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冬の日 小学生向け

梶井基次郎かじいもとじろう)・1972

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23

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季節は冬至(いちばん昼が短い日)のすぐ近くだった。

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季節は冬至に間もなかった。

堯(たかし)の窓からは、地面の低いところに建ち並ぶ家々の庭や門のそばに立っている木々の葉が、一日ごとにはがれ落ちていくようすが見えた。

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たかしの窓からは、地盤の低い家々の庭や門辺に立っている木々の葉が、一日ごとがれてゆくさまが見えた。

ごんごん胡麻(ごま)という木はお年寄りの女の人のボサボサ髪のようになってしまい、霜に美しく焼けた桜の最後の葉もなくなり、欅(けやき)が風にカサカサと体を震わすたびに、それまで隠れていた景色の一部が見えてきた。

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ごんごん胡麻ごまは老婆の蓬髪ほうはつのようになってしまい、霜に美しくけた桜の最後の葉がなくなり、けやきが風にかさかさ身を震わすごとに隠れていた風景の部分が現われて来た。

もう夜明けごろに来ていたモズ(小鳥の一種)も来なくなった。

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もう暁刻の百舌鳥もずも来なくなった。

そしてある日、屏風(びょうぶ)のように立ち並んだカシの木に、鉛色(えんいろ)のムクドリが何百羽とも知れないほど降り立ったころから、しだいに霜は厳しくなってきた。

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そしてある日、屏風びょうぶのように立ち並んだかしの木へ鉛色の椋鳥むくどりが何百羽と知れず下りた頃から、だんだん霜は鋭くなってきた。

冬になって、堯の肺(はい)が痛むようになった。

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冬になって堯の肺はいたんだ。

落ち葉が積もっている井戸端(いどばた)のしっくい壁に、顔を洗うときに吐く痰(たん)が、黄緑色から鈍(にぶ)い血の色を帯びるようになり、ときにはそれが驚くほど鮮やかな赤に澄んで見えた。

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落葉が降り留っている井戸端の漆喰しっくいへ、洗面のとき吐くたんは、黄緑色からにぶい血の色を出すようになり、時にそれは驚くほど鮮かなくれないに冴えた。

堯が間借りしている二階の四畳半から起き出るころには、家のおかみさんの朝の洗濯はとっくに終わっていて、しっくいの壁はもう乾いてしまっている。

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堯が間借り二階の四畳半で床を離れる時分には、主婦の朝の洗濯はうに済んでいて、漆喰しっくいは乾いてしまっている。

その壁の上に落ちた痰は、水をかけても取れない。

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その上へ落ちた痰は水をかけても離れない。

堯は金魚の子でもつまむようにして、その痰を土管(どかん)の口へ持っていくのだった。

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たかしは金魚の仔でもつまむようにしてそれを土管の口へ持って行くのである。

彼は血のまじった痰を見ても、もう何も感じなくなっていた。

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彼は血の痰を見てももうなんの刺戟しげきでもなくなっていた。

しかし、冷たく澄んだ空気の中でくっきりと浮かぶひとかたまりの色は、なぜかいつもじっと見つめずにはいられなかった。

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が、冷澄な空気の底にえとした一塊のいろどりは、何故かいつもじっと凝視みつめずにはいられなかった。

堯はこのころ、生きようとする気持ちをまったく感じなくなっていた。

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堯はこの頃生きる熱意をまるで感じなくなっていた。

一日一日が彼を引きずっていった。

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一日一日が彼を引きっていた。

そして心の中に居場所をなくした魂は、いつも外の世界へ逃げ出そう逃げ出そうとあせっていた。――

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そして裡に住むべきところをなくした魂は、常に外界へ逃れよう逃れようと焦慮あせっていた。――

昼は部屋の窓を開けて、目の見えない人のように外の景色をじっと見つめる。

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昼は部屋の窓をひらいて盲人のようにそとの風景を凝視みつめる。

夜は家の外の物音や鉄瓶(てつびん)の音に、耳の聞こえない人のように耳をすます。

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夜は屋の外の物音や鉄瓶てつびんの音に聾者ろうじゃのような耳を澄ます。

冬至に近づいていく十一月のもろい日ざしは、しかし、彼が床を出て一時間もたたないうちに、窓の外でどの日もどの日も消えかかっていくのだった。

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冬至に近づいてゆく十一月のもろい陽ざしは、しかし、彼が床を出て一時間とは経たない窓の外で、どの日もどの日も消えかかってゆくのであった。

日かげになってしまった低い土地には、彼の住んでいる家の影でさえ消えてしまっている。

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かげってしまった低地には、彼の棲んでいる家の投影さえ没してしまっている。

それを見ると堯の心には、墨(すみ)のような後悔やいらだちが広がっていくのだった。

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それを見ると堯の心には墨汁のような悔恨やいらだたしさが拡がってゆくのだった。

日当たりはわずかに低い土地を隔てた、灰色の洋風の木造の家に残っていて、そのときそこは何か悲しそうに、遠い地平線に沈んでいく夕日を眺めているかのように見えた。

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日向はわずかに低地をへだてた、灰色の洋風の木造家屋にとどまっていて、その時刻、それはなにか悲しげに、遠い地平へ落ちてゆく入日を眺めているかのように見えた。

冬の日ざしは郵便受けの中にまで差し込んでいる。

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冬陽は郵便受のなかへまで射しこむ。

道路のどんな小さな石粒も一つ一つ影を持っていて、見ていると、それがみなエジプトのピラミッドのように大きな悲しみを浮かべているように見えた。――

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路上のどんな小さな石粒も一つ一つ影を持っていて、見ていると、それがみな埃及エジプトのピラミッドのような巨大コロッサールな悲しみを浮かべている。――

低い土地を隔てた洋館には、そのころ、並んだアオギリの幽霊のような影が映っていた。

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低地を距てた洋館には、その時刻、並んだ蒼桐あおぎりの幽霊のような影が写っていた。

日光のほうへ向かおうとする、もやしのように青白い堯の心のつる先は、知らないうちにその灰色の木造の家のほうへ伸びていって、そこにしみ込んだ不思議な影のあとをなでるのだった。

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向日性を持った、もやしのように蒼白い堯の触手は、不知不識しらずしらずその灰色した木造家屋の方へ伸びて行って、そこににじみ込んだ不思議な影のあとを撫でるのであった。

彼は毎日、その影が消えてしまうまでの時間を、空っぽな気持ちで窓を開けていた。

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彼は毎日それが消えてしまうまでの時間を空虚な心で窓を展いていた。

眺めの北の端を支えているカシの並木は、ある日、鋼鉄(こうてつ)のような強さでしなやかに踊りながら、風を吹き下ろしてきた。

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展望の北隅を支えているかしの並樹は、ある日は、その鋼鉄のような弾性でない踊りながら、風を揺りおろして来た。

すっかり姿の変わった低い土地では、カサコソと枯れ葉が骸骨の踊りのような音を立てた。

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容貌をかえた低地にはカサコソと枯葉が骸骨がいこつの踊りを鳴らした。

そんなとき、アオギリの影は今にも消されてしまいそうにも見えた。

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そんなとき蒼桐の影は今にも消されそうにも見えた。

もう日当たりとは思えないそこに、気のせいほどのかすかな影がまだ残っている。

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もう日向とは思えないそこに、気のせいほどの影がまだ残っている。

そしてそれは木枯らしに追われて、砂漠のような、そこでは影が生きている世界の遠くへ、だんだん姿を消していくのだった。

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そしてそれはこがらしに追われて、砂漠のような、そこでは影の生きている世界の遠くへ、だんだん姿をき消してゆくのであった。

堯はそれを見終わると、絶望に似た気持ちで窓を閉め始める。

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たかしはそれを見終わると、絶望に似た感情で窓を鎖しにかかる。

もう夜を呼ぶばかりの木枯らしに耳をすましていると、あるときはまだ電気もつかない遠くのどこかで、ガラス戸の砕け落ちる音がしていた。

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もう夜を呼ぶばかりの凩に耳を澄ましていると、ある時はまだ電気も来ないどこか遠くでガラス戸のくだけ落ちる音がしていた。

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堯は母から手紙を受け取った。

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堯は母からの手紙を受け取った。

「延子(のぶこ)を亡くしてから父上はすっかり老け込んでしまわれた。おまえの体も普通の体ではないのだから大切にしてください。もうこれ以上の苦労はわたしたちもしたくない。

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「延子をなくしてから父上はすっかり老い込んでおしまいになった。おまえの身体も普通の身体ではないのだから大切にしてください。もうこの上の苦労はわたしたちもしたくない。

わたしはこのごろ夜中に何かに驚いたように目が覚める。

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わたしはこの頃夜中なにかに驚いたように眼が醒める。

頭はおまえのことが気がかりなのだ。

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頭はおまえのことが気懸りなのだ。

いくら考えまいとしても無駄です。

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いくら考えまいとしても駄目です。

わたしは何時間も眠れません。」

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わたしは何時間も眠れません。」

堯はそれを読んで、ある考えに深く悲しくなった。

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堯はそれを読んである考えに悽然せいぜんとした。

人びとが寝静まった夜をはさんで、彼と彼の母がお互いにお互いを悩み苦しんでいる。

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人びとの寝静まった夜を超えて、彼と彼の母が互いに互いを悩み苦しんでいる。

そんなとき、彼の心臓が打つ不吉な鼓動(どうき)が、どうして母を目覚めさせないと言いきれよう。

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そんなとき、彼の心臓に打った不吉な摶動はくどうが、どうして母を眼覚まさないと言い切れよう。

堯の弟は背骨(せぼね)の病気(脊椎カリエス)で死んだ。

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たかしの弟は脊椎せきついカリエスで死んだ。

そして妹の延子も腰の骨の病気(腰椎カリエス)で、意志を失った風景の中を死んでいった。

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そして妹の延子も腰椎ようついカリエスで、意志をうしなった風景のなかを死んでいった。

そこでは、たくさんの虫が一匹の死にかけている虫のまわりに集まって悲しんだり泣いたりしていた。

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そこでは、たくさんの虫が一匹の死にかけている虫の周囲に集まって悲しんだり泣いたりしていた。

そして彼ら二人ともが、土に帰る前の一年間を横たわっていた、白い石こうの床からおろされたのだった。

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そして彼らの二人ともが、土に帰る前の一年間を横たわっていた、白い土の石膏せっこうの床からおろされたのである。

――どうして医者は「今の一年は後の十年だ」

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――どうして医者は「今の一年は後の十年だ」

なんて言うのだろう。

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なんて言うのだろう。

堯はそう言われたとき自分の中に起こった、何か居心地の悪いような気持ちを思い出しながら考えた。

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堯はそう言われたとき自分の裡に起こった何故かばつの悪いような感情を想い出しながら考えた。

――まるで自分がその十年で達成しなければならない目標でも持っているかのように。

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――まるで自分がその十年で到達しなければならない理想でも持っているかのように。

どうしてあと何年で死ぬとは言わないのだろう。

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どうしてあと何年経てば死ぬとは言わないのだろう。

堯の頭には、しばしば目の前に現れる、意志を失った風景が浮かびあがる。

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堯の頭には彼にしばしば現前する意志を喪った風景が浮かびあがる。

暗い冷たい石造りの役所が立ち並んでいる街の電停(でんてい)。

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暗い冷たい石造の官衙かんがの立ち並んでいる街の停留所。

そこで彼は電車を待っていた。

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そこで彼は電車を待っていた。

家へ帰ろうか、にぎやかな街へ出ようか、彼は迷っていた。

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家へ帰ろうかにぎやかな街へ出ようか、彼は迷っていた。

どちらにも決められなかった。

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どちらの決心もつかなかった。

そして電車はいくら待ってもどちらからも来なかった。

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そして電車はいくら待ってもどちらからも来なかった。

押しつぶしてくるような暗い建物の陰影、裸の並木、まばらな街灯の光の列。――

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圧しつけるような暗い建築の陰影、裸の並樹、まばらな街燈の透視図。――

その遠くの交差点(こうさてん)にはときどき通り過ぎる、水族館のように光る電車。

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その遠くの交叉路こうさろには時どき過ぎる水族館のような電車。

風景は急に秩序(ちつじょ)を失った。

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風景はにわかに統制を失った。

その中で彼は激しく形が崩れる感覚を覚えた。

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そのなかで彼は激しい滅形を感じた。

子どものころの堯はネズミ捕りに入ったネズミを川に沈めに行った。

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おさない堯は捕鼠器ほそきに入った鼠を川に漬けに行った。

透明な水の中でネズミは左右に金網をつたい、それは空気の中にいるように見えた。

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透明な水のなかで鼠は左右に金網を伝い、それは空気のなかでのように見えた。

やがてネズミは網目の一つに鼻を突っ込んだまま動かなくなった。

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やがて鼠は網目の一つへ鼻を突っ込んだまま動かなくなった。

白い泡がネズミの口から最後に浮かんだ。……

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白い泡が鼠の口から最後にうかんだ。……

堯は五、六年前までは、自分の病気が約束している死を前にして、ただ甘い悲しみをまき散らしただけで通り過ぎていた。

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たかしは五六年前は、自分の病気が約束している死の前には、ただ甘い悲しみをいただけで通り過ぎていた。

そしていつかそれに気がついてみると、栄養や安静が彼に染みついた、おいしいものへの好みや楽をしようとする気持ちや弱さが、彼から生きていこうとする意志をだんだん奪い取っていた。

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そしていつかそれに気がついてみると、栄養や安静が彼に浸潤した、美食に対する嗜好しこうや安逸や怯懦きょうだは、彼から生きていこうとする意志をだんだんに持ち去っていた。

しかし彼は何度も気持ちを立て直して生活に向かっていった。

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しかし彼は幾度も心を取り直して生活に向かっていった。

しかし、彼の思索(しさく)や行動はいつの間にかうそ偽り(いつわり)の響きを持ち始め、やがてその滑らかさを失って固まってしまった。

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が、彼の思索や行為はいつの間にかいつわりの響をたてはじめ、やがてその滑らかさを失って凝固した。

すると、彼の前には、そういった風景が現われるのだった。

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と、彼の前には、そういった風景が現われるのだった。

何人もの人間があるしるしを見せ、ある経過をたどって死んでいった。

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何人もの人間がある徴候をあらわしある経過を辿って死んでいった。

それと同じしるしがおまえに現れている。

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それと同じ徴候がおまえにあらわれている。

現代の医学者の一人が、堯に初めてそれを告げたとき、彼が拒否する権利もないそのことは、ただ彼がぼんやりと嫌がっていたその病名だけで、頭がそれを受けつけなかった。

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近代科学の使徒の一人が、堯にはじめてそれを告げたとき、彼の拒否する権限もないそのことは、ただ彼が漠然忌み嫌っていたその名称ばかりで、頭がそれを受けつけなかった。

もう彼はそれを拒否しない。

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もう彼はそれを拒否しない。

白い石こうの床は、彼が黒い土に帰るまでの何年かのために用意されている。

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白い土の石膏の床は彼が黒い土に帰るまでの何年かのために用意されている。

そこではもう寝返りを打つことさえ許されないのだ。

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そこではもう転輾てんてんすることさえ許されないのだ。

夜が更けて夜回りの拍子木(ひょうしぎ)の音が聞こえ始めると、堯は暗く沈んだ心の底でつぶやいた。

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夜が更けて夜番の撃柝げきたくの音がきこえ出すと、堯は陰鬱な心の底でつぶやいた。

「おやすみなさい、お母さん」

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「おやすみなさい、お母さん」

拍子木の音は坂や屋敷(やしき)の多い堯の家のあたりを、微妙に変わっていく反響の具合で、それが通り過ぎていく先々の場所を思い浮かばせた。

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撃柝の音は坂や邸の多い堯の家のあたりを、微妙に変わってゆく反響の工合で、それが通ってゆく先ざきを髣髴ほうふつさせた。

肺がきしむ音だと思っていた、はるかかなたの犬の遠吠え。――

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肺のきしむ音だと思っていたはるかな犬の遠え。――

堯には夜回りの姿が見える。

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堯には夜番が見える。

母の眠っている姿が見える。

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母の寝姿が見える。

もっともっと暗く沈んだ心の底で彼はまたつぶやく。

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もっともっと陰鬱な心の底で彼はまたつぶやく。

「おやすみなさい、お母さん」

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「おやすみなさい、お母さん」

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堯は掃除を終えた部屋の窓を大きく開けて、籐(とう)の寝椅子に休んでいた。

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たかしは掃除をすました部屋の窓を明け放ち、とうの寝椅子に休んでいた。

すると、ジュッジュッという鳴き声がして、カナムグラ(つる草の一種)の垣根の陰に、笹鳴きのウグイス(鳥の一種)が見え隠れするのが見えた。

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と、ジュッジュッという啼き声がしてかなむぐらの垣の蔭に笹鳴ささなきのうぐいすが見え隠れするのが見えた。

ジュッ、ジュッ、堯は首をもたげて、口でその鳴き声をまねながら、小鳥のようすを見ていた。――

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ジュッ、ジュッ、堯は鎌首をもたげて、口でその啼き声をねながら、小鳥の様子を見ていた。――

彼は家でカナリヤを飼っていたことがある。

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彼は自家うちでカナリヤを飼っていたことがある。

美しい午前の日光が葉の間からこぼれている。

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美しい午前の日光が葉をこぼれている。

ウグイスは口でまねる音に戸惑ってはいるが、そんな場合のカナリヤなどのように、細やかな感情は見せなかった。

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笹鳴きは口の音に迷わされてはいるが、そんな場合のカナリヤなどのように、機微な感情は現わさなかった。

食欲でよく太っていて、何か固いチョッキでも着たような格好をしている。――

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食欲に肥えふとって、なにか堅いチョッキでも着たような恰好をしている。――

堯がまねるのをやめると、愛想もなく、下の枝の間を渡りながら行ってしまった。

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堯がねをやめると、愛想もなく、下枝の間を渡りながら行ってしまった。

低い土地を隔てて、谷に面した日当たりの良いある貴族の屋敷の庭が見えた。

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低地をへだてて、谷に臨んだ日当りのいいある華族の庭が見えた。

黄色く枯れた朝鮮芝(ちょうせんしば)の上に赤い布団が干してある。――

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黄に枯れた朝鮮芝に赤い蒲団が干してある。――

堯はいつになく早起きをした午前にうっとりとした。

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堯はいつになく早起きをした午前にうっとりとした。

しばらくして彼は、葉が茶色く枯れ落ちている屋根に、ツルモドキ(つる植物の一種)の赤い実がつやつやと現われているのを見ながら、家の門を出た。

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しばらくして彼は、葉が褐色に枯れ落ちている屋根に、つるもどきの赤い実がつややかにあらわれているのを見ながら、家の門を出た。

風もない青空に、黄色に変わりきったイチョウは、静かに影を重ねてゆったりと休んでいた。

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風もない青空に、黄にりきった公孫樹いちょうは、静かに影を畳んで休ろうていた。

白いタイルを張った長い塀が、いかにも澄んだ冬の空気を映していた。

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白い化粧煉瓦を張った長い塀が、いかにも澄んだ冬の空気を映していた。

その下を孫をおぶったお年寄りの女の人がゆっくりゆっくり歩いてくる。

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その下を孫をぶった老婆がゆっくりゆっくり歩いて来る。

堯は長い坂を下りて郵便局へ行った。

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たかしは長い坂を下りて郵便局へ行った。

日が差し込んでいる郵便局は絶えずドアが鳴り、人びとは朝の新鮮な空気をまき散らしていた。

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日の射し込んでいる郵便局は絶えず扉が鳴り、人びとは朝の新鮮な空気をき散らしていた。

堯は長い間こんな空気に接しなかったような気がした。

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堯は永い間こんな空気に接しなかったような気がした。

彼は細い坂をゆっくりゆっくり登った。

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彼は細い坂を緩りゆっくり登った。

サザンカの花やヤツデの花が咲いていた。

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山茶花さざんかの花ややつでの花が咲いていた。

堯は十二月になっても蝶がいるのに驚いた。

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堯は十二月になってもちょうがいるのに驚いた。

蝶の飛んで行った方角には、日光の中を飛ぶアブ(虫の一種)の光る点が忙しく行き交っていた。

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それの飛んで行った方角には日光に撒かれたあぶの光点が忙しく行き交うていた。

「ぼんやりしたような幸せだ」

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痴呆ちほうのような幸福だ」

と彼は思った。

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と彼は思った。

そしてうとうとしながら日だまりでしゃがんでいた。――

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そしてうつらうつら日溜りにかがまっていた。――

やはりその日だまりの少し離れたところで小さい子どもたちが何かして遊んでいた。

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やはりその日溜りの少し離れたところに小さい子供達がなにかして遊んでいた。

四、五歳の男の子や女の子たちだった。

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四五歳の童子や童女達であった。

「見ていないだろうな」

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「見てやしないだろうな」

と思いながら堯は浅く水が流れている溝の中へ痰を吐いた。

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と思いながら堯は浅く水が流れている溝のなかへ痰を吐いた。

そして彼らのほうへ近づいていった。

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そして彼らの方へ近づいて行った。

女の子で元気よくはしゃいでいるのもあった。

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女の子であばれているのもあった。

男の子でおとなしくしているのもあった。

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男の子で温柔おとなしくしているのもあった。

幼い(おさない)線が石ころで道に描かれていた。――

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おさない線が石墨で路に描かれていた。――

堯はふと、これはどこかで見たことのある景色だと思った。

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堯はふと、これはどこかで見たことのある情景だと思った。

不意に心が揺れた。

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不意に心が揺れた。

揺り起こされたアブが、ぼんやりとした堯の過去へ飛び去った。

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揺り覚まされた虻が茫漠ぼうばくとした堯の過去へ飛び去った。

その暖かく晴れた年の末の午前へ。

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そのうららかな臘月ろうげつの午前へ。

堯のアブが見つけた。

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たかしあぶは見つけた。

サザンカを。

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山茶花を。

その花びらのこぼれるあたりで遊んでいる子どもたちを。――

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その花片のこぼれるあたりに遊んでいる童子たちを。――

それはたとえば彼が半紙などを忘れて学校へ行ったとき、先生に断りを言って急いで家へ取りに帰ってくる、学校は授業中の、何か珍しい午前の道であった。

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それはたとえば彼が半紙などを忘れて学校へ行ったとき、先生に断わりを言って急いで自家うちへ取りに帰って来る、学校は授業中の、なにか珍しい午前の路であった。

そんなときでなければ垣間見ることを許されなかった、神聖な時刻のようすであった。

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そんなときでもなければ垣間かいま見ることを許されなかった、聖なる時刻の有様であった。

そう思ってみて堯は微笑んだ。

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そう思ってみて堯は微笑ほほえんだ。

午後になって、日がいつもの角度に傾くと、この考えは堯を悲しくした。

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午後になって、日がいつもの角度に傾くと、この考えは堯を悲しくした。

幼いころの古ぼけた写真の中に残っていた日だまりのような弱い日ざしが物を照らしていた。

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おさないときの古ぼけた写真のなかに、残っていた日向ひなたのような弱陽が物象を照らしていた。

希望を持てない者が、どうして思い出をいとしむことができよう。

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希望を持てないものが、どうして追憶をいつくしむことができよう。

将来に今朝のような明るさを感じたことが最近の自分にあるだろうか。

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未来に今朝のような明るさを覚えたことが近頃の自分にあるだろうか。

そして今朝の思いつきも結局は、ロシアの貴族のように午後二時ごろの朝ごはんが生活の習慣になっていたということの、よい証拠ではないか。――

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そして今朝の思いつきもなんのことはない、ロシアの貴族のように(午後二時頃の朝餐ちょうさん)が生活の習慣になっていたということのいい証拠ではないか。――

彼はまた長い坂を下りて郵便局へ行った。

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彼はまた長い坂を下りて郵便局へ行った。

「今朝の葉書のこと、考えが変わってやめることにしたから、お願いしたことは中止してください」

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「今朝の葉書のこと、考えが変わってやめることにしたから、お願いしたことご中止ください」

今朝彼は暖かい海岸で冬を越すことを考え、そこに住んでいる友人に貸家を探すことを頼んで送ったのだった。

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今朝彼は暖い海岸で冬を越すことを想い、そこに住んでいる友人に貸家を捜すことを頼んでったのだった。

彼は激しい疲れを感じながら坂を帰るのにあえいだ。

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彼は激しい疲労を感じながら坂を帰るのにあえいだ。

午前の日光の中で静かに影を重ねていたイチョウは、一日もたたないうちにもう木枯らしが枝をまばらにしていた。

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午前の日光のなかで静かに影を畳んでいた公孫樹いちょうは、一日が経たないうちにもうこがらしが枝をまばらにしていた。

その落ち葉が日ざしを失った道の上を明るくしている。

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その落葉が陽をうしなった路の上を明るくしている。

彼はそれらの落ち葉にほのかな愛着を覚えた。

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彼はそれらの落葉にほのかな愛着を覚えた。

堯は家の横の道まで帰ってきた。

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たかしは家の横の路まで帰って来た。

彼の家からはその傾斜のついた道は崖の上になっている。

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彼の家からはその勾配のついた路は崖上になっている。

部屋から眺めているいつもの景色は、今彼の目の前で木枯らしに吹きさらされていた。

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部屋から眺めているいつもの風景は、今彼の眼前でこがらしに吹きさらされていた。

曇り空には雲が暗く重そうに動いていた。

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曇空には雲が暗澹あんたんと動いていた。

そしてその下で堯は、まだ電灯もついていないある家の二階は、もうドアが閉められているのを見た。

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そしてその下に堯は、まだ電燈も来ないある家の二階は、もう戸が鎖されてあるのを見た。

ドアの木の肌がむき出しに外に向かってさらされていた。――

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戸の木肌はあらわに外面に向かってさらされていた。――

ある感動で堯はそこにたたずんだ。

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ある感動で堯はそこにたたずんだ。

そばには彼の住んでいる部屋がある。

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傍らには彼のんでいる部屋がある。

堯はそれをこれまでまったく見たことのない新しい気持ちで眺め始めた。

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堯はそれをこれまでついぞ眺めたことのない新しい感情で眺めはじめた。

電灯もついていないのに早くも戸締まりをした一軒の家の二階――ドアのむき出しの木の肌は、不意に堯の心を、よりどころのない旅人の寂しさで染めた。

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電燈も来ないのに早や戸じまりをした一軒の家の二階――戸のあらわな木肌は、不意に堯の心を寄辺よるべのない旅情で染めた。

――食べるものも持っていない。

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――食うものも持たない。

どこに泊まるあてもない。

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どこに泊まるあてもない。

そして日は暮れかかっているが、この他の土地の町は早くも自分を拒んでいる。――

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そして日は暮れかかっているが、この他国の町は早や自分を拒んでいる。――

それが現実であるかのような暗い悲しみが彼の心を翳(かげ)らせていった。

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それが現実であるかのような暗愁が彼の心をかげっていった。

またそんな記憶がかつての自分にあったような、不思議な甘い気持ちが堯を切なくした。

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またそんな記憶がかつての自分にあったような、一種いぶかしい甘美な気持が堯を切なくした。

なぜそんな空想が起こってくるのか?

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何ゆえそんな空想が起こって来るのか?

なぜその空想がこんなにも自分を悲しくさせ、またこんなにも親しく自分を呼ぶのか?

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 何ゆえその空想がかくも自分を悲しませ、また、かくも親しく自分を呼ぶのか?

そんなことが堯にはぼんやりとわかるように思われた。

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 そんなことが堯にはおぼろげにわかるように思われた。

肉を焼く香ばしい匂いが夕方の凍りつくような匂いにまじってきた。

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肉をあぶる香ばしい匂いが夕凍ゆうじみの匂いに混じって来た。

一日の仕事を終えたらしい大工のような人が、息を吐くかすかな音をさせながら、堯とすれちがってすたすたと坂を登っていった。

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一日の仕事を終えたらしい大工のような人が、息を吐く微かな音をさせながら、堯にすれちがってすたすたと坂を登って行った。

「俺の部屋はあそこだ」

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「俺の部屋はあすこだ」

堯はそう思いながら自分の部屋に目を向けた。

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堯はそう思いながら自分の部屋に目を注いだ。

薄暗さに包まれているその姿は、今エーテル(空気のようなもの)のように景色の中に広がっていく空虚さに対しては、何の力でもないように眺められた。

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薄暮に包まれているその姿は、今エーテルのように風景に拡がってゆく虚無に対しては、何の力でもないように眺められた。

「俺が好きだった部屋。俺がそこに住むのを喜んだ部屋。あの中には俺のすべての持ち物が――ひょっとするとその日その日の生活の感情までが中に入っているかもしれない。ここから声をかければ、その幽霊があの窓を開けて首を差し伸べそうな気さえする。しかしそれも、脱いで捨てた旅館のどてら(ゆったりとした部屋着)がいつしか自分自身の体をそこに思い起こさせる働きと少しも変わらないではないか。あの感覚のない屋根瓦(かわら)や窓ガラスをこうしてじっと見ていると、俺はだんだん通りすがりの人のような気持ちになってくる。あの感覚のない外側は自殺しかけている人間をその中に隠しているときもやはりああしているにちがいないのだ。――とはいえ、自分は先ほどの空想が俺を呼ぶのにしたがってこのままここを歩み去ることもできない。

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「俺が愛した部屋。俺がそこにむのをよろこんだ部屋。あのなかには俺の一切の所持品が――ふとするとその日その日の生活の感情までが内蔵されているかもしれない。ここから声をかければ、その幽霊があの窓をあけて首を差し伸べそうな気さえする。がしかしそれも、脱ぎ棄てた宿屋の褞袍どてらがいつしか自分自身の身体をそのなかに髣髴ほうふつさせて来る作用とわずかもちがったことはないではないか。あの無感覚な屋根瓦や窓硝子ガラスをこうしてじっと見ていると、俺はだんだん通行人のような心になって来る。あの無感覚な外囲は自殺しかけている人間をそのなかに蔵しているときもやはりあのとおりにちがいないのだ。――と言って、自分は先刻の空想が俺を呼ぶのに従ってこのままここを歩み去ることもできない。

早く電灯でもつけばよい。

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早く電燈でも来ればよい。

あの窓のすりガラスが黄色い灯をにじませれば、与えられた命に満足している人間が部屋の中に、この通りすがりの人の気持ちは想像するかもしれない。

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あの窓の磨硝子すりガラスが黄色い灯をにじませれば、与えられた生命に満足している人間を部屋のなかに、この通行人の心は想像するかもしれない。

その幸せを信じる力が起こってくるかもしれない」

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その幸福を信じる力が起こって来るかもしれない」

道にたたずんでいる堯の耳に、階下の柱時計の音がボンボン……と伝わってきた。

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路にたたずんでいる堯の耳に階下の柱時計の音がボンボン……と伝わって来た。

変なものを聞いた、と思いながら彼の足はとぼとぼと坂を下っていった。

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変なものを聞いた、と思いながら彼の足はとぼとぼと坂を下って行った。

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街路樹から次には道路から、風が枯れ葉を掃き去ってしまったあとは風の音も変わっていった。

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街路樹から次には街路から、風が枯葉を掃ってしまったあとは風の音も変わっていった。

夜になると街のアスファルトは鉛筆で光らせたように凍り始めた。

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夜になると街のアスファルトは鉛筆で光らせたようにてはじめた。

そんな夜を堯は自分の静かな町から銀座へ出かけていった。

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そんな夜をたかしは自分の静かな町から銀座へ出かけて行った。

そこでは華やかなクリスマスや年末の売り出しが始まっていた。

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そこでは華ばなしいクリスマスや歳末の売出しがはじまっていた。

友達か恋人か家族か、歩道の人たちはそのほとんどが連れを連れていた。

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友達か恋人か家族か、舗道の人はそのほとんどが連れを携えていた。

連れのいない人の顔は友達に出会うあてを持っていた。

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連れのない人間の顔は友達に出会う当てを持っていた。

そしてほんとうに連れがいなくてもお金と健康を持っている人に、この物欲の市場が嫌な顔をするはずのものではないのだった。

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そしてほんとうに連れがなくとも金と健康を持っている人に、この物欲の市場が悪い顔をするはずのものではないのであった。

「何をしに自分は銀座へ来るのだろう」

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「何をしに自分は銀座へ来るのだろう」

堯は歩道がすぐに疲れしか与えなくなり始めるとよくそう思った。

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堯は舗道が早くも疲労ばかりしか与えなくなりはじめるとよくそう思った。

堯はそんなとき、いつか電車の中で見たある少女の顔を思い浮かべた。

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堯はそんなときいつか電車のなかで見たある少女の顔を思い浮かべた。

その少女はつつましい微笑みを浮かべて彼の座席の前で吊革(つりかわ)につかまっていた。

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その少女はつつましい微笑をうかべて彼の座席の前で釣革に下がっていた。

どてらのように体に合っていない着物から「お姉さん」

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どてらのように身体に添っていない着物から「お姉さん」

のような首が生えていた。

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のような首が生えていた。

その美しい顔は一目で彼女が何かの病気だとわかるような顔だった。

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その美しい顔は一と眼で彼女が何病だかを直感させた。

陶器のように白い肌をかすかに翳(かげ)らせている細かい産毛(うぶげ)。

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陶器のように白い皮膚をかげらせている多いうぶ毛。

鼻の穴のまわりの垢(あか)。

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鼻孔のまわりのあか

「彼女はきっと病床から抜け出してきたにちがいない」

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「彼女はきっと病床から脱け出して来たものに相違ない」

少女の顔に絶えず小さな波のように起こっては消える微笑みを眺めながら堯はそう思った。

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少女の面を絶えず漣漪さざなみのように起こっては消える微笑を眺めながら堯はそう思った。

彼女が鼻をかむようにしてふき取っているのは何か。

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彼女が鼻をかむようにして拭きとっているのは何か。

灰を落としたストーブのように、そんなとき彼女の顔には一時鮮やかな血の色がのぼった。

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灰を落としたストーヴのように、そんなとき彼女の顔には一時鮮かな血がのぼった。

自分の疲れとともにだんだんいじらしさを増していくその娘の姿を心に抱きながら、銀座では堯は自分の痰を吐くのに困った。

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自身の疲労とともにだんだんいじらしさを増していくその娘の像を抱きながら、銀座では堯は自分の痰を吐くのに困った。

まるでものを言うたびに口から蛙(かえる)が跳び出すグリムのおとぎ話の娘のように。

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まるでものを言うたび口から蛙が跳び出すグリムお伽噺とぎばなしの娘のように。

彼はそんなとき一人の男が痰を吐いたのを見たことがある。

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彼はそんなとき一人の男が痰を吐いたのを見たことがある。

ふいに貧しい下駄(げた)が出てきてそれをすりつぶした。

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ふいに貧しい下駄が出て来てそれをすりつぶした。

しかし、それは足に履いている下駄ではなかった。

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が、それは足が穿いている下駄ではなかった。

道のはたにゴザを敷いてブリキのコマを売っているお年寄りが、さすがに怒りを顔に浮かべながら、その下駄をゴザの端のもう一枚の上へ重ねるところを彼は見たのだった。

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路傍に茣蓙ござを敷いてブリキの独楽こまを売っている老人が、さすがに怒りを浮かべながら、その下駄を茣蓙の端のも一つの上へ重ねるところを彼は見たのである。

「見たか」

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「見たか」

そんな気持ちで堯は通り過ぎていく人びとを振り返った。

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そんな気持で堯は行き過ぎる人びとを振り返った。

しかし、誰もそれを見た人はなさそうだった。

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が、誰もそれを見た人はなさそうだった。

お年寄りの坐っているところは、それが通りがかりの人の目に入るにはあまりにも近すぎた。

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老人の坐っているところは、それが往来の目に入るにはあまりに近すぎた。

それでなくてもお年寄りの売っているブリキのコマはもう田舎のお菓子屋でも古くさいものにちがいなかった。

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それでなくても老人の売っているブリキの独楽こまはもう田舎の駄菓子屋ででも陳腐ちんぷなものにちがいなかった。

堯は一度もその玩具(おもちゃ)が売れたのを見たことがなかった。

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たかしは一度もその玩具が売れたのを見たことがなかった。

「何をしに自分は来たのだ」

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「何をしに自分は来たのだ」

彼はそれが自分自身への言い訳で、コーヒーやバターやパンや筆を買ったあとで、ときには怒りのようなものを感じながら高価なフランスの香水を買ったりするのだった。

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彼はそれが自分自身への口実の、珈琲コーヒー牛酪バターやパンや筆を買ったあとで、ときには憤怒のようなものを感じながら高価な仏蘭西香料を買ったりするのだった。

またときには露店が店を畳む時刻まで街角のレストランに腰かけていた。

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またときには露店が店を畳む時刻まで街角のレストランに腰をかけていた。

ストーブに暖められ、ピアノトリオの音楽に浮き立って、グラスが鳴り、横目が光り、笑顔が広がっているレストランの天井には、だるそうな冬のハエが何匹も舞っていた。

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ストーヴに暖められ、ピアノトリオに浮き立って、グラスが鳴り、流眄ながしめが光り、笑顔が湧き立っているレストランの天井には、物憂い冬のはえが幾匹も舞っていた。

手持ちぶさたにそんなものまで見ているのだった。

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所在なくそんなものまで見ているのだった。

「何をしに自分は来たのだ」

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「何をしに自分は来たのだ」

街へ出ると吹き抜ける空っ風がもう人の流れをまばらにしていた。

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街へ出ると吹き通る空っ風がもう人足をまばらにしていた。

宵のうち人びとが渡されたチラシの類が不思議に街の一か所に吹き集められていたり、吐いた痰がすぐに凍り、落ちた下駄の金具にまぎれてしまったりする夜更けを、彼は結局は家へ帰らなければならないのだった。

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宵のうち人びとがつかまされたビラの類が不思議に街の一と所に吹き溜められていたり、吐いた痰がすぐに凍り、落ちた下駄の金具にまぎれてしまったりする夜更けを、彼は結局は家へ帰らねばならないのだった。

「何をしに自分は来たのだ」

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「何をしに自分は来たのだ」

それは彼の中に残っている古い生活への楽しみにすぎなかった。

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それは彼のなかに残っている古い生活の感興にすぎなかった。

やがて自分は来なくなるだろう。

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やがて自分は来なくなるだろう。

堯は重い疲れとともにそれを感じた。

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たかしは重い疲労とともにそれを感じた。

彼が部屋で感じる夜は、昨夜も一昨夜(おとつい)もおそらくは明晩もない、病院の廊下のように長く続いた夜だった。

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彼が部屋で感覚する夜は、昨夜も一昨夜もおそらくは明晩もない、病院の廊下のように長く続いた夜だった。

そこでは古い生活は死のような空気の中で止まっていた。

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そこでは古い生活は死のような空気のなかで停止していた。

思想(考え)は本棚を埋める壁土にすぎなかった。

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思想は書棚を埋める壁土にしか過ぎなかった。

壁にかかった星座早見表は午前三時が十月二十何日かに合わせたまま埃(ほこり)をかぶっていた。

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壁にかかった星座早見表は午前三時が十月二十何日に目盛をあわせたままほこりをかぶっていた。

夜更けに彼がトイレへ通うと、小窓の外の屋根瓦には月光のような霜が置いている。

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夜更けて彼が便所へ通うと、小窓の外の屋根瓦には月光のような霜が置いている。

それを見るときにだけ彼の心はほっと明るくなるのだった。

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それを見るときにだけ彼の心はほーっと明るむのだった。

固い寝床はそれを離れると午後に始まる一日が待っていた。

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固い寝床はそれを離れると午後にはじまる一日が待っていた。

傾いた冬の日が窓の外のすぐそばを幻灯(げんとう)のように映し出している、その毎日だった。

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傾いた冬の日が窓のそとのまのあたりを幻燈のように写し出している、その毎日であった。

そしてその不思議な日ざしはだんだんすべてのものが見かけにすぎないということや、見かけであるがゆえに精神的な美しさに染められているのだということを、あからさまにしてくるのだった。

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そしてその不思議な日射しはだんだんすべてのものが仮象にしか過ぎないということや、仮象であるゆえ精神的な美しさに染められているのだということを露骨にして来るのだった。

ビワが花をつけ、遠くの日だまりからはダイダイ(かんきつ類の果物)の実が目に飛び込んできた。

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枇杷びわが花をつけ、遠くの日溜りからはだいだいの実が目を射った。

そして初冬の時雨(しぐれ)はもうあられとなって軒(のき)を走った。

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そして初冬の時雨しぐれはもうあられとなって軒をはしった。

あられはあとからあとへ黒い屋根瓦を打ってはころころ転がった。

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霰はあとからあとへ黒い屋根瓦を打ってはころころ転がった。

トタン屋根を打つ音。

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トタン屋根をつ音。

ヤツデの葉を弾く音。

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やつでの葉を弾く音。

枯れ草に消える音。

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枯草に消える音。

やがてサアーというそれが世間に降っている音が聞こえ始める。

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やがてサアーというそれが世間に降っている音がきこえ出す。

すると、白い冬のベール(薄い幕)を破って近くの屋敷からは鶴の鳴き声が起こった。

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と、白い冬の面紗ヴェイルを破って近くの邸からは鶴の啼き声が起こった。

堯の心もそんなときには何か新鮮な喜びが感じられるのだった。

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堯の心もそんなときにはなにか新鮮な喜びが感じられるのだった。

彼は窓際(まどぎわ)に寄りかかって、風流(ふうりゅう)を好む変わり者が存在した古い時代のことを思った。

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彼は窓際にって風狂というものが存在した古い時代のことを思った。

しかしそれを自分のことに当てはめることは堯にはできなかった。

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しかしそれを自分の身に当てめることは堯にはできなかった。

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いつの間にか冬至が過ぎた。

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いつの隙にか冬至が過ぎた。

そんなある日、堯は長らく近づかなかった、以前住んでいた町の質屋(しちや)へ行った。

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そんなある日たかしは長らく寄りつかなかった、以前住んでいた町の質店へ行った。

お金が入ったので冬のコートを引き出しに出かけたのだった。

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金が来たので冬の外套がいとうを出しに出掛けたのだった。

しかし、行ってみるともうすでに流れてしまったあとだった(お金を払わなかったため、預けたものは売られてしまっていた)。

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が、行ってみるとそれはすでに流れたあとだった。

「××さん、あれはいつごろだったっけ」

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「××どんあれはいつ頃だったけ」

「はい」

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「へい」

しばらく見ない間にすっかり大人びた小店員が帳簿を繰った。

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しばらく見ない間にすっかり大人びた小店員が帳簿を繰った。

堯はその口上がわりとすらすら出てくる番頭(ばんとう)の顔が変に見え始めた。

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堯はその口上が割合すらすら出て来る番頭の顔が変に見え出した。

ある瞬間には彼が非常に言いにくいことを押し隠して言っているように見え、ある瞬間にはいかにも平気に言っているように見えた。

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ある瞬間には彼が非常な言い憎さを押し隠して言っているように見え、ある瞬間にはいかにも平気に言っているように見えた。

彼は人の表情を読むのにこれほど戸惑ったことはないと思った。

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彼は人の表情を読むのにこれほど戸惑ったことはないと思った。

いつもは好意のある世間話をしてくれる番頭だった。

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いつもは好意のある世間話をしてくれる番頭だった。

堯は番頭の言葉によって、自分が質屋から催促の手紙を何度も受け取っていたことを初めて現実として思い出した。

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堯は番頭の言葉によって幾度も彼が質店から郵便を受けていたのをはじめて現実に思い出した。

硫酸(りゅうさん)に侵されているような気持ちの底で、そんなことをこの番頭に聞かせたらというような苦笑も感じながら、彼もやはり番頭のような無関心を顔に装って一通りそれと一緒に処分されたものを聞くと、彼はその店を出た。

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硫酸に侵されているような気持の底で、そんなことをこの番頭に聞かしたらというような苦笑も感じながら、彼もやはり番頭のような無関心を顔に装って一通りそれと一緒に処分されたものを聞くと、彼はその店を出た。

一匹のやせ衰えた犬が、霜解けの路のはたで、みっともない腰つきを震わせながら、糞(ふん)をしようとしていた。

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一匹の痩せ衰えた犬が、霜解けの路ばたで醜い腰付をふるわせながら、糞をしようとしていた。

堯は何か自分から汚さを見せびらかすような気持ちにじりじりと迫られるのを感じながら、嫌悪(けんお)に耐えながらその犬の体つきを最後まで見ていた。

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たかしはなにか露悪的な気持にじりじり迫られるのを感じながら、嫌悪に堪えたその犬の身体つきを終わるまで見ていた。

長い帰りの電車の中でも、彼はずっと崩れ落ちそうになる自分に耐えていた。

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長い帰りの電車のなかでも、彼はしじゅう崩壊に屈しようとする自分を堪えていた。

そして電車を降りてみると、家を出るとき持って出たはずの傘(かさ)は――彼は持っていなかった。

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そして電車を降りてみると、家を出るとき持って出たはずの洋傘こうもりは――彼は持っていなかった。

あてもなく電車を追おうとする目を彼は反射的にそらせた。

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あてもなく電車を追おうとする眼を彼は反射的にそらせた。

重い疲れを引きずりながら、夕方の道を帰ってきた。

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重い疲労を引きりながら、夕方の道を帰って来た。

その日町へ出るとき赤いものを吐いた、それが道ばたのムクゲ(木の一種)の根もとにまだひっかかっていた。

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その日町へ出るとき赤いものを吐いた、それが路ばたの槿むくげの根方にまだひっかかっていた。

堯にはかすかな身震いが感じられた。――

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堯にはかすかな身ぶるいが感じられた。――

吐いたときには悪いことをしたとしか思わなかったその赤い色に。――

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吐いたときには悪いことをしたとしか思わなかったその赤い色に。――

夕方の発熱の時間が来ていた。

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夕方の発熱時が来ていた。

冷たい汗が気味悪く脇の下を伝った。

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冷たい汗が気味悪く腋の下を伝った。

彼はズボンも脱がない外出姿のまま、じっとして部屋に坐っていた。

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彼ははかまも脱がぬ外出姿のまま凝然ぎょうぜんと部屋に坐っていた。

突然、小刀(こがたな)のような鋭い悲しみが彼に触れた。

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突然匕首あいくちのような悲しみが彼に触れた。

次から次へ愛する者を失っていった母の、ときどきするぼんやりとした表情を思い浮かべると、彼は静かに泣き始めた。

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次から次へ愛するものを失っていった母の、ときどきするとぼけたような表情を思い浮かべると、彼は静かに泣きはじめた。

夕ご飯のために階下へ下りるころには、彼の心はもう冷静に戻っていた。

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夕餉ゆうげをしたために階下へ下りる頃は、彼の心はもはや冷静に帰っていた。

そこへ友達の折田(おりた)というのが訪ねてきた。

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そこへ友達の折田というのが訪ねて来た。

食欲はなかった。

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食欲はなかった。

彼はすぐ二階へ上がった。

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彼はすぐ二階へあがった。

折田は壁にかかっていた星座表を下ろしてきてしきりに目盛を動かしていた。

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折田は壁にかかっていた、星座表を下ろして来てしきりに目盛を動かしていた。

「よう」

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「よう」

折田はそれには答えず、

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折田はそれには答えず、

「どうだ。雄大(ゆうだい)じゃないか」

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「どうだ。雄大じゃあないか」

それから顔を上げようとしなかった。

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それから顔をあげようとしなかった。

堯はふっと息をのんだ。

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たかしはふと息をんだ。

彼にはそれがいかに壮大な眺めであるかが信じられた。

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彼にはそれがいかに壮大な眺めであるかが信じられた。

「休暇になったから故郷へ帰ろうと思ってやって来た」

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「休暇になったから郷里へ帰ろうと思ってやって来た」

「もう休暇かね。俺は今度は帰らないよ」

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「もう休暇かね。俺はこんどは帰らないよ」

「どうして」

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「どうして」

「帰りたくない」

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「帰りたくない」

「家からは」

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「うちからは」

「家へは帰らないと手紙を出した」

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「うちへは帰らないと手紙出した」

「旅行でもするのか」

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「旅行でもするのか」

「いや、そうじゃない」

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「いや、そうじゃない」

折田はぎろっと堯の目を見返したまま、もうその先を聞かなかった。

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折田はぎろと堯の目を見返したまま、もうその先をかなかった。

しかし、友達の噂や学校の話、久しぶりに会った話は次第に出てきた。

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が、友達の噂学校の話、久濶きゅうかつの話は次第に出て来た。

「この頃学校じゃ講堂(こうどう)の焼け跡を壊しているんだ。それがね、労働者がツルハシを持って焼け跡のレンガ壁へ登って……」

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「この頃学校じゃあ講堂の焼跡をこわしてるんだ。それがね、労働者が鶴嘴つるはしを持って焼跡の煉瓦壁へ登って……」

その今まさに自分が乗っているレンガ壁にツルハシを振るっている労働者の姿を、折田は身振りをまじえて描き出した。

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その現に自分の乗っている煉瓦壁へ鶴嘴をふるっている労働者の姿を、折田は身振りをまぜて描き出した。

「あともう一突きというところまでは、その上にいてツルハシを当てている。それから安全なところへ移って一つぐわんとやるんだ。すると大きなやつがどどーんと落ちてくる」

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「あと一ときというところまでは、その上にいて鶴嘴つるはしをあてている。それから安全なところへ移って一つぐわんとやるんだ。すると大きいやつがどどーんと落ちて来る」

「ふーん。なかなかおもしろい」

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「ふーん。なかなかおもしろい」

「おもしろいよ。それで大変な人気だ」

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「おもしろいよ。それで大変な人気だ」

堯たちは話をしているとどんどんお茶を飲んだ。

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たかしらは話をしているといくらでも茶を飲んだ。

しかし、いつも自分が使っている茶碗(ちゃわん)でしきりにお茶を飲む折田を見ると、そのたびに彼は心が話からそれる。

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が、へいぜい自分の使っている茶碗ちゃわんでしきりに茶を飲む折田を見ると、そのたび彼は心が話からそれる。

そのこだわりがだんだん重く堯にのしかかってきた。

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その拘泥がだんだん重く堯にのしかかって来た。

「君は肺病(はいびょう)の茶碗を使うのが平気なのかい。せきをするたびに菌はたくさん飛んでいるし。――平気なんだったら衛生(えいせい)の意識が足りないんだし、友達のためにこらえているんだったら子どもみたいな感傷主義(かんしょうしゅぎ)にすぎないと思うな――僕はそう思う」

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「君は肺病の茶碗を使うのが平気なのかい。咳をするたびにバイキンはたくさん飛んでいるし。――平気なんだったら衛生の観念が乏しいんだし、友達甲斐がいにこらえているんだったら子供みたいな感傷主義に過ぎないと思うな――僕はそう思う」

言ってしまって堯は、なぜこんな嫌なことを言ったのかと思った。

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言ってしまって堯は、なぜこんないやなことを言ったのかと思った。

折田は目を一度ぎろっとさせたまま黙っていた。

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折田は目を一度ぎろとさせたまま黙っていた。

「しばらく誰も来なかったかい」

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「しばらく誰も来なかったかい」

「しばらく誰も来なかった」

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「しばらく誰も来なかった」

「来ないと恨みに思うかい」

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「来ないとひがむかい」

今度は堯が黙った。

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こんどは堯が黙った。

しかし、そんな言葉で話し合うのが堯にはなぜか気持ちよかった。

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が、そんな言葉で話し合うのが堯にはなぜか快かった。

「恨みには思わない。しかし俺もこのごろは考え方が少し変わってきた」

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「ひがみはしない。しかし俺もこの頃は考え方が少しちがって来た」

「そうか」

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「そうか」

堯はその日の出来事を折田に話した。

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たかしはその日の出来事を折田に話した。

「俺はそんなとき、どうしても冷静になれない。冷静というものは感動がないことじゃなくて、俺にとっては感動そのものだ。苦痛だ。しかし俺の生きる道は、その冷静で自分の体や自分の生活が滅びていくのを見ていることだ」

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「俺はそんなときどうしても冷静になれない。冷静というものは無感動じゃなくて、俺にとっては感動だ。苦痛だ。しかし俺の生きる道は、その冷静で自分の肉体や自分の生活が滅びてゆくのを見ていることだ」

「…………」

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「…………」

「自分の生活が壊れてしまえばほんとうの冷静は来ると思う。水底の岩に落ちつく木の葉かな。……」

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「自分の生活が壊れてしまえばほんとうの冷静は来ると思う。水底の岩に落ちつく木の葉かな。……」

「丈草(じょうそう)だね。……そうか、しばらく来なかったな」

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丈草じょうそうだね。……そうか、しばらく来なかったな」

「そんなこと。……しかしこんな考えは孤独(こどく)にするな」

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「そんなこと。……しかしこんな考えは孤独にするな」

「俺は君がそのうちに療養(りょうよう)のために転地(てんち)でもするような気になるといいと思うな。正月には帰れと言ってきても帰らないつもりか」

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「俺は君がそのうちに転地でもするような気になるといいと思うな。正月には帰れと言って来ても帰らないつもりか」

「帰らないつもりだ」

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「帰らないつもりだ」

めずらしく風のない静かな晩だった。

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珍しく風のない静かな晩だった。

そんな夜は火事もなかった。

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そんな夜は火事もなかった。

二人が話をしていると、戸外にはときどき小さな呼び子(よびこ)のような声のものが鳴いた。

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二人が話をしていると、戸外にはときどき小さい呼子のような声のものが鳴いた。

十一時になって折田は帰っていった。

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十一時になって折田は帰って行った。

帰りぎわに彼は財布の中から乗車割引券を二枚、

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帰るきわに彼は紙入のなかから乗車割引券を二枚、

「学校へ取りに行くのも面倒だろうから」

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「学校へとりにゆくのも面倒だろうから」

と言って堯に渡した。

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と言って堯に渡した。

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母から手紙が来た。

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母から手紙が来た。

――おまえには何か変わったことがあるにちがいない。

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――おまえにはなにか変わったことがあるにちがいない。

それで正月に上京なさる津枝(つえ)さんにおまえを見舞っていただくことにした。

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それで正月上京なさる津枝さんにおまえを見舞っていただくことにした。

そのつもりでいなさい。

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そのつもりでいなさい。

帰らないと言うから春の着物を送りました。

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帰らないと言うから春着を送りました。

今年は胴着(どうぎ)を作って入れておいたが、胴着は着物と肌着(はだぎ)の間に着るものです。

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今年は胴着を作って入れておいたが、胴着は着物と襦袢じゅばんの間に着るものです。

直接肌に着てはいけません。――

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じかに着てはいけません。――

津枝というのは母の先生の息子(むすこ)で、今は大学を出て医者をしていた。

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津枝というのは母の先生の子息で今は大学を出て医者をしていた。

しかし、かつて堯にはその人に兄のような憧れ(あこがれ)を持っていた時代があった。

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が、かつてたかしにはその人に兄のような思慕を持っていた時代があった。

堯は近くへ散歩に出ると、近ごろはことに母の幻覚(げんかく)に出会った。

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堯は近くへ散歩に出ると、近頃はことに母の幻覚に出会った。

母だ!

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母だ!

と思ってそれが見も知らぬ人の顔であるとき、彼はよく変なことを思った。――

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 と思ってそれが見も知らぬ人の顔であるとき、彼はよく変なことを思った。――

すーっと変わったようだった。

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すーっと変わったようだった。

また母がもう彼の部屋へ来て坐り込んでいる姿が目にちらつき、家へ引き返したりした。

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また母がもう彼の部屋へ来て坐りこんでいる姿が目にちらつき、家へ引き返したりした。

しかし来たのは手紙だった。

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が、来たのは手紙だった。

そして来るはずの人は津枝だった。

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そして来るべき人は津枝だった。

堯の幻覚はやんだ。

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堯の幻覚はやんだ。

街を歩くと堯は自分が敏感な水準器(みずじゅんき)になってしまったのを感じた。

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街を歩くと堯は自分が敏感な水準器になってしまったのを感じた。

彼はだんだん呼吸(こきゅう)が苦しくなってくる自分に気がつく。

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彼はだんだん呼吸が切迫して来る自分に気がつく。

そして振り返ってみるとその道は彼が気づかなかったほどの傾斜(かたむき)をしているのだった。

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そして振り返って見るとその道は彼が知らなかったほどの傾斜をしているのだった。

彼は立ち止まると激しく肩で息をした。

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彼は立ち停まると激しく肩で息をした。

ある切ない塊(かたまり)が胸を下っていくまでには、必ずどうすればいいのかわからない息苦しさを一度経なければならなかった。

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ある切ない塊が胸を下ってゆくまでには、必ずどうすればいいのかわからない息苦しさを一度経なければならなかった。

それが鎮まると堯はまた歩き始めた。

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それが鎮まると堯はまた歩き出した。

何が彼を駆り立てるのか。

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何が彼を駆るのか。

それは遠い地平線へ落ちていく太陽の姿だった。

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それは遠い地平へ落ちて行く太陽の姿だった。

彼の一日は低い土地を隔てた灰色の洋風の木造の家に、どの日もどの日も消えていく冬の日に、もう耐えきることができなくなった。

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彼の一日は低地をへだてた灰色の洋風の木造家屋に、どの日もどの日も消えてゆく冬の日に、もう堪えきることができなくなった。

窓の外の景色が次第に青ざめた空気の中へ消えていくとき、それがすでにただの日かげではなく、夜と名付けられた日かげだという自覚に、彼の心は不思議なはらだちを覚えてくるのだった。

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窓の外の風景が次第に蒼ざめた空気のなかへ没してゆくとき、それがすでにただの日蔭ではなく、夜と名付けられた日蔭だという自覚に、彼の心は不思議ないらだちを覚えて来るのだった。

「ああ、大きな夕日が見たい」

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「あああ大きな落日が見たい」

彼は家を出て遠くまで見渡せる場所を探した。

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彼は家を出て遠い展望のきく場所を捜した。

年の暮れの町には餅つきの音が起こっていた。

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歳暮の町には餅搗もちつきの音が起こっていた。

花屋の前には梅と福寿草(ふくじゅそう)をあしらった植木鉢が並んでいた。

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花屋の前には梅と福寿草をあしらった植木鉢が並んでいた。

そんな年末の風景は、町がどこをどう帰っていいかわからなくなり始めるにつれて、だんだん美しくなった。

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そんな風俗画は、町がどこをどう帰っていいかわからなくなりはじめるにつれて、だんだん美しくなった。

自分がまだ一度も踏まなかった道――そこでは米をといでいる女の人も喧嘩(けんか)をしている子どもも彼を立ち止まらせた。

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自分のまだ一度も踏まなかった路――そこでは米をいでいる女も喧嘩けんかをしている子供も彼を立ち停まらせた。

しかし見晴らしはどこへ行っても大きな屋根の影絵があり、夕焼け空に澄んだ木の梢(こずえ)があった。

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が、見晴らしはどこへ行っても、大きな屋根の影絵があり、夕焼空に澄んだこずえがあった。

そのたびに、遠い地平線へ落ちていく太陽の隠された姿が切ない彼の心に映った。

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そのたび、遠い地平へ落ちてゆく太陽の隠された姿が切ない彼の心に写った。

日の光に満ちた空気は地面からわずかも離れていなかった。

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日の光に満ちた空気は地上をわずかもへだたっていなかった。

彼の満たされない願いは、ときに高い屋根の上へのぼって空へ手を伸ばしている男を想像した。

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彼の満たされない願望は、ときに高い屋根の上へのぼり、空へ手を伸ばしている男を想像した。

男の指の先はその空気に触れている。――

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男の指の先はその空気に触れている。――

また彼は水素を入れたシャボン玉が、青ざめた人と町を天へ昇らせながら、その空気の中へパッと七色に浮かび上がる瞬間(しゅんかん)を想像した。

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また彼は水素をみたした石鹸玉が、蒼ざめた人と街とを昇天させながら、その空気のなかへパッと七彩に浮かび上がる瞬間を想像した。

青く澄み透った空では浮き雲が次から次へ美しく燃えていった。

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青く澄み透った空では浮雲が次から次へ美しく燃えていった。

満たされない堯の心の残り火(おき)にも、やがてその火は燃え移った。

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みたされないたかしの心のおきにも、やがてその火は燃えうつった。

「こんなに美しいときが、なぜこんなに短いのだろう」

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「こんなに美しいときが、なぜこんなに短いのだろう」

彼はそんなときほどはかない気持ちになるときはなかった。

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彼はそんなときほどはかない気のするときはなかった。

燃えた雲はまた次々に灰のようになり始めた。

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燃えた雲はまたつぎつぎに死灰になりはじめた。

彼の足はもう進まなかった。

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彼の足はもう進まなかった。

「あの空を染めていく影は地球のどのあたりの影になるかしら。あそこの雲へ行かないかぎり今日ももう日は見られない」

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「あの空をみたしてゆく影は地球のどの辺の影になるかしら。あすこの雲へゆかないかぎり今日ももう日は見られない」

急に重い疲れが彼にもたりかかる。

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にわかに重い疲れが彼にもたりかかる。

知らない町の知らない町角で、堯の心はもう二度と明るくはならなかった。

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知らない町の知らない町角で、たかしの心はもう再び明るくはならなかった。