外科室 現代語訳
泉鏡花(いずみきょうか)・1971年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23)
上
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上
実を言えば好奇心からだった。とはいえ私は自分が画家であることを都合よく使い、なんとか口実を作って、兄弟のように親しい医学士・高峰を無理やり説き伏せ、ある日、東京郊外の病院で彼がメスを入れる予定だった貴船伯爵夫人の手術を、私に見せてもらえるよう取り計らったのだ。
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実は好奇心のゆえに、しかれども予は予が画師たるを利器として、ともかくも口実を設けつつ、予と兄弟もただならざる医学士高峰をしいて、某の日東京府下の一病院において、渠が刀を下すべき、貴船伯爵夫人の手術をば予をして見せしむることを余儀なくしたり。
その日の午前九時を過ぎたころ、家を出て病院まで人力車を飛ばした。
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その日午前九時過ぐるころ家を出でて病院に腕車を飛ばしつ。
すぐに外科室のほうへ向かっていくと、向こうから扉を押し開けてすらすらと出てきた、華族のお付き女中らしき器量のいい女性が二、三人、廊下の半ばですれ違った。
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直ちに外科室の方に赴くとき、むこうより戸を排してすらすらと出で来たれる華族の小間使とも見ゆる容目よき婦人二、三人と、廊下の半ばに行き違えり。
見ると、その女性たちの間に、被布を着た七、八歳の女の子が抱き抱えられており、見送るうちに姿が見えなくなった。
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見れば渠らの間には、被布着たる一個七、八歳の娘を擁しつ、見送るほどに見えずなれり。
それだけではなく、玄関から外科室、外科室から二階の病室へと続く長い廊下には、フロックコートを着た紳士、制服姿の武官、あるいは羽織袴の出で立ちの人物、そのほか貴婦人や令嬢たちが、それぞれ並々ならぬ気品をまとい、あちらとすれ違い、こちらで出くわし、歩いたり立ち止まったりして、行き来がまるで織物を織るようにひっきりなしだった。
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これのみならず玄関より外科室、外科室より二階なる病室に通うあいだの長き廊下には、フロックコート着たる紳士、制服着けたる武官、あるいは羽織袴の扮装の人物、その他、貴婦人令嬢等いずれもただならず気高きが、あなたに行き違い、こなたに落ち合い、あるいは歩し、あるいは停し、往復あたかも織るがごとし。
私は、さっき門の前で見た数台の馬車を思い合わせて、心の中でひそかにうなずいた。
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予は今門前において見たる数台の馬車に思い合わせて、ひそかに心に頷けり。
その人たちの中には、沈痛な面持ちの者もいれば、心配そうな者もいれば、あわただしそうな者もいて、誰一人として顔色が穏やかでなく、せわしない靴音や草履の音が、病院特有の静まり返った高い天井と広い建具と長い廊下に異様に響き渡り、なんとも陰惨な雰囲気を漂わせていた。
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渠らのある者は沈痛に、ある者は憂慮わしげに、はたある者はあわただしげに、いずれも顔色穏やかならで、忙しげなる小刻みの靴の音、草履の響き、一種寂寞たる病院の高き天井と、広き建具と、長き廊下との間にて、異様の跫音を響かしつつ、うたた陰惨の趣をなせり。
私はしばらくして外科室に入った。
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予はしばらくして外科室に入りぬ。
そのとき私と目を合わせ、唇のあたりにかすかな微笑を浮かべた医学士は、両手を組んでやや仰向け気味に椅子にもたれていた。
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ときに予と相目して、脣辺に微笑を浮かべたる医学士は、両手を組みてややあおむけに椅子に凭れり。
いまに始まったことではないとはいえ、ほぼわが国の上流社会全体の喜びと悲しみにかかわりかねないこれほど重大な責任を背負いながら、まるで夕食の席に臨んでいるかのように、平然として落ち着いた様子でいられる人間は、おそらく彼くらいのものだろう。
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今にはじめぬことながら、ほとんどわが国の上流社会全体の喜憂に関すべき、この大いなる責任を荷える身の、あたかも晩餐の筵に望みたるごとく、平然としてひややかなること、おそらく渠のごときはまれなるべし。
助手が三人、立ち会いの医学博士が一人、そのほかに赤十字の看護婦が五名いた。
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助手三人と、立ち会いの医博士一人と、別に赤十字の看護婦五名あり。
看護婦の中には胸に勲章を付けた者もいて、どこか高貴なところから特別に派遣されてきたのだろうと思われた。
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看護婦その者にして、胸に勲章帯びたるも見受けたるが、あるやんごとなきあたりより特に下したまえるもありぞと思わる。
女性はほかにはいなかった。
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他に女性とてはあらざりし。
なにがし公と、なにがし侯と、なにがし伯と、みな立ち会いの親族だった。
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なにがし公と、なにがし侯と、なにがし伯と、みな立ち会いの親族なり。
そして、なんとも言葉では言い表せないような表情で、悲しそうに立っているのが、患者の夫である伯爵だった。
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しかして一種形容すべからざる面色にて、愁然として立ちたるこそ、病者の夫の伯爵なれ。
室内のこの人々に見守られ、室外のあの方々に心配されながら、塵の一粒まで数えられそうなほど明るく、それでいてどこかただならぬ、近寄りがたい雰囲気を漂わせる外科室の中央に据えられた手術台の上、伯爵夫人は純白の白衣をまとい、まるで亡骸のように横たわっていた。顔の色は際立って白く、鼻は高く、顎は細く、手足はまるで薄絹の重さにも耐えられないほど繊細だった。
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室内のこの人々に瞻られ、室外のあのかたがたに憂慮われて、塵をも数うべく、明るくして、しかもなんとなくすさまじく侵すべからざるごとき観あるところの外科室の中央に据えられたる、手術台なる伯爵夫人は、純潔なる白衣を絡いて、死骸のごとく横たわれる、顔の色あくまで白く、鼻高く、頤細りて手足は綾羅にだも堪えざるべし。
唇の色が少し褪せており、そこから宝石のような前歯がわずかにのぞき、目はかたく閉じられていたが、眉はどことなく顰められているように見えた。
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脣の色少しく褪せたるに、玉のごとき前歯かすかに見え、眼は固く閉ざしたるが、眉は思いなしか顰みて見られつ。
ゆるく束ねた髪は、ふさふさと枕の上に乱れ、台の上にこぼれていた。
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わずかに束ねたる頭髪は、ふさふさと枕に乱れて、台の上にこぼれたり。
そのか細くも気品があり、清らかで尊く美しい患者の姿を一目見た瞬間、私は背筋が寒くなった。
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そのかよわげに、かつ気高く、清く、貴く、うるわしき病者の俤を一目見るより、予は慄然として寒さを感じぬ。
医学士はどうかといえば、ふと見ると、彼は少しも感情を揺らしていないかのように、虚心で平然とした様子を見せており、室内で椅子に座っているのは彼だけだった。
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医学士はと、ふと見れば、渠は露ほどの感情をも動かしおらざるもののごとく、虚心に平然たる状露われて、椅子に坐りたるは室内にただ渠のみなり。
その並外れた落ち着きぶりを頼もしいと言えば言えるが、伯爵夫人のあの様子を見た私の目には、むしろ癪に障るほど冷静すぎるように感じられた。
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そのいたく落ち着きたる、これを頼もしと謂わば謂え、伯爵夫人の爾き容体を見たる予が眼よりはむしろ心憎きばかりなりしなり。
そのとき、静かに扉を押し開け、しずしずとここに入ってきたのは、先ほど廊下ですれ違った三人の腰元のうちで、とりわけ目を引いた女性だった。
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おりからしとやかに戸を排して、静かにここに入り来たれるは、先刻に廊下にて行き逢いたりし三人の腰元の中に、ひときわ目立ちし婦人なり。
貴船伯爵のほうへそっと向き直り、落ち着いた声で、
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そと貴船伯に打ち向かいて、沈みたる音調もて、
「旦那様、姫様はようやくお泣き止みになられて、別室でおとなしくしていらっしゃいます」
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「御前、姫様はようようお泣き止みあそばして、別室におとなしゅういらっしゃいます」
伯爵は何も言わずにうなずいた。
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伯はものいわで頷けり。
看護婦が医学士の前に進み出て、
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看護婦はわが医学士の前に進みて、
「それでは、先生」
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「それでは、あなた」
「よろしい」
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「よろしい」
と一言答えた医学士の声は、このとき私の耳には少し震えを帯びて聞こえた。
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と一言答えたる医学士の声は、このとき少しく震いを帯びてぞ予が耳には達したる。
その顔色は、どうしたことか、急に少し変わった。
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その顔色はいかにしけん、にわかに少しく変わりたり。
なるほど、どんな医学士も、いざという場面に臨んでは、さすがに緊張しないわけがないのだと、私は同情を覚えた。
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さてはいかなる医学士も、驚破という場合に望みては、さすがに懸念のなからんやと、予は同情を表したりき。
看護婦は医学士の意向を受けてから、例の腰元に向き直り、
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看護婦は医学士の旨を領してのち、かの腰元に立ち向かいて、
「もう、ですから、あのことを、ちょっと、あなたから」
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「もう、なんですから、あのことを、ちょっと、あなたから」
腰元はその意を汲んで、手術台のそばに擦り寄り、優雅に膝のあたりまで両手を下げてしとやかに立礼し、
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腰元はその意を得て、手術台に擦り寄りつ、優に膝のあたりまで両手を下げて、しとやかに立礼し、
「奥様、ただいまお薬を差し上げます。どうぞそれを聞いて、いろはでも数字でも、お数えになるようにしてください」
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「夫人、ただいま、お薬を差し上げます。どうぞそれを、お聞きあそばして、いろはでも、数字でも、お算えあそばしますように」
伯爵夫人は答えなかった。
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伯爵夫人は答なし。
腰元は恐る恐る繰り返して、
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腰元は恐る恐る繰り返して、
「お聞きになりましたでしょうか」
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「お聞き済みでございましょうか」
「ああ」
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「ああ」
とだけお答えになった。
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とばかり答えたまう。
念を押して、
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念を推して、
「それではよろしゅうございますね」
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「それではよろしゅうございますね」
「なんだい、麻酔剤かい」
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「何かい、痲酔剤をかい」
「はい、手術が終わるまでの少しの間、眠らないといけないそうです」
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「はい、手術の済みますまで、ちょっとの間でございますが、御寝なりませんと、いけませんそうです」
夫人は黙って考えていたが、
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夫人は黙して考えたるが、
「いや、やめておこう」
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「いや、よそうよ」
と言う声ははっきりと聞こえた。
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と謂える声は判然として聞こえたり。
一同は顔を見合わせた。
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一同顔を見合わせぬ。
腰元は、諭すように、
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腰元は、諭すがごとく、
「それでは奥様、お治療ができません」
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「それでは夫人、御療治ができません」
「はあ、できなくてもいいよ」
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「はあ、できなくってもいいよ」
腰元は言葉もなく、振り返って伯爵の顔色をうかがった。
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腰元は言葉はなくて、顧みて伯爵の色を伺えり。
伯爵が前に進み出て、
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伯爵は前に進み、
「おい、そんな無理を言ってはいけません。できなくてもいいなんてことがあるものか。わがままを言ってはなりません」
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「奥、そんな無理を謂ってはいけません。できなくってもいいということがあるものか。わがままを謂ってはなりません」
侯爵もかたわらから口をはさんだ。
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侯爵はまたかたわらより口を挟めり。
「そんなに無理ばかり言うなら、姫を連れてきて見せるよ。早くよくならなくてどうする」
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「あまり、無理をお謂やったら、姫を連れて来て見せるがいいの。疾くよくならんでどうするものか」
「はい」
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「はい」
「それではご納得いただけましたか」
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「それでは御得心でございますか」
腰元はその間を取り持った。
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腰元はその間に周旋せり。
夫人は重そうな頭を横に振った。
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夫人は重げなる頭を掉りぬ。
看護婦の一人が優しい声で、
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看護婦の一人は優しき声にて、
「どうしてそんなに嫌がるんですか、少しもいやなものじゃありませんよ。うとうとしているうちにすぐ終わってしまいます」
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「なぜ、そんなにおきらいあそばすの、ちっともいやなもんじゃございませんよ。うとうとあそばすと、すぐ済んでしまいます」
そのとき夫人の眉が動き、口が歪んで、一瞬苦痛に耐えられないような様子を見せた。
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このとき夫人の眉は動き、口は曲みて、瞬間苦痛に堪えざるごとくなりし。
半分目を開いて、
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半ば目を睜きて、
「そんなに強いるなら仕方がない。私にはね、心に一つ秘密がある。麻酔剤はうわ言を言うと聞くから、それがこわくてなりません。どうぞもう、眠らずに治療ができないというなら、もう治らなくてもいい、やめてください」
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「そんなに強いるなら仕方がない。私はね、心に一つ秘密がある。痲酔剤は譫言を謂うと申すから、それがこわくってなりません。どうぞもう、眠らずにお療治ができないようなら、もうもう快らんでもいい、よしてください」
聞けば、伯爵夫人は心の中の秘密を、夢うつつの状態のときに人に呟いてしまうことを恐れて、それを死をもって守ろうとしているのだった。
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聞くがごとくんば、伯爵夫人は、意中の秘密を夢現の間に人に呟かんことを恐れて、死をもてこれを守ろうとするなり。
夫である男がこれを聞いたとき、胸の中はどんなだったか。
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良人たる者がこれを聞ける胸中いかん。
この言葉が普通の状況で発せられていたなら、必ず一騒ぎ起こしたに違いないが、患者に対して看護の立場に立っている者は、何ごともこれを不問に付さなければならない。
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この言をしてもし平生にあらしめば必ず一条の紛紜を惹き起こすに相違なきも、病者に対して看護の地位に立てる者はなんらのこともこれを不問に帰せざるべからず。
しかも自分の口からあからさまに秘密があって他人に聞かせることはできないと、きっぱり言い切った夫人の胸の内を推し量ると。
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しかもわが口よりして、あからさまに秘密ありて人に聞かしむることを得ずと、断乎として謂い出だせる、夫人の胸中を推すれば。
伯爵は穏やかに、
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伯爵は温乎として、
「わしにも、聞かせられないことなのか。ね、おい」
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「わしにも、聞かされぬことなんか。え、奥」
「はい。だれにも聞かせることはできません」
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「はい。だれにも聞かすことはなりません」
夫人の態度は毅然としていた。
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夫人は決然たるものありき。
「何も麻酔を嗅いだからって、うわ言を言うと決まったことでもなかろうに」
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「何も痲酔剤を嗅いだからって、譫言を謂うという、極まったこともなさそうじゃの」
「いいえ、これだけ思っていれば、きっと言ってしまうに違いありません」
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「いいえ、このくらい思っていれば、きっと謂いますに違いありません」
「そんな、また、無理を言う」
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「そんな、また、無理を謂う」
「もう、ご勘弁ください」
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「もう、御免くださいまし」
投げやりにそう言いながら、伯爵夫人は寝返りを打って横を向こうとしたが、病んだ体では思うままにならず、歯を鳴らす音が聞こえた。
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投げ棄つるがごとくかく謂いつつ、伯爵夫人は寝返りして、横に背かんとしたりしが、病める身のままならで、歯を鳴らす音聞こえたり。
そのせいで顔色を変えなかった者は、あの医学士一人だけだった。
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ために顔の色の動かざる者は、ただあの医学士一人あるのみ。
彼はさっきどうしたことか一時平静を失っていたが、今またすっかり落ち着きを取り戻していた。
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渠は先刻にいかにしけん、ひとたびその平生を失せしが、いまやまた自若となりたり。
侯爵は渋い顔をして、
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侯爵は渋面造りて、
「貴船、これはどうにも姫を連れてきて見せるしかなかろう。子どもへの愛情があれば、どんなにわがままでも折れるだろう」
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「貴船、こりゃなんでも姫を連れて来て、見せることじゃの、なんぼでも児のかわいさには我折れよう」
伯爵はうなずいて、
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伯爵は頷きて、
「おい、綾」
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「これ、綾」
「はい」
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「は」
と腰元は振り返る。
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と腰元は振り返る。
「なんでも、姫を連れてこい」
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「何を、姫を連れて来い」
夫人は堪りかねて遮って、
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夫人は堪らず遮りて、
「綾、連れてこなくていい。なぜ、眠らなければ治療はできないのか」
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「綾、連れて来んでもいい。なぜ、眠らなけりゃ、療治はできないか」
看護婦は困ったような微笑を浮かべて、
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看護婦は窮したる微笑を含みて、
「お胸を少し切りますので、動いてしまうと危険です」
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「お胸を少し切りますので、お動きあそばしちゃあ、危険でございます」
「なに、私はじっとしている。動きやしないから、切っておくれ」
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「なに、わたしゃ、じっとしている。動きゃあしないから、切っておくれ」
私はその何とも純朴な言葉に、思わず背筋が寒くなるのを抑えられなかった。
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予はそのあまりの無邪気さに、覚えず森寒を禁じ得ざりき。
おそらく今日の切開手術は、目を開けてそのまま見ていられる者はいないだろうと思えたのに。
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おそらく今日の切開術は、眼を開きてこれを見るものあらじとぞ思えるをや。
看護婦はまた言った。
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看護婦はまた謂えり。
「それは奥様、いくらなんでも少しはお痛みになるでしょうから、爪を切るのとは違いますよ」
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「それは夫人、いくらなんでもちっとはお痛みあそばしましょうから、爪をお取りあそばすとは違いますよ」
夫人はここではっきりと目を見開いた。
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夫人はここにおいてぱっちりと眼を睜けり。
正気に戻ったかのように、声はきっぱりとして、
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気もたしかになりけん、声は凛として、
「メスを取る先生は、高峰様でしょうね!」
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「刀を取る先生は、高峰様だろうね!」
「はい、外科科長です。いくら高峰様でも痛くなくお切り申し上げることはできません」
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「はい、外科科長です。いくら高峰様でも痛くなくお切り申すことはできません」
「いいよ、痛くないよ」
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「いいよ、痛かあないよ」
「夫人、あなたのご病気はそんな手軽なものではありません。肉を削ぎ、骨を削るんです。少しの間、我慢してください」
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「夫人、あなたの御病気はそんな手軽いのではありません。肉を殺いで、骨を削るのです。ちっとの間御辛抱なさい」
立ち会いの医学博士が、ここで初めてそう言った。
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臨検の医博士はいまはじめてかく謂えり。
これは到底、関羽雲長のような人物でなければ、耐えられることではない。
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これとうてい関雲長にあらざるよりは、堪えうべきことにあらず。
しかし夫人は驚く様子もない。
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しかるに夫人は驚く色なし。
「そのことは存じております。でもちっともかまいません」
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「そのことは存じております。でもちっともかまいません」
「あまりの重病で、どうにかなってしまったのだろう」
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「あんまり大病なんで、どうかしおったと思われる」
と伯爵は悲しそうにつぶやいた。
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と伯爵は愁然たり。
侯爵は、かたわらから、
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侯爵は、かたわらより、
「とにかく、今日はまあ見合わせたらどうだろう。あとでゆっくり言い聞かせるのがいいだろう」
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「ともかく、今日はまあ見合わすとしたらどうじゃの。あとでゆっくりと謂い聞かすがよかろう」
伯爵が一も二もなく同意し、その場の皆もこれに賛同しようとするのを見て、あの医学博士が遮った。
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伯爵は一議もなく、衆みなこれに同ずるを見て、かの医博士は遮りぬ。
「少しでも遅れたら取り返しがつきません。そもそも、あなたがたは病気を軽く見ておられるから話が進まない。感情をどうこう言うのは姑息です。看護婦、ちょっとお押えしてください」
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「一時後れては、取り返しがなりません。いったい、あなたがたは病を軽蔑しておらるるから埒あかん。感情をとやかくいうのは姑息です。看護婦ちょっとお押え申せ」
非常に厳しい命令のもと、五名の看護婦はバラバラと夫人を取り囲み、その手と足を押さえようとした。
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いと厳かなる命のもとに五名の看護婦はバラバラと夫人を囲みて、その手と足とを押えんとせり。
彼女たちは服従することを責務としている。
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渠らは服従をもって責任とす。
ただ医師の命令に従えばよく、他の感情をあれこれ気にする必要はないのだ。
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単に、医師の命をだに奉ずればよし、あえて他の感情を顧みることを要せざるなり。
「綾! 来ておくれ。あれ!」
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「綾! 来ておくれ。あれ!」
と夫人が絶え入るような息で腰元を呼ぶと、腰元は慌てて看護婦を遮り、
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と夫人は絶え入る呼吸にて、腰元を呼びたまえば、慌てて看護婦を遮りて、
「まあ、ちょっと待ってください。奥様、どうぞご勘弁あそばして」
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「まあ、ちょっと待ってください。夫人、どうぞ、御堪忍あそばして」
と優しい腰元はおろおろした声で言った。
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と優しき腰元はおろおろ声。
夫人の顔は青ざめ、
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夫人の面は蒼然として、
「どうしても聞いてもらえないのですか。それじゃ治っても死んでしまいます。いいからこのままで手術をしてくださいと言っているのに」
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「どうしても肯きませんか。それじゃ全快っても死んでしまいます。いいからこのままで手術をなさいと申すのに」
と白く細い手を動かし、かろうじて衣紋を少しくつろげながら、美しい胸元を現し、
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と真白く細き手を動かし、かろうじて衣紋を少し寛げつつ、玉のごとき胸部を顕わし、
「さあ、殺されても痛くない。ちっとも動きやしないから、大丈夫だよ。切っていい」
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「さ、殺されても痛かあない。ちっとも動きやしないから、だいじょうぶだよ。切ってもいい」
きっぱりと言い放った言葉と表情は、どちらも揺るがすことができなかった。
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決然として言い放てる、辞色ともに動かすべからず。
さすが高貴な身分の方だけあって威厳が周囲を圧し、室内にいる全員が一斉に息をのんで、大きな咳一つ漏らさず静まり返ったその瞬間、先ほどからわずかな身動きもせず、死んだ灰のように見えていた高峰が、軽く身を起こして椅子を離れ、
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さすが高位の御身とて、威厳あたりを払うにぞ、満堂斉しく声を呑み、高き咳をも漏らさずして、寂然たりしその瞬間、先刻よりちとの身動きだもせで、死灰のごとく、見えたる高峰、軽く見を起こして椅子を離れ、
「看護婦、メスを」
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「看護婦、メスを」
「えっ」
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「ええ」
と看護婦の一人は目を見張ってためらった。
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と看護婦の一人は、目を睜りて猶予えり。
一同が揃って愕然として医学士の顔を見つめるとき、別の看護婦が少し震えながら、消毒したメスを手にとって高峰に渡した。
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一同斉しく愕然として、医学士の面を瞻るとき、他の一人の看護婦は少しく震えながら、消毒したるメスを取りてこれを高峰に渡したり。
医学士はそれを受け取るなり、靴音を軽くして歩を進め、すっと手術台に近づいた。
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医学士は取るとそのまま、靴音軽く歩を移してつと手術台に近接せり。
看護婦はおどおどしながら、
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看護婦はおどおどしながら、
「先生、このままでいいんですか」
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「先生、このままでいいんですか」
「ああ、いいだろう」
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「ああ、いいだろう」
「では、お押え申しましょう」
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「じゃあ、お押え申しましょう」
医学士はちょっと手を上げて軽く押しとどめ、
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医学士はちょっと手を挙げて、軽く押し留め、
「いや、それにも及ばない」
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「なに、それにも及ぶまい」
言うが早いか、その手はすでに患者の胸を切り開いていた。
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謂う時疾くその手はすでに病者の胸を掻き開けたり。
夫人は両手を肩に組んで、身動き一つしなかった。
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夫人は両手を肩に組みて身動きだもせず。
そのとき医学士は、誓いを立てるように、深くて厳かな声で、
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かかりしとき医学士は、誓うがごとく、深重厳粛たる音調もて、
「夫人、責任を負って手術します」
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「夫人、責任を負って手術します」
このとき高峰の様子は、一種神聖で犯しがたい、異様な気配を帯びていた。
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ときに高峰の風采は一種神聖にして犯すべからざる異様のものにてありしなり。
「どうぞ」
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「どうぞ」
と一言答えた夫人の青白い両頬に、刷いたような赤みが潮のように広がった。
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と一言答えたる、夫人が蒼白なる両の頬に刷けるがごとき紅を潮しつ。
じっと高峰を見つめたまま、胸に近づくナイフからも目を背けようとはしなかった。
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じっと高峰を見詰めたるまま、胸に臨めるナイフにも眼を塞がんとはなさざりき。
見れば、雪の中の赤い梅のように、血が胸からさっと流れ出て白衣を染めるとともに、夫人の顔はもとのように真っ青に戻っていたが、はたして約束どおり、足の指すら動かさなかった。
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と見れば雪の寒紅梅、血汐は胸よりつと流れて、さと白衣を染むるとともに、夫人の顔はもとのごとく、いと蒼白くなりけるが、はたせるかな自若として、足の指をも動かさざりき。
ことがここに至るまで、医学士の動きは脱兎のように神速で少しも間がなく、伯爵夫人の胸を切り開いてしまい、その場の全員はもちろん、あの医学博士に至るまで、口をはさむ隙さえなかったのだが、ここにきてようやく、ある者は震え、ある者は顔を覆い、ある者はそっぽを向き、ある者はうなだれ、私はといえば、我を忘れてほとんど心臓まで冷たくなった。
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ことのここに及べるまで、医学士の挙動脱兎のごとく神速にしていささか間なく、伯爵夫人の胸を割くや、一同はもとよりかの医博士に到るまで、言を挟むべき寸隙とてもなかりしなるが、ここにおいてか、わななくあり、面を蔽うあり、背向になるあり、あるいは首を低るるあり、予のごとき、われを忘れて、ほとんど心臓まで寒くなりぬ。
三秒と経たないうちに彼の手術は最も核心の部分に進んでいき、メスが骨に達したと思われるとき、
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三秒にして渠が手術は、ハヤその佳境に進みつつ、メス骨に達すと覚しきとき、
「あ」
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「あ」
と深い声を絞り出して、二十日間も寝返り一つできないと聞いていた夫人が、突然機械のようにその上半身を跳ね起こし、メスを持つ高峰の右腕に両手でしっかりとつかまった。
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と深刻なる声を絞りて、二十日以来寝返りさえもえせずと聞きたる、夫人は俄然器械のごとく、その半身を跳ね起きつつ、刀取れる高峰が右手の腕に両手をしかと取り縋りぬ。
「痛みますか」
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「痛みますか」
「いいえ、あなただから、あなただから」
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「いいえ、あなただから、あなただから」
そう言いかけて伯爵夫人は、がっくりと仰向けに倒れながら、凄絶で冷たい最後の目で医師をじっと見上げて、
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かく言い懸けて伯爵夫人は、がっくりと仰向きつつ、凄冷極まりなき最後の眼に、国手をじっと瞻りて、
「でも、あなたは、あなたは、私を知りますまい!」
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「でも、あなたは、あなたは、私を知りますまい!」
言うより早く、高峰が手にしたメスに片手を添えて、乳の下深くかき切った。
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謂うとき晩し、高峰が手にせるメスに片手を添えて、乳の下深く掻き切りぬ。
医学士は真っ青になって震えながら、
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医学士は真蒼になりて戦きつつ、
「忘れません」
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「忘れません」
その声、その息、その姿、その声、その息、その姿。
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その声、その呼吸、その姿、その声、その呼吸、その姿。
伯爵夫人は嬉しそうに、とても無邪気な微笑みを浮かべながら高峰の手から手を離し、ばったりと枕に倒れ伏したかと思うと、唇の色が変わっていた。
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伯爵夫人はうれしげに、いとあどけなき微笑を含みて高峰の手より手をはなし、ばったり、枕に伏すとぞ見えし、脣の色変わりたり。
そのときの二人の様子は、まるで二人の周りには空もなく、地もなく、社会もなく、他に人が一人もいないかのようだった。
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そのときの二人が状、あたかも二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきがごとくなりし。
下
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下
数えれば、もう九年前のことになる。
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数うれば、はや九年前なり。
高峰がそのころはまだ医科大学の学生だったころのことだ。
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高峰がそのころはまだ医科大学に学生なりしみぎりなりき。
ある日、私は彼と一緒に小石川の植物園を散歩した。
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一日予は渠とともに、小石川なる植物園に散策しつ。
五月五日で、ツツジの花が盛りだった。
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五月五日躑躅の花盛んなりし。
彼と手を携えて芳しい草花の間を出たり入ったりし、園内の公園の池を巡って、咲き揃った藤を見た。
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渠とともに手を携え、芳草の間を出つ、入りつ、園内の公園なる池を繞りて、咲き揃いたる藤を見つ。
足を向けて向こうのツツジの丘に上ろうと、池に沿って歩いていると、向こうから一群れの見物客がやってきた。
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歩を転じてかしこなる躑躅の丘に上らんとて、池に添いつつ歩めるとき、かなたより来たりたる、一群れの観客あり。
洋服姿で山高帽をかぶり口髭を蓄えた男が先頭に立ち、中に三人の女性を囲み、後ろからも同じような男がついてきた。
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一個洋服の扮装にて煙突帽を戴きたる蓄髯の漢前衛して、中に三人の婦人を囲みて、後よりもまた同一様なる漢来れり。
彼らは貴族のお付きの者だった。
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渠らは貴族の御者なりし。
中の三人の女性は、揃って深く張り出した日傘をさし翳して、裾捌きの音がいかにもさやかに、するすると優雅に進んでくる、とすれ違いざまに高峰は、思わず後ろを振り返った。
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中なる三人の婦人等は、一様に深張りの涼傘を指し翳して、裾捌きの音いとさやかに、するすると練り来たれる、と行き違いざま高峰は、思わず後を見返りたり。
「見たか」
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「見たか」
高峰はうなずいた。
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高峰は頷きぬ。
「うむ」
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「むむ」
そのまま丘に上って躑躅を見た。
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かくて丘に上りて躑躅を見たり。
躑躅は美しかった。
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躑躅は美なりしなり。
ただただ赤かっただけだが。
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されどただ赤かりしのみ。
かたわらのベンチに商人らしい若い男が座っていた。
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かたわらのベンチに腰懸けたる、商人体の壮者あり。
「吉さん、今日はいいものを見たなあ」
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「吉さん、今日はいいことをしたぜなあ」
「そうだね、たまにはお前の言うことを聞くのもいいか。浅草へ行ってここへ来なかったら、あんなものを拝めなかっただろう」
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「そうさね、たまにゃおまえの謂うことを聞くもいいかな、浅草へ行ってここへ来なかったろうもんなら、拝まれるんじゃなかったっけ」
「なにしろ、三人揃っているもんだから、どれが桃でどれが桜だかわからないくらいだ」
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「なにしろ、三人とも揃ってらあ、どれが桃やら桜やらだ」
「一人は丸髷じゃないか」
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「一人は丸髷じゃあないか」
「どうせうちには迎えに来てもらえるわけでもなし、丸髷でも束髪でも、何でもいい」
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「どのみちはや御相談になるんじゃなし、丸髷でも、束髪でも、ないししゃぐまでもなんでもいい」
「ところで、あの格好ならてっきり高島田のはずが、銀杏返しで出てきたのはどういうつもりだろう」
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「ところでと、あのふうじゃあ、ぜひ、高島田とくるところを、銀杏と出たなあどういう気だろう」
「銀杏返しが、合点がいかないか」
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「銀杏、合点がいかぬかい」
「ええ、粋なつもりでも外しているよ」
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「ええ、わりい洒落だ」
「なんでも、あなた方がお忍びで、目立たないようにという腹づもりなんだろう。ほら、まん中の人の水際立ったこと。もう一人が影武者というわけだ」
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「なんでも、あなたがたがお忍びで、目立たぬようにという肚だ。ね、それ、まん中の水ぎわが立ってたろう。いま一人が影武者というのだ」
「それでお召し物は何と見た」
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「そこでお召し物はなんと踏んだ」
「藤色と見たよ」
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「藤色と踏んだよ」
「え、藤色とだけじゃあ、うまく表現できていないよ。お前らしくもないじゃないか」
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「え、藤色とばかりじゃ、本読みが納まらねえぜ。足下のようでもないじゃないか」
「眩しくてうなだれてしまったよ、自然と頭が上がらなかった」
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「眩くってうなだれたね、おのずと天窓が上がらなかった」
「そこで帯から下に目をつけたんだろう」
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「そこで帯から下へ目をつけたろう」
「馬鹿を言うな、もったいない。見たかどうかも分からないほど一瞬だったよ。ああ、惜しかった」
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「ばかをいわっし、もったいない。見しやそれとも分かぬ間だったよ。ああ残り惜しい」
「あの歩き方ったら、また格別だったよ。ただもう、すうっとこう霞に乗って行くようだった。裾捌きだの褄はずれなんてことを、なるほどと初めて実感したのは今日が初めてさ。やっぱりお育ちから違うもんだ。もうあれは自然にそのまま雲の上の人になったんだな。どうして下々の者が真似しようとしてもできやしない」
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「あのまた、歩行ぶりといったらなかったよ。ただもう、すうっとこう霞に乗って行くようだっけ。裾捌き、褄はずれなんということを、なるほどと見たは今日がはじめてよ。どうもお育ちがらはまた格別違ったもんだ。ありゃもう自然、天然と雲上になったんだな。どうして下界のやつばらが真似ようたってできるものか」
「ひどいことを言うな」
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「ひどくいうな」
「本当のことだよ。俺はそれ、ご存じのとおり、吉原を三年間、金毘羅様に断ったというもんだ。ところが、なんのことはない。お守りを懸けて、夜中に土手を通ろうっていうんだから。罰が当たらないのが不思議だよ。もうもう今日こそ本当に心を決めた。あんな醜い女たちとどうするものか。見なさい、ほら、そこらに赤いものがちらついているが、どうだ。まるでそら、ゴミか、蛆が蠢いているように見えるじゃないか。馬鹿馬鹿しい」
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「ほんのこったがわっしゃそれご存じのとおり、北廓を三年が間、金毘羅様に断ったというもんだ。ところが、なんのこたあない。肌守りを懸けて、夜中に土堤を通ろうじゃあないか。罰のあたらないのが不思議さね。もうもう今日という今日は発心切った。あの醜婦どもどうするものか。見なさい、アレアレちらほらとこうそこいらに、赤いものがちらつくが、どうだ。まるでそら、芥塵か、蛆が蠢めいているように見えるじゃあないか。ばかばかしい」
「これはずいぶん厳しいね」
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「これはきびしいね」
「冗談じゃない。ほら見ろよ、やっぱりそれ、手があって足で立って、着物も羽織もぞろりと着て、同じような蝙蝠傘を持って立っているところは、まがりなりにもこれだって人間の女だ。しかも若い女だ。若い女に違いないが、さっき拝んだのと比べてどうだ。まるでくすぶって、なんと言っていいか汚れ切っているよ。あれでもおんなじ女だってさ、やれやれ、聞いて呆れる」
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「串戯じゃあない。あれ見な、やっぱりそれ、手があって、足で立って、着物も羽織もぞろりとお召しで、おんなじような蝙蝠傘で立ってるところは、憚りながらこれ人間の女だ。しかも女の新造だ。女の新造に違いはないが、今拝んだのと較べて、どうだい。まるでもって、くすぶって、なんといっていいか汚れ切っていらあ。あれでもおんなじ女だっさ、へん、聞いて呆れらい」
「おやおや、大変なことを言い出したよ。でも全くそうだよ。私もさ、今までちょっとした女を見ると、ついそのなんだ。一緒に歩くお前にもずいぶん迷惑をかけたっけが、今のを見てからもうすっきりした。なんだかせいせいとする、これからはもう女はきっぱりだ」
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「おやおや、どうした大変なことを謂い出したぜ。しかし全くだよ。私もさ、今まではこう、ちょいとした女を見ると、ついそのなんだ。いっしょに歩くおまえにも、ずいぶん迷惑を懸けたっけが、今のを見てからもうもう胸がすっきりした。なんだかせいせいとする、以来女はふっつりだ」
「それじゃあ一生縁がないんじゃないか。源吉とやら、あの姫様のほうから声をかけてきそうもないからね」
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「それじゃあ生涯ありつけまいぜ。源吉とやら、みずからは、とあの姫様が、言いそうもないからね」
「罰が当たるわけがない、当ててみろというもんだ」
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「罰があたらあ、あてこともない」
「でも、あなたやあ、と声がかかったらどうする」
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「でも、あなたやあ、ときたらどうする」
「正直なところ、俺は逃げるよ」
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「正直なところ、わっしは遁げるよ」
「お前もか」
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「足下もか」
「え、君は」
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「え、君は」
「私も逃げるよ」
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「私も遁げるよ」
と目を合わせた。
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と目を合わせつ。
しばらく言葉が途切れた。
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しばらく言途絶えたり。
「高峰、少し歩こうか」
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「高峰、ちっと歩こうか」
私は高峰とともに立ち上がり、あの若者たちから遠ざかったとき、高峰はしみじみとした表情で、
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予は高峰とともに立ち上がりて、遠くかの壮佼を離れしとき、高峰はさも感じたる面色にて、
「ああ、本当の美というのは人をあのように動かすものだよ。君はお手のものだ、よく勉強したまえ」
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「ああ、真の美の人を動かすことあのとおりさ、君はお手のものだ、勉強したまえ」
私は画家だから、そういう意味では動じなかった。
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予は画師たるがゆえに動かされぬ。
数百歩行ったとき、あの大きなクスノキが鬱蒼と茂る木陰の、やや薄暗いあたりを行く藤色の衣の端を、遠くからちらと見た。
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行くこと数百歩、あの樟の大樹の鬱蓊たる木の下蔭の、やや薄暗きあたりを行く藤色の衣の端を遠くよりちらとぞ見たる。
園を出ると、大きくて肥えた馬二頭が立っていて、すりガラスのはまった馬車のそばに、三人の馬丁が休んでいた。
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園を出ずれば丈高く肥えたる馬二頭立ちて、磨りガラス入りたる馬車に、三個の馬丁休らいたりき。
その後九年を経て病院であの出来事があるまで、高峰はあの女性のことについて、私にすら一言も語らなかったが、年齢においても地位においても、高峰はもう妻を持つべき身であるにもかかわらず、家を切り盛りする女性もなく、しかも彼は学生だったころから品行はいっそう謹厳だった。
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その後九年を経て病院のかのことありしまで、高峰はかの婦人のことにつきて、予にすら一言をも語らざりしかど、年齢においても、地位においても、高峰は室あらざるべからざる身なるにもかかわらず、家を納むる夫人なく、しかも渠は学生たりし時代より品行いっそう謹厳にてありしなり。
私はあまり多くを語るまい。
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予は多くを謂わざるべし。
青山の墓地と谷中の墓地と、場所こそ違えど、同じ日に前後して二人は逝った。
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青山の墓地と、谷中の墓地と所こそは変わりたれ、同一日に前後して相逝けり。
天下の宗教家の方々に問いたい。この二人には罪があって、天に行くことはできないのだろうか。
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語を寄す、天下の宗教家、渠ら二人は罪悪ありて、天に行くことを得ざるべきか。