猫の事務所 ……ある小さな官衙に関する幻想…… 小学生向け
宮沢賢治(みやざわけんじ)・1986年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23)
かんたんな鉄道の駅の近くに、猫の第六事務所がありました。
原文を見る
軽便鉄道の停車場のちかくに、猫の第六事務所がありました。
ここは主に、猫の歴史と地理を調べるところでした。
原文を見る
ここは主に、猫の歴史と地理をしらべるところでした。
書記(しょき・事務所で書き物をする仕事の人)はみんな、短い黒いつやつやした服を着ていて、とても多くの猫から尊敬されていましたから、何かの事情で書記をやめる人が出ると、そのあたりの若い猫はどれもこれも、みんなそのあとに入りたがって大さわぎをしました。
原文を見る
書記はみな、短い黒の繻子の服を着て、それに大へんみんなに尊敬されましたから、何かの都合で書記をやめるものがあると、そこらの若い猫は、どれもどれも、みんなそのあとへ入りたがつてばたばたしました。
けれども、この事務所の書記の数はいつも四人だけと決まっていましたから、たくさんの中で一番字がうまくて詩(し)が読めるものが、一人やっと選ばれるだけでした。
原文を見る
けれども、この事務所の書記の数はいつもただ四人ときまつてゐましたから、その沢山の中で一番字がうまく詩の読めるものが、一人やつとえらばれるだけでした。
事務長(じむちょう・事務所のおさ)は大きな黒猫で、少しぼんやりしてきてはいましたが、目などは中に銅の線が何重にも張ってあるかのように、じつにりっぱにできていました。
原文を見る
事務長は大きな黒猫で、少しもうろくしてはゐましたが、眼などは中に銅線が幾重も張つてあるかのやうに、じつに立派にできてゐました。
さてその部下は、
原文を見る
さてその部下の
一番書記は白猫でした、
原文を見る
一番書記は白猫でした、
二番書記はとら猫でした、
原文を見る
二番書記は虎猫でした、
三番書記は三毛猫でした、
原文を見る
三番書記は三毛猫でした、
四番書記はかま猫でした。
原文を見る
四番書記は竃猫でした。
かま猫というのは、生まれつきそういう猫がいるわけではありません。
原文を見る
竃猫といふのは、これは生れ付きではありません。
生まれつきはどんな猫でもいいのですが、夜にかまどの中に入って眠る癖があるために、いつも体がすすで汚く、とくに鼻と耳には真っ黒にすみがついて、なんだかたぬきのような猫のことをいうのです。
原文を見る
生れ付きは何猫でもいいのですが、夜かまどの中にはひつてねむる癖があるために、いつでもからだが煤できたなく、殊に鼻と耳にはまつくろにすみがついて、何だか狸のやうな猫のことを云ふのです。
ですからかま猫は、ほかの猫からは嫌われます。
原文を見る
ですからかま猫はほかの猫には嫌はれます。
けれどもこの事務所では、なにせ事務長が黒猫なものですから、このかま猫も、ふつうなら勉強がどんなにできても、とても書記になんかなれないはずなのに、四十人の中から選び出されたのです。
原文を見る
けれどもこの事務所では、何せ事務長が黒猫なもんですから、このかま猫も、あたり前ならいくら勉強ができても、とても書記なんかになれない筈のを、四十人の中からえらびだされたのです。
大きな事務所のまん中に、事務長の黒猫が真っ赤なラシャ(厚い毛織物)をかけたテーブルを前にどっかりと腰かけ、その右側に一番の白猫と三番の三毛猫、左側に二番のとら猫と四番のかま猫が、それぞれ小さなテーブルを前にして、きちんとイスに座っていました。
原文を見る
大きな事務所のまん中に、事務長の黒猫が、まつ赤な羅紗をかけた卓を控へてどつかり腰かけ、その右側に一番の白猫と三番の三毛猫、左側に二番の虎猫と四番のかま猫が、めいめい小さなテーブルを前にして、きちんと椅子にかけてゐました。
ところで猫に、地理だの歴史だのが何の役に立つのかといいますと、
原文を見る
ところで猫に、地理だの歴史だの何になるかと云ひますと、
まあこんな感じです。
原文を見る
まあこんな風です。
事務所の扉をこつこつたたくものがあります。
原文を見る
事務所の扉をこつこつ叩くものがあります。
「入れ。」
原文を見る
「はひれつ。」
事務長の黒猫が、ポケットに手を入れてふんぞり返ってどなりました。
原文を見る
事務長の黒猫が、ポケツトに手を入れてふんぞりかへつてどなりました。
四人の書記は下を向いて、いそがしそうに帳面(ちょうめん・記録帳)を調べています。
原文を見る
四人の書記は下を向いていそがしさうに帳面をしらべてゐます。
ぜいたく猫が入って来ました。
原文を見る
ぜいたく猫がはひつて来ました。
「何の用だ。」
原文を見る
「何の用だ。」
事務長が言います。
原文を見る
事務長が云ひます。
「わしは氷河ネズミ(ひょうがねずみ)を食べにベーリング地方へ行きたいのだが、どのあたりが一番いいだろう。」
原文を見る
「わしは氷河鼠を食ひにベーリング地方へ行きたいのだが、どこらがいちばんいいだらう。」
「うん、一番書記、氷河ネズミの産地を言え。」
原文を見る
「うん、一番書記、氷河鼠の産地を云へ。」
一番書記は、青い表紙の大きな帳面を開いて答えました。
原文を見る
一番書記は、青い表紙の大きな帳面をひらいて答へました。
「ウステラゴメナ、ノバスカイヤ、フサ川流域であります。」
原文を見る
「ウステラゴメナ、ノバスカイヤ、フサ河流域であります。」
事務長はぜいたく猫に言いました。
原文を見る
事務長はぜいたく猫に云ひました。
「ウステラゴメナ、ノバ………何と言ったかな。」
原文を見る
「ウステラゴメナ、ノバ………何と云つたかな。」
「ノバスカイヤ。」
原文を見る
「ノバスカイヤ。」
一番書記とぜいたく猫が同時に言いました。
原文を見る
一番書記とぜいたく猫がいつしよに云ひました。
「そう、ノバスカイヤ、それから何!?」
原文を見る
「さう、ノバスカイヤ、それから何!?」
「フサ川。」
原文を見る
「フサ川。」
またぜいたく猫が一番書記といっしょに言ったので、事務長は少し決まり悪そうでした。
原文を見る
またぜいたく猫が一番書記といつしよに云つたので、事務長は少しきまり悪さうでした。
「そうそう、フサ川。まああそこらがいいだろうな。」
原文を見る
「さうさう、フサ川。まああそこらがいいだらうな。」
「それで、旅行についての注意はどんなものだろう。」
原文を見る
「で旅行についての注意はどんなものだらう。」
「うん、二番書記、ベーリング地方の旅行の注意を述べよ。」
原文を見る
「うん、二番書記、ベーリング地方旅行の注意を述べよ。」
「はい。」
原文を見る
「はつ。」
二番書記は自分の帳面をめくりました。
原文を見る
二番書記はじぶんの帳面を繰りました。
「夏の猫は旅行にまったく向かない」
原文を見る
「夏猫は全然旅行に適せず」
するとどういうわけか、このときみんながかま猫の方をじろっと見ました。
原文を見る
するとどういふわけか、この時みんながかま猫の方をじろつと見ました。
「冬の猫もまた、細心の注意が必要だ。函館(はこだて)付近では、馬肉でわなにかけられる危険がある。とくに黒猫は、ちゃんと猫であることをはっきり示しながら旅行しないと、よく黒ギツネとまちがえられて、本気で追いかけられることがある。」
原文を見る
「冬猫もまた細心の注意を要す。函館付近、馬肉にて釣らるる危険あり。特に黒猫は充分に猫なることを表示しつつ旅行するに非れば、応々黒狐と誤認せられ、本気にて追跡さるることあり。」
「よし、今言った通りだ。あなたは私のように黒猫ではないから、まあ大した心配はないだろう。函館で馬肉に気をつけるくらいのものだ。」
原文を見る
「よし、いまの通りだ。貴殿は我輩のやうに黒猫ではないから、まあ大した心配はあるまい。函館で馬肉を警戒するぐらゐのところだ。」
「そう、で、向こうの力のある人はどんな人だろう。」
原文を見る
「さう、で、向ふでの有力者はどんなものだらう。」
「三番書記、ベーリング地方の有力者の名前を挙げよ。」
原文を見る
「三番書記、ベーリング地方有力者の名称を挙げよ。」
「はい、えーと、ベーリング地方の有力者は、はい、トバスキー、ゲンゾスキー、二名であります。」
原文を見る
「はい、えゝと、ベーリング地方と、はい、トバスキー、ゲンゾスキー、二名であります。」
「トバスキーとゲンゾスキーというのは、どんなやつらかな。」
原文を見る
「トバスキーとゲンゾスキーといふのは、どういふやうなやつらかな。」
「四番書記、トバスキーとゲンゾスキーについてだいたいのことを述べよ。」
原文を見る
「四番書記、トバスキーとゲンゾスキーについて大略を述べよ。」
「はい。」
原文を見る
「はい。」
四番書記のかま猫は、もう大きな台帳のトバスキーとゲンゾスキーのところに、短い手を一本ずつ入れて待っていました。
原文を見る
四番書記のかま猫は、もう大原簿のトバスキーとゲンゾスキーとのところに、みじかい手を一本づつ入れて待つてゐました。
それで事務長もぜいたく猫も、大変感心したようでした。
原文を見る
そこで事務長もぜいたく猫も、大へん感服したらしいのでした。
ところがほかの三人の書記は、いかにもばかにしたように横目で見て、へっと笑っていました。
原文を見る
ところがほかの三人の書記は、いかにも馬鹿にしたやうに横目で見て、ヘツとわらつてゐました。
かま猫は一生けん命、帳面を読み上げました。
原文を見る
かま猫は一生けん命帳面を読みあげました。
「トバスキー族長(ぞくちょう・集団のおさ)、人望があり目の光が鋭いが話すのが少し遅い。ゲンゾスキーは財産家で話すのが少し遅いが目の光は鋭い。」
原文を見る
「トバスキー酋長、徳望あり。眼光炯々たるも物を言ふこと少しく遅し、ゲンゾスキー財産家、物を言ふこと少しく遅けれども眼光炯々たり。」
「いや、それでわかりました。ありがとう。」
原文を見る
「いや、それでわかりました。ありがたう。」
ぜいたく猫は出て行きました。
原文を見る
ぜいたく猫は出て行きました。
こんなふうに、猫にはまあ便利なものでした。
原文を見る
こんな工合で、猫にはまあ便利なものでした。
ところが今のお話からちょうど半年ほどたったとき、とうとうこの第六事務所が廃止になってしまいました。
原文を見る
ところが今のおはなしからちやうど半年ばかりたつたとき、たうとうこの第六事務所が廃止になつてしまひました。
というわけは、もうみなさんもお気づきでしょうが、四番書記のかま猫は、上の三人の書記からひどく憎まれていましたし、とくに三番書記の三毛猫は、このかま猫の仕事を自分がやってみたくてたまらなくなったのです。
原文を見る
といふわけは、もうみなさんもお気づきでせうが、四番書記のかま猫は、上の方の三人の書記からひどく憎まれてゐましたし、ことに三番書記の三毛猫は、このかま猫の仕事をじぶんがやつて見たくてたまらなくなつたのです。
かま猫は、なんとかみんなに良く思われようといろいろ工夫をしましたが、どうもかえってうまくいきませんでした。
原文を見る
かま猫は、何とかみんなによく思はれようといろいろ工夫をしましたが、どうもかへつていけませんでした。
たとえば、ある日となりのとら猫が、昼のお弁当を机の上に出して食べ始めようとしたとき、急にあくびに見舞われました。
原文を見る
たとへば、ある日となりの虎猫が、ひるのべんたうを、机の上に出してたべはじめようとしたときに、急にあくびに襲はれました。
そこでとら猫は、短い両手をできるかぎり高く伸ばして、ずいぶん大きなあくびをやりました。
原文を見る
そこで虎猫は、みじかい両手をあらんかぎり高く延ばして、ずゐぶん大きなあくびをやりました。
これは猫の仲間では、目上の人にも失礼なことでも何でもなく、人間でいえばひげをひねるくらいのことですから、それはかまわないのですけれど、いけないことは、足をふんばったせいでテーブルが少し傾いて、弁当箱がするするっと滑って、とうとうがたっと事務長の前の床に落ちてしまったのです。
原文を見る
これは猫仲間では、目上の人にも無礼なことでも何でもなく、人ならばまづ鬚でもひねるぐらゐのところですから、それはかまひませんけれども、いけないことは、足をふんばつたために、テーブルが少し坂になつて、べんたうばこがするするつと滑つて、たうとうがたつと事務長の前の床に落ちてしまつたのです。
それはでこぼこにはなりましたが、アルミニウムでできていましたから、大丈夫こわれませんでした。
原文を見る
それはでこぼこではありましたが、アルミニユームでできてゐましたから、大丈夫こはれませんでした。
そこでとら猫は急いであくびを切り上げて、机の上から手を伸ばしてそれを取ろうとしましたが、やっと手が届くか届かないかくらいなので、弁当箱はあっちへ行ったりこっちに寄ったりして、なかなかうまくつかめませんでした。
原文を見る
そこで虎猫は急いであくびを切り上げて、机の上から手をのばして、それを取らうとしましたが、やつと手がかかるかかからないか位なので、べんたうばこは、あつちへ行つたりこつちへ寄つたり、なかなかうまくつかまりませんでした。
「君、だめだよ。届かないよ。」
原文を見る
「君、だめだよ。とどかないよ。」
と事務長の黒猫が、もしやもしやパンを食べながら笑って言いました。
原文を見る
と事務長の黒猫が、もしやもしやパンを喰べながら笑つて云ひました。
そのとき四番書記のかま猫も、ちょうど弁当の蓋を開けたところでしたが、それを見てすばやく立って、弁当を拾ってとら猫に渡そうとしました。
原文を見る
その時四番書記のかま猫も、ちやうどべんたうの蓋を開いたところでしたが、それを見てすばやく立つて、弁当を拾つて虎猫に渡さうとしました。
ところがとら猫は急にひどく怒り出して、せっかくかま猫が差し出した弁当も受け取らず、手を後ろに回して、やけになって体を振りながらどなりました。
原文を見る
ところが虎猫は急にひどく怒り出して、折角かま猫の出した弁当も受け取らず、手をうしろに廻して、自暴にからだを振りながらどなりました。
「何だい。君は僕にこの弁当を食べろというのかい。机から床に落ちた弁当を君は僕に食べろというのかい。」
原文を見る
「何だい。君は僕にこの弁当を喰べろといふのかい。机から床の上へ落ちた弁当を君は僕に喰へといふのかい。」
「いいえ、あなたが拾おうとなさるものですから、拾ってあげただけでございます。」
原文を見る
「いいえ、あなたが拾はうとなさるもんですから、拾つてあげただけでございます。」
「いつ僕が拾おうとしたんだ。うん。僕はただ、それが事務長さんの前に落ちてあまりに失礼なものだから、僕の机の下に押し込もうと思っただけだ。」
原文を見る
「いつ僕が拾はうとしたんだ。うん。僕はただそれが事務長さんの前に落ちてあんまり失礼なもんだから、僕の机の下へ押し込まうと思つたんだ。」
「そうですか。私はまた、あまりに弁当があちこち動くものですから……」
原文を見る
「さうですか。私はまた、あんまり弁当があつちこつち動くもんですから…………」
「何だと、失礼な。決闘を……」
原文を見る
「何だと失敬な。決闘を………」
「ジャラジャラジャラジャラン。」
原文を見る
「ジヤラジヤラジヤラジヤラン。」
事務長が高くどなりました。
原文を見る
事務長が高くどなりました。
これは決闘をしろと言い切らせないために、わざとじゃまをしたのです。
原文を見る
これは決闘をしろと云つてしまはせない為に、わざと邪魔をしたのです。
「いや、けんかするのはやめなさい。かま猫君も虎猫君に食べさせようと思って拾ったわけではないだろう。それから今朝言うのを忘れたが、虎猫君は月給が十銭上がったよ。」
原文を見る
「いや、喧嘩するのはよしたまへ。かま猫君も虎猫君に喰べさせようといふんで拾つたんぢやなからう。それから今朝云ふのを忘れたが虎猫君は月給が十銭あがつたよ。」
虎猫は、はじめは怖い顔をしてそれでも頭を下げて聴いていましたが、とうとう喜んで笑い出しました。
原文を見る
虎猫は、はじめは恐い顔をしてそれでも頭を下げて聴いてゐましたが、たうとう、よろこんで笑ひ出しました。
「どうもお騒がせいたしまして申し訳ございません。」
原文を見る
「どうもおさわがせいたしましてお申しわけございません。」
それからとなりのかま猫をじろっと見て腰かけました。
原文を見る
それからとなりのかま猫をじろつと見て腰掛けました。
みなさん、僕はかま猫に同情します。
原文を見る
みなさんぼくはかま猫に同情します。
それからまた五、六日たって、ちょうどこれに似たことが起きたのです。
原文を見る
それから又五六日たつて、丁度これに似たことが起つたのです。
こんなことがたびたび起きるわけは、一つには猫たちのなまけたところと、もう一つは猫の前あし、つまり手が、あまりにも短いためです。
原文を見る
こんなことがたびたび起るわけは、一つは猫どもの無精なたちと、も一つは猫の前あし即ち手が、あんまり短いためです。
今度は向こうの三番書記の三毛猫が、朝仕事を始める前に、筆がぽろぽろところがって、とうとう床に落ちました。
原文を見る
今度は向ふの三番書記の三毛猫が、朝仕事を始める前に、筆がポロポロころがつて、たうとう床に落ちました。
三毛猫はすぐ立てばいいのを、面倒くさがって早速前ととら猫がやった通り、両手を机越しに伸ばして、それを拾い上げようとしました。
原文を見る
三毛猫はすぐ立てばいいのを、骨惜みして早速前に虎猫のやつた通り、両手を机越しに延ばして、それを拾ひ上げようとしました。
今度もやっぱり届きません。
原文を見る
今度もやつぱり届きません。
三毛猫はとくに背が低かったので、だんだん乗り出して、とうとう足がイスからはなれてしまいました。
原文を見る
三毛猫は殊にせいが低かつたので、だんだん乗り出して、たうとう足が腰掛けからはなれてしまひました。
かま猫は拾ってやろうかやるまいか、この前のこともありますので、しばらくためらって目をぱちぱちさせていましたが、とうとう見ていられなくなって、立ち上がりました。
原文を見る
かま猫は拾つてやらうかやるまいか、この前のこともありますので、しばらくためらつて眼をパチパチさせて居ましたが、たうとう見るに見兼ねて、立ちあがりました。
ところがちょうどこのとき、三毛猫はあまり乗り出しすぎてがたんとひっくり返って、ひどく頭をぶつけて机から落ちました。
原文を見る
ところが丁度この時に、三毛猫はあんまり乗り出し過ぎてガタンとひつくり返つてひどく頭をついて机から落ちました。
それがかなりひどい音でしたから、事務長の黒猫もびっくりして立ち上がって、うしろの棚から気付けのアンモニア水のびんを取りました。
原文を見る
それが大分ひどい音でしたから、事務長の黒猫もびつくりして立ちあがつて、うしろの棚から、気付けのアンモニア水の瓶を取りました。
ところが三毛猫はすぐ起き上がって、かんしゃくまぎれにいきなり、
原文を見る
ところが三毛猫はすぐ起き上つて、かんしやくまぎれにいきなり、
「かま猫、きさまはよくも僕を押し倒したな。」
原文を見る
「かま猫、きさまはよくも僕を押しのめしたな。」
とどなりました。
原文を見る
とどなりました。
今度はしかし、事務長がすぐ三毛猫をなだめました。
原文を見る
今度はしかし、事務長がすぐ三毛猫をなだめました。
「いや、三毛君。それは君のまちがいだよ。
原文を見る
「いや、三毛君。それは君のまちがひだよ。
かま猫君は親切心でちょっと立っただけで、君に触りも何もしていない。
原文を見る
かま猫君は好意でちよつと立つただけだ、君にさはりも何もしない。
しかしまあ、こんな小さなことは、何でもないじゃないか。
原文を見る
しかしまあ、こんな小さなことは、なんでもありやしないぢやないか。
さあ、えーとサントンタンの転居届けと。
原文を見る
さあ、えゝとサントンタンの転居届けと。
えー。」
原文を見る
えゝ。」
事務長はさっさと仕事にかかりました。
原文を見る
事務長はさつさと仕事にかかりました。
そこで三毛猫も仕方なく仕事にかかり始めましたが、やっぱりたびたび怖い目をしてかま猫を見ていました。
原文を見る
そこで三毛猫も、仕方なく、仕事にかかりはじめましたがやつぱりたびたびこはい目をしてかま猫を見てゐました。
こんな調子ですから、かま猫はじつにつらいのでした。
原文を見る
こんな工合ですからかま猫はじつにつらいのでした。
かま猫はふつうの猫になろうと、何度も窓の外で寝てみましたが、どうしても夜中に寒くてくしゃみが出てたまらないので、やっぱり仕方なくかまどの中に入るのでした。
原文を見る
かま猫はあたりまへの猫にならうと何べん窓の外にねて見ましたが、どうしても夜中に寒くてくしやみが出てたまらないので、やつぱり仕方なく竈のなかに入るのでした。
なぜそんなに寒くなるかというと、皮が薄いためで、なぜ皮が薄いかというと、それは夏の暑い土用(どよう)に生まれたからです。
原文を見る
なぜそんなに寒くなるかといふのに皮がうすいためで、なぜ皮が薄いかといふのに、それは土用に生れたからです。
やっぱり僕が悪いんだ、仕方がないなあと、かま猫は考えて、涙を丸い目いっぱいにためました。
原文を見る
やつぱり僕が悪いんだ、仕方ないなあと、かま猫は考へて、なみだをまん円な眼一杯にためました。
けれども事務長さんがあんなに親切にしてくださる、それにかま猫仲間のみんながあんなに僕が事務所にいることを誇りに思って喜ぶのだ、どんなにつらくても僕はやめないぞ、きっとこらえるぞと、かま猫は泣きながら、こぶしを握りしめました。
原文を見る
けれども事務長さんがあんなに親切にして下さる、それにかま猫仲間のみんながあんなに僕の事務所に居るのを名誉に思つてよろこぶのだ、どんなにつらくてもぼくはやめないぞ、きつとこらへるぞと、かま猫は泣きながら、にぎりこぶしを握りました。
ところがその事務長も、あてにならなくなりました。
原文を見る
ところがその事務長も、あてにならなくなりました。
それは猫なんていうものは、賢いようで馬鹿なものです。
原文を見る
それは猫なんていふものは、賢いやうでばかなものです。
あるとき、かま猫は運悪く風邪を引いて、足の付け根をお椀のようにはらし、どうしても歩けませんでしたから、とうとう一日休んでしまいました。
原文を見る
ある時、かま猫は運わるく風邪を引いて、足のつけねを椀のやうに腫らし、どうしても歩けませんでしたから、たうとう一日やすんでしまひました。
かま猫の苦しみようといったらありません。
原文を見る
かま猫のもがきやうといつたらありません。
泣いて泣いて泣きました。
原文を見る
泣いて泣いて泣きました。
納屋(なや・物置小屋)の小さな窓から差し込んでくる黄色い光を眺めながら、一日中目をこすって泣いていました。
原文を見る
納屋の小さな窓から射し込んで来る黄いろな光をながめながら、一日一杯眼をこすつて泣いてゐました。
その間に事務所ではこんなことがありました。
原文を見る
その間に事務所ではかういふ風でした。
「はてな、今日はかま猫君がまだ来ないね。遅いね。」
原文を見る
「はてな、今日はかま猫君がまだ来んね。遅いね。」
と事務長が、仕事の合間に言いました。
原文を見る
と事務長が、仕事のたえ間に云ひました。
「なあに、海岸へでも遊びに行ったんでしょう。」
原文を見る
「なあに、海岸へでも遊びに行つたんでせう。」
白猫が言いました。
原文を見る
白猫が云ひました。
「いやどこかの宴会(えんかい・お祝いの食事会)にでも呼ばれて行ったんだろう」
原文を見る
「いゝやどこかの宴会にでも呼ばれて行つたらう」
とら猫が言いました。
原文を見る
虎猫が云ひました。
「今日どこかに宴会があるか。」
原文を見る
「今日どこかに宴会があるか。」
事務長はびっくりしてたずねました。
原文を見る
事務長はびつくりしてたづねました。
猫の宴会に自分が呼ばれないものなどあるはずはないと思ったのです。
原文を見る
猫の宴会に自分の呼ばれないものなどある筈はないと思つたのです。
「何でも北の方で開校式があるとか言っていましたよ。」
原文を見る
「何でも北の方で開校式があるとか云ひましたよ。」
「そうか。」
原文を見る
「さうか。」
黒猫はだまって考え込みました。
原文を見る
黒猫はだまつて考へ込みました。
「どうしてどうして、かま猫は、」
原文を見る
「どうしてどうしてかま猫は、」
三毛猫が言い出しました。
原文を見る
三毛猫が云ひ出しました。
「このごろはあちこちへ呼ばれているよ。何でも今度は自分が事務長になるとか言っているそうだ。だから馬鹿なやつらがこわがって、できるかぎりご機嫌をとるんだ。」
原文を見る
「この頃はあちこちへ呼ばれてゐるよ。何でもこんどは、おれが事務長になるとか云つてるさうだ。だから馬鹿なやつらがこはがつてあらんかぎりご機嫌をとるのだ。」
「本当かい。それは。」
原文を見る
「本たうかい。それは。」
黒猫がどなりました。
原文を見る
黒猫がどなりました。
「本当ですとも。お調べになってごらんなさい。」
原文を見る
「本たうですとも。お調べになつてごらんなさい。」
三毛猫が口をとがらせて言いました。
原文を見る
三毛猫が口を尖せて云ひました。
「けしからん。あいつは私がずいぶん目をかけてやってあるのに。よし。私にも考えがある。」
原文を見る
「けしからん。あいつはおれはよほど目をかけてやつてあるのだ。よし。おれにも考へがある。」
そして事務所はしばらくしんと静まりかえりました。
原文を見る
そして事務所はしばらくしんとしました。
さて次の日です。
原文を見る
さて次の日です。
かま猫は、やっと足のはれがひいたので、喜んで朝早く、ごうごうと風の吹く中を事務所へやって来ました。
原文を見る
かま猫は、やつと足のはれが、ひいたので、よろこんで朝早く、ごうごう風の吹くなかを事務所へ来ました。
するといつも来るとすぐ表紙をなでて見るほど大切にしていた自分の台帳が、自分の机の上からなくなって、向こうの隣の三つの机に分けてあります。
原文を見る
するといつも来るとすぐ表紙を撫でて見るほど大切な自分の原簿が、自分の机の上からなくなつて、向ふ隣り三つの机に分けてあります。
「ああ、昨日は忙しかったんだな、」
原文を見る
「ああ、昨日は忙がしかつたんだな、」
かま猫は、なぜか胸をどきどきさせながら、かすれた声で独り言を言いました。
原文を見る
かま猫は、なぜか胸をどきどきさせながら、かすれた声で独りごとしました。
ガタッ。
原文を見る
ガタツ。
扉が開いて三毛猫が入って来ました。
原文を見る
扉が開いて三毛猫がはひつて来ました。
「おはようございます。」
原文を見る
「お早うございます。」
かま猫は立ってあいさつしましたが、三毛猫はだまって腰かけて、あとはいかにも忙しそうに帳面をめくっています。
原文を見る
かま猫は立つて挨拶しましたが、三毛猫はだまつて腰かけて、あとはいかにも忙がしさうに帳面を繰つてゐます。
ガタン。
原文を見る
ガタン。
ぴしゃん。
原文を見る
ピシヤン。
とら猫が入って来ました。
原文を見る
虎猫がはひつて来ました。
「おはようございます。」
原文を見る
「お早うございます。」
かま猫は立ってあいさつしましたが、とら猫は見向きもしません。
原文を見る
かま猫は立つて挨拶しましたが、虎猫は見向きもしません。
「おはようございます。」
原文を見る
「お早うございます。」
三毛猫が言いました。
原文を見る
三毛猫が云ひました。
「おはよう、どうもひどい風だね。」
原文を見る
「お早う、どうもひどい風だね。」
とら猫もすぐ帳面をめくり始めました。
原文を見る
虎猫もすぐ帳面を繰りはじめました。
ガタッ、ぴしゃーん。
原文を見る
ガタツ、ピシヤーン。
白猫が入って来ました。
原文を見る
白猫が入つて来ました。
「おはようございます。」
原文を見る
「お早うございます。」
とら猫と三毛猫が一緒にあいさつしました。
原文を見る
虎猫と三毛猫が一緒に挨拶しました。
「いや、おはよう、ひどい風だね。」
原文を見る
「いや、お早う、ひどい風だね。」
白猫も忙しそうに仕事にかかりました。
原文を見る
白猫も忙がしさうに仕事にかかりました。
そのときかま猫は力なく立って、だまっておじぎをしましたが、白猫はまるで知らないふりをしています。
原文を見る
その時かま猫は力なく立つてだまつておじぎをしましたが、白猫はまるで知らないふりをしてゐます。
ガタン、ぴしゃり。
原文を見る
ガタン、ピシヤリ。
「ふう、ずいぶんひどい風だね。」
原文を見る
「ふう、ずゐぶんひどい風だね。」
事務長の黒猫が入って来ました。
原文を見る
事務長の黒猫が入つて来ました。
「おはようございます。」
原文を見る
「お早うございます。」
三人はすばやく立っておじぎをしました。
原文を見る
三人はすばやく立つておじぎをしました。
かま猫もぼんやり立って、下を向いたままおじぎをしました。
原文を見る
かま猫もぼんやり立つて、下を向いたまゝおじぎをしました。
「まるで暴風だね、ええ。」
原文を見る
「まるで暴風だね、えゝ。」
黒猫は、かま猫を見ないでそう言いながら、もうすぐ仕事を始めました。
原文を見る
黒猫は、かま猫を見ないで斯う言ひながら、もうすぐ仕事をはじめました。
「さあ、今日は昨日のつづきのアンモニアック兄弟を調べて回答しなければならん。二番書記、アンモニアック兄弟の中で、南極へ行ったのは誰だ。」
原文を見る
「さあ、今日は昨日のつづきのアンモニアツクの兄弟を調べて回答しなければならん。二番書記、アンモニアツク兄弟の中で、南極へ行つたのは誰だ。」
仕事が始まりました。
原文を見る
仕事がはじまりました。
かま猫はだまってうつむいていました。
原文を見る
かま猫はだまつてうつむいてゐました。
台帳がないのです。
原文を見る
原簿がないのです。
それを何とか言いたくても、もう声が出ませんでした。
原文を見る
それを何とか云ひたくつても、もう声が出ませんでした。
「パン・ポラリスであります。」
原文を見る
「パン、ポラリスであります。」
とら猫が答えました。
原文を見る
虎猫が答へました。
「よろしい、パン・ポラリスについてくわしく述べよ。」
原文を見る
「よろしい、パン、ポラリスを詳述せよ。」
と黒猫が言います。
原文を見る
と黒猫が云ひます。
ああ、これは僕の仕事だ、台帳、台帳、とかま猫はまるで泣くように思いました。
原文を見る
ああ、これはぼくの仕事だ、原簿、原簿、とかま猫はまるで泣くやうに思ひました。
「パン・ポラリス、南極探険からの帰り道、ヤップ島の沖で死亡、遺体(いたい・亡くなった人の体)は水に沈めて葬られる。」
原文を見る
「パン、ポラリス、南極探険の帰途、ヤツプ島沖にて死亡、遺骸は水葬せらる。」
一番書記の白猫が、かま猫の台帳で読んでいます。
原文を見る
一番書記の白猫が、かま猫の原簿で読んでゐます。
かま猫はもう悲しくて悲しくて、ほほのあたりが酸っぱくなり、そこらがきいんと鳴ったりするのをじっとこらえてうつむいていました。
原文を見る
かま猫はもうかなしくて、かなしくて頬のあたりが酸つぱくなり、そこらがきいんと鳴つたりするのをじつとこらへてうつむいて居りました。
事務所の中は、だんだん忙しくなって、仕事はどんどん進みました。
原文を見る
事務所の中は、だんだん忙しく湯の様になつて、仕事はずんずん進みました。
みんな、ほんの時々、ちらっとこちらを見るだけで、ただ一言も言いません。
原文を見る
みんな、ほんの時々、ちらつとこつちを見るだけで、たゞ一ことも云ひません。
そしてお昼になりました。
原文を見る
そしておひるになりました。
かま猫は、持って来た弁当も食べず、じっとひざに手を置いてうつむいていました。
原文を見る
かま猫は、持つて来た弁当も喰べず、じつと膝に手を置いてうつむいて居りました。
とうとう昼過ぎの一時から、かま猫はしくしく泣き始めました。
原文を見る
たうとうひるすぎの一時から、かま猫はしくしく泣きはじめました。
そして夕方まで三時間ほど泣いたりやめたりまた泣き出したりしたのです。
原文を見る
そして晩方まで三時間ほど泣いたりやめたりまた泣きだしたりしたのです。
それでもみんなはそんなこと、まったく知らないといういふうに楽しそうに仕事をしていました。
原文を見る
それでもみんなはそんなこと、一向知らないといふやうに面白さうに仕事をしてゐました。
そのときです。
原文を見る
その時です。
猫たちは気が付きませんでしたが、事務長のうしろの窓の向こうに、威厳(いげん)のある獅子(しし・ライオン)の金色の頭が見えました。
原文を見る
猫どもは気が付きませんでしたが、事務長のうしろの窓の向ふにいかめしい獅子の金いろの頭が見えました。
獅子は不思議そうに、しばらく中を見ていましたが、いきなり戸口をたたいて入って来ました。
原文を見る
獅子は不審さうに、しばらく中を見てゐましたが、いきなり戸口を叩いてはひつて来ました。
猫たちの驚きようといったらありません。
原文を見る
猫どもの愕ろきやうといつたらありません。
うろうろうろうろとそのあたりを歩き回るだけです。
原文を見る
うろうろうろうろそこらをあるきまはるだけです。
かま猫だけが泣くのをやめて、まっすぐに立ちました。
原文を見る
かま猫だけが泣くのをやめて、まつすぐに立ちました。
獅子が大きなしっかりした声で言いました。
原文を見る
獅子が大きなしつかりした声で云ひました。
「お前たちは何をしているのか。そんなことで地理も歴史も役に立ったためしはない。やめてしまえ。えい。解散を命ずる」
原文を見る
「お前たちは何をしてゐるか。そんなことで地理も歴史も要つたはなしでない。やめてしまへ。えい。解散を命ずる」
こうして事務所は廃止になりました。
原文を見る
かうして事務所は廃止になりました。
僕は半分、獅子に同感です。
原文を見る
ぼくは半分獅子に同感です。