牛肉と馬鈴薯 現代語訳
国木田独歩(くにきだどっぽ)・1970年
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芝区桜田本郷町のお堀のほとりに、明治倶楽部という名の西洋風の建物があった。特別立派というわけではないが、それなりの建物だった。建物は今でも残っているが、持ち主が変わり、明治倶楽部そのものはなくなってしまった。
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明治倶楽部とて芝区桜田本郷町のお堀辺に西洋作の余り立派ではないが、それでも可なりの建物があった、建物は今でもある、しかし持主が代って、今では明治倶楽部その者はなくなって了った。
この倶楽部がまだにぎわっていた頃の話だ。ある年の冬の夜、めずらしく二階の食堂に明かりがともっていて、時おり大きな笑い声が外に漏れていた。
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この倶楽部が未だ繁盛していた頃のことである、或年の冬の夜、珍らしくも二階の食堂に燈火が点いていて、時々高く笑う声が外面に漏れていた。
もともとこの倶楽部は夜に人が集まることは少なく、ストーブの煙はいつも昼間にしか上がらないのが常だった。
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元来この倶楽部は夜分人の集っていることは少ないので、ストーブの煙は平常も昼間ばかり立ちのぼっているのである。
ところが八時を過ぎても、人々はまだしばらく帰りそうな様子が見えない。
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然るに八時は先刻打っても人々は未だなかなか散じそうな様子も見えない。
人力車が六台、玄関の横に並んでいたが、車夫たちはみんな勝手口のほうで、いつものサイコロ博打に興じているらしかった。
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人力車が六台玄関の横に並んでいたが、車夫どもは皆な勝手の方で例の一六勝負最中らしい。
そこへ一人の男が、外套の襟を立てて中折れ帽を目深にかぶり、真っ暗な中からひょっこり現れて、いきなり荒々しく呼び鈴を押した。
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すると一人の男、外套の襟を立てて中折帽を面深に被ったのが、真暗な中からひょっくり現われて、いきなり手荒く呼鈴を押した。
中から扉が開くと、
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内から戸が開くと、
「竹内さんはいらっしゃいますか」
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「竹内君は来てお出ですかね」
と低くて落ち着いた声で尋ねた。
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と低い声の沈重いた調子で訊ねた。
「はい、いらっしゃいます。あなたは?」
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「ハア、お出で御座います、貴様は?」
と片目が細い顔の和服姿の受付が丁寧に言った。
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と片眼の細顔の、和服を着た受付が丁寧に言った。
「これを」
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「これを」
と差し出した名刺には小さな文字で「岡本誠夫」とあるだけで、何の肩書もなかった。
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と出した名刺には五号活字で岡本誠夫としてあるばかり、何の肩書もない。
受付はそれを受け取り、急いで二階へ上がっていったが、すぐに降りてきて
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受付はそれを受取り急いで二階に上って去ったが間もなく降りて来て
「どうぞこちらへ」
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「どうぞ此方へ」
と案内した。連れられて二階へ上がると、ストーブが盛んに燃えていたのでムッとするほど暖かかった。
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と案内した、導かれて二階へ上ると、煖炉を熾に燃いていたので、ムッとする程温かい。
ストーブの前には三人、ほかの三人は少し離れて椅子に寄りかかっている。
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煖炉の前には三人、他の三人は少し離れて椅子に寄っている。
そばのテーブルにウイスキーの瓶が置かれ、飲み干したグラスもあれば、注いだままのグラスもあって、人々はいい感じに酔いが回っていた。
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傍の卓子にウイスキーの壜が上ていてこっぷの飲み干したるもあり、注いだままのもあり、人々は可い加減に酒が廻わっていたのである。
岡本の姿を見るなり竹内は立ち上がり、元気よく
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岡本の姿を見るや竹内は起って、元気よく
「まあ、こちらへお掛けよ」
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「まアこれへ掛け給え」
と一脚の椅子をすすめた。
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と一の椅子をすすめた。
岡本はすぐには座ろうとしない。
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岡本は容易に坐に就かない。
部屋を見回すと、五人は以前から面識がある人物だったが、一人、色白で中肉の上品な紳士はまだ見知らぬ人だった。
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見廻すとその中の五人は兼て一面識位はある人であるが、一人、色の白い中肉の品の可い紳士は未だ見識らぬ人である。
竹内はそれに気づき、
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竹内はそれと気がつき、
「そうか、あなたはまだこちらをご存知ないだろう。紹介しましょう。こちらは上村さんといって、北海道炭鉱会社の方です。上村さん、こちらは僕の古い友人の岡本君……」
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「ウン貴様は未だこの方を御存知ないだろう、紹介しましょう、この方は上村君と言って北海道炭鉱会社の社員の方です、上村君、この方は僕の極く旧い朋友で岡本君……」
と言い終わらないうちに、上村と呼ばれた紳士が明るい調子で
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と未だ言い了らぬに上村と呼ばれし紳士は快活な調子で
「やあ、初めまして。お書きになったものはいつも拝見しています。今後ともよろしく……」
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「ヤ、初めて……お書きになった物は常に拝見していますので……今後御懇意に……」
岡本はただ「どうぞよろしく」
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岡本は唯だ「どうかお心安く」
と言ったきり、黙ってしまった。
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と言ったぎり黙って了った。
そして椅子に寄りかかった。
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そして椅子に倚った。
「さあ、その続きを……」
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「サアその先を……」
と綿貫という背が低く、真っ黒な頬ひげを生やした紳士が言った。
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と綿貫という背の低い、真黒の頬髭を生している紳士が言った。
「そうだ! 上村さん、それで?」
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「そうだ! 上村君、それから?」
と井山という目がとろんとした、髪の薄い痩せ型の紳士が促した。
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と井山という眼のしょぼしょぼした頭髪の薄い、痩方の紳士が促した。
「いや、岡本君が来られたので急に話しにくくなりましたよ、ははははは」
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「イヤ岡本君が見えたから急に行りにくくなったハハハハ」
と炭鉱会社の紳士は少し恥ずかしそうな笑い方をした。
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と炭鉱会社の紳士は少し羞にかんだような笑方をした。
「何ですか?」
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「何ですか?」
岡本は竹内に聞いた。
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岡本は竹内に問うた。
「いや、すごく面白いんだ。何かの話の流れで、それぞれの人生観を話すことになってね。まあ聞いていなよ、名論卓説がどんどん出てくるから」
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「イヤ至極面白いんだ、何かの話の具合で我々の人生観を話すことになってね、まア聴いて居給え名論卓説、滾々として尽きずだから」
「いや、もう大体話し尽くしましたよ。あなたは私たちのような俗物とは違って本物なんだから、ぜひあなたのをお聞きしましょう。ね、皆さん!」
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「ナニ最早大概吐き尽したんですよ、貴様は我々俗物党と違がって真物なんだから、幸貴様のを聞きましょう、ね諸君!」
と上村は逃げようとした。
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と上村は逃げかけた。
「だめだめ、まず君の話を終えてくれよ!」
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「いけないいけない、先ず君の説を終え給え!」
「ぜひ聞かせてもらいたいものです」
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「是非承わりたいものです」
と岡本はウイスキーを一杯、一気に飲み干した。
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と岡本はウイスキーを一杯、下にも置かないで飲み干した。
「僕の考えは岡本さんとはおそらく正反対でしょう。つまり、理想と現実は一致しない、どうしたって一致しない……」
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「僕のは岡本君の説とは恐らく正反対だろうと思うんでね、要之、理想と実際は一致しない、到底一致しない……」
「その通り!」
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「ヒヤヒヤ」
と井山が相槌を打った。
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と井山が調子を取った。
「もし一致しないとするなら、理想に従うよりも現実に従うのが僕の理想だということです」
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「果して一致しないとならば、理想に従うよりも実際に服するのが僕の理想だというのです」
「それだけですか」
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「ただそれだけですか」
と岡本は二杯目のグラスを手にして唸るように言った。
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と岡本は第二の杯を手にして唸るように言った。
「だって、理想は食べられませんから!」
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「だってねエ、理想は喰べられませんものを!」
と言った上村の顔はうさぎのようだった。
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と言った上村の顔は兎のようであった。
「ははははビフテキじゃあるまいし!」
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「ハハハハビフテキじゃアあるまいし!」
と竹内は大口を開けて笑った。
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と竹内は大口を開けて笑った。
「いや、ビフテキです。現実はビフテキです、シチューです」
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「否ビフテキです、実際はビフテキです、スチューです」
「オムレツかい!」
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「オムレツかね!」
と今まで黙って半分眠りかけていた、顔の真っ赤な松木という、座の中で一番若そうな紳士が真顔で言った。
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と今まで黙って半分眠りかけていた、真紅な顔をしている松木、坐中で一番年の若そうな紳士が真面目で言った。
「ははははははは」
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「ハッハッハッハッ」
と一同が吹き出した。
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と一坐が噴飯だした。
「いや、笑いごとじゃないよ」
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「イヤ笑いごとじゃアないよ」
と上村は少し目くじらを立てて、
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と上村は少し躍起になって、
「たとえて言えばそんなものでしてね。理想に従えばイモばかり食っていなきゃいけない。場合によってはイモも食えなくなる。皆さんは牛肉とジャガイモとどちらがいいですか?」
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「例えてみればそんなものなんで、理想に従がえば芋ばかし喰っていなきゃアならない。ことによると馬鈴薯も喰えないことになる。諸君は牛肉と馬鈴薯とどっちが可い?」
「牛肉がいいなあ!」
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「牛肉が可いねエ!」
と松木はまた眠そうな声で真顔で言った。
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と松木は又た眠むそうな声で真面目に言った。
「でもビフテキにジャガイモはつきものだよ」
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「然しビフテキに馬鈴薯は附属物だよ」
と頬ひげの紳士が得意そうに言った。
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と頬髭の紳士が得意らしく言った。
「そうですとも! 理想というのはすなわち現実のおまけみたいなものだ! ジャガイモもまったくないと困る、しかしジャガイモばかりでは本当にうんざりする!」
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「そうですとも! 理想は則ち実際の附属物なんだ! 馬鈴薯も全きり無いと困る、しかし馬鈴薯ばかりじゃア全く閉口する!」
と言って、上村はやや満足したように岡本の顔を見た。
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と言って、上村はやや満足したらしく岡本の顔を見た。
「でも北海道はジャガイモが名産だって言うじゃないですか」
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「だって北海道は馬鈴薯が名物だって言うじゃアありませんか」
と岡本は平然として尋ねた。
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と岡本は平気で訊ねた。
「そのジャガイモなんですよ。僕はそのジャガイモにはさんざんひどい目にあわされました。竹内さんはご存知ですが、こう見えても僕は同志社の古い卒業生なんです。当時は熱心なクリスチャンの仲間でして、言い換えれば大々的ジャガイモ党だったんです!」
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「その馬鈴薯なんです、僕はその馬鈴薯には散々酷い目に遇ったんです。ね、竹内君は御存知ですが僕はこう見えても同志社の旧い卒業生なんで、矢張その頃は熱心なアーメンの仲間で、言い換ゆれば大々的馬鈴薯党だったんです!」
「君が?」
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「君が?」
といかにも不思議そうな顔で、井山がとろんとした目を見開いた。
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とさも不審そうな顔色で井山がしょぼしょぼ眼を見張った。
「別に不思議はないよ。その頃はまだ若かったんだからね。岡本さんはいくつか知らないけど、僕が同志社を出たのは二十二でした。もう十三年も昔のことです。それはもうお見せしたいくらい熱心なジャガイモ党でしたよ。学校にいた頃から北海道と聞くとぞくぞくするほど憧れていたし、自分を清教徒だと思っていたから、たまらなかった!」
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「何も不思議は無いサ、その頃はウラ若いんだからね、岡本君はお幾歳かしらんが、僕が同志社を出たのは二十二でした。十三年も昔なんです。それはお目に掛けたいほど熱心なる馬鈴薯党でしたがね、学校に居る時分から僕は北海道と聞くと、ぞくぞくするほど惚れていたもんで、清教徒を以て任じていたのだから堪らない!」
「すごい清教徒だ!」
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「大変な清教徒だ!」
と松木がまた口を挟んだのを、上村はちょっとあごで制して、ウイスキーをなめながら
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と松木が又た口を入れたのを、上村は一寸と腮で止めて、ウイスキーを嘗めながら
「この汚れた内地を捨てて、北海道の自由な天地に飛び込もうと思いましたね」
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「断然この汚れたる内地を去って、北海道自由の天地に投じようと思いましたね」
と言った時、岡本はじっと上村の顔を見た。
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と言った時、岡本は凝然と上村の顔を見た。
「そしてやたらに北海道の話を聞いて回ったもんだ。伝道師の中に北海道へ行ってきたという人がいると、すぐ話を聴きに出かけましたよ。ところが先方はうまいことを話して聞かせるんです。自然がどうだの、石狩川は悠々と流れているだの、見渡す限り森また森だの、もうたまらない! 僕はすっかりやられてしまいました。そこで僕は色々と聞き集めたことを総合して、こんなふうな想像を描いていたんです。……まず僕が自分の額に汗して森を開き林を切り倒し、そこに小豆をまく……」
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「そしてやたらに北海道の話を聞いて歩いたもんだ。伝道師の中に北海道へ往って来たという者があると直ぐ話を聴きに出掛けましたよ。ところが又先方は甘いことを話して聞かすんです。やれ自然がどうだの、石狩川は洋々とした流れだの、見渡すかぎり森又た森だの、堪ったもんじゃアない! 僕は全然まいッちまいました。そこで僕は色々と聞きあつめたことを総合して如此ふうな想像を描いていたもんだ。……先ず僕が自己の額に汗して森を開き林を倒し、そしてこれに小豆を撒く、……」
「その百姓が見たかったな、ははははははは」
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「その百姓が見たかったねエハッハッハッハッハッハッ」
と竹内は笑い出した。
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と竹内は笑いだした。
「いや、実際にやったんだよ。まあ待ってくれ、そこへは追い追い行くから……。そのうちにだんだんと田園ができてくる。主にジャガイモを作る。ジャガイモさえあれば食うには困らない……」
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「イヤ実地行ったのサ、まア待ち給え、追い追い其処へ行くから……、その内にだんだんと田園が出来て来る、重に馬鈴薯を作る、馬鈴薯さえ有りゃア喰うに困らん……」
「そら、ジャガイモが出た!」
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「ソラ馬鈴薯が出た!」
と松木がまた口を挟んだ。
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と松木は又た口を入れた。
「そして田園の真ん中に家がある。造りはきわめて粗末だが一見アメリカ風で、ニューイングランド植民地時代そのままという感じにできている。屋根がこう急勾配になっていて物々しい煙突が横に一本。窓をいくつ付けるか、僕は非常に気を揉んだことがありましたっけ……」
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「其処で田園の中央に家がある、構造は極めて粗末だが一見米国風に出来ている、新英洲殖民地時代そのままという風に出来ている、屋根がこう急勾配になって物々しい煙突が横の方に一ツ。窓を幾個附けたものかと僕は非常に気を揉んだことがあったッけ……」
「それで本当にその家ができたのかい」
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「そして真個にその家が出来たのかね」
と井山はまたとろんとした目を見開いた。
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と井山は又しょぼしょぼ眼を見張った。
「いや、これは京都にいた時の想像だよ。窓で気を揉んだのは……そうだそうだ、若王寺へ散歩に行って帰る時だった!」
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「イヤこれは京都に居た時の想像だよ、窓で気を揉んだのは……そうだそうだ若王寺へ散歩に往って帰る時だった!」
「それからどうしましたか?」
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「それからどうしました?」
と岡本は真顔で促した。
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と岡本は真面目で促がした。
「それから北の方に防風林を一区画、なるべく林を多く取っておくことにしました。それから水の澄んだ小川がこの防風林の右のほうからうねり出て屋敷の前を流れる。もちろんその川でアヒルやガチョウが紫の羽や真っ白な背を浮かべているんですよ。この川に三寸の厚さの一枚板で橋が架かっている。この橋に欄干を付けるか付けないかと色々考えたが、やはり付けないほうが自然だということで付けないことに決めました……まあ構造はこんなものですが、僕の想像はこれで満足しなかったんです……まず冬になると……」
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「それから北の方へ防風林を一区劃、なるべくは林を多く取って置くことにしました。それから水の澄み渡った小川がこの防風林の右の方からうねり出て屋敷の前を流れる。無論この川で家鴨や鵞鳥がその紫の羽や真白な背を浮べてるんですよ。この川に三寸厚サの一枚板で橋が懸かっている。これに欄干を附けたものか附けないものかと色々工夫したが矢張り附けないほうが自然だというんで附けないことに定めました……まア構造はこんなものですが、僕の想像はこれで満足しなかったのだ……先ず冬になると……」
「少し話の途中ですが、あなたはその『冬』という言葉に夢中になりませんでしたか?」
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「ちょッとお話の途中ですが、貴様はその『冬』という音にかぶれやアしませんでしたか?」
と岡本は尋ねた。
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と岡本は訊ねた。
上村は驚いた顔つきをして
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上村は驚ろいた顔色をして
「あなたはどうしてそれをご存知で。これは面白い! さすがあなたはジャガイモ党だ! 冬と聞いてはまったくたまりませんでしたよ。なんとなくその冬イコール自由という気がしましてね! それに僕は例の熱心なクリスチャンでしょう。クリスマス万歳の仲間でしょう。クリスマスとなるとどうしても雪がいやというほど降って、軒から棒のようなつらら が下がっていないとおかしいんですよ。だから僕には北海道の冬というより冬イコール北海道という感覚があったんです。北海道の話を聴いても『冬になると……』と言われると、体がこうぶるぶるっとなりました。それであの想像の中でも、冬になると雪がすっかり家を埋めてしまう。そして夜は窓ガラスから赤い炎の明かりがちらちらと漏れる。時おり風がゴーッと吹いてきて林の梢から雪がばたばたと落ちる。牛舎でホルスタインの牝牛がモーッと唸る!」
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「貴様はどうしてそれを御存知です、これは面白い! さすが貴様は馬鈴薯党だ! 冬と聞いては全く堪りませんでしたよ、何だかその冬則ち自由というような気がしましてねエ! それに僕は例の熱心なるアーメンでしょうクリスマス万歳の仲間でしょう、クリスマスと来るとどうしても雪がイヤという程降って、軒から棒のような氷柱が下っていないと嘘のようでしてねエ。だから僕は北海道の冬というよりか冬則ち北海道という感が有ったのです。北海道の話を聴ても『冬になると……』とこういわれると、身体がこうぶるぶるッとなったものです。それで例の想像にもです、冬になると雪が全然家を埋めて了う、そして夜は窓硝子から赤い火影がチラチラと洩れる、折り折り風がゴーッと吹いて来て林の梢から雪がばたばたと墜ちる、牛部屋でホルスタイン種の牝牛がモーッと唸る!」
「君は詩人だ!」
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「君は詩人だ!」
と叫んで床を靴で蹴った者がいる。
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と叫けんで床を靴で蹶たものがある。
それは近藤という、岡本がこの部屋に入ってからも一言も発せず、ただウイスキーを飲み続けていた、背が高く、一筋縄ではいかなそうな顔つきの男だった。
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これは近藤といって岡本がこの部屋に入って来て後も一言を発しないで、唯だウイスキーと首引をしていた背の高い、一癖あるべき顔構をした男である。
「ね、岡本さん!」
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「ねエ岡本君!」
と言い添えた。
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と言い足した。
岡本はただ黙ってうなずくばかりだった。
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岡本はただ、黙言て首肯いたばかりであった。
「詩人? そうさ、その頃は僕も詩人だった。『山々かすみ入相の』というグレーのチャーチャードの翻訳を愛読して自分でも作ってみたもんだよ。今どきの新体詩人から見れば僕は先輩だよ」
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「詩人? そうサ、僕はその頃は詩人サ、『山々霞み入合の』ていうグレーのチャルチャードの飜訳を愛読して自分で作ってみたものだアね、今日の新体詩人から見ると僕は先輩だアね」
「僕も新体詩なら作ったことがあるよ」
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「僕も新体詩なら作ったことがあるよ」
と松木が今度は少し乗り気になって言った。
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と松木が今度は少し乗地になって言った。
「なに、僕だって二つ三つ作ったもんさ」
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「ナーニ僕だって二ツ三ツ作たものサ」
と井山が負けじと真顔で言った。
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と井山が負けぬ気になって真面目で言った。
「綿貫さん、あなたはどうですか?」
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「綿貫君、君はどうだね?」
と竹内が訊いた。
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と竹内が訊ねた。
「いや、恥ずかしいことだが、僕はご承知の通り女っ気のない人間で、詩人気質はまったくなかった。『権利義務』一本で通してきた。どうも僕はかなり俗骨が発達しているらしい!」
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「イヤお恥しいことだが僕は御存知の女気のない通り詩人気は全くなかった、『権利義務』で一貫して了った、どうだろう僕は余程俗骨が発達してるとみえる!」
と綿貫は頭をなでてみた。
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と綿貫は頭を撫てみた。
「いや、僕こそ大変恥ずかしい話だが、これでもやっぱり作りましたよ。そして何かの雑誌に二つ三つ載せたこともあるんだ! ははははははは」
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「イヤ僕こそ甚だお恥しい話だがこれで矢張り作たものだ、そして何かの雑誌に二ツ三ツ載せたことがあるんだ! ハッハッハッハッハッ」
「ははははははは」
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「ハッハッハッハッハッ」
と一同が吹き出してしまった。
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と一同が噴飯して了った。
「そうすると皆さんみんな元詩人なんだね。ははははははは、面白い!」
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「そうすると諸君は皆詩人の古手なんだね、ハッハッハッハッハッ奇談々々!」
と綿貫が叫んだ。
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と綿貫が叫んだ。
「そうか、皆さんも作ったのか。驚いた。昔はみんなジャガイモ党だったんだね」
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「そうか、諸君も作たのか、驚ろいた、その昔は皆な馬鈴薯党なんだね」
と上村は大いに面目を施したという顔つき。
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と上村は大に面目を施こしたという顔色。
「お話の続きをお願いしたいものです」
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「お話の先を願いたいものです」
と岡本は上村を促した。
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と岡本は上村を促がした。
「そうだ、続きをやってくれ!」
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「そうだ、先をやり給え!」
と近藤はほとんど命令するように言った。
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と近藤は殆ど命令するように言った。
「よし! それから僕は卒業してから一年ばかり東京でうろうろしていたが、思い切って北海道へ行った。その時の気持ときたらなかったよ。なんだかこう『馬鹿野郎!』というような気持がしてね。上野の駅で汽車に乗って、ピューッと汽笛が鳴って汽車が動き出すと、僕は窓から頭を出して東京の方を向いて唾を吐きかけたもんだ。そして何とも言えない嬉しさがこみ上げてきて、人知れずハンカチで涙を拭いたよ、本当に!」
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「宜しい! それから僕は卒業するや一年ばかり東京でマゴマゴしていたが、断然と北海道へ行ったその時の心持といったら無いね、何だかこう馬鹿野郎! というような心持がしてねエ、上野の停車場で汽車へ乗って、ピューッと汽笛が鳴って汽車が動きだすと僕は窓から頭を出して東京の方へ向いて唾を吐きかけたもんだ。そして何とも言えない嬉しさがこみ上げて来て人知れずハンケチで涙を拭いたよ真実に!」
「ちょっと君、ちょっと、その『馬鹿野郎!』というような気持というのが僕には理解できないんだが……どういうことなんだい?」
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「一寸と君、一寸と『馬鹿野郎!』というような心持というのが僕には了解が出来ないが……そのどういうんだね?」
と権利義務の綿貫が真顔で尋ねた。
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と権利義務の綿貫が真面目で訊ねた。
「ただ東京の連中のことを言ったんだよ。名誉と利益に必死になっている、あのざまは何だ! 馬鹿野郎! 俺を見ろ! という気持さ」
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「唯だ東京の奴等を言ったのサ、名利に汲々としているその醜態は何だ! 馬鹿野郎! 乃公を見ろ! という心持サ」
と上村もまた真顔で説明を加えた。
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と上村もまた真面目で註解を加えた。
「それから道中は省いて、とにかく無事に北海道の札幌へ着いた。ジャガイモの本場へ着いたわけだ。そして難なく十万坪の土地が手に入った。さあこれからだ、いわゆる額に汗するのはこれからだというので、すぐに着手したんだ。もっとも最初から理想を同じくしている友人、今はやはり僕と同じ会社にいるんだが、その二人で開墾事業に取りかかったのです。そら、竹内さんはご存知でしょう、梶原信太郎のことですよ……」
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「それから道行は抜にして、ともかく無事に北海道は札幌へ着いた、馬鈴薯の本場へ着いた。そして苦もなく十万坪の土地が手に入った。サアこれからだ、所謂る額に汗するのはこれからだというんで直に着手したねエ。尤も僕と最初から理想を一にしている友人、今は矢張僕と同じ会社へ出ているがね、それと二人で開墾事業に取掛ったのだ、そら、竹内君知っておるだろう梶原信太郎のことサ……」
「うん、梶原君が!? あいつもやっぱりジャガイモだったのか、今じゃ豚みたいに太ってるじゃないか」
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「ウン梶原君が!? あれが矢張馬鈴薯だったのか、今じゃア豚のように肥ってるじゃアないか」
と竹内も驚いたようだ。
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と竹内も驚いたようである。
「そうさ。今じゃ鬼みたいな顔して、血のしたたるビフテキを二口で食ってしまうんだ。ところが先生、僕と比べると最初から賢かったね。二か月ほど辛抱していたろうか、ある日こんな馬鹿げたことは断然やめようという動議を出した。その理屈は、わざわざこんな思いをして隠者になる必要はない、自然と戦うよりもむしろ世間と戦おうじゃないか、ジャガイモより牛肉のほうが栄養があるというんだ。僕はその時大いに反対した。君がやめるならやめろ、僕は一人でもやると力んだ。すると先生、やるなら勝手にやれ、君もそのうち悟るだろう、要するに理想は空想だ、馬鹿の夢だ、なんて捨て台詞を吐いてさっさと行ってしまった。取り残された僕は力んではみたものの、内心は心細かった。それでも小作人を一人二人相手に、その後三か月ほど辛抱したんだ。すごいだろう!」
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「そうサ、今じゃア鬼のような顔をして、血のたれるビフテキを二口に喰って了うんだ。ところが先生僕と比較すると初から利口であったねエ、二月ばかりも辛棒していたろうか、或日こんな馬鹿気たことは断然止うという動議を提出した、その議論は何も自からこんな思をして隠者になる必要はない自然と戦うよりか寧ろ世間と格闘しようじゃアないか、馬鈴薯よりか牛肉の方が滋養分が多いというんだ。僕はその時大に反対した、君止すなら止せ、僕は一人でもやると力味んだ。すると先生やるなら勝手にやり給え、君もも少しすると悟るだろう、要するに理想は空想だ、痴人の夢だ、なんて捨台辞を吐いて直ぐ去って了った。取残された僕は力味んではみたものの内内心細かった、それでも小作人の一人二人を相手にその後、三月ばかり辛棒したねエ。豪いだろう!」
「馬鹿なんだよ!」
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「馬鹿なんサ!」
と近藤が叱るように言った。
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と近藤が叱るように言った。
「馬鹿? 馬鹿とはひどい! 今から見れば大馬鹿さ、でもその時は本当に立派だったよ」
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「馬鹿? 馬鹿たア酷だ! 今から見れば大馬鹿サ、然しその時は全く豪かったよ」
「やっぱり馬鹿さ。最初から君なんかのキャラじゃないんだよ。北海道でジャガイモばかり食おうなんていうキャラじゃない。それを知らないで三か月も辛抱するのは馬鹿としか言いようがない!」
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「矢張馬鹿サ、初から君なんかの柄にないんだ、北海道で馬鈴薯ばかり食うなんていう柄じゃアないんだ、それを知らないで三月も辛棒するなア馬鹿としか言えない!」
「馬鹿なら馬鹿でもよいとして、君の言う『キャラじゃない』ということは次第に悟っていったんだ。ありがたいことに、僕にはジャガイモの素質がなかったのだ。それで夏も過ぎ、楽しみにしていた例の『冬』がだんだん近づいてきた。その前触れが秋、まず秋からして思ったより感心しなかった。しんと静まった林の上にパラパラと時雨が降ってくる。日の光が何となく薄い気がする。話し相手もなし。食べるものは一粒いくらするかというような米を少しばかりと例のジャガイモ。寝る場所は木の皮を壁の代わりにした掘っ立て小屋」
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「馬鹿なら馬鹿でもよろしいとして、君のいう『柄にない』ということは次第に悟って来たんだ。難有いことには僕に馬鈴薯の品質が無かったのだ。其処で夏も過ぎて楽しみにしていた『冬』という例の奴が漸次近づいて来た、その露払が秋、第一秋からして思ったよりか感心しなかったのサ、森とした林の上をパラパラと時雨て来る、日の光が何となく薄いような気持がする、話相手はなしサ食うものは一粒幾価と言いそうな米を少しばかりと例の馬の鈴、寝る処は木の皮を壁に代用した掘立小屋」
「それはあなた、覚悟の上だったでしょう!」
原文を見る
「それは貴様覚悟の前だったでしょう!」
と岡本が口を挟んだ。
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と岡本が口を入れた。
「そこですよ。理想より現実のほうがいいというのは。覚悟はしていたものの、やはりあまり感心しなかったですね。まず、それでは痩せますもの」
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「其処ですよ、理想よりか実際の可いほうが可いというのは。覚悟はしていたものの矢張り余り感服しませんでしたねエ。第一、それじゃア痩せますもの」
上村は言って、グラスで少し口を湿らして
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上村は言って杯で一寸と口を湿して
「僕は痩せようとは思っていなかった!」
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「僕は痩せようとは思っていなかった!」
「ははははははははは」
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「ハッハッハッハッハッハッ」
と一同が笑い出した。
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と一同笑いだした。
「そこで僕はつくづく考えた。なるほど梶原の奴の言った通りだ、馬鹿げきっている、やめようというんでやめてしまったが、あれでその冬を過ごしていたら僕は死んでいたね」
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「そこで僕はつくづく考えた、なるほど梶原の奴の言った通りだ、馬鹿げきっている、止そうッというんで止しちまったが、あれであの冬を過ごしたら僕は死でいたね」
「それで今はどういう考えですか、あなたの現在の意見は?」
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「其処でどういうんです、貴様の目下のお説は?」
と岡本はからかうような、しかし真顔の風で言った。
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と岡本は嘲るような、真面目な風で言った。
「だからジャガイモにはこりごりしたというわけです。今は何でも実際主義で、お金が稼げて旨いものが食えて、こうして皆さんとストーブにあたって酒を飲んで、好き勝手な熱弁を交わす。腹が減ったら牛肉を食う……」
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「だから馬鈴薯には懲々しましたというんです。何でも今は実際主義で、金が取れて美味いものが喰えて、こうやって諸君と煖炉にあたって酒を飲んで、勝手な熱を吹き合う、腹が減たら牛肉を食う……」
「同感! 僕も同じ意見だ。忠君愛国だって何だって、牛肉と両立しないことはない。それが両立しないというなら両立させられない、そいつが馬鹿なんだ」
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「ヒヤヒヤ僕も同説だ、忠君愛国だってなんだって牛肉と両立しないことはない、それが両立しないというなら両立さすことが出来ないんだ、其奴が馬鹿なんだ」
と綿貫は大いに意気込んだ。
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と綿貫は大に敦圉いた。
「僕は違うね!」
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「僕は違うねエ!」
と近藤は叫んだ。そしてストーブを背にして椅子に馬乗りになった。
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と近藤は叫んだ、そして煖炉を後に椅子へ馬乗になった。
鋭い光を帯びた目で座の人々を見回しながら
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凄い光を帯びた眼で坐中を見廻しながら
「僕はジャガイモ党でもない、牛肉党でもない! 上村さんみたいな人は最初ジャガイモ党で後に牛肉党に転向した、つまり意志の弱い行動の人だ。要するに皆さんは詩人だ、堕落した詩人だ。だから無暗に鼻をぴくぴくさせて牛の焦げる臭いを嗅いで歩く。そのざまったらない!」
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「僕は馬鈴薯党でもない、牛肉党でもない! 上村君なんかは最初、馬鈴薯党で後に牛肉党に変節したのだ、即ち薄志弱行だ、要するに諸君は詩人だ、詩人の堕落したのだ、だから無暗と鼻をぴくぴくさして牛の焦る臭を嗅いで行く、その醜体ったらない!」
「おいおい、他人の悪口を言う前にまず自分の考えを話すべきだよ。君は何者なんだ」
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「オイオイ、他人を悪口する前に先ず自家の所信を吐くべしだ。君は何の堕落なんだ」
と上村が切り込んだ。
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と上村が切り込んだ。
「堕落? 堕落とは高いところから低いところへ落ちることだろう。僕は幸いにして最初から高いところにいないから、そんな格好の悪いことはしないんだ! 君なんかは主義でジャガイモを食ったのだ。好きで食ったのじゃない。だから牛肉に飢えたのだ。僕なんかは好きで牛肉を食うのだ。だから最初から飢えない代わりに今だってがつがつしない……」
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「堕落? 堕落たア高い処から低い処へ落ちたことだろう、僕は幸にして最初から高い処に居ないからそんな外見ないことはしないんだ! 君なんかは主義で馬鈴薯を喰ったのだ、嗜きで喰ったのじゃアない、だから牛肉に餓えたのだ、僕なんかは嗜きで牛肉を喰うのだ、だから最初から、餓えぬ代り今だってがつがつしない、……」
「まったく要領を得ない!」
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「一向要領を得ない!」
と上村が叫んだ。
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と上村が叫けんだ。
近藤がすぐに何かを言い出そうと構えた時、給仕の一人が近藤のそばに来てその耳に何かをささやいた。
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近藤は直に何ごとをか言い出さんと身構をした時、給使の一人がつかつかと近藤の傍に来てその耳に附いて何ごとをか囁いた。
すると
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すると
「近藤は、この近藤はそれほど寛大な主人ではない、と言ってやれ!」
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「近藤は、この近藤はシカク寛大なる主人ではない、と言ってくれ!」
と怒鳴った。
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と怒鳴った。
「何だ?」
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「何だ?」
と座の一人が驚いて聞いた。
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と坐中の一人が驚いて聞いた。
「なに、車夫の野郎がまた博打に負けたから少し貸してくれと言うんだ。……要領を得ないとは何だ! 大いに要領を得ているじゃないか。君たちは牛肉党なんだ、牛肉主義なんだ。僕のは牛肉がもともと好きなんだ。主義でも何でもない!」
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「ナニ、車夫の野郎、又た博奕に敗けたから少し貸してくれろと言うんだ。……要領を得ないたア何だ! 大に要領を得ているじゃアないか、君等は牛肉党なんだ、牛肉主義なんだ、僕のは牛肉が最初から嗜きなんだ、主義でもヘチマでもない!」
「大いに賛成ですな」
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「大に賛成ですなア」
と静かで落ち着いた声で言った者がいる。
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と静に沈重いた声で言った者がある。
「賛成でしょう!」
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「賛成でしょう!」
と近藤はにやりと笑って岡本の顔を見た。
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と近藤はにやり笑って岡本の顔を見た。
「まったく賛成ですな。主義じゃないということは大いに賛成ですな。世の中の主義とかいうやつほど愚かなものはない」
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「至極賛成ですなア、主義でないと言うことは至極賛成ですなア、世の中の主義って言う奴ほど愚なものはない」
と岡本はその冴えた眼差しを座の人々に向けた。
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と岡本はその冴え冴えした眼光を座上に放った。
「その考えをぜひ聞かせてください、ぜひお願いしたい!」
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「その説を承たまわろう、是非願いたい!」
と近藤はその四角いあごを突き出した。
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と近藤はその四角な腮を突き出した。
「あなたはどちらなんです。牛肉とイモ、どちらですか? イモでしょう?」
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「君は何方なんです、牛と薯、エ、薯でしょう?」
と上村は知ったかぶりに岡本の考えを引き出そうとした。
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と上村は知った顔に岡本の説を誘うた。
「僕もやはり牛肉党でも、ジャガイモ党でもありませんな。でも近藤さんのように牛肉が好きとも決まっていないんです。もちろん例の主義という手作り料理は大嫌いですが、さりとて肉とかイモとかいう好みに従うこともできません」
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「僕も矢張、牛肉党に非ず、馬鈴薯党にあらずですなア、然し近藤君のように牛肉が嗜きとも決っていないんです。勿論例の主義という手製料理は大嫌ですが、さりとて肉とか薯とかいう嗜好にも従うことが出来ません」
「じゃあ何だろう?」
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「それじゃア何だろう?」
と井山はそのもっともらしいとろんとした目をぱちくりさせた。
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と井山がその尤もらしいしょぼしょぼ眼をぱちつかした。
「何でもないんです。たとえを抜きにして率直に言いますが、僕はこれぞという理想を持つこともできず、かといって世間に合わせて欲望を満たして『これで十分だ』と言うこともできないんです。できないんです。しないのではなく。本当のことを言うと、どちらでもいいから決めてしまいたいとは思うけれど、どういうわけかいまだにたった一つ不思議な願いを持っているので、そのためにどちらとも決められないでいます」
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「何でもないんです、比喩は廃して露骨に申しますが、僕はこれぞという理想を奉ずることも出来ず、それならって俗に和して肉慾を充して以て我生足れりとすることも出来ないのです、出来ないのです、為ないのではないので、実をいうと何方でも可いから決めて了ったらと思うけれど何という因果か今以て唯った一つ、不思議な願を持ているからそのために何方とも得決めないでいます」
「何だい、その不思議な願いというのは?」
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「何だね、その不思議な願と言うのは?」
と近藤は例の押しつけるような言い方で問うた。
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と近藤は例の圧しつけるような言振で問うた。
「一口には言えない」
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「一口には言えない」
「まさかオオカミの丸焼きで一杯やりたいという冗談でもないだろう?」
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「まさか狼の丸焼で一杯飲みたいという洒落でもなかろう?」
「まあそんなようなことです。……実は僕、ある娘さんに思いを寄せたことがあります」
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「まずそんなことです。……実は僕、或少女に懸想したことがあります」
と岡本は真顔で語り始めた。
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と岡本は真面目で語り出した。
「面白い面白い、話がいよいよ佳境に入ってきたぞ、それから?」
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「愉快々々、談愈々佳境に入って来たぞ、それからッ?」
と若い松木は椅子をストーブの方へ引き寄せた。
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と若い松木は椅子を煖炉の方へ引寄た。
「少し話が急で恐縮ですが、まず僕の不思議な願いというのを話すにはこのあたりから始めましょう。その娘さんはなかなかの美人でした」
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「少し談が突然ですがね、まず僕の不思議の願というのを話すにはこの辺から初めましょう。その少女はなかなかの美人でした」
「よっ! よっ!」
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「ヨウ! ヨウ!」
と松木は飛び上がらんばかりに喜んだ。
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と松木は躍上らんばかりに喜こんだ。
「どちらかと言えば丸顔で肌がくっきり白く、肩つきが西洋の女性のように肉付きがよくてしかもなだらかで、目は少し眠たそうな雰囲気の、パッキリはしていないけれど物思いに沈んでいるような気配のある、この目に愛嬌を含めてじっと見つめられれば大抵の鉄心漢も溶けてしまいますな。ところで僕はたやすくやられてしまったんです。最初その女性を見た時は特に何とも思っていなかったが、一度が二度、三度目あたりから変に引きつけられるような気がして、妙にその女性のことが気になってきました。それでも僕はまだ恋したとは思っていなかったですね。
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「どちらかと言えば丸顔の色のくっきり白い、肩つきの按排は西洋婦人のように肉附が佳くってしかもなだらかで、眼は少し眠むいような風の、パチリとはしないが物思に沈んでるという気味があるこの眼に愛嬌を含めて凝然と睇視られるなら大概の鉄腸漢も軟化しますなア。ところで僕は容易にやられて了ったのです。最初その女を見た時は別にそうも思っていなかったが、一度が二度、三度目位から変に引つけられるような気がして、妙にその女のことが気になって来ました。それでも僕は未だ恋したとは思いませんでしたねえ。
「ある日僕がその女性の家へ行くと、両親は不在で、ただ女中とその娘さんと十二歳になる妹の三人だけでした。すると娘さんは体の具合が少し悪いと言って気が沈んでいて、奥の間に一人、ぽつんと座っていましたが、低い声で歌を歌っているのを、僕は縁側に腰を下ろしたまま聴いていました。
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「或日僕がその女の家へ行きますと、両親は不在で唯だ女中とその少女と妹の十二になるのと三人ぎりでした。すると少女は身体の具合が少し悪いと言って鬱いで、奥の間に独、つくねんと座っていましたが、低い声で唱歌をやっているのを僕は縁辺に腰をかけたまま聴いていました。
『お栄さん、僕はそんな声を聴かされると何だか切なくてたまりません』
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『お栄さん僕はそんな声を聴かされると何だか哀れっぽくなって堪りません』
と思わず口から出ると
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と思わず口に出しますと
『私はなぜこんな世の中に生きているのかわからないわ』
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『小妹は何故こんな世の中に生きているのか解らないのよ』
と娘さんがいかにも心細そうに言いました。僕にはこれが大哲学者の厭世論より何倍も本物らしく聞こえましたが、その後は詳しく言わなくてもわかるでしょう。
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と少女がさもさも頼なさそうに言いました、僕にはこれが大哲学者の厭世論にも優って真実らしく聞えたが、その先は詳わしく言わないでも了解りましょう。
「二人はたちまち恋の虜となってしまったんです。僕はその時初めて恋の楽しさと悲しさを知りました。二か月ほどというものはまるで夢のように過ぎましたが、その中の出来事を一つ二つ、なかなかの場面をお話しすると、まずこんなこともありましたっけ、
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「二人は忽ち恋の奴隷となって了ったのです。僕はその時初めて恋の楽しさと哀しさとを知りました、二月ばかりというものは全で夢のように過ぎましたが、その中の出来事の一二お安価ない幕を談すと先ずこんなこともありましたっケ、
「ある日の午後五時頃から友人夫婦の洋行する送別会に出席しましたが、僕の恋人も母に連れられて出席しました。会は大変な盛況で、伯爵家の令嬢なども来ていましたが、夜の十時頃にようやくお開きになり、僕はホテルから芝山内の娘さんの家まで、月がきれいだったので歩いて送ることにして母親と三人でぶらぶら行ってきました。道すがら母親は口を極めて洋行する夫婦を褒め、しきりにうらやましそうなことを言っていましたが、その言葉の中には自分の娘があまり世間的な傾向を持っているのを残念がる意味があって、そういう傾向もつきあう友人のせいだと言わんばかりの言い方も混じっていたので、僕と肩を寄せて歩いていた娘さんは僕の手を強く握りました。そこで僕も握り返した。これが母親への儚い反抗だったのです。
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「或日午後五時頃から友人夫婦の洋行する送別会に出席しましたが僕の恋人も母に伴われて出席しました。会は非常な盛会で、中には伯爵家の令嬢なども見えていましたが夜の十時頃漸く散会になり僕はホテルから芝山内の少女の宅まで、月が佳いから歩るいて送ることにして母と三人ぶらぶらと行って来ると、途々母は口を極めて洋行夫婦を褒め頻と羨ましそうなことを言っていましたが、その言葉の中には自分の娘の余り出世間的傾向を有しているのを残念がる意味があって、かかる傾向を有するも要するにその交際する友に由ると言わぬばかりの文句すら交えたので、僕と肩を寄せて歩るいていた娘は、僕の手を強く握りました、それで僕も握りかえした、これが母へ対するはかない反抗であったのです。
「それから山内の森の中に入ると、月が木々の間から青白い光を漏らして一段と趣きを添えていましたが、母親は僕らより五歩ほど先を歩いていました。夜は更けて人の行き来もまばらになっていたから周りはきわめて静かで、僕の靴の音、二人の下駄の響きだけが大きく反響していましたが、さっきの母親の言い方が胸に響いていたので僕も娘さんも無言、母親も急に真剣な顔になって黙って歩いていました。
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「それから山内の森の中へ来ると、月が木間から蒼然たる光を洩して一段の趣を加えていたが、母は我々より五歩ばかり先を歩るいていました。夜は更けて人の通行も稀になっていたから四辺は極めて静に僕の靴の音、二人の下駄の響ばかり物々しゅう反響していたが、先刻の母の言草が胸に応えているので僕も娘も無言、母も急に真面目くさって黙って歩るいていました。
「森の影が暗く月の光を遮った場所に来たと思うと、娘さんはいきなり僕に抱きつかんばかりに寄り添って
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「森影暗く月の光を遮った所へ来たと思うと少女は卒然僕に抱きつかんばかりに寄添って
『あなた、お母さんの言葉を気にして私を見捨てちゃいけませんよ』
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『貴様母の言葉を気にして小妹を見捨ては不可ませんよ』
とささやき、その手を僕の肩にかけるとすぐ左の頬に熱いものがぺたっと触れ、花にも勝る香りが鼻先をかすめました。
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と囁き、その手を僕の肩にかけるが早いか僕の左の頬にべたり熱いものが触て一種、花にも優る香が鼻先を掠めました。
明るい場所に出ると、娘さんの両目には涙がいっぱい溜まっていて、その顔色は物凄いほど青白かったが、一つには月の光を浴びたせいでもあったでしょう。何しろ僕はこれを見ると同時に一種の寒気を感じ、怖いとも悲しいとも言いようのない思いが胸に詰まって、ちょうど鉛の塊が胸を押しつけるように感じました。
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突然明い所へ出ると、少女の両眼には涙が一ぱい含んでいて、その顔色は物凄いほど蒼白かったが、一は月の光を浴びたからでも有りましょう、何しろ僕はこれを見ると同時に一種の寒気を覚えて恐いとも哀しいとも言いようのない思が胸に塞えてちょうど、鉛の塊が胸を圧しつけるように感じました。
「その夜、門口まで送って、母親が少し上がってお茶を飲んでいけと勧めたのを断り、自宅へ帰ろうとしましたが、何か難しい謎をかけられて、それを解くと自分の運命の悲痛がすべてわかってしまうというような気持がして、決してたとえじゃなく、確かにそういう気持がして、どうも気になってならない。そこですぐには帰らず山内の寂しい場所を選んでぶらぶら歩き、いつの間にか丸山の上に出ていたので、ベンチに腰を下ろしてしばらくじっと品川の沖の空を眺めていました。
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「その夜、門口まで送り、母なる人が一寸と上って茶を飲めと勧めたを辞し自宅へと帰路に就きましたが、或難い謎をかけられ、それを解くと自分の運命の悲痛が悉く了解りでもするといったような心持がして、決して比喩じゃアない、確にそういう心持がして、気になってならない。そこで直ぐは帰らず山内の淋むしい所を撰ってぶらぶら歩るき、何時の間にか、丸山の上に出ましたから、ベンチに腰をかけて暫時く凝然と品川の沖の空を眺めていました。
『もしかあの女性はやがて死ぬのではないか』
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『もしかあの女は遠からず死ぬるのじゃアあるまいか』
という考えが稲妻のように僕の心の最も暗い底に閃いたと思うと、僕は思わず飛び上がりました。
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という一念が電のように僕の心中最も暗き底に閃いたと思うと僕は思わず躍り上がりました。
そしてそこらを夢中で行ったり来たり、地を見つめたまま歩きながら『決してそんなことはない』
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そして其所らを夢中で往きつ返りつ地を見つめたまま歩るいて『決してそんなことはない』
『断じてない』
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『断じてない』
と、魔を叱りつけるかのように言ってみたが、魔は決して去らない。僕は時おり足を止めて地を見つめていると、青白い娘さんの顔がありありと目の前に現れてくる。どうしてもその顔色がこの世のものでないことを示している。
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と、魔を叱するかのように言ってみたが、魔は決して去らない、僕はおりおり足を止めて地を凝視ていると、蒼白い少女の顔がありありと眼先に現われて来る、どうしてもその顔色がこの世のものでないことを示している。
「ついに僕は心を落ち着かせて、今夜は十分眠る方がいい、まったく自分の迷いだと決心して丸山を下りかけました。するとさらに僕を惑乱させる出来事にぶつかりました。というのは、上る時は少しも気がつかなかったが、道端の木の枝から人がぶら下がっていたことです。驚きましたね。僕は頭から冷水をかけられたように感じて、そこに突っ立ってしまいました。
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「遂に僕は心を静めて今夜十分眠る方が可い、全く自分の迷だと決心して丸山を下りかけました、すると更に僕を惑乱さする出来事にぶつかりました。というのは上る時は少も気がつかなかったが路傍にある木の枝から人がぶら下っていたことです。驚きましたねエ、僕は頭から冷水をかけられたように感じて、其所に突立って了いました。
「それでも勇気を奮って近づいてみると女でした。もちろんその顔は見えないが、道に脱ぎ捨ててある下駄を見ると年若い女だということがわかる……僕は一切夢中で紅葉館のほうから山内へ下りると突き当たりにあるあの交番まで駆けつけてその旨を告げました……」
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「それでも勇気を鼓して近づいてみると女でした、無論その顔は見えないが、路にぬぎ捨てある下駄を見ると年若の女ということが分る……僕は一切夢中で紅葉館の方から山内へ下りると突当にあるあの交番まで駈けつけてその由を告げました……」
「その女が君の恋していた娘さんだったというんですか」
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「その女が君の恋していた少女であったというのですかね」
と近藤は冷たく言った。
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と近藤は冷ややかに言た。
「それではまるで小説ですが、幸い小説にはなりませんでした。
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「それでは全で小説ですが、幸に小説にはなりませんでした。
「翌々日の新聞を見ると、年は十九歳、兵士と関係を持って妊娠したが兵士は国元に帰ってしまい、身の処置に困って自殺したものらしいと書いてありました。とにかく僕はその夜ほとんど眠れませんでした。
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「翌々日の新聞を見ると年は十九、兵士と通じて懐胎したのが兵士には国に帰って了われ、身の処置に窮して自殺したものらしいと書いてありました、ともかく僕はその夜殆ど眠りませんでした。
「しかし不思議なもので、翌日娘さんの顔を見ると普段と変わらない。そしてあのとろんとした目に笑みを含んで迎えられると、前夜からの心の苦悩は霧のように消えてしまいました。それからまた一か月ほどは何事もなく、ただ嬉しく楽しいことばかりで……」
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「然かし能くしたもので、その翌日少女の顔を見ると平常に変っていない、そしてそのうっとりした眼に笑を含んで迎えられると、前夜からの心の苦悩は霧のように消えて了いました。それから又一月ばかりは何のこともなく、ただうれしい楽しいことばかりで……」
「なるほど、これはただごとじゃないぞ」
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「なるほどこれはお安価くないぞ」
と綿貫が床を蹴って言った。
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と綿貫が床を蹶って言った。
「まあ黙って聞いてくれ、それから」
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「まア黙って聴きたまえ、それから」
と松木はきわめて真剣な顔になった。
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と松木は至極真面目になった。
「その続きを僕が言おうか。こうでしょう、最後にその娘さんがあくびを一つして、それで神聖な恋が終わりになった、そうでしょう?」
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「其先を僕が言おうか、こうでしょう、最後にその少女が欠伸一つして、それで神聖なる恋が最後になった、そうでしょう?」
と近藤もなぜか真顔で言った。
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と近藤も何故か真面目で言った。
「ははははははははは」
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「ハッハッハッハッハッハッ」
と二三人が吹き出してしまった。
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と二三人が噴飯して了った。
「いや、少なくとも僕の恋はそうだった」
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「イヤ少なくとも僕の恋はそうであった」
と近藤は言い添えた。
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と近藤は言い足した。
「君でも恋なんていうことを知っているのかい」
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「君でも恋なんていうことを知っているのかね」
これは井山には似合わない言い草だ。
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これは井山の柄にない言草。
「岡本さんの話の途中だが僕の恋を話そうか? 一分で言える。僕とある娘さんといい仲になった。二人は夢中で楽しい日々を過ごした。三か月目に女があくびを一つした。二人は別れた、これだけさ。要するに誰の恋でもこれが大団円だよ。女という生き物は三か月たつと十人が十人、飽きてしまう。夫婦なら仕方がないからくっついている。でもそれは女があくびを噛み殺してその日を過ごしているに過ぎない。どうです、あなたもそう思いませんか?」
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「岡本君の談話の途中だが僕の恋を話そうか? 一分間で言える、僕と或少女と乙な中になった、二人は無我夢中で面白い月日を送った、三月目に女が欠伸一つした、二人は分れた、これだけサ。要するに誰の恋でもこれが大切だよ、女という動物は三月たつと十人が十人、飽きて了う、夫婦なら仕方がないから結合いている。然しそれは女が欠伸を噛殺してその日を送っているに過ぎない、どうです君はそう思いませんか?」
「そうかもしれません。でも僕のは幸いそのあくびまで達しませんでした。続きを聞いてください。
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「そうかも知れません、然し僕のは幸にその欠伸までに達しませんでした、先を聴いて下さい。
「僕もその頃、上村さんのお話と同じように北海道熱に激しくかかっていました。正直言うと今でも北海道での生活はいいだろうと思っています。それで僕も色々と想像を描いていたので、それを恋人と語り合うのが何よりの楽しみでした。やはり上村さんのアメリカ風の家は、僕も大きな洋紙に鉛筆で図面を引くまでしました。ただ少し違うのは、冬の夜の窓からちらちらと明かりが見えるだけでなく、時おり楽しそうな笑声や、澄んだ声で女が歌う歌声を響かせたかったんです……」
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「僕もその頃、上村君のお話と同様、北海道熱の烈しいのに罹っていました、実をいうと今でも北海道の生活は好かろうと思っています。それで僕も色々と想像を描いていたので、それを恋人と語るのが何よりの楽でした、矢張上村君の亜米利加風の家は僕も大判の洋紙へ鉛筆で図取までしました。しかし少し違うのは冬の夜の窓からちらちらと燈火を見せるばかりでない、折り折り楽しそうな笑声、澄んだ声で歌う女の唱歌を響かしたかったのです、……」
「だって僕は相手がいなかったんですもの」
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「だって僕は相手が無かったのですもの」
と上村が寂しそうに言ったので、どっとみんなが笑った。
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と上村が情けなそうに言ったので、どっと皆が笑った。
「君がジャガイモ党を転向したのも、一つはそのせいだろう」
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「君が馬鈴薯党を変節したのも、一はその故だろう」
と綿貫が言った。
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と綿貫が言った。
「いやそれは嘘だ。上村さんにもし相手がいたら北海道の土を踏む前に転向していただろうと思う。女というやつは到底ジャガイモ主義を実行できるものじゃない。生まれつきのビフテキ党だ、ちょうど僕のようなものだ。女がイモが好きだなんていうのは嘘さ!」
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「イヤそれは嘘言だ、上村君にもし相手があったら北海道の土を踏ぬ先に変節していただろうと思う、女と言う奴が到底馬鈴薯主義を実行し得るもんじゃアない。先天的のビフテキ党だ、ちょうど僕のようなんだ。女は芋が嗜好きなんていうのは嘘サ!」
と近藤が怒鳴るように言った。
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と近藤が怒鳴るように言った。
その最後の一言でまた皆がどっと笑った。
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その最後の一句で又た皆がどっと笑った。
「それで二人は」
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「それで二人は」
と岡本が平然と語り出したのでようやく静まった。
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と岡本が平気で語りだしたので漸々静まった。
「二人は将来の生活の場を北海道と決めていまして、相談もだんだん固まってきたので、僕はひとまず故郷に帰り、親族に預けていた山林田畑をすべて売り払い、その資金で北海道に新しい開墾地を作ろうと、十日間ほどのつもりで帰省したのが、親族の反対やら値段の折り合いやらで思いがけず二十日もかかりました。するとある日、娘さんの母親から電報が来ました。驚いて飛んで帰ってみると、娘さんはもう死んでいました」
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「二人は将来の生活地を北海道と決めていまして、相談も漸く熟したので僕は一先故郷に帰り、親族に托してあった山林田畑を悉く売り飛ばし、その資金で新開墾地を北海道に作ろうと、十日間位の積で国に帰ったのが、親族の故障やら代価の不折合やらで思わず二十日もかかりました。 すると或日少女の母から電報が来ました、驚いて取る物も取あえず帰京してみると、少女は最早死んでいました」
「死んで?」
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「死んで?」
と松木は叫んだ。
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と松木は叫けんだ。
「そうです。それで僕のすべての希望がことごとく水の泡になってしまいました」
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「そうです、それで僕の総ての希望が悉く水の泡となって了いました」
と岡本の言葉がまだ終わらないうちに近藤は次のように言った。それがまるで演説口調で、
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と岡本の言葉が未だ終らぬうち近藤は左の如く言った、それが全で演説口調、
「いや、どうも面白い恋愛話を聴かせていただき、私たち一同感謝の至りに堪えません。しかしながらです、僕は岡本さんのために、その恋人の死を祝します。祝すというのが適切でなければ喜びます、ひそかに喜びます、むしろ喜びます、かえって喜びます。もしもその娘さんが死ななかったとしたら、その結果の悲惨なること、必ず死の悲惨に勝るものがあったに違いないと信じます」
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「イヤどうも面白い恋愛談を聴かされ我等一同感謝の至に堪えません、さりながらです、僕は岡本君の為めにその恋人の死を祝します、祝すというが不穏当ならば喜びます、ひそかに喜びます、寧ろ喜びます、却て喜びます、もしもその少女にして死ななんだならばです、その結果の悲惨なる、必ず死の悲惨に増すものが有ったに違いないと信ずる」
とまでは非常に真顔だったが、自分でも少しおかしくなってきたか急に調子を変え、声を低くして笑みを含ませて、
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とまでは頗る真面目であったが、自分でも少し可笑しくなって来たか急に調子を変え、声を低うし笑味を含ませて、
「なぜかというと、女はあくびをしますから……およそあくびには数種あるが、その中で最も嘆かわしく憎むべきあくびが二種ある。一つは命に飽きたあくび、一つは恋愛に飽きたあくび。命に飽きたあくびは男の特色、恋愛に飽きたあくびは女の天性、一つは最も悲しむべきもの、一つは最も憎むべきものである」
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「何となれば、女は欠伸をしますから……凡そ欠伸に数種ある、その中尤も悲むべく憎くむ可きの欠伸が二種ある、一は生命に倦みたる欠伸、一は恋愛に倦みたる欠伸、生命に倦みたる欠伸は男子の特色、恋愛に倦みたる欠伸は女子の天性、一は最も悲しむべく、一は尤も憎むべきものである」
と少し真剣な口調に戻り、
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と少し真面目な口調に返り、
「つまり女は命に飽きるということはほとんどない。若い女が時々そんな様子を見せることがあるが、それは恋に渇いているところから来る変態に過ぎない。幸いにしてその恋を得ると、その後しばらくは至極楽しそうだ。本当に楽しそうだ。おそらく楽しいという言葉の意味はこういう女性の境遇において尽きているだろう。しかしたちまち飽きてしまう。つまり恋に飽きてしまう。恋に飽きた女ほど始末に悪いものは他にあるまい。僕はこれを憎むべきものと言ったが、実はむしろ憐れむべきものだ。ところが男はそうでない。時として命そのものに飽きることがある。そういう時に恋に出会うと、初めて一方の出口を得る。そこで全ての心を捧げて恋の火の中に飛び込むに至るのだ。そういう場合においては、恋はすなわち男の命だ」
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「則ち女子は生命に倦むということは殆どない、年若い女が時々そんな様子を見せることがある、然しそれは恋に渇しているより生ずる変態たるに過ぎない、幸にしてその恋を得る、その後幾年月かは至極楽しそうだ、真に楽しそうだ、恐らく楽という字の全意義はかかる女子の境遇に於て尽されているだろう。然し忽ち倦で了う、則ち恋に倦でしまう、女子の恋に倦だ奴ほど始末にいけないものは決して他にあるまい、僕はこれを憎むべきものと言ったが実は寧ろ憐れむべきものである、ところが男子はそうでない、往々にして生命そのものに倦むことがある、かかる場合に恋に出遇う時は初めて一方の活路を得る。そこで全き心を捧げて恋の火中に投ずるに至るのである。かかる場合に在ては恋則ち男子の生命である」
と言って岡本を振り向き、
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と言って岡本を顧み、
「ね、そうでしょう。どうです、僕の説は的を射ているでしょう」
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「ね、そうでしょう。どうです僕の説は穿っているでしょう」
「まったく要領を得ない!」
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「一向に要領を得ない!」
と松木が叫んだ。
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と松木が叫けんだ。
「ははははははは、要領を得ない? 実は僕も大して要領を得ていないんだ。ただ今みたいに言いたかっただけで。どうです岡本さん、だから僕は思うんだ。君がジャガイモ党でもビフテキ党でもなく、ただ一つの不思議な願いを持っているということは、死んだ娘さんに会いたいということでしょう」
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「ハッハッハッハッ要領を得ない? 実は僕も余り要領を得ていないのだ、ただ今のように言ってみたいので。どうです岡本君、だから僕は思うんだ君が馬鈴薯党でもなくビフテキ党でもなく唯だ一の不思議なる願を持っているということは、死んだ少女に遇いたいというんでしょう」
「ノー!」
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「否!」
と一声叫んで岡本は椅子から立ち上がった。
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と一声叫けんで岡本は椅子を起った。
彼はもうかなり酔っていた。
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彼は最早余程酔っていた。
「ノーとまず一言置いておきます。皆さんがもし僕の不思議な願いというのを聞いてくれるなら話しましょう」
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「否と先ず一語を下して置きます。諸君にしてもし僕の不思議なる願というのを聴いてくれるなら談しましょう」
「皆さんはどうか知らないが僕は必ず聞く」
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「諸君は知らないが僕は是非聴く」
と近藤は腕を振った。
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と近藤は腕を振った。
みんなはただ黙って岡本の顔を見ていたが、松木と竹内は真剣な顔で、綿貫と井山と上村は笑みを含んで。
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衆皆は唯だ黙って岡本の顔を見ていたが松木と竹内は真面目で、綿貫と井山と上村は笑味を含んで。
「それではノーという一言をもう一度叫んでおきます。
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「それでは否の一語を今一度叫けんで置きます。
「なるほど僕は近藤さんがお察しの通り、恋愛によって一方の出口を開いた男の一人です。だから娘さんの死は僕にとって大打撃で、ほぼすべての希望が打ち砕かれたことは先ほど申し上げた通りです。もし例の返魂香とかいう代物があれば僕は二三百斤買い入れたい。どうか娘さんをもう一度僕の手元に返してほしい。この思いがここに至ると身も世もない気持になります。僕は平気で白状しますが、何度娘さんを思って泣いたでしょう。何度その名を呼んで大空を仰いだでしょう。本当にあの娘さんにもう一度この世に生き返ってきてほしい、それが僕の願いです。
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「なるほど僕は近藤君のお察の通り恋愛に依て一方の活路を開いた男の一人である。であるから少女の死は僕に取ての大打撃、殆ど総ての希望は破壊し去ったことは先程申上げた通りです、もし例の返魂香とかいう価物があるなら僕は二三百斤買い入れたい。どうか少女を今一度僕の手に返したい。僕の一念ここに至ると身も世もあられぬ思がします。僕は平気で白状しますが幾度僕は少女を思うて泣いたでしょう。幾度その名を呼で大空を仰いだでしょう。実にあの少女の今一度この世に生き返って来ることは僕の願です。
「しかし、これが僕の不思議な願いではない。僕の本当の願いではない。僕はもっとずっと大きな、深い、熱心な願いを持っています。この願いさえ叶えば、娘さんが復活しなくてもいい。復活して僕の目の前で僕を裏切っても構わない。娘さんが僕の目の前で赤い舌を出して冷笑しても構わない。
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「しかし、これが僕の不思議なる願ではない。僕の真実の願ではない。僕はまだまだ大なる願、深い願、熱心なる願を以ています。この願さえ叶えば少女は復活しないでも宜しい。復活して僕の面前で僕を売っても宜しい。少女が僕の面前で赤い舌を出して冷笑しても宜しい。
「『朝に道を聞かば夕に死すとも可なり』というのと僕の願いとは大いに意味が異なるが、その気持は同じです。僕はこの願いが叶わないなら、今から百年生きていても何の役にも立たない、まったく嬉しくない、むしろ苦しいと思います。
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「朝に道を聞かば夕に死すとも可なりというのと僕の願とは大に意義を異にしているけれど、その心持は同じです。僕はこの願が叶わん位なら今から百年生きていても何の益にも立ない、一向うれしくない、寧ろ苦しゅう思います。
「世界中の人がみんなこの願いを持っていなくても構わない。僕一人この願いを追います。僕がこの願いを追ったために強盗罪を犯すことになっても悔いない。殺人、放火、何でも構わない。もし鬼がいて僕に保証するに、お前の妻をよこせ我がこれを犯そう、お前の子をよこせ我がこれを食おう、そうすればお前の願いを叶えてやると言えば、僕は飛び上がって喜んで、妻がいれば妻を、子がいれば子を鬼に差し出します」
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「全世界の人悉くこの願を有ていないでも宜しい、僕独りこの願を追います、僕がこの願を追うたが為めにその為めに強盗罪を犯すに至ても僕は悔いない、殺人、放火、何でも関いません、もし鬼ありて僕に保証するに、爾の妻を与えよ我これを姦せん爾の子を与えよ我これを喰わん然らば我は爾に爾の願を叶わしめんと言えば僕は雀躍して妻あらば妻、子あらば子を鬼に与えます」
「こいつは面白い、早くその願いというものを聞きたいもんだ!」
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「こいつは面白い、早くその願というものを聞きたいもんだ!」
と綿貫はそのひげを力任せに引っ張って叫んだ。
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と綿貫がその髯を力任かせに引て叫けんだ。
「今に言います。皆さんは今どきのぐらぐらした政府には飽き飽きされているだろうと思う。そこでビスマルクとカブールとグラッドストンと豊太閤を混ぜ合わせたような人間で鋼鉄のような政府を作り、思い切った政治をやってみたいという希望がきっとあるはずだ。僕も本当にそういう願いを持っています。しかし僕の不思議な願いはこれでもない。
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「今に申します。諸君は今日のようなグラグラ政府には飽きられただろうと思う、そこでビスマークとカブールとグラッドストンと豊太閤みたような人間をつきまぜて一鋼鉄のような政府を形り、思切った政治をやってみたいという希望があるに相違ない、僕も実にそういう願を以ています、しかし僕の不思議なる願はこれでもない。
「聖人になりたい、君子になりたい、慈悲の権化になりたい、キリストや釈迦や孔子のような人になりたい、本当にそうなりたい。しかし、もし僕の不思議な願いが叶わないままでそうなるとしたら、僕は一向に聖人にも神の子にもなりたくありません。
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「聖人になりたい、君子になりたい、慈悲の本尊になりたい、基督や釈迦や孔子のような人になりたい、真実にそうなりたい。しかしもし僕のこの不思議なる願が叶わないで以て、そうなるならば、僕は一向聖人にも神の子にもなりたくありません。
「山林の生活! と言っただけで僕の血が沸きます。つまり僕を北海道に憧れさせたのもこれです。僕は時おり郊外を散歩しますが、この頃の冬の空が晴れて、遠く地平線の上に国境を囲む連山の雪を戴いているのを見ると、すぐ僕の血が波立ちます。たまらなくなる! しかしです、僕の思いがひとたびあの願いに触れると、こんなことは何でもなくなる。もし僕の願いさえ叶うなら、埃まみれの大都市で車夫になっていても構わない。
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「山林の生活! と言ったばかりで僕の血は沸きます。則ち僕をして北海道を思わしめたのもこれです。僕は折り折り郊外を散歩しますが、この頃の冬の空晴れて、遠く地平線の上に国境をめぐる連山の雪を戴いているのを見ると、直ぐ僕の血は波立ちます。堪らなくなる! 然しです、僕の一念ひとたびかの願に触れると、こんなことは何でもなくなる。もし僕の願さえ叶うなら紅塵三千丈の都会に車夫となっていてもよろしい。
「宇宙は不思議だとか、人生は不思議だとか。天地創造の根源は何だとか、やかましい議論があります。科学と哲学と宗教はこれを研究し解明し、そして安心立命の境地をその上に置こうともがいている。僕も大哲学者になりたい、ダーウィンも裸足というほどの大科学者になりたい。あるいは大宗教家になりたい。しかし僕の願いというのはこれでもない。もし僕の願いが叶わないまま大哲学者になったなら、僕は自分を冷笑して自分の顔に『偽り』の一字を焼き印します」
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「宇宙は不思議だとか、人生は不思議だとか。天地創生の本源は何だとか、やかましい議論があります。科学と哲学と宗教とはこれを研究し闡明し、そして安心立命の地をその上に置こうと悶いている、僕も大哲学者になりたい、ダルウィン跣足というほどの大科学者になりたい。もしくは大宗教家になりたい。しかし僕の願というのはこれでもない。もし僕の願が叶わないで以て、大哲学者になったなら僕は自分を冷笑し自分の顔に『偽』の一字を烙印します」
「何だよ、早く言ってくれよ、その願いというやつを!」
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「何だね、早く言いたまえその願というやつを!」
と松木はじれったそうに言った。
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と松木はもどかしそうに言った。
「言いましょう。驚かないでくださいよ」
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「言いましょう、喫驚しちゃアいけませんぞ」
「早く早く!」
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「早く早く!」
岡本は静かに
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岡本は静に
「驚きたいというのが僕の願いなんです」
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「喫驚したいというのが僕の願なんです」
「何だ! ばかばかしい!」
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「何だ! 馬鹿々々しい!」
「何だそれは!」
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「何のこった!」
「落語か!」
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「落語か!」
人々は投げ出すように言ったが、近藤だけは黙って岡本の説明を待っているらしい。
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人々は投げだすように言ったが、近藤のみは黙言て岡本の説明を待ているらしい。
「こういう句があります、
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「こういう句があります、
Awake, poor troubled sleeper: shake off
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Awake, poor troubled sleeper: shake off
thy torpid night-mare dream.
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thy torpid night-mare dream.
つまり僕の願いとは、悪夢を振り払いたいということです!」
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即ち僕の願とは夢魔を振い落したいことです!」
「何のことかわからない!」
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「何のことだか解らない!」
と綿貫はつぶやくように言った。
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と綿貫は呟やくように言った。
「宇宙の不思議を知りたいという願いではない。不思議な宇宙に驚きたいという願いです!」
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「宇宙の不思議を知りたいという願ではない、不思議なる宇宙を驚きたいという願です!」
「ますます謎のようだ!」
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「愈々以て謎のようだ!」
と今度は井山がその顔をすっとなでた。
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と今度は井山がその顔をつるりと撫でた。
「死の秘密を知りたいという願いではない。死というすさまじい事実に驚きたいという願いです!」
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「死の秘密を知りたいという願ではない、死ちょう事実に驚きたいという願です!」
「いくらでも勝手に驚けばいいじゃないか、どうってことない!」
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「イクラでも君勝手に驚けば可いじゃアないか、何でもないことだ!」
と綿貫はあざけるように言った。
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と綿貫は嘲るように言った。
「必ずしも信仰そのものが僕の願いではない。信仰なしには一時も落ち着いていられないほどにこの宇宙と人生の秘義に苦しめられたいというのが僕の願いなんです」
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「必ずしも信仰そのものは僕の願ではない、信仰無くしては片時たりとも安ずる能わざるほどにこの宇宙人生の秘義に悩まされんことが僕の願であります」
「なるほど、これはますます分かりにくいぞ」
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「なるほどこいつは益々解りにくいぞ」
と松木はつぶやいて岡本の顔を穴が空くほど見つめている。
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と松木は呟やいて岡本の顔を穴のあくほど凝視ている。
「むしろ、この使い古したブドウのような眼球をえぐり出したいというのが僕の願いです!」
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「寧ろこの使用い古るした葡萄のような眼球を剜り出したいのが僕の願です!」
と岡本は思わずテーブルを叩いた。
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と岡本は思わず卓を打った。
「愉快愉快!」
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「愉快々々!」
と近藤は思わず声を上げた。
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と近藤は思わず声を揚げた。
「ウォルムスの大会で王侯の威圧に屈しなかったルターの胆力は食いたいとは思わない。彼が十九歳の時に学友アレクシスの落雷死を目の前で見て、死そのものの秘義に驚いた、その心こそが僕の欲するところです。
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「オルムスの大会で王侯の威武に屈しなかったルーテルの胆は喰いたく思わない、彼が十九歳の時学友アレキシスの雷死を眼前に視て死そのものの秘義に驚いたその心こそ僕の欲するところであります。
「勝手に驚けと言われました、綿貫さんは。勝手に驚けとは至極面白い言葉だ。しかし決して勝手には驚けないんです。
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「勝手に驚けと言われました綿貫君は。勝手に驚けとは至極面白い言葉である、然し決して勝手に驚けないのです。
「僕の恋人は死にました。この世から消えてなくなりました。僕は完全に恋の虜だったから、あの娘さんに死なれて僕の心がかき乱されたことははなはだしかった。しかし僕の悲しみは恋の相手がいなくなったことへの悲しみです。死というこの冷酷な事実を真っ直ぐ見ることはできなかった。つまり恋ほど人の心を支配するものはない、その恋よりもさらに何倍もの力を人の心の上に加えるものがあることがわかります。
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「僕の恋人は死ました。この世から消えて失なりました。僕は全然恋の奴隷であったからかの少女に死なれて僕の心は掻乱されてたことは非常であった。しかし僕の悲痛は恋の相手の亡なったが為の悲痛である。死ちょう冷刻なる事実を直視することは出来なかった。即ち恋ほど人心を支配するものはない、その恋よりも更に幾倍の力を人心の上に加うるものがあることが知られます。
「それは習慣の力です。
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「曰く習慣の力です。
Our birth is but asleep and forgetting.
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Our birth is but asleep and forgetting.
この言葉の通りです。
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この句の通りです。
僕らは生まれてこの天地の間に来る。何も知らない子どもの時から様々な出来事に出会う。毎日太陽を見る。毎晩星を仰ぐ。こうしてこの不可思議な天地も、全然不可思議でなくなる。
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僕等は生れてこの天地の間に来る、無我無心の小児の時から種々な事に出遇う、毎日太陽を見る、毎夜星を仰ぐ、ここに於てかこの不可思議なる天地も一向不可思議でなくなる。
生も死も、宇宙のあらゆる現象も当たり前のことになってしまう。
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生も死も、宇宙万般の現象も尋常茶番となって了う。
哲学だ科学だと言って、まるで自分が天地の外に立っているかのような態度でこの宇宙を扱う。
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哲学で候うの科学で御座るのと言って、自分は天地の外に立ているかの態度を以てこの宇宙を取扱う。
Full soon thy soul shall have her earthly freight,
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Full soon thy soul shall have her earthly freight,
And custom lie upon thee with a weight,
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And custom lie upon thee with a weight,
Heavy as frost, and deep almost as life !
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Heavy as frost, and deep almost as life !
この通りです、この通りです!
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この通りです、この通りです!
「つまり僕の願いは、何とかしてこの霜を払い落とすことです。何とかしてこの古びた習慣の重さから抜け出て、驚きの目でこの宇宙の中に立ちたいんです。その結果がビフテキ主義になろうが、ジャガイモ主義になろうが、あるいは厭世家になってこの命を呪おうが、まったく構わない!
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「即ち僕の願はどうにかしてこの霜を叩き落さんことであります。どうにかしてこの古び果てた習慣の圧力から脱がれて、驚異の念を以てこの宇宙に俯仰介立したいのです。その結果がビフテキ主義となろうが、馬鈴薯主義となろうが、将た厭世の徒となってこの生命を咀うが、決して頓着しない!
「結果は構わない。原因を偽りに置きたくない。習慣の上に立つ遊びの研究の上に前提を置きたくない。
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「結果は頓着しません、源因を虚偽に置きたくない。習慣の上に立つ遊戯的研究の上に前提を置きたくない。
「月の光が美しいとか花の夕べがどうだとか、星の夜は何だとか、つまり世の詩人の言葉というのは、あれは道楽です。彼らは決して本物を見てはいない。幻を見ているんです。習慣の目が作り出す幻を見ているに過ぎない。感情の遊びです。哲学でも宗教でも、その本体は知らないが、その末流に至ってはことごとくそうです。
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「ヤレ月の光が美だとか花の夕が何だとか、星の夜は何だとか、要するに滔々たる詩人の文字は、あれは道楽です。彼等は決して本物を見てはいない、まぼろしを見ているのです、習慣の眼が作るところのまぼろしを見ているに過ぎません。感情の遊戯です。哲学でも宗教でも、その本尊は知らぬことその末代の末流に至ては悉くそうです。
「僕の知人にこう言った人があります。『我とは何ぞや(What am I?)』などという馬鹿な問いを自ら発して苦しむ者がいるが、到底知れないことはどうしても知れるものではない、と言って笑いをもらした人がいます。世間並みに言えばその通りです。しかしこの問いは必ずしもその答えを求めるために発した問いではない。本当にこの天地の中での自分というものがいかにも不思議であることを痛感して自然に発した心の叫びです。この問いそのものが心の真剣な声です。これをあざける者はその心の麻痺を告白しているようなものだ。僕の願いはむしろ、何とかしてこの問いを心の底から発したいということなんです。ところがなかなかこの問いは口からは出ても心からは出ない。
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「僕の知人にこう言った人があります。吾とは何ぞや⦅What am I ?⦆なんちょう馬鹿な問を発して自から苦ものがあるが到底知れないことは如何にしても知れるもんでない、とこう言って嘲笑を洩らした人があります。世間並からいうとその通りです、然しこの問は必ずしもその答を求むるが為めに発した問ではない。実にこの天地に於けるこの我ちょうものの如何にも不思議なることを痛感して自然に発したる心霊の叫である。この問その物が心霊の真面目なる声である。これを嘲るのはその心霊の麻痺を白状するのである。僕の願は寧ろ、どうにかしてこの問を心から発したいのであります。ところがなかなかこの問は口から出ても心からは出ません。
「『我はどこから来て、どこへ行くのか』、よく言われる言葉だが、やはりこの問いを発さずにはいられない人の心から、宗教の泉は流れ出るのであって、詩でもそうです。だからそれ以外のものはことごとく遊びで偽りです。
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「我何処より来り、我何処にか往く、よく言う言葉であるが、矢張りこの問を発せざらんと欲して発せざるを得ない人の心から宗教の泉は流れ出るので、詩でもそうです、だからその以外は悉く遊戯です虚偽です。
「もうやめましょう! だめです、だめです、どれだけ言ってもだめです。……ああ、くたびれた! しかし最後に一言だけ言いますがね、僕は人間を二種類に分けたい。すなわち驚く人と、平気な人……」
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「もう止しましょう! 無益です、無益です、いくら言っても無益です。……アア疲労た! しかし最後に一言しますがね、僕は人間を二種に区別したい、曰く驚く人、曰く平気な人……」
「僕はどちらに属するんだろう!」
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「僕は何方へ属するのだろう!」
と松木は笑いながら問うた。
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と松木は笑いながら問うた。
「もちろん、平気な人に属します。ここにいる七人はみんな平気の種類に属します。いや、世界十数億人の中で、平気でない人が何人いるでしょうか。詩人、哲学者、科学者、宗教家、学者でも政治家でも、大概はみんな平気で理屈を言ったり、悟り顔をしたり、泣いたりしているんです。僕は昨夜一つ夢を見ました。
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「無論、平気な人に属します、ここに居る七人は皆な平気の平三の種類に属します。イヤ世界十幾億万人の中、平気な人でないものが幾人ありましょうか、詩人、哲学者、科学者、宗教家、学者でも、政治家でも、大概は皆な平気で理窟を言ったり、悟り顔をしたり、泣いたりしているのです。僕は昨夜一の夢を見ました。
「死ぬ夢を見ました。死んで暗い道を一人でとぼとぼ歩きながら、思わず『まさか死ぬとは思わなかった!』と叫びました。本当です、本当に僕は叫びました。
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「死んだ夢を見ました。死んで暗い道を独りでとぼとぼ辿って行きながら思わず『マサカ死うとは思わなかった!』と叫びました。全くです、全く僕は叫びました。
「そこで僕は思うんです。百人が百人、現在、人の葬式に列していたり、親に死なれたり子に死なれたりしていても、やはり自分が死んだ後、地獄の門でまさか自分が死ぬとは思わなかったと叫んで鬼に笑われる仲間でしょう。ははははははははははは」
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「そこで僕は思うんです、百人が百人、現在、人の葬式に列したり、親に死なれたり子に死れたりしても、矢張り自分の死んだ後、地獄の門でマサカ自分が死うとは思わなかったと叫んで鬼に笑われる仲間でしょう。ハッハッハッハッハッハッハッハッ」
「驚かせてもらえばしゃっくりが止まるそうだが、平気で牛肉が食えるのに好き好んでびっくりしたいというのも物好きだね、ははははは」
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「人に驚かして貰えばしゃっくりが止るそうだが、何も平気で居て牛肉が喰えるのに好んで喫驚したいというのも物数奇だねハハハハ」
と綿貫はそのぽっこり出た腹を抱えた。
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と綿貫はその太い腹をかかえた。
「いや、僕もびっくりしたいと言うけれど、やはり単にそう言うだけですよ、ははははは」
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「イヤ僕も喫驚したいと言うけれど、矢張り単にそう言うだけですよハハハハ」
「ただ言うだけか、ははははは」
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「唯だ言うだけかアハハハハ」
「ただ言うだけのことか、ひひひひ」
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「唯だ言うだけのことか、ヒヒヒヒ」
「そうか! ただお願い申してみる程度なんですね、ははははは」
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「そうか! 唯だお願い申してみる位なんですねハッハッハッハッ」
「やはり道楽ですよ、ははははははは」
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「矢張り道楽でさアハッハッハハッ」
と岡本も一緒に笑ったが、近藤は岡本の顔に言いようのない苦しみの色を見て取った。
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と岡本は一所に笑ったが、近藤は岡本の顔に言う可からざる苦痛の色を見て取った。