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高野聖 小学生向け

泉鏡花いずみきょうか)・1991

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-29

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「参謀本部(さんぼうほんぶ・軍の地図を作る役所)が作った地図を、また広げて見るまでもないだろうと思った。けれども、あまりに厳しい道だったので、地図に触れるだけでも暑苦しく感じた。それでも旅の法衣(ころも・僧の着物)の袖をまくり上げて、表紙のついた折りたたみ式の地図を引っぱり出した。

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参謀さんぼう本部編纂へんさんの地図をまた繰開くりひらいて見るでもなかろう、と思ったけれども、余りの道じゃから、手をさわるさえ暑くるしい、旅の法衣ころもそでをかかげて、表紙をけた折本になってるのを引張ひっぱり出した。

そこは飛騨(ひだ)から信州へ越える、山奥の細い道だった。ちょっと足を休めようにも、木が一本も生えていない。右を見ても左を見ても山ばかりで、手を伸ばせば届きそうなほど近くに峰(みね)がある。その峰の上にまた峰が重なり、頂(いただき)が空をおおっている。飛ぶ鳥の姿も、雲の形さえも見えなかった。

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飛騨ひだから信州へえる深山みやまの間道で、ちょうど立休らおうという一本の樹立こだちも無い、右も左も山ばかりじゃ、手をばすととどきそうなみねがあると、その峰へ峰が乗り、いただきかぶさって、飛ぶ鳥も見えず、雲の形も見えぬ。

道と空のあいだに、たった一人自分だけがいた。ちょうど正午ごろだろうか、太陽はひどく熱く、光が白く見えるほど強かった。その光を、深くかぶった一枚仕立ての檜笠(ひのきがさ)で防ぎながら、こうして地図をながめていた。」

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道と空との間にただ一人我ばかり、およそ正午しょうごと覚しい極熱ごくねつの太陽の色も白いほどにえ返った光線を、深々といただいた一重ひとえ檜笠ひのきがさしのいで、こう図面を見た。」

旅の僧はそう言うと、両方のこぶしを枕(まくら)代わりにして、額(ひたい)をそこに支えながらうつむいた。

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旅僧たびそうはそういって、握拳にぎりこぶしを両方まくらに乗せ、それで額を支えながら俯向うつむいた。

旅の道連れ(みちづれ)になったこの上人(しょうにん)は、名古屋からこの越前敦賀(えちぜんつるが)の旅籠屋(はたごや)に来て、たった今寝床に入るまで、私の知る限り仰向け(あおむけ)に寝たことがなかった。つまり、いつも涼しい顔をして、まわりのものにあまり目を向けない人だった。

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道連みちづれになった上人しょうにんは、名古屋からこの越前敦賀えちぜんつるが旅籠屋はたごやに来て、今しがた枕に就いた時まで、わたしが知ってる限り余り仰向あおむけになったことのない、つまり傲然ごうぜんとして物を見ないたちの人物である。

思えば、東海道の掛川(かけがわ)の宿(しゅく)から同じ汽車に乗っていたはずだ。けれども腰掛けの隅(すみ)で頭を垂れ、燃え尽きた灰(はい)のようにじっとしていたので、特に目にも留まらなかった。

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一体東海道掛川かけがわ宿しゅくから同じ汽車に乗り組んだと覚えている、腰掛こしかけすみこうべを垂れて、死灰しかいのごとくひかえたから別段目にも留まらなかった。

尾張(おわり)の駅で、ほかの乗客はまるで示し合わせたように、みんな降りてしまった。それで、車両の中には上人と私の二人だけが残った。

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尾張おわり停車場ステイションほかの乗組員は言合いいあわせたように、残らず下りたので、はこの中にはただ上人と私と二人になった。

この汽車は昨夜九時半に新橋を出て、その日の夕方に敦賀(つるが)に着く予定だった。名古屋を通るころはちょうど昼で、私は食事に折り詰めの鮨(すし)を一つ買った。

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この汽車は新橋を昨夜九時半にって、今夕こんせき敦賀に入ろうという、名古屋では正午ひるだったから、飯に一折のすしを買った。

旅の僧も私と同じようにその鮨を買った。ところが蓋(ふた)を開けてみると、海苔(のり)がばらばらとかかっただけの、安っぽい五目飯(ちらしずし)だった。

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旅僧も私と同じくその鮨を求めたのであるが、ふたを開けると、ばらばらと海苔のりかかった、五目飯ちらしの下等なので。

(やあ、人参(にんじん)と干瓢(かんぴょう)ばかりだ。)

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(やあ、人参にんじん干瓢かんぴょうばかりだ。)

と、そそっかしく大きな声を上げた。

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粗忽そそッかしく絶叫ぜっきょうした。

私の顔を見て、旅の僧はこらえきれなくなったらしく、くっくっと笑い出した。もともと車両には二人だけだったので、それがきっかけで知り合いになった。聞けば、これから越前(えちぜん)へ行き、宗派は違うが永平寺(えいへいじ)に訪ねる人がいるという。ただし、その前に敦賀で一泊するとのことだった。

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私の顔を見て旅僧はこらえ兼ねたものと見える、くっくっと笑い出した、もとより二人ばかりなり、知己ちかづきにはそれからなったのだが、聞けばこれから越前へ行って、派はちがうが永平寺えいへいじに訪ねるものがある、ただし敦賀に一ぱくとのこと。

若狭(わかさ)へ帰る途中の私も、同じ敦賀に泊まらなければならなかった。そこで、一緒に行く約束をした。

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若狭わかさへ帰省する私もおなじところとまらねばならないのであるから、そこで同行の約束やくそくが出来た。

彼は、自分は高野山(こうやさん)に籍(せき・所属)を置く僧だと言った。年は四十五、六歳くらいで、おだやかで変わったところのない、なつかしみを感じさせる、おとなしそうな見た目をしていた。羅紗(らしゃ・厚い毛織物)の角袖(かくそで)の外套(がいとう)を着て、白いフランネルの襟巻(えりまき)を巻き、トルコ風の帽子をかぶり、毛糸の手袋(てぶくろ)をはめ、白足袋(しろたび)に日和下駄(ひよりげた・晴れた日にはく下駄)という姿だった。見たところ、僧侶(そうりょ)というよりは、俳句や茶道などを教える師匠のようで、いや、それよりもむしろ、ただの世間の人のように見えた。

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かれは高野山こうやさんせきを置くものだといった、年配四十五六、柔和にゅうわななんらのも見えぬ、なつかしい、おとなしやかな風采とりなりで、羅紗らしゃ角袖かくそで外套がいとうを着て、白のふらんねるの襟巻えりまきをしめ、土耳古形トルコがたぼうかぶり、毛糸の手袋てぶくろめ、白足袋しろたび日和下駄ひよりげたで、一見、僧侶そうりょよりは世の中の宗匠そうしょうというものに、それよりもむしろ俗か。

(お泊りはどちらじゃな、)といって聞かれたので、私は一人旅の宿の味気なさを、しみじみとため息まじりに話した。まず、お盆を持った女中がいねむりをする。番頭(ばんとう)はうわべだけのお世辞を言う。廊下を歩けば、じろじろと目をつけられる。何よりつらいのは、晩ごはんの支度が終わると、すぐに明かりを行燈(あんどん・昔の灯り)に替えられて、薄暗いところで「お休みなさい」と言われてしまうことだ。ところが私は夜が更(ふ)けるまで眠れない性質(たち)なので、そのあいだの気持ちといったらない。とくにこの頃は夜が長く、東京を出るときから、一晩の宿がどうなるか気になって仕方がなかった。差し支えなければ、御僧(おんそう)とご一緒にお泊まりしたいのですが。

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(お泊りはどちらじゃな、)といって聞かれたから、私は一人旅の旅宿のつまらなさを、しみじみ歎息たんそくした、第一ぼんを持って女中が坐睡いねむりをする、番頭が空世辞そらせじをいう、廊下ろうか歩行あるくとじろじろ目をつける、何より最もがたいのは晩飯の支度したくが済むと、たちまちあかり行燈あんどんえて、薄暗うすぐらい処でお休みなさいと命令されるが、私は夜がけるまでることが出来ないから、その間の心持といったらない、ことにこのごろは夜は長し、東京を出る時から一晩のとまりが気になってならないくらい、差支さしつかえがなくば御僧おんそうとご一所いっしょに。

すると彼は気持ちよくうなずいて、こう言った。北陸地方(ほくりくちほう)を行脚(あんぎゃ・僧が修行のため各地を歩くこと)するときは、いつも足を休める香取屋(かとりや)という宿がある。もとは一軒の旅籠(はたご)だったが、評判だった一人娘が亡くなってからは、宿の看板を外してしまった。けれども、昔からの知り合いは今でも断らず泊めてくれて、年老いた夫婦がひっそりと世話をしてくれる。よければそこへ行こう。その代わりに、と言いかけて、鮨の折り箱を下に置き、

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快くうなずいて、北陸地方を行脚あんぎゃの節はいつでもつえを休める香取屋かとりやというのがある、もとは一けん旅店りょてんであったが、一人女ひとりむすめの評判なのがなくなってからは看板をはずした、けれどもむかしから懇意こんいな者は断らず泊めて、老人としより夫婦が内端うちわに世話をしてくれる、よろしくばそれへ、そのかわりといいかけて、折を下に置いて、

(ご馳走は人参と干瓢ばかりじゃ。)

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(ご馳走ちそうは人参と干瓢ばかりじゃ。)

と、からからと笑った。控えめそうな見た目とは違い、気さくな人らしい。

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とからからと笑った、つつしみ深そうな打見うちみよりは気の軽い。

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岐阜(ぎふ)まではまだ青空が見えていた。けれどもそこから先は、名高い北国(ほっこく)の空模様になった。米原(まいばら)や長浜(ながはま)はうす曇りで、かすかに日が差し、寒さが身にしみると思っていたら、柳ヶ瀬(やながせ)では雨になった。汽車の窓の外がだんだん暗くなるにつれて、白いものがちらちらと混じってきた。

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岐阜ぎふではまだ蒼空あおぞらが見えたけれども、後は名にし負う北国空、米原まいばら長浜ながはま薄曇うすぐもりかすかに日がして、寒さが身に染みると思ったが、やなでは雨、汽車の窓が暗くなるに従うて、白いものがちらちらまじって来た。

(雪ですよ。)

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(雪ですよ。)

(さようじゃな。)

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(さようじゃな。)

とだけ言って、旅の僧は特に気にも留めず、空を見上げようともしなかった。これはこの時に限らず、「あれが賤ヶ岳(しずがたけ)です」と昔の戦場を指さしたときも、琵琶湖(びわこ)の景色を話したときも、彼はただうなずくだけだった。

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といったばかりで別に気に留めず、あおいで空を見ようともしない、この時に限らず、しずたけが、といって、古戦場を指した時も、琵琶湖びわこの風景を語った時も、旅僧はただ頷いたばかりである。

敦賀でぞっとするほど厄介(やっかい)なのは、客引きの悪い習慣だった。その日もいつも通り、汽車を降りると、駅の出口から町のはずれまで、客を招く提灯(ちょうちん)や店の印のついた傘が壁のように立ち並んでいた。すり抜ける隙間もないほど旅人を取り囲み、口々にやかましく自分の宿の名前を呼び立ててくる。中でも激しいのは、すばやく手荷物を引ったくって「へい、ありがとうございます」とやってしまう者だ。頭痛持ちなら血が上るほどたまらないところだが、いつものように下を向いて、ゆっくりとうまくすり抜けていく旅の僧には、誰も袖を引っぱらなかった。だから私は運よくその後ろについて町に入り、ほっと息をついた。

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敦賀で悚毛おぞけの立つほどわずらわしいのは宿引やどひき悪弊あくへいで、その日も期したるごとく、汽車をおりると停車場ステイションの出口から町端まちはなへかけて招きの提灯ちょうちん印傘しるしがさつつみを築き、潜抜くぐりぬけるすきもあらなく旅人を取囲んで、かまびすしくおの家号やごう呼立よびたてる、中にもはげしいのは、素早すばやく手荷物を引手繰ひったくって、へい難有ありがとさまで、をくらわす、頭痛持は血が上るほどこらえ切れないのが、例の下を向いて悠々ゆうゆう小取廻ことりまわしに通抜とおりぬける旅僧は、たれも袖をかなかったから、幸いその後にいて町へ入って、ほっという息をいた。

雪はやむことなく降り続き、今はもう雨も混じらず、乾いた軽い雪がさらさらと顔に当たった。まだ宵(よい)のうちなのに戸を閉めた敦賀の通りはひっそりとして、道はあちこちに交わり、辻(つじ)の角は広々と白く雪が積もっていた。その中を八町(はっちょう・約九百メートル)ほど歩いて、ある軒下(のきした)にたどり着いた。そこが、目指していた香取屋だった。

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雪は小止おやみなく、今は雨も交らず乾いた軽いのがさらさらとおもてを打ち、よいながらかどとざした敦賀のとおりはひっそりして一条二条縦横たてよこに、つじの角は広々と、白く積った中を、道のほど八町ばかりで、とある軒下のきした辿たどり着いたのが名指なざしの香取屋。

床(とこ)の間にも座敷にも、これといった飾りはなかった。けれども柱の立ちはとても立派で、畳は固く、囲炉裏(いろり)は大きい。自在鍵(じざいかぎ・鍋を吊るす道具)についた鯉(こい)の飾りは、鱗(うろこ)が金でできているのかと思うほどつやがあった。かまども見事なものが二つ並んでいて、一斗(いっと・約十八リットル)ものご飯も炊けそうな大きな釜(かま)がかかっている、そんな古い家だった。

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とこにも座敷ざしきにもかざりといっては無いが、柱立はしらだちの見事な、たたみかたい、の大いなる、自在鍵じざいかぎこいうろこ黄金造こがねづくりであるかと思わるるつやを持った、ばらしいへッついを二ツならべて一斗飯いっとめしけそうな目覚めざましいかまかかった古家ふるいえで。

宿の主人は坊主頭(ぼうずあたま)で、木綿の筒袖(つつそで)の中に両手を縮こませていて、火鉢(ひばち)の前でも手を出そうとしない、ぼんやりとした親父(おやじ)だった。女房のほうは愛嬌(あいきょう)があって、ちょっとお世辞のうまいお婆さんだった。旅の僧が例の人参と干瓢の話を持ち出すと、彼女はにこにこ笑いながら、ちりめんじゃこと、鰈(かれい)の干物と、とろろ昆布の味噌汁でお膳(ぜん)を出してくれた。話し方やもてなし方を見ても、いかにも上人と親しい間柄(あいだがら)だとわかり、連れである私まで、居心地(いごこち)がとても良かった。

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亭主は法然天窓ほうねんあたま、木綿の筒袖つつそでの中へ両手の先をすくまして、火鉢ひばちの前でも手を出さぬ、ぬうとした親仁おやじ女房にょうぼうの方は愛嬌あいきょうのある、ちょっと世辞のいいばあさん、くだんの人参と干瓢の話を旅僧が打出すと、にこにこ笑いながら、縮緬雑魚ちりめんざこと、かれい干物ひものと、とろろ昆布こんぶ味噌汁みそしるとでぜんを出した、物の言振いいぶり取成とりなしなんど、いかにも、上人しょうにんとは別懇べっこんの間と見えて、つれの私の居心いごころのいいといったらない。

やがて二階に寝床(ねどこ)を用意してくれた。天井は低いが、梁(はり)は丸太で、太さは大人が二人がかりで抱えるほどもありそうだった。屋根の棟(むね)から斜めに渡っていて、座敷のいちばん端(はし)の軒先(のきさき)のあたりでは、頭がつかえそうになるほどだった。それほどがっしりとした造りの家で、これなら裏の山から雪崩(なだれ)が来てもびくともしないだろう。

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やがて二階に寝床ねどここしらえてくれた、天井てんじょうは低いが、うつばりは丸太で二抱ふたかかえもあろう、屋のむねからななめわたって座敷のはてひさしの処では天窓あたまつかえそうになっている、巌乗がんじょう屋造やづくり、これなら裏の山から雪崩なだれが来てもびくともせぬ。

とくに炬燵(こたつ)が用意されていたので、私はそのままうれしく中に入った。

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特に炬燵こたつが出来ていたから私はそのままうれしく入った。

寝床はもう一組、同じ炬燵のそばに敷いてあった。けれども旅の僧はそちらには来ず、火の気のない布団に、私と枕を並べて横になった。

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寝床はもう一組おなじ炬燵にいてあったが、旅僧はこれにはきたらず、横に枕を並べて、火の気のない臥床ねどこに寝た。

寝るとき、上人は帯(おび)を解かなかった。もちろん着物も脱がない。着たまま体を丸め、うつぶせのような形で腰から布団にすっぽりと入り、肩に夜具(やぐ)の袖をかけると、手をついてかしこまった。その様子は私たちと反対で、顔のほうを枕に乗せるのだった。

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寝る時、上人は帯を解かぬ、もちろん衣服もがぬ、着たまままるくなって俯向形うつむきなりに腰からすっぽりと入って、かた夜具やぐそでけると手をいてかしこまった、その様子ようすは我々と反対で、顔に枕をするのである。

まもなく静かに眠ってしまいそうな様子だったので、私は汽車の中で何度も言っていたことを、ここでもまた口にした。「私は夜が更けるまで眠れないのです。かわいそうだと思って、もう少しだけお付き合いください。それより、あちこちを行脚なさった中で、面白いお話を聞かせてください。」と、うちとけた調子で、子どものようにねだった。

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ほどなく寂然ひっそりとしてに就きそうだから、汽車の中でもくれぐれいったのはここのこと、私は夜が更けるまで寐ることが出来ない、あわれと思ってもうしばらくつきあって、そして諸国を行脚なすった内のおもしろいはなしをといって打解うちとけておさならしくねだった。

すると上人はうなずいて、こう言った。「わしは中年のころから、仰向けに寝ないのが癖でな。こうして寝てはいるが、目はまだなかなか冴(さ)えている。すぐには眠れないのは、お前様と同じだろう。」

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すると上人は頷いて、わしは中年から仰向けに枕に就かぬのがくせで、寝るにもこのままではあるけれども目はまだなかなか冴えている、急に寐就かれないのはお前様とおんなじであろう。

「出家(しゅっけ・僧になった人)の話すことでも、教えだの戒(いまし)めだの、説法ばかりとは限らぬ。若いの、聞きなさい。」と言って、話し始めた。

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出家しゅっけのいうことでも、おしえだの、いましめだの、説法とばかりは限らぬ、若いの、聞かっしゃい、と言って語り出した。

あとで聞いたところによると、この人は宗門(しゅうもん・宗派の教団)でも名高い説教師(せっきょうし)で、六明寺(りくみんじ)の宗朝(しゅうちょう)という大和尚(だいおしょう)だったそうだ。

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後で聞くと宗門名誉しゅうもんめいよの説教師で、六明寺りくみんじ宗朝しゅうちょうという大和尚だいおしょうであったそうな。

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「今にもう一人、ここに来て泊まるそうじゃ。お前様と同じ国の生まれで、若狭の者で、塗物(ぬりもの)を売り歩く旅商人(たびあきんど)だという。いや、この男は若いのに感心なほどまじめな、いい男でな。

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「今にもう一人ここへ来て寝るそうじゃが、お前様と同国じゃの、若狭の者で塗物ぬりもの旅商人たびあきんど。いやこの男なぞは若いが感心に実体じっていい男。

わしが今、話の始まりで語った、あの飛騨の山越えをしたときのことじゃ。麓(ふもと)の茶屋で一緒になった富山(とやま)の薬売り(くすりうり)という男は、気味の悪い、ひねくれた嫌な若者でな。

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わたしが今話の序開じょびらきをしたその飛騨の山越やまごえをやった時の、ふもとの茶屋で一緒いっしょになった富山とやまの売薬というやつあ、けたいの悪い、ねじねじしたいや壮佼わかいもので。

これから峠(とうげ)に差しかかろうという日の、朝早くのことじゃ。前の宿を朝の三時ごろには出発していたので、涼しいうちに六里(ろくり・約二十四キロ)ほど、その茶屋まで歩いてきたのじゃが、朝から晴れていて、じりじりと暑かった。

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まずこれからとうげかかろうという日の、朝早く、もっともせんとまりはものの三時ぐらいにはって来たので、涼しい内に六里ばかり、その茶屋までのしたのじゃが朝晴でじりじり暑いわ。

「欲張って大急ぎで歩いたから、喉(のど)が渇いてしかたがなかった。すぐにお茶を飲もうと思ったが、まだお湯が沸いていないという。

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慾張よくばり抜いて大急ぎで歩いたからのどかわいてしようがあるまい、早速さっそく茶を飲もうと思うたが、まだ湯がいておらぬという。

考えてみれば、その時間はまだ朝早く、めったに人が通らない山道じゃ。朝顔がまだ咲いているうちから、火の煙が立っているはずもない。

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どうしてその時分じゃからというて、めったに人通ひとどおりのない山道、朝顔のいてる内に煙が立つ道理もなし。

床几(しょうぎ・腰かけ台)の前に冷たそうな小さな流れがあったので、手桶(ておけ)で水をくもうとして、ふと気がついた。

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床几しょうぎの前には冷たそうな小流こながれがあったから手桶ておけの水をもうとしてちょいと気がついた。

というのも、この時季は暑さのせいで恐ろしい病気がはやっていて、さっき通った辻(つじ)という村などは、あたり一面が消毒の石灰(いしばい)だらけだったのじゃ。

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それというのが、時節柄じせつがら暑さのため、おそろしい悪い病が流行はやって、先に通った辻などという村は、から一面に石灰いしばいだらけじゃあるまいか。

(もし、姉さん。)

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(もし、ねえさん。)

と、茶店の女に声をかけた。

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といって茶店の女に、

(この水はこりゃ、井戸の水でございますか。)

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(この水はこりゃ井戸いどのでござりますか。)

と、きまりが悪そうにもじもじしながら聞いたとの。

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と、きまりも悪し、もじもじ聞くとの。

(いんね、川のでございます。)

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(いんね、川のでございます。)

という。はて、これは怪しいぞと思った。

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という、はて面妖めんようなと思った。

(山したの方には流行病(はやりやまい)がだいぶ出ておりますが、この水はもしや、辻の方から流れて来るのではありませんか。)

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(山したの方には大分流行病はやりやまいがございますが、この水はなにから、辻の方から流れて来るのではありませんか。)

(そうでねえ。)

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(そうでねえ。)

と女は何気なく答えた。まずはほっとしたと思ったのも束の間、お聞きなさいよ。

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と女は何気なにげなく答えた、まずうれしやと思うと、お聞きなさいよ。

そこに居合わせて、さっきから休んでいたのが、あの薬売り(くすりうり)だったのじゃ。

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ここに居て、さっきから休んでござったのが、右の売薬じゃ。

この万金丹(まんきんたん・当時よく売られていた丸薬の名前)を売り歩く下働きというのは、ご存じの通り、細かい縞(しま)模様の単衣(ひとえ)に小倉織(こくらおり)の帯を締め、この頃は懐中時計を挟んでいる。脚絆(きゃはん)に股引(ももひき)、もちろん草鞋(わらじ)ばき。千草木綿(ちぐさもめん)の四角い風呂敷包みを首にくくりつけ、桐油合羽(とうゆがっぱ・油紙でできた雨具)を小さくたたんで真田紐(さなだひも)でその包みに結びつけるか、小弁慶(こべんけい・格子縞の模様)の木綿のこうもり傘を一本持つのが、お決まりの姿だ。

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このまた万金丹まんきんたん下廻したまわりと来た日には、ご存じの通り、千筋せんすじ単衣ひとえ小倉こくらの帯、当節は時計をはさんでいます、脚絆きゃはん股引ももひき、これはもちろん、草鞋わらじがけ、千草木綿ちぐさもめん風呂敷包ふろしきづつみかどばったのを首にゆわえて、桐油合羽とうゆがっぱを小さくたたんでこいつを真田紐さなだひもで右の包につけるか、小弁慶こべんけいの木綿の蝙蝠傘こうもりがさを一本、おきまりだね。

ちょっと見たところでは、どいつもこいつも真面目で、しっかりした分別(ふんべつ)のありそうな顔をしている。

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ちょいと見ると、いやどれもこれも克明こくめいで分別のありそうな顔をして。

ところが宿に着くと、大柄な模様の浴衣(ゆかた)に着替え、帯をゆるく解いて、焼酎(しょうちゅう)をちびちびやりながら、宿の女の太った膝にすねを乗せようとする、そんな連中だ。

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これがとまりに着くと、大形の浴衣ゆかたに変って、帯広解おびひろげ焼酎しょうちゅうをちびりちびりりながら、旅籠屋はたごやの女のふとったひざすねを上げようというやからじゃ。

(これはこれは、法界坊(ほうかいぼう・みすぼらしい坊さんを表す言葉)だね。)

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(これや、法界坊ほうかいぼう。)

などと、頭からばかにしてかかる。

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なんて、天窓あたまからめていら。

(変なことを言うようだが何かね、世の中の男は女にもてねえと相場が決まって、坊主になってもやっぱり命は惜しいのかね。不思議じゃあねえか。争えねえもんだ。姉さん、見なよ。それでもまだ未練のある内が、いいじゃあねえか、)と言って、二人は顔を見合わせてからからと笑った。

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おつなことをいうようだが何かね、世の中の女が出来ねえと相場がきまって、すっぺら坊主になってやっぱり生命いのちは欲しいのかね、不思議じゃあねえか、争われねえもんだ、姉さん見ねえ、あれでまだ未練のある内がいいじゃあねえか、)といって顔を見合せて二人でからからと笑った。

わしはまだ年が若かった。お前様、わしはすっかり顔が真っ赤になって、手にくんだ川の水を飲むこともできず、ためらっていたのじゃ。

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年紀としは若し、お前様まえさんわし真赤まっかになった、手に汲んだ川の水を飲みかねて猶予ためらっているとね。

すると薬売りは、ポンと煙管(きせる)をはたいて、

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ポンと煙管きせるはたいて、

(何、遠慮しねえで浴びるほど飲みなせえ。命が危なくなったら薬をやらあ。そのためにわしがついてるんだぜ。なあ姉さん。

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(何、遠慮えんりょをしねえで浴びるほどやんなせえ、生命いのちが危くなりゃ、薬をらあ、そのためにわしがついてるんだぜ、なあ姉さん。

おい、それでもただというわけにはいかねえよ。恐れながら神方万金丹(じんぽうまんきんたん)、一貼(いちじょう・一包み)三百だ。欲しけりゃ買いな。まだ坊主に施しをするような罪はつくらねえ。それとも、どうだ、お前、わしの言うことを聞くか。)

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おい、それだっても無銭ただじゃあいけねえよ、はばかりながら神方しんぽう万金丹、一じょう三百だ、欲しくば買いな、まだ坊主に報捨ほうしゃをするような罪は造らねえ、それともどうだお前いうことをくか。)

と言って、茶店の女の背中をたたいた。

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といって茶店の女の背中をたたいた。

わしはそうそうにそこから逃げ出した。

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わしはそうそうに遁出にげだした。

いや、膝だの、女の背中だのという話は、いい年をした和尚の話としては恐れ入るが、話は話じゃから、そこはまあ大目に見てくれ。」

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いや、膝だの、女の背中だのといって、いけとしつかまつった和尚が業体ぎょうてい恐入おそれいるが、話が、話じゃからそこはよろしく。」

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「わしも腹立ちまぎれに、むやみに急いで、それからどんどん山のふもとの田んぼ道へ入っていった。

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わし腹立紛はらたちまぎれじゃ、無暗むやみと急いで、それからどんどん山のすそ田圃道たんぼみちへかかる。

半町(はんちょう・約五十五メートル)ほど行くと、道が急に高くなって、上り坂が一カ所あった。横から見るとよくわかったが、弓なりの形で、まるで土でできた勅使橋(ちょくしばし・貴人が渡る立派な橋)がかかっているようだった。

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半町ばかり行くと、みちがこう急に高くなって、のぼりが一カ処、横からよく見えた、弓形ゆみなりでまるで土で勅使橋ちょくしばしがかかってるような。

上を見ながらそこに足をかけたとき、さっきの薬売りがすたすたやって来て追いついた。

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上を見ながら、これへ足を踏懸ふみかけた時、以前の薬売くすりうりがすたすたやって来て追着おいついたが。

別に言葉は交わさなかったし、向こうが何か言ったとしても、こっちも返事をする気はなかった。

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別に言葉もかわさず、またものをいったからというて、返事をする気はこっちにもない。

どこまでも人を見下したような態度の薬売りは、横目でわしをちらりと見ると、わざとらしく追い越して、すたすたと前に出た。そして小山のような道の突き出た先に、こうもり傘をさしてぬっと立っていたが、そのまま向こうへ下りて見えなくなった。

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どこまでも人をしのいだ仕打しうちな薬売は流眄しりめにかけてわざとらしゅうわし通越とおりこして、すたすた前へ出て、ぬっと小山のような路の突先とっさきへ蝙蝠傘を差して立ったが、そのまま向うへ下りて見えなくなる。

わしもその後から、つま先上がりの坂を上っていくと、やがて太鼓(たいこ)の胴のように盛り上がった道の上に体が乗った。そこからはまた下り坂じゃ。

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その後から爪先上つまさきあがり、やがてまた太鼓たいこどうのような路の上へ体が乗った、それなりにまたくだりじゃ。

薬売りは先に下りていたが、立ち止まって、しきりにあたりを見回している様子だった。しつこく何かたくらんでいるのかと、いい気はしないままついて行ったが、よく見るとわけがあったのじゃ。

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売薬は先へ下りたが立停たちどまってしきりに四辺あたりみまわしている様子、執念しゅうねん深く何かたくんだかと、快からず続いたが、さてよく見ると仔細しさいがあるわい。

そこで道が二筋に分かれていた。一本はこの先すぐに坂になって、上りもきついもので、両側から草が生い茂っている。その道端の角のところに、大人が四人、いや五人がかりで抱えるほど太い檜(ひのき)の木が一本あり、その後ろへうねるように切り出したような大きな岩が二つ三つ四つと並び、上のほうへ重なって奥へと続いていた。けれども、わしが見当をつけて目指していたのはこちらの道ではなかった。やはり今まで歩いてきた、あの幅の広いなだらかな道のほうが本道のはずで、あと二里(にり・約八キロ)足らず行けば山になり、それから峠になるはずだった。

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路はここで二条ふたすじになって、一条いちじょうはこれからすぐに坂になってのぼりも急なり、草も両方から生茂おいしげったのが、路傍みちばたのそのかどの処にある、それこそ四抱よかかえ、そうさな、五抱いつかかえもあろうという一本のひのきの、背後うしろうねって切出したような大巌おおいわが二ツ三ツ四ツと並んで、上の方へかさなってその背後へ通じているが、わしが見当をつけて、心組こころぐんだのはこっちではないので、やっぱり今まで歩いて来たそのはばの広いなだらかな方がまさしく本道、あと二里足らず行けば山になって、それからが峠になるはず。

と見ると、どうしたことか、今言ったあの檜が、何もないはずの道を横切って、果てが見えないほど広い田んぼの上空へ、虹のように突き出ていた。それは見事なものだった。

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と見ると、どうしたことかさ、今いうその檜じゃが、そこらになんにもない路を横断よこぎって見果みはてのつかぬ田圃の中空なかぞらにじのように突出ている、見事な。

根元のあたりの土が崩れて、大きなうなぎをこねたような太い根が幾筋も露(あら)わになっていた。その根から一筋の水がさっと流れ落ちて地面を伝い、これから進もうとする道のまんなかに流れ出していて、あたり一面が水びたしだった。

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根方ねがたところの土がくずれて大鰻おおうなぎねたような根が幾筋ともなくあらわれた、その根から一筋の水がさっと落ちて、地の上へ流れるのが、取って進もうとする道の真中に流出ながれだしてあたりは一面。

田んぼが湖にならないのが不思議なくらい、水はどうどうと音を立てる流れになっていた。行く手には一かたまりの藪(やぶ)が見え、そこを境にして、およそ二町(にちょう・約二百二十メートル)ほどの間は、まるで川のようだった。

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田圃が湖にならぬが不思議で、どうどうとになって、前途ゆくて一叢ひとむらやぶが見える、それを境にしておよそ二町ばかりの間まるで川じゃ。

小石はばらばらと散らばり、飛び石のようにひょいひょいと大股で渡っていけそうな、見ごたえのある並びだった。それでも、これは人の手で並べたものに違いなかった。

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こいしはばらばら、飛石のようにひょいひょいと大跨おおまたで伝えそうにずっと見ごたえのあるのが、それでも人の手で並べたにちがいはない。

もっとも、着物を脱いで渡らなければならないほど深いわけではなかった。けれども、本街道としてはちょっと難儀(なんぎ)すぎて、とても馬などが歩けるようなものではなかった。

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もっとも衣服きものを脱いで渡るほどの大事なのではないが、本街道にはちと難儀なんぎ過ぎて、なかなか馬などが歩行あるかれるわけのものではないので。

薬売りもこれで迷ったのだろうと思っていると、彼はきっぱりと方向を変え、右手の坂をすたすたと上りはじめた。

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売薬もこれで迷ったのであろうと思う内、切放きりはなれよくむきを変えて右の坂をすたすたと上りはじめた。

見る間に檜の後ろをくぐり抜けると、わしの体のちょうど上あたりに出てきて、下を向き、

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見るに檜をうしろくぐり抜けると、わしが体の上あたりへ出て下を向き、

(おいおい、松本(まつもと)へ出る道はこっちだよ、)と言って、無造作にまた五、六歩進んだ。

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(おいおい、松本まつもとへ出る路はこっちだよ、)といって無造作むぞうさにまた五六歩。

岩の上に体を半分乗り出して、

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岩の頭へ半身を乗出して、

(ぼんやりしてると、木精(こだま・木の精霊)にさらわれるぜ。昼間だって容赦(ようしゃ)はねえよ。)

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茫然ぼんやりしてると、木精こだまさらうぜ、昼間だって容赦ようしゃはねえよ。)

と、あざけるように言い捨てたが、やがて岩の陰に入り、高いところの草に隠れて見えなくなった。

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あざけるがごとく言いてたが、やがて岩のかげに入って高い処の草にかくれた。

しばらくすると、見上げるほど高いところにこうもり傘の先が見えたが、やがて木の枝とすれすれになり、茂み(しげみ)の中に見えなくなった。

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しばらくすると見上げるほどなあたりへ蝙蝠傘の先が出たが、木のえだとすれすれになってしげみの中に見えなくなった。

(どっこいしょ、)とのんきなかけ声を上げながら、その流れの石の上を飛び石伝いにやって来たのは、茣蓙(ござ)を尻に当てた、何も荷を付けていない天秤棒(てんびんぼう)を片手でかついだ百姓(ひゃくしょう)だった。」

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(どッこいしょ、)と暢気のんきなかけ声で、その流の石の上を飛々とびとびに伝って来たのは、茣蓙ござ尻当しりあてをした、何にもつけない天秤棒てんびんぼうを片手で担いだ百姓ひゃくしょうじゃ。」

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「さっきの茶店からここへ来るまで、薬売り以外には誰にも会わなかったことは、申し上げるまでもない。

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「さっきの茶店ちゃみせからここへ来るまで、売薬の外はだれにもわなんだことは申上げるまでもない。

今、別れ際に声をかけられたので、相手は旅の途中で商売をする人と見えるだけに、まさかとは思ってもやはり心配になった。それで、今朝出るときにもよく見てきた、先ほど話したあの地図をな、ここでもまた開いて見ようとしていたところじゃ。

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今別れぎわに声を懸けられたので、先方むこうは道中の商売人と見ただけに、まさかと思っても気迷きまよいがするので、今朝けさも立ちぎわによく見て来た、前にも申す、その図面をな、ここでも開けて見ようとしていたところ。

(ちょいとお伺いしたいのですが、)

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(ちょいとうかがいとう存じますが、)

(これは何でございますか、)と、山国の人などはとくに僧だと見ると丁寧に話しかけてくれる。

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(これは何でござりまする、)と山国の人などはことに出家と見ると丁寧ていねいにいってくれる。

(いえ、お伺いするまでもございませんが、道はやはりこのまままっすぐ進むのでございましょうな。)

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(いえ、お伺い申しますまでもございませんが、道はやっぱりこれを素直まっすぐに参るのでございましょうな。)

(松本へお行きなさる?

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(松本へ行かっしゃる?

ああ、それなら本道じゃ。なに、このあいだの梅雨(つゆ)で水が出て、とんでもない川ができてしまったんでがすよ。)

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 ああああ本道じゃ、何ね、この間の梅雨つゆに水が出て、とてつもない川さ出来たでがすよ。)

(このままずっと、どこまでもこの水が続くのでございましょうか。)

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(まだずっとどこまでもこの水でございましょうか。)

(いいえ、お前様、見た目だけのことで、なんてことはござりませぬ。水になっているのは向こうのあの藪(やぶ)までで、その先はやっぱり同じ道筋で、山までは荷車が並んで通るでがすよ。

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(何のお前様、見たばかりじゃ、訳はござりませぬ、水になったのは向うのあの藪までで、後はやっぱりこれと同一おなじ道筋で山までは荷車が並んで通るでがす。

藪があるのは、もとは大きなお屋敷、お医者様の跡地でな。ここらは、これでも昔は一つの村だったんでがす。十三年前の大水のとき、あたり一面が野原になってしまいましたよ。亡くなった人もたいそう多くてな。

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藪のあるのはもと大きいおやしきの医者様の跡でな、ここいらはこれでも一ツの村でがした、十三年前の大水の時、から一面に野良のらになりましたよ、人死ひとじにもいけえこと。

ご坊様、歩きながらお念仏でも唱えてやってくださいまし。)

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坊様ぼうさま歩行あるきながらお念仏でも唱えてやってくれさっしゃい。)

と、聞いてもいないことまで親切に話してくれる。

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と問わぬことまで深切しんせつに話します。

それでよく事情がわかって、道もはっきりしたけれども、実際に一人、道に迷った者がいる。

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それでよく仔細しさいわかってたしかになりはなったけれども、現に一人踏迷ふみまよった者がある。

(こちらの道はどこへ行くのですか、)と、薬売りが入っていった左手の坂について尋ねてみた。

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(こちらの道はこりゃどこへ行くので、)といって売薬の入った左手ゆんでの坂をたずねて見た。

(はい、これは五十年ほど前までは人が歩いていた、昔の道でがす。

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(はい、これは五十年ばかり前までは人が歩行あるいた旧道でがす。

やはり信州へ出ますし、行き着く先は同じで、七里(しちり・約二十八キロ)ほど近道になりますが、いや、今どき人が通れるような道ではございませぬ。

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やっぱり信州へ出まする、先は一つで七里ばかり総体近うござりますが、いや今時いまどき往来の出来るのじゃあござりませぬ。

去年もご坊様、親子連れの巡礼(じゅんれい)がまちがえて入ってしまったそうで。ああ大変だ、乞食(こじき)のような姿になっていたというて、人の命には代えられねえと、お巡りさんが三人、村の者が十二人、みんなで一緒にここから登っていって、やっと連れ戻したくらいでがす。

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去年もご坊様、親子づれ巡礼じゅんれいが間違えて入ったというで、はれ大変な、乞食こじきを見たような者じゃというて、人命に代りはねえ、おっかけて助けべえと、巡査様おまわりさまが三人、村の者が十二人、一組になってこれから押登って、やっと連れてもどったくらいでがす。

ご坊様も血気にはやって近道をしてはなりませんぞ。くたびれて野宿をするほうが、ここを行くよりはまだましでございますに。

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ご坊様も血気にはやって近道をしてはなりましねえぞ、草臥くたびれて野宿をしてからがここを行かっしゃるよりはましでござるに。

はい、気をつけてお行きなさい。)

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はい、気を付けて行かっしゃれ。)

ここで百姓と別れて、その川の石の上を渡って行こうとしたが、ふとためらったのは、あの薬売りの身の上のことだった。

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ここで百姓に別れてその川の石の上を行こうとしたがふと猶予ためらったのは売薬の身の上で。

まさか聞いたほどのことでもあるまいが、もしそれが本当なら見殺しにするようなものだ。どのみちわしは出家の身、日が暮れるまでに宿に着いて屋根の下で寝る必要もない。追いついて、引き戻してやろう。

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まさかに聞いたほどでもあるまいが、それが本当ならば見殺みごろしじゃ、どの道私は出家しゅっけの体、日がれるまでに宿へ着いて屋根の下に寝るにはおよばぬ、追着おッついて引戻してやろう。

万一まちがえて、昔の道をすっかり歩いてしまってもおかしくはあるまい。この季節なら狼(おおかみ)が出る頃でもないし、化け物が出そうな時分でもない。ままよ、と思って見送ると、もう親切な百姓の姿も見えなかった。

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罷違まかりちごうて旧道を皆歩行あるいてもしゅうはあるまい、こういう時候じゃ、おおかみしゅんでもなく、魑魅魍魎ちみもうりょうしおさきでもない、ままよ、と思うて、見送るとや深切な百姓の姿も見えぬ。

(よし。)

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(よし。)

思い切って坂道にとりかかった。男気があったわけではない。もとより血気にはやったわけでもない。今言ったふうでは、もうすっかり悟りきったように聞こえるじゃろうが、いや、なかなかの臆病者(おくびょうもの)でな。川の水を飲むことさえ気後れするほど命が大事だったのに、なぜまた行ったのかとお思いか。

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思切おもいきって坂道を取ってかかった、侠気おとこぎがあったのではござらぬ、血気にはやったではもとよりない、今申したようではずっともうさとったようじゃが、いやなかなかの臆病者おくびょうもの、川の水を飲むのさえ気がけたほど生命いのちが大事で、なぜまたとわっしゃるか。

ただ挨拶をしただけの男なら、わしは実のところ、放っておいたに違いない。けれども、いやな人だと思っていただけに、そのまま見捨てるのが、わざとそうするようで、気がとがめてならなかったからじゃ、」

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ただ挨拶あいさつをしたばかりの男なら、私は実のところ、打棄うっちゃっておいたに違いはないが、快からぬ人と思ったから、そのままで見棄てるのが、わざとするようで、気が責めてならなんだから、」

と宗朝はやはりうつぶせに布団に入ったまま、両手を合わせて言った。

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と宗朝はやはり俯向うつむけにとこに入ったまま合掌がっしょうしていった。

「それでは、口で唱える念仏にも申し訳が立たぬと思うてな。」

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「それでは口でいう念仏にも済まぬと思うてさ。」

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「さて、聞きなさい。わしはそれから檜の裏を抜けた。岩の下から岩の上へ出た。木々の中をくぐりぬけて、草深い小道をどこまでも、どこまでも進んだ。

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「さて、聞かっしゃい、わしはそれからひのきの裏を抜けた、岩の下から岩の上へ出た、の中をくぐって草深いこみちをどこまでも、どこまでも。

すると、いつの間にか今上った山は過ぎて、また一つ山が近づいてきた。このあたりはしばらくの間、野原が広々としていて、さっき通った本街道よりもっと幅の広い、なだらかな一本道だった。

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するといつの間にか今上った山は過ぎてまた一ツ山がちかづいて来た、このあたりしばらくの間は野が広々として、さっき通った本街道よりもっと幅の広い、なだらかな一筋道。

なんとなく西と東、真ん中に山を一つはさんで、二本並んだ道のようだった。なるほどこれなら、槍(やり)を立てて歩く大名行列でも通れただろう。

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心持こころもち西と、東と、真中まんなかに山を一ツ置いて二条ふたすじ並んだ路のような、いかさまこれならばやりを立てても行列が通ったであろう。

この広い場所では、見渡す限り、芥子粒(けしつぶ)ほどの大きさになった薬売りの姿さえ見えなかった。ただ時々、焼けるように暑い空を小さな虫が飛び回っているだけだった。

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このひろでも目の及ぶ限り芥子粒けしつぶほどのおおきさの売薬の姿も見ないで、時々焼けるような空を小さな虫が飛び歩行あるいた。

歩くにはこのほうが心細い。あたりがぱっと開けていると、かえって頼りになるものがないのだよ。

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歩行あるくにはこの方が心細い、あたりがぱッとしていると便たよりがないよ。

もちろん、飛騨越え(ひだごえ)と名の付く道ともなれば、七里(しちり)に家が一軒、十里(じゅうり)に五軒というのが相場で、そこで粟(あわ・雑穀の一種)のご飯にありつければ運が良いほうということになっております。

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もちろん飛騨越ひだごえめいを打った日には、七里に一軒十里に五軒という相場、そこであわの飯にありつけば都合もじょうの方ということになっております。

それを覚悟していたので、幸い足はそれなりに達者だった。くじけずにどんどん進んだ。

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それを覚悟かくごのことで、足は相応に達者、いやくっせずに進んだ進んだ。

すると、だんだんまた両側から山が迫ってきて、肩がつかえそうなほど狭いところになった。すぐに上り坂だ。

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すると、だんだんまた山が両方からせまって来て、肩につかえそうな狭いとこになった、すぐにのぼり

さあ、これからがあの評判の天生峠(あもうとうげ)だと思ったので、わしもそのつもりになった。何しろ暑いので、あえぎながら、まず草鞋の紐を締め直した。

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さあ、これからが名代なだい天生あもう峠と心得たから、こっちもその気になって、何しろ暑いので、あえぎながらまず草鞋わらじひも緊直しめなおした。

ちょうどこの上り口のあたりに、美濃(みの)の蓮大寺(れんだいじ)という寺の本堂の床下まで通じる風穴(かざあな)があるということを、ずっとあとになって聞きましたが、そのときはとてもそんな話どころではなかった。一生懸命で、景色も何もあったものではない。天気が晴れているのか曇っているのかさえわからず、まばたきもせずにすたすたと足を踏みしめて上った。

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ちょうどこの上口のぼりぐちの辺に美濃みの蓮大寺れんだいじの本堂の床下ゆかしたまで吹抜ふきぬけの風穴かざあながあるということを年経としたってから聞きましたが、なかなかそこどころの沙汰さたではない、一生懸命いっしょうけんめい景色けしき奇跡きせきもあるものかい、お天気さえ晴れたか曇ったか訳が解らず、じろぎもしないですたすたとねてのぼる。

と、お前様にお聞かせする話はこれからなのじゃが、最初に言った通り、道はとても悪かった。まるで人が通りそうもない上に、恐ろしかったのは蛇(へび)だ。

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とお前様お聞かせ申す話は、これからじゃが、最初に申す通り路がいかにも悪い、まるで人が通いそうでない上に、恐しいのは、へびで。

道の両側の草むらに尾と頭を突っ込んで、まるで橋を渡すように、のたりと横たわっているではないか。

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両方のくさむらに尾と頭とを突込んで、のたりと橋を渡しているではあるまいか。

わしは最初にそれと出くわしたとき、笠(かさ)をかぶって竹の杖をついたまま、はっと息を止めて、膝を折ってその場に座り込んでしまった。

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わし真先まっさき出会でっくわした時はかさかぶって竹杖たけづえを突いたまま、はッと息を引いてひざを折ってすわったて。

いやもう、生まれつき蛇が大嫌いでな。嫌いというより、恐ろしいのじゃ。

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いやもう生得しょうとく大嫌だいきらいきらいというより恐怖こわいのでな。

その時はまず助かったことに、蛇はずるずると尾を引きずり、向こうで鎌首(かまくび)をもたげたと思うと、草をさらさらと渡って行ってしまった。

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その時はまず人助けにずるずると尾を引いて、向うで鎌首かまくびを上げたと思うと草をさらさらと渡った。

ようやく立ち上がって、道を五、六町(ろくちょう)ほど行くと、また同じように、胴の真ん中だけを日にさらして尾も首も見えない蛇が、ぬたりと横たわっていた。

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ようよう起上おきあがって道の五六町も行くと、またおなじように、胴中どうなかを乾かして尾も首も見えぬのが、ぬたり!

「あっ」と言って飛びのいたが、その蛇も草の中に隠れて行ってしまった。

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あッというて飛退とびのいたが、それも隠れた。

三度目に出くわしたのは、いや、急には動こうとせず、しかもその胴体の太さといったら。たとえ這(は)い出したとしても、ぬらぬらと動くばかりで、尾を出しきるまでにおよそ五分はかかりそうな大きな蛇に見えた。仕方なく、わしはそれをまたいで越えた。とたんに下腹が引きつって、ぞっと身の毛がよだち、毛穴という毛穴がすべて鱗(うろこ)に変わってしまったように感じ、顔の色もあの蛇のようになったろうと、目を塞(ふさ)いだほどだった。

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三度目に出会ったのが、いや急には動かず、しかも胴体の太さ、たとい這出はいだしたところでぬらぬらとやられてはおよそ五分間ぐらい尾を出すまでにがあろうと思う長虫と見えたので、やむことをえずわしまたぎ越した、とたんに下腹したっぱら突張つッぱってぞッと身の毛、毛穴が残らずうろこに変って、顔の色もその蛇のようになったろうと目をふさいだくらい。

絞り出すような冷や汗が出るほどの気味悪さで、足がすくんだからといって立ち止まっていられるわけでもなく、びくびくしながら道を急ぐと、またしても蛇がいたのじゃ。

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しぼるような冷汗ひやあせになる気味の悪さ、足がすくんだというて立っていられるすうではないからびくびくしながら路を急ぐとまたしても居たよ。

しかも今度のは、胴が半分に切れて、尾のほうだけになった蛇だった。切り口は青みを帯びていて、そこから黄色い汁が流れ、ぴくぴくと動いていたわ。

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しかも今度のは半分に引切ひっきってある胴から尾ばかりの虫じゃ、切口があおみを帯びてそれでこう黄色なしるが流れてぴくぴくと動いたわ。

我を忘れて後ろへばらばらと逃げ帰ったが、気がつけば、さっきの蛇がまだそこにいるはずだ。たとえ殺されようとも、二度とあれをまたぐ気にはなれなかった。

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我を忘れてばらばらとあとへ遁帰にげかえったが、気が付けば例のがまだ居るであろう、たとい殺されるまでも二度とはあれをまたぐ気はせぬ。

ああ、さっきのお百姓が、たとえ間違いでも「昔の道には蛇がこんなにいる」と教えてくれていたら、たとえ地獄に落ちようとも、こんなところには来なかったのに。そう思うと、日に照りつけられながら涙が流れた。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、今でもぞっとする。」

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ああさっきのお百姓がものの間違まちがいでも故道ふるみちには蛇がこうといってくれたら、地獄じごくへ落ちても来なかったにと照りつけられて、なみだが流れた、南無阿弥陀仏なむあみだぶつ、今でもぞっとする。」

と、額に手を当てた。

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と額に手を。

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「もう際限がないので、腹をくくった。もとより引き返すつもりはない。もといた場所には、やはり切れ端の死骸(しがい)が残っている。遠くへ避けて草の中を駆け抜けたが、今にもあの尾の半分が絡みついてきそうでたまらず、恐ろしさに足がこわばり、石につまずいて転んでしまった。その時、膝を痛めてしまったらしい。

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はてしが無いからきもえた、もとより引返す分ではない。もとところにはやっぱり丈足じょうたらずのむくろがある、遠くへけて草の中へけ抜けたが、今にもあとの半分がまといつきそうでたまらぬから気臆きおくれがして足が筋張すじばると石につまずいて転んだ、その時膝節ひざぶしを痛めましたものと見える。

それから足ががくがくして、歩くのが少し難しくなったけれども、ここで倒れては蒸し暑さで蒸し殺されるだけだと、自分で自分を励まし、まるで自分の首根っこをつかんで引っ張り立てるようにして峠のほうへ進んだ。

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それからがくがくして歩行あるくのが少し難渋なんじゅうになったけれども、ここでたおれては温気うんき蒸殺むしころされるばかりじゃと、我身で我身をはげまして首筋を取って引立てるようにして峠の方へ。

何しろ道端の草のむんとする熱気が恐ろしいほどで、大きな鳥の卵のようなものまで足元にごろごろしているような、生い茂りようだった。

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何しろ路傍みちばたの草いきれがおそろしい、大鳥の卵見たようなものなんぞ足許あしもとにごろごろしている茂り塩梅あんばい

また二里ほど、大蛇(おろち)がうねるような坂を上り、山のふところに突き当たっては岩の角を曲がり、木の根を回り込みながら進んだが、ここでもあまりの道の険しさに、参謀本部の地図を開いて見ました。

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また二里ばかり大蛇おろちうねるような坂を、山懐やまぶところ突当つきあたって岩角を曲って、木の根をめぐって参ったがここのことで余りの道じゃったから、参謀さんぼう本部の絵図面を開いて見ました。

何のことはない、道はやっぱり同じで、聞いた話とも見た様子とも違いはない。この昔の道で間違いはないのだが、それでは気晴らしにも何にもならない。もとより、しっかりした地図とはいっても、描いてある道は、ただ栗(くり)のいがのような山の上に赤い線が引いてあるだけだった。

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何やっぱり道はおんなじで聞いたにも見たのにもかわりはない、旧道はこちらに相違はないから心遣こころやりにも何にもならず、もとよりれっきとした図面というて、いてある道はただくりいがの上へ赤い筋が引張ってあるばかり。

道の険しさも、蛇も、毛虫も、鳥の卵も、草の熱気も、地図に記してあるはずはないのだから、さっぱりと畳んで懐(ふところ)にしまい、うむと胸の内で念仏を唱えて気を取り直したのはよかったが、息もつかないうちに、また情け無いことに蛇が道を横切った。

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難儀なんぎさも、蛇も、毛虫も、鳥の卵も、草いきれも、記してあるはずはないのじゃから、さっぱりとたたんでふところに入れて、うむとこの乳の下へ念仏を唱え込んで立直ったはよいが、息も引かぬうち情無なさけない長虫が路を切った。

そこでもう、とても敵わないと思い、これはこの山の霊(れい)に違いないと考えて、杖を捨てて膝を曲げ、じりじりと熱い地面に両手をついて、

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そこでもう所詮しょせんかなわぬと思ったなり、これはこの山のれいであろうと考えて、杖をてて膝を曲げ、じりじりするつちに両手をついて、

(誠に申し訳ございませぬが、どうかお通しくださいませ。なるべくお昼寝の邪魔にならないよう、そっと通らせていただきます。

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(誠に済みませぬがお通しなすって下さりまし、なるたけお午睡ひるね邪魔じゃまになりませぬようにそっと通行いたしまする。

ご覧の通り、杖も捨てましてございます。)

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らんの通り杖も棄てました。)

と、意地を張らずしみじみと頼み、額を上げると、ざっというすさまじい音がした。

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れしみじみと頼んで額を上げるとざっというすさまじい音で。

よほど大きな蛇だと思った。三尺、四尺、五尺四方、一丈(いちじょう・約三メートル)あまりと、だんだん草の動く範囲が広がっていき、そばの谷へ一直線にさっとなびいた。ついには峰も山も一斉に揺れ動いた。恐ろしさに身を震わせて立ちすくんでいると、涼しさが身にしみてきて、気がつくと、それは山颪(やまおろし・山から吹き下ろす風)だった。

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心持こころもちよほどの大蛇と思った、三尺、四尺、五尺四方、一丈余、だんだんと草の動くのが広がって、かたえたにへ一文字にさっとなびいた、はてみねも山も一斉にゆらいだ、恐毛おぞげふるって立竦たちすくむと涼しさが身に染みて、気が付くと山颪やまおろしよ。

ちょうどこの頃から聞こえはじめたのは、どっという山彦(やまびこ)に伝わる響きだった。まるで山の奥に風が渦巻いていて、そこから風が吹き起こる穴が開いているように感じられた。

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この折から聞えはじめたのはどっという山彦こだまに伝わるひびき、ちょうど山の奥に風が渦巻うづまいてそこから吹起ふきおこる穴があいたように感じられる。

何にせよ、山の霊が願いを聞き届けてくれたのか、蛇は見えなくなり、暑さもしのぎやすくなったので、気持ちも勇み、足取りもはかどった。けれども、まもなく、急に風が冷たくなった理由がわかった。

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何しろ山霊感応あったか、蛇は見えなくなり暑さもしのぎよくなったので、気もいさみ足も捗取はかどったが、ほどなく急に風が冷たくなった理由を会得えとくすることが出来た。

というのも、目の前に大きな森が現れたからだ。

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というのは目の前に大森林があらわれたので。

世間の言い伝えにも、天生峠では青空なのに雨が降ることがあるという。人の話にも、神代(かみよ・大昔)から木こりの手が入らない森があると聞いていたのに、今までは木があまりに少なすぎた。

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世のたとえにも天生あもう峠は蒼空あおぞらに雨が降るという、人の話にも神代かみよからそまが手を入れぬ森があると聞いたのに、今までは余り樹がなさ過ぎた。

今度は蛇のかわりに蟹(かに)でも歩いていそうな、ひんやりとした雰囲気で、草鞋ばきの足が冷えた。

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今度は蛇のかわりにかにが歩きそうで草鞋わらじが冷えた。

しばらくすると、あたりが暗くなった。杉(すぎ)、松(まつ)、榎(えのき)と、ところどころかろうじて見分けがつく程度で、遠くからかすかに日の光が差し込むあたりでは、土の色がみな黒かった。

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しばらくすると暗くなった、杉、松、えのき処々ところどころ見分けが出来るばかりに遠い処からかすかに日の光のすあたりでは、土の色が皆黒い。

中には、光が森を突き抜けるためだろうか、青や赤の色合いが入りまじって、美しく見えるところもあった。

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中には光線が森を射通いとお工合ぐあいであろう、青だの、赤だの、ひだがって美しい処があった。

時々、つま先にからみつくのは、葉から落ちて溜まったしずくが糸のように流れたものだった。これは枝を伝って、高いところを流れてくるものだ。

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時々爪尖つまさきからまるのは葉のしずく落溜おちたまった糸のようなながれで、これは枝を打って高い処を走るので。

またときどき、常磐木(ときわぎ・一年中緑の葉をつける木)の葉が落ちてきた。何の木のものかもわからず、ばらばらと音を立て、かさかさと鳴って、ぱっと檜笠にかかることもある。あるいは通り過ぎたあとの背中にこぼれ落ちることもある。それらの葉は枝から枝へと何十年もためられていて、何十年ぶりに初めて地面まで落ちるものなのか、それはわからない。」

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ともするとまた常磐木ときわぎが落葉する、何の樹とも知れずばらばらと鳴り、かさかさと音がしてぱっと檜笠ひのきがさにかかることもある、あるいは行過ぎた背後うしろへこぼれるのもある、それは枝から枝にたまっていて何十年ぶりではじめて地の上まで落ちるのか分らぬ。」

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「心細さは言うまでもなかったが、情けないようでも、修行の足りないわしのような身には、こういう暗いところのほうが、かえって覚悟を決めやすいものじゃ。何しろ体が楽になったおかげで、足が弱っていたことも忘れていたので、道もだいぶはかどった。もう七割くらいは森の中を越えただろうと思ったところで、頭の五、六尺(約一、五から一、八メートル)ほど上にあったらしい木の枝から、ぼたりと笠の上に落ちて止まったものがあった。

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「心細さは申すまでもなかったが、卑怯ひきょうなようでも修行しゅぎょうの積まぬ身には、こういう暗い処の方がかえって観念に便たよりがよい。何しろ体がしのぎよくなったために足のよわりも忘れたので、道も大きに捗取はかどって、まずこれで七分は森の中を越したろうと思う処で五六尺天窓あたまの上らしかった樹の枝から、ぼたりと笠の上へ落ち留まったものがある。

鉛(なまり)のおもりかと思うほどの重さだった。何か木の実でも落ちてきたのかと、二、三度振ってみたが、くっついていてそのままでは取れない。何気なく手をやってつかむと、なめらかで、ひやりとした感触が伝わってきた。

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なまりおもりかとおもう心持、何か木の実ででもあるかしらんと、二三度振ってみたが附着くッついていてそのままには取れないから、何心なく手をやってつかむと、なめらかにひやりと来た。

見ると、海鼠(なまこ)を裂いたような、目も口もないものだったが、それでも動物には違いなかった。

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見ると海鼠なまこいたような目も口もない者じゃが、動物には違いない。

気味が悪くて投げ捨てようとすると、ずるずると滑って指の先に吸いつき、ぶらりと下がった。その離れた指の先から真っ赤な美しい血がたらたらと流れ出たので、びっくりして目の下に指を持っていってじっと見た。すると、今折り曲げた肱(ひじ)のところにつるりと垂れ下がっているのは、同じ形をした、幅が五分(約一、五センチ)、長さが三寸(約九センチ)ほどの山なまこのような生き物だった。

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不気味で投出そうとするとずるずるとすべって指のさきへ吸ついてぶらりと下った、その放れた指の尖から真赤な美しい血が垂々たらたらと出たから、吃驚びっくりして目の下へ指をつけてじっと見ると、今折曲げたひじの処へつるりと垂懸たれかかっているのは同形おなじかたちをした、幅が五分、たけが三寸ばかりの山海鼠やまなまこ

あっけに取られて見ている間にも、それは下のほうから縮みながら、ぶくぶくと太っていった。生き血をしこたま吸い込んでいるからだ。濁った黒いなめらかな肌に茶褐色(ちゃかっしょく)の縞(しま)をもった、いぼだらけの胡瓜(きゅうり)のような血を吸う生き物、こいつは蛭(ひる)じゃよ。

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呆気あっけに取られて見る見る内に、下の方から縮みながら、ぶくぶくと太って行くのは生血いきちをしたたかに吸込むせいで、にごった黒い滑らかなはだ茶褐色ちゃかっしょくしまをもった、疣胡瓜いぼきゅうりのような血を取る動物、こいつはひるじゃよ。

誰の目から見ても見間違えるようなものではないのだが、とびぬけて大きすぎたので、少しの間気がつかなかったのだ。どんな畑でも、どんないわく付きの沼でも、これほど大きな蛭がいるとは思えなかった。

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が目にも見違えるわけのものではないが、図抜ずぬけて余り大きいからちょっとは気がつかぬであった、何のはたけでも、どんな履歴りれきのあるぬまでも、このくらいな蛭はあろうとは思われぬ。

肱をばさりと振ったけれども、よほど深く食い込んでいると見えて、なかなか離れそうにない。気味が悪いながらも手でつまんで引きちぎると、ぷつりと音がしてようやく取れた。しばらくもじっとしていられるものではない。とっさに取って大地へ叩きつけると、これほどの蛭が何万匹となく巣をつくり、自分たちの縄張りにしているような場所だからこそ、あらかじめ用意されているかのように、日の当たらない森の中の土は柔らかく、蛭がつぶれそうにもないのじゃ。

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肱をばさりとふるったけれども、よく喰込くいこんだと見えてなかなか放れそうにしないから不気味ぶきみながら手でつまんで引切ると、ぷつりといってようよう取れる、しばらくもたまったものではない、突然いきなり取って大地へたたきつけると、これほどの奴等やつらが何万となく巣をくってわがものにしていようという処、かねてその用意はしていると思われるばかり、日のあたらぬ森の中の土はやわらかい、つぶれそうにもないのじゃ。

そうこうするうちに、もう首のあたりがむずむずしてきた。平手で撫でてみると、横に撫でるたびに蛭の背中をぬるぬるとすべるという感触があった。やあ、胸の下に潜り込み、帯の間にも一匹。青ざめてそっと見ると、肩の上にも一匹いた。

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ともはやえりのあたりがむずむずして来た、平手ひらてこいて見ると横撫よこなでに蛭のせなをぬるぬるとすべるという、やあ、乳の下へひそんで帯の間にも一ぴきあおくなってそッと見ると肩の上にも一筋。

思わず飛び上がり、全身を震わせながら、この大枝の下を一目散に駆け抜けた。走りながら、まず気づいた蛭だけは夢中でむしり取った。

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思わず飛上って総身そうしんを震いながらこの大枝の下を一散にかけぬけて、走りながらまず心覚えの奴だけは夢中むちゅうでもぎ取った。

いずれにせよ恐ろしい、さっきの枝には蛭がなっていたのだろうと、あまりのことに思って振り返ると、見返した木のどの枝かもわからないが、やはり数えきれないほどの蛭がびっしりとついているのだった。

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何にしても恐しい今の枝には蛭がっているのであろうとあまりの事に思って振返ると、見返った樹の何の枝か知らずやっぱりいくツということもない蛭の皮じゃ。

これはと思って見ると、右も左も、前の枝も、なんと、どこもかしこも蛭でいっぱいだった。

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これはと思う、右も、左も、前の枝も、何の事はないまるで充満いっぱい

わしは思わず恐怖の声を上げて叫んだ。すると、なんと。

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私は思わず恐怖きょうふの声を立ててさけんだ、すると何と?

このときは、目に見えるほどはっきりと、上からぼたりぼたりと、真っ黒で細い筋の入った雨が体へ降りかかってきたではないか。

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 この時は目に見えて、上からぼたりぼたりと真黒なせた筋の入った雨が体へ降かかって来たではないか。

草鞋をはいた足の甲にも落ちてきて、その上にまた重なり、並んだそばにまたくっついて、つま先も見分けがつかなくなった。それらが生きているだけあって、脈を打つように血を吸っているようで、気のせいか一つ一つが伸び縮みしているように見え、それを見ているうちに気が遠くなった。そのとき、不思議な考えが浮かんだ。

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草鞋を穿いた足のこうへも落ちた上へまたかさなり、並んだわきへまた附着くッついて爪先つまさきも分らなくなった、そうしてきてると思うだけ脈を打って血を吸うような、思いなしか一ツ一ツ伸縮のびちぢみをするようなのを見るから気が遠くなって、その時不思議な考えが起きた。

この恐ろしい山蛭(やまびる)は、神代の昔からここに群れ集まっていて、人が来るのを待ち構えている。長い長い年月のあいだにどれほどの血を吸えば、この虫の願いがかなうのか。そのときには、ありったけの蛭が残らず、吸っただけの人間の血を一斉に吐き出す。それによって土がとけて、山ひとつがそっくり血と泥の大きな沼に変わるだろう。それと同時に、ここで日の光をさえぎって昼でもなお暗いこの大木たちも、切れ切れになって一本一本が蛭になってしまうにちがいない。いや、まったくもってその通りだろう。」

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この恐しい山蛭やまびる神代かみよいにしえからここにたむろをしていて、人の来るのを待ちつけて、永い久しい間にどのくらい何斛なんごくかの血を吸うと、そこでこの虫ののぞみかなう、その時はありったけの蛭が残らず吸っただけの人間の血を吐出はきだすと、それがために土がとけて山一ツ一面に血とどろとの大沼にかわるであろう、それと同時にここに日の光をさえぎって昼もなお暗い大木が切々きれぎれに一ツ一ツ蛭になってしまうのに相違そういないと、いや、全くの事で。」

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「およそ人間が滅びるときというのは、地球の薄い皮が破れて空から火が降ってくるのでもなければ、大きな海が押しかぶさってくるのでもない。飛騨国(ひだのくに)の森が蛭になるのがそのはじまりで、しまいには、みな血と泥の中を黒い筋の入った虫が泳ぐようになる。それが次の時代の世界というものだろうと、ぼんやり考えた。

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「およそ人間が滅びるのは、地球の薄皮うすかわが破れて空から火が降るのでもなければ、大海が押被おっかぶさるのでもない、飛騨国ひだのくに樹林きばやしが蛭になるのが最初で、しまいにはみんな血と泥の中に筋の黒い虫が泳ぐ、それがだいがわりの世界であろうと、ぼんやり。

なるほど、この森も入口では何ともなかったのに、中に来るとこの通りだ。もっと奥深くまで進んだら、もう木という木がすっかり根のほうから朽ちて山蛭になっているだろう。助からないだろう。ここで取り殺される運命らしい。そんなとりとめのない考えが浮かんだのも、人が死に近づいたときに起こることだと、ふと気がついた。

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なるほどこの森も入口では何の事もなかったのに、中へ来るとこの通り、もっと奥深く進んだらや残らず立樹たちきの根の方からちて山蛭になっていよう、助かるまい、ここで取殺される因縁いんねんらしい、取留とりとめのない考えが浮んだのも人が知死期ちしごちかづいたからだとふと気が付いた。

どうせ死ぬのなら、一歩でも前に進んで、世間の人が夢にも知らない、あの血と泥の大きな沼の端だけでも見ておこうと、そう覚悟が決まると、気味が悪いも何もなかった。体じゅうに数珠(じゅず)つなぎになった蛭を手当たり次第にかき落とし、むしり捨て、抜き取りなどして、手を振り上げ足を踏み鳴らし、まるで踊り狂うような格好で歩き出した。

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どの道死ぬるものなら一足でも前へ進んで、世間の者がゆめにも知らぬ血と泥の大沼の片端かたはしでも見ておこうと、そう覚悟かくごがきまっては気味の悪いも何もあったものじゃない、体中珠数生じゅずなりになったのを手当てあたり次第にむして、抜き取りなどして、手を挙げ足を踏んで、まるでおどり狂う形で歩行あるき出した。

はじめのうちは体がひと回り太ったように感じられて、かゆさがたまらなかったが、しまいにはげっそりと痩せたように感じられて、ずきずきと痛んでならなかった。それでも容赦なく歩き続けるうちにも、蛭は次々と入り混じって襲ってきた。

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はじめのうち一廻ひとまわりも太ったように思われてかゆさがたまらなかったが、しまいにはげっそりせたと感じられてずきずき痛んでならぬ、その上を容赦ようしゃなく歩行あるく内にも入交いりまじりにおそいおった。

もう目もくらんで倒れそうになった、ちょうどその頃が災難の頂点だったらしく、トンネルを抜けたように、はるか遠くにかすれた月がひとつ見えた。そこが、蛭の森の出口だったのだ。

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すでに目もくらんで倒れそうになると、わざわいはこの辺が絶頂であったと見えて、隧道トンネルを抜けたように、はるか一輪いちりんのかすれた月を拝んだのは、蛭の林の出口なので。

いや、青空の下に出たときには、それまでのことをすっかり忘れて、「砕けろ、粉々(こなごな)になれ」とばかりに、体を横なぐりに山道へ倒れ込ませた。

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いや蒼空あおぞらの下へ出た時には、何のことも忘れて、くだけろ、微塵みじんになれと横なぐりに体を山路やまじ打倒うちたおした。

それから、もう砂利でも針でもかまうものかと地面に体をこすりつけ、十匹あまりの蛭の死骸をひっくり返した上で、五、六間(けん・一間はおよそ一、八メートル)向こうへ飛び、身震いをして突っ立った。

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それでからもう砂利じゃりでも針でもあれとつちへこすりつけて、十余りも蛭の死骸しがいひっくりかえした上から、五六けん向うへ飛んで身顫みぶるいをして突立つッたった。

まったく人を馬鹿にしているではありませんか。

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人を馬鹿ばかにしているではありませんか。

あたりの山では、ところどころで日暮らし(ひぐらし)ぜみが、血と泥の大沼になろうとしている森を控えて鳴いていた。日は傾き、谷底はもう暗かった。

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あたりの山では処々ところどころ茅蜩殿ひぐらしどの、血と泥の大沼になろうという森をひかえて鳴いている、日はななめ渓底たにそこはもう暗い。

これならまだ、狼の餌食(えじき)になっても一思いに死ねるだけましだと、道はちょうどだらだらとした下り坂だったので、竹の杖を調子はずれに肩にかついで、すたこらと逃げたわ。

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まずこれならばおおかみ餌食えじきになってもそれは一思ひとおもいに死なれるからと、路はちょうどだらだらおりなり、小僧さん、調子はずれに竹の杖を肩にかついで、すたこらげたわ。

これで、蛭に悩まされて痛いのか、痒いのか、それともくすぐったいのか、なんとも言えない苦しみさえなかったなら、うれしさのあまり、一人この飛騨の山越えの道で、お経に節をつけて怪しげな踊りでも踊っていただろう。ちょっと清心丹(せいしんたん・気付け薬)でも噛み砕いて傷口につけたらどうかと、だいぶ世の中のことにも気が回るようになってきたわ。

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これで蛭に悩まされて痛いのか、かゆいのか、それともくすぐったいのかもいわれぬ苦しみさえなかったら、うれしさにひと飛騨山越ひだやまごえ間道かんどうで、おきょうふしをつけて外道踊げどうおどりをやったであろう、ちょっと清心丹せいしんたんでも噛砕かみくだいて疵口きずぐちへつけたらどうだと、だいぶ世の中の事に気がついて来たわ。

つねってみても確かに生き返ったという実感があった。それにしても、あの富山の薬売りはどうしたろう。あの様子では、とっくに血になって泥沼に変わっていたかもしれない。

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つねってもたしか活返いきかえったのじゃが、それにしても富山の薬売はどうしたろう、あの様子ようすではとうに血になって泥沼に。

皮だけになった死骸は森の中の暗いところにあり、おまけに意地汚いさもしい生き物たちが骨までしゃぶろうと何百匹ものすうでのしかかっていたとしたら、たとえ酢をぶちまけても、それとわかるはずもあるまい。

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皮ばかりの死骸は森の中の暗い処、おまけに意地のきたな下司げすな動物が骨までしゃぶろうと何百という数でのしかかっていた日には、をぶちまけても分る気遣きづかいはあるまい。

こう考えているうちにも、あのだらだら坂はずいぶん長く続いた。

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こう思っている間、くだんのだらだら坂は大分長かった。

それを下りきると、川の流れる音が聞こえてきた。思いがけないところに、長さ一間ほどの土橋がかかっていた。

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それをくだり切ると流が聞えて、とんだ処に長さ一間ばかりの土橋がかかっている。

もうその谷川の音を聞いただけで、自分でも持て余している蛭に吸われた傷口を、真っ逆さまに水の中へ突っ込んで浸したら、さぞ気持ちがいいだろうと思うほどだった。渡りかけて橋が壊れたら、そのときはそれまでのことだ。

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はやその谷川の音を聞くと我身で持余もてあます蛭の吸殻すいがら真逆まっさかさまに投込んで、水にひたしたらさぞいい心地ここちであろうと思うくらい、何の渡りかけてこわれたらそれなりけり。

危ないとも思わずにずっと渡ってしまう。少しぐらぐらしたが、難なく渡り切った。

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危いとも思わずにずっとかかる、少しぐらぐらしたが難なく越した。

向こうからはまた坂だ。今度は上り坂さ。まったくご苦労なことだ。」

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向うからまた坂じゃ、今度はのぼりさ、ご苦労千万。」

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「とてもこの疲れようでは、坂を上るのは無理だろうと思ったが、ふと行く手のほうから、ヒイインと馬のいななく声がこだまして聞こえてきた。

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「とてもこのつかれようでは、坂を上るわけには行くまいと思ったが、ふと前途ゆくてに、ヒイインと馬のいななくのがこだまして聞えた。

馬引き(馬子)が戻るのか、荷物を運ぶ馬が通るのか。今朝、あの百姓と別れてからまだそれほど時間はたっていないはずなのに、まるで三年も五年も、ものを言う人間から遠く離れていたような気がした。

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馬士まごもどるのか小荷駄こにだが通るか、今朝一人の百姓に別れてから時の経ったはわずかじゃが、三年も五年も同一おんなじものをいう人間とは中をへだてた。

馬がいるようなら、ともかく人里に近いはずだと、そう思うと元気が出て、それ、もうひとふんばりだと足を進めた。

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馬が居るようではともかくも人里に縁があると、これがために気が勇んで、ええやっと今一揉ひともみ

一軒の山家(やまが)の前に来るまで、それほど苦労は感じなかった。

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一軒の山家やまがの前へ来たのには、さまで難儀なんぎは感じなかった。

夏のことで戸や障子も閉め切っておらず、しかも一軒家で、あけっぱなしのまま、門というものもない。いきなり縁側があらわれ、そこに男が一人いた。わしはもう何の見境もなく、

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夏のことで戸障子のしまりもせず、ことに一軒家、あけ開いたなり門というてもない、突然いきなり破縁やれえんになって男が一人、わしはもう何の見境もなく、

(頼みます、頼みます、)と言うのさえ、助けを呼ぶような調子で、すがりつかんばかりにした。

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たのみます、頼みます、)というさえたすけを呼ぶような調子で、取縋とりすがらぬばかりにした。

(ごめんください、)と言ったが、何も言葉を返さない。首をぐったりと、耳が肩に触れるほど顔を横にしたまま、子どものような、意味のない、けれどまん丸な目で、じろじろと入口に立った者を見つめている。その瞳を動かすことさえ面倒くさそうな、気の抜けた様子だった。

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(ごめんなさいまし、)といったがものもいわない、首筋をぐったりと、耳を肩でふさぐほど顔を横にしたまま小児こどもらしい、意味のない、しかもぼっちりした目で、じろじろと門に立ったものをみつめる、そのひとみを動かすさえ、おっくうらしい、気の抜けた身の持方。

裾(すそ)が短く、袖も肘(ひじ)より短い、糊(のり)のきいたちゃんちゃんこを着て、胸のあたりで紐(ひも)で結んでいたが、赤ん坊が着る一つ身の服のように太った、出っ腹の体つきだった。太鼓を張ったようにすべすべとふくれていて、しかも出べそという、南瓜(かぼちゃ)のへたのような妙な形のものを片手でいじりながら、幽霊のような手つきで、もう片方の手を宙にぶらりと垂らしていた。

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裾短すそみじかでそでひじより少い、糊気のりけのある、ちゃんちゃんを着て、胸のあたりでひもゆわえたが、一ツ身のものを着たように出ッ腹の太りじし太鼓たいこを張ったくらいに、すべすべとふくれてしかも出臍でべそというやつ南瓜かぼちゃへたほどな異形いぎょうな者を片手でいじくりながら幽霊ゆうれいの手つきで、片手を宙にぶらり。

足のことは忘れたかのように投げ出していて、もし腰の骨がなければ、暖簾(のれん)を立てたようにぺたりと折りたためそうな体つきだった。それでいて年は二十二、三らしい。口をあんぐり開けていて、上唇でくるりと巻き込めそうなほどだ。鼻は低く、額(ひたい)は前に出ていた。

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足は忘れたか投出した、腰がなくば暖簾のれんを立てたようにたたまれそうな、年紀としがそれでいて二十二三、口をあんぐりやった上唇うわくちびるで巻込めよう、鼻の低さ、出額でびたい

五分刈りが伸びた髪が、前のほうでは鶏(にわとり)のとさかのようになり、うなじのあたりで跳ねて耳にかぶさっていた。口がきけないのか、知恵が遅れているのか、これから蛙(かえる)にでもなろうとしているような少年だった。

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五分刈ごぶがりびたのが前は鶏冠とさかのごとくになって、頸脚えりあしねて耳にかぶさった、おしか、白痴ばかか、これからかえるになろうとするような少年。

わしは驚いた。こちらの命に別条はないが、相手の顔つきといったら。

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わしは驚いた、こっちの生命いのちに別条はないが、先方様さきさま形相ぎょうそう

いや、これはひどく気にかかることだ。

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いや、大別条おおべつじょう

(ちょいとお願い申します。)

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(ちょいとお願い申します。)

それでも仕方がないので、もう一度声をかけたが、少しも通じない。ばたりと音がしたと思うと、わずかに首の位置を変えて、今度は左の肩を枕にした。口が開いているのは前と同じだった。

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それでもしかたがないからまた言葉をかけたが少しも通ぜず、ばたりというとわずかに首の位置をかえて今度は左の肩をまくらにした、口の開いてることもとのごとし。

こういう者は、下手をすると急につかまえて、へそをひねりながら、返事のかわりに舐(な)めてくるかもしれない。

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こういうのは、悪くすると突然いきなりふんづかまえて臍をひねりながら返事のかわりにめようも知れぬ。

わしは一歩下がったが、いくら山奥だといっても、この人を一人にしておく法はないだろうと思い、つま先立ちになって少し声を高くし、

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わしは一足退すさったが、いかに深山だといってもこれを一人で置くという法はあるまい、と足を爪立つまだてて少し声高こわだかに、

(どなたか、ごめんください、)と言った。

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(どなたぞ、ご免なさい、)といった。

裏口(うらぐち)だろうと思われるあたりで、また馬のいななく声がした。

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背戸せどと思うあたりで再び馬のいななく声。

(どなた、)と納戸(なんど)のほうで言ったのは女の声だったので、これはいけない、この白い首に鱗(うろこ)でも生えていて、体は床を這(は)い、尾をずるずると引きずって出てくるのではないかと、わしはまた後ずさりした。

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(どなた、)と納戸なんどの方でいったのは女じゃから、南無三宝なむさんぼう、この白い首にはうろこが生えて、体はゆかって尾をずるずると引いて出ようと、また退すさった。

(おお、お坊様。)

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(おお、お坊様ぼうさま。)

と姿を現したのは、小柄で美しく、声も澄んでいて、もの柔らかな女だった。

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立顕たちあらわれたのは小造こづくりの美しい、声もすずしい、ものやさしい。

わしは大きく息をついて、何も言わず、

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わしは大息をいて、何にもいわず、

(はい。)

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(はい。)

と頭を下げましたよ。

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つむりを下げましたよ。

その女の人は膝をついて座ったが、前へ体を伸ばすようにして、夕暮れの中にしょんぼりと立っているわしの姿を透かすように見て、

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婦人おんなひざをついてすわったが、前へ伸上のびあがるようにして、黄昏たそがれにしょんぼり立ったわしが姿をかして見て、

(何かご用でございますかい。)

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(何か用でござんすかい。)

休んでいけとも言わず、はじめからこの家の主人はいつも留守にしているらしく、人を泊めないと決めているかのように見えた。

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休めともいわずはじめから宿の常世つねよ留守るすらしい、人をめないときめたもののように見える。

言いそびれてしまっては、かえって切り出しにくくなって頼むに頼めなくなってしまうと思い、つかつかと前へ出た。

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いいおくれてはかえって出そびれて頼むにも頼まれぬ仕誼しぎにもなることと、つかつかと前へ出た。

丁寧に腰をかがめて、

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丁寧ていねいに腰をかがめて、

(私は、山越えをして信州へ参ります者ですが、旅籠(はたご)のあるところまでは、まだどのくらいございましょうか。)

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(私は、山越で信州へ参ります者ですが旅籠はたごのございます処まではまだどのくらいでございましょう。)

十一

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十一

(あなた、まだ八里(はちり・約三十二キロ)あまりございますよ。)

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(あなたまだ八里あまりでございますよ。)

(そのほかに、泊めてくれる家もないのでしょうか。)

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(そのほかに別に泊めてくれますうちもないのでしょうか。)

(それはございません。)

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(それはございません。)

と言いながら、まばたきもせずに澄んだ目で、わしの顔をつくづくと見ていた。

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といいながらたたきもしないですずしい目でわしの顔をつくづく見ていた。

(いえ、もう何でもよろしいのです。実はこの先一町(いっちょう・約百九メートル)行けば、上等な部屋に寝かせて一晩うちわで扇いでくれるような、功徳(くどく・良い行い)のために泊めてくれる家があると聞いたとしても、正直なところ、もう一歩も歩けそうにございません。どこの物置でも、馬小屋の隅でもよろしいのですから、どうかお願いでございます。)

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(いえもう何でございます、実はこの先一町行け、そうすれば上段のへやに寝かして一晩あおいでいてそれで功徳くどくのためにする家があるとうけたまわりましても、全くのところ一足も歩行あるけますのではございません、どこの物置ものおきでも馬小屋のすみでもよいのでございますから後生ごしょうでございます。)

と、さっき馬がいなないたのはこの家のほかにはないだろうと思ったので、そう言った。

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とさっき馬がいなないたのは此家ここより外にはないと思ったから言った。

女はしばらく考えていたが、ふと横を向いて布の袋を手に取り、膝のあたりに置いた桶の中へ、ざらざらと中身をあけた。まるで水をこぼすようにあけて、桶の縁を押さえながら手ですくい、うつむいて見ていたが、

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婦人おんなはしばらく考えていたが、ふとわきを向いて布のふくろを取って、ひざのあたりに置いたおけの中へざらざらと一幅ひとはば、水をこぼすようにあけてふちをおさえて、手ですくって俯向うつむいて見たが、

(ああ、お泊めいたしましょう。ちょうど炊いてさしあげられるほどお米もございますから。それに夏のことですから、山の家は冷えましても、夜の寝具にご不自由はございますまい。

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(ああ、お泊め申しましょう、ちょうどいてあげますほどお米もございますから、それに夏のことで、山家は冷えましても夜のものにご不自由もござんすまい。

さあ、とにかく、あなた、お上がりくださいませ。)

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さあ、ともかくもあなた、お上り遊ばして。)

と言うと、その言葉が終わらないうちに、わしはどっかりとその場に腰を下ろした。

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というと言葉の切れぬ先にどっかと腰を落した。

女はすっと身を起こして立ってきて、

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婦人おんなはつと身を起して立って来て、

(お坊様、それでございますが、ちょっとお断りしておかねばなりません。)

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(お坊様、それでござんすがちょっとお断り申しておかねばなりません。)

はっきりとそう言われたので、わしはびくびくしながら、

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はっきりいわれたのでわしはびくびくもので、

(はい、はい。)

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(はい、はい。)

(いいえ、別のことではございませんが、私には都の話を聞くのが病みつきになる癖がございます。あなたが口を閉ざしていらしても、無理にでも聞き出そうといたしますが、あなたは決して聞かせてくださいますな。よろしゅうございますか。私は無理にお尋ねいたします。それでもあなたはどうしても話さないでください。それを是非にとせがんでも、必ずお断りになってくださいますよう、念を押しておきますよ。)

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(いいえ、別のことじゃござんせぬが、わたしくせとして都の話を聞くのがやまいでございます、口にふたをしておいでなさいましても無理やりに聞こうといたしますが、あなた忘れてもその時聞かして下さいますな、ようござんすかい、私は無理におたずね申します、あなたはどうしてもお話しなさいませぬ、それを是非にと申しましてもっておっしゃらないようにきっと念を入れておきますよ。)

と、何かわけがありそうなことを言った。

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仔細しさいありげなことをいった。

山の高さも谷の深さも底の知れない、こんな一軒家に住む女の言葉とは思ったが、守るのに難しい戒(いまし)めでもないので、わしはただうなずくばかりだった。

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山の高さも谷の深さも底の知れない一軒家の婦人おんなの言葉とは思うたが保つにむずかしいかいでもなし、わしはただうなずくばかり。

(はい、よろしゅうございます。何事も、おっしゃりつけには背きますまい。)

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(はい、よろしゅうございます、何事もおっしゃりつけはそむきますまい。)

女は、その言葉を聞くとすぐに打ち解けて、

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婦人おんな言下ごんか打解うちとけて、

(さあさあ、むさ苦しゅうございますが早くこちらへ。お寛(くつろ)ぎくださいませ。それから、足をお洗いしましょうかね。)

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(さあさあきたのうございますが早くこちらへ、おくつろぎなさいまし、そうしてお洗足せんそくを上げましょうかえ。)

(いえ、それには及びませぬ。雑巾(ぞうきん)をお貸しくださいまし。

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(いえ、それには及びませぬ、雑巾ぞうきんをお貸し下さいまし。

ああ、それからもし、そのついでに雑巾をずっぷりと絞ってくださると助かります。途中で大変な目に遭いまして、体を放り出したいほど気味が悪うございますので、ひとつ背中を拭こうと存じますが、恐れ入りますな。)

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ああ、それからもしそのお雑巾次手ついでにずッぷりおしぼんなすって下さるとたすかります、途中とちゅうで大変な目にいましたので体を打棄うっちゃりりたいほど気味が悪うございますので、一ツ背中をこうと存じますが、恐入おそれいりますな。)

(そう、汗をおかきになりましたね。さぞまあ、お暑うございましたでしょう。少しお待ちくださいまし。旅籠にお着きになって湯にお入りになるのが、旅をされる方には何よりのご馳走だと申しますね。湯どころか、お茶さえろくにおもてなしできませんが、あの、この裏の崖を下りますと、きれいな流れがございますから、いっそそちらへいらして、体をお流しになるのがよろしゅうございましょう。)

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(そう、あせにおなりなさいました、さぞまあ、お暑うござんしたでしょう、お待ちなさいまし、旅籠はたごへお着き遊ばして湯にお入りなさいますのが、旅するお方には何よりご馳走ちそうだと申しますね、湯どころか、お茶さえろくにおもてなしもいたされませんが、あの、この裏のがけを下りますと、綺麗きれいながれがございますからいっそそれへいらっしゃッてお流しがよろしゅうございましょう。)

聞いただけでも、飛んででも行きたいくらいだった。

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聞いただけでも飛んでも行きたい。

(ええ、それはとても結構なことでございますな。)

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(ええ、それは何より結構でございますな。)

(さあ、それではご案内いたしましょう。どれ、ちょうど私もお米を研(と)ぎに参ります。)

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(さあ、それではご案内申しましょう、どれ、ちょうど私も米をぎに参ります。)

と、あの桶を小脇に抱えて、縁側から藁草履(わらぞうり)をはいて出たが、かがんで縁側の下をのぞき込み、引っぱり出したのは一足の古い下駄(げた)だった。かちりと合わせて、ほこりを払って揃えてくれた。

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くだんおけ小脇こわきかかえて、縁側えんがわから、藁草履わらぞうり穿いて出たが、かがんで板縁いたえんの下をのぞいて、引出したのは一足の古下駄げたで、かちりとあわしてほこりはたいてそろえてくれた。

(お履きなさいまし。草鞋はここにお置きなすって、)

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(お穿きなさいまし、草鞋わらじはここにお置きなすって、)

わしは手を挙げて、一礼して、

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わしは手をあげて、一礼して、

(恐れ入ります、これはどうも、)

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(恐入ります、これはどうも、)

(お泊めするとなりましたら、あの、他生(たしょう)の縁(えん・前世からの深い巡り合わせ)とやら申すものでございます。あなた、ご遠慮なさいますなよ。)

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(お泊め申すとなりましたら、あの、他生たしょうえんとやらでござんす、あなたご遠慮を遊ばしますなよ。)

まったく、恐ろしいほど調子のいい人じゃて。」

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まず恐しく調子がいいじゃて。」

十二

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十二

「(さあ、私についてこちらへ、)と、あの米研ぎ桶を抱えて、手ぬぐいを細い帯にはさんで立ち上がった。

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「(さあ、私にいてこちらへ、)と件の米磨桶こめとぎおけ引抱ひっかかえて手拭てぬぐいを細い帯にはさんで立った。

髪はふさふさとしたのを束ねていてな、櫛(くし)をはさんで簪(かんざし)で留めている。その姿の美しさといったらなかった。

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髪はふっさりとするのをたばねてな、くしをはさんでかんざしめている、その姿のさというてはなかった。

わしも手早く草鞋を解いたので、さっそく古下駄をいただいて、縁側から立ち上がるときにちょっと見ると、それ、あの少年だった。

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わしも手早く草鞋をいたから、早速古下駄を頂戴ちょうだいして、縁から立つ時ちょいと見ると、それ例の白痴殿ばかどのじゃ。

同じようにわしのほうをじろりと見たっけよ。舌足らずがしゃべるような、わけのわからない声を出して、

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同じくわしかたをじろりと見たっけよ、舌不足したたらず饒舌しゃべるような、にもつかぬ声を出して、

(姉や、こえ、こえ。)

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ねえや、こえ、こえ。)

と言いながら、だるそうに手を持ち上げて、その乱れた頭を撫(な)でた。

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といいながらだるそうに手を持上げてその蓬々ぼうぼうと生えた天窓あたまでた。

(坊さま、坊さま?)

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(坊さま、坊さま?)

すると女が、下ぶくれの顔にえくぼを浮かべて、三度ばかりはきはきと続けてうなずいた。

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すると婦人おんなが、しもぶくれな顔にえくぼを刻んで、三ツばかりはきはきと続けて頷いた。

少年は「うむ」と言ったが、またぐたりとして、へそをくりくりくりといじり出した。

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少年はうむといったが、ぐたりとしてまたへそをくりくりくり。

わしはあまりに気の毒で顔も上げられず、そっと盗み見るようにして見ると、女は特に何も気にかけていない様子だった。そのまま後についていこうとしたとき、紫陽花(あじさい)の花の陰から、ぬっと現れた一人の親父(おやじ)がいた。

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わしは余り気の毒さに顔も上げられないでそっと盗むようにして見ると、婦人おんなは何事も別に気にけてはおらぬ様子、そのまま後へいて出ようとする時、紫陽花あじさいの花のかげからぬいと出た一名の親仁おやじがある。

裏口から回ってきたらしく、草鞋をはいたままで、胴乱(どうらん・たばこ入れ)の根付(ねつけ)を長い紐でぶらりと下げ、煙管(きせる)をくわえながら並んで立ち止まった。

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背戸せどから廻って来たらしい、草鞋を穿いたなりで、胴乱どうらん根付ねつけ紐長ひもながにぶらりとげ、銜煙管くわえぎせるをしながら並んで立停たちどまった。

(和尚様、おいでなさい。)

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和尚おしょう様おいでなさい。)

女はその親父のほうを振り向いて、

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婦人おんなはそなたを振向いて、

(おじ様、どうでございましたか。)

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(おじ様どうでござんした。)

(それがな、間抜けでとんまというのは、まさにあのことかい。

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(さればさの、頓馬とんまで間の抜けたというのはあのことかい。

もともと、狐でもなければだませそうにない奴だが、そこはおれの口先次第だ。うまく取り持って、二月(ふたつき)や三月(みつき)はお嬢様がご不自由なさらないよう、明日にはうまくまとめて、たっぷりここへ担ぎ込みますよ。)

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根ッから早やきつねでなければ乗せ得そうにもないやつじゃが、そこはおらが口じゃ、うまく仲人なこうどして、二月ふたつき三月みつきはお嬢様じょうさまがご不自由のねえように、翌日あすはものにしてうんとここへかつぎ込みます。)

(お頼み申しますよ。)

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(お頼み申しますよ。)

(承知、承知。おお、お嬢様、どこへ行かれますかい。)

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(承知、承知、おお、嬢様どこさ行かっしゃる。)

(崖の水まで、ちょっと。)

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(崖の水までちょいと。)

(若い坊様を連れて、川へ落っこちなさるなよ。おれはここで目を光らせて待っておるからな、)と、横になるように縁側にどっかりと寝そべった。

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(若い坊様連れて川へ落っこちさっしゃるな、おらここに眼張がんばって待っとるに、)と横様よこざまに縁にのさり。

(あなた、あんなことを言っておりますよ。)

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貴僧あなた、あんなことを申しますよ。)

と、わしの顔を見てほほえんだ。

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と顔を見て微笑ほほえんだ。

(一人で参りましょう、)と、わきへ身を引くと、親父はくっくっと笑って、

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(一人で参りましょう、)とわき退くと、親仁おやじはくっくっと笑って、

(はっはっは、さあ、早く行ってらっしゃい。)

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(はははは、さあ、早くいってござらっせえ。)

(おじ様、今日はねえ、珍しいお客様がお二人もいらっしゃいました。こういう時は、あとからまた誰か見えるかもしれません。次郎さんだけでは、来たお方が困ってしまうでしょう。私が帰るまで、そこで休んでいてくださらないか。)

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(おじ様、今日はお前、めずらしいお客がお二方ござんした、こういう時はあとからまた見えようも知れません、次郎さんばかりでは来た者が弱んなさろう、わたしが帰るまでそこに休んでいておくれでないか。)

(いいとも。)

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(いいともの。)

と言いかけて、親父は少年のそばへにじり寄り、鉄の棒のような拳(こぶし)で、背中をどんとくらわせた。少年の腹はだぶりと揺れて、べそをかくような口つきで、にやりと笑った。

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といいかけて、親仁おやじは少年のそばへにじり寄って、鉄挺かなてこを見たようなこぶしで、背中をどんとくらわした、白痴ばかの腹はだぶりとして、べそをかくような口つきで、にやりと笑う。

わしはぞっとして顔をそむけたが、女は何でもないような様子だった。

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わしはぞっとしておもてを背けたが、婦人おんな何気なにげないていであった。

親父は大きな口を開けて、

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親仁おやじは大口を開いて、

(お前が留守の間に、おれがこの亭主を盗んでしまうぞよ。)

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(留守におらがこの亭主を盗むぞよ。)

(はい、それならお手柄でございます。さあ、あなた、参りましょうか。)

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(はい、ならば手柄てがらでござんす、さあ、貴僧あなた参りましょうか。)

後ろから親父が見ているように思ったが、案内されるまま壁づたいに進むと、あの紫陽花のある方角ではなかった。

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背後うしろから親仁が見るように思ったが、導かるるままにかべについて、かの紫陽花のある方ではない。

やがて裏口だと思われるあたりで、左に馬小屋が見えた。ことことという音は、馬が壁板を蹴っているのだろう。もうそのあたりから薄暗くなってきた。

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やがて背戸と思う処で左に馬小屋を見た、ことことという音は羽目はめるのであろう、もうその辺から薄暗くなって来る。

(あなた、ここから下りるのでございます。滑りはいたしませぬが、道がひどうございますから、お静かに、)と言う。」

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貴僧あなた、ここから下りるのでございます、すべりはいたしませぬが、道がひどうございますからおしずかに、)という。」

十三

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十三

「そこから下りるのだと思われた。細くて、とんでもなく背の高い、ひょろひょろとした松の木があり、五、六間ほど上までは小枝が一本もなかった。その木々の間をくぐって進んだが、見上げると梢(こずえ)の先に白い月が見えた。月の形はここでも別段変わりはない。人の世はどこにあるのやら、十三夜の月だった。

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「そこから下りるのだと思われる、松の木の細くッて度外れに背の高い、ひょろひょろしたおよそ五六間上までは小枝一ツもないのがある。その中をくぐったが、あおぐとこずえに出て白い、月の形はここでも別にかわりは無かった、浮世うきよはどこにあるか十三夜で。

先に立った女の姿が目の前から消えたので、松の幹につかまって下をのぞくと、すぐ下にいた。

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先へ立った婦人おんなの姿が目さきを放れたから、松のみきつかまってのぞくと、つい下に居た。

女は上を向いて、

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仰向あおむいて、

(急に低くなりますから、お気をつけて。

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(急に低くなりますから気をつけて。

これは、あなたには足駄(あしだ・下駄の一種)では無理でございましたかしら。よろしければ草履(ぞうり)とお取り替えいたしましょう。)

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こりゃ貴僧あなたには足駄あしだでは無理でございましたかしら、よろしくば草履ぞうりとお取交とりかえ申しましょう。)

遅れたのを、歩くのに難儀しているのだと察した様子だった。何にしても、たとえ転げ落ちようとも、早く行って蛭にかまれた汚れを洗い流したかった。

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立後たちおくれたのを歩行悩あるきなやんだと察した様子、何がさて転げ落ちても早く行ってひるあかを落したさ。

(いえ、だめならはだしになるだけのことでございます。どうぞお構いなく。お嬢様にご心配をかけては申し訳ございません。)

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(何、いけませんければ跣足はだしになります分のこと、どうぞお構いなく、嬢様にご心配をかけては済みません。)

(あれ、お嬢様ですって、)と、やや声を高くして、あでやかに笑った。

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(あれ、嬢様ですって、)とやや調子を高めて、艶麗あでやかに笑った。

(はい、たった今、あのおじいさんがそのように申していたように思いますが、それとも奥様でいらっしゃいますか。)

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(はい、ただいまあの爺様じいさんが、さよう申しましたように存じますが、夫人おくさまでございますか。)

(どちらにしても、あなたからすれば叔母(おば)さんくらいの年でございますよ。

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(何にしても貴僧あなたには叔母おばさんくらいな年紀としですよ。

まあ、お早くいらっしゃいませ。草履もようございますけれど、とげが刺さるといけません。それにじくじく湿っていて、お気味が悪うございましょうから。)

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まあ、お早くいらっしゃい、草履もようござんすけれど、とげがささりますといけません、それにじくじく湿れていてお気味が悪うございましょうから。)

と、向こうを向いたまま言いながら、着物の裾(すそ)の片方をぐいと持ち上げた。

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と向うむきでいいながら衣服きもの片褄かたつまをぐいとあげた。

真っ白なその足が暗闇にまぎれ、歩くと霜(しも)が消えていくように見えた。

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真白なのがやみまぎれ、歩行あるくとしもが消えて行くような。

ずんずんずんずんと道を下りていく。道端の草むらから、のさのさと出てきたのは蟇(ひきがえる)だった。

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ずんずんずんずんと道を下りる、かたわらのくさむらから、のさのさと出たのはひきで。

(あれ、気味が悪いよ。)

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(あれ、気味が悪いよ。)

と言うと、女は後ろに向かって高々とかかとを上げ、向こうへ飛びのいた。

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というと婦人おんな背後うしろへ高々とかかとを上げて向うへ飛んだ。

(お客様がいらっしゃっているではないか。人の足になんかまとわりついて、ぜいたくじゃないか。お前たちは虫でも吸っていれば十分なんだよ。

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(お客様がいらっしゃるではないかね、人の足になんかからまって、贅沢ぜいたくじゃあないか、お前達は虫を吸っていればたくさんだよ。

あなた、ずんずんいらっしゃいませ。どうもいたしません。

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貴僧あなたずんずんいらっしゃいましな、どうもしはしません。

こういうところですから、あんなものまで人になつくのでございます。嫌ではないかね、お前たちと友達のようで恥ずかしい。あれ、いけませんよ。)

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こう云う処ですからあんなものまで人なつかしゅうございます、いやじゃないかね、お前達と友達をみたようではずかしい、あれいけませんよ。)

蟇はのさのさと、また草をかき分けて入っていった。女は向こうへずいと進んだ。

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蟇はのさのさとまた草を分けて入った、婦人おんなはむこうへずいと。

(さあ、この上に乗るのです。土が柔らかくて崩れますから、地面は歩けません。)

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(さあこの上へ乗るんです、土が柔かでえますから地面は歩行あるかれません。)

いかにも大木が倒れたものが、草に隠れながらその幹をあらわしていた。乗ってみると足駄ばきでも差し支えなかった。丸太ではあるが恐ろしく太いもので、もっとも、これを渡りきると、たちまち川の流れの音が耳に響いてきた。それまでにはかなりの間があった。

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いかにも大木のたおれたのが草がくれにその幹をあらわしている、乗ると足駄穿あしだばき差支さしつかえがない、丸木だけれどもおそろしく太いので、もっともこれを渡り果てるとたちまちながれの音が耳にげきした、それまでにはよほどのあいだ

見上げてみると、松の木はもう影も見えなかった。十三夜の月はずっと低くなっていたが、今下りてきた山の頂(いただき)に半分かかって、手が届きそうなほどあざやかだったが、その高さはおよそ計り知れなかった。

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仰いで見ると松のはもう影も見えない、十三夜の月はずっと低うなったが、今下りた山のいただきに半ばかかって、手が届きそうにあざやかだけれども、高さはおよそ計り知られぬ。

(あなた、こちらへ。)

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貴僧あなた、こちらへ。)

と言った女は、もう少しのところで、わしの目の下に立って待っていた。

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といった婦人おんなはもう一息、目の下に立って待っていた。

そこはもう一面の岩場で、岩の上に谷川の水がかかり、そこによどみができていた。川幅は一間(いっけん)ほど。水のそばに立つと音はそれほどでもないが、美しさは玉をとかして流したようだった。かえって遠くのほうで、すさまじく岩に砕ける音が響いていた。

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そこは早や一面の岩で、岩の上へ谷川の水がかかってここによどみを作っている、川幅は一けんばかり、水にのぞめば音はさまでにもないが、美しさは玉を解いて流したよう、かえって遠くの方ですさまじく岩にくだけるひびきがする。

向こう岸はまた一つの山のふもとで、頂のほうは真っ暗だったが、山の端からその山腹を照らす月の光に照らし出されたあたりからは、大小の石が見えた。栄螺(さざえ)のような形のもの、六尺(ろくしゃく・約一、八メートル)四方に切り出したようなもの、剣のような形のもの、鞠(まり)のような形のもの、見渡す限りどれも岩で、だんだん大きくなって水に浸(ひた)っているものは、まるで小さな山のようだった。」

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向う岸はまた一座の山のすそで、頂の方は真暗まっくらだが、山のからその山腹を射る月の光に照し出されたあたりからは大石小石、栄螺さざえのようなの、六尺角に切出したの、つるぎのようなのやら、まりの形をしたのやら、目の届く限り残らず岩で、次第に大きく水にひたったのはただ小山のよう。」

十四

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十四

「(ちょうどよい具合に、今日は水が増えておりますから、中へ入らなくてもこの上でよろしゅうございます。)と、足の甲を水に浸し、つま先を曲げながら、雪のように白い素足で石の平らな面の上に立っていた。

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「(いい塩梅あんばいに今日は水がふえておりますから、中へ入りませんでもこの上でようございます。)と甲をひたして爪先つまさきかがめながら、雪のような素足で石のばんの上に立っていた。

自分たちが立っている側は、かえってこちらの山のふもとが水に迫っていて、ちょうど切り穴のような形になっており、そこにこの石をはめ込んだような具合だった。

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自分達が立ったかわは、かえってこっちの山の裾が水に迫って、ちょうど切穴の形になって、そこへこの石をめたようなあつらえ

川上も川下も見えなかったが、向こうのあの岩山は九十九折(つづらおり)のような形をしていた。流れは五尺、三尺、一間ほどずつ、上流のほうへだんだん遠ざかりながら、飛び石のように岩をかがったように見えたり隠れたりして、どれも月の光を浴びて、まるで銀のよろいの姿だった。目の前近くのものは、揺れる糸をさばくように、真っ白に翻っていた。

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川上も下流も見えぬが、向うのあの岩山、九十九折つづらおりのような形、流は五尺、三尺、一間ばかりずつ上流の方がだんだん遠く、飛々とびとびに岩をかがったように隠見いんけんして、いずれも月光を浴びた、銀のよろいの姿、のあたり近いのはゆるぎ糸をさばくがごとく真白にひるがえって。

(結構な流れでございますな。)

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(結構な流れでございますな。)

(はい、この水は源(みなもと)が滝でございます。この山を旅なさるお方は、みなどこかで大風のような音をお聞きになります。

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(はい、この水は源がたきでございます、この山を旅するお方はな大風のような音をどこかで聞きます。

あなたは、こちらへいらっしゃる道でお気づきになりませんでしたか。)

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貴僧あなたはこちらへいらっしゃる道でお心着きはなさいませんかい。)

そういえば、山蛭の大きな藪(やぶ)に入ろうという少し前から、たしかにその音を聞いていた。

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さればこそ山蛭やまびる大藪おおやぶへ入ろうという少し前からその音を。

(あれは、林に風が当たっているのではございませんので?)

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(あれは林へ風の当るのではございませんので?)

(いいえ、誰でもそう申します。あの森から三里(さんり)ほど脇道へ入ったところに大きな滝があるのでございます。それはそれは日本一だそうでございますが、道が険しゅうございますので、十人に一人も行き着いた者はございません。

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(いえ、たれでもそう申します、あの森から三里ばかり傍道わきみちへ入りました処に大滝があるのでございます、それはそれは日本一だそうですが、みちけわしゅうござんすので、十人に一人参ったものはございません。

その滝が荒れましたと申しまして、ちょうど今から十三年前、恐ろしい洪水がございました。こんな高いところまで川の底になりましてね、麓(ふもと)の村も山も家も、残らず流されてしまいました。

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その滝がれましたと申しまして、ちょうど今から十三年前、おそろしい洪水おおみずがございました、こんな高い処まで川の底になりましてね、ふもとの村も山も家も残らず流れてしまいました。

この上の谷あいの村も、はじめは二十軒ほどあったのでございます。この流れも、その時からできたものでございます。ご覧なさいまし、この通り、みんな石が流されてきたのでございますよ。)

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このかみほらも、はじめは二十軒ばかりあったのでござんす、この流れもその時から出来ました、ご覧なさいましな、この通り皆な石が流れたのでございますよ。)

女はいつの間にかもうお米を研ぎ終えていて、着物の襟元が乱れ、胸のふくらみの端がほの見えるような、豊かな胸をそらして立っていた。鼻筋は高く、口を結び、うっとりとした目で上を向いて頂を仰いでいたが、月はまだ山の中腹の、あの重なり合った岩々を照らしているばかりだった。

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婦人おんなはいつかもう米をしらげ果てて、衣紋えもんの乱れた、乳のはしもほの見ゆる、ふくらかな胸をそらして立った、鼻高く口を結んで目を恍惚うっとりと上を向いて頂を仰いだが、月はなお半腹のその累々るいるいたるいわおを照すばかり。

(今でも、こうやって見ますと恐ろしいようでございます。)

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(今でもこうやって見ますとこわいようでございます。)

と、身をかがめて二の腕のあたりを洗っていると。

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と屈んでうでの処を洗っていると。

(あれ、あなた、そんな行儀よくなさっていては、お召し物が濡れてしまいます。気味が悪うございますよ。すっぱり裸におなりになってお洗いなさいまし。私がお流しいたしましょう。)

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(あれ、貴僧あなた、そんな行儀ぎょうぎのいいことをしていらしってはおめしれます、気味が悪うございますよ、すっぱり裸体はだかになってお洗いなさいまし、私が流して上げましょう。)

(いえ、)

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(いえ、)

(いえではございませんよ。ほら、ほら、お法衣の袖が水に浸ってしまうではありませんか、)と言うと、いきなり後ろから帯に手をかけて、身をよじって縮こまるのを、そっけないほどにすっぱりと脱がせてしまった。

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(いえじゃあござんせぬ、それ、それ、お法衣ころもそでひたるではありませんか、)というと突然いきなり背後うしろから帯に手をかけて、身悶みもだえをして縮むのを、邪慳じゃけんらしくすっぱりいで取った。

わしは師匠が厳しかったし、お経を読む身であるから、肌をあらわにしたことなど、これまで一度も覚えがなかった。

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わし師匠ししょうきびしかったし、経を読む身体からだじゃ、はださえ脱いだことはついぞ覚えぬ。

しかも女の前で、まるでかたつむりが殻を明け渡したような気持ちで、口をきくことさえ、まして手足を動かすこともできず、背中を丸め、膝を合わせて縮こまっていると、女は脱がせた法衣をそばの枝にふわりとかけた。

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しかも婦人おんなの前、蝸牛まいまいつぶろが城を明け渡したようで、口をくさえ、まして手足のあがきも出来ず、背中を円くして、ひざを合せて、縮かまると、婦人おんなは脱がした法衣ころもかたわらの枝へふわりとかけた。

(お召し物はこうしておきましょう。さあ、お背中を。あれさ、じっとなさって。

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(お召はこうやっておきましょう、さあおせなを、あれさ、じっとして。

お嬢様とおっしゃってくださったお礼に、叔母さんが世話を焼いているのでございますよ。人が悪うございますね。)

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お嬢様とおっしゃって下さいましたお礼に、叔母さんが世話を焼くのでござんす、お人の悪い。)

と言って、片方の袖を前歯でくわえて引き上げ、玉のように美しい二の腕を惜しげもなく背中に当てたが、じっと見て、

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といって片袖を前歯で引上げ、玉のような二の腕をあからさまに背中に乗せたが、じっと見て、

(まあ、)

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(まあ、)

(どうかいたしておりますか。)

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(どうかいたしておりますか。)

(あざのようになって、一面に。)

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あざのようになって、一面に。)

(ええ、それでございます。ひどい目に遭いました。)

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(ええ、それでございます、ひどい目にいました。)

思い出しても、ぞっとするて。」

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思い出してもぞッとするて。」

十五

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十五

「女は驚いた顔をして、

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婦人おんなは驚いた顔をして、

(それでは、森の中で大変な目に遭われましたこと。

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(それでは森の中で、大変でございますこと。

旅をする人が「飛騨の山では蛭が降る」と言うのは、あそこのことでございます。

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旅をする人が、飛騨ひだの山では蛭が降るというのはあすこでござんす。

あなたは抜け道をご存じないから、まともに蛭の巣をお通りになったのでございますよ。

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貴僧あなたは抜道をご存じないから正面まともに蛭の巣をお通りなさいましたのでございますよ。

命がおありなだけでも運がよろしいくらいでございます。馬でも牛でも、吸い殺してしまうのでございますもの。

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生命いのち冥加みょうがなくらい、馬でも牛でも吸い殺すのでございますもの。

けれども、うずくように痒いのでございましょうね。)

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しかしうずくようにおかゆいのでござんしょうね。)

(ただいまではもう、痛むばかりになりました。)

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(ただいまではもう痛みますばかりになりました。)

(それでは、こんなものでこすりましては、柔らかいお肌がすりむけてしまいましょう。)

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(それではこんなものでこすりましてはやわらかいお肌が擦剥すりむけましょう。)

と言うと、その手が綿のようにやさしく触れた。

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というと手が綿のようにさわった。

それから両方の肩から、背中、横腹、腰のあたりまで、さらさらと水をかけてはさすってくれた。

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それから両方の肩から、背、横腹、いしき、さらさら水をかけてはさすってくれる。

それがな、骨まで通るような冷たさかというと、そうではなかった。

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それがさ、骨に通って冷たいかというとそうではなかった。

暑い時季ではあったが、理屈で言えばこうはなるまい。わしの血がわいたせいか、女のぬくもりのせいか、手で洗ってくれる水がちょうどよい具合に身にしみた。もっとも、質のよい水はやわらかいものだそうな。

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暑い時分じゃが、理窟りくつをいうとこうではあるまい、わしの血がいたせいか、婦人おんな温気ぬくみか、手で洗ってくれる水がいい工合ぐあいに身に染みる、もっともたちい水は柔かじゃそうな。

その気持ちの何とも言えないここちよさで、眠くなったわけでもないだろうが、うとうととした様子になり、傷の痛みも消えて気が遠くなった。ぴたりと寄り添っている女の体で、わしはまるで花びらの中に包まれているような具合だった。

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その心地ここちもいわれなさで、眠気ねむけがさしたでもあるまいが、うとうとする様子で、きずの痛みがなくなって気が遠くなって、ひたとくっついている婦人おんなの身体で、わしは花びらの中へ包まれたような工合。

山家の者には似合わない、都でもめったにいないほどの美しさは言うまでもないが、どこか弱々しそうな様子だった。背中を流してもらっているうちにも、はっはっと、ひそかに息がはずんでくる。もう断ろう断ろうと思いながら、あのうっとりとした気持ちのまま、気づいてはいながらも洗わせてしまった。

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山家やまがの者には肖合にあわぬ、都にもまれな器量はいうにおよばぬが弱々しそうな風采ふうじゃ、背中を流すうちにもはッはッと内証ないしょ呼吸いきがはずむから、もう断ろう断ろうと思いながら、例の恍惚うっとりで、気はつきながら洗わした。

そのうえ、山の空気のせいか、女の香りのせいか、ほんのりと良いかおりがした。わしは、これは背後で女がつくため息のかおりだろうと思った。」

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その上、山の気か、女のにおいか、ほんのりと佳いかおりがする、わし背後うしろでつく息じゃろうと思った。」

上人はちょっと言葉を区切って、

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上人しょうにんはちょっと句切って、

「いや、お前様、手近にあろう、その明かりをかき立ててもらいたい。暗いと、これはとんでもない話じゃ。ここらから一つ、あからさまにやっつけよう。」

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「いや、お前様お手近じゃ、そのあかりき立ってもらいたい、暗いとしからぬ話じゃ、ここらから一番野面のづらやっつけよう。」

枕を並べた上人の姿もぼんやりとするほど、明かりは暗くなっていた。すぐに灯心(とうしん)を明るくすると、上人はほほえみながら続けたのだった。

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まくらを並べた上人の姿もおぼろげにあかりは暗くなっていた、早速燈心とうしんを明くすると、上人は微笑ほほえみながら続けたのである。

「さあ、そうやっているうちに、いつの間にか、夢とも現(うつつ)ともつかぬまま、こう、あの不思議な、良いかおりのする暖かい花の中に柔らかく包まれて、足、腰、手、肩、首から、だんだんに頭までひとつ残らずかぶさってきたので、びっくりして石に尻もちをついた。足を水の中に投げ出したので、落ちるかと思ったとたん、女の手が後ろから肩越しに胸を押さえてくれたので、しっかりとつかまった。

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「さあ、そうやっていつの間にやらうつつとも無しに、こう、その不思議な、結構な薫のするあったかい花の中へ柔かに包まれて、足、腰、手、肩、えりから次第しだい天窓あたままで一面にかぶったから吃驚びっくり、石に尻餅しりもちいて、足を水の中に投げ出したから落ちたと思うとたんに、女の手が背後うしろから肩越しに胸をおさえたのでしっかりつかまった。

(あなた、おそばにいて汗くさくはございませんかしら。とんだ暑がりでございますから、こうやっておりましても、この通りでございますよ。)

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貴僧あなた、おそばに居て汗臭あせくそうはござんせぬかい、とんだ暑がりなんでございますから、こうやっておりましてもこんなでございますよ。)

と言って、胸にある手を取ろうとしたので、あわてて手を放し、わしは棒のように立ち尽くした。

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という胸にある手を取ったのを、あわてて放して棒のように立った。

(失礼、)

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(失礼、)

(いいえ、誰も見てはおりませんよ。)

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(いいえ誰も見ておりはしませんよ。)

と、すましたように言う。女もいつの間にか着物を脱いで、全身を練絹(ねりぎぬ)のようにあらわにしていたのじゃ。

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すまして言う、婦人おんなもいつの間にか衣服きものを脱いで全身を練絹ねりぎぬのようにあらわしていたのじゃ。

これはもう、驚かずにいられようか。

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何とおどろくまいことか。

(こんなに太っておりますから、もう恥ずかしいほど暑いのでございます。この頃は毎日二度も三度もここへ来て、こうやって汗を流すのでございます。この水がございませんでしたら、どういたしましょう。あなた、お手ぬぐいを。)

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(こんなに太っておりますから、もうおはずかしいほど暑いのでございます、今時は毎日二度も三度も来てはこうやって汗を流します、この水がございませんかったらどういたしましょう、貴僧あなた、お手拭てぬぐい。)

と言って、絞った手ぬぐいをよこした。

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といってしぼったのを寄越よこした。

(それで、お足をお拭きなさいまし。)

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(それでおみ足をおきなさいまし。)

いつの間にか、体はもうすっかり拭いてあった。お話し申し上げるのも恐れ多いことじゃが、はっはっはっはっは。」

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いつの間にか、体はちゃんと拭いてあった、お話し申すもおそれ多いが、はははははは。」

十六

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十六

「なるほど、見たところ、着物を着ていたときの姿とは違って、肉づきが豊かで、ふっくりとした肌だった。

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「なるほど見たところ、衣服きものを着た時の姿とはちごうてししつきの豊な、ふっくりとしたはだえ

(さっき馬小屋に入って世話をしましたので、ぬらぬらした馬の鼻息が体じゅうにかかって、気味が悪うございます。

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(さっき小屋へ入って世話をしましたので、ぬらぬらした馬の鼻息が体中にかかって気味が悪うござんす。

ちょうどようございますから、私も体を拭きましょう。)

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ちょうどようございますから私も体を拭きましょう。)

と、姉弟(きょうだい)がひそひそ話をするような調子だった。

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姉弟きょうだい内端話うちわばなしをするような調子。

手を上げて黒髪を押さえながら、脇の下を手ぬぐいでぐいと拭き、そのあとを両手で絞りながら立っている姿は、まるで雪のような白い肌を、この不思議な水で清めたようだった。こういう女の汗は、薄紅色になって流れることだろう。

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手をあげて黒髪をおさえながらわきの下を手拭でぐいと拭き、あとを両手で絞りながら立った姿、ただこれ雪のようなのをかかる霊水で清めた、こういう女の汗は薄紅うすくれないになって流れよう。

ちょいちょいと髪に櫛(くし)を入れて、

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ちょいちょいとくしを入れて、

(まあ、女がこんなお転婆(てんば)をいたしまして、川へ落っこちたらどうしましょう。川下へ流れて出ましたら、村の者たちが何と言って見ることでしょうね。)

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(まあ、女がこんなお転婆てんばをいたしまして、川へおっこちたらどうしましょう、川下かわしもへ流れて出ましたら、村里の者が何といって見ましょうね。)

(白桃(しろもも)の花だと思うでしょう。)

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白桃しろももの花だと思います。)

と、ふと思いついて、何の気もなしに言うと、女と顔が合った。

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とふと心付いて何の気もなしにいうと、顔が合うた。

すると、いかにもうれしそうににっこりして、そのときだけは初々しく、年も七つ八つ若返ったかのようで、まるで嫁入り前の娘のような恥じらいを浮かべてうつむいた。

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すると、さもうれしそうに莞爾にっこりしてその時だけは初々ういういしゅう年紀としも七ツ八ツ若やぐばかり、処女きむすめはじふくんで下を向いた。

わしはそのまま目をそらしたが、そのひときわ美しい女の姿が月の光を浴びて、薄い霧に包まれながら、向こう岸のしぶきに濡れて黒く、なめらかな大きな石に、青みを帯びて透き通って映っているように見えた。

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わしはそのまま目をらしたが、その一段の婦人おんなの姿が月を浴びて、薄い煙に包まれながら向う岸のしぶきれて黒い、なめらかな大きな石へ蒼味あおみを帯びて透通すきとおって映るように見えた。

するとな、夜の暗さではっきりとは見えなかったが、もともと何か洞穴(ほらあな)があるらしかった。

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するとね、夜目で判然はっきりとは目にらなんだが地体じたい何でも洞穴ほらあながあるとみえる。

ひらひらと、こちらからもひらひらと、鳥ほどもありそうな大きなこうもりが、わしの目をさえぎった。

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ひらひらと、こちらからもひらひらと、ものの鳥ほどはあろうという大蝙蝠おおこうもりが目をさえぎった。

(あれ、いけないよ、お客様がいらっしゃるではないかね。)

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(あれ、いけないよ、お客様があるじゃないかね。)

不意をつかれたように叫んで身をよじったのは、女だった。

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不意を打たれたように叫んで身悶みもだえをしたのは婦人おんな

(どうかなさいましたか、)と、わしはもうちゃんと法衣を着ていたので、落ち着いて尋ねた。

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(どうかなさいましたか、)もうちゃんと法衣ころもを着たから気丈夫きじょうぶたずねる。

(いいえ、)

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(いいえ、)

と言っただけで、きまりが悪そうに、くるりと後ろを向いた。

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といったばかりできまりが悪そうに、くるりと後向うしろむきになった。

その時、子犬ほどの大きさの、ねずみ色をした小さな生き物が、ちょこちょことやって来て、「あっ」と思う間もなく、崖のほうから横に宙をひょいと飛んで、後ろから女の背中へぴったりとくっついた。

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その時小犬ほどな鼠色ねずみいろ小坊主こぼうずが、ちょこちょことやって来て、あなやと思うと、がけから横に宙をひょいと、背後うしろから婦人おんなの背中へぴったり。

裸で立っていた姿は、腰から下が消えたようになって、何かが抱きついていた。

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裸体はだかの立姿は腰から消えたようになって、だきついたものがある。

(こら、お客様が見えないのかい。)

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畜生ちくしょう、お客様が見えないかい。)

と、声に怒りをにじませたが、

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と声にいかりを帯びたが、

(お前たちは生意気だよ、)と激しく言うと同時に、脇の下からのぞこうとしたその動物の頭を、振り返りざまに一発くらわせた。

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(お前達は生意気なまいきだよ、)と激しくいいさま、腋の下からのぞこうとしたくだんの動物の天窓あたま振返ふりかえりさまにくらわしたで。

キッキッと奇妙な声を上げた。あの小さな生き物はそのまま後ろへ宙を飛んで、さっきまで法衣をかけておいた枝の先に、長い手でぶら下がったと思うと、くるりと逆さまに上へ乗り、そのままさらさらと木登りをした。これはもう、猿ではないか。

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キッキッというて奇声を放った、件の小坊主はそのまま後飛うしろとびにまた宙を飛んで、今まで法衣ころもをかけておいた、枝のさきへ長い手でつるさがったと思うと、くるりと釣瓶覆つるべがえしに上へ乗って、それなりさらさらと木登きのぼりをしたのは、何とさるじゃあるまいか。

枝から枝へ伝っていくと見えて、見上げるように高い木の、やがて梢(こずえ)まで、かさかさがさりと音を立てて登っていった。

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枝から枝を伝うと見えて、見上げるように高い木の、やがてこずえまで、かさかさがさり。

まばらな葉の間を通して、月はもう山の端から離れていた。その梢のあたりに。

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まばらに葉の中をすかして月は山のを放れた、その梢のあたり。

女は何かにすねたような様子だった。今のいたずら、いや、蟇とこうもりと猿と、これで三度目じゃ。

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婦人おんなはものにねたよう、今の悪戯いたずら、いや、毎々、ひき蝙蝠こうもりと、お猿で三度じゃ。

そのいたずらに、だいぶ機嫌を損ねた様子だった。子どもがあまりはしゃぎすぎると、若い母親にはよくある光景じゃ。

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その悪戯にいた機嫌きげんそこねた形、あまり子供がはしゃぎ過ぎると、若い母様おふくろにはてある図じゃ。

本当に怒り出したのだ。

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本当に怒り出す。

といった様子で、面倒くさそうに着物を着ていたので、わしは何も尋ねず、小さくなって黙って控えていた。」

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といった風情ふぜい面倒臭めんどうくさそうに衣服きものを着ていたから、わしは何にも問わずに小さくなって黙ってひかえた。」

十七

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十七

「優しさの中にも芯の強さがあり、気軽そうに見えてもどこか落ち着きがある。親しみやすいが決してなれなれしくは扱えない、品のよい女だった。どんなことがあっても、いざとなれば少しも驚かないだけの器があるように見える、そんな女だった。こんなふうに愛らしく怒りを見せたのだから、きっとこのあとろくなことにはなるまい。今この女に冷たくあしらわれては、木から落ちた猿も同然だと思い、わしはおっかなびっくり、おずおずと控えていたが、いや、心配するより、やってみるほうが案外楽なものだった。

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「優しいなかに強みのある、気軽に見えてもどこにか落着のある、馴々なれなれしくて犯しやすからぬ品のいい、いかなることにもいざとなれば驚くに足らぬという身にこたえのあるといったような風の婦人おんな、かく嬌瞋きょうしんを発してはきっといいことはあるまい、今この婦人おんな邪慳じゃけんにされては木から落ちた猿同然じゃと、おっかなびっくりで、おずおず控えていたが、いや案ずるよりうむが安い。

(あなた、さぞおかしかったでございましょうね、)と、自分でも思い出したように気持ちよく微笑みながら、

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貴僧あなた、さぞおかしかったでござんしょうね、)と自分でも思い出したように快く微笑ほほえみながら、

(しようがないのでございますよ。)

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(しようがないのでございますよ。)

前と変わらず気安い様子になり、帯ももう締め終えていたので、

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以前と変らず心安くなった、帯も早やしめたので、

(それでは家へ帰りましょう。)

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(それではうちへ帰りましょう。)

と、米研ぎ桶を小脇にかかえ、草履をひっかけてすっと崖を上った。

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米磨桶こめとぎおけ小腋こわきにして、草履ぞうりひっかけてつとがけのぼった。

(お危のうございますから。)

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(おあぶのうござんすから。)

(いえ、もうだいぶ勝手がわかっております。)

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(いえ、もうだいぶ勝手が分っております。)

すっかり心得たつもりでいたが、さて上るときに見ると、思いのほか上まではずいぶん高かった。

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ずッと心得こころえつもりじゃったが、さてあがる時見ると思いのほか上までは大層高い。

やがてまた、あの木の丸太を渡るのじゃが、さっきも言った通り、草の中に横たわっている木の肌が、ちょうど鱗(うろこ)のようで、たとえにもよく言うように、松の木は大蛇(うわばみ)に似ているものでな。

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やがてまた例の木の丸太を渡るのじゃが、さっきもいった通り草のなかに横倒れになっている木地がこうちょうどうろこのようで、たとえにもよくいうが松の木はうわばみに似ているで。

とくに崖の上のほうへ、ちょうどよい具合にうねった様子が、とんでもないものにそっくりで、だいたいこれくらいの胴回りの蛇がいたなと思うと、頭と尾を草に隠して、月明かりの中にはっきりとそれが見えた。

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ことに崖を、上の方へ、いい塩梅あんばいうねった様子が、とんだものに持って来いなり、およそこのくらいな胴中どうなかの長虫がと思うと、頭と尾を草に隠して、月あかりに歴然ありありとそれ。

山道でのことを思い出すと、われながら足がすくんだ。

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山路の時を思い出すと我ながら足がすくむ。

女は親切に後ろを気遣いながら、気をつけてくれた。

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婦人おんなは深切にうしろ気遣きづこうては気を付けてくれる。

(それをお渡りになりますときは、下をご覧になってはなりません。

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(それをお渡りなさいます時、下を見てはなりません。

ちょうど真ん中あたりで、よほど谷が深いのでございますから、目が回っては大変でございます。)

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ちょうどちゅうとでよッぽど谷が深いのでございますから、目がうと悪うござんす。)

(はい。)

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(はい。)

ぐずぐずしてはいられないので、自分で自分を笑い飛ばして、まず丸太に乗った。

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愚図愚図ぐずぐずしてはいられぬから、我身わがみを笑いつけて、まず乗った。

足がひっかかるように、刻み目が入れてあるのだから、しっかり気を確かに持ってさえいれば、足駄でも渡れるはずだった。

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ひっかかるよう、きざが入れてあるのじゃから、気さえたしかなら足駄あしだでも歩行あるかれる。

それがな、あの蛇のことがあったばかりにたまらなくてな。乗るとぐらぐらして、まるで柔らかく、ずるずると這い出しそうに感じられたので、「わっ」と言って丸太をまたぎ、腰をどさりと落としてしまった。

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それがさ、一件じゃからたまらぬて、乗るとこうぐらぐらして柔かにずるずるといそうじゃから、わっというと引跨ひんまたいで腰をどさり。

(ああ、意気地がございませんねえ。

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(ああ、意気地いくじはございませんねえ。

足駄では無理でございましょう。これとお履き替えなさいまし。あれさ、ちゃんと言うことをお聞きになるものですよ。)

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足駄では無理でございましょう、これとお穿えなさいまし、あれさ、ちゃんということをくんですよ。)

わしはさっきから何となくこの女に対して畏(おそ)れ敬う気持ちが生まれていて、良いも悪いも、どのみち言われる通りにするものだと心得ていたので、言われるままに草履をはいた。

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わしはそのさっきからんとなくこの婦人おんな畏敬いけいの念が生じて善か悪か、どの道命令されるように心得たから、いわるるままに草履を穿いた。

すると、お聞きなさい、女は自分で足駄をはきながら、わしの手を取ってくれる。

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するとお聞きなさい、婦人おんなは足駄を穿きながら手を取ってくれます。

たちまち体が軽くなったように感じ、わけもなくそのあとについていくと、ひょいとあの一軒家の裏口のはたへ出た。

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たちまち身が軽くなったように覚えて、わけなくうしろに従って、ひょいとあの孤家ひとつや背戸せどはたへ出た。

出会いがしらに、声をかけてきた者がいた。

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出会頭であいがしらに声をけたものがある。

(やあ、だいぶ手間取ったろうと思ったに、お坊様、もとの姿で帰りなすったな。)

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(やあ、大分手間が取れると思ったに、ご坊様ぼうさまもとの体で帰らっしゃったの。)

(何を言っているんだね、おじさん、家の番はどうしたんだい。)

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(何をいうんだね、小父様おじさんうちの番はどうおしだ。)

(もういい時分じゃ。それにわしも、あんまり遅くなっては道が困るでな、そろそろ青(あお・馬の名)を引き出して支度をしておこうと思うてな。)

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(もういい時分じゃ、またわしあんまおそうなっては道が困るで、そろそろ青を引出して支度したくしておこうと思うてよ。)

(それはお待たせいたしました。)

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(それはお待遠まちどおでござんした。)

(何、行ってみなされ、あのご亭主は無事じゃ。いやなかなか、わしの口車には乗ってくれなんだ、はっはっはっはっは。)

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(何さ、行ってみさっしゃいご亭主ていしゅは無事じゃ、いやなかなかわしが手には口説くどき落されなんだ、ははははは。)

と、意味もないことを言って大笑いし、親父は馬小屋のほうへてくてくと歩いていった。

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と意味もないことを大笑おおわらいして、親仁おやじうまやの方へてくてくと行った。

あの少年は同じ場所に、まだじっと座っていた。くらげも日に当たらなければ溶けないと見える。」

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白痴ばかはおなじ処になお形を存している、海月くらげも日にあたらねば解けぬとみえる。」

十八

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十八

「ヒイイン! しっ、どうどうどうと裏口を回る蹄(ひづめ)の音が縁側へ響いて、親父は一頭の馬を門前へ引き出した。

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「ヒイイン! しっ、どうどうどうと背戸をまわ鰭爪ひづめの音がえんひびいて親仁おやじは一頭の馬を門前へ引き出した。

手綱(たづな)を取って立ちはだかり、

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轡頭くつわづらを取って立ちはだかり、

(お嬢様、それではこのまま、わしは行ってまいりますよ。はい、お坊様にたくさんごちそうしてさしあげなされ。)

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(嬢様そんならこのままでわし参りやする、はい、ご坊様ぼうさまにたくさんご馳走ちそうして上げなされ。)

女は囲炉裏(いろり)のふちに行燈(あんどん)を引き寄せ、うつむいて鍋の下をくすぶらせていたが、顔を上げて、鉄の火箸を持った手を膝に置いて、

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婦人おんな炉縁ろぶち行燈あんどう引附ひきつけ、俯向うつむいてなべの下をいぶしていたが、振仰ふりあおぎ、鉄の火箸ひばしを持った手をひざに置いて、

(ご苦労でございます。)

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(ご苦労でござんす。)

(いえいえ、ご丁寧にはおよびませぬ。

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(いんえごねんごろには及びましねえ。

しっ!)

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しっ!)

と、荒縄の綱を引いた。

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荒縄あらなわつなを引く。

青(あお)という名の蘆毛(あしげ)の馬で、鞍(くら)も付けない裸馬(はだかうま)だが、たくましく、たてがみの薄い牡(おす)の馬じゃった。

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青で蘆毛あしげ裸馬はだかうまたくましいが、たてがみの薄いおすじゃわい。

その馬がな、わしも別に馬なんぞ珍しくもないが、あの少年の後ろにかしこまって、手持ち無沙汰にしていたので、今まさに引いていこうとするとき、縁側へひらりと出て、

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その馬がさ、私も別に馬は珍しゅうもないが、白痴殿ばかどの背後うしろかしこまって手持不沙汰てもちぶさたじゃから今引いて行こうとする時縁側へひらりと出て、

(その馬はどこへ参るのですか。)

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(その馬はどこへ。)

(おお、諏訪(すわ)の湖のあたりまで、馬市(うまいち)に出しますのじゃ。これから、明日の朝お坊様が歩かれる山道を越えて行きますよ。)

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(おお、諏訪すわの湖のあたりまで馬市へ出しやすのじゃ、これから明朝あしたお坊様が歩行あるかっしゃる山路を越えて行きやす。)

(もし、それに乗って、今からお逃げになるおつもりではないかい。)

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(もし、それへ乗って今からおげ遊ばすおつもりではないかい。)

女は慌てて話をさえぎり、声をかけた。

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婦人おんなあわただしく遮って声を懸けた。

(いえ、もったいない。修行の身で、馬に乗って足休めをしようなどとは考えておりませぬ。)

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(いえ、もったいない、修行しゅぎょうの身が馬で足休めをしましょうなぞとは存じませぬ。)

(どうにも、人を乗せられそうな馬ではございませんよ。

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(何でも人間を乗っけられそうな馬じゃあござらぬ。

お坊様は命拾いをなされたのじゃから、おとなしくして、お嬢様の袖の中で、今夜は助けてもらいなされ。

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お坊様は命拾いをなされたのじゃで、大人おとなしゅうして嬢様のそでの中で、今夜は助けてもらわっしゃい。

さようなら、ちょっくら行ってまいりますよ。)

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さようならちょっくら行って参りますよ。)

(あい。)

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(あい。)

(こら。)

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畜生ちくしょう。)

と言ったが、馬は動かないわ。

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といったが馬は出ないわ。

びくびくと動いて見える大きな鼻面をこちらへねじ向け、しきりにわしらがいるほうを見ている様子だった。

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びくびくとうごめいて見えるおおき鼻面はなッつらをこちらへじ向けてしきりに私等わしらが居る方を見る様子。

(どうどうどう、こら、これはあばれる獣じゃ、やい!)

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(どうどうどう、畜生これあだけたけものじゃ、やい!)

右へ左へと綱を引っぱったが、まるで脚に根が生えたかのようにぬっと立ったまま、びくともしなかった。

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右左にして綱を引張ったが、あしから根をつけたごとくにぬっくと立っていてびくともせぬ。

親父は大いにいらだって、叩いたり打ったりし、馬の胴のまわりを二、三度ぐるぐる回ったが、少しも歩かなかった。

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親仁おやじ大いに苛立いらだって、たたいたり、ったり、馬の胴体について二三度ぐるぐると廻ったが少しも歩かぬ。

肩でぶつかるように横腹に体を当てたときには、ようやく前足を上げただけで、また四本の脚を突っ張って動かなくなった。

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肩でぶッつかるようにして横腹よこっぱらたいをあてた時、ようよう前足を上げたばかりまた四脚よつあし突張つッぱり抜く。

(お嬢様、お嬢様。)

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(嬢様嬢様。)

と親父が叫ぶと、女はちょっと立ち上がり、白いつま先をちょろちょろと動かして、真っ黒に煤(すす)けた太い柱を盾にして、馬の目の届かないところに少し隠れた。

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親仁おやじわめくと、婦人おんなはちょっと立って白いつまさきをちょろちょろと真黒まっくろすすけた太い柱をたてに取って、馬の目の届かぬほどに小隠れた。

そのうちに、腰に挟んでいた、煮しめたような、くたくたの手ぬぐいを取り出して、深く刻まれた額のしわに浮かんだ汗をぬぐい、親父はこれでよしという意気込みで、再び馬の前へ回った。けれども相変わらず、びくとも動かないので、綱に両手をかけ、足をそろえて、体をそり返すようにして、うむと全身に力を込めた。

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その内腰にはさんだ、煮染にしめたような、なえなえの手拭てぬぐいを抜いて克明こくめいに刻んだ額のしわの汗をいて、親仁おやじはこれでよしという気組きぐみ、再び前へ廻ったが、もとによって貧乏動びんぼうゆるぎもしないので、綱に両手をかけて足をそろえて反返そりかえるようにして、うむと総身そうみに力を入れた。

とたんに、どうじゃ。

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とたんにどうじゃい。

すさまじくいななき、両方の前足を宙に高く上げたので、体の小さい親父は仰向けにひっくり返ってしまった。ずどんどうと、月夜に砂ぼこりがぱっと立った。

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すさまじくいなないて前足を両方中空なかぞらひるがえしたから、小さな親仁おやじは仰向けにひっくりかえった、ずどんどう、月夜に砂煙がぱっと立つ。

あの少年にも、これはおかしかったのだろう。このときばかりは、まっすぐに首を据えて、厚い唇をばくりと開けた。大きな歯をむき出しにして、あの宙にぶら下げている手を、風になびかせるようにはらりはらりと動かした。

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白痴ばかにもこれは可笑おかしかったろう、この時ばかりじゃ、真直まっすぐに首をえて厚いくちびるをばくりと開けた、大粒おおつぶな歯を露出むきだして、あの宙へ下げている手を風であおるように、はらりはらり。

(世話の焼けることねえ、)

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(世話が焼けることねえ、)

女は投げつけるようにそう言うと、草履をつっかけて、土間へすっと出て行った。

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婦人おんなは投げるようにいって草履ぞうりつッかけて土間へついと出る。

(お嬢様、勘違いなさるな。これはお前様のことではないぞ。何でも、はじめからそこのお坊様に目をつけていたっけよ。まったく、俗世(ぞくせ)との縁があるものだわい。)

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(嬢様勘違かんちがいさっしゃるな、これはお前様ではないぞ、何でもはじめからそこなお坊様に目をつけたっけよ、畜生俗縁ぞくえんがあるだッぺいわさ。)

俗世との縁とは、驚いたものだ。

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俗縁はおどろいたい。

すると女が、

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すると婦人が、

(あなた、ここへいらっしゃる道で、どなたかにお会いになりませんでしたか。)」

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貴僧あなたここへいらっしゃるみちで誰にかおいなさりはしませんか。)」

十九

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十九

「(はい、辻の手前で、富山の反魂丹売り(はんごんたんうり・薬売り)に会いましたが、一足先に、やはりこの道へ入りましたよ。)

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「(はい、つじの手前で富山の反魂丹売はんごんたんうりに逢いましたが、一足先にやっぱりこの路へ入りました。)

(ああ、そう。)

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(ああ、そう。)

と、満足そうな笑みをもらして、女は蘆毛の馬のほうを見た。何ともたまらなくおかしいといった、はしたない様子で。

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と会心のえみもらして婦人おんな蘆毛あしげの方を見た、およそたまらなく可笑おかしいといったはしたない風采とりなりで。

いかにも御しやすそうに見えたので、

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極めてくみやすう見えたので、

(もしや、この家へ参りませんでしたでしょうか。)

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(もしや此家こちらへ参りませなんだでございましょうか。)

(いいえ、存じません。)

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(いいえ、存じません。)

と言ったとたん、たちまち近寄りがたい者になったので、わしは口をつぐんだ。すると女は、あきらめたように、着物のちりを払っている馬の前足の下の小さな親父を振り向いて、

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という時たちまち犯すべからざる者になったから、わしは口をつぐむと、婦人おんなは、さじを投げてきものちりを払うている馬の前足の下に小さな親仁おやじを見向いて、

(しかたのないことねえ、)と言いながら、振り払うようにして、その細帯を解きかけた。片端が土に引きずられそうになるのを、かき集めて、ちょっとためらった。

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(しょうがないねえ、)といいながら、かなぐるようにして、その細帯を解きかけた、片端かたはしが土へ引こうとするのを、掻取かいとってちょいと猶予ためらう。

(ああ、ああ。)

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(ああ、ああ。)

と濁った声を出して、あの少年がひょろりとした手を差し向けたので、女は解いた帯を渡してやった。少年はそれを、風呂敷を広げたような、たわいのない、力の入らない様子で膝の上に巻きつけて、まるで宝物を守るように大事にしていた。

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にごった声を出して白痴ばかくだんのひょろりとした手を差向さしむけたので、婦人おんなは解いたのを渡してやると、風呂敷ふろしきひろげたような、他愛たわいのない、力のない、ひざの上へわがねて宝物ほうもつを守護するようじゃ。

女は着物の襟元をかき合わせ、胸の下で押さえながら、静かに土間を出て、馬のそばへすっと寄った。

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婦人おんな衣紋えもんを抱き合せ、乳の下でおさえながらしずかに土間を出て馬のわきへつつと寄った。

わしはただあっけに取られて見ていると、女はつま先立ちになって背を伸ばし、手をしなやかに宙へ向けて、二、三度たてがみを撫でたが。

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わしはただ呆気あっけに取られて見ていると、爪立つまだちをして伸び上り、手をしなやかに空ざまにして、二三度たてがみでたが。

大きな鼻先の真正面に、すっくりと立った。

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大きな鼻頭はなづらの正面にすっくりと立った。

背丈もすらすらと急に高くなったように見えた。女は目をすえ、口を結び、眉を開いて、うっとりとした様子だった。愛嬌も、しなも、世話焼きらしい打ち解けた雰囲気はたちまち消え失せて、まるで神か、あるいは魔物かと思われるほどだった。

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せいもすらすらと急に高くなったように見えた、婦人おんなは目をえ、口を結び、まゆを開いて恍惚うっとりとなった有様ありさま愛嬌あいきょう嬌態しなも、世話らしい打解うちとけた風はとみにせて、神か、かと思われる。

そのとき、裏の山、向こうの峰、左右前後にすくすくと立ち並んでいるものが、一つ一つ先をこちらへ向け、頭をもたげて、この一角の別天地を、親父を脇に控えさせ、馬に向かって立ち尽くす月明かりの美女の姿を、のぞき込むかのように、しんと静まりかえって深山の気配がこもってきた。

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その時裏の山、向うのみね、左右前後にすくすくとあるのが、一ツ一ツくちばしを向け、かしらもたげて、この一落いちらくの別天地、親仁おやじ下手しもてに控え、馬に面してたたずんだ月下の美女の姿を差覗さしのぞくがごとく、陰々いんいんとして深山みやまの気がこもって来た。

なまぬるい風のような気配がしたと思うと、女は左の肩から片方の肌を脱いだが、右の手も脱いで前へ回し、ふくらんだ胸のあたりで、着ていたその単衣(ひとえ)を丸めて持ち、何一つまとわない姿になった。

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なまぬるい風のような気勢けはいがすると思うと、左の肩から片膚かたはだを脱いだが、右の手をはずして、前へ廻し、ふくらんだ胸のあたりで着ていたその単衣ひとえまるげて持ち、かすみまとわぬ姿になった。

馬は背中と腹の皮をゆるませ、汗もびっしょりと流れそうなほどで、突っ張っていた脚もなよなよと震え出した。鼻先を地面につけて、ひとつかみの白い泡を吹き出したと思うと、前足を折ろうとした。

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馬はせな、腹の皮をゆるめて汗もしとどに流れんばかり、突張つッぱった脚もなよなよとして身震みぶるいをしたが、鼻面はなづらを地につけて一掴ひとつかみ白泡しろあわ吹出ふきだしたと思うと前足を折ろうとする。

そのとき、女はあごの下に手をかけ、片手で持っていた単衣をふわりと投げて馬の目を覆ったかと思うと、うさぎのように跳び、仰向けざまに身を翻した。妖しい気配を帯びた朦朧(もうろう)とした月明かりの中、前足の間に肌が挟まったと思うと、着物をかき集めながら馬の下腹をすっとくぐり抜けて、横から抜け出た。

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その時、あぎとの下へ手をかけて、片手で持っていた単衣をふわりと投げて馬の目をおおうが否や、うさぎおどって、仰向あおむけざまに身をひるがえし、妖気ようきめて朦朧もうろうとした月あかりに、前足の間にはだはさまったと思うと、きぬを脱して掻取かいとりながら下腹をつとくぐって横に抜けて出た。

親父はどうやら心得ていたものと見えて、この機会に手綱を引いたので、馬はすたすたと達者な足取りで山道を上っていった。しゃん、しゃん、しゃん、しゃんしゃん、しゃんしゃん――見る間に視界の彼方へ遠ざかっていった。

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親仁おやじ差心得さしこころえたものと見える、このきっかけに手綱たづなを引いたから、馬はすたすたと健脚けんきゃく山路やまじに上げた、しゃん、しゃん、しゃん、しゃんしゃん、しゃんしゃん、――見るに眼界を遠ざかる。

女はもう着物を引っかけて縁側へ入ってきて、いきなり帯を取ろうとすると、少年は惜しそうにそれを押さえて放さず、手を上げて、女の胸を押さえようとした。

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婦人おんなは早や衣服きものひっかけて縁側えんがわへ入って来て、突然いきなり帯を取ろうとすると、白痴ばかしそうに押えて放さず、手を上げて、婦人おんなの胸をおさえようとした。

そっけなく払いのけて、きっと睨んで見せると、少年はそのままがっくりと頭を垂れた。すべての光景は、行燈の火もかすかで、まるで幻のように見えたが、囲炉裏にくべた柴(しば)の火がひらひらと炎の先を立てたので、女はすっと駆け込んで家の中へ入った。

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邪慳じゃけんに払い退けて、きっとにらんで見せると、そのままがっくりとこうべを垂れた、すべての光景は行燈あんどうの火もかすかまぼろしのように見えたが、炉にくべたしばがひらひらと炎先ほさきを立てたので、婦人おんなはつと走って入る。

空の月の裏側を通っていくと思われるあたりから、はるか遠くに馬子歌(まごうた)が聞こえてきたて。」

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空の月のうらを行くと思うあたりはるか馬子歌まごうたが聞えたて。」

二十

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二十

「さて、それからご飯の時じゃ。お膳には山家(やまが)らしい漬物、生姜(はじかみ)の漬けたのと、わかめをゆでたもの、塩漬けの名も知らぬきのこの味噌汁。いや、なかなか人参と干瓢どころではなかったわい。

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「さて、それからご飯の時じゃ、ぜんには山家やまがこうの物、生姜はじかみけたのと、わかめをでたの、塩漬の名も知らぬきのこ味噌汁みそしる、いやなかなか人参にんじん干瓢かんぴょうどころではござらぬ。

品物は質素だが、なかなかのお手料理でな。腹も減っていたし、もったいないほどのおもてなしで、女は盆を膝に構え、その上に肘(ひじ)をついて、頬を支えながら、うれしそうに見ていたわ。

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品物はわびしいが、なかなかのお手料理、えてはいるし、冥加至極みょうがしごくなお給仕、盆を膝に構えてその上にひじをついて、ほおを支えながら、うれしそうに見ていたわ。

縁側にいたあの少年は、誰にも相手にされない退屈さに耐えられなくなったのか、ぐたぐたとにじり出て、女のそばへその太った腹を持ってきた。崩れるようにあぐらをかいて、しきりに自分のお膳を見つめては、指をさした。

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縁側に居た白痴ばかたれ取合とりあわ徒然つれづれえられなくなったものか、ぐたぐたと膝行出いざりだして、婦人おんなそばへその便々べんべんたる腹を持って来たが、くずれたように胡坐あぐらして、しきりにこう我が膳をながめて、ゆびさしをした。

(うううう、うううう。)

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(うううう、うううう。)

(何でございますね。あとで召し上がりなさい。お客様がいらっしゃるではありませんか。)

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(何でございますね、あとでおあがんなさい、お客様じゃあありませんか。)

少年は情けない顔をして口をゆがめながら首を横に振った。

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白痴ばかは情ない顔をして口をゆがめながらかぶりった。

(嫌なの?

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いや

しかたがありませんね。それでは、ご一緒に召し上がれ。

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 しょうがありませんね、それじゃご一所いっしょに召しあがれ。

あなた、ご容赦くださいましね。)

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貴僧あなた、ごめんこうむりますよ。)

わしは思わず箸を置いて、

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わしは思わずはしを置いて、

(さあ、どうぞお構いなく。とんだごちそうをいただきます。)

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(さあどうぞお構いなく、とんだご雑作ぞうさを頂きます。)

(いえ、何をおっしゃいます、あなた。

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(いえ、何の貴僧あなた

お前さんはあとで、私と一緒に食べればいいのに。

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お前さんのちほどに私と一所にお食べなさればいいのに。

困った人でございますよ。)

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困った人でございますよ。)

と、そつのない愛想のよさで、手早く同じようなお膳をこしらえて並べて出した。

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とそらさぬ愛想あいそ、手早くおなじような膳をこしらえてならべて出した。

ご飯のよそい方もきびきびとした女房ぶりで、しかもどことなく奥ゆかしく、上品な、身分の高い家の人らしい雰囲気があった。

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飯のつけようも効々かいがいしい女房にょうぼうぶり、しかも何となく奥床おくゆかしい、上品な、高家こうけの風がある。

あの少年はどんよりした目を上げて、お膳の上をじっと見つめていたが、

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白痴あほうはどんよりした目をあげて膳の上をめていたが、

(あれを、ああ、ああ、あれ。)

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(あれを、ああ、ああ、あれ。)

と言って、きょろきょろとあたりを見回した。

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といってきょろきょろと四辺あたりみまわす。

女はじっと見つめて、

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婦人おんなはじっとみまもって、

(まあ、いいじゃないか。

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(まあ、いいじゃないか。

そんなものはいつでも食べられます。今夜はお客様がいらっしゃるのですよ。)

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そんなものはいつでも食られます、今夜はお客様がありますよ。)

(うむ、いや、いや。)

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(うむ、いや、いや。)

と、肩と腹を揺すったが、べそをかいて今にも泣き出しそうだった。

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と肩腹をゆすったが、べそをいて泣出しそう。

女はすっかり困り果てた様子で、そばで見ているわしまで気の毒になった。

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婦人おんなこうじ果てたらしい、かたわらのものの気の毒さ。

(お嬢様、何のことか存じませんが、おっしゃる通りになさったほうがよろしいのではございませんか。

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(嬢様、何か存じませんが、おっしゃる通りになすったがよいではござりませんか。

私にお気遣いくださっては、かえって心苦しゅうございます。)

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わたくしにお気遣きづかいはかえって心苦しゅうござります。)

と、丁寧に言った。

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慇懃いんぎんにいうた。

女はまたもう一度、

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婦人おんなはまたもう一度、

(嫌なのかい、これでは駄目なのかい。)

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(厭かい、これでは悪いのかい。)

少年が泣き出しそうにすると、女はいかにも恨めしそうに横目で見ながら、こわれかけた戸棚の中から鉢に入ったものを取り出し、手早く少年のお膳に付け足した。

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白痴ばかが泣出しそうにすると、さもうらめしげに流眄ながしめに見ながら、こわれごわれになった戸棚とだなの中から、はちに入ったのを取り出して手早く白痴ばかの膳につけた。

(はい。)

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(はい。)

と、わざとらしく、すねたように言いながら、作り笑いを浮かべた。

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わざとらしく、すねたようにいって笑顔造えがおづくり

さてさて困ったことになった。これは目の前で青大将(あおだいしょう)の旨煮でも出てくるのか、それとも子を宿した猿の蒸し焼きか、災難が軽くても、赤蛙の干物を大きな口でしゃぶるのだろうと、そっと見ていると、片手に椀を持ちながらつかみ出したのは、古漬けの沢庵(たくあん)だった。

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はてさて迷惑めいわくな、こりゃ目の前で黄色蛇あおだいしょう旨煮うまにか、腹籠はらごもりの猿の蒸焼むしやきか、災難が軽うても、赤蛙あかがえる干物ひものを大口にしゃぶるであろうと、そっと見ていると、片手にわんを持ちながら掴出つかみだしたのは老沢庵ひねたくあん

それもな、刻んだものではなくて、一本を三つに切ったくらいの太さのものを、横にくわえてがぶりとやるのじゃ。

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それもさ、刻んだのではないで、一本三ツ切にしたろうという握太にぎりぶとなのを横銜よこぐわえにしてやらかすのじゃ。

女は、よほど扱いかねたと見えて、盗み見るようにわしを見ると、さっと顔を赤らめた。うぶらしい、そんな質でもないだろうに、恥ずかしそうに、膝にあった手ぬぐいの端を口に当てた。

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婦人おんなはよくよくあしらいかねたか、ぬすむようにわしを見てさっと顔をあからめて初心らしい、そんなたちではあるまいに、はずかしげにひざなる手拭てぬぐいはしを口にあてた。

なるほど、この少年の体つきはこれのせいだろう、体は沢庵のような色をしてふとっている。

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なるほどこの少年はこれであろう、身体からだは沢庵色にふとっている。

やがて、わけもなく食べ物を平らげてしまうと、お茶がほしいとも言わず、ふっふっと大儀そうに息を向こうへ吐き出すのだった。

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やがてわけもなく餌食えじきたいらげて湯ともいわず、ふッふッと大儀たいぎそうに呼吸いきを向うへくわさ。

(何でございましょうか、私は胸につかえたようで、ちっとも食べたくございませんから、また後ほどにいただきましょう、)

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(何でございますか、私は胸につかえましたようで、ちっとも欲しくございませんから、またのちほどに頂きましょう、)

と、女は自分では箸も取らずに、二つのお膳を片づけてしまってな。」

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婦人おんな自分は箸も取らずに二ツの膳を片づけてな。」

二十一

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二十一

「しばらく、しょんぼりしていたっけ。

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「しばらくしょんぼりしていたっけ。

(あなた、さぞお疲れでございましょう。すぐにお休ませいたしましょうか。)

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貴僧あなた、さぞお疲労つかれ、すぐにお休ませ申しましょうか。)

(ありがとう存じます。まだちっとも眠くはございません。さっき体を洗いましたので、疲れもすっかり治りました。)

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難有ありがとう存じます、まだちっとも眠くはござりません、さっき体を洗いましたので草臥くたびれもすっかりなおりました。)

(あの流れは、どんな病気にでもよく効きます。私が苦労をして骨と皮ばかりに体がやつれてしまっても、半日あそこにつかっておりますと、みずみずしくなるのでございますよ。

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(あの流れはどんな病にでもよく利きます、わたしが苦労をいたしまして骨と皮ばかりに体がれましても、半日あすこにつかっておりますと、水々しくなるのでございますよ。

もっとも、これから冬になりまして山がまるで凍りついてしまい、川も崖も残らず雪になりましても、あなたが行水をなさったあそこばかりは水が隠れません。そして湯気が立つのでございます。

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もっともあのこれから冬になりまして山がまるで氷ってしまい、川もがけも残らず雪になりましても、貴僧あなたが行水を遊ばしたあすこばかりは水がかくれません、そうしていきりが立ちます。

鉄砲傷のある猿だの、あなた、足を折った五位鷺(ごいさぎ)だの、いろいろなものが湯浴みに参りますので、その足跡で崖に道ができるほどでございます。きっとそれが効くのでございましょう。

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鉄砲疵てっぽうきずのございます猿だの、貴僧あなた、足を折った五位鷺ごいさぎ種々いろいろなものがゆあみに参りますからその足跡あしあとがけの路が出来ますくらい、きっとそれが利いたのでございましょう。

そんなにお疲れでございませんでしたら、こうやってお話をなさってくださいまし。寂しくてなりません。本当にお恥ずかしいことでございますが、こんな山の中に引きこもっておりますと、ものを言うことも忘れてしまったようで、心細いのでございますよ。

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そんなにございませんければこうやってお話をなすって下さいまし、さびしくってなりません、本当ほんとにおはずかしゅうございますが、こんな山の中に引籠ひっこもっておりますと、ものをいうことも忘れましたようで、心細いのでございますよ。

あなた、それでもお眠ければ、どうぞご遠慮なさいませんように。

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貴僧あなた、それでもお眠ければご遠慮えんりょなさいますなえ。

別にこれといった寝室というものもございませんが、その代わり蚊(か)は一匹もおりませんよ。町のほうではね、この上の谷あいの村の者が、里に泊まりに来たとき蚊帳(かや)を吊って寝かせようとすると、どうやって入ればいいのかわからず、「梯子(はしご)を貸せ」と叫んだと言って、からかうのでございます。

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別にお寝室ねまと申してもございませんがその代りは一ツも居ませんよ、町方まちかたではね、かみほらの者は、里へ泊りに来た時蚊帳かやって寝かそうとすると、どうして入るのか解らないので、梯子はしごを貸せいとわめいたと申してなぶるのでございます。

たっぷり朝寝坊なさっても、鐘の音は聞こえませんし、鶏も鳴きません。犬さえもおりませんから、ご安心なさいませ。

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たんと朝寐あさねを遊ばしてもかねは聞えず、とりも鳴きません、犬だっておりませんからお心安こころやすうござんしょう。

この人も、生まれ落ちてからずっとこの山で育ちましたので、何も存じません代わり、気のいい人で、少しも遠慮なさることはないのでございます。

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この人も生れ落ちるとこの山で育ったので、何にも存じません代り、気のいい人でちっともお心置こころおきはないのでござんす。

それでも、いつもと様子の違うお方がいらっしゃいますと、大事にしてお辞儀をすることだけは心得ておりますが、まだご挨拶をいたしませんね。

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それでも風俗ふうのかわった方がいらっしゃいますと、大事にしてお辞儀じぎをすることだけは知ってでございますが、まだご挨拶あいさつをいたしませんね。

この頃は体がだるいと見えて、なまけ者になってしまいましたよ。

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このごろは体がだるいと見えておなまけさんになんなすったよ。

いいえ、まるっきり愚か(おろか)というのではございません。何でもちゃんと心得ておりますのよ。

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いいえ、まるでおろかなのではございません、何でもちゃんと心得こころえております。

さあ、お坊様にご挨拶をなさってください。

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さあ、ご坊様にご挨拶をなすって下さい。

まあ、お辞儀をお忘れかい。)

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まあ、お辞儀をお忘れかい。)

と、親しげに身を寄せて顔をのぞき込み、いそいそと言うと、少年はふらふらと両手をついて、まるでぜんまいが切れたようにがっくりと一礼した。

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と親しげに身を寄せて、顔を差しのぞいて、いそいそしていうと、白痴ばかはふらふらと両手をついて、ぜんまいが切れたようにがっくり一礼。

(はい、)と言って、わしも何やら胸が迫って頭を下げた。

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(はい、)といってわしも何か胸がせまってつむりを下げた。

そのままうつむいた拍子に力が抜けたらしく、横に倒れかけたのを、女はやさしく助け起こして、

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そのままその俯向うつむいた拍子ひょうしに筋が抜けたらしい、横に流れようとするのを、婦人おんなは優しゅうたすけ起して、

(おお、よくできたねえ。)

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(おお、よくしたねえ。)

あっぱれと言いたそうな顔つきで、

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天晴あっぱれといいたそうな顔色かおつきで、

(あなた、言えば何でもできそうに思われましょうけれども、この人の病ばかりは、お医者の手でも、あの水でも治りませんでした。両足が立ちませんので、何を覚えさせましても役には立たないのでございます。

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貴僧あなた、申せば何でも出来ましょうと思いますけれども、この人の病ばかりはお医者の手でもあの水でもなおりませなんだ、両足が立ちませんのでございますから、何を覚えさしましても役には立ちません。

それにご覧なさいまし。お辞儀一つするのさえ、あの通り大儀(たいぎ)そうでございます。

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それにご覧なさいまし、お辞儀一ツいたしますさえ、あの通り大儀たいぎらしい。

何かを教えて覚えさせようとすると、さぞ骨が折れて辛うございましょう。体を苦しめるだけだと思いまして、何もさせずにおりますから、だんだん、手を動かす力も、ものを言うことも忘れてしまいました。

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ものを教えますと覚えますのにさぞ骨が折れてせつのうござんしょう、体を苦しませるだけだと存じて何にもさせないで置きますから、だんだん、手を動かすはたらきも、ものをいうことも忘れました。

それでもあの、歌なら歌えますのよ。

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それでもあの、うたうたえますわ。

二つ三つ、今でも知っておりますよ。

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二ツ三ツ今でも知っておりますよ。

さあ、お客様に一つ、お聞かせしなさいましな。)

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さあお客様に一ツお聞かせなさいましなね。)

少年は女を見て、それからまたわしの顔をじろじろと見て、人見知りをするような様子で首を振った。」

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白痴ばか婦人おんなを見て、またわしが顔をじろじろ見て、人見知ひとみしりをするといった形で首を振った。」

二十二

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二十二

「あれこれと、女が励ますように、なだめすかすように勧めると、少年は首を曲げ、あのへそをいじりながら歌った。

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左右とこうして、婦人おんなが、はげますように、すかすようにして勧めると、白痴ばかは首を曲げてかのへそもてあそびながら唄った。

木曽(きそ)の御嶽山(おんたけさん)は夏でも寒い、

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木曽きそ御嶽山おんたけさんは夏でも寒い、

袷(あわせ・裏地のついた着物)を送ってやりたい、足袋(たび)も添えて。

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あわせりたや足袋たびえて。

(よく知っておりましょう、)と女は聞き入りながらにっこりした。

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(よく知っておりましょう、)と婦人おんなは聞き澄して莞爾にっこりする。

不思議なことに、歌ったときの少年の声というのは、この話をお聞きになるお前様はもちろんのこと、わし自身が想像していたのとは、月とすっぽん、天と地ほどの違いだった。節回し、あげさげ、息の続くところから、そもそもその清らかで涼やかな声というものが、とてもこの少年の喉(のど)から出たものとは思えなかった。

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不思議や、唄った時の白痴ばかの声はこの話をお聞きなさるお前様はもとよりじゃが、わしも推量したとは月鼈雲泥げっべつうんでい、天地の相違、節廻ふしまわし、あげさげ、呼吸いきの続くところから、第一その清らかな涼しい声という者は、到底とうていこの少年の咽喉のどから出たものではない。

まるで、前の世でのこの少年の魂が、あの世から管を通してそのふくれた腹へ、声を送り込んでよこしているかのように聞こえましたよ。

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まずさきの世のこの白痴ばかの身が、冥土めいどから管でそのふくれた腹へ通わして寄越よこすほどに聞えましたよ。

わしはかしこまって聞き終えると、膝に手をついたまま、どうしても顔を上げてそこにいる二人を見ることができなかった。何やら胸がきりきりとして、はらはらと涙をこぼした。

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私はかしこまって聞き果てると、膝に手をついたッきりどうしても顔を上げてそこな男女ふたりを見ることが出来ぬ、何か胸がキヤキヤして、はらはらと落涙らくるいした。

女はすばやく見つけたようで、

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婦人おんなは目早く見つけたそうで、

(おや、あなた、どうかなさいましたか。)

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(おや、貴僧あなた、どうかなさいましたか。)

すぐには言葉も出なかったが、ようやく、

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急にものもいわれなんだが漸々ようよう

(はい、なあに、変わったことでもございませぬ。わしも、お嬢様のことは別にお尋ねいたしませんから、あなたも何もお問いになりませんように。)

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(はい、なあに、変ったことでもござりませぬ、わしも嬢様のことは別におたずね申しませんから、貴女あなたも何にも問うては下さりますな。)

と、詳しいわけは語らず、ただ思いをこめてそう言ったが、実のところは前々からの様子でも知れる通り、金の簪(かんざし)を挿し、美しい着物をまとい、玉のような履物を履けば、まさに立派な御殿にでも入って、貴人に抱かれてもおかしくないほどの、豊かで艶やかな美しい人が、あの少年に対する扱いのやさしさ、分け隔てのなさ、心づかいの深さに、自分のことではないのにうれしくなって、思わず涙が流れたのじゃ。

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仔細しさいは語らずただ思い入ってそう言うたが、実は以前から様子でも知れる、金釵玉簪きんさぎょくさんをかざし、蝶衣ちょういまとうて、珠履しゅり穿うがたば、まさ驪山りさんに入って、相抱あいいだくべき豊肥妖艶ほうひようえんの人が、その男に対する取廻しの優しさ、へだてなさ、深切しんせつさに、人事ひとごとながらうれしくて、思わず涙が流れたのじゃ。

すると、人の心の内を読み取れないような女ではない。たちまち様子を悟ったものか、

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すると人の腹の中を読みかねるような婦人おんなではない、たちまち様子をさとったかして、

(あなたは、本当にお優しい。)

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貴僧あなたはほんとうにお優しい。)

と言って、何とも言えない色を目にたたえて、じっと見つめた。

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といって、われぬ色を目にたたえて、じっと見た。

わしも頭を垂れた。向こうでもうつむいた。

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わしこうべれた、むこうでも差俯向さしうつむく。

いや、行燈がまた薄暗くなってきたようじゃが、おそらくこれは、あの少年のせいじゃろう。

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いや、行燈あんどうがまた薄暗くなって参ったようじゃが、恐らくこりゃ白痴ばかのせいじゃて。

そのときのことよ。

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その時よ。

座がしらけて、しばらく言葉が途絶えたうちに、手持ち無沙汰になったのだろう、あの歌い手の少年は退屈したと見えて、顔の前の行燈を吸い込むような大あくびをしたので。

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座が白けて、しばらく言葉が途絶とだえたうちに所在がないので、唄うたいの太夫たゆう退屈たいくつをしたとみえて、顔の前の行燈あんどうを吸い込むような大欠伸おおあくびをしたから。

身動きをしてな、

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身動きをしてな、

(寝ようちゃあ、寝ようちゃあ、)と、よたよたと体を持て余すように動かすのじゃ。

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(寝ようちゃあ、寝ようちゃあ、)とよたよた体を持扱もちあつかうわい。

(眠くなったのかい、もうお休みかい。)

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(眠うなったのかい、もうお寝か。)

と言ったが、座り直して、ふと気づいたようにあたりを見回した。

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といったがすわり直ってふと気がついたように四辺あたりみまわした。

外はまるで真昼のようで、月の光が開け放たれた家の中へはらはらと差し込み、紫陽花の色も鮮やかに青かった。

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戸外おもてはあたかも真昼のよう、月の光はひろげたうちへはらはらとさして、紫陽花あじさいの色も鮮麗あざやかあおかった。

(あなたも、もうお休みになりますか。)

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貴僧あなたももうお休みなさいますか。)

(はい、お世話になります。)

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(はい、ご厄介やっかいにあいなりまする。)

(まあ、今、寝床を用意いたしますから、ごゆっくりなさいましな。

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(まあ、いま宿やどを寝かします、おゆっくりなさいましな。

外に近うございますが、夏は広いほうが、かえってようございましょう。私どもは納戸に寝ますから、あなたはここに広々とおくつろぎになるのがようございます。ちょっとお待ちを。)

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戸外おもてへは近うござんすが、夏は広い方が結句けっくうございましょう、わたしどもは納戸なんどせりますから、貴僧あなたはここへお広くおくつろぎがようござんす、ちょいと待って。)

と言いかけてすっと立ち上がり、つかつかと足早に土間へ下りた。あまりに身のこなしが活発だったので、その拍子に黒髪が、先を巻いたままうなじへほどけて落ちた。

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といいかけてつッと立ち、つかつかと足早に土間へ下りた、余り身のこなしが活溌かっばつであったので、その拍子に黒髪が先を巻いたままうなじくずれた。

髪の生え際を押さえて戸につかまり、外を透かして見ていたが、独り言を言った。

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びんをおさえて戸につかまって、戸外おもてすかしたが、独言ひとりごとをした。

(おやおや、さっきの騒ぎで、櫛(くし)を落としたようだねえ。)

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(おやおやさっきのさわぎでくしを落したそうな。)

なるほど、馬の腹をくぐったときのことじゃ。」

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いかさま馬の腹をくぐった時じゃ。」

二十三

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二十三

ちょうどこのとき、下の廊下に足音がして、静かに大股で歩いているのが、あたりが静まりかえっているのでよく聞こえた。

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この折から下の廊下ろうか跫音あしおとがして、しずか大跨おおまた歩行あるいたのが、せきとしているからよく。

やがて用を足した様子で、雨戸をばたりと開ける音が聞こえた。手水鉢(ちょうずばち)へ柄杓(ひしゃく)の水を注ぐ音がした。

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やがて小用こようした様子、雨戸をばたりと開けるのが聞えた、手水鉢ちょうずばち柄杓ひしゃくひびき

「おお、積もった、積もった。」

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「おお、つもった、積った。」

と、つぶやいたのは、旅籠屋の主人の声である。

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つぶやいたのは、旅籠屋はたごやの亭主の声である。

「ほほう、この若狭の商人は、どこかに泊まったと見えるな。何かおもしろい夢でも見ているのかな。」

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「ほほう、この若狭わかさ商人あきんどはどこかへ泊ったと見える、何か愉快おもしろい夢でも見ているかな。」

「どうぞ、その続きを、それから。」

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「どうぞその後を、それから。」

と、聞いているわしとしては、関係のない話をされているうちがもどかしく、そっけないほどに先を促した。

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と聞く身には他事をいううちが牴牾もどかしく、にべもなく続きをうながした。

「さて、夜も更けました、」

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「さて、夜もけました、」

と言って、旅の僧はまた語り出した。

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といって旅僧たびそうはまた語出かたりだした。

「大方お察しもつきましょうが、どれほど疲れていても、申し上げたような山奥の一軒家で、眠れるものではない。それに少し気になって、はじめのうちは、わしを眠らせない出来事もあったし、目は冴えて、まじまじとしていたが、さすがに疲れがひどいので、心は少しぼんやりしてきた。何にせよ、夜が明けるのが待ち遠しくてならなかった。

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「たいてい推量もなさるであろうが、いかに草臥くたびれておっても申上げたような深山みやま孤家ひとつやで、眠られるものではない、それに少し気になって、はじめの内わしを寝かさなかった事もあるし、目はえて、まじまじしていたが、さすがに、つかれひどいから、しんは少しぼんやりして来た、何しろ夜の白むのが待遠まちどおでならぬ。

そこで、はじめのうちは、われ知らず鐘の音が聞こえるのを心の頼りにして、今鳴るか、もう鳴るか、それにしても時間はたっぷり経ったはずだがと、いぶかしく思っていたが、やがて気がついて、こんなところでは、山寺どころではないと思うと、にわかに心細くなった。

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そこではじめの内は我ともなく鐘の音の聞えるのを心頼みにして、今鳴るか、もう鳴るか、はて時刻はたっぷりったものをと、あやしんだが、やがて気が付いて、こういう処じゃ山寺どころではないと思うと、にわかに心細くなった。

そのときはもう、夜を何かにたとえるなら、谷の底のような深さだった。あの少年の、だらしのない寝息も聞こえなくなると、たちまち戸の外に何かの気配がしてきた。

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その時は早や、夜がものにたとえると谷の底じゃ、白痴ばかがだらしのない寐息ねいきも聞えなくなると、たちまち戸の外にものの気勢けはいがしてきた。

獣の足音のようで、それほど遠くのほうから歩いてきたのではない様子だった。猿もいれば蟇もいるところだと、気休めにまず考えてみたが、なかなかどうして。

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けものの跫音のようで、さまで遠くの方から歩行あるいて来たのではないよう、猿も、ひきも、居る処と、気休めにまず考えたが、なかなかどうして。

しばらくすると、今そいつが正面の戸に近づいたなと思ったものが、羊の鳴き声に変わった。

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しばらくすると今そやつが正面の戸にちかづいたなと思ったのが、羊の鳴声になる。

わしはその方角を枕にしていたのじゃから、つまり枕元のすぐ外だったわけじゃな。

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私はその方をまくらにしていたのじゃから、つまり枕頭まくらもと戸外おもてじゃな。

しばらくすると、右手のあの紫陽花が咲いていた、その花の下あたりで、鳥が羽ばたく音がした。

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しばらくすると、右手めてのかの紫陽花が咲いていたその花の下あたりで、鳥の羽ばたきする音。

むささびかどうかは知らないが、きっきっと鳴きながら屋根の棟(むね)のほうへ飛んでいき、やがて、およそ小山ほどもあろうと感じられるものが、胸を押しつぶすほど近づいてきて、牛が鳴いた。遠くのかなたから、ひたひたと小刻みに駆けてくるのは、二本足に草鞋をはいた獣のように思われた。いや、さまざまなものがむらむらと家のまわりを取り巻いたようで、二十も三十もの、鼻息や羽音がして、中にはささやいているものもあった。

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むささびか知らぬがきッきッといって屋のむねへ、やがておよそ小山ほどあろうと気取けどられるのが胸をすほどにちかづいて来て、牛が鳴いた、遠くの彼方かなたからひたひたと小刻こきざみけて来るのは、二本足に草鞋わらじ穿いた獣と思われた、いやさまざまにむらむらとうちのぐるりを取巻いたようで、二十三十のものの鼻息、羽音、中にはささやいているのがある。

まるで何と言おうか、それ、畜生道(ちくしょうどう)という地獄の絵を、月夜に映し出したような怪しい姿が、板戸一枚を隔てたすぐそこに。魑魅魍魎(ちみもうりょう・さまざまな化け物)というのであろうか、ざわざわと木の葉がそよぐような気配だった。

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あたかも何よ、それ畜生道ちくしょうどうの地獄の絵を、月夜に映したような怪しの姿が板戸一枚、魑魅魍魎ちみもうりょうというのであろうか、ざわざわと木の葉がそよ気色けしきだった。

息をこらしていると、納戸のほうで、

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息をこらすと、納戸で、

(うむ、)と言って、長く息を引いて一声、うなされたのは女だった。

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(うむ、)といって長く呼吸いきを引いて一声ひとこえうなされたのは婦人おんなじゃ。

(今夜はお客様があるよ。)

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(今夜はお客様があるよ。)

と叫んだ。

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と叫んだ。

(お客様がいらっしゃるじゃないか。)

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(お客様があるじゃないか。)

と、しばらくたって二度目のは、はっきりと澄んだ声だった。

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としばらく経って二度目のははっきりとすずしい声。

極めて低い声で、

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極めて低声こごえで、

(お客様があるよ。)

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(お客様があるよ。)

と言って、寝返りを打つ音がした。さらにまた、寝返りを打つ音がした。

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といって寝返る音がした、さらに寝返る音がした。

戸の外の気配は、まるで大きなどよめきをつくり出すかのように、ぐらぐらと家が揺れ動いた。

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戸の外のものの気勢けはい動揺どよめきを造るがごとく、ぐらぐらと家がゆらめいた。

わしは陀羅尼(だらに・仏を守るための呪文)を唱えた。

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わし陀羅尼だらにじゅした。

若不順我呪(にゃくふじゅんがしゅ) 悩乱説法者(のうらんせっぽうじゃ)

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若不順我呪にゃくふじゅんがしゅ 悩乱説法者のうらんせっぽうじゃ

頭破作七分(ずはさしちぶん) 如阿梨樹枝(にょありじゅし)

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頭破作七分ずはさしちぶん 如阿梨樹枝にょありじゅし

如殺父母罪(にょしぶもざい) 亦如厭油殃(やくにょおうゆおう)

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如殺父母罪にょしぶもざい 亦如厭油殃やくにょおうゆおう

斗秤欺誑人(としょうごおうにん) 調達破僧罪(じょうだつはそうざい)

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斗秤欺誑人としょうごおうにん 調達破僧罪じょうだつはそうざい

犯此法師者(ほんしほっししゃ) 当獲如是殃(とうぎゃくにょぜおう)

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犯此法師者ほんしほっししゃ 当獲如是殃とうぎゃくにょぜおう

と、一心不乱に唱えると、さっと木の葉を巻き上げて風が南へ吹いたが、たちまち静まり返った。夫婦の寝間もひっそりとなった。」

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と一心不乱、さっと木の葉をいて風がみんなみへ吹いたが、たちまちしずまり返った、夫婦がねやもひッそりした。」

二十四

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二十四

「翌日、また昼ごろ、里に近い、滝のある場所で、昨日馬を売りに行った親父の帰りに出会った。

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「翌日また正午頃ひるごろ、里近く、滝のある処で、昨日きのう馬を売りに行った親仁おやじの帰りにうた。

ちょうどわしが、修行に出るのをやめて一軒家へ引き返し、あの女と一緒に一生を送ろうと思っていたところでな。

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ちょうどわしが修行に出るのをして孤家ひとつやに引返して、婦人おんな一所いっしょ生涯しょうがいを送ろうと思っていたところで。

実を申せば、ここへ来る途中でも、そのことばかり考えていた。幸い蛇の橋もなく、蛭の林もなかったが、道が険しいにつけても、汗が流れて気分が悪いにつけても、今さら修行の旅もつまらなく思えてくる。

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実を申すとここへ来る途中でもその事ばかり考える、蛇の橋もさいわいになし、ひるの林もなかったが、道が難渋なんじゅうなにつけても、汗が流れて心持が悪いにつけても、今更いまさら行脚あんぎゃもつまらない。

紫の袈裟(けさ)をかけて、七堂伽藍(しちどうがらん・大きな立派なお寺)に住んだところで、たいしたことはあるまい。生き仏様だといって、わあわあ拝まれれば、人いきれで胸が悪くなるばかりではないか。

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むらさき袈裟けさをかけて、七堂伽藍しちどうがらんに住んだところで何ほどのこともあるまい、活仏様いきぼとけさまじゃというて、わあわあ拝まれれば人いきれで胸が悪くなるばかりか。

少しお話ししにくいことだから、さっきは詳しくは言わなかったが、昨夜もあの少年を寝かしつけると、女がまた囲炉裏のあるところへやって来て、世の中へ苦労をしに出るより、夏は涼しく冬は暖かい、この流れのそばで一緒に私のそばにいてくださいと言ってくれた。それだけならまだ、自分に魔が差したようなものだけれど、ここに自分で自分に言い訳ができることがあった。それは、しきりにあの女がふびんでならなかったからじゃ。山奥の一軒家で、少年の世話をして、言葉も通じず、日がたつにつれてものを言うことさえ忘れてしまうような気がするというのは、何ということだろう!

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ちとお話もいかがじゃから、さっきはことを分けていいませなんだが、昨夜ゆうべ白痴ばかかしつけると、婦人おんながまた炉のある処へやって来て、世の中へ苦労をしに出ようより、夏は涼しく、冬は暖い、このながれに一所にわたしそばにおいでなさいというてくれるし、まだまだそればかりでは自分に魔がしたようじゃけれども、ここに我身で我身に言訳いいわけが出来るというのは、しきりに婦人おんな不便ふびんでならぬ、深山みやま孤家ひとつや白痴ばかとぎをして言葉も通ぜず、日をるに従うてものをいうことさえ忘れるような気がするというは何たる事!

とりわけ、今朝も夜明けに袖を振り切って別れようとすると、女は「お名残惜しゅうございます。このような場所で、こうして年老いて朽ちていくわが身は、二度とお目にかかることはございますまい。ちょっとした小川の水になりとも、どこかで白桃の花が流れているのをご覧になったら、私の体が谷川に沈んで、ちぎれちぎれになったのだと思ってください」と言って、しおれながら、それでもなお親切に、「道はただこの谷川の流れに沿って行きさえすれば、どれほど遠くても里に出られます。すぐ下のほうで水が跳ねて、滝になって落ちるのをご覧になったら、人家が近づいたと安心なさいますよう」と教えてくれ、一軒家が見えなくなるあたりまで指をさして見送ってくれた。

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こと今朝けさ東雲しののめたもとを振り切って別れようとすると、お名残惜なごりおしや、かような処にこうやって老朽おいくちる身の、再びお目にはかかられまい、いささ小川の水になりとも、どこぞで白桃しろももの花が流れるのをご覧になったら、私の体が谷川に沈んで、ちぎれちぎれになったことと思え、といってしおれながら、なお深切しんせつに、道はただこの谷川の流れに沿うて行きさえすれば、どれほど遠くても里に出らるる、目の下近く水がおどって、滝になって落つるのを見たら、人家が近づいたと心を安んずるように、と気をつけて、孤家ひとつやの見えなくなったあたりで、ゆびさしをしてくれた。

その手と手を取り交わすまではいかなくとも、そばに付き添って、朝夕の話し相手になり、きのこの汁でご飯を食べたり、わしが榾(ほだ・薪の切れ端)をたいて、女が鍋をかけて、わしが木の実を拾い、女がその皮をむいて、それから障子の内と外で話をしたり笑ったりして、それから谷川で二人して、あのときの女が裸になって、わしの背中に息がかかって、あの不思議なかおりの花びらに暖かく包まれたら、そのまま命が消えてしまってもいい!

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その手と手を取交とりかわすには及ばずとも、そばにつきって、朝夕の話対手はなしあいてきのこの汁でごぜんを食べたり、わしほだいて、婦人おんななべをかけて、わしを拾って、婦人おんなが皮をいて、それから障子しょうじの内と外で、話をしたり、笑ったり、それから谷川で二人して、その時の婦人おんな裸体はだかになってわしが背中へ呼吸いきかよって、微妙びみょうかおりの花びらにあたたかに包まれたら、そのまま命が失せてもいい!

滝の水を見るにつけても、耐え難かったのはそのことだった。いや、冷や汗が流れましたわい。

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滝の水を見るにつけてもがたいのはその事であった、いや、冷汗ひやあせが流れますて。

そのうえ、もう気がゆるみ、力が抜けて、もう歩くのに飽きてしまい、喜ばねばならないはずの人家が近づいてきたことも、たかだかせいぜい口の臭いお婆さんに渋茶をふるまわれるのが関の山だと思うと、里へ入るのも嫌になったので、石の上に腰かけた。ちょうど目の下にある滝じゃった。これがな、あとで聞くと女夫滝(めおとだき)というそうでな。

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その上、もう気がたるみ、すじゆるんで、歩行あるくのにきが来て、喜ばねばならぬ人家が近づいたのも、たかがよくされて口のくさばあさんに渋茶を振舞ふるまわれるのが関の山と、里へ入るのもいやになったから、石の上へひざけた、ちょうど目の下にある滝じゃった、これがさ、のちに聞くと女夫滝めおとだきと言うそうで。

真ん中に、まず鰐鮫(わにざめ)が口を開けたような、先のとがった黒い大岩が突き出ていて、上から流れてくる流れの速い谷川が、これに当たって二つに分かれ、およそ四丈(しじょう・約十二メートル)ほどの滝となってどっと落ちる。それからまた暗い青色の中に白い布を織るように、矢を放つような勢いで里へと流れ出るのだが、その岩にせき止められた片方は六尺ほどで、これは川の幅を丸ごと裂いたようにひとすじも乱れず、もう一方は幅が狭く、三尺くらい。この下にはさまざまな岩が並んでいると見えて、ちらちらちらちらと、玉のすだれを何百何千にも砕いたようで、あの鰐鮫の岩に、すれ合ったり、まといついたりしていた。」

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真中にまず鰐鮫わにざめが口をあいたような先のとがった黒い大巌おおいわ突出つきでていると、上から流れて来るさっとの早い谷川が、これに当ってふたつわかれて、およそ四丈ばかりの滝になってどっと落ちて、また暗碧あんぺき白布しろぬのを織って矢を射るように里へ出るのじゃが、その巌にせかれた方は六尺ばかり、これは川の一幅ひとはばいて糸も乱れず、一方は幅が狭い、三尺くらい、この下には雑多な岩が並ぶとみえて、ちらちらちらちらと玉のすだれを百千にくだいたよう、くだん鰐鮫わにざめの巌に、すれつ、もつれつ。」

二十五

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二十五

「ただ一筋でも岩を越えて男滝(おだき)にすがりつこうとする形なのに、それでも間を隔てられて、最後まで雫一つ通じ合わないので、もまれ、揺られて、つぶさに苦しみを味わうといった様子だった。こちらは姿もやつれ、細って、流れる音さえどこか違って聞こえ、泣いているのか、恨んでいるのかとも思われるが、あわれにも優しい女滝(めだき)じゃ。

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「ただ一筋ひとすじでも巌を越して男滝おだきすがりつこうとする形、それでも中をへだてられて末まではしずくも通わぬので、まれ、揺られてつぶさに辛苦しんくめるという風情ふぜい、この方は姿もやつかたちも細って、流るる音さえ別様に、泣くか、うらむかとも思われるが、あわれにも優しい女滝めだきじゃ。

男滝のほうはうらはらに、石を砕き、大地を貫くほどの勢いで、堂々たる様子だった。この二つが、あの岩に当たって左右に分かれ、二筋となって落ちるさまが身にしみて、女滝の心が砕けるような姿は、男の膝にすがりついて美女が泣きながら身を震わせているようで、岸にいるだけでも体がわななき、肌が粟立った。

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男滝の方はうらはらで、石を砕き、地をつらぬいきおい、堂々たる有様ありさまじゃ、これが二つくだんの巌に当って左右に分れて二筋となって落ちるのが身にみて、女滝の心を砕く姿は、男の膝に取ついて美女が泣いて身をふるわすようで、岸に居てさえ体がわななく、肉がおどる。

ましてこの水上(みなかみ)は、昨日、一軒家の女と水を浴びたところだと思うと、気のせいか、あの女滝の中に、絵のようなあの女の姿がありありと浮かび出て、巻き込まれて沈んだと思うとまた浮かび、幾千の筋に乱れる水とともに、その肌が粉々に砕けて、まるで花びらが散り込むかのように見えた。

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ましてこの水上みなかみは、昨日きのう孤家ひとつや婦人おんなと水を浴びた処と思うと、気のせいかその女滝の中に絵のようなかの婦人おんなの姿が歴々ありあり、と浮いて出ると巻込まれて、沈んだと思うとまた浮いて、千筋ちすじに乱るる水とともにそのはだえに砕けて、花片はなびらが散込むような。

「あっ」と思うと、さらに、もとの顔も、胸も、手足もすっかりそろった姿になって、浮いたり沈んだりしながら、ぱっと砕けて散り、あっと見る間にまた現れた。

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あなやと思うと更に、もとの顔も、胸も、乳も、手足もまったき姿となって、浮いつ沈みつ、ぱッと刻まれ、あッと見る間にまたあらわれる。

わしはたまらず、真っ逆さまに滝の中へ飛び込んで、女滝をしっかりと抱いたとまで思った。

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わしたまらず真逆まっさかさまに滝の中へ飛込んで、女滝をしかと抱いたとまで思った。

気がつくと、男滝のほうはどうどうと地響きを打たせて、

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気がつくと男滝の方はどうどうと地響じひびき打たせて。

山彦を呼びながら、轟いて流れていた。

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山彦やまびこを呼んでとどろいて流れている。

ああ、その力をもって、なぜ救わないのか。ままよ!

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ああその力をもってなぜ救わぬ、ままよ!

滝に身を投げて死ぬくらいなら、もとの一軒家へ引き返せ。

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滝に身を投げて死のうより、もと孤家ひとつやへ引返せ。

汚らわしい欲があればこそ、こんなになった上にまだためらうのだ。あの顔を見て、あの声を聞けば、あの女と少年が夫婦として一緒に寝るところであっても、わしはそこに枕を並べてかまわない。それでも汗をかいて修行をして、坊主のまま一生を終えるよりは、よほどましだと思い切って戻ろうとして、石を離れて身を起こしたとき、後ろから一つ背中を叩いて、

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けがらわしい欲のあればこそこうなった上に躊躇ちゅうちょするわ、その顔を見て声を聞けば、かれら夫婦が同衾ひとつねするのにまくらを並べて差支さしつかえぬ、それでも汗になって修行をして、坊主で果てるよりはよほどのましじゃと、思切おもいきって戻ろうとして、石を放れて身を起した、背後うしろから一ツ背中をたたいて、

(やあ、お坊様。)

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(やあ、ご坊様ぼうさま。)

と言われたので、時も時、心も心、うしろめたさもあって、びっくりして振り向くと、閻魔(えんま)大王の使いではない、あの親父だった。

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といわれたから、時が時なり、心も心、後暗うしろぐらいので喫驚びっくりして見ると、閻王えんおう使つかいではない、これが親仁おやじ

馬を売ったのだろう、身軽になって、小さな包みを肩にかけ、手には一匹の鯉を提げていた。鱗は金色で、生き生きとして、今にも尾が動き出しそうな、新しい、長さ三尺ほどのものを、あごに藁を通して、ぶらりとぶら下げていた。

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馬は売ったか、身軽になって、小さな包みを肩にかけて、手に一こいの、うろこ金色こんじきなる、溌剌はつらつとして尾の動きそうな、あたらしい、そのたけ三尺ばかりなのを、あぎとわらを通して、ぶらりと提げていた。

何も言わず、急には言葉も出ないまま見つめていると、親父はじっとわしの顔を見たよ。

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何んにも言わず急にものもいわれないでみまもると、親仁おやじはじっと顔を見たよ。

そうしてにやにやと、それもただの笑い方ではなく、薄気味の悪い北叟笑み(ほくそえみ)を浮かべて、

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そうしてにやにやと、また一通りの笑い方ではないて、薄気味うすきみの悪い北叟笑ほくそえみをして、

(何をしておられる。ご修行の身が、このくらいの暑さで、岸で休んでいらっしゃる場合ではあるまい。一生懸命歩きなされ。昨夜の泊まりからここまではたった五里(ごり・約二十キロ)、もう里へ行って地蔵様を拝んでいる時刻じゃ。

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(何をしてござる、ご修行の身が、このくらいのあつさで、岸に休んでいさっしゃる分ではあんめえ、一生懸命いっしょうけんめい歩行あるかっしゃりや、昨夜ゆうべとまりからここまではたった五里、もう里へ行って地蔵様を拝まっしゃる時刻じゃ。

何じゃな、おれのところのお嬢様に心を引かれて、煩悩(ぼんのう)が起きたのじゃな。

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何じゃの、おらが嬢様におもいかかって煩悩ぼんのうが起きたのじゃの。

いんや、隠しなさるな。おれの目は赤くとも、白いか黒いかはちゃんと見えるのじゃ。

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うんにゃ、かくさっしゃるな、おらが目は赤くッても、白いか黒いかはちゃんと見える。

そもそも、並みの者であれば、お嬢様の手が触れて、あの水をふるまわれたなら、今まで人間のままでいられるはずがない。

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地体じたいなみのものならば、嬢様の手がさわってあの水を振舞ふるまわれて、今まで人間でいようはずがない。

牛か馬か、猿か蟇か、こうもりか、何にせよ、飛ぶか跳ねるかしなければならぬはずじゃ。

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牛か馬か、猿か、ひきか、蝙蝠こうもりか、何にせい飛んだかねたかせねばならぬ。

谷川から上がってこられたとき、手も足も顔も人間のままだったから、おれは肝を潰したくらいじゃ。お前様は、それでも感心なほど心がしっかりしていたから、助かったようなものよ。

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谷川から上って来さしった時、手足も顔も人じゃから、おらあ魂消たまげたくらい、お前様それでも感心にこころざし堅固けんごじゃから助かったようなものよ。

何と、おれが引いていった馬を見なさったろう。

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何と、おらがいて行った馬を見さしったろう。

それでな、一軒家へ来なさる山道で、富山の反魂丹売りに会ったと言うではないか。それ見なされ、あの助平野郎、とっくに馬になって、それが馬市でお金になって、そのお金が、それ、この鯉に化けたのじゃ。

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それで、孤家ひとつやへ来さっしゃる山路やまみち富山とやま反魂丹売はんごんたんうりわしったというではないか、それみさっせい、あの助平野郎すけべいやろう、とうに馬になって、それ馬市でおあしになって、おあしが、そうらこの鯉に化けた。

大好物で、晩ご飯のおかずになさるのじゃ。お嬢様を、いったい何だと思っておられるのかね)。」

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大好物で晩飯の菜になさる、お嬢様を一体何じゃと思わっしゃるの)。」

わたしは思わずさえぎった。

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わたしは思わずさえぎった。

「お上人?」

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「お上人しょうにん?」

二十六

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二十六

上人はうなずきながらつぶやいて、

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上人はうなずきながらつぶやいて、

「いや、まず聞きなされ。あの一軒家の女というのは、もともとな、これもわしには何かの縁があった。あの恐ろしい魔物のいる場所へ入ろうとする分かれ道の、水があふれていた道で、百姓が教えてくれたであろう、あそこはその昔、医者の家であったと。その家のお嬢様じゃ。

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「いや、まず聞かっしゃい、かの孤家ひとつや婦人おんなというは、もとな、これもわしには何かのえんがあった、あの恐しい魔処ましょへ入ろうという岐道そばみちの水があふれた往来で、百姓が教えて、あすこはその以前医者の家であったというたが、その家の嬢様じゃ。

何でも、飛騨一帯では当時、変わったことも珍しいこともなかったが、ただ特に語り伝えられる不思議は、この医者の娘のことで、生まれたときから玉のように美しかった。

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何でも飛騨ひだ一円当時変ったことも珍らしいこともなかったが、ただ取りでていう不思議はこの医者のむすめで、生まれると玉のよう。

母親殿は頬(ほお)のふくれた、目尻の下がった、鼻の低い、俗に「さし乳」というあの毒々しい左右の胸を含んで育ったのに、どうしてあれほど美しく育ったものだろうという。

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母親殿おふくろどの頬板ほおっぺたのふくれた、めじりの下った、鼻の低い、俗にさしぢちというあの毒々しい左右の胸の房を含んで、どうしてあれほど美しく育ったものだろうという。

昔から物語の本にもある、屋根の棟(むね)に白い羽の矢が立つとか、そうでなければ狩りのときに身分の高い人の目に留まって御殿に召し出されるとかいうのは、あんな娘のことだろうと、うわさが高かった。

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昔から物語の本にもある、屋のむねへ白羽の征矢そやが立つか、さもなければ狩倉かりくらの時貴人あでびとのお目にとまって御殿ごてん召出めしだされるのは、あんなのじゃとうわさが高かった。

父親の医者というのは、頬骨(ほおぼね)のとがった、ひげの生えた、見栄っ張りで傲慢(ごうまん)な男でな、そのせいでもあるが、もちろん田舎には稲刈りのときによく稲の穂が目に入って、それから患う、目やに、赤目、はやり目が多いから、先生は眼病のほうは少し腕があったが、内科となるとまるっきり駄目だった。

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父親てておやの医者というのは、頬骨ほおぼねのとがったひげの生えた、見得坊みえぼう傲慢ごうまん、そのくせでもじゃ、もちろん田舎いなかには刈入かりいれの時よくいねが目に入ると、それからわずらう、脂目やにめ赤目あかめ流行目はやりめが多いから、先生眼病の方は少しったが、内科と来てはからッぺた。

外科などとなった日には、鬢付け油(びんつけあぶら)に水を垂らして、ひんやりと傷につけるくらいのものだった。

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外科なんと来た日にゃあ、鬢附びんつけへ水を垂らしてひやりときずにつけるくらいなところ。

鰯(いわし)の頭も信心からというが、それでも寿命の尽きない者は治るものだから、ほかに医者のいない土地で、それなりに繁盛した。

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いわし天窓あたまも信心から、それでも命数のきぬやからは本復するから、ほか竹庵ちくあん養仙ようせん木斎もくさいの居ない土地、相応に繁盛はんじょうした。

とりわけ娘が十六、七歳、女盛りになってきた頃には、薬師様が人助けのために先生様の家に生まれてこられたのだと言って、信心にすがる善男善女が。

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ことに娘が十六七、女盛おんなざかりとなって来た時分には、薬師様が人助けに先生様のうちへ生れてござったというて、信心渇仰しんじんかつごう善男善女ぜんなんぜんにょ

病気の男女が、我も我もと押しかけてくる。

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 病男病女が我も我もとける。

それというのも、はじまりはあのお嬢様が、それ、顔なじみの病人には毎日顔を合わせるものだから、愛想の一つも、あなたお手が痛みますかい、どんな具合でございます、と言って手先に柔らかな手のひらが触れると、まず一番に次作兄い(じさくあにい)という若い男のリューマチが全快した。お苦しそうなと言って腹をさすってやると、水あたりの差し込みが治ったこともある。はじめは若い男ばかりに効いていたが、だんだん年寄りにも効くようになり、しまいには女の病人もこれで治る、治らないまでも痛みが和らぐ。おできの膿を切って出すのでさえ、錆びた小刀で切り裂くような医者殿の腕前だったから、病人は七転八倒して悲鳴を上げるのだが、娘が来て背中にぴったりと胸を当てて肩を押さえていると、我慢ができるといったようなわけであったそ

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それというのが、はじまりはかの嬢様が、それ、馴染なじみの病人には毎日顔を合せるところから愛想あいその一つも、あなたお手が痛みますかい、どんなでございます、といって手先へ柔かなてのひらさわると第一番に次作兄じさくあにいという若いのの(りょうまちす)が全快、お苦しそうなといって腹をさすってやると水あたりの差込さしこみまったのがある、初手しょては若い男ばかりに利いたが、だんだん老人としよりにも及ぼして、後には婦人おんなの病人もこれでなおる、復らぬまでも苦痛いたみが薄らぐ、根太ねぶとうみを切って出すさえ、びた小刀で引裂ひっさく医者殿が腕前じゃ、病人は七顛八倒しちてんはっとうして悲鳴を上げるのが、娘が来て背中へぴったりと胸をあてて肩を押えていると、我慢がまんが出来るといったようなわけであったそ

うな。

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うな。

あるとき、あの藪の前にある枇杷(びわ)の古木に熊蜂(くまばち)がやって来て、恐ろしく大きな巣をかけた。

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ひとしきりあのやぶの前にある枇杷びわの古木へ熊蜂くまんばちが来ておそろしい大きな巣をかけた。

すると、医者の内弟子で薬局係、拭き掃除もすれば菜園の芋も掘る、近くへは車夫の役目も務めた、下男を兼ねた熊蔵(くまぞう)という、その頃二十四、五歳の男がいた。塩酸の薬に甘い薬を混ぜたものを瓶に盗み、家がけちだから見つかると叱られる。それを股引や袴と一緒に戸棚の上に載せておいて、暇さえあればちびりちびり飲んでいた男だったが、庭掃除をすると言って、あの蜂の巣を見つけたっけ。

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すると医者の内弟子うちでしで薬局、拭掃除ふきそうじもすれば総菜畠そうざいばたけいもる、近い所へは車夫も勤めた、下男兼帯げなんけんたいの熊蔵という、そのころ二十四五さい稀塩散きえんさん単舎利別たんしゃりべつを混ぜたのをびんに盗んで、うち吝嗇けちじゃから見附かるとしかられる、これを股引ももひきはかま一所いっしょに戸棚の上にせておいて、ひまさえあればちびりちびり飲んでた男が、庭掃除そうじをするといって、くだんの蜂の巣を見つけたっけ。

縁側へやって来て、「お嬢様、面白いことをお目にかけましょう。ぶしつけでございますが、私のこの手を握ってくださいますと、あの蜂の中へ手を突っ込んで、蜂をつかんで見せましょう。

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縁側えんがわへやって来て、お嬢様面白いことをしてお目にけましょう、無躾ぶしつけでござりますが、わたしのこの手をにぎって下さりますと、あの蜂の中へ突込つッこんで、蜂をつかんで見せましょう。

あなたの手が触れたところだけは、刺されても痛みませぬ。竹箒(たけぼうき)で払っては八方に散らばって体じゅうにたかられては、それはとても防げませぬ、即死でございます」と言って、ほほえみながら遠慮する娘の手を無理に握ってもらい、つかつかと歩いていくと、すさまじい虫の唸り声がした。やがて取って返した左の手には熊蜂が七つ八つ、羽ばたきをしているものがある、脚を振っているものがある、中にはつかんだ指の間に這い出しているものもあった。

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お手が障った所だけはしましても痛みませぬ、竹箒たけぼうき引払ひっぱたいては八方へ散らばって体中にたかられてはそれはしのげませぬ即死そくしでございますがと、微笑ほほえんで控える手で無理に握ってもらい、つかつかと行くと、すさまじい虫のうなり、やがて取って返した左の手に熊蜂が七ツ八ツ、羽ばたきをするのがある、あしを振うのがある、中には掴んだ指のまた這出はいだしているのがあった。

さあ、あの神様のような手が触れれば鉄砲の弾でも通るまいと、蜘蛛の巣のようにうわさが八方へ広がっていった。

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さあ、あの神様の手が障れば鉄砲玉でも通るまいと、蜘蛛くもの巣のように評判が八方へ。

その頃から、いつとはなしに何かを身につけたものと見えて、事情あって、あの少年に身をゆだねて山にこもってからは、不思議な力を持つようになり、年を経るにつれて、思うがままに術を使えるようになった。

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そのころからいつとなく感得したものとみえて、仔細しさいあって、あの白痴ばかに身を任せて山にこもってからは神変不思議、年をるに従うて神通じんつう自在じゃ。

はじめは体を押しつけないと効かなかったのが、足だけになり、手先だけになり、しまいには間が離れていても、道に迷った旅人は、お嬢様が思うままに、はっという息づかいだけで姿を変えてしまうのじゃ。

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はじめは体を押つけたのが、足ばかりとなり、手さきとなり、はては間をへだてていても、道を迷うた旅人は嬢様が思うままはッという呼吸いきで変ずるわ。

と、親父がそのとき語ってくれた。「お坊様は、一軒家のまわりで、猿を見たろう、蟇を見たろう、こうもりを見たであろう。うさぎも蛇も、みなお嬢様に谷川の水を浴びせられて、獣にされた者たちじゃ!」

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親仁おやじがその時物語って、ご坊は、孤家ひとつや周囲ぐるりで、猿を見たろう、ひきを見たろう、蝙蝠こうもりを見たであろう、うさぎも蛇も皆嬢様に谷川の水を浴びせられて畜生ちくしょうにされたるやから

ああ、あのとき、あの女が蟇にまとわりつかれたのも、猿に抱きつかれたのも、こうもりに吸いつかれたのも、夜中に魑魅魍魎にうなされたのも、思い出して、わしはひしひしと胸に迫るものを感じた。

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あわれあの時あの婦人おんなが、蟇にまつわられたのも、猿に抱かれたのも、蝙蝠に吸われたのも、夜中に魑魅魍魎ちみもうりょうおそわれたのも、思い出して、わしはひしひしと胸に当った。

なおも親父の語るには。

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なお親仁おやじのいうよう。

今のあの少年も、あの評判の高かった頃、医者の家へ来た病人で、その頃はまだ子どもだった。素朴な父親が付き添い、髪の長い兄貴が背負って、山から出てきた。

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今の白痴ばかも、くだんの評判の高かった頃、医者のうちへ来た病人、その頃はまだ子供、朴訥ぼくとつな父親が附添つきそい、髪の長い、兄貴がおぶって山から出て来た。

脚にひどい腫れ物があって、その治療を頼んだのだった。

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脚に難渋なんじゅう腫物はれものがあった、その療治りょうじを頼んだので。

もとより一部屋を借りて滞在していたが、これほどの病気は大事だ、血もだいぶ出さねばならぬ、ましてや子どもなのだから、手術をするには体に精をつけてからと、まず一日に三つずつ卵を飲ませて、気休めに膏薬(こうやく)を貼っておいた。

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もとより一室ひとまを借受けて、逗留とうりゅうをしておったが、かほどのなやみ大事おおごとじゃ、血も大分だいぶんに出さねばならぬ、ことに子供、手をおろすには体に精分をつけてからと、まず一日に三ツずつ鶏卵たまごを飲まして、気休めに膏薬こうやくっておく。

その膏薬を剥がすにも、親や兄、あるいはそばの者が手をかけると、固く硬くなったものが、めりめりと肉にくっついたまま取れて、ひいひいと泣くのだが、娘が手をかけてやると、黙って我慢するのだった。

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その膏薬をがすにも親や兄、またそばのものが手を懸けると、かたくなってこわばったのが、めりめりと肉にくッついて取れる、ひいひいと泣くのじゃが、娘が手をかけてやればだまってこらえた。

そもそも医者殿は、手のつけようがなく、体の弱りを口実に一日延ばしにしていたのだが、三日経つと、兄を残して、律義な父親は股引の膝で地面をずるようにして、後ずさりしながら玄関から土間へ出て、草鞋を履くとまた地面に手をつき、「次男坊の命が助かりますように」とねえねえと言って、山へ帰っていった。

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一体は医者殿、手のつけようがなくって身のおとろえをいい立てに一日延ばしにしたのじゃが三日つと、兄を残して、克明こくめい父親てておやは股引のひざでずって、あとさがりに玄関から土間へ、草鞋わらじ穿いてまたつちに手をついて、次男坊の生命いのちたすかりまするように、ねえねえ、というて山へ帰った。

それでもなかなかはかどらず、七日も経ったので、あとに残って付き添っていた兄者人(あにじゃびと)が、ちょうど刈り入れの時期で、この頃は手が八本も欲しいくらい忙しい、天気の様子も雨になりそうで、長雨にでもなれば、山畑のかけがえのない稲が腐って、飢え死にしてしまいます、跡取りである私は、一番の働き手ですから、こうしてはいられませぬ、と言い訳をして、「なあ、泣くんじゃないぞ」としんみりと子どもに言い聞かせて、病人を置いて帰っていった。

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それでもなかなか捗取はかどらず、七日なぬかも経ったので、あとに残って附添っていた兄者人あにじゃびとが、ちょうど刈入で、この節は手が八本も欲しいほどいそがしい、お天気模様も雨のよう、長雨にでもなりますと、山畠やまばたけにかけがえのない、稲がくさっては、餓死うえじにでござりまする、総領のわしは、一番の働手はたらきて、こうしてはおられませぬから、とことわりをいって、やれ泣くでねえぞ、としんみり子供にいい聞かせて病人を置いて行った。

あとには子ども一人が残された。そのとき、戸長様(こちょうさま・村を管理する役人)の帳面によれば年は六つとなっていたが、親が六十で子が二十歳なら徴兵は見逃されるとかで、何を間違えたか届け出が五年遅れており、本当は十一だった。それでも奥山で育ったから村の言葉もろくに知らなかったが、生まれつき賢く、物事の分別があったので、三つずつ相変わらず飲まされる卵の汁も、今に治療のときに残らず血になって出ることだろうと推し量って、べそをかいても、兄者が泣くなと言っていたと、じっと耐えていた心の内だった。

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後には子供一人、その時が、戸長様こちょうさまの帳面前年紀とし六ツ、親六十で二十はたちなら徴兵ちょうへいはお目こぼしと何を間違えたか届が五年遅うして本当は十一、それでも奥山で育ったから村の言葉もろくには知らぬが、怜悧りこうな生れで聞分ききわけがあるから、三ツずつあいかわらず鶏卵たまごを吸わせられるつゆも、今に療治の時残らず血になって出ることと推量して、べそをいても、兄者が泣くなといわしったと、耐えていた心の内。

娘の情けで、家族と一緒にお膳を並べて食事をさせると、沢庵の切れをくわえて、隅のほうへ引っ込んでしまう、そのいじらしさ。

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娘のなさけで内と一所にぜんを並べて食事をさせると、沢庵たくあんきれをくわえてすみの方へ引込ひきこむいじらしさ。

いよいよ明日が手術という夜は、みんなが寝静まってから、しくしくと蚊の鳴くように泣いているのを、手水に起きた娘が見つけて、あまりのふびんさに抱いて寝てやった。

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いよいよ明日あすが手術という夜は、みんな寐静ねしずまってから、しくしくのように泣いているのを、手水ちょうずに起きた娘が見つけてあまり不便ふびんさに抱いて寝てやった。

さて治療となると、いつものように娘が後ろから抱いていたので、脂汗を流しながら刃物が入るのを、感心にもじっと耐えていたのに、どこを切り違えたのか、それから流れ出した血が止まらず、見る見るうちに顔色が変わって、危険な状態になった。

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さて治療りょうじとなると例のごとく娘が背後うしろから抱いていたから、脂汗あぶらあせを流しながら切れものが入るのを、感心にじっと耐えたのに、どこを切違えたか、それから流れ出した血が留まらず、見る見る内に色が変って、あぶなくなった。

医者も青ざめて騒いだが、神の助けか、ようやく命は取り留めた。三日ほどで血も止まったが、とうとう腰が抜けてしまった。もとより不自由な体になったのだ。

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医者もあおくなって、騒いだが、神のたすけかようよう生命いのち取留とりとまり、三日ばかりで血も留ったが、とうとう腰が抜けた、もとより不具かたわ

これが足を引きずりながら、自分の足を見て情けなさそうな顔をするのだった。

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これが引摺ひきずって、足を見ながら情なそうな顔をする。

こおろぎがもがれた脚を口にくわえて泣いているのを見るようで、目も当てられないほどだった。

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蟋蟀きりぎりす𢪸がれたあしを口にくわえて泣くのを見るよう、目もあてられたものではない。

しまいには泣き出すと、世間体もあり、いらだって、医者は恐ろしい顔をしてにらみつける。すると、その子はかわいそうに思って抱き上げる娘の胸に顔を隠してすがりつく様子で、長年ずいぶんと人の体に手をかけてきた医者も、意地を折って腕組みをし、はっとため息をついた。

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しまいには泣出すと、外聞もあり、少焦すこじれで、医者はおそろしい顔をしてにらみつけると、あわれがって抱きあげる娘の胸に顔をかくしてすがるさまに、年来としごろ随分ずいぶんと人を手にかけた医者もを折って腕組うでぐみをして、はッという溜息ためいき

やがて父親が迎えに来た。これも因果とあきらめて、特に不満は言わなかったが、何しろ子どもが娘の手を離れようとしないので、医者もちょうどよいとばかりに、言い訳がてら、親や兄の心をなだめるため、そこで娘にその子どもを家まで送らせることにした。

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やがて父親てておやむかえにござった、因果いんが断念あきらめて、別に不足はいわなんだが、何分小児こどもが娘の手を放れようといわぬので、医者もさいわい言訳いいわけかたがた、親兄おやあにの心をなだめるため、そこで娘に小児こどもうちまで送らせることにした。

送っていった先が、あの一軒家だった。

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送って来たのが孤家ひとつやで。

その頃はまだ一つの村で、家も二十軒近くあったのだが、娘が来て一日、二日、つい情にほだされて滞在した五日目から、大雨が降り出した。

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その時分はまだ一個のそう、家も二十軒あったのが、娘が来て一日二日、ついほだされて逗留とうりゅうした五日目から大雨が降出ふりだした。

滝をひっくり返したような雨がやむこともなく降り、家の中にいながらみな蓑笠でしのいだほどだった。茅葺の屋根の修理などはとても手が回らず、表の戸も開けられず、家の中から家の中へ、隣同士でおうおうと声をかけ合って、かろうじてまだ人の世が絶えていないことを知るばかりだった。八日間を八百年のように雨の中で過ごすと、九日目の真夜中から大風が吹き出し、その風の勢いがちょうど峠というあたりで、たちまち泥の海になってしまった。

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滝をくつがえすようで小歇おやみもなく家に居ながらみんな簑笠みのかさしのいだくらい、茅葺かやぶきつくろいをすることはさて置いて、表の戸もあけられず、内から内、となり同士、おうおうと声をかけ合ってわずかにまだ人種ひとだねの世にきぬのを知るばかり、八日を八百年と雨の中にこもると九日目の真夜中から大風が吹出してその風の勢ここがとうげというところでたちまち泥海どろうみ

この洪水で生き残ったのは、不思議にも娘と、あの子どもと、それにそのとき村から供をしていたこの親父だけだった。

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この洪水こうずいで生残ったのは、不思議にも娘と小児こどもとそれにその時村から供をしたこの親仁おやじばかり。

同じ水で、医者の家の者もみな死に絶えた。だから、これほどの美女がこんな片田舎に生まれたのも、国が変わる、時代が変わる前触れだったのだろうと、土地の者は言い伝えた。

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おなじ水で医者の内も死絶しにたえた、さればかような美女が片田舎かたいなかに生れたのも国が世がわり、だいがわりの前兆であろうと、土地のものは言い伝えた。

お嬢様は帰る家もなく、この世でただ一人となって、あの子どもと一緒に山にとどまったのは、お坊様が見られた通り。またあの少年に付き添って行き届いた世話をしているのも、見られた通り。洪水のときから十三年、今になるまで一日も変わりはない。

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嬢様は帰るに家なく、世にただ一人となって小児こどもと一所に山にとどまったのはご坊が見らるる通り、またあの白痴ばかにつきそって行届ゆきとどいた世話も見らるる通り、洪水の時から十三年、いまになるまで一日もかわりはない。

と言い終えて、親父はまた気味の悪い北叟笑みを浮かべた。

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といい果てて親仁おやじはまた気味の悪い北叟笑ほくそえみ

(こう身の上話をしたら、お嬢様をふびんに思って、薪を折ったり水を汲んだりする手助けでもしてやりたいと、情がわくじゃろう。

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(こう身の上を話したら、嬢様を不便ふびんがって、まきを折ったり水をむ手助けでもしてやりたいと、情がかかろう。

もともとの好き心を、いい加減な慈悲だとか情けだとかいう名目にして、いっそ山へ帰りたいのじゃろう。いや、およしなされ。

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本来の好心すきごころ、いい加減な慈悲じひじゃとか、情じゃとかいう名につけて、いっそ山へ帰りたかんべい、はてかっしゃい。

あの少年殿の女房になって、世の中には目もくれない代わりに、お嬢様は思いのまま、男はより取り見取り、飽きれば息を吹きかけて獣にしてしまうのじゃ。とりわけあの洪水以来、山を貫いたこの流れは、お天道様がお授けになった、男を誘い込む怪しい水で、命を取られない者はいないのじゃ。

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あの白痴殿ばかどのの女房になって世の中へは目もやらぬかわりにゃあ、嬢様は如意にょい自在、男はより取って、けば、息をかけてけものにするわ、殊にその洪水以来、山を穿うがったこの流は天道様てんとうさまがお授けの、男をいざなあやしの水、生命いのちを取られぬものはないのじゃ。

天狗道(てんぐどう)にも三熱(さんねつ・激しい苦しみ)があるというが、髪が乱れ、顔色が青ざめ、胸がやせて手足が細くなれば、谷川を浴びるとまたもとの通り、それこそ水がしたたるほど美しくなる。招けば生きた魚も来る、にらめば美しい木の実も落ちる、袖をかざせば雨も降り、眉を開けば風も吹くのじゃ。

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天狗道てんぐどうにも三熱の苦悩くのう、髪が乱れ、色が蒼ざめ、胸がせて手足が細れば、谷川を浴びるともとの通り、それこそ水が垂るばかり、招けばきたうおも来る、にらめば美しいも落つる、そでかざせば雨も降るなり、まゆを開けば風も吹くぞよ。

しかも生まれつきの色好みで、とりわけ若い者が好きでな。何かお坊様にも言ったであろうが、それを本気にしたところで、やがて飽きられれば尾ができる、耳が動く、足が伸びる、たちまち姿が変わってしまうだけじゃ。

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しかもうまれつきの色好み、殊にまた若いのがすきじゃで、何かご坊にいうたであろうが、それをまこととしたところで、やがてかれると尾が出来る、耳が動く、足がのびる、たちまち形が変ずるばかりじゃ。

いや、やがてこの鯉を料理して、大あぐらで酒を飲むときの、あの魔神のような姿を見せてやりたいものじゃ。

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いややがて、この鯉を料理して、大胡坐おおあぐらで飲む時の魔神の姿が見せたいな。

よけいな思いは起こさずに、早くここを立ち去りなされ。助けられたのが不思議なくらいで、お嬢様の格別のお情けというものじゃ。命拾いをしたのじゃ、お若いの、きっと修行をなさりませ。)

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妄念もうねんは起さずに早うここを退かっしゃい、助けられたが不思議なくらい、嬢様別してのお情じゃわ、生命冥加いのちみょうがな、お若いの、きっと修行をさっしゃりませ。)

と、また一つ背中を叩いた。親父は鯉を提げたまま、振り向きもせずに山道を上のほうへ歩いていった。

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とまた一ツ背中をたたいた、親仁おやじは鯉をげたまま見向きもしないで、山路やまじかみの方。

見送ると、だんだん小さくなって、一つの大きな山の向こうへ隠れたと思うと、油照り(あぶらでり)の焼けるような空に、その山の頂から、すくすくと雲が湧き出た。滝の音も静まるほど、ゴロゴロと雷の音が響き渡った。

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見送ると小さくなって、一座の大山おおやま背後うしろへかくれたと思うと、油旱あぶらひでりの焼けるような空に、その山のいただきから、すくすくと雲が出た、滝の音も静まるばかり殷々いんいんとしてらいひびき

魂が抜けたようにぼんやり立っていた、わしの魂は体に戻った。あの方向を拝むと同時に、杖を脇に抱え込み、笠を傾け、きびすを返すと、あわただしく一目散に駆け下りた。里に着いた頃、山ではにわか雨が降っていた。親父が女に持って行った鯉も、この雨のおかげで生きたまま一軒家に着いたろうと思うほどの大雨だった。」

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藻抜もぬけのように立っていた、わしたましいは身に戻った、そなたを拝むとひとしく、つえをかい込み、小笠おがさを傾け、くびすを返すとあわただしく一散にけ下りたが、里に着いた時分に山は驟雨ゆうだち親仁おやじ婦人おんなもたらした鯉もこのために活きて孤家ひとつやに着いたろうと思う大雨であった。」

高野聖(こうやひじり)はこのことについて、あえて別に説明を加えて教えを与えることはしなかった。翌朝、別れて、雪の中の山越えにかかるのを、名残惜しく見送ると、ちらちらと雪の降る中を、だんだん高く坂道を上っていく聖の姿は、まるで雲に乗って行くように見えたのだった。

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高野聖こうやひじりはこのことについて、あえて別にちゅうしておしえあたえはしなかったが、翌朝たもとを分って、雪中山越せっちゅうやまごえにかかるのを、名残惜なごりおしく見送ると、ちらちらと雪の降るなかを次第しだいに高く坂道をのぼる聖の姿、あたかも雲にして行くように見えたのである。

(明治三十三年)

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(明治三十三年)