城のある町にて 小学生向け
梶井基次郎(かじいもとじろう)・1972年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-28)
ある午後のことだった。
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ある午後
「高いところからのながめは、ああっ(とせきをして)、やっぱり格別ですなあ」
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「高いとこの眺めは、アアッ(と咳をして)また格段でごわすな」
片手に洋傘(こうもり・こうもりがさ)、もう片方の手には扇子(せんす)と手ぬぐいを持っている。
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片手に洋傘、片手に扇子と日本手拭を持っている。
頭がきれいにはげていて、カンカン帽子(麦わらでできた丸い帽子)をかぶっているのが、まるでせん(びんのふた)をはめたように見える。――
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頭が奇麗に禿げていて、カンカン帽子を冠っているのが、まるで栓をはめたように見える。――
そんな老人が明るい調子でそう言うと、峻(たかし)のそばを通りすぎて歩いて行った。
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そんな老人が朗らかにそう言い捨てたまま峻の脇を歩いて行った。
そう言ってもこちらをふり向くこともなく、目はやはり遠いながめに向けたまま、いかにも「やれやれ」といった様子で、石垣のはし(はな)にあるベンチにこしをかけた。――
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言っておいてこちらを振り向くでもなく、眼はやはり遠い眺望へ向けたままで、さもやれやれといったふうに石垣のはなのベンチへ腰をかけた。――
町をはなれてから二里(にり・約八キロメートル)ほどの間は、平らな緑がつづいている。
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町を外れてまだ二里ほどの間は平坦な緑。
I湾の濃い藍色(あいいろ)が、そのむこうに広がっている。
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I湾の濃い藍が、それのかなたに拡がっている。
すそのぼやけた、全体もはっきりしない入道雲(にゅうどうぐも)が、水平線の上に静かにうずくまるように浮かんでいる。――
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裾のぼやけた、そして全体もあまりかっきりしない入道雲が水平線の上に静かに蟠っている。――
「ああ、そうですね」
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「ああ、そうですな」
少しまごつきながらそう答えたときの、自分の声の後味が、まだのどや耳のあたりに残っているような気がした。そのときの自分と、今の自分とが、なんだかしっくりこなかった。
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少し間誤つきながらそう答えた時の自分の声の後味がまだ喉や耳のあたりに残っているような気がされて、その時の自分と今の自分とが変にそぐわなかった。
何のこだわりも知らないようなその老人への好意をほおに感じたまま、峻(たかし)はまた、さっきの静かなながめの中へ吸いこまれていった。――
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なんの拘りもしらないようなその老人に対する好意が頬に刻まれたまま、峻はまた先ほどの静かな展望のなかへ吸い込まれていった。――
風が少し吹いていた。午後だった。
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風がすこし吹いて、午後であった。
ひとつには、いちばんかわいい時期に死なせてしまった妹のことを、落ちついて考えてみたいという若者らしい思いから、妹が死んでからまだ三十五日目の法要(五七日)もすんでいない頃に、峻(たかし)は家を出て、この土地に住む姉の家へやって来ていた。
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一つには、可愛い盛りで死なせた妹のことを落ちついて考えてみたいという若者めいた感慨から、峻はまだ五七日を出ない頃の家を出てこの地の姉の家へやって来た。
ぼんやりしていて、それがよその子の泣き声だと気づくまで、死んだ妹の声のような気がしていた。
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ぼんやりしていて、それが他所の子の泣声だと気がつくまで、死んだ妹の声の気持がしていた。
「誰だ。暑いのに、泣かせたりなんかして」
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「誰だ。暑いのに泣かせたりなんぞして」
そんなことまで思ってしまう。
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そんなことまで思っている。
妹が息を引き取ったときよりも、火葬場でのときよりも、知らない土地へ来てこんな経験をするときの方が、「失った」
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彼女がこと切れた時よりも、火葬場での時よりも、変わった土地へ来てするこんな経験の方に「失った」
という思いが強く胸にきざまれた。
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という思いは強く刻まれた。
「たくさんの虫が、一匹の死にかけている虫の周りに集まって、悲しんだり泣いたりしている」
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「たくさんの虫が、一匹の死にかけている虫の周囲に集まって、悲しんだり泣いたりしている」
と友人への手紙に書いたような、妹の死の前後の苦しい出来事が、ようやく薄いベール(面紗)の向こうにあるように感じられるようになったのも、この土地へ来てからのことだった。
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と友人に書いたような、彼女の死の前後の苦しい経験がやっと薄い面紗のあちらに感ぜられるようになったのもこの土地へ来てからであった。
そしてその思いにも落ちつき、新しいまわりの様子にも心がなじんでくるにつれて、峻(たかし)には、めずらしく静かな気持ちがやってくるようになった。
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そしてその思いにも落ちつき、新しい周囲にも心が馴染んで来るにしたがって、峻には珍しく静かな心持がやって来るようになった。
いつも都会にくらしなれていて、とくに最近は心が休まるひまもなかったので、彼はこの静けさの中で、いっそうつつしみ深い気持ちになった。
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いつも都会に住み慣れ、ことに最近は心の休む隙もなかった後で、彼はなおさらこの静けさの中でうやうやしくなった。
道を歩くときも、できるだけ疲れないように気をつける。
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道を歩くのにもできるだけ疲れないように心掛ける。
とげを一つも立てないようにしよう。
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棘一つ立てないようにしよう。
指を一本もはさまないようにしよう。
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指一本詰めないようにしよう。
ほんのささいなことが、その日の幸せを左右する。――
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ほんの些細なことがその日の幸福を左右する。――
迷信に近いほど、そんなふうに思えた。
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迷信に近いほどそんなことが思われた。
そして、日照り(ひでり)の多かった夏にも、雨が一度、二度とふり、それがやむたびに、少し秋らしいものが肌にふれるような気候になってきた。
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そして旱の多かった夏にも雨が一度来、二度来、それがあがるたびごとにやや秋めいたものが肌に触れるように気候もなって来た。
そうした心の静けさと、かすかな秋の気配(けはい)は、彼を部屋の中の本や空想の中に閉じこめてはおかなかった。
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そうした心の静けさとかすかな秋の先駆は、彼を部屋の中の書物や妄想にひきとめてはおかなかった。
草や虫や雲や景色を目の前に見つめて、ひそかにおさえてきた心を燃えさせること――ただそのことだけが、やりがいのあることのように峻(たかし)には思えた。
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草や虫や雲や風景を眼の前へ据えて、ひそかに抑えて来た心を燃えさせる、――ただそのことだけが仕甲斐のあることのように峻には思えた。
「家の近くにお城のあとがありまして、峻の散歩にはちょうどよいと思います」
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「家の近所にお城跡がありまして峻の散歩にはちょうど良いと思います」
姉が、彼の母のところへ送った手紙に、こんなことが書いてあった。
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姉が彼の母のもとへ寄来した手紙にこんなことが書いてあった。
着いた次の日の夜。
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着いた翌日の夜。
義理の兄(ぎけい)と姉と、その娘、そして峻の四人で、はじめてこの城あとへ登った。
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義兄と姉とその娘と四人ではじめてこの城跡へ登った。
日照り(ひでり)のせいで、うんか(稲につく小さな害虫)がたくさん田んぼにわいたのを、除虫灯(じょちゅうとう・虫を集めて殺すあかり)で殺している。
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旱のためうんかがたくさん田に湧いたのを除虫燈で殺している。
それも、あと二、三日で終わるというので、それを見に登ったのだった。
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それがもうあと二三日だからというので、それを見にあがったのだった。
平野は、見わたすかぎり除虫灯の海だった。
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平野は見渡す限り除虫燈の海だった。
遠くのものは、星のようにまたたいている。
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遠くになると星のように瞬いている。
山のあいだ(峡間)がぼうっと照らされて、そこから大きな川のように光が流れ出ているところもあった。
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山の峡間がぼうと照らされて、そこから大河のように流れ出ている所もあった。
彼はそのめずらしい光景にこうふん(興奮)して、涙ぐんだ。
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彼はその異常な光景に昂奮して涙ぐんだ。
風のない夜で、すずみながら見物に来る町の人たちで、城あとはにぎわっていた。
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風のない夜で涼みかたがた見物に来る町の人びとで城跡は賑わっていた。
暗やみの中から、おしろいを厚くぬった町の娘たちが、はしゃいだ目を光らせた。
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暗のなかから白粉を厚く塗った町の娘達がはしゃいだ眼を光らせた。
今、空は悲しいほどよく晴れていた。
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今、空は悲しいまで晴れていた。
そしてその下に、町は屋根がわら(甍)をならべていた。
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そしてその下に町は甍を並べていた。
白いかべ(白堊)の小学校。
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白堊の小学校。
土蔵(どぞう)づくりの銀行。
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土蔵作りの銀行。
寺の屋根。
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寺の屋根。
そしてあちこちに、西洋菓子の箱づめの中に入っているカンナくずのように、緑色の植物が家々の間からもえ出ている。
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そしてそこここ、西洋菓子の間に詰めてあるカンナ屑めいて、緑色の植物が家々の間から萌え出ている。
ある家の裏には、バショウ(大きな葉の植物)の葉が垂れている。
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ある家の裏には芭蕉の葉が垂れている。
糸杉(いとすぎ)の巻きあがった葉も見える。
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糸杉の巻きあがった葉も見える。
重ねた綿(わた)のような形に刈られた松も見える。
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重ね綿のような恰好に刈られた松も見える。
どれも、黒ずんだ下の葉と新しい若葉とで、気持ちのよい緑色のかたまりを作っている。
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みな黝んだ下葉と新しい若葉で、いいふうな緑色の容積を造っている。
遠くに赤いポストが見える。
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遠くに赤いポストが見える。
「乳母車(うばぐるま)なんとか」と白いペンキで書かれた屋根が見える。
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乳母車なんとかと白くペンキで書いた屋根が見える。
日光をうけて、赤い布をはった張物板(洗った布を張ってかわかす板)が、屋根がわらの間に小さく見える。――
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日をうけて赤い切地を張った張物板が、小さく屋根瓦の間に見える。――
夜になると、明かりのついた町の大通りを、自転車でやって来た村の若者たちが、大勢連れで遊廓(ゆうかく・遊びの町)の方へ走ってゆく。
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夜になると火の点いた町の大通りを、自転車でやって来た村の青年達が、大勢連れで遊廓の方へ乗ってゆく。
店の若い店員たちも浴衣(ゆかた)すがたで、昼に見るときとはまるでちがう様子で身体をくねらせながら、おしろいをぬった女の人をからかってゆく。――
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店の若い衆なども浴衣がけで、昼見る時とはまるで異ったふうに身体をくねらせながら、白粉を塗った女をからかってゆく。――
そういう町の様子も、今は屋根がわらの間にはさまれてしまって、そのあたりにのぼり(旗)をたくさん立てた芝居小屋があることで、それとわかるだけだった。
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そうした町も今は屋根瓦の間へ挾まれてしまって、そのあたりに幟をたくさん立てて芝居小屋がそれと察しられるばかりである。
西日をさけるために、一階も二階も三階も、西がわの窓を全部日おおい(日よけ)でおおった旅館が、やや近くに見えた。
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西日を除けて、一階も二階も三階も、西の窓すっかり日覆をした旅館がやや近くに見えた。
どこからか材木をたたく音が――もともとそれほど高い音でもないらしかったが、町の空へ「カーン、カーン」
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どこからか材木を叩く音が――もともと高くもない音らしかったが、町の空へ「カーン、カーン」
とひびいた。
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と反響した。
次から次へ、止まるひまもなく、つくつくぼうしが鳴いた。
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次つぎ止まるひまなしにつくつく法師が鳴いた。
「文法の語尾変化の練習をしているようだな」
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「文法の語尾の変化をやっているようだな」
ふとそんなふうに思ってみると、聞いているうちに、不思議とおもしろくなってきた。
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ふとそんなに思ってみて、聞いていると不思議に興が乗って来た。
「チュクチュクチュク」
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「チュクチュクチュク」
とはじめて、「オーシ、チュクチュク」
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と始めて「オーシ、チュクチュク」
をくり返す。そのうちにそれが「チュクチュク、オーシ」
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を繰り返す、そのうちにそれが「チュクチュク、オーシ」
になったり、「オーシ、チュクチュク」
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になったり「オーシ、チュクチュク」
にもどったりして、しまいには「スットコチーヨ」
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にもどったりして、しまいに「スットコチーヨ」
「スットコチーヨ」
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「スットコチーヨ」
になって、「ジー」
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になって「ジー」
と鳴きやんでしまう。
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と鳴きやんでしまう。
とちゅうで、横から「チュクチュク」
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中途に横から「チュクチュク」
とはじめるものが出てくる。
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とはじめるのが出て来る。
すると、また別の一つは「スットコチーヨ」
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するとまた一つのは「スットコチーヨ」
を終えて「ジー」
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を終わって「ジー」
に移りかけている。
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に移りかけている。
三重、四重、五重にも六重にも重なって鳴いている。
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三重四重、五重にも六重にも重なって鳴いている。
峻(たかし)はこの間、やはりこの城あとの中にある神社(社)の桜の木で、法師蝉(ほうしぜみ・つくつくぼうしのこと)が鳴くのを、三十センチほどの近くで見た。
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峻はこの間、やはりこの城跡のなかにある社の桜の木で法師蝉が鳴くのを、一尺ほどの間近で見た。
きゃしゃな骨に、石けん玉のようなうすい羽根をはった、体の小さな昆虫が、よくあんな高い音を出せるものだと、おどろきながら見ていた。
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華車な骨に石鹸玉のような薄い羽根を張った、身体の小さい昆虫に、よくあんな高い音が出せるものだと、驚きながら見ていた。
その高い音と関係があるとすれば、それはただ、おなかからしっぽにかけての、のび縮みだけだった。
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その高い音と関係があると言えば、ただその腹から尻尾へかけての伸縮であった。
細かい毛がびっしり生えた、節(ふし)のあるその部分は、まるでエンジンの部品のような正確さで動いていた。――
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柔毛の密生している、節を持った、その部分は、まるでエンジンのある部分のような正確さで動いていた。――
そのときの姿が思い出せた。
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その時の恰好が思い出せた。
おなかからしっぽにかけての、ぷりっとしたふくらみ。
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腹から尻尾へかけてのブリッとした膨らみ。
すみずみまで力ではちきれそうな、のび縮み。――
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隅ずみまで力ではち切ったような伸び縮み。――
そしてふと、蝉一匹の命が、この上なくもったいないものだという気持ちにおそわれた。
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そしてふと蝉一匹の生物が無上にもったいないものだという気持に打たれた。
時どき、さっきの老人のようにやって来てはすずんで、景色をながめては、また立ち去ってゆく人がいた。
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時どき、先ほどの老人のようにやって来ては涼をいれ、景色を眺めてはまた立ってゆく人があった。
峻(たかし)がここへ来るときによく見かける、あずまや(亭)の中で昼寝をしたり海をながめたりする人が、また来ていて、今日は子守りの娘と親しそうに話をしている。
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峻がここへ来る時によく見る、亭の中で昼寝をしたり海を眺めたりする人がまた来ていて、今日は子守娘と親しそうに話をしている。
せみ取りざおを持った子どもが、あちこち歩き回っている。
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蝉取竿を持った子供があちこちする。
虫かごを持たされた子は、時どき立ち止まってはかごの中を見て、またさおの方を見ては、小走りについてゆく。
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虫籠を持たされた児は、時どき立ち留まっては籠の中を見、また竿の方を見ては小走りに随いてゆく。
何も言わないのに、なんだか芝居のようなおもしろさが感じられる。
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物を言わないでいて変に芝居のようなおもしろさが感じられる。
また向こうでは、女の子たちが米つきばった(はねると米をつくような動きをするばった)をつかまえては、「ねぎさん米つけ、何とか何とか」
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またあちらでは女の子達が米つきばったを捕えては、「ねぎさん米つけ、何とか何とか」
と言いながら、米をつかせている。
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と言いながら米をつかせている。
「ねぎさん」というのは、この土地の言葉で神主(かんぬし)のことを言うのだった。
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ねぎさんというのはこの土地の言葉で神主のことを言うのである。
峻(たかし)には、おだやかそうな長い顔の先に、短い二本の触角(しょっかく)を持った、そう思えばいかにも神主らしいばったが、女の子に後ろ足をつままれて身動きできないまま米をつく、その姿がのんきなものに思えた。
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峻は善良な長い顔の先に短い二本の触覚を持った、そう思えばいかにも神主めいたばったが、女の子に後脚を持たれて身動きのならないままに米をつくその恰好が呑気なものに思い浮かんだ。
女の子が追いかける草の中から、ばったは二本の足をのばし、日の光を羽根いっぱいに受けながら、何匹も飛び出した。
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女の子が追いかける草のなかを、ばったは二本の脚を伸ばし、日の光を羽根一ぱいに負いながら、何匹も飛び出した。
時どき、煙をはく煙突があって、田や野原はその辺りから開けていた。
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時どき烟を吐く煙突があって、田野はその辺りから展けていた。
レンブラント(画家の名前)のデッサンのような風景が、あちこちに散らばっている。
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レンブラントの素描めいた風景が散らばっている。
黒ずんだ木立。
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黝い木立。
百姓家(ひゃくしょうや・農家)。
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百姓家。
街道。
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街道。
そして青田の中に、色あせた赤茶色(褪赭)のれんがの煙突。
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そして青田のなかに褪赭の煉瓦の煙突。
小さな軽便鉄道(けいべんてつどう・小型の汽車)が、海の方からやって来る。
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小さい軽便が海の方からやって来る。
海から上がってきた風は、軽便鉄道の煙を、陸の方へ、汽車の走る方へ、吹きなびかせる。
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海からあがって来た風は軽便の煙を陸の方へ、その走る方へ吹きなびける。
見ていると、それは煙のようではなく、煙の形をそのまま固定して、おもちゃの汽車が走っているように見える。
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見ていると煙のようではなくて、煙の形を逆に固定したまま玩具の汽車が走っているようである。
サササッと、日がかげる。
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ササササと日が翳る。
景色の色あいが、見る見るうちに変わってゆく。
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風景の顔色が見る見る変わってゆく。
遠く、海岸にそって斜めに入りこんだ入江(いりえ)が見えた。――
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遠く海岸に沿って斜に入り込んだ入江が見えた。――
峻(たかし)は、この城あとへ登るたびに、何度もその入江を見るのがくせになっていた。
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峻はこの城跡へ登るたび、幾度となくその入江を見るのが癖になっていた。
海岸にしては大きな立ち木が、ところどころ茂っている。
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海岸にしては大きい立木が所どころ繁っている。
その陰から、ちょっぴり人家の屋根がのぞいている。
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その蔭にちょっぴり人家の屋根が覗いている。
そして入江には、舟がつながれている感じがした。
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そして入江には舟が舫っている気持。
それは、ただそれだけのながめだった。
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それはただそれだけの眺めであった。
どこといって、特別心を引かれるようなところはなかった。
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どこを取り立てて特別心を惹くようなところはなかった。
それなのに、なぜか心が引かれた。
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それでいて変に心が惹かれた。
何かある。
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なにかある。
本当に、何かがそこにある。
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ほんとうになにかがそこにある。
そう言って、その気持ちを口に出してみると、もううそっぽいものになってしまう。
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と言ってその気持を口に出せば、もう空ぞらしいものになってしまう。
たとえばそれを、理由のないうすい憧れ(あこがれ)のような気持ち、と名づけてみようか。
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たとえばそれを故のない淡い憧憬と言ったふうの気持、と名づけてみようか。
誰かが「そうじゃないか」
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誰かが「そうじゃないか」
とたずねてくれたとしたら、彼はその名づけ方にさんせいしたかもしれない。
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と尋ねてくれたとすれば彼はその名づけ方に賛成したかもしれない。
しかし自分では「まだ何か」
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しかし自分では「まだなにか」
という気持ちがする。
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という気持がする。
人種のちがう人たちが住んでいて、この世からはなれたくらしをしている。――
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人種の異ったような人びとが住んでいて、この世と離れた生活を営んでいる。――
そんな場所にも思える。
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そんなような所にも思える。
とはいえ、それはあまりにおとぎ話めいていて、しっくりこないところがある。
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とはいえそれはあまりお伽話めかした、ぴったりしないところがある。
何か外国の絵で、あそこに似たところがえがかれていたのを思い出せないせいではないかとも思ってみる。
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なにか外国の画で、あそこに似た所が描いてあったのが思い出せないためではないかとも思ってみる。
それには、コンスタブル(イギリスの画家)の絵を一枚、思い出している。
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それにはコンステイブルの画を一枚思い出している。
やはり、それでもない。
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やはりそれでもない。
では、いったい何だろうか。
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ではいったい何だろうか。
このパノラマ(見わたすようなながめ)風の景色は、何であっても、ある種の美しさをそえるものである。
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このパノラマ風の眺めは何に限らず一種の美しさを添えるものである。
しかし、入江のながめは、それ以上のものだった。
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しかし入江の眺めはそれに過ぎていた。
そこだけは、いきいきとした気配(けはい)が満ちていた。
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そこに限って気韻が生動している。
そんなふうに思えた。――
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そんなふうに思えた。――
空が秋らしく青くすんだ日には、海はその青よりも少しあたたかい深い青色に見えた。
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空が秋らしく青空に澄む日には、海はその青よりやや温い深青に映った。
白い雲があるときは、海も白く光って見えた。
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白い雲がある時は海も白く光って見えた。
今日は、先ほどの入道雲が水平線の上に広がって、ザボン(果物の一種)の内側の皮のような色をしていて、海も入江のすぐ近くまで、その色に見えていた。
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今日は先ほどの入道雲が水平線の上へ拡がってザボンの内皮の色がして、海も入江の真近までその色に映っていた。
今日も入江は、いつものようになぞをかくして静まっていた。
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今日も入江はいつものように謎をかくして静まっていた。
見ていると、けもののように、この城のはしから、悲しいうなり声を出してみたいような気持ちになるのも同じだった。
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見ていると、獣のようにこの城のはなから悲しい唸声を出してみたいような気になるのも同じであった。
息苦しいほど、ふしぎなものに思えた。
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息苦しいほど妙なものに思えた。
夢の中でふしぎな場所へ行っていて、「ここには来たおぼえがある」と思っている。――
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夢で不思議な所へ行っていて、ここは来た覚えがあると思っている。――
ちょうどそれに似た気持ちで、よくわからない思い出がわいてくる。
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ちょうどそれに似た気持で、えたいの知れない想い出が湧いて来る。
「ああ、こんな日の、こんなひととき」
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「ああかかる日のかかるひととき」
「ああ、こんな日の、こんなひととき」
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「ああかかる日のかかるひととき」
いつ用意したとも知れない、そんな言葉が、ひらひらと心にひらめいた。――
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いつ用意したとも知れないそんな言葉が、ひらひらとひらめいた。――
「ハリケンハッチのオートバイ」
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「ハリケンハッチのオートバイ」
「ハリケンハッチのオートバイ」
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「ハリケンハッチのオートバイ」
先ほどの女の子らしい声が、峻(たかし)の足の下で、次から次へと高くひびいた。
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先ほどの女の子らしい声が峻の足の下で次つぎに高く響いた。
丸の内の街道を通ってゆくらしい、オートバイ(自動自転車)のばく音が聞こえていた。
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丸の内の街道を通ってゆくらしい自動自転車の爆音がきこえていた。
この町にいる、ある医者がそれに乗って帰ってくる時刻だった。
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この町のある医者がそれに乗って帰って来る時刻であった。
そのばく音を聞くと、峻の家の近所にいる女の子たちは、われ先にと「ハリケンハッチのオートバイ」
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その爆音を聞くと峻の家の近所にいる女の子は我勝ちに「ハリケンハッチのオートバイ」
とさけぶ。
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と叫ぶ。
「オートバ」
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「オートバ」
と言っている子もいる。
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と言っている児もある。
三階の旅館は、いつの間にか日おおいを外していた。
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三階の旅館は日覆をいつの間にか外した。
遠くの物干し台の赤い張物板も、もう見つからなくなった。
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遠い物干台の赤い張物板ももう見つからなくなった。
町の屋根からは、煙。
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町の屋根からは煙。
遠くの山からは、ひぐらし(蝉の一種)の声。
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遠い山からは蜩。
手品と花火
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手品と花火
これはまた、別の日のことだった。
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これはまた別の日。
夕飯とお風呂をすませて、峻(たかし)は城あとへ登った。
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夕飯と風呂を済ませて峻は城へ登った。
夕方うすぐらい空に、時どき、何キロもはなれた町であげている花火が見えた。
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薄暮の空に、時どき、数里離れた市で花火をあげるのが見えた。
気がつくと、綿でつつんだような、かすかな音がしている。
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気がつくと綿で包んだような音がかすかにしている。
それは遠くから聞こえるので、少しずれたタイミングで鳴った。
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それが遠いので間の抜けた時に鳴った。
いいものを見ている、と彼は思っていた。
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いいものを見る、と彼は思っていた。
そこへ、十七歳くらいをかしら(一番年上)にした、三人連れの男の子が来た。
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ところへ十七ほどを頭に三人連れの男の児が来た。
これも、食事のあとのすずみらしかった。
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これも食後の涼みらしかった。
峻に気をつかっているのか、静かに話をしている。
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峻に気を兼ねてか静かに話をしている。
口で花火のことを教えるのも気が引けたので、彼はわざと花火の上がる方を、熱心に見ているふりをした。
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口で教えるのにも気がひけたので、彼はわざと花火のあがる方を熱心なふりをして見ていた。
はるか遠くまで見わたせる景色の中で、花火は星くらげ(クラゲのように光る星)ほどの明るさで光っては消えた。
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末遠いパノラマのなかで、花火は星水母ほどのさやけさに光っては消えた。
海はくれかけていたが、そちらの方角には、まだ明るさが残っていた。
原文を見る
海は暮れかけていたが、その方はまだ明るみが残っていた。
しばらくすると、少年たちもそれに気がついた。
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しばらくすると少年達もそれに気がついた。
彼は心の中で、うれしく思った。
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彼は心の中で喜んだ。
「四十九」
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「四十九」
「ああ、四十九」
原文を見る
「ああ。四十九」
そんなことを言い合いながら、花火が一度上がってから、次に上がるまでの時間を数えている。
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そんなことを言いあいながら、一度あがって次あがるまでの時間を数えている。
彼はその話を、聞くともなく聞いていた。
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彼はそれらの会話をきくともなしに聞いていた。
「〇〇ちゃん。花は?」
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「××ちゃん。花は」
「フロラ」
原文を見る
「フロラ」
一番年上の子が、そんなふうに答えている。――
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一番年のいったのがそんなに答えている。――
城でのその様子を思い出しながら、彼は家へ帰ってきた。
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城でのそれを憶い出しながら、彼は家へ帰って来た。
家の近くまで来ると、隣の家の人が峻(たかし)の顔を見た。
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家の近くまで来ると、隣家の人が峻の顔を見た。
そしてあわてたように、
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そして慌てたように
「帰ってきなさいましたよ」
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「帰っておいでなしたぞな」
と、家の中へ言い入れた。
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と家へ言い入れた。
手品(奇術)が何とか座という劇場でかかっているのを見に行こうかと話していたところ、峻がふらっと出かけてしまったので、みんなが心配してさわいでいたのだった。
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奇術が何とか座にかかっているのを見にゆこうかと言っていたのを、峻がぽっと出てしまったので騒いでいたのである。
「ああ、どうも」
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「あ。どうも」
と言うと、義理の兄(義兄)は笑いながら、
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と言うと、義兄は笑いながら
「はっきり言っておかないのがいけないんだよ」
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「はっきり言うとかんのがいかんのやさ」
と、姉のせいにした。
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と姉に背負わせた。
姉も笑いながら、着物を出しかけた。
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姉も笑いながら衣服を出しかけた。
彼が城へ行っている間に、姉も信子(のぶこ・義兄の妹)も、しっかりと化粧をしていた。
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彼が城へ行っている間に姉も信子(義兄の妹)もこってり化粧をしていた。
姉が義理の兄に、
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姉が義兄に
「あなた、扇子(せんす)は?」
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「あんた、扇子は?」
「ポケット(衣嚢)にあるけど……」
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「衣嚢にあるけど……」
「そうね。あれも汚れているし……」
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「そうやな。あれも汚れてますで……」
姉が、うんうんとうなずきながらゆっくり探しはじめるのを、じゅうじゅうと音をさせてたばこを吸っていた兄は、
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姉が合点合点などしてゆっくり捜しかけるのを、じゅうじゅうと音をさせて煙草を呑んでいた兄は
「扇子なんか、どうでもいいだろう。早くしたくしなさい」
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「扇子なんかどうでもええわな。早う仕度しやんし」
と言って、キセル(煙管)がつまっているのを気にしていた。
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と言って煙管の詰まったのを気にしていた。
奥の部屋で信子のしたくを手伝ってやっていた、義理の母(義母)が、
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奥の間で信子の仕度を手伝ってやっていた義母が
「さあ、これはどうかしら」
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「さあ、こんなはどうやな」
と言って、うちわを二、三本まとめて持ってきた。
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と言って団扇を二三本寄せて持って来た。
砂糖屋などが配っていったうちわだった。
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砂糖屋などが配って行った団扇である。
姉がいろいろと着物を着こなしているのを見ながら、彼は、信子がどんな気持ちで、またどんな様子で着付けをしているだろうかなど、奥の部屋の気配に心を向けたりした。
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姉が種々と衣服を着こなしているのを見ながら、彼は信子がどんな心持で、またどんなふうで着付けをしているだろうなど、奥の間の気配に心をやったりした。
やがて、したくができたので、峻(たかし)は先に下へおりて、下駄(げた)をはいた。
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やがて仕度ができたので峻はさきへ下りて下駄を穿いた。
「勝子(かつこ・姉夫婦の娘)がそこらにいますから、呼んでやってください」
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「勝子(姉夫婦の娘)がそこらにいますで、よぼってやっとくなさい」
と義理の母が言った。
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と義母が言った。
そでの長い着物を着て、近所の子どもたちの中にまじっている勝子は、呼ばれたまま、まだ何か言い合っている。
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袖の長い衣服を着て、近所の子らのなかに雑っている勝子は、呼ばれたまま、まだなにか言いあっている。
「『カ』っていうところへ行くの」
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「『カ』ちうとこへ行くの」
「かつどうやだよ」
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「かつどうや」
「活動写真だ、活動写真だあ」
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「活動や、活動やあ」
と、二、三人の女の子がはやし立てた。
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と二三人の女の子がはやした。
「ううん」
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「ううん」
と勝子は首をふって、
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と勝子は首をふって
「『ヨ』っていうところへ行くの」
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「『ヨ』ちっとこへ行くの」
と、また言っている。
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とまたやっている。
「幼稚園?」
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「ようちえん?」
「もう、やだ。幼稚園なんて、夜にはやっていないでしょ」
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「いやらし。幼稚園、晩にはあれへんわ」
義理の兄(義兄)が出てきた。
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義兄が出て来た。
「早くおいで。置いていくぞ」
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「早うお出でな。放っといてゆくぞな」
姉と信子が出てきた。
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姉と信子が出て来た。
おしろいを濃くぬった顔が、夕方のうす暗がりに浮かんで見えた。
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白粉を濃くはいた顔が夕暗に浮かんで見えた。
さっきのうちわを、一つずつ持っている。
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さっきの団扇を一つずつ持っている。
「お待たせ。勝子は。勝子、扇(うちわ)持ってる?」
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「お待ち遠さま。勝子は。勝子、扇持ってるか」
勝子は小さいうちわをちらっと見せて、姉にまとわりつこうとした。
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勝子は小さい扇をちらと見せて姉に纏いつきかけた。
「それじゃあ、お母さん、行ってきますね……」
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「そんならお母さん、行って来ますで……」
姉がそう言うと、
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姉がそう言うと
「勝子は、帰ろう帰ろうって言わないでしょうね」
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「勝子、帰ろ帰ろ言わんのやんな」
と義理の母は勝子に言った。
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と義母は勝子に言った。
「言わないでしょうね」
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「言わんのやんな」
勝子は返事のかわりに口真似をして、峻(たかし)の手の中へ入ってきた。
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勝子は返事のかわりに口真似をして峻の手のなかへ入って来た。
そして峻は、手を引いて歩き出した。
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そして峻は手をひいて歩き出した。
通りにすずみ台を出している近所の人たちが、通りすがりに「こんばんは、こんばんは」と声をかけた。
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往来に涼み台を出している近所の人びとが、通りすがりに、今晩は、今晩は、と声をかけた。
「勝ちゃん、ここは何ていう場所?」
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「勝ちゃん。ここ何てとこ?」
彼はそんなことを聞いてみた。
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彼はそんなことを訊いてみた。
「しょうせんかく」
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「しょうせんかく」
「朝鮮閣?」
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「朝鮮閣?」
「ううん、しょうせんかく」
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「ううん、しょうせんかく」
「朝鮮閣?」
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「朝鮮閣?」
「しょう―せん―かく」
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「しょう―せん―かく」
「朝―鮮―閣?」
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「朝―鮮―閣?」
「うん」
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「うん」
と言って、彼の手をぴしゃっとたたいた。
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と言って彼の手をぴしゃと叩いた。
しばらくして、勝子の方から、
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しばらくして勝子から
「しょうせんかく」
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「しょうせんかく」
と言い出した。
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といい出した。
「朝鮮閣」
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「朝鮮閣」
「もどかしいのはこっちの方だ」といった様子で、少しもちがわないように似せていく。
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牴牾しいのはこっちだ、といったふうに寸分違わないように似せてゆく。
それが遊びになってしまった。
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それが遊戯になってしまった。
しまいには彼が「松仙閣」
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しまいには彼が「松仙閣」
と言っているのに、勝子の方は気づかずに「朝鮮閣」
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といっているのに、勝子の方では知らずに「朝鮮閣」
と言っている。
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と言っている。
信子がそれに気づいて、笑い出した。
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信子がそれに気がついて笑い出した。
笑われると、勝子はきげんを悪くしてしまった。
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笑われると勝子は冠を曲げてしまった。
「勝子」
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「勝子」
今度は義理の兄(義兄)の番だ。
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今度は義兄の番だ。
「ちがいますともわらびます」
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「ちがいますともわらびます」
「ううん」
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「ううん」
鼻声を出して、勝子は義理の兄をぶつまねをした。
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鼻ごえをして、勝子は義兄を打つ真似をした。
義理の兄は知らん顔で、
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義兄は知らん顔で
「ちがいますともわらびます。あれ、何だったかな。勝子、一度、峻(たかし)さんに聞かせてあげなさい」
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「ちがいますともわらびます。あれ何やったな。勝子。一遍峻さんに聞かしたげなさい」
泣きそうに鼻を鳴らし出したので、信子が手を引いてやりながら歩き出した。
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泣きそうに鼻をならし出したので信子が手をひいてやりながら歩き出した。
「これ……それから、何て言うつもりだったの?」
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「これ……それから何というつもりやったんや?」
「これ、わらび(蕨)とはちがいますって言うつもりだったのよね」
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「これ、蕨とは違いますって言うつもりやったんやなあ」
信子がそう言って、かばってやった。
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信子がそんなに言って庇護ってやった。
「いったい、どこの人にそんなことを言ったんだ?」
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「いったいどこの人にそんなことを言うたんやな?」
今度は、半分信子に聞いている。
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今度は半分信子に訊いている。
「吉峰さんのおじさんに、だよね」
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「吉峰さんのおじさんにやなあ」
信子は笑いながら、勝子の顔をのぞきこんだ。
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信子は笑いながら勝子の顔を覗いた。
「まだあったぞ。もう一つ、すごいのがあったぞ」
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「まだあったぞ。もう一つどえらいのがあったぞ」
義理の兄が、おどかすようにそう言うと、姉も信子も笑い出した。
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義兄がおどかすようにそう言うと、姉も信子も笑い出した。
勝子は本当に泣きそうになった。
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勝子は本式に泣きかけた。
城の石垣に大きな電灯がついていて、後ろの木々を、こうこうと(明るく)照らしている。
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城の石垣に大きな電灯がついていて、後ろの木々に皎々と照っている。
その手前の木々は、反対に真っ黒な影になっている。
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その前の木々は反対に黒ぐろとした蔭になっている。
その方で、蝉が「ジッジジッジ」と鳴いた。
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その方で蝉がジッジジッジと鳴いた。
彼は一人、後ろになって歩いていた。
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彼は一人後ろになって歩いていた。
彼がこの土地へ来てから、こうしてみんなと一緒に出歩くのは、今夜がはじめてだった。
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彼がこの土地へ来てから、こうして一緒に出歩くのは今夜がはじめてであった。
若い女の人たちと出歩く。
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若い女達と出歩く。
そのことも、彼のこれまでの経験では、とてもめずらしいことだった。
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そのことも彼の経験では、きわめて稀であった。
彼は、なんとなく幸せな気持ちだった。
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彼はなんとなしに幸福であった。
少しわがままなところのある彼の姉と接するときの態度には、少しも無理がなかった。――それをうまくやっているというのではなく、もともとの、おだやかな生まれつきの性格でそうしているのだった。
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少し我が儘なところのある彼の姉と触れ合っている態度に、少しも無理がなく、――それを器用にやっているのではなく、生地からの平和な生まれ付きでやっている。
信子は、そういう娘だった。
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信子はそんな娘であった。
義理の母たちの信仰から、天理教(てんりきょう)様に拝んでもらいなさいと言われると、素直に拝んでもらっている。
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義母などの信心から、天理教様に拝んでもらえと言われると、素直に拝んでもらっている。
それは指のけがだったが、そのため、評判のよかった琴(こと)もひかないでいた。
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それは指の傷だったが、そのため評判の琴も弾かないでいた。
学校の植物の標本を作っている。
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学校の植物の標本を造っている。
用事で町へ行ったついでなどに、雑草をたくさん風呂敷に入れて帰ってくる。
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用事に町へ行ったついでなどに、雑草をたくさん風呂敷へ入れて帰って来る。
勝子がほしがるので、勝子にも分けてやったりしながら、一人でせっせと、おし花(花を紙にはさんでかわかすもの)を作っている。
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勝子が欲しがるので勝子にも頒けてやったりなどして、独りせっせとおしをかけいる。
勝子が彼女の写真帖(アルバム)を引っぱり出してきて、彼のところへ持ってきた。
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勝子が彼女の写真帖を引き出して来て、彼のところへ持って来た。
それをはずかしがる様子も見せずに、彼が聞くことに、おだやかにはきはきと答える。――
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それを極まり悪そうにもしないで、彼の聞くことを穏やかにはきはきと受け答えする。――
信子には、そういう好ましいところがあった。
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信子はそんな好もしいところを持っていた。
今、彼の前を、勝子の手を引いて歩いている信子は、家の中で肩あげ(子ども用に縫い上げた着物)をした着物を着て、足をにょきにょき出している彼女とはまるでちがって、大人に見えた。
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今彼の前を、勝子の手を曳いて歩いている信子は、家の中で肩縫揚げのしてある衣服を着て、足をにょきにょき出している彼女とまるで違っておとなに見えた。
その隣に、姉が歩いている。
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その隣に姉が歩いている。
彼は、姉が以前より少しやせて、歩き方が少しよくなったように思った。
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彼は姉が以前より少し痩せて、いくらかでも歩き振りがよくなったと思った。
「さあ、あなた、先に歩いて……」
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「さあ。あんた。先へ歩いて……」
姉が急にふり向いて、彼に言った。
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姉が突然後ろを向いて彼に言った。
「どうして」
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「どうして」
今までの気持ちで、聞かなくてもわかっていたが、彼はわざととぼけて見せた。
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今までの気持で訊かなくともわかっていたがわざと彼はとぼけて見せた。
そして、自分から笑ってしまった。
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そして自分から笑ってしまった。
こんな笑い方をしてしまったからには、もう後ろから歩いていくわけにはいかなくなった。
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こんな笑い方をしたからにはもう後ろから歩いてゆくわけにはゆかなくなった。
「早く。気持ち悪いわ。ねえ、信ちゃん」
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「早う。気持が悪いわ。なあ。信ちゃん」
「……」
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「……」
笑いながら、信子もうなずいた。
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笑いながら信子も点頭いた。
芝居小屋の中は、思ったとおり、むし暑かった。
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芝居小屋のなかは思ったように蒸し暑かった。
水番(案内係)というのか、いちょう返しにかみを結った、年を取った女の人が、座布団を必要な数だけ持って、先に立ってばたばたとしいてしまった。
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水番というのか、銀杏返しに結った、年の老けた婦が、座蒲団を数だけ持って、先に立ってばたばた敷いてしまった。
平場(ひらば・畳じきの見物席)の一番後ろで、峻(たかし)が左のはし、真ん中に姉が来て、信子が右のはし、後ろに兄がすわった。
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平場の一番後ろで、峻が左の端、中へ姉が来て、信子が右の端、後ろへ兄が座った。
ちょうど幕あい(幕間・場面の合間)で、一階はだいたい七割ほど席がうまっていた。
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ちょうど幕間で、階下は七分通り詰まっていた。
さっきの女の人が、たばこ盆を持ってきた。
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先刻の婦が煙草盆を持って来た。
火がうずめてあって、暑いのに気がきかなかった。
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火が埋んであって、暑いのに気が利かなかった。
立ち去らずに、ぐずぐずしている。
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立ち去らずにぐずぐずしている。
何と言ったらいいか、こういうタイプの女の人特有の、ずるそうな顔つきで、目をきょろきょろさせている。
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何と言ったらいいか、この手の婦特有な狡猾い顔付で、眼をきょろきょろさせている。
目つきで火鉢を指したり、目をそらしたり、兄の顔をこっそり見たりする。
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眼顔で火鉢を指したり、そらしたり、兄の顔を盗み見たりする。
こちらは見ればよくわかっているのに、と思いながら、財布の銀貨(ぎんか)を、たもと(着物のそでの下の部分)の中で出しかねていた彼は、その無礼な様子に腹が立った。
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こちらが見てよくわかっているのにと思い、財布の銀貨を袂の中で出し悩みながら、彼はその無躾に腹が立った。
義理の兄は落ちついたもので、まるで気にしていない様子だった。
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義兄は落ちついてしまって、まるで無感覚である。
「へえ、お火鉢」
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「へ、お火鉢」
女の人はこんなことをそわそわと言ってのけて、忙しそうに手をもみながら、また目をそらす。
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婦はこんなことをそわそわ言ってのけて、忙しそうに揉手をしながらまた眼をそらす。
やっと銀貨が出てくると、女の人は帰っていった。
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やっと銀貨が出て婦は帰って行った。
やがて、幕が上がった。
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やがて幕があがった。
日本人のようには見えない、はだの色が少し黒みがかった男が、やる気なさそうに道具を運んできて、時どき、じろじろと観客の方を見た。
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日本人のようでない、皮膚の色が少し黒みがかった男が不熱心に道具を運んで来て、時どきじろじろと観客の方を見た。
いいかげんな感じで、おもしろくは思えなかった。
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ぞんざいで、おもしろく思えなかった。
それが終わると、あやしげな名前のインド人が、だらしないフロックコート(えんび服のような服)を着て出てきた。
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それが済むと怪しげな名前の印度人が不作法なフロックコートを着て出て来た。
何だかわからない言葉で、しゃべった。
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何かわからない言葉で喋った。
つばを飛ばしている様子で、色あせたくちびるの両はしに、白くつばがたまっていた。
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唾液をとばしている様子で、褪めた唇の両端に白く唾がたまっていた。
「何て言ったの」
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「なんて言ったの」
姉が、そんなふうに聞いた。
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姉がこんなに訊いた。
すると、隣にいたよその人も、彼の顔を見た。
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すると隣のよその人も彼の顔を見た。
彼は、こまってしまった。
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彼は閉口してしまった。
インド人は、客席へ下りて立会人(手品を手伝う人)をさがしている。
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印度人は席へ下りて立会人を物色している。
一人の男が、腕をつかまれたまま、はずかしそうな、あぶなっかしい笑いをうかべていた。
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一人の男が腕をつかまれたまま、危う気な羞笑をしていた。
その男は、とうとう舞台へ連れていかれた。
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その男はとうとう舞台へ連れてゆかれた。
髪の毛を前におろして、のりのきいていない浴衣(ゆかた)を着て、暑いのに黒い足袋(たび)をはいていた。
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髪の毛を前へおろして、糊の寝た浴衣を着、暑いのに黒足袋を穿いていた。
にこにこして立っているところへ、さっきの男が椅子を持ってきて、すわらせた。
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にこにこして立っているのを、先ほどの男が椅子を持って来て坐らせた。
インド人はひどいやつだった。
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印度人は非道いやつであった。
握手をしようと言って、男の前に手を出す。
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握手をしようと言って男の前へ手を出す。
男はためらっていたが、思い切って手を出した。
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男はためらっていたが思い切って手を出した。
すると、インド人は自分の手を引っこめて、観客の方を向くと、その男の手つきをみにくく真似して見せ、首をすくめて、あざ笑って見せた。
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すると印度人は自分の手を引き込めて、観客の方を向き、その男の手振を醜く真似て見せ、首根っ子を縮めて、嘲笑って見せた。
いじの悪いものだった。
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毒々しいものだった。
男はインド人の方を見たり、自分のもといた席の方を見たりしながら、あぶなっかしく笑っている。
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男は印度人の方を見、自分の元いた席の方を見て、危な気に笑っている。
何か、わけのありそうな笑い方だった。
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なにかわけのありそうな笑い方だった。
子どもか、奥さんがいるのではないだろうか。
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子供か女房かがいるのじゃないか。
たまらない。
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堪らない。
と峻(たかし)は思った。
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と峻は思った。
握手が、しつれいなものになり、インド人の悪ふざけは、ますますたちが悪くなった。
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握手が失敬になり、印度人の悪ふざけはますます性がわるくなった。
見物人は、そのたびに笑った。
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見物はそのたびに笑った。
そして、手品がはじまった。
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そして手品がはじまった。
ひもがあったのは、切ってもつながっているという手品。
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紐があったのは、切ってもつながっているという手品。
金属のびんがあったのは、いくらでも水が出るという手品。――
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金属の瓶があったのは、いくらでも水が出るという手品。――
ごくつまらない手品で、ガラスのテーブル(卓子)の上のものは、だんだん減っていった。
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ごく詰まらない手品で、硝子の卓子の上のものは減っていった。
まだ、りんごが残っていた。
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まだ林檎が残っていた。
これは、りんごを食べて、食べたりんごのかけらが、今度は火をふいて口から出てくるというもので、ためしに、さっきの男が食べさせられた。
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これは林檎を食って、食った林檎の切が今度は火を吹いて口から出て来るというので、試しに例の男が食わされた。
皮ごと食べたというので、これも笑われた。
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皮ごと食ったというので、これも笑われた。
峻は、インド人がどうしようもないような笑い方をするたびに、どうしてあの男は何とかしないのだろうと思っていた。
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峻はその箸にも棒にもかからないような笑い方を印度人がするたびに、何故あの男はなんとかしないのだろうと思っていた。
そして、彼自身、かなり不愉快な気持ちになっていた。
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そして彼自身かなり不愉快になっていた。
そのうちに、ふと、さっきの花火が思い出されてきた。
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そのうちにふと、先ほどの花火が思い出されて来た。
「さっきの花火は、まだ上がっているだろうか」
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「先ほどの花火はまだあがっているだろうか」
そんなことを思った。
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そんなことを思った。
うす明るい平野の中で、星くらげほどの明るさで光っては消える、遠い町の花火。
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薄明りの平野のなかへ、星水母ほどに光っては消える遠い市の花火。
海と雲と平野の、見わたすようなながめが、いかにも美しいもののように思えた。
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海と雲と平野のパノラマがいかにも美しいものに思えた。
「花は」
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「花は」
「Flora.」
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「Flora.」
たしかに「Flower.」
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たしかに「Flower.」
とは言わなかった。
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とは言わなかった。
あの子どもといい、あの見わたす景色(パノラマ)といい、どんな手品師にもかなわないような、立派な手品だったような気がした。
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その子供といい、そのパノラマといい、どんな手品師も敵わないような立派な手品だったような気がした。
そんなことが、彼の不愉快な気持ちを、だんだんと洗い流していった。
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そんなことが彼の不愉快をだんだんと洗っていった。
いつものくせで、不愉快な場面を、人ごとのようにながめてみる。――そうすると、反対におもしろく見えてくる――その気持ちが、本物になりかけてきた。
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いつもの癖で、不愉快な場面を非人情に見る、――そうすると反対におもしろく見えて来る――その気持がものになりかけて来た。
つまらない道化芝居に、一人で腹を立てていたさっきの自分が、ちょっとこっけいだったと彼は思った。
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下等な道化に独りで腹を立てていた先ほどの自分が、ちょっと滑稽だったと彼は思った。
舞台の上では、インド人が、看板の絵そっくりのふんいきの中で、口から盛んに火をふいていた。
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舞台の上では印度人が、看板画そっくりの雰囲気のなかで、口から盛んに火を吹いていた。
それには、あやしげな美しささえ感じられた。
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それには怪しげな美しささえ見えた。
やっと終わると、幕が下りた。
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やっと済むと幕が下りた。
「ああ、おもしろかった」
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「ああおもしろかった」
ちょっとうそっぽい、とってつけたような感じで、勝子が言った。
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ちょっと嘘のような、とってつけたように勝子が言った。
その言い方がおもしろかったので、みんなが笑った。――
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言い方がおもしろかったので皆笑った。――
美人の宙づり。
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美人の宙釣り。
力わざ。
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力業。
オペレッタ(歌つきの軽い劇)。
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オペレット。
浅草気分。
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浅草気分。
美人胴切り。
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美人胴切り。
そんな出し物(プログラム)で、夜おそく家へ帰った。
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そんなプログラムで、晩く家へ帰った。
病気
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病気
姉が病気になった。
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姉が病気になった。
わき腹(脾腹)が痛む。そして、高い熱が出る。
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脾腹が痛む、そして高い熱が出る。
峻(たかし)は、腸チフスではないかと思った。
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峻は腸チブスではないかと思った。
まくらもとで、兄が、
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枕元で兄が
「お医者さんを呼びにやろうかな」
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「医者さんを呼びに遣ろうかな」
と言っている。
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と言っている。
「まあ、いいでしょう。かい虫かもしれませんから」
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「まあよろしいわな。かい虫かもしれませんで」
そして、峻に言うのでもなく、兄に言うのでもなく、
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そして峻にともつかず兄にともつかず
「昨日あんなに暑かったのに、歩いて帰ってくる道で、汗がちっとも出なかったのよ」
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「昨日あないに暑かったのに、歩いて帰って来る道で汗がちっとも出なんだの」
と、弱よわしく言っている。
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と弱よわしく言っている。
その前の日の午後、少し浮かない顔で、遠くから帰ってくるのが見えて、勝子と二人で、窓からふざけながらはやし立てた。
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その前の日の午後、少し浮かぬ顔で遠くから帰って来るのが見え、勝子と二人で窓からふざけながら囃し立てた。
「勝子、あれ、どこの人?」
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「勝子、あれどこの人?」
「あら、お母さんだ。お母さんだ」
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「あら。お母さんや。お母さんや」
「うそを言え。よそのおばさんだよ。見ておいで、家には入ってこないから」
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「嘘いえ。他所のおばさんだよ。見ておいで。家へは這入らないから」
そのときの顔を、峻は思い出した。
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その時の顔を峻は思い出した。
少し変だったことは、たしかに少し変だった。
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少し変だったことは少し変だった。
家の中でばかり見なれている家族を、ふと通りでよそから見る――そんなめずらしい気持ちで見たせいだと、峻は思っていたが、どこか元気がないようでもあった。
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家のなかばかりで見馴れている家族を、ふと往来で他所目に見る――そんな珍しい気持で見た故と峻は思っていたが、少し力がないようでもあった。
医者が来て、やはりチフスのうたがいがあると言って帰った。
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医者が来て、やはりチブスの疑いがあると言って帰った。
峻は、下の階で、こまった顔を兄と見合わせた。
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峻は階下で困った顔を兄とつき合わせた。
兄の顔には、苦しそうな笑いがこわばっていた。
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兄の顔には苦しい微笑が凝っていた。
腎臓(じんぞう)の故障だったことがわかった。
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腎臓の故障だったことがわかった。
舌のこけがどうとかで、とはっきりチフスとも言い切れないということを言って、医者も元気に帰っていった。
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舌の苔がなんとかで、と言って明瞭にチブスとも言い兼ねていた由を言って、医者も元気に帰って行った。
この家にお嫁に来てから、病気で寝たのはこれで二度目だと、姉が言った。
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この家へ嫁いで来てから、病気で寝たのはこれで二度目だと姉が言った。
「一度は北牟婁(きたむろ)で」
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「一度は北牟婁で」
「あの時はこまったな。近所に氷が売ってなくてね。夜中の二時ごろ、四里(約十六キロメートル)ほどの道を自転車で走って、店の人をたたき起こして買えたのはよかったんだけど。風呂敷につつんで、自転車のサドルの後ろにしばりつけて戻ってきたら、こすれてしまって、これくらいの大きさになっていたよ」
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「あの時は弱ったな。近所に氷がありませいでなあ、夜中の二時頃、四里ほどの道を自転車で走って、叩き起こして買うたのはまあよかったやさ。風呂敷へ包んでサドルの後ろへ結えつけて戻って来たら、擦れとりましてな、これだけほどになっとった」
兄は、その大きさを手つきで見せた。
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兄はその手つきをして見せた。
姉の熱のグラフでも、二時間おきくらいの正確なものを作ろうとする兄だけあって、その話には兄らしいおもしろさがあり、峻も思わず笑ってしまった。
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姉の熱のグラフにしても、二時間おきほどの正確なものを造ろうとする兄だけあって、その話には兄らしい味が出ていて峻も笑わされた。
「そのときは?」
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「その時は?」
「かい虫がわいていたんですよ」
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「かい虫をわかしとりましたんじゃ」
――ひとつには、峻自身のだらしない生活のせいで、彼は一度、肺(はい)を悪くしたことがあった。
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――一つには峻自身の不検束な生活から、彼は一度肺を悪くしたことがあった。
そのとき、義理の兄は北牟婁で、その病気が治るようにと、神社にお参りをしてくれた。
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その時義兄は北牟婁でその病気が癒るようにと神詣でをしてくれた。
病気が少しよくなって、峻は一度、その北牟婁の家へ行ったことがあった。
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病気がややよくなって、峻は一度その北牟婁の家へ行ったことがあった。
そこは山の中の小さな村で、村の人たちは百姓と木こりをしていて、蚕(かいこ)を育てる仕事(養蚕)もしていた。
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そこは山のなかの寒村で、村は百姓と木樵で、養蚕などもしていた。
冬になると、家の近くの畑まで、いのししが芋をほりに来たりする。
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冬になると家の近くの畑まで猪が芋を掘りに来たりする。
芋は、百姓たちの半分主食のようなものになっていた。
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芋は百姓の半分常食になっていた。
そのころは、まだ勝子も小さかった。
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その時はまだ勝子も小さかった。
近所のおばあさんが来て、勝子の絵本を見ながら説明してくれるとき、象のことを「鼻巻き象」、猿のことを「山の若い衆」とか「やえん」とか呼んでいた。
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近所のお婆さんが来て、勝子の絵本を見ながら講釈しているのに、象のことを鼻巻き象、猿のことを山の若い衆とかやえんとか呼んでいた。
みょうじのない子がいるというので聞いてみると、木こりの子だからだと言って、村の人たちは当たり前のような顔をしている。
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苗字のないという子がいるので聞いてみると木樵の子だからと言って村の人は当然な顔をしている。
小学校では、生徒たちから呼びすてにされている、薫(かおる)という村長の娘が、先生をしていた。
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小学校には生徒から名前の呼び棄てにされている、薫という村長の娘が教師をしていた。
まだ十六、七歳くらいの年ごろだった。――
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まだそれが十六七の年頃だった。――
北牟婁は、そういう場所だった。
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北牟婁はそんな所であった。
峻は、北牟婁での兄の話には、興味を持てた。
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峻は北牟婁での兄の話には興味が持てた。
北牟婁にいたとき、勝子が川に落ちたことがある。
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北牟婁にいた時、勝子が川へ陥ったことがある。
その話が、兄の口から出てきた。
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その話が兄の口から出て来た。
――兄が心臓脚気(かっけ)で寝ていたときのことである。
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――兄が心臓脚気で寝ていた時のことである。
七十歳を過ぎた、兄の祖母で、勝子のひいおばあさんにあたるお祖母さんが、勝子を連れて、川へ茶碗をつけに行った。
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七十を越した、兄の祖母で、勝子の曽祖母にあたるお祖母さんが、勝子を連れて川へ茶碗を漬けに行った。
その川というのは流れの急な川で、はばはせまかったが、底はかなり深かった。
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その川というのが急な川で、狭かったが底はかなり深かった。
お祖母さんは、いつも兄たちが「放っておいて」と言うのに、姉が留守だったりすると、勝子などをだっこしたがった。
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お祖母さんは、いつでも兄達が捨てておけというのに、姉が留守だったりすると、勝子などを抱きたがった。
そのときも、姉は外出していた。
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その時も姉は外出していた。
ああ、出て行ったな。
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はあ、出て行ったな。
と、ふとんの中で思っていると、しばらくして変な声がしたので、「あっ」と思ったまま、何かに引かれるように、重い病人だった兄が起きて出た。
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と寝床の中で思っていると、しばらくして変な声がしたので、あっと思ったまま、ひかれるように大病人が起きて出た。
川は、すぐ近くだった。
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川はすぐ近くだった。
見ると、お祖母さんが変な顔をして、「勝子が」
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見ると、お祖母さんが変な顔をして、「勝子が」
と言ったのだが、そして、一生けんめい言おうとしているのだが、そのあとが言えない。
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と言ったのだが、そして一生懸命に言おうとしているのだが、そのあとが言えない。
「お祖母さん。勝子がどうしたんだ!」
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「お祖母さん。勝子が何とした!」
「……」
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「……」
手の先だけが、はげしく、それを伝えようとしている。
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手の先だけが激しくそれを言っている。
勝子が、川を流されていくのが見えているのだ!
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勝子が川を流れてゆくのが見えているのだ!
川は、ちょうど雨のあとで水かさが増していた。
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川はちょうど雨のあとで水かさが増していた。
先には石の橋があって、水が橋の板石とすれすれになっている。
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先に石の橋があって、水が板石とすれすれになっている。
その先には、川が曲がるところがあって、そこは、いつも渦(うず)が巻いている場所だった。
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その先には川の曲がるところがあって、そこはいつも渦が巻いている所だ。
川はそこで曲がって、深い沼のような場所へ入る。
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川はそこを曲がって深い沼のような所へ入る。
橋か曲がり角で頭を打つか、流されていって沼にしずみでもしたら、助からないところだった。
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橋か曲がり角で頭を打ちつけるか、流れて行って沼へ沈みでもしようものなら助からないところだった。
兄は、いきなり川へ飛びこんで、あとを追った。
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兄はいきなり川へ跳び込んで、あとを追った。
橋までにつかまえるつもりだった。
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橋までに捕えるつもりだった。
病気の体だった。
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病気の身だった。
それでも、やっと橋の手前でつかまえることができた。
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それでもやっと橋の手前で捕えることはできた。
しかし、流れが強くて、橋を頼りに上がろうとしても、とてもむりだった。
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しかし流れがきつくて橋を力に上ろうと思ってもとうてい駄目だった。
橋の板石と水の間のすき間は、やっと勝子の頭が通るくらいだったので、兄は勝子をさし上げながら水にもぐり、川下でようやく上がることができたのだった。
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板石と水の隙間は、やっと勝子の頭ぐらいは通せるほどだったので、兄は勝子を差し上げながら水を潜り、下手でようやくあがれたのだった。
勝子は、ぐったりとしていた。
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勝子はぐったりとなっていた。
さかさにしても、水をはかない。
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逆にしても水を吐かない。
兄は気が気ではなく、何度も勝子の名前を呼びながら、背中をたたいた。
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兄は気が気でなく、しきりに勝子の名を呼びななら、背中を叩いた。
勝子は、けろりと気がついた。
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勝子はけろりと気がついた。
気がついたと思ったら、立ち上がって、すぐに踊り出したりするのだ。
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気がついたが早いか、立つとすぐ踊り出したりするのだ。
兄は、きつねにばかされたようで、何だか変な気持ちだった。
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兄はばかされたようでなんだか変だった。
「この着物(べべ)、どうしたんだ」
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「このべべ何としたんや」
と言って、ぬれた着物を引っぱってみても、「知らない」
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と言って濡れた衣服をひっぱってみても「知らん」
と言っている。
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と言っている。
足がすべったひょうしに気を失っていたので、まったくおぼれたわけではなかったらしい。
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足が滑った拍子に気絶しておったので、全く溺れたのではなかったとみえる。
そして、何と、いつもと同じ顔で踊っているのだ。――
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そして、なんとまあ、いつもの顔で踊っているのだ。――
兄の話のあらましは、こんな内容だった。
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兄の話のあらましはこんなものだった。
ちょうど近所の百姓の家が昼寝の時間だったので、自分がそのとき起きて出て行かなかったら、どんなに危険だったかとも言った。
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ちょうど近所の百姓家が昼寝の時だったので、自分がその時起きてゆかなければどんなに危険だったかとも言った。
話している方も、聞いている方も、話に引きこまれていて、兄が口をつぐむと、静かになった。
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話している方も聞いている方も惹き入れられて、兄が口をつぐむと、静かになった。
「わたしが帰っていったら、お祖母さんと三人で、門のところで待っていらしたの」
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「わたしが帰って行ったらお祖母さんと三人で門で待ってはるの」
姉が、そんなことを言った。
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姉がそんなことを言った。
「何だか家の中にはいられなかったみたいでね。着物を着がえて、お母ちゃんを待っていようって言ったりしてね」
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「何やら家にいてられなんだわさ。着物を着かえてお母ちゃんを待っとろと言うたりしてなあ」
「お祖母さんが、ぼけてしまわれたのは、あれからでしたね」
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「お祖母さんがぼけはったのはあれからでしたな」
姉は少し声をひそめて、何か意味のありそうな目を、兄に向けた。
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姉は声を少しひそませて意味の籠った眼を兄に向けた。
「あれがあってから、お祖母さんが、ちょっとぼけたようになりましてね。いつまでたっても、この人に(と言って姉を指さして)『よしやんに済まない、よしやんに済まない』と言っていましてね」
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「それがあってからお祖母さんがちょっとぼけみたいになりましてなあ。いつまで経ってもこれに(と言って姉を指し)よしやんに済まん、よしやんに済まんと言いましてなあ」
「何を言うんですお祖母さん、そんなことないですよ、と言っているのに」
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「なんのお祖母さん、そんなことがあろうかさ、と言っているのに」
それからのお祖母さんは、目に見えてぼけていき、一年ほどたってから亡くなった。
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それからのお祖母さんは目に見えてぼけていって一年ほど経ってから死んだ。
峻には、そのお祖母さんの運命が、何だかむごいもののように思えた。
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峻にはそのお祖母さんの運命がなにか惨酷な気がした。
それが、故郷ではなく、勝子の子守りでもする気持ちで出かけていった、北牟婁の山の中でのことだっただけに、その気持ちは、なおさら深かった。
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それが故郷ではなく、勝子のお守りでもする気で出かけて行った北牟婁の山の中だっただけに、もう一つその感じは深かった。
峻が北牟婁へ行ったのは、その出来事より前のことだった。
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峻が北牟婁へ行ったのは、その事件の以前であった。
お祖母さんは、勝子の名前を、その当時もう女学校に上がっていたはずの信子の名前と、よく呼びまちがえた。
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お祖母さんは勝子の名前を、その当時もう女学校へ上っていたはずの信子の名と、よく呼び違えた。
信子は、その当時、母親などとこちらにいた。
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信子はその当時母などとこちらにいた。
まだ信子を知らなかった峻には、お祖母さんが呼びまちがえるたびに、信子という名前を持った、十四、五歳の娘の姿が、親しみを持って頭に思いうかんだ。
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まだ信子を知らなかった峻には、お祖母さんが呼び違えるたびごとに、信子という名を持った十四五の娘が頭に親しく想像された。
勝子
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勝子
峻は、原っぱに面した窓によりかかって、外をながめていた。
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峻は原っぱに面した窓に倚りかかって外を眺めていた。
灰色の雲が、空いちめんをおおっていた。
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灰色の雲が空一帯を罩めていた。
それは、ずっと奥深くにあるようにも見え、また、地面近くに低くたれ下がっているようにも思えた。
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それはずっと奥深くも見え、また地上低く垂れ下がっているようにも思えた。
あたりのものはみな、光を失って静まっていた。
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あたりのものはみな光を失って静まっていた。
ただ、遠くの病院の避雷針(ひらいしん)だけが、どうしたはずみか白く光って見える。
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ただ遠い病院の避雷針だけが、どうしたはずみか白く光って見える。
原っぱの中で、子どもが遊んでいた。
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原っぱのなかで子供が遊んでいた。
見ていると、勝子もまじっていた。
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見ていると勝子もまじっていた。
男の子が一人いて、何か荒っぽい遊びをしているらしかった。
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男の児が一人いて、なにか荒い遊びをしているらしかった。
勝子が、男の子にたおされた。
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勝子が男の児に倒された。
起き上がったところを、また、たおされた。
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起きたところをまた倒された。
今度は、ぎゅうぎゅうと押さえつけられている。
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今度はぎゅうぎゅう押えつけられている。
いったい、何をしているのだろう。
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いったい何をしているのだろう。
何だか、ひどいことをする。
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なんだかひどいことをする。
そう思って、峻は目をとめた。
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そう思って峻は目をとめた。
それが終わると、今度は女の子たちが――三人だったが――駅の改札口に並ぶように、男の子の前に立った。
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それが済むと今度は女の子連中が――それは三人だったが、改札口へ並ぶように男の児の前へ立った。
変な、切符切りごっこがはじまった。
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変な切符切りがはじまった。
女の子が差し出した手を、その男の子が、やたらに引っぱる。
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女の子の差し出した手を、その男の児がやけに引っ張る。
その女の子は、地面にたたきつけられる。
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その女の子は地面へ叩きつけられる。
次の子も、手を出す。
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次の子も手を出す。
その手も、引っぱられる。
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その手も引っ張られる。
たおされた子は、起き上がって、また列の後ろにつく。
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倒された子は起きあがって、また列の後ろへつく。
見ていると、こういうことだった。
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見ているとこうであった。
男の子が手を引っぱる力の強さに、変化がつく。
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男の児が手を引っ張る力加減に変化がつく。
女の子の方は、その強い弱いを、こわごわ期待するのがおもしろいらしかった。
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女の子の方ではその強弱をおっかなびっくりに期待するのがおもしろいのらしかった。
強く引くのかと思うと、体つきだけ強そうにして、軽く引っぱる。
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強く引くのかと思うと、身体つきだけ強そうにして軽く引っ張る。
すると、次はいきなりたたきつけられる。
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すると次はいきなり叩きつけられる。
次はまた、手をちょっと持っただけというくらいの軽さで通す。
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次はまた、手を持ったというくらいの軽さで通す。
男の子は、小さいくせに、ときどき大人の――それも、木こり(木挽き)や石工(せっこう・石を切る職人)のような身のこなしにそっくりに見える子で、今も何か鼻歌でも歌いながらやっているように見える。
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男の児は小さい癖にどうかすると大人の――それも木挽きとか石工とかの恰好そっくりに見えることのある児で、今もなにか鼻唄でも歌いながらやっているように見える。
そして、いかにも得意げだった。
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そしていかにも得意気であった。
見ていると、やはり勝子だけが、一番強く引っぱられているように思えた。
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見ているとやはり勝子だけが一番よけい強くされているように思えた。
彼には、それが悪いことのように感じられた。
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彼にはそれが悪くとれた。
勝子は、遠回しに(婉曲に)いじわるされているんだな。――
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勝子は婉曲に意地悪されているのだな。――
そう思うのには、ひとつには、勝子がわがままで、よその子と遊ぶときにも、決して「いい子」にはならないからでもあった。
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そう思うのには、一つは勝子が我が儘で、よその子と遊ぶのにも決していい子にならないからでもあった。
それにしても、勝子には、あの不公平さがわからないのかな。
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それにしても勝子にはあの不公平がわからないのかな。
いや、あれがわからないはずはない。
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いや、あれがわからないはずはない。
むしろ勝子にとっては、わかっていながら、やせがまん(無理してがまん)をしているというのが本当らしい。
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むしろ勝子にとっては、わかってはいながら痩我慢を張っているのがほんとうらしい。
そんなふうに思っているうちにも、勝子は、またひどくたたきつけられた。
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そんなに思っているうちにも、勝子はまたこっぴどく叩きつけられた。
やせがまんをしているのだとすれば、たおされたひょうしに、地面をにらむようにしているときの顔つきは、いったいどんな顔だろう。――
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痩我慢を張っているとすれば、倒された拍子に地面と睨めっこをしている時の顔付は、いったいどんなだろう。――
立ち上がるときには、もうほかの子と同じような顔をしているけれど。
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立ちあがる時には、もうほかの子と同じような顔をしているが。
よく泣き出さないものだ。
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よく泣き出さないものだ。
男の子が、ふとしたひょうしに、この窓を見るかもしれないと思って、彼は窓のそばをはなれなかった。
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男の児がふとした拍子にこの窓を見るかもしれないからと思って彼は窓のそばを離れなかった。
奥がどこまであるかわからないような曇り空の中を、きらりきらりと光りながら、通り過ぎていくものがあった。
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奥の知れないような曇り空のなかを、きらりきらり光りながら過ってゆくものがあった。
はと?
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鳩?
雲の色にぼやけてしまって姿は見えなかったが、光の反射だけが、鳥の数にすれば三羽ほど、はと特有の、どこにも目当てがないような飛び方で、まい上がっていた。
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雲の色にぼやけてしまって、姿は見えなかったが、光の反射だけ、鳥にすれば三羽ほど、鳩一流のどこにあてがあるともない飛び方で舞っていた。
「ああ、勝子のやつ、自分から『もっと強く』って注文して、強くしてもらっているんじゃないかな」
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「あああ。勝子のやつめ、かってに注文して強くしてもらっているのじゃないかな」
そんなことが、ふっと思えた。
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そんなことがふっと思えた。
いつか、峻がぎゅっとだきしめてやったとき、「もっとぎゅうっと」
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いつか峻が抱きすくめてやった時、「もっとぎうっと」
と、何度もだきしめさせた。
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と何度も抱きすくめさせた。
そのときのことが、思い出されたのだった。
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その時のことが思い出せたのだった。
そう思えば、それも、いかにも勝子のしそうなことだった。
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そう思えばそれもいかにも勝子のしそうなことだった。
峻は、窓をはなれて、部屋の中へ入った。
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峻は窓を離れて部屋のなかへ這入った。
夜、夕飯がすんでしばらくしてから、勝子が泣きはじめた。
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夜、夕飯が済んでしばらくしてから、勝子が泣きはじめた。
峻は、二階でそれを聞いていた。
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峻は二階でそれを聞いていた。
しまいには、それをなだめる姉の声が高くなってきて、勝子も、あたりかまわず泣きたてた。
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しまいにはそれを鎮める姉の声が高くなって来て、勝子もあたりかまわず泣きたてた。
あまり声が大きいので、峻は下へおりていった。
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あまり声が大きいので峻は下へおりて行った。
信子が、勝子をだいている。
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信子が勝子を抱いている。
勝子は、片手を電灯の真下に引き寄せられて、針を持った姉が、その手のひらに針を近づけようとしている。
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勝子は片手を電燈の真下へ引き寄せられて、針を持った姉が、掌へ針を持ってゆこうとする。
「外へ行って、とげを刺してきたんですよ。気づかずにいたのが、ごはんを食べるときにしょうゆがしみて」
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「そとへ行って棘を立てて来ましたんや。知らんとおったのが御飯を食べるとき醤油が染みてな」
義理の母が、峻にそう言った。
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義母が峻にそう言った。
「もっとしっかり出しなさい」
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「もっとぎうとお出し」
姉は怒ってしまって、らんぼうに手のひらを引っぱっている。
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姉は怒ってしまって、邪慳に掌を引っ張っている。
そのたびに勝子は、火がついたように、泣き声を高くする。
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そのたびに勝子は火の付くように泣声を高くする。
「もう知らない、ほうっておいてやる」
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「もう知らん、放っといてやる」
しまいに、姉は手のひらを振りはなしてしまった。
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しまいに姉は掌を振り離してしまった。
「今はしかたないから、〇〇こう(薬のこう薬)をつけて、しばっておこうよ」
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「今はしようないで、××膏をつけてくくっとこうよ」
義理の母が、間に入るように言っている。
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義母が取りなすように言っている。
信子が、薬を出しに行った。
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信子が薬を出しに行った。
峻は、勝子の泣き声にこまってしまい、また二階へ上がった。
原文を見る
峻は勝子の泣声に閉口してまた二階へあがった。
薬をつけている間も、勝子の泣き声は、まだ静まらなかった。
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薬をつけるのに勝子の泣声はまだ鎮まらなかった。
「とげは、どうせ、あのときに刺したにちがいない」
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「棘はどうせあの時立てたに違いない」
峻は、昼間のことを思い出していた。
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峻は昼間のことを思い出していた。
ぴしゃっと地面にうつぶせになったときの勝子の顔は、どんなだっただろう、という考えが、また、よみがえってきた。
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ぴしゃっと地面へうつっぶせになった時の勝子の顔はどんなだったろう、という考えがまた蘇えって来た。
「もしかしたら、あのときのやせがまんが、今、はじけているのかもしれない」
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「ひょっとしてあの時の痩我慢を破裂させているのかもしれない」
そんなことを思いながら聞いていると、その火がついたような泣き声が、何か悲しいもののように、峻には思えた。
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そんなことを思って聞いていると、その火がつくような泣声が、なにか悲しいもののように峻には思えた。
昼と夜
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昼と夜
彼はある日、城のそばのがけの陰に、りっぱな井戸があるのを見つけた。
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彼はある日城の傍の崖の蔭に立派な井戸があるのを見つけた。
そこは、昔の武士(さむらい)の屋敷あとのように思えた。
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そこは昔の士の屋敷跡のように思えた。
畑とも庭ともつかない地面には、年をとった梅の木があったり、かぼちゃが植えてあったり、しそがあったりした。
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畑とも庭ともつかない地面には、梅の老木があったり南瓜が植えてあったり紫蘇があったりした。
城のがけからは、太くたくましい大きな木(喬木)や古いつばきの木が、緑のついたてを作っていて、井戸はその陰にしずまっていた。
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城の崖からは太い逞しい喬木や古い椿が緑の衝立を作っていて、井戸はその蔭に坐っていた。
大きな井戸わく(井桁)、どうどうとした石の組み方、がっしりしていて、りっぱだった。
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大きな井桁、堂々とした石の組み様、がっしりしていて立派であった。
若い女の人が二人、洗濯物を大きなたらい(大盥)ですすいでいた。
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若い女の人が二人、洗濯物を大盥で濯いでいた。
彼のいた場所からは見えなかったが、その仕組みは、はねつるべ(てこの原理で水をくむしかけ)になっているらしく、くみ上げられてくる水は、大きな木でできたつるべおけからあふれて、木々の緑がみずみずしく映っていた。
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彼のいた所からは見えなかったが、その仕掛ははね釣瓶になっているらしく、汲みあげられて来る水は大きい木製の釣瓶桶に溢れ、樹々の緑が瑞みずしく映っている。
たらいの方の女の人が待つふりをすると、つるべの方の女の人は水をあけた。
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盥の方の女の人が待つふりをすると、釣瓶の方の女の人は水をあけた。
たらいの水が、はねおどって、水玉の虹が立つ。
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盥の水が躍り出して水玉の虹がたつ。
そこにも緑が影をうつして、美しく洗われた花こう岩(かこうがん)の敷石の上を、また、女の人のはだしの足の上を、水がゆたかに流れる。
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そこへも緑は影を映して、美しく洗われた花崗岩の畳石の上を、また女の人の素足の上を水は豊かに流れる。
うらやましい、すばらしく幸せそうなながめだった。
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羨ましい、素晴しく幸福そうな眺めだった。
すずしそうな、緑のついたての陰。
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涼しそうな緑の衝立の蔭。
たしかに、すみきってつめたく、ゆたかな水。
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確かに清冽で豊かな水。
何となく、心を引かれる感じだった。
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なんとなく魅せられた感じであった。
今日は青空、よい天気
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きょうは青空よい天気
前の家でも、隣でも
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まえの家でも隣でも
水くむ、洗う、かける、干す。
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水汲む洗う掛ける干す。
国が作った教科書にあったのか、小学校の唱歌にあったのか、少年のころに歌った歌の歌詞が、思い出された。
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国定教科書にあったのか小学唱歌にあったのか、少年の時に歌った歌の文句が憶い出された。
その言葉には、これといったうまさは感じられなかったけれど、彼が少年だった時代、その歌によって心に持った、本当に明るく新鮮な想像が、思いがけず、彼の胸におし寄せてきた。
原文を見る
その言葉には何のたくみも感ぜられなかったけれど、彼が少年だった時代、その歌によって抱いたしんに朗らかな新鮮な想像が、思いがけず彼の胸におし寄せた。
かあかあ、からすが鳴いてゆく、
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かあかあ烏が鳴いてゆく、
お寺の屋根へ、お宮の森へ、
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お寺の屋根へ、お宮の森へ、
かあかあ、からすが鳴いてゆく。
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かあかあ烏が鳴いてゆく。
それには、絵がついていた。
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それには画がついていた。
また「四方」
原文を見る
また「四方」
とかいう題で、子どもが朝日の方を向いて手を広げている絵などの記憶が、次から次へと思い出されてきた。
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とかいう題で、子供が朝日の方を向いて手を拡げている図などの記憶が、次つぎ憶い出されて来た。
国が作った教科書の、手書きのような楷書(かいしょ)の活字。
原文を見る
国定教科書の肉筆めいた楷書の活字。
また、どんな画家がえがいたものか、角のないその字体と感じがまるで似ていて、子どもといえば丸顔の優等生のような顔をしているといった感じの、さし絵のこと。
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またなんという画家の手に成ったものか、角のないその字体と感じのまるで似た、子供といえば円顔の優等生のような顔をしているといったふうの、挿画のこと。
「何とか権所有(けんしょゆう)」
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「何とか権所有」
それを「ゴンショユウ」と、人の前では読まなかったが、心の中で、かりにそう決めて読んでいたこと。
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それをゴンショユウと、人の前では読まなかったが、心のなかで仮に極めて読んでいたこと。
その「何とか権所有」の、これもそう思えば、国定教科書らしい、手紙の書き方の見本の宛名のような、人の名前。
原文を見る
そのなんとか権所有の、これもそう思えば国定教科書に似つかわしい、手紙の文例の宛名のような、人の名。
そんな、本の最後のページ(奥付)の様子までが、思い出された。
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そんな奥付の有様までが憶い出された。
――少年のころには、その絵のとおりの場所が、どこかにあるような気がしていた。
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――少年の時にはその画のとおりの所がどこかにあるような気がしていた。
そういう、単純で正直な子どもが、どこかにいるような気がしていた。
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そうした単純に正直な児がどこかにいるような気がしていた。
彼には、そんなことが思われた。
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彼にはそんなことが思われた。
それらは、何か、そのころのあこがれの対象でもあった。
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それらはなにかその頃の憧憬の対象でもあった。
単純で、わかりやすく、健康な世界。――
原文を見る
単純で、平明で、健康な世界。――
今、その世界が、彼の前にある。
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今その世界が彼の前にある。
思いもかけず、こんな田舎の、緑の木々の陰に、その世界は、もっと新鮮な形をそなえて、そこにある。
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思いもかけず、こんな田舎の緑樹の蔭に、その世界はもっと新鮮な形を具えて存在している。
そんな、国定教科書ふうの感傷の中に、彼は、自分が送るべき生活が、それとなく示されたような気がした。
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そんな国定教科書風な感傷のなかに、彼は彼の営むべき生活が示唆されたような気がした。
――食べてしまいたくなるほどの、景色への愛着と、幼いころの思い出や、新しい生活への想像とで、彼の、時どきの瞬間が、燃え立った。
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――食ってしまいたくなるような風景に対する愛着と、幼い時の回顧や新しい生活の想像とで彼の時どきの瞬間が燃えた。
また、時どき、眠れない夜がやってきた。
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また時どき寝られない夜が来た。
眠れない夜のあとでは、ちょっとしたことに、すぐ心の底から熱いこうふんが起きる。
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寝られない夜のあとでは、ちょっとしたことにすぐ底熱い昂奮が起きる。
そのこうふんがやむと、道ばたでもかまわず、すぐに横になりたくなるような、つかれがやってくる。
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その昂奮がやむと道端でもかまわないすぐ横になりたいような疲労が来る。
そんなこうふんは、かえでの木の肌を見ただけでも起こった。――
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そんな昂奮は楓の肌を見てさえ起こった。――
かえでの木の肌は、ひんやりとしていた。
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楓樹の肌が冷えていた。
城の本丸(ほんまる)の、彼がいつもすわるベンチのうしろでのことだった。
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城の本丸の彼がいつも坐るベンチの後ろでであった。
根もとに、松葉が落ちていた。
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根方に松葉が落ちていた。
その上を、ありがきれいに、はっていた。
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その上を蟻が清らかに匍っていた。
冷たいかえでの木の肌を見ていると、ひぜん(はだのできもの)のようについている、こけのもようが、美しく見えた。
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冷たい楓の肌を見ていると、ひぜんのようについている蘚の模様が美しく見えた。
子どものころの、ござ遊びの思い出――とくに、そのさわり心地が、よみがえった。
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子供の時の茣蓙遊びの記憶――ことにその触感が蘇えった。
やはり、かえでの木の下だった。
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やはり楓の樹の下である。
松葉が散って、ありがはっている。
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松葉が散って蟻が匍っている。
地面には、でこぼこがある。
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地面にはでこぼこがある。
そんな上に、ござを敷いた。
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そんな上へ茣蓙を敷いた。
「子どもというものは、たしかに、あの地面のでこぼこを、冷たいござの下に感じる、足のうらの感覚の気持ちよさを知っているものだ。そして、ござを敷いたとたんに、すぐその上へ飛びこんで、着物のまま、じかに地面の上へ転がれる自由を、楽しんだりする」
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「子供というものは確かにあの土地のでこぼこを冷たい茣蓙の下に感じる蹠の感覚の快さを知っているものだ。そして茣蓙を敷くやいなやすぐその上へ跳び込んで、着物ぐるみじかに地面の上へ転がれる自由を楽しんだりする」
そんなことを思いながら、彼は、すぐにでも、ほおを、かえでの木の肌につけて、冷やしてみたいような衝動を感じた。
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そんなことを思いながら彼はすぐにも頬ぺたを楓の肌につけて冷やしてみたいような衝動を感じた。
「やはり、つかれているのだな」
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「やはり疲れているのだな」
彼は、手足が軽く熱を持っているのに気がついた。
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彼は手足が軽く熱を持っているのを知った。
「私は、おまえに、こんなものをあげようと思う。
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「私はおまえにこんなものをやろうと思う。
一つは、ゼリーだ。
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一つはゼリーだ。
ちょっとした人の足音にさえ、いくつもの波紋が起こり、風がふいてくると、さざなみが立つ。
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ちょっとした人の足音にさえいくつもの波紋が起こり、風が吹いて来ると漣をたてる。
色は、海の青色で――ごらん、その中を、いくつも魚が泳いでいる。
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色は海の青色で――御覧そのなかをいくつも魚が泳いでいる。
もう一つは、窓かけ(カーテン)だ。
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もう一つは窓掛けだ。
織物ではあるけれど、秋の草が茂っている草むらになっている。
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織物ではあるが秋草が茂っている叢になっている。
また、そこには見えないけれど、色づきかけたいちょうの木が、その上に生えている感じがする。
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またそこには見えないが、色づきかけた銀杏の木がその上に生えている気持。
風が来ると、草がさわぐ。
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風が来ると草がさわぐ。
そして、ごらん。
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そして、御覧。
しゃくとり虫が、枝から枝へ、はっている。
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尺取虫が枝から枝を匍っている。
この二つを、おまえにあげる。
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この二つをおまえにあげる。
まだできあがらないから、待っているといい。
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まだできあがらないから待っているがいい。
そして、つまらないときには、ふっと思い出してみるといい。
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そして詰らない時には、ふっと思い出してみるがいい。
きっと、楽しい気持ちになるから。」
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きっと愉快になるから。」
彼は、ある日、はがきに、そんなことを書いてしまった。もちろん、遊びではあったが。
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彼はある日葉書へそんなことを書いてしまった、もちろん遊戯ではあったが。
そして、このごろ、昼となく夜となく、時どき、ふと感じる、気持ちのむずがゆさを、いくらか外に出せたような気がした。
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そしてこの日頃の昼となし夜となしに、時どきふと感じる気持のむずかゆさを幾分はかせたような気がした。
夜、静かに眠れずにいると、空を、ゴイサギ(鳥の名前)が鳴いて通った。
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夜、静かに寝られないでいると、空を五位が啼いて通った。
ふとすると、その声が、自分の体のどこかでしているように思われることがある。
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ふとするとその声が自分の身体のどこかでしているように思われることがある。
虫の鳴く声なども、変に、部屋の中でしているかのように聞こえる。
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虫の啼く声などもへんに部屋の中でのように聞こえる。
「ああ、来るな」
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「はあ、来るな」
と思っていると、正体のわからない気持ちが、起こってくる。――
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と思っているとえたいの知れない気持が起こって来る。――
これは、このごろの、眠れない夜の、いつもの流れだった。
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これはこの頃眠れない夜のお極りのコースであった。
その変な気持ちは、電灯を消して目をつぶっている彼の目の前に、何かがさかんに動いている気配を感じさせた。
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変な気持は、電燈を消し眼をつぶっている彼の眼の前へ、物が盛んに運動する気配を感じさせた。
とても大きなものの気配が、見ているうちに、ひっくり返って、細かいちりのように小さくなる。
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厖大なものの気配が見るうちに裏返って微塵ほどになる。
たしか、どこかでさわったことのあるような、口に入れたことのあるような、動きだった。
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確かどこかで触ったことのあるような、口へ含んだことのあるような運動である。
回転する機械のように、たえず回っているようで、ねている自分の足の先あたりを想像すると、とほうもなく遠くにあるような気持ちに、すぐそれが巻きこまれてしまう。
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廻転機のように絶えず廻っているようで、寝ている自分の足の先あたりを想像すれば、途方もなく遠方にあるような気持にすぐそれが捲き込まれてしまう。
本などを読んでいると、時どき、字が小さく見えてくることがあるが、そのときの気持ちに、少し似ている。
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本などを読んでいると時とすると字が小さく見えて来ることがあるが、その時の気持にすこし似ている。
ひどくなると、一種のこわさまでともなってきて、目を閉じてはいられなくなる。
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ひどくなると一種の恐怖さえ伴って来て眼を閉いではいられなくなる。
彼は、このごろ、それが、妖術(ようじゅつ)を使えそうになる気持ちだと、思うことがあった。
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彼はこの頃それが妖術が使えそうになる気持だと思うことがあった。
それは、こんな妖術だった。
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それはこんな妖術であった。
子どものころ、弟と一緒に寝たりすると、彼はよく、うつぶせになって両手でかき(かこい)を作りながら(それが、牧場のつもりだった)
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子供の時、弟と一緒に寝たりなどすると、彼はよくうつっ伏せになって両手で墻を作りながら(それが牧場のつもりであった)
「芳雄君、この中に牛が見えるぞ」
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「芳雄君。この中に牛が見えるぜ」
と言いながら、弟をだました。
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と言いながら弟をだました。
両手にかこまれて、顔でふたをされた、シーツの上の暗やみの中に、そう言われれば、たくさんの牛や馬の姿が、想像されるのだった。――
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両手にかこまれて、顔で蓋をされた、敷布の上の暗黒のなかに、そう言えばたくさんの牛や馬の姿が想像されるのだった。――
彼は今、そんなことは、本当に可能だという気がした。
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彼は今そんなことはほんとうに可能だという気がした。
田園、平野、町なか、市場、劇場。
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田園、平野、市街、市場、劇場。
船着き場や、海。
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船着場や海。
そういった広大な、人や馬車や船や生き物でちりばめられた光景が、どうにかして、この暗やみの中へ、あらわれてくれるといい。
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そう言った広大な、人や車馬や船や生物でちりばめられた光景が、どうかしてこの暗黒のなかへ現われてくれるといい。
そして、それが、今にも見えてきそうだった。
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そしてそれが今にも見えて来そうだった。
耳にも、そのざわめきが伝わってくるように思えた。
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耳にもその騒音が伝わって来るように思えた。
はがきにいたずら書きをした彼の気持ちも、その変な、むずがゆさから来ているのだった。
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葉書へいたずら書きをした彼の気持も、その変てこなむず痒さから来ているのだった。
雨
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雨
八月も終わりになった。
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八月も終わりになった。
信子は、明日、町の学校の寄宿舎へ帰るらしかった。
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信子は明日市の学校の寄宿舎へ帰るらしかった。
指のけがが治ったので、天理様へお礼を言いに行ってきなさいと母に言われ、近所の人に連れられて、そのお礼もすませてきた。
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指の傷が癒ったので、天理様へ御礼に行って来いと母に言われ、近所の人に連れられて、そのお礼も済ませて来た。
その人が、この近所では、一番熱心な信者だった。
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その人がこの近所では最も熱心な信者だった。
「荷札は?」
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「荷札は?」
信子の大きな柳行李(やなぎごうり・旅行かばん)をしばってやっていた兄が、そう言った。
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信子の大きな行李を縛ってやっていた兄がそう言った。
「何を、立って見ているんだ」
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「何を立って見とるのや」
兄が、怒ったようにからかうと、信子は笑いながら探しに行った。
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兄が怒ったようにからかうと、信子は笑いながら捜しに行った。
「ないわ」
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「ないわ」
信子が、そう言って帰ってきた。
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信子がそんなに言って帰って来た。
「カフス(そで口の飾り)の古いので作ったら……」
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「カフスの古いので作ったら……」
と彼が言うと、兄は、
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と彼が言うと、兄は
「いや、まだたくさんあったはずだよ。あの引き出し、見たか」
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「いや、まだたくさんあったはずや。あの抽出し見たか」
信子は、見たと言った。
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信子は見たと言った。
「勝子が、また、しまいこんでるんじゃないかな。一度、見てごらん」
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「勝子がまた蔵い込んどるんやないかいな。いっぺん見てみ」
兄が、そう言って笑った。
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兄がそんなに言って笑った。
勝子は、自分の引き出しに、本当につまらないものまで拾ってきては、しまいこんでいた。
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勝子は自分の抽出しへごく下らないものまで拾って来ては蔵い込んでいた。
「荷札なら、ここだよ」
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「荷札ならここや」
母が、そう言って、「それ見たことか」というような、軽い笑顔をしながら持ってきた。
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母がそう言って、それ見たかというような軽い笑顔をしながら持って来た。
「やっぱり、年寄りがいないとだめだね」
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「やっぱり年寄がおらんとあかんて」
兄は、そんな、愛情のこもったことを言った。
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兄はそんな情愛の籠ったことを言った。
夜には、母が豆をいっていた。
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晩には母が豆を煎っていた。
「峻さん、あなたに、こんなのはどうですか」
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「峻さん。あんたにこんなのはどうですな」
そう言って、いりあげたものを、彼の方へ寄せた。
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そんなに言って煎りあげたのを彼の方へ寄せた。
「信子が寄宿舎へ持って帰るおみやげです。一升くらい持って帰っても、すぐにぺろっとなくなるそうで……」
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「信子が寄宿舎へ持って帰るお土産です。一升ほど持って帰っても、じきにぺろっと失くなるのやそうで……」
峻が、その話を聞きながら豆をかんでいると、裏口で音がして、信子が帰ってきた。
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峻が語を聴きながら豆を咬んでいると、裏口で音がして信子が帰って来た。
「貸してくれましたか」
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「貸してくれはったか」
「はい。裏に置いておきました」
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「はあ。裏へおいといた」
「雨が降るかもしれないから、ずっと中に入れておいで」
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「雨が降るかもしれんで、ずっとなかへ引き込んでおいで」
「はい。もう入れてあります」
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「はあ。ひき込んである」
「吉峰さんのおばさんが、明日お帰りですかって……」
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「吉峰さんのおばさんがあしたお帰りですかて……」
信子は、何だかおかしそうに、言葉を止めた。
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信子は何かおかしそうに言葉を杜断らせた。
「明日お帰りですかって?」
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「あしたお帰りですかて?」
母が聞き返した。
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母が聞きかえした。
吉峰さんのおばさんに、「いつお帰りですか。明日お帰りですか」
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吉峰さんのおばさんに「いつお帰りです。あしたお帰りですか」
と聞かれて、信子がまごついて、「ええ、明日お帰りです」
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と訊かれて、信子が間誤ついて「ええ、あしたお帰りです」
と言ったという話だった。
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と言ったという話だった。
母や彼が笑うと、信子は少し顔を赤くした。
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母や彼が笑うと、信子は少し顔を赧くした。
借りてきたのは、うば車だった。
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借りて来たのは乳母車だった。
「明日、一番の汽車で出発するので、荷物(行李)を乗せて、駅まで送っていってあげます」
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「明日一番で立つのを、行李乗せて停車場まで送って行てやります」
母が、そう言って、わけを話した。
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母がそんなに言ってわけを話した。
大変だな、と彼は思っていた。
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大変だな、と彼は思っていた。
「勝子も行くの?」
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「勝子も行くて?」
信子が聞くと、
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信子が訊くと、
「行くんだと言って、今夜は早くからおやすみだよ」
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「行くのやと言うて、今夜は早うからおやすみや」
と母が言った。
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と母が言った。
彼は、朝も早いのに荷物を出すなんて面倒だから、今夜のうちに切符を買って、先に荷物として送ってしまえばいいと思って、
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彼は、朝も早いのに荷物を出すなんて面倒だから、今夜のうちに切符を買って、先へ手荷物で送ってしまったらいいと思って、
「僕、今から持って行ってきましょうか」
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「僕、今から持って行って来ましょうか」
と言ってみた。
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と言ってみた。
ひとつには、彼自身、見えを張るところがあるので、年ごろの信子の気持ちを先回りしたつもりだった。
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一つには、彼自身体裁屋なので、年頃の信子の気持を先廻りしたつもりであった。
しかし、母と信子があまりに「かまわない、かまわない」
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しかし母と信子があまり「かまわない、かまわない」
と言うので、あちらにまかせてしまった。
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と言うのであちらまかせにしてしまった。
母と娘とめいの三人が、夏の朝の明け方に、一人はうば車をおし、身じたく(いでたち)をしたもう一人に、手を引かれながら、駅に向かってゆく――その出発の様子を、彼は心に思いうかべてみた。
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母と娘と姪が、夏の朝の明け方を三人で、一人は乳母車をおし、一人はいでたちをした一人に手を曳かれ、停車場へ向かってゆく、その出発を彼は心に浮かべてみた。
美しかった。
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美しかった。
「お互い、心の中で、そういう出発の楽しさを、あてにしているのではないだろうか」
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「お互いの心の中でそうした出発の楽しさをあてにしているのじゃなかろうか」
そして、彼は、心が清く洗われるのを感じた。
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そして彼は心が清く洗われるのを感じた。
その夜も、眠りにくい夜だった。
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夜はその夜も眠りにくかった。
十二時ごろ、夕立があった。
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十二時頃夕立がした。
その続きを、彼は楽しみに待ちながら寝ていた。
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その続きを彼は心待ちに寝ていた。
しばらくすると、それが、遠くからまた近づいてくる音がした。
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しばらくするとそれが遠くからまた歩み寄せて来る音がした。
虫の声が、雨の音に変わった。
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虫の声が雨の音に変わった。
しばらくすると、それは、また町の方へ通り過ぎていった。
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ひとしきりするとそれはまた町の方へ過ぎて行った。
蚊帳(かや)をまくって起き上がり、雨戸を一枚あけた。
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蚊帳をまくって起きて出、雨戸を一枚繰った。
城の本丸に、電灯が輝いていた。
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城の本丸に電燈が輝いていた。
雨にぬれてつやを得た木の葉が、その明かりの下で、数えきれない、魚のうろこのような光を放っていた。
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雨に光沢を得た樹の葉がその灯の下で数知れない魚鱗のような光を放っていた。
また、夕立が来た。
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また夕立が来た。
彼は、しきいの上に腰をかけて、雨で足を冷やした。
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彼は閾の上へ腰をかけ、雨で足を冷やした。
目の下にある長屋の一軒の戸が開いて、寝間着すがたの若い女の人が、ポンプへ水をくみに来た。
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眼の下の長屋の一軒の戸が開いて、ねまき姿の若い女が喞筒へ水を汲みに来た。
雨あしが強くなって、雨どい(とゆ)が、ごくりごくりとのどを鳴らしはじめた。
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雨の脚が強くなって、とゆがごくりごくり喉を鳴らし出した。
気がつくと、白い猫が一匹、よその家ののき下をわたっていった。
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気がつくと、白い猫が一匹、よその家の軒下をわたって行った。
信子の着物が、物干しざおにかかったまま、雨の中にあった。
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信子の着物が物干竿にかかったまま雨の中にあった。
つつそでの、ふだん着ていた浴衣(ゆかた)で、彼が一番見なれている着物だった。
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筒袖の、平常着ていたゆかたで彼の一番眼に慣れた着物だった。
そのせいか、見ていると、不思議なくらい、信子の体つきが、目の前にうかんでくるようだった。
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その故か、見ていると不思議なくらい信子の身体つきが髣髴とした。
夕立は、また町の方へ行ってしまった。
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夕立はまた町の方へ行ってしまった。
遠くで、その音がしている。
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遠くでその音がしている。
「チン、チン」
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「チン、チン」
「チン、チン」
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「チン、チン」
鳴きはじめたこおろぎの声にまじって、きめの細かい玉を、かたい金属ではじくような音の虫も、鳴きはじめた。
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鳴きだしたこおろぎの声にまじって、質の緻密な玉を硬度の高い金属ではじくような虫も鳴き出した。
彼は、まだ熱い額を感じながら、城をこえて、もう一つ、夕立が来るのを待っていた。
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彼はまだ熱い額を感じながら、城を越えてもう一つ夕立が来るのを待っていた。