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こころ 小学生向け

夏目漱石なつめそうせき)・1991

AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-30

上 先生と私

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上 先生と私

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わたしはその人を、いつも先生と呼んでいた。

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わたくしはその人を常に先生と呼んでいた。

だからここでもただ先生と書くだけで、本当の名前は出さない。

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だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。

世間に気をつかっているのではない。その方がわたしには自然だからだ。

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これは世間をはばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。

わたしはその人を思い出すたびに、すぐ「先生」

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私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」

と言いたくなる。

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といいたくなる。

文章を書くときも同じ気持ちだ。

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筆をっても心持は同じ事である。

よそよそしいアルファベットの記号などは、とても使う気になれない。

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よそよそしい頭文字かしらもじなどはとても使う気にならない。

わたしが先生と知り合ったのは、鎌倉だ。

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私が先生と知り合いになったのは鎌倉かまくらである。

そのころ、わたしはまだ若い学生だった。

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その時私はまだ若々しい書生であった。

夏休みに海水浴へ行った友だちから、ぜひ来いというはがきが来た。それでわたしは何とかお金を作って、出かけることにした。

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暑中休暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書はがきを受け取ったので、私は多少の金を工面くめんして、出掛ける事にした。

お金を作るのに、二、三日かかった。

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私は金の工面に三日さんちを費やした。

ところがわたしが鎌倉に着いて三日も経たないうちに、わたしを呼んだ友だちは、急に「国へ帰れ」という電報を受け取った。

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ところが私が鎌倉に着いて三日とたないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。

電報には母が病気だからと書いてあったけれど、友だちはそれを信じなかった。

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電報には母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。

友だちは前から、国にいる親たちに、気の進まない結婚をおしつけられていた。

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友達はかねてから国元にいる親たちにすすまない結婚をいられていた。

彼は今のならわしで言えば、結婚するには年が若すぎた。

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彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた。

その上、大事な相手が気に入らなかった。

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それに肝心かんじんの当人が気に入らなかった。

それで夏休みに帰るはずのところを、わざと帰らずに、東京の近くで遊んでいたのだ。

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それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて東京の近くで遊んでいたのである。

彼は電報をわたしに見せて、どうしようと相談した。

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彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。

わたしには、どうしていいか分からなかった。

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私にはどうしていいか分らなかった。

けれど本当に彼の母が病気なら、彼はもちろん帰るべきだった。

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けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼はもとより帰るべきはずであった。

それで彼は、とうとう帰ることになった。

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それで彼はとうとう帰る事になった。

せっかく来たわたしは、一人取り残された。

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せっかく来た私は一人取り残された。

学校が始まるまでには、まだだいぶ日があった。鎌倉にいてもいいし帰ってもいい身分だったわたしは、しばらく元の宿にいることにした。

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学校の授業が始まるにはまだ大分だいぶ日数ひかずがあるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいという境遇にいた私は、当分元の宿にまる覚悟をした。

友だちは中国地方のお金持ちの息子で、お金に困らない男だった。けれど学校が学校だし年も若いので、暮らしぶりはわたしとそう変わらなかった。

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友達は中国のある資産家の息子むすこで金に不自由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった。

だから一人になったわたしも、ちょうどいい宿を探し直す手間はいらなかった。

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したがって一人ひとりぼっちになった私は別に恰好かっこうな宿を探す面倒ももたなかったのである。

宿は鎌倉でも、町から遠い方角にあった。

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宿は鎌倉でも辺鄙へんぴな方角にあった。

ビリヤードだのアイスクリームだのという、しゃれたものには、長い田んぼ道を一つ越えなければ手が届かなかった。

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玉突たまつきだのアイスクリームだのというハイカラなものには長いなわてを一つ越さなければ手が届かなかった。

車で行っても二十銭は取られた。

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車で行っても二十銭は取られた。

けれど個人の別荘は、あちこちにいくつも建っていた。

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けれども個人の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。

それに海へはとても近いので、海水浴をするにはたいへん便利な場所だった。

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それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な地位を占めていた。

わたしは毎日、海へ入りに出かけた。

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私は毎日海へはいりに出掛けた。

古くすすけたわらぶきの家の間を通り抜けて浜へ下りると、この辺にこんなに都会の人が住んでいるのかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動いていた。

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古いくすぶり返った藁葺わらぶきあいだを通り抜けていそへ下りると、このへんにこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動いていた。

ときには海の中が、銭湯のように黒い頭でごちゃごちゃしていることもあった。

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ある時は海の中が銭湯せんとうのように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。

その中に知り合いが一人もいないわたしも、こういうにぎやかな景色に包まれて、砂の上に寝そべったり、ひざを波に打たせてそのへんを跳ね回ったりするのは楽しかった。

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その中に知った人を一人ももたない私も、こういうにぎやかな景色の中につつまれて、砂の上にそべってみたり、膝頭ひざがしらを波に打たしてそこいらをまわるのは愉快であった。

わたしは先生を、この人ごみの中で見つけたのだ。

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私は実に先生をこの雑沓ざっとうあいだに見付け出したのである。

そのころ、海岸には掛け茶屋(かけぢゃや。浜辺の休けい所)が二軒あった。

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その時海岸には掛茶屋かけぢゃやが二軒あった。

わたしはちょっとしたきっかけから、その一軒の方によく行っていた。

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私はふとした機会はずみからその一軒の方に行きれていた。

長谷のあたりに大きな別荘を持っている人とちがって、着がえ場を持っていないこの辺の避暑客には、こうしたみんなで使う着がえ所のようなものが、どうしても必要だった。

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長谷辺はせへんに大きな別荘を構えている人と違って、各自めいめいに専有の着換場きがえばこしらえていないここいらの避暑客には、ぜひともこうした共同着換所といったふうなものが必要なのであった。

客はここでお茶を飲み、ここで休む。そのほかにも、ここで海水着を洗ってもらったり、ここで潮のついた体を洗い流したり、ここへ帽子やかさをあずけたりする。

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彼らはここで茶を飲み、ここで休息するほかに、ここで海水着を洗濯させたり、ここでしおはゆい身体からだを清めたり、ここへ帽子やかさを預けたりするのである。

海水着を持たないわたしにも、持ち物をぬすまれる心配はあった。それでわたしは海へ入るたびに、その茶屋に全部を脱いで置くことにしていた。

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海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあったので、私は海へはいるたびにその茶屋へ一切いっさいてる事にしていた。

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わたしがその掛け茶屋で先生を見たとき、先生はちょうど着物を脱いで、これから海へ入ろうとするところだった。

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わたくしがその掛茶屋で先生を見た時は、先生がちょうど着物を脱いでこれから海へ入ろうとするところであった。

わたしはそのとき、反対に、ぬれた体を風に吹かせて水から上がって来た。

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私はその時反対にれた身体からだを風に吹かして水から上がって来た。

二人の間には、目をさえぎる黒い頭がたくさん動いていた。

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二人のあいだには目をさえぎる幾多の黒い頭が動いていた。

とくべつなことがなければ、わたしは先生を見のがしていたかもしれない。

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特別の事情のない限り、私はついに先生を見逃したかも知れなかった。

浜はそれほど混んでいたし、わたしの頭もそれほどぼんやりしていた。それでもすぐ先生を見つけたのは、先生が一人の西洋人を連れていたからだ。

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それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭が放漫ほうまんであったにもかかわらず、私がすぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人をれていたからである。

その西洋人のとびぬけて白い肌の色が、掛け茶屋へ入るとすぐ、わたしの目を引いた。

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その西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入るやいなや、すぐ私の注意をいた。

彼は日本のゆかたを着ていたが、それを長いすの上にぽいと放り出したまま、うで組みをして海の方を向いて立っていた。

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純粋の日本の浴衣ゆかたを着ていた彼は、それを床几しょうぎの上にすぽりとほうり出したまま、腕組みをして海の方を向いて立っていた。

彼は、わたしたちがはく猿股(さるまた。今の海水パンツのような下ばき)一つのほか、何も着ていなかった。

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彼は我々の穿猿股さるまた一つのほか何物も肌に着けていなかった。

わたしには、それが何より不思議だった。

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私にはそれが第一不思議だった。

わたしはその二日前に由比ヶ浜まで行って、砂の上にしゃがみながら、長い間、西洋人が海へ入る様子をながめていた。

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私はその二日前に由井ゆいはままで行って、砂の上にしゃがみながら、長い間西洋人の海へ入る様子をながめていた。

わたしがすわった所は少し高い丘の上で、そのすぐそばがホテルの裏口だった。だからじっとしている間にずいぶん多くの男が海に出て来たが、みんな胴もうでも足も出していなかった。

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私のしりをおろした所は少し小高い丘の上で、そのすぐわきがホテルの裏口になっていたので、私のじっとしているあいだに、大分だいぶ多くの男が塩を浴びに出て来たが、いずれも胴と腕とももは出していなかった。

女はとくに、肌をかくしがちだった。

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女は殊更ことさら肉を隠しがちであった。

たいていは頭にゴムのずきんをかぶって、えび茶や紺や藍の色を波の間にうかべていた。

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大抵は頭に護謨製ゴムせい頭巾ずきんかぶって、海老茶えびちゃこんあいの色を波間に浮かしていた。

そういう様子を見たばかりのわたしの目には、猿股一つでみんなの前に立っているこの西洋人が、とてもめずらしく見えた。

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そういう有様を目撃したばかりの私のには、猿股一つで済ましてみんなの前に立っているこの西洋人がいかにも珍しく見えた。

彼はやがて自分のそばを振り返って、そこにかがんでいる日本人に一言二言、何か言った。

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彼はやがて自分のわきを顧みて、そこにこごんでいる日本人に、一言ひとこと二言ふたことなにかいった。

その日本人は砂の上に落ちた手ぬぐいを拾い上げるところだったが、それを取るとすぐ頭を包んで、海の方へ歩き出した。

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その日本人は砂の上に落ちた手拭てぬぐいを拾い上げているところであったが、それを取り上げるや否や、すぐ頭を包んで、海の方へ歩き出した。

その人が、つまり先生だった。

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その人がすなわち先生であった。

わたしはただの好きしんから、並んで浜を下りて行く二人の後ろすがたを見ていた。

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私は単に好奇心のために、並んで浜辺を下りて行く二人の後姿うしろすがたを見守っていた。

すると二人は、まっすぐ波の中に足をふみ入れた。

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すると彼らは真直まっすぐに波の中に足を踏み込んだ。

そうして浅い所でわいわいさわいでいる大勢の間を通り抜けて、わりあい広々した所へ来ると、二人とも泳ぎ出した。

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そうして遠浅とおあさ磯近いそちかくにわいわい騒いでいる多人数たにんずあいだを通り抜けて、比較的広々した所へ来ると、二人とも泳ぎ出した。

二人の頭が小さく見えるまで、沖の方へ向かって行った。

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彼らの頭が小さく見えるまで沖の方へ向いて行った。

それから引き返して、また一直線に浜まで戻って来た。

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それから引き返してまた一直線に浜辺まで戻って来た。

掛け茶屋へ帰ると、井戸の水も浴びずにすぐ体をふいて着物を着て、さっさとどこかへ行ってしまった。

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掛茶屋へ帰ると、井戸の水も浴びずに、すぐ身体からだいて着物を着て、さっさとどこへか行ってしまった。

二人が出て行ったあと、わたしはやはり元の長いすにすわって、たばこを吸っていた。

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彼らの出て行ったあと、私はやはり元の床几しょうぎに腰をおろして烟草タバコを吹かしていた。

そのときわたしは、ぼんやりしながら先生のことを考えた。

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その時私はぽかんとしながら先生の事を考えた。

どうも、どこかで見たことのある顔のように思えてならなかった。

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どうもどこかで見た事のある顔のように思われてならなかった。

しかしどうしても、いつどこで会った人か思い出せずに終わった。

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しかしどうしてもいつどこで会った人かおもい出せずにしまった。

そのころのわたしは、気楽というより、たいくつで困っていた。

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その時の私は屈托くったくがないというよりむしろ無聊ぶりょうに苦しんでいた。

それで次の日も、先生に会った時こくを見計らって、わざわざ掛け茶屋まで出かけてみた。

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それで翌日あくるひもまた先生に会った時刻を見計らって、わざわざ掛茶屋かけぢゃやまで出かけてみた。

すると西洋人は来ないで、先生が一人、麦わら帽子をかぶってやって来た。

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すると西洋人は来ないで先生一人麦藁帽むぎわらぼうかぶってやって来た。

先生はめがねを取って台の上に置き、すぐ手ぬぐいで頭を包んで、すたすたと浜を下りて行った。

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先生は眼鏡めがねをとって台の上に置いて、すぐ手拭てぬぐいで頭を包んで、すたすた浜を下りて行った。

先生が昨日のようににぎやかな海水浴客の中を通り抜けて、一人で泳ぎ出したとき、わたしは急にそのあとを追いかけたくなった。

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先生が昨日きのうのように騒がしい浴客よくかくの中を通り抜けて、一人で泳ぎ出した時、私は急にそのあとが追い掛けたくなった。

わたしは浅い水を頭の上まではね上げて、けっこう深い所まで来た。そこから先生を目印にして、力いっぱい泳いだ。

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私は浅い水を頭の上まではねかして相当の深さの所まで来て、そこから先生を目標めじるし抜手ぬきでを切った。

すると先生は昨日とちがって、弓なりに曲がりながら、へんな方向から岸の方へ帰り始めた。

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すると先生は昨日と違って、一種の弧線こせんえがいて、妙な方向から岸の方へ帰り始めた。

それでわたしのねらいは、とうとう果たせなかった。

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それで私の目的はついに達せられなかった。

わたしが陸へ上がって、しずくのたれる手を振りながら掛け茶屋に入ると、先生はもうちゃんと着物を着て、入れちがいに外へ出て行った。

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私がおかへ上がってしずくの垂れる手を振りながら掛茶屋に入ると、先生はもうちゃんと着物を着て入れ違いに外へ出て行った。

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わたしは次の日も同じ時こくに浜へ行って、先生の顔を見た。

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わたくしは次の日も同じ時刻に浜へ行って先生の顔を見た。

その次の日にも、また同じことをくり返した。

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その次の日にもまた同じ事を繰り返した。

けれど話しかける機会も、あいさつをする場面も、二人の間には起こらなかった。

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けれども物をいい掛ける機会も、挨拶あいさつをする場合も、二人の間には起らなかった。

その上、先生の様子はむしろ人づき合いを好まないふうだった。

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その上先生の態度はむしろ非社交的であった。

決まった時こくにすっと来て、またすっと帰って行った。

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一定の時刻に超然として来て、また超然と帰って行った。

まわりがいくらにぎやかでも、それにはほとんど気をとめる様子がなかった。

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周囲がいくらにぎやかでも、それにはほとんど注意を払う様子が見えなかった。

最初いっしょに来た西洋人は、その後まったく姿を見せなかった。

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最初いっしょに来た西洋人はそのまるで姿を見せなかった。

先生はいつでも一人だった。

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先生はいつでも一人であった。

あるとき、先生がいつものようにさっさと海から上がって来て、いつもの場所に脱いだゆかたを着ようとすると、どうしたわけか、そのゆかたに砂がいっぱいついていた。

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る時先生が例の通りさっさと海から上がって来て、いつもの場所にてた浴衣ゆかたを着ようとすると、どうした訳か、その浴衣に砂がいっぱい着いていた。

先生はそれを落とすために、後ろ向きになってゆかたを二、三度振った。

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先生はそれを落すために、後ろ向きになって、浴衣を二、三度ふるった。

すると着物の下に置いてあっためがねが、板のすき間から下へ落ちた。

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すると着物の下に置いてあった眼鏡が板の隙間すきまから下へ落ちた。

先生は白がすりの着物の上へ帯をしめてから、めがねがないのに気づいたと見えて、急にそのへんを探し始めた。

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先生は白絣しろがすりの上へ兵児帯へこおびを締めてから、眼鏡のくなったのに気が付いたと見えて、急にそこいらを探し始めた。

わたしはすぐ腰かけの下へ首と手をつっこんで、めがねを拾い出した。

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私はすぐ腰掛こしかけの下へ首と手を突ッ込んで眼鏡を拾い出した。

先生はありがとうと言って、それをわたしの手から受け取った。

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先生は有難うといって、それを私の手から受け取った。

次の日、わたしは先生のあとについて海へ飛びこんだ。

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次の日私は先生のあとにつづいて海へ飛び込んだ。

そうして先生と同じ方角に泳いで行った。

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そうして先生といっしょの方角に泳いで行った。

二百メートルほど沖へ出ると、先生は後ろを振り返ってわたしに話しかけた。

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ちょうほど沖へ出ると、先生は後ろを振り返って私に話し掛けた。

広い青い海の上に浮いているものは、その近くにわたしたち二人しかいなかった。

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広いあおい海の表面に浮いているものは、その近所に私ら二人よりほかになかった。

そうして強い日ざしが、見わたすかぎりの水と山を照らしていた。

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そうして強い太陽の光が、眼の届く限り水と山とを照らしていた。

わたしは自由とよろこびにあふれた体を動かして、海の中でおどりくるった。

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私は自由と歓喜にちた筋肉を動かして海の中でおどり狂った。

先生はまたぴたりと手足の動きをやめて、あおむけになったまま波の上に寝た。

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先生はまたぱたりと手足の運動をめて仰向けになったままなみの上に寝た。

わたしも、そのまねをした。

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私もその真似まねをした。

青空の色がぎらぎらと目をさすように、強い色をわたしの顔に投げつけた。

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青空の色がぎらぎらと眼を射るように痛烈な色を私の顔に投げ付けた。

「気持ちいいですね」

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「愉快ですね」

と、わたしは大きな声を出した。

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と私は大きな声を出した。

しばらくして海の中で起き上がるように姿勢を直した先生は、「もう帰りませんか」

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しばらくして海の中で起き上がるように姿勢を改めた先生は、「もう帰りませんか」

と言って、わたしをさそった。

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といって私を促した。

わりあい丈夫な体を持っていたわたしは、もっと海の中で遊んでいたかった。

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比較的強い体質をもった私は、もっと海の中で遊んでいたかった。

しかし先生からさそわれたとき、わたしはすぐ「ええ、帰りましょう」

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しかし先生から誘われた時、私はすぐ「ええ帰りましょう」

と気持ちよく答えた。

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と快く答えた。

そうして二人で、また元の道を浜へ引き返した。

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そうして二人でまた元のみちを浜辺へ引き返した。

わたしはこれから、先生と親しくなった。

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私はこれから先生と懇意になった。

しかし先生がどこに住んでいるかは、まだ知らなかった。

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しかし先生がどこにいるかはまだ知らなかった。

それから二日おいて、ちょうど三日目の午後だったと思う。

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それからなか二日おいてちょうど三日目の午後だったと思う。

先生と掛け茶屋で会ったとき、先生は突然わたしに向かって、「君はまだだいぶ長くここにいるつもりですか」

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先生と掛茶屋かけぢゃやで出会った時、先生は突然私に向かって、「君はまだ大分だいぶ長くここにいるつもりですか」

と聞いた。

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と聞いた。

何も考えていなかったわたしは、こういう問いに答えるだけの用意を頭の中に持っていなかった。

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考えのない私はこういう問いに答えるだけの用意を頭の中に蓄えていなかった。

それで「どうだか分かりません」

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それで「どうだか分りません」

と答えた。

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と答えた。

しかしにやにや笑っている先生の顔を見たとき、わたしは急にはずかしくなった。

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しかしにやにや笑っている先生の顔を見た時、私は急にきまりが悪くなった。

「先生は」

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「先生は?」

と、聞き返さずにはいられなかった。

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と聞き返さずにはいられなかった。

これが、わたしの口から出た先生という言葉の始まりだ。

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これが私の口を出た先生という言葉の始まりである。

わたしはその晩、先生の宿をたずねた。

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私はその晩先生の宿を尋ねた。

宿といっても普通の旅館とちがって、広いお寺の敷地の中にある別荘のような建物だった。

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宿といっても普通の旅館と違って、広い寺の境内けいだいにある別荘のような建物であった。

そこに住んでいる人が先生の家族でないことも分かった。

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そこに住んでいる人の先生の家族でない事もわかった。

わたしが先生先生と呼びかけるので、先生は苦笑いをした。

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私が先生先生と呼び掛けるので、先生は苦笑いをした。

わたしは、それが年上の人に対する自分の口ぐせだと言って言いわけをした。

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私はそれが年長者に対する私の口癖くちくせだといって弁解した。

わたしは、この間の西洋人のことを聞いてみた。

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私はこの間の西洋人の事を聞いてみた。

先生はその人の変わったところや、もう鎌倉にいないことなど、いろいろの話をした。そして、日本人とさえあまりつき合わないのに、そういう外国人と親しくなったのは不思議だと言ったりした。

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先生は彼の風変りのところや、もう鎌倉かまくらにいない事や、色々の話をした末、日本人にさえあまり交際つきあいをもたないのに、そういう外国人と近付ちかづきになったのは不思議だといったりした。

わたしは最後に先生に向かって、どこかで先生を見たように思うけれど、どうしても思い出せないと言った。

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私は最後に先生に向かって、どこかで先生を見たように思うけれども、どうしても思い出せないといった。

若いわたしはそのとき、心の中で、相手も自分と同じように感じているのではないかと思った。

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若い私はその時あんに相手も私と同じような感じを持っていはしまいかと疑った。

そうして先生の返事をこうだろうと予想して、待ちかまえた。

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そうして腹の中で先生の返事を予期してかかった。

ところが先生はしばらく考えこんだあとで、「どうも君の顔には見おぼえがありませんね。人ちがいじゃないですか」

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ところが先生はしばらく沈吟ちんぎんしたあとで、「どうも君の顔には見覚みおぼえがありませんね。人違いじゃないですか」

と言った。それでわたしは、へんながっかりを感じた。

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といったので私は変に一種の失望を感じた。

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わたしは月の終わりに、東京へ帰った。

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わたくしは月の末に東京へ帰った。

先生が避暑地を引きあげたのは、それよりずっと前だった。

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先生の避暑地を引き上げたのはそれよりずっと前であった。

わたしは先生と別れるとき、「これから時々お宅へうかがってもいいですか」

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私は先生と別れる時に、「これから折々おたくへ伺ってもござんすか」

と聞いた。

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と聞いた。

先生は簡単に、ただ「ええ、いらっしゃい」

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先生は単簡たんかんにただ「ええいらっしゃい」

と言っただけだった。

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といっただけであった。

そのころのわたしは先生とかなり親しくなったつもりでいたので、先生からもう少し心のこもった言葉を期待していた。

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その時分の私は先生とよほど懇意になったつもりでいたので、先生からもう少しこまやかな言葉を予期してかかったのである。

それでこの物足りない返事が、少しわたしの自信をきずつけた。

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それでこの物足りない返事が少し私の自信をいためた。

わたしはこういうことで、よく先生にがっかりさせられた。

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私はこういう事でよく先生から失望させられた。

先生はそれに気づいているようでもあり、まったく気づいていないようでもあった。

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先生はそれに気が付いているようでもあり、また全く気が付かないようでもあった。

わたしはまた軽いがっかりをくり返しながら、そのために先生からはなれて行く気にはなれなかった。

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私はまた軽微な失望を繰り返しながら、それがために先生から離れて行く気にはなれなかった。

むしろ反対だった。不安にゆさぶられるたびに、もっと前へ進みたくなった。

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むしろそれとは反対で、不安にうごかされるたびに、もっと前へ進みたくなった。

もっと前へ進めば、わたしが期待しているあるものが、いつか目の前にはっきり現れてくるだろうと思った。

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もっと前へ進めば、私の予期するあるものが、いつか眼の前に満足に現われて来るだろうと思った。

わたしは若かった。

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私は若かった。

けれどすべての人に対して、若い血がこんなに素直に働くとは思わなかった。

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けれどもすべての人間に対して、若い血がこう素直に働こうとは思わなかった。

わたしはなぜ先生に対してだけ、こんな気持ちが起こるのか分からなかった。

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私はなぜ先生に対してだけこんな心持が起るのかわからなかった。

それが先生の亡くなった今になって、やっと分かって来た。

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それが先生の亡くなった今日こんにちになって、始めて解って来た。

先生は初めから、わたしをきらっていたのではなかったのだ。

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先生は始めから私を嫌っていたのではなかったのである。

先生がわたしに見せたそっけないあいさつや、冷たく見える態度は、わたしを遠ざけようとする気持ちの表れではなかったのだ。

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先生が私に示した時々の素気そっけない挨拶あいさつや冷淡に見える動作は、私を遠ざけようとする不快の表現ではなかったのである。

いたましい先生は、自分に近づこうとする人に、「近づくだけのねうちのない者だからやめておけ」と注意していたのだ。

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いたましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだからせという警告を与えたのである。

人が慕う気持ちにこたえない先生は、人を見下す前に、まず自分を見下していたものと見える。

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ひとの懐かしみに応じない先生は、ひと軽蔑けいべつする前に、まず自分を軽蔑していたものとみえる。

わたしはもちろん、先生をたずねるつもりで東京へ帰って来た。

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私は無論先生を訪ねるつもりで東京へ帰って来た。

帰ってから授業が始まるまでにはまだ二週間あるので、そのうちに一度行っておこうと思った。

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帰ってから授業の始まるまでにはまだ二週間の日数ひかずがあるので、そのうちに一度行っておこうと思った。

しかし帰って二日三日と経つうちに、鎌倉にいたときの気分がだんだんうすくなって来た。

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しかし帰って二日三日とつうちに、鎌倉かまくらにいた時の気分が段々薄くなって来た。

そうしてそこに色をそえる大都会の空気が、思い出をゆさぶる強いしげきといっしょに、こくわたしの心を染めた。

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そうしてその上にいろどられる大都会の空気が、記憶の復活に伴う強い刺戟しげきと共に、濃く私の心を染め付けた。

わたしは道で学生の顔を見るたびに、新しい学年に向けた希望ときんちょうを感じた。

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私は往来で学生の顔を見るたびに新しい学年に対する希望と緊張とを感じた。

わたしはしばらく、先生のことを忘れた。

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私はしばらく先生の事を忘れた。

授業が始まって一か月ばかりすると、わたしの心にまた一種のゆるみができて来た。

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授業が始まって、一カ月ばかりすると私の心に、また一種のたるみができてきた。

わたしは何だか物足りない顔をして、道を歩き始めた。

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私は何だか不足な顔をして往来を歩き始めた。

何かほしそうに、自分の部屋の中を見回した。

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物欲しそうに自分のへやの中を見廻みまわした。

わたしの頭には、また先生の顔がうかんで来た。

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私の頭には再び先生の顔が浮いて出た。

わたしはまた、先生に会いたくなった。

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私はまた先生に会いたくなった。

初めて先生の家をたずねたとき、先生は留守だった。

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始めて先生のうちを訪ねた時、先生は留守であった。

二度目に行ったのは、次の日曜だと覚えている。

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二度目に行ったのは次の日曜だと覚えている。

晴れた空が身にしみこむように感じられる、いい天気だった。

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晴れた空が身にみ込むように感ぜられる日和ひよりであった。

その日も、先生は留守だった。

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その日も先生は留守であった。

鎌倉にいたとき、わたしは先生自身の口から、いつでもたいてい家にいると聞いた。

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鎌倉にいた時、私は先生自身の口から、いつでも大抵たいてい宅にいるという事を聞いた。

むしろ外出がきらいだということも聞いた。

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むしろ外出嫌いだという事も聞いた。

二度来て二度とも会えなかったわたしは、その言葉を思い出して、理由のない不満をどこかに感じた。

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二度来て二度とも会えなかった私は、その言葉を思い出して、理由わけもない不満をどこかに感じた。

わたしはすぐには、玄関先を去らなかった。

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私はすぐ玄関先を去らなかった。

お手伝いの顔を見て、少しためらってそこに立っていた。

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下女げじょの顔を見て少し躊躇ちゅうちょしてそこに立っていた。

この前わたしの名刺を取りついだ覚えのあるお手伝いは、わたしを待たせておいて、また中へ入った。

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この前名刺を取り次いだ記憶のある下女は、私を待たしておいてまたうちへはいった。

すると、奥さんらしい人が代わって出て来た。

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すると奥さんらしい人が代って出て来た。

美しい奥さんだった。

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美しい奥さんであった。

わたしはその人から、ていねいに先生の行き先を教えてもらった。

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私はその人から鄭寧ていねいに先生の出先を教えられた。

先生は毎月その日になると、雑司ヶ谷の墓地にあるお墓に花をそなえに行くならわしなのだそうだ。

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先生は例月その日になると雑司ヶ谷ぞうしがやの墓地にあるる仏へ花を手向たむけに行く習慣なのだそうである。

「たった今出たばかりで、十分になるか、ならないかでございます」

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「たった今出たばかりで、十分になるか、ならないかでございます」

と、奥さんは気の毒そうに言ってくれた。

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と奥さんは気の毒そうにいってくれた。

わたしは頭を下げて、外へ出た。

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私は会釈えしゃくして外へ出た。

にぎやかな町の方へ百メートルほど歩くと、わたしも散歩がてら、雑司ヶ谷へ行ってみる気になった。

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にぎやかな町の方へ一ちょうほど歩くと、私も散歩がてら雑司ヶ谷へ行ってみる気になった。

先生に会えるか会えないかという好きしんも動いた。

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先生に会えるか会えないかという好奇心も動いた。

それで、すぐ引き返した。

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それですぐきびすめぐらした。

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わたしは墓地の手前にある苗畑(なえばたけ)の左側から入って、両側にかえでを植えた広い道を、奥の方へ進んで行った。

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わたくしは墓地の手前にある苗畠なえばたけの左側からはいって、両方にかえでを植え付けた広い道を奥の方へ進んで行った。

するとその先に見える茶店の中から、先生らしい人がふいと出て来た。

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するとそのはずれに見える茶店ちゃみせの中から先生らしい人がふいと出て来た。

わたしはその人のめがねのふちが日に光るまで、近く寄って行った。

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私はその人の眼鏡めがねふちが日に光るまで近く寄って行った。

そうしていきなり「先生」

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そうして出し抜けに「先生」

と、大きな声をかけた。

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と大きな声を掛けた。

先生は突然立ち止まって、わたしの顔を見た。

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先生は突然立ち留まって私の顔を見た。

「どうして……、どうして……」

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「どうして……、どうして……」

先生は、同じ言葉を二度くり返した。

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先生は同じ言葉を二へん繰り返した。

その言葉は、しんと静まり返った昼の中で、ふつうとちがう調子でくり返された。

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その言葉は森閑しんかんとした昼のうちに異様な調子をもって繰り返された。

わたしは急に、何とも答えられなくなった。

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私は急に何ともこたえられなくなった。

「私のあとをつけて来たのですか。どうして……」

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「私のあとけて来たのですか。どうして……」

先生の様子は、むしろ落ち着いていた。

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先生の態度はむしろ落ち付いていた。

声は、むしろ低く沈んでいた。

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声はむしろ沈んでいた。

けれどその顔つきの中には、うまく言えない一種のかげりがあった。

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けれどもその表情のうちには判然はっきりいえないような一種の曇りがあった。

わたしは自分がどうしてここへ来たかを、先生に話した。

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私は私がどうしてここへ来たかを先生に話した。

「だれのお墓へ参りに行ったか、妻がその人の名を言いましたか」

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だれの墓へ参りに行ったか、さいがその人の名をいいましたか」

「いいえ、そんなことは何もおっしゃいません」

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「いいえ、そんな事は何もおっしゃいません」

「そうですか。――そう、それは言うはずがありませんね、初めて会ったあなたに。言う必要がないんだから」

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「そうですか。――そう、それはいうはずがありませんね、始めて会ったあなたに。いう必要がないんだから」

先生は、やっと納得したらしい様子だった。

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先生はようやく得心とくしんしたらしい様子であった。

しかしわたしには、その意味がまるで分からなかった。

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しかし私にはその意味がまるでわからなかった。

先生とわたしは、通りへ出ようとしてお墓の間を抜けた。

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先生と私は通りへ出ようとして墓の間を抜けた。

「イサベラ何々の墓」だの「神のしもべロギンの墓」だのというお墓のそばに、一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう。生きるものはみな仏になる性質を持つ、という意味の仏教の言葉)と書いた木のふだなどが立ててあった。

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依撒伯拉何々イサベラなになにの墓だの、神僕しんぼくロギンの墓だのというかたわらに、一切衆生悉有仏生いっさいしゅじょうしつうぶっしょうと書いた塔婆とうばなどが建ててあった。

「全権公使何々」というのもあった。

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全権公使何々というのもあった。

わたしは「安得烈」とほりつけた小さいお墓の前で、「これは何と読むんでしょう」

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私は安得烈とり付けた小さい墓の前で、「これは何と読むんでしょう」

と、先生に聞いた。

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と先生に聞いた。

「アンドレとでも読ませるつもりでしょうね」

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「アンドレとでも読ませるつもりでしょうね」

と言って、先生は苦笑いした。

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といって先生は苦笑した。

先生は、これらのお墓に表れたそれぞれのやり方に対して、わたしほどにはおかしさもひにくも感じていないらしかった。

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先生はこれらの墓標が現わす人種々ひとさまざまの様式に対して、私ほどに滑稽こっけいもアイロニーも認めてないらしかった。

わたしが丸いお墓の石だの細長い石の碑(ひ)だのを指して、しきりにあれこれ言いたがるのを、初めのうちは黙って聞いていた。しかししまいに「あなたは死ということを、まだ真面目に考えたことがありませんね」

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私が丸い墓石はかいしだの細長い御影みかげだのを指して、しきりにかれこれいいたがるのを、始めのうちは黙って聞いていたが、しまいに「あなたは死という事実をまだ真面目まじめに考えた事がありませんね」

と言った。

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といった。

わたしは黙った。

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私は黙った。

先生も、それきり何も言わなくなった。

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先生もそれぎり何ともいわなくなった。

墓地の切れ目に、大きないちょうが一本、空をかくすように立っていた。

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墓地の区切り目に、大きな銀杏いちょうが一本空を隠すように立っていた。

その下へ来たとき、先生は高いこずえを見上げて、「もう少しすると、きれいですよ。この木がすっかり黄色くなって、ここらの地面は金色の落ち葉でうまるようになります」

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その下へ来た時、先生は高いこずえを見上げて、「もう少しすると、綺麗きれいですよ。この木がすっかり黄葉こうようして、ここいらの地面は金色きんいろの落葉でうずまるようになります」

と言った。

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といった。

先生は月に一度は必ず、この木の下を通るのだった。

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先生は月に一度ずつは必ずこの木の下を通るのであった。

向こうの方ででこぼこの地面をならして新しい墓地を作っている男が、くわの手を休めてわたしたちを見ていた。

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向うの方で凸凹でこぼこの地面をならして新墓地を作っている男が、くわの手を休めて私たちを見ていた。

わたしたちはそこから左へ曲がって、すぐ大通りへ出た。

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私たちはそこから左へ切れてすぐ街道へ出た。

これからどこへ行くという目当てのないわたしは、ただ先生の歩く方へ歩いて行った。

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これからどこへ行くという目的あてのない私は、ただ先生の歩く方へ歩いて行った。

先生は、いつもより口数が少なかった。

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先生はいつもより口数をかなかった。

それでもわたしはそれほど気づまりを感じなかったので、ぶらぶらといっしょに歩いて行った。

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それでも私はさほどの窮屈を感じなかったので、ぶらぶらいっしょに歩いて行った。

「すぐお宅へお帰りですか」

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「すぐおたくへお帰りですか」

「ええ、ほかに寄る所もありませんから」

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「ええ別に寄る所もありませんから」

二人はまた黙って、南の方へ坂を下りた。

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二人はまた黙って南の方へ坂を下りた。

「先生のお宅のお墓は、あそこにあるんですか」

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「先生のお宅の墓地はあすこにあるんですか」

と、わたしはまた口をきき出した。

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と私がまた口を利き出した。

「いいえ」

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「いいえ」

「どなたのお墓があるんですか。――ご親類のお墓ですか」

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「どなたのお墓があるんですか。――ご親類のお墓ですか」

「いいえ」

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「いいえ」

先生は、これ以外に何も答えなかった。

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先生はこれ以外に何も答えなかった。

わたしも、その話はそれきりにして切り上げた。

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私もその話はそれぎりにして切り上げた。

すると百メートルほど歩いたあとで、先生が急にその話に戻って来た。

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すると一ちょうほど歩いたあとで、先生が不意にそこへ戻って来た。

「あそこには私の友達の墓があるんです」

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「あすこには私の友達の墓があるんです」

「お友達のお墓へ、毎月お参りをなさるんですか」

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「お友達のお墓へ毎月まいげつお参りをなさるんですか」

「そうです」

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「そうです」

先生はその日、これ以外を話さなかった。

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先生はその日これ以外を語らなかった。

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わたしはそれから、時々先生をたずねるようになった。

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私はそれから時々先生を訪問するようになった。

行くたびに、先生は家にいた。

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行くたびに先生は在宅であった。

先生に会う回数が重なるにつれて、わたしはますますひんぱんに先生の玄関へ足を運んだ。

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先生に会う度数どすうが重なるにつれて、私はますますしげく先生の玄関へ足を運んだ。

けれど先生のわたしに対する態度は、初めてあいさつをしたときも、親しくなったその後も、あまり変わらなかった。

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けれども先生の私に対する態度は初めて挨拶あいさつをした時も、懇意になったそののちも、あまり変りはなかった。

先生は、いつも静かだった。

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先生は何時いつも静かであった。

あるときは静かすぎて、さびしいくらいだった。

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ある時は静か過ぎてさびしいくらいであった。

わたしは最初から、先生には近づきにくい不思議があるように思っていた。

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私は最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。

それでいて、どうしても近づかなければいられないという気持ちが、どこかで強く働いた。

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それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた。

こういう気持ちを先生に対して持っていた者は、多くの人のうちで、たぶんわたしだけかもしれない。

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こういう感じを先生に対してもっていたものは、多くの人のうちであるいは私だけかも知れない。

しかしそのわたしだけには、この直感が後になって事実で証明されたのだ。だからわたしは、子どもっぽいと言われても、ばかげていると笑われても、それを見ぬいた自分の直感をとにかく頼もしく、またうれしく思っている。

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しかしその私だけにはこの直感がのちになって事実の上に証拠立てられたのだから、私は若々しいといわれても、馬鹿ばかげていると笑われても、それを見越した自分の直覚をとにかく頼もしくまたうれしく思っている。

人を愛することのできる人。愛さずにはいられない人。それでいて、自分のふところに入ろうとする者を、手を広げて抱きしめることのできない人。これが先生だった。

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人間を愛しる人、愛せずにはいられない人、それでいて自分のふところろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、――これが先生であった。

今言ったとおり、先生はいつも静かだった。

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今いった通り先生は始終静かであった。

落ち着いていた。

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落ち付いていた。

けれど時として、へんなかげりがその顔をよぎることがあった。

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けれども時として変な曇りがその顔を横切る事があった。

窓に黒い鳥の影がさすように。

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窓に黒い鳥影がすように。

さすかと思うと、すぐ消えるには消えたが。

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射すかと思うと、すぐ消えるには消えたが。

わたしが初めてそのかげりを先生のまゆの間に見たのは、雑司ヶ谷の墓地で、いきなり先生に呼びかけたときだった。

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私が始めてその曇りを先生の眉間みけんに認めたのは、雑司ヶ谷ぞうしがやの墓地で、不意に先生を呼び掛けた時であった。

わたしはその変わった一しゅんに、それまで気持ちよく流れていた血の流れを、ちょっとにぶらせた。

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私はその異様の瞬間に、今まで快く流れていた心臓の潮流をちょっと鈍らせた。

しかしそれは、ほんの一時のみだれにすぎなかった。

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しかしそれは単に一時の結滞けったいに過ぎなかった。

わたしの心は五分と経たないうちに、いつもの元気を取りもどした。

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私の心は五分とたないうちに平素の弾力を回復した。

わたしはそれきり、暗そうなこの雲の影を忘れてしまった。

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私はそれぎり暗そうなこの雲の影を忘れてしまった。

思いがけずまたそれを思い出させられたのは、暖かい小春日和がもうすぐ終わるという、ある晩のことだった。

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ゆくりなくまたそれを思い出させられたのは、小春こはるの尽きるにのないる晩の事であった。

先生と話していたわたしは、ふと先生がわざわざ教えてくれたいちょうの大木を、目の前に思いうかべた。

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先生と話していた私は、ふと先生がわざわざ注意してくれた銀杏いちょう大樹たいじゅの前におもい浮かべた。

数えてみると、先生が毎月決まってお墓参りに行く日が、それからちょうど三日目に当たっていた。

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勘定してみると、先生が毎月例まいげつれいとして墓参に行く日が、それからちょうど三日目に当っていた。

その三日目は、わたしの授業が昼で終わる楽な日だった。

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その三日目は私の課業がひるえる楽な日であった。

わたしは先生に向かって、こう言った。

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私は先生に向かってこういった。

「先生、雑司ヶ谷のいちょうはもう散ってしまったでしょうか」

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「先生雑司ヶ谷ぞうしがやの銀杏はもう散ってしまったでしょうか」

「まだ丸ぼうずにはならないでしょう」

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「まだ空坊主からぼうずにはならないでしょう」

先生はそう答えながら、わたしの顔を見つめた。

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先生はそう答えながら私の顔を見守った。

そうしてそこから、しばらく目を離さなかった。

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そうしてそこからしばし眼を離さなかった。

わたしはすぐ言った。

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私はすぐいった。

「今度お墓参りにいらっしゃるとき、お供をしてもいいですか。私は先生といっしょに、あのあたりを散歩してみたい」

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「今度お墓参はかまいりにいらっしゃる時におともをしてもござんすか。私は先生といっしょにあすこいらが散歩してみたい」

「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」

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「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」

「しかしついでに散歩をなさったら、ちょうどいいじゃありませんか」

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「しかしついでに散歩をなすったらちょうどいじゃありませんか」

先生は、何とも答えなかった。

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先生は何とも答えなかった。

しばらくしてから、「私のは本当の墓参りだけなんだから」

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しばらくしてから、「私のは本当の墓参りだけなんだから」

と言って、どこまでもお墓参りと散歩を切りはなそうとするように見えた。

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といって、どこまでも墓参ぼさんと散歩を切り離そうとするふうに見えた。

わたしと行きたくない言いわけなのか何なのか、わたしにはそのときの先生が、いかにも子どもっぽくてへんに思えた。

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私と行きたくない口実だか何だか、私にはその時の先生が、いかにも子供らしくて変に思われた。

わたしは、なおさら押して行く気になった。

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私はなおと先へ出る気になった。

「じゃ、お墓参りでもいいからいっしょに連れて行ってください。私もお墓参りをしますから」

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「じゃお墓参りでもいからいっしょにれて行って下さい。私もお墓参りをしますから」

実際わたしには、お墓参りと散歩のちがいが、ほとんど意味のないことのように思えたのだ。

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実際私には墓参と散歩との区別がほとんど無意味のように思われたのである。

すると先生のまゆが、ちょっとくもった。

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すると先生のまゆがちょっと曇った。

目の中にも、ふつうとちがう光が出た。

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眼のうちにも異様の光が出た。

それはめいわくとも、いやがっているとも、こわがっているとも決められない、かすかな不安らしいものだった。

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それは迷惑とも嫌悪けんおとも畏怖いふとも片付けられないかすかな不安らしいものであった。

わたしはとつぜん、雑司ヶ谷で「先生」

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私はたちまち雑司ヶ谷で「先生」

と呼びかけたときの記憶を、強く思い出した。

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と呼び掛けた時の記憶を強く思い起した。

二つの顔つきは、まったく同じだったのだ。

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二つの表情は全く同じだったのである。

「私は」

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「私は」

と、先生が言った。

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と先生がいった。

「私はあなたに話すことのできないある理由があって、人といっしょにあそこへ墓参りには行きたくないのです。自分の妻さえ、まだ連れて行ったことがないのです」

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「私はあなたに話す事のできないある理由があって、ひとといっしょにあすこへ墓参りには行きたくないのです。自分のさいさえまだ伴れて行った事がないのです」

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わたしは不思議に思った。

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わたくしは不思議に思った。

しかしわたしは、先生を調べる気でその家へ出入りしていたのではなかった。

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しかし私は先生を研究する気でそのうち出入でいりをするのではなかった。

わたしはただ、そのままにして過ごした。

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私はただそのままにして打ち過ぎた。

今考えると、そのときのわたしの態度は、わたしの人生の中でむしろ大事にすべきものの一つだった。

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今考えるとその時の私の態度は、私の生活のうちでむしろたっとむべきものの一つであった。

わたしはまったくそのおかげで、先生と人間らしい温かいつき合いができたのだと思う。

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私は全くそのために先生と人間らしい温かい交際つきあいができたのだと思う。

もしわたしの好きしんが少しでも先生の心に向かって、調べるように働きかけていたら、二人の間をつなぐ思いやりの糸は、何のようしゃもなくそのときふつりと切れてしまっただろう。

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もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向かって、研究的に働き掛けたなら、二人の間をつなぐ同情の糸は、何の容赦もなくその時ふつりと切れてしまったろう。

若いわたしは、まったく自分の態度に気づいていなかった。

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若い私は全く自分の態度を自覚していなかった。

だからこそ大事なのかもしれない。しかしもしまちがえて反対に出ていたら、どんな結果が二人の仲におちて来ただろう。

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それだからたっといのかも知れないが、もし間違えて裏へ出たとしたら、どんな結果が二人の仲に落ちて来たろう。

わたしは想像しても、ぞっとする。

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私は想像してもぞっとする。

先生はそうでなくても、冷たい目で調べられるのを、いつもこわがっていたのだ。

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先生はそれでなくても、冷たいまなこで研究されるのを絶えず恐れていたのである。

わたしは月に二度か三度は、必ず先生の家へ行くようになった。

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私は月に二度もしくは三度ずつ必ず先生のうちへ行くようになった。

わたしの足がだんだんひんぱんになったころのある日、先生はとつぜんわたしに向かって聞いた。

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私の足が段々しげくなった時のある日、先生は突然私に向かって聞いた。

「あなたは何でそうたびたび、私のような者の家へやって来るのですか」

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「あなたは何でそうたびたび私のようなものの宅へやって来るのですか」

「何でといって、そんな特別な意味はありません。――しかしお邪魔なんですか」

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「何でといって、そんな特別な意味はありません。――しかしお邪魔じゃまなんですか」

「邪魔だとは言いません」

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「邪魔だとはいいません」

なるほど、めいわくだという様子は先生のどこにも見えなかった。

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なるほど迷惑という様子は、先生のどこにも見えなかった。

わたしは、先生のつき合いの範囲がとてもせまいことを知っていた。

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私は先生の交際の範囲のきわめて狭い事を知っていた。

先生の元の同級生などで、そのころ東京にいる人はほとんど二人か三人しかいないことも知っていた。

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先生の元の同級生などで、そのころ東京にいるものはほとんど二人か三人しかないという事も知っていた。

先生と同じ故郷の学生などとは、たまに座敷で同席することもあった。しかしそのだれもがみな、わたしほど先生に親しみを持っていないように見えた。

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先生と同郷の学生などには時たま座敷で同座する場合もあったが、彼らのいずれもはみんな私ほど先生に親しみをもっていないように見受けられた。

「私は寂しい人間です」

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「私はさびしい人間です」

と、先生が言った。

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と先生がいった。

「だからあなたが来てくださることを喜んでいます。だから、なぜそうたびたび来るのかと聞いたのです」

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「だからあなたの来て下さる事を喜んでいます。だからなぜそうたびたび来るのかといって聞いたのです」

「それはまたなぜです」

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「そりゃまたなぜです」

わたしがこう聞き返したとき、先生は何とも答えなかった。

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私がこう聞き返した時、先生は何とも答えなかった。

ただわたしの顔を見て、「あなたはいくつですか」

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ただ私の顔を見て「あなたは幾歳いくつですか」

と言った。

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といった。

このやり取りはわたしにはさっぱり分からなかったが、わたしはそのとき、底まで問いつめずに帰ってしまった。

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この問答は私にとってすこぶる不得要領ふとくようりょうのものであったが、私はその時そこまで押さずに帰ってしまった。

しかもそれから四日と経たないうちに、また先生をたずねた。

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しかもそれから四日とたないうちにまた先生を訪問した。

先生は座敷へ出るとすぐ、笑い出した。

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先生は座敷へ出るやいなや笑い出した。

「また来ましたね」

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「また来ましたね」

と言った。

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といった。

「ええ、来ました」

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「ええ来ました」

と言って、自分も笑った。

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といって自分も笑った。

わたしはほかの人からこう言われたら、きっと腹が立っただろうと思う。

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私はほかの人からこういわれたらきっとしゃくさわったろうと思う。

しかし先生にこう言われたときは、まるで反対だった。

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しかし先生にこういわれた時は、まるで反対であった。

腹が立たないばかりか、かえって楽しかった。

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癪に触らないばかりでなくかえって愉快だった。

「私は寂しい人間です」

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「私はさびしい人間です」

と、先生はその晩また、この間の言葉をくり返した。

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と先生はその晩またこの間の言葉を繰り返した。

「私は寂しい人間ですが、ことによるとあなたも寂しい人間じゃないですか。私は寂しくても年を取っているから動かずにいられるが、若いあなたはそうは行かないのでしょう。動けるだけ動きたいのでしょう。動いて何かにぶつかりたいのでしょう……」

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「私は淋しい人間ですが、ことによるとあなたも淋しい人間じゃないですか。私は淋しくっても年を取っているから、動かずにいられるが、若いあなたはそうは行かないのでしょう。動けるだけ動きたいのでしょう。動いて何かにつかりたいのでしょう……」

「私はちっとも寂しくはありません」

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「私はちっともさむしくはありません」

「若いうちほど寂しいものはありません。それならなぜあなたは、そうたびたび私の家へ来るのですか」

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「若いうちほどさむしいものはありません。そんならなぜあなたはそうたびたび私のうちへ来るのですか」

ここでもこの間の言葉が、また先生の口からくり返された。

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ここでもこの間の言葉がまた先生の口から繰り返された。

「あなたは私に会っても、おそらくまだ寂しい気がどこかでしているでしょう。私にはあなたのために、その寂しさを根元から引き抜いてあげるだけの力がないんだから。あなたはほかの方を向いて、今に手を広げなければならなくなります。今に私の家の方へは足が向かなくなります」

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「あなたは私に会ってもおそらくまださびしい気がどこかでしているでしょう。私にはあなたのためにその淋しさを根元ねもとから引き抜いて上げるだけの力がないんだから。あなたはほかの方を向いて今に手を広げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足が向かなくなります」

先生はこう言って、寂しい笑い方をした。

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先生はこういって淋しい笑い方をした。

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さいわい、先生の予言は当たらずに済んだ。

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さいわいにして先生の予言は実現されずに済んだ。

経験のない当時のわたしは、この予言の中にふくまれているはっきりした意味さえ理解できなかった。

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経験のない当時のわたくしは、この予言のうちに含まれている明白な意義さえ了解し得なかった。

わたしは相変わらず、先生に会いに行った。

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私は依然として先生に会いに行った。

そのうちいつの間にか、先生の食たくでご飯を食べるようになった。

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そのうちいつの間にか先生の食卓でめしを食うようになった。

当然の結果として、奥さんとも口をきかなければならないようになった。

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自然の結果奥さんとも口をかなければならないようになった。

ふつうの人間として、わたしは女に対して冷たいわけではなかった。

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普通の人間として私は女に対して冷淡ではなかった。

けれど年の若いわたしが今まで過ごして来た暮らしから言って、わたしはほとんどつき合いらしいつき合いを、女と持ったことがなかった。

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けれども年の若い私の今まで経過して来た境遇からいって、私はほとんど交際らしい交際を女に結んだ事がなかった。

それが原因かどうかは分からないが、わたしのきょうみは、道ですれちがう知らない女に向かって多く働くだけだった。

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それが源因げんいんかどうかは疑問だが、私の興味は往来で出合う知りもしない女に向かって多く働くだけであった。

先生の奥さんには、その前に玄関で会ったとき、美しいという印象を受けた。

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先生の奥さんにはその前玄関で会った時、美しいという印象を受けた。

それから会うたびに、同じ印象を受けないことはなかった。

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それから会うたんびに同じ印象を受けない事はなかった。

しかしそれ以外に、わたしはこれといって特に奥さんについて語ることを、何も持たないような気がした。

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しかしそれ以外に私はこれといってとくに奥さんについて語るべき何物ももたないような気がした。

これは奥さんに持ち味がないというよりも、持ち味を見せる機会が来なかったのだと考える方が正しいかもしれない。

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これは奥さんに特色がないというよりも、特色を示す機会が来なかったのだと解釈する方が正当かも知れない。

しかしわたしはいつでも、先生についている一部分のような気持ちで奥さんに接していた。

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しかし私はいつでも先生に付属した一部分のような心持で奥さんに対していた。

奥さんも、自分の夫の所へ来る学生だからという親しみで、わたしをあつかっていたらしい。

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奥さんも自分の夫の所へ来る書生だからという好意で、私を遇していたらしい。

だから中間に立つ先生を取りのぞけば、つまり二人はばらばらになっていた。

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だから中間に立つ先生を取りければ、つまり二人はばらばらになっていた。

それで初めて知り合いになったときの奥さんについては、ただ美しいというほかに何の感じも残っていない。

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それで始めて知り合いになった時の奥さんについては、ただ美しいというほかに何の感じも残っていない。

あるとき、わたしは先生の家でお酒を飲まされた。

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ある時私は先生のうちで酒を飲まされた。

そのとき、奥さんが出て来てそばでついでくれた。

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その時奥さんが出て来てそばしゃくをしてくれた。

先生はいつもより、楽しそうに見えた。

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先生はいつもより愉快そうに見えた。

奥さんに「お前も一つおあがり」

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奥さんに「お前も一つお上がり」

と言って、自分の飲みほしたさかずきを差し出した。

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といって、自分のみ干したさかずきを差した。

奥さんは「私は……」

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奥さんは「私は……」

と、ことわりかけたあと、こまった顔でそれを受け取った。

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と辞退しかけたあと、迷惑そうにそれを受け取った。

奥さんはきれいなまゆを寄せて、わたしが半分ばかりついであげたさかずきを、くちびるの先へ持って行った。

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奥さんは綺麗きれいまゆを寄せて、私の半分ばかりいで上げた盃を、唇の先へ持って行った。

奥さんと先生の間に、次のような会話が始まった。

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奥さんと先生の間にしものような会話が始まった。

「めずらしいこと。私に飲めとおっしゃったことは、めったにないのにね」

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「珍らしい事。私に呑めとおっしゃった事は滅多めったにないのにね」

「お前は嫌いだからさ。しかしたまには飲むといいよ。いい心持ちになるよ」

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「お前はきらいだからさ。しかしたまには飲むといいよ。い心持になるよ」

「ちっともなりませんわ。苦しいばかりで。でもあなたは大変ご愉快そうね、少しお酒を召し上がると」

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「ちっともならないわ。苦しいぎりで。でもあなたは大変ご愉快ゆかいそうね、少しごしゅを召し上がると」

「時によると大変愉快になる。しかしいつでもというわけには行かない」

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「時によると大変愉快になる。しかしいつでもというわけにはいかない」

「今夜はいかがです」

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「今夜はいかがです」

「今夜はいい心持ちだね」

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「今夜はい心持だね」

「これから毎晩少しずつ召し上がるとよろしいですよ」

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「これから毎晩少しずつ召し上がるとござんすよ」

「そうは行かない」

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「そうはいかない」

「召し上がってくださいよ。その方が寂しくなくていいから」

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「召し上がって下さいよ。その方がさむしくなくって好いから」

先生の家は、夫婦とお手伝いだけだった。

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先生のうちは夫婦と下女げじょだけであった。

行くたびに、たいていはひっそりしていた。

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行くたびに大抵たいていはひそりとしていた。

大きな笑い声などが聞こえたことは、まるでなかった。

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高い笑い声などの聞こえる試しはまるでなかった。

あるときは、家の中にいるのは先生とわたしだけのような気がした。

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ときは宅の中にいるものは先生と私だけのような気がした。

「子供でもいるといいんですがね」

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「子供でもあると好いんですがね」

と、奥さんはわたしの方を向いて言った。

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と奥さんは私の方を向いていった。

わたしは「そうですね」

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私は「そうですな」

と答えた。

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と答えた。

しかしわたしの心には、何の思いやりも起こらなかった。

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しかし私の心には何の同情も起らなかった。

子どもを持ったことのないそのときのわたしは、子どもをただうるさいもののように考えていた。

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子供を持った事のないその時の私は、子供をただ蒼蠅うるさいもののように考えていた。

「一人もらってやろうか」

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「一人もらってやろうか」

と、先生が言った。

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と先生がいった。

「もらいっ子じゃ、ねえ、あなた」

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もらいッ子じゃ、ねえあなた」

と、奥さんはまたわたしの方を向いた。

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と奥さんはまた私の方を向いた。

「子供はいつまで経ってもできっこないよ」

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「子供はいつまでったってできっこないよ」

と、先生が言った。

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と先生がいった。

奥さんは黙っていた。

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奥さんは黙っていた。

「なぜです」

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「なぜです」

とわたしが代わりに聞いたとき、先生は「天ばつ(悪いことをしたむくい)だからさ」

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と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」

と言って、大きな声で笑った。

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といって高く笑った。

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わたしの知るかぎり、先生と奥さんは仲のいい夫婦の一組だった。

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わたくしの知る限り先生と奥さんとは、仲のい夫婦の一対いっついであった。

家族の一人として暮らしたことのないわたしのことだから、こまかい事情はもちろん分からなかった。けれど座敷でわたしと向かい合ってすわっているとき、先生は何かのついでに、お手伝いを呼ばずに奥さんを呼ぶことがあった。

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家庭の一員として暮した事のない私のことだから、深い消息は無論わからなかったけれども、座敷で私と対坐たいざしている時、先生は何かのついでに、下女げじょを呼ばないで、奥さんを呼ぶ事があった。

(奥さんの名は静といった)

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(奥さんの名はしずといった)。

先生は「おい、静」

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先生は「おい静」

と、いつでもふすまの方を振り向いた。

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といつでもふすまの方を振り向いた。

その呼び方が、わたしには優しく聞こえた。

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その呼びかたが私にはやさしく聞こえた。

返事をして出て来る奥さんの様子も、とても素直だった。

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返事をして出て来る奥さんの様子もはなはだ素直であった。

たまにごちそうになって、奥さんが席に出てくるときなどは、この仲のよさがいっそうはっきりと二人の間に表れるようだった。

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ときたまご馳走ちそうになって、奥さんが席へ現われる場合などには、この関係が一層明らかに二人のあいだえがき出されるようであった。

先生は時々奥さんを連れて、音楽会だのしばいだのに行った。

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先生は時々奥さんをれて、音楽会だの芝居だのに行った。

それから夫婦連れで一週間以内の旅行をしたことも、わたしの記憶では二、三度以上あった。

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それから夫婦づれで一週間以内の旅行をした事も、私の記憶によると、二、三度以上あった。

わたしは箱根からもらった絵はがきを、まだ持っている。

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私は箱根はこねから貰った絵端書えはがきをまだ持っている。

日光へ行ったときは、もみじの葉を一枚入れた手紙ももらった。

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日光にっこうへ行った時は紅葉もみじの葉を一枚封じ込めた郵便も貰った。

当時のわたしの目に映った先生と奥さんの仲は、まずこんなものだった。

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当時の私の眼に映った先生と奥さんの間柄はまずこんなものであった。

そのうちに、たった一つの例外があった。

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そのうちにたった一つの例外があった。

ある日、わたしがいつものとおり先生の玄関でおとずれを告げようとすると、座敷の方でだれかの話し声がした。

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ある日私がいつもの通り、先生の玄関から案内を頼もうとすると、座敷の方でだれかの話し声がした。

よく聞くと、それはふつうの話ではなく、どうも言い争いらしかった。

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よく聞くと、それが尋常の談話でなくって、どうも言逆いさかいらしかった。

先生の家は玄関の次がすぐ座敷なので、こう子戸の前に立っていたわたしの耳に、その言い争いの調子だけはだいたい分かった。

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先生の宅は玄関の次がすぐ座敷になっているので、格子こうしの前に立っていた私の耳にその言逆いさかいの調子だけはほぼ分った。

そうしてそのうちの一人が先生だということも、時々高くなる男の方の声で分かった。

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そうしてそのうちの一人が先生だという事も、時々高まって来る男の方の声で解った。

相手は先生よりも低い声なのでだれだかはっきりしなかったが、どうも奥さんらしく感じられた。

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相手は先生よりも低いおんなので、誰だか判然はっきりしなかったが、どうも奥さんらしく感ぜられた。

泣いているようでもあった。

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泣いているようでもあった。

わたしはどうしたものだろうと思って玄関先でまよったが、すぐ決心して、そのまま下宿へ帰った。

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私はどうしたものだろうと思って玄関先で迷ったが、すぐ決心をしてそのまま下宿へ帰った。

へんに不安な気持ちが、わたしをおそって来た。

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妙に不安な心持が私を襲って来た。

わたしは本を読んでも、頭に入らなくなってしまった。

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私は書物を読んでもみ込む能力を失ってしまった。

一時間ほどすると、先生が窓の下へ来てわたしの名を呼んだ。

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約一時間ばかりすると先生が窓の下へ来て私の名を呼んだ。

わたしは驚いて、窓を開けた。

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私は驚いて窓を開けた。

先生は散歩しようと言って、下からわたしをさそった。

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先生は散歩しようといって、下から私を誘った。

さっき帯の間に包んだままの時計を出して見ると、もう八時過ぎだった。

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先刻さっき帯の間へくるんだままの時計を出して見ると、もう八時過ぎであった。

わたしは帰ったなり、まだはかまをつけていた。

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私は帰ったなりまだはかまを着けていた。

わたしはそのまま、すぐ表へ出た。

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私はそれなりすぐ表へ出た。

その晩、わたしは先生といっしょにビールを飲んだ。

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その晩私は先生といっしょに麦酒ビールを飲んだ。

先生はもともと、あまり量を飲めない人だった。

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先生は元来酒量に乏しい人であった。

ある程度まで飲んで、それでよえなければ、ようまで飲んでみるという思い切ったことのできない人だった。

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ある程度まで飲んで、それで酔えなければ、酔うまで飲んでみるという冒険のできない人であった。

「今日は駄目です」

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「今日は駄目だめです」

と言って、先生は苦笑いした。

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といって先生は苦笑した。

「愉快になれませんか」

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「愉快になれませんか」

と、わたしは気の毒そうに聞いた。

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と私は気の毒そうに聞いた。

わたしの心の中には、ずっとさっきのことが引っかかっていた。

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私の腹の中には始終先刻さっきの事がかかっていた。

魚の骨がのどにささったときのように、わたしは苦しんだ。

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さかなの骨が咽喉のどに刺さった時のように、私は苦しんだ。

打ち明けてみようかと考えたり、やめた方がいいだろうかと思い直したりする。そのゆれが、へんにわたしの様子をそわそわさせた。

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打ち明けてみようかと考えたり、した方がかろうかと思い直したりする動揺が、妙に私の様子をそわそわさせた。

「君、今夜はどうかしていますね」

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「君、今夜はどうかしていますね」

と、先生の方から言い出した。

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と先生の方からいい出した。

「実は私も少し変なのですよ。君に分かりますか」

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「実は私も少し変なのですよ。君に分りますか」

わたしは、何も答えられなかった。

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私は何の答えもし得なかった。

「実はさっき妻と少し喧嘩をしてね。それでつまらない神経を高ぶらせてしまったんです」

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「実は先刻さっきさいと少し喧嘩けんかをしてね。それでくだらない神経を昂奮こうふんさせてしまったんです」

と、先生がまた言った。

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と先生がまたいった。

「どうして……」

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「どうして……」

わたしには、けんかという言葉が口に出て来なかった。

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私には喧嘩という言葉が口へ出て来なかった。

「妻が私を誤解するのです。それを誤解だと言って聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです」

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「妻が私を誤解するのです。それを誤解だといって聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです」

「どんなふうに先生を誤解なさるんですか」

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「どんなに先生を誤解なさるんですか」

先生は、わたしのこの問いに答えようとはしなかった。

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先生は私のこの問いに答えようとはしなかった。

「妻が考えているような人間なら、私だってこんなに苦しんでいやしない」

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「妻が考えているような人間なら、私だってこんなに苦しんでいやしない」

先生がどんなに苦しんでいるか、これもわたしには想像のつかない問題だった。

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先生がどんなに苦しんでいるか、これも私には想像の及ばない問題であった。

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二人が帰るとき、歩きながらのちんもくが百メートルも二百メートルも続いた。

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二人が帰るとき歩きながらの沈黙が一ちょうも二丁もつづいた。

そのあとで、とつぜん先生が口をきき出した。

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そのあとで突然先生が口をき出した。

「悪いことをした。怒って出たから、妻はさぞ心配をしているだろう。考えると女は可哀そうなものですね。私の妻などは、私よりほかにまるで頼りにするものがないんだから」

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「悪い事をした。怒って出たからさいはさぞ心配をしているだろう。考えると女は可哀かわいそうなものですね。わたくしの妻などは私よりほかにまるで頼りにするものがないんだから」

先生の言葉はちょっとそこで切れたが、特にわたしの返事を待つ様子もなく、すぐその続きへ移って行った。

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先生の言葉はちょっとそこで途切とぎれたが、別に私の返事を期待する様子もなく、すぐその続きへ移って行った。

「そう言うと、夫の方はいかにも心強いようで少し滑稽だが。君、私は君の目にどう映りますかね。強い人に見えますか、弱い人に見えますか」

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「そういうと、夫の方はいかにも心丈夫のようで少し滑稽こっけいだが。君、私は君の眼にどう映りますかね。強い人に見えますか、弱い人に見えますか」

「中くらいに見えます」

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中位ちゅうぐらいに見えます」

と、わたしは答えた。

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と私は答えた。

この答えは、先生には少し思いがけなかったらしい。

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この答えは先生にとって少し案外らしかった。

先生はまた口を閉じて、黙って歩き出した。

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先生はまた口を閉じて、無言で歩き出した。

先生の家へ帰るには、わたしの下宿のすぐそばを通るのが近道だった。

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先生のうちへ帰るには私の下宿のついそばを通るのが順路であった。

わたしはそこまで来て、曲がり角で別れるのが先生に申しわけないような気がした。

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私はそこまで来て、曲り角で分れるのが先生に済まないような気がした。

「ついでにお宅の前までお供しましょうか」

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「ついでにおたくの前までおともしましょうか」

と言った。

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といった。

先生はすぐに、手でわたしをとめた。

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先生はたちまち手で私をさえぎった。

「もう遅いから早く帰りたまえ。私も早く帰ってやるんだから、妻のために」

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「もう遅いから早く帰りたまえ。私も早く帰ってやるんだから、妻君さいくんのために」

先生が最後に付け足した「妻のために」

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先生が最後に付け加えた「妻君のために」

という言葉は、へんにそのときのわたしの心を温かくした。

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という言葉は妙にその時の私の心を暖かにした。

わたしはその言葉のおかげで、帰ってから安心してねむることができた。

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私はその言葉のために、帰ってから安心して寝る事ができた。

わたしはその後も長い間、この「妻のために」

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私はそのも長い間この「妻君のために」

という言葉を忘れなかった。

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という言葉を忘れなかった。

先生と奥さんの間に起こったもめごとが大したものでないことは、これでも分かった。

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先生と奥さんの間に起った波瀾はらんが、大したものでない事はこれでもわかった。

それがまた、めったに起こることでなかったことも、その後ずっと出入りしていたわたしにはだいたい分かった。

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それがまた滅多めったに起る現象でなかった事も、その後絶えず出入でいりをして来た私にはほぼ推察ができた。

それどころか先生は、あるときこんな気持ちさえわたしにもらした。

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それどころか先生はある時こんな感想すら私にらした。

「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻以外の女は、ほとんど女として私に呼びかけて来ないのです。妻の方でも、私を世界にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味から言って、私たちはもっとも幸福に生まれた人間の一組であるはずです」

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「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。さい以外の女はほとんど女として私に訴えないのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって、私たちは最も幸福に生れた人間の一対いっついであるべきはずです」

わたしは今、前後のいきさつを忘れてしまったから、先生が何のためにこんな打ち明け話をわたしに聞かせたのか、はっきり言うことができない。

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私は今前後のがかりを忘れてしまったから、先生が何のためにこんな自白を私にして聞かせたのか、判然はっきりいう事ができない。

けれど先生の態度が真面目だったことと、調子が沈んでいたこととは、今でも記憶に残っている。

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けれども先生の態度の真面目まじめであったのと、調子の沈んでいたのとは、いまだに記憶に残っている。

そのときただわたしの耳にへんに響いたのは、「もっとも幸福に生まれた人間の一組であるはずです」

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その時ただ私の耳に異様に響いたのは、「最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです」

という最後の一言だった。

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という最後の一句であった。

先生はなぜ幸福な人間だと言い切らないで、「あるはず」だと言ったのか。

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先生はなぜ幸福な人間といい切らないで、あるべきはずであると断わったのか。

わたしには、それだけがふしぎだった。

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私にはそれだけが不審であった。

特にそこに力をこめた先生の言い方が、ふしぎだった。

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ことにそこへ一種の力を入れた先生の語気が不審であった。

先生は本当に幸福なのだろうか。それとも幸福であるはずなのに、それほど幸福でないのだろうか。

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先生は事実はたして幸福なのだろうか、また幸福であるべきはずでありながら、それほど幸福でないのだろうか。

わたしは心の中で、うたがわずにいられなかった。

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私は心のうちうたぐらざるを得なかった。

けれどそのうたがいは、一時のことでどこかへ消えてしまった。

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けれどもその疑いは一時限りどこかへほうむられてしまった。

わたしはそのうち先生の留守に行って、奥さんと二人だけで話をする機会に出会った。

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私はそのうち先生の留守に行って、奥さんと二人差向さしむかいで話をする機会に出合った。

先生はその日、横浜から出る船に乗って外国へ行く友人を、新橋へ見送りに行って留守だった。

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先生はその日横浜よこはま出帆しゅっぱんする汽船に乗って外国へ行くべき友人を新橋しんばしへ送りに行って留守であった。

横浜から船に乗る人が、朝八時半の汽車で新橋を出るのは、そのころのならわしだった。

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横浜から船に乗る人が、朝八時半の汽車で新橋を立つのはそのころの習慣であった。

わたしはある本について先生に教えてもらう必要があったので、前もって先生の許しをもらったとおり、約束の九時にたずねた。

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私はある書物について先生に話してもらう必要があったので、あらかじめ先生の承諾を得た通り、約束の九時に訪問した。

先生の新橋行きは、前の日わざわざ別れを告げに来た友人への礼ぎとして、その日きゅうに決まったことだった。

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先生の新橋行きは前日わざわざ告別に来た友人に対する礼義れいぎとしてその日突然起った出来事であった。

先生はすぐ帰るから、留守でもわたしに待っているようにと言い残して行った。

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先生はすぐ帰るから留守でも私に待っているようにといい残して行った。

それでわたしは座敷へ上がって、先生を待つ間、奥さんと話をした。

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それで私は座敷へ上がって、先生を待つ間、奥さんと話をした。

十一

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十一

そのころのわたしは、もう大学生だった。

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その時のわたくしはすでに大学生であった。

初めて先生の家へ来たころから見ると、ずっと大人になった気でいた。

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始めて先生のうちへ来たころから見るとずっと成人した気でいた。

奥さんとも、だいぶ親しくなったあとだった。

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奥さんとも大分だいぶ懇意になったのちであった。

わたしは奥さんに対して、何の気づまりも感じなかった。

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私は奥さんに対して何の窮屈も感じなかった。

向かい合って、いろいろの話をした。

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差向さしむかいで色々の話をした。

しかしそれは特に変わったところのないただの話だから、今ではまるで忘れてしまった。

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しかしそれは特色のないただの談話だから、今ではまるで忘れてしまった。

そのうちでたった一つ、わたしの耳に残ったものがある。

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そのうちでたった一つ私の耳に留まったものがある。

しかしそれを話す前に、ちょっと言っておきたいことがある。

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しかしそれを話す前に、ちょっと断っておきたい事がある。

先生は、大学を出た人だった。

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先生は大学出身であった。

これは初めから、わたしに分かっていた。

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これは始めから私に知れていた。

しかし先生が何もしないで遊んでいるということは、東京へ帰って少し経ってから初めて分かった。

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しかし先生の何もしないで遊んでいるという事は、東京へ帰って少しってから始めて分った。

わたしはそのとき、どうして遊んでいられるのかと思った。

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私はその時どうして遊んでいられるのかと思った。

先生は、まるで世間に名前を知られていない人だった。

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先生はまるで世間に名前を知られていない人であった。

だから先生の学問や考えについては、先生と近い関係を持っているわたしよりほかに、うやまう人があるはずがなかった。

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だから先生の学問や思想については、先生と密切みっせつの関係をもっている私よりほかに敬意を払うもののあるべきはずがなかった。

それをわたしは、いつも惜しいことだと言った。

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それを私は常にしい事だといった。

先生はまた「私のような者が世の中へ出て口をきいては申し訳ない」

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先生はまた「私のようなものが世の中へ出て、口をいては済まない」

と答えるだけで、取り合わなかった。

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と答えるぎりで、取り合わなかった。

わたしにはその答えがへりくだり過ぎていて、かえって世間をばかにしているようにも聞こえた。

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私にはその答えが謙遜けんそん過ぎてかえって世間を冷評するようにも聞こえた。

実際、先生は時々昔の同級生で今有名になっている人をつかまえて、ひどく遠慮のない批評をすることがあった。

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実際先生は時々昔の同級生で今著名になっている誰彼だれかれとらえて、ひどく無遠慮な批評を加える事があった。

それでわたしは、はっきりとその食いちがいを取り上げて、あれこれ言ってみた。

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それで私は露骨にその矛盾を挙げて云々うんぬんしてみた。

わたしの気持ちは、さからうというよりも、世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だったからだ。

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私の精神は反抗の意味というよりも、世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だったからである。

そのとき先生は沈んだ調子で、「どうしても私は世間に向かって働き掛ける資格のない男だから、仕方がありません」

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その時先生は沈んだ調子で、「どうしても私は世間に向かって働き掛ける資格のない男だから仕方がありません」

と言った。

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といった。

先生の顔には、深い一種の表情がありありときざまれた。

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先生の顔には深い一種の表情がありありと刻まれた。

わたしにはそれが失望なのか、不満なのか、悲しみなのか分からなかった。けれどとにかく次の言葉が出ないほど強いものだったので、わたしはそれきり何も言う勇気が出なかった。

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私にはそれが失望だか、不平だか、悲哀だか、わからなかったけれども、何しろ二の句の継げないほどに強いものだったので、私はそれぎり何もいう勇気が出なかった。

わたしが奥さんと話している間に、話題が自然に先生のことからそこへ落ちて来た。

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私が奥さんと話している間に、問題が自然先生の事からそこへ落ちて来た。

「先生はなぜああやって、家で考えたり勉強したりなさるだけで、世の中へ出て仕事をなさらないんでしょう」

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「先生はなぜああやって、宅で考えたり勉強したりなさるだけで、世の中へ出て仕事をなさらないんでしょう」

「あの人は駄目ですよ。そういうことが嫌いなんですから」

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「あの人は駄目だめですよ。そういう事が嫌いなんですから」

「つまり、つまらないことだとさとっていらっしゃるんでしょうか」

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「つまりくだらない事だと悟っていらっしゃるんでしょうか」

「さとるのさとらないのって、そりゃ女だから私には分かりませんけれど、たぶんそんな意味じゃないでしょう。やっぱり何かやりたいのでしょう。それでいてできないんです。だから気の毒ですわ」

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「悟るの悟らないのって、――そりゃ女だからわたくしには解りませんけれど、おそらくそんな意味じゃないでしょう。やっぱり何かやりたいのでしょう。それでいてできないんです。だから気の毒ですわ」

「しかし先生は体の方から言って、特にどこも悪いところはないようじゃありませんか」

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「しかし先生は健康からいって、別にどこも悪いところはないようじゃありませんか」

「丈夫ですとも。持病も何もありません」

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「丈夫ですとも。何にも持病はありません」

「それでなぜ、何もなさらないんでしょう」

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「それでなぜ活動ができないんでしょう」

「それが分からないのよ、あなた。それが分かるくらいなら、私だってこんなに心配しやしません。分からないから気の毒でたまらないんです」

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「それがわからないのよ、あなた。それが解るくらいなら私だって、こんなに心配しやしません。わからないから気の毒でたまらないんです」

奥さんの言い方には、とても深い思いやりがあった。

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奥さんの語気には非常に同情があった。

それでも口元だけには、ほほえみが見えた。

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それでも口元だけには微笑が見えた。

外から見れば、わたしの方がむしろ真面目だった。

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外側からいえば、私の方がむしろ真面目まじめだった。

わたしは難しい顔をして、黙っていた。

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私はむずかしい顔をして黙っていた。

すると奥さんが急に思い出したように、また口を開いた。

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すると奥さんが急に思い出したようにまた口を開いた。

「若い時はあんな人じゃなかったんですよ。若い時はまるで違っていました。それがすっかり変わってしまったんです」

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「若い時はあんな人じゃなかったんですよ。若い時はまるで違っていました。それが全く変ってしまったんです」

「若い時っていつごろですか」

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「若い時っていつ頃ですか」

と、わたしが聞いた。

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と私が聞いた。

「学生時代よ」

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「書生時代よ」

「学生時代から先生を知っていらっしゃったんですか」

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「書生時代から先生を知っていらっしゃったんですか」

奥さんは急に、うっすら赤い顔をした。

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奥さんは急に薄赤い顔をした。

十二

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十二

奥さんは、東京の人だった。

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奥さんは東京の人であった。

それは前に、先生からも奥さん自身からも聞いて知っていた。

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それはかつて先生からも奥さん自身からも聞いて知っていた。

奥さんは「本当を言うと合いの子なんですよ」

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奥さんは「本当いうとあいなんですよ」

と言った。

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といった。

奥さんのお父さんはたしか鳥取かどこかの出なのに、お母さんの方はまだ江戸といったころの市ヶ谷で生まれた女なので、奥さんは冗談半分にそう言ったのだ。

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奥さんの父親はたしか鳥取とっとりかどこかの出であるのに、お母さんの方はまだ江戸といった時分じぶん市ヶ谷いちがやで生れた女なので、奥さんは冗談半分そういったのである。

ところが先生は、まるでちがう方角の新潟県の人だった。

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ところが先生は全く方角違いの新潟にいがた県人であった。

だから奥さんがもし先生の学生時代を知っているとすれば、同じ故郷という関係からでないことは明らかだった。

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だから奥さんがもし先生の書生時代を知っているとすれば、郷里の関係からでない事は明らかであった。

しかしうっすら赤い顔をした奥さんは、それ以上の話をしたくないようだったので、わたしの方でも深くは聞かずにおいた。

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しかし薄赤い顔をした奥さんはそれより以上の話をしたくないようだったので、私の方でも深くは聞かずにおいた。

先生と知り合ってから先生が亡くなるまでに、わたしはずいぶんいろいろの問題で先生の考えや気持ちに触れてみた。しかし結婚したころの様子については、ほとんど何も聞くことができなかった。

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先生と知り合いになってから先生の亡くなるまでに、私はずいぶん色々の問題で先生の思想や情操に触れてみたが、結婚当時の状況については、ほとんど何ものも聞き得なかった。

わたしは時によると、それをよい方に受け取ってもみた。

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私は時によると、それを善意に解釈してもみた。

年配の先生のことだから、色っぽい思い出などを若い者に聞かせるのは、わざとひかえているのだろうと思った。

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年輩の先生の事だから、なまめかしい回想などを若いものに聞かせるのはわざとつつしんでいるのだろうと思った。

時によると、また悪い方にも受け取った。

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時によると、またそれを悪くも取った。

先生に限らず奥さんに限らず、二人ともわたしに比べると一つ前の時代のならわしの中で育ったために、そういう色っぽい問題になると、正直に自分を開くだけの勇気がないのだろうと考えた。

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先生に限らず、奥さんに限らず、二人とも私に比べると、一時代前の因襲のうちに成人したために、そういうつやっぽい問題になると、正直に自分を開放するだけの勇気がないのだろうと考えた。

もっとも、どちらも当て推りょうに過ぎなかった。

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もっともどちらも推測に過ぎなかった。

そうしてどちらの当て推りょうの裏にも、二人の結婚の奥にある、はなやかな恋物語があるものと決めてかかっていた。

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そうしてどちらの推測の裏にも、二人の結婚の奥に横たわる花やかなロマンスの存在を仮定していた。

わたしの思ったことは、やはりまちがっていなかった。

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私の仮定ははたして誤らなかった。

けれどわたしは、恋の半分だけを想像に描いていたに過ぎなかった。

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けれども私はただ恋の半面だけを想像にえがき得たに過ぎなかった。

先生は美しい恋の裏に、恐ろしい悲げきを持っていた。

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先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。

そうしてその悲げきがどんなに先生にとってむごいものであるかは、相手の奥さんにはまるで知られていなかった。

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そうしてその悲劇のどんなに先生にとって見惨みじめなものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。

奥さんは今でも、それを知らずにいる。

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奥さんは今でもそれを知らずにいる。

先生はそれを奥さんに隠して、死んだ。

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先生はそれを奥さんに隠して死んだ。

先生は奥さんの幸せをこわす前に、まず自分の命をこわしてしまった。

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先生は奥さんの幸福を破壊する前に、まず自分の生命を破壊してしまった。

わたしは今、この悲げきについて何も語らない。

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私は今この悲劇について何事も語らない。

その悲げきのためにむしろ生まれたとも言える二人の恋については、さっき言ったとおりだった。

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その悲劇のためにむしろ生れ出たともいえる二人の恋愛については、先刻さっきいった通りであった。

二人とも、わたしにはほとんど何も話してくれなかった。

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二人とも私にはほとんど何も話してくれなかった。

奥さんはつつしみのために、先生はまたそれ以上の深い理由のために。

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奥さんは慎みのために、先生はまたそれ以上の深い理由のために。

ただ一つ、わたしの記憶に残っていることがある。

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ただ一つ私の記憶に残っている事がある。

あるとき、花の季節にわたしは先生といっしょに上野へ行った。

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る時花時分はなじぶんに私は先生といっしょに上野うえのへ行った。

そうしてそこで、美しい一組の男女を見た。

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そうしてそこで美しい一対いっつい男女なんにょを見た。

二人は仲よさそうに寄りそって、花の下を歩いていた。

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彼らはむつまじそうに寄り添って花の下を歩いていた。

場所が場所なので、花よりもそちらを向いてじっと見ている人がたくさんいた。

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場所が場所なので、花よりもそちらを向いて眼をそばだてている人が沢山あった。

「新婚の夫婦のようだね」

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「新婚の夫婦のようだね」

と、先生が言った。

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と先生がいった。

「仲がよさそうですね」

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「仲がさそうですね」

と、わたしが答えた。

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と私が答えた。

先生は、苦笑いさえしなかった。

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先生は苦笑さえしなかった。

二人の男女が目に入らないような方角へ、足を向けた。

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二人の男女を視線のほかに置くような方角へ足を向けた。

それからわたしに、こう聞いた。

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それから私にこう聞いた。

「君は恋をしたことがありますか」

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「君は恋をした事がありますか」

わたしは、ないと答えた。

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私はないと答えた。

「恋をしたくはありませんか」

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「恋をしたくはありませんか」

わたしは、答えなかった。

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私は答えなかった。

「したくないことはないでしょう」

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「したくない事はないでしょう」

「ええ」

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「ええ」

「君は今あの男と女を見て、冷やかしましたね。あの冷やかしのうちには、君が恋を求めながら相手を得られないという不満の声が交じっているでしょう」

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「君は今あの男と女を見て、冷評ひやかしましたね。あの冷評ひやかしのうちには君が恋を求めながら相手を得られないという不快の声がまじっていましょう」

「そんなふうに聞こえましたか」

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「そんなふうに聞こえましたか」

「聞こえました。恋の満足を味わっている人は、もっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋は罪ですよ。分かっていますか」

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「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。わかっていますか」

わたしは急に、おどろかされた。

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私は急に驚かされた。

何とも返事をしなかった。

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何とも返事をしなかった。

十三

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十三

わたしたちは、人ごみの中にいた。

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我々は群集の中にいた。

人々はみな、うれしそうな顔をしていた。

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群集はいずれもうれしそうな顔をしていた。

そこを通り抜けて、花も人も見えない森の中へ来るまでは、同じ話を口にする機会がなかった。

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そこを通り抜けて、花も人も見えない森の中へ来るまでは、同じ問題を口にする機会がなかった。

「恋は罪ですか」

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「恋は罪悪ですか」

と、わたしはそのときとつぜん聞いた。

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わたくしがその時突然聞いた。

「罪です。たしかに」

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「罪悪です。たしかに」

と答えたときの先生の言い方は、前と同じように強かった。

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と答えた時の先生の語気は前と同じように強かった。

「なぜですか」

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「なぜですか」

「なぜだか今に分かります。今にじゃない、もう分かっているはずです。あなたの心は、とっくの昔からもう恋で動いているじゃありませんか」

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「なぜだか今に解ります。今にじゃない、もう解っているはずです。あなたの心はとっくの昔からすでに恋で動いているじゃありませんか」

わたしは一度、自分の胸の中を調べてみた。

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私は一応自分の胸の中を調べて見た。

けれどもそこは、思ったよりからっぽだった。

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けれどもそこは案外に空虚であった。

思い当たるようなものは、何もなかった。

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思いあたるようなものは何にもなかった。

「私の胸の中に、これという目当ては一つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」

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「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」

「目当てがないから動くのです。あれば落ち着けるだろうと思って、動きたくなるのです」

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「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」

「今、それほど動いてはいません」

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「今それほど動いちゃいません」

「あなたは物足りない結果、私の所に動いて来たじゃありませんか」

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「あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか」

「それはそうかもしれません。しかしそれは恋とは違います」

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「それはそうかも知れません。しかしそれは恋とは違います」

「恋に上る階段なんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」

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「恋にのぼ楷段かいだんなんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」

「私には二つのものが、まるでちがうものに思われます」

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「私には二つのものが全く性質をことにしているように思われます」

「いや同じです。私は男として、どうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられずにいるのです。私は本当にお気の毒に思っています。あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。私はむしろそれを望んでいるのです。しかし……」

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「いや同じです。私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っています。あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。私はむしろそれを希望しているのです。しかし……」

わたしは、へんに悲しくなった。

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私は変に悲しくなった。

「私が先生から離れて行くようにお思いになるなら仕方がありませんが、私にそんな気が起こったことはまだありません」

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「私が先生から離れて行くようにお思いになれば仕方がありませんが、私にそんな気の起った事はまだありません」

先生は、わたしの言葉に耳を貸さなかった。

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先生は私の言葉に耳を貸さなかった。

「しかし気をつけないといけない。恋は罪なんだから。私の所では満足が得られない代わりに危険もないが、――君、黒い長い髪でしばられた時の気持ちを知っていますか」

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「しかし気を付けないといけない。恋は罪悪なんだから。私の所では満足が得られない代りに危険もないが、――君、黒い長い髪で縛られた時の心持を知っていますか」

わたしは、想像では知っていた。

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私は想像で知っていた。

しかし本当のこととしては、知らなかった。

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しかし事実としては知らなかった。

どちらにしても先生の言う罪という意味は、ぼんやりしていてよく分からなかった。

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いずれにしても先生のいう罪悪という意味は朦朧もうろうとしてよくわからなかった。

その上、わたしは少し不愉快になった。

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その上私は少し不愉快になった。

「先生、罪という意味をもっとはっきり言って聞かせてください。それでなければ、この話をここでやめてください。私自身に罪という意味がはっきり分かるまで」

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「先生、罪悪という意味をもっと判然はっきりいって聞かして下さい。それでなければこの問題をここで切り上げて下さい。私自身に罪悪という意味が判然解るまで」

「悪いことをした。私はあなたに本当のことを話している気でいた。ところが実際は、あなたをじらせていたのだ。私は悪いことをした」

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「悪い事をした。私はあなたに真実まことを話している気でいた。ところが実際は、あなたを焦慮じらしていたのだ。私は悪い事をした」

先生とわたしは、博物館の裏から鶯谷の方角に、静かな足どりで歩いて行った。

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先生と私とは博物館の裏から鶯渓うぐいすだにの方角に静かな歩調で歩いて行った。

かきねのすき間から、広い庭の一部にしげるくまざさが、奥深く静かに見えた。

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垣の隙間すきまから広い庭の一部に茂る熊笹くまざさ幽邃ゆうすいに見えた。

「君は私がなぜ毎月、雑司ヶ谷の墓地に埋まっている友人の墓へ参るのか知っていますか」

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「君は私がなぜ毎月まいげつ雑司ヶ谷ぞうしがやの墓地にうまっている友人の墓へ参るのか知っていますか」

先生のこの問いは、まったくとつぜんだった。

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先生のこの問いは全く突然であった。

しかも先生は、わたしがこの問いに答えられないということもよく分かっていた。

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しかも先生は私がこの問いに対して答えられないという事もよく承知していた。

わたしはしばらく、返事をしなかった。

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私はしばらく返事をしなかった。

すると先生は初めて気がついたように、こう言った。

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すると先生は始めて気が付いたようにこういった。

「また悪いことを言った。じらせるのが悪いと思って説明しようとすると、その説明がまたあなたをじらせるような結果になる。どうも仕方がない。この問題はこれでやめましょう。とにかく恋は罪ですよ、よろしいですか。そうして神聖なものですよ」

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「また悪い事をいった。焦慮じらせるのが悪いと思って、説明しようとすると、その説明がまたあなたを焦慮せるような結果になる。どうも仕方がない。この問題はこれでめましょう。とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」

わたしには、先生の話がますます分からなくなった。

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私には先生の話がますますわからなくなった。

しかし先生は、それきり恋を口にしなかった。

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しかし先生はそれぎり恋を口にしなかった。

十四

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十四

年の若いわたしは、ともすると一つのことに夢中になりやすかった。

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年の若いわたくしはややともすると一図いちずになりやすかった。

少なくとも先生の目には、そう映っていたらしい。

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少なくとも先生の眼にはそう映っていたらしい。

わたしには学校の講義よりも、先生の話の方がためになった。

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私には学校の講義よりも先生の談話の方が有益なのであった。

教授の意見よりも、先生の考えの方がありがたかった。

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教授の意見よりも先生の思想の方が有難いのであった。

つまり、教だんに立ってわたしを教えてくれる偉い人たちよりも、ただ一人を守って多くを語らない先生の方が偉く見えたのだ。

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とどの詰まりをいえば、教壇に立って私を指導してくれる偉い人々よりもただひとりを守って多くを語らない先生の方が偉く見えたのであった。

「あまり夢中になってはいけません」

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「あんまり逆上のぼせちゃいけません」

と、先生が言った。

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と先生がいった。

「冷静に考えた結果、そう思うんです」

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めた結果としてそう思うんです」

と答えたときのわたしには、十分の自信があった。

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と答えた時の私には充分の自信があった。

その自信を、先生は認めてくれなかった。

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その自信を先生はうけがってくれなかった。

「あなたは熱に浮かされているのです。熱が冷めるといやになります。私は今のあなたからそれほどに思われるのを、苦しく感じています。しかしこれから先のあなたに起こるはずの変化を考えてみると、なお苦しくなります」

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「あなたは熱に浮かされているのです。熱がさめるといやになります。私は今のあなたからそれほどに思われるのを、苦しく感じています。しかしこれから先のあなたに起るべき変化を予想して見ると、なお苦しくなります」

「私はそれほど軽い人間だと思われているんですか。それほど信用がないんですか」

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「私はそれほど軽薄に思われているんですか。それほど不信用なんですか」

「私はお気の毒に思うのです」

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「私はお気の毒に思うのです」

「気の毒だが信用しないとおっしゃるんですか」

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「気の毒だが信用されないとおっしゃるんですか」

先生はこまったように、庭の方を向いた。

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先生は迷惑そうに庭の方を向いた。

その庭に、この間まで重そうな赤い強い色をぽたぽたと点じていたつばきの花は、もう一つも見えなかった。

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その庭に、この間まで重そうな赤い強い色をぽたぽた点じていた椿つばきの花はもう一つも見えなかった。

先生は座敷から、このつばきの花をよくながめるくせがあった。

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先生は座敷からこの椿の花をよくながめる癖があった。

「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」

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「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」

そのとき、生けがきの向こうで金魚売りらしい声がした。

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その時生垣いけがきの向うで金魚売りらしい声がした。

そのほかには、何も聞こえるものがなかった。

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そのほかには何の聞こえるものもなかった。

大通りから二百メートルも奥へ入った小道は、思ったより静かだった。

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大通りから二ちょうも深く折れ込んだ小路こうじ存外ぞんがい静かであった。

家の中は、いつものとおりひっそりしていた。

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うちの中はいつもの通りひっそりしていた。

わたしは、となりの部屋に奥さんがいることを知っていた。

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私は次のに奥さんのいる事を知っていた。

黙ってぬい物か何かしている奥さんの耳に、わたしの話し声が聞こえるということも知っていた。

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黙って針仕事か何かしている奥さんの耳に私の話し声が聞こえるという事も知っていた。

しかしわたしは、まったくそれを忘れてしまった。

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しかし私は全くそれを忘れてしまった。

「じゃ、奥さんも信用なさらないんですか」

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「じゃ奥さんも信用なさらないんですか」

と、先生に聞いた。

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と先生に聞いた。

先生は、少し不安な顔をした。

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先生は少し不安な顔をした。

そうして、まっすぐな答えをさけた。

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そうして直接の答えを避けた。

「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです。自分をのろうよりほかに仕方がないのです」

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「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです。自分をのろうよりほかに仕方がないのです」

「そう難しく考えれば、だれだって確かなものはないでしょう」

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「そうむずかしく考えれば、誰だって確かなものはないでしょう」

「いや、考えたんじゃない。やったんです。やったあとで驚いたんです。そうして非常に怖くなったんです」

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「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常にこわくなったんです」

わたしはもう少し先まで、同じ道をたどって行きたかった。

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私はもう少し先まで同じ道を辿たどって行きたかった。

するとふすまのかげで「あなた、あなた」

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するとふすまの陰で「あなた、あなた」

という奥さんの声が、二度聞こえた。

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という奥さんの声が二度聞こえた。

先生は二度目に「何だい」

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先生は二度目に「何だい」

と言った。

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といった。

奥さんは「ちょっと」

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奥さんは「ちょっと」

と、先生をとなりの部屋へ呼んだ。

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と先生を次のへ呼んだ。

二人の間にどんな用事が起こったのか、わたしには分からなかった。

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二人の間にどんな用事が起ったのか、私にはわからなかった。

それを想像するひまもないほど早く、先生はまた座敷へ帰って来た。

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それを想像する余裕を与えないほど早く先生はまた座敷へ帰って来た。

「とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分がだまされた仕返しに、ひどい仕返しをするようになるものだから」

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「とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分があざむかれた返報に、残酷な復讐ふくしゅうをするようになるものだから」

「それはどういう意味ですか」

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「そりゃどういう意味ですか」

「かつてはその人の前にひざまずいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は先で侮辱を受けないために、今の尊敬をことわりたいと思うのです。私は今よりもっと寂しい未来の私を我慢する代わりに、寂しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と自分自身とに満ちた今の世に生まれた私たちは、そのひきかえにみんなこの寂しさを味わわなくてはならないでしょう」

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「かつてはその人のひざの前にひざまずいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足をせさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬をしりぞけたいと思うのです。私は今より一層さびしい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立とおのれとにちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」

わたしはこういう覚悟を持っている先生に対して、言うべき言葉を知らなかった。

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私はこういう覚悟をもっている先生に対して、いうべき言葉を知らなかった。

十五

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十五

その後、わたしは奥さんの顔を見るたびに気になった。

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そのわたくしは奥さんの顔を見るたびに気になった。

先生は奥さんに対しても、いつもこういう態度をとるのだろうか。

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先生は奥さんに対しても始終こういう態度に出るのだろうか。

もしそうだとすれば、奥さんはそれで満足なのだろうか。

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もしそうだとすれば、奥さんはそれで満足なのだろうか。

奥さんの様子は、満足とも不満足とも決めようがなかった。

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奥さんの様子は満足とも不満足ともめようがなかった。

わたしはそれほど近く、奥さんに接する機会がなかったから。

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私はそれほど近く奥さんに接触する機会がなかったから。

それから奥さんは、わたしに会うたびにふつうだったから。

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それから奥さんは私に会うたびに尋常であったから。

最後に、先生のいる席でなければ、わたしと奥さんはめったに顔を合わせなかったから。

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最後に先生のいる席でなければ私と奥さんとは滅多めったに顔を合せなかったから。

わたしのうたがいは、まだその上にもあった。

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私の疑惑はまだその上にもあった。

先生の、人間に対するこの覚悟はどこから来るのだろうか。

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先生の人間に対するこの覚悟はどこから来るのだろうか。

ただ冷たい目で自分を振り返ったり、今の世の中をながめたりした結果なのだろうか。

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ただ冷たい眼で自分を内省したり現代を観察したりした結果なのだろうか。

先生は、すわって考える性質の人だった。

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先生はすわって考えるたちの人であった。

先生の頭さえあれば、こういう態度はすわって世の中を考えていても自然に出て来るものだろうか。

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先生の頭さえあれば、こういう態度は坐って世の中を考えていても自然と出て来るものだろうか。

わたしには、そうばかりとは思えなかった。

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私にはそうばかりとは思えなかった。

先生の覚悟は、生きた覚悟らしかった。

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先生の覚悟は生きた覚悟らしかった。

火に焼けて冷え切った石づくりの家の形とは、ちがっていた。

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火に焼けて冷却し切った石造せきぞう家屋の輪廓りんかくとは違っていた。

わたしの目に映る先生は、たしかに物を深く考える人だった。

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私の眼に映ずる先生はたしかに思想家であった。

けれどもその人がまとめ上げた考えの裏には、強い出来事が織りこまれているらしかった。

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けれどもその思想家のまとめ上げた主義の裏には、強い事実が織り込まれているらしかった。

自分と切りはなされた他人の出来事ではない。自分自身が身にしみて味わった出来事、血が熱くなったり脈が止まったりするほどの出来事が、たたみこまれているらしかった。

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自分と切り離された他人の事実でなくって、自分自身が痛切に味わった事実、血が熱くなったり脈が止まったりするほどの事実が、畳み込まれているらしかった。

これは、わたしが胸の中で当て推りょうするまでもない。

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これは私の胸で推測するがものはない。

先生自身が、もうそうだと打ち明けていた。

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先生自身すでにそうだと告白していた。

ただその打ち明け方が、入道雲のようだった。

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ただその告白が雲のみねのようであった。

わたしの頭の上に、正体の分からない恐ろしいものをおおいかぶせた。

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私の頭の上に正体の知れない恐ろしいものをおおかぶせた。

そうしてなぜそれが恐ろしいか、わたしにも分からなかった。

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そうしてなぜそれが恐ろしいか私にもわからなかった。

打ち明けは、ぼうっとしていた。

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告白はぼうとしていた。

それでいて、はっきりとわたしの神経をふるわせた。

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それでいて明らかに私の神経をふるわせた。

わたしは先生のこの人生観の出発点に、ある激しい恋の出来事があったと考えてみた。

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私は先生のこの人生観の基点に、る強烈な恋愛事件を仮定してみた。

(もちろん先生と奥さんとの間に起こった)

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(無論先生と奥さんとの間に起った)。

先生が前に恋は罪だと言ったことと合わせてみると、多少それが手がかりにもなった。

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先生がかつて恋は罪悪だといった事から照らし合せて見ると、多少それが手掛てがかりにもなった。

しかし先生は今、奥さんを愛しているとわたしに言った。

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しかし先生は現に奥さんを愛していると私に告げた。

すると二人の恋から、こんな世の中をきらうような覚悟が出るはずがなかった。

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すると二人の恋からこんな厭世えんせいに近い覚悟が出ようはずがなかった。

「かつてはその人の前にひざまずいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとする」

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「かつてはその人の前にひざまずいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足をせさせようとする」

と言った先生の言葉は、今の世の中の人ならだれにでも当てはまるもので、先生と奥さんの間には当てはまらないもののようでもあった。

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といった先生の言葉は、現代一般の誰彼たれかれについて用いられるべきで、先生と奥さんの間には当てはまらないもののようでもあった。

雑司ヶ谷にある、だれだか分からない人のお墓。これもわたしの記憶に時々よみがえった。

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雑司ヶ谷ぞうしがやにあるだれだか分らない人の墓、――これも私の記憶に時々動いた。

わたしは、それが先生と深いつながりのあるお墓だということを知っていた。

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私はそれが先生と深い縁故のある墓だという事を知っていた。

先生の生活に近づきながら近づくことのできないわたしは、先生の頭の中にある命のかけらとして、そのお墓をわたしの頭の中にも受け入れた。

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先生の生活に近づきつつありながら、近づく事のできない私は、先生の頭の中にある生命いのちの断片として、その墓を私の頭の中にも受け入れた。

けれどもわたしにとって、そのお墓はまったく死んだものだった。

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けれども私に取ってその墓は全く死んだものであった。

二人の間にある命のとびらを開けるかぎには、ならなかった。

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二人の間にある生命いのちの扉を開けるかぎにはならなかった。

むしろ二人の間に立って、自由な行き来をじゃまする魔物のようだった。

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むしろ二人の間に立って、自由の往来を妨げる魔物のようであった。

そうこうしているうちに、わたしはまた奥さんと二人だけで話をしなければならないときが来た。

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そうこうしているうちに、私はまた奥さんと差し向いで話をしなければならない時機が来た。

そのころは日がどんどん短くなるせわしない秋で、だれもが肌寒さに気を取られる季節だった。

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そのころは日のつまって行くせわしない秋に、誰も注意をかれる肌寒はださむの季節であった。

先生の近所で、どろぼうに入られた家が三、四日続いて出た。

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先生の附近ふきんで盗難にかかったものが三、四日続いて出た。

どろぼうは、どれも夕方だった。

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盗難はいずれも宵の口であった。

大したものを持って行かれた家はほとんどなかったけれど、入られた所では必ず何か取られた。

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大したものを持って行かれたうちはほとんどなかったけれども、はいられた所では必ず何か取られた。

奥さんは、気味を悪がった。

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奥さんは気味をわるくした。

そこへ先生が、ある晩家を空けなければならない用ができて来た。

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そこへ先生がある晩家をけなければならない事情ができてきた。

先生と同じ故郷の友人で地方の病院に勤めている人が東京へ来たため、先生はほかの二、三名といっしょに、ある所でその友人に食事をごちそうしなければならなくなった。

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先生と同郷の友人で地方の病院に奉職しているものが上京したため、先生はほかの二、三名と共に、ある所でその友人にめしを食わせなければならなくなった。

先生はわけを話して、わたしに帰って来るまでの留守番をたのんだ。

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先生は訳を話して、私に帰ってくる間までの留守番を頼んだ。

わたしは、すぐ引き受けた。

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私はすぐ引き受けた。

十六

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十六

わたしが行ったのは、まだ明かりがつくかつかないかの夕暮れだったが、きちょうめんな先生はもう家にいなかった。

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わたくしの行ったのはまだくか点かない暮れ方であったが、几帳面きちょうめんな先生はもううちにいなかった。

「時間に遅れると悪いって、つい今しがた出掛けました」

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「時間におくれると悪いって、つい今しがた出掛けました」

と言った奥さんは、わたしを先生の書さいへ案内した。

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といった奥さんは、私を先生の書斎へ案内した。

書さいには洋風の机といすのほかに、たくさんの本が美しいせ表紙を並べて、ガラスごしに電灯の光で照らされていた。

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書斎には洋机テーブル椅子いすほかに、沢山の書物が美しい背皮せがわを並べて、硝子越ガラスごし電燈でんとうの光で照らされていた。

奥さんは火ばちの前にしいた座布団の上へわたしをすわらせて、「少しそこいらにある本でも読んでいてください」

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奥さんは火鉢の前に敷いた座蒲団ざぶとんの上へ私をすわらせて、「ちっとそこいらにある本でも読んでいて下さい」

と言って出て行った。

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と断って出て行った。

わたしはちょうど主人の帰りを待つお客のような気がして、申しわけなかった。

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私はちょうど主人の帰りを待ち受ける客のような気がして済まなかった。

わたしはかしこまったまま、たばこを吸っていた。

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私はかしこまったまま烟草タバコを飲んでいた。

奥さんが茶の間で、何かお手伝いに話している声が聞こえた。

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奥さんが茶の間で何か下女げじょに話している声が聞こえた。

書さいは茶の間の縁側を突き当たって折れ曲がった角にあるので、建物の位置から言うと、座敷よりもかえって遠く静かだった。

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書斎は茶の間の縁側を突き当って折れ曲ったかどにあるので、むねの位置からいうと、座敷よりもかえって掛け離れた静かさをりょうしていた。

ひとしきりで奥さんの話し声がやむと、あとはしんとした。

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ひとしきりで奥さんの話し声がむと、あとはしんとした。

わたしはどろぼうを待ちかまえるような気持ちで、じっとしながらあちこちに気を配った。

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私は泥棒を待ち受けるような心持で、じっとしながら気をどこかに配った。

三十分ほどすると、奥さんがまた書さいの入口へ顔を出した。

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三十分ほどすると、奥さんがまた書斎の入口へ顔を出した。

「おや」

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「おや」

と言って、軽く驚いたときの目をわたしに向けた。

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といって、軽く驚いた時の眼を私に向けた。

そうして、お客に来た人のようにしゃちほこばってひかえているわたしを、おかしそうに見た。

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そうして客に来た人のように鹿爪しかつめらしく控えている私をおかしそうに見た。

「それじゃ窮屈でしょう」

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「それじゃ窮屈でしょう」

「いえ、窮屈じゃありません」

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「いえ、窮屈じゃありません」

「でも退屈でしょう」

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「でも退屈でしょう」

「いいえ。泥棒が来るかと思って気を張っているから、退屈でもありません」

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「いいえ。泥棒が来るかと思って緊張しているから退屈でもありません」

奥さんは手に紅茶茶わんを持ったまま、笑いながらそこに立っていた。

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奥さんは手に紅茶茶碗こうちゃぢゃわんを持ったまま、笑いながらそこに立っていた。

「ここは隅っこだから、番をするにはよくありませんね」

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「ここは隅っこだから番をするにはくありませんね」

と、わたしが言った。

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と私がいった。

「じゃ失礼ですが、もっと真ん中へ出て来てちょうだい。ご退屈だろうと思ってお茶を入れて持って来たんですが、茶の間でよろしければあちらで差し上げますから」

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「じゃ失礼ですがもっと真中へ出て来て頂戴ちょうだい。ご退屈たいくつだろうと思って、お茶を入れて持って来たんですが、茶の間でよろしければあちらで上げますから」

わたしは奥さんのあとについて、書さいを出た。

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私は奥さんのあといて書斎を出た。

茶の間には、きれいな長火ばちに鉄びんが鳴っていた。

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茶の間には綺麗きれい長火鉢ながひばち鉄瓶てつびんが鳴っていた。

わたしはそこで、お茶とお菓子のもてなしを受けた。

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私はそこで茶と菓子のご馳走ちそうになった。

奥さんはねむれないといけないと言って、茶わんに手を触れなかった。

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奥さんはられないといけないといって、茶碗に手を触れなかった。

「先生はやっぱり時々こんな会へお出掛けになるんですか」

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「先生はやっぱり時々こんな会へお出掛でかけになるんですか」

「いいえ、めったに出たことはありません。近ごろはだんだん人の顔を見るのが嫌いになるようです」

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「いいえ滅多めったに出た事はありません。近頃ちかごろは段々人の顔を見るのがきらいになるようです」

こう言った奥さんの様子に、特にこまったものだという風も見えなかったので、わたしはつい大たんになった。

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こういった奥さんの様子に、別段困ったものだというふうも見えなかったので、私はつい大胆になった。

「それじゃ奥さんだけが例外なんですか」

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「それじゃ奥さんだけが例外なんですか」

「いいえ、私も嫌われている一人なんです」

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「いいえ私も嫌われている一人なんです」

「それは嘘です」

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「そりゃうそです」

と、わたしが言った。

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と私がいった。

「奥さん自身、嘘と知りながらそうおっしゃるんでしょう」

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「奥さん自身嘘と知りながらそうおっしゃるんでしょう」

「なぜ」

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「なぜ」

「私に言わせると、奥さんが好きになったから世間が嫌いになるんですもの」

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「私にいわせると、奥さんが好きになったから世間が嫌いになるんですもの」

「あなたは学問をする方だけあって、なかなかお上手ね。空っぽな理屈を使いこなすことが。世の中が嫌いになったから、私までも嫌いになったんだとも言えるじゃありませんか。それと同じ理屈で」

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「あなたは学問をするかただけあって、なかなかお上手じょうずね。からっぽな理屈を使いこなす事が。世の中が嫌いになったから、私までも嫌いになったんだともいわれるじゃありませんか。それとおんなじ理屈で」

「両方とも言えることは言えますが、この場合は私の方が正しいのです」

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「両方ともいわれる事はいわれますが、この場合は私の方が正しいのです」

「議論はいやよ。よく男の方は議論だけなさるのね、面白そうに。空の盃でよくああ飽きずにやり取りができると思いますわ」

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「議論はいやよ。よく男の方は議論だけなさるのね、面白そうに。からさかずきでよくああ飽きずに献酬けんしゅうができると思いますわ」

奥さんの言葉は、少し手きびしかった。

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奥さんの言葉は少し手痛てひどかった。

しかしその言葉の聞こえ方から言うと、決してとげとげしいものではなかった。

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しかしその言葉の耳障みみざわりからいうと、決して猛烈なものではなかった。

自分に頭のあることを相手に認めさせて、そこに一種のほこりを見つけるほどには、奥さんは今風ではなかった。

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自分に頭脳のある事を相手に認めさせて、そこに一種の誇りを見出みいだすほどに奥さんは現代的でなかった。

奥さんはそれよりもっと底の方に沈んだ心を、大事にしているらしく見えた。

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奥さんはそれよりもっと底の方に沈んだ心を大事にしているらしく見えた。

十七

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十七

わたしはまだそのあとに、言うべきことを持っていた。

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わたくしはまだそのあとにいうべき事をもっていた。

けれど奥さんから、むやみに議論をしかける男のように思われてはこまると思って、遠慮した。

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けれども奥さんからいたずらに議論を仕掛ける男のように取られては困ると思って遠慮した。

奥さんは、飲みほした紅茶茶わんの底をのぞいて黙っているわたしをそのままにしないよう、「もう一杯差し上げましょうか」

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奥さんは飲み干した紅茶茶碗こうちゃぢゃわんの底をのぞいて黙っている私をらさないように、「もう一杯上げましょうか」

と聞いた。

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と聞いた。

わたしはすぐ、茶わんを奥さんの手にわたした。

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私はすぐ茶碗を奥さんの手に渡した。

「いくつ。一つ。二つ」

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「いくつ? 一つ? 二ッつ?」

へんなもので、角砂糖をつまみ上げた奥さんは、わたしの顔を見て、茶わんの中へ入れる砂糖の数を聞いた。

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妙なもので角砂糖をつまみ上げた奥さんは、私の顔を見て、茶碗の中へ入れる砂糖のかずを聞いた。

奥さんの態度はわたしにこびるというほどではなかったけれど、さっきの強い言葉を打ち消そうとするあいそのよさに満ちていた。

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奥さんの態度は私にびるというほどではなかったけれども、先刻さっきの強い言葉をつとめて打ち消そうとする愛嬌あいきょうちていた。

わたしは黙って、お茶を飲んだ。

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私は黙って茶を飲んだ。

飲んでしまっても、黙っていた。

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飲んでしまっても黙っていた。

「あなた、大変黙り込んでしまったのね」

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「あなた大変黙り込んじまったのね」

と、奥さんが言った。

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と奥さんがいった。

「何か言うと、また議論を仕掛けるなんて叱られそうですから」

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「何かいうとまた議論を仕掛けるなんて、しかり付けられそうですから」

と、わたしは答えた。

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と私は答えた。

「まさか」

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「まさか」

と、奥さんがまた言った。

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と奥さんが再びいった。

二人はそれをきっかけに、また話を始めた。

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二人はそれを緒口いとくちにまた話を始めた。

そうしてまた、二人に共通のきょうみである先生を話題にした。

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そうしてまた二人に共通な興味のある先生を問題にした。

「奥さん、さっきの続きをもう少し言わせてくださいませんか。奥さんには空っぽな理屈と聞こえるかもしれませんが、私はそんないい加減な気持ちで言っているんじゃないんだから」

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「奥さん、先刻さっきの続きをもう少しいわせて下さいませんか。奥さんにはからな理屈と聞こえるかも知れませんが、私はそんなうわそらでいってる事じゃないんだから」

「じゃ、おっしゃい」

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「じゃおっしゃい」

「今、奥さんが急にいなくなったとしたら、先生は今のままで生きていられるでしょうか」

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「今奥さんが急にいなくなったとしたら、先生は現在の通りで生きていられるでしょうか」

「それは分からないわ、あなた。そんなこと、先生に聞いてみるよりほかに仕方がないじゃありませんか。私の所へ持って来る問題じゃないわ」

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「そりゃ分らないわ、あなた。そんな事、先生に聞いて見るよりほかに仕方がないじゃありませんか。私の所へ持って来る問題じゃないわ」

「奥さん、私は真面目ですよ。だから逃げてはいけません。正直に答えなくては」

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「奥さん、私は真面目まじめですよ。だから逃げちゃいけません。正直に答えなくっちゃ」

「正直よ。正直に言って、私には分からないのよ」

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「正直よ。正直にいって私には分らないのよ」

「じゃ奥さんは先生をどのくらい愛していらっしゃるんですか。これは先生に聞くより、むしろ奥さんにうかがっていい質問ですから、あなたにうかがいます」

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「じゃ奥さんは先生をどのくらい愛していらっしゃるんですか。これは先生に聞くよりむしろ奥さんに伺っていい質問ですから、あなたに伺います」

「何もそんなことを、改まって聞かなくてもいいじゃありませんか」

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「何もそんな事を開き直って聞かなくってもいじゃありませんか」

「真面目くさって聞くまでもない。分かり切っているとおっしゃるんですか」

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「真面目くさって聞くがものはない。分り切ってるとおっしゃるんですか」

「まあそうよ」

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「まあそうよ」

「そのくらい先生に一しんなあなたが急にいなくなったら、先生はどうなるんでしょう。世の中のどちらを向いても面白そうでない先生は、あなたが急にいなくなったらあとでどうなるでしょう。先生から見てじゃない。あなたから見てですよ。あなたから見て、先生は幸福になるでしょうか、不幸になるでしょうか」

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「そのくらい先生に忠実なあなたが急にいなくなったら、先生はどうなるんでしょう。世の中のどっちを向いても面白そうでない先生は、あなたが急にいなくなったら後でどうなるでしょう。先生から見てじゃない。あなたから見てですよ。あなたから見て、先生は幸福になるでしょうか、不幸になるでしょうか」

「それは私から見れば分かっています。(先生はそう思っていないかもしれませんが)先生は私を離れれば不幸になるだけです。あるいは生きていられないかもしれませんよ。そう言ううぬぼれのようですが、私は今、先生を人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人がいても、私ほど先生を幸福にできる者はないとまで思い込んでいますわ。だからこうして落ち着いていられるんです」

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「そりゃ私から見れば分っています。(先生はそう思っていないかも知れませんが)。先生は私を離れれば不幸になるだけです。あるいは生きていられないかも知れませんよ。そういうと、己惚おのぼれになるようですが、私は今先生を人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人があっても私ほど先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。それだからこうして落ち付いていられるんです」

「その信じる気持ちが、先生の心にもよく映るはずだと私は思いますが」

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「その信念が先生の心にく映るはずだと私は思いますが」

「それは別の問題ですわ」

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「それは別問題ですわ」

「やっぱり先生から嫌われているとおっしゃるんですか」

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「やっぱり先生から嫌われているとおっしゃるんですか」

「私は嫌われているとは思いません。嫌われる訳がないんですもの。しかし先生は世間が嫌いなんでしょう。世間というより、近ごろでは人間が嫌いになっているんでしょう。だからその人間の一人として、私も好かれるはずがないじゃありませんか」

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「私は嫌われてるとは思いません。嫌われる訳がないんですもの。しかし先生は世間が嫌いなんでしょう。世間というより近頃ちかごろでは人間が嫌いになっているんでしょう。だからその人間の一人いちにんとして、私も好かれるはずがないじゃありませんか」

奥さんの言う「嫌われている」という意味が、やっとわたしに分かった。

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奥さんの嫌われているという意味がやっと私にみ込めた。

十八

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十八

わたしは、奥さんの物を分かる力に感心した。

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わたくしは奥さんの理解力に感心した。

奥さんの様子が昔ふうの日本の女らしくないところも、わたしの心に一種のしげきを与えた。

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奥さんの態度が旧式の日本の女らしくないところも私の注意に一種の刺戟しげきを与えた。

それでいて奥さんは、そのころはやり始めたいわゆる新しい言葉などは、ほとんど使わなかった。

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それで奥さんはそのころ流行はやり始めたいわゆる新しい言葉などはほとんど使わなかった。

わたしは女というものと深くつき合った経験のない、うかつな青年だった。

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私は女というものに深い交際つきあいをした経験のない迂闊うかつな青年であった。

男としてのわたしは、異性に引かれる気持ちから、あこがれの相手としていつも女を夢見ていた。

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男としての私は、異性に対する本能から、憧憬どうけいの目的物として常に女を夢みていた。

けれどもそれはなつかしい春の雲をながめるような気持ちで、ただぼんやりと夢見ていたに過ぎなかった。

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けれどもそれは懐かしい春の雲をながめるような心持で、ただ漠然ばくぜんと夢みていたに過ぎなかった。

だから本物の女の前へ出ると、わたしの気持ちが急に変わることが時々あった。

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だから実際の女の前へ出ると、私の感情が突然変る事が時々あった。

わたしは自分の前に現れた女に引きつけられるどころか、その場になるとかえってへんな反発を感じた。

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私は自分の前に現われた女のために引き付けられる代りに、その場に臨んでかえって変な反撥力はんぱつりょくを感じた。

奥さんに向かったわたしには、そんな気がまるで起きなかった。

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奥さんに対した私にはそんな気がまるで出なかった。

ふつう男女の間にある、考え方のつり合わなさという思いも、ほとんど起こらなかった。

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普通男女なんにょの間に横たわる思想の不平均という考えもほとんど起らなかった。

わたしは、奥さんが女であるということを忘れた。

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私は奥さんの女であるという事を忘れた。

わたしはただ、まっすぐな先生の批評家であり味方として、奥さんをながめた。

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私はただ誠実なる先生の批評家および同情家として奥さんを眺めた。

「奥さん、私がこの前、なぜ先生が世の中でもっと働かないのだろうと言ってあなたに聞いた時に、あなたはおっしゃったことがありますね。元はああじゃなかったんだって」

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「奥さん、私がこの前なぜ先生が世間的にもっと活動なさらないのだろうといって、あなたに聞いた時に、あなたはおっしゃった事がありますね。元はああじゃなかったんだって」

「ええ、言いました。実際あんなじゃなかったんですもの」

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「ええいいました。実際あんなじゃなかったんですもの」

「どんなだったんですか」

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「どんなだったんですか」

「あなたの望むような、また私の望むような頼もしい人だったんです」

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「あなたの希望なさるような、また私の希望するような頼もしい人だったんです」

「それがどうして急に変わりなさったんですか」

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「それがどうして急に変化なすったんですか」

「急にじゃありません。だんだんああなって来たのよ」

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「急にじゃありません、段々ああなって来たのよ」

「奥さんはその間、ずっと先生といっしょにいらしたんでしょう」

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「奥さんはそのあいだ始終先生といっしょにいらしったんでしょう」

「もちろんいましたわ。夫婦ですもの」

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「無論いましたわ。夫婦ですもの」

「じゃ先生がそう変わって行かれる原因が、ちゃんと分かるはずですがね」

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「じゃ先生がそう変って行かれる源因げんいんがちゃんとわかるべきはずですがね」

「だから困るのよ。あなたにそう言われると実につらいんですが、私にはどう考えても考えようがないんですもの。私は今まで何度あの人に、どうぞ打ち明けてくださいと頼んでみたか分かりゃしません」

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「それだから困るのよ。あなたからそういわれると実につらいんですが、私にはどう考えても、考えようがないんですもの。私は今まで何遍なんべんあの人に、どうぞ打ち明けて下さいって頼んで見たか分りゃしません」

「先生は何とおっしゃるんですか」

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「先生は何とおっしゃるんですか」

「何も言うことはない、何も心配することはない、おれはこういう性質になったんだから、と言うだけで、取り合ってくれないんです」

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「何にもいう事はない、何にも心配する事はない、おれはこういう性質になったんだからというだけで、取り合ってくれないんです」

わたしは黙っていた。

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私は黙っていた。

奥さんも、言葉をとぎらせた。

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奥さんも言葉を途切とぎらした。

お手伝いの部屋にいるお手伝いは、ことりとも音を立てなかった。

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下女部屋げじょべやにいる下女はことりとも音をさせなかった。

わたしは、まるでどろぼうのことを忘れてしまった。

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私はまるで泥棒の事を忘れてしまった。

「あなたは私に責任があるんだと思っていませんか」

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「あなたは私に責任があるんだと思ってやしませんか」

と、とつぜん奥さんが聞いた。

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と突然奥さんが聞いた。

「いいえ」

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「いいえ」

と、わたしが答えた。

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と私が答えた。

「どうぞ隠さずに言ってください。そう思われるのは身を切られるよりつらいんだから」

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「どうぞ隠さずにいって下さい。そう思われるのは身を切られるより辛いんだから」

と、奥さんがまた言った。

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と奥さんがまたいった。

「これでも私は、先生のためにできるだけのことはしているつもりなんです」

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「これでも私は先生のためにできるだけの事はしているつもりなんです」

「それは先生もそう認めていらっしゃるんだから、大丈夫です。ご安心なさい、私が保証します」

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「そりゃ先生もそう認めていられるんだから、大丈夫です。ご安心なさい、私が保証します」

奥さんは、火ばちの灰をかきならした。

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奥さんは火鉢の灰をらした。

それから水差しの水を、鉄びんに足した。

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それから水注みずさしの水を鉄瓶てつびんした。

鉄びんは、すぐに鳴りやんだ。

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鉄瓶はたちまち鳴りを沈めた。

「私はとうとう我慢し切れなくなって、先生に聞きました。私に悪い所があるなら遠慮なく言ってください、直せる欠点なら直すからと。すると先生は、お前に欠点なんかありゃしない、欠点はおれの方にあるだけだと言うんです。そう言われると、私は悲しくなって仕方がないんです。涙が出て、なおのこと自分の悪い所が聞きたくなるんです」

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「私はとうとう辛防しんぼうし切れなくなって、先生に聞きました。私に悪い所があるなら遠慮なくいって下さい、改められる欠点なら改めるからって、すると先生は、お前に欠点なんかありゃしない、欠点はおれの方にあるだけだというんです。そういわれると、私悲しくなって仕様がないんです、涙が出てなおの事自分の悪い所が聞きたくなるんです」

奥さんは、目の中に涙をいっぱいためた。

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奥さんは眼のうちに涙をいっぱいめた。

十九

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十九

初め、わたしは物の分かる女の人として奥さんに接していた。

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始めわたくしは理解のある女性にょしょうとして奥さんに対していた。

わたしがその気で話しているうちに、奥さんの様子がだんだん変わって来た。

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私がその気で話しているうちに、奥さんの様子が次第に変って来た。

奥さんはわたしの頭にうったえる代わりに、わたしの心を動かし始めた。

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奥さんは私の頭脳に訴える代りに、私の心臓ハートを動かし始めた。

自分と夫の間には何のわだかまりもない、またないはずなのに、やはり何かある。

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自分と夫の間には何のわだかまりもない、またないはずであるのに、やはり何かある。

それでいて目を開けて見きわめようとすると、やはり何もない。

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それだのに眼をけて見極みきわめようとすると、やはりなんにもない。

奥さんが苦しむもとは、ここにあった。

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奥さんの苦にする要点はここにあった。

奥さんは最初、世の中を見る先生の目が世をきらうものだから、その結果として自分も嫌われているのだと言い切った。

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奥さんは最初世の中を見る先生の眼が厭世的えんせいてきだから、その結果として自分も嫌われているのだと断言した。

そう言い切っておきながら、ちっともそこに落ち着いていられなかった。

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そう断言しておきながら、ちっともそこに落ち付いていられなかった。

底を割ると、かえってその反対を考えていた。

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底を割ると、かえってその逆を考えていた。

先生は自分をきらう結果、とうとう世の中までいやになったのだろうと考えていた。

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先生は自分を嫌う結果、とうとう世の中までいやになったのだろうと推測していた。

けれどもどう骨を折っても、その考えを突き止めて本当のことにすることができなかった。

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けれどもどう骨を折っても、その推測を突き留めて事実とする事ができなかった。

先生の態度は、どこまでも夫らしかった。

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先生の態度はどこまでも良人おっとらしかった。

親切で、優しかった。

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親切で優しかった。

うたがいのかたまりをその日その日の情でくるんで、そっと胸の奥にしまっておいた奥さんは、その晩その包みの中をわたしの前で開けて見せた。

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疑いのかたまりをその日その日の情合じょうあいで包んで、そっと胸の奥にしまっておいた奥さんは、その晩その包みの中を私の前で開けて見せた。

「あなた、どう思って」

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「あなたどう思って?」

と聞いた。

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と聞いた。

「私からああなったのか、それともあなたの言う人生観とか何とかいうものからああなったのか。隠さず言ってちょうだい」

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「私からああなったのか、それともあなたのいう人世観じんせいかんとか何とかいうものから、ああなったのか。隠さずいって頂戴ちょうだい

わたしは、何も隠す気はなかった。

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私は何も隠す気はなかった。

けれどもわたしの知らないあるものがそこにあるとすれば、わたしの答えが何であろうと、それが奥さんを満足させるはずがなかった。

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けれども私の知らないあるものがそこに存在しているとすれば、私の答えが何であろうと、それが奥さんを満足させるはずがなかった。

そうしてわたしは、そこにわたしの知らないあるものがあると信じていた。

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そうして私はそこに私の知らないあるものがあると信じていた。

「私には分かりません」

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「私にはわかりません」

奥さんは、期待が外れたときに見せるあわれな顔を、その一しゅんに見せた。

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奥さんは予期のはずれた時に見るあわれな表情をその咄嗟とっさに現わした。

わたしはすぐ、言葉を足した。

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私はすぐ私の言葉を継ぎ足した。

「しかし先生が奥さんを嫌っていらっしゃらないことだけは保証します。私は先生自身の口から聞いたとおりを奥さんに伝えるだけです。先生は嘘をつかない方でしょう」

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「しかし先生が奥さんを嫌っていらっしゃらない事だけは保証します。私は先生自身の口から聞いた通りを奥さんに伝えるだけです。先生はうそかないかたでしょう」

奥さんは、何とも答えなかった。

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奥さんは何とも答えなかった。

しばらくしてから、こう言った。

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しばらくしてからこういった。

「実は私、少し思い当たることがあるんですけれども……」

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「実は私すこし思いあたる事があるんですけれども……」

「先生がああいう風になった原因についてですか」

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「先生がああいうふうになった源因げんいんについてですか」

「ええ。もしそれが原因だとすれば、私の責任だけはなくなるんだから、それだけでも私は大変楽になれるんですが……」

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「ええ。もしそれが源因だとすれば、私の責任だけはなくなるんだから、それだけでも私大変楽になれるんですが、……」

「どんなことですか」

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「どんな事ですか」

奥さんは言いしぶって、ひざの上に置いた自分の手をながめていた。

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奥さんはいい渋ってひざの上に置いた自分の手を眺めていた。

「あなた、判断してくださって。言うから」

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「あなた判断して下すって。いうから」

「私にできる判断ならやります」

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「私にできる判断ならやります」

「みんなは言えないのよ。みんな言うと叱られるから。叱られないところだけよ」

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「みんなはいえないのよ。みんないうとしかられるから。叱られないところだけよ」

わたしは緊張して、つばを飲みこんだ。

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私は緊張して唾液つばきみ込んだ。

「先生がまだ大学にいた時分、大変仲のいいお友達が一人あったのよ。その方がちょうど卒業する少し前に死んだんです。急に死んだんです」

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「先生がまだ大学にいる時分、大変仲のいお友達が一人あったのよ。そのかたがちょうど卒業する少し前に死んだんです。急に死んだんです」

奥さんはわたしの耳にささやくような小さな声で、「実はふつうでない死に方をしたんです」

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奥さんは私の耳に私語ささやくような小さな声で、「実は変死したんです」

と言った。

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といった。

それは「どうして」

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それは「どうして」

と、聞き返さずにはいられないような言い方だった。

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と聞き返さずにはいられないようないい方であった。

「それきりしか言えないのよ。けれどもそのことがあってから後なんです。先生の性質がだんだん変わって来たのは。なぜその方が死んだのか、私には分からないの。先生にもおそらく分かっていないでしょう。けれどもそれから先生が変わって来たと思えば、そう思われないこともないのよ」

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「それっ切りしかいえないのよ。けれどもその事があってからのちなんです。先生の性質が段々変って来たのは。なぜその方が死んだのか、私には解らないの。先生にもおそらく解っていないでしょう。けれどもそれから先生が変って来たと思えば、そう思われない事もないのよ」

「その人のお墓ですか、雑司ヶ谷にあるのは」

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「その人の墓ですか、雑司ヶ谷ぞうしがやにあるのは」

「それも言わないことになっているから言いません。しかし人間は親友を一人亡くしただけで、そんなに変われるものでしょうか。私はそれが知りたくてたまらないんです。だからそこを一つ、あなたに判断していただきたいと思うの」

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「それもいわない事になってるからいいません。しかし人間は親友を一人亡くしただけで、そんなに変化できるものでしょうか。私はそれが知りたくってたまらないんです。だからそこを一つあなたに判断して頂きたいと思うの」

わたしの判断は、むしろ「ちがう」という方にかたむいていた。

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私の判断はむしろ否定の方に傾いていた。

二十

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二十

わたしは自分のつかんでいることの許すかぎり、奥さんをなぐさめようとした。

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わたくしは私のつらまえた事実の許す限り、奥さんを慰めようとした。

奥さんもまた、できるだけわたしになぐさめられたそうに見えた。

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奥さんもまたできるだけ私によって慰められたそうに見えた。

それで二人は、同じ問題をいつまでも話し合った。

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それで二人は同じ問題をいつまでも話し合った。

けれどもわたしはもともと、ことのおおもとをつかんでいなかった。

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けれども私はもともと事の大根おおねつかんでいなかった。

奥さんの不安も、実はそこにただよう薄い雲に似たうたがいから出て来ていた。

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奥さんの不安も実はそこにただよう薄い雲に似た疑惑から出て来ていた。

できごとの本当のところになると、奥さん自身にも多くは知られていなかった。

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事件の真相になると、奥さん自身にも多くは知れていなかった。

知られているところでも、すべてをわたしに話すことはできなかった。

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知れているところでも悉皆すっかりは私に話す事ができなかった。

だからなぐさめるわたしも、なぐさめられる奥さんも、いっしょに波に浮いてゆらゆらしていた。

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したがって慰める私も、慰められる奥さんも、共に波に浮いて、ゆらゆらしていた。

ゆらゆらしながら、奥さんはどこまでも手を出して、頼りないわたしの判断にすがりつこうとした。

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ゆらゆらしながら、奥さんはどこまでも手を出して、覚束おぼつかない私の判断にすがり付こうとした。

十時ごろになって先生のくつの音が玄関に聞こえたとき、奥さんは急に今までのすべてを忘れたように、前にすわっているわたしをそっちのけにして立ち上がった。

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十時ごろになって先生の靴の音が玄関に聞こえた時、奥さんは急に今までのすべてを忘れたように、前にすわっている私をそっちのけにして立ち上がった。

そうしてこう子戸を開ける先生を、ほとんど出会いがしらにむかえた。

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そうして格子こうしを開ける先生をほとんど出合であがしらに迎えた。

わたしは取り残されながら、あとから奥さんについて行った。

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私は取り残されながら、あとから奥さんにいて行った。

お手伝いだけは、うたた寝でもしていたと見えて、とうとう出て来なかった。

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下女げじょだけは仮寝うたたねでもしていたとみえて、ついに出て来なかった。

先生は、むしろ機げんがよかった。

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先生はむしろ機嫌がよかった。

しかし奥さんの調子は、さらによかった。

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しかし奥さんの調子はさらによかった。

つい今しがた奥さんの美しい目にたまった涙の光と、それから黒いまゆの根に寄せられた八の字を覚えていたわたしは、その変わりようをふつうでないものとして、注意深くながめた。

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今しがた奥さんの美しい眼のうちにたまった涙の光と、それから黒い眉毛まゆげの根に寄せられた八の字を記憶していた私は、その変化を異常なものとして注意深くながめた。

もしそれが作りごとでなかったなら(実際それは作りごととは思えなかったが)、今までの奥さんのうったえは、悲しい気分を楽しむためにわざとわたしを相手に作った、意味のない女の遊びと取れないこともなかった。

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もしそれがいつわりでなかったならば、(実際それは詐りとは思えなかったが)、今までの奥さんの訴えは感傷センチメントもてあそぶためにとくに私を相手にこしらえた、いたずらな女性の遊戯と取れない事もなかった。

もっともそのときのわたしには、奥さんをそれほど批評の目で見る気は起こらなかった。

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もっともその時の私には奥さんをそれほど批評的に見る気は起らなかった。

わたしは奥さんの様子が急に明るくなったのを見て、むしろ安心した。

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私は奥さんの態度の急に輝いて来たのを見て、むしろ安心した。

これならそう心配する必要もなかったんだと、考え直した。

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これならばそう心配する必要もなかったんだと考え直した。

先生は笑いながら「どうもご苦労さま、泥棒は来ませんでしたか」

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先生は笑いながら「どうもご苦労さま、泥棒は来ませんでしたか」

と、わたしに聞いた。

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と私に聞いた。

それから「来ないので張り合いが抜けやしませんか」

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それから「来ないんで張合はりあいが抜けやしませんか」

と言った。

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といった。

帰るとき、奥さんは「どうもお気の毒さま」

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帰る時、奥さんは「どうもお気の毒さま」

と、頭を下げた。

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と会釈した。

その調子は、いそがしいところを時間を取らせて気の毒だというよりも、せっかく来たのにどろぼうが入らなくて気の毒だという冗談のように聞こえた。

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その調子は忙しいところを暇をつぶさせて気の毒だというよりも、せっかく来たのに泥棒がはいらなくって気の毒だという冗談のように聞こえた。

奥さんはそう言いながら、さっき出した洋菓子の残りを紙に包んで、わたしの手に持たせた。

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奥さんはそういいながら、先刻さっき出した西洋菓子の残りを、紙に包んで私の手に持たせた。

わたしはそれをたもとへ入れて、人通りの少ない夜寒の小道を折れ曲がりながら、にぎやかな町の方へ急いだ。

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私はそれをたもとへ入れて、人通りの少ない夜寒よさむ小路こうじを曲折してにぎやかな町の方へ急いだ。

わたしはその晩のことを記憶の中から取り出して、ここへくわしく書いた。

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私はその晩の事を記憶のうちからき抜いてここへくわしく書いた。

これは書くだけの必要があるから書いたのだが、実を言うと、奥さんにお菓子をもらって帰るときの気分では、それほどその夜の会話を重く見ていなかった。

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これは書くだけの必要があるから書いたのだが、実をいうと、奥さんに菓子をもらって帰るときの気分では、それほど当夜の会話を重く見ていなかった。

わたしはその翌日、昼ご飯を食べに学校から帰って来て、昨夜机の上に置いておいたお菓子の包みを見ると、すぐその中からチョコレートをぬったとび色のカステラを出してほおばった。

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私はその翌日よくじつ午飯ひるめしを食いに学校から帰ってきて、昨夜ゆうべ机の上にせて置いた菓子の包みを見ると、すぐその中からチョコレートを塗った鳶色とびいろのカステラを出して頬張ほおばった。

そうしてそれを食べるとき、つまりこのお菓子をわたしにくれた二人の男女は、幸せな一組として世の中にいるのだと思いながら味わった。

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そうしてそれを食う時に、必竟ひっきょうこの菓子を私にくれた二人の男女なんにょは、幸福な一対いっついとして世の中に存在しているのだと自覚しつつ味わった。

秋が終わって冬が来るまで、特別なこともなかった。

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秋が暮れて冬が来るまで格別の事もなかった。

わたしは先生の家へ出入りするついでに、着物の洗い張りや仕立てなどを奥さんに頼んだ。

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私は先生のうちはいりをするついでに、衣服のあらりや仕立したかたなどを奥さんに頼んだ。

それまでじゅばん(着物の下に着る肌着)というものを着たことのないわたしが、シャツの上に黒いえりのかかったものを重ねるようになったのは、このときからだった。

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それまで繻絆じゅばんというものを着た事のない私が、シャツの上に黒い襟のかかったものを重ねるようになったのはこの時からであった。

子どものない奥さんは、そういう世話を焼くのがかえってたいくつしのぎになって、結局は体にいいのだ、ぐらいのことを言っていた。

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子供のない奥さんは、そういう世話を焼くのがかえって退屈凌たいくつしのぎになって、結句けっく身体からだの薬だぐらいの事をいっていた。

「これは手織りね。こんな生地のいい着物は今まで縫ったことがないわ。その代わり縫いにくいのよ、それはもう。まるで針が立たないんですもの。おかげで針を二本折りましたわ」

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「こりゃ手織ておりね。こんない着物は今まで縫った事がないわ。その代り縫いにくいのよそりゃあ。まるで針が立たないんですもの。おかげで針を二本折りましたわ」

こんな苦情を言うときでさえ、奥さんは特にめんどうくさいという顔をしなかった。

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こんな苦情をいう時ですら、奥さんは別に面倒めんどうくさいという顔をしなかった。

二十一

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二十一

冬が来たとき、わたしは思いがけず国へ帰らなければならないことになった。

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冬が来た時、わたくしは偶然国へ帰らなければならない事になった。

わたしが母から受け取った手紙の中に、父の病気の様子がよくないことが書いてあった。今すぐという心配もないだろうが、年が年だから、できるなら都合して帰って来てくれと、たのむように書き足してあった。

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私の母から受け取った手紙の中に、父の病気の経過が面白くない様子を書いて、今が今という心配もあるまいが、年が年だから、できるなら都合して帰って来てくれと頼むように付け足してあった。

父は前から、じん臓(体の中の、いらないものを外に出す大事な部分)をわずらっていた。

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父はかねてから腎臓じんぞうを病んでいた。

中年より上の人によくあるとおり、父のこの病気は長く続くものだった。

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中年以後の人にしばしば見る通り、父のこのやまいは慢性であった。

その代わり用心さえしていれば急に悪くなることはないと、本人も家族もみんな信じて疑わなかった。

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その代り要心さえしていれば急変のないものと当人も家族のものも信じて疑わなかった。

げんに父は、体に気をつけたおかげ一つで今日までどうにかしのいで来たように、お客が来ると言いふらしていた。

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現に父は養生のおかげ一つで、今日こんにちまでどうかこうかしのいで来たように客が来ると吹聴ふいちょうしていた。

その父が、母の手紙によると、庭へ出て何かしているときに急にめまいがして引っくり返った。

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その父が、母の書信によると、庭へ出て何かしているはずみに突然眩暈めまいがして引ッ繰り返った。

家の者は軽い脳出血と思いちがえて、すぐその手当てをした。

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家内かないのものは軽症の脳溢血のういっけつと思い違えて、すぐその手当をした。

あとで医者から、どうもそうではないらしい、やはり持病の結果だろうという判断を聞いて、初めて倒れたことをじん臓の病気と結びつけて考えるようになったのだ。

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あとで医者からどうもそうではないらしい、やはり持病の結果だろうという判断を得て、始めて卒倒と腎臓病とを結び付けて考えるようになったのである。

冬休みが来るまでには、まだ少し間があった。

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冬休みが来るにはまだ少しがあった。

わたしは学期の終わりまで待っていても差し支えないだろうと思って、一日二日そのままにしておいた。

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私は学期の終りまで待っていても差支さしつかえあるまいと思って一日二日そのままにしておいた。

するとその一日二日の間に、父の寝ている様子だの、母の心配している顔だのが時々目に浮かんだ。

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するとその一日二日の間に、父の寝ている様子だの、母の心配している顔だのが時々眼に浮かんだ。

そのたびに一種の心苦しさを味わったわたしは、とうとう帰る決心をした。

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そのたびに一種の心苦しさをめた私は、とうとう帰る決心をした。

国から旅費を送らせる手間と時間をはぶくため、わたしは別れのあいさつがてら先生の所へ行って、必要なだけのお金を一時立てかえてもらうことにした。

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国から旅費を送らせる手数てかずと時間を省くため、私は暇乞いとまごいかたがた先生の所へ行って、るだけの金を一時立て替えてもらう事にした。

先生は少し風邪ぎみで、座敷へ出るのがおっくうだと言って、わたしをその書さいに通した。

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先生は少し風邪かぜの気味で、座敷へ出るのが臆劫おっくうだといって、私をその書斎に通した。

書さいのガラス戸から、冬に入ってめずらしいくらいのなつかしい柔らかな日光が、机かけの上にさしていた。

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書斎の硝子戸ガラスどから冬にってまれに見るような懐かしいやわらかな日光が机掛つくえかけの上にしていた。

先生はこの日当たりのいい部屋の中へ大きな火ばちを置いて、五とくの上にかけた金だらいから立ちのぼる湯気で、息が苦しくなるのを防いでいた。

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先生はこの日あたりのへやの中へ大きな火鉢を置いて、五徳ごとくの上に懸けた金盥かなだらいから立ちあが湯気ゆげで、呼吸いきの苦しくなるのを防いでいた。

「大病はいいが、ちょっとした風邪などはかえっていやなものですね」

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「大病はいが、ちょっとした風邪かぜなどはかえっていやなものですね」

と言った先生は、苦笑いしながらわたしの顔を見た。

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といった先生は、苦笑しながら私の顔を見た。

先生は、病気らしい病気をしたことのない人だった。

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先生は病気という病気をした事のない人であった。

先生の言葉を聞いたわたしは、笑いたくなった。

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先生の言葉を聞いた私は笑いたくなった。

「私は風邪ぐらいなら我慢しますが、それ以上の病気はまっぴらです。先生だって同じことでしょう。試しにやってごらんになるとよく分かります」

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「私は風邪ぐらいなら我慢しますが、それ以上の病気は真平まっぴらです。先生だって同じ事でしょう。試みにやってご覧になるとよくわかります」

「そうかね。私は病気になるくらいなら、死ぬ病気にかかりたいと思ってる」

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「そうかね。私は病気になるくらいなら、死病にかかりたいと思ってる」

わたしは、先生の言うことに特に気を留めなかった。

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私は先生のいう事に格別注意を払わなかった。

すぐ母の手紙の話をして、お金を貸してくれと申し出た。

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すぐ母の手紙の話をして、金の無心を申し出た。

「それは困るでしょう。そのくらいなら今手元にあるはずだから、持って行きたまえ」

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「そりゃ困るでしょう。そのくらいなら今手元にあるはずだから持って行きたまえ」

先生は奥さんを呼んで、必要な金額をわたしの前に並べさせてくれた。

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先生は奥さんを呼んで、必要の金額を私の前に並べさせてくれた。

それを奥の茶だんすか何かの引き出しから出して来た奥さんは、白い半紙の上へていねいに重ねて、「それはご心配ですね」

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それを奥の茶箪笥ちゃだんすか何かの抽出ひきだしから出して来た奥さんは、白い半紙の上へ鄭寧ていねいに重ねて、「そりゃご心配ですね」

と言った。

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といった。

「何度も倒れたんですか」

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何遍なんべんも卒倒したんですか」

と、先生が聞いた。

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と先生が聞いた。

「手紙には何とも書いてありませんが。――そんなに何度も引っくり返るものですか」

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「手紙には何とも書いてありませんが。――そんなに何度も引ッ繰り返るものですか」

「ええ」

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「ええ」

先生の奥さんのお母さんという人も、わたしの父と同じ病気で亡くなったのだということが、初めてわたしに分かった。

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先生の奥さんの母親という人も私の父と同じ病気で亡くなったのだという事が始めて私に解った。

「どうせ難しいんでしょう」

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「どうせむずかしいんでしょう」

と、わたしが言った。

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と私がいった。

「そうさね。私が代われれば代わってあげてもいいが。――吐き気はあるんですか」

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「そうさね。私が代られれば代ってあげてもいが。――嘔気はきけはあるんですか」

「どうですか、何とも書いてないから、たぶんないんでしょう」

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「どうですか、何とも書いてないから、大方おおかたないんでしょう」

「吐き気さえ来なければ、まだ大丈夫ですよ」

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「吐気さえ来なければまだ大丈夫ですよ」

と、奥さんが言った。

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と奥さんがいった。

わたしはその晩の汽車で、東京を出た。

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私はその晩の汽車で東京を立った。

二十二

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二十二

父の病気は、思ったほど悪くはなかった。

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父の病気は思ったほど悪くはなかった。

それでも着いたときは、ふとんの上にあぐらをかいて、「みんなが心配するから、まあ我慢してこうじっとしている。なに、もう起きてもいいのさ」

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それでも着いた時は、とこの上に胡坐あぐらをかいて、「みんなが心配するから、まあ我慢してこうじっとしている。なにもう起きてもいのさ」

と言った。

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といった。

しかしその翌日からは、母が止めるのも聞かずに、とうとうふとんを上げさせてしまった。

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しかしその翌日よくじつからは母が止めるのも聞かずに、とうとう床を上げさせてしまった。

母はしぶしぶ太織りのふとんをたたみながら、「お父さんはお前が帰って来たので、急に気が強くおなりなんだよ」

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母は不承無性ふしょうぶしょう太織ふとおりの蒲団ふとんを畳みながら「お父さんはお前が帰って来たので、急に気が強くおなりなんだよ」

と言った。

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といった。

わたしには父の様子が、それほど強がっているようにも見えなかった。

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わたくしには父の挙動がさして虚勢を張っているようにも思えなかった。

わたしの兄はある仕事について、遠い九州にいた。

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私の兄はある職を帯びて遠い九州にいた。

これは、もしものことがある場合でなければ、簡単に父母の顔を見に来られない男だった。

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これは万一の事がある場合でなければ、容易に父母ちちははの顔を見る自由のかない男であった。

妹は、よその土地へ嫁いだ。

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妹は他国へとついだ。

これも急ぐときに間に合うように、おいそれと呼び寄せられる人ではなかった。

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これも急場の間に合うように、おいそれと呼び寄せられる女ではなかった。

きょうだい三人のうちで一番都合がいいのは、やはり学生をしているわたしだけだった。

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兄妹きょうだい三人のうちで、一番便利なのはやはり書生をしている私だけであった。

そのわたしが母の言いつけどおり学校の授業を放り出して、休み前に帰って来たということが、父には大きな満足だった。

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その私が母のいい付け通り学校の課業をほうり出して、休み前に帰って来たという事が、父には大きな満足であった。

「これしきの病気で学校を休ませては気の毒だ。お母さんがあまり大げさな手紙を書くものだからいけない」

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「これしきの病気に学校を休ませては気の毒だ。お母さんがあまり仰山ぎょうさんな手紙を書くものだからいけない」

父は口では、こう言った。

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父は口ではこういった。

こう言ったばかりでなく、今までしいていたふとんを上げさせて、いつものような元気を見せた。

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こういったばかりでなく、今まで敷いていたとこを上げさせて、いつものような元気を示した。

「あまり無理をして、また悪くなるといけませんよ」

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「あんまり軽はずみをしてまた逆回ぶりかえすといけませんよ」

わたしのこの注意を、父は楽しそうに、しかしとても軽く受けた。

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私のこの注意を父は愉快そうにしかしきわめて軽く受けた。

「なに大丈夫、これでいつものように用心さえしていれば」

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「なに大丈夫、これでいつものように要心ようじんさえしていれば」

実際、父は大丈夫らしかった。

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実際父は大丈夫らしかった。

家の中を自由に歩き回って、息も切れなければ、めまいも感じなかった。

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家の中を自由に往来して、息も切れなければ、眩暈めまいも感じなかった。

ただ顔色だけはふつうの人より大変悪かったが、これはまた今始まったことでもないので、わたしたちは特にそれを気に留めなかった。

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ただ顔色だけは普通の人よりも大変悪かったが、これはまた今始まった症状でもないので、私たちは格別それを気に留めなかった。

わたしは先生に手紙を書いて、借りたお金の礼を述べた。

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私は先生に手紙を書いて恩借おんしゃくの礼を述べた。

正月に東京へ行くとき持って行くから、それまで待ってくれるようにとことわった。

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正月上京する時に持参するからそれまで待ってくれるようにと断わった。

そうして父の病気の様子が思ったほど悪くないこと、この分なら当分安心なこと、めまいも吐き気もまったくないことなどを書き並べた。

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そうして父の病状の思ったほど険悪でない事、この分なら当分安心な事、眩暈も嘔気はきけも皆無な事などを書き連ねた。

最後に先生の風邪についても、一言の見まいを付け足した。

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最後に先生の風邪ふうじゃについても一言いちごんの見舞をけ加えた。

わたしは先生の風邪を、本当に軽く見ていたので。

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私は先生の風邪を実際軽く見ていたので。

わたしはその手紙を出すとき、先生の返事を待つ気はまったくなかった。

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私はその手紙を出す時に決して先生の返事を予期していなかった。

出したあとで父や母と先生のうわさなどをしながら、遠く先生の書さいを思いうかべた。

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出した後で父や母と先生のうわさなどをしながら、はるかに先生の書斎を想像した。

「今度東京へ行く時には、しいたけでも持って行ってお上げ」

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「こんど東京へ行くときには椎茸しいたけでも持って行ってお上げ」

「ええ、しかし先生が干したしいたけなんか食べるかしら」

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「ええ、しかし先生が干した椎茸なぞを食うかしら」

「うまくはないが、特に嫌いな人もないだろう」

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うまくはないが、別にきらいな人もないだろう」

わたしには、しいたけと先生を結びつけて考えるのがへんだった。

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私には椎茸と先生を結び付けて考えるのが変であった。

先生の返事が来たとき、わたしはちょっと驚かされた。

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先生の返事が来た時、私はちょっと驚かされた。

特にその中身が、これという用事をふくんでいなかったので驚かされた。

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ことにその内容が特別の用件を含んでいなかった時、驚かされた。

先生はただ親切から返事を書いてくれたんだと、わたしは思った。

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先生はただ親切ずくで、返事を書いてくれたんだと私は思った。

そう思うと、その簡単な一通の手紙が、わたしには大変なよろこびになった。

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そう思うと、その簡単な一本の手紙が私には大層な喜びになった。

もっともこれは、わたしが先生から受け取った最初の手紙には違いなかったが。

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もっともこれは私が先生から受け取った第一の手紙には相違なかったが。

最初と言うと、わたしと先生の間に手紙のやり取りが何度もあったように思われるが、実際は決してそうでないことを、ちょっとことわっておきたい。

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第一というと私と先生の間に書信の往復がたびたびあったように思われるが、事実は決してそうでない事をちょっと断わっておきたい。

わたしは先生が生きている間に、たった二通の手紙しかもらっていない。

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私は先生の生前にたった二通の手紙しかもらっていない。

その一通は今言うこの簡単な返事で、あとの一通は、先生が死ぬ前に特にわたしあてで書いた、大変長いものである。

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その一通は今いうこの簡単な返書で、あとの一通は先生の死ぬ前とくに私あてで書いた大変長いものである。

父は病気の性質として運動をひかえなければならないので、ふとんを上げてからもほとんど外へは出なかった。

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父は病気の性質として、運動を慎まなければならないので、床を上げてからも、ほとんど戸外そとへは出なかった。

一度、天気のとても穏やかな日の午後に庭へ下りたことがあるが、そのときは、もしものことを心配して、わたしが寄りそうようにそばについていた。

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一度天気のごく穏やかな日の午後庭へ下りた事があるが、その時は万一を気遣きづかって、私が引き添うようにそばに付いていた。

わたしが心配して自分の肩へ手をかけさせようとしても、父は笑って応じなかった。

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私が心配して自分の肩へ手を掛けさせようとしても、父は笑って応じなかった。

二十三

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二十三

わたしはたいくつな父の相手として、よく将棋ばんに向かった。

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わたくしは退屈な父の相手としてよく将碁盤しょうぎばんに向かった。

二人ともものぐさな性質なので、こたつに当たったままばんをやぐらの上に載せて、こまを動かすたびにわざわざ手をかけぶとんの下から出すようなことをした。

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二人とも無精な性質たちなので、炬燵こたつにあたったまま、盤をやぐらの上へせて、こまを動かすたびに、わざわざ手を掛蒲団かけぶとんの下から出すような事をした。

時々持ちごまをなくして、次の勝負が来るまで両方とも気づかずにいたりした。

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時々持駒もちごまくして、次の勝負の来るまで双方とも知らずにいたりした。

それを母が灰の中から見つけ出して、火ばしでつまみ上げるという、おかしなこともあった。

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それを母が灰の中から見付みつけ出して、火箸ひばしはさみ上げるという滑稽こっけいもあった。

「碁だと盤が高過ぎる上に足がついているから、炬燵の上では打てないが、そこへ来ると将棋盤はいいね、こうして楽に指せるから。無精者には持って来いだ。もう一番やろう」

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だと盤が高過ぎる上に、足が着いているから、炬燵の上では打てないが、そこへ来ると将碁盤はいね、こうして楽に差せるから。無精者には持って来いだ。もう一番やろう」

父は勝ったときは必ず、もう一番やろうと言った。

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父は勝った時は必ずもう一番やろうといった。

そのくせ負けたときにも、もう一番やろうと言った。

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そのくせ負けた時にも、もう一番やろうといった。

つまり、勝っても負けてもこたつに当たって将棋を指したがる男だった。

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要するに、勝っても負けても、炬燵にあたって、将碁を差したがる男であった。

初めのうちはめずらしいので、この年よりじみた遊びがわたしにもそれなりに面白かった。しかし少し日が経つにつれて、若いわたしの元気はそのくらいのしげきでは満足できなくなった。

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始めのうちは珍しいので、この隠居いんきょじみた娯楽が私にも相当の興味を与えたが、少し時日がつにれて、若い私の気力はそのくらいな刺戟しげきで満足できなくなった。

わたしは金や香車をにぎったこぶしを頭の上へのばして、時々思い切ってあくびをした。

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私はきん香車きょうしゃを握ったこぶしを頭の上へ伸ばして、時々思い切ったあくびをした。

わたしは、東京のことを考えた。

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私は東京の事を考えた。

そうしてあふれる心臓の血の奥に、活動、活動と打ち続けるこどうを聞いた。

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そうしてみなぎる心臓の血潮の奥に、活動活動と打ちつづける鼓動こどうを聞いた。

不思議にもそのこどうの音が、あるかすかな気持ちの動きから、先生の力で強められているように感じた。

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不思議にもその鼓動の音が、ある微妙な意識状態から、先生の力で強められているように感じた。

わたしは心のうちで、父と先生とを比べてみた。

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私は心のうちで、父と先生とを比較して見た。

両方とも世間から見れば、生きているか死んでいるか分からないほどおとなしい男だった。

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両方とも世間から見れば、生きているか死んでいるか分らないほど大人おとなしい男であった。

人に認められるという点から言えば、どちらもゼロだった。

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ひとに認められるという点からいえばどっちもれいであった。

それでいて、この将棋を指したがる父は、ただの遊び相手としてもわたしには物足りなかった。

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それでいて、この将碁を差したがる父は、単なる娯楽の相手としても私には物足りなかった。

遊びのために行き来した覚えのない先生は、楽しみのつき合いから出る親しみ以上に、いつかわたしの頭に影響を与えていた。

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かつて遊興のために往来ゆききをしたおぼえのない先生は、歓楽の交際から出る親しみ以上に、いつか私の頭に影響を与えていた。

ただ頭というのはあまりに冷たすぎるから、わたしは胸と言い直したい。

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ただ頭というのはあまりにひややか過ぎるから、私は胸といい直したい。

体の中に先生の力が食いこんでいると言っても、血の中に先生の命が流れていると言っても、そのときのわたしには少しも大げさでないように思われた。

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肉のなかに先生の力がい込んでいるといっても、血のなかに先生の命が流れているといっても、その時の私には少しも誇張でないように思われた。

わたしは、父がわたしの本当の父であり、先生はまた言うまでもなく赤の他人であるというはっきりした事実を、わざわざ目の前に並べてみた。そうして初めて大きな真理でも見つけたかのように驚いた。

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私は父が私の本当の父であり、先生はまたいうまでもなく、あかの他人であるという明白な事実を、ことさらに眼の前に並べてみて、始めて大きな真理でも発見したかのごとくに驚いた。

わたしが落ち着かなくなり出したころ、父や母の目にも、今までめずらしかったわたしがだんだんふつうのものになって来た。

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私がのつそつし出すと前後して、父や母の眼にも今まで珍しかった私が段々陳腐ちんぷになって来た。

これは夏休みなどに国へ帰るだれもが同じように経験する気持ちだろうと思う。初めの一週間ぐらいは大事にされてちやほやもてなされるのに、そのやまを決まりどおり越すと、あとはそろそろ家族の熱が冷めて来る。しまいにはあってもなくても構わないもののように、そまつにあつかわれがちになるものだ。

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これは夏休みなどに国へ帰る誰でもが一様に経験する心持だろうと思うが、当座の一週間ぐらいは下にも置かないように、ちやほや歓待もてなされるのに、その峠を定規通ていきどおり通り越すと、あとはそろそろ家族の熱が冷めて来て、しまいには有っても無くっても構わないもののように粗末に取り扱われがちになるものである。

わたしも、いる間にそのやまを越した。

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私も滞在中にその峠を通り越した。

その上わたしは国へ帰るたびに、父にも母にも分からないへんなものを東京から持って帰った。

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その上私は国へ帰るたびに、父にも母にもわからない変なところを東京から持って帰った。

昔で言うと、儒学の先生の家にキリスト教のにおいを持ちこむように、わたしの持って帰るものは父とも母とも合わなかった。

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昔でいうと、儒者じゅしゃの家へ切支丹キリシタンにおいを持ち込むように、私の持って帰るものは父とも母とも調和しなかった。

もちろん、わたしはそれを隠していた。

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無論私はそれを隠していた。

けれどももともと身についているものだから、出すまいと思っても、いつかそれが父や母の目に留まった。

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けれども元々身に着いているものだから、出すまいと思っても、いつかそれが父や母の眼にまった。

わたしは、つい面白くなくなった。

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私はつい面白くなくなった。

早く東京へ帰りたくなった。

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早く東京へ帰りたくなった。

父の病気はさいわい今のままで、少しも悪い方へ進む様子は見えなかった。

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父の病気は幸い現状維持のままで、少しも悪い方へ進む模様は見えなかった。

念のためにわざわざ遠くから、それなりの医者を招いたりして、しんちょうに調べてもらっても、やはりわたしの知っている以外におかしなところは見つからなかった。

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念のためにわざわざ遠くから相当の医者を招いたりして、慎重に診察してもらってもやはり私の知っている以外に異状は認められなかった。

わたしは冬休みの終わる少し前に、国を出ることにした。

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私は冬休みの尽きる少し前に国を立つ事にした。

出ると言い出すと、人の心はへんなもので、父も母も反対した。

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立つといい出すと、人情は妙なもので、父も母も反対した。

「もう帰るのかい、まだ早いじゃないか」

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「もう帰るのかい、まだ早いじゃないか」

と、母が言った。

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と母がいった。

「まだ四、五日いても間に合うんだろう」

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「まだ四、五日いても間に合うんだろう」

と、父が言った。

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と父がいった。

わたしは、自分の決めた出発の日を動かさなかった。

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私は自分のめた出立しゅったつの日を動かさなかった。

二十四

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二十四

東京へ帰ってみると、正月の松かざりはいつのまにか取りはらわれていた。

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東京へ帰ってみると、松飾まつかざりはいつか取り払われていた。

町は寒い風の吹くにまかせて、どこを見てもこれというほどの正月らしいにぎわいはなかった。

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町は寒い風の吹くに任せて、どこを見てもこれというほどの正月めいた景気はなかった。

わたしはさっそく、先生の家へお金を返しに行った。

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わたくし早速さっそく先生のうちへ金を返しに行った。

例のしいたけも、ついでに持って行った。

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例の椎茸しいたけもついでに持って行った。

ただ出すのは少しへんだから、母がこれを差し上げてくれと言いましたと、わざわざことわって奥さんの前へ置いた。

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ただ出すのは少し変だから、母がこれを差し上げてくれといいましたとわざわざ断って奥さんの前へ置いた。

しいたけは、新しいお菓子の箱に入れてあった。

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椎茸は新しい菓子折に入れてあった。

ていねいに礼を言った奥さんは、となりの部屋へ立つときにその箱を持ってみて、軽いのに驚いたのか、「これは何のお菓子」

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鄭寧ていねいに礼を述べた奥さんは、次のへ立つ時、その折を持って見て、軽いのに驚かされたのか、「こりゃ何の御菓子おかし

と聞いた。

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と聞いた。

奥さんは親しくなると、こんなところにとてもあっさりした子どもらしい心を見せた。

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奥さんは懇意になると、こんなところにきわめて淡泊たんぱく小供こどもらしい心を見せた。

二人とも父の病気について、いろいろ心配する問いをくり返してくれた。その中で先生はこんなことを言った。

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二人とも父の病気について、色々掛念けねんの問いを繰り返してくれた中に、先生はこんな事をいった。

「なるほど容体を聞くと、今すぐどうということもないようですが、病気が病気だからよほど気をつけないといけません」

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「なるほど容体ようだいを聞くと、今が今どうという事もないようですが、病気が病気だからよほど気をつけないといけません」

先生はじん臓の病気について、わたしの知らないことを多く知っていた。

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先生は腎臓じんぞうやまいについて私の知らない事を多く知っていた。

「自分で病気にかかっていながら、気がつかないで平気でいるのが、あの病気の特ちょうです。私の知っているある士官は、とうとうそれでやられたが、まったく嘘のような死に方をしたんですよ。何しろそばに寝ていた奥さんが看病をする暇も何もないくらいなんですからね。夜中にちょっと苦しいと言って奥さんを起こしたきり、翌る朝はもう死んでいたんです。しかも奥さんは、夫が寝ているとばかり思っていたんだというんだから」

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「自分で病気にかかっていながら、気が付かないで平気でいるのがあの病の特色です。私の知ったある士官しかんは、とうとうそれでやられたが、全くうそのような死に方をしたんですよ。何しろそばに寝ていた細君さいくんが看病をする暇もなんにもないくらいなんですからね。夜中にちょっと苦しいといって、細君を起したぎり、あくる朝はもう死んでいたんです。しかも細君は夫が寝ているとばかり思ってたんだっていうんだから」

今まで気楽に考えていたわたしは、急に不安になった。

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今まで楽天的に傾いていた私は急に不安になった。

「私の父もそんなになるでしょうか。ならないとも言えないですね」

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「私のおやじもそんなになるでしょうか。ならんともいえないですね」

「医者は何と言うのです」

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「医者は何というのです」

「医者はとうてい治らないと言うんです。けれども当分のところ心配はないだろうとも言うんです」

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「医者は到底とても治らないというんです。けれども当分のところ心配はあるまいともいうんです」

「それならいいでしょう。医者がそう言うなら。私が今話したのは気がつかずにいた人のことで、しかもそれがずいぶん乱暴な軍人なんだから」

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「それじゃいでしょう。医者がそういうなら。私の今話したのは気が付かずにいた人の事で、しかもそれがずいぶん乱暴な軍人なんだから」

わたしは、少し安心した。

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私はやや安心した。

わたしの変化をじっと見ていた先生は、それからこう付け足した。

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私の変化をじっと見ていた先生は、それからこう付け足した。

「しかし人間は健康にしろ病気にしろ、どちらにしてももろいものですね。いつどんなことでどんな死に方をしないとも限らないから」

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「しかし人間は健康にしろ病気にしろ、どっちにしてももろいものですね。いつどんな事でどんな死にようをしないとも限らないから」

「先生もそんなことを考えていらっしゃるんですか」

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「先生もそんな事を考えておいでですか」

「いくら丈夫の私でも、まったく考えないこともありません」

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「いくら丈夫の私でも、満更まんざら考えない事もありません」

先生の口元には、ほほえみの影が見えた。

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先生の口元には微笑の影が見えた。

「よくころりと死ぬ人があるじゃありませんか。自然に。それからあっと思う間に死ぬ人もあるでしょう。自然でない力で」

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「よくころりと死ぬ人があるじゃありませんか。自然に。それからあっと思うに死ぬ人もあるでしょう。不自然な暴力で」

「自然でない力って何ですか」

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「不自然な暴力って何ですか」

「何だかそれは私にも分からないが、自殺する人はみんな自然でない力を使うんでしょう」

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「何だかそれは私にもわからないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使うんでしょう」

「すると殺されるのも、やはり自然でない力のせいですね」

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「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力のおかげですね」

「殺される方はちっとも考えていなかった。なるほど、そう言えばそうだ」

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「殺される方はちっとも考えていなかった。なるほどそういえばそうだ」

その日は、それで帰った。

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その日はそれで帰った。

帰ってからも、父の病気はそれほど気にならなかった。

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帰ってからも父の病気はそれほど苦にならなかった。

先生の言った自然に死ぬとか、自然でない力で死ぬとかいう言葉も、その場かぎりの浅い印象を与えただけで、あとは何のこだわりもわたしの頭に残さなかった。

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先生のいった自然に死ぬとか、不自然の暴力で死ぬとかいう言葉も、その場限りの浅い印象を与えただけで、あとは何らのこだわりを私の頭に残さなかった。

わたしは今まで何度か手をつけようとしては引っこめた卒業論文を、いよいよ本気で書き始めなければならないと思い出した。

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私は今まで幾度いくたびか手を着けようとしては手を引っ込めた卒業論文を、いよいよ本式に書き始めなければならないと思い出した。

二十五

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二十五

その年の六月に卒業するはずのわたしは、どうしてもこの論文を決まりどおり四月いっぱいに書き上げてしまわなければならなかった。

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その年の六月に卒業するはずのわたくしは、ぜひともこの論文を成規通せいきどおり四月いっぱいに書き上げてしまわなければならなかった。

二、三、四と指を折って残る日数を数えてみたとき、わたしは少し自分の度きょうを疑った。

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二、三、四と指を折って余る時日を勘定して見た時、私は少し自分の度胸をうたぐった。

ほかの人はよほど前から材料を集めたりノートをためたりして、はた目にもいそがしそうに見えるのに、わたしだけはまだ何も手をつけずにいた。

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ほかのものはよほど前から材料をあつめたり、ノートをめたりして、余所目よそめにもいそがしそうに見えるのに、私だけはまだ何にも手を着けずにいた。

わたしにはただ、年が明けたら大いにやろうという決心だけがあった。

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私にはただ年が改まったら大いにやろうという決心だけがあった。

わたしは、その決心でやり出した。

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私はその決心でやり出した。

そうして、すぐに動けなくなった。

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そうしてたちまち動けなくなった。

今まで大きな問題を頭に思いえがいて、組み立てだけはだいたいでき上がっているくらいに考えていたわたしは、頭をかかえてなやみ始めた。

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今まで大きな問題をくうえがいて、骨組みだけはほぼでき上っているくらいに考えていた私は、頭をおさえて悩み始めた。

わたしはそれから、論文の問題を小さくした。

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私はそれから論文の問題を小さくした。

そうして練り上げた考えを筋道立ててまとめる手間をはぶくために、ただ本の中にある材料を並べて、それにふさわしいまとめをちょっと付け足すことにした。

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そうして練り上げた思想を系統的にまとめる手数を省くために、ただ書物の中にある材料を並べて、それに相当な結論をちょっと付け加える事にした。

わたしの選んだ問題は、先生の専門と近いものだった。

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私の選択した問題は先生の専門と縁故の近いものであった。

わたしが前にその選び方について先生の意見を聞いたとき、先生はいいでしょうと言った。

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私がかつてその選択について先生の意見を尋ねた時、先生はいでしょうといった。

あわて気味のわたしは、さっそく先生の所へ出かけて、わたしが読まなければならない参考書を聞いた。

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狼狽ろうばいした気味の私は、早速さっそく先生の所へ出掛けて、私の読まなければならない参考書を聞いた。

先生は自分の知っているかぎりの知識を気持ちよくわたしに教えてくれた上に、必要な本を二、三冊貸そうと言った。

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先生は自分の知っている限りの知識を、快く私に与えてくれた上に、必要の書物を、二、三冊貸そうといった。

しかし先生はこの点について、少しもわたしを指導する役を引き受けようとしなかった。

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しかし先生はこの点についてごうも私を指導する任に当ろうとしなかった。

「近ごろはあまり書物を読まないから、新しいことは知りませんよ。学校の先生に聞いた方がいいでしょう」

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近頃ちかごろはあんまり書物を読まないから、新しい事は知りませんよ。学校の先生に聞いた方が好いでしょう」

先生は一時とても本をよく読む人だったが、その後どういうわけか、前ほどこの方面にきょうみが向かなくなったようだと、前に奥さんから聞いたことがあるのを、わたしはそのときふと思い出した。

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先生は一時非常の読書家であったが、そのどういう訳か、前ほどこの方面に興味が働かなくなったようだと、かつて奥さんから聞いた事があるのを、私はその時ふと思い出した。

わたしは論文のことをよそにして、何となく口を開いた。

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私は論文をよそにして、そぞろに口を開いた。

「先生はなぜ元のように書物にきょうみを持てないんですか」

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「先生はなぜ元のように書物に興味をもち得ないんですか」

「なぜという訳もありませんが。……つまりいくら本を読んでも、それほど偉くならないと思うせいでしょう。それから……」

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「なぜという訳もありませんが。……つまりいくら本を読んでもそれほどえらくならないと思うせいでしょう。それから……」

「それから、まだあるんですか」

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「それから、まだあるんですか」

「まだあるというほどの理由でもないが、以前はね、人の前へ出たり人に聞かれたりして、知らないと恥のようにきまりが悪かったものだが、近ごろは知らないということがそれほどの恥でないように見え出したものだから、つい無理にも本を読んでみようという元気が出なくなったのでしょう。まあ早く言えば年を取ったのです」

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「まだあるというほどの理由でもないが、以前はね、人の前へ出たり、人に聞かれたりして知らないと恥のようにきまりが悪かったものだが、近頃は知らないという事が、それほどの恥でないように見え出したものだから、つい無理にも本を読んでみようという元気が出なくなったのでしょう。まあ早くいえば老い込んだのです」

先生の言葉は、むしろ落ち着いていた。

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先生の言葉はむしろ平静であった。

世の中に背を向けた人のにがさを持っていなかっただけに、わたしにはそれほどの手ごたえもなかった。

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世間に背中を向けた人の苦味くみを帯びていなかっただけに、私にはそれほどの手応てごたえもなかった。

わたしは先生を年を取ったとも思わない代わりに、偉いとも感心せずに帰った。

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私は先生を老い込んだとも思わない代りに、偉いとも感心せずに帰った。

それからのわたしは、ほとんど論文にとりつかれた病人のように目を赤くして苦しんだ。

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それからの私はほとんど論文にたたられた精神病者のように眼を赤くして苦しんだ。

わたしは一年前に卒業した友達について、いろいろ様子を聞いてみたりした。

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私は一年ぜんに卒業した友達について、色々様子を聞いてみたりした。

そのうちの一人は、しめ切りの日に車で事む所へかけつけて、ようやく間に合わせたと言った。

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そのうちの一人いちにん締切しめきりの日に車で事務所へけつけてようやく間に合わせたといった。

ほかの一人は、五時を十五分ほど過ぎて持って行ったため、あぶなく受け取ってもらえないところを、主任の教授の好意でやっと受け取ってもらったと言った。

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他の一人は五時を十五分ほどおくらして持って行ったため、あやうね付けられようとしたところを、主任教授の好意でやっと受理してもらったといった。

わたしは不安を感じるとともに、度きょうをすえた。

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私は不安を感ずると共に度胸をえた。

毎日机の前で、力の続くかぎり働いた。

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毎日机の前で精根のつづく限り働いた。

でなければ、薄暗い書庫に入って、高い本だなのあちらこちらを見回した。

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でなければ、薄暗い書庫にはいって、高い本棚のあちらこちらを見廻みまわした。

わたしの目は、物好きな人が骨とうでもほり出すときのように、せ表紙の金文字をあさった。

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私の眼は好事家こうずか骨董こっとうでも掘り出す時のように背表紙の金文字をあさった。

梅がさくにつれて、寒い風はだんだん向きを南へ変えて行った。

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梅が咲くにつけて寒い風は段々むきを南へえて行った。

それがひと区切りたつと、桜のうわさがちらほらわたしの耳に聞こえ出した。

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それが一仕切ひとしきりつと、桜のうわさがちらほら私の耳に聞こえ出した。

それでもわたしは馬車馬のように正面ばかり見て、論文にむち打たれた。

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それでも私は馬車馬のように正面ばかり見て、論文にむちうたれた。

わたしはついに四月の下じゅんが来て、やっと予定どおりのものを書き上げるまで、先生の家へは行かなかった。

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私はついに四月の下旬が来て、やっと予定通りのものを書き上げるまで、先生の敷居をまたがなかった。

二十六

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二十六

わたしが自由になったのは、八重桜の散った枝にいつのまにか青い葉がかすむようにのび始める、初夏の季節だった。

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わたくしの自由になったのは、八重桜やえざくらの散った枝にいつしか青い葉がかすむように伸び始める初夏の季節であった。

わたしはかごを抜け出した小鳥の心で、広い天と地をひと目に見わたしながら、自由に羽ばたきをした。

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私はかごを抜け出した小鳥の心をもって、広い天地を一目ひとめに見渡しながら、自由に羽搏はばたきをした。

わたしはすぐ、先生の家へ行った。

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私はすぐ先生のうちへ行った。

からたちのかきねの黒ずんだ枝の上に燃えるような芽が出ていたり、ざくろのかれた幹からつやつやした茶色の葉が柔らかそうに日の光を映していたりするのが、道々わたしの目を引いた。

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枳殻からたちの垣が黒ずんだ枝の上に、もえるような芽を吹いていたり、柘榴ざくろの枯れた幹から、つやつやしい茶褐色の葉が、柔らかそうに日光を映していたりするのが、道々私の眼を引き付けた。

わたしは生まれて初めてそんなものを見るような、めずらしさを覚えた。

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私は生れて初めてそんなものを見るような珍しさを覚えた。

先生はうれしそうなわたしの顔を見て、「もう論文は片づいたんですか、結構ですね」

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先生はうれしそうな私の顔を見て、「もう論文は片付いたんですか、結構ですね」

と言った。

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といった。

わたしは「おかげでようやく済みました。もう何もすることはありません」

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私は「おかげでようやく済みました。もう何にもする事はありません」

と言った。

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といった。

実際そのときのわたしは、自分のやるべきすべての仕事がもう終わって、これから先はいばって遊んでいても構わないような晴れやかな気持ちでいた。

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実際その時の私は、自分のなすべきすべての仕事がすでに結了けつりょうして、これから先は威張って遊んでいても構わないような晴やかな心持でいた。

わたしは書き上げた自分の論文に、十分の自信と満足を持っていた。

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私は書き上げた自分の論文に対して充分の自信と満足をもっていた。

わたしは先生の前で、しきりにその中身をしゃべり立てた。

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私は先生の前で、しきりにその内容を喋々ちょうちょうした。

先生はいつもの調子で「なるほど」

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先生はいつもの調子で、「なるほど」

とか「そうですか」

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とか、「そうですか」

とか言ってくれたが、それ以上の批評は少しも加えなかった。

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とかいってくれたが、それ以上の批評は少しも加えなかった。

わたしは物足りないというよりも、少し拍子ぬけの気分だった。

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私は物足りないというよりも、いささか拍子抜けの気味であった。

それでもその日、わたしの元気は、ぐずぐずして見える先生の態度に逆にいどみかかるほど生き生きしていた。

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それでもその日私の気力は、因循いんじゅんらしく見える先生の態度に逆襲を試みるほどに生々いきいきしていた。

わたしは青くよみがえろうとする大きな自然の中に、先生をさそい出そうとした。

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私は青く蘇生よみがえろうとする大きな自然の中に、先生を誘い出そうとした。

「先生、どこかへ散歩しましょう。外へ出ると大変いい心持ちです」

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「先生どこかへ散歩しましょう。外へ出ると大変い心持です」

「どこへ」

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「どこへ」

わたしは、どこでも構わなかった。

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私はどこでも構わなかった。

ただ先生を連れて、郊外へ出たかった。

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ただ先生をれて郊外へ出たかった。

一時間の後、先生とわたしは思ったとおり町を離れて、村とも町とも見分けのつかない静かな所を、当てもなく歩いた。

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一時間ののち、先生と私は目的どおり市を離れて、村とも町とも区別の付かない静かな所をあてもなく歩いた。

わたしはかなめのかきねから若い柔らかい葉をむしり取って、草笛を鳴らした。

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私はかなめの垣から若い柔らかい葉をぎ取って芝笛しばぶえを鳴らした。

ある鹿児島の人を友達に持ち、その人の真似をしながら自然に覚えたわたしは、この草笛を鳴らすのが上手だった。

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ある鹿児島人かごしまじんを友達にもって、その人の真似まねをしつつ自然に習い覚えた私は、この芝笛というものを鳴らす事が上手であった。

わたしが得意になってそれを吹き続けると、先生は知らん顔をしてよそを向いて歩いた。

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私が得意にそれを吹きつづけると、先生は知らん顔をしてよそを向いて歩いた。

やがて若葉に閉ざされたようにしげった、小高い一区画の下に、細い道が開けた。

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やがて若葉にざされたように蓊欝こんもりした小高い一構ひとかまえの下に細いみちひらけた。

門の柱に打ちつけた表札に何々園とあるので、個人の家でないことがすぐ分かった。

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門の柱に打ち付けた標札に何々園とあるので、その個人の邸宅でない事がすぐ知れた。

先生はゆるやかな上り坂になっている入口をながめて、「入ってみようか」

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先生はだらだらのぼりになっている入口をながめて、「はいってみようか」

と言った。

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といった。

わたしはすぐ「植木屋ですね」

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私はすぐ「植木屋ですね」

と答えた。

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と答えた。

植えこみの中をひと曲がりして奥へ上ると、左側に家があった。

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植込うえこみの中をひとうねりして奥へのぼると左側にうちがあった。

開け放った障子の内はがらんとして、人の影も見えなかった。

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明け放った障子しょうじの内はがらんとして人の影も見えなかった。

ただ軒先に置いた大きなはちの中に、飼ってある金魚が動いていた。

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ただ軒先のきさきに据えた大きな鉢の中に飼ってある金魚が動いていた。

「静かだね。断らずに入っても構わないだろうか」

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「静かだね。断わらずにはいっても構わないだろうか」

「構わないでしょう」

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「構わないでしょう」

二人はまた、奥の方へ進んだ。

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二人はまた奥の方へ進んだ。

しかしそこにも、人影は見えなかった。

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しかしそこにも人影は見えなかった。

つつじが、燃えるようにさきみだれていた。

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躑躅つつじが燃えるように咲き乱れていた。

先生はそのうちで赤茶色の背の高いのを指して、「これは霧島でしょう」

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先生はそのうちで樺色かばいろたけの高いのを指して、「これは霧島きりしまでしょう」

と言った。

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といった。

しゃくやくも三十平方メートルあまり一面に植えてあったが、まだ季節が来ないので花をつけているのは一本もなかった。

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芍薬しゃくやく十坪とつぼあまり一面に植え付けられていたが、まだ季節が来ないので花を着けているのは一本もなかった。

このしゃくやく畑のそばにある古びた縁台のようなものの上に、先生は大の字になって寝た。

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この芍薬ばたけそばにある古びた縁台のようなものの上に先生は大の字なりに寝た。

わたしはその余ったはしの方に腰を下ろして、たばこを吸った。

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私はその余ったはじの方に腰をおろして烟草タバコを吹かした。

先生は、青く透き通るような空を見ていた。

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先生はあおとおるような空を見ていた。

わたしは、自分を包む若葉の色に心を取られていた。

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私は私を包む若葉の色に心を奪われていた。

その若葉の色をよくよくながめると、一つ一つちがっていた。

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その若葉の色をよくよくながめると、一々違っていた。

同じかえでの木でも、同じ色を枝につけているものは一つもなかった。

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同じかえででも同じ色を枝に着けているものは一つもなかった。

細い杉のなえの先に投げかけてあった先生の帽子が、風に吹かれて落ちた。

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細い杉苗のいただきに投げかぶせてあった先生の帽子が風に吹かれて落ちた。

二十七

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二十七

わたしはすぐ、その帽子を取り上げた。

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わたくしはすぐその帽子を取り上げた。

所々についている赤土をつめではじきながら、先生を呼んだ。

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所々ところどころに着いている赤土をつめはじきながら先生を呼んだ。

「先生、帽子が落ちました」

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「先生帽子が落ちました」

「ありがとう」

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「ありがとう」

体を半分起こしてそれを受け取った先生は、起きるとも寝るともつかないその姿のまま、へんなことをわたしに聞いた。

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身体からだを半分起してそれを受け取った先生は、起きるとも寝るとも片付かないその姿勢のままで、変な事を私に聞いた。

「突然だが、君の家には財産がよほどあるんですか」

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「突然だが、君のうちには財産がよっぽどあるんですか」

「あるというほどありゃしません」

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「あるというほどありゃしません」

「まあどのくらいあるのかね。失礼のようだが」

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「まあどのくらいあるのかね。失礼のようだが」

「どのくらいって、山と田畑が少しあるだけで、お金なんかまるでないんでしょう」

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「どのくらいって、山と田地でんぢが少しあるぎりで、金なんかまるでないんでしょう」

先生がわたしの家の暮らし向きについて、はっきり問いらしい問いをかけたのは、これが初めてだった。

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先生が私のいえの経済について、問いらしい問いを掛けたのはこれが始めてであった。

わたしの方はまだ、先生の暮らし向きについて何も聞いたことがなかった。

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私の方はまだ先生の暮し向きに関して、何も聞いた事がなかった。

先生と知り合った初め、わたしは先生がどうして遊んでいられるのかを不思議に思った。

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先生と知り合いになった始め、私は先生がどうして遊んでいられるかをうたぐった。

その後もこの疑いは、ずっとわたしの胸を離れなかった。

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その後もこの疑いは絶えず私の胸を去らなかった。

しかしわたしはそんな露骨なことを先生の前に持ち出すのは失礼だとばかり思って、いつもひかえていた。

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しかし私はそんな露骨あらわな問題を先生の前に持ち出すのをぶしつけとばかり思っていつでも控えていた。

若葉の色でつかれた目を休ませていたわたしの心は、たまたままたその疑いに触れた。

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若葉の色で疲れた眼を休ませていた私の心は、偶然またその疑いに触れた。

「先生はどうなんです。どのくらいの財産を持っていらっしゃるんですか」

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「先生はどうなんです。どのくらいの財産をもっていらっしゃるんですか」

「私は財産家に見えますか」

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「私は財産家と見えますか」

先生はふだんから、むしろじみな服そうをしていた。

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先生は平生からむしろ質素な服装なりをしていた。

それに、家族は少人数だった。

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それに家内かない小人数こにんずであった。

だから住まいも、決して広くはなかった。

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したがって住宅も決して広くはなかった。

けれどもその生活がお金の面でゆたかなことは、家の内側に入りこんでいないわたしの目にさえはっきりしていた。

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けれどもその生活の物質的に豊かな事は、内輪にはいり込まない私の眼にさえ明らかであった。

つまり先生の暮らしは、ぜいたくと言えないまでも、けちけちと切りつめた余裕のないものではなかった。

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要するに先生の暮しは贅沢ぜいたくといえないまでも、あたじけなく切り詰めた無弾力性のものではなかった。

「そうでしょう」

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「そうでしょう」

と、わたしが言った。

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と私がいった。

「それはそのくらいのお金はあるさ、けれども決して財産家じゃありません。財産家ならもっと大きな家でも建てるさ」

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「そりゃそのくらいの金はあるさ、けれども決して財産家じゃありません。財産家ならもっと大きなうちでも造るさ」

このとき先生は起き上がって縁台の上にあぐらをかいていたが、こう言い終わると、竹のつえの先で地面の上へ円のようなものを描き始めた。

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この時先生は起き上って、縁台の上に胡坐あぐらをかいていたが、こういい終ると、竹のつえの先で地面の上へ円のようなものをき始めた。

それが済むと、今度はつえを突きさすようにまっすぐ立てた。

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それが済むと、今度はステッキを突き刺すように真直まっすぐに立てた。

「これでも元は財産家なんだがなあ」

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「これでも元は財産家なんだがなあ」

先生の言葉は、半分独り言のようだった。

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先生の言葉は半分ひとごとのようであった。

それですぐあとについて話せなかったわたしは、つい黙っていた。

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それですぐあといて行き損なった私は、つい黙っていた。

「これでも元は財産家なんですよ、君」

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「これでも元は財産家なんですよ、君」

と言い直した先生は、次にわたしの顔を見てほほえんだ。

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といい直した先生は、次に私の顔を見て微笑した。

わたしはそれでも、何とも答えなかった。

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私はそれでも何とも答えなかった。

むしろ、うまく答えられなかったのだ。

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むしろ不調法で答えられなかったのである。

すると先生が、また話をほかへ移した。

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すると先生がまた問題をよそへ移した。

「あなたのお父さんの病気は、その後どうなりました」

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「あなたのお父さんの病気はその後どうなりました」

わたしは父の病気について、正月から後は何も知らなかった。

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私は父の病気について正月以後何にも知らなかった。

月々国から送ってくれるお金といっしょに来る簡単な手紙は、いつものとおり父の字だったが、病気を訴える言葉はその中にほとんど見当たらなかった。

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月々国から送ってくれる為替かわせと共に来る簡単な手紙は、例の通り父の手蹟しゅせきであったが、病気の訴えはそのうちにほとんど見当らなかった。

その上、字もしっかりしていた。

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その上書体も確かであった。

この種の病人に見えるふるえが、少しも筆の運びを乱していなかった。

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この種の病人に見るふるえが少しも筆のはこびを乱していなかった。

「何とも言って来ませんが、もういいんでしょう」

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「何ともいって来ませんが、もういんでしょう」

「よければ結構だが、――病気が病気なんだからね」

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ければ結構だが、――病症が病症なんだからね」

「やっぱり駄目ですかね。でも当分は持ちこたえてるんでしょう。何とも言って来ませんよ」

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「やっぱり駄目ですかね。でも当分は持ち合ってるんでしょう。何ともいって来ませんよ」

「そうですか」

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「そうですか」

わたしは先生がわたしの家の財産を聞いたり、わたしの父の病気をたずねたりするのを、ふつうの話、胸にうかんだままを口にするふつうの話と思って聞いていた。

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私は先生が私のうちの財産を聞いたり、私の父の病気を尋ねたりするのを、普通の談話――胸に浮かんだままをその通り口にする、普通の談話と思って聞いていた。

ところが先生の言葉の底には、両方を結びつける大きな意味があった。

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ところが先生の言葉の底には両方を結び付ける大きな意味があった。

先生自身の経験を持たないわたしは、もちろんそこに気がつくはずがなかった。

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先生自身の経験を持たない私は無論そこに気が付くはずがなかった。

二十八

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二十八

「君の家に財産があるなら、今のうちによく始末をつけてもらっておかないといけないと思うがね、余計なお世話だけれども。君のお父さんが元気なうちに、もらうものはちゃんともらっておくようにしたらどうですか。万一のことがあったあとで、一番めんどうの起こるのは財産の問題だから」

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「君のうちに財産があるなら、今のうちによく始末をつけてもらっておかないといけないと思うがね、余計なお世話だけれども。君のお父さんが達者なうちに、もらうものはちゃんと貰っておくようにしたらどうですか。万一の事があったあとで、一番面倒の起るのは財産の問題だから」

「ええ」

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「ええ」

わたしは先生の言葉に、大して注意をはらわなかった。

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わたくしは先生の言葉に大した注意を払わなかった。

わたしの家でそんな心配をしている者は、わたしに限らず、父にしろ母にしろ一人もいないと、わたしは信じていた。

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私の家庭でそんな心配をしているものは、私に限らず、父にしろ母にしろ、一人もないと私は信じていた。

その上、先生の言うことが、先生としてはあまりに現実的なので、わたしは少し驚かされた。

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その上先生のいう事の、先生として、あまりに実際的なのに私は少し驚かされた。

しかしそこは、年上の人に対するふだんの敬いが、わたしを黙らせた。

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しかしそこは年長者に対する平生の敬意が私を無口にした。

「あなたのお父さんが亡くなられるのを、今から予想してかかるような言葉づかいをするのが気にさわったら、許してくれたまえ。しかし人間は死ぬものだからね。どんなに元気な者でも、いつ死ぬか分からないものだからね」

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「あなたのお父さんが亡くなられるのを、今から予想してかかるような言葉遣ことばづかいをするのが気にさわったら許してくれたまえ。しかし人間は死ぬものだからね。どんなに達者なものでも、いつ死ぬか分らないものだからね」

先生の言い方は、めずらしくにがにがしかった。

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先生の口気こうきは珍しく苦々しかった。

「そんなことをちっとも気にかけてはいません」

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「そんな事をちっとも気に掛けちゃいません」

と、わたしは言いわけをした。

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と私は弁解した。

「君の兄弟は何人でしたかね」

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「君の兄弟きょうだいは何人でしたかね」

と、先生が聞いた。

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と先生が聞いた。

先生はその上に、わたしの家族の人数を聞いたり、親類がいるかいないかをたずねたり、おじやおばの様子を問うたりした。

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先生はその上に私の家族の人数にんずを聞いたり、親類の有無を尋ねたり、叔父おじ叔母おばの様子を問いなどした。

そうして最後に、こう言った。

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そうして最後にこういった。

「みんないい人ですか」

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「みんない人ですか」

「特に悪い人というほどの者もいないようです。たいてい田舎の者ですから」

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「別に悪い人間というほどのものもいないようです。大抵田舎者いなかものですから」

「田舎の者はなぜ悪くないんですか」

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「田舎者はなぜ悪くないんですか」

わたしは、この問いつめに苦しんだ。

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私はこの追窮ついきゅうに苦しんだ。

しかし先生は、わたしに返事を考えさせるひまさえ与えなかった。

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しかし先生は私に返事を考えさせる余裕さえ与えなかった。

「田舎の者は都会の者より、かえって悪いくらいのものです。それから、君は今、君の親戚などの中に、これといって悪い人間はいないようだと言いましたね。しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると、君は思っているんですか。そんな型に入れたような悪人は、世の中にあるはずがありませんよ。ふだんはみんな善人なんです。少なくともみんなふつうの人間なんです。それが、いざという間際に急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」

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「田舎者は都会のものより、かえって悪いくらいなものです。それから、君は今、君の親戚しんせきなぞのうちに、これといって、悪い人間はいないようだといいましたね。しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型いかたに入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」

先生の言うことは、ここで切れる様子もなかった。

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先生のいう事は、ここで切れる様子もなかった。

わたしはまた、ここで何か言おうとした。

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私はまたここで何かいおうとした。

すると後ろの方で、犬が急にほえ出した。

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するとうしろの方で犬が急にえ出した。

先生もわたしも驚いて、後ろを振り返った。

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先生も私も驚いて後ろを振り返った。

縁台の横から後ろにかけて植えてある杉のなえのそばに、くまざさが十平方メートルほど地面を隠すようにしげって生えていた。

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縁台の横から後部へ掛けて植え付けてある杉苗のそばに、熊笹くまざさ三坪みつぼほど地を隠すように茂って生えていた。

犬はその顔と背中をくまざさの上に出して、さかんにほえ立てた。

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犬はその顔と背を熊笹の上に現わして、盛んに吠え立てた。

そこへ十歳ぐらいの子どもが駆けて来て、犬を叱りつけた。

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そこへとおぐらいの小供こどもけて来て犬をしかり付けた。

子どもは記しょうのついた黒い帽子をかぶったまま、先生の前へ回って礼をした。

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小供は徽章きしょうの着いた黒い帽子をかぶったまま先生の前へまわって礼をした。

「叔父さん、入って来る時、家に誰もいなかったかい」

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「叔父さん、はいって来る時、うちだれもいなかったかい」

と聞いた。

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と聞いた。

「誰もいなかったよ」

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「誰もいなかったよ」

「姉さんやおっかさんが台所の方にいたのに」

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「姉さんやおっかさんが勝手の方にいたのに」

「そうか、いたのかい」

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「そうか、いたのかい」

「ああ。叔父さん、今日はって断って入って来るとよかったのに」

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「ああ。叔父さん、今日こんちはって、断ってはいって来るとかったのに」

先生は、苦笑いした。

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先生は苦笑した。

ふところから財布を出して、五銭の白い銅貨を子どもの手ににぎらせた。

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懐中ふところから蟇口がまぐちを出して、五銭の白銅はくどうを小供の手に握らせた。

「おっかさんにそう言っておくれ。少しここで休ませてくださいって」

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「おっかさんにそういっとくれ。少しここで休まして下さいって」

子どもはりこうそうな目に笑いをあふれさせて、うなずいて見せた。

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小供は怜悧りこうそうな眼にわらいをみなぎらして、首肯うなずいて見せた。

「今、斥候長(せっこうちょう。ようすを見に行く役の隊長。子どもの遊びの役目)になってるところなんだよ」

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「今斥候長せっこうちょうになってるところなんだよ」

子どもはこう言って、つつじの間を下の方へ駆け下りて行った。

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小供はこう断って、躑躅つつじの間を下の方へ駈け下りて行った。

犬もしっぽを高く巻いて、子どものあとを追いかけた。

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犬も尻尾しっぽを高く巻いて小供の後を追い掛けた。

しばらくすると、同じくらいの年ごろの子どもが二、三人、これも斥候長の下りて行った方へ駆けて行った。

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しばらくすると同じくらいの年格好の小供が二、三人、これも斥候長の下りて行った方へ駈けていった。

二十九

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二十九

先生の話は、この犬と子どものために終わりまで進めなくなったので、わたしはついにその意味が分からずに終わった。

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先生の談話は、この犬と小供のために、結末まで進行する事ができなくなったので、私はついにその要領を得ないでしまった。

先生が気にする財産のあれこれの心配は、そのときのわたしにはまったくなかった。

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先生の気にする財産云々うんぬん掛念けねんはその時のわたくしには全くなかった。

わたしの性質として、またわたしの暮らしから言って、そのときのわたしにはそんな損得の思いに頭をなやます余地がなかったのだ。

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私の性質として、また私の境遇からいって、その時の私には、そんな利害の念に頭を悩ます余地がなかったのである。

考えるとこれは、わたしがまだ世の中に出ないためでもあり、また実際その場に立たないためでもあっただろう。とにかく若いわたしには、なぜかお金の問題が遠くの方に見えた。

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考えるとこれは私がまだ世間に出ないためでもあり、また実際その場に臨まないためでもあったろうが、とにかく若い私にはなぜか金の問題が遠くの方に見えた。

先生の話のうちでただ一つ底まで聞きたかったのは、人間はいざという間際にだれでも悪人になるという言葉の意味だった。

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先生の話のうちでただ一つ底まで聞きたかったのは、人間がいざという間際に、誰でも悪人になるという言葉の意味であった。

ただの言葉としては、これだけでもわたしに分からないことはなかった。

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単なる言葉としては、これだけでも私にわからない事はなかった。

しかしわたしは、この言葉についてもっと知りたかった。

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しかし私はこの句についてもっと知りたかった。

犬と子どもが去ったあと、広い若葉の園は再び元の静かさに戻った。

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犬と小供こどもが去ったあと、広い若葉の園は再びもとの静かさに帰った。

そうしてわたしたちは、ちんもくに閉ざされた人のようにしばらく動かずにいた。

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そうして我々は沈黙にざされた人のようにしばらく動かずにいた。

美しい空の色が、そのときだんだん光を失って来た。

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うるわしい空の色がその時次第に光を失って来た。

目の前にある木はたいていかえでだったが、その枝にしたたるように出た軽い緑の若葉が、だんだん暗くなって行くように思われた。

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眼の前にあるは大概かえでであったが、その枝にしたたるように吹いた軽い緑の若葉が、段々暗くなって行くように思われた。

遠い道を荷車を引いて行く音が、ごろごろと聞こえた。

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遠い往来を荷車を引いて行く響きがごろごろと聞こえた。

わたしはそれを、村の男が植木か何かを載せて縁日へでも出かけるものと想像した。

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私はそれを村の男が植木か何かを載せて縁日えんにちへでも出掛けるものと想像した。

先生はその音を聞くと、急に深い考えから息を吹き返した人のように立ち上がった。

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先生はその音を聞くと、急に瞑想めいそうから呼息いきを吹き返した人のように立ち上がった。

「もう、そろそろ帰りましょう。だいぶ日が長くなったようだが、やっぱりこうのんびりしているうちには、いつの間にか暮れて行くんだね」

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「もう、そろそろ帰りましょう。大分だいぶ日が永くなったようだが、やっぱりこう安閑としているうちには、いつの間にか暮れて行くんだね」

先生の背中には、さっき縁台の上にあおむけに寝たあとがいっぱいついていた。

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先生の背中には、さっき縁台の上に仰向あおむきに寝たあとがいっぱい着いていた。

わたしは両手で、それを払い落とした。

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私は両手でそれを払い落した。

「ありがとう。やにがこびりついていませんか」

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「ありがとう。やにがこびり着いてやしませんか」

「きれいに落ちました」

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綺麗きれいに落ちました」

「この羽織はついこの間つくったばかりなんだよ。だからむやみに汚して帰ると妻に叱られるからね。ありがとう」

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「この羽織はつい此間こないだこしらえたばかりなんだよ。だからむやみに汚して帰ると、さいしかられるからね。有難う」

二人はまた、ゆるやかな坂の途中にある家の前へ来た。

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二人はまただらだらざかの中途にあるうちの前へ来た。

入るときにはだれもいる様子の見えなかった縁に、おかみさんが十五、六の娘を相手に、糸巻きへ糸を巻きつけていた。

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はいる時には誰もいる気色けしきの見えなかったえんに、おかみさんが、十五、六の娘を相手に、糸巻へ糸を巻きつけていた。

二人は大きな金魚ばちの横から、「どうもお邪魔をしました」

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二人は大きな金魚鉢の横から、「どうもお邪魔じゃまをしました」

とあいさつした。

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挨拶あいさつした。

おかみさんは「いいえ、おかまいもいたしませんで」

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お上さんは「いいえおかまい申しも致しませんで」

と礼を返したあと、さっき子どもにやった銅貨の礼を言った。

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と礼を返したあと先刻さっき小供にやった白銅はくどうの礼を述べた。

門口を出て二、三百メートル来たとき、わたしはついに先生に向かって口を開いた。

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門口かどぐちを出て二、三ちょう来た時、私はついに先生に向かって口を切った。

「さっき先生が言われた、人間はだれでもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。あれはどういう意味ですか」

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「さきほど先生のいわれた、人間はだれでもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。あれはどういう意味ですか」

「意味といって、深い意味もありません。――つまり事実なんですよ。理屈じゃないんだ」

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「意味といって、深い意味もありません。――つまり事実なんですよ。理屈じゃないんだ」

「事実で差し支えありませんが、私のうかがいたいのは、いざという間際という意味なんです。いったいどんな場合を指すのですか」

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「事実で差支さしつかえありませんが、私の伺いたいのは、いざという間際という意味なんです。一体どんな場合を指すのですか」

先生は、笑い出した。

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先生は笑い出した。

まるで、そのときが過ぎた今、もう熱心に説明する張り合いがないという風に。

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あたかも時機じきの過ぎた今、もう熱心に説明する張合いがないといったふうに。

「金さ、君。金を見ると、どんな立派な人でもすぐ悪人になるのさ」

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かねさ君。金を見ると、どんな君子くんしでもすぐ悪人になるのさ」

わたしには、先生の返事があまりにありふれていてつまらなかった。

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私には先生の返事があまりに平凡過ぎてつまらなかった。

先生が調子に乗らないように、わたしも拍子ぬけの気分だった。

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先生が調子に乗らないごとく、私も拍子抜けの気味であった。

わたしは、すましてさっさと歩き出した。

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私は澄ましてさっさと歩き出した。

そのため、先生は少し遅れがちになった。

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いきおい先生は少しおくれがちになった。

先生はあとから「おいおい」

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先生はあとから「おいおい」

と、声をかけた。

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と声を掛けた。

「そら、見たまえ」

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「そら見たまえ」

「何をですか」

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「何をですか」

「君の気分だって、私の返事一つですぐ変わるじゃないか」

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「君の気分だって、私の返事一つですぐ変るじゃないか」

待つために振り向いて立ち止まったわたしの顔を見て、先生はこう言った。

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待ち合わせるために振り向いてまった私の顔を見て、先生はこういった。

三十

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三十

そのときのわたしは、心の中で先生をにくらしく思った。

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その時のわたくしは腹の中で先生を憎らしく思った。

肩を並べて歩き出してからも、自分の聞きたいことをわざと聞かずにいた。

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肩を並べて歩き出してからも、自分の聞きたい事をわざと聞かずにいた。

しかし先生の方では、それに気がついていたのかいないのか、まるでわたしの態度を気にする様子を見せなかった。

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しかし先生の方では、それに気が付いていたのか、いないのか、まるで私の態度に拘泥こだわる様子を見せなかった。

いつものとおり黙りがちに、落ち着き払った足どりをすまして運んで行くので、わたしは少し腹が立った。

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いつもの通り沈黙がちに落ち付き払った歩調をすまして運んで行くので、私は少し業腹ごうはらになった。

何とか言って一つ先生をやっつけてみたくなって来た。

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何とかいって一つ先生をやっ付けてみたくなって来た。

「先生」

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「先生」

「何ですか」

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「何ですか」

「先生はさっき少し興奮なさいましたね。あの植木屋の庭で休んでいる時に。私は先生が興奮したのをめったに見たことがないんですが、今日はめずらしいところを見たような気がします」

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「先生はさっき少し昂奮こうふんなさいましたね。あの植木屋の庭で休んでいる時に。私は先生の昂奮したのを滅多めったに見た事がないんですが、今日は珍しいところを拝見したような気がします」

先生は、すぐ返事をしなかった。

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先生はすぐ返事をしなかった。

わたしはそれを、手ごたえがあったようにも思った。

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私はそれを手応てごたえのあったようにも思った。

また、ねらいが外れたようにも感じた。

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またまとはずれたようにも感じた。

仕方がないから、あとは言わないことにした。

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仕方がないからあとはいわない事にした。

すると先生が、いきなり道のはしへ寄って行った。

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すると先生がいきなり道のはじへ寄って行った。

そうしてきれいに刈りこんだ生けがきの下で、すそをまくって小便をした。

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そうして綺麗きれいに刈り込んだ生垣いけがきの下で、すそをまくって小便をした。

わたしは先生が用を足す間、ぼんやりそこに立っていた。

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私は先生が用を足す間ぼんやりそこに立っていた。

「やあ、失礼」

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「やあ失敬」

先生はこう言って、また歩き出した。

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先生はこういってまた歩き出した。

わたしはとうとう、先生をやりこめることをあきらめた。

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私はとうとう先生をやり込める事を断念した。

わたしたちの通る道は、だんだんにぎやかになった。

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私たちの通る道は段々にぎやかになった。

今までちらほら見えた広い畑のななめの土地や平らな土地が、まったく目に入らないように、左右の家並みがそろって来た。

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今までちらほらと見えた広いはたけの斜面や平地ひらちが、全く眼にらないように左右の家並いえなみそろってきた。

それでも所々、家の土地の隅などにえんどうのつるを竹にからませたり、金あみでにわとりを囲って飼ったりするのが、静かにながめられた。

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それでも所々ところどころ宅地の隅などに、豌豆えんどうつるを竹にからませたり、金網かなあみにわとりを囲い飼いにしたりするのが閑静にながめられた。

町の中から帰る荷馬が、しきりにすれちがって行った。

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市中から帰る駄馬だばが仕切りなくれ違って行った。

こんなものにいつも気を取られがちなわたしは、さっきまで胸の中にあった問題をどこかへ振り落としてしまった。

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こんなものに始終気をられがちな私は、さっきまで胸の中にあった問題をどこかへ振り落してしまった。

先生が突然そこへあと戻りをしたとき、わたしは実際それを忘れていた。

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先生が突然そこへ後戻あともどりをした時、私は実際それを忘れていた。

「私はさっき、そんなに興奮したように見えたんですか」

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「私は先刻さっきそんなに昂奮したように見えたんですか」

「そんなにというほどでもありませんが、少し……」

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「そんなにというほどでもありませんが、少し……」

「いや、見えても構わない。実際興奮するんだから。私は財産のことを言うと、きっと興奮するんです。君にはどう見えるか知らないが、私はこれで大変しつこい男なんだから。人から受けた恥や損害は、十年経っても二十年経っても忘れやしないんだから」

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「いや見えても構わない。実際昂奮こうふんするんだから。私は財産の事をいうときっと昂奮するんです。君にはどう見えるか知らないが、私はこれで大変執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年たっても二十年たっても忘れやしないんだから」

先生の言葉は、元よりもなお興奮していた。

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先生の言葉は元よりもなお昂奮していた。

しかしわたしが驚いたのは、決してその調子ではなかった。

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しかし私の驚いたのは、決してその調子ではなかった。

むしろ先生の言葉がわたしの耳にうったえる意味そのものだった。

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むしろ先生の言葉が私の耳に訴える意味そのものであった。

先生の口からこんな打ち明けを聞くのは、いくらわたしにもまったく思いがけないことだった。

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先生の口からこんな自白を聞くのは、いかな私にも全くの意外に相違なかった。

わたしは先生の性質の特ちょうとして、こんな執念深い力をこれまで想像したことさえなかった。

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私は先生の性質の特色として、こんな執着力しゅうじゃくりょくをいまだかつて想像した事さえなかった。

わたしは、先生をもっと弱い人と信じていた。

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私は先生をもっと弱い人と信じていた。

そうしてその弱くて気高い所に、わたしがしたう心の根を置いていた。

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そうしてその弱くて高いところに、私の懐かしみの根を置いていた。

一時の気分で先生にちょっとさからってみようとしたわたしは、この言葉の前に小さくなった。

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一時の気分で先生にちょっとたてを突いてみようとした私は、この言葉の前に小さくなった。

先生は、こう言った。

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先生はこういった。

「私は人にだまされたのです。しかも血のつながった親戚の者にだまされたのです。私は決してそれを忘れないのです。私の父の前では善人であったらしい彼らは、父が死ぬやいなや許しがたい心のない人間に変わったのです。私は彼らから受けた恥と損害を、子供の時から今日まで背負わされている。おそらく死ぬまで背負わされ通しでしょう。私は死ぬまでそれを忘れることができないんだから。しかし私はまだ仕返しをせずにいる。考えると、私は個人に対する仕返し以上のことを今やっているんだ。私は彼らを憎むばかりじゃない、彼らが代表している人間というものを、みんな憎むことを覚えたのだ。私はそれでたくさんだと思う」

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「私はひとあざむかれたのです。しかも血のつづいた親戚しんせきのものから欺かれたのです。私は決してそれを忘れないのです。私の父の前には善人であったらしい彼らは、父の死ぬやいなや許しがたい不徳義漢に変ったのです。私は彼らから受けた屈辱と損害を小供こどもの時から今日きょうまで背負しょわされている。恐らく死ぬまで背負わされ通しでしょう。私は死ぬまでそれを忘れる事ができないんだから。しかし私はまだ復讐ふくしゅうをしずにいる。考えると私は個人に対する復讐以上の事を現にやっているんだ。私は彼らを憎むばかりじゃない、彼らが代表している人間というものを、一般に憎む事を覚えたのだ。私はそれで沢山だと思う」

わたしは、なぐさめの言葉さえ口に出せなかった。

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私は慰藉いしゃの言葉さえ口へ出せなかった。

三十一

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三十一

その日の話も、ついにこれきりで先へ進まずに終わった。

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その日の談話もついにこれぎりで発展せずにしまった。

わたしはむしろ先生の様子に縮み上がって、先へ進む気が起こらなかったのだ。

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わたくしはむしろ先生の態度に畏縮いしゅくして、先へ進む気が起らなかったのである。

二人は町のはずれから電車に乗ったが、車内ではほとんど口をきかなかった。

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二人は市のはずれから電車に乗ったが、車内ではほとんど口を聞かなかった。

電車を降りると、まもなく別れなければならなかった。

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電車を降りると間もなく別れなければならなかった。

別れるときの先生は、また変わっていた。

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別れる時の先生は、また変っていた。

いつもより晴れやかな調子で、「これから六月までは一番気楽な時ですね。ことによると生涯で一番気楽かもしれない。精を出して遊びたまえ」

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常よりは晴やかな調子で、「これから六月までは一番気楽な時ですね。ことによると生涯で一番気楽かも知れない。精出して遊びたまえ」

と言った。

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といった。

わたしは笑って、帽子を取った。

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私は笑って帽子をった。

そのときわたしは先生の顔を見て、先生は本当に心のどこで世の中の人間をにくんでいるのだろうかと疑った。

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その時私は先生の顔を見て、先生ははたして心のどこで、一般の人間を憎んでいるのだろうかとうたぐった。

その目、その口、どこにも世をきらう影はさしていなかった。

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その眼、その口、どこにも厭世的えんせいてきの影はしていなかった。

わたしは考えの上のことについて、大きな得を先生から受けたことを打ち明けておく。

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私は思想上の問題について、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。

しかし同じことについて、得を受けようとしても受けられないことが時々あったと言わなければならない。

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しかし同じ問題について、利益を受けようとしても、受けられない事が間々ままあったといわなければならない。

先生の話は、ときとして意味の分からないまま終わった。

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先生の談話は時として不得要領ふとくようりょうに終った。

その日二人の間に起こった郊外の話も、この意味の分からない一つの例としてわたしの胸の中に残った。

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その日二人の間に起った郊外の談話も、この不得要領の一例として私の胸のうちに残った。

遠慮のないわたしは、あるときついにそれを先生の前で打ち明けた。

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無遠慮な私は、ある時ついにそれを先生の前に打ち明けた。

先生は笑っていた。

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先生は笑っていた。

わたしは、こう言った。

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私はこういった。

「頭が鈍くて意味が分からないのは構いませんが、ちゃんと分かっているくせに、はっきり言ってくれないのは困ります」

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「頭が鈍くて要領を得ないのは構いませんが、ちゃんとわかってるくせに、はっきりいってくれないのは困ります」

「私は何も隠してやしません」

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「私は何にも隠してやしません」

「隠していらっしゃいます」

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「隠していらっしゃいます」

「あなたは私の考えとか意見とかいうものと、私の過去とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませんか。私は大したことのない考えの持ち主ですけれども、自分の頭でまとめ上げた考えをむやみに人に隠しやしません。隠す必要がないんだから。けれども私の過去をすべてあなたの前に語らなくてはならないとなると、それはまた別の問題になります」

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「あなたは私の思想とか意見とかいうものと、私の過去とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませんか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭でまとめ上げた考えをむやみに人に隠しやしません。隠す必要がないんだから。けれども私の過去をことごとくあなたの前に物語らなくてはならないとなると、それはまた別問題になります」

「別の問題とは思われません。先生の過去が生み出した考えだから、私は大事にするのです。二つのものを切り離したら、私にはほとんど値のないものになります。私は魂の入っていない人形を与えられただけでは、満足はできないのです」

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「別問題とは思われません。先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私にはほとんど価値のないものになります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられただけで、満足はできないのです」

先生はあきれたという風に、わたしの顔を見た。

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先生はあきれたといったふうに、私の顔を見た。

たばこを持っていたその手が、少しふるえた。

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巻烟草まきタバコを持っていたその手が少しふるえた。

「あなたは大胆だ」

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「あなたは大胆だ」

「ただ真面目なんです。真面目に人生から教えを受けたいのです」

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「ただ真面目まじめなんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」

「私の過去をあばいてもですか」

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「私の過去をあばいてもですか」

あばくという言葉が、突然恐ろしい響きをもってわたしの耳を打った。

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訐くという言葉が、突然恐ろしいひびきをもって、私の耳を打った。

わたしは今、わたしの前にすわっているのが一人の罪人であって、ふだんから尊敬している先生でないような気がした。

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私は今私の前にすわっているのが、一人の罪人ざいにんであって、不断から尊敬している先生でないような気がした。

先生の顔は、青かった。

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先生の顔はあおかった。

「あなたは本当に真面目なんですか」

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「あなたは本当に真面目なんですか」

と、先生が念を押した。

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と先生が念を押した。

「私は過去のことがあって、人を疑ってばかりいる。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに素直過ぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人でいいから、人を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたは腹の底から真面目ですか」

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「私は過去の因果いんがで、人をうたぐりつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人でいから、ひとを信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」

「もし私の命が真面目なものなら、私の今言ったことも真面目です」

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「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」

わたしの声は、ふるえた。

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私の声は顫えた。

「よろしい」

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「よろしい」

と、先生が言った。

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と先生がいった。

「話しましょう。私の過去を残らずあなたに話してあげましょう。その代わり……。いや、それは構わない。しかし私の過去はあなたにとって、それほどためにならないかもしれませんよ。聞かない方がましかもしれませんよ。それから、――今は話せないんだから、そのつもりでいてください。ふさわしい時が来なくては話さないんだから」

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「話しましょう。私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう。その代り……。いやそれは構わない。しかし私の過去はあなたに取ってそれほど有益でないかも知れませんよ。聞かない方がましかも知れませんよ。それから、――今は話せないんだから、そのつもりでいて下さい。適当の時機が来なくっちゃ話さないんだから」

わたしは下宿へ帰ってからも、一種の重さを感じた。

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私は下宿へ帰ってからも一種の圧迫を感じた。

三十二

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三十二

わたしの論文は、自分が思っていたほどには教授の目によく見えなかったらしい。

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私の論文は自分が評価していたほどに、教授の眼にはよく見えなかったらしい。

それでもわたしは、予定どおり合格した。

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それでも私は予定通り及第した。

卒業式の日、わたしはかび臭くなった古い冬服を行李(こうり。着物を入れる箱)の中から出して着た。

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卒業式の日、私は黴臭かびくさくなった古い冬服を行李こうりの中から出して着た。

式場に並ぶと、どれもこれもみな暑そうな顔ばかりだった。

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式場にならぶと、どれもこれもみな暑そうな顔ばかりであった。

わたしは風の通らない厚いらしゃの下に閉じこめられた自分の体を、もてあました。

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私は風の通らない厚羅紗あつラシャの下に密封された自分の身体からだを持て余した。

しばらく立っているうちに、手に持ったハンカチがぐしょぐしょになった。

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しばらく立っているうちに手に持ったハンケチがぐしょぐしょになった。

わたしは式が済むとすぐ帰って、はだかになった。

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私は式が済むとすぐ帰って裸体はだかになった。

下宿の二階の窓を開けて、望遠鏡のようにぐるぐる巻いた卒業証書の穴から、見えるだけの世の中を見わたした。

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下宿の二階の窓をあけて、遠眼鏡とおめがねのようにぐるぐる巻いた卒業証書の穴から、見えるだけの世の中を見渡した。

それからその卒業証書を、机の上に放り出した。

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それからその卒業証書を机の上に放り出した。

そうして大の字になって、部屋の真ん中に寝そべった。

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そうして大の字なりになって、へやの真中に寝そべった。

わたしは寝ながら、自分の過去を振り返った。

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私は寝ながら自分の過去を顧みた。

また、自分の未来を想像した。

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また自分の未来を想像した。

するとその間に立って一区切りをつけているこの卒業証書というものが、意味のあるような、また意味のないようなへんな紙に思われた。

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するとその間に立って一区切りを付けているこの卒業証書なるものが、意味のあるような、また意味のないような変な紙に思われた。

わたしはその晩、先生の家へごちそうに招かれて行った。

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私はその晩先生の家へ御馳走ごちそうに招かれて行った。

これは、もし卒業したらその日の晩ご飯はよそで食べずに先生の食たくで済ますという、前からの約束だった。

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これはもし卒業したらその日の晩餐ばんさんはよそでわずに、先生の食卓で済ますという前からの約束であった。

食たくは約束どおり、座敷の縁の近くに置かれていた。

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食卓は約束通り座敷のえん近くに据えられてあった。

模様の織り出された厚い、のりの利いたテーブルクロスが、美しくまた清らかに電灯の光を照り返していた。

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模様の織り出された厚いのりこわ卓布テーブルクロースが美しくかつ清らかに電燈の光を射返いかえしていた。

先生の家で食事をすると、決まってこの、西洋料理店で見るような白い麻の布の上に、はしや茶わんが置かれた。

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先生のうちでめしを食うと、きっとこの西洋料理店に見るような白いリンネルの上に、はし茶碗ちゃわんが置かれた。

そうしてそれが、必ず洗い立ての真っ白なものに限られていた。

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そうしてそれが必ず洗濯したての真白まっしろなものに限られていた。

「襟やカフスと同じことさ。汚れたのを使うくらいなら、いっそ初めから色のついたものを使うがいい。白ければ純白でなくては」

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「カラやカフスと同じ事さ。汚れたのを用いるくらいなら、一層いっそはじめから色の着いたものを使うがい。白ければ純白でなくっちゃ」

こう言われてみると、なるほど先生はきれい好きだった。

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こういわれてみると、なるほど先生は潔癖であった。

書さいなども、実にきちんと片づいていた。

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書斎なども実に整然きちりと片付いていた。

だらしないわたしには、先生のそういう特ちょうが時々はっきり目に留まった。

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無頓着むとんじゃくな私には、先生のそういう特色が折々著しく眼に留まった。

「先生は神経質ですね」

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「先生は癇性かんしょうですね」

と前に奥さんに言ったとき、奥さんは「でも着物などは、それほど気にしないようですよ」

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とかつて奥さんに告げた時、奥さんは「でも着物などは、それほど気にしないようですよ」

と答えたことがあった。

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と答えた事があった。

それをそばで聞いていた先生は、「本当を言うと、私は心の方が神経質なんです。それで始終苦しいんです。考えると実に馬鹿馬鹿しい性分だ」

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それをそばに聞いていた先生は、「本当をいうと、私は精神的に癇性なんです。それで始終苦しいんです。考えると実に馬鹿馬鹿ばかばかしい性分しょうぶんだ」

と言って笑った。

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といって笑った。

心の方が神経質という意味は、よく言う神経質という意味か、または正しさについてきれい好きだという意味か、わたしには分からなかった。

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精神的に癇性という意味は、俗にいう神経質という意味か、または倫理的に潔癖だという意味か、私にはわからなかった。

奥さんにも、よく通じないらしかった。

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奥さんにもく通じないらしかった。

その晩、わたしは先生と向かい合わせに、例の白い布の前にすわった。

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その晩私は先生と向い合せに、例の白い卓布たくふの前にすわった。

奥さんは二人を左右に置いて、一人庭の方を正面にして席についた。

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奥さんは二人を左右に置いて、ひとり庭の方を正面にして席を占めた。

「おめでとう」

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「お目出とう」

と言って、先生がわたしのためにさかずきを上げてくれた。

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といって、先生が私のためにさかずきを上げてくれた。

わたしはこのさかずきに対して、それほどうれしい気持ちを起こさなかった。

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私はこのさかずきに対してそれほどうれしい気を起さなかった。

もちろんわたし自身の心が、この言葉に応えて飛び上がるようなうれしさを持っていなかったのが、一つの原因だった。

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無論私自身の心がこの言葉に反響するように、飛び立つ嬉しさをもっていなかったのが、一つの源因げんいんであった。

けれども先生の言い方も、決してわたしのうれしさをかき立てる浮き浮きした調子ではなかった。

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けれども先生のいい方も決して私のうれしさをそそ浮々うきうきした調子を帯びていなかった。

先生は笑って、さかずきを上げた。

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先生は笑ってさかずきを上げた。

わたしはその笑いのうちに、少しも意地の悪いひにくを感じなかった。

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私はその笑いのうちに、ちっとも意地の悪いアイロニーを認めなかった。

同時に、めでたいという本当の気持ちも受け取ることができなかった。

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同時に目出たいという真情もみ取る事ができなかった。

先生の笑いは、「世間はこんな場合によくおめでとうと言いたがるものですね」

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先生の笑いは、「世間はこんな場合によくお目出とうといいたがるものですね」

と、わたしに語っていた。

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と私に物語っていた。

奥さんはわたしに「結構ね。さぞお父さんやお母さんはお喜びでしょう」

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奥さんは私に「結構ね。さぞおとうさんやおかあさんはお喜びでしょう」

と言ってくれた。

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といってくれた。

わたしはとつぜん、病気の父のことを考えた。

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私は突然病気の父の事を考えた。

早くあの卒業証書を持って行って見せてやろうと思った。

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早くあの卒業証書を持って行って見せてやろうと思った。

「先生の卒業証書はどうしました」

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「先生の卒業証書はどうしました」

と、わたしが聞いた。

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と私が聞いた。

「どうしたかね。――まだどこかにしまってあったかね」

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「どうしたかね。――まだどこかにしまってあったかね」

と、先生が奥さんに聞いた。

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と先生が奥さんに聞いた。

「ええ、たしかしまってあるはずですが」

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「ええ、たしかしまってあるはずですが」

卒業証書がどこにあるか、二人ともよく知らなかった。

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卒業証書の在処ありどころは二人ともよく知らなかった。

三十三

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三十三

ご飯になったとき、奥さんはそばにすわっているお手伝いをとなりの部屋へ立たせて、自分で給仕の役をした。

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めしになった時、奥さんはそばすわっている下女げじょを次へ立たせて、自分で給仕きゅうじの役をつとめた。

これが、かたくるしくないお客に対する先生の家のやり方らしかった。

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これが表立たない客に対する先生の家の仕来しきたりらしかった。

初めの一、二回はわたしも気づまりだったが、回数が重なるにつれて、茶わんを奥さんの前へ出すのが何でもなくなった。

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始めの一、二回はわたくしも窮屈を感じたが、度数の重なるにつけ、茶碗ちゃわんを奥さんの前へ出すのが、何でもなくなった。

「お茶。ご飯。ずいぶんよく食べるのね」

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「お茶? ごはん? ずいぶんよく食べるのね」

奥さんの方でも、思い切って遠慮のないことを言うことがあった。

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奥さんの方でも思い切って遠慮のない事をいうことがあった。

しかしその日は季節が季節なので、そんなにからかわれるほど食よくが出なかった。

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しかしその日は、時候が時候なので、そんなに調戯からかわれるほど食欲が進まなかった。

「もうおしまい。あなた、近ごろ大変小食になったのね」

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「もうおしまい。あなた近頃ちかごろ大変小食しょうしょくになったのね」

「小食になったんじゃありません。暑いので食べられないんです」

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「小食になったんじゃありません。暑いんで食われないんです」

奥さんはお手伝いを呼んで食たくを片づけさせたあとへ、改めてアイスクリームと果物を運ばせた。

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奥さんは下女を呼んで食卓を片付けさせた後へ、改めてアイスクリームと水菓子みずがしを運ばせた。

「これは家でこしらえたのよ」

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「これはうちこしらえたのよ」

用のない奥さんには、手作りのアイスクリームをお客にふるまうだけの余裕があると見えた。

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用のない奥さんには、手製のアイスクリームを客に振舞ふるまうだけの余裕があると見えた。

わたしはそれを、二杯おかわりした。

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私はそれを二杯えてもらった。

「君もいよいよ卒業したが、これから何をする気ですか」

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「君もいよいよ卒業したが、これから何をする気ですか」

と、先生が聞いた。

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と先生が聞いた。

先生は半分縁側の方へ席をずらして、敷居際で背中を障子にもたせていた。

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先生は半分縁側の方へ席をずらして、敷居際しきいぎわで背中を障子しょうじたせていた。

わたしにはただ卒業したという思いがあるだけで、これから何をしようという目当てもなかった。

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私にはただ卒業したという自覚があるだけで、これから何をしようという目的あてもなかった。

返事にためらっているわたしを見たとき、奥さんは「教師」

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返事にためらっている私を見た時、奥さんは「教師?」

と聞いた。

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と聞いた。

それにも答えずにいると、今度は「じゃ、お役人」

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それにも答えずにいると、今度は、「じゃお役人やくにん?」

と、また聞かれた。

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とまた聞かれた。

わたしも先生も、笑い出した。

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私も先生も笑い出した。

「本当を言うと、まだ何をする考えもないんです。実は仕事というものについて、まったく考えたことがないくらいなんですから。だいいち、どれがよくてどれが悪いか、自分がやってみた上でないと分からないんだから、選ぶのに困る訳だと思います」

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「本当いうと、まだ何をする考えもないんです。実は職業というものについて、全く考えた事がないくらいなんですから。だいちどれがいか、どれが悪いか、自分がやって見た上でないとわからないんだから、選択に困る訳だと思います」

「それもそうね。けれどもあなたは、つまり財産があるからそんなのんきなことを言っていられるのよ。これが困る人をご覧なさい。なかなかあなたのように落ち着いてはいられないから」

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「それもそうね。けれどもあなたは必竟ひっきょう財産があるからそんな呑気のんきな事をいっていられるのよ。これが困る人でご覧なさい。なかなかあなたのように落ち付いちゃいられないから」

わたしの友達には、卒業しない前から中学の先生の口を探している人があった。

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私の友達には卒業しない前から、中学教師の口を探している人があった。

わたしは心の中で、奥さんの言うことを認めた。

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私は腹の中で奥さんのいう事実を認めた。

しかし、こう言った。

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しかしこういった。

「少し先生に染まったんでしょう」

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「少し先生にかぶれたんでしょう」

「ろくな染まり方をしてくださらないのね」

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ろくなかぶれ方をして下さらないのね」

先生は、苦笑いした。

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先生は苦笑した。

「染まっても構わないから、その代わりこの間言ったとおり、お父さんが生きているうちに相当の財産を分けてもらっておおきなさい。それでないと決して油断はならない」

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「かぶれても構わないから、その代りこの間いった通り、お父さんの生きてるうちに、相当の財産を分けてもらってお置きなさい。それでないと決して油断はならない」

わたしは先生といっしょに、郊外の植木屋の広い庭の奥で話した、あのつつじのさいている五月の初めを思い出した。

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私は先生といっしょに、郊外の植木屋の広い庭の奥で話した、あの躑躅つつじの咲いている五月の初めを思い出した。

あのときの帰り道に、先生が興奮した言い方でわたしに語った強い言葉を、また耳の底でくり返した。

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あの時帰りみちに、先生が昂奮こうふんした語気で、私に物語った強い言葉を、再び耳の底で繰り返した。

それは強いばかりでなく、むしろすさまじい言葉だった。

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それは強いばかりでなく、むしろすごい言葉であった。

けれども事実を知らないわたしには、同時に底まで分からない言葉でもあった。

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けれども事実を知らない私には同時に徹底しない言葉でもあった。

「奥さん、お宅の財産はよほどあるんですか」

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「奥さん、おたくの財産はよッぽどあるんですか」

「何だってそんなことをお聞きになるの」

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「何だってそんな事をお聞きになるの」

「先生に聞いても教えてくださらないから」

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「先生に聞いても教えて下さらないから」

奥さんは笑いながら、先生の顔を見た。

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奥さんは笑いながら先生の顔を見た。

「教えてあげるほどないからでしょう」

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「教えて上げるほどないからでしょう」

「でも、どのくらいあったら先生のようにしていられるか、家へ帰って一つ父に話す時の参考にしますから、聞かせてください」

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「でもどのくらいあったら先生のようにしていられるか、うちへ帰って一つ父に談判する時の参考にしますから聞かして下さい」

先生は庭の方を向いて、すましてたばこを吸っていた。

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先生は庭の方を向いて、澄まして烟草タバコを吹かしていた。

相手は自然、奥さんでなければならなかった。

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相手は自然奥さんでなければならなかった。

「どのくらいってほどありゃしませんわ。まあこうしてどうにか暮らしてゆかれるだけよ、あなた。――それはどうでもいいとして、あなたはこれから何かなさらなくては本当にいけませんよ。先生のようにごろごろばかりしていては……」

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「どのくらいってほどありゃしませんわ。まあこうしてどうかこうか暮してゆかれるだけよ、あなた。――そりゃどうでもいとして、あなたはこれから何かさらなくっちゃ本当にいけませんよ。先生のようにごろごろばかりしていちゃ……」

「ごろごろばかりしていやしないさ」

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「ごろごろばかりしていやしないさ」

先生はちょっと顔だけ向け直して、奥さんの言葉を打ち消した。

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先生はちょっと顔だけ向け直して、奥さんの言葉を否定した。

三十四

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三十四

わたしはその夜、十時過ぎに先生の家を出た。

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わたくしはその夜十時過ぎに先生の家を辞した。

二、三日のうちに故郷へ帰るはずになっていたので、席を立つ前にわたしはちょっと別れのあいさつを述べた。

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二、三日うちに帰国するはずになっていたので、座を立つ前に私はちょっと暇乞いとまごいの言葉を述べた。

「またしばらくお目にかかれませんから」

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「また当分お目にかかれませんから」

「九月には出ていらっしゃるんでしょうね」

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「九月には出ていらっしゃるんでしょうね」

わたしはもう卒業したのだから、必ず九月に出て来る必要もなかった。

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私はもう卒業したのだから、必ず九月に出て来る必要もなかった。

しかし暑い盛りの八月を東京まで来て過ごそうとも考えていなかった。

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しかし暑い盛りの八月を東京まで来て送ろうとも考えていなかった。

わたしには、仕事を探すための大事な時間というものがなかった。

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私には位置を求めるための貴重な時間というものがなかった。

「まあ九月ごろになるでしょう」

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「まあ九月ごろになるでしょう」

「じゃ、ずいぶんご機嫌よう。私たちもこの夏はことによると、どこかへ行くかもしれないのよ。ずいぶん暑そうだから。行ったらまた絵葉書でも送ってあげましょう」

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「じゃずいぶんご機嫌きげんよう。私たちもこの夏はことによるとどこかへ行くかも知れないのよ。ずいぶん暑そうだから。行ったらまた絵端書えはがきでも送って上げましょう」

「どちらの方です。もしいらっしゃるとすれば」

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「どちらの見当です。もしいらっしゃるとすれば」

先生はこのやり取りを、にやにや笑って聞いていた。

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先生はこの問答をにやにや笑って聞いていた。

「なに、まだ行くとも行かないとも決めていやしないんです」

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「何まだ行くとも行かないともめていやしないんです」

席を立とうとしたとき、先生は急にわたしを引き止めて、「ときに、お父さんの病気はどうなんです」

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席を立とうとした時、先生は急に私をつらまえて、「時にお父さんの病気はどうなんです」

と聞いた。

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と聞いた。

わたしは父の体について、ほとんど何も知らなかった。

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私は父の健康についてほとんど知るところがなかった。

何とも言って来ない以上、悪くはないのだろうくらいに考えていた。

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何ともいって来ない以上、悪くはないのだろうくらいに考えていた。

「そんなに簡単に考えられる病気じゃありませんよ。尿毒症(にょうどくしょう。体の中の毒が出せなくなる状態)が出ると、もう駄目なんだから」

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「そんなに容易たやすく考えられる病気じゃありませんよ。尿毒症にょうどくしょうが出ると、もう駄目だめなんだから」

尿毒症という言葉も意味も、わたしには分からなかった。

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尿毒症という言葉も意味も私にはわからなかった。

この前の冬休みに国で医者と会ったとき、わたしはそんな専門の言葉をまるで聞かなかった。

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この前の冬休みに国で医者と会見した時に、私はそんな術語をまるで聞かなかった。

「本当に大事にしてあげなさいよ」

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「本当に大事にしてお上げなさいよ」

と、奥さんも言った。

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と奥さんもいった。

「毒が脳へ回るようになると、もうそれっきりよ、あなた。笑い事じゃないわ」

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「毒が脳へまわるようになると、もうそれっきりよ、あなた。笑い事じゃないわ」

経験のないわたしは、気味を悪がりながらもにやにやしていた。

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無経験な私は気味を悪がりながらも、にやにやしていた。

「どうせ助からない病気だそうですから、いくら心配したって仕方がありません」

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「どうせ助からない病気だそうですから、いくら心配したって仕方がありません」

「そう思い切りよく考えれば、それまでですけれども」

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「そう思い切りよく考えれば、それまでですけれども」

奥さんは、昔同じ病気で死んだという自分の母のことでも思い出したのか、沈んだ調子でこう言ったまま下を向いた。

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奥さんは昔同じ病気で死んだという自分のお母さんの事でもおもい出したのか、沈んだ調子でこういったなり下を向いた。

わたしも、父の運命が本当に気の毒になった。

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私も父の運命が本当に気の毒になった。

すると先生が、とつぜん奥さんの方を向いた。

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すると先生が突然奥さんの方を向いた。

「静、お前はおれより先へ死ぬだろうかね」

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しず、お前はおれより先へ死ぬだろうかね」

「なぜ」

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「なぜ」

「なぜでもない、ただ聞いてみるのさ。それとも、おれの方がお前より前に片づくかな。たいてい世間じゃ、旦那が先で細君があとへ残るのが当たり前のようになってるね」

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「なぜでもない、ただ聞いてみるのさ。それともおれの方がお前より前に片付くかな。大抵世間じゃ旦那だんなが先で、細君さいくんが後へ残るのが当り前のようになってるね」

「そう決まった訳でもないわ。けれども男の方はどうしても、ほら、年が上でしょう」

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「そうきまった訳でもないわ。けれども男のほうはどうしても、そら年が上でしょう」

「だから先へ死ぬという理屈なのかね。するとおれも、お前より先にあの世へ行かなくてはならないことになるね」

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「だから先へ死ぬという理屈なのかね。すると己もお前より先にあの世へ行かなくっちゃならない事になるね」

「あなたは特別よ」

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「あなたは特別よ」

「そうかね」

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「そうかね」

「だって丈夫なんですもの。ほとんど病気をしたためしがないじゃありませんか。それはどうしたって私の方が先だわ」

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「だって丈夫なんですもの。ほとんどわずらったためしがないじゃありませんか。そりゃどうしたって私の方が先だわ」

「先かな」

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「先かな」

「ええ、きっと先よ」

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「え、きっと先よ」

先生は、わたしの顔を見た。

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先生は私の顔を見た。

わたしは笑った。

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私は笑った。

「しかしもし、おれの方が先へ行くとするね。そうしたらお前どうする」

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「しかしもしおれの方が先へ行くとするね。そうしたらお前どうする」

「どうするって……」

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「どうするって……」

奥さんは、そこで口ごもった。

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奥さんはそこで口籠くちごもった。

先生が死ぬことを想像した悲しみが、ちょっと奥さんの胸をおそったらしかった。

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先生の死に対する想像的な悲哀が、ちょっと奥さんの胸を襲ったらしかった。

けれども再び顔を上げたときは、もう気分を変えていた。

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けれども再び顔をあげた時は、もう気分をえていた。

「どうするって、仕方がないわ、ねえあなた。老少不定(ろうしょうふじょう。年を取った人が先に死ぬとは決まっていない)っていうくらいだから」

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「どうするって、仕方がないわ、ねえあなた。老少不定ろうしょうふじょうっていうくらいだから」

奥さんはわざとわたしの方を見て、冗談らしくこう言った。

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奥さんはことさらに私の方を見て笑談じょうだんらしくこういった。

三十五

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三十五

わたしは立ちかけた腰をまた下ろして、話の区切りがつくまで二人の相手になっていた。

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わたくしは立て掛けた腰をまたおろして、話の区切りの付くまで二人の相手になっていた。

「君はどう思います」

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「君はどう思います」

と、先生が聞いた。

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と先生が聞いた。

先生が先に死ぬか、奥さんが早く亡くなるか、もとよりわたしに判断のつく問題ではなかった。

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先生が先へ死ぬか、奥さんが早く亡くなるか、もとより私に判断のつくべき問題ではなかった。

わたしは、ただ笑っていた。

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私はただ笑っていた。

「寿命は分かりませんね。私にも」

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「寿命は分りませんね。私にも」

「これだけは本当に寿命ですからね。生まれた時にちゃんと決まった年数をもらって来るんだから、仕方がないわ。先生のお父さんやお母さんなんか、ほとんど同じよ、あなた、亡くなったのが」

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「こればかりは本当に寿命ですからね。生れた時にちゃんときまった年数をもらって来るんだから仕方がないわ。先生のおとうさんやお母さんなんか、ほとんどおんなじよ、あなた、亡くなったのが」

「亡くなられた日がですか」

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「亡くなられた日がですか」

「まさか日まで同じじゃないけれども。でもまあ同じよ。だって続いて亡くなってしまったんですもの」

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「まさか日まで同じじゃないけれども。でもまあ同じよ。だって続いて亡くなっちまったんですもの」

この話は、わたしにとって新しいものだった。

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この知識は私にとって新しいものであった。

わたしは不思議に思った。

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私は不思議に思った。

「どうしてそう一度に亡くなられたんですか」

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「どうしてそう一度に死なれたんですか」

奥さんは、わたしの問いに答えようとした。

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奥さんは私の問いに答えようとした。

先生は、それをさえぎった。

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先生はそれをさえぎった。

「そんな話はよしなさい。つまらないから」

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「そんな話はおしよ。つまらないから」

先生は手に持ったうちわを、わざとばたばたいわせた。

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先生は手に持った団扇うちわをわざとばたばたいわせた。

そうして、また奥さんを振り返った。

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そうしてまた奥さんを顧みた。

「静、おれが死んだら、この家をお前にやろう」

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しず、おれが死んだらこのうちをお前にやろう」

奥さんは、笑い出した。

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奥さんは笑い出した。

「ついでに地面もくださいよ」

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「ついでに地面も下さいよ」

「地面は人のものだから仕方がない。その代わり、おれの持っているものはみんなお前にやるよ」

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「地面はひとのものだから仕方がない。その代りおれの持ってるものはみんなお前にやるよ」

「どうもありがとう。けれども横文字の本なんかもらっても仕方がないわね」

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「どうも有難う。けれども横文字の本なんかもらっても仕様がないわね」

「古本屋に売るさ」

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「古本屋に売るさ」

「売ればいくらぐらいになって」

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「売ればいくらぐらいになって」

先生は、いくらとも言わなかった。

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先生はいくらともいわなかった。

けれども先生の話は、なかなか自分の死という遠い問題を離れなかった。

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けれども先生の話は、容易に自分の死という遠い問題を離れなかった。

そうしてその死は、必ず奥さんの前に来るものと決めてかかっていた。

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そうしてその死は必ず奥さんの前に起るものと仮定されていた。

奥さんも最初のうちは、わざとたいしたことのない受け答えをしているらしく見えた。

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奥さんも最初のうちは、わざとたわいのない受け答えをしているらしく見えた。

それがいつの間にか、感じやすい女の心を重苦しくした。

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それがいつの間にか、感傷的な女の心を重苦しくした。

「おれが死んだら、おれが死んだらって、まあ何度おっしゃるの。お願いだからもういいかげんにして、おれが死んだらはやめてちょうだい。縁起でもない。あなたが死んだら、何でもあなたの思いどおりにしてあげるから、それでいいじゃありませんか」

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「おれが死んだら、おれが死んだらって、まあ何遍なんべんおっしゃるの。後生ごしょうだからもうい加減にして、おれが死んだらはして頂戴ちょうだい縁喜えんぎでもない。あなたが死んだら、何でもあなたの思い通りにして上げるから、それで好いじゃありませんか」

先生は庭の方を向いて、笑った。

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先生は庭の方を向いて笑った。

しかしそれきり、奥さんのいやがることを言わなくなった。

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しかしそれぎり奥さんのいやがる事をいわなくなった。

わたしもあまり長くなるので、すぐ席を立った。

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私もあまり長くなるので、すぐ席を立った。

先生と奥さんは、玄関まで送って出た。

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先生と奥さんは玄関まで送って出た。

「ご病人をお大事に」

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「ご病人をお大事だいじに」

と、奥さんが言った。

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と奥さんがいった。

「また九月に」

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「また九月に」

と、先生が言った。

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と先生がいった。

わたしはあいさつをして、こう子戸の外へ足を出した。

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私は挨拶あいさつをして格子こうしの外へ足を踏み出した。

玄関と門の間にあるこんもりした木せい(もくせい。秋にいいかおりの花がさく木)の一株が、わたしの行く手をふさぐように、夜の暗さの中に枝を広げていた。

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玄関と門の間にあるこんもりした木犀もくせい一株ひとかぶが、私の行手ゆくてふさぐように、夜陰やいんのうちに枝を張っていた。

わたしは二、三歩動き出しながら、黒ずんだ葉におおわれているそのこずえを見て、来るはずの秋の花とかおりを思いうかべた。

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私は二、三歩動き出しながら、黒ずんだ葉におおわれているそのこずえを見て、来たるべき秋の花と香をおもい浮べた。

わたしは先生の家とこの木せいとを、前から心のうちで切り離せないもののように、いっしょに覚えていた。

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私は先生のうちとこの木犀とを、以前から心のうちで、離す事のできないもののように、いっしょに記憶していた。

わたしがたまたまその木の前に立って、また次の秋にこの家の玄関をくぐるはずのことに思いをはせたとき、今までこう子戸の間からさしていた玄関の電灯がふっと消えた。

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私が偶然そのの前に立って、再びこの宅の玄関をまたぐべき次の秋に思いをせた時、今まで格子の間からしていた玄関の電燈がふっと消えた。

先生夫婦は、それきり奥へ入ったらしかった。

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先生夫婦はそれぎり奥へはいったらしかった。

わたしは一人、暗い表へ出た。

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私は一人暗い表へ出た。

わたしはすぐ下宿へは戻らなかった。

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私はすぐ下宿へは戻らなかった。

国へ帰る前にそろえる買い物もあったし、ごちそうをつめた胃にゆとりを与える必要もあったので、ただにぎやかな町の方へ歩いて行った。

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国へ帰る前に調ととのえる買物もあったし、ご馳走ちそうを詰めた胃袋にくつろぎを与える必要もあったので、ただにぎやかな町の方へ歩いて行った。

町は、まだ夕方の早いころだった。

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町はまだ宵の口であった。

用事もなさそうな男女がぞろぞろ動く中で、わたしは今日わたしといっしょに卒業した何とかいう男に会った。

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用事もなさそうな男女なんにょがぞろぞろ動く中に、私は今日私といっしょに卒業したなにがしに会った。

彼はわたしを無理やり、ある酒場へ連れこんだ。

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彼は私を無理やりにある酒場バーへ連れ込んだ。

わたしはそこで、ビールのあわのような彼の大きな話を聞かされた。

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私はそこで麦酒ビールの泡のような彼の気燄きえんを聞かされた。

わたしが下宿へ帰ったのは、十二時過ぎだった。

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私の下宿へ帰ったのは十二時過ぎであった。

三十六

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三十六

わたしはその翌日も暑さをおして、頼まれた物を買い集めて歩いた。

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わたくしはその翌日よくじつも暑さをおかして、頼まれものを買い集めて歩いた。

手紙で注文を受けたときは何でもないように考えていたのが、いざとなると大変めんどうに感じられた。

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手紙で注文を受けた時は何でもないように考えていたのが、いざとなると大変臆劫おっくうに感ぜられた。

わたしは電車の中で汗をふきながら、人の時間と手間に気の毒という思いをまるで持っていない田舎の人をにくらしく思った。

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私は電車の中で汗をきながら、ひとの時間と手数に気の毒という観念をまるでもっていない田舎者いなかものを憎らしく思った。

わたしは、このひと夏を何もせずに過ごす気はなかった。

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私はこの一夏ひとなつを無為に過ごす気はなかった。

国へ帰ってからの予定というようなものを前もって作っておいたので、それを実行するのに必要な本も手に入れなければならなかった。

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国へ帰ってからの日程というようなものをあらかじめ作っておいたので、それを履行りこうするに必要な書物も手に入れなければならなかった。

わたしは半日を丸善の二階でつぶす覚悟でいた。

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私は半日を丸善まるぜんの二階でつぶす覚悟でいた。

わたしは自分に関係の深い分野の本だなの前に立って、隅から隅まで一冊ずつ調べて行った。

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私は自分に関係の深い部門の書籍棚の前に立って、隅から隅まで一冊ずつ点検して行った。

買い物のうちで一番わたしを困らせたのは、女物の半えりだった。

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買物のうちで一番私を困らせたのは女の半襟はんえりであった。

店の若い人に言うといくらでも出してはくれるが、さてどれを選んでいいのか、買う段になってはただ迷うだけだった。

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小僧にいうと、いくらでも出してはくれるが、さてどれを選んでいいのか、買う段になっては、ただ迷うだけであった。

その上、値段がまったく定まらなかった。

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その上あたいきわめて不定であった。

安いだろうと思って聞くととても高かったり、高いだろうと考えて聞かずにいると、かえって大変安かったりした。

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安かろうと思って聞くと、非常に高かったり、高かろうと考えて、聞かずにいると、かえって大変安かったりした。

あるいは、いくら比べてみても、どこから値段のちがいが出るのか見当のつかないものもあった。

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あるいはいくら比べて見ても、どこから価格の差違が出るのか見当の付かないのもあった。

わたしは、まったく弱らされた。

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私は全く弱らせられた。

そうして心のうちで、なぜ先生の奥さんに手をわずらわせなかったかを後悔した。

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そうして心のうちで、なぜ先生の奥さんをわずらわさなかったかを悔いた。

わたしは、かばんを買った。

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私はかばんを買った。

もちろん国産のそまつな品に過ぎなかったが、それでも金具などがぴかぴかしているので、田舎の人を驚かすには十分だった。

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無論和製の下等な品に過ぎなかったが、それでも金具やなどがぴかぴかしているので、田舎ものを威嚇おどかすには充分であった。

このかばんを買うということは、わたしの母の注文だった。

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この鞄を買うという事は、私の母の注文であった。

卒業したら新しいかばんを買って、その中に全部のみやげ物を入れて帰るようにと、わざわざ手紙の中に書いてあった。

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卒業したら新しい鞄を買って、そのなかに一切いっさい土産みやげものを入れて帰るようにと、わざわざ手紙の中に書いてあった。

わたしはその文句を読んだとき、笑い出した。

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私はその文句を読んだ時に笑い出した。

わたしには母の考えが分からないというよりも、その言葉が一種のおかしさとして感じられたのだ。

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私には母の料簡りょうけんわからないというよりも、その言葉が一種の滑稽こっけいとして訴えたのである。

わたしは別れのあいさつをするとき先生夫婦に言ったとおり、それから三日目の汽車で東京を出て国へ帰った。

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私は暇乞いとまごいをする時先生夫婦に述べた通り、それから三日目の汽車で東京を立って国へ帰った。

この冬から、父の病気について先生からいろいろの注意を受けたわたしは、一番心配しなければならない立場にいながら、どういうものか、それが大して気にならなかった。

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この冬以来父の病気について先生から色々の注意を受けた私は、一番心配しなければならない地位にありながら、どういうものか、それが大して苦にならなかった。

わたしはむしろ、父がいなくなったあとの母を想像して気の毒に思った。

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私はむしろ父がいなくなったあとの母を想像して気の毒に思った。

そのくらいだから、わたしは心のどこかで、父はもう亡くなるものと覚悟していたに違いなかった。

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そのくらいだから私は心のどこかで、父はすでに亡くなるべきものと覚悟していたに違いなかった。

九州にいる兄へ出した手紙の中にも、わたしは父がとうてい元のような健康な体になる見こみのないことを書いた。

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九州にいる兄へやった手紙のなかにも、私は父の到底とてももとのような健康体になる見込みのない事を述べた。

一度などは、仕事の都合もあろうが、できるなら都合をつけてこの夏ぐらい一度顔だけでも見に帰ったらどうだとまで書いた。

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一度などは職務の都合もあろうが、できるなら繰り合せてこの夏ぐらい一度顔だけでも見に帰ったらどうだとまで書いた。

その上、年寄りが二人きりで田舎にいるのはさぞ心細いだろう、わたしたちも子として残念でならない、というような気持ちのこもった言葉さえ使った。

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その上年寄が二人ぎりで田舎にいるのはさだめて心細いだろう、我々も子として遺憾いかんいたりであるというような感傷的な文句さえ使った。

わたしは実際、心にうかぶままを書いた。

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私は実際心に浮ぶままを書いた。

けれども書いたあとの気分は、書いたときとはちがっていた。

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けれども書いたあとの気分は書いた時とは違っていた。

わたしはそうした食いちがいを、汽車の中で考えた。

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私はそうした矛盾を汽車の中で考えた。

考えているうちに、自分が自分に、気の変わりやすい軽い人間のように思われて来た。

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考えているうちに自分が自分に気の変りやすい軽薄もののように思われて来た。

わたしは、不愉快になった。

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私は不愉快になった。

わたしはまた、先生夫婦のことを思いうかべた。

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私はまた先生夫婦の事をおもい浮べた。

特に二、三日前、晩ご飯に呼ばれたときの会話を思い出した。

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ことに二、三日前晩食ばんめしに呼ばれた時の会話をおもい出した。

「どっちが先へ死ぬだろう」

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「どっちが先へ死ぬだろう」

わたしはその晩、先生と奥さんの間に出たこの問いを、一人口の中でくり返してみた。

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私はその晩先生と奥さんの間に起った疑問をひとり口の内で繰り返してみた。

そうしてこの問いには、だれも自信をもって答えることができないのだと思った。

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そうしてこの疑問には誰も自信をもって答える事ができないのだと思った。

しかしどちらが先に死ぬとはっきり分かっていたなら、先生はどうするだろう。

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しかしどっちが先へ死ぬと判然はっきり分っていたならば、先生はどうするだろう。

奥さんはどうするだろう。

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奥さんはどうするだろう。

先生も奥さんも、今のような態度でいるよりほかに仕方がないだろうと思った。

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先生も奥さんも、今のような態度でいるよりほかに仕方がないだろうと思った。

(死に近づきつつある父を国もとにかかえながら、このわたしがどうすることもできないように)

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(死に近づきつつある父を国元に控えながら、この私がどうする事もできないように)。

わたしは、人間をはかないものと見た。

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私は人間を果敢はかないものに観じた。

人間のどうすることもできない、生まれつきの軽さを、はかないものと見た。

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人間のどうする事もできない持って生れた軽薄を、果敢ないものに観じた。

中 両親とわたし

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中 両親と私

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家へ帰って思いがけなかったのは、父の元気がこの前見たときと大して変わっていないことだった。

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うちへ帰って案外に思ったのは、父の元気がこの前見た時と大して変っていない事であった。

「ああ帰ったかい。そうか、それでも卒業ができてまあ結構だった。ちょっと待て、今顔を洗って来るから」

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「ああ帰ったかい。そうか、それでも卒業ができてまあ結構だった。ちょっとお待ち、今顔を洗って来るから」

父は庭へ出て、何かしているところだった。

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父は庭へ出て何かしていたところであった。

古い麦わら帽子の後ろへ、日よけのために結びつけたうす汚いハンカチをひらひらさせながら、井戸のある裏手の方へ回って行った。

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古い麦藁帽むぎわらぼうの後ろへ、日除ひよけのためにくくり付けた薄汚うすぎたないハンケチをひらひらさせながら、井戸のある裏手の方へまわって行った。

学校を卒業するのをふつうの人間として当たり前のように考えていたわたしは、それを思った以上に喜んでくれる父の前で、きょうしゅくした。

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学校を卒業するのを普通の人間として当然のように考えていたわたくしは、それを予期以上に喜んでくれる父の前に恐縮した。

「卒業ができてまあ結構だ」

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「卒業ができてまあ結構だ」

父は、この言葉を何度もくり返した。

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父はこの言葉を何遍なんべんも繰り返した。

わたしは心のうちで、この父の喜びと、卒業式のあった晩に先生の家の食たくで「おめでとう」

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私は心のうちでこの父の喜びと、卒業式のあった晩先生のうちの食卓で、「お目出とう」

と言われたときの先生の顔つきとを比べた。

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といわれた時の先生の顔付かおつきとを比較した。

わたしには、口で祝ってくれながら腹の底でけなしている先生の方が、それほどでもないものをめずらしそうに喜ぶ父よりも、かえって上品に見えた。

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私には口で祝ってくれながら、腹の底でけなしている先生の方が、それほどにもないものを珍しそうにうれしがる父よりも、かえって高尚に見えた。

わたしはしまいに、父が何も知らないことから出る田舎くさいところに、不快を感じ出した。

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私はしまいに父の無知から出る田舎臭いなかくさいところに不快を感じ出した。

「大学ぐらい卒業したって、それほど結構でもありません。卒業する者は毎年何百人だっています」

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「大学ぐらい卒業したって、それほど結構でもありません。卒業するものは毎年何百人だってあります」

わたしはついに、こんな口のきき方をした。

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私はついにこんな口のきようをした。

すると父が、へんな顔をした。

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すると父が変な顔をした。

「何も卒業したから結構とばかり言うんじゃない。それは卒業は結構に違いないが、おれの言うのはもう少し意味があるんだ。それがお前に分かっていてくれさえすれば……」

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「何も卒業したから結構とばかりいうんじゃない。そりゃ卒業は結構に違いないが、おれのいうのはもう少し意味があるんだ。それがお前にわかっていてくれさえすれば、……」

わたしは、父からその続きを聞こうとした。

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私は父からそのあとを聞こうとした。

父は話したくなさそうだったが、とうとうこう言った。

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父は話したくなさそうであったが、とうとうこういった。

「つまり、おれが結構ということになるのさ。おれはお前の知っているとおりの病気だろう。去年の冬お前に会った時、ことによるともう三か月か四か月ぐらいのものだろうと思っていたのさ。それがどういう幸せか、今日までこうしている。起き伏しに不自由なくこうしている。そこへお前が卒業してくれた。だから嬉しいのさ。せっかく手をかけて育てた息子が、自分のいなくなったあとで卒業してくれるよりも、丈夫なうちに学校を出てくれる方が、親の身になれば嬉しいだろうじゃないか。大きな考えを持っているお前から見たら、たかが大学を卒業したぐらいで結構だ結構だと言われるのは、あまり面白くもないだろう。しかしおれの方から見てごらん、立場が少し違っているよ。つまり卒業は、お前にとってよりこのおれにとって結構なんだ。分かったかい」

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「つまり、おれが結構という事になるのさ。おれはお前の知ってる通りの病気だろう。去年の冬お前に会った時、ことによるともう三月みつき四月よつきぐらいなものだろうと思っていたのさ。それがどういう仕合しあわせか、今日までこうしている。起居たちいに不自由なくこうしている。そこへお前が卒業してくれた。だからうれしいのさ。せっかく丹精たんせいした息子が、自分のいなくなったあとで卒業してくれるよりも、丈夫なうちに学校を出てくれる方が親の身になればうれしいだろうじゃないか。大きな考えをもっているお前から見たら、たかが大学を卒業したぐらいで、結構だ結構だといわれるのは余り面白くもないだろう。しかしおれの方から見てご覧、立場が少し違っているよ。つまり卒業はお前に取ってより、このおれに取って結構なんだ。解ったかい」

わたしは、一言もなかった。

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私は一言いちごんもなかった。

わびる以上にきょうしゅくして、うつむいていた。

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あやまる以上に恐縮して俯向うつむいていた。

父は平気なうちに、自分の死を覚悟していたものと見える。

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父は平気なうちに自分の死を覚悟していたものとみえる。

しかもわたしが卒業する前に死ぬだろうと思い決めていたと見える。

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しかも私の卒業する前に死ぬだろうと思い定めていたとみえる。

その卒業が父の心にどのくらい響くかも考えずにいたわたしは、まったくおろか者だった。

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その卒業が父の心にどのくらい響くかも考えずにいた私は全くおろかものであった。

わたしはかばんの中から卒業証書を取り出して、それを大事そうに父と母に見せた。

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私はかばんの中から卒業証書を取り出して、それを大事そうに父と母に見せた。

証書は何かに押しつぶされて、元の形を失っていた。

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証書は何かにつぶされて、元の形を失っていた。

父はそれを、ていねいにのばした。

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父はそれを鄭寧ていねいした。

「こんなものは巻いたまま手に持って来るものだ」

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「こんなものは巻いたなり手に持って来るものだ」

「中にしんでも入れるとよかったのに」

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「中にしんでも入れるとかったのに」

と、母もそばから注意した。

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と母もかたわらから注意した。

父はしばらくそれをながめたあと、立って床の間の所へ行き、だれの目にもすぐ入るような正面へ証書を置いた。

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父はしばらくそれをながめたあとってとこの間の所へ行って、だれの目にもすぐはいるような正面へ証書を置いた。

いつものわたしならすぐ何とか言うはずだったが、そのときのわたしはまるでふだんと違っていた。

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いつもの私ならすぐ何とかいうはずであったが、その時の私はまるで平生へいぜいと違っていた。

父や母に対して、少しもさからう気が起こらなかった。

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父や母に対して少しも逆らう気が起らなかった。

わたしは黙って、父のするままにまかせておいた。

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私はだまって父のすがままに任せておいた。

いったん巻きぐせのついた鳥の子紙の証書は、なかなか父の思うようにならなかった。

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一旦いったん癖のついたとり子紙こがみの証書は、なかなか父の自由にならなかった。

ちょうどいい所に置かれるとすぐ、自分の自然な力で倒れようとした。

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適当な位置に置かれるやいなや、すぐおのれに自然ないきおいを得て倒れようとした。

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わたしは母をかげへ呼んで、父の病気の様子をたずねた。

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わたくしは母をかげへ呼んで父の病状を尋ねた。

「お父さんはあんなに元気そうに庭へ出たり何かしているが、あれでいいんですか」

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「お父さんはあんなに元気そうに庭へ出たり何かしているが、あれでいいんですか」

「もう何ともないようだよ。たぶんよくおなりなんだろう」

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「もう何ともないようだよ。大方おおかた好くおなりなんだろう」

母は、思いがけないほど平気だった。

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母は案外平気であった。

都会から遠く離れた森や田の中に住んでいる女によくあるとおり、母はこういうことにかけてはまるで何も知らなかった。

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都会からけ隔たった森や田の中に住んでいる女の常として、母はこういう事に掛けてはまるで無知識であった。

それにしても、この前父が倒れたときにはあれほど驚いてあんなに心配したものを、とわたしは心のうちで一人、へんな感じを持った。

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それにしてもこの前父が卒倒した時には、あれほど驚いて、あんなに心配したものを、と私は心のうちで独りな感じをいだいた。

「でも医者はあの時、とうてい難しいと言ったじゃありませんか」

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「でも医者はあの時到底とてもむずかしいって宣告したじゃありませんか」

「だから人間の体ほど不思議なものはないと思うんだよ。あれほどお医者が重く言ったものが、今までしゃんしゃんしているんだからね。お母さんも初めのうちは心配して、なるべく動かさないようにと思っていたんだがね。それ、あの気性だろう。養生はなさるけれども、強情でねえ。自分がいいと思い込んだら、なかなか私の言うことなんか聞きそうにもなさらないんだからね」

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「だから人間の身体からだほど不思議なものはないと思うんだよ。あれほどお医者が手重ておもくいったものが、今までしゃんしゃんしているんだからね。お母さんも始めのうちは心配して、なるべく動かさないようにと思ってたんだがね。それ、あの気性だろう。養生はしなさるけれども、強情ごうじょうでねえ。自分がいと思い込んだら、なかなかわたしのいう事なんか、聞きそうにもなさらないんだからね」

わたしはこの前帰ったとき、無理にふとんを上げさせてひげをそった父の様子と態度を思い出した。

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私はこの前帰った時、無理にとこを上げさして、ひげった父の様子と態度とを思い出した。

「もう大丈夫、お母さんがあまり大げさ過ぎるからいけないんだ」

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「もう大丈夫、お母さんがあんまり仰山ぎょうさん過ぎるからいけないんだ」

と言ったそのときの言葉を考えてみると、母ばかりを責める気にもなれなかった。

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といったその時の言葉を考えてみると、満更まんざら母ばかり責める気にもなれなかった。

「しかしそばでも少しは注意しなくては」

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「しかしはたでも少しは注意しなくっちゃ」

と言おうとしたわたしは、とうとう遠慮して何も口に出さなかった。

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といおうとした私は、とうとう遠慮して何にも口へ出さなかった。

ただ父の病気の性質について、わたしの知るかぎりを教えるように話して聞かせた。

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ただ父のやまいの性質について、私の知る限りを教えるように話して聞かせた。

しかしその大部分は、先生と先生の奥さんから聞いた話に過ぎなかった。

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しかしその大部分は先生と先生の奥さんから得た材料に過ぎなかった。

母は、特に心を動かした様子も見せなかった。

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母は別に感動した様子も見せなかった。

ただ「へえ、やっぱり同じ病気でね。お気の毒だね。いくつでお亡くなりかえ、その方は」

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ただ「へえ、やっぱりおんなじ病気でね。お気の毒だね。いくつでお亡くなりかえ、そのかたは」

などと聞いた。

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などと聞いた。

わたしは仕方がないから、母をそのままにしておいて、じかに父に向かった。

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私は仕方がないから、母をそのままにしておいて直接父に向かった。

父はわたしの注意を、母よりは真面目に聞いてくれた。

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父は私の注意を母よりは真面目まじめに聞いてくれた。

「もっともだ。お前の言うとおりだ。けれども、おれの体はつまるところおれの体で、そのおれの体についての養生の仕方は、長年の経験上、おれが一番よく心得ているはずだからね」

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「もっともだ。お前のいう通りだ。けれども、おれ身体からだ必竟ひっきょう己の身体で、その己の身体についての養生法は、多年の経験上、己が一番く心得ているはずだからね」

と言った。

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といった。

それを聞いた母は、苦笑いした。

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それを聞いた母は苦笑した。

「それご覧な」

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「それご覧な」

と言った。

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といった。

「でも、あれでお父さんは自分でちゃんと覚悟だけはしているんですよ。今度私が卒業して帰ったのを大変喜んでいるのも、まったくそのためなんです。生きているうちに卒業はできまいと思ったのが、元気なうちに証書を持って来たから、それが嬉しいんだって、お父さんは自分でそう言っていましたよ」

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「でも、あれでお父さんは自分でちゃんと覚悟だけはしているんですよ。今度私が卒業して帰ったのを大変喜んでいるのも、全くそのためなんです。生きてるうちに卒業はできまいと思ったのが、達者なうちに免状を持って来たから、それがうれしいんだって、お父さんは自分でそういっていましたぜ」

「それは、お前、口ではそうおっしゃるけれどもね。お腹の中ではまだ大丈夫だと思っていらっしゃるのだよ」

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「そりゃ、お前、口でこそそうおいいだけれどもね。おなかのなかではまだ大丈夫だと思っておいでのだよ」

「そうでしょうか」

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「そうでしょうか」

「まだまだ十年も二十年も生きる気でいらっしゃるのだよ。もっとも時々は私にも心細いようなことをおっしゃるがね。おれもこの分ではもう長いこともあるまいよ、おれが死んだらお前はどうする、一人でこの家にいる気か、なんて」

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「まだまだ十年も二十年も生きる気でお出のだよ。もっとも時々はわたしにも心細いような事をおいいだがね。おれもこの分じゃもう長い事もあるまいよ、おれが死んだら、お前はどうする、一人でこのうちにいる気かなんて」

わたしは急に、父がいなくなって母一人が取り残されたときの、古い広い田舎の家を想像してみた。

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私は急に父がいなくなって母一人が取り残された時の、古い広い田舎家いなかやを想像して見た。

この家から父一人を引いたあとは、そのままで成り立つだろうか。

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このいえから父一人を引き去ったあとは、そのままで立ち行くだろうか。

兄はどうするだろうか。

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兄はどうするだろうか。

母は何と言うだろうか。

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母は何というだろうか。

そう考えるわたしは、またここの土地を離れて東京で気楽に暮らして行けるだろうか。

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そう考える私はまたここの土を離れて、東京で気楽に暮らして行けるだろうか。

わたしは母を目の前に置いて、先生の注意、父が元気でいるうちに分けてもらうものは分けてもらっておけという注意を、ふと思い出した。

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私は母を眼の前に置いて、先生の注意――父の丈夫でいるうちに、分けてもらうものは、分けて貰って置けという注意を、偶然思い出した。

「なにね、自分で死ぬ死ぬと言う人に死んだためしはないんだから安心だよ。お父さんなんかも、死ぬ死ぬと言いながら、これから先まだ何年生きなさるか分からないよ。それよりも黙っている丈夫な人の方が危ないのさ」

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「なにね、自分で死ぬ死ぬっていう人に死んだためしはないんだから安心だよ。お父さんなんぞも、死ぬ死ぬっていいながら、これから先まだ何年生きなさるか分るまいよ。それよりか黙ってる丈夫の人の方が剣呑けんのんさ」

わたしは、理屈から出たとも数字から来たとも分からないこのありふれた母の言葉を、黙って聞いていた。

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私は理屈から出たとも統計から来たとも知れない、この陳腐ちんぷなような母の言葉を黙然もくねんと聞いていた。

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わたしのために赤飯をたいてお客を招くという相談が、父と母の間に起こった。

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わたくしのために赤いめしいて客をするという相談が父と母の間に起った。

わたしは帰った当日から、もしかするとこんなことになるだろうと思って、心のうちでひそかにそれを恐れていた。

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私は帰った当日から、あるいはこんな事になるだろうと思って、心のうちであんにそれを恐れていた。

わたしはすぐことわった。

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私はすぐ断わった。

「あまり大げさなことはやめてください」

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「あんまり仰山ぎょうさんな事はしてください」

わたしは、田舎のお客が嫌いだった。

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私は田舎いなかの客が嫌いだった。

飲んだり食べたりするのを一番の目的としてやって来る人たちは、何か行事があればいいという風の人ばかりそろっていた。

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飲んだり食ったりするのを、最後の目的としてやって来る彼らは、何か事があればいといったふうの人ばかりそろっていた。

わたしは子どものときから、その席に付き合うのを心苦しく感じていた。

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私は子供の時から彼らの席にするのを心苦しく感じていた。

まして自分のためにその人たちが来るとなると、わたしの苦しみはいっそうひどいように想像された。

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まして自分のために彼らが来るとなると、私の苦痛はいっそうはなはだしいように想像された。

しかしわたしは父や母の手前、あんな品のない人を集めてさわぐのはよせとも言いかねた。

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しかし私は父や母の手前、あんな野鄙やひな人を集めて騒ぐのは止せともいいかねた。

それでわたしは、ただあまり大げさだからとばかり言い張った。

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それで私はただあまり仰山だからとばかり主張した。

「大げさ大げさとおっしゃるが、少しも大げさじゃないよ。生涯に二度とあることじゃないんだからね、客ぐらいするのは当たり前だよ。そう遠慮をなさるな」

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「仰山仰山とおいいだが、ちっとも仰山じゃないよ。生涯に二度とある事じゃないんだからね、お客ぐらいするのは当り前だよ。そう遠慮をおでない」

母はわたしが大学を卒業したのを、ちょうどお嫁さんでももらったのと同じくらい重く見ているらしかった。

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母は私が大学を卒業したのを、ちょうど嫁でももらったと同じ程度に、重く見ているらしかった。

「呼ばなくてもいいが、呼ばないとまた何とか言うから」

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「呼ばなくってもいが、呼ばないとまた何とかいうから」

これは、父の言葉だった。

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これは父の言葉であった。

父は、その人たちのかげ口を気にしていた。

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父は彼らの陰口を気にしていた。

実際その人たちは、こんな場合に自分たちの思ったとおりにならないと、すぐ何とか言いたがる人々だった。

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実際彼らはこんな場合に、自分たちの予期通りにならないと、すぐ何とかいいたがる人々であった。

「東京と違って田舎はうるさいからね」

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「東京と違って田舎は蒼蠅うるさいからね」

父は、こうも言った。

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父はこうもいった。

「お父さんの顔もあるんだから」

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「お父さんの顔もあるんだから」

と、母がまた付け足した。

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と母がまた付け加えた。

わたしは、意地を張る訳にも行かなかった。

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私はを張る訳にも行かなかった。

どうでも二人の都合のいいようにしたらと思い出した。

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どうでも二人の都合のいようにしたらと思い出した。

「つまり私のためならやめてくださいというだけなんです。かげで何か言われるのがいやだからというお考えなら、それはまた別です。あなた方に損なことを私が言い張ったって仕方がありません」

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「つまり私のためなら、して下さいというだけなんです。陰で何かいわれるのがいやだからというご主意しゅいなら、そりゃまた別です。あなたがたに不利益な事を私が強いて主張したって仕方がありません」

「そう理屈を言われると困る」

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「そう理屈をいわれると困る」

父は、にがい顔をした。

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父は苦い顔をした。

「何もお前のためにするんじゃないとお父さんがおっしゃるんじゃないけれども、お前だって世間への義理ぐらいは知っているだろう」

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「何もお前のためにするんじゃないとお父さんがおっしゃるんじゃないけれども、お前だって世間への義理ぐらいは知っているだろう」

母はこうなると、女だけにしどろもどろなことを言った。

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母はこうなると女だけにしどろもどろな事をいった。

その代わり口数から言うと、父とわたしを二人合わせてもとてもかなうどころではなかった。

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その代り口数からいうと、父と私を二人寄せてもなかなかかなうどころではなかった。

「学問をさせると人間がとかく理屈っぽくなっていけない」

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「学問をさせると人間がとかく理屈っぽくなっていけない」

父は、ただこれだけしか言わなかった。

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父はただこれだけしかいわなかった。

しかしわたしはこの簡単な一言のうちに、父がふだんからわたしに対して持っている不満のすべてを見た。

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しかし私はこの簡単な一句のうちに、父が平生へいぜいから私に対してもっている不平の全体を見た。

わたしはそのとき、自分の言葉づかいのとがったところに気がつかずに、父の不満の方ばかりを無理なことのように思った。

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私はその時自分の言葉使いの角張かどばったところに気が付かずに、父の不平の方ばかりを無理のように思った。

父はその夜また気を変えて、お客を呼ぶなら何日にするかとわたしの都合を聞いた。

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父はそのまた気をえて、客を呼ぶなら何日いつにするかと私の都合を聞いた。

都合のいいも悪いもなしに、ただぶらぶら古い家の中で寝起きしているわたしにこんな問いをかけるのは、父の方が折れて出たのと同じことだった。

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都合のいも悪いもなしにただぶらぶら古い家の中に寝起ねおきしている私に、こんな問いを掛けるのは、父の方が折れて出たのと同じ事であった。

わたしはこの穏やかな父の前に、こだわらずに頭を下げた。

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私はこの穏やかな父の前に拘泥こだわらない頭を下げた。

わたしは父と相談の上、招待の日を決めた。

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私は父と相談の上招待しょうだいの日取りをめた。

その日がまだ来ないうちに、ある大きなことが起こった。

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その日取りのまだ来ないうちに、ある大きな事が起った。

それは明治天皇のご病気の知らせだった。

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それは明治天皇めいじてんのうのご病気の報知であった。

新聞ですぐ日本中へ知れわたったこの出来事は、一けんの田舎の家の中で行きちがいを経てようやくまとまろうとしたわたしの卒業祝いを、ちりのように吹き払った。

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新聞紙ですぐ日本中へ知れ渡ったこの事件は、一軒の田舎家いなかやのうちに多少の曲折を経てようやくまとまろうとした私の卒業祝いを、ちりのごとくに吹き払った。

「まあ、ご遠慮申した方がよかろう」

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「まあ、ご遠慮申した方がよかろう」

めがねをかけて新聞を見ていた父は、こう言った。

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眼鏡めがねを掛けて新聞を見ていた父はこういった。

父は黙って、自分の病気のことも考えているらしかった。

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父は黙って自分の病気の事も考えているらしかった。

わたしは、ついこの間の卒業式に毎年のとおり大学へおいでになった天皇を思い出したりした。

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私はついこの間の卒業式に例年の通り大学へ行幸ぎょうこうになった陛下をおもい出したりした。

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少ない人数には広すぎる古い家がひっそりしている中で、わたしは行李を開いて本を開き始めた。

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小勢こぜい人数にんずには広過ぎる古い家がひっそりしている中に、わたくし行李こうりを解いて書物をひもとき始めた。

なぜか、わたしは気が落ち着かなかった。

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なぜか私は気が落ち付かなかった。

あの目まぐるしい東京の下宿の二階で、遠く走る電車の音を耳にしながらページを一枚一枚めくって行く方が、気に張りがあって気持ちよく勉強ができた。

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あの目眩めまぐるしい東京の下宿の二階で、遠く走る電車の音を耳にしながら、ページを一枚一枚にまくって行く方が、気に張りがあって心持よく勉強ができた。

わたしはともすると、机にもたれてうたた寝をした。

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私はややともすると机にもたれて仮寝うたたねをした。

ときにはわざわざまくらまで出して、本格的に昼寝をむさぼることもあった。

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時にはわざわざまくらさえ出して本式に昼寝をむさぼる事もあった。

目が覚めると、せみの声を聞いた。

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眼が覚めると、せみの声を聞いた。

夢うつつから続いているようなその声は、急にやかましく耳の底をかき乱した。

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うつつから続いているようなその声は、急に八釜やかましく耳の底をき乱した。

わたしはじっとそれを聞きながら、ときに悲しい思いを胸に持った。

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私はじっとそれを聞きながら、時に悲しい思いを胸にいだいた。

わたしは筆を取って、友達のあの人この人に短いはがきや長い手紙を書いた。

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私は筆をって友達のだれかれに短い端書はがきまたは長い手紙を書いた。

その友達のある人は、東京に残っていた。

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その友達のあるものは東京に残っていた。

ある人は、遠い故郷に帰っていた。

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あるものは遠い故郷に帰っていた。

返事の来るのも、便りの届かないのもあった。

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返事の来るのも、音信たよりの届かないのもあった。

わたしはもちろん、先生を忘れなかった。

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私はもとより先生を忘れなかった。

原こう用紙へ細かい字で三枚ばかり、国へ帰ってから後の自分というようなものを題にして書き続けたのを、送ることにした。

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原稿紙へ細字さいじで三枚ばかり国へ帰ってから以後の自分というようなものを題目にして書きつづったのを送る事にした。

わたしはそれを封じるとき、先生は本当にまだ東京にいるだろうかと疑った。

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私はそれを封じる時、先生ははたしてまだ東京にいるだろうかとうたぐった。

先生が奥さんといっしょに家を空ける場合には、五十くらいの切り下げ髪の女の人がどこからか来て、留守番をするのが決まりになっていた。

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先生が奥さんといっしょにうちける場合には、五十恰好がっこう切下きりさげの女の人がどこからか来て、留守番をするのが例になっていた。

わたしが前に先生に、あの人は何ですかとたずねたら、先生は何に見えますかと聞き返した。

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私がかつて先生にあの人は何ですかと尋ねたら、先生は何と見えますかと聞き返した。

わたしはその人を、先生の親類と思いちがえていた。

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私はその人を先生の親類と思い違えていた。

先生は「私には親類はありませんよ」

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先生は「私には親類はありませんよ」

と答えた。

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と答えた。

先生の故郷にいる血のつながった人々と、先生はまるで便りのやり取りをしていなかった。

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先生の郷里にいる続きあいの人々と、先生は一向いっこう音信のりをしていなかった。

わたしが不思議に思ったその留守番の女の人は、先生とは縁のない、奥さんの方の親せきだった。

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私の疑問にしたその留守番の女の人は、先生とは縁のない奥さんの方の親戚しんせきであった。

わたしは先生に手紙を出すとき、ふと、幅の細い帯を楽に後ろで結んでいるその人の姿を思い出した。

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私は先生に郵便を出す時、ふと幅の細い帯を楽に後ろで結んでいるその人の姿を思い出した。

もし先生夫婦がどこかへ避暑にでも行ったあとへこの手紙が届いたら、あの切り下げ髪のお婆さんは、それをすぐ行き先へ送ってくれるだけの気の回りと親切があるだろうか、などと考えた。

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もし先生夫婦がどこかへ避暑にでも行ったあとへこの郵便が届いたら、あの切下のおばあさんは、それをすぐ転地先へ送ってくれるだけの気転と親切があるだろうかなどと考えた。

そのくせ、その手紙のうちにはこれというほどの必要なことも書いていないのを、わたしはよく分かっていた。

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そのくせその手紙のうちにはこれというほどの必要の事も書いてないのを、私はく承知していた。

ただわたしは、寂しかった。

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ただ私はさびしかった。

そうして先生から返事の来るのを期待して待っていた。

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そうして先生から返事の来るのを予期してかかった。

しかしその返事は、ついに来なかった。

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しかしその返事はついに来なかった。

父はこの前の冬に帰って来たときほど、将棋を指したがらなくなった。

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父はこの前の冬に帰って来た時ほど将棋しょうぎを差したがらなくなった。

将棋ばんはほこりのたまったまま、床の間の隅に寄せられていた。

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将棋盤はほこりのたまったまま、とこの隅に片寄せられてあった。

特に天皇のご病気からは、父はじっと考えこんでいるように見えた。

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ことに陛下のご病気以後父はじっと考え込んでいるように見えた。

毎日新聞の来るのを待ちかまえて、自分が一番先に読んだ。

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毎日新聞の来るのを待ち受けて、自分が一番先へ読んだ。

それからその読み終わったのを、わざわざわたしのいる所へ持って来てくれた。

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それからそのよみがらをわざわざ私のいる所へ持って来てくれた。

「おい、ご覧、今日も天子さまのことが詳しく出ている」

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「おいご覧、今日も天子さまの事が詳しく出ている」

父は天皇のことを、いつも天子さまと言っていた。

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父は陛下のことを、つねに天子さまといっていた。

「もったいない話だが、天子さまのご病気も、お父さんのとまあ似たものだろうな」

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勿体もったいない話だが、天子さまのご病気も、お父さんのとまあ似たものだろうな」

こう言う父の顔には、深い心配のかげりがかかっていた。

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こういう父の顔には深い掛念けねんくもりがかかっていた。

こう言われるわたしの胸には、また父がいつ倒れるか分からないという心配がひらめいた。

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こういわれる私の胸にはまた父がいつたおれるか分らないという心配がひらめいた。

「しかし大丈夫だろう。おれのようなつまらない者でも、まだこうしていられるくらいだから」

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「しかし大丈夫だろう。おれのようなくだらないものでも、まだこうしていられるくらいだから」

父は自分が元気だという保証を自分で与えながら、今にも自分に落ちかかって来そうな危険を感じているらしかった。

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父は自分の達者な保証を自分で与えながら、今にもおのれに落ちかかって来そうな危険を予感しているらしかった。

「お父さんは本当に病気を怖がってるんですよ。お母さんのおっしゃるように、十年も二十年も生きる気じゃなさそうですよ」

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「お父さんは本当に病気をこわがってるんですよ。お母さんのおっしゃるように、十年も二十年も生きる気じゃなさそうですぜ」

母はわたしの言葉を聞いて、こまったような顔をした。

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母は私の言葉を聞いて当惑そうな顔をした。

「ちょっとまた将棋でも指すように勧めてご覧な」

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「ちょっとまた将棋でも差すように勧めてご覧な」

わたしは床の間から将棋ばんを取り下ろして、ほこりをふいた。

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私は床の間から将棋盤を取りおろして、ほこりをいた。

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父の元気は、だんだん弱って行った。

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父の元気は次第に衰えて行った。

わたしを驚かせたハンカチつきの古い麦わら帽子が、自然と使われなくなった。

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わたくしを驚かせたハンケチ付きの古い麦藁帽子むぎわらぼうしが自然と閑却かんきゃくされるようになった。

わたしは黒くすすけたたなの上に載っているその帽子をながめるたびに、父に対して気の毒な思いをした。

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私は黒いすすけた棚の上にっているその帽子をながめるたびに、父に対して気の毒な思いをした。

父が前のように軽々と動く間は、もう少しひかえてくれたらと心配した。

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父が以前のように、軽々と動く間は、もう少しつつしんでくれたらと心配した。

父がじっとすわりこむようになると、やはり元の方が元気だったのだという気が起こった。

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父がじっすわり込むようになると、やはり元の方が達者だったのだという気が起った。

わたしは父の体について、よく母と話し合った。

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私は父の健康についてよく母と話し合った。

「まったく気のせいだよ」

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「まったく気のせいだよ」

と、母が言った。

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と母がいった。

母の頭は、天皇の病気と父の病気とを結びつけて考えていた。

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母の頭は陛下のやまいと父の病とを結び付けて考えていた。

わたしには、そうばかりとも思えなかった。

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私にはそうばかりとも思えなかった。

「気じゃない。本当に体が悪くはないんでしょうか。どうも気分より体の方が悪くなって行くらしい」

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「気じゃない。本当に身体からだが悪かないんでしょうか。どうも気分より健康の方が悪くなって行くらしい」

わたしはこう言って、心のうちでまた遠くからそれなりの医者でも呼んで、一つ見せようかしらと考えた。

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私はこういって、心のうちでまた遠くから相当の医者でも呼んで、一つ見せようかしらと思案した。

「今年の夏はお前もつまらなかろう。せっかく卒業したのに、お祝いもしてあげることができず、お父さんの体もあのとおりだし。それに天子さまのご病気で。――いっそのこと、帰ってすぐに客でも呼ぶ方がよかったんだよ」

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「今年の夏はお前もつまらなかろう。せっかく卒業したのに、お祝いもして上げる事ができず、お父さんの身体からだもあの通りだし。それに天子様のご病気で。――いっその事、帰るすぐにお客でも呼ぶ方が好かったんだよ」

わたしが帰ったのは七月の五、六日で、父や母がわたしの卒業を祝うためにお客を呼ぼうと言い出したのは、それから一週間後だった。

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私が帰ったのは七月の五、六日で、父や母が私の卒業を祝うために客を呼ぼうといいだしたのは、それから一週間であった。

そうしていよいよと決めた日は、それからまた一週間あまりも先になっていた。

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そうしていよいよとめた日はそれからまた一週間の余も先になっていた。

時間にしばられないのんびりした田舎に帰ったわたしは、おかげで気の重い人づき合いの苦しみから救われたも同じだったが、わたしを分かってくれない母は少しもそこに気がついていないらしかった。

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時間に束縛を許さない悠長な田舎いなかに帰った私は、おかげで好もしくない社交上の苦痛から救われたも同じ事であったが、私を理解しない母は少しもそこに気が付いていないらしかった。

天皇が亡くなったという知らせが伝えられたとき、父はその新聞を手にして、「ああ、ああ」

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崩御ほうぎょの報知が伝えられた時、父はその新聞を手にして、「ああ、ああ」

と言った。

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といった。

「ああ、ああ、天子さまもとうとうお隠れになる。おれも……」

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「ああ、ああ、天子様もとうとうおかくれになる。おれも……」

父は、その続きを言わなかった。

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父はそのあとをいわなかった。

わたしは黒い薄い布を買うために、町へ出た。

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私は黒いうすものを買うために町へ出た。

それで旗ざおの玉を包み、それで旗ざおの先へ十センチ幅のひらひらをつけて、門のとびらの横からななめに通りへ差し出した。

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それで旗竿はたざおたまを包んで、それで旗竿の先へ三寸幅ずんはばのひらひらを付けて、門の扉の横から斜めに往来へさし出した。

旗も黒いひらひらも、風のない空気の中にだらりと下がった。

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旗も黒いひらひらも、風のない空気のなかにだらりと下がった。

わたしの家の古い門の屋根は、わらでふいてあった。

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私のうちの古い門の屋根はわらいてあった。

雨や風に打たれたり吹かれたりしたそのわらの色は、すっかり変わって薄く灰色になった上に、所々のでこぼこさえ目についた。

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雨や風に打たれたりまた吹かれたりしたその藁の色はとくに変色して、薄く灰色を帯びた上に、所々ところどころ凸凹でこぼこさえ眼に着いた。

わたしは一人門の外へ出て、黒いひらひらと、白い布地と、地の中に染め出した赤い日の丸の色とをながめた。

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私はひとり門の外へ出て、黒いひらひらと、白いめりんすのと、地のなかに染め出した赤い日の丸の色とをながめた。

それがうす汚い屋根のわらに映るのもながめた。

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それが薄汚ない屋根の藁に映るのも眺めた。

わたしは前に先生から「あなたの家の構えはどんな体裁ですか。私の郷里の方とはだいぶ趣が違っていますかね」

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私はかつて先生から「あなたの宅の構えはどんな体裁ですか。私の郷里の方とは大分だいぶ趣が違っていますかね」

と聞かれたことを思い出した。

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と聞かれた事を思い出した。

わたしは自分の生まれたこの古い家を、先生に見せたくもあった。

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私は自分の生れたこの古い家を、先生に見せたくもあった。

また先生に見せるのが、はずかしくもあった。

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また先生に見せるのが恥ずかしくもあった。

わたしはまた一人、家の中へ入った。

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私はまた一人家のなかへはいった。

自分の机の置いてある所へ来て、新聞を読みながら、遠い東京の様子を想像した。

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自分の机の置いてある所へ来て、新聞を読みながら、遠い東京の有様を想像した。

わたしの想像は、日本一の大きな都がどんなに暗い中でどんなに動いているだろうかという絵に、集まった。

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私の想像は日本一の大きな都が、どんなに暗いなかでどんなに動いているだろうかの画面に集められた。

わたしはその、黒いなりに動かなければ収まらなくなった都会の、不安でざわざわしている中に、一点の明かりのように先生の家を見た。

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私はその黒いなりに動かなければ仕末のつかなくなった都会の、不安でざわざわしているなかに、一点の燈火のごとくに先生の家を見た。

わたしはそのとき、この明かりが音のしないうずの中に自然と巻きこまれていることに気がつかなかった。

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私はその時この燈火が音のしないうずの中に、自然とき込まれている事に気が付かなかった。

しばらくすれば、その明かりもまたふっと消えてしまう運命を目の前にしているのだとは、もちろん気がつかなかった。

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しばらくすれば、そのもまたふっと消えてしまうべき運命を、の前に控えているのだとはもとより気が付かなかった。

わたしは今度の出来事について先生に手紙を書こうかと思って、筆を取りかけた。

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私は今度の事件について先生に手紙を書こうかと思って、筆をりかけた。

わたしはそれを十行ばかり書いて、やめた。

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私はそれを十行ばかり書いてめた。

書いた所は細かく引きさいて、くずかごへ投げこんだ。

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書いた所は寸々すんずんに引き裂いて屑籠くずかごへ投げ込んだ。

(先生にあててそういうことを書いても仕方がないとも思ったし、今までのことから考えると、とても返事をくれそうになかったから)

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(先生にててそういう事を書いても仕方がないとも思ったし、前例にちょうしてみると、とても返事をくれそうになかったから)。

わたしは、寂しかった。

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私はさびしかった。

それで手紙を書くのだった。

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それで手紙を書くのであった。

そうして返事が来ればいいと思うのだった。

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そうして返事が来ればいと思うのであった。

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八月の半ばごろになって、わたしはある友人から手紙を受け取った。

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八月のなかばごろになって、わたくしはある朋友ほうゆうから手紙を受け取った。

その中に、地方の中学の先生の口があるが行かないかと書いてあった。

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その中に地方の中学教員の口があるが行かないかと書いてあった。

この友人はお金の必要から、自分でそんな仕事を探し回る男だった。

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この朋友は経済の必要上、自分でそんな位地を探しまわる男であった。

この口も初めは自分の所へ来たのだが、もっといい地方の話がまとまったので、余った方をわたしにゆずる気で、わざわざ知らせて来てくれたのだった。

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この口も始めは自分の所へかかって来たのだが、もっとい地方へ相談ができたので、余った方を私に譲る気で、わざわざ知らせて来てくれたのであった。

わたしはすぐ返事を出して、ことわった。

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私はすぐ返事を出して断った。

知り合いの中には、ずいぶん骨を折って先生の仕事につきたがっている人がいるから、その方へ回してやったらいいだろうと書いた。

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知り合いの中には、ずいぶん骨を折って、教師の職にありつきたがっているものがあるから、その方へまわしてやったらかろうと書いた。

わたしは返事を出したあとで、父と母にその話をした。

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私は返事を出した後で、父と母にその話をした。

二人とも、わたしがことわったことに反対はないようだった。

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二人とも私の断った事に異存はないようであった。

「そんな所へ行かなくても、まだいい口があるだろう」

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「そんな所へ行かないでも、まだい口があるだろう」

こう言ってくれる裏に、わたしは二人がわたしに対して持っている大きすぎる望みを読み取った。

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こういってくれる裏に、私は二人が私に対してもっている過分な希望を読んだ。

世の中のことにうとい父や母は、身に合わない地位と給料とを、卒業したてのわたしから期待しているらしかったのだ。

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迂闊うかつな父や母は、不相当な地位と収入とを卒業したての私から期待しているらしかったのである。

「身に合った口って、近ごろではそんなうまい口はなかなかあるものじゃありません。特に兄さんと私とは専門も違うし、時代も違うんだから、二人を同じように考えられては少し困ります」

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「相当の口って、近頃ちかごろじゃそんなうまい口はなかなかあるものじゃありません。ことに兄さんと私とは専門も違うし、時代も違うんだから、二人を同じように考えられちゃ少し困ります」

「しかし卒業した以上は、少なくとも独立してやって行ってくれなくてはこちらも困る。人から、あなたの所のご次男は大学を卒業なさって何をしていらっしゃいますかと聞かれた時に返事ができないようでは、おれも肩身が狭いから」

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「しかし卒業した以上は、少なくとも独立してやって行ってくれなくっちゃこっちも困る。人からあなたの所のご二男じなんは、大学を卒業なすって何をしておいでですかと聞かれた時に返事ができないようじゃ、おれも肩身が狭いから」

父は、しぶい顔をした。

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父は渋面しゅうめんをつくった。

父の考えは、古く住み慣れた故郷から外へ出ることを知らなかった。

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父の考えは、古く住み慣れた郷里から外へ出る事を知らなかった。

その故郷のあの人この人から、大学を卒業すればいくらぐらい給料が取れるものだろうと聞かれたり、まあ百円ぐらいのものだろうかと言われたりした父は、こういう人々に対して聞こえの悪くないように、卒業したてのわたしを片づけたかったのだ。

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その郷里の誰彼だれかれから、大学を卒業すればいくらぐらい月給が取れるものだろうと聞かれたり、まあ百円ぐらいなものだろうかといわれたりした父は、こういう人々に対して、外聞の悪くないように、卒業したての私を片付けたかったのである。

広い都をよりどころとして考えているわたしは、父や母から見ると、まるで足を空に向けて歩くへんな人間にほかならなかった。

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広い都を根拠地として考えている私は、父や母から見ると、まるで足を空に向けて歩く奇体きたいな人間に異ならなかった。

わたしの方でも、実際そういう人間のような気持ちを時々起こした。

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私の方でも、実際そういう人間のような気持を折々起した。

わたしは、はっきり自分の考えを打ち明けるにはあまりに考えの離れすぎた父と母の前に、黙ってすわっていた。

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私はあからさまに自分の考えを打ち明けるには、あまりに距離の懸隔けんかくはなはだしい父と母の前に黙然もくねんとしていた。

「お前がよく先生先生と言う方にでもお願いしたらいいじゃないか。こんな時こそ」

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「お前のよく先生先生という方にでもお願いしたらいじゃないか。こんな時こそ」

母は、こうよりほかに先生を考えることができなかった。

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母はこうよりほかに先生を解釈する事ができなかった。

その先生は、わたしに、国へ帰ったら父の生きているうちに早く財産を分けてもらえと勧める人だった。

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その先生は私に国へ帰ったら父の生きているうちに早く財産を分けて貰えと勧める人であった。

卒業したから仕事の世話をしてやろうという人ではなかった。

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卒業したから、地位の周旋をしてやろうという人ではなかった。

「その先生は何をしているのかい」

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「その先生は何をしているのかい」

と、父が聞いた。

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と父が聞いた。

「何もしていないんです」

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「何にもしていないんです」

と、わたしが答えた。

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と私が答えた。

わたしはとっくの昔から、先生が何もしていないということを父にも母にも話したつもりでいた。

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私はとくの昔から先生の何もしていないという事を父にも母にも告げたつもりでいた。

そうして父はたしかに、それを覚えているはずだった。

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そうして父はたしかにそれを記憶しているはずであった。

「何もしていないというのは、またどういう訳かね。お前がそれほど尊敬するくらいの人なら、何かやっていそうなものだがね」

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「何もしていないというのは、またどういう訳かね。お前がそれほど尊敬するくらいな人なら何かやっていそうなものだがね」

父はこう言って、わたしをあてこすった。

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父はこういって、私をふうした。

父の考えでは、役に立つ人は世の中へ出てみんなそれなりの地位を得て働いている。

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父の考えでは、役に立つものは世の中へ出てみんな相当の地位を得て働いている。

つまり役立たずだから遊んでいるのだと、決めているらしかった。

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必竟ひっきょうやくざだから遊んでいるのだと結論しているらしかった。

「おれのような人間だって、月給こそもらっていないが、これでも遊んでばかりいるんじゃない」

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「おれのような人間だって、月給こそ貰っちゃいないが、これでも遊んでばかりいるんじゃない」

父は、こうも言った。

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父はこうもいった。

わたしはそれでも、まだ黙っていた。

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私はそれでもまだ黙っていた。

「お前の言うような偉い方なら、きっと何か口を探してくださるよ。頼んでご覧なのかい」

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「お前のいうような偉い方なら、きっと何か口を探して下さるよ。頼んでご覧なのかい」

と、母が聞いた。

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と母が聞いた。

「いいえ」

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「いいえ」

と、わたしは答えた。

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と私は答えた。

「じゃ仕方がないじゃないか。なぜ頼まないんだい。手紙でもいいからお出しな」

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「じゃ仕方がないじゃないか。なぜ頼まないんだい。手紙でもいからお出しな」

「ええ」

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「ええ」

わたしは生返事をして、席を立った。

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私は生返事なまへんじをして席を立った。

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父は、はっきりと自分の病気を恐れていた。

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父は明らかに自分の病気を恐れていた。

しかし医者が来るたびにうるさく質問をかけて相手を困らせる性質でもなかった。

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しかし医者の来るたびに蒼蠅うるさい質問を掛けて相手を困らすたちでもなかった。

医者の方でもまた遠慮して、何とも言わなかった。

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医者の方でもまた遠慮して何ともいわなかった。

父は、死んだ後のことを考えているらしかった。

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父は死後の事を考えているらしかった。

少なくとも、自分がいなくなったあとの家を想像してみるらしかった。

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少なくとも自分がいなくなったあとのわがいえを想像して見るらしかった。

「子供に学問をさせるのも善し悪しだね。せっかく学ばせると、その子供は決して家へ帰って来ない。これでは手もなく親子を引き離すために学問させるようなものだ」

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小供こどもに学問をさせるのも、しだね。せっかく修業をさせると、その小供は決してうちへ帰って来ない。これじゃ手もなく親子を隔離するために学問させるようなものだ」

学問をした結果、兄は今遠い土地にいた。

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学問をした結果兄は今遠国えんごくにいた。

教育を受けたために、わたしはまた東京に住む決心を固くした。

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教育を受けた因果で、わたくしはまた東京に住む覚悟を固くした。

こういう子を育てた父のぐちは、もちろん理屈に合わないものではなかった。

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こういう子を育てた父の愚痴ぐちはもとより不合理ではなかった。

長年住み古した田舎の家の中に、たった一人取り残されそうな母を思いえがく父の想像は、もちろん寂しいに違いなかった。

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永年住み古した田舎家いなかやの中に、たった一人取り残されそうな母をえがき出す父の想像はもとよりさびしいに違いなかった。

この家は動かすことのできないものと、父は信じ切っていた。

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わがいえは動かす事のできないものと父は信じ切っていた。

その中に住む母もまた、命のある間は動かすことのできないものと信じていた。

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その中に住む母もまた命のある間は、動かす事のできないものと信じていた。

自分が死んだあと、この一人きりの母をたった一人がらんとした家に取り残すのも、また大きな不安だった。

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自分が死んだあと、この孤独な母を、たった一人伽藍堂がらんどうのわが家に取り残すのもまたはなはだしい不安であった。

それなのに、東京でいい地位を求めろと言ってわたしにおしつけたがる父の頭には、食いちがいがあった。

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それだのに、東京でい地位を求めろといって、私をいたがる父の頭には矛盾があった。

わたしはその食いちがいをおかしく思ったと同時に、そのおかげでまた東京へ出られるのを喜んだ。

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私はその矛盾をおかしく思ったと同時に、そのおかげでまた東京へ出られるのを喜んだ。

わたしは父や母の手前、この地位をできるだけの努力で求めているように見せなくてはならなかった。

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私は父や母の手前、この地位をできるだけの努力で求めつつあるごとくに装おわなくてはならなかった。

わたしは先生に手紙を書いて、家の事情をくわしく述べた。

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私は先生に手紙を書いて、家の事情をくわしく述べた。

もし自分の力でできることがあったら何でもするから、世話をしてくれとたのんだ。

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もし自分の力でできる事があったら何でもするから周旋してくれと頼んだ。

わたしは先生がわたしの頼みに取り合わないだろうと思いながら、この手紙を書いた。

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私は先生が私の依頼に取り合うまいと思いながらこの手紙を書いた。

また取り合うつもりでも、つき合いの少ない先生としてはどうすることもできまいと思いながら、この手紙を書いた。

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また取り合うつもりでも、世間の狭い先生としてはどうする事もできまいと思いながらこの手紙を書いた。

しかしわたしは、先生からこの手紙に対する返事がきっと来るだろうと思って書いた。

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しかし私は先生からこの手紙に対する返事がきっと来るだろうと思って書いた。

わたしはそれを封じて出す前に、母に向かって言った。

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私はそれを封じて出す前に母に向かっていった。

「先生に手紙を書きましたよ。あなたのおっしゃったとおり。ちょっと読んでご覧なさい」

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「先生に手紙を書きましたよ。あなたのおっしゃった通り。ちょっと読んでご覧なさい」

母はわたしの想像したとおり、それを読まなかった。

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母は私の想像したごとくそれを読まなかった。

「そうかい、それじゃ早くお出し。そんなことは人が気をつけないでも、自分で早くやるものだよ」

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「そうかい、それじゃ早くお出し。そんな事はひとが気を付けないでも、自分で早くやるものだよ」

母は、わたしをまだ子どものように思っていた。

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母は私をまだ子供のように思っていた。

わたしも実際、子どものような感じがした。

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私も実際子供のような感じがした。

「しかし手紙では用は足りませんよ。どうせ九月にでもなって、私が東京へ出てからでなくては」

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「しかし手紙じゃ用は足りませんよ。どうせ、九月にでもなって、私が東京へ出てからでなくっちゃ」

「それはそうかもしれないけれども、またひょっとしてどんないい口がないとも限らないんだから、早く頼んでおくに越したことはないよ」

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「そりゃそうかも知れないけれども、またひょっとして、どんない口がないとも限らないんだから、早く頼んでおくに越した事はないよ」

「ええ。とにかく返事は来るに決まってますから、そうしたらまたお話ししましょう」

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「ええ。とにかく返事は来るにきまってますから、そうしたらまたお話ししましょう」

わたしは、こんなことにかけてきちょうめんな先生を信じていた。

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私はこんな事に掛けて几帳面きちょうめんな先生を信じていた。

わたしは、先生の返事の来るのを心待ちに待った。

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私は先生の返事の来るのを心待ちに待った。

けれどもわたしの予想は、ついに外れた。

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けれども私の予期はついにはずれた。

先生からは一週間経っても、何の便りもなかった。

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先生からは一週間っても何の音信たよりもなかった。

「たぶんどこかへ避暑にでも行っているんでしょう」

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大方おおかたどこかへ避暑にでも行っているんでしょう」

わたしは母に向かって、言いわけらしい言葉を使わなければならなかった。

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私は母に向かって言訳いいわけらしい言葉を使わなければならなかった。

そうしてその言葉は、母に対する言いわけばかりでなく、自分の心に対する言いわけでもあった。

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そうしてその言葉は母に対する言訳ばかりでなく、自分の心に対する言訳でもあった。

わたしは無理にも何かの事情を思いえがいて、先生の態度をかばわなければ不安になった。

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私はいても何かの事情を仮定して先生の態度を弁護しなければ不安になった。

わたしは時々、父の病気を忘れた。

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私は時々父の病気を忘れた。

いっそ早く東京へ出てしまおうかと思ったりした。

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いっそ早く東京へ出てしまおうかと思ったりした。

その父自身も、自分の病気を忘れることがあった。

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その父自身もおのれの病気を忘れる事があった。

先のことを心配しながら、先のための手だては少しも取らなかった。

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未来を心配しながら、未来に対する所置は一向取らなかった。

わたしはついに先生の忠告どおり、財産分けのことを父に言い出す機会を得ずに過ぎた。

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私はついに先生の忠告通り財産分配の事を父にいい出す機会を得ずに過ぎた。

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九月の初めになって、わたしはいよいよまた東京へ出ようとした。

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九月始めになって、わたくしはいよいよまた東京へ出ようとした。

わたしは父に向かって、当分今までどおり学費を送ってくれるようにとたのんだ。

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私は父に向かって当分今まで通り学資を送ってくれるようにと頼んだ。

「ここにこうしていたって、あなたのおっしゃるとおりの地位が得られるものじゃないですから」

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「ここにこうしていたって、あなたのおっしゃる通りの地位が得られるものじゃないですから」

わたしは、父の望む地位を得るために東京へ行くようなことを言った。

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私は父の希望する地位をるために東京へ行くような事をいった。

「もちろん口が見つかるまででいいですから」

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「無論口の見付かるまででいですから」

とも言った。

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ともいった。

わたしは心のうちで、その口はとうていわたしの頭の上に落ちて来ないと思っていた。

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私は心のうちで、その口は到底私の頭の上に落ちて来ないと思っていた。

けれども事情にうとい父は、あくまでもその反対を信じていた。

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けれども事情にうとい父はまたあくまでもその反対を信じていた。

「それはわずかの間のことだろうから、どうにか都合してやろう。その代わり長くはいけないよ。相応の地位を得しだい独立しなくては。もともと学校を出た以上、出た翌る日から人の世話になんかなるものじゃないんだから。今の若い者は、金を使う道だけ心得ていて、金を取る方はまったく考えていないようだね」

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「そりゃわずかあいだの事だろうから、どうにか都合してやろう。その代り永くはいけないよ。相当の地位を次第独立しなくっちゃ。元来学校を出た以上、出たあくる日からひとの世話になんぞなるものじゃないんだから。今の若いものは、金を使う道だけ心得ていて、金を取る方は全く考えていないようだね」

父は、このほかにもまだいろいろの小言を言った。

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父はこのほかにもまだ色々の小言こごとをいった。

その中には、「昔の親は子に食わせてもらったのに、今の親は子に食われるだけだ」

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その中には、「昔の親は子に食わせてもらったのに、今の親は子に食われるだけだ」

などという言葉があった。

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などという言葉があった。

それらをわたしは、ただ黙って聞いていた。

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それらを私はただ黙って聞いていた。

小言がひととおり済んだと思ったとき、わたしは静かに席を立とうとした。

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小言が一通り済んだと思った時、私は静かに席を立とうとした。

父は、いつ行くかとわたしにたずねた。

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父はいつ行くかと私に尋ねた。

わたしには、早いだけがよかった。

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私には早いだけがかった。

「お母さんに日を見てもらいなさい」

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「お母さんに日を見てもらいなさい」

「そうしましょう」

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「そうしましょう」

そのときのわたしは、父の前で思ったよりおとなしかった。

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その時の私は父の前に存外ぞんがいおとなしかった。

わたしはなるべく父の機げんをそこなわずに、田舎を出ようとした。

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私はなるべく父の機嫌に逆らわずに、田舎いなかを出ようとした。

父はまた、わたしを引き止めた。

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父はまた私をめた。

「お前が東京へ行くと、家はまた寂しくなる。何しろおれとお母さんだけなんだからね。そのおれも体さえ達者ならいいが、この様子ではいつ急にどんなことがないとも言えないよ」

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「お前が東京へ行くとうちはまたさみしくなる。何しろおれとお母さんだけなんだからね。そのおれも身体からださえ達者ならいが、この様子じゃいつ急にどんな事がないともいえないよ」

わたしはできるだけ父をなぐさめて、自分の机を置いてある所へ帰った。

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私はできるだけ父を慰めて、自分の机を置いてある所へ帰った。

わたしは散らかした本の間にすわって、心細そうな父の様子と言葉とを、何度もくり返し思いうかべた。

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私は取り散らした書物の間にすわって、心細そうな父の態度と言葉とを、幾度いくたびか繰り返し眺めた。

わたしはそのとき、また せみの声を聞いた。

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私はその時またせみの声を聞いた。

その声はこの間ずっと聞いたのと違って、つくつくぼうしの声だった。

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その声はこの間中あいだじゅう聞いたのと違って、つくつく法師ぼうしの声であった。

わたしは夏に故郷へ帰って、にえ立つようなせみの声の中にじっとすわっていると、へんに悲しい気持ちになることがたびたびあった。

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私は夏郷里に帰って、煮え付くような蝉の声の中にじっと坐っていると、変に悲しい心持になる事がしばしばあった。

わたしの悲しみはいつも、この虫の激しい音といっしょに心の底にしみこむように感じられた。

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私の哀愁はいつもこの虫のはげしいと共に、心の底にみ込むように感ぜられた。

わたしはそんなときにはいつも動かずに、一人で自分を見つめていた。

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私はそんな時にはいつも動かずに、一人で一人を見詰めていた。

わたしの悲しみは、この夏帰ってから後、だんだん調子を変えて来た。

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私の哀愁はこの夏帰省した以後次第に情調を変えて来た。

あぶらぜみの声がつくつくぼうしの声に変わるように、わたしを取り巻く人の運命が、大きな輪の中でそろそろ動いているように思われた。

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油蝉の声がつくつく法師の声に変るごとくに、私を取り巻く人の運命が、大きな輪廻りんねのうちに、そろそろ動いているように思われた。

わたしは寂しそうな父の様子と言葉をくり返しながら、手紙を出しても返事を寄こさない先生のことをまた思いうかべた。

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私はさびしそうな父の態度と言葉を繰り返しながら、手紙を出しても返事を寄こさない先生の事をまたおもい浮べた。

先生と父とは、まるで反対の感じをわたしに与える点で、比べる上でも思い出す上でも、いっしょにわたしの頭にうかびやすかった。

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先生と父とは、まるで反対の印象を私に与える点において、比較の上にも、連想の上にも、いっしょに私の頭にのぼりやすかった。

わたしは、ほとんど父のすべてを知り尽くしていた。

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私はほとんど父のすべても知りつくしていた。

もし父を離れるとすれば、気持ちの上に親子の心残りがあるだけだった。

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もし父を離れるとすれば、情合じょうあいの上に親子の心残りがあるだけであった。

先生の多くは、まだわたしに分かっていなかった。

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先生の多くはまだ私にわかっていなかった。

話すと約束されたその人の過去も、まだ聞く機会を得ずにいた。

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話すと約束されたその人の過去もまだ聞く機会を得ずにいた。

つまり先生は、わたしにとって薄暗かった。

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要するに先生は私にとって薄暗かった。

わたしはどうしてもそこを通り越して、明るい所まで行かなければ気が済まなかった。

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私はぜひともそこを通り越して、明るい所まで行かなければ気が済まなかった。

先生と縁が切れるのは、わたしにとって大きな苦しみだった。

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先生と関係の絶えるのは私にとって大いな苦痛であった。

わたしは母に日を見てもらって、東京へ出発する日を決めた。

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私は母に日を見てもらって、東京へ立つ日取りをめた。

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わたしがいよいよ出発しようという間際になって(たしか二日前の夕方のことだったと思うが)、父はまた突然引っくり返った。

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わたくしがいよいよ立とうという間際になって、(たしか二日前の夕方の事であったと思うが、)父はまた突然かえった。

わたしはそのとき、本や着物をつめた行李をしばっていた。

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私はその時書物や衣類を詰めた行李こうりをからげていた。

父は、風呂へ入ったところだった。

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父は風呂ふろへ入ったところであった。

父の背中を流しに行った母が、大きな声を出してわたしを呼んだ。

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父の背中を流しに行った母が大きな声を出して私を呼んだ。

わたしははだかのまま母に後ろから抱かれている父を見た。

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私は裸体はだかのまま母に後ろから抱かれている父を見た。

それでも座敷へ連れて戻ったとき、父はもう大丈夫だと言った。

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それでも座敷へれて戻った時、父はもう大丈夫だといった。

念のためにまくらもとにすわって、ぬれ手ぬぐいで父の頭を冷やしていたわたしは、九時ごろになってようやく形ばかりの夜食を済ませた。

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念のために枕元まくらもとすわって、濡手拭ぬれてぬぐいで父の頭をひやしていた私は、九時ごろになってようやくかたばかりの夜食を済ました。

翌日になると、父は思ったより元気がよかった。

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翌日よくじつになると父は思ったより元気がかった。

止めるのも聞かずに、歩いて便所へ行ったりした。

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めるのも聞かずに歩いて便所へ行ったりした。

「もう大丈夫」

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「もう大丈夫」

父は去年の暮れに倒れたときにわたしに向かって言ったのと同じ言葉を、また くり返した。

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父は去年の暮倒れた時に私に向かっていったと同じ言葉をまた繰り返した。

そのときは本当に口で言ったとおり、まあ大丈夫だった。

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その時ははたして口でいった通りまあ大丈夫であった。

わたしは今度も、もしかするとそうなるかもしれないと思った。

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私は今度もあるいはそうなるかも知れないと思った。

しかし医者はただ用心が大事だと注意するだけで、念を押してもはっきりしたことを話してくれなかった。

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しかし医者はただ用心が肝要だと注意するだけで、念を押しても判然はっきりした事を話してくれなかった。

わたしは不安のために、出発の日が来てもついに東京へ出る気が起こらなかった。

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私は不安のために、出立しゅったつの日が来てもついに東京へ立つ気が起らなかった。

「もう少し様子を見てからにしましょうか」

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「もう少し様子を見てからにしましょうか」

と、わたしは母に相談した。

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と私は母に相談した。

「そうしておくれ」

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「そうしておくれ」

と、母が頼んだ。

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と母が頼んだ。

母は父が庭へ出たり裏へ下りたりする元気を見ている間だけは平気でいるくせに、こんなことが起こるとまた必要以上に心配したり気をもんだりした。

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母は父が庭へ出たり背戸せどへ下りたりする元気を見ている間だけは平気でいるくせに、こんな事が起るとまた必要以上に心配したり気をんだりした。

「お前は今日東京へ行くはずじゃなかったか」

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「お前は今日東京へ行くはずじゃなかったか」

と、父が聞いた。

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と父が聞いた。

「ええ、少し延ばしました」

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「ええ、少し延ばしました」

と、わたしが答えた。

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と私が答えた。

「おれのためにかい」

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「おれのためにかい」

と、父が聞き返した。

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と父が聞き返した。

わたしは、ちょっとためらった。

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私はちょっと躊躇ちゅうちょした。

そうだと言えば、父の病気が重いのを裏づけするようなものだった。

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そうだといえば、父の病気の重いのを裏書きするようなものであった。

わたしは、父の神経を敏感にしたくなかった。

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私は父の神経を過敏にしたくなかった。

しかし父は、わたしの心をよく見ぬいているらしかった。

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しかし父は私の心をよく見抜いているらしかった。

「気の毒だね」

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「気の毒だね」

と言って、庭の方を向いた。

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といって、庭の方を向いた。

わたしは自分の部屋に入って、そこに放り出された行李をながめた。

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私は自分の部屋にはいって、そこに放り出された行李を眺めた。

行李はいつ持ち出しても差し支えないように、かたくしばられたままだった。

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行李はいつ持ち出しても差支さしつかえないように、堅くくくられたままであった。

わたしはぼんやりその前に立って、また縄を解こうかと考えた。

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私はぼんやりその前に立って、また縄を解こうかと考えた。

わたしはすわったまま腰を浮かせたときのような落ち着かない気分で、また三、四日を過ごした。

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私は坐ったまま腰を浮かした時の落ち付かない気分で、また三、四日を過ごした。

すると父が、また倒れた。

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すると父がまた卒倒した。

医者は、絶対に静かに寝ているよう命じた。

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医者は絶対に安臥あんがを命じた。

「どうしたものだろうね」

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「どうしたものだろうね」

と母が、父に聞こえないような小さな声でわたしに言った。

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と母が父に聞こえないような小さな声で私にいった。

母の顔は、いかにも心細そうだった。

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母の顔はいかにも心細そうであった。

わたしは兄と妹に電報を打つ用意をした。

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私は兄といもとに電報を打つ用意をした。

けれども寝ている父には、ほとんど何の苦しみもなかった。

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けれども寝ている父にはほとんど何の苦悶くもんもなかった。

話をするところなどを見ると、風邪でも引いたときとまったく同じだった。

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話をするところなどを見ると、風邪かぜでも引いた時と全く同じ事であった。

その上、食よくはふだんよりも出た。

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その上食欲は不断よりも進んだ。

そばの者が注意しても、簡単には言うことを聞かなかった。

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はたのものが、注意しても容易にいう事を聞かなかった。

「どうせ死ぬんだから、うまいものでも食って死ななくちゃ」

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「どうせ死ぬんだから、うまいものでも食って死ななくっちゃ」

わたしには、うまいものという父の言葉がおかしくも痛ましくも聞こえた。

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私には旨いものという父の言葉が滑稽こっけいにも悲酸ひさんにも聞こえた。

父はうまいものを口に入れられる都には、住んでいなかったのだ。

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父は旨いものを口に入れられる都には住んでいなかったのである。

夜になって、かき餅などを焼いてもらって、ぼりぼりかんだ。

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ってかきもちなどを焼いてもらってぼりぼりんだ。

「どうしてこう渇くのかね。やっぱり心のどこかに丈夫な所があるのかもしれないよ」

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「どうしてこうかわくのかね。やっぱりしんに丈夫の所があるのかも知れないよ」

母は望みを捨てていいところに、かえって望みを置いた。

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母は失望していいところにかえって頼みを置いた。

そのくせ、病気のときにしか使わない「渇く」という昔風の言葉を、何でも食べたがるという意味に使っていた。

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そのくせ病気の時にしか使わない渇くという昔風の言葉を、何でも食べたがる意味に用いていた。

おじが見まいに来たとき、父はいつまでも引き止めて帰さなかった。

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伯父おじが見舞に来たとき、父はいつまでも引き留めて帰さなかった。

寂しいからもっといてくれというのが主な理由だったが、母やわたしが、食べたいだけ物を食べさせないという不満を訴えるのも、その目的の一つだったらしい。

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さむしいからもっといてくれというのがおもな理由であったが、母や私が、食べたいだけ物を食べさせないという不平を訴えるのも、その目的の一つであったらしい。

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父の病気は、同じような状態で一週間以上続いた。

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父の病気は同じような状態で一週間以上つづいた。

わたしはその間に、長い手紙を九州にいる兄あてで出した。

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わたくしはその間に長い手紙を九州にいる兄あてで出した。

妹へは、母から出させた。

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いもとへは母から出させた。

わたしは心の中で、たぶんこれが父の体について二人へ出す最後の便りだろうと思った。

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私は腹の中で、おそらくこれが父の健康に関して二人へやる最後の音信たよりだろうと思った。

それで両方へ、いよいよという場合には電報を打つから出て来いという意味を書きこめた。

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それで両方へいよいよという場合には電報を打つから出て来いという意味を書き込めた。

兄は、いそがしい仕事についていた。

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兄は忙しい職にいた。

妹は、身重だった。

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妹は妊娠中であった。

だから父の危険が目の前に迫らないうちに呼び寄せる訳には行かなかった。

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だから父の危険が眼の前にせまらないうちに呼び寄せる自由はかなかった。

かといって、せっかく都合して来たには来たが間に合わなかったと言われるのもつらかった。

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といって、折角都合して来たには来たが、に合わなかったといわれるのもつらかった。

わたしは電報を打つ時について、人の知らない責任を感じた。

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私は電報を掛ける時機について、人の知らない責任を感じた。

「そうはっきりしたことになると、私にも分かりません。しかし危険はいつ来るか分からないということだけは承知していてください」

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「そう判然はっきりした事になると私にも分りません。しかし危険はいつ来るか分らないという事だけは承知していて下さい」

駅のある町から呼んだ医者は、わたしにこう言った。

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停車場ステーションのある町から迎えた医者は私にこういった。

わたしは母と相談して、その医者の世話で町の病院から看護婦を一人たのむことにした。

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私は母と相談して、その医者の周旋で、町の病院から看護婦を一人頼む事にした。

父はまくらもとへ来てあいさつする白い服を着た女を見て、へんな顔をした。

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父は枕元まくらもとへ来て挨拶あいさつする白い服を着た女を見て変な顔をした。

父は死ぬ病気にかかっていることを、とっくから分かっていた。

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父は死病にかかっている事をとうから自覚していた。

それでいて、目の前に迫りつつある死そのものには気がつかなかった。

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それでいて、眼前にせまりつつある死そのものには気が付かなかった。

「今に治ったら、もう一度東京へ遊びに行ってみよう。人間はいつ死ぬか分からないからな。何でもやりたいことは、生きているうちにやっておくに限る」

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「今になおったらもう一返いっぺん東京へ遊びに行ってみよう。人間はいつ死ぬか分らないからな。何でもやりたい事は、生きてるうちにやっておくに限る」

母は仕方なしに「その時は私もいっしょに連れて行っていただきましょう」

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母は仕方なしに「その時は私もいっしょにれて行って頂きましょう」

などと、調子を合わせていた。

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などと調子を合せていた。

ときにはまた、とても寂しがった。

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時とするとまた非常にさみしがった。

「おれが死んだら、どうかお母さんを大事にしてやってくれ」

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「おれが死んだら、どうかお母さんを大事にしてやってくれ」

わたしはこの「おれが死んだら」

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私はこの「おれが死んだら」

という言葉に、一つの記憶を持っていた。

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という言葉に一種の記憶をもっていた。

東京を出るとき、先生が奥さんに向かって何度もそれをくり返したのは、わたしが卒業した日の晩のことだった。

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東京を立つ時、先生が奥さんに向かって何遍なんべんもそれを繰り返したのは、私が卒業した日の晩の事であった。

わたしは笑いをふくんだ先生の顔と、縁起でもないと耳をふさいだ奥さんの様子とを思い出した。

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私はわらいを帯びた先生の顔と、縁喜えんぎでもないと耳をふさいだ奥さんの様子とをおもい出した。

あのときの「おれが死んだら」

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あの時の「おれが死んだら」

は、ただの言葉遊びのような仮の話だった。

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は単純な仮定であった。

今わたしが聞くのは、いつ起こるか分からない本当のことだった。

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今私が聞くのはいつ起るか分らない事実であった。

わたしは先生に対する奥さんの態度を、まねることができなかった。

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私は先生に対する奥さんの態度を学ぶ事ができなかった。

しかし口の先では、何とか父の気をそらさなければならなかった。

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しかし口の先では何とか父を紛らさなければならなかった。

「そんな弱いことをおっしゃってはいけませんよ。今に治ったら東京へ遊びにいらっしゃるはずじゃありませんか。お母さんといっしょに。今度いらっしゃるときっとびっくりしますよ、変わっているんで。電車の新しい線路だけでも大変増えていますからね。電車が通るようになれば自然と町並みも変わるし、その上に区画整理もあるし、東京がじっとしている時は、まあ一日じゅう一分もないと言っていいくらいです」

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「そんな弱い事をおっしゃっちゃいけませんよ。今になおったら東京へ遊びにいらっしゃるはずじゃありませんか。お母さんといっしょに。今度いらっしゃるときっと吃驚びっくりしますよ、変っているんで。電車の新しい線路だけでも大変えていますからね。電車が通るようになれば自然町並まちなみも変るし、その上に市区改正もあるし、東京がじっとしている時は、まあ二六時中にろくじちゅう一分もないといっていいくらいです」

わたしは仕方がないから、言わないでいいことまでしゃべった。

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私は仕方がないからいわないでいい事まで喋舌しゃべった。

父はまた、満足そうにそれを聞いていた。

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父はまた、満足らしくそれを聞いていた。

病人がいるので、自然と家の出入りも多くなった。

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病人があるので自然いえの出入りも多くなった。

近所にいる親類などは、二日に一人ぐらいの割合で交代に見まいに来た。

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近所にいる親類などは、二日に一人ぐらいの割で代る代る見舞に来た。

中には比較的遠くにいて、ふだんはつき合いの少ない人もあった。

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中には比較的遠くにいて平生へいぜい疎遠なものもあった。

「どうかと思ったら、この様子なら大丈夫だ。話も自由だし、だいいち顔がちっともやせていないじゃないか」

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「どうかと思ったら、この様子じゃ大丈夫だ。話も自由だし、だいち顔がちっともせていないじゃないか」

などと言って帰る人があった。

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などといって帰るものがあった。

わたしが帰った当時はひっそりし過ぎるほど静かだった家が、こんなことでだんだんざわざわし始めた。

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私の帰った当時はひっそりし過ぎるほど静かであった家庭が、こんな事で段々ざわざわし始めた。

その中で動かずにいる父の病気は、ただよくない方へ移って行くばかりだった。

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その中に動かずにいる父の病気は、ただ面白くない方へ移って行くばかりであった。

わたしは母やおじと相談して、とうとう兄と妹に電報を打った。

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私は母や伯父おじと相談して、とうとう兄といもとに電報を打った。

兄からは、すぐ行くという返事が来た。

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兄からはすぐ行くという返事が来た。

妹の夫からも、出発するという知らせがあった。

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妹の夫からも立つという報知しらせがあった。

妹はこの前身重になったときに流産したので、今度こそはくせにならないように大事を取らせるつもりだと、前から言ってよこしたその夫は、妹の代わりに自分で出て来るかもしれなかった。

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妹はこの前懐妊かいにんした時に流産したので、今度こそは癖にならないように大事を取らせるつもりだと、かねていい越したその夫は、妹の代りに自分で出て来るかも知れなかった。

十一

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十一

こうした落ち着かない間にも、わたしはまだ静かにすわる余裕を持っていた。

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こうした落ち付きのない間にも、わたくしはまだ静かにすわる余裕をもっていた。

たまには本を開いて十ページも続けて読む時間さえ出て来た。

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たまには書物を開けて十ページもつづけざまに読む時間さえ出て来た。

いったんかたくしばられたわたしの行李は、いつの間にか解かれてしまった。

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一旦いったん堅くくくられた私の行李こうりは、いつの間にか解かれてしまった。

わたしは必要に応じて、その中からいろいろなものを取り出した。

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私はるに任せて、その中から色々なものを取り出した。

わたしは東京を出るときに心のうちで決めた、この夏じゅうの予定を振り返った。

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私は東京を立つ時、心のうちでめた、この夏中の日課を顧みた。

わたしがやったことは、この予定の三分の一にも足りなかった。

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私のやった事はこの日課のさんいちにも足らなかった。

わたしは今までも、こういう不愉快を何度となく重ねて来た。

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私は今までもこういう不愉快を何度となく重ねて来た。

しかしこの夏ほど思ったとおりに仕事の進まないこともまれだった。

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しかしこの夏ほど思った通り仕事の運ばないためしも少なかった。

これが人の世の常だろうと思いながらも、わたしはいやな気持ちに押さえつけられた。

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これが人の世の常だろうと思いながらも私はいやな気持におさえ付けられた。

わたしはこの不快の中にすわりながら、一方で父の病気を考えた。

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私はこの不快のうちに坐りながら、一方に父の病気を考えた。

父が死んだあとのことを想像した。

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父の死んだあとの事を想像した。

そうしてそれと同時に、先生のことを一方で思いうかべた。

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そうしてそれと同時に、先生の事を一方に思い浮べた。

わたしはこの不快な気持ちの両はしに、立場も教育も性格もまったく違う二人の姿をながめた。

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私はこの不快な心持の両端に地位、教育、性格の全然異なった二人の面影をながめた。

わたしが父のまくらもとを離れて、一人散らかした本の中で腕を組んでいるところへ、母が顔を出した。

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私が父の枕元まくらもとを離れて、独り取り乱した書物の中に腕組みをしているところへ母が顔を出した。

「少し昼寝でもおしよ。お前もさぞ疲れるだろう」

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「少し午眠ひるねでもおしよ。お前もさぞ草臥くたびれるだろう」

母は、わたしの気分を分かっていなかった。

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母は私の気分を了解していなかった。

わたしも母からそれを期待するほどの子どもでもなかった。

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私も母からそれを予期するほどの子供でもなかった。

わたしは、簡単に礼を言った。

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私は単簡たんかんに礼を述べた。

母は、まだ部屋の入口に立っていた。

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母はまだへやの入口に立っていた。

「お父さんは」

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「お父さんは?」

と、わたしが聞いた。

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と私が聞いた。

「今よく寝ていらっしゃるよ」

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「今よく寝ておいでだよ」

と、母が答えた。

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と母が答えた。

母は突然入って来て、わたしのそばにすわった。

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母は突然はいって来て私のそばすわった。

「先生からまだ何とも言って来ないかい」

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「先生からまだ何ともいって来ないかい」

と聞いた。

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と聞いた。

母は、そのときのわたしの言葉を信じていた。

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母はその時の私の言葉を信じていた。

そのときのわたしは、先生からきっと返事があると母に約束した。

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その時の私は先生からきっと返事があると母に保証した。

しかし父や母の望むような返事が来るとは、そのときのわたしもまるで期待しなかった。

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しかし父や母の希望するような返事が来るとは、その時の私もまるで期待しなかった。

わたしは、分かっていながら母をだましたのと同じことになった。

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私は心得があって母をあざむいたと同じ結果に陥った。

「もう一度手紙を出してご覧な」

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「もう一遍いっぺん手紙を出してご覧な」

と、母が言った。

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と母がいった。

役に立たない手紙を何通書こうと、それが母のなぐさめになるなら、手間をおしむようなわたしではなかった。

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役に立たない手紙を何通書こうと、それが母の慰安になるなら、手数をいとうような私ではなかった。

けれどもこういう用事で先生にせまるのは、わたしにはつらかった。

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けれどもこういう用件で先生にせまるのは私の苦痛であった。

わたしは父に叱られたり母の機げんをそこなったりするよりも、先生から見下されるのをはるかに恐れていた。

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私は父にしかられたり、母の機嫌を損じたりするよりも、先生から見下げられるのをはるかに恐れていた。

あの頼みに対して今まで返事のもらえないのも、もしかするとそうした訳からではないかしらという勘ぐりもあった。

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あの依頼に対して今まで返事のもらえないのも、あるいはそうした訳からじゃないかしらという邪推もあった。

「手紙を書くのはたやすいですが、こういうことは郵便ではとても片づきませんよ。どうしても自分で東京へ出て、じかに頼んで回らなくては」

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「手紙を書くのは訳はないですが、こういう事は郵便じゃとてもらちは明きませんよ。どうしても自分で東京へ出て、じかに頼んでまわらなくっちゃ」

「だってお父さんがあの様子では、お前、いつ東京へ出られるか分からないじゃないか」

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「だってお父さんがあの様子じゃ、お前、いつ東京へ出られるか分らないじゃないか」

「だから出やしません。治るとも治らないとも片づかないうちは、ちゃんとこうしているつもりです」

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「だから出やしません。なおるとも癒らないとも片付かないうちは、ちゃんとこうしているつもりです」

「それは分かり切った話だね。今にも難しいという大病人を放りっぱなしにしておいて、誰が勝手に東京へなんか行けるものかね」

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「そりゃわかり切った話だね。今にもむずかしいという大病人をほうちらかしておいて、誰が勝手に東京へなんか行けるものかね」

わたしは初め心の中で、何も知らない母をあわれんだ。

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私は始め心のなかで、何も知らない母をあわれんだ。

しかし母がなぜこんな話を、このざわざわしたときに持ち出したのか分からなかった。

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しかし母がなぜこんな問題をこのざわざわした際に持ち出したのか理解できなかった。

わたしが父の病気をよそに静かにすわったり本を読んだりする余裕があるように、母も目の前の病人を忘れてほかのことを考えるだけ、胸に空きがあるのかしらと疑った。

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私が父の病気をよそに、静かに坐ったり書見したりする余裕のあるごとくに、母も眼の前の病人を忘れて、ほかの事を考えるだけ、胸に空地すきまがあるのかしらとうたぐった。

そのとき「実はね」

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その時「実はね」

と、母が言い出した。

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と母がいい出した。

「実はお父さんの生きていらっしゃるうちに、お前の口が決まったらさぞ安心なさるだろうと思うんだがね。この様子ではとても間に合わないかもしれないけれども、それにしても、まだああやって口もたしかなら気もたしかなんだから、ああしていらっしゃるうちに喜ばせてあげるように親孝行をおしな」

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「実はお父さんの生きておいでのうちに、お前の口がきまったらさぞ安心なさるだろうと思うんだがね。この様子じゃ、とても間に合わないかも知れないけれども、それにしても、まだああやって口もたしかなら気も慥かなんだから、ああしてお出のうちに喜ばして上げるように親孝行をおしな」

あわれなわたしは、親孝行のできない立場にいた。

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憐れな私は親孝行のできない境遇にいた。

わたしはついに、一行の手紙も先生に出さなかった。

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私はついに一行の手紙も先生に出さなかった。

十二

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十二

兄が帰って来たとき、父は寝ながら新聞を読んでいた。

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兄が帰って来た時、父は寝ながら新聞を読んでいた。

父はふだんから何をおいても新聞だけには目を通す習慣だったが、ふとんについてからはたいくつのためになおさらそれを読みたがった。

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父は平生へいぜいから何をいても新聞だけには眼を通す習慣であったが、とこについてからは、退屈のため猶更なおさらそれを読みたがった。

母もわたしも無理には反対せずに、なるべく病人の思いどおりにさせておいた。

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母もわたくしいては反対せずに、なるべく病人の思い通りにさせておいた。

「そういう元気なら結構なものだ。よほど悪いかと思って来たら、大変いいようじゃありませんか」

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「そういう元気なら結構なものだ。よっぽど悪いかと思って来たら、大変いようじゃありませんか」

兄はこんなことを言いながら、父と話をした。

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兄はこんな事をいいながら父と話をした。

そのにぎやか過ぎる調子が、わたしにはかえって場にそぐわなく聞こえた。

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そのにぎやか過ぎる調子が私にはかえって不調和に聞こえた。

それでも父の前をはずしてわたしと二人になったときは、むしろ沈んでいた。

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それでも父の前をはずして私と差し向いになった時は、むしろ沈んでいた。

「新聞なんか読ませてはいけないんじゃないか」

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「新聞なんか読ましちゃいけなかないか」

「私もそう思うんだけれども、読まないと承知しないんだから仕方がない」

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わたしもそう思うんだけれども、読まないと承知しないんだから、仕様がない」

兄は、わたしの言いわけを黙って聞いていた。

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兄は私の弁解を黙って聞いていた。

やがて「よく分かるのかな」

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やがて、「よくわかるのかな」

と言った。

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といった。

兄は、父の物を分かる力が病気のためにふだんよりよほど鈍っているように見たらしい。

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兄は父の理解力が病気のために、平生よりはよっぽどにぶっているように観察したらしい。

「それはたしかです。私はさっき二十分ばかり枕もとに座っていろいろ話してみたが、調子の狂ったところは少しもないです。あの様子ではことによると、まだなかなか持つかもしれませんよ」

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「そりゃたしかです。わたしはさっき二十分ばかり枕元まくらもとすわって色々話してみたが、調子の狂ったところは少しもないです。あの様子じゃことによるとまだなかなか持つかも知れませんよ」

兄と前後して着いた妹の夫の意見は、わたしたちよりもよほど気楽だった。

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兄と前後して着いたいもとの夫の意見は、我々よりもよほど楽観的であった。

父は彼に向かって、妹のことをあれこれとたずねていた。

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父は彼に向かって妹の事をあれこれと尋ねていた。

「体が体だから、むやみに汽車になんぞ乗って揺られない方がいい。無理をして見舞いに来られたりすると、かえってこちらが心配だから」

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身体からだが身体だからむやみに汽車になんぞ乗ってれない方が好い。無理をして見舞に来られたりすると、かえってこっちが心配だから」

と言っていた。

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といっていた。

「なに、今に治ったら赤ん坊の顔でも見に、久しぶりにこちらから出掛けるから差し支えない」

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「なに今に治ったら赤ん坊の顔でも見に、久しぶりにこっちから出掛けるから差支さしつかえない」

とも言っていた。

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ともいっていた。

乃木大将が死んだときも、父は一番先に新聞でそれを知った。

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乃木大将のぎだいしょうの死んだ時も、父は一番さきに新聞でそれを知った。

「大変だ、大変だ」

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「大変だ大変だ」

と言った。

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といった。

何も知らないわたしたちは、この突然の言葉に驚かされた。

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何事も知らない私たちはこの突然な言葉に驚かされた。

「あの時はいよいよ頭が変になったのかと思って、ひやりとした」

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「あの時はいよいよ頭が変になったのかと思って、ひやりとした」

と、あとで兄がわたしに言った。

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と後で兄が私にいった。

「私も実は驚きました」

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わたしも実は驚きました」

と、妹の夫も同じ気持ちらしい言い方だった。

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と妹の夫も同感らしい言葉つきであった。

そのころの新聞は、実際田舎の人には毎日待ちかまえられるような記事ばかりだった。

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そのころの新聞は実際田舎いなかものには日ごとに待ち受けられるような記事ばかりあった。

わたしは父のまくらもとにすわって、ていねいにそれを読んだ。

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私は父の枕元に坐って鄭寧ていねいにそれを読んだ。

読む時間のないときは、そっと自分の部屋へ持って来て残らず目を通した。

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読む時間のない時は、そっと自分のへやへ持って来て、残らず眼を通した。

わたしの目は長い間、軍服を着た乃木大将と、それから宮中の女官のような服そうをしたその夫人の姿を忘れることができなかった。

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私の眼は長い間、軍服を着た乃木大将と、それから官女かんじょみたような服装なりをしたその夫人の姿を忘れる事ができなかった。

悲しい風が田舎の隅まで吹いて来て、眠たそうな木や草をふるわせている最中に、突然わたしは一通の電報を先生から受け取った。

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悲痛な風が田舎の隅まで吹いて来て、眠たそうなや草を震わせている最中さいちゅうに、突然私は一通の電報を先生から受け取った。

洋服を着た人を見ると犬がほえるような所では、一通の電報さえ大事けんだった。

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洋服を着た人を見ると犬がえるような所では、一通の電報すら大事件であった。

それを受け取った母は、やはり驚いたような様子をして、わざわざわたしを人のいない所へ呼び出した。

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それを受け取った母は、はたして驚いたような様子をして、わざわざ私を人のいない所へ呼び出した。

「何だい」

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「何だい」

と言って、わたしが封を開くのをそばに立って待っていた。

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といって、私の封を開くのをそばに立って待っていた。

電報には、ちょっと会いたいが来られるかという意味が簡単に書いてあった。

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電報にはちょっと会いたいが来られるかという意味が簡単に書いてあった。

わたしは、首をかしげた。

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私は首を傾けた。

「きっとお頼みしておいた口のことだよ」

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「きっとおたのもうしておいた口の事だよ」

と、母が推し量ってくれた。

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と母が推断してくれた。

わたしも、もしかするとそうかもしれないと思った。

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私もあるいはそうかも知れないと思った。

しかしそれにしては少しへんだとも考えた。

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しかしそれにしては少し変だとも考えた。

とにかく兄や妹の夫まで呼び寄せたわたしが、父の病気を放り出して東京へ行く訳には行かなかった。

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とにかく兄やいもとの夫まで呼び寄せた私が、父の病気を打遣うちやって、東京へ行く訳には行かなかった。

わたしは母と相談して、行かれないという返しの電報を打つことにした。

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私は母と相談して、行かれないという返電を打つ事にした。

できるだけ簡単な言葉で、父の病気があぶない状態になりつつあることも付け足したが、それでも気が済まなかったから、くわしくは手紙でとして、細かい事情をその日のうちに書いて郵便で出した。

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できるだけ簡略な言葉で父の病気の危篤きとくに陥りつつあるむねも付け加えたが、それでも気が済まなかったから、委細いさい手紙として、細かい事情をその日のうちにしたためて郵便で出した。

頼んだ仕事のことだとばかり信じ切った母は、「本当に間の悪い時は仕方のないものだね」

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頼んだ位地の事とばかり信じ切った母は、「本当にの悪い時は仕方のないものだね」

と言って、残念そうな顔をした。

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といって残念そうな顔をした。

十三

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十三

わたしの書いた手紙は、かなり長いものだった。

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わたくしの書いた手紙はかなり長いものであった。

母もわたしも、今度こそ先生から何とか言って来るだろうと考えていた。

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母も私も今度こそ先生から何とかいって来るだろうと考えていた。

すると手紙を出して二日目に、また電報がわたしあてで届いた。

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すると手紙を出して二日目にまた電報が私あてで届いた。

それには、来ないでもよろしいという言葉だけしかなかった。

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それには来ないでもよろしいという文句だけしかなかった。

わたしはそれを、母に見せた。

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私はそれを母に見せた。

「たぶん手紙で何とか言って来てくださるつもりだろうよ」

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大方おおかた手紙で何とかいってきて下さるつもりだろうよ」

母はどこまでも、先生がわたしのために暮らしの口を世話してくれるものとばかり考えているらしかった。

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母はどこまでも先生が私のために衣食の口を周旋してくれるものとばかり解釈しているらしかった。

わたしも、もしかするとそうかとも考えたが、先生のふだんから考えてみると、どうもへんに思われた。

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私もあるいはそうかとも考えたが、先生の平生からしてみると、どうも変に思われた。

「先生が口を探してくれる」

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「先生が口を探してくれる」

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これはあり得ないことのように、わたしには見えた。

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これはありべからざる事のように私には見えた。

「とにかく私の手紙はまだ向こうへ着いていないはずだから、この電報はその前に出したものに違いないですね」

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「とにかく私の手紙はまだ向うへ着いていないはずだから、この電報はその前に出したものに違いないですね」

わたしは母に向かって、こんな分かり切ったことを言った。

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私は母に向かってこんな分り切った事をいった。

母はまたもっともらしく考えながら「そうだね」

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母はまたもっともらしく思案しながら「そうだね」

と答えた。

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と答えた。

わたしの手紙を読まない前に先生がこの電報を打ったということが、先生を理解する上で何の役にも立たないのは分かっているのに。

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私の手紙を読まない前に、先生がこの電報を打ったという事が、先生を解釈する上において、何の役にも立たないのは知れているのに。

その日はちょうど主治医が町から院長を連れて来るはずになっていたので、母とわたしはそれきりこのことについて話をする機会がなかった。

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その日はちょうど主治医が町から院長を連れて来るはずになっていたので、母と私はそれぎりこの事件について話をする機会がなかった。

二人の医者は立ち会いの上、病人にかんちょうなどをして帰って行った。

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二人の医者は立ち合いの上、病人に浣腸かんちょうなどをして帰って行った。

父は医者から静かにしているよう命じられてから、大小便とも寝たまま人の手で始末してもらっていた。

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父は医者から安臥あんがを命ぜられて以来、両便とも寝たままひとの手で始末してもらっていた。

きれい好きな父は、最初の間こそひどくそれをいやがったが、体が動かないのでやむを得ず、いやいやふとんの上で用を足した。

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潔癖な父は、最初の間こそはなはだしくそれをみ嫌ったが、身体からだかないので、やむを得ずいやいやとこの上で用を足した。

それが病気のせいで頭がだんだん鈍くなるのか何なのか、日が経つにつれて、だらしない用の足し方を気にしないようになった。

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それが病気の加減で頭がだんだん鈍くなるのか何だか、日をるに従って、無精な排泄はいせつを意としないようになった。

たまにはふとんやしき布を汚して、そばの者がまゆをひそめるのに、当人はかえって平気でいたりした。

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たまには蒲団ふとんや敷布を汚して、はたのものがまゆを寄せるのに、当人はかえって平気でいたりした。

もっとも小便の量は、病気の性質として、とても少なくなった。

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もっとも尿の量は病気の性質として、極めて少なくなった。

医者は、それを気にした。

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医者はそれを苦にした。

食よくも、だんだん弱った。

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食欲も次第に衰えた。

たまに何か欲しがっても、舌が欲しがるだけで、のどから下へはごくわずかしか通らなかった。

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たまに何か欲しがっても、舌が欲しがるだけで、咽喉のどから下へはごくわずかしか通らなかった。

好きな新聞も、手に取る力がなくなった。

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好きな新聞も手に取る気力がなくなった。

まくらのそばにある老眼鏡は、いつまでも黒いケースに入れられたままだった。

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まくらそばにある老眼鏡ろうがんきょうは、いつまでも黒いさやに納められたままであった。

子どもの時分から仲のよかった作さんという、今では四キロほど離れた所に住んでいる人が見まいに来たとき、父は「ああ、作さんか」

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子供の時分から仲の好かったさくさんという今では一ばかり隔たった所に住んでいる人が見舞に来た時、父は「ああ作さんか」

と言って、どんよりした目を作さんの方に向けた。

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といって、どんよりした眼を作さんの方に向けた。

「作さん、よく来てくれた。作さんは丈夫でうらやましいね。おれはもう駄目だ」

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「作さんよく来てくれた。作さんは丈夫でうらやましいね。おれはもう駄目だめだ」

「そんなことはないよ。お前なんか子供は二人とも大学を卒業するし、少しぐらい病気になったって申し分はないんだ。おれをご覧よ。かかあには死なれるしさ、子供はなしさ。ただこうして生きているだけのことだよ。達者だって何の楽しみもないじゃないか」

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「そんな事はないよ。お前なんか子供は二人とも大学を卒業するし、少しぐらい病気になったって、申し分はないんだ。おれをご覧よ。かかあには死なれるしさ、子供はなしさ。ただこうして生きているだけの事だよ。達者だって何の楽しみもないじゃないか」

かんちょうをしたのは、作さんが来てから二、三日あとのことだった。

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浣腸かんちょうをしたのは作さんが来てから二、三日あとの事であった。

父は医者のおかげで大変楽になったと言って、喜んだ。

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父は医者のおかげで大変楽になったといって喜んだ。

少し自分の寿命に対して腹がすわったという風に、機げんが直った。

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少し自分の寿命に対する度胸ができたというふうに機嫌が直った。

そばにいる母は、それにつられたのか、病人に元気をつけるためか、先生から電報が来たことを、まるでわたしの仕事が父の望みどおり東京に決まったかのように話した。

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そばにいる母は、それに釣り込まれたのか、病人に気力を付けるためか、先生から電報のきた事を、あたかも私の位置が父の希望する通り東京にあったように話した。

そばにいるわたしはむずがゆい気持ちがしたが、母の言葉をさえぎる訳にも行かないので、黙って聞いていた。

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そばにいる私はむずがゆい心持がしたが、母の言葉をさえぎる訳にもゆかないので、黙って聞いていた。

病人は、うれしそうな顔をした。

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病人はうれしそうな顔をした。

「それは結構です」

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「そりゃ結構です」

と、妹の夫も言った。

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いもとの夫もいった。

「何の口だかまだ分からないのか」

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「何の口だかまだ分らないのか」

と、兄が聞いた。

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と兄が聞いた。

わたしは今さらそれを打ち消す勇気を失った。

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私は今更それを否定する勇気を失った。

自分にも何とも訳の分からないあいまいな返事をして、わざと席を立った。

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自分にも何とも訳の分らない曖昧あいまいな返事をして、わざと席を立った。

十四

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十四

父の病気は最後の一撃を待つ間際まで進んで来て、そこでしばらくためらっているように見えた。

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父の病気は最後の一撃を待つ間際まぎわまで進んで来て、そこでしばらく躊躇ちゅうちょするようにみえた。

家の者は、運命の宣告が今日下るか今日下るかと思って、毎晩ふとんに入った。

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家のものは運命の宣告が、今日くだるか、今日下るかと思って、毎夜とこにはいった。

父はそばの者をつらくするほどの苦しみを、どこにも感じていなかった。

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父ははたのものをつらくするほどの苦痛をどこにも感じていなかった。

その点では、看病はむしろ楽だった。

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その点になると看病はむしろ楽であった。

用心のためにだれか一人ぐらいずつ交代に起きてはいたが、あとの者はそれなりの時間にそれぞれの寝床へ引き取って差し支えなかった。

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要心のために、誰か一人ぐらいずつ代る代る起きてはいたが、あとのものは相当の時間に各自めいめいの寝床へ引き取って差支さしつかえなかった。

何かの拍子でねむれなかったとき、病人のうなるような声をかすかに聞いたと思いちがえたわたしは、一度夜中にふとんを抜け出して、念のため父のまくらもとまで行ってみたことがあった。

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何かの拍子で眠れなかった時、病人のうなるような声をかすかに聞いたと思い誤ったわたくしは、一ぺん半夜よなかに床を抜け出して、念のため父の枕元まくらもとまで行ってみた事があった。

その夜は、母が起きている番に当たっていた。

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そのは母が起きている番に当っていた。

しかしその母は、父の横にひじを曲げてまくらにしたまま寝入っていた。

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しかしその母は父の横にひじを曲げて枕としたなり寝入っていた。

父も深いねむりの中にそっと置かれた人のように、静かにしていた。

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父も深い眠りのうちにそっと置かれた人のように静かにしていた。

わたしは忍び足で、また自分の寝床へ帰った。

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私は忍び足でまた自分の寝床へ帰った。

わたしは兄といっしょの、かやの中に寝た。

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私は兄といっしょの蚊帳かやの中に寝た。

妹の夫だけは、お客あつかいを受けているせいか、一人離れた座敷に入って休んだ。

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いもとの夫だけは、客扱いを受けているせいか、独り離れた座敷にって休んだ。

「関さんも気の毒だね。ああ何日も引っ張られて帰れなくては」

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せきさんも気の毒だね。ああ幾日も引っ張られて帰れなくっちゃあ」

関というのは、その人の名字だった。

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関というのはその人の苗字みょうじであった。

「しかしそんな忙しい身でもないんだから、ああして泊まっていてくれるんでしょう。関さんよりも兄さんの方が困るでしょう、こう長くなっては」

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「しかしそんな忙しい身体からだでもないんだから、ああして泊っていてくれるんでしょう。関さんよりも兄さんの方が困るでしょう、こう長くなっちゃ」

「困っても仕方がない。ほかのことと違うからな」

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「困っても仕方がない。ほかの事と違うからな」

兄とふとんを並べて寝るわたしは、こんな寝物語をした。

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兄ととこを並べて寝る私は、こんな寝物語をした。

兄の頭にもわたしの胸にも、父はどうせ助からないという考えがあった。

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兄の頭にも私の胸にも、父はどうせ助からないという考えがあった。

どうせ助からないものならばという考えもあった。

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どうせ助からないものならばという考えもあった。

わたしたちは子として、親の死ぬのを待っているようなものだった。

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我々は子として親の死ぬのを待っているようなものであった。

しかし子としてのわたしたちは、それを言葉に出すのをはばかった。

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しかし子としての我々はそれを言葉の上に表わすのをはばかった。

そうしてお互いに、お互いがどんなことを思っているかをよく分かり合っていた。

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そうしてお互いにお互いがどんな事を思っているかをよく理解し合っていた。

「お父さんは、まだ治る気でいるようだな」

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「お父さんは、まだ治る気でいるようだな」

と、兄がわたしに言った。

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と兄が私にいった。

実際、兄の言うとおりに見えるところもないではなかった。

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実際兄のいう通りに見えるところもないではなかった。

近所の人が見まいに来ると、父は必ず会うと言って聞かなかった。

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近所のものが見舞にくると、父は必ず会うといって承知しなかった。

会えば決まって、わたしの卒業祝いに呼ぶことができなかったのを残念がった。

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会えばきっと、私の卒業祝いに呼ぶ事ができなかったのを残念がった。

その代わり、自分の病気が治ったらというようなことも時々付け足した。

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その代り自分の病気が治ったらというような事も時々付け加えた。

「お前の卒業祝いはやめになって結構だ。おれの時には弱ったからね」

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「お前の卒業祝いはめになって結構だ。おれの時には弱ったからね」

と、兄はわたしの記憶をつついた。

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と兄は私の記憶を突ッついた。

わたしは、お酒であおられたそのときの乱れた様子を思い出して苦笑いした。

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私はアルコールにあおられたその時の乱雑な有様をおもい出して苦笑した。

飲むものや食うものをおしつけて回る父の様子も、にがにがしくわたしの目に映った。

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飲むものや食うものをいてまわる父の態度も、にがにがしく私の眼に映った。

わたしたちは、それほど仲のいい兄弟ではなかった。

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私たちはそれほど仲のい兄弟ではなかった。

小さいうちはよくけんかをして、年下のわたしの方がいつでも泣かされた。

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さいうちは喧嘩けんかをして、年の少ない私の方がいつでも泣かされた。

学校へ入ってからの専門のちがいも、まったく性格のちがいから出ていた。

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学校へはいってからの専門の相違も、全く性格の相違から出ていた。

大学にいた時分のわたしは、特に先生に接したわたしは、遠くから兄をながめて、いつも動物のようだと思っていた。

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大学にいる時分の私は、ことに先生に接触した私は、遠くから兄をながめて、常に動物的だと思っていた。

わたしは長く兄に会わなかったので、また遠く離れた所にいたので、時から言っても距離から言っても、兄はいつでもわたしには近くなかったのだ。

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私は長く兄に会わなかったので、また懸け隔たった遠くにいたので、時からいっても距離からいっても、兄はいつでも私には近くなかったのである。

それでも久しぶりにこう顔を合わせてみると、兄弟の優しい気持ちがどこからか自然にわいて出た。

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それでも久しぶりにこう落ち合ってみると、兄弟のやさしい心持がどこからか自然にいて出た。

場合が場合なのも、その大きな原因になっていた。

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場合が場合なのもその大きな源因げんいんになっていた。

二人に共通の父、その父が死のうとしているまくらもとで、兄とわたしは手をにぎり合ったのだった。

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二人に共通な父、その父の死のうとしている枕元まくらもとで、兄と私は握手したのであった。

「お前これからどうする」

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「お前これからどうする」

と、兄は聞いた。

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と兄は聞いた。

わたしはまた、まったく見当のちがった質問を兄にかけた。

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私はまた全く見当の違った質問を兄に掛けた。

「いったい家の財産はどうなってるんだろう」

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「一体うちの財産はどうなってるんだろう」

「おれは知らない。お父さんはまだ何とも言わないから。しかし財産と言ったところで、金としてはたかの知れたものだろう」

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「おれは知らない。お父さんはまだ何ともいわないから。しかし財産っていったところで金としてはたかの知れたものだろう」

母はまた母で、先生の返事の来るのを気にしていた。

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母はまた母で先生の返事の来るのを苦にしていた。

「まだ手紙は来ないかい」

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「まだ手紙は来ないかい」

と、わたしを責めた。

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と私を責めた。

十五

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十五

「先生先生というのは、いったい誰のことだい」

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「先生先生というのは一体だれの事だい」

と、兄が聞いた。

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と兄が聞いた。

「この間話したじゃないか」

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「こないだ話したじゃないか」

と、わたしは答えた。

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わたくしは答えた。

わたしは自分で質問をしておきながら、すぐ人の説明を忘れてしまう兄に対して、不快な気持ちを起こした。

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私は自分で質問をしておきながら、すぐひとの説明を忘れてしまう兄に対して不快の念を起した。

「聞いたことは聞いたけれども」

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「聞いた事は聞いたけれども」

兄は結局、聞いても分からないというのだった。

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兄は必竟ひっきょう聞いてもわからないというのであった。

わたしから見れば、何も無理に先生を兄に分かってもらう必要はなかった。

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私から見ればなにも無理に先生を兄に理解してもらう必要はなかった。

けれども腹は立った。

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けれども腹は立った。

また例の兄らしい所が出て来たと思った。

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また例の兄らしい所が出て来たと思った。

先生先生とわたしが尊敬する以上、その人は必ず有名な人でなくてはならないように、兄は考えていた。

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先生先生と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならないように兄は考えていた。

少なくとも大学の教授ぐらいだろうと、推し量っていた。

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少なくとも大学の教授ぐらいだろうと推察していた。

名もない人、何もしていない人、それがどこに値打ちを持っているだろう。

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名もない人、何もしていない人、それがどこに価値をもっているだろう。

兄の腹は、この点で父とまったく同じものだった。

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兄の腹はこの点において、父と全く同じものであった。

けれども父が、何もできないから遊んでいるのだとすぐ決めるのに対して、兄は、何かやれる力があるのにぶらぶらしているのはつまらない人間に限るという風の言い方をもらした。

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けれども父が何もできないから遊んでいるのだと速断するのに引きかえて、兄は何かやれる能力があるのに、ぶらぶらしているのはつまらん人間に限るといったふう口吻こうふんらした。

「エゴイストはいけないね。何もしないで生きていようというのは、ずるい考えだからね。人は自分の持っている才能をできるだけ働かせなくては嘘だ」

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「イゴイストはいけないね。何もしないで生きていようというのは横着な了簡りょうけんだからね。人は自分のもっている才能をできるだけ働かせなくっちゃうそだ」

わたしは兄に向かって、自分の使っているエゴイストという言葉の意味がよく分かるかと聞き返してやりたかった。

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私は兄に向かって、自分の使っているイゴイストという言葉の意味がよくわかるかと聞き返してやりたかった。

「それでもその人のおかげで地位ができれば、まあ結構だ。お父さんも喜んでるようじゃないか」

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「それでもその人のおかげで地位ができればまあ結構だ。おとうさんも喜んでるようじゃないか」

兄は、あとからこんなことを言った。

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兄は後からこんな事をいった。

先生からはっきりした手紙が来ない以上、わたしはそう信じることもできず、またそう口に出す勇気もなかった。

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先生から明瞭めいりょうな手紙の来ない以上、私はそう信ずる事もできず、またそう口に出す勇気もなかった。

それを母の早のみ込みでみんなに言いふらしてしまった今となってみると、わたしは急にそれを打ち消す訳に行かなくなった。

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それを母の早呑はやのみでみんなにそう吹聴ふいちょうしてしまった今となってみると、私は急にそれを打ち消す訳に行かなくなった。

わたしは母にせかされるまでもなく、先生の手紙を待ちかまえた。

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私は母に催促されるまでもなく、先生の手紙を待ち受けた。

そうしてその手紙に、どうかみんなの考えているような暮らしの口のことが書いてあればいいがと願った。

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そうしてその手紙に、どうかみんなの考えているような衣食の口の事が書いてあればいいがと念じた。

わたしは死にかけている父の手前、その父にいくらかでも安心させてやりたいと願っている母の手前、働かなければ人間でないように言う兄の手前、そのほか妹の夫だのおじだのおばだのの手前、わたしがちっとも関心のないことに神経をなやまさなければならなかった。

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私は死にひんしている父の手前、その父に幾分でも安心させてやりたいと祈りつつある母の手前、働かなければ人間でないようにいう兄の手前、そのいもとの夫だの伯父おじだの叔母おばだのの手前、私のちっとも頓着とんじゃくしていない事に、神経を悩まさなければならなかった。

父がへんな黄色いものをはいたとき、わたしは前に先生と奥さんから聞かされた危険を思い出した。

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父が変な黄色いものもいた時、私はかつて先生と奥さんから聞かされた危険を思い出した。

「ああして長く寝ているんだから、胃も悪くなるはずだね」

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「ああして長く寝ているんだから胃も悪くなるはずだね」

と言った母の顔を見て、何も知らないその人の前で涙ぐんだ。

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といった母の顔を見て、何も知らないその人の前に涙ぐんだ。

兄とわたしが茶の間で顔を合わせたとき、兄は「聞いたか」

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兄と私が茶の間で落ち合った時、兄は「聞いたか」

と言った。

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といった。

それは、医者が帰りぎわに兄に向かって言ったことを聞いたかという意味だった。

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それは医者が帰り際に兄に向っていった事を聞いたかという意味であった。

わたしには説明を待たないでも、その意味がよく分かっていた。

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私には説明を待たないでもその意味がよく解っていた。

「お前ここへ帰って来て、家のことを見る気はないか」

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「お前ここへ帰って来て、うちの事を監理する気がないか」

と、兄がわたしを振り返った。

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と兄が私を顧みた。

わたしは、何とも答えなかった。

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私は何とも答えなかった。

「お母さん一人では、どうすることもできないだろう」

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「お母さん一人じゃ、どうする事もできないだろう」

と、兄がまた言った。

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と兄がまたいった。

兄はわたしを、土のにおいをかいで朽ちて行っても惜しくないように見ていた。

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兄は私を土のにおいをいで朽ちて行っても惜しくないように見ていた。

「本を読むだけなら田舎でも十分できるし、それに働く必要もなくなるし、ちょうどいいだろう」

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「本を読むだけなら、田舎いなかでも充分できるし、それに働く必要もなくなるし、ちょうどいだろう」

「兄さんが帰って来るのが順序ですね」

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「兄さんが帰って来るのが順ですね」

と、わたしが言った。

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と私がいった。

「おれにそんなことができるものか」

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「おれにそんな事ができるものか」

と、兄は一言で退けた。

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と兄は一口ひとくちしりぞけた。

兄の腹の中には、世の中でこれから仕事をしようという気が満ち満ちていた。

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兄の腹の中には、世の中でこれから仕事をしようという気がちていた。

「お前がいやなら、まあ伯父さんにでも世話を頼むんだが、それにしてもお母さんはどちらかで引き取らなくてはなるまい」

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「お前がいやなら、まあ伯父さんにでも世話を頼むんだが、それにしてもお母さんはどっちかで引き取らなくっちゃなるまい」

「お母さんがここを動くか動かないかが、すでに大きな問題ですよ」

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「お母さんがここを動くか動かないかがすでに大きな疑問ですよ」

兄弟はまだ父の死なない前から、父の死んだあとについて、こんな風に語り合った。

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兄弟はまだ父の死なない前から、父の死んだあとについて、こんな風に語り合った。

十六

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十六

父は時々、うわ言を言うようになった。

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父は時々囈語うわことをいうようになった。

「乃木大将に済まない。実に面目次第もない。いえ、私もすぐお後から」

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乃木大将のぎたいしょうに済まない。実に面目次第めんぼくしだいがない。いえ私もすぐおあとから」

こんな言葉を、ひょいひょい出した。

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こんな言葉をひょいひょい出した。

母は、気味を悪がった。

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母は気味を悪がった。

なるべくみんなをまくらもとへ集めておきたがった。

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なるべくみんなを枕元まくらもとへ集めておきたがった。

気のたしかなときはしきりに寂しがる病人にも、それが望みらしく見えた。

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気のたしかな時はしきりにさびしがる病人にもそれが希望らしく見えた。

特に部屋の中を見回して母の姿が見えないと、父は必ず「お光は」

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ことにへやうち見廻みまわして母の影が見えないと、父は必ず「おみつは」

と聞いた。

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と聞いた。

聞かないでも、目がそれを語っていた。

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聞かないでも、眼がそれを物語っていた。

わたしはよく立って、母を呼びに行った。

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わたくしはよくって母を呼びに行った。

「何かご用ですか」

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「何かご用ですか」

と、母がしかけた用をそのままにして病室へ来ると、父はただ母の顔を見つめるだけで何も言わないことがあった。

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と、母が仕掛しかけた用をそのままにしておいて病室へ来ると、父はただ母の顔を見詰めるだけで何もいわない事があった。

そうかと思うと、まるでかけ離れた話をした。

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そうかと思うと、まるで懸け離れた話をした。

突然「お光、お前にもいろいろ世話になったね」

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突然「お光おまえにも色々世話になったね」

などと優しい言葉を出すときもあった。

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などとやさしい言葉を出す時もあった。

母はそういう言葉の前に、決まって涙ぐんだ。

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母はそういう言葉の前にきっと涙ぐんだ。

そうしたあとでは、また必ず丈夫だった昔の父を、それと比べて思い出すらしかった。

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そうした後ではまたきっと丈夫であった昔の父をその対照としておもい出すらしかった。

「あんな哀れっぽいことをおっしゃるがね、あれで元はずいぶん酷かったんだよ」

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「あんなあわれっぽい事をお言いだがね、あれでもとはずいぶんひどかったんだよ」

母は父にほうきで背中をどやされたときのことなどを話した。

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母は父のためにほうきで背中をどやされた時の事などを話した。

今まで何度もそれを聞かされたわたしと兄は、いつもとはまるで違った気分で、母の言葉を父の思い出のように耳に受け入れた。

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今まで何遍なんべんもそれを聞かされた私と兄は、いつもとはまるで違った気分で、母の言葉を父の記念かたみのように耳へ受け入れた。

父は自分の目の前にうす暗く映る死の影をながめながら、まだ言い残す言葉らしいものを口に出さなかった。

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父は自分の眼の前に薄暗く映る死の影を眺めながら、まだ遺言ゆいごんらしいものを口に出さなかった。

「今のうちに何か聞いておく必要はないかな」

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「今のうち何か聞いておく必要はないかな」

と、兄がわたしの顔を見た。

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と兄が私の顔を見た。

「そうだなあ」

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「そうだなあ」

と、わたしは答えた。

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と私は答えた。

わたしは、こちらから進んでそんなことを持ち出すのも病人のために善し悪しだと考えていた。

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私はこちらから進んでそんな事を持ち出すのも病人のためにしだと考えていた。

二人は決めかねて、ついにおじに相談をかけた。

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二人は決しかねてついに伯父おじに相談をかけた。

おじも、首をかしげた。

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伯父も首を傾けた。

「言いたいことがあるのに言わないで死ぬのも残念だろうし、といって、こちらから催促するのも悪いかもしれず」

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「いいたい事があるのに、いわないで死ぬのも残念だろうし、といって、こっちから催促するのも悪いかも知れず」

話はとうとう、ぐずぐずになってしまった。

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話はとうとう愚図愚図ぐずぐずになってしまった。

そのうちに、深いねむりのような状態が来た。

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そのうちに昏睡こんすいが来た。

いつものとおり何も知らない母は、それをただのねむりと思いちがえて、かえって喜んだ。

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例の通り何も知らない母は、それをただの眠りと思い違えてかえって喜んだ。

「まあ、ああして楽に寝られれば、そばにいる者も助かります」

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「まあああして楽に寝られれば、はたにいるものも助かります」

と言った。

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といった。

父は時々目を開けて、だれはどうしたなどと突然聞いた。

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父は時々眼を開けて、だれはどうしたなどと突然聞いた。

そのだれは、つい先ほどまでそこにすわっていた人の名に限られていた。

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その誰はつい先刻さっきまでそこにすわっていた人の名に限られていた。

父の意識には暗い所と明るい所とができて、その明るい所だけが、暗さをぬう白い糸のように、間をあけて続いているように見えた。

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父の意識には暗い所と明るい所とできて、その明るい所だけが、やみを縫う白い糸のように、ある距離を置いて連続するようにみえた。

母が深いねむりのような状態をふつうのねむりと取りちがえたのも、無理はなかった。

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母が昏睡こんすい状態を普通の眠りと取り違えたのも無理はなかった。

そのうち、舌がだんだんもつれて来た。

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そのうち舌が段々もつれて来た。

何か言い出しても言葉の終わりがはっきりしないために、意味が分からずに終わることが多くあった。

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何かいい出してもしり不明瞭ふめいりょうおわるために、要領を得ないでしまう事が多くあった。

そのくせ話し始めるときは、あぶない病人とは思われないほど強い声を出した。

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そのくせ話し始める時は、危篤の病人とは思われないほど、強い声を出した。

わたしたちはもちろんふだん以上に声を張り上げて、耳もとへ口を寄せるようにしなければならなかった。

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我々はもとより不断以上に調子を張り上げて、耳元へ口を寄せるようにしなければならなかった。

「頭を冷やすといい心持ちですか」

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「頭を冷やすとい心持ですか」

「うん」

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「うん」

わたしは看護婦を相手に父の水まくらを取り替えて、それから新しい氷を入れた氷のう(ひょうのう。氷を入れて体を冷やす袋)を頭の上に載せた。

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私は看護婦を相手に、父の水枕みずまくらを取りえて、それから新しい氷を入れた氷嚢ひょうのうを頭の上へせた。

がさがさに割られてとがった氷のかけらが袋の中で落ち着くまで、わたしは父のはげ上がった額の外からそれを柔らかく押さえていた。

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がさがさに割られてとがり切った氷の破片が、ふくろの中で落ちつく間、私は父の禿げ上った額のはずれでそれを柔らかにおさえていた。

そのとき、兄が廊下を通って入って来て、一通の郵便を黙ったままわたしの手にわたした。

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その時兄が廊下伝ろうかづたいにはいって来て、一通の郵便を無言のまま私の手に渡した。

空いている方の左手を出してその郵便を受け取ったわたしは、すぐ不思議に思った。

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いた方の左手を出して、その郵便を受け取った私はすぐ不審を起した。

それはふつうの手紙に比べると、よほど重いものだった。

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それは普通の手紙に比べるとよほど目方の重いものであった。

ふつうの封筒にも入れていなかった。

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なみ状袋じょうぶくろにも入れてなかった。

またふつうの封筒に入れられるだけの分量でもなかった。

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また並の状袋に入れられべき分量でもなかった。

半紙で包んで、閉じ目をていねいにのりで貼りつけてあった。

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半紙で包んで、封じ目を鄭寧ていねいのりり付けてあった。

わたしはそれを兄の手から受け取ったとき、すぐそれが書留であることに気がついた。

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私はそれを兄の手から受け取った時、すぐその書留である事に気が付いた。

裏を返してみると、そこに先生の名がていねいな字で書いてあった。

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裏を返して見るとそこに先生の名がつつしんだ字で書いてあった。

手の放せないわたしは、すぐ封を切る訳に行かないので、ちょっとそれをふところに差しこんだ。

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手の放せない私は、すぐ封を切る訳に行かないので、ちょっとそれをふところに差し込んだ。

十七

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十七

その日は、病人の具合が特に悪いように見えた。

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その日は病人の出来がことに悪いように見えた。

わたしが便所へ行こうとして席を立ったとき、廊下で行き合った兄は「どこへ行く」

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わたくしかわやへ行こうとして席を立った時、廊下で行き合った兄は「どこへ行く」

と、見張りのような口調でとがめた。

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と番兵のような口調で誰何すいかした。

「どうも様子が少し変だから、なるべくそばにいるようにしなくてはいけないよ」

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「どうも様子が少し変だからなるべくそばにいるようにしなくっちゃいけないよ」

と注意した。

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と注意した。

わたしも、そう思っていた。

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私もそう思っていた。

ふところに入れた手紙はそのままにして、また病室へ帰った。

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懐中かいちゅうした手紙はそのままにしてまた病室へ帰った。

父は目を開けて、そこに並んでいる人の名前を母にたずねた。

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父は眼を開けて、そこに並んでいる人の名前を母に尋ねた。

母が、あれはだれ、これはだれと一つ一つ説明してやると、父はそのたびにうなずいた。

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母があれは誰、これは誰と一々説明してやると、父はそのたびに首肯うなずいた。

うなずかないときは、母が声を張り上げて、何々さんです、分かりましたかと念を押した。

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首肯かない時は、母が声を張りあげて、何々さんです、分りましたかと念を押した。

「どうもいろいろお世話になります」

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「どうも色々お世話になります」

父は、こう言った。

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父はこういった。

そうしてまた、深いねむりのような状態におちた。

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そうしてまた昏睡状態に陥った。

まくらもとを取り巻いている人は、黙ったまましばらく病人の様子を見つめていた。

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枕辺まくらべを取り巻いている人は無言のまましばらく病人の様子を見詰めていた。

やがてその中の一人が立って、となりの部屋へ出た。

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やがてそのうちの一人が立って次のへ出た。

するとまた一人立った。

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するとまた一人立った。

わたしも三人目にとうとう席を外して、自分の部屋へ来た。

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私も三人目にとうとう席をはずして、自分のへやへ来た。

わたしには、さっきふところへ入れた郵便物の中を開けてみようという目的があった。

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私には先刻さっきふところへ入れた郵便物の中を開けて見ようという目的があった。

それは病人のまくらもとでも簡単にできることには違いなかった。

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それは病人の枕元でも容易にできる所作しょさには違いなかった。

しかし書かれたものの分量があまりに多過ぎるので、一息にそこで読み通す訳には行かなかった。

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しかし書かれたものの分量があまりに多過ぎるので、一息ひといきにそこで読み通す訳には行かなかった。

わたしは特別の時間をぬすんで、それに当てた。

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私は特別の時間をぬすんでそれにてた。

わたしは丈夫な包み紙を、引っかくようにさき破った。

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私は繊維の強い包み紙を引き掻くようにき破った。

中から出たものは、縦横に引いた線の中へきちんと書いた原こうのようなものだった。

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中から出たものは、縦横たてよこに引いたけいの中へ行儀よく書いた原稿ようのものであった。

そうして封じる都合のために、四つ折りにたたまれていた。

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そうして封じる便宜のために、おりたたまれてあった。

わたしは折りぐせのついた紙を逆に折り返して、読みやすいように平たくした。

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私は癖のついた西洋紙を、逆に折り返して読みやすいように平たくした。

わたしの心は、この多くの紙とインクがわたしに何を語るのだろうかと思って驚いた。

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私の心はこの多量の紙と印気インキが、私に何事を語るのだろうかと思って驚いた。

わたしは同時に、病室のことが気にかかった。

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私は同時に病室の事が気にかかった。

わたしがこの書き物を読み始めて読み終わらない前に、父はきっとどうかなる、少なくともわたしは兄からか母からか、それでなければおじからか呼ばれるに決まっているという予感があった。

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私がこのかきものを読み始めて、読み終らない前に、父はきっとどうかなる、少なくとも、私は兄からか母からか、それでなければ伯父おじからか、呼ばれるにきまっているという予覚よかくがあった。

わたしは落ち着いて、先生の書いたものを読む気になれなかった。

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私は落ち付いて先生の書いたものを読む気になれなかった。

わたしはそわそわしながら、ただ最初の一ページを読んだ。

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私はそわそわしながらただ最初の一ページを読んだ。

そのページは、次のように書かれていた。

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その頁はしものようにつづられていた。

「あなたから過去を問いただされた時、答えることのできなかった勇気のない私は、今あなたの前に、それをはっきりと語る自由を得たと信じます。しかしその自由は、あなたの上京を待っているうちにはまた失われてしまう、この世かぎりの自由に過ぎないのであります。だから、それを使える時に使わなければ、私の過去をあなたの頭に人から聞いた経験として教えてあげる機会を、永久に失うことになります。そうすると、あの時あれほどかたく約束した言葉がまるで嘘になります。私はやむを得ず、口で言うべきところを筆で申し上げることにしました」

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「あなたから過去を問いただされた時、答える事のできなかった勇気のない私は、今あなたの前に、それを明白に物語る自由を得たと信じます。しかしその自由はあなたの上京を待っているうちにはまた失われてしまう世間的の自由に過ぎないのであります。したがって、それを利用できる時に利用しなければ、私の過去をあなたの頭に間接の経験として教えて上げる機会を永久にいっするようになります。そうすると、あの時あれほど堅く約束した言葉がまるでうそになります。私はやむを得ず、口でいうべきところを、筆で申し上げる事にしました」

わたしはそこまで読んで、初めてこの長いものが何のために書かれたのか、その理由をはっきり知ることができた。

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私はそこまで読んで、始めてこの長いものが何のために書かれたのか、その理由を明らかに知る事ができた。

わたしの暮らしの口、そんなものについて先生が手紙を寄こす心配はないと、わたしは初めから信じていた。

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私の衣食の口、そんなものについて先生が手紙を寄こす気遣きづかいはないと、私は初手から信じていた。

しかし筆を取ることの嫌いな先生が、どうしてあのことをこう長く書いてわたしに見せる気になったのだろう。

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しかし筆をることの嫌いな先生が、どうしてあの事件をこう長く書いて、私に見せる気になったのだろう。

先生はなぜ、わたしが東京へ行くまで待っていられないのだろう。

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先生はなぜ私の上京するまで待っていられないだろう。

「自由が来たから話す。しかしその自由はまた永久に失われなければならない」

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「自由が来たから話す。しかしその自由はまた永久に失われなければならない」

わたしは心のうちでこうくり返しながら、その意味を知るのに苦しんだ。

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私は心のうちでこう繰り返しながら、その意味を知るに苦しんだ。

わたしは突然、不安におそわれた。

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私は突然不安に襲われた。

わたしは続けて、あとを読もうとした。

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私はつづいてあとを読もうとした。

そのとき、病室の方からわたしを呼ぶ大きな兄の声が聞こえた。

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その時病室の方から、私を呼ぶ大きな兄の声が聞こえた。

わたしはまた驚いて、立ち上がった。

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私はまた驚いて立ち上った。

廊下を駆け抜けるようにして、みんなのいる方へ行った。

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廊下をけ抜けるようにしてみんなのいる方へ行った。

わたしはいよいよ父の上に最後の一しゅんが来たのだと覚悟した。

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私はいよいよ父の上に最後の瞬間が来たのだと覚悟した。

十八

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十八

病室には、いつの間にか医者が来ていた。

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病室にはいつの間にか医者が来ていた。

なるべく病人を楽にするという考えから、またかんちょうを試みるところだった。

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なるべく病人を楽にするという主意からまた浣腸かんちょうを試みるところであった。

看護婦は昨夜のつかれを休めるために、別の部屋で寝ていた。

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看護婦は昨夜ゆうべの疲れを休めるために別室で寝ていた。

慣れない兄は立って、まごまごしていた。

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慣れない兄はってまごまごしていた。

わたしの顔を見ると、「ちょっと手を貸せ」

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わたくしの顔を見ると、「ちょっと手をおし」

と言ったまま、自分は席に着いた。

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といったまま、自分は席に着いた。

わたしは兄に代わって、油紙を父の尻の下にあてたりした。

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私は兄に代って、油紙あぶらがみを父のしりの下にてがったりした。

父の様子は、少し楽になって来た。

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父の様子は少しくつろいで来た。

三十分ほどまくらもとにすわっていた医者は、かんちょうの結果をたしかめた上、また来ると言って帰って行った。

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三十分ほど枕元まくらもとすわっていた医者は、浣腸かんちょうの結果を認めた上、また来るといって、帰って行った。

帰りぎわに、もしものことがあったらいつでも呼んでくれるようにと、わざわざ言っていた。

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帰りぎわに、もしもの事があったらいつでも呼んでくれるようにわざわざ断っていた。

わたしは今にも変わったことのありそうな病室を出て、また先生の手紙を読もうとした。

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私は今にもへんがありそうな病室を退しりぞいてまた先生の手紙を読もうとした。

しかしわたしは、少しもゆったりした気分になれなかった。

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しかし私はすこしもゆっくりした気分になれなかった。

机の前にすわるとすぐ、また兄から大きな声で呼ばれそうでならなかった。

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机の前に坐るやいなや、また兄から大きな声で呼ばれそうでならなかった。

そうして今度呼ばれれば、それが最後だという恐れがわたしの手をふるわせた。

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そうして今度呼ばれれば、それが最後だという畏怖いふが私の手をふるわした。

わたしは先生の手紙を、ただ意味もなくページだけめくって行った。

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私は先生の手紙をただ無意味にページだけ剥繰はぐって行った。

わたしの目は、きちんとわくの中にはめられた字を見た。

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私の眼は几帳面きちょうめんわくの中にめられた字画じかくを見た。

けれども、それを読む余裕はなかった。

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けれどもそれを読む余裕はなかった。

拾い読みにする余裕さえ、あやしかった。

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拾い読みにする余裕すら覚束おぼつかなかった。

わたしは一番しまいのページまで順々に開けてみて、またそれを元のとおりにたたんで机の上に置こうとした。

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私は一番しまいの頁まで順々に開けて見て、またそれを元の通りにたたんで机の上に置こうとした。

そのときふと、終わりに近い一文がわたしの目に入った。

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その時ふと結末に近い一句が私の眼にはいった。

「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とっくに死んでいるでしょう」

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「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう」

わたしは、はっと思った。

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私ははっと思った。

今までざわざわと動いていたわたしの胸が、一度に固まったように感じた。

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今までざわざわと動いていた私の胸が一度に凝結ぎょうけつしたように感じた。

わたしはまた逆に、ページをめくり返した。

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私はまた逆に頁をはぐり返した。

そうして一枚に一文ぐらいずつの割合で、逆に読んで行った。

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そうして一枚に一句ぐらいずつの割でさかさに読んで行った。

わたしはとっさの間に、わたしの知らなければならないことを知ろうとして、ちらちらする文字を目で突き通そうと試みた。

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私は咄嗟とっさあいだに、私の知らなければならない事を知ろうとして、ちらちらする文字もんじを、眼で刺し通そうと試みた。

そのときわたしが知ろうとするのは、ただ先生が無事かどうかだけだった。

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その時私の知ろうとするのは、ただ先生の安否だけであった。

先生の過去、前に先生がわたしに話そうと約束したうす暗いその過去、そんなものはわたしにとってまったく必要なかった。

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先生の過去、かつて先生が私に話そうと約束した薄暗いその過去、そんなものは私に取って、全く無用であった。

わたしは逆にページをめくりながら、わたしに必要な知らせを簡単に与えてくれないこの長い手紙を、じれったそうにたたんだ。

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私はさかさまに頁をはぐりながら、私に必要な知識を容易に与えてくれないこの長い手紙を自烈じれったそうに畳んだ。

わたしはまた父の様子を見に、病室の戸口まで行った。

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私はまた父の様子を見に病室の戸口まで行った。

病人のまくらもとは、思ったより静かだった。

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病人の枕辺まくらべ存外ぞんがい静かであった。

頼りなさそうにつかれた顔をしてそこにすわっている母を手招きして、「どうですか、様子は」

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頼りなさそうに疲れた顔をしてそこに坐っている母を手招てまねぎして、「どうですか様子は」

と聞いた。

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と聞いた。

母は「今少し持ちこたえているようだよ」

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母は「今少し持ち合ってるようだよ」

と答えた。

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と答えた。

わたしは父の目の前へ顔を出して、「どうです、かんちょうして少しは心持ちがよくなりましたか」

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私は父の眼の前へ顔を出して、「どうです、浣腸して少しは心持が好くなりましたか」

とたずねた。

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と尋ねた。

父は、うなずいた。

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父は首肯うなずいた。

父ははっきり「ありがとう」

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父ははっきり「有難う」

と言った。

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といった。

父の意識は、思ったよりぼんやりしていなかった。

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父の精神は存外朦朧もうろうとしていなかった。

わたしはまた病室を出て、自分の部屋に帰った。

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私はまた病室を退しりぞいて自分の部屋に帰った。

そこで時計を見ながら、汽車の時こく表を調べた。

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そこで時計を見ながら、汽車の発着表を調べた。

わたしは突然立って帯を締め直し、たもとの中へ先生の手紙を投げこんだ。

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私は突然立って帯を締め直して、たもとの中へ先生の手紙を投げ込んだ。

それから台所口から表へ出た。

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それから勝手口から表へ出た。

わたしは夢中で、医者の家へ駆けこんだ。

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私は夢中で医者の家へけ込んだ。

わたしは医者から、父がもう二、三日持つだろうか、そこのところをはっきり聞こうとした。

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私は医者から父がもう三日さんちつだろうか、そこのところを判然はっきり聞こうとした。

注射でも何でもして持たせてくれと頼もうとした。

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注射でも何でもして、保たしてくれと頼もうとした。

医者は、あいにく留守だった。

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医者は生憎あいにく留守であった。

わたしには、じっとその人の帰るのを待ちかまえる時間がなかった。

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私にはじっとして彼の帰るのを待ち受ける時間がなかった。

心の落ち着きもなかった。

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心のきもなかった。

わたしはすぐ、人力車を駅へ急がせた。

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私はすぐくるま停車場ステーションへ急がせた。

わたしは駅の壁へ紙切れを当てて、その上から鉛筆で母と兄あてに手紙を書いた。

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私は停車場の壁へ紙片かみぎれてがって、その上から鉛筆で母と兄あてで手紙を書いた。

手紙はごく簡単なものだったが、何も言わずに行くよりはまだましだろうと思って、それを急いで家へ届けるように車夫(しゃふ。人力車を引く人)に頼んだ。

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手紙はごく簡単なものであったが、断らないで走るよりまだ増しだろうと思って、それを急いでうちへ届けるように車夫しゃふに頼んだ。

そうして思い切った勢いで、東京行きの汽車に飛び乗ってしまった。

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そうして思い切ったいきおいで東京行きの汽車に飛び乗ってしまった。

わたしはごうごう鳴る三等車の中で、また たもとから先生の手紙を出して、ようやく初めから終わりまで目を通した。

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私はごうごう鳴る三等列車の中で、またたもとから先生の手紙を出して、ようやく始めからしまいまで眼を通した。

下 先生と書き残した手紙

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下 先生と遺書

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「……私はこの夏あなたから二、三度手紙を受け取りました。東京でそれなりの仕事を得たいからよろしく頼むと書いてあったのは、たしか二度目に届いたものと覚えています。私はそれを読んだ時、何とかしたいと思ったのです。少なくとも返事を差し上げなければ済まないとは考えたのです。しかし白状すると、私はあなたの頼みに対してまるで努力をしなかったのです。ご承知のとおり、つき合いの範囲が狭いというよりも、世の中にたった一人で暮らしていると言った方がぴったりなくらいの私には、そういう努力をする余地がまったくないのです。しかしそれは問題ではありません。実を言うと、私はこの自分をどうすればいいのかと思い悩んでいたところなのです。このまま人間の中に取り残されたミイラのように生きて行こうか、それとも……その時分の私は「それとも」という言葉を心のうちでくり返すたびにぞっとしました。駆け足でがけの端まで来て、急に底の見えない谷をのぞきこんだ人のように。私は卑怯でした。そうして多くの卑怯な人と同じくらいに悩んだのです。残念ながら、その時の私にはあなたというものがほとんどいなかったと言っても大げさではありません。一歩進めて言うと、あなたの仕事、あなたの暮らしのもと、そんなものは私にとってまるで意味がなかったのです。どうでも構わなかったのです。私はそれどころではなかったのです。私は手紙立てへあなたの手紙を差したまま、相変わらず腕を組んで考えこんでいました。家に相応の財産がある者が、何を苦しんで、卒業するかしないかのうちに仕事仕事と言ってもがき回るのか。私はむしろにがにがしい気分で、遠くにいるあなたにこんな目を向けただけでした。私は返事を差し上げなければ済まないあなたに対して、言いわけのためにこんなことを打ち明けるのです。あなたを怒らせるためにわざと失礼な言葉を使うのではありません。私の本当の気持ちはあとをご覧になればよく分かることと信じます。とにかく私は何とか返事をすべきところを黙っていたのですから、このおこたりの罪をあなたの前におわびしたいと思います。

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「……わたくしはこの夏あなたから二、三度手紙を受け取りました。東京で相当の地位を得たいからよろしく頼むと書いてあったのは、たしか二度目に手にったものと記憶しています。私はそれを読んだ時なんとかしたいと思ったのです。少なくとも返事を上げなければ済まんとは考えたのです。しかし自白すると、私はあなたの依頼に対して、まるで努力をしなかったのです。ご承知の通り、交際区域の狭いというよりも、世の中にたった一人で暮しているといった方が適切なくらいの私には、そういう努力をあえてする余地が全くないのです。しかしそれは問題ではありません。実をいうと、私はこの自分をどうすればいのかと思いわずらっていたところなのです。このまま人間の中に取り残されたミイラのように存在して行こうか、それとも……その時分の私は「それとも」という言葉を心のうちで繰り返すたびにぞっとしました。馳足かけあしで絶壁のはじまで来て、急に底の見えない谷をのぞき込んだ人のように。私は卑怯ひきょうでした。そうして多くの卑怯な人と同じ程度において煩悶はんもんしたのです。遺憾いかんながら、その時の私には、あなたというものがほとんど存在していなかったといっても誇張ではありません。一歩進めていうと、あなたの地位、あなたの糊口ここう、そんなものは私にとってまるで無意味なのでした。どうでも構わなかったのです。私はそれどころの騒ぎでなかったのです。私は状差じょうさしへあなたの手紙を差したなり、依然として腕組をして考え込んでいました。うちに相応の財産があるものが、何を苦しんで、卒業するかしないのに、地位地位といって藻掻もがまわるのか。私はむしろ苦々にがにがしい気分で、遠くにいるあなたにこんな一瞥いちべつを与えただけでした。私は返事を上げなければ済まないあなたに対して、言訳いいわけのためにこんな事を打ち明けるのです。あなたを怒らすためにわざと無躾ぶしつけな言葉をろうするのではありません。私の本意はあとをご覧になればよくわかる事と信じます。とにかく私は何とか挨拶あいさつすべきところを黙っていたのですから、私はこの怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思います。

その後、私はあなたに電報を打ちました。

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その私はあなたに電報を打ちました。

正直に言えば、あのとき私はちょっとあなたに会いたかったのです。

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有体ありていにいえば、あの時私はちょっとあなたに会いたかったのです。

それからあなたの望みどおり、私の過去をあなたのために語りたかったのです。

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それからあなたの希望通り私の過去をあなたのために物語りたかったのです。

あなたは返しの電報をかけて、今東京へは出られないとことわって来ましたが、私はがっかりして長い間あの電報をながめていました。

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あなたは返電をけて、今東京へは出られないと断って来ましたが、私は失望して永らくあの電報をながめていました。

あなたも電報だけでは気が済まなかったと見えて、またあとから長い手紙を寄こしてくれたので、あなたが東京へ来られない事情がよく分かりました。

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あなたも電報だけでは気が済まなかったとみえて、また後から長い手紙を寄こしてくれたので、あなたの出京しゅっきょうできない事情がよくわかりました。

私はあなたを失礼な男だとも何とも思う訳がありません。

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私はあなたを失礼な男だとも何とも思う訳がありません。

あなたの大事なお父さんの病気をそっちのけにして、どうしてあなたが家を空けられるものですか。

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あなたの大事なお父さんの病気をそっち退けにして、何であなたがうちけられるものですか。

そのお父さんの生き死にを忘れているような私の態度こそ、いけません。

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そのお父さんの生死しょうしを忘れているような私の態度こそ不都合です。――

私は実際あの電報を打つ時に、あなたのお父さんのことを忘れていたのです。

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私は実際あの電報を打つ時に、あなたのお父さんの事を忘れていたのです。

そのくせ、あなたが東京にいるころには、難しい病気だからよく注意しなくてはいけないと、あれほど忠告したのは私ですのに。

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そのくせあなたが東京にいるころには、難症なんしょうだからよく注意しなくってはいけないと、あれほど忠告したのは私ですのに。

私は、こういう食いちがった人間なのです。

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私はこういう矛盾な人間なのです。

あるいは私の頭よりも、私の過去が私を押しつける結果、こんな食いちがった人間に私を変えるのかもしれません。

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あるいは私の脳髄のうずいよりも、私の過去が私を圧迫する結果こんな矛盾な人間に私を変化させるのかも知れません。

私はこの点でも、十分自分のわがままを分かっています。

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私はこの点においても充分私のを認めています。

あなたに許してもらわなくてはなりません。

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あなたに許してもらわなくてはなりません。

あなたの手紙、あなたから来た最後の手紙を読んだとき、私は悪いことをしたと思いました。

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あなたの手紙、――あなたから来た最後の手紙――を読んだ時、私は悪い事をしたと思いました。

それでその意味の返事を出そうかと考えて筆を取りかけましたが、一行も書かずにやめました。

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それでその意味の返事を出そうかと考えて、筆をりかけましたが、一行も書かずにめました。

どうせ書くならこの手紙を書いてあげたかったから、そうしてこの手紙を書くにはまだ時期が少し早過ぎたから、やめにしたのです。

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どうせ書くなら、この手紙を書いて上げたかったから、そうしてこの手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、已めにしたのです。

私がただ、来なくてもよいという簡単な電報をもう一度打ったのは、そのためです。

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私がただ来るに及ばないという簡単な電報を再び打ったのは、それがためです。

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「私はそれから、この手紙を書き出しました。ふだん筆を持ち慣れない私には、自分の思うように出来事も考えも進まないのが重い苦しみでした。私はもう少しで、あなたに対する私のこのつとめを放り出すところでした。しかしいくらやめようと思って筆を置いても、何にもなりませんでした。私は一時間経たないうちに、また書きたくなりました。あなたから見たら、これはつとめを果たすことを大事にする私の性格のように思われるかもしれません。私もそれは否みません。私はあなたの知っているとおり、ほとんど世間と関わりのない一人きりの人間ですから、つとめというほどのつとめは、自分の左右前後を見回してもどの方角にも根を張っておりません。わざとか自然か、私はそれをできるだけ切りつめた生活をしていたのです。けれども私はつとめに冷たいからこうなったのではありません。むしろ感じ過ぎて、しげきに耐えるだけの力がないから、ご覧のように後ろ向きの日々を送ることになったのです。だからいったん約束した以上、それを果たさないのは大変いやな気持ちです。私はあなたに対してこのいやな気持ちを避けるためにでも、置いた筆をまた取り上げなければならないのです。

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わたくしはそれからこの手紙を書き出しました。平生へいぜい筆を持ちつけない私には、自分の思うように、事件なり思想なりが運ばないのが重い苦痛でした。私はもう少しで、あなたに対する私のこの義務を放擲ほうてきするところでした。しかしいくらそうと思って筆をいても、何にもなりませんでした。私は一時間たないうちにまた書きたくなりました。あなたから見たら、これが義務の遂行すいこうを重んずる私の性格のように思われるかも知れません。私もそれはいなみません。私はあなたの知っている通り、ほとんど世間と交渉のない孤独な人間ですから、義務というほどの義務は、自分の左右前後を見廻みまわしても、どの方角にも根を張っておりません。故意か自然か、私はそれをできるだけ切り詰めた生活をしていたのです。けれども私は義務に冷淡だからこうなったのではありません。むしろ鋭敏えいびん過ぎて刺戟しげきに堪えるだけの精力がないから、ご覧のように消極的な月日を送る事になったのです。だから一旦いったん約束した以上、それを果たさないのは、大変いやな心持です。私はあなたに対してこの厭な心持を避けるためにでも、擱いた筆をまた取り上げなければならないのです。

その上、私は書きたいのです。

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その上私は書きたいのです。

つとめは別として、私の過去を書きたいのです。

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義務は別として私の過去を書きたいのです。

私の過去は私だけの経験だから、私だけのものと言っても差し支えないでしょう。

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私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有といっても差支さしつかえないでしょう。

それを人に与えないで死ぬのは、惜しいとも言われるでしょう。

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それを人に与えないで死ぬのは、惜しいともいわれるでしょう。

私にも、多少そんな気持ちがあります。

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私にも多少そんな心持があります。

ただし、受け取ることのできない人に与えるくらいなら、私はむしろ私の経験を私の命といっしょに葬った方がいいと思います。

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ただし受け入れる事のできない人に与えるくらいなら、私はむしろ私の経験を私の生命いのちと共にほうむった方がいと思います。

実際ここにあなたという一人の男がいないならば、私の過去はついに私の過去で、人づてにも他人の知識にならないで済んだでしょう。

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実際ここにあなたという一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで済んだでしょう。

私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を語りたいのです。

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私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。

あなたは真面目だから。

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あなたは真面目まじめだから。

あなたは真面目に、人生そのものから生きた教えを得たいと言ったから。

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あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから。

私は暗い人生の影を、遠慮なくあなたの頭の上に投げかけてあげます。

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私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。

しかし恐れてはいけません。

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しかし恐れてはいけません。

暗いものをじっと見つめて、その中からあなたの参考になるものをおつかみなさい。

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暗いものをじっと見詰めて、その中からあなたの参考になるものをおつかみなさい。

私の暗いというのは、もちろん正しさの上で暗いのです。

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私の暗いというのは、もとより倫理的に暗いのです。

私は、正しさを重く見て生まれた男です。

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私は倫理的に生れた男です。

また、正しさを重く見るように育てられた男です。

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また倫理的に育てられた男です。

その正しさについての考えは、今の若い人とだいぶ違ったところがあるかもしれません。

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その倫理上の考えは、今の若い人と大分だいぶ違ったところがあるかも知れません。

しかしどう間違っても、私自身のものです。

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しかしどう間違っても、私自身のものです。

間に合わせに借りた借り物ではありません。

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間に合せに借りた損料着そんりょうぎではありません。

だからこれからのびようというあなたには、いくらか参考になるだろうと思うのです。

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だからこれから発達しようというあなたには幾分か参考になるだろうと思うのです。

あなたは今の世の考え方の問題について、よく私に議論を向けたことを覚えているでしょう。

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あなたは現代の思想問題について、よく私に議論を向けた事を記憶しているでしょう。

私のそれに対する態度も、よく分かっているでしょう。

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私のそれに対する態度もよくわかっているでしょう。

私はあなたの意見を見下すまではしなかったけれども、決して尊敬をはらえるほどにはなれなかった。

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私はあなたの意見を軽蔑けいべつまでしなかったけれども、決して尊敬を払いる程度にはなれなかった。

あなたの考えには何の後ろだてもなかったし、あなたは自分の過去を持つにはあまりに若過ぎたからです。

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あなたの考えには何らの背景もなかったし、あなたは自分の過去をもつには余りに若過ぎたからです。

私は時々笑った。

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私は時々笑った。

あなたは物足りなさそうな顔を、ちょいちょい私に見せた。

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あなたは物足りなそうな顔をちょいちょい私に見せた。

そのあげく、あなたは私の過去を絵巻物のようにあなたの前に広げてくれとせまった。

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そのきょくあなたは私の過去を絵巻物えまきもののように、あなたの前に展開してくれとせまった。

私はそのとき心のうちで、初めてあなたを尊敬した。

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私はその時心のうちで、始めてあなたを尊敬した。

あなたが遠慮なく私の腹の中から、ある生きたものをつかまえようという決心を見せたからです。

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あなたが無遠慮ぶえんりょに私の腹の中から、る生きたものをつらまえようという決心を見せたからです。

私の心臓を切り割って、温かく流れる血をすすろうとしたからです。

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私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮をすすろうとしたからです。

そのとき、私はまだ生きていた。

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その時私はまだ生きていた。

死ぬのがいやだった。

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死ぬのがいやであった。

それでまた別の日を約束して、あなたの求めを退けてしまった。

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それで他日たじつを約して、あなたの要求をしりぞけてしまった。

私は今、自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。

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私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔にびせかけようとしているのです。

私の心臓の動きが止まったとき、あなたの胸に新しい命が宿ることができるなら満足です。

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私の鼓動こどうとまった時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。

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「私が両親を亡くしたのは、まだ私が二十歳にならない時分でした。いつか妻があなたに話していたようにも覚えていますが、二人は同じ病気で死んだのです。しかも妻があなたに不思議に思わせたとおり、ほとんど同時と言っていいくらいに、続けて死んだのです。実を言うと、父の病気は恐ろしい腸チフス(ちょうチフス。うつる重い病気)でした。それがそばにいて看病をした母にうつったのです。

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「私が両親をくしたのは、まだ私の廿歳はたちにならない時分でした。いつかさいがあなたに話していたようにも記憶していますが、二人は同じ病気で死んだのです。しかも妻があなたに不審を起させた通り、ほとんど同時といっていいくらいに、前後して死んだのです。実をいうと、父の病気は恐るべきちょう窒扶斯チフスでした。それがそばにいて看護をした母に伝染したのです。

私は、二人の間にできたたった一人の男の子でした。

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私は二人の間にできたたった一人の男の子でした。

家には相応の財産があったので、むしろのびのびと育てられました。

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うちには相当の財産があったので、むしろ鷹揚おうように育てられました。

私は自分の過去を振り返って、あのとき両親が死なずにいてくれたなら、少なくとも父か母かどちらか、片方でいいから生きていてくれたなら、私はあのおおらかな気分を今まで持ち続けることができただろうにと思います。

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私は自分の過去を顧みて、あの時両親が死なずにいてくれたなら、少なくとも父か母かどっちか、片方でいから生きていてくれたなら、私はあの鷹揚な気分を今まで持ち続ける事ができたろうにと思います。

私は二人のあとに、ぼう然として取り残されました。

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私は二人のあと茫然ぼうぜんとして取り残されました。

私には知識もなく、経験もなく、また物の分かる力もありませんでした。

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私には知識もなく、経験もなく、また分別もありませんでした。

父の死ぬとき、母はそばにいることができませんでした。

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父の死ぬ時、母は傍にいる事ができませんでした。

母の死ぬとき、母には父の死んだことさえまだ知らせていなかったのです。

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母の死ぬ時、母には父の死んだ事さえまだ知らせてなかったのです。

母はそれを分かっていたか、またはそばの者の言うとおり、本当に父はよくなりつつあるものと信じていたか、それは分かりません。

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母はそれをさとっていたか、またははたのもののいうごとく、実際父は回復期に向いつつあるものと信じていたか、それは分りません。

母はただ、おじにすべてを頼んでいました。

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母はただ叔父おじに万事を頼んでいました。

そこに居合わせた私を指さすようにして、「この子をどうぞよろしく」

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そこに居合いあわせた私を指さすようにして、「この子をどうぞ何分なにぶん

と言いました。

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といいました。

私はその前から両親の許しを得て東京へ出るはずになっていましたので、母はそれもついでに言うつもりらしかったのです。

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私はその前から両親の許可を得て、東京へ出るはずになっていましたので、母はそれもついでにいうつもりらしかったのです。

それで「東京へ」

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それで「東京へ」

とだけ付け足したら、おじがすぐあとを引き取って、「よろしい、決して心配しないがいい」

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とだけ付け加えましたら、叔父がすぐあとを引き取って、「よろしい決して心配しないがいい」

と答えました。

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と答えました。

母は強い熱に耐えられる体の女だったのでしょうか、おじは「しっかりしたものだ」

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母は強い熱に堪える体質の女なんでしたろうか、叔父は「しっかりしたものだ」

と言って、私に向かって母のことをほめていました。

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といって、私に向って母の事をめていました。

しかしこれが本当に母の言い残した言葉だったのかどうか、今考えると分からないのです。

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しかしこれがはたして母の遺言であったのかどうだか、今考えると分らないのです。

母はもちろん、父のかかった病気の恐ろしい名前を知っていたのです。

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母は無論父のかかった病気の恐るべき名前を知っていたのです。

そうして、自分がそれにうつっていたことも分かっていたのです。

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そうして、自分がそれに伝染していた事も承知していたのです。

けれども自分はきっとこの病気で命を取られるとまで信じていたかどうか、そこになると疑う余地はまだいくらでもあるだろうと思われるのです。

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けれども自分はきっとこの病気で命を取られるとまで信じていたかどうか、そこになると疑う余地はまだいくらでもあるだろうと思われるのです。

その上、熱の高いときに出る母の言葉は、いかにそれが筋道の通ったはっきりしたものであっても、まるで記憶となって母の頭に影さえ残していないことがたびたびあったのです。

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その上熱の高い時に出る母の言葉は、いかにそれが筋道の通った明らかなものにせよ、一向いっこう記憶となって母の頭に影さえ残していない事がしばしばあったのです。

だから……しかしそんなことは問題ではありません。

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だから……しかしそんな事は問題ではありません。

ただこういう風に物を細かく分けてみたり、またぐるぐる回してながめたりするくせは、もうその時分から私にはちゃんと備わっていたのです。

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ただこういうふうに物を解きほどいてみたり、またぐるぐるまわしてながめたりするくせは、もうその時分から、私にはちゃんと備わっていたのです。

それはあなたにも初めからことわっておかなければならないと思いますが、その実例としては、今の話に大した関係のないこんな書き方がかえって役に立ちはしないかと考えます。

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それはあなたにも始めからお断わりしておかなければならないと思いますが、その実例としては当面の問題に大した関係のないこんな記述が、かえって役に立ちはしないかと考えます。

あなたの方でも、まあそのつもりで読んでください。

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あなたの方でもまあそのつもりで読んでください。

このたちが正しさの上で人の行いや動きに向けられて、私は後々ますます他人の道徳の心を疑うようになったのだろうと思うのです。

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この性分しょうぶんが倫理的に個人の行為やら動作の上に及んで、私は後来こうらいますますひとの徳義心を疑うようになったのだろうと思うのです。

それが私のもだえや苦しみに向かって、大きな力をそえているのはたしかですから、覚えていてください。

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それが私の煩悶はんもんや苦悩に向って、積極的に大きな力を添えているのはたしかですから覚えていて下さい。

話が本筋を外れると分かりにくくなりますから、またあとへ引き返しましょう。

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話が本筋ほんすじをはずれると、分りにくくなりますからまたあとへ引き返しましょう。

これでも私はこの長い手紙を書くのに、私と同じ立場に置かれたほかの人と比べたら、あるいは多少落ち着いているのではないかと思っているのです。

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これでも私はこの長い手紙を書くのに、私と同じ地位に置かれたほかの人と比べたら、あるいは多少落ち付いていやしないかと思っているのです。

世の中がねむると聞こえ出す、あの電車の音ももう途切れました。

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世の中が眠ると聞こえだすあの電車のひびきももう途絶とだえました。

雨戸の外にはいつの間にかあわれな虫の声が、露の秋をまた そっと思い出させるような調子でかすかに鳴いています。

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雨戸の外にはいつの間にかあわれな虫の声が、露の秋をまた忍びやかに思い出させるような調子でかすかに鳴いています。

何も知らない妻は、となりの部屋で無邪気にすやすや寝入っています。

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何も知らないさいは次のへやで無邪気にすやすや寝入ねいっています。

私が筆を取ると、一字一画ができあがりつつペンの先で鳴っています。

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私が筆をると、一字一かくができあがりつつペンの先で鳴っています。

私はむしろ落ち着いた気分で、紙に向かっているのです。

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私はむしろ落ち付いた気分で紙に向っているのです。

慣れないためにペンが横へ外れるかもしれませんが、頭が乱れて筆が乱れて走るのではないように思います。

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不馴ふなれのためにペンが横へれるかも知れませんが、頭が悩乱のうらんして筆がしどろに走るのではないように思います。

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「とにかくたった一人取り残された私は、母の言いつけどおり、このおじを頼るよりほかに道はなかったのです。おじはまた一切を引き受けて、すべての世話をしてくれました。そうして私を、私の望む東京へ出られるように取り計らってくれました。

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「とにかくたった一人取り残されたわたくしは、母のいい付け通り、この叔父おじを頼るよりほかみちはなかったのです。叔父はまた一切いっさいを引き受けてすべての世話をしてくれました。そうして私を私の希望する東京へ出られるように取り計らってくれました。

私は東京へ来て、高等学校へ入りました。

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私は東京へ来て高等学校へはいりました。

そのころの高等学校の生徒は、今よりもよほど荒々しく乱暴でした。

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その時の高等学校の生徒は今よりもよほど殺伐さつばつで粗野でした。

私の知っている者に、夜中に職人とけんかをして、相手の頭へ下駄で傷を負わせたのがいました。

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私の知ったものに、夜中よる職人と喧嘩けんかをして、相手の頭へ下駄げたで傷を負わせたのがありました。

それがお酒を飲んだあげくのことなので、夢中でなぐり合いをしている間に、学校の制帽をとうとう向こうの者に取られてしまったのです。

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それが酒を飲んだ揚句あげくの事なので、夢中になぐり合いをしているあいだに、学校の制帽をとうとう向うのものに取られてしまったのです。

ところがその帽子の裏には、本人の名前がちゃんと、ひし形の白い布の上に書いてあったのです。

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ところがその帽子の裏には当人の名前がちゃんと、菱形ひしがたの白いきれの上に書いてあったのです。

それでことがめんどうになって、その男はもう少しで警察から学校へ問い合わせが行くところでした。

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それで事が面倒になって、その男はもう少しで警察から学校へ照会されるところでした。

しかし友達がいろいろと骨を折って、ついにおおやけにせずに済むようにしてやりました。

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しかし友達が色々と骨を折って、ついに表沙汰おもてざたにせずに済むようにしてやりました。

こんな乱暴なことを、上品な今の空気の中で育ったあなた方に聞かせたら、さぞ馬鹿馬鹿しい感じを起こすでしょう。

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こんな乱暴な行為を、上品な今の空気のなかに育ったあなた方に聞かせたら、定めて馬鹿馬鹿ばかばかしい感じを起すでしょう。

私も実際、馬鹿馬鹿しく思います。

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私も実際馬鹿馬鹿しく思います。

しかし彼らは、今の学生にない一種かざらない点をその代わりに持っていたのです。

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しかし彼らは今の学生にない一種質朴しつぼくな点をその代りにもっていたのです。

当時、私が月々おじからもらっていたお金は、あなたが今お父さんから送ってもらう学費に比べると、はるかに少ないものでした。

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当時私の月々叔父からもらっていた金は、あなたが今、お父さんから送ってもらう学資に比べるとはるかに少ないものでした。

(もちろん物の値段も違うでしょうが)

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(無論物価も違いましょうが)。

それでいて私は、少しの不足も感じませんでした。

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それでいて私は少しの不足も感じませんでした。

それどころか、数ある同級生のうちで、お金の点にかけては決して人をうらやましがるあわれな身の上にいた訳ではないのです。

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のみならず数ある同級生のうちで、経済の点にかけては、決して人をうらやましがるあわれな境遇にいた訳ではないのです。

今から振り返ると、むしろ人にうらやましがられる方だったのでしょう。

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今から回顧すると、むしろ人に羨ましがられる方だったのでしょう。

というのは、私は月々決まった送金のほかに、本代(私はその時分から本を買うことが好きでした)や臨時の費用を、よくおじに求めて、どんどんそれを自分の思うように使うことができたのですから。

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というのは、私は月々きまった送金の外に、書籍費、(私はその時分から書物を買う事が好きでした)、および臨時の費用を、よく叔父から請求して、ずんずんそれを自分の思うように消費する事ができたのですから。

何も知らない私は、おじを信じていたばかりでなく、いつも感謝の心をもって、おじをありがたいもののように尊敬していました。

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何も知らない私は、叔父おじを信じていたばかりでなく、常に感謝の心をもって、叔父をありがたいもののように尊敬していました。

おじは、事業をする人でした。

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叔父は事業家でした。

県会議員にもなりました。

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県会議員にもなりました。

その関係からでもありましょう、政党にも縁があったように覚えています。

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その関係からでもありましょう、政党にも縁故があったように記憶しています。

父の実の弟ですけれども、そういう点で、性格から言うと父とはまるで違った方へ向いて育ったようにも見えます。

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父の実の弟ですけれども、そういう点で、性格からいうと父とはまるで違った方へ向いて発達したようにも見えます。

父は先祖からゆずられた財産を大事に守って行く、まじめ一方の男でした。

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父は先祖から譲られた遺産を大事に守って行く篤実一方とくじついっぽうの男でした。

楽しみには、茶道だの生け花だのをやりました。

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楽しみには、茶だの花だのをやりました。

それから詩集などを読むことも好きでした。

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それから詩集などを読む事も好きでした。

書や絵、骨とうといった風のものにも、多くのきょうみを持っている様子でした。

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書画骨董しょがこっとうといったふうのものにも、多くの趣味をもっている様子でした。

家は田舎にありましたけれども、八キロほど離れた市、その市にはおじが住んでいたのです、その市から時々道具屋がかけ物だの香炉だのを持って、わざわざ父に見せに来ました。

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家は田舎いなかにありましたけれども、二ばかり隔たった、――その市には叔父が住んでいたのです、――その市から時々道具屋が懸物かけものだの、香炉こうろだのを持って、わざわざ父に見せに来ました。

父は一口に言うと、まあ財産のある人とでも言ったらいいのでしょう。

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父は一口ひとくちにいうと、まあマン・オフ・ミーンズとでも評したらいのでしょう。

比較的上品な好みを持った田舎の紳士だったのです。

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比較的上品な嗜好しこうをもった田舎紳士だったのです。

だから気性から言うと、明るいおじとはよほどの隔たりがありました。

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だから気性きしょうからいうと、闊達かったつな叔父とはよほどの懸隔けんかくがありました。

それでいて二人は、また妙に仲がよかったのです。

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それでいて二人はまた妙に仲が好かったのです。

父はよくおじを評して、自分よりはるかに働きのある頼もしい人のように言っていました。

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父はよく叔父を評して、自分よりもはるかに働きのある頼もしい人のようにいっていました。

自分のように親から財産をゆずられた者は、どうしても生まれ持った知恵が鈍る、つまり世の中と戦う必要がないからいけないのだとも言っていました。

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自分のように、親から財産を譲られたものは、どうしても固有の材幹さいかんにぶる、つまり世の中と闘う必要がないからいけないのだともいっていました。

この言葉は、母も聞きました。

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この言葉は母も聞きました。

私も聞きました。

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私も聞きました。

父はむしろ私の心得になるつもりで、それを言ったらしく思われます。

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父はむしろ私の心得になるつもりで、それをいったらしく思われます。

「お前もよく覚えているがいい」

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「お前もよく覚えているがい」

と父はそのとき、わざわざ私の顔を見たのです。

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と父はその時わざわざ私の顔を見たのです。

だから私は、まだそれを忘れずにいます。

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だから私はまだそれを忘れずにいます。

これほど私の父から信用されたりほめられたりしていたおじを、私がどうして疑うことができるでしょう。

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このくらい私の父から信用されたり、められたりしていた叔父を、私がどうして疑う事ができるでしょう。

私にはただでさえ、ほこりになるべきおじでした。

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私にはただでさえ誇りになるべき叔父でした。

父や母が亡くなって、すべてその人の世話にならなければならない私には、もうただのほこりではなかったのです。

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父や母が亡くなって、万事その人の世話にならなければならない私には、もう単なる誇りではなかったのです。

私が生きるのに必要な人間になっていたのです。

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私の存在に必要な人間になっていたのです。

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「私が夏休みを使って初めて国へ帰ったとき、両親が死んで絶えた私の住まいには、新しい主人としておじ夫婦が入れ代わって住んでいました。これは私が東京へ出る前からの約束でした。たった一人取り残された私が家にいない以上、そうでもするよりほかに仕方がなかったのです。

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「私が夏休みを利用して始めて国へ帰った時、両親の死に断えた私の住居すまいには、新しい主人として、叔父夫婦が入れ代って住んでいました。これは私が東京へ出る前からの約束でした。たった一人取り残された私が家にいない以上、そうでもするよりほかに仕方がなかったのです。

おじはそのころ、市にあるいろいろな会社に関わっていたようです。

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叔父はそのころ市にある色々な会社に関係していたようです。

仕事の都合から言えば、今までの住まいで寝起きする方が、八キロも離れた私の家に移るよりはるかに便利だと言って笑いました。

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業務の都合からいえば、今までの居宅きょたく寝起ねおきする方が、二へだたった私の家に移るより遥かに便利だといって笑いました。

これは私の父母が亡くなったあと、どう屋敷を始末して私が東京へ出るかという相談のときに、おじの口からもれた言葉です。

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これは私の父母が亡くなったあと、どうやしきを始末して、私が東京へ出るかという相談の時、叔父の口をれた言葉であります。

私の家は古い歴史を持っているので、少しはそのあたりで人に知られていました。

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私の家はふるい歴史をもっているので、少しはその界隈かいわいで人に知られていました。

あなたの故郷でも同じことだろうと思いますが、田舎では由来のある家を、あとを継ぐ者があるのにこわしたり売ったりするのは大事けんです。

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あなたの郷里でも同じ事だろうと思いますが、田舎では由緒ゆいしょのある家を、相続人があるのにこわしたり売ったりするのは大事件です。

今の私ならそのくらいのことは何とも思いませんが、そのころはまだ子どもでしたから、東京へは出たいし、家はそのままにしておかなければならず、まったく始末に苦しんだのです。

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今の私ならそのくらいの事は何とも思いませんが、その頃はまだ子供でしたから、東京へは出たし、うちはそのままにして置かなければならず、はなはだ所置しょちに苦しんだのです。

おじは仕方なしに、私の空き家へ入ることを承知してくれました。

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叔父おじは仕方なしに私の空家あきやへはいる事を承諾してくれました。

しかし市の方にある住まいもそのままにしておいて、両方の間を行ったり来たりする都合を認めてもらわなければ困ると言いました。

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しかしの方にある住居すまいもそのままにしておいて、両方の間をったり来たりする便宜を与えてもらわなければ困るといいました。

私にもちろん、反対のあるはずがありません。

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私にもとより異議のありようはずがありません。

私はどんな条件でも東京へ出られればいいくらいに考えていたのです。

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私はどんな条件でも東京へ出られればいくらいに考えていたのです。

子どもらしい私は、故郷を離れてもまだ心の目で、なつかしそうに故郷の家を見ていました。

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子供らしい私は、故郷ふるさとを離れても、まだ心の眼で、懐かしげに故郷の家を望んでいました。

もちろんそこには、まだ自分の帰るべき家があるという旅人の心で見ていたのです。

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固よりそこにはまだ自分の帰るべき家があるという旅人たびびとの心で望んでいたのです。

休みが来れば帰らなくてはならないという気分は、いくら東京を恋しがって出て来た私にも、強くあったのです。

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休みが来れば帰らなくてはならないという気分は、いくら東京を恋しがって出て来た私にも、力強くあったのです。

私は熱心に勉強し、楽しく遊んだあと、休みには帰れると思うその故郷の家をよく夢に見ました。

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私は熱心に勉強し、愉快に遊んだあと、休みには帰れると思うその故郷の家をよく夢に見ました。

私の留守の間、おじがどんな風に両方の間を行き来していたかは知りません。

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私の留守の間、叔父はどんなふうに両方の間をき来していたか知りません。

私が着いたときは、家族の者がみんな一つの家の中に集まっていました。

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私の着いた時は、家族のものが、みんなひといえの内に集まっていました。

学校へ出る子どもなどは、ふだんはたぶん市の方にいたのでしょうが、これも休みのために田舎へ遊び半分といった格好で引き取られていました。

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学校へ出る子供などは平生へいぜいおそらく市の方にいたのでしょうが、これも休暇のために田舎いなかへ遊び半分といったかくで引き取られていました。

みんな私の顔を見て、喜びました。

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みんな私の顔を見て喜びました。

私はまた、父や母のいたときよりかえってにぎやかで明るくなった家の様子を見て、うれしがりました。

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私はまた父や母のいた時より、かえってにぎやかで陽気になった家の様子を見てうれしがりました。

おじは、もと私の部屋になっていた一間を使っている一番上の男の子を追い出して、私をそこへ入れました。

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叔父はもと私の部屋になっていた一間ひとまを占領している一番目の男の子を追い出して、私をそこへ入れました。

座敷の数も少なくないのだから、私はほかの部屋で構わないとことわったのですけれども、おじはお前の家だからと言って聞きませんでした。

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座敷のかずも少なくないのだから、私はほかの部屋で構わないと辞退したのですけれども、叔父はお前のうちだからといって、聞きませんでした。

私は時々亡くなった父や母のことを思い出すほかは、何の不愉快もなく、そのひと夏をおじの家族といっしょに過ごして、また東京へ帰ったのです。

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私は折々亡くなった父や母の事を思い出すほかに、何の不愉快もなく、その一夏ひとなつを叔父の家族と共に過ごして、また東京へ帰ったのです。

ただ一つ、その夏の出来事として私の心にむしろうす暗い影を投げたのは、おじ夫婦が口をそろえて、まだ高等学校へ入ったばかりの私に結婚を勧めることでした。

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ただ一つその夏の出来事として、私の心にむしろ薄暗い影を投げたのは、叔父夫婦が口をそろえて、まだ高等学校へ入ったばかりの私に結婚を勧める事でした。

それは全部でちょうど三、四回もくり返されたでしょう。

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それは前後で丁度三、四回も繰り返されたでしょう。

私も初めは、ただその突然なのに驚いただけでした。

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私も始めはただその突然なのに驚いただけでした。

二度目には、はっきりことわりました。

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二度目には判然はっきり断りました。

三度目には、こちらからとうとうその理由を問い返さなければならなくなりました。

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三度目にはこっちからとうとうその理由を反問しなければならなくなりました。

二人の考えは、簡単でした。

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彼らの主意は単簡たんかんでした。

早くお嫁さんをもらってこの家へ帰って来て、亡くなった父のあとを継げというだけなのです。

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早くよめもらってここの家へ帰って来て、亡くなった父の後を相続しろというだけなのです。

家は休みになって帰りさえすればそれでいいものと、私は考えていました。

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家は休暇やすみになって帰りさえすれば、それでいいものと私は考えていました。

父のあとを継ぐ、それにはお嫁さんが必要だからもらう、両方とも理屈としてはひととおり筋が通ります。

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父の後を相続する、それには嫁が必要だからもらう、両方とも理屈としては一通ひととおり聞こえます。

特に田舎の事情を知っている私には、よく分かります。

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ことに田舎の事情を知っている私には、よくわかります。

私も、まったくそれを嫌ってはいなかったのでしょう。

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私も絶対にそれを嫌ってはいなかったのでしょう。

しかし東京へ勉強に出たばかりの私には、それが望遠鏡で物を見るように、はるか先の遠さに見えるだけでした。

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しかし東京へ修業に出たばかりの私には、それが遠眼鏡とおめがねで物を見るように、はるか先の距離に望まれるだけでした。

私はおじの望みに承知を与えないで、ついにまた私の家を出ました。

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私は叔父の希望に承諾を与えないで、ついにまた私の家を去りました。

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「私は結婚の話をそれきり忘れてしまいました。私の周りを取り巻いている青年の顔を見ると、家庭を持った者は一人もいません。みんな自由です、そうしてみんな独り身らしく思われたのです。こういう気楽な人の中にも、内側に入りこんだら、もしかすると家の事情でやむを得ずもう妻をむかえていた者があったかもしれませんが、子どもらしい私はそこに気がつきませんでした。それからそういう特別な立場に置かれた人の方でも、周りに気をつかって、なるべくは学生に縁の遠いそんな内側の話はしないようにひかえていたのでしょう。あとから考えると、私自身がもうその仲間だったのですが、私はそれさえ分からずに、ただ子どもらしく楽しく学問の道を歩いて行きました。

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「私は縁談の事をそれなり忘れてしまいました。私の周囲ぐるりを取りいている青年の顔を見ると、世帯染しょたいじみたものは一人もいません。みんな自由です、そうしてことごとく単独らしく思われたのです。こういう気楽な人のうちにも、裏面にはいり込んだら、あるいは家庭の事情に余儀なくされて、すでに妻を迎えていたものがあったかも知れませんが、子供らしい私はそこに気が付きませんでした。それからそういう特別の境遇に置かれた人の方でも、四辺あたり気兼きがねをして、なるべくは書生に縁の遠いそんな内輪の話はしないように慎んでいたのでしょう。あとから考えると、私自身がすでにその組だったのですが、私はそれさえ分らずに、ただ子供らしく愉快に修学の道を歩いて行きました。

学年の終わりに、私はまた行李をしばって、親の墓のある田舎へ帰って来ました。

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学年の終りに、私はまた行李こうりからげて、親の墓のある田舎いなかへ帰って来ました。

そうして去年と同じように、父母のいた家の中で、またおじ夫婦とその子どもの変わらない顔を見ました。

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そうして去年と同じように、父母ちちははのいたわがいえの中で、また叔父おじ夫婦とその子供の変らない顔を見ました。

私は再びそこで、故郷のにおいをかぎました。

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私は再びそこで故郷ふるさとにおいをぎました。

そのにおいは私にとって、相変わらずなつかしいものでした。

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その匂いは私に取って依然として懐かしいものでありました。

一学年の単調を破る変化としても、ありがたいものに違いなかったのです。

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一学年の単調を破る変化としても有難いものに違いなかったのです。

しかしこの自分を育て上げたのと同じにおいの中で、私はまた突然、結婚の話をおじから鼻の先へ突きつけられました。

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しかしこの自分を育て上げたと同じような匂いの中で、私はまた突然結婚問題を叔父から鼻の先へ突き付けられました。

おじの言うことは、去年の勧めを再びくり返しただけです。

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叔父のいう所は、去年の勧誘を再び繰り返したのみです。

理由も、去年と同じでした。

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理由も去年と同じでした。

ただこの前勧められたときには相手もなかったのに、今度はちゃんと肝心の本人をつかまえていたので、私はなおさら困らされたのです。

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ただこの前すすめられた時には、何らの目的物がなかったのに、今度はちゃんと肝心かんじんの当人をつらまえていたので、私はなお困らせられたのです。

その本人というのは、おじの娘、つまり私のいとこに当たる女でした。

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その当人というのは叔父の娘すなわち私の従妹いとこに当る女でした。

その女をもらってくれればお互いのために都合がいい、父も生きているときそんなことを話していた、とおじが言うのです。

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その女をもらってくれれば、お互いのために便宜である、父も存生中ぞんしょうちゅうそんな事を話していた、と叔父がいうのです。

私もそうすれば都合がいいとは思いました。

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私もそうすれば便宜だとは思いました。

父がおじにそういう風な話をしたというのも、あり得ることと考えました。

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父が叔父にそういうふうな話をしたというのもありべき事と考えました。

しかしそれは私がおじに言われて初めて気がついたので、言われない前から分かっていたことではないのです。

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しかしそれは私が叔父にいわれて、始めて気が付いたので、いわれない前から、さとっていた事柄ではないのです。

だから私は驚きました。

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だから私は驚きました。

驚いたけれども、おじの望みに無理のないところも、そのおかげでよく分かりました。

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驚いたけれども、叔父の希望に無理のないところも、それがためによくわかりました。

私はうかつなのでしょうか。

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私は迂闊うかつなのでしょうか。

もしかするとそうなのかもしれませんが、たぶんそのいとこに何の関心もなかったのが、主な原因になっているのでしょう。

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あるいはそうなのかも知れませんが、おそらくその従妹に無頓着むとんじゃくであったのが、おもな源因げんいんになっているのでしょう。

私は子どものうちから、市にいるおじの家へずっと遊びに行きました。

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私は小供こどものうちからにいる叔父のうちへ始終遊びに行きました。

ただ行くばかりでなく、よくそこに泊まりました。

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ただ行くばかりでなく、よくそこに泊りました。

そうしてこのいとことは、その時分から親しかったのです。

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そうしてこの従妹とはその時分から親しかったのです。

あなたもご承知でしょう、きょうだいの間に恋の成り立った例のないのを。

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あなたもご承知でしょう、兄妹きょうだいの間に恋の成立したためしのないのを。

私はこの認められた事実を勝手に広げているかもしれないが、いつも接して親しくなり過ぎた男女の間には、恋に必要なしげきの起こる新しい感じが失われてしまうように考えています。

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私はこの公認された事実を勝手に布衍ふえんしているかも知れないが、始終接触して親しくなり過ぎた男女なんにょの間には、恋に必要な刺戟しげきの起る清新な感じが失われてしまうように考えています。

かおりをかげるのは香をたき出した一しゅんに限るように、酒を味わうのは酒を飲み始めた一しゅんにあるように、恋の高まりにもこういうきわどい一点が時間の上にあるとしか思われないのです。

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こうをかぎるのは、香をき出した瞬間に限るごとく、酒を味わうのは、酒を飲み始めた刹那せつなにあるごとく、恋の衝動にもこういうきわどい一点が、時間の上に存在しているとしか思われないのです。

一度平気でそこを通り抜けたら、慣れれば慣れるほど親しみが増すだけで、恋の神経はだんだん動かなくなって来るだけです。

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一度平気でそこを通り抜けたら、れれば馴れるほど、親しみが増すだけで、恋の神経はだんだん麻痺まひして来るだけです。

私はどう考え直しても、このいとこを妻にする気にはなれませんでした。

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私はどう考え直しても、この従妹いとこを妻にする気にはなれませんでした。

おじは、もし私が言い張るなら私の卒業まで結婚を延ばしてもいいと言いました。

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叔父おじはもし私が主張するなら、私の卒業まで結婚を延ばしてもいいといいました。

けれども善は急げということわざもあるから、できるなら今のうちに結婚のさかずきだけは済ませておきたいとも言いました。

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けれども善は急げということわざもあるから、できるなら今のうちに祝言しゅうげんさかずきだけは済ませておきたいともいいました。

本人に望みのない私には、どちらにしたって同じことです。

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当人に望みのない私にはどっちにしたって同じ事です。

私はまた、ことわりました。

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私はまた断りました。

おじは、いやな顔をしました。

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叔父はいやな顔をしました。

いとこは、泣きました。

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従妹は泣きました。

私といっしょになれないから悲しいのではありません。

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私に添われないから悲しいのではありません。

結婚の申しこみをことわられたのが、女としてつらかったからです。

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結婚の申し込みを拒絶されたのが、女としてつらかったからです。

私がいとこを愛していないように、いとこも私を愛していないことは、私によく分かっていました。

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私が従妹を愛していないごとく、従妹も私を愛していない事は、私によく知れていました。

私はまた、東京へ出ました。

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私はまた東京へ出ました。

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「私が三度目に故郷へ帰ったのは、それからまた一年経った夏の初めでした。私はいつでも学年試験の済むのを待ちかねて東京を逃げ出しました。私には故郷がそれほどなつかしかったからです。あなたにも覚えがあるでしょう、生まれた所は空気の色が違います、土地のにおいも格別です、父や母の記憶もこくただよっています。一年のうちで七月八月の二か月をその中に包まれて、穴に入ったへびのようにじっとしているのは、私にとって何よりも温かい、いい心持ちだったのです。

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「私が三度目に帰国したのは、それからまた一年った夏の取付とっつきでした。私はいつでも学年試験の済むのを待ちかねて東京を逃げました。私には故郷ふるさとがそれほど懐かしかったからです。あなたにも覚えがあるでしょう、生れた所は空気の色が違います、土地のにおいも格別です、父や母の記憶もこまやかにただよっています。一年のうちで、七、八の二月ふたつきをその中にくるまれて、穴に入ったへびのようにじっとしているのは、私に取って何よりも温かいい心持だったのです。

単純な私は、いとことの結婚の話についてそれほど頭を痛める必要がないと思っていました。

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単純な私は従妹との結婚問題について、さほど頭を痛める必要がないと思っていました。

いやなものはことわる、ことわってさえしまえばあとには何も残らない、私はこう信じていたのです。

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厭なものは断る、断ってさえしまえばあとには何も残らない、私はこう信じていたのです。

だからおじの望みどおりに気持ちを曲げなかったのに、私はむしろ平気でした。

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だから叔父の希望通りに意志を曲げなかったにもかかわらず、私はむしろ平気でした。

過去一年の間、一度もそんなことに悩んだ覚えもなく、相変わらずの元気で国へ帰ったのです。

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過去一年の間いまだかつてそんな事に屈托くったくした覚えもなく、相変らずの元気で国へ帰ったのです。

ところが帰ってみると、おじの態度が違っています。

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ところが帰って見ると叔父の態度が違っています。

元のようにいい顔をして、私を自分のふところに抱こうとしません。

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元のようにい顔をして私を自分のふところこうとしません。

それでものびのび育った私は、帰って四、五日の間は気がつかずにいました。

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それでも鷹揚おうように育った私は、帰って四、五日の間は気が付かずにいました。

ただ何かの折に、ふとへんに思い出したのです。

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ただ何かの機会にふと変に思い出したのです。

すると妙なのは、おじばかりではないのです。

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すると妙なのは、叔父ばかりではないのです。

おばも妙なのです。

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叔母おばも妙なのです。

いとこも妙なのです。

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従妹も妙なのです。

中学校を出て、これから東京の高等商業へ入るつもりだと言って、手紙でその様子を問い合わせたりしたおじの男の子まで妙なのです。

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中学校を出て、これから東京の高等商業へはいるつもりだといって、手紙でその様子を聞き合せたりした叔父の男の子まで妙なのです。

私のたちとして、考えずにはいられなくなりました。

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私の性分しょうぶんとして考えずにはいられなくなりました。

どうして私の気持ちがこう変わったのだろう。

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どうして私の心持がこう変ったのだろう。

いや、どうして向こうがこう変わったのだろう。

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いやどうして向うがこう変ったのだろう。

私は突然、死んだ父や母が鈍い私の目を洗って、急に世の中がはっきり見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。

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私は突然死んだ父や母が、にぶい私の眼を洗って、急に世の中が判然はっきり見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。

私は父や母がこの世にいなくなったあとでも、いたときと同じように私を愛してくれるものと、どこか心の奥で信じていたのです。

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私は父や母がこの世にいなくなったあとでも、いた時と同じように私を愛してくれるものと、どこか心の奥で信じていたのです。

もちろんそのころでも、私は決して理屈にうといたちではありませんでした。

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もっともそのころでも私は決して理に暗いたちではありませんでした。

しかし先祖からゆずられた思いこみのかたまりも、強い力で私の血の中にひそんでいたのです。

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しかし先祖から譲られた迷信のかたまりも、強い力で私の血の中にひそんでいたのです。

今でもひそんでいるでしょう。

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今でも潜んでいるでしょう。

私はたった一人で山へ行って、父母の墓の前にひざまずきました。

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私はたった一人山へ行って、父母の墓の前にひざまずきました。

半分は悲しみの気持ち、半分は感謝の気持ちでひざまずいたのです。

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なかば哀悼あいとうの意味、半は感謝の心持で跪いたのです。

そうして私の未来の幸せが、この冷たい石の下に横たわる二人の手にまだにぎられてでもいるような気分で、私の運命を守ってくれるよう二人に祈りました。

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そうして私の未来の幸福が、この冷たい石の下に横たわる彼らの手にまだ握られてでもいるような気分で、私の運命を守るべく彼らに祈りました。

あなたは笑うかもしれない。

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あなたは笑うかもしれない。

私も笑われても仕方がないと思います。

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私も笑われても仕方がないと思います。

しかし私は、そうした人間だったのです。

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しかし私はそうした人間だったのです。

私の世界は、手のひらを返すように変わりました。

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私の世界はたなごころを翻すように変りました。

もっともこれは、私にとって初めての経験ではなかったのです。

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もっともこれは私に取って始めての経験ではなかったのです。

私が十六、七のときでしたろう、初めて世の中に美しいものがあるという事実を見つけたときには、一度にはっと驚きました。

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私が十六、七の時でしたろう、始めて世の中に美しいものがあるという事実を発見した時には、一度にはっと驚きました。

何度も自分の目を疑って、何度も自分の目をこすりました。

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何遍なんべんも自分の眼をうたぐって、何遍も自分の眼をこすりました。

そうして心の中で、ああ美しいと叫びました。

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そうして心のうちでああ美しいと叫びました。

十六、七と言えば、男でも女でも、よく言う色気のつくころです。

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十六、七といえば、男でも女でも、俗にいう色気いろけの付く頃です。

色気のついた私は、世の中にある美しいものの代表として、初めて女を見ることができたのです。

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色気の付いた私は世の中にある美しいものの代表者として、始めて女を見る事ができたのです。

今までいることに少しも気のつかなかった異性に対して、見えなかった目がたちまち開いたのです。

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今までその存在に少しも気の付かなかった異性に対して、盲目めくらの眼がたちまいたのです。

それから、私の世界はまったく新しいものとなりました。

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それ以来私の天地は全く新しいものとなりました。

私がおじの態度に気づいたのも、まったくこれと同じなのでしょう。

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私が叔父おじの態度に心づいたのも、全くこれと同じなんでしょう。

急に気づいたのです。

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俄然がぜんとして心づいたのです。

何の予感も準備もなく、不意に来たのです。

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何の予感も準備もなく、不意に来たのです。

不意におじとその家族が、今までとはまるで別のもののように私の目に映ったのです。

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不意に彼と彼の家族が、今までとはまるで別物のように私の眼に映ったのです。

私は驚きました。

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私は驚きました。

そうしてこのままにしておいては、自分の行く先がどうなるか分からないという気になりました。

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そうしてこのままにしておいては、自分の行先ゆくさきがどうなるか分らないという気になりました。

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「私は今までおじにまかせておいた家の財産について、くわしく知らなければ死んだ父母に対して済まないという気を起こしたのです。おじはいそがしい身だと自分で言うとおり、毎晩同じ所に寝泊まりはしていませんでした。二日家へ帰ると三日は市の方で暮らすという風に、両方の間を行き来して、その日その日を落ち着きのない顔で過ごしていました。そうしていそがしいという言葉を口ぐせのように使いました。何の疑いも起こらないときは、私も本当にいそがしいのだろうと思っていたのです。それから、いそがしがらなくては今風ではないのだろうと、ひにくにも考えていたのです。けれども財産のことについて時間のかかる話をしようという目当てができた目で、このいそがしがる様子を見ると、それがただ私を避ける言いわけとしか受け取れなくなって来たのです。私はなかなか、おじをつかまえる機会を得ませんでした。

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「私は今まで叔父まかせにしておいた家の財産について、詳しい知識を得なければ、死んだ父母ちちははに対して済まないという気を起したのです。叔父は忙しい身体からだだと自称するごとく、毎晩同じ所に寝泊ねとまりはしていませんでした。二日うちへ帰ると三日はの方で暮らすといったふうに、両方の間を往来ゆききして、その日その日を落ち付きのない顔で過ごしていました。そうして忙しいという言葉を口癖くちくせのように使いました。何の疑いも起らない時は、私も実際に忙しいのだろうと思っていたのです。それから、忙しがらなくては当世流でないのだろうと、皮肉にも解釈していたのです。けれども財産の事について、時間のかる話をしようという目的ができた眼で、この忙しがる様子を見ると、それが単に私を避ける口実としか受け取れなくなって来たのです。私は容易に叔父をつらまえる機会を得ませんでした。

私は、おじが市の方に別の女の人を持っているといううわさを聞きました。

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私は叔父が市の方にめかけをもっているといううわさを聞きました。

私はそのうわさを、昔中学の同級生だったある友達から聞いたのです。

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私はその噂を昔中学の同級生であったある友達から聞いたのです。

別の女の人を置くくらいのことは、このおじとして少しも不思議ではないのですが、父の生きているうちにそんな評判を耳に入れた覚えのない私は驚きました。

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妾を置くぐらいの事は、この叔父として少しもあやしむに足らないのですが、父の生きているうちに、そんな評判を耳に入れたおぼえのない私は驚きました。

友達はそのほかにも、いろいろおじについてのうわさを語って聞かせました。

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友達はそのほかにも色々叔父についての噂を語って聞かせました。

一時は事業でしくじりかかっていたようによそから思われていたのに、この二、三年また急に立ち直って来たというのも、その一つでした。

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一時事業で失敗しかかっていたようにひとから思われていたのに、この二、三年来また急に盛り返して来たというのも、その一つでした。

しかも私の疑いを強く染めつけたものの一つでした。

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しかも私の疑惑を強く染めつけたものの一つでした。

私はとうとう、おじと話し合いを始めました。

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私はとうとう叔父おじと談判を開きました。

話し合いというのは少しふさわしくないかもしれませんが、話の成り行きから言うと、そんな言葉で言うよりほかに道のないところへ、自然と調子が落ちて来たのです。

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談判というのは少し不穏当ふおんとうかも知れませんが、話の成行なりゆきからいうと、そんな言葉で形容するより外にみちのないところへ、自然の調子が落ちて来たのです。

おじはどこまでも、私を子どもあつかいにしようとします。

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叔父はどこまでも私を子供扱いにしようとします。

私はまた初めから、疑いの目でおじに向かっています。

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私はまた始めから猜疑さいぎの眼で叔父に対しています。

穏やかに解決のつくはずはなかったのです。

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穏やかに解決のつくはずはなかったのです。

残念ながら私は今、その話し合いのいきさつをくわしくここに書くことのできないほど先を急いでいます。

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遺憾いかんながら私は今その談判の顛末てんまつを詳しくここに書く事のできないほど先を急いでいます。

実を言うと、私はこれ以上にもっと大事なものをひかえているのです。

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実をいうと、私はこれより以上に、もっと大事なものを控えているのです。

私のペンは早くからそこへたどりつきたがっているのを、やっとのことで押さえつけているくらいです。

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私のペンは早くからそこへ辿たどりつきたがっているのを、やっとの事で抑えつけているくらいです。

あなたに会って静かに話す機会を永久に失った私は、筆を取ることに慣れないばかりでなく、大事な時間を惜しむという意味からも、書きたいことを省かなければなりません。

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あなたに会って静かに話す機会を永久に失った私は、筆をすべに慣れないばかりでなく、たっとい時間をおしむという意味からして、書きたい事も省かなければなりません。

あなたはまだ覚えているでしょう、私がいつかあなたに、生まれつきの悪人が世の中にいるものではないと言ったことを。

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あなたはまだ覚えているでしょう、私がいつかあなたに、造り付けの悪人が世の中にいるものではないといった事を。

多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから、油断してはいけないと言ったことを。

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多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断してはいけないといった事を。

あのときあなたは、私に興奮していると注意してくれました。

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あの時あなたは私に昂奮こうふんしていると注意してくれました。

そうしてどんな場合に善人が悪人に変わるのかとたずねました。

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そうしてどんな場合に、善人が悪人に変化するのかと尋ねました。

私がただ一言、お金と答えたとき、あなたは不満な顔をしました。

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私がただ一口ひとくち金と答えた時、あなたは不満な顔をしました。

私はあなたの不満な顔を、よく覚えています。

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私はあなたの不満な顔をよく記憶しています。

私は今あなたの前に打ち明けますが、私はあのときこのおじのことを考えていたのです。

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私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時この叔父の事を考えていたのです。

ふつうの人がお金を見て急に悪人になる例として、世の中に信用できるものがあり得ない例として、にくしみとともに私はこのおじを考えていたのです。

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普通のものが金を見て急に悪人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在し得ない例として、憎悪ぞうおと共に私はこの叔父を考えていたのです。

私の答えは、考えの世界の奥へ突き進んで行こうとするあなたにとって物足りなかったかもしれません、ありふれていたかもしれません。

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私の答えは、思想界の奥へ突き進んで行こうとするあなたに取って物足りなかったかも知れません、陳腐ちんぷだったかも知れません。

けれども私には、あれが生きた答えでした。

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けれども私にはあれが生きた答えでした。

実際、私は興奮していたではありませんか。

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現に私は昂奮していたではありませんか。

私は冷たい頭で新しいことを口にするよりも、熱した舌でありふれた考えを述べる方が生きていると信じています。

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私はひややかな頭で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。

血の力で体が動くからです。

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血の力でたいが動くからです。

言葉が空気に波を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働きかけることができるからです。

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言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働き掛ける事ができるからです。

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「一口で言うと、おじは私の財産をごまかしたのです。ことは私が東京へ出ている三年の間に、たやすく行われたのです。すべてをおじにまかせて平気でいた私は、世間から言えば本当の馬鹿でした。世間より上の見方から言えば、あるいは純すいで尊い男とでも言えましょうか。私はそのときの自分を振り返って、なぜもっと人が悪く生まれて来なかったかと思うと、正直過ぎた自分がくやしくてたまりません。しかしまたどうかして、もう一度ああいう生まれたままの姿に立ち返って生きてみたいという気持ちも起こるのです。覚えていてください、あなたの知っている私は、ちりに汚れたあとの私です。汚くなった年数の多い者を先輩と呼ぶならば、私はたしかにあなたより先輩でしょう。

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一口ひとくちでいうと、叔父はわたくしの財産を胡魔化ごまかしたのです。事は私が東京へ出ている三年の間に容易たやすく行われたのです。すべてを叔父まかせにして平気でいた私は、世間的にいえば本当の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、あるいは純なるたっとい男とでもいえましょうか。私はその時のおのれを顧みて、なぜもっと人が悪く生れて来なかったかと思うと、正直過ぎた自分が口惜くやしくってたまりません。しかしまたどうかして、もう一度ああいう生れたままの姿に立ち帰って生きて見たいという心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知っている私はちりに汚れたあとの私です。きたなくなった年数の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかにあなたより先輩でしょう。

もし私がおじの望みどおりおじの娘と結婚したなら、その結果はお金の面で私にとって得なものだったでしょうか。

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もし私が叔父の希望通り叔父の娘と結婚したならば、その結果は物質的に私に取って有利なものでしたろうか。

これは考えるまでもないことと思います。

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これは考えるまでもない事と思います。

おじは策略で娘を私に押しつけようとしたのです。

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叔父おじは策略で娘を私に押し付けようとしたのです。

好意から両方の家の都合をはかるというよりも、ずっと下品な損得の心に動かされて、結婚の話を私に向けたのです。

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好意的に両家の便宜を計るというよりも、ずっと下卑げびた利害心に駆られて、結婚問題を私に向けたのです。

私はいとこを愛していないだけで嫌ってはいなかったのですが、あとから考えてみると、それをことわったのが私には多少うれしいことになると思います。

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私は従妹いとこを愛していないだけで、嫌ってはいなかったのですが、後から考えてみると、それを断ったのが私には多少の愉快になると思います。

ごまかされるのはどちらにしても同じでしょうけれども、乗せられ方から言えば、いとこをもらわない方が、向こうの思いどおりにならないという点から見て、少しは私の意地が通ったことになるのですから。

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胡魔化ごまかされるのはどっちにしても同じでしょうけれども、せられ方からいえば、従妹をもらわない方が、向うの思い通りにならないという点から見て、少しは私のが通った事になるのですから。

しかしそれは、ほとんど問題にするに足りない小さなことです。

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しかしそれはほとんど問題とするに足りない些細ささいな事柄です。

特に関係のないあなたに言わせたら、さぞ馬鹿げた意地に見えるでしょう。

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ことに関係のないあなたにいわせたら、さぞ馬鹿気ばかげた意地に見えるでしょう。

私とおじの間に、ほかの親せきの者が入りました。

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私と叔父の間に親戚しんせきのものがはいりました。

その親せきの者も、私はまるで信用していませんでした。

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その親戚のものも私はまるで信用していませんでした。

信用しないばかりでなく、むしろ敵と見ていました。

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信用しないばかりでなく、むしろ敵視していました。

私はおじが私をだましたと分かるとともに、ほかの者も必ず自分をだますに違いないと思いこみました。

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私は叔父が私をあざむいたとさとると共に、ほかのものも必ず自分を欺くに違いないと思い詰めました。

父があれだけほめぬいていたおじですらこうだから、ほかの者は、というのが私の理屈でした。

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父があれだけめ抜いていた叔父ですらこうだから、他のものはというのが私の論理ロジックでした。

それでも彼らは私のために、私のものになる一切をまとめてくれました。

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それでも彼らは私のために、私の所有にかかる一切いっさいのものをまとめてくれました。

それは金額に見つもると、私の思ったよりはるかに少ないものでした。

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それは金額に見積ると、私の予期よりはるかに少ないものでした。

私としては黙ってそれを受け取るか、でなければおじを相手にして裁判にするか、二つの方法しかなかったのです。

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私としては黙ってそれを受け取るか、でなければ叔父を相手取って公沙汰おおやけざたにするか、二つの方法しかなかったのです。

私は、いかりました。

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私はいきどおりました。

また、迷いました。

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また迷いました。

うったえにすると決まるまでに長い時間のかかることも恐れました。

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訴訟にすると落着らくちゃくまでに長い時間のかかる事も恐れました。

私は勉強中の身ですから、学生として大切な時間を取られるのは非常な苦しみだとも考えました。

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私は修業中のからだですから、学生として大切な時間を奪われるのは非常の苦痛だとも考えました。

私は考えたあげく、市にいる中学の昔の友に頼んで、私の受け取ったものをすべてお金の形に変えようとしました。

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私は思案の結果、におる中学の旧友に頼んで、私の受け取ったものを、すべて金のかたちに変えようとしました。

昔の友はやめた方が得だと言って忠告してくれましたが、私は聞きませんでした。

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旧友はした方が得だといって忠告してくれましたが、私は聞きませんでした。

私は永く故郷を離れる決心を、そのときに起こしたのです。

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私は永く故郷こきょうを離れる決心をその時に起したのです。

おじの顔を見まいと、心のうちで誓ったのです。

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叔父の顔を見まいと心のうちで誓ったのです。

私は国を出る前に、また父と母の墓へ参りました。

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私は国を立つ前に、また父と母の墓へ参りました。

私はそれきり、その墓を見たことがありません。

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私はそれぎりその墓を見た事がありません。

もう永久に、見る機会も来ないでしょう。

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もう永久に見る機会も来ないでしょう。

私の昔の友は、私の言葉どおりに取り計らってくれました。

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私の旧友は私の言葉通りに取り計らってくれました。

もっともそれは、私が東京へ着いてからよほど経ったあとのことです。

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もっともそれは私が東京へ着いてからよほどったのちの事です。

田舎で畑などを売ろうとしても簡単には売れませんし、いざとなると弱みを見て安く買われる恐れがあるので、私の受け取った金額はその時の値段に比べるとよほど少ないものでした。

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田舎いなか畠地はたちなどを売ろうとしたって容易には売れませんし、いざとなると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、私の受け取った金額は、時価に比べるとよほど少ないものでした。

白状すると、私の財産は、自分がふところに入れて家を出たいくらかの公さいと、あとからこの友人に送ってもらったお金だけなのです。

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自白すると、私の財産は自分がふところにして家を出た若干の公債と、あとからこの友人に送ってもらった金だけなのです。

親の残した財産としては、もちろん非常に減っていたに違いありません。

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親の遺産としてはもとより非常に減っていたに相違ありません。

しかも私が自分から減らしたのでないから、なお気持ちが悪かったのです。

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しかも私が積極的に減らしたのでないから、なお心持が悪かったのです。

けれども学生として生活するには、それで十分以上でした。

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けれども学生として生活するにはそれで充分以上でした。

実を言うと、私はそれから出る利息の半分も使えませんでした。

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実をいうと私はそれから出る利子の半分も使えませんでした。

この余裕のある私の学生生活が、私を思いもよらない立場におとしたのです。

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この余裕ある私の学生生活が私を思いも寄らない境遇におとし入れたのです。

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「お金に不自由のない私は、さわがしい下宿を出て、新しく一けん借りてみようかという気になったのです。しかしそれには家じゅうの道具を買うめんどうもありますし、世話をしてくれるお婆さんの必要も起こりますし、そのお婆さんがまた正直でなければ困るし、家を留守にしても大丈夫な人でなければ心配だし、という訳で、ちょいちょいと実行することはむずかしく見えたのです。ある日、私はまあ家だけでも探してみようかという落ち着かない気持ちから、散歩がてらに本郷台を西へ下りて、小石川の坂をまっすぐに伝通院の方へ上がりました。電車の通り道になってからあそこいらの様子はまるで違ってしまいましたが、そのころは左手が砲兵工しょうの土べいで、右は野原とも丘ともつかない空き地に草が一面に生えていたものです。私はその草の中に立って、何気なく向こうのがけをながめました。今でも悪い景色ではありませんが、そのころはまたずっとあの西側の感じが違っていました。見わたすかぎり緑が一面に深くしげっているだけでも、心が休まります。私はふと、ここいらにちょうどいい家はないだろうかと思いました。それですぐ草原を横切って、細い通りを北の方へ進んで行きました。今でもいい町になり切れないでがたぴししているあの辺の家並みは、その時分のことですからずいぶん汚らしいものでした。私は路地を抜けたり横町を曲がったり、ぐるぐる歩き回りました。しまいに駄菓子屋のおかみさんに、ここいらに小ぢんまりした貸家はないかとたずねてみました。おかみさんは「そうですね」と言ってしばらく首をかしげていましたが、「貸家はちょっと……」とまったく思い当たらない風でした。私は望みのないものとあきらめて帰りかけました。するとおかみさんがまた、「素人下宿ではいけませんか」と聞くのです。私はちょっと気が変わりました。静かなふつうの家に一人で下宿しているのは、かえって家を持つめんどうがなくて結構だろうと考え出したのです。それからその駄菓子屋の店に腰をかけて、おかみさんにくわしいことを教えてもらいました。

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「金に不自由のないわたくしは、騒々そうぞうしい下宿を出て、新しく一戸を構えてみようかという気になったのです。しかしそれには世帯道具を買う面倒もありますし、世話をしてくれるばあさんの必要も起りますし、その婆さんがまた正直でなければ困るし、うちを留守にしても大丈夫なものでなければ心配だし、といった訳で、ちょくらちょいと実行する事は覚束おぼつかなく見えたのです。ある日私はまあうちだけでも探してみようかというそぞろごころから、散歩がてらに本郷台ほんごうだいを西へ下りて小石川こいしかわの坂を真直まっすぐ伝通院でんずういんの方へ上がりました。電車の通路になってから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、そのころは左手が砲兵工廠ほうへいこうしょう土塀どべいで、右は原とも丘ともつかない空地くうちに草が一面に生えていたものです。私はその草の中に立って、何心なにごころなく向うのがけながめました。今でも悪い景色ではありませんが、その頃はまたずっとあの西側のおもむきが違っていました。見渡す限り緑が一面に深く茂っているだけでも、神経が休まります。私はふとここいらに適当なうちはないだろうかと思いました。それで草原くさはらを横切って、細い通りを北の方へ進んで行きました。いまだにい町になり切れないで、がたぴししているあのへん家並いえなみは、その時分の事ですからずいぶん汚ならしいものでした。私は露次ろじを抜けたり、横丁よこちょうまがったり、ぐるぐる歩きまわりました。しまいに駄菓子屋だがしやかみさんに、ここいらに小ぢんまりした貸家かしやはないかと尋ねてみました。上さんは「そうですね」といって、少時しばらく首をかしげていましたが、「かしはちょいと……」と全く思い当らないふうでした。私はのぞみのないものとあきらめて帰り掛けました。すると上さんがまた、「素人下宿しろうとげしゅくじゃいけませんか」と聞くのです。私はちょっと気が変りました。静かな素人屋しろうとやに一人で下宿しているのは、かえってうちを持つ面倒がなくって結構だろうと考え出したのです。それからその駄菓子屋の店に腰を掛けて、上さんに詳しい事を教えてもらいました。

それはある軍人の家族、というよりもむしろ残された家族が住んでいる家でした。

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それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。

主人は何でも日清戦争のときか何かに死んだのだと、おかみさんが言いました。

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主人は何でも日清にっしん戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。

一年ばかり前までは市ヶ谷の士官学校のそばとかに住んでいたのだが、馬小屋などがあって屋敷が広過ぎるので、そこを売り払ってここへ引っ越して来たけれども、人が少なくて寂しくて困るから、ちょうどいい人があったら世話をしてくれと頼まれていたのだそうです。

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一年ばかり前までは、市ヶ谷いちがや士官しかん学校のそばとかに住んでいたのだが、うまやなどがあって、やしきが広過ぎるので、そこを売り払って、ここへ引っ越して来たけれども、無人ぶにんさむしくって困るから相当の人があったら世話をしてくれと頼まれていたのだそうです。

私はおかみさんから、その家には未亡人と一人娘とお手伝いよりほかにいないのだということをたしかめました。

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私は上さんから、その家には未亡人びぼうじんと一人娘と下女げじょよりほかにいないのだという事を確かめました。

私は静かでこの上なくいいだろうと、心の中で思いました。

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私は閑静で至極しごく好かろうと心のうちに思いました。

けれどもそんな家族のうちに、私のような者が突然行ったところで、どこの者か分からない学生という名のもとにすぐことわられはしまいかという心配もありました。

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けれどもそんな家族のうちに、私のようなものが、突然行ったところで、素性すじょうの知れない書生さんという名称のもとに、すぐ拒絶されはしまいかという掛念けねんもありました。

私はやめようかとも考えました。

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私はそうかとも考えました。

しかし私は、学生としてそんなに見苦しい服そうはしていませんでした。

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しかし私は書生としてそんなに見苦しい服装なりはしていませんでした。

それから、大学の制帽をかぶっていました。

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それから大学の制帽をかぶっていました。

あなたは笑うでしょう、大学の制帽がどうしたんだと言って。

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あなたは笑うでしょう、大学の制帽がどうしたんだといって。

けれどもそのころの大学生は今と違って、だいぶ世間に信用のあったものです。

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けれどもその頃の大学生は今と違って、大分だいぶ世間に信用のあったものです。

私はその場合、この四角な帽子に一種の自信を見つけたくらいです。

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私はその場合この四角な帽子に一種の自信を見出みいだしたくらいです。

そうして駄菓子屋のおかみさんに教わったとおり、しょうかいも何もなしにその軍人の残された家族の家をたずねました。

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そうして駄菓子屋の上さんに教わった通り、紹介も何もなしにその軍人の遺族のうちを訪ねました。

私は未亡人に会って、来た用を告げました。

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私は未亡人びぼうじんに会って来意らいいを告げました。

未亡人は私の身元やら学校やら専門やらについて、いろいろ質問しました。

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未亡人は私の身元やら学校やら専門やらについて色々質問しました。

そうして、これなら大丈夫だというところをどこかにつかんだのでしょう、いつでも引っ越して来て差し支えないという返事を、その場で与えてくれました。

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そうしてこれなら大丈夫だというところをどこかに握ったのでしょう、いつでも引っ越して来て差支さしつかえないという挨拶あいさつ即坐そくざに与えてくれました。

未亡人は正しい人でした、またはっきりした人でした。

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未亡人は正しい人でした、また判然はっきりした人でした。

私は、軍人の奥さんというものはみんなこんなものかと思って感心しました。

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私は軍人の妻君さいくんというものはみんなこんなものかと思って感服しました。

感心もしたが、驚きもしました。

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感服もしたが、驚きもしました。

この気性でどこが寂しいのだろうと、疑いもしました。

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この気性きしょうでどこがさむしいのだろうと疑いもしました。

十一

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十一

「私はさっそく、その家へ引っ越しました。私は最初来たときに未亡人と話をした座敷を借りたのです。そこは家じゅうで一番いい部屋でした。本郷あたりに高等下宿といった風の家がぽつぽつ建てられた時分のことですから、私は学生として使えるもっともいい部屋の様子を知っていました。私が新しく主人となった部屋は、それらよりもずっと立派でした。移った当座は、学生としての私には過ぎるくらいに思われたのです。

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「私は早速さっそくその家へ引き移りました。私は最初来た時に未亡人と話をした座敷を借りたのです。そこは宅中うちじゅうで一番へやでした。本郷辺ほんごうへんに高等下宿といったふうの家がぽつぽつ建てられた時分の事ですから、私は書生として占領し得る最も好いの様子を心得ていました。私の新しく主人となった室は、それらよりもずっと立派でした。移った当座は、学生としての私には過ぎるくらいに思われたのです。

部屋の広さは、八畳でした。

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室の広さは八畳でした。

床の間の横に違いだながあって、縁と反対の側には一間の押し入れがついていました。

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とこの横にちがだながあって、えんと反対の側には一間いっけん押入おしいれが付いていました。

窓は一つもなかったのですが、その代わり南向きの縁に明るい日がよくさしました。

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窓は一つもなかったのですが、その代り南向みなみむきの縁に明るい日がよく差しました。

私は移った日に、その部屋の床の間に生けられた花と、その横に立てかけられた琴を見ました。

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私は移った日に、その室のとこけられた花と、その横に立てけられたことを見ました。

どちらも、私の気に入りませんでした。

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どっちも私の気に入りませんでした。

私は詩や書や煎茶を好む父のそばで育ったので、中国風の好みを子どものうちから持っていました。

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私は詩や書や煎茶せんちゃたしなむ父のそばで育ったので、からめいた趣味を小供こどものうちからもっていました。

そのためでもありましょうか、こういう色っぽい飾りを、いつの間にか見下すくせがついていたのです。

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そのためでもありましょうか、こういうなまめかしい装飾をいつの間にか軽蔑けいべつする癖が付いていたのです。

私の父が生きているうちに集めた道具類は、例のおじのためにめちゃめちゃにされてしまったのですが、それでも多少は残っていました。

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私の父が存生中ぞんしょうちゅうにあつめた道具類は、例の叔父おじのために滅茶滅茶めちゃめちゃにされてしまったのですが、それでも多少は残っていました。

私は国を出るとき、それを中学の昔の友に預かってもらいました。

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私は国を立つ時それを中学の旧友に預かってもらいました。

それからその中で面白そうなものを四、五本、そのまま行李の底へ入れて来ました。

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それからそのうちで面白そうなものを四、五ふく裸にして行李こうりの底へ入れて来ました。

私は移るとすぐ、それを取り出して床の間へかけて楽しむつもりでいたのです。

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私は移るやいなや、それを取り出して床へ懸けて楽しむつもりでいたのです。

ところが今言った琴と生け花を見たので、急に勇気がなくなってしまいました。

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ところが今いった琴と活花いけばなを見たので、急に勇気がなくなってしまいました。

あとから聞いて初めて、この花が私に対するもてなしとして生けられたのだということを知ったとき、私は心のうちで苦笑いしました。

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あとから聞いて始めてこの花が私に対するご馳走ちそうに活けられたのだという事を知った時、私は心のうちで苦笑しました。

もっとも琴は前からそこにあったのですから、これは置き場所がないため、やむを得ずそのままに立てかけてあったのでしょう。

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もっとも琴は前からそこにあったのですから、これは置き所がないため、やむをえずそのままに立て懸けてあったのでしょう。

こんな話をすると、自然その裏に若い女の影があなたの頭をかすめて通るでしょう。

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こんな話をすると、自然その裏に若い女の影があなたの頭をかすめて通るでしょう。

移った私にも、移らない初めからそういう好きしんがもう動いていたのです。

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移った私にも、移らない初めからそういう好奇心がすでに動いていたのです。

こうしたよくない心が前もって私の自然さをそこなったためか、または私がまだ人慣れなかったためか、私は初めてそこのお嬢さんに会ったとき、しどろもどろなあいさつをしました。

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こうした邪気じゃきが予備的に私の自然を損なったためか、または私がまだ人慣ひとなれなかったためか、私は始めてそこのおじょうさんに会った時、へどもどした挨拶あいさつをしました。

その代わり、お嬢さんの方でも赤い顔をしました。

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その代りお嬢さんの方でも赤い顔をしました。

私はそれまで、未亡人の身なりや態度から考えて、このお嬢さんのすべてを想像していたのです。

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私はそれまで未亡人びぼうじん風采ふうさいや態度からして、このお嬢さんのすべてを想像していたのです。

しかしその想像は、お嬢さんにとってあまりよいものではありませんでした。

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しかしその想像はお嬢さんに取ってあまり有利なものではありませんでした。

軍人の奥さんだからああなのだろう、その奥さんの娘だからこうだろうといった順序で、私の推し量りはだんだんのびて行きました。

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軍人の妻君さいくんだからああなのだろう、その妻君の娘だからこうだろうといった順序で、私の推測は段々延びて行きました。

ところがその推し量りが、お嬢さんの顔を見た一しゅんにことごとく打ち消されました。

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ところがその推測が、お嬢さんの顔を見た瞬間に、ことごとく打ち消されました。

そうして私の頭の中へ、今まで想像も及ばなかった異性のにおいが新しく入って来ました。

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そうして私の頭の中へ今まで想像も及ばなかった異性のにおいが新しく入って来ました。

私はそれから、床の間の正面に生けてある花がいやでなくなりました。

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私はそれから床の正面にけてある花がいやでなくなりました。

同じ床の間に立てかけてある琴も、邪魔にならなくなりました。

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同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。

その花はまた、決まったようにしおれるころになると生け替えられるのです。

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その花はまた規則正しくしおれるころになると活けえられるのです。

琴も度々、かぎの形に折れ曲がったななめ向かいの部屋に運び去られるのです。

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琴も度々たびたびかぎの手に折れ曲がった筋違すじかいへやに運び去られるのです。

私は自分の部屋で机の上にほおづえをつきながら、その琴の音を聞いていました。

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私は自分の居間で机の上に頬杖ほおづえを突きながら、その琴のを聞いていました。

私にはその琴が上手なのか下手なのか、よく分からないのです。

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私にはその琴が上手なのか下手なのかよくわからないのです。

けれどもあまり込み入った弾き方をしないところを見ると、上手ではないのだろうと考えました。

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けれども余り込み入った手をかないところを見ると、上手なのじゃなかろうと考えました。

まあ生け花と同じくらいのものだろうと思いました。

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まあ活花の程度ぐらいなものだろうと思いました。

花なら私にもよく分かるのですが、お嬢さんは決してうまい方ではなかったのです。

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花なら私にも好く分るのですが、お嬢さんは決してうまい方ではなかったのです。

それでも遠慮なく、いろいろの花が私の床の間を飾ってくれました。

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それでも臆面おくめんなく色々の花が私の床を飾ってくれました。

もっとも生け方は、いつ見ても同じことでした。

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もっとも活方いけかたはいつ見ても同じ事でした。

それから花びんも、一度も変わったことがありませんでした。

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それから花瓶かへいもついぞ変ったためしがありませんでした。

しかしもう一方の音楽になると、花よりもっとへんでした。

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しかし片方の音楽になると花よりももっと変でした。

ぽつんぽつんと糸を鳴らすだけで、まるで声を聞かせないのです。

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ぽつんぽつん糸を鳴らすだけで、一向いっこう肉声を聞かせないのです。

歌わないのではありませんが、まるで内しょ話でもするように小さな声しか出さないのです。

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うたわないのではありませんが、まるで内所話ないしょばなしでもするように小さな声しか出さないのです。

しかも叱られると、まったく出なくなるのです。

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しかもしかられると全く出なくなるのです。

私は喜んでこの下手な生け花をながめては、まずそうな琴の音に耳をかたむけました。

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私は喜んでこの下手な活花をながめては、まずそうな琴のに耳を傾けました。

十二

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十二

「私の気分は、国を出るときもう世の中をきらうものになっていました。人は頼りにならないものだという思いが、そのとき骨の中までしみこんでしまったように思われたのです。私は私の敵と見るおじだのおばだの、そのほかの親せきだのを、まるで人間全体の代表のように考え出しました。汽車へ乗ってさえ、となりの人の様子をそれとなく注意し始めました。たまに向こうから話しかけられでもすると、なおさら用心したくなりました。私の心は沈んでいました。鉛をのんだように重苦しくなることが時々ありました。それでいて私の神経は、今言ったように鋭くとがってしまったのです。

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「私の気分は国を立つ時すでに厭世的えんせいてきになっていました。ひとは頼りにならないものだという観念が、その時骨の中までみ込んでしまったように思われたのです。私は私の敵視する叔父おじだの叔母おばだの、その親戚しんせきだのを、あたかも人類の代表者のごとく考え出しました。汽車へ乗ってさえ隣のものの様子を、それとなく注意し始めました。たまに向うから話し掛けられでもすると、なおの事警戒を加えたくなりました。私の心は沈鬱ちんうつでした。鉛をんだように重苦しくなる事が時々ありました。それでいて私の神経は、今いったごとくに鋭くとがってしまったのです。

私が東京へ来て下宿を出ようとしたのも、これが大きな原因になっているように思われます。

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私が東京へ来て下宿を出ようとしたのも、これが大きな源因げんいんになっているように思われます。

お金に不自由がなければこそ一けん借りてみる気にもなったのだと言えばそれまでですが、元のとおりの私ならば、たとえふところに余裕ができても、好んでそんなめんどうな真似はしなかったでしょう。

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金に不自由がなければこそ、一戸を構えてみる気にもなったのだといえばそれまでですが、元の通りの私ならば、たとい懐中ふところに余裕ができても、好んでそんな面倒な真似まねはしなかったでしょう。

私は小石川へ引っ越してからも、当分この張りつめた気分をゆるめることができませんでした。

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私は小石川こいしかわへ引き移ってからも、当分この緊張した気分にくつろぎを与える事ができませんでした。

私は自分で自分がはずかしいほど、きょときょとと周りを見回していました。

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私は自分で自分が恥ずかしいほど、きょときょと周囲を見廻みまわしていました。

不思議にもよく働くのは頭と目だけで、口の方はそれと反対にだんだん動かなくなって来ました。

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不思議にもよく働くのは頭と眼だけで、口の方はそれと反対に、段々動かなくなって来ました。

私は家の人の様子を猫のようによく見ながら、黙って机の前にすわっていました。

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私はうちのものの様子を猫のようによく観察しながら、黙って机の前にすわっていました。

ときには彼らに対して気の毒だと思うほど、私は油断のない注意を彼らの上に注いでいたのです。

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時々は彼らに対して気の毒だと思うほど、私は油断のない注意を彼らの上にそそいでいたのです。

おれは物をぬすまないすりのようなものだ、私はこう考えて、自分がいやになることさえあったのです。

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おれは物をぬすまない巾着切きんちゃくきりみたようなものだ、私はこう考えて、自分がいやになる事さえあったのです。

あなたはさぞへんに思うでしょう。

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あなたはさだめて変に思うでしょう。

その私が、そこのお嬢さんをどうして好く余裕を持っているか。

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その私がそこのおじょうさんをどうしてく余裕をもっているか。

そのお嬢さんの下手な生け花を、どうしてうれしがってながめる余裕があるか。

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そのお嬢さんの下手な活花いけばなを、どうしてうれしがってながめる余裕があるか。

同じく下手なその人の琴を、どうして喜んで聞く余裕があるか。

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同じく下手なその人の琴をどうして喜んで聞く余裕があるか。

そう質問されたとき、私はただ両方とも事実だったのだから、事実としてあなたに教えてあげるというよりほかに仕方がないのです。

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そう質問された時、私はただ両方とも事実であったのだから、事実としてあなたに教えて上げるというよりほかに仕方がないのです。

考え方は頭のあるあなたにまかせるとして、私はただ一言付け足しておきましょう。

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解釈は頭のあるあなたに任せるとして、私はただ一言いちごん付け足しておきましょう。

私はお金に対して人間を疑ったけれども、愛に対してはまだ人間を疑わなかったのです。

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私は金に対して人類をうたぐったけれども、愛に対しては、まだ人類を疑わなかったのです。

だから人から見るとへんなものでも、また自分で考えてみて食いちがったものでも、私の胸の中では平気で両方成り立っていたのです。

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だからひとから見ると変なものでも、また自分で考えてみて、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平気で両立していたのです。

私は未亡人のことをいつも奥さんと言っていましたから、これから未亡人と呼ばずに奥さんと言います。

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私は未亡人びぼうじんの事を常に奥さんといっていましたから、これから未亡人と呼ばずに奥さんといいます。

奥さんは私を静かな人、おとなしい男と言いました。

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奥さんは私を静かな人、大人おとなしい男と評しました。

それから勉強家だともほめてくれました。

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それから勉強家だともめてくれました。

けれども私の不安な目つきや、きょときょとした様子については、何も口に出しませんでした。

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けれども私の不安な眼つきや、きょときょとした様子については、何事も口へ出しませんでした。

気がつかなかったのか、遠慮していたのか、どちらだかよく分かりませんが、とにかくそこにはまるで注意をはらっていないらしく見えました。

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気が付かなかったのか、遠慮していたのか、どっちだかよくわかりませんが、何しろそこにはまるで注意を払っていないらしく見えました。

それだけでなく、ある場合には私をゆったりした方だと言って、いかにも尊敬したらしい口のきき方をしたことがあります。

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それのみならず、ある場合に私を鷹揚おうようかただといって、さも尊敬したらしい口のき方をした事があります。

そのとき、正直な私は少し顔を赤らめて、向こうの言葉を打ち消しました。

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その時正直な私は少し顔を赤らめて、向うの言葉を否定しました。

すると奥さんは「あなたは自分で気がつかないから、そうおっしゃるんです」

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すると奥さんは「あなたは自分で気が付かないから、そうおっしゃるんです」

と、真面目に説明してくれました。

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真面目まじめに説明してくれました。

奥さんは初め、私のような学生を家に置くつもりではなかったらしいのです。

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奥さんは始め私のような書生をうちへ置くつもりではなかったらしいのです。

どこかの役所へ勤める人か何かに座敷を貸す考えで、近所の人に世話を頼んでいたらしいのです。

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どこかの役所へ勤める人か何かに坐敷ざしきを貸す料簡りょうけんで、近所のものに周旋を頼んでいたらしいのです。

給料が多くなくてやむを得ずふつうの家に下宿するくらいの人だから、という考えが、それで前から奥さんの頭のどこかに入っていたのでしょう。

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俸給がゆたかでなくって、やむをえず素人屋しろうとやに下宿するくらいの人だからという考えが、それで前かたから奥さんの頭のどこかにはいっていたのでしょう。

奥さんは自分の胸に思いえがいたその客と私とを比べて、こちらの方をゆったりしていると言ってほめるのです。

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奥さんは自分の胸にえがいたその想像のお客と私とを比較して、こっちの方を鷹揚だといってめるのです。

なるほど、そんな切りつめた生活をする人に比べたら、私はお金にかけてゆったりしていたかもしれません。

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なるほどそんな切り詰めた生活をする人に比べたら、私は金銭にかけて、鷹揚だったかも知れません。

しかしそれは気性の問題ではありませんから、私の内側の生活にとってほとんど関係がないのと同じでした。

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しかしそれは気性きしょうの問題ではありませんから、私の内生活に取ってほとんど関係のないのと一般でした。

奥さんはまた女だけに、それを私の全体に広げて、同じ言葉を当てはめようと努めるのです。

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奥さんはまた女だけにそれを私の全体にし広げて、同じ言葉を応用しようとつとめるのです。

十三

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十三

「奥さんのこの態度が、自然と私の気分に影響して来ました。しばらくするうちに、私の目はもとほどきょろきょろしなくなりました。自分の心が自分のすわっている所にちゃんと落ち着いているような気にもなれました。つまり奥さんを初め家の人が、ひがんだ私の目や疑い深い私の様子に初めから取り合わなかったのが、私に大きな幸せを与えたのでしょう。私の神経は、相手からはね返って来るものがないためにだんだん静まりました。

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「奥さんのこの態度が自然私の気分に影響して来ました。しばらくするうちに、私の眼はもとほどきょろ付かなくなりました。自分の心が自分のすわっている所に、ちゃんと落ち付いているような気にもなれました。要するに奥さん始めうちのものが、ひがんだ私の眼や疑い深い私の様子に、てんから取り合わなかったのが、私に大きな幸福を与えたのでしょう。私の神経は相手から照り返して来る反射のないために段々静まりました。

奥さんは心得のある人でしたから、わざと私をそんな風にあつかってくれたものとも思われますし、また自分で言うとおり、本当に私をゆったりしていると見ていたのかもしれません。

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奥さんは心得のある人でしたから、わざと私をそんなふうに取り扱ってくれたものとも思われますし、また自分で公言するごとく、実際私を鷹揚おうようだと観察していたのかも知れません。

私のこせこせした様子は頭の中のことで、それほど外へ出なかったようにも考えられますから、あるいは奥さんの方がだまされていたのかも分かりません。

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私のこせつき方は頭の中の現象で、それほど外へ出なかったようにも考えられますから、あるいは奥さんの方で胡魔化ごまかされていたのかもわかりません。

私の心が静まるとともに、私はだんだん家族の人と近づいて来ました。

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私の心が静まると共に、私は段々家族のものと接近して来ました。

奥さんともお嬢さんとも、冗談を言うようになりました。

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奥さんともお嬢さんとも笑談じょうだんをいうようになりました。

お茶を入れたからと言って、向こうの部屋へ呼ばれる日もありました。

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茶を入れたからといって向うのへやへ呼ばれる日もありました。

また私の方でお菓子を買って来て、二人をこちらへ招いたりする晩もありました。

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また私の方で菓子を買って来て、二人をこっちへ招いたりする晩もありました。

私は急に、つき合いの範囲が増えたように感じました。

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私は急に交際の区域がえたように感じました。

そのために大切な勉強の時間をつぶされることも、何度となくありました。

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それがために大切な勉強の時間をつぶされる事も何度となくありました。

不思議にも、そのじゃまが私にはまるで気にならなかったのです。

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不思議にも、その妨害が私には一向いっこう邪魔にならなかったのです。

奥さんは、もちろん暇な人でした。

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奥さんはもとより閑人ひまじんでした。

お嬢さんは学校へ行く上に花だの琴だのを習っているんだから、さぞいそがしかろうと思うと、それがまた思いがけないもので、いくらでも時間に余裕を持っているように見えました。

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お嬢さんは学校へ行く上に、花だの琴だのを習っているんだから、定めて忙しかろうと思うと、それがまた案外なもので、いくらでも時間に余裕をもっているように見えました。

それで三人は顔さえ見るといっしょに集まって、世間話をしながら遊んだのです。

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それで三人は顔さえ見るといっしょに集まって、世間話をしながら遊んだのです。

私を呼びに来るのは、たいていお嬢さんでした。

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私を呼びに来るのは、大抵お嬢さんでした。

お嬢さんは縁側を直角に曲がって私の部屋の前に立つこともありますし、茶の間を抜けて、となりの部屋のふすまのかげから姿を見せることもありました。

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お嬢さんは縁側を直角に曲って、私のへやの前に立つ事もありますし、茶の間を抜けて、次の室のふすまの影から姿を見せる事もありました。

お嬢さんはそこへ来て、ちょっと止まります。

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お嬢さんは、そこへ来てちょっとまります。

それから決まって私の名を呼んで、「ご勉強」

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それからきっと私の名を呼んで、「ご勉強?」

と聞きます。

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と聞きます。

私はたいてい難しい本を机の前に開いてそれを見つめていましたから、そばで見たらさぞ勉強家のように見えたのでしょう。

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私は大抵むずかしい書物を机の前に開けて、それを見詰めていましたから、はたで見たらさぞ勉強家のように見えたのでしょう。

しかし実際を言うと、それほど熱心に本を調べてはいなかったのです。

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しかし実際をいうと、それほど熱心に書物を研究してはいなかったのです。

ページの上に目はつけていながら、お嬢さんが呼びに来るのを待っているくらいのものでした。

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ページの上に眼は着けていながら、お嬢さんの呼びに来るのを待っているくらいなものでした。

待っていて来ないと、仕方がないから私の方で立ち上がるのです。

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待っていて来ないと、仕方がないから私の方で立ち上がるのです。

そうして向こうの部屋の前へ行って、こちらから「ご勉強ですか」

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そうして向うの室の前へ行って、こっちから「ご勉強ですか」

と聞くのです。

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と聞くのです。

お嬢さんの部屋は、茶の間と続いた六畳でした。

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お嬢さんの部屋へやは茶の間と続いた六畳でした。

奥さんはその茶の間にいることもあるし、またお嬢さんの部屋にいることもありました。

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奥さんはその茶の間にいる事もあるし、またお嬢さんの部屋にいる事もありました。

つまりこの二つの部屋は仕切りがあってもないと同じことで、親子二人が行ったり来たりして、どちらつかずに使っていたのです。

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つまりこの二つの部屋は仕切しきりがあっても、ないと同じ事で、親子二人がったり来たりして、どっち付かずに占領していたのです。

私が外から声をかけると、「お入りなさい」

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私が外から声を掛けると、「おはいんなさい」

と答えるのは、決まって奥さんでした。

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と答えるのはきっと奥さんでした。

お嬢さんはそこにいても、めったに返事をしたことがありませんでした。

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お嬢さんはそこにいても滅多めったに返事をした事がありませんでした。

ときたま、お嬢さん一人で用があって私の部屋へ入ったついでに、そこにすわって話しこむような場合も、そのうちに出て来ました。

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時たまお嬢さん一人で、用があって私の室へはいったついでに、そこにすわって話し込むような場合もそのうちに出て来ました。

そういうときには、私の心が妙に不安におそわれて来るのです。

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そういう時には、私の心が妙に不安におかされて来るのです。

そうして、若い女とただ向かい合ってすわっているのが不安なのだとばかりは思えませんでした。

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そうして若い女とただ差向さしむかいで坐っているのが不安なのだとばかりは思えませんでした。

私は何だか、そわそわし出すのです。

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私は何だかそわそわし出すのです。

自分で自分を裏切るような不自然な態度が、私を苦しめるのです。

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自分で自分を裏切るような不自然な態度が私を苦しめるのです。

しかし相手の方は、かえって平気でした。

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しかし相手の方はかえって平気でした。

これが琴を練習するのに声さえろくに出せなかったあの女かしらと疑われるくらい、はずかしがらないのです。

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これが琴をさらうのに声さえろくに出せなかったあの女かしらと疑われるくらい、恥ずかしがらないのです。

あまり長くなるので茶の間から母に呼ばれても、「はい」

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あまり長くなるので、茶の間から母に呼ばれても、「はい」

と返事をするだけで、なかなか腰を上げないことさえありました。

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と返事をするだけで、容易に腰を上げない事さえありました。

それでいて、お嬢さんは決して子どもではなかったのです。

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それでいてお嬢さんは決して子供ではなかったのです。

私の目には、よくそれが分かっていました。

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私の眼にはよくそれがわかっていました。

よく分かるように振る舞って見せるあとさえ、はっきりしていました。

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よく解るように振舞って見せる痕迹こんせきさえ明らかでした。

十四

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十四

「私はお嬢さんの立ったあとで、ほっと一息するのです。それと同時に、物足りないような、また済まないような気持ちになるのです。私は女らしかったのかもしれません。今の青年のあなた方から見たら、なおそう見えるでしょう。しかしそのころの私たちは、たいていそんなものだったのです。

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「私はお嬢さんの立ったあとで、ほっと一息ひといきするのです。それと同時に、物足りないようなまた済まないような気持になるのです。私は女らしかったのかも知れません。今の青年のあなたがたから見たらなおそう見えるでしょう。しかしそのころの私たちは大抵そんなものだったのです。

奥さんは、めったに外出したことがありませんでした。

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奥さんは滅多めったに外出した事がありませんでした。

たまに家を留守にするときでも、お嬢さんと私を二人きり残して行くようなことはなかったのです。

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たまにうちを留守にする時でも、お嬢さんと私を二人ぎり残して行くような事はなかったのです。

それがまた偶然なのかわざとなのか、私には分からないのです。

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それがまた偶然なのか、故意なのか、私には解らないのです。

私の口から言うのはへんですが、奥さんの様子をよく見ていると、何だか自分の娘と私とを近づけたがっているらしくも見えるのです。

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私の口からいうのは変ですが、奥さんの様子をく観察していると、何だか自分の娘と私とを接近させたがっているらしくも見えるのです。

それでいて、ある場合には私に対してそれとなく用心するところもあるようなのですから、初めてこんな場合に出会った私は、時々気持ちを悪くしました。

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それでいて、る場合には、私に対してあんに警戒するところもあるようなのですから、始めてこんな場合に出会った私は、時々心持をわるくしました。

私は奥さんの態度をどちらかに決めてもらいたかったのです。

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私は奥さんの態度をどっちかに片付かたづけてもらいたかったのです。

頭の働きから言えば、それははっきりした食いちがいに違いなかったのです。

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頭の働きからいえば、それが明らかな矛盾に違いなかったのです。

しかしおじにだまされた記憶のまだ新しい私は、もう一歩踏みこんだ疑いを持たずにはいられませんでした。

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しかし叔父おじあざむかれた記憶のまだ新しい私は、もう一歩踏み込んだ疑いをさしはさまずにはいられませんでした。

私は奥さんのこの態度のどちらかが本当で、どちらかが偽りだろうと考えました。

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私は奥さんのこの態度のどっちかが本当で、どっちかがいつわりだろうと推定しました。

そうして、判断に迷いました。

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そうして判断に迷いました。

ただ判断に迷うばかりでなく、なぜそんな妙なことをするのか、その意味が私にはのみこめなかったのです。

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ただ判断に迷うばかりでなく、何でそんな妙な事をするかその意味が私にはみ込めなかったのです。

理由を考え出そうとしても考え出せない私は、罪を女という一字におしつけて我慢したこともありました。

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理由わけを考え出そうとしても、考え出せない私は、罪を女という一字になすり付けて我慢した事もありました。

つまり女だからああなのだ、女というものはどうせおろかなものだ。

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必竟ひっきょう女だからああなのだ、女というものはどうせなものだ。

私の考えは、行き詰まればいつでもここへ落ちて来ました。

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私の考えは行きまればいつでもここへ落ちて来ました。

それほど女を見くびっていた私が、またどうしてもお嬢さんを見くびることができなかったのです。

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それほど女を見縊みくびっていた私が、またどうしてもお嬢さんを見縊る事ができなかったのです。

私の理屈は、その人の前ではまったく役に立たないほど動きませんでした。

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私の理屈はその人の前に全く用をさないほど動きませんでした。

私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛を持っていたのです。

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私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛をもっていたのです。

私が宗教にだけ使うこの言葉を若い女に当てはめるのを見て、あなたはへんに思うかもしれませんが、私は今でもかたく信じているのです。

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私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、あなたは変に思うかも知れませんが、私は今でも固く信じているのです。

本当の愛は宗教の心とそう違ったものでないということを、かたく信じているのです。

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本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じているのです。

私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような気持ちがしました。

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私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしました。

お嬢さんのことを考えると、気高い気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。

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お嬢さんの事を考えると、気高けだかい気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。

もし愛という不思議なものに両はしがあって、その高いはしには神聖な感じが働き、低いはしには体の欲が動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い先をつかまえたものです。

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もし愛という不可思議なものに両端りょうはじがあって、その高いはじには神聖な感じが働いて、低い端には性欲せいよくが動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点をつらまえたものです。

私はもちろん、人間として肉体を離れることのできない身でした。

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私はもとより人間として肉を離れる事のできない身体からだでした。

けれどもお嬢さんを見る私の目や、お嬢さんを考える私の心は、まったく体のにおいを持っていませんでした。

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けれどもお嬢さんを見る私の眼や、お嬢さんを考える私の心は、全く肉のにおいを帯びていませんでした。

私は母に対して反感を持つとともに、子に対して恋を深めて行ったのですから、三人の関係は下宿した初めよりだんだん複雑になって来ました。

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私は母に対して反感をいだくと共に、子に対して恋愛の度をして行ったのですから、三人の関係は、下宿した始めよりは段々複雑になって来ました。

もっともその変化はほとんど内側のことで、外へは現れて来なかったのです。

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もっともその変化はほとんど内面的で外へは現れて来なかったのです。

そのうち私は、あるふとしたきっかけから、今まで奥さんを誤解していたのではなかろうかという気になりました。

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そのうち私はあるひょっとした機会から、今まで奥さんを誤解していたのではなかろうかという気になりました。

奥さんの私に対する食いちがった態度が、どちらも偽りではないのだろうと考え直して来たのです。

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奥さんの私に対する矛盾した態度が、どっちも偽りではないのだろうと考え直して来たのです。

その上、それが代わり番こに奥さんの心を動かすのではなく、いつでも両方が同時に奥さんの胸にあるのだと思うようになったのです。

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その上、それがたがちがいに奥さんの心を支配するのでなくって、いつでも両方が同時に奥さんの胸に存在しているのだと思うようになったのです。

つまり奥さんが、できるだけお嬢さんを私に近づけようとしていながら同時に私に用心しているのは食いちがいのようだけれども、その用心をするときに片方の気持ちを忘れるのでもひるがえすのでも何でもなく、やはり相変わらず二人を近づけたがっていたのだと見たのです。

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つまり奥さんができるだけお嬢さんを私に接近させようとしていながら、同時に私に警戒を加えているのは矛盾のようだけれども、その警戒を加える時に、片方の態度を忘れるのでも翻すのでも何でもなく、やはり依然として二人を接近させたがっていたのだと観察したのです。

ただ自分が正しいと認める程度以上に二人がくっつくのを嫌うのだと考えたのです。

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ただ自分が正当と認める程度以上に、二人が密着するのをむのだと解釈したのです。

お嬢さんに対して体の方から近づく気の芽生えなかった私は、そのときいらない心配だと思いました。

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お嬢さんに対して、肉の方面から近づく念のきざさなかった私は、その時らぬ心配だと思いました。

しかし奥さんを悪く思う気は、それからなくなりました。

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しかし奥さんを悪く思う気はそれからなくなりました。

十五

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十五

「私は奥さんの態度をいろいろ合わせてみて、私がこの家で十分信用されていることをたしかめました。しかもその信用は初めて会ったときからあったのだという証拠さえ見つけました。人を疑い始めた私の胸には、この発見が少し不思議なくらいに響いたのです。私は、男に比べると女の方がそれだけ感じ取る力があるのだろうと思いました。同時に、女が男のためにだまされるのもここにあるのではなかろうかと思いました。奥さんをそう見る私が、お嬢さんに対して同じような感じ取る力を強く働かせていたのだから、今考えるとおかしいのです。私は人を信じないと心に誓いながら、まったくお嬢さんを信じていたのですから。それでいて、私を信じている奥さんを不思議に思ったのですから。

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「私は奥さんの態度を色々綜合そうごうして見て、私がここのうちで充分信用されている事を確かめました。しかもその信用は初対面の時からあったのだという証拠さえ発見しました。ひとうたぐり始めた私の胸には、この発見が少し奇異なくらいに響いたのです。私は男に比べると女の方がそれだけ直覚に富んでいるのだろうと思いました。同時に、女が男のために、だまされるのもここにあるのではなかろうかと思いました。奥さんをそう観察する私が、お嬢さんに対して同じような直覚を強く働かせていたのだから、今考えるとおかしいのです。私はひとを信じないと心に誓いながら、絶対にお嬢さんを信じていたのですから。それでいて、私を信じている奥さんを奇異に思ったのですから。

私は故郷のことについて、あまり多くを語らなかったのです。

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私は郷里の事について余り多くを語らなかったのです。

特に今度の出来事については、何も言わなかったのです。

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ことに今度の事件については何もいわなかったのです。

私はそれを思いうかべただけで、もう一種の不愉快を感じました。

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私はそれを念頭に浮べてさえすでに一種の不愉快を感じました。

私はなるべく、奥さんの方の話だけを聞こうと努めました。

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私はなるべく奥さんの方の話だけを聞こうとつとめました。

ところがそれでは、向こうが承知しません。

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ところがそれでは向うが承知しません。

何かにつけて、私の国もとの事情を知りたがるのです。

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何かに付けて、私の国元の事情を知りたがるのです。

私はとうとう、何もかも話してしまいました。

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私はとうとう何もかも話してしまいました。

私は二度と国へは帰らない。

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私は二度と国へは帰らない。

帰っても何もない、あるのはただ父と母の墓ばかりだと告げたとき、奥さんは大変心を動かしたらしい様子を見せました。

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帰っても何にもない、あるのはただ父と母の墓ばかりだと告げた時、奥さんは大変感動したらしい様子を見せました。

お嬢さんは、泣きました。

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お嬢さんは泣きました。

私は話してよかったと思いました。

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私は話してい事をしたと思いました。

私は、うれしかったのです。

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私はうれしかったのです。

私のすべてを聞いた奥さんは、やはり自分の感じたとおりだったと言わんばかりの顔をし出しました。

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私のすべてを聞いた奥さんは、はたして自分の直覚が的中したといわないばかりの顔をし出しました。

それからは私を、自分の親せきに当たる若い者か何かをあつかうように接するのです。

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それからは私を自分の親戚みよりに当る若いものか何かを取り扱うように待遇するのです。

私は、腹も立ちませんでした。

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私は腹も立ちませんでした。

むしろ、楽しく感じたくらいです。

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むしろ愉快に感じたくらいです。

ところがそのうちに、私の疑い深さがまた起こって来ました。

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ところがそのうちに私の猜疑心さいぎしんがまた起って来ました。

私が奥さんを疑い始めたのは、ごく小さなことからでした。

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私が奥さんをうたぐり始めたのは、ごく些細ささいな事からでした。

しかしその小さなことを重ねて行くうちに、疑いはだんだん根を張って来ます。

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しかしその些細な事を重ねて行くうちに、疑惑は段々と根を張って来ます。

私はどういう拍子か、ふと奥さんがおじと同じような考えでお嬢さんを私に近づけようと努めているのではないかと考え出したのです。

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私はどういう拍子かふと奥さんが、叔父おじと同じような意味で、お嬢さんを私に接近させようとつとめるのではないかと考え出したのです。

すると今まで親切に見えた人が、急にずるい策略家として私の目に映って来たのです。

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すると今まで親切に見えた人が、急に狡猾こうかつな策略家として私の眼に映じて来たのです。

私は、にがにがしくくちびるをかみました。

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私は苦々にがにがしい唇をみました。

奥さんは最初から、人が少なくて寂しいからお客を置いて世話をするのだと言っていました。

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奥さんは最初から、無人ぶにんさむしいから、客を置いて世話をするのだと公言していました。

私も、それを嘘とは思いませんでした。

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私もそれをうそとは思いませんでした。

親しくなっていろいろ打ち明け話を聞いたあとでも、そこに間違いはなかったように思われます。

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懇意になって色々打ち明け話を聞いたあとでも、そこに間違まちがいはなかったように思われます。

しかし全体のお金の様子は、大してゆたかだというほどではありませんでした。

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しかし一般の経済状態は大してゆたかだというほどではありませんでした。

損得の問題から考えてみて、私と特別な関係をつけるのは向こうにとって決して損ではなかったのです。

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利害問題から考えてみて、私と特殊の関係をつけるのは、先方に取って決して損ではなかったのです。

私はまた、用心しました。

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私はまた警戒を加えました。

けれども娘に対して前に言ったくらいの強い愛を持っている私が、その母に対していくら用心したって何になるでしょう。

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けれども娘に対して前いったくらいの強い愛をもっている私が、その母に対していくら警戒を加えたって何になるでしょう。

私は一人で、自分をあざ笑いました。

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私は一人で自分を嘲笑ちょうしょうしました。

馬鹿だなと言って、自分をののしったこともあります。

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馬鹿だなといって、自分をののしった事もあります。

しかしそれだけの食いちがいなら、いくら馬鹿でも私は大した苦しみも感じずに済んだのです。

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しかしそれだけの矛盾ならいくら馬鹿でも私は大した苦痛も感ぜずに済んだのです。

私の悩みは、奥さんと同じようにお嬢さんも策略家ではなかろうかという疑いに出会って、初めて起こるのです。

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私の煩悶はんもんは、奥さんと同じようにお嬢さんも策略家ではなかろうかという疑問に会って始めて起るのです。

二人が私の後ろで打ち合わせをした上ですべてをやっているのだろうと思うと、私は急に苦しくてたまらなくなるのです。

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二人が私の背後で打ち合せをした上、万事をやっているのだろうと思うと、私は急に苦しくってたまらなくなるのです。

不愉快なのではありません。

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不愉快なのではありません。

もうどうしようもないような、行き詰まった気持ちになるのです。

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絶体絶命のような行き詰まった心持になるのです。

それでいて私は、一方でお嬢さんをかたく信じて疑わなかったのです。

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それでいて私は、一方にお嬢さんを固く信じて疑わなかったのです。

だから私は信じる気持ちと迷いの間に立って、少しも動くことができなくなってしまいました。

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だから私は信念と迷いの途中に立って、少しも動く事ができなくなってしまいました。

私にはどちらも想像であり、またどちらも本当のことだったのです。

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私にはどっちも想像であり、またどっちも真実であったのです。

十六

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十六

「私は相変わらず、学校へ出ていました。しかし教だんに立つ人の講義が、遠くの方で聞こえるような気持ちがしました。勉強も、そのとおりでした。目の中へ入る活字は、心の底までしみ渡らないうちに煙のように消えて行くのです。私はその上、無口になりました。それを二、三の友達が誤解して、深く考えこんでいるかのようにほかの友達に伝えました。私はこの誤解を解こうとはしませんでした。都合のいい仮面を人が貸してくれたのを、かえって幸いとして喜びました。それでも時々は気が済まなかったのでしょう、急に焦って動き回り、彼らを驚かせたこともあります。

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「私は相変らず学校へ出席していました。しかし教壇に立つ人の講義が、遠くの方で聞こえるような心持がしました。勉強もその通りでした。眼の中へはいる活字は心の底までみ渡らないうちにけむのごとく消えて行くのです。私はその上無口になりました。それを二、三の友達が誤解して、冥想めいそうふけってでもいるかのように、の友達に伝えました。私はこの誤解を解こうとはしませんでした。都合のい仮面を人が貸してくれたのを、かえって仕合しあわせとして喜びました。それでも時々は気が済まなかったのでしょう、発作的に焦燥はしゃまわって彼らを驚かした事もあります。

私の宿は、人の出入りの少ない家でした。

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私の宿は人出入ひとでいりの少ないうちでした。

親類も、多くはないようでした。

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親類も多くはないようでした。

お嬢さんの学校友達がときたま遊びに来ることはありましたが、とても小さな声で、いるのかいないのか分からないような話をして帰ってしまうのが常でした。

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お嬢さんの学校友達がときたま遊びに来る事はありましたが、きわめて小さな声で、いるのだかいないのだか分らないような話をして帰ってしまうのが常でした。

それが私に対する遠慮からだとは、いくら私でも気がつきませんでした。

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それが私に対する遠慮からだとは、いかな私にも気が付きませんでした。

私の所へたずねて来る者は大した乱暴者でもありませんでしたけれども、家の人に気をつかうほどの男は一人もいなかったのですから。

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私の所へ訪ねて来るものは、大した乱暴者でもありませんでしたけれども、うちの人に気兼きがねをするほどな男は一人もなかったのですから。

そんなところになると、下宿人の私は主人のようなもので、肝心のお嬢さんがかえって居候の立場にいたのと同じことです。

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そんなところになると、下宿人の私は主人あるじのようなもので、肝心かんじんのお嬢さんがかえって食客いそうろう位地いちにいたと同じ事です。

しかしこれはただ思い出したついでに書いただけで、実はどうでも構わない点です。

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しかしこれはただ思い出したついでに書いただけで、実はどうでも構わない点です。

ただそこに、どうでもよくないことが一つあったのです。

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ただそこにどうでもよくない事が一つあったのです。

茶の間か、さもなければお嬢さんの部屋で、突然男の声が聞こえるのです。

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茶の間か、さもなければお嬢さんのへやで、突然男の声が聞こえるのです。

その声がまた私の客と違って、とても低いのです。

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その声がまた私の客と違って、すこぶる低いのです。

だから何を話しているのか、まるで分からないのです。

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だから何を話しているのかまるで分らないのです。

そうして分からなければ分からないほど、私の神経に一種の高ぶりを与えるのです。

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そうして分らなければ分らないほど、私の神経に一種の昂奮こうふんを与えるのです。

私はすわっていて、へんにいらいらし出します。

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私はすわっていて変にいらいらし出します。

私は、あれは親類なのだろうか、それともただの知り合いなのだろうかと、まず考えてみるのです。

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私はあれは親類なのだろうか、それともただの知り合いなのだろうかとまず考えて見るのです。

それから若い男だろうか、年配の人だろうかと考えてみるのです。

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それから若い男だろうか年輩の人だろうかと思案してみるのです。

すわっていて、そんなことの分かるはずがありません。

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坐っていてそんな事の知れようはずがありません。

そうかといって、立って行って障子を開けてみる訳にはなおさら行きません。

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そうかといって、って行って障子しょうじを開けて見る訳にはなおいきません。

私の神経はふるえるというよりも、大きな波を打って私を苦しめます。

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私の神経は震えるというよりも、大きな波動を打って私を苦しめます。

私は客の帰ったあとで、決まって忘れずにその人の名を聞きました。

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私は客の帰った後で、きっと忘れずにその人の名を聞きました。

お嬢さんや奥さんの返事は、またとても簡単でした。

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お嬢さんや奥さんの返事は、また極めて簡単でした。

私は物足りない顔を二人に見せながら、満足するまで問いつめる勇気を持っていなかったのです。

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私は物足りない顔を二人に見せながら、物足りるまで追窮ついきゅうする勇気をもっていなかったのです。

そうする権利は、もちろん持っていなかったのでしょう。

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権利は無論もっていなかったのでしょう。

私は自分のねうちを大事にしなければならないという教育から来たほこりと、今そのほこりを裏切っている物欲しそうな顔つきとを、同時に彼らの前に見せるのです。

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私は自分の品格を重んじなければならないという教育から来た自尊心と、現にその自尊心を裏切うらぎりしている物欲しそうな顔付かおつきとを同時に彼らの前に示すのです。

彼らは、笑いました。

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彼らは笑いました。

それがあざけりの意味ではなく好意から来たものか、また好意らしく見せるつもりなのか、私はその場で考える余裕を見つけられないほど落ち着きを失ってしまうのです。

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それが嘲笑ちょうしょうの意味でなくって、好意から来たものか、また好意らしく見せるつもりなのか、私は即坐に解釈の余地を見出みいだし得ないほど落付おちつきを失ってしまうのです。

そうしてことが済んだあとで、いつまでも、馬鹿にされたのだ、馬鹿にされたんじゃなかろうかと、何度も心のうちでくり返すのです。

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そうして事が済んだ後で、いつまでも、馬鹿にされたのだ、馬鹿にされたんじゃなかろうかと、何遍なんべんも心のうちで繰り返すのです。

私は、自由な身でした。

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私は自由な身体からだでした。

たとえ学校を途中でやめようが、またどこへ行ってどう暮らそうが、あるいはどこのだれと結婚しようが、だれとも相談する必要のない立場に立っていました。

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たとい学校を中途でめようが、またどこへ行ってどう暮らそうが、あるいはどこの何者と結婚しようが、だれとも相談する必要のない位地に立っていました。

私は思い切って奥さんに、お嬢さんをもらい受ける話をしてみようかという決心をしたことが、それまでに何度となくありました。

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私は思い切って奥さんにお嬢さんをもらい受ける話をして見ようかという決心をした事がそれまでに何度となくありました。

けれどもそのたびに私はためらって、口へはとうとう出さずに終わったのです。

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けれどもそのたびごとに私は躊躇ちゅうちょして、口へはとうとう出さずにしまったのです。

ことわられるのが恐ろしいからではありません。

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断られるのが恐ろしいからではありません。

もしことわられたら私の運命がどう変わるか分かりませんけれども、その代わり今までとは方角の違った場所に立って新しい世の中を見わたす都合も生まれて来るのですから、そのくらいの勇気は出せば出せたのです。

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もし断られたら、私の運命がどう変化するか分りませんけれども、その代り今までとは方角の違った場所に立って、新しい世の中を見渡す便宜も生じて来るのですから、そのくらいの勇気は出せば出せたのです。

しかし私は、うまく引き寄せられるのがいやでした。

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しかし私はおびき寄せられるのがいやでした。

人の手に乗るのは、何よりも腹立たしかったのです。

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ひとの手に乗るのは何よりも業腹ごうはらでした。

おじにだまされた私は、これから先どんなことがあっても人にはだまされまいと決心したのです。

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叔父おじだまされた私は、これから先どんな事があっても、人には欺されまいと決心したのです。

十七

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十七

「私が本ばかり買うのを見て、奥さんは少し着物をこしらえろと言いました。私は実際、田舎で織った木綿のものしか持っていなかったのです。そのころの学生は、絹の入った着物を肌に着けませんでした。私の友達に横浜の商人か何かで、家はなかなか派手に暮らしている者がいましたが、そこへあるとき、上等な絹の胴着(どうぎ。着物の下に着るもの)が届いたことがあります。するとみんながそれを見て笑いました。その男ははずかしがっていろいろ言いわけしましたが、せっかくの胴着を行李の底へ放りこんで使わないのです。それをまた大勢が寄ってたかって、わざと着せました。すると運悪くその胴着にしらみがつきました。友達はちょうど幸いとでも思ったのでしょう、評判の胴着をぐるぐると丸めて、散歩に出たついでに根津の大きなどぶの中へ捨ててしまいました。そのときいっしょに歩いていた私は、橋の上に立って笑いながら友達のすることをながめていましたが、私の胸のどこにも、もったいないという気は少しも起こりませんでした。

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「私が書物ばかり買うのを見て、奥さんは少し着物をこしらえろといいました。私は実際田舎いなかで織った木綿もめんものしかもっていなかったのです。そのころの学生はいとはいった着物を肌に着けませんでした。私の友達に横浜よこはま商人あきんどなにかで、うちはなかなか派出はでに暮しているものがありましたが、そこへある時羽二重はぶたえ胴着どうぎが配達で届いた事があります。するとみんながそれを見て笑いました。その男は恥ずかしがって色々弁解しましたが、折角せっかくの胴着を行李こうりの底へほうり込んで利用しないのです。それをまた大勢が寄ってたかって、わざと着せました。すると運悪くその胴着にしらみがたかりました。友達はちょうどさいわいとでも思ったのでしょう、評判の胴着をぐるぐると丸めて、散歩に出たついでに、根津ねづの大きな泥溝どぶの中へててしまいました。その時いっしょに歩いていた私は、橋の上に立って笑いながら友達の所作しょさながめていましたが、私の胸のどこにも勿体もったいないという気は少しも起りませんでした。

そのころから見ると、私もだいぶ大人になっていました。

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その頃から見ると私も大分だいぶ大人になっていました。

けれどもまだ、自分でよそ行きの着物をこしらえるというほどの考えは出なかったのです。

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けれどもまだ自分で余所行よそゆきの着物を拵えるというほどの分別ふんべつは出なかったのです。

私は、卒業してひげを生やす時代が来なければ服そうの心配などはしなくてよいものだという、へんな考えを持っていたのです。

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私は卒業してひげを生やす時代が来なければ、服装の心配などはするに及ばないものだという変な考えをもっていたのです。

それで奥さんに、本は要るが着物は要らないと言いました。

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それで奥さんに書物はるが着物は要らないといいました。

奥さんは、私の買う本の量を知っていました。

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奥さんは私の買う書物の分量を知っていました。

買った本をみんな読むのかと聞くのです。

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買った本をみんな読むのかと聞くのです。

私の買うものの中には辞書もありますが、当然目を通すべきなのにページさえ切っていないものも多少あったのですから、私は返事に困りました。

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私の買うもののうちには字引きもありますが、当然眼を通すべきはずでありながら、ページさえ切ってないのも多少あったのですから、私は返事に窮しました。

私は、どうせ要らないものを買うなら本でも服でも同じだということに気がつきました。

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私はどうせ要らないものを買うなら、書物でも衣服でも同じだという事に気が付きました。

その上、私はいろいろ世話になるという言いわけのもとに、お嬢さんの気に入るような帯か反物を買ってやりたかったのです。

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その上私は色々世話になるという口実のもとに、お嬢さんの気に入るような帯か反物たんものを買ってやりたかったのです。

それですべてを、奥さんに頼みました。

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それで万事を奥さんに依頼しました。

奥さんは、自分一人で行くとは言いません。

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奥さんは自分一人で行くとはいいません。

私にもいっしょに来いと言うのです。

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私にもいっしょに来いと命令するのです。

お嬢さんも行かなくてはいけないと言うのです。

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お嬢さんも行かなくてはいけないというのです。

今と違った空気の中で育てられた私たちは、学生の身分としてあまり若い女などといっしょに歩き回る習慣を持っていなかったものです。

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今と違った空気の中に育てられた私どもは、学生の身分として、あまり若い女などといっしょに歩きまわる習慣をもっていなかったものです。

そのころの私は今よりもまだ習慣にしばられていましたから、多少ためらいましたが、思い切って出かけました。

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その頃の私は今よりもまだ習慣の奴隷でしたから、多少躊躇ちゅうちょしましたが、思い切って出掛けました。

お嬢さんは、たいそう着かざっていました。

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お嬢さんは大層着飾っていました。

もともと色が白いくせに、おしろいをたっぷりぬったものだから、なお目立ちます。

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地体じたいが色の白いくせに、白粉おしろいを豊富に塗ったものだからなお目立ちます。

道行く人が、じろじろ見て行くのです。

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往来の人がじろじろ見てゆくのです。

そうしてお嬢さんを見た人は決まってその目を移して私の顔を見るのだから、へんなものでした。

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そうしてお嬢さんを見たものはきっとその視線をひるがえして、私の顔を見るのだから、変なものでした。

三人は日本橋へ行って、買いたいものを買いました。

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三人は日本橋にほんばしへ行って買いたいものを買いました。

買う間にもいろいろ気が変わるので、思ったより時間がかかりました。

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買う間にも色々気が変るので、思ったよりひまがかかりました。

奥さんはわざわざ私の名を呼んで、どうだろうと相談をするのです。

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奥さんはわざわざ私の名を呼んでどうだろうと相談をするのです。

時々反物をお嬢さんの肩から胸へ縦に当てておいて、私に二、三歩下がって見てくれと言うのです。

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時々反物たんものをお嬢さんの肩から胸へたててておいて、私に二、三歩遠退とおのいて見てくれろというのです。

私はそのたびに、それは駄目だとか、それはよく似合うとか、とにかく一人前の口をききました。

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私はそのたびごとに、それは駄目だめだとか、それはよく似合うとか、とにかく一人前の口を聞きました。

こんなことで時間がかかって、帰りは夕飯の時こくになりました。

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こんな事で時間がかかって帰りは夕飯ゆうめしの時刻になりました。

奥さんは私に対するお礼に何かごちそうすると言って、木原店という寄席のある狭い横町へ私を連れこみました。

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奥さんは私に対するお礼に何かご馳走ちそうするといって、木原店きはらだなという寄席よせのある狭い横丁よこちょうへ私を連れ込みました。

横町も狭いが、食事をさせる店も狭いものでした。

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横丁も狭いが、飯を食わせるうちも狭いものでした。

この辺の地理をまるで知らない私は、奥さんの物知りぶりに驚いたくらいです。

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このへんの地理を一向いっこう心得ない私は、奥さんの知識に驚いたくらいです。

わたしたちは夜になって、家へ帰りました。

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我々はってうちへ帰りました。

その翌日は日曜でしたから、私は一日じゅう部屋の中に閉じこもっていました。

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その翌日あくるひは日曜でしたから、私は終日へやうちに閉じこもっていました。

月曜になって学校へ出ると、私は朝から同級生の一人にからかわれました。

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月曜になって、学校へ出ると、私は朝っぱらそうそう級友の一人から調戯からかわれました。

いつ妻をむかえたのかと、わざとらしく聞かれるのです。

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いつさいを迎えたのかといってわざとらしく聞かれるのです。

それから私の妻はとても美人だと言ってほめるのです。

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それから私の細君さいくんは非常に美人だといってめるのです。

私は三人連れで日本橋へ出かけたところを、その男にどこかで見られたものと見えます。

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私は三人づれで日本橋へ出掛けたところを、その男にどこかで見られたものとみえます。

十八

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十八

「私は家へ帰って、奥さんとお嬢さんにその話をしました。奥さんは笑いました。しかしさぞめいわくだろうと言って、私の顔を見ました。私はそのとき、腹の中で、男はこんな風にして女から気を引かれてみられるのかと思いました。奥さんの目は、十分私にそう思わせるだけの意味を持っていたのです。私はそのとき、自分の考えているとおりをまっすぐに打ち明けてしまえばよかったかもしれません。しかし私にはもう、疑いというすっきりしないかたまりがこびりついていました。私は打ち明けようとして、ひょいと止まりました。そうして話の向きを、わざと少しそらしました。

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「私はうちへ帰って奥さんとお嬢さんにその話をしました。奥さんは笑いました。しかし定めて迷惑だろうといって私の顔を見ました。私はその時腹のなかで、男はこんなふうにして、女から気を引いて見られるのかと思いました。奥さんの眼は充分私にそう思わせるだけの意味をもっていたのです。私はその時自分の考えている通りを直截ちょくせつに打ち明けてしまえば好かったかも知れません。しかし私にはもう狐疑こぎという薩張さっぱりしないかたまりがこびり付いていました。私は打ち明けようとして、ひょいとまりました。そうして話の角度を故意に少しらしました。

私は肝心の自分というものを、話の中から引き抜いてしまいました。

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私は肝心かんじんの自分というものを問題の中から引き抜いてしまいました。

そうしてお嬢さんの結婚について、奥さんの心の内を探ったのです。

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そうしてお嬢さんの結婚について、奥さんの意中を探ったのです。

奥さんは、二、三そういう話のないでもないようなことを、はっきり私に告げました。

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奥さんは二、三そういう話のないでもないような事を、明らかに私に告げました。

しかしまだ学校へ出ているくらいで年が若いから、こちらではさほど急がないのだと説明しました。

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しかしまだ学校へ出ているくらいで年が若いから、こちらではさほど急がないのだと説明しました。

奥さんは口には出さないけれども、お嬢さんの器りょうにだいぶ重きを置いているらしく見えました。

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奥さんは口へは出さないけれども、お嬢さんの容色に大分だいぶ重きを置いているらしく見えました。

決めようと思えばいつでも決められるんだから、というようなことさえ口に出しました。

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めようと思えばいつでも極められるんだからというような事さえ口外しました。

それからお嬢さんよりほかに子どもがないのも、簡単に手放したがらない原因になっていました。

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それからお嬢さんよりほかに子供がないのも、容易に手離したがらない源因げんいんになっていました。

嫁にやるか婿を取るか、それにさえ迷っているのではなかろうかと思われるところもありました。

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嫁にやるか、むこを取るか、それにさえ迷っているのではなかろうかと思われるところもありました。

話しているうちに、私はいろいろの知識を奥さんから得たような気がしました。

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話しているうちに、私は色々の知識を奥さんから得たような気がしました。

しかしそのために、私は機会を逃したのと同じ結果になってしまいました。

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しかしそれがために、私は機会をいっしたと同様の結果におちいってしまいました。

私は自分について、ついに一言も口を開くことができませんでした。

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私は自分について、ついに一言いちごんも口を開く事ができませんでした。

私はいいかげんなところで話を切り上げて、自分の部屋へ帰ろうとしました。

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私はい加減なところで話を切り上げて、自分のへやへ帰ろうとしました。

さっきまでそばにいて、あんまりだわとか何とか言って笑ったお嬢さんは、いつの間にか向こうの隅へ行って、背中をこちらへ向けていました。

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さっきまでそばにいて、あんまりだわとか何とかいって笑ったお嬢さんは、いつの間にか向うの隅に行って、背中をこっちへ向けていました。

私は立とうとして振り返ったとき、その後ろ姿を見たのです。

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私は立とうとして振り返った時、その後姿うしろすがたを見たのです。

後ろ姿だけで人間の心が読めるはずはありません。

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後姿だけで人間の心が読めるはずはありません。

お嬢さんがこの問題についてどう考えているか、私には見当がつきませんでした。

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お嬢さんがこの問題についてどう考えているか、私には見当が付きませんでした。

お嬢さんは、戸だなを前にしてすわっていました。

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お嬢さんは戸棚を前にしてすわっていました。

その戸だなの三十センチばかり開いているすき間から、お嬢さんは何か引き出してひざの上へ置いてながめているらしかったのです。

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その戸棚の一しゃくばかりいている隙間すきまから、お嬢さんは何か引き出してひざの上へ置いてながめているらしかったのです。

私の目は、そのすき間のはしに、おととい買った反物を見つけ出しました。

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私の眼はその隙間のはじに、一昨日おととい買った反物たんものを見付け出しました。

私の着物もお嬢さんのも、同じ戸だなの隅に重ねてあったのです。

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私の着物もお嬢さんのも同じ戸棚の隅に重ねてあったのです。

私が何も言わずに席を立ちかけると、奥さんは急に改まった調子になって、私にどう思うかと聞くのです。

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私が何ともいわずに席を立ち掛けると、奥さんは急に改まった調子になって、私にどう思うかと聞くのです。

その聞き方は、何をどう思うのかと問い返さなければ分からないほど不意でした。

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その聞き方は何をどう思うのかと反問しなければわからないほど不意でした。

それが、お嬢さんを早く片づけた方が得だろうかという意味だとはっきりしたとき、私はなるべくゆっくりの方がいいだろうと答えました。

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それがお嬢さんを早く片付けた方が得策だろうかという意味だと判然はっきりした時、私はなるべくゆっくらな方がいいだろうと答えました。

奥さんは、自分もそう思うと言いました。

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奥さんは自分もそう思うといいました。

奥さんとお嬢さんと私の関係がこうなっている所へ、もう一人男が入りこまなければならないことになりました。

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奥さんとお嬢さんと私の関係がこうなっている所へ、もう一人男がり込まなければならない事になりました。

その男がこの家の一員となった結果は、私の運命に大きな変化をもたらしています。

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その男がこの家庭の一員となった結果は、私の運命に非常な変化をきたしています。

もしその男が私の生活の行く道を横切らなかったなら、たぶんこういう長いものをあなたに書き残す必要も起こらなかったでしょう。

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もしその男が私の生活の行路こうろを横切らなかったならば、おそらくこういう長いものをあなたに書き残す必要も起らなかったでしょう。

私はやすやすと、魔物の通る前に立って、その一しゅんの影に一生をうす暗くされて気がつかずにいたのと同じことです。

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私は手もなく、魔の通る前に立って、その瞬間の影に一生を薄暗くされて気が付かずにいたのと同じ事です。

白状すると、私は自分でその男を家へ引っ張って来たのです。

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自白すると、私は自分でその男をうち引張ひっぱって来たのです。

もちろん奥さんの許しも必要ですから、私は最初に何もかも隠さず打ち明けて、奥さんに頼んだのです。

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無論奥さんの許諾きょだくも必要ですから、私は最初何もかも隠さず打ち明けて、奥さんに頼んだのです。

ところが奥さんは、よせと言いました。

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ところが奥さんはせといいました。

私には連れて来なければ済まない事情が十分あるのに、よせという奥さんの方には、筋の通った理屈はまるでなかったのです。

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私には連れて来なければ済まない事情が充分あるのに、止せという奥さんの方には、筋の立った理屈はまるでなかったのです。

だから私は、自分のよいと思うところを押し切ってやってしまいました。

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だから私は私のいと思うところをいて断行してしまいました。

十九

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十九

「私はその友達の名を、ここでKと呼んでおきます。私はこのKと子どものときからの仲よしでした。子どものときからと言えばことわらないでも分かるでしょう、二人には同じ故郷という縁があったのです。Kは真宗(しんしゅう。仏教の宗派の一つ)のお坊さんの子でした。もっとも長男ではありません、次男でした。それである医者の所へ養子にやられたのです。私の生まれた地方は大変本願寺派の力の強い所でしたから、真宗のお坊さんはほかの人に比べると、お金の面で得だったようです。一つ例を挙げると、もしお坊さんに女の子があって、その女の子が年ごろになったとすると、檀家(だんか。その寺を支える家々)の人が相談してどこか合った所へ嫁にやってくれます。もちろん費用はお坊さんのふところから出るのではありません。そんな訳で真宗の寺は、たいてい裕福でした。

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「私はその友達の名をここにKと呼んでおきます。私はこのKと小供こどもの時からの仲好なかよしでした。小供の時からといえば断らないでも解っているでしょう、二人には同郷の縁故があったのです。Kは真宗しんしゅうの坊さんの子でした。もっとも長男ではありません、次男でした。それである医者の所へ養子にやられたのです。私の生れた地方は大変本願寺派ほんがんじはの勢力の強い所でしたから、真宗の坊さんはほかのものに比べると、物質的に割が好かったようです。一例を挙げると、もし坊さんに女の子があって、その女の子が年頃としごろになったとすると、檀家だんかのものが相談して、どこか適当な所へ嫁にやってくれます。無論費用は坊さんのふところから出るのではありません。そんな訳で真宗寺しんしゅうでらは大抵有福ゆうふくでした。

Kの生まれた家も、それなりに暮らしていたのです。

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Kの生れた家も相応に暮らしていたのです。

しかし次男を東京へ勉強に出すほどの余裕があったかどうかは知りません。

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しかし次男を東京へ修業に出すほどの余力があったかどうか知りません。

また勉強に出られる都合があるので養子の話がまとまったものかどうか、そこも私には分かりません。

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また修業に出られる便宜があるので、養子の相談がまとまったものかどうか、そこも私には分りません。

とにかくKは、医者の家へ養子に行ったのです。

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とにかくKは医者のうちへ養子に行ったのです。

それは私たちが、まだ中学にいるときのことでした。

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それは私たちがまだ中学にいる時の事でした。

私は教室で先生が名簿を呼ぶときに、Kの名字が急に変わっていたので驚いたのを、今でも覚えています。

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私は教場きょうじょうで先生が名簿を呼ぶ時に、Kの姓が急に変っていたので驚いたのを今でも記憶しています。

Kの養子先も、かなりな財産家でした。

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Kの養子先もかなりな財産家でした。

Kはそこから学費をもらって、東京へ出て来たのです。

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Kはそこから学資をもらって東京へ出て来たのです。

出て来たのは私といっしょではなかったけれども、東京へ着いてからはすぐ同じ下宿に入りました。

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出て来たのは私といっしょでなかったけれども、東京へ着いてからは、すぐ同じ下宿に入りました。

その時分は一つの部屋によく二人も三人も机を並べて寝起きしたものです。

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その時分は一つへやによく二人も三人も机を並べて寝起ねおきしたものです。

Kと私も、二人で同じ部屋にいました。

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Kと私も二人で同じにいました。

山で生けどりにされた動物が、おりの中で抱き合いながら外をにらむようなものだったでしょう。

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山で生捕いけどられた動物が、おりの中で抱き合いながら、外をにらめるようなものでしたろう。

二人は、東京と東京の人を恐れました。

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二人は東京と東京の人をおそれました。

それでいて六畳の部屋の中では、天下を見下すようなことを言っていたのです。

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それでいて六畳のの中では、天下を睥睨へいげいするような事をいっていたのです。

しかし私たちは、真面目でした。

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しかし我々は真面目まじめでした。

私たちは本当に、偉くなるつもりでいたのです。

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我々は実際偉くなるつもりでいたのです。

特にKは、強かったのです。

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ことにKは強かったのです。

寺に生まれた彼は、いつも精進(しょうじん。よそ見をせず一つのことにはげむこと)という言葉を使いました。

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寺に生れた彼は、常に精進しょうじんという言葉を使いました。

そうして彼の行いや動きはすべて、この精進の一語で言い表せるように私には見えたのです。

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そうして彼の行為動作はことごとくこの精進の一語で形容されるように、私には見えたのです。

私は心のうちで、いつもKをおそれ敬っていました。

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私は心のうちで常にKを畏敬いけいしていました。

Kは中学にいたころから、宗教とか哲学とかいう難しい問題で私を困らせました。

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Kは中学にいた頃から、宗教とか哲学とかいうむずかしい問題で、私を困らせました。

これは彼の父の影響なのか、または自分の生まれた家、つまり寺という一種特別な建物の空気の影響なのか、分かりません。

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これは彼の父の感化なのか、または自分の生れた家、すなわち寺という一種特別な建物に属する空気の影響なのか、わかりません。

ともかく彼は、ふつうのお坊さんよりはるかにお坊さんらしい性格を持っていたように見えます。

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ともかくも彼は普通の坊さんよりははるかに坊さんらしい性格をもっていたように見受けられます。

もともとKの養子先では、彼を医者にするつもりで東京へ出したのです。

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元来Kの養家ようかでは彼を医者にするつもりで東京へ出したのです。

ところが強情な彼は、医者にはならない決心をもって東京へ出て来たのです。

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しかるに頑固な彼は医者にはならない決心をもって、東京へ出て来たのです。

私は彼に向かって、それでは養父母をだますのと同じことではないかと責めました。

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私は彼に向って、それでは養父母をあざむくと同じ事ではないかとなじりました。

大胆な彼は、そうだと答えるのです。

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大胆な彼はそうだと答えるのです。

道のためなら、そのくらいのことをしても構わないと言うのです。

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道のためなら、そのくらいの事をしても構わないというのです。

そのとき彼の使った道という言葉は、たぶん彼にもよく分かっていなかったでしょう。

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その時彼の用いた道という言葉は、おそらく彼にもよく解っていなかったでしょう。

私はもちろん、分かったとは言えません。

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私は無論解ったとはいえません。

しかし年の若い私たちには、このぼんやりした言葉が尊く響いたのです。

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しかし年の若い私たちには、この漠然ばくぜんとした言葉がたっとく響いたのです。

たとえ分からないにしても、気高い気持ちに動かされてそちらの方へ動いて行こうとする意気ごみに、いやしいところの見えるはずはありません。

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よし解らないにしても気高けだかい心持に支配されて、そちらの方へ動いて行こうとする意気組いきぐみいやしいところの見えるはずはありません。

私は、Kの言うことに賛成しました。

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私はKの説に賛成しました。

私の同意がKにとってどのくらい力があったか、それは私も知りません。

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私の同意がKにとってどのくらい有力であったか、それは私も知りません。

一途な彼は、たとえ私がいくら反対しようとも、やはり自分の思いどおりを通したに違いなかろうとは思われます。

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一図いちずな彼は、たとい私がいくら反対しようとも、やはり自分の思い通りを貫いたに違いなかろうとは察せられます。

しかし万一の場合、賛成して後おしした私に多少の責任ができて来るくらいのことは、子どもながら私はよく分かっていたつもりです。

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しかし万一の場合、賛成の声援を与えた私に、多少の責任ができてくるぐらいの事は、子供ながら私はよく承知していたつもりです。

たとえそのときにそれだけの覚悟がないにしても、大人になった目で過去を振り返る必要が起こった場合には、私に割り当てられただけの責任は私の方で負うのが当然になるくらいの強さで、私は賛成したのです。

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よしその時にそれだけの覚悟がないにしても、成人した眼で、過去を振り返る必要が起った場合には、私に割り当てられただけの責任は、私の方で帯びるのが至当しとうになるくらいな語気で私は賛成したのです。

二十

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二十

「Kと私は、同じ科へ入学しました。Kはすました顔をして、養子先から送ってくれるお金で自分の好きな道を歩き出したのです。知れはしないという安心と、知れたって構うものかという度きょうとが、二つともKの心にあったものと見るよりほか仕方がありません。Kは、私よりも平気でした。

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「Kとわたくしは同じ科へ入学しました。Kは澄ました顔をして、養家から送ってくれる金で、自分の好きな道を歩き出したのです。知れはしないという安心と、知れたって構うものかという度胸とが、二つながらKの心にあったものと見るよりほか仕方がありません。Kは私よりも平気でした。

最初の夏休みに、Kは国へ帰りませんでした。

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最初の夏休みにKは国へ帰りませんでした。

駒込のある寺の一室を借りて勉強するのだと言っていました。

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駒込こまごめのある寺の一間ひとまを借りて勉強するのだといっていました。

私が帰って来たのは九月上じゅんでしたが、彼はやはり大観音のそばの汚い寺の中に閉じこもっていました。

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私が帰って来たのは九月上旬でしたが、彼ははたして大観音おおがんのんそばの汚い寺の中にこもっていました。

彼の部屋は本堂のすぐそばの狭い部屋でしたが、彼はそこで自分の思うとおりに勉強ができたのを喜んでいるらしく見えました。

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彼の座敷は本堂のすぐ傍の狭いへやでしたが、彼はそこで自分の思う通りに勉強ができたのを喜んでいるらしく見えました。

私はそのとき、彼の生活がだんだんお坊さんらしくなって行くのを見たように思います。

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私はその時彼の生活の段々坊さんらしくなって行くのを認めたように思います。

彼は手首に、数珠(じゅず。仏を拝むときに使う玉のつながったもの)をかけていました。

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彼は手頸てくび珠数じゅずを懸けていました。

私がそれは何のためだとたずねたら、彼は親指で一つ二つと数える真似をして見せました。

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私がそれは何のためだと尋ねたら、彼は親指で一つ二つと勘定する真似まねをして見せました。

彼はこうして、日に何度も数珠の輪を数えるらしかったのです。

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彼はこうして日に何遍なんべんも珠数の輪を勘定するらしかったのです。

ただしその意味は、私には分かりません。

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ただしその意味は私にはわかりません。

丸い輪になっているものを一つぶずつ数えて行けば、どこまで数えて行っても終わりはありません。

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円い輪になっているものを一粒ずつ数えてゆけば、どこまで数えていっても終局はありません。

Kはどんな所でどんな気持ちがして、繰る手を止めたでしょう。

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Kはどんな所でどんな心持がして、爪繰つまぐる手を留めたでしょう。

つまらないことですが、私はよくそれを思うのです。

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つまらない事ですが、私はよくそれを思うのです。

私はまた、彼の部屋に聖書を見ました。

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私はまた彼の室に聖書を見ました。

私はそれまでにお経の名を度々彼の口から聞いた覚えがありますが、キリスト教については聞かれたことも答えたためしもなかったのですから、ちょっと驚きました。

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私はそれまでにおきょうの名を度々たびたび彼の口から聞いた覚えがありますが、基督教キリストきょうについては、問われた事も答えられたためしもなかったのですから、ちょっと驚きました。

私はその理由を、たずねずにはいられませんでした。

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私はその理由わけたずねずにはいられませんでした。

Kは、理由はないと言いました。

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Kは理由はないといいました。

これほど人のありがたがる本なら、読んでみるのが当たり前だろうとも言いました。

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これほど人の有難ありがたがる書物なら読んでみるのが当り前だろうともいいました。

その上、彼は機会があったら『コーラン』

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その上彼は機会があったら、『コーラン』

も読んでみるつもりだと言いました。

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も読んでみるつもりだといいました。

彼はムハンマドと剣という言葉に、大きなきょうみを持っているようでした。

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彼はモハメッドと剣という言葉に大いなる興味をもっているようでした。

二年目の夏に、彼は国からせかされてようやく帰りました。

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二年目の夏に彼は国から催促を受けてようやく帰りました。

帰っても、専門のことは何も言わなかったものと見えます。

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帰っても専門の事は何にもいわなかったものとみえます。

家でもまた、そこに気がつかなかったのです。

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うちでもまたそこに気が付かなかったのです。

あなたは学校教育を受けた人だからこういう事情をよく分かっているでしょうが、世間は学生の生活だの学校の決まりだのに関して、驚くほど何も知らないものです。

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あなたは学校教育を受けた人だから、こういう消息をよく解しているでしょうが、世間は学生の生活だの、学校の規則だのに関して、驚くべく無知なものです。

私たちに何でもないことが、まるで外へは伝わっていません。

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我々に何でもない事が一向いっこう外部へは通じていません。

私たちはまた比較的内側の空気ばかり吸っているので、学校内のことは細かいことも大きなことも世の中に知れわたっているはずだと思い過ぎるくせがあります。

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我々はまた比較的内部の空気ばかり吸っているので、校内の事は細大ともに世の中に知れ渡っているはずだと思い過ぎる癖があります。

Kはその点にかけて私より世間を知っていたのでしょう、すました顔でまた戻って来ました。

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Kはその点にかけて、私より世間を知っていたのでしょう、澄ました顔でまた戻って来ました。

国を出るときは私もいっしょでしたから、汽車へ乗るとすぐ、どうだったとKに問いました。

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国を立つ時は私もいっしょでしたから、汽車へ乗るやいなやすぐどうだったとKに問いました。

Kは、どうでもなかったと答えたのです。

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Kはどうでもなかったと答えたのです。

三度目の夏は、ちょうど私が永久に父母の墓のある土地を去ろうと決心した年です。

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三度目の夏はちょうど私が永久に父母の墳墓の地を去ろうと決心した年です。

私はそのときKに帰るよう勧めましたが、Kは応じませんでした。

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私はその時Kに帰国を勧めましたが、Kは応じませんでした。

そう毎年家へ帰って何をするのだと言うのです。

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そう毎年まいとしうちへ帰って何をするのだというのです。

彼はまた踏みとどまって勉強するつもりらしかったのです。

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彼はまた踏みとどまって勉強するつもりらしかったのです。

私は仕方なしに、一人で東京を出ることにしました。

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私は仕方なしに一人で東京を立つ事にしました。

私が故郷で暮らしたその二か月間が私の運命にとっていかに波乱に富んだものかは、前に書いたとおりですからくり返しません。

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私の郷里で暮らしたその二カ月間が、私の運命にとって、いかに波瀾はらんに富んだものかは、前に書いた通りですから繰り返しません。

私は不満と重い気分と一人ぼっちの寂しさとを一つ胸に抱いて、九月に入ってまたKに会いました。

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私は不平と幽欝ゆううつと孤独のさびしさとを一つ胸にいだいて、九月にってまたKにいました。

すると彼の運命もまた、私と同じように調子を狂わせていました。

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すると彼の運命もまた私と同様に変調を示していました。

彼は私の知らないうちに養子先へ手紙を出して、こちらから自分の偽りを白状してしまったのです。

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彼は私の知らないうちに、養家先ようかさきへ手紙を出して、こっちから自分のいつわりを白状してしまったのです。

彼は最初から、その覚悟でいたのだそうです。

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彼は最初からその覚悟でいたのだそうです。

今さら仕方がないから、お前の好きなものをやるよりほかに道はあるまいと、向こうに言わせるつもりもあったのでしょうか。

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今更いまさら仕方がないから、お前の好きなものをやるよりほかみちはあるまいと、向うにいわせるつもりもあったのでしょうか。

とにかく大学へ入ってまでも養父母をだまし通す気はなかったらしいのです。

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とにかく大学へ入ってまでも養父母をあざむき通す気はなかったらしいのです。

また、だまそうとしてもそう長く続くものではないと見ぬいたのかもしれません。

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また欺こうとしても、そう長く続くものではないと見抜いたのかも知れません。

二十一

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二十一

「Kの手紙を見た養父は、大変怒りました。親をだますような不届き者に学費を送ることはできないという厳しい返事を、すぐ寄こしたのです。Kはそれを私に見せました。Kはまたそれと前後して実家から受け取った手紙も見せました。これにも前に劣らないほど厳しい叱りの言葉がありました。養子先に対して済まないという義理が加わっているからでもありましょうが、こちらでも一切構わないと書いてありました。Kがこの一件のためにせきを戻してしまうか、それともほかに折り合いの道を考えて相変わらず養子先に留まるか、そこはこれから起こる問題として、差し当たりどうかしなければならないのは、月々に必要な学費でした。

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「Kの手紙を見た養父は大変怒りました。親をだますような不埒ふらちなものに学資を送る事はできないという厳しい返事をすぐ寄こしたのです。Kはそれをわたくしに見せました。Kはまたそれと前後して実家から受け取った書翰しょかんも見せました。これにも前に劣らないほど厳しい詰責きっせきの言葉がありました。養家先ようかさきへ対して済まないという義理が加わっているからでもありましょうが、こっちでも一切いっさい構わないと書いてありました。Kがこの事件のために復籍してしまうか、それともに妥協の道を講じて、依然養家にとどまるか、そこはこれから起る問題として、差し当りどうかしなければならないのは、月々に必要な学資でした。

私はその点について、Kに何か考えがあるのかとたずねました。

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私はその点についてKに何かかんがえがあるのかと尋ねました。

Kは、夜の学校の先生でもするつもりだと答えました。

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Kは夜学校やがっこうの教師でもするつもりだと答えました。

その時分は今に比べると思いのほか世の中がゆるやかでしたから、内職の口はあなたが考えるほど少なくもなかったのです。

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その時分は今に比べると、存外ぞんがい世の中がくつろいでいましたから、内職の口はあなたが考えるほど払底ふっていでもなかったのです。

私はKがそれで十分やって行けるだろうと考えました。

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私はKがそれで充分やって行けるだろうと考えました。

しかし私には、私の責任があります。

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しかし私には私の責任があります。

Kが養子先の望みにそむいて自分の行きたい道を行こうとしたとき、賛成したのは私です。

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Kが養家の希望にそむいて、自分の行きたい道を行こうとした時、賛成したものは私です。

私はそうかといって、手をこまねいている訳に行きません。

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私はそうかといって手をこまぬいでいる訳にゆきません。

私はその場で、お金の助けをすぐ申し出しました。

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私はその場で物質的の補助をすぐ申し出しました。

するとKは、一も二もなくそれをはねつけました。

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するとKは一も二もなくそれをね付けました。

彼の性格から言って、自分で暮らす方が友達に守られて立つよりはるかに気持ちよく思われたのでしょう。

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彼の性格からいって、自活の方が友達の保護のもとに立つよりはるかに快よく思われたのでしょう。

彼は大学へ入った以上、自分一人ぐらいどうにかできなければ男でないようなことを言いました。

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彼は大学へはいった以上、自分一人ぐらいどうかできなければ男でないような事をいいました。

私は自分の責任を果たすために、Kの気持ちを傷つけるにしのびませんでした。

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私は私の責任をまっとうするために、Kの感情を傷つけるに忍びませんでした。

それで彼の思うとおりにさせて、私は手を引きました。

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それで彼の思う通りにさせて、私は手を引きました。

Kは自分の望むような口を、まもなく探し出しました。

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Kは自分の望むような口をほどなく探し出しました。

しかし時間を惜しむ彼にとって、この仕事がどのくらいつらかったかは想像するまでもないことです。

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しかし時間をしむ彼にとって、この仕事がどのくらいつらかったかは想像するまでもない事です。

彼は今までどおり勉強の手を少しもゆるめずに、新しい荷を背負って突き進んだのです。

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彼は今まで通り勉強の手をちっともゆるめずに、新しい荷を背負しょって猛進したのです。

私は、彼の体を気づかいました。

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私は彼の健康を気遣きづかいました。

しかし気の強い彼は笑うだけで、少しも私の注意に取り合いませんでした。

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しかし剛気ごうきな彼は笑うだけで、少しも私の注意に取り合いませんでした。

同時に彼と養子先との関係は、だんだんこんがらがって来ました。

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同時に彼と養家との関係は、段々こんがらがって来ました。

時間に余裕のなくなった彼は前のように私と話す機会をうばわれたので、私はついにそのいきさつをくわしく聞かずに終わりましたが、解決がますます難しくなって行くことだけは分かっていました。

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時間に余裕のなくなった彼は、前のように私と話す機会を奪われたので、私はついにその顛末てんまつを詳しく聞かずにしまいましたが、解決のますます困難になってゆく事だけは承知していました。

人が間に入って、まとめようとしたことも知っていました。

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人が仲に入って調停を試みた事も知っていました。

その人は手紙でKに帰るようすすめたのですが、Kはとうてい駄目だと言って応じませんでした。

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その人は手紙でKに帰国をうながしたのですが、Kは到底駄目だめだといって、応じませんでした。

この強情なところが、――Kは学年の途中で帰れないのだから仕方がないと言いましたけれども、向こうから見れば強情でしょう。

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この剛情ごうじょうなところが、――Kは学年中で帰れないのだから仕方がないといいましたけれども、向うから見れば剛情でしょう。

そこがことをますます悪くしたようにも見えました。

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そこが事態をますます険悪にしたようにも見えました。

彼は養子先の気持ちをそこなうとともに、実家の怒りも買うようになりました。

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彼は養家の感情を害すると共に、実家のいかりも買うようになりました。

私が心配して両方をやわらげるために手紙を書いたときは、もう何の効き目もありませんでした。

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私が心配して双方を融和するために手紙を書いた時は、もう何の効果ききめもありませんでした。

私の手紙は、一言の返事さえ受けずに葬られてしまったのです。

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私の手紙は一言ひとことの返事さえ受けずに葬られてしまったのです。

私も、腹が立ちました。

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私も腹が立ちました。

今までも成り行き上Kに味方していた私は、それからは正しいか正しくないかを外に置いてもKの味方をする気になりました。

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今までも行掛ゆきがかり上、Kに同情していた私は、それ以後は理否を度外に置いてもKの味方をする気になりました。

最後にKは、とうとうせきを戻すことに決めました。

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最後にKはとうとう復籍に決しました。

養子先から出してもらった学費は、実家で返すことになったのです。

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養家から出してもらった学資は、実家で弁償する事になったのです。

その代わり、実家の方でも構わないから、これからは勝手にしろというのです。

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その代り実家の方でも構わないから、これからは勝手にしろというのです。

昔の言葉で言えば、まあ勘当(かんどう。親が子との縁を切ること)なのでしょう。

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昔の言葉でいえば、まあ勘当かんどうなのでしょう。

あるいはそれほど強いものでなかったかもしれませんが、本人はそう受け取っていました。

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あるいはそれほど強いものでなかったかも知れませんが、当人はそう解釈していました。

Kは、母のない男でした。

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Kは母のない男でした。

彼の性格の一面は、たしかに継母に育てられた結果とも見ることができるようです。

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彼の性格の一面は、たしかに継母けいぼに育てられた結果とも見る事ができるようです。

もし彼の本当の母が生きていたら、あるいは彼と実家との関係に、こうまで隔たりができずに済んだかもしれないと私は思うのです。

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もし彼の実の母が生きていたら、あるいは彼と実家との関係に、こうまでへだたりができずに済んだかも知れないと私は思うのです。

彼の父は、言うまでもなくお坊さんでした。

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彼の父はいうまでもなく僧侶そうりょでした。

けれども義理がたい点で、むしろ武士に似たところがありはしないかと思われます。

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けれども義理堅い点において、むしろ武士さむらいに似たところがありはしないかと疑われます。

二十二

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二十二

「Kの一件が一段落ついた後で、私は彼の姉の夫から長い手紙を受け取りました。Kの養子に行った先はこの人の親類に当たるのですから、彼を世話したときにも彼のせきを戻したときにも、この人の意見が大きかったのだと、Kは私に話して聞かせました。

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「Kの事件が一段落ついたあとで、わたくしは彼の姉の夫から長い封書を受け取りました。Kの養子に行った先は、この人の親類に当るのですから、彼を周旋した時にも、彼を復籍させた時にも、この人の意見が重きをなしていたのだと、Kは私に話して聞かせました。

手紙には、その後Kがどうしているか知らせてくれと書いてありました。

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手紙にはその後Kがどうしているか知らせてくれと書いてありました。

姉が心配しているから、なるべく早く返事をもらいたいという頼みも付け足してありました。

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姉が心配しているから、なるべく早く返事をもらいたいという依頼も付け加えてありました。

Kは寺を継いだ兄よりも、よその家へ嫁いだこの姉を好いていました。

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Kは寺をいだ兄よりも、他家たけへ縁づいたこの姉を好いていました。

彼らはみんな同じ母から生まれたきょうだいですけれども、この姉とKとの間にはだいぶ年の差があったのです。

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彼らはみんな一つ腹から生れた姉弟きょうだいですけれども、この姉とKとの間には大分だいぶ年歯としの差があったのです。

それでKの子どもの時分には、継母よりもこの姉の方が、かえって本当の母らしく見えたのでしょう。

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それでKの小供こどもの時分には、継母ままははよりもこの姉の方が、かえって本当の母らしく見えたのでしょう。

私は、Kに手紙を見せました。

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私はKに手紙を見せました。

Kは何とも言いませんでしたけれども、自分の所へこの姉から同じような意味の手紙が二、三度来たということを打ち明けました。

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Kは何ともいいませんでしたけれども、自分の所へこの姉から同じような意味の書状が二、三度来たという事を打ち明けました。

Kはそのたびに、心配しなくてよいと答えてやったのだそうです。

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Kはそのたびに心配するに及ばないと答えてやったのだそうです。

運悪くこの姉は生活に余裕のない家に嫁いだために、いくらKを思う気持ちがあっても、お金の面で弟をどうしてやる訳にも行かなかったのです。

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運悪くこの姉は生活に余裕のない家に片付いたために、いくらKに同情があっても、物質的に弟をどうしてやる訳にも行かなかったのです。

私はKと同じような返事を、彼の義理の兄あてで出しました。

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私はKと同じような返事を彼の義兄あてで出しました。

その中に、万一の場合には私がどうにでもするから安心するように、という意味を強い言葉で書き表しました。

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そのうちに、万一の場合には私がどうでもするから、安心するようにという意味を強い言葉で書き現わしました。

これは、もちろん私一人の考えでした。

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これはもとより私の一存いちぞんでした。

Kの行く末を心配するこの姉に安心を与えようという好意はもちろん入っていましたが、私を見下したとよりほかに取りようのない彼の実家や養子先に対する意地もあったのです。

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Kの行先ゆくさきを心配するこの姉に安心を与えようという好意は無論含まれていましたが、私を軽蔑けいべつしたとよりほかに取りようのない彼の実家や養家ようかに対する意地もあったのです。

Kがせきを戻したのは、一年生のときでした。

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Kの復籍したのは一年生の時でした。

それから二年生の中ごろになるまで、約一年半の間、彼は自分の力だけで自分を支えて行ったのです。

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それから二年生の中頃なかごろになるまで、約一年半の間、彼は独力でおのれを支えていったのです。

ところがこの働きすぎが、だんだん彼の体と心の上に影響して来たように見え出しました。

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ところがこの過度の労力が次第に彼の健康と精神の上に影響して来たように見え出しました。

それにはもちろん、養子先を出る出ないのうるさい問題も手伝っていたでしょう。

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それには無論養家を出る出ないの蒼蠅うるさい問題も手伝っていたでしょう。

彼はだんだん、気持ちが弱くなって来たのです。

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彼は段々感傷的センチメンタルになって来たのです。

ときによると、自分だけが世の中の不幸を一人で背負って立っているようなことを言います。

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時によると、自分だけが世の中の不幸を一人で背負しょって立っているような事をいいます。

そうしてそれを打ち消せば、すぐ激しくなるのです。

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そうしてそれを打ち消せばすぐ激するのです。

それから自分の未来にある明るさがだんだん彼の目から遠のいて行くようにも思って、いらいらするのです。

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それから自分の未来によこたわる光明こうみょうが、次第に彼の眼を遠退とおのいて行くようにも思って、いらいらするのです。

学問をやり始めたときにはだれでも大きな望みをもって新しい旅に出るのが常ですが、一年経ち二年過ぎ、もう卒業も間近になると、急に自分の足の運びの鈍いのに気がついて、半分以上はそこでがっかりするのが当たり前になっていますから、Kの場合も同じなのですが、彼の焦り方はまたふつうに比べるとはるかにひどかったのです。

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学問をやり始めた時には、誰しも偉大な抱負をもって、新しい旅にのぼるのが常ですが、一年と立ち二年と過ぎ、もう卒業も間近になると、急に自分の足の運びののろいのに気が付いて、過半はそこで失望するのが当り前になっていますから、Kの場合も同じなのですが、彼の焦慮あせり方はまた普通に比べるとはるかにはなはだしかったのです。

私はついに、彼の気分を落ち着けるのが第一だと考えました。

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私はついに彼の気分を落ち付けるのが専一せんいちだと考えました。

私は彼に向かって、余計な仕事をするのはよせと言いました。

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私は彼に向って、余計な仕事をするのはせといいました。

そうして当分体を楽にして遊ぶ方が、大きな将来のために得だと忠告しました。

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そうして当分身体からだを楽にして、遊ぶ方が大きな将来のために得策だと忠告しました。

強情なKのことですから、簡単に私の言うことなど聞くまいと、前から思っていたのですが、実際言い出してみると、思ったよりも説き伏せるのに骨が折れたので弱りました。

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剛情ごうじょうなKの事ですから、容易に私のいう事などは聞くまいと、かねて予期していたのですが、実際いい出して見ると、思ったよりも説き落すのに骨が折れたので弱りました。

Kはただ、学問が自分の目的ではないと言い張るのです。

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Kはただ学問が自分の目的ではないと主張するのです。

意志の力を養って強い人になるのが自分の考えだと言うのです。

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意志の力を養って強い人になるのが自分の考えだというのです。

それにはなるべく苦しい立場にいなくてはならない、と結論するのです。

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それにはなるべく窮屈な境遇にいなくてはならないと結論するのです。

ふつうの人から見れば、まるで変わった好みです。

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普通の人から見れば、まるで酔興すいきょうです。

その上、苦しい立場にいる彼の意志は少しも強くなっていないのです。

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その上窮屈な境遇にいる彼の意志は、ちっとも強くなっていないのです。

彼はむしろ、神経がまいっているくらいなのです。

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彼はむしろ神経衰弱にかかっているくらいなのです。

私は仕方がないから、彼に向かって、まったく同じ気持ちであるような様子を見せました。

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私は仕方がないから、彼に向って至極しごく同感であるような様子を見せました。

自分もそういう方向に向かって人生を進むつもりだったと、ついには言い切りました。

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自分もそういう点に向って、人生を進むつもりだったとついには明言しました。

(もっともこれは、私にとってまったくの空言でもなかったのです。

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(もっともこれは私に取ってまんざら空虚な言葉でもなかったのです。

Kの言うことを聞いていると、だんだんそういうところに引きこまれて来るくらい、彼には力があったのですから。)

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Kの説を聞いていると、段々そういうところに釣り込まれて来るくらい、彼には力があったのですから)。

最後に私は、Kといっしょに住んでいっしょに向上の道をたどって行きたいと言い出しました。

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最後に私はKといっしょに住んで、いっしょに向上のみち辿たどって行きたいと発議ほつぎしました。

私は彼の強情を折り曲げるために、彼の前にひざまずくことをあえてしたのです。

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私は彼の剛情を折り曲げるために、彼の前にひざまずく事をあえてしたのです。

そうしてやっとのことで、彼を私の家に連れて来ました。

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そうしてやっとの事で彼を私の家に連れて来ました。

二十三

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二十三

「私の部屋には、ひかえの間というような四畳が付いていました。玄関を上がって私のいる所へ通ろうとするには必ずこの四畳を横切らなければならないのだから、使い勝手の点から見るととても不便な部屋でした。私はここへKを入れたのです。もっとも最初は同じ八畳に二つ机を並べて、次の間をいっしょに使う考えだったのですが、Kは狭苦しくても一人でいる方がいいと言って、自分でそちらの方を選んだのです。

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「私の座敷には控えのというような四畳が付属していました。玄関を上がって私のいる所へ通ろうとするには、ぜひこの四畳を横切らなければならないのだから、実用の点から見ると、至極しごく不便なへやでした。私はここへKを入れたのです。もっとも最初は同じ八畳に二つ机を並べて、次の間を共有にして置く考えだったのですが、Kは狭苦しくっても一人でいる方がいといって、自分でそっちのほうをえらんだのです。

前にも話したとおり、奥さんは私のこのやり方に対して初めは反対だったのです。

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前にも話した通り、奥さんは私のこの所置に対して始めは不賛成だったのです。

下宿屋ならば一人より二人が便利だし、二人より三人が得になるけれども、商売でないのだからなるべくならよした方がいいと言うのです。

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下宿屋ならば、一人より二人が便利だし、二人より三人が得になるけれども、商売でないのだから、なるべくならした方がいというのです。

私が、決して手のかかる人でないから構うまいと言うと、手はかからなくても気心の知れない人は嫌だと答えるのです。

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私が決して世話の焼ける人でないから構うまいというと、世話は焼けないでも、気心の知れない人はいやだと答えるのです。

それでは今世話になっている私だって同じことではないかと責めると、私の気心は初めからよく分かっていると言いわけしてやまないのです。

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それでは今厄介やっかいになっている私だって同じ事ではないかとなじると、私の気心は初めからよく分っていると弁解してまないのです。

私は、苦笑いしました。

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私は苦笑しました。

すると奥さんはまた、理屈の向きを変えます。

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すると奥さんはまた理屈の方向をえます。

そんな人を連れて来るのは私のために悪いからよせ、と言い直します。

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そんな人を連れて来るのは、私のために悪いからせといい直します。

なぜ私のために悪いかと聞くと、今度は向こうで苦笑いするのです。

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なぜ私のために悪いかと聞くと、今度は向うで苦笑するのです。

実を言うと、私だって無理にKといっしょにいる必要はなかったのです。

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実をいうと私だっていてKといっしょにいる必要はなかったのです。

けれども月々の費用をお金の形で彼の前に並べて見せると、彼はきっとそれを受け取るときにためらうだろうと思ったのです。

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けれども月々の費用を金の形で彼の前に並べて見せると、彼はきっとそれを受け取る時に躊躇ちゅうちょするだろうと思ったのです。

彼はそれほど、独立心の強い男でした。

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彼はそれほど独立心の強い男でした。

だから私は彼を私の家に置いて、二人分の食費を彼の知らない間にそっと奥さんの手にわたそうとしたのです。

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だから私は彼を私のうちへ置いて、二人前ふたりまえの食料を彼の知らないにそっと奥さんの手に渡そうとしたのです。

しかし私はKのお金の問題について、一言も奥さんに打ち明ける気はありませんでした。

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しかし私はKの経済問題について、一言いちごんも奥さんに打ち明ける気はありませんでした。

私はただ、Kの体についてあれこれ言いました。

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私はただKの健康について云々うんぬんしました。

一人で置くと、ますます人間がかたくなになるばかりだからと言いました。

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一人で置くとますます人間が偏屈へんくつになるばかりだからといいました。

それに付け足して、Kが養子先と折り合いの悪かったことや、実家と離れてしまったことや、いろいろ話して聞かせました。

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それに付け足して、Kが養家ようか折合おりあいの悪かった事や、実家と離れてしまった事や、色々話して聞かせました。

私は、溺れかかった人を抱いて自分の熱を向こうに移してやる覚悟でKを引き取るのだと告げました。

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私はおぼれかかった人を抱いて、自分の熱を向うに移してやる覚悟で、Kを引き取るのだと告げました。

そのつもりで温かく面倒を見てやってくれと、奥さんにもお嬢さんにも頼みました。

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そのつもりであたたかい面倒を見てやってくれと、奥さんにもお嬢さんにも頼みました。

私はここまで来て、ようやく奥さんを説き伏せたのです。

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私はここまで来て漸々ようよう奥さんを説き伏せたのです。

しかし私から何も聞かないKは、このいきさつをまるで知らずにいました。

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しかし私から何にも聞かないKは、この顛末てんまつをまるで知らずにいました。

私もかえってそれを満足に思って、のっそり引っ越して来たKを、知らん顔でむかえました。

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私もかえってそれを満足に思って、のっそり引き移って来たKを、知らん顔で迎えました。

奥さんとお嬢さんは、親切に彼の荷物を片づける世話や何かをしてくれました。

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奥さんとお嬢さんは、親切に彼の荷物を片付ける世話やなにかをしてくれました。

すべてそれを私に対する好意から来たのだと考えた私は、心のうちで喜びました。――

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すべてそれを私に対する好意から来たのだと解釈した私は、心のうちで喜びました。――

Kが相変わらず、むっつりした様子をしているのに。

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Kが相変らずむっちりした様子をしているにもかかわらず。

私がKに向かって新しい住まいの気持ちはどうだと聞いたとき、彼はただ一言、悪くないと言っただけでした。

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私がKに向って新しい住居すまいの心持はどうだと聞いた時に、彼はただ一言いちげん悪くないといっただけでした。

私から言わせれば、悪くないどころではないのです。

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私からいわせれば悪くないどころではないのです。

彼の今までいた所は、北向きの湿っぽいにおいのする汚い部屋でした。

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彼の今までいた所は北向きの湿っぽいにおいのする汚いへやでした。

食べ物も、部屋なみにそまつでした。

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食物くいものも室相応そうおうに粗末でした。

私の家へ引っ越した彼は、深い谷から高い木に移ったような感じがあったくらいです。

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私の家へ引き移った彼は、幽谷ゆうこくから喬木きょうぼくに移った趣があったくらいです。

それをそれほどに思う様子を見せないのは、一つには彼の強情から来ているのですが、一つには彼の言い張る考えからも出ているのです。

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それをさほどに思う気色けしきを見せないのは、一つは彼の強情から来ているのですが、一つは彼の主張からも出ているのです。

仏教の教えで育った彼は、衣食住についてあれこれぜいたくを言うのを、まるで悪いことのように考えていました。

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仏教の教義で養われた彼は、衣食住についてとかくの贅沢ぜいたくをいうのをあたかも不道徳のように考えていました。

なまじ昔の高いお坊さんだとか聖人だとかの伝記を読んだ彼には、ともすると心と体とを切り離したがるくせがありました。

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なまじい昔の高僧だとか聖徒セーントだとかのでんを読んだ彼には、ややともすると精神と肉体とを切り離したがる癖がありました。

体をむち打てば魂の輝きが増すように感じる場合さえあったのかもしれません。

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肉を鞭撻べんたつすれば霊の光輝が増すように感ずる場合さえあったのかも知れません。

私は、なるべく彼にさからわない方針を取りました。

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私はなるべく彼にさからわない方針を取りました。

私は氷を日なたへ出して溶かす工夫をしたのです。

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私は氷を日向ひなたへ出してかす工夫をしたのです。

今に溶けて温かい水になれば、自分で自分に気がつくときが来るに違いないと思ったのです。

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今にけて温かい水になれば、自分で自分に気が付く時機が来るに違いないと思ったのです。

二十四

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二十四

「私は奥さんからそういうふうにあつかわれた結果、だんだん明るくなって来たのです。それを分かっていたから、同じものを今度はKの上にやってみようと試みたのです。Kと私とが性格の上でだいぶ違いのあることは、長くつき合って来た私によく分かっていましたけれども、私の神経がこの家に入ってから多少角が取れたように、Kの心もここに置けばいつか静まることがあるだろうと考えたのです。

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「私は奥さんからそういうふうに取り扱われた結果、段々快活になって来たのです。それを自覚していたから、同じものを今度はKの上に応用しようと試みたのです。Kと私とが性格の上において、大分だいぶ相違のある事は、長く交際つきあって来た私によくわかっていましたけれども、私の神経がこの家庭に入ってから多少かどが取れたごとく、Kの心もここに置けばいつか沈まる事があるだろうと考えたのです。

Kは私より、強い決心を持っている男でした。

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Kは私より強い決心を有している男でした。

勉強も、私の倍ぐらいはしたでしょう。

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勉強も私の倍ぐらいはしたでしょう。

その上、持って生まれた頭のよさが私よりもずっとよかったのです。

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その上持って生れた頭のたちが私よりもずっとよかったのです。

後では専門が違いましたから何とも言えませんが、同じ級にいる間は、中学でも高等学校でもKの方がいつも上の席を占めていました。

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あとでは専門が違いましたから何ともいえませんが、同じ級にいるあいだは、中学でも高等学校でも、Kの方が常に上席を占めていました。

私にはふだんから、何をしてもKにかなわないという思いがあったくらいです。

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私には平生から何をしてもKに及ばないという自覚があったくらいです。

けれども私が無理にKを私の家へ引っ張って来たときには、私の方がよく物事の道理を分かっていると信じていました。

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けれども私がいてKを私のうちって来た時には、私の方がよく事理をわきまえていると信じていました。

私に言わせると、彼は我慢と忍耐の区別を分かっていないように思われたのです。

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私にいわせると、彼は我慢と忍耐の区別を了解していないように思われたのです。

これは特にあなたのために付け足しておきたいのですから、聞いてください。

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これはとくにあなたのために付け足しておきたいのですから聞いて下さい。

体でも心でも、すべて私たちの力は外からのしげきで伸びもするしこわれもするでしょうが、どちらにしてもしげきをだんだん強くする必要のあるのはもちろんですから、よく考えないと、とても危ない方向へ向いて進んで行きながら、自分はもちろんそばの人も気がつかずにいる恐れが出て来ます。

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肉体なり精神なりすべて我々の能力は、外部の刺戟しげきで、発達もするし、破壊されもするでしょうが、どっちにしても刺戟を段々に強くする必要のあるのは無論ですから、よく考えないと、非常に険悪な方向へむいて進んで行きながら、自分はもちろんはたのものも気が付かずにいる恐れが生じてきます。

医者の説明を聞くと、人間の胃ほどずるいものはないそうです。

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医者の説明を聞くと、人間の胃袋ほど横着なものはないそうです。

かゆばかり食っていると、それ以上の固いものを消化する力がいつの間にかなくなってしまうのだそうです。

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かゆばかり食っていると、それ以上の堅いものを消化こなす力がいつの間にかなくなってしまうのだそうです。

だから何でも食う練習をしておけと、医者は言うのです。

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だから何でも食う稽古けいこをしておけと医者はいうのです。

けれどもこれは、ただ慣れるという意味ではなかろうと思います。

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けれどもこれはただ慣れるという意味ではなかろうと思います。

だんだんしげきを増すのに従ってだんだん栄養を取る働きの力が強くなる、という意味でなくてはならないでしょう。

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次第に刺戟を増すに従って、次第に営養機能の抵抗力が強くなるという意味でなくてはなりますまい。

もし反対に胃の力の方がじりじり弱って行ったなら結果はどうなるだろうと想像してみれば、すぐ分かることです。

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もし反対に胃の力の方がじりじり弱って行ったなら結果はどうなるだろうと想像してみればすぐわかる事です。

Kは私より偉大な男でしたけれども、まったくここに気がついていなかったのです。

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Kは私より偉大な男でしたけれども、全くここに気が付いていなかったのです。

ただ困難に慣れてしまえば、しまいにその困難は何でもなくなるものだと決めていたらしいのです。

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ただ困難に慣れてしまえば、しまいにその困難は何でもなくなるものだとめていたらしいのです。

苦しみをくり返せば、くり返すというだけの効き目でその苦しみが気にかからなくなるときに出会えるものと、信じ切っていたらしいのです。

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艱苦かんくを繰り返せば、繰り返すというだけの功徳くどくで、その艱苦が気にかからなくなる時機に邂逅めぐりあえるものと信じ切っていたらしいのです。

私はKを説くとき、ぜひそこを明らかにしてやりたかったのです。

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私はKを説くときに、ぜひそこを明らかにしてやりたかったのです。

しかし言えば、きっと逆らわれるに決まっていました。

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しかしいえばきっと反抗されるにきまっていました。

また昔の人の例などを引き合いに持って来るに違いないと思いました。

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また昔の人の例などを、引合ひきあいに持って来るに違いないと思いました。

そうなれば私だって、その人たちとKと違っている点をはっきり述べなければならなくなります。

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そうなれば私だって、その人たちとKと違っている点を明白に述べなければならなくなります。

それをうなずいてくれるようなKならいいのですけれども、彼の性質として、議論がそこまで行くと簡単には後へ引きません。

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それを首肯うけがってくれるようなKならいいのですけれども、彼の性質として、議論がそこまでゆくと容易にあとへは返りません。

なお先へ出ます。

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なお先へ出ます。

そうして、口で先へ出たとおりを、行いで実現しにかかります。

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そうして、口で先へ出た通りを、行為で実現しにかかります。

彼はこうなると、恐ろしい男でした。

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彼はこうなると恐るべき男でした。

偉大でした。

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偉大でした。

自分で自分をこわしながら進みます。

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自分で自分を破壊しつつ進みます。

結果から見れば、彼はただ自分の成功を打ちくだく意味において偉大なのに過ぎないのですけれども、それでも決してありふれてはいませんでした。

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結果から見れば、彼はただ自己の成功を打ち砕く意味において、偉大なのに過ぎないのですけれども、それでも決して平凡ではありませんでした。

彼の気性をよく知った私は、ついに何とも言うことができなかったのです。

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彼の気性きしょうをよく知った私はついに何ともいう事ができなかったのです。

その上私から見ると、彼は前にも述べたとおり多少神経がまいっていたように思われたのです。

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その上私から見ると、彼は前にも述べた通り、多少神経衰弱にかかっていたように思われたのです。

たとえ私が彼を説き伏せたところで、彼は必ず激しくなるに違いないのです。

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よし私が彼を説き伏せたところで、彼は必ず激するに違いないのです。

私は彼とけんかをすることは恐れてはいませんでしたけれども、私が一人ぼっちの感じに耐えられなかった自分の身の上を振り返ると、親友の彼を同じ一人ぼっちの立場に置くのは、私にとってしのびないことでした。

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私は彼と喧嘩けんかをする事は恐れてはいませんでしたけれども、私が孤独の感にえなかった自分の境遇を顧みると、親友の彼を、同じ孤独の境遇に置くのは、私に取って忍びない事でした。

一歩進んで、もっと一人ぼっちの立場に突き落とすのはなお嫌でした。

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一歩進んで、より孤独な境遇に突き落すのはなおいやでした。

それで私は、彼が家へ引っ越してからも当分の間は批評がましい批評を彼にしませんでした。

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それで私は彼がうちへ引き移ってからも、当分の間は批評がましい批評を彼の上に加えずにいました。

ただ穏やかに、周りが彼に及ぼす結果を見ることにしたのです。

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ただ穏やかに周囲の彼に及ぼす結果を見る事にしたのです。

二十五

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二十五

「私はかげに回って、奥さんとお嬢さんに、なるべくKと話をするように頼みました。私は彼のこれまで通って来た黙ったままの生活が彼にたたっているのだろうと信じたからです。使わない鉄がさびるように、彼の心にはさびが出ていたとしか、私には思われなかったのです。

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「私はかげまわって、奥さんとお嬢さんに、なるべくKと話をするように頼みました。私は彼のこれまで通って来た無言生活が彼にたたっているのだろうと信じたからです。使わない鉄が腐るように、彼の心にはさびが出ていたとしか、私には思われなかったのです。

奥さんは、取っつきどころのない人だと言って笑っていました。

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奥さんは取り付きのない人だといって笑っていました。

お嬢さんはまた、わざわざその例を挙げて私に説明して聞かせるのです。

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お嬢さんはまたわざわざその例を挙げて私に説明して聞かせるのです。

火ばちに火があるかとたずねると、Kはないと答えるそうです。

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火鉢に火があるかと尋ねると、Kはないと答えるそうです。

では持って来ようと言うと、要らないとことわるそうです。

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では持ってようというと、らないと断るそうです。

寒くはないかと聞くと、寒いけれども要らないんだと言ったきり、返事をしないのだそうです。

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寒くはないかと聞くと、寒いけれども要らないんだといったぎり応対をしないのだそうです。

私はただ苦笑いしている訳にも行きません。

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私はただ苦笑している訳にもゆきません。

気の毒だから、何とか言ってその場をつくろっておかなければ済まなくなります。

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気の毒だから、何とかいってその場を取りつくろっておかなければ済まなくなります。

もっともそれは春のことですから無理に火にあたる必要もなかったのですが、これでは取っつきどころがないと言われるのも無理はないと思いました。

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もっともそれは春の事ですから、いて火にあたる必要もなかったのですが、これでは取り付き把がないといわれるのも無理はないと思いました。

それで私はなるべく自分が中心になって、女二人とKとのつなぎをするように努めました。

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それで私はなるべく、自分が中心になって、女二人とKとの連絡をはかるようにつとめました。

Kと私が話している所へ家の人を呼ぶとか、または家の人と私が一つ部屋で顔を合わせた所へKを引っ張り出すとか、どちらでもその場に合った方法をとって、彼らを近づけようとしたのです。

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Kと私が話している所へうちの人を呼ぶとか、または家の人と私が一つへやに落ち合った所へ、Kを引っ張り出すとか、どっちでもその場合に応じた方法をとって、彼らを接近させようとしたのです。

もちろんKは、それをあまり好みませんでした。

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もちろんKはそれをあまり好みませんでした。

あるときはふいと立って、部屋の外へ出ました。

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ある時はふいとって室の外へ出ました。

またあるときは、いくら呼んでもなかなか出て来ませんでした。

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またある時はいくら呼んでもなかなか出て来ませんでした。

Kは、あんな無駄話をしてどこが面白いと言うのです。

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Kはあんな無駄話むだばなしをしてどこが面白いというのです。

私はただ、笑っていました。

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私はただ笑っていました。

しかし心の中では、Kがそのために私を見下していることがよく分かりました。

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しかし心のうちでは、Kがそのために私を軽蔑けいべつしていることがよくわかりました。

私はある意味から見て、本当に見下されて当然だったかもしれません。

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私はある意味から見て実際彼の軽蔑にあたいしていたかも知れません。

彼の目のつけどころは私よりはるかに高い所にあったとも言えるでしょう。

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彼の眼の着け所は私よりはるかに高いところにあったともいわれるでしょう。

私も、それを否みはしません。

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私もそれをいなみはしません。

しかし目だけ高くて、ほかが釣り合わないのはまるで欠けた人間です。

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しかし眼だけ高くって、ほかが釣り合わないのは手もなく不具かたわです。

私は何を置いても、この際彼を人間らしくするのが第一だと考えたのです。

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私は何をいても、この際彼を人間らしくするのが専一だと考えたのです。

いくら彼の頭が偉い人の姿でうまっていても、彼自身が偉くなって行かない以上は何の役にも立たないということを見つけたのです。

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いくら彼の頭が偉い人の影像イメジうずまっていても、彼自身が偉くなってゆかない以上は、何の役にも立たないという事を発見したのです。

私は彼を人間らしくする第一の手だてとして、まず異性のそばに彼をすわらせる方法を考えたのです。

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私は彼を人間らしくする第一の手段として、まず異性のそばに彼をすわらせる方法を講じたのです。

そうしてそこから出る空気に彼をさらした上、さびつきかかった彼の血を新しくしようと試みたのです。

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そうしてそこから出る空気に彼をさらした上、び付きかかった彼の血液を新しくしようと試みたのです。

この試みは、だんだんうまく行きました。

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この試みは次第に成功しました。

初めのうち溶け合いにくいように見えたものが、だんだん一つにまとまって来出しました。

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初めのうち融合しにくいように見えたものが、段々一つにまとまって来出きだしました。

彼は自分以外に世界のあることを、少しずつ分かって行くようでした。

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彼は自分以外に世界のある事を少しずつ悟ってゆくようでした。

彼はある日私に向かって、女はそう見下すべきものでないというようなことを言いました。

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彼はある日私に向って、女はそう軽蔑けいべつすべきものでないというような事をいいました。

Kは初め女からも、私と同じ知識と学問を求めていたらしいのです。

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Kははじめ女からも、私同様の知識と学問を要求していたらしいのです。

そうしてそれが見つからないと、すぐ見下す気持ちを起こしたものと思われます。

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そうしてそれが見付からないと、すぐ軽蔑の念を生じたものと思われます。

今までの彼は、男か女かで立場を変えることを知らずに、同じ目つきですべての男女を同じように見ていたのです。

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今までの彼は、性によって立場を変える事を知らずに、同じ視線ですべての男女なんにょを一様に観察していたのです。

私は彼に、もし私たち二人だけが男同士で永久に話を交わしているならば、二人はただまっすぐ先へのびて行くに過ぎないだろうと言いました。

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私は彼に、もし我ら二人だけが男同志で永久に話を交換しているならば、二人はただ直線的に先へ延びて行くに過ぎないだろうといいました。

彼は、もっともだと答えました。

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彼はもっともだと答えました。

私はそのときお嬢さんのことで多少夢中になっているころでしたから、自然そんな言葉も使うようになったのでしょう。

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私はその時お嬢さんの事で、多少夢中になっているころでしたから、自然そんな言葉も使うようになったのでしょう。

しかし裏側の事情は、彼には一言も打ち明けませんでした。

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しかし裏面の消息は彼には一口ひとくちも打ち明けませんでした。

今まで本で城のかべを築いてその中に閉じこもっていたようなKの心が、だんだん打ち解けて来るのを見ているのは、私にとって何よりも楽しかったのです。

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今まで書物で城壁をきずいてその中に立てこもっていたようなKの心が、段々打ち解けて来るのを見ているのは、私に取って何よりも愉快でした。

私は最初からそうした目的でことをやり出したのですから、自分がうまく行ったよろこびを感じずにはいられなかったのです。

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私は最初からそうした目的で事をやり出したのですから、自分の成功に伴う喜悦を感ぜずにはいられなかったのです。

私は本人に言わない代わりに、奥さんとお嬢さんに自分の思ったとおりを話しました。

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私は本人にいわない代りに、奥さんとお嬢さんに自分の思った通りを話しました。

二人も、満足の様子でした。

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二人も満足の様子でした。

二十六

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二十六

「Kと私は同じ科にいながら専門の学問が違っていましたから、自然、出るときや帰るときに早い遅いがありました。私の方が早ければただ彼の空いた部屋を通り抜けるだけですが、遅いと簡単なあいさつをして自分の部屋へ入るのを常にしていました。Kはいつもの目を本から離して、ふすまを開ける私をちょっと見ます。そうして決まって、今帰ったのかと言います。私は何も答えないでうなずくこともありますし、あるいはただ「うん」と答えて行き過ぎる場合もあります。

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「Kとわたくしは同じ科におりながら、専攻の学問が違っていましたから、自然出る時や帰る時に遅速がありました。私の方が早ければ、ただ彼の空室くうしつを通り抜けるだけですが、遅いと簡単な挨拶あいさつをして自分の部屋へはいるのを例にしていました。Kはいつもの眼を書物からはなして、ふすまを開ける私をちょっと見ます。そうしてきっと今帰ったのかといいます。私は何も答えないで点頭うなずく事もありますし、あるいはただ「うん」と答えて行き過ぎる場合もあります。

ある日私は神田に用があって、帰りがいつもよりずっと遅れました。

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ある日私は神田かんだに用があって、帰りがいつもよりずっとおくれました。

私は急ぎ足に門前まで来て、こう子戸をがらりと開けました。

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私は急ぎ足に門前まで来て、格子こうしをがらりと開けました。

それと同時に、私はお嬢さんの声を聞いたのです。

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それと同時に、私はお嬢さんの声を聞いたのです。

声はたしかに、Kの部屋から出たと思いました。

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声はたしかにKのへやから出たと思いました。

玄関からまっすぐ行けば茶の間、お嬢さんの部屋と二つ続いていて、それを左へ折れるとKの部屋、私の部屋、という間取りなのですから、どこでだれの声がしたくらいは、長く世話になっている私にはよく分かるのです。

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玄関から真直まっすぐに行けば、茶の間、お嬢さんの部屋と二つ続いていて、それを左へ折れると、Kの室、私の室、という間取まどりなのですから、どこで誰の声がしたくらいは、久しく厄介やっかいになっている私にはよく分るのです。

私はすぐ、こう子戸を閉めました。

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私はすぐ格子を締めました。

するとお嬢さんの声も、すぐやみました。

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するとお嬢さんの声もすぐみました。

私がくつを脱いでいるうち、――私はその時分からハイカラで手数のかかるひもぐつをはいていたのですが、――私がかがんでそのくつひもを解いているうち、Kの部屋ではだれの声もしませんでした。

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私が靴を脱いでいるうち、――私はその時分からハイカラで手数てかずのかかる編上あみあげ穿いていたのですが、――私がこごんでその靴紐くつひもを解いているうち、Kの部屋では誰の声もしませんでした。

私は、へんに思いました。

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私は変に思いました。

もしかすると、私の勘ちがいかもしれないと考えたのです。

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ことによると、私の疳違かんちがいかも知れないと考えたのです。

しかし私がいつものとおりKの部屋を抜けようとしてふすまを開けると、そこに二人はちゃんとすわっていました。

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しかし私がいつもの通りKの室を抜けようとして、襖を開けると、そこに二人はちゃんとすわっていました。

Kはいつものとおり、今帰ったかと言いました。

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Kは例の通り今帰ったかといいました。

お嬢さんも「お帰りなさい」

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お嬢さんも「お帰り」

と、すわったままであいさつしました。

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と坐ったままで挨拶しました。

私には気のせいか、その簡単なあいさつが少し硬いように聞こえました。

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私には気のせいかその簡単な挨拶が少しかたいように聞こえました。

どこかで自然さを外しているような調子として、私の耳に響いたのです。

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どこかで自然を踏みはずしているような調子として、私の鼓膜こまくに響いたのです。

私はお嬢さんに、奥さんはとたずねました。

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私はお嬢さんに、奥さんはと尋ねました。

私の質問には、何の意味もありませんでした。

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私の質問には何の意味もありませんでした。

家の中がふだんより何だかひっそりしていたから、聞いてみただけのことです。

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家のうちが平常より何だかひっそりしていたから聞いて見ただけの事です。

奥さんは、やはり留守でした。

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奥さんははたして留守でした。

お手伝いも、奥さんといっしょに出たのでした。

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下女げじょも奥さんといっしょに出たのでした。

だから家に残っているのは、Kとお嬢さんだけだったのです。

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だからうちに残っているのは、Kとお嬢さんだけだったのです。

私は、ちょっと首をかしげました。

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私はちょっと首を傾けました。

今まで長い間世話になっていたけれども、奥さんがお嬢さんと私だけを置いて家を空けたためしは、まだなかったのですから。

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今まで長い間世話になっていたけれども、奥さんがお嬢さんと私だけを置き去りにして、うちを空けたためしはまだなかったのですから。

私は、何か急な用でもできたのかとお嬢さんに聞き返しました。

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私は何か急用でもできたのかとお嬢さんに聞き返しました。

お嬢さんは、ただ笑っているのです。

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お嬢さんはただ笑っているのです。

私は、こんなときに笑う女が嫌いでした。

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私はこんな時に笑う女が嫌いでした。

若い女に共通な点だと言えばそれまでかもしれませんが、お嬢さんもつまらないことによく笑いたがる女でした。

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若い女に共通な点だといえばそれまでかも知れませんが、お嬢さんも下らない事によく笑いたがる女でした。

しかしお嬢さんは私の顔色を見て、すぐいつもの表情に戻りました。

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しかしお嬢さんは私の顔色を見て、すぐ不断ふだんの表情に帰りました。

急用ではないが、ちょっと用があって出たのだと真面目に答えました。

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急用ではないが、ちょっと用があって出たのだと真面目まじめに答えました。

下宿人の私には、それ以上問いつめる権利はありません。

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下宿人の私にはそれ以上問い詰める権利はありません。

私は、黙りました。

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私は沈黙しました。

私が着物を着替えて席に着くか着かないうちに、奥さんもお手伝いも帰って来ました。

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私が着物を改めて席に着くか着かないうちに、奥さんも下女も帰って来ました。

やがて夕飯の食たくでみんなが顔を合わせる時こくが来ました。

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やがて晩食ばんめしの食卓でみんなが顔を合わせる時刻が来ました。

下宿した当座はすべてお客あつかいだったので、食事のたびにお手伝いがお膳を運んで来てくれたのですが、それがいつの間にか崩れて、食事のときには向こうへ呼ばれて行く習慣になっていたのです。

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下宿した当座は万事客扱いだったので、食事のたびに下女がぜんを運んで来てくれたのですが、それがいつの間にか崩れて、飯時めしどきには向うへ呼ばれて行く習慣になっていたのです。

Kが新しく引っ越して来たときも、私が言い張って彼を私と同じようにあつかわせることに決めました。

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Kが新しく引き移った時も、私が主張して彼を私と同じように取り扱わせる事にめました。

その代わり私は、薄い板で作った足のたためる軽い食たくを奥さんにおくりました。

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その代り私は薄い板で造った足のたたみ込める華奢きゃしゃな食卓を奥さんに寄附きふしました。

今ではどこの家でも使っているようですが、そのころそんなテーブルの周りに並んでご飯を食う家族はほとんどなかったのです。

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今ではどこのうちでも使っているようですが、そのころそんな卓の周囲に並んで飯を食う家族はほとんどなかったのです。

私はわざわざ御茶ノ水の家具屋へ行って、私の考えたとおりにそれを作り上げさせたのです。

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私はわざわざ御茶おちゃみずの家具屋へ行って、私の工夫通りにそれを造りげさせたのです。

私はその食たくで奥さんから、その日いつもの時こくに魚屋が来なかったので、私たちに食わせるものを買いに町へ行かなければならなかったのだ、という説明を聞かされました。

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私はその卓上で奥さんからその日いつもの時刻に肴屋さかなやが来なかったので、私たちに食わせるものを買いに町へ行かなければならなかったのだという説明を聞かされました。

なるほどお客を置いている以上それももっともなことだと私が考えたとき、お嬢さんは私の顔を見てまた笑い出しました。

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なるほど客を置いている以上、それももっともな事だと私が考えた時、お嬢さんは私の顔を見てまた笑い出しました。

しかし今度は奥さんに叱られて、すぐやめました。

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しかし今度は奥さんにしかられてすぐめました。

二十七

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二十七

「一週間ばかりして、私はまたKとお嬢さんがいっしょに話している部屋を通り抜けました。そのときお嬢さんは、私の顔を見るとすぐ笑い出しました。私はすぐ何がおかしいのかと聞けばよかったのでしょう。それをつい黙って、自分の部屋まで来てしまったのです。だからKもいつものように、今帰ったかと声をかけることができなくなりました。お嬢さんはすぐ障子を開けて、茶の間へ入ったようでした。

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「一週間ばかりしてわたくしはまたKとお嬢さんがいっしょに話しているへやを通り抜けました。その時お嬢さんは私の顔を見るやいなや笑い出しました。私はすぐ何がおかしいのかと聞けばよかったのでしょう。それをつい黙って自分の居間まで来てしまったのです。だからKもいつものように、今帰ったかと声を掛ける事ができなくなりました。お嬢さんはすぐ障子しょうじを開けて茶の間へ入ったようでした。

夕飯のとき、お嬢さんは私をへんな人だと言いました。

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夕飯ゆうめしの時、お嬢さんは私を変な人だといいました。

私はそのときも、なぜへんなのか聞かずにしまいました。

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私はその時もなぜ変なのか聞かずにしまいました。

ただ奥さんが、にらむような目をお嬢さんに向けるのに気がついただけでした。

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ただ奥さんがにらめるような眼をお嬢さんに向けるのに気が付いただけでした。

私は食後、Kを散歩に連れ出しました。

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私は食後Kを散歩に連れ出しました。

二人は伝通院の裏手から植物園の通りをぐるりと回って、また富坂の下へ出ました。

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二人は伝通院でんずういんの裏手から植物園の通りをぐるりとまわってまた富坂とみざかの下へ出ました。

散歩としては短い方ではありませんでしたが、その間に話したことはごくわずかでした。

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散歩としては短い方ではありませんでしたが、そのあいだに話した事はきわめて少なかったのです。

性質から言うと、Kは私よりも無口な男でした。

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性質からいうと、Kは私よりも無口な男でした。

私も、口数の多い方ではなかったのです。

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私も多弁な方ではなかったのです。

しかし私は歩きながら、できるだけ話を彼に仕掛けてみました。

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しかし私は歩きながら、できるだけ話を彼に仕掛しかけてみました。

私の話題は、主に二人の下宿している家族についてでした。

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私の問題はおもに二人の下宿している家族についてでした。

私は奥さんやお嬢さんを彼がどう見ているか、知りたかったのです。

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私は奥さんやお嬢さんを彼がどう見ているか知りたかったのです。

ところが彼は、どちらとも見分けのつかないような返事ばかりするのです。

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ところが彼は海のものとも山のものとも見分みわけの付かないような返事ばかりするのです。

しかもその返事ははっきりしないくせに、ごく簡単でした。

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しかもその返事は要領を得ないくせに、極めて簡単でした。

彼は二人の女についてよりも、専門の学科の方に多くの注意をはらっているように見えました。

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彼は二人の女に関してよりも、専攻の学科の方に多くの注意を払っているように見えました。

もっともそれは二学年目の試験が目の前に近づいているころでしたから、ふつうの人の立場から見て彼の方が学生らしい学生だったのでしょう。

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もっともそれは二学年目の試験が目の前にせまっているころでしたから、普通の人間の立場から見て、彼の方が学生らしい学生だったのでしょう。

その上彼は、スウェーデンボルグがどうだとかこうだとか言って、物を知らない私を驚かせました。

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その上彼はシュエデンボルグがどうだとかこうだとかいって、無学な私を驚かせました。

私たちがうまく試験を済ませたとき、二人とももうあと一年だと言って奥さんは喜んでくれました。

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我々が首尾よく試験を済ましました時、二人とももうあと一年だといって奥さんは喜んでくれました。

そう言う奥さんのたった一つのほこりとも見られるお嬢さんの卒業も、まもなく来る順になっていたのです。

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そういう奥さんの唯一ゆいいつほこりとも見られるお嬢さんの卒業も、間もなく来る順になっていたのです。

Kは私に向かって、女というものは何も知らないで学校を出るのだと言いました。

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Kは私に向って、女というものは何にも知らないで学校を出るのだといいました。

Kは、お嬢さんが学問以外に習っている裁ほうだの琴だの生け花だのを、まるで問題にしていないようでした。

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Kはお嬢さんが学問以外に稽古けいこしている縫針ぬいはりだの琴だの活花いけばなだのを、まるで眼中に置いていないようでした。

私は、彼のうかつさを笑ってやりました。

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私は彼の迂闊うかつを笑ってやりました。

そうして、女のねうちはそんな所にあるものでないという昔の議論を、また彼の前でくり返しました。

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そうして女の価値はそんな所にあるものでないという昔の議論をまた彼の前で繰り返しました。

彼は、特に言い返しもしませんでした。

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彼は別段反駁はんばくもしませんでした。

その代わり、なるほどという様子も見せませんでした。

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その代りなるほどという様子も見せませんでした。

私には、そこが楽しかったのです。

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私にはそこが愉快でした。

彼の、ふんと言ったような調子が、相変わらず女を見下しているように見えたからです。

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彼のふんといったような調子が、依然として女を軽蔑けいべつしているように見えたからです。

女の代表として私の知っているお嬢さんを、数にも入れていないらしかったからです。

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女の代表者として私の知っているお嬢さんを、物のかずとも思っていないらしかったからです。

今から振り返ると、私のKに対するしっとはそのときにもう十分芽生えていたのです。

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今から回顧すると、私のKに対する嫉妬しっとは、その時にもう充分きざしていたのです。

私は夏休みにどこかへ行こうかとKに相談しました。

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私は夏休みにどこかへ行こうかとKに相談しました。

Kは、行きたくないような言い方を見せました。

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Kは行きたくないような口振くちぶりを見せました。

もちろん彼は自分の自由な気持ちでどこへも行ける身ではありませんが、私がさそいさえすれば、またどこへ行っても差し支えない身だったのです。

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無論彼は自分の自由意志でどこへも行ける身体からだではありませんが、私が誘いさえすれば、またどこへ行っても差支さしつかえない身体だったのです。

私は、なぜ行きたくないのかと彼にたずねてみました。

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私はなぜ行きたくないのかと彼に尋ねてみました。

彼は、理由も何もないと言うのです。

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彼は理由も何にもないというのです。

家で本を読んだ方が自分の勝手だと言うのです。

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うちで書物を読んだ方が自分の勝手だというのです。

私が、避暑地へ行って涼しい所で勉強した方が体のためだと言うと、それなら私一人行ったらよかろうと言うのです。

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私が避暑地へ行って涼しい所で勉強した方が、身体のためだと主張すると、それなら私一人行ったらよかろうというのです。

しかし私は、K一人をここに残して行く気にはなれないのです。

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しかし私はK一人をここに残して行く気にはなれないのです。

私はただでさえ、Kと家の人がだんだん親しくなって行くのを見ているのがあまりいい気持ちではなかったのです。

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私はただでさえKと宅のものが段々親しくなって行くのを見ているのが、余りい心持ではなかったのです。

私が最初望んだとおりになるのが、なぜ私の気持ちを悪くするのかと言われればそれまでです。

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私が最初希望した通りになるのが、何で私の心持を悪くするのかといわれればそれまでです。

私は、馬鹿に違いないのです。

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私は馬鹿に違いないのです。

果てしのつかない二人の議論を見るに見かねて、奥さんが間に入りました。

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はてしのつかない二人の議論を見るに見かねて奥さんが仲へ入りました。

二人はとうとう、いっしょに房州へ行くことになりました。

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二人はとうとういっしょに房州ぼうしゅうへ行く事になりました。

二十八

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二十八

「Kはあまり旅へ出ない男でした。私にも房州は初めてでした。二人は何も知らないで、船が一番先に着いた所から上陸したのです。たしか保田とか言いました。今ではどんなに変わっているか知りませんが、そのころはひどい漁村でした。第一どこもかしこも生ぐさいのです。それから海へ入ると波に押し倒されて、すぐ手だの足だのを擦りむくのです。こぶしのような大きな石が打ち寄せる波にもまれて、始終ごろごろしているのです。

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「Kはあまり旅へ出ない男でした。わたくしにも房州ぼうしゅうは始めてでした。二人は何にも知らないで、船が一番先へ着いた所から上陸したのです。たしか保田ほたとかいいました。今ではどんなに変っているか知りませんが、そのころはひどい漁村でした。第一だいちどこもかしこもなまぐさいのです。それから海へ入ると、波に押し倒されて、すぐ手だの足だのをくのです。こぶしのような大きな石が打ち寄せる波にまれて、始終ごろごろしているのです。

私は、すぐ嫌になりました。

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私はすぐいやになりました。

しかしKは、いいとも悪いとも言いません。

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しかしKはいとも悪いともいいません。

少なくとも顔つきだけは、平気なものでした。

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少なくとも顔付かおつきだけは平気なものでした。

そのくせ彼は、海へ入るたびにどこかに怪我をしないことはなかったのです。

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そのくせ彼は海へ入るたんびにどこかに怪我けがをしない事はなかったのです。

私はとうとう彼を説き伏せて、そこから富浦に行きました。

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私はとうとう彼を説き伏せて、そこから富浦とみうらに行きました。

富浦から、また那古に移りました。

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富浦からまた那古なこに移りました。

この海ぞいはその時分から主に学生の集まる所でしたから、どこでも私たちにはちょうど手ごろの海水浴場だったのです。

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すべてこの沿岸はその時分からおもに学生の集まる所でしたから、どこでも我々にはちょうど手頃てごろの海水浴場だったのです。

Kと私はよく海岸の岩の上にすわって、遠い海の色や近い水の底をながめました。

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Kと私はよく海岸の岩の上にすわって、遠い海の色や、近い水の底をながめました。

岩の上から見下ろす水は、また特別にきれいなものでした。

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岩の上から見下みおろす水は、また特別に綺麗きれいなものでした。

赤い色だの藍の色だの、ふつうの市場に出ないような色をした小魚が、透き通る波の中をあちらこちらと泳いでいるのが、はっきり指さされました。

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赤い色だのあいの色だの、普通市場しじょうのぼらないような色をした小魚こうおが、透き通る波の中をあちらこちらと泳いでいるのが鮮やかに指さされました。

私はそこにすわって、よく本を広げました。

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私はそこに坐って、よく書物をひろげました。

Kは、何もせずに黙っている方が多かったのです。

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Kは何もせずに黙っている方が多かったのです。

私にはそれが考えこんでいるのか、景色に見とれているのか、または好きな想像を思いえがいているのか、まったく分からなかったのです。

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私にはそれが考えにふけっているのか、景色に見惚みとれているのか、もしくは好きな想像をえがいているのか、全くわからなかったのです。

私は時々目を上げて、Kに何をしているのだと聞きました。

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私は時々眼を上げて、Kに何をしているのだと聞きました。

Kは、何もしていないと一言答えるだけでした。

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Kは何もしていないと一口ひとくち答えるだけでした。

私は自分のそばにこうじっとしてすわっているものがKでなくてお嬢さんだったら、さぞ楽しいだろうと思うことがよくありました。

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私は自分のそばにこうじっとして坐っているものが、Kでなくって、お嬢さんだったらさぞ愉快だろうと思う事がよくありました。

それだけならまだいいのですが、ときにはKの方でも私と同じような望みを持って岩の上にすわっているのではないかしらと、突然疑い出すのです。

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それだけならまだいいのですが、時にはKの方でも私と同じような希望をいだいて岩の上に坐っているのではないかしらと忽然こつぜん疑い出すのです。

すると落ち着いてそこに本を広げているのが、急に嫌になります。

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すると落ち付いてそこに書物をひろげているのが急に厭になります。

私は、不意に立ち上がります。

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私は不意に立ちあがります。

そうして遠慮のない大きな声を出して、どなります。

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そうして遠慮のない大きな声を出して怒鳴どなります。

まとまった詩だの歌だのを面白そうに口ずさむような手ぬるいことはできないのです。

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まとまった詩だの歌だのを面白そうにぎんずるような手緩てぬるい事はできないのです。

ただ、けもののようにわめくのです。

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ただ野蛮人のごとくにわめくのです。

あるとき私は突然、彼のえり首を後ろからぐいとつかみました。

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ある時私は突然彼の襟頸えりくびを後ろからぐいとつかみました。

こうして海の中へ突き落としたらどうすると言って、Kに聞きました。

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こうして海の中へ突き落したらどうするといってKに聞きました。

Kは、動きませんでした。

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Kは動きませんでした。

後ろ向きのまま、ちょうどいい、やってくれと答えました。

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後ろ向きのまま、ちょうどい、やってくれと答えました。

私はすぐ、首すじを押さえた手を放しました。

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私はすぐ首筋をおさえた手を放しました。

Kの神経のまいり方は、このときもうだいぶよくなっていたらしいのです。

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Kの神経衰弱はこの時もう大分だいぶよくなっていたらしいのです。

それと反対に、私の方はだんだん敏感になって来ていたのです。

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それと反比例に、私の方は段々過敏になって来ていたのです。

私は自分より落ち着いているKを見て、うらやましがりました。

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私は自分より落ち付いているKを見て、うらやましがりました。

また、にくらしがりました。

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また憎らしがりました。

彼はどうしても、私に取り合う様子を見せなかったからです。

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彼はどうしても私に取り合う気色けしきを見せなかったからです。

私にはそれが、一種の自信のように映りました。

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私にはそれが一種の自信のごとく映りました。

しかしその自信を彼に認めたところで、私は決して満足できなかったのです。

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しかしその自信を彼に認めたところで、私は決して満足できなかったのです。

私の疑いはもう一歩前へ出て、その中身をはっきりさせたがりました。

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私の疑いはもう一歩前へ出て、その性質をあきらめたがりました。

彼は学問なり仕事なりについて、これから自分の進んで行くべき先の明るさをまた取り返した気持ちになったのだろうか。

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彼は学問なり事業なりについて、これから自分の進んで行くべき前途の光明こうみょうを再び取り返した心持になったのだろうか。

ただそれだけならば、Kと私との損得に何のぶつかりも起こる訳はないのです。

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単にそれだけならば、Kと私との利害に何の衝突の起る訳はないのです。

私はかえって世話のしがいがあったのを、うれしく思うくらいなものです。

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私はかえって世話のし甲斐がいがあったのをうれしく思うくらいなものです。

けれども彼の安心がもしお嬢さんに対してであるとすれば、私は決して彼を許すことができなくなるのです。

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けれども彼の安心がもしお嬢さんに対してであるとすれば、私は決して彼を許す事ができなくなるのです。

不思議にも彼は、私がお嬢さんを愛しているそぶりにまったく気がついていないように見えました。

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不思議にも彼は私のお嬢さんを愛している素振そぶりに全く気が付いていないように見えました。

もちろん私も、それがKの目につくようにわざとらしくは振る舞いませんでしたけれども。

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無論私もそれがKの眼に付くようにわざとらしくは振舞いませんでしたけれども。

Kはもともと、そういう点にかけると鈍い人なのです。

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Kは元来そういう点にかけるとにぶい人なのです。

私には最初からKなら大丈夫という安心があったので、彼をわざわざ家へ連れて来たのです。

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私には最初からKなら大丈夫という安心があったので、彼をわざわざうちへ連れて来たのです。

二十九

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二十九

「私は思い切って自分の心をKに打ち明けようとしました。もっともこれは、そのときに始まった訳でもなかったのです。旅に出る前から私にはそうした腹ができていたのですけれども、打ち明ける機会をつかまえることも、その機会を作り出すことも、私のうでではうまく行かなかったのです。今から思うと、そのころ私の周りにいた人はみんな妙でした。女について立ち入った話などをする人は、一人もいませんでした。中には話す種を持たない人もだいぶいたでしょうが、たとえ持っていても黙っているのがふつうのようでした。比較的自由な空気を吸っている今のあなた方から見たら、さぞへんに思われるでしょう。それが道徳の教えの名残なのか、または一種のはずかしさなのか、判断はあなたにまかせておきます。

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「私は思い切って自分の心をKに打ち明けようとしました。もっともこれはその時に始まった訳でもなかったのです。旅に出ない前から、私にはそうした腹ができていたのですけれども、打ち明ける機会をつらまえる事も、その機会を作り出す事も、私の手際てぎわではうまくゆかなかったのです。今から思うと、その頃私の周囲にいた人間はみんな妙でした。女に関して立ち入った話などをするものは一人もありませんでした。中には話すたねをもたないのも大分だいぶいたでしょうが、たといもっていても黙っているのが普通のようでした。比較的自由な空気を呼吸している今のあなたがたから見たら、定めし変に思われるでしょう。それが道学どうがく余習よしゅうなのか、または一種のはにかみなのか、判断はあなたの理解に任せておきます。

Kと私は、何でも話し合える仲でした。

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Kと私は何でも話し合える中でした。

たまには愛とか恋とかいう問題も口に上らないではありませんでしたが、いつでも中身のない理論に落ちてしまうだけでした。

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たまには愛とか恋とかいう問題も、口にのぼらないではありませんでしたが、いつでも抽象的な理論に落ちてしまうだけでした。

それも、めったには話題にならなかったのです。

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それも滅多めったには話題にならなかったのです。

たいていは本の話と学問の話と、未来の仕事と、望みと、心をきたえる話ぐらいで持ちきっていたのです。

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大抵は書物の話と学問の話と、未来の事業と、抱負と、修養の話ぐらいで持ち切っていたのです。

いくら親しくてもこう堅くなった日には、突然調子を崩せるものではありません。

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いくら親しくってもこう堅くなった日には、突然調子をくずせるものではありません。

二人はただ、堅いなりに親しくなるだけです。

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二人はただ堅いなりに親しくなるだけです。

私はお嬢さんのことをKに打ち明けようと思い立ってから、何度歯がゆい不快に悩まされたか知れません。

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私はお嬢さんの事をKに打ち明けようと思い立ってから、何遍なんべん歯がゆい不快に悩まされたか知れません。

私はKの頭のどこか一か所を突き破って、そこから柔らかい空気を吹きこんでやりたい気がしました。

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私はKの頭のどこか一カ所を突き破って、そこから柔らかい空気を吹き込んでやりたい気がしました。

あなた方から見て笑ってしまうようなことも、そのときの私には本当に大変な難しいことだったのです。

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あなたがたから見て笑止千万しょうしせんばんな事もその時の私には実際大困難だったのです。

私は旅先でも、家にいたときと同じように卑怯でした。

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私は旅先でもうちにいた時と同じように卑怯ひきょうでした。

私は始終機会をとらえる気でKを見ていながら、へんに高く構えた彼の態度をどうすることもできなかったのです。

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私は始終機会を捕える気でKを観察していながら、変に高踏的な彼の態度をどうする事もできなかったのです。

私に言わせると、彼の心臓の周りは黒いうるしで重く塗り固められたのも同じでした。

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私にいわせると、彼の心臓の周囲は黒いうるしあつく塗り固められたのも同然でした。

私の注ぎかけようとする血は、一滴もその心臓の中へは入らないで、ことごとくはじき返されてしまうのです。

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私のそそぎ懸けようとする血潮は、一滴もその心臓の中へは入らないで、ことごとはじき返されてしまうのです。

あるときはあまりKの様子が強く高いので、私はかえって安心したこともあります。

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る時はあまりKの様子が強くて高いので、私はかえって安心した事もあります。

そうして自分の疑いを腹の中で後悔するとともに、同じ腹の中でKにわびました。

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そうして自分の疑いを腹の中で後悔すると共に、同じ腹の中で、Kにびました。

わびながら、自分がとても下等な人間のように見えて急に嫌な気持ちになるのです。

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詫びながら自分が非常に下等な人間のように見えて、急にいやな心持になるのです。

しかししばらくすると、前の疑いがまた戻って来て強く打ち返して来ます。

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しかし少時しばらくすると、以前の疑いがまた逆戻りをして、強く打ち返して来ます。

すべてが疑いから出て来るのですから、すべてが私には不利でした。

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すべてが疑いから割り出されるのですから、すべてが私には不利益でした。

顔かたちも、Kの方が女に好かれるように見えました。

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容貌ようぼうもKの方が女に好かれるように見えました。

性質も、私のようにこせこせしていないところが異性には気に入るだろうと思われました。

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性質も私のようにこせこせしていないところが、異性には気に入るだろうと思われました。

どこか間が抜けていて、それでどこかにしっかりした男らしいところのある点も、私よりは勝っているように見えました。

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どこかが抜けていて、それでどこかにしっかりした男らしいところのある点も、私よりは優勢に見えました。

学力になれば専門こそ違いますが、私はもちろんKにかなわないと分かっていました。――

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学力がくりきになれば専門こそ違いますが、私は無論Kの敵でないと自覚していました。――

すべて向こうのいいところだけがこう一度に目の前にちらつき出すと、ちょっと安心した私はすぐ元の不安に戻るのです。

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すべて向うのいところだけがこう一度に眼先めさきへ散らつき出すと、ちょっと安心した私はすぐ元の不安に立ち返るのです。

Kは落ち着かない私の様子を見て、嫌ならひとまず東京へ帰ってもいいと言ったのですが、そう言われると私は急に帰りたくなくなりました。

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Kは落ち付かない私の様子を見て、いやならひとまず東京へ帰ってもいいといったのですが、そういわれると、私は急に帰りたくなくなりました。

実はKを東京へ帰したくなかったのかもしれません。

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実はKを東京へ帰したくなかったのかも知れません。

二人は房州の先の方を回って、向こう側へ出ました。

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二人は房州ぼうしゅうの鼻をまわって向う側へ出ました。

私たちは暑い日にさされながら、苦しい思いをして、上総の、そこまで四キロという当てにならない道案内にだまされながら、うんうん歩きました。

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我々は暑い日にられながら、苦しい思いをして、上総かずさのそこ一里いちりだまされながら、うんうん歩きました。

私には、そうして歩いている意味がまるで分からなかったくらいです。

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私にはそうして歩いている意味がまるでわからなかったくらいです。

私は冗談半分、Kにそう言いました。

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私は冗談じょうだん半分Kにそういいました。

するとKは、足があるから歩くのだと答えました。

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するとKは足があるから歩くのだと答えました。

そうして暑くなると、海に入って行こうと言って、どこでも構わず潮につかりました。

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そうして暑くなると、海に入って行こうといって、どこでも構わずしおつかりました。

その後をまた強い日で照りつけられるのですから、体がだるくてぐたぐたになりました。

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そのあとをまた強い日で照り付けられるのですから、身体からだ倦怠だるくてぐたぐたになりました。

三十

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三十

「こんなふうにして歩いていると、暑さと疲れとで自然、体の調子が狂って来るものです。もっとも病気とは違います。急にほかの体の中へ自分の魂が引っ越したような気分になるのです。私はふだんどおりKと口をききながら、どこかでふだんの気持ちと離れるようになりました。彼に対する親しみもにくしみも、旅の間かぎりという特別な性質を持つふうになったのです。つまり二人は暑さのため、潮のため、また歩くことのため、これまでと違った新しい関係に入ることができたのでしょう。そのときの私たちは、まるで道連れになった行商のようなものでした。いくら話をしてもいつもと違って、頭を使う込み入った問題には触れませんでした。

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「こんなふうにして歩いていると、暑さと疲労とで自然身体からだの調子が狂って来るものです。もっとも病気とは違います。急にひとの身体の中へ、自分の霊魂が宿替やどがえをしたような気分になるのです。わたくし平生へいぜいの通りKと口をきながら、どこかで平生の心持と離れるようになりました。彼に対する親しみも憎しみも、旅中りょちゅうかぎりという特別な性質をびる風になったのです。つまり二人は暑さのため、しおのため、また歩行のため、在来と異なった新しい関係に入る事ができたのでしょう。その時の我々はあたかも道づれになった行商ぎょうしょうのようなものでした。いくら話をしてもいつもと違って、頭を使う込み入った問題には触れませんでした。

私たちはこの調子でとうとう銚子まで行ったのですが、道中たった一つの例外があったのを今でも忘れることができないのです。

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我々はこの調子でとうとう銚子ちょうしまで行ったのですが、道中たった一つの例外があったのを今に忘れる事ができないのです。

まだ房州を離れない前、二人は小湊という所で鯛の浦を見物しました。

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まだ房州を離れない前、二人は小湊こみなとという所で、たいうらを見物しました。

もう年数もよほど経っていますし、それに私にはそれほどきょうみのないことですから、はっきりとは覚えていませんが、何でもそこは日蓮の生まれた村だとかいう話でした。

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もう年数ねんすうもよほどっていますし、それに私にはそれほど興味のない事ですから、判然はんぜんとは覚えていませんが、何でもそこは日蓮にちれんの生れた村だとかいう話でした。

日蓮の生まれた日に、鯛が二匹磯に打ち上げられていたとかいう言い伝えになっているのです。

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日蓮の生れた日に、鯛が二いそに打ち上げられていたとかいう言伝いいつたえになっているのです。

それから村の漁師が鯛を取ることをひかえて今に至ったのだから、浦には鯛がたくさんいるのです。

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それ以来村の漁師が鯛をとる事を遠慮して今に至ったのだから、浦には鯛が沢山いるのです。

私たちは小舟を雇って、その鯛をわざわざ見に出かけたのです。

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我々は小舟をやとって、その鯛をわざわざ見に出掛けたのです。

そのとき私は、ただひたすら波を見ていました。

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その時私はただ一図いちずに波を見ていました。

そうしてその波の中に動く少し紫がかった鯛の色を、面白いものの一つとして飽きずにながめました。

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そうしてその波の中に動く少し紫がかった鯛の色を、面白い現象の一つとして飽かず眺めました。

しかしKは、私ほどそれにきょうみを持てなかったものと見えます。

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しかしKは私ほどそれに興味をもち得なかったものとみえます。

彼は鯛よりも、かえって日蓮の方を頭の中で想像していたらしいのです。

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彼は鯛よりもかえって日蓮の方を頭の中で想像していたらしいのです。

ちょうどそこに、誕生寺という寺がありました。

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ちょうどそこに誕生寺たんじょうじという寺がありました。

日蓮の生まれた村だから誕生寺とでも名をつけたものでしょう、立派な建物でした。

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日蓮の生れた村だから誕生寺とでも名を付けたものでしょう、立派な伽藍がらんでした。

Kはその寺に行って住職に会ってみると言い出しました。

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Kはその寺に行って住持じゅうじに会ってみるといい出しました。

実を言うと、私たちはずいぶんへんな服そうをしていたのです。

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実をいうと、我々はずいぶん変な服装なりをしていたのです。

特にKは風のために帽子を海に吹き飛ばされた結果、すげがさを買ってかぶっていました。

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ことにKは風のために帽子を海に吹き飛ばされた結果、菅笠すげがさを買ってかぶっていました。

着物はもちろん二人とも垢じみた上に、汗で臭くなっていました。

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着物はもとより双方ともあかじみた上に汗でくさくなっていました。

私は、お坊さんなどに会うのはよそうと言いました。

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私は坊さんなどに会うのはそうといいました。

Kは強情だから、聞きません。

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Kは強情ごうじょうだから聞きません。

嫌なら私だけ外に待っていろと言うのです。

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いやなら私だけ外に待っていろというのです。

私は仕方がないからいっしょに玄関に立ちましたが、心のうちではきっとことわられるに違いないと思っていました。

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私は仕方がないからいっしょに玄関にかかりましたが、心のうちではきっと断られるに違いないと思っていました。

ところがお坊さんというものは思いのほかていねいなもので、広い立派な座敷へ私たちを通してすぐ会ってくれました。

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ところが坊さんというものは案外丁寧ていねいなもので、広い立派な座敷へ私たちを通して、すぐ会ってくれました。

その時分の私はKとだいぶ考えが違っていましたから、お坊さんとKの話にそれほど耳をかたむける気も起こりませんでしたが、Kはしきりに日蓮のことを聞いていたようです。

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その時分の私はKと大分だいぶ考えが違っていましたから、坊さんとKの談話にそれほど耳を傾ける気も起りませんでしたが、Kはしきりに日蓮の事を聞いていたようです。

日蓮は草日蓮と言われるくらいで草書がとても上手であったとお坊さんが言ったとき、字の下手なKが、何だつまらないという顔をしたのを、私はまだ覚えています。

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日蓮は草日蓮そうにちれんといわれるくらいで、草書そうしょが大変上手であったと坊さんがいった時、字のまずいKは、何だ下らないという顔をしたのを私はまだ覚えています。

Kはそんなことよりも、もっと深い意味の日蓮が知りたかったのでしょう。

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Kはそんな事よりも、もっと深い意味の日蓮が知りたかったのでしょう。

お坊さんがその点でKを満足させたかどうかは分かりませんが、彼は寺の中を出ると、しきりに私に向かって日蓮のことをあれこれ言い出しました。

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坊さんがその点でKを満足させたかどうかは疑問ですが、彼は寺の境内けいだいを出ると、しきりに私に向って日蓮の事を云々うんぬんし出しました。

私は暑くて疲れて、それどころではありませんでしたから、ただ口の先でいい加減な受け答えをしていました。

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私は暑くて草臥くたびれて、それどころではありませんでしたから、ただ口の先でい加減な挨拶あいさつをしていました。

それもめんどうになって、しまいにはまったく黙ってしまったのです。

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それも面倒になってしまいには全く黙ってしまったのです。

たしかその翌る晩のことだと思いますが、二人は宿へ着いてご飯を食って、もう寝ようという少し前になってから、急に難しい問題を論じ合い出しました。

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たしかそのあくる晩の事だと思いますが、二人は宿へ着いてめしを食って、もう寝ようという少し前になってから、急にむずかしい問題を論じ合い出しました。

Kは昨日自分の方から話しかけた日蓮のことについて、私が取り合わなかったのを快く思っていなかったのです。

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Kは昨日きのう自分の方から話しかけた日蓮の事について、私が取り合わなかったのを、快く思っていなかったのです。

心の上で向上心がない者は馬鹿だと言って、何だか私をさも軽い人間のようにやり込めるのです。

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精神的に向上心がないものは馬鹿だといって、何だか私をさも軽薄もののようにやり込めるのです。

ところが私の胸にはお嬢さんのことがわだかまっていますから、彼の見下すような言葉をただ笑って受け取る訳に行きません。

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ところが私の胸にはお嬢さんの事がわだかまっていますから、彼の侮蔑ぶべつに近い言葉をただ笑って受け取る訳にいきません。

私は私で、言いわけを始めたのです。

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私は私で弁解を始めたのです。

三十一

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三十一

「そのとき私はしきりに人間らしいという言葉を使いました。Kはこの人間らしいという言葉のうちに、私が自分の弱いところのすべてを隠していると言うのです。なるほど後から考えれば、Kの言うとおりでした。しかし人間らしくない意味をKに納得させるためにその言葉を使い出した私には、出発点がもう逆らう気持ちでしたから、それを反省するような余裕はありません。私はなおのこと自分の考えを言い張りました。するとKが、彼のどこをつかまえて人間らしくないと言うのかと私に聞くのです。私は彼に告げました。――君は人間らしいのだ。あるいは人間らし過ぎるかもしれないのだ。けれども口の先だけでは人間らしくないようなことを言うのだ。また人間らしくないように振る舞おうとするのだ。

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「その時私はしきりに人間らしいという言葉を使いました。Kはこの人間らしいという言葉のうちに、私が自分の弱点のすべてを隠しているというのです。なるほど後から考えれば、Kのいう通りでした。しかし人間らしくない意味をKに納得させるためにその言葉を使い出した私には、出立点しゅったつてんがすでに反抗的でしたから、それを反省するような余裕はありません。私はなおの事自説を主張しました。するとKが彼のどこをつらまえて人間らしくないというのかと私に聞くのです。私は彼に告げました。――君は人間らしいのだ。あるいは人間らし過ぎるかも知れないのだ。けれども口の先だけでは人間らしくないような事をいうのだ。また人間らしくないように振舞おうとするのだ。

私がこう言ったとき、彼はただ自分の心のきたえ方が足りないからほかにはそう見えるかもしれないと答えただけで、まるで私に言い返そうとしませんでした。

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私がこういった時、彼はただ自分の修養が足りないから、ひとにはそう見えるかも知れないと答えただけで、一向いっこう私を反駁はんばくしようとしませんでした。

私は張り合いが抜けたというよりも、かえって気の毒になりました。

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私は張合いが抜けたというよりも、かえって気の毒になりました。

私はすぐ、議論をそこで切り上げました。

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私はすぐ議論をそこで切り上げました。

彼の調子も、だんだん沈んで来ました。

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彼の調子もだんだん沈んで来ました。

もし私が彼の知っているとおり昔の人を知るならば、そんな責め方はしないだろうと言って、悲しげにしていました。

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もし私が彼の知っている通り昔の人を知るならば、そんな攻撃はしないだろうといって悵然ちょうぜんとしていました。

Kの口にした昔の人とは、もちろん英雄でもなければ豪傑でもないのです。

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Kの口にした昔の人とは、無論英雄でもなければ豪傑でもないのです。

魂のために体を痛めつけたり、道のために体をむち打ったりした、いわゆる厳しい修行の人を指すのです。

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霊のために肉をしいたげたり、道のためにたいむちうったりしたいわゆる難行苦行なんぎょうくぎょうの人を指すのです。

Kは私に、彼がどのくらいそのために苦しんでいるか分からないのが、いかにも残念だと言い切りました。

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Kは私に、彼がどのくらいそのために苦しんでいるかわからないのが、いかにも残念だと明言しました。

Kと私とは、それきり寝てしまいました。

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Kと私とはそれぎり寝てしまいました。

そうしてその翌る日からまたふつうの行商の様子に戻って、うんうん汗を流しながら歩き出したのです。

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そうしてそのあくる日からまた普通の行商ぎょうしょうの態度に返って、うんうん汗を流しながら歩き出したのです。

しかし私は道々、その晩のことをひょいひょいと思い出しました。

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しかし私は路々みちみちその晩の事をひょいひょいと思い出しました。

私にはこの上もないいい機会が与えられたのに、知らないふりをしてなぜそれをやり過ごしたのだろうという後悔の気持ちが燃えたのです。

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私にはこの上もないい機会が与えられたのに、知らないりをしてなぜそれをやり過ごしたのだろうという悔恨の念が燃えたのです。

私は人間らしいというぼんやりした言葉を使う代わりに、もっとまっすぐで簡単な話をKに打ち明けてしまえばよかったと思い出したのです。

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私は人間らしいという抽象的な言葉を用いる代りに、もっと直截ちょくせつで簡単な話をKに打ち明けてしまえば好かったと思い出したのです。

実を言うと、私がそんな言葉を作り出したのもお嬢さんに対する私の気持ちが土台になっていたのですから、事実をこねて作った理論などをKの耳に吹きこむよりも、元の形そのままを彼の目の前にさらけ出した方が、私にはたしかに得だったでしょう。

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実をいうと、私がそんな言葉を創造したのも、お嬢さんに対する私の感情が土台になっていたのですから、事実を蒸溜じょうりゅうしてこしらえた理論などをKの耳に吹き込むよりも、もとかたちそのままを彼の眼の前に露出した方が、私にはたしかに利益だったでしょう。

私にそれができなかったのは、学問のつき合いが土台を作っている二人の親しみに自然と一種の勢いがあったため、思い切ってそれを突き破るだけの勇気が私に欠けていたのだということを、ここに白状します。

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私にそれができなかったのは、学問の交際が基調を構成している二人の親しみに、おのずから一種の惰性があったため、思い切ってそれを突き破るだけの勇気が私に欠けていたのだという事をここに自白します。

気取り過ぎたと言っても、見えがたたったと言っても同じでしょうが、私の言う気取るとか見えとかいう意味は、ふつうのとは少し違います。

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気取り過ぎたといっても、虚栄心がたたったといっても同じでしょうが、私のいう気取るとか虚栄とかいう意味は、普通のとは少し違います。

それがあなたに通じさえすれば、私は満足なのです。

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それがあなたに通じさえすれば、私は満足なのです。

私たちは真っ黒になって、東京へ帰りました。

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我々は真黒になって東京へ帰りました。

帰ったときは、私の気分がまた変わっていました。

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帰った時は私の気分がまた変っていました。

人間らしいとか人間らしくないとかいう小理屈は、ほとんど頭の中に残っていませんでした。

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人間らしいとか、人間らしくないとかいう小理屈こりくつはほとんど頭の中に残っていませんでした。

Kにも、宗教家らしい様子がまったく見えなくなりました。

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Kにも宗教家らしい様子が全く見えなくなりました。

たぶん彼の心のどこにも、魂がどうの体がどうのという問題はそのとき宿っていなかったでしょう。

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おそらく彼の心のどこにも霊がどうの肉がどうのという問題は、その時宿っていなかったでしょう。

二人はよその国の人のような顔をして、いそがしそうに見える東京をぐるぐるながめました。

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二人は異人種のような顔をして、忙しそうに見える東京をぐるぐるながめました。

それから両国へ来て、暑いのに軍鶏(しゃも。にわとりの一種)を食いました。

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それから両国りょうごくへ来て、暑いのに軍鶏しゃもを食いました。

Kはその勢いで、小石川まで歩いて帰ろうと言うのです。

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Kはそのいきおいで小石川こいしかわまで歩いて帰ろうというのです。

体力から言えばKよりも私の方が強いのですから、私はすぐ応じました。

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体力からいえばKよりも私の方が強いのですから、私はすぐ応じました。

家へ着いたとき、奥さんは二人の姿を見て驚きました。

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うちへ着いた時、奥さんは二人の姿を見て驚きました。

二人はただ色が黒くなったばかりでなく、むやみに歩いていたうちに大変やせてしまったのです。

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二人はただ色が黒くなったばかりでなく、むやみに歩いていたうちに大変せてしまったのです。

奥さんはそれでも、丈夫そうになったと言ってほめてくれるのです。

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奥さんはそれでも丈夫そうになったといってめてくれるのです。

お嬢さんは奥さんの言うことが食いちがっているのがおかしいと言って、また笑い出しました。

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お嬢さんは奥さんの矛盾がおかしいといってまた笑い出しました。

旅行の前、時々腹の立った私も、そのときだけは楽しい気持ちがしました。

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旅行前時々腹の立った私も、その時だけは愉快な心持がしました。

場合が場合なのと、久しぶりに聞いたせいでしょう。

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場合が場合なのと、久しぶりに聞いたせいでしょう。

三十二

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三十二

「そればかりでなく、私はお嬢さんの様子が少し前と変わっているのに気がつきました。久しぶりで旅から帰った私たちがふだんどおり落ち着くまでには、すべてについて女の手が必要だったのですが、その世話をしてくれる奥さんはとにかく、お嬢さんがすべて私の方を先にしてKを後回しにするように見えたのです。それをはっきりやられては、私もこまったかもしれません。場合によってはかえって不快な気持ちさえ起こしかねなかっただろうと思うのですが、お嬢さんのやり方はその点で実にうまかったから、私はうれしかったのです。つまりお嬢さんは私だけに分かるように、持ち前の親切を余分に私の方へ割り当ててくれたのです。だからKは特に嫌な顔もせずに平気でいました。私は心の中でひそかに、彼に勝ったよろこびの声を上げました。

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「それのみならずわたくしはお嬢さんの態度の少し前と変っているのに気が付きました。久しぶりで旅から帰った私たちが平生へいぜいの通り落ち付くまでには、万事について女の手が必要だったのですが、その世話をしてくれる奥さんはとにかく、お嬢さんがすべて私の方を先にして、Kを後廻あとまわしにするように見えたのです。それを露骨にやられては、私も迷惑したかもしれません。場合によってはかえって不快の念さえ起しかねなかったろうと思うのですが、お嬢さんの所作しょさはその点で甚だ要領を得ていたから、私はうれしかったのです。つまりお嬢さんは私だけにわかるように、持前もちまえの親切を余分に私の方へ割りててくれたのです。だからKは別にいやな顔もせずに平気でいました。私は心のうちでひそかに彼に対する愷歌がいかを奏しました。

やがて夏も過ぎて、九月の中ごろから私たちはまた学校の授業に出なければならないことになりました。

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やがて夏も過ぎて九月の中頃なかごろから我々はまた学校の課業に出席しなければならない事になりました。

Kと私とは、それぞれの時間の都合で出入りの時こくにまた早い遅いができて来ました。

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Kと私とは各自てんでんの時間の都合で出入りの刻限にまた遅速ができてきました。

私がKより遅れて帰るときは一週に三度ほどありましたが、いつ帰ってもお嬢さんの姿をKの部屋に見ることはないようになりました。

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私がKよりおくれて帰る時は一週に三度ほどありましたが、いつ帰ってもお嬢さんの影をKのへやに認める事はないようになりました。

Kはいつもの目を私の方に向けて、「今帰ったのか」

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Kは例の眼を私の方に向けて、「今帰ったのか」

を決まりのようにくり返しました。

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を規則のごとく繰り返しました。

私のあいさつも、ほとんど機械のように簡単で、しかも意味のないものでした。

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私の会釈もほとんど器械のごとく簡単でかつ無意味でした。

たしか十月の中ごろと思います。

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たしか十月の中頃と思います。

私は寝ぼうをした結果、和服のまま急いで学校へ出たことがあります。

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私は寝坊ねぼうをした結果、日本服にほんふくのまま急いで学校へ出た事があります。

履物もひもぐつなどを結んでいる時間が惜しいので、草履を突っかけたまま飛び出したのです。

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穿物はきもの編上あみあげなどを結んでいる時間が惜しいので、草履ぞうりを突っかけたなり飛び出したのです。

その日は時間割から言うと、Kよりも私の方が先に帰るはずになっていました。

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その日は時間割からいうと、Kよりも私の方が先へ帰るはずになっていました。

私は戻って来ると、そのつもりで玄関のこう子戸をがらりと開けたのです。

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私は戻って来ると、そのつもりで玄関の格子こうしをがらりと開けたのです。

するといないと思っていたKの声が、ひょいと聞こえました。

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するといないと思っていたKの声がひょいと聞こえました。

同時に、お嬢さんの笑い声が私の耳に響きました。

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同時にお嬢さんの笑い声が私の耳に響きました。

私はいつものように手数のかかるくつをはいていないから、すぐ玄関に上がって仕切りのふすまを開けました。

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私はいつものように手数てかずのかかる靴を穿いていないから、すぐ玄関に上がって仕切しきりふすまを開けました。

私はいつものとおり机の前にすわっているKを見ました。

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私は例の通り机の前にすわっているKを見ました。

しかしお嬢さんは、もうそこにはいなかったのです。

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しかしお嬢さんはもうそこにはいなかったのです。

私はまるでKの部屋から逃れ出るように去る、その後ろ姿をちらりと見ただけでした。

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私はあたかもKのへやからのがれ出るように去るその後姿うしろすがたをちらりと認めただけでした。

私はKに、どうして早く帰ったのかと問いました。

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私はKにどうして早く帰ったのかと問いました。

Kは、気分が悪いから休んだのだと答えました。

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Kは心持が悪いから休んだのだと答えました。

私が自分の部屋に入ってそのまますわっていると、まもなくお嬢さんがお茶を持って来てくれました。

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私が自分の室にはいってそのまま坐っていると、間もなくお嬢さんが茶を持って来てくれました。

そのときお嬢さんは初めて、お帰りなさいと言って私にあいさつをしました。

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その時お嬢さんは始めてお帰りといって私に挨拶あいさつをしました。

私は笑いながら、さっきはなぜ逃げたんですと聞けるようなさばけた男ではありません。

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私は笑いながらさっきはなぜ逃げたんですと聞けるようなさばけた男ではありません。

それでいて腹の中では、何だかそのことが気にかかるような人間だったのです。

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それでいて腹の中では何だかその事が気にかかるような人間だったのです。

お嬢さんはすぐ席を立って、縁側伝いに向こうへ行ってしまいました。

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お嬢さんはすぐ座を立って縁側伝えんがわづたいに向うへ行ってしまいました。

しかしKの部屋の前に立ち止まって、二言三言、内と外とで話をしていました。

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しかしKの室の前に立ち留まって、二言ふたこと三言みこと内と外とで話をしていました。

それはさっきの続きらしかったのですが、前を聞かない私にはまるで分かりませんでした。

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それは先刻さっきの続きらしかったのですが、前を聞かない私にはまるで解りませんでした。

そのうち、お嬢さんの様子がだんだん平気になって来ました。

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そのうちお嬢さんの態度がだんだん平気になって来ました。

Kと私がいっしょに家にいるときでも、よくKの部屋の縁側へ来て彼の名を呼びました。

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Kと私がいっしょにうちにいる時でも、よくKのへやの縁側へ来て彼の名を呼びました。

そうしてそこへ入って、ゆっくりしていました。

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そうしてそこへ入って、ゆっくりしていました。

もちろん郵便を持って来ることもあるし、洗濯物を置いて行くこともあるのですから、そのくらいの行き来は同じ家にいる二人の関係上当たり前と見なければならないのでしょうが、ぜひお嬢さんを自分のものにしたいという強い一念に動かされている私には、どうしてもそれが当たり前以上に見えたのです。

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無論郵便を持って来る事もあるし、洗濯物を置いてゆく事もあるのですから、そのくらいの交通は同じ宅にいる二人の関係上、当然と見なければならないのでしょうが、ぜひお嬢さんを専有したいという強烈な一念に動かされている私には、どうしてもそれが当然以上に見えたのです。

あるときは、お嬢さんがわざわざ私の部屋へ来るのを避けてKの方ばかりへ行くように思われることさえあったくらいです。

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ある時はお嬢さんがわざわざ私の室へ来るのを回避して、Kの方ばかりへ行くように思われる事さえあったくらいです。

それならなぜKに家を出てもらわないのかと、あなたは聞くでしょう。

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それならなぜKに宅を出てもらわないのかとあなたは聞くでしょう。

しかしそうすれば、私がKを無理に引っ張って来た意味がなくなるだけです。

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しかしそうすれば私がKを無理に引張ひっぱって来た主意が立たなくなるだけです。

私には、それができないのです。

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私にはそれができないのです。

三十三

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三十三

「十一月の寒い雨の降る日のことでした。私は外套をぬらして、いつものとおりこんにゃく閻魔を抜けて細い坂道を上り、家へ帰りました。Kの部屋は空でしたけれども、火ばちには足したばかりの火が暖かそうに燃えていました。私も冷たい手を早く赤い炭の上にかざそうと思って、急いで自分の部屋の仕切りを開けました。すると私の火ばちには冷たい灰が白く残っているだけで、火の元さえ尽きているのです。私は急に不愉快になりました。

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「十一月の寒い雨の降る日の事でした。わたくし外套がいとうらして例の通り蒟蒻閻魔こんにゃくえんまを抜けて細い坂路さかみちあがってうちへ帰りました。Kの室は空虚がらんどうでしたけれども、火鉢には継ぎたての火が暖かそうに燃えていました。私も冷たい手を早く赤い炭の上にかざそうと思って、急いで自分の室の仕切しきりを開けました。すると私の火鉢には冷たい灰が白く残っているだけで、火種ひだねさえ尽きているのです。私は急に不愉快になりました。

そのとき私の足音を聞いて出て来たのは、奥さんでした。

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その時私の足音を聞いて出て来たのは、奥さんでした。

奥さんは黙って部屋の真ん中に立っている私を見て、気の毒そうに外套を脱がせてくれたり、和服を着せてくれたりしました。

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奥さんは黙って室の真中に立っている私を見て、気の毒そうに外套を脱がせてくれたり、日本服を着せてくれたりしました。

それから私が寒いと言うのを聞いて、すぐ次の間からKの火ばちを持って来てくれました。

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それから私が寒いというのを聞いて、すぐ次のからKの火鉢を持って来てくれました。

私がKはもう帰ったのかと聞きましたら、奥さんは帰ってまた出たと答えました。

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私がKはもう帰ったのかと聞きましたら、奥さんは帰ってまた出たと答えました。

その日もKは私より遅れて帰る時間割だったのですから、私はどうした訳かと思いました。

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その日もKは私よりおくれて帰る時間割だったのですから、私はどうした訳かと思いました。

奥さんは、おおかた用事でもできたのだろうと言っていました。

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奥さんは大方おおかた用事でもできたのだろうといっていました。

私はしばらくそこにすわったまま、本を読みました。

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私はしばらくそこにすわったまま書見しょけんをしました。

家の中がしんと静まってだれの話し声も聞こえないうちに、初冬の寒さとわびしさとが私の体に食いこむような感じがしました。

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宅の中がしんと静まって、だれの話し声も聞こえないうちに、初冬はつふゆの寒さとびしさとが、私の身体からだに食い込むような感じがしました。

私はすぐ本を伏せて、立ち上がりました。

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私はすぐ書物を伏せて立ち上りました。

私はふと、にぎやかな所へ行きたくなったのです。

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私はふとにぎやかな所へ行きたくなったのです。

雨はやっとやんだようですが、空はまだ冷たい鉛のように重く見えたので、私は用心のためかさを肩に担いで、砲兵工しょうの裏手の土べいに沿って東へ坂を下りました。

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雨はやっとあがったようですが、空はまだ冷たい鉛のように重く見えたので、私は用心のため、じゃを肩にかついで、砲兵ほうへい工廠こうしょうの裏手の土塀どべいについて東へ坂をりました。

その時分はまだ道路の直しができないころなので、坂のかたむきが今よりもずっと急でした。

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その時分はまだ道路の改正ができないころなので、坂の勾配こうばいが今よりもずっと急でした。

道幅も狭くて、ああまっすぐではなかったのです。

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道幅も狭くて、ああ真直まっすぐではなかったのです。

その上あの谷へ下りると、南が高い建物でふさがっているのと水はけがよくないのとで、通りはどろどろでした。

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その上あの谷へ下りると、南が高い建物でふさがっているのと、放水みずはきがよくないのとで、往来はどろどろでした。

特に細い石橋を渡って柳町の通りへ出る間が、ひどかったのです。

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ことに細い石橋を渡って柳町やなぎちょうの通りへ出る間が非道ひどかったのです。

足駄でも長ぐつでも、むやみに歩く訳には行きません。

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足駄あしだでも長靴でもむやみに歩く訳にはゆきません。

だれでも道の真ん中に自然と細長く泥がかき分けられた所を、大事にたどって行かなければならないのです。

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誰でもみちの真中に自然と細長く泥がき分けられた所を、後生ごしょう大事だいじ辿たどって行かなければならないのです。

その幅はわずか三十センチから六十センチしかないのですから、まるで通りに敷いてある帯の上を踏んで向こうへ越すのと同じことです。

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その幅はわずか一、二しゃくしかないのですから、手もなく往来に敷いてある帯の上を踏んで向うへ越すのと同じ事です。

行く人はみんな一列になって、そろそろ通り抜けます。

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行く人はみんな一列になってそろそろ通り抜けます。

私はこの細い帯の上で、ばったりとKに出会いました。

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私はこの細帯の上で、はたりとKに出合いました。

足の方にばかり気を取られていた私は、彼と向き合うまで彼がいることにまるで気がつかずにいたのです。

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足の方にばかり気を取られていた私は、彼と向き合うまで、彼の存在にまるで気が付かずにいたのです。

私は不意に自分の前がふさがったのでたまたま目を上げたとき、初めてそこに立っているKを見たのです。

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私は不意に自分の前がふさがったので偶然眼を上げた時、始めてそこに立っているKを認めたのです。

私はKに、どこへ行ったのかと聞きました。

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私はKにどこへ行ったのかと聞きました。

Kは、ちょっとそこまでと言ったきりでした。

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Kはちょっとそこまでといったぎりでした。

彼の答えはいつものとおり、ふんという調子でした。

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彼の答えはいつもの通りふんという調子でした。

Kと私は、細い帯の上で体をすれ違わせました。

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Kと私は細い帯の上で身体をかわせました。

するとKのすぐ後ろに、一人の若い女が立っているのが見えました。

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するとKのすぐ後ろに一人の若い女が立っているのが見えました。

近眼の私には今までそれがよく分からなかったのですが、Kをやり過ごした後でその女の顔を見ると、それが家のお嬢さんだったので、私は少なからず驚きました。

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近眼の私には、今までそれがよく分らなかったのですが、Kをやり越したあとで、その女の顔を見ると、それがうちのお嬢さんだったので、私は少なからず驚きました。

お嬢さんは少し赤みのさした顔をして、私にあいさつをしました。

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お嬢さんは心持薄赤い顔をして、私に挨拶あいさつをしました。

その時分の束髪は今と違って前が出っ張っていないのです、そうして頭の真ん中にへびのようにぐるぐる巻きつけてあったものです。

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その時分の束髪そくはつは今と違ってひさしが出ていないのです、そうして頭の真中まんなかへびのようにぐるぐる巻きつけてあったものです。

私はぼんやりお嬢さんの頭を見ていましたが、次の一しゅんに、どちらか道をゆずらなければならないのだということに気がつきました。

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私はぼんやりお嬢さんの頭を見ていましたが、次の瞬間に、どっちかみちを譲らなければならないのだという事に気が付きました。

私は思い切って、どろどろの中へ片足踏みこみました。

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私は思い切ってどろどろの中へ片足みました。

そうして比較的通りやすい所を空けて、お嬢さんをわたしてやりました。

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そうして比較的通りやすい所をけて、お嬢さんを渡してやりました。

それから柳町の通りへ出た私は、どこへ行っていいか自分にも分からなくなりました。

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それから柳町の通りへ出た私はどこへ行っていか自分にも分らなくなりました。

どこへ行っても面白くないような気持ちがするのです。

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どこへ行っても面白くないような心持がするのです。

私は泥はねが上がるのも構わずに、ぬかるみの海の中をやけになってどしどし歩きました。

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私は飛泥はねの上がるのも構わずに、ぬかの中を自暴やけにどしどし歩きました。

それからすぐ、家へ帰って来ました。

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それからぐ宅へ帰って来ました。

三十四

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三十四

「私はKに向かって、お嬢さんといっしょに出たのかと聞きました。Kはそうではないと答えました。真砂町で偶然出会ったから連れ立って帰って来たのだと説明しました。私はそれ以上に立ち入った質問をひかえなければなりませんでした。しかし食事のとき、またお嬢さんに向かって同じ問いをかけたくなりました。するとお嬢さんは、私の嫌いな例の笑い方をするのです。そうして、どこへ行ったか当ててみろとしまいに言うのです。そのころの私はまだ怒りやすかったから、そう不真面目に若い女からあつかわれると腹が立ちました。ところがそこに気がつくのは、同じ食たくに着いている者のうちで奥さん一人だったのです。Kはむしろ平気でした。お嬢さんの態度になると、知ってわざとやるのか、知らないで無邪気にやるのか、そこの区別がちょっとはっきりしない点がありました。若い女としてお嬢さんはよく考える方でしたけれども、その若い女に共通な私の嫌いなところも、あると思えば思えなくもなかったのです。そうしてその嫌いなところは、Kが家へ来てから初めて私の目につき出したのです。私はそれをKに対する私のしっとのせいにしていいものか、または私に対するお嬢さんのたくらみと見なしてよいものか、ちょっと判断に迷いました。私は今でも決してそのときの私のしっとの心を打ち消す気はありません。私は度々くり返したとおり、愛の裏側にこの気持ちの働きをはっきり分かっていたのですから。しかもそばの者から見ればほとんど取るに足りない小さなことに、この気持ちが決まって首を持ち上げたがるのでしたから。これは余計なことですが、こういうしっとは愛の半分ではないでしょうか。私は結婚してから、この気持ちがだんだん薄らいで行くのを感じました。その代わり愛の方も、決して元のように激しくはないのです。

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「私はKに向ってお嬢さんといっしょに出たのかと聞きました。Kはそうではないと答えました。真砂町まさごちょうで偶然出会ったから連れ立って帰って来たのだと説明しました。私はそれ以上に立ち入った質問を控えなければなりませんでした。しかし食事の時、またお嬢さんに向って、同じ問いを掛けたくなりました。するとお嬢さんは私の嫌いな例の笑い方をするのです。そうしてどこへ行ったかててみろとしまいにいうのです。そのころの私はまだ癇癪かんしゃくちでしたから、そう不真面目ふまじめに若い女から取り扱われると腹が立ちました。ところがそこに気の付くのは、同じ食卓に着いているもののうちで奥さん一人だったのです。Kはむしろ平気でした。お嬢さんの態度になると、知ってわざとやるのか、知らないで無邪気むじゃきにやるのか、そこの区別がちょっと判然はんぜんしない点がありました。若い女としてお嬢さんは思慮に富んだほうでしたけれども、その若い女に共通な私の嫌いなところも、あると思えば思えなくもなかったのです。そうしてその嫌いなところは、Kが宅へ来てから、始めて私の眼に着き出したのです。私はそれをKに対する私の嫉妬しっとしていいものか、または私に対するお嬢さんの技巧と見傚みなしてしかるべきものか、ちょっと分別に迷いました。私は今でも決してその時の私の嫉妬心を打ち消す気はありません。私はたびたび繰り返した通り、愛の裏面りめんにこの感情の働きを明らかに意識していたのですから。しかもはたのものから見ると、ほとんど取るに足りない瑣事さじに、この感情がきっと首を持ち上げたがるのでしたから。これは余事よじですが、こういう嫉妬しっとは愛の半面じゃないでしょうか。私は結婚してから、この感情がだんだん薄らいで行くのを自覚しました。その代り愛情の方も決して元のように猛烈ではないのです。

私はそれまでためらっていた自分の心を、一思いに相手の胸へたたきつけようかと考え出しました。

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私はそれまで躊躇ちゅうちょしていた自分の心を、一思ひとおもいに相手の胸へたたき付けようかと考え出しました。

私の相手というのはお嬢さんではありません、奥さんのことです。

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私の相手というのはお嬢さんではありません、奥さんの事です。

奥さんに、お嬢さんをくれとはっきり話し合いを始めようかと考えたのです。

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奥さんにお嬢さんをれろと明白な談判を開こうかと考えたのです。

しかしそう決心しながら、一日一日と私は実行の日を延ばして行ったのです。

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しかしそう決心しながら、一日一日と私は断行の日を延ばして行ったのです。

そう言うと私はいかにも決断のない男のように見えます、また見えても構いませんが、実際私が進みかねたのは意志の力が足りなかったためではありません。

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そういうと私はいかにも優柔ゆうじゅうな男のように見えます、また見えても構いませんが、実際私の進みかねたのは、意志の力に不足があったためではありません。

Kの来ないうちは、人の手に乗るのが嫌だという意地が私を押さえつけて、一歩も動けないようにしていました。

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Kの来ないうちは、ひとの手に乗るのがいやだという我慢が私をおさえ付けて、一歩も動けないようにしていました。

Kの来た後は、もしかするとお嬢さんがKの方に気があるのではなかろうかという疑いが、絶えず私を押さえるようになったのです。

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Kの来たのちは、もしかするとお嬢さんがKの方に意があるのではなかろうかという疑念が絶えず私を制するようになったのです。

もしお嬢さんが私よりもKに心をかたむけているならば、この恋は口へ言い出すねうちのないものと、私は決心していたのです。

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はたしてお嬢さんが私よりもKに心を傾けているならば、この恋は口へいい出す価値のないものと私は決心していたのです。

恥をかかされるのがつらいなどというのとは、少し訳が違います。

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恥をかせられるのがつらいなどというのとは少し訳が違います。

こちらでいくら思っても、向こうが心の中でほかの人に愛の目を注いでいるならば、私はそんな女といっしょになるのは嫌なのです。

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こっちでいくら思っても、向うが内心ほかの人に愛のまなこそそいでいるならば、私はそんな女といっしょになるのは厭なのです。

世の中では相手の気持ちに構わず自分の好いた女を嫁にもらって喜んでいる人もありますが、それは私たちよりよほど世間慣れした男か、さもなければ愛の気持ちがよくのみこめない鈍い人のすることと、当時の私は考えていたのです。

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世の中では否応いやおうなしに自分の好いた女を嫁にもらってうれしがっている人もありますが、それは私たちよりよっぽど世間ずれのした男か、さもなければ愛の心理がよくみ込めない鈍物どんぶつのする事と、当時の私は考えていたのです。

一度もらってしまえばどうにか落ち着くものだ、ぐらいの理屈では納得することができないくらい、私は熱くなっていました。

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一度貰ってしまえばどうかこうか落ち付くものだぐらいの哲理では、承知する事ができないくらい私は熱していました。

つまり私は、とても気高い愛の理論家だったのです。

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つまり私は極めて高尚な愛の理論家だったのです。

同時に、もっとも回り道な愛の実行者だったのです。

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同時にもっとも迂遠うえんな愛の実際家だったのです。

肝心のお嬢さんに直接この私というものを打ち明ける機会も、長くいっしょにいるうちには時々出て来たのですが、私はわざとそれを避けました。

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肝心かんじんのお嬢さんに、直接この私というものを打ち明ける機会も、長くいっしょにいるうちには時々出て来たのですが、私はわざとそれを避けました。

日本のならわしとしてそういうことは許されていないのだという思いが、そのころの私には強くありました。

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日本の習慣として、そういう事は許されていないのだという自覚が、その頃の私には強くありました。

しかし、決してそればかりが私をしばったとは言えません。

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しかし決してそればかりが私を束縛したとはいえません。

日本人、特に日本の若い女は、そんな場合に相手に気がねなく自分の思ったとおりを遠慮せずに口にするだけの勇気に乏しいものと、私は思っていたのです。

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日本人、ことに日本の若い女は、そんな場合に、相手に気兼きがねなく自分の思った通りを遠慮せずに口にするだけの勇気に乏しいものと私は見込んでいたのです。

三十五

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三十五

「こんな訳で、私はどちらの方面へ向かっても進むことができずに立ちすくんでいました。体の悪いときに昼寝などをすると、目だけ覚めて周りのものがはっきり見えるのに、どうしても手足の動かせない場合があるでしょう。私はときとしてああいう苦しみを、人知れず感じたのです。

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「こんな訳でわたくしはどちらの方面へ向っても進む事ができずに立ちすくんでいました。身体からだの悪い時に午睡ひるねなどをすると、眼だけめて周囲のものが判然はっきり見えるのに、どうしても手足の動かせない場合がありましょう。私は時としてああいう苦しみを人知れず感じたのです。

そのうち年が暮れて、春になりました。

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そのうち年が暮れて春になりました。

ある日奥さんがKに、かるたをやるからだれか友達を連れて来ないかと言ったことがあります。

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ある日奥さんがKに歌留多かるたをやるからだれか友達を連れて来ないかといった事があります。

するとKはすぐ、友達などは一人もないと答えたので、奥さんは驚いてしまいました。

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するとKはすぐ友達なぞは一人もないと答えたので、奥さんは驚いてしまいました。

なるほどKに友達というほどの友達は、一人もなかったのです。

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なるほどKに友達というほどの友達は一人もなかったのです。

通りで会ったときあいさつをするくらいの者は多少ありましたが、それらだって決してかるたなどを取る間柄ではなかったのです。

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往来で会った時挨拶あいさつをするくらいのものは多少ありましたが、それらだって決して歌留多かるたなどを取るがらではなかったのです。

奥さんは、それじゃ私の知った人でも呼んで来たらどうかと言い直しましたが、私もあいにくそんな明るい遊びをする気持ちになれないので、いい加減な生返事をしたまま、放っておきました。

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奥さんはそれじゃ私の知ったものでも呼んで来たらどうかといい直しましたが、私も生憎あいにくそんな陽気な遊びをする心持になれないので、い加減な生返事なまへんじをしたなり、打ちやっておきました。

ところが晩になって、Kと私はとうとうお嬢さんに引っ張り出されてしまいました。

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ところが晩になってKと私はとうとうお嬢さんに引っ張り出されてしまいました。

お客もだれも来ないのに、家の者の少人数だけで取ろうというかるたですから、とても静かなものでした。

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客も誰も来ないのに、内々うちうち小人数こにんずだけで取ろうという歌留多ですからすこぶる静かなものでした。

その上こういう遊びをやり慣れないKは、まるで手をこまねいている人と同じでした。

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その上こういう遊技をやり付けないKは、まるで懐手ふところでをしている人と同様でした。

私はKに、いったい百人一首の歌を知っているのかとたずねました。

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私はKに一体百人一首ひゃくにんいっしゅの歌を知っているのかと尋ねました。

Kは、よく知らないと答えました。

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Kはよく知らないと答えました。

私の言葉を聞いたお嬢さんは、おおかたKを見下すとでも取ったのでしょう。

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私の言葉を聞いたお嬢さんは、大方おおかたKを軽蔑けいべつするとでも取ったのでしょう。

それから目立つように、Kの味方をし出しました。

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それから眼に立つようにKの加勢をし出しました。

しまいには二人がほとんど組になって、私に当たるという様子になって来ました。

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しまいには二人がほとんど組になって私に当るという有様になって来ました。

私は相手次第では、けんかを始めたかもしれなかったのです。

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私は相手次第では喧嘩けんかを始めたかも知れなかったのです。

さいわいKの態度は、少しも最初と変わりませんでした。

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幸いにKの態度は少しも最初と変りませんでした。

彼のどこにも得意そうな様子を見なかった私は、無事にその場を切り上げることができました。

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彼のどこにも得意らしい様子を認めなかった私は、無事にその場を切り上げる事ができました。

それから二、三日経った後のことでしたろう、奥さんとお嬢さんは朝から市ヶ谷にいる親類の所へ行くと言って家を出ました。

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それから二、三日ったのちの事でしたろう、奥さんとお嬢さんは朝から市ヶ谷にいる親類の所へ行くといってうちを出ました。

Kも私もまだ学校の始まらないころでしたから、留守番のように後に残っていました。

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Kも私もまだ学校の始まらないころでしたから、留守居同様あとに残っていました。

私は本を読むのも散歩に出るのも嫌だったので、ただぼんやりと火ばちの縁にひじを載せて、じっとあごを支えたまま考えていました。

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私は書物を読むのも散歩に出るのもいやだったので、ただ漠然と火鉢のふちひじを載せてじっあごを支えたなり考えていました。

となりの部屋にいるKも、まるで音を立てませんでした。

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となりへやにいるKも一向いっこう音を立てませんでした。

二人ともいるのだかいないのだか分からないくらい、静かでした。

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双方ともいるのだかいないのだか分らないくらい静かでした。

もっともこういうことは二人の間柄として特にめずらしくも何ともなかったのですから、私は特にそれを気にも留めませんでした。

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もっともこういう事は、二人の間柄として別に珍しくも何ともなかったのですから、私は別段それを気にも留めませんでした。

十時ごろになって、Kは不意に仕切りのふすまを開けて私と顔を見合わせました。

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十時頃になって、Kは不意に仕切りのふすまを開けて私と顔を見合みあわせました。

彼は敷居の上に立ったまま、私に何を考えていると聞きました。

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彼は敷居の上に立ったまま、私に何を考えていると聞きました。

私はもちろん、何も考えていなかったのです。

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私はもとより何も考えていなかったのです。

もし考えていたとすれば、いつものとおりお嬢さんが問題だったかもしれません。

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もし考えていたとすれば、いつもの通りお嬢さんが問題だったかも知れません。

そのお嬢さんにはもちろん奥さんもくっついていますが、近ごろではK自身が切り離すことのできない人のように私の頭の中をぐるぐる回って、この問題を複雑にしているのです。

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そのお嬢さんには無論奥さんも食っ付いていますが、近頃ではK自身が切り離すべからざる人のように、私の頭の中をぐるぐるめぐって、この問題を複雑にしているのです。

Kと顔を見合わせた私は、今までぼんやりと彼を一種のじゃま者のように感じていながら、はっきりそうと答える訳に行かなかったのです。

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Kと顔を見合せた私は、今まで朧気おぼろげに彼を一種の邪魔ものの如く意識していながら、明らかにそうと答える訳にいかなかったのです。

私は相変わらず彼の顔を見て、黙っていました。

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私は依然として彼の顔を見て黙っていました。

するとKの方からつかつかと私の部屋へ入って来て、私が当たっている火ばちの前にすわりました。

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するとKの方からつかつかと私の座敷へ入って来て、私のあたっている火鉢の前にすわりました。

私はすぐ両ひじを火ばちの縁から取りのけて、少しそれをKの方へ押しやるようにしました。

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私はすぐ両肱りょうひじを火鉢の縁から取りけて、心持それをKの方へ押しやるようにしました。

Kは、いつもに似合わない話を始めました。

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Kはいつもに似合わない話を始めました。

奥さんとお嬢さんは市ヶ谷のどこへ行ったのだろう、と言うのです。

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奥さんとお嬢さんは市ヶ谷のどこへ行ったのだろうというのです。

私は、おおかたおばさんの所だろうと答えました。

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私は大方叔母おばさんの所だろうと答えました。

Kは、そのおばさんは何だとまた聞きます。

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Kはその叔母さんは何だとまた聞きます。

私は、やはり軍人の奥さんだと教えてやりました。

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私はやはり軍人の細君さいくんだと教えてやりました。

すると、女の年始回りはたいてい十五日過ぎなのに、なぜそんなに早く出かけたのだろうと質問するのです。

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すると女の年始は大抵十五日すぎだのに、なぜそんなに早く出掛けたのだろうと質問するのです。

私は、なぜだか知らないと答えるよりほかに仕方がありませんでした。

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私はなぜだか知らないと挨拶するよりほかに仕方がありませんでした。

三十六

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三十六

「Kはなかなか奥さんとお嬢さんの話をやめませんでした。しまいには私も答えられないような立ち入ったことまで聞くのです。私はめんどうよりも不思議な感じに打たれました。以前私の方から二人を話題にして話しかけたときの彼を思い出すと、私はどうしても彼の調子の変わっているところに気がつかずにはいられないのです。私はとうとう、なぜ今日に限ってそんなことばかり言うのかと彼にたずねました。そのとき彼は突然黙りました。しかし私は、彼の結んだ口元の肉がふるえるように動いているのを見つめました。彼はもともと無口な男でした。ふだんから何か言おうとすると、言う前によく口のあたりをもぐもぐさせるくせがありました。彼のくちびるがわざと彼の気持ちにさからうように簡単には開かないところに、彼の言葉の重みもこもっていたのでしょう。いったん声が口を破って出るとなると、その声にはふつうの人よりも倍の強い力がありました。

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「Kはなかなか奥さんとお嬢さんの話をめませんでした。しまいにはわたくしも答えられないような立ち入った事まで聞くのです。私は面倒よりも不思議の感に打たれました。以前私の方から二人を問題にして話しかけた時の彼を思い出すと、私はどうしても彼の調子の変っているところに気が付かずにはいられないのです。私はとうとうなぜ今日に限ってそんな事ばかりいうのかと彼に尋ねました。その時彼は突然黙りました。しかし私は彼の結んだ口元の肉がふるえるように動いているのを注視しました。彼は元来無口な男でした。平生へいぜいから何かいおうとすると、いう前によく口のあたりをもぐもぐさせるくせがありました。彼の唇がわざと彼の意志に反抗するように容易たやすかないところに、彼の言葉の重みもこもっていたのでしょう。一旦いったん声が口を破って出るとなると、その声には普通の人よりも倍の強い力がありました。

彼の口元をちょっとながめたとき、私はまた何か出て来るなとすぐ気づいたのですが、それがはたして何の準備なのか、私の予感はまるでなかったのです。

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彼の口元をちょっとながめた時、私はまた何か出て来るなとすぐ疳付かんづいたのですが、それがはたしてなんの準備なのか、私の予覚はまるでなかったのです。

だから、驚いたのです。

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だから驚いたのです。

彼の重々しい口から、彼のお嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられたときの私を想像してみてください。

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彼の重々しい口から、彼のお嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた時の私を想像してみて下さい。

私は彼の魔法のつえのために、一度に石にされたようなものです。

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私は彼の魔法棒のために一度に化石されたようなものです。

口をもぐもぐさせる働きさえ、私にはなくなってしまったのです。

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口をもぐもぐさせる働きさえ、私にはなくなってしまったのです。

そのときの私は恐ろしさのかたまりと言いましょうか、または苦しさのかたまりと言いましょうか、何しろ一つのかたまりでした。

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その時の私は恐ろしさのかたまりといいましょうか、または苦しさの塊りといいましょうか、何しろ一つの塊りでした。

石か鉄のように、頭から足の先までが急に固くなったのです。

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石か鉄のように頭から足の先までが急に固くなったのです。

息をする力さえ失われたくらいに、堅くなったのです。

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呼吸をする弾力性さえ失われたくらいに堅くなったのです。

さいわいなことに、その状態は長く続きませんでした。

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幸いな事にその状態は長く続きませんでした。

私は一しゅんの後に、また人間らしい気分を取り戻しました。

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私は一瞬間ののちに、また人間らしい気分を取り戻しました。

そうして、すぐしくじったと思いました。

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そうして、すぐ失策しまったと思いました。

先を越されたなと思いました。

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せんを越されたなと思いました。

しかしその先をどうしようという考えは、まるで起こりません。

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しかしそのさきをどうしようという分別はまるで起りません。

たぶん起こるだけの余裕がなかったのでしょう。

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恐らく起るだけの余裕がなかったのでしょう。

私はわきの下から出る気味の悪い汗が肌着に染み通るのを、じっと我慢して動かずにいました。

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私はわきの下から出る気味のわるい汗が襯衣シャツとおるのをじっと我慢して動かずにいました。

Kはその間いつものとおり重い口を切っては、ぽつりぽつりと自分の心を打ち明けて行きます。

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Kはそのあいだいつもの通り重い口を切っては、ぽつりぽつりと自分の心を打ち明けてゆきます。

私は、苦しくてたまりませんでした。

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私は苦しくってたまりませんでした。

たぶんその苦しさは、大きな広告のように私の顔の上にはっきりした字で貼りつけられてあっただろうと、私は思うのです。

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おそらくその苦しさは、大きな広告のように、私の顔の上に判然はっきりした字でり付けられてあったろうと私は思うのです。

いくらKでもそこに気のつかないはずはないのですが、彼はまた彼で、自分のことにすべてを集めているから私の顔つきなどに注意する暇がなかったのでしょう。

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いくらKでもそこに気の付かないはずはないのですが、彼はまた彼で、自分の事に一切いっさいを集中しているから、私の表情などに注意する暇がなかったのでしょう。

彼の打ち明け話は、最初から最後まで同じ調子でした。

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彼の自白は最初から最後まで同じ調子で貫いていました。

重くて鈍い代わりに、とても簡単なことでは動かせないという感じを私に与えたのです。

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重くてのろい代りに、とても容易な事では動かせないという感じを私に与えたのです。

私の心は半分その打ち明け話を聞いていながら、半分どうしようどうしようという思いに絶えずかき乱されていましたから、細かい点になるとほとんど耳へ入らないのと同じでしたが、それでも彼の口に出す言葉の調子だけは強く胸に響きました。

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私の心は半分その自白を聞いていながら、半分どうしようどうしようという念に絶えずき乱されていましたから、こまかい点になるとほとんど耳へ入らないと同様でしたが、それでも彼の口に出す言葉の調子だけは強く胸に響きました。

そのために私は前に言った苦しみばかりでなく、ときには一種の恐ろしさを感じるようになったのです。

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そのために私は前いった苦痛ばかりでなく、ときには一種の恐ろしさを感ずるようになったのです。

つまり、相手は自分より強いのだという恐れが芽生え始めたのです。

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つまり相手は自分より強いのだという恐怖の念がきざし始めたのです。

Kの話が一通り済んだとき、私は何とも言うことができませんでした。

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Kの話が一通り済んだ時、私は何ともいう事ができませんでした。

こちらも彼の前に同じ意味の打ち明けをしたものだろうか、それとも打ち明けずにいる方が得だろうか、私はそんな損得を考えて黙っていたのではありません。

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こっちも彼の前に同じ意味の自白をしたものだろうか、それとも打ち明けずにいる方が得策だろうか、私はそんな利害を考えて黙っていたのではありません。

ただ、何も言えなかったのです。

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ただ何事もいえなかったのです。

また、言う気にもならなかったのです。

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またいう気にもならなかったのです。

昼ご飯のとき、Kと私は向かい合わせにすわりました。

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午食ひるめしの時、Kと私は向い合せに席を占めました。

お手伝いに給仕をしてもらって、私はいつにないまずいご飯を済ませました。

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下女げじょに給仕をしてもらって、私はいつにない不味まずめしを済ませました。

二人は食事中も、ほとんど口をききませんでした。

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二人は食事中もほとんど口をきませんでした。

奥さんとお嬢さんは、いつ帰るのだか分かりませんでした。

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奥さんとお嬢さんはいつ帰るのだか分りませんでした。

三十七

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三十七

「二人はそれぞれの部屋に引き取ったきり、顔を合わせませんでした。Kの静かなことは、朝と同じでした。私も、じっと考えこんでいました。

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「二人は各自めいめいへやに引き取ったぎり顔を合わせませんでした。Kの静かな事は朝と同じでした。わたくしじっと考え込んでいました。

私は当然、自分の心をKに打ち明けるべきはずだと思いました。

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私は当然自分の心をKに打ち明けるべきはずだと思いました。

しかしそれには、もうときが遅れてしまったという気も起こりました。

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しかしそれにはもう時機がおくれてしまったという気も起りました。

なぜさっきKの言葉をさえぎってこちらから言い返さなかったのか、そこがとても大きな手落ちのように見えて来ました。

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なぜ先刻さっきKの言葉をさえぎって、こっちから逆襲しなかったのか、そこが非常な手落てぬかりのように見えて来ました。

せめてKの後に続いて自分は自分の思うとおりをその場で話してしまったら、まだよかっただろうにとも考えました。

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せめてKのあとに続いて、自分は自分の思う通りをその場で話してしまったら、まだ好かったろうにとも考えました。

Kの打ち明けに一段落がついた今となって、こちらからまた同じことを切り出すのは、どう考えてもへんでした。

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Kの自白に一段落が付いた今となって、こっちからまた同じ事を切り出すのは、どう思案しても変でした。

私はこの不自然さに打ち勝つ方法を知らなかったのです。

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私はこの不自然に打ち勝つ方法を知らなかったのです。

私の頭は、後悔にゆられてぐらぐらしました。

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私の頭は悔恨にられてぐらぐらしました。

私は、Kが再び仕切りのふすまを開けて向こうから突進して来てくれればいいと思いました。

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私はKが再び仕切しきりのふすまけて向うから突進してきてくれればいと思いました。

私に言わせれば、さっきはまるで不意打ちに遭ったも同じでした。

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私にいわせれば、先刻はまるで不意撃ふいうちに会ったも同じでした。

私には、Kに応じる準備も何もなかったのです。

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私にはKに応ずる準備も何もなかったのです。

私は午前に失ったものを、今度は取り戻そうという下心を持っていました。

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私は午前に失ったものを、今度は取り戻そうという下心したごころを持っていました。

それで時々目を上げて、ふすまをながめました。

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それで時々眼を上げて、襖をながめました。

しかしそのふすまは、いつまで経っても開きません。

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しかしその襖はいつまでってもきません。

そうしてKは、いつまでも静かなのです。

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そうしてKは永久に静かなのです。

そのうち私の頭は、だんだんこの静かさにかき乱されるようになって来ました。

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そのうち私の頭は段々この静かさにき乱されるようになって来ました。

Kは今ふすまの向こうで何を考えているだろうと思うと、それが気になってたまらないのです。

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Kは今襖の向うで何を考えているだろうと思うと、それが気になってたまらないのです。

ふだんもこんなふうにお互いが仕切り一枚を間に置いて黙り合っている場合は始終あったのですが、私はKが静かであればあるほど彼のいることを忘れるのがふつうだったのですから、そのときの私はよほど調子が狂っていたものと見なければなりません。

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不断もこんなふうにお互いが仕切一枚を間に置いて黙り合っている場合は始終あったのですが、私はKが静かであればあるほど、彼の存在を忘れるのが普通の状態だったのですから、その時の私はよほど調子が狂っていたものと見なければなりません。

それでいて私は、こちらから進んでふすまを開けることができなかったのです。

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それでいて私はこっちから進んで襖を開ける事ができなかったのです。

いったん言いそびれた私は、また向こうから働きかけられるときを待つよりほかに仕方がなかったのです。

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一旦いったんいいそびれた私は、また向うから働き掛けられる時機を待つよりほかに仕方がなかったのです。

しまいに私は、じっとしていられなくなりました。

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しまいに私はじっとしておられなくなりました。

無理にじっとしていれば、Kの部屋へ飛びこみたくなるのです。

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無理に凝としていれば、Kの部屋へ飛び込みたくなるのです。

私は仕方なしに立って、縁側へ出ました。

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私は仕方なしに立って縁側へ出ました。

そこから茶の間へ来て、何という目的もなく、鉄びんの湯を湯飲みに注いで一杯飲みました。

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そこから茶の間へ来て、何という目的もなく、鉄瓶てつびんの湯を湯呑ゆのみついで一杯呑みました。

それから玄関へ出ました。

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それから玄関へ出ました。

私はわざとKの部屋を避けるようにして、こんなふうに自分を通りの真ん中に見つけたのです。

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私はわざとKの室を回避するようにして、こんな風に自分を往来の真中に見出みいだしたのです。

私にはもちろん、どこへ行くという当てもありません。

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私には無論どこへ行くというあてもありません。

ただ、じっとしていられないだけでした。

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ただじっとしていられないだけでした。

それで方角も何も構わずに、正月の町をむやみに歩き回ったのです。

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それで方角も何も構わずに、正月の町を、むやみに歩きまわったのです。

私の頭は、いくら歩いてもKのことでいっぱいになっていました。

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私の頭はいくら歩いてもKの事でいっぱいになっていました。

私も、Kを振り落とす気で歩き回る訳ではなかったのです。

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私もKをふるい落す気で歩き廻る訳ではなかったのです。

むしろ自分から進んで、彼の姿をかみしめながらうろついていたのです。

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むしろ自分から進んで彼の姿を咀嚼そしゃくしながらうろついていたのです。

私には第一に、彼が分かりにくい男のように見えました。

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私には第一に彼がかいしがたい男のように見えました。

どうしてあんなことを突然私に打ち明けたのか、またどうして打ち明けなければいられないほどに彼の恋がふくらんで来たのか、そうしてふだんの彼はどこに吹き飛ばされてしまったのか、すべて私には分かりにくい問題でした。

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どうしてあんな事を突然私に打ち明けたのか、またどうして打ち明けなければいられないほどに、彼の恋がつのって来たのか、そうして平生の彼はどこに吹き飛ばされてしまったのか、すべて私には解しにくい問題でした。

私は、彼の強いことを知っていました。

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私は彼の強い事を知っていました。

また、彼の真面目なことを知っていました。

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また彼の真面目まじめな事を知っていました。

私はこれから私の取るべき態度を決める前に、彼について聞かなければならないことを多く持っていると信じました。

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私はこれから私の取るべき態度を決する前に、彼について聞かなければならない多くをもっていると信じました。

同時に、これから先彼を相手にするのがへんに気味が悪かったのです。

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同時にこれからさき彼を相手にするのが変に気味が悪かったのです。

私は夢中で町の中を歩きながら、自分の部屋にじっとすわっている彼の姿を始終目の前に思いえがきました。

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私は夢中に町の中を歩きながら、自分の室にじっすわっている彼の容貌ようぼうを始終眼の前にえがき出しました。

しかもいくら私が歩いても彼を動かすことはとうていできないのだという声が、どこかで聞こえるのです。

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しかもいくら私が歩いても彼を動かす事は到底できないのだという声がどこかで聞こえるのです。

つまり私には、彼が一種の魔物のように思えたからでしょう。

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つまり私には彼が一種の魔物のように思えたからでしょう。

私は、永久に彼にたたられたのではなかろうかという気さえしました。

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私は永久彼にたたられたのではなかろうかという気さえしました。

私が疲れて家へ帰ったとき、彼の部屋は相変わらず人の気配のないように静かでした。

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私が疲れてうちへ帰った時、彼の室は依然として人気ひとけのないように静かでした。

三十八

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三十八

「私が家へ入るとまもなく、人力車の音が聞こえました。今のようにゴムの輪のない時分でしたから、がらがら言う嫌な音がかなり遠くでも耳につくのです。車はやがて、門前で止まりました。

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「私が家へはいると間もなくくるまの音が聞こえました。今のように護謨輪ゴムわのない時分でしたから、がらがらいういやひびきがかなりの距離でも耳に立つのです。車はやがて門前で留まりました。

私が夕飯に呼び出されたのはそれから三十分ばかり経った後のことでしたが、まだ奥さんとお嬢さんの晴れ着が脱ぎ捨てられたまま、次の部屋を散らかして彩っていました。

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私が夕飯ゆうめしに呼び出されたのは、それから三十分ばかりったあとの事でしたが、まだ奥さんとお嬢さんの晴着はれぎが脱ぎてられたまま、次の室を乱雑にいろどっていました。

二人は遅くなると私たちに済まないというので、ご飯のしたくに間に合うように急いで帰って来たのだそうです。

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二人は遅くなると私たちに済まないというので、飯の支度に間に合うように、急いで帰って来たのだそうです。

しかし奥さんの親切は、Kと私とにとってほとんど効き目がないのも同じことでした。

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しかし奥さんの親切はKと私とに取ってほとんど無効も同じ事でした。

私は食たくにすわりながら、言葉を惜しむ人のようにそっけない受け答えばかりしていました。

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私は食卓に坐りながら、言葉を惜しがる人のように、素気そっけない挨拶あいさつばかりしていました。

Kは、私よりもなお無口でした。

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Kは私よりもなお寡言かげんでした。

たまに親子連れで外出した女二人の気分がまたふだんよりは晴れやかだったので、私たちの態度はなおのこと目につきます。

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たまに親子連おやこづれで外出した女二人の気分が、また平生へいぜいよりはすぐれて晴れやかだったので、我々の態度はなおの事眼に付きます。

奥さんは私に、どうかしたのかと聞きました。

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奥さんは私にどうかしたのかと聞きました。

私は、少し気分が悪いと答えました。

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私は少し心持が悪いと答えました。

実際、私は気分が悪かったのです。

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実際私は心持が悪かったのです。

すると今度は、お嬢さんがKに同じ問いをかけました。

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すると今度はお嬢さんがKに同じ問いを掛けました。

Kは、私のように気分が悪いとは答えません。

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Kは私のように心持が悪いとは答えません。

ただ、口がききたくないからだと言いました。

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ただ口がきたくないからだといいました。

お嬢さんは、なぜ口がききたくないのかと問いつめました。

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お嬢さんはなぜ口が利きたくないのかと追窮ついきゅうしました。

私はそのときふと重たいまぶたを上げて、Kの顔を見ました。

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私はその時ふと重たいまぶたを上げてKの顔を見ました。

私には、Kが何と答えるだろうかという好きしんがあったのです。

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私にはKが何と答えるだろうかという好奇心があったのです。

Kのくちびるは、いつものように少しふるえていました。

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Kの唇は例のように少しふるえていました。

それが知らない人から見ると、まるで返事に迷っているとしか思われないのです。

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それが知らない人から見ると、まるで返事に迷っているとしか思われないのです。

お嬢さんは笑いながら、また何か難しいことを考えているのだろうと言いました。

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お嬢さんは笑いながらまた何かむずかしい事を考えているのだろうといいました。

Kの顔は、少し赤くなりました。

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Kの顔は心持薄赤くなりました。

その晩私は、いつもより早くふとんへ入りました。

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その晩私はいつもより早くとこへ入りました。

私が食事のとき気分が悪いと言ったのを気にして、奥さんは十時ごろそば湯を持って来てくれました。

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私が食事の時気分が悪いといったのを気にして、奥さんは十時頃蕎麦湯そばゆを持って来てくれました。

しかし私の部屋は、もう真っ暗でした。

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しかし私のへやはもう真暗まっくらでした。

奥さんはおやおやと言って、仕切りのふすまを細めに開けました。

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奥さんはおやおやといって、仕切りのふすまを細目に開けました。

ランプの光がKの机からななめに、ぼんやりと私の部屋にさしこみました。

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洋燈ランプの光がKの机からななめにぼんやりと私の室に差し込みました。

Kはまだ起きていたものと見えます。

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Kはまだ起きていたものとみえます。

奥さんはまくら元にすわって、おおかた風邪を引いたのだろうから体を温めるがいいと言って、湯飲みを顔のそばへ突きつけるのです。

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奥さんは枕元まくらもとに坐って、大方おおかた風邪かぜを引いたのだろうから身体からだあっためるがいいといって、湯呑ゆのみを顔のそばへ突き付けるのです。

私はやむを得ず、どろどろしたそば湯を奥さんの見ている前で飲みました。

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私はやむをえず、どろどろした蕎麦湯を奥さんの見ている前で飲みました。

私は遅くなるまで、暗い中で考えていました。

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私は遅くなるまで暗いなかで考えていました。

もちろん一つの問題をぐるぐる回すだけで、ほかに何の効き目もなかったのです。

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無論一つ問題をぐるぐる廻転かいてんさせるだけで、ほかに何の効力もなかったのです。

私は突然、Kが今となりの部屋で何をしているだろうと思い出しました。

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私は突然Kが今隣りの室で何をしているだろうと思い出しました。

私は半ば知らぬうちに、おいと声をかけました。

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私は半ば無意識においと声を掛けました。

すると向こうでも、おいと返事をしました。

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すると向うでもおいと返事をしました。

Kも、まだ起きていたのです。

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Kもまだ起きていたのです。

私はまだ寝ないのかと、ふすま越しに聞きました。

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私はまだ寝ないのかと襖ごしに聞きました。

もう寝るという、簡単な返事がありました。

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もう寝るという簡単な挨拶あいさつがありました。

何をしているのだと、私は重ねて問いました。

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何をしているのだと私は重ねて問いました。

今度は、Kの答えがありません。

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今度はKの答えがありません。

その代わり五、六分経ったと思うころに、押し入れをがらりと開けてふとんを敷く音が手に取るように聞こえました。

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その代り五、六分経ったと思う頃に、押入おしいれをがらりと開けて、とこを延べる音が手に取るように聞こえました。

私はもう何時かと、またたずねました。

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私はもう何時なんじかとまた尋ねました。

Kは一時二十分だと答えました。

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Kは一時二十分だと答えました。

やがてランプをふっと吹き消す音がして、家中が真っ暗な中にしんと静まりました。

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やがて洋燈ランプをふっと吹き消す音がして、家中うちじゅうが真暗なうちに、しんと静まりました。

しかし私の目は、その暗い中でいよいよさえて来るばかりです。

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しかし私の眼はその暗いなかでいよいよえて来るばかりです。

私はまた半ば知らぬうちに、おいとKに声をかけました。

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私はまた半ば無意識な状態で、おいとKに声を掛けました。

Kも前と同じような調子で、おいと答えました。

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Kも以前と同じような調子で、おいと答えました。

私は今朝彼から聞いたことについてもっとくわしい話をしたいが、彼の都合はどうだと、とうとうこちらから切り出しました。

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私は今朝けさ彼から聞いた事について、もっと詳しい話をしたいが、彼の都合はどうだと、とうとうこっちから切り出しました。

私はもちろんふすま越しにそんな話を交わす気はなかったのですが、Kの返事だけはその場で得られることと考えたのです。

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私は無論襖越ふすまごしにそんな談話を交換する気はなかったのですが、Kの返答だけは即坐に得られる事と考えたのです。

ところがKは、さっきから二度おいと呼ばれて二度おいと答えたような素直な調子で、今度は応じません。

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ところがKは先刻さっきから二度おいと呼ばれて、二度おいと答えたような素直すなおな調子で、今度は応じません。

そうだなあと、低い声でしぶっています。

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そうだなあと低い声で渋っています。

私はまた、はっとさせられました。

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私はまたはっと思わせられました。

三十九

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三十九

「Kの生返事は翌日になってもその翌日になっても、彼の態度によく現れていました。彼は自分から進んで例の問題に触れようとする様子を、決して見せませんでした。もっとも機会もなかったのです。奥さんとお嬢さんがそろって一日家を空けでもしなければ、二人はゆっくり落ち着いてそういうことを話し合う訳にも行かないのですから。私はそれをよく分かっていました。分かっていながら、へんにいらいらし出すのです。その結果、初めは向こうから来るのを待つつもりでそっと用意をしていた私が、折があったらこちらで口を切ろうと決心するようになったのです。

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「Kの生返事なまへんじ翌日よくじつになっても、その翌日になっても、彼の態度によく現われていました。彼は自分から進んで例の問題に触れようとする気色けしきを決して見せませんでした。もっとも機会もなかったのです。奥さんとお嬢さんがそろって一日うちけでもしなければ、二人はゆっくり落ち付いて、そういう事を話し合う訳にも行かないのですから。わたくしはそれをよく心得ていました。心得ていながら、変にいらいらし出すのです。その結果始めは向うから来るのを待つつもりで、あんに用意をしていた私が、折があったらこっちで口を切ろうと決心するようになったのです。

同時に私は、黙って家の人の様子を見てみました。

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同時に私は黙ってうちのものの様子を観察して見ました。

しかし奥さんの態度にもお嬢さんのそぶりにも、特にふだんと変わった点はありませんでした。

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しかし奥さんの態度にもお嬢さんの素振そぶりにも、別に平生へいぜいと変った点はありませんでした。

Kの打ち明け前と打ち明け後とで二人の振る舞いにこれという違いが出ないならば、彼の打ち明けはただ私だけに限られた打ち明けで、肝心の本人にも、またそれを見守る奥さんにもまだ通じていないのはたしかでした。

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Kの自白以前と自白以後とで、彼らの挙動にこれという差違が生じないならば、彼の自白は単に私だけに限られた自白で、肝心かんじんの本人にも、またその監督者たる奥さんにも、まだ通じていないのはたしかでした。

そう考えたとき、私は少し安心しました。

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そう考えた時私は少し安心しました。

それで無理に機会をこしらえてわざとらしく話を持ち出すよりは、自然が与えてくれるものを取り逃さないようにする方がよかろうと思って、例の問題にはしばらく手をつけずにそっとしておくことにしました。

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それで無理に機会をこしらえて、わざとらしく話を持ち出すよりは、自然の与えてくれるものを取り逃さないようにする方が好かろうと思って、例の問題にはしばらく手を着けずにそっとしておく事にしました。

こう言ってしまえば大変簡単に聞こえますが、そうした心の動きには潮の満ち引きと同じようにいろいろの高い低いがあったのです。

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こういってしまえば大変簡単に聞こえますが、そうした心の経過には、しお満干みちひと同じように、色々の高低たかびくがあったのです。

私はKの動かない様子を見て、それにさまざまの意味を付け加えました。

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私はKの動かない様子を見て、それにさまざまの意味を付け加えました。

奥さんとお嬢さんの言葉や動きを見て、二人の心が本当にそこに現れているとおりなのだろうかと疑ってもみました。

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奥さんとお嬢さんの言語動作を観察して、二人の心がはたしてそこに現われている通りなのだろうかとうたがってもみました。

そうして、人間の胸の中に備えられた複雑な機械が、時計の針のようにはっきりと偽りなく盤の上の数字を指せるものだろうかと考えました。

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そうして人間の胸の中に装置された複雑な器械が、時計の針のように、明瞭めいりょういつわりなく、盤上ばんじょうの数字を指しるものだろうかと考えました。

つまり私は同じことをこうも取りああも取りしたあげく、ようやくここに落ち着いたものと思ってください。

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要するに私は同じ事をこうも取り、ああも取りした揚句あげくようやくここに落ち付いたものと思って下さい。

さらに難しく言えば、落ち着くなどという言葉はこの際決して使える筋合いではなかったのかもしれません。

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更にむずかしくいえば、落ち付くなどという言葉は、この際決して使われた義理でなかったのかも知れません。

そのうち、学校がまた始まりました。

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そのうち学校がまた始まりました。

私たちは時間の同じ日には、連れ立って家を出ます。

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私たちは時間の同じ日には連れ立ってうちを出ます。

都合がよければ、帰るときにもやはりいっしょに帰りました。

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都合がよければ帰る時にもやはりいっしょに帰りました。

外から見たKと私は、何も前と違ったところがないように親しくなったのです。

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外部から見たKと私は、何にも前と違ったところがないように親しくなったのです。

けれども腹の中では、それぞれ自分のことを勝手に考えていたに違いありません。

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けれども腹の中では、各自てんでん各自てんでんの事を勝手に考えていたに違いありません。

ある日私は突然、通りでKに詰め寄りました。

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ある日私は突然往来でKに肉薄しました。

私が第一に聞いたのは、この間の打ち明けが私だけに限られているか、または奥さんやお嬢さんにも通じているかの点にあったのです。

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私が第一に聞いたのは、この間の自白が私だけに限られているか、または奥さんやお嬢さんにも通じているかの点にあったのです。

私のこれから取るべき態度は、この問いに対する彼の答え次第で決めなければならないと私は思ったのです。

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私のこれから取るべき態度は、この問いに対する彼の答え次第でめなければならないと、私は思ったのです。

すると彼は、ほかの人にはまだだれにも打ち明けていないと言い切りました。

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すると彼はほかの人にはまだだれにも打ち明けていないと明言しました。

私は事情が自分の思ったとおりだったので、心の中でうれしがりました。

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私は事情が自分の推察通りだったので、内心うれしがりました。

私は、Kが私よりずぶといのをよく知っていました。

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私はKの私より横着なのをよく知っていました。

彼の度きょうにもかなわないという思いがあったのです。

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彼の度胸にもかなわないという自覚があったのです。

けれども一方では、また妙に彼を信じていました。

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けれども一方ではまた妙に彼を信じていました。

学費のことで養子先を三年もだましていた彼ですけれども、彼への信用は私の中で少しも下がっていなかったのです。

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学資の事で養家ようかを三年もあざむいていた彼ですけれども、彼の信用は私に対して少しも損われていなかったのです。

私はそのためにかえって、彼を信じ出したくらいです。

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私はそれがためにかえって彼を信じ出したくらいです。

だからいくら疑い深い私でも、はっきりした彼の答えを腹の中で打ち消す気は起こりようがなかったのです。

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だからいくら疑い深い私でも、明白な彼の答えを腹の中で否定する気は起りようがなかったのです。

私はまた彼に向かって、彼の恋をどうするつもりかとたずねました。

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私はまた彼に向って、彼の恋をどう取り扱うつもりかと尋ねました。

それがただの打ち明けに過ぎないのか、またはその打ち明けに続いて本当の結果も収める気なのかと問うたのです。

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それが単なる自白に過ぎないのか、またはその自白についで、実際的の効果をも収める気なのかと問うたのです。

ところが彼はそこになると、何も答えません。

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しかるに彼はそこになると、何にも答えません。

黙って下を向いて歩き出します。

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黙って下を向いて歩き出します。

私は彼に、隠し立てをしてくれるな、すべて思ったとおりを話してくれと頼みました。

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私は彼にかくし立てをしてくれるな、すべて思った通りを話してくれと頼みました。

彼は、何も私に隠す必要はないとはっきり言い切りました。

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彼は何も私に隠す必要はないと判然はっきり断言しました。

しかし私の知ろうとする点には、一言の返事も与えないのです。

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しかし私の知ろうとする点には、一言いちごんの返事も与えないのです。

私も通りだから、わざわざ立ち止まって底まで問いつめる訳に行きません。

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私も往来だからわざわざ立ち留まってそこまで突き留める訳にいきません。

つい、そのままにしてしまいました。

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ついそれなりにしてしまいました。

四十

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四十

「ある日私は久しぶりに、学校の図書館に入りました。私は広い机の片隅で窓からさす光を半身に受けながら、新しく届いた外国の雑誌をあちらこちらとひっくり返して見ていました。私は担任の先生から専門の学科について、次の週までにあることを調べて来いと言われたのです。しかし私に必要なことがなかなか見つからないので、私は二度も三度も雑誌を借り替えなければなりませんでした。最後に私はやっと自分に必要な論文を探し出して、一心にそれを読み出しました。すると突然、幅の広い机の向こう側から小さな声で私の名を呼ぶ者があります。私はふと目を上げて、そこに立っているKを見ました。Kはその上半身を机の上に折り曲げるようにして、彼の顔を私に近づけました。ご承知のとおり図書館ではほかの人のじゃまになるような大きな声で話をする訳に行かないのですから、Kのこのしぐさはだれでもやるふつうのことなのですが、私はそのときに限って一種へんな気持ちがしました。

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「ある日私は久しぶりに学校の図書館に入りました。私は広い机の片隅で窓から射す光線を半身に受けながら、新着の外国雑誌を、あちらこちらとり返して見ていました。私は担任教師から専攻の学科に関して、次の週までにある事項を調べて来いと命ぜられたのです。しかし私に必要な事柄がなかなか見付からないので、私は二度も三度も雑誌を借り替えなければなりませんでした。最後に私はやっと自分に必要な論文を探し出して、一心にそれを読み出しました。すると突然幅の広い机の向う側から小さな声で私の名を呼ぶものがあります。私はふと眼を上げてそこに立っているKを見ました。Kはその上半身を机の上に折り曲げるようにして、彼の顔を私に近付けました。ご承知の通り図書館ではほかの人の邪魔になるような大きな声で話をする訳にゆかないのですから、Kのこの所作しょさは誰でもやる普通の事なのですが、私はその時に限って、一種変な心持がしました。

Kは低い声で、勉強かと聞きました。

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Kは低い声で勉強かと聞きました。

私は、ちょっと調べ物があるのだと答えました。

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私はちょっと調べものがあるのだと答えました。

それでもKは、まだその顔を私から放しません。

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それでもKはまだその顔を私から放しません。

同じ低い調子で、いっしょに散歩をしないかと言うのです。

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同じ低い調子でいっしょに散歩をしないかというのです。

私は、少し待っていればしてもいいと答えました。

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私は少し待っていればしてもいいと答えました。

彼は待っていると言ったまま、すぐ私の前の空いた席に腰を下ろしました。

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彼は待っているといったまま、すぐ私の前の空席に腰をおろしました。

すると私は気が散って、急に雑誌が読めなくなりました。

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すると私は気が散って急に雑誌が読めなくなりました。

何だかKの胸に思うところがあって、話し合いでもしに来られたように思われて仕方がないのです。

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何だかKの胸に一物いちもつがあって、談判でもしに来られたように思われて仕方がないのです。

私はやむを得ず読みかけた雑誌を伏せて、立ち上がろうとしました。

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私はやむをえず読みかけた雑誌を伏せて、立ち上がろうとしました。

Kは落ち着き払って、もう済んだのかと聞きます。

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Kは落ち付き払ってもう済んだのかと聞きます。

私はどうでもいいのだと答えて、雑誌を返すとともにKと図書館を出ました。

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私はどうでもいいのだと答えて、雑誌を返すと共に、Kと図書館を出ました。

二人は特に行く所もなかったので、竜岡町から池の端へ出て、上野の公園の中へ入りました。

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二人は別に行く所もなかったので、竜岡町たつおかちょうからいけはたへ出て、上野うえのの公園の中へ入りました。

そのとき彼は例の一件について、突然向こうから口を切りました。

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その時彼は例の事件について、突然向うから口を切りました。

前後の様子を合わせて考えると、Kはそのために私をわざわざ散歩に引っ張り出したらしいのです。

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前後の様子を綜合そうごうして考えると、Kはそのために私をわざわざ散歩にしたらしいのです。

けれども彼の態度は、まだ実際の方面へ向かって少しも進んでいませんでした。

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けれども彼の態度はまだ実際的の方面へ向ってちっとも進んでいませんでした。

彼は私に向かって、ただぼんやりと、どう思うと言うのです。

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彼は私に向って、ただ漠然と、どう思うというのです。

どう思うというのは、そうした恋の深みに落ちた彼をどんな目で私がながめるかという質問なのです。

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どう思うというのは、そうした恋愛のふちおちいった彼を、どんな眼で私がながめるかという質問なのです。

一言で言うと、彼は今の自分について私の考えを聞きたいようなのです。

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一言いちごんでいうと、彼は現在の自分について、私の批判を求めたいようなのです。

そこに私は、彼のふだんと違う点をたしかに認めることができたと思いました。

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そこに私は彼の平生へいぜいと異なる点を確かに認める事ができたと思いました。

度々くり返すようですが、彼の生まれつきは他人の思わくを気にするほど弱くできあがってはいなかったのです。

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たびたび繰り返すようですが、彼の天性はひとの思わくをはばかるほど弱くでき上ってはいなかったのです。

こうと信じたら一人でどんどん進んで行くだけの度きょうもあり、勇気もある男なのです。

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こうと信じたら一人でどんどん進んで行くだけの度胸もあり勇気もある男なのです。

養子先の一件でその特ちょうを強く胸の裏にきざみつけられた私が、これは様子が違うとはっきり感じたのは当然の結果なのです。

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養家ようか事件でその特色を強く胸のうちり付けられた私が、これは様子が違うと明らかに意識したのは当然の結果なのです。

私がKに向かって、この際なぜ私の考えが必要なのかとたずねたとき、彼はいつもにも似ないしょんぼりした調子で、自分が弱い人間であるのが本当にはずかしいと言いました。

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私がKに向って、この際んで私の批評が必要なのかと尋ねた時、彼はいつもにも似ない悄然しょうぜんとした口調で、自分の弱い人間であるのが実際恥ずかしいといいました。

そうして迷っているから自分で自分が分からなくなってしまったので、私に公平な考えを聞くよりほかに仕方がないと言いました。

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そうして迷っているから自分で自分が分らなくなってしまったので、私に公平な批評を求めるよりほかに仕方がないといいました。

私はすかさず、迷うという意味を問いただしました。

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私はかさず迷うという意味を聞きただしました。

彼は、進んでいいか退いていいか、それに迷うのだと説明しました。

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彼は進んでいいか退しりぞいていいか、それに迷うのだと説明しました。

私はすぐ、一歩先へ出ました。

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私はすぐ一歩先へ出ました。

そうして、退こうと思えば退けるのかと彼に聞きました。

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そうして退こうと思えば退けるのかと彼に聞きました。

すると彼の言葉が、そこで不意に行き詰まりました。

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すると彼の言葉がそこで不意に行き詰りました。

彼はただ、苦しいと言っただけでした。

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彼はただ苦しいといっただけでした。

実際彼の顔には、苦しそうなところがありありと見えていました。

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実際彼の表情には苦しそうなところがありありと見えていました。

もし相手がお嬢さんでなかったなら、私はどんなに彼に都合のいい返事をそのかわき切った顔の上に恵みの雨のように注いでやったか分りません。

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もし相手がお嬢さんでなかったならば、私はどんなに彼に都合のいい返事を、そのかわき切った顔の上に慈雨じうの如くそそいでやったか分りません。

私はそのくらいの美しい思いやりを持って生まれて来た人間と、自分ながら信じています。

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私はそのくらいの美しい同情をもって生れて来た人間と自分ながら信じています。

しかしそのときの私は、違っていました。

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しかしその時の私は違っていました。

四十一

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四十一

「私はちょうどよその流派と試合でもする人のように、Kを注意して見ていたのです。私は、私の目、私の心、私の体、すべて私という名のつくものを少しのすき間もないように用意して、Kに向かったのです。罪のないKは穴だらけというよりむしろ開けっ放しと言うのがふさわしいくらいに無用心でした。私は彼自身の手から彼の持っている城の地図を受け取って、彼の目の前でゆっくりそれをながめることができたも同じでした。

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「私はちょうど他流試合でもする人のようにKを注意して見ていたのです。私は、私の眼、私の心、私の身体からだ、すべて私という名の付くものを五隙間すきまもないように用意して、Kに向ったのです。罪のないKは穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくらいに無用心でした。私は彼自身の手から、彼の保管している要塞ようさいの地図を受け取って、彼の眼の前でゆっくりそれをながめる事ができたも同じでした。

Kが理想と現実の間をさまよってふらふらしているのを見つけた私は、ただ一打ちで彼を倒すことができるだろうという点にばかり目をつけました。

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Kが理想と現実の間に彷徨ほうこうしてふらふらしているのを発見した私は、ただ一打ひとうちで彼を倒す事ができるだろうという点にばかり眼を着けました。

そうして、すぐ彼のすきにつけこんだのです。

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そうしてすぐ彼のきょに付け込んだのです。

私は彼に向かって、急に厳しく改まった態度を見せ出しました。

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私は彼に向って急に厳粛な改まった態度を示し出しました。

もちろん策略からですが、その態度に合うくらいの張りつめた気分もあったのですから、自分に滑稽だのはずかしさだのを感じる余裕はありませんでした。

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無論策略からですが、その態度に相応するくらいな緊張した気分もあったのですから、自分に滑稽こっけいだの羞恥しゅうちだのを感ずる余裕はありませんでした。

私はまず「心の上で向上心のない者は馬鹿だ」

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私はまず「精神的に向上心のないものは馬鹿ばかだ」

と言い放ちました。

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といい放ちました。

これは二人で房州を旅行しているとき、Kが私に向かって使った言葉です。

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これは二人で房州ぼうしゅうを旅行している際、Kが私に向って使った言葉です。

私は彼の使ったとおりを、彼と同じような調子で再び彼に投げ返したのです。

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私は彼の使った通りを、彼と同じような口調で、再び彼に投げ返したのです。

しかし、決して仕返しではありません。

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しかし決して復讐ふくしゅうではありません。

私は仕返し以上に残こくな意味を持っていたということを、白状します。

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私は復讐以上に残酷な意味をもっていたという事を自白します。

私はその一言で、Kの前にある恋の行く手をふさごうとしたのです。

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私はその一言いちごんでKの前に横たわる恋の行手ゆくてふさごうとしたのです。

Kは、真宗の寺に生まれた男でした。

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Kは真宗寺しんしゅうでらに生れた男でした。

しかし彼のかたむきは、中学時代から決して生まれた家の宗旨に近いものではなかったのです。

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しかし彼の傾向は中学時代から決して生家の宗旨しゅうしに近いものではなかったのです。

教えの上の区別をよく知らない私がこんなことを言う資格に乏しいのは分かっていますが、私はただ男女に関わる点についてのみ、そう思っていたのです。

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教義上の区別をよく知らない私が、こんな事をいう資格に乏しいのは承知していますが、私はただ男女なんにょに関係した点についてのみ、そう認めていたのです。

Kは昔から、精進という言葉が好きでした。

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Kは昔から精進しょうじんという言葉が好きでした。

私はその言葉の中に、欲を断つという意味もこもっているのだろうと考えていました。

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私はその言葉の中に、禁欲きんよくという意味もこもっているのだろうと解釈していました。

しかし後で実際を聞いてみると、それよりもまだ厳しい意味がふくまれているので、私は驚きました。

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しかし後で実際を聞いて見ると、それよりもまだ厳重な意味が含まれているので、私は驚きました。

道のためにはすべてを投げ出すべきものだというのが彼の第一の信じることなのですから、欲を抑えることや欲を断つことはもちろん、たとえ欲を離れた恋そのものでも道のじゃまになるのです。

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道のためにはすべてを犠牲にすべきものだというのが彼の第一信条なのですから、摂欲せつよく禁欲きんよくは無論、たとい欲を離れた恋そのものでも道の妨害さまたげになるのです。

Kが自分で暮らしを立てている時分に、私はよく彼から彼の言い張ることを聞かされたのでした。

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Kが自活生活をしている時分に、私はよく彼から彼の主張を聞かされたのでした。

そのころからお嬢さんを思っていた私は、勢いどうしても彼に反対しなければならなかったのです。

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そのころからお嬢さんを思っていた私は、勢いどうしても彼に反対しなければならなかったのです。

私が反対すると、彼はいつでも気の毒そうな顔をしました。

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私が反対すると、彼はいつでも気の毒そうな顔をしました。

そこには思いやりよりも、見下す気持ちの方が多く出ていました。

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そこには同情よりも侮蔑ぶべつの方が余計に現われていました。

こういう過去を二人の間に通り抜けて来ているのですから、心の上で向上心のない者は馬鹿だという言葉はKにとって痛いに違いなかったのです。

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こういう過去を二人の間に通り抜けて来ているのですから、精神的に向上心のないものは馬鹿だという言葉は、Kに取って痛いに違いなかったのです。

しかし前にも言ったとおり、私はこの一言で彼がせっかく積み上げた過去をけちらしたつもりではありません。

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しかし前にもいった通り、私はこの一言で、彼が折角せっかく積み上げた過去を蹴散けちらしたつもりではありません。

かえってそれを、今までどおり積み重ねて行かせようとしたのです。

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かえってそれを今まで通り積み重ねて行かせようとしたのです。

それが道に達しようが天に届こうが、私は構いません。

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それが道に達しようが、天に届こうが、私は構いません。

私はただ、Kが急に生活の向きを変えて私の損得とぶつかるのを恐れたのです。

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私はただKが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。

つまり私の言葉は、ただの自分勝手な心の表れでした。

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要するに私の言葉は単なる利己心の発現でした。

「心の上で向上心のない者は、馬鹿だ」

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「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」

私は二度、同じ言葉をくり返しました。

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私は二度同じ言葉を繰り返しました。

そうして、その言葉がKにどう響くかを見つめていました。

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そうして、その言葉がKの上にどう影響するかを見詰めていました。

「馬鹿だ」

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「馬鹿だ」

と、やがてKが答えました。

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とやがてKが答えました。

「僕は馬鹿だ」

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「僕は馬鹿だ」

Kはぴたりとそこへ立ち止まったまま、動きません。

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Kはぴたりとそこへ立ちまったまま動きません。

彼は、地面の上を見つめています。

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彼は地面の上を見詰めています。

私は思わず、ぎょっとしました。

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私は思わずぎょっとしました。

私にはKがその一しゅんに、開き直った強盗のように感じられたのです。

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私にはKがその刹那せつな居直いなおり強盗のごとく感ぜられたのです。

しかしそれにしては彼の声がいかにも力に乏しいということに、気がつきました。

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しかしそれにしては彼の声がいかにも力に乏しいという事に気が付きました。

私は彼の目つきを見たかったのですが、彼は最後まで私の顔を見ないのです。

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私は彼の眼遣めづかいを参考にしたかったのですが、彼は最後まで私の顔を見ないのです。

そうして、ゆっくりとまた歩き出しました。

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そうして、徐々そろそろとまた歩き出しました。

四十二

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四十二

「私はKと並んで足を運びながら、彼の口を出る次の言葉を腹の中でひそかに待ちかまえました。あるいは待ち伏せと言った方が、まだふさわしいかもしれません。そのときの私は、たとえKをだまし討ちにしても構わないくらいに思っていたのです。しかし私にも教育を受けたぶんの良心はありますから、もしだれか私のそばへ来てお前は卑怯だと一言ささやいてくれる者があったなら、私はその一しゅんにはっと我に返ったかもしれません。もしKがその人であったなら、私はたぶん彼の前に顔を赤くしたでしょう。ただKは私をたしなめるにはあまりに正直でした。あまりに素直でした。あまりに人がらが善良だったのです。目のくらんだ私はそこに敬いをはらうことを忘れて、かえってそこにつけこんだのです。そこを利用して、彼を打ち倒そうとしたのです。

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「私はKと並んで足を運ばせながら、彼の口を出る次の言葉を腹の中であんに待ち受けました。あるいは待ち伏せといった方がまだ適当かも知れません。その時の私はたといKをだまし打ちにしても構わないくらいに思っていたのです。しかし私にも教育相当の良心はありますから、もし誰か私のそばへ来て、お前は卑怯ひきょうだと一言ひとこと私語ささやいてくれるものがあったなら、私はその瞬間に、はっと我に立ち帰ったかも知れません。もしKがその人であったなら、私はおそらく彼の前に赤面したでしょう。ただKは私をたしなめるには余りに正直でした。余りに単純でした。余りに人格が善良だったのです。目のくらんだ私は、そこに敬意を払う事を忘れて、かえってそこに付け込んだのです。そこを利用して彼を打ち倒そうとしたのです。

Kはしばらくして、私の名を呼んで私の方を見ました。

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Kはしばらくして、私の名を呼んで私の方を見ました。

今度は私の方で、自然と足を止めました。

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今度は私の方で自然と足を留めました。

するとKも、止まりました。

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するとKも留まりました。

私はそのときやっと、Kの目を真正面から見ることができたのです。

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私はその時やっとKの眼を真向まむきに見る事ができたのです。

Kは私より背の高い男でしたから、私は勢い彼の顔を見上げるようにしなければなりません。

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Kは私よりせいの高い男でしたから、私は勢い彼の顔を見上げるようにしなければなりません。

私はそうした態度で、おおかみのような心を罪のない羊に向けたのです。

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私はそうした態度で、おおかみのごとき心を罪のない羊に向けたのです。

「もうその話はやめよう」

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「もうその話はめよう」

と、彼が言いました。

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と彼がいいました。

彼の目にも彼の言葉にも、へんに悲しいところがありました。

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彼の眼にも彼の言葉にも変に悲痛なところがありました。

私はちょっと、返す言葉ができなかったのです。

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私はちょっと挨拶あいさつができなかったのです。

するとKは、「やめてくれ」

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するとKは、「めてくれ」

と、今度は頼むように言い直しました。

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と今度は頼むようにいい直しました。

私はそのとき彼に向かって、残こくな答えを与えたのです。

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私はその時彼に向って残酷な答を与えたのです。

おおかみがすきを見て、羊ののどに食いつくように。

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おおかみすきを見て羊の咽喉笛のどぶえくらい付くように。

「やめてくれって、僕が言い出したことじゃない、もともと君の方から持ち出した話じゃないか。しかし君がやめたければやめてもいいが、ただ口の先でやめたって仕方があるまい。君の心でそれをやめるだけの覚悟がなければ。いったい君は君のふだんの言い張ることをどうするつもりなのか」

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めてくれって、僕がいい出した事じゃない、もともと君の方から持ち出した話じゃないか。しかし君が止めたければ、止めてもいいが、ただ口の先で止めたって仕方があるまい。君の心でそれを止めるだけの覚悟がなければ。一体君は君の平生の主張をどうするつもりなのか」

私がこう言ったとき、背の高い彼は自然と私の前に縮こまって小さくなるような感じがしました。

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私がこういった時、せいの高い彼は自然と私の前に萎縮いしゅくして小さくなるような感じがしました。

彼はいつも話すとおりとても強情な男でしたけれども、一方ではまた人一倍の正直者でしたから、自分の言うことの食いちがいをひどく責められる場合には決して平気でいられないたちだったのです。

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彼はいつも話す通りすこぶ強情ごうじょうな男でしたけれども、一方ではまた人一倍の正直者でしたから、自分の矛盾などをひどく非難される場合には、決して平気でいられないたちだったのです。

私は彼の様子を見て、ようやく安心しました。

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私は彼の様子を見てようやく安心しました。

すると彼は突然「覚悟」

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すると彼は卒然そつぜん「覚悟?」

と聞きました。

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と聞きました。

そうして私がまだ何とも答えない先に「覚悟、――覚悟ならないこともない」

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そうして私がまだ何とも答えない先に「覚悟、――覚悟ならない事もない」

と付け足しました。

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と付け加えました。

彼の調子は、独り言のようでした。

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彼の調子は独言ひとりごとのようでした。

また、夢の中の言葉のようでした。

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また夢の中の言葉のようでした。

二人はそれきり話を切り上げて、小石川の下宿の方に足を向けました。

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二人はそれぎり話を切り上げて、小石川こいしかわの宿の方に足を向けました。

わりあい風のない暖かな日でしたけれども、何しろ冬のことですから、公園の中は寂しいものでした。

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割合に風のない暖かな日でしたけれども、何しろ冬の事ですから、公園のなかはさびしいものでした。

特に霜に打たれて青みを失った杉の木立の茶色が、薄黒い空の中にこずえを並べてそびえているのを振り返って見たときは、寒さが背中へかじりついたような気持ちがしました。

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ことに霜に打たれて蒼味あおみを失った杉の木立こだち茶褐色ちゃかっしょくが、薄黒い空の中に、こずえを並べてそびえているのを振り返って見た時は、寒さが背中へかじり付いたような心持がしました。

私たちは夕暮れの本郷台を急ぎ足でどしどし通り抜けて、また向こうの丘へ上るために小石川の谷へ下りたのです。

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我々は夕暮の本郷台ほんごうだいを急ぎ足でどしどし通り抜けて、また向うのおかのぼるべく小石川の谷へ下りたのです。

私はそのころになって、ようやく外套の下に体の温もりを感じ出したぐらいです。

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私はそのころになって、ようやく外套がいとうの下にたい温味あたたかみを感じ出したぐらいです。

急いだためでもありましょうが、私たちは帰り道にはほとんど口をききませんでした。

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急いだためでもありましょうが、我々は帰りみちにはほとんど口を聞きませんでした。

家へ帰って食たくに向かったとき、奥さんはどうして遅くなったのかとたずねました。

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うちへ帰って食卓に向った時、奥さんはどうして遅くなったのかと尋ねました。

私は、Kにさそわれて上野へ行ったと答えました。

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私はKに誘われて上野うえのへ行ったと答えました。

奥さんは、この寒いのにと言って驚いた様子を見せました。

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奥さんはこの寒いのにといって驚いた様子を見せました。

お嬢さんは、上野に何があったのかと聞きたがります。

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お嬢さんは上野に何があったのかと聞きたがります。

私は何もないが、ただ散歩したのだという返事だけしておきました。

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私は何もないが、ただ散歩したのだという返事だけしておきました。

ふだんから無口なKは、いつもよりなお黙っていました。

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平生へいぜいから無口なKは、いつもよりなお黙っていました。

奥さんが話しかけても、お嬢さんが笑っても、ろくな受け答えはしませんでした。

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奥さんが話しかけても、お嬢さんが笑っても、ろく挨拶あいさつはしませんでした。

それからご飯をのみこむようにかきこんで、私がまだ席を立たないうちに自分の部屋へ引き取りました。

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それからめしみ込むようにき込んで、私がまだ席を立たないうちに、自分のへやへ引き取りました。

四十三

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四十三

「そのころは目覚めとか新しい生活とかいう言葉のまだない時分でした。しかしKが古い自分をさらりと投げ出して、ひたすら新しい方角へ走り出さなかったのは、今の世の人の考えが彼に欠けていたからではないのです。彼には投げ出すことのできないほど尊い過去があったからです。彼はそのために今日まで生きて来たと言ってもいいくらいなのです。だからKがまっすぐに愛の相手に向かって突き進まないと言って、決してその愛が生ぬるいことの証しには行きません。いくら激しい気持ちが燃えていても、彼はむやみに動けないのです。前後を忘れるほどの高まりが起こる機会を彼に与えない以上、Kはどうしてもちょっと踏みとどまって自分の過去を振り返らなければならなかったのです。そうすると、過去が指し示す道を今までどおり歩かなければならなくなるのです。その上彼には、今の世の人の持たない強情と我慢がありました。私はこの両方の点でよく彼の心を見ぬいていたつもりなのです。

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「そのころ覚醒かくせいとか新しい生活とかいう文字もんじのまだない時分でした。しかしKが古い自分をさらりと投げ出して、一意いちいに新しい方角へ走り出さなかったのは、現代人の考えが彼に欠けていたからではないのです。彼には投げ出す事のできないほどたっとい過去があったからです。彼はそのために今日こんにちまで生きて来たといってもいいくらいなのです。だからKが一直線に愛の目的物に向って猛進しないといって、決してその愛の生温なまぬるい事を証拠立てる訳にはゆきません。いくら熾烈しれつな感情が燃えていても、彼はむやみに動けないのです。前後を忘れるほどの衝動が起る機会を彼に与えない以上、Kはどうしてもちょっと踏みとどまって自分の過去を振り返らなければならなかったのです。そうすると過去が指し示すみちを今まで通り歩かなければならなくなるのです。その上彼には現代人のもたない強情ごうじょうと我慢がありました。私はこの双方の点においてよく彼の心を見抜いていたつもりなのです。

上野から帰った晩は、私にとってわりあい安らかな夜でした。

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上野うえのから帰った晩は、私に取って比較的安静なでした。

私はKが部屋へ引き上げた後を追いかけて、彼の机のそばにすわりこみました。

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私はKがへやへ引き上げたあとを追い懸けて、彼の机のそばすわり込みました。

そうして取り留めもない世間話を、わざと彼に仕向けました。

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そうして取り留めもない世間話をわざと彼に仕向けました。

彼は、めいわくそうでした。

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彼は迷惑そうでした。

私の目には勝ったよろこびの色が多少輝いていたでしょう、私の声にはたしかに得意な響きがあったのです。

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私の眼には勝利の色が多少輝いていたでしょう、私の声にはたしかに得意の響きがあったのです。

私はしばらくKと一つ火ばちに手をかざした後、自分の部屋に帰りました。

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私はしばらくKと一つ火鉢に手をかざしたあと、自分の室に帰りました。

ほかのことにかけては何をしても彼にかなわなかった私も、そのときだけは恐れることはないという思いを彼に対して持っていたのです。

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ほかの事にかけては何をしても彼に及ばなかった私も、その時だけは恐るるに足りないという自覚を彼に対してもっていたのです。

私はまもなく、穏やかなねむりに落ちました。

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私はほどなく穏やかな眠りに落ちました。

しかし突然、私の名を呼ぶ声で目を覚ましました。

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しかし突然私の名を呼ぶ声で眼を覚ましました。

見ると、間のふすまが六十センチばかり開いて、そこにKの黒い影が立っています。

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見ると、間のふすまが二しゃくばかりいて、そこにKの黒い影が立っています。

そうして彼の部屋には、宵のとおりまだ明かりがついているのです。

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そうして彼の室にはよいの通りまだ燈火あかりいているのです。

急に世界の変わった私は、少しの間口をきくこともできずに、ぼうっとしてその様子をながめていました。

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急に世界の変った私は、少しのあいだ口をく事もできずに、ぼうっとして、その光景をながめていました。

そのときKは、もう寝たのかと聞きました。

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その時Kはもう寝たのかと聞きました。

Kはいつでも、遅くまで起きている男でした。

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Kはいつでも遅くまで起きている男でした。

私は黒い影のようなKに向かって、何か用かと聞き返しました。

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私は黒い影法師かげぼうしのようなKに向って、何か用かと聞き返しました。

Kは大した用でもない、ただもう寝たかまだ起きているかと思って、便所へ行ったついでに聞いてみただけだと答えました。

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Kは大した用でもない、ただもう寝たか、まだ起きているかと思って、便所へ行ったついでに聞いてみただけだと答えました。

Kはランプの明かりを背中に受けているので、彼の顔色や目つきはまったく私には分かりませんでした。

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Kは洋燈ランプを背中に受けているので、彼の顔色や眼つきは、全く私には分りませんでした。

けれども彼の声は、ふだんよりもかえって落ち着いていたくらいでした。

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けれども彼の声は不断よりもかえって落ち付いていたくらいでした。

Kはやがて、開けたふすまをぴたりと閉め切りました。

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Kはやがて開けた襖をぴたりと立て切りました。

私の部屋は、すぐ元の暗さに戻りました。

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私の室はすぐ元の暗闇くらやみに帰りました。

私はその暗さより静かな夢を見るために、また目を閉じました。

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私はその暗闇より静かな夢を見るべくまた眼を閉じました。

私はそれきり、何も知りません。

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私はそれぎり何も知りません。

しかし翌朝になって昨夜のことを考えてみると、何だか不思議でした。

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しかし翌朝よくあさになって、昨夕ゆうべの事を考えてみると、何だか不思議でした。

私はもしかすると、すべてが夢ではないかと思いました。

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私はことによると、すべてが夢ではないかと思いました。

それでご飯を食うとき、Kに聞きました。

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それでめしを食う時、Kに聞きました。

Kは、たしかにふすまを開けて私の名を呼んだと言います。

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Kはたしかに襖を開けて私の名を呼んだといいます。

なぜそんなことをしたのかとたずねると、特にはっきりした返事もしません。

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なぜそんな事をしたのかと尋ねると、別に判然はっきりした返事もしません。

調子の抜けたころになって、近ごろはよくねむれるのかと、かえって向こうから私に問うのです。

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調子の抜けた頃になって、近頃は熟睡ができるのかとかえって向うから私に問うのです。

私は、何だかへんに感じました。

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私は何だか変に感じました。

その日ちょうど同じ時間に講義の始まる時間割になっていたので、二人はやがていっしょに家を出ました。

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その日ちょうど同じ時間に講義の始まる時間割になっていたので、二人はやがていっしょにうちを出ました。

今朝から昨夜のことが気にかかっている私は、途中でまたKを問いつめました。

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今朝けさから昨夕の事が気にかかっている私は、途中でまたKを追窮ついきゅうしました。

けれどもKは、やはり私を満足させるような答えをしません。

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けれどもKはやはり私を満足させるような答えをしません。

私は、あの一件について何か話すつもりではなかったのかと念を押してみました。

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私はあの事件について何か話すつもりではなかったのかと念を押してみました。

Kはそうではないと、強い調子で言い切りました。

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Kはそうではないと強い調子でいい切りました。

昨日上野で「その話はもうやめよう」

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昨日きのう上野で「その話はもうめよう」

と言ったではないかと、注意するようにも聞こえました。

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といったではないかと注意するごとくにも聞こえました。

Kはそういう点にかけて、鋭いほこりを持った男なのです。

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Kはそういう点に掛けて鋭い自尊心をもった男なのです。

ふとそこに気のついた私は、突然彼の使った「覚悟」

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ふとそこに気のついた私は突然彼の用いた「覚悟」

という言葉を思いうかべました。

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という言葉を連想し出しました。

すると今までまるで気にならなかったその二字が、妙な力で私の頭を押さえ始めたのです。

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すると今までまるで気にならなかったその二字が妙な力で私の頭をおさえ始めたのです。

四十四

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四十四

「Kの思い切りのよい性格は、私によく分かっていました。彼がこの一件についてのみぐずぐずしている訳も、私にはちゃんとのみこめていたのです。つまり私は全体を分かった上で例外の場合をしっかりつかまえたつもりで、得意だったのです。ところが「覚悟」という彼の言葉を頭の中で何度もかみしめているうちに、私の得意はだんだん色を失って、しまいにはぐらぐらゆれ始めるようになりました。私はこの場合も、もしかすると彼にとって例外でないのかもしれないと思い出したのです。すべての疑い、もだえ、悩みを一度に解決する最後の手だてを、彼は胸の中にたたみこんでいるのではなかろうかと疑り始めたのです。そうした新しい光で覚悟の二字をながめ返してみた私は、はっと驚きました。そのときの私がもしこの驚きをもって、もう一度彼の口にした覚悟の中身を公平に見回したなら、まだよかったかもしれません。悲しいことに私は片目でした。私はただ、Kがお嬢さんに対して進んで行くという意味にその言葉を受け取りました。思い切りのよい彼の性格が恋の方面に出るのが、つまり彼の覚悟だろうと一途に思いこんでしまったのです。

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「Kの果断に富んだ性格はわたくしによく知れていました。彼のこの事件についてのみ優柔ゆうじゅうな訳も私にはちゃんとみ込めていたのです。つまり私は一般を心得た上で、例外の場合をしっかりつらまえたつもりで得意だったのです。ところが「覚悟」という彼の言葉を、頭のなかで何遍なんべん咀嚼そしゃくしているうちに、私の得意はだんだん色を失って、しまいにはぐらぐらうごき始めるようになりました。私はこの場合もあるいは彼にとって例外でないのかも知れないと思い出したのです。すべての疑惑、煩悶はんもん懊悩おうのう、を一度に解決する最後の手段を、彼は胸のなかにたたみ込んでいるのではなかろうかとうたぐり始めたのです。そうした新しい光で覚悟の二字をながめ返してみた私は、はっと驚きました。その時の私がもしこの驚きをもって、もう一返いっぺん彼の口にした覚悟の内容を公平に見廻みまわしたらば、まだよかったかも知れません。悲しい事に私は片眼めっかちでした。私はただKがお嬢さんに対して進んで行くという意味にその言葉を解釈しました。果断に富んだ彼の性格が、恋の方面に発揮されるのがすなわち彼の覚悟だろうと一図いちずに思い込んでしまったのです。

私は、私にも最後の決断が必要だという声を心の耳で聞きました。

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私は私にも最後の決断が必要だという声を心の耳で聞きました。

私はすぐその声に応じて、勇気を奮い起こしました。

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私はすぐその声に応じて勇気を振り起しました。

私はKより先に、しかもKの知らない間にことを運ばなくてはならないと覚悟を決めました。

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私はKより先に、しかもKの知らないに、事を運ばなくてはならないと覚悟をめました。

私は黙って、機会をうかがっていました。

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私は黙って機会をねらっていました。

しかし二日経っても三日経っても、私はそれをつかまえることができません。

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しかし二日っても三日経っても、私はそれをつらまえる事ができません。

私はKのいないとき、またお嬢さんの留守な折を待って、奥さんに話し合いを始めようと考えたのです。

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私はKのいない時、またお嬢さんの留守な折を待って、奥さんに談判を開こうと考えたのです。

しかし片方がいなければ片方がじゃまをするといったふうの日ばかり続いて、どうしても「今だ」

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しかし片方がいなければ、片方が邪魔をするといったふうの日ばかり続いて、どうしても「今だ」

と思う好都合が出て来てくれないのです。

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と思う好都合が出て来てくれないのです。

私は、いらいらしました。

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私はいらいらしました。

一週間の後、私はとうとう我慢し切れなくなって仮病を使いました。

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一週間ののち私はとうとう堪え切れなくなって仮病けびょうつかいました。

奥さんからもお嬢さんからもK自身からも起きろとせかされた私は、生返事をしただけで、十時ごろまでふとんをかぶって寝ていました。

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奥さんからもお嬢さんからも、K自身からも、起きろという催促を受けた私は、生返事なまへんじをしただけで、十時ごろまで蒲団ふとんかぶって寝ていました。

私はKもお嬢さんもいなくなって家の中がひっそり静まったころを見計らって、ふとんを出ました。

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私はKもお嬢さんもいなくなって、家のなかがひっそり静まった頃を見計みはからって寝床を出ました。

私の顔を見た奥さんは、すぐどこが悪いかとたずねました。

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私の顔を見た奥さんは、すぐどこが悪いかと尋ねました。

食べ物はまくら元へ運んでやるから、もっと寝ていたらよかろうと忠告してもくれました。

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食物たべもの枕元まくらもとへ運んでやるから、もっと寝ていたらよかろうと忠告してもくれました。

体に悪いところのない私は、とても寝る気にはなれません。

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身体からだに異状のない私は、とても寝る気にはなれません。

顔を洗って、いつものとおり茶の間でご飯を食いました。

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顔を洗っていつもの通り茶の間でめしを食いました。

そのとき奥さんは、長火ばちの向こう側から給仕をしてくれたのです。

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その時奥さんは長火鉢ながひばち向側むこうがわから給仕をしてくれたのです。

私は朝ご飯とも昼ご飯ともつかない茶わんを手に持ったまま、どんなふうに話を切り出したものだろうかとそればかりに気をもんでいたから、見た目には本当に気分のよくない病人らしく見えただろうと思います。

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私は朝飯あさめしとも午飯ひるめしとも片付かない茶椀ちゃわんを手に持ったまま、どんな風に問題を切り出したものだろうかと、そればかりに屈托くったくしていたから、外観からは実際気分のくない病人らしく見えただろうと思います。

私はご飯を終えて、たばこを吸い出しました。

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私は飯をしまって烟草タバコを吹かし出しました。

私が立たないので、奥さんも火ばちのそばを離れる訳に行きません。

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私が立たないので奥さんも火鉢のそばを離れる訳にゆきません。

お手伝いを呼んでお膳を下げさせた上、鉄びんに水を差したり火ばちの縁をふいたりして、私に調子を合わせています。

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下女げじょを呼んでぜんを下げさせた上、鉄瓶てつびんに水をしたり、火鉢のふちいたりして、私に調子を合わせています。

私は奥さんに、特別な用事でもあるのかと問いました。

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私は奥さんに特別な用事でもあるのかと問いました。

奥さんはいいえと答えましたが、今度は向こうでなぜですと聞き返して来ました。

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奥さんはいいえと答えましたが、今度は向うでなぜですと聞き返して来ました。

私は、実は少し話したいことがあるのだと言いました。

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私は実は少し話したい事があるのだといいました。

奥さんは何ですかと言って、私の顔を見ました。

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奥さんは何ですかといって、私の顔を見ました。

奥さんの調子はまるで私の気分に入りこめないような軽いものでしたから、私は次に出すべき言葉も少ししぶりました。

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奥さんの調子はまるで私の気分にはいり込めないような軽いものでしたから、私は次に出すべき文句も少し渋りました。

私は仕方なしに言葉の上でいい加減にうろつき回ったあげく、Kが近ごろ何か言いはしなかったかと奥さんに聞いてみました。

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私は仕方なしに言葉の上で、い加減にうろつきまわった末、Kが近頃ちかごろ何かいいはしなかったかと奥さんに聞いてみました。

奥さんは思いも寄らないというふうをして、「何を」

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奥さんは思いも寄らないという風をして、「何を?」

と、また聞き返して来ました。

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とまた反問して来ました。

そうして私の答える前に、「あなたには何かおっしゃったんですか」

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そうして私の答える前に、「あなたには何かおっしゃったんですか」

と、かえって向こうで聞くのです。

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とかえって向うで聞くのです。

四十五

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四十五

「Kから聞かされた打ち明け話を奥さんに伝える気のなかった私は、「いいえ」と言ってしまった後で、すぐ自分の嘘を快くなく感じました。仕方がないから、特に何も頼まれた覚えはないのだからKに関する用ではないのだと言い直しました。奥さんは「そうですか」と言って、後を待っています。私はどうしても切り出さなければならなくなりました。私は突然「奥さん、お嬢さんを私にください」と言いました。奥さんは私が思っていたほど驚いた様子も見せませんでしたが、それでもしばらく返事ができなかったものと見えて、黙って私の顔をながめていました。一度言い出した私は、いくら顔を見られてもそれに構ってなどはいられません。「ください、ぜひください」と言いました。「私の妻としてぜひください」と言いました。奥さんは年を取っているだけに、私よりもずっと落ち着いていました。「あげてもいいが、あんまり急じゃありませんか」と聞くのです。私が「急にもらいたいのだ」とすぐ答えたら、笑い出しました。そうして「よく考えたのですか」と念を押すのです。私は、言い出したのは突然でも考えたのは突然でないという訳を、強い言葉で説明しました。

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「Kから聞かされた打ち明け話を、奥さんに伝える気のなかった私は、「いいえ」といってしまった後で、すぐ自分のうそこころよからず感じました。仕方がないから、別段何も頼まれた覚えはないのだから、Kに関する用件ではないのだといい直しました。奥さんは「そうですか」といって、あとを待っています。私はどうしても切り出さなければならなくなりました。私は突然「奥さん、お嬢さんを私に下さい」といいました。奥さんは私の予期してかかったほど驚いた様子も見せませんでしたが、それでも少時しばらく返事ができなかったものと見えて、黙って私の顔をながめていました。一度いい出した私は、いくら顔を見られても、それに頓着とんじゃくなどはしていられません。「下さい、ぜひ下さい」といいました。「私の妻としてぜひ下さい」といいました。奥さんは年を取っているだけに、私よりもずっと落ち付いていました。「上げてもいいが、あんまり急じゃありませんか」と聞くのです。私が「急にもらいたいのだ」とすぐ答えたら笑い出しました。そうして「よく考えたのですか」と念を押すのです。私はいい出したのは突然でも、考えたのは突然でないという訳を強い言葉で説明しました。

それからまだ二つ三つのやり取りがありましたが、私はそれを忘れてしまいました。

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それからまだ二つ三つの問答がありましたが、私はそれを忘れてしまいました。

男のようにはっきりしたところのある奥さんは、ふつうの女と違ってこんな場合には大変気持ちよく話のできる人でした。

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男のように判然はきはきしたところのある奥さんは、普通の女と違ってこんな場合には大変心持よく話のできる人でした。

「よろしゅうございます、差し上げましょう」

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ござんす、差し上げましょう」

と言いました。

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といいました。

「差し上げるなんて威張った口のきける身の上ではありません。どうぞもらってください。ご存じのとおり父親のない哀れな子です」

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「差し上げるなんて威張いばった口のける境遇ではありません。どうぞ貰って下さい。ご存じの通り父親のないあわれな子です」

と、後では向こうから頼みました。

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あとでは向うから頼みました。

話は簡単で、しかもはっきり片づいてしまいました。

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話は簡単でかつ明瞭めいりょうに片付いてしまいました。

最初からしまいまでに、たぶん十五分とはかからなかったでしょう。

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最初からしまいまでにおそらく十五分とはかからなかったでしょう。

奥さんは、何の条件も持ち出さなかったのです。

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奥さんは何の条件も持ち出さなかったのです。

親類に相談する必要もない、後からことわればそれで十分だと言いました。

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親類に相談する必要もない、後から断ればそれで沢山だといいました。

本人の気持ちさえたしかめなくてよいと言い切りました。

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本人の意嚮いこうさえたしかめるに及ばないと明言しました。

そんな点になると、学問をした私の方がかえって形にこだわるくらいに思われたのです。

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そんな点になると、学問をした私の方が、かえって形式に拘泥こうでいするくらいに思われたのです。

親類はとにかく、本人には前もって話して承知をもらうのが順序らしいと私が注意したとき、奥さんは「大丈夫です。本人が不承知の所へ、私があの子をやるはずがありませんから」

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親類はとにかく、当人にはあらかじめ話して承諾をるのが順序らしいと私が注意した時、奥さんは「大丈夫です。本人が不承知の所へ、私があの子をやるはずがありませんから」

と言いました。

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といいました。

自分の部屋へ帰った私は、ことがあまりにもすんなり進んだのを考えて、かえってへんな気持ちになりました。

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自分のへやへ帰った私は、事のあまりに訳もなく進行したのを考えて、かえって変な気持になりました。

本当に大丈夫なのだろうかという疑いさえ、どこからか頭の底に這いこんで来たくらいです。

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はたして大丈夫なのだろうかという疑念さえ、どこからか頭の底にい込んで来たくらいです。

けれども大体において、私の未来の運命はこれで決まったのだという思いが、私のすべてを新しくしました。

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けれども大体の上において、私の未来の運命は、これで定められたのだという観念が私のすべてを新たにしました。

私は昼ごろまた茶の間へ出かけて行って、奥さんに、今朝の話をお嬢さんにいつ伝えてくれるつもりかとたずねました。

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私は午頃ひるごろまた茶の間へ出掛けて行って、奥さんに、今朝けさの話をお嬢さんに何時いつ通じてくれるつもりかと尋ねました。

奥さんは、自分さえ承知していればいつ話しても構わなかろうというようなことを言うのです。

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奥さんは、自分さえ承知していれば、いつ話しても構わなかろうというような事をいうのです。

こうなると何だか私よりも相手の方が男みたいなので、私はそれきり引き下がろうとしました。

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こうなると何だか私よりも相手の方が男みたようなので、私はそれぎり引き込もうとしました。

すると奥さんが私を引き止めて、もし早い方がよいなら今日でもいい、稽古から帰って来たらすぐ話そうと言うのです。

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すると奥さんが私を引き留めて、もし早い方が希望ならば、今日でもいい、稽古けいこから帰って来たら、すぐ話そうというのです。

私は、そうしてもらう方が都合がいいと答えて、また自分の部屋に帰りました。

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私はそうしてもらう方が都合がいと答えてまた自分の室に帰りました。

しかし黙って自分の机の前にすわって二人のこそこそ話を遠くから聞いている私を想像してみると、何だか落ち着いていられないような気もするのです。

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しかし黙って自分の机の前にすわって、二人のこそこそ話を遠くから聞いている私を想像してみると、何だか落ち付いていられないような気もするのです。

私はとうとう帽子をかぶって、表へ出ました。

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私はとうとう帽子をかぶって表へ出ました。

そうして、また坂の下でお嬢さんに行き合いました。

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そうしてまた坂の下でお嬢さんに行き合いました。

何も知らないお嬢さんは、私を見て驚いたらしかったのです。

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何にも知らないお嬢さんは私を見て驚いたらしかったのです。

私が帽子を取って「今お帰りですか」

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私が帽子をって「今お帰り」

とたずねると、向こうではもう病気は治ったのかと不思議そうに聞くのです。

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と尋ねると、向うではもう病気はなおったのかと不思議そうに聞くのです。

私は「ええ治りました、治りました」

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私は「ええ癒りました、癒りました」

と答えて、ずんずん水道橋の方へ曲ってしまいました。

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と答えて、ずんずん水道橋すいどうばしの方へ曲ってしまいました。

四十六

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四十六

「私は猿楽町から神保町の通りへ出て、小川町の方へ曲りました。私がこのあたりを歩くのはいつも古本屋をひやかすのが目的でしたが、その日は手ずれのした本などをながめる気がどうしても起こらないのです。私は歩きながら、絶えず家のことを考えていました。私にはさっきの奥さんの記憶がありました。それからお嬢さんが家へ帰ってからの想像がありました。私はつまり、この二つのもので歩かせられていたようなものです。その上私は時々通りの真ん中で、我知らずふと立ち止まりました。そうして、今ごろは奥さんがお嬢さんにもうあの話をしている時分だろうなどと考えました。またあるときは、もうあの話が済んだころだとも思いました。

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「私は猿楽町さるがくちょうから神保町じんぼうちょうの通りへ出て、小川町おがわまちの方へ曲りました。私がこの界隈かいわいを歩くのは、いつも古本屋をひやかすのが目的でしたが、その日は手摺てずれのした書物などをながめる気が、どうしても起らないのです。私は歩きながら絶えずうちの事を考えていました。私には先刻さっきの奥さんの記憶がありました。それからお嬢さんが宅へ帰ってからの想像がありました。私はつまりこの二つのもので歩かせられていたようなものです。その上私は時々往来の真中で我知らずふと立ち留まりました。そうして今頃は奥さんがお嬢さんにもうあの話をしている時分だろうなどと考えました。またる時は、もうあの話が済んだ頃だとも思いました。

私はとうとう万世橋を渡って、明神の坂を上がって、本郷台へ来て、それからまた菊坂を下りて、しまいに小石川の谷へ下りたのです。

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私はとうとう万世橋まんせいばしを渡って、明神みょうじんの坂を上がって、本郷台ほんごうだいへ来て、それからまた菊坂きくざかを下りて、しまいに小石川こいしかわの谷へ下りたのです。

私の歩いた道はこの三つの区にまたがっていびつな円を描いたとも言えるでしょうが、私はこの長い散歩の間ほとんどKのことを考えなかったのです。

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私の歩いた距離はこの三区にまたがって、いびつな円をえがいたともいわれるでしょうが、私はこの長い散歩の間ほとんどKの事を考えなかったのです。

今そのときの私を振り返って、なぜだと自分に聞いてみてもまるで分かりません。

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今その時の私を回顧して、なぜだと自分に聞いてみても一向いっこう分りません。

ただ不思議に思うだけです。

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ただ不思議に思うだけです。

私の心がKを忘れられるくらい一方に張りつめていたと見ればそれまでですが、私の良心がまたそれを許すはずはなかったのですから。

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私の心がKを忘れるくらい、一方に緊張していたとみればそれまでですが、私の良心がまたそれを許すべきはずはなかったのですから。

Kに対する私の良心がよみがえったのは、私が家のこう子戸を開けて玄関から部屋へ通るとき、つまりいつものように彼の部屋を抜けようとした一しゅんでした。

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Kに対する私の良心が復活したのは、私が宅の格子こうしを開けて、玄関から坐敷ざしきへ通る時、すなわち例のごとく彼のへやを抜けようとした瞬間でした。

彼はいつものとおり机に向かって本を読んでいました。

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彼はいつもの通り机に向って書見をしていました。

彼はいつものとおり本から目を放して、私を見ました。

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彼はいつもの通り書物から眼を放して、私を見ました。

しかし彼はいつものとおり、今帰ったのかとは言いませんでした。

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しかし彼はいつもの通り今帰ったのかとはいいませんでした。

彼は「病気はもういいのか、医者へでも行ったのか」

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彼は「病気はもういのか、医者へでも行ったのか」

と聞きました。

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と聞きました。

私はその一しゅんに、彼の前に手をついてわびたくなったのです。

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私はその刹那せつなに、彼の前に手を突いて、あやまりたくなったのです。

しかも私の受けたそのときの打ちのめされ方は、決して弱いものではなかったのです。

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しかも私の受けたその時の衝動は決して弱いものではなかったのです。

もしKと私がたった二人、広い野の真ん中にでも立っていたなら、私はきっと良心の言うことに従ってその場で彼に謝ったろうと思います。

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もしKと私がたった二人曠野こうやの真中にでも立っていたならば、私はきっと良心の命令に従って、その場で彼に謝罪したろうと思います。

しかし奥には、人がいます。

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しかし奥には人がいます。

私の自然な気持ちは、すぐそこで食い止められてしまったのです。

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私の自然はすぐそこで食い留められてしまったのです。

そうして悲しいことに、永久によみがえりませんでした。

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そうして悲しい事に永久に復活しなかったのです。

夕飯のとき、Kと私はまた顔を合わせました。

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夕飯ゆうめしの時Kと私はまた顔を合せました。

何も知らないKはただ沈んでいただけで、少しも疑い深い目を私に向けません。

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何にも知らないKはただ沈んでいただけで、少しも疑い深い眼を私に向けません。

何も知らない奥さんは、いつもよりうれしそうでした。

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何にも知らない奥さんはいつもよりうれしそうでした。

私だけが、すべてを知っていたのです。

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私だけがすべてを知っていたのです。

私は、鉛のようなご飯を食いました。

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私は鉛のような飯を食いました。

そのときお嬢さんは、いつものようにみんなと同じ食たくに並びませんでした。

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その時お嬢さんはいつものようにみんなと同じ食卓に並びませんでした。

奥さんがせかすと、次の部屋でただ今と答えるだけでした。

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奥さんが催促すると、次の室で只今ただいまと答えるだけでした。

それをKは、不思議そうに聞いていました。

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それをKは不思議そうに聞いていました。

しまいに、どうしたのかと奥さんにたずねました。

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しまいにどうしたのかと奥さんに尋ねました。

奥さんはおおかたきまりが悪いのだろうと言って、ちょっと私の顔を見ました。

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奥さんは大方おおかたきまりが悪いのだろうといって、ちょっと私の顔を見ました。

Kはなお不思議そうに、なぜきまりが悪いのかと問いつめにかかりました。

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Kはなお不思議そうに、なんで極りが悪いのかと追窮ついきゅうしにかりました。

奥さんはほほえみながら、また私の顔を見るのです。

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奥さんは微笑しながらまた私の顔を見るのです。

私は食たくに着いた初めから、奥さんの顔つきでことの成り行きをだいたい分かっていました。

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私は食卓に着いた初めから、奥さんの顔付かおつきで、事の成行なりゆきをほぼ推察していました。

しかしKに説明を与えるために私のいる前でそれをすべて話されてはたまらないと考えました。

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しかしKに説明を与えるために、私のいる前で、それをことごとく話されてはたまらないと考えました。

奥さんはまたそのくらいのことを平気でする女なのですから、私はひやひやしたのです。

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奥さんはまたそのくらいの事を平気でする女なのですから、私はひやひやしたのです。

さいわいKは、また元の黙りに戻りました。

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幸いにKはまた元の沈黙に帰りました。

ふだんより多少機げんのよかった奥さんも、とうとう私が恐れているところまでは話を進めずに終わりました。

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平生へいぜいより多少機嫌のよかった奥さんも、とうとう私の恐れをいだいている点までは話を進めずにしまいました。

私はほっと一息して、部屋へ帰りました。

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私はほっと一息ひといきして室へ帰りました。

しかし私がこれから先Kに対して取るべき態度はどうしたものだろうか、私はそれを考えずにはいられませんでした。

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しかし私がこれから先Kに対して取るべき態度は、どうしたものだろうか、私はそれを考えずにはいられませんでした。

私はいろいろの言いわけを、自分の胸でこしらえてみました。

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私は色々の弁護を自分の胸でこしらえてみました。

けれどもどの言いわけもKに対して面と向かうには足りませんでした、卑怯な私はついに自分で自分をKに説明するのが嫌になったのです。

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けれどもどの弁護もKに対して面と向うには足りませんでした、卑怯ひきょうな私はついに自分で自分をKに説明するのがいやになったのです。

四十七

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四十七

「私はそのまま二、三日過ごしました。その二、三日の間、Kに対する絶えない不安が私の胸を重くしていたのは言うまでもありません。私はただでさえ何とかしなければ彼に済まないと思ったのです。その上奥さんの調子やお嬢さんの態度が始終私を突っつくようにしげきするのですから、私はなおつらかったのです。どこか男らしい気性を備えた奥さんは、いつ私のことを食たくでKにばらさないとも限りません。それから特に目立つように思えた私に対するお嬢さんの立ち居振る舞いも、Kの心を曇らす疑いの種とならないとは言い切れません。私は何とかして、私とこの家族との間にできた新しい関係をKに知らせなければならない立場に立ちました。しかし正しさの上で弱いところを持っていると自分で自分を認めている私には、それがまたとても難しいことのように感じられたのです。

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「私はそのまま二、三日過ごしました。その二、三日の間Kに対する絶えざる不安が私の胸を重くしていたのはいうまでもありません。私はただでさえ何とかしなければ、彼に済まないと思ったのです。その上奥さんの調子や、お嬢さんの態度が、始終私を突ッつくように刺戟しげきするのですから、私はなおつらかったのです。どこか男らしい気性をそなえた奥さんは、いつ私の事を食卓でKにすっぱ抜かないとも限りません。それ以来ことに目立つように思えた私に対するお嬢さんの挙止動作きょしどうさも、Kの心を曇らす不審の種とならないとは断言できません。私は何とかして、私とこの家族との間に成り立った新しい関係を、Kに知らせなければならない位置に立ちました。しかし倫理的に弱点をもっていると、自分で自分を認めている私には、それがまた至難の事のように感ぜられたのです。

私は仕方がないから、奥さんに頼んでKに改めてそう言ってもらおうかと考えました。

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私は仕方がないから、奥さんに頼んでKに改めてそういってもらおうかと考えました。

もちろん、私のいないときにです。

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無論私のいない時にです。

しかしありのままを告げられては、自分が言うか人が言うかの区別があるだけで、面目のないのに変わりはありません。

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しかしありのままを告げられては、直接と間接の区別があるだけで、面目めんぼくのないのに変りはありません。

と言って、作り事を話してもらおうとすれば、奥さんからその理由を問いつめられるに決まっています。

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といって、こしらえ事を話してもらおうとすれば、奥さんからその理由を詰問きつもんされるにきまっています。

もし奥さんにすべての事情を打ち明けて頼むとすれば、私は好んで自分の弱いところを自分の愛する人とその母親の前にさらけ出さなければなりません。

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もし奥さんにすべての事情を打ち明けて頼むとすれば、私は好んで自分の弱点を自分の愛人とその母親の前にさらけ出さなければなりません。

真面目な私には、それが私の先の信用に関わるとしか思われなかったのです。

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真面目まじめな私には、それが私の未来の信用に関するとしか思われなかったのです。

結婚する前から恋人の信用を失うのは、たとえほんのわずかでも私には耐えられない不幸のように見えました。

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結婚する前から恋人の信用を失うのは、たとい一りんでも、私には堪え切れない不幸のように見えました。

つまり私は、正直な道を歩くつもりでつい足を滑らした馬鹿者でした。

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要するに私は正直なみちを歩くつもりで、つい足を滑らした馬鹿ものでした。

または、ずるい男でした。

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もしくは狡猾こうかつな男でした。

そうしてそこに気のついている者は、今のところただ天と私の心だけだったのです。

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そうしてそこに気のついているものは、今のところただ天と私の心だけだったのです。

しかし立ち直ってもう一歩前へ踏み出そうとするには、今滑ったことをぜひとも周りの人に知られなければならない苦しい立場になったのです。

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しかし立ち直って、もう一歩前へ踏み出そうとするには、今滑った事をぜひとも周囲の人に知られなければならない窮境きゅうきょうおちいったのです。

私はあくまで、滑ったことを隠したがりました。

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私はあくまで滑った事を隠したがりました。

同時に、どうしても前へ出ずにはいられなかったのです。

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同時に、どうしても前へ出ずにはいられなかったのです。

私はこの間に挟まって、また立ちすくみました。

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私はこの間にはさまってまたすくみました。

五、六日経った後、奥さんは突然私に向かって、Kにあのことを話したかと聞くのです。

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五、六日ったのち、奥さんは突然私に向って、Kにあの事を話したかと聞くのです。

私は、まだ話さないと答えました。

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私はまだ話さないと答えました。

すると、なぜ話さないのかと奥さんが私を責めるのです。

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するとなぜ話さないのかと、奥さんが私をなじるのです。

私はこの問いの前に、固くなりました。

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私はこの問いの前に固くなりました。

そのとき奥さんが私を驚かした言葉を、私は今でも忘れずに覚えています。

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その時奥さんが私を驚かした言葉を、私は今でも忘れずに覚えています。

「道理で私が話したら変な顔をしていましたよ。あなたもよくないじゃありませんか。ふだんあんなに親しくしている間柄なのに、黙って知らん顔をしているのは」

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「道理でわたしが話したら変な顔をしていましたよ。あなたもよくないじゃありませんか。平生へいぜいあんなに親しくしている間柄だのに、黙って知らん顔をしているのは」

私は、Kがそのとき何か言いはしなかったかと奥さんに聞きました。

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私はKがその時何かいいはしなかったかと奥さんに聞きました。

奥さんは、特に何も言わないと答えました。

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奥さんは別段何にもいわないと答えました。

しかし私は、進んでもっと細かいことをたずねずにはいられませんでした。

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しかし私は進んでもっとこまかい事を尋ねずにはいられませんでした。

奥さんはもちろん、何も隠す訳がありません。

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奥さんはもとより何も隠す訳がありません。

大した話もないがと言いながら、一つ一つKの様子を語って聞かせてくれました。

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大した話もないがといいながら、一々Kの様子を語って聞かせてくれました。

奥さんの言うところを合わせて考えてみると、Kはこの最後の打撃をもっとも落ち着いた驚きでむかえたらしいのです。

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奥さんのいうところを綜合そうごうして考えてみると、Kはこの最後の打撃を、最も落ち付いた驚きをもって迎えたらしいのです。

Kはお嬢さんと私との間に結ばれた新しい関係について、最初はそうですかとただ一言言っただけだったそうです。

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Kはお嬢さんと私との間に結ばれた新しい関係について、最初はそうですかとただ一口ひとくちいっただけだったそうです。

しかし奥さんが、「あなたも喜んでください」

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しかし奥さんが、「あなたも喜んで下さい」

と言ったとき、彼は初めて奥さんの顔を見てほほえみをもらしながら、「おめでとうございます」

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と述べた時、彼ははじめて奥さんの顔を見て微笑をらしながら、「おめでとうございます」

と言ったまま席を立ったそうです。

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といったまま席を立ったそうです。

そうして茶の間の障子を開ける前に、また奥さんを振り返って、「結婚はいつですか」

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そうして茶の間の障子しょうじを開ける前に、また奥さんを振り返って、「結婚はいつですか」

と聞いたそうです。

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と聞いたそうです。

それから「何かお祝いを上げたいが、私は金がないから上げることができません」

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それから「何かお祝いを上げたいが、私は金がないから上げる事ができません」

と言ったそうです。

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といったそうです。

奥さんの前にすわっていた私は、その話を聞いて胸がふさがるような苦しさを覚えました。

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奥さんの前にすわっていた私は、その話を聞いて胸がふさがるような苦しさを覚えました。

四十八

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四十八

「数えてみると、奥さんがKに話をしてからもう二日余りになります。その間Kは私に対して少しも前と違った様子を見せなかったので、私はまったくそれに気がつかずにいたのです。彼の落ち着き払った態度は、たとえ見た目だけにもせよ立派だと私は考えました。彼と私を頭の中で並べてみると、彼の方がはるかに立派に見えました。「おれは策略で勝っても人間としては負けたのだ」という感じが、私の胸にうずを巻いて起こりました。私はそのときさぞKが見下していることだろうと思って、一人で顔を赤らめました。しかし今さらKの前に出て恥をかかされるのは、私のほこりにとって大きな苦しみでした。

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「勘定して見ると奥さんがKに話をしてからもう二日余りになります。その間Kは私に対して少しも以前と異なった様子を見せなかったので、私は全くそれに気が付かずにいたのです。彼の超然とした態度はたとい外観だけにもせよ、敬服にあたいすべきだと私は考えました。彼と私を頭の中で並べてみると、彼の方がはるかに立派に見えました。「おれは策略で勝っても人間としては負けたのだ」という感じが私の胸に渦巻いて起りました。私はその時さぞKが軽蔑けいべつしている事だろうと思って、一人で顔をあからめました。しかし今更Kの前に出て、恥をかせられるのは、私の自尊心にとって大いな苦痛でした。

私が進もうかよそうかと考えて、ともかくも翌日まで待とうと決心したのは土曜の晩でした。

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私が進もうかそうかと考えて、ともかくも翌日あくるひまで待とうと決心したのは土曜の晩でした。

ところがその晩に、Kは自分で命を絶って死んでしまったのです。

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ところがその晩に、Kは自殺して死んでしまったのです。

私は今でもその様子を思い出すと、ぞっとします。

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私は今でもその光景を思い出すと慄然ぞっとします。

いつも東を頭にして寝る私がその晩に限って偶然西を頭にしてふとんを敷いたのも、何かの縁かもしれません。

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いつも東枕ひがしまくらで寝る私が、その晩に限って、偶然西枕にとこを敷いたのも、何かの因縁いんねんかも知れません。

私はまくら元から吹きこむ寒い風で、ふと目を覚ましたのです。

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私は枕元から吹き込む寒い風でふと眼を覚ましたのです。

見ると、いつも閉め切ってあるKと私の部屋との仕切りのふすまが、この間の晩と同じくらい開いています。

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見ると、いつも立て切ってあるKと私のへやとの仕切しきりふすまが、この間の晩と同じくらいいています。

けれどもこの間のように、Kの黒い姿はそこには立っていません。

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けれどもこの間のように、Kの黒い姿はそこには立っていません。

私は何かに知らされた人のように、ふとんの上にひじをついて起き上がりながら、きっとKの部屋をのぞきました。

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私は暗示を受けた人のように、床の上にひじを突いて起き上がりながら、きっとKの室をのぞきました。

ランプが、暗くついているのです。

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洋燈ランプが暗くともっているのです。

それで、ふとんも敷いてあるのです。

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それで床も敷いてあるのです。

しかし掛けぶとんは、はね返されたように足の方に重なり合っているのです。

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しかし掛蒲団かけぶとん跳返はねかえされたようにすその方に重なり合っているのです。

そうしてK自身は、向こう向きにうつ伏せているのです。

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そうしてK自身は向うむきにしているのです。

私はおいと言って、声をかけました。

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私はおいといって声を掛けました。

しかし、何の答えもありません。

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しかし何の答えもありません。

おいどうかしたのかと、私はまたKを呼びました。

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おいどうかしたのかと私はまたKを呼びました。

それでもKの体は、少しも動きません。

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それでもKの身体からだちっとも動きません。

私はすぐ起き上がって、敷居際まで行きました。

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私はすぐ起き上って、敷居際しきいぎわまで行きました。

そこから彼の部屋の様子を、暗いランプの光で見回してみました。

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そこから彼の室の様子を、暗い洋燈ランプの光で見廻みまわしてみました。

そのとき私の受けた第一の感じは、Kから突然恋の打ち明けを聞かされたときのそれとだいたい同じでした。

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その時私の受けた第一の感じは、Kから突然恋の自白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。

私の目は彼の部屋の中を一目見るとすぐ、まるでガラスで作った作りの目のように動く力を失いました。

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私の眼は彼の室の中を一目ひとめ見るやいなや、あたかも硝子ガラスで作った義眼のように、動く能力を失いました。

私は、棒立ちに立ちすくみました。

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私は棒立ぼうだちにすくみました。

それが強い風のように私を通り過ぎた後で、私はまた、ああしくじったと思いました。

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それが疾風しっぷうのごとく私を通過したあとで、私はまたああ失策しまったと思いました。

もう取り返しがつかないという黒い光が私の未来をつらぬいて、一しゅんに私の前にある一生をものすごく照らしました。

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もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯を物凄ものすごく照らしました。

そうして私は、がたがたふるえ出したのです。

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そうして私はがたがたふるえ出したのです。

それでも私は、ついに自分のことを忘れることができませんでした。

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それでも私はついに私を忘れる事ができませんでした。

私はすぐ、机の上に置いてある手紙に目をつけました。

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私はすぐ机の上に置いてある手紙に眼を着けました。

それは思ったとおり、私のあて名になっていました。

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それは予期通り私の名宛なあてになっていました。

私は夢中で、封を切りました。

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私は夢中で封を切りました。

しかし中には、私が思っていたようなことは何も書いてありませんでした。

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しかし中には私の予期したような事は何にも書いてありませんでした。

私は、私にとってどんなにつらい言葉がその中に書き並べてあるだろうと思っていたのです。

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私は私に取ってどんなにつらい文句がその中に書きつらねてあるだろうと予期したのです。

そうして、もしそれが奥さんやお嬢さんの目に触れたら、どんなに見下されるかもしれないという恐れがあったのです。

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そうして、もしそれが奥さんやお嬢さんの眼に触れたら、どんなに軽蔑されるかも知れないという恐怖があったのです。

私はちょっと目を通しただけで、まず助かったと思いました。

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私はちょっと眼を通しただけで、まず助かったと思いました。

(もちろん世間の目の上だけで助かったのですが、その世間の目がこの場合、私にとってはとても大きなことに見えたのです。)

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もとより世間体せけんていの上だけで助かったのですが、その世間体がこの場合、私にとっては非常な重大事件に見えたのです。)

手紙の中身は、簡単でした。

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手紙の内容は簡単でした。

そうして、むしろぼんやりしていました。

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そうしてむしろ抽象的でした。

自分は意志が弱く行いも伴わないからとうてい先の望みがないので、自分で命を絶つというだけなのです。

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自分は薄志弱行はくしじゃっこうで到底行先ゆくさきの望みがないから、自殺するというだけなのです。

それから今まで私に世話になった礼が、ごくあっさりとした言葉でその後に付け足してありました。

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それから今まで私に世話になった礼が、ごくあっさりとした文句でそのあとに付け加えてありました。

世話ついでに死んだ後の片づけ方も頼みたいという言葉もありました。

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世話ついでに死後の片付方かたづけかたも頼みたいという言葉もありました。

奥さんにめいわくをかけて済まないから、よろしくわびをしてくれという言葉もありました。

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奥さんに迷惑を掛けて済まんからよろしくわびをしてくれという句もありました。

国もとへは私から知らせてもらいたいという頼みもありました。

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国元へは私から知らせてもらいたいという依頼もありました。

必要なことはみんな一言ずつ書いてある中に、お嬢さんの名前だけはどこにも見えません。

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必要な事はみんな一口ひとくちずつ書いてある中にお嬢さんの名前だけはどこにも見えません。

私はしまいまで読んで、すぐKがわざと避けたのだということに気がつきました。

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私はしまいまで読んで、すぐKがわざと回避したのだという事に気が付きました。

しかし私がもっとも強く感じたのは、最後に墨の余りで書き足したらしく見える、もっと早く死ぬべきだったのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の言葉でした。

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しかし私のもっとも痛切に感じたのは、最後にすみの余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句でした。

私はふるえる手で手紙を巻き収めて、また封の中へ入れました。

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私はふるえる手で、手紙を巻き収めて、再び封の中へ入れました。

私はわざとそれをみんなの目につくように、元のとおり机の上に置きました。

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私はわざとそれをみんなの眼に着くように、元の通り机の上に置きました。

そうして振り返って、ふすまに飛び散っている血を初めて見たのです。

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そうして振り返って、ふすまほとばしっている血潮を始めて見たのです。

四十九

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四十九

「私は突然Kの頭をかかえるように、両手で少し持ち上げました。私はKの死んだ顔が一目見たかったのです。しかしうつ伏せになっている彼の顔をこうして下からのぞきこんだとき、私はすぐその手を放してしまいました。ぞっとしたばかりではないのです。彼の頭がとても重たく感じられたのです。私は上から、今触った冷たい耳と、ふだんと変わらない短くかった濃い髪の毛をしばらくながめていました。私は少しも泣く気にはなれませんでした。私はただ恐ろしかったのです。そうしてその恐ろしさは、目の前の様子が感じにしげきを与えて起こる単純な恐ろしさばかりではありません。私は突然冷たくなったこの友達によって知らされた運命の恐ろしさを、深く感じたのです。

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「私は突然Kの頭をかかえるように両手で少し持ち上げました。私はKの死顔しにがお一目ひとめ見たかったのです。しかし俯伏うつぶしになっている彼の顔を、こうして下からのぞき込んだ時、私はすぐその手を放してしまいました。ぞっとしたばかりではないのです。彼の頭が非常に重たく感ぜられたのです。私は上から今さわった冷たい耳と、平生へいぜいに変らない五分刈ごぶがりの濃い髪の毛を少時しばらくながめていました。私は少しも泣く気にはなれませんでした。私はただ恐ろしかったのです。そうしてその恐ろしさは、眼の前の光景が官能を刺激しげきして起る単調な恐ろしさばかりではありません。私は忽然こつぜんと冷たくなったこの友達によって暗示された運命の恐ろしさを深く感じたのです。

私は何の考えもなく、また私の部屋に帰りました。

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私は何の分別ふんべつもなくまた私のへやに帰りました。

そうして、八畳の中をぐるぐる回り始めました。

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そうして八畳の中をぐるぐるまわり始めました。

私の頭は、意味がなくても当分そうして動いていろと私に命じるのです。

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私の頭は無意味でも当分そうして動いていろと私に命令するのです。

私は、どうかしなければならないと思いました。

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私はどうかしなければならないと思いました。

同時に、もうどうすることもできないのだと思いました。

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同時にもうどうする事もできないのだと思いました。

部屋の中をぐるぐる回らなければいられなくなったのです。

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座敷の中をぐるぐる廻らなければいられなくなったのです。

おりの中へ入れられた熊のような様子で。

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おりの中へ入れられたくまのような態度で。

私は時々奥へ行って、奥さんを起こそうという気になります。

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私は時々奥へ行って奥さんを起そうという気になります。

けれども女にこの恐ろしい様子を見せては悪いという気持ちが、すぐ私を止めます。

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けれども女にこの恐ろしい有様を見せては悪いという心持がすぐ私をさえぎります。

奥さんはとにかく、お嬢さんを驚かすことはとてもできないという強い気持ちが、私を押さえつけます。

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奥さんはとにかく、お嬢さんを驚かす事は、とてもできないという強い意志が私をおさえつけます。

私はまた、ぐるぐる回り始めるのです。

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私はまたぐるぐる廻り始めるのです。

私はその間に、自分の部屋のランプをつけました。

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私はその間に自分の室の洋燈ランプけました。

それから時計を、折々見ました。

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それから時計を折々見ました。

そのときの時計ほど、進まない遅いものはありませんでした。

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その時の時計ほどらちかない遅いものはありませんでした。

私の起きた時間は正確に分からないのですけれども、もう夜明けに間もなかったことだけは明らかです。

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私の起きた時間は、正確に分らないのですけれども、もう夜明よあけもなかった事だけは明らかです。

ぐるぐる回りながらその夜明けを待ちこがれた私は、永久に暗い夜が続くのではなかろうかという思いに悩まされました。

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ぐるぐるまわりながら、その夜明を待ちこがれた私は、永久に暗い夜が続くのではなかろうかという思いに悩まされました。

私たちは、七時前に起きる習慣でした。

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我々は七時前に起きる習慣でした。

学校は八時に始まることが多いので、それでないと授業に間に合わないのです。

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学校は八時に始まる事が多いので、それでないと授業に間に合わないのです。

お手伝いはその関係で、六時ごろに起きる訳になっていました。

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下女げじょはその関係で六時頃に起きる訳になっていました。

しかしその日私がお手伝いを起こしに行ったのは、まだ六時前でした。

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しかしその日私が下女を起しに行ったのはまだ六時前でした。

すると奥さんが、今日は日曜だと言って注意してくれました。

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すると奥さんが今日は日曜だといって注意してくれました。

奥さんは、私の足音で目を覚ましたのです。

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奥さんは私の足音で眼を覚ましたのです。

私は奥さんに、目が覚めているならちょっと私の部屋まで来てくれと頼みました。

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私は奥さんに眼が覚めているなら、ちょっと私のへやまで来てくれと頼みました。

奥さんは寝巻きの上へふだん着の羽織を引っかけて、私の後についてきました。

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奥さんは寝巻の上へ不断着ふだんぎの羽織をけて、私のあといて来ました。

私は部屋へ入るとすぐ、今まで開いていた仕切りのふすまを閉め切りました。

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私は室へはいるやいなや、今までいていた仕切りのふすまをすぐ立て切りました。

そうして奥さんに、とんだことができたと小声で告げました。

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そうして奥さんに飛んだ事ができたと小声で告げました。

奥さんは、何だと聞きました。

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奥さんは何だと聞きました。

私はあごでとなりの部屋を指すようにして、「驚いちゃいけません」

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私はあごで隣の室を指すようにして、「驚いちゃいけません」

と言いました。

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といいました。

奥さんは、青い顔をしました。

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奥さんはあおい顔をしました。

「奥さん、Kは自殺しました」

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「奥さん、Kは自殺しました」

と、私がまた言いました。

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と私がまたいいました。

奥さんはそこに立ちすくんだように、私の顔を見て黙っていました。

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奥さんはそこに居竦いすくまったように、私の顔を見て黙っていました。

そのとき私は突然、奥さんの前へ手をついて頭を下げました。

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その時私は突然奥さんの前へ手を突いて頭を下げました。

「済みません。私が悪かったのです。あなたにもお嬢さんにも済まないことになりました」

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「済みません。私が悪かったのです。あなたにもお嬢さんにも済まない事になりました」

と、わびました。

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あやまりました。

私は奥さんと向かい合うまで、そんな言葉を口にする気はまるでなかったのです。

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私は奥さんと向い合うまで、そんな言葉を口にする気はまるでなかったのです。

しかし奥さんの顔を見たとき、不意に我知らずそう言ってしまったのです。

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しかし奥さんの顔を見た時不意に我とも知らずそういってしまったのです。

Kにわびることのできない私は、こうして奥さんとお嬢さんにわびなければいられなくなったのだと思ってください。

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Kに詫まる事のできない私は、こうして奥さんとお嬢さんにびなければいられなくなったのだと思って下さい。

つまり私の自然な気持ちが、ふだんの私を追い越してふらふらと悔いを打ち明ける口を開かせたのです。

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つまり私の自然が平生へいぜいの私を出し抜いてふらふらと懺悔ざんげの口を開かしたのです。

奥さんがそんな深い意味に私の言葉を受け取らなかったのは、私にとってさいわいでした。

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奥さんがそんな深い意味に、私の言葉を解釈しなかったのは私にとって幸いでした。

青い顔をしながら、「不慮の出来事なら仕方がないじゃありませんか」

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蒼い顔をしながら、「不慮の出来事なら仕方がないじゃありませんか」

と、なぐさめるように言ってくれました。

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と慰めるようにいってくれました。

しかしその顔には驚きと恐れとがきざみつけられたように、硬く筋肉をつかんでいました。

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しかしその顔には驚きとおそれとが、り付けられたように、かたく筋肉をつかんでいました。

五十

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五十

「私は奥さんに気の毒でしたけれども、また立って今閉めたばかりのふすまを開けました。そのときKのランプに油が尽きたと見えて、部屋の中はほとんど真っ暗でした。私は引き返して自分のランプを手に持ったまま、入り口に立って奥さんを振り返りました。奥さんは私の後ろから隠れるようにして、四畳の中をのぞきこみました。しかし入ろうとはしません。そこはそのままにしておいて雨戸を開けてくれと、私に言いました。

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「私は奥さんに気の毒でしたけれども、また立って今閉めたばかりの唐紙からかみを開けました。その時Kの洋燈ランプに油が尽きたと見えて、へやの中はほとんど真暗まっくらでした。私は引き返して自分の洋燈を手に持ったまま、入口に立って奥さんを顧みました。奥さんは私の後ろから隠れるようにして、四畳の中をのぞき込みました。しかしはいろうとはしません。そこはそのままにしておいて、雨戸を開けてくれと私にいいました。

それから後の奥さんの態度は、さすがに軍人の未亡人だけあってしっかりしていました。

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それからあとの奥さんの態度は、さすがに軍人の未亡人びぼうじんだけあって要領を得ていました。

私は、医者の所へも行きました。

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私は医者の所へも行きました。

また、警察へも行きました。

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また警察へも行きました。

しかしみんな、奥さんに言われて行ったのです。

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しかしみんな奥さんに命令されて行ったのです。

奥さんはそうした手続きの済むまで、だれもKの部屋へは入れませんでした。

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奥さんはそうした手続てつづきの済むまで、誰もKの部屋へはれませんでした。

Kは小さなナイフで首の血の管を切って、一息に死んでしまったのです。

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Kは小さなナイフで頸動脈けいどうみゃくを切って一息ひといきに死んでしまったのです。

ほかに傷らしいものは、何もありませんでした。

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ほかきずらしいものは何にもありませんでした。

私が夢のような薄暗い明かりで見たふすまの血は、彼の首すじから一度にほとばしったものと分かりました。

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私が夢のような薄暗いで見た唐紙の血潮は、彼の頸筋くびすじから一度にほとばしったものと知れました。

私は日中の光で、はっきりとその跡をまたながめました。

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私は日中にっちゅうの光で明らかにそのあとを再びながめました。

そうして、人間の血の勢いというものの激しいのに驚きました。

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そうして人間の血のいきおいというもののはげしいのに驚きました。

奥さんと私は、できるだけの手際と工夫を使ってKの部屋を掃除しました。

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奥さんと私はできるだけの手際てぎわと工夫を用いて、Kのへやを掃除しました。

彼の血の大部分はさいわい彼のふとんに吸い取られてしまったので畳はそれほど汚れないで済みましたから、後始末はまだ楽でした。

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彼の血潮の大部分は、幸い彼の蒲団ふとんに吸収されてしまったので、畳はそれほど汚れないで済みましたから、後始末はまだ楽でした。

二人は彼の亡くなった体を私の部屋に入れて、ふだんのとおり寝ている形に横にしました。

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二人は彼の死骸しがいを私の室に入れて、不断の通り寝ているていに横にしました。

私はそれから、彼の実家へ電報を打ちに出たのです。

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私はそれから彼の実家へ電報を打ちに出たのです。

私が帰ったときは、Kのまくら元にもう線香が立てられていました。

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私が帰った時は、Kの枕元まくらもとにもう線香が立てられていました。

部屋へ入るとすぐお線香のにおいの煙で鼻を打たれた私は、その煙の中にすわっている女二人を見ました。

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室へはいるとすぐ仏臭ほとけくさけむりで鼻をたれた私は、その烟の中にすわっている女二人を認めました。

私がお嬢さんの顔を見たのは、昨夜からこのときが初めてでした。

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私がお嬢さんの顔を見たのは、昨夜来さくやらいこの時が始めてでした。

お嬢さんは、泣いていました。

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お嬢さんは泣いていました。

奥さんも、目を赤くしていました。

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奥さんも眼を赤くしていました。

ことが起こってからそれまで泣くことを忘れていた私は、そのときようやく悲しい気分になることができたのです。

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事件が起ってからそれまで泣く事を忘れていた私は、その時ようやく悲しい気分に誘われる事ができたのです。

私の胸はその悲しさのために、どのくらい楽になったか知れません。

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私の胸はその悲しさのために、どのくらいくつろいだか知れません。

苦しみと恐れでぐいと握り締められた私の心に一滴のうるおいを与えてくれたものは、そのときの悲しさでした。

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苦痛と恐怖でぐいと握り締められた私の心に、一滴いってきうるおいを与えてくれたものは、その時の悲しさでした。

私は黙って、二人のそばにすわっていました。

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私は黙って二人のそばに坐っていました。

奥さんは、私にも線香を上げてやれと言います。

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奥さんは私にも線香を上げてやれといいます。

私は線香を上げて、また黙ってすわっていました。

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私は線香を上げてまた黙って坐っていました。

お嬢さんは、私には何も言いません。

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お嬢さんは私には何ともいいません。

たまに奥さんと一言二言言葉を交わすことがありましたが、それはその場の用事についてだけでした。

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たまに奥さんと一口ひとくち二口ふたくち言葉をわす事がありましたが、それは当座の用事についてのみでした。

お嬢さんには、Kの生きていたころについて語るほどの余裕がまだ出て来なかったのです。

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お嬢さんにはKの生前について語るほどの余裕がまだ出て来なかったのです。

私はそれでも、昨夜のものすごい様子を見せずに済んでまだよかったと心のうちで思いました。

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私はそれでも昨夜ゆうべ物凄ものすごい有様を見せずに済んでまだよかったと心のうちで思いました。

若い美しい人に恐ろしいものを見せると、せっかくの美しさがそのためにこわされてしまいそうで、私は怖かったのです。

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若い美しい人に恐ろしいものを見せると、折角せっかくの美しさが、そのために破壊されてしまいそうで私はこわかったのです。

私の恐ろしさが私の髪の毛の先まで来たときですら、私はその考えを外に置いて動くことはできませんでした。

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私の恐ろしさが私の髪の毛の末端まで来た時ですら、私はその考えを度外に置いて行動する事はできませんでした。

私には、きれいな花を罪もないのにわけもなくむち打つのと同じような不快が、そのうちにこもっていたのです。

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私には綺麗きれいな花を罪もないのにみだりにむちうつと同じような不快がそのうちにこもっていたのです。

国もとからKの父と兄が出て来たとき、私はKの骨をどこへ埋めるかについて自分の意見を述べました。

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国元からKの父と兄が出て来た時、私はKの遺骨をどこへめるかについて自分の意見を述べました。

私は彼の生きている間に、雑司ヶ谷のあたりをよくいっしょに散歩したことがあります。

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私は彼の生前に雑司ヶ谷ぞうしがや近辺をよくいっしょに散歩した事があります。

Kにはそこが、大変気に入っていたのです。

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Kにはそこが大変気に入っていたのです。

それで私は冗談半分に、そんなに好きなら死んだらここへ埋めてやろうと約束した覚えがあるのです。

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それで私は笑談じょうだん半分はんぶんに、そんなに好きなら死んだらここへ埋めてやろうと約束した覚えがあるのです。

私も今その約束どおりKを雑司ヶ谷へ葬ったところで、どのくらいのなぐさめになるものかとは思いました。

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私も今その約束通りKを雑司ヶ谷へほうむったところで、どのくらいの功徳くどくになるものかとは思いました。

けれども私は私の生きているかぎり、Kの墓の前にひざまずいて月々私の悔いを新しくしたかったのです。

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けれども私は私の生きている限り、Kの墓の前にひざまずいて月々私の懺悔ざんげを新たにしたかったのです。

今まで構わなかったKを私がすべて世話をして来たという義理もあったのでしょう、Kの父も兄も私の言うことを聞いてくれました。

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今まで構い付けなかったKを、私が万事世話をして来たという義理もあったのでしょう、Kの父も兄も私のいう事を聞いてくれました。

五十一

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五十一

「Kの葬式の帰り道に、私はその友人の一人から、Kがどうして自殺したのだろうという質問を受けました。ことがあってから、私はもう何度となくこの質問で苦しめられていたのです。奥さんもお嬢さんも、国から出て来たKの父と兄も、知らせを出した知り合いも、彼とは何の縁もない新聞記者までも、必ず同じ質問を私にかけないことはなかったのです。私の良心はそのたびに、ちくちく刺されるように痛みました。そうして私はこの質問の裏に、早くお前が殺したと白状してしまえという声を聞いたのです。

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「Kの葬式の帰りみちに、私はその友人の一人から、Kがどうして自殺したのだろうという質問を受けました。事件があって以来私はもう何度となくこの質問で苦しめられていたのです。奥さんもお嬢さんも、国から出て来たKの父兄も、通知を出した知り合いも、彼とは何の縁故もない新聞記者までも、必ず同様の質問を私に掛けない事はなかったのです。私の良心はそのたびにちくちく刺されるように痛みました。そうして私はこの質問の裏に、早くお前が殺したと白状してしまえという声を聞いたのです。

私の答えは、だれに対しても同じでした。

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私の答えは誰に対しても同じでした。

私はただ彼が私あてで書き残した手紙をくり返すだけで、ほかに一言も付け足すことはしませんでした。

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私はただ彼の私あてで書き残した手紙を繰り返すだけで、ほか一口ひとくちも附け加える事はしませんでした。

葬式の帰りに同じ問いをかけて同じ答えを得たKの友人は、ふところから一枚の新聞を出して私に見せました。

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葬式の帰りに同じ問いを掛けて、同じ答えを得たKの友人は、ふところから一枚の新聞を出して私に見せました。

私は歩きながら、その友人に指し示された所を読みました。

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私は歩きながらその友人によって指し示された箇所を読みました。

それには、Kが父や兄から縁を切られた結果、世の中をはかなむ考えを起こして自殺したと書いてあるのです。

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それにはKが父兄から勘当された結果厭世的えんせいてきな考えを起して自殺したと書いてあるのです。

私は何も言わずに、その新聞をたたんで友人の手に返しました。

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私は何にもいわずに、その新聞をたたんで友人の手に帰しました。

友人はこのほかにも、Kが気が狂って自殺したと書いた新聞があると言って教えてくれました。

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友人はこのほかにもKが気が狂って自殺したと書いた新聞があるといって教えてくれました。

いそがしいのでほとんど新聞を読む暇がなかった私はまるでそうしたことを知りませんでしたが、腹の中では始終気にかかっていたところでした。

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忙しいので、ほとんど新聞を読む暇がなかった私は、まるでそうした方面の知識を欠いていましたが、腹の中では始終気にかかっていたところでした。

私は何よりも、家の者のめいわくになるような記事の出るのを恐れたのです。

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私は何よりもうちのものの迷惑になるような記事の出るのを恐れたのです。

特に名前だけにせよ、お嬢さんが引き合いに出たらたまらないと思っていたのです。

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ことに名前だけにせよお嬢さんが引合いに出たらたまらないと思っていたのです。

私はその友人に、ほかに何とか書いたのはないかと聞きました。

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私はその友人にほかに何とか書いたのはないかと聞きました。

友人は、自分の目についたのはただその二つきりだと答えました。

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友人は自分の眼に着いたのは、ただその二種ぎりだと答えました。

私が今いる家へ引っ越したのは、それからまもなくでした。

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私が今おる家へしたのはそれから間もなくでした。

奥さんもお嬢さんも前の所にいるのを嫌がりますし、私もその夜の記憶を毎晩くり返すのが苦しかったので、相談の上移ることに決めたのです。

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奥さんもお嬢さんも前の所にいるのをいやがりますし、私もそのの記憶を毎晩繰り返すのが苦痛だったので、相談の上移る事にめたのです。

移って二か月ほどしてから、私は無事に大学を卒業しました。

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移って二カ月ほどしてから私は無事に大学を卒業しました。

卒業して半年も経たないうちに、私はとうとうお嬢さんと結婚しました。

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卒業して半年もたないうちに、私はとうとうお嬢さんと結婚しました。

外側から見れば、すべてが思ったとおりに運んだのですから、めでたいと言わなければなりません。

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外側から見れば、万事が予期通りに運んだのですから、目出度めでたいといわなければなりません。

奥さんもお嬢さんも、いかにも幸せらしく見えました。

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奥さんもお嬢さんもいかにも幸福らしく見えました。

私も、幸せだったのです。

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私も幸福だったのです。

けれども私の幸せには、黒い影がついていました。

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けれども私の幸福には黒い影がいていました。

私はこの幸せが最後に私を悲しい運命に連れて行く火のつなではなかろうかと思いました。

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私はこの幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなかろうかと思いました。

結婚したときお嬢さんが、――もうお嬢さんではありませんから、妻と言います。――

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結婚した時お嬢さんが、――もうお嬢さんではありませんから、さいといいます。――

妻が何を思い出したのか、二人でKの墓参りをしようと言い出しました。

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妻が、何を思い出したのか、二人でKの墓参はかまいりをしようといい出しました。

私は意味もなく、ただぎょっとしました。

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私は意味もなくただぎょっとしました。

どうしてそんなことを急に思い立ったのかと聞きました。

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どうしてそんな事を急に思い立ったのかと聞きました。

妻は、二人そろってお参りをしたらKがさぞ喜ぶだろうと言うのです。

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妻は二人そろってお参りをしたら、Kがさぞ喜ぶだろうというのです。

私は何も知らない妻の顔をしげしげながめていましたが、妻からなぜそんな顔をするのかと問われて初めて気がつきました。

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私は何事も知らない妻の顔をしけじけながめていましたが、妻からなぜそんな顔をするのかと問われて始めて気が付きました。

私は妻の望みどおり、二人連れ立って雑司ヶ谷へ行きました。

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私は妻の望み通り二人連れ立って雑司ヶ谷ぞうしがやへ行きました。

私は新しいKの墓へ水をかけて、洗ってやりました。

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私は新しいKの墓へ水をかけて洗ってやりました。

妻はその前へ、線香と花を立てました。

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妻はその前へ線香と花を立てました。

二人は頭を下げて、手を合わせました。

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二人は頭を下げて、合掌しました。

妻はきっと、私といっしょになったいきさつを述べてKに喜んでもらうつもりだったのでしょう。

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妻は定めて私といっしょになった顛末てんまつを述べてKに喜んでもらうつもりでしたろう。

私は腹の中で、ただ自分が悪かったとくり返すだけでした。

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私は腹の中で、ただ自分が悪かったと繰り返すだけでした。

そのとき妻はKの墓をなでてみて、立派だと言っていました。

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その時妻はKの墓をでてみて立派だと評していました。

その墓は大したものではないのですけれども、私が自分で石屋へ行って選んだりした縁があるので、妻は特にそう言いたかったのでしょう。

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その墓は大したものではないのですけれども、私が自分で石屋へ行って見立みたてたりした因縁いんねんがあるので、妻はとくにそういいたかったのでしょう。

私はその新しい墓と、新しい私の妻と、それから地面の下に埋められたKの新しい白い骨とを思い比べて、運命の冷たいあざけりを感じずにはいられなかったのです。

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私はその新しい墓と、新しい私の妻と、それから地面の下にうずめられたKの新しい白骨とを思い比べて、運命の冷罵れいばを感ぜずにはいられなかったのです。

私はそれから、決して妻といっしょにKの墓参りをしないことにしました。

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私はそれ以後決して妻といっしょにKの墓参りをしない事にしました。

五十二

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五十二

「私が亡くなった友に対して持つこうした感じは、いつまでも続きました。実は私も初めからそれを恐れていたのです。長年の望みであった結婚さえ、不安のうちに式を挙げたと言えば言えないこともないでしょう。しかし自分で自分の先が見えない人間のことですから、もしかするとこれが私の気持ちを変えて新しい人生に入るきっかけになるかもしれないとも思ったのです。ところがいよいよ夫として朝夕妻と顔を合わせてみると、私のはかない望みは手厳しい現実のためにもろくもこわされてしまいました。私は妻と顔を合わせているうちに、突然Kにおびやかされるのです。つまり妻が間に立って、Kと私をどこまでも結びつけて離さないようにするのです。妻のどこにも不足を感じない私は、ただこの一点で彼女を遠ざけたがりました。すると女の胸には、すぐそれが映ります。映るけれども、理由は分からないのです。私は時々妻から、なぜそんなに考えているのだとか、何か気に入らないことがあるのだろうとかいう問いつめを受けました。笑って済ませるときはそれで差し支えないのですが、ときによると妻の気持ちも高ぶって来ます。しまいには「あなたは私を嫌っていらっしゃるんでしょう」とか、「何でも私に隠していらっしゃることがあるに違いない」とかいう恨みの言葉も聞かなくてはなりません。私はそのたびに苦しみました。

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「私の亡友に対するこうした感じはいつまでも続きました。実は私も初めからそれを恐れていたのです。年来の希望であった結婚すら、不安のうちに式を挙げたといえばいえない事もないでしょう。しかし自分で自分の先が見えない人間の事ですから、ことによるとあるいはこれが私の心持を一転して新しい生涯にはい端緒いとくちになるかも知れないとも思ったのです。ところがいよいよ夫として朝夕さいと顔を合せてみると、私の果敢はかない希望は手厳しい現実のためにもろくも破壊されてしまいました。私は妻と顔を合せているうちに、卒然そつぜんKにおびやかされるのです。つまり妻が中間に立って、Kと私をどこまでも結び付けて離さないようにするのです。妻のどこにも不足を感じない私は、ただこの一点において彼女を遠ざけたがりました。すると女の胸にはすぐそれがうつります。映るけれども、理由はわからないのです。私は時々妻からなぜそんなに考えているのだとか、何か気に入らない事があるのだろうとかいう詰問きつもんを受けました。笑って済ませる時はそれで差支さしつかえないのですが、時によると、妻のかんこうじて来ます。しまいには「あなたは私を嫌っていらっしゃるんでしょう」とか、「何でも私に隠していらっしゃる事があるに違いない」とかいう怨言えんげんも聞かなくてはなりません。私はそのたびに苦しみました。

私はいっそ思い切って、ありのままを妻に打ち明けようとしたことが何度もあります。

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私は一層いっそ思い切って、ありのままを妻に打ち明けようとした事が何度もあります。

しかしいざという間際になると、自分以外のある力が不意に来て私を押さえつけるのです。

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しかしいざという間際になると自分以外のある力が不意に来て私をおさえ付けるのです。

私を分かってくれるあなたのことだから説明する必要もあるまいと思いますが、話すべき筋だから話しておきます。

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私を理解してくれるあなたの事だから、説明する必要もあるまいと思いますが、話すべき筋だから話しておきます。

その時分の私は、妻に対して自分をよく見せる気はまるでなかったのです。

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その時分の私は妻に対しておのれを飾る気はまるでなかったのです。

もし私が亡くなった友に対するのと同じような善良な心で妻の前に悔いの言葉を並べたなら、妻はうれし涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違いないのです。

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もし私が亡友に対すると同じような善良な心で、妻の前に懺悔ざんげの言葉を並べたなら、妻はうれし涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違いないのです。

それをあえてしない私に、損得の計算があるはずはありません。

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それをあえてしない私に利害の打算があるはずはありません。

私はただ、妻の記憶に暗い一点をつけるのにしのびなかったから打ち明けなかったのです。

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私はただ妻の記憶に暗黒な一点をいんするに忍びなかったから打ち明けなかったのです。

真っ白なものに一滴のインクでも遠慮なく振りかけるのは、私にとって大変な苦しみだったのだと考えてください。

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純白なものに一雫ひとしずく印気インキでも容赦ようしゃなく振り掛けるのは、私にとって大変な苦痛だったのだと解釈して下さい。

一年経ってもKを忘れることのできなかった私の心は、いつも不安でした。

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一年ってもKを忘れる事のできなかった私の心は常に不安でした。

私はこの不安を追い払うために、本に溺れようと努めました。

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私はこの不安を駆逐くちくするために書物におぼれようとつとめました。

私は激しい勢いをもって、勉強し始めたのです。

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私は猛烈ないきおいをもって勉強し始めたのです。

そうして、その結果を世の中に出す日の来るのを待ちました。

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そうしてその結果を世の中におおやけにする日の来るのを待ちました。

けれども無理に目当てをこしらえて、無理にその目当てが果たされる日を待つのは嘘ですから、不愉快です。

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けれども無理に目的をこしらえて、無理にその目的の達せられる日を待つのはうそですから不愉快です。

私はどうしても、本の中に心を埋めていられなくなりました。

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私はどうしても書物のなかに心をうずめていられなくなりました。

私はまた腕組みをして、世の中をながめ出したのです。

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私はまた腕組みをして世の中をながめだしたのです。

妻はそれを、今日に困らないから心にゆるみが出るのだと見ていたようでした。

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妻はそれを今日こんにちに困らないから心にたるみが出るのだと観察していたようでした。

妻の家にも親子二人ぐらいはすわっていてどうにか暮らして行ける財産がある上に、私も仕事を求めないで差し支えのない身の上にいたのですから、そう思われるのももっともです。

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妻の家にも親子二人ぐらいはすわっていてどうかこうか暮して行ける財産がある上に、私も職業を求めないで差支さしつかえのない境遇にいたのですから、そう思われるのももっともです。

私も、いくらか甘やかされた気味があるでしょう。

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私も幾分かスポイルされた気味がありましょう。

しかし私が動かなくなった主な原因は、まったくそこにはなかったのです。

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しかし私の動かなくなった原因の主なものは、全くそこにはなかったのです。

おじにだまされた当時の私は、他人が頼みにならないことをつくづくと感じたには違いありませんが、他人を悪く取るだけあって、自分はまだたしかな気がしていました。

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叔父おじあざむかれた当時の私は、ひとの頼みにならない事をつくづくと感じたには相違ありませんが、ひとを悪く取るだけあって、自分はまだ確かな気がしていました。

世間はどうあろうとも、この自分は立派な人間だという信じる気持ちがどこかにあったのです。

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世間はどうあろうともこのおれは立派な人間だという信念がどこかにあったのです。

それがKのために見事にこわされてしまって、自分もあのおじと同じ人間だと分かったとき、私は急にふらふらしました。

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それがKのために美事みごとに破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。

他人にあきれた私は、自分にもあきれて動けなくなったのです。

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ひと愛想あいそを尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。

五十三

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五十三

「本の中に自分を生き埋めにすることのできなかった私は、お酒に魂を浸して自分を忘れようと試みた時期もあります。私はお酒が好きだとは言いません。けれども飲めば飲めるたちでしたから、ただ量を頼りに心を押しつぶそうと努めたのです。この浅はかなやり方は、しばらくするうちに私をなお世の中をきらう気持ちにしました。私は酔いつぶれた真っ最中に、ふと自分の立場に気がつくのです。自分はわざとこんな真似をして自分を偽っているおろか者だということに気がつくのです。すると身ぶるいとともに、目も心も覚めてしまいます。ときにはいくら飲んでも、こうした仮の状態にさえ入りこめないでむやみに沈んで行く場合も出て来ます。その上作り事で楽しさを買った後には、きっと沈んだ揺り返しがあるのです。私は自分のもっとも愛している妻とその母親に、いつでもそこを見せなければならなかったのです。しかも二人は二人に自然な立場から、私を考えてかかります。

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「書物の中に自分を生埋いきうめにする事のできなかった私は、酒に魂をひたして、おのれを忘れようと試みた時期もあります。私は酒が好きだとはいいません。けれども飲めば飲めるたちでしたから、ただ量を頼みに心をつぶそうとつとめたのです。この浅薄せんぱくな方便はしばらくするうちに私をなお厭世的えんせいてきにしました。私は爛酔らんすい真最中まっさいちゅうにふと自分の位置に気が付くのです。自分はわざとこんな真似まねをして己れをいつわっている愚物ぐぶつだという事に気が付くのです。すると身振みぶるいと共に眼も心もめてしまいます。時にはいくら飲んでもこうした仮装状態にさえはいり込めないでむやみに沈んで行く場合も出て来ます。その上技巧で愉快を買ったあとには、きっと沈鬱ちんうつな反動があるのです。私は自分の最も愛しているさいとその母親に、いつでもそこを見せなければならなかったのです。しかも彼らは彼らに自然な立場から私を解釈してかかります。

妻の母は時々、気まずいことを妻に言うようでした。

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妻の母は時々気拙きまずい事を妻にいうようでした。

それを妻は、私に隠していました。

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それを妻は私に隠していました。

しかし自分は自分で、一人で私を責めなければ気が済まなかったらしいのです。

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しかし自分は自分で、単独に私を責めなければ気が済まなかったらしいのです。

責めると言っても、決して強い言葉ではありません。

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責めるといっても、決して強い言葉ではありません。

妻から何か言われたために私が激しくなったためしは、ほとんどなかったくらいですから。

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妻から何かいわれたために、私が激したためしはほとんどなかったくらいですから。

妻は度々、どこが気に入らないのか遠慮なく言ってくれと頼みました。

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妻はたびたびどこが気に入らないのか遠慮なくいってくれと頼みました。

それから私の先のために、お酒をやめろと忠告しました。

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それから私の未来のために酒をめろと忠告しました。

あるときは泣いて「あなたはこの頃人間が変わった」

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ある時は泣いて「あなたはこのごろ人間が違った」

と言いました。

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といいました。

それだけならまだいいのですけれども、「Kさんが生きていたら、あなたもそんなにはならなかったでしょう」

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それだけならまだいいのですけれども、「Kさんが生きていたら、あなたもそんなにはならなかったでしょう」

と言うのです。

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というのです。

私はそうかもしれないと答えたことがありましたが、私の答えた意味と妻の受け取った意味とはまったく違っていたのですから、私は心のうちで悲しかったのです。

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私はそうかも知れないと答えた事がありましたが、私の答えた意味と、妻の了解した意味とは全く違っていたのですから、私は心のうちで悲しかったのです。

それでも私は、妻に何も説明する気にはなれませんでした。

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それでも私は妻に何事も説明する気にはなれませんでした。

私は時々、妻にわびました。

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私は時々妻にあやまりました。

それは多く、お酒に酔って遅く帰った翌日の朝でした。

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それは多く酒に酔って遅く帰った翌日あくるひの朝でした。

妻は、笑いました。

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妻は笑いました。

または、黙っていました。

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あるいは黙っていました。

たまにぽろぽろと涙を落とすこともありました。

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たまにぽろぽろと涙を落す事もありました。

私はどちらにしても、自分が不愉快でたまらなかったのです。

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私はどっちにしても自分が不愉快でたまらなかったのです。

だから私が妻にわびるのは、自分にわびるのとつまり同じことになるのです。

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だから私の妻に詫まるのは、自分に詫まるのとつまり同じ事になるのです。

私はしまいに、お酒をやめました。

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私はしまいに酒をめました。

妻の忠告でやめたというより、自分で嫌になったからやめたと言った方がふさわしいでしょう。

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妻の忠告で止めたというより、自分でいやになったから止めたといった方が適当でしょう。

お酒はやめたけれども、何もする気にはなりません。

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酒は止めたけれども、何もする気にはなりません。

仕方がないから、本を読みます。

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仕方がないから書物を読みます。

しかし読めば読んだなりで、放っておきます。

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しかし読めば読んだなりで、って置きます。

私は妻から、何のために勉強するのかという質問を度々受けました。

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私は妻から何のために勉強するのかという質問をたびたび受けました。

私はただ、苦笑いしていました。

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私はただ苦笑していました。

しかし腹の底では、世の中で自分がもっとも信じ愛しているたった一人の人間さえ自分を分かってくれないのかと思うと、悲しかったのです。

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しかし腹の底では、世の中で自分が最も信愛しているたった一人の人間すら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。

分かってもらう手だてがあるのに分かってもらう勇気が出せないのだと思うと、ますます悲しかったのです。

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理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うとますます悲しかったのです。

私は、一人ぼっちでした。

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私は寂寞せきばくでした。

どこからも切り離されて、世の中にたった一人住んでいるような気のしたこともよくありました。

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どこからも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事もよくありました。

同時に私は、Kの死んだ理由をくり返しくり返し考えたのです。

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同時に私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。

その当座は頭がただ恋の一字で占められていたせいでもありましょうが、私の見方はむしろ簡単で、しかもまっすぐでした。

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その当座は頭がただ恋の一字で支配されていたせいでもありましょうが、私の観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。

Kはまさしく恋に失ったために死んだものと、すぐ決めてしまったのです。

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Kはまさしく失恋のために死んだものとすぐめてしまったのです。

しかしだんだん落ち着いた気分で同じことに向かってみると、そう簡単には答えが出ないように思われて来ました。

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しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向ってみると、そう容易たやすくは解決が着かないように思われて来ました。

現実と理想のぶつかり、――それでもまだ十分ではありませんでした。

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現実と理想の衝突、――それでもまだ不充分でした。

私はしまいに、Kが私のようにたった一人で寂しくて仕方がなくなった結果、急に思い決めたのではなかろうかと疑い出しました。

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私はしまいにKが私のようにたった一人でさむしくって仕方がなくなった結果、急に所決しょけつしたのではなかろうかと疑い出しました。

そうしてまた、ぞっとしたのです。

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そうしてまたぞっとしたのです。

私もKの歩いた道をKと同じようにたどっているのだという予感が、折々風のように私の胸を横切り始めたからです。

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私もKの歩いたみちを、Kと同じように辿たどっているのだという予覚よかくが、折々風のように私の胸を横過よこぎり始めたからです。

五十四

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五十四

「そのうち妻の母が病気になりました。医者に見せると、とうてい治らないという診断でした。私は力の及ぶかぎり、心をこめて看病をしてやりました。これは病人自身のためでもありますし、また愛する妻のためでもありましたが、もっと大きな意味から言うと、つまるところ人のためでした。私はそれまでにも何かしたくてたまらなかったのだけれども、何もすることができないのでやむを得ず手をこまねいていたに違いありません。世間と切り離された私が初めて自分から手を出して、いくらかでもよいことをしたと思えたのは、このときでした。私は罪ほろぼしとでも名づけなければならない、一種の気分に動かされていたのです。

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「その内さいの母が病気になりました。医者に見せると到底とうていなおらないという診断でした。私は力の及ぶかぎり懇切に看護をしてやりました。これは病人自身のためでもありますし、また愛する妻のためでもありましたが、もっと大きな意味からいうと、ついに人間のためでした。私はそれまでにも何かしたくってたまらなかったのだけれども、何もする事ができないのでやむをえず懐手ふところでをしていたに違いありません。世間と切り離された私が、始めて自分から手を出して、幾分でもい事をしたという自覚を得たのはこの時でした。私は罪滅つみほろぼしとでも名づけなければならない、一種の気分に支配されていたのです。

母は、死にました。

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母は死にました。

私と妻は、たった二人きりになりました。

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私とさいはたった二人ぎりになりました。

妻は私に向かって、これから世の中で頼りにするものは一人しかなくなったと言いました。

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妻は私に向って、これから世の中で頼りにするものは一人しかなくなったといいました。

自分自身さえ頼りにすることのできない私は、妻の顔を見て思わず涙ぐみました。

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自分自身さえ頼りにする事のできない私は、妻の顔を見て思わず涙ぐみました。

そうして、妻を不幸な女だと思いました。

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そうして妻を不幸な女だと思いました。

また、不幸な女だと口へ出しても言いました。

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また不幸な女だと口へ出してもいいました。

妻は、なぜだと聞きます。

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妻はなぜだと聞きます。

妻には、私の意味が分からないのです。

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妻には私の意味がわからないのです。

私も、それを説明してやることができないのです。

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私もそれを説明してやる事ができないのです。

妻は、泣きました。

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妻は泣きました。

私がふだんからひねくれた考えで彼女を見ているために、そんなことも言うようになるのだと恨みました。

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私が不断ふだんからひねくれた考えで彼女を観察しているために、そんな事もいうようになるのだとうらみました。

母の亡くなった後、私はできるだけ妻を親切にあつかってやりました。

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母の亡くなったあと、私はできるだけ妻を親切に取り扱ってやりました。

ただ本人を愛していたからばかりではありません。

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ただ、当人を愛していたからばかりではありません。

私の親切には、一人の人を離れてもっと広い後ろだてがあったようです。

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私の親切には箇人こじんを離れてもっと広い背景があったようです。

ちょうど妻の母の看病をしたのと同じ気持ちで、私の心は動いたらしいのです。

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ちょうど妻の母の看護をしたと同じ意味で、私の心は動いたらしいのです。

妻は、満足らしく見えました。

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妻は満足らしく見えました。

けれどもその満足のうちには、私を分かってもらえないために起こるぼんやりした薄いところが、どこかにふくまれているようでした。

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けれどもその満足のうちには、私を理解し得ないために起るぼんやりした稀薄きはくな点がどこかに含まれているようでした。

しかし妻が私を分かってくれたにしたところで、この物足りなさは増すとも減る心配はなかったのです。

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しかし妻が私を理解し得たにしたところで、この物足りなさは増すとも減る気遣きづかいはなかったのです。

女には大きな人の道の立場から来る愛よりも、多少義理を外れても自分だけに注がれる親切を喜ぶ性質が、男よりも強いように思われますから。

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女には大きな人道の立場から来る愛情よりも、多少義理をはずれても自分だけに集注される親切をうれしがる性質が、男よりも強いように思われますから。

妻はあるとき、男の心と女の心とはどうしてもぴたりと一つになれないものだろうかと言いました。

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妻はある時、男の心と女の心とはどうしてもぴたりと一つになれないものだろうかといいました。

私はただ、若いときならなれるだろうとあいまいな返事をしておきました。

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私はただ若い時ならなれるだろうと曖昧あいまいな返事をしておきました。

妻は自分の過去を振り返ってながめているようでしたが、やがてかすかなため息をもらしました。

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妻は自分の過去を振り返ってながめているようでしたが、やがてかすかな溜息ためいきらしました。

私の胸には、その時分から時々恐ろしい影がひらめきました。

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私の胸にはその時分から時々恐ろしい影がひらめきました。

初めはそれが、偶然外からおそって来るのです。

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初めはそれが偶然そとから襲って来るのです。

私は、驚きました。

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私は驚きました。

私は、ぞっとしました。

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私はぞっとしました。

しかししばらくしているうちに、私の心がそのものすごいひらめきに応じるようになりました。

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しかししばらくしているうちに、私の心がその物凄ものすごい閃きに応ずるようになりました。

しまいには外から来なくても、自分の胸の底に生まれたときから潜んでいるもののように思われ出して来たのです。

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しまいには外から来ないでも、自分の胸の底に生れた時からひそんでいるもののごとくに思われ出して来たのです。

私はそうした気持ちになるたびに、自分の頭がどうかしたのではなかろうかと疑ってみました。

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私はそうした心持になるたびに、自分の頭がどうかしたのではなかろうかとうたぐってみました。

けれども私は、医者にもだれにも見てもらう気にはなりませんでした。

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けれども私は医者にも誰にもてもらう気にはなりませんでした。

私はただ、人の罪というものを深く感じたのです。

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私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。

その感じが、私をKの墓へ毎月行かせます。

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その感じが私をKの墓へ毎月まいげつ行かせます。

その感じが、私に妻の母の看病をさせます。

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その感じが私に妻の母の看護をさせます。

そうしてその感じが、妻に優しくしてやれと私に命じます。

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そうしてその感じが妻に優しくしてやれと私に命じます。

私はその感じのために、知らない道ばたの人からむち打たれたいとまで思ったこともあります、こうした段をだんだん経て行くうちに、人にむち打たれるよりも自分で自分をむち打つべきだという気になります。

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私はその感じのために、知らない路傍ろぼうの人からむちうたれたいとまで思った事もあります、こうした階段を段々経過して行くうちに、人に鞭うたれるよりも、自分で自分を鞭うつべきだという気になります。

自分で自分をむち打つよりも、自分で自分を殺すべきだという考えが起こります。

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自分で自分を鞭うつよりも、自分で自分を殺すべきだという考えが起ります。

私は仕方がないから、死んだ気で生きて行こうと決心しました。

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私は仕方がないから、死んだ気で生きて行こうと決心しました。

私がそう決心してから、今日まで何年になるでしょう。

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私がそう決心してから今日こんにちまで何年になるでしょう。

私と妻とは、元のとおり仲よく暮らして来ました。

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私と妻とは元の通り仲好く暮して来ました。

私と妻とは決して不幸ではありません、幸せでした。

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私と妻とは決して不幸ではありません、幸福でした。

しかし私の持っている一点、私にとっては簡単でないこの一点が、妻にはいつも暗く見えたらしいのです。

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しかし私のもっている一点、私に取っては容易ならんこの一点が、妻には常に暗黒に見えたらしいのです。

それを思うと、私は妻に対してとても気の毒な気がします。

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それを思うと、私はさいに対して非常に気の毒な気がします。

五十五

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五十五

「死んだつもりで生きて行こうと決心した私の心は、時々外からのしげきで躍り上がりました。しかし私がどの方面かへ切って出ようと思い立つとすぐ、恐ろしい力がどこからか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力が私に、お前は何をする資格もない男だと押さえつけるように言って聞かせます。すると私はその一言で、すぐぐたりとしおれてしまいます。しばらくしてまた立ち上がろうとすると、また締めつけられます。私は歯を食いしばって、なぜ人のじゃまをするのかとどなりつけます。不思議な力は、冷たい声で笑います。自分でよく知っているくせにと言います。私はまた、ぐたりとなります。

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「死んだつもりで生きて行こうと決心した私の心は、時々外界の刺戟しげきおどり上がりました。しかし私がどの方面かへ切って出ようと思い立つやいなや、恐ろしい力がどこからか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力が私にお前は何をする資格もない男だとおさえ付けるようにいって聞かせます。すると私はその一言いちげんすぐぐたりとしおれてしまいます。しばらくしてまた立ち上がろうとすると、また締め付けられます。私は歯を食いしばって、何でひとの邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力はひややかな声で笑います。自分でよく知っているくせにといいます。私はまたぐたりとなります。

波もうねりもない単調な生活を続けて来た私の内側には、いつもこうした苦しい戦いがあったものと思ってください。

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波瀾はらんも曲折もない単調な生活を続けて来た私の内面には、常にこうした苦しい戦争があったものと思って下さい。

妻が見てじれったがる前に、私自身が何倍じれったい思いを重ねて来たか知れないくらいです。

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さいが見て歯痒はがゆがる前に、私自身が何層倍なんぞうばい歯痒い思いを重ねて来たか知れないくらいです。

私がこの牢屋の中にじっとしていることがどうしてもできなくなったとき、またその牢屋をどうしても突き破ることができなくなったとき、結局私にとって一番楽な努力でやり終えられるものは自分で死ぬことよりほかにないと、私は感じるようになったのです。

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私がこの牢屋ろうやうちじっとしている事がどうしてもできなくなった時、またその牢屋をどうしても突き破る事ができなくなった時、必竟ひっきょう私にとって一番楽な努力で遂行すいこうできるものは自殺よりほかにないと私は感ずるようになったのです。

あなたはなぜと言って目を見張るかもしれませんが、いつも私の心を握り締めに来るその不思議な恐ろしい力は、私の動きをあらゆる方面で食い止めながら、死の道だけを自由に私のために開けておくのです。

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あなたはなぜといって眼をみはるかも知れませんが、いつも私の心を握り締めに来るその不可思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食い留めながら、死の道だけを自由に私のために開けておくのです。

動かずにいればともかく、少しでも動く以上は、その道を歩いて進まなければ私には進みようがなくなったのです。

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動かずにいればともかくも、少しでも動く以上は、その道を歩いて進まなければ私には進みようがなくなったのです。

私は今日に至るまで、もう二、三度運命の導いて行くもっとも楽な方向へ進もうとしたことがあります。

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私は今日こんにちに至るまですでに二、三度運命の導いて行く最も楽な方向へ進もうとした事があります。

しかし私はいつでも、妻に心を引かれました。

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しかし私はいつでも妻に心をかされました。

そうしてその妻をいっしょに連れて行く勇気は、もちろんないのです。

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そうしてその妻をいっしょに連れて行く勇気は無論ないのです。

妻にすべてを打ち明けることのできないくらいな私ですから、自分の運命の身代わりとして妻の寿命をうばうなどという手荒なことは、考えてさえ恐ろしかったのです。

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妻にすべてを打ち明ける事のできないくらいな私ですから、自分の運命の犠牲ぎせいとして、妻の天寿てんじゅを奪うなどという手荒てあら所作しょさは、考えてさえ恐ろしかったのです。

私に私の宿命があるとおり、妻には妻の巡り合わせがあります、二人を一つの束にして火にくべるのは、無理という点から見ても痛ましい行き過ぎとしか私には思えませんでした。

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私に私の宿命がある通り、妻には妻のまわり合せがあります、二人を一束ひとたばにして火にべるのは、無理という点から見ても、痛ましい極端としか私には思えませんでした。

同時に、私だけがいなくなった後の妻を想像してみると、いかにも気の毒でした。

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同時に私だけがいなくなったあとの妻を想像してみるといかにも不憫ふびんでした。

母の死んだとき、これから世の中で頼りにするものは私よりほかになくなったと言った彼女の言葉を、私は体の奥に染みこむように覚えさせられていたのです。

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母の死んだ時、これから世の中で頼りにするものは私より外になくなったといった彼女の述懐じゅっかいを、私ははらわたみ込むように記憶させられていたのです。

私はいつも、ためらいました。

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私はいつも躊躇ちゅうちょしました。

妻の顔を見て、やめてよかったと思うこともありました。

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妻の顔を見て、してよかったと思う事もありました。

そうしてまた、じっとすくんでしまいます。

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そうしてまたじっすくんでしまいます。

そうして妻から時々、物足りなそうな目でながめられるのです。

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そうして妻から時々物足りなそうな眼でながめられるのです。

覚えていてください。

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記憶して下さい。

私はこんなふうにして生きて来たのです。

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私はこんなふうにして生きて来たのです。

初めてあなたに鎌倉で会ったときも、あなたといっしょに郊外を散歩したときも、私の気分に大した変わりはなかったのです。

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始めてあなたに鎌倉かまくらで会った時も、あなたといっしょに郊外を散歩した時も、私の気分に大した変りはなかったのです。

私の後ろには、いつでも黒い影がくっついていました。

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私の後ろにはいつでも黒い影がいていました。

私は妻のために、命を引きずって世の中を歩いていたようなものです。

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私はさいのために、命を引きずって世の中を歩いていたようなものです。

あなたが卒業して国へ帰るときも、同じことでした。

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あなたが卒業して国へ帰る時も同じ事でした。

九月になったらまたあなたに会おうと約束した私は、嘘をついたのではありません。

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九月になったらまたあなたに会おうと約束した私は、うそいたのではありません。

まったく会う気でいたのです。

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全く会う気でいたのです。

秋が去って冬が来て、その冬が終わっても、きっと会うつもりでいたのです。

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秋が去って、冬が来て、その冬が尽きても、きっと会うつもりでいたのです。

すると夏の暑い盛りに、明治天皇が亡くなりました。

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すると夏の暑い盛りに明治天皇めいじてんのう崩御ほうぎょになりました。

そのとき私は、明治の心が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました。

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その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。

もっとも強く明治の影響を受けた私たちがその後に生き残っているのは、つまるところ時代遅れだという感じが激しく私の胸を打ちました。

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最も強く明治の影響を受けた私どもが、そのあとに生き残っているのは必竟ひっきょう時勢遅れだという感じがはげしく私の胸を打ちました。

私ははっきりと、妻にそう言いました。

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私は明白あからさまに妻にそういいました。

妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死(じゅんし。主君の死に続いて家来が死ぬこと)でもしたらよかろうとからかいました。

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妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死じゅんしでもしたらよかろうと調戯からかいました。

五十六

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五十六

「私は殉死という言葉を、ほとんど忘れていました。ふだん使う必要のない言葉だから、記憶の底に沈んだまま腐れかけていたものと見えます。妻の冗談を聞いて初めてそれを思い出したとき、私は妻に向かって、もし自分が殉死するならば明治の心に殉死するつもりだと答えました。私の答えももちろん冗談に過ぎなかったのですが、私はそのとき何だか古い要らない言葉に新しい意味を盛ることができたような気持ちがしたのです。

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「私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生へいぜい使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。妻の笑談じょうだんを聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。

それから、約一か月ほど経ちました。

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それから約一カ月ほどちました。

天皇のお葬式の夜、私はいつものとおり書さいにすわって、合図の大砲の音を聞きました。

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御大葬ごたいそうの夜私はいつもの通り書斎にすわって、相図あいず号砲ごうほうを聞きました。

私にはそれが、明治が永久に去った知らせのように聞こえました。

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私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。

後で考えると、それが乃木大将の永久に去った知らせにもなっていたのです。

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後で考えると、それが乃木大将のぎたいしょうの永久に去った報知にもなっていたのです。

私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だと言いました。

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私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。

私は新聞で、乃木大将が死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。

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私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。

西南戦争のとき敵に旗をうばわれてから、申しわけのために死のう死のうと思ってつい今日まで生きていたという意味の言葉を見たとき、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生き長らえて来た年月を数えてみました。

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西南戦争せいなんせんそうの時敵に旗をられて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日こんにちまで生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月としつきを勘定して見ました。

西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の隔たりがあります。

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西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。

乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。

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乃木さんはこの三十五年のあいだ死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。

私はそういう人にとって、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一しゅんが苦しいか、どちらが苦しいだろうと考えました。

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私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那いっせつなが苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。

それから二、三日して、私はとうとう自分で死ぬ決心をしたのです。

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それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。

私に乃木さんの死んだ理由がよく分からないように、あなたにも私が死ぬ訳がはっきりのみこめないかもしれませんが、もしそうだとすると、それは時代の移り変わりから来る人の違いだから仕方がありません。

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私に乃木さんの死んだ理由がよくわからないように、あなたにも私の自殺する訳が明らかにみ込めないかも知れませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。

あるいは、一人一人の持って生まれた性格の違いと言った方がたしかかもしれません。

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あるいは箇人こじんのもって生れた性格の相違といった方がたしかかも知れません。

私は私のできるかぎりこの不思議な私というものをあなたに分からせるように、今までの書き物で自分を出し尽くしたつもりです。

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私は私のできる限りこの不可思議な私というものを、あなたに解らせるように、今までの叙述でおのれをつくしたつもりです。

私は、妻を残して行きます。

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私はさいを残して行きます。

私がいなくなっても妻に衣食住の心配がないのは、さいわいです。

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私がいなくなっても妻に衣食住の心配がないのは仕合しあわせです。

私は妻に、残こくな恐れを与えることを好みません。

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私は妻に残酷な驚怖きょうふを与える事を好みません。

私は妻に血の色を見せないで死ぬつもりです。

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私は妻に血の色を見せないで死ぬつもりです。

妻の知らない間に、こっそりこの世からいなくなるようにします。

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妻の知らないに、こっそりこの世からいなくなるようにします。

私は死んだ後で、妻から急に死んだと思われたいのです。

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私は死んだ後で、妻から頓死とんししたと思われたいのです。

気が狂ったと思われても、満足なのです。

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気が狂ったと思われても満足なのです。

私が死のうと決心してからもう十日以上になりますが、その大部分はあなたにこの長い自分の一生の話の一節を書き残すために使ったものと思ってください。

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私が死のうと決心してから、もう十日以上になりますが、その大部分はあなたにこの長い自叙伝の一節を書き残すために使用されたものと思って下さい。

初めはあなたに会って話をする気でいたのですが、書いてみると、かえってその方が自分をはっきり描き出すことができたような気持ちがしてうれしいのです。

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始めはあなたに会って話をする気でいたのですが、書いてみると、かえってその方が自分を判然はっきりえがき出す事ができたような心持がしてうれしいのです。

私は、物好きで書くのではありません。

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私は酔興すいきょうに書くのではありません。

私を生んだ私の過去は人の経験の一部分として、私よりほかにだれも語ることのできるものはないのですから、それを偽りなく書き残しておく私の努力は、人を知る上においてあなたにとってもほかの人にとっても無駄ではなかろうと思います。

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私を生んだ私の過去は、人間の経験の一部分として、私よりほかに誰も語り得るものはないのですから、それをいつわりなく書き残して置く私の努力は、人間を知る上において、あなたにとっても、外の人にとっても、徒労ではなかろうと思います。

渡辺崋山(わたなべかざん。江戸時代の画家)は邯鄲という絵を描くために死ぬ日を一週間延ばしたという話を、つい先日聞きました。

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渡辺華山わたなべかざん邯鄲かんたんというくために、死期を一週間繰り延べたという話をつい先達せんだって聞きました。

他人から見たら余計なことのようにも思えましょうが、本人にはまた本人なりの求めが心の中にあるのだからやむを得ないとも言えるでしょう。

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ひとから見たら余計な事のようにも解釈できましょうが、当人にはまた当人相応の要求が心のうちにあるのだからやむをえないともいわれるでしょう。

私の努力も、ただあなたに対する約束を果たすためばかりではありません。

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私の努力も単にあなたに対する約束を果たすためばかりではありません。

半分以上は、自分自身の求めに動かされた結果なのです。

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なかば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。

しかし私は今、その求めを果たしました。

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しかし私は今その要求を果たしました。

もう、何もすることはありません。

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もう何にもする事はありません。

この手紙があなたの手に落ちるころには、私はもうこの世にはいないでしょう。

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この手紙があなたの手に落ちるころには、私はもうこの世にはいないでしょう。

とっくに死んでいるでしょう。

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とくに死んでいるでしょう。

妻は十日ばかり前から、市ヶ谷のおばの所へ行きました。

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妻は十日ばかり前から市ヶ谷いちがや叔母おばの所へ行きました。

おばが病気で手が足りないというから、私が勧めてやったのです。

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叔母が病気で手が足りないというから私が勧めてやったのです。

私は妻の留守の間に、この長いものの大部分を書きました。

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私は妻の留守のあいだに、この長いものの大部分を書きました。

時々妻が帰って来ると、私はすぐそれを隠しました。

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時々妻が帰って来ると、私はすぐそれを隠しました。

私は私の過去を、よいところも悪いところもともに他人の参考にしてもらうつもりです。

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私は私の過去を善悪ともにひとの参考に供するつもりです。

しかし妻だけはたった一人の例外だと、承知してください。

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しかし妻だけはたった一人の例外だと承知して下さい。

私は妻には、何も知らせたくないのです。

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私は妻には何にも知らせたくないのです。

妻が自分の過去に対して持つ記憶をなるべく真っ白に残しておいてやりたいのが私のたった一つの願いなのですから、私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなただけに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいてください。」

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妻がおのれの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが私の唯一ゆいいつの希望なのですから、私が死んだあとでも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。」