AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-28)
原文: ある午後
ある午後
原文: 「高いとこの眺めは、アアッ(と咳をして)また格段でごわすな」
「高いところの眺めは、アアッ(と咳をして)やはり格別ですなあ」
原文: 片手に洋傘、片手に扇子と日本手拭を持っている。
片手にこうもり傘、片手に扇子と日本手ぬぐいを持っている。
原文: 頭が奇麗に禿げていて、カンカン帽子を冠っているのが、まるで栓をはめたように見える。――
頭がきれいに禿げていて、そこにかぶったカンカン帽が、まるで栓をはめたように見える。――
原文: そんな老人が朗らかにそう言い捨てたまま峻の脇を歩いて行った。
そんな老人が朗らかにそう言い捨てたまま、峻の脇を歩いて行った。
原文: 言っておいてこちらを振り向くでもなく、眼はやはり遠い眺望へ向けたままで、さもやれやれといったふうに石垣のはなのベンチへ腰をかけた。――
言っておいてこちらを振り向くでもなく、目はやはり遠い眺めへ向けたままで、いかにもやれやれといったふうに石垣の先のベンチへ腰をかけた。――
原文: 町を外れてまだ二里ほどの間は平坦な緑。
町を外れてまだ二里ほどの間は平坦な緑。
原文: I湾の濃い藍が、それのかなたに拡がっている。
I湾の濃い藍が、そのかなたに広がっている。
原文: 裾のぼやけた、そして全体もあまりかっきりしない入道雲が水平線の上に静かに蟠っている。――
裾のぼやけた、そして全体もあまりくっきりしない入道雲が、水平線の上に静かにわだかまっている。――
原文: 「ああ、そうですな」
「ああ、そうですね」
原文: 少し間誤つきながらそう答えた時の自分の声の後味がまだ喉や耳のあたりに残っているような気がされて、その時の自分と今の自分とが変にそぐわなかった。
少しまごつきながらそう答えた時の自分の声の後味が、まだ喉や耳のあたりに残っているような気がして、その時の自分と今の自分とが変にそぐわなかった。
原文: なんの拘りもしらないようなその老人に対する好意が頬に刻まれたまま、峻はまた先ほどの静かな展望のなかへ吸い込まれていった。――
何のこだわりも知らないようなその老人への好意が頬に刻まれたまま、峻はまた先ほどの静かな眺めのなかへ吸い込まれていった。――
原文: 風がすこし吹いて、午後であった。
風がすこし吹いて、午後であった。
原文: 一つには、可愛い盛りで死なせた妹のことを落ちついて考えてみたいという若者めいた感慨から、峻はまだ五七日を出ない頃の家を出てこの地の姉の家へやって来た。
一つには、かわいい盛りで死なせた妹のことを落ちついて考えてみたいという若者めいた感慨から、峻はまだ五七日も過ぎない頃の家を出て、この土地の姉の家へやって来た。
原文: ぼんやりしていて、それが他所の子の泣声だと気がつくまで、死んだ妹の声の気持がしていた。
ぼんやりしていて、それがよその子の泣き声だと気がつくまで、死んだ妹の声のような気持ちがしていた。
原文: 「誰だ。暑いのに泣かせたりなんぞして」
「誰だ。暑いのに泣かせたりなんかして」
原文: そんなことまで思っている。
そんなことまで思っている。
原文: 彼女がこと切れた時よりも、火葬場での時よりも、変わった土地へ来てするこんな経験の方に「失った」
彼女が息を引き取った時よりも、火葬場での時よりも、慣れない土地へ来てするこんな経験の方に「失った」
原文: という思いは強く刻まれた。
という思いは強く刻まれた。
原文: 「たくさんの虫が、一匹の死にかけている虫の周囲に集まって、悲しんだり泣いたりしている」
「たくさんの虫が、一匹の死にかけている虫の周りに集まって、悲しんだり泣いたりしている」
原文: と友人に書いたような、彼女の死の前後の苦しい経験がやっと薄い面紗のあちらに感ぜられるようになったのもこの土地へ来てからであった。
と友人に書いたような、彼女の死の前後の苦しい経験が、やっと薄いヴェールの向こうに感じられるようになったのも、この土地へ来てからであった。
原文: そしてその思いにも落ちつき、新しい周囲にも心が馴染んで来るにしたがって、峻には珍しく静かな心持がやって来るようになった。
そしてその思いにも落ちつき、新しい周りにも心が馴染んで来るにしたがって、峻には珍しく静かな心持ちがやって来るようになった。
原文: いつも都会に住み慣れ、ことに最近は心の休む隙もなかった後で、彼はなおさらこの静けさの中でうやうやしくなった。
いつも都会に住み慣れ、ことに最近は心の休む隙もなかった後だけに、彼はなおさらこの静けさの中で恭しい気持ちになった。
原文: 道を歩くのにもできるだけ疲れないように心掛ける。
道を歩くのにも、できるだけ疲れないように心掛ける。
原文: 棘一つ立てないようにしよう。
棘一つ立てないようにしよう。
原文: 指一本詰めないようにしよう。
指一本挟まないようにしよう。
原文: ほんの些細なことがその日の幸福を左右する。――
ほんの些細なことがその日の幸福を左右する。――
原文: 迷信に近いほどそんなことが思われた。
迷信に近いほど、そんなことが思われた。
原文: そして旱の多かった夏にも雨が一度来、二度来、それがあがるたびごとにやや秋めいたものが肌に触れるように気候もなって来た。
そして日照りの多かった夏にも雨が一度来、二度来、それが上がるたびごとに、やや秋めいたものが肌に触れるような気候になって来た。
原文: そうした心の静けさとかすかな秋の先駆は、彼を部屋の中の書物や妄想にひきとめてはおかなかった。
そうした心の静けさとかすかな秋の先ぶれは、彼を部屋の中の書物や妄想にひきとめてはおかなかった。
原文: 草や虫や雲や風景を眼の前へ据えて、ひそかに抑えて来た心を燃えさせる、――ただそのことだけが仕甲斐のあることのように峻には思えた。
草や虫や雲や風景を目の前に据えて、ひそかに抑えて来た心を燃え立たせる、――ただそのことだけがやり甲斐のあることのように峻には思えた。
原文: 「家の近所にお城跡がありまして峻の散歩にはちょうど良いと思います」
「家の近所にお城跡がありまして、峻の散歩にはちょうど良いと思います」
原文: 姉が彼の母のもとへ寄来した手紙にこんなことが書いてあった。
姉が彼の母のもとへ寄こした手紙に、こんなことが書いてあった。
原文: 着いた翌日の夜。
着いた翌日の夜。
原文: 義兄と姉とその娘と四人ではじめてこの城跡へ登った。
義兄と姉とその娘と、四人ではじめてこの城跡へ登った。
原文: 旱のためうんかがたくさん田に湧いたのを除虫燈で殺している。
日照りのためにうんかがたくさん田に湧いたのを、除虫灯で殺している。
原文: それがもうあと二三日だからというので、それを見にあがったのだった。
それがもうあと二三日だからというので、それを見に上がったのだった。
原文: 平野は見渡す限り除虫燈の海だった。
平野は見渡す限り除虫灯の海だった。
原文: 遠くになると星のように瞬いている。
遠くになると星のように瞬いている。
原文: 山の峡間がぼうと照らされて、そこから大河のように流れ出ている所もあった。
山の谷あいがぼうと照らされて、そこから大河のように流れ出ている所もあった。
原文: 彼はその異常な光景に昂奮して涙ぐんだ。
彼はその異常な光景に興奮して涙ぐんだ。
原文: 風のない夜で涼みかたがた見物に来る町の人びとで城跡は賑わっていた。
風のない夜で、涼みがてら見物に来る町の人びとで城跡はにぎわっていた。
原文: 暗のなかから白粉を厚く塗った町の娘達がはしゃいだ眼を光らせた。
闇のなかから、白粉を厚く塗った町の娘たちがはしゃいだ目を光らせた。
原文: 今、空は悲しいまで晴れていた。
今、空は悲しいまでに晴れていた。
原文: そしてその下に町は甍を並べていた。
そしてその下に、町は瓦屋根を並べていた。
原文: 白堊の小学校。
白壁の小学校。
原文: 土蔵作りの銀行。
土蔵造りの銀行。
原文: 寺の屋根。
寺の屋根。
原文: そしてそこここ、西洋菓子の間に詰めてあるカンナ屑めいて、緑色の植物が家々の間から萌え出ている。
そしてそこここ、西洋菓子の隙間に詰めてあるかんな屑めいて、緑色の植物が家々の間から萌え出ている。
原文: ある家の裏には芭蕉の葉が垂れている。
ある家の裏には芭蕉の葉が垂れている。
原文: 糸杉の巻きあがった葉も見える。
糸杉の巻き上がった葉も見える。
原文: 重ね綿のような恰好に刈られた松も見える。
重ね綿のような格好に刈られた松も見える。
原文: みな黝んだ下葉と新しい若葉で、いいふうな緑色の容積を造っている。
どれも黒ずんだ下葉と新しい若葉とで、いいふうな緑色の量感をつくっている。
原文: 遠くに赤いポストが見える。
遠くに赤いポストが見える。
原文: 乳母車なんとかと白くペンキで書いた屋根が見える。
乳母車なんとかと白いペンキで書いた屋根が見える。
原文: 日をうけて赤い切地を張った張物板が、小さく屋根瓦の間に見える。――
日を受けて、赤い切れ地を張った張り物板が、小さく屋根瓦の間に見える。――
原文: 夜になると火の点いた町の大通りを、自転車でやって来た村の青年達が、大勢連れで遊廓の方へ乗ってゆく。
夜になると、灯のついた町の大通りを、自転車でやって来た村の青年たちが、大勢連れ立って遊郭の方へ乗ってゆく。
原文: 店の若い衆なども浴衣がけで、昼見る時とはまるで異ったふうに身体をくねらせながら、白粉を塗った女をからかってゆく。――
店の若い衆なども浴衣がけで、昼に見る時とはまるで違ったふうに体をくねらせながら、白粉を塗った女をからかってゆく。――
原文: そうした町も今は屋根瓦の間へ挾まれてしまって、そのあたりに幟をたくさん立てて芝居小屋がそれと察しられるばかりである。
そうした町も今は屋根瓦の間に挟まれてしまって、そのあたりに幟をたくさん立てて、芝居小屋がそれと察しられるだけである。
原文: 西日を除けて、一階も二階も三階も、西の窓すっかり日覆をした旅館がやや近くに見えた。
西日を避けて、一階も二階も三階も、西の窓すっかりに日よけをした旅館が、やや近くに見えた。
原文: どこからか材木を叩く音が――もともと高くもない音らしかったが、町の空へ「カーン、カーン」
どこからか材木を叩く音が――もともと高くもない音らしかったが、町の空へ「カーン、カーン」
原文: と反響した。
と反響した。
原文: 次つぎ止まるひまなしにつくつく法師が鳴いた。
次々に、止まる間もなくつくつく法師が鳴いた。
原文: 「文法の語尾の変化をやっているようだな」
「文法の語尾の変化をやっているようだな」
原文: ふとそんなに思ってみて、聞いていると不思議に興が乗って来た。
ふとそんなふうに思ってみて、聞いていると不思議に興が乗って来た。
原文: 「チュクチュクチュク」
「チュクチュクチュク」
原文: と始めて「オーシ、チュクチュク」
と始めて「オーシ、チュクチュク」
原文: を繰り返す、そのうちにそれが「チュクチュク、オーシ」
を繰り返す、そのうちにそれが「チュクチュク、オーシ」
原文: になったり「オーシ、チュクチュク」
になったり「オーシ、チュクチュク」
原文: にもどったりして、しまいに「スットコチーヨ」
に戻ったりして、しまいに「スットコチーヨ」
原文: 「スットコチーヨ」
「スットコチーヨ」
原文: になって「ジー」
になって「ジー」
原文: と鳴きやんでしまう。
と鳴きやんでしまう。
原文: 中途に横から「チュクチュク」
中途に横から「チュクチュク」
原文: とはじめるのが出て来る。
と始めるのが出て来る。
原文: するとまた一つのは「スットコチーヨ」
するとまた一つのは「スットコチーヨ」
原文: を終わって「ジー」
を終わって「ジー」
原文: に移りかけている。
に移りかけている。
原文: 三重四重、五重にも六重にも重なって鳴いている。
三重四重、五重にも六重にも重なって鳴いている。
原文: 峻はこの間、やはりこの城跡のなかにある社の桜の木で法師蝉が鳴くのを、一尺ほどの間近で見た。
峻はこの間、やはりこの城跡のなかにある社の桜の木で法師蝉が鳴くのを、一尺ほどの間近で見た。
原文: 華車な骨に石鹸玉のような薄い羽根を張った、身体の小さい昆虫に、よくあんな高い音が出せるものだと、驚きながら見ていた。
きゃしゃな骨にシャボン玉のような薄い羽根を張った、体の小さい昆虫に、よくあんな高い音が出せるものだと、驚きながら見ていた。
原文: その高い音と関係があると言えば、ただその腹から尻尾へかけての伸縮であった。
その高い音と関係があると言えば、ただその腹から尻尾へかけての伸び縮みだけであった。
原文: 柔毛の密生している、節を持った、その部分は、まるでエンジンのある部分のような正確さで動いていた。――
うぶ毛の密生している、節を持ったその部分は、まるでエンジンのある部分のような正確さで動いていた。――
原文: その時の恰好が思い出せた。
その時の格好が思い出せた。
原文: 腹から尻尾へかけてのブリッとした膨らみ。
腹から尻尾へかけてのぶりっとした膨らみ。
原文: 隅ずみまで力ではち切ったような伸び縮み。――
隅々まで力ではち切れそうな伸び縮み。――
原文: そしてふと蝉一匹の生物が無上にもったいないものだという気持に打たれた。
そしてふと、蝉一匹の生き物がこの上なくもったいないものだという気持ちに打たれた。
原文: 時どき、先ほどの老人のようにやって来ては涼をいれ、景色を眺めてはまた立ってゆく人があった。
時どき、先ほどの老人のようにやって来ては涼を入れ、景色を眺めてはまた立ってゆく人があった。
原文: 峻がここへ来る時によく見る、亭の中で昼寝をしたり海を眺めたりする人がまた来ていて、今日は子守娘と親しそうに話をしている。
峻がここへ来る時によく見かける、あずまやの中で昼寝をしたり海を眺めたりする人がまた来ていて、今日は子守娘と親しそうに話をしている。
原文: 蝉取竿を持った子供があちこちする。
蝉取り竿を持った子供があちこちする。
原文: 虫籠を持たされた児は、時どき立ち留まっては籠の中を見、また竿の方を見ては小走りに随いてゆく。
虫籠を持たされた子は、時どき立ち止まっては籠の中を見、また竿の方を見ては小走りについてゆく。
原文: 物を言わないでいて変に芝居のようなおもしろさが感じられる。
物を言わないでいて、変に芝居のようなおもしろさが感じられる。
原文: またあちらでは女の子達が米つきばったを捕えては、「ねぎさん米つけ、何とか何とか」
またあちらでは女の子たちが米つきばったを捕まえては、「ねぎさん米つけ、何とか何とか」
原文: と言いながら米をつかせている。
と言いながら米をつかせている。
原文: ねぎさんというのはこの土地の言葉で神主のことを言うのである。
ねぎさんというのは、この土地の言葉で神主のことを言うのである。
原文: 峻は善良な長い顔の先に短い二本の触覚を持った、そう思えばいかにも神主めいたばったが、女の子に後脚を持たれて身動きのならないままに米をつくその恰好が呑気なものに思い浮かんだ。
峻は、善良な長い顔の先に短い二本の触角を持った、そう思えばいかにも神主めいたばったが、女の子に後脚を持たれて身動きもできないまま米をつく、その格好がのんきなものに思い浮かんだ。
原文: 女の子が追いかける草のなかを、ばったは二本の脚を伸ばし、日の光を羽根一ぱいに負いながら、何匹も飛び出した。
女の子が追いかける草のなかを、ばったは二本の脚を伸ばし、日の光を羽根いっぱいに受けながら、何匹も飛び出した。
原文: 時どき烟を吐く煙突があって、田野はその辺りから展けていた。
時どき煙を吐く煙突があって、田畑はそのあたりから開けていた。
原文: レンブラントの素描めいた風景が散らばっている。
レンブラントの素描めいた風景が散らばっている。
原文: 黝い木立。
黒い木立。
原文: 百姓家。
百姓家。
原文: 街道。
街道。
原文: そして青田のなかに褪赭の煉瓦の煙突。
そして青田のなかに、あせた赤茶色の煉瓦の煙突。
原文: 小さい軽便が海の方からやって来る。
小さい軽便鉄道が海の方からやって来る。
原文: 海からあがって来た風は軽便の煙を陸の方へ、その走る方へ吹きなびける。
海から吹き上がって来た風は、軽便の煙を陸の方へ、その走る方へ吹きなびかせる。
原文: 見ていると煙のようではなくて、煙の形を逆に固定したまま玩具の汽車が走っているようである。
見ていると煙のようではなくて、煙の形を逆向きに固めたまま、おもちゃの汽車が走っているようである。
原文: ササササと日が翳る。
ササササと日が陰る。
原文: 風景の顔色が見る見る変わってゆく。
風景の顔色が見る見る変わってゆく。
原文: 遠く海岸に沿って斜に入り込んだ入江が見えた。――
遠く海岸に沿って、斜めに入り込んだ入江が見えた。――
原文: 峻はこの城跡へ登るたび、幾度となくその入江を見るのが癖になっていた。
峻はこの城跡へ登るたび、幾度となくその入江を見るのが癖になっていた。
原文: 海岸にしては大きい立木が所どころ繁っている。
海岸にしては大きい立ち木が所どころ茂っている。
原文: その蔭にちょっぴり人家の屋根が覗いている。
その陰にちょっぴり人家の屋根がのぞいている。
原文: そして入江には舟が舫っている気持。
そして入江には舟がもやっている気配。
原文: それはただそれだけの眺めであった。
それはただそれだけの眺めであった。
原文: どこを取り立てて特別心を惹くようなところはなかった。
どこを取り立てて特別心を惹くようなところはなかった。
原文: それでいて変に心が惹かれた。
それでいて、変に心が惹かれた。
原文: なにかある。
なにかある。
原文: ほんとうになにかがそこにある。
ほんとうになにかがそこにある。
原文: と言ってその気持を口に出せば、もう空ぞらしいものになってしまう。
と言って、その気持ちを口に出せば、もう空々しいものになってしまう。
原文: たとえばそれを故のない淡い憧憬と言ったふうの気持、と名づけてみようか。
たとえばそれを、理由のない淡いあこがれといったふうの気持ち、と名づけてみようか。
原文: 誰かが「そうじゃないか」
誰かが「そうじゃないか」
原文: と尋ねてくれたとすれば彼はその名づけ方に賛成したかもしれない。
と尋ねてくれたとすれば、彼はその名づけ方に賛成したかもしれない。
原文: しかし自分では「まだなにか」
しかし自分では「まだなにか」
原文: という気持がする。
という気持ちがする。
原文: 人種の異ったような人びとが住んでいて、この世と離れた生活を営んでいる。――
人種の違ったような人びとが住んでいて、この世と離れた生活を営んでいる。――
原文: そんなような所にも思える。
そんなような所にも思える。
原文: とはいえそれはあまりお伽話めかした、ぴったりしないところがある。
とはいえ、それはあまりおとぎ話めかした、ぴったりしないところがある。
原文: なにか外国の画で、あそこに似た所が描いてあったのが思い出せないためではないかとも思ってみる。
なにか外国の絵で、あそこに似た所が描いてあったのが思い出せないためではないかとも思ってみる。
原文: それにはコンステイブルの画を一枚思い出している。
それにはコンステイブルの絵を一枚思い出している。
原文: やはりそれでもない。
やはりそれでもない。
原文: ではいったい何だろうか。
では、いったい何だろうか。
原文: このパノラマ風の眺めは何に限らず一種の美しさを添えるものである。
このパノラマ風の眺めは、何に限らず一種の美しさを添えるものである。
原文: しかし入江の眺めはそれに過ぎていた。
しかし入江の眺めは、それを超えていた。
原文: そこに限って気韻が生動している。
そこに限って気配が生き生きと動いている。
原文: そんなふうに思えた。――
そんなふうに思えた。――
原文: 空が秋らしく青空に澄む日には、海はその青よりやや温い深青に映った。
空が秋らしく青く澄む日には、海はその青よりやや温かい深い青に映った。
原文: 白い雲がある時は海も白く光って見えた。
白い雲がある時は、海も白く光って見えた。
原文: 今日は先ほどの入道雲が水平線の上へ拡がってザボンの内皮の色がして、海も入江の真近までその色に映っていた。
今日は先ほどの入道雲が水平線の上へ広がってザボンの内皮の色をしていて、海も入江のすぐ近くまでその色に映っていた。
原文: 今日も入江はいつものように謎をかくして静まっていた。
今日も入江は、いつものように謎を隠して静まっていた。
原文: 見ていると、獣のようにこの城のはなから悲しい唸声を出してみたいような気になるのも同じであった。
見ていると、獣のようにこの城の先から悲しいうなり声を出してみたいような気になるのも同じであった。
原文: 息苦しいほど妙なものに思えた。
息苦しいほど妙なものに思えた。
原文: 夢で不思議な所へ行っていて、ここは来た覚えがあると思っている。――
夢で不思議な所へ行っていて、ここは来た覚えがあると思っている。――
原文: ちょうどそれに似た気持で、えたいの知れない想い出が湧いて来る。
ちょうどそれに似た気持ちで、得体の知れない思い出が湧いて来る。
原文: 「ああかかる日のかかるひととき」
「ああ、こんな日のこんなひととき」
原文: 「ああかかる日のかかるひととき」
「ああ、こんな日のこんなひととき」
原文: いつ用意したとも知れないそんな言葉が、ひらひらとひらめいた。――
いつ用意したとも知れないそんな言葉が、ひらひらとひらめいた。――
原文: 「ハリケンハッチのオートバイ」
「ハリケンハッチのオートバイ」
原文: 「ハリケンハッチのオートバイ」
「ハリケンハッチのオートバイ」
原文: 先ほどの女の子らしい声が峻の足の下で次つぎに高く響いた。
先ほどの女の子らしい声が、峻の足の下で次々に高く響いた。
原文: 丸の内の街道を通ってゆくらしい自動自転車の爆音がきこえていた。
丸の内の街道を通ってゆくらしいオートバイの爆音が聞こえていた。
原文: この町のある医者がそれに乗って帰って来る時刻であった。
この町のある医者が、それに乗って帰って来る時刻であった。
原文: その爆音を聞くと峻の家の近所にいる女の子は我勝ちに「ハリケンハッチのオートバイ」
その爆音を聞くと、峻の家の近所にいる女の子は我先にと「ハリケンハッチのオートバイ」
原文: と叫ぶ。
と叫ぶ。
原文: 「オートバ」
「オートバ」
原文: と言っている児もある。
と言っている子もある。
原文: 三階の旅館は日覆をいつの間にか外した。
三階建ての旅館は、日よけをいつの間にか外した。
原文: 遠い物干台の赤い張物板ももう見つからなくなった。
遠い物干し台の赤い張り物板も、もう見つからなくなった。
原文: 町の屋根からは煙。
町の屋根からは煙。
原文: 遠い山からは蜩。
遠い山からはひぐらし。
原文: 手品と花火
手品と花火
原文: これはまた別の日。
これはまた別の日。
原文: 夕飯と風呂を済ませて峻は城へ登った。
夕飯と風呂を済ませて、峻は城へ登った。
原文: 薄暮の空に、時どき、数里離れた市で花火をあげるのが見えた。
薄暮の空に、時どき、数里離れた市で花火を上げるのが見えた。
原文: 気がつくと綿で包んだような音がかすかにしている。
気がつくと、綿でくるんだような音がかすかにしている。
原文: それが遠いので間の抜けた時に鳴った。
それが遠いので、間の抜けた頃に鳴った。
原文: いいものを見る、と彼は思っていた。
いいものを見る、と彼は思っていた。
原文: ところへ十七ほどを頭に三人連れの男の児が来た。
そこへ、十七ほどのを頭に三人連れの男の子が来た。
原文: これも食後の涼みらしかった。
これも食後の涼みらしかった。
原文: 峻に気を兼ねてか静かに話をしている。
峻に気兼ねしてか、静かに話をしている。
原文: 口で教えるのにも気がひけたので、彼はわざと花火のあがる方を熱心なふりをして見ていた。
口で教えるのも気がひけたので、彼はわざと花火の上がる方を熱心なふりをして見ていた。
原文: 末遠いパノラマのなかで、花火は星水母ほどのさやけさに光っては消えた。
果てしなく遠いパノラマのなかで、花火は星くらげほどの澄んだ明るさで光っては消えた。
原文: 海は暮れかけていたが、その方はまだ明るみが残っていた。
海は暮れかけていたが、その方角にはまだ明るみが残っていた。
原文: しばらくすると少年達もそれに気がついた。
しばらくすると、少年たちもそれに気がついた。
原文: 彼は心の中で喜んだ。
彼は心の中で喜んだ。
原文: 「四十九」
「四十九」
原文: 「ああ。四十九」
「ああ。四十九」
原文: そんなことを言いあいながら、一度あがって次あがるまでの時間を数えている。
そんなことを言い合いながら、一度上がって次に上がるまでの時間を数えている。
原文: 彼はそれらの会話をきくともなしに聞いていた。
彼はそれらの会話を聞くともなしに聞いていた。
原文: 「××ちゃん。花は」
「××ちゃん。花は」
原文: 「フロラ」
「フロラ」
原文: 一番年のいったのがそんなに答えている。――
一番年上のが、そんなふうに答えている。――
原文: 城でのそれを憶い出しながら、彼は家へ帰って来た。
城でのそれを思い出しながら、彼は家へ帰って来た。
原文: 家の近くまで来ると、隣家の人が峻の顔を見た。
家の近くまで来ると、隣の家の人が峻の顔を見た。
原文: そして慌てたように
そして慌てたように
原文: 「帰っておいでなしたぞな」
「帰っておいでなさったよ」
原文: と家へ言い入れた。
と家の中へ声をかけた。
原文: 奇術が何とか座にかかっているのを見にゆこうかと言っていたのを、峻がぽっと出てしまったので騒いでいたのである。
手品が何とか座にかかっているのを見に行こうかと言っていたのを、峻がふらっと出てしまったので騒いでいたのである。
原文: 「あ。どうも」
「あ。どうも」
原文: と言うと、義兄は笑いながら
と言うと、義兄は笑いながら
原文: 「はっきり言うとかんのがいかんのやさ」
「はっきり言っておかないのがいけないのさ」
原文: と姉に背負わせた。
と姉に責めを背負わせた。
原文: 姉も笑いながら衣服を出しかけた。
姉も笑いながら着物を出しかけた。
原文: 彼が城へ行っている間に姉も信子(義兄の妹)もこってり化粧をしていた。
彼が城へ行っている間に、姉も信子(義兄の妹)もこってり化粧をしていた。
原文: 姉が義兄に
姉が義兄に
原文: 「あんた、扇子は?」
「あんた、扇子は?」
原文: 「衣嚢にあるけど……」
「ポケットにあるけど……」
原文: 「そうやな。あれも汚れてますで……」
「そうやな。あれも汚れてますで……」
原文: 姉が合点合点などしてゆっくり捜しかけるのを、じゅうじゅうと音をさせて煙草を呑んでいた兄は
姉がうなずきうなずき、ゆっくり捜しかけるのを、じゅうじゅうと音をさせて煙草を吸っていた兄は
原文: 「扇子なんかどうでもええわな。早う仕度しやんし」
「扇子なんかどうでもええわな。早う支度しやんし」
原文: と言って煙管の詰まったのを気にしていた。
と言って、煙管の詰まったのを気にしていた。
原文: 奥の間で信子の仕度を手伝ってやっていた義母が
奥の間で信子の支度を手伝ってやっていた義母が
原文: 「さあ、こんなはどうやな」
「さあ、こんなのはどうやな」
原文: と言って団扇を二三本寄せて持って来た。
と言って、団扇を二三本まとめて持って来た。
原文: 砂糖屋などが配って行った団扇である。
砂糖屋などが配って行った団扇である。
原文: 姉が種々と衣服を着こなしているのを見ながら、彼は信子がどんな心持で、またどんなふうで着付けをしているだろうなど、奥の間の気配に心をやったりした。
姉があれこれと着物を着こなしているのを見ながら、彼は信子がどんな心持ちで、またどんなふうに着付けをしているだろうなどと、奥の間の気配に心をやったりした。
原文: やがて仕度ができたので峻はさきへ下りて下駄を穿いた。
やがて支度ができたので、峻は先に下りて下駄を履いた。
原文: 「勝子(姉夫婦の娘)がそこらにいますで、よぼってやっとくなさい」
「勝子(姉夫婦の娘)がそこらにいますで、呼んでやっとくなさい」
原文: と義母が言った。
と義母が言った。
原文: 袖の長い衣服を着て、近所の子らのなかに雑っている勝子は、呼ばれたまま、まだなにか言いあっている。
袖の長い着物を着て、近所の子らのなかに混じっている勝子は、呼ばれたまま、まだなにか言い合っている。
原文: 「『カ』ちうとこへ行くの」
「『カ』って言うとこへ行くの」
原文: 「かつどうや」
「活動やろ」
原文: 「活動や、活動やあ」
「活動や、活動やあ」
原文: と二三人の女の子がはやした。
と二三人の女の子がはやした。
原文: 「ううん」
「ううん」
原文: と勝子は首をふって
と勝子は首をふって
原文: 「『ヨ』ちっとこへ行くの」
「『ヨ』って言うとこへ行くの」
原文: とまたやっている。
と、またやっている。
原文: 「ようちえん?」
「ようちえん?」
原文: 「いやらし。幼稚園、晩にはあれへんわ」
「いやらし。幼稚園、晩にはあらへんわ」
原文: 義兄が出て来た。
義兄が出て来た。
原文: 「早うお出でな。放っといてゆくぞな」
「早う来なよ。放っといて行くぞな」
原文: 姉と信子が出て来た。
姉と信子が出て来た。
原文: 白粉を濃くはいた顔が夕暗に浮かんで見えた。
白粉を濃くはいた顔が、夕闇に浮かんで見えた。
原文: さっきの団扇を一つずつ持っている。
さっきの団扇を一つずつ持っている。
原文: 「お待ち遠さま。勝子は。勝子、扇持ってるか」
「お待ちどおさま。勝子は。勝子、扇持ってるか」
原文: 勝子は小さい扇をちらと見せて姉に纏いつきかけた。
勝子は小さい扇をちらと見せて、姉にまといつきかけた。
原文: 「そんならお母さん、行って来ますで……」
「それじゃお母さん、行って来ますで……」
原文: 姉がそう言うと
姉がそう言うと
原文: 「勝子、帰ろ帰ろ言わんのやんな」
「勝子、帰ろ帰ろ言わんのやんな」
原文: と義母は勝子に言った。
と義母は勝子に言った。
原文: 「言わんのやんな」
「言わんのやんな」
原文: 勝子は返事のかわりに口真似をして峻の手のなかへ入って来た。
勝子は返事のかわりに口真似をして、峻の手のなかへ入って来た。
原文: そして峻は手をひいて歩き出した。
そして峻は手をひいて歩き出した。
原文: 往来に涼み台を出している近所の人びとが、通りすがりに、今晩は、今晩は、と声をかけた。
往来に涼み台を出している近所の人びとが、通りすがりに、今晩は、今晩は、と声をかけた。
原文: 「勝ちゃん。ここ何てとこ?」
「勝ちゃん。ここ何てとこ?」
原文: 彼はそんなことを訊いてみた。
彼はそんなことを訊いてみた。
原文: 「しょうせんかく」
「しょうせんかく」
原文: 「朝鮮閣?」
「朝鮮閣?」
原文: 「ううん、しょうせんかく」
「ううん、しょうせんかく」
原文: 「朝鮮閣?」
「朝鮮閣?」
原文: 「しょう―せん―かく」
「しょう―せん―かく」
原文: 「朝―鮮―閣?」
「朝―鮮―閣?」
原文: 「うん」
「うん」
原文: と言って彼の手をぴしゃと叩いた。
と言って、彼の手をぴしゃと叩いた。
原文: しばらくして勝子から
しばらくして、勝子の方から
原文: 「しょうせんかく」
「しょうせんかく」
原文: といい出した。
と言い出した。
原文: 「朝鮮閣」
「朝鮮閣」
原文: 牴牾しいのはこっちだ、といったふうに寸分違わないように似せてゆく。
もどかしいのはこっちだ、といったふうに、寸分違わないように似せてゆく。
原文: それが遊戯になってしまった。
それが遊びになってしまった。
原文: しまいには彼が「松仙閣」
しまいには彼が「松仙閣」
原文: といっているのに、勝子の方では知らずに「朝鮮閣」
と言っているのに、勝子の方では知らずに「朝鮮閣」
原文: と言っている。
と言っている。
原文: 信子がそれに気がついて笑い出した。
信子がそれに気がついて笑い出した。
原文: 笑われると勝子は冠を曲げてしまった。
笑われると、勝子はへそを曲げてしまった。
原文: 「勝子」
「勝子」
原文: 今度は義兄の番だ。
今度は義兄の番だ。
原文: 「ちがいますともわらびます」
「ちがいますともわらびます」
原文: 「ううん」
「ううん」
原文: 鼻ごえをして、勝子は義兄を打つ真似をした。
鼻声を出して、勝子は義兄を打つ真似をした。
原文: 義兄は知らん顔で
義兄は知らん顔で
原文: 「ちがいますともわらびます。あれ何やったな。勝子。一遍峻さんに聞かしたげなさい」
「ちがいますともわらびます。あれ何やったな。勝子。一遍、峻さんに聞かしたげなさい」
原文: 泣きそうに鼻をならし出したので信子が手をひいてやりながら歩き出した。
泣きそうに鼻を鳴らし出したので、信子が手をひいてやりながら歩き出した。
原文: 「これ……それから何というつもりやったんや?」
「これ……それから何と言うつもりやったんや?」
原文: 「これ、蕨とは違いますって言うつもりやったんやなあ」
「これ、蕨とは違いますって言うつもりやったんやなあ」
原文: 信子がそんなに言って庇護ってやった。
信子がそんなふうに言ってかばってやった。
原文: 「いったいどこの人にそんなことを言うたんやな?」
「いったいどこの人にそんなことを言うたんやな?」
原文: 今度は半分信子に訊いている。
今度は半分、信子に訊いている。
原文: 「吉峰さんのおじさんにやなあ」
「吉峰さんのおじさんにやなあ」
原文: 信子は笑いながら勝子の顔を覗いた。
信子は笑いながら勝子の顔をのぞいた。
原文: 「まだあったぞ。もう一つどえらいのがあったぞ」
「まだあったぞ。もう一つ、どえらいのがあったぞ」
原文: 義兄がおどかすようにそう言うと、姉も信子も笑い出した。
義兄がおどかすようにそう言うと、姉も信子も笑い出した。
原文: 勝子は本式に泣きかけた。
勝子は本式に泣きかけた。
原文: 城の石垣に大きな電灯がついていて、後ろの木々に皎々と照っている。
城の石垣に大きな電灯がついていて、後ろの木々にこうこうと照っている。
原文: その前の木々は反対に黒ぐろとした蔭になっている。
その手前の木々は、反対に黒々とした影になっている。
原文: その方で蝉がジッジジッジと鳴いた。
その方で蝉がジッジジッジと鳴いた。
原文: 彼は一人後ろになって歩いていた。
彼は一人後ろになって歩いていた。
原文: 彼がこの土地へ来てから、こうして一緒に出歩くのは今夜がはじめてであった。
彼がこの土地へ来てから、こうして一緒に出歩くのは今夜がはじめてであった。
原文: 若い女達と出歩く。
若い女たちと出歩く。
原文: そのことも彼の経験では、きわめて稀であった。
そのことも彼の経験では、きわめて稀であった。
原文: 彼はなんとなしに幸福であった。
彼はなんとなしに幸福であった。
原文: 少し我が儘なところのある彼の姉と触れ合っている態度に、少しも無理がなく、――それを器用にやっているのではなく、生地からの平和な生まれ付きでやっている。
少しわがままなところのある彼の姉と触れ合っている態度に、少しも無理がなく、――それを器用にやっているのではなく、生まれつきの平和な性分でやっている。
原文: 信子はそんな娘であった。
信子はそんな娘であった。
原文: 義母などの信心から、天理教様に拝んでもらえと言われると、素直に拝んでもらっている。
義母などの信心から、天理教の方に拝んでもらえと言われると、素直に拝んでもらっている。
原文: それは指の傷だったが、そのため評判の琴も弾かないでいた。
それは指の傷だったが、そのため評判の琴も弾かないでいた。
原文: 学校の植物の標本を造っている。
学校の植物の標本を作っている。
原文: 用事に町へ行ったついでなどに、雑草をたくさん風呂敷へ入れて帰って来る。
用事で町へ行ったついでなどに、雑草をたくさん風呂敷へ入れて帰って来る。
原文: 勝子が欲しがるので勝子にも頒けてやったりなどして、独りせっせとおしをかけいる。
勝子が欲しがるので勝子にも分けてやったりして、一人せっせと押しをかけている。
原文: 勝子が彼女の写真帖を引き出して来て、彼のところへ持って来た。
勝子が彼女の写真帖を引き出して来て、彼のところへ持って来た。
原文: それを極まり悪そうにもしないで、彼の聞くことを穏やかにはきはきと受け答えする。――
それをきまり悪そうにもしないで、彼の聞くことを穏やかに、はきはきと受け答えする。――
原文: 信子はそんな好もしいところを持っていた。
信子はそんな好ましいところを持っていた。
原文: 今彼の前を、勝子の手を曳いて歩いている信子は、家の中で肩縫揚げのしてある衣服を着て、足をにょきにょき出している彼女とまるで違っておとなに見えた。
今、彼の前を勝子の手をひいて歩いている信子は、家の中で肩に縫い上げのしてある着物を着て、足をにょきにょき出している彼女とまるで違って、大人に見えた。
原文: その隣に姉が歩いている。
その隣に姉が歩いている。
原文: 彼は姉が以前より少し痩せて、いくらかでも歩き振りがよくなったと思った。
彼は姉が以前より少し痩せて、いくらかでも歩きぶりがよくなったと思った。
原文: 「さあ。あんた。先へ歩いて……」
「さあ。あんた。先へ歩いて……」
原文: 姉が突然後ろを向いて彼に言った。
姉が突然後ろを向いて彼に言った。
原文: 「どうして」
「どうして」
原文: 今までの気持で訊かなくともわかっていたがわざと彼はとぼけて見せた。
今までの気持ちで訊かなくてもわかっていたが、わざと彼はとぼけて見せた。
原文: そして自分から笑ってしまった。
そして自分から笑ってしまった。
原文: こんな笑い方をしたからにはもう後ろから歩いてゆくわけにはゆかなくなった。
こんな笑い方をしたからには、もう後ろから歩いてゆくわけにはゆかなくなった。
原文: 「早う。気持が悪いわ。なあ。信ちゃん」
「早う。気持ちが悪いわ。なあ。信ちゃん」
原文: 「……」
「……」
原文: 笑いながら信子も点頭いた。
笑いながら信子もうなずいた。
原文: 芝居小屋のなかは思ったように蒸し暑かった。
芝居小屋のなかは思ったとおり蒸し暑かった。
原文: 水番というのか、銀杏返しに結った、年の老けた婦が、座蒲団を数だけ持って、先に立ってばたばた敷いてしまった。
水番とでもいうのか、銀杏返しに結った年配の女が、座布団を人数分だけ持って、先に立ってばたばたと敷いてしまった。
原文: 平場の一番後ろで、峻が左の端、中へ姉が来て、信子が右の端、後ろへ兄が座った。
平場の一番後ろで、峻が左の端、その内側に姉が来て、信子が右の端、後ろへ兄が座った。
原文: ちょうど幕間で、階下は七分通り詰まっていた。
ちょうど幕間で、階下は七分通り詰まっていた。
原文: 先刻の婦が煙草盆を持って来た。
さっきの女が煙草盆を持って来た。
原文: 火が埋んであって、暑いのに気が利かなかった。
火が埋けてあって、暑いのに気が利かなかった。
原文: 立ち去らずにぐずぐずしている。
立ち去らずにぐずぐずしている。
原文: 何と言ったらいいか、この手の婦特有な狡猾い顔付で、眼をきょろきょろさせている。
何と言ったらいいか、この手の女特有のずるい顔つきで、目をきょろきょろさせている。
原文: 眼顔で火鉢を指したり、そらしたり、兄の顔を盗み見たりする。
目つきで火鉢を指したり、そらしたり、兄の顔を盗み見たりする。
原文: こちらが見てよくわかっているのにと思い、財布の銀貨を袂の中で出し悩みながら、彼はその無躾に腹が立った。
こちらが見てよくわかっているのにと思い、財布の銀貨を袂の中で出しあぐねながら、彼はその不躾に腹が立った。
原文: 義兄は落ちついてしまって、まるで無感覚である。
義兄は落ちついてしまって、まるで無感覚である。
原文: 「へ、お火鉢」
「へ、お火鉢」
原文: 婦はこんなことをそわそわ言ってのけて、忙しそうに揉手をしながらまた眼をそらす。
女はこんなことをそわそわ言ってのけて、忙しそうに揉み手をしながら、また目をそらす。
原文: やっと銀貨が出て婦は帰って行った。
やっと銀貨が出て、女は帰って行った。
原文: やがて幕があがった。
やがて幕が上がった。
原文: 日本人のようでない、皮膚の色が少し黒みがかった男が不熱心に道具を運んで来て、時どきじろじろと観客の方を見た。
日本人のようでない、皮膚の色が少し黒みがかった男が、気のない様子で道具を運んで来て、時どきじろじろと観客の方を見た。
原文: ぞんざいで、おもしろく思えなかった。
ぞんざいで、おもしろく思えなかった。
原文: それが済むと怪しげな名前の印度人が不作法なフロックコートを着て出て来た。
それが済むと、怪しげな名前のインド人が不作法なフロックコートを着て出て来た。
原文: 何かわからない言葉で喋った。
何かわからない言葉でしゃべった。
原文: 唾液をとばしている様子で、褪めた唇の両端に白く唾がたまっていた。
唾を飛ばしている様子で、色のあせた唇の両端に白く唾がたまっていた。
原文: 「なんて言ったの」
「なんて言ったの」
原文: 姉がこんなに訊いた。
姉がそんなふうに訊いた。
原文: すると隣のよその人も彼の顔を見た。
すると隣のよその人も彼の顔を見た。
原文: 彼は閉口してしまった。
彼は閉口してしまった。
原文: 印度人は席へ下りて立会人を物色している。
インド人は客席へ下りて、立会人を物色している。
原文: 一人の男が腕をつかまれたまま、危う気な羞笑をしていた。
一人の男が腕をつかまれたまま、危なっかしい照れ笑いをしていた。
原文: その男はとうとう舞台へ連れてゆかれた。
その男はとうとう舞台へ連れてゆかれた。
原文: 髪の毛を前へおろして、糊の寝た浴衣を着、暑いのに黒足袋を穿いていた。
髪の毛を前へおろして、糊の落ちた浴衣を着、暑いのに黒足袋を履いていた。
原文: にこにこして立っているのを、先ほどの男が椅子を持って来て坐らせた。
にこにこして立っているのを、先ほどの男が椅子を持って来て座らせた。
原文: 印度人は非道いやつであった。
インド人はひどいやつであった。
原文: 握手をしようと言って男の前へ手を出す。
握手をしようと言って、男の前へ手を出す。
原文: 男はためらっていたが思い切って手を出した。
男はためらっていたが、思い切って手を出した。
原文: すると印度人は自分の手を引き込めて、観客の方を向き、その男の手振を醜く真似て見せ、首根っ子を縮めて、嘲笑って見せた。
するとインド人は自分の手を引っ込めて、観客の方を向き、その男の手つきを醜く真似て見せ、首根っこを縮めて、あざ笑って見せた。
原文: 毒々しいものだった。
毒々しいものだった。
原文: 男は印度人の方を見、自分の元いた席の方を見て、危な気に笑っている。
男はインド人の方を見、自分のもといた席の方を見て、危なっかしく笑っている。
原文: なにかわけのありそうな笑い方だった。
なにかわけのありそうな笑い方だった。
原文: 子供か女房かがいるのじゃないか。
子供か女房かがいるのではないか。
原文: 堪らない。
たまらない。
原文: と峻は思った。
と峻は思った。
原文: 握手が失敬になり、印度人の悪ふざけはますます性がわるくなった。
握手が失礼になり、インド人の悪ふざけはますます性が悪くなった。
原文: 見物はそのたびに笑った。
見物客はそのたびに笑った。
原文: そして手品がはじまった。
そして手品がはじまった。
原文: 紐があったのは、切ってもつながっているという手品。
紐があったのは、切ってもつながっているという手品。
原文: 金属の瓶があったのは、いくらでも水が出るという手品。――
金属の瓶があったのは、いくらでも水が出るという手品。――
原文: ごく詰まらない手品で、硝子の卓子の上のものは減っていった。
ごくつまらない手品で、ガラスのテーブルの上のものは減っていった。
原文: まだ林檎が残っていた。
まだ林檎が残っていた。
原文: これは林檎を食って、食った林檎の切が今度は火を吹いて口から出て来るというので、試しに例の男が食わされた。
これは林檎を食べて、食べた林檎のかけらが今度は火を吹いて口から出て来るというので、試しに例の男が食わされた。
原文: 皮ごと食ったというので、これも笑われた。
皮ごと食べたというので、これも笑われた。
原文: 峻はその箸にも棒にもかからないような笑い方を印度人がするたびに、何故あの男はなんとかしないのだろうと思っていた。
峻は、その箸にも棒にもかからないような笑い方をインド人がするたびに、なぜあの男はなんとかしないのだろうと思っていた。
原文: そして彼自身かなり不愉快になっていた。
そして彼自身、かなり不愉快になっていた。
原文: そのうちにふと、先ほどの花火が思い出されて来た。
そのうちにふと、先ほどの花火が思い出されて来た。
原文: 「先ほどの花火はまだあがっているだろうか」
「先ほどの花火はまだ上がっているだろうか」
原文: そんなことを思った。
そんなことを思った。
原文: 薄明りの平野のなかへ、星水母ほどに光っては消える遠い市の花火。
薄明かりの平野のなかへ、星くらげほどに光っては消える遠い市の花火。
原文: 海と雲と平野のパノラマがいかにも美しいものに思えた。
海と雲と平野のパノラマが、いかにも美しいものに思えた。
原文: 「花は」
「花は」
原文: 「Flora.」
「Flora.」
原文: たしかに「Flower.」
たしかに「Flower.」
原文: とは言わなかった。
とは言わなかった。
原文: その子供といい、そのパノラマといい、どんな手品師も敵わないような立派な手品だったような気がした。
その子供といい、そのパノラマといい、どんな手品師もかなわないような立派な手品だったような気がした。
原文: そんなことが彼の不愉快をだんだんと洗っていった。
そんなことが、彼の不愉快をだんだんと洗い流していった。
原文: いつもの癖で、不愉快な場面を非人情に見る、――そうすると反対におもしろく見えて来る――その気持がものになりかけて来た。
いつもの癖で、不愉快な場面を人情ぬきに眺める、――そうすると反対におもしろく見えて来る――その気持ちが物になりかけて来た。
原文: 下等な道化に独りで腹を立てていた先ほどの自分が、ちょっと滑稽だったと彼は思った。
下等な道化に一人で腹を立てていた先ほどの自分が、ちょっと滑稽だったと彼は思った。
原文: 舞台の上では印度人が、看板画そっくりの雰囲気のなかで、口から盛んに火を吹いていた。
舞台の上ではインド人が、看板絵そっくりの雰囲気のなかで、口から盛んに火を吹いていた。
原文: それには怪しげな美しささえ見えた。
それには怪しげな美しささえ見えた。
原文: やっと済むと幕が下りた。
やっと済むと幕が下りた。
原文: 「ああおもしろかった」
「ああおもしろかった」
原文: ちょっと嘘のような、とってつけたように勝子が言った。
ちょっと嘘のような、とってつけたように勝子が言った。
原文: 言い方がおもしろかったので皆笑った。――
言い方がおもしろかったので、皆笑った。――
原文: 美人の宙釣り。
美人の宙づり。
原文: 力業。
力業。
原文: オペレット。
オペレッタ。
原文: 浅草気分。
浅草気分。
原文: 美人胴切り。
美人胴切り。
原文: そんなプログラムで、晩く家へ帰った。
そんなプログラムで、遅く家へ帰った。
原文: 病気
病気
原文: 姉が病気になった。
姉が病気になった。
原文: 脾腹が痛む、そして高い熱が出る。
わき腹が痛む、そして高い熱が出る。
原文: 峻は腸チブスではないかと思った。
峻は腸チフスではないかと思った。
原文: 枕元で兄が
枕元で兄が
原文: 「医者さんを呼びに遣ろうかな」
「お医者さんを呼びにやろうかな」
原文: と言っている。
と言っている。
原文: 「まあよろしいわな。かい虫かもしれませんで」
「まあいいですわな。回虫かもしれませんで」
原文: そして峻にともつかず兄にともつかず
そして峻にともつかず、兄にともつかず
原文: 「昨日あないに暑かったのに、歩いて帰って来る道で汗がちっとも出なんだの」
「昨日あんなに暑かったのに、歩いて帰って来る道で汗がちっとも出なんだの」
原文: と弱よわしく言っている。
と弱々しく言っている。
原文: その前の日の午後、少し浮かぬ顔で遠くから帰って来るのが見え、勝子と二人で窓からふざけながら囃し立てた。
その前の日の午後、少し浮かない顔で遠くから帰って来るのが見え、勝子と二人で窓からふざけながらはやし立てた。
原文: 「勝子、あれどこの人?」
「勝子、あれどこの人?」
原文: 「あら。お母さんや。お母さんや」
「あら。お母さんや。お母さんや」
原文: 「嘘いえ。他所のおばさんだよ。見ておいで。家へは這入らないから」
「嘘言え。よそのおばさんだよ。見ておいで。家へは入らないから」
原文: その時の顔を峻は思い出した。
その時の顔を峻は思い出した。
原文: 少し変だったことは少し変だった。
少し変だったことは、少し変だった。
原文: 家のなかばかりで見馴れている家族を、ふと往来で他所目に見る――そんな珍しい気持で見た故と峻は思っていたが、少し力がないようでもあった。
家のなかでばかり見慣れている家族を、ふと往来でよそ目に見る――そんな珍しい気持ちで見たせいだと峻は思っていたが、少し力がないようでもあった。
原文: 医者が来て、やはりチブスの疑いがあると言って帰った。
医者が来て、やはりチフスの疑いがあると言って帰った。
原文: 峻は階下で困った顔を兄とつき合わせた。
峻は階下で、困った顔を兄と突き合わせた。
原文: 兄の顔には苦しい微笑が凝っていた。
兄の顔には苦しい微笑が凝り固まっていた。
原文: 腎臓の故障だったことがわかった。
腎臓の故障だったことがわかった。
原文: 舌の苔がなんとかで、と言って明瞭にチブスとも言い兼ねていた由を言って、医者も元気に帰って行った。
舌の苔がどうこうで、と言って、はっきりチフスとも言いかねていたわけを話して、医者も元気に帰って行った。
原文: この家へ嫁いで来てから、病気で寝たのはこれで二度目だと姉が言った。
この家へ嫁いで来てから、病気で寝たのはこれで二度目だと姉が言った。
原文: 「一度は北牟婁で」
「一度は北牟婁で」
原文: 「あの時は弱ったな。近所に氷がありませいでなあ、夜中の二時頃、四里ほどの道を自転車で走って、叩き起こして買うたのはまあよかったやさ。風呂敷へ包んでサドルの後ろへ結えつけて戻って来たら、擦れとりましてな、これだけほどになっとった」
「あの時は弱ったな。近所に氷がありませんでなあ、夜中の二時頃、四里ほどの道を自転車で走って、叩き起こして買うたのはまあよかったんやさ。風呂敷へ包んでサドルの後ろへ結わえつけて戻って来たら、擦れてしまいましてな、これだけほどになっとった」
原文: 兄はその手つきをして見せた。
兄はその手つきをして見せた。
原文: 姉の熱のグラフにしても、二時間おきほどの正確なものを造ろうとする兄だけあって、その話には兄らしい味が出ていて峻も笑わされた。
姉の熱のグラフにしても、二時間おきほどの正確なものを作ろうとする兄だけあって、その話には兄らしい味が出ていて、峻も笑わされた。
原文: 「その時は?」
「その時は?」
原文: 「かい虫をわかしとりましたんじゃ」
「回虫を湧かしとりましたんじゃ」
原文: ――一つには峻自身の不検束な生活から、彼は一度肺を悪くしたことがあった。
――一つには峻自身のだらしない生活から、彼は一度肺を悪くしたことがあった。
原文: その時義兄は北牟婁でその病気が癒るようにと神詣でをしてくれた。
その時義兄は、北牟婁でその病気が治るようにと神詣でをしてくれた。
原文: 病気がややよくなって、峻は一度その北牟婁の家へ行ったことがあった。
病気がややよくなって、峻は一度その北牟婁の家へ行ったことがあった。
原文: そこは山のなかの寒村で、村は百姓と木樵で、養蚕などもしていた。
そこは山のなかの寒村で、村は百姓と木こりで、養蚕などもしていた。
原文: 冬になると家の近くの畑まで猪が芋を掘りに来たりする。
冬になると、家の近くの畑まで猪が芋を掘りに来たりする。
原文: 芋は百姓の半分常食になっていた。
芋は百姓の半ば常食になっていた。
原文: その時はまだ勝子も小さかった。
その時はまだ勝子も小さかった。
原文: 近所のお婆さんが来て、勝子の絵本を見ながら講釈しているのに、象のことを鼻巻き象、猿のことを山の若い衆とかやえんとか呼んでいた。
近所のお婆さんが来て、勝子の絵本を見ながら講釈しているのに、象のことを鼻巻き象、猿のことを山の若い衆とか、やえんとか呼んでいた。
原文: 苗字のないという子がいるので聞いてみると木樵の子だからと言って村の人は当然な顔をしている。
苗字がないという子がいるので聞いてみると、木こりの子だからと言って、村の人は当然という顔をしている。
原文: 小学校には生徒から名前の呼び棄てにされている、薫という村長の娘が教師をしていた。
小学校には、生徒から名前を呼び捨てにされている、薫という村長の娘が教師をしていた。
原文: まだそれが十六七の年頃だった。――
まだそれが十六七の年頃だった。――
原文: 北牟婁はそんな所であった。
北牟婁はそんな所であった。
原文: 峻は北牟婁での兄の話には興味が持てた。
峻は、北牟婁での兄の話には興味が持てた。
原文: 北牟婁にいた時、勝子が川へ陥ったことがある。
北牟婁にいた時、勝子が川へはまったことがある。
原文: その話が兄の口から出て来た。
その話が兄の口から出て来た。
原文: ――兄が心臓脚気で寝ていた時のことである。
――兄が心臓脚気で寝ていた時のことである。
原文: 七十を越した、兄の祖母で、勝子の曽祖母にあたるお祖母さんが、勝子を連れて川へ茶碗を漬けに行った。
七十を越した、兄の祖母で、勝子の曽祖母にあたるお祖母さんが、勝子を連れて川へ茶碗を漬けに行った。
原文: その川というのが急な川で、狭かったが底はかなり深かった。
その川というのが急な流れの川で、狭かったが底はかなり深かった。
原文: お祖母さんは、いつでも兄達が捨てておけというのに、姉が留守だったりすると、勝子などを抱きたがった。
お祖母さんは、いつでも兄たちが放っておけと言うのに、姉が留守だったりすると、勝子などを抱きたがった。
原文: その時も姉は外出していた。
その時も姉は外出していた。
原文: はあ、出て行ったな。
ああ、出て行ったな。
原文: と寝床の中で思っていると、しばらくして変な声がしたので、あっと思ったまま、ひかれるように大病人が起きて出た。
と寝床の中で思っていると、しばらくして変な声がしたので、あっと思ったまま、引かれるように大病人が起きて出た。
原文: 川はすぐ近くだった。
川はすぐ近くだった。
原文: 見ると、お祖母さんが変な顔をして、「勝子が」
見ると、お祖母さんが変な顔をして、「勝子が」
原文: と言ったのだが、そして一生懸命に言おうとしているのだが、そのあとが言えない。
と言ったのだが、そして一生懸命に言おうとしているのだが、そのあとが言えない。
原文: 「お祖母さん。勝子が何とした!」
「お祖母さん。勝子がどうした!」
原文: 「……」
「……」
原文: 手の先だけが激しくそれを言っている。
手の先だけが激しくそれを言っている。
原文: 勝子が川を流れてゆくのが見えているのだ!
勝子が川を流れてゆくのが見えているのだ!
原文: 川はちょうど雨のあとで水かさが増していた。
川はちょうど雨のあとで水かさが増していた。
原文: 先に石の橋があって、水が板石とすれすれになっている。
先に石の橋があって、水が板石とすれすれになっている。
原文: その先には川の曲がるところがあって、そこはいつも渦が巻いている所だ。
その先には川の曲がるところがあって、そこはいつも渦が巻いている所だ。
原文: 川はそこを曲がって深い沼のような所へ入る。
川はそこを曲がって、深い沼のような所へ入る。
原文: 橋か曲がり角で頭を打ちつけるか、流れて行って沼へ沈みでもしようものなら助からないところだった。
橋か曲がり角で頭を打ちつけるか、流れて行って沼へ沈みでもしようものなら助からないところだった。
原文: 兄はいきなり川へ跳び込んで、あとを追った。
兄はいきなり川へ飛び込んで、あとを追った。
原文: 橋までに捕えるつもりだった。
橋までに捕まえるつもりだった。
原文: 病気の身だった。
病気の身だった。
原文: それでもやっと橋の手前で捕えることはできた。
それでも、やっと橋の手前で捕まえることはできた。
原文: しかし流れがきつくて橋を力に上ろうと思ってもとうてい駄目だった。
しかし流れがきつくて、橋を頼りに上がろうと思ってもとうてい駄目だった。
原文: 板石と水の隙間は、やっと勝子の頭ぐらいは通せるほどだったので、兄は勝子を差し上げながら水を潜り、下手でようやくあがれたのだった。
板石と水の隙間は、やっと勝子の頭ぐらいは通せるほどだったので、兄は勝子を差し上げながら水を潜り、下流でようやく上がれたのだった。
原文: 勝子はぐったりとなっていた。
勝子はぐったりとなっていた。
原文: 逆にしても水を吐かない。
逆さにしても水を吐かない。
原文: 兄は気が気でなく、しきりに勝子の名を呼びななら、背中を叩いた。
兄は気が気でなく、しきりに勝子の名を呼びながら、背中を叩いた。
原文: 勝子はけろりと気がついた。
勝子はけろりと気がついた。
原文: 気がついたが早いか、立つとすぐ踊り出したりするのだ。
気がついたが早いか、立つとすぐ踊り出したりするのだ。
原文: 兄はばかされたようでなんだか変だった。
兄は化かされたようで、なんだか変だった。
原文: 「このべべ何としたんや」
「このべべ、どうしたんや」
原文: と言って濡れた衣服をひっぱってみても「知らん」
と言って濡れた着物をひっぱってみても「知らん」
原文: と言っている。
と言っている。
原文: 足が滑った拍子に気絶しておったので、全く溺れたのではなかったとみえる。
足が滑った拍子に気絶していたので、まったく溺れたのではなかったとみえる。
原文: そして、なんとまあ、いつもの顔で踊っているのだ。――
そして、なんとまあ、いつもの顔で踊っているのだ。――
原文: 兄の話のあらましはこんなものだった。
兄の話のあらましは、こんなものだった。
原文: ちょうど近所の百姓家が昼寝の時だったので、自分がその時起きてゆかなければどんなに危険だったかとも言った。
ちょうど近所の百姓家が昼寝の時だったので、自分がその時起きて行かなければどんなに危険だったかとも言った。
原文: 話している方も聞いている方も惹き入れられて、兄が口をつぐむと、静かになった。
話している方も聞いている方も引き入れられて、兄が口をつぐむと、静かになった。
原文: 「わたしが帰って行ったらお祖母さんと三人で門で待ってはるの」
「わたしが帰って行ったら、お祖母さんと三人で門で待ってはるの」
原文: 姉がそんなことを言った。
姉がそんなことを言った。
原文: 「何やら家にいてられなんだわさ。着物を着かえてお母ちゃんを待っとろと言うたりしてなあ」
「何やら家にいられなんだわさ。着物を着かえて、お母ちゃんを待っとろうと言うたりしてなあ」
原文: 「お祖母さんがぼけはったのはあれからでしたな」
「お祖母さんがぼけはったのは、あれからでしたな」
原文: 姉は声を少しひそませて意味の籠った眼を兄に向けた。
姉は声を少しひそめて、意味の込もった目を兄に向けた。
原文: 「それがあってからお祖母さんがちょっとぼけみたいになりましてなあ。いつまで経ってもこれに(と言って姉を指し)よしやんに済まん、よしやんに済まんと言いましてなあ」
「それがあってからお祖母さんがちょっとぼけみたいになりましてなあ。いつまで経っても、これに(と言って姉を指し)よしやんに済まん、よしやんに済まんと言いましてなあ」
原文: 「なんのお祖母さん、そんなことがあろうかさ、と言っているのに」
「なんのお祖母さん、そんなことがあるものかね、と言っているのに」
原文: それからのお祖母さんは目に見えてぼけていって一年ほど経ってから死んだ。
それからのお祖母さんは目に見えてぼけていって、一年ほど経ってから死んだ。
原文: 峻にはそのお祖母さんの運命がなにか惨酷な気がした。
峻には、そのお祖母さんの運命がなにか惨酷な気がした。
原文: それが故郷ではなく、勝子のお守りでもする気で出かけて行った北牟婁の山の中だっただけに、もう一つその感じは深かった。
それが故郷ではなく、勝子のお守りでもする気で出かけて行った北牟婁の山の中だっただけに、もう一つその感じは深かった。
原文: 峻が北牟婁へ行ったのは、その事件の以前であった。
峻が北牟婁へ行ったのは、その事件より前であった。
原文: お祖母さんは勝子の名前を、その当時もう女学校へ上っていたはずの信子の名と、よく呼び違えた。
お祖母さんは勝子の名前を、その当時もう女学校へ上がっていたはずの信子の名と、よく呼び違えた。
原文: 信子はその当時母などとこちらにいた。
信子はその当時、母などとこちらにいた。
原文: まだ信子を知らなかった峻には、お祖母さんが呼び違えるたびごとに、信子という名を持った十四五の娘が頭に親しく想像された。
まだ信子を知らなかった峻には、お祖母さんが呼び違えるたびごとに、信子という名を持った十四五の娘が、頭に親しく想像された。
原文: 勝子
勝子
原文: 峻は原っぱに面した窓に倚りかかって外を眺めていた。
峻は原っぱに面した窓に寄りかかって、外を眺めていた。
原文: 灰色の雲が空一帯を罩めていた。
灰色の雲が空一面を覆っていた。
原文: それはずっと奥深くも見え、また地上低く垂れ下がっているようにも思えた。
それはずっと奥深くも見え、また地上低く垂れ下がっているようにも思えた。
原文: あたりのものはみな光を失って静まっていた。
あたりのものは、みな光を失って静まっていた。
原文: ただ遠い病院の避雷針だけが、どうしたはずみか白く光って見える。
ただ遠い病院の避雷針だけが、どうしたはずみか白く光って見える。
原文: 原っぱのなかで子供が遊んでいた。
原っぱのなかで子供が遊んでいた。
原文: 見ていると勝子もまじっていた。
見ていると勝子も混じっていた。
原文: 男の児が一人いて、なにか荒い遊びをしているらしかった。
男の子が一人いて、なにか荒っぽい遊びをしているらしかった。
原文: 勝子が男の児に倒された。
勝子が男の子に倒された。
原文: 起きたところをまた倒された。
起きたところをまた倒された。
原文: 今度はぎゅうぎゅう押えつけられている。
今度はぎゅうぎゅう押さえつけられている。
原文: いったい何をしているのだろう。
いったい何をしているのだろう。
原文: なんだかひどいことをする。
なんだかひどいことをする。
原文: そう思って峻は目をとめた。
そう思って峻は目をとめた。
原文: それが済むと今度は女の子連中が――それは三人だったが、改札口へ並ぶように男の児の前へ立った。
それが済むと、今度は女の子連中が――それは三人だったが、改札口へ並ぶように男の子の前へ立った。
原文: 変な切符切りがはじまった。
変な切符切りがはじまった。
原文: 女の子の差し出した手を、その男の児がやけに引っ張る。
女の子の差し出した手を、その男の子がやけに引っ張る。
原文: その女の子は地面へ叩きつけられる。
その女の子は地面へ叩きつけられる。
原文: 次の子も手を出す。
次の子も手を出す。
原文: その手も引っ張られる。
その手も引っ張られる。
原文: 倒された子は起きあがって、また列の後ろへつく。
倒された子は起き上がって、また列の後ろにつく。
原文: 見ているとこうであった。
見ていると、こうであった。
原文: 男の児が手を引っ張る力加減に変化がつく。
男の子が手を引っ張る力加減に変化がつく。
原文: 女の子の方ではその強弱をおっかなびっくりに期待するのがおもしろいのらしかった。
女の子の方では、その強弱をおっかなびっくり待ち受けるのがおもしろいらしかった。
原文: 強く引くのかと思うと、身体つきだけ強そうにして軽く引っ張る。
強く引くのかと思うと、体つきだけ強そうにして軽く引っ張る。
原文: すると次はいきなり叩きつけられる。
すると次はいきなり叩きつけられる。
原文: 次はまた、手を持ったというくらいの軽さで通す。
次はまた、手を持ったというくらいの軽さで通す。
原文: 男の児は小さい癖にどうかすると大人の――それも木挽きとか石工とかの恰好そっくりに見えることのある児で、今もなにか鼻唄でも歌いながらやっているように見える。
男の子は小さいくせに、どうかすると大人の――それも木びきとか石工とかの格好そっくりに見えることのある子で、今もなにか鼻歌でも歌いながらやっているように見える。
原文: そしていかにも得意気であった。
そして、いかにも得意気であった。
原文: 見ているとやはり勝子だけが一番よけい強くされているように思えた。
見ていると、やはり勝子だけが一番よけい強くされているように思えた。
原文: 彼にはそれが悪くとれた。
彼にはそれが悪くとれた。
原文: 勝子は婉曲に意地悪されているのだな。――
勝子は遠回しに意地悪されているのだな。――
原文: そう思うのには、一つは勝子が我が儘で、よその子と遊ぶのにも決していい子にならないからでもあった。
そう思うのには、一つは勝子がわがままで、よその子と遊ぶのにも決していい子にならないからでもあった。
原文: それにしても勝子にはあの不公平がわからないのかな。
それにしても、勝子にはあの不公平がわからないのかな。
原文: いや、あれがわからないはずはない。
いや、あれがわからないはずはない。
原文: むしろ勝子にとっては、わかってはいながら痩我慢を張っているのがほんとうらしい。
むしろ勝子にとっては、わかってはいながら痩せ我慢を張っているのがほんとうらしい。
原文: そんなに思っているうちにも、勝子はまたこっぴどく叩きつけられた。
そんなふうに思っているうちにも、勝子はまたこっぴどく叩きつけられた。
原文: 痩我慢を張っているとすれば、倒された拍子に地面と睨めっこをしている時の顔付は、いったいどんなだろう。――
痩せ我慢を張っているとすれば、倒された拍子に地面とにらめっこをしている時の顔つきは、いったいどんなだろう。――
原文: 立ちあがる時には、もうほかの子と同じような顔をしているが。
立ち上がる時には、もうほかの子と同じような顔をしているが。
原文: よく泣き出さないものだ。
よく泣き出さないものだ。
原文: 男の児がふとした拍子にこの窓を見るかもしれないからと思って彼は窓のそばを離れなかった。
男の子がふとした拍子にこの窓を見るかもしれないからと思って、彼は窓のそばを離れなかった。
原文: 奥の知れないような曇り空のなかを、きらりきらり光りながら過ってゆくものがあった。
奥の知れないような曇り空のなかを、きらりきらり光りながら過ぎってゆくものがあった。
原文: 鳩?
鳩?
原文: 雲の色にぼやけてしまって、姿は見えなかったが、光の反射だけ、鳥にすれば三羽ほど、鳩一流のどこにあてがあるともない飛び方で舞っていた。
雲の色にぼやけてしまって姿は見えなかったが、光の反射だけ、鳥にすれば三羽ほど、鳩流のどこにあてがあるともない飛び方で舞っていた。
原文: 「あああ。勝子のやつめ、かってに注文して強くしてもらっているのじゃないかな」
「あああ。勝子のやつめ、勝手に注文して強くしてもらっているのじゃないかな」
原文: そんなことがふっと思えた。
そんなことがふっと思えた。
原文: いつか峻が抱きすくめてやった時、「もっとぎうっと」
いつか峻が抱きすくめてやった時、「もっとぎゅうっと」
原文: と何度も抱きすくめさせた。
と何度も抱きすくめさせた。
原文: その時のことが思い出せたのだった。
その時のことが思い出せたのだった。
原文: そう思えばそれもいかにも勝子のしそうなことだった。
そう思えば、それもいかにも勝子のしそうなことだった。
原文: 峻は窓を離れて部屋のなかへ這入った。
峻は窓を離れて、部屋のなかへ入った。
原文: 夜、夕飯が済んでしばらくしてから、勝子が泣きはじめた。
夜、夕飯が済んでしばらくしてから、勝子が泣きはじめた。
原文: 峻は二階でそれを聞いていた。
峻は二階でそれを聞いていた。
原文: しまいにはそれを鎮める姉の声が高くなって来て、勝子もあたりかまわず泣きたてた。
しまいにはそれをなだめる姉の声が高くなって来て、勝子もあたりかまわず泣き立てた。
原文: あまり声が大きいので峻は下へおりて行った。
あまり声が大きいので、峻は下へ下りて行った。
原文: 信子が勝子を抱いている。
信子が勝子を抱いている。
原文: 勝子は片手を電燈の真下へ引き寄せられて、針を持った姉が、掌へ針を持ってゆこうとする。
勝子は片手を電灯の真下へ引き寄せられて、針を持った姉が、掌へ針を持ってゆこうとする。
原文: 「そとへ行って棘を立てて来ましたんや。知らんとおったのが御飯を食べるとき醤油が染みてな」
「外へ行って棘を立てて来ましたんや。知らんとおったのが、御飯を食べるとき醤油が染みてな」
原文: 義母が峻にそう言った。
義母が峻にそう言った。
原文: 「もっとぎうとお出し」
「もっとぎゅっとお出し」
原文: 姉は怒ってしまって、邪慳に掌を引っ張っている。
姉は怒ってしまって、邪険に掌を引っ張っている。
原文: そのたびに勝子は火の付くように泣声を高くする。
そのたびに勝子は、火のつくように泣き声を高くする。
原文: 「もう知らん、放っといてやる」
「もう知らん、放っといてやる」
原文: しまいに姉は掌を振り離してしまった。
しまいに姉は掌を振り離してしまった。
原文: 「今はしようないで、××膏をつけてくくっとこうよ」
「今はしかたないで、××膏をつけてくくっとこうよ」
原文: 義母が取りなすように言っている。
義母が取りなすように言っている。
原文: 信子が薬を出しに行った。
信子が薬を出しに行った。
原文: 峻は勝子の泣声に閉口してまた二階へあがった。
峻は勝子の泣き声に閉口して、また二階へ上がった。
原文: 薬をつけるのに勝子の泣声はまだ鎮まらなかった。
薬をつけるのに、勝子の泣き声はまだ静まらなかった。
原文: 「棘はどうせあの時立てたに違いない」
「棘はどうせあの時立てたに違いない」
原文: 峻は昼間のことを思い出していた。
峻は昼間のことを思い出していた。
原文: ぴしゃっと地面へうつっぶせになった時の勝子の顔はどんなだったろう、という考えがまた蘇えって来た。
ぴしゃっと地面へうつ伏せになった時の勝子の顔はどんなだったろう、という考えが、また蘇って来た。
原文: 「ひょっとしてあの時の痩我慢を破裂させているのかもしれない」
「ひょっとして、あの時の痩せ我慢を破裂させているのかもしれない」
原文: そんなことを思って聞いていると、その火がつくような泣声が、なにか悲しいもののように峻には思えた。
そんなことを思って聞いていると、その火のつくような泣き声が、なにか悲しいもののように峻には思えた。
原文: 昼と夜
昼と夜
原文: 彼はある日城の傍の崖の蔭に立派な井戸があるのを見つけた。
彼はある日、城のそばの崖の陰に立派な井戸があるのを見つけた。
原文: そこは昔の士の屋敷跡のように思えた。
そこは昔の侍の屋敷跡のように思えた。
原文: 畑とも庭ともつかない地面には、梅の老木があったり南瓜が植えてあったり紫蘇があったりした。
畑とも庭ともつかない地面には、梅の老木があったり、かぼちゃが植えてあったり、しそがあったりした。
原文: 城の崖からは太い逞しい喬木や古い椿が緑の衝立を作っていて、井戸はその蔭に坐っていた。
城の崖からは太いたくましい高木や古い椿が緑の衝立をつくっていて、井戸はその陰に座っていた。
原文: 大きな井桁、堂々とした石の組み様、がっしりしていて立派であった。
大きな井桁、堂々とした石の組み方、がっしりしていて立派であった。
原文: 若い女の人が二人、洗濯物を大盥で濯いでいた。
若い女の人が二人、洗濯物を大だらいですすいでいた。
原文: 彼のいた所からは見えなかったが、その仕掛ははね釣瓶になっているらしく、汲みあげられて来る水は大きい木製の釣瓶桶に溢れ、樹々の緑が瑞みずしく映っている。
彼のいた所からは見えなかったが、その仕掛けははね釣瓶になっているらしく、汲み上げられて来る水は大きい木製の釣瓶桶に溢れ、木々の緑がみずみずしく映っている。
原文: 盥の方の女の人が待つふりをすると、釣瓶の方の女の人は水をあけた。
たらいの方の女の人が待つそぶりをすると、釣瓶の方の女の人は水をあけた。
原文: 盥の水が躍り出して水玉の虹がたつ。
たらいの水が躍り出して、水玉の虹が立つ。
原文: そこへも緑は影を映して、美しく洗われた花崗岩の畳石の上を、また女の人の素足の上を水は豊かに流れる。
そこへも緑は影を映して、美しく洗われた花崗岩の畳石の上を、また女の人の素足の上を、水は豊かに流れる。
原文: 羨ましい、素晴しく幸福そうな眺めだった。
うらやましい、すばらしく幸福そうな眺めだった。
原文: 涼しそうな緑の衝立の蔭。
涼しそうな緑の衝立の陰。
原文: 確かに清冽で豊かな水。
たしかに澄んで冷たく、豊かな水。
原文: なんとなく魅せられた感じであった。
なんとなく魅せられた感じであった。
原文: きょうは青空よい天気
きょうは青空よい天気
原文: まえの家でも隣でも
まえの家でも隣でも
原文: 水汲む洗う掛ける干す。
水汲む洗う掛ける干す。
原文: 国定教科書にあったのか小学唱歌にあったのか、少年の時に歌った歌の文句が憶い出された。
国定教科書にあったのか小学唱歌にあったのか、少年の時に歌った歌の文句が思い出された。
原文: その言葉には何のたくみも感ぜられなかったけれど、彼が少年だった時代、その歌によって抱いたしんに朗らかな新鮮な想像が、思いがけず彼の胸におし寄せた。
その言葉には何の巧みさも感じられなかったけれど、彼が少年だった時代、その歌によって抱いた芯から朗らかな新鮮な想像が、思いがけず彼の胸に押し寄せた。
原文: かあかあ烏が鳴いてゆく、
かあかあ烏が鳴いてゆく、
原文: お寺の屋根へ、お宮の森へ、
お寺の屋根へ、お宮の森へ、
原文: かあかあ烏が鳴いてゆく。
かあかあ烏が鳴いてゆく。
原文: それには画がついていた。
それには絵がついていた。
原文: また「四方」
また「四方」
原文: とかいう題で、子供が朝日の方を向いて手を拡げている図などの記憶が、次つぎ憶い出されて来た。
とかいう題で、子供が朝日の方を向いて手を広げている図などの記憶が、次々に思い出されて来た。
原文: 国定教科書の肉筆めいた楷書の活字。
国定教科書の、肉筆めいた楷書の活字。
原文: またなんという画家の手に成ったものか、角のないその字体と感じのまるで似た、子供といえば円顔の優等生のような顔をしているといったふうの、挿画のこと。
またなんという画家の手になったものか、角のないその字体と感じのまるで似た、子供といえば丸顔の優等生のような顔をしているといったふうの、挿絵のこと。
原文: 「何とか権所有」
「何とか権所有」
原文: それをゴンショユウと、人の前では読まなかったが、心のなかで仮に極めて読んでいたこと。
それをゴンショユウと、人の前では読まなかったが、心のなかで仮にそう決めて読んでいたこと。
原文: そのなんとか権所有の、これもそう思えば国定教科書に似つかわしい、手紙の文例の宛名のような、人の名。
その何とか権所有の、これもそう思えば国定教科書に似つかわしい、手紙の文例の宛名のような、人の名。
原文: そんな奥付の有様までが憶い出された。
そんな奥付の様子までが思い出された。
原文: ――少年の時にはその画のとおりの所がどこかにあるような気がしていた。
――少年の時には、その絵のとおりの所がどこかにあるような気がしていた。
原文: そうした単純に正直な児がどこかにいるような気がしていた。
そうした単純に正直な子が、どこかにいるような気がしていた。
原文: 彼にはそんなことが思われた。
彼にはそんなことが思われた。
原文: それらはなにかその頃の憧憬の対象でもあった。
それらは、なにかその頃のあこがれの対象でもあった。
原文: 単純で、平明で、健康な世界。――
単純で、平明で、健康な世界。――
原文: 今その世界が彼の前にある。
今、その世界が彼の前にある。
原文: 思いもかけず、こんな田舎の緑樹の蔭に、その世界はもっと新鮮な形を具えて存在している。
思いもかけず、こんな田舎の緑の木陰に、その世界はもっと新鮮な形を備えて存在している。
原文: そんな国定教科書風な感傷のなかに、彼は彼の営むべき生活が示唆されたような気がした。
そんな国定教科書風な感傷のなかに、彼は彼の営むべき生活が示されたような気がした。
原文: ――食ってしまいたくなるような風景に対する愛着と、幼い時の回顧や新しい生活の想像とで彼の時どきの瞬間が燃えた。
――食ってしまいたくなるような風景への愛着と、幼い時の回想や新しい生活の想像とで、彼の時どきの瞬間が燃えた。
原文: また時どき寝られない夜が来た。
また時どき、寝られない夜が来た。
原文: 寝られない夜のあとでは、ちょっとしたことにすぐ底熱い昂奮が起きる。
寝られない夜のあとでは、ちょっとしたことにすぐ底熱い興奮が起きる。
原文: その昂奮がやむと道端でもかまわないすぐ横になりたいような疲労が来る。
その興奮がやむと、道端でもかまわずすぐ横になりたいような疲労が来る。
原文: そんな昂奮は楓の肌を見てさえ起こった。――
そんな興奮は、楓の肌を見てさえ起こった。――
原文: 楓樹の肌が冷えていた。
楓の木の肌が冷えていた。
原文: 城の本丸の彼がいつも坐るベンチの後ろでであった。
城の本丸の、彼がいつも座るベンチの後ろでであった。
原文: 根方に松葉が落ちていた。
根元に松葉が落ちていた。
原文: その上を蟻が清らかに匍っていた。
その上を蟻が清らかに這っていた。
原文: 冷たい楓の肌を見ていると、ひぜんのようについている蘚の模様が美しく見えた。
冷たい楓の肌を見ていると、湿疹のようについている苔の模様が美しく見えた。
原文: 子供の時の茣蓙遊びの記憶――ことにその触感が蘇えった。
子供の時のござ遊びの記憶――ことに、その手ざわりが蘇った。
原文: やはり楓の樹の下である。
やはり楓の木の下である。
原文: 松葉が散って蟻が匍っている。
松葉が散って、蟻が這っている。
原文: 地面にはでこぼこがある。
地面にはでこぼこがある。
原文: そんな上へ茣蓙を敷いた。
そんな上へござを敷いた。
原文: 「子供というものは確かにあの土地のでこぼこを冷たい茣蓙の下に感じる蹠の感覚の快さを知っているものだ。そして茣蓙を敷くやいなやすぐその上へ跳び込んで、着物ぐるみじかに地面の上へ転がれる自由を楽しんだりする」
「子供というものは、たしかにあの土地のでこぼこを冷たいござの下に感じる足裏の感覚の快さを知っているものだ。そしてござを敷くやいなやすぐその上へ飛び込んで、着物ぐるみじかに地面の上へ転がれる自由を楽しんだりする」
原文: そんなことを思いながら彼はすぐにも頬ぺたを楓の肌につけて冷やしてみたいような衝動を感じた。
そんなことを思いながら、彼はすぐにも頬ぺたを楓の肌につけて冷やしてみたいような衝動を感じた。
原文: 「やはり疲れているのだな」
「やはり疲れているのだな」
原文: 彼は手足が軽く熱を持っているのを知った。
彼は手足が軽く熱を持っているのを知った。
原文: 「私はおまえにこんなものをやろうと思う。
「私はおまえにこんなものをやろうと思う。
原文: 一つはゼリーだ。
一つはゼリーだ。
原文: ちょっとした人の足音にさえいくつもの波紋が起こり、風が吹いて来ると漣をたてる。
ちょっとした人の足音にさえいくつもの波紋が起こり、風が吹いて来るとさざなみを立てる。
原文: 色は海の青色で――御覧そのなかをいくつも魚が泳いでいる。
色は海の青色で――御覧、そのなかをいくつも魚が泳いでいる。
原文: もう一つは窓掛けだ。
もう一つはカーテンだ。
原文: 織物ではあるが秋草が茂っている叢になっている。
織物ではあるが、秋草が茂っている草むらになっている。
原文: またそこには見えないが、色づきかけた銀杏の木がその上に生えている気持。
またそこには見えないが、色づきかけた銀杏の木がその上に生えている気配。
原文: 風が来ると草がさわぐ。
風が来ると草がざわめく。
原文: そして、御覧。
そして、御覧。
原文: 尺取虫が枝から枝を匍っている。
尺取虫が枝から枝を這っている。
原文: この二つをおまえにあげる。
この二つをおまえにあげる。
原文: まだできあがらないから待っているがいい。
まだできあがらないから、待っているがいい。
原文: そして詰らない時には、ふっと思い出してみるがいい。
そしてつまらない時には、ふっと思い出してみるがいい。
原文: きっと愉快になるから。」
きっと愉快になるから。」
原文: 彼はある日葉書へそんなことを書いてしまった、もちろん遊戯ではあったが。
彼はある日、葉書へそんなことを書いてしまった、もちろん遊びではあったが。
原文: そしてこの日頃の昼となし夜となしに、時どきふと感じる気持のむずかゆさを幾分はかせたような気がした。
そしてこの日頃の、昼となく夜となく時どきふと感じる気持ちのむずがゆさを、いくらかは吐き出せたような気がした。
原文: 夜、静かに寝られないでいると、空を五位が啼いて通った。
夜、静かに寝られないでいると、空を五位鷺が鳴いて通った。
原文: ふとするとその声が自分の身体のどこかでしているように思われることがある。
ふとすると、その声が自分の体のどこかでしているように思われることがある。
原文: 虫の啼く声などもへんに部屋の中でのように聞こえる。
虫の鳴く声なども、変に部屋の中でのように聞こえる。
原文: 「はあ、来るな」
「ああ、来るな」
原文: と思っているとえたいの知れない気持が起こって来る。――
と思っていると、得体の知れない気持ちが起こって来る。――
原文: これはこの頃眠れない夜のお極りのコースであった。
これはこの頃、眠れない夜のお決まりのコースであった。
原文: 変な気持は、電燈を消し眼をつぶっている彼の眼の前へ、物が盛んに運動する気配を感じさせた。
変な気持ちは、電灯を消し目をつぶっている彼の目の前へ、物が盛んに運動する気配を感じさせた。
原文: 厖大なものの気配が見るうちに裏返って微塵ほどになる。
膨大なものの気配が、見るうちに裏返って微塵ほどになる。
原文: 確かどこかで触ったことのあるような、口へ含んだことのあるような運動である。
たしかにどこかで触ったことのあるような、口へ含んだことのあるような運動である。
原文: 廻転機のように絶えず廻っているようで、寝ている自分の足の先あたりを想像すれば、途方もなく遠方にあるような気持にすぐそれが捲き込まれてしまう。
回転機のように絶えず回っているようで、寝ている自分の足の先あたりを想像すれば、途方もなく遠くにあるような気持ちに、すぐそれが巻き込まれてしまう。
原文: 本などを読んでいると時とすると字が小さく見えて来ることがあるが、その時の気持にすこし似ている。
本などを読んでいると、時として字が小さく見えて来ることがあるが、その時の気持ちに少し似ている。
原文: ひどくなると一種の恐怖さえ伴って来て眼を閉いではいられなくなる。
ひどくなると一種の恐怖さえ伴って来て、目を閉じてはいられなくなる。
原文: 彼はこの頃それが妖術が使えそうになる気持だと思うことがあった。
彼はこの頃、それが妖術が使えそうになる気持ちだと思うことがあった。
原文: それはこんな妖術であった。
それはこんな妖術であった。
原文: 子供の時、弟と一緒に寝たりなどすると、彼はよくうつっ伏せになって両手で墻を作りながら(それが牧場のつもりであった)
子供の時、弟と一緒に寝たりすると、彼はよくうつ伏せになって両手で垣を作りながら(それが牧場のつもりであった)
原文: 「芳雄君。この中に牛が見えるぜ」
「芳雄君。この中に牛が見えるぞ」
原文: と言いながら弟をだました。
と言いながら弟をだました。
原文: 両手にかこまれて、顔で蓋をされた、敷布の上の暗黒のなかに、そう言えばたくさんの牛や馬の姿が想像されるのだった。――
両手に囲まれて、顔で蓋をされた、敷布の上の暗闇のなかに、そう言えばたくさんの牛や馬の姿が想像されるのだった。――
原文: 彼は今そんなことはほんとうに可能だという気がした。
彼は今、そんなことはほんとうに可能だという気がした。
原文: 田園、平野、市街、市場、劇場。
田園、平野、市街、市場、劇場。
原文: 船着場や海。
船着場や海。
原文: そう言った広大な、人や車馬や船や生物でちりばめられた光景が、どうかしてこの暗黒のなかへ現われてくれるといい。
そういった広大な、人や車馬や船や生き物でちりばめられた光景が、どうかしてこの暗闇のなかへ現れてくれるといい。
原文: そしてそれが今にも見えて来そうだった。
そして、それが今にも見えて来そうだった。
原文: 耳にもその騒音が伝わって来るように思えた。
耳にもその騒音が伝わって来るように思えた。
原文: 葉書へいたずら書きをした彼の気持も、その変てこなむず痒さから来ているのだった。
葉書へいたずら書きをした彼の気持ちも、その変てこなむずがゆさから来ているのだった。
原文: 雨
雨
原文: 八月も終わりになった。
八月も終わりになった。
原文: 信子は明日市の学校の寄宿舎へ帰るらしかった。
信子は明日、市の学校の寄宿舎へ帰るらしかった。
原文: 指の傷が癒ったので、天理様へ御礼に行って来いと母に言われ、近所の人に連れられて、そのお礼も済ませて来た。
指の傷が治ったので、天理様へお礼に行って来いと母に言われ、近所の人に連れられて、そのお礼も済ませて来た。
原文: その人がこの近所では最も熱心な信者だった。
その人が、この近所では最も熱心な信者だった。
原文: 「荷札は?」
「荷札は?」
原文: 信子の大きな行李を縛ってやっていた兄がそう言った。
信子の大きな行李を縛ってやっていた兄がそう言った。
原文: 「何を立って見とるのや」
「何を立って見とるのや」
原文: 兄が怒ったようにからかうと、信子は笑いながら捜しに行った。
兄が怒ったようにからかうと、信子は笑いながら捜しに行った。
原文: 「ないわ」
「ないわ」
原文: 信子がそんなに言って帰って来た。
信子がそう言って帰って来た。
原文: 「カフスの古いので作ったら……」
「カフスの古いので作ったら……」
原文: と彼が言うと、兄は
と彼が言うと、兄は
原文: 「いや、まだたくさんあったはずや。あの抽出し見たか」
「いや、まだたくさんあったはずや。あの引き出し見たか」
原文: 信子は見たと言った。
信子は見たと言った。
原文: 「勝子がまた蔵い込んどるんやないかいな。いっぺん見てみ」
「勝子がまたしまい込んどるんやないかいな。いっぺん見てみ」
原文: 兄がそんなに言って笑った。
兄がそう言って笑った。
原文: 勝子は自分の抽出しへごく下らないものまで拾って来ては蔵い込んでいた。
勝子は自分の引き出しへ、ごくつまらないものまで拾って来てはしまい込んでいた。
原文: 「荷札ならここや」
「荷札ならここや」
原文: 母がそう言って、それ見たかというような軽い笑顔をしながら持って来た。
母がそう言って、それ見たかというような軽い笑顔をしながら持って来た。
原文: 「やっぱり年寄がおらんとあかんて」
「やっぱり年寄りがおらんとあかんて」
原文: 兄はそんな情愛の籠ったことを言った。
兄はそんな情愛の込もったことを言った。
原文: 晩には母が豆を煎っていた。
晩には母が豆を煎っていた。
原文: 「峻さん。あんたにこんなのはどうですな」
「峻さん。あんたにこんなのはどうですな」
原文: そんなに言って煎りあげたのを彼の方へ寄せた。
そう言って、煎り上げたのを彼の方へ寄せた。
原文: 「信子が寄宿舎へ持って帰るお土産です。一升ほど持って帰っても、じきにぺろっと失くなるのやそうで……」
「信子が寄宿舎へ持って帰るお土産です。一升ほど持って帰っても、すぐにぺろっと無くなるのやそうで……」
原文: 峻が語を聴きながら豆を咬んでいると、裏口で音がして信子が帰って来た。
峻が話を聞きながら豆を噛んでいると、裏口で音がして信子が帰って来た。
原文: 「貸してくれはったか」
「貸してくれはったか」
原文: 「はあ。裏へおいといた」
「はい。裏へ置いといた」
原文: 「雨が降るかもしれんで、ずっとなかへ引き込んでおいで」
「雨が降るかもしれんで、ずっとなかへ引き込んでおいで」
原文: 「はあ。ひき込んである」
「はい。引き込んである」
原文: 「吉峰さんのおばさんがあしたお帰りですかて……」
「吉峰さんのおばさんが、あしたお帰りですかって……」
原文: 信子は何かおかしそうに言葉を杜断らせた。
信子は何かおかしそうに言葉を途切らせた。
原文: 「あしたお帰りですかて?」
「あしたお帰りですかって?」
原文: 母が聞きかえした。
母が聞き返した。
原文: 吉峰さんのおばさんに「いつお帰りです。あしたお帰りですか」
吉峰さんのおばさんに「いつお帰りです。あしたお帰りですか」
原文: と訊かれて、信子が間誤ついて「ええ、あしたお帰りです」
と訊かれて、信子がまごついて「ええ、あしたお帰りです」
原文: と言ったという話だった。
と言ったという話だった。
原文: 母や彼が笑うと、信子は少し顔を赧くした。
母や彼が笑うと、信子は少し顔を赤くした。
原文: 借りて来たのは乳母車だった。
借りて来たのは乳母車だった。
原文: 「明日一番で立つのを、行李乗せて停車場まで送って行てやります」
「明日一番で発つのを、行李を乗せて停車場まで送って行ってやります」
原文: 母がそんなに言ってわけを話した。
母がそう言ってわけを話した。
原文: 大変だな、と彼は思っていた。
大変だな、と彼は思っていた。
原文: 「勝子も行くて?」
「勝子も行くって?」
原文: 信子が訊くと、
信子が訊くと、
原文: 「行くのやと言うて、今夜は早うからおやすみや」
「行くのやと言うて、今夜は早うからおやすみや」
原文: と母が言った。
と母が言った。
原文: 彼は、朝も早いのに荷物を出すなんて面倒だから、今夜のうちに切符を買って、先へ手荷物で送ってしまったらいいと思って、
彼は、朝も早いのに荷物を出すなんて面倒だから、今夜のうちに切符を買って、先に手荷物で送ってしまったらいいと思って、
原文: 「僕、今から持って行って来ましょうか」
「僕、今から持って行って来ましょうか」
原文: と言ってみた。
と言ってみた。
原文: 一つには、彼自身体裁屋なので、年頃の信子の気持を先廻りしたつもりであった。
一つには、彼自身が体裁屋なので、年頃の信子の気持ちを先回りしたつもりであった。
原文: しかし母と信子があまり「かまわない、かまわない」
しかし母と信子があまり「かまわない、かまわない」
原文: と言うのであちらまかせにしてしまった。
と言うので、あちらまかせにしてしまった。
原文: 母と娘と姪が、夏の朝の明け方を三人で、一人は乳母車をおし、一人はいでたちをした一人に手を曳かれ、停車場へ向かってゆく、その出発を彼は心に浮かべてみた。
母と娘と姪が、夏の朝の明け方を三人で、一人は乳母車を押し、一人は旅装をした一人に手を引かれ、停車場へ向かってゆく、その出発を彼は心に浮かべてみた。
原文: 美しかった。
美しかった。
原文: 「お互いの心の中でそうした出発の楽しさをあてにしているのじゃなかろうか」
「お互いの心の中で、そうした出発の楽しさをあてにしているのじゃなかろうか」
原文: そして彼は心が清く洗われるのを感じた。
そして彼は、心が清く洗われるのを感じた。
原文: 夜はその夜も眠りにくかった。
夜は、その夜も眠りにくかった。
原文: 十二時頃夕立がした。
十二時頃、夕立がした。
原文: その続きを彼は心待ちに寝ていた。
その続きを、彼は心待ちにして寝ていた。
原文: しばらくするとそれが遠くからまた歩み寄せて来る音がした。
しばらくすると、それが遠くからまた歩み寄せて来る音がした。
原文: 虫の声が雨の音に変わった。
虫の声が雨の音に変わった。
原文: ひとしきりするとそれはまた町の方へ過ぎて行った。
ひとしきりすると、それはまた町の方へ過ぎて行った。
原文: 蚊帳をまくって起きて出、雨戸を一枚繰った。
蚊帳をまくって起きて出、雨戸を一枚繰った。
原文: 城の本丸に電燈が輝いていた。
城の本丸に電灯が輝いていた。
原文: 雨に光沢を得た樹の葉がその灯の下で数知れない魚鱗のような光を放っていた。
雨につやを得た木の葉が、その灯の下で数知れない魚の鱗のような光を放っていた。
原文: また夕立が来た。
また夕立が来た。
原文: 彼は閾の上へ腰をかけ、雨で足を冷やした。
彼は敷居の上へ腰をかけ、雨で足を冷やした。
原文: 眼の下の長屋の一軒の戸が開いて、ねまき姿の若い女が喞筒へ水を汲みに来た。
目の下の長屋の一軒の戸が開いて、寝間着姿の若い女がポンプへ水を汲みに来た。
原文: 雨の脚が強くなって、とゆがごくりごくり喉を鳴らし出した。
雨脚が強くなって、樋がごくりごくり喉を鳴らし出した。
原文: 気がつくと、白い猫が一匹、よその家の軒下をわたって行った。
気がつくと、白い猫が一匹、よその家の軒下をわたって行った。
原文: 信子の着物が物干竿にかかったまま雨の中にあった。
信子の着物が物干し竿にかかったまま、雨の中にあった。
原文: 筒袖の、平常着ていたゆかたで彼の一番眼に慣れた着物だった。
筒袖の、普段着ていた浴衣で、彼の一番目に慣れた着物だった。
原文: その故か、見ていると不思議なくらい信子の身体つきが髣髴とした。
そのせいか、見ていると不思議なくらい信子の体つきが目に浮かんだ。
原文: 夕立はまた町の方へ行ってしまった。
夕立はまた町の方へ行ってしまった。
原文: 遠くでその音がしている。
遠くでその音がしている。
原文: 「チン、チン」
「チン、チン」
原文: 「チン、チン」
「チン、チン」
原文: 鳴きだしたこおろぎの声にまじって、質の緻密な玉を硬度の高い金属ではじくような虫も鳴き出した。
鳴き出したこおろぎの声にまじって、きめの細かい玉を硬い金属ではじくような虫も鳴き出した。
原文: 彼はまだ熱い額を感じながら、城を越えてもう一つ夕立が来るのを待っていた。
彼はまだ熱い額を感じながら、城を越えてもう一つ夕立が来るのを待っていた。