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高野聖 現代語訳

泉鏡花(いずみきょうか)・1991年

AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-29)

一

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一

「参謀本部編纂の地図をまた広げて見るまでもあるまい、と思ったのだが、あまりにひどい道なので、触れるだけでも暑苦しい旅の法衣の袖をたくし上げて、表紙のついた折本になっているのを引っ張り出した。

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「参謀さんぼう本部編纂へんさんの地図をまた繰開くりひらいて見るでもなかろう、と思ったけれども、余りの道じゃから、手を触さわるさえ暑くるしい、旅の法衣ころもの袖そでをかかげて、表紙を附つけた折本になってるのを引張ひっぱり出した。

飛騨から信州へ越える深い山の間道で、ちょうど立ち止まって休もうにも木立の一本もない、右も左も山ばかりだ。手を伸ばせば届きそうな峰があると思えば、その峰の上にまた峰が乗り、頂が覆いかぶさって、飛ぶ鳥も見えず、雲の形も見えない。

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飛騨ひだから信州へ越こえる深山みやまの間道で、ちょうど立休らおうという一本の樹立こだちも無い、右も左も山ばかりじゃ、手を伸のばすと達とどきそうな峰みねがあると、その峰へ峰が乗り、巓いただきが被かぶさって、飛ぶ鳥も見えず、雲の形も見えぬ。

道と空との間にいるのはただ自分ひとり。ちょうど正午らしい、焼けつくような太陽の、色さえ白く見えるほど冴えかえった光を、深くかぶった一枚の檜笠でしのぎながら、こうして図面を見たのです。」

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道と空との間にただ一人我ばかり、およそ正午しょうごと覚しい極熱ごくねつの太陽の色も白いほどに冴さえ返った光線を、深々と戴いただいた一重ひとえの檜笠ひのきがさに凌しのいで、こう図面を見た。」

旅僧はそう言って、両方の握り拳を枕に乗せ、それで額を支えながらうつむいた。

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旅僧たびそうはそういって、握拳にぎりこぶしを両方枕まくらに乗せ、それで額を支えながら俯向うつむいた。

道連れになった上人は、名古屋からこの越前敦賀の宿屋に来て、今しがた床についた時まで、私の知る限りほとんど仰向けになったことがない、つまりふんぞり返って物を見るということのない性分の人である。

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道連みちづれになった上人しょうにんは、名古屋からこの越前敦賀えちぜんつるがの旅籠屋はたごやに来て、今しがた枕に就いた時まで、私わたしが知ってる限り余り仰向あおむけになったことのない、つまり傲然ごうぜんとして物を見ない質たちの人物である。

そもそも東海道の掛川の宿場から同じ汽車に乗り合わせたと記憶しているが、座席の隅に頭を垂れて、冷えた灰のようにじっと控えていたので、格別目にも留まらなかった。

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一体東海道掛川かけがわの宿しゅくから同じ汽車に乗り組んだと覚えている、腰掛こしかけの隅すみに頭こうべを垂れて、死灰しかいのごとく控ひかえたから別段目にも留まらなかった。

尾張の駅でほかの乗客は申し合わせたように残らず降りてしまったので、車両の中には上人と私の二人きりになった。

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尾張おわりの停車場ステイションで他ほかの乗組員は言合いいあわせたように、残らず下りたので、函はこの中にはただ上人と私と二人になった。

この汽車は新橋を昨夜九時半に発って、今日の夕方に敦賀へ入ろうというもので、名古屋では正午だったから、昼飯に鮨を一折買った。

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この汽車は新橋を昨夜九時半に発たって、今夕こんせき敦賀に入ろうという、名古屋では正午ひるだったから、飯に一折の鮨すしを買った。

旅僧も私と同じくその鮨を買ったのだが、蓋を開けると、海苔がばらばらと散らしてある、粗末なちらし鮨だったので。

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旅僧も私と同じくその鮨を求めたのであるが、蓋ふたを開けると、ばらばらと海苔のりが懸かかった、五目飯ちらしの下等なので。

(やあ、人参と干瓢ばかりだ。)

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(やあ、人参にんじんと干瓢かんぴょうばかりだ。)

と、うっかり大声を上げてしまった。

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と粗忽そそッかしく絶叫ぜっきょうした。

私の顔を見て旅僧はこらえきれなくなったらしく、くっくっと笑い出した。もとより二人きりのことで、親しくなったのはそれからだが、聞けばこれから越前へ行って、宗派は違うが永平寺に訪ねる者がある、ただし敦賀に一泊するとのことだった。

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私の顔を見て旅僧は耐こらえ兼ねたものと見える、くっくっと笑い出した、もとより二人ばかりなり、知己ちかづきにはそれからなったのだが、聞けばこれから越前へ行って、派は違ちがうが永平寺えいへいじに訪ねるものがある、但ただし敦賀に一泊ぱくとのこと。

若狭へ帰省する私も同じ土地で泊まらなければならないので、そこで同行の約束ができた。

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若狭わかさへ帰省する私もおなじ処ところで泊とまらねばならないのであるから、そこで同行の約束やくそくが出来た。

彼は高野山に籍を置く者だと言った。年配は四十五、六、柔和でどこといって変わったところもない、親しみやすく物静かな身なりで、羅紗の角袖の外套を着て、白のフランネルの襟巻きをしめ、トルコ帽をかぶり、毛糸の手袋をはめ、白足袋に日和下駄で、一見したところ僧侶というよりは世間でいう宗匠というもの、いや、それよりもむしろ俗人といったふうである。

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かれは高野山こうやさんに籍せきを置くものだといった、年配四十五六、柔和にゅうわななんらの奇きも見えぬ、懐なつかしい、おとなしやかな風采とりなりで、羅紗らしゃの角袖かくそでの外套がいとうを着て、白のふらんねるの襟巻えりまきをしめ、土耳古形トルコがたの帽ぼうを冠かぶり、毛糸の手袋てぶくろを嵌はめ、白足袋しろたびに日和下駄ひよりげたで、一見、僧侶そうりょよりは世の中の宗匠そうしょうというものに、それよりもむしろ俗か。

(お泊まりはどちらですかな、)と言って聞かれたので、私は一人旅の宿屋のつまらなさをしみじみと嘆いてみせた。第一、盆を持ったまま女中が居眠りをする、番頭が心にもないお世辞を言う、廊下を歩けばじろじろ目をつける。何よりいちばん耐えがたいのは、晩飯の支度が済むとたちまち明かりを行燈に換えて、薄暗い所でお休みなさいと命令されることで、私は夜が更けるまで寝ることができないから、その間の心持ちといったらない。ことにこの頃は夜が長く、東京を出る時から一晩の宿が気になって仕方がないくらいだ、差し支えなければお坊様とご一緒に。

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(お泊りはどちらじゃな、)といって聞かれたから、私は一人旅の旅宿のつまらなさを、しみじみ歎息たんそくした、第一盆ぼんを持って女中が坐睡いねむりをする、番頭が空世辞そらせじをいう、廊下ろうかを歩行あるくとじろじろ目をつける、何より最も耐たえ難がたいのは晩飯の支度したくが済むと、たちまち灯あかりを行燈あんどんに換かえて、薄暗うすぐらい処でお休みなさいと命令されるが、私は夜が更ふけるまで寐ねることが出来ないから、その間の心持といったらない、殊ことにこの頃ごろは夜は長し、東京を出る時から一晩の泊とまりが気になってならないくらい、差支さしつかえがなくば御僧おんそうとご一所いっしょに。

旅僧は快くうなずいて、北陸地方を行脚する折にはいつでも杖を休める香取屋という家がある、もとは一軒の宿屋だったが、評判だった一人娘が亡くなってからは看板を外した、けれども昔から懇意な者は断らずに泊めて、老夫婦が内輪に世話をしてくれる、よろしければそこへ、その代わり、と言いかけて、折を下に置いて、

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快く頷うなずいて、北陸地方を行脚あんぎゃの節はいつでも杖つえを休める香取屋かとりやというのがある、旧もとは一軒けんの旅店りょてんであったが、一人女ひとりむすめの評判なのがなくなってからは看板を外はずした、けれども昔むかしから懇意こんいな者は断らず泊めて、老人としより夫婦が内端うちわに世話をしてくれる、宜よろしくばそれへ、その代かわりといいかけて、折を下に置いて、

(ご馳走は人参と干瓢ばかりですぞ。)

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(ご馳走ちそうは人参と干瓢ばかりじゃ。)

と、からからと笑った。慎み深そうな見た目よりは気さくな人である。

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とからからと笑った、慎つつしみ深そうな打見うちみよりは気の軽い。

二

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二

岐阜ではまだ青空が見えたけれども、その先は名うての北国空で、米原、長浜は薄曇り、かすかに日が射して寒さが身に染みると思ったが、柳ヶ瀬では雨になり、汽車の窓が暗くなるにつれて、白いものがちらちらと混じってきた。

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岐阜ぎふではまだ蒼空あおぞらが見えたけれども、後は名にし負う北国空、米原まいばら、長浜ながはまは薄曇うすぐもり、幽かすかに日が射さして、寒さが身に染みると思ったが、柳やなヶ瀬せでは雨、汽車の窓が暗くなるに従うて、白いものがちらちら交まじって来た。

(雪ですよ。)

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(雪ですよ。)

(そうですな。)

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(さようじゃな。)

と言ったきりで、別に気にも留めず、仰いで空を見ようともしない。この時に限らず、賤ヶ岳が、と言って古戦場を指した時も、琵琶湖の風景を語った時も、旅僧はただうなずいただけである。

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といったばかりで別に気に留めず、仰あおいで空を見ようともしない、この時に限らず、賤しずヶ岳たけが、といって、古戦場を指した時も、琵琶湖びわこの風景を語った時も、旅僧はただ頷いたばかりである。

敦賀で身の毛のよだつほど煩わしいのは客引きの悪習で、その日も思ったとおり、汽車を降りると駅の出口から町のはずれにかけて、招きの提灯や屋号入りの傘が堤のように立ち並び、くぐり抜ける隙間もないほど旅人を取り囲んで、めいめいがやかましく自分の店の屋号を呼び立てる。中でも激しいのは、素早く手荷物をひったくって、へい、ありがとうございます、と食らわせるやり口で、頭痛持ちなら血が上ってとても我慢できないところだが、例によって下を向いたまま悠々と身をかわして通り抜けていく旅僧には、誰も袖を引かなかったから、幸いその後についていって町へ入り、ほっと息をついた。

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敦賀で悚毛おぞけの立つほど煩わずらわしいのは宿引やどひきの悪弊あくへいで、その日も期したるごとく、汽車を下おりると停車場ステイションの出口から町端まちはなへかけて招きの提灯ちょうちん、印傘しるしがさの堤つつみを築き、潜抜くぐりぬける隙すきもあらなく旅人を取囲んで、手てン手でに喧かまびすしく己おのが家号やごうを呼立よびたてる、中にも烈はげしいのは、素早すばやく手荷物を引手繰ひったくって、へい難有ありがとう様さまで、を喰くらわす、頭痛持は血が上るほど耐こらえ切れないのが、例の下を向いて悠々ゆうゆうと小取廻ことりまわしに通抜とおりぬける旅僧は、誰たれも袖を曳ひかなかったから、幸いその後に跟ついて町へ入って、ほっという息を吐ついた。

雪はやむ間もなく、今は雨も混じらない乾いた軽い雪がさらさらと顔を打ち、宵のうちから門を閉ざした敦賀の通りはひっそりとして、一筋二筋と縦横に走り、辻の角は広々と白く積もっている。その中を八町ばかり歩いて、とある軒下にたどり着いたのが、名指しの香取屋だった。

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雪は小止おやみなく、今は雨も交らず乾いた軽いのがさらさらと面おもてを打ち、宵よいながら門かどを鎖とざした敦賀の通とおりはひっそりして一条二条縦横たてよこに、辻つじの角は広々と、白く積った中を、道の程ほど八町ばかりで、とある軒下のきしたに辿たどり着いたのが名指なざしの香取屋。

床の間にも座敷にも飾りらしいものは無いが、柱組みの見事な、畳の堅い、囲炉裏の大きな、自在鉤の鯉は鱗が黄金造りかと思われるほどの艶を持った、そして一斗の飯も炊けそうな目を見張る釜のかかった竈が二つ並んでいる、そういう古い家で。

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床とこにも座敷ざしきにも飾かざりといっては無いが、柱立はしらだちの見事な、畳たたみの堅かたい、炉ろの大いなる、自在鍵じざいかぎの鯉こいは鱗うろこが黄金造こがねづくりであるかと思わるる艶つやを持った、素すばらしい竈へッついを二ツ並ならべて一斗飯いっとめしは焚たけそうな目覚めざましい釜かまの懸かかった古家ふるいえで。

亭主は坊主頭で、木綿の筒袖の中へ両手の先を引っ込めたまま、火鉢の前でも手を出さない、ぬうっとした親父。女房のほうは愛嬌のある、ちょっとお世辞のうまい婆さんで、例の人参と干瓢の話を旅僧が持ち出すと、にこにこ笑いながら、ちりめん雑魚と、鰈の干物と、とろろ昆布の味噌汁とで膳を出した。物の言いぶりやもてなしぶりなど、いかにも上人とは特別に親しい間柄と見えて、連れの私まで居心地のいいことといったらない。

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亭主は法然天窓ほうねんあたま、木綿の筒袖つつそでの中へ両手の先を竦すくまして、火鉢ひばちの前でも手を出さぬ、ぬうとした親仁おやじ、女房にょうぼうの方は愛嬌あいきょうのある、ちょっと世辞のいい婆ばあさん、件くだんの人参と干瓢の話を旅僧が打出すと、にこにこ笑いながら、縮緬雑魚ちりめんざこと、鰈かれいの干物ひものと、とろろ昆布こんぶの味噌汁みそしるとで膳ぜんを出した、物の言振いいぶり取成とりなしなんど、いかにも、上人しょうにんとは別懇べっこんの間と見えて、連つれの私の居心いごころのいいといったらない。

やがて二階に寝床をこしらえてくれた。天井は低いが、梁は丸太で二抱えもあろうか、屋根の棟から斜めに渡って、座敷の端の庇のところでは頭がつかえそうになっている。頑丈な家の造りで、これなら裏の山から雪崩が来てもびくともしない。

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やがて二階に寝床ねどこを拵こしらえてくれた、天井てんじょうは低いが、梁うつばりは丸太で二抱ふたかかえもあろう、屋の棟むねから斜ななめに渡わたって座敷の果はての廂ひさしの処では天窓あたまに支つかえそうになっている、巌乗がんじょうな屋造やづくり、これなら裏の山から雪崩なだれが来てもびくともせぬ。

特に炬燵がこしらえてあったので、私はそのまま嬉しく入った。

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特に炬燵こたつが出来ていたから私はそのまま嬉うれしく入った。

寝床はもう一組同じ炬燵に敷いてあったが、旅僧はそちらへは来ず、横に枕を並べて、火の気のない床に寝た。

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寝床はもう一組おなじ炬燵に敷しいてあったが、旅僧はこれには来きたらず、横に枕を並べて、火の気のない臥床ねどこに寝た。

寝る時、上人は帯を解かない。もちろん着物も脱がない。着たまま丸くなって、うつむいた姿勢のまま腰からすっぽりと入り、肩に夜具の袖をかけると、手をついてかしこまった。その様子は我々とは反対で、顔で枕をするのである。

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寝る時、上人は帯を解かぬ、もちろん衣服も脱ぬがぬ、着たまま円まるくなって俯向形うつむきなりに腰からすっぽりと入って、肩かたに夜具やぐの袖そでを掛かけると手を突ついて畏かしこまった、その様子ようすは我々と反対で、顔に枕をするのである。

まもなくひっそりと寝入ってしまいそうなので、汽車の中でくれぐれも言っておいたのはこのことだ、私は夜が更けるまで寝ることができない、かわいそうだと思ってもうしばらくつきあってください、そして諸国を行脚なさった中の面白い話を、と、打ち解けて子どものようにねだった。

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ほどなく寂然ひっそりとして寐ねに就きそうだから、汽車の中でもくれぐれいったのはここのこと、私は夜が更けるまで寐ることが出来ない、あわれと思ってもうしばらくつきあって、そして諸国を行脚なすった内のおもしろい談はなしをといって打解うちとけて幼おさならしくねだった。

すると上人はうなずいて、私は中年から仰向けに枕につかないのが癖で、寝るにもこのままではあるけれども、目はまだなかなか冴えている、急に寝つけないのはあなたと同じでしょう。

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すると上人は頷いて、私わしは中年から仰向けに枕に就かぬのが癖くせで、寝るにもこのままではあるけれども目はまだなかなか冴えている、急に寐就かれないのはお前様とおんなじであろう。

出家の言うことでも、教えだの、戒めだの、説法とばかりは限らない、若い方、お聞きなさい、と言って語り出した。

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出家しゅっけのいうことでも、教おしえだの、戒いましめだの、説法とばかりは限らぬ、若いの、聞かっしゃい、と言って語り出した。

後で聞くと、宗門でも名高い説教師で、六明寺の宗朝という大和尚だったそうだ。

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後で聞くと宗門名誉しゅうもんめいよの説教師で、六明寺りくみんじの宗朝しゅうちょうという大和尚だいおしょうであったそうな。

三

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三

「もうすぐもう一人ここへ来て寝るそうですが、あなたと同じ国の人ですな、若狭の者で塗物の行商人。いや、この男などは若いが感心なほど実直ないい男。

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「今にもう一人ここへ来て寝るそうじゃが、お前様と同国じゃの、若狭の者で塗物ぬりものの旅商人たびあきんど。いやこの男なぞは若いが感心に実体じっていな好よい男。

私が今、話の口開けをしたあの飛騨の山越えをやった時、麓の茶屋で一緒になった富山の売薬という奴は、意地の悪い、ねじけた嫌な若者でしてな。

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私わたしが今話の序開じょびらきをしたその飛騨の山越やまごえをやった時の、麓ふもとの茶屋で一緒いっしょになった富山とやまの売薬という奴やつあ、けたいの悪い、ねじねじした厭いやな壮佼わかいもので。

まずこれから峠にかかろうという日の朝早く、もっとも前の泊まりは三時ごろには発ってきたので、涼しいうちに六里ばかり、その茶屋まで来たのだが、朝晴れでじりじり暑いのです。

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まずこれから峠とうげに掛かかろうという日の、朝早く、もっとも先せんの泊とまりはものの三時ぐらいには発たって来たので、涼しい内に六里ばかり、その茶屋までのしたのじゃが朝晴でじりじり暑いわ。

欲張って大急ぎで歩いたのだから、喉が渇いてしようがない。さっそく茶を飲もうと思ったが、まだ湯が沸いていないという。

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慾張よくばり抜いて大急ぎで歩いたから咽のどが渇かわいてしようがあるまい、早速さっそく茶を飲もうと思うたが、まだ湯が沸わいておらぬという。

それはそうだ、その時分のことだから、めったに人通りのない山道で、朝顔の咲いているうちに煙が立つ道理もない。

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どうしてその時分じゃからというて、めったに人通ひとどおりのない山道、朝顔の咲さいてる内に煙が立つ道理もなし。

床几の前に冷たそうな小川が流れていたので、手桶の水を汲もうとして、ふと気がついた。

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床几しょうぎの前には冷たそうな小流こながれがあったから手桶ておけの水を汲くもうとしてちょいと気がついた。

というのも、時節柄の暑さのために恐ろしい悪い病が流行っていて、先に通った辻などという村は、あたり一面が石灰だらけだったではないか。

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それというのが、時節柄じせつがら暑さのため、恐おそろしい悪い病が流行はやって、先に通った辻などという村は、から一面に石灰いしばいだらけじゃあるまいか。

(もし、姉さん。)

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(もし、姉ねえさん。)

と言って茶店の女に、

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といって茶店の女に、

(この水は、これは井戸の水でございますか。)

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(この水はこりゃ井戸いどのでござりますか。)

と、決まりも悪く、もじもじしながら聞いたのです。

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と、きまりも悪し、もじもじ聞くとの。

(いいえ、川の水でございます。)

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(いんね、川のでございます。)

という。はて妙だな、と思った。

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という、はて面妖めんようなと思った。

(山の下のほうにはずいぶん流行り病がございますが、この水は何ですか、辻のほうから流れて来るのではありませんか。)

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(山したの方には大分流行病はやりやまいがございますが、この水は何なにから、辻の方から流れて来るのではありませんか。)

(そうではありません。)

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(そうでねえ。)

と女は何気なく答えた。まずはありがたいと思ったのですが、まあお聞きなさい。

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と女は何気なにげなく答えた、まず嬉うれしやと思うと、お聞きなさいよ。

そこに居て、さっきから休んでいたのが、例の売薬の男です。

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ここに居て、さっきから休んでござったのが、右の売薬じゃ。

このまた万金丹の下っ端と来た日には、ご存じのとおり、千筋の単衣に小倉の帯、当節は時計を挟んでいます、脚絆に股引、これはもちろん、草鞋がけ、千草木綿の風呂敷包みの角ばったのを首に結わえて、桐油合羽を小さく畳んでこいつを真田紐で右の包みにつけるか、小弁慶の木綿の蝙蝠傘を一本、これがお決まりですな。

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このまた万金丹まんきんたんの下廻したまわりと来た日には、ご存じの通り、千筋せんすじの単衣ひとえに小倉こくらの帯、当節は時計を挟はさんでいます、脚絆きゃはん、股引ももひき、これはもちろん、草鞋わらじがけ、千草木綿ちぐさもめんの風呂敷包ふろしきづつみの角かどばったのを首に結ゆわえて、桐油合羽とうゆがっぱを小さく畳たたんでこいつを真田紐さなだひもで右の包につけるか、小弁慶こべんけいの木綿の蝙蝠傘こうもりがさを一本、おきまりだね。

ちょっと見ると、いや、どれもこれも生真面目で分別のありそうな顔をして。

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ちょいと見ると、いやどれもこれも克明こくめいで分別のありそうな顔をして。

それが宿に着くと、大柄な浴衣に着替えて、帯をゆるめて焼酎をちびりちびりやりながら、宿屋の女の太った膝へ脛を上げようという手合いです。

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これが泊とまりに着くと、大形の浴衣ゆかたに変って、帯広解おびひろげで焼酎しょうちゅうをちびりちびり遣やりながら、旅籠屋はたごやの女のふとった膝ひざへ脛すねを上げようという輩やからじゃ。

(これ、法界坊。)

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(これや、法界坊ほうかいぼう。)

などと、頭から人を舐めてかかっている。

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なんて、天窓あたまから嘗なめていら。

(おかしなことを言うようだが、どうだね、世の中の女には縁がないと相場が決まって、つるつる坊主になっても、やっぱり命は惜しいのかね、不思議じゃないか、争えないもんだ、姉さん見なよ、あれでまだ未練のあるうちがいいじゃないか、)と言って、顔を見合わせて二人でからからと笑った。

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(異おつなことをいうようだが何かね、世の中の女が出来ねえと相場がきまって、すっぺら坊主になってやっぱり生命いのちは欲しいのかね、不思議じゃあねえか、争われねえもんだ、姉さん見ねえ、あれでまだ未練のある内がいいじゃあねえか、)といって顔を見合せて二人でからからと笑った。

年は若し、あなた、私は真っ赤になった。手に汲んだ川の水を飲みかねてためらっていると。

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年紀としは若し、お前様まえさん、私わしは真赤まっかになった、手に汲んだ川の水を飲みかねて猶予ためらっているとね。

ポンと煙管をはたいて、

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ポンと煙管きせるを払はたいて、

(何、遠慮しないで浴びるほどおやりなさい、命が危なくなりゃ、薬をやるよ、そのために私がついてるんだぜ、なあ姉さん。

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(何、遠慮えんりょをしねえで浴びるほどやんなせえ、生命いのちが危くなりゃ、薬を遣やらあ、そのために私わしがついてるんだぜ、なあ姉さん。

おい、それだってもただじゃいけないよ、はばかりながら霊験あらたかな万金丹、一包み三百だ、欲しけりゃ買いな、まだ坊主に施しをするような罪は造っちゃいない、それともどうだ、お前、言うことを聞くか。)

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おい、それだっても無銭ただじゃあいけねえよ、憚はばかりながら神方しんぽう万金丹、一貼じょう三百だ、欲しくば買いな、まだ坊主に報捨ほうしゃをするような罪は造らねえ、それともどうだお前いうことを肯きくか。)

と言って茶店の女の背中を叩いた。

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といって茶店の女の背中を叩たたいた。

私はそうそうに逃げ出しました。

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私わしはそうそうに遁出にげだした。

いや、膝だの、女の背中だのと、いい年をした和尚のすることとしては恐れ入りますが、話が話ですから、そこはよろしく。」

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いや、膝だの、女の背中だのといって、いけ年としを仕つかまつった和尚が業体ぎょうていで恐入おそれいるが、話が、話じゃからそこはよろしく。」

四

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四

「私も腹立ち紛れです、むやみに急いで、それからどんどん山の裾を回って田んぼ道へかかる。

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「私わしも腹立紛はらたちまぎれじゃ、無暗むやみと急いで、それからどんどん山の裾すそを田圃道たんぼみちへかかる。

半町ばかり行くと、道がこう急に高くなって、上りが一カ所、横からよく見えた。弓なりで、まるで土でできた勅使橋がかかっているような具合。

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半町ばかり行くと、路みちがこう急に高くなって、上のぼりが一カ処、横からよく見えた、弓形ゆみなりでまるで土で勅使橋ちょくしばしがかかってるような。

上を見ながらそこへ足を踏みかけた時、さっきの薬売りがすたすたやって来て追いついたが。

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上を見ながら、これへ足を踏懸ふみかけた時、以前の薬売くすりうりがすたすたやって来て追着おいついたが。

別に言葉も交わさず、また向こうが物を言ったところで、返事をする気はこちらにもない。

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別に言葉も交かわさず、またものをいったからというて、返事をする気はこっちにもない。

どこまでも人を見下した仕打ちの薬売りは、横目でこちらを見て、わざとらしく私を追い越し、すたすた前へ出て、ぬっと小山のような道のてっぺんへ蝙蝠傘を差して立ったが、そのまま向こうへ下りて見えなくなる。

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どこまでも人を凌しのいだ仕打しうちな薬売は流眄しりめにかけて故わざとらしゅう私わしを通越とおりこして、すたすた前へ出て、ぬっと小山のような路の突先とっさきへ蝙蝠傘を差して立ったが、そのまま向うへ下りて見えなくなる。

その後から爪先上がりに登って、やがてまた太鼓の胴のような道の上へ体が乗った。そのままそこからまた下りです。

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その後から爪先上つまさきあがり、やがてまた太鼓たいこの胴どうのような路の上へ体が乗った、それなりにまた下くだりじゃ。

売薬は先へ下りたが、立ち止まってしきりにあたりを見回している様子。執念深く何か企んだかと、面白からず後に続いたが、さてよく見るとわけがあるのでした。

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売薬は先へ下りたが立停たちどまってしきりに四辺あたりを眗みまわしている様子、執念しゅうねん深く何か巧たくんだかと、快からず続いたが、さてよく見ると仔細しさいがあるわい。

道はここで二筋に分かれていて、一筋はこれからすぐに坂になって上りも急、草も両方から生い茂っていて、道端のその角のところにある、それこそ四抱え、そうさな、五抱えもあろうかという一本の檜、その後ろへうねって切り出したような大岩が二つ三つ四つと並び、上のほうへ重なってその背後へ通じている。だが私が見当をつけ、行くつもりでいたのはそちらではなく、やはり今まで歩いて来たその幅の広いなだらかなほうがまさしく本道で、あと二里足らず行けば山になり、それからが峠になるはず。

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路はここで二条ふたすじになって、一条いちじょうはこれからすぐに坂になって上のぼりも急なり、草も両方から生茂おいしげったのが、路傍みちばたのその角かどの処にある、それこそ四抱よかかえ、そうさな、五抱いつかかえもあろうという一本の檜ひのきの、背後うしろへ蜿うねって切出したような大巌おおいわが二ツ三ツ四ツと並んで、上の方へ層かさなってその背後へ通じているが、私わしが見当をつけて、心組こころぐんだのはこっちではないので、やっぱり今まで歩いて来たその幅はばの広いなだらかな方が正まさしく本道、あと二里足らず行けば山になって、それからが峠になるはず。

と見ると、どうしたことか、今言ったその檜だが、そこらに何もない道を横切って、見はてもつかない田んぼの中空へ虹のように突き出している、見事なものです。

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と見ると、どうしたことかさ、今いうその檜じゃが、そこらに何なんにもない路を横断よこぎって見果みはてのつかぬ田圃の中空なかぞらへ虹にじのように突出ている、見事な。

根元のところの土が崩れて、大鰻をこねたような根が幾筋ともなく現れており、その根から一筋の水がさっと落ちて地の上を流れ、これから進もうとする道の真ん中へ流れ出して、あたりは一面の水。

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根方ねがたの処ところの土が壊くずれて大鰻おおうなぎを捏こねたような根が幾筋ともなく露あらわれた、その根から一筋の水がさっと落ちて、地の上へ流れるのが、取って進もうとする道の真中に流出ながれだしてあたりは一面。

田んぼが湖にならないのが不思議なくらいで、どうどうと瀬になっている。行く手には一叢の藪が見える、それを境にしておよそ二町ばかりの間はまるで川です。

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田圃が湖にならぬが不思議で、どうどうと瀬せになって、前途ゆくてに一叢ひとむらの藪やぶが見える、それを境にしておよそ二町ばかりの間まるで川じゃ。

小石がばらばらと、飛石のようにひょいひょい大股で伝えそうに、ずいぶん見ごたえのある並びようだが、それでも人の手で並べたものに違いない。

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礫こいしはばらばら、飛石のようにひょいひょいと大跨おおまたで伝えそうにずっと見ごたえのあるのが、それでも人の手で並べたに違ちがいはない。

もっとも着物を脱いで渡らねばならぬほどの大事ではないが、本街道にしては少し難儀すぎて、とても馬などが歩ける代物ではない。

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もっとも衣服きものを脱いで渡るほどの大事なのではないが、本街道にはちと難儀なんぎ過ぎて、なかなか馬などが歩行あるかれる訳わけのものではないので。

売薬もこれで迷ったのだろうと思ううちに、思い切りよく向きを変えて右の坂をすたすたと上りはじめた。

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売薬もこれで迷ったのであろうと思う内、切放きりはなれよく向むきを変えて右の坂をすたすたと上りはじめた。

見る間に檜の後ろを潜り抜けると、私の体の上あたりへ出て下を向き、

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見る間まに檜を後うしろに潜くぐり抜けると、私わしが体の上あたりへ出て下を向き、

(おいおい、松本へ出る道はこっちだよ、)と言って、無造作にまた五、六歩。

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(おいおい、松本まつもとへ出る路はこっちだよ、)といって無造作むぞうさにまた五六歩。

岩の頭から半身を乗り出して、

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岩の頭へ半身を乗出して、

(ぼんやりしてると、木霊にさらわれるぜ、昼間だって容赦はしないよ。)

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(茫然ぼんやりしてると、木精こだまが攫さらうぜ、昼間だって容赦ようしゃはねえよ。)

とあざけるように言い捨てたが、やがて岩の陰に入って高い所の草に隠れた。

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と嘲あざけるがごとく言い棄すてたが、やがて岩の陰かげに入って高い処の草に隠かくれた。

しばらくすると、見上げるほどの高さのあたりに蝙蝠傘の先が出たが、木の枝とすれすれになって茂みの中に見えなくなった。

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しばらくすると見上げるほどな辺あたりへ蝙蝠傘の先が出たが、木の枝えだとすれすれになって茂しげみの中に見えなくなった。

(どっこいしょ、)とのんきなかけ声で、その流れの石の上を飛び飛びに伝ってきたのは、茣蓙の尻当てをつけ、何も下げていない天秤棒を片手で担いだ百姓でした。」

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(どッこいしょ、)と暢気のんきなかけ声で、その流の石の上を飛々とびとびに伝って来たのは、茣蓙ござの尻当しりあてをした、何にもつけない天秤棒てんびんぼうを片手で担いだ百姓ひゃくしょうじゃ。」

五

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五

「さっきの茶店からここへ来るまで、売薬のほかは誰にも会わなかったことは申し上げるまでもありません。

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「さっきの茶店ちゃみせからここへ来るまで、売薬の外は誰だれにも逢あわなんだことは申上げるまでもない。

別れぎわに今の声をかけられたので、相手は道中慣れした商売人と見ただけに、まさかと思っても気迷いがして、今朝も出立ちぎわによく見てきた、前にも申したあの図面を、ここでも開けて見ようとしていたところ。

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今別れ際ぎわに声を懸けられたので、先方むこうは道中の商売人と見ただけに、まさかと思っても気迷きまよいがするので、今朝けさも立ちぎわによく見て来た、前にも申す、その図面をな、ここでも開けて見ようとしていたところ。

(ちょっとお伺いしたいのですが、)

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(ちょいと伺うかがいとう存じますが、)

(これは何でございましょう、)と、山国の人などは特に出家と見ると丁寧に言ってくれる。

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(これは何でござりまする、)と山国の人などは殊ことに出家と見ると丁寧ていねいにいってくれる。

(いえ、お伺いするまでもないことですが、道はやはりこれをまっすぐ参るのでございましょうな。)

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(いえ、お伺い申しますまでもございませんが、道はやっぱりこれを素直まっすぐに参るのでございましょうな。)

(松本へ行かれる?

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(松本へ行かっしゃる?

ああ、ああ、これが本道です。何ね、この間の梅雨に水が出て、とんでもない川ができてしまいましてね。)

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 ああああ本道じゃ、何ね、この間の梅雨つゆに水が出て、とてつもない川さ出来たでがすよ。)

(まだずっと、どこまでもこの水でございましょうか。)

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(まだずっとどこまでもこの水でございましょうか。)

(何の、あなた、見た目ばかりです、わけはありません。水になったのは向こうのあの藪までで、あとはやはりこれと同じ道筋で、山までは荷車が並んで通れます。

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(何のお前様、見たばかりじゃ、訳はござりませぬ、水になったのは向うのあの藪までで、後はやっぱりこれと同一おなじ道筋で山までは荷車が並んで通るでがす。

藪のあるのは、もとは大きなお屋敷のお医者様の跡でしてね、ここらはこれでも一つの村でした。十三年前の大水の時、あたり一面が野っ原になってしまいましたよ、死人もたいそうな数で。

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藪のあるのは旧もと大きいお邸やしきの医者様の跡でな、ここいらはこれでも一ツの村でがした、十三年前の大水の時、から一面に野良のらになりましたよ、人死ひとじにもいけえこと。

ご坊様、歩きながらお念仏でも唱えてやってくださいまし。)

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ご坊様ぼうさま歩行あるきながらお念仏でも唱えてやってくれさっしゃい。)

と、聞きもしないことまで親切に話してくれます。

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と問わぬことまで深切しんせつに話します。

それでよく事情が分かって道も確かにはなったけれども、現に一人、踏み迷った者がいる。

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それでよく仔細しさいが解わかって確たしかになりはなったけれども、現に一人踏迷ふみまよった者がある。

(こちらの道は、これはどこへ行くのですか、)と言って、売薬の入っていった左手の坂について尋ねてみた。

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(こちらの道はこりゃどこへ行くので、)といって売薬の入った左手ゆんでの坂を尋たずねて見た。

(はい、これは五十年ばかり前までは人が歩いた旧道です。

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(はい、これは五十年ばかり前までは人が歩行あるいた旧道でがす。

やはり信州へ出ます、行き先は同じで、七里ばかり全体に近うございますが、いや、今どき往来のできる道ではありません。

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やっぱり信州へ出まする、先は一つで七里ばかり総体近うござりますが、いや今時いまどき往来の出来るのじゃあござりませぬ。

去年もご坊様、親子連れの巡礼が間違えて入ったというので、それは大変な騒ぎで、乞食のような者じゃとは言っても人の命に変わりはない、追いかけて助けようと、巡査様が三人、村の者が十二人、一組になってここから押し登って、やっと連れて戻ったくらいでございます。

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去年もご坊様、親子連づれの巡礼じゅんれいが間違えて入ったというで、はれ大変な、乞食こじきを見たような者じゃというて、人命に代りはねえ、追おっかけて助けべえと、巡査様おまわりさまが三人、村の者が十二人、一組になってこれから押登って、やっと連れて戻もどったくらいでがす。

ご坊様も血気にはやって近道をしてはなりませんぞ。くたびれて野宿をするほうが、まだここを行かれるよりはましでございますよ。

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ご坊様も血気に逸はやって近道をしてはなりましねえぞ、草臥くたびれて野宿をしてからがここを行かっしゃるよりはましでござるに。

はい、気をつけて行かれませ。)

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はい、気を付けて行かっしゃれ。)

ここで百姓に別れて、その川の石の上を行こうとしたが、ふとためらったのは売薬の身の上のことで。

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ここで百姓に別れてその川の石の上を行こうとしたがふと猶予ためらったのは売薬の身の上で。

まさか聞いたほどのことでもあるまいが、それが本当ならば見殺しだ。どのみち私は出家の身、日が暮れるまでに宿へ着いて屋根の下に寝る必要もない、追いついて引き戻してやろう。

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まさかに聞いたほどでもあるまいが、それが本当ならば見殺みごろしじゃ、どの道私は出家しゅっけの体、日が暮くれるまでに宿へ着いて屋根の下に寝るには及およばぬ、追着おッついて引戻してやろう。

間違って旧道をすっかり歩き通したとしても、まあ差し支えはあるまい、こういう時候だ、狼の出る季節でもなく、魑魅魍魎の湧き出る潮どきでもない、ままよ、と思って見送ると、もう親切な百姓の姿も見えない。

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罷違まかりちごうて旧道を皆歩行あるいても怪けしゅうはあるまい、こういう時候じゃ、狼おおかみの旬しゅんでもなく、魑魅魍魎ちみもうりょうの汐しおさきでもない、ままよ、と思うて、見送ると早はや深切な百姓の姿も見えぬ。

(よし。)

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(よし。)

思い切って坂道にかかった。男気があったのではありません、血気にはやったのでももとよりない。今申したようだと、まるでもう悟りきったように聞こえるが、いや、なかなかの臆病者で、川の水を飲むのさえ気がひけたほど命が大事だった。ではなぜまた、と言われるか。

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思切おもいきって坂道を取って懸かかった、侠気おとこぎがあったのではござらぬ、血気に逸はやったではもとよりない、今申したようではずっともう悟さとったようじゃが、いやなかなかの臆病者おくびょうもの、川の水を飲むのさえ気が怯ひけたほど生命いのちが大事で、なぜまたと謂いわっしゃるか。

ただ挨拶をしただけの男なら、私は実のところ、放っておいたに違いない。だが、快からぬ相手だと思ったからこそ、そのまま見捨てるのがわざとしているようで、気が咎めてならなかったのです、」

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ただ挨拶あいさつをしたばかりの男なら、私は実のところ、打棄うっちゃっておいたに違いはないが、快からぬ人と思ったから、そのままで見棄てるのが、故わざとするようで、気が責めてならなんだから、」

と宗朝は、やはりうつむけに床に入ったまま合掌して言った。

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と宗朝はやはり俯向うつむけに床とこに入ったまま合掌がっしょうしていった。

「それでは、口で唱える念仏にも申し訳が立たぬと思いましてね。」

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「それでは口でいう念仏にも済まぬと思うてさ。」

六

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六

「さて、お聞きなさい。私はそれから檜の裏を抜けた、岩の下から岩の上へ出た、木の中を潜って草深い小道をどこまでも、どこまでも。

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「さて、聞かっしゃい、私わしはそれから檜ひのきの裏を抜けた、岩の下から岩の上へ出た、樹きの中を潜くぐって草深い径こみちをどこまでも、どこまでも。

するといつの間にか、今上った山は過ぎて、また一つ別の山が近づいてきた。このあたりはしばらくの間、野が広々として、さっき通った本街道よりもっと幅の広い、なだらかな一筋道。

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するといつの間にか今上った山は過ぎてまた一ツ山が近ちかづいて来た、この辺あたりしばらくの間は野が広々として、さっき通った本街道よりもっと幅の広い、なだらかな一筋道。

気持ちの上では西と東、真ん中に山を一つ置いて二筋並んだ道といったところで、なるほどこれなら槍を立てて行列が通ったことだろう。

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心持こころもち西と、東と、真中まんなかに山を一ツ置いて二条ふたすじ並んだ路のような、いかさまこれならば槍やりを立てても行列が通ったであろう。

この広っ場でも、目の届く限り芥子粒ほどの大きさの売薬の姿さえ見えず、時々、焼けるような空を小さな虫が飛び回っていた。

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この広ひろッ場ぱでも目の及ぶ限り芥子粒けしつぶほどの大おおきさの売薬の姿も見ないで、時々焼けるような空を小さな虫が飛び歩行あるいた。

歩くにはこのほうが心細い。あたりがぱっと開けていると、かえって頼りがないものです。

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歩行あるくにはこの方が心細い、あたりがぱッとしていると便たよりがないよ。

もちろん飛騨越えと銘を打った日には、七里に一軒、十里に五軒という相場で、そこで粟の飯にありつければ上等ということになっております。

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もちろん飛騨越ひだごえと銘めいを打った日には、七里に一軒十里に五軒という相場、そこで粟あわの飯にありつけば都合も上じょうの方ということになっております。

それも覚悟の上のこと、足は相応に達者だから、いや、くじけずに進んだ進んだ。

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それを覚悟かくごのことで、足は相応に達者、いや屈くっせずに進んだ進んだ。

すると、だんだんまた山が両方から迫ってきて、肩がつかえそうな狭い所になった。そこからすぐに上り。

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すると、だんだんまた山が両方から逼せまって来て、肩に支つかえそうな狭いとこになった、すぐに上のぼり。

さあ、これからが名高い天生峠だと心得たから、こちらもその気になって、何しろ暑いので、喘ぎながらまず草鞋の紐を締め直した。

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さあ、これからが名代なだいの天生あもう峠と心得たから、こっちもその気になって、何しろ暑いので、喘あえぎながらまず草鞋わらじの紐ひもを緊直しめなおした。

ちょうどこの上り口のあたりに、美濃の蓮大寺の本堂の床下まで吹き抜けの風穴があるということを、何年も経ってから聞きましたが、その時はとてもそれどころの話ではない。一生懸命で、景色も奇跡もあるものか、天気が晴れているのか曇っているのかさえ分からず、まばたきもしないですたすたと足をこねて上る。

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ちょうどこの上口のぼりぐちの辺に美濃みのの蓮大寺れんだいじの本堂の床下ゆかしたまで吹抜ふきぬけの風穴かざあながあるということを年経としたってから聞きましたが、なかなかそこどころの沙汰さたではない、一生懸命いっしょうけんめい、景色けしきも奇跡きせきもあるものかい、お天気さえ晴れたか曇ったか訳が解らず、目まじろぎもしないですたすたと捏こねて上のぼる。

さて、あなたにお聞かせする話はこれからですが、最初に申したとおり道がいかにも悪い。まるで人が通いそうにない上に、恐ろしいのは蛇で。

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とお前様お聞かせ申す話は、これからじゃが、最初に申す通り路がいかにも悪い、まるで人が通いそうでない上に、恐しいのは、蛇へびで。

両方の草むらに尾と頭とを突っ込んで、のたりと道に橋を渡しているではありませんか。

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両方の叢くさむらに尾と頭とを突込んで、のたりと橋を渡しているではあるまいか。

私は最初に出くわした時は、笠をかぶって竹の杖を突いたまま、はっと息を引いて、膝を折って座り込んでしまった。

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私わしは真先まっさきに出会でっくわした時は笠かさを被かぶって竹杖たけづえを突いたまま、はッと息を引いて膝ひざを折って坐すわったて。

いやもう生まれつきの大嫌い、嫌いというより怖いのでしてね。

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いやもう生得しょうとく大嫌だいきらい、嫌きらいというより恐怖こわいのでな。

その時はまず人助けに、ずるずると尾を引いて、向こうで鎌首を上げたと思うと、草をさらさらと渡っていった。

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その時はまず人助けにずるずると尾を引いて、向うで鎌首かまくびを上げたと思うと草をさらさらと渡った。

ようよう起き上がって道を五、六町も行くと、また同じように、胴の真ん中を日に乾かして尾も首も見えないのが、ぬたり!

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ようよう起上おきあがって道の五六町も行くと、またおなじように、胴中どうなかを乾かして尾も首も見えぬのが、ぬたり!

あっと言って飛びのいたが、それも隠れた。

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あッというて飛退とびのいたが、それも隠れた。

三度目に出会ったのは、いや、すぐには動かず、しかもその胴体の太さときたら、たとえ這い出したところで、ぬらぬらとやられては尾を出しきるまでにおよそ五分ぐらいはかかりそうな長虫と見えたので、やむをえず私はまたぎ越した。とたんに下腹が突っ張ってぞっと身の毛がよだち、毛穴が残らず鱗に変わって、顔の色までその蛇のようになっただろうと、目をつぶったくらい。

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三度目に出会ったのが、いや急には動かず、しかも胴体の太さ、たとい這出はいだしたところでぬらぬらとやられてはおよそ五分間ぐらい尾を出すまでに間まがあろうと思う長虫と見えたので、やむことをえず私わしは跨またぎ越した、とたんに下腹したっぱらが突張つッぱってぞッと身の毛、毛穴が残らず鱗うろこに変って、顔の色もその蛇のようになったろうと目を塞ふさいだくらい。

絞れるほどの冷や汗になる気味の悪さで、足がすくんだといって立ち止まっていられる場合ではないから、びくびくしながら道を急ぐと、またしても居ましたよ。

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絞しぼるような冷汗ひやあせになる気味の悪さ、足が竦すくんだというて立っていられる数すうではないからびくびくしながら路を急ぐとまたしても居たよ。

しかも今度のは、半分に引きちぎられた胴から尾ばかりの虫だ。切り口が青みを帯びて、そこから黄色い汁が流れ、ぴくぴくと動いていた。

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しかも今度のは半分に引切ひっきってある胴から尾ばかりの虫じゃ、切口が蒼あおみを帯びてそれでこう黄色な汁しるが流れてぴくぴくと動いたわ。

我を忘れてばらばらと後ろへ逃げ帰ったが、気がつけば例のやつがまだ居るだろう。たとえ殺されようとも、二度とあれをまたぐ気にはならない。

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我を忘れてばらばらとあとへ遁帰にげかえったが、気が付けば例のがまだ居るであろう、たとい殺されるまでも二度とはあれを跨またぐ気はせぬ。

ああ、さっきのお百姓が、間違ってでも旧道には蛇がこうだと言ってくれていたら、地獄へ落ちても来なかったのに、と、照りつけられながら涙が流れた。南無阿弥陀仏、今でもぞっとします。」

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ああさっきのお百姓がものの間違まちがいでも故道ふるみちには蛇がこうといってくれたら、地獄じごくへ落ちても来なかったにと照りつけられて、涙なみだが流れた、南無阿弥陀仏なむあみだぶつ、今でもぞっとする。」

と、額に手を当てた。

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と額に手を。

七

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七

「きりがないから肝を据えた、もとより引き返すつもりはない。元の所にはやはり丈の足りない骸がある。遠く避けて草の中を駆け抜けたが、今にも残りの半分がまとわりついてきそうでたまらないから、気後れがして足が引きつり、石につまずいて転んだ。その時に膝の関節を痛めたものと見える。

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「果はてしが無いから肝きもを据すえた、もとより引返す分ではない。旧もとの処ところにはやっぱり丈足じょうたらずの骸むくろがある、遠くへ避さけて草の中へ駈かけ抜けたが、今にもあとの半分が絡まといつきそうで耐たまらぬから気臆きおくれがして足が筋張すじばると石に躓つまずいて転んだ、その時膝節ひざぶしを痛めましたものと見える。

それからがくがくして歩くのが少し難儀になったけれども、ここで倒れては暑気で蒸し殺されるばかりだと、我が身で我が身を励まし、首筋をつかんで引き立てるようにして峠のほうへ。

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それからがくがくして歩行あるくのが少し難渋なんじゅうになったけれども、ここで倒たおれては温気うんきで蒸殺むしころされるばかりじゃと、我身で我身を激はげまして首筋を取って引立てるようにして峠の方へ。

何しろ道端の草いきれが恐ろしい。大鳥の卵のようなものが足元にごろごろしている、そんな茂りようです。

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何しろ路傍みちばたの草いきれが恐おそろしい、大鳥の卵見たようなものなんぞ足許あしもとにごろごろしている茂り塩梅あんばい。

また二里ばかり、大蛇がうねるような坂を、山ふところに突き当たっては岩角を曲がり、木の根を回ってやってきたが、ここまで来てもあまりの道なので、参謀本部の絵図面を開いて見ました。

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また二里ばかり大蛇おろちの蜿うねるような坂を、山懐やまぶところに突当つきあたって岩角を曲って、木の根を繞めぐって参ったがここのことで余りの道じゃったから、参謀さんぼう本部の絵図面を開いて見ました。

何のことはない、道はやはり同じで、聞いたのにも見たのにも違いはない、旧道はこちらに間違いないのだから気晴らしにも何にもならない。もとよりれっきとした図面といっても、描いてある道はただ栗のいがの上に赤い筋が一本引いてあるばかり。

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何やっぱり道はおんなじで聞いたにも見たのにも変かわりはない、旧道はこちらに相違はないから心遣こころやりにも何にもならず、もとより歴れっきとした図面というて、描かいてある道はただ栗くりの毬いがの上へ赤い筋が引張ってあるばかり。

難儀さも、蛇も、毛虫も、鳥の卵も、草いきれも、記してあるはずがないのだから、さっぱりと畳んで懐に入れ、うむ、とこの乳の下へ念仏を唱え込んで立ち直ったのはよいが、息もつかないうちに、情けないことにまた長虫が道を切った。

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難儀なんぎさも、蛇も、毛虫も、鳥の卵も、草いきれも、記してあるはずはないのじゃから、さっぱりと畳たたんで懐ふところに入れて、うむとこの乳の下へ念仏を唱え込んで立直ったはよいが、息も引かぬ内うちに情無なさけない長虫が路を切った。

そこでもう到底かなわないと思ったなり、これはこの山の霊であろうと考えて、杖を捨てて膝を曲げ、じりじり焼ける地面に両手をついて、

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そこでもう所詮しょせん叶かなわぬと思ったなり、これはこの山の霊れいであろうと考えて、杖を棄すてて膝を曲げ、じりじりする地つちに両手をついて、

(誠に申し訳ありませんが、お通しくださいまし。なるべくお昼寝の邪魔にならないよう、そっと通らせていただきます。

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(誠に済みませぬがお通しなすって下さりまし、なるたけお午睡ひるねの邪魔じゃまになりませぬようにそっと通行いたしまする。

ご覧のとおり杖も捨てました。)

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ご覧らんの通り杖も棄てました。)

と我を折ってしみじみ頼み、額を上げると、ざっという凄まじい音がして。

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と我が折おれしみじみと頼んで額を上げるとざっという凄すさまじい音で。

感じからしてよほどの大蛇と思った。三尺、四尺、五尺四方、一丈あまりと、だんだん草の動くのが広がって、かたわらの谷へ一文字にさっと靡いた。果ては峰も山も一斉に揺らいだ。身の毛をよだてて立ちすくむと涼しさが身に染みて、気がついてみればそれは山颪だった。

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心持こころもちよほどの大蛇と思った、三尺、四尺、五尺四方、一丈余、だんだんと草の動くのが広がって、傍かたえの渓たにへ一文字にさっと靡なびいた、果はては峰みねも山も一斉に揺ゆらいだ、恐毛おぞげを震ふるって立竦たちすくむと涼しさが身に染みて、気が付くと山颪やまおろしよ。

この時から聞こえはじめたのは、どうっという山彦になって伝わる響きで、ちょうど山の奥に風が渦巻いて、そこから吹き起こる穴があいたように感じられる。

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この折から聞えはじめたのはどっという山彦こだまに伝わる響ひびき、ちょうど山の奥に風が渦巻うづまいてそこから吹起ふきおこる穴があいたように感じられる。

何しろ山の霊に願いが通じたのか、蛇は見えなくなり、暑さもしのぎやすくなったので、気も勇み足もはかどったが、まもなく急に風が冷たくなった理由が分かった。

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何しろ山霊感応あったか、蛇は見えなくなり暑さも凌しのぎよくなったので、気も勇いさみ足も捗取はかどったが、ほどなく急に風が冷たくなった理由を会得えとくすることが出来た。

というのは、目の前に大森林が現れたからです。

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というのは目の前に大森林があらわれたので。

世のたとえにも天生峠は青空に雨が降るといい、人の話にも神代から杣が手を入れたことのない森があると聞いていたのに、今まではあまりに木がなさすぎた。

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世の譬たとえにも天生あもう峠は蒼空あおぞらに雨が降るという、人の話にも神代かみよから杣そまが手を入れぬ森があると聞いたのに、今までは余り樹がなさ過ぎた。

今度は蛇の代わりに蟹が歩き出しそうで、草鞋が冷えた。

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今度は蛇のかわりに蟹かにが歩きそうで草鞋わらじが冷えた。

しばらくすると暗くなった。杉、松、榎と、ところどころ見分けがつくばかりで、遠くからかすかに日の光が射すあたりでは、土の色がみな黒い。

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しばらくすると暗くなった、杉、松、榎えのきと処々ところどころ見分けが出来るばかりに遠い処から幽かすかに日の光の射さすあたりでは、土の色が皆黒い。

中には光線が森を射通す具合なのだろう、青だの赤だのと、ひだが入って美しい所があった。

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中には光線が森を射通いとおす工合ぐあいであろう、青だの、赤だの、ひだが入いって美しい処があった。

時々つま先にからまるのは、葉の雫がたまってできた糸のような流れで、これは枝を伝って高い所を走っているのです。

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時々爪尖つまさきに絡からまるのは葉の雫しずくの落溜おちたまった糸のような流ながれで、これは枝を打って高い処を走るので。

ともするとまた常緑樹が葉を落とす。何の木とも知れずばらばらと鳴り、かさかさと音がして、ぱっと檜笠にかかることもある。あるいは行き過ぎた後ろへこぼれるのもある。それらは枝から枝にたまっていて、何十年ぶりで初めて地面まで落ちるのか分からない。」

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ともするとまた常磐木ときわぎが落葉する、何の樹とも知れずばらばらと鳴り、かさかさと音がしてぱっと檜笠ひのきがさにかかることもある、あるいは行過ぎた背後うしろへこぼれるのもある、それ等らは枝から枝に溜たまっていて何十年ぶりではじめて地の上まで落ちるのか分らぬ。」

八

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八

「心細さは申すまでもなかったが、卑怯なようでも修行の積まない身には、こういう暗い所のほうがかえって念仏を唱えるにはよい。何しろ体がしのぎやすくなったために足の弱りも忘れたので、道もずいぶんはかどって、まずこれで森の七分は越えただろうと思うあたりで、五、六尺ほど頭の上らしい木の枝から、ぼたりと笠の上へ落ちて留まったものがある。

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「心細さは申すまでもなかったが、卑怯ひきょうなようでも修行しゅぎょうの積まぬ身には、こういう暗い処の方がかえって観念に便たよりがよい。何しろ体が凌しのぎよくなったために足の弱よわりも忘れたので、道も大きに捗取はかどって、まずこれで七分は森の中を越したろうと思う処で五六尺天窓あたまの上らしかった樹の枝から、ぼたりと笠の上へ落ち留まったものがある。

鉛の錘かと思う手応えで、何か木の実ででもあるのだろうかと、二、三度振ってみたが、くっついていてそのままでは取れないから、何の気なしに手をやって掴むと、なめらかにひやりと来た。

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鉛なまりの錘おもりかとおもう心持、何か木の実ででもあるかしらんと、二三度振ってみたが附着くッついていてそのままには取れないから、何心なく手をやって掴つかむと、滑なめらかに冷ひやりと来た。

見ると海鼠を裂いたような、目も口もないものだが、動物には違いない。

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見ると海鼠なまこを裂さいたような目も口もない者じゃが、動物には違いない。

不気味で投げ出そうとすると、ずるずると滑って指の先へ吸いつき、ぶらりと下がった。その離れた指の先から真っ赤な美しい血がたらたらと出たので、驚いて目の下へ指を持ってきてじっと見ると、今折り曲げた肘のところにつるりと垂れかかっているのは、同じ形をした、幅が五分、長さが三寸ばかりの山海鼠。

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不気味で投出そうとするとずるずると辷すべって指の尖さきへ吸ついてぶらりと下った、その放れた指の尖から真赤な美しい血が垂々たらたらと出たから、吃驚びっくりして目の下へ指をつけてじっと見ると、今折曲げた肱ひじの処へつるりと垂懸たれかかっているのは同形おなじかたちをした、幅が五分、丈たけが三寸ばかりの山海鼠やまなまこ。

呆気に取られて見ているうちに、下のほうから縮みながらぶくぶく太っていくのは、生き血をしたたかに吸い込むせいで、濁った黒いなめらかな肌に茶褐色の縞をもった、いぼ胡瓜のような血を吸う動物、こいつは蛭ですよ。

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呆気あっけに取られて見る見る内に、下の方から縮みながら、ぶくぶくと太って行くのは生血いきちをしたたかに吸込むせいで、濁にごった黒い滑らかな肌はだに茶褐色ちゃかっしょくの縞しまをもった、疣胡瓜いぼきゅうりのような血を取る動物、こいつは蛭ひるじゃよ。

誰の目にも見間違えようのないものだが、桁外れに大きいのでちょっと気がつかなかった。どんな畑でも、どんないわくのある沼でも、これほどの蛭はいようとは思われない。

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誰たが目にも見違えるわけのものではないが、図抜ずぬけて余り大きいからちょっとは気がつかぬであった、何の畠はたけでも、どんな履歴りれきのある沼ぬまでも、このくらいな蛭はあろうとは思われぬ。

肘をばさりと振ったけれども、よく食い込んだと見えてなかなか離れそうにしないから、不気味ながら手でつまんで引きちぎると、ぷつりといってようやく取れる。少しの間も我慢できたものではない。いきなり掴んで大地へ叩きつけると、これほどの奴らが何万となく巣を作って自分のものにしている場所だ、かねてその用意はしているとしか思えず、日の当たらない森の中の土は柔らかで、潰れそうにもないのだ。

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肱をばさりと振ふるったけれども、よく喰込くいこんだと見えてなかなか放れそうにしないから不気味ぶきみながら手で抓つまんで引切ると、ぷつりといってようよう取れる、しばらくも耐たまったものではない、突然いきなり取って大地へ叩たたきつけると、これほどの奴等やつらが何万となく巣をくって我わがものにしていようという処、かねてその用意はしていると思われるばかり、日のあたらぬ森の中の土は柔やわらかい、潰つぶれそうにもないのじゃ。

と、もう襟のあたりがむずむずしてきた。平手でしごいてみると、横なでに蛭の背をぬるぬるとすべる。やあ、乳の下に潜んで帯の間にも一匹、青くなってそっと見ると肩の上にも一筋。

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ともはや頸えりのあたりがむずむずして来た、平手ひらてで扱こいて見ると横撫よこなでに蛭の背せなをぬるぬるとすべるという、やあ、乳の下へ潜ひそんで帯の間にも一疋ぴき、蒼あおくなってそッと見ると肩の上にも一筋。

思わず飛び上がって総身を震わせながら、この大枝の下を一散に駆け抜けて、走りながらまず心当たりのある奴だけは夢中でもぎ取った。

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思わず飛上って総身そうしんを震いながらこの大枝の下を一散にかけぬけて、走りながらまず心覚えの奴だけは夢中むちゅうでもぎ取った。

それにしても恐ろしい、今の枝には蛭が実っているのだろうと、あまりのことに思って振り返ると、振り返った木の何の枝ということもなく、やはりいくつということもない蛭の皮だ。

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何にしても恐しい今の枝には蛭が生なっているのであろうとあまりの事に思って振返ると、見返った樹の何の枝か知らずやっぱり幾いくツということもない蛭の皮じゃ。

これはと思う。右も、左も、前の枝も、何のことはない、まるでいっぱい。

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これはと思う、右も、左も、前の枝も、何の事はないまるで充満いっぱい。

私は思わず恐怖の声を立てて叫んだ。すると何と?

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私は思わず恐怖きょうふの声を立てて叫さけんだ、すると何と?

この時は目に見えて、上からぼたりぼたりと、真っ黒な痩せた筋の入った雨が体へ降りかかってきたではありませんか。

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 この時は目に見えて、上からぼたりぼたりと真黒な痩やせた筋の入った雨が体へ降かかって来たではないか。

草鞋を履いた足の甲へも落ち、その上にまた重なり、並んだ脇へまたくっついて、つま先も分からなくなった。そうして生きていると思うだけに脈を打って血を吸うような、気のせいか一つ一つ伸び縮みをするような、それを見ると気が遠くなって、その時に不思議な考えが起きた。

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草鞋を穿はいた足の甲こうへも落ちた上へまた累かさなり、並んだ傍わきへまた附着くッついて爪先つまさきも分らなくなった、そうして活いきてると思うだけ脈を打って血を吸うような、思いなしか一ツ一ツ伸縮のびちぢみをするようなのを見るから気が遠くなって、その時不思議な考えが起きた。

この恐ろしい山蛭は神代の昔からここに屯していて、人の来るのを待ち受け、永い久しい間に何斛かの血を吸うと、そこでこの虫の望みがかなう。その時はありったけの蛭が、残らず吸っただけの人間の血を吐き出し、そのために土が溶けて山一つが一面、血と泥の大沼に変わるだろう。それと同時に、ここで日の光を遮って昼もなお暗い大木が、切れ切れに一つ一つ蛭になってしまうに違いない、と、いや、本当にそう思ったのです。」

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この恐しい山蛭やまびるは神代かみよの古いにしえからここに屯たむろをしていて、人の来るのを待ちつけて、永い久しい間にどのくらい何斛なんごくかの血を吸うと、そこでこの虫の望のぞみが叶かなう、その時はありったけの蛭が残らず吸っただけの人間の血を吐出はきだすと、それがために土がとけて山一ツ一面に血と泥どろとの大沼にかわるであろう、それと同時にここに日の光を遮さえぎって昼もなお暗い大木が切々きれぎれに一ツ一ツ蛭になってしまうのに相違そういないと、いや、全くの事で。」

九

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九

「およそ人間が滅びるのは、地球の薄皮が破れて空から火が降るのでもなければ、大海が覆いかぶさるのでもない。飛騨国の木々の林が蛭になるのが最初で、しまいには皆、血と泥の中を筋の黒い虫が泳ぐ、それが代替わりした世界であろうと、ぼんやり考えていた。

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「およそ人間が滅びるのは、地球の薄皮うすかわが破れて空から火が降るのでもなければ、大海が押被おっかぶさるのでもない、飛騨国ひだのくにの樹林きばやしが蛭になるのが最初で、しまいには皆みんな血と泥の中に筋の黒い虫が泳ぐ、それが代だいがわりの世界であろうと、ぼんやり。

なるほどこの森も入口では何のこともなかったのに、中へ来るとこのとおり、もっと奥深く進んだら、もう残らず立ち木が根のほうから朽ちて山蛭になっていよう、助かるまい、ここで取り殺される因縁らしい。こんな取り留めのない考えが浮かんだのも、死ぬ時が近づいたからだと、ふと気がついた。

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なるほどこの森も入口では何の事もなかったのに、中へ来るとこの通り、もっと奥深く進んだら早はや残らず立樹たちきの根の方から朽くちて山蛭になっていよう、助かるまい、ここで取殺される因縁いんねんらしい、取留とりとめのない考えが浮んだのも人が知死期ちしごに近ちかづいたからだとふと気が付いた。

どのみち死ぬものなら、一足でも前へ進んで、世間の者が夢にも知らない血と泥の大沼の片端でも見ておこうと、そう覚悟が決まってしまえば気味の悪いも何もあったものではない。体中に数珠なりになったのを手当たり次第に掻きのけ、むしり捨て、抜き取りなどして、手を挙げ足を踏んで、まるで躍り狂う格好で歩き出した。

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どの道死ぬるものなら一足でも前へ進んで、世間の者が夢ゆめにも知らぬ血と泥の大沼の片端かたはしでも見ておこうと、そう覚悟かくごがきまっては気味の悪いも何もあったものじゃない、体中珠数生じゅずなりになったのを手当てあたり次第に掻かい除のけ挘むしり棄すて、抜き取りなどして、手を挙げ足を踏んで、まるで躍おどり狂う形で歩行あるき出した。

はじめのうちは一回りも太ったように思われて痒さがたまらなかったが、しまいにはげっそり痩せたと感じられて、ずきずき痛んでならない。その上を容赦なく歩くうちにも、入れ替わり立ち替わり襲ってきた。

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はじめの中うちは一廻ひとまわりも太ったように思われて痒かゆさが耐たまらなかったが、しまいにはげっそり痩やせたと感じられてずきずき痛んでならぬ、その上を容赦ようしゃなく歩行あるく内にも入交いりまじりに襲おそいおった。

もう目もくらんで倒れそうになると、災いはこのあたりが絶頂だったと見えて、トンネルを抜けたように、はるかに一輪のかすれた月を拝んだ。それが蛭の林の出口だったのです。

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既すでに目も眩くらんで倒れそうになると、禍わざわいはこの辺が絶頂であったと見えて、隧道トンネルを抜けたように、遥はるかに一輪いちりんのかすれた月を拝んだのは、蛭の林の出口なので。

いや、青空の下へ出た時には、何もかも忘れて、砕けろ、微塵になれと、横なぐりに体を山道へ打ち倒した。

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いや蒼空あおぞらの下へ出た時には、何のことも忘れて、砕くだけろ、微塵みじんになれと横なぐりに体を山路やまじへ打倒うちたおした。

それからもう、砂利でも針でもあれとばかり地面へこすりつけて、十あまりも蛭の死骸をひっくり返した上から、五、六間向こうへ飛んで、身震いをして突っ立った。

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それでからもう砂利じゃりでも針でもあれと地つちへこすりつけて、十余りも蛭の死骸しがいを引ひっくりかえした上から、五六間けん向うへ飛んで身顫みぶるいをして突立つッたった。

人を馬鹿にしているではありませんか。

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人を馬鹿ばかにしているではありませんか。

あたりの山ではところどころで蜩殿が、血と泥の大沼になろうという森を控えて鳴いている。日は斜めで、谷底はもう暗い。

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あたりの山では処々ところどころ茅蜩殿ひぐらしどの、血と泥の大沼になろうという森を控ひかえて鳴いている、日は斜ななめ、渓底たにそこはもう暗い。

まずこれなら狼の餌食になっても、それは一思いに死ねるからと、道はちょうどだらだら下り、小僧さん、調子はずれに竹の杖を肩に担いで、すたこら逃げましたよ。

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まずこれならば狼おおかみの餌食えじきになってもそれは一思ひとおもいに死なれるからと、路はちょうどだらだら下おりなり、小僧さん、調子はずれに竹の杖を肩にかついで、すたこら遁にげたわ。

これで蛭に悩まされて、痛いのか、痒いのか、それともくすぐったいのか、何とも言えない苦しみさえなかったら、嬉しさのあまり、ひとり飛騨山越えの間道でお経に節をつけて外道踊りをやったことでしょう。ちょっと清心丹でも噛み砕いて傷口につけたらどうかと、だいぶ世の中のことに気が回るようにもなってきた。

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これで蛭に悩まされて痛いのか、痒かゆいのか、それとも擽くすぐったいのか得えもいわれぬ苦しみさえなかったら、嬉うれしさに独ひとり飛騨山越ひだやまごえの間道かんどうで、お経きょうに節ふしをつけて外道踊げどうおどりをやったであろう、ちょっと清心丹せいしんたんでも噛砕かみくだいて疵口きずぐちへつけたらどうだと、だいぶ世の中の事に気がついて来たわ。

つねってみても確かに生き返ったのだが、それにしても富山の薬売りはどうしたろう。あの様子ではとっくに血になって泥沼に。

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抓つねっても確たしかに活返いきかえったのじゃが、それにしても富山の薬売はどうしたろう、あの様子ようすではとうに血になって泥沼に。

皮ばかりの死骸は森の中の暗い所、おまけに意地の汚い下等な動物が骨までしゃぶろうと何百という数でのしかかっていた日には、酢をぶちまけたところで見分けがつくはずもあるまい。

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皮ばかりの死骸は森の中の暗い処、おまけに意地の汚きたない下司げすな動物が骨までしゃぶろうと何百という数でのしかかっていた日には、酢すをぶちまけても分る気遣きづかいはあるまい。

こう思っている間、例のだらだら坂はずいぶん長かった。

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こう思っている間、件くだんのだらだら坂は大分長かった。

それを下りきると流れの音が聞こえて、とんでもない所に長さ一間ばかりの土橋がかかっている。

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それを下くだり切ると流が聞えて、とんだ処に長さ一間ばかりの土橋がかかっている。

その谷川の音を聞くと、我が身では持て余す蛭の吸い殻を真っ逆さまに投げ込んで水に浸したら、さぞいい心地だろうと思うくらいで、何、渡りかけて壊れたらそれまでのこと。

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はやその谷川の音を聞くと我身で持余もてあます蛭の吸殻すいがらを真逆まっさかさまに投込んで、水に浸ひたしたらさぞいい心地ここちであろうと思うくらい、何の渡りかけて壊こわれたらそれなりけり。

危ないとも思わずにずっと渡りにかかると、少しぐらぐらしたが難なく越した。

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危いとも思わずにずっと懸かかる、少しぐらぐらしたが難なく越した。

向こうからまた坂だ、今度は上りです、ご苦労千万。」

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向うからまた坂じゃ、今度は上のぼりさ、ご苦労千万。」

十

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十

「とてもこの疲れようでは坂を上るわけにはいくまいと思ったが、ふと行く手に、ヒイインと馬のいななくのが谺して聞こえた。

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「とてもこの疲つかれようでは、坂を上るわけには行くまいと思ったが、ふと前途ゆくてに、ヒイインと馬の嘶いななくのが谺こだまして聞えた。

馬子が戻るのか、荷馬が通るのか。今朝ひとりの百姓に別れてから経った時間はわずかだが、三年も五年も、同じ言葉を話す人間とは隔たっていた気がする。

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馬士まごが戻もどるのか小荷駄こにだが通るか、今朝一人の百姓に別れてから時の経ったは僅わずかじゃが、三年も五年も同一おんなじものをいう人間とは中を隔へだてた。

馬がいるようならともかくも人里に縁があると、そのおかげで気が勇んで、ええ、やっともうひと踏ん張り。

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馬が居るようではともかくも人里に縁があると、これがために気が勇んで、ええやっと今一揉ひともみ。

一軒の山家の前へ来るまでは、それほど難儀とも感じなかった。

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一軒の山家やまがの前へ来たのには、さまで難儀なんぎは感じなかった。

夏のことで戸障子の締まりもせず、ことに一軒家、開け放ったままで門というものもない。いきなり壊れかけた縁側になっていて、そこに男が一人。私はもう何の見境もなく、

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夏のことで戸障子のしまりもせず、殊ことに一軒家、あけ開いたなり門というてもない、突然いきなり破縁やれえんになって男が一人、私わしはもう何の見境もなく、

(頼みます、頼みます、)というのさえ助けを呼ぶような調子で、取りすがらんばかりにした。

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(頼たのみます、頼みます、)というさえ助たすけを呼ぶような調子で、取縋とりすがらぬばかりにした。

(ごめんくださいまし、)と言ったが、何も言わない。首筋をぐったりと、耳を肩でふさぐほど顔を横にしたまま、子どもらしい、意味のない、それでいてぱっちりした目で、じろじろと門口に立った者を見つめる。その瞳を動かすことさえ億劫らしい、気の抜けた身の持ちようだ。

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(ご免めんなさいまし、)といったがものもいわない、首筋をぐったりと、耳を肩で塞ふさぐほど顔を横にしたまま小児こどもらしい、意味のない、しかもぼっちりした目で、じろじろと門に立ったものを瞻みつめる、その瞳ひとみを動かすさえ、おっくうらしい、気の抜けた身の持方。

裾が短く袖は肘より短い、糊のきいたちゃんちゃんこを着て胸のあたりを紐で結わえているが、赤ん坊の着物を着せられたような出っ腹の太り肉で、太鼓を張ったほどにすべすべと膨れ、しかも出臍という奴、南瓜のへたほどもある異形なものを片手でいじくりながら、幽霊の手つきで、もう片方の手を宙にぶらり。

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裾短すそみじかで袖そでは肱ひじより少い、糊気のりけのある、ちゃんちゃんを着て、胸のあたりで紐ひもで結ゆわえたが、一ツ身のものを着たように出ッ腹の太り肉じし、太鼓たいこを張ったくらいに、すべすべとふくれてしかも出臍でべそという奴やつ、南瓜かぼちゃの蔕へたほどな異形いぎょうな者を片手でいじくりながら幽霊ゆうれいの手つきで、片手を宙にぶらり。

足は忘れたのか投げ出したまま、腰がなければ暖簾を立てたように畳めそうな体つきで、年はそれでいて二十二、三。ぽかんと開けた口は上唇で巻き込めそうな、鼻の低さ、出っ張った額。

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足は忘れたか投出した、腰がなくば暖簾のれんを立てたように畳たたまれそうな、年紀としがそれでいて二十二三、口をあんぐりやった上唇うわくちびるで巻込めよう、鼻の低さ、出額でびたい。

五分刈りの伸びたのが前は鶏冠のように立ち、襟足へ跳ねて耳にかぶさっている。口がきけないのか、知恵が遅れているのか、これから蛙になろうとしているような少年。

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五分刈ごぶがりの伸のびたのが前は鶏冠とさかのごとくになって、頸脚えりあしへ撥はねて耳に被かぶさった、唖おしか、白痴ばかか、これから蛙かえるになろうとするような少年。

私は驚いた。こちらの命に別条はないが、相手方の形相。

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私わしは驚いた、こっちの生命いのちに別条はないが、先方様さきさまの形相ぎょうそう。

いや、大変な別条だ。

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いや、大別条おおべつじょう。

(ちょっとお願い申します。)

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(ちょいとお願い申します。)

それでも仕方がないからまた声をかけたが、少しも通じない。ばたりというとわずかに首の位置を変えて、今度は左の肩を枕にした。口が開いているのは元のまま。

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それでもしかたがないからまた言葉をかけたが少しも通ぜず、ばたりというと僅わずかに首の位置をかえて今度は左の肩を枕まくらにした、口の開いてること旧もとのごとし。

こういうのは、悪くするといきなり引っ掴まえて、臍をひねりながら返事の代わりに舐めかねない。

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こういうのは、悪くすると突然いきなりふんづかまえて臍を捻ひねりながら返事のかわりに嘗なめようも知れぬ。

私は一足後ずさったが、いくら深山だといっても、これを一人で置いておくという法はあるまいと、爪先立って少し声を高くし、

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私わしは一足退すさったが、いかに深山だといってもこれを一人で置くという法はあるまい、と足を爪立つまだてて少し声高こわだかに、

(どなたかおいでですか、ごめんください、)と言った。

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(どなたぞ、ご免なさい、)といった。

裏口と思うあたりで、再び馬のいななく声。

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背戸せどと思うあたりで再び馬の嘶いななく声。

(どなた、)と納戸のほうで言ったのは女の声だったので、南無三宝、この白い首には鱗が生えていて、体は床を這い、尾をずるずると引きながら出てくるのだろうと、また後ずさった。

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(どなた、)と納戸なんどの方でいったのは女じゃから、南無三宝なむさんぼう、この白い首には鱗うろこが生えて、体は床ゆかを這はって尾をずるずると引いて出ようと、また退すさった。

(おお、お坊様。)

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(おお、お坊様ぼうさま。)

と現れたのは小柄で美しい、声も涼しく、もの柔らかな女。

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と立顕たちあらわれたのは小造こづくりの美しい、声も清すずしい、ものやさしい。

私は大きく息をついて、何も言わず、

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私わしは大息を吐ついて、何にもいわず、

(はい。)

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(はい。)

と頭を下げましたよ。

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と頭つむりを下げましたよ。

女は膝をついて座ったが、前へ伸び上がるようにして、黄昏の中にしょんぼり立った私の姿を透かして見て、

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婦人おんなは膝ひざをついて坐すわったが、前へ伸上のびあがるようにして、黄昏たそがれにしょんぼり立った私わしが姿を透すかして見て、

(何かご用でございますか。)

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(何か用でござんすかい。)

休めとも言わず、はじめからこの家の主人は留守らしく、人を泊めないと決めているように見える。

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休めともいわずはじめから宿の常世つねよは留守るすらしい、人を泊とめないときめたもののように見える。

言いそびれてはかえって切り出しにくくなり、頼むにも頼めない仕儀にもなろうと、つかつかと前へ出た。

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いい後おくれてはかえって出そびれて頼むにも頼まれぬ仕誼しぎにもなることと、つかつかと前へ出た。

丁寧に腰をかがめて、

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丁寧ていねいに腰を屈かがめて、

(私は山越えで信州へ参る者ですが、宿屋のある所まではまだどのくらいでございましょう。)

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(私は、山越で信州へ参ります者ですが旅籠はたごのございます処まではまだどのくらいでございましょう。)

十一

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十一

(あなた、まだ八里あまりもございますよ。)

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(あなたまだ八里余あまりでございますよ。)

(そのほかに、別に泊めてくださる家もないのでしょうか。)

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(その他ほかに別に泊めてくれます家うちもないのでしょうか。)

(それはございません。)

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(それはございません。)

と言いながら、まばたきもしないで涼しい目で私の顔をつくづくと見ていた。

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といいながら目またたきもしないで清すずしい目で私わしの顔をつくづく見ていた。

(いえ、もう、何でございます、実はこの先一町行け、そうすれば上段の間に寝かせて一晩じゅう扇いでいて、それを功徳のためにしてくれる家があると承っても、まったくのところ、もう一足も歩けはしないのでございます。どこの物置でも馬小屋の隅でもよろしいのですから、後生でございます。)

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(いえもう何でございます、実はこの先一町行け、そうすれば上段の室へやに寝かして一晩扇あおいでいてそれで功徳くどくのためにする家があると承うけたまわりましても、全くのところ一足も歩行あるけますのではございません、どこの物置ものおきでも馬小屋の隅すみでもよいのでございますから後生ごしょうでございます。)

と、さっき馬がいなないたのはこの家のほかにはないと思ったから言った。

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とさっき馬が嘶いなないたのは此家ここより外にはないと思ったから言った。

女はしばらく考えていたが、ふと脇を向いて布の袋を取り、膝のあたりに置いた桶の中へざらざらと一幅、水をこぼすようにあけて縁を押さえ、手ですくってうつむいて見ていたが、

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婦人おんなはしばらく考えていたが、ふと傍わきを向いて布の袋ふくろを取って、膝ひざのあたりに置いた桶おけの中へざらざらと一幅ひとはば、水を溢こぼすようにあけて縁ふちをおさえて、手で掬すくって俯向うつむいて見たが、

(ああ、お泊め申しましょう。ちょうど炊いてさしあげるだけのお米もございますし、それに夏のことですから、山家は冷えましても夜具にご不自由はございますまい。

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(ああ、お泊め申しましょう、ちょうど炊たいてあげますほどお米もございますから、それに夏のことで、山家は冷えましても夜のものにご不自由もござんすまい。

さあ、ともかくもあなた、お上がりくださいまし。)

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さあ、ともかくもあなた、お上り遊ばして。)

と言うと、言葉の終わらないうちにどっかと腰を落とした。

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というと言葉の切れぬ先にどっかと腰を落した。

女はつと身を起こして立って来て、

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婦人おんなはつと身を起して立って来て、

(お坊様、それについてはちょっとお断りしておかねばなりません。)

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(お坊様、それでござんすがちょっとお断り申しておかねばなりません。)

はっきり言われたので、私はびくびくもので、

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はっきりいわれたので私わしはびくびくもので、

(はい、はい。)

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(はい、はい。)

(いいえ、別のことではございませんが、私は癖として都の話を聞くのが病でございます。口に蓋をしておいでになっても無理やり聞き出そうといたしますが、あなた、忘れてもその時に聞かせてくださいますな。よろしゅうございますか、私は無理にお尋ねいたします、あなたはどうしてもお話しにならない、それをぜひにと申しましても、断じておっしゃらないように、きっと念を入れておきますよ。)

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(いいえ、別のことじゃござんせぬが、私わたしは癖くせとして都の話を聞くのが病やまいでございます、口に蓋ふたをしておいでなさいましても無理やりに聞こうといたしますが、あなた忘れてもその時聞かして下さいますな、ようござんすかい、私は無理にお尋たずね申します、あなたはどうしてもお話しなさいませぬ、それを是非にと申しましても断たっておっしゃらないようにきっと念を入れておきますよ。)

と、わけありげなことを言った。

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と仔細しさいありげなことをいった。

山の高さも谷の深さも底知れない一軒家の女の言葉とは思ったが、守るのに難しい戒めでもなし、私はただうなずくばかり。

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山の高さも谷の深さも底の知れない一軒家の婦人おんなの言葉とは思うたが保つにむずかしい戒かいでもなし、私わしはただ頷うなずくばかり。

(はい、よろしゅうございます、何事もおっしゃりつけには背きますまい。)

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(はい、よろしゅうございます、何事もおっしゃりつけは背そむきますまい。)

女はその言葉が終わるや打ち解けて、

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婦人おんなは言下ごんかに打解うちとけて、

(さあさあ、汚うございますが早くこちらへ、おくつろぎなさいまし。そうしてお足をすすぐ湯をお持ちしましょうか。)

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(さあさあ汚きたのうございますが早くこちらへ、お寛くつろぎなさいまし、そうしてお洗足せんそくを上げましょうかえ。)

(いえ、それには及びません、雑巾をお貸しくださいまし。

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(いえ、それには及びませぬ、雑巾ぞうきんをお貸し下さいまし。

ああ、それから、もしその雑巾をついでにずっぷりと絞ってくださると助かります。途中で大変な目に遭いまして、体を投げ捨てたいほど気味が悪いのです、ひとつ背中を拭こうと存じますが、恐れ入りますな。)

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ああ、それからもしそのお雑巾次手ついでにずッぷりお絞しぼんなすって下さると助たすかります、途中とちゅうで大変な目に逢あいましたので体を打棄うっちゃりりたいほど気味が悪うございますので、一ツ背中を拭ふこうと存じますが、恐入おそれいりますな。)

(そう、汗におなりでしたか、さぞまあ、お暑うございましたでしょう。お待ちなさいまし。宿へお着きになって湯にお入りになるのが、旅をなさる方には何よりのご馳走だと申しますね。湯どころか、お茶さえろくにおもてなしできませんが、あの、この裏の崖を下りますと綺麗な流れがございますから、いっそそちらへいらして流されるのがよろしゅうございましょう。)

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(そう、汗あせにおなりなさいました、さぞまあ、お暑うござんしたでしょう、お待ちなさいまし、旅籠はたごへお着き遊ばして湯にお入りなさいますのが、旅するお方には何よりご馳走ちそうだと申しますね、湯どころか、お茶さえ碌ろくにおもてなしもいたされませんが、あの、この裏の崖がけを下りますと、綺麗きれいな流ながれがございますからいっそそれへいらっしゃッてお流しがよろしゅうございましょう。)

聞いただけでも飛んで行きたい。

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聞いただけでも飛んでも行きたい。

(ええ、それは何よりでございますな。)

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(ええ、それは何より結構でございますな。)

(さあ、それではご案内申しましょう。どれ、ちょうど私も米を研ぎに参ります。)

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(さあ、それではご案内申しましょう、どれ、ちょうど私も米を磨とぎに参ります。)

と、例の桶を小脇に抱えて、縁側から藁草履を履いて出たが、かがんで板縁の下を覗き、引き出したのは一足の古下駄で、かちりと打ち合わせて埃をはたき、揃えてくれた。

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と件くだんの桶おけを小脇こわきに抱かかえて、縁側えんがわから、藁草履わらぞうりを穿はいて出たが、屈かがんで板縁いたえんの下を覗のぞいて、引出したのは一足の古下駄げたで、かちりと合あわして埃ほこりを払はたいて揃そろえてくれた。

(お履きなさいまし、草鞋はここにお置きになって、)

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(お穿はきなさいまし、草鞋わらじはここにお置きなすって、)

私は手を上げ、一礼して、

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私わしは手をあげて、一礼して、

(恐れ入ります、これはどうも、)

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(恐入ります、これはどうも、)

(お泊め申すとなりましたら、あの、他生の縁とやらでございます、あなた、ご遠慮などなさいますな。)

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(お泊め申すとなりましたら、あの、他生たしょうの縁えんとやらでござんす、あなたご遠慮を遊ばしますなよ。)

まず恐ろしく調子がいいのですよ。」

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まず恐しく調子がいいじゃて。」

十二

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十二

「(さあ、私についてこちらへ、)と、例の米研ぎ桶を引っ抱えて、手拭いを細い帯に挟んで立った。

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「(さあ、私に跟ついてこちらへ、)と件の米磨桶こめとぎおけを引抱ひっかかえて手拭てぬぐいを細い帯に挟はさんで立った。

髪はふさふさしたのを束ねて、櫛を挟んで簪で留めている。その姿の良さといったらなかった。

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髪は房ふっさりとするのを束たばねてな、櫛くしをはさんで簪かんざしで留とめている、その姿の佳よさというてはなかった。

私も手早く草鞋を解いたので、さっそく古下駄を頂戴して、縁から立つ時にちょっと見ると、それ、例の少年だ。

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私わしも手早く草鞋を解といたから、早速古下駄を頂戴ちょうだいして、縁から立つ時ちょいと見ると、それ例の白痴殿ばかどのじゃ。

同じように私のほうをじろりと見ましてね、舌足らずが喋るような、愚にもつかない声を出して、

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同じく私わしが方かたをじろりと見たっけよ、舌不足したたらずが饒舌しゃべるような、愚ぐにもつかぬ声を出して、

(姉や、こえ、こえ。)

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(姉ねえや、こえ、こえ。)

と言いながら、けだるそうに手を持ち上げて、そのぼうぼうと生えた頭を撫でた。

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といいながら気けだるそうに手を持上げてその蓬々ぼうぼうと生えた天窓あたまを撫なでた。

(坊さま、坊さま?)

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(坊さま、坊さま?)

すると女が、下ぶくれの顔にえくぼを刻んで、三つばかりはきはきと続けてうなずいた。

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すると婦人おんなが、下しもぶくれな顔にえくぼを刻んで、三ツばかりはきはきと続けて頷いた。

少年はうむと言ったが、ぐたりとして、また臍をくりくりくり。

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少年はうむといったが、ぐたりとしてまた臍へそをくりくりくり。

私はあまりの気の毒さに顔も上げられず、そっと盗み見るようにして見ると、女は何も別に気にかけていない様子。そのまま後についていこうとする時、紫陽花の花の陰からぬいと出てきた一人の親父がある。

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私わしは余り気の毒さに顔も上げられないでそっと盗むようにして見ると、婦人おんなは何事も別に気に懸かけてはおらぬ様子、そのまま後へ跟ついて出ようとする時、紫陽花あじさいの花の蔭かげからぬいと出た一名の親仁おやじがある。

裏口から回って来たらしい、草鞋を履いたままで、胴乱の根付を長い紐でぶらりと提げ、煙管をくわえながら並んで立ち止まった。

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背戸せどから廻って来たらしい、草鞋を穿はいたなりで、胴乱どうらんの根付ねつけを紐長ひもながにぶらりと提さげ、銜煙管くわえぎせるをしながら並んで立停たちどまった。

(和尚様、おいでなさい。)

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(和尚おしょう様おいでなさい。)

女はそちらを振り向いて、

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婦人おんなはそなたを振向いて、

(おじさん、どうでした。)

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(おじ様どうでござんした。)

(それがさ、とんまで間の抜けたというのはあのことかね。

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(さればさの、頓馬とんまで間の抜けたというのはあのことかい。

根っから、もう狐でなければ乗せられそうにもない奴だが、そこはわしの口だ、うまく仲立ちをして、二月や三月はお嬢様がご不自由のないように、明日は話をまとめて、どっさりここへ担ぎ込みますよ。)

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根ッから早や狐きつねでなければ乗せ得そうにもない奴やつじゃが、そこはおらが口じゃ、うまく仲人なこうどして、二月ふたつきや三月みつきはお嬢様じょうさまがご不自由のねえように、翌日あすはものにしてうんとここへ担かつぎ込みます。)

(お頼み申しますよ。)

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(お頼み申しますよ。)

(承知、承知。おお、嬢様、どちらへ行かれる。)

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(承知、承知、おお、嬢様どこさ行かっしゃる。)

(崖の水までちょっと。)

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(崖の水までちょいと。)

(若い坊様を連れて川へ落っこちなさるなよ、おれはここで見張って待っとるから、)と、横向きに縁側へのさりと腰を下ろした。

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(若い坊様連れて川へ落っこちさっしゃるな、おらここに眼張がんばって待っとるに、)と横様よこざまに縁にのさり。

(あなた、あんなことを申しますよ。)

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(貴僧あなた、あんなことを申しますよ。)

と、顔を見て微笑んだ。

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と顔を見て微笑ほほえんだ。

(一人で参りましょう、)と脇へ退くと、親父はくっくっと笑って、

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(一人で参りましょう、)と傍わきへ退のくと、親仁おやじはくっくっと笑って、

(ははははは、さあ、早く行ってござらっしゃい。)

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(はははは、さあ、早くいってござらっせえ。)

(おじさん、今日はね、珍しくお客が二人おいでになった。こういう時は後からまた見えるかもしれません、次郎さんばかりでは来た人が困るでしょう。私が帰るまでそこで休んでいておくれでないか。)

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(おじ様、今日はお前、珍めずらしいお客がお二方ござんした、こういう時はあとからまた見えようも知れません、次郎さんばかりでは来た者が弱んなさろう、私わたしが帰るまでそこに休んでいておくれでないか。)

(いいともさ。)

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(いいともの。)

と言いかけて、親父は少年のそばへにじり寄り、鉄の棒のような拳で背中をどんと食らわせた。少年の腹はだぶりと揺れ、べそをかくような口つきで、にやりと笑う。

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といいかけて、親仁おやじは少年の傍そばへにじり寄って、鉄挺かなてこを見たような拳こぶしで、背中をどんとくらわした、白痴ばかの腹はだぶりとして、べそをかくような口つきで、にやりと笑う。

私はぞっとして顔を背けたが、女は何気ない様子だった。

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私わしはぞっとして面おもてを背けたが、婦人おんなは何気なにげない体ていであった。

親父は大口を開けて、

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親仁おやじは大口を開いて、

(留守におれがこの亭主を盗むぞよ。)

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(留守におらがこの亭主を盗むぞよ。)

(はい、それなら手柄でございます。さあ、あなた、参りましょうか。)

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(はい、ならば手柄てがらでござんす、さあ、貴僧あなた参りましょうか。)

後ろから親父が見ているように思われたが、導かれるままに壁づたいに行く。あの紫陽花のあるほうではない。

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背後うしろから親仁が見るように思ったが、導かるるままに壁かべについて、かの紫陽花のある方ではない。

やがて裏口と思う所で左に馬小屋を見た。ことことという音は羽目板を蹴っているのだろう。もうそのあたりから薄暗くなってくる。

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やがて背戸と思う処で左に馬小屋を見た、ことことという音は羽目はめを蹴けるのであろう、もうその辺から薄暗くなって来る。

(あなた、ここから下りるのでございます。滑りはいたしませんが、道がひどうございますからお静かに、)という。」

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(貴僧あなた、ここから下りるのでございます、辷すべりはいたしませぬが、道が酷ひどうございますからお静しずかに、)という。」

十三

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十三

「そこから下りるのだと思われる。松の木の細くて、度外れに背が高く、ひょろひょろとして、およそ五、六間上までは小枝一つもないのがある。その中を潜ったが、仰ぐと梢の上に出て白い、月の形はここでも別に変わりはなかった。浮世はどこにあるのか、十三夜です。

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「そこから下りるのだと思われる、松の木の細くッて度外れに背の高い、ひょろひょろしたおよそ五六間上までは小枝一ツもないのがある。その中を潜くぐったが、仰あおぐと梢こずえに出て白い、月の形はここでも別にかわりは無かった、浮世うきよはどこにあるか十三夜で。

先に立った女の姿が目の前から離れたので、松の幹に掴まって覗くと、すぐ下にいた。

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先へ立った婦人おんなの姿が目さきを放れたから、松の幹みきに掴つかまって覗のぞくと、つい下に居た。

仰向いて、

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仰向あおむいて、

(急に低くなりますから気をつけて。

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(急に低くなりますから気をつけて。

これはあなたには足駄では無理でございましたかしら。よろしければ草履とお取り替えいたしましょう。)

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こりゃ貴僧あなたには足駄あしだでは無理でございましたかしら、宜よろしくば草履ぞうりとお取交とりかえ申しましょう。)

立ち遅れたのを歩き悩んでいると察した様子。何がさて、転げ落ちてもいいから早く行って蛭の垢を落としたい。

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立後たちおくれたのを歩行悩あるきなやんだと察した様子、何がさて転げ落ちても早く行って蛭ひるの垢あかを落したさ。

(何、いけなければ裸足になるだけのこと、どうぞお構いなく。お嬢さんにご心配をかけては済みません。)

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(何、いけませんければ跣足はだしになります分のこと、どうぞお構いなく、嬢様にご心配をかけては済みません。)

(あれ、お嬢さんですって、)と、やや声を高くして、あでやかに笑った。

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(あれ、嬢様ですって、)とやや調子を高めて、艶麗あでやかに笑った。

(はい、ただいまあのお爺さんが、そう申したように存じましたが、奥様でございますか。)

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(はい、ただいまあの爺様じいさんが、さよう申しましたように存じますが、夫人おくさまでございますか。)

(何にしても、あなたには叔母さんくらいの年ですよ。

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(何にしても貴僧あなたには叔母おばさんくらいな年紀としですよ。

まあ、お早くいらっしゃい。草履もようございますけれど、棘が刺さるといけません、それにじくじく濡れていてお気味が悪うございましょうから。)

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まあ、お早くいらっしゃい、草履もようござんすけれど、刺とげがささりますといけません、それにじくじく湿ぬれていてお気味が悪うございましょうから。)

と、向こうを向いたまま言いながら、着物の片褄をぐいと上げた。

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と向う向むきでいいながら衣服きものの片褄かたつまをぐいとあげた。

真っ白なのが闇にまぎれて、歩くと霜が消えていくような。

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真白なのが暗やみまぎれ、歩行あるくと霜しもが消えて行くような。

ずんずんずんずんと道を下りる。かたわらの草むらから、のさのさと出てきたのは蟇だ。

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ずんずんずんずんと道を下りる、傍かたわらの叢くさむらから、のさのさと出たのは蟇ひきで。

(あれ、気味が悪いよ。)

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(あれ、気味が悪いよ。)

と言うと、女は後ろへ高々と踵を上げて向こうへ飛んだ。

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というと婦人おんなは背後うしろへ高々と踵かかとを上げて向うへ飛んだ。

(お客様がいらっしゃるではないかね。人の足になんかからみついて、贅沢じゃないか。お前たちは虫を吸っていれば十分だよ。

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(お客様がいらっしゃるではないかね、人の足になんか搦からまって、贅沢ぜいたくじゃあないか、お前達は虫を吸っていればたくさんだよ。

あなた、ずんずんいらっしゃいましな、どうもしはしません。

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貴僧あなたずんずんいらっしゃいましな、どうもしはしません。

こういう所ですから、あんなものまで人懐かしゅうございます。嫌じゃないかね、お前たちと友達みたいで恥ずかしい。あれ、いけませんよ。)

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こう云う処ですからあんなものまで人懐なつかしゅうございます、厭いやじゃないかね、お前達と友達をみたようで愧はずかしい、あれいけませんよ。)

蟇はのさのさとまた草を分けて入っていった。女は向こうへずいと進む。

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蟇はのさのさとまた草を分けて入った、婦人おんなはむこうへずいと。

(さあ、この上へ乗るんです。土が柔らかで崩れますから、地面は歩けません。)

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(さあこの上へ乗るんです、土が柔かで壊くえますから地面は歩行あるかれません。)

なるほど大木の倒れたのが、草に隠れて幹を現している。乗ってみると足駄履きでも差し支えない、丸木だけれども恐ろしく太いのだ。もっとも、これを渡りきるとたちまち流れの音が耳を打った。そこまでにはよほどの間があった。

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いかにも大木の僵たおれたのが草がくれにその幹をあらわしている、乗ると足駄穿あしだばきで差支さしつかえがない、丸木だけれどもおそろしく太いので、もっともこれを渡り果てるとたちまち流ながれの音が耳に激げきした、それまでにはよほどの間あいだ。

仰いで見ると松の木はもう影も見えない。十三夜の月はずっと低くなったが、今下りた山の頂に半ばかかって、手が届きそうにあざやかだけれども、高さはおよそ計り知れない。

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仰いで見ると松の樹きはもう影も見えない、十三夜の月はずっと低うなったが、今下りた山の頂いただきに半ばかかって、手が届きそうにあざやかだけれども、高さはおよそ計り知られぬ。

(あなた、こちらへ。)

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(貴僧あなた、こちらへ。)

と言った女は、もうひと下りしたところ、目の下に立って待っていた。

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といった婦人おんなはもう一息、目の下に立って待っていた。

そこはもう一面の岩で、岩の上へ谷川の水がかかり、ここに淀みを作っている。川幅は一間ばかり、水際に立てば音はそれほどでもないが、美しさは玉を溶かして流したよう。かえって遠くのほうで、凄まじく岩に砕ける響きがする。

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そこは早や一面の岩で、岩の上へ谷川の水がかかってここによどみを作っている、川幅は一間けんばかり、水に臨のぞめば音はさまでにもないが、美しさは玉を解いて流したよう、かえって遠くの方で凄すさまじく岩に砕くだける響ひびきがする。

向こう岸はまた一つの山の裾で、頂のほうは真っ暗だが、山の端からその山腹を射る月の光に照らし出されたあたりからは、大石小石、栄螺のようなの、六尺角に切り出したの、剣のようなのやら、鞠の形をしたのやら、目の届く限り残らず岩で、次第に大きくなって水に浸ったのは、もうただの小山のようだ。」

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向う岸はまた一座の山の裾すそで、頂の方は真暗まっくらだが、山の端はからその山腹を射る月の光に照し出された辺あたりからは大石小石、栄螺さざえのようなの、六尺角に切出したの、剣つるぎのようなのやら、鞠まりの形をしたのやら、目の届く限り残らず岩で、次第に大きく水に蘸ひたったのはただ小山のよう。」

十四

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十四

「(いい具合に今日は水が増えておりますから、中へ入らなくてもこの上でようございます。)と、足の甲を浸してつま先を曲げながら、雪のような素足で石の盤の上に立っていた。

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「(いい塩梅あんばいに今日は水がふえておりますから、中へ入りませんでもこの上でようございます。)と甲を浸ひたして爪先つまさきを屈かがめながら、雪のような素足で石の盤ばんの上に立っていた。

自分たちが立った側は、かえってこちらの山の裾が水に迫って、ちょうど切り穴のような形になり、そこへこの石をはめ込んだようなあつらえ向きの具合。

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自分達が立った側かわは、かえってこっちの山の裾が水に迫って、ちょうど切穴の形になって、そこへこの石を嵌はめたような誂あつらえ。

川上も川下も見えないが、向こうのあの岩山は九十九折りのような形で、流れは五尺、三尺、一間ばかりずつ、上流のほうがだんだん遠くなり、飛び飛びに岩を縫うように見え隠れして、いずれも月光を浴びた銀の鎧の姿。目のあたり近くのは、揺るぎ糸をさばくように真っ白に翻って。

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川上も下流も見えぬが、向うのあの岩山、九十九折つづらおりのような形、流は五尺、三尺、一間ばかりずつ上流の方がだんだん遠く、飛々とびとびに岩をかがったように隠見いんけんして、いずれも月光を浴びた、銀の鎧よろいの姿、目まのあたり近いのはゆるぎ糸を捌さばくがごとく真白に翻ひるがえって。

(結構な流れでございますな。)

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(結構な流れでございますな。)

(はい、この水は源が滝でございます。この山を旅なさる方は、皆どこかで大風のような音をお聞きになります。

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(はい、この水は源が滝たきでございます、この山を旅するお方は皆みな大風のような音をどこかで聞きます。

あなたはこちらへいらっしゃる道でお気づきになりませんでしたか。)

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貴僧あなたはこちらへいらっしゃる道でお心着きはなさいませんかい。)

それこそ、山蛭の大藪へ入ろうという少し前から、その音を聞いていた。

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さればこそ山蛭やまびるの大藪おおやぶへ入ろうという少し前からその音を。

(あれは林に風が当たる音ではないのですか。)

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(あれは林へ風の当るのではございませんので?)

(いえ、誰でもそう申します。あの森から三里ばかり脇道へ入った所に大滝があるのでございます。それはそれは日本一だそうですが、道が険しゅうございますので、十人に一人も参った者はございません。

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(いえ、誰たれでもそう申します、あの森から三里ばかり傍道わきみちへ入りました処に大滝があるのでございます、それはそれは日本一だそうですが、路みちが嶮けわしゅうござんすので、十人に一人参ったものはございません。

その滝が荒れたと申しまして、ちょうど今から十三年前、恐ろしい洪水がございました。こんな高い所まで川の底になりましてね、麓の村も山も家も残らず流れてしまいました。

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その滝が荒あれましたと申しまして、ちょうど今から十三年前、恐おそろしい洪水おおみずがございました、こんな高い処まで川の底になりましてね、麓ふもとの村も山も家も残らず流れてしまいました。

この上の集落も、はじめは二十軒ばかりあったのでございます。この流れもその時からできました。ご覧なさいましな、このとおり、みんな石が流れてきたのでございますよ。)

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この上かみの洞ほらも、はじめは二十軒ばかりあったのでござんす、この流れもその時から出来ました、ご覧なさいましな、この通り皆な石が流れたのでございますよ。)

女はいつのまにか米を研ぎ終えて、衣紋の乱れた、乳の端もほの見える膨らかな胸を反らせて立った。鼻高く口を結んで、目をうっとりと上に向けて頂を仰いだが、月はなお中腹の、あの累々たる巌を照らすばかり。

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婦人おんなはいつかもう米を精しらげ果てて、衣紋えもんの乱れた、乳の端はしもほの見ゆる、膨ふくらかな胸を反そらして立った、鼻高く口を結んで目を恍惚うっとりと上を向いて頂を仰いだが、月はなお半腹のその累々るいるいたる巌いわおを照すばかり。

(今でもこうやって見ますと、怖いようでございます。)

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(今でもこうやって見ますと恐こわいようでございます。)

と、かがんで二の腕のあたりを洗っていると。

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と屈んで二にの腕うでの処を洗っていると。

(あれ、あなた、そんな行儀のいいことをしていらしてはお召し物が濡れます、気味が悪うございますよ。すっぱり裸におなりになってお洗いなさいまし、私が流してさしあげましょう。)

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(あれ、貴僧あなた、そんな行儀ぎょうぎのいいことをしていらしってはお召めしが濡ぬれます、気味が悪うございますよ、すっぱり裸体はだかになってお洗いなさいまし、私が流して上げましょう。)

(いえ、)

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(いえ、)

(いえじゃございません。それ、それ、お法衣の袖が浸るではありませんか、)と言うと、いきなり後ろから帯に手をかけて、身悶えして縮こまるのを、荒っぽくすっぱりと脱がせて取った。

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(いえじゃあござんせぬ、それ、それ、お法衣ころもの袖そでが浸ひたるではありませんか、)というと突然いきなり背後うしろから帯に手をかけて、身悶みもだえをして縮むのを、邪慳じゃけんらしくすっぱり脱ぬいで取った。

私は師匠が厳しかったし、経を読む体だ、肌を脱いだことさえついぞ覚えがない。

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私わしは師匠ししょうが厳きびしかったし、経を読む身体からだじゃ、肌はださえ脱いだことはついぞ覚えぬ。

しかも女の前で、蝸牛が殻を明け渡したようなもので、口をきくことさえ、まして手足を動かすこともできず、背中を丸くして膝を合わせて縮こまっていると、女は脱がせた法衣をかたわらの枝へふわりとかけた。

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しかも婦人おんなの前、蝸牛まいまいつぶろが城を明け渡したようで、口を利きくさえ、まして手足のあがきも出来ず、背中を円くして、膝ひざを合せて、縮かまると、婦人おんなは脱がした法衣ころもを傍かたわらの枝へふわりとかけた。

(お召し物はこうしておきましょう。さあ、お背中を。あれさ、じっとして。

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(お召はこうやっておきましょう、さあお背せなを、あれさ、じっとして。

お嬢様と言ってくださったお礼に、叔母さんが世話を焼くのでございます。お人の悪い。)

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お嬢様とおっしゃって下さいましたお礼に、叔母さんが世話を焼くのでござんす、お人の悪い。)

と言って、片袖を前歯で引き上げ、玉のような二の腕をあらわに背中へ乗せたが、じっと見て、

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といって片袖を前歯で引上げ、玉のような二の腕をあからさまに背中に乗せたが、じっと見て、

(まあ、)

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(まあ、)

(どうかしておりますか。)

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(どうかいたしておりますか。)

(痣のようになって、一面に。)

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(痣あざのようになって、一面に。)

(ええ、それでございます、ひどい目に遭いました。)

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(ええ、それでございます、酷ひどい目に逢あいました。)

思い出してもぞっとします。」

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思い出してもぞッとするて。」

十五

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十五

「女は驚いた顔をして、

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「婦人おんなは驚いた顔をして、

(それでは森の中で。大変でございましたこと。

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(それでは森の中で、大変でございますこと。

旅をする人が、飛騨の山では蛭が降ると言うのは、あそこでございます。

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旅をする人が、飛騨ひだの山では蛭が降るというのはあすこでござんす。

あなたは抜け道をご存じないから、まともに蛭の巣をお通りになったのでございますよ。

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貴僧あなたは抜道をご存じないから正面まともに蛭の巣をお通りなさいましたのでございますよ。

お命があったのが不思議なくらい、馬でも牛でも吸い殺してしまうのですもの。

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お生命いのちも冥加みょうがなくらい、馬でも牛でも吸い殺すのでございますもの。

しかし、疼くようにお痒いのでございましょうね。)

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しかし疼うずくようにお痒かゆいのでござんしょうね。)

(ただいまではもう、痛むばかりになりました。)

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(ただいまではもう痛みますばかりになりました。)

(それでは、こんなものでこすっては柔らかいお肌が擦りむけましょう。)

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(それではこんなものでこすりましては柔やわらかいお肌が擦剥すりむけましょう。)

と言うと、手が綿のように触れた。

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というと手が綿のように障さわった。

それから両方の肩から、背中、横腹、腰まで、さらさら水をかけてはさすってくれる。

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それから両方の肩から、背、横腹、臀いしき、さらさら水をかけてはさすってくれる。

それがですよ、骨まで通って冷たいかというと、そうではなかった。

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それがさ、骨に通って冷たいかというとそうではなかった。

暑い時分のことだが、理屈をいえばこうではあるまい。私の血が沸いたせいか、女のぬくもりのせいか、手で洗ってくれる水がいい具合に身に染みる。もっとも、質のいい水は柔らかなものだそうな。

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暑い時分じゃが、理窟りくつをいうとこうではあるまい、私わしの血が沸わいたせいか、婦人おんなの温気ぬくみか、手で洗ってくれる水がいい工合ぐあいに身に染みる、もっとも質たちの佳いい水は柔かじゃそうな。

その心地の何とも言えなさに、眠気がさしたわけでもあるまいが、うとうとするような具合で、傷の痛みがなくなり、気が遠くなって、ぴたりとくっついている女の体で、私は花びらの中に包まれたような具合。

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その心地ここちの得えもいわれなさで、眠気ねむけがさしたでもあるまいが、うとうとする様子で、疵きずの痛みがなくなって気が遠くなって、ひたと附くっついている婦人おんなの身体で、私わしは花びらの中へ包まれたような工合。

山家の者には似合わない、都にもまれな器量なのは言うまでもないが、弱々しそうな風で、背中を流すうちにも、はっはっと隠すように息がはずむ。もう断ろう断ろうと思いながら、例のうっとりした気持ちで、気づいていながら洗わせていた。

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山家やまがの者には肖合にあわぬ、都にも希まれな器量はいうに及およばぬが弱々しそうな風采ふうじゃ、背中を流す中うちにもはッはッと内証ないしょで呼吸いきがはずむから、もう断ろう断ろうと思いながら、例の恍惚うっとりで、気はつきながら洗わした。

その上、山の気か、女の匂いか、ほんのりといい香りがする。私は後ろでつく息だろうと思った。」

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その上、山の気か、女の香においか、ほんのりと佳い薫かおりがする、私わしは背後うしろでつく息じゃろうと思った。」

上人はちょっと句切って、

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上人しょうにんはちょっと句切って、

「いや、あなた、お手近だ、その明かりを掻き立ててもらいたい。暗いと不埒な話になる。このあたりから先は一つ、明るい所であけすけに片付けてしまいましょう。」

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「いや、お前様お手近じゃ、その明あかりを掻かき立ってもらいたい、暗いと怪けしからぬ話じゃ、ここらから一番野面のづらで遣やっつけよう。」

枕を並べた上人の姿も朧げなほど、明かりは暗くなっていた。さっそく灯心を明るくすると、上人は微笑みながら続けたのである。

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枕まくらを並べた上人の姿も朧おぼろげに明あかりは暗くなっていた、早速燈心とうしんを明くすると、上人は微笑ほほえみながら続けたのである。

「さあ、そうやっていつの間にか、現とも無しに、こう、その不思議な、結構な香りのする暖かい花の中へ柔らかに包まれて、足、腰、手、肩、襟から次第に頭まで一面にかぶさってきたので驚いた。石に尻餅をついて、足を水の中へ投げ出したから落ちたと思ったとたん、女の手が後ろから肩越しに胸を押さえたので、しっかりと掴まった。

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「さあ、そうやっていつの間にやら現うつつとも無しに、こう、その不思議な、結構な薫のする暖あったかい花の中へ柔かに包まれて、足、腰、手、肩、頸えりから次第しだいに天窓あたままで一面に被かぶったから吃驚びっくり、石に尻餅しりもちを搗ついて、足を水の中に投げ出したから落ちたと思うとたんに、女の手が背後うしろから肩越しに胸をおさえたのでしっかりつかまった。

(あなた、お側にいて汗くさくはございませんか。とんだ暑がりなものですから、こうやっておりましてもこんなでございますよ。)

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(貴僧あなた、お傍そばに居て汗臭あせくそうはござんせぬかい、とんだ暑がりなんでございますから、こうやっておりましてもこんなでございますよ。)

と言う、その胸にある手を取ってしまったのを、慌てて放して棒のように立った。

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という胸にある手を取ったのを、慌あわてて放して棒のように立った。

(失礼、)

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(失礼、)

(いいえ、誰も見てはおりませんよ。)

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(いいえ誰も見ておりはしませんよ。)

と澄まして言う。女もいつの間にか着物を脱いで、全身を練り絹のようにあらわにしていたのです。

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と澄すまして言う、婦人おんなもいつの間にか衣服きものを脱いで全身を練絹ねりぎぬのように露あらわしていたのじゃ。

何と、驚かずにいられようか。

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何と驚おどろくまいことか。

(こんなに太っておりますから、もう恥ずかしいほど暑いのでございます。今時分は毎日二度も三度も来ては、こうやって汗を流します。この水がございませんでしたらどういたしましょう。あなた、お手拭い。)

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(こんなに太っておりますから、もうお愧はずかしいほど暑いのでございます、今時は毎日二度も三度も来てはこうやって汗を流します、この水がございませんかったらどういたしましょう、貴僧あなた、お手拭てぬぐい。)

と言って、絞ったのをよこした。

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といって絞しぼったのを寄越よこした。

(それでおみ足をお拭きなさいまし。)

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(それでおみ足をお拭ふきなさいまし。)

いつの間にか、体はちゃんと拭いてあった。お話し申すのも恐れ多いが、はははははは。」

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いつの間にか、体はちゃんと拭いてあった、お話し申すも恐おそれ多いが、はははははは。」

十六

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十六

「なるほど見たところ、着物を着ている時の姿とは違って、肉づきの豊かな、ふっくりとした肌。

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「なるほど見たところ、衣服きものを着た時の姿とは違ちごうて肉ししつきの豊な、ふっくりとした膚はだえ。

(さっき小屋へ入って世話をしましたので、ぬらぬらした馬の鼻息が体中にかかって気味が悪うございます。

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(さっき小屋へ入って世話をしましたので、ぬらぬらした馬の鼻息が体中にかかって気味が悪うござんす。

ちょうどようございますから、私も体を拭きましょう。)

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ちょうどようございますから私も体を拭きましょう。)

と、姉と弟が内輪の話をするような調子。

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と姉弟きょうだいが内端話うちわばなしをするような調子。

手を上げて黒髪を押さえながら、腋の下を手拭いでぐいと拭き、その後を両手で絞りながら立った姿は、ただもう雪のような肌をこうした霊水で清めたというほかない。こういう女の汗なら、薄紅になって流れるだろう。

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手をあげて黒髪をおさえながら腋わきの下を手拭でぐいと拭き、あとを両手で絞りながら立った姿、ただこれ雪のようなのをかかる霊水で清めた、こういう女の汗は薄紅うすくれないになって流れよう。

ちょいちょいと櫛を入れて、

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ちょいちょいと櫛くしを入れて、

(まあ、女がこんなお転婆をいたしまして、川へ落っこちたらどうしましょう。川下へ流れて出ましたら、村里の者が何と言って見ることでしょうね。)

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(まあ、女がこんなお転婆てんばをいたしまして、川へ落おっこちたらどうしましょう、川下かわしもへ流れて出ましたら、村里の者が何といって見ましょうね。)

(白桃の花だと思うでしょう。)

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(白桃しろももの花だと思います。)

と、ふと思いついて何の気もなしに言うと、顔が合った。

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とふと心付いて何の気もなしにいうと、顔が合うた。

すると、いかにも嬉しそうににっこりして、その時だけは初々しく、年も七つ八つ若やぐばかり、生娘の恥じらいを含んで下を向いた。

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すると、さも嬉うれしそうに莞爾にっこりしてその時だけは初々ういういしゅう年紀としも七ツ八ツ若やぐばかり、処女きむすめの羞はじを含ふくんで下を向いた。

私はそのまま目をそらしたが、そのひとときの女の姿が月を浴びて、薄い煙に包まれながら、向こう岸の飛沫に濡れて黒い、なめらかな大きな石へ、青みを帯びて透き通って映るように見えた。

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私わしはそのまま目を外そらしたが、その一段の婦人おんなの姿が月を浴びて、薄い煙に包まれながら向う岸の潵しぶきに濡ぬれて黒い、滑なめらかな大きな石へ蒼味あおみを帯びて透通すきとおって映るように見えた。

するとね、夜目ではっきりとは目に入らなかったが、そもそも何でも洞穴があると見える。

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するとね、夜目で判然はっきりとは目に入いらなんだが地体じたい何でも洞穴ほらあながあるとみえる。

ひらひらと、こちらからもひらひらと、鳥ほどもあろうという大蝙蝠が目の前を遮った。

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ひらひらと、こちらからもひらひらと、ものの鳥ほどはあろうという大蝙蝠おおこうもりが目を遮さえぎった。

(あれ、いけないよ、お客様がいるじゃないかね。)

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(あれ、いけないよ、お客様があるじゃないかね。)

不意を打たれたように叫んで身悶えをしたのは女。

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不意を打たれたように叫んで身悶みもだえをしたのは婦人おんな。

(どうかなさいましたか、)もうちゃんと法衣を着ていたので、気丈夫に尋ねる。

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(どうかなさいましたか、)もうちゃんと法衣ころもを着たから気丈夫きじょうぶに尋たずねる。

(いいえ、)

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(いいえ、)

と言ったきりで、決まりが悪そうに、くるりと後ろ向きになった。

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といったばかりできまりが悪そうに、くるりと後向うしろむきになった。

その時、小犬ほどの鼠色の小坊主が、ちょこちょことやって来て、あなやと思う間もなく、崖から横へ宙をひょいと飛んで、後ろから女の背中へぴったり。

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その時小犬ほどな鼠色ねずみいろの小坊主こぼうずが、ちょこちょことやって来て、あなやと思うと、崖がけから横に宙をひょいと、背後うしろから婦人おんなの背中へぴったり。

裸の立ち姿は腰から下が消えたようになって、そこに抱きついたものがある。

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裸体はだかの立姿は腰から消えたようになって、抱だきついたものがある。

(畜生、お客様が見えないのかい。)

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(畜生ちくしょう、お客様が見えないかい。)

と声に怒りを帯びたが、

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と声に怒いかりを帯びたが、

(お前たちは生意気だよ、)と激しく言うなり、腋の下から覗こうとした例の動物の頭を、振り返りざまに食らわせた。

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(お前達は生意気なまいきだよ、)と激しくいいさま、腋の下から覗のぞこうとした件くだんの動物の天窓あたまを振返ふりかえりさまにくらわしたで。

キッキッと奇声を放って、例の小坊主はそのまま後ろへ飛んでまた宙を飛び、今まで法衣をかけておいた枝の先へ長い手でぶら下がったと思うと、くるりと回って上へ乗り、そのままさらさらと木登りをしたのは、何と猿ではありませんか。

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キッキッというて奇声を放った、件の小坊主はそのまま後飛うしろとびにまた宙を飛んで、今まで法衣ころもをかけておいた、枝の尖さきへ長い手で釣つるし下さがったと思うと、くるりと釣瓶覆つるべがえしに上へ乗って、それなりさらさらと木登きのぼりをしたのは、何と猿さるじゃあるまいか。

枝から枝を伝うと見えて、見上げるほど高い木の、やがて梢まで、かさかさがさり。

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枝から枝を伝うと見えて、見上げるように高い木の、やがて梢こずえまで、かさかさがさり。

まばらな葉の中を透かして、月は山の端を離れた。ちょうどその梢のあたりに。

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まばらに葉の中を透すかして月は山の端はを放れた、その梢のあたり。

女はものに拗ねたよう。今の悪戯、いや、たびたびの、蟇と蝙蝠と、お猿とで三度だ。

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婦人おんなはものに拗すねたよう、今の悪戯いたずら、いや、毎々、蟇ひきと蝙蝠こうもりと、お猿で三度じゃ。

その悪戯にひどく機嫌を損ねた様子で、あまり子どもがはしゃぎ過ぎると、若い母親にはよくある構図です。

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その悪戯に多いたく機嫌きげんを損そこねた形、あまり子供がはしゃぎ過ぎると、若い母様おふくろには得えてある図じゃ。

本当に怒り出す。

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本当に怒り出す。

といった風情で、面倒くさそうに着物を着ていたから、私は何も問わず、小さくなって黙って控えていた。」

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といった風情ふぜいで面倒臭めんどうくさそうに衣服きものを着ていたから、私わしは何にも問わずに小さくなって黙って控ひかえた。」

十七

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十七

「優しさの中に強みがあり、気軽に見えてもどこか落ち着きがあり、馴れ馴れしくて、それでいて犯しがたい品のよさがあり、どんなことでもいざとなれば驚くに足りないという、身に応えるものを持ったふうの女。こうして色っぽく怒り出したからには、きっとろくなことにはなるまい、今この女に邪険にされては木から落ちた猿も同然だと、おっかなびっくり、おずおずと控えていたが、いや、案ずるより産むが易しだった。

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「優しいなかに強みのある、気軽に見えてもどこにか落着のある、馴々なれなれしくて犯し易やすからぬ品のいい、いかなることにもいざとなれば驚くに足らぬという身に応こたえのあるといったような風の婦人おんな、かく嬌瞋きょうしんを発してはきっといいことはあるまい、今この婦人おんなに邪慳じゃけんにされては木から落ちた猿同然じゃと、おっかなびっくりで、おずおず控えていたが、いや案ずるより産うむが安い。

(あなた、さぞおかしかったでございましょうね、)と自分でも思い出したように、快く微笑みながら、

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(貴僧あなた、さぞおかしかったでござんしょうね、)と自分でも思い出したように快く微笑ほほえみながら、

(しようがないのでございますよ。)

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(しようがないのでございますよ。)

以前と変わらず気安くなった。帯ももう締めたので、

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以前と変らず心安くなった、帯も早やしめたので、

(それでは家へ帰りましょう。)

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(それでは家うちへ帰りましょう。)

と米研ぎ桶を小脇に抱え、草履をひっかけて、つと崖へ上った。

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と米磨桶こめとぎおけを小腋こわきにして、草履ぞうりを引ひっかけてつと崖がけへ上のぼった。

(お危のうございますから。)

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(お危あぶのうござんすから。)

(いえ、もうだいぶ勝手が分かっております。)

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(いえ、もうだいぶ勝手が分っております。)

すっかり心得たつもりだったが、さて上がる時に見ると、思いのほか上までがずいぶん高い。

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ずッと心得こころえた意つもりじゃったが、さて上あがる時見ると思いの外ほか上までは大層高い。

やがてまた例の丸太を渡るのだが、さっきも言ったとおり、草の中に横倒しになっている木肌がちょうど鱗のようで、たとえにもよく言うが、松の木は蟒蛇に似ているのです。

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やがてまた例の木の丸太を渡るのじゃが、さっきもいった通り草のなかに横倒れになっている木地がこうちょうど鱗うろこのようで、譬たとえにもよくいうが松の木は蝮うわばみに似ているで。

ことに崖を上のほうへ、いい具合にうねっている様子が、とんだものに持ってこいで、およそこのくらいの胴回りの長虫がと思うと、頭と尾を草に隠して、月明かりの中にありありとそれに見える。

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殊ことに崖を、上の方へ、いい塩梅あんばいに蜿うねった様子が、とんだものに持って来いなり、およそこのくらいな胴中どうなかの長虫がと思うと、頭と尾を草に隠して、月あかりに歴然ありありとそれ。

山道での一件を思い出すと、我ながら足がすくむ。

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山路の時を思い出すと我ながら足が竦すくむ。

女は親切に後ろを気遣っては注意してくれる。

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婦人おんなは深切に後うしろを気遣きづこうては気を付けてくれる。

(それをお渡りになる時、下を見てはなりません。

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(それをお渡りなさいます時、下を見てはなりません。

ちょうど真ん中あたりでよほど谷が深いのでございますから、目が回ると悪うございます。)

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ちょうどちゅうとでよッぽど谷が深いのでございますから、目が廻まうと悪うござんす。)

(はい。)

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(はい。)

ぐずぐずしてはいられないから、我が身を笑い飛ばして、まず乗った。

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愚図愚図ぐずぐずしてはいられぬから、我身わがみを笑いつけて、まず乗った。

引っかかるように刻みが入れてあるのだから、気さえ確かなら足駄でも歩ける。

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引ひっかかるよう、刻きざが入れてあるのじゃから、気さえ確たしかなら足駄あしだでも歩行あるかれる。

それがですよ、例の一件だからたまらない。乗るとこうぐらぐらして、柔らかにずるずると這い出しそうだから、わっと言ってまたぎ、腰をどさりと落とした。

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それがさ、一件じゃから耐たまらぬて、乗るとこうぐらぐらして柔かにずるずると這はいそうじゃから、わっというと引跨ひんまたいで腰をどさり。

(ああ、意気地がございませんねえ。

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(ああ、意気地いくじはございませんねえ。

足駄では無理でございましょう、これとお履き換えなさいまし。あれさ、ちゃんと言うことを聞くんですよ。)

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足駄では無理でございましょう、これとお穿はき換かえなさいまし、あれさ、ちゃんということを肯きくんですよ。)

私はさっきから何となくこの女に畏敬の念が生じていて、善かれ悪しかれ、どのみち命令されるものと心得ていたから、言われるままに草履を履いた。

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私わしはそのさっきから何なんとなくこの婦人おんなに畏敬いけいの念が生じて善か悪か、どの道命令されるように心得たから、いわるるままに草履を穿いた。

するとお聞きなさい、女は足駄を履きながら、手を取ってくれるのです。

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するとお聞きなさい、婦人おんなは足駄を穿きながら手を取ってくれます。

たちまち身が軽くなったように覚えて、わけもなく後ろについていき、ひょいとあの一軒家の裏口の端へ出た。

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たちまち身が軽くなったように覚えて、訳わけなく後うしろに従って、ひょいとあの孤家ひとつやの背戸せどの端はたへ出た。

出会い頭に声をかけた者がある。

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出会頭であいがしらに声を懸かけたものがある。

(やあ、だいぶ手間が取れると思ったが、ご坊様は元の体で帰ってこられたな。)

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(やあ、大分手間が取れると思ったに、ご坊様ぼうさま旧もとの体で帰らっしゃったの。)

(何を言うんだね、おじさん、家の番はどうおしだい。)

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(何をいうんだね、小父様おじさん家うちの番はどうおしだ。)

(もういい時分だ。それにわしもあまり遅くなっては道が困るので、そろそろ青を引き出して支度しておこうと思ってな。)

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(もういい時分じゃ、また私わしも余あんまり遅おそうなっては道が困るで、そろそろ青を引出して支度したくしておこうと思うてよ。)

(それはお待ち遠さまでございました。)

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(それはお待遠まちどおでござんした。)

(何、行ってみなされ、ご亭主は無事だ。いや、なかなかわしの手では口説き落とせなんだ、ははははは。)

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(何さ、行ってみさっしゃいご亭主ていしゅは無事じゃ、いやなかなか私わしが手には口説くどき落されなんだ、ははははは。)

と意味もないことを大笑いして、親父は厩のほうへてくてくと行った。

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と意味もないことを大笑おおわらいして、親仁おやじは厩うまやの方へてくてくと行った。

少年は同じ所になお形を留めている。海月も日に当たらなければ溶けないと見える。」

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白痴ばかはおなじ処になお形を存している、海月くらげも日にあたらねば解けぬとみえる。」

十八

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十八

「ヒイイン! しっ、どうどうどう、と裏口を回る蹄の音が縁側へ響いて、親父は一頭の馬を門前へ引き出した。

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「ヒイイン! しっ、どうどうどうと背戸を廻まわる鰭爪ひづめの音が縁えんへ響ひびいて親仁おやじは一頭の馬を門前へ引き出した。

轡のあたりを取って立ちはだかり、

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轡頭くつわづらを取って立ちはだかり、

(嬢様、それではこのままでわしは参りますよ。はい、ご坊様にたっぷりご馳走してさしあげなされ。)

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(嬢様そんならこのままで私わし参りやする、はい、ご坊様ぼうさまにたくさんご馳走ちそうして上げなされ。)

女は炉縁に行燈を引き寄せ、うつむいて鍋の下を燻していたが、振り仰いで、鉄の火箸を持った手を膝に置き、

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婦人おんなは炉縁ろぶちに行燈あんどうを引附ひきつけ、俯向うつむいて鍋なべの下を燻いぶしていたが、振仰ふりあおぎ、鉄の火箸ひばしを持った手を膝ひざに置いて、

(ご苦労さまでございます。)

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(ご苦労でござんす。)

(いいえ、ご丁寧には及びません。

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(いんえご懇ねんごろには及びましねえ。

しっ!)

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しっ!)

と荒縄の綱を引く。

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と荒縄あらなわの綱つなを引く。

青毛の蘆毛で、裸馬で逞しいが、鬣の薄い牡ですな。

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青で蘆毛あしげ、裸馬はだかうまで逞たくましいが、鬣たてがみの薄い牡おすじゃわい。

その馬がですよ、私も別に馬が珍しくもないが、あの少年の後ろにかしこまって手持ち無沙汰でいたところ、今引いて行こうという時に縁側へひらりと出て、

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その馬がさ、私も別に馬は珍しゅうもないが、白痴殿ばかどのの背後うしろに畏かしこまって手持不沙汰てもちぶさたじゃから今引いて行こうとする時縁側へひらりと出て、

(その馬はどこへ。)

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(その馬はどこへ。)

(おお、諏訪の湖のあたりまで馬市へ出すのです。これから、明日お坊様が歩かれる山道を越えて行きますのでな。)

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(おお、諏訪すわの湖の辺あたりまで馬市へ出しやすのじゃ、これから明朝あしたお坊様が歩行あるかっしゃる山路を越えて行きやす。)

(もし、それに乗って今からお逃げになるおつもりではないでしょうね。)

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(もし、それへ乗って今からお遁にげ遊ばすお意つもりではないかい。)

女は慌ただしく遮って声をかけた。

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婦人おんなは慌あわただしく遮って声を懸けた。

(いえ、もったいない、修行の身が馬で足休めをしようなどとは思いません。)

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(いえ、もったいない、修行しゅぎょうの身が馬で足休めをしましょうなぞとは存じませぬ。)

(何にせよ、人間を乗せられるような馬じゃありませんよ。

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(何でも人間を乗っけられそうな馬じゃあござらぬ。

お坊様は命拾いをなさったのだから、おとなしくして嬢様の袖の中で、今夜は助けてもらいなされ。

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お坊様は命拾いをなされたのじゃで、大人おとなしゅうして嬢様の袖そでの中で、今夜は助けて貰もらわっしゃい。

それではちょっくら行って参りますよ。)

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さようならちょっくら行って参りますよ。)

(あい。)

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(あい。)

(畜生。)

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(畜生ちくしょう。)

と言ったが、馬は動かない。

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といったが馬は出ないわ。

びくびくと蠢いて見える大きな鼻面をこちらへねじ向けて、しきりに私たちのいるほうを見る様子。

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びくびくと蠢うごめいて見える大おおきな鼻面はなッつらをこちらへ捻ねじ向けてしきりに私等わしらが居る方を見る様子。

(どうどうどう、畜生、これはふざけた獣だ、やい!)

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(どうどうどう、畜生これあだけた獣けものじゃ、やい!)

右へ左へと綱を引っ張ったが、脚から根が生えたようにぬっくと立ったままびくともしない。

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右左にして綱を引張ったが、脚あしから根をつけたごとくにぬっくと立っていてびくともせぬ。

親父は大いに苛立って、叩いたり、ぶったり、馬の胴体について二、三度ぐるぐると回ったが、少しも歩かない。

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親仁おやじ大いに苛立いらだって、叩たたいたり、打ぶったり、馬の胴体について二三度ぐるぐると廻ったが少しも歩かぬ。

肩でぶつかるようにして横腹へ体を当てた時、ようやく前足を上げたばかりで、また四つ脚を突っ張ってしまう。

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肩でぶッつかるようにして横腹よこっぱらへ体たいをあてた時、ようよう前足を上げたばかりまた四脚よつあしを突張つッぱり抜く。

(嬢様、嬢様。)

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(嬢様嬢様。)

と親父が喚くと、女はちょっと立って、白いつま先をちょろちょろと運び、真っ黒に煤けた太い柱を楯にして、馬の目の届かないあたりに身を隠した。

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と親仁おやじが喚わめくと、婦人おんなはちょっと立って白い爪つまさきをちょろちょろと真黒まっくろに煤すすけた太い柱を楯たてに取って、馬の目の届かぬほどに小隠れた。

そのうちに、腰に挟んだ煮染めたような、なえなえの手拭いを抜いて、深く刻まれた額の皺の汗を拭き、親父はこれでよしという気構えで再び前へ回ったが、元のとおり少しも動かないので、綱に両手をかけ、足を揃えて反り返るようにして、うむと総身に力を入れた。

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その内腰に挟はさんだ、煮染にしめたような、なえなえの手拭てぬぐいを抜いて克明こくめいに刻んだ額の皺しわの汗を拭ふいて、親仁おやじはこれでよしという気組きぐみ、再び前へ廻ったが、旧もとによって貧乏動びんぼうゆるぎもしないので、綱に両手をかけて足を揃そろえて反返そりかえるようにして、うむと総身そうみに力を入れた。

そのとたん、どうだと思います。

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とたんにどうじゃい。

凄まじくいなないて前足を両方とも宙へ翻したから、小さな親父は仰向けにひっくり返った。ずどんどう、月夜に砂煙がぱっと立つ。

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凄すさまじく嘶いなないて前足を両方中空なかぞらへ翻ひるがえしたから、小さな親仁おやじは仰向けに引ひっくりかえった、ずどんどう、月夜に砂煙がぱっと立つ。

少年にもこれはおかしかったのだろう。この時ばかりは真っ直ぐに首を据えて、厚い唇をばくりと開け、大粒の歯をむき出して、あの宙へ下げている手を風にあおられるように、はらりはらり。

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白痴ばかにもこれは可笑おかしかったろう、この時ばかりじゃ、真直まっすぐに首を据すえて厚い唇くちびるをばくりと開けた、大粒おおつぶな歯を露出むきだして、あの宙へ下げている手を風で煽あおるように、はらりはらり。

(世話が焼けることねえ、)

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(世話が焼けることねえ、)

女は投げ出すように言って、草履を突っかけて土間へついと出る。

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婦人おんなは投げるようにいって草履ぞうりを突つッかけて土間へついと出る。

(嬢様、勘違いなさるな、これはお前様のことではないぞ。何でもはじめから、そこのお坊様に目をつけていましたのさ。畜生、俗縁があるんだろうよ。)

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(嬢様勘違かんちがいさっしゃるな、これはお前様ではないぞ、何でもはじめからそこなお坊様に目をつけたっけよ、畜生俗縁ぞくえんがあるだッぺいわさ。)

俗縁とは驚いた。

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俗縁は驚おどろいたい。

すると女が、

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すると婦人が、

(あなた、ここへいらっしゃる道で、誰かにお会いになりはしませんでしたか。)」

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(貴僧あなたここへいらっしゃる路みちで誰にかお逢あいなさりはしませんか。)」

十九

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十九

「(はい、辻の手前で富山の反魂丹売りに会いましたが、一足先に、やはりこの道へ入りました。)

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「(はい、辻つじの手前で富山の反魂丹売はんごんたんうりに逢いましたが、一足先にやっぱりこの路へ入りました。)

(ああ、そう。)

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(ああ、そう。)

と会心の笑みを漏らして、女は蘆毛のほうを見た。何ともたまらなくおかしいという、はしたない様子で。

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と会心の笑えみを洩もらして婦人おんなは蘆毛あしげの方を見た、およそ耐たまらなく可笑おかしいといったはしたない風采とりなりで。

ごく気を許せそうに見えたので、

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極めて与くみし易やすう見えたので、

(もしや、こちらへは参りませんでしたでしょうか。)

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(もしや此家こちらへ参りませなんだでございましょうか。)

(いいえ、存じません。)

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(いいえ、存じません。)

と言う時には、たちまち犯しがたい者になってしまったので、私は口をつぐんだ。女は、匙を投げて着物の塵を払っている、馬の前足の下の小さな親父を見やって、

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という時たちまち犯すべからざる者になったから、私わしは口をつぐむと、婦人おんなは、匙さじを投げて衣きものの塵ちりを払うている馬の前足の下に小さな親仁おやじを見向いて、

(しようがないねえ、)と言いながら、かなぐるようにしてその細帯を解きかけ、片端が土へ落ちようとするのをかい取って、ちょっとためらう。

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(しょうがないねえ、)といいながら、かなぐるようにして、その細帯を解きかけた、片端かたはしが土へ引こうとするのを、掻取かいとってちょいと猶予ためらう。

(ああ、ああ。)

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(ああ、ああ。)

と濁った声を出して少年が例のひょろりとした手を差し出したので、女は解いた帯を渡してやると、風呂敷を広げたような、たわいのない、力のない手つきで膝の上へたぐり、宝物を守っているようだ。

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と濁にごった声を出して白痴ばかが件くだんのひょろりとした手を差向さしむけたので、婦人おんなは解いたのを渡してやると、風呂敷ふろしきを寛ひろげたような、他愛たわいのない、力のない、膝ひざの上へわがねて宝物ほうもつを守護するようじゃ。

女は衣紋をかき合わせ、乳の下で押さえながら静かに土間を出て、馬の脇へつつと寄った。

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婦人おんなは衣紋えもんを抱き合せ、乳の下でおさえながら静しずかに土間を出て馬の傍わきへつつと寄った。

私はただ呆気に取られて見ていると、爪立ちをして伸び上がり、手をしなやかに上へ向けて、二、三度鬣を撫でたが。

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私わしはただ呆気あっけに取られて見ていると、爪立つまだちをして伸び上り、手をしなやかに空ざまにして、二三度鬣たてがみを撫なでたが。

大きな鼻面の正面にすっくと立った。

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大きな鼻頭はなづらの正面にすっくりと立った。

背丈もすらすらと急に高くなったように見えた。女は目を据え、口を結び、眉を開いてうっとりとした有様で、愛嬌もしなも、世話好きな打ち解けた風もにわかに失せて、神か、魔かと思われる。

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丈せいもすらすらと急に高くなったように見えた、婦人おんなは目を据すえ、口を結び、眉まゆを開いて恍惚うっとりとなった有様ありさま、愛嬌あいきょうも嬌態しなも、世話らしい打解うちとけた風はとみに失うせて、神か、魔まかと思われる。

その時、裏の山、向こうの峰、左右前後にすくすくと立っているものが、一つ一つ嘴を向け、頭をもたげて、この一区画の別天地、親父を下手に控えさせ、馬に向かって佇む月下の美女の姿を覗き込むかのように、陰々として深山の気が籠ってきた。

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その時裏の山、向うの峰みね、左右前後にすくすくとあるのが、一ツ一ツ嘴くちばしを向け、頭かしらを擡もたげて、この一落いちらくの別天地、親仁おやじを下手しもてに控え、馬に面して彳たたずんだ月下の美女の姿を差覗さしのぞくがごとく、陰々いんいんとして深山みやまの気が籠こもって来た。

生ぬるい風のような気配がしたと思うと、左の肩から片肌を脱いだが、右の手を抜いて前へ回し、膨らんだ胸のあたりで、着ていたその単衣を丸めて持ち、霞さえまとわぬ姿になった。

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生なまぬるい風のような気勢けはいがすると思うと、左の肩から片膚かたはだを脱いだが、右の手を脱はずして、前へ廻し、ふくらんだ胸のあたりで着ていたその単衣ひとえを円まるげて持ち、霞かすみも絡まとわぬ姿になった。

馬は背と腹の皮を弛めて、汗もしとどに流れんばかり、突っ張っていた脚もなよなよとして身震いをしたが、鼻面を地につけて一掴みの白い泡を吹き出したと思うと、前足を折ろうとする。

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馬は背せな、腹の皮を弛ゆるめて汗もしとどに流れんばかり、突張つッぱった脚もなよなよとして身震みぶるいをしたが、鼻面はなづらを地につけて一掴ひとつかみの白泡しろあわを吹出ふきだしたと思うと前足を折ろうとする。

その時、顎の下へ手をかけて、片手に持っていた単衣をふわりと投げて馬の目を覆うやいなや、兎のように躍って、仰向けざまに身を翻し、妖気を籠めて朦朧とした月明かりの中、前足の間に肌が挟まったと思うと、着物を抜き取ってかい取りながら、下腹をつと潜って横へ抜けて出た。

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その時、頤あぎとの下へ手をかけて、片手で持っていた単衣をふわりと投げて馬の目を蔽おおうが否や、兎うさぎは躍おどって、仰向あおむけざまに身を翻ひるがえし、妖気ようきを籠こめて朦朧もうろうとした月あかりに、前足の間に膚はだが挟はさまったと思うと、衣きぬを脱して掻取かいとりながら下腹をつと潜くぐって横に抜けて出た。

親父は心得ていたものと見える、この機を逃さず手綱を引いたから、馬はすたすたと健脚を山道へ運んだ。しゃん、しゃん、しゃん、しゃんしゃん、しゃんしゃん——見る間に視界から遠ざかる。

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親仁おやじは差心得さしこころえたものと見える、この機きっかけに手綱たづなを引いたから、馬はすたすたと健脚けんきゃくを山路やまじに上げた、しゃん、しゃん、しゃん、しゃんしゃん、しゃんしゃん、――見る間まに眼界を遠ざかる。

女はもう着物を引っかけて縁側へ入って来て、いきなり帯を取ろうとすると、少年は惜しそうに押さえて放さず、手を上げて女の胸を押さえようとした。

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婦人おんなは早や衣服きものを引ひっかけて縁側えんがわへ入って来て、突然いきなり帯を取ろうとすると、白痴ばかは惜おしそうに押えて放さず、手を上げて、婦人おんなの胸を圧おさえようとした。

邪険に払いのけ、きっと睨んで見せると、そのままがっくりと頭を垂れた。すべての光景は行燈の火もかすかで幻のように見えたが、炉にくべた柴がひらひらと炎の先を立てたので、女はつと走って入る。

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邪慳じゃけんに払い退のけて、きっと睨にらんで見せると、そのままがっくりと頭こうべを垂れた、すべての光景は行燈あんどうの火も幽かすかに幻まぼろしのように見えたが、炉にくべた柴しばがひらひらと炎先ほさきを立てたので、婦人おんなはつと走って入る。

空の月の裏を行くと思うあたり、はるかに馬子唄が聞こえましたよ。」

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空の月のうらを行くと思うあたり遥はるかに馬子歌まごうたが聞えたて。」

二十

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二十

「さて、それからご飯の時です。膳には山家の香の物、生姜を漬けたのと、わかめを茹でたの、塩漬けの名も知らない茸の味噌汁、いや、なかなか人参と干瓢どころではありません。

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「さて、それからご飯の時じゃ、膳ぜんには山家やまがの香こうの物、生姜はじかみの漬つけたのと、わかめを茹うでたの、塩漬の名も知らぬ蕈きのこの味噌汁みそしる、いやなかなか人参にんじんと干瓢かんぴょうどころではござらぬ。

品物は侘しいが、なかなかのお手料理、飢えてはいるし、もったいないほどのお給仕で、盆を膝に構えてその上に肘をつき、頬を支えながら、嬉しそうに見ていましたよ。

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品物は侘わびしいが、なかなかのお手料理、餓うえてはいるし、冥加至極みょうがしごくなお給仕、盆を膝に構えてその上に肱ひじをついて、頬ほおを支えながら、嬉うれしそうに見ていたわ。

縁側にいた少年は、誰も相手にしてくれない退屈に耐えられなくなったものか、ぐたぐたといざり出して、女のそばへそのでっぷりした腹を運んできたが、崩れるようにあぐらをかいて、しきりに私の膳を眺めては指をさした。

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縁側に居た白痴ばかは誰たれも取合とりあわぬ徒然つれづれに堪たえられなくなったものか、ぐたぐたと膝行出いざりだして、婦人おんなの傍そばへその便々べんべんたる腹を持って来たが、崩くずれたように胡坐あぐらして、しきりにこう我が膳を視ながめて、指ゆびさしをした。

(うううう、うううう。)

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(うううう、うううう。)

(何ですね、あとでお上がりなさい、お客様じゃありませんか。)

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(何でございますね、あとでお食あがんなさい、お客様じゃあありませんか。)

少年は情けない顔をして、口をゆがめながらかぶりを振った。

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白痴ばかは情ない顔をして口を曲ゆがめながら頭かぶりを掉ふった。

(嫌?

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(厭いや?

しようがありませんね、それではご一緒に召し上がれ。

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 しょうがありませんね、それじゃご一所いっしょに召しあがれ。

あなた、ご免をこうむりますよ。)

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貴僧あなた、ご免めんを蒙こうむりますよ。)

私は思わず箸を置いて、

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私わしは思わず箸はしを置いて、

(さあ、どうぞお構いなく、とんだお手数をおかけします。)

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(さあどうぞお構いなく、とんだご雑作ぞうさを頂きます。)

(いえ、何のあなた。

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(いえ、何の貴僧あなた。

お前さん、後ほど私と一緒に食べればいいのに。

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お前さん後のちほどに私と一所にお食べなさればいいのに。

困った人でございますよ。)

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困った人でございますよ。)

と如才ない愛想で、手早く同じような膳をこしらえて並べて出した。

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とそらさぬ愛想あいそ、手早くおなじような膳を拵こしらえてならべて出した。

飯の盛りようもかいがいしい女房ぶりで、しかも何となく奥ゆかしい、上品な、良家の風がある。

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飯のつけようも効々かいがいしい女房にょうぼうぶり、しかも何となく奥床おくゆかしい、上品な、高家こうけの風がある。

少年はどんよりした目を上げて膳の上を睨めていたが、

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白痴あほうはどんよりした目をあげて膳の上を睨ねめていたが、

(あれを、ああ、ああ、あれ。)

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(あれを、ああ、ああ、あれ。)

と言って、きょろきょろとあたりを見回す。

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といってきょろきょろと四辺あたりを眗みまわす。

女はじっと見守って、

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婦人おんなはじっと瞻みまもって、

(まあ、いいじゃないか。

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(まあ、いいじゃないか。

そんなものはいつでも食べられます、今夜はお客様がありますよ。)

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そんなものはいつでも食られます、今夜はお客様がありますよ。)

(うむ、いや、いや。)

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(うむ、いや、いや。)

と肩と腹を揺すったが、べそをかいて泣き出しそうだ。

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と肩腹を揺ゆすったが、べそを掻かいて泣出しそう。

女は困り果てたらしい。傍で見ている者にも気の毒なほど。

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婦人おんなは困こうじ果てたらしい、傍かたわらのものの気の毒さ。

(お嬢さん、何のことか存じませんが、おっしゃるとおりになさったらよいではありませんか。

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(嬢様、何か存じませんが、おっしゃる通りになすったがよいではござりませんか。

私に気遣いをしていただくのは、かえって心苦しゅうございます。)

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私わたくしにお気遣きづかいはかえって心苦しゅうござります。)

と丁寧に言った。

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と慇懃いんぎんにいうた。

女はまたもう一度、

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婦人おんなはまたもう一度、

(嫌かい、これでは悪いのかい。)

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(厭かい、これでは悪いのかい。)

少年が泣き出しそうにすると、いかにも恨めしげに流し目に見ながら、壊れかけた戸棚の中から、鉢に入ったものを取り出して手早く少年の膳につけた。

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白痴ばかが泣出しそうにすると、さも怨うらめしげに流眄ながしめに見ながら、こわれごわれになった戸棚とだなの中から、鉢はちに入ったのを取り出して手早く白痴ばかの膳につけた。

(はい。)

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(はい。)

と、わざとらしく、すねたように言って、笑顔をつくる。

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と故わざとらしく、すねたようにいって笑顔造えがおづくり。

はてさて迷惑な、これは目の前で青大将の旨煮か、腹ごもりの猿の蒸し焼きか、災難が軽くても赤蛙の干物を大口でしゃぶるところだろうと、そっと見ていると、片手に椀を持ちながら掴み出したのは古沢庵。

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はてさて迷惑めいわくな、こりゃ目の前で黄色蛇あおだいしょうの旨煮うまにか、腹籠はらごもりの猿の蒸焼むしやきか、災難が軽うても、赤蛙あかがえるの干物ひものを大口にしゃぶるであろうと、そっと見ていると、片手に椀わんを持ちながら掴出つかみだしたのは老沢庵ひねたくあん。

それもですよ、刻んだのではなく、一本を三つに切ったほどの握り太のを横ぐわえにしてやるのです。

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それもさ、刻んだのではないで、一本三ツ切にしたろうという握太にぎりぶとなのを横銜よこぐわえにしてやらかすのじゃ。

女はよくよくあしらいかねたのか、盗み見るように私を見て、さっと顔を赤らめ、初心らしく——そんな質ではあるまいに——恥ずかしげに膝の手拭いの端を口に当てた。

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婦人おんなはよくよくあしらいかねたか、盗ぬすむように私わしを見てさっと顔を赭あからめて初心らしい、そんな質たちではあるまいに、羞はずかしげに膝ひざなる手拭てぬぐいの端はしを口にあてた。

なるほどこの少年はこれなのだろう、体は沢庵色に太っている。

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なるほどこの少年はこれであろう、身体からだは沢庵色にふとっている。

やがてわけもなく餌を平らげて、湯とも言わず、ふっふっと大儀そうに息を向こうへ吐きますよ。

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やがてわけもなく餌食えじきを平たいらげて湯ともいわず、ふッふッと大儀たいぎそうに呼吸いきを向うへ吐つくわさ。

(何ですか、私は胸につかえたようで、ちっとも欲しくございませんから、また後ほど頂きましょう、)

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(何でございますか、私は胸に支つかえましたようで、ちっとも欲しくございませんから、また後のちほどに頂きましょう、)

と、女は自分では箸も取らずに二つの膳を片づけましてね。」

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と婦人おんな自分は箸も取らずに二ツの膳を片づけてな。」

二十一

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二十一

「しばらくしょんぼりしていましたっけ。

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「しばらくしょんぼりしていたっけ。

(あなた、さぞお疲れでしょう、すぐにお休ませ申しましょうか。)

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(貴僧あなた、さぞお疲労つかれ、すぐにお休ませ申しましょうか。)

(ありがとう存じます、まだちっとも眠くはございません。さっき体を洗いましたので、疲れもすっかり治りました。)

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(難有ありがとう存じます、まだちっとも眠くはござりません、さっき体を洗いましたので草臥くたびれもすっかり復なおりました。)

(あの流れはどんな病にでもよく効きます。私が苦労をして骨と皮ばかりに体がやつれましても、半日あそこに浸かっておりますと、みずみずしくなるのでございますよ。

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(あの流れはどんな病にでもよく利きます、私わたしが苦労をいたしまして骨と皮ばかりに体が朽かれましても、半日あすこにつかっておりますと、水々しくなるのでございますよ。

もっとも、これから冬になって山がまるで凍ってしまい、川も崖も残らず雪になりましても、あなたが行水をなさったあそこばかりは水が隠れません。そうして湯気が立ちます。

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もっともあのこれから冬になりまして山がまるで氷ってしまい、川も崕がけも残らず雪になりましても、貴僧あなたが行水を遊ばしたあすこばかりは水が隠かくれません、そうしていきりが立ちます。

鉄砲傷のある猿だの、あなた、足を折った五位鷺だの、いろいろなものが浴みに参りますから、その足跡で崖に道ができるほどでございます。きっとそれが効いたのでございましょう。

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鉄砲疵てっぽうきずのございます猿だの、貴僧あなた、足を折った五位鷺ごいさぎ、種々いろいろなものが浴ゆあみに参りますからその足跡あしあとで崕がけの路が出来ますくらい、きっとそれが利いたのでございましょう。

そんなにお疲れでないなら、こうやってお話をしてくださいまし。寂しくてなりません。本当にお恥ずかしゅうございますが、こんな山の中に引き籠っておりますと、物を言うことも忘れたようで、心細いのでございますよ。

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そんなにございませんければこうやってお話をなすって下さいまし、寂さびしくってなりません、本当ほんとにお愧はずかしゅうございますが、こんな山の中に引籠ひっこもっておりますと、ものをいうことも忘れましたようで、心細いのでございますよ。

あなた、それでもお眠いのならご遠慮なさいますなね。

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貴僧あなた、それでもお眠ければご遠慮えんりょなさいますなえ。

別に寝室と申してもございませんが、その代わり蚊は一匹もおりませんよ。町のほうではね、この上の集落の者は、里へ泊まりに来た時に蚊帳を吊って寝かせようとすると、どうして入るのか分からないので梯子を貸せと喚いた、などと申してからかうのでございます。

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別にお寝室ねまと申してもございませんがその代り蚊かは一ツも居ませんよ、町方まちかたではね、上かみの洞ほらの者は、里へ泊りに来た時蚊帳かやを釣つって寝かそうとすると、どうして入るのか解らないので、梯子はしごを貸せいと喚わめいたと申して嬲なぶるのでございます。

たんと朝寝をなさっても鐘は聞こえず、鶏も鳴きません。犬だっておりませんから、お気楽でございましょう。

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たんと朝寐あさねを遊ばしても鐘かねは聞えず、鶏とりも鳴きません、犬だっておりませんからお心安こころやすうござんしょう。

この人も生まれ落ちるとすぐこの山で育ちましたので、何も知りません代わりに、気のいい人で、ちっとも気詰まりなことはございません。

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この人も生れ落ちるとこの山で育ったので、何にも存じません代り、気のいい人でちっともお心置こころおきはないのでござんす。

それでも身なりの変わった方がいらっしゃると、大事にしてお辞儀をすることだけは心得ておりますのに、まだご挨拶をいたしませんね。

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それでも風俗ふうのかわった方がいらっしゃいますと、大事にしてお辞儀じぎをすることだけは知ってでございますが、まだご挨拶あいさつをいたしませんね。

この頃は体がだるいと見えて、お怠けさんになってしまわれたよ。

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この頃ごろは体がだるいと見えてお惰なまけさんになんなすったよ。

いいえ、まるきり愚かなのではございません、何でもちゃんと分かっております。

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いいえ、まるで愚おろかなのではございません、何でもちゃんと心得こころえております。

さあ、ご坊様にご挨拶をなさってください。

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さあ、ご坊様にご挨拶をなすって下さい。

まあ、お辞儀をお忘れかい。)

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まあ、お辞儀をお忘れかい。)

と親しげに身を寄せ、顔を覗き込んで、いそいそと言うと、少年はふらふらと両手をついて、ぜんまいが切れたようにがっくりと一礼した。

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と親しげに身を寄せて、顔を差し覗のぞいて、いそいそしていうと、白痴ばかはふらふらと両手をついて、ぜんまいが切れたようにがっくり一礼。

(はい、)と言って、私も何か胸が迫って頭を下げた。

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(はい、)といって私わしも何か胸が迫せまって頭つむりを下げた。

そのまま、そのうつむいた拍子に筋が抜けたらしく、横へ崩れようとするのを、女は優しく助け起こして、

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そのままその俯向うつむいた拍子ひょうしに筋が抜けたらしい、横に流れようとするのを、婦人おんなは優しゅう扶たすけ起して、

(おお、よくできたねえ。)

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(おお、よくしたねえ。)

天晴れと言いたそうな顔つきで、

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天晴あっぱれといいたそうな顔色かおつきで、

(あなた、言って聞かせれば何でもできるようになるだろうと思いますけれども、この人の病ばかりはお医者の手でも、あの水でも治りませんでした。両足が立ちませんのですから、何を覚えさせても役には立ちません。

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(貴僧あなた、申せば何でも出来ましょうと思いますけれども、この人の病ばかりはお医者の手でもあの水でも復なおりませなんだ、両足が立ちませんのでございますから、何を覚えさしましても役には立ちません。

それにご覧なさいまし、お辞儀一つするのさえ、あのとおり大儀そうです。

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それにご覧なさいまし、お辞儀一ツいたしますさえ、あの通り大儀たいぎらしい。

物を教えれば、覚えるのにさぞ骨が折れて切のうございましょう。体を苦しませるだけだと思って何もさせずにおきますから、だんだんと、手を動かす働きも、物を言うことも忘れてしまいました。

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ものを教えますと覚えますのにさぞ骨が折れて切せつのうござんしょう、体を苦しませるだけだと存じて何にもさせないで置きますから、だんだん、手を動かす働はたらきも、ものをいうことも忘れました。

それでもあの、唄が唄えますのよ。

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それでもあの、謡うたが唄うたえますわ。

二つ三つ、今でも知っておりますよ。

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二ツ三ツ今でも知っておりますよ。

さあ、お客様に一つお聞かせなさいましな。)

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さあお客様に一ツお聞かせなさいましなね。)

少年は女を見て、また私の顔をじろじろ見て、人見知りをするといった様子で首を振った。」

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白痴ばかは婦人おんなを見て、また私わしが顔をじろじろ見て、人見知ひとみしりをするといった形で首を振った。」

二十二

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二十二

「あれこれと、女が励ますように、なだめすかすようにして勧めると、少年は首を曲げて、例の臍をもてあそびながら唄った。

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「左右とこうして、婦人おんなが、励はげますように、賺すかすようにして勧めると、白痴ばかは首を曲げてかの臍へそを弄もてあそびながら唄った。

木曽の御嶽山は夏でも寒い、

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木曽きその御嶽山おんたけさんは夏でも寒い、

袷を送ってやりたい、足袋も添えて。

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袷あわせ遣やりたや足袋たび添そえて。

(よく知っておりましょう、)と女は聞き澄ましてにっこりする。

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(よく知っておりましょう、)と婦人おんなは聞き澄して莞爾にっこりする。

不思議なことに、唄った時の少年の声は、この話をお聞きのあなたはもとより、私が推量したのとも月とすっぽん、雲泥の差、天地ほどの違いで、節回しといい、上げ下げといい、息の続き方といい、第一その清らかな涼しい声というものは、とうていこの少年の喉から出たものではない。

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不思議や、唄った時の白痴ばかの声はこの話をお聞きなさるお前様はもとよりじゃが、私わしも推量したとは月鼈雲泥げっべつうんでい、天地の相違、節廻ふしまわし、あげさげ、呼吸いきの続くところから、第一その清らかな涼しい声という者は、到底とうていこの少年の咽喉のどから出たものではない。

まるで前世のこの少年の身が、冥土から管であのふくれた腹へ通わせて寄越しているとしか聞こえませんでしたよ。

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まず前さきの世のこの白痴ばかの身が、冥土めいどから管でそのふくれた腹へ通わして寄越よこすほどに聞えましたよ。

私はかしこまって聞き終えると、膝に手をついたきり、どうしても顔を上げてそこの二人を見ることができない。何か胸がきりきりして、はらはらと涙がこぼれた。

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私は畏かしこまって聞き果てると、膝に手をついたッきりどうしても顔を上げてそこな男女ふたりを見ることが出来ぬ、何か胸がキヤキヤして、はらはらと落涙らくるいした。

女は目ざとく見つけたようで、

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婦人おんなは目早く見つけたそうで、

(おや、あなた、どうかなさいましたか。)

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(おや、貴僧あなた、どうかなさいましたか。)

急には物も言えなかったが、ようやく、

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急にものもいわれなんだが漸々ようよう、

(はい、なあに、変わったことでもございません。私もお嬢さんのことは別にお尋ね申しませんから、あなたも何もお問いくださいますな。)

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(はい、なあに、変ったことでもござりませぬ、私わしも嬢様のことは別にお尋たずね申しませんから、貴女あなたも何にも問うては下さりますな。)

と、事情は語らず、ただ思いを込めてそう言ったが、実は以前から様子でも知れる。金の釵、玉の簪をかざし、蝶のような衣をまとい、珠を飾った履物を履けば、まさに驪山に迎え入れて抱かれるべき豊満で妖艶な人が、あの男に対する扱いの優しさ、隔てのなさ、親切さで、他人事ながら嬉しくて、思わず涙が流れたのだ。

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と仔細しさいは語らずただ思い入ってそう言うたが、実は以前から様子でも知れる、金釵玉簪きんさぎょくさんをかざし、蝶衣ちょういを纏まとうて、珠履しゅりを穿うがたば、正まさに驪山りさんに入って、相抱あいいだくべき豊肥妖艶ほうひようえんの人が、その男に対する取廻しの優しさ、隔へだてなさ、深切しんせつさに、人事ひとごとながら嬉うれしくて、思わず涙が流れたのじゃ。

すると、人の腹の中を読みかねるような女ではない、たちまち事情を悟ったのか、

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すると人の腹の中を読みかねるような婦人おんなではない、たちまち様子を悟さとったかして、

(あなたは本当にお優しい。)

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(貴僧あなたはほんとうにお優しい。)

と言って、何とも言えない色を目にたたえて、じっと見た。

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といって、得えも謂いわれぬ色を目に湛たたえて、じっと見た。

私も頭を垂れた。向こうでもうつむく。

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私わしも首こうべを低たれた、むこうでも差俯向さしうつむく。

いや、行燈がまた薄暗くなってきたようだが、おそらくこれは少年のせいですな。

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いや、行燈あんどうがまた薄暗くなって参ったようじゃが、恐らくこりゃ白痴ばかのせいじゃて。

その時ですよ。

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その時よ。

座が白けて、しばらく言葉が途絶えたうちに所在がないので、唄い手の太夫は退屈をしたと見えて、顔の前の行燈を吸い込むような大あくびをしたから。

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座が白けて、しばらく言葉が途絶とだえたうちに所在がないので、唄うたいの太夫たゆう、退屈たいくつをしたとみえて、顔の前の行燈あんどうを吸い込むような大欠伸おおあくびをしたから。

身動きをしてね、

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身動きをしてな、

(寝ようちゃあ、寝ようちゃあ、)と、よたよた体を持て余しますよ。

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(寝ようちゃあ、寝ようちゃあ、)とよたよた体を持扱もちあつかうわい。

(眠くなったのかい、もうお寝みかい。)

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(眠うなったのかい、もうお寝か。)

と言ったが、座り直して、ふと気がついたようにあたりを見回した。

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といったが坐すわり直ってふと気がついたように四辺あたりを眗みまわした。

外はちょうど真昼のようで、月の光は開け放った家の中へはらはらと射し込み、紫陽花の色もあざやかに青かった。

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戸外おもてはあたかも真昼のよう、月の光は開あけ拡ひろげた家やの内うちへはらはらとさして、紫陽花あじさいの色も鮮麗あざやかに蒼あおかった。

(あなたも、もうお休みなさいますか。)

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(貴僧あなたももうお休みなさいますか。)

(はい、ご厄介になります。)

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(はい、ご厄介やっかいにあいなりまする。)

(まあ、今この人を寝かせます、ごゆっくりなさいましな。

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(まあ、いま宿やどを寝かします、おゆっくりなさいましな。

外へは近うございますが、夏は広いほうがかえってよろしゅうございましょう。私どもは納戸で休みますから、あなたはここでお広くおくつろぎになるのがようございます。ちょいとお待ちを。)

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戸外おもてへは近うござんすが、夏は広い方が結句けっく宜ようございましょう、私わたしどもは納戸なんどへ臥ふせりますから、貴僧あなたはここへお広くお寛くつろぎがようござんす、ちょいと待って。)

と言いかけてつと立ち、つかつかと足早に土間へ下りた。あまりに身のこなしが活発だったので、その拍子に黒髪が先を巻いたまま項へ崩れ落ちた。

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といいかけてつッと立ち、つかつかと足早に土間へ下りた、余り身のこなしが活溌かっばつであったので、その拍子に黒髪が先を巻いたまま項うなじへ崩くずれた。

鬢を押さえて戸に掴まり、外を透かして見ていたが、独り言を言った。

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鬢びんをおさえて戸につかまって、戸外おもてを透すかしたが、独言ひとりごとをした。

(おやおや、さっきの騒ぎで櫛を落としたらしい。)

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(おやおやさっきの騒さわぎで櫛くしを落したそうな。)

なるほど、馬の腹を潜った時だ。」

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いかさま馬の腹を潜くぐった時じゃ。」

二十三

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二十三

この時、下の廊下に足音がして、静かに大股で歩いたのが、ひっそりしているのでよく聞こえる。

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この折から下の廊下ろうかに跫音あしおとがして、静しずかに大跨おおまたに歩行あるいたのが、寂せきとしているからよく。

やがて用を足した様子で、雨戸をばたりと開けるのが聞こえた。手水鉢へ柄杓の響き。

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やがて小用こようを達たした様子、雨戸をばたりと開けるのが聞えた、手水鉢ちょうずばちへ柄杓ひしゃくの響ひびき。

「おお、積もった、積もった。」

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「おお、積つもった、積った。」

と呟いたのは、宿屋の亭主の声である。

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と呟つぶやいたのは、旅籠屋はたごやの亭主の声である。

「ほほう、この若狭の商人はどこかへ泊まったと見える。何か面白い夢でも見ているかな。」

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「ほほう、この若狭わかさの商人あきんどはどこかへ泊ったと見える、何か愉快おもしろい夢でも見ているかな。」

「どうぞその後を、それから。」

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「どうぞその後を、それから。」

と、聞く身にはよそごとを言われるのがもどかしく、そっけなく続きを促した。

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と聞く身には他事をいううちが牴牾もどかしく、膠にべもなく続きを促うながした。

「さて、夜も更けました、」

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「さて、夜も更ふけました、」

と言って、旅僧はまた語り出した。

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といって旅僧たびそうはまた語出かたりだした。

「たいてい推量もなさるでしょうが、いくら草臥れていても、申し上げたような深山の一軒家では眠れるものではない。それに少し気になって、はじめのうち私を寝かさなかったこともあるし、目は冴えてまじまじしていたが、さすがに疲れがひどいから、頭は少しぼんやりしてきた。何しろ夜の白むのが待ち遠しくてならない。

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「たいてい推量もなさるであろうが、いかに草臥くたびれておっても申上げたような深山みやまの孤家ひとつやで、眠られるものではない、それに少し気になって、はじめの内私わしを寝かさなかった事もあるし、目は冴さえて、まじまじしていたが、さすがに、疲つかれが酷ひどいから、心しんは少しぼんやりして来た、何しろ夜の白むのが待遠まちどおでならぬ。

そこで、はじめのうちは我知らず鐘の音が聞こえるのを頼りにして、今鳴るか、もう鳴るか、はて、時刻はたっぷり経ったはずなのにと怪しんだが、やがて気がついた、こういう所では山寺どころではないと思うと、にわかに心細くなった。

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そこではじめの内は我ともなく鐘の音の聞えるのを心頼みにして、今鳴るか、もう鳴るか、はて時刻はたっぷり経たったものをと、怪あやしんだが、やがて気が付いて、こういう処じゃ山寺どころではないと思うと、にわかに心細くなった。

その時はもう、夜はものにたとえれば谷の底だ。少年のだらしのない寝息も聞こえなくなると、たちまち戸の外に何かの気配がしてきた。

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その時は早や、夜がものに譬たとえると谷の底じゃ、白痴ばかがだらしのない寐息ねいきも聞えなくなると、たちまち戸の外にものの気勢けはいがしてきた。

獣の足音のようで、それほど遠くから歩いて来たのではないらしい。猿も蟇もいる所だと、気休めにまず考えたが、なかなかどうして。

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獣けものの跫音のようで、さまで遠くの方から歩行あるいて来たのではないよう、猿も、蟇ひきも、居る処と、気休めにまず考えたが、なかなかどうして。

しばらくすると、今そいつが正面の戸に近づいたなと思ったのが、羊の鳴き声になる。

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しばらくすると今そやつが正面の戸に近ちかづいたなと思ったのが、羊の鳴声になる。

私はそちらを枕にして寝ていたのだから、つまり枕元のすぐ外です。

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私はその方を枕まくらにしていたのじゃから、つまり枕頭まくらもとの戸外おもてじゃな。

しばらくすると、右手のあの紫陽花が咲いていた花の下あたりで、鳥の羽ばたく音。

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しばらくすると、右手めてのかの紫陽花が咲いていたその花の下あたりで、鳥の羽ばたきする音。

むささびか何か知らないが、きっきっと鳴いて屋根の棟へ上がり、やがておよそ小山ほどもあろうかと感じられるものが胸を押すほどに近づいてきて、牛が鳴いた。遠くのほうからひたひたと小刻みに駆けて来るのは、二本足に草鞋を履いた獣と思われた。いや、さまざまなものがむらむらと家のぐるりを取り巻いたようで、二十、三十というものの鼻息、羽音、中には囁いているものもある。

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むささびか知らぬがきッきッといって屋の棟むねへ、やがておよそ小山ほどあろうと気取けどられるのが胸を圧おすほどに近ちかづいて来て、牛が鳴いた、遠くの彼方かなたからひたひたと小刻こきざみに駈かけて来るのは、二本足に草鞋わらじを穿はいた獣と思われた、いやさまざまにむらむらと家うちのぐるりを取巻いたようで、二十三十のものの鼻息、羽音、中には囁ささやいているのがある。

ちょうど何ですな、あの畜生道の地獄絵を月夜に映したような怪しい姿が、板戸一枚を隔てて。魑魅魍魎というのはこれでしょうか、ざわざわと木の葉がそよぐような気配だった。

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あたかも何よ、それ畜生道ちくしょうどうの地獄の絵を、月夜に映したような怪しの姿が板戸一枚、魑魅魍魎ちみもうりょうというのであろうか、ざわざわと木の葉が戦そよぐ気色けしきだった。

息を凝らすと、納戸で、

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息を凝こらすと、納戸で、

(うむ、)と言って長く息を引き、ひと声、うなされたのは女だ。

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(うむ、)といって長く呼吸いきを引いて一声ひとこえ、魘うなされたのは婦人おんなじゃ。

(今夜はお客様があるよ。)

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(今夜はお客様があるよ。)

と叫んだ。

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と叫んだ。

(お客様があるじゃないか。)

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(お客様があるじゃないか。)

としばらく経って、二度目のはっきりとした涼しい声。

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としばらく経って二度目のははっきりと清すずしい声。

ごく低い声で、

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極めて低声こごえで、

(お客様があるよ。)

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(お客様があるよ。)

と言って寝返る音がした。さらに寝返る音がした。

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といって寝返る音がした、更さらに寝返る音がした。

戸の外のものの気配はどよめきを立てるようで、ぐらぐらと家が揺らいだ。

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戸の外のものの気勢けはいは動揺どよめきを造るがごとく、ぐらぐらと家が揺ゆらめいた。

私は陀羅尼を唱えた。

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私わしは陀羅尼だらにを呪じゅした。

若不順我呪 悩乱説法者

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若不順我呪にゃくふじゅんがしゅ 悩乱説法者のうらんせっぽうじゃ

頭破作七分 如阿梨樹枝

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頭破作七分ずはさしちぶん 如阿梨樹枝にょありじゅし

如殺父母罪 亦如厭油殃

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如殺父母罪にょしぶもざい 亦如厭油殃やくにょおうゆおう

斗秤欺誑人 調達破僧罪

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斗秤欺誑人としょうごおうにん 調達破僧罪じょうだつはそうざい

犯此法師者 当獲如是殃

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犯此法師者ほんしほっししゃ 当獲如是殃とうぎゃくにょぜおう

と一心不乱に唱えると、さっと木の葉を巻いて風が南へ吹いたが、たちまち静まり返り、夫婦の寝間もひっそりとした。」

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と一心不乱、さっと木の葉を捲まいて風が南みんなみへ吹いたが、たちまち静しずまり返った、夫婦が閨ねやもひッそりした。」

二十四

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二十四

「翌日また昼頃、里近くの滝のある所で、昨日馬を売りに行った親父の帰りに出会った。

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「翌日また正午頃ひるごろ、里近く、滝のある処で、昨日きのう馬を売りに行った親仁おやじの帰りに逢おうた。

ちょうど私が修行に出るのをやめて一軒家へ引き返し、あの女と一緒に生涯を送ろうと思っていたところで。

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ちょうど私わしが修行に出るのを止よして孤家ひとつやに引返して、婦人おんなと一所いっしょに生涯しょうがいを送ろうと思っていたところで。

実を申すと、ここへ来る途中でもそのことばかり考えていた。蛇の橋も幸いになく、蛭の林もなかったが、道が難儀なのにつけても、汗が流れて心持ちが悪いのにつけても、今さら行脚もつまらない。

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実を申すとここへ来る途中でもその事ばかり考える、蛇の橋も幸さいわいになし、蛭ひるの林もなかったが、道が難渋なんじゅうなにつけても、汗が流れて心持が悪いにつけても、今更いまさら行脚あんぎゃもつまらない。

紫の袈裟をかけて七堂伽藍に住んだところで何ほどのこともあるまい、生き仏様だといってわあわあ拝まれれば、人いきれで胸が悪くなるばかりではないか。

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紫むらさきの袈裟けさをかけて、七堂伽藍しちどうがらんに住んだところで何ほどのこともあるまい、活仏様いきぼとけさまじゃというて、わあわあ拝まれれば人いきれで胸が悪くなるばかりか。

少しお話しするのもいかがかと思って、さっきは細かく申しませんでしたが、昨夜も少年を寝かしつけると、女がまた炉のある所へやって来て、世の中へ苦労をしに出るより、夏は涼しく冬は暖かいこの流れのそばで、一緒に私のそばにおいでなさいと言ってくれる。まだまだそれだけなら自分に魔が差したというだけのことだけれども、ここで我が身に我が身の言い訳が立つというのは、しきりにあの女が不憫でならないからだ。深山の一軒家で少年の相手をして言葉も通じず、日が経つにつれて物を言うことさえ忘れるような気がすると言うのは、何ということか!

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ちとお話もいかがじゃから、さっきはことを分けていいませなんだが、昨夜ゆうべも白痴ばかを寐ねかしつけると、婦人おんながまた炉のある処へやって来て、世の中へ苦労をしに出ようより、夏は涼しく、冬は暖い、この流ながれに一所に私わたしの傍そばにおいでなさいというてくれるし、まだまだそればかりでは自分に魔が魅さしたようじゃけれども、ここに我身で我身に言訳いいわけが出来るというのは、しきりに婦人おんなが不便ふびんでならぬ、深山みやまの孤家ひとつやに白痴ばかの伽とぎをして言葉も通ぜず、日を経ふるに従うてものをいうことさえ忘れるような気がするというは何たる事!

ことに今朝も東雲の頃に袂を振り切って別れようとすると、お名残惜しい、こんな所でこうして老い朽ちる身の、再びお目にかかることもありますまい、ささやかな小川の水にでも、どこかで白桃の花が流れるのをご覧になったら、私の体が谷川に沈んでちぎれちぎれになったのだと思ってください、と、しおれながら、それでもなお親切に、道はただこの谷川の流れに沿って行きさえすればどれほど遠くても里に出られる、目の下近くで水が躍って滝になって落ちるのを見たら、人家が近づいたと安心なさるように、と気をつけてくれて、一軒家の見えなくなったあたりで指をさして教えてくれた。

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殊ことに今朝けさも東雲しののめに袂たもとを振り切って別れようとすると、お名残惜なごりおしや、かような処にこうやって老朽おいくちる身の、再びお目にはかかられまい、いささ小川の水になりとも、どこぞで白桃しろももの花が流れるのをご覧になったら、私の体が谷川に沈んで、ちぎれちぎれになったことと思え、といって悄しおれながら、なお深切しんせつに、道はただこの谷川の流れに沿うて行きさえすれば、どれほど遠くても里に出らるる、目の下近く水が躍おどって、滝になって落つるのを見たら、人家が近づいたと心を安んずるように、と気をつけて、孤家ひとつやの見えなくなった辺あたりで、指ゆびさしをしてくれた。

その手と手を取り交わすまではいかずとも、そばに寄り添って、朝夕の話し相手をして、茸の汁でご飯を食べたり、私が焚き木を焚いて、女が鍋をかけて、私が木の実を拾って、女が皮を剥いて、それから障子の内と外で話をしたり笑ったり、それから谷川で二人して、あの時のように女が裸になって私の背中へ息が通って、微妙な香りの花びらに暖かく包まれたら、そのまま命が失せてもいい!

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その手と手を取交とりかわすには及ばずとも、傍そばにつき添そって、朝夕の話対手はなしあいて、蕈きのこの汁でご膳ぜんを食べたり、私わしが榾ほだを焚たいて、婦人おんなが鍋なべをかけて、私わしが木この実みを拾って、婦人おんなが皮を剥むいて、それから障子しょうじの内と外で、話をしたり、笑ったり、それから谷川で二人して、その時の婦人おんなが裸体はだかになって私わしが背中へ呼吸いきが通かよって、微妙びみょうな薫かおりの花びらに暖あたたかに包まれたら、そのまま命が失せてもいい!

滝の水を見るにつけても耐えがたいのはそのことだった。いや、冷や汗が流れますよ。

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滝の水を見るにつけても耐たえ難がたいのはその事であった、いや、冷汗ひやあせが流れますて。

その上、もう気がたるみ、筋が弛んで、歩くのにも飽きが来て、喜ばなければならないはずの人家が近づいたことも、たかだか皺だらけで口の臭い婆さんに渋茶をふるまわれるのが関の山と、里へ入るのも嫌になったから、石の上へ膝をかけた。ちょうど目の下にある滝でした。これがですよ、後で聞くと女夫滝というのだそうで。

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その上、もう気がたるみ、筋すじが弛ゆるんで、早はや歩行あるくのに飽あきが来て、喜ばねばならぬ人家が近づいたのも、たかがよくされて口の臭くさい婆ばあさんに渋茶を振舞ふるまわれるのが関の山と、里へ入るのも厭いやになったから、石の上へ膝ひざを懸かけた、ちょうど目の下にある滝じゃった、これがさ、後のちに聞くと女夫滝めおとだきと言うそうで。

真ん中にまず、鰐鮫が口を開けたような先の尖った黒い大岩が突き出ていて、上から流れて来る、さっと瀬の早い谷川がこれに当たって二つに分かれ、およそ四丈ばかりの滝になってどうと落ち、また暗い碧の淵に白布を織って、矢を射るように里へ出るのだが、その岩にせかれたほうは六尺ばかり、これは川幅の一幅を裂いて糸も乱れずに落ちる。もう一方は幅が狭く三尺ほど、この下には雑多な岩が並んでいると見えて、ちらちらちらちらと玉の簾を百にも千にも砕いたようで、例の鰐鮫の岩に、擦れつ、もつれつ。」

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真中にまず鰐鮫わにざめが口をあいたような先のとがった黒い大巌おおいわが突出つきでていると、上から流れて来るさっと瀬せの早い谷川が、これに当って両ふたつに岐わかれて、およそ四丈ばかりの滝になってどっと落ちて、また暗碧あんぺきに白布しろぬのを織って矢を射るように里へ出るのじゃが、その巌にせかれた方は六尺ばかり、これは川の一幅ひとはばを裂さいて糸も乱れず、一方は幅が狭い、三尺くらい、この下には雑多な岩が並ぶとみえて、ちらちらちらちらと玉の簾すだれを百千に砕くだいたよう、件くだんの鰐鮫わにざめの巌に、すれつ、縋もつれつ。」

二十五

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二十五

「せめて一筋でも岩を越えて男滝に縋りつこうとする形で、それでも間を隔てられて、末までは雫も通わないので、揉まれ、揺られて、つぶさに辛苦をなめるという風情。こちらは姿もやつれ、形も細って、流れる音さえ別ものに、泣くのか、恨むのかとも思われるが、あわれにも優しい女滝です。

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「ただ一筋ひとすじでも巌を越して男滝おだきに縋すがりつこうとする形、それでも中を隔へだてられて末までは雫しずくも通わぬので、揉もまれ、揺られて具つぶさに辛苦しんくを嘗なめるという風情ふぜい、この方は姿も窶やつれ容かたちも細って、流るる音さえ別様に、泣くか、怨うらむかとも思われるが、あわれにも優しい女滝めだきじゃ。

男滝のほうはうらはらで、石を砕き、地を貫く勢い、堂々たる有様だ。これが二つ、例の岩に当たって左右に分かれ、二筋となって落ちるのが身に染みて、女滝の心を砕く姿は、男の膝に取りついて美女が泣いて身を震わせるようで、岸にいてさえ体がわななき、肉が躍る。

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男滝の方はうらはらで、石を砕き、地を貫つらぬく勢いきおい、堂々たる有様ありさまじゃ、これが二つ件くだんの巌に当って左右に分れて二筋となって落ちるのが身に浸しみて、女滝の心を砕く姿は、男の膝に取ついて美女が泣いて身を震ふるわすようで、岸に居てさえ体がわななく、肉が跳おどる。

まして、この水上は昨日あの一軒家の女と水を浴びた所だと思うと、気のせいか、その女滝の中に絵のようなあの女の姿がありありと、浮いて出たと思うと巻き込まれ、沈んだと思うとまた浮いて、千筋に乱れる水とともにその肌が粉に砕けて、花びらが散り込むような。

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ましてこの水上みなかみは、昨日きのう孤家ひとつやの婦人おんなと水を浴びた処と思うと、気のせいかその女滝の中に絵のようなかの婦人おんなの姿が歴々ありあり、と浮いて出ると巻込まれて、沈んだと思うとまた浮いて、千筋ちすじに乱るる水とともにその膚はだえが粉こに砕けて、花片はなびらが散込むような。

あなやと思うとさらに、元の顔も、胸も、乳も、手足も全き姿となって、浮きつ沈みつ、ぱっと刻まれ、あっと見る間にまた現れる。

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あなやと思うと更に、もとの顔も、胸も、乳も、手足も全まったき姿となって、浮いつ沈みつ、ぱッと刻まれ、あッと見る間にまたあらわれる。

私はたまらず、真っ逆さまに滝の中へ飛び込んで、女滝をしかと抱いたとまで思った。

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私わしは耐たまらず真逆まっさかさまに滝の中へ飛込んで、女滝をしかと抱いたとまで思った。

気がつくと、男滝のほうはどうどうと地響きを打たせて。

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気がつくと男滝の方はどうどうと地響じひびき打たせて。

山彦を呼んで轟き流れている。

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山彦やまびこを呼んで轟とどろいて流れている。

ああ、その力をもってなぜ救わないのか、ままよ!

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ああその力をもってなぜ救わぬ、儘ままよ!

滝に身を投げて死ぬくらいなら、元の一軒家へ引き返せ。

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滝に身を投げて死のうより、旧もとの孤家ひとつやへ引返せ。

汚らわしい欲があるからこそ、こうなった上にまだ躊躇するのだ。あの顔を見て声を聞けるなら、あの夫婦が同じ床につくのに枕を並べたって差し支えない、それでも汗まみれになって修行をして坊主で果てるよりはよほどましだと、思い切って戻ろうとして、石を離れて身を起こした。その後ろから一つ背中を叩いて、

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汚けがらわしい欲のあればこそこうなった上に躊躇ちゅうちょするわ、その顔を見て声を聞けば、かれら夫婦が同衾ひとつねするのに枕まくらを並べて差支さしつかえぬ、それでも汗になって修行をして、坊主で果てるよりはよほどのましじゃと、思切おもいきって戻ろうとして、石を放れて身を起した、背後うしろから一ツ背中を叩たたいて、

(やあ、ご坊様。)

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(やあ、ご坊様ぼうさま。)

と言われたから、時が時なり、心も心、後ろ暗いのでびっくりして見ると、閻魔王の使いではない、これがあの親父。

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といわれたから、時が時なり、心も心、後暗うしろぐらいので喫驚びっくりして見ると、閻王えんおうの使つかいではない、これが親仁おやじ。

馬は売ったのか身軽になって、小さな包みを肩にかけ、手には一尾の鯉の、鱗は金色で、溌剌として尾が動きそうな、新しい、丈三尺ばかりのを、顎に藁を通してぶらりと提げていた。

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馬は売ったか、身軽になって、小さな包みを肩にかけて、手に一尾びの鯉こいの、鱗うろこは金色こんじきなる、溌剌はつらつとして尾の動きそうな、鮮あたらしい、その丈たけ三尺ばかりなのを、顋あぎとに藁わらを通して、ぶらりと提げていた。

何も言わず、急には物も言えずに見守ると、親父はじっと顔を見ましたよ。

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何んにも言わず急にものもいわれないで瞻みまもると、親仁おやじはじっと顔を見たよ。

そうしてにやにやと、それも一通りの笑い方ではない、薄気味の悪いほくそ笑みをして、

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そうしてにやにやと、また一通りの笑い方ではないて、薄気味うすきみの悪い北叟笑ほくそえみをして、

(何をしてござる、ご修行の身が、このくらいの暑さで岸に休んでいなさる場合ではあるまい。一生懸命に歩きなされば、昨夜の泊まりからここまではたった五里、もう里へ行って地蔵様を拝んでいる時刻だ。

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(何をしてござる、ご修行の身が、このくらいの暑あつさで、岸に休んでいさっしゃる分ではあんめえ、一生懸命いっしょうけんめいに歩行あるかっしゃりや、昨夜ゆうべの泊とまりからここまではたった五里、もう里へ行って地蔵様を拝まっしゃる時刻じゃ。

何だね、おれの嬢様に思いがかかって煩悩が起きたのだろう。

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何じゃの、己おらが嬢様に念おもいが懸かかって煩悩ぼんのうが起きたのじゃの。

いんや、隠しなさるな、おれの目は赤くても、白いか黒いかはちゃんと見える。

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うんにゃ、秘かくさっしゃるな、おらが目は赤くッても、白いか黒いかはちゃんと見える。

そもそも並の者なら、嬢様の手が触れてあの水をふるまわれて、今まで人間のままでいられるはずがない。

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地体じたい並なみのものならば、嬢様の手が触さわってあの水を振舞ふるまわれて、今まで人間でいようはずがない。

牛か馬か、猿か、蟇か、蝙蝠か、何にせよ飛んだか跳ねたかしていなければならん。

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牛か馬か、猿か、蟇ひきか、蝙蝠こうもりか、何にせい飛んだか跳はねたかせねばならぬ。

谷川から上がって来なさった時、手足も顔も人のままだから、おれは魂消たくらいだ。お前様、それでも感心に志が堅固だったから助かったようなものよ。

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谷川から上って来さしった時、手足も顔も人じゃから、おらあ魂消たまげたくらい、お前様それでも感心に志こころざしが堅固けんごじゃから助かったようなものよ。

何と、おれが曳いて行った馬を見なさったろう。

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何と、おらが曳ひいて行った馬を見さしったろう。

それに、一軒家へ来なさる山道で富山の反魂丹売りに会ったというではないか。それ見なされ、あの助平野郎、とっくに馬になって、それ、馬市で銭になって、その銭が、そうら、この鯉に化けた。

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それで、孤家ひとつやへ来さっしゃる山路やまみちで富山とやまの反魂丹売はんごんたんうりに逢あわしったというではないか、それみさっせい、あの助平野郎すけべいやろう、とうに馬になって、それ馬市で銭おあしになって、お銭あしが、そうらこの鯉に化けた。

大好物で晩飯のおかずになさる。お嬢様を一体何だと思っておられる)。」

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大好物で晩飯の菜になさる、お嬢様を一体何じゃと思わっしゃるの)。」

私は思わず遮った。

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私わたしは思わず遮さえぎった。

「お上人?」

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「お上人しょうにん?」

二十六

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二十六

上人はうなずきながら呟いて、

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上人は頷うなずきながら呟つぶやいて、

「いや、まずお聞きなさい。あの一軒家の女というのは、もとはね、これも私には何かの縁があった、あの恐ろしい魔所へ入ろうという脇道の、水があふれた往来で、百姓が教えてくれた、あそこはその昔、医者の家であったというあの家の、そこの嬢様なのです。

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「いや、まず聞かっしゃい、かの孤家ひとつやの婦人おんなというは、旧もとな、これも私わしには何かの縁えんがあった、あの恐しい魔処ましょへ入ろうという岐道そばみちの水が溢あふれた往来で、百姓が教えて、あすこはその以前医者の家であったというたが、その家の嬢様じゃ。

何でも飛騨一円、当時は変わったことも珍しいこともなかったが、ただ一つ取り立てて言う不思議はこの医者の娘で、生まれた時から玉のようだった。

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何でも飛騨ひだ一円当時変ったことも珍らしいこともなかったが、ただ取り出いでていう不思議はこの医者の娘むすめで、生まれると玉のよう。

母親殿は頬のふくれた、目尻の下がった、鼻の低い、俗にさし乳というあの毒々しい左右の胸の房を含ませて育てたのに、どうしてあれほど美しく育ったものだろうという。

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母親殿おふくろどのは頬板ほおっぺたのふくれた、眦めじりの下った、鼻の低い、俗にさし乳ぢちというあの毒々しい左右の胸の房を含んで、どうしてあれほど美しく育ったものだろうという。

昔から物語の本にもあるとおり、屋根の棟へ白羽の矢が立つか、そうでなければ狩りの折に高貴な方の目に留まって御殿に召し出されるのは、ああいうのだと噂が高かった。

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昔から物語の本にもある、屋の棟むねへ白羽の征矢そやが立つか、さもなければ狩倉かりくらの時貴人あでびとのお目に留とまって御殿ごてんに召出めしだされるのは、あんなのじゃと噂うわさが高かった。

父親の医者というのは、頬骨のとがった髭の生えた、見栄坊で傲慢な男で、その癖ですよ、もちろん田舎には刈り入れの時によく稲の穂が目に入り、そこから患う、目やに、赤目、流行り目が多いから、先生、眼病のほうは少しやったが、内科と来てはまるで駄目。

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父親てておやの医者というのは、頬骨ほおぼねのとがった髯ひげの生えた、見得坊みえぼうで傲慢ごうまん、その癖くせでもじゃ、もちろん田舎いなかには刈入かりいれの時よく稲いねの穂ほが目に入ると、それから煩わずらう、脂目やにめ、赤目あかめ、流行目はやりめが多いから、先生眼病の方は少し遣やったが、内科と来てはからッぺた。

外科と来た日には、鬢付け油に水を垂らして、ひやりと傷につけるくらいのところ。

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外科なんと来た日にゃあ、鬢附びんつけへ水を垂らしてひやりと疵きずにつけるくらいなところ。

鰯の頭も信心から、それでも寿命の尽きない者は快復するから、ほかに医者らしい医者もいない土地のこと、相応に繁盛した。

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鰯いわしの天窓あたまも信心から、それでも命数の尽つきぬ輩やからは本復するから、外ほかに竹庵ちくあん養仙ようせん木斎もくさいの居ない土地、相応に繁盛はんじょうした。

ことに娘が十六、七の女盛りになってきた時分には、薬師様が人助けに先生様の家へ生まれてこられたといって、信心渇仰の善男善女?

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殊ことに娘が十六七、女盛おんなざかりとなって来た時分には、薬師様が人助けに先生様の内うちへ生れてござったというて、信心渇仰しんじんかつごうの善男善女ぜんなんぜんにょ?

いや、病んだ男や女が我も我もと詰めかける。

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 病男病女が我も我もと詰つめ懸かける。

それというのも、はじまりはあのお嬢様が、それ、馴染みの病人には毎日顔を合わせるところから愛想の一つも言い、あなた、お手が痛みますか、どんな具合ですと言って手先へ柔らかな掌が触れると、まず第一番に次作兄いという若いののリウマチが全快、お苦しそうねと言って腹をさすってやると水あたりの差し込みが止まった者がある。はじめは若い男にばかり効いたのが、だんだんと年寄りにも及び、後には女の病人もこれで治る、治らないまでも痛みが薄らぐ。腫れ物の膿を切って出すのさえ、錆びた小刀で引き裂く医者殿の腕前だから、病人は七転八倒して悲鳴を上げるのが、娘が来て背中へぴったり胸を当てて肩を押さえていると我慢ができる、といったわけだったそ

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それというのが、はじまりはかの嬢様が、それ、馴染なじみの病人には毎日顔を合せるところから愛想あいその一つも、あなたお手が痛みますかい、どんなでございます、といって手先へ柔かな掌てのひらが障さわると第一番に次作兄じさくあにいという若いのの(りょうまちす)が全快、お苦しそうなといって腹をさすってやると水あたりの差込さしこみの留とまったのがある、初手しょては若い男ばかりに利いたが、だんだん老人としよりにも及ぼして、後には婦人おんなの病人もこれで復なおる、復らぬまでも苦痛いたみが薄らぐ、根太ねぶとの膿うみを切って出すさえ、錆さびた小刀で引裂ひっさく医者殿が腕前じゃ、病人は七顛八倒しちてんはっとうして悲鳴を上げるのが、娘が来て背中へぴったりと胸をあてて肩を押えていると、我慢がまんが出来るといったようなわけであったそ

うな。

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うな。

ひとしきり、あの藪の前にある枇杷の古木へ熊蜂が来て、恐ろしく大きな巣をかけた。

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ひとしきりあの藪やぶの前にある枇杷びわの古木へ熊蜂くまんばちが来て恐おそろしい大きな巣をかけた。

すると医者の内弟子で薬局を務め、拭き掃除もすれば総菜畑の芋も掘る、近い所へは車夫も勤める、下男兼帯の熊蔵という、その頃二十四、五歳の男——稀塩散に単舎利別を混ぜたのを瓶に盗んで、家がけちだから見つかると叱られるので、これを股引や袴と一緒に戸棚の上に載せておいて、暇さえあればちびりちびり飲んでいた男が、庭掃除をするといって例の蜂の巣を見つけましてね。

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すると医者の内弟子うちでしで薬局、拭掃除ふきそうじもすれば総菜畠そうざいばたけの芋いもも掘ほる、近い所へは車夫も勤めた、下男兼帯げなんけんたいの熊蔵という、その頃ころ二十四五歳さい、稀塩散きえんさんに単舎利別たんしゃりべつを混ぜたのを瓶びんに盗んで、内うちが吝嗇けちじゃから見附かると叱しかられる、これを股引ももひきや袴はかまと一所いっしょに戸棚の上に載のせておいて、隙ひまさえあればちびりちびり飲んでた男が、庭掃除そうじをするといって、件くだんの蜂の巣を見つけたっけ。

縁側へやって来て、お嬢様、面白いことをしてお目にかけましょう、不躾でございますが、私のこの手を握ってくださいましたら、あの蜂の中へ突っ込んで蜂を掴んで見せましょう。

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縁側えんがわへやって来て、お嬢様面白いことをしてお目に懸かけましょう、無躾ぶしつけでござりますが、私わたしのこの手を握にぎって下さりますと、あの蜂の中へ突込つッこんで、蜂を掴つかんで見せましょう。

お手が触れた所だけは刺されても痛みません、竹箒でひっぱたいては八方へ散らばって体中にたかられて、それは凌げません、即死でございますが、と微笑んで差し出す手を無理に握ってもらい、つかつかと行くと、凄まじい虫の唸り。やがて取って返した左の手には熊蜂が七つ八つ、羽ばたきをするのがある、脚を振るのがある、中には掴んだ指の股へ這い出しているのもあった。

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お手が障った所だけは螫さしましても痛みませぬ、竹箒たけぼうきで引払ひっぱたいては八方へ散らばって体中に集たかられてはそれは凌しのげませぬ即死そくしでございますがと、微笑ほほえんで控える手で無理に握ってもらい、つかつかと行くと、凄すさまじい虫の唸うなり、やがて取って返した左の手に熊蜂が七ツ八ツ、羽ばたきをするのがある、脚あしを振うのがある、中には掴んだ指の股またへ這出はいだしているのがあった。

さあ、あの神様の手が触れれば鉄砲玉でも通るまいと、蜘蛛の巣のように評判が八方へ広がった。

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さあ、あの神様の手が障れば鉄砲玉でも通るまいと、蜘蛛くもの巣のように評判が八方へ。

その頃からいつとなく力を感得したものと見えて、事情あってあの少年に身を任せて山に籠ってからは神変不思議、年を経るに従って神通自在です。

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その頃ころからいつとなく感得したものとみえて、仔細しさいあって、あの白痴ばかに身を任せて山に籠こもってからは神変不思議、年を経ふるに従うて神通じんつう自在じゃ。

はじめは体を押しつけていたのが、足だけとなり、手先だけとなり、果ては間を隔てていても、道に迷った旅人は嬢様が思うままに、はっという息ひとつで変えてしまうのです。

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はじめは体を押つけたのが、足ばかりとなり、手さきとなり、果はては間を隔へだてていても、道を迷うた旅人は嬢様が思うままはッという呼吸いきで変ずるわ。

と親父はその時語って、ご坊は、一軒家のぐるりで猿を見たろう、蟇を見たろう、蝙蝠を見たであろう、兎も蛇も、みな嬢様に谷川の水を浴びせられて畜生にされた輩!

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と親仁おやじがその時物語って、ご坊は、孤家ひとつやの周囲ぐるりで、猿を見たろう、蟇ひきを見たろう、蝙蝠こうもりを見たであろう、兎うさぎも蛇も皆嬢様に谷川の水を浴びせられて畜生ちくしょうにされたる輩やから!

思えばあの時あの女が、蟇にまつわられたのも、猿に抱かれたのも、蝙蝠に吸われたのも、夜中に魑魅魍魎にうなされたのも、思い出して、私はひしひしと胸に応えた。

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あわれあの時あの婦人おんなが、蟇に絡まつわられたのも、猿に抱かれたのも、蝙蝠に吸われたのも、夜中に魑魅魍魎ちみもうりょうに魘おそわれたのも、思い出して、私わしはひしひしと胸に当った。

なお親父が言うには。

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なお親仁おやじのいうよう。

今の少年も、例の評判が高かった頃、医者の家へ来た病人で、その頃はまだ子ども、朴訥な父親が付き添い、髪の長い兄貴が背負って山から出て来た。

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今の白痴ばかも、件くだんの評判の高かった頃、医者の内うちへ来た病人、その頃はまだ子供、朴訥ぼくとつな父親が附添つきそい、髪の長い、兄貴がおぶって山から出て来た。

脚に厄介な腫れ物があった。その治療を頼んだのです。

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脚に難渋なんじゅうな腫物はれものがあった、その療治りょうじを頼んだので。

もとより一間を借り受けて逗留していたが、これほどの腫れ物は大ごとだ、血もだいぶん出さねばならぬ、ことに子どもだから、手を下すには体に精をつけてからと、まず一日に三つずつ卵を飲ませ、気休めに膏薬を貼っておく。

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もとより一室ひとまを借受けて、逗留とうりゅうをしておったが、かほどの悩なやみは大事おおごとじゃ、血も大分だいぶんに出さねばならぬ、殊ことに子供、手を下おろすには体に精分をつけてからと、まず一日に三ツずつ鶏卵たまごを飲まして、気休めに膏薬こうやくを貼はっておく。

その膏薬を剥がすにも、親や兄、また傍の者が手をかけると、堅くこわばったのが肉にくっついてめりめりと取れる、ひいひいと泣くのだが、娘が手をかけてやれば黙って耐えた。

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その膏薬を剥はがすにも親や兄、また傍そばのものが手を懸けると、堅かたくなって硬こわばったのが、めりめりと肉にくッついて取れる、ひいひいと泣くのじゃが、娘が手をかけてやれば黙だまって耐こらえた。

もともと医者殿は手のつけようがなくて、体の衰えを言い立てに一日延ばしにしていたのだが、三日経つと、兄を残して、律儀な父親は股引の膝でずりながら、後ずさりに玄関から土間へ、草鞋を履いてまた土に手をついて、次男坊の命が助かりますように、ねえねえ、と言って山へ帰った。

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一体は医者殿、手のつけようがなくって身の衰おとろえをいい立てに一日延ばしにしたのじゃが三日経たつと、兄を残して、克明こくめいな父親てておやは股引の膝ひざでずって、あとさがりに玄関から土間へ、草鞋わらじを穿はいてまた地つちに手をついて、次男坊の生命いのちの扶たすかりまするように、ねえねえ、というて山へ帰った。

それでもなかなかはかどらず、七日も経ったので、後に残って付き添っていた兄者が、ちょうど刈り入れで、この時節は手が八本も欲しいほど忙しい、お天気模様も雨のよう、長雨にでもなって、山畑にかけがえのない稲が腐っては飢え死にでございます、総領の私は一番の働き手、こうしてはおられませんので、と断りを言い、やれ泣くんじゃないぞ、としんみり子どもに言い聞かせて、病人を置いて行った。

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それでもなかなか捗取はかどらず、七日なぬかも経ったので、後あとに残って附添っていた兄者人あにじゃびとが、ちょうど刈入で、この節は手が八本も欲しいほど忙いそがしい、お天気模様も雨のよう、長雨にでもなりますと、山畠やまばたけにかけがえのない、稲が腐くさっては、餓死うえじにでござりまする、総領の私わしは、一番の働手はたらきて、こうしてはおられませぬから、と辞ことわりをいって、やれ泣くでねえぞ、としんみり子供にいい聞かせて病人を置いて行った。

後には子ども一人。その時が、戸長様の帳面の上では六つ、親が六十で子が二十なら徴兵はお目こぼしと、何を間違えたのか届けを五年遅らせたので、本当は十一。それでも奥山で育ったから村の言葉もろくに知らないが、利発な生まれで聞き分けがあるから、相変わらず三つずつ吸わされる卵の汁も、いまに治療の時に残らず血になって出るのだろうと推量して、べそをかいても、兄者が泣くなと言いなさったと耐えていた、その心の内。

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後には子供一人、その時が、戸長様こちょうさまの帳面前年紀とし六ツ、親六十で児こが二十はたちなら徴兵ちょうへいはお目こぼしと何を間違えたか届が五年遅うして本当は十一、それでも奥山で育ったから村の言葉も碌ろくには知らぬが、怜悧りこうな生れで聞分ききわけがあるから、三ツずつあいかわらず鶏卵たまごを吸わせられる汁つゆも、今に療治の時残らず血になって出ることと推量して、べそを掻かいても、兄者が泣くなといわしったと、耐えていた心の内。

娘の情けで家の者と一緒に膳を並べて食事をさせると、沢庵の切れをくわえて隅のほうへ引っ込むいじらしさ。

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娘の情なさけで内と一所に膳ぜんを並べて食事をさせると、沢庵たくあんの切きれをくわえて隅すみの方へ引込ひきこむいじらしさ。

いよいよ明日が手術という夜は、みんな寝静まってからしくしくと蚊の鳴くように泣いているのを、手水に起きた娘が見つけて、あまりの不憫さに抱いて寝てやった。

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いよいよ明日あすが手術という夜は、皆みんな寐静ねしずまってから、しくしく蚊かのように泣いているのを、手水ちょうずに起きた娘が見つけてあまり不便ふびんさに抱いて寝てやった。

さて治療となると、例のごとく娘が後ろから抱いていたので、脂汗を流しながら刃物が入るのを感心にじっと耐えたのに、どこを切り違えたのか、それから流れ出した血が止まらず、見る見るうちに顔色が変わって危なくなった。

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さて治療りょうじとなると例のごとく娘が背後うしろから抱いていたから、脂汗あぶらあせを流しながら切れものが入るのを、感心にじっと耐えたのに、どこを切違えたか、それから流れ出した血が留まらず、見る見る内に色が変って、危あぶなくなった。

医者も青くなって騒いだが、神の助けかようやく命は取り留め、三日ばかりで血も止まったが、とうとう腰が抜けた。もとより不具の身。

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医者も蒼あおくなって、騒いだが、神の扶たすけかようよう生命いのちは取留とりとまり、三日ばかりで血も留ったが、とうとう腰が抜けた、もとより不具かたわ。

これが足を引きずっては、その足を見ながら情けなさそうな顔をする。

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これが引摺ひきずって、足を見ながら情なそうな顔をする。

きりぎりすがもがれた脚を口にくわえて泣くのを見るようで、目も当てられたものではない。

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蟋蟀きりぎりすが𢪸もがれた脚あしを口に銜くわえて泣くのを見るよう、目もあてられたものではない。

しまいには泣き出すので、外聞もあり、少し焦れて医者が恐ろしい顔をして睨みつけると、あわれがって抱き上げる娘の胸に顔を隠して縋る、その様子に、長年ずいぶんと人を手にかけてきた医者も我を折って、腕組みをして、はっと溜息をつく。

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しまいには泣出すと、外聞もあり、少焦すこじれで、医者は恐おそろしい顔をして睨にらみつけると、あわれがって抱きあげる娘の胸に顔をかくして縋すがるさまに、年来としごろ随分ずいぶんと人を手にかけた医者も我がを折って腕組うでぐみをして、はッという溜息ためいき。

やがて父親が迎えに来た。因果と諦めて、別に不足は言わなかったが、何しろ子どもが娘の手を放れようとしないので、医者も幸い、言い訳かたがた、親や兄の心をなだめるために、そこで娘に子どもを家まで送らせることにした。

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やがて父親てておやが迎むかえにござった、因果いんがと断念あきらめて、別に不足はいわなんだが、何分小児こどもが娘の手を放れようといわぬので、医者も幸さいわい、言訳いいわけかたがた、親兄おやあにの心をなだめるため、そこで娘に小児こどもを家うちまで送らせることにした。

送って行った先があの一軒家で。

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送って来たのが孤家ひとつやで。

その時分はまだ一つの集落で、家も二十軒足らずあったのが、娘が来て一日二日、ついほだされて逗留した五日目から大雨が降り出した。

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その時分はまだ一個の荘そう、家も小こ二十軒あったのが、娘が来て一日二日、ついほだされて逗留とうりゅうした五日目から大雨が降出ふりだした。

滝をひっくり返したようで小止みもなく、家にいながらみんな蓑笠で凌いだくらい、茅葺きの繕いをすることはさておき、表の戸も開けられず、家の中から家の中へ、隣同士でおうおうと声をかけ合って、わずかにまだ人の種がこの世に尽きていないのを知るばかり。八日を八百年の思いで雨の中に籠っていると、九日目の真夜中から大風が吹き出して、その風の勢いがここが峠というところで、たちまち一面の泥海。

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滝を覆くつがえすようで小歇おやみもなく家に居ながら皆みんな簑笠みのかさで凌しのいだくらい、茅葺かやぶきの繕つくろいをすることはさて置いて、表の戸もあけられず、内から内、隣となり同士、おうおうと声をかけ合ってわずかにまだ人種ひとだねの世に尽つきぬのを知るばかり、八日を八百年と雨の中に籠こもると九日目の真夜中から大風が吹出してその風の勢ここが峠とうげというところでたちまち泥海どろうみ。

この洪水で生き残ったのは、不思議にも娘と子ども、それにその時村から供をしたこの親父ばかり。

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この洪水こうずいで生残ったのは、不思議にも娘と小児こどもとそれにその時村から供をしたこの親仁おやじばかり。

同じ水で医者の家も死に絶えた。だからこそ、あのような美女が片田舎に生まれたのも、国が世変わり、代替わりする前兆だったのだろうと、土地の者は言い伝えた。

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おなじ水で医者の内も死絶しにたえた、さればかような美女が片田舎かたいなかに生れたのも国が世がわり、代だいがわりの前兆であろうと、土地のものは言い伝えた。

嬢様は帰る家もなく、世にただ一人となって子どもと一緒に山に留まったのは、ご坊が見られたとおり。またあの少年に付き添っての行き届いた世話ぶりも見られたとおりで、洪水の時から十三年、今になるまで一日も変わりはない。

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嬢様は帰るに家なく、世にただ一人となって小児こどもと一所に山に留とどまったのはご坊が見らるる通り、またあの白痴ばかにつきそって行届ゆきとどいた世話も見らるる通り、洪水の時から十三年、いまになるまで一日もかわりはない。

と言い終えて、親父はまた気味の悪いほくそ笑み。

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といい果てて親仁おやじはまた気味の悪い北叟笑ほくそえみ。

(こう身の上を話したら、嬢様を不憫がって、薪を折ったり水を汲む手助けでもしてやりたいと、情が動くだろう。

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(こう身の上を話したら、嬢様を不便ふびんがって、薪まきを折ったり水を汲くむ手助けでもしてやりたいと、情が懸かかろう。

元は好き心のくせに、いい加減な慈悲だとか情だとかいう名にかこつけて、いっそ山へ帰りたかろうよ。はて、およしなされ。

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本来の好心すきごころ、いい加減な慈悲じひじゃとか、情じゃとかいう名につけて、いっそ山へ帰りたかんべい、はて措おかっしゃい。

あのあの少年の女房になって世の中へは目もくれない代わりに、嬢様は如意自在、男はより取りで、飽きれば息をかけて獣にしてしまう。ことにあの洪水以来、山を穿ったこの流れは天道様がお授けの、男を誘う怪しの水、命を取られない者はないのだ。

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あの白痴殿ばかどのの女房になって世の中へは目もやらぬ換かわりにゃあ、嬢様は如意にょい自在、男はより取って、飽あけば、息をかけて獣けものにするわ、殊にその洪水以来、山を穿うがったこの流は天道様てんとうさまがお授けの、男を誘いざなう怪あやしの水、生命いのちを取られぬものはないのじゃ。

天狗道にも三熱の苦悩というものがあって、髪が乱れ、色が青ざめ、胸が痩せて手足が細れば、谷川を浴びると元のとおり、それこそ水も垂れるばかり。招けば生きた魚も来る、睨めば美しい木の実も落ちる、袖をかざせば雨も降り、眉を開けば風も吹くのだぞ。

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天狗道てんぐどうにも三熱の苦悩くのう、髪が乱れ、色が蒼ざめ、胸が痩やせて手足が細れば、谷川を浴びると旧もとの通り、それこそ水が垂るばかり、招けば活いきた魚うおも来る、睨にらめば美しい木この実みも落つる、袖そでを翳かざせば雨も降るなり、眉まゆを開けば風も吹くぞよ。

しかも生まれつきの色好み、ことにまた若いのが好きなのだから、何かご坊にも言ったことだろうが、それを本当と受け取ったところで、やがて飽きられれば尾ができる、耳が動く、足が伸びる、たちまち姿が変わってしまうだけのことだ。

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しかもうまれつきの色好み、殊にまた若いのが好すきじゃで、何かご坊にいうたであろうが、それを実まこととしたところで、やがて飽あかれると尾が出来る、耳が動く、足がのびる、たちまち形が変ずるばかりじゃ。

いや、これからこの鯉を料理して、大あぐらで飲む時の魔神の姿を見せたいものだな。

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いややがて、この鯉を料理して、大胡坐おおあぐらで飲む時の魔神の姿が見せたいな。

妄念は起こさずに早くここを立ち去りなされ。助けられたのが不思議なくらい、嬢様の格別のお情けだ。命冥加なことよ、お若いの、きっと修行をなされませ。)

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妄念もうねんは起さずに早うここを退のかっしゃい、助けられたが不思議なくらい、嬢様別してのお情じゃわ、生命冥加いのちみょうがな、お若いの、きっと修行をさっしゃりませ。)

と、また一つ背中を叩いた。親父は鯉を提げたまま、見向きもしないで山道を上のほうへ。

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とまた一ツ背中を叩たたいた、親仁おやじは鯉を提さげたまま見向きもしないで、山路やまじを上かみの方。

見送るうちに小さくなって、ひと連なりの大山の後ろへ隠れたと思うと、油照りの焼けるような空に、その山の頂からすくすくと雲が湧いた。滝の音も静まるばかり、殷々として雷の響き。

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見送ると小さくなって、一座の大山おおやまの背後うしろへかくれたと思うと、油旱あぶらひでりの焼けるような空に、その山の巓いただきから、すくすくと雲が出た、滝の音も静まるばかり殷々いんいんとして雷らいの響ひびき。

抜け殻のように立っていた私の魂は身に戻った。そちらを拝むと同時に、杖をかい込み、小笠を傾け、踵を返すと慌ただしく一散に駆け下りたが、里に着いた頃、山は夕立。親父が女にもたらした鯉も、この雨のおかげで生きたまま一軒家に着いただろうと思うほどの大雨だった。」

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藻抜もぬけのように立っていた、私わしが魂たましいは身に戻った、そなたを拝むと斉ひとしく、杖つえをかい込み、小笠おがさを傾け、踵くびすを返すと慌あわただしく一散に駈かけ下りたが、里に着いた時分に山は驟雨ゆうだち、親仁おやじが婦人おんなに齎もたらした鯉もこのために活きて孤家ひとつやに着いたろうと思う大雨であった。」

高野聖はこのことについて、あえて別に注釈をつけて教えを垂れはしなかったが、翌朝袂を分かって、雪の中の山越えにかかるのを名残惜しく見送ると、ちらちらと雪の降る中を次第に高く坂道を上っていく聖の姿は、ちょうど雲に乗って行くように見えたのである。

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高野聖こうやひじりはこのことについて、あえて別に註ちゅうして教おしえを与あたえはしなかったが、翌朝袂たもとを分って、雪中山越せっちゅうやまごえにかかるのを、名残惜なごりおしく見送ると、ちらちらと雪の降るなかを次第しだいに高く坂道を上のぼる聖の姿、あたかも雲に駕がして行くように見えたのである。

(明治三十三年)

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(明治三十三年)