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硝子戸の中 現代語訳

夏目漱石なつめそうせき)・1988

AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-29

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硝子戸の中から外を見渡すと、霜除けをした芭蕉だの、赤い実のなった梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ目につくが、そのほかにこれといって数え立てるほどのものはほとんど視線に入ってこない。

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硝子戸ガラスどうちから外を見渡すと、霜除しもよけをした芭蕉ばしょうだの、赤いった梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、その他にこれと云って数え立てるほどのものはほとんど視線に入ってない。

書斎にいる私の視界はきわめて単調で、そしてまたきわめて狭いのである。

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書斎にいる私の眼界はきわめて単調でそうしてまた極めて狭いのである。

その上私は去年の暮から風邪を引いてほとんど表へ出ず、毎日この硝子戸の中にばかり座っているので、世間の様子はちっとも分からない。

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その上私は去年の暮から風邪かぜを引いてほとんど表へ出ずに、毎日この硝子戸の中にばかりすわっているので、世間の様子はちっとも分らない。

気分が悪いから読書もあまりしない。

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心持が悪いから読書もあまりしない。

私はただ座ったり寝たりして、その日その日を送っているだけである。

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私はただ坐ったり寝たりしてその日その日を送っているだけである。

しかし私の頭は時々動く。

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しかし私の頭は時々動く。

気分も多少は変わる。

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気分も多少は変る。

いくら狭い世界の中でも、狭いなりに事件が起こってくる。

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いくら狭い世界の中でも狭いなりに事件が起って来る。

それから、小さい私と広い世の中とを隔てているこの硝子戸の中へ、時々人が入ってくる。

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それから小さい私と広い世の中とを隔離しているこの硝子戸の中へ、時々人が入ってる。

それがまた私にとっては思いがけない人で、私の思いがけないことを言ったりしたりする。

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それがまた私にとっては思いがけない人で、私の思いがけない事を云ったりたりする。

私は興味に満ちた目で、それらの人を迎えたり送ったりしたことさえある。

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私は興味にちた眼をもってそれらの人を迎えたり送ったりした事さえある。

私はそんなものを少し書き続けてみようかと思う。

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私はそんなものを少し書きつづけて見ようかと思う。

私はそうした種類の文章が、忙しい人の目にどれほどつまらなく映るだろうかと気にしている。

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私はそうした種類の文字もんじが、忙がしい人の眼に、どれほどつまらなく映るだろうかと懸念けねんしている。

私は電車の中でポケットから新聞を出して、大きな活字だけに目を注いでいる購読者の前に、私の書くような閑散な文章を並べて紙面を埋めてみせるのを、恥ずかしいことの一つに考える。

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私は電車の中でポッケットから新聞を出して、大きな活字だけに眼をそそいでいる購読者の前に、私の書くような閑散な文字をならべて紙面をうずめて見せるのを恥ずかしいものの一つに考える。

これらの人々は火事や、泥棒や、人殺しや、すべてその日その日の出来事のうちで、自分が重大だと思う事件か、もしくは自分の神経を相当に刺激してくれる辛辣な記事のほかには、新聞を手に取る必要を認めていないくらい、時間に余裕を持たないのだから。――

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これらの人々は火事や、泥棒や、人殺しや、すべてその日その日の出来事のうちで、自分が重大と思う事件か、もしくは自分の神経を相当に刺戟しげきし得る辛辣しんらつな記事のほかには、新聞を手に取る必要を認めていないくらい、時間に余裕をもたないのだから。――

彼らは停留所で電車を待ち合わせる間に新聞を買って、電車に乗っている間に昨日起こった社会の変化を知り、そうして役所か会社へ行き着くと同時に、ポケットに収めた新聞紙のことはまるで忘れてしまわなければならないほど忙しいのだから。

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彼らは停留所で電車を待ち合わせる間に、新聞を買って、電車に乗っている間に、昨日きのう起った社会の変化を知って、そうして役所か会社へ行き着くと同時に、ポッケットに収めた新聞紙の事はまるで忘れてしまわなければならないほど忙がしいのだから。

私は今、これほど切りつめられた時間しか自由にできない人たちの軽蔑を覚悟の上で書くのである。

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私は今これほど切りつめられた時間しか自由にできない人達の軽蔑けいべつおかして書くのである。

去年からヨーロッパでは大きな戦争が始まっている。

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去年から欧洲では大きな戦争が始まっている。

そうしてその戦争がいつ済むとも見当がつかない様子である。

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そうしてその戦争がいつ済むとも見当けんとうがつかない模様である。

日本でもその戦争の一小部分を引き受けた。

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日本でもその戦争の一小部分を引き受けた。

それが済むと、今度は議会が解散になった。

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それが済むと今度は議会が解散になった。

来るべき総選挙は、政治界の人々にとって大切な問題になっている。

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きたるべき総選挙は政治界の人々にとっての大切な問題になっている。

米が安くなりすぎた結果、農家に金が入らないので、どこでも不景気だとこぼしている。

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米が安くなり過ぎた結果農家に金が入らないので、どこでも不景気だとこぼしている。

年中行事で言えば、春の相撲がもうすぐ始まろうとしている。

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年中行事で云えば、春の相撲すもうが近くに始まろうとしている。

要するに世の中は大変にせわしい。

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要するに世の中は大変多事である。

硝子戸の中にじっと座っている私などは、ちょっと新聞に顔が出せないような気がする。

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硝子戸の中にじっと坐っている私なぞはちょっと新聞に顔が出せないような気がする。

私が書けば、政治家や軍人や実業家や相撲狂を押しのけて書くことになる。

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私が書けば政治家や軍人や実業家や相撲狂すもうきょう退けて書く事になる。

私だけでは、とてもそれほどの度胸が出てこない。

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私だけではとてもそれほどの胆力が出て来ない。

ただ春に何か書いてみろと言われたから、自分以外にあまり関係のないつまらないことを書くのである。

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ただ春に何か書いて見ろと云われたから、自分以外にあまり関係のないつまらぬ事を書くのである。

それがいつまで続くかは、私の筆の都合と、紙面の編集の都合とで決まるのだから、はっきりした見当は今のところつきかねる。

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それがいつまでつづくかは、私の筆の都合つごうと、紙面の編輯へんしゅうの都合とできまるのだから、判然はっきりした見当は今つきかねる。

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電話口へ呼び出されたので受話器を耳にあてて用事を聞いてみると、ある雑誌社の男が、私の写真をもらいたいのだが、いつ撮りに行っていいか都合を知らせてくれ、というのである。

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電話口へ呼び出されたから受話器を耳へあてがって用事をいて見ると、ある雑誌社の男が、私の写真をもらいたいのだが、いつりに行って好いか都合を知らしてくれろというのである。

私は「写真は少し困ります」

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私は「写真は少し困ります」

と答えた。

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と答えた。

私はこの雑誌とまるで関係を持っていなかった。

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私はこの雑誌とまるで関係をもっていなかった。

それでも過去三、四年の間に、その一、二冊を手にした記憶はあった。

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それでも過去三四年の間にその一二冊を手にした記憶はあった。

人の笑っている顔ばかりをたくさん載せるのがその特色だと思ったほかには、今は何も頭に残っていない。

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人の笑っている顔ばかりをたくさんせるのがその特色だと思ったほかに、今は何にも頭に残っていない。

けれども、そこにわざとらしく笑っている顔の多くが私に与えた不快な印象は、いまだに消えずにいた。

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けれどもそこにわざとらしく笑っている顔の多くが私に与えた不快の印象はいまだに消えずにいた。

それで私は断ろうとしたのである。

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それで私はことわろうとしたのである。

雑誌の男は、卯年の正月号だから卯年の人の顔を並べたいのだという希望を述べた。

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雑誌の男は、卯年うどしの正月号だから卯年の人の顔を並べたいのだという希望を述べた。

私は先方の言うとおり卯年の生まれに違いなかった。

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私は先方のいう通り卯年の生れに相違なかった。

それで私はこう言った。――

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それで私はこう云った。――

「あなたの雑誌へ出すために撮る写真は、笑わなくてはいけないのでしょう」

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「あなたの雑誌へ出すためにる写真は笑わなくってはいけないのでしょう」

「いえ、そんなことはありません」

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「いえそんな事はありません」

と相手はすぐ答えた。

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と相手はすぐ答えた。

まるで私が今までその雑誌の特色を誤解していたかのように。

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あたかも私が今までその雑誌の特色を誤解していたごとくに。

「当たり前の顔で構わないなら、載せていただいてもよろしいです」

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「当り前の顔で構いませんなら載せていただいてもよろしゅうございます」

「いえ、それで結構でございますから、どうぞ」

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「いえそれで結構でございますから、どうぞ」

私は相手と期日の約束をした上、電話を切った。

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私は相手と期日の約束をした上、電話を切った。

一日おいて、打ち合わせた時間に、電話をかけた男がきれいな洋服を着て、写真機を携えて私の書斎に入ってきた。

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中一日なかいちにちおいて打ち合せをした時間に、電話をかけた男が、綺麗きれいな洋服を着て写真機をたずさえて私の書斎に這入はいって来た。

私はしばらくその人と、彼の従事している雑誌について話をした。

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私はしばらくその人と彼の従事している雑誌について話をした。

それから写真を二枚撮ってもらった。

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それから写真を二枚って貰った。

一枚は机の前に座っている普段の姿、一枚は寒い庭先の霜の上に立っている普通の格好であった。

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一枚は机の前に坐っている平生の姿、一枚は寒い庭前にわさきしもの上に立っている普通の態度であった。

書斎は光がよく入らないので、機械を据えつけてからマグネシウムを燃やした。

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書斎は光線がよくとおらないので、機械をえつけてからマグネシアをした。

その火が燃えるすぐ前に、彼は顔を半分ばかり私の方へ出して、「お約束ではございますが、少しどうか笑っていただけませんでしょうか」

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その火の燃えるすぐ前に、彼は顔を半分ばかり私の方へ出して、「御約束ではございますが、少しどうか笑っていただけますまいか」

と言った。

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と云った。

私はその時、突然かすかなおかしみを感じた。

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私はその時突然かすかな滑稽こっけいを感じた。

しかし同時に、馬鹿なことを言う男だという気もした。

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しかし同時に馬鹿な事をいう男だという気もした。

私は「これでいいでしょう」

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私は「これで好いでしょう」

と言ったきり、先方の注文には取り合わなかった。

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と云ったなり先方の注文には取り合わなかった。

彼が私を庭の木立の前に立たせて、レンズを私の方へ向けた時も、また前と同じような丁寧な調子で、「お約束ではございますが、少しどうか……」

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彼が私を庭の木立こだちの前に立たして、レンズを私の方へ向けた時もまた前と同じような鄭寧ていねいな調子で、「御約束ではございますが、少しどうか……」

と同じ言葉を繰り返した。

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と同じ言葉をかえした。

私は前よりもなお笑う気になれなかった。

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私は前よりもなお笑う気になれなかった。

それから四日ばかり経つと、彼は郵便で私の写真を届けてくれた。

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それから四日ばかりつと、彼は郵便で私の写真を届けてくれた。

しかしその写真は、まさしく彼の注文どおりに笑っていたのである。

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しかしその写真はまさしく彼の注文通りに笑っていたのである。

その時私は当てが外れた人のように、しばらく自分の顔を見つめていた。

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その時私はあてはずれた人のように、しばらく自分の顔を見つめていた。

私にはそれが、どうしても手を加えて笑っているように仕立てたものとしか見えなかったからである。

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私にはそれがどうしても手を入れて笑っているようにこしらえたものとしか見えなかったからである。

私は念のため、家へ来る四、五人の者にその写真を出して見せた。

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私は念のためうちへ来る四五人のものにその写真を出して見せた。

彼らはみんな私と同じように、どうも作って笑わせたものらしいという判定を下した。

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彼らはみんな私と同様に、どうも作って笑わせたものらしいという鑑定をくだした。

私は生まれてから今日までに、人の前で笑いたくもないのに笑ってみせた経験が何度となくある。

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私は生れてから今日こんにちまでに、人の前で笑いたくもないのに笑って見せた経験が何度となくある。

その偽りが、今この写真屋のために復讐されたのかもしれない。

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そのいつわりが今この写真師のために復讐ふくしゅうを受けたのかも知れない。

彼は気味のよくない苦笑いを漏らしている私の写真を送ってくれたけれども、その写真を載せると言った雑誌は、ついに届けなかった。

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彼は気味のよくない苦笑をらしている私の写真を送ってくれたけれども、その写真を載せると云った雑誌はついに届けなかった。

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私がHさんからヘクトーをもらった時のことを考えると、もういつの間にか三、四年の昔になっている。

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私がHさんからヘクトーを貰った時の事を考えると、もういつの間にか三四年の昔になっている。

何だか夢のような気持ちもする。

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何だか夢のような心持もする。

その時、彼はまだ乳離れをしたばかりの子どもであった。

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その時彼はまだ乳離ちばなれのしたばかりの小供であった。

Hさんのお弟子は、彼を風呂敷に包んで電車に乗せ、家まで連れてきてくれた。

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Hさんの御弟子は彼を風呂敷ふろしきに包んで電車にせてうちまで連れて来てくれた。

私はその夜、彼を裏の物置の隅に寝かせた。

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私はその彼を裏の物置のすみに寝かした。

寒くないように藁を敷いて、できるだけ居心地のいい寝床をこしらえてやったあと、私は物置の戸を閉めた。

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寒くないようにわらを敷いて、できるだけ居心地の好い寝床ねどここしらえてやったあと、私は物置の戸をめた。

すると彼は宵のうちから泣き出した。

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すると彼はよいくちから泣き出した。

夜中には物置の戸を爪で掻き破って外へ出ようとした。

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夜中には物置の戸を爪で掻き破って外へ出ようとした。

彼は暗い所にたった一人で寝るのが寂しかったのだろう、翌朝までまんじりともしない様子であった。

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彼は暗い所にたったひとり寝るのが淋しかったのだろう、あくあさまでまんじりともしない様子であった。

この不安は次の晩も続いた。

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この不安は次の晩もつづいた。

そのまた次の晩も続いた。

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そのつぎの晩もつづいた。

私は一週間あまりかかって、彼が与えられた藁の上でようやく安らかに眠るようになるまで、彼のことが夜になると必ず気にかかった。

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私は一週間余りかかって、彼が与えられた藁の上にようやく安らかに眠るようになるまで、彼の事がよるになると必ず気にかかった。

私の子どもは彼を珍しがって、暇さえあればおもちゃにした。

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私の小供は彼を珍らしがって、がなすきがな玩弄物おもちゃにした。

けれども名前がないので、ついに彼を呼ぶことができなかった。

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けれども名がないのでついに彼を呼ぶ事ができなかった。

ところが生きたものを相手にする彼らには、どうしても相手の名を呼んで遊ぶ必要があった。

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ところが生きたものを相手にする彼らには、是非とも先方の名を呼んで遊ぶ必要があった。

それで彼らは私に向かって、犬に名前をつけてくれとせがみ出した。

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それで彼らは私に向って犬に名をけてくれとせがみ出した。

私はとうとうヘクトーという偉い名を、この子どもたちの友達に与えた。

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私はとうとうヘクトーという偉い名を、この小供達の朋友ほうゆうに与えた。

それはイリアッドに出てくる、トロイ一の勇将の名前であった。

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それはイリアッドに出てくるトロイ一の勇将の名前であった。

トロイとギリシャが戦争をした時、ヘクトーはついにアキリスに討たれた。

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トロイと希臘ギリシャと戦争をした時、ヘクトーはついにアキリスのために打たれた。

アキリスは、ヘクトーに殺された自分の友達の敵を討ったのである。

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アキリスはヘクトーに殺された自分の友達のかたきを取ったのである。

アキリスが怒ってギリシャ方から躍り出した時に、城の中へ逃げ込まなかったのはヘクトー一人であった。

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アキリスがいかって希臘がたからおどり出した時に、城の中に逃げ込まなかったものはヘクトー一人であった。

ヘクトーは三度トロイの城壁をめぐって、アキリスの矛先を避けた。

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ヘクトーは三たびトロイの城壁をめぐってアキリスの鋒先ほこさきを避けた。

アキリスも三度トロイの城壁をめぐって、その後を追いかけた。

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アキリスも三たびトロイの城壁をめぐってそのあとを追いかけた。

そうして最後にとうとうヘクトーを槍で突き殺した。

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そうしてしまいにとうとうヘクトーをやりで突き殺した。

それから彼の死骸を自分の戦車に縛りつけて、またトロイの城壁を三度引きずり回した。……

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それから彼の死骸しがいを自分の軍車チャリオットしばりつけてまたトロイの城壁を三度り廻した。……

私はこの偉大な名を、風呂敷包みにして持ってきた小さい犬に与えたのである。

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私はこの偉大な名を、風呂敷包にして持って来た小さい犬に与えたのである。

何も知らないはずの家の子どもも、初めは変な名前だなあと言っていた。

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何にも知らないはずのうちの小供も、始めは変な名だなあと云っていた。

しかしすぐに慣れた。

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しかしじきに慣れた。

犬もヘクトーと呼ばれるたびに、嬉しそうに尾を振った。

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犬もヘクトーと呼ばれるたびに、うれしそうに尾を振った。

しまいには、さすがの名もジョンとかジョージとかいう平凡なキリスト教信者の名前と同じで、少しも古典的な響きを私に与えなくなった。

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しまいにはさすがの名もジョンとかジォージとかいう平凡な耶蘇教信者ヤソきょうしんじゃの名前と一様に、ごう古典的クラシカルな響を私に与えなくなった。

同時に彼は、しだいに家の者から以前ほど大事にされなくなった。

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同時に彼はしだいに宅のものからもとほど珍重されないようになった。

ヘクトーは、多くの犬がたいていかかるジステンパーという病気のために、一時入院したことがある。

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ヘクトーは多くの犬がたいていかかるジステンパーという病気のために一時入院した事がある。

その時は子どもがよく見舞いに行った。

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その時は子供がよく見舞みまいに行った。

私も見舞いに行った。

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私も見舞に行った。

私が行った時、彼はいかにも嬉しそうに尾を振って、懐かしそうな目を私に向けた。

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私の行った時、彼はさも嬉しそうに尾を振って、なつかしい眼を私の上に向けた。

私はしゃがんで自分の顔を彼のそばへ持っていき、右の手で彼の頭を撫でてやった。

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私はしゃがんで私の顔を彼のそばへ持って行って、右の手で彼の頭をでてやった。

彼はその返礼に、私の顔をところ構わず舐めようとしてやまなかった。

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彼はその返礼に私の顔を所嫌ところきらわずめようとしてやまなかった。

その時彼は、私の見ている前で、初めて医者の勧める少量の牛乳を飲んだ。

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その時彼は私の見ている前で、始めて医者のすすめる小量の牛乳をんだ。

それまで首をかしげていた医者も、この分ならあるいは治るかもしれないと言った。

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それまで首をかしげていた医者も、この分ならあるいはなおるかも知れないと云った。

ヘクトーは案の定治った。

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ヘクトーははたして癒った。

そうして家へ帰ってきて、元気に飛び回った。

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そうしてうちへ帰って来て、元気に飛び廻った。

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間もなく、彼は二、三の友達をこしらえた。

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日ならずして、彼は二三の友達をこしらえた。

その中で最も親しかったのは、すぐ前の医者の家にいる、彼と同じ年ごろのいたずら者であった。

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そのうちで最も親しかったのはすぐ前の医者の宅にいる彼と同年輩ぐらいの悪戯者いたずらものであった。

これはキリスト教徒にふさわしいジョンという名前を持っていたが、その性質は異端者のヘクトーよりもはるかに劣っていたようである。

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これは基督教徒キリストきょうと相応ふさわしいジョンという名前を持っていたが、その性質は異端者いたんしゃのヘクトーよりもはるかに劣っていたようである。

むやみに人に噛みつく癖があるので、しまいにはとうとう打ち殺されてしまった。

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むやみに人にみつくくせがあるので、しまいにはとうとうころされてしまった。

彼はこの悪友を自分の庭に引き入れて、勝手な乱暴を働いて私を困らせた。

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彼はこの悪友を自分の庭に引き入れて勝手な狼藉ろうぜきを働らいて私を困らせた。

彼らはしきりに木の根を掘って、用もないのに大きな穴を開けて喜んだ。

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彼らはしきりに樹の根を掘って用もないのに大きな穴をけて喜んだ。

きれいな草花の上にわざと寝転んで、花も茎も容赦なく散らしたり、倒したりした。

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綺麗きれいな草花の上にわざと寝転ねころんで、花も茎も容赦ようしゃなく散らしたり、倒したりした。

ジョンが殺されてから、退屈な彼は夜遊び昼遊びを覚えるようになった。

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ジョンが殺されてから、無聊ぶりょうな彼は夜遊よあそび昼遊びを覚えるようになった。

散歩などに出かける時、私はよく交番のそばで日向ぼっこをしている彼を見ることがあった。

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散歩などに出かける時、私はよく交番のそば日向ひなたぼっこをしている彼を見る事があった。

それでも家にさえいれば、よくうさん臭いものに吠えついてみせた。

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それでも宅にさえいれば、よくうさん臭いものにえついて見せた。

そのうちで最も猛烈に彼の攻撃を受けたのは、本所あたりから来る十歳ばかりの角兵衛獅子の子であった。

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そのうちで最も猛烈に彼の攻撃を受けたのは、本所辺から来る十歳とおばかりになる角兵衛獅子かくべえじしの子であった。

この子はいつでも「こんにちは、お祝い」

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この子はいつでも「今日こんちは御祝い」

と言って入ってくる。

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と云って入って来る。

そうして家の者からパンの皮と一銭銅貨をもらわないうちは帰らないと、一人で決めていた。

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そうしてうちの者から、麺麭パンの皮と一銭銅貨を貰わないうちは帰らない事に一人できめていた。

だからヘクトーがいくら吠えても逃げ出さなかった。

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だからヘクトーがいくら吠えても逃げ出さなかった。

かえってヘクトーの方が、吠えながら尻尾を股の間に挟んで物置の方へ退却するのが決まりになっていた。

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かえってヘクトーの方が、吠えながら尻尾しっぽまたの間にはさんで物置の方へ退却するのが例になっていた。

要するにヘクトーは弱虫であった。

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要するにヘクトーは弱虫であった。

そうして素行から言うと、ほとんど野良犬と選ぶところがないほどに堕落していた。

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そうして操行からいうと、ほとんど野良犬のらいぬえらぶところのないほどに堕落していた。

それでも、犬に共通の人懐っこい愛情はいつまでも失わずにいた。

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それでも彼らに共通な人懐ひとなつっこい愛情はいつまでも失わずにいた。

時々顔を合わせると、彼は必ず尾を振って私に飛びついてきた。

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時々顔を見合せると、彼はかならず尾をって私に飛びついて来た。

あるいは彼の背中を遠慮なく私の体に擦りつけた。

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あるいは彼の背を遠慮なく私の身体からだりつけた。

私は彼の泥足のために、衣服や外套を汚したことが何度あるか分からない。

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私は彼の泥足のために、衣服や外套がいとうよごした事が何度あるか分らない。

去年の夏から秋にかけて病気をした私は、一カ月ばかりの間、ついにヘクトーに会う機会を得ずに過ぎた。

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去年の夏から秋へかけて病気をした私は、一カ月ばかりのあいだついにヘクトーに会う機会を得ずに過ぎた。

病気がようやく軽くなって、床の外へ出られるようになってから、私は初めて茶の間の縁に立って、彼の姿を宵闇の中に見つけた。

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やまいがようやくおこたって、とこの外へ出られるようになってから、私は始めて茶の間のえんに立って彼の姿を宵闇よいやみうちに認めた。

私はすぐ彼の名を呼んだ。

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私はすぐ彼の名を呼んだ。

しかし生垣の根元にじっとうずくまっている彼は、いくら呼んでも少しも私の情に応じなかった。

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しかし生垣いけがきの根にじっとうずくまっている彼は、いくら呼んでも少しも私のなさけに応じなかった。

彼は首も動かさず、尾も振らず、ただ白い塊のまま垣根にこびりついているだけであった。

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彼は首も動かさず、尾も振らず、ただ白いかたまりのまま垣根にこびりついてるだけであった。

私は一カ月ばかり会わないうちに、彼がもう主人の声を忘れてしまったのだと思って、かすかな哀しみを感じずにはいられなかった。

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私は一カ月ばかり会わないうちに、彼がもう主人の声を忘れてしまったものと思って、かすかな哀愁あいしゅうを感ぜずにはいられなかった。

まだ秋の初めなので、どの部屋の雨戸も閉められておらず、星の光が開け放たれた家の中からよく見える晩であった。

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まだ秋の始めなので、どこのの雨戸もめられずに、星の光が明け放たれた家の中からよく見られる晩であった。

私が立っていた茶の間の縁には、家の者が二、三人いた。

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私の立っていた茶の間の縁には、うちのものが二三人いた。

けれども私がヘクトーの名前を呼んでも、彼らは振り向きもしなかった。

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けれども私がヘクトーの名前を呼んでも彼らはふり向きもしなかった。

私がヘクトーに忘れられたように、彼らもまたヘクトーのことをまるで念頭に置いていないように思われた。

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私がヘクトーに忘れられたごとくに、彼らもまたヘクトーの事をまるで念頭に置いていないように思われた。

私は黙って座敷へ帰って、そこに敷いてある布団の上に横になった。

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私は黙って座敷へ帰って、そこに敷いてある布団ふとんの上に横になった。

病後の私は、季節に不似合いな黒八丈の襟のかかった銘仙のどてらを着ていた。

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病後の私は季節に不相当な黒八丈くろはちじょうえりのかかった銘仙めいせんのどてらを着ていた。

私はそれを脱ぐのが面倒だから、そのまま仰向けに寝て、手を胸の上で組み合わせたまま、黙って天井を見つめていた。

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私はそれを脱ぐのが面倒だから、そのまま仰向あおむけに寝て、手を胸の上で組み合せたなり黙って天井てんじょうを見つめていた。

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翌朝、書斎の縁に立って初秋の庭の面を見渡した時、私は偶然また彼の白い姿を苔の上に見つけた。

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翌朝あくるあさ書斎の縁に立って、初秋はつあきの庭のおもてを見渡した時、私は偶然また彼の白い姿をこけの上に認めた。

私は昨夜の失望を繰り返すのが嫌さに、わざと彼の名を呼ばなかった。

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私は昨夕ゆうべの失望をかえすのがいやさに、わざと彼の名を呼ばなかった。

けれども立ったまま、じっと彼の様子を見守らずにはいられなかった。

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けれども立ったなりじっと彼の様子を見守らずにはいられなかった。

彼は立木の根元に据えつけた石の手水鉢の中に首を突っ込んで、そこに溜まっている雨水をぴちゃぴちゃ飲んでいた。

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彼は立木たちき根方ねがたえつけた石の手水鉢ちょうずばちの中に首を突き込んで、そこにたまっている雨水あまみずをぴちゃぴちゃ飲んでいた。

この手水鉢は、いつ誰が持ってきたとも知れず裏庭の隅に転がっていたのを、引っ越した当時に植木屋に言いつけて今の位置へ移させた六角形のもので、その頃は苔が一面に生えて、側面に刻みつけた文字も全く読めないようになっていた。

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この手水鉢はいつ誰が持って来たとも知れず、裏庭のすみころがっていたのを、引越した当時植木屋に命じて今の位置に移させた六角形ろっかくがたのもので、その頃はこけが一面にえて、側面に刻みつけた文字もんじも全く読めないようになっていた。

しかし私には、移す前に一度はっきりとそれを読んだ記憶があった。

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しかし私には移す前一度判然はっきりとそれを読んだ記憶があった。

そうしてその記憶が文字としては頭に残らず、変な感情としていまだに胸の中を行き来していた。

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そうしてその記憶が文字として頭に残らないで、変な感情としていまだに胸の中を往来していた。

そこには寺と仏と無常の匂いが漂っていた。

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そこには寺と仏と無常のにおいただよっていた。

ヘクトーは元気なさそうに尻尾を垂れて、私の方へ背中を向けていた。

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ヘクトーは元気なさそうに尻尾しっぽを垂れて、私の方へ背中を向けていた。

手水鉢を離れた時、私は彼の口から流れるよだれを見た。

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手水鉢を離れた時、私は彼の口から流れる垂涎よだれを見た。

「どうかしてやらないといけない。病気だから」

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「どうかしてやらないといけない。病気だから」

と言って、私は看護婦を振り返った。

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と云って、私は看護婦をかえりみた。

私はその時まだ看護婦を使っていたのである。

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私はその時まだ看護婦を使っていたのである。

私は次の日も、木賊の中に寝ている彼を一目見た。

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私は次の日も木賊とくさの中に寝ている彼を一目見た。

そうして同じ言葉を看護婦に繰り返した。

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そうして同じ言葉を看護婦に繰り返した。

しかしヘクトーは、それ以来姿を隠したきり、二度と家へ帰ってこなかった。

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しかしヘクトーはそれ以来姿を隠したぎり再びうちへ帰って来なかった。

「医者へ連れて行こうと思って探したけれども、どこにもおりません」

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「医者へ連れて行こうと思って、探したけれどもどこにもおりません」

家の者はこう言って私の顔を見た。

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うちのものはこう云って私の顔を見た。

私は黙っていた。

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私は黙っていた。

しかし腹の中では、彼をもらい受けた当時のことまで思い起こされた。

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しかし腹の中では彼を貰い受けた当時の事さえ思い起された。

届け書を出す時、種類という欄の下に雑種と書いたり、色という字の下に赤まだらと書いたりしたおかしさも、かすかに胸に浮かんだ。

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届書とどけしょを出す時、種類という下へ混血児あいのこと書いたり、色という字の下へ赤斑あかまだらと書いた滑稽こっけいかすかに胸に浮んだ。

彼がいなくなって約一週間も経ったと思う頃、一、二丁離れたある人の家から下女が使いに来た。

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彼がいなくなって約一週間もったと思う頃、一二丁へだたったある人の家から下女が使に来た。

その人の庭にある池の中に犬の死骸が浮いているので、引き上げて首輪を改めてみると、私の家の名前が彫りつけてあったので、知らせに来たというのである。

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その人の庭にある池の中に犬の死骸しがいが浮いているから引き上げて頸輪くびわを改ためて見ると、私の家の名前がりつけてあったので、知らせに来たというのである。

下女は「こちらで埋めておきましょうか」

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下女は「こちらでめておきましょうか」

と尋ねた。

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と尋ねた。

私はすぐ車屋をやって、彼を引き取らせた。

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私はすぐ車夫くるまやをやって彼を引き取らせた。

私は、下女をわざわざ寄こしてくれた家がどこにあるのか知らなかった。

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私は下女をわざわざ寄こしてくれたうちがどこにあるか知らなかった。

ただ私が子どもの時分から覚えている古い寺のそばだろうとばかり考えていた。

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ただ私の小供の時分から覚えている古い寺のそばだろうとばかり考えていた。

それは山鹿素行の墓のある寺で、山門の手前に、旧幕時代の名残のように古い榎が一本立っているのが、私の書斎の北の縁からたくさんの屋根を越してよく見えた。

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それは山鹿素行やまがそこうの墓のある寺で、山門の手前に、旧幕時代の記念のように、古いえのきが一本立っているのが、私の書斎の北の縁から数多あまたの屋根を越してよく見えた。

車屋はむしろの中にヘクトーの死骸をくるんで帰ってきた。

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車夫はむしろの中にヘクトーの死骸をくるんで帰って来た。

私はわざとそれに近づかなかった。

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私はわざとそれに近づかなかった。

白木の小さい墓標を買ってこさせて、それに「秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ」

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白木しらきの小さい墓標を買ってさして、それへ「秋風の聞えぬ土にめてやりぬ」

という一句を書いた。

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という一句を書いた。

私はそれを家の者に渡して、ヘクトーの眠っている土の上に建てさせた。

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私はそれをうちのものに渡して、ヘクトーの眠っている土の上に建てさせた。

彼の墓は猫の墓から東北に当たって、ほぼ一間ばかり離れているが、私の書斎の、寒い日の照らない北側の縁に出て、硝子戸の中から霜に荒らされた裏庭をのぞくと、二つともよく見える。

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彼の墓は猫の墓から東北ひがしきたに当って、ほぼ一間ばかり離れているが、私の書斎の、寒い日の照らない北側の縁に出て、硝子戸ガラスどのうちから、しもに荒された裏庭をのぞくと、二つともよく見える。

もう薄黒く朽ちかけた猫のに比べると、ヘクトーのはまだ生々しく光っている。

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もう薄黒くちかけた猫のに比べると、ヘクトーのはまだ生々なまなましく光っている。

しかし間もなく二つとも同じ色に古びて、同じように人の目につかなくなるだろう。

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しかし間もなく二つとも同じ色に古びて、同じく人の眼につかなくなるだろう。

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私はその女に、前後四、五回会った。

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私はその女に前後四五回会った。

初めて訪ねられた時、私は留守であった。

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始めてたずねられた時私は留守るすであった。

取次の者が紹介状を持ってくるように注意したら、彼女は別にそんなものをもらう当てがないと言って帰って行ったそうである。

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取次のものが紹介状を持って来るように注意したら、彼女は別にそんなものを貰う所がないといって帰って行ったそうである。

それから一日ほど経って、女は手紙で直接に私の都合を問い合わせてきた。

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それから一日ほどって、女は手紙で直接じかに私の都合を聞き合せに来た。

その手紙の封筒から、私は女がつい目と鼻の先に住んでいることを知った。

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その手紙の封筒から、私は女がつい眼と鼻の間に住んでいる事を知った。

私はすぐ返事を書いて、面会日を指定してやった。

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私はすぐ返事を書いて面会日を指定してやった。

女は約束の時間をたがえずに来た。

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女は約束の時間をたがえず来た。

三つ柏の紋のついた派手な色の縮緬の羽織を着ているのが、一番先に私の目に映った。

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かしわもんのついた派出はでな色の縮緬ちりめんの羽織を着ているのが、一番先に私の眼に映った。

女は私の書いたものをたいてい読んでいるらしかった。

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女は私の書いたものをたいてい読んでいるらしかった。

それで話は、多くそちらの方面へばかり延びていった。

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それで話は多くそちらの方面へばかり延びて行った。

しかし自分の著作について、初対面の人から賛辞ばかり受けているのは、ありがたいようで、はなはだこそばゆいものである。

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しかし自分の著作について初見しょけんの人から賛辞さんじばかり受けているのは、ありがたいようではなはだこそばゆいものである。

実を言うと私は閉口した。

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実をいうと私は辟易へきえきした。

一週間おいて女は再び来た。

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一週間おいて女は再び来た。

そうして私の作品をまた褒めてくれた。

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そうして私の作物さくぶつをまためてくれた。

けれども私の心は、むしろそういう話題を避けたがっていた。

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けれども私の心はむしろそういう話題を避けたがっていた。

三度目に来た時、女は何かに感激したものと見えて、袂からハンカチを出して、しきりに涙を拭った。

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三度目に来た時、女は何かに感激したものと見えて、たもとから手帛ハンケチを出して、しきりに涙をぬぐった。

そうして私に、自分がこれまで経てきた悲しい歴史を書いてくれないかと頼んだ。

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そうして私に自分のこれまで経過して来た悲しい歴史を書いてくれないかと頼んだ。

しかしその話をまだ聞いていない私には、何の返事も与えられなかった。

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しかしその話を聴かない私には何という返事も与えられなかった。

私は女に向かって、もし書くとしても迷惑を感じる人が出てきはしないかと聞いてみた。

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私は女に向って、よし書くにしたところで迷惑を感ずる人が出て来はしないかといて見た。

女は思いのほかはっきりした口調で、実名さえ出さなければ構わないと答えた。

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女は存外判然はっきりした口調で、実名じつみょうさえ出さなければ構わないと答えた。

それで私はとにかく彼女の経歴を聞くために、わざわざ時間を作った。

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それで私はとにかく彼女の経歴をくために、とくに時間をこしらえた。

するとその日になって、女は私に会いたいという別の女の人を連れてきて、例の話はこの次に延ばしてもらいたいと言った。

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するとその日になって、女は私に会いたいという別の女の人を連れて来て、例の話はこの次に延ばして貰いたいと云った。

私にはもとより、彼女が約束を破ったのを責める気はなかった。

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私にはもとより彼女の違約を責める気はなかった。

二人を相手に世間話をして別れた。

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二人を相手に世間話をして別れた。

彼女が最後に私の書斎に座ったのは、その次の日の晩であった。

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彼女が最後に私の書斎にすわったのはその次の日の晩であった。

彼女は自分の前に置かれた桐の手あぶりの灰を真鍮の火箸で突っつきながら、悲しい身の上話を始める前に、黙っている私にこう言った。

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彼女は自分の前に置かれたきり手焙てあぶりの灰を、真鍮しんちゅう火箸ひばしで突ッつきながら、悲しい身の上話を始める前、黙っている私にこう云った。

「この間は興奮して、私のことを書いていただきたいように申し上げましたが、それはやめにいたします。ただ先生に聞いていただくだけにしておきますから、どうかそのおつもりで……」

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「この間は昂奮こうふんして私の事を書いていただきたいように申し上げましたが、それはめに致します。ただ先生に聞いていただくだけにしておきますから、どうかそのおつもりで……」

私はそれに対してこう答えた。

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私はそれに対してこう答えた。

「あなたの許しを得ない以上は、たとえどんなに書きたい事柄が出てきても、決して書く心配はありませんから、ご安心なさい」

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「あなたの許諾を得ない以上は、たといどんなに書きたい事柄ことがらが出て来てもけっして書く気遣きづかいはありませんから御安心なさい」

私が十分な保証を女に与えたので、女はそれではと言って、彼女の七、八年前からの経歴を話し始めた。

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私が充分な保証を女に与えたので、女はそれではと云って、彼女の七八年前からの経歴を話し始めた。

私は黙ったまま女の顔を見守っていた。

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私は黙然もくねんとして女の顔を見守っていた。

しかし女はたいてい目を伏せて、火鉢の中ばかり眺めていた。

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しかし女は多く眼を伏せて火鉢ひばちの中ばかり眺めていた。

そうしてきれいな指で真鍮の火箸を握っては、灰の中へ突き刺した。

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そうして綺麗きれいな指で、真鍮の火箸を握っては、灰の中へ突き刺した。

時々腑に落ちないところが出てくると、私は女に向かって短い質問をかけた。

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時々に落ちないところが出てくると、私は女に向って短かい質問をかけた。

女は簡単に、しかも私が納得できるように答えた。

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女は単簡たんかんにまた私の納得なっとくできるように答をした。

しかしたいていは自分一人で話していたので、私はむしろ木像のようにじっとしているだけであった。

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しかしたいていは自分一人で口をいていたので、私はむしろ木像のようにじっとしているだけであった。

やがて女の頬はほてって赤くなった。

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やがて女の頬はほてって赤くなった。

白粉をつけていないせいか、そのほてった頬の色がはっきりと私の目についた。

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白粉おしろいをつけていないせいか、その熱った頬の色が著るしく私の眼に着いた。

うつむいているので、豊かな黒い髪の毛も、自然と私の注意を引く種になった。

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俯向うつむきになっているので、たくさんある黒い髪の毛も自然私の注意をく種になった。

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女の告白は、聞いている私を息苦しくさせるほどに悲痛をきわめたものであった。

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女の告白は聴いている私を息苦しくしたくらいに悲痛をきわめたものであった。

彼女は私に向かってこんな質問をかけた。――

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彼女は私に向ってこんな質問をかけた。――

「もし先生が小説をお書きになる場合には、その女の始末をどうなさいますか」

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「もし先生が小説を御書きになる場合には、その女の始末をどうなさいますか」

私は返答に困った。

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私は返答に窮した。

「女は死ぬ方がいいとお思いになりますか、それとも生きているようにお書きになりますか」

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「女の死ぬ方がいいと御思いになりますか、それとも生きているように御書きになりますか」

私はどちらにでも書けると答えて、それとなく女の様子をうかがった。

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私はどちらにでも書けると答えて、あんに女の気色けしきをうかがった。

女は、もっとはっきりした返事を私から求めているように見えた。

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女はもっと判然した挨拶あいさつを私から要求するように見えた。

私は仕方なしにこう答えた。――

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私は仕方なしにこう答えた。――

「生きるということを人間の中心点として考えれば、そのままにしていて差し支えないでしょう。しかし美しいものや気高いものを第一に置いて人間を評価すれば、問題が違ってくるかもしれません」

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「生きるという事を人間の中心点として考えれば、そのままにしていて差支さしつかえないでしょう。しかし美くしいものや気高けだかいものを一義において人間を評価すれば、問題が違って来るかも知れません」

「先生はどちらをお選びになりますか」

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「先生はどちらを御択おえらびになりますか」

私はまたためらった。

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私はまた躊躇ちゅうちょした。

黙って女の言うことを聞いているよりほかに仕方がなかった。

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黙って女のいう事を聞いているよりほかに仕方がなかった。

「私は今持っているこの美しい気持ちが、時間というもののためにだんだん薄れていくのが怖くてたまらないのです。この記憶が消えてしまって、ただ漫然と魂の抜け殻のように生きている未来を想像すると、それが苦痛で苦痛で、恐ろしくてたまらないのです」

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「私は今持っているこの美しい心持が、時間というもののためにだんだん薄れて行くのがこわくってたまらないのです。この記憶が消えてしまって、ただ漫然と魂の抜殻ぬけがらのように生きている未来を想像すると、それが苦痛で苦痛で恐ろしくってたまらないのです」

私は、女が今この広い世の中にたった一人で立って、一寸も身動きのできない位置にいることを知っていた。

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私は女が今広い世間せかいの中にたった一人立って、一寸いっすんも身動きのできない位置にいる事を知っていた。

そうしてそれが、私の力ではどうすることもできないほど切羽詰まった境遇であることも知っていた。

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そうしてそれが私の力でどうする訳にも行かないほどに、せっぱつまった境遇である事も知っていた。

私は手のつけようのない人の苦痛を傍観する位置に立たされて、じっとしていた。

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私は手のつけようのない人の苦痛を傍観する位置に立たせられてじっとしていた。

私は薬を飲む時間を計るため、客の前もはばからず、いつも懐中時計を座布団のわきに置く癖を持っていた。

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私は服薬の時間を計るため、客の前もはばからず常に袂時計たもとどけい座蒲団ざぶとんわきに置くくせをもっていた。

「もう十一時だから、お帰りなさい」

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「もう十一時だから御帰りなさい」

と、私は最後に女に言った。

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と私はしまいに女に云った。

女は嫌な顔もせずに立ち上がった。

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女はいやな顔もせずに立ち上った。

私はまた「夜が更けたから送っていってあげましょう」

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私はまた「夜がけたから送って行って上げましょう」

と言って、女と一緒に沓脱ぎに下りた。

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と云って、女と共に沓脱くつぬぎに下りた。

その時、美しい月が静かな夜を隅々まで照らしていた。

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その時美くしい月が静かなを残るくまなく照らしていた。

往来へ出ると、ひっそりした土の上に響く下駄の音は、まるで聞こえなかった。

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往来へ出ると、ひっそりした土の上にひびく下駄げたの音はまるで聞こえなかった。

私は懐手をしたまま帽子もかぶらずに、女の後についていった。

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私は懐手ふところでをしたまま帽子もかぶらずに、女のあといて行った。

曲がり角の所で女はちょっと会釈して、「先生に送っていただいてはもったいのうございます」

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曲り角の所で女はちょっと会釈えしゃくして、「先生に送っていただいてはもったいのうございます」

と言った。

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と云った。

「もったいない訳がありません。同じ人間です」

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「もったいない訳がありません。同じ人間です」

と私は答えた。

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と私は答えた。

次の曲がり角へ来た時、女は「先生に送っていただくのは光栄でございます」

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次の曲り角へ来たとき女は「先生に送っていただくのは光栄でございます」

とまた言った。

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とまた云った。

私は「本当に光栄と思いますか」

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私は「本当に光栄と思いますか」

と真面目に尋ねた。

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真面目まじめに尋ねた。

女は簡単に「思います」

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女は簡単に「思います」

とはっきり答えた。

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とはっきり答えた。

私は「それなら死なずに生きていらっしゃい」

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私は「そんなら死なずに生きていらっしゃい」

と言った。

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と云った。

私は女がこの言葉をどう解釈したか知らない。

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私は女がこの言葉をどう解釈したか知らない。

私はそれから一丁ばかり行って、また家の方へ引き返したのである。

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私はそれから一丁ばかり行って、またうちの方へ引き返したのである。

むせるような苦しい話を聞かされた私は、その夜かえって人間らしいいい気持ちを久しぶりに経験した。

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むせっぽいような苦しい話を聞かされた私は、その夜かえって人間らしい好い心持を久しぶりに経験した。

そうしてそれが、尊い文芸作品を読んだあとの気分と同じものだということに気がついた。

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そうしてそれがたっとい文芸上の作物さくぶつを読んだあとの気分と同じものだという事に気がついた。

有楽座や帝劇へ行って得意になっていた自分の過去の姿が、何となく浅ましく感じられた。

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有楽座や帝劇へ行って得意になっていた自分の過去の影法師が何となく浅ましく感ぜられた。

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不愉快に満ちた人生をとぼとぼたどりつつある私は、自分がいつか一度は到着しなければならない死という境地について、常に考えている。

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不愉快にちた人生をとぼとぼ辿たどりつつある私は、自分のいつか一度到着しなければならない死という境地について常に考えている。

そうしてその死というものを、生よりは楽なものだとばかり信じている。

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そうしてその死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。

ある時はそれを、人間として達し得る最上最高の状態だと思うこともある。

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ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思う事もある。

「死は生よりも尊い」

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「死は生よりもたっとい」

こういう言葉が、近頃では絶えず私の胸を行き来するようになった。

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こういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来おうらいするようになった。

しかし現在の私は、今まさに目の前で生きている。

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しかし現在の私は今まのあたりに生きている。

私の父母、私の祖父母、私の曾祖父母、それから順々にさかのぼって、百年、二百年、あるいは千年万年の間に染みついた習慣を、私一代で脱け出すことができないので、私は依然としてこの生に執着しているのである。

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私の父母ふぼ、私の祖父母そふぼ、私の曾祖父母そうそふぼ、それから順次にさかのぼって、百年、二百年、乃至ないし千年万年の間に馴致じゅんちされた習慣を、私一代で解脱げだつする事ができないので、私は依然としてこの生に執着しているのである。

だから私が他人に与える助言は、どうしてもこの生の許す範囲内でしなければ済まないように思う。

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だから私のひとに与える助言じょごんはどうしてもこの生の許す範囲内においてしなければすまないように思う。

どういうふうに生きていくかという狭い区域の中でだけ、私は人類の一人として他の人類の一人に向かわなければならないと思う。

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どういう風に生きて行くかという狭い区域のなかでばかり、私は人類の一人いちにんとして他の人類の一人に向わなければならないと思う。

すでに生の中で活動する自分を認め、またその生の中で呼吸する他人を認める以上は、互いの根本の前提は、どんなに苦しくてもどんなに醜くても、この生の上に置かれたものと解釈するのが当たり前であるから。

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すでに生の中に活動する自分を認め、またその生の中に呼吸する他人を認める以上は、互いの根本義はいかに苦しくてもいかに醜くてもこの生の上に置かれたものと解釈するのが当り前であるから。

「もし生きているのが苦痛なら、死んだらいいでしょう」

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「もし生きているのが苦痛なら死んだら好いでしょう」

こうした言葉は、どんなに情けなく世を見ている人の口からも聞くことはできないだろう。

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こうした言葉は、どんなになさけなく世を観ずる人の口からも聞き得ないだろう。

医者などは、安らかな眠りに就こうとする病人にわざと注射の針を立てて、患者の苦痛を一刻でも延ばす工夫を凝らしている。

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医者などは安らかな眠におもむこうとする病人に、わざと注射の針を立てて、患者の苦痛を一刻でも延ばす工夫をらしている。

こんな拷問に近い所業が人間の道義として許されているのを見ても、いかに根強く我々が生の一字に執着しているかが分かる。

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こんな拷問ごうもんに近い所作しょさが、人間の徳義として許されているのを見ても、いかに根強く我々が生の一字に執着しゅうちゃくしているかが解る。

私はついに、その人に死を勧めることができなかった。

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私はついにその人に死をすすめる事ができなかった。

その人は、とても回復の見込みのつかないほど深く自分の胸を傷つけられていた。

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その人はとても回復の見込みのつかないほど深く自分の胸をきずつけられていた。

同時にその傷が、普通の人の経験にはないような美しい思い出の種となって、その人の顔を輝かせていた。

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同時にその傷が普通の人の経験にないような美くしい思い出の種となってその人のおもてを輝やかしていた。

彼女はその美しいものを宝石のように大事に、永久に彼女の胸の奥に抱きしめていたがった。

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彼女はその美くしいものを宝石のごとく大事に永久彼女の胸の奥にめていたがった。

不幸にして、その美しいものは、とりもなおさず彼女を死以上に苦しめる深手そのものであった。

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不幸にして、その美くしいものはとりも直さず彼女を死以上に苦しめる手傷てきずそのものであった。

二つのものは紙の裏表のように、とうてい引き離せないのである。

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二つの物は紙の裏表のごとくとうてい引き離せないのである。

私は彼女に向かって、すべてを癒やす「時」

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私は彼女に向って、すべてをいやす「時」

の流れに従って下れと言った。

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の流れに従ってくだれと云った。

彼女は、もしそうしたら、この大切な記憶がしだいにはげ落ちていくだろうと嘆いた。

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彼女はもしそうしたらこの大切な記憶がしだいにげて行くだろうと嘆いた。

公平な「時」

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公平な「時」

は、大事な宝物を彼女の手から奪う代わりに、その傷口もしだいに治してくれるのである。

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は大事な宝物たからものを彼女の手から奪う代りに、その傷口もしだいに療治してくれるのである。

激しい生の歓喜を夢のようにぼかしてしまうと同時に、今の歓喜に伴う生々しい苦痛も取り除く手立てを怠らないのである。

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はげしい生の歓喜を夢のようにぼかしてしまうと同時に、今の歓喜に伴なう生々なまなましい苦痛もける手段をおこたらないのである。

私は深い恋愛に根ざした熱烈な記憶を取り上げてでも、彼女の傷口から滴る血潮を「時」

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私は深い恋愛に根ざしている熱烈な記憶を取り上げても、彼女の創口きずぐちからしたたる血潮を「時」

に拭わせようとした。

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ぬぐわしめようとした。

いくら平凡でも、生きていく方が死ぬよりも、私から見た彼女には似つかわしかったからである。

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いくら平凡でも生きて行く方が死ぬよりも私から見た彼女には適当だったからである。

こうして、常に生よりも死を尊いと信じている私の希望と助言は、ついにこの不愉快に満ちた生というものを超えることができなかった。

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かくして常に生よりも死をたっといと信じている私の希望と助言は、ついにこの不愉快にちた生というものを超越する事ができなかった。

しかも私には、それが実行の上での自分を、平凡な自然主義者として証拠立てたように見えてならなかった。

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しかも私にはそれが実行上における自分を、凡庸ぼんような自然主義者として証拠しょうこ立てたように見えてならなかった。

私は今でも半信半疑の目で、じっと自分の心を眺めている。

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私は今でも半信半疑の眼でじっと自分の心を眺めている。

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私が高等学校にいた頃、比較的親しく付き合った友達の中にOという人がいた。

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私が高等学校にいた頃、比較的親しく交際つきあった友達の中にOという人がいた。

その時分からあまり多くの友人を持たなかった私には、自然とOと行き来を重ねる傾きがあった。

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その時分からあまり多くの朋友ほうゆうを持たなかった私には、自然Oと往来ゆききしげくするような傾向があった。

私はたいてい一週に一度くらいの割合で彼を訪ねた。

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私はたいてい一週に一度くらいの割で彼をたずねた。

ある年の夏休みなどには、毎日欠かさず真砂町に下宿している彼を誘って、大川の水泳場まで行った。

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ある年の暑中休暇などには、毎日欠かさず真砂町まさごちょうに下宿している彼を誘って、大川おおかわの水泳場まで行った。

Oは東北の人だから、口のきき方に、私などとは違うゆっくりしたおっとりした調子があった。

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Oは東北の人だから、口のかたに私などと違ったどんでゆったりした調子があった。

そうしてその調子が、いかにもよく彼の性質を表しているように思われた。

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そうしてその調子がいかにもよく彼の性質を代表しているように思われた。

何度となく彼と議論をした記憶のある私は、ついに彼が怒ったり興奮したりする顔を見ずにしまった。

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何度となく彼と議論をした記憶のある私は、ついに彼のおこったり激したりする顔を見る事ができずにしまった。

私はそれだけでも十分、彼を敬愛に値する年長者として認めていた。

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私はそれだけでも充分彼を敬愛にあたいする長者ちょうしゃとして認めていた。

彼の性質がおおらかであるように、彼の頭脳も私よりははるかに大きかった。

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彼の性質が鷹揚おうようであるごとく、彼の頭脳も私よりははるかに大きかった。

彼は常に、当時の私には考えの及ばないような問題を一人で考えていた。

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彼は常に当時の私には、考えの及ばないような問題を一人で考えていた。

彼は最初から理科へ入る目的を持っていながら、好んで哲学の書物などを読んだ。

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彼は最初から理科へ入る目的をもっていながら、好んで哲学の書物などをひもといた。

私はある時、彼からスペンサーの第一原理という本を借りたことを、いまだに忘れずにいる。

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私はある時彼からスペンサーの第一原理という本を借りた事をいまだに忘れずにいる。

空の澄みきった秋日和などには、よく二人で連れ立って、足の向く方へ勝手な話をしながら歩いていった。

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空の澄み切った秋日和あきびよりなどには、よく二人連れ立って、足の向く方へ勝手な話をしながら歩いて行った。

そうした時には、往来へ塀越しに差し出た木の枝から、黄色に染まった小さい葉が、風もないのにはらはらと散る景色をよく見た。

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そうした場合には、往来へ塀越へいごしに差し出たの枝から、黄色に染まったさい葉が、風もないのに、はらはらと散る景色けしきをよく見た。

それが偶然彼の目に触れた時、彼は「あっ、悟った」

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それが偶然彼の眼に触れた時、彼は「あッ悟った」

と低い声で叫んだことがあった。

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と低い声で叫んだ事があった。

ただ秋の色が空に動くのを美しいと感じるよりほかに能のない私には、彼の言葉が、封じ込められたある秘密の合図として、怪しい響きを耳に伝えるばかりであった。

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ただ秋の色のくうに動くのを美くしいと観ずるよりほかに能のない私には、彼の言葉が封じ込められた或秘密の符徴ふちょうとして怪しい響を耳に伝えるばかりであった。

「悟りというものは妙なものだな」

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「悟りというものは妙なものだな」

と彼がそのあとから、いつものゆったりした調子で独り言のように説明した時も、私には一言の返事もできなかった。

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と彼はそのあとから平生のゆったりした調子で独言ひとりごとのように説明した時も、私には一口の挨拶あいさつもできなかった。

彼は貧しい学生であった。

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彼は貧生であった。

大観音のそばに間借りをして自炊していた頃には、よく干した鮭を焼いて、わびしい食卓に私を着かせた。

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大観音おおがんのんそばに間借をして自炊じすいしていた頃には、よく干鮭からざけを焼いてびしい食卓に私を着かせた。

ある時は餅菓子の代わりに煮豆を買ってきて、竹の皮のまま両側から突っつき合った。

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ある時は餅菓子もちがしの代りに煮豆を買って来て、竹の皮のまま双方から突っつき合った。

大学を卒業すると間もなく、彼は地方の中学に赴任した。

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大学を卒業すると間もなく彼は地方の中学に赴任した。

私は彼のためにそれを残念に思った。

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私は彼のためにそれを残念に思った。

しかし彼を知らない大学の先生には、それがむしろ当然と見えたかもしれない。

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しかし彼を知らない大学の先生には、それがむしろ当然と見えたかも知れない。

彼自身はもちろん平気であった。

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彼自身は無論平気であった。

それから何年か後に、たしか三年の契約で中国のある学校の教師に雇われて行ったが、任期が終わって帰るとすぐ、また国内の中学校長になった。

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それから何年かののちに、たしか三年の契約で、支那のある学校の教師に雇われて行ったが、任期がちて帰るとすぐまた内地の中学校長になった。

それも秋田から横手に移されて、今では樺太の校長をしているのである。

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それも秋田から横手にうつされて、今では樺太かばふとの校長をしているのである。

去年上京したついでに久しぶりで私を訪ねてくれた時、取次の者から名刺を受け取った私は、すぐその足で座敷へ行って、いつもどおり客より先に席に着いていた。

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去年上京したついでに久しぶりで私をたずねてくれた時、取次のものから名刺を受取った私は、すぐその足で座敷へ行って、いつもの通り客より先に席に着いていた。

すると廊下伝いに部屋の入口まで来た彼は、座布団の上にきちんと座っている私の姿を見るなり、「いやに澄ましているな」

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すると廊下伝ろうかづたいへやの入口まで来た彼は、座蒲団ざぶとんの上にきちんとすわっている私の姿を見るや否や、「いやに澄ましているな」

と言った。

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と云った。

その時、相手の言葉が終わるか終わらないうちに「うん」

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その時むこうの言葉が終るか終らないうちに「うん」

という返事が、いつのまにか私の口を滑って出てしまった。

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という返事がいつか私の口をすべって出てしまった。

どうして私の悪口を自分で認めるようなこの返事が、それほど自然に、それほど造作なく、それほどこだわりなく、するすると私の喉を滑り越したものだろうか。

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どうして私の悪口わるくちを自分で肯定するようなこの挨拶あいさつが、それほど自然に、それほど雑作ぞうさなく、それほど拘泥こだわらずに、するすると私の咽喉のどすべり越したものだろうか。

私はその時、透き通ったようないい気持ちがした。

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私はその時透明な好い心持がした。

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向かい合って座を占めたOと私は、何より先に互いの顔を見返して、そこにまだ昔のままの面影が、懐かしい夢の記念のように残っているのを認めた。

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向い合って座を占めたOと私とは、何より先に互の顔を見返して、そこにまだむかしのままの面影おもかげが、なつかしい夢の記念のように残っているのを認めた。

しかしそれは、ちょうど古い心が新しい気分の中にぼんやり織り込まれているのと同じことで、薄暗く一面にかすんでいた。

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しかしそれはあたかも古い心が新しい気分の中にぼんやり織り込まれていると同じ事で、薄暗く一面にかすんでいた。

恐ろしい「時」

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恐ろしい「時」

の威力に抵抗して、再びもとの姿に返ることは、二人にとってもう不可能であった。

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の威力に抵抗して、再びもとの姿に返る事は、二人にとってもう不可能であった。

二人は、別れてから今会うまでの間に挟まっている過去という不思議なものを、振り返らない訳にはいかなかった。

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二人は別れてから今会うまでの間にはさまっている過去という不思議なものをかえりみない訳に行かなかった。

Oは昔、林檎のように赤い頬と、人一倍大きな丸い目と、それから女に似合いそうなほどふっくりした輪郭に包まれた顔を持っていた。

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Oは昔し林檎りんごのように赤い頬と、人一倍大きな丸い眼と、それから女に適したほどふっくりした輪廓りんかくに包まれた顔をもっていた。

今見てもやはり赤い頬と丸い目と、同じく骨張らない輪郭の持ち主ではあるが、それが昔とはどこか違っている。

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今見てもやはり赤い頬と丸い眼と、同じく骨張らない輪廓の持主ではあるが、それが昔しとはどこか違っている。

私は彼に、私の口髭ともみあげを見せた。

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私は彼に私の口髭くちひげげを見せた。

彼はまた私のために、自分の頭を撫でてみせた。

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彼はまた私のために自分の頭をでて見せた。

私のは白くなって、彼のは薄く禿げかかっているのである。

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私のは白くなって、彼のは薄く禿げかかっているのである。

「人間も樺太まで行けば、もう行く先はなかろうな」

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「人間も樺太かばふとまで行けば、もう行く先はなかろうな」

と私がからかうと、彼は「まあそんなものだ」

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と私が調戯からかうと、彼は「まあそんなものだ」

と答えて、私のまだ見たことのない樺太の話をいろいろして聞かせた。

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と答えて、私のまだ見た事のない樺太の話をいろいろして聞かせた。

しかし私は今、それをみんな忘れてしまった。

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しかし私は今それをみんな忘れてしまった。

夏は大変いい所だということを覚えているだけである。

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夏は大変好い所だという事を覚えているだけである。

私は何年ぶりかで、彼と一緒に表へ出た。

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私は幾年ぶりかで、彼といっしょに表へ出た。

彼はフロックコートの上へ、とんびのような外套をぶわぶわに着ていた。

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彼はフロックの上へ、とんびのような外套がいとうをぶわぶわに着ていた。

そうして電車の中で吊り革にぶら下がりながら、ポケットからハンカチに包んだものを出して私に見せた。

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そうして電車の中で釣革つりかわにぶら下りながら、隠袋かくしから手帛ハンケチに包んだものを出して私に見せた。

私は「何だ」

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私は「なんだ」

と聞いた。

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いた。

彼は「栗饅頭だ」

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彼は「栗饅頭くりまんじゅうだ」

と答えた。

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と答えた。

栗饅頭は、さっき彼が私の家にいた時に出した菓子であった。

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栗饅頭は先刻さっき彼が私のうちにいた時に出した菓子であった。

彼がいつの間にそれをハンカチに包んだのだろうと考えた時、私はちょっと驚かされた。

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彼がいつの間に、それを手帛に包んだろうかと考えた時、私はちょっと驚かされた。

「あの栗饅頭を取ってきたのか」

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「あの栗饅頭を取って来たのか」

「そうかもしれない」

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「そうかも知れない」

彼は私の驚いた様子を馬鹿にするような調子でこう言ったきり、そのハンカチの包みをまたポケットに収めてしまった。

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彼は私の驚いた様子を馬鹿にするような調子でこう云ったなり、その手帛ハンケチの包をまた隠袋かくしに収めてしまった。

我々はその晩、帝劇へ行った。

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我々はその晩帝劇へ行った。

私の手に入れた二枚の切符に、北側から入れという注意が書いてあったのを、つい間違えて南側へ回ろうとした時、彼は「そっちじゃないよ」

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私の手に入れた二枚の切符に北側から入れという注意が書いてあったのを、つい間違えて、南側へ廻ろうとした時、彼は「そっちじゃないよ」

と私に注意した。

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と私に注意した。

私はちょっと立ち止まって考えた上、「なるほど、方角は樺太の方が確かなようだ」

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私はちょっと立ち留まって考えた上、「なるほど方角は樺太かばふとの方がたしかなようだ」

と言いながら、また指定された入口の方へ引き返した。

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と云いながら、また指定された入口の方へ引き返した。

彼は初めから帝劇を知っていると言っていた。

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彼は始めから帝劇を知っていると云っていた。

しかし晩飯を済ませたあとで自分の席へ帰ろうとする時、誰でもやるとおり、二階と一階のドアを間違えて、私に笑われた。

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しかし晩餐ばんさんを済ましたあとで、自分の席へ帰ろうとするとき、誰でもやる通り、二階と一階のドアーを間違えて、私から笑われた。

時々ポケットから金縁の眼鏡を出して、手に持った刷り物を読んでみる彼は、その眼鏡を外さずに遠い舞台を平気で眺めていた。

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折々隠袋から金縁きんぶち眼鏡めがねを出して、手に持った摺物すりものを読んで見る彼は、その眼鏡をはずさずに遠い舞台を平気で眺めていた。

「それは老眼鏡じゃないか。よくそれで遠い所が見えるね」

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「それは老眼鏡じゃないか。よくそれで遠い所が見えるね」

「なに、チャブドーだ」

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「なにチャブドーだ」

私には、このチャブドーという意味が全く分からなかった。

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私にはこのチャブドーという意味が全く解らなかった。

彼はそれを、大差なしという中国語だと言って説明してくれた。

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彼はそれを大差なしという支那語だと云って説明してくれた。

その夜の帰りに電車の中で私と別れたきり、彼はまた遠い寒い日本の領地の北の端へ行ってしまった。

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その夜の帰りに電車の中で私と別れたぎり、彼はまた遠い寒い日本の領地の北のはずれに行ってしまった。

私は彼を思い出すたびに、達人という彼の名前を考える。

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私は彼をおもい出すたびに、達人たつじんという彼の名を考える。

するとその名が、とりわけ彼のために天から与えられたもののような気持ちになる。

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するとその名がとくに彼のために天から与えられたような心持になる。

そうしてその達人が、雪と氷に閉ざされた北の果てで、まだ中学校長をしているのだなと思う。

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そうしてその達人が雪と氷にざされた北のはてに、まだ中学校長をしているのだなと思う。

十一

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十一

ある奥さんが、ある女の人を私に紹介した。

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ある奥さんがある女の人を私に紹介した。

「何か書いたものを見ていただきたいのだそうです」

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「何か書いたものを見ていただきたいのだそうでございます」

私は奥さんのこの言葉から、頭の中でいろいろなことを考えさせられた。

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私は奥さんのこの言葉から、頭の中でいろいろの事を考えさせられた。

今まで私の所へ、自分の書いたものを読んでくれと言ってきた者は何人もいる。

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いままで私の所へ自分の書いたものを読んでくれと云って来たものは何人となくある。

その中には、原稿用紙の厚さで一寸または二寸ぐらいのかさになる大部のものも混じっていた。

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その中には原稿紙の厚さで、一寸または二寸ぐらいのかさになる大部のものも交っていた。

それを私は、時間の都合の許す限りなるべく読んだ。

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それを私は時間の都合の許す限りなるべく読んだ。

そうして単純な私は、ただ読みさえすれば頼まれた義務を果たしたものと心得て満足していた。

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そうして簡単な私はただ読みさえすれば自分の頼まれた義務をはたしたものと心得て満足していた。

ところが先方では、後から新聞に出してくれと言ったり、雑誌へ載せてもらいたいと頼んだりするのが常であった。

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ところが先方では後から新聞に出してくれと云ったり、雑誌へ載せてもらいたいと頼んだりするのが常であった。

中には、他人に読ませるのは手段で、原稿を金に換えるのが本来の目的であるように思われるものも少なくはなかった。

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中にはひとに読ませるのは手段で、原稿を金に換えるのが本来の目的であるように思われるのも少なくはなかった。

私は、知らない人の書いた読みにくい原稿を好意で読むのが、だんだん嫌になってきた。

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私は知らない人の書いた読みにくい原稿を好意的に読むのがだんだんいやになって来た。

もっとも、私の時間に教師をしていた頃から見ると、多少のゆとりができてきたには違いなかった。

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もっとも私の時間に教師をしていた頃から見ると、多少の弾力性ができてきたには相違なかった。

それでも自分の仕事にかかれば、腹の中はずいぶん忙しかった。

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それでも自分の仕事にかかれば腹の中はずいぶん多忙であった。

親切心で見てやろうと約束した原稿ですら、なかなか片づかない場合もないとは限らなかった。

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親切ずくで見てやろうと約束した原稿すら、なかなからちのあかない場合もないとは限らなかった。

私は私の頭で考えたとおりのことを、そのまま奥さんに話した。

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私は私の頭で考えた通りの事をそのまま奥さんに話した。

奥さんはよく私の言う意味を飲み込んで帰っていった。

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奥さんはよく私のいう意味を領解して帰って行った。

約束の女が私の座敷へ来て、座布団の上に座ったのは、それから間もなくであった。

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約束の女が私の座敷へ来て、座蒲団ざぶとんの上に坐ったのはそれから間もなくであった。

わびしい雨が今にも降り出しそうな暗い空を硝子戸越しに眺めながら、私は女にこんな話をした。――

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びしい雨が今にも降り出しそうな暗い空を、硝子戸越ガラスどごしに眺めながら、私は女にこんな話をした。――

「これは社交ではありません。お互いに体裁のいいことばかり言い合っていては、いつまで経っても、啓発されるはずも、利益を受ける訳もないのです。あなたは思い切って正直にならなければ駄目ですよ。自分さえ十分に開いてみせれば、今あなたがどこに立ってどちらを向いているかという実際が、私によく見えてくるのです。そうした時、私は初めてあなたを指導する資格をあなたから与えられたものと自覚してもいいのです。だから私が何か言ったら、腹の中に答えるべき何かを持っている以上、決して黙っていてはいけません。こんなことを言ったら笑われはしまいか、恥をかきはしまいか、または失礼だと言って怒られはしまいかなどと遠慮して、相手に自分という正体を黒く塗りつぶした所ばかり見せる工夫をするならば、私がいくらあなたに利益を与えようと焦っても、私の射る矢はことごとく無駄矢になってしまうだけです。

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「これは社交ではありません。御互に体裁ていさいの好い事ばかり云い合っていては、いつまでったって、啓発されるはずも、利益を受ける訳もないのです。あなたは思い切って正直にならなければ駄目だめですよ。自分さえ充分に開放して見せれば、今あなたがどこに立ってどっちを向いているかという実際が、私によく見えて来るのです。そうした時、私は始めてあなたを指導する資格を、あなたから与えられたものと自覚してもよろしいのです。だから私が何か云ったら、腹に答えべき或物を持っている以上、けっして黙っていてはいけません。こんな事を云ったら笑われはしまいか、恥をきはしまいか、または失礼だといって怒られはしまいかなどと遠慮して、相手に自分という正体を黒く塗りつぶした所ばかり示す工夫くふうをするならば、私がいくらあなたに利益を与えようと焦慮あせっても、私の射る矢はことごとく空矢あだやになってしまうだけです。

「これは私のあなたに対する注文ですが、その代わり私の方でも、この私というものを隠しはいたしません。ありのままをさらけ出すよりほかに、あなたを教える道はないのです。だから私の考えのどこかに隙があって、その隙をもしあなたに見破られたら、私はあなたに私の弱点を握られたという意味で、敗北という結果に陥るのです。教えを受ける人だけが自分を開く義務を持っていると思うのは間違いです。教える人も自分をあなたの前に打ち明けるのです。双方とも社交を離れて、互いに見抜き合うのです。

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「これは私のあなたに対する注文ですが、その代り私の方でもこの私というものを隠しは致しません。ありのままをさらすよりほかに、あなたを教えるみちはないのです。だから私の考えのどこかにすきがあって、その隙をもしあなたから見破られたら、私はあなたに私の弱点を握られたという意味で敗北の結果におちいるのです。教を受ける人だけが自分を開放する義務をもっていると思うのは間違っています。教える人もおのれをあなたの前に打ち明けるのです。双方とも社交を離れて勘破かんぱし合うのです。

「そういう訳で、私はこれからあなたの書いたものを拝見する時に、ずいぶん手ひどいことを思い切って言うかもしれませんが、しかし怒ってはいけません。あなたの感情を害するために言うのではないのですから。その代わり、あなたの方でも腑に落ちない所があったら、どこまでも切り込んでいらっしゃい。あなたが私の趣旨を理解している以上、私は決して怒るはずはありませんから。

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「そういう訳で私はこれからあなたの書いたものを拝見する時に、ずいぶん手ひどい事を思い切って云うかも知れませんが、しかし怒ってはいけません。あなたの感情を害するためにいうのではないのですから。その代りあなたの方でもに落ちない所があったらどこまでも切り込んでいらっしゃい。あなたが私の主意を了解している以上、私はけっして怒るはずはありませんから。

「要するにこれは、ただ現状維持を目的として、上滑りな円滑さを第一に置く社交とは、まったく別物なのです。分かりましたか」

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「要するにこれはただ現状維持を目的として、上滑うわすべりな円滑を主位に置く社交とは全く別物なのです。解りましたか」

女は分かったと言って帰っていった。

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女は解ったと云って帰って行った。

十二

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十二

私に短冊を書けの、詩を書けのと言ってくる人がある。

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私に短冊たんざくを書けの、詩を書けのと云って来る人がある。

そうして、その短冊やらぬめ絹やらを、まだ承諾もしないうちに送ってくる。

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そうしてその短冊やらぬめやらをまだ承諾もしないうちに送って来る。

最初のうちは、せっかくの希望を無にするのも気の毒だという考えから、下手な字とは思いながら、先方の言うなりになって書いていた。

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最初のうちはせっかくの希望を無にするのも気の毒だという考から、まずい字とは思いながら、先方の云うなりになって書いていた。

けれどもこうした好意は長続きしにくいものと見えて、だんだん多くの人の依頼を無にするような傾きが強くなってきた。

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けれどもこうした好意は永続しにくいものと見えて、だんだん多くの人の依頼を無にするような傾向が強くなって来た。

私はすべての人間を、毎日毎日恥をかくために生まれてきたものだとさえ考えることがあるのだから、変な字を人に送ってやるくらいの振る舞いは、あえてしようと思えばやれないとも限らないのである。

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私はすべての人間を、毎日毎日恥をくために生れてきたものだとさえ考える事もあるのだから、変な字をひとに送ってやるくらいの所作しょさは、あえてしようと思えば、やれないとも限らないのである。

しかし自分が病気の時、仕事の忙しい時、またはそんな真似をしたくない時に、そういう注文が引き続いて起こってくると、実際弱らされる。

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しかし自分が病気のとき、仕事の忙がしい時、またはそんな真似まねのしたくない時に、そういう注文が引き続いて起ってくると、実際弱らせられる。

彼らの多くは全く私の知らない人で、そうして自分たちの送った短冊を再び送り返すこちらの手間さえ、まるで眼中に置いていないように見えるのだから。

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彼らの多くは全く私の知らない人で、そうして自分達の送った短冊を再び送り返すこちらの手数てすうさえ、まるで眼中に置いていないように見えるのだから。

そのうちで一番私を不愉快にしたのは、播州の坂越にいる岩崎という人であった。

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そのうちで一番私を不愉快にしたのは播州ばんしゅう坂越さごしにいる岩崎という人であった。

この人は数年前、よく葉書で私に俳句を書いてくれと頼んできたので、そのつど向こうの言うとおり書いて送った記憶のある男である。

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この人は数年前よく端書はがきで私に俳句を書いてくれと頼んで来たから、その都度つど向うのいう通り書いて送った記憶のある男である。

その後のことであるが、彼はまた四角な薄い小包を私に送ってきた。

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そののちの事であるが、彼はまた四角な薄い小包を私に送った。

私はそれを開けるのさえ面倒だったので、つい、そのままにして書斎へ放り出しておいたら、下女が掃除をする時、つい書物と書物の間へ挟み込んで、まず体よくしまい失くした格好にしてしまった。

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私はそれを開けるのさえ面倒だったから、ついそのままにして書斎へほうしておいたら、下女が掃除そうじをする時、つい書物と書物の間へはさみ込んで、まずていよくしまいくした姿にしてしまった。

この小包と前後して、名古屋から茶の缶が私宛てで届いた。

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この小包と前後して、名古屋から茶の缶が私宛わたくしあてで届いた。

しかし誰が何のために送ったものか、その意味は全く分からなかった。

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しかし誰が何のために送ったものかその意味は全く解らなかった。

私は遠慮なくその茶を飲んでしまった。

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私は遠慮なくその茶を飲んでしまった。

するとほどなく、坂越の男から富士登山の絵を返してくれと言ってきた。

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するとほどなく坂越の男から、富士登山のを返してくれと云ってきた。

彼からそんなものをもらった覚えのない私は、放っておいた。

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彼からそんなものを貰ったおぼえのない私は、ちやっておいた。

しかし彼は、富士登山の絵を返せ返せと三度も四度も催促してやまない。

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しかし彼は富士登山の画を返せ返せと三度も四度も催促してやまない。

私はついに、この男の精神状態を疑い出した。

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私はついにこの男の精神状態を疑い出した。

「大方、気の変な人だろう。」

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大方おおかた気違だろう。」

私は心の中でこう決めたまま、向こうの催促にはいっさい取り合わないことにした。

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私は心の中でこうきめたなり向うの催促にはいっさい取り合わない事にした。

それから二、三カ月経った。

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それから二三カ月った。

たしか夏の初め頃と記憶しているが、私はあまり乱雑に取り散らかされた書斎の中に座っているのがうっとうしくなったので、一人でぽつぽつそこらを片づけ始めた。

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たしか夏の初の頃と記憶しているが、私はあまり乱雑に取り散らされた書斎の中にすわっているのがうっとうしくなったので、一人でぽつぽつそこいらを片づけ始めた。

その時、書物の整理をするために、いい加減に積み重ねてある字引や参考書を一冊ずつ改めていくと、思いがけなく坂越の男が寄こした例の小包が出てきた。

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その時書物の整理をするため、好い加減に積み重ねてある字引や参考書を、一冊ずつ改めて行くと、思いがけなく坂越の男が寄こした例の小包が出て来た。

私は今まで忘れていたものを目の当たりに見て驚いた。

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私は今まで忘れていたものを、のあたり見て驚ろいた。

さっそく封を解いて中を調べたら、小さく畳んだ絵が一枚入っていた。

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さっそく封をいて中をしらべたら、小さく畳んだ画が一枚入っていた。

それが富士登山の図だったので、私はまたびっくりした。

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それが富士登山の図だったので、私はまた吃驚びっくりした。

包みの中には、この絵のほかに手紙が一通添えてあって、そこに絵の賛をしてくれという依頼と、お礼に茶を送るという文句が書いてあった。

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包のなかにはこの画のほかに手紙が一通添えてあって、それに画の賛をしてくれという依頼と、御礼に茶を送るという文句が書いてあった。

私はいよいよ驚いた。

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私はいよいよ驚ろいた。

しかしその時の私は、とうてい富士登山の図などに賛をする勇気を持っていなかった。

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しかしその時の私はとうてい富士登山の図などに賛をする勇気をもっていなかった。

私の気分がそんなこととははるかにかけ離れた所にあったので、その絵に調和するような俳句を考えている暇がなかったのである。

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私の気分が、そんな事とははるけ離れた所にあったので、その画に調和するような俳句を考えている暇がなかったのである。

けれども私は恐縮した。

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けれども私は恐縮した。

私は丁寧な手紙を書いて、自分の怠慢を詫びた。

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私は丁寧ていねいな手紙を書いて、自分の怠慢を謝した。

それから茶のお礼を言った。

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それから茶の御礼を云った。

最後に富士登山の図を小包にして返した。

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最後に富士登山の図を小包にして返した。

十三

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十三

私はこれで一段落ついたものと思って、例の坂越の男のことは、それきり念頭に置かなかった。

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私はこれで一段落いちだんらくついたものと思って、例の坂越さごしの男の事を、それぎり念頭に置かなかった。

するとその男が、また短冊を封じて寄こした。

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するとその男がまた短冊を封じてこした。

そうして今度は、義士に関係のある句を書いてくれというのである。

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そうして今度は義士に関係のある句を書いてくれというのである。

私は、そのうち書こうと言ってやった。

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私はそのうち書こうと云ってやった。

しかしなかなか書く機会が来なかったので、つい、そのままになってしまった。

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しかしなかなか書く機会が来なかったので、ついそのままになってしまった。

けれども、しつこいこの男の方は決してそのままで済ます気はなかったものと見えて、むやみに催促を始め出した。

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けれども執濃しつこいこの男の方ではけっしてそのままに済ます気はなかったものと見えて、むやみに催促を始め出した。

その催促は、一週に一度か二週に一度の割合できっと来た。

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その催促は一週に一遍か、二週に一遍の割できっと来た。

それが必ず葉書に限っていて、その書き出しには、必ず「拝啓、失敬申し上げますが」

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それが必ず端書はがきに限っていて、その書き出しには、必ず「拝啓失敬申し候えども」

とあるのが決まりだった。

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とあるにきまっていた。

私はその人の葉書を見るのが、だんだん不愉快になってきた。

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私はその人の端書を見るのがだんだん不愉快になって来た。

同時に向こうの催促も、今まで私が予期していなかった変な特色を帯びるようになった。

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同時に向うの催促も、今まで私の予期していなかった変な特色を帯びるようになった。

最初には、茶をやったではないかという言葉が見えた。

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最初には茶をやったではないかという言葉が見えた。

私がそれに取り合わずにいると、今度はあの茶を返してくれという文句に改まった。

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私がそれに取り合わずにいると、今度はあの茶を返してくれという文句に改たまった。

私は返すことはたやすいが、その手間が面倒だから、東京まで取りに来れば返してやると言ってやりたくなった。

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私は返す事はたやすいが、その手数てかずが面倒だから、東京まで取りに来れば返してやると云ってやりたくなった。

けれども坂越の男にそういう手紙を出すのは、自分の品格にかかわるような気がして、あえてしきれなかった。

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けれども坂越の男にそういう手紙を出すのは、自分の品格にかかわるような気がしてあえてし切れなかった。

返事を受け取らない先方は、なおのこと催促をした。

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返事を受け取らない先方はなおの事催促をした。

茶を返さないならそれでもいいから、金一円をその代金として送って寄こせというのである。

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茶を返さないならそれでも好いから、金一円をその代価として送って寄こせというのである。

私の感情は、この男に対してしだいに荒んできた。

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私の感情はこの男に対してしだいにすさんで来た。

しまいにはとうとう自分を忘れるようになった。

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しまいにはとうとう自分を忘れるようになった。

茶は飲んでしまった、短冊は失くしてしまった、以後、葉書を寄こすことはいっさい無用である、と書いてやった。

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茶は飲んでしまった、短冊はくしてしまった、以来端書を寄こす事はいっさい無用であると書いてやった。

そうして心の中で、非常に苦々しい気分を味わった。

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そうして心のうちで、非常に苦々にがにがしい気分を経験した。

こんな紳士らしからぬ返事をしなければならないような穴の中へ私を追い込んだのは、この坂越の男であると思ったからである。

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こんな非紳士的な挨拶あいさつをしなければならないような穴の中へ、私を追い込んだのは、この坂越の男であると思ったからである。

こんな男のために、品格にせよ人格にせよ、いくらかの堕落を忍ばなければならないのかと考えると、情けなかったからである。

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こんな男のために、品格にもせよ人格にもせよ、幾分の堕落を忍ばなければならないのかと考えるとなさけなかったからである。

しかし坂越の男は平気であった。

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しかし坂越の男は平気であった。

茶は飲んでしまい、短冊は失くしてしまうとは、あまりと申せば……と、また葉書に書いてきた。

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茶は飲んでしまい、短冊はくしてしまうとは、余りと申せば……とまた端書に書いて来た。

そうしてその冒頭には、相変わらず、拝啓、失敬申し上げますがという文句が、決まりどおり繰り返されていた。

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そうしてその冒頭には依然として拝啓失敬申しそうらえどもという文句が規則通り繰り返されていた。

その時私は、もうこの男には取り合うまいと決心した。

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その時私はもうこの男には取り合うまいと決心した。

けれども私の決心が、彼の態度に対して何の効き目もあるはずはなかった。

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けれども私の決心は彼の態度に対して何の効果のあるはずはなかった。

彼は相変わらず催促をやめなかった。

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彼は相変らず催促をやめなかった。

そうして今度は、もう一度書いてくれればまた茶を送ってやるがどうだ、と言ってきた。

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そうして今度は、もう一度書いてくれれば、また茶を送ってやるがどうだと云って来た。

それから、ことは仮にも義士に関するのだから、句を作ってもいいだろうと言ってきた。

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それから事いやしくも義士に関するのだから、句を作っても好いだろうと云って来た。

しばらく葉書が途絶えたと思うと、今度はそれが封書に変わった。

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しばらく端書が中絶したと思うと、今度はそれが封書に変った。

もっともその封筒は、区役所などで使うきわめて安いねずみ色のものであったが、彼はわざとそれに切手を貼らないのである。

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もっともその封筒は区役所などで使うきわめて安い鼠色ねずみいろのものであったが、彼はわざとそれに切手をらないのである。

その代わり、裏に自分の姓名も書かずに投函していた。

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その代り裏に自分の姓名も書かずに投函とうかんしていた。

私はそのために、倍の郵便料金を二度ほど払わされた。

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私はそれがために、倍の郵税を二度ほど払わせられた。

最後に私は配達員に彼の氏名と住所とを教えて、封のまま先方へ送り返してもらった。

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最後に私は配達夫に彼の氏名と住所とを教えて、封のまま先方へ逆送して貰った。

彼はそれで六銭取られたせいか、ようやく催促を諦めたらしい態度になった。

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彼はそれで六銭取られたせいか、ようやく催促を断念したらしい態度になった。

ところが二カ月ばかり経って、年が改まると同時に、彼は私に普通の年賀状を寄こした。

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ところが二カ月ばかり経って、年が改まると共に、彼は私に普通の年始状を寄こした。

それが私をちょっと感心させたので、私はつい短冊へ句を書いて送る気になった。

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それが私をちょっと感心させたので、私はつい短冊へ句を書いて送る気になった。

しかしその贈り物は、彼を満足させるには足りなかった。

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しかしその贈物は彼を満足させるに足りなかった。

彼は短冊が折れたとか汚れたとか言って、しきりに書き直しを請求してやまない。

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彼は短冊が折れたとか、よごれたとか云って、しきりに書き直しを請求してやまない。

現に今年の正月にも、「失敬申し上げますが……」

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現に今年の正月にも、「失敬申し候えども……」

という依頼状が七、八日頃に届いた。

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という依頼状が七八日ななようか頃に届いた。

私がこんな人に出会ったのは、生まれて初めてである。

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私がこんな人に出会ったのは生れて始めてである。

十四

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十四

つい先日、昔私の家へ泥棒が入った時の話を、比較的くわしく聞いた。

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ついこの間むかし私のうちへ泥棒の入った時の話を比較的くわしく聞いた。

姉がまだ二人とも嫁に行かずにいた時分のことだというから、年代にすると多分私の生まれる前後に当たるのだろう、何しろ勤王とか佐幕とかいう荒々しい言葉のはやった、やかましい頃なのである。

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姉がまだ二人ともかたづかずにいた時分の事だというから、年代にすると、多分私の生れる前後に当るのだろう、何しろ勤王とか佐幕とかいう荒々しい言葉の流行はやったやかましい頃なのである。

ある夜、一番目の姉が夜中に用足しに起きたあと、手を洗うために潜り戸を開けると、狭い中庭の隅に、壁を押しつけるような勢いで立っている梅の古木の根元が、かっと明るく見えた。

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ある夜一番目の姉が、夜中よなか小用こように起きたあと、手を洗うために、潜戸くぐりどを開けると、狭い中庭のすみに、壁をしつけるようないきおいで立っている梅の古木の根方ねがたが、かっと明るく見えた。

姉はあれこれ考えるひまもないうちに、すぐ潜り戸を閉めてしまったが、閉めたあとで、今目の前に見た不思議な明るさを、そこに立ったまま考えたのである。

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姉は思慮をめぐらすいとまもないうちに、すぐ潜戸をめてしまったが、締めたあとで、今目前に見た不思議な明るさをそこに立ちながら考えたのである。

私の幼心に映ったこの姉の顔は、いまだに思い起こそうとすれば、いつでも目の前に浮かぶくらい鮮やかである。

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私の幼心に映ったこの姉の顔は、いまだに思い起そうとすれば、いつでも眼の前に浮ぶくらいあざやかである。

しかしその面影は、すでに嫁に行って歯を染めたあとの姿であるから、その時縁側に立って考えていた娘盛りの彼女を、今胸の中に描き出すのはちょっと難しい。

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しかしその幻像はすでに嫁に行って歯を染めたあとの姿であるから、その時縁側えんがわに立って考えていた娘盛りの彼女を、今胸のうちに描き出す事はちょっと困難である。

広い額、浅黒い肌、小さいけれどもはっきりした輪郭を備えた鼻、人並みより大きい二重まぶたの目、それから御沢という優しい名――私はただこれらを合わせて、その場合の姉の姿を想像するだけである。

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広い額、浅黒い皮膚、小さいけれども明確はっきりした輪廓りんかくを具えている鼻、人並ひとなみより大きい二重瞼ふたえまぶちの眼、それから御沢おさわという優しい名、――私はただこれらを綜合そうごうして、その場合における姉の姿を想像するだけである。

しばらく立ったまま考えていた彼女の頭に、この時、もしかすると火事ではないかという不安が起こった。

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しばらく立ったまま考えていた彼女の頭に、この時もしかすると火事じゃないかという懸念けねんが起った。

それで彼女が思い切ってまた切り戸を開けて外をのぞこうとしたその途端に、一本の光る抜き身が、闇の中から、四角に切った潜り戸の中へすうと出た。

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それで彼女は思い切ってまた切戸きりどを開けて外をのぞこうとする途端とたんに、一本の光る抜身ぬきみが、やみの中から、四角に切った潜戸の中へすうと出た。

姉は驚いて身を後ろへ引いた。

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姉は驚いて身をあと退いた。

その隙に、覆面をして龕灯提灯を提げた男が、刀を抜いたまま、小さい潜り戸から大勢家の中へ入ってきたのだそうである。

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そのひまに、覆面をした、龕灯提灯がんどうぢょうちんげた男が、抜刀のまま、さい潜戸から大勢うちの中へ入って来たのだそうである。

泥棒の人数は、たしか八人とか聞いた。

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泥棒の人数にんずはたしか八人とか聞いた。

彼らは、人を殺めるために来たのではないから、おとなしくしていてくれさえすれば家の者に危害は加えない、その代わり軍用金を貸せ、と言って父に迫った。

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彼らは、ひとあやめるために来たのではないから、おとなしくしていてくれさえすれば、家のものに危害は加えない、その代り軍用金をせと云って、父に迫った。

父はないと断った。

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父はないと断った。

しかし泥棒はなかなか承知しなかった。

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しかし泥棒はなかなか承知しなかった。

今、角の小倉屋という酒屋へ入って、そこで教えられて来たのだから、隠しても駄目だと言って動かなかった。

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かど小倉屋こくらやという酒屋へ入って、そこで教えられて来たのだから、隠しても駄目だと云って動かなかった。

父はしぶしぶ、とうとう何枚かの小判を彼らの前に並べた。

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父は不精無性ふしょうぶしょうに、とうとう何枚かの小判を彼らの前に並べた。

彼らは金額があまり少なすぎると思ったものか、それでもなかなか帰ろうとしないので、今まで床の中に寝ていた母が、「あなたの紙入れに入っているのもやっておしまいなさい」

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彼らは金額があまり少な過ぎると思ったものか、それでもなかなか帰ろうとしないので、今まで床の中に寝ていた母が、「あなたの紙入に入っているのもやっておしまいなさい」

と忠告した。

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と忠告した。

その紙入れの中には五十両ばかりあったとかいう話である。

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その紙入の中には五十両ばかりあったとかいう話である。

泥棒が出ていったあとで、「余計なことを言う女だ」

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泥棒が出て行ったあとで、「余計な事をいう女だ」

と言って、父は母を叱りつけたそうである。

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と云って、父は母を叱りつけたそうである。

そのことがあって以来、私の家では柱を切り組みにして、その中へあり金を隠す方法を講じたが、隠すほどの財産もできず、また黒装束をつけた泥棒もそれきり来ないので、私が成長する時分には、どれが切り組みにしてある柱か、まるで分からなくなっていた。

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その事があって以来、私の家では柱をくみにして、その中へあり金を隠す方法を講じたが、隠すほどの財産もできず、また黒装束くろそうぞくを着けた泥棒も、それぎり来ないので、私の生長する時分には、どれが切組きりくみにしてある柱かまるで分らなくなっていた。

泥棒が出ていく時、「この家は大変戸締まりのいい家だ」

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泥棒が出て行く時、「このうちは大変しまりの好いうちだ」

と言って褒めたそうだが、その戸締まりのいい家を泥棒に教えた小倉屋の半兵衛さんの頭には、翌日からかすり傷がいくつとなくできた。

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と云ってめたそうだが、その締りの好い家を泥棒に教えた小倉屋の半兵衛さんの頭には、あくる日からかすきずがいくつとなくできた。

これは、金はありませんと断るたびに、泥棒がそんなはずがあるものかと言っては、抜き身の先でちょいちょい半兵衛さんの頭を突っついたからだという。

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これは金はありませんと断わるたびに、泥棒がそんなはずがあるものかと云っては、抜身の先でちょいちょい半兵衛さんの頭を突ッついたからだという。

それでも半兵衛さんは、「どうしてもうちにはありません、裏の夏目さんにはたくさんあるから、あそこへいらっしゃい」

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それでも半兵衛さんは、「どうしてもうちにはありません、裏の夏目さんにはたくさんあるから、あすこへいらっしゃい」

と強情を張り通して、とうとう金は一文も奪われずにしまった。

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と強情を張り通して、とうとう金は一文もられずにしまった。

私はこの話を妻から聞いた。

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私はこの話をさいから聞いた。

妻はまた、それを私の兄から茶飲み話に聞いたのである。

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妻はまたそれを私の兄から茶受話ちゃうけばなしに聞いたのである。

十五

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十五

私が去年の十一月に学習院で講演をしたら、薄謝と書いた紙包みを後から届けてくれた。

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私が去年の十一月学習院で講演をしたら、薄謝と書いた紙包を後から届けてくれた。

立派な水引がかかっているので、それを外して中を改めると、五円札が二枚入っていた。

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立派な水引みずひきがかかっているので、それをはずして中を改めると、五円札が二枚入っていた。

私はその金を、普段から気の毒に思っていたある親しい芸術家に贈ろうかしらと思って、それとなく彼が来るのを待ち受けていた。

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私はその金を平生から気の毒に思っていた、或懇意な芸術家に贈ろうかしらと思って、あんに彼の来るのを待ち受けていた。

ところがその芸術家がまだ姿を見せないうちに、何か寄付の必要ができてきたりして、つい二枚とも使ってしまった。

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ところがその芸術家がまだ見えない先に、何か寄附の必要ができてきたりして、つい二枚とも消費してしまった。

一口で言うと、この金は私にとって決して無用なものではなかったのである。

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一口でいうと、この金は私にとってけっして無用なものではなかったのである。

世間の相場から言えば、立派に私のために使われたというよりほかに仕方がないのである。

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世間の通り相場で、立派に私のために消費されたというよりほかに仕方がないのである。

けれども、それを人にやろうとまで思った私の気持ちから見れば、そんなにありがたみのくっついていない金だったのには違いない。

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けれどもそれをひとにやろうとまで思った私の主観から見れば、そんなにありがたみの附着していない金には相違なかったのである。

打ち明けた私の気持ちを言うと、こうしたお礼を受けるより、受けない時の方がよほどさっぱりしていた。

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打ち明けた私の心持をいうと、こうした御礼を受けるより受けない時の方がよほど颯爽さっぱりしていた。

畔柳芥舟君が樗牛会の講演のことで見えた時、私は話のついでに、ひととおりその理由を述べた。

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畔柳芥舟くろやなぎかいしゅう君が樗牛会ちょぎゅうかいの講演の事で見えた時、私は話のついでとして一通りその理由を述べた。

「この場合、私は労力を売りに行ったのではない。好意で依頼に応じたのだから、向こうでも好意だけで私に報いたらよかろうと思う。もし報酬の問題にする気なら、最初からお礼はいくら出すが来てくれるかどうか、と相談すべきはずでしょう」

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「この場合私は労力を売りに行ったのではない。好意ずくで依頼に応じたのだから、向うでも好意だけで私にむくいたらよかろうと思う。もし報酬問題とする気なら、最初から御礼はいくらするが、来てくれるかどうかと相談すべきはずでしょう」

その時K君は、納得できないといったような顔をした。

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その時K君は納得なっとくできないといったような顔をした。

そうしてこう答えた。

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そうしてこう答えた。

「しかし、どうでしょう。その十円は、あなたの労力を買ったという意味ではなくて、あなたに対する感謝の意を表す一つの手段と見たら。そう見る訳にはいかないのですか」

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「しかしどうでしょう。その十円はあなたの労力を買ったという意味でなくって、あなたに対する感謝の意を表する一つの手段と見たら。そう見る訳には行かないのですか」

「品物ならはっきりそう解釈もできるのですが、不幸にもお礼が、普通の商売の売り買いに使う金なのですから、どちらとも取れるのです」

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「品物なら判然はっきりそう解釈もできるのですが、不幸にも御礼が普通営業的の売買ばいばいに使用する金なのですから、どっちとも取れるのです」

「どちらとも取れるなら、この際、善意の方に解釈した方がよくはないでしょうか」

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「どっちとも取れるなら、このさい善意の方に解釈した方が好くはないでしょうか」

私はもっともだとも思った。

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私はもっともだとも思った。

しかしまたこう答えた。

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しかしまたこう答えた。

「私はご存じのとおり原稿料で衣食しているくらいですから、もちろん裕福とは言えません。しかしどうにかこうにか、それだけで日々を過ごしていかれるのです。だから自分の職業以外のことにかけては、なるべく好意で人のために働いてやりたいという考えを持っています。そうしてその好意が先方に通じるのが、私にとっては何よりも尊い報酬なのです。したがって金などを受け取ると、私が人のために働いてやるという余地――今の私にはこの余地がまた極めて狭いのです――その貴重な余地を腐らされたような気持ちになります」

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「私は御存じの通り原稿料で衣食しているくらいですから、無論富裕とは云えません。しかしどうかこうか、それだけで今日こんにちを過ごして行かれるのです。だから自分の職業以外の事にかけては、なるべく好意的に人のために働いてやりたいという考えを持っています。そうしてその好意が先方に通じるのが、私にとっては、何よりもたっとい報酬なのです。したがって金などを受けると、私が人のために働いてやるという余地、――今の私にはこの余地がまた極めて狭いのです。――その貴重な余地を腐蝕ふしょくさせられたような心持になります」

K君は、まだ私の言うことに得心のいかない様子であった。

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K君はまだ私の云う事をうけがわない様子であった。

私も強情であった。

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私も強情であった。

「もし岩崎とか三井とかいう大富豪に講演を頼むとした場合に、後から十円のお礼を持っていくでしょうか。あるいは失礼だからと言って、ただ挨拶だけにとどめておくでしょうか。私の考えでは、おそらく金銭は持っていかないと思うのですが」

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「もし岩崎とか三井とかいう大富豪に講演を頼むとした場合に、後から十円の御礼を持って行くでしょうか、あるいは失礼だからと云って、ただ挨拶あいさつだけにとどめておくでしょうか。私の考ではおそらく金銭は持って行くまいと思うのですが」

「さあ」

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「さあ」

と言っただけで、K君ははっきりした返事をくれなかった。

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といっただけでK君は判然した返事を与えなかった。

私にはまだ言うことが少し残っていた。

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私にはまだ云う事が少し残っていた。

「うぬぼれかは知りませんが、私の頭は三井や岩崎に比べるほど富んではいないにしても、一般の学生よりはずっと金持ちに違いないと信じています」

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己惚おのぼれかは知りませんが、私の頭は三井岩崎にくらべるほど富んでいないにしても、一般学生よりはずっと金持に違いないと信じています」

「そうですとも」

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「そうですとも」

とK君はうなずいた。

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とK君は首肯うなずいた。

「もし岩崎や三井に十円のお礼を持っていくことが失礼ならば、私の所へ十円のお礼を持ってくるのも失礼でしょう。それも、その十円が物質の上で私の生活に非常な潤いを与えるなら、また別の意味からこの問題を眺めることもできるでしょうが、現に私はそれを人にやろうとまで思ったのだから。――私の今の経済的な生活は、この十円のために、ほとんど目立つほどの影響を受けないのだから」

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「もし岩崎や三井に十円の御礼を持って行く事が失礼ならば、私の所へ十円の御礼を持って来るのも失礼でしょう。それもその十円が物質上私の生活に非常な潤沢うるおいを与えるなら、またほかの意味からこの問題を眺める事もできるでしょうが、現に私はそれをひとにやろうとまで思ったのだから。――私の現下の経済的生活は、この十円のために、ほとんど目に立つほどの影響をこうむらないのだから」

「よく考えてみましょう」

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「よく考えて見ましょう」

と言ったK君は、にやにや笑いながら帰っていった。

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といったK君はにやにや笑いながら帰って行った。

十六

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十六

家の前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があって、その橋向こうのすぐ左側に、小さな床屋が見える。

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うちの前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があって、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。

私はたった一度、そこで髪を刈ってもらったことがある。

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私はたった一度そこで髪をって貰った事がある。

普段は白い金巾の幕で硝子戸の奥が往来から見えないようにしてあるので、私はその床屋の土間に立って鏡の前に座を占めるまで、主人の顔をまるで知らずにいた。

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平生は白い金巾かなきんの幕で、硝子戸ガラスどの奥が、往来から見えないようにしてあるので、私はその床屋の土間に立って、鏡の前に座を占めるまで、亭主の顔をまるで知らずにいた。

主人は私が入ってくるのを見ると、手に持った新聞紙を放り出してすぐ挨拶をした。

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亭主は私の入ってくるのを見ると、手に持った新聞紙をほうしてすぐ挨拶あいさつをした。

その時私は、どうもどこかで会ったことのある男に違いないという気がしてならなかった。

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その時私はどうもどこかで会った事のある男に違ないという気がしてならなかった。

それで彼が私の後ろへ回って鋏をちょきちょき鳴らし出した頃を見計らって、こちらから話を持ちかけてみた。

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それで彼が私のうしろへ廻って、はさみをちょきちょき鳴らし出した頃を見計らって、こっちから話を持ちかけて見た。

すると私の推察どおり、彼は昔、寺町の郵便局のそばに店を持って、今と同じように散髪を商売にしていたことが分かった。

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すると私の推察通り、彼はむかし寺町の郵便局のそばに店を持って、今と同じように、散髪を渡世とせいとしていた事が解った。

「高田の旦那などにも、だいぶお世話になりました」

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「高田の旦那だんななどにもだいぶ御世話になりました」

その高田というのは私のいとこなのだから、私も驚いた。

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その高田というのは私の従兄いとこなのだから、私も驚いた。

「へえ、高田を知ってるのかい」

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「へえ高田を知ってるのかい」

「知ってるどころじゃございません。始終、徳、徳、ってひいきにしてくださったもんです」

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「知ってるどころじゃございません。始終しじゅうとくとく、って贔屓ひいきにして下すったもんです」

彼の言葉遣いは、こういう職人にしてはむしろ丁寧な方であった。

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彼の言葉づかいはこういう職人にしてはむしろ丁寧ていねいな方であった。

「高田も死んだよ」

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「高田も死んだよ」

と私が言うと、彼はびっくりした調子で「へっ」

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と私がいうと、彼は吃驚びっくりした調子で「へッ」

と声を上げた。

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と声をげた。

「いい旦那でしたがね、惜しいことに。いつ頃お亡くなりになりました」

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「いい旦那でしたがね、惜しい事に。いつごろ御亡おなくなりになりました」

「なに、つい先だってさ。今日で二週間になるか、ならないぐらいのものだろう」

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「なに、つい此間こないださ。今日で二週間になるか、ならないぐらいのものだろう」

彼はそれから、この死んだいとこについていろいろ覚えていることを私に語ったあげく、「考えると早いもんですね旦那、つい昨日のこととしか思われないのに、もう三十年近くにもなるんですから」

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彼はそれからこの死んだ従兄いとこについて、いろいろ覚えている事を私に語った末、「考えると早いもんですね旦那、つい昨日きのうの事としっきゃ思われないのに、もう三十年近くにもなるんですから」

と言った。

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と云った。

「あの、ほら、求友亭の横町にいらっしゃってね、……」

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「あのそら求友亭きゅうゆうていの横町にいらしってね、……」

と主人はまた言葉を継ぎ足した。

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と亭主はまた言葉をぎ足した。

「うん、あの二階のある家だろう」

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「うん、あの二階のあるうちだろう」

「ええ、お二階がありましたっけ。あそこへお移りになった時なんか、方々からお祝い物なんかあって、大変にぎやかでしたがね。それから後でしたっけか、行願寺の寺内へお引っ越しなさったのは」

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「ええ御二階がありましたっけ。あすこへ御移りになった時なんか、方々様ほうぼうさまから御祝い物なんかあって、大変御盛ごさかんでしたがね。それからあとでしたっけか、行願寺ぎょうがんじ寺内じないへ御引越なすったのは」

この質問には私も答えられなかった。

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この質問は私にも答えられなかった。

実はあまり古いことなので、私もつい忘れてしまったのである。

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実はあまり古い事なので、私もつい忘れてしまったのである。

「あの寺内も、今ではだいぶ変わったようだね。用がないので、それからつい入ってみたこともないが」

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「あの寺内も今じゃ大変変ったようだね。用がないので、それからつい入って見た事もないが」

「変わったの変わらないのって、あなた、今じゃまるで待合ばかりでさあ」

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「変ったの変らないのってあなた、今じゃまるで待合ばかりでさあ」

私は肴町を通るたびに、その寺内へ入る足袋屋の角の細い小路の入口に、ごたごたと掲げられた四角な軒灯の多いのを知っていた。

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私は肴町さかなまちを通るたびに、その寺内へ入る足袋屋たびやの角の細い小路こうじの入口に、ごたごたかかげられた四角な軒灯の多いのを知っていた。

しかしその数を数えてみるほどの物好きも起こらなかったので、つい主人の言うことには気がつかずにいた。

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しかしその数を勘定かんじょうして見るほどの道楽気も起らなかったので、つい亭主のいう事には気がつかずにいた。

「なるほど、そう言えば誰が袖なんて看板が通りから見えるようだね」

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「なるほどそう云えばそでなんて看板が通りから見えるようだね」

「ええ、たくさんできましたよ。もっとも変わるはずですね、考えてみると。もうやがて三十年にもなろうというんですから。旦那もご承知のとおり、あの時分は芸者屋といったら、寺内にたった一軒しかなかったもんでさあ。東家といってね。ちょうどほら、高田の旦那の真向かいでしたろう、東家の御神灯がぶら下がっていたのは」

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「ええたくさんできましたよ。もっとも変るはずですね、考えて見ると。もうやがて三十年にもなろうと云うんですから。旦那も御承知の通り、あの時分は芸者屋ったら、寺内にたった一軒しきゃ無かったもんでさあ。東家あずまやってね。ちょうどそら高田の旦那の真向まんむこうでしたろう、東家の御神灯ごじんとうのぶら下がっていたのは」

十七

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十七

私はその東家をよく覚えていた。

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私はその東家をよく覚えていた。

いとこの家のすぐ向かいなので、両方の者が出入りのたびに、顔を合わせさえすれば挨拶をし合うくらいの間柄であったから。

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従兄いとこうちのついむこうなので、両方のものが出入ではいりのたびに、顔を合わせさえすれば挨拶あいさつをし合うぐらいの間柄あいだがらであったから。

その頃いとこの家には、私の二番目の兄がごろごろしていた。

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その頃従兄の家には、私の二番目の兄がごろごろしていた。

この兄は大の遊び好きで、よく家の掛け物や刀剣類を盗み出しては、それを二束三文で売り飛ばすという悪い癖があった。

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この兄は大の放蕩ほうとうもので、よく宅の懸物かけものや刀剣類を盗み出しては、それを二束三文に売り飛ばすという悪いくせがあった。

彼が何でいとこの家に転がり込んでいたのか、その時の私には分からなかったけれども、今考えると、あるいはそうした乱暴を働いた結果、しばらく家を追い出されていたのかもしれないと思う。

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彼が何で従兄の家にころがり込んでいたのか、その時の私には解らなかったけれども、今考えると、あるいはそうした乱暴を働らいた結果、しばらくうちを追い出されていたかも知れないと思う。

その兄のほかに、まだ庄さんという、これも私の母方のいとこに当たる男が、そこらにぶらぶらしていた。

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その兄のほかに、まだ庄さんという、これも私の母方の従兄に当る男が、そこいらにぶらぶらしていた。

こういう連中がいつも一つ所に落ち合っては、寝そべったり縁側へ腰をかけたりして、勝手な出まかせを並べていると、時々向かいの芸者屋の竹格子の窓から「こんにちは」

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こういう連中がいつでも一つ所に落ち合っては、寝そべったり、縁側えんがわへ腰をかけたりして、勝手な出放題を並べていると、時々向うの芸者屋の竹格子たけごうしの窓から、「今日こんちは」

などと声をかけられたりする。

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などと声をかけられたりする。

それをまた待ち受けてでもいるかのように、連中は「おい、ちょっとおいで、いいものがあるから」

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それをまた待ち受けてでもいるごとくに、連中は「おいちょっとおいで、好いものあるから」

とか何とか言って、女を呼び寄せようとする。

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とか何とか云って、女を呼び寄せようとする。

芸者の方でも昼間は暇だから、三度に一度は愛想に遊びに来る。

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芸者の方でも昼間は暇だから、三度に一度は御愛嬌ごあいきょうに遊びに来る。

といった風の調子であった。

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といった風の調子であった。

私はその頃まだ十七、八だったろう、その上大変なはにかみ屋で通っていたので、そんな所に居合わせても、何も言わずに黙って隅の方に引っ込んでばかりいた。

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私はその頃まだ十七八だったろう、その上大変な羞恥屋はにかみやで通っていたので、そんな所に居合わしても、何にも云わずに黙ってすみの方に引込ひっこんでばかりいた。

それでも私は何かの拍子に、これらの人々と一緒にその芸者屋へ遊びに行って、トランプをしたことがある。

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それでも私は何かの拍子ひょうしで、これらの人々といっしょに、その芸者屋へ遊びに行って、トランプをした事がある。

負けた者が何かおごらなければならないので、私は人の買った寿司や菓子をだいぶ食べた。

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負けたものは何かおごらなければならないので、私は人の買った寿司すしや菓子をだいぶ食った。

一週間ほど経ってから、私はまたこの怠け者の兄に連れられて同じ家へ遊びに行ったら、例の庄さんも席に居合わせて、話がだいぶはずんだ。

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一週間ほどってから、私はまたこののらくらの兄に連れられて同じ宅へ遊びに行ったら、例の庄さんも席に居合わせて話がだいぶはずんだ。

その時、咲松という若い芸者が私の顔を見て、「またトランプをしましょう」

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その時咲松さきまつという若い芸者が私の顔を見て、「またトランプをしましょう」

と言った。

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と云った。

私は小倉の袴をはいて四角張っていたが、懐には一銭の小遣いさえなかった。

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私は小倉こくらはかま穿いて四角張っていたが、懐中には一銭の小遣こづかいさえ無かった。

「僕は金がないから嫌だ」

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「僕はぜにがないからいやだ」

「いいわ、私が持っているから」

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「好いわ、わたしが持ってるから」

この女はその時、目を病んででもいたのだろう、こう言いながら、きれいな襦袢の袖でしきりに薄赤くなった二重まぶたをこすっていた。

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この女はその時眼を病んででもいたのだろう、こういいいい、綺麗きれい襦袢じゅばんそででしきりに薄赤くなった二重瞼ふたえまぶちこすっていた。

その後、私は「お作がいいお客に身請けされた」

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その私は「御作おさくが好い御客に引かされた」

という噂を、いとこの家で聞いた。

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といううわさを、従兄いとこうちで聞いた。

いとこの家では、この女のことを咲松と言わずに、いつもお作お作と呼んでいたのである。

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従兄の家では、この女の事を咲松さきまつと云わないで、常に御作御作と呼んでいたのである。

私はその話を聞いた時、心の中で、もうお作に会う機会も来ないだろうと考えた。

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私はその話を聞いた時、心の内でもう御作に会う機会もないだろうと考えた。

ところがそれからだいぶ経って、私が例の達人と一緒に芝の山内の勧工場へ行ったら、そこでまたばったりお作に出会った。

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ところがそれからだいぶ経って、私が例の達人たつじんといっしょに、芝の山内さんない勧工場かんこうばへ行ったら、そこでまたぱったり御作に出会った。

こちらの書生姿とは打って変わって、彼女はもう品のいい奥様に変わっていた。

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こちらの書生姿にえて、彼女はもうひんの好い奥様に変っていた。

旦那というのも彼女のそばについていた。……

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旦那というのも彼女のそばについていた。……

私は床屋の主人の口から出た東家という芸者屋の名前の奥に潜んでいる、これだけの古い事実を急に思い出したのである。

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私は床屋の亭主の口から出た東家あずまやという芸者屋の名前の奥にひそんでいるこれだけの古い事実を急に思い出したのである。

「あそこにいたお作という女を知ってるかね」

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「あすこにいた御作という女を知ってるかね」

と私は主人に聞いた。

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と私は亭主に聞いた。

「知ってるどころか、ありゃ私の姪でさあ」

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「知ってるどころか、ありゃ私のめいでさあ」

「そうかい」

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「そうかい」

私は驚いた。

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私は驚ろいた。

「それで、今どこにいるのかね」

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「それで、今どこにいるのかね」

「お作は亡くなりましたよ、旦那」

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「御作はくなりましたよ、旦那」

私はまた驚いた。

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私はまた驚ろいた。

「いつ」

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「いつ」

「いつって、もう昔のことになりますよ。たしかあれが二十三の年でしたろう」

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「いつって、もう昔の事になりますよ。たしかあれが二十三の年でしたろう」

「へええ」

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「へええ」

「しかもウラジオで亡くなったんです。旦那が領事館に関係のある人だったもんですから、あっちへ一緒に行きましてね。それから間もなくでした、死んだのは」

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「しかも浦塩ウラジオで亡くなったんです。旦那が領事館に関係のある人だったもんですから、あっちへいっしょに行きましてね。それから間もなくでした、死んだのは」

私は帰って硝子戸の中に座って、まだ死なずにいるのは自分とあの床屋の主人だけのような気がした。

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私は帰って硝子戸ガラスどの中に坐って、まだ死なずにいるものは、自分とあの床屋の亭主だけのような気がした。

十八

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十八

私の座敷へ通されたある若い女が、「どうも自分の周りがきちんと片づかなくて困りますが、どうしたらよろしいものでしょう」

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私の座敷へ通されたある若い女が、「どうも自分の周囲まわりがきちんと片づかないで困りますが、どうしたらよろしいものでしょう」

と聞いた。

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と聞いた。

この女はある親戚の家に身を寄せているので、そこが手狭な上に子どもなどがうるさいのだろうと思った私の答えは、すこぶる簡単であった。

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この女はある親戚のうち寄寓きぐうしているので、そこが手狭てぜまな上に、子供などが蒼蠅うるさいのだろうと思った私の答は、すこぶる簡単であった。

「どこかさっぱりした家を探して下宿でもしたらいいでしょう」

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「どこかさっぱりしたうちを探して下宿でもしたら好いでしょう」

「いえ、部屋のことではないので、頭の中がきちんと片づかなくて困るのです」

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「いえ部屋の事ではないので、頭の中がきちんと片づかないで困るのです」

私は自分の誤解に気づくと同時に、女の言う意味がまた分からなくなった。

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私は私の誤解を意識すると同時に、女の意味がまた解らなくなった。

それでもう少し進んだ説明を彼女に求めた。

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それでもう少し進んだ説明を彼女に求めた。

「外からは何でも頭の中に入ってきますが、それが心の中心と折り合いがつかないのです」

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「外からは何でも頭の中に入って来ますが、それが心の中心と折合がつかないのです」

「あなたの言う心の中心とは、いったいどんなものですか」

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「あなたのいう心の中心とはいったいどんなものですか」

「どんなものと言って、真っ直ぐな直線なのです」

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「どんなものと云って、真直まっすぐな直線なのです」

私は、この女が数学に熱心なことを知っていた。

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私はこの女の数学に熱心な事を知っていた。

けれども、心の中心が直線だという意味はもちろん私に通じなかった。

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けれども心の中心が直線だという意味は無論私に通じなかった。

その上、中心とははたして何を意味するのか、それもほとんど分からなかった。

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その上中心とははたして何を意味するのか、それもほとんど不可解であった。

女はこう言った。

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女はこう云った。

「物には何でも中心がございましょう」

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「物には何でも中心がございましょう」

「それは目で見ることができ、物差しで計ることのできる物体についての話でしょう。心にも形があるんですか。それならその中心というものをここへ出してご覧なさい」

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「それは眼で見る事ができ、尺度ものさしで計る事のできる物体についての話でしょう。心にも形があるんですか。そんならその中心というものをここへ出して御覧なさい」

女は出せるとも出せないとも言わずに、庭の方を見たり、膝の上で両手をすり合わせたりしていた。

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女は出せるとも出せないとも云わずに、庭の方を見たり、ひざの上で両手をったりしていた。

「あなたの言う直線というのは例えじゃありませんか。もし例えなら、丸と言っても四角と言っても、つまり同じことになるのでしょう」

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「あなたの直線というのは比喩たとえじゃありませんか。もし比喩なら、まると云っても四角と云っても、つまり同じ事になるのでしょう」

「そうかもしれませんが、形や色が始終変わっているうちに、少しも変わらないものが、どうしてもあるのです」

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「そうかも知れませんが、形や色が始終しじゅう変っているうちに、少しも変らないものが、どうしてもあるのです」

「その変わるものと変わらないものが別々だとすると、要するに心が二つある訳になりますが、それでいいのですか。変わるものは、すなわち変わらないものでなければならないはずじゃありませんか」

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「その変るものと変らないものが、別々だとすると、要するに心が二つある訳になりますが、それで好いのですか。変るものはすなわち変らないものでなければならないはずじゃありませんか」

こう言った私は、また問題をもとに返して女に向かった。

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こう云った私はまた問題を元に返して女に向った。

「すべて外界のものが頭の中に入って、すぐ整然と秩序なり段落なりがはっきりするように納まる人は、おそらくいないでしょう。失礼ながら、あなたの年齢や教育や学問で、そうきちんと片づけられる訳がありません。もしまたそんな意味ではなくて、学問の力を借りずに徹底的にどさりと片をつけたいなら、私のような者の所へ来ても駄目です。お坊さんの所へでもいらっしゃい」

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「すべて外界のものが頭のなかに入って、すぐ整然と秩序なり段落なりがはっきりするように納まる人は、おそらくないでしょう。失礼ながらあなたの年齢としや教育や学問で、そうきちんと片づけられる訳がありません。もしまたそんな意味でなくって、学問の力を借りずに、徹底的にどさりと納まりをつけたいなら、私のようなものの所へ来ても駄目だめです。坊さんの所へでもいらっしゃい」

すると女が私の顔を見た。

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すると女が私の顔を見た。

「私は初めて先生をお見上げした時に、先生の心はそういう点で、普通の人以上に整っていらっしゃるように思いました」

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「私は始めて先生を御見上げ申した時に、先生の心はそういう点で、普通の人以上にととのっていらっしゃるように思いました」

「そんなはずがありません」

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「そんなはずがありません」

「でも私にはそう見えました。内臓の位置までが整っていらっしゃるとしか考えられませんでした」

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「でも私にはそう見えました。内臓の位置までが調ととのっていらっしゃるとしか考えられませんでした」

「もし内臓がそれほど具合よく整っているなら、こんなに始終病気などはしません」

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「もし内臓がそれほど具合よく調節されているなら、こんなに始終しじゅう病気などはしません」

「私は病気にはなりません」

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「私は病気にはなりません」

とその時、女は突然自分のことを言った。

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とその時女は突然自分の事を云った。

「それはあなたが私より偉い証拠です」

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「それはあなたが私より偉い証拠しょうこです」

と私も答えた。

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と私も答えた。

女は座布団を滑り下りた。

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女は蒲団ふとんすべり下りた。

そうして、「どうぞお体をお大事に」

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そうして、「どうぞ御身体おからだ御大切ごたいせつに」

と言って帰っていった。

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と云って帰って行った。

十九

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十九

私の昔の家は、今私の住んでいる所から四、五町奥の、馬場下という町にあった。

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私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。

町とは言うものの、実際は小さな宿場としか思われないくらい、子どもの時の私には、寂れきってしかも寒々しく見えた。

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町とは云い条、そのじつ小さな宿場としか思われないくらい、小供の時の私には、さびってかつさむしく見えた。

もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引きの内か外か分からない辺鄙な隅の方にあったに違いないのである。

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もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引内しゅびきうちか朱引外か分らない辺鄙へんぴすみの方にあったに違ないのである。

それでも蔵造りの家が、狭い町内に三、四軒はあっただろう。

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それでも内蔵造くらづくりうちが狭い町内に三四軒はあったろう。

坂を上がると右側に見える近江屋伝兵衛という薬屋などは、その一つであった。

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坂をあがると、右側に見える近江屋伝兵衛おうみやでんべえという薬種屋やくしゅやなどはその一つであった。

それから坂を下りきった所に、間口の広い小倉屋という酒屋もあった。

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それから坂をった所に、間口の広い小倉屋こくらやという酒屋もあった。

もっともこちらは蔵造りではなかったけれども、堀部安兵衛が高田の馬場で敵を討つ時に、ここへ立ち寄って枡酒を飲んでいったという由緒のある家柄であった。

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もっともこの方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛ほりべやすべえが高田の馬場でかたきを打つ時に、ここへ立ち寄って、枡酒ますざけを飲んで行ったという履歴のある家柄いえがらであった。

私はその話を子どもの時分から覚えていたが、そこにしまってあるという噂の、安兵衛が口をつけた枡は、ついぞ見たことがなかった。

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私はその話を小供の時分から覚えていたが、ついぞそこにしまってあるといううわさの安兵衛が口を着けた枡を見たことがなかった。

その代わり、娘のお北さんの長唄は何度となく聞いた。

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その代り娘の御北おきたさんの長唄ながうたは何度となく聞いた。

私は子どもだから上手か下手かまるで分からなかったけれども、私の家の玄関から表へ出る敷石の上に立って通りへでも行こうとすると、お北さんの声がそこからよく聞こえたのである。

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私は小供だから上手だか下手だかまるで解らなかったけれども、私のうちの玄関から表へ出る敷石の上に立って、通りへでも行こうとすると、御北さんの声がそこからよく聞こえたのである。

春の日の昼過ぎなどに、私はよくうっとりした心をうららかな光に包みながら、お北さんのおさらいを聞くともなく聞かぬともなく、ぼんやり私の家の土蔵の白壁に身をもたせて立ち尽くしていたことがある。

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春の日の午過ひるすぎなどに、私はよく恍惚うっとりとした魂を、うららかな光に包みながら、御北さんの御浚おさらいを聴くでもなく聴かぬでもなく、ぼんやり私の家の土蔵の白壁に身をたせて、佇立たたずんでいた事がある。

そのおかげで、私はとうとう「旅の衣は篠懸の」

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その御蔭おかげで私はとうとう「旅のころも篠懸すずかけの」

などという文句を、いつの間にか覚えてしまった。

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などという文句をいつの間にか覚えてしまった。

このほかには棒屋が一軒あった。

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このほかには棒屋が一軒あった。

それから鍛冶屋も一軒あった。

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それから鍛冶屋かじやも一軒あった。

少し八幡坂の方へ寄った所には、広い土間を屋根の下に囲い込んだやっちゃ場もあった。

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少し八幡坂はちまんざかの方へ寄った所には、広い土間を屋根の下に囲い込んだやっちゃもあった。

私の家の者は、そこの主人を問屋の仙太郎さんと呼んでいた。

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私の家のものは、そこの主人を、問屋とんやの仙太郎さんと呼んでいた。

仙太郎さんは、何でも私の父とごく遠い親類続きになっているのだとか聞いたが、付き合いから言うと、まるで疎遠であった。

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仙太郎さんは何でも私の父とごく遠い親類つづきになっているんだとか聞いたが、交際つきあいからいうと、まるで疎濶そかつであった。

往来で行き会う時だけ、「いいお天気で」

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往来で行き会う時だけ、「好い御天気で」

などと声をかけるくらいの間柄に過ぎなかったらしく思われる。

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などと声をかけるくらいの間柄あいだがらに過ぎなかったらしく思われる。

この仙太郎さんの一人娘が講釈師の貞水といい仲になって、死ぬの生きるのという騒ぎのあったことも人づてに聞いて覚えてはいるが、まとまった記憶は今、頭のどこにも残っていない。

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この仙太郎さんの一人娘が講釈師の貞水ていすいと好い仲になって、死ぬの生きるのという騒ぎのあった事も人聞ひとぎきに聞いて覚えてはいるが、まとまった記憶は今頭のどこにも残っていない。

子どもの私には、それよりも仙太郎さんが高い台の上に腰をかけて、矢立と帳面を持ったまま、「いーやっちゃ、いくら」

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小供の私には、それよりか仙太郎さんが高い台の上に腰をかけて、矢立やたてと帳面を持ったまま、「いーやっちゃいくら」

と威勢のいい声で下にいる大勢の顔を見渡す光景の方が、よほど面白かった。

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と威勢の好い声で下にいる大勢の顔を見渡す光景の方がよっぽど面白かった。

下からはまた二十本も三十本もの手が一度に挙がって、みんな仙太郎さんの方を向きながら、ろんじだのがれんだのという符丁を罵るように呼び上げるうちに、生姜や茄子や唐茄子の籠が、それらの節太の手でどしどしどこかへ運び去られるのを見ているのも勇ましかった。

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下からはまた二十本も三十本もの手を一度にげて、みんな仙太郎さんの方を向きながら、ろんじだのがれんだのという符徴ふちょうを、ののしるように呼び上げるうちに、しょうが茄子なすとう茄子のかごが、それらの節太ふしぶとの手で、どしどしどこかへ運び去られるのを見ているのも勇ましかった。

どんな田舎へ行ってもありがちな豆腐屋は、もちろんあった。

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どんな田舎いなかへ行ってもありがちな豆腐屋とうふやは無論あった。

その豆腐屋には油の匂いの染み込んだ縄のれんがかかっていて、門口を流れる下水の水が、京都へでも行ったようにきれいだった。

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その豆腐屋には油のにおいんだ縄暖簾なわのれんがかかっていて門口かどぐちを流れる下水の水が京都へでも行ったように綺麗きれいだった。

その豆腐屋の角を曲がると、半町ほど先に西閑寺という寺の門が小高く見えた。

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その豆腐屋について曲ると半町ほど先に西閑寺せいかんじという寺の門が小高く見えた。

赤く塗られた門の後ろは深い竹藪で一面に覆われているので、中にどんなものがあるか通りからは全く見えなかったが、その奥でする朝晩のお勤めの鉦の音は、今でも私の耳に残っている。

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赤く塗られた門のうしろは、深い竹藪たけやぶで一面におおわれているので、中にどんなものがあるか通りからは全く見えなかったが、その奥でする朝晩の御勤おつとめかねは、今でも私の耳に残っている。

とりわけ霧の多い秋から木枯らしの吹く冬にかけて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音は、いつでも私の心に悲しくて冷たい何かを叩き込むように、小さい私の気分を寒くした。

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ことにきりの多い秋から木枯こがらしの吹く冬へかけて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音は、いつでも私の心に悲しくてつめたい或物をたたき込むように小さい私の気分を寒くした。

二十

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二十

この豆腐屋の隣に寄席が一軒あったのを、私は夢うつつのようにまだ覚えている。

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この豆腐屋の隣に寄席よせが一軒あったのを、私は夢幻ゆめうつつのようにまだ覚えている。

こんな場末に人寄せ場のあろうはずがないというのが、私の記憶にかすみをかけるせいだろう、私はそれを思い出すたびに、奇妙な感じに打たれながら、不思議そうに目を見張って遠い私の過去を振り返るのが常である。

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こんな場末に人寄場ひとよせばのあろうはずがないというのが、私の記憶にかすみをかけるせいだろう、私はそれを思い出すたびに、奇異な感じに打たれながら、不思議そうな眼を見張って、遠い私の過去をふり返るのが常である。

その寄席の主人というのは町内の鳶の頭で、時々目暗縞の腹掛けに赤い筋の入ったしるし半纏を着て、突っかけ草履か何かでよく表を歩いていた。

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その席亭の主人あるじというのは、町内の鳶頭とびがしらで、時々目暗縞めくらじまの腹掛に赤いすじの入った印袢纏しるしばんてんを着て、突っかけ草履ぞうりか何かでよく表を歩いていた。

そこにまたお藤さんという娘がいて、その人の器量がよく家の者の口に上ったことも、まだ私の記憶を離れずにいる。

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そこにまた御藤おふじさんという娘があって、その人の容色きりょうがよくうちのものの口にのぼった事も、まだ私の記憶を離れずにいる。

後には養子をもらったが、それが口髭を生やした立派な男だったので、私はちょっと驚かされた。

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のちには養子を貰ったが、それが口髭くちひげやした立派な男だったので、私はちょっと驚ろかされた。

お藤さんの方でも自慢の養子だという評判が高かったが、後から聞いてみると、この人はどこかの区役所の書記だとかいう話であった。

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御藤さんの方でも自慢の養子だという評判が高かったが、後から聞いて見ると、この人はどこかの区役所の書記だとかいう話であった。

この養子が来る時分には、もう寄席もやめて普通の住まいになっていたようであるが、私はそこの家の軒先にまだ薄暗い看板が寂しそうに掛かっていた頃、よく母から小遣いをもらって、そこへ講釈を聞きに出かけたものである。

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この養子が来る時分には、もう寄席よせもやめて、しもうたになっていたようであるが、私はそこのうちの軒先にまだ薄暗い看板がさむしそうにかかっていた頃、よく母から小遣こづかいを貰ってそこへ講釈を聞きに出かけたものである。

講釈師の名前は、たしか南麟とかいった。

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講釈師の名前はたしか、南麟なんりんとかいった。

不思議なことに、この寄席へは南麟のほかに誰も出なかったようである。

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不思議な事に、この寄席へは南麟よりほかに誰も出なかったようである。

この男の家はどこにあったか知らないが、どの方角から歩いてくるにしても、道路が整って家並みのそろった今から見れば、大仕事に違いなかった。

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この男のうちはどこにあったか知らないが、どの見当けんとうから歩いて来るにしても、道普請みちぶしんができて、家並いえなみそろった今から見れば大事業に相違なかった。

その上、客の頭数はいつでも十五か二十くらいなのだから、どんなに想像をたくましくしても、夢としか考えられないのである。

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その上客の頭数はいつでも十五か二十くらいなのだから、どんなに想像をたくましくしても、夢としか考えられないのである。

「もうしもうし、花魁え、と言われて八ツ橋、なんざますえと振り返る、途端に切り込む刃の光」

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「もうしもうし花魁おいらんえ、と云われてはしなんざますえとふり返る、途端とたんに切り込むやいばの光」

という変な文句は、私がその時分に南麟から教わったのか、それとも後になって落語家のやる講釈師の真似から覚えたのか、今では入り混じってよく分からない。

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という変な文句は、私がその時分南麟からおすわったのか、それともあとになって落語家はなしかのやる講釈師の真似まねから覚えたのか、今では混雑してよく分らない。

当時、私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人気のない茶畑とか竹藪とか、または長い田んぼ道とかを通り抜けなければならなかった。

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当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人気のない茶畠ちゃばたけとか、竹藪たけやぶとかまたは長い田圃路たんぼみちとかを通り抜けなければならなかった。

買い物らしい買い物はたいてい神楽坂まで出るのが決まりになっていたので、そうした必要に慣らされた私に大した苦痛のあるはずもなかったが、それでも矢来の坂を上がって酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出ようという、あの五、六町の一本道などになると、昼でも鬱蒼として、大空が曇ったように始終薄暗かった。

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買物らしい買物はたいてい神楽坂かぐらざかまで出る例になっていたので、そうした必要にらされた私に、さした苦痛のあるはずもなかったが、それでも矢来やらいの坂をあがって酒井様の見櫓みやぐらを通り越して寺町へ出ようという、あの五六町の一筋道などになると、昼でも陰森いんしんとして、大空が曇ったように始終しじゅう薄暗かった。

あの土手の上に二抱えも三抱えもあろうという大木が何本となく並んで、その隙間隙間をまた大きな竹藪でふさいでいたのだから、日の目を拝む時間といったら、一日のうちにおそらくただの一時もなかったのだろう。

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あの土手の上に二抱ふたかかえ三抱みかかえもあろうという大木が、何本となく並んで、その隙間すきま隙間をまた大きな竹藪でふさいでいたのだから、日の目を拝む時間と云ったら、一日のうちにおそらくただの一刻もなかったのだろう。

下町へ行こうと思って日和下駄などをはいて出ようものなら、きっとひどい目に遭うと決まっていた。

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下町へ行こうと思って、日和下駄ひよりげたなどを穿いて出ようものなら、きっと非道ひどい目にあうにきまっていた。

あそこの霜どけは、雨よりも雪よりも恐ろしいもののように私の頭に染み込んでいる。

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あすこの霜融しもどけは雨よりも雪よりも恐ろしいもののように私の頭にんでいる。

それくらい不便な所でも火事のおそれはあったものと見えて、やはり町の曲がり角に高い梯子が立っていた。

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そのくらい不便な所でも火事のおそれはあったものと見えて、やっぱり町の曲り角に高い梯子はしごが立っていた。

そうしてその上に、古い半鐘も型どおりに吊るしてあった。

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そうしてその上に古い半鐘も型のごとく釣るしてあった。

私はこうしたありのままの昔をよく思い出す。

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私はこうしたありのままの昔をよく思い出す。

その半鐘のすぐ下にあった小さな一膳飯屋も、おのずと目の先に浮かんでくる。

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その半鐘のすぐ下にあった小さな一膳飯屋いちぜんめしやもおのずと眼先に浮かんで来る。

縄のれんの隙間から、あたたかそうな煮しめの匂いが煙と一緒に往来へ流れ出して、それが夕暮れの靄に溶け込んでいく風情なども、忘れることができない。

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縄暖簾なわのれんの隙間からあたたかそうな煮〆にしめにおいけむりと共に往来へ流れ出して、それが夕暮のもやけ込んで行くおもむきなども忘れる事ができない。

私が子規のまだ生きているうちに、「半鐘と並んで高き冬木哉」

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私が子規のまだ生きているうちに、「半鐘と並んで高き冬木かな

という句を作ったのは、実はこの半鐘の記念のためであった。

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という句を作ったのは、実はこの半鐘の記念のためであった。

二十一

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二十一

私の家に関する私の記憶は、総じてこういうふうに田舎びている。

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私の家に関する私の記憶は、そうじてこういう風にひなびている。

そうしてどこかに、薄ら寒い哀れな影を宿している。

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そうしてどこかに薄ら寒いあわれな影を宿している。

だから、今生き残っている兄からつい先日、うちの姉たちが芝居に行った当時の様子を聞いた時には驚いたのである。

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だから今生き残っている兄から、つい此間こないだ、うちの姉達が芝居に行った当時の様子を聴いた時には驚ろいたのである。

そんな派手な暮らしをした昔もあったのかと思うと、私はいよいよ夢のような気持ちになるよりほかはない。

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そんな派出はでな暮しをした昔もあったのかと思うと、私はいよいよ夢のような心持になるよりほかはない。

その頃の芝居小屋は、みんな猿若町にあった。

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その頃の芝居小屋はみんな猿若町さるわかちょうにあった。

電車も俥もない時分に、高田の馬場の下から浅草の観音様の先まで朝早く行き着こうというのだから、たいていのことではなかったらしい。

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電車もくるまもない時分に、高田の馬場の下から浅草の観音様の先まで朝早く行き着こうと云うのだから、たいていの事ではなかったらしい。

姉たちはみんな夜中に起きて支度をした。

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姉達はみんな夜半よなかに起きて支度したくをした。

途中が物騒だというので、用心のために下男がきっと供をして行ったそうである。

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途中が物騒ぶっそうだというので、用心のため、下男がきっとともをして行ったそうである。

彼らは筑土を下りて、柿の木横町から揚場へ出て、かねてそこの船宿にあつらえておいた屋根船に乗るのである。

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彼らは筑土つくどを下りて、柿の木横町から揚場あげばへ出て、かねてそこの船宿にあつらえておいた屋根船に乗るのである。

私は、彼らがどれほど期待に満ちた心で、のろのろと砲兵工廠の前から御茶の水を通り越して柳橋まで漕がれていっただろうと想像する。

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私は彼らがいかに予期にちた心をもって、のろのろ砲兵工厰ほうへいこうしょうの前から御茶の水を通り越して柳橋までがれつつ行っただろうと想像する。

しかも彼らの道中は決してそこで終わりを告げる訳にはいかないのだから、時間に制限を置かなかったその昔が、なおさら思い出の種になる。

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しかも彼らの道中はけっしてそこで終りを告げる訳に行かないのだから、時間に制限をおかなかったその昔がなおさら回顧の種になる。

大川へ出た船は流れをさかのぼり、吾妻橋を通り抜けて、今戸の有明楼のそばに着けたものだという。

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大川へ出た船は、流をさかのぼって吾妻橋あずまばしを通り抜けて、今戸いまど有明楼ゆうめいろうそばに着けたものだという。

姉たちはそこから上がって芝居茶屋まで歩き、それからようやく用意された席につくべく、小屋へ送られていく。

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姉達はそこからあがって芝居茶屋まで歩いて、それからようやく設けの席につくべく、小屋へ送られて行く。

用意された席というのは、必ず高土間に限られていた。

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設けの席というのは必ず高土間たかどまに限られていた。

これは彼らの身なりなり顔なり髪飾りなりが、周りの目によくつく便利のいい場所なので、派手好きな人たちが争って手に入れたがるからであった。

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これは彼らの服装なりなり顔なり、髪飾なりが、一般の眼によく着く便利のいい場所なので、派出を好む人達が、争って手に入れたがるからであった。

幕の間には役者についている男が、どうぞ楽屋へお遊びにいらっしゃいませと言って案内に来る。

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幕の間には役者にいている男が、どうぞ楽屋へお遊びにいらっしゃいましと云って案内に来る。

すると姉たちは、この縮緬の模様のある着物の上に袴をはいた男の後について、田之助とか訥升とかいうひいきの役者の部屋へ行き、扇子に絵などを描いてもらって帰ってくる。

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すると姉達はこの縮緬ちりめんの模様のある着物の上にはかま穿いた男のあといて、田之助たのすけとか訥升とっしょうとかいう贔屓ひいきの役者の部屋へ行って、扇子せんすなどをいて貰って帰ってくる。

これが彼らの見栄だったのだろう。

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これが彼らの見栄みえだったのだろう。

そうしてその見栄は、金の力でなければ買えなかったのである。

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そうしてその見栄は金の力でなければ買えなかったのである。

帰りには、もと来た道を同じ舟で揚場まで漕ぎ戻す。

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帰りにはもと来た路を同じ舟で揚場まで漕ぎ戻す。

物騒だからと言って、下男がまた提灯をつけて迎えに行く。

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無要心ぶようじんだからと云って、下男がまた提灯ちょうちんけてむかえに行く。

家へ着くのは、今の時計で十二時くらいにはなるのだろう。

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うちへ着くのは今の時計で十二時くらいにはなるのだろう。

だから夜中から夜中までかかって、彼らはようやく芝居を見ることができたのである。……

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だから夜半よなかから夜半までかかって彼らはようやく芝居を見る事ができたのである。……

こんな華やかな話を聞くと、私は、はたしてそれが自分の家に起こったことなのかしらと疑いたくなる。

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こんな華麗はなやかな話を聞くと、私ははたしてそれが自分の宅に起った事か知らんと疑いたくなる。

どこか下町の裕福な商家の昔を語られたような気もする。

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どこか下町の富裕な町家の昔を語られたような気もする。

もっとも私の家も侍の身分ではなかった。

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もっとも私の家も侍分さむらいぶんではなかった。

派手な付き合いをしなければならない名主という町人であった。

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派出はで付合つきあいをしなければならない名主なぬしという町人であった。

私の知っている父は禿頭のお爺さんであったが、若い時分には一中節を習ったり、なじみの女に縮緬の積み夜具をしてやったりしたのだそうである。

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私の知っている父は、禿頭はげあたまじいさんであったが、若い時分には、一中節いっちゅうぶしを習ったり、馴染なじみの女に縮緬ちりめん積夜具つみやぐをしてやったりしたのだそうである。

青山に田地があって、そこから上がってくる米だけでも、家の者が食べるには不足がなかったとか聞いた。

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青山に田地でんちがあって、そこから上って来る米だけでも、うちのものが食うには不足がなかったとか聞いた。

現に今生き残っている三番目の兄などは、その米を搗く音を始終聞いたと言っている。

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現に今生き残っている三番目の兄などは、その米をく音を始終しじゅう聞いたと云っている。

私の記憶によると、町内の者がみんなして私の家を、玄関、玄関と呼んでいた。

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私の記憶によると、町内のものがみんなして私の家を呼んで、玄関げんか玄関ととなえていた。

その時分の私にはどういう意味か分からなかったが、今考えると、式台のついたいかめしい玄関付きの家は、町内にたった一軒しかなかったからだろうと思う。

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その時分の私には、どういう意味か解らなかったが、今考えると、式台のついたいかめしい玄関付の家は、町内にたった一軒しかなかったからだろうと思う。

その式台を上がった所に、突棒や、袖搦みや、刺股や、また古ぼけた馬上提灯などが並んで掛けてあった昔なら、私でもまだ覚えている。

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その式台を上った所に、突棒つくぼうや、袖搦そでがらみ刺股さつまたや、また古ぼけた馬上ばじょう提灯などが、並んでけてあった昔なら、私でもまだ覚えている。

二十二

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二十二

この二、三年来、私はたいてい年に一度くらいの割合で病気をする。

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この二三年来私はたいてい年に一度くらいの割で病気をする。

そうして床についてから床を上げるまでに、ほぼ一カ月の日数をつぶしてしまう。

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そうしてとこについてから床を上げるまでに、ほぼ一月ひとつき日数ひかずつぶしてしまう。

私の病気と言えばいつも決まって胃の故障なので、いざとなると絶食療法よりほかに手のつけようがなくなる。

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私の病気と云えば、いつもきまった胃の故障なので、いざとなると、絶食療法よりほかに手の着けようがなくなる。

医者の命令ばかりか、病気の性質そのものが、私にこの絶食を余儀なくさせるのである。

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医者の命令ばかりか、病気の性質そのものが、私にこの絶食を余儀なくさせるのである。

だから病み始めよりも、回復期に向かった時の方が余計に痩せこけて、ふらふらする。

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だから病み始めより回復期に向った時の方が、余計せこけてふらふらする。

一カ月以上かかるのも、主にこの衰弱がたたるからのように思われる。

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一カ月以上かかるのもおもにこの衰弱がたたるからのように思われる。

私の起き伏しが自由になると、黒枠のついた刷り物が時々私の机の上に載せられる。

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私の立居たちいが自由になると、黒枠くろわくのついた摺物すりものが、時々私の机の上に載せられる。

私は運命を苦笑する人のように、シルクハットなどをかぶって葬式の供に立ち、俥を駆って斎場へ駆けつける。

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私は運命を苦笑する人のごとく、絹帽シルクハットなどをかぶって、葬式の供に立つ、くるまって斎場さいじょうけつける。

死んだ人の中にはお爺さんもお婆さんもいるが、時には私よりも年が若くて、普段からその健康を誇っていた人も混じっている。

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死んだ人のうちには、御爺さんも御婆さんもあるが、時には私よりも年歯としが若くって、平生からその健康を誇っていた人もまじっている。

私は家へ帰って机の前に座り、人間の寿命は実に不思議なものだと考える。

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私は宅へ帰って机の前に坐って、人間の寿命は実に不思議なものだと考える。

病気がちな私は、なぜ生き残っているのだろうかと疑ってみる。

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多病な私はなぜ生き残っているのだろうかと疑って見る。

あの人はどういう訳で私より先に死んだのだろうかと思う。

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あの人はどういう訳で私より先に死んだのだろうかと思う。

私としては、こういう物思いにふけるのはむしろ当然だと言わなければならない。

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私としてこういう黙想にふけるのはむしろ当然だといわなければならない。

けれども自分の立ち位置や、体や、才能や――すべて自分というもののありかを忘れがちな人間の一人として、私は死なないのが当たり前だと思いながら暮らしている場合が多い。

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けれども自分の位地いちや、身体からだや、才能や――すべておのれというもののおり所を忘れがちな人間の一人いちにんとして、私は死なないのが当り前だと思いながら暮らしている場合が多い。

読経の間ですら、焼香の際ですら、死んだ仏のあとに生き残ったこの私という抜け殻を、少しも不思議と思わずに澄ましていることが常である。

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読経どきょうの間ですら、焼香の際ですら、死んだ仏のあとに生き残った、この私という形骸けいがいを、ちっとも不思議と心得ずに澄ましている事が常である。

ある人が私に告げて、「他人が死ぬのは当たり前のように見えますが、自分が死ぬということだけは、とても考えられません」

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或人が私に告げて、「ひとの死ぬのは当り前のように見えますが、自分が死ぬという事だけはとても考えられません」

と言ったことがある。

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と云った事がある。

戦争に出た経験のある男に、「そんなに隊の者が次々に倒れるのを見ていながら、自分だけは死なないと思っていられますか」

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戦争に出た経験のある男に、「そんなに隊のものが続々たおれるのを見ていながら、自分だけは死なないと思っていられますか」

と聞いたら、その人は「いられますね。おおかた、死ぬまでは死なないと思っているんでしょう」

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と聞いたら、その人は「いられますね。おおかた死ぬまでは死なないと思ってるんでしょう」

と答えた。

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と答えた。

それから大学の理科に関係のある人に飛行機の話を聞かされた時に、こんな問答をした覚えもある。

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それから大学の理科に関係のある人に、飛行機の話をかされた時に、こんな問答をした覚えもある。

「ああして始終落ちたり死んだりしたら、後から乗る者は怖いだろうね。今度は自分の番だという気になりそうなものだが、そうでないのかしら」

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「ああして始終しじゅう落ちたり死んだりしたら、後から乗るものはこわいだろうね。今度はおれの番だという気になりそうなものだが、そうでないかしら」

「ところが、そうではないと見えます」

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「ところがそうでないと見えます」

「なぜ」

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「なぜ」

「なぜって、まるで反対の心理状態に支配されるようになるらしいのです。やはり、あいつは墜落して死んだが、自分は大丈夫だという気になると見えますね」

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「なぜって、まるで反対の心理状態に支配されるようになるらしいのです。やッぱりあいつは墜落して死んだが、おれは大丈夫だという気になると見えますね」

私もおそらくこういう人の気分で、比較的平気にしていられるのだろう。

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私も恐らくこういう人の気分で、比較的平気にしていられるのだろう。

それもそのはずである。

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それもそのはずである。

死ぬまでは誰しも生きているのだから。

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死ぬまでは誰しも生きているのだから。

不思議なことに、私が寝ている間には、黒枠の通知がほとんど来ない。

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不思議な事に私の寝ている間には、黒枠くろわくの通知がほとんど来ない。

去年の秋にも、病気が治ったあとで三、四人の葬儀に列席したのである。

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去年の秋にも病気がなおったあとで、三四人の葬儀に列したのである。

その三、四人の中に、社の佐藤君も入っていた。

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その三四人の中に社の佐藤君も這入はいっていた。

私は佐藤君が、ある宴会の席で社からもらった銀杯を持ってきて、私に酒を勧めてくれたことを思い出した。

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私は佐藤君がある宴会の席で、社から貰った銀盃ぎんぱいを持って来て、私に酒をすすめてくれた事を思い出した。

その時、彼の踊った変な踊りもまだ覚えている。

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その時彼の踊った変な踊もまだ覚えている。

この元気な頑健な人の葬式に行った私は、彼が死んで私が生き残っていることを、格別の不思議とも思わずにいる時の方が多い。

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この元気な崛強くっきょうな人の葬式とむらいに行った私は、彼が死んで私が生残っているのを、別段の不思議とも思わずにいる時の方が多い。

しかし折々考えると、自分が生きている方が不自然のような気持ちにもなる。

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しかし折々考えると、自分の生きている方が不自然のような心持にもなる。

そうして、運命がわざと私をからかっているのではないかしらと疑いたくなる。

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そうして運命がわざと私を愚弄ぐろうするのではないかしらと疑いたくなる。

二十三

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二十三

今私の住んでいる近所に、喜久井町という町がある。

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今私の住んでいる近所に喜久井町きくいちょうという町がある。

これは私の生まれた所だから、ほかの人よりもよく知っている。

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これは私の生れた所だから、ほかの人よりもよく知っている。

けれども私が家を出て、方々をさまよって帰ってきた時には、その喜久井町がだいぶ広がって、いつの間にか根来の方まで延びていた。

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けれども私が家を出て、方々漂浪ひょうろうして帰って来た時には、その喜久井町がだいぶ広がって、いつの間にか根来ねごろの方まで延びていた。

私に縁の深いこの町の名は、あまり聞き慣れて育ったせいか、少しも私の過去を誘い出す懐かしい響きを私に与えてくれない。

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私に縁故の深いこの町の名は、あまり聞き慣れて育ったせいか、ちっとも私の過去を誘い出すなつかしい響を私に与えてくれない。

しかし書斎に一人で座って頬杖を突いたまま、流れを下る舟のように心を自由に遊ばせておくと、時々私の連想が喜久井町の四文字にぱたりと出会ったきり、そこでしばらく行きつ戻りつし始めることがある。

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しかし書斎にひとり坐って、頬杖ほおづえを突いたまま、流れを下る舟のように、心を自由に遊ばせておくと、時々私の聯想れんそうが、喜久井町の四字にぱたりと出会ったなり、そこでしばらく彽徊ていかいし始める事がある。

この町は江戸と言った昔には、多分存在していなかったものらしい。

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この町は江戸と云った昔には、多分存在していなかったものらしい。

江戸が東京に改まった時か、それともずっと後になってからか、年代ははっきり分からないが、何でも私の父がこしらえたものに違いないのである。

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江戸が東京に改まった時か、それともずっとのちになってからか、年代はたしかに分らないが、何でも私の父がこしらえたものに相違ないのである。

私の家の定紋が井桁に菊なので、それにちなんだ菊と井戸を使って喜久井町としたという話は、父自身の口から聞いたのか、またはほかの者から教わったのか、何しろ今でもまだ私の耳に残っている。

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私の家の定紋じょうもん井桁いげたに菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという話は、父自身の口から聴いたのか、または他のものからおすわったのか、何しろ今でもまだ私の耳に残っている。

父は名主がなくなってから一時区長という役を務めていたので、あるいはそんな融通も利いたのかもしれないが、それを誇りにした彼の虚栄心を今になって考えてみると、嫌な気持ちはとうに消え去って、ただ微笑したくなるだけである。

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父は名主なぬしがなくなってから、一時区長という役を勤めていたので、あるいはそんな自由もいたかも知れないが、それをほこりにした彼の虚栄心を、今になって考えて見ると、いやな心持はくに消え去って、ただ微笑したくなるだけである。

父はさらにその上、自宅の前から南へ行く時にどうしても登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。

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父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。

不幸にしてこれは喜久井町ほど有名にならずに、ただの坂として残っている。

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不幸にしてこれは喜久井町ほど有名にならずに、ただの坂として残っている。

しかしこの間、ある人が来て、地図でこの辺の名前を調べたら夏目坂というのがあったと言って話したから、ことによると父のつけた名が今でも役に立っているのかもしれない。

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しかしこの間、或人が来て、地図でこの辺の名前を調べたら、夏目坂というのがあったと云って話したから、ことによると父の付けた名が今でも役に立っているのかも知れない。

私が早稲田に帰ってきたのは、東京を出てから何年ぶりになるだろう。

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私が早稲田わせだに帰って来たのは、東京を出てから何年ぶりになるだろう。

私は今の住まいに移る前、家を探す目的でだったか、また遠足の帰り道でだったか、久しぶりに偶然、私の昔の家の横へ出た。

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私は今の住居すまいに移る前、うちを探す目的であったか、また遠足の帰り路であったか、久しぶりで偶然私の旧家の横へ出た。

その時、表から二階の古瓦が少し見えたので、まだ生き残っているのかしらと思ったきり、私はそのまま通り過ぎてしまった。

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その時表から二階の古瓦ふるがわらが少し見えたので、まだ生き残っているのかしらと思ったなり、私はそのまま通り過ぎてしまった。

早稲田に移ってから、私はまたその門前を通ってみた。

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早稲田に移ってから、私はまたその門前を通って見た。

表からのぞくと、何だかもとと変わらないような気もしたが、門には思いも寄らない下宿屋の看板が掛かっていた。

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表からのぞくと、何だかもとと変らないような気もしたが、門には思いも寄らない下宿屋の看板がかかっていた。

私は昔の早稲田の田んぼが見たかった。

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私は昔の早稲田田圃たんぼが見たかった。

しかしそこは、もう町になっていた。

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しかしそこはもう町になっていた。

私は根来の茶畑と竹藪をひと目眺めたかった。

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私は根来ねごろ茶畠ちゃばたけ竹藪たけやぶ一目ひとめ眺めたかった。

しかしその跡形は、どこにも見つけることができなかった。

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しかしその痕迹こんせきはどこにも発見する事ができなかった。

多分この辺だろうと推測した私の見当は、当たっているのか外れているのか、それさえ分からなかった。

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多分この辺だろうと推測した私の見当けんとうは、当っているのか、はずれているのか、それさえ不明であった。

私は呆然として立ち尽くした。

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私は茫然ぼうぜんとして佇立ちょりつした。

なぜ私の家だけが、過去の残骸のように残っているのだろう。

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なぜ私の家だけが過去の残骸ざんがいのごとくに存在しているのだろう。

私は心の中で、早くそれが崩れてしまえばいいのにと思った。

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私は心のうちで、早くそれがくずれてしまえば好いのにと思った。

「時」

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「時」

は力であった。

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は力であった。

去年私が高田の方へ散歩したついでに、何気なくそこを通り過ぎると、私の家はきれいに取り壊されて、そのあとに新しい下宿屋が建てられつつあった。

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去年私が高田の方へ散歩したついでに、何気なくそこを通り過ぎると、私の家は綺麗きれいに取り壊されて、そのあとに新らしい下宿屋が建てられつつあった。

そのそばには質屋もできていた。

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そのそばには質屋もできていた。

質屋の前にまばらな囲いをして、その中に庭木が少し植えてあった。

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質屋の前にまばらなかこいをして、その中に庭木が少し植えてあった。

三本の松は見る影もなく枝を刈り込まれて、ほとんど不格好な姿になっていたが、どこか見覚えのあるような気持ちを私に起こさせた。

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三本の松は、見る影もなく枝を刈り込まれて、ほとんど畸形児きけいじのようになっていたが、どこか見覚みおぼえのあるような心持を私に起させた。

昔「影参差松三本の月夜かな」

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むかし「影参差しんし松三本の月夜かな」

と詠んだのは、あるいはこの松のことではなかっただろうかと考えながら、私はまた家に帰った。

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うたったのは、あるいはこの松の事ではなかったろうかと考えつつ、私はまた家に帰った。

二十四

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二十四

「そんな所で育って、よく今日まで無事に済んだものですね」

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「そんな所にって、よく今日こんにちまで無事にすんだものですね」

「まあ、どうにかこうにか無事にやってきました」

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「まあどうかこうか無事にやって来ました」

私たちの使った無事という言葉は、男女の間に起こる恋の波乱がないという意味で、言わば色恋沙汰の反対を指したようなものであるが、私の追及したい気持ちは、簡単なこの一句の答えでは満足できなかった。

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私達の使った無事という言葉は、男女なんにょの間に起る恋の波瀾はらんがないという意味で、云わば情事の反対をしたようなものであるが、私の追窮心ついきゅうしんは簡単なこの一句の答で満足できなかった。

「よく人が言いますね、菓子屋へ奉公すると、いくら甘いものの好きな男でも菓子が嫌になるって。お彼岸におはぎなどをこしらえているところを家で見ていても分かるじゃありませんか、こしらえる者は、ただおはぎをお重に詰めるだけで、もうげんなりした顔をしているくらいだから。あなたの場合もそんな訳なんですか」

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「よく人が云いますね、菓子屋へ奉公すると、いくら甘いものの好な男でも、菓子がいやになるって、御彼岸おひがん御萩おはぎなどをこしらえているところをうちで見ていても分るじゃありませんか、拵えるものは、ただ御萩を御重おじゅうに詰めるだけで、もうげんなりした顔をしているくらいだから。あなたの場合もそんな訳なんですか」

「そういう訳でもないようです。とにかく二十歳を少し過ぎるまでは平気でいたのですから」

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「そういう訳でもないようです。とにかく廿歳はたち少し過ぎまでは平気でいたのですから」

その人は、ある意味において美男子であった。

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その人はある意味において好男子であった。

「たとえあなたが平気でいても、相手が平気でいない場合がないとも限らないじゃありませんか。そんな時には、どうしたって誘われがちになるのが当たり前でしょう」

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「たといあなたが平気でいても、相手が平気でいない場合がないとも限らないじゃありませんか。そんな時には、どうしたってさそわれがちになるのが当り前でしょう」

「今から振り返ってみると、なるほどこういう意味でああいうことをしたのだとか、あんなことを言ったのだとか、いろいろ思い当たることがないでもありません」

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「今からふり返って見ると、なるほどこういう意味でああいう事をしたのだとか、あんな事を云ったのだとか、いろいろ思い当る事がないでもありません」

「じゃあ、全く気がつかずにいたのですね」

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「じゃ全く気がつかずにいたのですね」

「まあそうです。それから、こちらで気のついたのも一つありました。しかし私の心は、どうしてもその相手に惹きつけられることができなかったのです」

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「まあそうです。それからこちらで気のついたのも一つありました。しかし私の心はどうしても、その相手にきつけられる事ができなかったのです」

私は、それが話の終わりかと思った。

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私はそれが話の終りかと思った。

二人の前には、正月の膳が据えてあった。

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二人の前には正月のぜんえてあった。

客は少しも酒を飲まないし、私もほとんど杯に手を触れなかったから、酒のやり取りというものは全くなかった。

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客は少しも酒を飲まないし、私もほとんどさかずきに手を触れなかったから、献酬けんしゅうというものは全くなかった。

「それだけで今日までやってこられたのですか」

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「それだけで今日まで経過して来られたのですか」

と私は吸い物をすすりながら、念のために聞いてみた。

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と私は吸物をすすりながら念のためにいて見た。

すると客は突然、こんな話を私にして聞かせた。

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すると客は突然こんな話を私にして聞かせた。

「まだ使用人であった頃に、ある女と二年ばかり会っていたことがあります。相手はもちろん素人ではないのでした。しかしその女は、もういないのです。首をくくって死んでしまったのです。年は十九でした。十日ばかり会わないでいるうちに死んでしまったのです。その女にはね、旦那が二人あって、双方が意地ずくで身請けの金をせり上げにかかったのです。それに双方とも年上の芸者を味方にして、こっちへ来い、あっちへ行くなと義理攻めにもしたらしいのです。……」

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「まだ使用人であった頃に、ある女と二年ばかり会っていた事があります。相手は無論素人しろうとではないのでした。しかしその女はもういないのです。首をくくって死んでしまったのです。年は十九でした。十日ばかり会わないでいるうちに死んでしまったのです。その女にはね、旦那だんなが二人あって、双方が意地ずくで、身受の金をげにかかったのです。それに双方共老妓を味方にして、こっちへ来い、あっちへ行くなと義理責ぎりぜめにもしたらしいのです。……」

「あなたはそれを救ってやる訳にはいかなかったのですか」

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「あなたはそれを救ってやる訳に行かなかったのですか」

「当時の私は丁稚に少し毛の生えたようなもので、とてもどうもできないのです」

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「当時の私は丁稚でっちの少し毛のえたようなもので、とてもどうもできないのです」

「しかしその芸者は、あなたのために死んだのじゃありませんか」

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「しかしその芸妓げいしゃはあなたのために死んだのじゃありませんか」

「さあ……。一度に双方の旦那へ義理を立てる訳にいかなかったからかもしれませんが。……しかし私たち二人の間に、どこへも行かないという約束はあったに違いないのです」

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「さあ……。一度に双方の旦那に義理を立てる訳に行かなかったからかも知れませんが。……しかし私ら二人の間に、どこへも行かないという約束はあったに違ないのです」

「すると、あなたが間接にその女を殺したことになるのかもしれませんね」

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「するとあなたが間接にその女を殺した事になるのかも知れませんね」

「あるいは、そうかもしれません」

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「あるいはそうかも知れません」

「あなたは寝覚めが悪くありませんか」

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「あなたは寝覚ねざめが悪かありませんか」

「どうも、よくないのです」

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「どうも好くないのです」

元日には混み合った私の座敷は、二日になると寂しいくらい静かであった。

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元日にった私の座敷は、二日になってさびしいくらい静かであった。

私はその寂しい春の松の内に、こういう哀れな物語を、その年賀の客から聞いたのである。

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私はその淋しい春の松の内に、こういうあわれな物語りを、その年賀の客から聞いたのである。

客は真面目な正直な人だったから、それを話すにも、ほとんど色っぽい言葉を使わなかった。

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客は真面目まじめな正直な人だったから、それを話すにも、ほとんどつやっぽい言葉を使わなかった。

二十五

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二十五

私がまだ千駄木にいた頃の話だから、年数にすると、もうだいぶ古いことになる。

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私がまだ千駄木にいた頃の話だから、年数にすると、もうだいぶ古い事になる。

ある日私は切り通しの方へ散歩した帰りに、本郷四丁目の角へ出る代わりに、もう一つ手前の細い通りを北へ曲がった。

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或日私は切通きりどおしの方へ散歩した帰りに、本郷四丁目の角へ出る代りに、もう一つ手前の細い通りを北へ曲った。

その曲がり角には、その頃あった牛屋のそばに、寄席の看板がいつも掛かっていた。

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その曲り角にはその頃あった牛屋ぎゅうやそばに、寄席よせの看板がいつでもかかっていた。

雨の降る日だったので、私はもちろん傘をさしていた。

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雨の降る日だったので、私は無論かさをさしていた。

それが鉄御納戸色の八間の深張りで、上から漏れてくる雫が自然木の柄を伝わって、私の手を濡らし始めた。

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それが鉄御納戸てつおなんど八間はちけんの深張で、上からってくるしずくが、自然木じねんぼくを伝わって、私の手をらし始めた。

人通りの少ないこの小路は、すべての泥を雨で洗い流したように、足駄の歯に引っかかる汚いものはほとんどなかった。

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人通りの少ないこの小路こうじは、すべての泥を雨で洗い流したように、足駄あしだの歯にかかきたないものはほとんどなかった。

それでも上を見れば暗く、下を見ればわびしかった。

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それでも上を見れば暗く、下を見ればびしかった。

始終通り慣れているせいもあろうが、私の周りには何一つ私の目を引くものは見えなかった。

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始終しじゅう通りつけているせいでもあろうが、私の周囲には何一つ私の眼をくものは見えなかった。

そうして私の心は、よくこの天気とこの周りに似ていた。

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そうして私の心はよくこの天気とこの周囲に似ていた。

私には、私の心を蝕むような不愉快な塊が常にあった。

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私には私の心を腐蝕ふしょくするような不愉快なかたまりが常にあった。

私は陰鬱な顔をしながら、ぼんやり雨の降る中を歩いていた。

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私は陰欝いんうつな顔をしながら、ぼんやり雨の降る中を歩いていた。

日蔭町の寄席の前まで来た私は、突然一台の幌俥に出会った。

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日蔭町ひかげちょう寄席よせの前まで来た私は、突然一台の幌俥ほろぐるまに出合った。

私と俥の間には何の隔てもなかったので、私は遠くから、その中に乗っている人が女だということに気がついた。

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私と俥の間には何のへだたりもなかったので、私は遠くからその中に乗っている人の女だという事に気がついた。

まだセルロイドの窓などのできない時分だから、車上の人は遠くから、その白い顔を私に見せていたのである。

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まだセルロイドの窓などのできない時分だから、車上の人は遠くからその白い顔を私に見せていたのである。

私の目には、その白い顔が大変美しく映った。

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私の眼にはその白い顔が大変美しく映った。

私は雨の中を歩きながら、じっとその人の姿に見とれていた。

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私は雨の中を歩きながらじっとその人の姿に見惚みとれていた。

同時に、これは芸者だろうという推察が、ほとんど事実のように私の心に働きかけた。

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同時にこれは芸者だろうという推察が、ほとんど事実のように、私の心に働らきかけた。

すると俥が私の一間ばかり前へ来た時、突然、私の見ていた美しい人が丁寧な会釈を私にして通り過ぎた。

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すると俥が私の一間ばかり前へ来た時、突然私の見ていた美しい人が、鄭寧ていねい会釈えしゃくを私にして通り過ぎた。

私は微笑を伴ったその挨拶とともに、相手が大塚楠緒さんであったことに初めて気がついた。

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私は微笑に伴なうその挨拶あいさつとともに、相手が、大塚楠緒おおつかくすおさんであった事に、始めて気がついた。

次に会ったのは、それから何日目だっただろうか、楠緒さんが私に「この間は失礼しました」

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次に会ったのはそれから幾日目いくかめだったろうか、楠緒くすおさんが私に、「この間は失礼しました」

と言ったので、私はありのままを話す気になった。

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と云ったので、私は私のありのままを話す気になった。

「実は、どこの美しい方かと思って見ていました。芸者ではないかしらとも考えたのです」

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「実はどこの美くしいかたかと思って見ていました。芸者じゃないかしらとも考えたのです」

その時、楠緒さんが何と答えたか、私ははっきり覚えていないけれども、楠緒さんは少しも顔を赤らめなかった。

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その時楠緒さんが何と答えたか、私はたしかに覚えていないけれども、楠緒さんはちっとも顔をあからめなかった。

それから、不愉快そうな表情も見せなかった。

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それから不愉快な表情も見せなかった。

私の言葉を、ただそのまま受け取ったらしく思われた。

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私の言葉をただそのままに受け取ったらしく思われた。

それからずっと経って、ある日、楠緒さんがわざわざ早稲田へ訪ねてきてくれたことがある。

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それからずっとって、ある日楠緒さんがわざわざ早稲田へたずねて来てくれた事がある。

ところが、あいにく私は妻と喧嘩をしていた。

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しかるにあいにく私はさい喧嘩けんかをしていた。

私は嫌な顔をしたまま、書斎にじっと座っていた。

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私はいやな顔をしたまま、書斎にじっと坐っていた。

楠緒さんは妻と十分ばかり話をして帰っていった。

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楠緒さんは妻と十分ばかり話をして帰って行った。

その日はそれで済んだが、ほどなく私は西片町へ詫びに出かけた。

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その日はそれですんだが、ほどなく私は西片町へあやまりに出かけた。

「実は喧嘩をしていたのです。妻もさぞ無愛想だったでしょう。私はまた、苦々しい顔を見せるのも失礼だと思って、わざと引っ込んでいたのです」

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「実は喧嘩をしていたのです。妻も定めて無愛想でしたろう。私はまた苦々にがにがしい顔を見せるのも失礼だと思って、わざと引込ひっこんでいたのです」

これに対する楠緒さんの返事も、今では遠い過去になって、もう呼び出すことができないほど記憶の底に沈んでしまった。

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これに対する楠緒さんの挨拶あいさつも、今では遠い過去になって、もう呼び出す事のできないほど、記憶の底に沈んでしまった。

楠緒さんが死んだという知らせが来たのは、たしか私が胃腸病院にいる頃であった。

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楠緒さんが死んだという報知の来たのは、たしか私が胃腸病院にいる頃であった。

死去の広告の中に私の名前を使って差し支えないかと、電話で問い合わせを受けたことなども、まだ覚えている。

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死去の広告中に、私の名前を使って差支さしつかえないかと電話で問い合された事などもまだ覚えている。

私は病院で「ある程の菊投げ入れよ棺の中」

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私は病院で「ある程の菊投げ入れよかんの中」

という手向けの句を、楠緒さんのために詠んだ。

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という手向たむけの句を楠緒さんのためにんだ。

それを俳句の好きなある男が喜んで、わざわざ私に頼んで短冊に書かせて持っていったのも、もう昔になってしまった。

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それを俳句の好きなある男がうれしがって、わざわざ私に頼んで、短冊に書かせて持って行ったのも、もう昔になってしまった。

二十六

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二十六

益さんがどうしてそんなに落ちぶれたものか、私には分からない。

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ますさんがどうしてそんなに零落おちぶれたものか私には解らない。

何しろ私の知っている益さんは、郵便配達夫であった。

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何しろ私の知っている益さんは郵便脚夫であった。

益さんの弟の庄さんも、家をつぶして私の所へ転がり込み、居候になっていたが、これはまだ益さんよりは社会的な地位が高かった。

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益さんの弟の庄さんも、うちつぶして私の所へころがり込んで食客いそうろうになっていたが、これはまだ益さんよりは社会的地位が高かった。

子どもの時分、本町の鰯屋へ奉公に行っていた時、浜の西洋人がかわいがって外国へ連れていくと言ったのを断ったのが、今考えると残念だなどと、始終話していた。

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小供の時分本町の鰯屋いわしやへ奉公に行っていた時、浜の西洋人が可愛かわいがって、外国へ連れて行くと云ったのを断ったのが、今考えると残念だなどと始終しじゅう話していた。

二人とも私の母方のいとこに当たる男だったから、その縁で、益さんは弟に会うため、また私の父に敬意を表するため、月に一度ぐらいは牛込の奥まで、煎餅の袋などを土産に持ってよく訪ねてきた。

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二人とも私の母方の従兄いとこに当る男だったから、その縁故で、益さんはおととに会うため、また私の父に敬意を表するため、月に一遍ぐらいは、牛込の奥まで煎餅せんべいの袋などを手土産てみやげに持って、よく訪ねて来た。

益さんはその時、何でも芝の外れか、または品川近くに所帯を持って、一人暮らしの気楽な生活を営んでいたらしいので、家へ来るとよく泊まっていった。

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益さんはその時何でも芝のはずれか、または品川近くに世帯を持って、一人暮しの呑気のんきな生活を営んでいたらしいので、うちへ来るとよく泊まって行った。

たまに帰ろうとすると、兄たちが寄ってたかって、「帰ると承知しないぞ」

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たまに帰ろうとすると、兄達が寄ってたかって、「帰ると承知しないぞ」

などと脅したものである。

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などと威嚇おどかしたものである。

当時、二番目と三番目の兄は、まだ南校へ通っていた。

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当時二番目と三番目の兄は、まだ南校なんこうへ通っていた。

南校というのは今の高等商業学校の位置にあって、そこを卒業すると開成学校、すなわち今日の大学へ入る仕組みになっていたものらしかった。

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南校というのは今の高等商業学校の位置にあって、そこを卒業すると、開成学校すなわち今日こんにちの大学へ這入はい組織そしょくになっていたものらしかった。

彼らは夜になると、玄関に桐の机を並べて明日の下読みをする。

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彼らは夜になると、玄関にきりの机を並べて、明日あした下読したよみをする。

下読みと言ったところで、今の書生のやるのとはだいぶ違っていた。

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下読と云ったところで、今の書生のやるのとはだいぶ違っていた。

グードリッチの英国史といったような本を一節ぐらいずつ読んで、それからそれを机の上に伏せ、口の中で今読んだとおりを暗誦するのである。

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グードリッチの英国史といったような本を、一節ぐらいずつ読んで、それからそれを机の上へ伏せて、口の内で今読んだ通りを暗誦あんしょうするのである。

その下読みが済むと、だんだん益さんが必要になってくる。

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その下読が済むと、だんだん益さんが必要になって来る。

庄さんもいつの間にか、そこへ顔を出す。

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庄さんもいつの間にかそこへ顔を出す。

一番目の兄も、機嫌のいい時はわざわざ奥から玄関まで出張ってくる。

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一番目の兄も、機嫌きげんの好い時は、わざわざ奥から玄関まで出張でばって来る。

そうしてみんな一緒になって、益さんをからかい始める。

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そうしてみんないっしょになって、益さんに調戯からかい始める。

「益さん、西洋人の所へ手紙を配達することもあるだろう」

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「益さん、西洋人の所へ手紙を配達する事もあるだろう」

「そりゃ商売だから、嫌だって仕方がありません、持っていきますよ」

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「そりゃ商売だからいやだって仕方がありません、持って行きますよ」

「益さんは英語ができるのかね」

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「益さんは英語ができるのかね」

「英語ができるくらいなら、こんな真似をしちゃいません」

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「英語ができるくらいならこんな真似まねをしちゃいません」

「しかし郵便っ、とか何とか大きな声を出さなくちゃならないだろう」

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「しかし郵便ッとか何とか大きな声を出さなくっちゃならないだろう」

「そりゃ日本語で間に合いますよ。外国の人だって、近頃は日本語が分かりますもの」

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「そりゃ日本語で間に合いますよ。異人だって、近頃は日本語が解りますもの」

「へええ、向こうでも何とか言うのかね」

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「へええ、むこうでも何とか云うのかね」

「言いますとも。ペロリの奥さんなんか、あなたよろしいありがとう、と、ちゃんと日本語で挨拶をするくらいです」

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「云いますとも。ペロリの奥さんなんか、あなたよろしいありがとうと、ちゃんと日本語で挨拶あいさつをするくらいです」

みんなは益さんをここまでおびき出しておいて、どっと笑うのである。

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みんなは益さんをここまでおびき出しておいて、どっと笑うのである。

それからまた「益さん、何て言うんだって、その奥さんは」

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それからまた「益さん何て云うんだって、その奥さんは」

と何度も同じことを聞いては、いつまでも笑いの種にしようと企んでかかる。

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と何遍も一つ事をいては、いつまでも笑いの種にしようとたくらんでかかる。

益さんもしまいには苦笑いをして、とうとう「あなたよろしい」

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益さんもしまいには苦笑いをして、とうとう「あなたよろしい」

をやめにしてしまう。

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をやめにしてしまう。

すると今度は「じゃあ益さん、野中の一本杉をやってご覧よ」

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すると今度は「じゃ益さん、野中のなか一本杉いっぽんすぎをやって御覧よ」

と誰かが言い出す。

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と誰かが云い出す。

「やれと言ったって、そうおいそれとやれるもんじゃありません」

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「やれったって、そうおいそれとやれるもんじゃありません」

「まあいいから、おやりよ。いよいよ野中の一本杉の所まで参りますと……」

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「まあ好いから、おやりよ。いよいよ野中の一本杉の所まで参りますと……」

益さんは、それでもにやにやして応じない。

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益さんはそれでもにやにやして応じない。

私はとうとう、益さんの野中の一本杉というものを聞かずにしまった。

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私はとうとう益さんの野中の一本杉というものをかずにしまった。

今考えると、それは何でも講釈か人情噺の一節ではないかしらと思う。

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今考えると、それは何でも講釈か人情噺にんじょうばなしの一節じゃないかしらと思う。

私が大人になる頃には、益さんももう家へ来なくなった。

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私の成人する頃には益さんももううちへ来なくなった。

おおかた死んだのだろう。

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おおかた死んだのだろう。

生きていれば、何か便りがあるはずである。

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生きていれば何か消息たよりのあるはずである。

しかし死んだにしても、いつ死んだのか私は知らない。

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しかし死んだにしても、いつ死んだのか私は知らない。

二十七

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二十七

私は芝居というものにあまり親しみがない。

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私は芝居というものに余り親しみがない。

とりわけ旧劇は分からない。

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ことに旧劇は解らない。

これは、古くからその方面で発達してきた演芸上の約束事を知らないので、舞台の上に繰り広げられる特別な世界に同化する能力が私に欠けているためだとも思う。

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これは古来からその方面で発達して来た演芸上の約束を知らないので、舞台の上に開展かいてんされる特別の世界に、同化する能力が私に欠けているためだとも思う。

しかしそればかりではない。

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しかしそればかりではない。

私が旧劇を見て最も異様に感じるのは、役者が自然と不自然の間を、どっちつかずにぶらぶら歩いていることである。

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私が旧劇を見て、最も異様に感ずるのは、役者が自然と不自然の間を、どっちつかずにぶらぶら歩いている事である。

それが私に、中腰といったような落ち着かない気持ちを起こさせるのも、おそらく当然のことなのだろう。

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それが私に、中腰ちゅうごしと云ったような落ちつけない心持を引き起させるのも恐らく理の当然なのだろう。

しかし舞台の上に子どもなどが出てきて、甲高い声で哀れっぽいことなどを言う時には、私のような者でも知らず知らず目に涙がにじみ出る。

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しかし舞台の上に子供などが出て来て、かんの高い声で、あわれっぽい事などを云う時には、いかな私でも知らず知らず眼に涙がにじみ出る。

そうしてすぐ、ああ騙されたなと後悔する。

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そうしてすぐ、ああだまされたなと後悔する。

なぜあんなに安っぽい涙をこぼしたのだろうと思う。

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なぜあんなに安っぽい涙をこぼしたのだろうと思う。

「どう考えても、騙されて泣くのは嫌だ」

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「どう考えても騙されて泣くのはいやだ」

と私はある人に言った。

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と私はある人に告げた。

芝居好きのその相手は、「それが先生の本来の姿なのでしょう。普段、涙を控えめにしているのは、かえってあなたのよそゆきじゃありませんか」

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芝居好のその相手は、「それが先生の常態なのでしょう。平生涙をひかにしているのは、かえってあなたのよそゆきじゃありませんか」

と指摘した。

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と注意した。

私はその説に不服だったので、いろいろな方面から向こうを納得させようとしているうちに、話題がいつのまにか絵画の方へ滑っていった。

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私はその説に不服だったので、いろいろの方面からむこうを納得させようとしているうちに、話題がいつか絵画の方にすべって行った。

その男は、この間参考品として美術協会に出た若冲の御物を大変に喜んで、その評論をどこかの雑誌に載せるとかいう噂であった。

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その男はこの間参考品として美術協会に出た若冲じゃくちゅう御物ぎょぶつを大変にうれしがって、その評論をどこかの雑誌に載せるとかいううわさであった。

私はまた、あの鶏の図がすこぶる気に入らなかったので、ここでも芝居と同じような議論が二人の間に起こった。

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私はまたあの鶏の図がすこぶる気に入らなかったので、ここでも芝居と同じような議論が二人の間に起った。

「いったい君に絵を論じる資格はないはずだ」

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「いったい君にを論ずる資格はないはずだ」

と私はついに彼をこき下ろした。

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と私はついに彼を罵倒ばとうした。

するとこの一言がもとになって、彼は芸術一元論を主張し出した。

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するとこの一言いちごんもとになって、彼は芸術一元論を主張し出した。

彼の趣旨をかいつまんで言うと、すべての芸術は同じ源から湧いて出るのだから、そのうちの一つさえしっかり腹に入れておけば、ほかは自然と理解できる理屈だ、というのである。

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彼の主意をかいつまんで云うと、すべての芸術は同じみなもとからいて出るのだから、その内の一つさえうんと腹に入れておけば、他はおのずから解し得られる理窟りくつだというのである。

座にいる人のうちで、彼に同意する者も少なくなかった。

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座にいる人のうちで、彼に同意するものも少なくなかった。

「じゃあ小説を作れば、自然と柔道もうまくなるかい」

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「じゃ小説を作れば、自然柔道もうまくなるかい」

と私が冗談半分に言った。

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と私が笑談じょうだん半分に云った。

「柔道は芸術じゃありませんよ」

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「柔道は芸術じゃありませんよ」

と相手も笑いながら答えた。

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と相手も笑いながら答えた。

芸術は、すべてを同じと見るところから出発するのではない。

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芸術は平等観から出立するのではない。

仮にそこから出発するにしても、違いを見分けるところに入って初めて花が咲くのだから、それをもとの昔へ返せば、絵も彫刻も文章もすっかり無に帰してしまう。

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よしそこから出立するにしても、差別観さべつかんって始めて、花が咲くのだから、それを本来の昔へ返せば、絵も彫刻も文章も、すっかり無に帰してしまう。

そこに何の共通のものがあろう。

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そこに何で共通のものがあろう。

たとえあったにしたところで、実際の役には立たない。

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たとい有ったにしたところで、実際の役には立たない。

互いに共通の具体的なものなどの発見も、できるはずがない。

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彼我共通の具体的のものなどの発見もできるはずがない。

こういうのが、その時の私の論旨であった。

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こういうのがその時の私の論旨ろんしであった。

そうしてその論旨は、決して十分なものではなかった。

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そうしてその論旨はけっして充分なものではなかった。

もっと先方の主張を取り入れて、行き届いた解釈を下してやる余地はいくらでもあったのである。

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もっと先方の主張を取り入れて、周到な解釈をくだしてやる余地はいくらでもあったのである。

しかしその時、座にいた一人が突然私の議論を引き受けて相手に向かい出したので、私も面倒だから、つい、そのままにしておいた。

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しかしその時座にいた一人いちにんが、突然私の議論を引き受けて相手に向い出したので、私も面倒だからついそのままにしておいた。

けれども私の代わりになったその男というのは、だいぶ酔っていた。

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けれども私の代りになったその男というのはだいぶ酔っていた。

それで芸術がどうの、文芸がどうのとしきりに論じるけれども、あまり要領を得たことは言わなかった。

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それで芸術がどうだの、文芸がどうだのと、しきりに弁ずるけれども、あまり要領を得た事は云わなかった。

言葉遣いさえ、少しへべれけであった。

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言葉づかいさえ少しへべれけであった。

初めのうちは面白がって笑っていた人たちも、ついには黙ってしまった。

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初めのうちは面白がって笑っていた人達も、ついには黙ってしまった。

「じゃあ絶交しよう」

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「じゃ絶交しよう」

などと、酔った男がしまいに言い出した。

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などと酔った男がしまいに云い出した。

私は「絶交するなら外でやってくれ、ここでは迷惑だから」

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私は「絶交するなら外でやってくれ、ここでは迷惑だから」

と注意した。

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と注意した。

「じゃあ外へ出て絶交しようか」

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「じゃ外へ出て絶交しようか」

と酔った男が相手に相談を持ちかけたが、相手が動かないので、とうとうそれきりになってしまった。

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と酔った男が相手に相談を持ちかけたが、相手が動かないので、とうとうそれぎりになってしまった。

これは今年の元日の出来事である。

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これは今年の元日の出来事である。

酔った男はそれからちょいちょい来るが、その時の喧嘩については一言も言わない。

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酔った男はそれからちょいちょい来るが、その時の喧嘩けんかについては一口も云わない。

二十八

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二十八

ある人が私の家の猫を見て、「これは何代目の猫ですか」

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ある人が私のうちの猫を見て、「これは何代目の猫ですか」

と聞いた時、私は何気なく「二代目です」

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いた時、私は何気なく「二代目です」

と答えたが、あとで考えると、二代目はもう通り越して、実は三代目になっていた。

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と答えたが、あとで考えると、二代目はもう通り越して、そのじつ三代目になっていた。

初代は宿なしであったにもかかわらず、ある意味でだいぶ有名になったが、それに引き換えて、二代目の生涯は主人にさえ忘れられるくらい短命だった。

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初代は宿なしであったにかかわらず、ある意味からして、だいぶ有名になったが、それに引きかえて、二代目の生涯しょうがいは、主人にさえ忘れられるくらい、短命だった。

私は、誰がそれをどこからもらってきたのかよく知らない。

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私は誰がそれをどこから貰って来たかよく知らない。

しかし手のひらに載せれば載せられるような小さな格好をして、彼がそこら中を這い回っていた当時を、私はまだ記憶している。

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しかし手のひらに載せれば載せられるような小さい恰好かっこうをして、彼がそこいらじゅうい廻っていた当時を、私はまだ記憶している。

このいじらしい動物は、ある朝、家の者が布団を上げる時、誤って上から踏み殺してしまった。

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この可憐な動物は、ある朝家のものが床をげる時、誤って上から踏み殺してしまった。

ぐうという声がしたので、布団の下に潜り込んでいる彼をすぐ引き出して相当の手当てをしたが、もう間に合わなかった。

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ぐうという声がしたので、蒲団ふとんの下にもぐんでいる彼をすぐ引き出して、相当の手当てあてをしたが、もう間に合わなかった。

彼はそれから一日二日して、ついに死んでしまった。

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彼はそれから一日いちんち二日ふつかしてついに死んでしまった。

そのあとへ来たのが、すなわち真っ黒な今の猫である。

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そのあとへ来たのがすなわち真黒な今の猫である。

私はこの黒猫をかわいがってもいないし、憎んでもいない。

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私はこの黒猫を可愛かわいがってもにくがってもいない。

猫の方でも家中をのそのそ歩き回るだけで、別に私のそばへ寄りつこうという好意を見せたことがない。

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猫の方でも宅中うちじゅうのそのそ歩き廻るだけで、別に私のそばへ寄りつこうという好意を現わした事がない。

ある時、彼は台所の戸棚へ入って鍋の中へ落ちた。

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ある時彼は台所の戸棚とだなへ這入って、なべの中へ落ちた。

その鍋の中には胡麻の油がいっぱい入っていたので、彼の体はコスメチックでも塗りつけたように光り始めた。

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その鍋の中には胡麻ごまの油がいっぱいあったので、彼の身体からだはコスメチックでも塗りつけたように光り始めた。

彼はその光る体で私の原稿用紙の上に寝たものだから、油がずっと下まで染み通って、私をずいぶんな目に遭わせた。

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彼はその光る身体で私の原稿紙の上に寝たものだから、油がずっと下までとおって私をずいぶんな目にわせた。

去年、私が病気をする少し前に、彼は突然皮膚病にかかった。

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去年私の病気をする少し前に、彼は突然皮膚病にかかった。

顔から額にかけて、毛がだんだん抜けてくる。

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顔から額へかけて、毛がだんだん抜けて来る。

それをしきりに爪で掻くものだから、かさぶたがぼろぼろ落ちて、あとが赤裸になる。

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それをしきりに爪でくものだから、瘡葢かさぶたがぼろぼろ落ちて、あと赤裸あかはだかになる。

私はある日、食事中にこの見苦しい様子を眺めて嫌な顔をした。

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私はある日食事中この見苦しい様子を眺めていやな顔をした。

「ああ、かさぶたをこぼして、もし子どもにでもうつるといけないから、病院へ連れていって早く治療をしてやるがいい」

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「ああ瘡葢をこぼして、もし小供にでも伝染するといけないから、病院へ連れて行って早く療治をしてやるがいい」

私は家の者にこう言ったが、腹の中では、ことによると病気が病気だから治らないかもしれないとも思った。

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私はうちのものにこういったが、腹の中では、ことによると病気が病気だから全治しまいとも思った。

昔、私の知っている西洋人が、ある伯爵からいい犬をもらってかわいがっていたところ、いつかこんな皮膚病に悩まされ出したので、気の毒だからと言って医者に頼んで殺してもらったことを、私はよく覚えていたのである。

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むかし私の知っている西洋人が、ある伯爵から好い犬を貰って可愛かわいがっていたところ、いつかこんな皮膚病に悩まされ出したので、気の毒だからと云って、医者に頼んで殺して貰った事を、私はよく覚えていたのである。

「クロロホルムか何かで殺してやった方が、かえって苦痛がなくて幸せだろう」

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「クロロフォームか何かで殺してやった方が、かえって苦痛がなくって仕合せだろう」

私は三、四度同じ言葉を繰り返してみたが、猫がまだ私の思うとおりにならないうちに、自分の方が病気でどっと寝込んでしまった。

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私は三四度さんよたび同じ言葉をかえして見たが、猫がまだ私の思う通りにならないうちに、自分の方が病気でどっと寝てしまった。

その間、私はついに彼を見る機会を持たなかった。

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その間私はついに彼を見る機会をもたなかった。

自分の苦痛が直接に自分を支配するせいか、彼の病気を考える余裕さえ出なかった。

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自分の苦痛が直接自分を支配するせいか、彼の病気を考える余裕さえ出なかった。

十月に入って、私はようやく起きた。

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十月にって、私はようやく起きた。

そうしていつものように黒い彼を見た。

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そうして例のごとく黒い彼を見た。

すると不思議なことに、彼の醜い赤裸の皮膚に、もとのような黒い毛が生えかかっていた。

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すると不思議な事に、彼の醜い赤裸の皮膚にもとのような黒い毛がえかかっていた。

「おや、治るのかしら」

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「おやなおるのかしら」

私は退屈な病後の目を、絶えず彼の上に注いでいた。

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私は退屈な病後の眼を絶えず彼の上に注いでいた。

すると私の衰弱がだんだん回復するにつれて、彼の毛もだんだん濃くなってきた。

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すると私の衰弱がだんだん回復するにつれて、彼の毛もだんだん濃くなって来た。

それが普段どおりになると、今度は以前より太り始めた。

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それが平生の通りになると、今度は以前より肥え始めた。

私は自分の病気の経過と彼の病気の経過とを比べてみて、時々そこに何かの因縁があるような暗示を受ける。

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私は自分の病気の経過と彼の病気の経過とを比較して見て、時々そこに何かの因縁いんねんがあるような暗示を受ける。

そうしてすぐそのあとから、馬鹿らしいと思って微笑する。

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そうしてすぐその後から馬鹿らしいと思って微笑する。

猫の方ではただにゃあにゃあ鳴くばかりだから、どんな気持ちでいるのか、私にはまるで分からない。

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猫の方ではただにやにや鳴くばかりだから、どんな心持でいるのか私にはまるで解らない。

二十九

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二十九

私は両親の晩年にできた、いわゆる末っ子である。

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私は両親の晩年になってできたいわゆるすえである。

私を生んだ時、母はこんな年をして身ごもるのは面目ないと言ったとかいう話が、今でも折々は繰り返されている。

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私を生んだ時、母はこんな年歯としをして懐妊するのは面目ないと云ったとかいう話が、今でも折々はかえされている。

単にそのためばかりでもあるまいが、私の両親は、私が生まれ落ちると間もなく、私を里子に出してしまった。

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単にそのためばかりでもあるまいが、私の両親は私が生れ落ちると間もなく、私を里にやってしまった。

その里というのは、もちろん私の記憶に残っているはずがないけれども、大人になってから聞いてみると、何でも古道具の売り買いを商売にしていた貧しい夫婦者であったらしい。

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その里というのは、無論私の記憶に残っているはずがないけれども、成人ののち聞いて見ると、何でも古道具の売買を渡世とせいにしていた貧しい夫婦ものであったらしい。

私はその道具屋のがらくたと一緒に小さいざるの中に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店にさらされていたのである。

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私はその道具屋の我楽多がらくたといっしょに、小さいざるの中に入れられて、毎晩四谷よつやの大通りの夜店にさらされていたのである。

それをある晩、私の姉が何かのついでにそこを通りかかった時見つけて、かわいそうとでも思ったのだろう、懐へ入れて家へ連れてきたが、私はその夜どうしても寝つかずに、とうとう一晩中泣き続けに泣いたとかいうので、姉は大いに父から叱られたそうである。

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それをある晩私の姉が何かのついでにそこを通りかかった時見つけて、可哀想かわいそうとでも思ったのだろう、ふところへ入れてうちへ連れて来たが、私はその夜どうしても寝つかずに、とうとう一晩中泣き続けに泣いたとかいうので、姉は大いに父からしかられたそうである。

私はいつ頃その里から取り戻されたのか知らない。

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私はいつごろその里から取り戻されたか知らない。

しかし、すぐにまたある家へ養子にやられた。

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しかしじきまたある家へ養子にやられた。

それはたしか、私が四つの年であったように思う。

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それはたしか私の四つの歳であったように思う。

私は物心のつく八、九歳までそこで育ったが、やがて養家に妙ないざこざが起こったため、再び実家へ戻るような仕儀となった。

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私は物心のつく八九歳までそこで成長したが、やがて養家に妙なごたごたが起ったため、再び実家へ戻るような仕儀となった。

浅草から牛込へ移された私は、生まれた家へ帰ったのだとは気がつかずに、自分の両親をもとどおり祖父母とばかり思っていた。

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浅草から牛込へうつされた私は、生れたうちへ帰ったとは気がつかずに、自分の両親をもと通り祖父母とのみ思っていた。

そうして相変わらず彼らをお爺さん、お婆さんと呼んで、少しも怪しまなかった。

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そうして相変らず彼らを御爺おじいさん、御婆おばあさんと呼んでごうも怪しまなかった。

向こうでも、急に今までの習慣を改めるのが変だと考えたものか、私にそう呼ばれながら澄ました顔をしていた。

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むこうでも急に今までの習慣を改めるのが変だと考えたものか、私にそう呼ばれながら澄ました顔をしていた。

私は普通の末っ子のようには、決して両親からかわいがられなかった。

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私は普通のすえのようにけっして両親から可愛かわいがられなかった。

これは私の性質が素直でなかったためだの、長く両親から遠ざかっていたためだの、いろいろな原因から来ていた。

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これは私の性質が素直すなおでなかったためだの、久しく両親に遠ざかっていたためだの、いろいろの原因から来ていた。

とりわけ父からは、むしろ厳しく扱われたという記憶が、まだ私の頭に残っている。

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とくに父からはむしろ苛酷かこくに取扱かわれたという記憶がまだ私の頭に残っている。

それなのに、浅草から牛込へ移された当時の私は、なぜか非常に嬉しかった。

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それだのに浅草から牛込へ移された当時の私は、なぜか非常にうれしかった。

そうしてその嬉しさが、誰の目にもつくくらいはっきりと外へ現れた。

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そうしてその嬉しさが誰の目にもつくくらいに著るしく外へ現われた。

馬鹿な私は、本当の両親を爺婆とばかり思い込んで、どれくらいの月日を無駄に暮らしたものだろう、それを聞かれるとまるで分からないが、何でもある夜こんなことがあった。

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馬鹿な私は、本当の両親を爺婆じじばばとのみ思い込んで、どのくらいの月日をくうに暮らしたものだろう、それをかれるとまるで分らないが、何でも或夜こんな事があった。

私が一人で座敷に寝ていると、枕もとの所で小さな声を出して、しきりに私の名を呼ぶ者がある。

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私がひとり座敷に寝ていると、枕元の所で小さな声を出して、しきりに私の名を呼ぶものがある。

私は驚いて目を覚ましたが、あたりが真っ暗なので、誰がそこにうずくまっているのか、ちょっと判断がつかなかった。

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私は驚ろいて眼をましたが、周囲あたり真暗まっくらなので、誰がそこに蹲踞うずくまっているのか、ちょっと判断がつかなかった。

けれども私は子どもだから、ただじっとして相手の言うことだけを聞いていた。

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けれども私は小供だからただじっとして先方の云う事だけを聞いていた。

すると聞いているうちに、それが私の家の下女の声であることに気がついた。

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すると聞いているうちに、それが私のうちの下女の声である事に気がついた。

下女は暗い中で、私に耳打ちをするようにこう言うのである。――

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下女は暗い中で私に耳語みみこすりをするようにこういうのである。――

「あなたがお爺さんお婆さんだと思っていらっしゃる方は、本当はあなたのお父さんとお母さんなのですよ。さっきね、おおかたそのせいであんなにこっちの家が好きなんだろう、妙なものだな、と言って二人で話していらしたのを私が聞いたから、そっとあなたに教えてあげるんですよ。誰にも話しちゃいけませんよ。よござんすか」

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「あなたが御爺さん御婆さんだと思っていらっしゃる方は、本当はあなたの御父おとっさんと御母おっかさんなのですよ。先刻さっきね、おおかたそのせいであんなにこっちのうちが好なんだろう、妙なものだな、と云って二人で話していらしったのを私が聞いたから、そっとあなたに教えて上げるんですよ。誰にも話しちゃいけませんよ。よござんすか」

私はその時、ただ「誰にも言わないよ」

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私はその時ただ「誰にも云わないよ」

と言ったきりだったが、心の中では大変嬉しかった。

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と云ったぎりだったが、心のうちでは大変嬉しかった。

そうしてその嬉しさは、事実を教えてくれたからの嬉しさではなくて、単に下女が私に親切だったからの嬉しさであった。

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そうしてその嬉しさは事実を教えてくれたからの嬉しさではなくって、単に下女が私に親切だったからの嬉しさであった。

不思議にも、私はそれほど嬉しく思った下女の名も顔も、まるで忘れてしまった。

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不思議にも私はそれほど嬉しく思った下女の名も顔もまるで忘れてしまった。

覚えているのは、ただその人の親切だけである。

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覚えているのはただその人の親切だけである。

三十

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三十

私がこうして書斎に座っていると、来る人の多くが「もうご病気はすっかりお治りですか」

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私がこうして書斎にすわっていると、来る人の多くが「もう御病気はすっかり御癒おなおりですか」

と尋ねてくれる。

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と尋ねてくれる。

私は何度も同じ質問を受けながら、何度も返答にためらった。

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私は何度も同じ質問を受けながら、何度も返答に躊躇ちゅうちょした。

そうしてそのあげく、いつでも同じ言葉を繰り返すようになった。

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そうしてそのきょくいつでも同じ言葉をかえすようになった。

それは「ええ、まあどうにかこうにか生きています」

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それは「ええまあどうかこうか生きています」

という、変な返事にほかならなかった。

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という変な挨拶あいさつことならなかった。

どうにかこうにか生きている。――

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どうかこうか生きている。――

私はこの一句を長い間使った。

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私はこの一句を久しい間使用した。

しかし使うたびに何だか穏やかでない気持ちがするので、自分でも実はやめられるならばと思って考えてみたが、私の健康状態を言い表す適当な言葉は、ほかにどうしても見つからなかった。

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しかし使用するごとに、何だか不穏当ふおんとうな心持がするので、自分でも実はやめられるならばと思って考えてみたが、私の健康状態を云い現わすべき適当な言葉は、にどうしても見つからなかった。

ある日T君が来たので、この話をして、治ったとも言えず、治らないとも言えず、何と答えていいか分からないと語ったら、T君はすぐ私にこんな返事をした。

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ある日T君が来たから、この話をして、なおったとも云えず、癒らないとも云えず、何と答えて好いか分らないと語ったら、T君はすぐ私にこんな返事をした。

「そりゃ治ったとは言われませんね。そう時々再発するようじゃ。まあ、もとの病気の続きなんでしょう」

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「そりゃ癒ったとは云われませんね。そう時々再発するようじゃ。まあもとの病気の継続なんでしょう」

この続きという言葉を聞いた時、私はいいことを教えられたような気がした。

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この継続という言葉を聞いた時、私は好い事を教えられたような気がした。

それから以後は、「どうにかこうにか生きています」

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それから以後は、「どうかこうか生きています」

という返事をやめて、「病気はまだ続いています」

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という挨拶あいさつをやめて、「病気はまだ継続中です」

と改めた。

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と改ためた。

そうしてその続いているという意味を説明する場合には、必ずヨーロッパの大戦を引き合いに出した。

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そうしてその継続の意味を説明する場合には、必ず欧洲の大乱を引合ひきあいに出した。

「私はちょうどドイツが連合軍と戦争をしているように、病気と戦争をしているのです。今こうやってあなたと向かい合って座っていられるのは、天下が太平になったからではなく、塹壕の中に入って病気とにらめっこをしているからです。私の体は乱世です。いつどんな異変が起こらないとも限りません」

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「私はちょうど独乙ドイツ聯合軍れんごうぐんと戦争をしているように、病気と戦争をしているのです。今こうやってあなたと対坐していられるのは、天下が太平になったからではないので、塹壕ざんごううち這入はいって、病気とにらめっくらをしているからです。私の身体からだは乱世です。いつどんなへんが起らないとも限りません」

ある人は私の説明を聞いて、面白そうにははと笑った。

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或人は私の説明を聞いて、面白そうにははと笑った。

ある人は黙っていた。

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或人は黙っていた。

またある人は気の毒そうな顔をした。

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また或人は気の毒らしい顔をした。

客の帰ったあとで、私はまた考えた。――

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客の帰ったあとで私はまた考えた。――

続いているのは、おそらく私の病気ばかりではないだろう。

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継続中のものはおそらく私の病気ばかりではないだろう。

私の説明を聞いて冗談だと思って笑う人、分からないで黙っている人、同情に駆られて気の毒そうな顔をする人――すべてこれらの人の心の奥には、私の知らない、また自分たちさえ気のつかない、続いているものがいくらでも潜んでいるのではなかろうか。

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私の説明を聞いて、笑談じょうだんだと思って笑う人、解らないで黙っている人、同情の念にられて気の毒らしい顔をする人、――すべてこれらの人の心の奥には、私の知らない、また自分達さえ気のつかない、継続中のものがいくらでもひそんでいるのではなかろうか。

もし彼らの胸に響くような大きな音で、それが一度に破裂したら、彼らははたしてどう思うだろう。

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もし彼らの胸に響くような大きな音で、それが一度に破裂したら、彼らははたしてどう思うだろう。

彼らの記憶は、その時もはや彼らに向かって何も語らないだろう。

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彼らの記憶はその時もはや彼らに向って何物をも語らないだろう。

過去の自覚は、とうに消えてしまっているだろう。

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過去の自覚はとくに消えてしまっているだろう。

今と昔と、またそのさらに昔との間に、何の因果も認めることのできない彼らは、そういう結果に陥った時、自分をどう解釈してみる気だろう。

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今と昔とまたその昔の間に何らの因果を認める事のできない彼らは、そういう結果におちいった時、何と自分を解釈して見る気だろう。

しょせん我々は、自分で夢のうちに製造した爆裂弾を思い思いに抱えながら、一人残らず、死という遠い所へ談笑しつつ歩いていくのではなかろうか。

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所詮しょせん我々は自分で夢のに製造した爆裂弾を、思い思いにいだきながら、一人残らず、死という遠い所へ、談笑しつつ歩いて行くのではなかろうか。

ただ、どんなものを抱えているのか、他人も知らず自分も知らないので、幸せなのだろう。

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ただどんなものをいているのか、ひとも知らず自分も知らないので、仕合せなんだろう。

私は自分の病気が続きであるということに気がついた時、ヨーロッパの戦争もおそらくいつの世からかの続きだろうと考えた。

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私は私の病気が継続であるという事に気がついた時、欧洲の戦争もおそらくいつの世からかの継続だろうと考えた。

けれども、それがどこからどう始まって、どう曲がりくねっていくのかという問題になるとまったく無知なので、続きという言葉を知らない一般の人を、私はかえって羨ましく思っている。

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けれども、それがどこからどう始まって、どう曲折して行くかの問題になると全く無知識なので、継続という言葉を解しない一般の人を、私はかえってうらやましく思っている。

三十一

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三十一

私がまだ小学校に行っていた時分に、喜いちゃんという仲のいい友達がいた。

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私がまだ小学校に行っていた時分に、いちゃんという仲の好い友達があった。

喜いちゃんは当時、中町の叔父さんの家にいたので、そう道のりの近くない私の所からは、毎日会いに行くことがしにくかった。

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喜いちゃんは当時中町なかちょうの叔父さんのうちにいたので、そう道程みちのりの近くない私の所からは、毎日会いに行く事が出来にくかった。

私は主に自分の方から出かけずに、喜いちゃんが来るのを家で待っていた。

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私はおもに自分の方から出かけないで、喜いちゃんの来るのを宅で待っていた。

喜いちゃんは、いくら私が行かなくても、きっと向こうから来ると決まっていた。

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喜いちゃんはいくら私が行かないでも、きっと向うから来るにきまっていた。

そうしてその来る先は、私の家の長屋を借りて紙や筆を売る松さんの所であった。

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そうしてその来る所は、私の家の長屋を借りて、紙や筆を売る松さんのもとであった。

喜いちゃんには父も母もいないようだったが、子どもの私には、それが少しも不思議とも思われなかった。

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喜いちゃんには父母ちちははがないようだったが、小供の私には、それがいっこう不思議とも思われなかった。

おそらく、聞いてみたこともなかっただろう。

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おそらくいて見た事もなかったろう。

したがって喜いちゃんがなぜ松さんの所へ来るのか、その訳さえも知らずにいた。

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したがって喜いちゃんがなぜ松さんの所へ来るのか、その訳さえも知らずにいた。

これはずっと後で聞いた話であるが、この喜いちゃんのお父さんというのは、昔、銀座の役人か何かをしていた時、贋金を造ったとかいう疑いを受けて、牢に入ったまま死んでしまったのだという。

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これはずっと後で聞いた話であるが、この喜いちゃんの御父おとっさんというのは、むかし銀座の役人か何かをしていた時、贋金にせがねを造ったとかいう嫌疑けんぎを受けて、入牢じゅうろうしたまま死んでしまったのだという。

それで、あとに取り残された奥さんが喜いちゃんを前の夫の家へ置いたまま松さんの所へ再婚したのだから、喜いちゃんが時々生みの母に会いに来るのは当たり前の話であった。

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それであとに取り残された細君が、喜いちゃんを先夫せんぷの家へ置いたなり、松さんの所へ再縁したのだから、喜いちゃんが時々うみの母に会いに来るのは当り前の話であった。

何も知らない私は、この事情を聞いた時ですら格別変な感じも起こさなかったくらいだから、喜いちゃんとふざけ回って遊ぶ頃に、彼の境遇などを考えたことはただの一度もなかった。

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何にも知らない私は、この事情を聞いた時ですら、別段変な感じも起さなかったくらいだから、喜いちゃんとふざけまわって遊ぶ頃に、彼の境遇などを考えた事はただの一度もなかった。

喜いちゃんも私も漢学が好きだったので、分かりもしないくせに、よく文章の議論などをして面白がった。

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喜いちゃんも私も漢学が好きだったので、解りもしないくせに、よく文章の議論などをして面白がった。

彼はどこから聞いてくるのか、調べてくるのか、よく難しい漢籍の名前などを挙げて、私を驚かすことが多かった。

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彼はどこから聴いてくるのか、調べてくるのか、よくむずかしい漢籍の名前などをげて、私を驚ろかす事が多かった。

彼はある日、私の部屋も同然になっている玄関に上がり込んで、懐から二冊続きの書物を出して見せた。

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彼はある日私の部屋同様になっている玄関に上り込んで、ふところから二冊つづきの書物を出して見せた。

それは確かに写本であった。

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それはたしかに写本であった。

しかも漢文で綴ってあったように思う。

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しかも漢文でつづってあったように思う。

私は喜いちゃんからその書物を受け取って、意味も分からずにあちこちをひっくり返して見ていた。

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私は喜いちゃんから、その書物を受け取って、無意味にそこここを繰返くりかえして見ていた。

実は何が何だか、私にはさっぱり分からなかったのである。

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実は何が何だか私にはさっぱり解らなかったのである。

しかし喜いちゃんは、それを知っているかなどと露骨なことを言う性分ではなかった。

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しかし喜いちゃんは、それを知ってるかなどと露骨な事をいう性質たちではなかった。

「これは太田南畝の自筆なんだがね。僕の友達がそれを売りたいというので君に見せに来たんだが、買ってやらないか」

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「これは太田南畝おおたなんぼの自筆なんだがね。僕の友達がそれを売りたいというので君に見せに来たんだが、買ってやらないか」

私は太田南畝という人を知らなかった。

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私は太田南畝という人を知らなかった。

「太田南畝って、いったい何だい」

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「太田南畝っていったい何だい」

「蜀山人のことさ。有名な蜀山人さ」

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蜀山人しょくさんじんの事さ。有名な蜀山人さ」

無学な私は、蜀山人という名前さえまだ知らなかった。

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無学な私は蜀山人という名前さえまだ知らなかった。

しかし喜いちゃんにそう言われてみると、何だか貴重な書物のような気がした。

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しかし喜いちゃんにそう云われて見ると、何だか貴重の書物らしい気がした。

「いくらなら売るのだい」

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「いくらなら売るのかい」

と聞いてみた。

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いて見た。

「五十銭で売りたいと言うんだがね。どうだろう」

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「五十銭に売りたいと云うんだがね。どうだろう」

私は考えた。

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私は考えた。

そうして、何しろ値切ってみるのが上策だと思いついた。

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そうして何しろ価切ねぎって見るのが上策だと思いついた。

「二十五銭なら買ってもいい」

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「二十五銭なら買っても好い」

「それじゃ二十五銭でも構わないから、買ってやりたまえ」

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「それじゃ二十五銭でも構わないから、買ってやりたまえ」

喜いちゃんはこう言いながら私から二十五銭受け取っておいて、またしきりにその本の効能を並べ立てた。

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喜いちゃんはこう云いつつ私から二十五銭受取っておいて、またしきりにその本の効能を述べ立てた。

私にはもちろんその書物が分からないのだから、それほど嬉しくもなかったけれども、何しろ損はしないだろうというだけの満足はあった。

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私には無論その書物が解らないのだから、それほどうれしくもなかったけれども、何しろ損はしないだろうというだけの満足はあった。

私はその夜、南畝莠言――たしかそんな名前だと記憶しているが、それを机の上に載せて寝た。

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私はその夜南畝莠言なんぽしゆうげん――たしかそんな名前だと記憶しているが、それを机の上に載せて寝た。

三十二

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三十二

翌日になると、喜いちゃんがまたぶらりとやって来た。

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翌日あくるひになると、喜いちゃんがまたぶらりとやって来た。

「君、昨日買ってもらった本のことだがね」

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「君昨日きのう買って貰った本の事だがね」

喜いちゃんはそれだけ言って、私の顔を見ながらぐずぐずしている。

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喜いちゃんはそれだけ云って、私の顔を見ながらぐずぐずしている。

私は机の上に載せてあった書物に目を注いだ。

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私は机の上に載せてあった書物に眼を注いだ。

「あの本かい。あの本がどうかしたのかい」

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「あの本かい。あの本がどうかしたのかい」

「実はあそこの家の親父に知れたものだから、親父が大変怒ってね。どうか返してもらってきてくれって僕に頼むんだよ。僕も一度君に渡したものだから嫌だったけれども、仕方がないからまた来たのさ」

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「実はあすこのうち阿爺おやじに知れたものだから、阿爺が大変怒ってね。どうか返して貰って来てくれって僕に頼むんだよ。僕も一遍君に渡したもんだからいやだったけれども仕方がないからまた来たのさ」

「本を取りにかい」

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「本を取りにかい」

「取りにという訳でもないけれども、もし君の方で差し支えがないなら、返してやってくれないか。何しろ二十五銭では安すぎるというんだから」

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「取りにって訳でもないけれども、もし君の方で差支さしつかえがないなら、返してやってくれないか。何しろ二十五銭じゃ安過ぎるっていうんだから」

この最後の一言で、私は今まで安く買えたという満足の裏にぼんやり潜んでいた不快――よくない行いから起こる不快――をはっきり自覚し始めた。

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この最後の一言いちごんで、私は今まで安く買い得たという満足の裏に、ぼんやりひそんでいた不快、――不善の行為から起る不快――を判然はっきり自覚し始めた。

そうして一方ではずるい自分に腹を立てるとともに、一方では二十五銭で売った先方にも腹を立てた。

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そうして一方では狡猾ずるい私をいかると共に、一方では二十五銭で売った先方を怒った。

どうすればこの二つの怒りを同時に和らげられるだろう。

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どうしてこの二つの怒りを同時にやわらげたものだろう。

私は苦い顔をして、しばらく黙っていた。

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私はにがい顔をしてしばらく黙っていた。

私のこの心理状態は、今の私が子どもの時の自分を振り返って解剖するのだから比較的はっきりと描き出せるようなものの、その場の私にはほとんど分からなかった。

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私のこの心理状態は、今の私が小供の時の自分を回顧して解剖するのだから、比較的明瞭めいりょうに描き出されるようなものの、その場合の私にはほとんど解らなかった。

私さえ、ただ苦い顔をしたという結果だけしか自覚できなかったのだから、相手の喜いちゃんにはもちろん、それ以上分かるはずがなかった。

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私さえただ苦い顔をしたという結果だけしか自覚し得なかったのだから、相手の喜いちゃんには無論それ以上わかるはずがなかった。

括弧の中で言うべきことかもしれないが、年を取った今日でも、私にはよくこんなことが起こってくる。

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括弧かっこの中でいうべき事かも知れないが、年齢としを取った今日こんにちでも、私にはよくこんな現象が起ってくる。

それでよく人から誤解される。

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それでよくひとから誤解される。

喜いちゃんは私の顔を見て、「二十五銭では本当に安すぎるんだとさ」

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喜いちゃんは私の顔を見て、「二十五銭では本当に安過ぎるんだとさ」

と言った。

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と云った。

私はいきなり机の上に載せておいた書物を取って、喜いちゃんの前に突き出した。

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私はいきなり机の上に載せておいた書物を取って、喜いちゃんの前に突き出した。

「じゃあ返そう」

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「じゃ返そう」

「どうも失敬した。何しろ安公が持っているものではないんだから仕方がない。親父の家に昔からあったやつを、そっと売って小遣いにしようというんだからね」

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「どうも失敬した。何しろ安公やすこうの持ってるものでないんだから仕方がない。阿爺おやじうちに昔からあったやつを、そっと売って小遣こづかいにしようって云うんだからね」

私はぷりぷりして、何とも答えなかった。

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私はぷりぷりして何とも答えなかった。

喜いちゃんは懐から二十五銭を出して私の前へ置きかけたが、私はそれに手を触れようともしなかった。

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喜いちゃんはふところから二十五銭出して私の前へ置きかけたが、私はそれに手を触れようともしなかった。

「その金なら取らないよ」

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「その金なら取らないよ」

「なぜ」

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「なぜ」

「なぜでも取らない」

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「なぜでも取らない」

「そうか。しかしつまらないじゃないか、ただ本だけ返すのは。本を返すくらいなら、二十五銭も取りたまえよ」

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「そうか。しかしつまらないじゃないか、ただ本だけ返すのは。本を返すくらいなら二十五銭も取りたまいな」

私はたまらなくなった。

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私はたまらなくなった。

「本は僕のものだよ。いったん買った以上は僕のものに決まっているじゃないか」

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「本は僕のものだよ。いったん買った以上は僕のものにきまってるじゃないか」

「そりゃそうに違いない。違いないが、向こうの家でも困っているんだから」

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「そりゃそうに違いない。違いないがむこううちでも困ってるんだから」

「だから返すと言っているじゃないか。だけど僕は金を取る訳がないんだ」

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「だから返すと云ってるじゃないか。だけど僕は金を取る訳がないんだ」

「そんな分からないことを言わずに、まあ取っておきたまえよ」

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「そんな解らない事を云わずに、まあ取っておきたまいな」

「僕はやるんだよ。僕の本だけれども、欲しければやろうというんだよ。やるんだから、本だけ持っていったらいいじゃないか」

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「僕はやるんだよ。僕の本だけども、欲しければやろうというんだよ。やるんだから本だけ持ってったら好いじゃないか」

「そうか、それならそうしよう」

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「そうかそんなら、そうしよう」

喜いちゃんは、とうとう本だけ持って帰った。

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喜いちゃんは、とうとう本だけ持って帰った。

そうして私は、何の意味もなしに二十五銭の小遣いを取られてしまったのである。

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そうして私は何の意味なしに二十五銭の小遣を取られてしまったのである。

三十三

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三十三

世の中に住む人間の一人として、私は全く孤立して生きていく訳にはいかない。

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世の中に住む人間の一人いちにんとして、私は全く孤立して生存する訳に行かない。

自然と、他人と交わる必要がどこからか起こってくる。

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自然ひとと交渉の必要がどこからか起ってくる。

時候の挨拶、用談、それからもっと込み入った掛け合い――これらから抜け出すことは、どんなに枯れた生活を送っている私にも難しいのである。

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時候の挨拶あいさつ、用談、それからもっとった懸合かけあい――これらから脱却する事は、いかに枯淡な生活を送っている私にもむずかしいのである。

私は何でも人の言うことを真に受けて、すべて正面から彼らの言葉や振る舞いを解釈すべきものだろうか。

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私は何でもひとのいう事をに受けて、すべて正面から彼らの言語動作を解釈すべきものだろうか。

もし私が持って生まれたこの単純な性分に自分を任せきりにしておくと、時々とんでもない人に騙されることがあるだろう。

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もし私が持って生れたこの単純な性情に自己を託してかえりみないとすると、時々飛んでもない人からだまされる事があるだろう。

その結果、陰で馬鹿にされたり、冷やかされたりする。

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その結果かげで馬鹿にされたり、冷評ひやかされたりする。

極端な場合には、自分の面前でさえ耐えがたい侮辱を受けないとも限らない。

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極端な場合には、自分の面前でさえ忍ぶべからざる侮辱を受けないとも限らない。

それでは、他人はみな擦れっからしの嘘つきばかりと思って、初めから相手の言葉に耳も貸さず、心も傾けず、ある時はその裏に潜んでいるらしい反対の意味だけを胸に収めて、それで自分は賢い人だと自らを評し、またそこに安住の地を見出すことができるだろうか。

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それでは他はみならしの嘘吐うそつきばかりと思って、始めから相手の言葉に耳もさず、心もかたむけず、或時はその裏面にひそんでいるらしい反対の意味だけを胸に収めて、それでかしこい人だと自分を批評し、またそこに安住の地を見出し得るだろうか。

そうすると私は、人を誤解しないとも限らない。

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そうすると私は人を誤解しないとも限らない。

その上、恐ろしい過ちを犯す覚悟を最初から想定して、かからなければならない。

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その上恐るべき過失を犯す覚悟を、初手しょてから仮定して、かからなければならない。

ある時は必然の結果として、罪のない他人を侮辱するくらいの厚かましさを準備しておかなければ、ことが難しくなる。

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或時は必然の結果として、罪のない他を侮辱するくらいの厚顔を準備しておかなければ、事が困難になる。

もし私の態度をこの両面のどちらかに片づけようとすると、私の心にまた一種の苦しみが起こる。

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もし私の態度をこの両面のどっちかに片づけようとすると、私の心にまた一種の苦悶くもんが起る。

私は悪い人を信じたくない。

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私は悪い人を信じたくない。

それからまた、善い人を少しでも傷つけたくない。

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それからまたい人を少しでもきずつけたくない。

そうして私の前に現れてくる人は、ことごとく悪人でもなければ、またみんな善人とも思えない。

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そうして私の前に現われて来る人は、ことごとく悪人でもなければ、またみんな善人とも思えない。

すると私の態度も、相手しだいでいろいろに変わっていかなければならないのである。

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すると私の態度も相手しだいでいろいろに変って行かなければならないのである。

この変化は誰にでも必要で、また誰でも実行していることだろうと思うが、それがはたして相手にぴたりと合って、寸分の間違いもない微妙で特殊な線の上を、危なげもなく歩けているだろうか。

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この変化は誰にでも必要で、また誰でも実行している事だろうと思うが、それがはたして相手にぴたりと合って寸分間違のない微妙な特殊な線の上をあぶなげもなく歩いているだろうか。

私の大きな疑問は、常にそこにわだかまっている。

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私の大いなる疑問は常にそこにわだかまっている。

私のひがみは別にして、私は過去において、多くの人から馬鹿にされたという苦い記憶を持っている。

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私のひがみを別にして、私は過去において、多くの人から馬鹿にされたというにがい記憶をもっている。

同時に、相手の言うことやすることをわざと素直に取らずに、それとなくその人の品性に恥をかかせたのと同じような解釈をした経験も、たくさんありはしまいかと思う。

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同時に、先方の云う事やる事を、わざと平たく取らずに、あんにその人の品性に恥をかしたと同じような解釈をした経験もたくさんありはしまいかと思う。

他人に対する私の態度は、まず今までの私の経験から来る。

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ひとに対する私の態度はまず今までの私の経験から来る。

それから前後の関係と周りの状況から出る。

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それから前後の関係と四囲の状況から出る。

最後に、曖昧な言葉ではあるが、私が天から授かった直感がいくらか働く。

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最後に、曖昧あいまいな言葉ではあるが、私が天から授かった直覚が何分か働らく。

そうして、相手に馬鹿にされたり、また相手を馬鹿にしたり、まれには相手にふさわしい扱いを与えたりしている。

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そうして、相手に馬鹿にされたり、また相手を馬鹿にしたり、まれには相手に彼相当な待遇を与えたりしている。

しかし今までの経験というものは、広いようで、実際ははなはだ狭い。

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しかし今までの経験というものは、広いようで、そのじつはなはだ狭い。

ある社会の一部分で何度となく繰り返された経験を、ほかの一部分へ持っていくと、まるで通用しないことが多い。

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ある社会の一部分で、何度となく繰り返された経験を、他の一部分へ持って行くと、まるで通用しない事が多い。

前後の関係とか周りの状況とか言ったところで千差万別なのだから、その応用の範囲が限られているばかりか、実際は千差万別に思いをめぐらさなければ役に立たなくなる。

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前後の関係とか四囲の状況とか云ったところで、千差万別なのだから、その応用の区域が限られているばかりか、その実千差万別に思慮をめぐらさなければ役に立たなくなる。

しかも、それをめぐらす時間も材料も十分に与えられていない場合が多い。

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しかもそれを廻らす時間も、材料も充分給与されていない場合が多い。

それで私はともすると、事実あるのかないのかも分からない、きわめてあやふやな自分の直感というものを第一に置いて、他人を判断したくなる。

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それで私はともすると事実あるのだか、またないのだか解らない、きわめてあやふやな自分の直覚というものを主位に置いて、他を判断したくなる。

そうして私の直感がはたして当たったか当たらなかったか、要するに客観的な事実によってそれを確かめる機会を持たないことが多い。

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そうして私の直覚がはたして当ったか当らないか、要するに客観的事実によって、それをたしかめる機会をもたない事が多い。

そこにまた私の疑いが始終、靄のようにかかって、私の心を苦しめている。

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そこにまた私の疑いが始終しじゅうもやのようにかかって、私の心を苦しめている。

もし世の中に全知全能の神があるならば、私はその神の前にひざまずいて、私に髪の毛ほどの疑いを挟む余地もないほど明らかな直感を与え、私をこの苦しみから解き放ってくださるよう祈る。

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もし世の中に全知全能ぜんちぜんのうの神があるならば、私はその神の前にひざまずいて、私に毫髪ごうはつうたがいさしはさむ余地もないほど明らかな直覚を与えて、私をこの苦悶くもんから解脱げだつせしめん事を祈る。

でなければ、この物の見えない私の前に出てくるすべての人を、透き通るように正直な者に変えて、私とその人との魂がぴたりと合うような幸福を授けてくださるよう祈る。

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でなければ、この不明な私の前に出て来るすべての人を、玲瓏透徹れいろうとうてつな正直ものに変化して、私とその人との魂がぴたりと合うような幸福を授けたまわん事を祈る。

今の私は、馬鹿で人に騙されるか、あるいは疑い深くて人を受け入れることができないか、この両方だけしかないような気がする。

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今の私は馬鹿で人にだまされるか、あるいは疑い深くて人をれる事ができないか、この両方だけしかないような気がする。

不安で、不透明で、不愉快に満ちている。

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不安で、不透明で、不愉快にちている。

もしそれが生涯続くとするならば、人間とはどんなに不幸なものだろう。

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もしそれが生涯しょうがいつづくとするならば、人間とはどんなに不幸なものだろう。

三十四

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三十四

私が大学にいる頃に教えたある文学士が来て、「先生はこの間、高等工業で講演をなさったそうですね」

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私が大学にいる頃教えたある文学士が来て、「先生はこの間高等工業で講演をなすったそうですね」

と言うので、「ああ、やった」

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というから、「ああやった」

と答えると、その男が「何でも分からなかったようですよ」

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と答えると、その男が「何でも解らなかったようですよ」

と教えてくれた。

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と教えてくれた。

それまで自分の言ったことについて、その方面の気がかりをまるで持っていなかった私は、彼の言葉を聞くと同時に意外な感じに打たれた。

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それまで自分の云った事について、その方面の掛念けねんをまるでもっていなかった私は、彼の言葉を聞くとひとしく、意外の感に打たれた。

「君はどうして、そんなことを知ってるの」

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「君はどうしてそんな事を知ってるの」

この疑問に対する彼の説明は簡単であった。

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この疑問に対する彼の説明は簡単であった。

親戚だか知人だか知らないが、何しろ彼に関係のあるある家の青年がその学校に通っていて、当日私の講演を聞いた結果を、何だか分からないという言葉で彼に告げたのである。

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親戚だか知人だか知らないが、何しろ彼に関係のある或うちの青年が、その学校に通っていて、当日私の講演を聴いた結果を、何だか解らないという言葉で彼に告げたのである。

「いったいどんなことを講演なさったのですか」

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「いったいどんな事を講演なすったのですか」

私はその席で、彼のためにまた、その講演のあらましを繰り返した。

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私は席上で、彼のためにまたその講演の梗槩こうがいかえした。

「別に難しいとも思えないことだろう、君。どうしてそれが分からないのかしら」

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「別にむずかしいとも思えない事だろう君。どうしてそれが解らないかしら」

「分からないでしょう。どうせ分かりゃしません」

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「解らないでしょう。どうせ解りゃしません」

私には、この断固とした返事がいかにも不思議に聞こえた。

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私には断乎だんこたるこの返事がいかにも不思議に聞こえた。

しかしそれよりもなお強く私の胸を打ったのは、よせばよかったという後悔の念であった。

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しかしそれよりもなお強く私の胸を打ったのは、せばよかったという後悔の念であった。

白状すると、私はこの学校から何度となく講演を頼まれて、何度となく断ったのである。

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自白すると、私はこの学校から何度となく講演を依頼されて、何度となく断ったのである。

だから、それを最後に引き受けた時の私の腹には、どうかしてそこに集まる聴衆に相当の利益を与えたいという望みがあった。

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だからそれを最後に引き受けた時の私の腹には、どうかしてそこに集まる聴衆に、相当の利益を与えたいという希望があった。

その望みが、「どうせ分かりゃしません」

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その希望が、「どうせ解りゃしません」

という簡単な彼の一言でみごとに打ち砕かれてしまってみると、私はわざわざ浅草まで行く必要はなかったのだと、自分を省みない訳にはいかなかった。

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という簡単な彼の一言いちごんで、みごとに粉砕ふんさいされてしまって見ると、私はわざわざ浅草まで行く必要がなかったのだと、自分を考えない訳に行かなかった。

これはもう一、二年前の古い話であるが、去年の秋にまたある学校で、どうしても講演をやらなければ義理が悪いことになってついにそこへ行った時、私はふと、私を後悔させた前年のことを思い出した。

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これはもう一二年前の古い話であるが去年の秋またある学校で、どうしても講演をやらなければ義理が悪い事になって、ついにそこへ行った時、私はふと私を後悔させた前年を思い出した。

それに私がその時に論じた題目が、若い聴衆の誤解を招きやすい内容を含んでいたので、私は演壇を下りる間際にこう言った。――

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それに私の論じたその時の題目が、若い聴衆の誤解を招きやすい内容を含んでいたので、私は演壇を下りる間際まぎわにこう云った。――

「多分誤解はないつもりですが、もし私が今お話ししたうちにはっきりしないところがあるなら、どうぞ私の家まで来てください。できるだけあなたがたに納得のいくように説明してあげるつもりですから」

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「多分誤解はないつもりですが、もし私の今御話したうちに、判然はっきりしないところがあるなら、どうぞ私宅まで来て下さい。できるだけあなたがたに御納得ごなっとくの行くように説明して上げるつもりですから」

私のこの言葉がどんなふうな反響をもたらすだろうかという予想は、当時の私にはほとんどなかったように思う。

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私のこの言葉が、どんな風に反響をもたらすだろうかという予期は、当時の私にはほとんど無かったように思う。

しかしそれから四、五日経って、三人の青年が私の書斎に入ってきたのは事実である。

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しかしそれから四五日って、三人の青年が私の書斎に這入はいって来たのは事実である。

そのうちの二人は、電話で私の都合を問い合わせてきた。

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そのうちの二人は電話で私の都合を聞き合せた。

一人は丁寧な手紙を書いて、面会の時間を作ってくれと注文してきた。

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一人は鄭寧ていねいな手紙を書いて、面会の時間をこしらえてくれと注文して来た。

私は快くそれらの青年に会った。

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私はこころよくそれらの青年に接した。

そうして彼らの用向きを確かめた。

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そうして彼らの来意をたしかめた。

一人の方は私の予想どおり、私の講演についての筋道の質問であったが、残る二人の方は、意外にも、彼らの友人がその家庭に対して取るべき方針についての疑問を私に聞こうとした。

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一人の方は私の予想通り、私の講演についての筋道の質問であったが、残る二人の方は、案外にも彼らの友人がその家庭に対してるべき方針についての疑義を私にこうとした。

したがってこれは、私の講演を実社会にどう応用したらいいかという、彼らの目の前に迫った問題を持ってきたのである。

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したがってこれは私の講演を、どう実社会に応用して好いかという彼らの目前にせまった問題を持って来たのである。

私はこれら三人のために、私の言うべきことを言い、説明すべきことを説明したつもりである。

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私はこれら三人のために、私の云うべき事を云い、説明すべき事を説明したつもりである。

それが彼らにどれほどの利益を与えたか、結果から言うと、この私にも分からない。

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それが彼らにどれほどの利益を与えたか、結果からいうとこの私にも分らない。

しかし、それだけにしたところで私には満足なのである。

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しかしそれだけにしたところで私には満足なのである。

「あなたの講演は分からなかったそうです」

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「あなたの講演は解らなかったそうです」

と言われた時よりも、はるかに満足なのである。

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と云われた時よりもはるかに満足なのである。

〔この原稿が新聞に出た二、三日あとで、私は高等工業の学生から四、五通の手紙を受け取った。

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〔この稿が新聞に出た二三日あとで、私は高等工業の学生から四五通の手紙を受取った。

その人々はみんな私の講演を聞いた者ばかりで、いずれも私がここで述べた失望を打ち消すような事実を、反証として書いてきてくれたのである。

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その人々はみんな私の講演を聴いたものばかりで、いずれも私がここで述べた失望を打ち消すような事実を、反証として書いて来てくれたのである。

だからその手紙は、みな好意に満ちていた。

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だからその手紙はみな好意にちていた。

なぜ一人の学生の言ったことを聴衆全体の意見として速断するのか、などという詰問めいたものは一つもなかった。

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なぜ一学生の云った事を、聴衆全体の意見として速断するかなどという詰問的のものは一つもなかった。

それで私はここに一言つけ加えて、自分の不明を詫び、あわせて私の誤解を正してくれた人々の親切をありがたく思う旨を公にするのである。〕

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それで私はここに一言を附加して、私の不明を謝し、あわせて私の誤解を正してくれた人々の親切をありがたく思うむねを公けにするのである。〕

三十五

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三十五

私は子どもの時分、よく日本橋の瀬戸物町にある伊勢本という寄席へ講釈を聞きに行った。

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私は小供の時分よく日本橋の瀬戸物町せとものちょうにある伊勢本いせもとという寄席よせへ講釈を聴きに行った。

今の三越の向かい側にいつも昼席の看板がかかっていて、その角を曲がると、寄席はすぐ小半町行くか行かないかの右手にあったのである。

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今の三越の向側むこうがわにいつでも昼席の看板がかかっていて、そのかどを曲ると、寄席はつい小半町行くか行かない右手にあったのである。

この席は夜になると色物しかかけないので、私は昼よりほかに足を踏み込んだことがなかったけれども、通った回数から言うと、一番多く通った所のように思われる。

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この席は夜になると、色物いろものだけしかかけないので、私は昼よりほかに足を踏み込んだ事がなかったけれども、席数からいうと一番多くかよった所のように思われる。

当時私のいた家は、もちろん高田の馬場の下ではなかった。

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当時私のいた家は無論高田の馬場の下ではなかった。

しかし、いくら場所の便がよかったからと言って、どうしてあんなに講釈を聞きに行く時間が私にあったものか、今考えると、むしろ不思議なくらいである。

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しかしいくら地理の便が好かったからと云って、どうしてあんなに講釈を聴きに行く時間が私にあったものか、今考えるとむしろ不思議なくらいである。

これも今から振り返って遠い過去を眺めるせいでもあろうが、そこは寄席としては、むしろ上品な気分を客に起こさせるようにできていた。

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これも今からふり返って遠い過去を眺めるせいでもあろうが、そこは寄席としてはむしろ上品な気分を客に起させるようにできていた。

高座の右わきには帳場格子のような仕切りを二方に立て回して、その中に常連の席が設けてあった。

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高座こうざ右側みぎわきには帳場格子ちょうばごうしのような仕切しきりを二方に立て廻して、その中に定連じょうれんの席が設けてあった。

それから高座の後ろが縁側で、その先がまた庭になっていた。

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それから高座のうしろ縁側えんがわで、その先がまた庭になっていた。

庭には梅の古木が斜めに井桁の上へ突き出たりして、窮屈な感じのしないほどの大空が縁から仰げるくらいに、余分の地面を取り込んでいた。

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庭には梅の古木がななめに井桁いげたの上に突き出たりして、窮屈な感じのしないほどの大空が、縁から仰がれるくらいに余分の地面を取り込んでいた。

その庭を東に受けて、離れ座敷のような建物も見えた。

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その庭を東に受けて離れ座敷のような建物も見えた。

帳場格子の中にいる連中は、時間が余って使いきれない裕福な人たちなのだから、みんな相応な身なりをして、時々のんきそうに袂から毛抜きなどを出して、根気よく鼻毛を抜いていた。

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帳場格子のうちにいる連中は、時間が余って使い切れない有福な人達なのだから、みんな相応な服装なりをして、時々呑気のんきそうにたもとから毛抜けぬきなどを出して根気よく鼻毛を抜いていた。

そんなのどかな日には、庭の梅の木に鶯が来て鳴くような気持ちもした。

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そんな長閑のどかな日には、庭の梅のうぐいすが来てくような気持もした。

中入りになると、菓子を箱入りのまま、茶を売る男が客の間へ配って歩くのが、この席の習慣になっていた。

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中入なかいりになると、菓子を箱入のまま茶を売る男が客の間へ配って歩くのがこの席の習慣になっていた。

箱は浅い長方形のもので、まず誰でも欲しいと思う人の手の届く所に一つ、といった具合に、都合よく置かれるのである。

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箱は浅い長方形のもので、まず誰でも欲しいと思う人の手の届く所に一つと云った風に都合よく置かれるのである。

菓子の数は一箱に十ぐらいの割合だったかと思うが、それを食べたいだけ食べて、後からその代金を箱の中に入れるのが、言わずとしれた決まりになっていた。

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菓子の数は一箱に十ぐらいの割だったかと思うが、それを食べたいだけ食べて、後からその代価を箱の中に入れるのが無言の規約になっていた。

私はその頃、この習慣を珍しいもののように面白がって眺めていたが、今となってみると、こうしたおおらかでのんきな気分は、どこの寄せ場へ行ってももう味わえまいと思うと、それがまた何となく懐かしい。

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私はその頃この習慣を珍らしいもののように興がって眺めていたが、今となって見ると、こうした鷹揚おうよう呑気のんきな気分は、どこの人寄場ひとよせばへ行っても、もう味わう事ができまいと思うと、それがまた何となくなつかしい。

私はそんな、おっとりと物寂びた空気の中で、古めかしい講釈というものをいろいろな人から聞いたのである。

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私はそんなおっとりと物寂ものさびた空気の中で、古めかしい講釈というものをいろいろの人から聴いたのである。

その中には、すととこ、のんのん、ずいずい、などという妙な言葉を使う男もいた。

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その中には、すととこのんのんずいずい、などという妙な言葉を使う男もいた。

これは田辺南竜と言って、もとはどこかの下足番であったとかいう話である。

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これは田辺南竜たなべなんりゅうと云って、もとはどこかの下足番であったとかいう話である。

そのすととこ、のんのん、ずいずいは、はなはだ有名なものであったが、その意味を理解する者は一人もいなかった。

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そのすととこのんのんずいずいははなはだ有名なものであったが、その意味を理解するものは一人もなかった。

彼はただそれを、軍勢の押し寄せる様子を表す言葉として使っていたらしいのである。

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彼はただそれを軍勢の押し寄せる形容詞として用いていたらしいのである。

この南竜は、とっくの昔に死んでしまった。

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この南竜はとっくの昔に死んでしまった。

そのほかの者も、たいていは死んでしまった。

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そのほかのものもたいていは死んでしまった。

その後の様子をまるで知らない私には、その時分に私を喜ばせてくれた人のうちで生きている者がはたして何人いるのか、全く分からなかった。

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そのの様子をまるで知らない私には、その時分私を喜こばせてくれた人のうちで生きているものがはたして何人あるのだか全く分らなかった。

ところがいつか美音会の忘年会があった時、その番組を見たら、吉原の幇間の茶番だの何だのが並べて書いてある中に、私はたった一人だけ、当時の旧友を見つけた。

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ところがいつか美音会の忘年会のあった時、その番組を見たら、吉原の幇間たいこもちの茶番だの何だのがならべて書いてあるうちに、私はたった一人の当時の旧友を見出した。

私は新富座へ行って、その人を見た。

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私は新富座へ行って、その人を見た。

またその声を聞いた。

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またその声を聞いた。

そうして彼の顔も喉も、昔と少しも変わっていないのに驚いた。

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そうして彼の顔も咽喉のども昔とちっとも変っていないのに驚ろいた。

彼の講釈も、まったく昔のとおりであった。

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彼の講釈も全く昔の通りであった。

進歩もしない代わりに、退歩もしていなかった。

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進歩もしない代りに、退歩もしていなかった。

二十世紀のこの急激な変化を自分と自分の周囲に恐ろしいほど意識しつつあった私は、彼の前に座りながら、絶えず彼と私とを心の中で比べて、一種の物思いにふけっていた。

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廿世紀のこの急劇な変化を、自分と自分の周囲に恐ろしく意識しつつあった私は、彼の前に坐りながら、絶えず彼と私とを、心のうちで比較して一種の黙想にふけっていた。

彼というのは馬琴のことで、昔、伊勢本で南竜の中入り前を務めていた頃には、琴凌と呼ばれた若手だったのである。

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彼というのは馬琴ばきんの事で、昔伊勢本いせもとで南竜の中入前をつとめていた頃には、琴凌きんりょうと呼ばれた若手だったのである。

三十六

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三十六

私の長兄は、まだ大学とならない前の開成校にいたのだが、肺を患って中途で退学してしまった。

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私の長兄はまだ大学とならない前の開成校かいせいこうにいたのだが、肺をわずらって中途で退学してしまった。

私とはだいぶ年が違うので、兄弟としての親しみよりも、大人と子どもとしての関係の方が、深く私の頭に染み込んでいる。

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私とはだいぶ年歯としが違うので、兄弟としての親しみよりも、大人おとな対小供としての関係の方が、深く私の頭にんでいる。

とりわけ怒られた時は、そうした感じが強く私を刺激したように思う。

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ことにおこられた時はそうした感じが強く私を刺戟しげきしたように思う。

兄は色の白い、鼻筋の通った美しい男であった。

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兄は色の白い鼻筋の通った美くしい男であった。

しかし顔だちから言っても表情から見ても、どこかに険しい相を備えていて、むやみに近寄れないといった風の張りつめた気持ちを、人に与えた。

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しかし顔だちから云っても、表情から見ても、どこかにけわしいそうを具えていて、むやみに近寄れないと云った風のせまった心持をひとに与えた。

兄の在学中には、まだ地方から出てきた貢進生などのいる頃だったので、今の青年には想像のできないような気風が校内のそこここに残っていたらしい。

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兄の在学中には、まだ地方から出て来た貢進生こうしんせいなどのいる頃だったので、今の青年には想像のできないような気風が校内のそこここに残っていたらしい。

兄は、ある上級生に恋文をつけられたと言って、私に話したことがある。

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兄は或上級生に艶書ふみをつけられたと云って、私に話した事がある。

その上級生というのは、兄などよりもずっと年上の男であったらしい。

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その上級生というのは、兄などよりもずっと年歯上としうえの男であったらしい。

こんな習慣の行われない東京で育った彼は、はたしてその文をどう始末したものだろう。

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こんな習慣の行なわれない東京で育った彼は、はたしてそのふみをどう始末したものだろう。

兄はそれ以来、学校の風呂でその男と顔を合わせるたびに、きまりの悪い思いをして困ったと言っていた。

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兄はそれ以後学校の風呂でその男と顔を見合せるたびに、きまりの悪い思をして困ったと云っていた。

学校を出た頃の彼は非常に四角四面で、始終堅苦しく構えていたから、父や母も多少彼に気を置く様子が見えた。

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学校を出た頃の彼は、非常に四角四面で、始終しじゅう堅苦しく構えていたから、父や母も多少彼に気をおく様子が見えた。

その上、病気のせいでもあろうが、いつも陰気な顔をして、家にばかり引っ込んでいた。

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その上病気のせいでもあろうが、常に陰気臭いんきくさい顔をして、うちにばかり引込ひっこんでいた。

それがいつとなく解けてきて、人柄が自然と柔らかくなったと思うと、彼はよく古渡唐桟の着物に角帯などを締めて、夕方から家を空け始めた。

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それがいつとなくけて来て、人柄ひとがらおのずと柔らかになったと思うと、彼はよく古渡唐桟こわたりとうざんの着物に角帯かくおびなどをめて、夕方から宅を外にし始めた。

時々は、紫色で亀甲型を一面に刷った亀清の団扇などが茶の間に放り出されるようになった。

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時々は紫色むらさきいろ亀甲型きっこうがたを一面にった亀清かめせい団扇うちわなどが茶の間にほうされるようになった。

それだけならまだいいが、彼は長火鉢の前へ座ったまま、しきりに声色を使い出した。

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それだけならまだ好いが、彼は長火鉢ながひばちの前へすわったまま、しきりに仮色こわいろつかい出した。

しかし家の者は、格別それを気に留める様子も見えなかった。

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しかし宅のものは別段それに頓着とんじゃくする様子も見えなかった。

私はもちろん平気であった。

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私は無論平気であった。

声色と同時に、藤八拳も始まった。

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仮色こわいろと同時に藤八拳とうはちけんも始まった。

しかしこちらは相手が要るので、そう毎晩は繰り返されなかったが、何しろ妙に不器用な手を上げたり下げたりして、熱心にやっていた。

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しかしこのほうは相手がるので、そう毎晩は繰り返されなかったが、何しろ変に無器用な手を上げたり下げたりして、熱心にやっていた。

相手は主に、三番目の兄が務めていたようである。

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相手はおもに三番目の兄が勤めていたようである。

私は真面目な顔をして、ただ傍で見ているに過ぎなかった。

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私は真面目まじめな顔をして、ただ傍観しているに過ぎなかった。

この兄は、とうとう肺病で死んでしまった。

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この兄はとうとう肺病で死んでしまった。

死んだのは、たしか明治二十年だと覚えている。

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死んだのはたしか明治二十年だと覚えている。

すると葬式も済み、通夜も済んで、まずひと片づきというところへ、一人の女が訪ねてきた。

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すると葬式も済み、待夜たいやも済んで、まず一片付ひとかたづきというところへ一人の女が尋ねて来た。

三番目の兄が出て応対してみると、その女は彼にこんなことを聞いた。

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三番目の兄が出て応接して見ると、その女は彼にこんな事をいた。

「お兄さんは死ぬまで、奥さんをお持ちにならなかったでしょうね」

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「兄さんは死ぬまで、奥さんを御持ちになりゃしますまいね」

兄は病気のため、生涯妻を迎えなかった。

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兄は病気のため、生涯しょうがい妻帯しなかった。

「いいえ、最後まで独身で暮らしていました」

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「いいえしまいまで独身で暮らしていました」

「それを聞いて、やっと安心しました。私のような者は、どうせ旦那がなくては生きていかれないから仕方がありませんけれども、……」

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「それを聞いてやっと安心しました。わたくしのようなものは、どうせ旦那だんながなくっちゃ生きて行かれないから、仕方がありませんけれども、……」

兄の遺骨の埋められた寺の名を教わって帰っていったこの女は、わざわざ甲州から出てきたのであるが、もと柳橋の芸者をしている頃に兄と関係があったのだという話を、私はその時初めて聞いた。

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兄の遺骨のめられた寺の名をおすわって帰って行ったこの女は、わざわざ甲州から出て来たのであるが、元柳橋の芸者をしている頃、兄と関係があったのだという話を、私はその時始めて聞いた。

私は時々、この女に会って兄のことなどを語ってみたい気がしないでもない。

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私は時々この女に会って兄の事などを物語って見たい気がしないでもない。

しかし会ったら、さぞお婆さんになって、昔とはまるで違った顔をしていはしまいかと考える。

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しかし会ったら定めし御婆おばあさんになって、昔とはまるで違った顔をしていはしまいかと考える。

そうしてその心も、その顔と同じように皺が寄って、からからに乾いていはしまいかとも考える。

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そうしてその心もその顔同様にしわが寄って、からからに乾いていはしまいかとも考える。

もしそうだとすると、彼女が今になって兄の弟の私に会うのは、彼女にとってかえって辛く悲しいことかもしれない。

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もしそうだとすると、彼女かのおんなが今になって兄の弟の私に会うのは、彼女にとってかえってつらい悲しい事かも知れない。

三十七

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三十七

私は母の記念のためにここで何か書いておきたいと思うが、あいにく私の知っている母は、私の頭に大した材料を遺していってくれなかった。

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私は母の記念のためにここで何か書いておきたいと思うが、あいにく私の知っている母は、私の頭に大した材料をのこして行ってくれなかった。

母の名は千枝といった。

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母の名は千枝ちえといった。

私は今でも、この千枝という言葉を懐かしいものの一つに数えている。

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私は今でもこの千枝という言葉をなつかしいものの一つに数えている。

だから私には、それがただ私の母だけの名前で、決してほかの女の名前であってはならないような気がする。

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だから私にはそれがただ私の母だけの名前で、けっしてほかの女の名前であってはならないような気がする。

幸いに私は、まだ母以外の千枝という女に出会ったことがない。

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幸いに私はまだ母以外の千枝という女に出会った事がない。

母は私が十三、四の時に死んだのだけれども、私が今、遠くから呼び起こす彼女の面影は、記憶の糸をいくらたどっていってもお婆さんに見える。

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母は私の十三四の時に死んだのだけれども、私の今遠くから呼び起す彼女の幻像は、記憶の糸をいくら辿たどって行っても、御婆さんに見える。

晩年に生まれた私には、母のみずみずしい姿を覚えているという特権が、ついに与えられずにしまったのである。

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晩年に生れた私には、母の水々しい姿を覚えている特権がついに与えられずにしまったのである。

私の知っている母は、いつも大きな眼鏡をかけて針仕事をしていた。

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私の知っている母は、常に大きな眼鏡めがねをかけて裁縫しごとをしていた。

その眼鏡は鉄縁の古風なもので、玉の大きさが直径二寸以上もあったように思われる。

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その眼鏡は鉄縁の古風なもので、たまの大きさが直径さしわたし二寸以上もあったように思われる。

母はそれをかけたまま、少し顎を襟元へ引きつけながら、私をじっと見ることがたびたびあったが、老眼というものを知らないその頃の私には、それがただ彼女の癖としか思えなかった。

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母はそれをかけたまま、すこしあご襟元えりもとへ引きつけながら、私をじっと見る事がしばしばあったが、老眼の性質を知らないその頃の私には、それがただ彼女の癖とのみ考えられた。

私はこの眼鏡とともに、いつでも母の背景になっていた一間の襖を思い出す。

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私はこの眼鏡と共に、いつでも母の背景になっていた一間いっけんふすまおもす。

古びた張り交ぜの中に、生死事大、無常迅速うんぬんと書いた石摺りなども、鮮やかに目に浮かんでくる。

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古びた張交はりまぜうちに、生死事大しょうじじだい無常迅速むじょうじんそく云々と書いた石摺いしずりなどもあざやかに眼に浮んで来る。

夏になると、母は始終、紺無地の絽の帷子を着て、幅の狭い黒繻子の帯を締めていた。

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夏になると母は始終しじゅう紺無地こんむじ帷子かたびらを着て、幅の狭い黒繻子くろじゅすの帯をめていた。

不思議なことに、私の記憶に残っている母の姿は、いつでもこの真夏の身なりで頭の中に現れるだけなので、そこから紺無地の絽の着物と幅の狭い黒繻子の帯を取り除くと、あとに残るものはただ彼女の顔ばかりになる。

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不思議な事に、私の記憶に残っている母の姿は、いつでもこの真夏の服装なりで頭の中に現われるだけなので、それから紺無地の絽の着物と幅の狭い黒繻子の帯を取り除くと、後に残るものはただ彼女の顔ばかりになる。

母がかつて縁側の端へ出て兄と碁を打っていた様子などは、彼ら二人を組み合わせた一枚の絵柄として私の胸に収めてある唯一の形見なのだが、そこでも彼女はやはり同じ帷子を着て、同じ帯を締めて座っているのである。

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母がかつて縁鼻えんばなへ出て、兄とを打っていた様子などは、彼ら二人を組み合わせた図柄ずがらとして、私の胸に収めてある唯一ゆいいつ記念かたみなのだが、そこでも彼女はやはり同じ帷子かたびらを着て、同じ帯をめて坐っているのである。

私はついぞ母の里へ連れて行かれた覚えがないので、長い間、母がどこから嫁に来たのか知らずに暮らしていた。

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私はついぞ母の里へれて行かれたおぼえがないので、長い間母がどこから嫁に来たのか知らずに暮らしていた。

自分から進んで聞きたがるような好奇心は、まるでなかった。

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自分から求めてきたがるような好奇心はさらになかった。

それでその点も、やはりぼんやりかすんで見えるよりほかに仕方がないのだが、母が四ツ谷大番町で生まれたという話だけは確かに聞いていた。

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それでその点もやはりぼんやりかすんで見えるよりほかに仕方がないのだが、母が大番町おおばんまちで生れたという話だけはたしかに聞いていた。

家は質屋であったらしい。

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うちは質屋であったらしい。

蔵が幾戸前とかあったのだと、かつて人から教えられたようにも思うが、何しろその大番町という所を、この年になるまでいまだに通ったことのない私のことだから、そんな細かな点はまるで忘れてしまった。

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蔵が幾戸前いくとまえとかあったのだと、かつて人から教えられたようにも思うが、何しろその大番町という所を、この年になるまで今だに通った事のない私のことだから、そんな細かな点はまるで忘れてしまった。

たとえそれが事実であったにせよ、私が今持っている母の記憶の中に、蔵屋敷などは決して現れてこないのである。

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たといそれが事実であったにせよ、私の今もっている母の記念のなかに蔵屋敷などはけっして現われて来ないのである。

おおかた、その頃にはもうつぶれてしまったのだろう。

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おおかたその頃にはもうつぶれてしまったのだろう。

母が父の所へ嫁に来るまで御殿奉公をしていたという話もおぼろげに覚えているが、どこの大名の屋敷へ上がって、どれくらい長く勤めていたものか、御殿奉公の中身さえよく分からない今の私には、ただ淡い香りを残して消えた香のようなもので、ほとんどとりとめようのない事実である。

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母が父の所へ嫁にくるまで御殿奉公をしていたという話も朧気おぼろげに覚えているが、どこの大名の屋敷へ上って、どのくらい長く勤めていたものか、御殿奉公の性質さえよくわきまえない今の私には、ただあわかおりを残して消えたこうのようなもので、ほとんどとりとめようのない事実である。

しかしそう言えば、私は錦絵に描かれた御殿女中が羽織っているような、派手な総模様の着物を家の蔵の中で見たことがある。

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しかしそう云えば、私は錦絵にしきえいた御殿女中の羽織っているような華美はでな総模様の着物を宅の蔵の中で見た事がある。

紅絹の裏をつけたその着物の表には、桜だか梅だかが一面に染め出されて、ところどころに金糸や銀糸の刺繍も混じっていた。

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紅絹裏もみうらを付けたその着物の表には、桜だか梅だかが一面に染め出されて、ところどころに金糸や銀糸の刺繍ぬいまじっていた。

これは、おそらく当時の掻取とかいうものなのだろう。

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これは恐らく当時の裲襠かいどりとかいうものなのだろう。

しかし母がそれを打ち掛けた姿は、今想像してもまるで目に浮かばない。

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しかし母がそれを打ち掛けた姿は、今想像してもまるで眼に浮かばない。

私の知っている母は、いつも大きな老眼鏡をかけたお婆さんであったから。

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私の知っている母は、常に大きな老眼鏡をかけた御婆さんであったから。

それどころか私は、この美しい掻取がその後、小さな掻巻に仕立て直されて、その頃家にできた病人の上に載せられたのを見たくらいだから。

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それのみか私はこの美くしい裲襠がその小掻巻こがいまきに仕立直されて、その頃宅にできた病人の上に載せられたのを見たくらいだから。

三十八

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三十八

私が大学で教わったある西洋人が日本を去る時、私は何か餞別を贈ろうと思って、家の蔵から高蒔絵の緋の房のついた美しい文箱を取り出してきたことも、もう古い昔である。

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私が大学でおすわったある西洋人が日本を去る時、私は何か餞別せんべつを贈ろうと思って、宅の蔵から高蒔絵たかまきえふさの付いた美しい文箱ふばこを取り出して来た事も、もう古い昔である。

それを父の前へ持っていってもらい受けた時の私は、まったく何も気づかなかったが、今こうして筆を執ってみると、その文箱も、小さな掻巻に仕立て直された紅絹裏の掻取と同じように、若い時分の母の面影を色濃く宿しているように思われてならない。

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それを父の前へ持って行って貰い受けた時の私は、全く何の気もつかなかったが、今こうして筆をって見ると、その文箱も小掻巻に仕立直された紅絹裏の裲襠同様に、若い時分の母の面影おもかげこまやかに宿しているように思われてならない。

母は生涯、父から着物をこしらえてもらったことがないという話だが、はたしてこしらえてもらわずに済むくらいの支度をして来たものだろうか。

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母は生涯しょうがい父から着物をこしらえて貰った事がないという話だが、はたして拵えて貰わないでもすむくらいな支度したくをして来たものだろうか。

私の心に映るあの紺無地の絽の帷子も、幅の狭い黒繻子の帯も、やはり嫁に来た時からすでに箪笥の中にあったものなのだろうか。

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私の心に映るあの紺無地こんむじ帷子かたびらも、幅の狭い黒繻子くろじゅすの帯も、やはり嫁に来た時からすでに箪笥たんすの中にあったものなのだろうか。

私は再び母に会って、何もかもことごとく本人の口から聞いてみたい。

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私は再び母に会って、万事をことごとく口ずからいて見たい。

いたずらで強情な私は、決して世間の末っ子のように母から甘く扱われなかった。

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悪戯いたずらで強情な私は、けっして世間のすえのように母から甘く取扱かわれなかった。

それでも家中で一番私をかわいがってくれたのは母だという強い親しみの心が、母に対する私の記憶の中には、いつでもこもっている。

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それでも宅中うちじゅうで一番私を可愛かわいがってくれたものは母だという強い親しみの心が、母に対する私の記憶のうちには、いつでもこもっている。

好き嫌いを別にして考えてみても、母は確かに品位のある奥ゆかしい婦人に違いなかった。

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愛憎を別にして考えて見ても、母はたしかに品位のあるゆかしい婦人に違なかった。

そうして父よりも賢そうに、誰の目にも見えた。

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そうして父よりもかしこそうに誰の目にも見えた。

気難しい兄も、母だけには畏れ敬う気持ちを抱いていた。

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気むずかしい兄も母だけには畏敬いけいの念をいだいていた。

「お母さんは何も言わないけれども、どこかに怖いところがある」

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御母おっかさんは何にも云わないけれども、どこかにこわいところがある」

私は母を評した兄のこの言葉を、暗い遠くの方からはっきりと引っ張り出してくることが、今でもできる。

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私は母を評した兄のこの言葉を、暗い遠くの方から明らかに引張出ひっぱりだしてくる事が今でもできる。

しかしそれは、水に溶けて流れかかった字を、しっかり気を張ってやっともとの形に返したような、きわどい私の記憶の断片に過ぎない。

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しかしそれは水にけて流れかかった字体を、きっとなってやっと元の形に返したようなきわどい私の記憶の断片に過ぎない。

そのほかのことになると、私の母はすべて私にとって夢である。

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そのほかの事になると、私の母はすべて私にとって夢である。

途切れ途切れに残っている彼女の面影をいくら丹念に拾い集めても、母の全体はとても思い浮かべる訳にはいかない。

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途切とぎれ途切れに残っている彼女の面影おもかげをいくら丹念に拾い集めても、母の全体はとても髣髴ほうふつする訳に行かない。

その途切れ途切れに残っている昔さえ、半ば以上はもう薄れすぎて、しっかりとはつかめない。

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その途切とぎれ途切に残っている昔さえ、なかば以上はもう薄れ過ぎて、しっかりとはつかめない。

ある時、私は二階へ上がって、たった一人で昼寝をしたことがある。

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或時私は二階へあがって、たった一人で、昼寝をした事がある。

その頃の私は昼寝をすると、よく変なものに襲われがちであった。

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その頃の私は昼寝をすると、よく変なものに襲われがちであった。

私の親指が見る間に大きくなって、いつまで経っても止まらなかったり、あるいは仰向けに眺めている天井がだんだん上から下りてきて私の胸を押さえつけたり、または目を開いて普段と変わらない周りを現に見ているのに、体だけが眠気の虜になって、いくらもがいても手足を動かすことができなかったり、後で考えてさえ、夢なのか正気なのか訳の分からない場合が多かった。

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私の親指が見る間に大きくなって、いつまでっても留らなかったり、あるいは仰向あおむきに眺めている天井てんじょうがだんだん上から下りて来て、私の胸をおさえつけたり、または眼をいて普段と変らない周囲を現に見ているのに、身体からだだけが睡魔のとりことなって、いくらもがいても、手足を動かす事ができなかったり、後で考えてさえ、夢だか正気だか訳の分らない場合が多かった。

そうしてその時も、私はこの変なものに襲われたのである。

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そうしてその時も私はこの変なものに襲われたのである。

私はいつどこで犯した罪か知らないが、何しろ自分の持ち物でない金銭を多額に使ってしまった。

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私はいつどこで犯した罪か知らないが、何しろ自分の所有でない金銭を多額に消費してしまった。

それを何の目的で何に使ったのか、その辺もはっきりしないけれども、子どもの私にはとても償う訳にはいかないので、気の小さい私は寝ながら大変苦しみ出した。

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それを何の目的で何につかったのか、その辺も明瞭めいりょうでないけれども、小供の私にはとてもつぐなう訳に行かないので、気の狭い私は寝ながら大変苦しみ出した。

そうして最後には大きな声を上げて、下にいる母を呼んだのである。

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そうしてしまいに大きな声をげて下にいる母を呼んだのである。

二階の梯子段は、母の大眼鏡と切り離すことのできない、生死事大、無常迅速うんぬんと書いた石摺りの張り交ぜにしてある襖のすぐ後ろについているので、母は私の声を聞きつけると、すぐ二階へ上がってきてくれた。

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二階の梯子段はしごだんは、母の大眼鏡と離す事のできない、生死事大しょうじじだい無常迅速むじょうじんそく云々と書いた石摺いしずり張交はりまぜにしてあるふすまの、すぐうしろについているので、母は私の声を聞きつけると、すぐ二階へ上って来てくれた。

私はそこに立って私を眺めている母に、私の苦しみを話して、どうかしてくださいと頼んだ。

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私はそこに立って私を眺めている母に、私の苦しみを話して、どうかして下さいと頼んだ。

母はその時微笑しながら、「心配しないでもいいよ。お母さんがいくらでもお金を出してあげるから」

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母はその時微笑しながら、「心配しないでも好いよ。御母おっかさんがいくらでも御金を出して上げるから」

と言ってくれた。

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と云ってくれた。

私は大変嬉しかった。

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私は大変うれしかった。

それで安心して、またすやすや寝てしまった。

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それで安心してまたすやすや寝てしまった。

私はこの出来事が全部夢なのか、または半分だけ本当なのか、今でも疑っている。

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私はこの出来事が、全部夢なのか、または半分だけ本当なのか、今でも疑っている。

しかしどうしても私は、実際に大きな声を出して母に救いを求め、母もまた実際に姿を現して私に慰めの言葉を与えてくれたとしか考えられない。

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しかしどうしても私は実際大きな声を出して母に救を求め、母はまた実際の姿を現わして私に慰藉いしゃの言葉を与えてくれたとしか考えられない。

そうしてその時の母の身なりは、いつも私の目に映るとおり、やはり紺無地の絽の帷子に幅の狭い黒繻子の帯だったのである。

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そうしてその時の母の服装なりは、いつも私の眼に映る通り、やはり紺無地こんむじ帷子かたびらに幅の狭い黒繻子くろじゅすの帯だったのである。

三十九

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三十九

今日は日曜なので、子どもが学校へ行かないから、下女も気を許したものと見えて、いつもより遅く起きたようである。

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今日は日曜なので、小供が学校へ行かないから、下女も気を許したものと見えて、いつもより遅く起きたようである。

それでも私が床を離れたのは、七時十五分過ぎであった。

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それでも私の床を離れたのは七時十五分過であった。

顔を洗ってから、いつものとおりトーストと牛乳と半熟の卵を食べて、便所へ行こうとすると、あいにく汲み取りが来ているので、私はしばらく出たことのない裏庭の方へ足を運んだ。

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顔を洗ってから、例の通り焼麺麭トーストと牛乳と半熟の鶏卵たまごを食べて、かわやのぼろうとすると、あいにく肥取こいとりが来ているので、私はしばらく出た事のない裏庭の方へ歩を移した。

すると植木屋が、物置の中で何か片づけものをしていた。

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すると植木屋が物置の中で何か片づけものをしていた。

不要の炭俵を重ねた下から威勢のいい火が燃え上がる周りに、女の子が三人ばかり気持ちよさそうに暖を取っている様子が、私の注意を引いた。

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不要の炭俵を重ねた下から威勢の好い火が燃えあがる周囲に、女の子が三人ばかり心持よさそうに煖を取っている様子が私の注意をいた。

「そんなに焚き火に当たると、顔が真っ黒になるよ」

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「そんなに焚火たきびに当ると顔が真黒になるよ」

と言ったら、末の子が「いやあーだ」

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と云ったら、末の子が、「いやあーだ」

と答えた。

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と答えた。

私は石垣の上から遠くに見える屋根瓦が、溶けきった霜に濡れて朝日にきらつく色を眺めたあと、また家の中へ引き返した。

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私は石垣の上から遠くに見える屋根瓦やねがわらけつくしたしもれて、朝日にきらつく色を眺めたあと、またうちの中へ引き返した。

親類の子が来て掃除をしている書斎が片づくのを待って、私は机を縁側に持ち出した。

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親類の子が来て掃除そうじをしている書斎の整頓するのを待って、私は机を縁側えんがわに持ち出した。

そこで日当たりのいい欄干に身をもたせたり、頬杖を突いて考えたり、またしばらくはじっと動かずに、ただ心を自由に遊ばせておいてみたりした。

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そこで日当りの好い欄干らんかんに身をたせたり、頬杖ほおづえを突いて考えたり、またしばらくはじっと動かずにただ魂を自由に遊ばせておいてみたりした。

軽い風が時々、鉢植えの九花蘭の長い葉を動かしに来た。

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軽い風が時々鉢植はちうえ九花蘭きゅうからんの長い葉を動かしにきた。

庭木の中で、鶯が折々下手なさえずりを聞かせた。

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庭木の中でうぐいすが折々下手なさえずりを聴かせた。

毎日硝子戸の中に座っていた私は、まだ冬だ冬だと思っているうちに、春がいつしか私の心を揺すり始めたのである。

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毎日硝子戸ガラスどの中にすわっていた私は、まだ冬だ冬だと思っているうちに、春はいつしか私の心を蕩揺とうようし始めたのである。

私の物思いは、いつまで座っていても形にならなかった。

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私の冥想めいそうはいつまで坐っていても結晶しなかった。

筆を執って書こうとすれば、書く種は無尽蔵にあるような気持ちもするし、あれにしようかこれにしようかと迷い出すと、もう何を書いてもつまらないのだというのんきな考えも起こってきた。

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筆をとって書こうとすれば、書く種は無尽蔵にあるような心持もするし、あれにしようか、これにしようかと迷い出すと、もう何を書いてもつまらないのだという呑気のんきな考も起ってきた。

しばらくそこでたたずんでいるうちに、今度は今まで書いたことが全く無意味のように思われ出した。

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しばらくそこでたたずんでいるうちに、今度は今まで書いた事が全く無意味のように思われ出した。

なぜあんなものを書いたのだろうという食い違いが、私をあざけり始めた。

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なぜあんなものを書いたのだろうという矛盾が私を嘲弄ちょうろうし始めた。

ありがたいことに、私の神経は静まっていた。

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ありがたい事に私の神経は静まっていた。

このあざけりの上に乗って、ふわふわと高い物思いの領分へ上っていくのが、自分には大変な楽しみになった。

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この嘲弄の上に乗ってふわふわと高い冥想めいそうの領分にのぼって行くのが自分には大変な愉快になった。

自分の馬鹿な性質を雲の上から見下ろして笑いたくなった私は、自分で自分を軽蔑する気分に揺られながら、揺りかごの中で眠る子どもに過ぎなかった。

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自分の馬鹿な性質を、雲の上から見下みおろして笑いたくなった私は、自分で自分を軽蔑けいべつする気分に揺られながら、揺籃ようらんの中でねむる小供に過ぎなかった。

私は今まで、他人のことと私のこととをごちゃごちゃに書いた。

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私は今までひとの事と私の事をごちゃごちゃに書いた。

他人のことを書く時には、なるべく相手の迷惑にならないようにという気がかりがあった。

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他の事を書くときには、なるべく相手の迷惑にならないようにとの掛念けねんがあった。

私の身の上を語る時分には、かえって比較的自由な空気の中で呼吸することができた。

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私の身の上を語る時分には、かえって比較的自由な空気の中に呼吸する事ができた。

それでも私は、まだ自分に対して全く見栄を取り除けるほどの域に達していなかった。

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それでも私はまだ私に対して全く色気を取り除き得る程度に達していなかった。

嘘をついて世間を欺くほどのてらいはないにしても、もっと卑しい所、もっと悪い所、もっと面目を失うような自分の欠点を、つい発表せずにしまった。

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うそいて世間をあざむくほどの衒気げんきがないにしても、もっといやしい所、もっと悪い所、もっと面目を失するような自分の欠点を、つい発表しずにしまった。

聖オーガスチンの懺悔、ルソーの懺悔、阿片常用者の懺悔――それをいくらたどっていっても、本当の事実は人間の力で書き表せるはずがないと、誰かが言ったことがある。

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聖オーガスチンの懺悔ざんげ、ルソーの懺悔、オピアムイーターの懺悔、――それをいくら辿たどって行っても、本当の事実は人間の力で叙述できるはずがないと誰かが云った事がある。

まして私の書いたものは、懺悔ではない。

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まして私の書いたものは懺悔ではない。

私の罪は――もしそれを罪と言えるならば――すこぶる明るいところからばかり写されていただろう。

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私の罪は、――もしそれを罪と云い得るならば、――すこぶる明るいところからばかり写されていただろう。

そこに、ある人は一種の不快を感じるかもしれない。

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そこに或人は一種の不快を感ずるかも知れない。

しかし私自身は今、その不快の上にまたがって、人間というものを広く見渡しながら微笑しているのである。

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しかし私自身は今その不快の上にまたがって、一般の人類をひろく見渡しながら微笑しているのである。

今までつまらないことを書いた自分をも同じ目で見渡して、まるでそれが他人であったかのような感じを抱きつつ、やはり微笑しているのである。

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今までつまらない事を書いた自分をも、同じ眼で見渡して、あたかもそれが他人であったかの感をいだきつつ、やはり微笑しているのである。

まだ鶯が庭で時々鳴く。

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まだうぐいすが庭で時々鳴く。

春風が折々思い出したように、九花蘭の葉を揺らしに来る。

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春風が折々思い出したように九花蘭きゅうからんの葉をうごかしに来る。

猫がどこかでひどく噛まれたこめかみを日にさらして、あたたかそうに眠っている。

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猫がどこかでいたまれた米噛こめかみを日にさらして、あたたかそうに眠っている。

さっきまで庭でゴム風船を上げて騒いでいた子どもたちは、みんな連れ立って活動写真へ行ってしまった。

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先刻さっきまで庭で護謨風船ゴムふうせんげて騒いでいた小供達は、みんな連れ立って活動写真へ行ってしまった。

家も心もひっそりとした中で、私は硝子戸を開け放って、静かな春の光に包まれながら、うっとりとこの原稿を書き終えるのである。

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家も心もひっそりとしたうちに、私は硝子戸ガラスどを開け放って、静かな春の光に包まれながら、恍惚うっとりとこの稿を書き終るのである。

そうした後で、私はちょっと肘を曲げて、この縁側でひと眠りするつもりである。

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そうした後で、私はちょっとひじを曲げて、この縁側えんがわに一眠り眠るつもりである。

(二月十四日)

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(二月十四日)