阿部一族 小学生向け
森鴎外(もりおうがい)・1972年
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従四位下(じゅしいのげ)・左近衛少将(さこんえのしょうしょう)・越中守(えっちゅうのかみ)の細川忠利(ほそかわただとし)は、寛永十八年(1641年)の春、肥後国(ひごのくに・今の熊本県)を出発し、五十四万石(ごじゅうよんまんごく)の大名(だいみょう)らしい立派な行列を率いて、江戸へ参勤(さんきん・将軍のもとへあいさつに行くこと)する旅に出ようとしていた。ところが急に病気にかかり、お抱えの医者の薬も効かず、日に日に重くなっていった。そこで江戸へは、出発を延期するという知らせの飛脚が送られた。
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従四位下左近衛少将兼越中守細川忠利は、寛永十八年辛巳の春、よそよりは早く咲く領地肥後国の花を見すてて、五十四万石の大名の晴れ晴れしい行列に前後を囲ませ、南より北へ歩みを運ぶ春とともに、江戸を志して参勤の途に上ろうとしているうち、はからず病にかかって、典医の方剤も功を奏せず、日に増し重くなるばかりなので、江戸へは出発日延べの飛脚が立つ。
徳川将軍家(とくがわしょうぐんけ)は、名君(めいくん・すぐれた君主)とうたわれる三代目の家光(いえみつ)だった。家光は、島原一揆(しまばらいっき)で敵の大将・天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)を討ち取り、大きな手柄を立てた忠利の体を心配した。そこで三月二十日、松平伊豆守(まつだいらいずのかみ)・阿部豊後守(あべぶんごのかみ)・阿部対馬守(あべつしまのかみ)の三人の名前で見舞いの手紙(沙汰書・さたしょ)を書かせ、針の治療をする医者・以策(いさく)というものを京都から呼び寄せて、熊本へ向かわせた。
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徳川将軍は名君の誉れの高い三代目の家光で、島原一揆のとき賊将天草四郎時貞を討ち取って大功を立てた忠利の身の上を気づかい、三月二十日には松平伊豆守、阿部豊後守、阿部対馬守の連名の沙汰書を作らせ、針医以策というものを、京都から下向させる。
続いて二十二日には、同じ三人が署名した見舞いの手紙を持たせ、曽我又左衛門(そがまたざえもん)という侍を、将軍の使者(上使・じょうし)として送った。
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続いて二十二日には同じく執政三人の署名した沙汰書を持たせて、曽我又左衛門という侍を上使につかわす。
大名に対する将軍家のもてなしとしては、この上なく丁寧(鄭重・ていちょう)なものだった。
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大名に対する将軍家の取扱いとしては、鄭重をきわめたものであった。
島原の乱(しまばらのらん)は、この年より三年前の寛永十五年の春に鎮圧(ちんあつ)されていた。それ以来、将軍家は忠利に、江戸の屋敷の敷地を増やしたり、鷹狩り(たかがり)でとらえた鶴を贈ったりして、ふだんから丁寧(慇懃・いんぎん)に付き合ってきていた。だから、今回の大きな病気を聞いて、これまでの決まり(先例)が許すかぎりの見舞いをさせたのも、もっともなことだった。
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島原征伐がこの年から三年前寛永十五年の春平定してからのち、江戸の邸に添地を賜わったり、鷹狩の鶴を下されたり、ふだん慇懃を尽くしていた将軍家のことであるから、このたびの大病を聞いて、先例の許す限りの慰問をさせたのも尤もである。
しかし将軍家がこうした手続きをする前に、熊本花畑(はなばたけ)の屋敷(館・やかた)では忠利の病気が急に重くなり、とうとう三月十七日の申(さる)の刻(今の午後四時ごろ)、五十六歳で亡くなってしまった。
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将軍家がこういう手続きをする前に、熊本花畑の館では忠利の病が革かになって、とうとう三月十七日申の刻に五十六歳で亡くなった。
奥方(おくがた)は、小笠原兵部大輔秀政(おがさわらひょうぶたゆうひでまさ)の娘で、将軍の養女となってから忠利に嫁いだ人だった。今年四十五歳になっている。
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奥方は小笠原兵部大輔秀政の娘を将軍が養女にして妻せた人で、今年四十五歳になっている。
名前をお千(せん)の方といった。
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名をお千の方という。
跡取り息子(嫡子・ちゃくし)の六丸(ろくまる)は、六年前に元服(げんぷく・大人になる儀式)して、将軍家から「光」の字をもらい、光貞(みつさだ)と名乗るようになった。従四位下・侍従(じじゅう)・肥後守(ひごのかみ)という位も与えられている。
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嫡子六丸は六年前に元服して将軍家から光の字を賜わり、光貞と名のって、従四位下侍従兼肥後守にせられている。
今年十七歳になる。
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今年十七歳である。
光貞は江戸への参勤の途中で、遠江国(とおとうみのくに・今の静岡県西部)の浜松まで戻っていたが、父の死の知らせ(訃音・ふいん)を聞いて引き返した。
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江戸参勤中で遠江国浜松まで帰ったが、訃音を聞いて引き返した。
光貞は、のちに名を光尚(みつひさ)と改める。
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光貞はのち名を光尚と改めた。
次男の鶴千代(つるちよ)は、小さいころから立田山(たつたやま)の泰勝寺(たいしょうじ)というお寺に預けられていた。
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二男鶴千代は小さいときから立田山の泰勝寺にやってある。
京都の妙心寺(みょうしんじ)出身の大淵和尚(たいえんおしょう)の弟子になり、宗玄(そうげん)と名乗っている。
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京都妙心寺出身の大淵和尚の弟子になって宗玄といっている。
三男の松之助(まつのすけ)は、細川家と古くからのつながりがある長岡家に養われている。
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三男松之助は細川家に旧縁のある長岡氏に養われている。
四男の勝千代(かつちよ)は、家来の南条大膳(なんじょうだいぜん)の養子になっている。
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四男勝千代は家臣南条大膳の養子になっている。
娘は二人いる。
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女子は二人ある。
長女の藤姫(ふじひめ)は、松平周防守忠弘(まつだいらすおうのかみただひろ)の奥方になっている。
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長女藤姫は松平周防守忠弘の奥方になっている。
次女の竹姫(たけひめ)は、のちに有吉頼母英長(ありよしたのもひでなが)の妻になる人である。
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二女竹姫はのちに有吉頼母英長の妻になる人である。
忠利は三斎(さんさい)の三男として生まれたので、下には弟が三人いる。四男の中務大輔立孝(なかつかさたゆうたつたか)、五男の刑部興孝(ぎょうぶおきたか)、六男の長岡式部寄之(ながおかしきぶよりゆき)である。
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弟には忠利が三斎の三男に生まれたので、四男中務大輔立孝、五男刑部興孝、六男長岡式部寄之の三人がある。
妹には、稲葉一通(いなばかずみち)に嫁いだ多羅姫(たらひめ)と、烏丸中納言光賢(からすまるちゅうなごんみつかた)に嫁いだ万姫(まんひめ)がいる。
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妹には稲葉一通に嫁した多羅姫、烏丸中納言光賢に嫁した万姫がある。
この万姫が生んだ禰々姫(ねねひめ)が、のちに忠利の跡取り息子・光尚の奥方になる。
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この万姫の腹に生まれた禰々姫が忠利の嫡子光尚の奥方になって来るのである。
年上には、長岡(ながおか)家の名を名乗る兄が二人、前野家と長岡家にそれぞれ嫁いだ姉が二人いる。
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目上には長岡氏を名のる兄が二人、前野長岡両家に嫁した姉が二人ある。
隠居(いんきょ)した三斎宗立(さんさいそうりゅう・忠利の父)もまだ生きていて、七十九歳になっている。
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隠居三斎宗立もまだ存命で、七十九歳になっている。
これらの人たちの中には、跡取り息子の光貞のように江戸にいたり、京都やそのほかの遠い国にいたりする人もいた。そういう人たちは、あとから知らせを受けて悲しんだ。しかし熊本の屋敷にいた人たちの悲しみは、それとは違って、とりわけ深いものだった。
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この中には嫡子光貞のように江戸にいたり、また京都、そのほか遠国にいる人だちもあるが、それがのちに知らせを受けて歎いたのと違って、熊本の館にいた限りの人だちの歎きは、わけて痛切なものであった。
江戸へ知らせるための使者には、六島少吉(むつしましょうきち)と津田六左衛門(つだろくざえもん)の二人が立った。
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江戸への注進には六島少吉、津田六左衛門の二人が立った。
三月二十四日には、初七日(しょなぬか・死んでから七日目の法要)の営みが行われた。
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三月二十四日には初七日の営みがあった。
四月二十八日には、それまで屋敷の居間の床板を外し、その下の土の中に置いてあった棺(かん)を運び出した。そして江戸からの指図(さしず)にしたがって、飽田郡(あきたごおり)春日村(かすがむら)の岫雲院(しゅううんいん)で遺体を火葬(荼毗・だび)にし、高麗門(こうらいもん)の外の山に葬った。
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四月二十八日にはそれまで館の居間の床板を引き放って、土中に置いてあった棺を舁き上げて、江戸からの指図によって、飽田郡春日村岫雲院で遺骸を荼毗にして、高麗門の外の山に葬った。
この位牌堂(霊屋・みたまや)の下には、翌年の冬になって、護国山妙解寺(ごこくざんみょうげじ)というお寺が建てられた。江戸の品川にある東海寺から、沢庵和尚(たくあんおしょう)と同じ修行仲間だった啓室和尚(けいしつおしょう)がやって来て、住職(住持・じゅうじ)になった。そして啓室和尚が寺の中の臨流庵(りんりゅうあん)に隠居したあと、忠利の次男で出家していた宗玄が、天岸和尚(てんがんおしょう)と名乗って跡を継ぐことになる。
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この霊屋の下に、翌年の冬になって、護国山妙解寺が建立せられて、江戸品川東海寺から沢庵和尚の同門の啓室和尚が来て住持になり、それが寺内の臨流庵に隠居してから、忠利の二男で出家していた宗玄が、天岸和尚と号して跡つぎになるのである。
忠利の死後の名前(法号・ほうごう)は、妙解院殿台雲宗伍大居士(みょうげいんでんたいうんそうごだいこじ)とつけられた。
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忠利の法号は妙解院殿台雲宗伍大居士とつけられた。
岫雲院で火葬されたのは、忠利の遺言によるものだった。
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岫雲院で荼毗になったのは、忠利の遺言によったのである。
いつのことだったか、忠利が鷹狩り(方目狩・ばんがり)に出かけたとき、この岫雲院で休んで茶を飲んだことがあった。
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いつのことであったか、忠利が方目狩に出て、この岫雲院で休んで茶を飲んだことがある。
そのとき忠利は、ふと自分のあごひげ(腮髯)が伸びているのに気づき、住職に「剃刀(かみそり)はないか」とたずねた。
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そのとき忠利はふと腮髯の伸びているのに気がついて住持に剃刀はないかと言った。
住職はたらいに水を入れ、剃刀を添えて出した。
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住持が盥に水を取って、剃刀を添えて出した。
忠利はきげんよく、そばに仕える少年(児小姓・こごしょう)にひげを剃らせながら、住職に言った。
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忠利は機嫌よく児小姓に髯を剃らせながら、住持に言った。
「どうじゃ。この剃刀では、亡くなった人(亡者・もうじゃ)の頭をたくさん剃ったのだろうな」
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「どうじゃな。この剃刀では亡者の頭をたくさん剃ったであろうな」
と言った。
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と言った。
住職はなんと答えていいかわからず、ひどく困ってしまった。
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住持はなんと返事をしていいかわからぬので、ひどく困った。
このときから忠利は岫雲院の住職と親しくなっていたので、火葬する場所(荼毗所・だびしょ)をこの寺に決めていたのである。
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このときから忠利は岫雲院の住持と心安くなっていたので、荼毗所をこの寺にきめたのである。
ちょうど火葬の最中だった。
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ちょうど荼毗の最中であった。
棺(柩・ひつぎ)に付き添ってきた家来たちの群れの中から、「あれ、お鷹が、お鷹が」
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柩の供をして来ていた家臣たちの群れに、「あれ、お鷹がお鷹が」
という声があがった。
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と言う声がした。
寺の境内(けいだい)の杉の木立ちに切り取られたような、にぶい青色の空の下、丸い石の井戸わく(井筒・いづつ)の上に、笠のように枝を垂らした葉桜があった。その上を、二羽の鷹が輪を描いて飛んでいたのである。
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境内の杉の木立ちに限られて、鈍い青色をしている空の下、円形の石の井筒の上に笠のように垂れかかっている葉桜の上の方に、二羽の鷹が輪をかいて飛んでいたのである。
人々が不思議に思って見ているうちに、二羽の鷹は尾と嘴(くちばし)を触れ合わせるように前後になって続き、さっと舞い降りて、桜の下の井戸の中に入ってしまった。
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人々が不思議がって見ているうちに、二羽が尾と嘴と触れるようにあとさきに続いて、さっと落して来て、桜の下の井の中にはいった。
寺の門前で、しばらく何かを言い争っていた五、六人の中から、二人の男が駆け出してきて、井戸のそばに来ると、石の井戸わくに手をかけて中をのぞいた。
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寺の門前でしばらく何かを言い争っていた五六人の中から、二人の男が駈け出して、井の端に来て、石の井筒に手をかけて中をのぞいた。
そのときにはもう鷹は水の底深く沈んでしまい、しだの茂みの中で鏡のように光る水面は、もとどおり静かに平らになっていた。
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そのとき鷹は水底深く沈んでしまって、歯朶の茂みの中に鏡のように光っている水面は、もうもとの通りに平らになっていた。
二人の男は、鷹を扱う役人(鷹匠衆・たかじょうしゅう)だった。
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二人の男は鷹匠衆であった。
井戸の底に沈んで死んだのは、忠利がかわいがっていた有明(ありあけ)、明石(あかし)という二羽の鷹だった。
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井の底にくぐり入って死んだのは、忠利が愛していた有明、明石という二羽の鷹であった。
そのことがわかると、人々の間から、「それでは、お鷹も殉死(じゅんし・主君のあとを追って死ぬこと)したのか」
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そのことがわかったとき、人々の間に、「それではお鷹も殉死したのか」
とささやく声が聞こえた。
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とささやく声が聞えた。
というのも、殿様が亡くなった当日から一昨日(おとつい)までに、すでに殉死した家来が十人あまりいて、中でも一昨日は八人がいっせいに切腹し、昨日も一人切腹していたので、家来のうち殉死のことを考えずにいる者は一人もいなかったからである。
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それは殿様がお隠れになった当日から一昨日までに殉死した家臣が十余人あって、中にも一昨日は八人一時に切腹し、昨日も一人切腹したので、家中誰一人殉死のことを思わずにいるものはなかったからである。
二羽の鷹がどんな手ぬかりで鷹匠衆の手を離れたのか、また、なぜ目に見えない獲物を追うようにして井戸の中に飛び込んだのか、それはわからない。しかし、それを詳しく調べよう(穿鑿・せんさく)などと考える者は一人もいなかった。
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二羽の鷹はどういう手ぬかりで鷹匠衆の手を離れたか、どうして目に見えぬ獲物を追うように、井戸の中に飛び込んだか知らぬが、それを穿鑿しようなどと思うものは一人もない。
鷹は殿様がかわいがっていたもので、それが火葬(荼毗・だび)の当日に、しかも火葬の場所である岫雲院の井戸に入って死んだ、という事実だけを見て、人々は「鷹が殉死したのだ」と判断するのに十分だった。
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鷹は殿様のご寵愛なされたもので、それが荼毗の当日に、しかもお荼毗所の岫雲院の井戸にはいって死んだというだけの事実を見て、鷹が殉死したのだという判断をするには十分であった。
それを疑って、ほかの原因を探そうとする余地はなかったのである。
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それを疑って別に原因を尋ねようとする余地はなかったのである。
死後四十九日間の法要(中陰・ちゅういん)が、五月五日に終わった。
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中陰の四十九日が五月五日に済んだ。
それまでは、宗玄をはじめ、既西堂(きせいどう)、金両堂(こんりょうどう)、天授庵(てんじゅあん)、聴松院(ちょうしょういん)、不二庵(ふじあん)などのお寺の僧たちがお勤め(勤行・ごんぎょう)をしていた。
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これまでは宗玄をはじめとして、既西堂、金両堂、天授庵、聴松院、不二庵等の僧侶が勤行をしていたのである。
さて五月六日になっても、まだぽつぽつと殉死する人が出ていた。
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さて五月六日になったが、まだ殉死する人がぽつぽつある。
殉死する本人や、その親・兄弟・妻子はもちろんのこと、直接の関わりがない者でさえも、京都から来る針医や江戸から来る上使をもてなす準備をうわの空でしながら、ただ殉死のことばかり考えていた。
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殉死する本人や親兄弟妻子は言うまでもなく、なんの由縁もないものでも、京都から来るお針医と江戸から下る御上使との接待の用意なんぞはうわの空でしていて、ただ殉死のことばかり思っている。
例年なら軒(のき)に葺(ふ)くはずの端午の節句(たんごのせっく)の菖蒲(しょうぶ)も摘まれず、まして初めての節句を祝う幟(初幟・はつのぼり)を立てるはずの子がいる家でさえ、その子が生まれたことを忘れたかのように、ひっそりと静まり返っていた。
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例年簷に葺く端午の菖蒲も摘まず、ましてや初幟の祝をする子のある家も、その子の生まれたことを忘れたようにして、静まり返っている。
殉死には、いつ、どのようにして決まったともなく、自然に決まり(掟・おきて)が出来上がっていた。
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殉死にはいつどうしてきまったともなく、自然に掟が出来ている。
どれほど殿様を大切に思っていても、誰でも勝手に殉死ができるわけではない。
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どれほど殿様を大切に思えばといって、誰でも勝手に殉死が出来るものではない。
平和な世(泰平・たいへい)に江戸参勤へお供するときや、いざ戦争というときに戦場へお供するときと同じで、死出の旅(死天の山・三途の川、死後にわたるとされる山と川)へお供するにも、必ず殿様のお許しを得なければならない。
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泰平の世の江戸参勤のお供、いざ戦争というときの陣中へのお供と同じことで、死天の山三途の川のお供をするにもぜひ殿様のお許しを得なくてはならない。
その許しもないのに死んでしまえば、それは無駄死に(犬死・いぬじに)である。
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その許しもないのに死んでは、それは犬死である。
武士は世間の評判(名聞・みょうもん)を大切にするから、無駄死には決してしない。
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武士は名聞が大切だから、犬死はしない。
敵の陣地に飛び込んで討死(うちじに)するのは立派なことだが、命令にそむいて勝手に一人で飛び出し(抜駆け・ぬけがけ)て死んでは、手柄にはならない。
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敵陣に飛び込んで討死をするのは立派ではあるが、軍令にそむいて抜駈けをして死んでは功にはならない。
それが無駄死にであるのと同じように、お許しがないままに殉死しても、それもやはり無駄死になのである。
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それが犬死であると同じことで、お許しのないに殉死しては、これも犬死である。
たまに、そういう人でも無駄死にとならない場合がある。それは、深い縁(値遇・ちぐう)で結ばれた主君と家来の間に、言葉にしない約束(黙契・もっけい)があって、お許しがなくても、あったのと変わらないからである。
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たまにそういう人で犬死にならないのは、値遇を得た君臣の間に黙契があって、お許しはなくてもお許しがあったのと変らぬのである。
仏(ほとけ)が亡くなった(涅槃・ねはん)あとに起こった大乗仏教の教えは、生きていた仏がお許しになったものではない。しかし、過去・現在・未来(過現未・かげんみ)のすべてを知る仏は、そのような教えがのちに出てくることを知っていて、あらかじめ許しておいた(懸許・けんきょ)ものだ、とされている。
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仏涅槃ののちに起った大乗の教えは、仏のお許しはなかったが、過現未を通じて知らぬことのない仏は、そういう教えが出て来るものだと知って懸許しておいたものだとしてある。
お許しがないのに殉死ができるというのも、仏が直接説いた教え(金口・こんぐ)と同じように、大乗の教えを説くのと似たようなものだろう。
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お許しがないのに殉死の出来るのは、金口で説かれると同じように、大乗の教えを説くようなものであろう。
それでは、どうやってお許しを得るのかというと、今回殉死した人々の中の、内藤長十郎元続(ないとうちょうじゅうろうもとつぐ)が用いた方法などが、よい例である。
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そんならどうしてお許しを得るかというと、このたび殉死した人々の中の内藤長十郎元続が願った手段などがよい例である。
長十郎は、ふだんから忠利のそば近くで身の回りの用を務め、特別に目をかけられていた者で、忠利が病に伏してからも離れずに看病していた。
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長十郎は平生忠利の机廻りの用を勤めて、格別のご懇意をこうむったもので、病床を離れずに介抱をしていた。
もはや治る見込みはないと忠利が悟ったとき、長十郎にこう言いつけた。「臨終(末期・まつご)が近くなったら、あの『不二』と書いてある大きな字の掛け軸(懸物・かけもの)を、枕もとにかけてくれ」
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もはや本復は覚束ないと、忠利が悟ったとき、長十郎に「末期が近うなったら、あの不二と書いてある大文字の懸物を枕もとにかけてくれ」
と、あらかじめ言いつけておいたのである。
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と言いつけておいた。
三月十七日、容態がしだいに重くなり、忠利は「あの掛け軸をかけよ」
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三月十七日に容態が次第に重くなって、忠利が「あの懸物をかけえ」
と言った。
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と言った。
長十郎はそれをかけた。
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長十郎はそれをかけた。
忠利はそれをひと目見ると、しばらく目を閉じていた(瞑目・めいもく)。
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忠利はそれを一目見て、しばらく瞑目していた。
それから忠利は、「足がだるい」
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それから忠利が「足がだるい」
と言った。
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と言った。
長十郎は、掛け布団(掻巻・かいまき)のすそをそっとまくり、忠利の足をさすりながら、忠利の顔をじっと見つめた。すると忠利もじっと見返した。
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長十郎は掻巻の裾をしずかにまくって、忠利の足をさすりながら、忠利の顔をじっと見ると、忠利もじっと見返した。
「長十郎、お願いがございます」
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「長十郎お願いがござりまする」
「なんじゃ」
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「なんじゃ」
「ご病気はまことに重いご様子とお見受けいたしますが、神仏のお守りと良い薬のおかげで、一日も早くご全快なさいますようにと、お祈りいたしております。それでも、万が一ということがございます。もしものことがございましたら、どうぞこの長十郎めにも、お供をお申しつけくださいますように」
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「ご病気はいかにもご重体のようにはお見受け申しまするが、神仏の加護良薬の功験で、一日も早うご全快遊ばすようにと、祈願いたしておりまする。それでも万一と申すことがござりまする。もしものことがござりましたら、どうぞ長十郎奴にお供を仰せつけられますように」
こう言いながら、長十郎は忠利の足をそっと持ち上げ、自分の額(ひたい)に押し当てて拝んだ。
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こう言いながら長十郎は忠利の足をそっと持ち上げて、自分の額に押し当てて戴いた。
目には涙がいっぱいにあふれていた。
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目には涙が一ぱい浮かんでいた。
「それはいかんぞ」
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「それはいかんぞよ」
こう言うと、忠利はそれまで長十郎と顔を見合わせていたのに、半分寝返りを打つように横を向いた。
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こう言って忠利は今まで長十郎と顔を見合わせていたのに、半分寝返りをするように脇を向いた。
「どうぞ、そうおっしゃらずに」
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「どうぞそうおっしゃらずに」
長十郎はまた忠利の足を押しいただいた。
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長十郎はまた忠利の足を戴いた。
「いかん、いかん」
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「いかんいかん」
忠利は顔をそむけたまま言った。
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顔をそむけたままで言った。
そばに並んでいた者の中から、「若輩の身でずうずうしいぞ。控えたほうがよかろう」
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列座の者の中から、「弱輩の身をもって推参じゃ、控えたらよかろう」
と言う者があった。
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と言ったものがある。
長十郎はこの年、十七歳だった。
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長十郎は当年十七歳である。
「どうぞ」
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「どうぞ」
のどにつまったような声で言うと、長十郎は三度目に押しいただいた忠利の足を、いつまでも額に当てたまま放さなかった。
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咽につかえたような声で言って、長十郎は三度目に戴いた足をいつまでも額に当てて放さずにいた。
「意地の強いやつじゃな」
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「情の剛い奴じゃな」
声は怒って叱るような調子だったが、忠利はこの言葉とともに二度うなずいた。
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声はおこって叱るようであったが、忠利はこの詞とともに二度うなずいた。
長十郎は「はっ」
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長十郎は「はっ」
と言って、両手で忠利の足を抱えたまま、寝床のうしろにうつぶせになり、しばらく動かずにいた。
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と言って、両手で忠利の足を抱えたまま、床の背後に俯伏して、しばらく動かずにいた。
そのとき長十郎の心の中には、たいへんな難所を通り抜けて、行き着かなければならない場所にようやく行き着いたような、力の抜けた安心感と落ち着きとが満ちあふれていた。ほかのことは何も考えられず、畳(備後畳・びんごたたみ)の上に涙がこぼれ落ちているのにも気づかなかった。
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そのとき長十郎の心のうちには、非常な難所を通って往き着かなくてはならぬ所へ往き着いたような、力の弛みと心の落着きとが満ちあふれて、そのほかのことは何も意識に上らず、備後畳の上に涙のこぼれるのも知らなかった。
長十郎はまだ若く、これといった手柄もなかったが、忠利はいつも目をかけて、そば近くで使っていた。
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長十郎はまだ弱輩で何一つきわだった功績もなかったが、忠利は始終目をかけて側近く使っていた。
酒が好きで、ほかの者なら無礼だと咎められそうな失敗をしたこともあったが、忠利は「あれは長十郎がしたのではない、酒がしたのじゃ」
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酒が好きで、別人なら無礼のお咎めもありそうな失錯をしたことがあるのに、忠利は「あれは長十郎がしたのではない、酒がしたのじゃ」
と言って笑っていた。
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と言って笑っていた。
だからその恩に報いなければならない、その過ちを償わなければならないと思い込んでいた長十郎は、忠利の病気が重くなってからは、その恩返しと償いの道は殉死のほかにないと固く信じるようになった。
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それでその恩に報いなくてはならぬ、その過ちを償わなくてはならぬと思い込んでいた長十郎は、忠利の病気が重ってからは、その報謝と賠償との道は殉死のほかないとかたく信ずるようになった。
しかし、この男の心の中を細かく見てみると、自分から進んで殉死しなければならないという気持ちのほかに、もう一つの気持ちがあった。それは、周りの人が「自分は殉死するはずだ」と思っているに違いないから、自分は殉死せざるをえない、という、人に頼りかかるようにして死へ向かっていく気持ちである。この二つの気持ちが、ほとんど同じくらいの強さで長十郎の中にあった。
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しかし細かにこの男の心中に立ち入ってみると、自分の発意で殉死しなくてはならぬという心持ちのかたわら、人が自分を殉死するはずのものだと思っているに違いないから、自分は殉死を余儀なくせられていると、人にすがって死の方向へ進んでいくような心持ちが、ほとんど同じ強さに存在していた。
言い方を変えれば、もし自分が殉死しないでいたら、恐ろしい恥をかくに違いないと心配していたのである。
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反面から言うと、もし自分が殉死せずにいたら、恐ろしい屈辱を受けるに違いないと心配していたのである。
このような弱さのある長十郎ではあったが、死を恐れる気持ちはみじんもなかった。
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こういう弱みのある長十郎ではあるが、死を怖れる念は微塵もない。
だから、どうか殿様に殉死をお許しいただきたいという願いは、何にも邪魔されることなく、この男の心のすべてを占めていたのである。
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それだからどうぞ殿様に殉死を許して戴こうという願望は、何物の障礙をもこうむらずにこの男の意志の全幅を領していたのである。
しばらくして長十郎は、両手で支えている殿様の足に力が入り、少し伸ばされるように感じた。
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しばらくして長十郎は両手で持っている殿様の足に力がはいって少し踏み伸ばされるように感じた。
これはまた足がだるくなられたのだと思い、また最初のように静かにさすり始めた。
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これはまただるくおなりになったのだと思ったので、また最初のようにしずかにさすり始めた。
このとき長十郎の心には、年老いた母と妻のことが浮かんだ。
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このとき長十郎の心頭には老母と妻とのことが浮かんだ。
そして、殉死した者の遺族は主君の家からよい扱いを受けるということを考え、これで自分は家族を安心できる立場に置いて、心置きなく死ぬことができると思った。
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そして殉死者の遺族が主家の優待を受けるということを考えて、それで己は家族を安穏な地位において、安んじて死ぬることが出来ると思った。
それと同時に、長十郎の顔は晴れ晴れとした表情になった。
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それと同時に長十郎の顔は晴れ晴れした気色になった。
四月十七日の朝、長十郎は着物を改めて母の前に出ると、はじめて殉死することを打ち明け、別れのあいさつ(暇乞い・いとまごい)をした。
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四月十七日の朝、長十郎は衣服を改めて母の前に出て、はじめて殉死のことを明かして暇乞いをした。
母は少しも驚かなかった。
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母は少しも驚かなかった。
それは、互いに口には出さないものの、「今日はせがれが切腹する日だ」と、母もずっと前から思っていたからである。
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それは互いに口に出しては言わぬが、きょうは倅が切腹する日だと、母もとうから思っていたからである。
もし長十郎が「切腹しない」とでも言ったら、母はさぞかし驚いたことだろう。
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もし切腹しないとでも言ったら、母はさぞ驚いたことであろう。
母は、まだ嫁いで来たばかりの嫁が台所にいたのを、その場に呼び、ただ「支度はできたか」とたずねた。
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母はまだもらったばかりのよめが勝手にいたのをその席へ呼んでただ支度が出来たかと問うた。
嫁はすぐに立ち上がると、台所からあらかじめ用意してあった杯や膳(杯盤・はいばん)を、自分の手で運んできた。
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よめはすぐに起って、勝手からかねて用意してあった杯盤を自身に運んで出た。
嫁も母と同じように、夫が今日切腹するということを、前から知っていた。
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よめも母と同じように、夫がきょう切腹するということをとうから知っていた。
髪をきれいになでつけ、上等なふだん着に着替えていた。
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髪を綺麗に撫でつけて、よい分のふだん着に着換えている。
母も嫁も、あらたまったまじめな顔をしているのは同じだったが、嫁の目のふちが赤くなっているのを見ると、台所にいたとき泣いていたことがわかった。
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母もよめも改まった、真面目な顔をしているのは同じことであるが、ただよめの目の縁が赤くなっているので、勝手にいたとき泣いたことがわかる。
杯や膳が出ると、長十郎は弟の左平次(さへいじ)を呼んだ。
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杯盤が出ると、長十郎は弟左平次を呼んだ。
四人は黙って杯を交わした。
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四人は黙って杯を取り交わした。
杯がひとまわりしたとき、母が言った。
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杯が一順したとき母が言った。
「長十郎や。お前の好きな酒じゃ。少し過ごしてみてはどうじゃな」
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「長十郎や。お前の好きな酒じゃ。少し過してはどうじゃな」
「ほんに、そうでございますな」
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「ほんにそうでござりまするな」
と言って、長十郎は微笑みながら、気持ちよさそうに杯を重ねた。
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と言って、長十郎は微笑を含んで、心地よげに杯を重ねた。
しばらくして、長十郎は母に言った。
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しばらくして長十郎が母に言った。
「よい気持ちに酔いました。先日からあれこれと気を使ったせいか、いつもより酒が効いたようでございます。失礼して、ちょっと一休みいたしましょう」
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「よい心持ちに酔いました。先日からかれこれと心づかいをいたしましたせいか、いつもより酒が利いたようでござります。ご免をこうむってちょっと一休みいたしましょう」
こう言うと、長十郎は立ち上がって居間に入ったが、すぐに部屋の真ん中に転がって、いびきをかき始めた。
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こう言って長十郎は起って居間にはいったが、すぐに部屋の真ん中に転がって、鼾をかきだした。
妻があとからそっと入り、枕を出して当ててやったとき、長十郎は「ううん」
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女房があとからそっとはいって枕を出して当てさせたとき、長十郎は「ううん」
とうなって寝返りをしただけで、またいびきをかき続けた。
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とうなって寝返りをしただけで、また鼾をかき続けている。
妻はじっと夫の顔を見ていたが、急にあわてたように立ち上がり、自分の部屋へ行った。
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女房はじっと夫の顔を見ていたが、たちまちあわてたように起って部屋へ往った。
泣いてはいけないと思ったのである。
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泣いてはならぬと思ったのである。
家の中はひっそりとしていた。
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家はひっそりとしている。
ちょうど主人の決心を、母と妻が口に出さずに知っていたのと同じように、家来も女中もそれを知っていたので、台所からも馬小屋(厩・うまや)の方からも、笑い声などは聞こえてこなかった。
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ちょうど主人の決心を母と妻とが言わずに知っていたように、家来も女中も知っていたので、勝手からも厩の方からも笑い声なぞは聞こえない。
母は母の部屋で、嫁は嫁の部屋で、弟は弟の部屋で、それぞれじっと物思いにふけっていた。
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母は母の部屋に、よめはよめの部屋に、弟は弟の部屋に、じっと物を思っている。
主人の長十郎は、居間でいびきをかいて眠っている。
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主人は居間で鼾をかいて寝ている。
開け放たれた居間の窓には、下に風鈴をつけた、つりしのぶ(しだ植物を吊るした飾り)がつるされていた。
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あけ放ってある居間の窓には、下に風鈴をつけた吊荵が吊ってある。
その風鈴が、ときどき思い出したようにかすかに鳴った。
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その風鈴が折り折り思い出したようにかすかに鳴る。
その下には、背の高い石の上をくぼませて作った手洗い鉢(手水鉢・ちょうずばち)があった。
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その下には丈の高い石の頂を掘りくぼめた手水鉢がある。
その上に伏せてある巻き柄の柄杓(ひしゃく)に、やんまとんぼが一匹止まり、羽を山の形に垂らしたまま動かずにいた。
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その上に伏せてある捲物の柄杓に、やんまが一疋止まって、羽を山形に垂れて動かずにいる。
一時(ひととき・約二時間)が過ぎる。
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一時立つ。
二時(ふたとき・約四時間)が過ぎる。
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二時立つ。
もう昼を過ぎていた。
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もう午を過ぎた。
食事の支度は女中に言いつけてあったが、しゅうとめが食べると言うかどうかわからないと思い、嫁は様子を聞きに行こうとしながらもためらっていた。
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食事の支度は女中に言いつけてあるが、姑が食べると言われるか、どうだかわからぬと思って、よめは聞きに行こうと思いながらためらっていた。
もし自分だけが食事のことを気にかけているように思われはしないかと、ためらっていたのである。
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もし自分だけが食事のことなぞを思うように取られはすまいかとためらっていたのである。
そのとき、あらかじめ介錯(かいしゃく・切腹のとき首を落として苦しみを短くする役目)を頼まれていた関小平次(せきこへいじ)がやって来た。
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そのときかねて介錯を頼まれていた関小平次が来た。
しゅうとめは嫁を呼んだ。
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姑はよめを呼んだ。
嫁が黙って手をついて様子をうかがっていると、しゅうとめが言った。
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よめが黙って手をついて機嫌を伺っていると、姑が言った。
「長十郎はちょっと一休みすると言うたが、ずいぶん時がたったようじゃ。ちょうど関殿も来られた。もう起こしてやってはどうじゃろうか」
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「長十郎はちょっと一休みすると言うたが、いかい時が立つような。ちょうど関殿も来られた。もう起こしてやってはどうじゃろうの」
「ほんに、そうでございます。あまり遅くならないほうが」
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「ほんにそうでござります。あまり遅くなりません方が」
嫁はこう言うと、すぐに立ち上がって夫を起こしに行った。
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よめはこう言って、すぐに起って夫を起しに往った。
夫の居間に来た妻は、先ほど枕を当ててやったときと同じように、またじっと夫の顔を見つめていた。
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夫の居間に来た女房は、さきに枕をさせたときと同じように、またじっと夫の顔を見ていた。
死なせるために起こすのだと思うと、しばらくは声をかけることができずにいたのである。
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死なせに起すのだと思うので、しばらくは詞をかけかねていたのである。
熟睡していても、庭からさす昼の明かりがまぶしかったのだろう、夫は窓を背にして、顔をこちらへ向けていた。
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熟睡していても、庭からさす昼の明りがまばゆかったと見えて、夫は窓の方を背にして、顔をこっちへ向けている。
「もし、あなた」
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「もし、あなた」
と、妻は呼びかけた。
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と女房は呼んだ。
長十郎は目を覚まさなかった。
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長十郎は目をさまさない。
妻がそばに寄って、そびえるような肩に手をかけると、長十郎は「あ、ああ」
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女房がすり寄って、そびえている肩に手をかけると、長十郎は「あ、ああ」
と言って、ひじを伸ばし、両目を開けると、むっくりと起き上がった。
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と言って臂を伸ばして、両眼を開いて、むっくり起きた。
「たいそうよくお休みになりました。お母様が、あまり遅くなってはいないかとおっしゃいましたので、お起こし申し上げました。それに関様もおいでになりました」
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「たいそうよくお休みになりました。お袋さまがあまり遅くなりはせぬかとおっしゃりますから、お起し申しました。それに関様がおいでになりました」
「そうか。それでは昼になったと見える。少しの間だけ休むつもりだったが、酔ったのと疲れとで、時がたつのに気づかなかった。その代わり、ずいぶん気分がよくなった。茶漬けでも食べて、そろそろ東光院(とうこういん)へ行かねばなるまい。お母様にもそう伝えてくれ」
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「そうか。それでは午になったと見える。少しの間だと思ったが、酔ったのと疲れがあったのとで、時の立つのを知らずにいた。その代りひどく気分がようなった。茶漬でも食べて、そろそろ東光院へ往かずばなるまい。お母あさまにも申し上げてくれ」
武士は、いざというときには満腹になるまで食べたりはしない。
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武士はいざというときには飽食はしない。
しかしまた、空腹のままで大切なことに取りかかることもない。
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しかしまた空腹で大切なことに取りかかることもない。
長十郎は実際、ちょっと眠るつもりだったが、気づかないうちに気持ちよく寝過ごしてしまい、昼になったと聞いたので、食事をしようと言ったのである。
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長十郎は実際ちょっと寝ようと思ったのだが、覚えず気持よく寝過し、午になったと聞いたので、食事をしようと言ったのである。
それから、形ばかりではあったが、家族四人がふだんと同じように膳に向かい、昼の食事をとった。
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これから形ばかりではあるが、一家四人のものがふだんのように膳に向かって、午の食事をした。
長十郎は心静かに支度をすると、関を連れて、菩提寺(ぼだいじ・先祖代々の墓のある寺)の東光院へ、腹を切りに向かった。
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長十郎は心静かに支度をして、関を連れて菩提所東光院へ腹を切りに往った。
長十郎が忠利の足をおしいただいて願ったように、ふだんから目をかけられていた家来たちの中で、これと前後してそれぞれ殉死を願い出て許された者が、長十郎を含めて十八人いた。
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長十郎が忠利の足を戴いて願ったように、平生恩顧を受けていた家臣のうちで、これと前後して思い思いに殉死の願いをして許されたものが、長十郎を加えて十八人あった。
いずれも忠利が深く信頼していた侍たちだった。
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いずれも忠利の深く信頼していた侍どもである。
だから忠利の本心では、この人々を息子の光尚を支えるために残しておきたいという気持ちが強かった。
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だから忠利の心では、この人々を子息光尚の保護のために残しておきたいことは山々であった。
また、この人々を自分と一緒に死なせるのはむごい(残刻・ざんこく)ことだとも、十分にわかっていた。
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またこの人々を自分と一しょに死なせるのが残刻だとは十分感じていた。
しかし、彼ら一人一人に「許す」
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しかし彼ら一人一人に「許す」
というひと言を、身を切られるような思いをしながらも与えたのは、そうせざるをえなかったからである。
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という一言を、身を割くように思いながら与えたのは、勢いやむことを得なかったのである。
自分がそば近くで使ってきた彼らが、命を惜しまない者たちであることを、忠利は信じていた。
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自分の親しく使っていた彼らが、命を惜しまぬものであるとは、忠利は信じている。
だから、彼らが殉死を苦痛とは思わないことも知っていた。
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したがって殉死を苦痛とせぬことも知っている。
逆に、もし自分が殉死を許さないでおいて、彼らが生き長らえたとしたら、どうなるだろうか。
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これに反してもし自分が殉死を許さずにおいて、彼らが生きながらえていたら、どうであろうか。
家来たち一同は、彼らのことを「死ぬべきときに死ななかった者」「恩知らず」「卑怯者(ひきょうもの)」と見なし、仲間として扱わないだろう。
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家中一同は彼らを死ぬべきときに死なぬものとし、恩知らずとし、卑怯者としてともに歯せぬであろう。
それだけならば、彼らも我慢して、命を光尚にささげるときが来るのを待つかもしれない。
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それだけならば、彼らもあるいは忍んで命を光尚に捧げるときの来るのを待つかも知れない。
しかし、「その恩知らず、その卑怯者を、それと知らずに先代の主人が使っていたのだ」と言う者が現れたら、それは彼らにとって我慢できないことだろう。
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しかしその恩知らず、その卑怯者をそれと知らずに、先代の主人が使っていたのだと言うものがあったら、それは彼らの忍び得ぬことであろう。
彼らは、どんなにか悔しい思いをすることだろう。
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彼らはどんなにか口惜しい思いをするであろう。
こう考えてみると、忠利は「許す」
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こう思ってみると、忠利は「許す」
と言わずにはいられなかった。
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と言わずにはいられない。
そこで、病の苦しみにも増してつらい思いをしながら、忠利は「許す」
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そこで病苦にも増したせつない思いをしながら、忠利は「許す」
と言ったのである。
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と言ったのである。
殉死を許した家来の数が十八人になったとき、五十年あまりもの長い間、平和なときも乱れたときも身を処し、人情や世の中の事情(世故・せいこ)を知り尽くしていた忠利は、病の苦しみの中でも、しみじみと自分の死と十八人の侍の死について考えた。
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殉死を許した家臣の数が十八人になったとき、五十余年の久しい間治乱のうちに身を処して、人情世故にあくまで通じていた忠利は病苦の中にも、つくづく自分の死と十八人の侍の死とについて考えた。
命あるものは、必ず滅びる。
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生あるものは必ず滅する。
古い木が朽ち果てて枯れていくそばで、若い木は生い茂って栄えていく。
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老木の朽ち枯れるそばで、若木は茂り栄えて行く。
跡取り息子・光尚の周りにいる若者たちから見れば、自分が用いてきた年配の者たちは、もういなくてもよい存在なのだ。
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嫡子光尚の周囲にいる少壮者どもから見れば、自分の任用している老成人らは、もういなくてよいのである。
それどころか、邪魔にさえなる。
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邪魔にもなるのである。
自分は彼らを生き長らえさせて、自分にしてくれたのと同じ働き(奉公・ほうこう)を光尚にもさせたいと思うが、その役目を光尚のために務めようという者は、すでに何人もできていて、手ぐすね引いて待っているかもしれない。
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自分は彼らを生きながらえさせて、自分にしたと同じ奉公を光尚にさせたいと思うが、その奉公を光尚にするものは、もう幾人も出来ていて、手ぐすね引いて待っているかも知れない。
自分が用いてきた者たちは、長年それぞれの務めを果たしてくる中で、人の恨みも買っているだろう。
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自分の任用したものは、年来それぞれの職分を尽くして来るうちに、人の怨みをも買っていよう。
少なくとも、ねたみ(娼嫉・そねみ)の的になっていることは間違いない。
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少くも娼嫉の的になっているには違いない。
そう考えてみると、無理に彼らへ「生き長らえよ」と言うのは、物事のわかった考えではないのかもしれない。
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そうしてみれば、強いて彼らにながらえていろというのは、通達した考えではないかも知れない。
殉死を許してやったのは、むしろ慈悲だったのかもしれない。
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殉死を許してやったのは慈悲であったかも知れない。
こう考えて、忠利はいくらか心が慰められる(慰藉・いしゃ)ような気持ちになった。
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こう思って忠利は多少の慰藉を得たような心持ちになった。
殉死を願い出て許された十八人は、寺本八左衛門直次(てらもとはちざえもんなおつぐ)、大塚喜兵衛種次(おおつかきへえたねつぐ)、内藤長十郎元続(ないとうちょうじゅうろうもとつぐ)、太田小十郎正信(おおたこじゅうろうまさのぶ)、原田十次郎之直(はらだじゅうじろうゆきなお)、宗像加兵衛景定(むなかたかへえかげさだ)、同じく吉太夫景好(きちだゆうかげよし)、橋谷市蔵重次(はしたにいちぞうしげつぐ)、井原十三郎吉正(いはらじゅうざぶろうよしまさ)、田中意徳(たなかいとく)、本庄喜助重正(ほんじょうきすけしげまさ)、伊藤太左衛門方高(いとうたざえもんまさたか)、右田因幡統安(みぎたいなばむねやす)、野田喜兵衛重綱(のだきへえしげつな)、津崎五助長季(つざきごすけながすえ)、小林理右衛門行秀(こばやしりえもんゆきひで)、林与左衛門正定(はやしよざえもんまささだ)、宮永勝左衛門宗佑(みやながかつざえもんむねすけ)である。
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殉死を願って許された十八人は寺本八左衛門直次、大塚喜兵衛種次、内藤長十郎元続、太田小十郎正信、原田十次郎之直、宗像加兵衛景定、同吉太夫景好、橋谷市蔵重次、井原十三郎吉正、田中意徳、本庄喜助重正、伊藤太左衛門方高、右田因幡統安、野田喜兵衛重綱、津崎五助長季、小林理右衛門行秀、林与左衛門正定、宮永勝左衛門宗佑の人々である。
寺本の先祖は、尾張国(おわりのくに・今の愛知県西部)の寺本という土地に住んでいた、寺本太郎という人だった。
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寺本が先祖は尾張国寺本に住んでいた寺本太郎というものであった。
太郎の子である内膳正(ないぜんのしょう)は、今川家に仕えた。
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太郎の子内膳正は今川家に仕えた。
内膳正の子が左兵衛(さひょうえ)、左兵衛の子が右衛門佐(うえもんのすけ)、右衛門佐の子が与左衛門(よざえもん)で、与左衛門は朝鮮出兵のとき、加藤嘉明(かとうよしあき)の配下として手柄を立てた。
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内膳正の子が左兵衛、左兵衛の子が右衛門佐、右衛門佐の子が与左衛門で、与左衛門は朝鮮征伐のとき、加藤嘉明に属して功があった。
与左衛門の子が八左衛門(はちざえもん)で、大阪の陣で城に立てこもった(籠城・ろうじょう)とき、後藤基次(ごとうもとつぐ)のもとで戦ったことがある。
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与左衛門の子が八左衛門で、大阪籠城のとき、後藤基次の下で働いたことがある。
細川家に召し抱えられて(めしかかえられて・家来として雇われて)から、千石(せんごく)の禄(ろく・給料になる米)をもらい、鉄砲五十挺(ちょう)を率いる頭(かしら)になっていた。
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細川家に召し抱えられてから、千石取って、鉄砲五十挺の頭になっていた。
四月二十九日、安養寺(あんようじ)で切腹(せっぷく・腹を切って死ぬこと)した。
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四月二十九日に安養寺で切腹した。
五十三歳だった。
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五十三歳である。
藤本猪左衛門(ふじもといざえもん)が介錯(かいしゃく・切腹する人の首を打って苦しみを短くする役目)をした。
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藤本猪左衛門が介錯した。
大塚(おおつか)は百五十石の禄をもらう横目役(よこめやく・見張り役)だった。
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大塚は百五十石取りの横目役である。
四月二十六日に切腹した。
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四月二十六日に切腹した。
介錯は池田八左衛門(いけだはちざえもん)がつとめた。
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介錯は池田八左衛門であった。
内藤(ないとう)のことは前に話した。
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内藤がことは前に言った。
太田(おおた)は、祖父の伝左衛門(でんざえもん)が加藤清正(かとうきよまさ)に仕えていた家の出だった。
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太田は祖父伝左衛門が加藤清正に仕えていた。
清正の子の忠広(ただひろ)が領地を取り上げられたとき、伝左衛門とその子の源左衛門(げんざえもん)は、行くあてのない浪人(ろうにん)になった。
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忠広が封を除かれたとき、伝左衛門とその子の源左衛門とが流浪した。
小十郎(こじゅうろう)は源左衛門の二男で、児小姓(こごしょう・主君のそば近くに仕える少年の家来)として召し出された人だった。
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小十郎は源左衛門の二男で児小姓に召し出された者である。
百五十石の禄をもらっていた。
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百五十石取っていた。
殉死(じゅんし・主君の後を追って死ぬこと)の一番手はこの人で、三月十七日に春日寺(かすがでら)で切腹した。
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殉死の先登はこの人で、三月十七日に春日寺で切腹した。
十八歳だった。
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十八歳である。
介錯は門司源兵衛(もじげんべえ)がした。
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介錯は門司源兵衛がした。
原田(はらだ)は百五十石の禄をもらい、主君のそば近くに仕えていた。
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原田は百五十石取りで、お側に勤めていた。
四月二十六日に切腹した。
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四月二十六日に切腹した。
介錯は鎌田源太夫(かまだげんだゆう)がした。
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介錯は鎌田源太夫がした。
宗像加兵衛(むなかたかへえ)と宗像吉太夫(きちだゆう)の兄弟は、宗像中納言氏貞(むなかたちゅうなごんうじさだ)の子孫で、父の清兵衛景延(せいべえかげのぶ)の代に細川家に召し出された。
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宗像加兵衛、同吉太夫の兄弟は、宗像中納言氏貞の後裔で、親清兵衛景延の代に召し出された。
兄弟はどちらも二百石の禄をもらっていた。
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兄弟いずれも二百石取りである。
五月二日、兄は流長院(りゅうちょういん)で、弟は蓮政寺(れんしょうじ)で切腹した。
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五月二日に兄は流長院、弟は蓮政寺で切腹した。
兄の介錯は高田十兵衛(たかだじゅうべえ)が、弟の介錯は村上市右衛門(むらかみいちえもん)がした。
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兄の介錯は高田十兵衛、弟のは村上市右衛門がした。
橋谷(はしたに)は出雲国(いずものくに)の人で、尼子氏(あまこし)の子孫だった。
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橋谷は出雲国の人で、尼子の末流である。
十四歳のとき忠利に召し出されて、知行百石(ちぎょうひゃっこく・領地からの収入百石)の側役(そばやく)を勤め、忠利の食事の毒味をしていた。
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十四歳のとき忠利に召し出されて、知行百石の側役を勤め、食事の毒味をしていた。
忠利は病気が重くなってから、橋谷の膝(ひざ)を枕にして寝たこともあった。
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忠利は病が重くなってから、橋谷の膝を枕にして寝たこともある。
四月二十六日に西岸寺(さいがんじ)で切腹した。
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四月二十六日に西岸寺で切腹した。
ちょうど腹を切ろうとしたとき、城の太鼓の音がかすかに聞こえた。
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ちょうど腹を切ろうとすると、城の太鼓がかすかに聞えた。
橋谷は、ついて来ていた家来(けらい)に、外へ出て今何時か聞いてくるように言った。
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橋谷はついて来ていた家隷に、外へ出て何時か聞いて来いと言った。
家来は戻ってきて、「最後の四つ(よつ・時刻を知らせる太鼓の音)だけは聞こえましたが、全部で何回打ったかはわかりません」
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家隷は帰って、「しまいの四つだけは聞きましたが、総体の桴数はわかりません」
と言った。
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と言った。
橋谷をはじめ、その場にいた者たちがみな微笑んだ。
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橋谷をはじめとして、一座の者が微笑んだ。
橋谷は「最期(さいご)に、よく笑わせてくれた」
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橋谷は「最期によう笑わせてくれた」
と言うと、家来に羽織(はおり)を脱がせてもらい、切腹した。
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と言って、家隷に羽織を取らせて切腹した。
吉村甚太夫(よしむらじんだゆう)が介錯した。
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吉村甚太夫が介錯した。
井原(いはら)は切米(きりまい・支給される米)三人扶持(ぶち・給与の単位)十石をもらっていた。
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井原は切米三人扶持十石を取っていた。
切腹したとき、阿部弥一右衛門(あべやいちえもん)の家来の林左兵衛(はやしさへえ)が介錯した。
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切腹したとき阿部弥一右衛門の家隷林左兵衛が介錯した。
田中(たなか)は、「阿菊物語(おきくものがたり)」という話に語り継がれたお菊の孫で、忠利が愛宕山(あたごさん)へ勉強をしに行ったときの幼なじみだった。
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田中は阿菊物語を世に残したお菊が孫で、忠利が愛宕山へ学問に往ったときの幼な友達であった。
忠利がそのころ出家(しゅっけ・僧になること)しようとしたのを、こっそり止めたことがあった。
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忠利がそのころ出家しようとしたのを、ひそかに諫めたことがある。
のちに知行二百石の側役を勤め、算術(さんじゅつ・計算)が得意で役に立った。
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のちに知行二百石の側役を勤め、算術が達者で用に立った。
年をとってからは、主君の前でも頭巾(ずきん)をかぶったまま楽な姿勢ですわることを許されていた。
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老年になってからは、君前で頭巾をかむったまま安座することを免されていた。
当代(とうだい・当時の当主)に追腹(おいばら・殉死のこと)を願い出ても許されなかったので、六月十九日、小脇差(こわきざし・短い刀)を自分の腹に突き立ててから願い出て、ようやく許された。
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当代に追腹を願っても許されぬので、六月十九日に小脇差を腹に突き立ててから願書を出して、とうとう許された。
加藤安太夫(かとうやすだゆう)が介錯した。
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加藤安太夫が介錯した。
本庄(ほんじょう)は丹後国(たんごのくに)の生まれで、流浪(るろう・あてもなくさまよう)していたのを、三斎(さんさい)公の部屋付きだった本庄久右衛門(きゅうえもん)が召し使っていた。
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本庄は丹後国の者で、流浪していたのを三斎公の部屋附き本庄久右衛門が召使っていた。
仲津(なかつ)で乱暴者(狼藉者・ろうぜきもの)を取り押さえた手柄で、五人扶持十五石の切米取り(きりまいとり)にしてもらった。
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仲津で狼藉者を取り押さえて、五人扶持十五石の切米取りにせられた。
本庄と名のるようになったのも、そのときからである。
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本庄を名のったのもそのときからである。
四月二十六日に切腹した。
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四月二十六日に切腹した。
伊藤(いとう)は奥納戸役(おくおなんどやく・城内の物を管理する役目)を勤めた切米取りだった。
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伊藤は奥納戸役を勤めた切米取りである。
四月二十六日に切腹した。
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四月二十六日に切腹した。
介錯は河喜多八助(かわきたはちすけ)がした。
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介錯は河喜多八助がした。
右田(みぎた)は大伴家(おおともけ)に仕えていた浪人で、忠利に知行百石で召し抱えられた。
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右田は大伴家の浪人で、忠利に知行百石で召し抱えられた。
四月二十七日に自宅で切腹した。
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四月二十七日に自宅で切腹した。
六十四歳だった。
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六十四歳である。
松野右京(まつのうきょう)の家来の田原勘兵衛(たわらかんべえ)が介錯した。
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松野右京の家隷田原勘兵衛が介錯した。
野田(のだ)は天草(あまくさ)の家老、野田美濃(みの)の息子(倅・せがれ)で、切米取りとして召し出された。
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野田は天草の家老野田美濃の倅で、切米取りに召し出された。
四月二十六日に源覚寺(げんかくじ)で切腹した。
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四月二十六日に源覚寺で切腹した。
介錯は恵良半衛門(えらはんえもん)がした。
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介錯は恵良半衛門がした。
津崎(つざき)のことは、あとで別に書く。
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津崎のことは別に書く。
小林(こばやし)は二人扶持十石の切米取りだった。
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小林は二人扶持十石の切米取りである。
切腹のとき、高野勘右衛門(たかのかんえもん)が介錯した。
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切腹のとき、高野勘右衛門が介錯した。
林(はやし)は南郷下田村(なんごうしもたむら)の百姓だったのを、忠利が十人扶持十五石で召し出し、花畑(はなばたけ)の館(やかた)の庭方(にわかた・庭を管理する役目)にした。
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林は南郷下田村の百姓であったのを、忠利が十人扶持十五石に召し出して、花畑の館の庭方にした。
四月二十六日に仏巌寺(ぶつがんじ)で切腹した。
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四月二十六日に仏巌寺で切腹した。
介錯は仲光半助(なかみつはんすけ)がした。
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介錯は仲光半助がした。
宮永(みやなが)は二人扶持十石の台所役人で、先代(忠利)への殉死を最初に願い出た男だった。
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宮永は二人扶持十石の台所役人で、先代に殉死を願った最初の男であった。
四月二十六日に浄照寺(じょうしょうじ)で切腹した。
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四月二十六日に浄照寺で切腹した。
介錯は吉村嘉右衛門(よしむらかえもん)がした。
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介錯は吉村嘉右衛門がした。
この人たちの中には、それぞれの家の菩提所(ぼだいしょ・先祖代々の墓のあるお寺)に葬られた者もいれば、高麗門(こうらいもん)の外の山の中にある霊屋(おたまや・忠利の墓所)のそばに葬られた者もいた。
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この人々の中にはそれぞれの家の菩提所に葬られたのもあるが、また高麗門外の山中にある霊屋のそばに葬られたのもある。
切米取りで殉死した者はわりあい多かったが、中でも津崎五助(つざきごすけ)の話はとりわけ興味深いので、あらためて書くことにする。
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切米取りの殉死者はわりに多人数であったが、中にも津崎五助の事蹟は、きわだって面白いから別に書くことにする。
五助(ごすけ)は二人扶持六石の切米取りで、忠利の犬牽き(いぬひき・鷹狩りのとき犬を扱う役目)だった。
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五助は二人扶持六石の切米取りで、忠利の犬牽きである。
いつも鷹狩(たかがり)の供をして野原(野方・のかた)で働き、忠利に気に入られていた。
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いつも鷹狩の供をして野方で忠利の気に入っていた。
主君にせがむようにして殉死の許しは受けたが、家老たちはみな言った。
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主君にねだるようにして、殉死のお許しは受けたが、家老たちは皆言った。
「ほかの方々は高い禄(こうろく・高い給料)をいただいて、ぜいたく(栄耀・えよう)に暮らしていたが、お前は殿様の犬牽きではないか。お前の志(こころざし)は立派で、殿様のお許しが出たのは、この上ない名誉じゃ。もうそれで十分だ。どうか死ぬことだけは思いとどまって、いまの殿にご奉公してくれ」
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「ほかの方々は高禄を賜わって、栄耀をしたのに、そちは殿様のお犬牽きではないか。そちが志は殊勝で、殿様のお許しが出たのは、この上もない誉れじゃ。もうそれでよい。どうぞ死ぬることだけは思い止まって、御当主にご奉公してくれい」
と言った。
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と言った。
五助はどうしても聞き入れず、五月七日、いつも連れてお供をしていた犬を連れて、追廻田畑(おいまわしたはた)の高琳寺(こうりんじ)へ出かけた。
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五助はどうしても聴かずに、五月七日にいつも牽いてお供をした犬を連れて、追廻田畑の高琳寺へ出かけた。
女房は戸口まで見送りに出て、「お前も男じゃ。身分の高い方々(お歴々・おれきれき)に負けぬようになさいませ」
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女房は戸口まで見送りに出て、「お前も男じゃ、お歴々の衆に負けぬようにおしなされい」
と言った。
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と言った。
津崎の家では往生院(おうじょういん)を菩提所にしていたが、往生院は殿様(上・かみ)にゆかりのあるお寺だというので遠慮し、高琳寺を死に場所(死所・しにどころ)に決めたのだった。
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津崎の家では往生院を菩提所にしていたが、往生院は上のご由緒のあるお寺だというのではばかって、高琳寺を死所ときめたのである。
五助が墓地に入ってみると、前もって介錯を頼んでおいた松野縫殿助(まつのぬいのすけ)が先に来て待っていた。
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五助が墓地にはいってみると、かねて介錯を頼んでおいた松野縫殿助が先に来て待っていた。
五助は肩にかけていた浅葱色(あさぎいろ・うすい青色)の袋(嚢・ふくろ)をおろし、その中から飯行李(めしこうり・ご飯を入れる小さな入れ物)を取り出した。
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五助は肩にかけた浅葱の嚢をおろしてその中から飯行李を出した。
蓋(ふた)をあけると、握り飯が二つ入っていた。
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蓋をあけると握り飯が二つはいっている。
それを犬の前に置いた。
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それを犬の前に置いた。
犬はすぐに食べようとはせず、尾をふって五助の顔を見ていた。
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犬はすぐに食おうともせず、尾をふって五助の顔を見ていた。
五助は、人に話しかけるように犬に言った。
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五助は人間に言うように犬に言った。
「お前は畜生(ちくしょう・けもの)だから知らないかもしれないが、お前の頭をなでてくださったことのある殿様は、もうお亡くなりになった。それで、殿様にご恩を受けていた身分の高い方々(お歴々・おれきれき)は、みなきょう腹を切ってお供をするのだ。おれは身分の低い者(下司・げす)だが、扶持(ふち・給料の米)をいただいて生きてきたことは、お歴々と変わらない。殿様にかわいがっていただいたありがたさも同じだ。だからおれは、今から腹を切って死ぬのだ。おれが死んでしまったら、お前はこれから野良犬(のらいぬ)になる。おれはそれがかわいそうでならない。殿様のお供をした鷹(たか)は、岫雲院(しゅううんいん)で井戸に飛び込んで死んだ。どうだ、お前もおれと一緒に死のうとは思わないか。もし野良犬になっても生きていたいと思うなら、この握り飯を食べてくれ。死にたいと思うなら、食べるな」
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「おぬしは畜生じゃから、知らずにおるかも知れぬが、おぬしの頭をさすって下されたことのある殿様は、もうお亡くなり遊ばされた。それでご恩になっていなされたお歴々は皆きょう腹を切ってお供をなさる。おれは下司ではあるが、御扶持を戴いてつないだ命はお歴々と変ったことはない。殿様にかわいがって戴いたありがたさも同じことじゃ。それでおれは今腹を切って死ぬるのじゃ。おれが死んでしもうたら、おぬしは今から野ら犬になるのじゃ。おれはそれがかわいそうでならん。殿様のお供をした鷹は岫雲院で井戸に飛び込んで死んだ。どうじゃ。おぬしもおれと一しょに死のうとは思わんかい。もし野ら犬になっても、生きていたいと思うたら、この握り飯を食ってくれい。死にたいと思うなら、食うなよ」
こう言って犬の顔を見ていたが、犬は五助の顔ばかり見つめて、握り飯を食べようとはしなかった。
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こう言って犬の顔を見ていたが、犬は五助の顔ばかりを見ていて、握り飯を食おうとはしない。
「それなら、お前も死ぬのか」
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「それならおぬしも死ぬるか」
と言って、五助は犬をじっと見つめた。
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と言って、五助は犬をきっと見つめた。
犬は一声鳴いて尾をふった。
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犬は一声鳴いて尾をふった。
「よし。それならかわいそうだが、死んでくれ」
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「よい。そんなら不便じゃが死んでくれい」
こう言うと五助は犬を抱き寄せ、脇差(わきざし)を抜いて、一太刀(ひとたち)で刺した。
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こう言って五助は犬を抱き寄せて、脇差を抜いて、一刀に刺した。
五助は犬の亡きがらをそばに置いた。
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五助は犬の死骸をかたわらへ置いた。
そして懐(ふところ)から一枚の書き物を取り出し、それを前に広げて、小石を重しにして置いた。
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そして懐中から一枚の書き物を出して、それを前にひろげて、小石を重りにして置いた。
誰かの屋敷で歌の会があったとき覚えたとおりに半紙を横に二つ折りにし、そこには「家老衆はとまれとまれと仰せあれどとめてとまらぬこの五助哉(かな)」
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誰やらの邸で歌の会のあったとき見覚えた通りに半紙を横に二つに折って、「家老衆はとまれとまれと仰せあれどとめてとまらぬこの五助哉」
と、いつもの歌の書き方のとおりに書いてあった。
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と、常の詠草のように書いてある。
署名はしていない。
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署名はしてない。
歌の中に「五助」と入っているから、重ねて名前を書く必要はないと素直に考えたのだが、それが自然と昔ながらの作法(故実・こじつ)にかなっていた。
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歌の中に五助としてあるから、二重に名を書かなくてもよいと、すなおに考えたのが、自然に故実にかなっていた。
これでもう何も手落ちはないと思った五助は、「松野様、お頼み申します」
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もうこれで何も手落ちはないと思った五助は「松野様、お頼み申します」
と言って、楽な姿勢ですわり、肌をくつろげた(着物の胸元を開いた)。
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と言って、安座して肌をくつろげた。
そして犬の血のついたままの脇差を逆手(さかて・刃を自分に向けて)に持ち、「お鷹匠衆(たかじょうしゅう・鷹狩りの役人たち)はどうなさいましたかな。お犬牽き(いぬひき)はただいま参りますぞ」
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そして犬の血のついたままの脇差を逆手に持って、「お鷹匠衆はどうなさりましたな、お犬牽きは只今参りますぞ」
と大声で言い、一声愉快そうに笑うと、腹を十文字に切った。
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と高声に言って、一声快よげに笑って、腹を十文字に切った。
松野が後ろから首を打った。
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松野が背後から首を打った。
五助は身分の軽い者ではあったが、のちに殉死した人たちの遺族が受けたのと同じくらいの手当を、残された後家(ごけ・未亡人)が受けた。
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五助は身分の軽いものではあるが、のちに殉死者の遺族の受けたほどの手当は、あとに残った後家が受けた。
息子が一人いたが、小さいときに出家していたからである。
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男子一人は小さいとき出家していたからである。
後家は五人扶持をもらい、新しく家屋敷ももらって、忠利の三十三回忌(さんじゅうさんかいき)のときまで生きていた。
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後家は五人扶持をもらい、新たに家屋敷をもらって、忠利の三十三回忌のときまで存命していた。
五助の甥(おい)の子が二代目の五助となり、それからは代々、触組(ふれぐみ・組織の一つ)で奉公した。
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五助の甥の子が二代の五助となって、それからは代々触組で奉公していた。
忠利の許しを得て殉死した十八人のほかに、阿部弥一右衛門通信(あべやいちえもんみちのぶ)という者がいた。
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忠利の許しを得て殉死した十八人のほかに、阿部弥一右衛門通信というものがあった。
もとは明石氏(あかしうじ)の出で、幼いころの名を猪之助(いのすけ)といった。
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初めは明石氏で、幼名を猪之助といった。
早くから忠利のそば近くに仕えて、千百石あまりの身分になっていた。
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はやくから忠利の側近く仕えて、千百石余の身分になっている。
島原征伐(しまばらせいばつ)のとき、五人の子どものうち三人までが手柄(軍功)によって、新しく二百石ずつをもらった。
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島原征伐のとき、子供五人のうち三人まで軍功によって新知二百石ずつをもらった。
この弥一右衛門は、家中の者たちからも当然殉死するだろうと思われており、本人も、忠利の夜伽(よとぎ・夜のお世話の当番)の順番が来るたびに、殉死したいと願い出ていた。
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この弥一右衛門は家中でも殉死するはずのように思い、当人もまた忠利の夜伽に出る順番が来るたびに、殉死したいと言って願った。
しかし、忠利はどうしても許さなかった。
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しかしどうしても忠利は許さない。
「お前の志(こころざし)はうれしく思うが、それよりも生きていて光尚(みつひさ)に仕えてくれ」
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「そちが志は満足に思うが、それよりは生きていて光尚に奉公してくれい」
と、何度願っても、同じことを繰り返すのだった。
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と、何度願っても、同じことを繰り返して言うのである。
もともと忠利には、弥一右衛門の言うことを聞かない癖がついていた。
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一体忠利は弥一右衛門の言うことを聴かぬ癖がついている。
これはずいぶん昔からのことで、まだ猪之助といって小姓(こしょう)を勤めていたころも、猪之助が「お食事(ご膳・ごぜん)をお持ちしましょうか」
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これはよほど古くからのことで、まだ猪之助といって小姓を勤めていたころも、猪之助が「ご膳を差し上げましょうか」
と尋ねると、「まだ腹は減っておらぬ」
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と伺うと、「まだ空腹にはならぬ」
と言う。
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と言う。
ほかの小姓が申し上げると、「よい、持って来させよ」
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ほかの小姓が申し上げると、「よい、出させい」
と言う。
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と言う。
忠利は、この男の顔を見ると、つい反対したくなるのだった。
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忠利はこの男の顔を見ると、反対したくなるのである。
それなら叱られるのかというと、そうでもなかった。
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そんなら叱られるかというと、そうでもない。
この男ほどまじめに働く(精勤・せいきん)者はなく、何事にも気がついて、手ぬかりがないので、叱ろうとしても叱りようがなかった。
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この男ほど精勤をするものはなく、万事に気がついて、手ぬかりがないから、叱ろうといっても叱りようがない。
弥一右衛門は、ほかの人なら言いつけられてからすることを、言いつけられる前にやってしまう。
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弥一右衛門はほかの人の言いつけられてすることを、言いつけられずにする。
ほかの人なら申し上げてからすることを、申し上げずにやってしまう。
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ほかの人の申し上げてすることを申し上げずにする。
しかし、することはいつも急所(肯綮・こうけい・物事の大事な点)を押さえていて、非難すべきところがなかった。
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しかしすることはいつも肯綮にあたっていて、間然すべきところがない。
弥一右衛門は、意地だけで奉公を続けるようになっていた。
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弥一右衛門は意地ばかりで奉公して行くようになっている。
忠利は初めのうちは何とも思わず、ただこの男の顔を見ると反対したくなるだけだったが、のちにはこの男が意地で勤めているのを知って、憎いと思うようになった。
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忠利は初めなんとも思わずに、ただこの男の顔を見ると、反対したくなったのだが、のちにはこの男の意地で勤めるのを知って憎いと思った。
憎いと思いながらも、聡明な(頭のよい)忠利は、なぜ弥一右衛門がそうなったのかと振り返ってみて、それは自分が仕向けたことだと気がついた。
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憎いと思いながら、聡明な忠利はなぜ弥一右衛門がそうなったかと回想してみて、それは自分がしむけたのだということに気がついた。
そして自分の、つい反対してしまう癖を直そうと思いながらも、月日が経つにつれて、それは次第に直しにくくなっていった。
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そして自分の反対する癖を改めようと思っていながら、月がかさなり年がかさなるにしたがって、それが次第に改めにくくなった。
人にはだれにでも、好きな人、いやな人というものがある。
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人には誰が上にも好きな人、いやな人というものがある。
そして、なぜ好きなのか、なぜいやなのかと詳しく調べてみると(穿鑿・せんさく)、これといってはっきりした理由が見つからないことも多い。
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そしてなぜ好きだか、いやだかと穿鑿してみると、どうかすると捕捉するほどの拠りどころがない。
忠利が弥一右衛門を好まなかったのも、そういうわけだった。
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忠利が弥一右衛門を好かぬのも、そんなわけである。
しかし、弥一右衛門という男には、どこか人と親しみにくいところがあったに違いない。
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しかし弥一右衛門という男はどこかに人と親しみがたいところを持っているに違いない。
それは、親しい友達が少ないことからもわかる。
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それは親しい友達の少いのでわかる。
だれもが立派な侍として尊敬はする。
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誰でも立派な侍として尊敬はする。
しかし、気軽に近づこうとする者はいない。
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しかしたやすく近づこうと試みるものがない。
たまに物好きで近づこうとする者がいても、しばらくすると根気が続かなくなって、離れていってしまう。
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まれに物ずきに近づこうと試みるものがあっても、しばらくするうちに根気が続かなくなって遠ざかってしまう。
まだ猪之助といって、前髪のある少年だったころ、たびたび話しかけたり、何かと手を貸してやったりしていた年上の男が、「どうも阿部には付け入る隙(すき)がない」
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まだ猪之助といって、前髪のあったとき、たびたび話をしかけたり、何かに手を借してやったりしていた年上の男が、「どうも阿部にはつけ入る隙がない」
と言って、あきらめてしまった(我を折った・張り合うのをやめた)。
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と言って我を折った。
そう考えてみると、忠利が自分の癖を直したいと思いながらも直せなかったのも、不思議ではなかった。
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そこらを考えてみると、忠利が自分の癖を改めたく思いながら改めることの出来なかったのも怪しむに足りない。
とにかく弥一右衛門は、何度願っても殉死の許しを得られないでいるうちに、忠利は亡くなってしまった。
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とにかく弥一右衛門は何度願っても殉死の許しを得ないでいるうちに、忠利は亡くなった。
亡くなる少し前に、「弥一右衛門めは、お願いというものを申したことはございません。これが生涯でただ一つのお願いでございます」
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亡くなる少し前に、「弥一右衛門奴はお願いと申すことを申したことはござりません、これが生涯唯一のお願いでござります」
と言って、じっと忠利の顔を見ていたが、忠利もじっと見返して、「いや、どうか光尚に仕えてくれ」
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と言って、じっと忠利の顔を見ていたが、忠利もじっと顔を見返して、「いや、どうぞ光尚に奉公してくれい」
と、きっぱり言った。
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と言い放った。
弥一右衛門はよくよく考えて、決心した。
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弥一右衛門はつくづく考えて決心した。
自分の身分で、この場合に殉死せずに生き残り、家中の者たちに顔を合わせるということは、百人が百人とも、しょせん出来ないことだと思うだろう。
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自分の身分で、この場合に殉死せずに生き残って、家中のものに顔を合わせているということは、百人が百人所詮出来ぬことと思うだろう。
無駄死に(犬死・いぬじに)と知りながら切腹するか、浪人(ろうにん)となって熊本を去るか、そのどちらかしかないだろう。
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犬死と知って切腹するか、浪人して熊本を去るかのほか、しかたがあるまい。
だが、おれはおれだ。
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だがおれはおれだ。
それでいい。
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よいわ。
武士は妾(めかけ)とは違う。
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武士は妾とは違う。
主君の気に入らないからといって、立場がなくなるはずはない。
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主の気に入らぬからといって、立場がなくなるはずはない。
こう思って、一日一日、いつものように勤めていた。
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こう思って一日一日と例のごとくに勤めていた。
そのうちに五月六日が来て、十八人の者がみな殉死した。
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そのうちに五月六日が来て、十八人のものが皆殉死した。
熊本中がその噂ばかりだった。
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熊本中ただその噂ばかりである。
だれは何と言って死んだ、だれの死にざまがだれよりも見事だったという話のほかには、何の話もなかった。
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誰はなんと言って死んだ、誰の死にようが誰よりも見事であったという話のほかには、なんの話もない。
弥一右衛門は以前から、用事以外の話を人からしかけられることは少なかったが、五月七日からは、御殿の詰所(つめしょ・控え室)に出てみても、いっそう寂しかった。
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弥一右衛門は以前から人に用事のほかの話をしかけられたことは少かったが、五月七日からこっちは、御殿の詰所に出ていてみても、一層寂しい。
それに、同僚(相役・あいやく)が自分の顔を見ないふりをしながら見ているのがわかった。
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それに相役が自分の顔を見ぬようにして見るのがわかる。
そっと横から見たり、後ろから見たりしているのがわかった。
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そっと横から見たり、背後から見たりするのがわかる。
不快でたまらなかった。
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不快でたまらない。
それでも、おれは命が惜しくて生きているのではない。おれをどれほど悪く思う人でも、命を惜しむ男だとはまさか言えないだろう。たった今でも死んでよいのなら死んでみせる。そう思うので、胸を張って(昂然・こうぜん)首をそらし、詰所へ出て行き、同じように胸を張って詰所から下がっていた。
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それでもおれは命が惜しくて生きているのではない、おれをどれほど悪く思う人でも、命を惜しむ男だとはまさかに言うことが出来まい、たった今でも死んでよいのなら死んでみせると思うので、昂然と項をそらして詰所へ出て、昂然と項をそらして詰所から引いていた。
二、三日たつと、弥一右衛門の耳に、けしからん噂が聞こえてくるようになった。
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二三日立つと、弥一右衛門が耳にけしからん噂が聞え出して来た。
だれが言い出したのか知らないが、「阿部は、お許しがないのをいいことに生きているようだ。お許しがなくても、追腹(おいばら・殉死)が切れないはずはあるまい。阿部の腹の皮は人とは違うとみえる。瓢箪(ひょうたん)に油でも塗って切ればよいものを」
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誰が言い出したことか知らぬが、「阿部はお許しのないを幸いに生きているとみえる、お許しはのうても追腹は切られぬはずがない、阿部の腹の皮は人とは違うとみえる、瓢箪に油でも塗って切ればよいに」
というのだった。
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というのである。
弥一右衛門はこれを聞いて、思いがけないことだと思った。
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弥一右衛門は聞いて思いのほかのことに思った。
悪口が言いたければ、何とでも言うがいい。
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悪口が言いたくばなんとも言うがよい。
しかしこの弥一右衛門を、縦から見ても横から見ても、命が惜しい男に見えるはずがない。
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しかしこの弥一右衛門を竪から見ても横から見ても、命の惜しい男とは、どうして見えようぞ。
なるほど、よくもそんなことが言えたものだ。よし。
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げに言えば言われたものかな、よいわ。
それなら、この腹の皮を瓢箪に油を塗って切ってみせよう。
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そんならこの腹の皮を瓢箪に油を塗って切って見しょう。
弥一右衛門はその日、詰所から下がると、急いで使いを出して、別に家を構えている弟二人を山崎(やまさき)の屋敷に呼び寄せた。
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弥一右衛門はその日詰所を引くと、急使をもって別家している弟二人を山崎の邸に呼び寄せた。
居間と客間の間の建具(ふすまなど)を外させ、嫡子(ちゃくし・跡継ぎ)の権兵衛(ごんべえ)、二男の弥五兵衛(やごべえ)、それにまだ前髪のある五男の七之丞(しちのじょう)の三人をそばに控えさせて、主人はきちんとした身なりで待ち受けていた。
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居間と客間との間の建具をはずさせ、嫡子権兵衛、二男弥五兵衛、つぎにまだ前髪のある五男七之丞の三人をそばにおらせて、主人は威儀を正して待ち受けている。
権兵衛は幼名を権十郎(ごんじゅうろう)といい、島原征伐で立派な働きをして、新しく二百石をもらっていた。
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権兵衛は幼名権十郎といって、島原征伐に立派な働きをして、新知二百石をもらっている。
父に劣らない若者だった。
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父に劣らぬ若者である。
今度のことについては、ただ一度、父に「お許しは出ませんでしたか」
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このたびのことについては、ただ一度父に「お許しは出ませなんだか」
と尋ねた。
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と問うた。
父は「うん、出ぬぞ」
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父は「うん、出んぞ」
と言った。
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と言った。
そのほか、二人の間では何の言葉も交わされなかった。
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そのほか二人の間にはなんの詞も交わされなかった。
親子は互いの心の底まで知り抜いていたので、何も言う必要がなかったのである。
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親子は心の底まで知り抜いているので、何も言うにはおよばぬのであった。
まもなく、二つの提灯(ちょうちん)が門の中に入ってきた。
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まもなく二張の提燈が門のうちにはいった。
三男の市太夫(いちだゆう)、四男の五太夫(ごだゆう)の二人が、ほとんど同時に玄関に来て、雨具を脱ぎ、座敷に通った。
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三男市太夫、四男五太夫の二人がほとんど同時に玄関に来て、雨具を脱いで座敷に通った。
中陰(ちゅういん・死後四十九日間の忌み期間)の翌日から、じめじめとした雨になり、五月闇(さつきやみ・梅雨どきの暗い空)が晴れずにいた。
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中陰の翌日からじめじめとした雨になって、五月闇の空が晴れずにいるのである。
障子(しょうじ)は開け放してあっても、蒸し暑くて風がなかった。
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障子はあけ放してあっても、蒸し暑くて風がない。
それなのに、燭台(しょくだい)の火はゆらめいていた。
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そのくせ燭台の火はゆらめいている。
蛍(ほたる)が一匹、庭の木立ちの間を縫うように通り過ぎた。
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螢が一匹庭の木立ちを縫って通り過ぎた。
その場にいる皆を見渡して、主人が口を開いた。
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一座を見渡した主人が口を開いた。
「夜遅くに呼び出したのに、みなよく来てくれた。家中みなの噂だそうだから、お前たちも聞いたに違いない。この弥一右衛門の腹は、瓢箪に油を塗って切るような腹だそうな。それならば、おれは今、瓢箪に油を塗って切ってみせようと思う。どうかみなで見届けてくれ」
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「夜陰に呼びにやったのに、皆よう来てくれた。家中一般の噂じゃというから、おぬしたちも聞いたに違いない。この弥一右衛門が腹は瓢箪に油を塗って切る腹じゃそうな。それじゃによって、おれは今瓢箪に油を塗って切ろうと思う。どうぞ皆で見届けてくれい」
市太夫も五太夫も、島原での手柄で新しく二百石をもらい、別に家を持っていたが、中でも市太夫は早くから若殿(光尚)付きになっていたので、代替わりになったいま、人にうらやましがられる一人だった。
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市太夫も五太夫も島原の軍功で新知二百石をもらって別家しているが、中にも市太夫は早くから若殿附きになっていたので、御代替りになって人に羨まれる一人である。
市太夫が膝を進めた。
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市太夫が膝を進めた。
「なるほど。よくわかりました。実は同僚(傍輩・ほうばい)が言うには、『弥一右衛門殿は、先代様のご遺言で、続けてご奉公なさるそうな。親子兄弟そろって変わらずお勤めになる、めでたいことじゃ』と言うのでございます。その言葉が何やら意味ありげで、歯がゆく思っておりました」
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「なるほど。ようわかりました。実は傍輩が言うには、弥一右衛門殿は御先代の御遺言で続いて御奉公なさるそうな。親子兄弟相変らず揃うてお勤めなさる、めでたいことじゃと言うのでござります。その詞が何か意味ありげで歯がゆうござりました」
父の弥一右衛門は笑った。
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父弥一右衛門は笑った。
「そうだろう。目先のことしか見えない近眼(ちかめ)者どもを相手にするな。ところで、その死なぬはずのおれが死んだら、『お許しの出なかった弥一右衛門の子だ』と言って、お前たちを見下す者もいるだろう。おれの子に生まれたのは運だ。仕方がない。恥を受けるときは一緒に受けよ。兄弟げんかをするなよ。さあ、瓢箪で腹を切るところを、よく見ておけ」
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「そうであろう。目の先ばかり見える近眼どもを相手にするな。そこでその死なぬはずのおれが死んだら、お許しのなかったおれの子じゃというて、おぬしたちを侮るものもあろう。おれの子に生まれたのは運じゃ。しょうことがない。恥を受けるときは一しょに受けい。兄弟喧嘩をするなよ。さあ、瓢箪で腹を切るのをよう見ておけ」
こう言うと、弥一右衛門は子どもたちの目の前で切腹し、自分で首筋を左から右へ突き通して死んだ。
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こう言っておいて、弥一右衛門は子供らの面前で切腹して、自分で首筋を左から右へ刺し貫いて死んだ。
父の心をはかりかねていた五人の子どもたちは、このとき悲しくはあったが、同時に、これまでの落ち着かない状態から一歩抜け出して、重荷を一つおろしたようにも感じた。
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父の心を測りかねていた五人の子供らは、このとき悲しくはあったが、それと同時にこれまでの不安心な境界を一歩離れて、重荷の一つをおろしたように感じた。
「兄(あに)き」
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「兄き」
と、二男の弥五兵衛が跡継ぎの兄に言った。
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と二男弥五兵衛が嫡子に言った。
「兄弟げんかをするなと、お父っさんは言い残した。それに異存のある者はいないだろう。おれは島原で持ち場が悪くて、知行ももらわずにいるから、これからはお前の世話になるだろう。だが、何かあれば、お前の手にはたしかな槍(やり)が一本あるということだ。そう思っていてくれ」
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「兄弟喧嘩をするなと、お父っさんは言いおいた。それには誰も異存はあるまい。おれは島原で持場が悪うて、知行ももらわずにいるから、これからはおぬしが厄介になるじゃろう。じゃが何事があっても、おぬしが手にたしかな槍一本はあるというものじゃ。そう思うていてくれい」
「わかっている。この先どうなるかわからないが、おれがもらう知行は、お前がもらうのと同じことだ」
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「知れたことじゃ。どうなることか知れぬが、おれがもらう知行はおぬしがもらうも同じじゃ」
こう言ったきり、権兵衛は腕組みをして顔をしかめた。
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こう言ったぎり権兵衛は腕組みをして顔をしかめた。
「そうだ。どうなるかわからない。『追腹はお許しの出た殉死とは違う』などと言う者もいるだろう」
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「そうじゃ。どうなることか知れぬ。追腹はお許しの出た殉死とは違うなぞという奴があろうて」
こう言ったのは、四男の五太夫だった。
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こう言ったのは四男の五太夫である。
「それは目に見えている。どんな目にあっても」
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「それは目に見えておる。どういう目に逢うても」
こう言いかけて、三男の市太夫は権兵衛の顔を見た。
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こう言いさして三男市太夫は権兵衛の顔を見た。
「どんな目にあっても、兄弟がばらばらに相手にせずに、みなでまとまってやっていこう」
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「どういう目に逢うても、兄弟離れ離れに相手にならずに、固まって行こうぞ」
「うん」
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「うん」
権兵衛(ごんべえ)はそう言ったが、うちとけた様子はなかった。
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と権兵衛は言ったが、打ち解けた様子もない。
権兵衛は心の中では弟たちを気づかっていたが、やさしい言い方ができない男だった。
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権兵衛は弟どもを心にいたわってはいるが、やさしく物をいわれぬ男である。
それに何でも一人で考えて、一人でやりたがる性格だった。
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それに何事も一人で考えて、一人でしたがる。
人に相談することはめったになかった。
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相談というものをめったにしない。
それで弥五兵衛(やごべえ)も市太夫(いちだゆう)も、念を押して確かめたのだった。
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それで弥五兵衛も市太夫も念を押したのである。
「兄さんたちがそろっていらっしゃるのだから、お父っつぁんの悪口は、うっかり言えないでしょう」
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「兄いさま方が揃うておいでなさるから、お父っさんの悪口は、うかと言われますまい」
これは、前髪(まえがみ・元服前の少年の髪形)の七之丞(しちのじょう)の口から出た言葉だった。
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これは前髪の七之丞が口から出た。
女の子のような声だったが、そこには強い思いがこもっていたので、その場にいた人たちの心を、暗い先行きを照らす光のように明るくした。
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女のような声ではあったが、それに強い信念が籠っていたので、一座のものの胸を、暗黒な前途を照らす光明のように照らした。
「よし。おっ母さんに言って、女子(おなご)たちに暇乞い(いとまごい・別れのあいさつ)をさせようか」
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「どりゃ。おっ母さんに言うて、女子たちに暇乞いをさしょうか」
そう言って、権兵衛は席を立った。
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こう言って権兵衛が席を起った。
光尚(みつひさ)は正式に家のあとを継ぎ、従四位下(じゅしいのげ・朝廷が与える位)侍従(じじゅう)兼肥後守(ひごのかみ)という位をもらった。
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従四位下侍従兼肥後守光尚の家督相続が済んだ。
家来たちにはそれぞれ、新しく領地をもらったり、領地が増えたり、役目が変わったりということがあった。
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家臣にはそれぞれ新知、加増、役替えなどがあった。
中でも、殉死(じゅんし・主君が亡くなったとき、家来があとを追って自分も命を絶つこと)をした十八人の侍の家では、その子(嫡子・ちゃくし)がそのまま父のあとを継ぐことを許された。
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中にも殉死の侍十八人の家々は、嫡子にそのまま父のあとを継がせられた。
あとつぎの子がいる限り、どんなに幼くても、家を継げないということはなかった。
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嫡子のある限りは、いかに幼少でもその数には漏れない。
夫を亡くした妻(未亡人・びぼうじん)や年老いた両親には、扶持(ふち・生活のための米や給金)が与えられた。
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未亡人、老父母には扶持が与えられる。
家や屋敷をいただき、家を建てたり直したりする工事まで、殿様(上・かみ)の手配でしてもらえた。
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家屋敷を拝領して、作事までも上からしむけられる。
先代の殿様に特に親しくしていただいた(入懇・じっこん)家がらで、死出(死天・しで)の旅、つまり殿様の死にお供して命を絶つことまでしたのだから、家中(かちゅう・家来たち全体)の者たちはうらやんでも、妬みはしなかった。
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先代が格別入懇にせられた家柄で、死天の旅のお供にさえ立ったのだから、家中のものが羨みはしても妬みはしない。
しかし、一風変わった跡目(あとめ・家のあとつぎに関する扱い)の処分を受けたのが、阿部弥一右衛門(あべやいちえもん)の遺族だった。
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しかるに一種変った跡目の処分を受けたのは、阿部弥一右衛門の遺族である。
あとつぎの権兵衛は、父の地位をそのまま継ぐことができず、弥一右衛門が持っていた千五百石(せんごひゃくこく)の知行(ちぎょう・武士に与えられる領地や給料)は、細かく分けられて弟たちにも配られた。
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嫡子権兵衛は父の跡をそのまま継ぐことが出来ずに、弥一右衛門が千五百石の知行は細かに割いて弟たちへも配分せられた。
一族全体の知行を合わせれば、以前と変わりはなかったが、本家を継いだ権兵衛は、石高の少ない身分(小身・しょうしん)になってしまった。
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一族の知行を合わせてみれば、前に変ったことはないが、本家を継いだ権兵衛は、小身ものになったのである。
権兵衛の立場が小さくなったのは、言うまでもないことだった。
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権兵衛の肩幅のせまくなったことは言うまでもない。
弟たちも、それぞれの知行は増えたが、これまでは千石以上の本家を大きな木のように頼りにしていたのに、今ではどんぐりの背比べ(どんぐりの背競べ・どれも同じくらいで目立たないこと)のようになってしまい、ありがたいような、迷惑なような、複雑な気持ちだった。
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弟どもも一人一人の知行は殖えながら、これまで千石以上の本家によって、大木の陰に立っているように思っていたのが、今は橡栗の背競べになって、ありがたいようで迷惑な思いをした。
政治のやり方が普段どおり穏やか(地道・じみち)である限り、その責任がどこにあるかを問う者はいない。
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政道は地道である限りは、咎めの帰するところを問うものはない。
しかし、いったん普段と違う扱いがあると、それは誰の判断(捌き・さばき)かという詮議(せんぎ・くわしい調べ)が始まる。
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一旦常に変った処置があると、誰の捌きかという詮議が起る。
殿様に気に入られていて、いつもおそば近くに仕えている大目付役(おおめつけやく・家来の不正を見張る役目)に、林外記(はやしげき)という者がいた。
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当主のお覚えめでたく、お側去らずに勤めている大目附役に、林外記というものがある。
小才覚(こざいかく・ちょっとした気の利き方)があったので、若殿様だったころのお相手(お伽・おとぎ)にはちょうどよかったが、物事の大きな流れを見る力は足りず、何かと細かいことをきびしく取り締まる(苛察・かさつ)方に傾きがちな男だった。
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小才覚があるので、若殿様時代のお伽には相応していたが、物の大体を見ることにおいてはおよばぬところがあって、とかく苛察に傾きたがる男であった。
阿部弥一右衛門は、亡くなった殿様の許しを得ずに死んだのだから、本当の殉死者たちと弥一右衛門との間には区別をつけなければならないと外記は考えた。
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阿部弥一右衛門は故殿様のお許しを得ずに死んだのだから、真の殉死者と弥一右衛門との間には境界をつけなくてはならぬと考えた。
そこで、阿部家の俸禄(ほうろく・家の給料にあたる知行)を分割するという案を殿様に差し出した。
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そこで阿部家の俸禄分割の策を献じた。
光尚も考え深い殿様ではあったが、まだ物事に慣れていないころで、弥一右衛門や跡取りの権兵衛と親しくなかったために思いやりが足りず、自分の身近に使っていて馴染みのある市太夫の知行が増えるという点に目をつけて、外記の案を採用してしまった。
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光尚も思慮ある大名ではあったが、まだ物馴れぬときのことで、弥一右衛門や嫡子権兵衛と懇意でないために、思いやりがなく、自分の手元に使って馴染みのある市太夫がために加増になるというところに目をつけて、外記の言を用いたのである。
十八人の侍が殉死したとき、弥一右衛門はおそば近くに仕えていたのに殉死しなかったといって、家中の者たちは彼を見下し(卑しんだ)ていた。
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十八人の侍が殉死したときには、弥一右衛門はお側に奉公していたのに殉死しないと言って、家中のものが卑しんだ。
ところが、わずか二、三日後に弥一右衛門は立派に切腹(せっぷく・武士が自分のおなかを刀で切って死ぬこと)した。しかしそれが正しかったかどうかはさておき、一度受けた侮辱はなかなか消えず、誰も弥一右衛門を褒める者はいなかった。
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さてわずかに二三日を隔てて弥一右衛門は立派に切腹したが、事の当否は措いて、一旦受けた侮辱は容易に消えがたく、誰も弥一右衛門を褒めるものがない。
幕府や殿様の側では、弥一右衛門の遺骸(いがい・なきがら)を霊屋(おたまや・殿様の位牌などをまつる建物)のそばに葬ることを許していたのだから、跡目相続についても、あえて区別を立てず、他の殉死者たちと同じ扱いにしてもよかったはずである。
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上では弥一右衛門の遺骸を霊屋のかたわらに葬ることを許したのであるから、跡目相続の上にも強いて境界を立てずにおいて、殉死者一同と同じ扱いをしてよかったのである。
そうしていたら、阿部一族は面目(めんぼく・世間への体面)を保って、そろって忠実に主君に仕えていただろう。
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そうしたなら阿部一族は面目を施して、こぞって忠勤を励んだのであろう。
ところが上の方で一段低い扱いをしたので、家中の者たちが阿部家を見下す(侮蔑・ぶべつ)気持ちが、表立って認められたような形になってしまった。
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しかるに上で一段下がった扱いをしたので、家中のものの阿部家侮蔑の念が公に認められた形になった。
権兵衛たち兄弟は、次第に仲間(傍輩・ほうばい)たちからうとまれるようになり、不満な気持ち(怏々・おうおう)を抱えたまま日々を過ごした。
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権兵衛兄弟は次第に傍輩にうとんぜられて、怏々として日を送った。
寛永十九年三月十七日になった。
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寛永十九年三月十七日になった。
先代の殿様が亡くなってから一年目の命日の法要(一週忌)である。
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先代の殿様の一週忌である。
霊屋(おたまや)のそばには、まだ妙解寺(みょうげじ)は建っていなかったが、向陽院というお堂(堂宇・どうう)が建てられ、そこに妙解院殿(みょうげいんでん・先代の殿様の戒名)の位牌(いはい)が置かれていて、鏡首座(きょうしゅざ)という僧が住職を務めていた。
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霊屋のそばにはまだ妙解寺は出来ていぬが、向陽院という堂宇が立って、そこに妙解院殿の位牌が安置せられ、鏡首座という僧が住持している。
命日(忌日・きにち)の少し前に、紫野大徳寺の天祐和尚(てんゆうおしょう)が京都から下って来る(下向・げこう)ことになっていた。
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忌日にさきだって、紫野大徳寺の天祐和尚が京都から下向する。
法要は盛大なものになりそうで、一か月ほど前から、熊本の城下は準備に追われていた。
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年忌の営みは晴れ晴れしいものになるらしく、一箇月ばかり前から、熊本の城下は準備に忙しかった。
いよいよ当日になった。
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いよいよ当日になった。
うららかな天気(日和・ひより)で、霊屋(おたまや)のそばは桜が満開だった。
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うららかな日和で、霊屋のそばは桜の盛りである。
向陽院の周りには幕が張りめぐらされ、足軽が警護していた。
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向陽院の周囲には幕を引き廻わして、歩卒が警護している。
当主(光尚)自らその場に出向き、まず先代の位牌に焼香し、続いて殉死者十九人の位牌にも焼香した。
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当主がみずから臨場して、まず先代の位牌に焼香し、ついで殉死者十九人の位牌に焼香する。
それから殉死者の遺族たちも焼香を許され、同時に家紋付きの裃(上下・かみしも)や、季節の衣服(時服・じふく)をいただいた。
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それから殉死者遺族が許されて焼香する、同時に御紋附上下、同時服を拝領する。
馬廻(うままわり・馬に乗って殿様を守る身分の高い武士)以上の者は長上下(なががみしも)、徒士(かち・徒歩で仕える身分の武士)は半上下(はんがみしも)だった。
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馬廻以上は長上下、徒士は半上下である。
身分の低い者たち(下々・しもじも)は、香典(御香奠・ごこうでん)をいただいた。
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下々の者は御香奠を拝領する。
儀式は滞りなく終わったが、その間にただ一つ、珍しい出来事が起こった。
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儀式はとどこおりなく済んだが、その間にただ一つの珍事が出来した。
それは、阿部権兵衛が殉死者遺族の一人として、席順どおりに妙解院殿の位牌の前に進み、焼香をして下がろうとしたときのことだった。権兵衛は脇差に付いている小刀(小柄・こづか)を抜き取り、自分のまげ(髻・もとどり)を切り落として、位牌の前に供えたのである。
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それは阿部権兵衛が殉死者遺族の一人として、席順によって妙解院殿の位牌の前に進んだとき、焼香をして退きしなに、脇差の小柄を抜き取って髻を押し切って、位牌の前に供えたことである。
その場に詰めていた侍たちも、思いがけない出来事に驚きあきれて、ぼんやりと見ていた。しかし権兵衛が何事もなかったかのように落ち着いた様子で五、六歩下がったとき、一人の侍がようやく我に返って、「阿部殿、お待ちなされ」
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この場に詰めていた侍どもも、不意の出来事に驚きあきれて、茫然として見ていたが、権兵衛が何事もないように、自若として五六歩退いたとき、一人の侍がようよう我に返って、「阿部殿、お待ちなされい」
と呼びかけながら追いすがり、権兵衛を押しとどめた。
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と呼びかけながら、追いすがって押し止めた。
続いて二、三人が立ちかかり、権兵衛を別の部屋へ連れて行った。
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続いて二三人立ちかかって、権兵衛を別間に連れてはいった。
権兵衛が、その場にいた侍たち(詰衆・つめしゅう)に問いただされて答えた内容は、次のようなものだった。
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権兵衛が詰衆に尋ねられて答えたところはこうである。
「みなさんは私を気が狂った者だとお思いでしょうが、決してそうではありません。
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貴殿らはそれがしを乱心者のように思われるであろうが、全くさようなわけではない。
父弥一右衛門は一生、傷一つない(瑕瑾・かきん)ご奉公をしてきたからこそ、亡くなった殿様の許しを得ずに切腹しても、殉死者の列に加えていただき、遺族である私さえ、人より先に御位牌にお焼香することができたのです。
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父弥一右衛門は一生瑕瑾のない御奉公をいたしたればこそ、故殿様のお許しを得ずに切腹しても、殉死者の列に加えられ、遺族たるそれがしさえ他人にさきだって御位牌に御焼香いたすことが出来たのである。
しかし、私は父に及ばない未熟者で、父と同じようなご奉公ができないことを殿様もご承知だったようで、知行を分けて弟たちにお与えになったのです。
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しかしそれがしは不肖にして父同様の御奉公がなりがたいのを、上にもご承知と見えて、知行を割いて弟どもにおつかわしなされた。
私は、亡くなった殿様にも、今の殿様にも、亡き父にも、一族の者たちにも、仲間たちにも、合わせる顔がありません。
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それがしは故殿様にも御当主にも亡き父にも一族の者どもにも傍輩にも面目がない。
そう思い続けているうちに、今日、御位牌にお焼香する場になり、とっさに深い思いが胸に迫って、いっそ武士をやめようと決心したのです。
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かように存じているうち、今日御位牌に御焼香いたす場合になり、とっさの間、感慨胸に迫り、いっそのこと武士を棄てようと決心いたした。
場所がらをわきまえなかったことへのお咎めは、甘んじて受けます。
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お場所柄を顧みざるお咎めは甘んじて受ける。
気が狂ったわけではありません」と権兵衛は言うのだった。
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乱心などはいたさぬというのである。
権兵衛の答えを聞いて、光尚は不愉快に思った。
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権兵衛の答を光尚は聞いて、不快に思った。
第一に、権兵衛が自分へのあてつけのようなふるまいをしたことが不愉快だった。
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第一に権兵衛が自分に面当てがましい所行をしたのが不快である。
次に、自分が外記の案を受け入れて、しなくてもよいことをしてしまったのが不愉快だった。
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つぎに自分が外記の策を納れて、しなくてもよいことをしたのが不快である。
まだ二十四歳の血気盛んな殿様で、感情を抑え、欲を制する力が足りなかった。
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まだ二十四歳の血気の殿様で、情を抑え欲を制することが足りない。
恩をもって恨みに報いるような、寛大な心を持ち合わせていなかった。
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恩をもって怨みに報いる寛大の心持ちに乏しい。
光尚はその場ですぐに、権兵衛を座敷牢に閉じ込めさせた。
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即座に権兵衛をおし籠めさせた。
それを聞いた弥五兵衛をはじめとする一族の者たちは、門を閉じて殿様からの指示(御沙汰・ごさた)を待つことにし、夜になると一同で集まっては、ひそかに一族の今後についてじっくりと話し合った。
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それを聞いた弥五兵衛以下一族のものは門を閉じて上の御沙汰を待つことにして、夜陰に一同寄り合っては、ひそかに一族の前途のために評議を凝らした。
阿部一族は話し合った末、今回、先代の一週忌の法要(法会・ほうえ)のために京都から来て、まだ滞在(逗留・とうりゅう)している天祐和尚にすがることにした。
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阿部一族は評議の末、このたび先代一週忌の法会のために下向して、まだ逗留している天祐和尚にすがることにした。
市太夫は和尚の泊まっている宿へ行き、事のいきさつをすべて話して、権兵衛への殿様の処置を軽くしてもらえるよう頼んだ。
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市太夫は和尚の旅館に往って一部始終を話して、権兵衛に対する上の処置を軽減してもらうように頼んだ。
和尚はじっくりと話を聞いて、こう言った。
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和尚はつくづく聞いて言った。
「お聞きすれば、ご一家のなりゆきは、まことにお気の毒なことだ。
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承れば御一家のお成行き気の毒千万である。
しかし、殿様の政治について、あれこれ口を出すことはできない。
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しかし上の御政道に対してかれこれ言うことは出来ない。
ただ、権兵衛殿に死を命じられるようなことになったら、必ず命だけは助けていただけるようお願いしてあげよう。
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ただ権兵衛殿に死を賜わるとなったら、きっと御助命を願って進ぜよう。
ことに権兵衛殿は、すでに自分でまげを切り落としているのだから、僧侶(桑門・そうもん)も同然の身の上である。
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ことに権兵衛殿はすでに髻を払われてみれば、桑門同様の身の上である。
命だけはお助けいただけるよう、どのようにでも申し上げてみよう」と言った。
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御助命だけはいかようにも申してみようと言った。
市太夫は心強く思って帰った。
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市太夫は頼もしく思って帰った。
一族の者たちは市太夫の報告を聞いて、一筋の生きる道が開けたような気がした。
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一族のものは市太夫の復命を聞いて、一条の活路を得たような気がした。
そのうち日が経ち、天祐和尚が京都へ帰る日が次第に近づいてきた。
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そのうち日が立って、天祐和尚の帰京のときが次第に近づいて来た。
和尚は殿様に会って話をするたびに、阿部権兵衛の助命について、機会があれば申し上げようと思っていたが、どうしてもその機会がなかった。
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和尚は殿様に逢って話をするたびに、阿部権兵衛が助命のことを折りがあったら言上しようと思ったが、どうしても折りがない。
それには、ちゃんとしたわけがあった。
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それはそのはずである。
光尚はこう考えていたのである。
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光尚はこう思ったのである。
天祐和尚が滞在している間に権兵衛のことを話題にしたら、きっと命を助けてほしいと頼まれるに違いない。
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天祐和尚の逗留中に権兵衛のことを沙汰したらきっと助命を請われるに違いない。
大きなお寺の和尚の言葉となれば、いいかげんに聞き流すわけにもいかないだろう。
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大寺の和尚の詞でみれば、等閑に聞きすてることはなるまい。
そこで光尚は、和尚が京都へ帰るのを待ってから処置しようと考えたのだった。
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和尚の立つのを待って処置しようと思ったのである。
とうとう和尚は、何もできないまま熊本を発ってしまった。
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とうとう和尚は空しく熊本を立ってしまった。
天祐和尚が熊本を発つとすぐに、光尚は阿部権兵衛を井出の口へ引き出させ、首をなわで絞めて殺す刑(縛首・しばりくび)にさせた。
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天祐和尚が熊本を立つや否や、光尚はすぐに阿部権兵衛を井出の口に引き出だして縛首にさせた。
先代の御位牌に対して不敬なことをあえて行った、殿様を恐れぬふるまいだとして、処置されたのだった。
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先代の御位牌に対して不敬なことをあえてした、上を恐れぬ所行として処置せられたのである。
弥五兵衛をはじめ一族の者たちは集まって話し合った。
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弥五兵衛以下一同のものは寄り集まって評議した。
「権兵衛のふるまいは、けしからぬこと(不埓・ふらち)には違いない。
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権兵衛の所行は不埓には違いない。
しかし亡き父弥一右衛門は、ともかく殉死者の一人に数えられている。
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しかし亡父弥一右衛門はとにかく殉死者のうちに数えられている。
その跡継ぎである権兵衛からすれば、死を命じられることは仕方がない。
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その相続人たる権兵衛でみれば、死を賜うことは是非がない。
武士らしく切腹を命じられたのであれば、異存はない。
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武士らしく切腹仰せつけられれば異存はない。
それなのに、何ということか、盗人か何かのように、真っ昼間に縛り首にされてしまった。
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それに何事ぞ、奸盗かなんぞのように、白昼に縛首にせられた。
この様子から考えれば、一族の者たちも無事ではいられないだろう。
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この様子で推すれば、一族のものも安穏には差しおかれまい。
たとえ別段のお達しがなかったとしても、縛り首にされた者の一族が、どんな顔をして仲間に交じってご奉公ができようか。
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たとい別に御沙汰がないにしても、縛首にせられたものの一族が、何の面目あって、傍輩に立ち交わって御奉公をしよう。
こうなっては、もう仕方がない。
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この上は是非におよばない。
『どんなことがあっても、兄弟がばらばらになるな』と、弥一右衛門殿が言い残されたのは、まさにこのときのためだったのだ」
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何事があろうとも、兄弟わかれわかれになるなと、弥一右衛門殿の言いおかれたのはこのときのことである。
一族そろって討手(うって・攻めてくる軍勢)を迎え撃ち、ともに死ぬしかないと、誰一人異議を唱える者もなく決まった。
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一族討手を引き受けて、ともに死ぬるほかはないと、一人の異議を称えるものもなく決した。
阿部一族は妻子を引き連れて、権兵衛の山崎の屋敷に立てこもった。
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阿部一族は妻子を引きまとめて、権兵衛が山崎の屋敷に立て籠った。
穏やかでない一族の様子は、殿様の耳にも入った。
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おだやかならぬ一族の様子が上に聞えた。
監視役(横目・よこめ)が様子をうかがいにやって来た。
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横目が偵察に出て来た。
山崎の屋敷では門をかたく閉ざし、静まりかえっていた。
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山崎の屋敷では門を厳重に鎖して静まりかえっていた。
市太夫や五太夫の家は空き家になっていた。
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市太夫や五太夫の宅は空屋になっていた。
討手の配置が決められた。
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討手の手配りが定められた。
表門は側者頭(そばものがしら・殿様の側近をまとめる役)の竹内数馬長政(たけのうちかずまながまさ)が指揮を執り、それに小頭(こがしら)の添島九兵衛(そえじまくへえ)と、同じく野村庄兵衛が従っていた。
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表門は側者頭竹内数馬長政が指揮役をして、それに小頭添島九兵衛、同じく野村庄兵衛がしたがっている。
数馬は千百五十石をもらう身分で、鉄砲隊三十挺の頭だった。
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数馬は千百五十石で鉄砲組三十挺の頭である。
代々仕えている家柄の年配の家来(乙名・おとな)、島徳右衛門が供をした。
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譜第の乙名島徳右衛門が供をする。
添島、野村は、当時百石の身分の者だった。
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添島、野村は当時百石のものである。
裏門の指揮役は、知行五百石の側者頭、高見権右衛門重政(たかみごんえもんしげまさ)で、これも鉄砲隊三十挺の頭だった。
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裏門の指揮役は知行五百石の側者頭高見権右衛門重政で、これも鉄砲組三十挺の頭である。
それに目付の畑十太夫と、竹内数馬の小頭で当時百石だった千場(ちば)作兵衛とが従っていた。
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それに目附畑十太夫と竹内数馬の小頭で当時百石の千場作兵衛とがしたがっている。
討手は四月二十一日に差し向けられることになった。
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討手は四月二十一日に差し向けられることになった。
前の晩、山崎の屋敷の周りには夜回りの見張りがつけられた。
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前晩に山崎の屋敷の周囲には夜廻りがつけられた。
夜がふけてから、侍らしい者が一人、顔を覆って塀を内側から乗り越えて出てきたが、見回り役の佐分利嘉左衛門(さぶりかざえもん)の組の足軽、丸山三之丞(まるやまさんのじょう)が討ち取った。
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夜がふけてから侍分のものが一人覆面して、塀をうちから乗り越えて出たが、廻役の佐分利嘉左衛門が組の足軽丸山三之丞が討ち取った。
その後、夜明けまで何事もなかった。
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そののち夜明けまで何事もなかった。
あらかじめ、近所の者たちには次のような指示があった。
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かねて近隣のものには沙汰があった。
たとえ当番であっても家にとどまって、火の用心を怠らないようにせよ、というのが一つ。
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たとい当番たりとも在宿して火の用心を怠らぬようにいたせというのが一つ。
討手でない者が阿部の屋敷に入り込んで手出しをすることは固く禁じるが、逃げてきた者は勝手に討ち取ってよい、というのがもう一つだった。
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討手でないのに、阿部が屋敷に入り込んで手出しをすることは厳禁であるが、落人は勝手に討ち取れというのが二つであった。
阿部一族は、討手が来る日をその前日に聞き知り、まず屋敷の中を隅々まで掃除し、見苦しい物はすべて焼き捨てた。
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阿部一族は討手の向う日をその前日に聞き知って、まず邸内を隈なく掃除し、見苦しい物はことごとく焼きすてた。
それから、年寄りも若者もみな集まって酒盛りをした。
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それから老若打ち寄って酒宴をした。
それから、年老いた者や女たちは自ら命を絶ち、幼い子どもたちは、それぞれの手で刺し殺した。
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それから老人や女は自殺し、幼いものはてんでに刺し殺した。
それから庭に大きな穴を掘って、亡くなった人たちの遺体(死骸・しがい)を埋めた。
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それから庭に大きい穴を掘って死骸を埋めた。
あとに残ったのは、体の丈夫な若者たちばかりだった。
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あとに残ったのは究竟の若者ばかりである。
弥五兵衛、市太夫、五太夫、七之丞の四人が指図をして、障子やふすまを取り払った広間に家来たちを集め、鉦や太鼓を鳴らさせ、大声で念仏を唱えさせながら、夜の明けるのを待った。
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弥五兵衛、市太夫、五太夫、七之丞の四人が指図して、障子襖を取り払った広間に家来を集めて、鉦太鼓を鳴らさせ、高声に念仏をさせて夜の明けるのを待った。
これは、亡くなった老人や妻子を弔うためだと言ってはいたが、実際は、下働きの者たち(下人・げにん)に恐ろしさの気持ちを起こさせないための用心だった。
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これは老人や妻子を弔うためだとは言ったが、実は下人どもに臆病の念を起させぬ用心であった。
阿部一族が立てこもった山崎の屋敷は、のちに斎藤勘助が住んだ場所で、向かいは山中又左衛門、左右両隣は柄本又七郎(つかもとまたしちろう)と平山三郎の住まいだった。
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阿部一族の立て籠った山崎の屋敷は、のちに斎藤勘助の住んだ所で、向いは山中又左衛門、左右両隣は柄本又七郎、平山三郎の住いであった。
このうち柄本の家は、もともと天草郡を三つに分けて治めていた柄本、天草、志岐(しき)の三家のうちの一つだった。
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このうちで柄本が家は、もと天草郡を三分して領していた柄本、天草、志岐の三家の一つである。
小西行長が肥後の国の半分を治めていたとき、天草家と志岐家は罪を犯して討たれ、柄本家だけが残って、細川家に仕えることになった。
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小西行長が肥後半国を治めていたとき、天草、志岐は罪を犯して誅せられ、柄本だけが残っていて、細川家に仕えた。
又七郎は普段から阿部弥一右衛門の一家と親しくしていて、主人同士はもちろん、妻たちまでも互いに行き来していた。
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又七郎は平生阿部弥一右衛門が一家と心安くして、主人同志はもとより、妻女までも互いに往来していた。
中でも弥一右衛門の次男の弥五兵衛は槍が得意で、又七郎も同じ武芸をたしなんでいたことから、親しい間柄で大きなことを言い合っては、「お前が上手でも、私にはかなうまい」
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中にも弥一右衛門の二男弥五兵衛は鎗が得意で、又七郎も同じ技を嗜むところから、親しい中で広言をし合って、「お手前が上手でもそれがしにはかなうまい」
「いや、私がどうしてお前に負けるものか」
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、「いやそれがしがなんでお手前に負けよう」
などと言い合っていた。
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などと言っていた。
そんな中、先代の殿様が病に伏していたとき、弥一右衛門が殉死を願い出て許されなかったと聞いてからは、又七郎は弥一右衛門の胸の内を思いやって気の毒に思っていた。
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そこで先代の殿様の病中に、弥一右衛門が殉死を願って許されぬと聞いたときから、又七郎は弥一右衛門の胸中を察して気の毒がった。
それから、弥一右衛門の追腹(おいばら・主君のあとを追って切腹すること)、家督を継いだ権兵衛の向陽院での振る舞い、それが原因となっての死刑、そして弥五兵衛をはじめとする一族の立てこもりという順序で、阿部家がだんだん不運な方向へ傾いていったので、又七郎は身内にも劣らないほど心を痛めた。
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それから弥一右衛門の追腹、家督相続人権兵衛の向陽院での振舞い、それがもとになっての死刑、弥五兵衛以下一族の立籠りという順序に、阿部家がだんだん否運に傾いて来たので、又七郎は親身のものにも劣らぬ心痛をした。
ある日、又七郎は妻に言いつけて、夜がふけてから阿部の屋敷へ見舞いに行かせた。
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ある日又七郎が女房に言いつけて、夜ふけてから阿部の屋敷へ見舞いにやった。
阿部一族は殿様に背いて籠城のようなことをしているので、男同士では行き来することができない。
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阿部一族は上に叛いて籠城めいたことをしているから、男同志は交通することが出来ない。
しかし、はじめからのいきさつを知っていれば、一族の者たちを悪人として憎むことはできない。
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しかるに最初からの行きがかりを知っていてみれば、一族のものを悪人として憎むことは出来ない。
ましてや、長年親しくしてきた間柄である。
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ましてや年来懇意にした間柄である。
女の身であれば、こっそり見舞いに行っても、たとえ後日それが知られたとしても、言い訳の立たないことでもあるまいという考えで、見舞いに行かせたのだった。
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婦女の身としてひそかに見舞うのは、よしや後日に発覚したとて申しわけの立たぬことでもあるまいという考えで、見舞いにはやったのである。
妻は夫の言葉を聞いて、喜んで心のこもった品々を用意し、夜ふけに隣家を訪れた。
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女房は夫の詞を聞いて、喜んで心尽くしの品を取り揃えて、夜ふけて隣へおとずれた。
この妻もなかなか気丈な女で、もし後日それが知られたら、罪は自分一人で引き受けて、夫に迷惑はかけまいと思っていた。
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これもなかなか気丈な女で、もし後日に発覚したら、罪を自身に引き受けて、夫に迷惑はかけまいと思ったのである。
阿部一族の喜びは非常なものだった。
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阿部一族の喜びは非常であった。
世間では花が咲き鳥が歌う春だというのに、我々は不幸にも神仏にも人にも見放されて、こうして閉じこもっている身の上だ。
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世間は花咲き鳥歌う春であるのに、不幸にして神仏にも人間にも見放されて、かく籠居している我々である。
それを見舞ってやれという夫も夫なら、その言いつけを守ってやって来てくれる妻も妻だ。実にありがたい心がけだと、心の底から感じた。
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それを見舞うてやれという夫も夫、その言いつけを守って来てくれる妻も妻、実にありがたい心がけだと、心から感じた。
女たちは涙を流しながら、「こんなことになって死ぬからには、世の中に誰一人、私たちの死後の幸せ(菩提・ぼだい)を祈ってくれる人もいないでしょう。どうか思い出したときには、一度でよいのでお経を唱えてください」と頼んだ。
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女たちは涙を流して、こうなり果てて死ぬるからは、世の中に誰一人菩提を弔うてくれるものもあるまい、どうぞ思い出したら、一遍の回向をしてもらいたいと頼んだ。
子どもたちは門の外へ一歩も出されないので、いつも優しくしてくれる柄本の妻の姿を見ると、左右からしがみついて、なかなか放そうとしなかった。
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子供たちは門外へ一足も出されぬので、ふだん優しくしてくれた柄本の女房を見て、右左から取りすがって、たやすく放して帰さなかった。
阿部の屋敷へ討手が向かう前の晩になった。
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阿部の屋敷へ討手の向う前晩になった。
柄本又七郎はじっくりと考えた。
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柄本又七郎はつくづく考えた。
阿部一族は自分と親しい間柄だ。
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阿部一族は自分と親しい間柄である。
それで、あとで咎めを受けるかもしれないとは思いながらも、妻を見舞いにまでやった。
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それで後日の咎めもあろうかとは思いながら、女房を見舞いにまでやった。
しかし、いよいよ明日の朝には、殿様の討手が阿部家へやって来る。
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しかしいよいよ明朝は上の討手が阿部家へ来る。
これは謀反人を討伐する殿様の戦と同じことだ。
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これは逆賊を征伐せられるお上の軍も同じことである。
お達しでは、火の用心をせよ、手出しをするなと言われているが、武士たる者が、この場合に何もせず見ていられるものではない。
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御沙汰には火の用心をせい、手出しをするなと言ってあるが、武士たるものがこの場合に懐手をして見ていられたものではない。
情けは情け、義理は義理だ。
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情けは情け、義は義である。
自分にもやるべきことがあると考えた。
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おれにはせんようがあると考えた。
そこで、夜がすっかりふけたころ、抜き足で裏口から薄暗い庭へ出て、阿部家との境にある竹垣を結んでいる縄をすべて切っておいた。
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そこで更闌けて抜き足をして、後ろ口から薄暗い庭へ出て、阿部家との境の竹垣の結び縄をことごとく切っておいた。
それから家に戻って身支度を整え、長押にかけてあった手槍をおろし、鷹の羽の紋が付いた鞘を払って、夜が明けるのを待っていた。
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それから帰って身支度をして、長押にかけた手槍をおろし、鷹の羽の紋の付いた鞘を払って、夜の明けるのを待っていた。
討手として阿部の屋敷の表門に向かうことになった竹内数馬は、武芸の誉れ高い家に生まれた者だった。
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討手として阿部の屋敷の表門に向うことになった竹内数馬は、武道の誉れある家に生まれたものである。
先祖は、細川高国の家来として、強い弓の名手として知られた島村弾正貴則(しまむらだんじょうたかのり)である。
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先祖は細川高国の手に属して、強弓の名を得た島村弾正貴則である。
享禄(きょうろく)四年に高国が摂津国(せっつのくに)尼崎(あまがさき)で敗れたとき、弾正は敵二人をわきに挟んで海に飛び込んで死んだ。
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享禄四年に高国が摂津国尼崎に敗れたとき、弾正は敵二人を両腋に挟んで海に飛び込んで死んだ。
弾正の子の市兵衛は、河内の八隅家(やすみけ)に仕えて、一時期「八隅」と名乗っていたが、竹内越(たけのうちごえ)という土地を治めることになり、「竹内」と姓を改めた。
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弾正の子市兵衛は河内の八隅家に仕えて一時八隅と称したが、竹内越を領することになって、竹内と改めた。
竹内市兵衛の子の吉兵衛は、小西行長に仕えていて、紀伊国(きいのくに)太田の城を水攻めにしたときの手柄で、豊臣太閤から、白い絹地に朱色の日の丸を描いた陣羽織をもらった。
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竹内市兵衛の子吉兵衛は小西行長に仕えて、紀伊国太田の城を水攻めにしたときの功で、豊臣太閤に白練に朱の日の丸の陣羽織をもらった。
朝鮮への出兵のときには、小西家の人質として、李王宮に三年間閉じ込められていた。
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朝鮮征伐のときには小西家の人質として、李王宮に三年押し籠められていた。
小西家が滅びたあと、加藤清正に千石で召し抱えられていたが、主君ともめごとを起こして、真っ昼間に熊本の城下を立ち去った。
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小西家が滅びてから、加藤清正に千石で召し出されていたが、主君と物争いをして白昼に熊本城下を立ち退いた。
加藤家からの討手に備えるため、鉄砲に弾をこめ、火縄に火をつけたものを供に持たせて立ち去った。
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加藤家の討手に備えるために、鉄砲に玉をこめ、火縄に火をつけて持たせて退いた。
それを三斎(さんさい)が、豊前の国で千石で召し抱えた。
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それを三斎が豊前で千石に召し抱えた。
この吉兵衛には、五人の息子がいた。
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この吉兵衛に五人の男子があった。
長男もやはり吉兵衛と名乗ったが、のちに髪をそって僧になり、八隅見山(やすみけんざん)と名乗った。
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長男はやはり吉兵衛と名のったが、のち剃髪して八隅見山といった。
次男は七郎右衛門、三男は次郎太夫、四男は八兵衛、五男が数馬であった。
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二男は七郎右衛門、三男は次郎太夫、四男は八兵衛、五男がすなわち数馬である。
数馬は忠利の身の回りの世話をする少年の家来(児小姓・こごしょう)を務めていて、島原征伐のときには殿様のそばにいた。
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数馬は忠利の児小姓を勤めて、島原征伐のとき殿様のそばにいた。
寛永十五年二月二十五日、細川家の家来たちが城を攻め落とそうとしたとき、数馬は「どうか私を先陣(先手・さきて)へお使いください」
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寛永十五年二月二十五日細川の手のものが城を乗り取ろうとしたとき、数馬が「どうぞお先手へおつかわし下されい」
と忠利に願い出た。
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と忠利に願った。
忠利は聞き入れなかった。
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忠利は聴かなかった。
それでも重ねてねだるように願うと、忠利は腹を立てて、「小倅(こせがれ)め、勝手に行ってしまえ」
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押し返してねだるように願うと、忠利が立腹して、「小倅、勝手にうせおれ」
と叫んだ。
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と叫んだ。
数馬はそのとき十六歳だった。
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数馬はそのとき十六歳である。
「あっ」
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「あっ」
と言うが早いか駆け出していく数馬を見送りながら、忠利は「怪我をするなよ」
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と言いさま駈け出すのを見送って、忠利が「怪我をするなよ」
と声をかけた。
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と声をかけた。
乙名(おとな)の島徳右衛門、草履取り一人、槍持ち一人があとに続いた。
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乙名島徳右衛門、草履取一人、槍持一人があとから続いた。
主人と家来を合わせて四人であった。
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主従四人である。
城から撃ち出される鉄砲があまりにも激しいので、島(徳右衛門)が数馬の着ていた鮮やかな赤色の陣羽織(猩々緋・しょうじょうひ)のすそをつかんで後ろへ引いた。
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城から打ち出す鉄砲が烈しいので、島が数馬の着ていた猩々緋の陣羽織の裾をつかんであとへ引いた。
数馬はそれを振り切って、城の石垣によじ登った。
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数馬は振り切って城の石垣に攀じ登る。
島も仕方なくついて登った。
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島も是非なくついて登る。
とうとう城の中に入って戦い、数馬は手に傷を負った。
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とうとう城内にはいって働いて、数馬は手を負った。
同じ場所から攻め入った柳川の立花飛騨守宗茂(たちばなひだのかみむねしげ)は、七十二歳の戦い慣れた武士(古武者・ふるつわもの)で、このときの働きぶりを見ていた。そして、渡辺新弥、仲光内膳(なかみつないぜん)、数馬の三人が見事(天晴れ・あっぱれ)だったと言って、三人へ連名でほめる書状をあたえた。
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同じ場所から攻め入った柳川の立花飛騨守宗茂は七十二歳の古武者で、このときの働きぶりを見ていたが、渡辺新弥、仲光内膳と数馬との三人が天晴れであったと言って、三人へ連名の感状をやった。
城が落ちたあと、忠利は数馬に関兼光(せきかねみつ)の脇差をあたえ、給料を千百五十石に増やした。
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落城ののち、忠利は数馬に関兼光の脇差をやって、禄を千百五十石に加増した。
その脇差は刃渡り一尺八寸、まっすぐな刃文で銘は入っておらず、横向きのやすり目、柄には銀の九曜(くよう)の紋を三つ並べた目貫(めぬき)、赤銅の縁、金づくりのこしらえだった。
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脇差は一尺八寸、直焼無銘、横鑢、銀の九曜の三並びの目貫、赤銅縁、金拵えである。
目貫の穴は二つあり、一つは鉛でふさいであった。
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目貫の穴は二つあって、一つは鉛で填めてあった。
忠利はこの脇差を大切にしていたので、数馬にあたえたあとも、城へ上がるときなどには、「数馬、あの脇差を貸せ」
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忠利はこの脇差を秘蔵していたので、数馬にやってからも、登城のときなどには、「数馬あの脇差を貸せ」
と言って、借りて身につけたこともたびたびあった。
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と言って、借りて差したこともたびたびある。
光尚に阿部への討手を言いつけられて、数馬が喜んで詰所へ下がると、仲間の一人がささやいた。
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光尚に阿部の討手を言いつけられて、数馬が喜んで詰所へ下がると、傍輩の一人がささやいた。
「腹黒い者(奸物・かんぶつ)にも取りえはあるものだ。お前に表門の指揮を振らせるとは、林殿にしては、よくできたことだ」
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「奸物にも取りえはある。おぬしに表門の采配を振らせるとは、林殿にしてはよく出来た」
数馬は耳をそばだてた。
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数馬は耳をそばだてた。
「なに、今度のこの役目は、外記(げき)が殿様に申し上げて言いつけられたことなのか」
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「なにこのたびのお役目は外記が申し上げて仰せつけられたのか」
「そうだ。外記殿が殿様に言われたのだ。数馬は先代の殿様が特別に取り立てなさった者だ。ご恩返しとしてあの役目をおやらせなさいと言われたのだ。願ってもない幸運ではないか」
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「そうじゃ。外記殿が殿様に言われた。数馬は御先代が出格のお取立てをなされたものじゃ。ご恩報じにあれをおやりなされいと言われた。もっけの幸いではないか」
「ふん」
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「ふん」
とだけ言った数馬の眉間には、深いしわが刻まれた。
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と言った数馬の眉間には、深い皺が刻まれた。
「よいわ。討ち死にするまでのことだ」
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「よいわ。討死するまでのことじゃ」
こう言い放つと、数馬はすっと立ち上がって御殿を下がった。
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こう言い放って、数馬はついと起って館を下がった。
このときの数馬の様子を光尚が聞いて、竹内の屋敷へ使者をやり、「怪我をしないように、うまくやってまいれ」
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このときの数馬の様子を光尚が聞いて、竹内の屋敷へ使いをやって、「怪我をせぬように、首尾よくいたして参れ」
と伝えさせた。
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と言わせた。
数馬は「ありがたいお言葉、確かに承りましたと、殿様にお伝えください」
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数馬は「ありがたいお詞をたしかに承ったと申し上げて下されい」
と言った。
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と言った。
数馬(かずま)は仲間から、「外記(げき)が自分を推薦して、今度の討手(うって・攻める役目)に当てたのだ」と聞くと、すぐに戦って死のうと決心した。
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数馬は傍輩の口から、外記が自分を推してこのたびの役に当らせたのだと聞くや否や、即時に討死をしようと決心した。
それはどうしても変えることのできない、固い決心だった。
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それがどうしても動かすことの出来ぬほど堅固な決心であった。
外記は「恩を返させてやる」と言っていたそうだ。
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外記はご恩報じをさせると言ったということである。
数馬はこの言葉をたまたま耳にしたのだが、聞くまでもないことだった。外記が誰かを推薦するときは、いつもそう言うに決まっていたからだ。
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この詞ははからず聞いたのであるが、実は聞くまでもない、外記が薦めるには、そう言って薦めるにきまっている。
そう思うと、数馬は立っていても座っていても落ち着かない気持ちになった。
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こう思うと、数馬は立ってもすわってもいられぬような気がする。
自分は先代(せんだい・前の殿様)に目をかけてもらったのは確かだ。
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自分は御先代の引立てをこうむったには違いない。
しかし元服(げんぷく・大人になる儀式)をしてからの自分は、大勢の近習(きんじゅ・そば近くに仕える家来)の一人にすぎず、特別扱いを受けていたわけではない。
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しかし元服をしてからのちの自分は、いわば大勢の近習のうちの一人で、別に出色のお扱いを受けてはいない。
殿様の恩は、誰もが受けているものだ。
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ご恩には誰も浴している。
それなのに、自分だけが恩を返さなければならないというのは、どういうことか。
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ご恩報じを自分に限ってしなくてはならぬというのは、どういう意味か。
言うまでもない。自分は殉死(じゅんし・主人の後を追って死ぬこと)するはずだったのに、しなかった。だから今度は命がけの場所へ送られるのだ。
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言うまでもない、自分は殉死するはずであったのに、殉死しなかったから、命がけの場所にやるというのである。
命はいつでも喜んで捨てる。しかし、しそこなった殉死の代わりとして死のうとは思わない。
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命は何時でも喜んで棄てるが、さきにしおくれた殉死の代りに死のうとは思わない。
今、命を惜しまない自分が、どうして先代の中陰(ちゅういん・四十九日の法要の期間)が終わる日に命を惜しんだりしただろうか。
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今命を惜しまぬ自分が、なんで御先代の中陰の果ての日に命を惜しんだであろう。
そんな理由はないのだ。
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いわれのないことである。
そもそも、どれだけ親しくしてもらった者が殉死すべきかという、はっきりした決まりなどない。
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畢竟どれだけのご入懇になった人が殉死するという、はっきりした境はない。
同じように仕えていた近習の若侍たちにも殉死の話がなかったから、自分も生き永らえていたのだ。
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同じように勤めていた御近習の若侍のうちに殉死の沙汰がないので、自分もながらえていた。
殉死してよいことなら、自分は誰よりも先にする。
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殉死してよいことなら、自分は誰よりもさきにする。
それくらいのことは、誰の目にも明らかだと思っていた。
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それほどのことは誰の目にも見えているように思っていた。
それなのに「とっくにするはずの殉死をしなかった人間」という極印(ごくいん・消えない焼き印、消えない汚名)を押されたのは、返す返すも悔しい。
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それにとうにするはずの殉死をせずにいた人間として極印を打たれたのは、かえすがえすも口惜しい。
自分は洗い流すことのできない汚れを身に受けてしまった。
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自分はすすぐことの出来ぬ汚れを身に受けた。
これほどの辱め(はずかしめ)を人に与えることは、あの外記でなければできまい。
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それほどの辱を人に加えることは、あの外記でなくては出来まい。
外記らしいやり方だと言えばそれまでだ。
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外記としてはさもあるべきことである。
しかし、殿様がなぜそれをお聞き入れになったのか。
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しかし殿様がなぜそれをお聴きいれになったか。
外記に傷つけられたのなら、まだ我慢もできよう。
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外記に傷つけられたのは忍ぶことも出来よう。
しかし、殿様に見捨てられたことは我慢できない。
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殿様に棄てられたのは忍ぶことが出来ない。
島原(しまばら)で城に攻め入ろうとしたとき、先代がお呼び止めになったことがあった。
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島原で城に乗り入ろうとしたとき、御先代がお呼び止めなされた。
あれは、馬廻り(うままわり・殿様のそば近くを守る役)の者がわざわざ先手(さきて・先鋒隊)に加わるのを止めるためだった。
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それはお馬廻りのものがわざと先手に加わるのをお止めなされたのである。
しかし今回、当主が「怪我をするな」とおっしゃったのは、それとは違う。
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このたび御当主の怪我をするなとおっしゃるのは、それとは違う。
「惜しい命をいたわれ」とおっしゃっているのだ。
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惜しい命をいたわれとおっしゃるのである。
それの何がありがたいものか。
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それがなんのありがたかろう。
古い傷(きず)の上を、新しくむちで打たれるようなものだ。
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古い創の上を新たに鞭うたれるようなものである。
ただ一刻も早く死にたい。
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ただ一刻も早く死にたい。
死んでも消える汚れではないが、それでも死にたい。
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死んですすがれる汚れではないが、死にたい。
犬死に(いぬじに・無駄死に)でもいいから、死にたい。
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犬死でもよいから、死にたい。
数馬はこう思うと、矢も楯もたまらなく(我慢できなく)なった。
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数馬はこう思うと、矢も楯もたまらない。
そこで妻子には「阿部を討つ役目を命じられた」とだけ手短に言い聞かせ、一人でひたすら支度を急いだ。
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そこで妻子には阿部の討手を仰せつけられたとだけ、手短に言い聞かせて、一人ひたすら支度を急いだ。
殉死した人たちは皆、安心して死についていく気持ちだったが、数馬の心は違った。苦しみから逃れるために、死を急いでいるのだった。
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殉死した人たちは皆安堵して死につくという心持ちでいたのに、数馬が心持ちは苦痛を逃れるために死を急ぐのである。
乙名(おとな・古参の家来)の島徳右衛門(しまとくえもん)が事情を察して主人と同じ決心をしたほかには、家の中で数馬の本当の気持ちを分かっている者はいなかった。
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乙名島徳右衛門が事情を察して、主人と同じ決心をしたほかには、一家のうちに数馬の心底を汲み知ったものがない。
今年二十一歳になる数馬のもとへ、去年嫁いできたばかりのまだ娘らしい妻は、生まれたばかりの女の子を抱いて、うろうろするばかりだった。
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今年二十一歳になる数馬のところへ、去年来たばかりのまだ娘らしい女房は、当歳の女の子を抱いてうろうろしているばかりである。
明日はいよいよ討ち入りという四月二十日の夜、数馬は行水(ぎょうずい・水浴び)をして、月代(さかやき・額から頭にかけて剃る部分)を剃り、髪には忠利(ただとし)からいただいた名香(めいこう)の初音(はつね)というお香をたきしめた。
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あすは討入りという四月二十日の夜、数馬は行水を使って、月題を剃って、髪には忠利に拝領した名香初音を焚き込めた。
白無垢(しろむく・死に装束の白い着物)に白襷(しろだすき)、白鉢巻をして、肩には合印(あいじるし・味方の目印)の角取紙(すみとりがみ)をつけた。
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白無垢に白襷、白鉢巻をして、肩に合印の角取紙をつけた。
腰に差した刀は二尺四寸五分(約七十四センチ)の正盛(まさもり)という刀で、先祖の島村弾正(しまむらだんじょう)が尼崎(あまがさき)で討死したとき、故郷に送られてきた形見だった。
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腰に帯びた刀は二尺四寸五分の正盛で、先祖島村弾正が尼崎で討死したとき、故郷に送った記念である。
それに初陣(ういじん・初めての戦い)のとき殿様からいただいた兼光(かねみつ)という刀も差し添えた。
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それに初陣の時拝領した兼光を差し添えた。
門口では馬がいなないている。
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門口には馬がいなないている。
手槍を取って庭に降り立つとき、数馬は草鞋(わらじ)の紐を男結び(おとこむすび)にして、余った紐を小刀で切り捨てた。
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手槍を取って庭に降り立つとき、数馬は草鞋の緒を男結びにして、余った緒を小刀で切って捨てた。
阿部の屋敷の裏門に向かうことになった高見権右衛門(たかみごんえもん)は、もとは和田(わだ)という名字で、近江国(おうみのくに・今の滋賀県)和田に住んだ和田但馬守(わだたじまのかみ)の子孫である。
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阿部の屋敷の裏門に向うことになった高見権右衛門はもと和田氏で、近江国和田に住んだ和田但馬守の裔である。
初めは蒲生賢秀(がもうかたひで)に仕えていたが、和田庄五郎(わだしょうごろう)の代になって細川家に仕えるようになった。
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初め蒲生賢秀にしたがっていたが、和田庄五郎の代に細川家に仕えた。
庄五郎は岐阜や関ヶ原の戦いで手柄を立てた人物である。
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庄五郎は岐阜、関原の戦いに功のあったものである。
忠利(ただとし)の兄、与一郎忠隆(よいちろうただたか)の家来だったので、忠隆が慶長五年(けいちょうごねん)大阪で妻の前田家の一族が早く逃げ延びたことから父の怒りを買い、出家して休無(きゅうむ)と名乗って流浪の身となったとき、高野山(こうやさん)や京都までお供をした。
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忠利の兄与一郎忠隆の下についていたので、忠隆が慶長五年大阪で妻前田氏の早く落ち延びたために父の勘気を受け、入道休無となって流浪したとき、高野山や京都まで供をした。
それを三斎(さんさい)が小倉へ呼び寄せて、高見という名字を名乗らせ、番頭(ばんがしら・武士の一隊のかしら)にした。
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それを三斎が小倉へ呼び寄せて、高見氏を名のらせ、番頭にした。
知行(ちぎょう・与えられた領地からの収入)は五百石であった。
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知行五百石であった。
庄五郎の子が権右衛門である。
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庄五郎の子が権右衛門である。
島原の戦いで手柄を立てたが、軍の命令にそむいたということで、一度役目を取り上げられた。
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島原の戦いに功があったが、軍令にそむいた廉で、一旦役を召し上げられた。
それがしばらくして許され、側者頭(そばものがしら・そば近くに仕える者たちのかしら)になっていたのである。
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それがしばらくしてから帰参して側者頭になっていたのである。
権右衛門は討ち入りの支度をするとき、黒羽二重(くろはぶたえ)の紋付きの着物を着て、かねて大切にしていた備前長船(びぜんおさふね)の刀を取り出して差した。
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権右衛門は討入りの支度のとき黒羽二重の紋附きを着て、かねて秘蔵していた備前長船の刀を取り出して帯びた。
そして十文字の槍を持って出た。
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そして十文字の槍を持って出た。
竹内数馬(たけのうちかずま)に島徳右衛門(しまとくえもん)が付き従っているように、高見権右衛門にも一人の小姓(こごしょう・そば近くに仕える若い家来)がついていた。
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竹内数馬の手に島徳右衛門がいるように、高見権右衛門は一人の小姓を連れている。
阿部一族の事件が起こる二三年前の夏のある日、この小姓は非番(休みの日)で部屋に昼寝をしていた。
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阿部一族のことのあった二三年前の夏の日に、この小姓は非番で部屋に昼寝をしていた。
そこへ同僚の一人が主人のお供から帰ってきて、裸になり手桶を下げて井戸へ水をくみに行こうとした。しかし、ふとこの小姓が寝ているのを見て、「おれがお供から帰ってきたのに、水もくんでくれずに寝ているのか」
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そこへ相役の一人が供先から帰って真裸になって、手桶を提げて井戸へ水を汲みに行きかけたが、ふとこの小姓の寝ているのを見て、「おれがお供から帰ったに、水も汲んでくれずに寝ておるかい」
と言いながら小姓の枕をけった。
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と言いざまに枕を蹴った。
小姓ははね起きた。
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小姓は跳ね起きた。
「なるほど。目が覚めていたら水もくんでやろう。だが枕をけるということがあるか。このままでは済まさないぞ」
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「なるほど。目がさめておったら、水も汲んでやろう。じゃが枕を足蹴にするということがあるか。このままには済まんぞ」
こう言うと、いきなり刀を抜いて同僚を大きく切りつけた。
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こう言って抜打ちに相役を大袈裟に切った。
小姓は静かに相手の胸の上にまたがってとどめを刺すと、乙名(おとな・古参の家来)の小屋へ行って事情を話した。
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小姓は静かに相役の胸の上にまたがって止めを刺して、乙名の小屋へ行って仔細を話した。
「すぐに自分も死ぬはずでございましたが、お疑いを受けてはいけないと思いまして」
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「即座に死ぬるはずでござりましたが、ご不審もあろうかと存じまして」
と言うと、着物の肩をぬいで切腹しようとした。
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と、肌を脱いで切腹しようとした。
乙名が「まず待て」
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乙名が「まず待て」
と言って、権右衛門に知らせた。
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と言って権右衛門に告げた。
権右衛門はまだ役所から下がったばかりで着物も着替えていなかったが、そのまま御殿へ出て忠利に申し上げた。
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権右衛門はまだ役所から下がって、衣服も改めずにいたので、そのまま館へ出て忠利に申し上げた。
忠利は「もっともなことだ。切腹するにはおよばぬ」
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忠利は「尤ものことじゃ。切腹にはおよばぬ」
と言った。
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と言った。
このときから、小姓は権右衛門に命を捧げて仕えているのである。
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このときから小姓は権右衛門に命を捧げて奉公しているのである。
小姓は箙(えびら・矢を入れる道具)を背負い、半弓(はんきゅう・小さな弓)を持って、主人のかたわらに付き添った。
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小姓は箙を負い半弓を取って、主のかたわらに引き添った。
寛永十九年(かんえいじゅうくねん)四月二十一日は、麦秋(むぎあき・麦が実る初夏の時期)によくある薄曇りの日だった。
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寛永十九年四月二十一日は麦秋によくある薄曇りの日であった。
阿部一族が立てこもっている山崎の屋敷に討ち入ろうとして、竹内数馬の一隊は夜明け前に表門の前にやって来た。
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阿部一族の立て籠っている山崎の屋敷に討ち入ろうとして、竹内数馬の手のものは払暁に表門の前に来た。
夜通し鉦太鼓(かねたいこ)を鳴らしていた屋敷の中は、今はひっそりとして、空き家かと思われるほどだった。
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夜通し鉦太鼓を鳴らしていた屋敷のうちが、今はひっそりとして空家かと思われるほどである。
門の扉は閉ざしてある。
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門の扉は鎖してある。
板塀の上に二三尺(約六十〜九十センチ)伸びている夾竹桃(きょうちくとう)の枝先には、蜘蛛(くも)の巣がかかっていて、そこに夜露が真珠のように光っている。
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板塀の上に二三尺伸びている夾竹桃の木末には、蜘のいがかかっていて、それに夜露が真珠のように光っている。
燕(つばめ)が一羽どこからか飛んできて、すっと塀の中に入った。
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燕が一羽どこからか飛んで来て、つと塀のうちに入った。
数馬は馬から降り立って、しばらく様子を見ていたが、「門をあけろ」
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数馬は馬を乗り放って降り立って、しばらく様子を見ていたが、「門をあけい」
と言った。
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と言った。
足軽(あしがる)が二人、塀を乗り越して屋敷の中に入った。
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足軽が二人塀を乗り越してうちにはいった。
門の周りには敵は一人もいなかったので、錠前をたたきこわして、貫(かん・門をとめる横木)を引き抜いた。
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門の廻りには敵は一人もいないので、錠前を打ちこわして貫の木を抜いた。
隣の家の柄本又七郎(つかもとまたしちろう)は、数馬の一隊が門をあける物音を聞くと、前の夜に結び目を切っておいた竹垣を踏み破って駆け込んだ。
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隣家の柄本又七郎は数馬の手のものが門をあける物音を聞いて、前夜結び縄を切っておいた竹垣を踏み破って、駈け込んだ。
毎日のように行き来していて、隅々まで知りつくしている家である。
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毎日のように往き来して、隅々まで案内を知っている家である。
手槍を構えて台所の入り口から、すっと入った。
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手槍を構えて台所の口から、つとはいった。
座敷の戸を締め切って、攻め込んでくる討手を一人一人討ち取ろうと待ちかまえていた一族の中で、裏口に人の気配がすることに、まず気づいたのは弥五兵衛(やごべえ)だった。
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座敷の戸を締め切って、籠み入る討手のものを一人一人討ち取ろうとして控えていた一族の中で、裏口に人のけはいのするのに、まず気のついたのは弥五兵衛である。
これも手槍を持って台所へ様子を見に出た。
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これも手槍を提げて台所へ見に出た。
二人は槍の穂先と穂先が触れ合うほどに向かい合った。
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二人は槍の穂先と穂先とが触れ合うほどに相対した。
「や、又七郎か」
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「や、又七郎か」
と弥五兵衛が声をかけた。
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と、弥五兵衛が声をかけた。
「おう。かねてからの言葉どおり、おぬしの槍の腕前を見に来た」
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「おう。かねての広言がある。おぬしが槍の手並みを見に来た」
「よく来たな。さあ」
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「ようわせた。さあ」
二人は一歩下がって槍を交えた。
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二人は一歩しざって槍を交えた。
しばらく戦ったが、槍の腕は又七郎のほうが優れていたので、弥五兵衛の胸をしたたかに突き抜いた。
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しばらく戦ったが、槍術は又七郎の方が優れていたので、弥五兵衛の胸板をしたたかにつき抜いた。
弥五兵衛は槍をからりと投げ捨てて、座敷のほうへ下がろうとした。
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弥五兵衛は槍をからりと棄てて、座敷の方へ引こうとした。
「卑怯(ひきょう)だぞ。引くな」
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「卑怯じゃ。引くな」
又七郎が叫んだ。
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又七郎が叫んだ。
「いや、逃げはしない。腹を切るのだ」
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「いや逃げはせぬ。腹を切るのじゃ」
そう言い捨てて座敷に入った。
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言いすてて座敷にはいった。
その瞬間、「おじ様、お相手します」
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その刹那に「おじ様、お相手」
と叫んで、前髪の七之丞(しちのじょう・まだ元服前の少年)が稲妻のように飛び出してきて、又七郎のももを突いた。
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と叫んで、前髪の七之丞が電光のごとくに飛んで出て、又七郎の太股をついた。
親しくしていた弥五兵衛に深い傷を負わせて、思わず気がゆるんでいたので、腕の立つ又七郎も少年の手にかかってしまったのである。
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入懇の弥五兵衛に深手を負わせて、覚えず気が弛んでいたので、手錬の又七郎も少年の手にかかったのである。
又七郎は槍を捨ててその場に倒れた。
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又七郎は槍を棄ててその場に倒れた。
数馬は門の中に入って、家来たちを屋敷の隅々に配置した。
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数馬は門内に入って人数を屋敷の隅々に配った。
さて真っ先に玄関に進んでみると、正面の板戸が細めに開けてある。
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さて真っ先に玄関に進んでみると、正面の板戸が細目にあけてある。
数馬がその戸に手をかけようとすると、島徳右衛門(しまとくえもん)が体で押しとどめて、急いだ様子でささやいた。
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数馬がその戸に手をかけようとすると、島徳右衛門が押し隔てて、詞せわしくささやいた。
「お待ちください。殿は今日の総大将です。それがしが先に参ります」
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「お待ちなさりませ。殿は今日の総大将じゃ。それがしがお先をいたします」
徳右衛門は戸をがらりと開けて飛び込んだ。
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徳右衛門は戸をがらりとあけて飛び込んだ。
待ち構えていた市太夫(いちだゆう)の槍が徳右衛門の右目を突き、徳右衛門はよろよろと数馬に倒れかかった。
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待ち構えていた市太夫の槍に、徳右衛門は右の目をつかれてよろよろと数馬に倒れかかった。
「邪魔だ」
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「邪魔じゃ」
数馬は徳右衛門を押しのけて進んだ。
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数馬は徳右衛門を押し退けて進んだ。
市太夫、五太夫(ごだゆう)の槍が数馬の左右のわき腹を突き抜いた。
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市太夫、五太夫の槍が左右のひわらをつき抜いた。
添島九兵衛(そえじまくへえ)、野村庄兵衛(のむらしょうべえ)が続いて駆け込んだ。
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添島九兵衛、野村庄兵衛が続いて駆け込んだ。
徳右衛門も深い傷にも屈せず取って返した。
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徳右衛門も痛手に屈せず取って返した。
このとき裏門を押し破って入った高見権右衛門は、十文字槍を振るって阿部の家来たちを突きまくり、座敷にやって来た。
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このとき裏門を押し破ってはいった高見権右衛門は十文字槍をふるって、阿部の家来どもをつきまくって座敷に来た。
千場作兵衛(ちばさくべえ)も続いて攻め込んだ。
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千場作兵衛も続いて籠み入った。
表と裏、二手の者たちが入り乱れ、わめき叫びながら突きかかってくる。
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裏表二手のものどもが入り違えて、おめき叫んで衝いて来る。
障子やふすまは取り払ってあるとはいえ、三十畳もない座敷である。
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障子襖は取り払ってあっても、三十畳に足らぬ座敷である。
市街戦の悲惨さが野戦よりもひどいのと同じ道理で、皿の上に盛られた百匹の虫が互いに食い合っているようだとでもたとえるほかない、目も当てられないありさまだった。
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市街戦の惨状が野戦よりはなはだしいと同じ道理で、皿に盛られた百虫の相啖うにもたとえつべく、目も当てられぬありさまである。
市太夫、五太夫は相手をえらばず槍を交えているうち、全身に数えきれないほどの傷を受けた。
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市太夫、五太夫は相手きらわず槍を交えているうち、全身に数えられぬほどの創を受けた。
それでも屈せずに、槍を捨てて刀を抜き、切って回っている。
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それでも屈せずに、槍を棄てて刀を抜いて切り廻っている。
七之丞(しちのじょう)はいつのまにか倒れていた。
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七之丞はいつのまにか倒れている。
ももを突かれた柄本又七郎(つかもとまたしちろう)が台所で倒れていると、高見の一隊の者が見つけて、「傷を負われましたな、お見事です、早くお引きなさい」
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太股をつかれた柄本又七郎が台所に伏していると、高見の手のものが見て、「手をお負いなされたな、お見事じゃ、早うお引きなされい」
と言って、奥へ通り抜けた。
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と言って、奥へ通り抜けた。
「引いて逃げる足があれば、わしも奥へ入るのだが」
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「引く足があれば、わしも奥へはいるが」
と又七郎は苦々しげに言って歯ぎしりをした。
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と、又七郎は苦々しげに言って歯咬みをした。
そこへ主人のあとを慕って入り込んでいた家来の一人が駆けつけて、又七郎を肩にかけて退いた。
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そこへ主のあとを慕って入り込んだ家来の一人が駈けつけて、肩にかけて退いた。
もう一人の柄本家の被官(ひかん・主人に仕える家来)、天草平九郎(あまくさへいくろう)という者は、主人が退くための道を守って、半弓で目にかかる敵を射ていたが、その場で討死した。
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今一人の柄本家の被官天草平九郎というものは、主の退き口を守って、半弓をもって目にかかる敵を射ていたが、その場で討死した。
竹内数馬の一隊では、島徳右衛門(しまとくえもん)がまず死に、続いて小頭(こがしら)の添島九兵衛(そえじまくへえ)が死んだ。
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竹内数馬の手では島徳右衛門がまず死んで、ついで小頭添島九兵衛が死んだ。
高見権右衛門が十文字槍を振るって戦う間、半弓を持った小姓はいつも槍のわきについて敵を射ていたが、のちには刀を抜いて切って回った。
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高見権右衛門が十文字槍をふるって働く間、半弓を持った小姓はいつも槍脇を詰めて敵を射ていたが、のちには刀を抜いて切って廻った。
ふと見ると、鉄砲で権右衛門をねらっている者がいた。
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ふと見れば鉄砲で権右衛門をねらっているものがある。
「あの弾は、わたくしが受け止めます」
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「あの丸はわたくしが受け止めます」
と言って小姓が権右衛門の前に立つと、弾が飛んできて命中した。
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と言って、小姓が権右衛門の前に立つと、丸が来てあたった。
小姓は即死した。
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小姓は即死した。
竹内の組から選ばれて高見の隊につけられた小頭の千場作兵衛(ちばさくべえ)は重い傷を負って台所に出て、水がめの水を飲んだが、そのままそこにへたり込んでしまった。
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竹内の組から抜いて高見につけられた小頭千場作兵衛は重手を負って台所に出て、水瓶の水を呑んだが、そのままそこにへたばっていた。
阿部一族は、最初に弥五兵衛(やごべえ)が切腹し、市太夫(いちだゆう)、五太夫(ごだゆう)、七之丞は、とうとう皆深い傷を受けて息絶えた。
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阿部一族は最初に弥五兵衛が切腹して、市太夫、五太夫、七之丞はとうとう皆深手に息が切れた。
家来たちも多くが討死した。
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家来も多くは討死した。
高見権右衛門は表と裏の人数を集め、阿部の屋敷の裏手にあった物置小屋を取り壊させて、それに火をかけた。
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高見権右衛門は裏表の人数を集めて、阿部が屋敷の裏手にあった物置小屋を崩させて、それに火をかけた。
風のない薄曇りの空に煙がまっすぐにのぼり、遠くからでも見えた。
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風のない日の薄曇りの空に、煙がまっすぐにのぼって、遠方から見えた。
それから火を踏み消し、あとを水でしめして引き上げた。
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それから火を踏み消して、あとを水でしめして引き上げた。
台所にいた千場作兵衛、そのほか重い傷を負った者たちは、家来や仲間に肩を貸してもらって続いた。
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台所にいた千場作兵衛、そのほか重手を負ったものは家来や傍輩が肩にかけて続いた。
時刻はちょうど未(ひつじ)の刻(今の午後二時ごろ)であった。
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時刻はちょうど未の刻であった。
光尚(みつひさ)はたびたび家臣のおもだった者の家へ遊びに行くことがあったが、阿部一族を討ちに行かせた二十一日の日には、松野左京(まつのさきょう)の屋敷へ夜明け前から出かけていた。
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光尚はたびたび家中のおもだったものの家へ遊びに往くことがあったが、阿部一族を討ちにやった二十一日の日には、松野左京の屋敷へ払暁から出かけた。
御殿のあるお花畠(はなばたけ)からは山崎がすぐ向かいになっていたので、光尚が御殿を出るとき、阿部の屋敷の方角から人の声や物音がするのが聞こえた。
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館のあるお花畠からは、山崎はすぐ向うになっているので、光尚が館を出るとき、阿部の屋敷の方角に人声物音がするのが聞こえた。
「今、討ち入ったな」
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「今討ち入ったな」
と言って、光尚は駕籠(かご)に乗った。
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と言って、光尚は駕籠に乗った。
駕籠がようやく一町(約百九メートル)ほど進んだとき、知らせが届いた。
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駕籠がようよう一町ばかりいったとき、注進があった。
竹内数馬が討死したことは、このときわかった。
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竹内数馬が討死をしたことは、このときわかった。
高見権右衛門は討手の全員を率いて、光尚のいる松野の屋敷の前まで引き上げ、阿部の一族を残らず討ち取ったことを取り次いでもらった。
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高見権右衛門は討手の総勢を率いて、光尚のいる松野の屋敷の前まで引き上げて、阿部の一族を残らず討ち取ったことを執奏してもらった。
光尚はすぐに会おうと言って、権右衛門を書院の庭に回らせた。
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光尚はじきに逢おうと言って、権右衛門を書院の庭に廻らせた。
ちょうど卯(う)の花が真っ白に咲いている垣根の間に、小さな枝折戸(しおりど・簡単な庭木戸)があるのを開けて入り、権右衛門は芝生の上にひざまずいた。
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ちょうど卯の花の真っ白に咲いている垣の間に、小さい枝折戸のあるのをあけてはいって、権右衛門は芝生の上に突居た。
光尚が見て、「傷を負ったな、たいそうな骨折りであった」
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光尚が見て、「手を負ったな、一段骨折りであった」
と声をかけた。
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と声をかけた。
黒羽二重(くろはぶたえ)の着物が血まみれになっており、そこに引き上げるとき小屋の火を踏み消したときに飛び散った炭や灰がまだらについていたのである。
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黒羽二重の衣服が血みどれになって、それに引上げのとき小屋の火を踏み消したとき飛び散った炭や灰がまだらについていたのである。
「いえ。かすり傷でございます」
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「いえ。かすり創でござりまする」
権右衛門は何者かにみぞおちを強く突かれたが、懐に入れていた鏡に当たって槍の穂先がそれたのだった。
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権右衛門は何者かに水落をしたたかつかれたが懐中していた鏡にあたって穂先がそれた。
傷はわずかに血を鼻紙ににじませただけだった。
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創はわずかに血を鼻紙ににじませただけである。
権右衛門は討ち入りのときのめいめいの働きをくわしく報告し、一番の手柄は、たった一人で弥五兵衛に深手を負わせた隣家の柄本又七郎に譲った。
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権右衛門は討入りのときのめいめいの働きをくわしく言上して、第一の功を単身で弥五兵衛に深手を負わせた隣家の柄本又七郎に譲った。
「数馬はどうであった」
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「数馬はどうじゃった」
「表門から一足先に駆け込みましたので、その後は見届けておりません」
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「表門から一足先に駈け込みましたので見届けません」
「そうか。皆の者に庭へ入るように言え」
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「さようか。皆のものに庭へはいれと言え」
権右衛門が一同を呼び入れた。
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権右衛門が一同を呼び入れた。
重い傷を負って自宅へかつがれていった人たちのほかは、皆芝生にひれ伏した。
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重手で自宅へ舁いて行かれた人たちのほかは、皆芝生に平伏した。
戦った者は血で汚れており、小屋を焼く手伝いだけをした者は灰ばかりかぶっていた。
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働いたものは血によごれている、小屋を焼く手伝いばかりしたものは、灰ばかりあびている。
その灰ばかりかぶった者の中に、畑十太夫(はたじゅうだゆう)がいた。
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その灰ばかりあびた中に、畑十太夫がいた。
光尚が声をかけた。
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光尚が声をかけた。
「十太夫、そなたの働きはどうであった」
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「十太夫、そちの働きはどうじゃった」
「はっ」
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「はっ」
と言ったきり、黙って伏していた。
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と言ったぎり黙って伏していた。
十太夫は体は大きいが臆病者で、阿部の屋敷の外をうろうろしているだけで、引き上げる前に小屋に火をかけたときになって、やっとおずおずと中へ入ったのだった。
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十太夫は大兵の臆病者で、阿部が屋敷の外をうろついていて、引上げの前に小屋に火をかけたとき、やっとおずおずはいったのである。
最初に討手を命じられたとき、次の間へ出ようとしたところを剣術の達人、新免武蔵(しんめんむさし)が見て、「ありがたいことだぞ、しっかり手柄を立てなされ」
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最初討手を仰せつけられたときに、お次へ出るところを劍術者新免武蔵が見て、「冥加至極のことじゃ、ずいぶんお手柄をなされい」
と言って背中をぽんとたたいた。
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と言って背中をぽんと打った。
十太夫は顔色を失い、ゆるんでいた袴(はかま)の紐を締め直そうとしたが、手が震えて締められなかったそうである。
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十太夫は色を失って、ゆるんでいた袴の紐を締め直そうとしたが、手がふるえて締まらなかったそうである。
光尚は席を立つときに言った。
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光尚は座を起つとき言った。
「皆、よく励んだぞ。帰って休むがよい」
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「皆出精であったぞ。帰って休息いたせ」
竹内数馬の幼い娘には養子を迎えさせて家督を継ぐことを許されたが、この家はのちに絶えてしまった。
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竹内数馬の幼い娘には養子をさせて家督相続を許されたが、この家はのちに絶えた。
高見権右衛門は三百石、千場作兵衛、野村庄兵衛はそれぞれ五十石の加増を受けた。
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高見権右衛門は三百石、千場作兵衛、野村庄兵衛は各五十石の加増を受けた。
柄本又七郎へは米田監物(こめだけんもつ)が承って、組頭の谷内蔵之允(たにくらのすけ)を使者に立て、ほめ言葉が贈られた。
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柄本又七郎へは米田監物が承って組頭谷内蔵之允を使者にやって、賞詞があった。
親戚や友人が喜びを言いに来ると、又七郎は笑って、「元亀天正(げんきてんしょう)のころ(今から百年近く前の戦の多かった時代)は、城攻めや野原での戦いが毎日の食事のようなものだった。阿部一族を討ち取るくらいは朝飯前もいいところだ」
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親戚朋友がよろこびを言いに来ると、又七郎は笑って、「元亀天正のころは、城攻め野合せが朝夕の飯同様であった、阿部一族討取りなぞは茶の子の茶の子の朝茶の子じゃ」
と言った。
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と言った。
二年たって、正保元年(しょうほうがんねん)の夏、又七郎は傷が治って光尚に会った。
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二年立って、正保元年の夏、又七郎は創が癒えて光尚に拝謁した。
光尚は鉄砲十挺(ちょう)を預けて、「傷がすっかり治るように湯治(とうじ・温泉で療養すること)がしたければせよ。また城下の外に別荘の土地をやるから、場所を望め」
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光尚は鉄砲十挺を預けて、「創が根治するように湯治がしたくばいたせ、また府外に別荘地をつかわすから、場所を望め」
と言った。
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と言った。
又七郎は益城(ましき)小池村に屋敷地をもらった。
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又七郎は益城小池村に屋敷地をもらった。
その背後は竹やぶの山である。
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その背後が藪山である。
「竹やぶの山もやろうか」
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「藪山もつかわそうか」
と光尚が伝えさせた。
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と、光尚が言わせた。
又七郎はそれを辞退した。
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又七郎はそれを辞退した。
竹は普段でもお役に立つ。
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竹は平日もご用に立つ。
戦争でもあれば、竹束(たけたば・盾として使う竹の束)がたくさん必要になる。
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戦争でもあると、竹束がたくさんいる。
それを自分の私物としていただいては気がすまない、というのである。
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それを私に拝領しては気が済まぬというのである。
そこで竹やぶの山は、いつまでも殿様からの預かり物ということになった。
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そこで藪山は永代御預けということになった。
畑十太夫は追放された。
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畑十太夫は追放せられた。
竹内数馬の兄、八兵衛(はちべえ)は自分から願い出て討手に加わりながら、弟が討死した現場に居合わせなかったので、閉門(へいもん・門を閉じて謹慎すること)を命じられた。
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竹内数馬の兄八兵衛は私に討手に加わりながら、弟の討死の場所に居合わせなかったので、閉門を仰せつけられた。
また、馬廻り(うままわり)の子で近習(きんじゅ)を勤めていたある者は、阿部の屋敷の近くに住んでいたので、「火の用心をせよ」
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また馬廻りの子で近習を勤めていた某は、阿部の屋敷に近く住まっていたので、「火の用心をいたせ」
と言われて当番を免除され、父と一緒に屋根に上がって火の粉を消していた。
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と言って当番をゆるされ、父と一しょに屋根に上がって火の子を消していた。
のちに、せっかく当番を免除してもらった殿様のお考えにそむいたと気づき、お暇(いとま・辞めさせてもらうこと)を願い出た。しかし光尚は「それは臆病な行いではない。これからはもう少し気をつけるがよいぞ」
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のちにせっかく当番をゆるされた思召しにそむいたと心づいてお暇を願ったが、光尚は「そりゃ臆病ではない、以後はも少し気をつけるがよいぞ」
と言って、そのまま勤めさせた。
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と言って、そのまま勤めさせた。
この近習は、光尚が亡くなったとき殉死した。
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この近習は光尚の亡くなったとき殉死した。
阿部一族の死骸は井出の口に引き出されて、調べられた。
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阿部一族の死骸は井出の口に引き出して、吟味せられた。
白川で一人一人の傷を洗ってみたとき、柄本又七郎の槍に胸を突き抜かれた弥五兵衛の傷は、誰の受けた傷よりも見事なものだったので、又七郎はますます名誉を得た。
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白川で一人一人の創を洗ってみたとき、柄本又七郎の槍に胸板をつき抜かれた弥五兵衛の創は、誰の受けた創よりも立派であったので、又七郎はいよいよ面目を施した。
大正二年一月
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大正二年一月