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城のある町にて 現代語訳

梶井基次郎かじいもとじろう)・1972

AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-28

ある午後

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ある午後

「高いところの眺めは、アアッ(と咳をして)やはり格別ですなあ」

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「高いとこの眺めは、アアッ(とせきをして)また格段でごわすな」

片手にこうもり傘、片手に扇子と日本手ぬぐいを持っている。

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片手に洋傘こうもり、片手に扇子と日本手拭を持っている。

頭がきれいに禿げていて、そこにかぶったカンカン帽が、まるで栓をはめたように見える。――

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頭が奇麗きれい禿げていて、カンカン帽子を冠っているのが、まるでせんをはめたように見える。――

そんな老人が朗らかにそう言い捨てたまま、峻の脇を歩いて行った。

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そんな老人が朗らかにそう言い捨てたままたかしの脇を歩いて行った。

言っておいてこちらを振り向くでもなく、目はやはり遠い眺めへ向けたままで、いかにもやれやれといったふうに石垣の先のベンチへ腰をかけた。――

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言っておいてこちらを振り向くでもなく、眼はやはり遠い眺望ちょうぼうへ向けたままで、さもやれやれといったふうに石垣のはなのベンチへ腰をかけた。――

町を外れてまだ二里ほどの間は平坦な緑。

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町をはずれてまだ二里ほどの間は平坦な緑。

I湾の濃い藍が、そのかなたに広がっている。

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I湾の濃いあいが、それのかなたに拡がっている。

裾のぼやけた、そして全体もあまりくっきりしない入道雲が、水平線の上に静かにわだかまっている。――

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すそのぼやけた、そして全体もあまりかっきりしない入道雲が水平線の上に静かにわだかまっている。――

「ああ、そうですね」

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「ああ、そうですな」

少しまごつきながらそう答えた時の自分の声の後味が、まだ喉や耳のあたりに残っているような気がして、その時の自分と今の自分とが変にそぐわなかった。

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少し間誤まごつきながらそう答えた時の自分の声の後味がまだのどや耳のあたりに残っているような気がされて、その時の自分と今の自分とが変にそぐわなかった。

何のこだわりも知らないようなその老人への好意が頬に刻まれたまま、峻はまた先ほどの静かな眺めのなかへ吸い込まれていった。――

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なんのこだわりもしらないようなその老人に対する好意がほほに刻まれたまま、たかしはまた先ほどの静かな展望のなかへ吸い込まれていった。――

風がすこし吹いて、午後であった。

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風がすこし吹いて、午後であった。

一つには、かわいい盛りで死なせた妹のことを落ちついて考えてみたいという若者めいた感慨から、峻はまだ五七日も過ぎない頃の家を出て、この土地の姉の家へやって来た。

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一つには、可愛かわいい盛りで死なせた妹のことを落ちついて考えてみたいという若者めいた感慨から、峻はまだ五七日を出ない頃の家を出てこの地の姉の家へやって来た。

ぼんやりしていて、それがよその子の泣き声だと気がつくまで、死んだ妹の声のような気持ちがしていた。

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ぼんやりしていて、それが他所よその子の泣声だと気がつくまで、死んだ妹の声の気持がしていた。

「誰だ。暑いのに泣かせたりなんかして」

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「誰だ。暑いのに泣かせたりなんぞして」

そんなことまで思っている。

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そんなことまで思っている。

彼女が息を引き取った時よりも、火葬場での時よりも、慣れない土地へ来てするこんな経験の方に「失った」

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彼女がこと切れた時よりも、火葬場での時よりも、変わった土地へ来てするこんな経験の方に「失った」

という思いは強く刻まれた。

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という思いは強く刻まれた。

「たくさんの虫が、一匹の死にかけている虫の周りに集まって、悲しんだり泣いたりしている」

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「たくさんの虫が、一匹の死にかけている虫の周囲に集まって、悲しんだり泣いたりしている」

と友人に書いたような、彼女の死の前後の苦しい経験が、やっと薄いヴェールの向こうに感じられるようになったのも、この土地へ来てからであった。

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と友人に書いたような、彼女の死の前後の苦しい経験がやっと薄い面紗ヴェイルのあちらに感ぜられるようになったのもこの土地へ来てからであった。

そしてその思いにも落ちつき、新しい周りにも心が馴染んで来るにしたがって、峻には珍しく静かな心持ちがやって来るようになった。

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そしてその思いにも落ちつき、新しい周囲にも心が馴染なじんで来るにしたがって、峻には珍しく静かな心持がやって来るようになった。

いつも都会に住み慣れ、ことに最近は心の休む隙もなかった後だけに、彼はなおさらこの静けさの中で恭しい気持ちになった。

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いつも都会に住み慣れ、ことに最近は心の休む隙もなかった後で、彼はなおさらこの静けさの中でうやうやしくなった。

道を歩くのにも、できるだけ疲れないように心掛ける。

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道を歩くのにもできるだけ疲れないように心掛ける。

棘一つ立てないようにしよう。

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とげ一つ立てないようにしよう。

指一本挟まないようにしよう。

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指一本詰めないようにしよう。

ほんの些細なことがその日の幸福を左右する。――

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ほんの些細ささいなことがその日の幸福を左右する。――

迷信に近いほど、そんなことが思われた。

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迷信に近いほどそんなことが思われた。

そして日照りの多かった夏にも雨が一度来、二度来、それが上がるたびごとに、やや秋めいたものが肌に触れるような気候になって来た。

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そしてひでりの多かった夏にも雨が一度来、二度来、それがあがるたびごとにやや秋めいたものが肌に触れるように気候もなって来た。

そうした心の静けさとかすかな秋の先ぶれは、彼を部屋の中の書物や妄想にひきとめてはおかなかった。

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そうした心の静けさとかすかな秋の先駆は、彼を部屋の中の書物や妄想もうそうにひきとめてはおかなかった。

草や虫や雲や風景を目の前に据えて、ひそかに抑えて来た心を燃え立たせる、――ただそのことだけがやり甲斐のあることのように峻には思えた。

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草や虫や雲や風景を眼の前へ据えて、ひそかに抑えて来た心を燃えさせる、――ただそのことだけが仕甲斐しがいのあることのようにたかしには思えた。

「家の近所にお城跡がありまして、峻の散歩にはちょうど良いと思います」

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「家の近所にお城跡がありまして峻の散歩にはちょうど良いと思います」

姉が彼の母のもとへ寄こした手紙に、こんなことが書いてあった。

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姉が彼の母のもとへ寄来した手紙にこんなことが書いてあった。

着いた翌日の夜。

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着いた翌日の夜。

義兄と姉とその娘と、四人ではじめてこの城跡へ登った。

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義兄と姉とその娘と四人ではじめてこの城跡へ登った。

日照りのためにうんかがたくさん田に湧いたのを、除虫灯で殺している。

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ひでりのためうんかがたくさん田に湧いたのを除虫燈で殺している。

それがもうあと二三日だからというので、それを見に上がったのだった。

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それがもうあと二三日だからというので、それを見にあがったのだった。

平野は見渡す限り除虫灯の海だった。

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平野は見渡す限り除虫燈の海だった。

遠くになると星のように瞬いている。

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遠くになると星のようにまたたいている。

山の谷あいがぼうと照らされて、そこから大河のように流れ出ている所もあった。

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山の峡間はざまぼうと照らされて、そこから大河のように流れ出ている所もあった。

彼はその異常な光景に興奮して涙ぐんだ。

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彼はその異常な光景に昂奮こうふんして涙ぐんだ。

風のない夜で、涼みがてら見物に来る町の人びとで城跡はにぎわっていた。

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風のない夜で涼みかたがた見物に来る町の人びとで城跡はにぎわっていた。

闇のなかから、白粉を厚く塗った町の娘たちがはしゃいだ目を光らせた。

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やみのなかから白粉おしろいを厚く塗った町の娘達がはしゃいだ眼を光らせた。

今、空は悲しいまでに晴れていた。

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今、空は悲しいまで晴れていた。

そしてその下に、町は瓦屋根を並べていた。

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そしてその下に町はいらかを並べていた。

白壁の小学校。

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白堊はくあの小学校。

土蔵造りの銀行。

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土蔵作りの銀行。

寺の屋根。

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寺の屋根。

そしてそこここ、西洋菓子の隙間に詰めてあるかんな屑めいて、緑色の植物が家々の間から萌え出ている。

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そしてそこここ、西洋菓子の間に詰めてあるカンナくずめいて、緑色の植物が家々の間からえ出ている。

ある家の裏には芭蕉の葉が垂れている。

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ある家の裏には芭蕉ばしょうの葉が垂れている。

糸杉の巻き上がった葉も見える。

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糸杉の巻きあがった葉も見える。

重ね綿のような格好に刈られた松も見える。

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重ね綿のような恰好かっこうに刈られた松も見える。

どれも黒ずんだ下葉と新しい若葉とで、いいふうな緑色の量感をつくっている。

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みなくろずんだ下葉と新しい若葉で、いいふうな緑色の容積を造っている。

遠くに赤いポストが見える。

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遠くに赤いポストが見える。

乳母車なんとかと白いペンキで書いた屋根が見える。

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乳母車なんとかと白くペンキで書いた屋根が見える。

日を受けて、赤い切れ地を張った張り物板が、小さく屋根瓦の間に見える。――

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日をうけて赤い切地を張った張物板が、小さく屋根瓦の間に見える。――

夜になると、灯のついた町の大通りを、自転車でやって来た村の青年たちが、大勢連れ立って遊郭の方へ乗ってゆく。

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夜になると火のいた町の大通りを、自転車でやって来た村の青年達が、大勢連れで遊廓ゆうかくの方へ乗ってゆく。

店の若い衆なども浴衣がけで、昼に見る時とはまるで違ったふうに体をくねらせながら、白粉を塗った女をからかってゆく。――

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店の若い衆なども浴衣がけで、昼見る時とはまるで異ったふうに身体をくねらせながら、白粉を塗った女をからかってゆく。――

そうした町も今は屋根瓦の間に挟まれてしまって、そのあたりに幟をたくさん立てて、芝居小屋がそれと察しられるだけである。

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そうした町も今は屋根瓦の間へ挾まれてしまって、そのあたりにのぼりをたくさん立てて芝居小屋がそれと察しられるばかりである。

西日を避けて、一階も二階も三階も、西の窓すっかりに日よけをした旅館が、やや近くに見えた。

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西日を除けて、一階も二階も三階も、西の窓すっかり日覆ひおおいをした旅館がやや近くに見えた。

どこからか材木を叩く音が――もともと高くもない音らしかったが、町の空へ「カーン、カーン」

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どこからか材木を叩く音が――もともと高くもない音らしかったが、町の空へ「カーン、カーン」

と反響した。

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と反響した。

次々に、止まる間もなくつくつく法師が鳴いた。

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次つぎ止まるひまなしにつくつく法師が鳴いた。

「文法の語尾の変化をやっているようだな」

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「文法の語尾の変化をやっているようだな」

ふとそんなふうに思ってみて、聞いていると不思議に興が乗って来た。

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ふとそんなに思ってみて、聞いていると不思議に興が乗って来た。

「チュクチュクチュク」

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「チュクチュクチュク」

と始めて「オーシ、チュクチュク」

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と始めて「オーシ、チュクチュク」

を繰り返す、そのうちにそれが「チュクチュク、オーシ」

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を繰り返す、そのうちにそれが「チュクチュク、オーシ」

になったり「オーシ、チュクチュク」

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になったり「オーシ、チュクチュク」

に戻ったりして、しまいに「スットコチーヨ」

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にもどったりして、しまいに「スットコチーヨ」

「スットコチーヨ」

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「スットコチーヨ」

になって「ジー」

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になって「ジー」

と鳴きやんでしまう。

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と鳴きやんでしまう。

中途に横から「チュクチュク」

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中途に横から「チュクチュク」

と始めるのが出て来る。

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とはじめるのが出て来る。

するとまた一つのは「スットコチーヨ」

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するとまた一つのは「スットコチーヨ」

を終わって「ジー」

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を終わって「ジー」

に移りかけている。

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に移りかけている。

三重四重、五重にも六重にも重なって鳴いている。

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三重四重、五重にも六重にも重なって鳴いている。

峻はこの間、やはりこの城跡のなかにある社の桜の木で法師蝉が鳴くのを、一尺ほどの間近で見た。

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たかしはこの間、やはりこの城跡のなかにあるやしろの桜の木で法師蝉ほうしぜみが鳴くのを、一尺ほどの間近で見た。

きゃしゃな骨にシャボン玉のような薄い羽根を張った、体の小さい昆虫に、よくあんな高い音が出せるものだと、驚きながら見ていた。

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華車きゃしゃな骨に石鹸玉のような薄い羽根を張った、身体の小さい昆虫こんちゅうに、よくあんな高い音が出せるものだと、驚きながら見ていた。

その高い音と関係があると言えば、ただその腹から尻尾へかけての伸び縮みだけであった。

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その高い音と関係があると言えば、ただその腹から尻尾しっぽへかけての伸縮であった。

うぶ毛の密生している、節を持ったその部分は、まるでエンジンのある部分のような正確さで動いていた。――

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柔毛にこげの密生している、節を持った、その部分は、まるでエンジンのある部分のような正確さで動いていた。――

その時の格好が思い出せた。

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その時の恰好が思い出せた。

腹から尻尾へかけてのぶりっとした膨らみ。

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腹から尻尾へかけてのブリッとしたふくらみ。

隅々まで力ではち切れそうな伸び縮み。――

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すみずみまで力ではち切ったような伸び縮み。――

そしてふと、蝉一匹の生き物がこの上なくもったいないものだという気持ちに打たれた。

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そしてふと蝉一匹の生物が無上にもったいないものだという気持に打たれた。

時どき、先ほどの老人のようにやって来ては涼を入れ、景色を眺めてはまた立ってゆく人があった。

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時どき、先ほどの老人のようにやって来ては涼をいれ、景色を眺めてはまた立ってゆく人があった。

峻がここへ来る時によく見かける、あずまやの中で昼寝をしたり海を眺めたりする人がまた来ていて、今日は子守娘と親しそうに話をしている。

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峻がここへ来る時によく見る、ちんの中で昼寝をしたり海を眺めたりする人がまた来ていて、今日は子守娘と親しそうに話をしている。

蝉取り竿を持った子供があちこちする。

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蝉取竿せみとりざおを持った子供があちこちする。

虫籠を持たされた子は、時どき立ち止まっては籠の中を見、また竿の方を見ては小走りについてゆく。

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虫籠を持たされたは、時どき立ち留まっては籠の中を見、また竿の方を見ては小走りにいてゆく。

物を言わないでいて、変に芝居のようなおもしろさが感じられる。

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物を言わないでいて変に芝居のようなおもしろさが感じられる。

またあちらでは女の子たちが米つきばったを捕まえては、「ねぎさん米つけ、何とか何とか」

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またあちらでは女の子達が米つきばったを捕えては、「ねぎさん米つけ、何とか何とか」

と言いながら米をつかせている。

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と言いながら米をつかせている。

ねぎさんというのは、この土地の言葉で神主のことを言うのである。

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ねぎさんというのはこの土地の言葉で神主かんぬしのことを言うのである。

峻は、善良な長い顔の先に短い二本の触角を持った、そう思えばいかにも神主めいたばったが、女の子に後脚を持たれて身動きもできないまま米をつく、その格好がのんきなものに思い浮かんだ。

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たかしは善良な長い顔の先に短い二本の触覚を持った、そう思えばいかにも神主めいたばったが、女の子に後脚を持たれて身動きのならないままに米をつくその恰好が呑気のんきなものに思い浮かんだ。

女の子が追いかける草のなかを、ばったは二本の脚を伸ばし、日の光を羽根いっぱいに受けながら、何匹も飛び出した。

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女の子が追いかける草のなかを、ばったは二本の脚を伸ばし、日の光を羽根一ぱいに負いながら、何匹も飛び出した。

時どき煙を吐く煙突があって、田畑はそのあたりから開けていた。

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時どきけむりを吐く煙突があって、田野はそのあたりからひらけていた。

レンブラントの素描めいた風景が散らばっている。

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レンブラントの素描めいた風景が散らばっている。

黒い木立。

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くろい木立。

百姓家。

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百姓家。

街道。

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街道。

そして青田のなかに、あせた赤茶色の煉瓦の煙突。

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そして青田のなかに褪赭たいしゃ煉瓦れんがの煙突。

小さい軽便鉄道が海の方からやって来る。

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小さい軽便が海の方からやって来る。

海から吹き上がって来た風は、軽便の煙を陸の方へ、その走る方へ吹きなびかせる。

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海からあがって来た風は軽便の煙を陸の方へ、その走る方へ吹きなびける。

見ていると煙のようではなくて、煙の形を逆向きに固めたまま、おもちゃの汽車が走っているようである。

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見ていると煙のようではなくて、煙の形を逆に固定したまま玩具の汽車が走っているようである。

ササササと日が陰る。

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ササササと日がかげる。

風景の顔色が見る見る変わってゆく。

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風景の顔色が見る見る変わってゆく。

遠く海岸に沿って、斜めに入り込んだ入江が見えた。――

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遠く海岸に沿って斜に入り込んだ入江が見えた。――

峻はこの城跡へ登るたび、幾度となくその入江を見るのが癖になっていた。

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峻はこの城跡へ登るたび、幾度となくその入江を見るのが癖になっていた。

海岸にしては大きい立ち木が所どころ茂っている。

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海岸にしては大きい立木が所どころ繁っている。

その陰にちょっぴり人家の屋根がのぞいている。

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その蔭にちょっぴり人家の屋根がのぞいている。

そして入江には舟がもやっている気配。

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そして入江には舟がもやっている気持。

それはただそれだけの眺めであった。

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それはただそれだけの眺めであった。

どこを取り立てて特別心を惹くようなところはなかった。

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どこを取り立てて特別心をくようなところはなかった。

それでいて、変に心が惹かれた。

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それでいて変に心が惹かれた。

なにかある。

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なにかある。

ほんとうになにかがそこにある。

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ほんとうになにかがそこにある。

と言って、その気持ちを口に出せば、もう空々しいものになってしまう。

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と言ってその気持を口に出せば、もう空ぞらしいものになってしまう。

たとえばそれを、理由のない淡いあこがれといったふうの気持ち、と名づけてみようか。

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たとえばそれを故のない淡い憧憬しょうけいと言ったふうの気持、と名づけてみようか。

誰かが「そうじゃないか」

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誰かが「そうじゃないか」

と尋ねてくれたとすれば、彼はその名づけ方に賛成したかもしれない。

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と尋ねてくれたとすれば彼はその名づけ方に賛成したかもしれない。

しかし自分では「まだなにか」

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しかし自分では「まだなにか」

という気持ちがする。

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という気持がする。

人種の違ったような人びとが住んでいて、この世と離れた生活を営んでいる。――

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人種の異ったような人びとが住んでいて、この世と離れた生活を営んでいる。――

そんなような所にも思える。

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そんなような所にも思える。

とはいえ、それはあまりおとぎ話めかした、ぴったりしないところがある。

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とはいえそれはあまりお伽話とぎばなしめかした、ぴったりしないところがある。

なにか外国の絵で、あそこに似た所が描いてあったのが思い出せないためではないかとも思ってみる。

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なにか外国の画で、あそこに似た所が描いてあったのが思い出せないためではないかとも思ってみる。

それにはコンステイブルの絵を一枚思い出している。

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それにはコンステイブルの画を一枚思い出している。

やはりそれでもない。

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やはりそれでもない。

では、いったい何だろうか。

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ではいったい何だろうか。

このパノラマ風の眺めは、何に限らず一種の美しさを添えるものである。

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このパノラマ風の眺めは何に限らず一種の美しさを添えるものである。

しかし入江の眺めは、それを超えていた。

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しかし入江の眺めはそれに過ぎていた。

そこに限って気配が生き生きと動いている。

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そこに限って気韻が生動している。

そんなふうに思えた。――

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そんなふうに思えた。――

空が秋らしく青く澄む日には、海はその青よりやや温かい深い青に映った。

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空が秋らしく青空に澄む日には、海はその青よりやや温い深青に映った。

白い雲がある時は、海も白く光って見えた。

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白い雲がある時は海も白く光って見えた。

今日は先ほどの入道雲が水平線の上へ広がってザボンの内皮の色をしていて、海も入江のすぐ近くまでその色に映っていた。

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今日は先ほどの入道雲が水平線の上へ拡がってザボンの内皮の色がして、海も入江の真近までその色に映っていた。

今日も入江は、いつものように謎を隠して静まっていた。

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今日も入江はいつものように謎をかくして静まっていた。

見ていると、獣のようにこの城の先から悲しいうなり声を出してみたいような気になるのも同じであった。

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見ていると、獣のようにこの城のはなから悲しいうなり声を出してみたいような気になるのも同じであった。

息苦しいほど妙なものに思えた。

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息苦しいほど妙なものに思えた。

夢で不思議な所へ行っていて、ここは来た覚えがあると思っている。――

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夢で不思議な所へ行っていて、ここは来た覚えがあると思っている。――

ちょうどそれに似た気持ちで、得体の知れない思い出が湧いて来る。

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ちょうどそれに似た気持で、えたいの知れない想い出が湧いて来る。

「ああ、こんな日のこんなひととき」

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「ああかかる日のかかるひととき」

「ああ、こんな日のこんなひととき」

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「ああかかる日のかかるひととき」

いつ用意したとも知れないそんな言葉が、ひらひらとひらめいた。――

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いつ用意したとも知れないそんな言葉が、ひらひらとひらめいた。――

「ハリケンハッチのオートバイ」

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「ハリケンハッチのオートバイ」

「ハリケンハッチのオートバイ」

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「ハリケンハッチのオートバイ」

先ほどの女の子らしい声が、峻の足の下で次々に高く響いた。

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先ほどの女の子らしい声がたかしの足の下で次つぎに高く響いた。

丸の内の街道を通ってゆくらしいオートバイの爆音が聞こえていた。

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丸の内の街道を通ってゆくらしい自動自転車の爆音がきこえていた。

この町のある医者が、それに乗って帰って来る時刻であった。

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この町のある医者がそれに乗って帰って来る時刻であった。

その爆音を聞くと、峻の家の近所にいる女の子は我先にと「ハリケンハッチのオートバイ」

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その爆音を聞くと峻の家の近所にいる女の子は我勝ちに「ハリケンハッチのオートバイ」

と叫ぶ。

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と叫ぶ。

「オートバ」

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「オートバ」

と言っている子もある。

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と言っている児もある。

三階建ての旅館は、日よけをいつの間にか外した。

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三階の旅館は日覆をいつの間にかはずした。

遠い物干し台の赤い張り物板も、もう見つからなくなった。

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遠い物干台の赤い張物板ももう見つからなくなった。

町の屋根からは煙。

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町の屋根からは煙。

遠い山からはひぐらし。

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遠い山からはひぐらし

手品と花火

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手品と花火

これはまた別の日。

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これはまた別の日。

夕飯と風呂を済ませて、峻は城へ登った。

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夕飯と風呂を済ませてたかしは城へ登った。

薄暮の空に、時どき、数里離れた市で花火を上げるのが見えた。

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薄暮の空に、時どき、数里離れた市で花火をあげるのが見えた。

気がつくと、綿でくるんだような音がかすかにしている。

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気がつくと綿で包んだような音がかすかにしている。

それが遠いので、間の抜けた頃に鳴った。

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それが遠いので間の抜けた時に鳴った。

いいものを見る、と彼は思っていた。

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いいものを見る、と彼は思っていた。

そこへ、十七ほどのを頭に三人連れの男の子が来た。

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ところへ十七ほどをかしらに三人連れの男の児が来た。

これも食後の涼みらしかった。

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これも食後の涼みらしかった。

峻に気兼ねしてか、静かに話をしている。

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峻に気を兼ねてか静かに話をしている。

口で教えるのも気がひけたので、彼はわざと花火の上がる方を熱心なふりをして見ていた。

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口で教えるのにも気がひけたので、彼はわざと花火のあがる方を熱心なふりをして見ていた。

果てしなく遠いパノラマのなかで、花火は星くらげほどの澄んだ明るさで光っては消えた。

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末遠いパノラマのなかで、花火は星水母くらげほどのさやけさに光っては消えた。

海は暮れかけていたが、その方角にはまだ明るみが残っていた。

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海は暮れかけていたが、その方はまだ明るみが残っていた。

しばらくすると、少年たちもそれに気がついた。

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しばらくすると少年達もそれに気がついた。

彼は心の中で喜んだ。

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彼は心の中で喜んだ。

「四十九」

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「四十九」

「ああ。四十九」

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「ああ。四十九」

そんなことを言い合いながら、一度上がって次に上がるまでの時間を数えている。

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そんなことを言いあいながら、一度あがって次あがるまでの時間を数えている。

彼はそれらの会話を聞くともなしに聞いていた。

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彼はそれらの会話をきくともなしに聞いていた。

「××ちゃん。花は」

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「××ちゃん。花は」

「フロラ」

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「フロラ」

一番年上のが、そんなふうに答えている。――

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一番年のいったのがそんなに答えている。――

城でのそれを思い出しながら、彼は家へ帰って来た。

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城でのそれを憶い出しながら、彼は家へ帰って来た。

家の近くまで来ると、隣の家の人が峻の顔を見た。

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家の近くまで来ると、隣家の人がたかしの顔を見た。

そして慌てたように

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そしてあわてたように

「帰っておいでなさったよ」

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「帰っておいでなしたぞな」

と家の中へ声をかけた。

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と家へ言い入れた。

手品が何とか座にかかっているのを見に行こうかと言っていたのを、峻がふらっと出てしまったので騒いでいたのである。

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奇術が何とか座にかかっているのを見にゆこうかと言っていたのを、峻がぽっと出てしまったので騒いでいたのである。

「あ。どうも」

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「あ。どうも」

と言うと、義兄は笑いながら

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と言うと、義兄あには笑いながら

「はっきり言っておかないのがいけないのさ」

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「はっきり言うとかんのがいかんのやさ」

と姉に責めを背負わせた。

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と姉に背負わせた。

姉も笑いながら着物を出しかけた。

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姉も笑いながら衣服を出しかけた。

彼が城へ行っている間に、姉も信子(義兄の妹)もこってり化粧をしていた。

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彼が城へ行っている間に姉も信子(義兄の妹)もこってり化粧をしていた。

姉が義兄に

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姉が義兄に

「あんた、扇子は?」

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「あんた、扇子は?」

「ポケットにあるけど……」

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衣嚢かくしにあるけど……」

「そうやな。あれも汚れてますで……」

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「そうやな。あれも汚れてますで……」

姉がうなずきうなずき、ゆっくり捜しかけるのを、じゅうじゅうと音をさせて煙草を吸っていた兄は

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姉が合点合点などしてゆっくり捜しかけるのを、じゅうじゅうと音をさせて煙草をんでいた兄は

「扇子なんかどうでもええわな。早う支度しやんし」

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「扇子なんかどうでもええわな。早う仕度したくしやんし」

と言って、煙管の詰まったのを気にしていた。

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と言って煙管きせるの詰まったのを気にしていた。

奥の間で信子の支度を手伝ってやっていた義母が

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奥の間で信子の仕度を手伝ってやっていた義母はは

「さあ、こんなのはどうやな」

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「さあ、こんなはどうやな」

と言って、団扇を二三本まとめて持って来た。

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と言って団扇うちわを二三本寄せて持って来た。

砂糖屋などが配って行った団扇である。

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砂糖屋などが配って行った団扇である。

姉があれこれと着物を着こなしているのを見ながら、彼は信子がどんな心持ちで、またどんなふうに着付けをしているだろうなどと、奥の間の気配に心をやったりした。

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姉が種々と衣服を着こなしているのを見ながら、彼は信子がどんな心持で、またどんなふうで着付けをしているだろうなど、奥の間の気配に心をやったりした。

やがて支度ができたので、峻は先に下りて下駄を履いた。

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やがて仕度ができたのでたかしはさきへ下りて下駄を穿いた。

「勝子(姉夫婦の娘)がそこらにいますで、呼んでやっとくなさい」

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「勝子(姉夫婦の娘)がそこらにいますで、よぼってやっとくなさい」

と義母が言った。

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と義母が言った。

袖の長い着物を着て、近所の子らのなかに混じっている勝子は、呼ばれたまま、まだなにか言い合っている。

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袖の長い衣服を着て、近所の子らのなかに雑っている勝子は、呼ばれたまま、まだなにか言いあっている。

「『カ』って言うとこへ行くの」

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「『カ』ちうとこへ行くの」

「活動やろ」

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「かつどうや」

「活動や、活動やあ」

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「活動や、活動やあ」

と二三人の女の子がはやした。

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と二三人の女の子がはやした。

「ううん」

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「ううん」

と勝子は首をふって

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と勝子は首をふって

「『ヨ』って言うとこへ行くの」

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「『ヨ』ちっとこへ行くの」

と、またやっている。

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とまたやっている。

「ようちえん?」

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「ようちえん?」

「いやらし。幼稚園、晩にはあらへんわ」

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「いやらし。幼稚園、晩にはあれへんわ」

義兄が出て来た。

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義兄が出て来た。

「早う来なよ。放っといて行くぞな」

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「早うおでな。放っといてゆくぞな」

姉と信子が出て来た。

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姉と信子が出て来た。

白粉を濃くはいた顔が、夕闇に浮かんで見えた。

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白粉おしろいを濃くはいた顔が夕暗ゆうやみに浮かんで見えた。

さっきの団扇を一つずつ持っている。

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さっきの団扇うちわを一つずつ持っている。

「お待ちどおさま。勝子は。勝子、扇持ってるか」

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「お待ち遠さま。勝子は。勝子、扇持ってるか」

勝子は小さい扇をちらと見せて、姉にまといつきかけた。

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勝子は小さい扇をちらと見せて姉にまといつきかけた。

「それじゃお母さん、行って来ますで……」

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「そんならお母さん、行って来ますで……」

姉がそう言うと

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姉がそう言うと

「勝子、帰ろ帰ろ言わんのやんな」

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「勝子、帰ろ帰ろ言わんのやんな」

と義母は勝子に言った。

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と義母は勝子に言った。

「言わんのやんな」

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「言わんのやんな」

勝子は返事のかわりに口真似をして、峻の手のなかへ入って来た。

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勝子は返事のかわりに口真似をしてたかしの手のなかへ入って来た。

そして峻は手をひいて歩き出した。

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そして峻は手をひいて歩き出した。

往来に涼み台を出している近所の人びとが、通りすがりに、今晩は、今晩は、と声をかけた。

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往来に涼み台を出している近所の人びとが、通りすがりに、今晩は、今晩は、と声をかけた。

「勝ちゃん。ここ何てとこ?」

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「勝ちゃん。ここ何てとこ?」

彼はそんなことを訊いてみた。

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彼はそんなことをいてみた。

「しょうせんかく」

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「しょうせんかく」

「朝鮮閣?」

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「朝鮮閣?」

「ううん、しょうせんかく」

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「ううん、しょうせんかく」

「朝鮮閣?」

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「朝鮮閣?」

「しょう―せん―かく」

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「しょう―せん―かく」

「朝―鮮―閣?」

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「朝―鮮―閣?」

「うん」

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「うん」

と言って、彼の手をぴしゃと叩いた。

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と言って彼の手をぴしゃとたたいた。

しばらくして、勝子の方から

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しばらくして勝子から

「しょうせんかく」

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「しょうせんかく」

と言い出した。

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といい出した。

「朝鮮閣」

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「朝鮮閣」

もどかしいのはこっちだ、といったふうに、寸分違わないように似せてゆく。

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牴牾もどかしいのはこっちだ、といったふうに寸分違わないように似せてゆく。

それが遊びになってしまった。

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それが遊戯になってしまった。

しまいには彼が「松仙閣」

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しまいには彼が「松仙閣」

と言っているのに、勝子の方では知らずに「朝鮮閣」

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といっているのに、勝子の方では知らずに「朝鮮閣」

と言っている。

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と言っている。

信子がそれに気がついて笑い出した。

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信子がそれに気がついて笑い出した。

笑われると、勝子はへそを曲げてしまった。

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笑われると勝子は冠を曲げてしまった。

「勝子」

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「勝子」

今度は義兄の番だ。

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今度は義兄の番だ。

「ちがいますともわらびます」

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「ちがいますともわらびます」

「ううん」

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「ううん」

鼻声を出して、勝子は義兄を打つ真似をした。

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鼻ごえをして、勝子は義兄を打つ真似をした。

義兄は知らん顔で

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義兄は知らん顔で

「ちがいますともわらびます。あれ何やったな。勝子。一遍、峻さんに聞かしたげなさい」

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「ちがいますともわらびます。あれ何やったな。勝子。一遍たかしさんに聞かしたげなさい」

泣きそうに鼻を鳴らし出したので、信子が手をひいてやりながら歩き出した。

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泣きそうに鼻をならし出したので信子が手をひいてやりながら歩き出した。

「これ……それから何と言うつもりやったんや?」

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「これ……それから何というつもりやったんや?」

「これ、蕨とは違いますって言うつもりやったんやなあ」

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「これ、わらびとは違いますって言うつもりやったんやなあ」

信子がそんなふうに言ってかばってやった。

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信子がそんなに言って庇護かばってやった。

「いったいどこの人にそんなことを言うたんやな?」

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「いったいどこの人にそんなことを言うたんやな?」

今度は半分、信子に訊いている。

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今度は半分信子にいている。

「吉峰さんのおじさんにやなあ」

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「吉峰さんのおじさんにやなあ」

信子は笑いながら勝子の顔をのぞいた。

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信子は笑いながら勝子の顔を覗いた。

「まだあったぞ。もう一つ、どえらいのがあったぞ」

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「まだあったぞ。もう一つどえらいのがあったぞ」

義兄がおどかすようにそう言うと、姉も信子も笑い出した。

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義兄がおどかすようにそう言うと、姉も信子も笑い出した。

勝子は本式に泣きかけた。

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勝子は本式に泣きかけた。

城の石垣に大きな電灯がついていて、後ろの木々にこうこうと照っている。

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城の石垣に大きな電灯がついていて、後ろの木々に皎々こうこうと照っている。

その手前の木々は、反対に黒々とした影になっている。

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その前の木々は反対に黒ぐろとしたかげになっている。

その方で蝉がジッジジッジと鳴いた。

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その方で蝉がジッジジッジと鳴いた。

彼は一人後ろになって歩いていた。

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彼は一人後ろになって歩いていた。

彼がこの土地へ来てから、こうして一緒に出歩くのは今夜がはじめてであった。

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彼がこの土地へ来てから、こうして一緒に出歩くのは今夜がはじめてであった。

若い女たちと出歩く。

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若い女達と出歩く。

そのことも彼の経験では、きわめて稀であった。

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そのことも彼の経験では、きわめてまれであった。

彼はなんとなしに幸福であった。

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彼はなんとなしに幸福であった。

少しわがままなところのある彼の姉と触れ合っている態度に、少しも無理がなく、――それを器用にやっているのではなく、生まれつきの平和な性分でやっている。

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少しままなところのある彼の姉と触れ合っている態度に、少しも無理がなく、――それを器用にやっているのではなく、生地きじからの平和な生まれ付きでやっている。

信子はそんな娘であった。

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信子はそんな娘であった。

義母などの信心から、天理教の方に拝んでもらえと言われると、素直に拝んでもらっている。

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義母などの信心から、天理教様に拝んでもらえと言われると、素直に拝んでもらっている。

それは指の傷だったが、そのため評判の琴も弾かないでいた。

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それは指の傷だったが、そのため評判の琴も弾かないでいた。

学校の植物の標本を作っている。

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学校の植物の標本を造っている。

用事で町へ行ったついでなどに、雑草をたくさん風呂敷へ入れて帰って来る。

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用事に町へ行ったついでなどに、雑草をたくさん風呂敷へ入れて帰って来る。

勝子が欲しがるので勝子にも分けてやったりして、一人せっせと押しをかけている。

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勝子が欲しがるので勝子にもけてやったりなどして、ひとりせっせとおしをかけいる。

勝子が彼女の写真帖を引き出して来て、彼のところへ持って来た。

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勝子が彼女の写真帖を引き出して来て、彼のところへ持って来た。

それをきまり悪そうにもしないで、彼の聞くことを穏やかに、はきはきと受け答えする。――

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それをまり悪そうにもしないで、彼の聞くことを穏やかにはきはきと受け答えする。――

信子はそんな好ましいところを持っていた。

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信子はそんな好もしいところを持っていた。

今、彼の前を勝子の手をひいて歩いている信子は、家の中で肩に縫い上げのしてある着物を着て、足をにょきにょき出している彼女とまるで違って、大人に見えた。

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今彼の前を、勝子の手をいて歩いている信子は、家の中で肩縫揚げのしてある衣服を着て、足をにょきにょき出している彼女とまるで違っておとなに見えた。

その隣に姉が歩いている。

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その隣に姉が歩いている。

彼は姉が以前より少し痩せて、いくらかでも歩きぶりがよくなったと思った。

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彼は姉が以前より少し痩せて、いくらかでも歩き振りがよくなったと思った。

「さあ。あんた。先へ歩いて……」

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「さあ。あんた。先へ歩いて……」

姉が突然後ろを向いて彼に言った。

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姉が突然後ろを向いて彼に言った。

「どうして」

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「どうして」

今までの気持ちで訊かなくてもわかっていたが、わざと彼はとぼけて見せた。

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今までの気持でかなくともわかっていたがわざと彼はとぼけて見せた。

そして自分から笑ってしまった。

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そして自分から笑ってしまった。

こんな笑い方をしたからには、もう後ろから歩いてゆくわけにはゆかなくなった。

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こんな笑い方をしたからにはもう後ろから歩いてゆくわけにはゆかなくなった。

「早う。気持ちが悪いわ。なあ。信ちゃん」

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「早う。気持が悪いわ。なあ。信ちゃん」

「……」

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「……」

笑いながら信子もうなずいた。

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笑いながら信子も点頭うなずいた。

芝居小屋のなかは思ったとおり蒸し暑かった。

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芝居小屋のなかは思ったように蒸し暑かった。

水番とでもいうのか、銀杏返しに結った年配の女が、座布団を人数分だけ持って、先に立ってばたばたと敷いてしまった。

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水番というのか、銀杏返いちょうがえしに結った、年のけたおんなが、座蒲団を数だけ持って、先に立ってばたばた敷いてしまった。

平場の一番後ろで、峻が左の端、その内側に姉が来て、信子が右の端、後ろへ兄が座った。

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平場ひらばの一番後ろで、たかしが左の端、中へ姉が来て、信子が右の端、後ろへ兄が座った。

ちょうど幕間で、階下は七分通り詰まっていた。

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ちょうど幕間まくあいで、階下は七分通り詰まっていた。

さっきの女が煙草盆を持って来た。

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先刻のおんなが煙草盆を持って来た。

火が埋けてあって、暑いのに気が利かなかった。

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火がうずんであって、暑いのに気が利かなかった。

立ち去らずにぐずぐずしている。

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立ち去らずにぐずぐずしている。

何と言ったらいいか、この手の女特有のずるい顔つきで、目をきょろきょろさせている。

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何と言ったらいいか、この手のおんな特有な狡猾ずるい顔付で、眼をきょろきょろさせている。

目つきで火鉢を指したり、そらしたり、兄の顔を盗み見たりする。

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眼顔めがおで火鉢を指したり、そらしたり、兄の顔を盗み見たりする。

こちらが見てよくわかっているのにと思い、財布の銀貨を袂の中で出しあぐねながら、彼はその不躾に腹が立った。

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こちらが見てよくわかっているのにと思い、財布の銀貨をたもとの中で出し悩みながら、彼はその無躾ぶしつけに腹が立った。

義兄は落ちついてしまって、まるで無感覚である。

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義兄は落ちついてしまって、まるで無感覚である。

「へ、お火鉢」

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「へ、お火鉢」

女はこんなことをそわそわ言ってのけて、忙しそうに揉み手をしながら、また目をそらす。

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おんなはこんなことをそわそわ言ってのけて、忙しそうにもみ手をしながらまた眼をそらす。

やっと銀貨が出て、女は帰って行った。

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やっと銀貨が出ておんなは帰って行った。

やがて幕が上がった。

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やがて幕があがった。

日本人のようでない、皮膚の色が少し黒みがかった男が、気のない様子で道具を運んで来て、時どきじろじろと観客の方を見た。

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日本人のようでない、皮膚の色が少し黒みがかった男が不熱心に道具を運んで来て、時どきじろじろと観客の方を見た。

ぞんざいで、おもしろく思えなかった。

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ぞんざいで、おもしろく思えなかった。

それが済むと、怪しげな名前のインド人が不作法なフロックコートを着て出て来た。

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それが済むと怪しげな名前の印度インド人が不作法なフロックコートを着て出て来た。

何かわからない言葉でしゃべった。

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何かわからない言葉でしゃべった。

唾を飛ばしている様子で、色のあせた唇の両端に白く唾がたまっていた。

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唾液をとばしている様子で、めた唇の両端に白く唾がたまっていた。

「なんて言ったの」

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「なんて言ったの」

姉がそんなふうに訊いた。

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姉がこんなにいた。

すると隣のよその人も彼の顔を見た。

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すると隣のよその人も彼の顔を見た。

彼は閉口してしまった。

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彼は閉口してしまった。

インド人は客席へ下りて、立会人を物色している。

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印度人は席へ下りて立会人を物色している。

一人の男が腕をつかまれたまま、危なっかしい照れ笑いをしていた。

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一人の男が腕をつかまれたまま、危う気な羞笑はじわらいをしていた。

その男はとうとう舞台へ連れてゆかれた。

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その男はとうとう舞台へ連れてゆかれた。

髪の毛を前へおろして、糊の落ちた浴衣を着、暑いのに黒足袋を履いていた。

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髪の毛を前へおろして、糊の寝た浴衣を着、暑いのに黒足袋を穿いていた。

にこにこして立っているのを、先ほどの男が椅子を持って来て座らせた。

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にこにこして立っているのを、先ほどの男が椅子いすを持って来て坐らせた。

インド人はひどいやつであった。

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印度人は非道ひどいやつであった。

握手をしようと言って、男の前へ手を出す。

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握手をしようと言って男の前へ手を出す。

男はためらっていたが、思い切って手を出した。

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男はためらっていたが思い切って手を出した。

するとインド人は自分の手を引っ込めて、観客の方を向き、その男の手つきを醜く真似て見せ、首根っこを縮めて、あざ笑って見せた。

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すると印度人は自分の手を引き込めて、観客の方を向き、その男の手振を醜く真似て見せ、首根っ子を縮めて、嘲笑あざわらって見せた。

毒々しいものだった。

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毒々しいものだった。

男はインド人の方を見、自分のもといた席の方を見て、危なっかしく笑っている。

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男は印度人の方を見、自分の元いた席の方を見て、危な気に笑っている。

なにかわけのありそうな笑い方だった。

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なにかわけのありそうな笑い方だった。

子供か女房かがいるのではないか。

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子供か女房かがいるのじゃないか。

たまらない。

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たまらない。

と峻は思った。

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たかしは思った。

握手が失礼になり、インド人の悪ふざけはますます性が悪くなった。

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握手が失敬になり、印度人の悪ふざけはますます性がわるくなった。

見物客はそのたびに笑った。

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見物はそのたびに笑った。

そして手品がはじまった。

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そして手品がはじまった。

紐があったのは、切ってもつながっているという手品。

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ひもがあったのは、切ってもつながっているという手品。

金属の瓶があったのは、いくらでも水が出るという手品。――

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金属のびんがあったのは、いくらでも水が出るという手品。――

ごくつまらない手品で、ガラスのテーブルの上のものは減っていった。

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ごく詰まらない手品で、硝子ガラス卓子テーブルの上のものは減っていった。

まだ林檎が残っていた。

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まだ林檎りんごが残っていた。

これは林檎を食べて、食べた林檎のかけらが今度は火を吹いて口から出て来るというので、試しに例の男が食わされた。

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これは林檎を食って、食った林檎のきれが今度は火を吹いて口から出て来るというので、試しに例の男が食わされた。

皮ごと食べたというので、これも笑われた。

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皮ごと食ったというので、これも笑われた。

峻は、その箸にも棒にもかからないような笑い方をインド人がするたびに、なぜあの男はなんとかしないのだろうと思っていた。

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峻はその箸にも棒にもかからないような笑い方を印度人がするたびに、何故なぜあの男はなんとかしないのだろうと思っていた。

そして彼自身、かなり不愉快になっていた。

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そして彼自身かなり不愉快になっていた。

そのうちにふと、先ほどの花火が思い出されて来た。

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そのうちにふと、先ほどの花火が思い出されて来た。

「先ほどの花火はまだ上がっているだろうか」

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「先ほどの花火はまだあがっているだろうか」

そんなことを思った。

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そんなことを思った。

薄明かりの平野のなかへ、星くらげほどに光っては消える遠い市の花火。

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薄明りの平野のなかへ、星水母くらげほどに光っては消える遠い市の花火。

海と雲と平野のパノラマが、いかにも美しいものに思えた。

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海と雲と平野のパノラマがいかにも美しいものに思えた。

「花は」

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「花は」

「Flora.」

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「Flora.」

たしかに「Flower.」

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たしかに「Flower.」

とは言わなかった。

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とは言わなかった。

その子供といい、そのパノラマといい、どんな手品師もかなわないような立派な手品だったような気がした。

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その子供といい、そのパノラマといい、どんな手品師もかなわないような立派な手品だったような気がした。

そんなことが、彼の不愉快をだんだんと洗い流していった。

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そんなことが彼の不愉快をだんだんと洗っていった。

いつもの癖で、不愉快な場面を人情ぬきに眺める、――そうすると反対におもしろく見えて来る――その気持ちが物になりかけて来た。

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いつもの癖で、不愉快な場面を非人情に見る、――そうすると反対におもしろく見えて来る――その気持がものになりかけて来た。

下等な道化に一人で腹を立てていた先ほどの自分が、ちょっと滑稽だったと彼は思った。

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下等な道化にひとりで腹を立てていた先ほどの自分が、ちょっと滑稽だったと彼は思った。

舞台の上ではインド人が、看板絵そっくりの雰囲気のなかで、口から盛んに火を吹いていた。

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舞台の上では印度人が、看板画そっくりの雰囲気のなかで、口から盛んに火を吹いていた。

それには怪しげな美しささえ見えた。

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それには怪しげな美しささえ見えた。

やっと済むと幕が下りた。

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やっと済むと幕が下りた。

「ああおもしろかった」

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「ああおもしろかった」

ちょっと嘘のような、とってつけたように勝子が言った。

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ちょっと嘘のような、とってつけたように勝子が言った。

言い方がおもしろかったので、皆笑った。――

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言い方がおもしろかったので皆笑った。――

美人の宙づり。

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美人の宙釣り。

力業。

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力業ちからわざ

オペレッタ。

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オペレット。

浅草気分。

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浅草気分。

美人胴切り。

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美人胴切り。

そんなプログラムで、遅く家へ帰った。

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そんなプログラムで、おそく家へ帰った。

病気

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病気

姉が病気になった。

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姉が病気になった。

わき腹が痛む、そして高い熱が出る。

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脾腹ひばらが痛む、そして高い熱が出る。

峻は腸チフスではないかと思った。

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たかしは腸チブスではないかと思った。

枕元で兄が

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枕元で兄が

「お医者さんを呼びにやろうかな」

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「医者さんを呼びにろうかな」

と言っている。

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と言っている。

「まあいいですわな。回虫かもしれませんで」

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「まあよろしいわな。かい虫かもしれませんで」

そして峻にともつかず、兄にともつかず

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そして峻にともつかず兄にともつかず

「昨日あんなに暑かったのに、歩いて帰って来る道で汗がちっとも出なんだの」

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「昨日あないに暑かったのに、歩いて帰って来る道で汗がちっとも出なんだの」

と弱々しく言っている。

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と弱よわしく言っている。

その前の日の午後、少し浮かない顔で遠くから帰って来るのが見え、勝子と二人で窓からふざけながらはやし立てた。

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その前の日の午後、少し浮かぬ顔で遠くから帰って来るのが見え、勝子と二人で窓からふざけながらはやし立てた。

「勝子、あれどこの人?」

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「勝子、あれどこの人?」

「あら。お母さんや。お母さんや」

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「あら。お母さんや。お母さんや」

「嘘言え。よそのおばさんだよ。見ておいで。家へは入らないから」

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「嘘いえ。他所よそのおばさんだよ。見ておいで。家へは這入はいらないから」

その時の顔を峻は思い出した。

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その時の顔を峻は思い出した。

少し変だったことは、少し変だった。

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少し変だったことは少し変だった。

家のなかでばかり見慣れている家族を、ふと往来でよそ目に見る――そんな珍しい気持ちで見たせいだと峻は思っていたが、少し力がないようでもあった。

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家のなかばかりで見馴れている家族を、ふと往来で他所よそ目に見る――そんな珍しい気持で見た故と峻は思っていたが、少し力がないようでもあった。

医者が来て、やはりチフスの疑いがあると言って帰った。

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医者が来て、やはりチブスの疑いがあると言って帰った。

峻は階下で、困った顔を兄と突き合わせた。

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たかしは階下で困った顔を兄とつき合わせた。

兄の顔には苦しい微笑が凝り固まっていた。

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兄の顔には苦しい微笑がっていた。

腎臓の故障だったことがわかった。

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腎臓の故障だったことがわかった。

舌の苔がどうこうで、と言って、はっきりチフスとも言いかねていたわけを話して、医者も元気に帰って行った。

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舌のこけがなんとかで、と言って明瞭にチブスとも言い兼ねていた由を言って、医者も元気に帰って行った。

この家へ嫁いで来てから、病気で寝たのはこれで二度目だと姉が言った。

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この家へ嫁いで来てから、病気で寝たのはこれで二度目だと姉が言った。

「一度は北牟婁で」

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「一度は北牟婁ムロで」

「あの時は弱ったな。近所に氷がありませんでなあ、夜中の二時頃、四里ほどの道を自転車で走って、叩き起こして買うたのはまあよかったんやさ。風呂敷へ包んでサドルの後ろへ結わえつけて戻って来たら、擦れてしまいましてな、これだけほどになっとった」

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「あの時は弱ったな。近所に氷がありませいでなあ、夜中の二時頃、四里ほどの道を自転車で走って、叩き起こして買うたのはまあよかったやさ。風呂敷へ包んでサドルの後ろへゆわえつけて戻って来たら、れとりましてな、これだけほどになっとった」

兄はその手つきをして見せた。

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兄はその手つきをして見せた。

姉の熱のグラフにしても、二時間おきほどの正確なものを作ろうとする兄だけあって、その話には兄らしい味が出ていて、峻も笑わされた。

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姉の熱のグラフにしても、二時間おきほどの正確なものを造ろうとする兄だけあって、その話には兄らしい味が出ていて峻も笑わされた。

「その時は?」

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「その時は?」

「回虫を湧かしとりましたんじゃ」

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かい虫をわかしとりましたんじゃ」

――一つには峻自身のだらしない生活から、彼は一度肺を悪くしたことがあった。

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――一つには峻自身の不検束ふしだらな生活から、彼は一度肺を悪くしたことがあった。

その時義兄は、北牟婁でその病気が治るようにと神詣でをしてくれた。

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その時義兄は北牟婁ムロでその病気がなおるようにと神詣でをしてくれた。

病気がややよくなって、峻は一度その北牟婁の家へ行ったことがあった。

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病気がややよくなって、峻は一度その北牟婁ムロの家へ行ったことがあった。

そこは山のなかの寒村で、村は百姓と木こりで、養蚕などもしていた。

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そこは山のなかの寒村で、村は百姓と木樵きこりで、養蚕ようさんなどもしていた。

冬になると、家の近くの畑まで猪が芋を掘りに来たりする。

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冬になると家の近くの畑までいのししが芋を掘りに来たりする。

芋は百姓の半ば常食になっていた。

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芋は百姓の半分常食になっていた。

その時はまだ勝子も小さかった。

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その時はまだ勝子も小さかった。

近所のお婆さんが来て、勝子の絵本を見ながら講釈しているのに、象のことを鼻巻き象、猿のことを山の若い衆とか、やえんとか呼んでいた。

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近所のお婆さんが来て、勝子の絵本を見ながら講釈しているのに、象のことを鼻巻き象、猿のことを山の若い衆とかやえんとか呼んでいた。

苗字がないという子がいるので聞いてみると、木こりの子だからと言って、村の人は当然という顔をしている。

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苗字みょうじのないという子がいるので聞いてみると木樵きこりの子だからと言って村の人は当然な顔をしている。

小学校には、生徒から名前を呼び捨てにされている、薫という村長の娘が教師をしていた。

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小学校には生徒から名前の呼び棄てにされている、薫という村長の娘が教師をしていた。

まだそれが十六七の年頃だった。――

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まだそれが十六七の年頃だった。――

北牟婁はそんな所であった。

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牟婁ムロはそんな所であった。

峻は、北牟婁での兄の話には興味が持てた。

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たかしは北牟婁ムロでの兄の話には興味が持てた。

北牟婁にいた時、勝子が川へはまったことがある。

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牟婁ムロにいた時、勝子が川へはまったことがある。

その話が兄の口から出て来た。

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その話が兄の口から出て来た。

――兄が心臓脚気で寝ていた時のことである。

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――兄が心臓脚気で寝ていた時のことである。

七十を越した、兄の祖母で、勝子の曽祖母にあたるお祖母さんが、勝子を連れて川へ茶碗を漬けに行った。

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七十を越した、兄の祖母で、勝子の曽祖母にあたるお祖母ばあさんが、勝子を連れて川へ茶碗をけに行った。

その川というのが急な流れの川で、狭かったが底はかなり深かった。

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その川というのが急な川で、狭かったが底はかなり深かった。

お祖母さんは、いつでも兄たちが放っておけと言うのに、姉が留守だったりすると、勝子などを抱きたがった。

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お祖母さんは、いつでも兄達が捨てておけというのに、姉が留守だったりすると、勝子などを抱きたがった。

その時も姉は外出していた。

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その時も姉は外出していた。

ああ、出て行ったな。

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はあ、出て行ったな。

と寝床の中で思っていると、しばらくして変な声がしたので、あっと思ったまま、引かれるように大病人が起きて出た。

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と寝床の中で思っていると、しばらくして変な声がしたので、あっと思ったまま、ひかれるように大病人が起きて出た。

川はすぐ近くだった。

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川はすぐ近くだった。

見ると、お祖母さんが変な顔をして、「勝子が」

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見ると、お祖母さんが変な顔をして、「勝子が」

と言ったのだが、そして一生懸命に言おうとしているのだが、そのあとが言えない。

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と言ったのだが、そして一生懸命に言おうとしているのだが、そのあとが言えない。

「お祖母さん。勝子がどうした!」

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「お祖母さん。勝子が何とした!」

「……」

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「……」

手の先だけが激しくそれを言っている。

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手の先だけが激しくそれを言っている。

勝子が川を流れてゆくのが見えているのだ!

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勝子が川を流れてゆくのが見えているのだ!

川はちょうど雨のあとで水かさが増していた。

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 川はちょうど雨のあとで水かさが増していた。

先に石の橋があって、水が板石とすれすれになっている。

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先に石の橋があって、水が板石とすれすれになっている。

その先には川の曲がるところがあって、そこはいつも渦が巻いている所だ。

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その先には川の曲がるところがあって、そこはいつも渦が巻いている所だ。

川はそこを曲がって、深い沼のような所へ入る。

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川はそこを曲がって深い沼のような所へ入る。

橋か曲がり角で頭を打ちつけるか、流れて行って沼へ沈みでもしようものなら助からないところだった。

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橋か曲がり角で頭を打ちつけるか、流れて行って沼へ沈みでもしようものなら助からないところだった。

兄はいきなり川へ飛び込んで、あとを追った。

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兄はいきなり川へ跳び込んで、あとを追った。

橋までに捕まえるつもりだった。

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橋までに捕えるつもりだった。

病気の身だった。

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病気の身だった。

それでも、やっと橋の手前で捕まえることはできた。

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それでもやっと橋の手前で捕えることはできた。

しかし流れがきつくて、橋を頼りに上がろうと思ってもとうてい駄目だった。

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しかし流れがきつくて橋を力に上ろうと思ってもとうてい駄目だめだった。

板石と水の隙間は、やっと勝子の頭ぐらいは通せるほどだったので、兄は勝子を差し上げながら水を潜り、下流でようやく上がれたのだった。

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板石と水の隙間は、やっと勝子の頭ぐらいは通せるほどだったので、兄は勝子を差し上げながら水を潜り、下手でようやくあがれたのだった。

勝子はぐったりとなっていた。

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勝子はぐったりとなっていた。

逆さにしても水を吐かない。

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逆にしても水を吐かない。

兄は気が気でなく、しきりに勝子の名を呼びながら、背中を叩いた。

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兄は気が気でなく、しきりに勝子の名を呼びななら、背中を叩いた。

勝子はけろりと気がついた。

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勝子はけろりと気がついた。

気がついたが早いか、立つとすぐ踊り出したりするのだ。

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気がついたが早いか、立つとすぐ踊り出したりするのだ。

兄は化かされたようで、なんだか変だった。

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兄はばかされたようでなんだか変だった。

「このべべ、どうしたんや」

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「このべべ何としたんや」

と言って濡れた着物をひっぱってみても「知らん」

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と言って濡れた衣服をひっぱってみても「知らん」

と言っている。

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と言っている。

足が滑った拍子に気絶していたので、まったく溺れたのではなかったとみえる。

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足が滑った拍子に気絶しておったので、全く溺れたのではなかったとみえる。

そして、なんとまあ、いつもの顔で踊っているのだ。――

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そして、なんとまあ、いつもの顔で踊っているのだ。――

兄の話のあらましは、こんなものだった。

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兄の話のあらましはこんなものだった。

ちょうど近所の百姓家が昼寝の時だったので、自分がその時起きて行かなければどんなに危険だったかとも言った。

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ちょうど近所の百姓家が昼寝の時だったので、自分がその時起きてゆかなければどんなに危険だったかとも言った。

話している方も聞いている方も引き入れられて、兄が口をつぐむと、静かになった。

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話している方も聞いている方もき入れられて、兄が口をつぐむと、静かになった。

「わたしが帰って行ったら、お祖母さんと三人で門で待ってはるの」

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「わたしが帰って行ったらお祖母ばあさんと三人で門で待ってはるの」

姉がそんなことを言った。

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姉がそんなことを言った。

「何やら家にいられなんだわさ。着物を着かえて、お母ちゃんを待っとろうと言うたりしてなあ」

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「何やら家にいてられなんだわさ。着物を着かえてお母ちゃんを待っとろと言うたりしてなあ」

「お祖母さんがぼけはったのは、あれからでしたな」

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「お祖母ばあさんがぼけはったのはあれからでしたな」

姉は声を少しひそめて、意味の込もった目を兄に向けた。

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姉は声を少しひそませて意味のこもった眼を兄に向けた。

「それがあってからお祖母さんがちょっとぼけみたいになりましてなあ。いつまで経っても、これに(と言って姉を指し)よしやんに済まん、よしやんに済まんと言いましてなあ」

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「それがあってからお祖母さんがちょっとぼけみたいになりましてなあ。いつまで経ってもこれに(と言って姉を指し)よしやんに済まん、よしやんに済まんと言いましてなあ」

「なんのお祖母さん、そんなことがあるものかね、と言っているのに」

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「なんのお祖母さん、そんなことがあろうかさ、と言っているのに」

それからのお祖母さんは目に見えてぼけていって、一年ほど経ってから死んだ。

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それからのお祖母さんは目に見えてぼけていって一年ほど経ってから死んだ。

峻には、そのお祖母さんの運命がなにか惨酷な気がした。

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たかしにはそのお祖母さんの運命がなにか惨酷な気がした。

それが故郷ではなく、勝子のお守りでもする気で出かけて行った北牟婁の山の中だっただけに、もう一つその感じは深かった。

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それが故郷ではなく、勝子のお守りでもする気で出かけて行った北牟婁ムロの山の中だっただけに、もう一つその感じは深かった。

峻が北牟婁へ行ったのは、その事件より前であった。

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峻が北牟婁ムロへ行ったのは、その事件の以前であった。

お祖母さんは勝子の名前を、その当時もう女学校へ上がっていたはずの信子の名と、よく呼び違えた。

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お祖母さんは勝子の名前を、その当時もう女学校へ上っていたはずの信子の名と、よく呼び違えた。

信子はその当時、母などとこちらにいた。

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信子はその当時母などとこちらにいた。

まだ信子を知らなかった峻には、お祖母さんが呼び違えるたびごとに、信子という名を持った十四五の娘が、頭に親しく想像された。

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まだ信子を知らなかった峻には、お祖母さんが呼び違えるたびごとに、信子という名を持った十四五の娘が頭に親しく想像された。

勝子

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勝子

峻は原っぱに面した窓に寄りかかって、外を眺めていた。

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峻は原っぱに面した窓にりかかって外を眺めていた。

灰色の雲が空一面を覆っていた。

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灰色の雲が空一帯をめていた。

それはずっと奥深くも見え、また地上低く垂れ下がっているようにも思えた。

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それはずっと奥深くも見え、また地上低く垂れ下がっているようにも思えた。

あたりのものは、みな光を失って静まっていた。

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あたりのものはみな光を失って静まっていた。

ただ遠い病院の避雷針だけが、どうしたはずみか白く光って見える。

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ただ遠い病院の避雷針だけが、どうしたはずみか白く光って見える。

原っぱのなかで子供が遊んでいた。

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原っぱのなかで子供が遊んでいた。

見ていると勝子も混じっていた。

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見ていると勝子もまじっていた。

男の子が一人いて、なにか荒っぽい遊びをしているらしかった。

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男のが一人いて、なにか荒い遊びをしているらしかった。

勝子が男の子に倒された。

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勝子が男の児に倒された。

起きたところをまた倒された。

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起きたところをまた倒された。

今度はぎゅうぎゅう押さえつけられている。

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今度はぎゅうぎゅう押えつけられている。

いったい何をしているのだろう。

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いったい何をしているのだろう。

なんだかひどいことをする。

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なんだかひどいことをする。

そう思って峻は目をとめた。

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そう思ってたかしは目をとめた。

それが済むと、今度は女の子連中が――それは三人だったが、改札口へ並ぶように男の子の前へ立った。

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それが済むと今度は女の子連中が――それは三人だったが、改札口へ並ぶように男の児の前へ立った。

変な切符切りがはじまった。

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変な切符切りがはじまった。

女の子の差し出した手を、その男の子がやけに引っ張る。

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女の子の差し出した手を、その男の児がやけに引っ張る。

その女の子は地面へ叩きつけられる。

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その女の子は地面へ叩きつけられる。

次の子も手を出す。

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次の子も手を出す。

その手も引っ張られる。

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その手も引っ張られる。

倒された子は起き上がって、また列の後ろにつく。

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倒された子は起きあがって、また列の後ろへつく。

見ていると、こうであった。

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見ているとこうであった。

男の子が手を引っ張る力加減に変化がつく。

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男の児が手を引っ張る力加減に変化がつく。

女の子の方では、その強弱をおっかなびっくり待ち受けるのがおもしろいらしかった。

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女の子の方ではその強弱をおっかなびっくりに期待するのがおもしろいのらしかった。

強く引くのかと思うと、体つきだけ強そうにして軽く引っ張る。

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強く引くのかと思うと、身体つきだけ強そうにして軽く引っ張る。

すると次はいきなり叩きつけられる。

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すると次はいきなり叩きつけられる。

次はまた、手を持ったというくらいの軽さで通す。

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次はまた、手を持ったというくらいの軽さで通す。

男の子は小さいくせに、どうかすると大人の――それも木びきとか石工とかの格好そっくりに見えることのある子で、今もなにか鼻歌でも歌いながらやっているように見える。

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男の児は小さいくせにどうかすると大人の――それも木挽こびきとか石工とかの恰好そっくりに見えることのある児で、今もなにか鼻唄でも歌いながらやっているように見える。

そして、いかにも得意気であった。

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そしていかにも得意気であった。

見ていると、やはり勝子だけが一番よけい強くされているように思えた。

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見ているとやはり勝子だけが一番よけい強くされているように思えた。

彼にはそれが悪くとれた。

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彼にはそれが悪くとれた。

勝子は遠回しに意地悪されているのだな。――

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勝子は婉曲えんきょくに意地悪されているのだな。――

そう思うのには、一つは勝子がわがままで、よその子と遊ぶのにも決していい子にならないからでもあった。

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そう思うのには、一つは勝子がままで、よその子と遊ぶのにも決していい子にならないからでもあった。

それにしても、勝子にはあの不公平がわからないのかな。

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それにしても勝子にはあの不公平がわからないのかな。

いや、あれがわからないはずはない。

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いや、あれがわからないはずはない。

むしろ勝子にとっては、わかってはいながら痩せ我慢を張っているのがほんとうらしい。

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むしろ勝子にとっては、わかってはいながら痩我慢を張っているのがほんとうらしい。

そんなふうに思っているうちにも、勝子はまたこっぴどく叩きつけられた。

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そんなに思っているうちにも、勝子はまたこっぴどく叩きつけられた。

痩せ我慢を張っているとすれば、倒された拍子に地面とにらめっこをしている時の顔つきは、いったいどんなだろう。――

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痩我慢を張っているとすれば、倒された拍子に地面とにらめっこをしている時の顔付は、いったいどんなだろう。――

立ち上がる時には、もうほかの子と同じような顔をしているが。

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立ちあがる時には、もうほかの子と同じような顔をしているが。

よく泣き出さないものだ。

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よく泣き出さないものだ。

男の子がふとした拍子にこの窓を見るかもしれないからと思って、彼は窓のそばを離れなかった。

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男のがふとした拍子にこの窓を見るかもしれないからと思って彼は窓のそばを離れなかった。

奥の知れないような曇り空のなかを、きらりきらり光りながら過ぎってゆくものがあった。

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奥の知れないような曇り空のなかを、きらりきらり光りながらよぎってゆくものがあった。

鳩?

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はと

雲の色にぼやけてしまって姿は見えなかったが、光の反射だけ、鳥にすれば三羽ほど、鳩流のどこにあてがあるともない飛び方で舞っていた。

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雲の色にぼやけてしまって、姿は見えなかったが、光の反射だけ、鳥にすれば三羽ほど、鳩一流のどこにあてがあるともない飛び方で舞っていた。

「あああ。勝子のやつめ、勝手に注文して強くしてもらっているのじゃないかな」

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「あああ。勝子のやつめ、かってに注文して強くしてもらっているのじゃないかな」

そんなことがふっと思えた。

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そんなことがふっと思えた。

いつか峻が抱きすくめてやった時、「もっとぎゅうっと」

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いつかたかしが抱きすくめてやった時、「もっとぎうっと」

と何度も抱きすくめさせた。

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と何度も抱きすくめさせた。

その時のことが思い出せたのだった。

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その時のことが思い出せたのだった。

そう思えば、それもいかにも勝子のしそうなことだった。

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そう思えばそれもいかにも勝子のしそうなことだった。

峻は窓を離れて、部屋のなかへ入った。

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峻は窓を離れて部屋のなかへ這入はいった。

夜、夕飯が済んでしばらくしてから、勝子が泣きはじめた。

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夜、夕飯が済んでしばらくしてから、勝子が泣きはじめた。

峻は二階でそれを聞いていた。

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たかしは二階でそれを聞いていた。

しまいにはそれをなだめる姉の声が高くなって来て、勝子もあたりかまわず泣き立てた。

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しまいにはそれをしずめる姉の声が高くなって来て、勝子もあたりかまわず泣きたてた。

あまり声が大きいので、峻は下へ下りて行った。

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あまり声が大きいので峻は下へおりて行った。

信子が勝子を抱いている。

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信子が勝子を抱いている。

勝子は片手を電灯の真下へ引き寄せられて、針を持った姉が、掌へ針を持ってゆこうとする。

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勝子は片手を電燈の真下へ引き寄せられて、針を持った姉が、掌へ針を持ってゆこうとする。

「外へ行って棘を立てて来ましたんや。知らんとおったのが、御飯を食べるとき醤油が染みてな」

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「そとへ行ってとげを立てて来ましたんや。知らんとおったのが御飯を食べるとき醤油しょうゆが染みてな」

義母が峻にそう言った。

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義母が峻にそう言った。

「もっとぎゅっとお出し」

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「もっとぎうとお出し」

姉は怒ってしまって、邪険に掌を引っ張っている。

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姉は怒ってしまって、邪慳じゃけんに掌を引っ張っている。

そのたびに勝子は、火のつくように泣き声を高くする。

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そのたびに勝子は火の付くように泣声を高くする。

「もう知らん、放っといてやる」

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「もう知らん、放っといてやる」

しまいに姉は掌を振り離してしまった。

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しまいに姉は掌を振り離してしまった。

「今はしかたないで、××膏をつけてくくっとこうよ」

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「今はしようないで、××こうをつけてくくっとこうよ」

義母が取りなすように言っている。

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義母が取りなすように言っている。

信子が薬を出しに行った。

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信子が薬を出しに行った。

峻は勝子の泣き声に閉口して、また二階へ上がった。

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峻は勝子の泣声に閉口してまた二階へあがった。

薬をつけるのに、勝子の泣き声はまだ静まらなかった。

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薬をつけるのに勝子の泣声はまだ鎮まらなかった。

「棘はどうせあの時立てたに違いない」

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「棘はどうせあの時立てたに違いない」

峻は昼間のことを思い出していた。

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峻は昼間のことを思い出していた。

ぴしゃっと地面へうつ伏せになった時の勝子の顔はどんなだったろう、という考えが、また蘇って来た。

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ぴしゃっと地面へうつっぶせになった時の勝子の顔はどんなだったろう、という考えがまた蘇えって来た。

「ひょっとして、あの時の痩せ我慢を破裂させているのかもしれない」

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「ひょっとしてあの時の痩我慢を破裂させているのかもしれない」

そんなことを思って聞いていると、その火のつくような泣き声が、なにか悲しいもののように峻には思えた。

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そんなことを思って聞いていると、その火がつくような泣声が、なにか悲しいもののように峻には思えた。

昼と夜

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昼と夜

彼はある日、城のそばの崖の陰に立派な井戸があるのを見つけた。

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彼はある日城の傍の崖の蔭に立派な井戸があるのを見つけた。

そこは昔の侍の屋敷跡のように思えた。

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そこは昔のさむらいの屋敷跡のように思えた。

畑とも庭ともつかない地面には、梅の老木があったり、かぼちゃが植えてあったり、しそがあったりした。

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畑とも庭ともつかない地面には、梅の老木があったり南瓜かぼちゃが植えてあったり紫蘇しそがあったりした。

城の崖からは太いたくましい高木や古い椿が緑の衝立をつくっていて、井戸はその陰に座っていた。

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城の崖からは太い逞しい喬木きょうぼくや古い椿つばきが緑の衝立ついたてを作っていて、井戸はその蔭に坐っていた。

大きな井桁、堂々とした石の組み方、がっしりしていて立派であった。

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大きな井桁いげた、堂々とした石の組み様、がっしりしていて立派であった。

若い女の人が二人、洗濯物を大だらいですすいでいた。

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若い女の人が二人、洗濯物を大盥おおだらいすすいでいた。

彼のいた所からは見えなかったが、その仕掛けははね釣瓶になっているらしく、汲み上げられて来る水は大きい木製の釣瓶桶に溢れ、木々の緑がみずみずしく映っている。

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彼のいた所からは見えなかったが、その仕掛ははね釣瓶つるべになっているらしく、汲みあげられて来る水は大きい木製の釣瓶おけに溢れ、樹々の緑がみずみずしく映っている。

たらいの方の女の人が待つそぶりをすると、釣瓶の方の女の人は水をあけた。

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盥の方の女の人が待つふりをすると、釣瓶の方の女の人は水をあけた。

たらいの水が躍り出して、水玉の虹が立つ。

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盥の水が躍り出して水玉の虹がたつ。

そこへも緑は影を映して、美しく洗われた花崗岩の畳石の上を、また女の人の素足の上を、水は豊かに流れる。

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そこへも緑は影を映して、美しく洗われた花崗岩かこうがんの畳石の上を、また女の人の素足の上を水は豊かに流れる。

うらやましい、すばらしく幸福そうな眺めだった。

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うらやましい、素晴すばらしく幸福そうな眺めだった。

涼しそうな緑の衝立の陰。

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涼しそうな緑の衝立の蔭。

たしかに澄んで冷たく、豊かな水。

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確かに清冽せいれつで豊かな水。

なんとなく魅せられた感じであった。

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なんとなく魅せられた感じであった。

きょうは青空よい天気

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きょうは青空よい天気

まえの家でも隣でも

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まえの家でも隣でも

水汲む洗う掛ける干す。

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む洗う掛ける干す。

国定教科書にあったのか小学唱歌にあったのか、少年の時に歌った歌の文句が思い出された。

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国定教科書にあったのか小学唱歌にあったのか、少年の時に歌った歌の文句がおもい出された。

その言葉には何の巧みさも感じられなかったけれど、彼が少年だった時代、その歌によって抱いた芯から朗らかな新鮮な想像が、思いがけず彼の胸に押し寄せた。

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その言葉には何のたくみも感ぜられなかったけれど、彼が少年だった時代、その歌によって抱いたしんに朗らかな新鮮な想像が、思いがけず彼の胸におし寄せた。

かあかあ烏が鳴いてゆく、

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かあかあからすが鳴いてゆく、

お寺の屋根へ、お宮の森へ、

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お寺の屋根へ、お宮の森へ、

かあかあ烏が鳴いてゆく。

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かあかあ烏が鳴いてゆく。

それには絵がついていた。

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それには画がついていた。

また「四方」

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また「四方」

とかいう題で、子供が朝日の方を向いて手を広げている図などの記憶が、次々に思い出されて来た。

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とかいう題で、子供が朝日の方を向いて手を拡げている図などの記憶が、次つぎ憶い出されて来た。

国定教科書の、肉筆めいた楷書の活字。

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国定教科書の肉筆めいた楷書の活字。

またなんという画家の手になったものか、角のないその字体と感じのまるで似た、子供といえば丸顔の優等生のような顔をしているといったふうの、挿絵のこと。

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またなんという画家の手に成ったものか、角のないその字体と感じのまるで似た、子供といえば円顔まるがおの優等生のような顔をしているといったふうの、挿画のこと。

「何とか権所有」

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「何とか権所有

それをゴンショユウと、人の前では読まなかったが、心のなかで仮にそう決めて読んでいたこと。

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それをゴンショユウと、人の前では読まなかったが、心のなかで仮にめて読んでいたこと。

その何とか権所有の、これもそう思えば国定教科書に似つかわしい、手紙の文例の宛名のような、人の名。

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そのなんとか権所有の、これもそう思えば国定教科書に似つかわしい、手紙の文例の宛名のような、人の名。

そんな奥付の様子までが思い出された。

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そんな奥付の有様までが憶い出された。

――少年の時には、その絵のとおりの所がどこかにあるような気がしていた。

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――少年の時にはその画のとおりの所がどこかにあるような気がしていた。

そうした単純に正直な子が、どこかにいるような気がしていた。

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そうした単純に正直ながどこかにいるような気がしていた。

彼にはそんなことが思われた。

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彼にはそんなことが思われた。

それらは、なにかその頃のあこがれの対象でもあった。

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それらはなにかその頃の憧憬の対象でもあった。

単純で、平明で、健康な世界。――

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単純で、平明で、健康な世界。――

今、その世界が彼の前にある。

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今その世界が彼の前にある。

思いもかけず、こんな田舎の緑の木陰に、その世界はもっと新鮮な形を備えて存在している。

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思いもかけず、こんな田舎の緑樹の蔭に、その世界はもっと新鮮な形をそなえて存在している。

そんな国定教科書風な感傷のなかに、彼は彼の営むべき生活が示されたような気がした。

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そんな国定教科書風な感傷のなかに、彼は彼の営むべき生活が示唆しさされたような気がした。

――食ってしまいたくなるような風景への愛着と、幼い時の回想や新しい生活の想像とで、彼の時どきの瞬間が燃えた。

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――食ってしまいたくなるような風景に対する愛着と、幼い時の回顧や新しい生活の想像とで彼の時どきの瞬間が燃えた。

また時どき、寝られない夜が来た。

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また時どき寝られない夜が来た。

寝られない夜のあとでは、ちょっとしたことにすぐ底熱い興奮が起きる。

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寝られない夜のあとでは、ちょっとしたことにすぐ底熱い昂奮が起きる。

その興奮がやむと、道端でもかまわずすぐ横になりたいような疲労が来る。

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その昂奮がやむと道端でもかまわないすぐ横になりたいような疲労が来る。

そんな興奮は、楓の肌を見てさえ起こった。――

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そんな昂奮はかえでの肌を見てさえ起こった。――

楓の木の肌が冷えていた。

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楓樹ふうじゅの肌が冷えていた。

城の本丸の、彼がいつも座るベンチの後ろでであった。

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城の本丸の彼がいつも坐るベンチの後ろでであった。

根元に松葉が落ちていた。

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根方に松葉が落ちていた。

その上を蟻が清らかに這っていた。

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その上をありが清らかにっていた。

冷たい楓の肌を見ていると、湿疹のようについている苔の模様が美しく見えた。

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冷たいかえでの肌を見ていると、ひぜんのようについているこけの模様が美しく見えた。

子供の時のござ遊びの記憶――ことに、その手ざわりが蘇った。

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子供の時の茣蓙ござ遊びの記憶――ことにその触感がよみがえった。

やはり楓の木の下である。

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やはり楓の樹の下である。

松葉が散って、蟻が這っている。

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松葉が散って蟻がっている。

地面にはでこぼこがある。

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地面にはでこぼこがある。

そんな上へござを敷いた。

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そんな上へ茣蓙ござを敷いた。

「子供というものは、たしかにあの土地のでこぼこを冷たいござの下に感じる足裏の感覚の快さを知っているものだ。そしてござを敷くやいなやすぐその上へ飛び込んで、着物ぐるみじかに地面の上へ転がれる自由を楽しんだりする」

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「子供というものは確かにあの土地のでこぼこを冷たい茣蓙の下に感じるあしうらの感覚の快さを知っているものだ。そして茣蓙を敷くやいなやすぐその上へ跳び込んで、着物ぐるみじかに地面の上へ転がれる自由を楽しんだりする」

そんなことを思いながら、彼はすぐにも頬ぺたを楓の肌につけて冷やしてみたいような衝動を感じた。

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そんなことを思いながら彼はすぐにも頬ぺたを楓の肌につけて冷やしてみたいような衝動を感じた。

「やはり疲れているのだな」

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「やはり疲れているのだな」

彼は手足が軽く熱を持っているのを知った。

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彼は手足が軽く熱を持っているのを知った。

「私はおまえにこんなものをやろうと思う。

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「私はおまえにこんなものをやろうと思う。

一つはゼリーだ。

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一つはゼリーだ。

ちょっとした人の足音にさえいくつもの波紋が起こり、風が吹いて来るとさざなみを立てる。

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ちょっとした人の足音にさえいくつもの波紋が起こり、風が吹いて来るとさざなみをたてる。

色は海の青色で――御覧、そのなかをいくつも魚が泳いでいる。

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色は海の青色で――御覧そのなかをいくつも魚が泳いでいる。

もう一つはカーテンだ。

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もう一つは窓掛けだ。

織物ではあるが、秋草が茂っている草むらになっている。

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織物ではあるが秋草が茂っているくさむらになっている。

またそこには見えないが、色づきかけた銀杏の木がその上に生えている気配。

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またそこには見えないが、色づきかけた銀杏いちょうの木がその上に生えている気持。

風が来ると草がざわめく。

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風が来ると草がさわぐ。

そして、御覧。

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そして、御覧。

尺取虫が枝から枝を這っている。

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尺取虫が枝から枝をっている。

この二つをおまえにあげる。

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この二つをおまえにあげる。

まだできあがらないから、待っているがいい。

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まだできあがらないから待っているがいい。

そしてつまらない時には、ふっと思い出してみるがいい。

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そして詰らない時には、ふっと思い出してみるがいい。

きっと愉快になるから。」

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きっと愉快になるから。」

彼はある日、葉書へそんなことを書いてしまった、もちろん遊びではあったが。

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彼はある日葉書へそんなことを書いてしまった、もちろん遊戯ではあったが。

そしてこの日頃の、昼となく夜となく時どきふと感じる気持ちのむずがゆさを、いくらかは吐き出せたような気がした。

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そしてこの日頃の昼となし夜となしに、時どきふと感じる気持のむずかゆさを幾分はかせたような気がした。

夜、静かに寝られないでいると、空を五位鷺が鳴いて通った。

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夜、静かに寝られないでいると、空を五位がいて通った。

ふとすると、その声が自分の体のどこかでしているように思われることがある。

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ふとするとその声が自分の身体のどこかでしているように思われることがある。

虫の鳴く声なども、変に部屋の中でのように聞こえる。

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虫の啼く声などもへんに部屋の中でのように聞こえる。

「ああ、来るな」

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「はあ、来るな」

と思っていると、得体の知れない気持ちが起こって来る。――

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と思っているとえたいの知れない気持が起こって来る。――

これはこの頃、眠れない夜のお決まりのコースであった。

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これはこの頃眠れない夜のおきまりのコースであった。

変な気持ちは、電灯を消し目をつぶっている彼の目の前へ、物が盛んに運動する気配を感じさせた。

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変な気持は、電燈を消し眼をつぶっている彼の眼の前へ、物が盛んに運動する気配を感じさせた。

膨大なものの気配が、見るうちに裏返って微塵ほどになる。

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厖大ぼうだいなものの気配が見るうちに裏返って微塵ほどになる。

たしかにどこかで触ったことのあるような、口へ含んだことのあるような運動である。

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確かどこかで触ったことのあるような、口へ含んだことのあるような運動である。

回転機のように絶えず回っているようで、寝ている自分の足の先あたりを想像すれば、途方もなく遠くにあるような気持ちに、すぐそれが巻き込まれてしまう。

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廻転機のように絶えず廻っているようで、寝ている自分の足の先あたりを想像すれば、途方もなく遠方にあるような気持にすぐそれが捲き込まれてしまう。

本などを読んでいると、時として字が小さく見えて来ることがあるが、その時の気持ちに少し似ている。

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本などを読んでいると時とすると字が小さく見えて来ることがあるが、その時の気持にすこし似ている。

ひどくなると一種の恐怖さえ伴って来て、目を閉じてはいられなくなる。

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ひどくなると一種の恐怖さえ伴って来て眼を閉いではいられなくなる。

彼はこの頃、それが妖術が使えそうになる気持ちだと思うことがあった。

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彼はこの頃それが妖術が使えそうになる気持だと思うことがあった。

それはこんな妖術であった。

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それはこんな妖術であった。

子供の時、弟と一緒に寝たりすると、彼はよくうつ伏せになって両手で垣を作りながら(それが牧場のつもりであった)

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子供の時、弟と一緒に寝たりなどすると、彼はよくうつっ伏せになって両手でかきを作りながら(それが牧場のつもりであった)

「芳雄君。この中に牛が見えるぞ」

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「芳雄君。この中に牛が見えるぜ」

と言いながら弟をだました。

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と言いながら弟をだました。

両手に囲まれて、顔で蓋をされた、敷布の上の暗闇のなかに、そう言えばたくさんの牛や馬の姿が想像されるのだった。――

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両手にかこまれて、顔でふたをされた、敷布の上の暗黒のなかに、そう言えばたくさんの牛や馬の姿が想像されるのだった。――

彼は今、そんなことはほんとうに可能だという気がした。

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彼は今そんなことはほんとうに可能だという気がした。

田園、平野、市街、市場、劇場。

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田園、平野、市街、市場、劇場。

船着場や海。

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船着場や海。

そういった広大な、人や車馬や船や生き物でちりばめられた光景が、どうかしてこの暗闇のなかへ現れてくれるといい。

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そう言った広大な、人や車馬や船や生物でちりばめられた光景が、どうかしてこの暗黒のなかへ現われてくれるといい。

そして、それが今にも見えて来そうだった。

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そしてそれが今にも見えて来そうだった。

耳にもその騒音が伝わって来るように思えた。

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耳にもその騒音が伝わって来るように思えた。

葉書へいたずら書きをした彼の気持ちも、その変てこなむずがゆさから来ているのだった。

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葉書へいたずら書きをした彼の気持も、その変てこなむずがゆさから来ているのだった。

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八月も終わりになった。

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八月も終わりになった。

信子は明日、市の学校の寄宿舎へ帰るらしかった。

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信子は明日市の学校の寄宿舎へ帰るらしかった。

指の傷が治ったので、天理様へお礼に行って来いと母に言われ、近所の人に連れられて、そのお礼も済ませて来た。

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指の傷がなおったので、天理様へ御礼に行って来いと母に言われ、近所の人に連れられて、そのお礼も済ませて来た。

その人が、この近所では最も熱心な信者だった。

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その人がこの近所では最も熱心な信者だった。

「荷札は?」

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「荷札は?」

信子の大きな行李を縛ってやっていた兄がそう言った。

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信子の大きな行李こうりを縛ってやっていた兄がそう言った。

「何を立って見とるのや」

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「何を立って見とるのや」

兄が怒ったようにからかうと、信子は笑いながら捜しに行った。

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兄が怒ったようにからかうと、信子は笑いながら捜しに行った。

「ないわ」

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「ないわ」

信子がそう言って帰って来た。

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信子がそんなに言って帰って来た。

「カフスの古いので作ったら……」

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「カフスの古いので作ったら……」

と彼が言うと、兄は

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と彼が言うと、兄は

「いや、まだたくさんあったはずや。あの引き出し見たか」

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「いや、まだたくさんあったはずや。あの抽出ひきだし見たか」

信子は見たと言った。

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信子は見たと言った。

「勝子がまたしまい込んどるんやないかいな。いっぺん見てみ」

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「勝子がまたしまい込んどるんやないかいな。いっぺん見てみ」

兄がそう言って笑った。

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兄がそんなに言って笑った。

勝子は自分の引き出しへ、ごくつまらないものまで拾って来てはしまい込んでいた。

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勝子は自分の抽出しへごく下らないものまで拾って来ては蔵い込んでいた。

「荷札ならここや」

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「荷札ならここや」

母がそう言って、それ見たかというような軽い笑顔をしながら持って来た。

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母がそう言って、それ見たかというような軽い笑顔をしながら持って来た。

「やっぱり年寄りがおらんとあかんて」

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「やっぱり年寄がおらんとあかんて」

兄はそんな情愛の込もったことを言った。

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兄はそんな情愛のこもったことを言った。

晩には母が豆を煎っていた。

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晩には母が豆をっていた。

「峻さん。あんたにこんなのはどうですな」

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たかしさん。あんたにこんなのはどうですな」

そう言って、煎り上げたのを彼の方へ寄せた。

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そんなに言って煎りあげたのを彼の方へ寄せた。

「信子が寄宿舎へ持って帰るお土産です。一升ほど持って帰っても、すぐにぺろっと無くなるのやそうで……」

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「信子が寄宿舎へ持って帰るお土産みやげです。一升ほど持って帰っても、じきにぺろっと失くなるのやそうで……」

峻が話を聞きながら豆を噛んでいると、裏口で音がして信子が帰って来た。

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峻が語を聴きながら豆をんでいると、裏口で音がして信子が帰って来た。

「貸してくれはったか」

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「貸してくれはったか」

「はい。裏へ置いといた」

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「はあ。裏へおいといた」

「雨が降るかもしれんで、ずっとなかへ引き込んでおいで」

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「雨が降るかもしれんで、ずっとなかへ引き込んでおいで」

「はい。引き込んである」

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「はあ。ひき込んである」

「吉峰さんのおばさんが、あしたお帰りですかって……」

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「吉峰さんのおばさんがあしたお帰りですかて……」

信子は何かおかしそうに言葉を途切らせた。

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信子は何かおかしそうに言葉を杜断とぎらせた。

「あしたお帰りですかって?」

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「あしたお帰りですかて?」

母が聞き返した。

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母が聞きかえした。

吉峰さんのおばさんに「いつお帰りです。あしたお帰りですか」

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吉峰さんのおばさんに「いつお帰りです。あしたお帰りですか」

と訊かれて、信子がまごついて「ええ、あしたお帰りです」

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かれて、信子が間誤まごついて「ええ、あしたお帰りです」

と言ったという話だった。

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と言ったという話だった。

母や彼が笑うと、信子は少し顔を赤くした。

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母や彼が笑うと、信子は少し顔をあかくした。

借りて来たのは乳母車だった。

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借りて来たのは乳母車だった。

「明日一番で発つのを、行李を乗せて停車場まで送って行ってやります」

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「明日一番で立つのを、行李乗せて停車場まで送っててやります」

母がそう言ってわけを話した。

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母がそんなに言ってわけを話した。

大変だな、と彼は思っていた。

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大変だな、と彼は思っていた。

「勝子も行くって?」

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「勝子も行くて?」

信子が訊くと、

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信子がくと、

「行くのやと言うて、今夜は早うからおやすみや」

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「行くのやと言うて、今夜は早うからおやすみや」

と母が言った。

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と母が言った。

彼は、朝も早いのに荷物を出すなんて面倒だから、今夜のうちに切符を買って、先に手荷物で送ってしまったらいいと思って、

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彼は、朝も早いのに荷物を出すなんて面倒だから、今夜のうちに切符を買って、先へ手荷物で送ってしまったらいいと思って、

「僕、今から持って行って来ましょうか」

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「僕、今から持って行って来ましょうか」

と言ってみた。

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と言ってみた。

一つには、彼自身が体裁屋なので、年頃の信子の気持ちを先回りしたつもりであった。

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一つには、彼自身体裁屋なので、年頃の信子の気持を先廻りしたつもりであった。

しかし母と信子があまり「かまわない、かまわない」

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しかし母と信子があまり「かまわない、かまわない」

と言うので、あちらまかせにしてしまった。

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と言うのであちらまかせにしてしまった。

母と娘と姪が、夏の朝の明け方を三人で、一人は乳母車を押し、一人は旅装をした一人に手を引かれ、停車場へ向かってゆく、その出発を彼は心に浮かべてみた。

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母と娘とめいが、夏の朝の明け方を三人で、一人は乳母車をおし、一人はいでたちをした一人に手をかれ、停車場へ向かってゆく、その出発を彼は心に浮かべてみた。

美しかった。

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美しかった。

「お互いの心の中で、そうした出発の楽しさをあてにしているのじゃなかろうか」

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「お互いの心の中でそうした出発の楽しさをあてにしているのじゃなかろうか」

そして彼は、心が清く洗われるのを感じた。

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そして彼は心が清く洗われるのを感じた。

夜は、その夜も眠りにくかった。

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夜はその夜も眠りにくかった。

十二時頃、夕立がした。

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十二時頃夕立がした。

その続きを、彼は心待ちにして寝ていた。

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その続きを彼は心待ちに寝ていた。

しばらくすると、それが遠くからまた歩み寄せて来る音がした。

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しばらくするとそれが遠くからまた歩み寄せて来る音がした。

虫の声が雨の音に変わった。

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虫の声が雨の音に変わった。

ひとしきりすると、それはまた町の方へ過ぎて行った。

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ひとしきりするとそれはまた町の方へ過ぎて行った。

蚊帳をまくって起きて出、雨戸を一枚繰った。

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蚊帳をまくって起きて出、雨戸を一枚繰った。

城の本丸に電灯が輝いていた。

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城の本丸に電燈が輝いていた。

雨につやを得た木の葉が、その灯の下で数知れない魚の鱗のような光を放っていた。

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雨に光沢を得た樹の葉がその灯の下で数知れない魚鱗ぎょりんのような光を放っていた。

また夕立が来た。

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また夕立が来た。

彼は敷居の上へ腰をかけ、雨で足を冷やした。

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彼はしきいの上へ腰をかけ、雨で足を冷やした。

目の下の長屋の一軒の戸が開いて、寝間着姿の若い女がポンプへ水を汲みに来た。

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眼の下の長屋の一軒の戸が開いて、ねまき姿の若い女が喞筒ポンプへ水を汲みに来た。

雨脚が強くなって、樋がごくりごくり喉を鳴らし出した。

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雨の脚が強くなって、とゆがごくりごくり喉を鳴らし出した。

気がつくと、白い猫が一匹、よその家の軒下をわたって行った。

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気がつくと、白い猫が一匹、よその家の軒下をわたって行った。

信子の着物が物干し竿にかかったまま、雨の中にあった。

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信子の着物が物干竿にかかったまま雨の中にあった。

筒袖の、普段着ていた浴衣で、彼の一番目に慣れた着物だった。

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筒袖の、平常着ていたゆかたで彼の一番眼に慣れた着物だった。

そのせいか、見ていると不思議なくらい信子の体つきが目に浮かんだ。

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その故か、見ていると不思議なくらい信子の身体つきが髣髴ほうふつとした。

夕立はまた町の方へ行ってしまった。

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夕立はまた町の方へ行ってしまった。

遠くでその音がしている。

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遠くでその音がしている。

「チン、チン」

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「チン、チン」

「チン、チン」

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「チン、チン」

鳴き出したこおろぎの声にまじって、きめの細かい玉を硬い金属ではじくような虫も鳴き出した。

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鳴きだしたこおろぎの声にまじって、質の緻密な玉を硬度の高い金属ではじくような虫も鳴き出した。

彼はまだ熱い額を感じながら、城を越えてもう一つ夕立が来るのを待っていた。

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彼はまだ熱い額を感じながら、城を越えてもう一つ夕立が来るのを待っていた。