よめる文庫

冬の日 現代語訳

梶井基次郎かじいもとじろう)・1972

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23

原文を見る

季節は冬至まであとわずかだった。

原文を見る

季節は冬至に間もなかった。

堯の窓からは、地盤の低い家々の庭や門のあたりに立っている木々の葉が、一日ごとに落ちていく様子が見えた。

原文を見る

たかしの窓からは、地盤の低い家々の庭や門辺に立っている木々の葉が、一日ごとがれてゆくさまが見えた。

ごんごん胡麻はお婆さんのぼさぼさの髪のようになってしまい、霜に美しく焼けた桜の最後の葉も落ち、ケヤキが風にカサカサと身を震わすたびに隠れていた風景の一部が現れてきた。

原文を見る

ごんごん胡麻ごまは老婆の蓬髪ほうはつのようになってしまい、霜に美しくけた桜の最後の葉がなくなり、けやきが風にかさかさ身を震わすごとに隠れていた風景の部分が現われて来た。

夜明け頃に来ていたモズも、もう姿を見せなくなった。

原文を見る

もう暁刻の百舌鳥もずも来なくなった。

そしてある日、屏風のように立ち並んだカシの木に鉛色のムクドリが何百羽とも知れず下りてきた頃から、霜はだんだん厳しくなっていった。

原文を見る

そしてある日、屏風びょうぶのように立ち並んだかしの木へ鉛色の椋鳥むくどりが何百羽と知れず下りた頃から、だんだん霜は鋭くなってきた。

冬になって堯の肺が痛みはじめた。

原文を見る

冬になって堯の肺はいたんだ。

落ち葉が積もっている井戸端の漆喰に、顔を洗うとき吐く痰が、黄緑色からくすんだ血の色を帯びるようになり、ときにそれは驚くほど鮮やかな真っ赤に冴えた。

原文を見る

落葉が降り留っている井戸端の漆喰しっくいへ、洗面のとき吐くたんは、黄緑色からにぶい血の色を出すようになり、時にそれは驚くほど鮮かなくれないに冴えた。

堯が間借りしている二階の四畳半から床を出る頃には、主婦の朝の洗濯はとっくに終わっていて、漆喰はもう乾いていた。

原文を見る

堯が間借り二階の四畳半で床を離れる時分には、主婦の朝の洗濯はうに済んでいて、漆喰しっくいは乾いてしまっている。

その上に落ちた痰は、水をかけても離れない。

原文を見る

その上へ落ちた痰は水をかけても離れない。

堯は金魚の子でもつまむようにして、それを土管の口まで持って行くのだった。

原文を見る

たかしは金魚の仔でもつまむようにしてそれを土管の口へ持って行くのである。

彼は血の痰を見ても、もう何も感じなくなっていた。

原文を見る

彼は血の痰を見てももうなんの刺戟しげきでもなくなっていた。

でも、冷たく澄んだ空気の中に鮮やかな色の塊があると、なぜかいつもじっと見つめずにはいられなかった。

原文を見る

が、冷澄な空気の底にえとした一塊のいろどりは、何故かいつもじっと凝視みつめずにはいられなかった。

堯はこの頃、生きることへの熱意をまったく感じなくなっていた。

原文を見る

堯はこの頃生きる熱意をまるで感じなくなっていた。

一日一日が彼を引きずっていた。

原文を見る

一日一日が彼を引きっていた。

そして心の中に居場所を失った魂は、いつも外の世界へ逃げ出そう逃げ出そうと焦っていた。――

原文を見る

そして裡に住むべきところをなくした魂は、常に外界へ逃れよう逃れようと焦慮あせっていた。――

昼は部屋の窓を開けて、目の見えない人のように外の風景をじっと見つめる。

原文を見る

昼は部屋の窓をひらいて盲人のようにそとの風景を凝視みつめる。

夜は屋外の物音や鉄瓶の音に、耳の聞こえない人のように耳を澄ます。

原文を見る

夜は屋の外の物音や鉄瓶てつびんの音に聾者ろうじゃのような耳を澄ます。

冬至に近づいていく十一月のはかない日差しは、しかし、彼が床を出てから一時間も経たないうちに、窓の外でどの日もどの日も消えかかっていくのだった。

原文を見る

冬至に近づいてゆく十一月のもろい陽ざしは、しかし、彼が床を出て一時間とは経たない窓の外で、どの日もどの日も消えかかってゆくのであった。

影になってしまった低地には、彼が住んでいる家の影さえ消えてしまっていた。

原文を見る

かげってしまった低地には、彼の棲んでいる家の投影さえ没してしまっている。

それを見ると堯の心に、墨汁のような後悔やいらだちが広がっていくのだった。

原文を見る

それを見ると堯の心には墨汁のような悔恨やいらだたしさが拡がってゆくのだった。

日向はわずかに低地を隔てた灰色の西洋風の木造家屋にとどまっていて、その時間、それはなにか悲しげに、遠い地平に落ちていく夕日を眺めているように見えた。

原文を見る

日向はわずかに低地をへだてた、灰色の洋風の木造家屋にとどまっていて、その時刻、それはなにか悲しげに、遠い地平へ落ちてゆく入日を眺めているかのように見えた。

冬の陽は郵便受けの中にまで差し込む。

原文を見る

冬陽は郵便受のなかへまで射しこむ。

道の上のどんな小さな石粒も一つひとつ影を持っていて、見ていると、それがみなエジプトのピラミッドのような巨大な悲しみを浮かべているように思えた。――

原文を見る

路上のどんな小さな石粒も一つ一つ影を持っていて、見ていると、それがみな埃及エジプトのピラミッドのような巨大コロッサールな悲しみを浮かべている。――

低地を隔てた洋館には、その時間、並んだアオギリの幽霊のような影が映っていた。

原文を見る

低地を距てた洋館には、その時刻、並んだ蒼桐あおぎりの幽霊のような影が写っていた。

光に向かう性質を持った、もやしのように青白い堯の感触は、知らず知らずのうちにその灰色の木造家屋の方へ伸びていって、そこに滲み込んだ不思議な影の痕をなでるのだった。

原文を見る

向日性を持った、もやしのように蒼白い堯の触手は、不知不識しらずしらずその灰色した木造家屋の方へ伸びて行って、そこににじみ込んだ不思議な影のあとを撫でるのであった。

彼は毎日、その影が消えてしまうまでの時間を、空っぽな心で窓を開けて過ごした。

原文を見る

彼は毎日それが消えてしまうまでの時間を空虚な心で窓を展いていた。

視界の北の端を支えているカシの並木は、ある日、鋼鉄のようなしなやかさでたわみながら踊るように、風を揺り下ろしてきた。

原文を見る

展望の北隅を支えているかしの並樹は、ある日は、その鋼鉄のような弾性でない踊りながら、風を揺りおろして来た。

様変わりした低地ではカサコソと枯れ葉が骸骨の踊りのような音を鳴らした。

原文を見る

容貌をかえた低地にはカサコソと枯葉が骸骨がいこつの踊りを鳴らした。

そんなとき、アオギリの影は今にも消えてしまいそうにも見えた。

原文を見る

そんなとき蒼桐の影は今にも消されそうにも見えた。

もう日向とは思えないそこに、気のせいほどのかすかな影がまだ残っている。

原文を見る

もう日向とは思えないそこに、気のせいほどの影がまだ残っている。

そしてそれは木枯らしに追われて、砂漠のような、影が生きている世界の遠くへ、だんだんと姿を消していくのだった。

原文を見る

そしてそれはこがらしに追われて、砂漠のような、そこでは影の生きている世界の遠くへ、だんだん姿をき消してゆくのであった。

堯はそれを見終わると、絶望に似た気持ちで窓を閉めにかかる。

原文を見る

たかしはそれを見終わると、絶望に似た感情で窓を鎖しにかかる。

もう夜を呼ぶばかりの木枯らしに耳を澄ましていると、あるときはまだ電気も来ていない遠くでガラス戸が砕け落ちる音がしていた。

原文を見る

もう夜を呼ぶばかりの凩に耳を澄ましていると、ある時はまだ電気も来ないどこか遠くでガラス戸のくだけ落ちる音がしていた。

原文を見る

堯は母からの手紙を受け取った。

原文を見る

堯は母からの手紙を受け取った。

「延子を亡くしてから父上はすっかり老け込んでしまいました。あなたの体も普通の体ではないのだから大切にしてください。もうこれ以上の苦労はわたしたちもしたくない。

原文を見る

「延子をなくしてから父上はすっかり老い込んでおしまいになった。おまえの身体も普通の身体ではないのだから大切にしてください。もうこの上の苦労はわたしたちもしたくない。

わたしはこの頃、夜中に何かに驚いたように目が覚めます。

原文を見る

わたしはこの頃夜中なにかに驚いたように眼が醒める。

頭の中はあなたのことが気がかりなのです。

原文を見る

頭はおまえのことが気懸りなのだ。

いくら考えまいとしても無駄です。

原文を見る

いくら考えまいとしても駄目です。

わたしは何時間も眠れません。」

原文を見る

わたしは何時間も眠れません。」

堯はそれを読んで、ある考えにひどく胸を打たれた。

原文を見る

堯はそれを読んである考えに悽然せいぜんとした。

みんなが寝静まった夜を越えて、彼と彼の母が互いに互いを悩み苦しんでいる。

原文を見る

人びとの寝静まった夜を超えて、彼と彼の母が互いに互いを悩み苦しんでいる。

そんなとき、彼の心臓を打つ不吉な鼓動が、どうして母を目覚めさせないと言い切れよう。

原文を見る

そんなとき、彼の心臓に打った不吉な摶動はくどうが、どうして母を眼覚まさないと言い切れよう。

堯の弟は脊椎カリエスで死んだ。

原文を見る

たかしの弟は脊椎せきついカリエスで死んだ。

そして妹の延子も腰椎カリエスで、意志を失ったような風景の中を死んでいった。

原文を見る

そして妹の延子も腰椎ようついカリエスで、意志をうしなった風景のなかを死んでいった。

そこでは、たくさんの虫が一匹の死にかけている虫の周りに集まって悲しんだり泣いたりしていた。

原文を見る

そこでは、たくさんの虫が一匹の死にかけている虫の周囲に集まって悲しんだり泣いたりしていた。

そして二人とも、土に帰る前の一年間を横たわっていた、白い土の石膏の床から下ろされたのだった。

原文を見る

そして彼らの二人ともが、土に帰る前の一年間を横たわっていた、白い土の石膏せっこうの床からおろされたのである。

――どうして医者は「今の一年は後の十年だ」

原文を見る

――どうして医者は「今の一年は後の十年だ」

なんて言うのだろう。

原文を見る

なんて言うのだろう。

堯はそう言われたとき自分の中に起こった、なんとなく後ろめたいような気持ちを思い出しながら考えた。

原文を見る

堯はそう言われたとき自分の裡に起こった何故かばつの悪いような感情を想い出しながら考えた。

――まるで自分がその十年で到達しなければならない理想でも持っているかのように。

原文を見る

――まるで自分がその十年で到達しなければならない理想でも持っているかのように。

どうしてあと何年経てば死ぬとは言わないのだろう。

原文を見る

どうしてあと何年経てば死ぬとは言わないのだろう。

堯の頭には、彼によく浮かぶ意志を失った風景が浮かびあがる。

原文を見る

堯の頭には彼にしばしば現前する意志を喪った風景が浮かびあがる。

暗く冷たい石造りの官庁が立ち並ぶ街の停留所。

原文を見る

暗い冷たい石造の官衙かんがの立ち並んでいる街の停留所。

そこで彼は電車を待っていた。

原文を見る

そこで彼は電車を待っていた。

家へ帰ろうか、にぎやかな街へ出ようか、彼は迷っていた。

原文を見る

家へ帰ろうかにぎやかな街へ出ようか、彼は迷っていた。

どちらの決心もつかなかった。

原文を見る

どちらの決心もつかなかった。

そして電車はいくら待ってもどちらからも来なかった。

原文を見る

そして電車はいくら待ってもどちらからも来なかった。

圧しつけるような暗い建物の陰影、裸の並木、まばらな街灯が作る遠近法の光景。――

原文を見る

圧しつけるような暗い建築の陰影、裸の並樹、まばらな街燈の透視図。――

その遠くの交差点には、時どき水族館のような電車が通り過ぎた。

原文を見る

その遠くの交叉路こうさろには時どき過ぎる水族館のような電車。

風景は急に秩序を失った。

原文を見る

風景はにわかに統制を失った。

その中で彼は激しく自分が崩れていくような感覚を覚えた。

原文を見る

そのなかで彼は激しい滅形を感じた。

幼い堯は、ネズミ取りに入ったネズミを川に沈めに行った。

原文を見る

おさない堯は捕鼠器ほそきに入った鼠を川に漬けに行った。

透明な水の中でネズミは左右に金網を伝い、空気の中にいるように見えた。

原文を見る

透明な水のなかで鼠は左右に金網を伝い、それは空気のなかでのように見えた。

やがてネズミは網目の一つに鼻を突っ込んだまま動かなくなった。

原文を見る

やがて鼠は網目の一つへ鼻を突っ込んだまま動かなくなった。

白い泡がネズミの口から最後に浮かんだ。……

原文を見る

白い泡が鼠の口から最後にうかんだ。……

堯は五、六年前は、自分の病気が約束している死の前には、ただ甘い悲しみをまき散らしただけで通り過ぎていた。

原文を見る

たかしは五六年前は、自分の病気が約束している死の前には、ただ甘い悲しみをいただけで通り過ぎていた。

そしていつかそれに気がついてみると、栄養や安静が彼に染み込ませた、美食への好みや怠惰や臆病さが、彼から生きていこうとする意志をだんだんと奪っていっていた。

原文を見る

そしていつかそれに気がついてみると、栄養や安静が彼に浸潤した、美食に対する嗜好しこうや安逸や怯懦きょうだは、彼から生きていこうとする意志をだんだんに持ち去っていた。

しかし彼は何度も気持ちを立て直して生活に向かっていった。

原文を見る

しかし彼は幾度も心を取り直して生活に向かっていった。

でも、彼の思索や行動はいつの間にか偽りの響きを立て始め、やがてその滑らかさを失って固まった。

原文を見る

が、彼の思索や行為はいつの間にかいつわりの響をたてはじめ、やがてその滑らかさを失って凝固した。

すると、彼の前にはそういった風景が現れるのだった。

原文を見る

と、彼の前には、そういった風景が現われるのだった。

何人もの人間がある症状を現し、ある経過をたどって死んでいった。

原文を見る

何人もの人間がある徴候をあらわしある経過を辿って死んでいった。

それと同じ症状がお前に現れている。

原文を見る

それと同じ徴候がおまえにあらわれている。

近代科学の医者の一人が、堯にはじめてそれを告げたとき、彼が拒否できるわけもないそのことは、ただ彼が漠然と嫌っていたその名前だけが頭に入ってきて、意味として受け付けなかった。

原文を見る

近代科学の使徒の一人が、堯にはじめてそれを告げたとき、彼の拒否する権限もないそのことは、ただ彼が漠然忌み嫌っていたその名称ばかりで、頭がそれを受けつけなかった。

もう彼はそれを拒まない。

原文を見る

もう彼はそれを拒否しない。

白い土の石膏の床は、彼が黒い土に帰るまでの何年かのために用意されている。

原文を見る

白い土の石膏の床は彼が黒い土に帰るまでの何年かのために用意されている。

そこでは寝返りを打つことさえ許されないのだ。

原文を見る

そこではもう転輾てんてんすることさえ許されないのだ。

夜が更けて夜回りの拍子木の音が聞こえてくると、堯は暗い心の底でつぶやいた。

原文を見る

夜が更けて夜番の撃柝げきたくの音がきこえ出すと、堯は陰鬱な心の底でつぶやいた。

「おやすみなさい、お母さん」

原文を見る

「おやすみなさい、お母さん」

拍子木の音は坂や邸の多い堯の家のあたりを、微妙に変わっていく響きの具合で、それが通っていく先々を思い浮かばせた。

原文を見る

撃柝の音は坂や邸の多い堯の家のあたりを、微妙に変わってゆく反響の工合で、それが通ってゆく先ざきを髣髴ほうふつさせた。

肺が軋む音だと思っていた、遠くで聞こえる犬の遠吠え。――

原文を見る

肺のきしむ音だと思っていたはるかな犬の遠え。――

堯には夜回りの姿が見える。

原文を見る

堯には夜番が見える。

母が寝ている姿が見える。

原文を見る

母の寝姿が見える。

もっとずっと暗い心の底で、彼はまたつぶやく。

原文を見る

もっともっと陰鬱な心の底で彼はまたつぶやく。

「おやすみなさい、お母さん」

原文を見る

「おやすみなさい、お母さん」

原文を見る

堯は掃除を終えた部屋の窓を開け放ち、籐の寝椅子に休んでいた。

原文を見る

たかしは掃除をすました部屋の窓を明け放ち、とうの寝椅子に休んでいた。

すると、ジュッジュッという鳴き声がして、カナムグラの垣根の陰で、笹鳴きのウグイスがちらちらと見え隠れしているのが見えた。

原文を見る

と、ジュッジュッという啼き声がしてかなむぐらの垣の蔭に笹鳴ささなきのうぐいすが見え隠れするのが見えた。

ジュッ、ジュッ、堯は首をもたげて、口でその鳴き声を真似しながら、小鳥の様子を見ていた。――

原文を見る

ジュッ、ジュッ、堯は鎌首をもたげて、口でその啼き声をねながら、小鳥の様子を見ていた。――

彼は自宅でカナリヤを飼ったことがある。

原文を見る

彼は自家うちでカナリヤを飼っていたことがある。

美しい午前の日光が葉の間からこぼれている。

原文を見る

美しい午前の日光が葉をこぼれている。

笹鳴きは口の真似の音に迷わされてはいるが、そんな場合のカナリヤなどのように、繊細な感情は見せなかった。

原文を見る

笹鳴きは口の音に迷わされてはいるが、そんな場合のカナリヤなどのように、機微な感情は現わさなかった。

食欲で肥え太って、何か硬いチョッキでも着たような格好をしている。――

原文を見る

食欲に肥えふとって、なにか堅いチョッキでも着たような恰好をしている。――

堯が真似をやめると、愛想もなく、下の枝の間を渡りながら行ってしまった。

原文を見る

堯がねをやめると、愛想もなく、下枝の間を渡りながら行ってしまった。

低地を隔てて、谷に面した日当たりのいいある華族の庭が見えた。

原文を見る

低地をへだてて、谷に臨んだ日当りのいいある華族の庭が見えた。

黄色く枯れた朝鮮芝に赤い布団が干してある。――

原文を見る

黄に枯れた朝鮮芝に赤い蒲団が干してある。――

堯はいつになく早起きをした午前の空気にうっとりとした。

原文を見る

堯はいつになく早起きをした午前にうっとりとした。

しばらくして彼は、葉が褐色に枯れて落ちている屋根に、ツルモドキの赤い実がつやつやと現れているのを見ながら、家の門を出た。

原文を見る

しばらくして彼は、葉が褐色に枯れ落ちている屋根に、つるもどきの赤い実がつややかにあらわれているのを見ながら、家の門を出た。

風もない青空の下で、すっかり黄色くなったイチョウは、静かに影をたたんで休んでいた。

原文を見る

風もない青空に、黄にりきった公孫樹いちょうは、静かに影を畳んで休ろうていた。

白い化粧レンガを張った長い塀が、いかにも澄んだ冬の空気を映していた。

原文を見る

白い化粧煉瓦を張った長い塀が、いかにも澄んだ冬の空気を映していた。

その下を孫をおぶった老婆がゆっくりゆっくり歩いてくる。

原文を見る

その下を孫をぶった老婆がゆっくりゆっくり歩いて来る。

堯は長い坂を下りて郵便局へ行った。

原文を見る

たかしは長い坂を下りて郵便局へ行った。

日が差し込んでいる郵便局は絶えず扉が鳴り、人々は朝の新鮮な空気をまき散らしていた。

原文を見る

日の射し込んでいる郵便局は絶えず扉が鳴り、人びとは朝の新鮮な空気をき散らしていた。

堯は長い間こんな空気に触れなかったような気がした。

原文を見る

堯は永い間こんな空気に接しなかったような気がした。

彼は細い坂をゆっくりゆっくり登った。

原文を見る

彼は細い坂を緩りゆっくり登った。

サザンカの花やヤツデの花が咲いていた。

原文を見る

山茶花さざんかの花ややつでの花が咲いていた。

堯は十二月になっても蝶がいるのに驚いた。

原文を見る

堯は十二月になってもちょうがいるのに驚いた。

蝶が飛んでいった方角には、日光の中に散らばったアブの光点が忙しく行き交っていた。

原文を見る

それの飛んで行った方角には日光に撒かれたあぶの光点が忙しく行き交うていた。

「ぼんやりとした幸福だ」

原文を見る

痴呆ちほうのような幸福だ」

と彼は思った。

原文を見る

と彼は思った。

そしてうとうとしながら日だまりにしゃがんでいた。――

原文を見る

そしてうつらうつら日溜りにかがまっていた。――

やはりその日だまりの少し離れたところで、小さい子供たちが何かして遊んでいた。

原文を見る

やはりその日溜りの少し離れたところに小さい子供達がなにかして遊んでいた。

四、五歳の男の子や女の子たちだった。

原文を見る

四五歳の童子や童女達であった。

「見てやしないだろうな」

原文を見る

「見てやしないだろうな」

と思いながら堯は浅く水が流れている溝の中へ痰を吐いた。

原文を見る

と思いながら堯は浅く水が流れている溝のなかへ痰を吐いた。

そして彼らの方へ近づいて行った。

原文を見る

そして彼らの方へ近づいて行った。

女の子でやんちゃなのもいた。

原文を見る

女の子であばれているのもあった。

男の子でおとなしくしているのもいた。

原文を見る

男の子で温柔おとなしくしているのもあった。

幼い線が石墨で道に描かれていた。――

原文を見る

おさない線が石墨で路に描かれていた。――

堯はふと、これはどこかで見たことのある情景だと思った。

原文を見る

堯はふと、これはどこかで見たことのある情景だと思った。

急に心が揺れた。

原文を見る

不意に心が揺れた。

揺り起こされたアブが、ぼんやりとした堯の過去へ飛び去った。

原文を見る

揺り覚まされた虻が茫漠ぼうばくとした堯の過去へ飛び去った。

その穏やかな冬の月の午前へ。

原文を見る

そのうららかな臘月ろうげつの午前へ。

堯のアブは見つけた。

原文を見る

たかしあぶは見つけた。

サザンカを。

原文を見る

山茶花を。

その花びらがこぼれるあたりで遊んでいる子供たちを。――

原文を見る

その花片のこぼれるあたりに遊んでいる童子たちを。――

それはたとえば彼が半紙などを忘れて学校へ行ったとき、先生に断りを言って急いで家へ取りに帰ってくる、学校が授業中の、なんとも珍しい午前の道だった。

原文を見る

それはたとえば彼が半紙などを忘れて学校へ行ったとき、先生に断わりを言って急いで自家うちへ取りに帰って来る、学校は授業中の、なにか珍しい午前の路であった。

そんなときでもなければ垣間見ることを許されなかった、聖なる時間の有様だった。

原文を見る

そんなときでもなければ垣間かいま見ることを許されなかった、聖なる時刻の有様であった。

そう思って、堯は微笑んだ。

原文を見る

そう思ってみて堯は微笑ほほえんだ。

午後になって日がいつもの角度に傾くと、この考えは堯を悲しくした。

原文を見る

午後になって、日がいつもの角度に傾くと、この考えは堯を悲しくした。

幼い頃の古ぼけた写真の中に残っていた日向のような弱い陽が、物をほのかに照らしていた。

原文を見る

おさないときの古ぼけた写真のなかに、残っていた日向ひなたのような弱陽が物象を照らしていた。

希望を持てない人間が、どうして思い出を大切にすることができよう。

原文を見る

希望を持てないものが、どうして追憶をいつくしむことができよう。

未来に今朝のような明るさを感じたことが、最近の自分にあるだろうか。

原文を見る

未来に今朝のような明るさを覚えたことが近頃の自分にあるだろうか。

そして今朝の思いつきも結局のところ、ロシアの貴族のように午後二時頃の朝食が生活の習慣になっていたということの、いい証拠ではないか。――

原文を見る

そして今朝の思いつきもなんのことはない、ロシアの貴族のように(午後二時頃の朝餐ちょうさん)が生活の習慣になっていたということのいい証拠ではないか。――

彼はまた長い坂を下りて郵便局へ行った。

原文を見る

彼はまた長い坂を下りて郵便局へ行った。

「今朝の葉書のこと、考えが変わってやめることにしたから、お願いしたことは取り消してください」

原文を見る

「今朝の葉書のこと、考えが変わってやめることにしたから、お願いしたことご中止ください」

今朝彼は暖かい海岸で冬を越すことを考え、そこに住んでいる友人に貸家を探すことを頼んで葉書を出したのだった。

原文を見る

今朝彼は暖い海岸で冬を越すことを想い、そこに住んでいる友人に貸家を捜すことを頼んでったのだった。

彼は激しい疲れを感じながら坂を帰るのにあえいだ。

原文を見る

彼は激しい疲労を感じながら坂を帰るのにあえいだ。

午前の日光の中で静かに影をたたんでいたイチョウは、一日も経たないうちにもう木枯らしが枝を寂しくしていた。

原文を見る

午前の日光のなかで静かに影を畳んでいた公孫樹いちょうは、一日が経たないうちにもうこがらしが枝をまばらにしていた。

その落ち葉が日の当たらない道の上を明るくしている。

原文を見る

その落葉が陽をうしなった路の上を明るくしている。

彼はそれらの落ち葉にほのかな愛着を覚えた。

原文を見る

彼はそれらの落葉にほのかな愛着を覚えた。

堯は家の横の道まで帰ってきた。

原文を見る

たかしは家の横の路まで帰って来た。

彼の家からは、その傾斜のついた道は崖の上になっている。

原文を見る

彼の家からはその勾配のついた路は崖上になっている。

部屋から眺めているいつもの風景が、今彼の目の前で木枯らしに吹きさらされていた。

原文を見る

部屋から眺めているいつもの風景は、今彼の眼前でこがらしに吹きさらされていた。

曇り空には雲が暗々と動いていた。

原文を見る

曇空には雲が暗澹あんたんと動いていた。

そしてその下に堯は、まだ電灯も来ていないある家の二階が、もう戸を閉ざされているのを見た。

原文を見る

そしてその下に堯は、まだ電燈も来ないある家の二階は、もう戸が鎖されてあるのを見た。

戸の木の肌がむき出しに外側に向かってさらされていた。――

原文を見る

戸の木肌はあらわに外面に向かってさらされていた。――

ある感動とともに堯はそこに立ちどまった。

原文を見る

ある感動で堯はそこにたたずんだ。

そばには彼が住んでいる部屋がある。

原文を見る

傍らには彼のんでいる部屋がある。

堯はその部屋を、これまで一度も眺めたことのない新しい気持ちで眺めはじめた。

原文を見る

堯はそれをこれまでついぞ眺めたことのない新しい感情で眺めはじめた。

電灯も来ていないのに早くも戸締まりをした一軒の家の二階――戸のむき出しの木の肌は、ふいに堯の心をよりどころのない旅の寂しさで染めた。

原文を見る

電燈も来ないのに早や戸じまりをした一軒の家の二階――戸のあらわな木肌は、不意に堯の心を寄辺よるべのない旅情で染めた。

――食べるものも持っていない。

原文を見る

――食うものも持たない。

どこに泊まるあてもない。

原文を見る

どこに泊まるあてもない。

そして日は暮れかかっているのに、この知らない町はもう自分を拒んでいる。――

原文を見る

そして日は暮れかかっているが、この他国の町は早や自分を拒んでいる。――

それが現実であるかのような暗い憂いが彼の心を翳らせていった。

原文を見る

それが現実であるかのような暗愁が彼の心をかげっていった。

またそんな記憶がかつての自分にあったような、不思議に甘い気持ちが堯を切なくした。

原文を見る

またそんな記憶がかつての自分にあったような、一種いぶかしい甘美な気持が堯を切なくした。

なぜそんな空想が浮かんでくるのか?

原文を見る

何ゆえそんな空想が起こって来るのか?

 なぜその空想がこれほど自分を悲しくさせ、また、これほど親しく自分を呼ぶのか?

原文を見る

 何ゆえその空想がかくも自分を悲しませ、また、かくも親しく自分を呼ぶのか?

 そんなことが堯にはぼんやりとわかるような気がした。

原文を見る

 そんなことが堯にはおぼろげにわかるように思われた。

肉を焼く香ばしい匂いが、夕方の寒さの匂いに混じってきた。

原文を見る

肉をあぶる香ばしい匂いが夕凍ゆうじみの匂いに混じって来た。

一日の仕事を終えたらしい大工のような人が、息を吐く微かな音をさせながら、堯とすれちがってすたすたと坂を登っていった。

原文を見る

一日の仕事を終えたらしい大工のような人が、息を吐く微かな音をさせながら、堯にすれちがってすたすたと坂を登って行った。

「俺の部屋はあそこだ」

原文を見る

「俺の部屋はあすこだ」

堯はそう思いながら自分の部屋に目を向けた。

原文を見る

堯はそう思いながら自分の部屋に目を注いだ。

夕暮れに包まれているその姿は、今エーテルのように風景に広がっていく虚無に対しては、何の力にもならないように見えた。

原文を見る

薄暮に包まれているその姿は、今エーテルのように風景に拡がってゆく虚無に対しては、何の力でもないように眺められた。

「俺が愛した部屋。俺がそこに住むのを喜んだ部屋。あの中には俺のすべての持ち物が――ひょっとするとその日その日の生活の感情までが内蔵されているかもしれない。ここから声をかければ、その幽霊があの窓を開けて首を差し伸べそうな気さえする。でもそれも、脱ぎ棄てた旅館のどてらがいつの間にか自分の体をその中に思い浮かばせてくる作用とわずかも違わないのではないか。あの無感覚な屋根瓦や窓ガラスをこうしてじっと見ていると、俺はだんだん通行人のような気持ちになってくる。あの無感覚な外側は自殺しかけている人間をその中に抱えているときもやはりあのとおりに違いないのだ。――と言って、自分は先ほどの空想が俺を呼ぶのに従ってこのままここを歩み去ることもできない。

原文を見る

「俺が愛した部屋。俺がそこにむのをよろこんだ部屋。あのなかには俺の一切の所持品が――ふとするとその日その日の生活の感情までが内蔵されているかもしれない。ここから声をかければ、その幽霊があの窓をあけて首を差し伸べそうな気さえする。がしかしそれも、脱ぎ棄てた宿屋の褞袍どてらがいつしか自分自身の身体をそのなかに髣髴ほうふつさせて来る作用とわずかもちがったことはないではないか。あの無感覚な屋根瓦や窓硝子ガラスをこうしてじっと見ていると、俺はだんだん通行人のような心になって来る。あの無感覚な外囲は自殺しかけている人間をそのなかに蔵しているときもやはりあのとおりにちがいないのだ。――と言って、自分は先刻の空想が俺を呼ぶのに従ってこのままここを歩み去ることもできない。

早く電灯でも来ればいい。

原文を見る

早く電燈でも来ればよい。

あの窓のすりガラスが黄色い灯を滲ませれば、与えられた命に満足している人間を部屋の中に、この通行人の気持ちは想像するかもしれない。

原文を見る

あの窓の磨硝子すりガラスが黄色い灯をにじませれば、与えられた生命に満足している人間を部屋のなかに、この通行人の心は想像するかもしれない。

その幸福を信じる力が生まれてくるかもしれない」

原文を見る

その幸福を信じる力が起こって来るかもしれない」

道に立っている堯の耳に、階下の柱時計の音がボンボン……と伝わってきた。

原文を見る

路にたたずんでいる堯の耳に階下の柱時計の音がボンボン……と伝わって来た。

変なものを聞いた、と思いながら彼の足はとぼとぼと坂を下っていった。

原文を見る

変なものを聞いた、と思いながら彼の足はとぼとぼと坂を下って行った。

原文を見る

街路樹から次には街路から、風が枯れ葉を掃い去ったあとは、風の音も変わっていった。

原文を見る

街路樹から次には街路から、風が枯葉を掃ってしまったあとは風の音も変わっていった。

夜になると街のアスファルトは鉛筆でなぞったように凍りはじめた。

原文を見る

夜になると街のアスファルトは鉛筆で光らせたようにてはじめた。

そんな夜に堯は自分の静かな町から銀座へ出かけていった。

原文を見る

そんな夜をたかしは自分の静かな町から銀座へ出かけて行った。

そこでは華やかなクリスマスや年末の売り出しが始まっていた。

原文を見る

そこでは華ばなしいクリスマスや歳末の売出しがはじまっていた。

友達か恋人か家族か、舗道の人はそのほとんどが連れを携えていた。

原文を見る

友達か恋人か家族か、舗道の人はそのほとんどが連れを携えていた。

連れのいない人間の顔は友達に出会う当てを持っていた。

原文を見る

連れのない人間の顔は友達に出会う当てを持っていた。

そしてほんとうに連れがいなくとも金と健康を持っている人に、この物欲の市場が嫌な顔をするはずのものではなかった。

原文を見る

そしてほんとうに連れがなくとも金と健康を持っている人に、この物欲の市場が悪い顔をするはずのものではないのであった。

「何をしに自分は銀座へ来るのだろう」

原文を見る

「何をしに自分は銀座へ来るのだろう」

堯は舗道が早くも疲れしか与えなくなりはじめると、よくそう思った。

原文を見る

堯は舗道が早くも疲労ばかりしか与えなくなりはじめるとよくそう思った。

堯はそんなとき、いつか電車の中で見たある少女の顔を思い浮かべた。

原文を見る

堯はそんなときいつか電車のなかで見たある少女の顔を思い浮かべた。

その少女はつつましい微笑みを浮かべて、彼の座席の前で吊り革に下がっていた。

原文を見る

その少女はつつましい微笑をうかべて彼の座席の前で釣革に下がっていた。

どてらのように体に添っていない着物から「お姉さん」

原文を見る

どてらのように身体に添っていない着物から「お姉さん」

のような首が生えていた。

原文を見る

のような首が生えていた。

その美しい顔は一目で彼女が何の病気かを直感させた。

原文を見る

その美しい顔は一と眼で彼女が何病だかを直感させた。

陶器のように白い皮膚を翳らせている多い産毛。

原文を見る

陶器のように白い皮膚をかげらせている多いうぶ毛。

鼻の穴のまわりの垢。

原文を見る

鼻孔のまわりのあか

「彼女はきっと病床から抜け出してきたに違いない」

原文を見る

「彼女はきっと病床から脱け出して来たものに相違ない」

少女の顔に絶えず波紋のように起こっては消える微笑みを眺めながら堯はそう思った。

原文を見る

少女の面を絶えず漣漪さざなみのように起こっては消える微笑を眺めながら堯はそう思った。

彼女が鼻をかむようにして拭き取っているのは何か。

原文を見る

彼女が鼻をかむようにして拭きとっているのは何か。

灰を落としたストーブのように、そんなとき彼女の顔には一時鮮やかな血の色がのぼった。

原文を見る

灰を落としたストーヴのように、そんなとき彼女の顔には一時鮮かな血がのぼった。

自分の疲れとともにだんだんいじらしさを増していくその娘の面影を抱きながら、銀座では堯は自分の痰を吐くのに困った。

原文を見る

自身の疲労とともにだんだんいじらしさを増していくその娘の像を抱きながら、銀座では堯は自分の痰を吐くのに困った。

まるで物を言うたびに口から蛙が飛び出すグリムのお伽噺の娘のように。

原文を見る

まるでものを言うたび口から蛙が跳び出すグリムお伽噺とぎばなしの娘のように。

彼はそんなとき一人の男が痰を吐いたのを見たことがある。

原文を見る

彼はそんなとき一人の男が痰を吐いたのを見たことがある。

ふいに粗末な下駄が出てきてそれをすりつぶした。

原文を見る

ふいに貧しい下駄が出て来てそれをすりつぶした。

でも、それは足が履いている下駄ではなかった。

原文を見る

が、それは足が穿いている下駄ではなかった。

路傍にゴザを敷いてブリキのこまを売っている老人が、さすがに怒りを顔に浮かべながら、その下駄をゴザの端にあったもう一つの下駄の上へ重ねるところを彼は見たのだった。

原文を見る

路傍に茣蓙ござを敷いてブリキの独楽こまを売っている老人が、さすがに怒りを浮かべながら、その下駄を茣蓙の端のも一つの上へ重ねるところを彼は見たのである。

「見たか」

原文を見る

「見たか」

そんな気持ちで堯は通り過ぎる人々を振り返った。

原文を見る

そんな気持で堯は行き過ぎる人びとを振り返った。

でも、誰もそれを見た人はなさそうだった。

原文を見る

が、誰もそれを見た人はなさそうだった。

老人が座っているところは、それが往来の目に入るにはあまりに近すぎた。

原文を見る

老人の坐っているところは、それが往来の目に入るにはあまりに近すぎた。

それでなくても老人が売っているブリキのこまはもう田舎の駄菓子屋でさえ時代遅れなものに違いなかった。

原文を見る

それでなくても老人の売っているブリキの独楽こまはもう田舎の駄菓子屋ででも陳腐ちんぷなものにちがいなかった。

堯は一度もその玩具が売れたのを見たことがなかった。

原文を見る

たかしは一度もその玩具が売れたのを見たことがなかった。

「何をしに自分は来たのだ」

原文を見る

「何をしに自分は来たのだ」

彼はそれが自分自身への口実の、コーヒーやバターやパンや筆を買ったあとで、ときには怒りのようなものを感じながら高価なフランスの香水を買ったりするのだった。

原文を見る

彼はそれが自分自身への口実の、珈琲コーヒー牛酪バターやパンや筆を買ったあとで、ときには憤怒のようなものを感じながら高価な仏蘭西香料を買ったりするのだった。

またときには露店が店をたたむ時間まで街角のレストランに座っていた。

原文を見る

またときには露店が店を畳む時刻まで街角のレストランに腰をかけていた。

ストーブで暖められ、ピアノトリオに気分が浮き立って、グラスが鳴り、流し目が光り、笑顔が湧き立っているレストランの天井には、だるそうな冬のハエが何匹も飛んでいた。

原文を見る

ストーヴに暖められ、ピアノトリオに浮き立って、グラスが鳴り、流眄ながしめが光り、笑顔が湧き立っているレストランの天井には、物憂い冬のはえが幾匹も舞っていた。

手持ちぶさたにそんなものまで見ているのだった。

原文を見る

所在なくそんなものまで見ているのだった。

「何をしに自分は来たのだ」

原文を見る

「何をしに自分は来たのだ」

街へ出ると吹き通る空っ風がもう人出をまばらにしていた。

原文を見る

街へ出ると吹き通る空っ風がもう人足をまばらにしていた。

宵のうち人々がつかまされたビラの類が不思議と街の一か所に吹き溜められていたり、吐いた痰がすぐに凍り、落ちた下駄の金具に紛れてしまったりする夜更けを、彼は結局は家へ帰らなければならないのだった。

原文を見る

宵のうち人びとがつかまされたビラの類が不思議に街の一と所に吹き溜められていたり、吐いた痰がすぐに凍り、落ちた下駄の金具にまぎれてしまったりする夜更けを、彼は結局は家へ帰らねばならないのだった。

「何をしに自分は来たのだ」

原文を見る

「何をしに自分は来たのだ」

それは彼の中に残っている古い生活の楽しみにすぎなかった。

原文を見る

それは彼のなかに残っている古い生活の感興にすぎなかった。

やがて自分は来なくなるだろう。

原文を見る

やがて自分は来なくなるだろう。

堯は重い疲れとともにそれを感じた。

原文を見る

たかしは重い疲労とともにそれを感じた。

彼が部屋で感じる夜は、昨夜も一昨夜もおそらくは明晩もない、病院の廊下のように長く続いた夜だった。

原文を見る

彼が部屋で感覚する夜は、昨夜も一昨夜もおそらくは明晩もない、病院の廊下のように長く続いた夜だった。

そこでは古い生活は死のような空気の中で止まっていた。

原文を見る

そこでは古い生活は死のような空気のなかで停止していた。

思想は本棚を埋める壁の土にすぎなかった。

原文を見る

思想は書棚を埋める壁土にしか過ぎなかった。

壁にかかった星座早見表は午前三時が十月二十何日に目盛りを合わせたままほこりをかぶっていた。

原文を見る

壁にかかった星座早見表は午前三時が十月二十何日に目盛をあわせたままほこりをかぶっていた。

夜更けて彼がトイレへ通ると、小窓の外の屋根瓦には月光のような霜が置いている。

原文を見る

夜更けて彼が便所へ通うと、小窓の外の屋根瓦には月光のような霜が置いている。

それを見るときだけ彼の心はぱっと明るくなるのだった。

原文を見る

それを見るときにだけ彼の心はほーっと明るむのだった。

硬い寝床はそれを離れると午後に始まる一日が待っていた。

原文を見る

固い寝床はそれを離れると午後にはじまる一日が待っていた。

傾いた冬の陽が窓の外の目の前を幻灯のように写し出している、その毎日だった。

原文を見る

傾いた冬の日が窓のそとのまのあたりを幻燈のように写し出している、その毎日であった。

そしてその不思議な日差しはだんだんすべてのものが仮の姿にすぎないということや、仮の姿であるがゆえに精神的な美しさに染められているのだということを、あからさまにしてくるのだった。

原文を見る

そしてその不思議な日射しはだんだんすべてのものが仮象にしか過ぎないということや、仮象であるゆえ精神的な美しさに染められているのだということを露骨にして来るのだった。

ビワが花をつけ、遠くの日だまりからはダイダイの実が目を射た。

原文を見る

枇杷びわが花をつけ、遠くの日溜りからはだいだいの実が目を射った。

そして初冬の時雨はもう霰となって軒を走った。

原文を見る

そして初冬の時雨しぐれはもうあられとなって軒をはしった。

霰はあとからあとへ黒い屋根瓦を打ってはころころと転がった。

原文を見る

霰はあとからあとへ黒い屋根瓦を打ってはころころ転がった。

トタン屋根を打つ音。

原文を見る

トタン屋根をつ音。

ヤツデの葉をはじく音。

原文を見る

やつでの葉を弾く音。

枯れ草に消える音。

原文を見る

枯草に消える音。

やがてサアーというそれが世間に降っている音が聞こえてくる。

原文を見る

やがてサアーというそれが世間に降っている音がきこえ出す。

すると、白い冬のベールを破って、近くの屋敷からは鶴の鳴き声が起こった。

原文を見る

と、白い冬の面紗ヴェイルを破って近くの邸からは鶴の啼き声が起こった。

堯の心もそんなときにはなにか新鮮な喜びが感じられるのだった。

原文を見る

堯の心もそんなときにはなにか新鮮な喜びが感じられるのだった。

彼は窓辺によりかかって、風狂というものが存在した古い時代のことを思った。

原文を見る

彼は窓際にって風狂というものが存在した古い時代のことを思った。

しかしそれを自分自身に当てはめることは堯にはできなかった。

原文を見る

しかしそれを自分の身に当てめることは堯にはできなかった。

原文を見る

いつの間にか冬至が過ぎた。

原文を見る

いつの隙にか冬至が過ぎた。

そんなある日、堯は長らく近づかなかった、以前住んでいた町の質屋へ行った。

原文を見る

そんなある日たかしは長らく寄りつかなかった、以前住んでいた町の質店へ行った。

お金が入ったので冬の外套を取り出しに出かけたのだった。

原文を見る

金が来たので冬の外套がいとうを出しに出掛けたのだった。

でも行ってみると、それはすでに流れてしまっていた。

原文を見る

が、行ってみるとそれはすでに流れたあとだった。

「××さん、あれはいつ頃でしたっけ」

原文を見る

「××どんあれはいつ頃だったけ」

「へい」

原文を見る

「へい」

しばらく見ない間にすっかり大人びた若い店員が帳簿をめくった。

原文を見る

しばらく見ない間にすっかり大人びた小店員が帳簿を繰った。

堯はその言葉がわりとすらすら出てくる番頭の顔が変に見えてきた。

原文を見る

堯はその口上が割合すらすら出て来る番頭の顔が変に見え出した。

ある瞬間には彼が非常に言いにくいことを押し隠して言っているように見え、ある瞬間にはいかにも平気に言っているように見えた。

原文を見る

ある瞬間には彼が非常な言い憎さを押し隠して言っているように見え、ある瞬間にはいかにも平気に言っているように見えた。

彼は人の表情を読むのにこれほど戸惑ったことはないと思った。

原文を見る

彼は人の表情を読むのにこれほど戸惑ったことはないと思った。

いつもは好意のある世間話をしてくれる番頭だった。

原文を見る

いつもは好意のある世間話をしてくれる番頭だった。

堯は番頭の言葉によって、何度も質屋から郵便を受け取っていたことをはじめて現実として思い出した。

原文を見る

堯は番頭の言葉によって幾度も彼が質店から郵便を受けていたのをはじめて現実に思い出した。

硫酸に侵されているような気持ちの底で、そんなことをこの番頭に聞かせたらというような苦笑いも感じながら、彼もやはり番頭のような無関心を顔に装って、一緒に処分されたものを一通り聞いてから、彼はその店を出た。

原文を見る

硫酸に侵されているような気持の底で、そんなことをこの番頭に聞かしたらというような苦笑も感じながら、彼もやはり番頭のような無関心を顔に装って一通りそれと一緒に処分されたものを聞くと、彼はその店を出た。

一匹の痩せ衰えた犬が、霜解けの道端で醜い腰つきを震わせながら、糞をしようとしていた。

原文を見る

一匹の痩せ衰えた犬が、霜解けの路ばたで醜い腰付をふるわせながら、糞をしようとしていた。

堯はなにか露悪的な気持ちにじりじり迫られるのを感じながら、嫌悪に耐えてその犬の体の様子を終わるまで見ていた。

原文を見る

たかしはなにか露悪的な気持にじりじり迫られるのを感じながら、嫌悪に堪えたその犬の身体つきを終わるまで見ていた。

長い帰りの電車の中でも、彼はずっと崩れ落ちそうになる自分をこらえていた。

原文を見る

長い帰りの電車のなかでも、彼はしじゅう崩壊に屈しようとする自分を堪えていた。

そして電車を降りてみると、家を出るとき持って出たはずの傘は――彼は持っていなかった。

原文を見る

そして電車を降りてみると、家を出るとき持って出たはずの洋傘こうもりは――彼は持っていなかった。

当てもなく電車を追おうとする目を、彼は反射的にそらせた。

原文を見る

あてもなく電車を追おうとする眼を彼は反射的にそらせた。

重い疲れを引きずりながら、夕方の道を帰ってきた。

原文を見る

重い疲労を引きりながら、夕方の道を帰って来た。

その日町へ出るとき赤いものを吐いた、それが道端のムクゲの根元にまだひっかかっていた。

原文を見る

その日町へ出るとき赤いものを吐いた、それが路ばたの槿むくげの根方にまだひっかかっていた。

堯にはかすかな身震いが感じられた。――

原文を見る

堯にはかすかな身ぶるいが感じられた。――

吐いたときには悪いことをしたとしか思わなかったその赤い色に。――

原文を見る

吐いたときには悪いことをしたとしか思わなかったその赤い色に。――

夕方の発熱する時間が来ていた。

原文を見る

夕方の発熱時が来ていた。

冷たい汗が気味悪く脇の下を伝った。

原文を見る

冷たい汗が気味悪く腋の下を伝った。

彼は袴も脱がない外出姿のままじっと部屋に座っていた。

原文を見る

彼ははかまも脱がぬ外出姿のまま凝然ぎょうぜんと部屋に坐っていた。

突然、短刀のような悲しみが彼に触れた。

原文を見る

突然匕首あいくちのような悲しみが彼に触れた。

次から次へ愛する人を失っていった母の、ときどきするぼんやりとした表情を思い浮かべると、彼は静かに泣きはじめた。

原文を見る

次から次へ愛するものを失っていった母の、ときどきするとぼけたような表情を思い浮かべると、彼は静かに泣きはじめた。

夕食のために階下へ下りる頃には、彼の心はもう冷静に戻っていた。

原文を見る

夕餉ゆうげをしたために階下へ下りる頃は、彼の心はもはや冷静に帰っていた。

そこへ友達の折田というのが訪ねてきた。

原文を見る

そこへ友達の折田というのが訪ねて来た。

食欲はなかった。

原文を見る

食欲はなかった。

彼はすぐ二階へあがった。

原文を見る

彼はすぐ二階へあがった。

折田は壁にかかっていた星座表を外してきて、しきりに目盛りを動かしていた。

原文を見る

折田は壁にかかっていた、星座表を下ろして来てしきりに目盛を動かしていた。

「よう」

原文を見る

「よう」

折田はそれには答えず、

原文を見る

折田はそれには答えず、

「どうだ。雄大じゃないか」

原文を見る

「どうだ。雄大じゃあないか」

それから顔をあげようとしなかった。

原文を見る

それから顔をあげようとしなかった。

堯はふっと息をのんだ。

原文を見る

たかしはふと息をんだ。

彼にはそれがいかに壮大な眺めであるかが信じられた。

原文を見る

彼にはそれがいかに壮大な眺めであるかが信じられた。

「休暇になったから郷里へ帰ろうと思ってやってきた」

原文を見る

「休暇になったから郷里へ帰ろうと思ってやって来た」

「もう休暇なのか。俺は今度は帰らないよ」

原文を見る

「もう休暇かね。俺はこんどは帰らないよ」

「どうして」

原文を見る

「どうして」

「帰りたくない」

原文を見る

「帰りたくない」

「家からは」

原文を見る

「うちからは」

「家へは帰らないと手紙を出した」

原文を見る

「うちへは帰らないと手紙出した」

「旅行でもするのか」

原文を見る

「旅行でもするのか」

「いや、そうじゃない」

原文を見る

「いや、そうじゃない」

折田はぎろっと堯の目を見返したまま、もうその先を聞かなかった。

原文を見る

折田はぎろと堯の目を見返したまま、もうその先をかなかった。

でも、友達の噂や学校の話、久しぶりの話はだんだん出てきた。

原文を見る

が、友達の噂学校の話、久濶きゅうかつの話は次第に出て来た。

「この頃学校では講堂の焼け跡を壊してるんだ。それがね、労働者がつるはしを持って焼け跡のレンガ壁に登って……」

原文を見る

「この頃学校じゃあ講堂の焼跡をこわしてるんだ。それがね、労働者が鶴嘴つるはしを持って焼跡の煉瓦壁へ登って……」

今まさに自分が乗っているレンガ壁につるはしを振るっている労働者の姿を、折田は身振りを交えて描き出した。

原文を見る

その現に自分の乗っている煉瓦壁へ鶴嘴をふるっている労働者の姿を、折田は身振りをまぜて描き出した。

「あと一突きというところまでは、その上にいてつるはしをあてている。それから安全な場所へ移って一発ぐわんとやるんだ。すると大きな塊がどどーんと落ちてくる」

原文を見る

「あと一ときというところまでは、その上にいて鶴嘴つるはしをあてている。それから安全なところへ移って一つぐわんとやるんだ。すると大きいやつがどどーんと落ちて来る」

「ふーん。なかなかおもしろい」

原文を見る

「ふーん。なかなかおもしろい」

「おもしろいよ。それで大変な人気だ」

原文を見る

「おもしろいよ。それで大変な人気だ」

堯たちは話をしているといくらでも茶を飲んだ。

原文を見る

たかしらは話をしているといくらでも茶を飲んだ。

でも、いつも自分が使っている茶碗でしきりに茶を飲む折田を見ると、そのたびに彼は心が話からそれる。

原文を見る

が、へいぜい自分の使っている茶碗ちゃわんでしきりに茶を飲む折田を見ると、そのたび彼は心が話からそれる。

そのこだわりがだんだん重く堯にのしかかってきた。

原文を見る

その拘泥がだんだん重く堯にのしかかって来た。

「君は肺病の茶碗を使うのが平気なのか。咳をするたびにバイキンはたくさん飛んでいるし。――平気なんだったら衛生の観念が乏しいんだし、友達だからこらえているんだったら子供みたいな感傷主義にすぎないと思うな――僕はそう思う」

原文を見る

「君は肺病の茶碗を使うのが平気なのかい。咳をするたびにバイキンはたくさん飛んでいるし。――平気なんだったら衛生の観念が乏しいんだし、友達甲斐がいにこらえているんだったら子供みたいな感傷主義に過ぎないと思うな――僕はそう思う」

言ってしまって堯は、なぜこんないやなことを言ったのかと思った。

原文を見る

言ってしまって堯は、なぜこんないやなことを言ったのかと思った。

折田は目を一度ぎろっとさせたまま黙っていた。

原文を見る

折田は目を一度ぎろとさせたまま黙っていた。

「しばらく誰も来なかったか」

原文を見る

「しばらく誰も来なかったかい」

「しばらく誰も来なかった」

原文を見る

「しばらく誰も来なかった」

「来ないとひがむか」

原文を見る

「来ないとひがむかい」

今度は堯が黙った。

原文を見る

こんどは堯が黙った。

でも、そんな言葉で話し合うのが堯にはなぜか心地よかった。

原文を見る

が、そんな言葉で話し合うのが堯にはなぜか快かった。

「ひがみはしない。しかし俺もこの頃は考え方が少し変わってきた」

原文を見る

「ひがみはしない。しかし俺もこの頃は考え方が少しちがって来た」

「そうか」

原文を見る

「そうか」

堯はその日の出来事を折田に話した。

原文を見る

たかしはその日の出来事を折田に話した。

「俺はそんなとき、どうしても冷静になれない。冷静というのは無感動じゃなくて、俺にとっては感動だ。苦痛だ。しかし俺の生きる道は、その冷静さで自分の体や自分の生活が滅びていくのを見ていることだ」

原文を見る

「俺はそんなときどうしても冷静になれない。冷静というものは無感動じゃなくて、俺にとっては感動だ。苦痛だ。しかし俺の生きる道は、その冷静で自分の肉体や自分の生活が滅びてゆくのを見ていることだ」

「…………」

原文を見る

「…………」

「自分の生活が壊れてしまえばほんとうの冷静はくると思う。水底の岩に落ちつく木の葉かな。……」

原文を見る

「自分の生活が壊れてしまえばほんとうの冷静は来ると思う。水底の岩に落ちつく木の葉かな。……」

「丈草だね。……そうか、しばらく来なかったな」

原文を見る

丈草じょうそうだね。……そうか、しばらく来なかったな」

「そんなこと。……しかしこんな考えは孤独にするな」

原文を見る

「そんなこと。……しかしこんな考えは孤独にするな」

「俺は君がそのうちに転地でもするような気になるといいと思うな。正月には帰れと言ってきても帰らないつもりか」

原文を見る

「俺は君がそのうちに転地でもするような気になるといいと思うな。正月には帰れと言って来ても帰らないつもりか」

「帰らないつもりだ」

原文を見る

「帰らないつもりだ」

珍しく風のない静かな夜だった。

原文を見る

珍しく風のない静かな晩だった。

そんな夜は火事もなかった。

原文を見る

そんな夜は火事もなかった。

二人が話をしていると、外では時どき小さな呼子のような声のものが鳴いた。

原文を見る

二人が話をしていると、戸外にはときどき小さい呼子のような声のものが鳴いた。

十一時になって折田は帰っていった。

原文を見る

十一時になって折田は帰って行った。

帰りぎわに彼は財布の中から乗車割引券を二枚、

原文を見る

帰るきわに彼は紙入のなかから乗車割引券を二枚、

「学校へ取りに行くのも面倒だろうから」

原文を見る

「学校へとりにゆくのも面倒だろうから」

と言って堯に渡した。

原文を見る

と言って堯に渡した。

原文を見る

母から手紙が来た。

原文を見る

母から手紙が来た。

――お前には何か変わったことがあるに違いない。

原文を見る

――おまえにはなにか変わったことがあるにちがいない。

それで正月に上京される津枝さんにお前を見舞っていただくことにした。

原文を見る

それで正月上京なさる津枝さんにおまえを見舞っていただくことにした。

そのつもりでいなさい。

原文を見る

そのつもりでいなさい。

帰らないと言うから春着を送りました。

原文を見る

帰らないと言うから春着を送りました。

今年は胴着を作って入れておいたが、胴着は着物と襦袢の間に着るものです。

原文を見る

今年は胴着を作って入れておいたが、胴着は着物と襦袢じゅばんの間に着るものです。

直接着てはいけません。――

原文を見る

じかに着てはいけません。――

津枝というのは母の先生の息子で、今は大学を出て医者をしていた。

原文を見る

津枝というのは母の先生の子息で今は大学を出て医者をしていた。

でも、かつて堯にはその人に兄のような思慕を持っていた時代があった。

原文を見る

が、かつてたかしにはその人に兄のような思慕を持っていた時代があった。

堯は近くへ散歩に出ると、近頃はことに母の幻覚に出会った。

原文を見る

堯は近くへ散歩に出ると、近頃はことに母の幻覚に出会った。

母だ!

原文を見る

母だ!

 と思ってそれが見も知らぬ人の顔であるとき、彼はよく変なことを思った。――

原文を見る

 と思ってそれが見も知らぬ人の顔であるとき、彼はよく変なことを思った。――

すーっと変わったようだった。

原文を見る

すーっと変わったようだった。

また母がもう彼の部屋へ来て座り込んでいる姿が目にちらつき、家へ引き返したりした。

原文を見る

また母がもう彼の部屋へ来て坐りこんでいる姿が目にちらつき、家へ引き返したりした。

でも、来たのは手紙だった。

原文を見る

が、来たのは手紙だった。

そして来るはずの人は津枝だった。

原文を見る

そして来るべき人は津枝だった。

堯の幻覚はやんだ。

原文を見る

堯の幻覚はやんだ。

街を歩くと堯は自分が敏感な水準器になってしまったのを感じた。

原文を見る

街を歩くと堯は自分が敏感な水準器になってしまったのを感じた。

彼はだんだん息が苦しくなってくる自分に気がつく。

原文を見る

彼はだんだん呼吸が切迫して来る自分に気がつく。

そして振り返ってみると、その道は彼が知らなかったほどの傾斜をしているのだった。

原文を見る

そして振り返って見るとその道は彼が知らなかったほどの傾斜をしているのだった。

彼は立ち止まると激しく肩で息をした。

原文を見る

彼は立ち停まると激しく肩で息をした。

ある切ない塊が胸を下っていくまでには、必ずどうすればいいのかわからない息苦しさを一度経なければならなかった。

原文を見る

ある切ない塊が胸を下ってゆくまでには、必ずどうすればいいのかわからない息苦しさを一度経なければならなかった。

それが治まると堯はまた歩き出した。

原文を見る

それが鎮まると堯はまた歩き出した。

何が彼を駆り立てるのか。

原文を見る

何が彼を駆るのか。

それは遠い地平へ落ちていく太陽の姿だった。

原文を見る

それは遠い地平へ落ちて行く太陽の姿だった。

彼の一日は、低地を隔てた灰色の西洋風の木造家屋にどの日もどの日も消えていく冬の日に、もう耐えきることができなくなった。

原文を見る

彼の一日は低地をへだてた灰色の洋風の木造家屋に、どの日もどの日も消えてゆく冬の日に、もう堪えきることができなくなった。

窓の外の風景が次第に青ざめた空気の中へ沈んでいくとき、それがすでにただの日陰ではなく、夜と名付けられた日陰だという自覚に、彼の心は不思議なほど苛立ちを覚えるのだった。

原文を見る

窓の外の風景が次第に蒼ざめた空気のなかへ没してゆくとき、それがすでにただの日蔭ではなく、夜と名付けられた日蔭だという自覚に、彼の心は不思議ないらだちを覚えて来るのだった。

「ああ、大きな落日が見たい」

原文を見る

「あああ大きな落日が見たい」

彼は家を出て、遠くまで見渡せる場所を探した。

原文を見る

彼は家を出て遠い展望のきく場所を捜した。

年の瀬の町には餅つきの音が起こっていた。

原文を見る

歳暮の町には餅搗もちつきの音が起こっていた。

花屋の前には梅と福寿草をあしらった植木鉢が並んでいた。

原文を見る

花屋の前には梅と福寿草をあしらった植木鉢が並んでいた。

そんな風景は、町のどこをどう帰ればいいかわからなくなりはじめるにつれて、だんだん美しくなった。

原文を見る

そんな風俗画は、町がどこをどう帰っていいかわからなくなりはじめるにつれて、だんだん美しくなった。

自分がまだ一度も踏まなかった道――そこでは米を研いでいる女も、けんかをしている子供も彼を立ち止まらせた。

原文を見る

自分のまだ一度も踏まなかった路――そこでは米をいでいる女も喧嘩けんかをしている子供も彼を立ち停まらせた。

でも、見晴らしはどこへ行っても、大きな屋根の影絵があり、夕焼け空に澄んだ梢があった。

原文を見る

が、見晴らしはどこへ行っても、大きな屋根の影絵があり、夕焼空に澄んだこずえがあった。

そのたびに、遠い地平へ落ちていく太陽の隠された姿が切ない彼の心に映った。

原文を見る

そのたび、遠い地平へ落ちてゆく太陽の隠された姿が切ない彼の心に写った。

日の光に満ちた空気は地面からわずかも離れていなかった。

原文を見る

日の光に満ちた空気は地上をわずかもへだたっていなかった。

彼の満たされない願いは、ときに高い屋根の上に登って空へ手を伸ばしている男を想像した。

原文を見る

彼の満たされない願望は、ときに高い屋根の上へのぼり、空へ手を伸ばしている男を想像した。

男の指の先はその空気に触れている。――

原文を見る

男の指の先はその空気に触れている。――

また彼は水素を詰めたシャボン玉が、青ざめた人と街とを昇天させながら、その空気の中へぱっと七色に浮かび上がる瞬間を想像した。

原文を見る

また彼は水素をみたした石鹸玉が、蒼ざめた人と街とを昇天させながら、その空気のなかへパッと七彩に浮かび上がる瞬間を想像した。

青く澄み透った空では浮き雲が次から次へ美しく燃えていった。

原文を見る

青く澄み透った空では浮雲が次から次へ美しく燃えていった。

満たされない堯の心の奥底にも、やがてその火は燃え移った。

原文を見る

みたされないたかしの心のおきにも、やがてその火は燃えうつった。

「こんなに美しいときが、なぜこんなに短いのだろう」

原文を見る

「こんなに美しいときが、なぜこんなに短いのだろう」

彼はそんなときほどはかない気のするときはなかった。

原文を見る

彼はそんなときほどはかない気のするときはなかった。

燃えた雲はまた次々に死灰になりはじめた。

原文を見る

燃えた雲はまたつぎつぎに死灰になりはじめた。

彼の足はもう進まなかった。

原文を見る

彼の足はもう進まなかった。

「あの空を満たしていく影は地球のどのあたりの影になるのだろう。あそこの雲へ行かない限り今日ももう日は見られない」

原文を見る

「あの空をみたしてゆく影は地球のどの辺の影になるかしら。あすこの雲へゆかないかぎり今日ももう日は見られない」

急に重い疲れが彼にのしかかってきた。

原文を見る

にわかに重い疲れが彼にもたりかかる。

知らない町の知らない町角で、堯の心はもう二度と明るくはならなかった。

原文を見る

知らない町の知らない町角で、たかしの心はもう再び明るくはならなかった。