け取って急いで二階へ上がっていったが、すぐに下りてきて、
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受付はそれを受取り急いで二階に上って去ったが間もなく降りて来て
「どうぞこちらへ」
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「どうぞ此方へ」
と案内した。二階へ上がると、ストーブをさかんに燃やしていたので、むっとするほど暖かかった。
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と案内した、導かれて二階へ上ると、煖炉を熾に燃いていたので、ムッとする程温かい。
ストーブの前に三人、少し離れた椅子に三人が座っていた。
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煖炉の前には三人、他の三人は少し離れて椅子に寄っている。
そばのテーブルにはウイスキーの瓶が置いてあり、コップは飲み干したものも、注いだままのものもあり、皆ほどよく酔っていた。
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傍の卓子にウイスキーの壜が上ていてこっぷの飲み干したるもあり、注いだままのもあり、人々は可い加減に酒が廻わっていたのである。
岡本の姿を見るなり竹内は立ち上がって、元気よく
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岡本の姿を見るや竹内は起って、元気よく
「まあ、こちらへどうぞ」
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「まアこれへ掛け給え」
と一つの椅子をすすめた。
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と一の椅子をすすめた。
岡本はなかなか座ろうとしない。
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岡本は容易に坐に就かない。
部屋を見回すと、五人は以前から一度くらい会ったことのある人だったが、一人だけ、色が白くて中くらいの体型で品のいい紳士(しんし)は、まだ会ったことのない人だった。
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見廻すとその中の五人は兼て一面識位はある人であるが、一人、色の白い中肉の品の可い紳士は未だ見識らぬ人である。
竹内はそれに気づいて、
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竹内はそれと気がつき、
「あなたはまだこの方を知らないだろう、紹介しましょう。この方は上村さんといって、北海道炭鉱会社(ほっかいどうたんこうかいしゃ)の社員の方です。上村さん、こちらは僕のとても古い友人で岡本君……」
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「ウン貴様は未だこの方を御存知ないだろう、紹介しましょう、この方は上村君と言って北海道炭鉱会社の社員の方です、上村君、この方は僕の極く旧い朋友で岡本君……」
とまだ言い終わらないうちに、上村と呼ばれた紳士は明るい調子で
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と未だ言い了らぬに上村と呼ばれし紳士は快活な調子で
「やあ、初めまして……書かれた文章はいつも読んでいます……これからよろしくお願いします……」
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「ヤ、初めて……お書きになった物は常に拝見していますので……今後御懇意に……」
岡本はただ「よろしくどうぞ」
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岡本は唯だ「どうかお心安く」
と言っただけで、黙ってしまった。
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と言ったぎり黙って了った。
そして椅子にもたれた。
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そして椅子に倚った。
「さあ、続きを……」
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「サアその先を……」
と、綿貫(わたぬき)という、背が低く、真っ黒なほおひげを生やした紳士が言った。
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と綿貫という背の低い、真黒の頬髭を生している紳士が言った。
「そうだ! 上村さん、それからどうしたんですか?」
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「そうだ! 上村君、それから?」
と、井山(いやま)という目がしょぼしょぼした、髪の薄いやせた紳士が続きをうながした。
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と井山という眼のしょぼしょぼした頭髪の薄い、痩方の紳士が促した。
「いや、岡本さんが来たから急に話しにくくなりましたよ、ははは」
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「イヤ岡本君が見えたから急に行りにくくなったハハハハ」
と炭鉱会社の紳士は少し照れたような笑い方をした。
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と炭鉱会社の紳士は少し羞にかんだような笑方をした。
「何の話ですか?」
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「何ですか?」
岡本は竹内に聞いた。
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岡本は竹内に問うた。
「いや、とても面白いんですよ。何かの話の流れで、それぞれの人生観を話すことになってね、まあ聞いていてください。すごい意見がどんどん出てきます」
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「イヤ至極面白いんだ、何かの話の具合で我々の人生観を話すことになってね、まア聴いて居給え名論卓説、滾々として尽きずだから」
「いや、もうだいたい話し終わりましたよ。あなたは私たちのような普通の人間と違って本物だから、ちょうどよかった、あなたの考えを聞きましょう、ね皆さん!」
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「ナニ最早大概吐き尽したんですよ、貴様は我々俗物党と違がって真物なんだから、幸貴様のを聞きましょう、ね諸君!」
と上村は話をそらそうとした。
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と上村は逃げかけた。
「だめだめ、まず君の話を終えてください!」
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「いけないいけない、先ず君の説を終え給え!」
「ぜひ聞かせてほしいものです」
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「是非承わりたいものです」
と岡本はウイスキーを一杯、一気に飲み干した。
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と岡本はウイスキーを一杯、下にも置かないで飲み干した。
「僕の考えは岡本さんの考えとはたぶん正反対だと思うんですよ。つまり、理想(りそう)と現実(げんじつ)は一致しない、どうしても一致しない……」
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「僕のは岡本君の説とは恐らく正反対だろうと思うんでね、要之、理想と実際は一致しない、到底一致しない……」
「その通り!」
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「ヒヤヒヤ」
と井山が合いの手を入れた。
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と井山が調子を取った。
「もし一致しないなら、理想に従うよりも現実に合わせて生きるのが僕の考えだというんです」
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「果して一致しないとならば、理想に従うよりも実際に服するのが僕の理想だというのです」
「それだけですか」
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「ただそれだけですか」
と岡本は二杯目のコップを手にして唸るように言った。
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と岡本は第二の杯を手にして唸るように言った。
「だってね、理想は食べられませんよ!」
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「だってねエ、理想は喰べられませんものを!」
と言った上村の顔はウサギのようだった。
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と言った上村の顔は兎のようであった。
「ははははビフテキ(牛肉の焼き料理)じゃあるまいし!」
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「ハハハハビフテキじゃアあるまいし!」
と竹内は大きな口を開けて笑った。
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と竹内は大口を開けて笑った。
「いや、ビフテキです、現実はビフテキです、シチューです」
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「否ビフテキです、実際はビフテキです、スチューです」
「オムレツかい!」
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「オムレツかね!」
と今まで黙って半分眠りかけていた、真っ赤な顔をした松木という、その場で一番年の若そうな紳士が真面目な顔で言った。
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と今まで黙って半分眠りかけていた、真紅な顔をしている松木、坐中で一番年の若そうな紳士が真面目で言った。
「ははははは」
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「ハッハッハッハッ」
とその場にいた全員が吹き出した。
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と一坐が噴飯だした。
「いや、笑い事じゃないよ」
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「イヤ笑いごとじゃアないよ」
と上村は少しムキになって、
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と上村は少し躍起になって、
「たとえて言えばそんなものなんです。理想に従ったらイモばかり食べていなきゃならない。ことによると、ジャガイモも食べられなくなる。皆さんは牛肉とジャガイモ、どっちがいい?」
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「例えてみればそんなものなんで、理想に従がえば芋ばかし喰っていなきゃアならない。ことによると馬鈴薯も喰えないことになる。諸君は牛肉と馬鈴薯とどっちが可い?」
「牛肉がいいなあ!」
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「牛肉が可いねエ!」
と松木はまた眠そうな声で真面目に言った。
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と松木は又た眠むそうな声で真面目に言った。
「しかし、ビフテキにはジャガイモがつきものだよ」
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「然しビフテキに馬鈴薯は附属物だよ」
とほおひげの紳士が得意そうに言った。
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と頬髭の紳士が得意らしく言った。
「そうですとも! 理想はつまり現実につきものなんだ! ジャガイモがまったくないと困る、しかしジャガイモだけじゃあ全くうんざりする!」
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「そうですとも! 理想は則ち実際の附属物なんだ! 馬鈴薯も全きり無いと困る、しかし馬鈴薯ばかりじゃア全く閉口する!」
と言って、上村はやや満足したように岡本の顔を見た。
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と言って、上村はやや満足したらしく岡本の顔を見た。
「でも北海道はジャガイモが名物だって言うじゃないですか」
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「だって北海道は馬鈴薯が名物だって言うじゃアありませんか」
と岡本は平気な顔でたずねた。
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と岡本は平気で訊ねた。
「そのジャガイモなんです。僕はそのジャガイモにはひどい目に遭ったんです。ね、竹内さんはご存知ですが、こう見えても僕は同志社(どうししゃ、キリスト教の学校)の古い卒業生なんで、その頃は熱心なキリスト教の仲間で、言い換えれば大の理想主義者(りそうしゅぎしゃ)だったんです!」
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「その馬鈴薯なんです、僕はその馬鈴薯には散々酷い目に遇ったんです。ね、竹内君は御存知ですが僕はこう見えても同志社の旧い卒業生なんで、矢張その頃は熱心なアーメンの仲間で、言い換ゆれば大々的馬鈴薯党だったんです!」
「君が?」
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「君が?」
とても不思議そうな顔で井山がしょぼしょぼした目を見開いた。
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とさも不審そうな顔色で井山がしょぼしょぼ眼を見張った。
「別に不思議なことはないよ。その頃は若かったんだから。岡本さんはお幾つか知らないが、僕が同志社を出たのは二十二歳でした。十三年も昔のことなんです。それはお見せしたいくらい熱心な理想主義者でしたよ。学校にいる頃から僕は北海道と聞くと、ぞくぞくするほど惚れていたもので、清教徒(せいきょうと、厳しい信仰を持つキリスト教の人たち)のような生き方をしようとしていたのだから、たまらない!」
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「何も不思議は無いサ、その頃はウラ若いんだからね、岡本君はお幾歳かしらんが、僕が同志社を出たのは二十二でした。十三年も昔なんです。それはお目に掛けたいほど熱心なる馬鈴薯党でしたがね、学校に居る時分から僕は北海道と聞くと、ぞくぞくするほど惚れていたもんで、清教徒を以て任じていたのだから堪らない!」
「大変な清教徒だ!」
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「大変な清教徒だ!」
と松木がまた口を挟んだのを、上村はちょっとあごで止めて、ウイスキーをなめながら
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と松木が又た口を入れたのを、上村は一寸と腮で止めて、ウイスキーを嘗めながら
「きっぱりとこの汚れた内地を去って、北海道の自由な土地へ飛び込もうと思いましたね」
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「断然この汚れたる内地を去って、北海道自由の天地に投じようと思いましたね」
と言った時、岡本はじっと上村の顔を見た。
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と言った時、岡本は凝然と上村の顔を見た。
「それでやたらに北海道の話を聞いて回ったものだ。伝道師(でんどうし)の中に北海道へ行ってきたという人がいると、すぐ話を聞きに出かけましたよ。するとまた相手は上手いことを話して聞かせるんです。自然がどうだの、石狩川(いしかりがわ)は広々とした流れだの、見渡す限り森また森だの、たまったものじゃない! 僕はすっかりやられてしまいました。そこで僕はいろいろ聞き集めたことを合わせて、こんなふうな想像(そうぞう)を描いていたものだ。……まず僕が自分の額に汗して森を開き林を倒し、そしてそこに小豆(あずき)をまく、……」
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「そしてやたらに北海道の話を聞いて歩いたもんだ。伝道師の中に北海道へ往って来たという者があると直ぐ話を聴きに出掛けましたよ。ところが又先方は甘いことを話して聞かすんです。やれ自然がどうだの、石狩川は洋々とした流れだの、見渡すかぎり森又た森だの、堪ったもんじゃアない! 僕は全然まいッちまいました。そこで僕は色々と聞きあつめたことを総合して如此ふうな想像を描いていたもんだ。……先ず僕が自己の額に汗して森を開き林を倒し、そしてこれに小豆を撒く、……」
「その農家の様子を見てみたかったなあ、ははははは」
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「その百姓が見たかったねエハッハッハッハッハッハッ」
と竹内は笑い出した。
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と竹内は笑いだした。
「いや、実際に行ったんですよ。まあ待ってください、だんだんそこへ行くから……。その内に田畑が出来てくる、主にジャガイモを作る、ジャガイモさえあれば食うに困らない……」
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「イヤ実地行ったのサ、まア待ち給え、追い追い其処へ行くから……、その内にだんだんと田園が出来て来る、重に馬鈴薯を作る、馬鈴薯さえ有りゃア喰うに困らん……」
「ほらジャガイモが出た!」
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「ソラ馬鈴薯が出た!」
と松木がまた口を挟んだ。
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と松木は又た口を入れた。
「そこで田畑の真ん中に家がある。造りはとても粗末だが、一見アメリカ風に出来ていて、新英洲(ニューイングランド)の開拓時代そのままという風で、屋根がこう急こう配になって立派な煙突が横に一つ。窓をいくつ付けたものかと僕はとても悩んだものでした……」
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「其処で田園の中央に家がある、構造は極めて粗末だが一見米国風に出来ている、新英洲殖民地時代そのままという風に出来ている、屋根がこう急勾配になって物々しい煙突が横の方に一ツ。窓を幾個附けたものかと僕は非常に気を揉んだことがあったッけ……」
「そして本当にその家が出来たのかい」
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「そして真個にその家が出来たのかね」
と井山はまたしょぼしょぼした目を見開いた。
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と井山は又しょぼしょぼ眼を見張った。
「いや、これは京都にいた時の想像だよ。窓で悩んだのは……そうだそうだ、若王寺(にゃくおうじ)へ散歩に行って帰る時だった!」
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「イヤこれは京都に居た時の想像だよ、窓で気を揉んだのは……そうだそうだ若王寺へ散歩に往って帰る時だった!」
「それからどうしましたか?」
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「それからどうしました?」
と岡本は真面目な顔でうながした。
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と岡本は真面目で促がした。
「それから北の方に防風林(ぼうふうりん、風をふせぐための木の林)を一区画、なるべく林を多く残しておくことにしました。それから水の澄んだ小川がこの防風林の右の方からくねり出て屋敷の前を流れる。もちろんこの川でアヒルやガチョウが紫の羽や真っ白な背を浮かべているんですよ。この川に三寸の厚さの一枚板で橋がかかっている。これに手すりを付けたものか付けないものかといろいろ考えたが、やはり付けない方が自然だということで付けないことに決めました……まあ造りはこんなものですが、僕の想像はこれで満足しなかったのだ……まず冬になると……」
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「それから北の方へ防風林を一区劃、なるべくは林を多く取って置くことにしました。それから水の澄み渡った小川がこの防風林の右の方からうねり出て屋敷の前を流れる。無論この川で家鴨や鵞鳥がその紫の羽や真白な背を浮べてるんですよ。この川に三寸厚サの一枚板で橋が懸かっている。これに欄干を附けたものか附けないものかと色々工夫したが矢張り附けないほうが自然だというんで附けないことに定めました……まア構造はこんなものですが、僕の想像はこれで満足しなかったのだ……先ず冬になると……」
「ちょっとお話の途中ですが、あなたはその『冬』という言葉に心をときめかせませんでしたか?」
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「ちょッとお話の途中ですが、貴様はその『冬』という音にかぶれやアしませんでしたか?」
と岡本はたずねた。
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と岡本は訊ねた。
上村は驚いた顔で
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上村は驚ろいた顔色をして
「あなたはどうしてそれを知っているんですか、これは面白い! さすがあなたも理想主義者だ! 冬と聞いてはまったくたまりませんでしたよ。何だかその冬こそ自由というような気がしましてね! それに僕はあの熱心なキリスト教徒でしょう、クリスマス万歳の仲間でしょう、クリスマスとなるとどうしても雪がいやというほど降って、軒から棒のようなつらら(氷)が下がっていないと本物じゃないような気がしましてね。だから僕は北海道の冬というより、冬こそ北海道という感じがあったんです。北海道の話を聞いても『冬になると……』とこう言われると、体がぶるぶるッとなったものです。だから例の想像でもです、冬になると雪が家をすっかり埋めてしまう、そして夜は窓ガラスから赤い火の光がちらちらとのぞく、時々風がゴーッと吹いてきて林の梢(こずえ)から雪がばたばたと落ちる、牛小屋でホルスタイン種の雌牛がモーッと鳴く!」
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「貴様はどうしてそれを御存知です、これは面白い! さすが貴様は馬鈴薯党だ! 冬と聞いては全く堪りませんでしたよ、何だかその冬則ち自由というような気がしましてねエ! それに僕は例の熱心なるアーメンでしょうクリスマス万歳の仲間でしょう、クリスマスと来るとどうしても雪がイヤという程降って、軒から棒のような氷柱が下っていないと嘘のようでしてねエ。だから僕は北海道の冬というよりか冬則ち北海道という感が有ったのです。北海道の話を聴ても『冬になると……』とこういわれると、身体がこうぶるぶるッとなったものです。それで例の想像にもです、冬になると雪が全然家を埋めて了う、そして夜は窓硝子から赤い火影がチラチラと洩れる、折り折り風がゴーッと吹いて来て林の梢から雪がばたばたと墜ちる、牛部屋でホルスタイン種の牝牛がモーッと唸る!」
「君は詩人だ!」
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「君は詩人だ!」
と叫んで床を靴で蹴った人がいる。
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と叫けんで床を靴で蹶たものがある。
これは近藤(こんどう)という、岡本がこの部屋に入ってきてからも一言も発しないで、ただウイスキーを飲み続けていた、背が高くて、一癖ありそうな顔つきの男だ。
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これは近藤といって岡本がこの部屋に入って来て後も一言を発しないで、唯だウイスキーと首引をしていた背の高い、一癖あるべき顔構をした男である。
「ね、岡本さん!」
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「ねエ岡本君!」
とつけ加えた。
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と言い足した。
岡本はただ、黙ってうなずいただけだった。
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岡本はただ、黙言て首肯いたばかりであった。
「詩人? そうさ、僕はその頃は詩人さ。『山々かすみ入り合いの』というグレーのチャーチャードの翻訳(ほんやく)を愛読して、自分でも作ってみたものだよ。今の新体詩人(しんたいしじん)から見れば僕は先輩だよ」
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「詩人? そうサ、僕はその頃は詩人サ、『山々霞み入合の』ていうグレーのチャルチャードの飜訳を愛読して自分で作ってみたものだアね、今日の新体詩人から見ると僕は先輩だアね」
「僕も新体詩(しんたいし)なら作ったことがあるよ」
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「僕も新体詩なら作ったことがあるよ」
と松木が今度は少し乗り気になって言った。
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と松木が今度は少し乗地になって言った。
「なあに、僕だって二つ三つ作ったものさ」
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「ナーニ僕だって二ツ三ツ作たものサ」
と井山が負けじと真面目な顔で言った。
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と井山が負けぬ気になって真面目で言った。
「綿貫さん、あなたはどうですか?」
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「綿貫君、君はどうだね?」
と竹内がたずねた。
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と竹内が訊ねた。
「いや恥ずかしいことだが、僕はご存知の通り詩人の気はまったくなかった。『権利と義務』で一本通した。まったく僕は俗っぽい気質(きしつ)が特に発達しているらしい!」
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「イヤお恥しいことだが僕は御存知の女気のない通り詩人気は全くなかった、『権利義務』で一貫して了った、どうだろう僕は余程俗骨が発達してるとみえる!」
と綿貫は頭をなでてみた。
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と綿貫は頭を撫てみた。
「いや僕こそとても恥ずかしい話だが、これでやはり作ったものだ。そして何かの雑誌に二つ三つ載せたことがあるんだ! ははははは」
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「イヤ僕こそ甚だお恥しい話だがこれで矢張り作たものだ、そして何かの雑誌に二ツ三ツ載せたことがあるんだ! ハッハッハッハッハッ」
「ははははは」
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「ハッハッハッハッハッ」
と一同が吹き出してしまった。
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と一同が噴飯して了った。
「そうすると皆さんは全員かつての詩人なんですね。ははははは、これは面白い!」
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「そうすると諸君は皆詩人の古手なんだね、ハッハッハッハッハッ奇談々々!」
と綿貫が叫んだ。
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と綿貫が叫んだ。
「そうか、皆さんも作ったのか、驚いた。昔はみんな理想主義者だったんだね」
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「そうか、諸君も作たのか、驚ろいた、その昔は皆な馬鈴薯党なんだね」
と上村は大いに面目を施したという顔つきだった。
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と上村は大に面目を施こしたという顔色。
「お話の続きをお願いしたいものです」
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「お話の先を願いたいものです」
と岡本は上村に続きをうながした。
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と岡本は上村を促がした。
「そうだ、続きをやってください!」
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「そうだ、先をやり給え!」
と近藤はほとんど命令するように言った。
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と近藤は殆ど命令するように言った。
「よろしい! それから僕は卒業してから一年ほど東京でうろうろしていたが、きっぱりと北海道へ行った。その時の気持ちといったらなかったよ。何だかこう、馬鹿野郎め! というような気持ちがしてね。上野の停車場(停車場とは駅のこと)で汽車に乗って、ピューッと汽笛が鳴って汽車が動き出すと、僕は窓から頭を出して東京の方へ向かってつばを吐きかけたものだ。そして何とも言えないうれしさがこみ上げてきて、人知れずハンカチで涙を拭いたよ、本当に!」
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「宜しい! それから僕は卒業するや一年ばかり東京でマゴマゴしていたが、断然と北海道へ行ったその時の心持といったら無いね、何だかこう馬鹿野郎! というような心持がしてねエ、上野の停車場で汽車へ乗って、ピューッと汽笛が鳴って汽車が動きだすと僕は窓から頭を出して東京の方へ向いて唾を吐きかけたもんだ。そして何とも言えない嬉しさがこみ上げて来て人知れずハンケチで涙を拭いたよ真実に!」
「ちょっと君、ちょっと『馬鹿野郎め!』というような気持ちというのが僕には理解できないが……それはどういうことだい?」
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「一寸と君、一寸と『馬鹿野郎!』というような心持というのが僕には了解が出来ないが……そのどういうんだね?」
と権利義務の綿貫が真面目な顔でたずねた。
原文を見る
と権利義務の綿貫が真面目で訊ねた。
「ただ東京の奴らのことを言ったんさ。名声や利益にあくせくしているその様子は何だ! 馬鹿野郎め! 俺を見ろ! という気持ちさ」
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「唯だ東京の奴等を言ったのサ、名利に汲々としているその醜態は何だ! 馬鹿野郎! 乃公を見ろ! という心持サ」
と上村もまた真面目な顔で説明を加えた。
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と上村もまた真面目で註解を加えた。
「それから道中の話は省いて、ともかく無事に北海道は札幌に着いた。ジャガイモの本場(ほんば)に着いた。そして苦もなく三十三万平方メートルほどの土地が手に入った。さあこれからだ、いわゆる額に汗するのはこれからだということで、すぐに取りかかりましたよ。もっとも僕と最初から理想を一つにしていた友人で、今はやはり僕と同じ会社に出ているんだが、それと二人で開墾(かいこん、荒れた土地を耕して田畑にすること)事業に取りかかったのだ。そう、竹内さんはご存知だろう、梶原信太郎(かじわらしんたろう)のことさ……」
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「それから道行は抜にして、ともかく無事に北海道は札幌へ着いた、馬鈴薯の本場へ着いた。そして苦もなく十万坪の土地が手に入った。サアこれからだ、所謂る額に汗するのはこれからだというんで直に着手したねエ。尤も僕と最初から理想を一にしている友人、今は矢張僕と同じ会社へ出ているがね、それと二人で開墾事業に取掛ったのだ、そら、竹内君知っておるだろう梶原信太郎のことサ……」
「うん、梶原君が!? あれもまた理想主義者だったのか。今じゃあ豚のように太っているじゃないか」
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「ウン梶原君が!? あれが矢張馬鈴薯だったのか、今じゃア豚のように肥ってるじゃアないか」
と竹内も驚いたようだった。
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と竹内も驚いたようである。
「そうさ、今じゃあ怖い顔をして、血のしたたるビフテキを二口で食ってしまうんだ。ところが彼は最初から僕よりも賢かったよ。二ヶ月ほど我慢していただろうか、ある日こんな馬鹿げたことはきっぱりやめようという提案をした。その理由は、何も自分でこんな苦労をして世捨て人(よすてびと)になる必要はない、自然と戦うよりもむしろ世間と格闘しようじゃないか、ジャガイモよりも牛肉の方が栄養が多いというんだ。僕はその時大いに反対した。君がやめるならやめろ、僕は一人でもやると頑張った。するとあいつはやるなら勝手にやりたまえ、君ももう少しすると目が覚めるだろう、要するに理想は空想だ、愚か者の夢だ、なんて捨て台詞を吐いてすぐ去ってしまった。残された僕は頑張ってはみたものの内心は心細かった。それでも小作人(こさくにん)の一人二人を相手に、その後三ヶ月ほど我慢したよ。えらいだろう!」
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「そうサ、今じゃア鬼のような顔をして、血のたれるビフテキを二口に喰って了うんだ。ところが先生僕と比較すると初から利口であったねエ、二月ばかりも辛棒していたろうか、或日こんな馬鹿気たことは断然止うという動議を提出した、その議論は何も自からこんな思をして隠者になる必要はない自然と戦うよりか寧ろ世間と格闘しようじゃアないか、馬鈴薯よりか牛肉の方が滋養分が多いというんだ。僕はその時大に反対した、君止すなら止せ、僕は一人でもやると力味んだ。すると先生やるなら勝手にやり給え、君もも少しすると悟るだろう、要するに理想は空想だ、痴人の夢だ、なんて捨台辞を吐いて直ぐ去って了った。取残された僕は力味んではみたものの内内心細かった、それでも小作人の一人二人を相手にその後、三月ばかり辛棒したねエ。豪いだろう!」
「馬鹿なんさ!」
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「馬鹿なんサ!」
と近藤が叱るように言った。
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と近藤が叱るように言った。
「馬鹿? 馬鹿とはひどい! 今から見れば大馬鹿さ。しかしその時は本当にえらかったよ」
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「馬鹿? 馬鹿たア酷だ! 今から見れば大馬鹿サ、然しその時は全く豪かったよ」
「やはり馬鹿さ。最初から君みたいな人には向かないんだ。北海道でジャガイモばかり食おうなんていう柄(がら)じゃないんだ。それを知らないで三ヶ月も我慢するなんて馬鹿としか言えない!」
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「矢張馬鹿サ、初から君なんかの柄にないんだ、北海道で馬鈴薯ばかり食うなんていう柄じゃアないんだ、それを知らないで三月も辛棒するなア馬鹿としか言えない!」
「馬鹿なら馬鹿でも構わないとして、君の言う『向かない』ということは少しずつわかってきたんだ。ありがたいことに僕にはジャガイモ的な性質(せいしつ)がなかったのだ。そこで夏も過ぎて楽しみにしていた『冬』というあの奴がだんだん近づいてきた。その先触れが秋だ。まず秋からして思ったより感心しなかったのさ。しんとした林の上にパラパラと時雨(しぐれ)てくる。日の光が何となく薄いような気持ちがする。話し相手もなし。食べるものは一粒いくらするような米を少しばかりと例のジャガイモ、寝る場所は木の皮を壁の代わりにした掘っ立て小屋(ほったてごや)」
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「馬鹿なら馬鹿でもよろしいとして、君のいう『柄にない』ということは次第に悟って来たんだ。難有いことには僕に馬鈴薯の品質が無かったのだ。其処で夏も過ぎて楽しみにしていた『冬』という例の奴が漸次近づいて来た、その露払が秋、第一秋からして思ったよりか感心しなかったのサ、森とした林の上をパラパラと時雨て来る、日の光が何となく薄いような気持がする、話相手はなしサ食うものは一粒幾価と言いそうな米を少しばかりと例の馬の鈴、寝る処は木の皮を壁に代用した掘立小屋」
「それはあなた、覚悟の上だったでしょう!」
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「それは貴様覚悟の前だったでしょう!」
と岡本が口を挟んだ。
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と岡本が口を入れた。
「そこですよ。理想よりも現実の方がいいというのは。覚悟はしていたものの、やはりあまり感心しませんでしたね。だってそれじゃあ痩せますもの」
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「其処ですよ、理想よりか実際の可いほうが可いというのは。覚悟はしていたものの矢張り余り感服しませんでしたねエ。第一、それじゃア痩せますもの」
上村はそう言ってコップで少し口を湿らせて
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上村は言って杯で一寸と口を湿して
「僕は痩せようとは思っていなかった!」
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「僕は痩せようとは思っていなかった!」
「ははははは」
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「ハッハッハッハッハッハッ」
とみんなが笑い出した。
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と一同笑いだした。
「そこで僕はつくづく考えた。なるほど梶原の奴の言った通りだ、馬鹿げきっている、やめようということでやめてしまったが、あれであの冬を過ごしたら僕は死んでいたよ」
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「そこで僕はつくづく考えた、なるほど梶原の奴の言った通りだ、馬鹿げきっている、止そうッというんで止しちまったが、あれであの冬を過ごしたら僕は死でいたね」
「それで、今の君のお考えはどういうものですか?」
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「其処でどういうんです、貴様の目下のお説は?」
と岡本はからかうような、しかし真面目な顔で言った。
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と岡本は嘲るような、真面目な風で言った。
「だからジャガイモにはこりごりしたというんです。何でも今は現実主義(げんじつしゅぎ)で、お金が稼げて美味しいものが食べられて、こうやって皆さんとストーブにあたって酒を飲んで、勝手な熱い議論を戦わせる。腹が減ったら牛肉を食う……」
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「だから馬鈴薯には懲々しましたというんです。何でも今は実際主義で、金が取れて美味いものが喰えて、こうやって諸君と煖炉にあたって酒を飲んで、勝手な熱を吹き合う、腹が減たら牛肉を食う……」
「その通り! 僕も同じ考えだ。忠君愛国(ちゅうくんあいこく)だって何だって牛肉と両立しないことはない。それが両立しないというなら、両立させられないのだ。それが馬鹿なんだ」
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「ヒヤヒヤ僕も同説だ、忠君愛国だってなんだって牛肉と両立しないことはない、それが両立しないというなら両立さすことが出来ないんだ、其奴が馬鹿なんだ」
と綿貫は大いに息巻いた。
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と綿貫は大に敦圉いた。
「僕は違うね!」
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「僕は違うねエ!」
と近藤は叫んだ。そしてストーブを背にして椅子に向かい合って座った。
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と近藤は叫んだ、そして煖炉を後に椅子へ馬乗になった。
鋭い光を帯びた目で部屋の中を見回しながら
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凄い光を帯びた眼で坐中を見廻しながら
「僕はジャガイモ党でもない、牛肉党でもない! 上村さんなんかは最初ジャガイモ党で、後に牛肉党に変わってしまった。それは意志が弱く行動が弱いということだ。要するに皆さんは詩人だ、詩人が落ちぶれたものだ。だからむやみに鼻をぴくぴくさせて牛の焦げる匂いを嗅いで歩く。その様子ったらない!」
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「僕は馬鈴薯党でもない、牛肉党でもない! 上村君なんかは最初、馬鈴薯党で後に牛肉党に変節したのだ、即ち薄志弱行だ、要するに諸君は詩人だ、詩人の堕落したのだ、だから無暗と鼻をぴくぴくさして牛の焦る臭を嗅いで行く、その醜体ったらない!」
「おいおい、人の悪口を言う前に、まず自分の信念(しんねん)を述べるべきだ。君は何が落ちぶれたというんだ」
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「オイオイ、他人を悪口する前に先ず自家の所信を吐くべしだ。君は何の堕落なんだ」
と上村が切り込んだ。
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と上村が切り込んだ。
「落ちぶれた? 落ちぶれたとは高いところから低いところへ落ちたことだろう。僕は幸いにして最初から高いところにいないから、そんな見っともないことはしないんだ! 君なんかは主義でジャガイモを食ったんだ。好きで食ったんじゃない。だから牛肉に飢えたんだ。僕なんかは好きで牛肉を食うんだ。だから最初から飢えない代わりに今だってガツガツしない……」
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「堕落? 堕落たア高い処から低い処へ落ちたことだろう、僕は幸にして最初から高い処に居ないからそんな外見ないことはしないんだ! 君なんかは主義で馬鈴薯を喰ったのだ、嗜きで喰ったのじゃアない、だから牛肉に餓えたのだ、僕なんかは嗜きで牛肉を喰うのだ、だから最初から、餓えぬ代り今だってがつがつしない、……」
「さっぱり要点がわからない!」
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「一向要領を得ない!」
と上村が叫んだ。
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と上村が叫けんだ。
近藤がすぐに何かを言い出そうと身構えた時、給仕(きゅうじ、お世話係)の一人がすたすたと近藤のそばに来てその耳元で何かをささやいた。
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近藤は直に何ごとをか言い出さんと身構をした時、給使の一人がつかつかと近藤の傍に来てその耳に附いて何ごとをか囁いた。
すると
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すると
「近藤は、この近藤はそれほど気前のいい主人ではない、と伝えてくれ!」
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「近藤は、この近藤はシカク寛大なる主人ではない、と言ってくれ!」
と怒鳴った。
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と怒鳴った。
「何だ?」
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「何だ?」
と部屋の中の一人が驚いて聞いた。
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と坐中の一人が驚いて聞いた。
「なに、車夫の野郎、またばくちに負けたから少し貸してくれと言うんだ。……要点がわからないとはどういうことだ! 大いに要点を得ているじゃないか。君たちは牛肉党なんだ、牛肉主義なんだ。僕のは牛肉が最初から好きなんだ。主義でも何でもない!」
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「ナニ、車夫の野郎、又た博奕に敗けたから少し貸してくれろと言うんだ。……要領を得ないたア何だ! 大に要領を得ているじゃアないか、君等は牛肉党なんだ、牛肉主義なんだ、僕のは牛肉が最初から嗜きなんだ、主義でもヘチマでもない!」
「大いに賛成ですな」
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「大に賛成ですなア」
と静かで落ち着いた声で言った者がいる。
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と静に沈重いた声で言った者がある。
「賛成でしょう!」
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「賛成でしょう!」
と近藤はにやりと笑って岡本の顔を見た。
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と近藤はにやり笑って岡本の顔を見た。
「まったく賛成ですな。主義ではないということはまったく賛成ですな。世の中の主義というやつほど愚かなものはない」
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「至極賛成ですなア、主義でないと言うことは至極賛成ですなア、世の中の主義って言う奴ほど愚なものはない」
と岡本はするどく澄んだ目の光を部屋中に向けた。
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と岡本はその冴え冴えした眼光を座上に放った。
「その考えをぜひ聞かせてください!」
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「その説を承たまわろう、是非願いたい!」
と近藤はその四角いあごを突き出した。
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と近藤はその四角な腮を突き出した。
「君はどちらなんですか、牛肉とジャガイモ、え、ジャガイモでしょう?」
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「君は何方なんです、牛と薯、エ、薯でしょう?」
と上村は知ったふうに岡本の考えを引き出そうとした。
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と上村は知った顔に岡本の説を誘うた。
「僕もやはり牛肉党でもなく、ジャガイモ党でもないですな。しかし近藤さんのように牛肉が好きとも決まっていないんです。もちろん例の主義という手作り料理は大嫌いですが、さりとて肉とかイモとかいった好みにも従うことができません」
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「僕も矢張、牛肉党に非ず、馬鈴薯党にあらずですなア、然し近藤君のように牛肉が嗜きとも決っていないんです。勿論例の主義という手製料理は大嫌ですが、さりとて肉とか薯とかいう嗜好にも従うことが出来ません」
「それじゃあ何だろう?」
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「それじゃア何だろう?」
と井山がそのもっともらしいしょぼしょぼした目をぱちぱちさせた。
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と井山がその尤もらしいしょぼしょぼ眼をぱちつかした。
「何でもないんです。たとえ話はやめてはっきり申しますが、僕にはこれぞという理想を信じることもできず、それならといって世間に合わせて欲(よく)を満たして、自分の人生はそれで十分だとすることもできないのです。できないのです。しないのではなく、正直に言うとどちらでもいいから決めてしまいたいとは思うけれど、なんという因縁か、今もたった一つの不思議な願い(ねがい)を持っているから、そのためにどちらとも決められないでいます」
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「何でもないんです、比喩は廃して露骨に申しますが、僕はこれぞという理想を奉ずることも出来ず、それならって俗に和して肉慾を充して以て我生足れりとすることも出来ないのです、出来ないのです、為ないのではないので、実をいうと何方でも可いから決めて了ったらと思うけれど何という因果か今以て唯った一つ、不思議な願を持ているからそのために何方とも得決めないでいます」
「何だい、その不思議な願いというのは?」
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「何だね、その不思議な願と言うのは?」
と近藤はいつものように押しつけるような言い方で聞いた。
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と近藤は例の圧しつけるような言振で問うた。
「一口には言えない」
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「一口には言えない」
「まさかオオカミの丸焼きで一杯飲みたいという冗談でもあるまい?」
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「まさか狼の丸焼で一杯飲みたいという洒落でもなかろう?」
「まあそんなことです。……実は僕、ある娘(むすめ)に恋したことがあります」
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「まずそんなことです。……実は僕、或少女に懸想したことがあります」
と岡本は真面目な顔で語り始めた。
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と岡本は真面目で語り出した。
「愉快だ、話がいよいよ面白くなってきたぞ、それからッ?」
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「愉快々々、談愈々佳境に入って来たぞ、それからッ?」
と若い松木は椅子をストーブの方へ引き寄せた。
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と若い松木は椅子を煖炉の方へ引寄た。
「少し話が急ですがね。まず僕の不思議な願いを話すには、この辺から始めましょう。その娘はなかなかの美人でした」
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「少し談が突然ですがね、まず僕の不思議の願というのを話すにはこの辺から初めましょう。その少女はなかなかの美人でした」
「よう! よう!」
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「ヨウ! ヨウ!」
と松木は飛び上がらんばかりに喜んだ。
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と松木は躍上らんばかりに喜こんだ。
「どちらかといえば丸顔で肌の白さがくっきりとしていて、肩の感じは西洋の女性のように肉付きが良くてなだらかで、目は少し眠そうな感じの、はっきりしているというよりは物思いに沈んでいるという雰囲気があって、この目に愛嬌(あいきょう)を込めてじっと見つめられたなら、たいていの鉄の心を持つ男でもやわらかくなりますな。そして僕はたやすくやられてしまったんです。最初その女性を見た時は別にどうとも思っていなかったが、一度が二度、三度目くらいから不思議に引きつけられるような気がして、妙にその女性のことが気になってきました。それでも僕はまだ恋をしたとは思っていませんでしたね。
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「どちらかと言えば丸顔の色のくっきり白い、肩つきの按排は西洋婦人のように肉附が佳くってしかもなだらかで、眼は少し眠むいような風の、パチリとはしないが物思に沈んでるという気味があるこの眼に愛嬌を含めて凝然と睇視られるなら大概の鉄腸漢も軟化しますなア。ところで僕は容易にやられて了ったのです。最初その女を見た時は別にそうも思っていなかったが、一度が二度、三度目位から変に引つけられるような気がして、妙にその女のことが気になって来ました。それでも僕は未だ恋したとは思いませんでしたねえ。
「ある日僕がその女性の家へ行くと、両親は留守でただ女中とその娘と十二歳の妹の三人きりでした。すると娘は体の具合が少し悪いと言って気が重そうで、奥の間に一人、ひっそりと座っていましたが、低い声で歌を歌っているのを僕は縁側(えんがわ)に腰をかけたまま聞いていました。
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「或日僕がその女の家へ行きますと、両親は不在で唯だ女中とその少女と妹の十二になるのと三人ぎりでした。すると少女は身体の具合が少し悪いと言って鬱いで、奥の間に独、つくねんと座っていましたが、低い声で唱歌をやっているのを僕は縁辺に腰をかけたまま聴いていました。
『お栄さん、僕はそんな声を聞かされると何だか哀れな気持ちになってたまりません』
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『お栄さん僕はそんな声を聴かされると何だか哀れっぽくなって堪りません』
と思わず口に出すと
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と思わず口に出しますと
『私はなぜこんな世の中に生きているのかわからないのよ』
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『小妹は何故こんな世の中に生きているのか解らないのよ』
と娘がとても頼りなさそうに言いました。僕にはこれが大哲学者の人生を悲観した考えよりも、ずっと真実らしく聞こえたが、その先は詳しく言わなくてもわかるでしょう。
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と少女がさもさも頼なさそうに言いました、僕にはこれが大哲学者の厭世論にも優って真実らしく聞えたが、その先は詳わしく言わないでも了解りましょう。
「二人はたちまち恋の虜(とりこ)となってしまったんです。僕はその時初めて恋の楽しさと悲しさとを知りました。二ヶ月ほどというものはまるで夢のように過ぎましたが、その中の出来事をいくつかお話すると、まずこんなこともありましたっけ、
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「二人は忽ち恋の奴隷となって了ったのです。僕はその時初めて恋の楽しさと哀しさとを知りました、二月ばかりというものは全で夢のように過ぎましたが、その中の出来事の一二お安価ない幕を談すと先ずこんなこともありましたっケ、
「ある日午後五時頃から友人夫婦の海外へ旅立つ送別会(そうべつかい)に出席しましたが、僕の恋人も母に連れられて出席しました。会はたいへんなにぎわいで、中には伯爵家(はくしゃくけ)のお嬢さんなども来ていましたが夜の十時頃ようやく散会になり、僕はホテルから芝山内(しばさんない)の娘の家まで、月が良いから歩いて送ることにして母と三人でぶらぶらと行きましたが、途中で母は口を尽くして海外に行く夫婦をほめてしきりと羨ましそうなことを言っていましたが、その言葉の中には自分の娘があまりにも世間に背を向けたがっているのを残念がる意味があって、その傾向もそれと付き合う友人のせいだと言わんばかりの言葉も混じっていたので、僕と肩を寄せて歩いていた娘は、僕の手を強く握りました。それで僕も握り返した。これが母への、はかない反抗だったんです。
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「或日午後五時頃から友人夫婦の洋行する送別会に出席しましたが僕の恋人も母に伴われて出席しました。会は非常な盛会で、中には伯爵家の令嬢なども見えていましたが夜の十時頃漸く散会になり僕はホテルから芝山内の少女の宅まで、月が佳いから歩るいて送ることにして母と三人ぶらぶらと行って来ると、途々母は口を極めて洋行夫婦を褒め頻と羨ましそうなことを言っていましたが、その言葉の中には自分の娘の余り出世間的傾向を有しているのを残念がる意味があって、かかる傾向を有するも要するにその交際する友に由ると言わぬばかりの文句すら交えたので、僕と肩を寄せて歩るいていた娘は、僕の手を強く握りました、それで僕も握りかえした、これが母へ対するはかない反抗であったのです。
「それから山内の森の中へ来ると、月が木の間(このま)から青白い光を漏らして一段と趣(おもむき)を加えていたが、母は僕たちより五歩ばかり前を歩いていました。夜は更けて行き来する人もまばらになっていたから辺りはとても静かで、僕の靴の音、二人の下駄の音だけが大きく響き渡っていたが、さっきの母の言葉が胸に刺さっているので僕も娘も無言、母も急に真面目くさって黙って歩いていました。
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「それから山内の森の中へ来ると、月が木間から蒼然たる光を洩して一段の趣を加えていたが、母は我々より五歩ばかり先を歩るいていました。夜は更けて人の通行も稀になっていたから四辺は極めて静に僕の靴の音、二人の下駄の響ばかり物々しゅう反響していたが、先刻の母の言草が胸に応えているので僕も娘も無言、母も急に真面目くさって黙って歩るいていました。
「森影が暗く月の光をさえぎった場所へ来たと思うと、娘は突然僕に抱きつかんばかりに寄り添って
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「森影暗く月の光を遮った所へ来たと思うと少女は卒然僕に抱きつかんばかりに寄添って
『あなた、母の言葉を気にして私を見捨てちゃいけませんよ』
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『貴様母の言葉を気にして小妹を見捨ては不可ませんよ』
とささやき、その手を僕の肩にかけるが早いか僕の左のほおにべたりと温かいものが触れて、何とも言えない花にも勝る香りが鼻先をかすめました。
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と囁き、その手を僕の肩にかけるが早いか僕の左の頬にべたり熱いものが触て一種、花にも優る香が鼻先を掠めました。
突然明るい場所へ出ると、娘の両目には涙がいっぱい浮かんでいて、その顔色は物凄いほど青白かったが、一つには月の光を浴びたからでもあるでしょう。いずれにしても僕はこれを見ると同時に一種の寒気(さむけ)を覚えて、怖いとも悲しいとも言いようのない思いが胸につかえてちょうど鉛(なまり)の塊が胸を押しつけるように感じました。
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突然明い所へ出ると、少女の両眼には涙が一ぱい含んでいて、その顔色は物凄いほど蒼白かったが、一は月の光を浴びたからでも有りましょう、何しろ僕はこれを見ると同時に一種の寒気を覚えて恐いとも哀しいとも言いようのない思が胸に塞えてちょうど、鉛の塊が胸を圧しつけるように感じました。
「その夜、門口(かどぐち)まで送り、母なる人がちょっと上がってお茶を飲めと勧めたのを断って自宅へと帰り道に就きましたが、ある難しいなぞをかけられ、それを解くと自分の運命の悲しさがすべてわかるとでもいったような気持ちがして、決してたとえではなく、確かにそういう気持ちがして、気になってたまらない。そこですぐには帰らず山内の寂しい場所を選んでぶらぶら歩き、いつの間にか丸山(まるやま)の上に出ましたから、ベンチに腰をかけてしばらくじっと品川(しながわ)の海の空を眺めていました。
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「その夜、門口まで送り、母なる人が一寸と上って茶を飲めと勧めたを辞し自宅へと帰路に就きましたが、或難い謎をかけられ、それを解くと自分の運命の悲痛が悉く了解りでもするといったような心持がして、決して比喩じゃアない、確にそういう心持がして、気になってならない。そこで直ぐは帰らず山内の淋むしい所を撰ってぶらぶら歩るき、何時の間にか、丸山の上に出ましたから、ベンチに腰をかけて暫時く凝然と品川の沖の空を眺めていました。
『もしかあの女性は遠からず死ぬるのじゃあるまいか』
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『もしかあの女は遠からず死ぬるのじゃアあるまいか』
という考えが稲妻(いなずま)のように僕の心の最も暗い底に閃(ひらめ)いたと思うと、僕は思わず飛び上がりました。
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という一念が電のように僕の心中最も暗き底に閃いたと思うと僕は思わず躍り上がりました。
そしてそこらを夢中で行ったり来たり、地面を見つめたまま歩いて『決してそんなことはない』
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そして其所らを夢中で往きつ返りつ地を見つめたまま歩るいて『決してそんなことはない』
『断じてない』
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『断じてない』
と、魔を叱るかのように言ってみたが、魔は決して去らない。僕はときどき足を止めて地面を見つめていると、青白い娘の顔がありありと目の前に現れてくる。どうしてもその顔色がこの世のものでないことを示している。
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と、魔を叱するかのように言ってみたが、魔は決して去らない、僕はおりおり足を止めて地を凝視ていると、蒼白い少女の顔がありありと眼先に現われて来る、どうしてもその顔色がこの世のものでないことを示している。
「ついに僕は気持ちを落ち着かせて、今夜はしっかり眠る方がいい、まったく自分の思い違いだと決心して丸山を下り始めました。すると更に僕を混乱させる出来事にぶつかりました。というのは上る時は少しも気がつかなかったが、道端にある木の枝から人がぶら下がっていたことです。驚きましたよ。僕は頭から冷水をかけられたように感じて、そこに立ちすくんでしまいました。
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「遂に僕は心を静めて今夜十分眠る方が可い、全く自分の迷だと決心して丸山を下りかけました、すると更に僕を惑乱さする出来事にぶつかりました。というのは上る時は少も気がつかなかったが路傍にある木の枝から人がぶら下っていたことです。驚きましたねエ、僕は頭から冷水をかけられたように感じて、其所に突立って了いました。
「それでも勇気を奮(ふる)い起こして近づいてみると女性でした。もちろんその顔は見えないが、道に脱ぎ捨ててある下駄を見ると年若の女性とわかる……僕は一切夢中で紅葉館(こうようかん)の方から山内へ下りると突き当たりにあるあの交番(こうばん)まで駆けつけてその旨(むね)を知らせました……」
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「それでも勇気を鼓して近づいてみると女でした、無論その顔は見えないが、路にぬぎ捨てある下駄を見ると年若の女ということが分る……僕は一切夢中で紅葉館の方から山内へ下りると突当にあるあの交番まで駈けつけてその由を告げました……」
「その女性が君の恋していた娘だったというのですか」
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「その女が君の恋していた少女であったというのですかね」
と近藤は冷たい声で言った。
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と近藤は冷ややかに言た。
「それではまるで小説ですが、幸いにして小説にはなりませんでした。
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「それでは全で小説ですが、幸に小説にはなりませんでした。
「翌々日の新聞を見ると年は十九歳、兵士と深い仲になって子を宿したが兵士は故郷に帰ってしまい、身の処置に困って自殺したらしいと書いてありました。ともかく僕はその夜ほとんど眠りませんでした。
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「翌々日の新聞を見ると年は十九、兵士と通じて懐胎したのが兵士には国に帰って了われ、身の処置に窮して自殺したものらしいと書いてありました、ともかく僕はその夜殆ど眠りませんでした。
「しかしよくしたもので、翌日娘の顔を見るといつもと変わっていない。そして、そのうっとりした目に微笑みを含んで迎えられると、前夜からの心の苦しみは霧のように消えてしまいました。それからまた一ヶ月ほどは何のこともなく、ただうれしい楽しいことばかりで……」
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「然かし能くしたもので、その翌日少女の顔を見ると平常に変っていない、そしてそのうっとりした眼に笑を含んで迎えられると、前夜からの心の苦悩は霧のように消えて了いました。それから又一月ばかりは何のこともなく、ただうれしい楽しいことばかりで……」
「なるほどこれはただ事ではないな」
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「なるほどこれはお安価くないぞ」
と綿貫が床を蹴って言った。
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と綿貫が床を蹶って言った。
「まあ黙って聞いてください、それから」
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「まア黙って聴きたまえ、それから」
と松木は至って真面目になった。
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と松木は至極真面目になった。
「その先を僕が言おうか、こうでしょう。最後にその娘があくびを一つして、それで神聖(しんせい)な恋が終わりになった、そうでしょう?」
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「其先を僕が言おうか、こうでしょう、最後にその少女が欠伸一つして、それで神聖なる恋が最後になった、そうでしょう?」
と近藤もなぜか真面目な顔で言った。
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と近藤も何故か真面目で言った。
「ははははは」
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「ハッハッハッハッハッハッ」
と二、三人が吹き出してしまった。
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と二三人が噴飯して了った。
「いや、少なくとも僕の恋はそうだった」
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「イヤ少なくとも僕の恋はそうであった」
と近藤は言い足した。
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と近藤は言い足した。
「君でも恋なんていうことを知っているのかい」
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「君でも恋なんていうことを知っているのかね」
これは井山の柄にない言葉だ。
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これは井山の柄にない言草。
「岡本さんのお話の途中だが、僕の恋を話そうか? 一分間で言える。僕とある娘と仲良くなった。二人は夢中で楽しい日々を過ごした。三ヶ月目に女があくびを一つした。二人は別れた。これだけさ。要するに誰の恋でもこれが大団円(おおだんえん)だよ。女という生き物は三ヶ月経つと十人が十人、飽きてしまう。夫婦なら仕方ないからくっついている。しかしそれは女があくびを噛み殺してその日を送っているに過ぎない。どうです、君はそう思いませんか?」
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「岡本君の談話の途中だが僕の恋を話そうか? 一分間で言える、僕と或少女と乙な中になった、二人は無我夢中で面白い月日を送った、三月目に女が欠伸一つした、二人は分れた、これだけサ。要するに誰の恋でもこれが大切だよ、女という動物は三月たつと十人が十人、飽きて了う、夫婦なら仕方がないから結合いている。然しそれは女が欠伸を噛殺してその日を送っているに過ぎない、どうです君はそう思いませんか?」
「そうかもしれません。しかし僕のは幸いにしてそのあくびまでには至りませんでした。先を聞いてください。
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「そうかも知れません、然し僕のは幸にその欠伸までに達しませんでした、先を聴いて下さい。
「僕もその頃、上村さんのお話と同じように、北海道熱のひどいのにかかっていました。正直なところ今でも北海道の生活はいいだろうと思っています。それで僕もいろいろと想像を描いていたので、それを恋人と語るのが何よりの楽しみでした。やはり上村さんのアメリカ風の家は、僕も大きな洋紙に鉛筆で図面(ずめん)まで描きました。しかし少し違うのは冬の夜の窓からちらちらと明かりを見せるばかりでない。ときどき楽しそうな笑い声、澄んだ声で歌う女性の歌を響かせたかったんです、……」
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「僕もその頃、上村君のお話と同様、北海道熱の烈しいのに罹っていました、実をいうと今でも北海道の生活は好かろうと思っています。それで僕も色々と想像を描いていたので、それを恋人と語るのが何よりの楽でした、矢張上村君の亜米利加風の家は僕も大判の洋紙へ鉛筆で図取までしました。しかし少し違うのは冬の夜の窓からちらちらと燈火を見せるばかりでない、折り折り楽しそうな笑声、澄んだ声で歌う女の唱歌を響かしたかったのです、……」
「だって僕は相手がいなかったのですもの」
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「だって僕は相手が無かったのですもの」
と上村が情けなさそうに言ったので、どっとみんなが笑った。
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と上村が情けなそうに言ったので、どっと皆が笑った。
「君がジャガイモ党を変節したのも、一つはそのせいだろう」
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「君が馬鈴薯党を変節したのも、一はその故だろう」
と綿貫が言った。
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と綿貫が言った。
「いや、それは嘘だ。上村さんにもし相手がいたなら北海道の土を踏む前に変節していただろうと思う。女というやつはとてもジャガイモ主義を実行できるものじゃない。生まれつきのビフテキ党だ、ちょうど僕みたいなんだ。女はイモが好きだなんていうのは嘘さ!」
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「イヤそれは嘘言だ、上村君にもし相手があったら北海道の土を踏ぬ先に変節していただろうと思う、女と言う奴が到底馬鈴薯主義を実行し得るもんじゃアない。先天的のビフテキ党だ、ちょうど僕のようなんだ。女は芋が嗜好きなんていうのは嘘サ!」
と近藤が怒鳴るように言った。
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と近藤が怒鳴るように言った。
その最後の一言でまたみんながどっと笑った。
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その最後の一句で又た皆がどっと笑った。
「それで二人は」
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「それで二人は」
と岡本が平気な顔で語り始めたので、ようやくみんなが静まった。
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と岡本が平気で語りだしたので漸々静まった。
「二人は将来の生活の場を北海道と決めていまして、相談もやっと固まったので僕はひとまず故郷(ふるさと)に帰り、親族に預けてあった山林や田畑をすべて売り払い、その資金で北海道に新しく開墾地を作ろうと、十日間ほどのつもりで故郷に帰ったのが、親族の反対やら代金のもめ事やらで思いがけず二十日もかかりました。するとある日娘の母から電報が来ました。驚いて急いで東京へ帰ってみると、娘はもう死んでいました」
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「二人は将来の生活地を北海道と決めていまして、相談も漸く熟したので僕は一先故郷に帰り、親族に托してあった山林田畑を悉く売り飛ばし、その資金で新開墾地を北海道に作ろうと、十日間位の積で国に帰ったのが、親族の故障やら代価の不折合やらで思わず二十日もかかりました。 すると或日少女の母から電報が来ました、驚いて取る物も取あえず帰京してみると、少女は最早死んでいました」
「死んで?」
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「死んで?」
と松木は叫んだ。
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と松木は叫けんだ。
「そうです。それで僕のすべての希望がことごとく水の泡となってしまいました」
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「そうです、それで僕の総ての希望が悉く水の泡となって了いました」
と岡本の言葉がまだ終わらないうちに近藤は次のように言った。それがまるで演説口調で、
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と岡本の言葉が未だ終らぬうち近藤は左の如く言った、それが全で演説口調、
「いや、どうも面白い恋愛の話を聞かせていただき、私たち一同感謝の極みに堪えません。さりながらです。僕は岡本さんのためにその恋人の死を祝します。祝すというのが不穏当(ふおんとう)ならば、喜びます。ひそかに喜びます。むしろ喜びます、かえって喜びます。もしもその娘が死ななかったならば、その結果の悲惨(ひさん)なること、必ず死の悲惨を上回るものがあったに違いないと信じる」
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「イヤどうも面白い恋愛談を聴かされ我等一同感謝の至に堪えません、さりながらです、僕は岡本君の為めにその恋人の死を祝します、祝すというが不穏当ならば喜びます、ひそかに喜びます、寧ろ喜びます、却て喜びます、もしもその少女にして死ななんだならばです、その結果の悲惨なる、必ず死の悲惨に増すものが有ったに違いないと信ずる」
とまでは非常に真面目だったが、自分でも少しおかしくなってきたか、急に調子を変え、声を低くして笑いを含ませて、
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とまでは頗る真面目であったが、自分でも少し可笑しくなって来たか急に調子を変え、声を低うし笑味を含ませて、
「何となれば、女はあくびをしますから……そもそもあくびに数種ある。その中でも最も悲しむべき憎むべきあくびが二種ある。一は命(いのち)に飽き飽きしたあくび、一は恋愛に飽き飽きしたあくび。命に飽き飽きしたあくびは男の特徴、恋愛に飽き飽きしたあくびは女の生まれつきの性質(せいしつ)。一は最も悲しむべく、一は最も憎むべきものである」
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「何となれば、女は欠伸をしますから……凡そ欠伸に数種ある、その中尤も悲むべく憎くむ可きの欠伸が二種ある、一は生命に倦みたる欠伸、一は恋愛に倦みたる欠伸、生命に倦みたる欠伸は男子の特色、恋愛に倦みたる欠伸は女子の天性、一は最も悲しむべく、一は尤も憎むべきものである」
と少し真面目な口調に戻り、
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と少し真面目な口調に返り、
「つまり女性は命に飽き飽きするということはほとんどない。年若い女性が時々そんな様子を見せることがある。しかしそれは恋に渇(かわ)いていることから来る変わった様子に過ぎない。幸いにしてその恋を得る。その後しばらくは至極楽しそうだ。本当に楽しそうだ。おそらく楽しいという言葉の本当の意味はこのような女性の状況に尽きているだろう。しかしたちまち飽き飽きしてしまう。つまり恋に飽き飽きしてしまう。女性が恋に飽き飽きした時ほど始末に困るものは他にまずあるまい。僕はこれを憎むべきものと言ったが、実はむしろ哀れむべきものだ。ところが男はそうでない。時として命そのものに飽き飽きすることがある。そのような場合に恋に出会う時は初めて一方の活路(かつろ)を得る。そこで全ての心を捧げて恋の火の中に飛び込むに至るのだ。このような場合においては恋こそが男の命である」
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「則ち女子は生命に倦むということは殆どない、年若い女が時々そんな様子を見せることがある、然しそれは恋に渇しているより生ずる変態たるに過ぎない、幸にしてその恋を得る、その後幾年月かは至極楽しそうだ、真に楽しそうだ、恐らく楽という字の全意義はかかる女子の境遇に於て尽されているだろう。然し忽ち倦で了う、則ち恋に倦でしまう、女子の恋に倦だ奴ほど始末にいけないものは決して他にあるまい、僕はこれを憎むべきものと言ったが実は寧ろ憐れむべきものである、ところが男子はそうでない、往々にして生命そのものに倦むことがある、かかる場合に恋に出遇う時は初めて一方の活路を得る。そこで全き心を捧げて恋の火中に投ずるに至るのである。かかる場合に在ては恋則ち男子の生命である」
と言って岡本を振り返り、
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と言って岡本を顧み、
「ね、そうでしょう。どうです、僕の説は鋭いでしょう」
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「ね、そうでしょう。どうです僕の説は穿っているでしょう」
「さっぱりわからない!」
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「一向に要領を得ない!」
と松木が叫んだ。
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と松木が叫けんだ。
「ははははわからない? 実は僕もあまりよくわかっていないのだ。ただ今のように言ってみたいので。どうです岡本さん、だから僕は思うんだ。君がジャガイモ党でもなくビフテキ党でもなく、ただ一つの不思議な願いを持っているということは、死んだ娘に会いたいということでしょう」
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「ハッハッハッハッ要領を得ない? 実は僕も余り要領を得ていないのだ、ただ今のように言ってみたいので。どうです岡本君、だから僕は思うんだ君が馬鈴薯党でもなくビフテキ党でもなく唯だ一の不思議なる願を持っているということは、死んだ少女に遇いたいというんでしょう」
「ノー!」
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「否!」
と一声叫んで岡本は椅子から立ち上がった。
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と一声叫けんで岡本は椅子を起った。
彼はもうかなり酔っていた。
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彼は最早余程酔っていた。
「ノーとまず一言言っておきます。皆さんにもし僕の不思議な願いというのを聞いてくれるなら話しましょう」
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「否と先ず一語を下して置きます。諸君にしてもし僕の不思議なる願というのを聴いてくれるなら談しましょう」
「皆さんはどうか知らないが、僕は必ず聞く」
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「諸君は知らないが僕は是非聴く」
と近藤は腕を振った。
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と近藤は腕を振った。
みんなはただ黙って岡本の顔を見ていたが、松木と竹内は真面目な顔で、綿貫と井山と上村は笑みを含んでいた。
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衆皆は唯だ黙って岡本の顔を見ていたが松木と竹内は真面目で、綿貫と井山と上村は笑味を含んで。
「それではノーの一語をもう一度叫んでおきます。
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「それでは否の一語を今一度叫けんで置きます。
「なるほど僕は近藤さんのお察しの通り、恋愛によって一方の活路を開いた男の一人だ。だから娘の死は僕にとっての大打撃で、ほとんどすべての希望は打ち砕かれてしまったことは先ほど申し上げた通りです。もし例の返魂香(はんごんこう、死んだ人を呼び戻すという伝説の香)というものがあるなら、僕は二三百斤(きん、たくさん)買い入れたい。どうか娘をもう一度僕の手元へ返してほしい。この一念に至ると身も世もあられないような気持ちになります。僕は平気で白状しますが、何度娘を思って泣いたでしょう。何度その名を呼んで大空を仰いだでしょう。本当にあの娘がもう一度この世に生き返ってくることは僕の願いです。
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「なるほど僕は近藤君のお察の通り恋愛に依て一方の活路を開いた男の一人である。であるから少女の死は僕に取ての大打撃、殆ど総ての希望は破壊し去ったことは先程申上げた通りです、もし例の返魂香とかいう価物があるなら僕は二三百斤買い入れたい。どうか少女を今一度僕の手に返したい。僕の一念ここに至ると身も世もあられぬ思がします。僕は平気で白状しますが幾度僕は少女を思うて泣いたでしょう。幾度その名を呼で大空を仰いだでしょう。実にあの少女の今一度この世に生き返って来ることは僕の願です。
「しかし、これが僕の不思議な願いではない。僕の本当の願いではない。僕にはまだまだ大きな願い、深い願い、熱心な願いがあります。この願いさえ叶(かな)えば、娘は生き返らなくてもよろしい。生き返って僕の目の前で僕を裏切ってもよろしい。娘が僕の目の前で赤い舌を出して冷たく笑ってもよろしい。
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「しかし、これが僕の不思議なる願ではない。僕の真実の願ではない。僕はまだまだ大なる願、深い願、熱心なる願を以ています。この願さえ叶えば少女は復活しないでも宜しい。復活して僕の面前で僕を売っても宜しい。少女が僕の面前で赤い舌を出して冷笑しても宜しい。
「『朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり』という言葉と僕の願いとは大いに意味が違っているけれど、その気持ちは同じです。僕はこの願いが叶わないくらいなら、今から百年生きていても何の役にも立たない。一向うれしくない。むしろ苦しく思います。
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「朝に道を聞かば夕に死すとも可なりというのと僕の願とは大に意義を異にしているけれど、その心持は同じです。僕はこの願が叶わん位なら今から百年生きていても何の益にも立ない、一向うれしくない、寧ろ苦しゅう思います。
「世界中の人がすべてこの願いを持っていなくてもよろしい。僕一人でこの願いを追います。僕がこの願いを追ったために強盗罪を犯すに至っても僕は悔いない。殺人、放火、何でも構いません。もし鬼があって僕に保証するのに、お前の妻を差し出せ我はそれを奪おう、お前の子を差し出せ我はそれを食らおう、そうすれば我はお前の願いを叶えてやろうと言えば、僕は喜んで妻があれば妻、子があれば子を鬼に与えます」
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「全世界の人悉くこの願を有ていないでも宜しい、僕独りこの願を追います、僕がこの願を追うたが為めにその為めに強盗罪を犯すに至ても僕は悔いない、殺人、放火、何でも関いません、もし鬼ありて僕に保証するに、爾の妻を与えよ我これを姦せん爾の子を与えよ我これを喰わん然らば我は爾に爾の願を叶わしめんと言えば僕は雀躍して妻あらば妻、子あらば子を鬼に与えます」
「これは面白い、早くその願いというものを聞きたいものだ!」
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「こいつは面白い、早くその願というものを聞きたいもんだ!」
と綿貫はそのひげを力いっぱい引っ張って叫んだ。
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と綿貫がその髯を力任かせに引て叫けんだ。
「今に申します。皆さんは今のようにぐらぐらした政府には飽き飽きされているだろうと思う。そこでビスマルク(ドイツの政治家)やカブール(イタリアの政治家)やグラッドストン(イギリスの政治家)や豊太閤(ほうたいこう、豊臣秀吉のこと)みたいな人間を混ぜ合わせて鋼鉄(こうてつ)のような強い政府を作り、思い切った政治をやってみたいという希望があるに違いない。僕も本当にそういう願いを持っています。しかし僕の不思議な願いはこれでもない。
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「今に申します。諸君は今日のようなグラグラ政府には飽きられただろうと思う、そこでビスマークとカブールとグラッドストンと豊太閤みたような人間をつきまぜて一鋼鉄のような政府を形り、思切った政治をやってみたいという希望があるに相違ない、僕も実にそういう願を以ています、しかし僕の不思議なる願はこれでもない。
「聖人(せいじん)になりたい、君子(くんし)になりたい、慈悲(じひ)の塊になりたい、キリストや釈迦(しゃか)や孔子(こうし)のような人になりたい、本当にそうなりたい。しかし、もし僕のこの不思議な願いが叶わないで、そうなるならば、僕は一向聖人にも神の子にもなりたくない。
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「聖人になりたい、君子になりたい、慈悲の本尊になりたい、基督や釈迦や孔子のような人になりたい、真実にそうなりたい。しかしもし僕のこの不思議なる願が叶わないで以て、そうなるならば、僕は一向聖人にも神の子にもなりたくありません。
「山林(さんりん)の生活! と言っただけで僕の血は沸き立ちます。つまり僕をして北海道を思わせたのもこれです。僕は時々郊外(こうがい)を散歩しますが、最近の冬の空が晴れ渡って、遠く地平線の上に国境を巡る連山(れんざん)の雪をいただいているのを見ると、すぐ僕の血は波立ちます。たまらなくなる! しかしです。僕の一念がひとたびあの願いに触れると、こんなことは何でもなくなる。もし僕の願いさえ叶うなら、にぎやかな都会で人力車の車夫(しゃふ)となっていてもよろしい。
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「山林の生活! と言ったばかりで僕の血は沸きます。則ち僕をして北海道を思わしめたのもこれです。僕は折り折り郊外を散歩しますが、この頃の冬の空晴れて、遠く地平線の上に国境をめぐる連山の雪を戴いているのを見ると、直ぐ僕の血は波立ちます。堪らなくなる! 然しです、僕の一念ひとたびかの願に触れると、こんなことは何でもなくなる。もし僕の願さえ叶うなら紅塵三千丈の都会に車夫となっていてもよろしい。
「宇宙は不思議だとか、人生は不思議だとか。天地が創られた本の原因は何だとか、うるさい議論があります。科学(かがく)と哲学(てつがく)と宗教(しゅうきょう)とはこれを研究して明らかにし、安心して生きられる根拠をその上に置こうともがいている。僕も大哲学者になりたい、ダーウィン(進化論を唱えた科学者)もはだしで逃げるほどの大科学者になりたい。または大宗教家になりたい。しかし僕の願いというのはこれでもない。もし僕の願いが叶わないで大哲学者になったなら、僕は自分を冷笑して自分の顔に『嘘つき』という字を焼き印(やきいん)で押します」
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「宇宙は不思議だとか、人生は不思議だとか。天地創生の本源は何だとか、やかましい議論があります。科学と哲学と宗教とはこれを研究し闡明し、そして安心立命の地をその上に置こうと悶いている、僕も大哲学者になりたい、ダルウィン跣足というほどの大科学者になりたい。もしくは大宗教家になりたい。しかし僕の願というのはこれでもない。もし僕の願が叶わないで以て、大哲学者になったなら僕は自分を冷笑し自分の顔に『偽』の一字を烙印します」
「何だい、早く言ってください、その願いというやつを!」
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「何だね、早く言いたまえその願というやつを!」
と松木はもどかしそうに言った。
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と松木はもどかしそうに言った。
「言いましょう、びっくりしてはいけませんぞ」
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「言いましょう、喫驚しちゃアいけませんぞ」
「早く早く!」
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「早く早く!」
岡本は静かに
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岡本は静に
「びっくりしたいというのが僕の願いなんです」
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「喫驚したいというのが僕の願なんです」
「何だ! 馬鹿らしい!」
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「何だ! 馬鹿々々しい!」
「何のことだ!」
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「何のこった!」
「落語(おとしばなし)か!」
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「落語か!」
人々は投げやりに言ったが、近藤だけは黙って岡本の説明を待っているらしかった。
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人々は投げだすように言ったが、近藤のみは黙言て岡本の説明を待ているらしい。
「こういう句があります、
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「こういう句があります、
Awake, poor troubled sleeper: shake off
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Awake, poor troubled sleeper: shake off
thy torpid night-mare dream.
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thy torpid night-mare dream.
つまり僕の願いとは悪夢(あくむ)を振り払いたいということです!」
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即ち僕の願とは夢魔を振い落したいことです!」
「何のことかわからない!」
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「何のことだか解らない!」
と綿貫はつぶやくように言った。
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と綿貫は呟やくように言った。
「宇宙の不思議を知りたいという願いではない。不思議な宇宙に驚きたいという願いです!」
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「宇宙の不思議を知りたいという願ではない、不思議なる宇宙を驚きたいという願です!」
「いよいよ謎(なぞ)のようだ!」
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「愈々以て謎のようだ!」
と今度は井山がその顔をつるりと撫でた。
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と今度は井山がその顔をつるりと撫でた。
「死の秘密を知りたいという願いではない。死というできごとに驚きたいという願いです!」
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「死の秘密を知りたいという願ではない、死ちょう事実に驚きたいという願です!」
「いくらでも君、勝手に驚けばいいじゃないか、何でもないことだ!」
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「イクラでも君勝手に驚けば可いじゃアないか、何でもないことだ!」
と綿貫はからかうように言った。
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と綿貫は嘲るように言った。
「必ずしも信仰(しんこう)そのものが僕の願いではない。信仰なしにはほんのひとときも安らいでいられないほどに、この宇宙と人生の神秘(しんぴ)に悩まされたいということが僕の願いです」
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「必ずしも信仰そのものは僕の願ではない、信仰無くしては片時たりとも安ずる能わざるほどにこの宇宙人生の秘義に悩まされんことが僕の願であります」
「なるほど、これはますますわかりにくいぞ」
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「なるほどこいつは益々解りにくいぞ」
と松木はつぶやいて岡本の顔を穴があくほど見つめている。
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と松木は呟やいて岡本の顔を穴のあくほど凝視ている。
「むしろ、この使い古したブドウのような目の玉を抉(えぐ)り出したいのが僕の願いです!」
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「寧ろこの使用い古るした葡萄のような眼球を剜り出したいのが僕の願です!」
と岡本は思わずテーブルを叩いた。
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と岡本は思わず卓を打った。
「愉快だ!」
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「愉快々々!」
と近藤は思わず声を上げた。
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と近藤は思わず声を揚げた。
「オルムスの大会で王侯(おうこう)の威武(いぶ)に屈しなかったルターの度胸(どきょう)は食いたいとは思わない。彼が十九歳の時、学友アレクシスの落雷死(らくらいし)を目の前で見て、死そのものの神秘に驚いたその心こそ、僕の欲するものだ。
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「オルムスの大会で王侯の威武に屈しなかったルーテルの胆は喰いたく思わない、彼が十九歳の時学友アレキシスの雷死を眼前に視て死そのものの秘義に驚いたその心こそ僕の欲するところであります。
「勝手に驚けと言われました綿貫さんは。勝手に驚けとは至極面白い言葉だ。しかし決して勝手には驚けないのです。
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「勝手に驚けと言われました綿貫君は。勝手に驚けとは至極面白い言葉である、然し決して勝手に驚けないのです。
「僕の恋人は死にました。この世から消えていなくなりました。僕は完全に恋の虜(とりこ)だったから、あの娘に死なれて僕の心は非常にかき乱されました。しかし僕の悲しみは恋の相手がいなくなったための悲しみです。死というむごい事実をしっかり見つめることはできなかった。つまり恋ほど人の心を支配するものはない。しかし、その恋よりもさらに何倍もの力を人の心に加えるものがあることがわかります。
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「僕の恋人は死ました。この世から消えて失なりました。僕は全然恋の奴隷であったからかの少女に死なれて僕の心は掻乱されてたことは非常であった。しかし僕の悲痛は恋の相手の亡なったが為の悲痛である。死ちょう冷刻なる事実を直視することは出来なかった。即ち恋ほど人心を支配するものはない、その恋よりも更に幾倍の力を人心の上に加うるものがあることが知られます。
「それは習慣(しゅうかん)の力です。
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「曰く習慣の力です。
Our birth is but asleep and forgetting.
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Our birth is but asleep and forgetting.
この句の通りです。
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この句の通りです。
私たちは生まれてこの天地の間に来る。何も知らない子どもの時からさまざまなことに出会う。毎日太陽を見る。毎晩星を仰ぐ。こうして、この不思議な天地も一向に不思議でなくなってしまう。
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僕等は生れてこの天地の間に来る、無我無心の小児の時から種々な事に出遇う、毎日太陽を見る、毎夜星を仰ぐ、ここに於てかこの不可思議なる天地も一向不可思議でなくなる。
生も死も、宇宙のあらゆる現象も、当たり前のつまらないものになってしまう。
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生も死も、宇宙万般の現象も尋常茶番となって了う。
哲学だとか科学だとかと言って、自分は天地の外に立っているかのような態度でこの宇宙を扱う。
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哲学で候うの科学で御座るのと言って、自分は天地の外に立ているかの態度を以てこの宇宙を取扱う。
Full soon thy soul shall have her earthly freight,
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Full soon thy soul shall have her earthly freight,
And custom lie upon thee with a weight,
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And custom lie upon thee with a weight,
Heavy as frost, and deep almost as life !
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Heavy as frost, and deep almost as life !
この通りです、この通りです!
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この通りです、この通りです!
「つまり僕の願いは、何とかしてこの霜(しも)を叩き落とすことです。何とかしてこの使い古した習慣の重さから抜け出して、驚きの目でこの宇宙の中に立ちたいのです。その結果がビフテキ主義となろうが、ジャガイモ主義となろうが、あるいは人生を嘆く仲間になってこの命を呪(のろ)おうが、決して構わない!
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「即ち僕の願はどうにかしてこの霜を叩き落さんことであります。どうにかしてこの古び果てた習慣の圧力から脱がれて、驚異の念を以てこの宇宙に俯仰介立したいのです。その結果がビフテキ主義となろうが、馬鈴薯主義となろうが、将た厭世の徒となってこの生命を咀うが、決して頓着しない!
「結果は構わない。原因(げんいん)を嘘(うそ)の上に置きたくない。習慣の上に立つ遊び半分の研究の上に前提を置きたくない。
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「結果は頓着しません、源因を虚偽に置きたくない。習慣の上に立つ遊戯的研究の上に前提を置きたくない。
「やれ月の光が美しいとか花の夕べが何だとか、星の夜は何だとか。要するにあふれるような詩人の言葉は、あれは道楽(どうらく)です。彼らは決して本物を見てはいない。まぼろしを見ているのです。習慣が作り出したまぼろしを見ているに過ぎない。感情の遊びです。哲学でも宗教でも、その核心(かくしん)は知らないが、その末流(まつりゅう、流れの末)に至ってはすべてそうです。
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「ヤレ月の光が美だとか花の夕が何だとか、星の夜は何だとか、要するに滔々たる詩人の文字は、あれは道楽です。彼等は決して本物を見てはいない、まぼろしを見ているのです、習慣の眼が作るところのまぼろしを見ているに過ぎません。感情の遊戯です。哲学でも宗教でも、その本尊は知らぬことその末代の末流に至ては悉くそうです。
「僕の知人にこう言った人があります。『我とは何ぞや(What am I?)』なんていう馬鹿な問いを発して自分で苦しんでいるやつがいるが、どうせ知れないことはどうやっても知れるものでない、とこう言って笑いを漏らした人があります。世間的に言うとその通りです。しかしこの問いは必ずしもその答えを求めて発した問いではない。本当にこの天地における私というものが何と不思議なものかを強く感じて、自然に発した心の叫びです。この問い自体が心の真面目な声です。これを笑うのは、その心が麻痺(まひ)していることを白状するものです。僕の願いはむしろ、どうにかしてこの問いを心の底から発したいのです。ところがなかなかこの問いは口からは出ても心からは出ません。
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「僕の知人にこう言った人があります。吾とは何ぞや⦅What am I ?⦆なんちょう馬鹿な問を発して自から苦ものがあるが到底知れないことは如何にしても知れるもんでない、とこう言って嘲笑を洩らした人があります。世間並からいうとその通りです、然しこの問は必ずしもその答を求むるが為めに発した問ではない。実にこの天地に於けるこの我ちょうものの如何にも不思議なることを痛感して自然に発したる心霊の叫である。この問その物が心霊の真面目なる声である。これを嘲るのはその心霊の麻痺を白状するのである。僕の願は寧ろ、どうにかしてこの問を心から発したいのであります。ところがなかなかこの問は口から出ても心からは出ません。
「『私はどこから来て、どこへ行くのか』とよく言われる言葉だが、やはりこの問いを発さずにはいられない人の心から宗教の泉は流れ出るのであり、詩でもそうです。だからそれ以外はすべて遊びです、偽りです。
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「我何処より来り、我何処にか往く、よく言う言葉であるが、矢張りこの問を発せざらんと欲して発せざるを得ない人の心から宗教の泉は流れ出るので、詩でもそうです、だからその以外は悉く遊戯です虚偽です。
「もうやめましょう! 駄目です、駄目です、いくら言っても駄目です。……ああ疲れた! しかし最後に一言しますがね。僕は人間を二種に分けたい。曰く(いわく)、驚く人。曰く、平気な人……」
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「もう止しましょう! 無益です、無益です、いくら言っても無益です。……アア疲労た! しかし最後に一言しますがね、僕は人間を二種に区別したい、曰く驚く人、曰く平気な人……」
「僕はどちらに属するのだろう!」
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「僕は何方へ属するのだろう!」
と松木は笑いながら聞いた。
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と松木は笑いながら問うた。
「もちろん、平気な人に属します。ここにいる七人は全員平気な人の種類に属します。いや、世界に幾十億の人がいる中で、平気でない人が何人いるでしょうか。詩人、哲学者、科学者、宗教家、学者でも、政治家でも、たいていはみな平気でうんちくを言ったり、悟り顔をしたり、泣いたりしているのです。僕は昨夜一つの夢を見ました。
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「無論、平気な人に属します、ここに居る七人は皆な平気の平三の種類に属します。イヤ世界十幾億万人の中、平気な人でないものが幾人ありましょうか、詩人、哲学者、科学者、宗教家、学者でも、政治家でも、大概は皆な平気で理窟を言ったり、悟り顔をしたり、泣いたりしているのです。僕は昨夜一の夢を見ました。
「死ぬ夢を見ました。死んで暗い道を一人でとぼとぼと歩いていきながら、思わず『まさか死ぬとは思わなかった!』と叫びました。本当に、本当に僕は叫びました。
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「死んだ夢を見ました。死んで暗い道を独りでとぼとぼ辿って行きながら思わず『マサカ死うとは思わなかった!』と叫びました。全くです、全く僕は叫びました。
「そこで僕は思うんです。百人が百人、今現在、人の葬式(そうしき)に列(れっ)したり、親に死なれたり子に死なれたりしても、やはり自分が死んだ後、地獄の門で『まさか自分が死ぬとは思わなかった』と叫んで鬼に笑われる仲間でしょう。ははははははははは」
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「そこで僕は思うんです、百人が百人、現在、人の葬式に列したり、親に死なれたり子に死れたりしても、矢張り自分の死んだ後、地獄の門でマサカ自分が死うとは思わなかったと叫んで鬼に笑われる仲間でしょう。ハッハッハッハッハッハッハッハッ」
「人に驚かしてもらえばしゃっくりが止まるそうだが、何も平気でいて牛肉が食えるのに、好んでびっくりしたいというのも物好き(ものずき)だね、ははははは」
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「人に驚かして貰えばしゃっくりが止るそうだが、何も平気で居て牛肉が喰えるのに好んで喫驚したいというのも物数奇だねハハハハ」
と綿貫はその太い腹を抱えた。
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と綿貫はその太い腹をかかえた。
「いや、僕もびっくりしたいとは言うけれど、やはり単にそう言うだけですよ、ははははは」
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「イヤ僕も喫驚したいと言うけれど、矢張り単にそう言うだけですよハハハハ」
「ただ言うだけか、ははははは」
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「唯だ言うだけかアハハハハ」
「ただ言うだけのことか、ひひひひ」
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「唯だ言うだけのことか、ヒヒヒヒ」
「そうか! ただお願い申してみるくらいなんですね、ははははは」
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「そうか! 唯だお願い申してみる位なんですねハッハッハッハッ」
「やはり道楽ですさ、ははははは」
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「矢張り道楽でさアハッハッハハッ」
と岡本は一緒に笑ったが、近藤は岡本の顔に言いようのない苦しみの色を見て取った。
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と岡本は一所に笑ったが、近藤は岡本の顔に言う可からざる苦痛の色を見て取った。