猫の事務所 ……ある小さな官衙に関する幻想…… 現代語訳
宮沢賢治(みやざわけんじ)・1986年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23)
軽便鉄道の駅の近くに、猫の第六事務所がありました。
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軽便鉄道の停車場のちかくに、猫の第六事務所がありました。
ここは主に、猫の歴史と地理を調べるところでした。
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ここは主に、猫の歴史と地理をしらべるところでした。
書記はみんな、短い黒いサテンの服を着ていて、おまけに周りからとても尊敬されていたので、何かの事情で書記をやめる人が出ると、近所の若い猫はどいつもこいつもそのあとに入りたがって大騒ぎになりました。
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書記はみな、短い黒の繻子の服を着て、それに大へんみんなに尊敬されましたから、何かの都合で書記をやめるものがあると、そこらの若い猫は、どれもどれも、みんなそのあとへ入りたがつてばたばたしました。
けれどもこの事務所の書記の数はいつもきっちり四人と決まっていたので、大勢の中で一番字がうまくて詩が読めるものが、一人やっと選ばれるだけでした。
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けれども、この事務所の書記の数はいつもただ四人ときまつてゐましたから、その沢山の中で一番字がうまく詩の読めるものが、一人やつとえらばれるだけでした。
事務長は大きな黒猫で、少しぼけてはいましたが、目は中に銅線が何重にも張ってあるかのように、じつに立派な作りでした。
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事務長は大きな黒猫で、少しもうろくしてはゐましたが、眼などは中に銅線が幾重も張つてあるかのやうに、じつに立派にできてゐました。
さてその部下の
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さてその部下の
一番書記は白猫でした、
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一番書記は白猫でした、
二番書記はトラ猫でした、
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二番書記は虎猫でした、
三番書記はミケ猫でした、
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三番書記は三毛猫でした、
四番書記はかまど猫でした。
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四番書記は竃猫でした。
かまど猫というのは、生まれつきそういう種類なのではありません。
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竃猫といふのは、これは生れ付きではありません。
生まれはどんな猫でもいいのですが、夜かまどの中に入って眠る癖があるために、いつも体が煤で汚く、とくに鼻と耳は真っ黒に炭がついて、なんだかタヌキみたいになっている猫のことをそう言うのです。
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生れ付きは何猫でもいいのですが、夜かまどの中にはひつてねむる癖があるために、いつでもからだが煤できたなく、殊に鼻と耳にはまつくろにすみがついて、何だか狸のやうな猫のことを云ふのです。
だからかまど猫はほかの猫に嫌われます。
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ですからかま猫はほかの猫には嫌はれます。
けれどもこの事務所では、なにせ事務長が黒猫なので、このかまど猫も、普通なら「いくら勉強ができてもとても書記にはなれない」はずのところを、四十人の中から選び出されたのです。
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けれどもこの事務所では、何せ事務長が黒猫なもんですから、このかま猫も、あたり前ならいくら勉強ができても、とても書記なんかになれない筈のを、四十人の中からえらびだされたのです。
大きな事務所の真ん中に、事務長の黒猫が真っ赤なラシャを掛けたテーブルを前にどっかりと座り、その右側に一番の白猫と三番のミケ猫、左側に二番のトラ猫と四番のかまど猫が、それぞれ小さなテーブルを前にしてきちんと椅子に座っていました。
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大きな事務所のまん中に、事務長の黒猫が、まつ赤な羅紗をかけた卓を控へてどつかり腰かけ、その右側に一番の白猫と三番の三毛猫、左側に二番の虎猫と四番のかま猫が、めいめい小さなテーブルを前にして、きちんと椅子にかけてゐました。
ところで猫に、地理だの歴史だのが何の役に立つかといいますと、
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ところで猫に、地理だの歴史だの何になるかと云ひますと、
まあこんな感じです。
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まあこんな風です。
事務所の扉をコツコツ叩く者がいます。
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事務所の扉をこつこつ叩くものがあります。
「入れっ。」
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「はひれつ。」
事務長の黒猫が、ポケットに手を入れてふんぞり返って怒鳴りました。
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事務長の黒猫が、ポケツトに手を入れてふんぞりかへつてどなりました。
四人の書記は下を向いて忙しそうに帳面を調べています。
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四人の書記は下を向いていそがしさうに帳面をしらべてゐます。
ぜいたく猫が入ってきました。
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ぜいたく猫がはひつて来ました。
「何の用だ。」
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「何の用だ。」
事務長が言います。
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事務長が云ひます。
「わしは氷河鼠を食いにベーリング地方へ行きたいのだが、どのあたりが一番いいだろう。」
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「わしは氷河鼠を食ひにベーリング地方へ行きたいのだが、どこらがいちばんいいだらう。」
「うん、一番書記、氷河鼠の産地を言え。」
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「うん、一番書記、氷河鼠の産地を云へ。」
一番書記は、青い表紙の大きな帳面を開いて答えました。
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一番書記は、青い表紙の大きな帳面をひらいて答へました。
「ウステラゴメナ、ノバスカイヤ、フサ川流域であります。」
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「ウステラゴメナ、ノバスカイヤ、フサ河流域であります。」
事務長はぜいたく猫に言いました。
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事務長はぜいたく猫に云ひました。
「ウステラゴメナ、ノバ………何と言ったかな。」
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「ウステラゴメナ、ノバ………何と云つたかな。」
「ノバスカイヤ。」
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「ノバスカイヤ。」
一番書記とぜいたく猫が一緒に言いました。
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一番書記とぜいたく猫がいつしよに云ひました。
「そう、ノバスカイヤ、それから何!?」
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「さう、ノバスカイヤ、それから何!?」
「フサ川。」
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「フサ川。」
またぜいたく猫が一番書記と一緒に言ったので、事務長は少し気まずそうでした。
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またぜいたく猫が一番書記といつしよに云つたので、事務長は少しきまり悪さうでした。
「そうそう、フサ川。まあそのあたりがいいだろうな。」
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「さうさう、フサ川。まああそこらがいいだらうな。」
「で、旅行に際しての注意はどんなものだろう。」
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「で旅行についての注意はどんなものだらう。」
「うん、二番書記、ベーリング地方旅行の注意を述べよ。」
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「うん、二番書記、ベーリング地方旅行の注意を述べよ。」
「はっ。」
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「はつ。」
二番書記は自分の帳面をめくりました。
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二番書記はじぶんの帳面を繰りました。
「夏猫は旅行にまったく向かない」
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「夏猫は全然旅行に適せず」
するとどういうわけか、この時みんながかまど猫の方をじろっと見ました。
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するとどういふわけか、この時みんながかま猫の方をじろつと見ました。
「冬猫もまた細心の注意が必要。函館付近では馬肉で釣られる危険あり。とくに黒猫は自分が猫であることをしっかり示しながら旅行しなければ、よく黒ギツネと間違われて、本気で追いかけられることがある。」
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「冬猫もまた細心の注意を要す。函館付近、馬肉にて釣らるる危険あり。特に黒猫は充分に猫なることを表示しつつ旅行するに非れば、応々黒狐と誤認せられ、本気にて追跡さるることあり。」
「よし、今言った通りだ。あなたは我輩のように黒猫ではないから、まあ大した心配はいらないだろう。函館で馬肉に気をつけるくらいのものだ。」
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「よし、いまの通りだ。貴殿は我輩のやうに黒猫ではないから、まあ大した心配はあるまい。函館で馬肉を警戒するぐらゐのところだ。」
「そう、で、向こうでの有力者はどんな人物だろう。」
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「さう、で、向ふでの有力者はどんなものだらう。」
「三番書記、ベーリング地方の有力者の名前を挙げよ。」
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「三番書記、ベーリング地方有力者の名称を挙げよ。」
「はい、えーと、ベーリング地方と、はい、トバスキー、ゲンゾスキー、二名であります。」
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「はい、えゝと、ベーリング地方と、はい、トバスキー、ゲンゾスキー、二名であります。」
「トバスキーとゲンゾスキーというのは、どういった人物かな。」
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「トバスキーとゲンゾスキーといふのは、どういふやうなやつらかな。」
「四番書記、トバスキーとゲンゾスキーについて概略を述べよ。」
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「四番書記、トバスキーとゲンゾスキーについて大略を述べよ。」
「はい。」
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「はい。」
四番書記のかまど猫は、すでに大元帳のトバスキーとゲンゾスキーのページに、短い手を一本ずつ入れて待っていました。
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四番書記のかま猫は、もう大原簿のトバスキーとゲンゾスキーとのところに、みじかい手を一本づつ入れて待つてゐました。
それを見て事務長もぜいたく猫も、たいへん感心したようでした。
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そこで事務長もぜいたく猫も、大へん感服したらしいのでした。
ところがほかの三人の書記は、いかにもバカにしたように横目でちらっと見て、へっと笑っていました。
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ところがほかの三人の書記は、いかにも馬鹿にしたやうに横目で見て、ヘツとわらつてゐました。
かまど猫は一生懸命帳面を読み上げました。
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かま猫は一生けん命帳面を読みあげました。
「トバスキー酋長、人望あり。眼光鋭いが話すのが少し遅い。ゲンゾスキーは資産家、話すのが少し遅いが眼光鋭い。」
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「トバスキー酋長、徳望あり。眼光炯々たるも物を言ふこと少しく遅し、ゲンゾスキー財産家、物を言ふこと少しく遅けれども眼光炯々たり。」
「いや、それでわかりました。ありがとう。」
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「いや、それでわかりました。ありがたう。」
ぜいたく猫は出て行きました。
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ぜいたく猫は出て行きました。
こういう具合に、猫にはまあ便利なものでした。
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こんな工合で、猫にはまあ便利なものでした。
ところが今のお話からちょうど半年ほど経ったとき、とうとうこの第六事務所が廃止になってしまいました。
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ところが今のおはなしからちやうど半年ばかりたつたとき、たうとうこの第六事務所が廃止になつてしまひました。
というのも、もうみなさんもお気づきでしょうが、四番書記のかまど猫は、上の三人の書記からひどく嫌われていましたし、とくに三番書記のミケ猫は、このかまど猫の仕事を自分がやってみたくてたまらなくなっていたのです。
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といふわけは、もうみなさんもお気づきでせうが、四番書記のかま猫は、上の方の三人の書記からひどく憎まれてゐましたし、ことに三番書記の三毛猫は、このかま猫の仕事をじぶんがやつて見たくてたまらなくなつたのです。
かまど猫は何とかみんなに好かれようといろいろ工夫しましたが、どうもかえってうまくいきませんでした。
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かま猫は、何とかみんなによく思はれようといろいろ工夫をしましたが、どうもかへつていけませんでした。
たとえば、ある日隣りのトラ猫が、昼のお弁当を机の上に出して食べ始めようとしたとき、急にあくびに襲われました。
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たとへば、ある日となりの虎猫が、ひるのべんたうを、机の上に出してたべはじめようとしたときに、急にあくびに襲はれました。
そこでトラ猫は、短い両手をできる限り高く伸ばして、ずいぶん大きなあくびをしました。
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そこで虎猫は、みじかい両手をあらんかぎり高く延ばして、ずゐぶん大きなあくびをやりました。
これは猫の仲間では目上の人への無礼でも何でもなく、人間でいえばひげをひねるくらいのことですから、それはかまわないのですが、まずかったのは、足を踏ん張ったせいでテーブルが少し傾いて、お弁当箱がするするっと滑って、とうとうガタンと事務長の前の床に落ちてしまったことです。
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これは猫仲間では、目上の人にも無礼なことでも何でもなく、人ならばまづ鬚でもひねるぐらゐのところですから、それはかまひませんけれども、いけないことは、足をふんばつたために、テーブルが少し坂になつて、べんたうばこがするするつと滑つて、たうとうがたつと事務長の前の床に落ちてしまつたのです。
でこぼこにはなりましたが、アルミニウムでできていたので、大丈夫壊れませんでした。
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それはでこぼこではありましたが、アルミニユームでできてゐましたから、大丈夫こはれませんでした。
そこでトラ猫は急いであくびを切り上げて、机の上から手を伸ばしてそれを拾おうとしましたが、やっと手が届くか届かないかくらいなので、お弁当箱はあっちへ行ったりこっちへ来たりして、なかなかうまくつかめませんでした。
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そこで虎猫は急いであくびを切り上げて、机の上から手をのばして、それを取らうとしましたが、やつと手がかかるかかからないか位なので、べんたうばこは、あつちへ行つたりこつちへ寄つたり、なかなかうまくつかまりませんでした。
「君、だめだよ。届かないよ。」
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「君、だめだよ。とどかないよ。」
と事務長の黒猫が、もしゃもしゃパンを食べながら笑って言いました。
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と事務長の黒猫が、もしやもしやパンを喰べながら笑つて云ひました。
その時四番書記のかまど猫も、ちょうどお弁当のふたを開けたところでしたが、それを見てさっと立って、お弁当を拾ってトラ猫に渡そうとしました。
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その時四番書記のかま猫も、ちやうどべんたうの蓋を開いたところでしたが、それを見てすばやく立つて、弁当を拾つて虎猫に渡さうとしました。
ところがトラ猫は急にひどく怒り出して、せっかくかまど猫が差し出したお弁当も受け取らず、手を後ろに回して、やけになって体を振りながら怒鳴りました。
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ところが虎猫は急にひどく怒り出して、折角かま猫の出した弁当も受け取らず、手をうしろに廻して、自暴にからだを振りながらどなりました。
「何だい。君は僕にこのお弁当を食べろと言うのかい。机から床に落ちたお弁当を君は僕に食えと言うのかい。」
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「何だい。君は僕にこの弁当を喰べろといふのかい。机から床の上へ落ちた弁当を君は僕に喰へといふのかい。」
「いいえ、あなたが拾おうとなさっていたので、拾ってさしあげただけでございます。」
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「いいえ、あなたが拾はうとなさるもんですから、拾つてあげただけでございます。」
「いつ僕が拾おうとしたんだ。うん。僕はただそれが事務長さんの前に落ちてあんまり失礼だから、僕の机の下に押し込もうと思っただけだ。」
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「いつ僕が拾はうとしたんだ。うん。僕はただそれが事務長さんの前に落ちてあんまり失礼なもんだから、僕の机の下へ押し込まうと思つたんだ。」
「そうですか。私はまた、あんまりお弁当があちこち動くものですから…………」
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「さうですか。私はまた、あんまり弁当があつちこつち動くもんですから…………」
「何だと、失敬な。決闘を………」
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「何だと失敬な。決闘を………」
「ジャラジャラジャラジャラン。」
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「ジヤラジヤラジヤラジヤラン。」
事務長が大きな声で怒鳴りました。
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事務長が高くどなりました。
これは決闘しろという言葉を言わせないために、わざと邪魔したのです。
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これは決闘をしろと云つてしまはせない為に、わざと邪魔をしたのです。
「いや、喧嘩はやめなさい。かまど猫君も虎猫君に食べさせようと思って拾ったわけじゃないだろう。それから今朝言うのを忘れたが、虎猫君は月給が十銭上がったよ。」
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「いや、喧嘩するのはよしたまへ。かま猫君も虎猫君に喰べさせようといふんで拾つたんぢやなからう。それから今朝云ふのを忘れたが虎猫君は月給が十銭あがつたよ。」
虎猫は、最初は怖い顔をしながらも頭を下げて聞いていましたが、とうとううれしそうに笑い出しました。
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虎猫は、はじめは恐い顔をしてそれでも頭を下げて聴いてゐましたが、たうとう、よろこんで笑ひ出しました。
「どうもお騒がせいたしまして申し訳ございません。」
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「どうもおさわがせいたしましてお申しわけございません。」
それから隣りのかまど猫をじろっと見て腰掛けました。
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それからとなりのかま猫をじろつと見て腰掛けました。
みなさん、ぼくはかまど猫に同情します。
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みなさんぼくはかま猫に同情します。
それからまた五、六日経って、ちょうどこれに似たことが起きたのです。
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それから又五六日たつて、丁度これに似たことが起つたのです。
こういうことがたびたび起きるわけは、一つは猫たちの面倒くさがりな性格のせいで、もう一つは猫の前足、つまり手が、あんまり短いためです。
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こんなことがたびたび起るわけは、一つは猫どもの無精なたちと、も一つは猫の前あし即ち手が、あんまり短いためです。
今度は向こうの三番書記のミケ猫が、朝仕事を始める前に、筆がポロポロ転がって、とうとう床に落ちました。
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今度は向ふの三番書記の三毛猫が、朝仕事を始める前に、筆がポロポロころがつて、たうとう床に落ちました。
ミケ猫はすぐ立てばいいものを、面倒くさがって早速前にトラ猫がやった通り、両手を机越しに伸ばして、それを拾い上げようとしました。
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三毛猫はすぐ立てばいいのを、骨惜みして早速前に虎猫のやつた通り、両手を机越しに延ばして、それを拾ひ上げようとしました。
今度もやっぱり届きません。
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今度もやつぱり届きません。
ミケ猫はとくに背が低かったので、だんだん乗り出して、とうとう足が椅子から離れてしまいました。
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三毛猫は殊にせいが低かつたので、だんだん乗り出して、たうとう足が腰掛けからはなれてしまひました。
かまど猫は拾ってやろうかやるまいか、この前のこともあるので、しばらくためらって目をパチパチさせていましたが、とうとう見かねて、立ち上がりました。
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かま猫は拾つてやらうかやるまいか、この前のこともありますので、しばらくためらつて眼をパチパチさせて居ましたが、たうとう見るに見兼ねて、立ちあがりました。
ところがちょうどこの時、ミケ猫はあんまり乗り出し過ぎてガタンとひっくり返ってひどく頭をぶつけて机から落ちました。
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ところが丁度この時に、三毛猫はあんまり乗り出し過ぎてガタンとひつくり返つてひどく頭をついて机から落ちました。
それがかなりひどい音でしたから、事務長の黒猫もびっくりして立ち上がって、うしろの棚から気付け薬のアンモニア水の瓶を取りました。
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それが大分ひどい音でしたから、事務長の黒猫もびつくりして立ちあがつて、うしろの棚から、気付けのアンモニア水の瓶を取りました。
ところがミケ猫はすぐ起き上がって、かっとなっていきなり、
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ところが三毛猫はすぐ起き上つて、かんしやくまぎれにいきなり、
「かまど猫、きさまはよくも僕を押し倒したな。」
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「かま猫、きさまはよくも僕を押しのめしたな。」
と怒鳴りました。
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とどなりました。
今度はしかし、事務長がすぐミケ猫をなだめました。
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今度はしかし、事務長がすぐ三毛猫をなだめました。
「いや、三毛君。それは君の勘違いだよ。
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「いや、三毛君。それは君のまちがひだよ。
かまど猫君は好意でちょっと立っただけで、君に触りも何もしていない。
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かま猫君は好意でちよつと立つただけだ、君にさはりも何もしない。
しかしまあ、こんな小さなことは、どうってことないじゃないか。
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しかしまあ、こんな小さなことは、なんでもありやしないぢやないか。
さあ、えーとサントンタンの転居届けと。
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さあ、えゝとサントンタンの転居届けと。
えぇ。」
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えゝ。」
事務長はさっさと仕事にかかりました。
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事務長はさつさと仕事にかかりました。
そこでミケ猫も仕方なく仕事にかかりはじめましたが、やっぱりたびたびこわい目でかまど猫を見ていました。
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そこで三毛猫も、仕方なく、仕事にかかりはじめましたがやつぱりたびたびこはい目をしてかま猫を見てゐました。
こういう有り様ですから、かまど猫はじつにつらいのでした。
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こんな工合ですからかま猫はじつにつらいのでした。
かまど猫は普通の猫になろうと何度も窓の外で寝てみましたが、どうしても夜中に寒くてくしゃみが止まらないので、やっぱり仕方なくかまどの中に入るのでした。
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かま猫はあたりまへの猫にならうと何べん窓の外にねて見ましたが、どうしても夜中に寒くてくしやみが出てたまらないので、やつぱり仕方なく竈のなかに入るのでした。
なぜそんなに寒くなるかというと皮が薄いためで、なぜ皮が薄いかというと、それは土用の時期に生まれたからです。
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なぜそんなに寒くなるかといふのに皮がうすいためで、なぜ皮が薄いかといふのに、それは土用に生れたからです。
やっぱり僕が悪いんだ、仕方ないなあと、かまど猫は考えて、涙を丸い目いっぱいにためました。
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やつぱり僕が悪いんだ、仕方ないなあと、かま猫は考へて、なみだをまん円な眼一杯にためました。
けれども事務長さんがあんなに親切にしてくださる、それにかまど猫仲間のみんながあんなに僕が事務所にいることを誇りに思って喜んでいる、どんなにつらくても僕はやめないぞ、きっと耐えるぞと、かまど猫は泣きながら、握りこぶしを握りました。
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けれども事務長さんがあんなに親切にして下さる、それにかま猫仲間のみんながあんなに僕の事務所に居るのを名誉に思つてよろこぶのだ、どんなにつらくてもぼくはやめないぞ、きつとこらへるぞと、かま猫は泣きながら、にぎりこぶしを握りました。
ところがその事務長も、あてにならなくなりました。
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ところがその事務長も、あてにならなくなりました。
それは猫というものは、賢そうでいて間抜けなものです。
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それは猫なんていふものは、賢いやうでばかなものです。
ある時、かまど猫は運悪く風邪を引いて、足の付け根をお椀のように腫らし、どうしても歩けなかったので、とうとう一日休んでしまいました。
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ある時、かま猫は運わるく風邪を引いて、足のつけねを椀のやうに腫らし、どうしても歩けませんでしたから、たうとう一日やすんでしまひました。
かまど猫の悩みようといったらありません。
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かま猫のもがきやうといつたらありません。
泣いて泣いて泣きました。
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泣いて泣いて泣きました。
納屋の小さな窓から差し込んでくる黄色い光を眺めながら、一日中目をこすって泣いていました。
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納屋の小さな窓から射し込んで来る黄いろな光をながめながら、一日一杯眼をこすつて泣いてゐました。
その間に事務所ではこんな様子でした。
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その間に事務所ではかういふ風でした。
「おや、今日はかまど猫君がまだ来ないね。遅いね。」
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「はてな、今日はかま猫君がまだ来んね。遅いね。」
と事務長が、仕事の合間に言いました。
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と事務長が、仕事のたえ間に云ひました。
「なあに、海岸へでも遊びに行ったんでしょう。」
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「なあに、海岸へでも遊びに行つたんでせう。」
白猫が言いました。
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白猫が云ひました。
「いやどこかの宴会にでも呼ばれて行ったんだろう」
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「いゝやどこかの宴会にでも呼ばれて行つたらう」
トラ猫が言いました。
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虎猫が云ひました。
「今日どこかで宴会があるのか。」
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「今日どこかに宴会があるか。」
事務長はびっくりして尋ねました。
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事務長はびつくりしてたづねました。
猫の宴会で自分が呼ばれないものなどあるはずがないと思ったのです。
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猫の宴会に自分の呼ばれないものなどある筈はないと思つたのです。
「何でも北の方で開校式があるとか言っていましたよ。」
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「何でも北の方で開校式があるとか云ひましたよ。」
「そうか。」
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「さうか。」
黒猫は黙って考え込みました。
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黒猫はだまつて考へ込みました。
「どうしてもかまど猫は、」
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「どうしてどうしてかま猫は、」
ミケ猫が言い出しました。
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三毛猫が云ひ出しました。
「このごろはあちこちへ呼ばれているよ。何でも今度はおれが事務長になるとか言っているそうだ。だからバカなやつらがこわがって、できる限りご機嫌をとっているのだ。」
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「この頃はあちこちへ呼ばれてゐるよ。何でもこんどは、おれが事務長になるとか云つてるさうだ。だから馬鹿なやつらがこはがつてあらんかぎりご機嫌をとるのだ。」
「本当かい。それは。」
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「本たうかい。それは。」
黒猫が怒鳴りました。
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黒猫がどなりました。
「本当ですとも。お調べになってごらんなさい。」
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「本たうですとも。お調べになつてごらんなさい。」
ミケ猫が口をとがらせて言いました。
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三毛猫が口を尖せて云ひました。
「けしからん。あいつはおれがずいぶん目をかけてやっているのだ。よし。おれにも考えがある。」
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「けしからん。あいつはおれはよほど目をかけてやつてあるのだ。よし。おれにも考へがある。」
そして事務所はしばらくしんとしました。
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そして事務所はしばらくしんとしました。
さて次の日です。
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さて次の日です。
かまど猫は、やっと足の腫れが引いたので、喜んで朝早く、ごうごうと風が吹く中を事務所へ来ました。
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かま猫は、やつと足のはれが、ひいたので、よろこんで朝早く、ごうごう風の吹くなかを事務所へ来ました。
するといつも来るとすぐ表紙を撫でて確認するほど大切にしている自分の元帳が、自分の机の上からなくなって、向こうの隣り三つの机に分けて置いてあります。
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するといつも来るとすぐ表紙を撫でて見るほど大切な自分の原簿が、自分の机の上からなくなつて、向ふ隣り三つの机に分けてあります。
「ああ、昨日は忙しかったんだな、」
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「ああ、昨日は忙がしかつたんだな、」
かまど猫は、なぜか胸をどきどきさせながら、かすれた声で独り言を言いました。
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かま猫は、なぜか胸をどきどきさせながら、かすれた声で独りごとしました。
ガタッ。
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ガタツ。
扉が開いてミケ猫が入ってきました。
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扉が開いて三毛猫がはひつて来ました。
「おはようございます。」
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「お早うございます。」
かまど猫は立って挨拶しましたが、ミケ猫は黙って腰かけて、あとはいかにも忙しそうに帳面をめくっています。
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かま猫は立つて挨拶しましたが、三毛猫はだまつて腰かけて、あとはいかにも忙がしさうに帳面を繰つてゐます。
ガタン。
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ガタン。
ピシャン。
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ピシヤン。
トラ猫が入ってきました。
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虎猫がはひつて来ました。
「おはようございます。」
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「お早うございます。」
かまど猫は立って挨拶しましたが、トラ猫は見向きもしません。
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かま猫は立つて挨拶しましたが、虎猫は見向きもしません。
「おはようございます。」
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「お早うございます。」
ミケ猫が言いました。
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三毛猫が云ひました。
「おはよう、どうもひどい風だね。」
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「お早う、どうもひどい風だね。」
トラ猫もすぐ帳面をめくり始めました。
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虎猫もすぐ帳面を繰りはじめました。
ガタッ、ピシャーン。
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ガタツ、ピシヤーン。
白猫が入ってきました。
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白猫が入つて来ました。
「おはようございます。」
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「お早うございます。」
トラ猫とミケ猫が一緒に挨拶しました。
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虎猫と三毛猫が一緒に挨拶しました。
「いや、おはよう、ひどい風だね。」
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「いや、お早う、ひどい風だね。」
白猫も忙しそうに仕事にかかりました。
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白猫も忙がしさうに仕事にかかりました。
その時かまど猫は力なく立って黙っておじぎをしましたが、白猫はまるで知らないふりをしています。
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その時かま猫は力なく立つてだまつておじぎをしましたが、白猫はまるで知らないふりをしてゐます。
ガタン、ピシャリ。
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ガタン、ピシヤリ。
「ふう、ずいぶんひどい風だね。」
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「ふう、ずゐぶんひどい風だね。」
事務長の黒猫が入ってきました。
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事務長の黒猫が入つて来ました。
「おはようございます。」
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「お早うございます。」
三人はすばやく立っておじぎをしました。
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三人はすばやく立つておじぎをしました。
かまど猫もぼんやり立って、下を向いたままおじぎをしました。
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かま猫もぼんやり立つて、下を向いたまゝおじぎをしました。
「まるで暴風だね、えぇ。」
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「まるで暴風だね、えゝ。」
黒猫は、かまど猫を見ないでそう言いながら、もうすぐに仕事を始めました。
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黒猫は、かま猫を見ないで斯う言ひながら、もうすぐ仕事をはじめました。
「さあ、今日は昨日の続きのアンモニアック兄弟を調べて回答しなければならない。二番書記、アンモニアック兄弟の中で、南極へ行ったのは誰だ。」
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「さあ、今日は昨日のつづきのアンモニアツクの兄弟を調べて回答しなければならん。二番書記、アンモニアツク兄弟の中で、南極へ行つたのは誰だ。」
仕事が始まりました。
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仕事がはじまりました。
かまど猫は黙ってうつむいていました。
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かま猫はだまつてうつむいてゐました。
元帳がないのです。
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原簿がないのです。
それを何とか言いたくても、もう声が出ませんでした。
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それを何とか云ひたくつても、もう声が出ませんでした。
「パン、ポラリスであります。」
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「パン、ポラリスであります。」
トラ猫が答えました。
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虎猫が答へました。
「よろしい、パン、ポラリスを詳しく述べよ。」
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「よろしい、パン、ポラリスを詳述せよ。」
と黒猫が言います。
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と黒猫が云ひます。
ああ、これはぼくの仕事だ、元帳、元帳、とかまど猫はもう泣きそうに思いました。
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ああ、これはぼくの仕事だ、原簿、原簿、とかま猫はまるで泣くやうに思ひました。
「パン、ポラリス、南極探検の帰り道、ヤップ島沖で死亡、遺体は水葬に付された。」
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「パン、ポラリス、南極探険の帰途、ヤツプ島沖にて死亡、遺骸は水葬せらる。」
一番書記の白猫が、かまど猫の元帳で読んでいます。
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一番書記の白猫が、かま猫の原簿で読んでゐます。
かまど猫はもう悲しくて悲しくて、ほおのあたりが酸っぱくなり、そこらがキーンと鳴ったりするのをじっと我慢してうつむいていました。
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かま猫はもうかなしくて、かなしくて頬のあたりが酸つぱくなり、そこらがきいんと鳴つたりするのをじつとこらへてうつむいて居りました。
事務所の中は、だんだん忙しくお湯が沸くようになって、仕事はどんどん進みました。
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事務所の中は、だんだん忙しく湯の様になつて、仕事はずんずん進みました。
みんな、ほんのときどきちらっとこちらを見るだけで、ただ一言も言いません。
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みんな、ほんの時々、ちらつとこつちを見るだけで、たゞ一ことも云ひません。
そしてお昼になりました。
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そしておひるになりました。
かまど猫は、持ってきたお弁当も食べず、じっと膝に手を置いてうつむいていました。
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かま猫は、持つて来た弁当も喰べず、じつと膝に手を置いてうつむいて居りました。
とうとう昼過ぎの一時から、かまど猫はしくしく泣き始めました。
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たうとうひるすぎの一時から、かま猫はしくしく泣きはじめました。
そして夕方まで三時間ほど泣いたり止めたりまた泣き出したりしたのです。
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そして晩方まで三時間ほど泣いたりやめたりまた泣きだしたりしたのです。
それでもみんなはそんなこと、まったく知らないといったように楽しそうに仕事をしていました。
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それでもみんなはそんなこと、一向知らないといふやうに面白さうに仕事をしてゐました。
その時です。
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その時です。
猫たちは気が付きませんでしたが、事務長のうしろの窓の向こうに、威厳のある獅子の金色の頭が見えました。
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猫どもは気が付きませんでしたが、事務長のうしろの窓の向ふにいかめしい獅子の金いろの頭が見えました。
獅子は不思議そうにしばらく中を見ていましたが、いきなり戸口を叩いて入ってきました。
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獅子は不審さうに、しばらく中を見てゐましたが、いきなり戸口を叩いてはひつて来ました。
猫たちの驚きようといったらありません。
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猫どもの愕ろきやうといつたらありません。
うろうろうろうろそのあたりを歩き回るだけです。
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うろうろうろうろそこらをあるきまはるだけです。
かまど猫だけが泣くのをやめて、まっすぐに立ちました。
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かま猫だけが泣くのをやめて、まつすぐに立ちました。
獅子が大きくしっかりした声で言いました。
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獅子が大きなしつかりした声で云ひました。
「お前たちは何をしているか。そんなことで地理も歴史も役に立ったとは言えない。やめてしまえ。えい。解散を命ずる」
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「お前たちは何をしてゐるか。そんなことで地理も歴史も要つたはなしでない。やめてしまへ。えい。解散を命ずる」
こうして事務所は廃止になりました。
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かうして事務所は廃止になりました。
ぼくは半分、獅子に同感です。
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ぼくは半分獅子に同感です。