AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-29)
原文: 一
一
原文: 「参謀本部編纂の地図をまた繰開いて見るでもなかろう、と思ったけれども、余りの道じゃから、手を触るさえ暑くるしい、旅の法衣の袖をかかげて、表紙を附けた折本になってるのを引張り出した。
「参謀本部編纂の地図をまた広げて見るまでもあるまい、と思ったのだが、あまりにひどい道なので、触れるだけでも暑苦しい旅の法衣の袖をたくし上げて、表紙のついた折本になっているのを引っ張り出した。
原文: 飛騨から信州へ越える深山の間道で、ちょうど立休らおうという一本の樹立も無い、右も左も山ばかりじゃ、手を伸ばすと達きそうな峰があると、その峰へ峰が乗り、巓が被さって、飛ぶ鳥も見えず、雲の形も見えぬ。
飛騨から信州へ越える深い山の間道で、ちょうど立ち止まって休もうにも木立の一本もない、右も左も山ばかりだ。手を伸ばせば届きそうな峰があると思えば、その峰の上にまた峰が乗り、頂が覆いかぶさって、飛ぶ鳥も見えず、雲の形も見えない。
原文: 道と空との間にただ一人我ばかり、およそ正午と覚しい極熱の太陽の色も白いほどに冴え返った光線を、深々と戴いた一重の檜笠に凌いで、こう図面を見た。」
道と空との間にいるのはただ自分ひとり。ちょうど正午らしい、焼けつくような太陽の、色さえ白く見えるほど冴えかえった光を、深くかぶった一枚の檜笠でしのぎながら、こうして図面を見たのです。」
原文: 旅僧はそういって、握拳を両方枕に乗せ、それで額を支えながら俯向いた。
旅僧はそう言って、両方の握り拳を枕に乗せ、それで額を支えながらうつむいた。
原文: 道連になった上人は、名古屋からこの越前敦賀の旅籠屋に来て、今しがた枕に就いた時まで、私が知ってる限り余り仰向けになったことのない、つまり傲然として物を見ない質の人物である。
道連れになった上人は、名古屋からこの越前敦賀の宿屋に来て、今しがた床についた時まで、私の知る限りほとんど仰向けになったことがない、つまりふんぞり返って物を見るということのない性分の人である。
原文: 一体東海道掛川の宿から同じ汽車に乗り組んだと覚えている、腰掛の隅に頭を垂れて、死灰のごとく控えたから別段目にも留まらなかった。
そもそも東海道の掛川の宿場から同じ汽車に乗り合わせたと記憶しているが、座席の隅に頭を垂れて、冷えた灰のようにじっと控えていたので、格別目にも留まらなかった。
原文: 尾張の停車場で他の乗組員は言合せたように、残らず下りたので、函の中にはただ上人と私と二人になった。
尾張の駅でほかの乗客は申し合わせたように残らず降りてしまったので、車両の中には上人と私の二人きりになった。
原文: この汽車は新橋を昨夜九時半に発って、今夕敦賀に入ろうという、名古屋では正午だったから、飯に一折の鮨を買った。
この汽車は新橋を昨夜九時半に発って、今日の夕方に敦賀へ入ろうというもので、名古屋では正午だったから、昼飯に鮨を一折買った。
原文: 旅僧も私と同じくその鮨を求めたのであるが、蓋を開けると、ばらばらと海苔が懸った、五目飯の下等なので。
旅僧も私と同じくその鮨を買ったのだが、蓋を開けると、海苔がばらばらと散らしてある、粗末なちらし鮨だったので。
原文: (やあ、人参と干瓢ばかりだ。)
(やあ、人参と干瓢ばかりだ。)
原文: と粗忽ッかしく絶叫した。
と、うっかり大声を上げてしまった。
原文: 私の顔を見て旅僧は耐え兼ねたものと見える、くっくっと笑い出した、もとより二人ばかりなり、知己にはそれからなったのだが、聞けばこれから越前へ行って、派は違うが永平寺に訪ねるものがある、但し敦賀に一泊とのこと。
私の顔を見て旅僧はこらえきれなくなったらしく、くっくっと笑い出した。もとより二人きりのことで、親しくなったのはそれからだが、聞けばこれから越前へ行って、宗派は違うが永平寺に訪ねる者がある、ただし敦賀に一泊するとのことだった。
原文: 若狭へ帰省する私もおなじ処で泊らねばならないのであるから、そこで同行の約束が出来た。
若狭へ帰省する私も同じ土地で泊まらなければならないので、そこで同行の約束ができた。
原文: かれは高野山に籍を置くものだといった、年配四十五六、柔和ななんらの奇も見えぬ、懐しい、おとなしやかな風采で、羅紗の角袖の外套を着て、白のふらんねるの襟巻をしめ、土耳古形の帽を冠り、毛糸の手袋を嵌め、白足袋に日和下駄で、一見、僧侶よりは世の中の宗匠というものに、それよりもむしろ俗か。
彼は高野山に籍を置く者だと言った。年配は四十五、六、柔和でどこといって変わったところもない、親しみやすく物静かな身なりで、羅紗の角袖の外套を着て、白のフランネルの襟巻きをしめ、トルコ帽をかぶり、毛糸の手袋をはめ、白足袋に日和下駄で、一見したところ僧侶というよりは世間でいう宗匠というもの、いや、それよりもむしろ俗人といったふうである。
原文: (お泊りはどちらじゃな、)といって聞かれたから、私は一人旅の旅宿のつまらなさを、しみじみ歎息した、第一盆を持って女中が坐睡をする、番頭が空世辞をいう、廊下を歩行くとじろじろ目をつける、何より最も耐え難いのは晩飯の支度が済むと、たちまち灯を行燈に換えて、薄暗い処でお休みなさいと命令されるが、私は夜が更けるまで寐ることが出来ないから、その間の心持といったらない、殊にこの頃は夜は長し、東京を出る時から一晩の泊が気になってならないくらい、差支えがなくば御僧とご一所に。
(お泊まりはどちらですかな、)と言って聞かれたので、私は一人旅の宿屋のつまらなさをしみじみと嘆いてみせた。第一、盆を持ったまま女中が居眠りをする、番頭が心にもないお世辞を言う、廊下を歩けばじろじろ目をつける。何よりいちばん耐えがたいのは、晩飯の支度が済むとたちまち明かりを行燈に換えて、薄暗い所でお休みなさいと命令されることで、私は夜が更けるまで寝ることができないから、その間の心持ちといったらない。ことにこの頃は夜が長く、東京を出る時から一晩の宿が気になって仕方がないくらいだ、差し支えなければお坊様とご一緒に。
原文: 快く頷いて、北陸地方を行脚の節はいつでも杖を休める香取屋というのがある、旧は一軒の旅店であったが、一人女の評判なのがなくなってからは看板を外した、けれども昔から懇意な者は断らず泊めて、老人夫婦が内端に世話をしてくれる、宜しくばそれへ、その代といいかけて、折を下に置いて、
旅僧は快くうなずいて、北陸地方を行脚する折にはいつでも杖を休める香取屋という家がある、もとは一軒の宿屋だったが、評判だった一人娘が亡くなってからは看板を外した、けれども昔から懇意な者は断らずに泊めて、老夫婦が内輪に世話をしてくれる、よろしければそこへ、その代わり、と言いかけて、折を下に置いて、
原文: (ご馳走は人参と干瓢ばかりじゃ。)
(ご馳走は人参と干瓢ばかりですぞ。)
原文: とからからと笑った、慎み深そうな打見よりは気の軽い。
と、からからと笑った。慎み深そうな見た目よりは気さくな人である。
原文: 二
二
原文: 岐阜ではまだ蒼空が見えたけれども、後は名にし負う北国空、米原、長浜は薄曇、幽に日が射して、寒さが身に染みると思ったが、柳ヶ瀬では雨、汽車の窓が暗くなるに従うて、白いものがちらちら交って来た。
岐阜ではまだ青空が見えたけれども、その先は名うての北国空で、米原、長浜は薄曇り、かすかに日が射して寒さが身に染みると思ったが、柳ヶ瀬では雨になり、汽車の窓が暗くなるにつれて、白いものがちらちらと混じってきた。
原文: (雪ですよ。)
(雪ですよ。)
原文: (さようじゃな。)
(そうですな。)
原文: といったばかりで別に気に留めず、仰いで空を見ようともしない、この時に限らず、賤ヶ岳が、といって、古戦場を指した時も、琵琶湖の風景を語った時も、旅僧はただ頷いたばかりである。
と言ったきりで、別に気にも留めず、仰いで空を見ようともしない。この時に限らず、賤ヶ岳が、と言って古戦場を指した時も、琵琶湖の風景を語った時も、旅僧はただうなずいただけである。
原文: 敦賀で悚毛の立つほど煩わしいのは宿引の悪弊で、その日も期したるごとく、汽車を下ると停車場の出口から町端へかけて招きの提灯、印傘の堤を築き、潜抜ける隙もあらなく旅人を取囲んで、手ン手に喧しく己が家号を呼立てる、中にも烈しいのは、素早く手荷物を引手繰って、へい難有う様で、を喰わす、頭痛持は血が上るほど耐え切れないのが、例の下を向いて悠々と小取廻しに通抜ける旅僧は、誰も袖を曳かなかったから、幸いその後に跟いて町へ入って、ほっという息を吐いた。
敦賀で身の毛のよだつほど煩わしいのは客引きの悪習で、その日も思ったとおり、汽車を降りると駅の出口から町のはずれにかけて、招きの提灯や屋号入りの傘が堤のように立ち並び、くぐり抜ける隙間もないほど旅人を取り囲んで、めいめいがやかましく自分の店の屋号を呼び立てる。中でも激しいのは、素早く手荷物をひったくって、へい、ありがとうございます、と食らわせるやり口で、頭痛持ちなら血が上ってとても我慢できないところだが、例によって下を向いたまま悠々と身をかわして通り抜けていく旅僧には、誰も袖を引かなかったから、幸いその後についていって町へ入り、ほっと息をついた。
原文: 雪は小止なく、今は雨も交らず乾いた軽いのがさらさらと面を打ち、宵ながら門を鎖した敦賀の通はひっそりして一条二条縦横に、辻の角は広々と、白く積った中を、道の程八町ばかりで、とある軒下に辿り着いたのが名指の香取屋。
雪はやむ間もなく、今は雨も混じらない乾いた軽い雪がさらさらと顔を打ち、宵のうちから門を閉ざした敦賀の通りはひっそりとして、一筋二筋と縦横に走り、辻の角は広々と白く積もっている。その中を八町ばかり歩いて、とある軒下にたどり着いたのが、名指しの香取屋だった。
原文: 床にも座敷にも飾りといっては無いが、柱立の見事な、畳の堅い、炉の大いなる、自在鍵の鯉は鱗が黄金造であるかと思わるる艶を持った、素ばらしい竈を二ツ並べて一斗飯は焚けそうな目覚しい釜の懸った古家で。
床の間にも座敷にも飾りらしいものは無いが、柱組みの見事な、畳の堅い、囲炉裏の大きな、自在鉤の鯉は鱗が黄金造りかと思われるほどの艶を持った、そして一斗の飯も炊けそうな目を見張る釜のかかった竈が二つ並んでいる、そういう古い家で。
原文: 亭主は法然天窓、木綿の筒袖の中へ両手の先を竦まして、火鉢の前でも手を出さぬ、ぬうとした親仁、女房の方は愛嬌のある、ちょっと世辞のいい婆さん、件の人参と干瓢の話を旅僧が打出すと、にこにこ笑いながら、縮緬雑魚と、鰈の干物と、とろろ昆布の味噌汁とで膳を出した、物の言振取成なんど、いかにも、上人とは別懇の間と見えて、連の私の居心のいいといったらない。
亭主は坊主頭で、木綿の筒袖の中へ両手の先を引っ込めたまま、火鉢の前でも手を出さない、ぬうっとした親父。女房のほうは愛嬌のある、ちょっとお世辞のうまい婆さんで、例の人参と干瓢の話を旅僧が持ち出すと、にこにこ笑いながら、ちりめん雑魚と、鰈の干物と、とろろ昆布の味噌汁とで膳を出した。物の言いぶりやもてなしぶりなど、いかにも上人とは特別に親しい間柄と見えて、連れの私まで居心地のいいことといったらない。
原文: やがて二階に寝床を拵えてくれた、天井は低いが、梁は丸太で二抱もあろう、屋の棟から斜に渡って座敷の果の廂の処では天窓に支えそうになっている、巌乗な屋造、これなら裏の山から雪崩が来てもびくともせぬ。
やがて二階に寝床をこしらえてくれた。天井は低いが、梁は丸太で二抱えもあろうか、屋根の棟から斜めに渡って、座敷の端の庇のところでは頭がつかえそうになっている。頑丈な家の造りで、これなら裏の山から雪崩が来てもびくともしない。
原文: 特に炬燵が出来ていたから私はそのまま嬉しく入った。
特に炬燵がこしらえてあったので、私はそのまま嬉しく入った。
原文: 寝床はもう一組おなじ炬燵に敷いてあったが、旅僧はこれには来らず、横に枕を並べて、火の気のない臥床に寝た。
寝床はもう一組同じ炬燵に敷いてあったが、旅僧はそちらへは来ず、横に枕を並べて、火の気のない床に寝た。
原文: 寝る時、上人は帯を解かぬ、もちろん衣服も脱がぬ、着たまま円くなって俯向形に腰からすっぽりと入って、肩に夜具の袖を掛けると手を突いて畏った、その様子は我々と反対で、顔に枕をするのである。
寝る時、上人は帯を解かない。もちろん着物も脱がない。着たまま丸くなって、うつむいた姿勢のまま腰からすっぽりと入り、肩に夜具の袖をかけると、手をついてかしこまった。その様子は我々とは反対で、顔で枕をするのである。
原文: ほどなく寂然として寐に就きそうだから、汽車の中でもくれぐれいったのはここのこと、私は夜が更けるまで寐ることが出来ない、あわれと思ってもうしばらくつきあって、そして諸国を行脚なすった内のおもしろい談をといって打解けて幼らしくねだった。
まもなくひっそりと寝入ってしまいそうなので、汽車の中でくれぐれも言っておいたのはこのことだ、私は夜が更けるまで寝ることができない、かわいそうだと思ってもうしばらくつきあってください、そして諸国を行脚なさった中の面白い話を、と、打ち解けて子どものようにねだった。
原文: すると上人は頷いて、私は中年から仰向けに枕に就かぬのが癖で、寝るにもこのままではあるけれども目はまだなかなか冴えている、急に寐就かれないのはお前様とおんなじであろう。
すると上人はうなずいて、私は中年から仰向けに枕につかないのが癖で、寝るにもこのままではあるけれども、目はまだなかなか冴えている、急に寝つけないのはあなたと同じでしょう。
原文: 出家のいうことでも、教だの、戒だの、説法とばかりは限らぬ、若いの、聞かっしゃい、と言って語り出した。
出家の言うことでも、教えだの、戒めだの、説法とばかりは限らない、若い方、お聞きなさい、と言って語り出した。
原文: 後で聞くと宗門名誉の説教師で、六明寺の宗朝という大和尚であったそうな。
後で聞くと、宗門でも名高い説教師で、六明寺の宗朝という大和尚だったそうだ。
原文: 三
三
原文: 「今にもう一人ここへ来て寝るそうじゃが、お前様と同国じゃの、若狭の者で塗物の旅商人。いやこの男なぞは若いが感心に実体な好い男。
「もうすぐもう一人ここへ来て寝るそうですが、あなたと同じ国の人ですな、若狭の者で塗物の行商人。いや、この男などは若いが感心なほど実直ないい男。
原文: 私が今話の序開をしたその飛騨の山越をやった時の、麓の茶屋で一緒になった富山の売薬という奴あ、けたいの悪い、ねじねじした厭な壮佼で。
私が今、話の口開けをしたあの飛騨の山越えをやった時、麓の茶屋で一緒になった富山の売薬という奴は、意地の悪い、ねじけた嫌な若者でしてな。
原文: まずこれから峠に掛ろうという日の、朝早く、もっとも先の泊はものの三時ぐらいには発って来たので、涼しい内に六里ばかり、その茶屋までのしたのじゃが朝晴でじりじり暑いわ。
まずこれから峠にかかろうという日の朝早く、もっとも前の泊まりは三時ごろには発ってきたので、涼しいうちに六里ばかり、その茶屋まで来たのだが、朝晴れでじりじり暑いのです。
原文: 慾張抜いて大急ぎで歩いたから咽が渇いてしようがあるまい、早速茶を飲もうと思うたが、まだ湯が沸いておらぬという。
欲張って大急ぎで歩いたのだから、喉が渇いてしようがない。さっそく茶を飲もうと思ったが、まだ湯が沸いていないという。
原文: どうしてその時分じゃからというて、めったに人通のない山道、朝顔の咲いてる内に煙が立つ道理もなし。
それはそうだ、その時分のことだから、めったに人通りのない山道で、朝顔の咲いているうちに煙が立つ道理もない。
原文: 床几の前には冷たそうな小流があったから手桶の水を汲もうとしてちょいと気がついた。
床几の前に冷たそうな小川が流れていたので、手桶の水を汲もうとして、ふと気がついた。
原文: それというのが、時節柄暑さのため、恐しい悪い病が流行って、先に通った辻などという村は、から一面に石灰だらけじゃあるまいか。
というのも、時節柄の暑さのために恐ろしい悪い病が流行っていて、先に通った辻などという村は、あたり一面が石灰だらけだったではないか。
原文: (もし、姉さん。)
(もし、姉さん。)
原文: といって茶店の女に、
と言って茶店の女に、
原文: (この水はこりゃ井戸のでござりますか。)
(この水は、これは井戸の水でございますか。)
原文: と、きまりも悪し、もじもじ聞くとの。
と、決まりも悪く、もじもじしながら聞いたのです。
原文: (いんね、川のでございます。)
(いいえ、川の水でございます。)
原文: という、はて面妖なと思った。
という。はて妙だな、と思った。
原文: (山したの方には大分流行病がございますが、この水は何から、辻の方から流れて来るのではありませんか。)
(山の下のほうにはずいぶん流行り病がございますが、この水は何ですか、辻のほうから流れて来るのではありませんか。)
原文: (そうでねえ。)
(そうではありません。)
原文: と女は何気なく答えた、まず嬉しやと思うと、お聞きなさいよ。
と女は何気なく答えた。まずはありがたいと思ったのですが、まあお聞きなさい。
原文: ここに居て、さっきから休んでござったのが、右の売薬じゃ。
そこに居て、さっきから休んでいたのが、例の売薬の男です。
原文: このまた万金丹の下廻と来た日には、ご存じの通り、千筋の単衣に小倉の帯、当節は時計を挟んでいます、脚絆、股引、これはもちろん、草鞋がけ、千草木綿の風呂敷包の角ばったのを首に結えて、桐油合羽を小さく畳んでこいつを真田紐で右の包につけるか、小弁慶の木綿の蝙蝠傘を一本、おきまりだね。
このまた万金丹の下っ端と来た日には、ご存じのとおり、千筋の単衣に小倉の帯、当節は時計を挟んでいます、脚絆に股引、これはもちろん、草鞋がけ、千草木綿の風呂敷包みの角ばったのを首に結わえて、桐油合羽を小さく畳んでこいつを真田紐で右の包みにつけるか、小弁慶の木綿の蝙蝠傘を一本、これがお決まりですな。
原文: ちょいと見ると、いやどれもこれも克明で分別のありそうな顔をして。
ちょっと見ると、いや、どれもこれも生真面目で分別のありそうな顔をして。
原文: これが泊に着くと、大形の浴衣に変って、帯広解で焼酎をちびりちびり遣りながら、旅籠屋の女のふとった膝へ脛を上げようという輩じゃ。
それが宿に着くと、大柄な浴衣に着替えて、帯をゆるめて焼酎をちびりちびりやりながら、宿屋の女の太った膝へ脛を上げようという手合いです。
原文: (これや、法界坊。)
(これ、法界坊。)
原文: なんて、天窓から嘗めていら。
などと、頭から人を舐めてかかっている。
原文: (異なことをいうようだが何かね、世の中の女が出来ねえと相場がきまって、すっぺら坊主になってやっぱり生命は欲しいのかね、不思議じゃあねえか、争われねえもんだ、姉さん見ねえ、あれでまだ未練のある内がいいじゃあねえか、)といって顔を見合せて二人でからからと笑った。
(おかしなことを言うようだが、どうだね、世の中の女には縁がないと相場が決まって、つるつる坊主になっても、やっぱり命は惜しいのかね、不思議じゃないか、争えないもんだ、姉さん見なよ、あれでまだ未練のあるうちがいいじゃないか、)と言って、顔を見合わせて二人でからからと笑った。
原文: 年紀は若し、お前様、私は真赤になった、手に汲んだ川の水を飲みかねて猶予っているとね。
年は若し、あなた、私は真っ赤になった。手に汲んだ川の水を飲みかねてためらっていると。
原文: ポンと煙管を払いて、
ポンと煙管をはたいて、
原文: (何、遠慮をしねえで浴びるほどやんなせえ、生命が危くなりゃ、薬を遣らあ、そのために私がついてるんだぜ、なあ姉さん。
(何、遠慮しないで浴びるほどおやりなさい、命が危なくなりゃ、薬をやるよ、そのために私がついてるんだぜ、なあ姉さん。
原文: おい、それだっても無銭じゃあいけねえよ、憚りながら神方万金丹、一貼三百だ、欲しくば買いな、まだ坊主に報捨をするような罪は造らねえ、それともどうだお前いうことを肯くか。)
おい、それだってもただじゃいけないよ、はばかりながら霊験あらたかな万金丹、一包み三百だ、欲しけりゃ買いな、まだ坊主に施しをするような罪は造っちゃいない、それともどうだ、お前、言うことを聞くか。)
原文: といって茶店の女の背中を叩いた。
と言って茶店の女の背中を叩いた。
原文: 私はそうそうに遁出した。
私はそうそうに逃げ出しました。
原文: いや、膝だの、女の背中だのといって、いけ年を仕った和尚が業体で恐入るが、話が、話じゃからそこはよろしく。」
いや、膝だの、女の背中だのと、いい年をした和尚のすることとしては恐れ入りますが、話が話ですから、そこはよろしく。」
原文: 四
四
原文: 「私も腹立紛れじゃ、無暗と急いで、それからどんどん山の裾を田圃道へかかる。
「私も腹立ち紛れです、むやみに急いで、それからどんどん山の裾を回って田んぼ道へかかる。
原文: 半町ばかり行くと、路がこう急に高くなって、上りが一カ処、横からよく見えた、弓形でまるで土で勅使橋がかかってるような。
半町ばかり行くと、道がこう急に高くなって、上りが一カ所、横からよく見えた。弓なりで、まるで土でできた勅使橋がかかっているような具合。
原文: 上を見ながら、これへ足を踏懸けた時、以前の薬売がすたすたやって来て追着いたが。
上を見ながらそこへ足を踏みかけた時、さっきの薬売りがすたすたやって来て追いついたが。
原文: 別に言葉も交さず、またものをいったからというて、返事をする気はこっちにもない。
別に言葉も交わさず、また向こうが物を言ったところで、返事をする気はこちらにもない。
原文: どこまでも人を凌いだ仕打な薬売は流眄にかけて故とらしゅう私を通越して、すたすた前へ出て、ぬっと小山のような路の突先へ蝙蝠傘を差して立ったが、そのまま向うへ下りて見えなくなる。
どこまでも人を見下した仕打ちの薬売りは、横目でこちらを見て、わざとらしく私を追い越し、すたすた前へ出て、ぬっと小山のような道のてっぺんへ蝙蝠傘を差して立ったが、そのまま向こうへ下りて見えなくなる。
原文: その後から爪先上り、やがてまた太鼓の胴のような路の上へ体が乗った、それなりにまた下りじゃ。
その後から爪先上がりに登って、やがてまた太鼓の胴のような道の上へ体が乗った。そのままそこからまた下りです。
原文: 売薬は先へ下りたが立停ってしきりに四辺を眗している様子、執念深く何か巧んだかと、快からず続いたが、さてよく見ると仔細があるわい。
売薬は先へ下りたが、立ち止まってしきりにあたりを見回している様子。執念深く何か企んだかと、面白からず後に続いたが、さてよく見るとわけがあるのでした。
原文: 路はここで二条になって、一条はこれからすぐに坂になって上りも急なり、草も両方から生茂ったのが、路傍のその角の処にある、それこそ四抱、そうさな、五抱もあろうという一本の檜の、背後へ蜿って切出したような大巌が二ツ三ツ四ツと並んで、上の方へ層なってその背後へ通じているが、私が見当をつけて、心組んだのはこっちではないので、やっぱり今まで歩いて来たその幅の広いなだらかな方が正しく本道、あと二里足らず行けば山になって、それからが峠になるはず。
道はここで二筋に分かれていて、一筋はこれからすぐに坂になって上りも急、草も両方から生い茂っていて、道端のその角のところにある、それこそ四抱え、そうさな、五抱えもあろうかという一本の檜、その後ろへうねって切り出したような大岩が二つ三つ四つと並び、上のほうへ重なってその背後へ通じている。だが私が見当をつけ、行くつもりでいたのはそちらではなく、やはり今まで歩いて来たその幅の広いなだらかなほうがまさしく本道で、あと二里足らず行けば山になり、それからが峠になるはず。
原文: と見ると、どうしたことかさ、今いうその檜じゃが、そこらに何もない路を横断って見果のつかぬ田圃の中空へ虹のように突出ている、見事な。
と見ると、どうしたことか、今言ったその檜だが、そこらに何もない道を横切って、見はてもつかない田んぼの中空へ虹のように突き出している、見事なものです。
原文: 根方の処の土が壊れて大鰻を捏ねたような根が幾筋ともなく露れた、その根から一筋の水がさっと落ちて、地の上へ流れるのが、取って進もうとする道の真中に流出してあたりは一面。
根元のところの土が崩れて、大鰻をこねたような根が幾筋ともなく現れており、その根から一筋の水がさっと落ちて地の上を流れ、これから進もうとする道の真ん中へ流れ出して、あたりは一面の水。
原文: 田圃が湖にならぬが不思議で、どうどうと瀬になって、前途に一叢の藪が見える、それを境にしておよそ二町ばかりの間まるで川じゃ。
田んぼが湖にならないのが不思議なくらいで、どうどうと瀬になっている。行く手には一叢の藪が見える、それを境にしておよそ二町ばかりの間はまるで川です。
原文: 礫はばらばら、飛石のようにひょいひょいと大跨で伝えそうにずっと見ごたえのあるのが、それでも人の手で並べたに違いはない。
小石がばらばらと、飛石のようにひょいひょい大股で伝えそうに、ずいぶん見ごたえのある並びようだが、それでも人の手で並べたものに違いない。
原文: もっとも衣服を脱いで渡るほどの大事なのではないが、本街道にはちと難儀過ぎて、なかなか馬などが歩行かれる訳のものではないので。
もっとも着物を脱いで渡らねばならぬほどの大事ではないが、本街道にしては少し難儀すぎて、とても馬などが歩ける代物ではない。
原文: 売薬もこれで迷ったのであろうと思う内、切放れよく向を変えて右の坂をすたすたと上りはじめた。
売薬もこれで迷ったのだろうと思ううちに、思い切りよく向きを変えて右の坂をすたすたと上りはじめた。
原文: 見る間に檜を後に潜り抜けると、私が体の上あたりへ出て下を向き、
見る間に檜の後ろを潜り抜けると、私の体の上あたりへ出て下を向き、
原文: (おいおい、松本へ出る路はこっちだよ、)といって無造作にまた五六歩。
(おいおい、松本へ出る道はこっちだよ、)と言って、無造作にまた五、六歩。
原文: 岩の頭へ半身を乗出して、
岩の頭から半身を乗り出して、
原文: (茫然してると、木精が攫うぜ、昼間だって容赦はねえよ。)
(ぼんやりしてると、木霊にさらわれるぜ、昼間だって容赦はしないよ。)
原文: と嘲るがごとく言い棄てたが、やがて岩の陰に入って高い処の草に隠れた。
とあざけるように言い捨てたが、やがて岩の陰に入って高い所の草に隠れた。
原文: しばらくすると見上げるほどな辺へ蝙蝠傘の先が出たが、木の枝とすれすれになって茂の中に見えなくなった。
しばらくすると、見上げるほどの高さのあたりに蝙蝠傘の先が出たが、木の枝とすれすれになって茂みの中に見えなくなった。
原文: (どッこいしょ、)と暢気なかけ声で、その流の石の上を飛々に伝って来たのは、茣蓙の尻当をした、何にもつけない天秤棒を片手で担いだ百姓じゃ。」
(どっこいしょ、)とのんきなかけ声で、その流れの石の上を飛び飛びに伝ってきたのは、茣蓙の尻当てをつけ、何も下げていない天秤棒を片手で担いだ百姓でした。」
原文: 五
五
原文: 「さっきの茶店からここへ来るまで、売薬の外は誰にも逢わなんだことは申上げるまでもない。
「さっきの茶店からここへ来るまで、売薬のほかは誰にも会わなかったことは申し上げるまでもありません。
原文: 今別れ際に声を懸けられたので、先方は道中の商売人と見ただけに、まさかと思っても気迷がするので、今朝も立ちぎわによく見て来た、前にも申す、その図面をな、ここでも開けて見ようとしていたところ。
別れぎわに今の声をかけられたので、相手は道中慣れした商売人と見ただけに、まさかと思っても気迷いがして、今朝も出立ちぎわによく見てきた、前にも申したあの図面を、ここでも開けて見ようとしていたところ。
原文: (ちょいと伺いとう存じますが、)
(ちょっとお伺いしたいのですが、)
原文: (これは何でござりまする、)と山国の人などは殊に出家と見ると丁寧にいってくれる。
(これは何でございましょう、)と、山国の人などは特に出家と見ると丁寧に言ってくれる。
原文: (いえ、お伺い申しますまでもございませんが、道はやっぱりこれを素直に参るのでございましょうな。)
(いえ、お伺いするまでもないことですが、道はやはりこれをまっすぐ参るのでございましょうな。)
原文: (松本へ行かっしゃる?
(松本へ行かれる?
原文: ああああ本道じゃ、何ね、この間の梅雨に水が出て、とてつもない川さ出来たでがすよ。)
ああ、ああ、これが本道です。何ね、この間の梅雨に水が出て、とんでもない川ができてしまいましてね。)
原文: (まだずっとどこまでもこの水でございましょうか。)
(まだずっと、どこまでもこの水でございましょうか。)
原文: (何のお前様、見たばかりじゃ、訳はござりませぬ、水になったのは向うのあの藪までで、後はやっぱりこれと同一道筋で山までは荷車が並んで通るでがす。
(何の、あなた、見た目ばかりです、わけはありません。水になったのは向こうのあの藪までで、あとはやはりこれと同じ道筋で、山までは荷車が並んで通れます。
原文: 藪のあるのは旧大きいお邸の医者様の跡でな、ここいらはこれでも一ツの村でがした、十三年前の大水の時、から一面に野良になりましたよ、人死もいけえこと。
藪のあるのは、もとは大きなお屋敷のお医者様の跡でしてね、ここらはこれでも一つの村でした。十三年前の大水の時、あたり一面が野っ原になってしまいましたよ、死人もたいそうな数で。
原文: ご坊様歩行きながらお念仏でも唱えてやってくれさっしゃい。)
ご坊様、歩きながらお念仏でも唱えてやってくださいまし。)
原文: と問わぬことまで深切に話します。
と、聞きもしないことまで親切に話してくれます。
原文: それでよく仔細が解って確になりはなったけれども、現に一人踏迷った者がある。
それでよく事情が分かって道も確かにはなったけれども、現に一人、踏み迷った者がいる。
原文: (こちらの道はこりゃどこへ行くので、)といって売薬の入った左手の坂を尋ねて見た。
(こちらの道は、これはどこへ行くのですか、)と言って、売薬の入っていった左手の坂について尋ねてみた。
原文: (はい、これは五十年ばかり前までは人が歩行いた旧道でがす。
(はい、これは五十年ばかり前までは人が歩いた旧道です。
原文: やっぱり信州へ出まする、先は一つで七里ばかり総体近うござりますが、いや今時往来の出来るのじゃあござりませぬ。
やはり信州へ出ます、行き先は同じで、七里ばかり全体に近うございますが、いや、今どき往来のできる道ではありません。
原文: 去年もご坊様、親子連の巡礼が間違えて入ったというで、はれ大変な、乞食を見たような者じゃというて、人命に代りはねえ、追かけて助けべえと、巡査様が三人、村の者が十二人、一組になってこれから押登って、やっと連れて戻ったくらいでがす。
去年もご坊様、親子連れの巡礼が間違えて入ったというので、それは大変な騒ぎで、乞食のような者じゃとは言っても人の命に変わりはない、追いかけて助けようと、巡査様が三人、村の者が十二人、一組になってここから押し登って、やっと連れて戻ったくらいでございます。
原文: ご坊様も血気に逸って近道をしてはなりましねえぞ、草臥れて野宿をしてからがここを行かっしゃるよりはましでござるに。
ご坊様も血気にはやって近道をしてはなりませんぞ。くたびれて野宿をするほうが、まだここを行かれるよりはましでございますよ。
原文: はい、気を付けて行かっしゃれ。)
はい、気をつけて行かれませ。)
原文: ここで百姓に別れてその川の石の上を行こうとしたがふと猶予ったのは売薬の身の上で。
ここで百姓に別れて、その川の石の上を行こうとしたが、ふとためらったのは売薬の身の上のことで。
原文: まさかに聞いたほどでもあるまいが、それが本当ならば見殺じゃ、どの道私は出家の体、日が暮れるまでに宿へ着いて屋根の下に寝るには及ばぬ、追着いて引戻してやろう。
まさか聞いたほどのことでもあるまいが、それが本当ならば見殺しだ。どのみち私は出家の身、日が暮れるまでに宿へ着いて屋根の下に寝る必要もない、追いついて引き戻してやろう。
原文: 罷違うて旧道を皆歩行いても怪しゅうはあるまい、こういう時候じゃ、狼の旬でもなく、魑魅魍魎の汐さきでもない、ままよ、と思うて、見送ると早や深切な百姓の姿も見えぬ。
間違って旧道をすっかり歩き通したとしても、まあ差し支えはあるまい、こういう時候だ、狼の出る季節でもなく、魑魅魍魎の湧き出る潮どきでもない、ままよ、と思って見送ると、もう親切な百姓の姿も見えない。
原文: (よし。)
(よし。)
原文: 思切って坂道を取って懸った、侠気があったのではござらぬ、血気に逸ったではもとよりない、今申したようではずっともう悟ったようじゃが、いやなかなかの臆病者、川の水を飲むのさえ気が怯けたほど生命が大事で、なぜまたと謂わっしゃるか。
思い切って坂道にかかった。男気があったのではありません、血気にはやったのでももとよりない。今申したようだと、まるでもう悟りきったように聞こえるが、いや、なかなかの臆病者で、川の水を飲むのさえ気がひけたほど命が大事だった。ではなぜまた、と言われるか。
原文: ただ挨拶をしたばかりの男なら、私は実のところ、打棄っておいたに違いはないが、快からぬ人と思ったから、そのままで見棄てるのが、故とするようで、気が責めてならなんだから、」
ただ挨拶をしただけの男なら、私は実のところ、放っておいたに違いない。だが、快からぬ相手だと思ったからこそ、そのまま見捨てるのがわざとしているようで、気が咎めてならなかったのです、」
原文: と宗朝はやはり俯向けに床に入ったまま合掌していった。
と宗朝は、やはりうつむけに床に入ったまま合掌して言った。
原文: 「それでは口でいう念仏にも済まぬと思うてさ。」
「それでは、口で唱える念仏にも申し訳が立たぬと思いましてね。」
原文: 六
六
原文: 「さて、聞かっしゃい、私はそれから檜の裏を抜けた、岩の下から岩の上へ出た、樹の中を潜って草深い径をどこまでも、どこまでも。
「さて、お聞きなさい。私はそれから檜の裏を抜けた、岩の下から岩の上へ出た、木の中を潜って草深い小道をどこまでも、どこまでも。
原文: するといつの間にか今上った山は過ぎてまた一ツ山が近いて来た、この辺しばらくの間は野が広々として、さっき通った本街道よりもっと幅の広い、なだらかな一筋道。
するといつの間にか、今上った山は過ぎて、また一つ別の山が近づいてきた。このあたりはしばらくの間、野が広々として、さっき通った本街道よりもっと幅の広い、なだらかな一筋道。
原文: 心持西と、東と、真中に山を一ツ置いて二条並んだ路のような、いかさまこれならば槍を立てても行列が通ったであろう。
気持ちの上では西と東、真ん中に山を一つ置いて二筋並んだ道といったところで、なるほどこれなら槍を立てて行列が通ったことだろう。
原文: この広ッ場でも目の及ぶ限り芥子粒ほどの大さの売薬の姿も見ないで、時々焼けるような空を小さな虫が飛び歩行いた。
この広っ場でも、目の届く限り芥子粒ほどの大きさの売薬の姿さえ見えず、時々、焼けるような空を小さな虫が飛び回っていた。
原文: 歩行くにはこの方が心細い、あたりがぱッとしていると便がないよ。
歩くにはこのほうが心細い。あたりがぱっと開けていると、かえって頼りがないものです。
原文: もちろん飛騨越と銘を打った日には、七里に一軒十里に五軒という相場、そこで粟の飯にありつけば都合も上の方ということになっております。
もちろん飛騨越えと銘を打った日には、七里に一軒、十里に五軒という相場で、そこで粟の飯にありつければ上等ということになっております。
原文: それを覚悟のことで、足は相応に達者、いや屈せずに進んだ進んだ。
それも覚悟の上のこと、足は相応に達者だから、いや、くじけずに進んだ進んだ。
原文: すると、だんだんまた山が両方から逼って来て、肩に支えそうな狭いとこになった、すぐに上。
すると、だんだんまた山が両方から迫ってきて、肩がつかえそうな狭い所になった。そこからすぐに上り。
原文: さあ、これからが名代の天生峠と心得たから、こっちもその気になって、何しろ暑いので、喘ぎながらまず草鞋の紐を緊直した。
さあ、これからが名高い天生峠だと心得たから、こちらもその気になって、何しろ暑いので、喘ぎながらまず草鞋の紐を締め直した。
原文: ちょうどこの上口の辺に美濃の蓮大寺の本堂の床下まで吹抜けの風穴があるということを年経ってから聞きましたが、なかなかそこどころの沙汰ではない、一生懸命、景色も奇跡もあるものかい、お天気さえ晴れたか曇ったか訳が解らず、目じろぎもしないですたすたと捏ねて上る。
ちょうどこの上り口のあたりに、美濃の蓮大寺の本堂の床下まで吹き抜けの風穴があるということを、何年も経ってから聞きましたが、その時はとてもそれどころの話ではない。一生懸命で、景色も奇跡もあるものか、天気が晴れているのか曇っているのかさえ分からず、まばたきもしないですたすたと足をこねて上る。
原文: とお前様お聞かせ申す話は、これからじゃが、最初に申す通り路がいかにも悪い、まるで人が通いそうでない上に、恐しいのは、蛇で。
さて、あなたにお聞かせする話はこれからですが、最初に申したとおり道がいかにも悪い。まるで人が通いそうにない上に、恐ろしいのは蛇で。
原文: 両方の叢に尾と頭とを突込んで、のたりと橋を渡しているではあるまいか。
両方の草むらに尾と頭とを突っ込んで、のたりと道に橋を渡しているではありませんか。
原文: 私は真先に出会した時は笠を被って竹杖を突いたまま、はッと息を引いて膝を折って坐ったて。
私は最初に出くわした時は、笠をかぶって竹の杖を突いたまま、はっと息を引いて、膝を折って座り込んでしまった。
原文: いやもう生得大嫌、嫌というより恐怖いのでな。
いやもう生まれつきの大嫌い、嫌いというより怖いのでしてね。
原文: その時はまず人助けにずるずると尾を引いて、向うで鎌首を上げたと思うと草をさらさらと渡った。
その時はまず人助けに、ずるずると尾を引いて、向こうで鎌首を上げたと思うと、草をさらさらと渡っていった。
原文: ようよう起上って道の五六町も行くと、またおなじように、胴中を乾かして尾も首も見えぬのが、ぬたり!
ようよう起き上がって道を五、六町も行くと、また同じように、胴の真ん中を日に乾かして尾も首も見えないのが、ぬたり!
原文: あッというて飛退いたが、それも隠れた。
あっと言って飛びのいたが、それも隠れた。
原文: 三度目に出会ったのが、いや急には動かず、しかも胴体の太さ、たとい這出したところでぬらぬらとやられてはおよそ五分間ぐらい尾を出すまでに間があろうと思う長虫と見えたので、やむことをえず私は跨ぎ越した、とたんに下腹が突張ってぞッと身の毛、毛穴が残らず鱗に変って、顔の色もその蛇のようになったろうと目を塞いだくらい。
三度目に出会ったのは、いや、すぐには動かず、しかもその胴体の太さときたら、たとえ這い出したところで、ぬらぬらとやられては尾を出しきるまでにおよそ五分ぐらいはかかりそうな長虫と見えたので、やむをえず私はまたぎ越した。とたんに下腹が突っ張ってぞっと身の毛がよだち、毛穴が残らず鱗に変わって、顔の色までその蛇のようになっただろうと、目をつぶったくらい。
原文: 絞るような冷汗になる気味の悪さ、足が竦んだというて立っていられる数ではないからびくびくしながら路を急ぐとまたしても居たよ。
絞れるほどの冷や汗になる気味の悪さで、足がすくんだといって立ち止まっていられる場合ではないから、びくびくしながら道を急ぐと、またしても居ましたよ。
原文: しかも今度のは半分に引切ってある胴から尾ばかりの虫じゃ、切口が蒼を帯びてそれでこう黄色な汁が流れてぴくぴくと動いたわ。
しかも今度のは、半分に引きちぎられた胴から尾ばかりの虫だ。切り口が青みを帯びて、そこから黄色い汁が流れ、ぴくぴくと動いていた。
原文: 我を忘れてばらばらとあとへ遁帰ったが、気が付けば例のがまだ居るであろう、たとい殺されるまでも二度とはあれを跨ぐ気はせぬ。
我を忘れてばらばらと後ろへ逃げ帰ったが、気がつけば例のやつがまだ居るだろう。たとえ殺されようとも、二度とあれをまたぐ気にはならない。
原文: ああさっきのお百姓がものの間違でも故道には蛇がこうといってくれたら、地獄へ落ちても来なかったにと照りつけられて、涙が流れた、南無阿弥陀仏、今でもぞっとする。」
ああ、さっきのお百姓が、間違ってでも旧道には蛇がこうだと言ってくれていたら、地獄へ落ちても来なかったのに、と、照りつけられながら涙が流れた。南無阿弥陀仏、今でもぞっとします。」
原文: と額に手を。
と、額に手を当てた。
原文: 七
七
原文: 「果が無いから肝を据えた、もとより引返す分ではない。旧の処にはやっぱり丈足らずの骸がある、遠くへ避けて草の中へ駈け抜けたが、今にもあとの半分が絡いつきそうで耐らぬから気臆がして足が筋張ると石に躓いて転んだ、その時膝節を痛めましたものと見える。
「きりがないから肝を据えた、もとより引き返すつもりはない。元の所にはやはり丈の足りない骸がある。遠く避けて草の中を駆け抜けたが、今にも残りの半分がまとわりついてきそうでたまらないから、気後れがして足が引きつり、石につまずいて転んだ。その時に膝の関節を痛めたものと見える。
原文: それからがくがくして歩行くのが少し難渋になったけれども、ここで倒れては温気で蒸殺されるばかりじゃと、我身で我身を激まして首筋を取って引立てるようにして峠の方へ。
それからがくがくして歩くのが少し難儀になったけれども、ここで倒れては暑気で蒸し殺されるばかりだと、我が身で我が身を励まし、首筋をつかんで引き立てるようにして峠のほうへ。
原文: 何しろ路傍の草いきれが恐しい、大鳥の卵見たようなものなんぞ足許にごろごろしている茂り塩梅。
何しろ道端の草いきれが恐ろしい。大鳥の卵のようなものが足元にごろごろしている、そんな茂りようです。
原文: また二里ばかり大蛇の蜿るような坂を、山懐に突当って岩角を曲って、木の根を繞って参ったがここのことで余りの道じゃったから、参謀本部の絵図面を開いて見ました。
また二里ばかり、大蛇がうねるような坂を、山ふところに突き当たっては岩角を曲がり、木の根を回ってやってきたが、ここまで来てもあまりの道なので、参謀本部の絵図面を開いて見ました。
原文: 何やっぱり道はおんなじで聞いたにも見たのにも変はない、旧道はこちらに相違はないから心遣りにも何にもならず、もとより歴とした図面というて、描いてある道はただ栗の毬の上へ赤い筋が引張ってあるばかり。
何のことはない、道はやはり同じで、聞いたのにも見たのにも違いはない、旧道はこちらに間違いないのだから気晴らしにも何にもならない。もとよりれっきとした図面といっても、描いてある道はただ栗のいがの上に赤い筋が一本引いてあるばかり。
原文: 難儀さも、蛇も、毛虫も、鳥の卵も、草いきれも、記してあるはずはないのじゃから、さっぱりと畳んで懐に入れて、うむとこの乳の下へ念仏を唱え込んで立直ったはよいが、息も引かぬ内に情無い長虫が路を切った。
難儀さも、蛇も、毛虫も、鳥の卵も、草いきれも、記してあるはずがないのだから、さっぱりと畳んで懐に入れ、うむ、とこの乳の下へ念仏を唱え込んで立ち直ったのはよいが、息もつかないうちに、情けないことにまた長虫が道を切った。
原文: そこでもう所詮叶わぬと思ったなり、これはこの山の霊であろうと考えて、杖を棄てて膝を曲げ、じりじりする地に両手をついて、
そこでもう到底かなわないと思ったなり、これはこの山の霊であろうと考えて、杖を捨てて膝を曲げ、じりじり焼ける地面に両手をついて、
原文: (誠に済みませぬがお通しなすって下さりまし、なるたけお午睡の邪魔になりませぬようにそっと通行いたしまする。
(誠に申し訳ありませんが、お通しくださいまし。なるべくお昼寝の邪魔にならないよう、そっと通らせていただきます。
原文: ご覧の通り杖も棄てました。)
ご覧のとおり杖も捨てました。)
原文: と我折れしみじみと頼んで額を上げるとざっという凄じい音で。
と我を折ってしみじみ頼み、額を上げると、ざっという凄まじい音がして。
原文: 心持よほどの大蛇と思った、三尺、四尺、五尺四方、一丈余、だんだんと草の動くのが広がって、傍の渓へ一文字にさっと靡いた、果は峰も山も一斉に揺いだ、恐毛を震って立竦むと涼しさが身に染みて、気が付くと山颪よ。
感じからしてよほどの大蛇と思った。三尺、四尺、五尺四方、一丈あまりと、だんだん草の動くのが広がって、かたわらの谷へ一文字にさっと靡いた。果ては峰も山も一斉に揺らいだ。身の毛をよだてて立ちすくむと涼しさが身に染みて、気がついてみればそれは山颪だった。
原文: この折から聞えはじめたのはどっという山彦に伝わる響、ちょうど山の奥に風が渦巻いてそこから吹起る穴があいたように感じられる。
この時から聞こえはじめたのは、どうっという山彦になって伝わる響きで、ちょうど山の奥に風が渦巻いて、そこから吹き起こる穴があいたように感じられる。
原文: 何しろ山霊感応あったか、蛇は見えなくなり暑さも凌ぎよくなったので、気も勇み足も捗取ったが、ほどなく急に風が冷たくなった理由を会得することが出来た。
何しろ山の霊に願いが通じたのか、蛇は見えなくなり、暑さもしのぎやすくなったので、気も勇み足もはかどったが、まもなく急に風が冷たくなった理由が分かった。
原文: というのは目の前に大森林があらわれたので。
というのは、目の前に大森林が現れたからです。
原文: 世の譬にも天生峠は蒼空に雨が降るという、人の話にも神代から杣が手を入れぬ森があると聞いたのに、今までは余り樹がなさ過ぎた。
世のたとえにも天生峠は青空に雨が降るといい、人の話にも神代から杣が手を入れたことのない森があると聞いていたのに、今まではあまりに木がなさすぎた。
原文: 今度は蛇のかわりに蟹が歩きそうで草鞋が冷えた。
今度は蛇の代わりに蟹が歩き出しそうで、草鞋が冷えた。
原文: しばらくすると暗くなった、杉、松、榎と処々見分けが出来るばかりに遠い処から幽に日の光の射すあたりでは、土の色が皆黒い。
しばらくすると暗くなった。杉、松、榎と、ところどころ見分けがつくばかりで、遠くからかすかに日の光が射すあたりでは、土の色がみな黒い。
原文: 中には光線が森を射通す工合であろう、青だの、赤だの、ひだが入って美しい処があった。
中には光線が森を射通す具合なのだろう、青だの赤だのと、ひだが入って美しい所があった。
原文: 時々爪尖に絡まるのは葉の雫の落溜った糸のような流で、これは枝を打って高い処を走るので。
時々つま先にからまるのは、葉の雫がたまってできた糸のような流れで、これは枝を伝って高い所を走っているのです。
原文: ともするとまた常磐木が落葉する、何の樹とも知れずばらばらと鳴り、かさかさと音がしてぱっと檜笠にかかることもある、あるいは行過ぎた背後へこぼれるのもある、それ等は枝から枝に溜っていて何十年ぶりではじめて地の上まで落ちるのか分らぬ。」
ともするとまた常緑樹が葉を落とす。何の木とも知れずばらばらと鳴り、かさかさと音がして、ぱっと檜笠にかかることもある。あるいは行き過ぎた後ろへこぼれるのもある。それらは枝から枝にたまっていて、何十年ぶりで初めて地面まで落ちるのか分からない。」
原文: 八
八
原文: 「心細さは申すまでもなかったが、卑怯なようでも修行の積まぬ身には、こういう暗い処の方がかえって観念に便がよい。何しろ体が凌ぎよくなったために足の弱も忘れたので、道も大きに捗取って、まずこれで七分は森の中を越したろうと思う処で五六尺天窓の上らしかった樹の枝から、ぼたりと笠の上へ落ち留まったものがある。
「心細さは申すまでもなかったが、卑怯なようでも修行の積まない身には、こういう暗い所のほうがかえって念仏を唱えるにはよい。何しろ体がしのぎやすくなったために足の弱りも忘れたので、道もずいぶんはかどって、まずこれで森の七分は越えただろうと思うあたりで、五、六尺ほど頭の上らしい木の枝から、ぼたりと笠の上へ落ちて留まったものがある。
原文: 鉛の錘かとおもう心持、何か木の実ででもあるかしらんと、二三度振ってみたが附着いていてそのままには取れないから、何心なく手をやって掴むと、滑らかに冷りと来た。
鉛の錘かと思う手応えで、何か木の実ででもあるのだろうかと、二、三度振ってみたが、くっついていてそのままでは取れないから、何の気なしに手をやって掴むと、なめらかにひやりと来た。
原文: 見ると海鼠を裂いたような目も口もない者じゃが、動物には違いない。
見ると海鼠を裂いたような、目も口もないものだが、動物には違いない。
原文: 不気味で投出そうとするとずるずると辷って指の尖へ吸ついてぶらりと下った、その放れた指の尖から真赤な美しい血が垂々と出たから、吃驚して目の下へ指をつけてじっと見ると、今折曲げた肱の処へつるりと垂懸っているのは同形をした、幅が五分、丈が三寸ばかりの山海鼠。
不気味で投げ出そうとすると、ずるずると滑って指の先へ吸いつき、ぶらりと下がった。その離れた指の先から真っ赤な美しい血がたらたらと出たので、驚いて目の下へ指を持ってきてじっと見ると、今折り曲げた肘のところにつるりと垂れかかっているのは、同じ形をした、幅が五分、長さが三寸ばかりの山海鼠。
原文: 呆気に取られて見る見る内に、下の方から縮みながら、ぶくぶくと太って行くのは生血をしたたかに吸込むせいで、濁った黒い滑らかな肌に茶褐色の縞をもった、疣胡瓜のような血を取る動物、こいつは蛭じゃよ。
呆気に取られて見ているうちに、下のほうから縮みながらぶくぶく太っていくのは、生き血をしたたかに吸い込むせいで、濁った黒いなめらかな肌に茶褐色の縞をもった、いぼ胡瓜のような血を吸う動物、こいつは蛭ですよ。
原文: 誰が目にも見違えるわけのものではないが、図抜て余り大きいからちょっとは気がつかぬであった、何の畠でも、どんな履歴のある沼でも、このくらいな蛭はあろうとは思われぬ。
誰の目にも見間違えようのないものだが、桁外れに大きいのでちょっと気がつかなかった。どんな畑でも、どんないわくのある沼でも、これほどの蛭はいようとは思われない。
原文: 肱をばさりと振ったけれども、よく喰込んだと見えてなかなか放れそうにしないから不気味ながら手で抓んで引切ると、ぷつりといってようよう取れる、しばらくも耐ったものではない、突然取って大地へ叩きつけると、これほどの奴等が何万となく巣をくって我ものにしていようという処、かねてその用意はしていると思われるばかり、日のあたらぬ森の中の土は柔い、潰れそうにもないのじゃ。
肘をばさりと振ったけれども、よく食い込んだと見えてなかなか離れそうにしないから、不気味ながら手でつまんで引きちぎると、ぷつりといってようやく取れる。少しの間も我慢できたものではない。いきなり掴んで大地へ叩きつけると、これほどの奴らが何万となく巣を作って自分のものにしている場所だ、かねてその用意はしているとしか思えず、日の当たらない森の中の土は柔らかで、潰れそうにもないのだ。
原文: ともはや頸のあたりがむずむずして来た、平手で扱て見ると横撫に蛭の背をぬるぬるとすべるという、やあ、乳の下へ潜んで帯の間にも一疋、蒼くなってそッと見ると肩の上にも一筋。
と、もう襟のあたりがむずむずしてきた。平手でしごいてみると、横なでに蛭の背をぬるぬるとすべる。やあ、乳の下に潜んで帯の間にも一匹、青くなってそっと見ると肩の上にも一筋。
原文: 思わず飛上って総身を震いながらこの大枝の下を一散にかけぬけて、走りながらまず心覚えの奴だけは夢中でもぎ取った。
思わず飛び上がって総身を震わせながら、この大枝の下を一散に駆け抜けて、走りながらまず心当たりのある奴だけは夢中でもぎ取った。
原文: 何にしても恐しい今の枝には蛭が生っているのであろうとあまりの事に思って振返ると、見返った樹の何の枝か知らずやっぱり幾ツということもない蛭の皮じゃ。
それにしても恐ろしい、今の枝には蛭が実っているのだろうと、あまりのことに思って振り返ると、振り返った木の何の枝ということもなく、やはりいくつということもない蛭の皮だ。
原文: これはと思う、右も、左も、前の枝も、何の事はないまるで充満。
これはと思う。右も、左も、前の枝も、何のことはない、まるでいっぱい。
原文: 私は思わず恐怖の声を立てて叫んだ、すると何と?
私は思わず恐怖の声を立てて叫んだ。すると何と?
原文: この時は目に見えて、上からぼたりぼたりと真黒な痩せた筋の入った雨が体へ降かかって来たではないか。
この時は目に見えて、上からぼたりぼたりと、真っ黒な痩せた筋の入った雨が体へ降りかかってきたではありませんか。
原文: 草鞋を穿いた足の甲へも落ちた上へまた累り、並んだ傍へまた附着いて爪先も分らなくなった、そうして活きてると思うだけ脈を打って血を吸うような、思いなしか一ツ一ツ伸縮をするようなのを見るから気が遠くなって、その時不思議な考えが起きた。
草鞋を履いた足の甲へも落ち、その上にまた重なり、並んだ脇へまたくっついて、つま先も分からなくなった。そうして生きていると思うだけに脈を打って血を吸うような、気のせいか一つ一つ伸び縮みをするような、それを見ると気が遠くなって、その時に不思議な考えが起きた。
原文: この恐しい山蛭は神代の古からここに屯をしていて、人の来るのを待ちつけて、永い久しい間にどのくらい何斛かの血を吸うと、そこでこの虫の望が叶う、その時はありったけの蛭が残らず吸っただけの人間の血を吐出すと、それがために土がとけて山一ツ一面に血と泥との大沼にかわるであろう、それと同時にここに日の光を遮って昼もなお暗い大木が切々に一ツ一ツ蛭になってしまうのに相違ないと、いや、全くの事で。」
この恐ろしい山蛭は神代の昔からここに屯していて、人の来るのを待ち受け、永い久しい間に何斛かの血を吸うと、そこでこの虫の望みがかなう。その時はありったけの蛭が、残らず吸っただけの人間の血を吐き出し、そのために土が溶けて山一つが一面、血と泥の大沼に変わるだろう。それと同時に、ここで日の光を遮って昼もなお暗い大木が、切れ切れに一つ一つ蛭になってしまうに違いない、と、いや、本当にそう思ったのです。」
原文: 九
九
原文: 「およそ人間が滅びるのは、地球の薄皮が破れて空から火が降るのでもなければ、大海が押被さるのでもない、飛騨国の樹林が蛭になるのが最初で、しまいには皆血と泥の中に筋の黒い虫が泳ぐ、それが代がわりの世界であろうと、ぼんやり。
「およそ人間が滅びるのは、地球の薄皮が破れて空から火が降るのでもなければ、大海が覆いかぶさるのでもない。飛騨国の木々の林が蛭になるのが最初で、しまいには皆、血と泥の中を筋の黒い虫が泳ぐ、それが代替わりした世界であろうと、ぼんやり考えていた。
原文: なるほどこの森も入口では何の事もなかったのに、中へ来るとこの通り、もっと奥深く進んだら早や残らず立樹の根の方から朽ちて山蛭になっていよう、助かるまい、ここで取殺される因縁らしい、取留めのない考えが浮んだのも人が知死期に近いたからだとふと気が付いた。
なるほどこの森も入口では何のこともなかったのに、中へ来るとこのとおり、もっと奥深く進んだら、もう残らず立ち木が根のほうから朽ちて山蛭になっていよう、助かるまい、ここで取り殺される因縁らしい。こんな取り留めのない考えが浮かんだのも、死ぬ時が近づいたからだと、ふと気がついた。
原文: どの道死ぬるものなら一足でも前へ進んで、世間の者が夢にも知らぬ血と泥の大沼の片端でも見ておこうと、そう覚悟がきまっては気味の悪いも何もあったものじゃない、体中珠数生になったのを手当次第に掻い除け挘り棄て、抜き取りなどして、手を挙げ足を踏んで、まるで躍り狂う形で歩行き出した。
どのみち死ぬものなら、一足でも前へ進んで、世間の者が夢にも知らない血と泥の大沼の片端でも見ておこうと、そう覚悟が決まってしまえば気味の悪いも何もあったものではない。体中に数珠なりになったのを手当たり次第に掻きのけ、むしり捨て、抜き取りなどして、手を挙げ足を踏んで、まるで躍り狂う格好で歩き出した。
原文: はじめの中は一廻も太ったように思われて痒さが耐らなかったが、しまいにはげっそり痩せたと感じられてずきずき痛んでならぬ、その上を容赦なく歩行く内にも入交りに襲いおった。
はじめのうちは一回りも太ったように思われて痒さがたまらなかったが、しまいにはげっそり痩せたと感じられて、ずきずき痛んでならない。その上を容赦なく歩くうちにも、入れ替わり立ち替わり襲ってきた。
原文: 既に目も眩んで倒れそうになると、禍はこの辺が絶頂であったと見えて、隧道を抜けたように、遥に一輪のかすれた月を拝んだのは、蛭の林の出口なので。
もう目もくらんで倒れそうになると、災いはこのあたりが絶頂だったと見えて、トンネルを抜けたように、はるかに一輪のかすれた月を拝んだ。それが蛭の林の出口だったのです。
原文: いや蒼空の下へ出た時には、何のことも忘れて、砕けろ、微塵になれと横なぐりに体を山路へ打倒した。
いや、青空の下へ出た時には、何もかも忘れて、砕けろ、微塵になれと、横なぐりに体を山道へ打ち倒した。
原文: それでからもう砂利でも針でもあれと地へこすりつけて、十余りも蛭の死骸を引くりかえした上から、五六間向うへ飛んで身顫をして突立った。
それからもう、砂利でも針でもあれとばかり地面へこすりつけて、十あまりも蛭の死骸をひっくり返した上から、五、六間向こうへ飛んで、身震いをして突っ立った。
原文: 人を馬鹿にしているではありませんか。
人を馬鹿にしているではありませんか。
原文: あたりの山では処々茅蜩殿、血と泥の大沼になろうという森を控えて鳴いている、日は斜、渓底はもう暗い。
あたりの山ではところどころで蜩殿が、血と泥の大沼になろうという森を控えて鳴いている。日は斜めで、谷底はもう暗い。
原文: まずこれならば狼の餌食になってもそれは一思に死なれるからと、路はちょうどだらだら下なり、小僧さん、調子はずれに竹の杖を肩にかついで、すたこら遁げたわ。
まずこれなら狼の餌食になっても、それは一思いに死ねるからと、道はちょうどだらだら下り、小僧さん、調子はずれに竹の杖を肩に担いで、すたこら逃げましたよ。
原文: これで蛭に悩まされて痛いのか、痒いのか、それとも擽ったいのか得もいわれぬ苦しみさえなかったら、嬉しさに独り飛騨山越の間道で、お経に節をつけて外道踊をやったであろう、ちょっと清心丹でも噛砕いて疵口へつけたらどうだと、だいぶ世の中の事に気がついて来たわ。
これで蛭に悩まされて、痛いのか、痒いのか、それともくすぐったいのか、何とも言えない苦しみさえなかったら、嬉しさのあまり、ひとり飛騨山越えの間道でお経に節をつけて外道踊りをやったことでしょう。ちょっと清心丹でも噛み砕いて傷口につけたらどうかと、だいぶ世の中のことに気が回るようにもなってきた。
原文: 抓っても確に活返ったのじゃが、それにしても富山の薬売はどうしたろう、あの様子ではとうに血になって泥沼に。
つねってみても確かに生き返ったのだが、それにしても富山の薬売りはどうしたろう。あの様子ではとっくに血になって泥沼に。
原文: 皮ばかりの死骸は森の中の暗い処、おまけに意地の汚い下司な動物が骨までしゃぶろうと何百という数でのしかかっていた日には、酢をぶちまけても分る気遣はあるまい。
皮ばかりの死骸は森の中の暗い所、おまけに意地の汚い下等な動物が骨までしゃぶろうと何百という数でのしかかっていた日には、酢をぶちまけたところで見分けがつくはずもあるまい。
原文: こう思っている間、件のだらだら坂は大分長かった。
こう思っている間、例のだらだら坂はずいぶん長かった。
原文: それを下り切ると流が聞えて、とんだ処に長さ一間ばかりの土橋がかかっている。
それを下りきると流れの音が聞こえて、とんでもない所に長さ一間ばかりの土橋がかかっている。
原文: はやその谷川の音を聞くと我身で持余す蛭の吸殻を真逆に投込んで、水に浸したらさぞいい心地であろうと思うくらい、何の渡りかけて壊れたらそれなりけり。
その谷川の音を聞くと、我が身では持て余す蛭の吸い殻を真っ逆さまに投げ込んで水に浸したら、さぞいい心地だろうと思うくらいで、何、渡りかけて壊れたらそれまでのこと。
原文: 危いとも思わずにずっと懸る、少しぐらぐらしたが難なく越した。
危ないとも思わずにずっと渡りにかかると、少しぐらぐらしたが難なく越した。
原文: 向うからまた坂じゃ、今度は上りさ、ご苦労千万。」
向こうからまた坂だ、今度は上りです、ご苦労千万。」
原文: 十
十
原文: 「とてもこの疲れようでは、坂を上るわけには行くまいと思ったが、ふと前途に、ヒイインと馬の嘶くのが谺して聞えた。
「とてもこの疲れようでは坂を上るわけにはいくまいと思ったが、ふと行く手に、ヒイインと馬のいななくのが谺して聞こえた。
原文: 馬士が戻るのか小荷駄が通るか、今朝一人の百姓に別れてから時の経ったは僅じゃが、三年も五年も同一ものをいう人間とは中を隔てた。
馬子が戻るのか、荷馬が通るのか。今朝ひとりの百姓に別れてから経った時間はわずかだが、三年も五年も、同じ言葉を話す人間とは隔たっていた気がする。
原文: 馬が居るようではともかくも人里に縁があると、これがために気が勇んで、ええやっと今一揉。
馬がいるようならともかくも人里に縁があると、そのおかげで気が勇んで、ええ、やっともうひと踏ん張り。
原文: 一軒の山家の前へ来たのには、さまで難儀は感じなかった。
一軒の山家の前へ来るまでは、それほど難儀とも感じなかった。
原文: 夏のことで戸障子のしまりもせず、殊に一軒家、あけ開いたなり門というてもない、突然破縁になって男が一人、私はもう何の見境もなく、
夏のことで戸障子の締まりもせず、ことに一軒家、開け放ったままで門というものもない。いきなり壊れかけた縁側になっていて、そこに男が一人。私はもう何の見境もなく、
原文: (頼みます、頼みます、)というさえ助を呼ぶような調子で、取縋らぬばかりにした。
(頼みます、頼みます、)というのさえ助けを呼ぶような調子で、取りすがらんばかりにした。
原文: (ご免なさいまし、)といったがものもいわない、首筋をぐったりと、耳を肩で塞ぐほど顔を横にしたまま小児らしい、意味のない、しかもぼっちりした目で、じろじろと門に立ったものを瞻める、その瞳を動かすさえ、おっくうらしい、気の抜けた身の持方。
(ごめんくださいまし、)と言ったが、何も言わない。首筋をぐったりと、耳を肩でふさぐほど顔を横にしたまま、子どもらしい、意味のない、それでいてぱっちりした目で、じろじろと門口に立った者を見つめる。その瞳を動かすことさえ億劫らしい、気の抜けた身の持ちようだ。
原文: 裾短かで袖は肱より少い、糊気のある、ちゃんちゃんを着て、胸のあたりで紐で結えたが、一ツ身のものを着たように出ッ腹の太り肉、太鼓を張ったくらいに、すべすべとふくれてしかも出臍という奴、南瓜の蔕ほどな異形な者を片手でいじくりながら幽霊の手つきで、片手を宙にぶらり。
裾が短く袖は肘より短い、糊のきいたちゃんちゃんこを着て胸のあたりを紐で結わえているが、赤ん坊の着物を着せられたような出っ腹の太り肉で、太鼓を張ったほどにすべすべと膨れ、しかも出臍という奴、南瓜のへたほどもある異形なものを片手でいじくりながら、幽霊の手つきで、もう片方の手を宙にぶらり。
原文: 足は忘れたか投出した、腰がなくば暖簾を立てたように畳まれそうな、年紀がそれでいて二十二三、口をあんぐりやった上唇で巻込めよう、鼻の低さ、出額。
足は忘れたのか投げ出したまま、腰がなければ暖簾を立てたように畳めそうな体つきで、年はそれでいて二十二、三。ぽかんと開けた口は上唇で巻き込めそうな、鼻の低さ、出っ張った額。
原文: 五分刈の伸びたのが前は鶏冠のごとくになって、頸脚へ撥ねて耳に被った、唖か、白痴か、これから蛙になろうとするような少年。
五分刈りの伸びたのが前は鶏冠のように立ち、襟足へ跳ねて耳にかぶさっている。口がきけないのか、知恵が遅れているのか、これから蛙になろうとしているような少年。
原文: 私は驚いた、こっちの生命に別条はないが、先方様の形相。
私は驚いた。こちらの命に別条はないが、相手方の形相。
原文: いや、大別条。
いや、大変な別条だ。
原文: (ちょいとお願い申します。)
(ちょっとお願い申します。)
原文: それでもしかたがないからまた言葉をかけたが少しも通ぜず、ばたりというと僅に首の位置をかえて今度は左の肩を枕にした、口の開いてること旧のごとし。
それでも仕方がないからまた声をかけたが、少しも通じない。ばたりというとわずかに首の位置を変えて、今度は左の肩を枕にした。口が開いているのは元のまま。
原文: こういうのは、悪くすると突然ふんづかまえて臍を捻りながら返事のかわりに嘗めようも知れぬ。
こういうのは、悪くするといきなり引っ掴まえて、臍をひねりながら返事の代わりに舐めかねない。
原文: 私は一足退ったが、いかに深山だといってもこれを一人で置くという法はあるまい、と足を爪立てて少し声高に、
私は一足後ずさったが、いくら深山だといっても、これを一人で置いておくという法はあるまいと、爪先立って少し声を高くし、
原文: (どなたぞ、ご免なさい、)といった。
(どなたかおいでですか、ごめんください、)と言った。
原文: 背戸と思うあたりで再び馬の嘶く声。
裏口と思うあたりで、再び馬のいななく声。
原文: (どなた、)と納戸の方でいったのは女じゃから、南無三宝、この白い首には鱗が生えて、体は床を這って尾をずるずると引いて出ようと、また退った。
(どなた、)と納戸のほうで言ったのは女の声だったので、南無三宝、この白い首には鱗が生えていて、体は床を這い、尾をずるずると引きながら出てくるのだろうと、また後ずさった。
原文: (おお、お坊様。)
(おお、お坊様。)
原文: と立顕れたのは小造の美しい、声も清しい、ものやさしい。
と現れたのは小柄で美しい、声も涼しく、もの柔らかな女。
原文: 私は大息を吐いて、何にもいわず、
私は大きく息をついて、何も言わず、
原文: (はい。)
(はい。)
原文: と頭を下げましたよ。
と頭を下げましたよ。
原文: 婦人は膝をついて坐ったが、前へ伸上るようにして、黄昏にしょんぼり立った私が姿を透かして見て、
女は膝をついて座ったが、前へ伸び上がるようにして、黄昏の中にしょんぼり立った私の姿を透かして見て、
原文: (何か用でござんすかい。)
(何かご用でございますか。)
原文: 休めともいわずはじめから宿の常世は留守らしい、人を泊めないときめたもののように見える。
休めとも言わず、はじめからこの家の主人は留守らしく、人を泊めないと決めているように見える。
原文: いい後れてはかえって出そびれて頼むにも頼まれぬ仕誼にもなることと、つかつかと前へ出た。
言いそびれてはかえって切り出しにくくなり、頼むにも頼めない仕儀にもなろうと、つかつかと前へ出た。
原文: 丁寧に腰を屈めて、
丁寧に腰をかがめて、
原文: (私は、山越で信州へ参ります者ですが旅籠のございます処まではまだどのくらいでございましょう。)
(私は山越えで信州へ参る者ですが、宿屋のある所まではまだどのくらいでございましょう。)
原文: 十一
十一
原文: (あなたまだ八里余でございますよ。)
(あなた、まだ八里あまりもございますよ。)
原文: (その他に別に泊めてくれます家もないのでしょうか。)
(そのほかに、別に泊めてくださる家もないのでしょうか。)
原文: (それはございません。)
(それはございません。)
原文: といいながら目たたきもしないで清しい目で私の顔をつくづく見ていた。
と言いながら、まばたきもしないで涼しい目で私の顔をつくづくと見ていた。
原文: (いえもう何でございます、実はこの先一町行け、そうすれば上段の室に寝かして一晩扇いでいてそれで功徳のためにする家があると承りましても、全くのところ一足も歩行けますのではございません、どこの物置でも馬小屋の隅でもよいのでございますから後生でございます。)
(いえ、もう、何でございます、実はこの先一町行け、そうすれば上段の間に寝かせて一晩じゅう扇いでいて、それを功徳のためにしてくれる家があると承っても、まったくのところ、もう一足も歩けはしないのでございます。どこの物置でも馬小屋の隅でもよろしいのですから、後生でございます。)
原文: とさっき馬が嘶いたのは此家より外にはないと思ったから言った。
と、さっき馬がいなないたのはこの家のほかにはないと思ったから言った。
原文: 婦人はしばらく考えていたが、ふと傍を向いて布の袋を取って、膝のあたりに置いた桶の中へざらざらと一幅、水を溢すようにあけて縁をおさえて、手で掬って俯向いて見たが、
女はしばらく考えていたが、ふと脇を向いて布の袋を取り、膝のあたりに置いた桶の中へざらざらと一幅、水をこぼすようにあけて縁を押さえ、手ですくってうつむいて見ていたが、
原文: (ああ、お泊め申しましょう、ちょうど炊いてあげますほどお米もございますから、それに夏のことで、山家は冷えましても夜のものにご不自由もござんすまい。
(ああ、お泊め申しましょう。ちょうど炊いてさしあげるだけのお米もございますし、それに夏のことですから、山家は冷えましても夜具にご不自由はございますまい。
原文: さあ、ともかくもあなた、お上り遊ばして。)
さあ、ともかくもあなた、お上がりくださいまし。)
原文: というと言葉の切れぬ先にどっかと腰を落した。
と言うと、言葉の終わらないうちにどっかと腰を落とした。
原文: 婦人はつと身を起して立って来て、
女はつと身を起こして立って来て、
原文: (お坊様、それでござんすがちょっとお断り申しておかねばなりません。)
(お坊様、それについてはちょっとお断りしておかねばなりません。)
原文: はっきりいわれたので私はびくびくもので、
はっきり言われたので、私はびくびくもので、
原文: (はい、はい。)
(はい、はい。)
原文: (いいえ、別のことじゃござんせぬが、私は癖として都の話を聞くのが病でございます、口に蓋をしておいでなさいましても無理やりに聞こうといたしますが、あなた忘れてもその時聞かして下さいますな、ようござんすかい、私は無理にお尋ね申します、あなたはどうしてもお話しなさいませぬ、それを是非にと申しましても断っておっしゃらないようにきっと念を入れておきますよ。)
(いいえ、別のことではございませんが、私は癖として都の話を聞くのが病でございます。口に蓋をしておいでになっても無理やり聞き出そうといたしますが、あなた、忘れてもその時に聞かせてくださいますな。よろしゅうございますか、私は無理にお尋ねいたします、あなたはどうしてもお話しにならない、それをぜひにと申しましても、断じておっしゃらないように、きっと念を入れておきますよ。)
原文: と仔細ありげなことをいった。
と、わけありげなことを言った。
原文: 山の高さも谷の深さも底の知れない一軒家の婦人の言葉とは思うたが保つにむずかしい戒でもなし、私はただ頷くばかり。
山の高さも谷の深さも底知れない一軒家の女の言葉とは思ったが、守るのに難しい戒めでもなし、私はただうなずくばかり。
原文: (はい、よろしゅうございます、何事もおっしゃりつけは背きますまい。)
(はい、よろしゅうございます、何事もおっしゃりつけには背きますまい。)
原文: 婦人は言下に打解けて、
女はその言葉が終わるや打ち解けて、
原文: (さあさあ汚うございますが早くこちらへ、お寛ぎなさいまし、そうしてお洗足を上げましょうかえ。)
(さあさあ、汚うございますが早くこちらへ、おくつろぎなさいまし。そうしてお足をすすぐ湯をお持ちしましょうか。)
原文: (いえ、それには及びませぬ、雑巾をお貸し下さいまし。
(いえ、それには及びません、雑巾をお貸しくださいまし。
原文: ああ、それからもしそのお雑巾次手にずッぷりお絞んなすって下さると助ります、途中で大変な目に逢いましたので体を打棄りたいほど気味が悪うございますので、一ツ背中を拭こうと存じますが、恐入りますな。)
ああ、それから、もしその雑巾をついでにずっぷりと絞ってくださると助かります。途中で大変な目に遭いまして、体を投げ捨てたいほど気味が悪いのです、ひとつ背中を拭こうと存じますが、恐れ入りますな。)
原文: (そう、汗におなりなさいました、さぞまあ、お暑うござんしたでしょう、お待ちなさいまし、旅籠へお着き遊ばして湯にお入りなさいますのが、旅するお方には何よりご馳走だと申しますね、湯どころか、お茶さえ碌におもてなしもいたされませんが、あの、この裏の崖を下りますと、綺麗な流がございますからいっそそれへいらっしゃッてお流しがよろしゅうございましょう。)
(そう、汗におなりでしたか、さぞまあ、お暑うございましたでしょう。お待ちなさいまし。宿へお着きになって湯にお入りになるのが、旅をなさる方には何よりのご馳走だと申しますね。湯どころか、お茶さえろくにおもてなしできませんが、あの、この裏の崖を下りますと綺麗な流れがございますから、いっそそちらへいらして流されるのがよろしゅうございましょう。)
原文: 聞いただけでも飛んでも行きたい。
聞いただけでも飛んで行きたい。
原文: (ええ、それは何より結構でございますな。)
(ええ、それは何よりでございますな。)
原文: (さあ、それではご案内申しましょう、どれ、ちょうど私も米を磨ぎに参ります。)
(さあ、それではご案内申しましょう。どれ、ちょうど私も米を研ぎに参ります。)
原文: と件の桶を小脇に抱えて、縁側から、藁草履を穿いて出たが、屈んで板縁の下を覗いて、引出したのは一足の古下駄で、かちりと合して埃を払いて揃えてくれた。
と、例の桶を小脇に抱えて、縁側から藁草履を履いて出たが、かがんで板縁の下を覗き、引き出したのは一足の古下駄で、かちりと打ち合わせて埃をはたき、揃えてくれた。
原文: (お穿きなさいまし、草鞋はここにお置きなすって、)
(お履きなさいまし、草鞋はここにお置きになって、)
原文: 私は手をあげて、一礼して、
私は手を上げ、一礼して、
原文: (恐入ります、これはどうも、)
(恐れ入ります、これはどうも、)
原文: (お泊め申すとなりましたら、あの、他生の縁とやらでござんす、あなたご遠慮を遊ばしますなよ。)
(お泊め申すとなりましたら、あの、他生の縁とやらでございます、あなた、ご遠慮などなさいますな。)
原文: まず恐しく調子がいいじゃて。」
まず恐ろしく調子がいいのですよ。」
原文: 十二
十二
原文: 「(さあ、私に跟いてこちらへ、)と件の米磨桶を引抱えて手拭を細い帯に挟んで立った。
「(さあ、私についてこちらへ、)と、例の米研ぎ桶を引っ抱えて、手拭いを細い帯に挟んで立った。
原文: 髪は房りとするのを束ねてな、櫛をはさんで簪で留めている、その姿の佳さというてはなかった。
髪はふさふさしたのを束ねて、櫛を挟んで簪で留めている。その姿の良さといったらなかった。
原文: 私も手早く草鞋を解いたから、早速古下駄を頂戴して、縁から立つ時ちょいと見ると、それ例の白痴殿じゃ。
私も手早く草鞋を解いたので、さっそく古下駄を頂戴して、縁から立つ時にちょっと見ると、それ、例の少年だ。
原文: 同じく私が方をじろりと見たっけよ、舌不足が饒舌るような、愚にもつかぬ声を出して、
同じように私のほうをじろりと見ましてね、舌足らずが喋るような、愚にもつかない声を出して、
原文: (姉や、こえ、こえ。)
(姉や、こえ、こえ。)
原文: といいながら気だるそうに手を持上げてその蓬々と生えた天窓を撫でた。
と言いながら、けだるそうに手を持ち上げて、そのぼうぼうと生えた頭を撫でた。
原文: (坊さま、坊さま?)
(坊さま、坊さま?)
原文: すると婦人が、下ぶくれな顔にえくぼを刻んで、三ツばかりはきはきと続けて頷いた。
すると女が、下ぶくれの顔にえくぼを刻んで、三つばかりはきはきと続けてうなずいた。
原文: 少年はうむといったが、ぐたりとしてまた臍をくりくりくり。
少年はうむと言ったが、ぐたりとして、また臍をくりくりくり。
原文: 私は余り気の毒さに顔も上げられないでそっと盗むようにして見ると、婦人は何事も別に気に懸けてはおらぬ様子、そのまま後へ跟いて出ようとする時、紫陽花の花の蔭からぬいと出た一名の親仁がある。
私はあまりの気の毒さに顔も上げられず、そっと盗み見るようにして見ると、女は何も別に気にかけていない様子。そのまま後についていこうとする時、紫陽花の花の陰からぬいと出てきた一人の親父がある。
原文: 背戸から廻って来たらしい、草鞋を穿いたなりで、胴乱の根付を紐長にぶらりと提げ、銜煙管をしながら並んで立停った。
裏口から回って来たらしい、草鞋を履いたままで、胴乱の根付を長い紐でぶらりと提げ、煙管をくわえながら並んで立ち止まった。
原文: (和尚様おいでなさい。)
(和尚様、おいでなさい。)
原文: 婦人はそなたを振向いて、
女はそちらを振り向いて、
原文: (おじ様どうでござんした。)
(おじさん、どうでした。)
原文: (さればさの、頓馬で間の抜けたというのはあのことかい。
(それがさ、とんまで間の抜けたというのはあのことかね。
原文: 根ッから早や狐でなければ乗せ得そうにもない奴じゃが、そこはおらが口じゃ、うまく仲人して、二月や三月はお嬢様がご不自由のねえように、翌日はものにしてうんとここへ担ぎ込みます。)
根っから、もう狐でなければ乗せられそうにもない奴だが、そこはわしの口だ、うまく仲立ちをして、二月や三月はお嬢様がご不自由のないように、明日は話をまとめて、どっさりここへ担ぎ込みますよ。)
原文: (お頼み申しますよ。)
(お頼み申しますよ。)
原文: (承知、承知、おお、嬢様どこさ行かっしゃる。)
(承知、承知。おお、嬢様、どちらへ行かれる。)
原文: (崖の水までちょいと。)
(崖の水までちょっと。)
原文: (若い坊様連れて川へ落っこちさっしゃるな、おらここに眼張って待っとるに、)と横様に縁にのさり。
(若い坊様を連れて川へ落っこちなさるなよ、おれはここで見張って待っとるから、)と、横向きに縁側へのさりと腰を下ろした。
原文: (貴僧、あんなことを申しますよ。)
(あなた、あんなことを申しますよ。)
原文: と顔を見て微笑んだ。
と、顔を見て微笑んだ。
原文: (一人で参りましょう、)と傍へ退くと、親仁はくっくっと笑って、
(一人で参りましょう、)と脇へ退くと、親父はくっくっと笑って、
原文: (はははは、さあ、早くいってござらっせえ。)
(ははははは、さあ、早く行ってござらっしゃい。)
原文: (おじ様、今日はお前、珍しいお客がお二方ござんした、こういう時はあとからまた見えようも知れません、次郎さんばかりでは来た者が弱んなさろう、私が帰るまでそこに休んでいておくれでないか。)
(おじさん、今日はね、珍しくお客が二人おいでになった。こういう時は後からまた見えるかもしれません、次郎さんばかりでは来た人が困るでしょう。私が帰るまでそこで休んでいておくれでないか。)
原文: (いいともの。)
(いいともさ。)
原文: といいかけて、親仁は少年の傍へにじり寄って、鉄挺を見たような拳で、背中をどんとくらわした、白痴の腹はだぶりとして、べそをかくような口つきで、にやりと笑う。
と言いかけて、親父は少年のそばへにじり寄り、鉄の棒のような拳で背中をどんと食らわせた。少年の腹はだぶりと揺れ、べそをかくような口つきで、にやりと笑う。
原文: 私はぞっとして面を背けたが、婦人は何気ない体であった。
私はぞっとして顔を背けたが、女は何気ない様子だった。
原文: 親仁は大口を開いて、
親父は大口を開けて、
原文: (留守におらがこの亭主を盗むぞよ。)
(留守におれがこの亭主を盗むぞよ。)
原文: (はい、ならば手柄でござんす、さあ、貴僧参りましょうか。)
(はい、それなら手柄でございます。さあ、あなた、参りましょうか。)
原文: 背後から親仁が見るように思ったが、導かるるままに壁について、かの紫陽花のある方ではない。
後ろから親父が見ているように思われたが、導かれるままに壁づたいに行く。あの紫陽花のあるほうではない。
原文: やがて背戸と思う処で左に馬小屋を見た、ことことという音は羽目を蹴るのであろう、もうその辺から薄暗くなって来る。
やがて裏口と思う所で左に馬小屋を見た。ことことという音は羽目板を蹴っているのだろう。もうそのあたりから薄暗くなってくる。
原文: (貴僧、ここから下りるのでございます、辷りはいたしませぬが、道が酷うございますからお静に、)という。」
(あなた、ここから下りるのでございます。滑りはいたしませんが、道がひどうございますからお静かに、)という。」
原文: 十三
十三
原文: 「そこから下りるのだと思われる、松の木の細くッて度外れに背の高い、ひょろひょろしたおよそ五六間上までは小枝一ツもないのがある。その中を潜ったが、仰ぐと梢に出て白い、月の形はここでも別にかわりは無かった、浮世はどこにあるか十三夜で。
「そこから下りるのだと思われる。松の木の細くて、度外れに背が高く、ひょろひょろとして、およそ五、六間上までは小枝一つもないのがある。その中を潜ったが、仰ぐと梢の上に出て白い、月の形はここでも別に変わりはなかった。浮世はどこにあるのか、十三夜です。
原文: 先へ立った婦人の姿が目さきを放れたから、松の幹に掴まって覗くと、つい下に居た。
先に立った女の姿が目の前から離れたので、松の幹に掴まって覗くと、すぐ下にいた。
原文: 仰向いて、
仰向いて、
原文: (急に低くなりますから気をつけて。
(急に低くなりますから気をつけて。
原文: こりゃ貴僧には足駄では無理でございましたかしら、宜しくば草履とお取交え申しましょう。)
これはあなたには足駄では無理でございましたかしら。よろしければ草履とお取り替えいたしましょう。)
原文: 立後れたのを歩行悩んだと察した様子、何がさて転げ落ちても早く行って蛭の垢を落したさ。
立ち遅れたのを歩き悩んでいると察した様子。何がさて、転げ落ちてもいいから早く行って蛭の垢を落としたい。
原文: (何、いけませんければ跣足になります分のこと、どうぞお構いなく、嬢様にご心配をかけては済みません。)
(何、いけなければ裸足になるだけのこと、どうぞお構いなく。お嬢さんにご心配をかけては済みません。)
原文: (あれ、嬢様ですって、)とやや調子を高めて、艶麗に笑った。
(あれ、お嬢さんですって、)と、やや声を高くして、あでやかに笑った。
原文: (はい、ただいまあの爺様が、さよう申しましたように存じますが、夫人でございますか。)
(はい、ただいまあのお爺さんが、そう申したように存じましたが、奥様でございますか。)
原文: (何にしても貴僧には叔母さんくらいな年紀ですよ。
(何にしても、あなたには叔母さんくらいの年ですよ。
原文: まあ、お早くいらっしゃい、草履もようござんすけれど、刺がささりますといけません、それにじくじく湿れていてお気味が悪うございましょうから。)
まあ、お早くいらっしゃい。草履もようございますけれど、棘が刺さるといけません、それにじくじく濡れていてお気味が悪うございましょうから。)
原文: と向う向でいいながら衣服の片褄をぐいとあげた。
と、向こうを向いたまま言いながら、着物の片褄をぐいと上げた。
原文: 真白なのが暗まぎれ、歩行くと霜が消えて行くような。
真っ白なのが闇にまぎれて、歩くと霜が消えていくような。
原文: ずんずんずんずんと道を下りる、傍らの叢から、のさのさと出たのは蟇で。
ずんずんずんずんと道を下りる。かたわらの草むらから、のさのさと出てきたのは蟇だ。
原文: (あれ、気味が悪いよ。)
(あれ、気味が悪いよ。)
原文: というと婦人は背後へ高々と踵を上げて向うへ飛んだ。
と言うと、女は後ろへ高々と踵を上げて向こうへ飛んだ。
原文: (お客様がいらっしゃるではないかね、人の足になんか搦まって、贅沢じゃあないか、お前達は虫を吸っていればたくさんだよ。
(お客様がいらっしゃるではないかね。人の足になんかからみついて、贅沢じゃないか。お前たちは虫を吸っていれば十分だよ。
原文: 貴僧ずんずんいらっしゃいましな、どうもしはしません。
あなた、ずんずんいらっしゃいましな、どうもしはしません。
原文: こう云う処ですからあんなものまで人懐しゅうございます、厭じゃないかね、お前達と友達をみたようで愧しい、あれいけませんよ。)
こういう所ですから、あんなものまで人懐かしゅうございます。嫌じゃないかね、お前たちと友達みたいで恥ずかしい。あれ、いけませんよ。)
原文: 蟇はのさのさとまた草を分けて入った、婦人はむこうへずいと。
蟇はのさのさとまた草を分けて入っていった。女は向こうへずいと進む。
原文: (さあこの上へ乗るんです、土が柔かで壊えますから地面は歩行かれません。)
(さあ、この上へ乗るんです。土が柔らかで崩れますから、地面は歩けません。)
原文: いかにも大木の僵れたのが草がくれにその幹をあらわしている、乗ると足駄穿で差支えがない、丸木だけれどもおそろしく太いので、もっともこれを渡り果てるとたちまち流の音が耳に激した、それまでにはよほどの間。
なるほど大木の倒れたのが、草に隠れて幹を現している。乗ってみると足駄履きでも差し支えない、丸木だけれども恐ろしく太いのだ。もっとも、これを渡りきるとたちまち流れの音が耳を打った。そこまでにはよほどの間があった。
原文: 仰いで見ると松の樹はもう影も見えない、十三夜の月はずっと低うなったが、今下りた山の頂に半ばかかって、手が届きそうにあざやかだけれども、高さはおよそ計り知られぬ。
仰いで見ると松の木はもう影も見えない。十三夜の月はずっと低くなったが、今下りた山の頂に半ばかかって、手が届きそうにあざやかだけれども、高さはおよそ計り知れない。
原文: (貴僧、こちらへ。)
(あなた、こちらへ。)
原文: といった婦人はもう一息、目の下に立って待っていた。
と言った女は、もうひと下りしたところ、目の下に立って待っていた。
原文: そこは早や一面の岩で、岩の上へ谷川の水がかかってここによどみを作っている、川幅は一間ばかり、水に臨めば音はさまでにもないが、美しさは玉を解いて流したよう、かえって遠くの方で凄じく岩に砕ける響がする。
そこはもう一面の岩で、岩の上へ谷川の水がかかり、ここに淀みを作っている。川幅は一間ばかり、水際に立てば音はそれほどでもないが、美しさは玉を溶かして流したよう。かえって遠くのほうで、凄まじく岩に砕ける響きがする。
原文: 向う岸はまた一座の山の裾で、頂の方は真暗だが、山の端からその山腹を射る月の光に照し出された辺からは大石小石、栄螺のようなの、六尺角に切出したの、剣のようなのやら、鞠の形をしたのやら、目の届く限り残らず岩で、次第に大きく水に蘸ったのはただ小山のよう。」
向こう岸はまた一つの山の裾で、頂のほうは真っ暗だが、山の端からその山腹を射る月の光に照らし出されたあたりからは、大石小石、栄螺のようなの、六尺角に切り出したの、剣のようなのやら、鞠の形をしたのやら、目の届く限り残らず岩で、次第に大きくなって水に浸ったのは、もうただの小山のようだ。」
原文: 十四
十四
原文: 「(いい塩梅に今日は水がふえておりますから、中へ入りませんでもこの上でようございます。)と甲を浸して爪先を屈めながら、雪のような素足で石の盤の上に立っていた。
「(いい具合に今日は水が増えておりますから、中へ入らなくてもこの上でようございます。)と、足の甲を浸してつま先を曲げながら、雪のような素足で石の盤の上に立っていた。
原文: 自分達が立った側は、かえってこっちの山の裾が水に迫って、ちょうど切穴の形になって、そこへこの石を嵌めたような誂。
自分たちが立った側は、かえってこちらの山の裾が水に迫って、ちょうど切り穴のような形になり、そこへこの石をはめ込んだようなあつらえ向きの具合。
原文: 川上も下流も見えぬが、向うのあの岩山、九十九折のような形、流は五尺、三尺、一間ばかりずつ上流の方がだんだん遠く、飛々に岩をかがったように隠見して、いずれも月光を浴びた、銀の鎧の姿、目のあたり近いのはゆるぎ糸を捌くがごとく真白に翻って。
川上も川下も見えないが、向こうのあの岩山は九十九折りのような形で、流れは五尺、三尺、一間ばかりずつ、上流のほうがだんだん遠くなり、飛び飛びに岩を縫うように見え隠れして、いずれも月光を浴びた銀の鎧の姿。目のあたり近くのは、揺るぎ糸をさばくように真っ白に翻って。
原文: (結構な流れでございますな。)
(結構な流れでございますな。)
原文: (はい、この水は源が滝でございます、この山を旅するお方は皆な大風のような音をどこかで聞きます。
(はい、この水は源が滝でございます。この山を旅なさる方は、皆どこかで大風のような音をお聞きになります。
原文: 貴僧はこちらへいらっしゃる道でお心着きはなさいませんかい。)
あなたはこちらへいらっしゃる道でお気づきになりませんでしたか。)
原文: さればこそ山蛭の大藪へ入ろうという少し前からその音を。
それこそ、山蛭の大藪へ入ろうという少し前から、その音を聞いていた。
原文: (あれは林へ風の当るのではございませんので?)
(あれは林に風が当たる音ではないのですか。)
原文: (いえ、誰でもそう申します、あの森から三里ばかり傍道へ入りました処に大滝があるのでございます、それはそれは日本一だそうですが、路が嶮しゅうござんすので、十人に一人参ったものはございません。
(いえ、誰でもそう申します。あの森から三里ばかり脇道へ入った所に大滝があるのでございます。それはそれは日本一だそうですが、道が険しゅうございますので、十人に一人も参った者はございません。
原文: その滝が荒れましたと申しまして、ちょうど今から十三年前、恐しい洪水がございました、こんな高い処まで川の底になりましてね、麓の村も山も家も残らず流れてしまいました。
その滝が荒れたと申しまして、ちょうど今から十三年前、恐ろしい洪水がございました。こんな高い所まで川の底になりましてね、麓の村も山も家も残らず流れてしまいました。
原文: この上の洞も、はじめは二十軒ばかりあったのでござんす、この流れもその時から出来ました、ご覧なさいましな、この通り皆な石が流れたのでございますよ。)
この上の集落も、はじめは二十軒ばかりあったのでございます。この流れもその時からできました。ご覧なさいましな、このとおり、みんな石が流れてきたのでございますよ。)
原文: 婦人はいつかもう米を精げ果てて、衣紋の乱れた、乳の端もほの見ゆる、膨らかな胸を反して立った、鼻高く口を結んで目を恍惚と上を向いて頂を仰いだが、月はなお半腹のその累々たる巌を照すばかり。
女はいつのまにか米を研ぎ終えて、衣紋の乱れた、乳の端もほの見える膨らかな胸を反らせて立った。鼻高く口を結んで、目をうっとりと上に向けて頂を仰いだが、月はなお中腹の、あの累々たる巌を照らすばかり。
原文: (今でもこうやって見ますと恐いようでございます。)
(今でもこうやって見ますと、怖いようでございます。)
原文: と屈んで二の腕の処を洗っていると。
と、かがんで二の腕のあたりを洗っていると。
原文: (あれ、貴僧、そんな行儀のいいことをしていらしってはお召が濡れます、気味が悪うございますよ、すっぱり裸体になってお洗いなさいまし、私が流して上げましょう。)
(あれ、あなた、そんな行儀のいいことをしていらしてはお召し物が濡れます、気味が悪うございますよ。すっぱり裸におなりになってお洗いなさいまし、私が流してさしあげましょう。)
原文: (いえ、)
(いえ、)
原文: (いえじゃあござんせぬ、それ、それ、お法衣の袖が浸るではありませんか、)というと突然背後から帯に手をかけて、身悶をして縮むのを、邪慳らしくすっぱり脱いで取った。
(いえじゃございません。それ、それ、お法衣の袖が浸るではありませんか、)と言うと、いきなり後ろから帯に手をかけて、身悶えして縮こまるのを、荒っぽくすっぱりと脱がせて取った。
原文: 私は師匠が厳しかったし、経を読む身体じゃ、肌さえ脱いだことはついぞ覚えぬ。
私は師匠が厳しかったし、経を読む体だ、肌を脱いだことさえついぞ覚えがない。
原文: しかも婦人の前、蝸牛が城を明け渡したようで、口を利くさえ、まして手足のあがきも出来ず、背中を円くして、膝を合せて、縮かまると、婦人は脱がした法衣を傍らの枝へふわりとかけた。
しかも女の前で、蝸牛が殻を明け渡したようなもので、口をきくことさえ、まして手足を動かすこともできず、背中を丸くして膝を合わせて縮こまっていると、女は脱がせた法衣をかたわらの枝へふわりとかけた。
原文: (お召はこうやっておきましょう、さあお背を、あれさ、じっとして。
(お召し物はこうしておきましょう。さあ、お背中を。あれさ、じっとして。
原文: お嬢様とおっしゃって下さいましたお礼に、叔母さんが世話を焼くのでござんす、お人の悪い。)
お嬢様と言ってくださったお礼に、叔母さんが世話を焼くのでございます。お人の悪い。)
原文: といって片袖を前歯で引上げ、玉のような二の腕をあからさまに背中に乗せたが、じっと見て、
と言って、片袖を前歯で引き上げ、玉のような二の腕をあらわに背中へ乗せたが、じっと見て、
原文: (まあ、)
(まあ、)
原文: (どうかいたしておりますか。)
(どうかしておりますか。)
原文: (痣のようになって、一面に。)
(痣のようになって、一面に。)
原文: (ええ、それでございます、酷い目に逢いました。)
(ええ、それでございます、ひどい目に遭いました。)
原文: 思い出してもぞッとするて。」
思い出してもぞっとします。」
原文: 十五
十五
原文: 「婦人は驚いた顔をして、
「女は驚いた顔をして、
原文: (それでは森の中で、大変でございますこと。
(それでは森の中で。大変でございましたこと。
原文: 旅をする人が、飛騨の山では蛭が降るというのはあすこでござんす。
旅をする人が、飛騨の山では蛭が降ると言うのは、あそこでございます。
原文: 貴僧は抜道をご存じないから正面に蛭の巣をお通りなさいましたのでございますよ。
あなたは抜け道をご存じないから、まともに蛭の巣をお通りになったのでございますよ。
原文: お生命も冥加なくらい、馬でも牛でも吸い殺すのでございますもの。
お命があったのが不思議なくらい、馬でも牛でも吸い殺してしまうのですもの。
原文: しかし疼くようにお痒いのでござんしょうね。)
しかし、疼くようにお痒いのでございましょうね。)
原文: (ただいまではもう痛みますばかりになりました。)
(ただいまではもう、痛むばかりになりました。)
原文: (それではこんなものでこすりましては柔かいお肌が擦剥けましょう。)
(それでは、こんなものでこすっては柔らかいお肌が擦りむけましょう。)
原文: というと手が綿のように障った。
と言うと、手が綿のように触れた。
原文: それから両方の肩から、背、横腹、臀、さらさら水をかけてはさすってくれる。
それから両方の肩から、背中、横腹、腰まで、さらさら水をかけてはさすってくれる。
原文: それがさ、骨に通って冷たいかというとそうではなかった。
それがですよ、骨まで通って冷たいかというと、そうではなかった。
原文: 暑い時分じゃが、理窟をいうとこうではあるまい、私の血が沸いたせいか、婦人の温気か、手で洗ってくれる水がいい工合に身に染みる、もっとも質の佳い水は柔かじゃそうな。
暑い時分のことだが、理屈をいえばこうではあるまい。私の血が沸いたせいか、女のぬくもりのせいか、手で洗ってくれる水がいい具合に身に染みる。もっとも、質のいい水は柔らかなものだそうな。
原文: その心地の得もいわれなさで、眠気がさしたでもあるまいが、うとうとする様子で、疵の痛みがなくなって気が遠くなって、ひたと附ついている婦人の身体で、私は花びらの中へ包まれたような工合。
その心地の何とも言えなさに、眠気がさしたわけでもあるまいが、うとうとするような具合で、傷の痛みがなくなり、気が遠くなって、ぴたりとくっついている女の体で、私は花びらの中に包まれたような具合。
原文: 山家の者には肖合わぬ、都にも希な器量はいうに及ばぬが弱々しそうな風采じゃ、背中を流す中にもはッはッと内証で呼吸がはずむから、もう断ろう断ろうと思いながら、例の恍惚で、気はつきながら洗わした。
山家の者には似合わない、都にもまれな器量なのは言うまでもないが、弱々しそうな風で、背中を流すうちにも、はっはっと隠すように息がはずむ。もう断ろう断ろうと思いながら、例のうっとりした気持ちで、気づいていながら洗わせていた。
原文: その上、山の気か、女の香か、ほんのりと佳い薫がする、私は背後でつく息じゃろうと思った。」
その上、山の気か、女の匂いか、ほんのりといい香りがする。私は後ろでつく息だろうと思った。」
原文: 上人はちょっと句切って、
上人はちょっと句切って、
原文: 「いや、お前様お手近じゃ、その明を掻き立ってもらいたい、暗いと怪しからぬ話じゃ、ここらから一番野面で遣つけよう。」
「いや、あなた、お手近だ、その明かりを掻き立ててもらいたい。暗いと不埒な話になる。このあたりから先は一つ、明るい所であけすけに片付けてしまいましょう。」
原文: 枕を並べた上人の姿も朧げに明は暗くなっていた、早速燈心を明くすると、上人は微笑みながら続けたのである。
枕を並べた上人の姿も朧げなほど、明かりは暗くなっていた。さっそく灯心を明るくすると、上人は微笑みながら続けたのである。
原文: 「さあ、そうやっていつの間にやら現とも無しに、こう、その不思議な、結構な薫のする暖い花の中へ柔かに包まれて、足、腰、手、肩、頸から次第に天窓まで一面に被ったから吃驚、石に尻餅を搗いて、足を水の中に投げ出したから落ちたと思うとたんに、女の手が背後から肩越しに胸をおさえたのでしっかりつかまった。
「さあ、そうやっていつの間にか、現とも無しに、こう、その不思議な、結構な香りのする暖かい花の中へ柔らかに包まれて、足、腰、手、肩、襟から次第に頭まで一面にかぶさってきたので驚いた。石に尻餅をついて、足を水の中へ投げ出したから落ちたと思ったとたん、女の手が後ろから肩越しに胸を押さえたので、しっかりと掴まった。
原文: (貴僧、お傍に居て汗臭うはござんせぬかい、とんだ暑がりなんでございますから、こうやっておりましてもこんなでございますよ。)
(あなた、お側にいて汗くさくはございませんか。とんだ暑がりなものですから、こうやっておりましてもこんなでございますよ。)
原文: という胸にある手を取ったのを、慌てて放して棒のように立った。
と言う、その胸にある手を取ってしまったのを、慌てて放して棒のように立った。
原文: (失礼、)
(失礼、)
原文: (いいえ誰も見ておりはしませんよ。)
(いいえ、誰も見てはおりませんよ。)
原文: と澄して言う、婦人もいつの間にか衣服を脱いで全身を練絹のように露していたのじゃ。
と澄まして言う。女もいつの間にか着物を脱いで、全身を練り絹のようにあらわにしていたのです。
原文: 何と驚くまいことか。
何と、驚かずにいられようか。
原文: (こんなに太っておりますから、もうお愧しいほど暑いのでございます、今時は毎日二度も三度も来てはこうやって汗を流します、この水がございませんかったらどういたしましょう、貴僧、お手拭。)
(こんなに太っておりますから、もう恥ずかしいほど暑いのでございます。今時分は毎日二度も三度も来ては、こうやって汗を流します。この水がございませんでしたらどういたしましょう。あなた、お手拭い。)
原文: といって絞ったのを寄越した。
と言って、絞ったのをよこした。
原文: (それでおみ足をお拭きなさいまし。)
(それでおみ足をお拭きなさいまし。)
原文: いつの間にか、体はちゃんと拭いてあった、お話し申すも恐多いが、はははははは。」
いつの間にか、体はちゃんと拭いてあった。お話し申すのも恐れ多いが、はははははは。」
原文: 十六
十六
原文: 「なるほど見たところ、衣服を着た時の姿とは違うて肉つきの豊な、ふっくりとした膚。
「なるほど見たところ、着物を着ている時の姿とは違って、肉づきの豊かな、ふっくりとした肌。
原文: (さっき小屋へ入って世話をしましたので、ぬらぬらした馬の鼻息が体中にかかって気味が悪うござんす。
(さっき小屋へ入って世話をしましたので、ぬらぬらした馬の鼻息が体中にかかって気味が悪うございます。
原文: ちょうどようございますから私も体を拭きましょう。)
ちょうどようございますから、私も体を拭きましょう。)
原文: と姉弟が内端話をするような調子。
と、姉と弟が内輪の話をするような調子。
原文: 手をあげて黒髪をおさえながら腋の下を手拭でぐいと拭き、あとを両手で絞りながら立った姿、ただこれ雪のようなのをかかる霊水で清めた、こういう女の汗は薄紅になって流れよう。
手を上げて黒髪を押さえながら、腋の下を手拭いでぐいと拭き、その後を両手で絞りながら立った姿は、ただもう雪のような肌をこうした霊水で清めたというほかない。こういう女の汗なら、薄紅になって流れるだろう。
原文: ちょいちょいと櫛を入れて、
ちょいちょいと櫛を入れて、
原文: (まあ、女がこんなお転婆をいたしまして、川へ落こちたらどうしましょう、川下へ流れて出ましたら、村里の者が何といって見ましょうね。)
(まあ、女がこんなお転婆をいたしまして、川へ落っこちたらどうしましょう。川下へ流れて出ましたら、村里の者が何と言って見ることでしょうね。)
原文: (白桃の花だと思います。)
(白桃の花だと思うでしょう。)
原文: とふと心付いて何の気もなしにいうと、顔が合うた。
と、ふと思いついて何の気もなしに言うと、顔が合った。
原文: すると、さも嬉しそうに莞爾してその時だけは初々しゅう年紀も七ツ八ツ若やぐばかり、処女の羞を含んで下を向いた。
すると、いかにも嬉しそうににっこりして、その時だけは初々しく、年も七つ八つ若やぐばかり、生娘の恥じらいを含んで下を向いた。
原文: 私はそのまま目を外らしたが、その一段の婦人の姿が月を浴びて、薄い煙に包まれながら向う岸の潵に濡れて黒い、滑かな大きな石へ蒼味を帯びて透通って映るように見えた。
私はそのまま目をそらしたが、そのひとときの女の姿が月を浴びて、薄い煙に包まれながら、向こう岸の飛沫に濡れて黒い、なめらかな大きな石へ、青みを帯びて透き通って映るように見えた。
原文: するとね、夜目で判然とは目に入らなんだが地体何でも洞穴があるとみえる。
するとね、夜目ではっきりとは目に入らなかったが、そもそも何でも洞穴があると見える。
原文: ひらひらと、こちらからもひらひらと、ものの鳥ほどはあろうという大蝙蝠が目を遮った。
ひらひらと、こちらからもひらひらと、鳥ほどもあろうという大蝙蝠が目の前を遮った。
原文: (あれ、いけないよ、お客様があるじゃないかね。)
(あれ、いけないよ、お客様がいるじゃないかね。)
原文: 不意を打たれたように叫んで身悶えをしたのは婦人。
不意を打たれたように叫んで身悶えをしたのは女。
原文: (どうかなさいましたか、)もうちゃんと法衣を着たから気丈夫に尋ねる。
(どうかなさいましたか、)もうちゃんと法衣を着ていたので、気丈夫に尋ねる。
原文: (いいえ、)
(いいえ、)
原文: といったばかりできまりが悪そうに、くるりと後向になった。
と言ったきりで、決まりが悪そうに、くるりと後ろ向きになった。
原文: その時小犬ほどな鼠色の小坊主が、ちょこちょことやって来て、あなやと思うと、崖から横に宙をひょいと、背後から婦人の背中へぴったり。
その時、小犬ほどの鼠色の小坊主が、ちょこちょことやって来て、あなやと思う間もなく、崖から横へ宙をひょいと飛んで、後ろから女の背中へぴったり。
原文: 裸体の立姿は腰から消えたようになって、抱ついたものがある。
裸の立ち姿は腰から下が消えたようになって、そこに抱きついたものがある。
原文: (畜生、お客様が見えないかい。)
(畜生、お客様が見えないのかい。)
原文: と声に怒を帯びたが、
と声に怒りを帯びたが、
原文: (お前達は生意気だよ、)と激しくいいさま、腋の下から覗こうとした件の動物の天窓を振返りさまにくらわしたで。
(お前たちは生意気だよ、)と激しく言うなり、腋の下から覗こうとした例の動物の頭を、振り返りざまに食らわせた。
原文: キッキッというて奇声を放った、件の小坊主はそのまま後飛びにまた宙を飛んで、今まで法衣をかけておいた、枝の尖へ長い手で釣し下ったと思うと、くるりと釣瓶覆に上へ乗って、それなりさらさらと木登をしたのは、何と猿じゃあるまいか。
キッキッと奇声を放って、例の小坊主はそのまま後ろへ飛んでまた宙を飛び、今まで法衣をかけておいた枝の先へ長い手でぶら下がったと思うと、くるりと回って上へ乗り、そのままさらさらと木登りをしたのは、何と猿ではありませんか。
原文: 枝から枝を伝うと見えて、見上げるように高い木の、やがて梢まで、かさかさがさり。
枝から枝を伝うと見えて、見上げるほど高い木の、やがて梢まで、かさかさがさり。
原文: まばらに葉の中を透して月は山の端を放れた、その梢のあたり。
まばらな葉の中を透かして、月は山の端を離れた。ちょうどその梢のあたりに。
原文: 婦人はものに拗ねたよう、今の悪戯、いや、毎々、蟇と蝙蝠と、お猿で三度じゃ。
女はものに拗ねたよう。今の悪戯、いや、たびたびの、蟇と蝙蝠と、お猿とで三度だ。
原文: その悪戯に多く機嫌を損ねた形、あまり子供がはしゃぎ過ぎると、若い母様には得てある図じゃ。
その悪戯にひどく機嫌を損ねた様子で、あまり子どもがはしゃぎ過ぎると、若い母親にはよくある構図です。
原文: 本当に怒り出す。
本当に怒り出す。
原文: といった風情で面倒臭そうに衣服を着ていたから、私は何にも問わずに小さくなって黙って控えた。」
といった風情で、面倒くさそうに着物を着ていたから、私は何も問わず、小さくなって黙って控えていた。」
原文: 十七
十七
原文: 「優しいなかに強みのある、気軽に見えてもどこにか落着のある、馴々しくて犯し易からぬ品のいい、いかなることにもいざとなれば驚くに足らぬという身に応のあるといったような風の婦人、かく嬌瞋を発してはきっといいことはあるまい、今この婦人に邪慳にされては木から落ちた猿同然じゃと、おっかなびっくりで、おずおず控えていたが、いや案ずるより産が安い。
「優しさの中に強みがあり、気軽に見えてもどこか落ち着きがあり、馴れ馴れしくて、それでいて犯しがたい品のよさがあり、どんなことでもいざとなれば驚くに足りないという、身に応えるものを持ったふうの女。こうして色っぽく怒り出したからには、きっとろくなことにはなるまい、今この女に邪険にされては木から落ちた猿も同然だと、おっかなびっくり、おずおずと控えていたが、いや、案ずるより産むが易しだった。
原文: (貴僧、さぞおかしかったでござんしょうね、)と自分でも思い出したように快く微笑みながら、
(あなた、さぞおかしかったでございましょうね、)と自分でも思い出したように、快く微笑みながら、
原文: (しようがないのでございますよ。)
(しようがないのでございますよ。)
原文: 以前と変らず心安くなった、帯も早やしめたので、
以前と変わらず気安くなった。帯ももう締めたので、
原文: (それでは家へ帰りましょう。)
(それでは家へ帰りましょう。)
原文: と米磨桶を小腋にして、草履を引かけてつと崖へ上った。
と米研ぎ桶を小脇に抱え、草履をひっかけて、つと崖へ上った。
原文: (お危うござんすから。)
(お危のうございますから。)
原文: (いえ、もうだいぶ勝手が分っております。)
(いえ、もうだいぶ勝手が分かっております。)
原文: ずッと心得た意じゃったが、さて上る時見ると思いの外上までは大層高い。
すっかり心得たつもりだったが、さて上がる時に見ると、思いのほか上までがずいぶん高い。
原文: やがてまた例の木の丸太を渡るのじゃが、さっきもいった通り草のなかに横倒れになっている木地がこうちょうど鱗のようで、譬にもよくいうが松の木は蝮に似ているで。
やがてまた例の丸太を渡るのだが、さっきも言ったとおり、草の中に横倒しになっている木肌がちょうど鱗のようで、たとえにもよく言うが、松の木は蟒蛇に似ているのです。
原文: 殊に崖を、上の方へ、いい塩梅に蜿った様子が、とんだものに持って来いなり、およそこのくらいな胴中の長虫がと思うと、頭と尾を草に隠して、月あかりに歴然とそれ。
ことに崖を上のほうへ、いい具合にうねっている様子が、とんだものに持ってこいで、およそこのくらいの胴回りの長虫がと思うと、頭と尾を草に隠して、月明かりの中にありありとそれに見える。
原文: 山路の時を思い出すと我ながら足が竦む。
山道での一件を思い出すと、我ながら足がすくむ。
原文: 婦人は深切に後を気遣うては気を付けてくれる。
女は親切に後ろを気遣っては注意してくれる。
原文: (それをお渡りなさいます時、下を見てはなりません。
(それをお渡りになる時、下を見てはなりません。
原文: ちょうどちゅうとでよッぽど谷が深いのでございますから、目が廻うと悪うござんす。)
ちょうど真ん中あたりでよほど谷が深いのでございますから、目が回ると悪うございます。)
原文: (はい。)
(はい。)
原文: 愚図愚図してはいられぬから、我身を笑いつけて、まず乗った。
ぐずぐずしてはいられないから、我が身を笑い飛ばして、まず乗った。
原文: 引かかるよう、刻が入れてあるのじゃから、気さえ確なら足駄でも歩行かれる。
引っかかるように刻みが入れてあるのだから、気さえ確かなら足駄でも歩ける。
原文: それがさ、一件じゃから耐らぬて、乗るとこうぐらぐらして柔かにずるずると這いそうじゃから、わっというと引跨いで腰をどさり。
それがですよ、例の一件だからたまらない。乗るとこうぐらぐらして、柔らかにずるずると這い出しそうだから、わっと言ってまたぎ、腰をどさりと落とした。
原文: (ああ、意気地はございませんねえ。
(ああ、意気地がございませんねえ。
原文: 足駄では無理でございましょう、これとお穿き換えなさいまし、あれさ、ちゃんということを肯くんですよ。)
足駄では無理でございましょう、これとお履き換えなさいまし。あれさ、ちゃんと言うことを聞くんですよ。)
原文: 私はそのさっきから何んとなくこの婦人に畏敬の念が生じて善か悪か、どの道命令されるように心得たから、いわるるままに草履を穿いた。
私はさっきから何となくこの女に畏敬の念が生じていて、善かれ悪しかれ、どのみち命令されるものと心得ていたから、言われるままに草履を履いた。
原文: するとお聞きなさい、婦人は足駄を穿きながら手を取ってくれます。
するとお聞きなさい、女は足駄を履きながら、手を取ってくれるのです。
原文: たちまち身が軽くなったように覚えて、訳なく後に従って、ひょいとあの孤家の背戸の端へ出た。
たちまち身が軽くなったように覚えて、わけもなく後ろについていき、ひょいとあの一軒家の裏口の端へ出た。
原文: 出会頭に声を懸けたものがある。
出会い頭に声をかけた者がある。
原文: (やあ、大分手間が取れると思ったに、ご坊様旧の体で帰らっしゃったの。)
(やあ、だいぶ手間が取れると思ったが、ご坊様は元の体で帰ってこられたな。)
原文: (何をいうんだね、小父様家の番はどうおしだ。)
(何を言うんだね、おじさん、家の番はどうおしだい。)
原文: (もういい時分じゃ、また私も余り遅うなっては道が困るで、そろそろ青を引出して支度しておこうと思うてよ。)
(もういい時分だ。それにわしもあまり遅くなっては道が困るので、そろそろ青を引き出して支度しておこうと思ってな。)
原文: (それはお待遠でござんした。)
(それはお待ち遠さまでございました。)
原文: (何さ、行ってみさっしゃいご亭主は無事じゃ、いやなかなか私が手には口説落されなんだ、ははははは。)
(何、行ってみなされ、ご亭主は無事だ。いや、なかなかわしの手では口説き落とせなんだ、ははははは。)
原文: と意味もないことを大笑して、親仁は厩の方へてくてくと行った。
と意味もないことを大笑いして、親父は厩のほうへてくてくと行った。
原文: 白痴はおなじ処になお形を存している、海月も日にあたらねば解けぬとみえる。」
少年は同じ所になお形を留めている。海月も日に当たらなければ溶けないと見える。」
原文: 十八
十八
原文: 「ヒイイン! しっ、どうどうどうと背戸を廻る鰭爪の音が縁へ響いて親仁は一頭の馬を門前へ引き出した。
「ヒイイン! しっ、どうどうどう、と裏口を回る蹄の音が縁側へ響いて、親父は一頭の馬を門前へ引き出した。
原文: 轡頭を取って立ちはだかり、
轡のあたりを取って立ちはだかり、
原文: (嬢様そんならこのままで私参りやする、はい、ご坊様にたくさんご馳走して上げなされ。)
(嬢様、それではこのままでわしは参りますよ。はい、ご坊様にたっぷりご馳走してさしあげなされ。)
原文: 婦人は炉縁に行燈を引附け、俯向いて鍋の下を燻していたが、振仰ぎ、鉄の火箸を持った手を膝に置いて、
女は炉縁に行燈を引き寄せ、うつむいて鍋の下を燻していたが、振り仰いで、鉄の火箸を持った手を膝に置き、
原文: (ご苦労でござんす。)
(ご苦労さまでございます。)
原文: (いんえご懇には及びましねえ。
(いいえ、ご丁寧には及びません。
原文: しっ!)
しっ!)
原文: と荒縄の綱を引く。
と荒縄の綱を引く。
原文: 青で蘆毛、裸馬で逞しいが、鬣の薄い牡じゃわい。
青毛の蘆毛で、裸馬で逞しいが、鬣の薄い牡ですな。
原文: その馬がさ、私も別に馬は珍しゅうもないが、白痴殿の背後に畏って手持不沙汰じゃから今引いて行こうとする時縁側へひらりと出て、
その馬がですよ、私も別に馬が珍しくもないが、あの少年の後ろにかしこまって手持ち無沙汰でいたところ、今引いて行こうという時に縁側へひらりと出て、
原文: (その馬はどこへ。)
(その馬はどこへ。)
原文: (おお、諏訪の湖の辺まで馬市へ出しやすのじゃ、これから明朝お坊様が歩行かっしゃる山路を越えて行きやす。)
(おお、諏訪の湖のあたりまで馬市へ出すのです。これから、明日お坊様が歩かれる山道を越えて行きますのでな。)
原文: (もし、それへ乗って今からお遁げ遊ばすお意ではないかい。)
(もし、それに乗って今からお逃げになるおつもりではないでしょうね。)
原文: 婦人は慌だしく遮って声を懸けた。
女は慌ただしく遮って声をかけた。
原文: (いえ、もったいない、修行の身が馬で足休めをしましょうなぞとは存じませぬ。)
(いえ、もったいない、修行の身が馬で足休めをしようなどとは思いません。)
原文: (何でも人間を乗っけられそうな馬じゃあござらぬ。
(何にせよ、人間を乗せられるような馬じゃありませんよ。
原文: お坊様は命拾いをなされたのじゃで、大人しゅうして嬢様の袖の中で、今夜は助けて貰わっしゃい。
お坊様は命拾いをなさったのだから、おとなしくして嬢様の袖の中で、今夜は助けてもらいなされ。
原文: さようならちょっくら行って参りますよ。)
それではちょっくら行って参りますよ。)
原文: (あい。)
(あい。)
原文: (畜生。)
(畜生。)
原文: といったが馬は出ないわ。
と言ったが、馬は動かない。
原文: びくびくと蠢いて見える大な鼻面をこちらへ捻じ向けてしきりに私等が居る方を見る様子。
びくびくと蠢いて見える大きな鼻面をこちらへねじ向けて、しきりに私たちのいるほうを見る様子。
原文: (どうどうどう、畜生これあだけた獣じゃ、やい!)
(どうどうどう、畜生、これはふざけた獣だ、やい!)
原文: 右左にして綱を引張ったが、脚から根をつけたごとくにぬっくと立っていてびくともせぬ。
右へ左へと綱を引っ張ったが、脚から根が生えたようにぬっくと立ったままびくともしない。
原文: 親仁大いに苛立って、叩いたり、打ったり、馬の胴体について二三度ぐるぐると廻ったが少しも歩かぬ。
親父は大いに苛立って、叩いたり、ぶったり、馬の胴体について二、三度ぐるぐると回ったが、少しも歩かない。
原文: 肩でぶッつかるようにして横腹へ体をあてた時、ようよう前足を上げたばかりまた四脚を突張り抜く。
肩でぶつかるようにして横腹へ体を当てた時、ようやく前足を上げたばかりで、また四つ脚を突っ張ってしまう。
原文: (嬢様嬢様。)
(嬢様、嬢様。)
原文: と親仁が喚くと、婦人はちょっと立って白い爪さきをちょろちょろと真黒に煤けた太い柱を楯に取って、馬の目の届かぬほどに小隠れた。
と親父が喚くと、女はちょっと立って、白いつま先をちょろちょろと運び、真っ黒に煤けた太い柱を楯にして、馬の目の届かないあたりに身を隠した。
原文: その内腰に挟んだ、煮染めたような、なえなえの手拭を抜いて克明に刻んだ額の皺の汗を拭いて、親仁はこれでよしという気組、再び前へ廻ったが、旧によって貧乏動もしないので、綱に両手をかけて足を揃えて反返るようにして、うむと総身に力を入れた。
そのうちに、腰に挟んだ煮染めたような、なえなえの手拭いを抜いて、深く刻まれた額の皺の汗を拭き、親父はこれでよしという気構えで再び前へ回ったが、元のとおり少しも動かないので、綱に両手をかけ、足を揃えて反り返るようにして、うむと総身に力を入れた。
原文: とたんにどうじゃい。
そのとたん、どうだと思います。
原文: 凄じく嘶いて前足を両方中空へ翻したから、小さな親仁は仰向けに引くりかえった、ずどんどう、月夜に砂煙がぱっと立つ。
凄まじくいなないて前足を両方とも宙へ翻したから、小さな親父は仰向けにひっくり返った。ずどんどう、月夜に砂煙がぱっと立つ。
原文: 白痴にもこれは可笑しかったろう、この時ばかりじゃ、真直に首を据えて厚い唇をばくりと開けた、大粒な歯を露出して、あの宙へ下げている手を風で煽るように、はらりはらり。
少年にもこれはおかしかったのだろう。この時ばかりは真っ直ぐに首を据えて、厚い唇をばくりと開け、大粒の歯をむき出して、あの宙へ下げている手を風にあおられるように、はらりはらり。
原文: (世話が焼けることねえ、)
(世話が焼けることねえ、)
原文: 婦人は投げるようにいって草履を突かけて土間へついと出る。
女は投げ出すように言って、草履を突っかけて土間へついと出る。
原文: (嬢様勘違いさっしゃるな、これはお前様ではないぞ、何でもはじめからそこなお坊様に目をつけたっけよ、畜生俗縁があるだッぺいわさ。)
(嬢様、勘違いなさるな、これはお前様のことではないぞ。何でもはじめから、そこのお坊様に目をつけていましたのさ。畜生、俗縁があるんだろうよ。)
原文: 俗縁は驚いたい。
俗縁とは驚いた。
原文: すると婦人が、
すると女が、
原文: (貴僧ここへいらっしゃる路で誰にかお逢いなさりはしませんか。)」
(あなた、ここへいらっしゃる道で、誰かにお会いになりはしませんでしたか。)」
原文: 十九
十九
原文: 「(はい、辻の手前で富山の反魂丹売に逢いましたが、一足先にやっぱりこの路へ入りました。)
「(はい、辻の手前で富山の反魂丹売りに会いましたが、一足先に、やはりこの道へ入りました。)
原文: (ああ、そう。)
(ああ、そう。)
原文: と会心の笑を洩して婦人は蘆毛の方を見た、およそ耐らなく可笑しいといったはしたない風采で。
と会心の笑みを漏らして、女は蘆毛のほうを見た。何ともたまらなくおかしいという、はしたない様子で。
原文: 極めて与し易う見えたので、
ごく気を許せそうに見えたので、
原文: (もしや此家へ参りませなんだでございましょうか。)
(もしや、こちらへは参りませんでしたでしょうか。)
原文: (いいえ、存じません。)
(いいえ、存じません。)
原文: という時たちまち犯すべからざる者になったから、私は口をつぐむと、婦人は、匙を投げて衣の塵を払うている馬の前足の下に小さな親仁を見向いて、
と言う時には、たちまち犯しがたい者になってしまったので、私は口をつぐんだ。女は、匙を投げて着物の塵を払っている、馬の前足の下の小さな親父を見やって、
原文: (しょうがないねえ、)といいながら、かなぐるようにして、その細帯を解きかけた、片端が土へ引こうとするのを、掻取ってちょいと猶予う。
(しようがないねえ、)と言いながら、かなぐるようにしてその細帯を解きかけ、片端が土へ落ちようとするのをかい取って、ちょっとためらう。
原文: (ああ、ああ。)
(ああ、ああ。)
原文: と濁った声を出して白痴が件のひょろりとした手を差向けたので、婦人は解いたのを渡してやると、風呂敷を寛げたような、他愛のない、力のない、膝の上へわがねて宝物を守護するようじゃ。
と濁った声を出して少年が例のひょろりとした手を差し出したので、女は解いた帯を渡してやると、風呂敷を広げたような、たわいのない、力のない手つきで膝の上へたぐり、宝物を守っているようだ。
原文: 婦人は衣紋を抱き合せ、乳の下でおさえながら静に土間を出て馬の傍へつつと寄った。
女は衣紋をかき合わせ、乳の下で押さえながら静かに土間を出て、馬の脇へつつと寄った。
原文: 私はただ呆気に取られて見ていると、爪立をして伸び上り、手をしなやかに空ざまにして、二三度鬣を撫でたが。
私はただ呆気に取られて見ていると、爪立ちをして伸び上がり、手をしなやかに上へ向けて、二、三度鬣を撫でたが。
原文: 大きな鼻頭の正面にすっくりと立った。
大きな鼻面の正面にすっくと立った。
原文: 丈もすらすらと急に高くなったように見えた、婦人は目を据え、口を結び、眉を開いて恍惚となった有様、愛嬌も嬌態も、世話らしい打解けた風はとみに失せて、神か、魔かと思われる。
背丈もすらすらと急に高くなったように見えた。女は目を据え、口を結び、眉を開いてうっとりとした有様で、愛嬌もしなも、世話好きな打ち解けた風もにわかに失せて、神か、魔かと思われる。
原文: その時裏の山、向うの峰、左右前後にすくすくとあるのが、一ツ一ツ嘴を向け、頭を擡げて、この一落の別天地、親仁を下手に控え、馬に面して彳んだ月下の美女の姿を差覗くがごとく、陰々として深山の気が籠って来た。
その時、裏の山、向こうの峰、左右前後にすくすくと立っているものが、一つ一つ嘴を向け、頭をもたげて、この一区画の別天地、親父を下手に控えさせ、馬に向かって佇む月下の美女の姿を覗き込むかのように、陰々として深山の気が籠ってきた。
原文: 生ぬるい風のような気勢がすると思うと、左の肩から片膚を脱いだが、右の手を脱して、前へ廻し、ふくらんだ胸のあたりで着ていたその単衣を円げて持ち、霞も絡わぬ姿になった。
生ぬるい風のような気配がしたと思うと、左の肩から片肌を脱いだが、右の手を抜いて前へ回し、膨らんだ胸のあたりで、着ていたその単衣を丸めて持ち、霞さえまとわぬ姿になった。
原文: 馬は背、腹の皮を弛めて汗もしとどに流れんばかり、突張った脚もなよなよとして身震をしたが、鼻面を地につけて一掴の白泡を吹出したと思うと前足を折ろうとする。
馬は背と腹の皮を弛めて、汗もしとどに流れんばかり、突っ張っていた脚もなよなよとして身震いをしたが、鼻面を地につけて一掴みの白い泡を吹き出したと思うと、前足を折ろうとする。
原文: その時、頤の下へ手をかけて、片手で持っていた単衣をふわりと投げて馬の目を蔽うが否や、兎は躍って、仰向けざまに身を翻し、妖気を籠めて朦朧とした月あかりに、前足の間に膚が挟ったと思うと、衣を脱して掻取りながら下腹をつと潜って横に抜けて出た。
その時、顎の下へ手をかけて、片手に持っていた単衣をふわりと投げて馬の目を覆うやいなや、兎のように躍って、仰向けざまに身を翻し、妖気を籠めて朦朧とした月明かりの中、前足の間に肌が挟まったと思うと、着物を抜き取ってかい取りながら、下腹をつと潜って横へ抜けて出た。
原文: 親仁は差心得たものと見える、この機かけに手綱を引いたから、馬はすたすたと健脚を山路に上げた、しゃん、しゃん、しゃん、しゃんしゃん、しゃんしゃん、――見る間に眼界を遠ざかる。
親父は心得ていたものと見える、この機を逃さず手綱を引いたから、馬はすたすたと健脚を山道へ運んだ。しゃん、しゃん、しゃん、しゃんしゃん、しゃんしゃん——見る間に視界から遠ざかる。
原文: 婦人は早や衣服を引かけて縁側へ入って来て、突然帯を取ろうとすると、白痴は惜しそうに押えて放さず、手を上げて、婦人の胸を圧えようとした。
女はもう着物を引っかけて縁側へ入って来て、いきなり帯を取ろうとすると、少年は惜しそうに押さえて放さず、手を上げて女の胸を押さえようとした。
原文: 邪慳に払い退けて、きっと睨んで見せると、そのままがっくりと頭を垂れた、すべての光景は行燈の火も幽に幻のように見えたが、炉にくべた柴がひらひらと炎先を立てたので、婦人はつと走って入る。
邪険に払いのけ、きっと睨んで見せると、そのままがっくりと頭を垂れた。すべての光景は行燈の火もかすかで幻のように見えたが、炉にくべた柴がひらひらと炎の先を立てたので、女はつと走って入る。
原文: 空の月のうらを行くと思うあたり遥に馬子歌が聞えたて。」
空の月の裏を行くと思うあたり、はるかに馬子唄が聞こえましたよ。」
原文: 二十
二十
原文: 「さて、それからご飯の時じゃ、膳には山家の香の物、生姜の漬けたのと、わかめを茹でたの、塩漬の名も知らぬ蕈の味噌汁、いやなかなか人参と干瓢どころではござらぬ。
「さて、それからご飯の時です。膳には山家の香の物、生姜を漬けたのと、わかめを茹でたの、塩漬けの名も知らない茸の味噌汁、いや、なかなか人参と干瓢どころではありません。
原文: 品物は侘しいが、なかなかのお手料理、餓えてはいるし、冥加至極なお給仕、盆を膝に構えてその上に肱をついて、頬を支えながら、嬉しそうに見ていたわ。
品物は侘しいが、なかなかのお手料理、飢えてはいるし、もったいないほどのお給仕で、盆を膝に構えてその上に肘をつき、頬を支えながら、嬉しそうに見ていましたよ。
原文: 縁側に居た白痴は誰も取合ぬ徒然に堪えられなくなったものか、ぐたぐたと膝行出して、婦人の傍へその便々たる腹を持って来たが、崩れたように胡坐して、しきりにこう我が膳を視めて、指をした。
縁側にいた少年は、誰も相手にしてくれない退屈に耐えられなくなったものか、ぐたぐたといざり出して、女のそばへそのでっぷりした腹を運んできたが、崩れるようにあぐらをかいて、しきりに私の膳を眺めては指をさした。
原文: (うううう、うううう。)
(うううう、うううう。)
原文: (何でございますね、あとでお食んなさい、お客様じゃあありませんか。)
(何ですね、あとでお上がりなさい、お客様じゃありませんか。)
原文: 白痴は情ない顔をして口を曲めながら頭を掉った。
少年は情けない顔をして、口をゆがめながらかぶりを振った。
原文: (厭?
(嫌?
原文: しょうがありませんね、それじゃご一所に召しあがれ。
しようがありませんね、それではご一緒に召し上がれ。
原文: 貴僧、ご免を蒙りますよ。)
あなた、ご免をこうむりますよ。)
原文: 私は思わず箸を置いて、
私は思わず箸を置いて、
原文: (さあどうぞお構いなく、とんだご雑作を頂きます。)
(さあ、どうぞお構いなく、とんだお手数をおかけします。)
原文: (いえ、何の貴僧。
(いえ、何のあなた。
原文: お前さん後ほどに私と一所にお食べなさればいいのに。
お前さん、後ほど私と一緒に食べればいいのに。
原文: 困った人でございますよ。)
困った人でございますよ。)
原文: とそらさぬ愛想、手早くおなじような膳を拵えてならべて出した。
と如才ない愛想で、手早く同じような膳をこしらえて並べて出した。
原文: 飯のつけようも効々しい女房ぶり、しかも何となく奥床しい、上品な、高家の風がある。
飯の盛りようもかいがいしい女房ぶりで、しかも何となく奥ゆかしい、上品な、良家の風がある。
原文: 白痴はどんよりした目をあげて膳の上を睨めていたが、
少年はどんよりした目を上げて膳の上を睨めていたが、
原文: (あれを、ああ、ああ、あれ。)
(あれを、ああ、ああ、あれ。)
原文: といってきょろきょろと四辺を眗す。
と言って、きょろきょろとあたりを見回す。
原文: 婦人はじっと瞻って、
女はじっと見守って、
原文: (まあ、いいじゃないか。
(まあ、いいじゃないか。
原文: そんなものはいつでも食られます、今夜はお客様がありますよ。)
そんなものはいつでも食べられます、今夜はお客様がありますよ。)
原文: (うむ、いや、いや。)
(うむ、いや、いや。)
原文: と肩腹を揺ったが、べそを掻いて泣出しそう。
と肩と腹を揺すったが、べそをかいて泣き出しそうだ。
原文: 婦人は困じ果てたらしい、傍のものの気の毒さ。
女は困り果てたらしい。傍で見ている者にも気の毒なほど。
原文: (嬢様、何か存じませんが、おっしゃる通りになすったがよいではござりませんか。
(お嬢さん、何のことか存じませんが、おっしゃるとおりになさったらよいではありませんか。
原文: 私にお気遣はかえって心苦しゅうござります。)
私に気遣いをしていただくのは、かえって心苦しゅうございます。)
原文: と慇懃にいうた。
と丁寧に言った。
原文: 婦人はまたもう一度、
女はまたもう一度、
原文: (厭かい、これでは悪いのかい。)
(嫌かい、これでは悪いのかい。)
原文: 白痴が泣出しそうにすると、さも怨めしげに流眄に見ながら、こわれごわれになった戸棚の中から、鉢に入ったのを取り出して手早く白痴の膳につけた。
少年が泣き出しそうにすると、いかにも恨めしげに流し目に見ながら、壊れかけた戸棚の中から、鉢に入ったものを取り出して手早く少年の膳につけた。
原文: (はい。)
(はい。)
原文: と故とらしく、すねたようにいって笑顔造。
と、わざとらしく、すねたように言って、笑顔をつくる。
原文: はてさて迷惑な、こりゃ目の前で黄色蛇の旨煮か、腹籠の猿の蒸焼か、災難が軽うても、赤蛙の干物を大口にしゃぶるであろうと、そっと見ていると、片手に椀を持ちながら掴出したのは老沢庵。
はてさて迷惑な、これは目の前で青大将の旨煮か、腹ごもりの猿の蒸し焼きか、災難が軽くても赤蛙の干物を大口でしゃぶるところだろうと、そっと見ていると、片手に椀を持ちながら掴み出したのは古沢庵。
原文: それもさ、刻んだのではないで、一本三ツ切にしたろうという握太なのを横銜えにしてやらかすのじゃ。
それもですよ、刻んだのではなく、一本を三つに切ったほどの握り太のを横ぐわえにしてやるのです。
原文: 婦人はよくよくあしらいかねたか、盗むように私を見てさっと顔を赭らめて初心らしい、そんな質ではあるまいに、羞かしげに膝なる手拭の端を口にあてた。
女はよくよくあしらいかねたのか、盗み見るように私を見て、さっと顔を赤らめ、初心らしく——そんな質ではあるまいに——恥ずかしげに膝の手拭いの端を口に当てた。
原文: なるほどこの少年はこれであろう、身体は沢庵色にふとっている。
なるほどこの少年はこれなのだろう、体は沢庵色に太っている。
原文: やがてわけもなく餌食を平らげて湯ともいわず、ふッふッと大儀そうに呼吸を向うへ吐くわさ。
やがてわけもなく餌を平らげて、湯とも言わず、ふっふっと大儀そうに息を向こうへ吐きますよ。
原文: (何でございますか、私は胸に支えましたようで、ちっとも欲しくございませんから、また後ほどに頂きましょう、)
(何ですか、私は胸につかえたようで、ちっとも欲しくございませんから、また後ほど頂きましょう、)
原文: と婦人自分は箸も取らずに二ツの膳を片づけてな。」
と、女は自分では箸も取らずに二つの膳を片づけましてね。」
原文: 二十一
二十一
原文: 「しばらくしょんぼりしていたっけ。
「しばらくしょんぼりしていましたっけ。
原文: (貴僧、さぞお疲労、すぐにお休ませ申しましょうか。)
(あなた、さぞお疲れでしょう、すぐにお休ませ申しましょうか。)
原文: (難有う存じます、まだちっとも眠くはござりません、さっき体を洗いましたので草臥もすっかり復りました。)
(ありがとう存じます、まだちっとも眠くはございません。さっき体を洗いましたので、疲れもすっかり治りました。)
原文: (あの流れはどんな病にでもよく利きます、私が苦労をいたしまして骨と皮ばかりに体が朽れましても、半日あすこにつかっておりますと、水々しくなるのでございますよ。
(あの流れはどんな病にでもよく効きます。私が苦労をして骨と皮ばかりに体がやつれましても、半日あそこに浸かっておりますと、みずみずしくなるのでございますよ。
原文: もっともあのこれから冬になりまして山がまるで氷ってしまい、川も崕も残らず雪になりましても、貴僧が行水を遊ばしたあすこばかりは水が隠れません、そうしていきりが立ちます。
もっとも、これから冬になって山がまるで凍ってしまい、川も崖も残らず雪になりましても、あなたが行水をなさったあそこばかりは水が隠れません。そうして湯気が立ちます。
原文: 鉄砲疵のございます猿だの、貴僧、足を折った五位鷺、種々なものが浴みに参りますからその足跡で崕の路が出来ますくらい、きっとそれが利いたのでございましょう。
鉄砲傷のある猿だの、あなた、足を折った五位鷺だの、いろいろなものが浴みに参りますから、その足跡で崖に道ができるほどでございます。きっとそれが効いたのでございましょう。
原文: そんなにございませんければこうやってお話をなすって下さいまし、寂しくってなりません、本当にお愧しゅうございますが、こんな山の中に引籠っておりますと、ものをいうことも忘れましたようで、心細いのでございますよ。
そんなにお疲れでないなら、こうやってお話をしてくださいまし。寂しくてなりません。本当にお恥ずかしゅうございますが、こんな山の中に引き籠っておりますと、物を言うことも忘れたようで、心細いのでございますよ。
原文: 貴僧、それでもお眠ければご遠慮なさいますなえ。
あなた、それでもお眠いのならご遠慮なさいますなね。
原文: 別にお寝室と申してもございませんがその代り蚊は一ツも居ませんよ、町方ではね、上の洞の者は、里へ泊りに来た時蚊帳を釣って寝かそうとすると、どうして入るのか解らないので、梯子を貸せいと喚いたと申して嬲るのでございます。
別に寝室と申してもございませんが、その代わり蚊は一匹もおりませんよ。町のほうではね、この上の集落の者は、里へ泊まりに来た時に蚊帳を吊って寝かせようとすると、どうして入るのか分からないので梯子を貸せと喚いた、などと申してからかうのでございます。
原文: たんと朝寐を遊ばしても鐘は聞えず、鶏も鳴きません、犬だっておりませんからお心安うござんしょう。
たんと朝寝をなさっても鐘は聞こえず、鶏も鳴きません。犬だっておりませんから、お気楽でございましょう。
原文: この人も生れ落ちるとこの山で育ったので、何にも存じません代り、気のいい人でちっともお心置はないのでござんす。
この人も生まれ落ちるとすぐこの山で育ちましたので、何も知りません代わりに、気のいい人で、ちっとも気詰まりなことはございません。
原文: それでも風俗のかわった方がいらっしゃいますと、大事にしてお辞儀をすることだけは知ってでございますが、まだご挨拶をいたしませんね。
それでも身なりの変わった方がいらっしゃると、大事にしてお辞儀をすることだけは心得ておりますのに、まだご挨拶をいたしませんね。
原文: この頃は体がだるいと見えてお惰けさんになんなすったよ。
この頃は体がだるいと見えて、お怠けさんになってしまわれたよ。
原文: いいえ、まるで愚なのではございません、何でもちゃんと心得ております。
いいえ、まるきり愚かなのではございません、何でもちゃんと分かっております。
原文: さあ、ご坊様にご挨拶をなすって下さい。
さあ、ご坊様にご挨拶をなさってください。
原文: まあ、お辞儀をお忘れかい。)
まあ、お辞儀をお忘れかい。)
原文: と親しげに身を寄せて、顔を差し覗いて、いそいそしていうと、白痴はふらふらと両手をついて、ぜんまいが切れたようにがっくり一礼。
と親しげに身を寄せ、顔を覗き込んで、いそいそと言うと、少年はふらふらと両手をついて、ぜんまいが切れたようにがっくりと一礼した。
原文: (はい、)といって私も何か胸が迫って頭を下げた。
(はい、)と言って、私も何か胸が迫って頭を下げた。
原文: そのままその俯向いた拍子に筋が抜けたらしい、横に流れようとするのを、婦人は優しゅう扶け起して、
そのまま、そのうつむいた拍子に筋が抜けたらしく、横へ崩れようとするのを、女は優しく助け起こして、
原文: (おお、よくしたねえ。)
(おお、よくできたねえ。)
原文: 天晴といいたそうな顔色で、
天晴れと言いたそうな顔つきで、
原文: (貴僧、申せば何でも出来ましょうと思いますけれども、この人の病ばかりはお医者の手でもあの水でも復りませなんだ、両足が立ちませんのでございますから、何を覚えさしましても役には立ちません。
(あなた、言って聞かせれば何でもできるようになるだろうと思いますけれども、この人の病ばかりはお医者の手でも、あの水でも治りませんでした。両足が立ちませんのですから、何を覚えさせても役には立ちません。
原文: それにご覧なさいまし、お辞儀一ツいたしますさえ、あの通り大儀らしい。
それにご覧なさいまし、お辞儀一つするのさえ、あのとおり大儀そうです。
原文: ものを教えますと覚えますのにさぞ骨が折れて切のうござんしょう、体を苦しませるだけだと存じて何にもさせないで置きますから、だんだん、手を動かす働も、ものをいうことも忘れました。
物を教えれば、覚えるのにさぞ骨が折れて切のうございましょう。体を苦しませるだけだと思って何もさせずにおきますから、だんだんと、手を動かす働きも、物を言うことも忘れてしまいました。
原文: それでもあの、謡が唄えますわ。
それでもあの、唄が唄えますのよ。
原文: 二ツ三ツ今でも知っておりますよ。
二つ三つ、今でも知っておりますよ。
原文: さあお客様に一ツお聞かせなさいましなね。)
さあ、お客様に一つお聞かせなさいましな。)
原文: 白痴は婦人を見て、また私が顔をじろじろ見て、人見知をするといった形で首を振った。」
少年は女を見て、また私の顔をじろじろ見て、人見知りをするといった様子で首を振った。」
原文: 二十二
二十二
原文: 「左右して、婦人が、励ますように、賺すようにして勧めると、白痴は首を曲げてかの臍を弄びながら唄った。
「あれこれと、女が励ますように、なだめすかすようにして勧めると、少年は首を曲げて、例の臍をもてあそびながら唄った。
原文: 木曽の御嶽山は夏でも寒い、
木曽の御嶽山は夏でも寒い、
原文: 袷遣りたや足袋添えて。
袷を送ってやりたい、足袋も添えて。
原文: (よく知っておりましょう、)と婦人は聞き澄して莞爾する。
(よく知っておりましょう、)と女は聞き澄ましてにっこりする。
原文: 不思議や、唄った時の白痴の声はこの話をお聞きなさるお前様はもとよりじゃが、私も推量したとは月鼈雲泥、天地の相違、節廻し、あげさげ、呼吸の続くところから、第一その清らかな涼しい声という者は、到底この少年の咽喉から出たものではない。
不思議なことに、唄った時の少年の声は、この話をお聞きのあなたはもとより、私が推量したのとも月とすっぽん、雲泥の差、天地ほどの違いで、節回しといい、上げ下げといい、息の続き方といい、第一その清らかな涼しい声というものは、とうていこの少年の喉から出たものではない。
原文: まず前の世のこの白痴の身が、冥土から管でそのふくれた腹へ通わして寄越すほどに聞えましたよ。
まるで前世のこの少年の身が、冥土から管であのふくれた腹へ通わせて寄越しているとしか聞こえませんでしたよ。
原文: 私は畏って聞き果てると、膝に手をついたッきりどうしても顔を上げてそこな男女を見ることが出来ぬ、何か胸がキヤキヤして、はらはらと落涙した。
私はかしこまって聞き終えると、膝に手をついたきり、どうしても顔を上げてそこの二人を見ることができない。何か胸がきりきりして、はらはらと涙がこぼれた。
原文: 婦人は目早く見つけたそうで、
女は目ざとく見つけたようで、
原文: (おや、貴僧、どうかなさいましたか。)
(おや、あなた、どうかなさいましたか。)
原文: 急にものもいわれなんだが漸々、
急には物も言えなかったが、ようやく、
原文: (はい、なあに、変ったことでもござりませぬ、私も嬢様のことは別にお尋ね申しませんから、貴女も何にも問うては下さりますな。)
(はい、なあに、変わったことでもございません。私もお嬢さんのことは別にお尋ね申しませんから、あなたも何もお問いくださいますな。)
原文: と仔細は語らずただ思い入ってそう言うたが、実は以前から様子でも知れる、金釵玉簪をかざし、蝶衣を纏うて、珠履を穿たば、正に驪山に入って、相抱くべき豊肥妖艶の人が、その男に対する取廻しの優しさ、隔なさ、深切さに、人事ながら嬉しくて、思わず涙が流れたのじゃ。
と、事情は語らず、ただ思いを込めてそう言ったが、実は以前から様子でも知れる。金の釵、玉の簪をかざし、蝶のような衣をまとい、珠を飾った履物を履けば、まさに驪山に迎え入れて抱かれるべき豊満で妖艶な人が、あの男に対する扱いの優しさ、隔てのなさ、親切さで、他人事ながら嬉しくて、思わず涙が流れたのだ。
原文: すると人の腹の中を読みかねるような婦人ではない、たちまち様子を悟ったかして、
すると、人の腹の中を読みかねるような女ではない、たちまち事情を悟ったのか、
原文: (貴僧はほんとうにお優しい。)
(あなたは本当にお優しい。)
原文: といって、得も謂われぬ色を目に湛えて、じっと見た。
と言って、何とも言えない色を目にたたえて、じっと見た。
原文: 私も首を低れた、むこうでも差俯向く。
私も頭を垂れた。向こうでもうつむく。
原文: いや、行燈がまた薄暗くなって参ったようじゃが、恐らくこりゃ白痴のせいじゃて。
いや、行燈がまた薄暗くなってきたようだが、おそらくこれは少年のせいですな。
原文: その時よ。
その時ですよ。
原文: 座が白けて、しばらく言葉が途絶えたうちに所在がないので、唄うたいの太夫、退屈をしたとみえて、顔の前の行燈を吸い込むような大欠伸をしたから。
座が白けて、しばらく言葉が途絶えたうちに所在がないので、唄い手の太夫は退屈をしたと見えて、顔の前の行燈を吸い込むような大あくびをしたから。
原文: 身動きをしてな、
身動きをしてね、
原文: (寝ようちゃあ、寝ようちゃあ、)とよたよた体を持扱うわい。
(寝ようちゃあ、寝ようちゃあ、)と、よたよた体を持て余しますよ。
原文: (眠うなったのかい、もうお寝か。)
(眠くなったのかい、もうお寝みかい。)
原文: といったが坐り直ってふと気がついたように四辺を眗した。
と言ったが、座り直して、ふと気がついたようにあたりを見回した。
原文: 戸外はあたかも真昼のよう、月の光は開け拡げた家の内へはらはらとさして、紫陽花の色も鮮麗に蒼かった。
外はちょうど真昼のようで、月の光は開け放った家の中へはらはらと射し込み、紫陽花の色もあざやかに青かった。
原文: (貴僧ももうお休みなさいますか。)
(あなたも、もうお休みなさいますか。)
原文: (はい、ご厄介にあいなりまする。)
(はい、ご厄介になります。)
原文: (まあ、いま宿を寝かします、おゆっくりなさいましな。
(まあ、今この人を寝かせます、ごゆっくりなさいましな。
原文: 戸外へは近うござんすが、夏は広い方が結句宜うございましょう、私どもは納戸へ臥せりますから、貴僧はここへお広くお寛ぎがようござんす、ちょいと待って。)
外へは近うございますが、夏は広いほうがかえってよろしゅうございましょう。私どもは納戸で休みますから、あなたはここでお広くおくつろぎになるのがようございます。ちょいとお待ちを。)
原文: といいかけてつッと立ち、つかつかと足早に土間へ下りた、余り身のこなしが活溌であったので、その拍子に黒髪が先を巻いたまま項へ崩れた。
と言いかけてつと立ち、つかつかと足早に土間へ下りた。あまりに身のこなしが活発だったので、その拍子に黒髪が先を巻いたまま項へ崩れ落ちた。
原文: 鬢をおさえて戸につかまって、戸外を透したが、独言をした。
鬢を押さえて戸に掴まり、外を透かして見ていたが、独り言を言った。
原文: (おやおやさっきの騒ぎで櫛を落したそうな。)
(おやおや、さっきの騒ぎで櫛を落としたらしい。)
原文: いかさま馬の腹を潜った時じゃ。」
なるほど、馬の腹を潜った時だ。」
原文: 二十三
二十三
原文: この折から下の廊下に跫音がして、静に大跨に歩行いたのが、寂としているからよく。
この時、下の廊下に足音がして、静かに大股で歩いたのが、ひっそりしているのでよく聞こえる。
原文: やがて小用を達した様子、雨戸をばたりと開けるのが聞えた、手水鉢へ柄杓の響。
やがて用を足した様子で、雨戸をばたりと開けるのが聞こえた。手水鉢へ柄杓の響き。
原文: 「おお、積った、積った。」
「おお、積もった、積もった。」
原文: と呟いたのは、旅籠屋の亭主の声である。
と呟いたのは、宿屋の亭主の声である。
原文: 「ほほう、この若狭の商人はどこかへ泊ったと見える、何か愉快い夢でも見ているかな。」
「ほほう、この若狭の商人はどこかへ泊まったと見える。何か面白い夢でも見ているかな。」
原文: 「どうぞその後を、それから。」
「どうぞその後を、それから。」
原文: と聞く身には他事をいううちが牴牾しく、膠もなく続きを促した。
と、聞く身にはよそごとを言われるのがもどかしく、そっけなく続きを促した。
原文: 「さて、夜も更けました、」
「さて、夜も更けました、」
原文: といって旅僧はまた語出した。
と言って、旅僧はまた語り出した。
原文: 「たいてい推量もなさるであろうが、いかに草臥れておっても申上げたような深山の孤家で、眠られるものではない、それに少し気になって、はじめの内私を寝かさなかった事もあるし、目は冴えて、まじまじしていたが、さすがに、疲が酷いから、心は少しぼんやりして来た、何しろ夜の白むのが待遠でならぬ。
「たいてい推量もなさるでしょうが、いくら草臥れていても、申し上げたような深山の一軒家では眠れるものではない。それに少し気になって、はじめのうち私を寝かさなかったこともあるし、目は冴えてまじまじしていたが、さすがに疲れがひどいから、頭は少しぼんやりしてきた。何しろ夜の白むのが待ち遠しくてならない。
原文: そこではじめの内は我ともなく鐘の音の聞えるのを心頼みにして、今鳴るか、もう鳴るか、はて時刻はたっぷり経ったものをと、怪しんだが、やがて気が付いて、こういう処じゃ山寺どころではないと思うと、にわかに心細くなった。
そこで、はじめのうちは我知らず鐘の音が聞こえるのを頼りにして、今鳴るか、もう鳴るか、はて、時刻はたっぷり経ったはずなのにと怪しんだが、やがて気がついた、こういう所では山寺どころではないと思うと、にわかに心細くなった。
原文: その時は早や、夜がものに譬えると谷の底じゃ、白痴がだらしのない寐息も聞えなくなると、たちまち戸の外にものの気勢がしてきた。
その時はもう、夜はものにたとえれば谷の底だ。少年のだらしのない寝息も聞こえなくなると、たちまち戸の外に何かの気配がしてきた。
原文: 獣の跫音のようで、さまで遠くの方から歩行いて来たのではないよう、猿も、蟇も、居る処と、気休めにまず考えたが、なかなかどうして。
獣の足音のようで、それほど遠くから歩いて来たのではないらしい。猿も蟇もいる所だと、気休めにまず考えたが、なかなかどうして。
原文: しばらくすると今そやつが正面の戸に近いたなと思ったのが、羊の鳴声になる。
しばらくすると、今そいつが正面の戸に近づいたなと思ったのが、羊の鳴き声になる。
原文: 私はその方を枕にしていたのじゃから、つまり枕頭の戸外じゃな。
私はそちらを枕にして寝ていたのだから、つまり枕元のすぐ外です。
原文: しばらくすると、右手のかの紫陽花が咲いていたその花の下あたりで、鳥の羽ばたきする音。
しばらくすると、右手のあの紫陽花が咲いていた花の下あたりで、鳥の羽ばたく音。
原文: むささびか知らぬがきッきッといって屋の棟へ、やがておよそ小山ほどあろうと気取られるのが胸を圧すほどに近いて来て、牛が鳴いた、遠くの彼方からひたひたと小刻に駈けて来るのは、二本足に草鞋を穿いた獣と思われた、いやさまざまにむらむらと家のぐるりを取巻いたようで、二十三十のものの鼻息、羽音、中には囁いているのがある。
むささびか何か知らないが、きっきっと鳴いて屋根の棟へ上がり、やがておよそ小山ほどもあろうかと感じられるものが胸を押すほどに近づいてきて、牛が鳴いた。遠くのほうからひたひたと小刻みに駆けて来るのは、二本足に草鞋を履いた獣と思われた。いや、さまざまなものがむらむらと家のぐるりを取り巻いたようで、二十、三十というものの鼻息、羽音、中には囁いているものもある。
原文: あたかも何よ、それ畜生道の地獄の絵を、月夜に映したような怪しの姿が板戸一枚、魑魅魍魎というのであろうか、ざわざわと木の葉が戦ぐ気色だった。
ちょうど何ですな、あの畜生道の地獄絵を月夜に映したような怪しい姿が、板戸一枚を隔てて。魑魅魍魎というのはこれでしょうか、ざわざわと木の葉がそよぐような気配だった。
原文: 息を凝すと、納戸で、
息を凝らすと、納戸で、
原文: (うむ、)といって長く呼吸を引いて一声、魘れたのは婦人じゃ。
(うむ、)と言って長く息を引き、ひと声、うなされたのは女だ。
原文: (今夜はお客様があるよ。)
(今夜はお客様があるよ。)
原文: と叫んだ。
と叫んだ。
原文: (お客様があるじゃないか。)
(お客様があるじゃないか。)
原文: としばらく経って二度目のははっきりと清しい声。
としばらく経って、二度目のはっきりとした涼しい声。
原文: 極めて低声で、
ごく低い声で、
原文: (お客様があるよ。)
(お客様があるよ。)
原文: といって寝返る音がした、更に寝返る音がした。
と言って寝返る音がした。さらに寝返る音がした。
原文: 戸の外のものの気勢は動揺を造るがごとく、ぐらぐらと家が揺いた。
戸の外のものの気配はどよめきを立てるようで、ぐらぐらと家が揺らいだ。
原文: 私は陀羅尼を呪した。
私は陀羅尼を唱えた。
原文: 若不順我呪 悩乱説法者
若不順我呪 悩乱説法者
原文: 頭破作七分 如阿梨樹枝
頭破作七分 如阿梨樹枝
原文: 如殺父母罪 亦如厭油殃
如殺父母罪 亦如厭油殃
原文: 斗秤欺誑人 調達破僧罪
斗秤欺誑人 調達破僧罪
原文: 犯此法師者 当獲如是殃
犯此法師者 当獲如是殃
原文: と一心不乱、さっと木の葉を捲いて風が南へ吹いたが、たちまち静り返った、夫婦が閨もひッそりした。」
と一心不乱に唱えると、さっと木の葉を巻いて風が南へ吹いたが、たちまち静まり返り、夫婦の寝間もひっそりとした。」
原文: 二十四
二十四
原文: 「翌日また正午頃、里近く、滝のある処で、昨日馬を売りに行った親仁の帰りに逢うた。
「翌日また昼頃、里近くの滝のある所で、昨日馬を売りに行った親父の帰りに出会った。
原文: ちょうど私が修行に出るのを止して孤家に引返して、婦人と一所に生涯を送ろうと思っていたところで。
ちょうど私が修行に出るのをやめて一軒家へ引き返し、あの女と一緒に生涯を送ろうと思っていたところで。
原文: 実を申すとここへ来る途中でもその事ばかり考える、蛇の橋も幸になし、蛭の林もなかったが、道が難渋なにつけても、汗が流れて心持が悪いにつけても、今更行脚もつまらない。
実を申すと、ここへ来る途中でもそのことばかり考えていた。蛇の橋も幸いになく、蛭の林もなかったが、道が難儀なのにつけても、汗が流れて心持ちが悪いのにつけても、今さら行脚もつまらない。
原文: 紫の袈裟をかけて、七堂伽藍に住んだところで何ほどのこともあるまい、活仏様じゃというて、わあわあ拝まれれば人いきれで胸が悪くなるばかりか。
紫の袈裟をかけて七堂伽藍に住んだところで何ほどのこともあるまい、生き仏様だといってわあわあ拝まれれば、人いきれで胸が悪くなるばかりではないか。
原文: ちとお話もいかがじゃから、さっきはことを分けていいませなんだが、昨夜も白痴を寐かしつけると、婦人がまた炉のある処へやって来て、世の中へ苦労をしに出ようより、夏は涼しく、冬は暖い、この流に一所に私の傍においでなさいというてくれるし、まだまだそればかりでは自分に魔が魅したようじゃけれども、ここに我身で我身に言訳が出来るというのは、しきりに婦人が不便でならぬ、深山の孤家に白痴の伽をして言葉も通ぜず、日を経るに従うてものをいうことさえ忘れるような気がするというは何たる事!
少しお話しするのもいかがかと思って、さっきは細かく申しませんでしたが、昨夜も少年を寝かしつけると、女がまた炉のある所へやって来て、世の中へ苦労をしに出るより、夏は涼しく冬は暖かいこの流れのそばで、一緒に私のそばにおいでなさいと言ってくれる。まだまだそれだけなら自分に魔が差したというだけのことだけれども、ここで我が身に我が身の言い訳が立つというのは、しきりにあの女が不憫でならないからだ。深山の一軒家で少年の相手をして言葉も通じず、日が経つにつれて物を言うことさえ忘れるような気がすると言うのは、何ということか!
原文: 殊に今朝も東雲に袂を振り切って別れようとすると、お名残惜しや、かような処にこうやって老朽ちる身の、再びお目にはかかられまい、いささ小川の水になりとも、どこぞで白桃の花が流れるのをご覧になったら、私の体が谷川に沈んで、ちぎれちぎれになったことと思え、といって悄れながら、なお深切に、道はただこの谷川の流れに沿うて行きさえすれば、どれほど遠くても里に出らるる、目の下近く水が躍って、滝になって落つるのを見たら、人家が近づいたと心を安んずるように、と気をつけて、孤家の見えなくなった辺で、指しをしてくれた。
ことに今朝も東雲の頃に袂を振り切って別れようとすると、お名残惜しい、こんな所でこうして老い朽ちる身の、再びお目にかかることもありますまい、ささやかな小川の水にでも、どこかで白桃の花が流れるのをご覧になったら、私の体が谷川に沈んでちぎれちぎれになったのだと思ってください、と、しおれながら、それでもなお親切に、道はただこの谷川の流れに沿って行きさえすればどれほど遠くても里に出られる、目の下近くで水が躍って滝になって落ちるのを見たら、人家が近づいたと安心なさるように、と気をつけてくれて、一軒家の見えなくなったあたりで指をさして教えてくれた。
原文: その手と手を取交すには及ばずとも、傍につき添って、朝夕の話対手、蕈の汁でご膳を食べたり、私が榾を焚いて、婦人が鍋をかけて、私が木の実を拾って、婦人が皮を剥いて、それから障子の内と外で、話をしたり、笑ったり、それから谷川で二人して、その時の婦人が裸体になって私が背中へ呼吸が通って、微妙な薫の花びらに暖に包まれたら、そのまま命が失せてもいい!
その手と手を取り交わすまではいかずとも、そばに寄り添って、朝夕の話し相手をして、茸の汁でご飯を食べたり、私が焚き木を焚いて、女が鍋をかけて、私が木の実を拾って、女が皮を剥いて、それから障子の内と外で話をしたり笑ったり、それから谷川で二人して、あの時のように女が裸になって私の背中へ息が通って、微妙な香りの花びらに暖かく包まれたら、そのまま命が失せてもいい!
原文: 滝の水を見るにつけても耐え難いのはその事であった、いや、冷汗が流れますて。
滝の水を見るにつけても耐えがたいのはそのことだった。いや、冷や汗が流れますよ。
原文: その上、もう気がたるみ、筋が弛んで、早や歩行くのに飽きが来て、喜ばねばならぬ人家が近づいたのも、たかがよくされて口の臭い婆さんに渋茶を振舞われるのが関の山と、里へ入るのも厭になったから、石の上へ膝を懸けた、ちょうど目の下にある滝じゃった、これがさ、後に聞くと女夫滝と言うそうで。
その上、もう気がたるみ、筋が弛んで、歩くのにも飽きが来て、喜ばなければならないはずの人家が近づいたことも、たかだか皺だらけで口の臭い婆さんに渋茶をふるまわれるのが関の山と、里へ入るのも嫌になったから、石の上へ膝をかけた。ちょうど目の下にある滝でした。これがですよ、後で聞くと女夫滝というのだそうで。
原文: 真中にまず鰐鮫が口をあいたような先のとがった黒い大巌が突出ていると、上から流れて来るさっと瀬の早い谷川が、これに当って両に岐れて、およそ四丈ばかりの滝になってどっと落ちて、また暗碧に白布を織って矢を射るように里へ出るのじゃが、その巌にせかれた方は六尺ばかり、これは川の一幅を裂いて糸も乱れず、一方は幅が狭い、三尺くらい、この下には雑多な岩が並ぶとみえて、ちらちらちらちらと玉の簾を百千に砕いたよう、件の鰐鮫の巌に、すれつ、縋れつ。」
真ん中にまず、鰐鮫が口を開けたような先の尖った黒い大岩が突き出ていて、上から流れて来る、さっと瀬の早い谷川がこれに当たって二つに分かれ、およそ四丈ばかりの滝になってどうと落ち、また暗い碧の淵に白布を織って、矢を射るように里へ出るのだが、その岩にせかれたほうは六尺ばかり、これは川幅の一幅を裂いて糸も乱れずに落ちる。もう一方は幅が狭く三尺ほど、この下には雑多な岩が並んでいると見えて、ちらちらちらちらと玉の簾を百にも千にも砕いたようで、例の鰐鮫の岩に、擦れつ、もつれつ。」
原文: 二十五
二十五
原文: 「ただ一筋でも巌を越して男滝に縋りつこうとする形、それでも中を隔てられて末までは雫も通わぬので、揉まれ、揺られて具さに辛苦を嘗めるという風情、この方は姿も窶れ容も細って、流るる音さえ別様に、泣くか、怨むかとも思われるが、あわれにも優しい女滝じゃ。
「せめて一筋でも岩を越えて男滝に縋りつこうとする形で、それでも間を隔てられて、末までは雫も通わないので、揉まれ、揺られて、つぶさに辛苦をなめるという風情。こちらは姿もやつれ、形も細って、流れる音さえ別ものに、泣くのか、恨むのかとも思われるが、あわれにも優しい女滝です。
原文: 男滝の方はうらはらで、石を砕き、地を貫く勢、堂々たる有様じゃ、これが二つ件の巌に当って左右に分れて二筋となって落ちるのが身に浸みて、女滝の心を砕く姿は、男の膝に取ついて美女が泣いて身を震わすようで、岸に居てさえ体がわななく、肉が跳る。
男滝のほうはうらはらで、石を砕き、地を貫く勢い、堂々たる有様だ。これが二つ、例の岩に当たって左右に分かれ、二筋となって落ちるのが身に染みて、女滝の心を砕く姿は、男の膝に取りついて美女が泣いて身を震わせるようで、岸にいてさえ体がわななき、肉が躍る。
原文: ましてこの水上は、昨日孤家の婦人と水を浴びた処と思うと、気のせいかその女滝の中に絵のようなかの婦人の姿が歴々、と浮いて出ると巻込まれて、沈んだと思うとまた浮いて、千筋に乱るる水とともにその膚が粉に砕けて、花片が散込むような。
まして、この水上は昨日あの一軒家の女と水を浴びた所だと思うと、気のせいか、その女滝の中に絵のようなあの女の姿がありありと、浮いて出たと思うと巻き込まれ、沈んだと思うとまた浮いて、千筋に乱れる水とともにその肌が粉に砕けて、花びらが散り込むような。
原文: あなやと思うと更に、もとの顔も、胸も、乳も、手足も全き姿となって、浮いつ沈みつ、ぱッと刻まれ、あッと見る間にまたあらわれる。
あなやと思うとさらに、元の顔も、胸も、乳も、手足も全き姿となって、浮きつ沈みつ、ぱっと刻まれ、あっと見る間にまた現れる。
原文: 私は耐らず真逆に滝の中へ飛込んで、女滝をしかと抱いたとまで思った。
私はたまらず、真っ逆さまに滝の中へ飛び込んで、女滝をしかと抱いたとまで思った。
原文: 気がつくと男滝の方はどうどうと地響打たせて。
気がつくと、男滝のほうはどうどうと地響きを打たせて。
原文: 山彦を呼んで轟いて流れている。
山彦を呼んで轟き流れている。
原文: ああその力をもってなぜ救わぬ、儘よ!
ああ、その力をもってなぜ救わないのか、ままよ!
原文: 滝に身を投げて死のうより、旧の孤家へ引返せ。
滝に身を投げて死ぬくらいなら、元の一軒家へ引き返せ。
原文: 汚らわしい欲のあればこそこうなった上に躊躇するわ、その顔を見て声を聞けば、かれら夫婦が同衾するのに枕を並べて差支えぬ、それでも汗になって修行をして、坊主で果てるよりはよほどのましじゃと、思切って戻ろうとして、石を放れて身を起した、背後から一ツ背中を叩いて、
汚らわしい欲があるからこそ、こうなった上にまだ躊躇するのだ。あの顔を見て声を聞けるなら、あの夫婦が同じ床につくのに枕を並べたって差し支えない、それでも汗まみれになって修行をして坊主で果てるよりはよほどましだと、思い切って戻ろうとして、石を離れて身を起こした。その後ろから一つ背中を叩いて、
原文: (やあ、ご坊様。)
(やあ、ご坊様。)
原文: といわれたから、時が時なり、心も心、後暗いので喫驚して見ると、閻王の使ではない、これが親仁。
と言われたから、時が時なり、心も心、後ろ暗いのでびっくりして見ると、閻魔王の使いではない、これがあの親父。
原文: 馬は売ったか、身軽になって、小さな包みを肩にかけて、手に一尾の鯉の、鱗は金色なる、溌剌として尾の動きそうな、鮮しい、その丈三尺ばかりなのを、顋に藁を通して、ぶらりと提げていた。
馬は売ったのか身軽になって、小さな包みを肩にかけ、手には一尾の鯉の、鱗は金色で、溌剌として尾が動きそうな、新しい、丈三尺ばかりのを、顎に藁を通してぶらりと提げていた。
原文: 何んにも言わず急にものもいわれないで瞻ると、親仁はじっと顔を見たよ。
何も言わず、急には物も言えずに見守ると、親父はじっと顔を見ましたよ。
原文: そうしてにやにやと、また一通りの笑い方ではないて、薄気味の悪い北叟笑をして、
そうしてにやにやと、それも一通りの笑い方ではない、薄気味の悪いほくそ笑みをして、
原文: (何をしてござる、ご修行の身が、このくらいの暑で、岸に休んでいさっしゃる分ではあんめえ、一生懸命に歩行かっしゃりや、昨夜の泊からここまではたった五里、もう里へ行って地蔵様を拝まっしゃる時刻じゃ。
(何をしてござる、ご修行の身が、このくらいの暑さで岸に休んでいなさる場合ではあるまい。一生懸命に歩きなされば、昨夜の泊まりからここまではたった五里、もう里へ行って地蔵様を拝んでいる時刻だ。
原文: 何じゃの、己が嬢様に念が懸って煩悩が起きたのじゃの。
何だね、おれの嬢様に思いがかかって煩悩が起きたのだろう。
原文: うんにゃ、秘さっしゃるな、おらが目は赤くッても、白いか黒いかはちゃんと見える。
いんや、隠しなさるな、おれの目は赤くても、白いか黒いかはちゃんと見える。
原文: 地体並のものならば、嬢様の手が触ってあの水を振舞われて、今まで人間でいようはずがない。
そもそも並の者なら、嬢様の手が触れてあの水をふるまわれて、今まで人間のままでいられるはずがない。
原文: 牛か馬か、猿か、蟇か、蝙蝠か、何にせい飛んだか跳ねたかせねばならぬ。
牛か馬か、猿か、蟇か、蝙蝠か、何にせよ飛んだか跳ねたかしていなければならん。
原文: 谷川から上って来さしった時、手足も顔も人じゃから、おらあ魂消たくらい、お前様それでも感心に志が堅固じゃから助かったようなものよ。
谷川から上がって来なさった時、手足も顔も人のままだから、おれは魂消たくらいだ。お前様、それでも感心に志が堅固だったから助かったようなものよ。
原文: 何と、おらが曳いて行った馬を見さしったろう。
何と、おれが曳いて行った馬を見なさったろう。
原文: それで、孤家へ来さっしゃる山路で富山の反魂丹売に逢わしったというではないか、それみさっせい、あの助平野郎、とうに馬になって、それ馬市で銭になって、お銭が、そうらこの鯉に化けた。
それに、一軒家へ来なさる山道で富山の反魂丹売りに会ったというではないか。それ見なされ、あの助平野郎、とっくに馬になって、それ、馬市で銭になって、その銭が、そうら、この鯉に化けた。
原文: 大好物で晩飯の菜になさる、お嬢様を一体何じゃと思わっしゃるの)。」
大好物で晩飯のおかずになさる。お嬢様を一体何だと思っておられる)。」
原文: 私は思わず遮った。
私は思わず遮った。
原文: 「お上人?」
「お上人?」
原文: 二十六
二十六
原文: 上人は頷きながら呟いて、
上人はうなずきながら呟いて、
原文: 「いや、まず聞かっしゃい、かの孤家の婦人というは、旧な、これも私には何かの縁があった、あの恐しい魔処へ入ろうという岐道の水が溢れた往来で、百姓が教えて、あすこはその以前医者の家であったというたが、その家の嬢様じゃ。
「いや、まずお聞きなさい。あの一軒家の女というのは、もとはね、これも私には何かの縁があった、あの恐ろしい魔所へ入ろうという脇道の、水があふれた往来で、百姓が教えてくれた、あそこはその昔、医者の家であったというあの家の、そこの嬢様なのです。
原文: 何でも飛騨一円当時変ったことも珍らしいこともなかったが、ただ取り出でていう不思議はこの医者の娘で、生まれると玉のよう。
何でも飛騨一円、当時は変わったことも珍しいこともなかったが、ただ一つ取り立てて言う不思議はこの医者の娘で、生まれた時から玉のようだった。
原文: 母親殿は頬板のふくれた、眦の下った、鼻の低い、俗にさし乳というあの毒々しい左右の胸の房を含んで、どうしてあれほど美しく育ったものだろうという。
母親殿は頬のふくれた、目尻の下がった、鼻の低い、俗にさし乳というあの毒々しい左右の胸の房を含ませて育てたのに、どうしてあれほど美しく育ったものだろうという。
原文: 昔から物語の本にもある、屋の棟へ白羽の征矢が立つか、さもなければ狩倉の時貴人のお目に留って御殿に召出されるのは、あんなのじゃと噂が高かった。
昔から物語の本にもあるとおり、屋根の棟へ白羽の矢が立つか、そうでなければ狩りの折に高貴な方の目に留まって御殿に召し出されるのは、ああいうのだと噂が高かった。
原文: 父親の医者というのは、頬骨のとがった髯の生えた、見得坊で傲慢、その癖でもじゃ、もちろん田舎には刈入の時よく稲の穂が目に入ると、それから煩う、脂目、赤目、流行目が多いから、先生眼病の方は少し遣ったが、内科と来てはからッぺた。
父親の医者というのは、頬骨のとがった髭の生えた、見栄坊で傲慢な男で、その癖ですよ、もちろん田舎には刈り入れの時によく稲の穂が目に入り、そこから患う、目やに、赤目、流行り目が多いから、先生、眼病のほうは少しやったが、内科と来てはまるで駄目。
原文: 外科なんと来た日にゃあ、鬢附へ水を垂らしてひやりと疵につけるくらいなところ。
外科と来た日には、鬢付け油に水を垂らして、ひやりと傷につけるくらいのところ。
原文: 鰯の天窓も信心から、それでも命数の尽きぬ輩は本復するから、外に竹庵養仙木斎の居ない土地、相応に繁盛した。
鰯の頭も信心から、それでも寿命の尽きない者は快復するから、ほかに医者らしい医者もいない土地のこと、相応に繁盛した。
原文: 殊に娘が十六七、女盛となって来た時分には、薬師様が人助けに先生様の内へ生れてござったというて、信心渇仰の善男善女?
ことに娘が十六、七の女盛りになってきた時分には、薬師様が人助けに先生様の家へ生まれてこられたといって、信心渇仰の善男善女?
原文: 病男病女が我も我もと詰め懸ける。
いや、病んだ男や女が我も我もと詰めかける。
原文: それというのが、はじまりはかの嬢様が、それ、馴染の病人には毎日顔を合せるところから愛想の一つも、あなたお手が痛みますかい、どんなでございます、といって手先へ柔かな掌が障ると第一番に次作兄いという若いのの(りょうまちす)が全快、お苦しそうなといって腹をさすってやると水あたりの差込の留まったのがある、初手は若い男ばかりに利いたが、だんだん老人にも及ぼして、後には婦人の病人もこれで復る、復らぬまでも苦痛が薄らぐ、根太の膿を切って出すさえ、錆びた小刀で引裂く医者殿が腕前じゃ、病人は七顛八倒して悲鳴を上げるのが、娘が来て背中へぴったりと胸をあてて肩を押えていると、我慢が出来るといったようなわけであったそ
それというのも、はじまりはあのお嬢様が、それ、馴染みの病人には毎日顔を合わせるところから愛想の一つも言い、あなた、お手が痛みますか、どんな具合ですと言って手先へ柔らかな掌が触れると、まず第一番に次作兄いという若いののリウマチが全快、お苦しそうねと言って腹をさすってやると水あたりの差し込みが止まった者がある。はじめは若い男にばかり効いたのが、だんだんと年寄りにも及び、後には女の病人もこれで治る、治らないまでも痛みが薄らぐ。腫れ物の膿を切って出すのさえ、錆びた小刀で引き裂く医者殿の腕前だから、病人は七転八倒して悲鳴を上げるのが、娘が来て背中へぴったり胸を当てて肩を押さえていると我慢ができる、といったわけだったそ
原文: うな。
うな。
原文: ひとしきりあの藪の前にある枇杷の古木へ熊蜂が来て恐しい大きな巣をかけた。
ひとしきり、あの藪の前にある枇杷の古木へ熊蜂が来て、恐ろしく大きな巣をかけた。
原文: すると医者の内弟子で薬局、拭掃除もすれば総菜畠の芋も掘る、近い所へは車夫も勤めた、下男兼帯の熊蔵という、その頃二十四五歳、稀塩散に単舎利別を混ぜたのを瓶に盗んで、内が吝嗇じゃから見附かると叱られる、これを股引や袴と一所に戸棚の上に載せておいて、隙さえあればちびりちびり飲んでた男が、庭掃除をするといって、件の蜂の巣を見つけたっけ。
すると医者の内弟子で薬局を務め、拭き掃除もすれば総菜畑の芋も掘る、近い所へは車夫も勤める、下男兼帯の熊蔵という、その頃二十四、五歳の男——稀塩散に単舎利別を混ぜたのを瓶に盗んで、家がけちだから見つかると叱られるので、これを股引や袴と一緒に戸棚の上に載せておいて、暇さえあればちびりちびり飲んでいた男が、庭掃除をするといって例の蜂の巣を見つけましてね。
原文: 縁側へやって来て、お嬢様面白いことをしてお目に懸けましょう、無躾でござりますが、私のこの手を握って下さりますと、あの蜂の中へ突込んで、蜂を掴んで見せましょう。
縁側へやって来て、お嬢様、面白いことをしてお目にかけましょう、不躾でございますが、私のこの手を握ってくださいましたら、あの蜂の中へ突っ込んで蜂を掴んで見せましょう。
原文: お手が障った所だけは螫しましても痛みませぬ、竹箒で引払いては八方へ散らばって体中に集られてはそれは凌げませぬ即死でございますがと、微笑んで控える手で無理に握ってもらい、つかつかと行くと、凄じい虫の唸、やがて取って返した左の手に熊蜂が七ツ八ツ、羽ばたきをするのがある、脚を振うのがある、中には掴んだ指の股へ這出しているのがあった。
お手が触れた所だけは刺されても痛みません、竹箒でひっぱたいては八方へ散らばって体中にたかられて、それは凌げません、即死でございますが、と微笑んで差し出す手を無理に握ってもらい、つかつかと行くと、凄まじい虫の唸り。やがて取って返した左の手には熊蜂が七つ八つ、羽ばたきをするのがある、脚を振るのがある、中には掴んだ指の股へ這い出しているのもあった。
原文: さあ、あの神様の手が障れば鉄砲玉でも通るまいと、蜘蛛の巣のように評判が八方へ。
さあ、あの神様の手が触れれば鉄砲玉でも通るまいと、蜘蛛の巣のように評判が八方へ広がった。
原文: その頃からいつとなく感得したものとみえて、仔細あって、あの白痴に身を任せて山に籠ってからは神変不思議、年を経るに従うて神通自在じゃ。
その頃からいつとなく力を感得したものと見えて、事情あってあの少年に身を任せて山に籠ってからは神変不思議、年を経るに従って神通自在です。
原文: はじめは体を押つけたのが、足ばかりとなり、手さきとなり、果は間を隔てていても、道を迷うた旅人は嬢様が思うままはッという呼吸で変ずるわ。
はじめは体を押しつけていたのが、足だけとなり、手先だけとなり、果ては間を隔てていても、道に迷った旅人は嬢様が思うままに、はっという息ひとつで変えてしまうのです。
原文: と親仁がその時物語って、ご坊は、孤家の周囲で、猿を見たろう、蟇を見たろう、蝙蝠を見たであろう、兎も蛇も皆嬢様に谷川の水を浴びせられて畜生にされたる輩!
と親父はその時語って、ご坊は、一軒家のぐるりで猿を見たろう、蟇を見たろう、蝙蝠を見たであろう、兎も蛇も、みな嬢様に谷川の水を浴びせられて畜生にされた輩!
原文: あわれあの時あの婦人が、蟇に絡られたのも、猿に抱かれたのも、蝙蝠に吸われたのも、夜中に魑魅魍魎に魘われたのも、思い出して、私はひしひしと胸に当った。
思えばあの時あの女が、蟇にまつわられたのも、猿に抱かれたのも、蝙蝠に吸われたのも、夜中に魑魅魍魎にうなされたのも、思い出して、私はひしひしと胸に応えた。
原文: なお親仁のいうよう。
なお親父が言うには。
原文: 今の白痴も、件の評判の高かった頃、医者の内へ来た病人、その頃はまだ子供、朴訥な父親が附添い、髪の長い、兄貴がおぶって山から出て来た。
今の少年も、例の評判が高かった頃、医者の家へ来た病人で、その頃はまだ子ども、朴訥な父親が付き添い、髪の長い兄貴が背負って山から出て来た。
原文: 脚に難渋な腫物があった、その療治を頼んだので。
脚に厄介な腫れ物があった。その治療を頼んだのです。
原文: もとより一室を借受けて、逗留をしておったが、かほどの悩は大事じゃ、血も大分に出さねばならぬ、殊に子供、手を下すには体に精分をつけてからと、まず一日に三ツずつ鶏卵を飲まして、気休めに膏薬を貼っておく。
もとより一間を借り受けて逗留していたが、これほどの腫れ物は大ごとだ、血もだいぶん出さねばならぬ、ことに子どもだから、手を下すには体に精をつけてからと、まず一日に三つずつ卵を飲ませ、気休めに膏薬を貼っておく。
原文: その膏薬を剥がすにも親や兄、また傍のものが手を懸けると、堅くなって硬ばったのが、めりめりと肉にくッついて取れる、ひいひいと泣くのじゃが、娘が手をかけてやれば黙って耐えた。
その膏薬を剥がすにも、親や兄、また傍の者が手をかけると、堅くこわばったのが肉にくっついてめりめりと取れる、ひいひいと泣くのだが、娘が手をかけてやれば黙って耐えた。
原文: 一体は医者殿、手のつけようがなくって身の衰をいい立てに一日延ばしにしたのじゃが三日経つと、兄を残して、克明な父親は股引の膝でずって、あとさがりに玄関から土間へ、草鞋を穿いてまた地に手をついて、次男坊の生命の扶かりまするように、ねえねえ、というて山へ帰った。
もともと医者殿は手のつけようがなくて、体の衰えを言い立てに一日延ばしにしていたのだが、三日経つと、兄を残して、律儀な父親は股引の膝でずりながら、後ずさりに玄関から土間へ、草鞋を履いてまた土に手をついて、次男坊の命が助かりますように、ねえねえ、と言って山へ帰った。
原文: それでもなかなか捗取らず、七日も経ったので、後に残って附添っていた兄者人が、ちょうど刈入で、この節は手が八本も欲しいほど忙しい、お天気模様も雨のよう、長雨にでもなりますと、山畠にかけがえのない、稲が腐っては、餓死でござりまする、総領の私は、一番の働手、こうしてはおられませぬから、と辞をいって、やれ泣くでねえぞ、としんみり子供にいい聞かせて病人を置いて行った。
それでもなかなかはかどらず、七日も経ったので、後に残って付き添っていた兄者が、ちょうど刈り入れで、この時節は手が八本も欲しいほど忙しい、お天気模様も雨のよう、長雨にでもなって、山畑にかけがえのない稲が腐っては飢え死にでございます、総領の私は一番の働き手、こうしてはおられませんので、と断りを言い、やれ泣くんじゃないぞ、としんみり子どもに言い聞かせて、病人を置いて行った。
原文: 後には子供一人、その時が、戸長様の帳面前年紀六ツ、親六十で児が二十なら徴兵はお目こぼしと何を間違えたか届が五年遅うして本当は十一、それでも奥山で育ったから村の言葉も碌には知らぬが、怜悧な生れで聞分があるから、三ツずつあいかわらず鶏卵を吸わせられる汁も、今に療治の時残らず血になって出ることと推量して、べそを掻いても、兄者が泣くなといわしったと、耐えていた心の内。
後には子ども一人。その時が、戸長様の帳面の上では六つ、親が六十で子が二十なら徴兵はお目こぼしと、何を間違えたのか届けを五年遅らせたので、本当は十一。それでも奥山で育ったから村の言葉もろくに知らないが、利発な生まれで聞き分けがあるから、相変わらず三つずつ吸わされる卵の汁も、いまに治療の時に残らず血になって出るのだろうと推量して、べそをかいても、兄者が泣くなと言いなさったと耐えていた、その心の内。
原文: 娘の情で内と一所に膳を並べて食事をさせると、沢庵の切をくわえて隅の方へ引込むいじらしさ。
娘の情けで家の者と一緒に膳を並べて食事をさせると、沢庵の切れをくわえて隅のほうへ引っ込むいじらしさ。
原文: いよいよ明日が手術という夜は、皆寐静まってから、しくしく蚊のように泣いているのを、手水に起きた娘が見つけてあまり不便さに抱いて寝てやった。
いよいよ明日が手術という夜は、みんな寝静まってからしくしくと蚊の鳴くように泣いているのを、手水に起きた娘が見つけて、あまりの不憫さに抱いて寝てやった。
原文: さて治療となると例のごとく娘が背後から抱いていたから、脂汗を流しながら切れものが入るのを、感心にじっと耐えたのに、どこを切違えたか、それから流れ出した血が留まらず、見る見る内に色が変って、危くなった。
さて治療となると、例のごとく娘が後ろから抱いていたので、脂汗を流しながら刃物が入るのを感心にじっと耐えたのに、どこを切り違えたのか、それから流れ出した血が止まらず、見る見るうちに顔色が変わって危なくなった。
原文: 医者も蒼くなって、騒いだが、神の扶けかようよう生命は取留まり、三日ばかりで血も留ったが、とうとう腰が抜けた、もとより不具。
医者も青くなって騒いだが、神の助けかようやく命は取り留め、三日ばかりで血も止まったが、とうとう腰が抜けた。もとより不具の身。
原文: これが引摺って、足を見ながら情なそうな顔をする。
これが足を引きずっては、その足を見ながら情けなさそうな顔をする。
原文: 蟋蟀が𢪸がれた脚を口に銜えて泣くのを見るよう、目もあてられたものではない。
きりぎりすがもがれた脚を口にくわえて泣くのを見るようで、目も当てられたものではない。
原文: しまいには泣出すと、外聞もあり、少焦で、医者は恐しい顔をして睨みつけると、あわれがって抱きあげる娘の胸に顔をかくして縋るさまに、年来随分と人を手にかけた医者も我を折って腕組をして、はッという溜息。
しまいには泣き出すので、外聞もあり、少し焦れて医者が恐ろしい顔をして睨みつけると、あわれがって抱き上げる娘の胸に顔を隠して縋る、その様子に、長年ずいぶんと人を手にかけてきた医者も我を折って、腕組みをして、はっと溜息をつく。
原文: やがて父親が迎にござった、因果と断念めて、別に不足はいわなんだが、何分小児が娘の手を放れようといわぬので、医者も幸、言訳かたがた、親兄の心をなだめるため、そこで娘に小児を家まで送らせることにした。
やがて父親が迎えに来た。因果と諦めて、別に不足は言わなかったが、何しろ子どもが娘の手を放れようとしないので、医者も幸い、言い訳かたがた、親や兄の心をなだめるために、そこで娘に子どもを家まで送らせることにした。
原文: 送って来たのが孤家で。
送って行った先があの一軒家で。
原文: その時分はまだ一個の荘、家も小二十軒あったのが、娘が来て一日二日、ついほだされて逗留した五日目から大雨が降出した。
その時分はまだ一つの集落で、家も二十軒足らずあったのが、娘が来て一日二日、ついほだされて逗留した五日目から大雨が降り出した。
原文: 滝を覆すようで小歇もなく家に居ながら皆簑笠で凌いだくらい、茅葺の繕いをすることはさて置いて、表の戸もあけられず、内から内、隣同士、おうおうと声をかけ合ってわずかにまだ人種の世に尽きぬのを知るばかり、八日を八百年と雨の中に籠ると九日目の真夜中から大風が吹出してその風の勢ここが峠というところでたちまち泥海。
滝をひっくり返したようで小止みもなく、家にいながらみんな蓑笠で凌いだくらい、茅葺きの繕いをすることはさておき、表の戸も開けられず、家の中から家の中へ、隣同士でおうおうと声をかけ合って、わずかにまだ人の種がこの世に尽きていないのを知るばかり。八日を八百年の思いで雨の中に籠っていると、九日目の真夜中から大風が吹き出して、その風の勢いがここが峠というところで、たちまち一面の泥海。
原文: この洪水で生残ったのは、不思議にも娘と小児とそれにその時村から供をしたこの親仁ばかり。
この洪水で生き残ったのは、不思議にも娘と子ども、それにその時村から供をしたこの親父ばかり。
原文: おなじ水で医者の内も死絶えた、さればかような美女が片田舎に生れたのも国が世がわり、代がわりの前兆であろうと、土地のものは言い伝えた。
同じ水で医者の家も死に絶えた。だからこそ、あのような美女が片田舎に生まれたのも、国が世変わり、代替わりする前兆だったのだろうと、土地の者は言い伝えた。
原文: 嬢様は帰るに家なく、世にただ一人となって小児と一所に山に留まったのはご坊が見らるる通り、またあの白痴につきそって行届いた世話も見らるる通り、洪水の時から十三年、いまになるまで一日もかわりはない。
嬢様は帰る家もなく、世にただ一人となって子どもと一緒に山に留まったのは、ご坊が見られたとおり。またあの少年に付き添っての行き届いた世話ぶりも見られたとおりで、洪水の時から十三年、今になるまで一日も変わりはない。
原文: といい果てて親仁はまた気味の悪い北叟笑。
と言い終えて、親父はまた気味の悪いほくそ笑み。
原文: (こう身の上を話したら、嬢様を不便がって、薪を折ったり水を汲む手助けでもしてやりたいと、情が懸ろう。
(こう身の上を話したら、嬢様を不憫がって、薪を折ったり水を汲む手助けでもしてやりたいと、情が動くだろう。
原文: 本来の好心、いい加減な慈悲じゃとか、情じゃとかいう名につけて、いっそ山へ帰りたかんべい、はて措かっしゃい。
元は好き心のくせに、いい加減な慈悲だとか情だとかいう名にかこつけて、いっそ山へ帰りたかろうよ。はて、およしなされ。
原文: あの白痴殿の女房になって世の中へは目もやらぬ換にゃあ、嬢様は如意自在、男はより取って、飽けば、息をかけて獣にするわ、殊にその洪水以来、山を穿ったこの流は天道様がお授けの、男を誘う怪しの水、生命を取られぬものはないのじゃ。
あのあの少年の女房になって世の中へは目もくれない代わりに、嬢様は如意自在、男はより取りで、飽きれば息をかけて獣にしてしまう。ことにあの洪水以来、山を穿ったこの流れは天道様がお授けの、男を誘う怪しの水、命を取られない者はないのだ。
原文: 天狗道にも三熱の苦悩、髪が乱れ、色が蒼ざめ、胸が痩せて手足が細れば、谷川を浴びると旧の通り、それこそ水が垂るばかり、招けば活きた魚も来る、睨めば美しい木の実も落つる、袖を翳せば雨も降るなり、眉を開けば風も吹くぞよ。
天狗道にも三熱の苦悩というものがあって、髪が乱れ、色が青ざめ、胸が痩せて手足が細れば、谷川を浴びると元のとおり、それこそ水も垂れるばかり。招けば生きた魚も来る、睨めば美しい木の実も落ちる、袖をかざせば雨も降り、眉を開けば風も吹くのだぞ。
原文: しかもうまれつきの色好み、殊にまた若いのが好じゃで、何かご坊にいうたであろうが、それを実としたところで、やがて飽かれると尾が出来る、耳が動く、足がのびる、たちまち形が変ずるばかりじゃ。
しかも生まれつきの色好み、ことにまた若いのが好きなのだから、何かご坊にも言ったことだろうが、それを本当と受け取ったところで、やがて飽きられれば尾ができる、耳が動く、足が伸びる、たちまち姿が変わってしまうだけのことだ。
原文: いややがて、この鯉を料理して、大胡坐で飲む時の魔神の姿が見せたいな。
いや、これからこの鯉を料理して、大あぐらで飲む時の魔神の姿を見せたいものだな。
原文: 妄念は起さずに早うここを退かっしゃい、助けられたが不思議なくらい、嬢様別してのお情じゃわ、生命冥加な、お若いの、きっと修行をさっしゃりませ。)
妄念は起こさずに早くここを立ち去りなされ。助けられたのが不思議なくらい、嬢様の格別のお情けだ。命冥加なことよ、お若いの、きっと修行をなされませ。)
原文: とまた一ツ背中を叩いた、親仁は鯉を提げたまま見向きもしないで、山路を上の方。
と、また一つ背中を叩いた。親父は鯉を提げたまま、見向きもしないで山道を上のほうへ。
原文: 見送ると小さくなって、一座の大山の背後へかくれたと思うと、油旱の焼けるような空に、その山の巓から、すくすくと雲が出た、滝の音も静まるばかり殷々として雷の響。
見送るうちに小さくなって、ひと連なりの大山の後ろへ隠れたと思うと、油照りの焼けるような空に、その山の頂からすくすくと雲が湧いた。滝の音も静まるばかり、殷々として雷の響き。
原文: 藻抜けのように立っていた、私が魂は身に戻った、そなたを拝むと斉しく、杖をかい込み、小笠を傾け、踵を返すと慌しく一散に駈け下りたが、里に着いた時分に山は驟雨、親仁が婦人に齎らした鯉もこのために活きて孤家に着いたろうと思う大雨であった。」
抜け殻のように立っていた私の魂は身に戻った。そちらを拝むと同時に、杖をかい込み、小笠を傾け、踵を返すと慌ただしく一散に駆け下りたが、里に着いた頃、山は夕立。親父が女にもたらした鯉も、この雨のおかげで生きたまま一軒家に着いただろうと思うほどの大雨だった。」
原文: 高野聖はこのことについて、あえて別に註して教を与えはしなかったが、翌朝袂を分って、雪中山越にかかるのを、名残惜しく見送ると、ちらちらと雪の降るなかを次第に高く坂道を上る聖の姿、あたかも雲に駕して行くように見えたのである。
高野聖はこのことについて、あえて別に注釈をつけて教えを垂れはしなかったが、翌朝袂を分かって、雪の中の山越えにかかるのを名残惜しく見送ると、ちらちらと雪の降る中を次第に高く坂道を上っていく聖の姿は、ちょうど雲に乗って行くように見えたのである。
原文: (明治三十三年)
(明治三十三年)