こころ 現代語訳
夏目漱石(なつめそうせき)・1991年
AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-30)
上 先生と私
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上 先生と私
一
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一
私はその人をいつも先生と呼んでいた。
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私はその人を常に先生と呼んでいた。
だからここでもただ先生と書くだけで、本名は明かさない。
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だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。
これは世間に遠慮しているというよりも、その方が私にとって自然だからである。
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これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。
私はその人の記憶を呼び起こすたびに、すぐ「先生」
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私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」
と言いたくなる。
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といいたくなる。
筆を取っても気持ちは同じことである。
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筆を執っても心持は同じ事である。
よそよそしい頭文字などは、とても使う気になれない。
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よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。
私が先生と知り合いになったのは鎌倉である。
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私が先生と知り合いになったのは鎌倉である。
その時、私はまだ若々しい学生だった。
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その時私はまだ若々しい書生であった。
夏休みを利用して海水浴に行った友達から、ぜひ来いという葉書を受け取ったので、私は多少の金を工面して出掛けることにした。
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暑中休暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書を受け取ったので、私は多少の金を工面して、出掛ける事にした。
私は金の工面に二、三日を費やした。
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私は金の工面に二、三日を費やした。
ところが私が鎌倉に着いて三日と経たないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国もとから帰れという電報を受け取った。
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ところが私が鎌倉に着いて三日と経たないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。
電報には母が病気だからと書いてあったけれども、友達はそれを信じなかった。
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電報には母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。
友達は以前から、国もとにいる親たちに気の進まない結婚を強いられていた。
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友達はかねてから国元にいる親たちに勧まない結婚を強いられていた。
彼は今の習慣から言えば、結婚するにはあまりに年が若過ぎた。
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彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた。
その上、肝心の相手が気に入らなかった。
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それに肝心の当人が気に入らなかった。
それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて東京の近くで遊んでいたのである。
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それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて東京の近くで遊んでいたのである。
彼は電報を私に見せて、どうしようと相談した。
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彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。
私にはどうしていいか分からなかった。
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私にはどうしていいか分らなかった。
けれども実際に彼の母が病気だとすれば、彼はもちろん帰るべきだった。
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けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固より帰るべきはずであった。
それで彼はとうとう帰ることになった。
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それで彼はとうとう帰る事になった。
せっかく来た私は一人取り残された。
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せっかく来た私は一人取り残された。
学校の授業が始まるまでにはまだだいぶ日があるので、鎌倉にいてもいいし帰ってもいいという身分だった私は、当分元の宿に留まる覚悟をした。
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学校の授業が始まるにはまだ大分日数があるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいという境遇にいた私は、当分元の宿に留まる覚悟をした。
友達は中国地方のある資産家の息子で金に不自由のない男だったけれども、学校が学校だし年が年なので、暮らしぶりは私とそう変わりもしなかった。
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友達は中国のある資産家の息子で金に不自由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった。
だから一人ぼっちになった私は、特に手ごろな宿を探す面倒もなかったのである。
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したがって一人ぼっちになった私は別に恰好な宿を探す面倒ももたなかったのである。
宿は鎌倉でも辺鄙な方角にあった。
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宿は鎌倉でも辺鄙な方角にあった。
玉突きだのアイスクリームだのというハイカラなものには、長い田んぼ道を一つ越さなければ手が届かなかった。
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玉突きだのアイスクリームだのというハイカラなものには長い畷を一つ越さなければ手が届かなかった。
車で行っても二十銭は取られた。
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車で行っても二十銭は取られた。
けれども個人の別荘は、そこここにいくつでも建てられていた。
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けれども個人の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。
それに海へはごく近いので、海水浴をやるにはきわめて便利な場所を占めていた。
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それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な地位を占めていた。
私は毎日海へ入りに出掛けた。
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私は毎日海へはいりに出掛けた。
古くすすけた藁葺きの家の間を通り抜けて磯へ下りると、この辺にこれほど都会の人間が住んでいるのかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動いていた。
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古い燻ぶり返った藁葺の間を通り抜けて磯へ下りると、この辺にこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動いていた。
ある時は海の中が銭湯のように黒い頭でごちゃごちゃしていることもあった。
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ある時は海の中が銭湯のように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。
その中に知り合いを一人も持たない私も、こういう賑やかな景色に包まれて、砂の上に寝そべってみたり、膝頭を波に打たせてそこいらを跳ね回ったりするのは愉快だった。
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その中に知った人を一人ももたない私も、こういう賑やかな景色の中に裹まれて、砂の上に寝そべってみたり、膝頭を波に打たしてそこいらを跳ね廻るのは愉快であった。
私は実に、先生をこの人ごみの中で見つけ出したのである。
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私は実に先生をこの雑沓の間に見付け出したのである。
その時、海岸には掛け茶屋が二軒あった。
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その時海岸には掛茶屋が二軒あった。
私はふとしたきっかけから、その一軒の方に行き慣れていた。
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私はふとした機会からその一軒の方に行き慣れていた。
長谷あたりに大きな別荘を構えている人と違って、それぞれ専用の着替え場を持っていないこの辺りの避暑客には、どうしてもこうした共同の着替え所のようなものが必要だったのである。
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長谷辺に大きな別荘を構えている人と違って、各自に専有の着換場を拵えていないここいらの避暑客には、ぜひともこうした共同着換所といった風なものが必要なのであった。
彼らはここで茶を飲み、ここで休息するほかに、ここで海水着を洗濯させたり、ここで塩気のついた体を洗い流したり、ここへ帽子や傘を預けたりするのである。
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彼らはここで茶を飲み、ここで休息する外に、ここで海水着を洗濯させたり、ここで鹹はゆい身体を清めたり、ここへ帽子や傘を預けたりするのである。
海水着を持たない私にも持ち物を盗まれる恐れはあったので、私は海へ入るたびにその茶屋へ一切を脱ぎ捨てることにしていた。
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海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあったので、私は海へはいるたびにその茶屋へ一切を脱ぎ棄てる事にしていた。
二
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二
私がその掛け茶屋で先生を見た時は、先生がちょうど着物を脱いで、これから海へ入ろうとするところだった。
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私がその掛茶屋で先生を見た時は、先生がちょうど着物を脱いでこれから海へ入ろうとするところであった。
私はその時、反対に濡れた体を風に吹かせて水から上がって来た。
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私はその時反対に濡れた身体を風に吹かして水から上がって来た。
二人の間には、目を遮る多くの黒い頭が動いていた。
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二人の間には目を遮る幾多の黒い頭が動いていた。
特別な事情がなければ、私は結局、先生を見逃したかもしれなかった。
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特別の事情のない限り、私はついに先生を見逃したかも知れなかった。
それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭がぼんやりしていたにもかかわらず、私がすぐ先生を見つけ出したのは、先生が一人の西洋人を連れていたからである。
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それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭が放漫であったにもかかわらず、私がすぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人を伴れていたからである。
その西洋人のずばぬけて白い皮膚の色が、掛け茶屋へ入るやいなや、すぐ私の注意を引いた。
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その西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入るや否や、すぐ私の注意を惹いた。
純粋の日本の浴衣を着ていた彼は、それを床几の上にすぽりと放り出したまま、腕組みをして海の方を向いて立っていた。
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純粋の日本の浴衣を着ていた彼は、それを床几の上にすぽりと放り出したまま、腕組みをして海の方を向いて立っていた。
彼は我々のはく猿股一つのほか、何も身に着けていなかった。
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彼は我々の穿く猿股一つの外何物も肌に着けていなかった。
私にはそれが何より不思議だった。
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私にはそれが第一不思議だった。
私はその二日前に由比ヶ浜まで行って、砂の上にしゃがみながら、長い間西洋人が海へ入る様子を眺めていた。
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私はその二日前に由井が浜まで行って、砂の上にしゃがみながら、長い間西洋人の海へ入る様子を眺めていた。
私が腰を下ろした所は少し小高い丘の上で、そのすぐそばがホテルの裏口になっていたので、私がじっとしている間にだいぶ多くの男が潮を浴びに出て来たが、いずれも胴と腕と股は出していなかった。
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私の尻をおろした所は少し小高い丘の上で、そのすぐ傍がホテルの裏口になっていたので、私の凝としている間に、大分多くの男が塩を浴びに出て来たが、いずれも胴と腕と股は出していなかった。
女はことさら肌を隠しがちだった。
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女は殊更肉を隠しがちであった。
たいていは頭にゴム製の頭巾をかぶって、えび茶や紺や藍の色を波間に浮かべていた。
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大抵は頭に護謨製の頭巾を被って、海老茶や紺や藍の色を波間に浮かしていた。
そういう有様を目にしたばかりの私の目には、猿股一つで済ませて皆の前に立っているこの西洋人が、いかにもめずらしく見えた。
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そういう有様を目撃したばかりの私の眼には、猿股一つで済まして皆なの前に立っているこの西洋人がいかにも珍しく見えた。
彼はやがて自分のそばを振り返って、そこにかがんでいる日本人に一言二言何か言った。
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彼はやがて自分の傍を顧みて、そこにこごんでいる日本人に、一言二言何かいった。
その日本人は砂の上に落ちた手拭いを拾い上げているところだったが、それを取り上げるやいなや、すぐ頭を包んで海の方へ歩き出した。
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その日本人は砂の上に落ちた手拭を拾い上げているところであったが、それを取り上げるや否や、すぐ頭を包んで、海の方へ歩き出した。
その人がすなわち先生だった。
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その人がすなわち先生であった。
私は単に好奇心から、並んで浜辺を下りて行く二人の後ろ姿を見守っていた。
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私は単に好奇心のために、並んで浜辺を下りて行く二人の後姿を見守っていた。
すると彼らはまっすぐ波の中に足を踏み込んだ。
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すると彼らは真直に波の中に足を踏み込んだ。
そうして遠浅の磯近くでわいわい騒いでいる大勢の間を通り抜けて、比較的広々した所へ来ると、二人とも泳ぎ出した。
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そうして遠浅の磯近くにわいわい騒いでいる多人数の間を通り抜けて、比較的広々した所へ来ると、二人とも泳ぎ出した。
彼らの頭が小さく見えるまで沖の方へ向かって行った。
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彼らの頭が小さく見えるまで沖の方へ向いて行った。
それから引き返して、また一直線に浜辺まで戻って来た。
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それから引き返してまた一直線に浜辺まで戻って来た。
掛け茶屋へ帰ると、井戸の水も浴びずに、すぐ体を拭いて着物を着て、さっさとどこかへ行ってしまった。
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掛茶屋へ帰ると、井戸の水も浴びずに、すぐ身体を拭いて着物を着て、さっさとどこへか行ってしまった。
彼らの出て行ったあと、私はやはり元の床几に腰を下ろして煙草を吹かしていた。
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彼らの出て行った後、私はやはり元の床几に腰をおろして烟草を吹かしていた。
その時、私はぽかんとしながら先生のことを考えた。
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その時私はぽかんとしながら先生の事を考えた。
どうもどこかで見たことのある顔のように思われてならなかった。
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どうもどこかで見た事のある顔のように思われてならなかった。
しかしどうしても、いつどこで会った人か思い出せずに終わった。
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しかしどうしてもいつどこで会った人か想い出せずにしまった。
その時の私は屈託がないというより、むしろ退屈に苦しんでいた。
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その時の私は屈托がないというよりむしろ無聊に苦しんでいた。
それで翌日もまた、先生に会った時刻を見計らって、わざわざ掛け茶屋まで出掛けてみた。
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それで翌日もまた先生に会った時刻を見計らって、わざわざ掛茶屋まで出かけてみた。
すると西洋人は来ないで、先生が一人、麦わら帽子をかぶってやって来た。
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すると西洋人は来ないで先生一人麦藁帽を被ってやって来た。
先生は眼鏡を取って台の上に置き、すぐ手拭いで頭を包んで、すたすた浜を下りて行った。
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先生は眼鏡をとって台の上に置いて、すぐ手拭で頭を包んで、すたすた浜を下りて行った。
先生が昨日のように騒がしい海水浴客の中を通り抜けて、一人で泳ぎ出した時、私は急にそのあとを追い掛けたくなった。
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先生が昨日のように騒がしい浴客の中を通り抜けて、一人で泳ぎ出した時、私は急にその後が追い掛けたくなった。
私は浅い水を頭の上まで跳ね上げて相当の深さの所まで来て、そこから先生を目印に抜き手を切った。
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私は浅い水を頭の上まで跳かして相当の深さの所まで来て、そこから先生を目標に抜手を切った。
すると先生は昨日と違って、一種の弧を描いて、妙な方向から岸の方へ帰り始めた。
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すると先生は昨日と違って、一種の弧線を描いて、妙な方向から岸の方へ帰り始めた。
それで私の目的はとうとう果たせなかった。
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それで私の目的はついに達せられなかった。
私が陸へ上がって、しずくの垂れる手を振りながら掛け茶屋に入ると、先生はもうちゃんと着物を着て、入れ違いに外へ出て行った。
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私が陸へ上がって雫の垂れる手を振りながら掛茶屋に入ると、先生はもうちゃんと着物を着て入れ違いに外へ出て行った。
三
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三
私は次の日も同じ時刻に浜へ行って、先生の顔を見た。
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私は次の日も同じ時刻に浜へ行って先生の顔を見た。
その次の日にもまた同じことを繰り返した。
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その次の日にもまた同じ事を繰り返した。
けれども物を言い掛ける機会も、挨拶をする場合も、二人の間には起こらなかった。
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けれども物をいい掛ける機会も、挨拶をする場合も、二人の間には起らなかった。
その上、先生の態度はむしろ非社交的だった。
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その上先生の態度はむしろ非社交的であった。
決まった時刻に超然として来て、また超然と帰って行った。
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一定の時刻に超然として来て、また超然と帰って行った。
周囲がいくら賑やかでも、それにはほとんど注意を払う様子が見えなかった。
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周囲がいくら賑やかでも、それにはほとんど注意を払う様子が見えなかった。
最初いっしょに来た西洋人は、その後まるで姿を見せなかった。
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最初いっしょに来た西洋人はその後まるで姿を見せなかった。
先生はいつでも一人だった。
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先生はいつでも一人であった。
ある時、先生がいつものとおりさっさと海から上がって来て、いつもの場所に脱ぎ捨てた浴衣を着ようとすると、どうしたわけか、その浴衣に砂がいっぱい着いていた。
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或る時先生が例の通りさっさと海から上がって来て、いつもの場所に脱ぎ棄てた浴衣を着ようとすると、どうした訳か、その浴衣に砂がいっぱい着いていた。
先生はそれを落とすために、後ろ向きになって浴衣を二、三度振った。
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先生はそれを落すために、後ろ向きになって、浴衣を二、三度振った。
すると着物の下に置いてあった眼鏡が、板の隙間から下へ落ちた。
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すると着物の下に置いてあった眼鏡が板の隙間から下へ落ちた。
先生は白絣の上へ兵児帯を締めてから、眼鏡がなくなったのに気がついたと見えて、急にそこいらを探し始めた。
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先生は白絣の上へ兵児帯を締めてから、眼鏡の失くなったのに気が付いたと見えて、急にそこいらを探し始めた。
私はすぐ腰掛けの下へ首と手を突っ込んで、眼鏡を拾い出した。
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私はすぐ腰掛の下へ首と手を突ッ込んで眼鏡を拾い出した。
先生はありがとうと言って、それを私の手から受け取った。
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先生は有難うといって、それを私の手から受け取った。
次の日、私は先生のあとについて海へ飛び込んだ。
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次の日私は先生の後につづいて海へ飛び込んだ。
そうして先生といっしょの方角に泳いで行った。
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そうして先生といっしょの方角に泳いで行った。
二丁ほど沖へ出ると、先生は後ろを振り返って私に話し掛けた。
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二丁ほど沖へ出ると、先生は後ろを振り返って私に話し掛けた。
広い青い海の表面に浮いているものは、その近所に私たち二人よりほかになかった。
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広い蒼い海の表面に浮いているものは、その近所に私ら二人より外になかった。
そうして強い太陽の光が、目の届く限り水と山とを照らしていた。
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そうして強い太陽の光が、眼の届く限り水と山とを照らしていた。
私は自由と歓喜に満ちた筋肉を動かして、海の中で躍り狂った。
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私は自由と歓喜に充ちた筋肉を動かして海の中で躍り狂った。
先生はまたぱたりと手足の動きをやめて、仰向けになったまま波の上に寝た。
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先生はまたぱたりと手足の運動を已めて仰向けになったまま浪の上に寝た。
私もその真似をした。
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私もその真似をした。
青空の色がぎらぎらと目を射るように、痛烈な色を私の顔に投げつけた。
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青空の色がぎらぎらと眼を射るように痛烈な色を私の顔に投げ付けた。
「愉快ですね」
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「愉快ですね」
と私は大きな声を出した。
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と私は大きな声を出した。
しばらくして海の中で起き上がるように姿勢を改めた先生は、「もう帰りませんか」
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しばらくして海の中で起き上がるように姿勢を改めた先生は、「もう帰りませんか」
と言って私を促した。
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といって私を促した。
比較的丈夫な体を持っていた私は、もっと海の中で遊んでいたかった。
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比較的強い体質をもった私は、もっと海の中で遊んでいたかった。
しかし先生から誘われた時、私はすぐ「ええ、帰りましょう」
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しかし先生から誘われた時、私はすぐ「ええ帰りましょう」
と気持ちよく答えた。
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と快く答えた。
そうして二人でまた元の道を浜辺へ引き返した。
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そうして二人でまた元の路を浜辺へ引き返した。
私はこれから先生と親しくなった。
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私はこれから先生と懇意になった。
しかし先生がどこにいるかは、まだ知らなかった。
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しかし先生がどこにいるかはまだ知らなかった。
それから中二日おいて、ちょうど三日目の午後だったと思う。
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それから中二日おいてちょうど三日目の午後だったと思う。
先生と掛け茶屋で出会った時、先生は突然私に向かって、「君はまだだいぶ長くここにいるつもりですか」
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先生と掛茶屋で出会った時、先生は突然私に向かって、「君はまだ大分長くここにいるつもりですか」
と聞いた。
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と聞いた。
考えのない私は、こういう問いに答えるだけの用意を頭の中にたくわえていなかった。
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考えのない私はこういう問いに答えるだけの用意を頭の中に蓄えていなかった。
それで「どうだか分かりません」
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それで「どうだか分りません」
と答えた。
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と答えた。
しかしにやにや笑っている先生の顔を見た時、私は急にきまりが悪くなった。
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しかしにやにや笑っている先生の顔を見た時、私は急に極りが悪くなった。
「先生は」
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「先生は?」
と聞き返さずにはいられなかった。
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と聞き返さずにはいられなかった。
これが私の口を出た先生という言葉の始まりである。
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これが私の口を出た先生という言葉の始まりである。
私はその晩、先生の宿を訪ねた。
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私はその晩先生の宿を尋ねた。
宿といっても普通の旅館と違って、広い寺の境内にある別荘のような建物だった。
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宿といっても普通の旅館と違って、広い寺の境内にある別荘のような建物であった。
そこに住んでいる人が先生の家族でないことも分かった。
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そこに住んでいる人の先生の家族でない事も解った。
私が先生先生と呼び掛けるので、先生は苦笑いをした。
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私が先生先生と呼び掛けるので、先生は苦笑いをした。
私は、それが年長者に対する自分の口癖だと言って弁解した。
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私はそれが年長者に対する私の口癖だといって弁解した。
私はこの間の西洋人のことを聞いてみた。
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私はこの間の西洋人の事を聞いてみた。
先生は彼の風変わりなところや、もう鎌倉にいないことなど、いろいろの話をした末、日本人にさえあまり交際を持たないのに、そういう外国人と近づきになったのは不思議だと言ったりした。
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先生は彼の風変りのところや、もう鎌倉にいない事や、色々の話をした末、日本人にさえあまり交際をもたないのに、そういう外国人と近付きになったのは不思議だといったりした。
私は最後に先生に向かって、どこかで先生を見たように思うけれども、どうしても思い出せないと言った。
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私は最後に先生に向かって、どこかで先生を見たように思うけれども、どうしても思い出せないといった。
若い私はその時、ひそかに相手も自分と同じような感じを持っているのではないかと思った。
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若い私はその時暗に相手も私と同じような感じを持っていはしまいかと疑った。
そうして心の中で先生の返事を予想して待ち構えた。
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そうして腹の中で先生の返事を予期してかかった。
ところが先生はしばらく考え込んだあとで、「どうも君の顔には見覚えがありませんね。人違いじゃないですか」
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ところが先生はしばらく沈吟したあとで、「どうも君の顔には見覚えがありませんね。人違いじゃないですか」
と言ったので、私は妙な失望を感じた。
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といったので私は変に一種の失望を感じた。
四
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四
私は月の末に東京へ帰った。
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私は月の末に東京へ帰った。
先生が避暑地を引き上げたのは、それよりずっと前だった。
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先生の避暑地を引き上げたのはそれよりずっと前であった。
私は先生と別れる時に、「これから時々お宅へうかがってもよろしいですか」
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私は先生と別れる時に、「これから折々お宅へ伺っても宜ござんすか」
と聞いた。
原文を見る
と聞いた。
先生は簡単に、ただ「ええ、いらっしゃい」
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先生は単簡にただ「ええいらっしゃい」
と言っただけだった。
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といっただけであった。
その頃の私は先生とよほど親しくなったつもりでいたので、先生からもう少し濃やかな言葉を期待していたのである。
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その時分の私は先生とよほど懇意になったつもりでいたので、先生からもう少し濃かな言葉を予期して掛ったのである。
それでこの物足りない返事が、少し私の自信を傷つけた。
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それでこの物足りない返事が少し私の自信を傷めた。
私はこういうことでよく先生から失望させられた。
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私はこういう事でよく先生から失望させられた。
先生はそれに気がついているようでもあり、またまったく気がついていないようでもあった。
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先生はそれに気が付いているようでもあり、また全く気が付かないようでもあった。
私はまた軽い失望を繰り返しながら、そのために先生から離れて行く気にはなれなかった。
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私はまた軽微な失望を繰り返しながら、それがために先生から離れて行く気にはなれなかった。
むしろその反対で、不安に揺さぶられるたびに、もっと前へ進みたくなった。
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むしろそれとは反対で、不安に揺かされるたびに、もっと前へ進みたくなった。
もっと前へ進めば、私の期待しているあるものが、いつか目の前に十分に現れて来るだろうと思った。
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もっと前へ進めば、私の予期するあるものが、いつか眼の前に満足に現われて来るだろうと思った。
私は若かった。
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私は若かった。
けれどもすべての人間に対して、若い血がこう素直に働こうとは思わなかった。
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けれどもすべての人間に対して、若い血がこう素直に働こうとは思わなかった。
私はなぜ先生に対してだけこんな気持ちが起こるのか分からなかった。
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私はなぜ先生に対してだけこんな心持が起るのか解らなかった。
それが先生の亡くなった今日になって、初めて分かって来た。
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それが先生の亡くなった今日になって、始めて解って来た。
先生は初めから私を嫌っていたのではなかったのである。
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先生は始めから私を嫌っていたのではなかったのである。
先生が私に示した時々の素っ気ない挨拶や冷淡に見える動作は、私を遠ざけようとする不快の表現ではなかったのである。
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先生が私に示した時々の素気ない挨拶や冷淡に見える動作は、私を遠ざけようとする不快の表現ではなかったのである。
痛ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のない者だからよせという警告を与えたのである。
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傷ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだから止せという警告を与えたのである。
他人の慕う心に応じない先生は、他人を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していたものと見える。
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他の懐かしみに応じない先生は、他を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していたものとみえる。
私はもちろん先生を訪ねるつもりで東京へ帰って来た。
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私は無論先生を訪ねるつもりで東京へ帰って来た。
帰ってから授業の始まるまでにはまだ二週間の日数があるので、そのうちに一度行っておこうと思った。
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帰ってから授業の始まるまでにはまだ二週間の日数があるので、そのうちに一度行っておこうと思った。
しかし帰って二日三日と経つうちに、鎌倉にいた時の気分がだんだん薄くなって来た。
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しかし帰って二日三日と経つうちに、鎌倉にいた時の気分が段々薄くなって来た。
そうしてその上に彩りを添える大都会の空気が、記憶の呼び覚ます強い刺激とともに、濃く私の心を染めつけた。
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そうしてその上に彩られる大都会の空気が、記憶の復活に伴う強い刺戟と共に、濃く私の心を染め付けた。
私は道で学生の顔を見るたびに、新しい学年に対する希望と緊張とを感じた。
原文を見る
私は往来で学生の顔を見るたびに新しい学年に対する希望と緊張とを感じた。
私はしばらく先生のことを忘れた。
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私はしばらく先生の事を忘れた。
授業が始まって一か月ばかりすると、私の心にまた一種の緩みができて来た。
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授業が始まって、一カ月ばかりすると私の心に、また一種の弛みができてきた。
私は何だか物足りない顔をして道を歩き始めた。
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私は何だか不足な顔をして往来を歩き始めた。
物欲しそうに自分の部屋の中を見回した。
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物欲しそうに自分の室の中を見廻した。
私の頭には再び先生の顔が浮かんで出た。
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私の頭には再び先生の顔が浮いて出た。
私はまた先生に会いたくなった。
原文を見る
私はまた先生に会いたくなった。
初めて先生の家を訪ねた時、先生は留守だった。
原文を見る
始めて先生の宅を訪ねた時、先生は留守であった。
二度目に行ったのは次の日曜だと覚えている。
原文を見る
二度目に行ったのは次の日曜だと覚えている。
晴れた空が身にしみ込むように感じられる、いい天気だった。
原文を見る
晴れた空が身に沁み込むように感ぜられる好い日和であった。
その日も先生は留守だった。
原文を見る
その日も先生は留守であった。
鎌倉にいた時、私は先生自身の口から、いつでもたいてい家にいるということを聞いた。
原文を見る
鎌倉にいた時、私は先生自身の口から、いつでも大抵宅にいるという事を聞いた。
むしろ外出嫌いだということも聞いた。
原文を見る
むしろ外出嫌いだという事も聞いた。
二度来て二度とも会えなかった私は、その言葉を思い出して、理由もない不満をどこかに感じた。
原文を見る
二度来て二度とも会えなかった私は、その言葉を思い出して、理由もない不満をどこかに感じた。
私はすぐ玄関先を去らなかった。
原文を見る
私はすぐ玄関先を去らなかった。
お手伝いの顔を見て、少しためらってそこに立っていた。
原文を見る
下女の顔を見て少し躊躇してそこに立っていた。
この前名刺を取り次いだ覚えのあるお手伝いは、私を待たせておいてまた中へ入った。
原文を見る
この前名刺を取り次いだ記憶のある下女は、私を待たしておいてまた内へはいった。
すると奥さんらしい人が代わって出て来た。
原文を見る
すると奥さんらしい人が代って出て来た。
美しい奥さんだった。
原文を見る
美しい奥さんであった。
私はその人からていねいに先生の行き先を教えられた。
原文を見る
私はその人から鄭寧に先生の出先を教えられた。
先生は毎月その日になると、雑司ヶ谷の墓地にあるある仏に花を供えに行く習慣なのだそうである。
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先生は例月その日になると雑司ヶ谷の墓地にある或る仏へ花を手向けに行く習慣なのだそうである。
「たった今出たばかりで、十分になるか、ならないかでございます」
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「たった今出たばかりで、十分になるか、ならないかでございます」
と奥さんは気の毒そうに言ってくれた。
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と奥さんは気の毒そうにいってくれた。
私は会釈して外へ出た。
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私は会釈して外へ出た。
賑やかな町の方へ一丁ほど歩くと、私も散歩がてら雑司ヶ谷へ行ってみる気になった。
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賑かな町の方へ一丁ほど歩くと、私も散歩がてら雑司ヶ谷へ行ってみる気になった。
先生に会えるか会えないかという好奇心も動いた。
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先生に会えるか会えないかという好奇心も動いた。
それですぐ踵を返した。
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それですぐ踵を回らした。
五
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五
私は墓地の手前にある苗畑の左側から入って、両方に楓を植えつけた広い道を奥の方へ進んで行った。
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私は墓地の手前にある苗畠の左側からはいって、両方に楓を植え付けた広い道を奥の方へ進んで行った。
するとその端に見える茶店の中から、先生らしい人がふいと出て来た。
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するとその端れに見える茶店の中から先生らしい人がふいと出て来た。
私はその人の眼鏡の縁が日に光るまで近く寄って行った。
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私はその人の眼鏡の縁が日に光るまで近く寄って行った。
そうして出し抜けに「先生」
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そうして出し抜けに「先生」
と大きな声を掛けた。
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と大きな声を掛けた。
先生は突然立ち止まって私の顔を見た。
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先生は突然立ち留まって私の顔を見た。
「どうして……、どうして……」
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「どうして……、どうして……」
先生は同じ言葉を二度繰り返した。
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先生は同じ言葉を二遍繰り返した。
その言葉は、しんと静まり返った昼の中で異様な調子をもって繰り返された。
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その言葉は森閑とした昼の中に異様な調子をもって繰り返された。
私は急に何とも答えられなくなった。
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私は急に何とも応えられなくなった。
「私のあとをつけて来たのですか。どうして……」
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「私の後を跟けて来たのですか。どうして……」
先生の態度はむしろ落ち着いていた。
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先生の態度はむしろ落ち付いていた。
声はむしろ沈んでいた。
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声はむしろ沈んでいた。
けれどもその表情の中には、はっきり言えないような一種の曇りがあった。
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けれどもその表情の中には判然いえないような一種の曇りがあった。
私は自分がどうしてここへ来たかを先生に話した。
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私は私がどうしてここへ来たかを先生に話した。
「誰の墓へ参りに行ったか、妻がその人の名を言いましたか」
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「誰の墓へ参りに行ったか、妻がその人の名をいいましたか」
「いいえ、そんなことは何もおっしゃいません」
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「いいえ、そんな事は何もおっしゃいません」
「そうですか。――そう、それは言うはずがありませんね、初めて会ったあなたに。言う必要がないんだから」
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「そうですか。――そう、それはいうはずがありませんね、始めて会ったあなたに。いう必要がないんだから」
先生はようやく納得したらしい様子だった。
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先生はようやく得心したらしい様子であった。
しかし私にはその意味がまるで分からなかった。
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しかし私にはその意味がまるで解らなかった。
先生と私は通りへ出ようとして墓の間を抜けた。
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先生と私は通りへ出ようとして墓の間を抜けた。
イサベラ何々の墓だの、神僕ロギンの墓だのという傍らに、一切衆生悉有仏性と書いた塔婆などが建ててあった。
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依撒伯拉何々の墓だの、神僕ロギンの墓だのという傍に、一切衆生悉有仏生と書いた塔婆などが建ててあった。
全権公使何々というのもあった。
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全権公使何々というのもあった。
私は安得烈と彫りつけた小さい墓の前で、「これは何と読むんでしょう」
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私は安得烈と彫り付けた小さい墓の前で、「これは何と読むんでしょう」
と先生に聞いた。
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と先生に聞いた。
「アンドレとでも読ませるつもりでしょうね」
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「アンドレとでも読ませるつもりでしょうね」
と言って先生は苦笑した。
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といって先生は苦笑した。
先生はこれらの墓標が表す人それぞれの様式に対して、私ほどには滑稽も皮肉も感じていないらしかった。
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先生はこれらの墓標が現わす人種々の様式に対して、私ほどに滑稽もアイロニーも認めてないらしかった。
私が丸い墓石だの細長い御影石の碑だのを指して、しきりにあれこれ言いたがるのを、初めのうちは黙って聞いていたが、しまいに「あなたは死という事実を、まだ真面目に考えたことがありませんね」
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私が丸い墓石だの細長い御影の碑だのを指して、しきりにかれこれいいたがるのを、始めのうちは黙って聞いていたが、しまいに「あなたは死という事実をまだ真面目に考えた事がありませんね」
と言った。
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といった。
私は黙った。
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私は黙った。
先生もそれきり何とも言わなくなった。
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先生もそれぎり何ともいわなくなった。
墓地の区切り目に、大きな銀杏が一本、空を隠すように立っていた。
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墓地の区切り目に、大きな銀杏が一本空を隠すように立っていた。
その下へ来た時、先生は高い梢を見上げて、「もう少しすると、きれいですよ。この木がすっかり黄葉して、ここいらの地面は金色の落ち葉で埋まるようになります」
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その下へ来た時、先生は高い梢を見上げて、「もう少しすると、綺麗ですよ。この木がすっかり黄葉して、ここいらの地面は金色の落葉で埋まるようになります」
と言った。
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といった。
先生は月に一度ずつは必ずこの木の下を通るのだった。
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先生は月に一度ずつは必ずこの木の下を通るのであった。
向こうの方で凸凹の地面をならして新しい墓地を作っている男が、鍬の手を休めて私たちを見ていた。
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向うの方で凸凹の地面をならして新墓地を作っている男が、鍬の手を休めて私たちを見ていた。
私たちはそこから左へ折れて、すぐ街道へ出た。
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私たちはそこから左へ切れてすぐ街道へ出た。
これからどこへ行くという目的のない私は、ただ先生の歩く方へ歩いて行った。
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これからどこへ行くという目的のない私は、ただ先生の歩く方へ歩いて行った。
先生はいつもより口数が少なかった。
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先生はいつもより口数を利かなかった。
それでも私はさほど窮屈を感じなかったので、ぶらぶらといっしょに歩いて行った。
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それでも私はさほどの窮屈を感じなかったので、ぶらぶらいっしょに歩いて行った。
「すぐお宅へお帰りですか」
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「すぐお宅へお帰りですか」
「ええ、別に寄る所もありませんから」
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「ええ別に寄る所もありませんから」
二人はまた黙って南の方へ坂を下りた。
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二人はまた黙って南の方へ坂を下りた。
「先生のお宅の墓地はあそこにあるんですか」
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「先生のお宅の墓地はあすこにあるんですか」
と私がまた口をきき出した。
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と私がまた口を利き出した。
「いいえ」
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「いいえ」
「どなたのお墓があるんですか。――ご親類のお墓ですか」
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「どなたのお墓があるんですか。――ご親類のお墓ですか」
「いいえ」
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「いいえ」
先生はこれ以外に何も答えなかった。
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先生はこれ以外に何も答えなかった。
私もその話はそれきりにして切り上げた。
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私もその話はそれぎりにして切り上げた。
すると一町ほど歩いたあとで、先生が不意にそこへ戻って来た。
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すると一町ほど歩いた後で、先生が不意にそこへ戻って来た。
「あそこには私の友達の墓があるんです」
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「あすこには私の友達の墓があるんです」
「お友達のお墓へ毎月お参りをなさるんですか」
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「お友達のお墓へ毎月お参りをなさるんですか」
「そうです」
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「そうです」
先生はその日、これ以外を語らなかった。
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先生はその日これ以外を語らなかった。
六
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六
私はそれから時々先生を訪問するようになった。
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私はそれから時々先生を訪問するようになった。
行くたびに先生は家にいた。
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行くたびに先生は在宅であった。
先生に会う回数が重なるにつれて、私はますます頻繁に先生の玄関へ足を運んだ。
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先生に会う度数が重なるにつれて、私はますます繁く先生の玄関へ足を運んだ。
けれども先生の私に対する態度は、初めて挨拶をした時も、親しくなったその後も、あまり変わりはなかった。
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けれども先生の私に対する態度は初めて挨拶をした時も、懇意になったその後も、あまり変りはなかった。
先生はいつも静かだった。
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先生は何時も静かであった。
ある時は静か過ぎて寂しいくらいだった。
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ある時は静か過ぎて淋しいくらいであった。
私は最初から、先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。
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私は最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。
それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかで強く働いた。
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それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた。
こういう感じを先生に対して持っていた者は、多くの人のうちで、あるいは私だけかもしれない。
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こういう感じを先生に対してもっていたものは、多くの人のうちであるいは私だけかも知れない。
しかしその私だけには、この直感が後になって事実の上で証拠立てられたのだから、私は若々しいと言われても、馬鹿げていると笑われても、それを見越した自分の直感をとにかく頼もしく、また嬉しく思っている。
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しかしその私だけにはこの直感が後になって事実の上に証拠立てられたのだから、私は若々しいといわれても、馬鹿げていると笑われても、それを見越した自分の直覚をとにかく頼もしくまた嬉しく思っている。
人間を愛することのできる人、愛さずにはいられない人、それでいて自分のふところに入ろうとする者を、手を広げて抱き締めることのできない人。これが先生だった。
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人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、――これが先生であった。
今言ったとおり、先生は始終静かだった。
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今いった通り先生は始終静かであった。
落ち着いていた。
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落ち付いていた。
けれども時として、変な曇りがその顔を横切ることがあった。
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けれども時として変な曇りがその顔を横切る事があった。
窓に黒い鳥の影が射すように。
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窓に黒い鳥影が射すように。
射すかと思うと、すぐ消えるには消えたが。
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射すかと思うと、すぐ消えるには消えたが。
私が初めてその曇りを先生の眉間に認めたのは、雑司ヶ谷の墓地で、不意に先生に呼び掛けた時だった。
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私が始めてその曇りを先生の眉間に認めたのは、雑司ヶ谷の墓地で、不意に先生を呼び掛けた時であった。
私はその異様な瞬間に、それまで快く流れていた心臓の潮の流れをちょっと鈍らせた。
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私はその異様の瞬間に、今まで快く流れていた心臓の潮流をちょっと鈍らせた。
しかしそれは単に一時の乱れに過ぎなかった。
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しかしそれは単に一時の結滞に過ぎなかった。
私の心は五分と経たないうちに普段の弾力を取り戻した。
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私の心は五分と経たないうちに平素の弾力を回復した。
私はそれきり、暗そうなこの雲の影を忘れてしまった。
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私はそれぎり暗そうなこの雲の影を忘れてしまった。
思いがけずまたそれを思い出させられたのは、小春日和の尽きるのに間もないある晩のことだった。
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ゆくりなくまたそれを思い出させられたのは、小春の尽きるに間のない或る晩の事であった。
先生と話していた私は、ふと先生がわざわざ注意してくれた銀杏の大木を目の前に思い浮かべた。
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先生と話していた私は、ふと先生がわざわざ注意してくれた銀杏の大樹を眼の前に想い浮かべた。
数えてみると、先生が毎月決まって墓参りに行く日が、それからちょうど三日目に当たっていた。
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勘定してみると、先生が毎月例として墓参に行く日が、それからちょうど三日目に当っていた。
その三日目は、私の授業が昼で終わる楽な日だった。
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その三日目は私の課業が午で終える楽な日であった。
私は先生に向かってこう言った。
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私は先生に向かってこういった。
「先生、雑司ヶ谷の銀杏はもう散ってしまったでしょうか」
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「先生雑司ヶ谷の銀杏はもう散ってしまったでしょうか」
「まだ丸坊主にはならないでしょう」
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「まだ空坊主にはならないでしょう」
先生はそう答えながら私の顔を見つめた。
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先生はそう答えながら私の顔を見守った。
そうしてそこからしばらく目を離さなかった。
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そうしてそこからしばし眼を離さなかった。
私はすぐ言った。
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私はすぐいった。
「今度お墓参りにいらっしゃる時に、お供をしてもよろしいですか。私は先生といっしょにあのあたりを散歩してみたい」
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「今度お墓参りにいらっしゃる時にお伴をしても宜ござんすか。私は先生といっしょにあすこいらが散歩してみたい」
「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」
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「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」
「しかしついでに散歩をなさったら、ちょうどいいじゃありませんか」
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「しかしついでに散歩をなすったらちょうど好いじゃありませんか」
先生は何とも答えなかった。
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先生は何とも答えなかった。
しばらくしてから、「私のは本当の墓参りだけなんだから」
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しばらくしてから、「私のは本当の墓参りだけなんだから」
と言って、どこまでも墓参りと散歩を切り離そうとする風に見えた。
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といって、どこまでも墓参と散歩を切り離そうとする風に見えた。
私と行きたくない口実なのか何なのか、私にはその時の先生が、いかにも子供らしくて変に思われた。
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私と行きたくない口実だか何だか、私にはその時の先生が、いかにも子供らしくて変に思われた。
私はなおさら押して出る気になった。
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私はなおと先へ出る気になった。
「じゃ、お墓参りでもいいからいっしょに連れて行ってください。私もお墓参りをしますから」
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「じゃお墓参りでも好いからいっしょに伴れて行って下さい。私もお墓参りをしますから」
実際、私には墓参りと散歩との区別がほとんど無意味のように思われたのである。
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実際私には墓参と散歩との区別がほとんど無意味のように思われたのである。
すると先生の眉がちょっと曇った。
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すると先生の眉がちょっと曇った。
目の中にも異様な光が出た。
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眼のうちにも異様の光が出た。
それは迷惑とも嫌悪とも畏れとも片づけられない、かすかな不安らしいものだった。
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それは迷惑とも嫌悪とも畏怖とも片付けられない微かな不安らしいものであった。
私はたちまち、雑司ヶ谷で「先生」
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私は忽ち雑司ヶ谷で「先生」
と呼び掛けた時の記憶を強く思い起こした。
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と呼び掛けた時の記憶を強く思い起した。
二つの表情はまったく同じだったのである。
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二つの表情は全く同じだったのである。
「私は」
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「私は」
と先生が言った。
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と先生がいった。
「私はあなたに話すことのできないある理由があって、人といっしょにあそこへ墓参りには行きたくないのです。自分の妻さえ、まだ連れて行ったことがないのです」
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「私はあなたに話す事のできないある理由があって、他といっしょにあすこへ墓参りには行きたくないのです。自分の妻さえまだ伴れて行った事がないのです」
七
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七
私は不思議に思った。
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私は不思議に思った。
しかし私は先生を研究する気でその家へ出入りしていたのではなかった。
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しかし私は先生を研究する気でその宅へ出入りをするのではなかった。
私はただそのままにして過ごした。
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私はただそのままにして打ち過ぎた。
今考えると、その時の私の態度は、私の人生のうちでむしろ尊ぶべきものの一つだった。
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今考えるとその時の私の態度は、私の生活のうちでむしろ尊むべきものの一つであった。
私はまったくそのおかげで、先生と人間らしい温かい交際ができたのだと思う。
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私は全くそのために先生と人間らしい温かい交際ができたのだと思う。
もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向かって、研究するように働き掛けていたなら、二人の間をつなぐ同情の糸は、何の容赦もなくその時ふつりと切れてしまっただろう。
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もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向かって、研究的に働き掛けたなら、二人の間を繋ぐ同情の糸は、何の容赦もなくその時ふつりと切れてしまったろう。
若い私はまったく自分の態度を自覚していなかった。
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若い私は全く自分の態度を自覚していなかった。
だからこそ尊いのかもしれないが、もし間違えて裏へ出ていたとしたら、どんな結果が二人の仲に落ちて来ただろう。
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それだから尊いのかも知れないが、もし間違えて裏へ出たとしたら、どんな結果が二人の仲に落ちて来たろう。
私は想像してもぞっとする。
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私は想像してもぞっとする。
先生はそれでなくても、冷たい目で研究されるのを絶えず恐れていたのである。
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先生はそれでなくても、冷たい眼で研究されるのを絶えず恐れていたのである。
私は月に二度もしくは三度ずつ、必ず先生の家へ行くようになった。
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私は月に二度もしくは三度ずつ必ず先生の宅へ行くようになった。
私の足がだんだん頻繁になった頃のある日、先生は突然私に向かって聞いた。
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私の足が段々繁くなった時のある日、先生は突然私に向かって聞いた。
「あなたは何でそうたびたび、私のような者の家へやって来るのですか」
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「あなたは何でそうたびたび私のようなものの宅へやって来るのですか」
「何でといって、そんな特別な意味はありません。――しかしお邪魔なんですか」
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「何でといって、そんな特別な意味はありません。――しかしお邪魔なんですか」
「邪魔だとは言いません」
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「邪魔だとはいいません」
なるほど迷惑という様子は、先生のどこにも見えなかった。
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なるほど迷惑という様子は、先生のどこにも見えなかった。
私は先生の交際の範囲がきわめて狭いことを知っていた。
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私は先生の交際の範囲の極めて狭い事を知っていた。
先生の元の同級生などで、その頃東京にいる者はほとんど二人か三人しかいないということも知っていた。
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先生の元の同級生などで、その頃東京にいるものはほとんど二人か三人しかないという事も知っていた。
先生と同郷の学生などとは時たま座敷で同席する場合もあったが、彼らのいずれもが皆、私ほど先生に親しみを持っていないように見受けられた。
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先生と同郷の学生などには時たま座敷で同座する場合もあったが、彼らのいずれもは皆な私ほど先生に親しみをもっていないように見受けられた。
「私は寂しい人間です」
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「私は淋しい人間です」
と先生が言った。
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と先生がいった。
「だからあなたが来てくださることを喜んでいます。だから、なぜそうたびたび来るのかと聞いたのです」
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「だからあなたの来て下さる事を喜んでいます。だからなぜそうたびたび来るのかといって聞いたのです」
「それはまたなぜです」
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「そりゃまたなぜです」
私がこう聞き返した時、先生は何とも答えなかった。
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私がこう聞き返した時、先生は何とも答えなかった。
ただ私の顔を見て、「あなたはいくつですか」
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ただ私の顔を見て「あなたは幾歳ですか」
と言った。
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といった。
この問答は私にとってはなはだ要領を得ないものだったが、私はその時、底まで押さずに帰ってしまった。
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この問答は私にとってすこぶる不得要領のものであったが、私はその時底まで押さずに帰ってしまった。
しかもそれから四日と経たないうちに、また先生を訪問した。
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しかもそれから四日と経たないうちにまた先生を訪問した。
先生は座敷へ出るやいなや笑い出した。
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先生は座敷へ出るや否や笑い出した。
「また来ましたね」
原文を見る
「また来ましたね」
と言った。
原文を見る
といった。
「ええ、来ました」
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「ええ来ました」
と言って自分も笑った。
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といって自分も笑った。
私はほかの人からこう言われたら、きっと腹が立っただろうと思う。
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私は外の人からこういわれたらきっと癪に触ったろうと思う。
しかし先生にこう言われた時は、まるで反対だった。
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しかし先生にこういわれた時は、まるで反対であった。
腹が立たないばかりか、かえって愉快だった。
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癪に触らないばかりでなくかえって愉快だった。
「私は寂しい人間です」
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「私は淋しい人間です」
と先生はその晩また、この間の言葉を繰り返した。
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と先生はその晩またこの間の言葉を繰り返した。
「私は寂しい人間ですが、ことによるとあなたも寂しい人間じゃないですか。私は寂しくても年を取っているから動かずにいられるが、若いあなたはそうは行かないのでしょう。動けるだけ動きたいのでしょう。動いて何かにぶつかりたいのでしょう……」
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「私は淋しい人間ですが、ことによるとあなたも淋しい人間じゃないですか。私は淋しくっても年を取っているから、動かずにいられるが、若いあなたはそうは行かないのでしょう。動けるだけ動きたいのでしょう。動いて何かに打つかりたいのでしょう……」
「私はちっとも寂しくはありません」
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「私はちっとも淋しくはありません」
「若いうちほど寂しいものはありません。それならなぜあなたは、そうたびたび私の家へ来るのですか」
原文を見る
「若いうちほど淋しいものはありません。そんならなぜあなたはそうたびたび私の宅へ来るのですか」
ここでもこの間の言葉が、また先生の口から繰り返された。
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ここでもこの間の言葉がまた先生の口から繰り返された。
「あなたは私に会っても、おそらくまだ寂しい気がどこかでしているでしょう。私にはあなたのために、その寂しさを根元から引き抜いてあげるだけの力がないんだから。あなたはほかの方を向いて、今に手を広げなければならなくなります。今に私の家の方へは足が向かなくなります」
原文を見る
「あなたは私に会ってもおそらくまだ淋しい気がどこかでしているでしょう。私にはあなたのためにその淋しさを根元から引き抜いて上げるだけの力がないんだから。あなたは外の方を向いて今に手を広げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足が向かなくなります」
先生はこう言って寂しい笑い方をした。
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先生はこういって淋しい笑い方をした。
八
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八
幸いにして先生の予言は実現されずに済んだ。
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幸いにして先生の予言は実現されずに済んだ。
経験のない当時の私は、この予言の中に含まれている明白な意味さえ理解できなかった。
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経験のない当時の私は、この予言の中に含まれている明白な意義さえ了解し得なかった。
私は相変わらず先生に会いに行った。
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私は依然として先生に会いに行った。
そのうちいつの間にか、先生の食卓でご飯を食べるようになった。
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その内いつの間にか先生の食卓で飯を食うようになった。
当然の結果として、奥さんとも口をきかなければならないようになった。
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自然の結果奥さんとも口を利かなければならないようになった。
普通の人間として、私は女に対して冷淡ではなかった。
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普通の人間として私は女に対して冷淡ではなかった。
けれども年の若い私が今まで過ごして来た境遇から言って、私はほとんど交際らしい交際を女と結んだことがなかった。
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けれども年の若い私の今まで経過して来た境遇からいって、私はほとんど交際らしい交際を女に結んだ事がなかった。
それが原因かどうかは疑問だが、私の興味は道で行き会う知りもしない女に向かって多く働くだけだった。
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それが源因かどうかは疑問だが、私の興味は往来で出合う知りもしない女に向かって多く働くだけであった。
先生の奥さんには、その前に玄関で会った時、美しいという印象を受けた。
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先生の奥さんにはその前玄関で会った時、美しいという印象を受けた。
それから会うたびに、同じ印象を受けないことはなかった。
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それから会うたんびに同じ印象を受けない事はなかった。
しかしそれ以外に、私はこれといって特に奥さんについて語るべきものを何も持たないような気がした。
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しかしそれ以外に私はこれといってとくに奥さんについて語るべき何物ももたないような気がした。
これは奥さんに特色がないというよりも、特色を示す機会が来なかったのだと解釈する方が正しいかもしれない。
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これは奥さんに特色がないというよりも、特色を示す機会が来なかったのだと解釈する方が正当かも知れない。
しかし私はいつでも、先生に付属した一部分のような気持ちで奥さんに接していた。
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しかし私はいつでも先生に付属した一部分のような心持で奥さんに対していた。
奥さんも、自分の夫の所へ来る学生だからという好意で、私を扱っていたらしい。
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奥さんも自分の夫の所へ来る書生だからという好意で、私を遇していたらしい。
だから中間に立つ先生を取り除ければ、つまり二人はばらばらになっていた。
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だから中間に立つ先生を取り除ければ、つまり二人はばらばらになっていた。
それで初めて知り合いになった時の奥さんについては、ただ美しいというほかに何の感じも残っていない。
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それで始めて知り合いになった時の奥さんについては、ただ美しいという外に何の感じも残っていない。
ある時、私は先生の家で酒を飲まされた。
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ある時私は先生の宅で酒を飲まされた。
その時、奥さんが出て来てそばで酌をしてくれた。
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その時奥さんが出て来て傍で酌をしてくれた。
先生はいつもより愉快そうに見えた。
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先生はいつもより愉快そうに見えた。
奥さんに「お前も一つおあがり」
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奥さんに「お前も一つお上がり」
と言って、自分の飲み干した盃を差した。
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といって、自分の呑み干した盃を差した。
奥さんは「私は……」
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奥さんは「私は……」
と辞退しかけたあと、迷惑そうにそれを受け取った。
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と辞退しかけた後、迷惑そうにそれを受け取った。
奥さんはきれいな眉を寄せて、私が半分ばかり注いであげた盃を、唇の先へ持って行った。
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奥さんは綺麗な眉を寄せて、私の半分ばかり注いで上げた盃を、唇の先へ持って行った。
奥さんと先生の間に、次のような会話が始まった。
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奥さんと先生の間に下のような会話が始まった。
「めずらしいこと。私に飲めとおっしゃったことは、めったにないのにね」
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「珍らしい事。私に呑めとおっしゃった事は滅多にないのにね」
「お前は嫌いだからさ。しかしたまには飲むといいよ。いい心持ちになるよ」
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「お前は嫌いだからさ。しかし稀には飲むといいよ。好い心持になるよ」
「ちっともなりませんわ。苦しいばかりで。でもあなたは大変ご愉快そうね、少しお酒を召し上がると」
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「ちっともならないわ。苦しいぎりで。でもあなたは大変ご愉快そうね、少しご酒を召し上がると」
「時によると大変愉快になる。しかしいつでもというわけには行かない」
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「時によると大変愉快になる。しかしいつでもというわけにはいかない」
「今夜はいかがです」
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「今夜はいかがです」
「今夜はいい心持ちだね」
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「今夜は好い心持だね」
「これから毎晩少しずつ召し上がるとよろしいですよ」
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「これから毎晩少しずつ召し上がると宜ござんすよ」
「そうは行かない」
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「そうはいかない」
「召し上がってくださいよ。その方が寂しくなくていいから」
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「召し上がって下さいよ。その方が淋しくなくって好いから」
先生の家は夫婦とお手伝いだけだった。
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先生の宅は夫婦と下女だけであった。
行くたびに、たいていはひっそりしていた。
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行くたびに大抵はひそりとしていた。
高い笑い声などが聞こえたためしは、まるでなかった。
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高い笑い声などの聞こえる試しはまるでなかった。
ある時は、家の中にいるのは先生と私だけのような気がした。
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或る時は宅の中にいるものは先生と私だけのような気がした。
「子供でもいるといいんですがね」
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「子供でもあると好いんですがね」
と奥さんは私の方を向いて言った。
原文を見る
と奥さんは私の方を向いていった。
私は「そうですな」
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私は「そうですな」
と答えた。
原文を見る
と答えた。
しかし私の心には何の同情も起こらなかった。
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しかし私の心には何の同情も起らなかった。
子供を持ったことのないその時の私は、子供をただうるさいもののように考えていた。
原文を見る
子供を持った事のないその時の私は、子供をただ蒼蠅いもののように考えていた。
「一人もらってやろうか」
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「一人貰ってやろうか」
と先生が言った。
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と先生がいった。
「もらいっ子じゃ、ねえ、あなた」
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「貰ッ子じゃ、ねえあなた」
と奥さんはまた私の方を向いた。
原文を見る
と奥さんはまた私の方を向いた。
「子供はいつまで経ってもできっこないよ」
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「子供はいつまで経ったってできっこないよ」
と先生が言った。
原文を見る
と先生がいった。
奥さんは黙っていた。
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奥さんは黙っていた。
「なぜです」
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「なぜです」
と私が代わりに聞いた時、先生は「天罰だからさ」
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と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」
と言って高く笑った。
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といって高く笑った。
九
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九
私の知る限り、先生と奥さんとは仲のいい夫婦の一組だった。
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私の知る限り先生と奥さんとは、仲の好い夫婦の一対であった。
家庭の一員として暮らしたことのない私のことだから、深い事情はもちろん分からなかったけれども、座敷で私と向かい合って座っている時、先生は何かのついでに、お手伝いを呼ばずに奥さんを呼ぶことがあった。
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家庭の一員として暮した事のない私のことだから、深い消息は無論解らなかったけれども、座敷で私と対坐している時、先生は何かのついでに、下女を呼ばないで、奥さんを呼ぶ事があった。
(奥さんの名は静といった)
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(奥さんの名は静といった)。
先生は「おい、静」
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先生は「おい静」
と、いつでも襖の方を振り向いた。
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といつでも襖の方を振り向いた。
その呼び方が私には優しく聞こえた。
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その呼びかたが私には優しく聞こえた。
返事をして出て来る奥さんの様子も、はなはだ素直だった。
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返事をして出て来る奥さんの様子も甚だ素直であった。
時たまご馳走になって、奥さんが席へ現れる場合などには、この関係がいっそう明らかに二人の間に描き出されるようだった。
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ときたまご馳走になって、奥さんが席へ現われる場合などには、この関係が一層明らかに二人の間に描き出されるようであった。
先生は時々奥さんを連れて、音楽会だの芝居だのに行った。
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先生は時々奥さんを伴れて、音楽会だの芝居だのに行った。
それから夫婦連れで一週間以内の旅行をしたことも、私の記憶によると二、三度以上あった。
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それから夫婦づれで一週間以内の旅行をした事も、私の記憶によると、二、三度以上あった。
私は箱根からもらった絵葉書をまだ持っている。
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私は箱根から貰った絵端書をまだ持っている。
日光へ行った時は、紅葉の葉を一枚封じ込めた郵便ももらった。
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日光へ行った時は紅葉の葉を一枚封じ込めた郵便も貰った。
当時の私の目に映った先生と奥さんの間柄は、まずこんなものだった。
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当時の私の眼に映った先生と奥さんの間柄はまずこんなものであった。
そのうちにたった一つの例外があった。
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そのうちにたった一つの例外があった。
ある日、私がいつものとおり先生の玄関から案内を頼もうとすると、座敷の方で誰かの話し声がした。
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ある日私がいつもの通り、先生の玄関から案内を頼もうとすると、座敷の方でだれかの話し声がした。
よく聞くと、それが普通の話ではなく、どうも言い争いらしかった。
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よく聞くと、それが尋常の談話でなくって、どうも言逆いらしかった。
先生の家は玄関の次がすぐ座敷になっているので、格子の前に立っていた私の耳に、その言い争いの調子だけはほぼ分かった。
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先生の宅は玄関の次がすぐ座敷になっているので、格子の前に立っていた私の耳にその言逆いの調子だけはほぼ分った。
そうしてそのうちの一人が先生だということも、時々高まって来る男の方の声で分かった。
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そうしてそのうちの一人が先生だという事も、時々高まって来る男の方の声で解った。
相手は先生よりも低い声なので誰だかはっきりしなかったが、どうも奥さんらしく感じられた。
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相手は先生よりも低い音なので、誰だか判然しなかったが、どうも奥さんらしく感ぜられた。
泣いているようでもあった。
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泣いているようでもあった。
私はどうしたものだろうと思って玄関先で迷ったが、すぐ決心してそのまま下宿へ帰った。
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私はどうしたものだろうと思って玄関先で迷ったが、すぐ決心をしてそのまま下宿へ帰った。
妙に不安な気持ちが私を襲って来た。
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妙に不安な心持が私を襲って来た。
私は本を読んでも呑み込む力を失ってしまった。
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私は書物を読んでも呑み込む能力を失ってしまった。
一時間ほどすると、先生が窓の下へ来て私の名を呼んだ。
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約一時間ばかりすると先生が窓の下へ来て私の名を呼んだ。
私は驚いて窓を開けた。
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私は驚いて窓を開けた。
先生は散歩しようと言って、下から私を誘った。
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先生は散歩しようといって、下から私を誘った。
さきほど帯の間へ包んだままの時計を出して見ると、もう八時過ぎだった。
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先刻帯の間へ包んだままの時計を出して見ると、もう八時過ぎであった。
私は帰ったなり、まだ袴をつけていた。
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私は帰ったなりまだ袴を着けていた。
私はそのまますぐ表へ出た。
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私はそれなりすぐ表へ出た。
その晩、私は先生といっしょにビールを飲んだ。
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その晩私は先生といっしょに麦酒を飲んだ。
先生はもともと酒量の少ない人だった。
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先生は元来酒量に乏しい人であった。
ある程度まで飲んで、それで酔えなければ、酔うまで飲んでみるという冒険のできない人だった。
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ある程度まで飲んで、それで酔えなければ、酔うまで飲んでみるという冒険のできない人であった。
「今日は駄目です」
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「今日は駄目です」
と言って先生は苦笑した。
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といって先生は苦笑した。
「愉快になれませんか」
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「愉快になれませんか」
と私は気の毒そうに聞いた。
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と私は気の毒そうに聞いた。
私の心の中には始終、さきほどのことが引っ掛かっていた。
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私の腹の中には始終先刻の事が引っ懸っていた。
魚の骨が喉に刺さった時のように、私は苦しんだ。
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肴の骨が咽喉に刺さった時のように、私は苦しんだ。
打ち明けてみようかと考えたり、やめた方がいいだろうかと思い直したりする揺れが、妙に私の様子をそわそわさせた。
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打ち明けてみようかと考えたり、止した方が好かろうかと思い直したりする動揺が、妙に私の様子をそわそわさせた。
「君、今夜はどうかしていますね」
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「君、今夜はどうかしていますね」
と先生の方から言い出した。
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と先生の方からいい出した。
「実は私も少し変なのですよ。君に分かりますか」
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「実は私も少し変なのですよ。君に分りますか」
私は何の答えもできなかった。
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私は何の答えもし得なかった。
「実はさきほど妻と少し喧嘩をしてね。それでつまらない神経を興奮させてしまったんです」
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「実は先刻妻と少し喧嘩をしてね。それで下らない神経を昂奮させてしまったんです」
と先生がまた言った。
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と先生がまたいった。
「どうして……」
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「どうして……」
私には喧嘩という言葉が口へ出て来なかった。
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私には喧嘩という言葉が口へ出て来なかった。
「妻が私を誤解するのです。それを誤解だと言って聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです」
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「妻が私を誤解するのです。それを誤解だといって聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです」
「どんなふうに先生を誤解なさるんですか」
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「どんなに先生を誤解なさるんですか」
先生は私のこの問いに答えようとはしなかった。
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先生は私のこの問いに答えようとはしなかった。
「妻が考えているような人間なら、私だってこんなに苦しんでいやしない」
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「妻が考えているような人間なら、私だってこんなに苦しんでいやしない」
先生がどんなに苦しんでいるか、これも私には想像の及ばない問題だった。
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先生がどんなに苦しんでいるか、これも私には想像の及ばない問題であった。
十
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十
二人が帰る時、歩きながらの沈黙が一丁も二丁も続いた。
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二人が帰るとき歩きながらの沈黙が一丁も二丁もつづいた。
そのあとで突然、先生が口をきき出した。
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その後で突然先生が口を利き出した。
「悪いことをした。怒って出たから、妻はさぞ心配をしているだろう。考えると女は可哀そうなものですね。私の妻などは、私よりほかにまるで頼りにするものがないんだから」
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「悪い事をした。怒って出たから妻はさぞ心配をしているだろう。考えると女は可哀そうなものですね。私の妻などは私より外にまるで頼りにするものがないんだから」
先生の言葉はちょっとそこで途切れたが、特に私の返事を期待する様子もなく、すぐその続きへ移って行った。
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先生の言葉はちょっとそこで途切れたが、別に私の返事を期待する様子もなく、すぐその続きへ移って行った。
「そう言うと、夫の方はいかにも心強いようで少し滑稽だが。君、私は君の目にどう映りますかね。強い人に見えますか、弱い人に見えますか」
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「そういうと、夫の方はいかにも心丈夫のようで少し滑稽だが。君、私は君の眼にどう映りますかね。強い人に見えますか、弱い人に見えますか」
「中くらいに見えます」
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「中位に見えます」
と私は答えた。
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と私は答えた。
この答えは先生にとって少し意外らしかった。
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この答えは先生にとって少し案外らしかった。
先生はまた口を閉じて、無言で歩き出した。
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先生はまた口を閉じて、無言で歩き出した。
先生の家へ帰るには、私の下宿のすぐそばを通るのが順路だった。
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先生の宅へ帰るには私の下宿のつい傍を通るのが順路であった。
私はそこまで来て、曲がり角で別れるのが先生に申し訳ないような気がした。
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私はそこまで来て、曲り角で分れるのが先生に済まないような気がした。
「ついでにお宅の前までお供しましょうか」
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「ついでにお宅の前までお伴しましょうか」
と言った。
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といった。
先生はたちまち手で私を遮った。
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先生は忽ち手で私を遮った。
「もう遅いから早く帰りたまえ。私も早く帰ってやるんだから、妻のために」
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「もう遅いから早く帰りたまえ。私も早く帰ってやるんだから、妻君のために」
先生が最後に付け加えた「妻のために」
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先生が最後に付け加えた「妻君のために」
という言葉は、妙にその時の私の心を暖かにした。
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という言葉は妙にその時の私の心を暖かにした。
私はその言葉のおかげで、帰ってから安心して寝ることができた。
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私はその言葉のために、帰ってから安心して寝る事ができた。
私はその後も長い間、この「妻のために」
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私はその後も長い間この「妻君のために」
という言葉を忘れなかった。
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という言葉を忘れなかった。
先生と奥さんの間に起こった波風が大したものでないことは、これでも分かった。
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先生と奥さんの間に起った波瀾が、大したものでない事はこれでも解った。
それがまためったに起こる現象でなかったことも、その後絶えず出入りしていた私にはほぼ推察できた。
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それがまた滅多に起る現象でなかった事も、その後絶えず出入りをして来た私にはほぼ推察ができた。
それどころか先生は、ある時こんな感想さえ私に漏らした。
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それどころか先生はある時こんな感想すら私に洩らした。
「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻以外の女は、ほとんど女として私に訴えて来ないのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味から言って、私たちはもっとも幸福に生まれた人間の一組であるはずです」
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「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻以外の女はほとんど女として私に訴えないのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって、私たちは最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです」
私は今、前後のいきさつを忘れてしまったから、先生が何のためにこんな告白を私に聞かせたのか、はっきり言うことができない。
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私は今前後の行き掛りを忘れてしまったから、先生が何のためにこんな自白を私にして聞かせたのか、判然いう事ができない。
けれども先生の態度が真面目だったことと、調子が沈んでいたこととは、いまだに記憶に残っている。
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けれども先生の態度の真面目であったのと、調子の沈んでいたのとは、いまだに記憶に残っている。
その時ただ私の耳に異様に響いたのは、「もっとも幸福に生まれた人間の一組であるはずです」
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その時ただ私の耳に異様に響いたのは、「最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです」
という最後の一句だった。
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という最後の一句であった。
先生はなぜ幸福な人間だと言い切らないで、あるはずだと断ったのか。
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先生はなぜ幸福な人間といい切らないで、あるべきはずであると断わったのか。
私にはそれだけが不審だった。
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私にはそれだけが不審であった。
特にそこへ一種の力を入れた先生の語気が不審だった。
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ことにそこへ一種の力を入れた先生の語気が不審であった。
先生は事実はたして幸福なのだろうか、また幸福であるはずでありながら、それほど幸福でないのだろうか。
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先生は事実はたして幸福なのだろうか、また幸福であるべきはずでありながら、それほど幸福でないのだろうか。
私は心の中で疑わずにいられなかった。
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私は心の中で疑らざるを得なかった。
けれどもその疑いは、一時限りどこかへ葬られてしまった。
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けれどもその疑いは一時限りどこかへ葬られてしまった。
私はそのうち先生の留守に行って、奥さんと二人差し向かいで話をする機会に出会った。
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私はそのうち先生の留守に行って、奥さんと二人差向いで話をする機会に出合った。
先生はその日、横浜を出港する汽船に乗って外国へ行く友人を新橋へ送りに行って留守だった。
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先生はその日横浜を出帆する汽船に乗って外国へ行くべき友人を新橋へ送りに行って留守であった。
横浜から船に乗る人が、朝八時半の汽車で新橋を発つのは、その頃の習慣だった。
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横浜から船に乗る人が、朝八時半の汽車で新橋を立つのはその頃の習慣であった。
私はある本について先生に話してもらう必要があったので、あらかじめ先生の承諾を得たとおり、約束の九時に訪問した。
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私はある書物について先生に話してもらう必要があったので、あらかじめ先生の承諾を得た通り、約束の九時に訪問した。
先生の新橋行きは、前日わざわざ別れを告げに来た友人に対する礼儀として、その日突然起こった出来事だった。
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先生の新橋行きは前日わざわざ告別に来た友人に対する礼義としてその日突然起った出来事であった。
先生はすぐ帰るから、留守でも私に待っているようにと言い残して行った。
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先生はすぐ帰るから留守でも私に待っているようにといい残して行った。
それで私は座敷へ上がって、先生を待つ間、奥さんと話をした。
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それで私は座敷へ上がって、先生を待つ間、奥さんと話をした。
十一
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十一
その時の私はすでに大学生だった。
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その時の私はすでに大学生であった。
初めて先生の家へ来た頃から見ると、ずっと大人になった気でいた。
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始めて先生の宅へ来た頃から見るとずっと成人した気でいた。
奥さんともだいぶ親しくなったあとだった。
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奥さんとも大分懇意になった後であった。
私は奥さんに対して何の窮屈も感じなかった。
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私は奥さんに対して何の窮屈も感じなかった。
差し向かいでいろいろの話をした。
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差向いで色々の話をした。
しかしそれは特色のないただの話だから、今ではまるで忘れてしまった。
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しかしそれは特色のないただの談話だから、今ではまるで忘れてしまった。
そのうちでたった一つ、私の耳に留まったものがある。
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そのうちでたった一つ私の耳に留まったものがある。
しかしそれを話す前に、ちょっと断っておきたいことがある。
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しかしそれを話す前に、ちょっと断っておきたい事がある。
先生は大学出身だった。
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先生は大学出身であった。
これは初めから私に分かっていた。
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これは始めから私に知れていた。
しかし先生が何もしないで遊んでいるということは、東京へ帰って少し経ってから初めて分かった。
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しかし先生の何もしないで遊んでいるという事は、東京へ帰って少し経ってから始めて分った。
私はその時、どうして遊んでいられるのかと思った。
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私はその時どうして遊んでいられるのかと思った。
先生はまるで世間に名前を知られていない人だった。
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先生はまるで世間に名前を知られていない人であった。
だから先生の学問や思想については、先生と密接な関係を持っている私よりほかに敬意を払う者があるはずがなかった。
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だから先生の学問や思想については、先生と密切の関係をもっている私より外に敬意を払うもののあるべきはずがなかった。
それを私は常に惜しいことだと言った。
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それを私は常に惜しい事だといった。
先生はまた「私のような者が世の中へ出て口をきいては申し訳ない」
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先生はまた「私のようなものが世の中へ出て、口を利いては済まない」
と答えるだけで、取り合わなかった。
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と答えるぎりで、取り合わなかった。
私にはその答えが謙遜過ぎて、かえって世間を冷やかしているようにも聞こえた。
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私にはその答えが謙遜過ぎてかえって世間を冷評するようにも聞こえた。
実際、先生は時々昔の同級生で今有名になっている誰彼を捕まえて、ひどく遠慮のない批評を加えることがあった。
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実際先生は時々昔の同級生で今著名になっている誰彼を捉えて、ひどく無遠慮な批評を加える事があった。
それで私は露骨にその矛盾を挙げて、あれこれ言ってみた。
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それで私は露骨にその矛盾を挙げて云々してみた。
私の気持ちは反抗というよりも、世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だったからである。
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私の精神は反抗の意味というよりも、世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だったからである。
その時、先生は沈んだ調子で、「どうしても私は世間に向かって働き掛ける資格のない男だから、仕方がありません」
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その時先生は沈んだ調子で、「どうしても私は世間に向かって働き掛ける資格のない男だから仕方がありません」
と言った。
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といった。
先生の顔には、深い一種の表情がありありと刻まれた。
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先生の顔には深い一種の表情がありありと刻まれた。
私にはそれが失望だか、不平だか、悲哀だか分からなかったけれども、とにかく二の句が継げないほど強いものだったので、私はそれきり何も言う勇気が出なかった。
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私にはそれが失望だか、不平だか、悲哀だか、解らなかったけれども、何しろ二の句の継げないほどに強いものだったので、私はそれぎり何もいう勇気が出なかった。
私が奥さんと話している間に、話題が自然に先生のことからそこへ落ちて来た。
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私が奥さんと話している間に、問題が自然先生の事からそこへ落ちて来た。
「先生はなぜああやって、家で考えたり勉強したりなさるだけで、世の中へ出て仕事をなさらないんでしょう」
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「先生はなぜああやって、宅で考えたり勉強したりなさるだけで、世の中へ出て仕事をなさらないんでしょう」
「あの人は駄目ですよ。そういうことが嫌いなんですから」
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「あの人は駄目ですよ。そういう事が嫌いなんですから」
「つまり、つまらないことだと悟っていらっしゃるんでしょうか」
原文を見る
「つまり下らない事だと悟っていらっしゃるんでしょうか」
「悟るの悟らないのって、そりゃ女だから私には分かりませんけれど、おそらくそんな意味じゃないでしょう。やっぱり何かやりたいのでしょう。それでいてできないんです。だから気の毒ですわ」
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「悟るの悟らないのって、――そりゃ女だからわたくしには解りませんけれど、おそらくそんな意味じゃないでしょう。やっぱり何かやりたいのでしょう。それでいてできないんです。だから気の毒ですわ」
「しかし先生は健康から言って、特にどこも悪いところはないようじゃありませんか」
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「しかし先生は健康からいって、別にどこも悪いところはないようじゃありませんか」
「丈夫ですとも。何も持病はありません」
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「丈夫ですとも。何にも持病はありません」
「それでなぜ活動ができないんでしょう」
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「それでなぜ活動ができないんでしょう」
「それが分からないのよ、あなた。それが分かるくらいなら、私だってこんなに心配しやしません。分からないから気の毒でたまらないんです」
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「それが解らないのよ、あなた。それが解るくらいなら私だって、こんなに心配しやしません。わからないから気の毒でたまらないんです」
奥さんの語気には非常に同情があった。
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奥さんの語気には非常に同情があった。
それでも口元だけには微笑が見えた。
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それでも口元だけには微笑が見えた。
外から見れば、私の方がむしろ真面目だった。
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外側からいえば、私の方がむしろ真面目だった。
私は難しい顔をして黙っていた。
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私はむずかしい顔をして黙っていた。
すると奥さんが急に思い出したように、また口を開いた。
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すると奥さんが急に思い出したようにまた口を開いた。
「若い時はあんな人じゃなかったんですよ。若い時はまるで違っていました。それがまったく変わってしまったんです」
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「若い時はあんな人じゃなかったんですよ。若い時はまるで違っていました。それが全く変ってしまったんです」
「若い時っていつ頃ですか」
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「若い時っていつ頃ですか」
と私が聞いた。
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と私が聞いた。
「学生時代よ」
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「書生時代よ」
「学生時代から先生を知っていらっしゃったんですか」
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「書生時代から先生を知っていらっしゃったんですか」
奥さんは急にうっすら赤い顔をした。
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奥さんは急に薄赤い顔をした。
十二
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十二
奥さんは東京の人だった。
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奥さんは東京の人であった。
それはかつて先生からも奥さん自身からも聞いて知っていた。
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それはかつて先生からも奥さん自身からも聞いて知っていた。
奥さんは「本当を言うと合いの子なんですよ」
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奥さんは「本当いうと合の子なんですよ」
と言った。
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といった。
奥さんの父親はたしか鳥取かどこかの出なのに、母親の方はまだ江戸といった時分の市ヶ谷で生まれた女なので、奥さんは冗談半分にそう言ったのである。
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奥さんの父親はたしか鳥取かどこかの出であるのに、お母さんの方はまだ江戸といった時分の市ヶ谷で生れた女なので、奥さんは冗談半分そういったのである。
ところが先生はまったく方角違いの新潟県人だった。
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ところが先生は全く方角違いの新潟県人であった。
だから奥さんがもし先生の学生時代を知っているとすれば、郷里の関係からでないことは明らかだった。
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だから奥さんがもし先生の書生時代を知っているとすれば、郷里の関係からでない事は明らかであった。
しかしうっすら赤い顔をした奥さんは、それ以上の話をしたくないようだったので、私の方でも深くは聞かずにおいた。
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しかし薄赤い顔をした奥さんはそれより以上の話をしたくないようだったので、私の方でも深くは聞かずにおいた。
先生と知り合いになってから先生が亡くなるまでに、私はずいぶんいろいろの問題で先生の思想や心情に触れてみたが、結婚当時の様子については、ほとんど何も聞くことができなかった。
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先生と知り合いになってから先生の亡くなるまでに、私はずいぶん色々の問題で先生の思想や情操に触れてみたが、結婚当時の状況については、ほとんど何ものも聞き得なかった。
私は時によると、それを善意に解釈してもみた。
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私は時によると、それを善意に解釈してもみた。
年輩の先生のことだから、艶めかしい回想などを若い者に聞かせるのはわざと慎んでいるのだろうと思った。
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年輩の先生の事だから、艶めかしい回想などを若いものに聞かせるのはわざと慎んでいるのだろうと思った。
時によると、またそれを悪くも取った。
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時によると、またそれを悪くも取った。
先生に限らず奥さんに限らず、二人とも私に比べると一時代前の習わしの中で育ったために、そういう艶っぽい問題になると、正直に自分を開くだけの勇気がないのだろうと考えた。
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先生に限らず、奥さんに限らず、二人とも私に比べると、一時代前の因襲のうちに成人したために、そういう艶っぽい問題になると、正直に自分を開放するだけの勇気がないのだろうと考えた。
もっとも、どちらも推測に過ぎなかった。
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もっともどちらも推測に過ぎなかった。
そうしてどちらの推測の裏にも、二人の結婚の奥に横たわる華やかな恋物語の存在を仮定していた。
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そうしてどちらの推測の裏にも、二人の結婚の奥に横たわる花やかなロマンスの存在を仮定していた。
私の仮定ははたして間違っていなかった。
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私の仮定ははたして誤らなかった。
けれども私は、ただ恋の半面だけを想像に描き得たに過ぎなかった。
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けれども私はただ恋の半面だけを想像に描き得たに過ぎなかった。
先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。
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先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。
そうしてその悲劇がどんなに先生にとってむごいものであるかは、相手の奥さんにはまるで知られていなかった。
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そうしてその悲劇のどんなに先生にとって見惨なものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。
奥さんは今でもそれを知らずにいる。
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奥さんは今でもそれを知らずにいる。
先生はそれを奥さんに隠して死んだ。
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先生はそれを奥さんに隠して死んだ。
先生は奥さんの幸福を壊す前に、まず自分の命を壊してしまった。
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先生は奥さんの幸福を破壊する前に、まず自分の生命を破壊してしまった。
私は今、この悲劇について何も語らない。
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私は今この悲劇について何事も語らない。
その悲劇のためにむしろ生まれ出たとも言える二人の恋愛については、さきほど言ったとおりだった。
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その悲劇のためにむしろ生れ出たともいえる二人の恋愛については、先刻いった通りであった。
二人とも私にはほとんど何も話してくれなかった。
原文を見る
二人とも私にはほとんど何も話してくれなかった。
奥さんは慎みのために、先生はまたそれ以上の深い理由のために。
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奥さんは慎みのために、先生はまたそれ以上の深い理由のために。
ただ一つ、私の記憶に残っていることがある。
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ただ一つ私の記憶に残っている事がある。
ある時、花の季節に私は先生といっしょに上野へ行った。
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或る時花時分に私は先生といっしょに上野へ行った。
そうしてそこで美しい一組の男女を見た。
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そうしてそこで美しい一対の男女を見た。
彼らは睦まじそうに寄り添って花の下を歩いていた。
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彼らは睦まじそうに寄り添って花の下を歩いていた。
場所が場所なので、花よりもそちらを向いて目を凝らしている人がたくさんいた。
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場所が場所なので、花よりもそちらを向いて眼を峙だてている人が沢山あった。
「新婚の夫婦のようだね」
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「新婚の夫婦のようだね」
と先生が言った。
原文を見る
と先生がいった。
「仲がよさそうですね」
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「仲が好さそうですね」
と私が答えた。
原文を見る
と私が答えた。
先生は苦笑さえしなかった。
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先生は苦笑さえしなかった。
二人の男女を視線の外に置くような方角へ足を向けた。
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二人の男女を視線の外に置くような方角へ足を向けた。
それから私にこう聞いた。
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それから私にこう聞いた。
「君は恋をしたことがありますか」
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「君は恋をした事がありますか」
私はないと答えた。
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私はないと答えた。
「恋をしたくはありませんか」
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「恋をしたくはありませんか」
私は答えなかった。
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私は答えなかった。
「したくないことはないでしょう」
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「したくない事はないでしょう」
「ええ」
原文を見る
「ええ」
「君は今あの男と女を見て、冷やかしましたね。あの冷やかしのうちには、君が恋を求めながら相手を得られないという不満の声が交じっているでしょう」
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「君は今あの男と女を見て、冷評しましたね。あの冷評のうちには君が恋を求めながら相手を得られないという不快の声が交っていましょう」
「そんなふうに聞こえましたか」
原文を見る
「そんな風に聞こえましたか」
「聞こえました。恋の満足を味わっている人は、もっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。分かっていますか」
原文を見る
「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。解っていますか」
私は急に驚かされた。
原文を見る
私は急に驚かされた。
何とも返事をしなかった。
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何とも返事をしなかった。
十三
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十三
我々は人ごみの中にいた。
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我々は群集の中にいた。
人々はいずれも嬉しそうな顔をしていた。
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群集はいずれも嬉しそうな顔をしていた。
そこを通り抜けて、花も人も見えない森の中へ来るまでは、同じ問題を口にする機会がなかった。
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そこを通り抜けて、花も人も見えない森の中へ来るまでは、同じ問題を口にする機会がなかった。
「恋は罪悪ですか」
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「恋は罪悪ですか」
と私がその時突然聞いた。
原文を見る
と私がその時突然聞いた。
「罪悪です。たしかに」
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「罪悪です。たしかに」
と答えた時の先生の語気は、前と同じように強かった。
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と答えた時の先生の語気は前と同じように強かった。
「なぜですか」
原文を見る
「なぜですか」
「なぜだか今に分かります。今にじゃない、もう分かっているはずです。あなたの心は、とっくの昔からすでに恋で動いているじゃありませんか」
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「なぜだか今に解ります。今にじゃない、もう解っているはずです。あなたの心はとっくの昔からすでに恋で動いているじゃありませんか」
私は一応自分の胸の中を調べてみた。
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私は一応自分の胸の中を調べて見た。
けれどもそこは案外に空っぽだった。
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けれどもそこは案外に空虚であった。
思い当たるようなものは何もなかった。
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思いあたるようなものは何にもなかった。
「私の胸の中に、これという目当ては一つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」
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「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」
「目当てがないから動くのです。あれば落ち着けるだろうと思って動きたくなるのです」
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「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」
「今、それほど動いてはいません」
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「今それほど動いちゃいません」
「あなたは物足りない結果、私の所に動いて来たじゃありませんか」
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「あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか」
「それはそうかもしれません。しかしそれは恋とは違います」
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「それはそうかも知れません。しかしそれは恋とは違います」
「恋に上る階段なんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」
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「恋に上る楷段なんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」
「私には二つのものがまったく性質を異にしているように思われます」
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「私には二つのものが全く性質を異にしているように思われます」
「いや同じです。私は男として、どうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられずにいるのです。私は実際お気の毒に思っています。あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。私はむしろそれを望んでいるのです。しかし……」
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「いや同じです。私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っています。あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。私はむしろそれを希望しているのです。しかし……」
私は変に悲しくなった。
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私は変に悲しくなった。
「私が先生から離れて行くようにお思いになるなら仕方がありませんが、私にそんな気が起こったことはまだありません」
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「私が先生から離れて行くようにお思いになれば仕方がありませんが、私にそんな気の起った事はまだありません」
先生は私の言葉に耳を貸さなかった。
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先生は私の言葉に耳を貸さなかった。
「しかし気をつけないといけない。恋は罪悪なんだから。私の所では満足が得られない代わりに危険もないが、――君、黒い長い髪で縛られた時の気持ちを知っていますか」
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「しかし気を付けないといけない。恋は罪悪なんだから。私の所では満足が得られない代りに危険もないが、――君、黒い長い髪で縛られた時の心持を知っていますか」
私は想像で知っていた。
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私は想像で知っていた。
しかし事実としては知らなかった。
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しかし事実としては知らなかった。
いずれにしても先生の言う罪悪という意味は、ぼんやりしていてよく分からなかった。
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いずれにしても先生のいう罪悪という意味は朦朧としてよく解らなかった。
その上、私は少し不愉快になった。
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その上私は少し不愉快になった。
「先生、罪悪という意味をもっとはっきり言って聞かせてください。それでなければ、この問題をここで切り上げてください。私自身に罪悪という意味がはっきり分かるまで」
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「先生、罪悪という意味をもっと判然いって聞かして下さい。それでなければこの問題をここで切り上げて下さい。私自身に罪悪という意味が判然解るまで」
「悪いことをした。私はあなたに真実を話している気でいた。ところが実際は、あなたを焦らせていたのだ。私は悪いことをした」
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「悪い事をした。私はあなたに真実を話している気でいた。ところが実際は、あなたを焦慮していたのだ。私は悪い事をした」
先生と私は、博物館の裏から鶯谷の方角に静かな歩調で歩いて行った。
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先生と私とは博物館の裏から鶯渓の方角に静かな歩調で歩いて行った。
垣根の隙間から、広い庭の一部に茂る熊笹が奥深く静かに見えた。
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垣の隙間から広い庭の一部に茂る熊笹が幽邃に見えた。
「君は私がなぜ毎月、雑司ヶ谷の墓地に埋まっている友人の墓へ参るのか知っていますか」
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「君は私がなぜ毎月雑司ヶ谷の墓地に埋っている友人の墓へ参るのか知っていますか」
先生のこの問いはまったく突然だった。
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先生のこの問いは全く突然であった。
しかも先生は、私がこの問いに答えられないということもよく承知していた。
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しかも先生は私がこの問いに対して答えられないという事もよく承知していた。
私はしばらく返事をしなかった。
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私はしばらく返事をしなかった。
すると先生は初めて気がついたようにこう言った。
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すると先生は始めて気が付いたようにこういった。
「また悪いことを言った。焦らせるのが悪いと思って説明しようとすると、その説明がまたあなたを焦らせるような結果になる。どうも仕方がない。この問題はこれでやめましょう。とにかく恋は罪悪ですよ、よろしいですか。そうして神聖なものですよ」
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「また悪い事をいった。焦慮せるのが悪いと思って、説明しようとすると、その説明がまたあなたを焦慮せるような結果になる。どうも仕方がない。この問題はこれで止めましょう。とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」
私には先生の話がますます分からなくなった。
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私には先生の話がますます解らなくなった。
しかし先生はそれきり恋を口にしなかった。
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しかし先生はそれぎり恋を口にしなかった。
十四
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十四
年の若い私は、ともすると一途になりやすかった。
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年の若い私はややともすると一図になりやすかった。
少なくとも先生の目にはそう映っていたらしい。
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少なくとも先生の眼にはそう映っていたらしい。
私には学校の講義よりも、先生の話の方が有益だった。
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私には学校の講義よりも先生の談話の方が有益なのであった。
教授の意見よりも、先生の思想の方がありがたかった。
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教授の意見よりも先生の思想の方が有難いのであった。
つまるところ、教壇に立って私を指導してくれる偉い人々よりも、ただ一人を守って多くを語らない先生の方が偉く見えたのである。
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とどの詰まりをいえば、教壇に立って私を指導してくれる偉い人々よりもただ独りを守って多くを語らない先生の方が偉く見えたのであった。
「あまり夢中になってはいけません」
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「あんまり逆上ちゃいけません」
と先生が言った。
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と先生がいった。
「冷めた結果としてそう思うんです」
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「覚めた結果としてそう思うんです」
と答えた時の私には十分の自信があった。
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と答えた時の私には充分の自信があった。
その自信を先生は認めてくれなかった。
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その自信を先生は肯がってくれなかった。
「あなたは熱に浮かされているのです。熱が冷めるといやになります。私は今のあなたからそれほどに思われるのを、苦しく感じています。しかしこれから先のあなたに起こるはずの変化を予想してみると、なお苦しくなります」
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「あなたは熱に浮かされているのです。熱がさめると厭になります。私は今のあなたからそれほどに思われるのを、苦しく感じています。しかしこれから先のあなたに起るべき変化を予想して見ると、なお苦しくなります」
「私はそれほど軽薄に思われているんですか。それほど信用がないんですか」
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「私はそれほど軽薄に思われているんですか。それほど不信用なんですか」
「私はお気の毒に思うのです」
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「私はお気の毒に思うのです」
「気の毒だが信用しないとおっしゃるんですか」
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「気の毒だが信用されないとおっしゃるんですか」
先生は迷惑そうに庭の方を向いた。
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先生は迷惑そうに庭の方を向いた。
その庭に、この間まで重そうな赤い強い色をぽたぽたと点じていた椿の花は、もう一つも見えなかった。
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その庭に、この間まで重そうな赤い強い色をぽたぽた点じていた椿の花はもう一つも見えなかった。
先生は座敷からこの椿の花をよく眺める癖があった。
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先生は座敷からこの椿の花をよく眺める癖があった。
「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」
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「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」
その時、生垣の向こうで金魚売りらしい声がした。
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その時生垣の向うで金魚売りらしい声がした。
そのほかには何も聞こえるものがなかった。
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その外には何の聞こえるものもなかった。
大通りから二丁も深く折れ込んだ小道は、思いのほか静かだった。
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大通りから二丁も深く折れ込んだ小路は存外静かであった。
家の中はいつものとおりひっそりしていた。
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家の中はいつもの通りひっそりしていた。
私は隣の部屋に奥さんがいることを知っていた。
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私は次の間に奥さんのいる事を知っていた。
黙って針仕事か何かしている奥さんの耳に、私の話し声が聞こえるということも知っていた。
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黙って針仕事か何かしている奥さんの耳に私の話し声が聞こえるという事も知っていた。
しかし私はまったくそれを忘れてしまった。
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しかし私は全くそれを忘れてしまった。
「じゃ、奥さんも信用なさらないんですか」
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「じゃ奥さんも信用なさらないんですか」
と先生に聞いた。
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と先生に聞いた。
先生は少し不安な顔をした。
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先生は少し不安な顔をした。
そうして直接の答えを避けた。
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そうして直接の答えを避けた。
「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです。自分を呪うよりほかに仕方がないのです」
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「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです。自分を呪うより外に仕方がないのです」
「そう難しく考えれば、誰だって確かなものはないでしょう」
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「そうむずかしく考えれば、誰だって確かなものはないでしょう」
「いや、考えたんじゃない。やったんです。やったあとで驚いたんです。そうして非常に怖くなったんです」
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「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に怖くなったんです」
私はもう少し先まで同じ道をたどって行きたかった。
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私はもう少し先まで同じ道を辿って行きたかった。
すると襖の陰で「あなた、あなた」
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すると襖の陰で「あなた、あなた」
という奥さんの声が二度聞こえた。
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という奥さんの声が二度聞こえた。
先生は二度目に「何だい」
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先生は二度目に「何だい」
と言った。
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といった。
奥さんは「ちょっと」
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奥さんは「ちょっと」
と先生を隣の部屋へ呼んだ。
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と先生を次の間へ呼んだ。
二人の間にどんな用事が起こったのか、私には分からなかった。
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二人の間にどんな用事が起ったのか、私には解らなかった。
それを想像する余裕を与えないほど早く、先生はまた座敷へ帰って来た。
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それを想像する余裕を与えないほど早く先生はまた座敷へ帰って来た。
「とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分がだまされた仕返しに、残酷な復讐をするようになるものだから」
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「とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分が欺かれた返報に、残酷な復讐をするようになるものだから」
「それはどういう意味ですか」
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「そりゃどういう意味ですか」
「かつてはその人の膝の前にひざまずいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を退けたいと思うのです。私は今より一層寂しい未来の私を我慢する代わりに、寂しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と自分自身とに満ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの寂しさを味わわなくてはならないでしょう」
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「かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思うのです。私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」
私はこういう覚悟を持っている先生に対して、言うべき言葉を知らなかった。
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私はこういう覚悟をもっている先生に対して、いうべき言葉を知らなかった。
十五
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十五
その後、私は奥さんの顔を見るたびに気になった。
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その後私は奥さんの顔を見るたびに気になった。
先生は奥さんに対しても始終こういう態度に出るのだろうか。
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先生は奥さんに対しても始終こういう態度に出るのだろうか。
もしそうだとすれば、奥さんはそれで満足なのだろうか。
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もしそうだとすれば、奥さんはそれで満足なのだろうか。
奥さんの様子は、満足とも不満足とも決めようがなかった。
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奥さんの様子は満足とも不満足とも極めようがなかった。
私はそれほど近く奥さんに接する機会がなかったから。
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私はそれほど近く奥さんに接触する機会がなかったから。
それから奥さんは、私に会うたびに普通だったから。
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それから奥さんは私に会うたびに尋常であったから。
最後に、先生のいる席でなければ、私と奥さんとはめったに顔を合わせなかったから。
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最後に先生のいる席でなければ私と奥さんとは滅多に顔を合せなかったから。
私の疑いはまだその上にもあった。
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私の疑惑はまだその上にもあった。
先生の人間に対するこの覚悟は、どこから来るのだろうか。
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先生の人間に対するこの覚悟はどこから来るのだろうか。
ただ冷たい目で自分を省みたり現代を観察したりした結果なのだろうか。
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ただ冷たい眼で自分を内省したり現代を観察したりした結果なのだろうか。
先生は座って考える性質の人だった。
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先生は坐って考える質の人であった。
先生の頭さえあれば、こういう態度は座って世の中を考えていても自然と出て来るものだろうか。
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先生の頭さえあれば、こういう態度は坐って世の中を考えていても自然と出て来るものだろうか。
私にはそうばかりとは思えなかった。
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私にはそうばかりとは思えなかった。
先生の覚悟は生きた覚悟らしかった。
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先生の覚悟は生きた覚悟らしかった。
火に焼けて冷え切った石造りの家の輪郭とは違っていた。
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火に焼けて冷却し切った石造家屋の輪廓とは違っていた。
私の目に映る先生は、たしかに思想家だった。
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私の眼に映ずる先生はたしかに思想家であった。
けれどもその思想家のまとめ上げた主義の裏には、強い事実が織り込まれているらしかった。
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けれどもその思想家の纏め上げた主義の裏には、強い事実が織り込まれているらしかった。
自分と切り離された他人の事実ではなく、自分自身が痛切に味わった事実、血が熱くなったり脈が止まったりするほどの事実が、畳み込まれているらしかった。
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自分と切り離された他人の事実でなくって、自分自身が痛切に味わった事実、血が熱くなったり脈が止まったりするほどの事実が、畳み込まれているらしかった。
これは私の胸で推測するまでもない。
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これは私の胸で推測するがものはない。
先生自身がすでにそうだと告白していた。
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先生自身すでにそうだと告白していた。
ただその告白が入道雲のようだった。
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ただその告白が雲の峯のようであった。
私の頭の上に、正体の知れない恐ろしいものを覆いかぶせた。
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私の頭の上に正体の知れない恐ろしいものを蔽い被せた。
そうしてなぜそれが恐ろしいか、私にも分からなかった。
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そうしてなぜそれが恐ろしいか私にも解らなかった。
告白はぼうっとしていた。
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告白はぼうとしていた。
それでいて明らかに私の神経を震わせた。
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それでいて明らかに私の神経を震わせた。
私は先生のこの人生観の出発点に、ある強烈な恋愛事件を仮定してみた。
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私は先生のこの人生観の基点に、或る強烈な恋愛事件を仮定してみた。
(もちろん先生と奥さんとの間に起こった)
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(無論先生と奥さんとの間に起った)。
先生がかつて恋は罪悪だと言ったことと照らし合わせてみると、多少それが手掛かりにもなった。
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先生がかつて恋は罪悪だといった事から照らし合せて見ると、多少それが手掛りにもなった。
しかし先生は現に奥さんを愛していると私に告げた。
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しかし先生は現に奥さんを愛していると私に告げた。
すると二人の恋から、こんな世をいとうに近い覚悟が出るはずがなかった。
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すると二人の恋からこんな厭世に近い覚悟が出ようはずがなかった。
「かつてはその人の前にひざまずいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとする」
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「かつてはその人の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとする」
と言った先生の言葉は、現代一般の誰彼について用いられるべきもので、先生と奥さんの間には当てはまらないもののようでもあった。
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といった先生の言葉は、現代一般の誰彼について用いられるべきで、先生と奥さんの間には当てはまらないもののようでもあった。
雑司ヶ谷にある誰だか分からない人の墓。これも私の記憶に時々動いた。
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雑司ヶ谷にある誰だか分らない人の墓、――これも私の記憶に時々動いた。
私はそれが先生と深い縁のある墓だということを知っていた。
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私はそれが先生と深い縁故のある墓だという事を知っていた。
先生の生活に近づきつつありながら近づくことのできない私は、先生の頭の中にある命の断片として、その墓を私の頭の中にも受け入れた。
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先生の生活に近づきつつありながら、近づく事のできない私は、先生の頭の中にある生命の断片として、その墓を私の頭の中にも受け入れた。
けれども私にとってその墓はまったく死んだものだった。
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けれども私に取ってその墓は全く死んだものであった。
二人の間にある命の扉を開ける鍵にはならなかった。
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二人の間にある生命の扉を開ける鍵にはならなかった。
むしろ二人の間に立って、自由な行き来を妨げる魔物のようだった。
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むしろ二人の間に立って、自由の往来を妨げる魔物のようであった。
そうこうしているうちに、私はまた奥さんと差し向かいで話をしなければならない時が来た。
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そうこうしているうちに、私はまた奥さんと差し向いで話をしなければならない時機が来た。
その頃は日の詰まって行くせわしない秋で、誰もが肌寒さに注意を引かれる季節だった。
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その頃は日の詰って行くせわしない秋に、誰も注意を惹かれる肌寒の季節であった。
先生の近所で盗難に遭った家が、三、四日続いて出た。
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先生の附近で盗難に罹ったものが三、四日続いて出た。
盗難はいずれも宵の口だった。
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盗難はいずれも宵の口であった。
大したものを持って行かれた家はほとんどなかったけれども、入られた所では必ず何か取られた。
原文を見る
大したものを持って行かれた家はほとんどなかったけれども、はいられた所では必ず何か取られた。
奥さんは気味を悪くした。
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奥さんは気味をわるくした。
そこへ先生が、ある晩家を空けなければならない事情ができて来た。
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そこへ先生がある晩家を空けなければならない事情ができてきた。
先生と同郷の友人で地方の病院に勤めている者が上京したため、先生はほかの二、三名とともに、ある所でその友人に食事をふるまわなければならなくなった。
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先生と同郷の友人で地方の病院に奉職しているものが上京したため、先生は外の二、三名と共に、ある所でその友人に飯を食わせなければならなくなった。
先生は訳を話して、私に帰って来るまでの留守番を頼んだ。
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先生は訳を話して、私に帰ってくる間までの留守番を頼んだ。
私はすぐ引き受けた。
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私はすぐ引き受けた。
十六
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十六
私が行ったのは、まだ灯りがつくかつかないかの夕暮れだったが、几帳面な先生はもう家にいなかった。
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私の行ったのはまだ灯の点くか点かない暮れ方であったが、几帳面な先生はもう宅にいなかった。
「時間に遅れると悪いって、つい今しがた出掛けました」
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「時間に後れると悪いって、つい今しがた出掛けました」
と言った奥さんは、私を先生の書斎へ案内した。
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といった奥さんは、私を先生の書斎へ案内した。
書斎には洋風の机と椅子のほかに、たくさんの本が美しい背表紙を並べて、ガラス越しに電灯の光で照らされていた。
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書斎には洋机と椅子の外に、沢山の書物が美しい背皮を並べて、硝子越に電燈の光で照らされていた。
奥さんは火鉢の前に敷いた座布団の上へ私を座らせて、「少しそこいらにある本でも読んでいてください」
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奥さんは火鉢の前に敷いた座蒲団の上へ私を坐らせて、「ちっとそこいらにある本でも読んでいて下さい」
と断って出て行った。
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と断って出て行った。
私はちょうど主人の帰りを待ち受ける客のような気がして、申し訳なかった。
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私はちょうど主人の帰りを待ち受ける客のような気がして済まなかった。
私はかしこまったまま煙草を吸っていた。
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私は畏まったまま烟草を飲んでいた。
奥さんが茶の間で何かお手伝いに話している声が聞こえた。
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奥さんが茶の間で何か下女に話している声が聞こえた。
書斎は茶の間の縁側を突き当たって折れ曲がった角にあるので、建物の位置から言うと、座敷よりもかえって離れた静かさを保っていた。
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書斎は茶の間の縁側を突き当って折れ曲った角にあるので、棟の位置からいうと、座敷よりもかえって掛け離れた静かさを領していた。
ひとしきりで奥さんの話し声がやむと、あとはしんとした。
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ひとしきりで奥さんの話し声が已むと、後はしんとした。
私は泥棒を待ち受けるような気持ちで、じっとしながらあちこちに気を配った。
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私は泥棒を待ち受けるような心持で、凝としながら気をどこかに配った。
三十分ほどすると、奥さんがまた書斎の入口へ顔を出した。
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三十分ほどすると、奥さんがまた書斎の入口へ顔を出した。
「おや」
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「おや」
と言って、軽く驚いた時の目を私に向けた。
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といって、軽く驚いた時の眼を私に向けた。
そうして客に来た人のようにしゃちほこばって控えている私を、おかしそうに見た。
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そうして客に来た人のように鹿爪らしく控えている私をおかしそうに見た。
「それじゃ窮屈でしょう」
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「それじゃ窮屈でしょう」
「いえ、窮屈じゃありません」
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「いえ、窮屈じゃありません」
「でも退屈でしょう」
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「でも退屈でしょう」
「いいえ。泥棒が来るかと思って緊張しているから、退屈でもありません」
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「いいえ。泥棒が来るかと思って緊張しているから退屈でもありません」
奥さんは手に紅茶茶碗を持ったまま、笑いながらそこに立っていた。
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奥さんは手に紅茶茶碗を持ったまま、笑いながらそこに立っていた。
「ここは隅っこだから、番をするにはよくありませんね」
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「ここは隅っこだから番をするには好くありませんね」
と私が言った。
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と私がいった。
「じゃ失礼ですが、もっと真ん中へ出て来てちょうだい。ご退屈だろうと思ってお茶を入れて持って来たんですが、茶の間でよろしければあちらで差し上げますから」
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「じゃ失礼ですがもっと真中へ出て来て頂戴。ご退屈だろうと思って、お茶を入れて持って来たんですが、茶の間で宜しければあちらで上げますから」
私は奥さんのあとについて書斎を出た。
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私は奥さんの後に尾いて書斎を出た。
茶の間にはきれいな長火鉢に鉄瓶が鳴っていた。
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茶の間には綺麗な長火鉢に鉄瓶が鳴っていた。
私はそこで茶と菓子のもてなしを受けた。
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私はそこで茶と菓子のご馳走になった。
奥さんは眠れないといけないと言って、茶碗に手を触れなかった。
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奥さんは寝られないといけないといって、茶碗に手を触れなかった。
「先生はやっぱり時々こんな会へお出掛けになるんですか」
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「先生はやっぱり時々こんな会へお出掛けになるんですか」
「いいえ、めったに出たことはありません。近ごろはだんだん人の顔を見るのが嫌いになるようです」
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「いいえ滅多に出た事はありません。近頃は段々人の顔を見るのが嫌いになるようです」
こう言った奥さんの様子に、特に困ったものだという風も見えなかったので、私はつい大胆になった。
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こういった奥さんの様子に、別段困ったものだという風も見えなかったので、私はつい大胆になった。
「それじゃ奥さんだけが例外なんですか」
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「それじゃ奥さんだけが例外なんですか」
「いいえ、私も嫌われている一人なんです」
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「いいえ私も嫌われている一人なんです」
「それは嘘です」
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「そりゃ嘘です」
と私が言った。
原文を見る
と私がいった。
「奥さん自身、嘘と知りながらそうおっしゃるんでしょう」
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「奥さん自身嘘と知りながらそうおっしゃるんでしょう」
「なぜ」
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「なぜ」
「私に言わせると、奥さんが好きになったから世間が嫌いになるんですもの」
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「私にいわせると、奥さんが好きになったから世間が嫌いになるんですもの」
「あなたは学問をする方だけあって、なかなかお上手ね。空っぽな理屈を使いこなすことが。世の中が嫌いになったから、私までも嫌いになったんだとも言えるじゃありませんか。それと同じ理屈で」
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「あなたは学問をする方だけあって、なかなかお上手ね。空っぽな理屈を使いこなす事が。世の中が嫌いになったから、私までも嫌いになったんだともいわれるじゃありませんか。それと同なじ理屈で」
「両方とも言えることは言えますが、この場合は私の方が正しいのです」
原文を見る
「両方ともいわれる事はいわれますが、この場合は私の方が正しいのです」
「議論はいやよ。よく男の方は議論だけなさるのね、面白そうに。空の盃でよくああ飽きずにやり取りができると思いますわ」
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「議論はいやよ。よく男の方は議論だけなさるのね、面白そうに。空の盃でよくああ飽きずに献酬ができると思いますわ」
奥さんの言葉は少し手厳しかった。
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奥さんの言葉は少し手痛かった。
しかしその言葉の耳ざわりから言うと、決して激しいものではなかった。
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しかしその言葉の耳障からいうと、決して猛烈なものではなかった。
自分に頭のあることを相手に認めさせて、そこに一種の誇りを見出すほどには、奥さんは現代的でなかった。
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自分に頭脳のある事を相手に認めさせて、そこに一種の誇りを見出すほどに奥さんは現代的でなかった。
奥さんはそれよりもっと底の方に沈んだ心を大事にしているらしく見えた。
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奥さんはそれよりもっと底の方に沈んだ心を大事にしているらしく見えた。
十七
原文を見る
十七
私はまだそのあとに言うべきことを持っていた。
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私はまだその後にいうべき事をもっていた。
けれども奥さんから、むやみに議論を仕掛ける男のように取られては困ると思って遠慮した。
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けれども奥さんから徒らに議論を仕掛ける男のように取られては困ると思って遠慮した。
奥さんは、飲み干した紅茶茶碗の底を覗いて黙っている私をそらさないように、「もう一杯差し上げましょうか」
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奥さんは飲み干した紅茶茶碗の底を覗いて黙っている私を外らさないように、「もう一杯上げましょうか」
と聞いた。
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と聞いた。
私はすぐ茶碗を奥さんの手に渡した。
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私はすぐ茶碗を奥さんの手に渡した。
「いくつ。一つ。二つ」
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「いくつ? 一つ? 二ッつ?」
妙なもので、角砂糖をつまみ上げた奥さんは、私の顔を見て、茶碗の中へ入れる砂糖の数を聞いた。
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妙なもので角砂糖をつまみ上げた奥さんは、私の顔を見て、茶碗の中へ入れる砂糖の数を聞いた。
奥さんの態度は私に媚びるというほどではなかったけれども、さきほどの強い言葉を努めて打ち消そうとする愛嬌に満ちていた。
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奥さんの態度は私に媚びるというほどではなかったけれども、先刻の強い言葉を力めて打ち消そうとする愛嬌に充ちていた。
私は黙って茶を飲んだ。
原文を見る
私は黙って茶を飲んだ。
飲んでしまっても黙っていた。
原文を見る
飲んでしまっても黙っていた。
「あなた、大変黙り込んでしまったのね」
原文を見る
「あなた大変黙り込んじまったのね」
と奥さんが言った。
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と奥さんがいった。
「何か言うと、また議論を仕掛けるなんて叱りつけられそうですから」
原文を見る
「何かいうとまた議論を仕掛けるなんて、叱り付けられそうですから」
と私は答えた。
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と私は答えた。
「まさか」
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「まさか」
と奥さんが再び言った。
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と奥さんが再びいった。
二人はそれを糸口に、また話を始めた。
原文を見る
二人はそれを緒口にまた話を始めた。
そうしてまた、二人に共通の興味である先生を話題にした。
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そうしてまた二人に共通な興味のある先生を問題にした。
「奥さん、さきほどの続きをもう少し言わせてくださいませんか。奥さんには空な理屈と聞こえるかもしれませんが、私はそんな上の空で言っているんじゃないんだから」
原文を見る
「奥さん、先刻の続きをもう少しいわせて下さいませんか。奥さんには空な理屈と聞こえるかも知れませんが、私はそんな上の空でいってる事じゃないんだから」
「じゃ、おっしゃい」
原文を見る
「じゃおっしゃい」
「今、奥さんが急にいなくなったとしたら、先生は今のままで生きていられるでしょうか」
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「今奥さんが急にいなくなったとしたら、先生は現在の通りで生きていられるでしょうか」
「それは分からないわ、あなた。そんなこと、先生に聞いてみるよりほかに仕方がないじゃありませんか。私の所へ持って来る問題じゃないわ」
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「そりゃ分らないわ、あなた。そんな事、先生に聞いて見るより外に仕方がないじゃありませんか。私の所へ持って来る問題じゃないわ」
「奥さん、私は真面目ですよ。だから逃げてはいけません。正直に答えなくては」
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「奥さん、私は真面目ですよ。だから逃げちゃいけません。正直に答えなくっちゃ」
「正直よ。正直に言って、私には分からないのよ」
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「正直よ。正直にいって私には分らないのよ」
「じゃ奥さんは先生をどのくらい愛していらっしゃるんですか。これは先生に聞くより、むしろ奥さんにうかがっていい質問ですから、あなたにうかがいます」
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「じゃ奥さんは先生をどのくらい愛していらっしゃるんですか。これは先生に聞くよりむしろ奥さんに伺っていい質問ですから、あなたに伺います」
「何もそんなことを、改まって聞かなくてもいいじゃありませんか」
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「何もそんな事を開き直って聞かなくっても好いじゃありませんか」
「真面目くさって聞くまでもない。分かり切っているとおっしゃるんですか」
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「真面目くさって聞くがものはない。分り切ってるとおっしゃるんですか」
「まあそうよ」
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「まあそうよ」
「そのくらい先生に忠実なあなたが急にいなくなったら、先生はどうなるんでしょう。世の中のどちらを向いても面白そうでない先生は、あなたが急にいなくなったらあとでどうなるでしょう。先生から見てじゃない。あなたから見てですよ。あなたから見て、先生は幸福になるでしょうか、不幸になるでしょうか」
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「そのくらい先生に忠実なあなたが急にいなくなったら、先生はどうなるんでしょう。世の中のどっちを向いても面白そうでない先生は、あなたが急にいなくなったら後でどうなるでしょう。先生から見てじゃない。あなたから見てですよ。あなたから見て、先生は幸福になるでしょうか、不幸になるでしょうか」
「それは私から見れば分かっています。(先生はそう思っていないかもしれませんが)先生は私を離れれば不幸になるだけです。あるいは生きていられないかもしれませんよ。そう言うとうぬぼれのようですが、私は今、先生を人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人がいても、私ほど先生を幸福にできる者はないとまで思い込んでいますわ。だからこうして落ち着いていられるんです」
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「そりゃ私から見れば分っています。(先生はそう思っていないかも知れませんが)。先生は私を離れれば不幸になるだけです。あるいは生きていられないかも知れませんよ。そういうと、己惚になるようですが、私は今先生を人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人があっても私ほど先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。それだからこうして落ち付いていられるんです」
「その信念が先生の心によく映るはずだと私は思いますが」
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「その信念が先生の心に好く映るはずだと私は思いますが」
「それは別の問題ですわ」
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「それは別問題ですわ」
「やっぱり先生から嫌われているとおっしゃるんですか」
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「やっぱり先生から嫌われているとおっしゃるんですか」
「私は嫌われているとは思いません。嫌われる訳がないんですもの。しかし先生は世間が嫌いなんでしょう。世間というより、近ごろでは人間が嫌いになっているんでしょう。だからその人間の一人として、私も好かれるはずがないじゃありませんか」
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「私は嫌われてるとは思いません。嫌われる訳がないんですもの。しかし先生は世間が嫌いなんでしょう。世間というより近頃では人間が嫌いになっているんでしょう。だからその人間の一人として、私も好かれるはずがないじゃありませんか」
奥さんの嫌われているという意味が、やっと私に呑み込めた。
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奥さんの嫌われているという意味がやっと私に呑み込めた。
十八
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十八
私は奥さんの理解力に感心した。
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私は奥さんの理解力に感心した。
奥さんの態度が旧式の日本の女らしくないところも、私の注意に一種の刺激を与えた。
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奥さんの態度が旧式の日本の女らしくないところも私の注意に一種の刺戟を与えた。
それでいて奥さんは、その頃流行り始めたいわゆる新しい言葉などはほとんど使わなかった。
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それで奥さんはその頃流行り始めたいわゆる新しい言葉などはほとんど使わなかった。
私は女というものと深く付き合った経験のない、うかつな青年だった。
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私は女というものに深い交際をした経験のない迂闊な青年であった。
男としての私は、異性に対する本能から、憧れの対象として常に女を夢見ていた。
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男としての私は、異性に対する本能から、憧憬の目的物として常に女を夢みていた。
けれどもそれは懐かしい春の雲を眺めるような気持ちで、ただ漠然と夢見ていたに過ぎなかった。
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けれどもそれは懐かしい春の雲を眺めるような心持で、ただ漠然と夢みていたに過ぎなかった。
だから実際の女の前へ出ると、私の感情が突然変わることが時々あった。
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だから実際の女の前へ出ると、私の感情が突然変る事が時々あった。
私は自分の前に現れた女に引きつけられる代わりに、その場に臨んでかえって変な反発を感じた。
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私は自分の前に現われた女のために引き付けられる代りに、その場に臨んでかえって変な反撥力を感じた。
奥さんに対した私には、そんな気がまるで起きなかった。
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奥さんに対した私にはそんな気がまるで出なかった。
普通、男女の間に横たわる考え方の不均衡という思いも、ほとんど起こらなかった。
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普通男女の間に横たわる思想の不平均という考えもほとんど起らなかった。
私は奥さんが女であるということを忘れた。
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私は奥さんの女であるという事を忘れた。
私はただ、誠実な先生の批評家であり同情者として奥さんを眺めた。
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私はただ誠実なる先生の批評家および同情家として奥さんを眺めた。
「奥さん、私がこの前、なぜ先生が世間的にもっと活動なさらないのだろうと言ってあなたに聞いた時に、あなたはおっしゃったことがありますね。元はああじゃなかったんだって」
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「奥さん、私がこの前なぜ先生が世間的にもっと活動なさらないのだろうといって、あなたに聞いた時に、あなたはおっしゃった事がありますね。元はああじゃなかったんだって」
「ええ、言いました。実際あんなじゃなかったんですもの」
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「ええいいました。実際あんなじゃなかったんですもの」
「どんなだったんですか」
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「どんなだったんですか」
「あなたの望むような、また私の望むような頼もしい人だったんです」
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「あなたの希望なさるような、また私の希望するような頼もしい人だったんです」
「それがどうして急に変わりなさったんですか」
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「それがどうして急に変化なすったんですか」
「急にじゃありません。だんだんああなって来たのよ」
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「急にじゃありません、段々ああなって来たのよ」
「奥さんはその間、始終先生といっしょにいらしたんでしょう」
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「奥さんはその間始終先生といっしょにいらしったんでしょう」
「もちろんいましたわ。夫婦ですもの」
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「無論いましたわ。夫婦ですもの」
「じゃ先生がそう変わって行かれる原因が、ちゃんと分かるはずですがね」
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「じゃ先生がそう変って行かれる源因がちゃんと解るべきはずですがね」
「だから困るのよ。あなたにそう言われると実につらいんですが、私にはどう考えても考えようがないんですもの。私は今まで何度あの人に、どうぞ打ち明けてくださいと頼んでみたか分かりゃしません」
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「それだから困るのよ。あなたからそういわれると実に辛いんですが、私にはどう考えても、考えようがないんですもの。私は今まで何遍あの人に、どうぞ打ち明けて下さいって頼んで見たか分りゃしません」
「先生は何とおっしゃるんですか」
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「先生は何とおっしゃるんですか」
「何も言うことはない、何も心配することはない、おれはこういう性質になったんだから、と言うだけで、取り合ってくれないんです」
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「何にもいう事はない、何にも心配する事はない、おれはこういう性質になったんだからというだけで、取り合ってくれないんです」
私は黙っていた。
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私は黙っていた。
奥さんも言葉を途切らせた。
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奥さんも言葉を途切らした。
お手伝いの部屋にいるお手伝いは、ことりとも音を立てなかった。
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下女部屋にいる下女はことりとも音をさせなかった。
私はまるで泥棒のことを忘れてしまった。
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私はまるで泥棒の事を忘れてしまった。
「あなたは私に責任があるんだと思っていませんか」
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「あなたは私に責任があるんだと思ってやしませんか」
と突然奥さんが聞いた。
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と突然奥さんが聞いた。
「いいえ」
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「いいえ」
と私が答えた。
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と私が答えた。
「どうぞ隠さずに言ってください。そう思われるのは身を切られるよりつらいんだから」
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「どうぞ隠さずにいって下さい。そう思われるのは身を切られるより辛いんだから」
と奥さんがまた言った。
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と奥さんがまたいった。
「これでも私は、先生のためにできるだけのことはしているつもりなんです」
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「これでも私は先生のためにできるだけの事はしているつもりなんです」
「それは先生もそう認めていらっしゃるんだから、大丈夫です。ご安心なさい、私が保証します」
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「そりゃ先生もそう認めていられるんだから、大丈夫です。ご安心なさい、私が保証します」
奥さんは火鉢の灰をかきならした。
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奥さんは火鉢の灰を掻き馴らした。
それから水差しの水を鉄瓶に足した。
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それから水注の水を鉄瓶に注した。
鉄瓶はたちまち鳴りを沈めた。
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鉄瓶は忽ち鳴りを沈めた。
「私はとうとう辛抱し切れなくなって、先生に聞きました。私に悪い所があるなら遠慮なく言ってください、改められる欠点なら改めるからと。すると先生は、お前に欠点なんかありゃしない、欠点はおれの方にあるだけだと言うんです。そう言われると、私は悲しくなって仕方がないんです。涙が出て、なおのこと自分の悪い所が聞きたくなるんです」
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「私はとうとう辛防し切れなくなって、先生に聞きました。私に悪い所があるなら遠慮なくいって下さい、改められる欠点なら改めるからって、すると先生は、お前に欠点なんかありゃしない、欠点はおれの方にあるだけだというんです。そういわれると、私悲しくなって仕様がないんです、涙が出てなおの事自分の悪い所が聞きたくなるんです」
奥さんは目の中に涙をいっぱいためた。
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奥さんは眼の中に涙をいっぱい溜めた。
十九
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十九
初め、私は理解のある女性として奥さんに接していた。
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始め私は理解のある女性として奥さんに対していた。
私がその気で話しているうちに、奥さんの様子がしだいに変わって来た。
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私がその気で話しているうちに、奥さんの様子が次第に変って来た。
奥さんは私の頭に訴える代わりに、私の心臓を動かし始めた。
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奥さんは私の頭脳に訴える代りに、私の心臓を動かし始めた。
自分と夫の間には何のわだかまりもない、またないはずなのに、やはり何かある。
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自分と夫の間には何の蟠まりもない、またないはずであるのに、やはり何かある。
それでいて目を開けて見極めようとすると、やはり何もない。
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それだのに眼を開けて見極めようとすると、やはり何にもない。
奥さんが苦にする要点はここにあった。
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奥さんの苦にする要点はここにあった。
奥さんは最初、世の中を見る先生の目が世をいとうものだから、その結果として自分も嫌われているのだと言い切った。
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奥さんは最初世の中を見る先生の眼が厭世的だから、その結果として自分も嫌われているのだと断言した。
そう言い切っておきながら、ちっともそこに落ち着いていられなかった。
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そう断言しておきながら、ちっともそこに落ち付いていられなかった。
底を割ると、かえってその逆を考えていた。
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底を割ると、かえってその逆を考えていた。
先生は自分を嫌う結果、とうとう世の中までいやになったのだろうと推測していた。
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先生は自分を嫌う結果、とうとう世の中まで厭になったのだろうと推測していた。
けれどもどう骨を折っても、その推測を突き止めて事実とすることができなかった。
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けれどもどう骨を折っても、その推測を突き留めて事実とする事ができなかった。
先生の態度はどこまでも夫らしかった。
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先生の態度はどこまでも良人らしかった。
親切で優しかった。
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親切で優しかった。
疑いの塊りをその日その日の情でくるんで、そっと胸の奥にしまっておいた奥さんは、その晩その包みの中を私の前で開けて見せた。
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疑いの塊りをその日その日の情合で包んで、そっと胸の奥にしまっておいた奥さんは、その晩その包みの中を私の前で開けて見せた。
「あなた、どう思って」
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「あなたどう思って?」
と聞いた。
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と聞いた。
「私からああなったのか、それともあなたの言う人生観とか何とかいうものからああなったのか。隠さず言ってちょうだい」
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「私からああなったのか、それともあなたのいう人世観とか何とかいうものから、ああなったのか。隠さずいって頂戴」
私は何も隠す気はなかった。
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私は何も隠す気はなかった。
けれども私の知らないあるものがそこに存在しているとすれば、私の答えが何であろうと、それが奥さんを満足させるはずがなかった。
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けれども私の知らないあるものがそこに存在しているとすれば、私の答えが何であろうと、それが奥さんを満足させるはずがなかった。
そうして私は、そこに私の知らないあるものがあると信じていた。
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そうして私はそこに私の知らないあるものがあると信じていた。
「私には分かりません」
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「私には解りません」
奥さんは、予期の外れた時に見せる哀れな表情を、その瞬間に現した。
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奥さんは予期の外れた時に見る憐れな表情をその咄嗟に現わした。
私はすぐ言葉を継ぎ足した。
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私はすぐ私の言葉を継ぎ足した。
「しかし先生が奥さんを嫌っていらっしゃらないことだけは保証します。私は先生自身の口から聞いたとおりを奥さんに伝えるだけです。先生は嘘をつかない方でしょう」
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「しかし先生が奥さんを嫌っていらっしゃらない事だけは保証します。私は先生自身の口から聞いた通りを奥さんに伝えるだけです。先生は嘘を吐かない方でしょう」
奥さんは何とも答えなかった。
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奥さんは何とも答えなかった。
しばらくしてからこう言った。
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しばらくしてからこういった。
「実は私、少し思い当たることがあるんですけれども……」
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「実は私すこし思いあたる事があるんですけれども……」
「先生がああいう風になった原因についてですか」
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「先生がああいう風になった源因についてですか」
「ええ。もしそれが原因だとすれば、私の責任だけはなくなるんだから、それだけでも私は大変楽になれるんですが……」
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「ええ。もしそれが源因だとすれば、私の責任だけはなくなるんだから、それだけでも私大変楽になれるんですが、……」
「どんなことですか」
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「どんな事ですか」
奥さんは言い渋って、膝の上に置いた自分の手を眺めていた。
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奥さんはいい渋って膝の上に置いた自分の手を眺めていた。
「あなた、判断してくださって。言うから」
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「あなた判断して下すって。いうから」
「私にできる判断ならやります」
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「私にできる判断ならやります」
「みんなは言えないのよ。みんな言うと叱られるから。叱られないところだけよ」
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「みんなはいえないのよ。みんないうと叱られるから。叱られないところだけよ」
私は緊張して唾を呑み込んだ。
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私は緊張して唾液を呑み込んだ。
「先生がまだ大学にいた時分、大変仲のいいお友達が一人あったのよ。その方がちょうど卒業する少し前に死んだんです。急に死んだんです」
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「先生がまだ大学にいる時分、大変仲の好いお友達が一人あったのよ。その方がちょうど卒業する少し前に死んだんです。急に死んだんです」
奥さんは私の耳にささやくような小さな声で、「実は変死したんです」
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奥さんは私の耳に私語くような小さな声で、「実は変死したんです」
と言った。
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といった。
それは「どうして」
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それは「どうして」
と聞き返さずにはいられないような言い方だった。
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と聞き返さずにはいられないようないい方であった。
「それきりしか言えないのよ。けれどもそのことがあってから後なんです。先生の性質がだんだん変わって来たのは。なぜその方が死んだのか、私には分からないの。先生にもおそらく分かっていないでしょう。けれどもそれから先生が変わって来たと思えば、そう思われないこともないのよ」
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「それっ切りしかいえないのよ。けれどもその事があってから後なんです。先生の性質が段々変って来たのは。なぜその方が死んだのか、私には解らないの。先生にもおそらく解っていないでしょう。けれどもそれから先生が変って来たと思えば、そう思われない事もないのよ」
「その人の墓ですか、雑司ヶ谷にあるのは」
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「その人の墓ですか、雑司ヶ谷にあるのは」
「それも言わないことになっているから言いません。しかし人間は親友を一人亡くしただけで、そんなに変われるものでしょうか。私はそれが知りたくてたまらないんです。だからそこを一つ、あなたに判断していただきたいと思うの」
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「それもいわない事になってるからいいません。しかし人間は親友を一人亡くしただけで、そんなに変化できるものでしょうか。私はそれが知りたくって堪らないんです。だからそこを一つあなたに判断して頂きたいと思うの」
私の判断は、むしろ否定の方に傾いていた。
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私の判断はむしろ否定の方に傾いていた。
二十
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二十
私は自分のつかんだ事実の許す限り、奥さんを慰めようとした。
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私は私のつらまえた事実の許す限り、奥さんを慰めようとした。
奥さんもまた、できるだけ私によって慰められたそうに見えた。
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奥さんもまたできるだけ私によって慰められたそうに見えた。
それで二人は同じ問題をいつまでも話し合った。
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それで二人は同じ問題をいつまでも話し合った。
けれども私はもともと、ことの根本をつかんでいなかった。
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けれども私はもともと事の大根を攫んでいなかった。
奥さんの不安も、実はそこに漂う薄い雲に似た疑いから出て来ていた。
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奥さんの不安も実はそこに漂う薄い雲に似た疑惑から出て来ていた。
事件の真相になると、奥さん自身にも多くは知られていなかった。
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事件の真相になると、奥さん自身にも多くは知れていなかった。
知られているところでも、すべてを私に話すことはできなかった。
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知れているところでも悉皆は私に話す事ができなかった。
したがって慰める私も、慰められる奥さんも、ともに波に浮いてゆらゆらしていた。
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したがって慰める私も、慰められる奥さんも、共に波に浮いて、ゆらゆらしていた。
ゆらゆらしながら、奥さんはどこまでも手を出して、頼りない私の判断にすがりつこうとした。
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ゆらゆらしながら、奥さんはどこまでも手を出して、覚束ない私の判断に縋り付こうとした。
十時頃になって先生の靴の音が玄関に聞こえた時、奥さんは急に今までのすべてを忘れたように、前に座っている私をそっちのけにして立ち上がった。
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十時頃になって先生の靴の音が玄関に聞こえた時、奥さんは急に今までのすべてを忘れたように、前に坐っている私をそっちのけにして立ち上がった。
そうして格子を開ける先生を、ほとんど出合い頭に迎えた。
原文を見る
そうして格子を開ける先生をほとんど出合い頭に迎えた。
私は取り残されながら、あとから奥さんについて行った。
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私は取り残されながら、後から奥さんに尾いて行った。
お手伝いだけは、うたた寝でもしていたと見えて、とうとう出て来なかった。
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下女だけは仮寝でもしていたとみえて、ついに出て来なかった。
先生はむしろ機嫌がよかった。
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先生はむしろ機嫌がよかった。
しかし奥さんの調子はさらによかった。
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しかし奥さんの調子はさらによかった。
今しがた奥さんの美しい目のうちにたまった涙の光と、それから黒い眉の根に寄せられた八の字を覚えていた私は、その変化を異常なものとして注意深く眺めた。
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今しがた奥さんの美しい眼のうちに溜った涙の光と、それから黒い眉毛の根に寄せられた八の字を記憶していた私は、その変化を異常なものとして注意深く眺めた。
もしそれが偽りでなかったなら(実際それは偽りとは思えなかったが)、今までの奥さんの訴えは、感傷をもてあそぶために特に私を相手に作った、意味のない女性の遊びと取れないこともなかった。
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もしそれが詐りでなかったならば、(実際それは詐りとは思えなかったが)、今までの奥さんの訴えは感傷を玩ぶためにとくに私を相手に拵えた、徒らな女性の遊戯と取れない事もなかった。
もっともその時の私には、奥さんをそれほど批評的に見る気は起こらなかった。
原文を見る
もっともその時の私には奥さんをそれほど批評的に見る気は起らなかった。
私は奥さんの態度が急に輝いて来たのを見て、むしろ安心した。
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私は奥さんの態度の急に輝いて来たのを見て、むしろ安心した。
これならそう心配する必要もなかったんだと考え直した。
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これならばそう心配する必要もなかったんだと考え直した。
先生は笑いながら「どうもご苦労さま、泥棒は来ませんでしたか」
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先生は笑いながら「どうもご苦労さま、泥棒は来ませんでしたか」
と私に聞いた。
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と私に聞いた。
それから「来ないので張り合いが抜けやしませんか」
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それから「来ないんで張合が抜けやしませんか」
と言った。
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といった。
帰る時、奥さんは「どうもお気の毒さま」
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帰る時、奥さんは「どうもお気の毒さま」
と会釈した。
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と会釈した。
その調子は、忙しいところを暇をつぶさせて気の毒だというよりも、せっかく来たのに泥棒が入らなくて気の毒だという冗談のように聞こえた。
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その調子は忙しいところを暇を潰させて気の毒だというよりも、せっかく来たのに泥棒がはいらなくって気の毒だという冗談のように聞こえた。
奥さんはそう言いながら、さきほど出した西洋菓子の残りを紙に包んで私の手に持たせた。
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奥さんはそういいながら、先刻出した西洋菓子の残りを、紙に包んで私の手に持たせた。
私はそれを袂へ入れて、人通りの少ない夜寒の小道を折れ曲がりながら、賑やかな町の方へ急いだ。
原文を見る
私はそれを袂へ入れて、人通りの少ない夜寒の小路を曲折して賑やかな町の方へ急いだ。
私はその晩のことを記憶の中から抜き出して、ここへ詳しく書いた。
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私はその晩の事を記憶のうちから抽き抜いてここへ詳しく書いた。
これは書くだけの必要があるから書いたのだが、実を言うと、奥さんに菓子をもらって帰る時の気分では、それほど当夜の会話を重く見ていなかった。
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これは書くだけの必要があるから書いたのだが、実をいうと、奥さんに菓子を貰って帰るときの気分では、それほど当夜の会話を重く見ていなかった。
私はその翌日、昼飯を食べに学校から帰って来て、昨夜机の上に載せておいた菓子の包みを見ると、すぐその中からチョコレートを塗ったとび色のカステラを出して頬張った。
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私はその翌日午飯を食いに学校から帰ってきて、昨夜机の上に載せて置いた菓子の包みを見ると、すぐその中からチョコレートを塗った鳶色のカステラを出して頬張った。
そうしてそれを食べる時に、つまりこの菓子を私にくれた二人の男女は、幸福な一組として世の中に存在しているのだと自覚しながら味わった。
原文を見る
そうしてそれを食う時に、必竟この菓子を私にくれた二人の男女は、幸福な一対として世の中に存在しているのだと自覚しつつ味わった。
秋が暮れて冬が来るまで、特別なこともなかった。
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秋が暮れて冬が来るまで格別の事もなかった。
私は先生の家へ出入りするついでに、着物の洗い張りや仕立てなどを奥さんに頼んだ。
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私は先生の宅へ出はいりをするついでに、衣服の洗い張りや仕立て方などを奥さんに頼んだ。
それまで襦袢というものを着たことのない私が、シャツの上に黒い襟のかかったものを重ねるようになったのは、この時からだった。
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それまで繻絆というものを着た事のない私が、シャツの上に黒い襟のかかったものを重ねるようになったのはこの時からであった。
子供のない奥さんは、そういう世話を焼くのがかえって退屈しのぎになって、結局は体の薬だぐらいのことを言っていた。
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子供のない奥さんは、そういう世話を焼くのがかえって退屈凌ぎになって、結句身体の薬だぐらいの事をいっていた。
「これは手織りね。こんな生地のいい着物は今まで縫ったことがないわ。その代わり縫いにくいのよ、それはもう。まるで針が立たないんですもの。おかげで針を二本折りましたわ」
原文を見る
「こりゃ手織りね。こんな地の好い着物は今まで縫った事がないわ。その代り縫い悪いのよそりゃあ。まるで針が立たないんですもの。お蔭で針を二本折りましたわ」
こんな苦情を言う時でさえ、奥さんは特にめんどうくさいという顔をしなかった。
原文を見る
こんな苦情をいう時ですら、奥さんは別に面倒くさいという顔をしなかった。
二十一
原文を見る
二十一
冬が来た時、私は思いがけず国へ帰らなければならないことになった。
原文を見る
冬が来た時、私は偶然国へ帰らなければならない事になった。
私が母から受け取った手紙の中に、父の病気の経過が思わしくない様子を書いて、今が今という心配もないだろうが、年が年だから、できるなら都合して帰って来てくれと、頼むように付け足してあった。
原文を見る
私の母から受け取った手紙の中に、父の病気の経過が面白くない様子を書いて、今が今という心配もあるまいが、年が年だから、できるなら都合して帰って来てくれと頼むように付け足してあった。
父は以前から腎臓を病んでいた。
原文を見る
父はかねてから腎臓を病んでいた。
中年以後の人にしばしば見るとおり、父のこの病気は慢性だった。
原文を見る
中年以後の人にしばしば見る通り、父のこの病は慢性であった。
その代わり用心さえしていれば急変のないものと、当人も家族の者も信じて疑わなかった。
原文を見る
その代り要心さえしていれば急変のないものと当人も家族のものも信じて疑わなかった。
現に父は、養生のおかげ一つで今日までどうにかしのいで来たように、客が来ると言い触らしていた。
原文を見る
現に父は養生のお蔭一つで、今日までどうかこうか凌いで来たように客が来ると吹聴していた。
その父が、母の手紙によると、庭へ出て何かしている時に突然めまいがして引っくり返った。
原文を見る
その父が、母の書信によると、庭へ出て何かしている機に突然眩暈がして引ッ繰り返った。
家の者は軽い脳出血と思い違えて、すぐその手当てをした。
原文を見る
家内のものは軽症の脳溢血と思い違えて、すぐその手当をした。
あとで医者からどうもそうではないらしい、やはり持病の結果だろうという判断を得て、初めて卒倒と腎臓病とを結びつけて考えるようになったのである。
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後で医者からどうもそうではないらしい、やはり持病の結果だろうという判断を得て、始めて卒倒と腎臓病とを結び付けて考えるようになったのである。
冬休みが来るまでにはまだ少し間があった。
原文を見る
冬休みが来るにはまだ少し間があった。
私は学期の終わりまで待っていても差し支えないだろうと思って、一日二日そのままにしておいた。
原文を見る
私は学期の終りまで待っていても差支えあるまいと思って一日二日そのままにしておいた。
するとその一日二日の間に、父の寝ている様子だの、母の心配している顔だのが時々目に浮かんだ。
原文を見る
するとその一日二日の間に、父の寝ている様子だの、母の心配している顔だのが時々眼に浮かんだ。
そのたびに一種の心苦しさを味わった私は、とうとう帰る決心をした。
原文を見る
そのたびに一種の心苦しさを嘗めた私は、とうとう帰る決心をした。
国から旅費を送らせる手間と時間を省くため、私は暇乞いかたがた先生の所へ行って、必要なだけの金を一時立て替えてもらうことにした。
原文を見る
国から旅費を送らせる手数と時間を省くため、私は暇乞いかたがた先生の所へ行って、要るだけの金を一時立て替えてもらう事にした。
先生は少し風邪気味で、座敷へ出るのがおっくうだと言って、私をその書斎に通した。
原文を見る
先生は少し風邪の気味で、座敷へ出るのが臆劫だといって、私をその書斎に通した。
書斎のガラス戸から、冬に入ってまれに見るような懐かしい柔らかな日光が、机掛けの上に射していた。
原文を見る
書斎の硝子戸から冬に入って稀に見るような懐かしい和らかな日光が机掛けの上に射していた。
先生はこの日当たりのいい部屋の中へ大きな火鉢を置いて、五徳の上に掛けた金だらいから立ち上る湯気で、呼吸の苦しくなるのを防いでいた。
原文を見る
先生はこの日あたりの好い室の中へ大きな火鉢を置いて、五徳の上に懸けた金盥から立ち上る湯気で、呼吸の苦しくなるのを防いでいた。
「大病はいいが、ちょっとした風邪などはかえっていやなものですね」
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「大病は好いが、ちょっとした風邪などはかえって厭なものですね」
と言った先生は、苦笑しながら私の顔を見た。
原文を見る
といった先生は、苦笑しながら私の顔を見た。
先生は病気らしい病気をしたことのない人だった。
原文を見る
先生は病気という病気をした事のない人であった。
先生の言葉を聞いた私は笑いたくなった。
原文を見る
先生の言葉を聞いた私は笑いたくなった。
「私は風邪ぐらいなら我慢しますが、それ以上の病気はまっぴらです。先生だって同じことでしょう。試しにやってごらんになるとよく分かります」
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「私は風邪ぐらいなら我慢しますが、それ以上の病気は真平です。先生だって同じ事でしょう。試みにやってご覧になるとよく解ります」
「そうかね。私は病気になるくらいなら、死ぬ病気にかかりたいと思ってる」
原文を見る
「そうかね。私は病気になるくらいなら、死病に罹りたいと思ってる」
私は先生の言うことに特に注意を払わなかった。
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私は先生のいう事に格別注意を払わなかった。
すぐ母の手紙の話をして、金の無心を申し出た。
原文を見る
すぐ母の手紙の話をして、金の無心を申し出た。
「それは困るでしょう。そのくらいなら今手元にあるはずだから、持って行きたまえ」
原文を見る
「そりゃ困るでしょう。そのくらいなら今手元にあるはずだから持って行きたまえ」
先生は奥さんを呼んで、必要な金額を私の前に並べさせてくれた。
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先生は奥さんを呼んで、必要の金額を私の前に並べさせてくれた。
それを奥の茶箪笥か何かの引き出しから出して来た奥さんは、白い半紙の上へていねいに重ねて、「それはご心配ですね」
原文を見る
それを奥の茶箪笥か何かの抽出から出して来た奥さんは、白い半紙の上へ鄭寧に重ねて、「そりゃご心配ですね」
と言った。
原文を見る
といった。
「何度も卒倒したんですか」
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「何遍も卒倒したんですか」
と先生が聞いた。
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と先生が聞いた。
「手紙には何とも書いてありませんが。――そんなに何度も引っくり返るものですか」
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「手紙には何とも書いてありませんが。――そんなに何度も引ッ繰り返るものですか」
「ええ」
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「ええ」
先生の奥さんの母親という人も、私の父と同じ病気で亡くなったのだということが、初めて私に分かった。
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先生の奥さんの母親という人も私の父と同じ病気で亡くなったのだという事が始めて私に解った。
「どうせ難しいんでしょう」
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「どうせむずかしいんでしょう」
と私が言った。
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と私がいった。
「そうさね。私が代われれば代わってあげてもいいが。――吐き気はあるんですか」
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「そうさね。私が代られれば代ってあげても好いが。――嘔気はあるんですか」
「どうですか、何とも書いてないから、たぶんないんでしょう」
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「どうですか、何とも書いてないから、大方ないんでしょう」
「吐き気さえ来なければ、まだ大丈夫ですよ」
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「吐気さえ来なければまだ大丈夫ですよ」
と奥さんが言った。
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と奥さんがいった。
私はその晩の汽車で東京を発った。
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私はその晩の汽車で東京を立った。
二十二
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二十二
父の病気は思ったほど悪くはなかった。
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父の病気は思ったほど悪くはなかった。
それでも着いた時は、床の上にあぐらをかいて、「みんなが心配するから、まあ我慢してこうじっとしている。なに、もう起きてもいいのさ」
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それでも着いた時は、床の上に胡坐をかいて、「みんなが心配するから、まあ我慢してこう凝としている。なにもう起きても好いのさ」
と言った。
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といった。
しかしその翌日からは、母が止めるのも聞かずに、とうとう床を上げさせてしまった。
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しかしその翌日からは母が止めるのも聞かずに、とうとう床を上げさせてしまった。
母はしぶしぶ太織りの布団を畳みながら、「お父さんはお前が帰って来たので、急に気が強くおなりなんだよ」
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母は不承無性に太織りの蒲団を畳みながら「お父さんはお前が帰って来たので、急に気が強くおなりなんだよ」
と言った。
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といった。
私には父の振る舞いが、それほど虚勢を張っているようにも思えなかった。
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私には父の挙動がさして虚勢を張っているようにも思えなかった。
私の兄はある職について遠い九州にいた。
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私の兄はある職を帯びて遠い九州にいた。
これは万一のことがある場合でなければ、容易に父母の顔を見る自由の利かない男だった。
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これは万一の事がある場合でなければ、容易に父母の顔を見る自由の利かない男であった。
妹は他国へ嫁いだ。
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妹は他国へ嫁いだ。
これも急場に間に合うように、おいそれと呼び寄せられる女ではなかった。
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これも急場の間に合うように、おいそれと呼び寄せられる女ではなかった。
兄妹三人のうちで一番都合がいいのは、やはり学生をしている私だけだった。
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兄妹三人のうちで、一番便利なのはやはり書生をしている私だけであった。
その私が母の言いつけどおり学校の授業を放り出して、休み前に帰って来たということが、父には大きな満足だった。
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その私が母のいい付け通り学校の課業を放り出して、休み前に帰って来たという事が、父には大きな満足であった。
「これしきの病気で学校を休ませては気の毒だ。お母さんがあまり大げさな手紙を書くものだからいけない」
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「これしきの病気に学校を休ませては気の毒だ。お母さんがあまり仰山な手紙を書くものだからいけない」
父は口ではこう言った。
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父は口ではこういった。
こう言ったばかりでなく、今まで敷いていた床を上げさせて、いつものような元気を示した。
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こういったばかりでなく、今まで敷いていた床を上げさせて、いつものような元気を示した。
「あまり軽はずみをして、また逆戻りするといけませんよ」
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「あんまり軽はずみをしてまた逆回すといけませんよ」
私のこの注意を、父は愉快そうに、しかしきわめて軽く受けた。
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私のこの注意を父は愉快そうにしかし極めて軽く受けた。
「なに大丈夫、これでいつものように用心さえしていれば」
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「なに大丈夫、これでいつものように要心さえしていれば」
実際、父は大丈夫らしかった。
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実際父は大丈夫らしかった。
家の中を自由に行き来して、息も切れなければ、めまいも感じなかった。
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家の中を自由に往来して、息も切れなければ、眩暈も感じなかった。
ただ顔色だけは普通の人より大変悪かったが、これはまた今始まった症状でもないので、私たちは特にそれを気に留めなかった。
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ただ顔色だけは普通の人よりも大変悪かったが、これはまた今始まった症状でもないので、私たちは格別それを気に留めなかった。
私は先生に手紙を書いて、借りた金の礼を述べた。
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私は先生に手紙を書いて恩借の礼を述べた。
正月に上京する時に持参するから、それまで待ってくれるようにと断った。
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正月上京する時に持参するからそれまで待ってくれるようにと断わった。
そうして父の病状が思ったほど悪くないこと、この分なら当分安心なこと、めまいも吐き気もまったくないことなどを書き連ねた。
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そうして父の病状の思ったほど険悪でない事、この分なら当分安心な事、眩暈も嘔気も皆無な事などを書き連ねた。
最後に先生の風邪についても、一言の見舞いを付け加えた。
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最後に先生の風邪についても一言の見舞を附け加えた。
私は先生の風邪を実際軽く見ていたので。
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私は先生の風邪を実際軽く見ていたので。
私はその手紙を出す時、決して先生の返事を予期していなかった。
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私はその手紙を出す時に決して先生の返事を予期していなかった。
出したあとで父や母と先生の噂などをしながら、遠く先生の書斎を想像した。
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出した後で父や母と先生の噂などをしながら、遥かに先生の書斎を想像した。
「今度東京へ行く時には、椎茸でも持って行ってお上げ」
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「こんど東京へ行くときには椎茸でも持って行ってお上げ」
「ええ、しかし先生が干した椎茸なぞを食べるかしら」
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「ええ、しかし先生が干した椎茸なぞを食うかしら」
「うまくはないが、特に嫌いな人もないだろう」
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「旨くはないが、別に嫌いな人もないだろう」
私には椎茸と先生を結びつけて考えるのが変だった。
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私には椎茸と先生を結び付けて考えるのが変であった。
先生の返事が来た時、私はちょっと驚かされた。
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先生の返事が来た時、私はちょっと驚かされた。
特にその内容が特別の用件を含んでいなかった時、驚かされた。
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ことにその内容が特別の用件を含んでいなかった時、驚かされた。
先生はただ親切から返事を書いてくれたんだと私は思った。
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先生はただ親切ずくで、返事を書いてくれたんだと私は思った。
そう思うと、その簡単な一本の手紙が私には大変な喜びになった。
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そう思うと、その簡単な一本の手紙が私には大層な喜びになった。
もっともこれは、私が先生から受け取った第一の手紙には違いなかったが。
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もっともこれは私が先生から受け取った第一の手紙には相違なかったが。
第一と言うと、私と先生の間に手紙のやり取りが何度もあったように思われるが、事実は決してそうでないことをちょっと断っておきたい。
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第一というと私と先生の間に書信の往復がたびたびあったように思われるが、事実は決してそうでない事をちょっと断わっておきたい。
私は先生の生前に、たった二通の手紙しかもらっていない。
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私は先生の生前にたった二通の手紙しか貰っていない。
その一通は今言うこの簡単な返事で、あとの一通は、先生が死ぬ前に特に私宛で書いた大変長いものである。
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その一通は今いうこの簡単な返書で、あとの一通は先生の死ぬ前とくに私宛で書いた大変長いものである。
父は病気の性質として運動を慎まなければならないので、床を上げてからもほとんど戸外へは出なかった。
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父は病気の性質として、運動を慎まなければならないので、床を上げてからも、ほとんど戸外へは出なかった。
一度、天気のごく穏やかな日の午後に庭へ下りたことがあるが、その時は万一を気づかって、私が寄り添うようにそばについていた。
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一度天気のごく穏やかな日の午後庭へ下りた事があるが、その時は万一を気遣って、私が引き添うように傍に付いていた。
私が心配して自分の肩へ手を掛けさせようとしても、父は笑って応じなかった。
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私が心配して自分の肩へ手を掛けさせようとしても、父は笑って応じなかった。
二十三
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二十三
私は退屈な父の相手として、よく将棋盤に向かった。
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私は退屈な父の相手としてよく将碁盤に向かった。
二人とも無精な性質なので、炬燵に当たったまま盤をやぐらの上に載せて、駒を動かすたびにわざわざ手を掛け布団の下から出すようなことをした。
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二人とも無精な性質なので、炬燵にあたったまま、盤を櫓の上へ載せて、駒を動かすたびに、わざわざ手を掛蒲団の下から出すような事をした。
時々持ち駒をなくして、次の勝負が来るまで双方とも気づかずにいたりした。
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時々持駒を失くして、次の勝負の来るまで双方とも知らずにいたりした。
それを母が灰の中から見つけ出して、火箸でつまみ上げるという滑稽もあった。
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それを母が灰の中から見付け出して、火箸で挟み上げるという滑稽もあった。
「碁だと盤が高過ぎる上に足がついているから、炬燵の上では打てないが、そこへ来ると将棋盤はいいね、こうして楽に指せるから。無精者には持って来いだ。もう一番やろう」
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「碁だと盤が高過ぎる上に、足が着いているから、炬燵の上では打てないが、そこへ来ると将碁盤は好いね、こうして楽に差せるから。無精者には持って来いだ。もう一番やろう」
父は勝った時は必ず、もう一番やろうと言った。
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父は勝った時は必ずもう一番やろうといった。
そのくせ負けた時にも、もう一番やろうと言った。
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そのくせ負けた時にも、もう一番やろうといった。
要するに、勝っても負けても炬燵に当たって将棋を指したがる男だった。
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要するに、勝っても負けても、炬燵にあたって、将碁を差したがる男であった。
初めのうちはめずらしいので、この隠居じみた娯楽が私にも相応の興味を与えたが、少し日が経つにつれて、若い私の気力はそのくらいの刺激では満足できなくなった。
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始めのうちは珍しいので、この隠居じみた娯楽が私にも相当の興味を与えたが、少し時日が経つに伴れて、若い私の気力はそのくらいな刺戟で満足できなくなった。
私は金や香車を握った拳を頭の上へ伸ばして、時々思い切ったあくびをした。
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私は金や香車を握った拳を頭の上へ伸ばして、時々思い切ったあくびをした。
私は東京のことを考えた。
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私は東京の事を考えた。
そうしてみなぎる心臓の血潮の奥に、活動、活動と打ち続ける鼓動を聞いた。
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そうして漲る心臓の血潮の奥に、活動活動と打ちつづける鼓動を聞いた。
不思議にもその鼓動の音が、ある微妙な意識の状態から、先生の力で強められているように感じた。
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不思議にもその鼓動の音が、ある微妙な意識状態から、先生の力で強められているように感じた。
私は心のうちで、父と先生とを比べてみた。
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私は心のうちで、父と先生とを比較して見た。
両方とも世間から見れば、生きているか死んでいるか分からないほどおとなしい男だった。
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両方とも世間から見れば、生きているか死んでいるか分らないほど大人しい男であった。
人に認められるという点から言えば、どちらも零だった。
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他に認められるという点からいえばどっちも零であった。
それでいて、この将棋を指したがる父は、単なる娯楽の相手としても私には物足りなかった。
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それでいて、この将碁を差したがる父は、単なる娯楽の相手としても私には物足りなかった。
かつて遊びのために行き来した覚えのない先生は、歓楽の付き合いから出る親しみ以上に、いつか私の頭に影響を与えていた。
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かつて遊興のために往来をした覚えのない先生は、歓楽の交際から出る親しみ以上に、いつか私の頭に影響を与えていた。
ただ頭というのはあまりに冷やか過ぎるから、私は胸と言い直したい。
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ただ頭というのはあまりに冷やか過ぎるから、私は胸といい直したい。
肉の中に先生の力が食い込んでいると言っても、血の中に先生の命が流れていると言っても、その時の私には少しも誇張でないように思われた。
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肉のなかに先生の力が喰い込んでいるといっても、血のなかに先生の命が流れているといっても、その時の私には少しも誇張でないように思われた。
私は父が私の本当の父であり、先生はまた言うまでもなく赤の他人であるという明白な事実を、ことさら目の前に並べてみて、初めて大きな真理でも発見したかのように驚いた。
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私は父が私の本当の父であり、先生はまたいうまでもなく、あかの他人であるという明白な事実を、ことさらに眼の前に並べてみて、始めて大きな真理でも発見したかのごとくに驚いた。
私が落ち着かなくなり出したのと前後して、父や母の目にも、今までめずらしかった私がだんだんありふれたものになって来た。
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私がのつそつし出すと前後して、父や母の眼にも今まで珍しかった私が段々陳腐になって来た。
これは夏休みなどに国へ帰る誰もが一様に経験する気持ちだろうと思うが、当座の一週間ぐらいは下にも置かないようにちやほや歓待されるのに、その峠を決まりどおり越すと、あとはそろそろ家族の熱が冷めて来て、しまいにはあってもなくても構わないもののように粗末に扱われがちになるものである。
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これは夏休みなどに国へ帰る誰でもが一様に経験する心持だろうと思うが、当座の一週間ぐらいは下にも置かないように、ちやほや歓待されるのに、その峠を定規通り通り越すと、あとはそろそろ家族の熱が冷めて来て、しまいには有っても無くっても構わないもののように粗末に取り扱われがちになるものである。
私も滞在中にその峠を越した。
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私も滞在中にその峠を通り越した。
その上、私は国へ帰るたびに、父にも母にも分からない変なところを東京から持って帰った。
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その上私は国へ帰るたびに、父にも母にも解らない変なところを東京から持って帰った。
昔で言うと、儒者の家へキリシタンの匂いを持ち込むように、私の持って帰るものは父とも母とも調和しなかった。
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昔でいうと、儒者の家へ切支丹の臭いを持ち込むように、私の持って帰るものは父とも母とも調和しなかった。
もちろん私はそれを隠していた。
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無論私はそれを隠していた。
けれどももともと身についているものだから、出すまいと思っても、いつかそれが父や母の目に留まった。
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けれども元々身に着いているものだから、出すまいと思っても、いつかそれが父や母の眼に留まった。
私はつい面白くなくなった。
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私はつい面白くなくなった。
早く東京へ帰りたくなった。
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早く東京へ帰りたくなった。
父の病気は幸い現状のままで、少しも悪い方へ進む様子は見えなかった。
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父の病気は幸い現状維持のままで、少しも悪い方へ進む模様は見えなかった。
念のためにわざわざ遠くから相応の医者を招いたりして、慎重に診察してもらっても、やはり私の知っている以外に異常は認められなかった。
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念のためにわざわざ遠くから相当の医者を招いたりして、慎重に診察してもらってもやはり私の知っている以外に異状は認められなかった。
私は冬休みの終わる少し前に国を発つことにした。
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私は冬休みの尽きる少し前に国を立つ事にした。
発つと言い出すと、人情は妙なもので、父も母も反対した。
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立つといい出すと、人情は妙なもので、父も母も反対した。
「もう帰るのかい、まだ早いじゃないか」
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「もう帰るのかい、まだ早いじゃないか」
と母が言った。
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と母がいった。
「まだ四、五日いても間に合うんだろう」
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「まだ四、五日いても間に合うんだろう」
と父が言った。
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と父がいった。
私は自分の決めた出発の日を動かさなかった。
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私は自分の極めた出立の日を動かさなかった。
二十四
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二十四
東京へ帰ってみると、松飾りはいつか取り払われていた。
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東京へ帰ってみると、松飾はいつか取り払われていた。
町は寒い風の吹くに任せて、どこを見てもこれというほどの正月めいた景気はなかった。
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町は寒い風の吹くに任せて、どこを見てもこれというほどの正月めいた景気はなかった。
私はさっそく先生の家へ金を返しに行った。
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私は早速先生のうちへ金を返しに行った。
例の椎茸もついでに持って行った。
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例の椎茸もついでに持って行った。
ただ出すのは少し変だから、母がこれを差し上げてくれと言いましたと、わざわざ断って奥さんの前へ置いた。
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ただ出すのは少し変だから、母がこれを差し上げてくれといいましたとわざわざ断って奥さんの前へ置いた。
椎茸は新しい菓子折に入れてあった。
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椎茸は新しい菓子折に入れてあった。
ていねいに礼を述べた奥さんは、隣の部屋へ立つ時にその折を持ってみて、軽いのに驚かされたのか、「これは何のお菓子」
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鄭寧に礼を述べた奥さんは、次の間へ立つ時、その折を持って見て、軽いのに驚かされたのか、「こりゃ何の御菓子」
と聞いた。
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と聞いた。
奥さんは親しくなると、こんなところにきわめてあっさりした子供らしい心を見せた。
原文を見る
奥さんは懇意になると、こんなところに極めて淡泊な小供らしい心を見せた。
二人とも父の病気について、いろいろ気づかう問いを繰り返してくれた中で、先生はこんなことを言った。
原文を見る
二人とも父の病気について、色々掛念の問いを繰り返してくれた中に、先生はこんな事をいった。
「なるほど容体を聞くと、今が今どうということもないようですが、病気が病気だからよほど気をつけないといけません」
原文を見る
「なるほど容体を聞くと、今が今どうという事もないようですが、病気が病気だからよほど気をつけないといけません」
先生は腎臓の病気について、私の知らないことを多く知っていた。
原文を見る
先生は腎臓の病について私の知らない事を多く知っていた。
「自分で病気にかかっていながら、気がつかないで平気でいるのが、あの病気の特色です。私の知っているある士官は、とうとうそれでやられたが、まったく嘘のような死に方をしたんですよ。何しろそばに寝ていた奥さんが看病をする暇も何もないくらいなんですからね。夜中にちょっと苦しいと言って奥さんを起こしたきり、翌る朝はもう死んでいたんです。しかも奥さんは、夫が寝ているとばかり思っていたんだというんだから」
原文を見る
「自分で病気に罹っていながら、気が付かないで平気でいるのがあの病の特色です。私の知ったある士官は、とうとうそれでやられたが、全く嘘のような死に方をしたんですよ。何しろ傍に寝ていた細君が看病をする暇もなんにもないくらいなんですからね。夜中にちょっと苦しいといって、細君を起したぎり、翌る朝はもう死んでいたんです。しかも細君は夫が寝ているとばかり思ってたんだっていうんだから」
今まで楽観に傾いていた私は、急に不安になった。
原文を見る
今まで楽天的に傾いていた私は急に不安になった。
「私の父もそんなになるでしょうか。ならないとも言えないですね」
原文を見る
「私の父もそんなになるでしょうか。ならんともいえないですね」
「医者は何と言うのです」
原文を見る
「医者は何というのです」
「医者はとうてい治らないと言うんです。けれども当分のところ心配はないだろうとも言うんです」
原文を見る
「医者は到底治らないというんです。けれども当分のところ心配はあるまいともいうんです」
「それならいいでしょう。医者がそう言うなら。私が今話したのは気がつかずにいた人のことで、しかもそれがずいぶん乱暴な軍人なんだから」
原文を見る
「それじゃ好いでしょう。医者がそういうなら。私の今話したのは気が付かずにいた人の事で、しかもそれがずいぶん乱暴な軍人なんだから」
私はやや安心した。
原文を見る
私はやや安心した。
私の変化をじっと見ていた先生は、それからこう付け足した。
原文を見る
私の変化を凝と見ていた先生は、それからこう付け足した。
「しかし人間は健康にしろ病気にしろ、どちらにしてももろいものですね。いつどんなことでどんな死に方をしないとも限らないから」
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「しかし人間は健康にしろ病気にしろ、どっちにしても脆いものですね。いつどんな事でどんな死にようをしないとも限らないから」
「先生もそんなことを考えていらっしゃるんですか」
原文を見る
「先生もそんな事を考えてお出ですか」
「いくら丈夫の私でも、まんざら考えないこともありません」
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「いくら丈夫の私でも、満更考えない事もありません」
先生の口元には微笑の影が見えた。
原文を見る
先生の口元には微笑の影が見えた。
「よくころりと死ぬ人があるじゃありませんか。自然に。それからあっと思う間に死ぬ人もあるでしょう。不自然な暴力で」
原文を見る
「よくころりと死ぬ人があるじゃありませんか。自然に。それからあっと思う間に死ぬ人もあるでしょう。不自然な暴力で」
「不自然な暴力って何ですか」
原文を見る
「不自然な暴力って何ですか」
「何だかそれは私にも分からないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使うんでしょう」
原文を見る
「何だかそれは私にも解らないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使うんでしょう」
「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力のおかげですね」
原文を見る
「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力のお蔭ですね」
「殺される方はちっとも考えていなかった。なるほど、そう言えばそうだ」
原文を見る
「殺される方はちっとも考えていなかった。なるほどそういえばそうだ」
その日はそれで帰った。
原文を見る
その日はそれで帰った。
帰ってからも、父の病気はそれほど苦にならなかった。
原文を見る
帰ってからも父の病気はそれほど苦にならなかった。
先生の言った自然に死ぬとか、不自然な暴力で死ぬとかいう言葉も、その場限りの浅い印象を与えただけで、あとは何のこだわりも私の頭に残さなかった。
原文を見る
先生のいった自然に死ぬとか、不自然の暴力で死ぬとかいう言葉も、その場限りの浅い印象を与えただけで、後は何らのこだわりを私の頭に残さなかった。
私は今まで何度か手をつけようとしては引っ込めた卒業論文を、いよいよ本式に書き始めなければならないと思い出した。
原文を見る
私は今まで幾度か手を着けようとしては手を引っ込めた卒業論文を、いよいよ本式に書き始めなければならないと思い出した。
二十五
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二十五
その年の六月に卒業するはずの私は、どうしてもこの論文を規定どおり四月いっぱいに書き上げてしまわなければならなかった。
原文を見る
その年の六月に卒業するはずの私は、ぜひともこの論文を成規通り四月いっぱいに書き上げてしまわなければならなかった。
二、三、四と指を折って残る日数を数えてみた時、私は少し自分の度胸を疑った。
原文を見る
二、三、四と指を折って余る時日を勘定して見た時、私は少し自分の度胸を疑った。
ほかの者はよほど前から材料を集めたりノートをためたりして、よそ目にも忙しそうに見えるのに、私だけはまだ何にも手をつけずにいた。
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他のものはよほど前から材料を蒐めたり、ノートを溜めたりして、余所目にも忙しそうに見えるのに、私だけはまだ何にも手を着けずにいた。
私にはただ、年が改まったら大いにやろうという決心だけがあった。
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私にはただ年が改まったら大いにやろうという決心だけがあった。
私はその決心でやり出した。
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私はその決心でやり出した。
そうしてたちまち動けなくなった。
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そうして忽ち動けなくなった。
今まで大きな問題を頭に描いて、骨組みだけはほぼでき上がっているくらいに考えていた私は、頭を抱えて悩み始めた。
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今まで大きな問題を空に描いて、骨組みだけはほぼでき上っているくらいに考えていた私は、頭を抑えて悩み始めた。
私はそれから論文の問題を小さくした。
原文を見る
私はそれから論文の問題を小さくした。
そうして練り上げた思想を体系的にまとめる手間を省くために、ただ書物の中にある材料を並べて、それに相応の結論をちょっと付け加えることにした。
原文を見る
そうして練り上げた思想を系統的に纏める手数を省くために、ただ書物の中にある材料を並べて、それに相当な結論をちょっと付け加える事にした。
私の選んだ問題は、先生の専門と縁の近いものだった。
原文を見る
私の選択した問題は先生の専門と縁故の近いものであった。
私がかつてその選択について先生の意見を尋ねた時、先生はいいでしょうと言った。
原文を見る
私がかつてその選択について先生の意見を尋ねた時、先生は好いでしょうといった。
うろたえ気味の私は、さっそく先生の所へ出掛けて、私の読まなければならない参考書を聞いた。
原文を見る
狼狽した気味の私は、早速先生の所へ出掛けて、私の読まなければならない参考書を聞いた。
先生は自分の知っている限りの知識を快く私に与えてくれた上に、必要な書物を二、三冊貸そうと言った。
原文を見る
先生は自分の知っている限りの知識を、快く私に与えてくれた上に、必要の書物を、二、三冊貸そうといった。
しかし先生はこの点について、少しも私を指導する役に当たろうとしなかった。
原文を見る
しかし先生はこの点について毫も私を指導する任に当ろうとしなかった。
「近ごろはあまり書物を読まないから、新しいことは知りませんよ。学校の先生に聞いた方がいいでしょう」
原文を見る
「近頃はあんまり書物を読まないから、新しい事は知りませんよ。学校の先生に聞いた方が好いでしょう」
先生は一時非常な読書家だったが、その後どういうわけか、前ほどこの方面に興味が働かなくなったようだと、かつて奥さんから聞いたことがあるのを、私はその時ふと思い出した。
原文を見る
先生は一時非常の読書家であったが、その後どういう訳か、前ほどこの方面に興味が働かなくなったようだと、かつて奥さんから聞いた事があるのを、私はその時ふと思い出した。
私は論文をよそにして、何となく口を開いた。
原文を見る
私は論文をよそにして、そぞろに口を開いた。
「先生はなぜ元のように書物に興味を持てないんですか」
原文を見る
「先生はなぜ元のように書物に興味をもち得ないんですか」
「なぜという訳もありませんが。……つまりいくら本を読んでも、それほど偉くならないと思うせいでしょう。それから……」
原文を見る
「なぜという訳もありませんが。……つまりいくら本を読んでもそれほどえらくならないと思うせいでしょう。それから……」
「それから、まだあるんですか」
原文を見る
「それから、まだあるんですか」
「まだあるというほどの理由でもないが、以前はね、人の前へ出たり人に聞かれたりして、知らないと恥のようにきまりが悪かったものだが、近ごろは知らないということがそれほどの恥でないように見え出したものだから、つい無理にも本を読んでみようという元気が出なくなったのでしょう。まあ早く言えば老いこんだのです」
原文を見る
「まだあるというほどの理由でもないが、以前はね、人の前へ出たり、人に聞かれたりして知らないと恥のようにきまりが悪かったものだが、近頃は知らないという事が、それほどの恥でないように見え出したものだから、つい無理にも本を読んでみようという元気が出なくなったのでしょう。まあ早くいえば老い込んだのです」
先生の言葉はむしろ平静だった。
原文を見る
先生の言葉はむしろ平静であった。
世間に背中を向けた人の苦みを帯びていなかっただけに、私にはそれほどの手応えもなかった。
原文を見る
世間に背中を向けた人の苦味を帯びていなかっただけに、私にはそれほどの手応えもなかった。
私は先生を老いこんだとも思わない代わりに、偉いとも感心せずに帰った。
原文を見る
私は先生を老い込んだとも思わない代りに、偉いとも感心せずに帰った。
それからの私は、ほとんど論文にたたられた精神病者のように目を赤くして苦しんだ。
原文を見る
それからの私はほとんど論文に祟られた精神病者のように眼を赤くして苦しんだ。
私は一年前に卒業した友達について、いろいろ様子を聞いてみたりした。
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私は一年前に卒業した友達について、色々様子を聞いてみたりした。
そのうちの一人は、締め切りの日に車で事務所へ駆けつけてようやく間に合わせたと言った。
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そのうちの一人は締切の日に車で事務所へ馳けつけて漸く間に合わせたといった。
ほかの一人は、五時を十五分ほど遅らせて持って行ったため、危うくはねつけられようとしたところを、主任教授の好意でやっと受理してもらったと言った。
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他の一人は五時を十五分ほど後らして持って行ったため、危く跳ね付けられようとしたところを、主任教授の好意でやっと受理してもらったといった。
私は不安を感じるとともに度胸を据えた。
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私は不安を感ずると共に度胸を据えた。
毎日机の前で精根の続く限り働いた。
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毎日机の前で精根のつづく限り働いた。
でなければ、薄暗い書庫に入って、高い本棚のあちらこちらを見回した。
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でなければ、薄暗い書庫にはいって、高い本棚のあちらこちらを見廻した。
私の目は、物好きが骨董でも掘り出す時のように背表紙の金文字をあさった。
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私の眼は好事家が骨董でも掘り出す時のように背表紙の金文字をあさった。
梅が咲くにつれて、寒い風はだんだん向きを南へ変えて行った。
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梅が咲くにつけて寒い風は段々向を南へ更えて行った。
それがひと区切り経つと、桜の噂がちらほら私の耳に聞こえ出した。
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それが一仕切経つと、桜の噂がちらほら私の耳に聞こえ出した。
それでも私は馬車馬のように正面ばかり見て、論文にむち打たれた。
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それでも私は馬車馬のように正面ばかり見て、論文に鞭うたれた。
私はついに四月の下旬が来て、やっと予定どおりのものを書き上げるまで、先生の敷居をまたがなかった。
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私はついに四月の下旬が来て、やっと予定通りのものを書き上げるまで、先生の敷居を跨がなかった。
二十六
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二十六
私が自由になったのは、八重桜の散った枝にいつしか青い葉が霞むように伸び始める初夏の季節だった。
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私の自由になったのは、八重桜の散った枝にいつしか青い葉が霞むように伸び始める初夏の季節であった。
私はかごを抜け出した小鳥の心で、広い天地をひと目に見渡しながら自由に羽ばたきをした。
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私は籠を抜け出した小鳥の心をもって、広い天地を一目に見渡しながら、自由に羽搏きをした。
私はすぐ先生の家へ行った。
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私はすぐ先生の家へ行った。
からたちの垣の黒ずんだ枝の上に燃えるような芽が吹いていたり、ざくろの枯れた幹からつやつやした茶褐色の葉が柔らかそうに日光を映していたりするのが、道々私の目を引きつけた。
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枳殻の垣が黒ずんだ枝の上に、萌るような芽を吹いていたり、柘榴の枯れた幹から、つやつやしい茶褐色の葉が、柔らかそうに日光を映していたりするのが、道々私の眼を引き付けた。
私は生まれて初めてそんなものを見るようなめずらしさを覚えた。
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私は生れて初めてそんなものを見るような珍しさを覚えた。
先生は嬉しそうな私の顔を見て、「もう論文は片づいたんですか、結構ですね」
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先生は嬉しそうな私の顔を見て、「もう論文は片付いたんですか、結構ですね」
と言った。
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といった。
私は「おかげでようやく済みました。もう何もすることはありません」
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私は「お蔭でようやく済みました。もう何にもする事はありません」
と言った。
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といった。
実際その時の私は、自分のなすべきすべての仕事がすでに終わって、これから先は威張って遊んでいても構わないような晴れやかな気持ちでいた。
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実際その時の私は、自分のなすべきすべての仕事がすでに結了して、これから先は威張って遊んでいても構わないような晴やかな心持でいた。
私は書き上げた自分の論文に対して、十分の自信と満足を持っていた。
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私は書き上げた自分の論文に対して充分の自信と満足をもっていた。
私は先生の前で、しきりにその内容をしゃべり立てた。
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私は先生の前で、しきりにその内容を喋々した。
先生はいつもの調子で「なるほど」
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先生はいつもの調子で、「なるほど」
とか「そうですか」
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とか、「そうですか」
とか言ってくれたが、それ以上の批評は少しも加えなかった。
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とかいってくれたが、それ以上の批評は少しも加えなかった。
私は物足りないというよりも、いささか拍子抜けの気味だった。
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私は物足りないというよりも、聊か拍子抜けの気味であった。
それでもその日、私の気力は、ぐずぐずして見える先生の態度に逆襲を試みるほどに生き生きしていた。
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それでもその日私の気力は、因循らしく見える先生の態度に逆襲を試みるほどに生々していた。
私は青くよみがえろうとする大きな自然の中に、先生を誘い出そうとした。
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私は青く蘇生ろうとする大きな自然の中に、先生を誘い出そうとした。
「先生、どこかへ散歩しましょう。外へ出ると大変いい心持ちです」
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「先生どこかへ散歩しましょう。外へ出ると大変好い心持です」
「どこへ」
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「どこへ」
私はどこでも構わなかった。
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私はどこでも構わなかった。
ただ先生を連れて郊外へ出たかった。
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ただ先生を伴れて郊外へ出たかった。
一時間の後、先生と私は目的どおり町を離れて、村とも町とも区別のつかない静かな所を当てもなく歩いた。
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一時間の後、先生と私は目的どおり市を離れて、村とも町とも区別の付かない静かな所を宛もなく歩いた。
私はかなめの垣から若い柔らかい葉をむしり取って、草笛を鳴らした。
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私はかなめの垣から若い柔らかい葉を挘ぎ取って芝笛を鳴らした。
ある鹿児島の人を友達に持ち、その人の真似をしながら自然に習い覚えた私は、この草笛を鳴らすのが上手だった。
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ある鹿児島人を友達にもって、その人の真似をしつつ自然に習い覚えた私は、この芝笛というものを鳴らす事が上手であった。
私が得意になってそれを吹き続けると、先生は知らん顔をしてよそを向いて歩いた。
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私が得意にそれを吹きつづけると、先生は知らん顔をしてよそを向いて歩いた。
やがて若葉に閉ざされたように茂った小高い一構えの下に、細い道が開けた。
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やがて若葉に鎖ざされたように蓊欝した小高い一構えの下に細い路が開けた。
門の柱に打ちつけた表札に何々園とあるので、個人の邸宅でないことがすぐ知れた。
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門の柱に打ち付けた標札に何々園とあるので、その個人の邸宅でない事がすぐ知れた。
先生はだらだら上りになっている入口を眺めて、「入ってみようか」
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先生はだらだら上りになっている入口を眺めて、「はいってみようか」
と言った。
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といった。
私はすぐ「植木屋ですね」
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私はすぐ「植木屋ですね」
と答えた。
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と答えた。
植え込みの中をひと曲がりして奥へ上ると、左側に家があった。
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植込の中を一うねりして奥へ上ると左側に家があった。
開け放った障子の内はがらんとして、人の影も見えなかった。
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明け放った障子の内はがらんとして人の影も見えなかった。
ただ軒先に据えた大きな鉢の中に飼ってある金魚が動いていた。
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ただ軒先に据えた大きな鉢の中に飼ってある金魚が動いていた。
「静かだね。断らずに入っても構わないだろうか」
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「静かだね。断わらずにはいっても構わないだろうか」
「構わないでしょう」
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「構わないでしょう」
二人はまた奥の方へ進んだ。
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二人はまた奥の方へ進んだ。
しかしそこにも人影は見えなかった。
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しかしそこにも人影は見えなかった。
つつじが燃えるように咲き乱れていた。
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躑躅が燃えるように咲き乱れていた。
先生はそのうちで樺色の背の高いのを指して、「これは霧島でしょう」
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先生はそのうちで樺色の丈の高いのを指して、「これは霧島でしょう」
と言った。
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といった。
芍薬も十坪あまり一面に植えつけられていたが、まだ季節が来ないので花をつけているのは一本もなかった。
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芍薬も十坪あまり一面に植え付けられていたが、まだ季節が来ないので花を着けているのは一本もなかった。
この芍薬畑のそばにある古びた縁台のようなものの上に、先生は大の字になって寝た。
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この芍薬畠の傍にある古びた縁台のようなものの上に先生は大の字なりに寝た。
私はその余った端の方に腰を下ろして煙草を吹かした。
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私はその余った端の方に腰をおろして烟草を吹かした。
先生は青く透き通るような空を見ていた。
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先生は蒼い透き徹るような空を見ていた。
私は自分を包む若葉の色に心を奪われていた。
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私は私を包む若葉の色に心を奪われていた。
その若葉の色をよくよく眺めると、一つ一つ違っていた。
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その若葉の色をよくよく眺めると、一々違っていた。
同じ楓の木でも、同じ色を枝につけているものは一つもなかった。
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同じ楓の樹でも同じ色を枝に着けているものは一つもなかった。
細い杉の苗の先に投げかけてあった先生の帽子が、風に吹かれて落ちた。
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細い杉苗の頂に投げ被せてあった先生の帽子が風に吹かれて落ちた。
二十七
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二十七
私はすぐその帽子を取り上げた。
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私はすぐその帽子を取り上げた。
所々についている赤土を爪ではじきながら先生を呼んだ。
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所々に着いている赤土を爪で弾きながら先生を呼んだ。
「先生、帽子が落ちました」
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「先生帽子が落ちました」
「ありがとう」
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「ありがとう」
体を半分起こしてそれを受け取った先生は、起きるとも寝るとも片づかないその姿勢のまま、変なことを私に聞いた。
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身体を半分起してそれを受け取った先生は、起きるとも寝るとも片付かないその姿勢のままで、変な事を私に聞いた。
「突然だが、君の家には財産がよほどあるんですか」
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「突然だが、君の家には財産がよっぽどあるんですか」
「あるというほどありゃしません」
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「あるというほどありゃしません」
「まあどのくらいあるのかね。失礼のようだが」
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「まあどのくらいあるのかね。失礼のようだが」
「どのくらいって、山と田地が少しあるだけで、金なんかまるでないんでしょう」
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「どのくらいって、山と田地が少しあるぎりで、金なんかまるでないんでしょう」
先生が私の家の暮らし向きについて問いらしい問いをかけたのは、これが初めてだった。
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先生が私の家の経済について、問いらしい問いを掛けたのはこれが始めてであった。
私の方はまだ、先生の暮らし向きについて何も聞いたことがなかった。
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私の方はまだ先生の暮し向きに関して、何も聞いた事がなかった。
先生と知り合いになった初め、私は先生がどうして遊んでいられるのかを疑った。
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先生と知り合いになった始め、私は先生がどうして遊んでいられるかを疑った。
その後もこの疑いは絶えず私の胸を去らなかった。
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その後もこの疑いは絶えず私の胸を去らなかった。
しかし私はそんな露骨な問題を先生の前に持ち出すのを不作法だとばかり思って、いつでも控えていた。
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しかし私はそんな露骨な問題を先生の前に持ち出すのをぶしつけとばかり思っていつでも控えていた。
若葉の色で疲れた目を休ませていた私の心は、偶然またその疑いに触れた。
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若葉の色で疲れた眼を休ませていた私の心は、偶然またその疑いに触れた。
「先生はどうなんです。どのくらいの財産を持っていらっしゃるんですか」
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「先生はどうなんです。どのくらいの財産をもっていらっしゃるんですか」
「私は財産家に見えますか」
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「私は財産家と見えますか」
先生は普段からむしろ質素な服装をしていた。
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先生は平生からむしろ質素な服装をしていた。
それに家族は少人数だった。
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それに家内は小人数であった。
したがって住まいも決して広くはなかった。
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したがって住宅も決して広くはなかった。
けれどもその生活が物質的に豊かなことは、内輪に入りこんでいない私の目にさえ明らかだった。
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けれどもその生活の物質的に豊かな事は、内輪にはいり込まない私の眼にさえ明らかであった。
要するに先生の暮らしは、贅沢と言えないまでも、けちけちと切り詰めた弾力のないものではなかった。
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要するに先生の暮しは贅沢といえないまでも、あたじけなく切り詰めた無弾力性のものではなかった。
「そうでしょう」
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「そうでしょう」
と私が言った。
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と私がいった。
「それはそのくらいの金はあるさ、けれども決して財産家じゃありません。財産家ならもっと大きな家でも建てるさ」
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「そりゃそのくらいの金はあるさ、けれども決して財産家じゃありません。財産家ならもっと大きな家でも造るさ」
この時、先生は起き上がって縁台の上にあぐらをかいていたが、こう言い終わると、竹の杖の先で地面の上へ円のようなものを描き始めた。
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この時先生は起き上って、縁台の上に胡坐をかいていたが、こういい終ると、竹の杖の先で地面の上へ円のようなものを描き始めた。
それが済むと、今度はステッキを突き刺すようにまっすぐ立てた。
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それが済むと、今度はステッキを突き刺すように真直に立てた。
「これでも元は財産家なんだがなあ」
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「これでも元は財産家なんだがなあ」
先生の言葉は半分独り言のようだった。
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先生の言葉は半分独り言のようであった。
それですぐあとについて行きそこなった私は、つい黙っていた。
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それですぐ後に尾いて行き損なった私は、つい黙っていた。
「これでも元は財産家なんですよ、君」
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「これでも元は財産家なんですよ、君」
と言い直した先生は、次に私の顔を見て微笑した。
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といい直した先生は、次に私の顔を見て微笑した。
私はそれでも何とも答えなかった。
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私はそれでも何とも答えなかった。
むしろ不器用で答えられなかったのである。
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むしろ不調法で答えられなかったのである。
すると先生がまた話題をほかへ移した。
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すると先生がまた問題を他へ移した。
「あなたのお父さんの病気は、その後どうなりました」
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「あなたのお父さんの病気はその後どうなりました」
私は父の病気について、正月以後何も知らなかった。
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私は父の病気について正月以後何にも知らなかった。
月々国から送ってくれる為替とともに来る簡単な手紙は、いつものとおり父の筆跡だったが、病気の訴えはそのうちにほとんど見当たらなかった。
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月々国から送ってくれる為替と共に来る簡単な手紙は、例の通り父の手蹟であったが、病気の訴えはそのうちにほとんど見当らなかった。
その上、字もしっかりしていた。
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その上書体も確かであった。
この種の病人に見る震えが、少しも筆の運びを乱していなかった。
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この種の病人に見る顫えが少しも筆の運びを乱していなかった。
「何とも言って来ませんが、もういいんでしょう」
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「何ともいって来ませんが、もう好いんでしょう」
「よければ結構だが、――病気が病気なんだからね」
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「好ければ結構だが、――病症が病症なんだからね」
「やっぱり駄目ですかね。でも当分は持ちこたえてるんでしょう。何とも言って来ませんよ」
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「やっぱり駄目ですかね。でも当分は持ち合ってるんでしょう。何ともいって来ませんよ」
「そうですか」
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「そうですか」
私は先生が私の家の財産を聞いたり、私の父の病気を尋ねたりするのを、普通の話、胸に浮かんだままをそのまま口にする普通の話と思って聞いていた。
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私は先生が私のうちの財産を聞いたり、私の父の病気を尋ねたりするのを、普通の談話――胸に浮かんだままをその通り口にする、普通の談話と思って聞いていた。
ところが先生の言葉の底には、両方を結びつける大きな意味があった。
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ところが先生の言葉の底には両方を結び付ける大きな意味があった。
先生自身の経験を持たない私は、もちろんそこに気がつくはずがなかった。
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先生自身の経験を持たない私は無論そこに気が付くはずがなかった。
二十八
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二十八
「君の家に財産があるなら、今のうちによく始末をつけてもらっておかないといけないと思うがね、余計なお世話だけれども。君のお父さんが達者なうちに、もらうものはちゃんともらっておくようにしたらどうですか。万一のことがあったあとで、一番面倒の起こるのは財産の問題だから」
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「君のうちに財産があるなら、今のうちによく始末をつけてもらっておかないといけないと思うがね、余計なお世話だけれども。君のお父さんが達者なうちに、貰うものはちゃんと貰っておくようにしたらどうですか。万一の事があったあとで、一番面倒の起るのは財産の問題だから」
「ええ」
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「ええ」
私は先生の言葉に大した注意を払わなかった。
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私は先生の言葉に大した注意を払わなかった。
私の家庭でそんな心配をしている者は、私に限らず、父にしろ母にしろ一人もいないと私は信じていた。
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私の家庭でそんな心配をしているものは、私に限らず、父にしろ母にしろ、一人もないと私は信じていた。
その上、先生の言うことが、先生としてはあまりに実際的なのに、私は少し驚かされた。
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その上先生のいう事の、先生として、あまりに実際的なのに私は少し驚かされた。
しかしそこは、年長者に対する普段の敬意が私を無口にした。
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しかしそこは年長者に対する平生の敬意が私を無口にした。
「あなたのお父さんが亡くなられるのを、今から予想してかかるような言葉づかいをするのが気にさわったら、許してくれたまえ。しかし人間は死ぬものだからね。どんなに達者な者でも、いつ死ぬか分からないものだからね」
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「あなたのお父さんが亡くなられるのを、今から予想してかかるような言葉遣いをするのが気に触ったら許してくれたまえ。しかし人間は死ぬものだからね。どんなに達者なものでも、いつ死ぬか分らないものだからね」
先生の口ぶりはめずらしく苦々しかった。
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先生の口気は珍しく苦々しかった。
「そんなことをちっとも気にかけてはいません」
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「そんな事をちっとも気に掛けちゃいません」
と私は弁解した。
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と私は弁解した。
「君の兄弟は何人でしたかね」
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「君の兄弟は何人でしたかね」
と先生が聞いた。
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と先生が聞いた。
先生はその上に、私の家族の人数を聞いたり、親類の有無を尋ねたり、叔父や叔母の様子を問うたりした。
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先生はその上に私の家族の人数を聞いたり、親類の有無を尋ねたり、叔父や叔母の様子を問いなどした。
そうして最後にこう言った。
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そうして最後にこういった。
「みんないい人ですか」
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「みんな善い人ですか」
「特に悪い人というほどの者もいないようです。たいてい田舎の者ですから」
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「別に悪い人間というほどのものもいないようです。大抵田舎者ですから」
「田舎の者はなぜ悪くないんですか」
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「田舎者はなぜ悪くないんですか」
私はこの追及に苦しんだ。
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私はこの追窮に苦しんだ。
しかし先生は、私に返事を考えさせる余裕さえ与えなかった。
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しかし先生は私に返事を考えさせる余裕さえ与えなかった。
「田舎の者は都会の者より、かえって悪いくらいのものです。それから、君は今、君の親戚などの中に、これといって悪い人間はいないようだと言いましたね。しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると、君は思っているんですか。そんな型に入れたような悪人は、世の中にあるはずがありませんよ。普段はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」
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「田舎者は都会のものより、かえって悪いくらいなものです。それから、君は今、君の親戚なぞの中に、これといって、悪い人間はいないようだといいましたね。しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」
先生の言うことは、ここで切れる様子もなかった。
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先生のいう事は、ここで切れる様子もなかった。
私はまたここで何か言おうとした。
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私はまたここで何かいおうとした。
すると後ろの方で犬が急に吠え出した。
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すると後ろの方で犬が急に吠え出した。
先生も私も驚いて後ろを振り返った。
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先生も私も驚いて後ろを振り返った。
縁台の横から後ろにかけて植えつけてある杉の苗のそばに、熊笹が三坪ほど地面を隠すように茂って生えていた。
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縁台の横から後部へ掛けて植え付けてある杉苗の傍に、熊笹が三坪ほど地を隠すように茂って生えていた。
犬はその顔と背中を熊笹の上に現して、盛んに吠え立てた。
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犬はその顔と背を熊笹の上に現わして、盛んに吠え立てた。
そこへ十歳ぐらいの子供が駆けて来て、犬を叱りつけた。
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そこへ十ぐらいの小供が馳けて来て犬を叱り付けた。
子供は記章のついた黒い帽子をかぶったまま、先生の前へ回って礼をした。
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小供は徽章の着いた黒い帽子を被ったまま先生の前へ廻って礼をした。
「叔父さん、入って来る時、家に誰もいなかったかい」
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「叔父さん、はいって来る時、家に誰もいなかったかい」
と聞いた。
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と聞いた。
「誰もいなかったよ」
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「誰もいなかったよ」
「姉さんやおっかさんが台所の方にいたのに」
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「姉さんやおっかさんが勝手の方にいたのに」
「そうか、いたのかい」
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「そうか、いたのかい」
「ああ。叔父さん、今日はって断って入って来るとよかったのに」
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「ああ。叔父さん、今日はって、断ってはいって来ると好かったのに」
先生は苦笑した。
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先生は苦笑した。
ふところから財布を出して、五銭の白銅貨を子供の手に握らせた。
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懐中から蟇口を出して、五銭の白銅を小供の手に握らせた。
「おっかさんにそう言っておくれ。少しここで休ませてくださいって」
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「おっかさんにそういっとくれ。少しここで休まして下さいって」
子供は利口そうな目に笑いをみなぎらせて、うなずいて見せた。
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小供は怜悧そうな眼に笑いを漲らして、首肯いて見せた。
「今、斥候長になってるところなんだよ」
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「今斥候長になってるところなんだよ」
子供はこう断って、つつじの間を下の方へ駆け下りて行った。
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小供はこう断って、躑躅の間を下の方へ駈け下りて行った。
犬も尻尾を高く巻いて子供のあとを追い掛けた。
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犬も尻尾を高く巻いて小供の後を追い掛けた。
しばらくすると、同じくらいの年格好の子供が二、三人、これも斥候長の下りて行った方へ駆けて行った。
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しばらくすると同じくらいの年格好の小供が二、三人、これも斥候長の下りて行った方へ駈けていった。
二十九
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二十九
先生の話は、この犬と子供のために結末まで進めなくなったので、私はついにその要領を得ないで終わった。
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先生の談話は、この犬と小供のために、結末まで進行する事ができなくなったので、私はついにその要領を得ないでしまった。
先生の気にする財産うんぬんの心配は、その時の私にはまったくなかった。
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先生の気にする財産云々の掛念はその時の私には全くなかった。
私の性質として、また私の境遇から言って、その時の私にはそんな損得の思いに頭を悩ます余地がなかったのである。
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私の性質として、また私の境遇からいって、その時の私には、そんな利害の念に頭を悩ます余地がなかったのである。
考えるとこれは、私がまだ世間に出ないためでもあり、また実際その場に臨まないためでもあっただろうが、とにかく若い私には、なぜか金の問題が遠くの方に見えた。
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考えるとこれは私がまだ世間に出ないためでもあり、また実際その場に臨まないためでもあったろうが、とにかく若い私にはなぜか金の問題が遠くの方に見えた。
先生の話のうちでただ一つ底まで聞きたかったのは、人間がいざという間際に誰でも悪人になるという言葉の意味だった。
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先生の話のうちでただ一つ底まで聞きたかったのは、人間がいざという間際に、誰でも悪人になるという言葉の意味であった。
単なる言葉としては、これだけでも私に分からないことはなかった。
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単なる言葉としては、これだけでも私に解らない事はなかった。
しかし私はこの句についてもっと知りたかった。
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しかし私はこの句についてもっと知りたかった。
犬と子供が去ったあと、広い若葉の園は再び元の静かさに帰った。
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犬と小供が去ったあと、広い若葉の園は再び故の静かさに帰った。
そうして我々は沈黙に閉ざされた人のように、しばらく動かずにいた。
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そうして我々は沈黙に鎖ざされた人のようにしばらく動かずにいた。
美しい空の色が、その時しだいに光を失って来た。
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うるわしい空の色がその時次第に光を失って来た。
目の前にある木はたいてい楓だったが、その枝に滴るように吹いた軽い緑の若葉が、だんだん暗くなって行くように思われた。
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眼の前にある樹は大概楓であったが、その枝に滴るように吹いた軽い緑の若葉が、段々暗くなって行くように思われた。
遠い道を荷車を引いて行く響きが、ごろごろと聞こえた。
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遠い往来を荷車を引いて行く響きがごろごろと聞こえた。
私はそれを、村の男が植木か何かを載せて縁日へでも出掛けるものと想像した。
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私はそれを村の男が植木か何かを載せて縁日へでも出掛けるものと想像した。
先生はその音を聞くと、急に瞑想から息を吹き返した人のように立ち上がった。
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先生はその音を聞くと、急に瞑想から呼息を吹き返した人のように立ち上がった。
「もう、そろそろ帰りましょう。だいぶ日が長くなったようだが、やっぱりこう安閑としているうちには、いつの間にか暮れて行くんだね」
原文を見る
「もう、そろそろ帰りましょう。大分日が永くなったようだが、やっぱりこう安閑としているうちには、いつの間にか暮れて行くんだね」
先生の背中には、さっき縁台の上に仰向けに寝た跡がいっぱいついていた。
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先生の背中には、さっき縁台の上に仰向きに寝た痕がいっぱい着いていた。
私は両手でそれを払い落とした。
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私は両手でそれを払い落した。
「ありがとう。やにがこびりついていませんか」
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「ありがとう。脂がこびり着いてやしませんか」
「きれいに落ちました」
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「綺麗に落ちました」
「この羽織はついこの間こしらえたばかりなんだよ。だからむやみに汚して帰ると妻に叱られるからね。ありがとう」
原文を見る
「この羽織はつい此間拵えたばかりなんだよ。だからむやみに汚して帰ると、妻に叱られるからね。有難う」
二人はまた、だらだら坂の途中にある家の前へ来た。
原文を見る
二人はまただらだら坂の中途にある家の前へ来た。
入る時には誰もいる気配の見えなかった縁に、おかみさんが十五、六の娘を相手に、糸巻きへ糸を巻きつけていた。
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はいる時には誰もいる気色の見えなかった縁に、お上さんが、十五、六の娘を相手に、糸巻へ糸を巻きつけていた。
二人は大きな金魚鉢の横から、「どうもお邪魔をしました」
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二人は大きな金魚鉢の横から、「どうもお邪魔をしました」
と挨拶した。
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と挨拶した。
おかみさんは「いいえ、おかまいもいたしませんで」
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お上さんは「いいえお構い申しも致しませんで」
と礼を返したあと、さきほど子供にやった白銅貨の礼を述べた。
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と礼を返した後、先刻小供にやった白銅の礼を述べた。
門口を出て二、三町来た時、私はついに先生に向かって口を切った。
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門口を出て二、三町来た時、私はついに先生に向かって口を切った。
「さきほど先生が言われた、人間は誰でもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。あれはどういう意味ですか」
原文を見る
「さきほど先生のいわれた、人間は誰でもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。あれはどういう意味ですか」
「意味といって、深い意味もありません。――つまり事実なんですよ。理屈じゃないんだ」
原文を見る
「意味といって、深い意味もありません。――つまり事実なんですよ。理屈じゃないんだ」
「事実で差し支えありませんが、私のうかがいたいのは、いざという間際という意味なんです。いったいどんな場合を指すのですか」
原文を見る
「事実で差支えありませんが、私の伺いたいのは、いざという間際という意味なんです。一体どんな場合を指すのですか」
先生は笑い出した。
原文を見る
先生は笑い出した。
あたかも時機の過ぎた今、もう熱心に説明する張り合いがないという風に。
原文を見る
あたかも時機の過ぎた今、もう熱心に説明する張合いがないといった風に。
「金さ、君。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」
原文を見る
「金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」
私には先生の返事があまりに平凡過ぎてつまらなかった。
原文を見る
私には先生の返事があまりに平凡過ぎて詰らなかった。
先生が調子に乗らないように、私も拍子抜けの気味だった。
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先生が調子に乗らないごとく、私も拍子抜けの気味であった。
私は澄ましてさっさと歩き出した。
原文を見る
私は澄ましてさっさと歩き出した。
勢い、先生は少し遅れがちになった。
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いきおい先生は少し後れがちになった。
先生はあとから「おいおい」
原文を見る
先生はあとから「おいおい」
と声を掛けた。
原文を見る
と声を掛けた。
「そら、見たまえ」
原文を見る
「そら見たまえ」
「何をですか」
原文を見る
「何をですか」
「君の気分だって、私の返事一つですぐ変わるじゃないか」
原文を見る
「君の気分だって、私の返事一つですぐ変るじゃないか」
待ち合わせるために振り向いて立ち止まった私の顔を見て、先生はこう言った。
原文を見る
待ち合わせるために振り向いて立ち留まった私の顔を見て、先生はこういった。
三十
原文を見る
三十
その時の私は心の中で先生を憎らしく思った。
原文を見る
その時の私は腹の中で先生を憎らしく思った。
肩を並べて歩き出してからも、自分の聞きたいことをわざと聞かずにいた。
原文を見る
肩を並べて歩き出してからも、自分の聞きたい事をわざと聞かずにいた。
しかし先生の方では、それに気がついていたのかいないのか、まるで私の態度にこだわる様子を見せなかった。
原文を見る
しかし先生の方では、それに気が付いていたのか、いないのか、まるで私の態度に拘泥る様子を見せなかった。
いつものとおり黙りがちに、落ち着き払った歩調を澄まして運んで行くので、私は少し腹が立った。
原文を見る
いつもの通り沈黙がちに落ち付き払った歩調をすまして運んで行くので、私は少し業腹になった。
何とか言って一つ先生をやっつけてみたくなって来た。
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何とかいって一つ先生をやっ付けてみたくなって来た。
「先生」
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「先生」
「何ですか」
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「何ですか」
「先生はさっき少し興奮なさいましたね。あの植木屋の庭で休んでいる時に。私は先生が興奮したのをめったに見たことがないんですが、今日はめずらしいところを拝見したような気がします」
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「先生はさっき少し昂奮なさいましたね。あの植木屋の庭で休んでいる時に。私は先生の昂奮したのを滅多に見た事がないんですが、今日は珍しいところを拝見したような気がします」
先生はすぐ返事をしなかった。
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先生はすぐ返事をしなかった。
私はそれを手応えがあったようにも思った。
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私はそれを手応えのあったようにも思った。
また的が外れたようにも感じた。
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また的が外れたようにも感じた。
仕方がないから、あとは言わないことにした。
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仕方がないから後はいわない事にした。
すると先生がいきなり道の端へ寄って行った。
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すると先生がいきなり道の端へ寄って行った。
そうしてきれいに刈り込んだ生垣の下で、裾をまくって小便をした。
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そうして綺麗に刈り込んだ生垣の下で、裾をまくって小便をした。
私は先生が用を足す間、ぼんやりそこに立っていた。
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私は先生が用を足す間ぼんやりそこに立っていた。
「やあ、失敬」
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「やあ失敬」
先生はこう言ってまた歩き出した。
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先生はこういってまた歩き出した。
私はとうとう先生をやりこめることを断念した。
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私はとうとう先生をやり込める事を断念した。
私たちの通る道はだんだん賑やかになった。
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私たちの通る道は段々賑やかになった。
今までちらほら見えた広い畑の斜面や平地が、まったく目に入らないように、左右の家並みがそろって来た。
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今までちらほらと見えた広い畠の斜面や平地が、全く眼に入らないように左右の家並が揃ってきた。
それでも所々、宅地の隅などにえんどうの蔓を竹に絡ませたり、金網で鶏を囲って飼ったりするのが、静かに眺められた。
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それでも所々宅地の隅などに、豌豆の蔓を竹にからませたり、金網で鶏を囲い飼いにしたりするのが閑静に眺められた。
町中から帰る荷馬が、しきりにすれ違って行った。
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市中から帰る駄馬が仕切りなく擦れ違って行った。
こんなものに始終気を奪われがちな私は、さっきまで胸の中にあった問題をどこかへ振り落としてしまった。
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こんなものに始終気を奪られがちな私は、さっきまで胸の中にあった問題をどこかへ振り落してしまった。
先生が突然そこへ後戻りをした時、私は実際それを忘れていた。
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先生が突然そこへ後戻りをした時、私は実際それを忘れていた。
「私はさきほど、そんなに興奮したように見えたんですか」
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「私は先刻そんなに昂奮したように見えたんですか」
「そんなにというほどでもありませんが、少し……」
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「そんなにというほどでもありませんが、少し……」
「いや、見えても構わない。実際興奮するんだから。私は財産のことを言うと、きっと興奮するんです。君にはどう見えるか知らないが、私はこれで大変執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年経っても二十年経っても忘れやしないんだから」
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「いや見えても構わない。実際昂奮するんだから。私は財産の事をいうときっと昂奮するんです。君にはどう見えるか知らないが、私はこれで大変執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年たっても二十年たっても忘れやしないんだから」
先生の言葉は元よりもなお興奮していた。
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先生の言葉は元よりもなお昂奮していた。
しかし私が驚いたのは、決してその調子ではなかった。
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しかし私の驚いたのは、決してその調子ではなかった。
むしろ先生の言葉が私の耳に訴える意味そのものだった。
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むしろ先生の言葉が私の耳に訴える意味そのものであった。
先生の口からこんな告白を聞くのは、いくら私にもまったくの意外に違いなかった。
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先生の口からこんな自白を聞くのは、いかな私にも全くの意外に相違なかった。
私は先生の性質の特色として、こんな執着の力をいまだかつて想像したことさえなかった。
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私は先生の性質の特色として、こんな執着力をいまだかつて想像した事さえなかった。
私は先生をもっと弱い人と信じていた。
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私は先生をもっと弱い人と信じていた。
そうしてその弱くて高い所に、私の慕う心の根を置いていた。
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そうしてその弱くて高い処に、私の懐かしみの根を置いていた。
一時の気分で先生にちょっと盾を突いてみようとした私は、この言葉の前に小さくなった。
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一時の気分で先生にちょっと盾を突いてみようとした私は、この言葉の前に小さくなった。
先生はこう言った。
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先生はこういった。
「私は人にだまされたのです。しかも血のつながった親戚の者にだまされたのです。私は決してそれを忘れないのです。私の父の前では善人であったらしい彼らは、父が死ぬやいなや許しがたい不徳義漢に変わったのです。私は彼らから受けた屈辱と損害を、子供の時から今日まで背負わされている。おそらく死ぬまで背負わされ通しでしょう。私は死ぬまでそれを忘れることができないんだから。しかし私はまだ復讐をせずにいる。考えると、私は個人に対する復讐以上のことを現にやっているんだ。私は彼らを憎むばかりじゃない、彼らが代表している人間というものを、一般に憎むことを覚えたのだ。私はそれでたくさんだと思う」
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「私は他に欺かれたのです。しかも血のつづいた親戚のものから欺かれたのです。私は決してそれを忘れないのです。私の父の前には善人であったらしい彼らは、父の死ぬや否や許しがたい不徳義漢に変ったのです。私は彼らから受けた屈辱と損害を小供の時から今日まで背負わされている。恐らく死ぬまで背負わされ通しでしょう。私は死ぬまでそれを忘れる事ができないんだから。しかし私はまだ復讐をしずにいる。考えると私は個人に対する復讐以上の事を現にやっているんだ。私は彼らを憎むばかりじゃない、彼らが代表している人間というものを、一般に憎む事を覚えたのだ。私はそれで沢山だと思う」
私は慰めの言葉さえ口に出せなかった。
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私は慰藉の言葉さえ口へ出せなかった。
三十一
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三十一
その日の話も、ついにこれきりで発展せずに終わった。
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その日の談話もついにこれぎりで発展せずにしまった。
私はむしろ先生の態度に縮み上がって、先へ進む気が起こらなかったのである。
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私はむしろ先生の態度に畏縮して、先へ進む気が起らなかったのである。
二人は町のはずれから電車に乗ったが、車内ではほとんど口をきかなかった。
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二人は市の外れから電車に乗ったが、車内ではほとんど口を聞かなかった。
電車を降りると間もなく別れなければならなかった。
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電車を降りると間もなく別れなければならなかった。
別れる時の先生は、また変わっていた。
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別れる時の先生は、また変っていた。
いつもより晴れやかな調子で、「これから六月までは一番気楽な時ですね。ことによると生涯で一番気楽かもしれない。精を出して遊びたまえ」
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常よりは晴やかな調子で、「これから六月までは一番気楽な時ですね。ことによると生涯で一番気楽かも知れない。精出して遊びたまえ」
と言った。
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といった。
私は笑って帽子を脱いだ。
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私は笑って帽子を脱った。
その時、私は先生の顔を見て、先生ははたして心のどこで一般の人間を憎んでいるのだろうかと疑った。
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その時私は先生の顔を見て、先生ははたして心のどこで、一般の人間を憎んでいるのだろうかと疑った。
その目、その口、どこにも世をいとう影は射していなかった。
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その眼、その口、どこにも厭世的の影は射していなかった。
私は思想上の問題について、大きな利益を先生から受けたことを告白する。
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私は思想上の問題について、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。
しかし同じ問題について、利益を受けようとしても受けられないことが時々あったと言わなければならない。
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しかし同じ問題について、利益を受けようとしても、受けられない事が間々あったといわなければならない。
先生の話は、時として要領を得ないまま終わった。
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先生の談話は時として不得要領に終った。
その日二人の間に起こった郊外の話も、この要領を得ない一例として私の胸の裏に残った。
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その日二人の間に起った郊外の談話も、この不得要領の一例として私の胸の裏に残った。
遠慮のない私は、ある時ついにそれを先生の前で打ち明けた。
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無遠慮な私は、ある時ついにそれを先生の前に打ち明けた。
先生は笑っていた。
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先生は笑っていた。
私はこう言った。
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私はこういった。
「頭が鈍くて要領を得ないのは構いませんが、ちゃんと分かっているくせに、はっきり言ってくれないのは困ります」
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「頭が鈍くて要領を得ないのは構いませんが、ちゃんと解ってるくせに、はっきりいってくれないのは困ります」
「私は何も隠してやしません」
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「私は何にも隠してやしません」
「隠していらっしゃいます」
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「隠していらっしゃいます」
「あなたは私の思想とか意見とかいうものと、私の過去とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませんか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭でまとめ上げた考えをむやみに人に隠しやしません。隠す必要がないんだから。けれども私の過去をすべてあなたの前に語らなくてはならないとなると、それはまた別の問題になります」
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「あなたは私の思想とか意見とかいうものと、私の過去とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませんか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭で纏め上げた考えをむやみに人に隠しやしません。隠す必要がないんだから。けれども私の過去を悉くあなたの前に物語らなくてはならないとなると、それはまた別問題になります」
「別の問題とは思われません。先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私にはほとんど価値のないものになります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられただけでは、満足はできないのです」
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「別問題とは思われません。先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私にはほとんど価値のないものになります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられただけで、満足はできないのです」
先生はあきれたという風に、私の顔を見た。
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先生はあきれたといった風に、私の顔を見た。
巻煙草を持っていたその手が少し震えた。
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巻烟草を持っていたその手が少し顫えた。
「あなたは大胆だ」
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「あなたは大胆だ」
「ただ真面目なんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」
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「ただ真面目なんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」
「私の過去をあばいてもですか」
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「私の過去を訐いてもですか」
あばくという言葉が、突然恐ろしい響きをもって私の耳を打った。
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訐くという言葉が、突然恐ろしい響きをもって、私の耳を打った。
私は今、私の前に座っているのが一人の罪人であって、普段から尊敬している先生でないような気がした。
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私は今私の前に坐っているのが、一人の罪人であって、不断から尊敬している先生でないような気がした。
先生の顔は青かった。
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先生の顔は蒼かった。
「あなたは本当に真面目なんですか」
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「あなたは本当に真面目なんですか」
と先生が念を押した。
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と先生が念を押した。
「私は過去の因果で、人を疑ってばかりいる。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純過ぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人でいいから、人を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたは腹の底から真面目ですか」
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「私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で好いから、他を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」
「もし私の命が真面目なものなら、私の今言ったことも真面目です」
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「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」
私の声は震えた。
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私の声は顫えた。
「よろしい」
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「よろしい」
と先生が言った。
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と先生がいった。
「話しましょう。私の過去を残らずあなたに話してあげましょう。その代わり……。いや、それは構わない。しかし私の過去はあなたにとって、それほど有益でないかもしれませんよ。聞かない方がましかもしれませんよ。それから、――今は話せないんだから、そのつもりでいてください。適当な時機が来なくては話さないんだから」
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「話しましょう。私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう。その代り……。いやそれは構わない。しかし私の過去はあなたに取ってそれほど有益でないかも知れませんよ。聞かない方が増かも知れませんよ。それから、――今は話せないんだから、そのつもりでいて下さい。適当の時機が来なくっちゃ話さないんだから」
私は下宿へ帰ってからも一種の圧迫を感じた。
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私は下宿へ帰ってからも一種の圧迫を感じた。
三十二
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三十二
私の論文は、自分が評価していたほどには教授の目によく見えなかったらしい。
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私の論文は自分が評価していたほどに、教授の眼にはよく見えなかったらしい。
それでも私は予定どおり及第した。
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それでも私は予定通り及第した。
卒業式の日、私はかび臭くなった古い冬服を行李の中から出して着た。
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卒業式の日、私は黴臭くなった古い冬服を行李の中から出して着た。
式場に並ぶと、どれもこれもみな暑そうな顔ばかりだった。
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式場にならぶと、どれもこれもみな暑そうな顔ばかりであった。
私は風の通らない厚い羅紗の下に密封された自分の体を持て余した。
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私は風の通らない厚羅紗の下に密封された自分の身体を持て余した。
しばらく立っているうちに、手に持ったハンカチがぐしょぐしょになった。
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しばらく立っているうちに手に持ったハンケチがぐしょぐしょになった。
私は式が済むとすぐ帰って裸になった。
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私は式が済むとすぐ帰って裸体になった。
下宿の二階の窓を開けて、望遠鏡のようにぐるぐる巻いた卒業証書の穴から、見えるだけの世の中を見渡した。
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下宿の二階の窓をあけて、遠眼鏡のようにぐるぐる巻いた卒業証書の穴から、見えるだけの世の中を見渡した。
それからその卒業証書を机の上に放り出した。
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それからその卒業証書を机の上に放り出した。
そうして大の字になって、部屋の真ん中に寝そべった。
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そうして大の字なりになって、室の真中に寝そべった。
私は寝ながら自分の過去を振り返った。
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私は寝ながら自分の過去を顧みた。
また自分の未来を想像した。
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また自分の未来を想像した。
するとその間に立って一区切りをつけているこの卒業証書なるものが、意味のあるような、また意味のないような変な紙に思われた。
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するとその間に立って一区切りを付けているこの卒業証書なるものが、意味のあるような、また意味のないような変な紙に思われた。
私はその晩、先生の家へご馳走に招かれて行った。
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私はその晩先生の家へ御馳走に招かれて行った。
これは、もし卒業したらその日の晩ご飯はよそで食べずに先生の食卓で済ますという、前からの約束だった。
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これはもし卒業したらその日の晩餐はよそで喰わずに、先生の食卓で済ますという前からの約束であった。
食卓は約束どおり座敷の縁近くに据えられていた。
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食卓は約束通り座敷の縁近くに据えられてあった。
模様の織り出された厚い、糊の利いた卓布が、美しくかつ清らかに電灯の光を照り返していた。
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模様の織り出された厚い糊の硬い卓布が美しくかつ清らかに電燈の光を射返していた。
先生の家で食事をすると、きっとこの西洋料理店に見るような白いリンネルの上に、箸や茶碗が置かれた。
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先生のうちで飯を食うと、きっとこの西洋料理店に見るような白いリンネルの上に、箸や茶碗が置かれた。
そうしてそれが、必ず洗濯したての真っ白なものに限られていた。
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そうしてそれが必ず洗濯したての真白なものに限られていた。
「襟やカフスと同じことさ。汚れたのを使うくらいなら、いっそ初めから色のついたものを使うがいい。白ければ純白でなくては」
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「カラやカフスと同じ事さ。汚れたのを用いるくらいなら、一層始めから色の着いたものを使うが好い。白ければ純白でなくっちゃ」
こう言われてみると、なるほど先生は潔癖だった。
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こういわれてみると、なるほど先生は潔癖であった。
書斎なども実に整然と片づいていた。
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書斎なども実に整然と片付いていた。
無頓着な私には、先生のそういう特色が時々著しく目に留まった。
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無頓着な私には、先生のそういう特色が折々著しく眼に留まった。
「先生は神経質ですね」
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「先生は癇性ですね」
とかつて奥さんに言った時、奥さんは「でも着物などは、それほど気にしないようですよ」
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とかつて奥さんに告げた時、奥さんは「でも着物などは、それほど気にしないようですよ」
と答えたことがあった。
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と答えた事があった。
それをそばで聞いていた先生は、「本当を言うと、私は精神的に神経質なんです。それで始終苦しいんです。考えると実に馬鹿馬鹿しい性分だ」
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それを傍に聞いていた先生は、「本当をいうと、私は精神的に癇性なんです。それで始終苦しいんです。考えると実に馬鹿馬鹿しい性分だ」
と言って笑った。
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といって笑った。
精神的に神経質という意味は、俗に言う神経質という意味か、または倫理的に潔癖だという意味か、私には分からなかった。
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精神的に癇性という意味は、俗にいう神経質という意味か、または倫理的に潔癖だという意味か、私には解らなかった。
奥さんにもよく通じないらしかった。
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奥さんにも能く通じないらしかった。
その晩、私は先生と向かい合わせに、例の白い卓布の前に座った。
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その晩私は先生と向い合せに、例の白い卓布の前に坐った。
奥さんは二人を左右に置いて、一人庭の方を正面にして席を占めた。
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奥さんは二人を左右に置いて、独り庭の方を正面にして席を占めた。
「おめでとう」
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「お目出とう」
と言って、先生が私のために杯を上げてくれた。
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といって、先生が私のために杯を上げてくれた。
私はこの杯に対して、それほど嬉しい気を起こさなかった。
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私はこの盃に対してそれほど嬉しい気を起さなかった。
もちろん私自身の心が、この言葉に響き返すような飛び立つ嬉しさを持っていなかったのが、一つの原因だった。
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無論私自身の心がこの言葉に反響するように、飛び立つ嬉しさをもっていなかったのが、一つの源因であった。
けれども先生の言い方も、決して私の嬉しさをそそる浮き浮きした調子を帯びていなかった。
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けれども先生のいい方も決して私の嬉しさを唆る浮々した調子を帯びていなかった。
先生は笑って杯を上げた。
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先生は笑って杯を上げた。
私はその笑いのうちに、少しも意地の悪い皮肉を認めなかった。
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私はその笑いのうちに、些とも意地の悪いアイロニーを認めなかった。
同時に、めでたいという本当の気持ちも汲み取ることができなかった。
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同時に目出たいという真情も汲み取る事ができなかった。
先生の笑いは、「世間はこんな場合によくおめでとうと言いたがるものですね」
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先生の笑いは、「世間はこんな場合によくお目出とうといいたがるものですね」
と私に語っていた。
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と私に物語っていた。
奥さんは私に「結構ね。さぞお父さんやお母さんはお喜びでしょう」
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奥さんは私に「結構ね。さぞお父さんやお母さんはお喜びでしょう」
と言ってくれた。
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といってくれた。
私は突然、病気の父のことを考えた。
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私は突然病気の父の事を考えた。
早くあの卒業証書を持って行って見せてやろうと思った。
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早くあの卒業証書を持って行って見せてやろうと思った。
「先生の卒業証書はどうしました」
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「先生の卒業証書はどうしました」
と私が聞いた。
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と私が聞いた。
「どうしたかね。――まだどこかにしまってあったかね」
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「どうしたかね。――まだどこかにしまってあったかね」
と先生が奥さんに聞いた。
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と先生が奥さんに聞いた。
「ええ、たしかしまってあるはずですが」
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「ええ、たしかしまってあるはずですが」
卒業証書のありかは、二人ともよく知らなかった。
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卒業証書の在処は二人ともよく知らなかった。
三十三
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三十三
ご飯になった時、奥さんはそばに座っているお手伝いを隣の部屋へ立たせて、自分で給仕の役を務めた。
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飯になった時、奥さんは傍に坐っている下女を次へ立たせて、自分で給仕の役をつとめた。
これが表立たない客に対する先生の家のしきたりらしかった。
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これが表立たない客に対する先生の家の仕来りらしかった。
初めの一、二回は私も窮屈を感じたが、回数が重なるにつれて、茶碗を奥さんの前へ出すのが何でもなくなった。
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始めの一、二回は私も窮屈を感じたが、度数の重なるにつけ、茶碗を奥さんの前へ出すのが、何でもなくなった。
「お茶。ご飯。ずいぶんよく食べるのね」
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「お茶? ご飯? ずいぶんよく食べるのね」
奥さんの方でも、思い切って遠慮のないことを言うことがあった。
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奥さんの方でも思い切って遠慮のない事をいうことがあった。
しかしその日は時候が時候なので、そんなにからかわれるほど食欲が進まなかった。
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しかしその日は、時候が時候なので、そんなに調戯われるほど食欲が進まなかった。
「もうおしまい。あなた、近ごろ大変小食になったのね」
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「もうおしまい。あなた近頃大変小食になったのね」
「小食になったんじゃありません。暑いので食べられないんです」
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「小食になったんじゃありません。暑いんで食われないんです」
奥さんはお手伝いを呼んで食卓を片づけさせたあとへ、改めてアイスクリームと果物を運ばせた。
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奥さんは下女を呼んで食卓を片付けさせた後へ、改めてアイスクリームと水菓子を運ばせた。
「これは家でこしらえたのよ」
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「これは宅で拵えたのよ」
用のない奥さんには、手製のアイスクリームを客にふるまうだけの余裕があると見えた。
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用のない奥さんには、手製のアイスクリームを客に振舞うだけの余裕があると見えた。
私はそれを二杯おかわりした。
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私はそれを二杯更えてもらった。
「君もいよいよ卒業したが、これから何をする気ですか」
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「君もいよいよ卒業したが、これから何をする気ですか」
と先生が聞いた。
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と先生が聞いた。
先生は半分縁側の方へ席をずらして、敷居際で背中を障子にもたせていた。
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先生は半分縁側の方へ席をずらして、敷居際で背中を障子に靠たせていた。
私にはただ卒業したという自覚があるだけで、これから何をしようという目的もなかった。
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私にはただ卒業したという自覚があるだけで、これから何をしようという目的もなかった。
返事にためらっている私を見た時、奥さんは「教師」
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返事にためらっている私を見た時、奥さんは「教師?」
と聞いた。
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と聞いた。
それにも答えずにいると、今度は「じゃ、お役人」
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それにも答えずにいると、今度は、「じゃお役人?」
とまた聞かれた。
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とまた聞かれた。
私も先生も笑い出した。
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私も先生も笑い出した。
「本当を言うと、まだ何をする考えもないんです。実は職業というものについて、まったく考えたことがないくらいなんですから。だいいち、どれがよくてどれが悪いか、自分がやってみた上でないと分からないんだから、選択に困る訳だと思います」
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「本当いうと、まだ何をする考えもないんです。実は職業というものについて、全く考えた事がないくらいなんですから。だいちどれが善いか、どれが悪いか、自分がやって見た上でないと解らないんだから、選択に困る訳だと思います」
「それもそうね。けれどもあなたは、つまり財産があるからそんなのんきなことを言っていられるのよ。これが困る人をご覧なさい。なかなかあなたのように落ち着いてはいられないから」
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「それもそうね。けれどもあなたは必竟財産があるからそんな呑気な事をいっていられるのよ。これが困る人でご覧なさい。なかなかあなたのように落ち付いちゃいられないから」
私の友達には、卒業しない前から中学教師の口を探している人があった。
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私の友達には卒業しない前から、中学教師の口を探している人があった。
私は心の中で奥さんの言う事実を認めた。
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私は腹の中で奥さんのいう事実を認めた。
しかしこう言った。
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しかしこういった。
「少し先生にかぶれたんでしょう」
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「少し先生にかぶれたんでしょう」
「ろくなかぶれ方をしてくださらないのね」
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「碌なかぶれ方をして下さらないのね」
先生は苦笑した。
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先生は苦笑した。
「かぶれても構わないから、その代わりこの間言ったとおり、お父さんが生きているうちに相当の財産を分けてもらっておおきなさい。それでないと決して油断はならない」
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「かぶれても構わないから、その代りこの間いった通り、お父さんの生きてるうちに、相当の財産を分けてもらってお置きなさい。それでないと決して油断はならない」
私は先生といっしょに、郊外の植木屋の広い庭の奥で話した、あのつつじの咲いている五月の初めを思い出した。
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私は先生といっしょに、郊外の植木屋の広い庭の奥で話した、あの躑躅の咲いている五月の初めを思い出した。
あの時の帰り道に、先生が興奮した語気で私に語った強い言葉を、再び耳の底で繰り返した。
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あの時帰り途に、先生が昂奮した語気で、私に物語った強い言葉を、再び耳の底で繰り返した。
それは強いばかりでなく、むしろすさまじい言葉だった。
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それは強いばかりでなく、むしろ凄い言葉であった。
けれども事実を知らない私には、同時に徹底しない言葉でもあった。
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けれども事実を知らない私には同時に徹底しない言葉でもあった。
「奥さん、お宅の財産はよほどあるんですか」
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「奥さん、お宅の財産はよッぽどあるんですか」
「何だってそんなことをお聞きになるの」
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「何だってそんな事をお聞きになるの」
「先生に聞いても教えてくださらないから」
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「先生に聞いても教えて下さらないから」
奥さんは笑いながら先生の顔を見た。
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奥さんは笑いながら先生の顔を見た。
「教えてあげるほどないからでしょう」
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「教えて上げるほどないからでしょう」
「でも、どのくらいあったら先生のようにしていられるか、家へ帰って一つ父に談判する時の参考にしますから、聞かせてください」
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「でもどのくらいあったら先生のようにしていられるか、宅へ帰って一つ父に談判する時の参考にしますから聞かして下さい」
先生は庭の方を向いて、澄まして煙草を吹かしていた。
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先生は庭の方を向いて、澄まして烟草を吹かしていた。
相手は自然、奥さんでなければならなかった。
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相手は自然奥さんでなければならなかった。
「どのくらいってほどありゃしませんわ。まあこうしてどうにか暮らしてゆかれるだけよ、あなた。――それはどうでもいいとして、あなたはこれから何かなさらなくては本当にいけませんよ。先生のようにごろごろばかりしていては……」
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「どのくらいってほどありゃしませんわ。まあこうしてどうかこうか暮してゆかれるだけよ、あなた。――そりゃどうでも宜いとして、あなたはこれから何か為さらなくっちゃ本当にいけませんよ。先生のようにごろごろばかりしていちゃ……」
「ごろごろばかりしていやしないさ」
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「ごろごろばかりしていやしないさ」
先生はちょっと顔だけ向け直して、奥さんの言葉を否定した。
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先生はちょっと顔だけ向け直して、奥さんの言葉を否定した。
三十四
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三十四
私はその夜、十時過ぎに先生の家を辞した。
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私はその夜十時過ぎに先生の家を辞した。
二、三日のうちに帰郷するはずになっていたので、席を立つ前に私はちょっと暇乞いの言葉を述べた。
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二、三日うちに帰国するはずになっていたので、座を立つ前に私はちょっと暇乞いの言葉を述べた。
「またしばらくお目にかかれませんから」
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「また当分お目にかかれませんから」
「九月には出ていらっしゃるんでしょうね」
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「九月には出ていらっしゃるんでしょうね」
私はもう卒業したのだから、必ず九月に出て来る必要もなかった。
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私はもう卒業したのだから、必ず九月に出て来る必要もなかった。
しかし暑い盛りの八月を東京まで来て過ごそうとも考えていなかった。
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しかし暑い盛りの八月を東京まで来て送ろうとも考えていなかった。
私には職を求めるための貴重な時間というものがなかった。
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私には位置を求めるための貴重な時間というものがなかった。
「まあ九月頃になるでしょう」
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「まあ九月頃になるでしょう」
「じゃ、ずいぶんご機嫌よう。私たちもこの夏はことによると、どこかへ行くかもしれないのよ。ずいぶん暑そうだから。行ったらまた絵葉書でも送ってあげましょう」
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「じゃずいぶんご機嫌よう。私たちもこの夏はことによるとどこかへ行くかも知れないのよ。ずいぶん暑そうだから。行ったらまた絵端書でも送って上げましょう」
「どちらの見当です。もしいらっしゃるとすれば」
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「どちらの見当です。もしいらっしゃるとすれば」
先生はこの問答をにやにや笑って聞いていた。
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先生はこの問答をにやにや笑って聞いていた。
「なに、まだ行くとも行かないとも決めていやしないんです」
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「何まだ行くとも行かないとも極めていやしないんです」
席を立とうとした時、先生は急に私をつかまえて、「ときに、お父さんの病気はどうなんです」
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席を立とうとした時、先生は急に私をつらまえて、「時にお父さんの病気はどうなんです」
と聞いた。
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と聞いた。
私は父の健康について、ほとんど知るところがなかった。
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私は父の健康についてほとんど知るところがなかった。
何とも言って来ない以上、悪くはないのだろうくらいに考えていた。
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何ともいって来ない以上、悪くはないのだろうくらいに考えていた。
「そんなに簡単に考えられる病気じゃありませんよ。尿毒症が出ると、もう駄目なんだから」
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「そんなに容易く考えられる病気じゃありませんよ。尿毒症が出ると、もう駄目なんだから」
尿毒症という言葉も意味も、私には分からなかった。
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尿毒症という言葉も意味も私には解らなかった。
この前の冬休みに国で医者と会った時に、私はそんな専門語をまるで聞かなかった。
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この前の冬休みに国で医者と会見した時に、私はそんな術語をまるで聞かなかった。
「本当に大事にしてあげなさいよ」
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「本当に大事にしてお上げなさいよ」
と奥さんも言った。
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と奥さんもいった。
「毒が脳へ回るようになると、もうそれっきりよ、あなた。笑い事じゃないわ」
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「毒が脳へ廻るようになると、もうそれっきりよ、あなた。笑い事じゃないわ」
経験のない私は、気味を悪がりながらもにやにやしていた。
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無経験な私は気味を悪がりながらも、にやにやしていた。
「どうせ助からない病気だそうですから、いくら心配したって仕方がありません」
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「どうせ助からない病気だそうですから、いくら心配したって仕方がありません」
「そう思い切りよく考えれば、それまでですけれども」
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「そう思い切りよく考えれば、それまでですけれども」
奥さんは、昔同じ病気で死んだという自分の母のことでも思い出したのか、沈んだ調子でこう言ったなり下を向いた。
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奥さんは昔同じ病気で死んだという自分のお母さんの事でも憶い出したのか、沈んだ調子でこういったなり下を向いた。
私も父の運命が本当に気の毒になった。
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私も父の運命が本当に気の毒になった。
すると先生が突然奥さんの方を向いた。
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すると先生が突然奥さんの方を向いた。
「静、お前はおれより先へ死ぬだろうかね」
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「静、お前はおれより先へ死ぬだろうかね」
「なぜ」
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「なぜ」
「なぜでもない、ただ聞いてみるのさ。それとも、おれの方がお前より前に片づくかな。たいてい世間じゃ、旦那が先で細君があとへ残るのが当たり前のようになってるね」
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「なぜでもない、ただ聞いてみるのさ。それとも己の方がお前より前に片付くかな。大抵世間じゃ旦那が先で、細君が後へ残るのが当り前のようになってるね」
「そう決まった訳でもないわ。けれども男の方はどうしても、ほら、年が上でしょう」
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「そう極った訳でもないわ。けれども男の方はどうしても、そら年が上でしょう」
「だから先へ死ぬという理屈なのかね。するとおれも、お前より先にあの世へ行かなくてはならないことになるね」
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「だから先へ死ぬという理屈なのかね。すると己もお前より先にあの世へ行かなくっちゃならない事になるね」
「あなたは特別よ」
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「あなたは特別よ」
「そうかね」
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「そうかね」
「だって丈夫なんですもの。ほとんど患ったためしがないじゃありませんか。それはどうしたって私の方が先だわ」
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「だって丈夫なんですもの。ほとんど煩った例がないじゃありませんか。そりゃどうしたって私の方が先だわ」
「先かな」
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「先かな」
「ええ、きっと先よ」
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「え、きっと先よ」
先生は私の顔を見た。
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先生は私の顔を見た。
私は笑った。
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私は笑った。
「しかしもし、おれの方が先へ行くとするね。そうしたらお前どうする」
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「しかしもしおれの方が先へ行くとするね。そうしたらお前どうする」
「どうするって……」
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「どうするって……」
奥さんはそこで口ごもった。
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奥さんはそこで口籠った。
先生の死に対する想像上の悲しみが、ちょっと奥さんの胸を襲ったらしかった。
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先生の死に対する想像的な悲哀が、ちょっと奥さんの胸を襲ったらしかった。
けれども再び顔を上げた時は、もう気分を変えていた。
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けれども再び顔をあげた時は、もう気分を更えていた。
「どうするって、仕方がないわ、ねえあなた。老少不定っていうくらいだから」
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「どうするって、仕方がないわ、ねえあなた。老少不定っていうくらいだから」
奥さんはことさら私の方を見て、冗談らしくこう言った。
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奥さんはことさらに私の方を見て笑談らしくこういった。
三十五
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三十五
私は立ちかけた腰をまた下ろして、話の区切りがつくまで二人の相手になっていた。
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私は立て掛けた腰をまたおろして、話の区切りの付くまで二人の相手になっていた。
「君はどう思います」
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「君はどう思います」
と先生が聞いた。
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と先生が聞いた。
先生が先に死ぬか、奥さんが早く亡くなるか、もとより私に判断のつくべき問題ではなかった。
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先生が先へ死ぬか、奥さんが早く亡くなるか、固より私に判断のつくべき問題ではなかった。
私はただ笑っていた。
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私はただ笑っていた。
「寿命は分かりませんね。私にも」
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「寿命は分りませんね。私にも」
「これだけは本当に寿命ですからね。生まれた時にちゃんと決まった年数をもらって来るんだから、仕方がないわ。先生のお父さんやお母さんなんか、ほとんど同じよ、あなた、亡くなったのが」
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「こればかりは本当に寿命ですからね。生れた時にちゃんと極った年数をもらって来るんだから仕方がないわ。先生のお父さんやお母さんなんか、ほとんど同じよ、あなた、亡くなったのが」
「亡くなられた日がですか」
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「亡くなられた日がですか」
「まさか日まで同じじゃないけれども。でもまあ同じよ。だって続いて亡くなってしまったんですもの」
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「まさか日まで同じじゃないけれども。でもまあ同じよ。だって続いて亡くなっちまったんですもの」
この知識は私にとって新しいものだった。
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この知識は私にとって新しいものであった。
私は不思議に思った。
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私は不思議に思った。
「どうしてそう一度に亡くなられたんですか」
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「どうしてそう一度に死なれたんですか」
奥さんは私の問いに答えようとした。
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奥さんは私の問いに答えようとした。
先生はそれを遮った。
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先生はそれを遮った。
「そんな話はよしなさい。つまらないから」
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「そんな話はお止しよ。つまらないから」
先生は手に持った団扇をわざとばたばたいわせた。
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先生は手に持った団扇をわざとばたばたいわせた。
そうしてまた奥さんを振り返った。
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そうしてまた奥さんを顧みた。
「静、おれが死んだら、この家をお前にやろう」
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「静、おれが死んだらこの家をお前にやろう」
奥さんは笑い出した。
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奥さんは笑い出した。
「ついでに地面もくださいよ」
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「ついでに地面も下さいよ」
「地面は人のものだから仕方がない。その代わり、おれの持っているものはみんなお前にやるよ」
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「地面は他のものだから仕方がない。その代りおれの持ってるものは皆なお前にやるよ」
「どうもありがとう。けれども横文字の本なんかもらっても仕方がないわね」
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「どうも有難う。けれども横文字の本なんか貰っても仕様がないわね」
「古本屋に売るさ」
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「古本屋に売るさ」
「売ればいくらぐらいになって」
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「売ればいくらぐらいになって」
先生はいくらとも言わなかった。
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先生はいくらともいわなかった。
けれども先生の話は、なかなか自分の死という遠い問題を離れなかった。
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けれども先生の話は、容易に自分の死という遠い問題を離れなかった。
そうしてその死は、必ず奥さんの前に起こるものと仮定されていた。
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そうしてその死は必ず奥さんの前に起るものと仮定されていた。
奥さんも最初のうちは、わざとたわいのない受け答えをしているらしく見えた。
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奥さんも最初のうちは、わざとたわいのない受け答えをしているらしく見えた。
それがいつの間にか、感じやすい女の心を重苦しくした。
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それがいつの間にか、感傷的な女の心を重苦しくした。
「おれが死んだら、おれが死んだらって、まあ何度おっしゃるの。お願いだからもういいかげんにして、おれが死んだらはやめてちょうだい。縁起でもない。あなたが死んだら、何でもあなたの思いどおりにしてあげるから、それでいいじゃありませんか」
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「おれが死んだら、おれが死んだらって、まあ何遍おっしゃるの。後生だからもう好い加減にして、おれが死んだらは止して頂戴。縁喜でもない。あなたが死んだら、何でもあなたの思い通りにして上げるから、それで好いじゃありませんか」
先生は庭の方を向いて笑った。
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先生は庭の方を向いて笑った。
しかしそれきり、奥さんのいやがることを言わなくなった。
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しかしそれぎり奥さんの厭がる事をいわなくなった。
私もあまり長くなるので、すぐ席を立った。
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私もあまり長くなるので、すぐ席を立った。
先生と奥さんは玄関まで送って出た。
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先生と奥さんは玄関まで送って出た。
「ご病人をお大事に」
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「ご病人をお大事に」
と奥さんが言った。
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と奥さんがいった。
「また九月に」
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「また九月に」
と先生が言った。
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と先生がいった。
私は挨拶をして格子の外へ足を踏み出した。
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私は挨拶をして格子の外へ足を踏み出した。
玄関と門の間にあるこんもりした木犀の一株が、私の行く手をふさぐように、夜の闇のうちに枝を張っていた。
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玄関と門の間にあるこんもりした木犀の一株が、私の行手を塞ぐように、夜陰のうちに枝を張っていた。
私は二、三歩動き出しながら、黒ずんだ葉に覆われているその梢を見て、来るべき秋の花と香りを思い浮かべた。
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私は二、三歩動き出しながら、黒ずんだ葉に被われているその梢を見て、来たるべき秋の花と香を想い浮べた。
私は先生の家とこの木犀とを、以前から心のうちで離すことのできないもののように、いっしょに記憶していた。
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私は先生の宅とこの木犀とを、以前から心のうちで、離す事のできないもののように、いっしょに記憶していた。
私が偶然その木の前に立って、再びこの家の玄関をまたぐはずの次の秋に思いを馳せた時、今まで格子の間から射していた玄関の電灯がふっと消えた。
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私が偶然その樹の前に立って、再びこの宅の玄関を跨ぐべき次の秋に思いを馳せた時、今まで格子の間から射していた玄関の電燈がふっと消えた。
先生夫婦はそれきり奥へ入ったらしかった。
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先生夫婦はそれぎり奥へはいったらしかった。
私は一人、暗い表へ出た。
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私は一人暗い表へ出た。
私はすぐ下宿へは戻らなかった。
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私はすぐ下宿へは戻らなかった。
国へ帰る前にそろえる買い物もあったし、ご馳走を詰めた胃袋にくつろぎを与える必要もあったので、ただ賑やかな町の方へ歩いて行った。
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国へ帰る前に調える買物もあったし、ご馳走を詰めた胃袋にくつろぎを与える必要もあったので、ただ賑やかな町の方へ歩いて行った。
町はまだ宵の口だった。
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町はまだ宵の口であった。
用事もなさそうな男女がぞろぞろ動く中で、私は今日私といっしょに卒業した何某に会った。
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用事もなさそうな男女がぞろぞろ動く中に、私は今日私といっしょに卒業したなにがしに会った。
彼は私を無理やりある酒場へ連れこんだ。
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彼は私を無理やりにある酒場へ連れ込んだ。
私はそこで、ビールの泡のような彼の気炎を聞かされた。
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私はそこで麦酒の泡のような彼の気燄を聞かされた。
私が下宿へ帰ったのは十二時過ぎだった。
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私の下宿へ帰ったのは十二時過ぎであった。
三十六
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三十六
私はその翌日も暑さをおして、頼まれ物を買い集めて歩いた。
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私はその翌日も暑さを冒して、頼まれものを買い集めて歩いた。
手紙で注文を受けた時は何でもないように考えていたのが、いざとなると大変おっくうに感じられた。
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手紙で注文を受けた時は何でもないように考えていたのが、いざとなると大変臆劫に感ぜられた。
私は電車の中で汗を拭きながら、人の時間と手間に気の毒という観念をまるで持っていない田舎者を憎らしく思った。
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私は電車の中で汗を拭きながら、他の時間と手数に気の毒という観念をまるでもっていない田舎者を憎らしく思った。
私はこのひと夏を無為に過ごす気はなかった。
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私はこの一夏を無為に過ごす気はなかった。
国へ帰ってからの日程というようなものをあらかじめ作っておいたので、それを実行するのに必要な書物も手に入れなければならなかった。
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国へ帰ってからの日程というようなものをあらかじめ作っておいたので、それを履行するに必要な書物も手に入れなければならなかった。
私は半日を丸善の二階でつぶす覚悟でいた。
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私は半日を丸善の二階で潰す覚悟でいた。
私は自分に関係の深い部門の書棚の前に立って、隅から隅まで一冊ずつ点検して行った。
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私は自分に関係の深い部門の書籍棚の前に立って、隅から隅まで一冊ずつ点検して行った。
買い物のうちで一番私を困らせたのは、女物の半襟だった。
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買物のうちで一番私を困らせたのは女の半襟であった。
店の若い者に言うといくらでも出してはくれるが、さてどれを選んでいいのか、買う段になってはただ迷うだけだった。
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小僧にいうと、いくらでも出してはくれるが、さてどれを選んでいいのか、買う段になっては、ただ迷うだけであった。
その上、値段がきわめて定まらなかった。
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その上価が極めて不定であった。
安いだろうと思って聞くと非常に高かったり、高いだろうと考えて聞かずにいると、かえって大変安かったりした。
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安かろうと思って聞くと、非常に高かったり、高かろうと考えて、聞かずにいると、かえって大変安かったりした。
あるいは、いくら比べてみても、どこから値段の違いが出るのか見当のつかないものもあった。
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あるいはいくら比べて見ても、どこから価格の差違が出るのか見当の付かないのもあった。
私はまったく弱らされた。
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私は全く弱らせられた。
そうして心のうちで、なぜ先生の奥さんの手をわずらわさなかったかを悔いた。
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そうして心のうちで、なぜ先生の奥さんを煩わさなかったかを悔いた。
私は鞄を買った。
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私は鞄を買った。
もちろん国産の粗末な品に過ぎなかったが、それでも金具などがぴかぴかしているので、田舎の者を驚かすには十分だった。
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無論和製の下等な品に過ぎなかったが、それでも金具やなどがぴかぴかしているので、田舎ものを威嚇かすには充分であった。
この鞄を買うということは、私の母の注文だった。
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この鞄を買うという事は、私の母の注文であった。
卒業したら新しい鞄を買って、その中に一切の土産物を入れて帰るようにと、わざわざ手紙の中に書いてあった。
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卒業したら新しい鞄を買って、そのなかに一切の土産ものを入れて帰るようにと、わざわざ手紙の中に書いてあった。
私はその文句を読んだ時に笑い出した。
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私はその文句を読んだ時に笑い出した。
私には母の考えが分からないというよりも、その言葉が一種の滑稽として訴えたのである。
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私には母の料簡が解らないというよりも、その言葉が一種の滑稽として訴えたのである。
私は暇乞いをする時に先生夫婦に述べたとおり、それから三日目の汽車で東京を発って国へ帰った。
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私は暇乞いをする時先生夫婦に述べた通り、それから三日目の汽車で東京を立って国へ帰った。
この冬以来、父の病気について先生からいろいろの注意を受けた私は、一番心配しなければならない立場にいながら、どういうものか、それが大して苦にならなかった。
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この冬以来父の病気について先生から色々の注意を受けた私は、一番心配しなければならない地位にありながら、どういうものか、それが大して苦にならなかった。
私はむしろ、父がいなくなったあとの母を想像して気の毒に思った。
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私はむしろ父がいなくなったあとの母を想像して気の毒に思った。
そのくらいだから、私は心のどこかで、父はすでに亡くなるべきものと覚悟していたに違いなかった。
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そのくらいだから私は心のどこかで、父はすでに亡くなるべきものと覚悟していたに違いなかった。
九州にいる兄へやった手紙の中にも、私は父がとうてい元のような健康な体になる見込みのないことを述べた。
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九州にいる兄へやった手紙のなかにも、私は父の到底故のような健康体になる見込みのない事を述べた。
一度などは、職務の都合もあろうが、できるなら都合をつけてこの夏ぐらい一度顔だけでも見に帰ったらどうだとまで書いた。
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一度などは職務の都合もあろうが、できるなら繰り合せてこの夏ぐらい一度顔だけでも見に帰ったらどうだとまで書いた。
その上、年寄りが二人きりで田舎にいるのはさぞ心細いだろう、我々も子として残念の至りである、というような感傷的な文句さえ使った。
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その上年寄が二人ぎりで田舎にいるのは定めて心細いだろう、我々も子として遺憾の至りであるというような感傷的な文句さえ使った。
私は実際、心に浮かぶままを書いた。
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私は実際心に浮ぶままを書いた。
けれども書いたあとの気分は、書いた時とは違っていた。
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けれども書いたあとの気分は書いた時とは違っていた。
私はそうした矛盾を汽車の中で考えた。
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私はそうした矛盾を汽車の中で考えた。
考えているうちに、自分が自分に気の変わりやすい軽薄者のように思われて来た。
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考えているうちに自分が自分に気の変りやすい軽薄もののように思われて来た。
私は不愉快になった。
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私は不愉快になった。
私はまた先生夫婦のことを思い浮かべた。
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私はまた先生夫婦の事を想い浮べた。
特に二、三日前、晩ご飯に呼ばれた時の会話を思い出した。
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ことに二、三日前晩食に呼ばれた時の会話を憶い出した。
「どっちが先へ死ぬだろう」
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「どっちが先へ死ぬだろう」
私はその晩、先生と奥さんの間に起こった疑問を、一人口の中で繰り返してみた。
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私はその晩先生と奥さんの間に起った疑問をひとり口の内で繰り返してみた。
そうしてこの疑問には、誰も自信をもって答えることができないのだと思った。
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そうしてこの疑問には誰も自信をもって答える事ができないのだと思った。
しかしどちらが先に死ぬとはっきり分かっていたなら、先生はどうするだろう。
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しかしどっちが先へ死ぬと判然分っていたならば、先生はどうするだろう。
奥さんはどうするだろう。
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奥さんはどうするだろう。
先生も奥さんも、今のような態度でいるよりほかに仕方がないだろうと思った。
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先生も奥さんも、今のような態度でいるより外に仕方がないだろうと思った。
(死に近づきつつある父を国もとに抱えながら、この私がどうすることもできないように)
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(死に近づきつつある父を国元に控えながら、この私がどうする事もできないように)。
私は人間をはかないものと見た。
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私は人間を果敢ないものに観じた。
人間のどうすることもできない、持って生まれた軽薄を、はかないものと見た。
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人間のどうする事もできない持って生れた軽薄を、果敢ないものに観じた。
中 両親と私
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中 両親と私
一
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一
家へ帰って意外に思ったのは、父の元気がこの前見た時と大して変わっていないことだった。
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宅へ帰って案外に思ったのは、父の元気がこの前見た時と大して変っていない事であった。
「ああ帰ったかい。そうか、それでも卒業ができてまあ結構だった。ちょっと待て、今顔を洗って来るから」
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「ああ帰ったかい。そうか、それでも卒業ができてまあ結構だった。ちょっとお待ち、今顔を洗って来るから」
父は庭へ出て何かしているところだった。
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父は庭へ出て何かしていたところであった。
古い麦わら帽子の後ろへ、日よけのために結びつけたうす汚いハンカチをひらひらさせながら、井戸のある裏手の方へ回って行った。
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古い麦藁帽の後ろへ、日除のために括り付けた薄汚ないハンケチをひらひらさせながら、井戸のある裏手の方へ廻って行った。
学校を卒業するのを普通の人間として当然のように考えていた私は、それを予想以上に喜んでくれる父の前で恐縮した。
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学校を卒業するのを普通の人間として当然のように考えていた私は、それを予期以上に喜んでくれる父の前に恐縮した。
「卒業ができてまあ結構だ」
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「卒業ができてまあ結構だ」
父はこの言葉を何度も繰り返した。
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父はこの言葉を何遍も繰り返した。
私は心のうちで、この父の喜びと、卒業式のあった晩に先生の家の食卓で「おめでとう」
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私は心のうちでこの父の喜びと、卒業式のあった晩先生の家の食卓で、「お目出とう」
と言われた時の先生の顔つきとを比べた。
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といわれた時の先生の顔付とを比較した。
私には、口で祝ってくれながら腹の底でけなしている先生の方が、それほどでもないものをめずらしそうに喜ぶ父よりも、かえって上品に見えた。
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私には口で祝ってくれながら、腹の底でけなしている先生の方が、それほどにもないものを珍しそうに嬉しがる父よりも、かえって高尚に見えた。
私はしまいに、父の無知から出る田舎臭いところに不快を感じ出した。
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私はしまいに父の無知から出る田舎臭いところに不快を感じ出した。
「大学ぐらい卒業したって、それほど結構でもありません。卒業する者は毎年何百人だっています」
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「大学ぐらい卒業したって、それほど結構でもありません。卒業するものは毎年何百人だってあります」
私はついに、こんな口のきき方をした。
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私はついにこんな口の利きようをした。
すると父が変な顔をした。
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すると父が変な顔をした。
「何も卒業したから結構とばかり言うんじゃない。それは卒業は結構に違いないが、おれの言うのはもう少し意味があるんだ。それがお前に分かっていてくれさえすれば……」
原文を見る
「何も卒業したから結構とばかりいうんじゃない。そりゃ卒業は結構に違いないが、おれのいうのはもう少し意味があるんだ。それがお前に解っていてくれさえすれば、……」
私は父からその続きを聞こうとした。
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私は父からその後を聞こうとした。
父は話したくなさそうだったが、とうとうこう言った。
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父は話したくなさそうであったが、とうとうこういった。
「つまり、おれが結構ということになるのさ。おれはお前の知っているとおりの病気だろう。去年の冬お前に会った時、ことによるともう三か月か四か月ぐらいのものだろうと思っていたのさ。それがどういう幸せか、今日までこうしている。起き伏しに不自由なくこうしている。そこへお前が卒業してくれた。だから嬉しいのさ。せっかく丹精した息子が、自分のいなくなったあとで卒業してくれるよりも、丈夫なうちに学校を出てくれる方が、親の身になれば嬉しいだろうじゃないか。大きな考えを持っているお前から見たら、たかが大学を卒業したぐらいで結構だ結構だと言われるのは、あまり面白くもないだろう。しかしおれの方から見てごらん、立場が少し違っているよ。つまり卒業は、お前にとってよりこのおれにとって結構なんだ。分かったかい」
原文を見る
「つまり、おれが結構という事になるのさ。おれはお前の知ってる通りの病気だろう。去年の冬お前に会った時、ことによるともう三月か四月ぐらいなものだろうと思っていたのさ。それがどういう仕合せか、今日までこうしている。起居に不自由なくこうしている。そこへお前が卒業してくれた。だから嬉しいのさ。せっかく丹精した息子が、自分のいなくなった後で卒業してくれるよりも、丈夫なうちに学校を出てくれる方が親の身になれば嬉しいだろうじゃないか。大きな考えをもっているお前から見たら、高が大学を卒業したぐらいで、結構だ結構だといわれるのは余り面白くもないだろう。しかしおれの方から見てご覧、立場が少し違っているよ。つまり卒業はお前に取ってより、このおれに取って結構なんだ。解ったかい」
私は一言もなかった。
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私は一言もなかった。
詫びる以上に恐縮してうつむいていた。
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詫まる以上に恐縮して俯向いていた。
父は平気なうちに自分の死を覚悟していたものと見える。
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父は平気なうちに自分の死を覚悟していたものとみえる。
しかも私の卒業する前に死ぬだろうと思い定めていたと見える。
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しかも私の卒業する前に死ぬだろうと思い定めていたとみえる。
その卒業が父の心にどのくらい響くかも考えずにいた私は、まったく愚か者だった。
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その卒業が父の心にどのくらい響くかも考えずにいた私は全く愚かものであった。
私は鞄の中から卒業証書を取り出して、それを大事そうに父と母に見せた。
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私は鞄の中から卒業証書を取り出して、それを大事そうに父と母に見せた。
証書は何かに押しつぶされて、元の形を失っていた。
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証書は何かに圧し潰されて、元の形を失っていた。
父はそれをていねいに伸ばした。
原文を見る
父はそれを鄭寧に伸した。
「こんなものは巻いたまま手に持って来るものだ」
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「こんなものは巻いたなり手に持って来るものだ」
「中に芯でも入れるとよかったのに」
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「中に心でも入れると好かったのに」
と母もそばから注意した。
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と母も傍から注意した。
父はしばらくそれを眺めたあと、立って床の間の所へ行き、誰の目にもすぐ入るような正面へ証書を置いた。
原文を見る
父はしばらくそれを眺めた後、起って床の間の所へ行って、誰の目にもすぐはいるような正面へ証書を置いた。
いつもの私ならすぐ何とか言うはずだったが、その時の私はまるで普段と違っていた。
原文を見る
いつもの私ならすぐ何とかいうはずであったが、その時の私はまるで平生と違っていた。
父や母に対して、少しも逆らう気が起こらなかった。
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父や母に対して少しも逆らう気が起らなかった。
私は黙って父のするがままに任せておいた。
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私はだまって父の為すがままに任せておいた。
いったん癖のついた鳥の子紙の証書は、なかなか父の自由にならなかった。
原文を見る
一旦癖のついた鳥の子紙の証書は、なかなか父の自由にならなかった。
適当な位置に置かれるやいなや、すぐ自分に自然な勢いを得て倒れようとした。
原文を見る
適当な位置に置かれるや否や、すぐ己れに自然な勢いを得て倒れようとした。
二
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二
私は母を陰へ呼んで、父の病状を尋ねた。
原文を見る
私は母を蔭へ呼んで父の病状を尋ねた。
「お父さんはあんなに元気そうに庭へ出たり何かしているが、あれでいいんですか」
原文を見る
「お父さんはあんなに元気そうに庭へ出たり何かしているが、あれでいいんですか」
「もう何ともないようだよ。たぶんよくおなりなんだろう」
原文を見る
「もう何ともないようだよ。大方好くおなりなんだろう」
母は意外に平気だった。
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母は案外平気であった。
都会からかけ離れた森や田の中に住んでいる女の常として、母はこういうことにかけてはまるで無知識だった。
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都会から懸け隔たった森や田の中に住んでいる女の常として、母はこういう事に掛けてはまるで無知識であった。
それにしても、この前父が卒倒した時にはあれほど驚いてあんなに心配したものを、と私は心のうちで一人、妙な感じを抱いた。
原文を見る
それにしてもこの前父が卒倒した時には、あれほど驚いて、あんなに心配したものを、と私は心のうちで独り異な感じを抱いた。
「でも医者はあの時、とうてい難しいと宣告したじゃありませんか」
原文を見る
「でも医者はあの時到底むずかしいって宣告したじゃありませんか」
「だから人間の体ほど不思議なものはないと思うんだよ。あれほどお医者が重く言ったものが、今までしゃんしゃんしているんだからね。お母さんも初めのうちは心配して、なるべく動かさないようにと思っていたんだがね。それ、あの気性だろう。養生はなさるけれども、強情でねえ。自分がいいと思い込んだら、なかなか私の言うことなんか聞きそうにもなさらないんだからね」
原文を見る
「だから人間の身体ほど不思議なものはないと思うんだよ。あれほどお医者が手重くいったものが、今までしゃんしゃんしているんだからね。お母さんも始めのうちは心配して、なるべく動かさないようにと思ってたんだがね。それ、あの気性だろう。養生はしなさるけれども、強情でねえ。自分が好いと思い込んだら、なかなか私のいう事なんか、聞きそうにもなさらないんだからね」
私はこの前帰った時、無理に床を上げさせて髭を剃った父の様子と態度を思い出した。
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私はこの前帰った時、無理に床を上げさして、髭を剃った父の様子と態度とを思い出した。
「もう大丈夫、お母さんがあまり大げさ過ぎるからいけないんだ」
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「もう大丈夫、お母さんがあんまり仰山過ぎるからいけないんだ」
と言ったその時の言葉を考えてみると、まんざら母ばかり責める気にもなれなかった。
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といったその時の言葉を考えてみると、満更母ばかり責める気にもなれなかった。
「しかしそばでも少しは注意しなくては」
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「しかし傍でも少しは注意しなくっちゃ」
と言おうとした私は、とうとう遠慮して何も口に出さなかった。
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といおうとした私は、とうとう遠慮して何にも口へ出さなかった。
ただ父の病気の性質について、私の知る限りを教えるように話して聞かせた。
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ただ父の病の性質について、私の知る限りを教えるように話して聞かせた。
しかしその大部分は、先生と先生の奥さんから得た材料に過ぎなかった。
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しかしその大部分は先生と先生の奥さんから得た材料に過ぎなかった。
母は特に感動した様子も見せなかった。
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母は別に感動した様子も見せなかった。
ただ「へえ、やっぱり同じ病気でね。お気の毒だね。いくつでお亡くなりかえ、その方は」
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ただ「へえ、やっぱり同じ病気でね。お気の毒だね。いくつでお亡くなりかえ、その方は」
などと聞いた。
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などと聞いた。
私は仕方がないから、母をそのままにしておいて、直接父に向かった。
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私は仕方がないから、母をそのままにしておいて直接父に向かった。
父は私の注意を、母よりは真面目に聞いてくれた。
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父は私の注意を母よりは真面目に聞いてくれた。
「もっともだ。お前の言うとおりだ。けれども、おれの体はつまるところおれの体で、そのおれの体についての養生の仕方は、長年の経験上、おれが一番よく心得ているはずだからね」
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「もっともだ。お前のいう通りだ。けれども、己の身体は必竟己の身体で、その己の身体についての養生法は、多年の経験上、己が一番能く心得ているはずだからね」
と言った。
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といった。
それを聞いた母は苦笑した。
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それを聞いた母は苦笑した。
「それご覧な」
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「それご覧な」
と言った。
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といった。
「でも、あれでお父さんは自分でちゃんと覚悟だけはしているんですよ。今度私が卒業して帰ったのを大変喜んでいるのも、まったくそのためなんです。生きているうちに卒業はできまいと思ったのが、達者なうちに免状を持って来たから、それが嬉しいんだって、お父さんは自分でそう言っていましたよ」
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「でも、あれでお父さんは自分でちゃんと覚悟だけはしているんですよ。今度私が卒業して帰ったのを大変喜んでいるのも、全くそのためなんです。生きてるうちに卒業はできまいと思ったのが、達者なうちに免状を持って来たから、それが嬉しいんだって、お父さんは自分でそういっていましたぜ」
「それは、お前、口ではこそそうおっしゃるけれどもね。お腹の中ではまだ大丈夫だと思っていらっしゃるのだよ」
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「そりゃ、お前、口でこそそうおいいだけれどもね。お腹のなかではまだ大丈夫だと思ってお出のだよ」
「そうでしょうか」
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「そうでしょうか」
「まだまだ十年も二十年も生きる気でいらっしゃるのだよ。もっとも時々は私にも心細いようなことをおっしゃるがね。おれもこの分ではもう長いこともあるまいよ、おれが死んだらお前はどうする、一人でこの家にいる気か、なんて」
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「まだまだ十年も二十年も生きる気でお出のだよ。もっとも時々はわたしにも心細いような事をおいいだがね。おれもこの分じゃもう長い事もあるまいよ、おれが死んだら、お前はどうする、一人でこの家にいる気かなんて」
私は急に、父がいなくなって母一人が取り残された時の、古い広い田舎家を想像してみた。
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私は急に父がいなくなって母一人が取り残された時の、古い広い田舎家を想像して見た。
この家から父一人を引き去ったあとは、そのままで成り立つだろうか。
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この家から父一人を引き去った後は、そのままで立ち行くだろうか。
兄はどうするだろうか。
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兄はどうするだろうか。
母は何と言うだろうか。
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母は何というだろうか。
そう考える私は、またここの土地を離れて東京で気楽に暮らして行けるだろうか。
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そう考える私はまたここの土を離れて、東京で気楽に暮らして行けるだろうか。
私は母を目の前に置いて、先生の注意、父が丈夫でいるうちに分けてもらうものは分けてもらっておけという注意を、偶然思い出した。
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私は母を眼の前に置いて、先生の注意――父の丈夫でいるうちに、分けて貰うものは、分けて貰って置けという注意を、偶然思い出した。
「なにね、自分で死ぬ死ぬと言う人に死んだためしはないんだから安心だよ。お父さんなんかも、死ぬ死ぬと言いながら、これから先まだ何年生きなさるか分からないよ。それよりも黙っている丈夫な人の方が危ないのさ」
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「なにね、自分で死ぬ死ぬっていう人に死んだ試しはないんだから安心だよ。お父さんなんぞも、死ぬ死ぬっていいながら、これから先まだ何年生きなさるか分るまいよ。それよりか黙ってる丈夫の人の方が剣呑さ」
私は、理屈から出たとも統計から来たとも知れないこのありふれた母の言葉を、黙って聞いていた。
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私は理屈から出たとも統計から来たとも知れない、この陳腐なような母の言葉を黙然と聞いていた。
三
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三
私のために赤飯を炊いて客を招くという相談が、父と母の間に起こった。
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私のために赤い飯を炊いて客をするという相談が父と母の間に起った。
私は帰った当日から、あるいはこんなことになるだろうと思って、心のうちでひそかにそれを恐れていた。
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私は帰った当日から、あるいはこんな事になるだろうと思って、心のうちで暗にそれを恐れていた。
私はすぐ断った。
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私はすぐ断わった。
「あまり大げさなことはやめてください」
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「あんまり仰山な事は止してください」
私は田舎の客が嫌いだった。
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私は田舎の客が嫌いだった。
飲んだり食べたりするのを最後の目的としてやって来る彼らは、何か事があればいいという風の人ばかりそろっていた。
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飲んだり食ったりするのを、最後の目的としてやって来る彼らは、何か事があれば好いといった風の人ばかり揃っていた。
私は子供の時から、彼らの席に付き添うのを心苦しく感じていた。
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私は子供の時から彼らの席に侍するのを心苦しく感じていた。
まして自分のために彼らが来るとなると、私の苦痛はいっそうひどいように想像された。
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まして自分のために彼らが来るとなると、私の苦痛はいっそう甚しいように想像された。
しかし私は父や母の手前、あんな野卑な人を集めて騒ぐのはよせとも言いかねた。
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しかし私は父や母の手前、あんな野鄙な人を集めて騒ぐのは止せともいいかねた。
それで私は、ただあまり大げさだからとばかり主張した。
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それで私はただあまり仰山だからとばかり主張した。
「大げさ大げさとおっしゃるが、少しも大げさじゃないよ。生涯に二度とあることじゃないんだからね、客ぐらいするのは当たり前だよ。そう遠慮をなさるな」
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「仰山仰山とおいいだが、些とも仰山じゃないよ。生涯に二度とある事じゃないんだからね、お客ぐらいするのは当り前だよ。そう遠慮をお為でない」
母は私が大学を卒業したのを、ちょうど嫁でももらったのと同じ程度に重く見ているらしかった。
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母は私が大学を卒業したのを、ちょうど嫁でも貰ったと同じ程度に、重く見ているらしかった。
「呼ばなくてもいいが、呼ばないとまた何とか言うから」
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「呼ばなくっても好いが、呼ばないとまた何とかいうから」
これは父の言葉だった。
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これは父の言葉であった。
父は彼らの陰口を気にしていた。
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父は彼らの陰口を気にしていた。
実際彼らは、こんな場合に自分たちの予期どおりにならないと、すぐ何とか言いたがる人々だった。
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実際彼らはこんな場合に、自分たちの予期通りにならないと、すぐ何とかいいたがる人々であった。
「東京と違って田舎はうるさいからね」
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「東京と違って田舎は蒼蠅いからね」
父はこうも言った。
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父はこうもいった。
「お父さんの顔もあるんだから」
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「お父さんの顔もあるんだから」
と母がまた付け加えた。
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と母がまた付け加えた。
私は我を張る訳にも行かなかった。
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私は我を張る訳にも行かなかった。
どうでも二人の都合のいいようにしたらと思い出した。
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どうでも二人の都合の好いようにしたらと思い出した。
「つまり私のためならやめてくださいというだけなんです。陰で何か言われるのがいやだからというご趣旨なら、それはまた別です。あなた方に不利益なことを私が強いて主張したって仕方がありません」
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「つまり私のためなら、止して下さいというだけなんです。陰で何かいわれるのが厭だからというご主意なら、そりゃまた別です。あなたがたに不利益な事を私が強いて主張したって仕方がありません」
「そう理屈を言われると困る」
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「そう理屈をいわれると困る」
父は苦い顔をした。
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父は苦い顔をした。
「何もお前のためにするんじゃないとお父さんがおっしゃるんじゃないけれども、お前だって世間への義理ぐらいは知っているだろう」
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「何もお前のためにするんじゃないとお父さんがおっしゃるんじゃないけれども、お前だって世間への義理ぐらいは知っているだろう」
母はこうなると、女だけにしどろもどろなことを言った。
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母はこうなると女だけにしどろもどろな事をいった。
その代わり口数から言うと、父と私を二人合わせてもとてもかなうどころではなかった。
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その代り口数からいうと、父と私を二人寄せてもなかなか敵うどころではなかった。
「学問をさせると人間がとかく理屈っぽくなっていけない」
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「学問をさせると人間がとかく理屈っぽくなっていけない」
父はただこれだけしか言わなかった。
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父はただこれだけしかいわなかった。
しかし私はこの簡単な一句のうちに、父が普段から私に対して持っている不平の全体を見た。
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しかし私はこの簡単な一句のうちに、父が平生から私に対してもっている不平の全体を見た。
私はその時、自分の言葉づかいの角張ったところに気がつかずに、父の不平の方ばかりを無理のように思った。
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私はその時自分の言葉使いの角張ったところに気が付かずに、父の不平の方ばかりを無理のように思った。
父はその夜また気を変えて、客を呼ぶなら何日にするかと私の都合を聞いた。
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父はその夜また気を更えて、客を呼ぶなら何日にするかと私の都合を聞いた。
都合のいいも悪いもなしに、ただぶらぶら古い家の中で寝起きしている私にこんな問いをかけるのは、父の方が折れて出たのと同じことだった。
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都合の好いも悪いもなしにただぶらぶら古い家の中に寝起きしている私に、こんな問いを掛けるのは、父の方が折れて出たのと同じ事であった。
私はこの穏やかな父の前に、こだわらずに頭を下げた。
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私はこの穏やかな父の前に拘泥らない頭を下げた。
私は父と相談の上、招待の日取りを決めた。
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私は父と相談の上招待の日取りを極めた。
その日取りのまだ来ないうちに、ある大きなことが起こった。
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その日取りのまだ来ないうちに、ある大きな事が起った。
それは明治天皇のご病気の知らせだった。
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それは明治天皇のご病気の報知であった。
新聞ですぐ日本中へ知れ渡ったこの出来事は、一軒の田舎家のうちで多少の曲折を経てようやくまとまろうとした私の卒業祝いを、塵のように吹き払った。
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新聞紙ですぐ日本中へ知れ渡ったこの事件は、一軒の田舎家のうちに多少の曲折を経てようやく纏まろうとした私の卒業祝いを、塵のごとくに吹き払った。
「まあ、ご遠慮申した方がよかろう」
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「まあ、ご遠慮申した方がよかろう」
眼鏡を掛けて新聞を見ていた父はこう言った。
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眼鏡を掛けて新聞を見ていた父はこういった。
父は黙って自分の病気のことも考えているらしかった。
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父は黙って自分の病気の事も考えているらしかった。
私は、ついこの間の卒業式に例年のとおり大学へおいでになった陛下を思い出したりした。
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私はついこの間の卒業式に例年の通り大学へ行幸になった陛下を憶い出したりした。
四
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四
少ない人数には広過ぎる古い家がひっそりしている中で、私は行李を解いて書物を開き始めた。
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小勢な人数には広過ぎる古い家がひっそりしている中に、私は行李を解いて書物を繙き始めた。
なぜか私は気が落ち着かなかった。
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なぜか私は気が落ち付かなかった。
あの目まぐるしい東京の下宿の二階で、遠く走る電車の音を耳にしながらページを一枚一枚めくって行く方が、気に張りがあって心持ちよく勉強ができた。
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あの目眩るしい東京の下宿の二階で、遠く走る電車の音を耳にしながら、頁を一枚一枚にまくって行く方が、気に張りがあって心持よく勉強ができた。
私はともすると机にもたれてうたた寝をした。
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私はややともすると机にもたれて仮寝をした。
時にはわざわざ枕さえ出して本式に昼寝をむさぼることもあった。
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時にはわざわざ枕さえ出して本式に昼寝を貪ぼる事もあった。
目が覚めると、蝉の声を聞いた。
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眼が覚めると、蝉の声を聞いた。
夢うつつから続いているようなその声は、急にやかましく耳の底をかき乱した。
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うつつから続いているようなその声は、急に八釜しく耳の底を掻き乱した。
私はじっとそれを聞きながら、時に悲しい思いを胸に抱いた。
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私は凝とそれを聞きながら、時に悲しい思いを胸に抱いた。
私は筆を取って、友達の誰彼に短い葉書または長い手紙を書いた。
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私は筆を執って友達のだれかれに短い端書または長い手紙を書いた。
その友達のある者は東京に残っていた。
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その友達のあるものは東京に残っていた。
ある者は遠い故郷に帰っていた。
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あるものは遠い故郷に帰っていた。
返事の来るのも、便りの届かないのもあった。
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返事の来るのも、音信の届かないのもあった。
私はもとより先生を忘れなかった。
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私は固より先生を忘れなかった。
原稿紙へ細字で三枚ばかり、国へ帰ってから以後の自分というようなものを題にして書き綴ったのを送ることにした。
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原稿紙へ細字で三枚ばかり国へ帰ってから以後の自分というようなものを題目にして書き綴ったのを送る事にした。
私はそれを封じる時、先生ははたしてまだ東京にいるだろうかと疑った。
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私はそれを封じる時、先生ははたしてまだ東京にいるだろうかと疑った。
先生が奥さんといっしょに家を空ける場合には、五十くらいの切り下げ髪の女の人がどこからか来て、留守番をするのが例になっていた。
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先生が奥さんといっしょに宅を空ける場合には、五十恰好の切下の女の人がどこからか来て、留守番をするのが例になっていた。
私がかつて先生に、あの人は何ですかと尋ねたら、先生は何に見えますかと聞き返した。
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私がかつて先生にあの人は何ですかと尋ねたら、先生は何と見えますかと聞き返した。
私はその人を先生の親類と思い違えていた。
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私はその人を先生の親類と思い違えていた。
先生は「私には親類はありませんよ」
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先生は「私には親類はありませんよ」
と答えた。
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と答えた。
先生の郷里にいる縁続きの人々と、先生はまるで便りのやり取りをしていなかった。
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先生の郷里にいる続きあいの人々と、先生は一向音信の取り遣りをしていなかった。
私が疑問にしたその留守番の女の人は、先生とは縁のない、奥さんの方の親戚だった。
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私の疑問にしたその留守番の女の人は、先生とは縁のない奥さんの方の親戚であった。
私は先生に郵便を出す時、ふと、幅の細い帯を楽に後ろで結んでいるその人の姿を思い出した。
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私は先生に郵便を出す時、ふと幅の細い帯を楽に後ろで結んでいるその人の姿を思い出した。
もし先生夫婦がどこかへ避暑にでも行ったあとへこの郵便が届いたら、あの切り下げ髪のお婆さんは、それをすぐ滞在先へ送ってくれるだけの気転と親切があるだろうか、などと考えた。
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もし先生夫婦がどこかへ避暑にでも行ったあとへこの郵便が届いたら、あの切下のお婆さんは、それをすぐ転地先へ送ってくれるだけの気転と親切があるだろうかなどと考えた。
そのくせ、その手紙のうちにはこれというほどの必要なことも書いていないのを、私はよく承知していた。
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そのくせその手紙のうちにはこれというほどの必要の事も書いてないのを、私は能く承知していた。
ただ私は寂しかった。
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ただ私は淋しかった。
そうして先生から返事の来るのを期待して待っていた。
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そうして先生から返事の来るのを予期してかかった。
しかしその返事はついに来なかった。
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しかしその返事はついに来なかった。
父はこの前の冬に帰って来た時ほど、将棋を指したがらなくなった。
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父はこの前の冬に帰って来た時ほど将棋を差したがらなくなった。
将棋盤は埃のたまったまま、床の間の隅に片寄せられていた。
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将棋盤はほこりの溜ったまま、床の間の隅に片寄せられてあった。
特に陛下のご病気以後、父はじっと考えこんでいるように見えた。
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ことに陛下のご病気以後父は凝と考え込んでいるように見えた。
毎日新聞の来るのを待ち受けて、自分が一番先に読んだ。
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毎日新聞の来るのを待ち受けて、自分が一番先へ読んだ。
それからその読み終わったのを、わざわざ私のいる所へ持って来てくれた。
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それからその読がらをわざわざ私のいる所へ持って来てくれた。
「おい、ご覧、今日も天子さまのことが詳しく出ている」
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「おいご覧、今日も天子さまの事が詳しく出ている」
父は陛下のことを、いつも天子さまと言っていた。
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父は陛下のことを、つねに天子さまといっていた。
「もったいない話だが、天子さまのご病気も、お父さんのとまあ似たものだろうな」
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「勿体ない話だが、天子さまのご病気も、お父さんのとまあ似たものだろうな」
こう言う父の顔には、深い気づかいの曇りがかかっていた。
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こういう父の顔には深い掛念の曇りがかかっていた。
こう言われる私の胸には、また父がいつ倒れるか分からないという心配がひらめいた。
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こういわれる私の胸にはまた父がいつ斃れるか分らないという心配がひらめいた。
「しかし大丈夫だろう。おれのようなつまらない者でも、まだこうしていられるくらいだから」
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「しかし大丈夫だろう。おれのような下らないものでも、まだこうしていられるくらいだから」
父は自分が達者だという保証を自分で与えながら、今にも自分に落ちかかって来そうな危険を予感しているらしかった。
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父は自分の達者な保証を自分で与えながら、今にも己れに落ちかかって来そうな危険を予感しているらしかった。
「お父さんは本当に病気を怖がってるんですよ。お母さんのおっしゃるように、十年も二十年も生きる気じゃなさそうですよ」
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「お父さんは本当に病気を怖がってるんですよ。お母さんのおっしゃるように、十年も二十年も生きる気じゃなさそうですぜ」
母は私の言葉を聞いて当惑そうな顔をした。
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母は私の言葉を聞いて当惑そうな顔をした。
「ちょっとまた将棋でも指すように勧めてご覧な」
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「ちょっとまた将棋でも差すように勧めてご覧な」
私は床の間から将棋盤を取り下ろして、埃を拭いた。
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私は床の間から将棋盤を取りおろして、ほこりを拭いた。
五
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五
父の元気はしだいに衰えて行った。
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父の元気は次第に衰えて行った。
私を驚かせたハンカチつきの古い麦わら帽子が、自然と放っておかれるようになった。
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私を驚かせたハンケチ付きの古い麦藁帽子が自然と閑却されるようになった。
私は黒くすすけた棚の上に載っているその帽子を眺めるたびに、父に対して気の毒な思いをした。
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私は黒い煤けた棚の上に載っているその帽子を眺めるたびに、父に対して気の毒な思いをした。
父が以前のように軽々と動く間は、もう少し慎んでくれたらと心配した。
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父が以前のように、軽々と動く間は、もう少し慎んでくれたらと心配した。
父がじっと座りこむようになると、やはり元の方が達者だったのだという気が起こった。
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父が凝と坐り込むようになると、やはり元の方が達者だったのだという気が起った。
私は父の健康について、よく母と話し合った。
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私は父の健康についてよく母と話し合った。
「まったく気のせいだよ」
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「まったく気のせいだよ」
と母が言った。
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と母がいった。
母の頭は、陛下の病気と父の病気とを結びつけて考えていた。
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母の頭は陛下の病と父の病とを結び付けて考えていた。
私にはそうばかりとも思えなかった。
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私にはそうばかりとも思えなかった。
「気じゃない。本当に体が悪くはないんでしょうか。どうも気分より健康の方が悪くなって行くらしい」
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「気じゃない。本当に身体が悪かないんでしょうか。どうも気分より健康の方が悪くなって行くらしい」
私はこう言って、心のうちでまた遠くから相応の医者でも呼んで、一つ見せようかしらと考えた。
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私はこういって、心のうちでまた遠くから相当の医者でも呼んで、一つ見せようかしらと思案した。
「今年の夏はお前もつまらなかろう。せっかく卒業したのに、お祝いもしてあげることができず、お父さんの体もあのとおりだし。それに天子さまのご病気で。――いっそのこと、帰ってすぐに客でも呼ぶ方がよかったんだよ」
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「今年の夏はお前も詰らなかろう。せっかく卒業したのに、お祝いもして上げる事ができず、お父さんの身体もあの通りだし。それに天子様のご病気で。――いっその事、帰るすぐにお客でも呼ぶ方が好かったんだよ」
私が帰ったのは七月の五、六日で、父や母が私の卒業を祝うために客を呼ぼうと言い出したのは、それから一週間後だった。
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私が帰ったのは七月の五、六日で、父や母が私の卒業を祝うために客を呼ぼうといいだしたのは、それから一週間後であった。
そうしていよいよと決めた日は、それからまた一週間あまりも先になっていた。
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そうしていよいよと極めた日はそれからまた一週間の余も先になっていた。
時間に縛られないのんびりした田舎に帰った私は、おかげで好ましくない社交上の苦痛から救われたも同然だったが、私を理解しない母は少しもそこに気がついていないらしかった。
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時間に束縛を許さない悠長な田舎に帰った私は、お蔭で好もしくない社交上の苦痛から救われたも同じ事であったが、私を理解しない母は少しもそこに気が付いていないらしかった。
崩御の知らせが伝えられた時、父はその新聞を手にして、「ああ、ああ」
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崩御の報知が伝えられた時、父はその新聞を手にして、「ああ、ああ」
と言った。
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といった。
「ああ、ああ、天子さまもとうとうお隠れになる。おれも……」
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「ああ、ああ、天子様もとうとうおかくれになる。己も……」
父はその続きを言わなかった。
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父はその後をいわなかった。
私は黒い薄物を買うために町へ出た。
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私は黒いうすものを買うために町へ出た。
それで旗竿の玉を包み、それで旗竿の先へ三寸幅のひらひらをつけて、門の扉の横から斜めに往来へ差し出した。
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それで旗竿の球を包んで、それで旗竿の先へ三寸幅のひらひらを付けて、門の扉の横から斜めに往来へさし出した。
旗も黒いひらひらも、風のない空気の中にだらりと下がった。
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旗も黒いひらひらも、風のない空気のなかにだらりと下がった。
私の家の古い門の屋根は藁で葺いてあった。
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私の宅の古い門の屋根は藁で葺いてあった。
雨や風に打たれたり吹かれたりしたその藁の色は、すっかり変色して薄く灰色を帯びた上に、所々の凸凹さえ目についた。
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雨や風に打たれたりまた吹かれたりしたその藁の色はとくに変色して、薄く灰色を帯びた上に、所々の凸凹さえ眼に着いた。
私は一人門の外へ出て、黒いひらひらと、白いメリンスの地と、地の中に染め出した赤い日の丸の色とを眺めた。
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私はひとり門の外へ出て、黒いひらひらと、白いめりんすの地と、地のなかに染め出した赤い日の丸の色とを眺めた。
それがうす汚い屋根の藁に映るのも眺めた。
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それが薄汚ない屋根の藁に映るのも眺めた。
私はかつて先生から「あなたの家の構えはどんな体裁ですか。私の郷里の方とはだいぶ趣が違っていますかね」
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私はかつて先生から「あなたの宅の構えはどんな体裁ですか。私の郷里の方とは大分趣が違っていますかね」
と聞かれたことを思い出した。
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と聞かれた事を思い出した。
私は自分の生まれたこの古い家を、先生に見せたくもあった。
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私は自分の生れたこの古い家を、先生に見せたくもあった。
また先生に見せるのが恥ずかしくもあった。
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また先生に見せるのが恥ずかしくもあった。
私はまた一人家の中へ入った。
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私はまた一人家のなかへはいった。
自分の机の置いてある所へ来て、新聞を読みながら、遠い東京の有様を想像した。
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自分の机の置いてある所へ来て、新聞を読みながら、遠い東京の有様を想像した。
私の想像は、日本一の大きな都がどんなに暗い中でどんなに動いているだろうかという画面に集められた。
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私の想像は日本一の大きな都が、どんなに暗いなかでどんなに動いているだろうかの画面に集められた。
私はその、黒いなりに動かなければ始末のつかなくなった都会の、不安でざわざわしている中に、一点の灯りのように先生の家を見た。
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私はその黒いなりに動かなければ仕末のつかなくなった都会の、不安でざわざわしているなかに、一点の燈火のごとくに先生の家を見た。
私はその時、この灯りが音のしない渦の中に自然と巻き込まれていることに気がつかなかった。
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私はその時この燈火が音のしない渦の中に、自然と捲き込まれている事に気が付かなかった。
しばらくすれば、その灯もまたふっと消えてしまう運命を目の前に控えているのだとは、もとより気がつかなかった。
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しばらくすれば、その灯もまたふっと消えてしまうべき運命を、眼の前に控えているのだとは固より気が付かなかった。
私は今度の出来事について先生に手紙を書こうかと思って、筆を取りかけた。
原文を見る
私は今度の事件について先生に手紙を書こうかと思って、筆を執りかけた。
私はそれを十行ばかり書いてやめた。
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私はそれを十行ばかり書いて已めた。
書いた所は細かく引き裂いて屑籠へ投げこんだ。
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書いた所は寸々に引き裂いて屑籠へ投げ込んだ。
(先生に宛ててそういうことを書いても仕方がないとも思ったし、前例に照らしてみると、とても返事をくれそうになかったから)
原文を見る
(先生に宛ててそういう事を書いても仕方がないとも思ったし、前例に徴してみると、とても返事をくれそうになかったから)。
私は寂しかった。
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私は淋しかった。
それで手紙を書くのだった。
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それで手紙を書くのであった。
そうして返事が来ればいいと思うのだった。
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そうして返事が来れば好いと思うのであった。
六
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六
八月の半ば頃になって、私はある友人から手紙を受け取った。
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八月の半ばごろになって、私はある朋友から手紙を受け取った。
その中に、地方の中学教員の口があるが行かないかと書いてあった。
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その中に地方の中学教員の口があるが行かないかと書いてあった。
この友人は経済上の必要から、自分でそんな地位を探し回る男だった。
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この朋友は経済の必要上、自分でそんな位地を探し廻る男であった。
この口も初めは自分の所へ来たのだが、もっといい地方の話がまとまったので、余った方を私に譲る気で、わざわざ知らせて来てくれたのだった。
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この口も始めは自分の所へかかって来たのだが、もっと好い地方へ相談ができたので、余った方を私に譲る気で、わざわざ知らせて来てくれたのであった。
私はすぐ返事を出して断った。
原文を見る
私はすぐ返事を出して断った。
知り合いの中には、ずいぶん骨を折って教師の職にありつきたがっている者がいるから、その方へ回してやったらいいだろうと書いた。
原文を見る
知り合いの中には、ずいぶん骨を折って、教師の職にありつきたがっているものがあるから、その方へ廻してやったら好かろうと書いた。
私は返事を出したあとで、父と母にその話をした。
原文を見る
私は返事を出した後で、父と母にその話をした。
二人とも私が断ったことに異存はないようだった。
原文を見る
二人とも私の断った事に異存はないようであった。
「そんな所へ行かなくても、まだいい口があるだろう」
原文を見る
「そんな所へ行かないでも、まだ好い口があるだろう」
こう言ってくれる裏に、私は二人が私に対して持っている過分な希望を読み取った。
原文を見る
こういってくれる裏に、私は二人が私に対してもっている過分な希望を読んだ。
世事にうとい父や母は、不相応な地位と収入とを、卒業したての私から期待しているらしかったのである。
原文を見る
迂闊な父や母は、不相当な地位と収入とを卒業したての私から期待しているらしかったのである。
「相応の口って、近ごろではそんなうまい口はなかなかあるものじゃありません。特に兄さんと私とは専門も違うし、時代も違うんだから、二人を同じように考えられては少し困ります」
原文を見る
「相当の口って、近頃じゃそんな旨い口はなかなかあるものじゃありません。ことに兄さんと私とは専門も違うし、時代も違うんだから、二人を同じように考えられちゃ少し困ります」
「しかし卒業した以上は、少なくとも独立してやって行ってくれなくてはこちらも困る。人から、あなたの所のご次男は大学を卒業なさって何をしていらっしゃいますかと聞かれた時に返事ができないようでは、おれも肩身が狭いから」
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「しかし卒業した以上は、少なくとも独立してやって行ってくれなくっちゃこっちも困る。人からあなたの所のご二男は、大学を卒業なすって何をしてお出ですかと聞かれた時に返事ができないようじゃ、おれも肩身が狭いから」
父は渋い顔をした。
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父は渋面をつくった。
父の考えは、古く住み慣れた郷里から外へ出ることを知らなかった。
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父の考えは、古く住み慣れた郷里から外へ出る事を知らなかった。
その郷里の誰彼から、大学を卒業すればいくらぐらい月給が取れるものだろうと聞かれたり、まあ百円ぐらいのものだろうかと言われたりした父は、こういう人々に対して外聞の悪くないように、卒業したての私を片づけたかったのである。
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その郷里の誰彼から、大学を卒業すればいくらぐらい月給が取れるものだろうと聞かれたり、まあ百円ぐらいなものだろうかといわれたりした父は、こういう人々に対して、外聞の悪くないように、卒業したての私を片付けたかったのである。
広い都を根拠地として考えている私は、父や母から見ると、まるで足を空に向けて歩く奇妙な人間にほかならなかった。
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広い都を根拠地として考えている私は、父や母から見ると、まるで足を空に向けて歩く奇体な人間に異ならなかった。
私の方でも、実際そういう人間のような気持ちを時々起こした。
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私の方でも、実際そういう人間のような気持を折々起した。
私は、あからさまに自分の考えを打ち明けるにはあまりに隔たりの大きい父と母の前に、黙って座っていた。
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私はあからさまに自分の考えを打ち明けるには、あまりに距離の懸隔の甚しい父と母の前に黙然としていた。
「お前がよく先生先生と言う方にでもお願いしたらいいじゃないか。こんな時こそ」
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「お前のよく先生先生という方にでもお願いしたら好いじゃないか。こんな時こそ」
母はこうよりほかに先生を解釈することができなかった。
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母はこうより外に先生を解釈する事ができなかった。
その先生は、私に国へ帰ったら父の生きているうちに早く財産を分けてもらえと勧める人だった。
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その先生は私に国へ帰ったら父の生きているうちに早く財産を分けて貰えと勧める人であった。
卒業したから地位の世話をしてやろうという人ではなかった。
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卒業したから、地位の周旋をしてやろうという人ではなかった。
「その先生は何をしているのかい」
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「その先生は何をしているのかい」
と父が聞いた。
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と父が聞いた。
「何もしていないんです」
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「何にもしていないんです」
と私が答えた。
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と私が答えた。
私はとっくの昔から、先生が何もしていないということを父にも母にも告げたつもりでいた。
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私はとくの昔から先生の何もしていないという事を父にも母にも告げたつもりでいた。
そうして父はたしかにそれを覚えているはずだった。
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そうして父はたしかにそれを記憶しているはずであった。
「何もしていないというのは、またどういう訳かね。お前がそれほど尊敬するくらいの人なら、何かやっていそうなものだがね」
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「何もしていないというのは、またどういう訳かね。お前がそれほど尊敬するくらいな人なら何かやっていそうなものだがね」
父はこう言って、私をあてこすった。
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父はこういって、私を諷した。
父の考えでは、役に立つ者は世の中へ出てみんな相応の地位を得て働いている。
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父の考えでは、役に立つものは世の中へ出てみんな相当の地位を得て働いている。
つまり役立たずだから遊んでいるのだと結論しているらしかった。
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必竟やくざだから遊んでいるのだと結論しているらしかった。
「おれのような人間だって、月給こそもらっていないが、これでも遊んでばかりいるんじゃない」
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「おれのような人間だって、月給こそ貰っちゃいないが、これでも遊んでばかりいるんじゃない」
父はこうも言った。
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父はこうもいった。
私はそれでもまだ黙っていた。
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私はそれでもまだ黙っていた。
「お前の言うような偉い方なら、きっと何か口を探してくださるよ。頼んでご覧なのかい」
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「お前のいうような偉い方なら、きっと何か口を探して下さるよ。頼んでご覧なのかい」
と母が聞いた。
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と母が聞いた。
「いいえ」
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「いいえ」
と私は答えた。
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と私は答えた。
「じゃ仕方がないじゃないか。なぜ頼まないんだい。手紙でもいいからお出しな」
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「じゃ仕方がないじゃないか。なぜ頼まないんだい。手紙でも好いからお出しな」
「ええ」
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「ええ」
私は生返事をして席を立った。
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私は生返事をして席を立った。
七
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七
父は明らかに自分の病気を恐れていた。
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父は明らかに自分の病気を恐れていた。
しかし医者が来るたびにうるさく質問をかけて相手を困らせる性質でもなかった。
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しかし医者の来るたびに蒼蠅い質問を掛けて相手を困らす質でもなかった。
医者の方でもまた遠慮して何とも言わなかった。
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医者の方でもまた遠慮して何ともいわなかった。
父は死後のことを考えているらしかった。
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父は死後の事を考えているらしかった。
少なくとも自分がいなくなったあとの我が家を想像してみるらしかった。
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少なくとも自分がいなくなった後のわが家を想像して見るらしかった。
「子供に学問をさせるのも善し悪しだね。せっかく修業をさせると、その子供は決して家へ帰って来ない。これでは手もなく親子を引き離すために学問させるようなものだ」
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「小供に学問をさせるのも、好し悪しだね。せっかく修業をさせると、その小供は決して宅へ帰って来ない。これじゃ手もなく親子を隔離するために学問させるようなものだ」
学問をした結果、兄は今遠い国にいた。
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学問をした結果兄は今遠国にいた。
教育を受けた因果で、私はまた東京に住む覚悟を固くした。
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教育を受けた因果で、私はまた東京に住む覚悟を固くした。
こういう子を育てた父の愚痴は、もとより不合理ではなかった。
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こういう子を育てた父の愚痴はもとより不合理ではなかった。
長年住み古した田舎家の中に、たった一人取り残されそうな母を描き出す父の想像は、もとより寂しいに違いなかった。
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永年住み古した田舎家の中に、たった一人取り残されそうな母を描き出す父の想像はもとより淋しいに違いなかった。
我が家は動かすことのできないものと、父は信じ切っていた。
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わが家は動かす事のできないものと父は信じ切っていた。
その中に住む母もまた、命のある間は動かすことのできないものと信じていた。
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その中に住む母もまた命のある間は、動かす事のできないものと信じていた。
自分が死んだあと、この孤独な母をたった一人がらんどうの我が家に取り残すのも、また甚だしい不安だった。
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自分が死んだ後、この孤独な母を、たった一人伽藍堂のわが家に取り残すのもまた甚だしい不安であった。
それなのに、東京でいい地位を求めろと言って私に強いたがる父の頭には、矛盾があった。
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それだのに、東京で好い地位を求めろといって、私を強いたがる父の頭には矛盾があった。
私はその矛盾をおかしく思ったと同時に、そのおかげでまた東京へ出られるのを喜んだ。
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私はその矛盾をおかしく思ったと同時に、そのお蔭でまた東京へ出られるのを喜んだ。
私は父や母の手前、この地位をできるだけの努力で求めつつあるように装わなくてはならなかった。
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私は父や母の手前、この地位をできるだけの努力で求めつつあるごとくに装おわなくてはならなかった。
私は先生に手紙を書いて、家の事情を詳しく述べた。
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私は先生に手紙を書いて、家の事情を精しく述べた。
もし自分の力でできることがあったら何でもするから、世話をしてくれと頼んだ。
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もし自分の力でできる事があったら何でもするから周旋してくれと頼んだ。
私は先生が私の依頼に取り合わないだろうと思いながら、この手紙を書いた。
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私は先生が私の依頼に取り合うまいと思いながらこの手紙を書いた。
また取り合うつもりでも、世間の狭い先生としてはどうすることもできまいと思いながら、この手紙を書いた。
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また取り合うつもりでも、世間の狭い先生としてはどうする事もできまいと思いながらこの手紙を書いた。
しかし私は、先生からこの手紙に対する返事がきっと来るだろうと思って書いた。
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しかし私は先生からこの手紙に対する返事がきっと来るだろうと思って書いた。
私はそれを封じて出す前に、母に向かって言った。
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私はそれを封じて出す前に母に向かっていった。
「先生に手紙を書きましたよ。あなたのおっしゃったとおり。ちょっと読んでご覧なさい」
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「先生に手紙を書きましたよ。あなたのおっしゃった通り。ちょっと読んでご覧なさい」
母は私の想像したとおり、それを読まなかった。
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母は私の想像したごとくそれを読まなかった。
「そうかい、それじゃ早くお出し。そんなことは人が気をつけないでも、自分で早くやるものだよ」
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「そうかい、それじゃ早くお出し。そんな事は他が気を付けないでも、自分で早くやるものだよ」
母は私をまだ子供のように思っていた。
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母は私をまだ子供のように思っていた。
私も実際、子供のような感じがした。
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私も実際子供のような感じがした。
「しかし手紙では用は足りませんよ。どうせ九月にでもなって、私が東京へ出てからでなくては」
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「しかし手紙じゃ用は足りませんよ。どうせ、九月にでもなって、私が東京へ出てからでなくっちゃ」
「それはそうかもしれないけれども、またひょっとしてどんないい口がないとも限らないんだから、早く頼んでおくに越したことはないよ」
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「そりゃそうかも知れないけれども、またひょっとして、どんな好い口がないとも限らないんだから、早く頼んでおくに越した事はないよ」
「ええ。とにかく返事は来るに決まってますから、そうしたらまたお話ししましょう」
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「ええ。とにかく返事は来るに極ってますから、そうしたらまたお話ししましょう」
私はこんなことにかけて几帳面な先生を信じていた。
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私はこんな事に掛けて几帳面な先生を信じていた。
私は先生の返事の来るのを心待ちに待った。
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私は先生の返事の来るのを心待ちに待った。
けれども私の予想はついに外れた。
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けれども私の予期はついに外れた。
先生からは一週間経っても何の便りもなかった。
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先生からは一週間経っても何の音信もなかった。
「たぶんどこかへ避暑にでも行っているんでしょう」
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「大方どこかへ避暑にでも行っているんでしょう」
私は母に向かって、言い訳らしい言葉を使わなければならなかった。
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私は母に向かって言訳らしい言葉を使わなければならなかった。
そうしてその言葉は、母に対する言い訳ばかりでなく、自分の心に対する言い訳でもあった。
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そうしてその言葉は母に対する言訳ばかりでなく、自分の心に対する言訳でもあった。
私は強いても何かの事情を仮定して、先生の態度を弁護しなければ不安になった。
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私は強いても何かの事情を仮定して先生の態度を弁護しなければ不安になった。
私は時々父の病気を忘れた。
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私は時々父の病気を忘れた。
いっそ早く東京へ出てしまおうかと思ったりした。
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いっそ早く東京へ出てしまおうかと思ったりした。
その父自身も、自分の病気を忘れることがあった。
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その父自身もおのれの病気を忘れる事があった。
未来を心配しながら、未来に対する処置は少しも取らなかった。
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未来を心配しながら、未来に対する所置は一向取らなかった。
私はついに先生の忠告どおり、財産分配のことを父に言い出す機会を得ずに過ぎた。
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私はついに先生の忠告通り財産分配の事を父にいい出す機会を得ずに過ぎた。
八
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八
九月の初めになって、私はいよいよまた東京へ出ようとした。
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九月始めになって、私はいよいよまた東京へ出ようとした。
私は父に向かって、当分今までどおり学費を送ってくれるようにと頼んだ。
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私は父に向かって当分今まで通り学資を送ってくれるようにと頼んだ。
「ここにこうしていたって、あなたのおっしゃるとおりの地位が得られるものじゃないですから」
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「ここにこうしていたって、あなたのおっしゃる通りの地位が得られるものじゃないですから」
私は、父の希望する地位を得るために東京へ行くようなことを言った。
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私は父の希望する地位を得るために東京へ行くような事をいった。
「もちろん口が見つかるまででいいですから」
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「無論口の見付かるまでで好いですから」
とも言った。
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ともいった。
私は心のうちで、その口はとうてい私の頭の上に落ちて来ないと思っていた。
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私は心のうちで、その口は到底私の頭の上に落ちて来ないと思っていた。
けれども事情にうとい父は、あくまでもその反対を信じていた。
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けれども事情にうとい父はまたあくまでもその反対を信じていた。
「それはわずかの間のことだろうから、どうにか都合してやろう。その代わり長くはいけないよ。相応の地位を得しだい独立しなくては。もともと学校を出た以上、出た翌る日から人の世話になんかなるものじゃないんだから。今の若い者は、金を使う道だけ心得ていて、金を取る方はまったく考えていないようだね」
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「そりゃ僅の間の事だろうから、どうにか都合してやろう。その代り永くはいけないよ。相当の地位を得次第独立しなくっちゃ。元来学校を出た以上、出たあくる日から他の世話になんぞなるものじゃないんだから。今の若いものは、金を使う道だけ心得ていて、金を取る方は全く考えていないようだね」
父はこのほかにもまだいろいろの小言を言った。
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父はこの外にもまだ色々の小言をいった。
その中には、「昔の親は子に食わせてもらったのに、今の親は子に食われるだけだ」
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その中には、「昔の親は子に食わせてもらったのに、今の親は子に食われるだけだ」
などという言葉があった。
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などという言葉があった。
それらを私はただ黙って聞いていた。
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それらを私はただ黙って聞いていた。
小言がひととおり済んだと思った時、私は静かに席を立とうとした。
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小言が一通り済んだと思った時、私は静かに席を立とうとした。
父はいつ行くかと私に尋ねた。
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父はいつ行くかと私に尋ねた。
私には早いだけがよかった。
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私には早いだけが好かった。
「お母さんに日を見てもらいなさい」
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「お母さんに日を見てもらいなさい」
「そうしましょう」
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「そうしましょう」
その時の私は、父の前で思いのほかおとなしかった。
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その時の私は父の前に存外おとなしかった。
私はなるべく父の機嫌に逆らわずに田舎を出ようとした。
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私はなるべく父の機嫌に逆らわずに、田舎を出ようとした。
父はまた私を引き留めた。
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父はまた私を引き留めた。
「お前が東京へ行くと、家はまた寂しくなる。何しろおれとお母さんだけなんだからね。そのおれも体さえ達者ならいいが、この様子ではいつ急にどんなことがないとも言えないよ」
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「お前が東京へ行くと宅はまた淋しくなる。何しろ己とお母さんだけなんだからね。そのおれも身体さえ達者なら好いが、この様子じゃいつ急にどんな事がないともいえないよ」
私はできるだけ父を慰めて、自分の机を置いてある所へ帰った。
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私はできるだけ父を慰めて、自分の机を置いてある所へ帰った。
私は取り散らした書物の間に座って、心細そうな父の態度と言葉とを、何度も繰り返し眺めた。
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私は取り散らした書物の間に坐って、心細そうな父の態度と言葉とを、幾度か繰り返し眺めた。
私はその時また蝉の声を聞いた。
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私はその時また蝉の声を聞いた。
その声はこの間じゅう聞いたのと違って、つくつく法師の声だった。
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その声はこの間中聞いたのと違って、つくつく法師の声であった。
私は夏に郷里へ帰って、煮え立つような蝉の声の中にじっと座っていると、変に悲しい気持ちになることがしばしばあった。
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私は夏郷里に帰って、煮え付くような蝉の声の中に凝と坐っていると、変に悲しい心持になる事がしばしばあった。
私の悲しみはいつも、この虫の激しい音とともに心の底にしみこむように感じられた。
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私の哀愁はいつもこの虫の烈しい音と共に、心の底に沁み込むように感ぜられた。
私はそんな時にはいつも動かずに、一人で自分を見つめていた。
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私はそんな時にはいつも動かずに、一人で一人を見詰めていた。
私の悲しみは、この夏帰省して以後、しだいに調子を変えて来た。
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私の哀愁はこの夏帰省した以後次第に情調を変えて来た。
油蝉の声がつくつく法師の声に変わるように、私を取り巻く人の運命が、大きな輪の中でそろそろ動いているように思われた。
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油蝉の声がつくつく法師の声に変るごとくに、私を取り巻く人の運命が、大きな輪廻のうちに、そろそろ動いているように思われた。
私は寂しそうな父の態度と言葉を繰り返しながら、手紙を出しても返事を寄こさない先生のことをまた思い浮かべた。
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私は淋しそうな父の態度と言葉を繰り返しながら、手紙を出しても返事を寄こさない先生の事をまた憶い浮べた。
先生と父とは、まるで反対の印象を私に与える点において、比較の上でも連想の上でも、いっしょに私の頭に上りやすかった。
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先生と父とは、まるで反対の印象を私に与える点において、比較の上にも、連想の上にも、いっしょに私の頭に上りやすかった。
私はほとんど父のすべてを知り尽くしていた。
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私はほとんど父のすべても知り尽していた。
もし父を離れるとすれば、情の上に親子の心残りがあるだけだった。
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もし父を離れるとすれば、情合の上に親子の心残りがあるだけであった。
先生の多くは、まだ私に分かっていなかった。
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先生の多くはまだ私に解っていなかった。
話すと約束されたその人の過去も、まだ聞く機会を得ずにいた。
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話すと約束されたその人の過去もまだ聞く機会を得ずにいた。
要するに先生は、私にとって薄暗かった。
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要するに先生は私にとって薄暗かった。
私はどうしてもそこを通り越して、明るい所まで行かなければ気が済まなかった。
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私はぜひともそこを通り越して、明るい所まで行かなければ気が済まなかった。
先生と縁が切れるのは、私にとって大きな苦痛だった。
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先生と関係の絶えるのは私にとって大いな苦痛であった。
私は母に日を見てもらって、東京へ発つ日取りを決めた。
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私は母に日を見てもらって、東京へ立つ日取りを極めた。
九
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九
私がいよいよ発とうという間際になって(たしか二日前の夕方のことだったと思うが)、父はまた突然引っくり返った。
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私がいよいよ立とうという間際になって、(たしか二日前の夕方の事であったと思うが、)父はまた突然引っ繰り返った。
私はその時、書物や衣類を詰めた行李を縛っていた。
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私はその時書物や衣類を詰めた行李をからげていた。
父は風呂へ入ったところだった。
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父は風呂へ入ったところであった。
父の背中を流しに行った母が、大きな声を出して私を呼んだ。
原文を見る
父の背中を流しに行った母が大きな声を出して私を呼んだ。
私は裸のまま母に後ろから抱かれている父を見た。
原文を見る
私は裸体のまま母に後ろから抱かれている父を見た。
それでも座敷へ連れて戻った時、父はもう大丈夫だと言った。
原文を見る
それでも座敷へ伴れて戻った時、父はもう大丈夫だといった。
念のために枕もとに座って、ぬれ手拭いで父の頭を冷やしていた私は、九時頃になってようやく形ばかりの夜食を済ませた。
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念のために枕元に坐って、濡手拭で父の頭を冷していた私は、九時頃になってようやく形ばかりの夜食を済ました。
翌日になると、父は思ったより元気がよかった。
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翌日になると父は思ったより元気が好かった。
止めるのも聞かずに、歩いて便所へ行ったりした。
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留めるのも聞かずに歩いて便所へ行ったりした。
「もう大丈夫」
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「もう大丈夫」
父は去年の暮れに倒れた時に私に向かって言ったのと同じ言葉を、また繰り返した。
原文を見る
父は去年の暮倒れた時に私に向かっていったと同じ言葉をまた繰り返した。
その時ははたして口で言ったとおり、まあ大丈夫だった。
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その時ははたして口でいった通りまあ大丈夫であった。
私は今度も、あるいはそうなるかもしれないと思った。
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私は今度もあるいはそうなるかも知れないと思った。
しかし医者はただ用心が肝要だと注意するだけで、念を押してもはっきりしたことを話してくれなかった。
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しかし医者はただ用心が肝要だと注意するだけで、念を押しても判然した事を話してくれなかった。
私は不安のために、出発の日が来てもついに東京へ発つ気が起こらなかった。
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私は不安のために、出立の日が来てもついに東京へ立つ気が起らなかった。
「もう少し様子を見てからにしましょうか」
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「もう少し様子を見てからにしましょうか」
と私は母に相談した。
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と私は母に相談した。
「そうしておくれ」
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「そうしておくれ」
と母が頼んだ。
原文を見る
と母が頼んだ。
母は父が庭へ出たり裏へ下りたりする元気を見ている間だけは平気でいるくせに、こんなことが起こるとまた必要以上に心配したり気を揉んだりした。
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母は父が庭へ出たり背戸へ下りたりする元気を見ている間だけは平気でいるくせに、こんな事が起るとまた必要以上に心配したり気を揉んだりした。
「お前は今日東京へ行くはずじゃなかったか」
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「お前は今日東京へ行くはずじゃなかったか」
と父が聞いた。
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と父が聞いた。
「ええ、少し延ばしました」
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「ええ、少し延ばしました」
と私が答えた。
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と私が答えた。
「おれのためにかい」
原文を見る
「おれのためにかい」
と父が聞き返した。
原文を見る
と父が聞き返した。
私はちょっとためらった。
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私はちょっと躊躇した。
そうだと言えば、父の病気が重いのを裏書きするようなものだった。
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そうだといえば、父の病気の重いのを裏書きするようなものであった。
私は父の神経を過敏にしたくなかった。
原文を見る
私は父の神経を過敏にしたくなかった。
しかし父は私の心をよく見抜いているらしかった。
原文を見る
しかし父は私の心をよく見抜いているらしかった。
「気の毒だね」
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「気の毒だね」
と言って、庭の方を向いた。
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といって、庭の方を向いた。
私は自分の部屋に入って、そこに放り出された行李を眺めた。
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私は自分の部屋にはいって、そこに放り出された行李を眺めた。
行李はいつ持ち出しても差し支えないように、かたく縛られたままだった。
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行李はいつ持ち出しても差支えないように、堅く括られたままであった。
私はぼんやりその前に立って、また縄を解こうかと考えた。
原文を見る
私はぼんやりその前に立って、また縄を解こうかと考えた。
私は座ったまま腰を浮かせた時のような落ち着かない気分で、また三、四日を過ごした。
原文を見る
私は坐ったまま腰を浮かした時の落ち付かない気分で、また三、四日を過ごした。
すると父がまた卒倒した。
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すると父がまた卒倒した。
医者は絶対に安静に寝ているよう命じた。
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医者は絶対に安臥を命じた。
「どうしたものだろうね」
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「どうしたものだろうね」
と母が、父に聞こえないような小さな声で私に言った。
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と母が父に聞こえないような小さな声で私にいった。
母の顔はいかにも心細そうだった。
原文を見る
母の顔はいかにも心細そうであった。
私は兄と妹に電報を打つ用意をした。
原文を見る
私は兄と妹に電報を打つ用意をした。
けれども寝ている父には、ほとんど何の苦しみもなかった。
原文を見る
けれども寝ている父にはほとんど何の苦悶もなかった。
話をするところなどを見ると、風邪でも引いた時とまったく同じだった。
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話をするところなどを見ると、風邪でも引いた時と全く同じ事であった。
その上、食欲は普段よりも進んだ。
原文を見る
その上食欲は不断よりも進んだ。
そばの者が注意しても、容易に言うことを聞かなかった。
原文を見る
傍のものが、注意しても容易にいう事を聞かなかった。
「どうせ死ぬんだから、うまいものでも食って死ななくちゃ」
原文を見る
「どうせ死ぬんだから、旨いものでも食って死ななくっちゃ」
私には、うまいものという父の言葉が滑稽にも悲惨にも聞こえた。
原文を見る
私には旨いものという父の言葉が滑稽にも悲酸にも聞こえた。
父はうまいものを口に入れられる都には住んでいなかったのである。
原文を見る
父は旨いものを口に入れられる都には住んでいなかったのである。
夜になって、かき餅などを焼いてもらってぼりぼり噛んだ。
原文を見る
夜に入ってかき餅などを焼いてもらってぼりぼり噛んだ。
「どうしてこう渇くのかね。やっぱり心のどこかに丈夫な所があるのかもしれないよ」
原文を見る
「どうしてこう渇くのかね。やっぱり心に丈夫の所があるのかも知れないよ」
母は失望していいところに、かえって望みを置いた。
原文を見る
母は失望していいところにかえって頼みを置いた。
そのくせ、病気の時にしか使わない渇くという昔風の言葉を、何でも食べたがるという意味に用いていた。
原文を見る
そのくせ病気の時にしか使わない渇くという昔風の言葉を、何でも食べたがる意味に用いていた。
伯父が見舞いに来た時、父はいつまでも引き留めて帰さなかった。
原文を見る
伯父が見舞に来たとき、父はいつまでも引き留めて帰さなかった。
寂しいからもっといてくれというのが主な理由だったが、母や私が、食べたいだけ物を食べさせないという不平を訴えるのも、その目的の一つだったらしい。
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淋しいからもっといてくれというのが重な理由であったが、母や私が、食べたいだけ物を食べさせないという不平を訴えるのも、その目的の一つであったらしい。
十
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十
父の病気は同じような状態で一週間以上続いた。
原文を見る
父の病気は同じような状態で一週間以上つづいた。
私はその間に、長い手紙を九州にいる兄宛てで出した。
原文を見る
私はその間に長い手紙を九州にいる兄宛で出した。
妹へは母から出させた。
原文を見る
妹へは母から出させた。
私は心の中で、おそらくこれが父の健康に関して二人へやる最後の便りだろうと思った。
原文を見る
私は腹の中で、おそらくこれが父の健康に関して二人へやる最後の音信だろうと思った。
それで両方へ、いよいよという場合には電報を打つから出て来いという意味を書きこめた。
原文を見る
それで両方へいよいよという場合には電報を打つから出て来いという意味を書き込めた。
兄は忙しい職についていた。
原文を見る
兄は忙しい職にいた。
妹は妊娠中だった。
原文を見る
妹は妊娠中であった。
だから父の危険が目の前に迫らないうちに呼び寄せる自由は利かなかった。
原文を見る
だから父の危険が眼の前に逼らないうちに呼び寄せる自由は利かなかった。
かといって、せっかく都合して来たには来たが間に合わなかったと言われるのもつらかった。
原文を見る
といって、折角都合して来たには来たが、間に合わなかったといわれるのも辛かった。
私は電報を打つ時機について、人の知らない責任を感じた。
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私は電報を掛ける時機について、人の知らない責任を感じた。
「そうはっきりしたことになると、私にも分かりません。しかし危険はいつ来るか分からないということだけは承知していてください」
原文を見る
「そう判然りした事になると私にも分りません。しかし危険はいつ来るか分らないという事だけは承知していて下さい」
停車場のある町から迎えた医者は、私にこう言った。
原文を見る
停車場のある町から迎えた医者は私にこういった。
私は母と相談して、その医者の世話で町の病院から看護婦を一人頼むことにした。
原文を見る
私は母と相談して、その医者の周旋で、町の病院から看護婦を一人頼む事にした。
父は枕もとへ来て挨拶する白い服を着た女を見て、変な顔をした。
原文を見る
父は枕元へ来て挨拶する白い服を着た女を見て変な顔をした。
父は死ぬ病気にかかっていることを、とっくから自覚していた。
原文を見る
父は死病に罹っている事をとうから自覚していた。
それでいて、目の前に迫りつつある死そのものには気がつかなかった。
原文を見る
それでいて、眼前にせまりつつある死そのものには気が付かなかった。
「今に治ったら、もう一度東京へ遊びに行ってみよう。人間はいつ死ぬか分からないからな。何でもやりたいことは、生きているうちにやっておくに限る」
原文を見る
「今に癒ったらもう一返東京へ遊びに行ってみよう。人間はいつ死ぬか分らないからな。何でもやりたい事は、生きてるうちにやっておくに限る」
母は仕方なしに「その時は私もいっしょに連れて行っていただきましょう」
原文を見る
母は仕方なしに「その時は私もいっしょに伴れて行って頂きましょう」
などと調子を合わせていた。
原文を見る
などと調子を合せていた。
時にはまた非常に寂しがった。
原文を見る
時とするとまた非常に淋しがった。
「おれが死んだら、どうかお母さんを大事にしてやってくれ」
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「おれが死んだら、どうかお母さんを大事にしてやってくれ」
私はこの「おれが死んだら」
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私はこの「おれが死んだら」
という言葉に、一種の記憶を持っていた。
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という言葉に一種の記憶をもっていた。
東京を発つ時、先生が奥さんに向かって何度もそれを繰り返したのは、私が卒業した日の晩のことだった。
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東京を立つ時、先生が奥さんに向かって何遍もそれを繰り返したのは、私が卒業した日の晩の事であった。
私は笑いを帯びた先生の顔と、縁起でもないと耳をふさいだ奥さんの様子とを思い出した。
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私は笑いを帯びた先生の顔と、縁喜でもないと耳を塞いだ奥さんの様子とを憶い出した。
あの時の「おれが死んだら」
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あの時の「おれが死んだら」
は単純な仮定だった。
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は単純な仮定であった。
今私が聞くのは、いつ起こるか分からない事実だった。
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今私が聞くのはいつ起るか分らない事実であった。
私は先生に対する奥さんの態度をまねることができなかった。
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私は先生に対する奥さんの態度を学ぶ事ができなかった。
しかし口の先では、何とか父を紛らわさなければならなかった。
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しかし口の先では何とか父を紛らさなければならなかった。
「そんな弱いことをおっしゃってはいけませんよ。今に治ったら東京へ遊びにいらっしゃるはずじゃありませんか。お母さんといっしょに。今度いらっしゃるときっとびっくりしますよ、変わっているんで。電車の新しい線路だけでも大変増えていますからね。電車が通るようになれば自然と町並みも変わるし、その上に区画整理もあるし、東京がじっとしている時は、まあ一日じゅう一分もないと言っていいくらいです」
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「そんな弱い事をおっしゃっちゃいけませんよ。今に癒ったら東京へ遊びにいらっしゃるはずじゃありませんか。お母さんといっしょに。今度いらっしゃるときっと吃驚しますよ、変っているんで。電車の新しい線路だけでも大変増えていますからね。電車が通るようになれば自然町並も変るし、その上に市区改正もあるし、東京が凝としている時は、まあ二六時中一分もないといっていいくらいです」
私は仕方がないから、言わないでいいことまでしゃべった。
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私は仕方がないからいわないでいい事まで喋舌った。
父はまた、満足らしくそれを聞いていた。
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父はまた、満足らしくそれを聞いていた。
病人がいるので、自然と家の出入りも多くなった。
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病人があるので自然家の出入りも多くなった。
近所にいる親類などは、二日に一人ぐらいの割合でかわるがわる見舞いに来た。
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近所にいる親類などは、二日に一人ぐらいの割で代る代る見舞に来た。
中には比較的遠くにいて、普段は疎遠な者もあった。
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中には比較的遠くにいて平生疎遠なものもあった。
「どうかと思ったら、この様子なら大丈夫だ。話も自由だし、だいいち顔がちっともやせていないじゃないか」
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「どうかと思ったら、この様子じゃ大丈夫だ。話も自由だし、だいち顔がちっとも瘠せていないじゃないか」
などと言って帰る者があった。
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などといって帰るものがあった。
私が帰った当時はひっそりし過ぎるほど静かだった家庭が、こんなことでだんだんざわざわし始めた。
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私の帰った当時はひっそりし過ぎるほど静かであった家庭が、こんな事で段々ざわざわし始めた。
その中で動かずにいる父の病気は、ただ面白くない方へ移って行くばかりだった。
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その中に動かずにいる父の病気は、ただ面白くない方へ移って行くばかりであった。
私は母や伯父と相談して、とうとう兄と妹に電報を打った。
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私は母や伯父と相談して、とうとう兄と妹に電報を打った。
兄からはすぐ行くという返事が来た。
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兄からはすぐ行くという返事が来た。
妹の夫からも発つという知らせがあった。
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妹の夫からも立つという報知があった。
妹はこの前妊娠した時に流産したので、今度こそは癖にならないように大事を取らせるつもりだと、かねて言ってよこしたその夫は、妹の代わりに自分で出て来るかもしれなかった。
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妹はこの前懐妊した時に流産したので、今度こそは癖にならないように大事を取らせるつもりだと、かねていい越したその夫は、妹の代りに自分で出て来るかも知れなかった。
十一
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十一
こうした落ち着きのない間にも、私はまだ静かに座る余裕を持っていた。
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こうした落ち付きのない間にも、私はまだ静かに坐る余裕をもっていた。
たまには書物を開いて十ページも続けざまに読む時間さえ出て来た。
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偶には書物を開けて十頁もつづけざまに読む時間さえ出て来た。
いったんかたく縛られた私の行李は、いつの間にか解かれてしまった。
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一旦堅く括られた私の行李は、いつの間にか解かれてしまった。
私は必要に応じて、その中からいろいろなものを取り出した。
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私は要るに任せて、その中から色々なものを取り出した。
私は東京を発つ時に心のうちで決めた、この夏じゅうの日課を振り返った。
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私は東京を立つ時、心のうちで極めた、この夏中の日課を顧みた。
私のやったことは、この日課の三分の一にも足りなかった。
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私のやった事はこの日課の三が一にも足らなかった。
私は今までもこういう不愉快を何度となく重ねて来た。
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私は今までもこういう不愉快を何度となく重ねて来た。
しかしこの夏ほど思ったとおりに仕事の運ばない例も少なかった。
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しかしこの夏ほど思った通り仕事の運ばない例も少なかった。
これが人の世の常だろうと思いながらも、私はいやな気持ちに抑えつけられた。
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これが人の世の常だろうと思いながらも私は厭な気持に抑え付けられた。
私はこの不快の中に座りながら、一方で父の病気を考えた。
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私はこの不快の裏に坐りながら、一方に父の病気を考えた。
父の死んだあとのことを想像した。
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父の死んだ後の事を想像した。
そうしてそれと同時に、先生のことを一方で思い浮かべた。
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そうしてそれと同時に、先生の事を一方に思い浮べた。
私はこの不快な気持ちの両端に、地位も教育も性格もまったく異なった二人の面影を眺めた。
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私はこの不快な心持の両端に地位、教育、性格の全然異なった二人の面影を眺めた。
私が父の枕もとを離れて、一人取り散らした書物の中で腕を組んでいるところへ、母が顔を出した。
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私が父の枕元を離れて、独り取り乱した書物の中に腕組みをしているところへ母が顔を出した。
「少し昼寝でもおしよ。お前もさぞ疲れるだろう」
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「少し午眠でもおしよ。お前もさぞ草臥れるだろう」
母は私の気分を理解していなかった。
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母は私の気分を了解していなかった。
私も母からそれを期待するほどの子供でもなかった。
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私も母からそれを予期するほどの子供でもなかった。
私は簡単に礼を述べた。
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私は単簡に礼を述べた。
母はまだ部屋の入口に立っていた。
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母はまだ室の入口に立っていた。
「お父さんは」
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「お父さんは?」
と私が聞いた。
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と私が聞いた。
「今よく寝ていらっしゃるよ」
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「今よく寝てお出だよ」
と母が答えた。
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と母が答えた。
母は突然入って来て、私のそばに座った。
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母は突然はいって来て私の傍に坐った。
「先生からまだ何とも言って来ないかい」
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「先生からまだ何ともいって来ないかい」
と聞いた。
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と聞いた。
母はその時の私の言葉を信じていた。
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母はその時の私の言葉を信じていた。
その時の私は、先生からきっと返事があると母に保証した。
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その時の私は先生からきっと返事があると母に保証した。
しかし父や母の希望するような返事が来るとは、その時の私もまるで期待しなかった。
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しかし父や母の希望するような返事が来るとは、その時の私もまるで期待しなかった。
私は、承知の上で母をだましたのと同じ結果に陥った。
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私は心得があって母を欺いたと同じ結果に陥った。
「もう一度手紙を出してご覧な」
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「もう一遍手紙を出してご覧な」
と母が言った。
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と母がいった。
役に立たない手紙を何通書こうと、それが母の慰めになるなら、手間をいとうような私ではなかった。
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役に立たない手紙を何通書こうと、それが母の慰安になるなら、手数を厭うような私ではなかった。
けれどもこういう用件で先生に迫るのは、私の苦痛だった。
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けれどもこういう用件で先生にせまるのは私の苦痛であった。
私は父に叱られたり母の機嫌を損ねたりするよりも、先生から見下げられるのをはるかに恐れていた。
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私は父に叱られたり、母の機嫌を損じたりするよりも、先生から見下げられるのを遥かに恐れていた。
あの依頼に対して今まで返事のもらえないのも、あるいはそうした訳からではないかしらという邪推もあった。
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あの依頼に対して今まで返事の貰えないのも、あるいはそうした訳からじゃないかしらという邪推もあった。
「手紙を書くのは訳ないですが、こういうことは郵便ではとても埒が明きませんよ。どうしても自分で東京へ出て、じかに頼んで回らなくては」
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「手紙を書くのは訳はないですが、こういう事は郵便じゃとても埒は明きませんよ。どうしても自分で東京へ出て、じかに頼んで廻らなくっちゃ」
「だってお父さんがあの様子では、お前、いつ東京へ出られるか分からないじゃないか」
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「だってお父さんがあの様子じゃ、お前、いつ東京へ出られるか分らないじゃないか」
「だから出やしません。治るとも治らないとも片づかないうちは、ちゃんとこうしているつもりです」
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「だから出やしません。癒るとも癒らないとも片付かないうちは、ちゃんとこうしているつもりです」
「それは分かり切った話だね。今にも難しいという大病人を放りっぱなしにしておいて、誰が勝手に東京へなんか行けるものかね」
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「そりゃ解り切った話だね。今にもむずかしいという大病人を放ちらかしておいて、誰が勝手に東京へなんか行けるものかね」
私は初め心の中で、何も知らない母を哀れんだ。
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私は始め心のなかで、何も知らない母を憐れんだ。
しかし母がなぜこんな問題を、このざわざわした時に持ち出したのか理解できなかった。
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しかし母がなぜこんな問題をこのざわざわした際に持ち出したのか理解できなかった。
私が父の病気をよそに静かに座ったり本を読んだりする余裕があるように、母も目の前の病人を忘れてほかのことを考えるだけ、胸に空き地があるのかしらと疑った。
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私が父の病気をよそに、静かに坐ったり書見したりする余裕のあるごとくに、母も眼の前の病人を忘れて、外の事を考えるだけ、胸に空地があるのかしらと疑った。
その時「実はね」
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その時「実はね」
と母が言い出した。
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と母がいい出した。
「実はお父さんの生きていらっしゃるうちに、お前の口が決まったらさぞ安心なさるだろうと思うんだがね。この様子ではとても間に合わないかもしれないけれども、それにしても、まだああやって口もたしかなら気もたしかなんだから、ああしていらっしゃるうちに喜ばせてあげるように親孝行をおしな」
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「実はお父さんの生きてお出のうちに、お前の口が極ったらさぞ安心なさるだろうと思うんだがね。この様子じゃ、とても間に合わないかも知れないけれども、それにしても、まだああやって口も慥かなら気も慥かなんだから、ああしてお出のうちに喜ばして上げるように親孝行をおしな」
哀れな私は、親孝行のできない境遇にいた。
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憐れな私は親孝行のできない境遇にいた。
私はついに一行の手紙も先生に出さなかった。
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私はついに一行の手紙も先生に出さなかった。
十二
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十二
兄が帰って来た時、父は寝ながら新聞を読んでいた。
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兄が帰って来た時、父は寝ながら新聞を読んでいた。
父は普段から何をさしおいても新聞だけには目を通す習慣だったが、床についてからは退屈のためになおさらそれを読みたがった。
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父は平生から何を措いても新聞だけには眼を通す習慣であったが、床についてからは、退屈のため猶更それを読みたがった。
母も私も強いては反対せずに、なるべく病人の思いどおりにさせておいた。
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母も私も強いては反対せずに、なるべく病人の思い通りにさせておいた。
「そういう元気なら結構なものだ。よほど悪いかと思って来たら、大変いいようじゃありませんか」
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「そういう元気なら結構なものだ。よっぽど悪いかと思って来たら、大変好いようじゃありませんか」
兄はこんなことを言いながら父と話をした。
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兄はこんな事をいいながら父と話をした。
その賑やか過ぎる調子が、私にはかえって不調和に聞こえた。
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その賑やか過ぎる調子が私にはかえって不調和に聞こえた。
それでも父の前をはずして私と差し向かいになった時は、むしろ沈んでいた。
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それでも父の前を外して私と差し向いになった時は、むしろ沈んでいた。
「新聞なんか読ませてはいけないんじゃないか」
原文を見る
「新聞なんか読ましちゃいけなかないか」
「私もそう思うんだけれども、読まないと承知しないんだから仕方がない」
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「私もそう思うんだけれども、読まないと承知しないんだから、仕様がない」
兄は私の弁解を黙って聞いていた。
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兄は私の弁解を黙って聞いていた。
やがて「よく分かるのかな」
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やがて、「よく解るのかな」
と言った。
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といった。
兄は、父の理解力が病気のために普段よりよほど鈍っているように見たらしい。
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兄は父の理解力が病気のために、平生よりはよっぽど鈍っているように観察したらしい。
「それはたしかです。私はさっき二十分ばかり枕もとに座っていろいろ話してみたが、調子の狂ったところは少しもないです。あの様子ではことによると、まだなかなか持つかもしれませんよ」
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「そりゃ慥かです。私はさっき二十分ばかり枕元に坐って色々話してみたが、調子の狂ったところは少しもないです。あの様子じゃことによるとまだなかなか持つかも知れませんよ」
兄と前後して着いた妹の夫の意見は、我々よりもよほど楽観的だった。
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兄と前後して着いた妹の夫の意見は、我々よりもよほど楽観的であった。
父は彼に向かって、妹のことをあれこれと尋ねていた。
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父は彼に向かって妹の事をあれこれと尋ねていた。
「体が体だから、むやみに汽車になんぞ乗って揺られない方がいい。無理をして見舞いに来られたりすると、かえってこちらが心配だから」
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「身体が身体だからむやみに汽車になんぞ乗って揺れない方が好い。無理をして見舞に来られたりすると、かえってこっちが心配だから」
と言っていた。
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といっていた。
「なに、今に治ったら赤ん坊の顔でも見に、久しぶりにこちらから出掛けるから差し支えない」
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「なに今に治ったら赤ん坊の顔でも見に、久しぶりにこっちから出掛けるから差支えない」
とも言っていた。
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ともいっていた。
乃木大将の死んだ時も、父は一番先に新聞でそれを知った。
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乃木大将の死んだ時も、父は一番さきに新聞でそれを知った。
「大変だ、大変だ」
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「大変だ大変だ」
と言った。
原文を見る
といった。
何も知らない私たちは、この突然の言葉に驚かされた。
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何事も知らない私たちはこの突然な言葉に驚かされた。
「あの時はいよいよ頭が変になったのかと思って、ひやりとした」
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「あの時はいよいよ頭が変になったのかと思って、ひやりとした」
とあとで兄が私に言った。
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と後で兄が私にいった。
「私も実は驚きました」
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「私も実は驚きました」
と妹の夫も同感らしい言葉つきだった。
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と妹の夫も同感らしい言葉つきであった。
その頃の新聞は、実際田舎の者には日ごとに待ち受けられるような記事ばかりだった。
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その頃の新聞は実際田舎ものには日ごとに待ち受けられるような記事ばかりあった。
私は父の枕もとに座って、ていねいにそれを読んだ。
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私は父の枕元に坐って鄭寧にそれを読んだ。
読む時間のない時は、そっと自分の部屋へ持って来て残らず目を通した。
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読む時間のない時は、そっと自分の室へ持って来て、残らず眼を通した。
私の目は長い間、軍服を着た乃木大将と、それから宮中の女官のような服装をしたその夫人の姿を忘れることができなかった。
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私の眼は長い間、軍服を着た乃木大将と、それから官女みたような服装をしたその夫人の姿を忘れる事ができなかった。
悲痛な風が田舎の隅まで吹いて来て、眠たそうな木や草を震わせている最中に、突然私は一通の電報を先生から受け取った。
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悲痛な風が田舎の隅まで吹いて来て、眠たそうな樹や草を震わせている最中に、突然私は一通の電報を先生から受け取った。
洋服を着た人を見ると犬が吠えるような所では、一通の電報すら大事件だった。
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洋服を着た人を見ると犬が吠えるような所では、一通の電報すら大事件であった。
それを受け取った母は、はたして驚いたような様子をして、わざわざ私を人のいない所へ呼び出した。
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それを受け取った母は、はたして驚いたような様子をして、わざわざ私を人のいない所へ呼び出した。
「何だい」
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「何だい」
と言って、私が封を開くのをそばに立って待っていた。
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といって、私の封を開くのを傍に立って待っていた。
電報にはちょっと会いたいが来られるかという意味が、簡単に書いてあった。
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電報にはちょっと会いたいが来られるかという意味が簡単に書いてあった。
私は首をかしげた。
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私は首を傾けた。
「きっとお頼みしておいた口のことだよ」
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「きっとお頼もうしておいた口の事だよ」
と母が推し量ってくれた。
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と母が推断してくれた。
私も、あるいはそうかもしれないと思った。
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私もあるいはそうかも知れないと思った。
しかしそれにしては少し変だとも考えた。
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しかしそれにしては少し変だとも考えた。
とにかく兄や妹の夫まで呼び寄せた私が、父の病気を放り出して東京へ行く訳には行かなかった。
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とにかく兄や妹の夫まで呼び寄せた私が、父の病気を打遣って、東京へ行く訳には行かなかった。
私は母と相談して、行かれないという返電を打つことにした。
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私は母と相談して、行かれないという返電を打つ事にした。
できるだけ簡単な言葉で、父の病気が危篤に陥りつつある旨も付け加えたが、それでも気が済まなかったから、詳しくは手紙でとして、細かい事情をその日のうちにしたためて郵便で出した。
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できるだけ簡略な言葉で父の病気の危篤に陥りつつある旨も付け加えたが、それでも気が済まなかったから、委細手紙として、細かい事情をその日のうちに認めて郵便で出した。
頼んだ地位のことだとばかり信じ切った母は、「本当に間の悪い時は仕方のないものだね」
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頼んだ位地の事とばかり信じ切った母は、「本当に間の悪い時は仕方のないものだね」
と言って残念そうな顔をした。
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といって残念そうな顔をした。
十三
原文を見る
十三
私の書いた手紙はかなり長いものだった。
原文を見る
私の書いた手紙はかなり長いものであった。
母も私も、今度こそ先生から何とか言って来るだろうと考えていた。
原文を見る
母も私も今度こそ先生から何とかいって来るだろうと考えていた。
すると手紙を出して二日目に、また電報が私宛てで届いた。
原文を見る
すると手紙を出して二日目にまた電報が私宛で届いた。
それには、来ないでもよろしいという文句だけしかなかった。
原文を見る
それには来ないでもよろしいという文句だけしかなかった。
私はそれを母に見せた。
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私はそれを母に見せた。
「たぶん手紙で何とか言って来てくださるつもりだろうよ」
原文を見る
「大方手紙で何とかいってきて下さるつもりだろうよ」
母はどこまでも、先生が私のために衣食の口を世話してくれるものとばかり解釈しているらしかった。
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母はどこまでも先生が私のために衣食の口を周旋してくれるものとばかり解釈しているらしかった。
私も、あるいはそうかとも考えたが、先生の普段から推してみると、どうも変に思われた。
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私もあるいはそうかとも考えたが、先生の平生から推してみると、どうも変に思われた。
「先生が口を探してくれる」
原文を見る
「先生が口を探してくれる」
。
原文を見る
。
これはあり得ないことのように、私には見えた。
原文を見る
これはあり得べからざる事のように私には見えた。
「とにかく私の手紙はまだ向こうへ着いていないはずだから、この電報はその前に出したものに違いないですね」
原文を見る
「とにかく私の手紙はまだ向うへ着いていないはずだから、この電報はその前に出したものに違いないですね」
私は母に向かって、こんな分かり切ったことを言った。
原文を見る
私は母に向かってこんな分り切った事をいった。
母はまたもっともらしく考えながら「そうだね」
原文を見る
母はまたもっともらしく思案しながら「そうだね」
と答えた。
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と答えた。
私の手紙を読まない前に先生がこの電報を打ったということが、先生を解釈する上で何の役にも立たないのは知れているのに。
原文を見る
私の手紙を読まない前に、先生がこの電報を打ったという事が、先生を解釈する上において、何の役にも立たないのは知れているのに。
その日はちょうど主治医が町から院長を連れて来るはずになっていたので、母と私はそれきりこの件について話をする機会がなかった。
原文を見る
その日はちょうど主治医が町から院長を連れて来るはずになっていたので、母と私はそれぎりこの事件について話をする機会がなかった。
二人の医者は立ち合いの上、病人に浣腸などをして帰って行った。
原文を見る
二人の医者は立ち合いの上、病人に浣腸などをして帰って行った。
父は医者から安静を命じられて以来、大小便とも寝たまま人の手で始末してもらっていた。
原文を見る
父は医者から安臥を命ぜられて以来、両便とも寝たまま他の手で始末してもらっていた。
潔癖な父は、最初の間こそひどくそれをいやがったが、体が利かないのでやむを得ず、いやいや床の上で用を足した。
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潔癖な父は、最初の間こそ甚だしくそれを忌み嫌ったが、身体が利かないので、やむを得ずいやいや床の上で用を足した。
それが病気のせいで頭がだんだん鈍くなるのか何なのか、日が経つにつれて、無精な排泄を気にしないようになった。
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それが病気の加減で頭がだんだん鈍くなるのか何だか、日を経るに従って、無精な排泄を意としないようになった。
たまには布団や敷布を汚して、そばの者が眉をひそめるのに、当人はかえって平気でいたりした。
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たまには蒲団や敷布を汚して、傍のものが眉を寄せるのに、当人はかえって平気でいたりした。
もっとも尿の量は、病気の性質として、きわめて少なくなった。
原文を見る
もっとも尿の量は病気の性質として、極めて少なくなった。
医者はそれを気にした。
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医者はそれを苦にした。
食欲もしだいに衰えた。
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食欲も次第に衰えた。
たまに何か欲しがっても、舌が欲しがるだけで、喉から下へはごくわずかしか通らなかった。
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たまに何か欲しがっても、舌が欲しがるだけで、咽喉から下へはごく僅しか通らなかった。
好きな新聞も手に取る気力がなくなった。
原文を見る
好きな新聞も手に取る気力がなくなった。
枕のそばにある老眼鏡は、いつまでも黒いケースに納められたままだった。
原文を見る
枕の傍にある老眼鏡は、いつまでも黒い鞘に納められたままであった。
子供の時分から仲のよかった作さんという、今では四キロほど離れた所に住んでいる人が見舞いに来た時、父は「ああ、作さんか」
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子供の時分から仲の好かった作さんという今では一里ばかり隔たった所に住んでいる人が見舞に来た時、父は「ああ作さんか」
と言って、どんよりした目を作さんの方に向けた。
原文を見る
といって、どんよりした眼を作さんの方に向けた。
「作さん、よく来てくれた。作さんは丈夫でうらやましいね。おれはもう駄目だ」
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「作さんよく来てくれた。作さんは丈夫で羨ましいね。己はもう駄目だ」
「そんなことはないよ。お前なんか子供は二人とも大学を卒業するし、少しぐらい病気になったって申し分はないんだ。おれをご覧よ。かかあには死なれるしさ、子供はなしさ。ただこうして生きているだけのことだよ。達者だって何の楽しみもないじゃないか」
原文を見る
「そんな事はないよ。お前なんか子供は二人とも大学を卒業するし、少しぐらい病気になったって、申し分はないんだ。おれをご覧よ。かかあには死なれるしさ、子供はなしさ。ただこうして生きているだけの事だよ。達者だって何の楽しみもないじゃないか」
浣腸をしたのは、作さんが来てから二、三日あとのことだった。
原文を見る
浣腸をしたのは作さんが来てから二、三日あとの事であった。
父は医者のおかげで大変楽になったと言って喜んだ。
原文を見る
父は医者のお蔭で大変楽になったといって喜んだ。
少し自分の寿命に対する度胸ができたという風に、機嫌が直った。
原文を見る
少し自分の寿命に対する度胸ができたという風に機嫌が直った。
そばにいる母は、それに釣りこまれたのか、病人に気力をつけるためか、先生から電報が来たことを、あたかも私の地位が父の希望どおり東京にあったかのように話した。
原文を見る
傍にいる母は、それに釣り込まれたのか、病人に気力を付けるためか、先生から電報のきた事を、あたかも私の位置が父の希望する通り東京にあったように話した。
そばにいる私はむずがゆい気持ちがしたが、母の言葉を遮る訳にも行かないので、黙って聞いていた。
原文を見る
傍にいる私はむずがゆい心持がしたが、母の言葉を遮る訳にもゆかないので、黙って聞いていた。
病人は嬉しそうな顔をした。
原文を見る
病人は嬉しそうな顔をした。
「それは結構です」
原文を見る
「そりゃ結構です」
と妹の夫も言った。
原文を見る
と妹の夫もいった。
「何の口だかまだ分からないのか」
原文を見る
「何の口だかまだ分らないのか」
と兄が聞いた。
原文を見る
と兄が聞いた。
私は今さらそれを否定する勇気を失った。
原文を見る
私は今更それを否定する勇気を失った。
自分にも何とも訳の分からないあいまいな返事をして、わざと席を立った。
原文を見る
自分にも何とも訳の分らない曖昧な返事をして、わざと席を立った。
十四
原文を見る
十四
父の病気は最後の一撃を待つ間際まで進んで来て、そこでしばらくためらっているように見えた。
原文を見る
父の病気は最後の一撃を待つ間際まで進んで来て、そこでしばらく躊躇するようにみえた。
家の者は、運命の宣告が今日下るか今日下るかと思って、毎晩床に入った。
原文を見る
家のものは運命の宣告が、今日下るか、今日下るかと思って、毎夜床にはいった。
父はそばの者をつらくするほどの苦痛を、どこにも感じていなかった。
原文を見る
父は傍のものを辛くするほどの苦痛をどこにも感じていなかった。
その点では、看病はむしろ楽だった。
原文を見る
その点になると看病はむしろ楽であった。
用心のために誰か一人ぐらいずつかわるがわる起きてはいたが、あとの者は相応の時間にそれぞれの寝床へ引き取って差し支えなかった。
原文を見る
要心のために、誰か一人ぐらいずつ代る代る起きてはいたが、あとのものは相当の時間に各自の寝床へ引き取って差支えなかった。
何かの拍子で眠れなかった時、病人のうなるような声をかすかに聞いたと思い違えた私は、一度夜中に床を抜け出して、念のため父の枕もとまで行ってみたことがあった。
原文を見る
何かの拍子で眠れなかった時、病人の唸るような声を微かに聞いたと思い誤った私は、一遍半夜に床を抜け出して、念のため父の枕元まで行ってみた事があった。
その夜は母が起きている番に当たっていた。
原文を見る
その夜は母が起きている番に当っていた。
しかしその母は、父の横に肘を曲げて枕としたまま寝入っていた。
原文を見る
しかしその母は父の横に肱を曲げて枕としたなり寝入っていた。
父も深い眠りの中にそっと置かれた人のように静かにしていた。
原文を見る
父も深い眠りの裏にそっと置かれた人のように静かにしていた。
私は忍び足でまた自分の寝床へ帰った。
原文を見る
私は忍び足でまた自分の寝床へ帰った。
私は兄といっしょの蚊帳の中に寝た。
原文を見る
私は兄といっしょの蚊帳の中に寝た。
妹の夫だけは、客扱いを受けているせいか、一人離れた座敷に入って休んだ。
原文を見る
妹の夫だけは、客扱いを受けているせいか、独り離れた座敷に入って休んだ。
「関さんも気の毒だね。ああ何日も引っ張られて帰れなくては」
原文を見る
「関さんも気の毒だね。ああ幾日も引っ張られて帰れなくっちゃあ」
関というのはその人の名字だった。
原文を見る
関というのはその人の苗字であった。
「しかしそんな忙しい身でもないんだから、ああして泊まっていてくれるんでしょう。関さんよりも兄さんの方が困るでしょう、こう長くなっては」
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「しかしそんな忙しい身体でもないんだから、ああして泊っていてくれるんでしょう。関さんよりも兄さんの方が困るでしょう、こう長くなっちゃ」
「困っても仕方がない。ほかのことと違うからな」
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「困っても仕方がない。外の事と違うからな」
兄と床を並べて寝る私は、こんな寝物語をした。
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兄と床を並べて寝る私は、こんな寝物語をした。
兄の頭にも私の胸にも、父はどうせ助からないという考えがあった。
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兄の頭にも私の胸にも、父はどうせ助からないという考えがあった。
どうせ助からないものならばという考えもあった。
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どうせ助からないものならばという考えもあった。
我々は子として親の死ぬのを待っているようなものだった。
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我々は子として親の死ぬのを待っているようなものであった。
しかし子としての我々は、それを言葉の上に表すのをはばかった。
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しかし子としての我々はそれを言葉の上に表わすのを憚かった。
そうしてお互いに、お互いがどんなことを思っているかをよく理解し合っていた。
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そうしてお互いにお互いがどんな事を思っているかをよく理解し合っていた。
「お父さんは、まだ治る気でいるようだな」
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「お父さんは、まだ治る気でいるようだな」
と兄が私に言った。
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と兄が私にいった。
実際、兄の言うとおりに見えるところもないではなかった。
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実際兄のいう通りに見えるところもないではなかった。
近所の者が見舞いに来ると、父は必ず会うと言って承知しなかった。
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近所のものが見舞にくると、父は必ず会うといって承知しなかった。
会えばきっと、私の卒業祝いに呼ぶことができなかったのを残念がった。
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会えばきっと、私の卒業祝いに呼ぶ事ができなかったのを残念がった。
その代わり、自分の病気が治ったらというようなことも時々付け加えた。
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その代り自分の病気が治ったらというような事も時々付け加えた。
「お前の卒業祝いはやめになって結構だ。おれの時には弱ったからね」
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「お前の卒業祝いは已めになって結構だ。おれの時には弱ったからね」
と兄は私の記憶をつついた。
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と兄は私の記憶を突ッついた。
私は、酒にあおられたその時の乱雑な有様を思い出して苦笑した。
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私はアルコールに煽られたその時の乱雑な有様を想い出して苦笑した。
飲むものや食うものを強いて回る父の態度も、苦々しく私の目に映った。
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飲むものや食うものを強いて廻る父の態度も、にがにがしく私の眼に映った。
私たちはそれほど仲のいい兄弟ではなかった。
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私たちはそれほど仲の好い兄弟ではなかった。
小さいうちはよく喧嘩をして、年下の私の方がいつでも泣かされた。
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小さいうちは好く喧嘩をして、年の少ない私の方がいつでも泣かされた。
学校へ入ってからの専門の違いも、まったく性格の違いから出ていた。
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学校へはいってからの専門の相違も、全く性格の相違から出ていた。
大学にいた時分の私は、特に先生に接した私は、遠くから兄を眺めて、常に動物的だと思っていた。
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大学にいる時分の私は、ことに先生に接触した私は、遠くから兄を眺めて、常に動物的だと思っていた。
私は長く兄に会わなかったので、またかけ離れた遠くにいたので、時から言っても距離から言っても、兄はいつでも私には近くなかったのである。
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私は長く兄に会わなかったので、また懸け隔たった遠くにいたので、時からいっても距離からいっても、兄はいつでも私には近くなかったのである。
それでも久しぶりにこう落ち合ってみると、兄弟の優しい気持ちがどこからか自然に湧いて出た。
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それでも久しぶりにこう落ち合ってみると、兄弟の優しい心持がどこからか自然に湧いて出た。
場合が場合なのも、その大きな原因になっていた。
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場合が場合なのもその大きな源因になっていた。
二人に共通の父、その父が死のうとしている枕もとで、兄と私は握手したのだった。
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二人に共通な父、その父の死のうとしている枕元で、兄と私は握手したのであった。
「お前これからどうする」
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「お前これからどうする」
と兄は聞いた。
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と兄は聞いた。
私はまた、まったく見当の違った質問を兄にかけた。
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私はまた全く見当の違った質問を兄に掛けた。
「いったい家の財産はどうなってるんだろう」
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「一体家の財産はどうなってるんだろう」
「おれは知らない。お父さんはまだ何とも言わないから。しかし財産と言ったところで、金としてはたかの知れたものだろう」
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「おれは知らない。お父さんはまだ何ともいわないから。しかし財産っていったところで金としては高の知れたものだろう」
母はまた母で、先生の返事の来るのを気にしていた。
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母はまた母で先生の返事の来るのを苦にしていた。
「まだ手紙は来ないかい」
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「まだ手紙は来ないかい」
と私を責めた。
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と私を責めた。
十五
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十五
「先生先生というのは、いったい誰のことだい」
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「先生先生というのは一体誰の事だい」
と兄が聞いた。
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と兄が聞いた。
「この間話したじゃないか」
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「こないだ話したじゃないか」
と私は答えた。
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と私は答えた。
私は自分で質問をしておきながら、すぐ人の説明を忘れてしまう兄に対して不快の念を起こした。
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私は自分で質問をしておきながら、すぐ他の説明を忘れてしまう兄に対して不快の念を起した。
「聞いたことは聞いたけれども」
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「聞いた事は聞いたけれども」
兄は結局、聞いても分からないというのだった。
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兄は必竟聞いても解らないというのであった。
私から見れば、何も無理に先生を兄に理解してもらう必要はなかった。
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私から見ればなにも無理に先生を兄に理解してもらう必要はなかった。
けれども腹は立った。
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けれども腹は立った。
また例の兄らしい所が出て来たと思った。
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また例の兄らしい所が出て来たと思った。
先生先生と私が尊敬する以上、その人は必ず有名な人でなくてはならないように、兄は考えていた。
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先生先生と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならないように兄は考えていた。
少なくとも大学の教授ぐらいだろうと推察していた。
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少なくとも大学の教授ぐらいだろうと推察していた。
名もない人、何もしていない人、それがどこに価値を持っているだろう。
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名もない人、何もしていない人、それがどこに価値をもっているだろう。
兄の腹は、この点において父とまったく同じものだった。
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兄の腹はこの点において、父と全く同じものであった。
けれども父が、何もできないから遊んでいるのだと即断するのに引きかえて、兄は、何かやれる能力があるのにぶらぶらしているのはつまらない人間に限るという風の口ぶりを漏らした。
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けれども父が何もできないから遊んでいるのだと速断するのに引きかえて、兄は何かやれる能力があるのに、ぶらぶらしているのは詰らん人間に限るといった風の口吻を洩らした。
「エゴイストはいけないね。何もしないで生きていようというのは横着な了見だからね。人は自分の持っている才能をできるだけ働かせなくては嘘だ」
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「イゴイストはいけないね。何もしないで生きていようというのは横着な了簡だからね。人は自分のもっている才能をできるだけ働かせなくっちゃ嘘だ」
私は兄に向かって、自分の使っているエゴイストという言葉の意味がよく分かるかと聞き返してやりたかった。
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私は兄に向かって、自分の使っているイゴイストという言葉の意味がよく解るかと聞き返してやりたかった。
「それでもその人のおかげで地位ができれば、まあ結構だ。お父さんも喜んでるようじゃないか」
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「それでもその人のお蔭で地位ができればまあ結構だ。お父さんも喜んでるようじゃないか」
兄はあとからこんなことを言った。
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兄は後からこんな事をいった。
先生からはっきりした手紙が来ない以上、私はそう信じることもできず、またそう口に出す勇気もなかった。
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先生から明瞭な手紙の来ない以上、私はそう信ずる事もできず、またそう口に出す勇気もなかった。
それを母の早呑み込みでみんなにそう言い触らしてしまった今となってみると、私は急にそれを打ち消す訳に行かなくなった。
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それを母の早呑み込みでみんなにそう吹聴してしまった今となってみると、私は急にそれを打ち消す訳に行かなくなった。
私は母に催促されるまでもなく、先生の手紙を待ち受けた。
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私は母に催促されるまでもなく、先生の手紙を待ち受けた。
そうしてその手紙に、どうかみんなの考えているような衣食の口のことが書いてあればいいがと念じた。
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そうしてその手紙に、どうかみんなの考えているような衣食の口の事が書いてあればいいがと念じた。
私は死に瀕している父の手前、その父に幾分でも安心させてやりたいと祈りつつある母の手前、働かなければ人間でないように言う兄の手前、そのほか妹の夫だの伯父だの叔母だのの手前、私がちっとも関心のないことに神経を悩まさなければならなかった。
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私は死に瀕している父の手前、その父に幾分でも安心させてやりたいと祈りつつある母の手前、働かなければ人間でないようにいう兄の手前、その他妹の夫だの伯父だの叔母だのの手前、私のちっとも頓着していない事に、神経を悩まさなければならなかった。
父が変な黄色いものを吐いた時、私はかつて先生と奥さんから聞かされた危険を思い出した。
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父が変な黄色いものも嘔いた時、私はかつて先生と奥さんから聞かされた危険を思い出した。
「ああして長く寝ているんだから、胃も悪くなるはずだね」
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「ああして長く寝ているんだから胃も悪くなるはずだね」
と言った母の顔を見て、何も知らないその人の前で涙ぐんだ。
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といった母の顔を見て、何も知らないその人の前に涙ぐんだ。
兄と私が茶の間で落ち合った時、兄は「聞いたか」
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兄と私が茶の間で落ち合った時、兄は「聞いたか」
と言った。
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といった。
それは、医者が帰りぎわに兄に向かって言ったことを聞いたかという意味だった。
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それは医者が帰り際に兄に向っていった事を聞いたかという意味であった。
私には説明を待たないでも、その意味がよく分かっていた。
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私には説明を待たないでもその意味がよく解っていた。
「お前ここへ帰って来て、家のことを見る気はないか」
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「お前ここへ帰って来て、宅の事を監理する気がないか」
と兄が私を振り返った。
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と兄が私を顧みた。
私は何とも答えなかった。
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私は何とも答えなかった。
「お母さん一人では、どうすることもできないだろう」
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「お母さん一人じゃ、どうする事もできないだろう」
と兄がまた言った。
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と兄がまたいった。
兄は私を、土の匂いを嗅いで朽ちて行っても惜しくないように見ていた。
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兄は私を土の臭いを嗅いで朽ちて行っても惜しくないように見ていた。
「本を読むだけなら田舎でも十分できるし、それに働く必要もなくなるし、ちょうどいいだろう」
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「本を読むだけなら、田舎でも充分できるし、それに働く必要もなくなるし、ちょうど好いだろう」
「兄さんが帰って来るのが順序ですね」
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「兄さんが帰って来るのが順ですね」
と私が言った。
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と私がいった。
「おれにそんなことができるものか」
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「おれにそんな事ができるものか」
と兄は一言で退けた。
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と兄は一口に斥けた。
兄の腹の中には、世の中でこれから仕事をしようという気が満ち満ちていた。
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兄の腹の中には、世の中でこれから仕事をしようという気が充ち満ちていた。
「お前がいやなら、まあ伯父さんにでも世話を頼むんだが、それにしてもお母さんはどちらかで引き取らなくてはなるまい」
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「お前がいやなら、まあ伯父さんにでも世話を頼むんだが、それにしてもお母さんはどっちかで引き取らなくっちゃなるまい」
「お母さんがここを動くか動かないかが、すでに大きな疑問ですよ」
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「お母さんがここを動くか動かないかがすでに大きな疑問ですよ」
兄弟はまだ父の死なない前から、父の死んだあとについて、こんな風に語り合った。
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兄弟はまだ父の死なない前から、父の死んだ後について、こんな風に語り合った。
十六
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十六
父は時々うわ言を言うようになった。
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父は時々囈語をいうようになった。
「乃木大将に済まない。実に面目次第もない。いえ、私もすぐお後から」
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「乃木大将に済まない。実に面目次第がない。いえ私もすぐお後から」
こんな言葉をひょいひょい出した。
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こんな言葉をひょいひょい出した。
母は気味を悪がった。
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母は気味を悪がった。
なるべくみんなを枕もとへ集めておきたがった。
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なるべくみんなを枕元へ集めておきたがった。
気のたしかな時はしきりに寂しがる病人にも、それが希望らしく見えた。
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気のたしかな時は頻りに淋しがる病人にもそれが希望らしく見えた。
特に部屋の中を見回して母の姿が見えないと、父は必ず「お光は」
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ことに室の中を見廻して母の影が見えないと、父は必ず「お光は」
と聞いた。
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と聞いた。
聞かないでも、目がそれを物語っていた。
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聞かないでも、眼がそれを物語っていた。
私はよく立って母を呼びに行った。
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私はよく起って母を呼びに行った。
「何かご用ですか」
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「何かご用ですか」
と、母がしかけた用をそのままにして病室へ来ると、父はただ母の顔を見つめるだけで何も言わないことがあった。
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と、母が仕掛けた用をそのままにしておいて病室へ来ると、父はただ母の顔を見詰めるだけで何もいわない事があった。
そうかと思うと、まるでかけ離れた話をした。
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そうかと思うと、まるで懸け離れた話をした。
突然「お光、お前にもいろいろ世話になったね」
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突然「お光お前にも色々世話になったね」
などと優しい言葉を出す時もあった。
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などと優しい言葉を出す時もあった。
母はそういう言葉の前に、きっと涙ぐんだ。
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母はそういう言葉の前にきっと涙ぐんだ。
そうしたあとでは、また必ず丈夫だった昔の父を、その対照として思い出すらしかった。
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そうした後ではまたきっと丈夫であった昔の父をその対照として想い出すらしかった。
「あんな哀れっぽいことをおっしゃるがね、あれで元はずいぶん酷かったんだよ」
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「あんな憐れっぽい事をお言いだがね、あれでもとはずいぶん酷かったんだよ」
母は父にほうきで背中をどやされた時のことなどを話した。
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母は父のために箒で背中をどやされた時の事などを話した。
今まで何度もそれを聞かされた私と兄は、いつもとはまるで違った気分で、母の言葉を父の記念のように耳に受け入れた。
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今まで何遍もそれを聞かされた私と兄は、いつもとはまるで違った気分で、母の言葉を父の記念のように耳へ受け入れた。
父は自分の目の前にうす暗く映る死の影を眺めながら、まだ遺言らしいものを口に出さなかった。
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父は自分の眼の前に薄暗く映る死の影を眺めながら、まだ遺言らしいものを口に出さなかった。
「今のうちに何か聞いておく必要はないかな」
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「今のうち何か聞いておく必要はないかな」
と兄が私の顔を見た。
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と兄が私の顔を見た。
「そうだなあ」
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「そうだなあ」
と私は答えた。
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と私は答えた。
私は、こちらから進んでそんなことを持ち出すのも病人のために善し悪しだと考えていた。
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私はこちらから進んでそんな事を持ち出すのも病人のために好し悪しだと考えていた。
二人は決めかねて、ついに伯父に相談をかけた。
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二人は決しかねてついに伯父に相談をかけた。
伯父も首をかしげた。
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伯父も首を傾けた。
「言いたいことがあるのに言わないで死ぬのも残念だろうし、といって、こちらから催促するのも悪いかもしれず」
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「いいたい事があるのに、いわないで死ぬのも残念だろうし、といって、こっちから催促するのも悪いかも知れず」
話はとうとうぐずぐずになってしまった。
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話はとうとう愚図愚図になってしまった。
そのうちに昏睡が来た。
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そのうちに昏睡が来た。
いつものとおり何も知らない母は、それをただの眠りと思い違えて、かえって喜んだ。
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例の通り何も知らない母は、それをただの眠りと思い違えてかえって喜んだ。
「まあ、ああして楽に寝られれば、そばにいる者も助かります」
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「まあああして楽に寝られれば、傍にいるものも助かります」
と言った。
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といった。
父は時々目を開けて、誰はどうしたなどと突然聞いた。
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父は時々眼を開けて、誰はどうしたなどと突然聞いた。
その誰は、つい先ほどまでそこに座っていた人の名に限られていた。
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その誰はつい先刻までそこに坐っていた人の名に限られていた。
父の意識には暗い所と明るい所とができて、その明るい所だけが、闇を縫う白い糸のように、ある距離を置いて続いているように見えた。
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父の意識には暗い所と明るい所とできて、その明るい所だけが、闇を縫う白い糸のように、ある距離を置いて連続するようにみえた。
母が昏睡状態を普通の眠りと取り違えたのも無理はなかった。
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母が昏睡状態を普通の眠りと取り違えたのも無理はなかった。
そのうち舌がだんだんもつれて来た。
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そのうち舌が段々縺れて来た。
何か言い出しても語尾が不明瞭に終わるために、要領を得ないで終わることが多くあった。
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何かいい出しても尻が不明瞭に了るために、要領を得ないでしまう事が多くあった。
そのくせ話し始める時は、危篤の病人とは思われないほど強い声を出した。
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そのくせ話し始める時は、危篤の病人とは思われないほど、強い声を出した。
我々はもとより普段以上に声を張り上げて、耳もとへ口を寄せるようにしなければならなかった。
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我々は固より不断以上に調子を張り上げて、耳元へ口を寄せるようにしなければならなかった。
「頭を冷やすといい心持ちですか」
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「頭を冷やすと好い心持ですか」
「うん」
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「うん」
私は看護婦を相手に父の水枕を取り替えて、それから新しい氷を入れた氷嚢を頭の上に載せた。
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私は看護婦を相手に、父の水枕を取り更えて、それから新しい氷を入れた氷嚢を頭の上へ載せた。
がさがさに割られてとがった氷のかけらが袋の中で落ち着くまで、私は父の禿げ上がった額の外からそれを柔らかく押さえていた。
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がさがさに割られて尖り切った氷の破片が、嚢の中で落ちつく間、私は父の禿げ上った額の外でそれを柔らかに抑えていた。
その時、兄が廊下を伝って入って来て、一通の郵便を無言のまま私の手に渡した。
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その時兄が廊下伝いにはいって来て、一通の郵便を無言のまま私の手に渡した。
空いている方の左手を出してその郵便を受け取った私は、すぐ不審を起こした。
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空いた方の左手を出して、その郵便を受け取った私はすぐ不審を起した。
それは普通の手紙に比べるとよほど目方の重いものだった。
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それは普通の手紙に比べるとよほど目方の重いものであった。
並の封筒にも入れていなかった。
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並の状袋にも入れてなかった。
また並の封筒に入れられるだけの分量でもなかった。
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また並の状袋に入れられべき分量でもなかった。
半紙で包んで、封じ目をていねいに糊で貼りつけてあった。
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半紙で包んで、封じ目を鄭寧に糊で貼り付けてあった。
私はそれを兄の手から受け取った時、すぐそれが書留であることに気がついた。
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私はそれを兄の手から受け取った時、すぐその書留である事に気が付いた。
裏を返してみると、そこに先生の名が慎んだ字で書いてあった。
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裏を返して見るとそこに先生の名がつつしんだ字で書いてあった。
手の放せない私は、すぐ封を切る訳に行かないので、ちょっとそれをふところに差しこんだ。
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手の放せない私は、すぐ封を切る訳に行かないので、ちょっとそれを懐に差し込んだ。
十七
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十七
その日は病人の具合が特に悪いように見えた。
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その日は病人の出来がことに悪いように見えた。
私が便所へ行こうとして席を立った時、廊下で行き合った兄は「どこへ行く」
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私が厠へ行こうとして席を立った時、廊下で行き合った兄は「どこへ行く」
と番兵のような口調でとがめた。
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と番兵のような口調で誰何した。
「どうも様子が少し変だから、なるべくそばにいるようにしなくてはいけないよ」
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「どうも様子が少し変だからなるべく傍にいるようにしなくっちゃいけないよ」
と注意した。
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と注意した。
私もそう思っていた。
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私もそう思っていた。
ふところに入れた手紙はそのままにして、また病室へ帰った。
原文を見る
懐中した手紙はそのままにしてまた病室へ帰った。
父は目を開けて、そこに並んでいる人の名前を母に尋ねた。
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父は眼を開けて、そこに並んでいる人の名前を母に尋ねた。
母が、あれは誰、これは誰と一つ一つ説明してやると、父はそのたびにうなずいた。
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母があれは誰、これは誰と一々説明してやると、父はそのたびに首肯いた。
うなずかない時は、母が声を張り上げて、何々さんです、分かりましたかと念を押した。
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首肯かない時は、母が声を張りあげて、何々さんです、分りましたかと念を押した。
「どうもいろいろお世話になります」
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「どうも色々お世話になります」
父はこう言った。
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父はこういった。
そうしてまた昏睡状態に陥った。
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そうしてまた昏睡状態に陥った。
枕もとを取り巻いている人は、無言のまましばらく病人の様子を見つめていた。
原文を見る
枕辺を取り巻いている人は無言のまましばらく病人の様子を見詰めていた。
やがてその中の一人が立って隣の部屋へ出た。
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やがてその中の一人が立って次の間へ出た。
するとまた一人立った。
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するとまた一人立った。
私も三人目にとうとう席を外して、自分の部屋へ来た。
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私も三人目にとうとう席を外して、自分の室へ来た。
私には、さきほどふところへ入れた郵便物の中を開けてみようという目的があった。
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私には先刻懐へ入れた郵便物の中を開けて見ようという目的があった。
それは病人の枕もとでも容易にできる所作には違いなかった。
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それは病人の枕元でも容易にできる所作には違いなかった。
しかし書かれたものの分量があまりに多過ぎるので、一息にそこで読み通す訳には行かなかった。
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しかし書かれたものの分量があまりに多過ぎるので、一息にそこで読み通す訳には行かなかった。
私は特別の時間を盗んでそれに充てた。
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私は特別の時間を偸んでそれに充てた。
私は繊維の強い包み紙を、引っかくように裂き破った。
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私は繊維の強い包み紙を引き掻くように裂き破った。
中から出たものは、縦横に引いた罫の中へ行儀よく書いた原稿のようなものだった。
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中から出たものは、縦横に引いた罫の中へ行儀よく書いた原稿様のものであった。
そうして封じる都合のために、四つ折りに畳まれていた。
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そうして封じる便宜のために、四つ折に畳まれてあった。
私は癖のついた洋紙を逆に折り返して、読みやすいように平たくした。
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私は癖のついた西洋紙を、逆に折り返して読みやすいように平たくした。
私の心は、この多量の紙とインクが私に何を語るのだろうかと思って驚いた。
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私の心はこの多量の紙と印気が、私に何事を語るのだろうかと思って驚いた。
私は同時に病室のことが気にかかった。
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私は同時に病室の事が気にかかった。
私がこの書き物を読み始めて読み終わらない前に、父はきっとどうかなる、少なくとも私は兄からか母からか、それでなければ伯父からか呼ばれるに決まっているという予感があった。
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私がこのかきものを読み始めて、読み終らない前に、父はきっとどうかなる、少なくとも、私は兄からか母からか、それでなければ伯父からか、呼ばれるに極っているという予覚があった。
私は落ち着いて先生の書いたものを読む気になれなかった。
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私は落ち付いて先生の書いたものを読む気になれなかった。
私はそわそわしながら、ただ最初の一ページを読んだ。
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私はそわそわしながらただ最初の一頁を読んだ。
そのページは次のように綴られていた。
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その頁は下のように綴られていた。
「あなたから過去を問いただされた時、答えることのできなかった勇気のない私は、今あなたの前に、それをはっきりと語る自由を得たと信じます。しかしその自由は、あなたの上京を待っているうちにはまた失われてしまう、世間的な自由に過ぎないのであります。したがって、それを利用できる時に利用しなければ、私の過去をあなたの頭に間接の経験として教えてあげる機会を永久に逸することになります。そうすると、あの時あれほどかたく約束した言葉がまるで嘘になります。私はやむを得ず、口で言うべきところを筆で申し上げることにしました」
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「あなたから過去を問いただされた時、答える事のできなかった勇気のない私は、今あなたの前に、それを明白に物語る自由を得たと信じます。しかしその自由はあなたの上京を待っているうちにはまた失われてしまう世間的の自由に過ぎないのであります。したがって、それを利用できる時に利用しなければ、私の過去をあなたの頭に間接の経験として教えて上げる機会を永久に逸するようになります。そうすると、あの時あれほど堅く約束した言葉がまるで嘘になります。私はやむを得ず、口でいうべきところを、筆で申し上げる事にしました」
私はそこまで読んで、初めてこの長いものが何のために書かれたのか、その理由をはっきり知ることができた。
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私はそこまで読んで、始めてこの長いものが何のために書かれたのか、その理由を明らかに知る事ができた。
私の衣食の口、そんなものについて先生が手紙を寄こす気づかいはないと、私は初めから信じていた。
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私の衣食の口、そんなものについて先生が手紙を寄こす気遣いはないと、私は初手から信じていた。
しかし筆を取ることの嫌いな先生が、どうしてあの事柄をこう長く書いて私に見せる気になったのだろう。
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しかし筆を執ることの嫌いな先生が、どうしてあの事件をこう長く書いて、私に見せる気になったのだろう。
先生はなぜ私の上京するまで待っていられないのだろう。
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先生はなぜ私の上京するまで待っていられないだろう。
「自由が来たから話す。しかしその自由はまた永久に失われなければならない」
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「自由が来たから話す。しかしその自由はまた永久に失われなければならない」
私は心のうちでこう繰り返しながら、その意味を知るのに苦しんだ。
原文を見る
私は心のうちでこう繰り返しながら、その意味を知るに苦しんだ。
私は突然不安に襲われた。
原文を見る
私は突然不安に襲われた。
私は続けてあとを読もうとした。
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私はつづいて後を読もうとした。
その時、病室の方から私を呼ぶ大きな兄の声が聞こえた。
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その時病室の方から、私を呼ぶ大きな兄の声が聞こえた。
私はまた驚いて立ち上がった。
原文を見る
私はまた驚いて立ち上った。
廊下を駆け抜けるようにして、みんなのいる方へ行った。
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廊下を馳け抜けるようにしてみんなのいる方へ行った。
私はいよいよ父の上に最後の瞬間が来たのだと覚悟した。
原文を見る
私はいよいよ父の上に最後の瞬間が来たのだと覚悟した。
十八
原文を見る
十八
病室にはいつの間にか医者が来ていた。
原文を見る
病室にはいつの間にか医者が来ていた。
なるべく病人を楽にするという趣旨から、また浣腸を試みるところだった。
原文を見る
なるべく病人を楽にするという主意からまた浣腸を試みるところであった。
看護婦は昨夜の疲れを休めるために、別室で寝ていた。
原文を見る
看護婦は昨夜の疲れを休めるために別室で寝ていた。
慣れない兄は立ってまごまごしていた。
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慣れない兄は起ってまごまごしていた。
私の顔を見ると、「ちょっと手を貸せ」
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私の顔を見ると、「ちょっと手をお貸し」
と言ったまま、自分は席に着いた。
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といったまま、自分は席に着いた。
私は兄に代わって、油紙を父の尻の下にあてがったりした。
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私は兄に代って、油紙を父の尻の下に宛てがったりした。
父の様子は少しくつろいで来た。
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父の様子は少しくつろいで来た。
三十分ほど枕もとに座っていた医者は、浣腸の結果を確かめた上、また来ると言って帰って行った。
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三十分ほど枕元に坐っていた医者は、浣腸の結果を認めた上、また来るといって、帰って行った。
帰りぎわに、もしものことがあったらいつでも呼んでくれるようにと、わざわざ断っていた。
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帰り際に、もしもの事があったらいつでも呼んでくれるようにわざわざ断っていた。
私は今にも異変のありそうな病室を出て、また先生の手紙を読もうとした。
原文を見る
私は今にも変がありそうな病室を退いてまた先生の手紙を読もうとした。
しかし私は少しもゆったりした気分になれなかった。
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しかし私はすこしも寛くりした気分になれなかった。
机の前に座るやいなや、また兄から大きな声で呼ばれそうでならなかった。
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机の前に坐るや否や、また兄から大きな声で呼ばれそうでならなかった。
そうして今度呼ばれれば、それが最後だという恐れが私の手を震わせた。
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そうして今度呼ばれれば、それが最後だという畏怖が私の手を顫わした。
私は先生の手紙を、ただ無意味にページだけめくって行った。
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私は先生の手紙をただ無意味に頁だけ剥繰って行った。
私の目は、几帳面に枠の中にはめられた字画を見た。
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私の眼は几帳面に枠の中に篏められた字画を見た。
けれどもそれを読む余裕はなかった。
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けれどもそれを読む余裕はなかった。
拾い読みにする余裕さえおぼつかなかった。
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拾い読みにする余裕すら覚束なかった。
私は一番しまいのページまで順々に開けてみて、またそれを元のとおりに畳んで机の上に置こうとした。
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私は一番しまいの頁まで順々に開けて見て、またそれを元の通りに畳んで机の上に置こうとした。
その時ふと、結末に近い一句が私の目に入った。
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その時ふと結末に近い一句が私の眼にはいった。
「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とっくに死んでいるでしょう」
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「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう」
私ははっと思った。
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私ははっと思った。
今までざわざわと動いていた私の胸が、一度に凝り固まったように感じた。
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今までざわざわと動いていた私の胸が一度に凝結したように感じた。
私はまた逆にページをめくり返した。
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私はまた逆に頁をはぐり返した。
そうして一枚に一句ぐらいずつの割合で、逆に読んで行った。
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そうして一枚に一句ぐらいずつの割で倒に読んで行った。
私はとっさの間に、私の知らなければならないことを知ろうとして、ちらちらする文字を目で刺し通そうと試みた。
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私は咄嗟の間に、私の知らなければならない事を知ろうとして、ちらちらする文字を、眼で刺し通そうと試みた。
その時私が知ろうとするのは、ただ先生の安否だけだった。
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その時私の知ろうとするのは、ただ先生の安否だけであった。
先生の過去、かつて先生が私に話そうと約束したうす暗いその過去、そんなものは私にとってまったく無用だった。
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先生の過去、かつて先生が私に話そうと約束した薄暗いその過去、そんなものは私に取って、全く無用であった。
私は逆にページをめくりながら、私に必要な知識を容易に与えてくれないこの長い手紙を、じれったそうに畳んだ。
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私は倒まに頁をはぐりながら、私に必要な知識を容易に与えてくれないこの長い手紙を自烈たそうに畳んだ。
私はまた父の様子を見に、病室の戸口まで行った。
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私はまた父の様子を見に病室の戸口まで行った。
病人の枕もとは思いのほか静かだった。
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病人の枕辺は存外静かであった。
頼りなさそうに疲れた顔をしてそこに座っている母を手招きして、「どうですか、様子は」
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頼りなさそうに疲れた顔をしてそこに坐っている母を手招ぎして、「どうですか様子は」
と聞いた。
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と聞いた。
母は「今少し持ちこたえているようだよ」
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母は「今少し持ち合ってるようだよ」
と答えた。
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と答えた。
私は父の目の前へ顔を出して、「どうです、浣腸して少しは心持ちがよくなりましたか」
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私は父の眼の前へ顔を出して、「どうです、浣腸して少しは心持が好くなりましたか」
と尋ねた。
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と尋ねた。
父はうなずいた。
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父は首肯いた。
父ははっきり「ありがとう」
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父ははっきり「有難う」
と言った。
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といった。
父の精神は思いのほかもうろうとしていなかった。
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父の精神は存外朦朧としていなかった。
私はまた病室を出て自分の部屋に帰った。
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私はまた病室を退いて自分の部屋に帰った。
そこで時計を見ながら、汽車の発着表を調べた。
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そこで時計を見ながら、汽車の発着表を調べた。
私は突然立って帯を締め直し、袂の中へ先生の手紙を投げこんだ。
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私は突然立って帯を締め直して、袂の中へ先生の手紙を投げ込んだ。
それから勝手口から表へ出た。
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それから勝手口から表へ出た。
私は夢中で医者の家へ駆けこんだ。
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私は夢中で医者の家へ馳け込んだ。
私は医者から、父がもう二、三日持つだろうか、そこのところをはっきり聞こうとした。
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私は医者から父がもう二、三日保つだろうか、そこのところを判然聞こうとした。
注射でも何でもして持たせてくれと頼もうとした。
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注射でも何でもして、保たしてくれと頼もうとした。
医者はあいにく留守だった。
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医者は生憎留守であった。
私には、じっと彼の帰るのを待ち受ける時間がなかった。
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私には凝として彼の帰るのを待ち受ける時間がなかった。
心の落ち着きもなかった。
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心の落ち付きもなかった。
私はすぐ人力車を停車場へ急がせた。
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私はすぐ俥を停車場へ急がせた。
私は停車場の壁へ紙切れを当てて、その上から鉛筆で母と兄宛てに手紙を書いた。
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私は停車場の壁へ紙片を宛てがって、その上から鉛筆で母と兄あてで手紙を書いた。
手紙はごく簡単なものだったが、断らずに走るよりはまだましだろうと思って、それを急いで家へ届けるように車夫に頼んだ。
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手紙はごく簡単なものであったが、断らないで走るよりまだ増しだろうと思って、それを急いで宅へ届けるように車夫に頼んだ。
そうして思い切った勢いで、東京行きの汽車に飛び乗ってしまった。
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そうして思い切った勢いで東京行きの汽車に飛び乗ってしまった。
私はごうごう鳴る三等車の中で、また袂から先生の手紙を出して、ようやく初めから終わりまで目を通した。
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私はごうごう鳴る三等列車の中で、また袂から先生の手紙を出して、ようやく始めからしまいまで眼を通した。
下 先生と遺書
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下 先生と遺書
一
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一
「……私はこの夏あなたから二、三度手紙を受け取りました。東京で相応の地位を得たいからよろしく頼むと書いてあったのは、たしか二度目に手に入ったものと記憶しています。私はそれを読んだ時、何とかしたいと思ったのです。少なくとも返事を差し上げなければ済まないとは考えたのです。しかし白状すると、私はあなたの依頼に対してまるで努力をしなかったのです。ご承知のとおり、交際の範囲が狭いというよりも、世の中にたった一人で暮らしていると言った方が適切なくらいの私には、そういう努力をあえてする余地がまったくないのです。しかしそれは問題ではありません。実を言うと、私はこの自分をどうすればいいのかと思い悩んでいたところなのです。このまま人間の中に取り残されたミイラのように存在して行こうか、それとも……その時分の私は「それとも」という言葉を心のうちで繰り返すたびにぞっとしました。駆け足で絶壁の端まで来て、急に底の見えない谷を覗きこんだ人のように。私は卑怯でした。そうして多くの卑怯な人と同じ程度に悩んだのです。残念ながら、その時の私にはあなたというものがほとんど存在していなかったと言っても誇張ではありません。一歩進めて言うと、あなたの地位、あなたの暮らしの資、そんなものは私にとってまるで無意味だったのです。どうでも構わなかったのです。私はそれどころの騒ぎではなかったのです。私は状差しへあなたの手紙を差したまま、相変わらず腕を組んで考えこんでいました。家に相応の財産がある者が、何を苦しんで、卒業するかしないかのうちに地位地位と言ってもがき回るのか。私はむしろ苦々しい気分で、遠くにいるあなたにこんな一瞥を与えただけでした。私は返事を差し上げなければ済まないあなたに対して、言い訳のためにこんなことを打ち明けるのです。あなたを怒らせるためにわざと無作法な言葉を弄するのではありません。私の本意はあとをご覧になればよく分かることと信じます。とにかく私は何とか挨拶すべきところを黙っていたのですから、この怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思います。
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「……私はこの夏あなたから二、三度手紙を受け取りました。東京で相当の地位を得たいから宜しく頼むと書いてあったのは、たしか二度目に手に入ったものと記憶しています。私はそれを読んだ時何とかしたいと思ったのです。少なくとも返事を上げなければ済まんとは考えたのです。しかし自白すると、私はあなたの依頼に対して、まるで努力をしなかったのです。ご承知の通り、交際区域の狭いというよりも、世の中にたった一人で暮しているといった方が適切なくらいの私には、そういう努力をあえてする余地が全くないのです。しかしそれは問題ではありません。実をいうと、私はこの自分をどうすれば好いのかと思い煩っていたところなのです。このまま人間の中に取り残されたミイラのように存在して行こうか、それとも……その時分の私は「それとも」という言葉を心のうちで繰り返すたびにぞっとしました。馳足で絶壁の端まで来て、急に底の見えない谷を覗き込んだ人のように。私は卑怯でした。そうして多くの卑怯な人と同じ程度において煩悶したのです。遺憾ながら、その時の私には、あなたというものがほとんど存在していなかったといっても誇張ではありません。一歩進めていうと、あなたの地位、あなたの糊口の資、そんなものは私にとってまるで無意味なのでした。どうでも構わなかったのです。私はそれどころの騒ぎでなかったのです。私は状差へあなたの手紙を差したなり、依然として腕組をして考え込んでいました。宅に相応の財産があるものが、何を苦しんで、卒業するかしないのに、地位地位といって藻掻き廻るのか。私はむしろ苦々しい気分で、遠くにいるあなたにこんな一瞥を与えただけでした。私は返事を上げなければ済まないあなたに対して、言訳のためにこんな事を打ち明けるのです。あなたを怒らすためにわざと無躾な言葉を弄するのではありません。私の本意は後をご覧になればよく解る事と信じます。とにかく私は何とか挨拶すべきところを黙っていたのですから、私はこの怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思います。
その後、私はあなたに電報を打ちました。
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その後私はあなたに電報を打ちました。
ありていに言えば、あの時私はちょっとあなたに会いたかったのです。
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有体にいえば、あの時私はちょっとあなたに会いたかったのです。
それからあなたの希望どおり、私の過去をあなたのために語りたかったのです。
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それからあなたの希望通り私の過去をあなたのために物語りたかったのです。
あなたは返電をかけて、今東京へは出られないと断って来ましたが、私は失望して長い間あの電報を眺めていました。
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あなたは返電を掛けて、今東京へは出られないと断って来ましたが、私は失望して永らくあの電報を眺めていました。
あなたも電報だけでは気が済まなかったと見えて、またあとから長い手紙を寄こしてくれたので、あなたが上京できない事情がよく分かりました。
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あなたも電報だけでは気が済まなかったとみえて、また後から長い手紙を寄こしてくれたので、あなたの出京できない事情がよく解りました。
私はあなたを失礼な男だとも何とも思う訳がありません。
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私はあなたを失礼な男だとも何とも思う訳がありません。
あなたの大事なお父さんの病気をそっちのけにして、どうしてあなたが家を空けられるものですか。
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あなたの大事なお父さんの病気をそっち退けにして、何であなたが宅を空けられるものですか。
そのお父さんの生死を忘れているような私の態度こそ不都合です。
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そのお父さんの生死を忘れているような私の態度こそ不都合です。――
私は実際あの電報を打つ時に、あなたのお父さんのことを忘れていたのです。
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私は実際あの電報を打つ時に、あなたのお父さんの事を忘れていたのです。
そのくせ、あなたが東京にいる頃には、難しい病気だからよく注意しなくてはいけないと、あれほど忠告したのは私ですのに。
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そのくせあなたが東京にいる頃には、難症だからよく注意しなくってはいけないと、あれほど忠告したのは私ですのに。
私はこういう矛盾した人間なのです。
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私はこういう矛盾な人間なのです。
あるいは私の脳よりも、私の過去が私を圧迫する結果、こんな矛盾した人間に私を変化させるのかもしれません。
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あるいは私の脳髄よりも、私の過去が私を圧迫する結果こんな矛盾な人間に私を変化させるのかも知れません。
私はこの点においても、十分自分の我を認めています。
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私はこの点においても充分私の我を認めています。
あなたに許してもらわなくてはなりません。
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あなたに許してもらわなくてはなりません。
あなたの手紙、あなたから来た最後の手紙を読んだ時、私は悪いことをしたと思いました。
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あなたの手紙、――あなたから来た最後の手紙――を読んだ時、私は悪い事をしたと思いました。
それでその意味の返事を出そうかと考えて筆を取りかけましたが、一行も書かずにやめました。
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それでその意味の返事を出そうかと考えて、筆を執りかけましたが、一行も書かずに已めました。
どうせ書くならこの手紙を書いてあげたかったから、そうしてこの手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、やめにしたのです。
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どうせ書くなら、この手紙を書いて上げたかったから、そうしてこの手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、已めにしたのです。
私がただ、来るに及ばないという簡単な電報を再び打ったのは、そのためです。
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私がただ来るに及ばないという簡単な電報を再び打ったのは、それがためです。
二
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二
「私はそれからこの手紙を書き出しました。普段筆を持ちつけない私には、自分の思うように事件なり思想なりが運ばないのが重い苦痛でした。私はもう少しで、あなたに対する私のこの義務を放り出すところでした。しかしいくらやめようと思って筆を置いても、何にもなりませんでした。私は一時間経たないうちにまた書きたくなりました。あなたから見たら、これが義務の遂行を重んじる私の性格のように思われるかもしれません。私もそれは否みません。私はあなたの知っているとおり、ほとんど世間と関わりのない孤独な人間ですから、義務というほどの義務は、自分の左右前後を見回してもどの方角にも根を張っておりません。故意か自然か、私はそれをできるだけ切り詰めた生活をしていたのです。けれども私は義務に冷淡だからこうなったのではありません。むしろ鋭敏過ぎて刺激に耐えるだけの精力がないから、ご覧のように消極的な月日を送ることになったのです。だからいったん約束した以上、それを果たさないのは大変いやな気持ちです。私はあなたに対してこのいやな気持ちを避けるためにでも、置いた筆をまた取り上げなければならないのです。
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「私はそれからこの手紙を書き出しました。平生筆を持ちつけない私には、自分の思うように、事件なり思想なりが運ばないのが重い苦痛でした。私はもう少しで、あなたに対する私のこの義務を放擲するところでした。しかしいくら止そうと思って筆を擱いても、何にもなりませんでした。私は一時間経たないうちにまた書きたくなりました。あなたから見たら、これが義務の遂行を重んずる私の性格のように思われるかも知れません。私もそれは否みません。私はあなたの知っている通り、ほとんど世間と交渉のない孤独な人間ですから、義務というほどの義務は、自分の左右前後を見廻しても、どの方角にも根を張っておりません。故意か自然か、私はそれをできるだけ切り詰めた生活をしていたのです。けれども私は義務に冷淡だからこうなったのではありません。むしろ鋭敏過ぎて刺戟に堪えるだけの精力がないから、ご覧のように消極的な月日を送る事になったのです。だから一旦約束した以上、それを果たさないのは、大変厭な心持です。私はあなたに対してこの厭な心持を避けるためにでも、擱いた筆をまた取り上げなければならないのです。
その上、私は書きたいのです。
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その上私は書きたいのです。
義務は別として、私の過去を書きたいのです。
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義務は別として私の過去を書きたいのです。
私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有と言っても差し支えないでしょう。
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私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有といっても差支えないでしょう。
それを人に与えないで死ぬのは、惜しいとも言われるでしょう。
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それを人に与えないで死ぬのは、惜しいともいわれるでしょう。
私にも多少そんな気持ちがあります。
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私にも多少そんな心持があります。
ただし、受け入れることのできない人に与えるくらいなら、私はむしろ私の経験を私の命とともに葬った方がいいと思います。
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ただし受け入れる事のできない人に与えるくらいなら、私はむしろ私の経験を私の生命と共に葬った方が好いと思います。
実際ここにあなたという一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にならないで済んだでしょう。
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実際ここにあなたという一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで済んだでしょう。
私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を語りたいのです。
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私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。
あなたは真面目だから。
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あなたは真面目だから。
あなたは真面目に、人生そのものから生きた教訓を得たいと言ったから。
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あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから。
私は暗い人生の影を、遠慮なくあなたの頭の上に投げかけてあげます。
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私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。
しかし恐れてはいけません。
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しかし恐れてはいけません。
暗いものをじっと見つめて、その中からあなたの参考になるものをおつかみなさい。
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暗いものを凝と見詰めて、その中からあなたの参考になるものをお攫みなさい。
私の暗いというのは、もとより倫理的に暗いのです。
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私の暗いというのは、固より倫理的に暗いのです。
私は倫理的に生まれた男です。
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私は倫理的に生れた男です。
また倫理的に育てられた男です。
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また倫理的に育てられた男です。
その倫理上の考えは、今の若い人とだいぶ違ったところがあるかもしれません。
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その倫理上の考えは、今の若い人と大分違ったところがあるかも知れません。
しかしどう間違っても、私自身のものです。
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しかしどう間違っても、私自身のものです。
間に合わせに借りた借り物ではありません。
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間に合せに借りた損料着ではありません。
だからこれから伸びようというあなたには、幾分か参考になるだろうと思うのです。
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だからこれから発達しようというあなたには幾分か参考になるだろうと思うのです。
あなたは現代の思想問題について、よく私に議論を向けたことを記憶しているでしょう。
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あなたは現代の思想問題について、よく私に議論を向けた事を記憶しているでしょう。
私のそれに対する態度もよく分かっているでしょう。
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私のそれに対する態度もよく解っているでしょう。
私はあなたの意見を軽蔑まではしなかったけれども、決して尊敬を払える程度にはなれなかった。
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私はあなたの意見を軽蔑までしなかったけれども、決して尊敬を払い得る程度にはなれなかった。
あなたの考えには何の背景もなかったし、あなたは自分の過去を持つにはあまりに若過ぎたからです。
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あなたの考えには何らの背景もなかったし、あなたは自分の過去をもつには余りに若過ぎたからです。
私は時々笑った。
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私は時々笑った。
あなたは物足りなさそうな顔をちょいちょい私に見せた。
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あなたは物足りなそうな顔をちょいちょい私に見せた。
そのあげく、あなたは私の過去を絵巻物のようにあなたの前に広げてくれと迫った。
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その極あなたは私の過去を絵巻物のように、あなたの前に展開してくれと逼った。
私はその時心のうちで、初めてあなたを尊敬した。
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私はその時心のうちで、始めてあなたを尊敬した。
あなたが遠慮なく私の腹の中から、ある生きたものをつかまえようという決心を見せたからです。
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あなたが無遠慮に私の腹の中から、或る生きたものを捕まえようという決心を見せたからです。
私の心臓を切り割って、温かく流れる血潮をすすろうとしたからです。
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私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜ろうとしたからです。
その時、私はまだ生きていた。
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その時私はまだ生きていた。
死ぬのがいやだった。
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死ぬのが厭であった。
それで他日を約束して、あなたの要求を退けてしまった。
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それで他日を約して、あなたの要求を斥けてしまった。
私は今、自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。
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私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。
私の鼓動が止まった時、あなたの胸に新しい命が宿ることができるなら満足です。
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私の鼓動が停った時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。
三
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三
「私が両親を亡くしたのは、まだ私が二十歳にならない時分でした。いつか妻があなたに話していたようにも記憶していますが、二人は同じ病気で死んだのです。しかも妻があなたに不審を起こさせたとおり、ほとんど同時と言っていいくらいに、前後して死んだのです。実を言うと、父の病気は恐るべき腸チフスでした。それがそばにいて看護をした母に伝染したのです。
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「私が両親を亡くしたのは、まだ私の廿歳にならない時分でした。いつか妻があなたに話していたようにも記憶していますが、二人は同じ病気で死んだのです。しかも妻があなたに不審を起させた通り、ほとんど同時といっていいくらいに、前後して死んだのです。実をいうと、父の病気は恐るべき腸窒扶斯でした。それが傍にいて看護をした母に伝染したのです。
私は二人の間にできたたった一人の男の子でした。
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私は二人の間にできたたった一人の男の子でした。
家には相応の財産があったので、むしろおおらかに育てられました。
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宅には相当の財産があったので、むしろ鷹揚に育てられました。
私は自分の過去を振り返って、あの時両親が死なずにいてくれたなら、少なくとも父か母かどちらか、片方でいいから生きていてくれたなら、私はあのおおらかな気分を今まで持ち続けることができただろうにと思います。
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私は自分の過去を顧みて、あの時両親が死なずにいてくれたなら、少なくとも父か母かどっちか、片方で好いから生きていてくれたなら、私はあの鷹揚な気分を今まで持ち続ける事ができたろうにと思います。
私は二人のあとに、ぼう然として取り残されました。
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私は二人の後に茫然として取り残されました。
私には知識もなく、経験もなく、また分別もありませんでした。
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私には知識もなく、経験もなく、また分別もありませんでした。
父の死ぬ時、母はそばにいることができませんでした。
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父の死ぬ時、母は傍にいる事ができませんでした。
母の死ぬ時、母には父の死んだことさえまだ知らせていなかったのです。
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母の死ぬ時、母には父の死んだ事さえまだ知らせてなかったのです。
母はそれを悟っていたか、またはそばの者の言うとおり、実際父は回復に向かいつつあるものと信じていたか、それは分かりません。
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母はそれを覚っていたか、または傍のもののいうごとく、実際父は回復期に向いつつあるものと信じていたか、それは分りません。
母はただ叔父に万事を頼んでいました。
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母はただ叔父に万事を頼んでいました。
そこに居合わせた私を指さすようにして、「この子をどうぞよろしく」
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そこに居合せた私を指さすようにして、「この子をどうぞ何分」
と言いました。
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といいました。
私はその前から両親の許しを得て東京へ出るはずになっていましたので、母はそれもついでに言うつもりらしかったのです。
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私はその前から両親の許可を得て、東京へ出るはずになっていましたので、母はそれもついでにいうつもりらしかったのです。
それで「東京へ」
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それで「東京へ」
とだけ付け加えたら、叔父がすぐあとを引き取って、「よろしい、決して心配しないがいい」
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とだけ付け加えましたら、叔父がすぐ後を引き取って、「よろしい決して心配しないがいい」
と答えました。
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と答えました。
母は強い熱に耐えられる体質の女だったのでしょうか、叔父は「しっかりしたものだ」
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母は強い熱に堪え得る体質の女なんでしたろうか、叔父は「確かりしたものだ」
と言って、私に向かって母のことを褒めていました。
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といって、私に向って母の事を褒めていました。
しかしこれがはたして母の遺言だったのかどうか、今考えると分からないのです。
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しかしこれがはたして母の遺言であったのかどうだか、今考えると分らないのです。
母はもちろん、父のかかった病気の恐るべき名前を知っていたのです。
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母は無論父の罹った病気の恐るべき名前を知っていたのです。
そうして、自分がそれに伝染していたことも承知していたのです。
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そうして、自分がそれに伝染していた事も承知していたのです。
けれども自分はきっとこの病気で命を取られるとまで信じていたかどうか、そこになると疑う余地はまだいくらでもあるだろうと思われるのです。
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けれども自分はきっとこの病気で命を取られるとまで信じていたかどうか、そこになると疑う余地はまだいくらでもあるだろうと思われるのです。
その上、熱の高い時に出る母の言葉は、いかにそれが筋道の通ったはっきりしたものであっても、まるで記憶となって母の頭に影さえ残していないことがしばしばあったのです。
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その上熱の高い時に出る母の言葉は、いかにそれが筋道の通った明らかなものにせよ、一向記憶となって母の頭に影さえ残していない事がしばしばあったのです。
だから……しかしそんなことは問題ではありません。
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だから……しかしそんな事は問題ではありません。
ただこういう風に物を解きほどいてみたり、またぐるぐる回して眺めたりする癖は、もうその時分から私にはちゃんと備わっていたのです。
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ただこういう風に物を解きほどいてみたり、またぐるぐる廻して眺めたりする癖は、もうその時分から、私にはちゃんと備わっていたのです。
それはあなたにも初めからお断りしておかなければならないと思いますが、その実例としては、当面の問題に大した関係のないこんな記述がかえって役に立ちはしないかと考えます。
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それはあなたにも始めからお断わりしておかなければならないと思いますが、その実例としては当面の問題に大した関係のないこんな記述が、かえって役に立ちはしないかと考えます。
あなたの方でも、まあそのつもりで読んでください。
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あなたの方でもまあそのつもりで読んでください。
この性分が倫理的に個人の行為や動作の上に及んで、私は後々ますます他人の徳義心を疑うようになったのだろうと思うのです。
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この性分が倫理的に個人の行為やら動作の上に及んで、私は後来ますます他の徳義心を疑うようになったのだろうと思うのです。
それが私の煩悶や苦悩に向かって、積極的に大きな力を添えているのはたしかですから、覚えていてください。
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それが私の煩悶や苦悩に向って、積極的に大きな力を添えているのは慥かですから覚えていて下さい。
話が本筋を外れると分かりにくくなりますから、またあとへ引き返しましょう。
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話が本筋をはずれると、分り悪くなりますからまたあとへ引き返しましょう。
これでも私はこの長い手紙を書くのに、私と同じ立場に置かれたほかの人と比べたら、あるいは多少落ち着いているのではないかと思っているのです。
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これでも私はこの長い手紙を書くのに、私と同じ地位に置かれた他の人と比べたら、あるいは多少落ち付いていやしないかと思っているのです。
世の中が眠ると聞こえ出す、あの電車の響きももう途絶えました。
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世の中が眠ると聞こえだすあの電車の響ももう途絶えました。
雨戸の外にはいつの間にか哀れな虫の声が、露の秋をまた忍びやかに思い出させるような調子でかすかに鳴いています。
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雨戸の外にはいつの間にか憐れな虫の声が、露の秋をまた忍びやかに思い出させるような調子で微かに鳴いています。
何も知らない妻は、隣の部屋で無邪気にすやすや寝入っています。
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何も知らない妻は次の室で無邪気にすやすや寝入っています。
私が筆を取ると、一字一画ができあがりつつペンの先で鳴っています。
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私が筆を執ると、一字一劃ができあがりつつペンの先で鳴っています。
私はむしろ落ち着いた気分で紙に向かっているのです。
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私はむしろ落ち付いた気分で紙に向っているのです。
慣れないためにペンが横へ外れるかもしれませんが、頭が乱れて筆がしどろに走るのではないように思います。
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不馴れのためにペンが横へ外れるかも知れませんが、頭が悩乱して筆がしどろに走るのではないように思います。
四
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四
「とにかくたった一人取り残された私は、母の言いつけどおり、この叔父を頼るよりほかに道はなかったのです。叔父はまた一切を引き受けて、すべての世話をしてくれました。そうして私を、私の希望する東京へ出られるように取り計らってくれました。
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「とにかくたった一人取り残された私は、母のいい付け通り、この叔父を頼るより外に途はなかったのです。叔父はまた一切を引き受けて凡ての世話をしてくれました。そうして私を私の希望する東京へ出られるように取り計らってくれました。
私は東京へ来て高等学校へ入りました。
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私は東京へ来て高等学校へはいりました。
その時の高等学校の生徒は、今よりもよほど荒々しく粗野でした。
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その時の高等学校の生徒は今よりもよほど殺伐で粗野でした。
私の知っている者に、夜中に職人と喧嘩をして、相手の頭へ下駄で傷を負わせたのがいました。
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私の知ったものに、夜中職人と喧嘩をして、相手の頭へ下駄で傷を負わせたのがありました。
それが酒を飲んだあげくのことなので、夢中で殴り合いをしている間に、学校の制帽をとうとう向こうの者に取られてしまったのです。
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それが酒を飲んだ揚句の事なので、夢中に擲り合いをしている間に、学校の制帽をとうとう向うのものに取られてしまったのです。
ところがその帽子の裏には、当人の名前がちゃんと、菱形の白い布の上に書いてあったのです。
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ところがその帽子の裏には当人の名前がちゃんと、菱形の白いきれの上に書いてあったのです。
それで事が面倒になって、その男はもう少しで警察から学校へ照会されるところでした。
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それで事が面倒になって、その男はもう少しで警察から学校へ照会されるところでした。
しかし友達がいろいろと骨を折って、ついに表沙汰にせずに済むようにしてやりました。
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しかし友達が色々と骨を折って、ついに表沙汰にせずに済むようにしてやりました。
こんな乱暴な行為を、上品な今の空気の中で育ったあなた方に聞かせたら、さぞ馬鹿馬鹿しい感じを起こすでしょう。
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こんな乱暴な行為を、上品な今の空気のなかに育ったあなた方に聞かせたら、定めて馬鹿馬鹿しい感じを起すでしょう。
私も実際、馬鹿馬鹿しく思います。
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私も実際馬鹿馬鹿しく思います。
しかし彼らは、今の学生にない一種素朴な点をその代わりに持っていたのです。
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しかし彼らは今の学生にない一種質朴な点をその代りにもっていたのです。
当時、私が月々叔父からもらっていた金は、あなたが今お父さんから送ってもらう学費に比べると、はるかに少ないものでした。
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当時私の月々叔父から貰っていた金は、あなたが今、お父さんから送ってもらう学資に比べると遥かに少ないものでした。
(もちろん物価も違うでしょうが)
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(無論物価も違いましょうが)。
それでいて私は少しの不足も感じませんでした。
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それでいて私は少しの不足も感じませんでした。
それどころか、数ある同級生のうちで、経済の点にかけては決して人をうらやましがる哀れな境遇にいた訳ではないのです。
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のみならず数ある同級生のうちで、経済の点にかけては、決して人を羨ましがる憐れな境遇にいた訳ではないのです。
今から振り返ると、むしろ人にうらやましがられる方だったのでしょう。
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今から回顧すると、むしろ人に羨ましがられる方だったのでしょう。
というのは、私は月々決まった送金のほかに、書籍費(私はその時分から書物を買うことが好きでした)および臨時の費用を、よく叔父に請求して、どんどんそれを自分の思うように使うことができたのですから。
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というのは、私は月々極った送金の外に、書籍費、(私はその時分から書物を買う事が好きでした)、および臨時の費用を、よく叔父から請求して、ずんずんそれを自分の思うように消費する事ができたのですから。
何も知らない私は、叔父を信じていたばかりでなく、常に感謝の心をもって、叔父をありがたいもののように尊敬していました。
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何も知らない私は、叔父を信じていたばかりでなく、常に感謝の心をもって、叔父をありがたいもののように尊敬していました。
叔父は事業家でした。
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叔父は事業家でした。
県会議員にもなりました。
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県会議員にもなりました。
その関係からでもありましょう、政党にも縁があったように記憶しています。
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その関係からでもありましょう、政党にも縁故があったように記憶しています。
父の実の弟ですけれども、そういう点で、性格から言うと父とはまるで違った方へ向いて育ったようにも見えます。
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父の実の弟ですけれども、そういう点で、性格からいうと父とはまるで違った方へ向いて発達したようにも見えます。
父は先祖から譲られた遺産を大事に守って行く、篤実一方の男でした。
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父は先祖から譲られた遺産を大事に守って行く篤実一方の男でした。
楽しみには、茶だの花だのをやりました。
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楽しみには、茶だの花だのをやりました。
それから詩集などを読むことも好きでした。
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それから詩集などを読む事も好きでした。
書画骨董といった風のものにも、多くの趣味を持っている様子でした。
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書画骨董といった風のものにも、多くの趣味をもっている様子でした。
家は田舎にありましたけれども、八キロほど離れた市、その市には叔父が住んでいたのです、その市から時々道具屋が掛け物だの香炉だのを持って、わざわざ父に見せに来ました。
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家は田舎にありましたけれども、二里ばかり隔たった市、――その市には叔父が住んでいたのです、――その市から時々道具屋が懸物だの、香炉だのを持って、わざわざ父に見せに来ました。
父は一口に言うと、まあ財産のある人とでも評したらいいのでしょう。
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父は一口にいうと、まあマン・オフ・ミーンズとでも評したら好いのでしょう。
比較的上品な好みを持った田舎の紳士だったのです。
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比較的上品な嗜好をもった田舎紳士だったのです。
だから気性から言うと、快活な叔父とはよほどの隔たりがありました。
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だから気性からいうと、闊達な叔父とはよほどの懸隔がありました。
それでいて二人は、また妙に仲がよかったのです。
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それでいて二人はまた妙に仲が好かったのです。
父はよく叔父を評して、自分よりはるかに働きのある頼もしい人のように言っていました。
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父はよく叔父を評して、自分よりも遥かに働きのある頼もしい人のようにいっていました。
自分のように親から財産を譲られた者は、どうしても生まれ持った才覚が鈍る、つまり世の中と闘う必要がないからいけないのだとも言っていました。
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自分のように、親から財産を譲られたものは、どうしても固有の材幹が鈍る、つまり世の中と闘う必要がないからいけないのだともいっていました。
この言葉は母も聞きました。
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この言葉は母も聞きました。
私も聞きました。
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私も聞きました。
父はむしろ私の心得になるつもりで、それを言ったらしく思われます。
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父はむしろ私の心得になるつもりで、それをいったらしく思われます。
「お前もよく覚えているがいい」
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「お前もよく覚えているが好い」
と父はその時、わざわざ私の顔を見たのです。
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と父はその時わざわざ私の顔を見たのです。
だから私はまだそれを忘れずにいます。
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だから私はまだそれを忘れずにいます。
これほど私の父から信用されたり褒められたりしていた叔父を、私がどうして疑うことができるでしょう。
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このくらい私の父から信用されたり、褒められたりしていた叔父を、私がどうして疑う事ができるでしょう。
私にはただでさえ誇りになるべき叔父でした。
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私にはただでさえ誇りになるべき叔父でした。
父や母が亡くなって、万事その人の世話にならなければならない私には、もう単なる誇りではなかったのです。
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父や母が亡くなって、万事その人の世話にならなければならない私には、もう単なる誇りではなかったのです。
私の存在に必要な人間になっていたのです。
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私の存在に必要な人間になっていたのです。
五
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五
「私が夏休みを利用して初めて国へ帰った時、両親の死に絶えた私の住まいには、新しい主人として叔父夫婦が入れ代わって住んでいました。これは私が東京へ出る前からの約束でした。たった一人取り残された私が家にいない以上、そうでもするよりほかに仕方がなかったのです。
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「私が夏休みを利用して始めて国へ帰った時、両親の死に断えた私の住居には、新しい主人として、叔父夫婦が入れ代って住んでいました。これは私が東京へ出る前からの約束でした。たった一人取り残された私が家にいない以上、そうでもするより外に仕方がなかったのです。
叔父はその頃、市にあるいろいろな会社に関係していたようです。
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叔父はその頃市にある色々な会社に関係していたようです。
仕事の都合から言えば、今までの住まいで寝起きする方が、八キロも離れた私の家に移るよりはるかに便利だと言って笑いました。
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業務の都合からいえば、今までの居宅に寝起きする方が、二里も隔った私の家に移るより遥かに便利だといって笑いました。
これは私の父母が亡くなったあと、どう屋敷を始末して私が東京へ出るかという相談の時に、叔父の口から漏れた言葉であります。
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これは私の父母が亡くなった後、どう邸を始末して、私が東京へ出るかという相談の時、叔父の口を洩れた言葉であります。
私の家は古い歴史を持っているので、少しはその界隈で人に知られていました。
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私の家は旧い歴史をもっているので、少しはその界隈で人に知られていました。
あなたの郷里でも同じことだろうと思いますが、田舎では由緒のある家を、相続人があるのに壊したり売ったりするのは大事件です。
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あなたの郷里でも同じ事だろうと思いますが、田舎では由緒のある家を、相続人があるのに壊したり売ったりするのは大事件です。
今の私ならそのくらいのことは何とも思いませんが、その頃はまだ子供でしたから、東京へは出たいし、家はそのままにしておかなければならず、はなはだ処置に苦しんだのです。
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今の私ならそのくらいの事は何とも思いませんが、その頃はまだ子供でしたから、東京へは出たし、家はそのままにして置かなければならず、はなはだ所置に苦しんだのです。
叔父は仕方なしに、私の空き家へ入ることを承諾してくれました。
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叔父は仕方なしに私の空家へはいる事を承諾してくれました。
しかし市の方にある住まいもそのままにしておいて、両方の間を行ったり来たりする都合を与えてもらわなければ困ると言いました。
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しかし市の方にある住居もそのままにしておいて、両方の間を往ったり来たりする便宜を与えてもらわなければ困るといいました。
私にもとより異議のあるはずがありません。
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私に固より異議のありようはずがありません。
私はどんな条件でも東京へ出られればいいくらいに考えていたのです。
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私はどんな条件でも東京へ出られれば好いくらいに考えていたのです。
子供らしい私は、故郷を離れてもまだ心の目で、懐かしそうに故郷の家を望んでいました。
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子供らしい私は、故郷を離れても、まだ心の眼で、懐かしげに故郷の家を望んでいました。
もとよりそこには、まだ自分の帰るべき家があるという旅人の心で望んでいたのです。
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固よりそこにはまだ自分の帰るべき家があるという旅人の心で望んでいたのです。
休みが来れば帰らなくてはならないという気分は、いくら東京を恋しがって出て来た私にも、力強くあったのです。
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休みが来れば帰らなくてはならないという気分は、いくら東京を恋しがって出て来た私にも、力強くあったのです。
私は熱心に勉強し、愉快に遊んだあと、休みには帰れると思うその故郷の家をよく夢に見ました。
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私は熱心に勉強し、愉快に遊んだ後、休みには帰れると思うその故郷の家をよく夢に見ました。
私の留守の間、叔父がどんな風に両方の間を行き来していたかは知りません。
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私の留守の間、叔父はどんな風に両方の間を往き来していたか知りません。
私が着いた時は、家族の者がみんな一つ家の中に集まっていました。
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私の着いた時は、家族のものが、みんな一つ家の内に集まっていました。
学校へ出る子供などは、普段はおそらく市の方にいたのでしょうが、これも休暇のために田舎へ遊び半分といった格好で引き取られていました。
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学校へ出る子供などは平生おそらく市の方にいたのでしょうが、これも休暇のために田舎へ遊び半分といった格で引き取られていました。
みんな私の顔を見て喜びました。
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みんな私の顔を見て喜びました。
私はまた、父や母のいた時よりかえって賑やかで陽気になった家の様子を見て嬉しがりました。
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私はまた父や母のいた時より、かえって賑やかで陽気になった家の様子を見て嬉しがりました。
叔父は、もと私の部屋になっていた一間を占領している一番上の男の子を追い出して、私をそこへ入れました。
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叔父はもと私の部屋になっていた一間を占領している一番目の男の子を追い出して、私をそこへ入れました。
座敷の数も少なくないのだから、私はほかの部屋で構わないと辞退したのですけれども、叔父はお前の家だからと言って聞きませんでした。
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座敷の数も少なくないのだから、私はほかの部屋で構わないと辞退したのですけれども、叔父はお前の宅だからといって、聞きませんでした。
私は時々亡くなった父や母のことを思い出すほかは、何の不愉快もなく、そのひと夏を叔父の家族とともに過ごして、また東京へ帰ったのです。
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私は折々亡くなった父や母の事を思い出す外に、何の不愉快もなく、その一夏を叔父の家族と共に過ごして、また東京へ帰ったのです。
ただ一つ、その夏の出来事として私の心にむしろうす暗い影を投げたのは、叔父夫婦が口をそろえて、まだ高等学校へ入ったばかりの私に結婚を勧めることでした。
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ただ一つその夏の出来事として、私の心にむしろ薄暗い影を投げたのは、叔父夫婦が口を揃えて、まだ高等学校へ入ったばかりの私に結婚を勧める事でした。
それは前後でちょうど三、四回も繰り返されたでしょう。
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それは前後で丁度三、四回も繰り返されたでしょう。
私も初めは、ただその突然なのに驚いただけでした。
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私も始めはただその突然なのに驚いただけでした。
二度目にははっきり断りました。
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二度目には判然断りました。
三度目には、こちらからとうとうその理由を問い返さなければならなくなりました。
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三度目にはこっちからとうとうその理由を反問しなければならなくなりました。
彼らの趣旨は簡単でした。
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彼らの主意は単簡でした。
早く嫁をもらってこの家へ帰って来て、亡くなった父のあとを相続しろというだけなのです。
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早く嫁を貰ってここの家へ帰って来て、亡くなった父の後を相続しろというだけなのです。
家は休暇になって帰りさえすればそれでいいものと、私は考えていました。
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家は休暇になって帰りさえすれば、それでいいものと私は考えていました。
父のあとを相続する、それには嫁が必要だからもらう、両方とも理屈としてはひととおり筋が通ります。
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父の後を相続する、それには嫁が必要だから貰う、両方とも理屈としては一通り聞こえます。
特に田舎の事情を知っている私には、よく分かります。
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ことに田舎の事情を知っている私には、よく解ります。
私も絶対にそれを嫌ってはいなかったのでしょう。
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私も絶対にそれを嫌ってはいなかったのでしょう。
しかし東京へ勉強に出たばかりの私には、それが望遠鏡で物を見るように、はるか先の距離に望まれるだけでした。
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しかし東京へ修業に出たばかりの私には、それが遠眼鏡で物を見るように、遥か先の距離に望まれるだけでした。
私は叔父の希望に承諾を与えないで、ついにまた私の家を去りました。
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私は叔父の希望に承諾を与えないで、ついにまた私の家を去りました。
六
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六
「私は縁談のことをそれきり忘れてしまいました。私の周囲を取り巻いている青年の顔を見ると、所帯じみた者は一人もいません。みんな自由です、そうしてことごとく独り身らしく思われたのです。こういう気楽な人の中にも、裏に入りこんだら、あるいは家庭の事情にやむを得ずすでに妻を迎えていた者があったかもしれませんが、子供らしい私はそこに気がつきませんでした。それからそういう特別な境遇に置かれた人の方でも、周りに気がねをして、なるべくは学生に縁の遠いそんな内輪の話はしないように慎んでいたのでしょう。あとから考えると、私自身がすでにその組だったのですが、私はそれさえ分からずに、ただ子供らしく愉快に学問の道を歩いて行きました。
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「私は縁談の事をそれなり忘れてしまいました。私の周囲を取り捲いている青年の顔を見ると、世帯染みたものは一人もいません。みんな自由です、そうして悉く単独らしく思われたのです。こういう気楽な人の中にも、裏面にはいり込んだら、あるいは家庭の事情に余儀なくされて、すでに妻を迎えていたものがあったかも知れませんが、子供らしい私はそこに気が付きませんでした。それからそういう特別の境遇に置かれた人の方でも、四辺に気兼をして、なるべくは書生に縁の遠いそんな内輪の話はしないように慎んでいたのでしょう。後から考えると、私自身がすでにその組だったのですが、私はそれさえ分らずに、ただ子供らしく愉快に修学の道を歩いて行きました。
学年の終わりに、私はまた行李を縛って、親の墓のある田舎へ帰って来ました。
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学年の終りに、私はまた行李を絡げて、親の墓のある田舎へ帰って来ました。
そうして去年と同じように、父母のいた我が家の中で、また叔父夫婦とその子供の変わらない顔を見ました。
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そうして去年と同じように、父母のいたわが家の中で、また叔父夫婦とその子供の変らない顔を見ました。
私は再びそこで故郷の匂いを嗅ぎました。
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私は再びそこで故郷の匂いを嗅ぎました。
その匂いは私にとって、相変わらず懐かしいものでした。
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その匂いは私に取って依然として懐かしいものでありました。
一学年の単調を破る変化としても、ありがたいものに違いなかったのです。
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一学年の単調を破る変化としても有難いものに違いなかったのです。
しかしこの自分を育て上げたのと同じ匂いの中で、私はまた突然、結婚問題を叔父から鼻の先へ突きつけられました。
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しかしこの自分を育て上げたと同じような匂いの中で、私はまた突然結婚問題を叔父から鼻の先へ突き付けられました。
叔父の言うところは、去年の勧誘を再び繰り返しただけです。
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叔父のいう所は、去年の勧誘を再び繰り返したのみです。
理由も去年と同じでした。
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理由も去年と同じでした。
ただこの前勧められた時には何の相手もなかったのに、今度はちゃんと肝心の当人をつかまえていたので、私はなおさら困らされたのです。
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ただこの前勧められた時には、何らの目的物がなかったのに、今度はちゃんと肝心の当人を捕まえていたので、私はなお困らせられたのです。
その当人というのは、叔父の娘、すなわち私の従妹に当たる女でした。
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その当人というのは叔父の娘すなわち私の従妹に当る女でした。
その女をもらってくれればお互いのために好都合である、父も生前そんなことを話していた、と叔父が言うのです。
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その女を貰ってくれれば、お互いのために便宜である、父も存生中そんな事を話していた、と叔父がいうのです。
私もそうすれば好都合だとは思いました。
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私もそうすれば便宜だとは思いました。
父が叔父にそういう風な話をしたというのも、あり得ることと考えました。
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父が叔父にそういう風な話をしたというのもあり得べき事と考えました。
しかしそれは私が叔父に言われて初めて気がついたので、言われない前から悟っていた事柄ではないのです。
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しかしそれは私が叔父にいわれて、始めて気が付いたので、いわれない前から、覚っていた事柄ではないのです。
だから私は驚きました。
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だから私は驚きました。
驚いたけれども、叔父の希望に無理のないところも、そのおかげでよく分かりました。
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驚いたけれども、叔父の希望に無理のないところも、それがためによく解りました。
私はうかつなのでしょうか。
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私は迂闊なのでしょうか。
あるいはそうなのかもしれませんが、おそらくその従妹に何の関心もなかったのが、主な原因になっているのでしょう。
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あるいはそうなのかも知れませんが、おそらくその従妹に無頓着であったのが、おもな源因になっているのでしょう。
私は子供のうちから、市にいる叔父の家へ始終遊びに行きました。
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私は小供のうちから市にいる叔父の家へ始終遊びに行きました。
ただ行くばかりでなく、よくそこに泊まりました。
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ただ行くばかりでなく、よくそこに泊りました。
そうしてこの従妹とは、その時分から親しかったのです。
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そうしてこの従妹とはその時分から親しかったのです。
あなたもご承知でしょう、兄妹の間に恋の成立した例のないのを。
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あなたもご承知でしょう、兄妹の間に恋の成立した例のないのを。
私はこの認められた事実を勝手に広げているかもしれないが、始終接して親しくなり過ぎた男女の間には、恋に必要な刺激の起こる清新な感じが失われてしまうように考えています。
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私はこの公認された事実を勝手に布衍しているかも知れないが、始終接触して親しくなり過ぎた男女の間には、恋に必要な刺戟の起る清新な感じが失われてしまうように考えています。
香りを嗅ぎ得るのは香をたき出した瞬間に限るように、酒を味わうのは酒を飲み始めた刹那にあるように、恋の衝動にもこういう際どい一点が時間の上に存在しているとしか思われないのです。
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香をかぎ得るのは、香を焚き出した瞬間に限るごとく、酒を味わうのは、酒を飲み始めた刹那にあるごとく、恋の衝動にもこういう際どい一点が、時間の上に存在しているとしか思われないのです。
一度平気でそこを通り抜けたら、慣れれば慣れるほど親しみが増すだけで、恋の神経はだんだん麻痺して来るだけです。
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一度平気でそこを通り抜けたら、馴れれば馴れるほど、親しみが増すだけで、恋の神経はだんだん麻痺して来るだけです。
私はどう考え直しても、この従妹を妻にする気にはなれませんでした。
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私はどう考え直しても、この従妹を妻にする気にはなれませんでした。
叔父は、もし私が主張するなら私の卒業まで結婚を延ばしてもいいと言いました。
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叔父はもし私が主張するなら、私の卒業まで結婚を延ばしてもいいといいました。
けれども善は急げということわざもあるから、できるなら今のうちに祝言の杯だけは済ませておきたいとも言いました。
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けれども善は急げという諺もあるから、できるなら今のうちに祝言の盃だけは済ませておきたいともいいました。
当人に望みのない私には、どちらにしたって同じことです。
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当人に望みのない私にはどっちにしたって同じ事です。
私はまた断りました。
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私はまた断りました。
叔父はいやな顔をしました。
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叔父は厭な顔をしました。
従妹は泣きました。
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従妹は泣きました。
私に添えないから悲しいのではありません。
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私に添われないから悲しいのではありません。
結婚の申し込みを拒絶されたのが、女としてつらかったからです。
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結婚の申し込みを拒絶されたのが、女として辛かったからです。
私が従妹を愛していないように、従妹も私を愛していないことは、私によく分かっていました。
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私が従妹を愛していないごとく、従妹も私を愛していない事は、私によく知れていました。
私はまた東京へ出ました。
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私はまた東京へ出ました。
七
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七
「私が三度目に帰郷したのは、それからまた一年経った夏の初めでした。私はいつでも学年試験の済むのを待ちかねて東京を逃げ出しました。私には故郷がそれほど懐かしかったからです。あなたにも覚えがあるでしょう、生まれた所は空気の色が違います、土地の匂いも格別です、父や母の記憶も濃く漂っています。一年のうちで七月八月の二か月をその中に包まれて、穴に入った蛇のようにじっとしているのは、私にとって何よりも温かい、いい心持ちだったのです。
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「私が三度目に帰国したのは、それからまた一年経った夏の取付でした。私はいつでも学年試験の済むのを待ちかねて東京を逃げました。私には故郷がそれほど懐かしかったからです。あなたにも覚えがあるでしょう、生れた所は空気の色が違います、土地の匂いも格別です、父や母の記憶も濃かに漂っています。一年のうちで、七、八の二月をその中に包まれて、穴に入った蛇のように凝としているのは、私に取って何よりも温かい好い心持だったのです。
単純な私は、従妹との結婚問題についてさほど頭を痛める必要がないと思っていました。
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単純な私は従妹との結婚問題について、さほど頭を痛める必要がないと思っていました。
いやなものは断る、断ってさえしまえばあとには何も残らない、私はこう信じていたのです。
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厭なものは断る、断ってさえしまえば後には何も残らない、私はこう信じていたのです。
だから叔父の希望どおりに意志を曲げなかったにもかかわらず、私はむしろ平気でした。
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だから叔父の希望通りに意志を曲げなかったにもかかわらず、私はむしろ平気でした。
過去一年の間、いまだかつてそんなことに悩んだ覚えもなく、相変わらずの元気で国へ帰ったのです。
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過去一年の間いまだかつてそんな事に屈托した覚えもなく、相変らずの元気で国へ帰ったのです。
ところが帰ってみると、叔父の態度が違っています。
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ところが帰って見ると叔父の態度が違っています。
元のようにいい顔をして私を自分のふところに抱こうとしません。
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元のように好い顔をして私を自分の懐に抱こうとしません。
それでもおおらかに育った私は、帰って四、五日の間は気がつかずにいました。
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それでも鷹揚に育った私は、帰って四、五日の間は気が付かずにいました。
ただ何かの機会に、ふと変に思い出したのです。
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ただ何かの機会にふと変に思い出したのです。
すると妙なのは、叔父ばかりではないのです。
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すると妙なのは、叔父ばかりではないのです。
叔母も妙なのです。
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叔母も妙なのです。
従妹も妙なのです。
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従妹も妙なのです。
中学校を出て、これから東京の高等商業へ入るつもりだと言って、手紙でその様子を問い合わせたりした叔父の男の子まで妙なのです。
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中学校を出て、これから東京の高等商業へはいるつもりだといって、手紙でその様子を聞き合せたりした叔父の男の子まで妙なのです。
私の性分として、考えずにはいられなくなりました。
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私の性分として考えずにはいられなくなりました。
どうして私の気持ちがこう変わったのだろう。
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どうして私の心持がこう変ったのだろう。
いや、どうして向こうがこう変わったのだろう。
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いやどうして向うがこう変ったのだろう。
私は突然、死んだ父や母が鈍い私の目を洗って、急に世の中がはっきり見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。
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私は突然死んだ父や母が、鈍い私の眼を洗って、急に世の中が判然見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。
私は父や母がこの世にいなくなったあとでも、いた時と同じように私を愛してくれるものと、どこか心の奥で信じていたのです。
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私は父や母がこの世にいなくなった後でも、いた時と同じように私を愛してくれるものと、どこか心の奥で信じていたのです。
もっともその頃でも、私は決して理屈にうとい性質ではありませんでした。
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もっともその頃でも私は決して理に暗い質ではありませんでした。
しかし先祖から譲られた迷信の塊りも、強い力で私の血の中に潜んでいたのです。
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しかし先祖から譲られた迷信の塊りも、強い力で私の血の中に潜んでいたのです。
今でも潜んでいるでしょう。
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今でも潜んでいるでしょう。
私はたった一人で山へ行って、父母の墓の前にひざまずきました。
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私はたった一人山へ行って、父母の墓の前に跪きました。
半ばは哀悼の意味、半ばは感謝の気持ちでひざまずいたのです。
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半は哀悼の意味、半は感謝の心持で跪いたのです。
そうして私の未来の幸福が、この冷たい石の下に横たわる彼らの手にまだ握られてでもいるような気分で、私の運命を守ってくれるよう彼らに祈りました。
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そうして私の未来の幸福が、この冷たい石の下に横たわる彼らの手にまだ握られてでもいるような気分で、私の運命を守るべく彼らに祈りました。
あなたは笑うかもしれない。
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あなたは笑うかもしれない。
私も笑われても仕方がないと思います。
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私も笑われても仕方がないと思います。
しかし私はそうした人間だったのです。
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しかし私はそうした人間だったのです。
私の世界は手のひらを返すように変わりました。
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私の世界は掌を翻すように変りました。
もっともこれは、私にとって初めての経験ではなかったのです。
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もっともこれは私に取って始めての経験ではなかったのです。
私が十六、七の時でしたろう、初めて世の中に美しいものがあるという事実を発見した時には、一度にはっと驚きました。
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私が十六、七の時でしたろう、始めて世の中に美しいものがあるという事実を発見した時には、一度にはっと驚きました。
何度も自分の目を疑って、何度も自分の目をこすりました。
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何遍も自分の眼を疑って、何遍も自分の眼を擦りました。
そうして心の中で、ああ美しいと叫びました。
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そうして心の中でああ美しいと叫びました。
十六、七と言えば、男でも女でも、俗に言う色気のつく頃です。
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十六、七といえば、男でも女でも、俗にいう色気の付く頃です。
色気のついた私は、世の中にある美しいものの代表として、初めて女を見ることができたのです。
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色気の付いた私は世の中にある美しいものの代表者として、始めて女を見る事ができたのです。
今までその存在に少しも気のつかなかった異性に対して、盲目の目がたちまち開いたのです。
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今までその存在に少しも気の付かなかった異性に対して、盲目の眼が忽ち開いたのです。
それ以来、私の天地はまったく新しいものとなりました。
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それ以来私の天地は全く新しいものとなりました。
私が叔父の態度に気づいたのも、まったくこれと同じなのでしょう。
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私が叔父の態度に心づいたのも、全くこれと同じなんでしょう。
にわかに気づいたのです。
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俄然として心づいたのです。
何の予感も準備もなく、不意に来たのです。
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何の予感も準備もなく、不意に来たのです。
不意に彼と彼の家族が、今までとはまるで別物のように私の目に映ったのです。
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不意に彼と彼の家族が、今までとはまるで別物のように私の眼に映ったのです。
私は驚きました。
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私は驚きました。
そうしてこのままにしておいては、自分の行く先がどうなるか分からないという気になりました。
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そうしてこのままにしておいては、自分の行先がどうなるか分らないという気になりました。
八
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八
「私は今まで叔父任せにしておいた家の財産について、詳しい知識を得なければ死んだ父母に対して済まないという気を起こしたのです。叔父は忙しい身だと自称するとおり、毎晩同じ所に寝泊まりはしていませんでした。二日家へ帰ると三日は市の方で暮らすという風に、両方の間を行き来して、その日その日を落ち着きのない顔で過ごしていました。そうして忙しいという言葉を口癖のように使いました。何の疑いも起こらない時は、私も実際に忙しいのだろうと思っていたのです。それから、忙しがらなくては当世流ではないのだろうと、皮肉にも解釈していたのです。けれども財産のことについて時間のかかる話をしようという目的ができた目で、この忙しがる様子を見ると、それが単に私を避ける口実としか受け取れなくなって来たのです。私はなかなか叔父をつかまえる機会を得ませんでした。
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「私は今まで叔父任せにしておいた家の財産について、詳しい知識を得なければ、死んだ父母に対して済まないという気を起したのです。叔父は忙しい身体だと自称するごとく、毎晩同じ所に寝泊りはしていませんでした。二日家へ帰ると三日は市の方で暮らすといった風に、両方の間を往来して、その日その日を落ち付きのない顔で過ごしていました。そうして忙しいという言葉を口癖のように使いました。何の疑いも起らない時は、私も実際に忙しいのだろうと思っていたのです。それから、忙しがらなくては当世流でないのだろうと、皮肉にも解釈していたのです。けれども財産の事について、時間の掛かる話をしようという目的ができた眼で、この忙しがる様子を見ると、それが単に私を避ける口実としか受け取れなくなって来たのです。私は容易に叔父を捕まえる機会を得ませんでした。
私は、叔父が市の方に妾を持っているという噂を聞きました。
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私は叔父が市の方に妾をもっているという噂を聞きました。
私はその噂を、昔中学の同級生だったある友達から聞いたのです。
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私はその噂を昔中学の同級生であったある友達から聞いたのです。
妾を置くくらいのことは、この叔父として少しも怪しむに足らないのですが、父の生きているうちにそんな評判を耳に入れた覚えのない私は驚きました。
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妾を置くぐらいの事は、この叔父として少しも怪しむに足らないのですが、父の生きているうちに、そんな評判を耳に入れた覚えのない私は驚きました。
友達はそのほかにも、いろいろ叔父についての噂を語って聞かせました。
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友達はその外にも色々叔父についての噂を語って聞かせました。
一時は事業で失敗しかかっていたようによそから思われていたのに、この二、三年来また急に盛り返して来たというのも、その一つでした。
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一時事業で失敗しかかっていたように他から思われていたのに、この二、三年来また急に盛り返して来たというのも、その一つでした。
しかも私の疑いを強く染めつけたものの一つでした。
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しかも私の疑惑を強く染めつけたものの一つでした。
私はとうとう叔父と談判を開きました。
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私はとうとう叔父と談判を開きました。
談判というのは少し穏当でないかもしれませんが、話の成り行きから言うと、そんな言葉で形容するよりほかに道のないところへ、自然と調子が落ちて来たのです。
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談判というのは少し不穏当かも知れませんが、話の成行きからいうと、そんな言葉で形容するより外に途のないところへ、自然の調子が落ちて来たのです。
叔父はどこまでも私を子供扱いにしようとします。
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叔父はどこまでも私を子供扱いにしようとします。
私はまた初めから疑いの目で叔父に対しています。
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私はまた始めから猜疑の眼で叔父に対しています。
穏やかに解決のつくはずはなかったのです。
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穏やかに解決のつくはずはなかったのです。
残念ながら私は今、その談判のいきさつを詳しくここに書くことのできないほど先を急いでいます。
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遺憾ながら私は今その談判の顛末を詳しくここに書く事のできないほど先を急いでいます。
実を言うと、私はこれ以上にもっと大事なものを控えているのです。
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実をいうと、私はこれより以上に、もっと大事なものを控えているのです。
私のペンは早くからそこへたどりつきたがっているのを、やっとのことで抑えつけているくらいです。
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私のペンは早くからそこへ辿りつきたがっているのを、漸との事で抑えつけているくらいです。
あなたに会って静かに話す機会を永久に失った私は、筆を取る術に慣れないばかりでなく、貴い時間を惜しむという意味からも、書きたいことを省かなければなりません。
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あなたに会って静かに話す機会を永久に失った私は、筆を執る術に慣れないばかりでなく、貴い時間を惜むという意味からして、書きたい事も省かなければなりません。
あなたはまだ覚えているでしょう、私がいつかあなたに、生まれつきの悪人が世の中にいるものではないと言ったことを。
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あなたはまだ覚えているでしょう、私がいつかあなたに、造り付けの悪人が世の中にいるものではないといった事を。
多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから、油断してはいけないと言ったことを。
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多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断してはいけないといった事を。
あの時あなたは、私に興奮していると注意してくれました。
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あの時あなたは私に昂奮していると注意してくれました。
そうしてどんな場合に善人が悪人に変化するのかと尋ねました。
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そうしてどんな場合に、善人が悪人に変化するのかと尋ねました。
私がただ一言、金と答えた時、あなたは不満な顔をしました。
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私がただ一口金と答えた時、あなたは不満な顔をしました。
私はあなたの不満な顔をよく記憶しています。
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私はあなたの不満な顔をよく記憶しています。
私は今あなたの前に打ち明けますが、私はあの時この叔父のことを考えていたのです。
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私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時この叔父の事を考えていたのです。
普通の者が金を見て急に悪人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在し得ない例として、憎しみとともに私はこの叔父を考えていたのです。
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普通のものが金を見て急に悪人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在し得ない例として、憎悪と共に私はこの叔父を考えていたのです。
私の答えは、思想の世界の奥へ突き進んで行こうとするあなたにとって物足りなかったかもしれません、ありふれていたかもしれません。
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私の答えは、思想界の奥へ突き進んで行こうとするあなたに取って物足りなかったかも知れません、陳腐だったかも知れません。
けれども私には、あれが生きた答えでした。
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けれども私にはあれが生きた答えでした。
現に私は興奮していたではありませんか。
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現に私は昂奮していたではありませんか。
私は冷ややかな頭で新しいことを口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。
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私は冷やかな頭で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。
血の力で体が動くからです。
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血の力で体が動くからです。
言葉が空気に波を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働きかけることができるからです。
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言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働き掛ける事ができるからです。
九
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九
「一口で言うと、叔父は私の財産をごまかしたのです。事は私が東京へ出ている三年の間に、たやすく行われたのです。すべてを叔父任せにして平気でいた私は、世間的に言えば本当の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、あるいは純粋な尊い男とでも言えましょうか。私はその時の自分を振り返って、なぜもっと人が悪く生まれて来なかったかと思うと、正直過ぎた自分が悔しくてたまりません。しかしまたどうかして、もう一度ああいう生まれたままの姿に立ち返って生きてみたいという気持ちも起こるのです。記憶してください、あなたの知っている私は、塵に汚れたあとの私です。汚くなった年数の多い者を先輩と呼ぶならば、私はたしかにあなたより先輩でしょう。
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「一口でいうと、叔父は私の財産を胡魔化したのです。事は私が東京へ出ている三年の間に容易く行われたのです。すべてを叔父任せにして平気でいた私は、世間的にいえば本当の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、あるいは純なる尊い男とでもいえましょうか。私はその時の己れを顧みて、なぜもっと人が悪く生れて来なかったかと思うと、正直過ぎた自分が口惜しくって堪りません。しかしまたどうかして、もう一度ああいう生れたままの姿に立ち帰って生きて見たいという心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知っている私は塵に汚れた後の私です。きたなくなった年数の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかにあなたより先輩でしょう。
もし私が叔父の希望どおり叔父の娘と結婚したなら、その結果は物質的に私にとって有利なものだったでしょうか。
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もし私が叔父の希望通り叔父の娘と結婚したならば、その結果は物質的に私に取って有利なものでしたろうか。
これは考えるまでもないことと思います。
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これは考えるまでもない事と思います。
叔父は策略で娘を私に押しつけようとしたのです。
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叔父は策略で娘を私に押し付けようとしたのです。
好意から両家の便宜をはかるというよりも、ずっと下卑た損得の心に駆られて、結婚問題を私に向けたのです。
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好意的に両家の便宜を計るというよりも、ずっと下卑た利害心に駆られて、結婚問題を私に向けたのです。
私は従妹を愛していないだけで嫌ってはいなかったのですが、あとから考えてみると、それを断ったのが私には多少の愉快になると思います。
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私は従妹を愛していないだけで、嫌ってはいなかったのですが、後から考えてみると、それを断ったのが私には多少の愉快になると思います。
ごまかされるのはどちらにしても同じでしょうけれども、乗せられ方から言えば、従妹をもらわない方が、向こうの思いどおりにならないという点から見て、少しは私の我が通ったことになるのですから。
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胡魔化されるのはどっちにしても同じでしょうけれども、載せられ方からいえば、従妹を貰わない方が、向うの思い通りにならないという点から見て、少しは私の我が通った事になるのですから。
しかしそれは、ほとんど問題にするに足りないささいな事柄です。
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しかしそれはほとんど問題とするに足りない些細な事柄です。
特に関係のないあなたに言わせたら、さぞ馬鹿げた意地に見えるでしょう。
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ことに関係のないあなたにいわせたら、さぞ馬鹿気た意地に見えるでしょう。
私と叔父の間に、ほかの親戚の者が入りました。
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私と叔父の間に他の親戚のものがはいりました。
その親戚の者も、私はまるで信用していませんでした。
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その親戚のものも私はまるで信用していませんでした。
信用しないばかりでなく、むしろ敵と見ていました。
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信用しないばかりでなく、むしろ敵視していました。
私は叔父が私をだましたと悟るとともに、ほかの者も必ず自分をだますに違いないと思いつめました。
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私は叔父が私を欺いたと覚ると共に、他のものも必ず自分を欺くに違いないと思い詰めました。
父があれだけ褒め抜いていた叔父ですらこうだから、ほかの者は、というのが私の理屈でした。
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父があれだけ賞め抜いていた叔父ですらこうだから、他のものはというのが私の論理でした。
それでも彼らは私のために、私の所有にかかる一切のものをまとめてくれました。
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それでも彼らは私のために、私の所有にかかる一切のものを纏めてくれました。
それは金額に見積もると、私の予期よりはるかに少ないものでした。
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それは金額に見積ると、私の予期より遥かに少ないものでした。
私としては黙ってそれを受け取るか、でなければ叔父を相手取って裁判にするか、二つの方法しかなかったのです。
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私としては黙ってそれを受け取るか、でなければ叔父を相手取って公沙汰にするか、二つの方法しかなかったのです。
私は憤りました。
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私は憤りました。
また迷いました。
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また迷いました。
訴訟にすると決着までに長い時間のかかることも恐れました。
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訴訟にすると落着までに長い時間のかかる事も恐れました。
私は勉強中の身ですから、学生として大切な時間を奪われるのは非常な苦痛だとも考えました。
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私は修業中のからだですから、学生として大切な時間を奪われるのは非常の苦痛だとも考えました。
私は思案の結果、市にいる中学の旧友に頼んで、私の受け取ったものをすべて金の形に変えようとしました。
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私は思案の結果、市におる中学の旧友に頼んで、私の受け取ったものを、すべて金の形に変えようとしました。
旧友はやめた方が得だと言って忠告してくれましたが、私は聞きませんでした。
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旧友は止した方が得だといって忠告してくれましたが、私は聞きませんでした。
私は永く故郷を離れる決心を、その時に起こしたのです。
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私は永く故郷を離れる決心をその時に起したのです。
叔父の顔を見まいと、心のうちで誓ったのです。
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叔父の顔を見まいと心のうちで誓ったのです。
私は国を発つ前に、また父と母の墓へ参りました。
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私は国を立つ前に、また父と母の墓へ参りました。
私はそれきり、その墓を見たことがありません。
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私はそれぎりその墓を見た事がありません。
もう永久に見る機会も来ないでしょう。
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もう永久に見る機会も来ないでしょう。
私の旧友は、私の言葉どおりに取り計らってくれました。
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私の旧友は私の言葉通りに取り計らってくれました。
もっともそれは、私が東京へ着いてからよほど経ったあとのことです。
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もっともそれは私が東京へ着いてからよほど経った後の事です。
田舎で畑などを売ろうとしても容易には売れませんし、いざとなると足元を見て買いたたかれる恐れがあるので、私の受け取った金額は時価に比べるとよほど少ないものでした。
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田舎で畠地などを売ろうとしたって容易には売れませんし、いざとなると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、私の受け取った金額は、時価に比べるとよほど少ないものでした。
白状すると、私の財産は、自分がふところに入れて家を出たいくらかの公債と、あとからこの友人に送ってもらった金だけなのです。
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自白すると、私の財産は自分が懐にして家を出た若干の公債と、後からこの友人に送ってもらった金だけなのです。
親の遺産としては、もとより非常に減っていたに違いありません。
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親の遺産としては固より非常に減っていたに相違ありません。
しかも私が自分から減らしたのでないから、なお気持ちが悪かったのです。
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しかも私が積極的に減らしたのでないから、なお心持が悪かったのです。
けれども学生として生活するには、それで十分以上でした。
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けれども学生として生活するにはそれで充分以上でした。
実を言うと、私はそれから出る利子の半分も使えませんでした。
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実をいうと私はそれから出る利子の半分も使えませんでした。
この余裕のある私の学生生活が、私を思いもよらない境遇に陥れたのです。
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この余裕ある私の学生生活が私を思いも寄らない境遇に陥し入れたのです。
十
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十
「金に不自由のない私は、騒々しい下宿を出て、新しく一戸を構えてみようかという気になったのです。しかしそれには所帯道具を買う面倒もありますし、世話をしてくれるお婆さんの必要も起こりますし、そのお婆さんがまた正直でなければ困るし、家を留守にしても大丈夫な者でなければ心配だし、という訳で、ちょいちょいと実行することはおぼつかなく見えたのです。ある日、私はまあ家だけでも探してみようかというそぞろ心から、散歩がてらに本郷台を西へ下りて、小石川の坂をまっすぐに伝通院の方へ上がりました。電車の通り道になってからあそこいらの様子はまるで違ってしまいましたが、その頃は左手が砲兵工廠の土塀で、右は野原とも丘ともつかない空き地に草が一面に生えていたものです。私はその草の中に立って、何気なく向こうの崖を眺めました。今でも悪い景色ではありませんが、その頃はまたずっとあの西側の趣が違っていました。見渡す限り緑が一面に深く茂っているだけでも、神経が休まります。私はふと、ここいらに適当な家はないだろうかと思いました。それですぐ草原を横切って、細い通りを北の方へ進んで行きました。いまだにいい町になり切れないでがたぴししているあの辺の家並みは、その時分のことですからずいぶん汚らしいものでした。私は路地を抜けたり横町を曲がったり、ぐるぐる歩き回りました。しまいに駄菓子屋のおかみさんに、ここいらに小ぢんまりした貸家はないかと尋ねてみました。おかみさんは「そうですね」と言ってしばらく首をかしげていましたが、「貸家はちょっと……」とまったく思い当たらない風でした。私は望みのないものと諦めて帰りかけました。するとおかみさんがまた、「素人下宿ではいけませんか」と聞くのです。私はちょっと気が変わりました。静かな素人の家に一人で下宿しているのは、かえって家を持つ面倒がなくて結構だろうと考え出したのです。それからその駄菓子屋の店に腰を掛けて、おかみさんに詳しいことを教えてもらいました。
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「金に不自由のない私は、騒々しい下宿を出て、新しく一戸を構えてみようかという気になったのです。しかしそれには世帯道具を買う面倒もありますし、世話をしてくれる婆さんの必要も起りますし、その婆さんがまた正直でなければ困るし、宅を留守にしても大丈夫なものでなければ心配だし、といった訳で、ちょくらちょいと実行する事は覚束なく見えたのです。ある日私はまあ宅だけでも探してみようかというそぞろ心から、散歩がてらに本郷台を西へ下りて小石川の坂を真直に伝通院の方へ上がりました。電車の通路になってから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃は左手が砲兵工廠の土塀で、右は原とも丘ともつかない空地に草が一面に生えていたものです。私はその草の中に立って、何心なく向うの崖を眺めました。今でも悪い景色ではありませんが、その頃はまたずっとあの西側の趣が違っていました。見渡す限り緑が一面に深く茂っているだけでも、神経が休まります。私はふとここいらに適当な宅はないだろうかと思いました。それで直ぐ草原を横切って、細い通りを北の方へ進んで行きました。いまだに好い町になり切れないで、がたぴししているあの辺の家並は、その時分の事ですからずいぶん汚ならしいものでした。私は露次を抜けたり、横丁を曲ったり、ぐるぐる歩き廻りました。しまいに駄菓子屋の上さんに、ここいらに小ぢんまりした貸家はないかと尋ねてみました。上さんは「そうですね」といって、少時首をかしげていましたが、「かし家はちょいと……」と全く思い当らない風でした。私は望のないものと諦らめて帰り掛けました。すると上さんがまた、「素人下宿じゃいけませんか」と聞くのです。私はちょっと気が変りました。静かな素人屋に一人で下宿しているのは、かえって家を持つ面倒がなくって結構だろうと考え出したのです。それからその駄菓子屋の店に腰を掛けて、上さんに詳しい事を教えてもらいました。
それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族が住んでいる家でした。
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それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。
主人は何でも日清戦争の時か何かに死んだのだと、おかみさんが言いました。
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主人は何でも日清戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。
一年ばかり前までは市ヶ谷の士官学校のそばとかに住んでいたのだが、馬小屋などがあって屋敷が広過ぎるので、そこを売り払ってここへ引っ越して来たけれども、人が少なくて寂しくて困るから、相応の人があったら世話をしてくれと頼まれていたのだそうです。
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一年ばかり前までは、市ヶ谷の士官学校の傍とかに住んでいたのだが、厩などがあって、邸が広過ぎるので、そこを売り払って、ここへ引っ越して来たけれども、無人で淋しくって困るから相当の人があったら世話をしてくれと頼まれていたのだそうです。
私はおかみさんから、その家には未亡人と一人娘とお手伝いよりほかにいないのだということを確かめました。
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私は上さんから、その家には未亡人と一人娘と下女より外にいないのだという事を確かめました。
私は静かでこの上なくいいだろうと心の中で思いました。
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私は閑静で至極好かろうと心の中に思いました。
けれどもそんな家族のうちに、私のような者が突然行ったところで、素性の知れない書生さんという名のもとにすぐ拒絶されはしまいかという心配もありました。
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けれどもそんな家族のうちに、私のようなものが、突然行ったところで、素性の知れない書生さんという名称のもとに、すぐ拒絶されはしまいかという掛念もありました。
私はやめようかとも考えました。
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私は止そうかとも考えました。
しかし私は、学生としてそんなに見苦しい服装はしていませんでした。
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しかし私は書生としてそんなに見苦しい服装はしていませんでした。
それから大学の制帽をかぶっていました。
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それから大学の制帽を被っていました。
あなたは笑うでしょう、大学の制帽がどうしたんだと言って。
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あなたは笑うでしょう、大学の制帽がどうしたんだといって。
けれどもその頃の大学生は今と違って、だいぶ世間に信用のあったものです。
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けれどもその頃の大学生は今と違って、大分世間に信用のあったものです。
私はその場合、この四角な帽子に一種の自信を見出したくらいです。
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私はその場合この四角な帽子に一種の自信を見出したくらいです。
そうして駄菓子屋のおかみさんに教わったとおり、紹介も何もなしにその軍人の遺族の家を訪ねました。
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そうして駄菓子屋の上さんに教わった通り、紹介も何もなしにその軍人の遺族の家を訪ねました。
私は未亡人に会って来意を告げました。
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私は未亡人に会って来意を告げました。
未亡人は私の身元やら学校やら専門やらについて、いろいろ質問しました。
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未亡人は私の身元やら学校やら専門やらについて色々質問しました。
そうして、これなら大丈夫だというところをどこかにつかんだのでしょう、いつでも引っ越して来て差し支えないという返事を、その場で与えてくれました。
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そうしてこれなら大丈夫だというところをどこかに握ったのでしょう、いつでも引っ越して来て差支えないという挨拶を即坐に与えてくれました。
未亡人は正しい人でした、またはっきりした人でした。
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未亡人は正しい人でした、また判然した人でした。
私は、軍人の奥さんというものはみんなこんなものかと思って感服しました。
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私は軍人の妻君というものはみんなこんなものかと思って感服しました。
感服もしたが、驚きもしました。
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感服もしたが、驚きもしました。
この気性でどこが寂しいのだろうと疑いもしました。
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この気性でどこが淋しいのだろうと疑いもしました。
十一
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十一
「私はさっそくその家へ引き移りました。私は最初来た時に未亡人と話をした座敷を借りたのです。そこは家じゅうで一番いい部屋でした。本郷あたりに高等下宿といった風の家がぽつぽつ建てられた時分のことですから、私は学生として占領し得るもっともいい部屋の様子を心得ていました。私が新しく主人となった部屋は、それらよりもずっと立派でした。移った当座は、学生としての私には過ぎるくらいに思われたのです。
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「私は早速その家へ引き移りました。私は最初来た時に未亡人と話をした座敷を借りたのです。そこは宅中で一番好い室でした。本郷辺に高等下宿といった風の家がぽつぽつ建てられた時分の事ですから、私は書生として占領し得る最も好い間の様子を心得ていました。私の新しく主人となった室は、それらよりもずっと立派でした。移った当座は、学生としての私には過ぎるくらいに思われたのです。
部屋の広さは八畳でした。
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室の広さは八畳でした。
床の間の横に違い棚があって、縁と反対の側には一間の押し入れがついていました。
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床の横に違い棚があって、縁と反対の側には一間の押入れが付いていました。
窓は一つもなかったのですが、その代わり南向きの縁に明るい日がよく差しました。
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窓は一つもなかったのですが、その代り南向きの縁に明るい日がよく差しました。
私は移った日に、その部屋の床の間に生けられた花と、その横に立てかけられた琴を見ました。
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私は移った日に、その室の床に活けられた花と、その横に立て懸けられた琴を見ました。
どちらも私の気に入りませんでした。
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どっちも私の気に入りませんでした。
私は詩や書や煎茶を好む父のそばで育ったので、中国風の趣味を子供のうちから持っていました。
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私は詩や書や煎茶を嗜なむ父の傍で育ったので、唐めいた趣味を小供のうちからもっていました。
そのためでもありましょうか、こういう艶めかしい飾りを、いつの間にか軽蔑する癖がついていたのです。
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そのためでもありましょうか、こういう艶めかしい装飾をいつの間にか軽蔑する癖が付いていたのです。
私の父が生前に集めた道具類は、例の叔父のためにめちゃめちゃにされてしまったのですが、それでも多少は残っていました。
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私の父が存生中にあつめた道具類は、例の叔父のために滅茶滅茶にされてしまったのですが、それでも多少は残っていました。
私は国を発つ時、それを中学の旧友に預かってもらいました。
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私は国を立つ時それを中学の旧友に預かってもらいました。
それからその中で面白そうなものを四、五幅、裸にして行李の底へ入れて来ました。
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それからその中で面白そうなものを四、五幅裸にして行李の底へ入れて来ました。
私は移るやいなや、それを取り出して床の間へ掛けて楽しむつもりでいたのです。
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私は移るや否や、それを取り出して床へ懸けて楽しむつもりでいたのです。
ところが今言った琴と生け花を見たので、急に勇気がなくなってしまいました。
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ところが今いった琴と活花を見たので、急に勇気がなくなってしまいました。
あとから聞いて初めて、この花が私に対するもてなしとして生けられたのだということを知った時、私は心のうちで苦笑しました。
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後から聞いて始めてこの花が私に対するご馳走に活けられたのだという事を知った時、私は心のうちで苦笑しました。
もっとも琴は前からそこにあったのですから、これは置き場所がないため、やむを得ずそのままに立てかけてあったのでしょう。
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もっとも琴は前からそこにあったのですから、これは置き所がないため、やむをえずそのままに立て懸けてあったのでしょう。
こんな話をすると、自然その裏に若い女の影があなたの頭をかすめて通るでしょう。
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こんな話をすると、自然その裏に若い女の影があなたの頭を掠めて通るでしょう。
移った私にも、移らない初めからそういう好奇心がすでに動いていたのです。
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移った私にも、移らない初めからそういう好奇心がすでに動いていたのです。
こうした邪気があらかじめ私の自然さを損なったためか、または私がまだ人慣れなかったためか、私は初めてそこのお嬢さんに会った時、しどろもどろな挨拶をしました。
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こうした邪気が予備的に私の自然を損なったためか、または私がまだ人慣れなかったためか、私は始めてそこのお嬢さんに会った時、へどもどした挨拶をしました。
その代わり、お嬢さんの方でも赤い顔をしました。
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その代りお嬢さんの方でも赤い顔をしました。
私はそれまで、未亡人の風采や態度から推して、このお嬢さんのすべてを想像していたのです。
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私はそれまで未亡人の風采や態度から推して、このお嬢さんのすべてを想像していたのです。
しかしその想像は、お嬢さんにとってあまり有利なものではありませんでした。
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しかしその想像はお嬢さんに取ってあまり有利なものではありませんでした。
軍人の奥さんだからああなのだろう、その奥さんの娘だからこうだろうといった順序で、私の推測はだんだん延びて行きました。
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軍人の妻君だからああなのだろう、その妻君の娘だからこうだろうといった順序で、私の推測は段々延びて行きました。
ところがその推測が、お嬢さんの顔を見た瞬間にことごとく打ち消されました。
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ところがその推測が、お嬢さんの顔を見た瞬間に、悉く打ち消されました。
そうして私の頭の中へ、今まで想像も及ばなかった異性の匂いが新しく入って来ました。
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そうして私の頭の中へ今まで想像も及ばなかった異性の匂いが新しく入って来ました。
私はそれから、床の間の正面に生けてある花がいやでなくなりました。
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私はそれから床の正面に活けてある花が厭でなくなりました。
同じ床の間に立てかけてある琴も、邪魔にならなくなりました。
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同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。
その花はまた、規則正しくしおれる頃になると生け替えられるのです。
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その花はまた規則正しく凋れる頃になると活け更えられるのです。
琴も度々、かぎの手に折れ曲がった斜め向かいの部屋に運び去られるのです。
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琴も度々鍵の手に折れ曲がった筋違の室に運び去られるのです。
私は自分の部屋で机の上に頬づえをつきながら、その琴の音を聞いていました。
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私は自分の居間で机の上に頬杖を突きながら、その琴の音を聞いていました。
私にはその琴が上手なのか下手なのか、よく分からないのです。
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私にはその琴が上手なのか下手なのかよく解らないのです。
けれどもあまり込み入った手を弾かないところを見ると、上手ではないのだろうと考えました。
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けれども余り込み入った手を弾かないところを見ると、上手なのじゃなかろうと考えました。
まあ生け花の程度ぐらいのものだろうと思いました。
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まあ活花の程度ぐらいなものだろうと思いました。
花なら私にもよく分かるのですが、お嬢さんは決してうまい方ではなかったのです。
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花なら私にも好く分るのですが、お嬢さんは決して旨い方ではなかったのです。
それでも臆面もなく、いろいろの花が私の床の間を飾ってくれました。
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それでも臆面なく色々の花が私の床を飾ってくれました。
もっとも生け方はいつ見ても同じことでした。
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もっとも活方はいつ見ても同じ事でした。
それから花瓶も、ついぞ変わったためしがありませんでした。
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それから花瓶もついぞ変った例がありませんでした。
しかし片方の音楽になると、花よりもっと変でした。
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しかし片方の音楽になると花よりももっと変でした。
ぽつんぽつんと糸を鳴らすだけで、まるで声を聞かせないのです。
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ぽつんぽつん糸を鳴らすだけで、一向肉声を聞かせないのです。
歌わないのではありませんが、まるで内緒話でもするように小さな声しか出さないのです。
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唄わないのではありませんが、まるで内所話でもするように小さな声しか出さないのです。
しかも叱られると、まったく出なくなるのです。
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しかも叱られると全く出なくなるのです。
私は喜んでこの下手な生け花を眺めては、まずそうな琴の音に耳を傾けました。
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私は喜んでこの下手な活花を眺めては、まずそうな琴の音に耳を傾けました。
十二
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十二
「私の気分は、国を発つ時すでに世をいとうものになっていました。人は頼りにならないものだという観念が、その時骨の中までしみこんでしまったように思われたのです。私は私の敵と見る叔父だの叔母だの、そのほかの親戚だのを、あたかも人類の代表のように考え出しました。汽車へ乗ってさえ、隣の者の様子をそれとなく注意し始めました。たまに向こうから話しかけられでもすると、なおさら警戒を加えたくなりました。私の心は沈んでいました。鉛を呑んだように重苦しくなることが時々ありました。それでいて私の神経は、今言ったように鋭くとがってしまったのです。
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「私の気分は国を立つ時すでに厭世的になっていました。他は頼りにならないものだという観念が、その時骨の中まで染み込んでしまったように思われたのです。私は私の敵視する叔父だの叔母だの、その他の親戚だのを、あたかも人類の代表者のごとく考え出しました。汽車へ乗ってさえ隣のものの様子を、それとなく注意し始めました。たまに向うから話し掛けられでもすると、なおの事警戒を加えたくなりました。私の心は沈鬱でした。鉛を呑んだように重苦しくなる事が時々ありました。それでいて私の神経は、今いったごとくに鋭く尖ってしまったのです。
私が東京へ来て下宿を出ようとしたのも、これが大きな原因になっているように思われます。
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私が東京へ来て下宿を出ようとしたのも、これが大きな源因になっているように思われます。
金に不自由がなければこそ一戸を構えてみる気にもなったのだと言えばそれまでですが、元のとおりの私ならば、たとえふところに余裕ができても、好んでそんな面倒な真似はしなかったでしょう。
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金に不自由がなければこそ、一戸を構えてみる気にもなったのだといえばそれまでですが、元の通りの私ならば、たとい懐中に余裕ができても、好んでそんな面倒な真似はしなかったでしょう。
私は小石川へ引き移ってからも、当分この張りつめた気分にくつろぎを与えることができませんでした。
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私は小石川へ引き移ってからも、当分この緊張した気分に寛ぎを与える事ができませんでした。
私は自分で自分が恥ずかしいほど、きょときょとと周囲を見回していました。
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私は自分で自分が恥ずかしいほど、きょときょと周囲を見廻していました。
不思議にもよく働くのは頭と目だけで、口の方はそれと反対にだんだん動かなくなって来ました。
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不思議にもよく働くのは頭と眼だけで、口の方はそれと反対に、段々動かなくなって来ました。
私は家の者の様子を猫のようによく観察しながら、黙って机の前に座っていました。
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私は家のものの様子を猫のようによく観察しながら、黙って机の前に坐っていました。
時々は彼らに対して気の毒だと思うほど、私は油断のない注意を彼らの上に注いでいたのです。
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時々は彼らに対して気の毒だと思うほど、私は油断のない注意を彼らの上に注いでいたのです。
おれは物を盗まないすりのようなものだ、私はこう考えて、自分がいやになることさえあったのです。
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おれは物を偸まない巾着切みたようなものだ、私はこう考えて、自分が厭になる事さえあったのです。
あなたはさぞ変に思うでしょう。
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あなたは定めて変に思うでしょう。
その私が、そこのお嬢さんをどうして好く余裕を持っているか。
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その私がそこのお嬢さんをどうして好く余裕をもっているか。
そのお嬢さんの下手な生け花を、どうして嬉しがって眺める余裕があるか。
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そのお嬢さんの下手な活花を、どうして嬉しがって眺める余裕があるか。
同じく下手なその人の琴を、どうして喜んで聞く余裕があるか。
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同じく下手なその人の琴をどうして喜んで聞く余裕があるか。
そう質問された時、私はただ両方とも事実だったのだから、事実としてあなたに教えてあげるというよりほかに仕方がないのです。
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そう質問された時、私はただ両方とも事実であったのだから、事実としてあなたに教えて上げるというより外に仕方がないのです。
解釈は頭のあるあなたに任せるとして、私はただ一言付け足しておきましょう。
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解釈は頭のあるあなたに任せるとして、私はただ一言付け足しておきましょう。
私は金に対して人類を疑ったけれども、愛に対してはまだ人類を疑わなかったのです。
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私は金に対して人類を疑ったけれども、愛に対しては、まだ人類を疑わなかったのです。
だから人から見ると変なものでも、また自分で考えてみて矛盾したものでも、私の胸の中では平気で両立していたのです。
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だから他から見ると変なものでも、また自分で考えてみて、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平気で両立していたのです。
私は未亡人のことを常に奥さんと言っていましたから、これから未亡人と呼ばずに奥さんと言います。
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私は未亡人の事を常に奥さんといっていましたから、これから未亡人と呼ばずに奥さんといいます。
奥さんは私を静かな人、おとなしい男と評しました。
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奥さんは私を静かな人、大人しい男と評しました。
それから勉強家だとも褒めてくれました。
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それから勉強家だとも褒めてくれました。
けれども私の不安な目つきや、きょときょとした様子については、何も口に出しませんでした。
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けれども私の不安な眼つきや、きょときょとした様子については、何事も口へ出しませんでした。
気がつかなかったのか、遠慮していたのか、どちらだかよく分かりませんが、とにかくそこにはまるで注意を払っていないらしく見えました。
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気が付かなかったのか、遠慮していたのか、どっちだかよく解りませんが、何しろそこにはまるで注意を払っていないらしく見えました。
それのみならず、ある場合には私をおおらかな方だと言って、いかにも尊敬したらしい口のきき方をしたことがあります。
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それのみならず、ある場合に私を鷹揚な方だといって、さも尊敬したらしい口の利き方をした事があります。
その時、正直な私は少し顔を赤らめて、向こうの言葉を否定しました。
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その時正直な私は少し顔を赤らめて、向うの言葉を否定しました。
すると奥さんは「あなたは自分で気がつかないから、そうおっしゃるんです」
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すると奥さんは「あなたは自分で気が付かないから、そうおっしゃるんです」
と真面目に説明してくれました。
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と真面目に説明してくれました。
奥さんは初め、私のような学生を家に置くつもりではなかったらしいのです。
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奥さんは始め私のような書生を宅へ置くつもりではなかったらしいのです。
どこかの役所へ勤める人か何かに座敷を貸す考えで、近所の者に世話を頼んでいたらしいのです。
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どこかの役所へ勤める人か何かに坐敷を貸す料簡で、近所のものに周旋を頼んでいたらしいのです。
給料が豊かでなくてやむを得ず素人の家に下宿するくらいの人だから、という考えが、それで前から奥さんの頭のどこかに入っていたのでしょう。
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俸給が豊かでなくって、やむをえず素人屋に下宿するくらいの人だからという考えが、それで前かたから奥さんの頭のどこかにはいっていたのでしょう。
奥さんは自分の胸に描いたその想像の客と私とを比べて、こちらの方をおおらかだと言って褒めるのです。
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奥さんは自分の胸に描いたその想像のお客と私とを比較して、こっちの方を鷹揚だといって褒めるのです。
なるほど、そんな切り詰めた生活をする人に比べたら、私は金銭にかけておおらかだったかもしれません。
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なるほどそんな切り詰めた生活をする人に比べたら、私は金銭にかけて、鷹揚だったかも知れません。
しかしそれは気性の問題ではありませんから、私の内面の生活にとってほとんど関係がないのと同じでした。
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しかしそれは気性の問題ではありませんから、私の内生活に取ってほとんど関係のないのと一般でした。
奥さんはまた女だけに、それを私の全体に押し広げて、同じ言葉を当てはめようと努めるのです。
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奥さんはまた女だけにそれを私の全体に推し広げて、同じ言葉を応用しようと力めるのです。
十三
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十三
「奥さんのこの態度が、自然と私の気分に影響して来ました。しばらくするうちに、私の目はもとほどきょろつかなくなりました。自分の心が自分の座っている所にちゃんと落ち着いているような気にもなれました。要するに奥さんを初め家の者が、ひがんだ私の目や疑い深い私の様子にてんから取り合わなかったのが、私に大きな幸福を与えたのでしょう。私の神経は、相手から照り返して来る反射がないためにだんだん静まりました。
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「奥さんのこの態度が自然私の気分に影響して来ました。しばらくするうちに、私の眼はもとほどきょろ付かなくなりました。自分の心が自分の坐っている所に、ちゃんと落ち付いているような気にもなれました。要するに奥さん始め家のものが、僻んだ私の眼や疑い深い私の様子に、てんから取り合わなかったのが、私に大きな幸福を与えたのでしょう。私の神経は相手から照り返して来る反射のないために段々静まりました。
奥さんは心得のある人でしたから、わざと私をそんな風に扱ってくれたものとも思われますし、また自分で公言するとおり、実際私をおおらかだと観察していたのかもしれません。
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奥さんは心得のある人でしたから、わざと私をそんな風に取り扱ってくれたものとも思われますし、また自分で公言するごとく、実際私を鷹揚だと観察していたのかも知れません。
私のこせこせした様子は頭の中の現象で、それほど外へ出なかったようにも考えられますから、あるいは奥さんの方がごまかされていたのかも分かりません。
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私のこせつき方は頭の中の現象で、それほど外へ出なかったようにも考えられますから、あるいは奥さんの方で胡魔化されていたのかも解りません。
私の心が静まるとともに、私はだんだん家族の者と近づいて来ました。
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私の心が静まると共に、私は段々家族のものと接近して来ました。
奥さんともお嬢さんとも冗談を言うようになりました。
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奥さんともお嬢さんとも笑談をいうようになりました。
茶を入れたからと言って向こうの部屋へ呼ばれる日もありました。
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茶を入れたからといって向うの室へ呼ばれる日もありました。
また私の方で菓子を買って来て、二人をこちらへ招いたりする晩もありました。
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また私の方で菓子を買って来て、二人をこっちへ招いたりする晩もありました。
私は急に交際の範囲が増えたように感じました。
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私は急に交際の区域が殖えたように感じました。
そのために大切な勉強の時間をつぶされることも、何度となくありました。
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それがために大切な勉強の時間を潰される事も何度となくありました。
不思議にも、その妨げが私にはまるで邪魔にならなかったのです。
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不思議にも、その妨害が私には一向邪魔にならなかったのです。
奥さんはもとより暇な人でした。
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奥さんはもとより閑人でした。
お嬢さんは学校へ行く上に花だの琴だのを習っているんだから、さぞ忙しかろうと思うと、それがまた案外なもので、いくらでも時間に余裕を持っているように見えました。
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お嬢さんは学校へ行く上に、花だの琴だのを習っているんだから、定めて忙しかろうと思うと、それがまた案外なもので、いくらでも時間に余裕をもっているように見えました。
それで三人は顔さえ見るといっしょに集まって、世間話をしながら遊んだのです。
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それで三人は顔さえ見るといっしょに集まって、世間話をしながら遊んだのです。
私を呼びに来るのは、たいていお嬢さんでした。
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私を呼びに来るのは、大抵お嬢さんでした。
お嬢さんは縁側を直角に曲がって私の部屋の前に立つこともありますし、茶の間を抜けて、隣の部屋の襖の陰から姿を見せることもありました。
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お嬢さんは縁側を直角に曲って、私の室の前に立つ事もありますし、茶の間を抜けて、次の室の襖の影から姿を見せる事もありました。
お嬢さんはそこへ来てちょっと止まります。
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お嬢さんは、そこへ来てちょっと留まります。
それからきっと私の名を呼んで、「ご勉強」
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それからきっと私の名を呼んで、「ご勉強?」
と聞きます。
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と聞きます。
私はたいてい難しい書物を机の前に開いてそれを見つめていましたから、そばで見たらさぞ勉強家のように見えたのでしょう。
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私は大抵むずかしい書物を机の前に開けて、それを見詰めていましたから、傍で見たらさぞ勉強家のように見えたのでしょう。
しかし実際を言うと、それほど熱心に書物を研究してはいなかったのです。
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しかし実際をいうと、それほど熱心に書物を研究してはいなかったのです。
ページの上に目はつけていながら、お嬢さんが呼びに来るのを待っているくらいのものでした。
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頁の上に眼は着けていながら、お嬢さんの呼びに来るのを待っているくらいなものでした。
待っていて来ないと、仕方がないから私の方で立ち上がるのです。
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待っていて来ないと、仕方がないから私の方で立ち上がるのです。
そうして向こうの部屋の前へ行って、こちらから「ご勉強ですか」
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そうして向うの室の前へ行って、こっちから「ご勉強ですか」
と聞くのです。
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と聞くのです。
お嬢さんの部屋は、茶の間と続いた六畳でした。
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お嬢さんの部屋は茶の間と続いた六畳でした。
奥さんはその茶の間にいることもあるし、またお嬢さんの部屋にいることもありました。
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奥さんはその茶の間にいる事もあるし、またお嬢さんの部屋にいる事もありました。
つまりこの二つの部屋は仕切りがあってもないと同じことで、親子二人が行ったり来たりして、どちらつかずに占領していたのです。
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つまりこの二つの部屋は仕切があっても、ないと同じ事で、親子二人が往ったり来たりして、どっち付かずに占領していたのです。
私が外から声をかけると、「お入りなさい」
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私が外から声を掛けると、「おはいんなさい」
と答えるのは、きっと奥さんでした。
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と答えるのはきっと奥さんでした。
お嬢さんはそこにいても、めったに返事をしたことがありませんでした。
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お嬢さんはそこにいても滅多に返事をした事がありませんでした。
時たま、お嬢さん一人で用があって私の部屋へ入ったついでに、そこに座って話しこむような場合も、そのうちに出て来ました。
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時たまお嬢さん一人で、用があって私の室へはいったついでに、そこに坐って話し込むような場合もその内に出て来ました。
そういう時には、私の心が妙に不安に侵されて来るのです。
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そういう時には、私の心が妙に不安に冒されて来るのです。
そうして、若い女とただ差し向かいで座っているのが不安なのだとばかりは思えませんでした。
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そうして若い女とただ差向いで坐っているのが不安なのだとばかりは思えませんでした。
私は何だかそわそわし出すのです。
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私は何だかそわそわし出すのです。
自分で自分を裏切るような不自然な態度が、私を苦しめるのです。
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自分で自分を裏切るような不自然な態度が私を苦しめるのです。
しかし相手の方はかえって平気でした。
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しかし相手の方はかえって平気でした。
これが琴をさらうのに声さえろくに出せなかったあの女かしらと疑われるくらい、恥ずかしがらないのです。
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これが琴を浚うのに声さえ碌に出せなかったあの女かしらと疑われるくらい、恥ずかしがらないのです。
あまり長くなるので茶の間から母に呼ばれても、「はい」
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あまり長くなるので、茶の間から母に呼ばれても、「はい」
と返事をするだけで、なかなか腰を上げないことさえありました。
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と返事をするだけで、容易に腰を上げない事さえありました。
それでいて、お嬢さんは決して子供ではなかったのです。
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それでいてお嬢さんは決して子供ではなかったのです。
私の目にはよくそれが分かっていました。
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私の眼にはよくそれが解っていました。
よく分かるように振る舞って見せる形跡さえ明らかでした。
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よく解るように振舞って見せる痕迹さえ明らかでした。
十四
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十四
「私はお嬢さんの立ったあとで、ほっと一息するのです。それと同時に、物足りないような、また済まないような気持ちになるのです。私は女らしかったのかもしれません。今の青年のあなた方から見たら、なおそう見えるでしょう。しかしその頃の私たちは、たいていそんなものだったのです。
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「私はお嬢さんの立ったあとで、ほっと一息するのです。それと同時に、物足りないようなまた済まないような気持になるのです。私は女らしかったのかも知れません。今の青年のあなたがたから見たらなおそう見えるでしょう。しかしその頃の私たちは大抵そんなものだったのです。
奥さんはめったに外出したことがありませんでした。
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奥さんは滅多に外出した事がありませんでした。
たまに家を留守にする時でも、お嬢さんと私を二人きり残して行くようなことはなかったのです。
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たまに宅を留守にする時でも、お嬢さんと私を二人ぎり残して行くような事はなかったのです。
それがまた偶然なのか故意なのか、私には分からないのです。
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それがまた偶然なのか、故意なのか、私には解らないのです。
私の口から言うのは変ですが、奥さんの様子をよく観察していると、何だか自分の娘と私とを近づけたがっているらしくも見えるのです。
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私の口からいうのは変ですが、奥さんの様子を能く観察していると、何だか自分の娘と私とを接近させたがっているらしくも見えるのです。
それでいて、ある場合には私に対してそれとなく警戒するところもあるようなのですから、初めてこんな場合に出会った私は、時々気持ちを悪くしました。
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それでいて、或る場合には、私に対して暗に警戒するところもあるようなのですから、始めてこんな場合に出会った私は、時々心持をわるくしました。
私は奥さんの態度をどちらかに片づけてもらいたかったのです。
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私は奥さんの態度をどっちかに片付けてもらいたかったのです。
頭の働きから言えば、それが明らかな矛盾に違いなかったのです。
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頭の働きからいえば、それが明らかな矛盾に違いなかったのです。
しかし叔父にだまされた記憶のまだ新しい私は、もう一歩踏みこんだ疑いを挟まずにはいられませんでした。
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しかし叔父に欺かれた記憶のまだ新しい私は、もう一歩踏み込んだ疑いを挟まずにはいられませんでした。
私は奥さんのこの態度のどちらかが本当で、どちらかが偽りだろうと推定しました。
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私は奥さんのこの態度のどっちかが本当で、どっちかが偽りだろうと推定しました。
そうして判断に迷いました。
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そうして判断に迷いました。
ただ判断に迷うばかりでなく、なぜそんな妙なことをするのか、その意味が私には呑みこめなかったのです。
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ただ判断に迷うばかりでなく、何でそんな妙な事をするかその意味が私には呑み込めなかったのです。
理由を考え出そうとしても考え出せない私は、罪を女という一字に塗りつけて我慢したこともありました。
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理由を考え出そうとしても、考え出せない私は、罪を女という一字に塗り付けて我慢した事もありました。
つまり女だからああなのだ、女というものはどうせ愚かなものだ。
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必竟女だからああなのだ、女というものはどうせ愚なものだ。
私の考えは、行き詰まればいつでもここへ落ちて来ました。
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私の考えは行き詰まればいつでもここへ落ちて来ました。
それほど女を見くびっていた私が、またどうしてもお嬢さんを見くびることができなかったのです。
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それほど女を見縊っていた私が、またどうしてもお嬢さんを見縊る事ができなかったのです。
私の理屈は、その人の前ではまったく役に立たないほど動きませんでした。
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私の理屈はその人の前に全く用を為さないほど動きませんでした。
私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛を持っていたのです。
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私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛をもっていたのです。
私が宗教にだけ用いるこの言葉を若い女に応用するのを見て、あなたは変に思うかもしれませんが、私は今でもかたく信じているのです。
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私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、あなたは変に思うかも知れませんが、私は今でも固く信じているのです。
本当の愛は宗教心とそう違ったものでないということを、かたく信じているのです。
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本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じているのです。
私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような気持ちがしました。
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私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしました。
お嬢さんのことを考えると、気高い気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。
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お嬢さんの事を考えると、気高い気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。
もし愛という不可思議なものに両端があって、その高い端には神聖な感じが働き、低い端には性欲が動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極みをつかまえたものです。
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もし愛という不可思議なものに両端があって、その高い端には神聖な感じが働いて、低い端には性欲が動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を捕まえたものです。
私はもとより、人間として肉体を離れることのできない身でした。
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私はもとより人間として肉を離れる事のできない身体でした。
けれどもお嬢さんを見る私の目や、お嬢さんを考える私の心は、まったく肉の匂いを帯びていませんでした。
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けれどもお嬢さんを見る私の眼や、お嬢さんを考える私の心は、全く肉の臭いを帯びていませんでした。
私は母に対して反感を抱くとともに、子に対して恋の度を増して行ったのですから、三人の関係は下宿した初めよりだんだん複雑になって来ました。
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私は母に対して反感を抱くと共に、子に対して恋愛の度を増して行ったのですから、三人の関係は、下宿した始めよりは段々複雑になって来ました。
もっともその変化はほとんど内面的で、外へは現れて来なかったのです。
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もっともその変化はほとんど内面的で外へは現れて来なかったのです。
そのうち私は、あるふとした機会から、今まで奥さんを誤解していたのではなかろうかという気になりました。
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そのうち私はあるひょっとした機会から、今まで奥さんを誤解していたのではなかろうかという気になりました。
奥さんの私に対する矛盾した態度が、どちらも偽りではないのだろうと考え直して来たのです。
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奥さんの私に対する矛盾した態度が、どっちも偽りではないのだろうと考え直して来たのです。
その上、それが交互に奥さんの心を支配するのではなく、いつでも両方が同時に奥さんの胸に存在しているのだと思うようになったのです。
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その上、それが互い違いに奥さんの心を支配するのでなくって、いつでも両方が同時に奥さんの胸に存在しているのだと思うようになったのです。
つまり奥さんが、できるだけお嬢さんを私に近づけようとしていながら同時に私に警戒を加えているのは矛盾のようだけれども、その警戒を加える時に片方の態度を忘れるのでも翻すのでも何でもなく、やはり相変わらず二人を近づけたがっていたのだと観察したのです。
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つまり奥さんができるだけお嬢さんを私に接近させようとしていながら、同時に私に警戒を加えているのは矛盾のようだけれども、その警戒を加える時に、片方の態度を忘れるのでも翻すのでも何でもなく、やはり依然として二人を接近させたがっていたのだと観察したのです。
ただ自分が正当と認める程度以上に二人が密着するのを嫌うのだと解釈したのです。
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ただ自分が正当と認める程度以上に、二人が密着するのを忌むのだと解釈したのです。
お嬢さんに対して肉の方面から近づく気の芽生えなかった私は、その時いらぬ心配だと思いました。
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お嬢さんに対して、肉の方面から近づく念の萌さなかった私は、その時入らぬ心配だと思いました。
しかし奥さんを悪く思う気は、それからなくなりました。
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しかし奥さんを悪く思う気はそれからなくなりました。
十五
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十五
「私は奥さんの態度をいろいろ総合してみて、私がこの家で十分信用されていることを確かめました。しかもその信用は初対面の時からあったのだという証拠さえ発見しました。人を疑い始めた私の胸には、この発見が少し不思議なくらいに響いたのです。私は、男に比べると女の方がそれだけ直感に富んでいるのだろうと思いました。同時に、女が男のためにだまされるのもここにあるのではなかろうかと思いました。奥さんをそう観察する私が、お嬢さんに対して同じような直感を強く働かせていたのだから、今考えるとおかしいのです。私は人を信じないと心に誓いながら、絶対にお嬢さんを信じていたのですから。それでいて、私を信じている奥さんを不思議に思ったのですから。
原文を見る
「私は奥さんの態度を色々綜合して見て、私がここの家で充分信用されている事を確かめました。しかもその信用は初対面の時からあったのだという証拠さえ発見しました。他を疑り始めた私の胸には、この発見が少し奇異なくらいに響いたのです。私は男に比べると女の方がそれだけ直覚に富んでいるのだろうと思いました。同時に、女が男のために、欺されるのもここにあるのではなかろうかと思いました。奥さんをそう観察する私が、お嬢さんに対して同じような直覚を強く働かせていたのだから、今考えるとおかしいのです。私は他を信じないと心に誓いながら、絶対にお嬢さんを信じていたのですから。それでいて、私を信じている奥さんを奇異に思ったのですから。
私は郷里のことについて、あまり多くを語らなかったのです。
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私は郷里の事について余り多くを語らなかったのです。
特に今度の出来事については何も言わなかったのです。
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ことに今度の事件については何もいわなかったのです。
私はそれを念頭に浮かべただけで、すでに一種の不愉快を感じました。
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私はそれを念頭に浮べてさえすでに一種の不愉快を感じました。
私はなるべく奥さんの方の話だけを聞こうと努めました。
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私はなるべく奥さんの方の話だけを聞こうと力めました。
ところがそれでは向こうが承知しません。
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ところがそれでは向うが承知しません。
何かにつけて、私の国もとの事情を知りたがるのです。
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何かに付けて、私の国元の事情を知りたがるのです。
私はとうとう何もかも話してしまいました。
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私はとうとう何もかも話してしまいました。
私は二度と国へは帰らない。
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私は二度と国へは帰らない。
帰っても何もない、あるのはただ父と母の墓ばかりだと告げた時、奥さんは大変感動したらしい様子を見せました。
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帰っても何にもない、あるのはただ父と母の墓ばかりだと告げた時、奥さんは大変感動したらしい様子を見せました。
お嬢さんは泣きました。
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お嬢さんは泣きました。
私は話してよいことをしたと思いました。
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私は話して好い事をしたと思いました。
私は嬉しかったのです。
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私は嬉しかったのです。
私のすべてを聞いた奥さんは、はたして自分の直感が的中したと言わんばかりの顔をし出しました。
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私のすべてを聞いた奥さんは、はたして自分の直覚が的中したといわないばかりの顔をし出しました。
それからは私を、自分の親戚に当たる若い者か何かを扱うように待遇するのです。
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それからは私を自分の親戚に当る若いものか何かを取り扱うように待遇するのです。
私は腹も立ちませんでした。
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私は腹も立ちませんでした。
むしろ愉快に感じたくらいです。
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むしろ愉快に感じたくらいです。
ところがそのうちに、私の疑い深さがまた起こって来ました。
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ところがそのうちに私の猜疑心がまた起って来ました。
私が奥さんを疑い始めたのは、ごくささいなことからでした。
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私が奥さんを疑り始めたのは、ごく些細な事からでした。
しかしそのささいなことを重ねて行くうちに、疑いはだんだん根を張って来ます。
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しかしその些細な事を重ねて行くうちに、疑惑は段々と根を張って来ます。
私はどういう拍子か、ふと奥さんが叔父と同じような意味でお嬢さんを私に近づけようと努めているのではないかと考え出したのです。
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私はどういう拍子かふと奥さんが、叔父と同じような意味で、お嬢さんを私に接近させようと力めるのではないかと考え出したのです。
すると今まで親切に見えた人が、急にずるい策略家として私の目に映って来たのです。
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すると今まで親切に見えた人が、急に狡猾な策略家として私の眼に映じて来たのです。
私は苦々しく唇を噛みました。
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私は苦々しい唇を噛みました。
奥さんは最初から、人が少なくて寂しいから客を置いて世話をするのだと公言していました。
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奥さんは最初から、無人で淋しいから、客を置いて世話をするのだと公言していました。
私もそれを嘘とは思いませんでした。
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私もそれを嘘とは思いませんでした。
親しくなっていろいろ打ち明け話を聞いたあとでも、そこに間違いはなかったように思われます。
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懇意になって色々打ち明け話を聞いた後でも、そこに間違いはなかったように思われます。
しかし全体の経済状態は、大して豊かだというほどではありませんでした。
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しかし一般の経済状態は大して豊かだというほどではありませんでした。
損得の問題から考えてみて、私と特別な関係をつけるのは先方にとって決して損ではなかったのです。
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利害問題から考えてみて、私と特殊の関係をつけるのは、先方に取って決して損ではなかったのです。
私はまた警戒を加えました。
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私はまた警戒を加えました。
けれども娘に対して前に言ったくらいの強い愛を持っている私が、その母に対していくら警戒を加えたって何になるでしょう。
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けれども娘に対して前いったくらいの強い愛をもっている私が、その母に対していくら警戒を加えたって何になるでしょう。
私は一人で自分をあざ笑いました。
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私は一人で自分を嘲笑しました。
馬鹿だなと言って、自分をののしったこともあります。
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馬鹿だなといって、自分を罵った事もあります。
しかしそれだけの矛盾なら、いくら馬鹿でも私は大した苦痛も感じずに済んだのです。
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しかしそれだけの矛盾ならいくら馬鹿でも私は大した苦痛も感ぜずに済んだのです。
私の悩みは、奥さんと同じようにお嬢さんも策略家ではなかろうかという疑問に会って、初めて起こるのです。
原文を見る
私の煩悶は、奥さんと同じようにお嬢さんも策略家ではなかろうかという疑問に会って始めて起るのです。
二人が私の背後で打ち合わせをした上で万事をやっているのだろうと思うと、私は急に苦しくてたまらなくなるのです。
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二人が私の背後で打ち合せをした上、万事をやっているのだろうと思うと、私は急に苦しくって堪らなくなるのです。
不愉快なのではありません。
原文を見る
不愉快なのではありません。
絶体絶命のような、行き詰まった気持ちになるのです。
原文を見る
絶体絶命のような行き詰まった心持になるのです。
それでいて私は、一方でお嬢さんをかたく信じて疑わなかったのです。
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それでいて私は、一方にお嬢さんを固く信じて疑わなかったのです。
だから私は信念と迷いの途中に立って、少しも動くことができなくなってしまいました。
原文を見る
だから私は信念と迷いの途中に立って、少しも動く事ができなくなってしまいました。
私にはどちらも想像であり、またどちらも真実だったのです。
原文を見る
私にはどっちも想像であり、またどっちも真実であったのです。
十六
原文を見る
十六
「私は相変わらず学校へ出席していました。しかし教壇に立つ人の講義が、遠くの方で聞こえるような気持ちがしました。勉強もそのとおりでした。目の中へ入る活字は、心の底までしみ渡らないうちに煙のように消えて行くのです。私はその上、無口になりました。それを二、三の友達が誤解して、瞑想にふけってでもいるかのようにほかの友達に伝えました。私はこの誤解を解こうとはしませんでした。都合のいい仮面を人が貸してくれたのを、かえって幸いとして喜びました。それでも時々は気が済まなかったのでしょう、発作的に焦って動き回り、彼らを驚かせたこともあります。
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「私は相変らず学校へ出席していました。しかし教壇に立つ人の講義が、遠くの方で聞こえるような心持がしました。勉強もその通りでした。眼の中へはいる活字は心の底まで浸み渡らないうちに烟のごとく消えて行くのです。私はその上無口になりました。それを二、三の友達が誤解して、冥想に耽ってでもいるかのように、他の友達に伝えました。私はこの誤解を解こうとはしませんでした。都合の好い仮面を人が貸してくれたのを、かえって仕合せとして喜びました。それでも時々は気が済まなかったのでしょう、発作的に焦燥ぎ廻って彼らを驚かした事もあります。
私の宿は、人の出入りの少ない家でした。
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私の宿は人出入りの少ない家でした。
親類も多くはないようでした。
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親類も多くはないようでした。
お嬢さんの学校友達が時たま遊びに来ることはありましたが、きわめて小さな声で、いるのかいないのか分からないような話をして帰ってしまうのが常でした。
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お嬢さんの学校友達がときたま遊びに来る事はありましたが、極めて小さな声で、いるのだかいないのだか分らないような話をして帰ってしまうのが常でした。
それが私に対する遠慮からだとは、いくら私でも気がつきませんでした。
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それが私に対する遠慮からだとは、いかな私にも気が付きませんでした。
私の所へ訪ねて来る者は大した乱暴者でもありませんでしたけれども、家の人に気がねをするほどの男は一人もいなかったのですから。
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私の所へ訪ねて来るものは、大した乱暴者でもありませんでしたけれども、宅の人に気兼をするほどな男は一人もなかったのですから。
そんなところになると、下宿人の私は主人のようなもので、肝心のお嬢さんがかえって居候の位置にいたのと同じことです。
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そんなところになると、下宿人の私は主人のようなもので、肝心のお嬢さんがかえって食客の位地にいたと同じ事です。
しかしこれはただ思い出したついでに書いただけで、実はどうでも構わない点です。
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しかしこれはただ思い出したついでに書いただけで、実はどうでも構わない点です。
ただそこに、どうでもよくないことが一つあったのです。
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ただそこにどうでもよくない事が一つあったのです。
茶の間か、さもなければお嬢さんの部屋で、突然男の声が聞こえるのです。
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茶の間か、さもなければお嬢さんの室で、突然男の声が聞こえるのです。
その声がまた私の客と違って、はなはだ低いのです。
原文を見る
その声がまた私の客と違って、すこぶる低いのです。
だから何を話しているのか、まるで分からないのです。
原文を見る
だから何を話しているのかまるで分らないのです。
そうして分からなければ分からないほど、私の神経に一種の興奮を与えるのです。
原文を見る
そうして分らなければ分らないほど、私の神経に一種の昂奮を与えるのです。
私は座っていて、変にいらいらし出します。
原文を見る
私は坐っていて変にいらいらし出します。
私は、あれは親類なのだろうか、それともただの知り合いなのだろうかと、まず考えてみるのです。
原文を見る
私はあれは親類なのだろうか、それともただの知り合いなのだろうかとまず考えて見るのです。
それから若い男だろうか、年輩の人だろうかと思案してみるのです。
原文を見る
それから若い男だろうか年輩の人だろうかと思案してみるのです。
座っていて、そんなことの知れるはずがありません。
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坐っていてそんな事の知れようはずがありません。
そうかといって、立って行って障子を開けてみる訳にはなおさら行きません。
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そうかといって、起って行って障子を開けて見る訳にはなおいきません。
私の神経は震えるというよりも、大きな波を打って私を苦しめます。
原文を見る
私の神経は震えるというよりも、大きな波動を打って私を苦しめます。
私は客の帰ったあとで、きっと忘れずにその人の名を聞きました。
原文を見る
私は客の帰った後で、きっと忘れずにその人の名を聞きました。
お嬢さんや奥さんの返事は、またきわめて簡単でした。
原文を見る
お嬢さんや奥さんの返事は、また極めて簡単でした。
私は物足りない顔を二人に見せながら、物足りるまで追及する勇気を持っていなかったのです。
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私は物足りない顔を二人に見せながら、物足りるまで追窮する勇気をもっていなかったのです。
権利はもちろん持っていなかったのでしょう。
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権利は無論もっていなかったのでしょう。
私は自分の品格を重んじなければならないという教育から来た自尊心と、現にその自尊心を裏切っている物欲しそうな顔つきとを、同時に彼らの前に示すのです。
原文を見る
私は自分の品格を重んじなければならないという教育から来た自尊心と、現にその自尊心を裏切している物欲しそうな顔付とを同時に彼らの前に示すのです。
彼らは笑いました。
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彼らは笑いました。
それがあざけりの意味ではなく好意から来たものか、また好意らしく見せるつもりなのか、私はその場で解釈する余地を見出せないほど落ち着きを失ってしまうのです。
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それが嘲笑の意味でなくって、好意から来たものか、また好意らしく見せるつもりなのか、私は即坐に解釈の余地を見出し得ないほど落付を失ってしまうのです。
そうして事が済んだあとで、いつまでも、馬鹿にされたのだ、馬鹿にされたんじゃなかろうかと、何度も心のうちで繰り返すのです。
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そうして事が済んだ後で、いつまでも、馬鹿にされたのだ、馬鹿にされたんじゃなかろうかと、何遍も心のうちで繰り返すのです。
私は自由な身でした。
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私は自由な身体でした。
たとえ学校を途中でやめようが、またどこへ行ってどう暮らそうが、あるいはどこの何者と結婚しようが、誰とも相談する必要のない立場に立っていました。
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たとい学校を中途で已めようが、またどこへ行ってどう暮らそうが、あるいはどこの何者と結婚しようが、誰とも相談する必要のない位地に立っていました。
私は思い切って奥さんに、お嬢さんをもらい受ける話をしてみようかという決心をしたことが、それまでに何度となくありました。
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私は思い切って奥さんにお嬢さんを貰い受ける話をして見ようかという決心をした事がそれまでに何度となくありました。
けれどもそのたびごとに私はためらって、口へはとうとう出さずに終わったのです。
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けれどもそのたびごとに私は躊躇して、口へはとうとう出さずにしまったのです。
断られるのが恐ろしいからではありません。
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断られるのが恐ろしいからではありません。
もし断られたら私の運命がどう変化するか分かりませんけれども、その代わり今までとは方角の違った場所に立って新しい世の中を見渡す都合も生じて来るのですから、そのくらいの勇気は出せば出せたのです。
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もし断られたら、私の運命がどう変化するか分りませんけれども、その代り今までとは方角の違った場所に立って、新しい世の中を見渡す便宜も生じて来るのですから、そのくらいの勇気は出せば出せたのです。
しかし私は、おびき寄せられるのがいやでした。
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しかし私は誘き寄せられるのが厭でした。
人の手に乗るのは何よりも腹立たしかったのです。
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他の手に乗るのは何よりも業腹でした。
叔父にだまされた私は、これから先どんなことがあっても人にはだまされまいと決心したのです。
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叔父に欺された私は、これから先どんな事があっても、人には欺されまいと決心したのです。
十七
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十七
「私が書物ばかり買うのを見て、奥さんは少し着物をこしらえろと言いました。私は実際、田舎で織った木綿ものしか持っていなかったのです。その頃の学生は、絹の入った着物を肌に着けませんでした。私の友達に横浜の商人か何かで、家はなかなか派手に暮らしている者がいましたが、そこへある時、羽二重の胴着が配達で届いたことがあります。するとみんながそれを見て笑いました。その男は恥ずかしがっていろいろ弁解しましたが、せっかくの胴着を行李の底へ放りこんで使わないのです。それをまた大勢が寄ってたかって、わざと着せました。すると運悪くその胴着にしらみがたかりました。友達はちょうど幸いとでも思ったのでしょう、評判の胴着をぐるぐると丸めて、散歩に出たついでに根津の大きなどぶの中へ捨ててしまいました。その時いっしょに歩いていた私は、橋の上に立って笑いながら友達のすることを眺めていましたが、私の胸のどこにも、もったいないという気は少しも起こりませんでした。
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「私が書物ばかり買うのを見て、奥さんは少し着物を拵えろといいました。私は実際田舎で織った木綿ものしかもっていなかったのです。その頃の学生は絹の入った着物を肌に着けませんでした。私の友達に横浜の商人か何かで、宅はなかなか派出に暮しているものがありましたが、そこへある時羽二重の胴着が配達で届いた事があります。すると皆ながそれを見て笑いました。その男は恥ずかしがって色々弁解しましたが、折角の胴着を行李の底へ放り込んで利用しないのです。それをまた大勢が寄ってたかって、わざと着せました。すると運悪くその胴着に蝨がたかりました。友達はちょうど幸いとでも思ったのでしょう、評判の胴着をぐるぐると丸めて、散歩に出たついでに、根津の大きな泥溝の中へ棄ててしまいました。その時いっしょに歩いていた私は、橋の上に立って笑いながら友達の所作を眺めていましたが、私の胸のどこにも勿体ないという気は少しも起りませんでした。
その頃から見ると、私もだいぶ大人になっていました。
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その頃から見ると私も大分大人になっていました。
けれどもまだ、自分でよそ行きの着物をこしらえるというほどの分別は出なかったのです。
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けれどもまだ自分で余所行の着物を拵えるというほどの分別は出なかったのです。
私は、卒業して髭を生やす時代が来なければ服装の心配などはするに及ばないものだという、変な考えを持っていたのです。
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私は卒業して髯を生やす時代が来なければ、服装の心配などはするに及ばないものだという変な考えをもっていたのです。
それで奥さんに、書物は要るが着物は要らないと言いました。
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それで奥さんに書物は要るが着物は要らないといいました。
奥さんは、私の買う書物の分量を知っていました。
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奥さんは私の買う書物の分量を知っていました。
買った本をみんな読むのかと聞くのです。
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買った本をみんな読むのかと聞くのです。
私の買うものの中には字引きもありますが、当然目を通すべきはずでありながらページさえ切っていないものも多少あったのですから、私は返事に困りました。
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私の買うものの中には字引きもありますが、当然眼を通すべきはずでありながら、頁さえ切ってないのも多少あったのですから、私は返事に窮しました。
私は、どうせ要らないものを買うなら書物でも衣服でも同じだということに気がつきました。
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私はどうせ要らないものを買うなら、書物でも衣服でも同じだという事に気が付きました。
その上、私はいろいろ世話になるという口実のもとに、お嬢さんの気に入るような帯か反物を買ってやりたかったのです。
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その上私は色々世話になるという口実の下に、お嬢さんの気に入るような帯か反物を買ってやりたかったのです。
それで万事を奥さんに頼みました。
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それで万事を奥さんに依頼しました。
奥さんは、自分一人で行くとは言いません。
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奥さんは自分一人で行くとはいいません。
私にもいっしょに来いと命令するのです。
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私にもいっしょに来いと命令するのです。
お嬢さんも行かなくてはいけないと言うのです。
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お嬢さんも行かなくてはいけないというのです。
今と違った空気の中で育てられた私どもは、学生の身分としてあまり若い女などといっしょに歩き回る習慣を持っていなかったものです。
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今と違った空気の中に育てられた私どもは、学生の身分として、あまり若い女などといっしょに歩き廻る習慣をもっていなかったものです。
その頃の私は今よりもまだ習慣の奴隷でしたから、多少ためらいましたが、思い切って出掛けました。
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その頃の私は今よりもまだ習慣の奴隷でしたから、多少躊躇しましたが、思い切って出掛けました。
お嬢さんは大層着飾っていました。
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お嬢さんは大層着飾っていました。
もともと色が白いくせに、白粉を豊富に塗ったものだから、なお目立ちます。
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地体が色の白いくせに、白粉を豊富に塗ったものだからなお目立ちます。
道行く人がじろじろ見て行くのです。
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往来の人がじろじろ見てゆくのです。
そうしてお嬢さんを見た者はきっとその視線をひるがえして私の顔を見るのだから、変なものでした。
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そうしてお嬢さんを見たものはきっとその視線をひるがえして、私の顔を見るのだから、変なものでした。
三人は日本橋へ行って、買いたいものを買いました。
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三人は日本橋へ行って買いたいものを買いました。
買う間にもいろいろ気が変わるので、思ったより時間がかかりました。
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買う間にも色々気が変るので、思ったより暇がかかりました。
奥さんはわざわざ私の名を呼んで、どうだろうと相談をするのです。
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奥さんはわざわざ私の名を呼んでどうだろうと相談をするのです。
時々反物をお嬢さんの肩から胸へ縦に当てておいて、私に二、三歩下がって見てくれと言うのです。
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時々反物をお嬢さんの肩から胸へ竪に宛てておいて、私に二、三歩遠退いて見てくれろというのです。
私はそのたびごとに、それは駄目だとか、それはよく似合うとか、とにかく一人前の口をききました。
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私はそのたびごとに、それは駄目だとか、それはよく似合うとか、とにかく一人前の口を聞きました。
こんなことで時間がかかって、帰りは夕飯の時刻になりました。
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こんな事で時間が掛って帰りは夕飯の時刻になりました。
奥さんは私に対するお礼に何かご馳走すると言って、木原店という寄席のある狭い横町へ私を連れこみました。
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奥さんは私に対するお礼に何かご馳走するといって、木原店という寄席のある狭い横丁へ私を連れ込みました。
横町も狭いが、食事をさせる店も狭いものでした。
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横丁も狭いが、飯を食わせる家も狭いものでした。
この辺の地理をまるで知らない私は、奥さんの知識に驚いたくらいです。
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この辺の地理を一向心得ない私は、奥さんの知識に驚いたくらいです。
我々は夜になって家へ帰りました。
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我々は夜に入って家へ帰りました。
その翌日は日曜でしたから、私は一日じゅう部屋の中に閉じこもっていました。
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その翌日は日曜でしたから、私は終日室の中に閉じ籠っていました。
月曜になって学校へ出ると、私は朝っぱらから級友の一人にからかわれました。
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月曜になって、学校へ出ると、私は朝っぱらそうそう級友の一人から調戯われました。
いつ妻を迎えたのかと、わざとらしく聞かれるのです。
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いつ妻を迎えたのかといってわざとらしく聞かれるのです。
それから私の妻は非常に美人だと言って褒めるのです。
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それから私の細君は非常に美人だといって賞めるのです。
私は三人連れで日本橋へ出掛けたところを、その男にどこかで見られたものと見えます。
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私は三人連で日本橋へ出掛けたところを、その男にどこかで見られたものとみえます。
十八
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十八
「私は家へ帰って、奥さんとお嬢さんにその話をしました。奥さんは笑いました。しかしさぞ迷惑だろうと言って、私の顔を見ました。私はその時、腹の中で、男はこんな風にして女から気を引かれてみられるのかと思いました。奥さんの目は、十分私にそう思わせるだけの意味を持っていたのです。私はその時、自分の考えているとおりを率直に打ち明けてしまえばよかったかもしれません。しかし私にはもう、疑いというすっきりしない塊りがこびりついていました。私は打ち明けようとして、ひょいと止まりました。そうして話の角度をわざと少しそらしました。
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「私は宅へ帰って奥さんとお嬢さんにその話をしました。奥さんは笑いました。しかし定めて迷惑だろうといって私の顔を見ました。私はその時腹のなかで、男はこんな風にして、女から気を引いて見られるのかと思いました。奥さんの眼は充分私にそう思わせるだけの意味をもっていたのです。私はその時自分の考えている通りを直截に打ち明けてしまえば好かったかも知れません。しかし私にはもう狐疑という薩張りしない塊りがこびり付いていました。私は打ち明けようとして、ひょいと留まりました。そうして話の角度を故意に少し外らしました。
私は肝心の自分というものを、問題の中から引き抜いてしまいました。
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私は肝心の自分というものを問題の中から引き抜いてしまいました。
そうしてお嬢さんの結婚について、奥さんの意中を探ったのです。
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そうしてお嬢さんの結婚について、奥さんの意中を探ったのです。
奥さんは、二、三そういう話のないでもないようなことを、はっきり私に告げました。
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奥さんは二、三そういう話のないでもないような事を、明らかに私に告げました。
しかしまだ学校へ出ているくらいで年が若いから、こちらではさほど急がないのだと説明しました。
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しかしまだ学校へ出ているくらいで年が若いから、こちらではさほど急がないのだと説明しました。
奥さんは口には出さないけれども、お嬢さんの器量にだいぶ重きを置いているらしく見えました。
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奥さんは口へは出さないけれども、お嬢さんの容色に大分重きを置いているらしく見えました。
決めようと思えばいつでも決められるんだから、というようなことさえ口に出しました。
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極めようと思えばいつでも極められるんだからというような事さえ口外しました。
それからお嬢さんよりほかに子供がないのも、簡単に手放したがらない原因になっていました。
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それからお嬢さんより外に子供がないのも、容易に手離したがらない源因になっていました。
嫁にやるか婿を取るか、それにさえ迷っているのではなかろうかと思われるところもありました。
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嫁にやるか、聟を取るか、それにさえ迷っているのではなかろうかと思われるところもありました。
話しているうちに、私はいろいろの知識を奥さんから得たような気がしました。
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話しているうちに、私は色々の知識を奥さんから得たような気がしました。
しかしそのために、私は機会を逸したのと同じ結果に陥ってしまいました。
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しかしそれがために、私は機会を逸したと同様の結果に陥ってしまいました。
私は自分について、ついに一言も口を開くことができませんでした。
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私は自分について、ついに一言も口を開く事ができませんでした。
私はいいかげんなところで話を切り上げて、自分の部屋へ帰ろうとしました。
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私は好い加減なところで話を切り上げて、自分の室へ帰ろうとしました。
さっきまでそばにいて、あんまりだわとか何とか言って笑ったお嬢さんは、いつの間にか向こうの隅へ行って、背中をこちらへ向けていました。
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さっきまで傍にいて、あんまりだわとか何とかいって笑ったお嬢さんは、いつの間にか向うの隅に行って、背中をこっちへ向けていました。
私は立とうとして振り返った時、その後ろ姿を見たのです。
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私は立とうとして振り返った時、その後姿を見たのです。
後ろ姿だけで人間の心が読めるはずはありません。
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後姿だけで人間の心が読めるはずはありません。
お嬢さんがこの問題についてどう考えているか、私には見当がつきませんでした。
原文を見る
お嬢さんがこの問題についてどう考えているか、私には見当が付きませんでした。
お嬢さんは戸棚を前にして座っていました。
原文を見る
お嬢さんは戸棚を前にして坐っていました。
その戸棚の三十センチばかり開いている隙間から、お嬢さんは何か引き出して膝の上へ置いて眺めているらしかったのです。
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その戸棚の一尺ばかり開いている隙間から、お嬢さんは何か引き出して膝の上へ置いて眺めているらしかったのです。
私の目は、その隙間の端に、おととい買った反物を見つけ出しました。
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私の眼はその隙間の端に、一昨日買った反物を見付け出しました。
私の着物もお嬢さんのも、同じ戸棚の隅に重ねてあったのです。
原文を見る
私の着物もお嬢さんのも同じ戸棚の隅に重ねてあったのです。
私が何も言わずに席を立ちかけると、奥さんは急に改まった調子になって、私にどう思うかと聞くのです。
原文を見る
私が何ともいわずに席を立ち掛けると、奥さんは急に改まった調子になって、私にどう思うかと聞くのです。
その聞き方は、何をどう思うのかと問い返さなければ分からないほど不意でした。
原文を見る
その聞き方は何をどう思うのかと反問しなければ解らないほど不意でした。
それが、お嬢さんを早く片づけた方が得策だろうかという意味だとはっきりした時、私はなるべくゆっくりの方がいいだろうと答えました。
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それがお嬢さんを早く片付けた方が得策だろうかという意味だと判然した時、私はなるべく緩くらな方がいいだろうと答えました。
奥さんは、自分もそう思うと言いました。
原文を見る
奥さんは自分もそう思うといいました。
奥さんとお嬢さんと私の関係がこうなっている所へ、もう一人男が入りこまなければならないことになりました。
原文を見る
奥さんとお嬢さんと私の関係がこうなっている所へ、もう一人男が入り込まなければならない事になりました。
その男がこの家庭の一員となった結果は、私の運命に非常な変化をもたらしています。
原文を見る
その男がこの家庭の一員となった結果は、私の運命に非常な変化を来しています。
もしその男が私の生活の行く道を横切らなかったなら、おそらくこういう長いものをあなたに書き残す必要も起こらなかったでしょう。
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もしその男が私の生活の行路を横切らなかったならば、おそらくこういう長いものをあなたに書き残す必要も起らなかったでしょう。
私はやすやすと、魔の通る前に立って、その瞬間の影に一生をうす暗くされて気がつかずにいたのと同じことです。
原文を見る
私は手もなく、魔の通る前に立って、その瞬間の影に一生を薄暗くされて気が付かずにいたのと同じ事です。
白状すると、私は自分でその男を家へ引っ張って来たのです。
原文を見る
自白すると、私は自分でその男を宅へ引張って来たのです。
もちろん奥さんの許しも必要ですから、私は最初に何もかも隠さず打ち明けて、奥さんに頼んだのです。
原文を見る
無論奥さんの許諾も必要ですから、私は最初何もかも隠さず打ち明けて、奥さんに頼んだのです。
ところが奥さんは、よせと言いました。
原文を見る
ところが奥さんは止せといいました。
私には連れて来なければ済まない事情が十分あるのに、よせという奥さんの方には、筋の立った理屈はまるでなかったのです。
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私には連れて来なければ済まない事情が充分あるのに、止せという奥さんの方には、筋の立った理屈はまるでなかったのです。
だから私は、自分のよいと思うところを押し切って断行してしまいました。
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だから私は私の善いと思うところを強いて断行してしまいました。
十九
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十九
「私はその友達の名をここでKと呼んでおきます。私はこのKと子供の時からの仲よしでした。子供の時からと言えば断らないでも分かるでしょう、二人には同じ郷里という縁があったのです。Kは真宗の坊さんの子でした。もっとも長男ではありません、次男でした。それである医者の所へ養子にやられたのです。私の生まれた地方は大変本願寺派の勢力の強い所でしたから、真宗の坊さんはほかの者に比べると、物質的に割がよかったようです。一例を挙げると、もし坊さんに女の子があって、その女の子が年頃になったとすると、檀家の者が相談してどこか適当な所へ嫁にやってくれます。もちろん費用は坊さんのふところから出るのではありません。そんな訳で真宗の寺はたいてい裕福でした。
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「私はその友達の名をここにKと呼んでおきます。私はこのKと小供の時からの仲好でした。小供の時からといえば断らないでも解っているでしょう、二人には同郷の縁故があったのです。Kは真宗の坊さんの子でした。もっとも長男ではありません、次男でした。それである医者の所へ養子にやられたのです。私の生れた地方は大変本願寺派の勢力の強い所でしたから、真宗の坊さんは他のものに比べると、物質的に割が好かったようです。一例を挙げると、もし坊さんに女の子があって、その女の子が年頃になったとすると、檀家のものが相談して、どこか適当な所へ嫁にやってくれます。無論費用は坊さんの懐から出るのではありません。そんな訳で真宗寺は大抵有福でした。
Kの生まれた家も、相応に暮らしていたのです。
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Kの生れた家も相応に暮らしていたのです。
しかし次男を東京へ勉強に出すほどの余力があったかどうかは知りません。
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しかし次男を東京へ修業に出すほどの余力があったかどうか知りません。
また勉強に出られる都合があるので養子の話がまとまったものかどうか、そこも私には分かりません。
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また修業に出られる便宜があるので、養子の相談が纏まったものかどうか、そこも私には分りません。
とにかくKは医者の家へ養子に行ったのです。
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とにかくKは医者の家へ養子に行ったのです。
それは私たちがまだ中学にいる時のことでした。
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それは私たちがまだ中学にいる時の事でした。
私は教室で先生が名簿を呼ぶ時に、Kの姓が急に変わっていたので驚いたのを、今でも記憶しています。
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私は教場で先生が名簿を呼ぶ時に、Kの姓が急に変っていたので驚いたのを今でも記憶しています。
Kの養子先も、かなりな財産家でした。
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Kの養子先もかなりな財産家でした。
Kはそこから学費をもらって東京へ出て来たのです。
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Kはそこから学資を貰って東京へ出て来たのです。
出て来たのは私といっしょではなかったけれども、東京へ着いてからはすぐ同じ下宿に入りました。
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出て来たのは私といっしょでなかったけれども、東京へ着いてからは、すぐ同じ下宿に入りました。
その時分は一つの部屋によく二人も三人も机を並べて寝起きしたものです。
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その時分は一つ室によく二人も三人も机を並べて寝起きしたものです。
Kと私も、二人で同じ部屋にいました。
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Kと私も二人で同じ間にいました。
山で生け捕られた動物が、檻の中で抱き合いながら外をにらむようなものだったでしょう。
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山で生捕られた動物が、檻の中で抱き合いながら、外を睨めるようなものでしたろう。
二人は東京と東京の人を恐れました。
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二人は東京と東京の人を畏れました。
それでいて六畳の部屋の中では、天下を見下すようなことを言っていたのです。
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それでいて六畳の間の中では、天下を睥睨するような事をいっていたのです。
しかし我々は真面目でした。
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しかし我々は真面目でした。
我々は実際、偉くなるつもりでいたのです。
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我々は実際偉くなるつもりでいたのです。
特にKは強かったのです。
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ことにKは強かったのです。
寺に生まれた彼は、常に精進という言葉を使いました。
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寺に生れた彼は、常に精進という言葉を使いました。
そうして彼の行いや動作はことごとく、この精進の一語で形容されるように私には見えたのです。
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そうして彼の行為動作は悉くこの精進の一語で形容されるように、私には見えたのです。
私は心のうちで、常にKを畏れ敬っていました。
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私は心のうちで常にKを畏敬していました。
Kは中学にいた頃から、宗教とか哲学とかいう難しい問題で私を困らせました。
原文を見る
Kは中学にいた頃から、宗教とか哲学とかいうむずかしい問題で、私を困らせました。
これは彼の父の影響なのか、または自分の生まれた家、すなわち寺という一種特別な建物に属する空気の影響なのか、分かりません。
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これは彼の父の感化なのか、または自分の生れた家、すなわち寺という一種特別な建物に属する空気の影響なのか、解りません。
ともかく彼は、普通の坊さんよりはるかに坊さんらしい性格を持っていたように見受けられます。
原文を見る
ともかくも彼は普通の坊さんよりは遥かに坊さんらしい性格をもっていたように見受けられます。
もともとKの養家では、彼を医者にするつもりで東京へ出したのです。
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元来Kの養家では彼を医者にするつもりで東京へ出したのです。
しかるに頑固な彼は、医者にはならない決心をもって東京へ出て来たのです。
原文を見る
しかるに頑固な彼は医者にはならない決心をもって、東京へ出て来たのです。
私は彼に向かって、それでは養父母をだますのと同じことではないかと責めました。
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私は彼に向って、それでは養父母を欺くと同じ事ではないかと詰りました。
大胆な彼は、そうだと答えるのです。
原文を見る
大胆な彼はそうだと答えるのです。
道のためなら、そのくらいのことをしても構わないと言うのです。
原文を見る
道のためなら、そのくらいの事をしても構わないというのです。
その時彼の使った道という言葉は、おそらく彼にもよく分かっていなかったでしょう。
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その時彼の用いた道という言葉は、おそらく彼にもよく解っていなかったでしょう。
私はもちろん、分かったとは言えません。
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私は無論解ったとはいえません。
しかし年の若い私たちには、この漠然とした言葉が尊く響いたのです。
原文を見る
しかし年の若い私たちには、この漠然とした言葉が尊とく響いたのです。
たとえ分からないにしても、気高い気持ちに支配されてそちらの方へ動いて行こうとする意気ごみに、卑しいところの見えるはずはありません。
原文を見る
よし解らないにしても気高い心持に支配されて、そちらの方へ動いて行こうとする意気組に卑しいところの見えるはずはありません。
私はKの説に賛成しました。
原文を見る
私はKの説に賛成しました。
私の同意がKにとってどのくらい力があったか、それは私も知りません。
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私の同意がKにとってどのくらい有力であったか、それは私も知りません。
一途な彼は、たとえ私がいくら反対しようとも、やはり自分の思いどおりを貫いたに違いなかろうとは察せられます。
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一図な彼は、たとい私がいくら反対しようとも、やはり自分の思い通りを貫いたに違いなかろうとは察せられます。
しかし万一の場合、賛成の声援を与えた私に多少の責任ができて来るくらいのことは、子供ながら私はよく承知していたつもりです。
原文を見る
しかし万一の場合、賛成の声援を与えた私に、多少の責任ができてくるぐらいの事は、子供ながら私はよく承知していたつもりです。
たとえその時にそれだけの覚悟がないにしても、大人になった目で過去を振り返る必要が起こった場合には、私に割り当てられただけの責任は私の方で負うのが当然になるくらいの語気で、私は賛成したのです。
原文を見る
よしその時にそれだけの覚悟がないにしても、成人した眼で、過去を振り返る必要が起った場合には、私に割り当てられただけの責任は、私の方で帯びるのが至当になるくらいな語気で私は賛成したのです。
二十
原文を見る
二十
「Kと私は同じ科へ入学しました。Kは澄ました顔をして、養家から送ってくれる金で自分の好きな道を歩き出したのです。知れはしないという安心と、知れたって構うものかという度胸とが、二つながらKの心にあったものと見るよりほか仕方がありません。Kは私よりも平気でした。
原文を見る
「Kと私は同じ科へ入学しました。Kは澄ました顔をして、養家から送ってくれる金で、自分の好きな道を歩き出したのです。知れはしないという安心と、知れたって構うものかという度胸とが、二つながらKの心にあったものと見るよりほか仕方がありません。Kは私よりも平気でした。
最初の夏休みに、Kは国へ帰りませんでした。
原文を見る
最初の夏休みにKは国へ帰りませんでした。
駒込のある寺の一室を借りて勉強するのだと言っていました。
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駒込のある寺の一間を借りて勉強するのだといっていました。
私が帰って来たのは九月上旬でしたが、彼ははたして大観音のそばの汚い寺の中に閉じこもっていました。
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私が帰って来たのは九月上旬でしたが、彼ははたして大観音の傍の汚い寺の中に閉じ籠っていました。
彼の部屋は本堂のすぐそばの狭い部屋でしたが、彼はそこで自分の思うとおりに勉強ができたのを喜んでいるらしく見えました。
原文を見る
彼の座敷は本堂のすぐ傍の狭い室でしたが、彼はそこで自分の思う通りに勉強ができたのを喜んでいるらしく見えました。
私はその時、彼の生活がだんだん坊さんらしくなって行くのを認めたように思います。
原文を見る
私はその時彼の生活の段々坊さんらしくなって行くのを認めたように思います。
彼は手首に数珠をかけていました。
原文を見る
彼は手頸に珠数を懸けていました。
私がそれは何のためだと尋ねたら、彼は親指で一つ二つと数える真似をして見せました。
原文を見る
私がそれは何のためだと尋ねたら、彼は親指で一つ二つと勘定する真似をして見せました。
彼はこうして日に何度も数珠の輪を数えるらしかったのです。
原文を見る
彼はこうして日に何遍も珠数の輪を勘定するらしかったのです。
ただしその意味は、私には分かりません。
原文を見る
ただしその意味は私には解りません。
丸い輪になっているものを一粒ずつ数えて行けば、どこまで数えて行っても終わりはありません。
原文を見る
円い輪になっているものを一粒ずつ数えてゆけば、どこまで数えていっても終局はありません。
Kはどんな所でどんな気持ちがして、繰る手を止めたでしょう。
原文を見る
Kはどんな所でどんな心持がして、爪繰る手を留めたでしょう。
つまらないことですが、私はよくそれを思うのです。
原文を見る
詰らない事ですが、私はよくそれを思うのです。
私はまた彼の部屋に聖書を見ました。
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私はまた彼の室に聖書を見ました。
私はそれまでにお経の名を度々彼の口から聞いた覚えがありますが、キリスト教については問われたことも答えたためしもなかったのですから、ちょっと驚きました。
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私はそれまでにお経の名を度々彼の口から聞いた覚えがありますが、基督教については、問われた事も答えられた例もなかったのですから、ちょっと驚きました。
私はその理由を尋ねずにはいられませんでした。
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私はその理由を訊ねずにはいられませんでした。
Kは理由はないと言いました。
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Kは理由はないといいました。
これほど人のありがたがる書物なら、読んでみるのが当たり前だろうとも言いました。
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これほど人の有難がる書物なら読んでみるのが当り前だろうともいいました。
その上、彼は機会があったら『コーラン』
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その上彼は機会があったら、『コーラン』
も読んでみるつもりだと言いました。
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も読んでみるつもりだといいました。
彼はムハンマドと剣という言葉に、大きな興味を持っているようでした。
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彼はモハメッドと剣という言葉に大いなる興味をもっているようでした。
二年目の夏に、彼は国から催促を受けてようやく帰りました。
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二年目の夏に彼は国から催促を受けてようやく帰りました。
帰っても専門のことは何も言わなかったものと見えます。
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帰っても専門の事は何にもいわなかったものとみえます。
家でもまた、そこに気がつかなかったのです。
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家でもまたそこに気が付かなかったのです。
あなたは学校教育を受けた人だからこういう事情をよく分かっているでしょうが、世間は学生の生活だの学校の規則だのに関して、驚くほど無知なものです。
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あなたは学校教育を受けた人だから、こういう消息をよく解しているでしょうが、世間は学生の生活だの、学校の規則だのに関して、驚くべく無知なものです。
我々に何でもないことが、まるで外部へは通じていません。
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我々に何でもない事が一向外部へは通じていません。
我々はまた比較的内部の空気ばかり吸っているので、学校内のことは細かいことも大きなことも世の中に知れ渡っているはずだと思い過ぎる癖があります。
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我々はまた比較的内部の空気ばかり吸っているので、校内の事は細大ともに世の中に知れ渡っているはずだと思い過ぎる癖があります。
Kはその点にかけて私より世間を知っていたのでしょう、澄ました顔でまた戻って来ました。
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Kはその点にかけて、私より世間を知っていたのでしょう、澄ました顔でまた戻って来ました。
国を発つ時は私もいっしょでしたから、汽車へ乗るやいなや、すぐどうだったとKに問いました。
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国を立つ時は私もいっしょでしたから、汽車へ乗るや否やすぐどうだったとKに問いました。
Kはどうでもなかったと答えたのです。
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Kはどうでもなかったと答えたのです。
三度目の夏は、ちょうど私が永久に父母の墓のある土地を去ろうと決心した年です。
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三度目の夏はちょうど私が永久に父母の墳墓の地を去ろうと決心した年です。
私はその時Kに帰郷を勧めましたが、Kは応じませんでした。
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私はその時Kに帰国を勧めましたが、Kは応じませんでした。
そう毎年家へ帰って何をするのだと言うのです。
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そう毎年家へ帰って何をするのだというのです。
彼はまた踏みとどまって勉強するつもりらしかったのです。
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彼はまた踏み留まって勉強するつもりらしかったのです。
私は仕方なしに、一人で東京を発つことにしました。
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私は仕方なしに一人で東京を立つ事にしました。
私の郷里で暮らしたその二か月間が私の運命にとっていかに波乱に富んだものかは、前に書いたとおりですから繰り返しません。
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私の郷里で暮らしたその二カ月間が、私の運命にとって、いかに波瀾に富んだものかは、前に書いた通りですから繰り返しません。
私は不平と憂鬱と孤独の寂しさとを一つ胸に抱いて、九月に入ってまたKに会いました。
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私は不平と幽欝と孤独の淋しさとを一つ胸に抱いて、九月に入ってまたKに逢いました。
すると彼の運命もまた、私と同様に調子を狂わせていました。
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すると彼の運命もまた私と同様に変調を示していました。
彼は私の知らないうちに養家先へ手紙を出して、こちらから自分の偽りを白状してしまったのです。
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彼は私の知らないうちに、養家先へ手紙を出して、こっちから自分の詐りを白状してしまったのです。
彼は最初からその覚悟でいたのだそうです。
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彼は最初からその覚悟でいたのだそうです。
今さら仕方がないから、お前の好きなものをやるよりほかに道はあるまいと、向こうに言わせるつもりもあったのでしょうか。
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今更仕方がないから、お前の好きなものをやるより外に途はあるまいと、向うにいわせるつもりもあったのでしょうか。
とにかく大学へ入ってまでも養父母をだまし通す気はなかったらしいのです。
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とにかく大学へ入ってまでも養父母を欺き通す気はなかったらしいのです。
また、だまそうとしてもそう長く続くものではないと見抜いたのかもしれません。
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また欺こうとしても、そう長く続くものではないと見抜いたのかも知れません。
二十一
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二十一
「Kの手紙を見た養父は大変怒りました。親をだますような不届き者に学費を送ることはできないという厳しい返事を、すぐ寄こしたのです。Kはそれを私に見せました。Kはまたそれと前後して実家から受け取った手紙も見せました。これにも前に劣らないほど厳しい叱責の言葉がありました。養家先に対して済まないという義理が加わっているからでもありましょうが、こちらでも一切構わないと書いてありました。Kがこの一件のために籍を戻してしまうか、それともほかに折り合いの道を講じて相変わらず養家に留まるか、そこはこれから起こる問題として、差し当たりどうかしなければならないのは、月々に必要な学費でした。
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「Kの手紙を見た養父は大変怒りました。親を騙すような不埒なものに学資を送る事はできないという厳しい返事をすぐ寄こしたのです。Kはそれを私に見せました。Kはまたそれと前後して実家から受け取った書翰も見せました。これにも前に劣らないほど厳しい詰責の言葉がありました。養家先へ対して済まないという義理が加わっているからでもありましょうが、こっちでも一切構わないと書いてありました。Kがこの事件のために復籍してしまうか、それとも他に妥協の道を講じて、依然養家に留まるか、そこはこれから起る問題として、差し当りどうかしなければならないのは、月々に必要な学資でした。
私はその点についてKに何か考えがあるのかと尋ねました。
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私はその点についてKに何か考えがあるのかと尋ねました。
Kは夜学校の教師でもするつもりだと答えました。
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Kは夜学校の教師でもするつもりだと答えました。
その時分は今に比べると思いのほか世の中がゆるやかでしたから、内職の口はあなたが考えるほど品薄でもなかったのです。
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その時分は今に比べると、存外世の中が寛ろいでいましたから、内職の口はあなたが考えるほど払底でもなかったのです。
私はKがそれで十分やって行けるだろうと考えました。
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私はKがそれで充分やって行けるだろうと考えました。
しかし私には私の責任があります。
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しかし私には私の責任があります。
Kが養家の希望に背いて自分の行きたい道を行こうとした時、賛成したのは私です。
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Kが養家の希望に背いて、自分の行きたい道を行こうとした時、賛成したものは私です。
私はそうかといって、手をこまねいている訳に行きません。
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私はそうかといって手を拱いでいる訳にゆきません。
私はその場で、物質的な援助をすぐ申し出しました。
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私はその場で物質的の補助をすぐ申し出しました。
するとKは一も二もなくそれをはねつけました。
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するとKは一も二もなくそれを跳ね付けました。
彼の性格から言って、自活の方が友達の保護の下に立つよりはるかに快く思われたのでしょう。
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彼の性格からいって、自活の方が友達の保護の下に立つより遥に快よく思われたのでしょう。
彼は大学へ入った以上、自分一人ぐらいどうにかできなければ男でないようなことを言いました。
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彼は大学へはいった以上、自分一人ぐらいどうかできなければ男でないような事をいいました。
私は自分の責任を全うするために、Kの感情を傷つけるに忍びませんでした。
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私は私の責任を完うするために、Kの感情を傷つけるに忍びませんでした。
それで彼の思うとおりにさせて、私は手を引きました。
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それで彼の思う通りにさせて、私は手を引きました。
Kは自分の望むような口を、まもなく探し出しました。
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Kは自分の望むような口をほどなく探し出しました。
しかし時間を惜しむ彼にとって、この仕事がどのくらいつらかったかは想像するまでもないことです。
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しかし時間を惜しむ彼にとって、この仕事がどのくらい辛かったかは想像するまでもない事です。
彼は今までどおり勉強の手を少しも緩めずに、新しい荷を背負って猛進したのです。
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彼は今まで通り勉強の手をちっとも緩めずに、新しい荷を背負って猛進したのです。
私は彼の健康を気づかいました。
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私は彼の健康を気遣いました。
しかし気の強い彼は笑うだけで、少しも私の注意に取り合いませんでした。
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しかし剛気な彼は笑うだけで、少しも私の注意に取り合いませんでした。
同時に彼と養家との関係は、だんだんこんがらがって来ました。
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同時に彼と養家との関係は、段々こん絡がって来ました。
時間に余裕のなくなった彼は前のように私と話す機会を奪われたので、私はついにそのいきさつを詳しく聞かずに終わりましたが、解決がますます困難になって行くことだけは承知していました。
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時間に余裕のなくなった彼は、前のように私と話す機会を奪われたので、私はついにその顛末を詳しく聞かずにしまいましたが、解決のますます困難になってゆく事だけは承知していました。
人が間に入って調停を試みたことも知っていました。
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人が仲に入って調停を試みた事も知っていました。
その人は手紙でKに帰郷を促したのですが、Kはとうてい駄目だと言って応じませんでした。
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その人は手紙でKに帰国を促したのですが、Kは到底駄目だといって、応じませんでした。
この強情なところが、――Kは学年の途中で帰れないのだから仕方がないと言いましたけれども、向こうから見れば強情でしょう。
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この剛情なところが、――Kは学年中で帰れないのだから仕方がないといいましたけれども、向うから見れば剛情でしょう。
そこが事態をますます険悪にしたようにも見えました。
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そこが事態をますます険悪にしたようにも見えました。
彼は養家の感情を害するとともに、実家の怒りも買うようになりました。
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彼は養家の感情を害すると共に、実家の怒りも買うようになりました。
私が心配して双方を和らげるために手紙を書いた時は、もう何の効き目もありませんでした。
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私が心配して双方を融和するために手紙を書いた時は、もう何の効果もありませんでした。
私の手紙は、一言の返事さえ受けずに葬られてしまったのです。
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私の手紙は一言の返事さえ受けずに葬られてしまったのです。
私も腹が立ちました。
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私も腹が立ちました。
今までも成り行き上Kに同情していた私は、それ以後は理非を度外に置いてもKの味方をする気になりました。
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今までも行掛り上、Kに同情していた私は、それ以後は理否を度外に置いてもKの味方をする気になりました。
最後にKは、とうとう籍を戻すことに決めました。
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最後にKはとうとう復籍に決しました。
養家から出してもらった学費は、実家で弁償することになったのです。
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養家から出してもらった学資は、実家で弁償する事になったのです。
その代わり、実家の方でも構わないから、これからは勝手にしろというのです。
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その代り実家の方でも構わないから、これからは勝手にしろというのです。
昔の言葉で言えば、まあ勘当なのでしょう。
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昔の言葉でいえば、まあ勘当なのでしょう。
あるいはそれほど強いものでなかったかもしれませんが、当人はそう解釈していました。
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あるいはそれほど強いものでなかったかも知れませんが、当人はそう解釈していました。
Kは母のない男でした。
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Kは母のない男でした。
彼の性格の一面は、たしかに継母に育てられた結果とも見ることができるようです。
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彼の性格の一面は、たしかに継母に育てられた結果とも見る事ができるようです。
もし彼の実の母が生きていたら、あるいは彼と実家との関係に、こうまで隔たりができずに済んだかもしれないと私は思うのです。
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もし彼の実の母が生きていたら、あるいは彼と実家との関係に、こうまで隔たりができずに済んだかも知れないと私は思うのです。
彼の父は言うまでもなく僧侶でした。
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彼の父はいうまでもなく僧侶でした。
けれども義理堅い点において、むしろ武士に似たところがありはしないかと疑われます。
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けれども義理堅い点において、むしろ武士に似たところがありはしないかと疑われます。
二十二
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二十二
「Kの一件が一段落ついた後で、私は彼の姉の夫から長い封書を受け取りました。Kの養子に行った先はこの人の親類に当たるのですから、彼を世話した時にも彼の籍を戻した時にも、この人の意見が重きをなしていたのだと、Kは私に話して聞かせました。
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「Kの事件が一段落ついた後で、私は彼の姉の夫から長い封書を受け取りました。Kの養子に行った先は、この人の親類に当るのですから、彼を周旋した時にも、彼を復籍させた時にも、この人の意見が重きをなしていたのだと、Kは私に話して聞かせました。
手紙には、その後Kがどうしているか知らせてくれと書いてありました。
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手紙にはその後Kがどうしているか知らせてくれと書いてありました。
姉が心配しているから、なるべく早く返事をもらいたいという依頼も付け加えてありました。
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姉が心配しているから、なるべく早く返事を貰いたいという依頼も付け加えてありました。
Kは寺を継いだ兄よりも、他家へ嫁いだこの姉を好いていました。
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Kは寺を嗣いだ兄よりも、他家へ縁づいたこの姉を好いていました。
彼らはみんな同じ母から生まれたきょうだいですけれども、この姉とKとの間にはだいぶ年の差があったのです。
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彼らはみんな一つ腹から生れた姉弟ですけれども、この姉とKとの間には大分年歯の差があったのです。
それでKの子供の時分には、継母よりもこの姉の方が、かえって本当の母らしく見えたのでしょう。
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それでKの小供の時分には、継母よりもこの姉の方が、かえって本当の母らしく見えたのでしょう。
私はKに手紙を見せました。
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私はKに手紙を見せました。
Kは何とも言いませんでしたけれども、自分の所へこの姉から同じような意味の手紙が二、三度来たということを打ち明けました。
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Kは何ともいいませんでしたけれども、自分の所へこの姉から同じような意味の書状が二、三度来たという事を打ち明けました。
Kはそのたびに、心配するには及ばないと答えてやったのだそうです。
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Kはそのたびに心配するに及ばないと答えてやったのだそうです。
運悪くこの姉は生活に余裕のない家に嫁いだために、いくらKに同情があっても、物質的に弟をどうしてやる訳にも行かなかったのです。
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運悪くこの姉は生活に余裕のない家に片付いたために、いくらKに同情があっても、物質的に弟をどうしてやる訳にも行かなかったのです。
私はKと同じような返事を、彼の義兄あてで出しました。
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私はKと同じような返事を彼の義兄宛で出しました。
その中に、万一の場合には私がどうにでもするから安心するように、という意味を強い言葉で書き表しました。
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その中に、万一の場合には私がどうでもするから、安心するようにという意味を強い言葉で書き現わしました。
これはもとより私の一存でした。
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これは固より私の一存でした。
Kの行く末を心配するこの姉に安心を与えようという好意はもちろん含まれていましたが、私を軽蔑したとよりほかに取りようのない彼の実家や養家に対する意地もあったのです。
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Kの行先を心配するこの姉に安心を与えようという好意は無論含まれていましたが、私を軽蔑したとより外に取りようのない彼の実家や養家に対する意地もあったのです。
Kが籍を戻したのは、一年生の時でした。
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Kの復籍したのは一年生の時でした。
それから二年生の中頃になるまで、約一年半の間、彼は独力で自分を支えて行ったのです。
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それから二年生の中頃になるまで、約一年半の間、彼は独力で己れを支えていったのです。
ところがこの過度の労力が、次第に彼の健康と精神の上に影響して来たように見え出しました。
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ところがこの過度の労力が次第に彼の健康と精神の上に影響して来たように見え出しました。
それにはもちろん、養家を出る出ないのうるさい問題も手伝っていたでしょう。
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それには無論養家を出る出ないの蒼蠅い問題も手伝っていたでしょう。
彼はだんだん感傷的になって来たのです。
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彼は段々感傷的になって来たのです。
時によると、自分だけが世の中の不幸を一人で背負って立っているようなことを言います。
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時によると、自分だけが世の中の不幸を一人で背負って立っているような事をいいます。
そうしてそれを打ち消せば、すぐ激するのです。
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そうしてそれを打ち消せばすぐ激するのです。
それから自分の未来に横たわる光明が次第に彼の目から遠のいて行くようにも思って、いらいらするのです。
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それから自分の未来に横たわる光明が、次第に彼の眼を遠退いて行くようにも思って、いらいらするのです。
学問をやり始めた時には誰しも偉大な抱負をもって新しい旅に出るのが常ですが、一年経ち二年過ぎ、もう卒業も間近になると、急に自分の足の運びの鈍いのに気がついて、半分以上はそこで失望するのが当たり前になっていますから、Kの場合も同じなのですが、彼の焦り方はまた普通に比べるとはるかにひどかったのです。
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学問をやり始めた時には、誰しも偉大な抱負をもって、新しい旅に上るのが常ですが、一年と立ち二年と過ぎ、もう卒業も間近になると、急に自分の足の運びの鈍いのに気が付いて、過半はそこで失望するのが当り前になっていますから、Kの場合も同じなのですが、彼の焦慮り方はまた普通に比べると遥かに甚しかったのです。
私はついに、彼の気分を落ち着けるのが第一だと考えました。
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私はついに彼の気分を落ち付けるのが専一だと考えました。
私は彼に向かって、余計な仕事をするのはよせと言いました。
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私は彼に向って、余計な仕事をするのは止せといいました。
そうして当分体を楽にして遊ぶ方が、大きな将来のために得策だと忠告しました。
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そうして当分身体を楽にして、遊ぶ方が大きな将来のために得策だと忠告しました。
強情なKのことですから、簡単に私の言うことなど聞くまいと、かねて予期していたのですが、実際言い出してみると、思ったよりも説き落とすのに骨が折れたので弱りました。
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剛情なKの事ですから、容易に私のいう事などは聞くまいと、かねて予期していたのですが、実際いい出して見ると、思ったよりも説き落すのに骨が折れたので弱りました。
Kはただ、学問が自分の目的ではないと主張するのです。
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Kはただ学問が自分の目的ではないと主張するのです。
意志の力を養って強い人になるのが自分の考えだと言うのです。
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意志の力を養って強い人になるのが自分の考えだというのです。
それにはなるべく窮屈な境遇にいなくてはならない、と結論するのです。
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それにはなるべく窮屈な境遇にいなくてはならないと結論するのです。
普通の人から見れば、まるで物好きです。
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普通の人から見れば、まるで酔興です。
その上、窮屈な境遇にいる彼の意志は少しも強くなっていないのです。
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その上窮屈な境遇にいる彼の意志は、ちっとも強くなっていないのです。
彼はむしろ、神経衰弱にかかっているくらいなのです。
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彼はむしろ神経衰弱に罹っているくらいなのです。
私は仕方がないから、彼に向かって、まったく同感であるような様子を見せました。
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私は仕方がないから、彼に向って至極同感であるような様子を見せました。
自分もそういう方向に向かって人生を進むつもりだったと、ついには明言しました。
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自分もそういう点に向って、人生を進むつもりだったとついには明言しました。
(もっともこれは、私にとってまんざら空虚な言葉でもなかったのです。
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(もっともこれは私に取ってまんざら空虚な言葉でもなかったのです。
Kの説を聞いていると、だんだんそういうところに引き込まれて来るくらい、彼には力があったのですから。)
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Kの説を聞いていると、段々そういうところに釣り込まれて来るくらい、彼には力があったのですから)。
最後に私は、Kといっしょに住んでいっしょに向上の道をたどって行きたいと言い出しました。
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最後に私はKといっしょに住んで、いっしょに向上の路を辿って行きたいと発議しました。
私は彼の強情を折り曲げるために、彼の前にひざまずくことをあえてしたのです。
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私は彼の剛情を折り曲げるために、彼の前に跪く事をあえてしたのです。
そうしてやっとのことで、彼を私の家に連れて来ました。
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そうして漸との事で彼を私の家に連れて来ました。
二十三
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二十三
「私の部屋には控えの間というような四畳が付いていました。玄関を上がって私のいる所へ通ろうとするには必ずこの四畳を横切らなければならないのだから、実用の点から見るときわめて不便な部屋でした。私はここへKを入れたのです。もっとも最初は同じ八畳に二つ机を並べて、次の間を共有にしておく考えだったのですが、Kは狭苦しくても一人でいる方がいいと言って、自分でそちらの方を選んだのです。
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「私の座敷には控えの間というような四畳が付属していました。玄関を上がって私のいる所へ通ろうとするには、ぜひこの四畳を横切らなければならないのだから、実用の点から見ると、至極不便な室でした。私はここへKを入れたのです。もっとも最初は同じ八畳に二つ机を並べて、次の間を共有にして置く考えだったのですが、Kは狭苦しくっても一人でいる方が好いといって、自分でそっちのほうを択んだのです。
前にも話したとおり、奥さんは私のこの処置に対して初めは不賛成だったのです。
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前にも話した通り、奥さんは私のこの所置に対して始めは不賛成だったのです。
下宿屋ならば一人より二人が便利だし、二人より三人が得になるけれども、商売でないのだからなるべくならよした方がいいと言うのです。
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下宿屋ならば、一人より二人が便利だし、二人より三人が得になるけれども、商売でないのだから、なるべくなら止した方が好いというのです。
私が、決して世話の焼ける人でないから構うまいと言うと、世話は焼けなくても気心の知れない人は嫌だと答えるのです。
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私が決して世話の焼ける人でないから構うまいというと、世話は焼けないでも、気心の知れない人は厭だと答えるのです。
それでは今世話になっている私だって同じことではないかと責めると、私の気心は初めからよく分かっていると弁解してやまないのです。
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それでは今厄介になっている私だって同じ事ではないかと詰ると、私の気心は初めからよく分っていると弁解して已まないのです。
私は苦笑しました。
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私は苦笑しました。
すると奥さんはまた、理屈の方向を変えます。
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すると奥さんはまた理屈の方向を更えます。
そんな人を連れて来るのは私のために悪いからよせ、と言い直します。
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そんな人を連れて来るのは、私のために悪いから止せといい直します。
なぜ私のために悪いかと聞くと、今度は向こうで苦笑するのです。
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なぜ私のために悪いかと聞くと、今度は向うで苦笑するのです。
実を言うと、私だって無理にKといっしょにいる必要はなかったのです。
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実をいうと私だって強いてKといっしょにいる必要はなかったのです。
けれども月々の費用を金の形で彼の前に並べて見せると、彼はきっとそれを受け取る時にためらうだろうと思ったのです。
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けれども月々の費用を金の形で彼の前に並べて見せると、彼はきっとそれを受け取る時に躊躇するだろうと思ったのです。
彼はそれほど独立心の強い男でした。
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彼はそれほど独立心の強い男でした。
だから私は彼を私の家に置いて、二人分の食費を彼の知らない間にそっと奥さんの手に渡そうとしたのです。
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だから私は彼を私の宅へ置いて、二人前の食料を彼の知らない間にそっと奥さんの手に渡そうとしたのです。
しかし私はKの経済問題について、一言も奥さんに打ち明ける気はありませんでした。
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しかし私はKの経済問題について、一言も奥さんに打ち明ける気はありませんでした。
私はただ、Kの健康についてあれこれ言いました。
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私はただKの健康について云々しました。
一人で置くと、ますます人間が偏屈になるばかりだからと言いました。
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一人で置くとますます人間が偏屈になるばかりだからといいました。
それに付け足して、Kが養家と折り合いの悪かったことや、実家と離れてしまったことや、いろいろ話して聞かせました。
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それに付け足して、Kが養家と折合の悪かった事や、実家と離れてしまった事や、色々話して聞かせました。
私は、溺れかかった人を抱いて自分の熱を向こうに移してやる覚悟でKを引き取るのだと告げました。
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私は溺れかかった人を抱いて、自分の熱を向うに移してやる覚悟で、Kを引き取るのだと告げました。
そのつもりで温かい面倒を見てやってくれと、奥さんにもお嬢さんにも頼みました。
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そのつもりであたたかい面倒を見てやってくれと、奥さんにもお嬢さんにも頼みました。
私はここまで来て、ようやく奥さんを説き伏せたのです。
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私はここまで来て漸々奥さんを説き伏せたのです。
しかし私から何も聞かないKは、このいきさつをまるで知らずにいました。
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しかし私から何にも聞かないKは、この顛末をまるで知らずにいました。
私もかえってそれを満足に思って、のっそり引っ越して来たKを、知らん顔で迎えました。
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私もかえってそれを満足に思って、のっそり引き移って来たKを、知らん顔で迎えました。
奥さんとお嬢さんは、親切に彼の荷物を片づける世話や何かをしてくれました。
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奥さんとお嬢さんは、親切に彼の荷物を片付ける世話や何かをしてくれました。
すべてそれを私に対する好意から来たのだと解釈した私は、心のうちで喜びました。――
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すべてそれを私に対する好意から来たのだと解釈した私は、心のうちで喜びました。――
Kが相変わらずむっつりした様子をしているにもかかわらず。
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Kが相変らずむっちりした様子をしているにもかかわらず。
私がKに向かって新しい住まいの気持ちはどうだと聞いた時に、彼はただ一言、悪くないと言っただけでした。
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私がKに向って新しい住居の心持はどうだと聞いた時に、彼はただ一言悪くないといっただけでした。
私から言わせれば、悪くないどころではないのです。
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私からいわせれば悪くないどころではないのです。
彼の今までいた所は、北向きの湿っぽいにおいのする汚い部屋でした。
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彼の今までいた所は北向きの湿っぽい臭いのする汚い室でした。
食べ物も、部屋相応に粗末でした。
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食物も室相応に粗末でした。
私の家へ引っ越した彼は、深い谷から高い木に移った趣があったくらいです。
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私の家へ引き移った彼は、幽谷から喬木に移った趣があったくらいです。
それをさほどに思う様子を見せないのは、一つには彼の強情から来ているのですが、一つには彼の主張からも出ているのです。
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それをさほどに思う気色を見せないのは、一つは彼の強情から来ているのですが、一つは彼の主張からも出ているのです。
仏教の教えで養われた彼は、衣食住についてあれこれ贅沢を言うのを、あたかも不道徳のように考えていました。
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仏教の教義で養われた彼は、衣食住についてとかくの贅沢をいうのをあたかも不道徳のように考えていました。
なまじ昔の高僧だとか聖人だとかの伝記を読んだ彼には、ともすると精神と肉体とを切り離したがる癖がありました。
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なまじい昔の高僧だとか聖徒だとかの伝を読んだ彼には、ややともすると精神と肉体とを切り離したがる癖がありました。
肉体をむち打てば魂の輝きが増すように感じる場合さえあったのかもしれません。
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肉を鞭撻すれば霊の光輝が増すように感ずる場合さえあったのかも知れません。
私は、なるべく彼に逆らわない方針を取りました。
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私はなるべく彼に逆らわない方針を取りました。
私は氷を日なたへ出して溶かす工夫をしたのです。
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私は氷を日向へ出して溶かす工夫をしたのです。
今に溶けて温かい水になれば、自分で自分に気がつく時が来るに違いないと思ったのです。
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今に融けて温かい水になれば、自分で自分に気が付く時機が来るに違いないと思ったのです。
二十四
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二十四
「私は奥さんからそういうふうに扱われた結果、だんだん快活になって来たのです。それを自覚していたから、同じものを今度はKの上に応用しようと試みたのです。Kと私とが性格の上でだいぶ違いのあることは、長く付き合って来た私によく分かっていましたけれども、私の神経がこの家庭に入ってから多少角が取れたように、Kの心もここに置けばいつか静まることがあるだろうと考えたのです。
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「私は奥さんからそういう風に取り扱われた結果、段々快活になって来たのです。それを自覚していたから、同じものを今度はKの上に応用しようと試みたのです。Kと私とが性格の上において、大分相違のある事は、長く交際って来た私によく解っていましたけれども、私の神経がこの家庭に入ってから多少角が取れたごとく、Kの心もここに置けばいつか沈まる事があるだろうと考えたのです。
Kは私より強い決心を持っている男でした。
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Kは私より強い決心を有している男でした。
勉強も、私の倍ぐらいはしたでしょう。
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勉強も私の倍ぐらいはしたでしょう。
その上、持って生まれた頭の質が私よりもずっとよかったのです。
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その上持って生れた頭の質が私よりもずっとよかったのです。
後では専門が違いましたから何とも言えませんが、同じ級にいる間は、中学でも高等学校でもKの方が常に上席を占めていました。
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後では専門が違いましたから何ともいえませんが、同じ級にいる間は、中学でも高等学校でも、Kの方が常に上席を占めていました。
私にはふだんから、何をしてもKに及ばないという自覚があったくらいです。
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私には平生から何をしてもKに及ばないという自覚があったくらいです。
けれども私が無理にKを私の家へ引っ張って来た時には、私の方がよく物事の道理をわきまえていると信じていました。
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けれども私が強いてKを私の宅へ引っ張って来た時には、私の方がよく事理を弁えていると信じていました。
私に言わせると、彼は我慢と忍耐の区別を理解していないように思われたのです。
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私にいわせると、彼は我慢と忍耐の区別を了解していないように思われたのです。
これは特にあなたのために付け足しておきたいのですから、聞いてください。
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これはとくにあなたのために付け足しておきたいのですから聞いて下さい。
肉体なり精神なり、すべて我々の能力は外部の刺激で発達もするし破壊されもするでしょうが、どちらにしても刺激をだんだん強くする必要のあるのはもちろんですから、よく考えないと、非常に険悪な方向へ向いて進んで行きながら、自分はもちろん傍の者も気がつかずにいる恐れが生じて来ます。
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肉体なり精神なりすべて我々の能力は、外部の刺戟で、発達もするし、破壊されもするでしょうが、どっちにしても刺戟を段々に強くする必要のあるのは無論ですから、よく考えないと、非常に険悪な方向へむいて進んで行きながら、自分はもちろん傍のものも気が付かずにいる恐れが生じてきます。
医者の説明を聞くと、人間の胃袋ほどずるいものはないそうです。
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医者の説明を聞くと、人間の胃袋ほど横着なものはないそうです。
かゆばかり食っていると、それ以上の固いものを消化する力がいつの間にかなくなってしまうのだそうです。
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粥ばかり食っていると、それ以上の堅いものを消化す力がいつの間にかなくなってしまうのだそうです。
だから何でも食う稽古をしておけと、医者は言うのです。
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だから何でも食う稽古をしておけと医者はいうのです。
けれどもこれは、ただ慣れるという意味ではなかろうと思います。
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けれどもこれはただ慣れるという意味ではなかろうと思います。
次第に刺激を増すに従って次第に栄養機能の抵抗力が強くなる、という意味でなくてはならないでしょう。
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次第に刺戟を増すに従って、次第に営養機能の抵抗力が強くなるという意味でなくてはなりますまい。
もし反対に胃の力の方がじりじり弱って行ったなら結果はどうなるだろうと想像してみれば、すぐ分かることです。
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もし反対に胃の力の方がじりじり弱って行ったなら結果はどうなるだろうと想像してみればすぐ解る事です。
Kは私より偉大な男でしたけれども、まったくここに気がついていなかったのです。
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Kは私より偉大な男でしたけれども、全くここに気が付いていなかったのです。
ただ困難に慣れてしまえば、しまいにその困難は何でもなくなるものだと決めていたらしいのです。
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ただ困難に慣れてしまえば、しまいにその困難は何でもなくなるものだと極めていたらしいのです。
苦しみを繰り返せば、繰り返すというだけの功徳でその苦しみが気にかからなくなる時に出会えるものと、信じ切っていたらしいのです。
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艱苦を繰り返せば、繰り返すというだけの功徳で、その艱苦が気にかからなくなる時機に邂逅えるものと信じ切っていたらしいのです。
私はKを説く時に、ぜひそこを明らかにしてやりたかったのです。
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私はKを説くときに、ぜひそこを明らかにしてやりたかったのです。
しかし言えば、きっと反抗されるに決まっていました。
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しかしいえばきっと反抗されるに極っていました。
また昔の人の例などを引き合いに持って来るに違いないと思いました。
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また昔の人の例などを、引合に持って来るに違いないと思いました。
そうなれば私だって、その人たちとKと違っている点を明白に述べなければならなくなります。
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そうなれば私だって、その人たちとKと違っている点を明白に述べなければならなくなります。
それをうなずいてくれるようなKならいいのですけれども、彼の性質として、議論がそこまで行くと簡単には後へ引きません。
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それを首肯ってくれるようなKならいいのですけれども、彼の性質として、議論がそこまでゆくと容易に後へは返りません。
なお先へ出ます。
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なお先へ出ます。
そうして、口で先へ出たとおりを、行いで実現しにかかります。
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そうして、口で先へ出た通りを、行為で実現しに掛ります。
彼はこうなると、恐るべき男でした。
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彼はこうなると恐るべき男でした。
偉大でした。
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偉大でした。
自分で自分を破壊しつつ進みます。
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自分で自分を破壊しつつ進みます。
結果から見れば、彼はただ自分の成功を打ち砕く意味において偉大なのに過ぎないのですけれども、それでも決して平凡ではありませんでした。
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結果から見れば、彼はただ自己の成功を打ち砕く意味において、偉大なのに過ぎないのですけれども、それでも決して平凡ではありませんでした。
彼の気性をよく知った私は、ついに何とも言うことができなかったのです。
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彼の気性をよく知った私はついに何ともいう事ができなかったのです。
その上私から見ると、彼は前にも述べたとおり多少神経衰弱にかかっていたように思われたのです。
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その上私から見ると、彼は前にも述べた通り、多少神経衰弱に罹っていたように思われたのです。
たとえ私が彼を説き伏せたところで、彼は必ず激するに違いないのです。
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よし私が彼を説き伏せたところで、彼は必ず激するに違いないのです。
私は彼と喧嘩をすることは恐れてはいませんでしたけれども、私が孤独の感じに堪えられなかった自分の境遇を振り返ると、親友の彼を同じ孤独の境遇に置くのは、私にとって忍びないことでした。
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私は彼と喧嘩をする事は恐れてはいませんでしたけれども、私が孤独の感に堪えなかった自分の境遇を顧みると、親友の彼を、同じ孤独の境遇に置くのは、私に取って忍びない事でした。
一歩進んで、より孤独な境遇に突き落とすのはなお嫌でした。
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一歩進んで、より孤独な境遇に突き落すのはなお厭でした。
それで私は、彼が家へ引っ越してからも当分の間は批評がましい批評を彼の上に加えずにいました。
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それで私は彼が宅へ引き移ってからも、当分の間は批評がましい批評を彼の上に加えずにいました。
ただ穏やかに、周囲が彼に及ぼす結果を見ることにしたのです。
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ただ穏やかに周囲の彼に及ぼす結果を見る事にしたのです。
二十五
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二十五
「私は陰に回って、奥さんとお嬢さんに、なるべくKと話をするように頼みました。私は彼のこれまで通って来た無言の生活が彼にたたっているのだろうと信じたからです。使わない鉄が腐るように、彼の心には錆が出ていたとしか、私には思われなかったのです。
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「私は蔭へ廻って、奥さんとお嬢さんに、なるべくKと話をするように頼みました。私は彼のこれまで通って来た無言生活が彼に祟っているのだろうと信じたからです。使わない鉄が腐るように、彼の心には錆が出ていたとしか、私には思われなかったのです。
奥さんは、取っつきどころのない人だと言って笑っていました。
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奥さんは取り付き把のない人だといって笑っていました。
お嬢さんはまた、わざわざその例を挙げて私に説明して聞かせるのです。
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お嬢さんはまたわざわざその例を挙げて私に説明して聞かせるのです。
火鉢に火があるかと尋ねると、Kはないと答えるそうです。
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火鉢に火があるかと尋ねると、Kはないと答えるそうです。
では持って来ようと言うと、要らないと断るそうです。
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では持って来ようというと、要らないと断るそうです。
寒くはないかと聞くと、寒いけれども要らないんだと言ったきり、応対をしないのだそうです。
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寒くはないかと聞くと、寒いけれども要らないんだといったぎり応対をしないのだそうです。
私はただ苦笑している訳にも行きません。
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私はただ苦笑している訳にもゆきません。
気の毒だから、何とか言ってその場を取り繕っておかなければ済まなくなります。
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気の毒だから、何とかいってその場を取り繕っておかなければ済まなくなります。
もっともそれは春のことですから無理に火にあたる必要もなかったのですが、これでは取っつきどころがないと言われるのも無理はないと思いました。
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もっともそれは春の事ですから、強いて火にあたる必要もなかったのですが、これでは取り付き把がないといわれるのも無理はないと思いました。
それで私はなるべく自分が中心になって、女二人とKとの連絡をはかるように努めました。
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それで私はなるべく、自分が中心になって、女二人とKとの連絡をはかるように力めました。
Kと私が話している所へ家の人を呼ぶとか、または家の人と私が一つ部屋で顔を合わせた所へKを引っ張り出すとか、どちらでもその場合に応じた方法をとって、彼らを近づけようとしたのです。
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Kと私が話している所へ家の人を呼ぶとか、または家の人と私が一つ室に落ち合った所へ、Kを引っ張り出すとか、どっちでもその場合に応じた方法をとって、彼らを接近させようとしたのです。
もちろんKは、それをあまり好みませんでした。
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もちろんKはそれをあまり好みませんでした。
ある時はふいと立って部屋の外へ出ました。
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ある時はふいと起って室の外へ出ました。
またある時は、いくら呼んでもなかなか出て来ませんでした。
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またある時はいくら呼んでもなかなか出て来ませんでした。
Kは、あんな無駄話をしてどこが面白いと言うのです。
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Kはあんな無駄話をしてどこが面白いというのです。
私はただ笑っていました。
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私はただ笑っていました。
しかし心の中では、Kがそのために私を軽蔑していることがよく分かりました。
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しかし心の中では、Kがそのために私を軽蔑していることがよく解りました。
私はある意味から見て、実際彼の軽蔑に値していたかもしれません。
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私はある意味から見て実際彼の軽蔑に価していたかも知れません。
彼の目のつけどころは私よりはるかに高い所にあったとも言えるでしょう。
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彼の眼の着け所は私より遥かに高いところにあったともいわれるでしょう。
私も、それを否みはしません。
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私もそれを否みはしません。
しかし目だけ高くて、ほかが釣り合わないのはまるで欠けた人間です。
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しかし眼だけ高くって、外が釣り合わないのは手もなく不具です。
私は何を置いても、この際彼を人間らしくするのが第一だと考えたのです。
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私は何を措いても、この際彼を人間らしくするのが専一だと考えたのです。
いくら彼の頭が偉い人の姿で埋まっていても、彼自身が偉くなって行かない以上は何の役にも立たないということを発見したのです。
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いくら彼の頭が偉い人の影像で埋まっていても、彼自身が偉くなってゆかない以上は、何の役にも立たないという事を発見したのです。
私は彼を人間らしくする第一の手段として、まず異性のそばに彼を座らせる方法を講じたのです。
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私は彼を人間らしくする第一の手段として、まず異性の傍に彼を坐らせる方法を講じたのです。
そうしてそこから出る空気に彼をさらした上、錆びつきかかった彼の血液を新しくしようと試みたのです。
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そうしてそこから出る空気に彼を曝した上、錆び付きかかった彼の血液を新しくしようと試みたのです。
この試みは、次第に成功しました。
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この試みは次第に成功しました。
初めのうち溶け合いにくいように見えたものが、だんだん一つにまとまって来出しました。
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初めのうち融合しにくいように見えたものが、段々一つに纏まって来出しました。
彼は自分以外に世界のあることを、少しずつ悟って行くようでした。
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彼は自分以外に世界のある事を少しずつ悟ってゆくようでした。
彼はある日私に向かって、女はそう軽蔑すべきものでないというようなことを言いました。
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彼はある日私に向って、女はそう軽蔑すべきものでないというような事をいいました。
Kは初め女からも、私と同じ知識と学問を要求していたらしいのです。
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Kははじめ女からも、私同様の知識と学問を要求していたらしいのです。
そうしてそれが見つからないと、すぐ軽蔑の気持ちを生じたものと思われます。
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そうしてそれが見付からないと、すぐ軽蔑の念を生じたものと思われます。
今までの彼は、性によって立場を変えることを知らずに、同じ視線ですべての男女を一様に観察していたのです。
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今までの彼は、性によって立場を変える事を知らずに、同じ視線ですべての男女を一様に観察していたのです。
私は彼に、もし我々二人だけが男同士で永久に話を交換しているならば、二人はただ直線的に先へ延びて行くに過ぎないだろうと言いました。
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私は彼に、もし我ら二人だけが男同志で永久に話を交換しているならば、二人はただ直線的に先へ延びて行くに過ぎないだろうといいました。
彼はもっともだと答えました。
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彼はもっともだと答えました。
私はその時お嬢さんのことで多少夢中になっている頃でしたから、自然そんな言葉も使うようになったのでしょう。
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私はその時お嬢さんの事で、多少夢中になっている頃でしたから、自然そんな言葉も使うようになったのでしょう。
しかし裏側の事情は、彼には一言も打ち明けませんでした。
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しかし裏面の消息は彼には一口も打ち明けませんでした。
今まで書物で城壁を築いてその中に立てこもっていたようなKの心が、だんだん打ち解けて来るのを見ているのは、私にとって何よりも愉快でした。
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今まで書物で城壁をきずいてその中に立て籠っていたようなKの心が、段々打ち解けて来るのを見ているのは、私に取って何よりも愉快でした。
私は最初からそうした目的で事をやり出したのですから、自分の成功に伴う喜びを感じずにはいられなかったのです。
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私は最初からそうした目的で事をやり出したのですから、自分の成功に伴う喜悦を感ぜずにはいられなかったのです。
私は本人に言わない代わりに、奥さんとお嬢さんに自分の思ったとおりを話しました。
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私は本人にいわない代りに、奥さんとお嬢さんに自分の思った通りを話しました。
二人も、満足の様子でした。
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二人も満足の様子でした。
二十六
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二十六
「Kと私は同じ科にいながら専攻の学問が違っていましたから、自然、出る時や帰る時に早い遅いがありました。私の方が早ければただ彼の空いた部屋を通り抜けるだけですが、遅いと簡単な挨拶をして自分の部屋へ入るのを常にしていました。Kはいつもの目を書物から離して、ふすまを開ける私をちょっと見ます。そうして決まって、今帰ったのかと言います。私は何も答えないでうなずくこともありますし、あるいはただ「うん」と答えて行き過ぎる場合もあります。
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「Kと私は同じ科におりながら、専攻の学問が違っていましたから、自然出る時や帰る時に遅速がありました。私の方が早ければ、ただ彼の空室を通り抜けるだけですが、遅いと簡単な挨拶をして自分の部屋へはいるのを例にしていました。Kはいつもの眼を書物からはなして、襖を開ける私をちょっと見ます。そうしてきっと今帰ったのかといいます。私は何も答えないで点頭く事もありますし、あるいはただ「うん」と答えて行き過ぎる場合もあります。
ある日私は神田に用があって、帰りがいつもよりずっと遅れました。
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ある日私は神田に用があって、帰りがいつもよりずっと後れました。
私は急ぎ足に門前まで来て、格子をがらりと開けました。
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私は急ぎ足に門前まで来て、格子をがらりと開けました。
それと同時に、私はお嬢さんの声を聞いたのです。
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それと同時に、私はお嬢さんの声を聞いたのです。
声はたしかにKの部屋から出たと思いました。
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声は慥かにKの室から出たと思いました。
玄関からまっすぐ行けば茶の間、お嬢さんの部屋と二つ続いていて、それを左へ折れるとKの部屋、私の部屋、という間取りなのですから、どこで誰の声がしたくらいは、長く世話になっている私にはよく分かるのです。
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玄関から真直に行けば、茶の間、お嬢さんの部屋と二つ続いていて、それを左へ折れると、Kの室、私の室、という間取なのですから、どこで誰の声がしたくらいは、久しく厄介になっている私にはよく分るのです。
私はすぐ格子を閉めました。
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私はすぐ格子を締めました。
するとお嬢さんの声もすぐやみました。
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するとお嬢さんの声もすぐ已みました。
私が靴を脱いでいるうち、――私はその時分からハイカラで手数のかかる編み上げをはいていたのですが、――私がかがんでその靴ひもを解いているうち、Kの部屋では誰の声もしませんでした。
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私が靴を脱いでいるうち、――私はその時分からハイカラで手数のかかる編上を穿いていたのですが、――私がこごんでその靴紐を解いているうち、Kの部屋では誰の声もしませんでした。
私は変に思いました。
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私は変に思いました。
ことによると、私の勘違いかもしれないと考えたのです。
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ことによると、私の疳違かも知れないと考えたのです。
しかし私がいつものとおりKの部屋を抜けようとしてふすまを開けると、そこに二人はちゃんと座っていました。
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しかし私がいつもの通りKの室を抜けようとして、襖を開けると、そこに二人はちゃんと坐っていました。
Kはいつものとおり、今帰ったかと言いました。
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Kは例の通り今帰ったかといいました。
お嬢さんも「お帰りなさい」
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お嬢さんも「お帰り」
と、座ったままで挨拶しました。
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と坐ったままで挨拶しました。
私には気のせいか、その簡単な挨拶が少し硬いように聞こえました。
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私には気のせいかその簡単な挨拶が少し硬いように聞こえました。
どこかで自然を踏み外しているような調子として、私の鼓膜に響いたのです。
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どこかで自然を踏み外しているような調子として、私の鼓膜に響いたのです。
私はお嬢さんに、奥さんはと尋ねました。
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私はお嬢さんに、奥さんはと尋ねました。
私の質問には、何の意味もありませんでした。
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私の質問には何の意味もありませんでした。
家の中がふだんより何だかひっそりしていたから、聞いてみただけのことです。
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家のうちが平常より何だかひっそりしていたから聞いて見ただけの事です。
奥さんは、はたして留守でした。
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奥さんははたして留守でした。
お手伝いも、奥さんといっしょに出たのでした。
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下女も奥さんといっしょに出たのでした。
だから家に残っているのは、Kとお嬢さんだけだったのです。
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だから家に残っているのは、Kとお嬢さんだけだったのです。
私はちょっと首をかしげました。
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私はちょっと首を傾けました。
今まで長い間世話になっていたけれども、奥さんがお嬢さんと私だけを置き去りにして家を空けたためしは、まだなかったのですから。
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今まで長い間世話になっていたけれども、奥さんがお嬢さんと私だけを置き去りにして、宅を空けた例はまだなかったのですから。
私は、何か急用でもできたのかとお嬢さんに聞き返しました。
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私は何か急用でもできたのかとお嬢さんに聞き返しました。
お嬢さんはただ笑っているのです。
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お嬢さんはただ笑っているのです。
私はこんな時に笑う女が嫌いでした。
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私はこんな時に笑う女が嫌いでした。
若い女に共通な点だと言えばそれまでかもしれませんが、お嬢さんもつまらないことによく笑いたがる女でした。
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若い女に共通な点だといえばそれまでかも知れませんが、お嬢さんも下らない事によく笑いたがる女でした。
しかしお嬢さんは私の顔色を見て、すぐいつもの表情に戻りました。
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しかしお嬢さんは私の顔色を見て、すぐ不断の表情に帰りました。
急用ではないが、ちょっと用があって出たのだと真面目に答えました。
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急用ではないが、ちょっと用があって出たのだと真面目に答えました。
下宿人の私には、それ以上問い詰める権利はありません。
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下宿人の私にはそれ以上問い詰める権利はありません。
私は黙りました。
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私は沈黙しました。
私が着物を着替えて席に着くか着かないうちに、奥さんもお手伝いも帰って来ました。
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私が着物を改めて席に着くか着かないうちに、奥さんも下女も帰って来ました。
やがて夕飯の食卓でみんなが顔を合わせる時刻が来ました。
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やがて晩食の食卓でみんなが顔を合わせる時刻が来ました。
下宿した当座はすべて客扱いだったので、食事のたびにお手伝いがお膳を運んで来てくれたのですが、それがいつの間にか崩れて、食事の時には向こうへ呼ばれて行く習慣になっていたのです。
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下宿した当座は万事客扱いだったので、食事のたびに下女が膳を運んで来てくれたのですが、それがいつの間にか崩れて、飯時には向うへ呼ばれて行く習慣になっていたのです。
Kが新しく引っ越して来た時も、私が主張して彼を私と同じように扱わせることに決めました。
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Kが新しく引き移った時も、私が主張して彼を私と同じように取り扱わせる事に極めました。
その代わり私は、薄い板で作った足の畳める華奢な食卓を奥さんに寄付しました。
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その代り私は薄い板で造った足の畳み込める華奢な食卓を奥さんに寄附しました。
今ではどこの家でも使っているようですが、その頃そんなテーブルの周りに並んでご飯を食う家族はほとんどなかったのです。
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今ではどこの宅でも使っているようですが、その頃そんな卓の周囲に並んで飯を食う家族はほとんどなかったのです。
私はわざわざ御茶ノ水の家具屋へ行って、私の工夫どおりにそれを作り上げさせたのです。
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私はわざわざ御茶の水の家具屋へ行って、私の工夫通りにそれを造り上げさせたのです。
私はその食卓で奥さんから、その日いつもの時刻に魚屋が来なかったので、私たちに食わせるものを買いに町へ行かなければならなかったのだ、という説明を聞かされました。
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私はその卓上で奥さんからその日いつもの時刻に肴屋が来なかったので、私たちに食わせるものを買いに町へ行かなければならなかったのだという説明を聞かされました。
なるほど客を置いている以上それももっともなことだと私が考えた時、お嬢さんは私の顔を見てまた笑い出しました。
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なるほど客を置いている以上、それももっともな事だと私が考えた時、お嬢さんは私の顔を見てまた笑い出しました。
しかし今度は奥さんに叱られて、すぐやめました。
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しかし今度は奥さんに叱られてすぐ已めました。
二十七
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二十七
「一週間ばかりして、私はまたKとお嬢さんがいっしょに話している部屋を通り抜けました。その時お嬢さんは、私の顔を見るやいなや笑い出しました。私はすぐ何がおかしいのかと聞けばよかったのでしょう。それをつい黙って、自分の部屋まで来てしまったのです。だからKもいつものように、今帰ったかと声をかけることができなくなりました。お嬢さんはすぐ障子を開けて、茶の間へ入ったようでした。
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「一週間ばかりして私はまたKとお嬢さんがいっしょに話している室を通り抜けました。その時お嬢さんは私の顔を見るや否や笑い出しました。私はすぐ何がおかしいのかと聞けばよかったのでしょう。それをつい黙って自分の居間まで来てしまったのです。だからKもいつものように、今帰ったかと声を掛ける事ができなくなりました。お嬢さんはすぐ障子を開けて茶の間へ入ったようでした。
夕飯の時、お嬢さんは私を変な人だと言いました。
原文を見る
夕飯の時、お嬢さんは私を変な人だといいました。
私はその時も、なぜ変なのか聞かずにしまいました。
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私はその時もなぜ変なのか聞かずにしまいました。
ただ奥さんが、にらむような目をお嬢さんに向けるのに気がついただけでした。
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ただ奥さんが睨めるような眼をお嬢さんに向けるのに気が付いただけでした。
私は食後、Kを散歩に連れ出しました。
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私は食後Kを散歩に連れ出しました。
二人は伝通院の裏手から植物園の通りをぐるりと回って、また富坂の下へ出ました。
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二人は伝通院の裏手から植物園の通りをぐるりと廻ってまた富坂の下へ出ました。
散歩としては短い方ではありませんでしたが、その間に話したことはごくわずかでした。
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散歩としては短い方ではありませんでしたが、その間に話した事は極めて少なかったのです。
性質から言うと、Kは私よりも無口な男でした。
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性質からいうと、Kは私よりも無口な男でした。
私も、口数の多い方ではなかったのです。
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私も多弁な方ではなかったのです。
しかし私は歩きながら、できるだけ話を彼に仕掛けてみました。
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しかし私は歩きながら、できるだけ話を彼に仕掛けてみました。
私の話題は、主に二人の下宿している家族についてでした。
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私の問題はおもに二人の下宿している家族についてでした。
私は奥さんやお嬢さんを彼がどう見ているか、知りたかったのです。
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私は奥さんやお嬢さんを彼がどう見ているか知りたかったのです。
ところが彼は、海のものとも山のものとも見分けのつかないような返事ばかりするのです。
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ところが彼は海のものとも山のものとも見分けの付かないような返事ばかりするのです。
しかもその返事は要領を得ないくせに、ごく簡単でした。
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しかもその返事は要領を得ないくせに、極めて簡単でした。
彼は二人の女に関してよりも、専攻の学科の方に多くの注意を払っているように見えました。
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彼は二人の女に関してよりも、専攻の学科の方に多くの注意を払っているように見えました。
もっともそれは二学年目の試験が目の前に迫っている頃でしたから、普通の人間の立場から見て彼の方が学生らしい学生だったのでしょう。
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もっともそれは二学年目の試験が目の前に逼っている頃でしたから、普通の人間の立場から見て、彼の方が学生らしい学生だったのでしょう。
その上彼は、スウェーデンボルグがどうだとかこうだとか言って、無学な私を驚かせました。
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その上彼はシュエデンボルグがどうだとかこうだとかいって、無学な私を驚かせました。
我々が首尾よく試験を済ませた時、二人とももうあと一年だと言って奥さんは喜んでくれました。
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我々が首尾よく試験を済ましました時、二人とももう後一年だといって奥さんは喜んでくれました。
そう言う奥さんの唯一の誇りとも見られるお嬢さんの卒業も、まもなく来る順になっていたのです。
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そういう奥さんの唯一の誇りとも見られるお嬢さんの卒業も、間もなく来る順になっていたのです。
Kは私に向かって、女というものは何も知らないで学校を出るのだと言いました。
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Kは私に向って、女というものは何にも知らないで学校を出るのだといいました。
Kは、お嬢さんが学問以外に習っている裁縫だの琴だの生け花だのを、まるで眼中に置いていないようでした。
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Kはお嬢さんが学問以外に稽古している縫針だの琴だの活花だのを、まるで眼中に置いていないようでした。
私は彼のうかつさを笑ってやりました。
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私は彼の迂闊を笑ってやりました。
そうして、女の価値はそんな所にあるものでないという昔の議論を、また彼の前で繰り返しました。
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そうして女の価値はそんな所にあるものでないという昔の議論をまた彼の前で繰り返しました。
彼は特に反論もしませんでした。
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彼は別段反駁もしませんでした。
その代わり、なるほどという様子も見せませんでした。
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その代りなるほどという様子も見せませんでした。
私には、そこが愉快でした。
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私にはそこが愉快でした。
彼の、ふんと言ったような調子が、依然として女を軽蔑しているように見えたからです。
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彼のふんといったような調子が、依然として女を軽蔑しているように見えたからです。
女の代表者として私の知っているお嬢さんを、物の数とも思っていないらしかったからです。
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女の代表者として私の知っているお嬢さんを、物の数とも思っていないらしかったからです。
今から振り返ると、私のKに対する嫉妬はその時にもう十分芽生えていたのです。
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今から回顧すると、私のKに対する嫉妬は、その時にもう充分萌していたのです。
私は夏休みにどこかへ行こうかとKに相談しました。
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私は夏休みにどこかへ行こうかとKに相談しました。
Kは行きたくないような口ぶりを見せました。
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Kは行きたくないような口振を見せました。
もちろん彼は自分の自由な意志でどこへも行ける身ではありませんが、私が誘いさえすれば、またどこへ行っても差し支えない身だったのです。
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無論彼は自分の自由意志でどこへも行ける身体ではありませんが、私が誘いさえすれば、またどこへ行っても差支えない身体だったのです。
私は、なぜ行きたくないのかと彼に尋ねてみました。
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私はなぜ行きたくないのかと彼に尋ねてみました。
彼は理由も何もないと言うのです。
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彼は理由も何にもないというのです。
家で書物を読んだ方が自分の勝手だと言うのです。
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宅で書物を読んだ方が自分の勝手だというのです。
私が、避暑地へ行って涼しい所で勉強した方が体のためだと主張すると、それなら私一人行ったらよかろうと言うのです。
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私が避暑地へ行って涼しい所で勉強した方が、身体のためだと主張すると、それなら私一人行ったらよかろうというのです。
しかし私は、K一人をここに残して行く気にはなれないのです。
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しかし私はK一人をここに残して行く気にはなれないのです。
私はただでさえ、Kと家の者がだんだん親しくなって行くのを見ているのがあまりいい気持ちではなかったのです。
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私はただでさえKと宅のものが段々親しくなって行くのを見ているのが、余り好い心持ではなかったのです。
私が最初希望したとおりになるのが、なぜ私の気持ちを悪くするのかと言われればそれまでです。
原文を見る
私が最初希望した通りになるのが、何で私の心持を悪くするのかといわれればそれまでです。
私は馬鹿に違いないのです。
原文を見る
私は馬鹿に違いないのです。
果てしのつかない二人の議論を見るに見かねて、奥さんが間に入りました。
原文を見る
果しのつかない二人の議論を見るに見かねて奥さんが仲へ入りました。
二人はとうとう、いっしょに房州へ行くことになりました。
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二人はとうとういっしょに房州へ行く事になりました。
二十八
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二十八
「Kはあまり旅へ出ない男でした。私にも房州は初めてでした。二人は何も知らないで、船が一番先に着いた所から上陸したのです。たしか保田とか言いました。今ではどんなに変わっているか知りませんが、その頃はひどい漁村でした。第一どこもかしこも生ぐさいのです。それから海へ入ると波に押し倒されて、すぐ手だの足だのを擦りむくのです。こぶしのような大きな石が打ち寄せる波にもまれて、始終ごろごろしているのです。
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「Kはあまり旅へ出ない男でした。私にも房州は始めてでした。二人は何にも知らないで、船が一番先へ着いた所から上陸したのです。たしか保田とかいいました。今ではどんなに変っているか知りませんが、その頃はひどい漁村でした。第一どこもかしこも腥いのです。それから海へ入ると、波に押し倒されて、すぐ手だの足だのを擦り剥くのです。拳のような大きな石が打ち寄せる波に揉まれて、始終ごろごろしているのです。
私は、すぐ嫌になりました。
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私はすぐ厭になりました。
しかしKは、いいとも悪いとも言いません。
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しかしKは好いとも悪いともいいません。
少なくとも顔つきだけは平気なものでした。
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少なくとも顔付だけは平気なものでした。
そのくせ彼は、海へ入るたびにどこかに怪我をしないことはなかったのです。
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そのくせ彼は海へ入るたんびにどこかに怪我をしない事はなかったのです。
私はとうとう彼を説き伏せて、そこから富浦に行きました。
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私はとうとう彼を説き伏せて、そこから富浦に行きました。
富浦から、また那古に移りました。
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富浦からまた那古に移りました。
すべてこの沿岸はその時分から主に学生の集まる所でしたから、どこでも我々にはちょうど手頃の海水浴場だったのです。
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すべてこの沿岸はその時分から重に学生の集まる所でしたから、どこでも我々にはちょうど手頃の海水浴場だったのです。
Kと私はよく海岸の岩の上に座って、遠い海の色や近い水の底を眺めました。
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Kと私はよく海岸の岩の上に坐って、遠い海の色や、近い水の底を眺めました。
岩の上から見下ろす水は、また特別にきれいなものでした。
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岩の上から見下す水は、また特別に綺麗なものでした。
赤い色だの藍の色だの、普通の市場に上らないような色をした小魚が、透き通る波の中をあちらこちらと泳いでいるのが、鮮やかに指さされました。
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赤い色だの藍の色だの、普通市場に上らないような色をした小魚が、透き通る波の中をあちらこちらと泳いでいるのが鮮やかに指さされました。
私はそこに座って、よく書物を広げました。
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私はそこに坐って、よく書物をひろげました。
Kは何もせずに黙っている方が多かったのです。
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Kは何もせずに黙っている方が多かったのです。
私にはそれが考えにふけっているのか、景色に見とれているのか、もしくは好きな想像を描いているのか、まったく分からなかったのです。
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私にはそれが考えに耽っているのか、景色に見惚れているのか、もしくは好きな想像を描いているのか、全く解らなかったのです。
私は時々目を上げて、Kに何をしているのだと聞きました。
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私は時々眼を上げて、Kに何をしているのだと聞きました。
Kは何もしていないと一言答えるだけでした。
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Kは何もしていないと一口答えるだけでした。
私は自分のそばにこうじっとして座っているものがKでなくてお嬢さんだったら、さぞ愉快だろうと思うことがよくありました。
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私は自分の傍にこうじっとして坐っているものが、Kでなくって、お嬢さんだったらさぞ愉快だろうと思う事がよくありました。
それだけならまだいいのですが、時にはKの方でも私と同じような望みを抱いて岩の上に座っているのではないかしらと、突然疑い出すのです。
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それだけならまだいいのですが、時にはKの方でも私と同じような希望を抱いて岩の上に坐っているのではないかしらと忽然疑い出すのです。
すると落ち着いてそこに書物を広げているのが、急に嫌になります。
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すると落ち付いてそこに書物をひろげているのが急に厭になります。
私は不意に立ち上がります。
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私は不意に立ち上ります。
そうして遠慮のない大きな声を出して怒鳴ります。
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そうして遠慮のない大きな声を出して怒鳴ります。
まとまった詩だの歌だのを面白そうに吟じるような手ぬるいことはできないのです。
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纏まった詩だの歌だのを面白そうに吟ずるような手緩い事はできないのです。
ただ野蛮人のようにわめくのです。
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ただ野蛮人のごとくにわめくのです。
ある時私は突然、彼の襟首を後ろからぐいとつかみました。
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ある時私は突然彼の襟頸を後ろからぐいと攫みました。
こうして海の中へ突き落としたらどうすると言って、Kに聞きました。
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こうして海の中へ突き落したらどうするといってKに聞きました。
Kは動きませんでした。
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Kは動きませんでした。
後ろ向きのまま、ちょうどいい、やってくれと答えました。
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後ろ向きのまま、ちょうど好い、やってくれと答えました。
私はすぐ、首筋を押さえた手を放しました。
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私はすぐ首筋を抑えた手を放しました。
Kの神経衰弱は、この時もうだいぶよくなっていたらしいのです。
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Kの神経衰弱はこの時もう大分よくなっていたらしいのです。
それと反対に、私の方はだんだん過敏になって来ていたのです。
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それと反比例に、私の方は段々過敏になって来ていたのです。
私は自分より落ち着いているKを見て、うらやましがりました。
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私は自分より落ち付いているKを見て、羨ましがりました。
また、憎らしがりました。
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また憎らしがりました。
彼はどうしても、私に取り合う様子を見せなかったからです。
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彼はどうしても私に取り合う気色を見せなかったからです。
私にはそれが、一種の自信のように映りました。
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私にはそれが一種の自信のごとく映りました。
しかしその自信を彼に認めたところで、私は決して満足できなかったのです。
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しかしその自信を彼に認めたところで、私は決して満足できなかったのです。
私の疑いはもう一歩前へ出て、その性質を明らかにしたがりました。
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私の疑いはもう一歩前へ出て、その性質を明らめたがりました。
彼は学問なり事業なりについて、これから自分の進んで行くべき前途の光明を再び取り返した気持ちになったのだろうか。
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彼は学問なり事業なりについて、これから自分の進んで行くべき前途の光明を再び取り返した心持になったのだろうか。
単にそれだけならば、Kと私との利害に何の衝突の起こる訳もないのです。
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単にそれだけならば、Kと私との利害に何の衝突の起る訳はないのです。
私はかえって世話のしがいがあったのを、うれしく思うくらいなものです。
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私はかえって世話のし甲斐があったのを嬉しく思うくらいなものです。
けれども彼の安心がもしお嬢さんに対してであるとすれば、私は決して彼を許すことができなくなるのです。
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けれども彼の安心がもしお嬢さんに対してであるとすれば、私は決して彼を許す事ができなくなるのです。
不思議にも彼は、私がお嬢さんを愛しているそぶりにまったく気がついていないように見えました。
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不思議にも彼は私のお嬢さんを愛している素振に全く気が付いていないように見えました。
もちろん私も、それがKの目につくようにわざとらしくは振る舞いませんでしたけれども。
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無論私もそれがKの眼に付くようにわざとらしくは振舞いませんでしたけれども。
Kはもともと、そういう点にかけると鈍い人なのです。
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Kは元来そういう点にかけると鈍い人なのです。
私には最初からKなら大丈夫という安心があったので、彼をわざわざ家へ連れて来たのです。
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私には最初からKなら大丈夫という安心があったので、彼をわざわざ宅へ連れて来たのです。
二十九
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二十九
「私は思い切って自分の心をKに打ち明けようとしました。もっともこれは、その時に始まった訳でもなかったのです。旅に出る前から私にはそうした腹ができていたのですけれども、打ち明ける機会をつかまえることも、その機会を作り出すことも、私の腕前ではうまく行かなかったのです。今から思うと、その頃私の周りにいた人間はみんな妙でした。女に関して立ち入った話などをする者は、一人もいませんでした。中には話す種を持たない者もだいぶいたでしょうが、たとえ持っていても黙っているのが普通のようでした。比較的自由な空気を吸っている今のあなた方から見たら、さぞ変に思われるでしょう。それが道徳の教えの名残なのか、または一種のはにかみなのか、判断はあなたの理解に任せておきます。
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「私は思い切って自分の心をKに打ち明けようとしました。もっともこれはその時に始まった訳でもなかったのです。旅に出ない前から、私にはそうした腹ができていたのですけれども、打ち明ける機会をつらまえる事も、その機会を作り出す事も、私の手際では旨くゆかなかったのです。今から思うと、その頃私の周囲にいた人間はみんな妙でした。女に関して立ち入った話などをするものは一人もありませんでした。中には話す種をもたないのも大分いたでしょうが、たといもっていても黙っているのが普通のようでした。比較的自由な空気を呼吸している今のあなたがたから見たら、定めし変に思われるでしょう。それが道学の余習なのか、または一種のはにかみなのか、判断はあなたの理解に任せておきます。
Kと私は、何でも話し合える仲でした。
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Kと私は何でも話し合える中でした。
たまには愛とか恋とかいう問題も口に上らないではありませんでしたが、いつでも抽象的な理論に落ちてしまうだけでした。
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偶には愛とか恋とかいう問題も、口に上らないではありませんでしたが、いつでも抽象的な理論に落ちてしまうだけでした。
それも、めったには話題にならなかったのです。
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それも滅多には話題にならなかったのです。
たいていは書物の話と学問の話と、未来の事業と、抱負と、修養の話ぐらいで持ちきっていたのです。
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大抵は書物の話と学問の話と、未来の事業と、抱負と、修養の話ぐらいで持ち切っていたのです。
いくら親しくてもこう堅くなった日には、突然調子を崩せるものではありません。
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いくら親しくってもこう堅くなった日には、突然調子を崩せるものではありません。
二人はただ、堅いなりに親しくなるだけです。
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二人はただ堅いなりに親しくなるだけです。
私はお嬢さんのことをKに打ち明けようと思い立ってから、何度歯がゆい不快に悩まされたか知れません。
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私はお嬢さんの事をKに打ち明けようと思い立ってから、何遍歯がゆい不快に悩まされたか知れません。
私はKの頭のどこか一か所を突き破って、そこから柔らかい空気を吹き込んでやりたい気がしました。
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私はKの頭のどこか一カ所を突き破って、そこから柔らかい空気を吹き込んでやりたい気がしました。
あなた方から見て笑ってしまうようなことも、その時の私には実際大変な難事だったのです。
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あなたがたから見て笑止千万な事もその時の私には実際大困難だったのです。
私は旅先でも、家にいた時と同じように卑怯でした。
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私は旅先でも宅にいた時と同じように卑怯でした。
私は始終機会をとらえる気でKを観察していながら、変に高く構えた彼の態度をどうすることもできなかったのです。
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私は始終機会を捕える気でKを観察していながら、変に高踏的な彼の態度をどうする事もできなかったのです。
私に言わせると、彼の心臓の周りは黒い漆で重く塗り固められたのも同然でした。
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私にいわせると、彼の心臓の周囲は黒い漆で重く塗り固められたのも同然でした。
私の注ぎかけようとする血潮は、一滴もその心臓の中へは入らないで、ことごとくはじき返されてしまうのです。
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私の注ぎ懸けようとする血潮は、一滴もその心臓の中へは入らないで、悉く弾き返されてしまうのです。
ある時はあまりKの様子が強く高いので、私はかえって安心したこともあります。
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或る時はあまりKの様子が強くて高いので、私はかえって安心した事もあります。
そうして自分の疑いを腹の中で後悔するとともに、同じ腹の中でKに詫びました。
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そうして自分の疑いを腹の中で後悔すると共に、同じ腹の中で、Kに詫びました。
詫びながら、自分が非常に下等な人間のように見えて急に嫌な気持ちになるのです。
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詫びながら自分が非常に下等な人間のように見えて、急に厭な心持になるのです。
しかししばらくすると、以前の疑いがまた逆戻りをして強く打ち返して来ます。
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しかし少時すると、以前の疑いがまた逆戻りをして、強く打ち返して来ます。
すべてが疑いから割り出されるのですから、すべてが私には不利でした。
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すべてが疑いから割り出されるのですから、すべてが私には不利益でした。
顔かたちも、Kの方が女に好かれるように見えました。
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容貌もKの方が女に好かれるように見えました。
性質も、私のようにこせこせしていないところが異性には気に入るだろうと思われました。
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性質も私のようにこせこせしていないところが、異性には気に入るだろうと思われました。
どこか間が抜けていて、それでどこかにしっかりした男らしいところのある点も、私よりは優勢に見えました。
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どこか間が抜けていて、それでどこかに確かりした男らしいところのある点も、私よりは優勢に見えました。
学力になれば専門こそ違いますが、私はもちろんKの敵ではないと自覚していました。――
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学力になれば専門こそ違いますが、私は無論Kの敵でないと自覚していました。――
すべて向こうのいいところだけがこう一度に目先へちらつき出すと、ちょっと安心した私はすぐ元の不安に立ち返るのです。
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すべて向うの好いところだけがこう一度に眼先へ散らつき出すと、ちょっと安心した私はすぐ元の不安に立ち返るのです。
Kは落ち着かない私の様子を見て、嫌ならひとまず東京へ帰ってもいいと言ったのですが、そう言われると私は急に帰りたくなくなりました。
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Kは落ち付かない私の様子を見て、厭ならひとまず東京へ帰ってもいいといったのですが、そういわれると、私は急に帰りたくなくなりました。
実はKを東京へ帰したくなかったのかもしれません。
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実はKを東京へ帰したくなかったのかも知れません。
二人は房州の先端を回って、向こう側へ出ました。
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二人は房州の鼻を廻って向う側へ出ました。
我々は暑い日に射られながら、苦しい思いをして、上総の、そこまで四キロという当てにならない道案内にだまされながら、うんうん歩きました。
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我々は暑い日に射られながら、苦しい思いをして、上総のそこ一里に騙されながら、うんうん歩きました。
私には、そうして歩いている意味がまるで分からなかったくらいです。
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私にはそうして歩いている意味がまるで解らなかったくらいです。
私は冗談半分、Kにそう言いました。
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私は冗談半分Kにそういいました。
するとKは、足があるから歩くのだと答えました。
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するとKは足があるから歩くのだと答えました。
そうして暑くなると、海に入って行こうと言って、どこでも構わず潮につかりました。
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そうして暑くなると、海に入って行こうといって、どこでも構わず潮へ漬りました。
その後をまた強い日で照りつけられるのですから、体がだるくてぐたぐたになりました。
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その後をまた強い日で照り付けられるのですから、身体が倦怠くてぐたぐたになりました。
三十
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三十
「こんなふうにして歩いていると、暑さと疲れとで自然、体の調子が狂って来るものです。もっとも病気とは違います。急にほかの体の中へ自分の魂が引っ越したような気分になるのです。私はふだんどおりKと口をききながら、どこかでふだんの気持ちと離れるようになりました。彼に対する親しみも憎しみも、旅の間限りという特別な性質を帯びるふうになったのです。つまり二人は暑さのため、潮のため、また歩行のため、これまでと異なった新しい関係に入ることができたのでしょう。その時の我々は、あたかも道連れになった行商のようなものでした。いくら話をしてもいつもと違って、頭を使う込み入った問題には触れませんでした。
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「こんな風にして歩いていると、暑さと疲労とで自然身体の調子が狂って来るものです。もっとも病気とは違います。急に他の身体の中へ、自分の霊魂が宿替をしたような気分になるのです。私は平生の通りKと口を利きながら、どこかで平生の心持と離れるようになりました。彼に対する親しみも憎しみも、旅中限りという特別な性質を帯びる風になったのです。つまり二人は暑さのため、潮のため、また歩行のため、在来と異なった新しい関係に入る事ができたのでしょう。その時の我々はあたかも道づれになった行商のようなものでした。いくら話をしてもいつもと違って、頭を使う込み入った問題には触れませんでした。
我々はこの調子でとうとう銚子まで行ったのですが、道中たった一つの例外があったのを今でも忘れることができないのです。
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我々はこの調子でとうとう銚子まで行ったのですが、道中たった一つの例外があったのを今に忘れる事ができないのです。
まだ房州を離れない前、二人は小湊という所で鯛の浦を見物しました。
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まだ房州を離れない前、二人は小湊という所で、鯛の浦を見物しました。
もう年数もよほど経っていますし、それに私にはそれほど興味のないことですから、はっきりとは覚えていませんが、何でもそこは日蓮の生まれた村だとかいう話でした。
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もう年数もよほど経っていますし、それに私にはそれほど興味のない事ですから、判然とは覚えていませんが、何でもそこは日蓮の生れた村だとかいう話でした。
日蓮の生まれた日に、鯛が二匹磯に打ち上げられていたとかいう言い伝えになっているのです。
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日蓮の生れた日に、鯛が二尾磯に打ち上げられていたとかいう言伝えになっているのです。
それ以来村の漁師が鯛を取ることを遠慮して今に至ったのだから、浦には鯛がたくさんいるのです。
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それ以来村の漁師が鯛をとる事を遠慮して今に至ったのだから、浦には鯛が沢山いるのです。
我々は小舟を雇って、その鯛をわざわざ見に出かけたのです。
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我々は小舟を傭って、その鯛をわざわざ見に出掛けたのです。
その時私は、ただひたすら波を見ていました。
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その時私はただ一図に波を見ていました。
そうしてその波の中に動く少し紫がかった鯛の色を、面白い現象の一つとして飽きずに眺めました。
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そうしてその波の中に動く少し紫がかった鯛の色を、面白い現象の一つとして飽かず眺めました。
しかしKは、私ほどそれに興味を持てなかったものと見えます。
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しかしKは私ほどそれに興味をもち得なかったものとみえます。
彼は鯛よりも、かえって日蓮の方を頭の中で想像していたらしいのです。
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彼は鯛よりもかえって日蓮の方を頭の中で想像していたらしいのです。
ちょうどそこに、誕生寺という寺がありました。
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ちょうどそこに誕生寺という寺がありました。
日蓮の生まれた村だから誕生寺とでも名をつけたものでしょう、立派な伽藍でした。
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日蓮の生れた村だから誕生寺とでも名を付けたものでしょう、立派な伽藍でした。
Kはその寺に行って住職に会ってみると言い出しました。
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Kはその寺に行って住持に会ってみるといい出しました。
実を言うと、我々はずいぶん変な服装をしていたのです。
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実をいうと、我々はずいぶん変な服装をしていたのです。
特にKは風のために帽子を海に吹き飛ばされた結果、菅笠を買ってかぶっていました。
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ことにKは風のために帽子を海に吹き飛ばされた結果、菅笠を買って被っていました。
着物はもとより双方とも垢じみた上に、汗で臭くなっていました。
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着物は固より双方とも垢じみた上に汗で臭くなっていました。
私は、坊さんなどに会うのはよそうと言いました。
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私は坊さんなどに会うのは止そうといいました。
Kは強情だから聞きません。
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Kは強情だから聞きません。
嫌なら私だけ外に待っていろと言うのです。
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厭なら私だけ外に待っていろというのです。
私は仕方がないからいっしょに玄関に立ちましたが、心のうちではきっと断られるに違いないと思っていました。
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私は仕方がないからいっしょに玄関にかかりましたが、心のうちではきっと断られるに違いないと思っていました。
ところが坊さんというものは案外丁寧なもので、広い立派な座敷へ私たちを通してすぐ会ってくれました。
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ところが坊さんというものは案外丁寧なもので、広い立派な座敷へ私たちを通して、すぐ会ってくれました。
その時分の私はKとだいぶ考えが違っていましたから、坊さんとKの話にそれほど耳を傾ける気も起こりませんでしたが、Kはしきりに日蓮のことを聞いていたようです。
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その時分の私はKと大分考えが違っていましたから、坊さんとKの談話にそれほど耳を傾ける気も起りませんでしたが、Kはしきりに日蓮の事を聞いていたようです。
日蓮は草日蓮と言われるくらいで草書が大変上手であったと坊さんが言った時、字の下手なKが、何だつまらないという顔をしたのを、私はまだ覚えています。
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日蓮は草日蓮といわれるくらいで、草書が大変上手であったと坊さんがいった時、字の拙いKは、何だ下らないという顔をしたのを私はまだ覚えています。
Kはそんなことよりも、もっと深い意味の日蓮が知りたかったのでしょう。
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Kはそんな事よりも、もっと深い意味の日蓮が知りたかったのでしょう。
坊さんがその点でKを満足させたかどうかは疑問ですが、彼は寺の境内を出ると、しきりに私に向かって日蓮のことをあれこれ言い出しました。
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坊さんがその点でKを満足させたかどうかは疑問ですが、彼は寺の境内を出ると、しきりに私に向って日蓮の事を云々し出しました。
私は暑くて疲れて、それどころではありませんでしたから、ただ口の先でいい加減な受け答えをしていました。
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私は暑くて草臥れて、それどころではありませんでしたから、ただ口の先で好い加減な挨拶をしていました。
それも面倒になって、しまいにはまったく黙ってしまったのです。
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それも面倒になってしまいには全く黙ってしまったのです。
たしかその翌る晩のことだと思いますが、二人は宿へ着いてご飯を食って、もう寝ようという少し前になってから、急に難しい問題を論じ合い出しました。
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たしかその翌る晩の事だと思いますが、二人は宿へ着いて飯を食って、もう寝ようという少し前になってから、急にむずかしい問題を論じ合い出しました。
Kは昨日自分の方から話しかけた日蓮のことについて、私が取り合わなかったのを快く思っていなかったのです。
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Kは昨日自分の方から話しかけた日蓮の事について、私が取り合わなかったのを、快く思っていなかったのです。
精神的に向上心がない者は馬鹿だと言って、何だか私をさも軽薄者のようにやり込めるのです。
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精神的に向上心がないものは馬鹿だといって、何だか私をさも軽薄もののようにやり込めるのです。
ところが私の胸にはお嬢さんのことがわだかまっていますから、彼の侮蔑に近い言葉をただ笑って受け取る訳に行きません。
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ところが私の胸にはお嬢さんの事が蟠っていますから、彼の侮蔑に近い言葉をただ笑って受け取る訳にいきません。
私は私で、弁解を始めたのです。
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私は私で弁解を始めたのです。
三十一
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三十一
「その時私はしきりに人間らしいという言葉を使いました。Kはこの人間らしいという言葉のうちに、私が自分の弱点のすべてを隠していると言うのです。なるほど後から考えれば、Kの言うとおりでした。しかし人間らしくない意味をKに納得させるためにその言葉を使い出した私には、出発点がすでに反抗的でしたから、それを反省するような余裕はありません。私はなおのこと自説を主張しました。するとKが、彼のどこをつかまえて人間らしくないと言うのかと私に聞くのです。私は彼に告げました。――君は人間らしいのだ。あるいは人間らし過ぎるかもしれないのだ。けれども口の先だけでは人間らしくないようなことを言うのだ。また人間らしくないように振る舞おうとするのだ。
原文を見る
「その時私はしきりに人間らしいという言葉を使いました。Kはこの人間らしいという言葉のうちに、私が自分の弱点のすべてを隠しているというのです。なるほど後から考えれば、Kのいう通りでした。しかし人間らしくない意味をKに納得させるためにその言葉を使い出した私には、出立点がすでに反抗的でしたから、それを反省するような余裕はありません。私はなおの事自説を主張しました。するとKが彼のどこをつらまえて人間らしくないというのかと私に聞くのです。私は彼に告げました。――君は人間らしいのだ。あるいは人間らし過ぎるかも知れないのだ。けれども口の先だけでは人間らしくないような事をいうのだ。また人間らしくないように振舞おうとするのだ。
私がこう言った時、彼はただ自分の修養が足りないからほかにはそう見えるかもしれないと答えただけで、まるで私に言い返そうとしませんでした。
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私がこういった時、彼はただ自分の修養が足りないから、他にはそう見えるかも知れないと答えただけで、一向私を反駁しようとしませんでした。
私は張り合いが抜けたというよりも、かえって気の毒になりました。
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私は張合いが抜けたというよりも、かえって気の毒になりました。
私はすぐ、議論をそこで切り上げました。
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私はすぐ議論をそこで切り上げました。
彼の調子も、だんだん沈んで来ました。
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彼の調子もだんだん沈んで来ました。
もし私が彼の知っているとおり昔の人を知るならば、そんな攻撃はしないだろうと言って、悲しげにしていました。
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もし私が彼の知っている通り昔の人を知るならば、そんな攻撃はしないだろうといって悵然としていました。
Kの口にした昔の人とは、もちろん英雄でもなければ豪傑でもないのです。
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Kの口にした昔の人とは、無論英雄でもなければ豪傑でもないのです。
魂のために肉体を痛めつけたり、道のために体をむち打ったりした、いわゆる難行苦行の人を指すのです。
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霊のために肉を虐げたり、道のために体を鞭うったりしたいわゆる難行苦行の人を指すのです。
Kは私に、彼がどのくらいそのために苦しんでいるか分からないのが、いかにも残念だと明言しました。
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Kは私に、彼がどのくらいそのために苦しんでいるか解らないのが、いかにも残念だと明言しました。
Kと私とは、それきり寝てしまいました。
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Kと私とはそれぎり寝てしまいました。
そうしてその翌る日からまた普通の行商の態度に返って、うんうん汗を流しながら歩き出したのです。
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そうしてその翌る日からまた普通の行商の態度に返って、うんうん汗を流しながら歩き出したのです。
しかし私は道々、その晩のことをひょいひょいと思い出しました。
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しかし私は路々その晩の事をひょいひょいと思い出しました。
私にはこの上もないいい機会が与えられたのに、知らないふりをしてなぜそれをやり過ごしたのだろうという悔いの念が燃えたのです。
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私にはこの上もない好い機会が与えられたのに、知らない振りをしてなぜそれをやり過ごしたのだろうという悔恨の念が燃えたのです。
私は人間らしいという抽象的な言葉を用いる代わりに、もっとまっすぐで簡単な話をKに打ち明けてしまえばよかったと思い出したのです。
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私は人間らしいという抽象的な言葉を用いる代りに、もっと直截で簡単な話をKに打ち明けてしまえば好かったと思い出したのです。
実を言うと、私がそんな言葉を作り出したのもお嬢さんに対する私の感情が土台になっていたのですから、事実を蒸留してこしらえた理論などをKの耳に吹き込むよりも、元の形そのままを彼の目の前にさらけ出した方が、私にはたしかに得だったでしょう。
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実をいうと、私がそんな言葉を創造したのも、お嬢さんに対する私の感情が土台になっていたのですから、事実を蒸溜して拵えた理論などをKの耳に吹き込むよりも、原の形そのままを彼の眼の前に露出した方が、私にはたしかに利益だったでしょう。
私にそれができなかったのは、学問の付き合いが土台を作っている二人の親しみに自然と一種の惰性があったため、思い切ってそれを突き破るだけの勇気が私に欠けていたのだということを、ここに白状します。
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私にそれができなかったのは、学問の交際が基調を構成している二人の親しみに、自から一種の惰性があったため、思い切ってそれを突き破るだけの勇気が私に欠けていたのだという事をここに自白します。
気取り過ぎたと言っても、見えがたたったと言っても同じでしょうが、私の言う気取るとか見えとかいう意味は、普通のとは少し違います。
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気取り過ぎたといっても、虚栄心が祟ったといっても同じでしょうが、私のいう気取るとか虚栄とかいう意味は、普通のとは少し違います。
それがあなたに通じさえすれば、私は満足なのです。
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それがあなたに通じさえすれば、私は満足なのです。
我々は真っ黒になって東京へ帰りました。
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我々は真黒になって東京へ帰りました。
帰った時は、私の気分がまた変わっていました。
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帰った時は私の気分がまた変っていました。
人間らしいとか人間らしくないとかいう小理屈は、ほとんど頭の中に残っていませんでした。
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人間らしいとか、人間らしくないとかいう小理屈はほとんど頭の中に残っていませんでした。
Kにも、宗教家らしい様子がまったく見えなくなりました。
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Kにも宗教家らしい様子が全く見えなくなりました。
おそらく彼の心のどこにも、魂がどうの肉体がどうのという問題はその時宿っていなかったでしょう。
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おそらく彼の心のどこにも霊がどうの肉がどうのという問題は、その時宿っていなかったでしょう。
二人は異国の人種のような顔をして、忙しそうに見える東京をぐるぐる眺めました。
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二人は異人種のような顔をして、忙しそうに見える東京をぐるぐる眺めました。
それから両国へ来て、暑いのに軍鶏を食いました。
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それから両国へ来て、暑いのに軍鶏を食いました。
Kはその勢いで、小石川まで歩いて帰ろうと言うのです。
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Kはその勢いで小石川まで歩いて帰ろうというのです。
体力から言えばKよりも私の方が強いのですから、私はすぐ応じました。
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体力からいえばKよりも私の方が強いのですから、私はすぐ応じました。
家へ着いた時、奥さんは二人の姿を見て驚きました。
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宅へ着いた時、奥さんは二人の姿を見て驚きました。
二人はただ色が黒くなったばかりでなく、むやみに歩いていたうちに大変やせてしまったのです。
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二人はただ色が黒くなったばかりでなく、むやみに歩いていたうちに大変瘠せてしまったのです。
奥さんはそれでも、丈夫そうになったと言ってほめてくれるのです。
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奥さんはそれでも丈夫そうになったといって賞めてくれるのです。
お嬢さんは奥さんの矛盾がおかしいと言って、また笑い出しました。
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お嬢さんは奥さんの矛盾がおかしいといってまた笑い出しました。
旅行前、時々腹の立った私も、その時だけは愉快な気持ちがしました。
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旅行前時々腹の立った私も、その時だけは愉快な心持がしました。
場合が場合なのと、久しぶりに聞いたせいでしょう。
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場合が場合なのと、久しぶりに聞いたせいでしょう。
三十二
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三十二
「そればかりでなく、私はお嬢さんの態度が少し前と変わっているのに気がつきました。久しぶりで旅から帰った私たちがふだんどおり落ち着くまでには、すべてについて女の手が必要だったのですが、その世話をしてくれる奥さんはとにかく、お嬢さんがすべて私の方を先にしてKを後回しにするように見えたのです。それを露骨にやられては、私も迷惑したかもしれません。場合によってはかえって不快の念さえ起こしかねなかっただろうと思うのですが、お嬢さんのやり方はその点で実に要領を得ていたから、私はうれしかったのです。つまりお嬢さんは私だけに分かるように、持ち前の親切を余分に私の方へ割り当ててくれたのです。だからKは別に嫌な顔もせずに平気でいました。私は心の中でひそかに、彼に対する勝ちどきを上げました。
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「それのみならず私はお嬢さんの態度の少し前と変っているのに気が付きました。久しぶりで旅から帰った私たちが平生の通り落ち付くまでには、万事について女の手が必要だったのですが、その世話をしてくれる奥さんはとにかく、お嬢さんがすべて私の方を先にして、Kを後廻しにするように見えたのです。それを露骨にやられては、私も迷惑したかもしれません。場合によってはかえって不快の念さえ起しかねなかったろうと思うのですが、お嬢さんの所作はその点で甚だ要領を得ていたから、私は嬉しかったのです。つまりお嬢さんは私だけに解るように、持前の親切を余分に私の方へ割り宛ててくれたのです。だからKは別に厭な顔もせずに平気でいました。私は心の中でひそかに彼に対する愷歌を奏しました。
やがて夏も過ぎて、九月の中頃から我々はまた学校の授業に出席しなければならないことになりました。
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やがて夏も過ぎて九月の中頃から我々はまた学校の課業に出席しなければならない事になりました。
Kと私とは、それぞれの時間の都合で出入りの時刻にまた早い遅いができて来ました。
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Kと私とは各自の時間の都合で出入りの刻限にまた遅速ができてきました。
私がKより遅れて帰る時は一週に三度ほどありましたが、いつ帰ってもお嬢さんの姿をKの部屋に見ることはないようになりました。
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私がKより後れて帰る時は一週に三度ほどありましたが、いつ帰ってもお嬢さんの影をKの室に認める事はないようになりました。
Kはいつもの目を私の方に向けて、「今帰ったのか」
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Kは例の眼を私の方に向けて、「今帰ったのか」
を決まりのように繰り返しました。
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を規則のごとく繰り返しました。
私の会釈も、ほとんど機械のように簡単で、しかも意味のないものでした。
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私の会釈もほとんど器械のごとく簡単でかつ無意味でした。
たしか十月の中頃と思います。
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たしか十月の中頃と思います。
私は寝坊をした結果、和服のまま急いで学校へ出たことがあります。
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私は寝坊をした結果、日本服のまま急いで学校へ出た事があります。
履物も編み上げなどを結んでいる時間が惜しいので、草履を突っかけたまま飛び出したのです。
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穿物も編上などを結んでいる時間が惜しいので、草履を突っかけたなり飛び出したのです。
その日は時間割から言うと、Kよりも私の方が先に帰るはずになっていました。
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その日は時間割からいうと、Kよりも私の方が先へ帰るはずになっていました。
私は戻って来ると、そのつもりで玄関の格子をがらりと開けたのです。
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私は戻って来ると、そのつもりで玄関の格子をがらりと開けたのです。
するといないと思っていたKの声が、ひょいと聞こえました。
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するといないと思っていたKの声がひょいと聞こえました。
同時に、お嬢さんの笑い声が私の耳に響きました。
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同時にお嬢さんの笑い声が私の耳に響きました。
私はいつものように手数のかかる靴をはいていないから、すぐ玄関に上がって仕切りのふすまを開けました。
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私はいつものように手数のかかる靴を穿いていないから、すぐ玄関に上がって仕切の襖を開けました。
私はいつものとおり机の前に座っているKを見ました。
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私は例の通り机の前に坐っているKを見ました。
しかしお嬢さんは、もうそこにはいなかったのです。
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しかしお嬢さんはもうそこにはいなかったのです。
私はあたかもKの部屋から逃れ出るように去る、その後ろ姿をちらりと見ただけでした。
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私はあたかもKの室から逃れ出るように去るその後姿をちらりと認めただけでした。
私はKに、どうして早く帰ったのかと問いました。
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私はKにどうして早く帰ったのかと問いました。
Kは気分が悪いから休んだのだと答えました。
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Kは心持が悪いから休んだのだと答えました。
私が自分の部屋に入ってそのまま座っていると、まもなくお嬢さんがお茶を持って来てくれました。
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私が自分の室にはいってそのまま坐っていると、間もなくお嬢さんが茶を持って来てくれました。
その時お嬢さんは初めて、お帰りなさいと言って私に挨拶をしました。
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その時お嬢さんは始めてお帰りといって私に挨拶をしました。
私は笑いながら、さっきはなぜ逃げたんですと聞けるようなさばけた男ではありません。
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私は笑いながらさっきはなぜ逃げたんですと聞けるような捌けた男ではありません。
それでいて腹の中では、何だかそのことが気にかかるような人間だったのです。
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それでいて腹の中では何だかその事が気にかかるような人間だったのです。
お嬢さんはすぐ席を立って、縁側伝いに向こうへ行ってしまいました。
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お嬢さんはすぐ座を立って縁側伝いに向うへ行ってしまいました。
しかしKの部屋の前に立ち止まって、二言三言、内と外とで話をしていました。
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しかしKの室の前に立ち留まって、二言三言内と外とで話をしていました。
それはさっきの続きらしかったのですが、前を聞かない私にはまるで分かりませんでした。
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それは先刻の続きらしかったのですが、前を聞かない私にはまるで解りませんでした。
そのうち、お嬢さんの態度がだんだん平気になって来ました。
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そのうちお嬢さんの態度がだんだん平気になって来ました。
Kと私がいっしょに家にいる時でも、よくKの部屋の縁側へ来て彼の名を呼びました。
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Kと私がいっしょに宅にいる時でも、よくKの室の縁側へ来て彼の名を呼びました。
そうしてそこへ入って、ゆっくりしていました。
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そうしてそこへ入って、ゆっくりしていました。
もちろん郵便を持って来ることもあるし、洗濯物を置いて行くこともあるのですから、そのくらいの行き来は同じ家にいる二人の関係上当然と見なければならないのでしょうが、ぜひお嬢さんを自分のものにしたいという強烈な一念に動かされている私には、どうしてもそれが当然以上に見えたのです。
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無論郵便を持って来る事もあるし、洗濯物を置いてゆく事もあるのですから、そのくらいの交通は同じ宅にいる二人の関係上、当然と見なければならないのでしょうが、ぜひお嬢さんを専有したいという強烈な一念に動かされている私には、どうしてもそれが当然以上に見えたのです。
ある時は、お嬢さんがわざわざ私の部屋へ来るのを避けてKの方ばかりへ行くように思われることさえあったくらいです。
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ある時はお嬢さんがわざわざ私の室へ来るのを回避して、Kの方ばかりへ行くように思われる事さえあったくらいです。
それならなぜKに家を出てもらわないのかと、あなたは聞くでしょう。
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それならなぜKに宅を出てもらわないのかとあなたは聞くでしょう。
しかしそうすれば、私がKを無理に引っ張って来た趣旨が立たなくなるだけです。
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しかしそうすれば私がKを無理に引張って来た主意が立たなくなるだけです。
私には、それができないのです。
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私にはそれができないのです。
三十三
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三十三
「十一月の寒い雨の降る日のことでした。私は外套をぬらして、いつものとおりこんにゃく閻魔を抜けて細い坂道を上り、家へ帰りました。Kの部屋は空でしたけれども、火鉢には継ぎたての火が暖かそうに燃えていました。私も冷たい手を早く赤い炭の上にかざそうと思って、急いで自分の部屋の仕切りを開けました。すると私の火鉢には冷たい灰が白く残っているだけで、火種さえ尽きているのです。私は急に不愉快になりました。
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「十一月の寒い雨の降る日の事でした。私は外套を濡らして例の通り蒟蒻閻魔を抜けて細い坂路を上って宅へ帰りました。Kの室は空虚でしたけれども、火鉢には継ぎたての火が暖かそうに燃えていました。私も冷たい手を早く赤い炭の上に翳そうと思って、急いで自分の室の仕切りを開けました。すると私の火鉢には冷たい灰が白く残っているだけで、火種さえ尽きているのです。私は急に不愉快になりました。
その時私の足音を聞いて出て来たのは、奥さんでした。
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その時私の足音を聞いて出て来たのは、奥さんでした。
奥さんは黙って部屋の真ん中に立っている私を見て、気の毒そうに外套を脱がせてくれたり、和服を着せてくれたりしました。
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奥さんは黙って室の真中に立っている私を見て、気の毒そうに外套を脱がせてくれたり、日本服を着せてくれたりしました。
それから私が寒いと言うのを聞いて、すぐ次の間からKの火鉢を持って来てくれました。
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それから私が寒いというのを聞いて、すぐ次の間からKの火鉢を持って来てくれました。
私がKはもう帰ったのかと聞きましたら、奥さんは帰ってまた出たと答えました。
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私がKはもう帰ったのかと聞きましたら、奥さんは帰ってまた出たと答えました。
その日もKは私より遅れて帰る時間割だったのですから、私はどうした訳かと思いました。
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その日もKは私より後れて帰る時間割だったのですから、私はどうした訳かと思いました。
奥さんは、おおかた用事でもできたのだろうと言っていました。
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奥さんは大方用事でもできたのだろうといっていました。
私はしばらくそこに座ったまま、本を読みました。
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私はしばらくそこに坐ったまま書見をしました。
家の中がしんと静まって誰の話し声も聞こえないうちに、初冬の寒さとわびしさとが私の体に食い込むような感じがしました。
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宅の中がしんと静まって、誰の話し声も聞こえないうちに、初冬の寒さと佗びしさとが、私の身体に食い込むような感じがしました。
私はすぐ書物を伏せて立ち上がりました。
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私はすぐ書物を伏せて立ち上りました。
私はふと、にぎやかな所へ行きたくなったのです。
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私はふと賑やかな所へ行きたくなったのです。
雨はやっとやんだようですが、空はまだ冷たい鉛のように重く見えたので、私は用心のため蛇の目傘を肩に担いで、砲兵工廠の裏手の土塀に沿って東へ坂を下りました。
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雨はやっと歇ったようですが、空はまだ冷たい鉛のように重く見えたので、私は用心のため、蛇の目を肩に担いで、砲兵工廠の裏手の土塀について東へ坂を下りました。
その時分はまだ道路の改修ができない頃なので、坂の傾きが今よりもずっと急でした。
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その時分はまだ道路の改正ができない頃なので、坂の勾配が今よりもずっと急でした。
道幅も狭くて、ああまっすぐではなかったのです。
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道幅も狭くて、ああ真直ではなかったのです。
その上あの谷へ下りると、南が高い建物でふさがっているのと水はけがよくないのとで、通りはどろどろでした。
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その上あの谷へ下りると、南が高い建物で塞がっているのと、放水がよくないのとで、往来はどろどろでした。
特に細い石橋を渡って柳町の通りへ出る間が、ひどかったのです。
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ことに細い石橋を渡って柳町の通りへ出る間が非道かったのです。
足駄でも長靴でも、むやみに歩く訳には行きません。
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足駄でも長靴でもむやみに歩く訳にはゆきません。
誰でも道の真ん中に自然と細長く泥がかき分けられた所を、後生大事にたどって行かなければならないのです。
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誰でも路の真中に自然と細長く泥が掻き分けられた所を、後生大事に辿って行かなければならないのです。
その幅はわずか三十センチから六十センチしかないのですから、まるで通りに敷いてある帯の上を踏んで向こうへ越すのと同じことです。
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その幅は僅か一、二尺しかないのですから、手もなく往来に敷いてある帯の上を踏んで向うへ越すのと同じ事です。
行く人はみんな一列になって、そろそろ通り抜けます。
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行く人はみんな一列になってそろそろ通り抜けます。
私はこの細帯の上で、ばったりとKに出会いました。
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私はこの細帯の上で、はたりとKに出合いました。
足の方にばかり気を取られていた私は、彼と向き合うまで彼の存在にまるで気がつかずにいたのです。
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足の方にばかり気を取られていた私は、彼と向き合うまで、彼の存在にまるで気が付かずにいたのです。
私は不意に自分の前がふさがったのでたまたま目を上げた時、初めてそこに立っているKを見たのです。
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私は不意に自分の前が塞がったので偶然眼を上げた時、始めてそこに立っているKを認めたのです。
私はKに、どこへ行ったのかと聞きました。
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私はKにどこへ行ったのかと聞きました。
Kは、ちょっとそこまでと言ったきりでした。
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Kはちょっとそこまでといったぎりでした。
彼の答えはいつものとおり、ふんという調子でした。
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彼の答えはいつもの通りふんという調子でした。
Kと私は、細い帯の上で体をすれ違わせました。
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Kと私は細い帯の上で身体を替せました。
するとKのすぐ後ろに、一人の若い女が立っているのが見えました。
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するとKのすぐ後ろに一人の若い女が立っているのが見えました。
近眼の私には今までそれがよく分からなかったのですが、Kをやり過ごした後でその女の顔を見ると、それが家のお嬢さんだったので、私は少なからず驚きました。
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近眼の私には、今までそれがよく分らなかったのですが、Kをやり越した後で、その女の顔を見ると、それが宅のお嬢さんだったので、私は少なからず驚きました。
お嬢さんは心持ち赤みのさした顔をして、私に挨拶をしました。
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お嬢さんは心持薄赤い顔をして、私に挨拶をしました。
その時分の束髪は今と違って前が出っ張っていないのです、そうして頭の真ん中に蛇のようにぐるぐる巻きつけてあったものです。
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その時分の束髪は今と違って廂が出ていないのです、そうして頭の真中に蛇のようにぐるぐる巻きつけてあったものです。
私はぼんやりお嬢さんの頭を見ていましたが、次の瞬間に、どちらか道を譲らなければならないのだということに気がつきました。
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私はぼんやりお嬢さんの頭を見ていましたが、次の瞬間に、どっちか路を譲らなければならないのだという事に気が付きました。
私は思い切って、どろどろの中へ片足踏み込みました。
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私は思い切ってどろどろの中へ片足踏ん込みました。
そうして比較的通りやすい所を空けて、お嬢さんを渡してやりました。
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そうして比較的通りやすい所を空けて、お嬢さんを渡してやりました。
それから柳町の通りへ出た私は、どこへ行っていいか自分にも分からなくなりました。
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それから柳町の通りへ出た私はどこへ行って好いか自分にも分らなくなりました。
どこへ行っても面白くないような気持ちがするのです。
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どこへ行っても面白くないような心持がするのです。
私は泥はねが上がるのも構わずに、ぬかるみの海の中をやけくそにどしどし歩きました。
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私は飛泥の上がるのも構わずに、糠る海の中を自暴にどしどし歩きました。
それからすぐ家へ帰って来ました。
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それから直ぐ宅へ帰って来ました。
三十四
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三十四
「私はKに向かって、お嬢さんといっしょに出たのかと聞きました。Kはそうではないと答えました。真砂町で偶然出会ったから連れ立って帰って来たのだと説明しました。私はそれ以上に立ち入った質問を控えなければなりませんでした。しかし食事の時、またお嬢さんに向かって同じ問いをかけたくなりました。するとお嬢さんは、私の嫌いな例の笑い方をするのです。そうして、どこへ行ったか当ててみろとしまいに言うのです。その頃の私はまだ癇癪持ちでしたから、そう不真面目に若い女から扱われると腹が立ちました。ところがそこに気がつくのは、同じ食卓に着いている者のうちで奥さん一人だったのです。Kはむしろ平気でした。お嬢さんの態度になると、知ってわざとやるのか、知らないで無邪気にやるのか、そこの区別がちょっとはっきりしない点がありました。若い女としてお嬢さんは思慮に富んだ方でしたけれども、その若い女に共通な私の嫌いなところも、あると思えば思えなくもなかったのです。そうしてその嫌いなところは、Kが家へ来てから初めて私の目につき出したのです。私はそれをKに対する私の嫉妬のせいにしていいものか、または私に対するお嬢さんの手管と見なしてしかるべきものか、ちょっと判断に迷いました。私は今でも決してその時の私の嫉妬心を打ち消す気はありません。私は度々繰り返したとおり、愛の裏側にこの感情の働きをはっきり意識していたのですから。しかも傍の者から見ればほとんど取るに足りない些細なことに、この感情が決まって首を持ち上げたがるのでしたから。これは余計なことですが、こういう嫉妬は愛の半面ではないでしょうか。私は結婚してから、この感情がだんだん薄らいで行くのを自覚しました。その代わり愛情の方も、決して元のように激しくはないのです。
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「私はKに向ってお嬢さんといっしょに出たのかと聞きました。Kはそうではないと答えました。真砂町で偶然出会ったから連れ立って帰って来たのだと説明しました。私はそれ以上に立ち入った質問を控えなければなりませんでした。しかし食事の時、またお嬢さんに向って、同じ問いを掛けたくなりました。するとお嬢さんは私の嫌いな例の笑い方をするのです。そうしてどこへ行ったか中ててみろとしまいにいうのです。その頃の私はまだ癇癪持ちでしたから、そう不真面目に若い女から取り扱われると腹が立ちました。ところがそこに気の付くのは、同じ食卓に着いているもののうちで奥さん一人だったのです。Kはむしろ平気でした。お嬢さんの態度になると、知ってわざとやるのか、知らないで無邪気にやるのか、そこの区別がちょっと判然しない点がありました。若い女としてお嬢さんは思慮に富んだ方でしたけれども、その若い女に共通な私の嫌いなところも、あると思えば思えなくもなかったのです。そうしてその嫌いなところは、Kが宅へ来てから、始めて私の眼に着き出したのです。私はそれをKに対する私の嫉妬に帰していいものか、または私に対するお嬢さんの技巧と見傚してしかるべきものか、ちょっと分別に迷いました。私は今でも決してその時の私の嫉妬心を打ち消す気はありません。私はたびたび繰り返した通り、愛の裏面にこの感情の働きを明らかに意識していたのですから。しかも傍のものから見ると、ほとんど取るに足りない瑣事に、この感情がきっと首を持ち上げたがるのでしたから。これは余事ですが、こういう嫉妬は愛の半面じゃないでしょうか。私は結婚してから、この感情がだんだん薄らいで行くのを自覚しました。その代り愛情の方も決して元のように猛烈ではないのです。
私はそれまでためらっていた自分の心を、一思いに相手の胸へたたきつけようかと考え出しました。
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私はそれまで躊躇していた自分の心を、一思いに相手の胸へ擲き付けようかと考え出しました。
私の相手というのはお嬢さんではありません、奥さんのことです。
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私の相手というのはお嬢さんではありません、奥さんの事です。
奥さんに、お嬢さんをくれと明白な談判を始めようかと考えたのです。
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奥さんにお嬢さんを呉れろと明白な談判を開こうかと考えたのです。
しかしそう決心しながら、一日一日と私は実行の日を延ばして行ったのです。
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しかしそう決心しながら、一日一日と私は断行の日を延ばして行ったのです。
そう言うと私はいかにも優柔な男のように見えます、また見えても構いませんが、実際私が進みかねたのは意志の力に不足があったためではありません。
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そういうと私はいかにも優柔な男のように見えます、また見えても構いませんが、実際私の進みかねたのは、意志の力に不足があったためではありません。
Kの来ないうちは、人の手に乗るのが嫌だという意地が私を抑えつけて、一歩も動けないようにしていました。
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Kの来ないうちは、他の手に乗るのが厭だという我慢が私を抑え付けて、一歩も動けないようにしていました。
Kの来た後は、もしかするとお嬢さんがKの方に気があるのではなかろうかという疑いが、絶えず私を抑えるようになったのです。
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Kの来た後は、もしかするとお嬢さんがKの方に意があるのではなかろうかという疑念が絶えず私を制するようになったのです。
はたしてお嬢さんが私よりもKに心を傾けているならば、この恋は口へ言い出す価値のないものと、私は決心していたのです。
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はたしてお嬢さんが私よりもKに心を傾けているならば、この恋は口へいい出す価値のないものと私は決心していたのです。
恥をかかされるのがつらいなどというのとは、少し訳が違います。
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恥を掻かせられるのが辛いなどというのとは少し訳が違います。
こちらでいくら思っても、向こうが内心ほかの人に愛の目を注いでいるならば、私はそんな女といっしょになるのは嫌なのです。
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こっちでいくら思っても、向うが内心他の人に愛の眼を注いでいるならば、私はそんな女といっしょになるのは厭なのです。
世の中では否応なしに自分の好いた女を嫁にもらって喜んでいる人もありますが、それは私たちよりよほど世間ずれのした男か、さもなければ愛の心理がよくのみ込めない鈍い人のすることと、当時の私は考えていたのです。
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世の中では否応なしに自分の好いた女を嫁に貰って嬉しがっている人もありますが、それは私たちよりよっぽど世間ずれのした男か、さもなければ愛の心理がよく呑み込めない鈍物のする事と、当時の私は考えていたのです。
一度もらってしまえばどうにか落ち着くものだ、ぐらいの理屈では承知することができないくらい、私は熱していました。
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一度貰ってしまえばどうかこうか落ち付くものだぐらいの哲理では、承知する事ができないくらい私は熱していました。
つまり私は、きわめて高尚な愛の理論家だったのです。
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つまり私は極めて高尚な愛の理論家だったのです。
同時に、もっとも回り道な愛の実際家だったのです。
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同時にもっとも迂遠な愛の実際家だったのです。
肝心のお嬢さんに直接この私というものを打ち明ける機会も、長くいっしょにいるうちには時々出て来たのですが、私はわざとそれを避けました。
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肝心のお嬢さんに、直接この私というものを打ち明ける機会も、長くいっしょにいるうちには時々出て来たのですが、私はわざとそれを避けました。
日本の習慣としてそういうことは許されていないのだという自覚が、その頃の私には強くありました。
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日本の習慣として、そういう事は許されていないのだという自覚が、その頃の私には強くありました。
しかし、決してそればかりが私を縛ったとは言えません。
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しかし決してそればかりが私を束縛したとはいえません。
日本人、特に日本の若い女は、そんな場合に相手に気兼ねなく自分の思ったとおりを遠慮せずに口にするだけの勇気に乏しいものと、私は見込んでいたのです。
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日本人、ことに日本の若い女は、そんな場合に、相手に気兼なく自分の思った通りを遠慮せずに口にするだけの勇気に乏しいものと私は見込んでいたのです。
三十五
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三十五
「こんな訳で、私はどちらの方面へ向かっても進むことができずに立ちすくんでいました。体の悪い時に昼寝などをすると、目だけ覚めて周りのものがはっきり見えるのに、どうしても手足の動かせない場合があるでしょう。私は時としてああいう苦しみを、人知れず感じたのです。
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「こんな訳で私はどちらの方面へ向っても進む事ができずに立ち竦んでいました。身体の悪い時に午睡などをすると、眼だけ覚めて周囲のものが判然見えるのに、どうしても手足の動かせない場合がありましょう。私は時としてああいう苦しみを人知れず感じたのです。
そのうち年が暮れて、春になりました。
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その内年が暮れて春になりました。
ある日奥さんがKに、かるたをやるから誰か友達を連れて来ないかと言ったことがあります。
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ある日奥さんがKに歌留多をやるから誰か友達を連れて来ないかといった事があります。
するとKはすぐ、友達などは一人もないと答えたので、奥さんは驚いてしまいました。
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するとKはすぐ友達なぞは一人もないと答えたので、奥さんは驚いてしまいました。
なるほどKに友達というほどの友達は、一人もなかったのです。
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なるほどKに友達というほどの友達は一人もなかったのです。
通りで会った時挨拶をするくらいの者は多少ありましたが、それらだって決してかるたなどを取る間柄ではなかったのです。
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往来で会った時挨拶をするくらいのものは多少ありましたが、それらだって決して歌留多などを取る柄ではなかったのです。
奥さんは、それじゃ私の知った者でも呼んで来たらどうかと言い直しましたが、私もあいにくそんな陽気な遊びをする気持ちになれないので、いい加減な生返事をしたまま、放っておきました。
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奥さんはそれじゃ私の知ったものでも呼んで来たらどうかといい直しましたが、私も生憎そんな陽気な遊びをする心持になれないので、好い加減な生返事をしたなり、打ちやっておきました。
ところが晩になって、Kと私はとうとうお嬢さんに引っ張り出されてしまいました。
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ところが晩になってKと私はとうとうお嬢さんに引っ張り出されてしまいました。
客も誰も来ないのに、内々の少人数だけで取ろうというかるたですから、すこぶる静かなものでした。
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客も誰も来ないのに、内々の小人数だけで取ろうという歌留多ですからすこぶる静かなものでした。
その上こういう遊びをやり慣れないKは、まるで手をこまねいている人と同じでした。
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その上こういう遊技をやり付けないKは、まるで懐手をしている人と同様でした。
私はKに、いったい百人一首の歌を知っているのかと尋ねました。
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私はKに一体百人一首の歌を知っているのかと尋ねました。
Kはよく知らないと答えました。
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Kはよく知らないと答えました。
私の言葉を聞いたお嬢さんは、おおかたKを軽蔑するとでも取ったのでしょう。
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私の言葉を聞いたお嬢さんは、大方Kを軽蔑するとでも取ったのでしょう。
それから目立つように、Kの加勢をし出しました。
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それから眼に立つようにKの加勢をし出しました。
しまいには二人がほとんど組になって、私に当たるという有様になって来ました。
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しまいには二人がほとんど組になって私に当るという有様になって来ました。
私は相手次第では、喧嘩を始めたかもしれなかったのです。
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私は相手次第では喧嘩を始めたかも知れなかったのです。
幸いにKの態度は、少しも最初と変わりませんでした。
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幸いにKの態度は少しも最初と変りませんでした。
彼のどこにも得意そうな様子を見なかった私は、無事にその場を切り上げることができました。
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彼のどこにも得意らしい様子を認めなかった私は、無事にその場を切り上げる事ができました。
それから二、三日経った後のことでしたろう、奥さんとお嬢さんは朝から市ヶ谷にいる親類の所へ行くと言って家を出ました。
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それから二、三日経った後の事でしたろう、奥さんとお嬢さんは朝から市ヶ谷にいる親類の所へ行くといって宅を出ました。
Kも私もまだ学校の始まらない頃でしたから、留守番同様に後に残っていました。
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Kも私もまだ学校の始まらない頃でしたから、留守居同様あとに残っていました。
私は書物を読むのも散歩に出るのも嫌だったので、ただ漠然と火鉢の縁にひじを載せて、じっとあごを支えたまま考えていました。
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私は書物を読むのも散歩に出るのも厭だったので、ただ漠然と火鉢の縁に肱を載せて凝と顋を支えたなり考えていました。
隣の部屋にいるKも、まるで音を立てませんでした。
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隣の室にいるKも一向音を立てませんでした。
双方ともいるのだかいないのだか分からないくらい、静かでした。
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双方ともいるのだかいないのだか分らないくらい静かでした。
もっともこういうことは二人の間柄として別に珍しくも何ともなかったのですから、私は特にそれを気にも留めませんでした。
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もっともこういう事は、二人の間柄として別に珍しくも何ともなかったのですから、私は別段それを気にも留めませんでした。
十時頃になって、Kは不意に仕切りのふすまを開けて私と顔を見合わせました。
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十時頃になって、Kは不意に仕切りの襖を開けて私と顔を見合せました。
彼は敷居の上に立ったまま、私に何を考えていると聞きました。
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彼は敷居の上に立ったまま、私に何を考えていると聞きました。
私はもとより、何も考えていなかったのです。
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私はもとより何も考えていなかったのです。
もし考えていたとすれば、いつものとおりお嬢さんが問題だったかもしれません。
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もし考えていたとすれば、いつもの通りお嬢さんが問題だったかも知れません。
そのお嬢さんにはもちろん奥さんもくっついていますが、近頃ではK自身が切り離すことのできない人のように私の頭の中をぐるぐる回って、この問題を複雑にしているのです。
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そのお嬢さんには無論奥さんも食っ付いていますが、近頃ではK自身が切り離すべからざる人のように、私の頭の中をぐるぐる回って、この問題を複雑にしているのです。
Kと顔を見合わせた私は、今までぼんやりと彼を一種の邪魔者のように意識していながら、はっきりそうと答える訳に行かなかったのです。
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Kと顔を見合せた私は、今まで朧気に彼を一種の邪魔ものの如く意識していながら、明らかにそうと答える訳にいかなかったのです。
私は相変わらず彼の顔を見て、黙っていました。
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私は依然として彼の顔を見て黙っていました。
するとKの方からつかつかと私の部屋へ入って来て、私が当たっている火鉢の前に座りました。
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するとKの方からつかつかと私の座敷へ入って来て、私のあたっている火鉢の前に坐りました。
私はすぐ両ひじを火鉢の縁から取りのけて、心持ちそれをKの方へ押しやるようにしました。
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私はすぐ両肱を火鉢の縁から取り除けて、心持それをKの方へ押しやるようにしました。
Kは、いつもに似合わない話を始めました。
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Kはいつもに似合わない話を始めました。
奥さんとお嬢さんは市ヶ谷のどこへ行ったのだろう、と言うのです。
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奥さんとお嬢さんは市ヶ谷のどこへ行ったのだろうというのです。
私は、おおかた叔母さんの所だろうと答えました。
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私は大方叔母さんの所だろうと答えました。
Kは、その叔母さんは何だとまた聞きます。
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Kはその叔母さんは何だとまた聞きます。
私は、やはり軍人の奥さんだと教えてやりました。
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私はやはり軍人の細君だと教えてやりました。
すると、女の年始回りはたいてい十五日過ぎなのに、なぜそんなに早く出かけたのだろうと質問するのです。
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すると女の年始は大抵十五日過だのに、なぜそんなに早く出掛けたのだろうと質問するのです。
私は、なぜだか知らないと答えるよりほかに仕方がありませんでした。
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私はなぜだか知らないと挨拶するより外に仕方がありませんでした。
三十六
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三十六
「Kはなかなか奥さんとお嬢さんの話をやめませんでした。しまいには私も答えられないような立ち入ったことまで聞くのです。私は面倒よりも不思議の感じに打たれました。以前私の方から二人を話題にして話しかけた時の彼を思い出すと、私はどうしても彼の調子の変わっているところに気がつかずにはいられないのです。私はとうとう、なぜ今日に限ってそんなことばかり言うのかと彼に尋ねました。その時彼は突然黙りました。しかし私は、彼の結んだ口元の肉が震えるように動いているのを見つめました。彼はもともと無口な男でした。ふだんから何か言おうとすると、言う前によく口のあたりをもぐもぐさせる癖がありました。彼の唇がわざと彼の意志に逆らうように簡単には開かないところに、彼の言葉の重みもこもっていたのでしょう。いったん声が口を破って出るとなると、その声には普通の人よりも倍の強い力がありました。
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「Kはなかなか奥さんとお嬢さんの話を已めませんでした。しまいには私も答えられないような立ち入った事まで聞くのです。私は面倒よりも不思議の感に打たれました。以前私の方から二人を問題にして話しかけた時の彼を思い出すと、私はどうしても彼の調子の変っているところに気が付かずにはいられないのです。私はとうとうなぜ今日に限ってそんな事ばかりいうのかと彼に尋ねました。その時彼は突然黙りました。しかし私は彼の結んだ口元の肉が顫えるように動いているのを注視しました。彼は元来無口な男でした。平生から何かいおうとすると、いう前によく口のあたりをもぐもぐさせる癖がありました。彼の唇がわざと彼の意志に反抗するように容易く開かないところに、彼の言葉の重みも籠っていたのでしょう。一旦声が口を破って出るとなると、その声には普通の人よりも倍の強い力がありました。
彼の口元をちょっと眺めた時、私はまた何か出て来るなとすぐ勘づいたのですが、それがはたして何の準備なのか、私の予感はまるでなかったのです。
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彼の口元をちょっと眺めた時、私はまた何か出て来るなとすぐ疳付いたのですが、それがはたして何の準備なのか、私の予覚はまるでなかったのです。
だから驚いたのです。
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だから驚いたのです。
彼の重々しい口から、彼のお嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた時の私を想像してみてください。
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彼の重々しい口から、彼のお嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた時の私を想像してみて下さい。
私は彼の魔法の杖のために、一度に石にされたようなものです。
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私は彼の魔法棒のために一度に化石されたようなものです。
口をもぐもぐさせる働きさえ、私にはなくなってしまったのです。
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口をもぐもぐさせる働きさえ、私にはなくなってしまったのです。
その時の私は恐ろしさの塊りと言いましょうか、または苦しさの塊りと言いましょうか、何しろ一つの塊りでした。
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その時の私は恐ろしさの塊りといいましょうか、または苦しさの塊りといいましょうか、何しろ一つの塊りでした。
石か鉄のように、頭から足の先までが急に固くなったのです。
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石か鉄のように頭から足の先までが急に固くなったのです。
呼吸をする弾力さえ失われたくらいに、堅くなったのです。
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呼吸をする弾力性さえ失われたくらいに堅くなったのです。
幸いなことに、その状態は長く続きませんでした。
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幸いな事にその状態は長く続きませんでした。
私は一瞬の後に、また人間らしい気分を取り戻しました。
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私は一瞬間の後に、また人間らしい気分を取り戻しました。
そうして、すぐしくじったと思いました。
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そうして、すぐ失策ったと思いました。
先を越されたなと思いました。
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先を越されたなと思いました。
しかしその先をどうしようという考えは、まるで起こりません。
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しかしその先をどうしようという分別はまるで起りません。
おそらく起こるだけの余裕がなかったのでしょう。
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恐らく起るだけの余裕がなかったのでしょう。
私は脇の下から出る気味の悪い汗が肌着に染み通るのを、じっと我慢して動かずにいました。
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私は腋の下から出る気味のわるい汗が襯衣に滲み透るのを凝と我慢して動かずにいました。
Kはその間いつものとおり重い口を切っては、ぽつりぽつりと自分の心を打ち明けて行きます。
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Kはその間いつもの通り重い口を切っては、ぽつりぽつりと自分の心を打ち明けてゆきます。
私は苦しくてたまりませんでした。
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私は苦しくって堪りませんでした。
おそらくその苦しさは、大きな広告のように私の顔の上にはっきりした字で貼りつけられてあっただろうと、私は思うのです。
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おそらくその苦しさは、大きな広告のように、私の顔の上に判然りした字で貼り付けられてあったろうと私は思うのです。
いくらKでもそこに気のつかないはずはないのですが、彼はまた彼で、自分のことに一切を集中しているから私の表情などに注意する暇がなかったのでしょう。
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いくらKでもそこに気の付かないはずはないのですが、彼はまた彼で、自分の事に一切を集中しているから、私の表情などに注意する暇がなかったのでしょう。
彼の告白は、最初から最後まで同じ調子で貫いていました。
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彼の自白は最初から最後まで同じ調子で貫いていました。
重くて鈍い代わりに、とても簡単なことでは動かせないという感じを私に与えたのです。
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重くて鈍い代りに、とても容易な事では動かせないという感じを私に与えたのです。
私の心は半分その告白を聞いていながら、半分どうしようどうしようという思いに絶えずかき乱されていましたから、細かい点になるとほとんど耳へ入らないのと同じでしたが、それでも彼の口に出す言葉の調子だけは強く胸に響きました。
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私の心は半分その自白を聞いていながら、半分どうしようどうしようという念に絶えず掻き乱されていましたから、細かい点になるとほとんど耳へ入らないと同様でしたが、それでも彼の口に出す言葉の調子だけは強く胸に響きました。
そのために私は前に言った苦痛ばかりでなく、時には一種の恐ろしさを感じるようになったのです。
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そのために私は前いった苦痛ばかりでなく、ときには一種の恐ろしさを感ずるようになったのです。
つまり、相手は自分より強いのだという恐怖の念が芽生え始めたのです。
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つまり相手は自分より強いのだという恐怖の念が萌し始めたのです。
Kの話が一通り済んだ時、私は何とも言うことができませんでした。
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Kの話が一通り済んだ時、私は何ともいう事ができませんでした。
こちらも彼の前に同じ意味の告白をしたものだろうか、それとも打ち明けずにいる方が得策だろうか、私はそんな損得を考えて黙っていたのではありません。
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こっちも彼の前に同じ意味の自白をしたものだろうか、それとも打ち明けずにいる方が得策だろうか、私はそんな利害を考えて黙っていたのではありません。
ただ何も言えなかったのです。
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ただ何事もいえなかったのです。
また、言う気にもならなかったのです。
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またいう気にもならなかったのです。
昼食の時、Kと私は向かい合わせに席を占めました。
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午食の時、Kと私は向い合せに席を占めました。
お手伝いに給仕をしてもらって、私はいつにないまずいご飯を済ませました。
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下女に給仕をしてもらって、私はいつにない不味い飯を済ませました。
二人は食事中も、ほとんど口をききませんでした。
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二人は食事中もほとんど口を利きませんでした。
奥さんとお嬢さんは、いつ帰るのだか分かりませんでした。
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奥さんとお嬢さんはいつ帰るのだか分りませんでした。
三十七
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三十七
「二人はそれぞれの部屋に引き取ったきり、顔を合わせませんでした。Kの静かなことは、朝と同じでした。私も、じっと考え込んでいました。
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「二人は各自の室に引き取ったぎり顔を合わせませんでした。Kの静かな事は朝と同じでした。私も凝と考え込んでいました。
私は当然、自分の心をKに打ち明けるべきはずだと思いました。
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私は当然自分の心をKに打ち明けるべきはずだと思いました。
しかしそれには、もう時機が遅れてしまったという気も起こりました。
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しかしそれにはもう時機が後れてしまったという気も起りました。
なぜさっきKの言葉をさえぎってこちらから逆襲しなかったのか、そこが非常な手落ちのように見えて来ました。
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なぜ先刻Kの言葉を遮って、こっちから逆襲しなかったのか、そこが非常な手落りのように見えて来ました。
せめてKの後に続いて自分は自分の思うとおりをその場で話してしまったら、まだよかっただろうにとも考えました。
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せめてKの後に続いて、自分は自分の思う通りをその場で話してしまったら、まだ好かったろうにとも考えました。
Kの告白に一段落がついた今となって、こちらからまた同じことを切り出すのは、どう考えても変でした。
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Kの自白に一段落が付いた今となって、こっちからまた同じ事を切り出すのは、どう思案しても変でした。
私はこの不自然に打ち勝つ方法を知らなかったのです。
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私はこの不自然に打ち勝つ方法を知らなかったのです。
私の頭は、悔いに揺られてぐらぐらしました。
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私の頭は悔恨に揺られてぐらぐらしました。
私は、Kが再び仕切りのふすまを開けて向こうから突進して来てくれればいいと思いました。
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私はKが再び仕切りの襖を開けて向うから突進してきてくれれば好いと思いました。
私に言わせれば、さっきはまるで不意打ちに遭ったも同じでした。
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私にいわせれば、先刻はまるで不意撃に会ったも同じでした。
私には、Kに応じる準備も何もなかったのです。
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私にはKに応ずる準備も何もなかったのです。
私は午前に失ったものを、今度は取り戻そうという下心を持っていました。
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私は午前に失ったものを、今度は取り戻そうという下心を持っていました。
それで時々目を上げて、ふすまを眺めました。
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それで時々眼を上げて、襖を眺めました。
しかしそのふすまは、いつまで経っても開きません。
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しかしその襖はいつまで経っても開きません。
そうしてKは、いつまでも静かなのです。
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そうしてKは永久に静かなのです。
そのうち私の頭は、だんだんこの静かさにかき乱されるようになって来ました。
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その内私の頭は段々この静かさに掻き乱されるようになって来ました。
Kは今ふすまの向こうで何を考えているだろうと思うと、それが気になってたまらないのです。
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Kは今襖の向うで何を考えているだろうと思うと、それが気になって堪らないのです。
ふだんもこんなふうにお互いが仕切り一枚を間に置いて黙り合っている場合は始終あったのですが、私はKが静かであればあるほど彼の存在を忘れるのが普通の状態だったのですから、その時の私はよほど調子が狂っていたものと見なければなりません。
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不断もこんな風にお互いが仕切一枚を間に置いて黙り合っている場合は始終あったのですが、私はKが静かであればあるほど、彼の存在を忘れるのが普通の状態だったのですから、その時の私はよほど調子が狂っていたものと見なければなりません。
それでいて私は、こちらから進んでふすまを開けることができなかったのです。
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それでいて私はこっちから進んで襖を開ける事ができなかったのです。
いったん言いそびれた私は、また向こうから働きかけられる時機を待つよりほかに仕方がなかったのです。
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一旦いいそびれた私は、また向うから働き掛けられる時機を待つより外に仕方がなかったのです。
しまいに私は、じっとしていられなくなりました。
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しまいに私は凝としておられなくなりました。
無理にじっとしていれば、Kの部屋へ飛び込みたくなるのです。
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無理に凝としていれば、Kの部屋へ飛び込みたくなるのです。
私は仕方なしに立って、縁側へ出ました。
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私は仕方なしに立って縁側へ出ました。
そこから茶の間へ来て、何という目的もなく、鉄瓶の湯を湯飲みに注いで一杯飲みました。
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そこから茶の間へ来て、何という目的もなく、鉄瓶の湯を湯呑に注で一杯呑みました。
それから玄関へ出ました。
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それから玄関へ出ました。
私はわざとKの部屋を避けるようにして、こんなふうに自分を通りの真ん中に見出したのです。
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私はわざとKの室を回避するようにして、こんな風に自分を往来の真中に見出したのです。
私にはもちろん、どこへ行くという当てもありません。
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私には無論どこへ行くという的もありません。
ただ、じっとしていられないだけでした。
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ただ凝としていられないだけでした。
それで方角も何も構わずに、正月の町をむやみに歩き回ったのです。
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それで方角も何も構わずに、正月の町を、むやみに歩き廻ったのです。
私の頭は、いくら歩いてもKのことでいっぱいになっていました。
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私の頭はいくら歩いてもKの事でいっぱいになっていました。
私も、Kを振り落とす気で歩き回る訳ではなかったのです。
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私もKを振い落す気で歩き廻る訳ではなかったのです。
むしろ自分から進んで、彼の姿をかみしめながらうろついていたのです。
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むしろ自分から進んで彼の姿を咀嚼しながらうろついていたのです。
私には第一に、彼が理解しがたい男のように見えました。
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私には第一に彼が解しがたい男のように見えました。
どうしてあんなことを突然私に打ち明けたのか、またどうして打ち明けなければいられないほどに彼の恋が募って来たのか、そうしてふだんの彼はどこに吹き飛ばされてしまったのか、すべて私には理解しにくい問題でした。
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どうしてあんな事を突然私に打ち明けたのか、またどうして打ち明けなければいられないほどに、彼の恋が募って来たのか、そうして平生の彼はどこに吹き飛ばされてしまったのか、すべて私には解しにくい問題でした。
私は、彼の強いことを知っていました。
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私は彼の強い事を知っていました。
また、彼の真面目なことを知っていました。
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また彼の真面目な事を知っていました。
私はこれから私の取るべき態度を決める前に、彼について聞かなければならないことを多く持っていると信じました。
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私はこれから私の取るべき態度を決する前に、彼について聞かなければならない多くをもっていると信じました。
同時に、これから先彼を相手にするのが変に気味が悪かったのです。
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同時にこれからさき彼を相手にするのが変に気味が悪かったのです。
私は夢中で町の中を歩きながら、自分の部屋にじっと座っている彼の姿を始終目の前に描き出しました。
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私は夢中に町の中を歩きながら、自分の室に凝と坐っている彼の容貌を始終眼の前に描き出しました。
しかもいくら私が歩いても彼を動かすことはとうていできないのだという声が、どこかで聞こえるのです。
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しかもいくら私が歩いても彼を動かす事は到底できないのだという声がどこかで聞こえるのです。
つまり私には、彼が一種の魔物のように思えたからでしょう。
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つまり私には彼が一種の魔物のように思えたからでしょう。
私は、永久に彼にたたられたのではなかろうかという気さえしました。
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私は永久彼に祟られたのではなかろうかという気さえしました。
私が疲れて家へ帰った時、彼の部屋は相変わらず人の気配のないように静かでした。
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私が疲れて宅へ帰った時、彼の室は依然として人気のないように静かでした。
三十八
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三十八
「私が家へ入るとまもなく、人力車の音が聞こえました。今のようにゴムの輪のない時分でしたから、がらがら言う嫌な響きがかなりの距離でも耳につくのです。車はやがて、門前で止まりました。
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「私が家へはいると間もなく俥の音が聞こえました。今のように護謨輪のない時分でしたから、がらがらいう厭な響きがかなりの距離でも耳に立つのです。車はやがて門前で留まりました。
私が夕飯に呼び出されたのはそれから三十分ばかり経った後のことでしたが、まだ奥さんとお嬢さんの晴れ着が脱ぎ捨てられたまま、次の部屋を乱雑に彩っていました。
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私が夕飯に呼び出されたのは、それから三十分ばかり経った後の事でしたが、まだ奥さんとお嬢さんの晴着が脱ぎ棄てられたまま、次の室を乱雑に彩っていました。
二人は遅くなると私たちに済まないというので、ご飯の支度に間に合うように急いで帰って来たのだそうです。
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二人は遅くなると私たちに済まないというので、飯の支度に間に合うように、急いで帰って来たのだそうです。
しかし奥さんの親切は、Kと私とにとってほとんど効き目がないのも同じことでした。
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しかし奥さんの親切はKと私とに取ってほとんど無効も同じ事でした。
私は食卓に座りながら、言葉を惜しむ人のようにそっけない受け答えばかりしていました。
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私は食卓に坐りながら、言葉を惜しがる人のように、素気ない挨拶ばかりしていました。
Kは、私よりもなお無口でした。
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Kは私よりもなお寡言でした。
たまに親子連れで外出した女二人の気分がまたふだんよりは晴れやかだったので、我々の態度はなおのこと目につきます。
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たまに親子連で外出した女二人の気分が、また平生よりは勝れて晴れやかだったので、我々の態度はなおの事眼に付きます。
奥さんは私に、どうかしたのかと聞きました。
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奥さんは私にどうかしたのかと聞きました。
私は、少し気分が悪いと答えました。
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私は少し心持が悪いと答えました。
実際、私は気分が悪かったのです。
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実際私は心持が悪かったのです。
すると今度は、お嬢さんがKに同じ問いをかけました。
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すると今度はお嬢さんがKに同じ問いを掛けました。
Kは、私のように気分が悪いとは答えません。
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Kは私のように心持が悪いとは答えません。
ただ、口がききたくないからだと言いました。
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ただ口が利きたくないからだといいました。
お嬢さんは、なぜ口がききたくないのかと追及しました。
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お嬢さんはなぜ口が利きたくないのかと追窮しました。
私はその時ふと重たいまぶたを上げて、Kの顔を見ました。
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私はその時ふと重たい瞼を上げてKの顔を見ました。
私には、Kが何と答えるだろうかという好奇心があったのです。
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私にはKが何と答えるだろうかという好奇心があったのです。
Kの唇は、いつものように少し震えていました。
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Kの唇は例のように少し顫えていました。
それが知らない人から見ると、まるで返事に迷っているとしか思われないのです。
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それが知らない人から見ると、まるで返事に迷っているとしか思われないのです。
お嬢さんは笑いながら、また何か難しいことを考えているのだろうと言いました。
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お嬢さんは笑いながらまた何かむずかしい事を考えているのだろうといいました。
Kの顔は、心持ち赤くなりました。
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Kの顔は心持薄赤くなりました。
その晩私は、いつもより早く床へ入りました。
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その晩私はいつもより早く床へ入りました。
私が食事の時気分が悪いと言ったのを気にして、奥さんは十時頃そば湯を持って来てくれました。
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私が食事の時気分が悪いといったのを気にして、奥さんは十時頃蕎麦湯を持って来てくれました。
しかし私の部屋は、もう真っ暗でした。
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しかし私の室はもう真暗でした。
奥さんはおやおやと言って、仕切りのふすまを細めに開けました。
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奥さんはおやおやといって、仕切りの襖を細目に開けました。
ランプの光がKの机から斜めに、ぼんやりと私の部屋に差し込みました。
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洋燈の光がKの机から斜めにぼんやりと私の室に差し込みました。
Kはまだ起きていたものと見えます。
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Kはまだ起きていたものとみえます。
奥さんは枕元に座って、おおかた風邪を引いたのだろうから体を温めるがいいと言って、湯飲みを顔のそばへ突きつけるのです。
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奥さんは枕元に坐って、大方風邪を引いたのだろうから身体を暖ためるがいいといって、湯呑を顔の傍へ突き付けるのです。
私はやむを得ず、どろどろしたそば湯を奥さんの見ている前で飲みました。
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私はやむをえず、どろどろした蕎麦湯を奥さんの見ている前で飲みました。
私は遅くなるまで、暗い中で考えていました。
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私は遅くなるまで暗いなかで考えていました。
もちろん一つの問題をぐるぐる回転させるだけで、ほかに何の効き目もなかったのです。
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無論一つ問題をぐるぐる廻転させるだけで、外に何の効力もなかったのです。
私は突然、Kが今隣の部屋で何をしているだろうと思い出しました。
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私は突然Kが今隣りの室で何をしているだろうと思い出しました。
私は半ば無意識に、おいと声をかけました。
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私は半ば無意識においと声を掛けました。
すると向こうでも、おいと返事をしました。
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すると向うでもおいと返事をしました。
Kも、まだ起きていたのです。
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Kもまだ起きていたのです。
私はまだ寝ないのかと、ふすま越しに聞きました。
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私はまだ寝ないのかと襖ごしに聞きました。
もう寝るという、簡単な返事がありました。
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もう寝るという簡単な挨拶がありました。
何をしているのだと、私は重ねて問いました。
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何をしているのだと私は重ねて問いました。
今度はKの答えがありません。
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今度はKの答えがありません。
その代わり五、六分経ったと思う頃に、押し入れをがらりと開けて床を延べる音が手に取るように聞こえました。
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その代り五、六分経ったと思う頃に、押入をがらりと開けて、床を延べる音が手に取るように聞こえました。
私はもう何時かと、また尋ねました。
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私はもう何時かとまた尋ねました。
Kは一時二十分だと答えました。
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Kは一時二十分だと答えました。
やがてランプをふっと吹き消す音がして、家中が真っ暗な中にしんと静まりました。
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やがて洋燈をふっと吹き消す音がして、家中が真暗なうちに、しんと静まりました。
しかし私の目は、その暗い中でいよいよさえて来るばかりです。
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しかし私の眼はその暗いなかでいよいよ冴えて来るばかりです。
私はまた半ば無意識な状態で、おいとKに声をかけました。
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私はまた半ば無意識な状態で、おいとKに声を掛けました。
Kも以前と同じような調子で、おいと答えました。
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Kも以前と同じような調子で、おいと答えました。
私は今朝彼から聞いたことについてもっと詳しい話をしたいが、彼の都合はどうだと、とうとうこちらから切り出しました。
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私は今朝彼から聞いた事について、もっと詳しい話をしたいが、彼の都合はどうだと、とうとうこっちから切り出しました。
私はもちろんふすま越しにそんな話を交わす気はなかったのですが、Kの返事だけはその場で得られることと考えたのです。
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私は無論襖越にそんな談話を交換する気はなかったのですが、Kの返答だけは即坐に得られる事と考えたのです。
ところがKは、さっきから二度おいと呼ばれて二度おいと答えたような素直な調子で、今度は応じません。
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ところがKは先刻から二度おいと呼ばれて、二度おいと答えたような素直な調子で、今度は応じません。
そうだなあと、低い声で渋っています。
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そうだなあと低い声で渋っています。
私はまた、はっとさせられました。
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私はまたはっと思わせられました。
三十九
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三十九
「Kの生返事は翌日になってもその翌日になっても、彼の態度によく現れていました。彼は自分から進んで例の問題に触れようとする様子を、決して見せませんでした。もっとも機会もなかったのです。奥さんとお嬢さんがそろって一日家を空けでもしなければ、二人はゆっくり落ち着いてそういうことを話し合う訳にも行かないのですから。私はそれをよく心得ていました。心得ていながら、変にいらいらし出すのです。その結果、初めは向こうから来るのを待つつもりで暗に用意をしていた私が、折があったらこちらで口を切ろうと決心するようになったのです。
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「Kの生返事は翌日になっても、その翌日になっても、彼の態度によく現われていました。彼は自分から進んで例の問題に触れようとする気色を決して見せませんでした。もっとも機会もなかったのです。奥さんとお嬢さんが揃って一日宅を空けでもしなければ、二人はゆっくり落ち付いて、そういう事を話し合う訳にも行かないのですから。私はそれをよく心得ていました。心得ていながら、変にいらいらし出すのです。その結果始めは向うから来るのを待つつもりで、暗に用意をしていた私が、折があったらこっちで口を切ろうと決心するようになったのです。
同時に私は、黙って家の者の様子を観察してみました。
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同時に私は黙って家のものの様子を観察して見ました。
しかし奥さんの態度にもお嬢さんのそぶりにも、特にふだんと変わった点はありませんでした。
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しかし奥さんの態度にもお嬢さんの素振にも、別に平生と変った点はありませんでした。
Kの告白以前と告白以後とで彼らの振る舞いにこれという違いが生じないならば、彼の告白は単に私だけに限られた告白で、肝心の本人にも、またその監督者である奥さんにもまだ通じていないのはたしかでした。
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Kの自白以前と自白以後とで、彼らの挙動にこれという差違が生じないならば、彼の自白は単に私だけに限られた自白で、肝心の本人にも、またその監督者たる奥さんにも、まだ通じていないのは慥かでした。
そう考えた時、私は少し安心しました。
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そう考えた時私は少し安心しました。
それで無理に機会をこしらえてわざとらしく話を持ち出すよりは、自然の与えてくれるものを取り逃さないようにする方がよかろうと思って、例の問題にはしばらく手をつけずにそっとしておくことにしました。
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それで無理に機会を拵えて、わざとらしく話を持ち出すよりは、自然の与えてくれるものを取り逃さないようにする方が好かろうと思って、例の問題にはしばらく手を着けずにそっとしておく事にしました。
こう言ってしまえば大変簡単に聞こえますが、そうした心の経過には潮の満ち引きと同じようにいろいろの高低があったのです。
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こういってしまえば大変簡単に聞こえますが、そうした心の経過には、潮の満干と同じように、色々の高低があったのです。
私はKの動かない様子を見て、それにさまざまの意味を付け加えました。
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私はKの動かない様子を見て、それにさまざまの意味を付け加えました。
奥さんとお嬢さんの言葉や動きを観察して、二人の心がはたしてそこに現れているとおりなのだろうかと疑ってもみました。
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奥さんとお嬢さんの言語動作を観察して、二人の心がはたしてそこに現われている通りなのだろうかと疑ってもみました。
そうして、人間の胸の中に備えつけられた複雑な機械が、時計の針のようにはっきりと偽りなく盤の上の数字を指せるものだろうかと考えました。
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そうして人間の胸の中に装置された複雑な器械が、時計の針のように、明瞭に偽りなく、盤上の数字を指し得るものだろうかと考えました。
要するに私は同じことをこうも取りああも取りしたあげく、ようやくここに落ち着いたものと思ってください。
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要するに私は同じ事をこうも取り、ああも取りした揚句、漸くここに落ち付いたものと思って下さい。
さらに難しく言えば、落ち着くなどという言葉はこの際決して使える筋合いではなかったのかもしれません。
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更にむずかしくいえば、落ち付くなどという言葉は、この際決して使われた義理でなかったのかも知れません。
そのうち、学校がまた始まりました。
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その内学校がまた始まりました。
私たちは時間の同じ日には、連れ立って家を出ます。
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私たちは時間の同じ日には連れ立って宅を出ます。
都合がよければ、帰る時にもやはりいっしょに帰りました。
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都合がよければ帰る時にもやはりいっしょに帰りました。
外から見たKと私は、何も前と違ったところがないように親しくなったのです。
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外部から見たKと私は、何にも前と違ったところがないように親しくなったのです。
けれども腹の中では、それぞれ自分のことを勝手に考えていたに違いありません。
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けれども腹の中では、各自に各自の事を勝手に考えていたに違いありません。
ある日私は突然、通りでKに詰め寄りました。
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ある日私は突然往来でKに肉薄しました。
私が第一に聞いたのは、この間の告白が私だけに限られているか、または奥さんやお嬢さんにも通じているかの点にあったのです。
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私が第一に聞いたのは、この間の自白が私だけに限られているか、または奥さんやお嬢さんにも通じているかの点にあったのです。
私のこれから取るべき態度は、この問いに対する彼の答え次第で決めなければならないと私は思ったのです。
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私のこれから取るべき態度は、この問いに対する彼の答え次第で極めなければならないと、私は思ったのです。
すると彼は、ほかの人にはまだ誰にも打ち明けていないと明言しました。
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すると彼は外の人にはまだ誰にも打ち明けていないと明言しました。
私は事情が自分の推測どおりだったので、内心うれしがりました。
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私は事情が自分の推察通りだったので、内心嬉しがりました。
私は、Kが私よりずぶといのをよく知っていました。
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私はKの私より横着なのをよく知っていました。
彼の度胸にもかなわないという自覚があったのです。
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彼の度胸にも敵わないという自覚があったのです。
けれども一方では、また妙に彼を信じていました。
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けれども一方ではまた妙に彼を信じていました。
学費のことで養家を三年もだましていた彼ですけれども、彼の信用は私に対して少しも損なわれていなかったのです。
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学資の事で養家を三年も欺いていた彼ですけれども、彼の信用は私に対して少しも損われていなかったのです。
私はそのためにかえって、彼を信じ出したくらいです。
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私はそれがためにかえって彼を信じ出したくらいです。
だからいくら疑い深い私でも、明白な彼の答えを腹の中で否定する気は起こりようがなかったのです。
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だからいくら疑い深い私でも、明白な彼の答えを腹の中で否定する気は起りようがなかったのです。
私はまた彼に向かって、彼の恋をどう扱うつもりかと尋ねました。
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私はまた彼に向って、彼の恋をどう取り扱うつもりかと尋ねました。
それが単なる告白に過ぎないのか、またはその告白に続いて実際の結果をも収める気なのかと問うたのです。
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それが単なる自白に過ぎないのか、またはその自白についで、実際的の効果をも収める気なのかと問うたのです。
ところが彼はそこになると、何も答えません。
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しかるに彼はそこになると、何にも答えません。
黙って下を向いて歩き出します。
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黙って下を向いて歩き出します。
私は彼に、隠し立てをしてくれるな、すべて思ったとおりを話してくれと頼みました。
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私は彼に隠し立てをしてくれるな、すべて思った通りを話してくれと頼みました。
彼は、何も私に隠す必要はないとはっきり断言しました。
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彼は何も私に隠す必要はないと判然断言しました。
しかし私の知ろうとする点には、一言の返事も与えないのです。
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しかし私の知ろうとする点には、一言の返事も与えないのです。
私も通りだから、わざわざ立ち止まって底まで突き止める訳に行きません。
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私も往来だからわざわざ立ち留まって底まで突き留める訳にいきません。
つい、それなりにしてしまいました。
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ついそれなりにしてしまいました。
四十
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四十
「ある日私は久しぶりに、学校の図書館に入りました。私は広い机の片隅で窓から差す光を半身に受けながら、新着の外国雑誌をあちらこちらとひっくり返して見ていました。私は担任の教師から専攻の学科に関して、次の週までにある事項を調べて来いと命じられたのです。しかし私に必要な事柄がなかなか見つからないので、私は二度も三度も雑誌を借り替えなければなりませんでした。最後に私はやっと自分に必要な論文を探し出して、一心にそれを読み出しました。すると突然、幅の広い机の向こう側から小さな声で私の名を呼ぶ者があります。私はふと目を上げて、そこに立っているKを見ました。Kはその上半身を机の上に折り曲げるようにして、彼の顔を私に近づけました。ご承知のとおり図書館ではほかの人の邪魔になるような大きな声で話をする訳に行かないのですから、Kのこのしぐさは誰でもやる普通のことなのですが、私はその時に限って一種変な気持ちがしました。
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「ある日私は久しぶりに学校の図書館に入りました。私は広い机の片隅で窓から射す光線を半身に受けながら、新着の外国雑誌を、あちらこちらと引っ繰り返して見ていました。私は担任教師から専攻の学科に関して、次の週までにある事項を調べて来いと命ぜられたのです。しかし私に必要な事柄がなかなか見付からないので、私は二度も三度も雑誌を借り替えなければなりませんでした。最後に私はやっと自分に必要な論文を探し出して、一心にそれを読み出しました。すると突然幅の広い机の向う側から小さな声で私の名を呼ぶものがあります。私はふと眼を上げてそこに立っているKを見ました。Kはその上半身を机の上に折り曲げるようにして、彼の顔を私に近付けました。ご承知の通り図書館では他の人の邪魔になるような大きな声で話をする訳にゆかないのですから、Kのこの所作は誰でもやる普通の事なのですが、私はその時に限って、一種変な心持がしました。
Kは低い声で、勉強かと聞きました。
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Kは低い声で勉強かと聞きました。
私は、ちょっと調べ物があるのだと答えました。
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私はちょっと調べものがあるのだと答えました。
それでもKは、まだその顔を私から放しません。
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それでもKはまだその顔を私から放しません。
同じ低い調子で、いっしょに散歩をしないかと言うのです。
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同じ低い調子でいっしょに散歩をしないかというのです。
私は、少し待っていればしてもいいと答えました。
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私は少し待っていればしてもいいと答えました。
彼は待っていると言ったまま、すぐ私の前の空いた席に腰を下ろしました。
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彼は待っているといったまま、すぐ私の前の空席に腰をおろしました。
すると私は気が散って、急に雑誌が読めなくなりました。
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すると私は気が散って急に雑誌が読めなくなりました。
何だかKの胸に含むところがあって、談判でもしに来られたように思われて仕方がないのです。
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何だかKの胸に一物があって、談判でもしに来られたように思われて仕方がないのです。
私はやむを得ず読みかけた雑誌を伏せて、立ち上がろうとしました。
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私はやむをえず読みかけた雑誌を伏せて、立ち上がろうとしました。
Kは落ち着き払って、もう済んだのかと聞きます。
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Kは落ち付き払ってもう済んだのかと聞きます。
私はどうでもいいのだと答えて、雑誌を返すとともにKと図書館を出ました。
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私はどうでもいいのだと答えて、雑誌を返すと共に、Kと図書館を出ました。
二人は特に行く所もなかったので、竜岡町から池の端へ出て、上野の公園の中へ入りました。
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二人は別に行く所もなかったので、竜岡町から池の端へ出て、上野の公園の中へ入りました。
その時彼は例の一件について、突然向こうから口を切りました。
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その時彼は例の事件について、突然向うから口を切りました。
前後の様子を合わせて考えると、Kはそのために私をわざわざ散歩に引っ張り出したらしいのです。
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前後の様子を綜合して考えると、Kはそのために私をわざわざ散歩に引っ張り出したらしいのです。
けれども彼の態度は、まだ実際の方面へ向かって少しも進んでいませんでした。
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けれども彼の態度はまだ実際的の方面へ向ってちっとも進んでいませんでした。
彼は私に向かって、ただ漠然と、どう思うと言うのです。
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彼は私に向って、ただ漠然と、どう思うというのです。
どう思うというのは、そうした恋愛の淵に落ちた彼をどんな目で私が眺めるかという質問なのです。
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どう思うというのは、そうした恋愛の淵に陥った彼を、どんな眼で私が眺めるかという質問なのです。
一言で言うと、彼は現在の自分について私の批判を求めたいようなのです。
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一言でいうと、彼は現在の自分について、私の批判を求めたいようなのです。
そこに私は、彼のふだんと異なる点をたしかに認めることができたと思いました。
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そこに私は彼の平生と異なる点を確かに認める事ができたと思いました。
度々繰り返すようですが、彼の生まれつきは他人の思わくを遠慮するほど弱くできあがってはいなかったのです。
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たびたび繰り返すようですが、彼の天性は他の思わくを憚かるほど弱くでき上ってはいなかったのです。
こうと信じたら一人でどんどん進んで行くだけの度胸もあり、勇気もある男なのです。
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こうと信じたら一人でどんどん進んで行くだけの度胸もあり勇気もある男なのです。
養家の一件でその特色を強く胸の裏に彫りつけられた私が、これは様子が違うとはっきり意識したのは当然の結果なのです。
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養家事件でその特色を強く胸の裏に彫り付けられた私が、これは様子が違うと明らかに意識したのは当然の結果なのです。
私がKに向かって、この際なぜ私の批評が必要なのかと尋ねた時、彼はいつもにも似ないしょんぼりした口調で、自分が弱い人間であるのが実際恥ずかしいと言いました。
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私がKに向って、この際何んで私の批評が必要なのかと尋ねた時、彼はいつもにも似ない悄然とした口調で、自分の弱い人間であるのが実際恥ずかしいといいました。
そうして迷っているから自分で自分が分からなくなってしまったので、私に公平な批評を求めるよりほかに仕方がないと言いました。
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そうして迷っているから自分で自分が分らなくなってしまったので、私に公平な批評を求めるより外に仕方がないといいました。
私はすかさず、迷うという意味を問いただしました。
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私は隙かさず迷うという意味を聞き糺しました。
彼は、進んでいいか退いていいか、それに迷うのだと説明しました。
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彼は進んでいいか退いていいか、それに迷うのだと説明しました。
私はすぐ、一歩先へ出ました。
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私はすぐ一歩先へ出ました。
そうして、退こうと思えば退けるのかと彼に聞きました。
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そうして退こうと思えば退けるのかと彼に聞きました。
すると彼の言葉が、そこで不意に行き詰まりました。
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すると彼の言葉がそこで不意に行き詰りました。
彼はただ、苦しいと言っただけでした。
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彼はただ苦しいといっただけでした。
実際彼の表情には、苦しそうなところがありありと見えていました。
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実際彼の表情には苦しそうなところがありありと見えていました。
もし相手がお嬢さんでなかったなら、私はどんなに彼に都合のいい返事をその渇き切った顔の上に恵みの雨のように注いでやったか分りません。
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もし相手がお嬢さんでなかったならば、私はどんなに彼に都合のいい返事を、その渇き切った顔の上に慈雨の如く注いでやったか分りません。
私はそのくらいの美しい同情を持って生まれて来た人間と、自分ながら信じています。
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私はそのくらいの美しい同情をもって生れて来た人間と自分ながら信じています。
しかしその時の私は、違っていました。
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しかしその時の私は違っていました。
四十一
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四十一
「私はちょうど他流試合でもする人のように、Kを注意して見ていたのです。私は、私の目、私の心、私の体、すべて私という名のつくものを五分の隙間もないように用意して、Kに向かったのです。罪のないKは穴だらけというよりむしろ開けっ放しと評するのが適当なくらいに無用心でした。私は彼自身の手から彼の保管している要塞の地図を受け取って、彼の目の前でゆっくりそれを眺めることができたも同じでした。
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「私はちょうど他流試合でもする人のようにKを注意して見ていたのです。私は、私の眼、私の心、私の身体、すべて私という名の付くものを五分の隙間もないように用意して、Kに向ったのです。罪のないKは穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくらいに無用心でした。私は彼自身の手から、彼の保管している要塞の地図を受け取って、彼の眼の前でゆっくりそれを眺める事ができたも同じでした。
Kが理想と現実の間をさまよってふらふらしているのを発見した私は、ただ一打ちで彼を倒すことができるだろうという点にばかり目をつけました。
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Kが理想と現実の間に彷徨してふらふらしているのを発見した私は、ただ一打で彼を倒す事ができるだろうという点にばかり眼を着けました。
そうして、すぐ彼のすきにつけ込んだのです。
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そうしてすぐ彼の虚に付け込んだのです。
私は彼に向かって、急に厳粛な改まった態度を示し出しました。
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私は彼に向って急に厳粛な改まった態度を示し出しました。
もちろん策略からですが、その態度に相応するくらいの緊張した気分もあったのですから、自分に滑稽だの恥ずかしさだのを感じる余裕はありませんでした。
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無論策略からですが、その態度に相応するくらいな緊張した気分もあったのですから、自分に滑稽だの羞恥だのを感ずる余裕はありませんでした。
私はまず「精神的に向上心のない者は馬鹿だ」
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私はまず「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」
と言い放ちました。
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といい放ちました。
これは二人で房州を旅行している時、Kが私に向かって使った言葉です。
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これは二人で房州を旅行している際、Kが私に向って使った言葉です。
私は彼の使ったとおりを、彼と同じような口調で再び彼に投げ返したのです。
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私は彼の使った通りを、彼と同じような口調で、再び彼に投げ返したのです。
しかし、決して復讐ではありません。
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しかし決して復讐ではありません。
私は復讐以上に残酷な意味を持っていたということを、白状します。
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私は復讐以上に残酷な意味をもっていたという事を自白します。
私はその一言で、Kの前に横たわる恋の行く手をふさごうとしたのです。
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私はその一言でKの前に横たわる恋の行手を塞ごうとしたのです。
Kは真宗の寺に生まれた男でした。
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Kは真宗寺に生れた男でした。
しかし彼の傾きは、中学時代から決して生家の宗旨に近いものではなかったのです。
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しかし彼の傾向は中学時代から決して生家の宗旨に近いものではなかったのです。
教義上の区別をよく知らない私がこんなことを言う資格に乏しいのは承知していますが、私はただ男女に関係した点についてのみ、そう認めていたのです。
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教義上の区別をよく知らない私が、こんな事をいう資格に乏しいのは承知していますが、私はただ男女に関係した点についてのみ、そう認めていたのです。
Kは昔から、精進という言葉が好きでした。
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Kは昔から精進という言葉が好きでした。
私はその言葉の中に、欲を断つという意味もこもっているのだろうと解釈していました。
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私はその言葉の中に、禁欲という意味も籠っているのだろうと解釈していました。
しかし後で実際を聞いてみると、それよりもまだ厳しい意味が含まれているので、私は驚きました。
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しかし後で実際を聞いて見ると、それよりもまだ厳重な意味が含まれているので、私は驚きました。
道のためにはすべてを犠牲にすべきものだというのが彼の第一の信条なのですから、欲を抑えることや欲を断つことはもちろん、たとえ欲を離れた恋そのものでも道の妨げになるのです。
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道のためにはすべてを犠牲にすべきものだというのが彼の第一信条なのですから、摂欲や禁欲は無論、たとい欲を離れた恋そのものでも道の妨害になるのです。
Kが自活の生活をしている時分に、私はよく彼から彼の主張を聞かされたのでした。
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Kが自活生活をしている時分に、私はよく彼から彼の主張を聞かされたのでした。
その頃からお嬢さんを思っていた私は、勢いどうしても彼に反対しなければならなかったのです。
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その頃からお嬢さんを思っていた私は、勢いどうしても彼に反対しなければならなかったのです。
私が反対すると、彼はいつでも気の毒そうな顔をしました。
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私が反対すると、彼はいつでも気の毒そうな顔をしました。
そこには同情よりも、侮蔑の方が余計に現れていました。
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そこには同情よりも侮蔑の方が余計に現われていました。
こういう過去を二人の間に通り抜けて来ているのですから、精神的に向上心のない者は馬鹿だという言葉はKにとって痛いに違いなかったのです。
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こういう過去を二人の間に通り抜けて来ているのですから、精神的に向上心のないものは馬鹿だという言葉は、Kに取って痛いに違いなかったのです。
しかし前にも言ったとおり、私はこの一言で彼がせっかく積み上げた過去を蹴散らしたつもりではありません。
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しかし前にもいった通り、私はこの一言で、彼が折角積み上げた過去を蹴散らしたつもりではありません。
かえってそれを、今までどおり積み重ねて行かせようとしたのです。
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かえってそれを今まで通り積み重ねて行かせようとしたのです。
それが道に達しようが天に届こうが、私は構いません。
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それが道に達しようが、天に届こうが、私は構いません。
私はただ、Kが急に生活の方向を転換して私の利害と衝突するのを恐れたのです。
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私はただKが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。
要するに私の言葉は、単なる利己心の現れでした。
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要するに私の言葉は単なる利己心の発現でした。
「精神的に向上心のない者は、馬鹿だ」
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「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」
私は二度、同じ言葉を繰り返しました。
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私は二度同じ言葉を繰り返しました。
そうして、その言葉がKの上にどう影響するかを見つめていました。
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そうして、その言葉がKの上にどう影響するかを見詰めていました。
「馬鹿だ」
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「馬鹿だ」
と、やがてKが答えました。
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とやがてKが答えました。
「僕は馬鹿だ」
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「僕は馬鹿だ」
Kはぴたりとそこへ立ち止まったまま、動きません。
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Kはぴたりとそこへ立ち留まったまま動きません。
彼は地面の上を見つめています。
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彼は地面の上を見詰めています。
私は思わず、ぎょっとしました。
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私は思わずぎょっとしました。
私にはKがその瞬間に、居直り強盗のように感じられたのです。
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私にはKがその刹那に居直り強盗のごとく感ぜられたのです。
しかしそれにしては彼の声がいかにも力に乏しいということに、気がつきました。
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しかしそれにしては彼の声がいかにも力に乏しいという事に気が付きました。
私は彼の目つきを参考にしたかったのですが、彼は最後まで私の顔を見ないのです。
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私は彼の眼遣いを参考にしたかったのですが、彼は最後まで私の顔を見ないのです。
そうして、ゆっくりとまた歩き出しました。
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そうして、徐々とまた歩き出しました。
四十二
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四十二
「私はKと並んで足を運びながら、彼の口を出る次の言葉を腹の中でひそかに待ち受けました。あるいは待ち伏せと言った方が、まだ適当かもしれません。その時の私は、たとえKをだまし討ちにしても構わないくらいに思っていたのです。しかし私にも教育相応の良心はありますから、もし誰か私のそばへ来てお前は卑怯だと一言ささやいてくれる者があったなら、私はその瞬間にはっと我に返ったかもしれません。もしKがその人であったなら、私はおそらく彼の前に赤面したでしょう。ただKは私をたしなめるにはあまりに正直でした。あまりに単純でした。あまりに人格が善良だったのです。目のくらんだ私はそこに敬意を払うことを忘れて、かえってそこにつけ込んだのです。そこを利用して、彼を打ち倒そうとしたのです。
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「私はKと並んで足を運ばせながら、彼の口を出る次の言葉を腹の中で暗に待ち受けました。あるいは待ち伏せといった方がまだ適当かも知れません。その時の私はたといKを騙し打ちにしても構わないくらいに思っていたのです。しかし私にも教育相当の良心はありますから、もし誰か私の傍へ来て、お前は卑怯だと一言私語いてくれるものがあったなら、私はその瞬間に、はっと我に立ち帰ったかも知れません。もしKがその人であったなら、私はおそらく彼の前に赤面したでしょう。ただKは私を窘めるには余りに正直でした。余りに単純でした。余りに人格が善良だったのです。目のくらんだ私は、そこに敬意を払う事を忘れて、かえってそこに付け込んだのです。そこを利用して彼を打ち倒そうとしたのです。
Kはしばらくして、私の名を呼んで私の方を見ました。
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Kはしばらくして、私の名を呼んで私の方を見ました。
今度は私の方で、自然と足を止めました。
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今度は私の方で自然と足を留めました。
するとKも止まりました。
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するとKも留まりました。
私はその時やっと、Kの目を真正面から見ることができたのです。
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私はその時やっとKの眼を真向に見る事ができたのです。
Kは私より背の高い男でしたから、私は勢い彼の顔を見上げるようにしなければなりません。
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Kは私より背の高い男でしたから、私は勢い彼の顔を見上げるようにしなければなりません。
私はそうした態度で、狼のような心を罪のない羊に向けたのです。
原文を見る
私はそうした態度で、狼のごとき心を罪のない羊に向けたのです。
「もうその話はやめよう」
原文を見る
「もうその話は止めよう」
と、彼が言いました。
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と彼がいいました。
彼の目にも彼の言葉にも、変に悲痛なところがありました。
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彼の眼にも彼の言葉にも変に悲痛なところがありました。
私はちょっと、返す言葉ができなかったのです。
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私はちょっと挨拶ができなかったのです。
するとKは、「やめてくれ」
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するとKは、「止めてくれ」
と、今度は頼むように言い直しました。
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と今度は頼むようにいい直しました。
私はその時彼に向かって、残酷な答えを与えたのです。
原文を見る
私はその時彼に向って残酷な答を与えたのです。
狼がすきを見て、羊ののどぶえへ食いつくように。
原文を見る
狼が隙を見て羊の咽喉笛へ食い付くように。
「やめてくれって、僕が言い出したことじゃない、もともと君の方から持ち出した話じゃないか。しかし君がやめたければやめてもいいが、ただ口の先でやめたって仕方があるまい。君の心でそれをやめるだけの覚悟がなければ。いったい君は君のふだんの主張をどうするつもりなのか」
原文を見る
「止めてくれって、僕がいい出した事じゃない、もともと君の方から持ち出した話じゃないか。しかし君が止めたければ、止めてもいいが、ただ口の先で止めたって仕方があるまい。君の心でそれを止めるだけの覚悟がなければ。一体君は君の平生の主張をどうするつもりなのか」
私がこう言った時、背の高い彼は自然と私の前に縮こまって小さくなるような感じがしました。
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私がこういった時、背の高い彼は自然と私の前に萎縮して小さくなるような感じがしました。
彼はいつも話すとおりすこぶる強情な男でしたけれども、一方ではまた人一倍の正直者でしたから、自分の矛盾などをひどく非難される場合には決して平気でいられないたちだったのです。
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彼はいつも話す通り頗る強情な男でしたけれども、一方ではまた人一倍の正直者でしたから、自分の矛盾などをひどく非難される場合には、決して平気でいられない質だったのです。
私は彼の様子を見て、ようやく安心しました。
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私は彼の様子を見てようやく安心しました。
すると彼は突然「覚悟」
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すると彼は卒然「覚悟?」
と聞きました。
原文を見る
と聞きました。
そうして私がまだ何とも答えない先に「覚悟、――覚悟ならないこともない」
原文を見る
そうして私がまだ何とも答えない先に「覚悟、――覚悟ならない事もない」
と付け加えました。
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と付け加えました。
彼の調子は、独り言のようでした。
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彼の調子は独言のようでした。
また、夢の中の言葉のようでした。
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また夢の中の言葉のようでした。
二人はそれきり話を切り上げて、小石川の下宿の方に足を向けました。
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二人はそれぎり話を切り上げて、小石川の宿の方に足を向けました。
割合に風のない暖かな日でしたけれども、何しろ冬のことですから、公園の中は寂しいものでした。
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割合に風のない暖かな日でしたけれども、何しろ冬の事ですから、公園のなかは淋しいものでした。
特に霜に打たれて青みを失った杉の木立の茶褐色が、薄黒い空の中に梢を並べてそびえているのを振り返って見た時は、寒さが背中へかじりついたような気持ちがしました。
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ことに霜に打たれて蒼味を失った杉の木立の茶褐色が、薄黒い空の中に、梢を並べて聳えているのを振り返って見た時は、寒さが背中へ噛り付いたような心持がしました。
我々は夕暮れの本郷台を急ぎ足でどしどし通り抜けて、また向こうの丘へ上るべく小石川の谷へ下りたのです。
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我々は夕暮の本郷台を急ぎ足でどしどし通り抜けて、また向うの岡へ上るべく小石川の谷へ下りたのです。
私はその頃になって、ようやく外套の下に体の温もりを感じ出したぐらいです。
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私はその頃になって、ようやく外套の下に体の温味を感じ出したぐらいです。
急いだためでもありましょうが、我々は帰り道にはほとんど口をききませんでした。
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急いだためでもありましょうが、我々は帰り路にはほとんど口を聞きませんでした。
家へ帰って食卓に向かった時、奥さんはどうして遅くなったのかと尋ねました。
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宅へ帰って食卓に向った時、奥さんはどうして遅くなったのかと尋ねました。
私は、Kに誘われて上野へ行ったと答えました。
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私はKに誘われて上野へ行ったと答えました。
奥さんは、この寒いのにと言って驚いた様子を見せました。
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奥さんはこの寒いのにといって驚いた様子を見せました。
お嬢さんは、上野に何があったのかと聞きたがります。
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お嬢さんは上野に何があったのかと聞きたがります。
私は何もないが、ただ散歩したのだという返事だけしておきました。
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私は何もないが、ただ散歩したのだという返事だけしておきました。
ふだんから無口なKは、いつもよりなお黙っていました。
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平生から無口なKは、いつもよりなお黙っていました。
奥さんが話しかけても、お嬢さんが笑っても、ろくな受け答えはしませんでした。
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奥さんが話しかけても、お嬢さんが笑っても、碌な挨拶はしませんでした。
それからご飯をのみ込むようにかき込んで、私がまだ席を立たないうちに自分の部屋へ引き取りました。
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それから飯を呑み込むように掻き込んで、私がまだ席を立たないうちに、自分の室へ引き取りました。
四十三
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四十三
「その頃は覚醒とか新しい生活とかいう言葉のまだない時分でした。しかしKが古い自分をさらりと投げ出して、ひたすら新しい方角へ走り出さなかったのは、現代人の考えが彼に欠けていたからではないのです。彼には投げ出すことのできないほど尊い過去があったからです。彼はそのために今日まで生きて来たと言ってもいいくらいなのです。だからKが一直線に愛の目的物に向かって猛進しないと言って、決してその愛が生ぬるいことを証拠立てる訳には行きません。いくら激しい感情が燃えていても、彼はむやみに動けないのです。前後を忘れるほどの衝動が起こる機会を彼に与えない以上、Kはどうしてもちょっと踏みとどまって自分の過去を振り返らなければならなかったのです。そうすると、過去が指し示す道を今までどおり歩かなければならなくなるのです。その上彼には、現代人の持たない強情と我慢がありました。私はこの双方の点においてよく彼の心を見抜いていたつもりなのです。
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「その頃は覚醒とか新しい生活とかいう文字のまだない時分でした。しかしKが古い自分をさらりと投げ出して、一意に新しい方角へ走り出さなかったのは、現代人の考えが彼に欠けていたからではないのです。彼には投げ出す事のできないほど尊い過去があったからです。彼はそのために今日まで生きて来たといってもいいくらいなのです。だからKが一直線に愛の目的物に向って猛進しないといって、決してその愛の生温い事を証拠立てる訳にはゆきません。いくら熾烈な感情が燃えていても、彼はむやみに動けないのです。前後を忘れるほどの衝動が起る機会を彼に与えない以上、Kはどうしてもちょっと踏み留まって自分の過去を振り返らなければならなかったのです。そうすると過去が指し示す路を今まで通り歩かなければならなくなるのです。その上彼には現代人のもたない強情と我慢がありました。私はこの双方の点においてよく彼の心を見抜いていたつもりなのです。
上野から帰った晩は、私にとって比較的安らかな夜でした。
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上野から帰った晩は、私に取って比較的安静な夜でした。
私はKが部屋へ引き上げた後を追いかけて、彼の机のそばに座り込みました。
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私はKが室へ引き上げたあとを追い懸けて、彼の机の傍に坐り込みました。
そうして取り留めもない世間話を、わざと彼に仕向けました。
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そうして取り留めもない世間話をわざと彼に仕向けました。
彼は迷惑そうでした。
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彼は迷惑そうでした。
私の目には勝利の色が多少輝いていたでしょう、私の声にはたしかに得意の響きがあったのです。
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私の眼には勝利の色が多少輝いていたでしょう、私の声にはたしかに得意の響きがあったのです。
私はしばらくKと一つ火鉢に手をかざした後、自分の部屋に帰りました。
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私はしばらくKと一つ火鉢に手を翳した後、自分の室に帰りました。
ほかのことにかけては何をしても彼に及ばなかった私も、その時だけは恐れるに足りないという自覚を彼に対して持っていたのです。
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外の事にかけては何をしても彼に及ばなかった私も、その時だけは恐るるに足りないという自覚を彼に対してもっていたのです。
私はまもなく、穏やかな眠りに落ちました。
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私はほどなく穏やかな眠りに落ちました。
しかし突然、私の名を呼ぶ声で目を覚ましました。
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しかし突然私の名を呼ぶ声で眼を覚ましました。
見ると、間のふすまが六十センチばかり開いて、そこにKの黒い影が立っています。
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見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、そこにKの黒い影が立っています。
そうして彼の部屋には、宵のとおりまだ明かりがついているのです。
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そうして彼の室には宵の通りまだ燈火が点いているのです。
急に世界の変わった私は、少しの間口をきくこともできずに、ぼうっとしてその光景を眺めていました。
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急に世界の変った私は、少しの間口を利く事もできずに、ぼうっとして、その光景を眺めていました。
その時Kは、もう寝たのかと聞きました。
原文を見る
その時Kはもう寝たのかと聞きました。
Kはいつでも、遅くまで起きている男でした。
原文を見る
Kはいつでも遅くまで起きている男でした。
私は黒い影法師のようなKに向かって、何か用かと聞き返しました。
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私は黒い影法師のようなKに向って、何か用かと聞き返しました。
Kは大した用でもない、ただもう寝たかまだ起きているかと思って、便所へ行ったついでに聞いてみただけだと答えました。
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Kは大した用でもない、ただもう寝たか、まだ起きているかと思って、便所へ行ったついでに聞いてみただけだと答えました。
Kはランプの明かりを背中に受けているので、彼の顔色や目つきはまったく私には分かりませんでした。
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Kは洋燈の灯を背中に受けているので、彼の顔色や眼つきは、全く私には分りませんでした。
けれども彼の声は、ふだんよりもかえって落ち着いていたくらいでした。
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けれども彼の声は不断よりもかえって落ち付いていたくらいでした。
Kはやがて、開けたふすまをぴたりと閉め切りました。
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Kはやがて開けた襖をぴたりと立て切りました。
私の部屋は、すぐ元の暗闇に戻りました。
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私の室はすぐ元の暗闇に帰りました。
私はその暗闇より静かな夢を見るべく、また目を閉じました。
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私はその暗闇より静かな夢を見るべくまた眼を閉じました。
私はそれきり、何も知りません。
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私はそれぎり何も知りません。
しかし翌朝になって昨夜のことを考えてみると、何だか不思議でした。
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しかし翌朝になって、昨夕の事を考えてみると、何だか不思議でした。
私はことによると、すべてが夢ではないかと思いました。
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私はことによると、すべてが夢ではないかと思いました。
それでご飯を食う時、Kに聞きました。
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それで飯を食う時、Kに聞きました。
Kは、たしかにふすまを開けて私の名を呼んだと言います。
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Kはたしかに襖を開けて私の名を呼んだといいます。
なぜそんなことをしたのかと尋ねると、特にはっきりした返事もしません。
原文を見る
なぜそんな事をしたのかと尋ねると、別に判然した返事もしません。
調子の抜けた頃になって、近頃はよく眠れるのかと、かえって向こうから私に問うのです。
原文を見る
調子の抜けた頃になって、近頃は熟睡ができるのかとかえって向うから私に問うのです。
私は、何だか変に感じました。
原文を見る
私は何だか変に感じました。
その日ちょうど同じ時間に講義の始まる時間割になっていたので、二人はやがていっしょに家を出ました。
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その日ちょうど同じ時間に講義の始まる時間割になっていたので、二人はやがていっしょに宅を出ました。
今朝から昨夜のことが気にかかっている私は、途中でまたKを追及しました。
原文を見る
今朝から昨夕の事が気に掛っている私は、途中でまたKを追窮しました。
けれどもKは、やはり私を満足させるような答えをしません。
原文を見る
けれどもKはやはり私を満足させるような答えをしません。
私は、あの一件について何か話すつもりではなかったのかと念を押してみました。
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私はあの事件について何か話すつもりではなかったのかと念を押してみました。
Kはそうではないと、強い調子で言い切りました。
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Kはそうではないと強い調子でいい切りました。
昨日上野で「その話はもうやめよう」
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昨日上野で「その話はもう止めよう」
と言ったではないかと、注意するようにも聞こえました。
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といったではないかと注意するごとくにも聞こえました。
Kはそういう点にかけて、鋭い自尊心を持った男なのです。
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Kはそういう点に掛けて鋭い自尊心をもった男なのです。
ふとそこに気のついた私は、突然彼の使った「覚悟」
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ふとそこに気のついた私は突然彼の用いた「覚悟」
という言葉を連想し出しました。
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という言葉を連想し出しました。
すると今までまるで気にならなかったその二字が、妙な力で私の頭を押さえ始めたのです。
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すると今までまるで気にならなかったその二字が妙な力で私の頭を抑え始めたのです。
四十四
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四十四
「Kの思い切りのよい性格は、私によく分かっていました。彼がこの一件についてのみぐずぐずしている訳も、私にはちゃんとのみ込めていたのです。つまり私は全体を心得た上で例外の場合をしっかりつかまえたつもりで、得意だったのです。ところが「覚悟」という彼の言葉を頭の中で何度もかみしめているうちに、私の得意はだんだん色を失って、しまいにはぐらぐら揺れ始めるようになりました。私はこの場合も、あるいは彼にとって例外でないのかもしれないと思い出したのです。すべての疑い、悶え、悩みを一度に解決する最後の手段を、彼は胸の中に畳み込んでいるのではなかろうかと疑り始めたのです。そうした新しい光で覚悟の二字を眺め返してみた私は、はっと驚きました。その時の私がもしこの驚きをもって、もう一度彼の口にした覚悟の中身を公平に見回したなら、まだよかったかもしれません。悲しいことに私は片目でした。私はただ、Kがお嬢さんに対して進んで行くという意味にその言葉を解釈しました。思い切りのよい彼の性格が恋の方面に発揮されるのが、すなわち彼の覚悟だろうと一途に思い込んでしまったのです。
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「Kの果断に富んだ性格は私によく知れていました。彼のこの事件についてのみ優柔な訳も私にはちゃんと呑み込めていたのです。つまり私は一般を心得た上で、例外の場合をしっかり攫まえたつもりで得意だったのです。ところが「覚悟」という彼の言葉を、頭のなかで何遍も咀嚼しているうちに、私の得意はだんだん色を失って、しまいにはぐらぐら揺き始めるようになりました。私はこの場合もあるいは彼にとって例外でないのかも知れないと思い出したのです。すべての疑惑、煩悶、懊悩、を一度に解決する最後の手段を、彼は胸のなかに畳み込んでいるのではなかろうかと疑り始めたのです。そうした新しい光で覚悟の二字を眺め返してみた私は、はっと驚きました。その時の私がもしこの驚きをもって、もう一返彼の口にした覚悟の内容を公平に見廻したらば、まだよかったかも知れません。悲しい事に私は片眼でした。私はただKがお嬢さんに対して進んで行くという意味にその言葉を解釈しました。果断に富んだ彼の性格が、恋の方面に発揮されるのがすなわち彼の覚悟だろうと一図に思い込んでしまったのです。
私は、私にも最後の決断が必要だという声を心の耳で聞きました。
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私は私にも最後の決断が必要だという声を心の耳で聞きました。
私はすぐその声に応じて、勇気を奮い起こしました。
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私はすぐその声に応じて勇気を振り起しました。
私はKより先に、しかもKの知らない間に事を運ばなくてはならないと覚悟を決めました。
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私はKより先に、しかもKの知らない間に、事を運ばなくてはならないと覚悟を極めました。
私は黙って、機会をうかがっていました。
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私は黙って機会を覘っていました。
しかし二日経っても三日経っても、私はそれをつかまえることができません。
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しかし二日経っても三日経っても、私はそれを捕まえる事ができません。
私はKのいない時、またお嬢さんの留守な折を待って、奥さんに談判を始めようと考えたのです。
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私はKのいない時、またお嬢さんの留守な折を待って、奥さんに談判を開こうと考えたのです。
しかし片方がいなければ片方が邪魔をするといったふうの日ばかり続いて、どうしても「今だ」
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しかし片方がいなければ、片方が邪魔をするといった風の日ばかり続いて、どうしても「今だ」
と思う好都合が出て来てくれないのです。
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と思う好都合が出て来てくれないのです。
私はいらいらしました。
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私はいらいらしました。
一週間の後、私はとうとう堪え切れなくなって仮病を使いました。
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一週間の後私はとうとう堪え切れなくなって仮病を遣いました。
奥さんからもお嬢さんからもK自身からも起きろという催促を受けた私は、生返事をしただけで、十時頃まで布団をかぶって寝ていました。
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奥さんからもお嬢さんからも、K自身からも、起きろという催促を受けた私は、生返事をしただけで、十時頃まで蒲団を被って寝ていました。
私はKもお嬢さんもいなくなって家の中がひっそり静まった頃を見計らって、寝床を出ました。
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私はKもお嬢さんもいなくなって、家の内がひっそり静まった頃を見計らって寝床を出ました。
私の顔を見た奥さんは、すぐどこが悪いかと尋ねました。
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私の顔を見た奥さんは、すぐどこが悪いかと尋ねました。
食べ物は枕元へ運んでやるから、もっと寝ていたらよかろうと忠告してもくれました。
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食物は枕元へ運んでやるから、もっと寝ていたらよかろうと忠告してもくれました。
体に異常のない私は、とても寝る気にはなれません。
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身体に異状のない私は、とても寝る気にはなれません。
顔を洗って、いつものとおり茶の間でご飯を食いました。
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顔を洗っていつもの通り茶の間で飯を食いました。
その時奥さんは、長火鉢の向こう側から給仕をしてくれたのです。
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その時奥さんは長火鉢の向側から給仕をしてくれたのです。
私は朝ご飯とも昼ご飯ともつかない茶碗を手に持ったまま、どんなふうに問題を切り出したものだろうかとそればかりに気をもんでいたから、見た目には実際気分のよくない病人らしく見えただろうと思います。
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私は朝飯とも午飯とも片付かない茶椀を手に持ったまま、どんな風に問題を切り出したものだろうかと、そればかりに屈托していたから、外観からは実際気分の好くない病人らしく見えただろうと思います。
私はご飯を終えて、煙草をふかし出しました。
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私は飯を終って烟草を吹かし出しました。
私が立たないので、奥さんも火鉢のそばを離れる訳に行きません。
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私が立たないので奥さんも火鉢の傍を離れる訳にゆきません。
お手伝いを呼んでお膳を下げさせた上、鉄瓶に水を差したり火鉢の縁を拭いたりして、私に調子を合わせています。
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下女を呼んで膳を下げさせた上、鉄瓶に水を注したり、火鉢の縁を拭いたりして、私に調子を合わせています。
私は奥さんに、特別な用事でもあるのかと問いました。
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私は奥さんに特別な用事でもあるのかと問いました。
奥さんはいいえと答えましたが、今度は向こうでなぜですと聞き返して来ました。
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奥さんはいいえと答えましたが、今度は向うでなぜですと聞き返して来ました。
私は、実は少し話したいことがあるのだと言いました。
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私は実は少し話したい事があるのだといいました。
奥さんは何ですかと言って、私の顔を見ました。
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奥さんは何ですかといって、私の顔を見ました。
奥さんの調子はまるで私の気分に入り込めないような軽いものでしたから、私は次に出すべき言葉も少し渋りました。
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奥さんの調子はまるで私の気分にはいり込めないような軽いものでしたから、私は次に出すべき文句も少し渋りました。
私は仕方なしに言葉の上でいい加減にうろつき回ったあげく、Kが近頃何か言いはしなかったかと奥さんに聞いてみました。
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私は仕方なしに言葉の上で、好い加減にうろつき廻った末、Kが近頃何かいいはしなかったかと奥さんに聞いてみました。
奥さんは思いも寄らないというふうをして、「何を」
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奥さんは思いも寄らないという風をして、「何を?」
と、また聞き返して来ました。
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とまた反問して来ました。
そうして私の答える前に、「あなたには何かおっしゃったんですか」
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そうして私の答える前に、「あなたには何かおっしゃったんですか」
と、かえって向こうで聞くのです。
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とかえって向うで聞くのです。
四十五
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四十五
「Kから聞かされた打ち明け話を奥さんに伝える気のなかった私は、「いいえ」と言ってしまった後で、すぐ自分の嘘を快くなく感じました。仕方がないから、特に何も頼まれた覚えはないのだからKに関する用件ではないのだと言い直しました。奥さんは「そうですか」と言って、後を待っています。私はどうしても切り出さなければならなくなりました。私は突然「奥さん、お嬢さんを私にください」と言いました。奥さんは私が予期してかかったほど驚いた様子も見せませんでしたが、それでもしばらく返事ができなかったものと見えて、黙って私の顔を眺めていました。一度言い出した私は、いくら顔を見られてもそれに構ってなどはいられません。「ください、ぜひください」と言いました。「私の妻としてぜひください」と言いました。奥さんは年を取っているだけに、私よりもずっと落ち着いていました。「あげてもいいが、あんまり急じゃありませんか」と聞くのです。私が「急にもらいたいのだ」とすぐ答えたら、笑い出しました。そうして「よく考えたのですか」と念を押すのです。私は、言い出したのは突然でも考えたのは突然でないという訳を、強い言葉で説明しました。
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「Kから聞かされた打ち明け話を、奥さんに伝える気のなかった私は、「いいえ」といってしまった後で、すぐ自分の嘘を快からず感じました。仕方がないから、別段何も頼まれた覚えはないのだから、Kに関する用件ではないのだといい直しました。奥さんは「そうですか」といって、後を待っています。私はどうしても切り出さなければならなくなりました。私は突然「奥さん、お嬢さんを私に下さい」といいました。奥さんは私の予期してかかったほど驚いた様子も見せませんでしたが、それでも少時返事ができなかったものと見えて、黙って私の顔を眺めていました。一度いい出した私は、いくら顔を見られても、それに頓着などはしていられません。「下さい、ぜひ下さい」といいました。「私の妻としてぜひ下さい」といいました。奥さんは年を取っているだけに、私よりもずっと落ち付いていました。「上げてもいいが、あんまり急じゃありませんか」と聞くのです。私が「急に貰いたいのだ」とすぐ答えたら笑い出しました。そうして「よく考えたのですか」と念を押すのです。私はいい出したのは突然でも、考えたのは突然でないという訳を強い言葉で説明しました。
それからまだ二つ三つのやり取りがありましたが、私はそれを忘れてしまいました。
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それからまだ二つ三つの問答がありましたが、私はそれを忘れてしまいました。
男のようにはっきりしたところのある奥さんは、普通の女と違ってこんな場合には大変気持ちよく話のできる人でした。
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男のように判然したところのある奥さんは、普通の女と違ってこんな場合には大変心持よく話のできる人でした。
「よろしゅうございます、差し上げましょう」
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「宜ござんす、差し上げましょう」
と言いました。
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といいました。
「差し上げるなんて威張った口のきける境遇ではありません。どうぞもらってください。ご存じのとおり父親のない哀れな子です」
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「差し上げるなんて威張った口の利ける境遇ではありません。どうぞ貰って下さい。ご存じの通り父親のない憐れな子です」
と、後では向こうから頼みました。
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と後では向うから頼みました。
話は簡単で、しかもはっきり片づいてしまいました。
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話は簡単でかつ明瞭に片付いてしまいました。
最初からしまいまでに、おそらく十五分とはかからなかったでしょう。
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最初からしまいまでにおそらく十五分とは掛らなかったでしょう。
奥さんは、何の条件も持ち出さなかったのです。
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奥さんは何の条件も持ち出さなかったのです。
親類に相談する必要もない、後から断ればそれで十分だと言いました。
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親類に相談する必要もない、後から断ればそれで沢山だといいました。
本人の意向さえたしかめるには及ばないと明言しました。
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本人の意嚮さえたしかめるに及ばないと明言しました。
そんな点になると、学問をした私の方がかえって形式にこだわるくらいに思われたのです。
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そんな点になると、学問をした私の方が、かえって形式に拘泥するくらいに思われたのです。
親類はとにかく、当人にはあらかじめ話して承諾を得るのが順序らしいと私が注意した時、奥さんは「大丈夫です。本人が不承知の所へ、私があの子をやるはずがありませんから」
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親類はとにかく、当人にはあらかじめ話して承諾を得るのが順序らしいと私が注意した時、奥さんは「大丈夫です。本人が不承知の所へ、私があの子をやるはずがありませんから」
と言いました。
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といいました。
自分の部屋へ帰った私は、事があまりにも訳もなく進行したのを考えて、かえって変な気持ちになりました。
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自分の室へ帰った私は、事のあまりに訳もなく進行したのを考えて、かえって変な気持になりました。
はたして大丈夫なのだろうかという疑いさえ、どこからか頭の底に這い込んで来たくらいです。
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はたして大丈夫なのだろうかという疑念さえ、どこからか頭の底に這い込んで来たくらいです。
けれども大体において、私の未来の運命はこれで定められたのだという思いが、私のすべてを新たにしました。
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けれども大体の上において、私の未来の運命は、これで定められたのだという観念が私のすべてを新たにしました。
私は昼頃また茶の間へ出かけて行って、奥さんに、今朝の話をお嬢さんにいつ通じてくれるつもりかと尋ねました。
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私は午頃また茶の間へ出掛けて行って、奥さんに、今朝の話をお嬢さんに何時通じてくれるつもりかと尋ねました。
奥さんは、自分さえ承知していればいつ話しても構わなかろうというようなことを言うのです。
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奥さんは、自分さえ承知していれば、いつ話しても構わなかろうというような事をいうのです。
こうなると何だか私よりも相手の方が男みたいなので、私はそれきり引き下がろうとしました。
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こうなると何だか私よりも相手の方が男みたようなので、私はそれぎり引き込もうとしました。
すると奥さんが私を引き留めて、もし早い方が希望ならば今日でもいい、稽古から帰って来たらすぐ話そうと言うのです。
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すると奥さんが私を引き留めて、もし早い方が希望ならば、今日でもいい、稽古から帰って来たら、すぐ話そうというのです。
私は、そうしてもらう方が都合がいいと答えて、また自分の部屋に帰りました。
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私はそうしてもらう方が都合が好いと答えてまた自分の室に帰りました。
しかし黙って自分の机の前に座って二人のこそこそ話を遠くから聞いている私を想像してみると、何だか落ち着いていられないような気もするのです。
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しかし黙って自分の机の前に坐って、二人のこそこそ話を遠くから聞いている私を想像してみると、何だか落ち付いていられないような気もするのです。
私はとうとう帽子をかぶって、表へ出ました。
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私はとうとう帽子を被って表へ出ました。
そうして、また坂の下でお嬢さんに行き合いました。
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そうしてまた坂の下でお嬢さんに行き合いました。
何も知らないお嬢さんは、私を見て驚いたらしかったのです。
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何にも知らないお嬢さんは私を見て驚いたらしかったのです。
私が帽子を取って「今お帰りですか」
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私が帽子を脱って「今お帰り」
と尋ねると、向こうではもう病気は治ったのかと不思議そうに聞くのです。
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と尋ねると、向うではもう病気は癒ったのかと不思議そうに聞くのです。
私は「ええ治りました、治りました」
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私は「ええ癒りました、癒りました」
と答えて、ずんずん水道橋の方へ曲ってしまいました。
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と答えて、ずんずん水道橋の方へ曲ってしまいました。
四十六
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四十六
「私は猿楽町から神保町の通りへ出て、小川町の方へ曲りました。私がこのあたりを歩くのはいつも古本屋をひやかすのが目的でしたが、その日は手ずれのした書物などを眺める気がどうしても起こらないのです。私は歩きながら、絶えず家のことを考えていました。私にはさっきの奥さんの記憶がありました。それからお嬢さんが家へ帰ってからの想像がありました。私はつまり、この二つのもので歩かせられていたようなものです。その上私は時々通りの真ん中で、我知らずふと立ち止まりました。そうして、今頃は奥さんがお嬢さんにもうあの話をしている時分だろうなどと考えました。またある時は、もうあの話が済んだ頃だとも思いました。
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「私は猿楽町から神保町の通りへ出て、小川町の方へ曲りました。私がこの界隈を歩くのは、いつも古本屋をひやかすのが目的でしたが、その日は手摺れのした書物などを眺める気が、どうしても起らないのです。私は歩きながら絶えず宅の事を考えていました。私には先刻の奥さんの記憶がありました。それからお嬢さんが宅へ帰ってからの想像がありました。私はつまりこの二つのもので歩かせられていたようなものです。その上私は時々往来の真中で我知らずふと立ち留まりました。そうして今頃は奥さんがお嬢さんにもうあの話をしている時分だろうなどと考えました。また或る時は、もうあの話が済んだ頃だとも思いました。
私はとうとう万世橋を渡って、明神の坂を上がって、本郷台へ来て、それからまた菊坂を下りて、しまいに小石川の谷へ下りたのです。
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私はとうとう万世橋を渡って、明神の坂を上がって、本郷台へ来て、それからまた菊坂を下りて、しまいに小石川の谷へ下りたのです。
私の歩いた距離はこの三区にまたがっていびつな円を描いたとも言えるでしょうが、私はこの長い散歩の間ほとんどKのことを考えなかったのです。
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私の歩いた距離はこの三区に跨がって、いびつな円を描いたともいわれるでしょうが、私はこの長い散歩の間ほとんどKの事を考えなかったのです。
今その時の私を振り返って、なぜだと自分に聞いてみてもまるで分かりません。
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今その時の私を回顧して、なぜだと自分に聞いてみても一向分りません。
ただ不思議に思うだけです。
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ただ不思議に思うだけです。
私の心がKを忘れられるくらい一方に緊張していたと見ればそれまでですが、私の良心がまたそれを許すべきはずはなかったのですから。
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私の心がKを忘れ得るくらい、一方に緊張していたとみればそれまでですが、私の良心がまたそれを許すべきはずはなかったのですから。
Kに対する私の良心が復活したのは、私が家の格子を開けて玄関から部屋へ通る時、すなわちいつものように彼の部屋を抜けようとした瞬間でした。
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Kに対する私の良心が復活したのは、私が宅の格子を開けて、玄関から坐敷へ通る時、すなわち例のごとく彼の室を抜けようとした瞬間でした。
彼はいつものとおり机に向かって本を読んでいました。
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彼はいつもの通り机に向って書見をしていました。
彼はいつものとおり書物から目を放して、私を見ました。
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彼はいつもの通り書物から眼を放して、私を見ました。
しかし彼はいつものとおり、今帰ったのかとは言いませんでした。
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しかし彼はいつもの通り今帰ったのかとはいいませんでした。
彼は「病気はもういいのか、医者へでも行ったのか」
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彼は「病気はもう癒いのか、医者へでも行ったのか」
と聞きました。
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と聞きました。
私はその瞬間に、彼の前に手をついて詫びたくなったのです。
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私はその刹那に、彼の前に手を突いて、詫まりたくなったのです。
しかも私の受けたその時の衝撃は、決して弱いものではなかったのです。
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しかも私の受けたその時の衝動は決して弱いものではなかったのです。
もしKと私がたった二人、広い野の真ん中にでも立っていたなら、私はきっと良心の命令に従ってその場で彼に謝ったろうと思います。
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もしKと私がたった二人曠野の真中にでも立っていたならば、私はきっと良心の命令に従って、その場で彼に謝罪したろうと思います。
しかし奥には人がいます。
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しかし奥には人がいます。
私の自然な気持ちは、すぐそこで食い止められてしまったのです。
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私の自然はすぐそこで食い留められてしまったのです。
そうして悲しいことに、永久に復活しなかったのです。
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そうして悲しい事に永久に復活しなかったのです。
夕飯の時、Kと私はまた顔を合わせました。
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夕飯の時Kと私はまた顔を合せました。
何も知らないKはただ沈んでいただけで、少しも疑い深い目を私に向けません。
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何にも知らないKはただ沈んでいただけで、少しも疑い深い眼を私に向けません。
何も知らない奥さんは、いつもよりうれしそうでした。
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何にも知らない奥さんはいつもより嬉しそうでした。
私だけが、すべてを知っていたのです。
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私だけがすべてを知っていたのです。
私は鉛のようなご飯を食いました。
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私は鉛のような飯を食いました。
その時お嬢さんは、いつものようにみんなと同じ食卓に並びませんでした。
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その時お嬢さんはいつものようにみんなと同じ食卓に並びませんでした。
奥さんが催促すると、次の部屋でただ今と答えるだけでした。
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奥さんが催促すると、次の室で只今と答えるだけでした。
それをKは、不思議そうに聞いていました。
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それをKは不思議そうに聞いていました。
しまいに、どうしたのかと奥さんに尋ねました。
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しまいにどうしたのかと奥さんに尋ねました。
奥さんはおおかたきまりが悪いのだろうと言って、ちょっと私の顔を見ました。
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奥さんは大方極りが悪いのだろうといって、ちょっと私の顔を見ました。
Kはなお不思議そうに、なぜきまりが悪いのかと追及しにかかりました。
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Kはなお不思議そうに、なんで極りが悪いのかと追窮しに掛かりました。
奥さんは微笑しながら、また私の顔を見るのです。
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奥さんは微笑しながらまた私の顔を見るのです。
私は食卓に着いた初めから、奥さんの顔つきで事の成り行きをほぼ推し量っていました。
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私は食卓に着いた初めから、奥さんの顔付で、事の成行をほぼ推察していました。
しかしKに説明を与えるために私のいる前でそれをことごとく話されてはたまらないと考えました。
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しかしKに説明を与えるために、私のいる前で、それを悉く話されては堪らないと考えました。
奥さんはまたそのくらいのことを平気でする女なのですから、私はひやひやしたのです。
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奥さんはまたそのくらいの事を平気でする女なのですから、私はひやひやしたのです。
幸いにKは、また元の沈黙に戻りました。
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幸いにKはまた元の沈黙に帰りました。
ふだんより多少機嫌のよかった奥さんも、とうとう私が恐れを抱いている点までは話を進めずに終わりました。
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平生より多少機嫌のよかった奥さんも、とうとう私の恐れを抱いている点までは話を進めずにしまいました。
私はほっと一息して、部屋へ帰りました。
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私はほっと一息して室へ帰りました。
しかし私がこれから先Kに対して取るべき態度はどうしたものだろうか、私はそれを考えずにはいられませんでした。
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しかし私がこれから先Kに対して取るべき態度は、どうしたものだろうか、私はそれを考えずにはいられませんでした。
私はいろいろの言い訳を、自分の胸でこしらえてみました。
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私は色々の弁護を自分の胸で拵えてみました。
けれどもどの言い訳もKに対して面と向かうには足りませんでした、卑怯な私はついに自分で自分をKに説明するのが嫌になったのです。
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けれどもどの弁護もKに対して面と向うには足りませんでした、卑怯な私はついに自分で自分をKに説明するのが厭になったのです。
四十七
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四十七
「私はそのまま二、三日過ごしました。その二、三日の間、Kに対する絶えない不安が私の胸を重くしていたのは言うまでもありません。私はただでさえ何とかしなければ彼に済まないと思ったのです。その上奥さんの調子やお嬢さんの態度が始終私を突っつくように刺激するのですから、私はなおつらかったのです。どこか男らしい気性を備えた奥さんは、いつ私のことを食卓でKにすっぱ抜かないとも限りません。それ以来特に目立つように思えた私に対するお嬢さんの立ち居振る舞いも、Kの心を曇らす疑いの種とならないとは断言できません。私は何とかして、私とこの家族との間に成り立った新しい関係をKに知らせなければならない位置に立ちました。しかし道義の上で弱点を持っていると自分で自分を認めている私には、それがまた至難のことのように感じられたのです。
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「私はそのまま二、三日過ごしました。その二、三日の間Kに対する絶えざる不安が私の胸を重くしていたのはいうまでもありません。私はただでさえ何とかしなければ、彼に済まないと思ったのです。その上奥さんの調子や、お嬢さんの態度が、始終私を突ッつくように刺戟するのですから、私はなお辛かったのです。どこか男らしい気性を具えた奥さんは、いつ私の事を食卓でKに素ぱ抜かないとも限りません。それ以来ことに目立つように思えた私に対するお嬢さんの挙止動作も、Kの心を曇らす不審の種とならないとは断言できません。私は何とかして、私とこの家族との間に成り立った新しい関係を、Kに知らせなければならない位置に立ちました。しかし倫理的に弱点をもっていると、自分で自分を認めている私には、それがまた至難の事のように感ぜられたのです。
私は仕方がないから、奥さんに頼んでKに改めてそう言ってもらおうかと考えました。
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私は仕方がないから、奥さんに頼んでKに改めてそういってもらおうかと考えました。
もちろん、私のいない時にです。
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無論私のいない時にです。
しかしありのままを告げられては、直接と間接の区別があるだけで、面目のないのに変わりはありません。
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しかしありのままを告げられては、直接と間接の区別があるだけで、面目のないのに変りはありません。
と言って、作り事を話してもらおうとすれば、奥さんからその理由を問い詰められるに決まっています。
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といって、拵え事を話してもらおうとすれば、奥さんからその理由を詰問されるに極っています。
もし奥さんにすべての事情を打ち明けて頼むとすれば、私は好んで自分の弱点を自分の愛する人とその母親の前にさらけ出さなければなりません。
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もし奥さんにすべての事情を打ち明けて頼むとすれば、私は好んで自分の弱点を自分の愛人とその母親の前に曝け出さなければなりません。
真面目な私には、それが私の未来の信用に関わるとしか思われなかったのです。
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真面目な私には、それが私の未来の信用に関するとしか思われなかったのです。
結婚する前から恋人の信用を失うのは、たとえほんのわずかでも私には堪え切れない不幸のように見えました。
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結婚する前から恋人の信用を失うのは、たとい一分一厘でも、私には堪え切れない不幸のように見えました。
要するに私は、正直な道を歩くつもりでつい足を滑らした馬鹿者でした。
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要するに私は正直な路を歩くつもりで、つい足を滑らした馬鹿ものでした。
もしくは、ずるい男でした。
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もしくは狡猾な男でした。
そうしてそこに気のついている者は、今のところただ天と私の心だけだったのです。
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そうしてそこに気のついているものは、今のところただ天と私の心だけだったのです。
しかし立ち直ってもう一歩前へ踏み出そうとするには、今滑ったことをぜひとも周りの人に知られなければならない窮地に陥ったのです。
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しかし立ち直って、もう一歩前へ踏み出そうとするには、今滑った事をぜひとも周囲の人に知られなければならない窮境に陥ったのです。
私はあくまで、滑ったことを隠したがりました。
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私はあくまで滑った事を隠したがりました。
同時に、どうしても前へ出ずにはいられなかったのです。
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同時に、どうしても前へ出ずにはいられなかったのです。
私はこの間に挟まって、また立ちすくみました。
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私はこの間に挟まってまた立ち竦みました。
五、六日経った後、奥さんは突然私に向かって、Kにあのことを話したかと聞くのです。
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五、六日経った後、奥さんは突然私に向って、Kにあの事を話したかと聞くのです。
私は、まだ話さないと答えました。
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私はまだ話さないと答えました。
すると、なぜ話さないのかと奥さんが私を責めるのです。
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するとなぜ話さないのかと、奥さんが私を詰るのです。
私はこの問いの前に、固くなりました。
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私はこの問いの前に固くなりました。
その時奥さんが私を驚かした言葉を、私は今でも忘れずに覚えています。
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その時奥さんが私を驚かした言葉を、私は今でも忘れずに覚えています。
「道理で私が話したら変な顔をしていましたよ。あなたもよくないじゃありませんか。ふだんあんなに親しくしている間柄なのに、黙って知らん顔をしているのは」
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「道理で妾が話したら変な顔をしていましたよ。あなたもよくないじゃありませんか。平生あんなに親しくしている間柄だのに、黙って知らん顔をしているのは」
私は、Kがその時何か言いはしなかったかと奥さんに聞きました。
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私はKがその時何かいいはしなかったかと奥さんに聞きました。
奥さんは、特に何も言わないと答えました。
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奥さんは別段何にもいわないと答えました。
しかし私は、進んでもっと細かいことを尋ねずにはいられませんでした。
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しかし私は進んでもっと細かい事を尋ねずにはいられませんでした。
奥さんはもとより、何も隠す訳がありません。
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奥さんは固より何も隠す訳がありません。
大した話もないがと言いながら、一つ一つKの様子を語って聞かせてくれました。
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大した話もないがといいながら、一々Kの様子を語って聞かせてくれました。
奥さんの言うところを合わせて考えてみると、Kはこの最後の打撃をもっとも落ち着いた驚きをもって迎えたらしいのです。
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奥さんのいうところを綜合して考えてみると、Kはこの最後の打撃を、最も落ち付いた驚きをもって迎えたらしいのです。
Kはお嬢さんと私との間に結ばれた新しい関係について、最初はそうですかとただ一言言っただけだったそうです。
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Kはお嬢さんと私との間に結ばれた新しい関係について、最初はそうですかとただ一口いっただけだったそうです。
しかし奥さんが、「あなたも喜んでください」
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しかし奥さんが、「あなたも喜んで下さい」
と述べた時、彼は初めて奥さんの顔を見て微笑をもらしながら、「おめでとうございます」
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と述べた時、彼ははじめて奥さんの顔を見て微笑を洩らしながら、「おめでとうございます」
と言ったまま席を立ったそうです。
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といったまま席を立ったそうです。
そうして茶の間の障子を開ける前に、また奥さんを振り返って、「結婚はいつですか」
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そうして茶の間の障子を開ける前に、また奥さんを振り返って、「結婚はいつですか」
と聞いたそうです。
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と聞いたそうです。
それから「何かお祝いを上げたいが、私は金がないから上げることができません」
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それから「何かお祝いを上げたいが、私は金がないから上げる事ができません」
と言ったそうです。
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といったそうです。
奥さんの前に座っていた私は、その話を聞いて胸がふさがるような苦しさを覚えました。
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奥さんの前に坐っていた私は、その話を聞いて胸が塞るような苦しさを覚えました。
四十八
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四十八
「数えてみると、奥さんがKに話をしてからもう二日余りになります。その間Kは私に対して少しも以前と違った様子を見せなかったので、私はまったくそれに気がつかずにいたのです。彼の超然とした態度は、たとえ外見だけにもせよ敬服に値するはずだと私は考えました。彼と私を頭の中で並べてみると、彼の方がはるかに立派に見えました。「おれは策略で勝っても人間としては負けたのだ」という感じが、私の胸に渦巻いて起こりました。私はその時さぞKが軽蔑していることだろうと思って、一人で顔を赤らめました。しかし今さらKの前に出て恥をかかされるのは、私の自尊心にとって大きな苦痛でした。
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「勘定して見ると奥さんがKに話をしてからもう二日余りになります。その間Kは私に対して少しも以前と異なった様子を見せなかったので、私は全くそれに気が付かずにいたのです。彼の超然とした態度はたとい外観だけにもせよ、敬服に値すべきだと私は考えました。彼と私を頭の中で並べてみると、彼の方が遥かに立派に見えました。「おれは策略で勝っても人間としては負けたのだ」という感じが私の胸に渦巻いて起りました。私はその時さぞKが軽蔑している事だろうと思って、一人で顔を赧らめました。しかし今更Kの前に出て、恥を掻かせられるのは、私の自尊心にとって大いな苦痛でした。
私が進もうかよそうかと考えて、ともかくも翌日まで待とうと決心したのは土曜の晩でした。
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私が進もうか止そうかと考えて、ともかくも翌日まで待とうと決心したのは土曜の晩でした。
ところがその晩に、Kは自殺して死んでしまったのです。
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ところがその晩に、Kは自殺して死んでしまったのです。
私は今でもその光景を思い出すと、ぞっとします。
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私は今でもその光景を思い出すと慄然とします。
いつも東枕で寝る私がその晩に限って偶然西枕に床を敷いたのも、何かの因縁かもしれません。
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いつも東枕で寝る私が、その晩に限って、偶然西枕に床を敷いたのも、何かの因縁かも知れません。
私は枕元から吹き込む寒い風で、ふと目を覚ましたのです。
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私は枕元から吹き込む寒い風でふと眼を覚ましたのです。
見ると、いつも閉め切ってあるKと私の部屋との仕切りのふすまが、この間の晩と同じくらい開いています。
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見ると、いつも立て切ってあるKと私の室との仕切の襖が、この間の晩と同じくらい開いています。
けれどもこの間のように、Kの黒い姿はそこには立っていません。
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けれどもこの間のように、Kの黒い姿はそこには立っていません。
私は暗示を受けた人のように、床の上にひじをついて起き上がりながら、きっとKの部屋をのぞきました。
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私は暗示を受けた人のように、床の上に肱を突いて起き上がりながら、屹とKの室を覗きました。
ランプが暗くついているのです。
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洋燈が暗く点っているのです。
それで、床も敷いてあるのです。
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それで床も敷いてあるのです。
しかし掛け布団は、はね返されたように裾の方に重なり合っているのです。
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しかし掛蒲団は跳返されたように裾の方に重なり合っているのです。
そうしてK自身は、向こう向きに突っ伏しているのです。
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そうしてK自身は向うむきに突ッ伏しているのです。
私はおいと言って、声をかけました。
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私はおいといって声を掛けました。
しかし何の答えもありません。
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しかし何の答えもありません。
おいどうかしたのかと、私はまたKを呼びました。
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おいどうかしたのかと私はまたKを呼びました。
それでもKの体は、少しも動きません。
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それでもKの身体は些とも動きません。
私はすぐ起き上がって、敷居際まで行きました。
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私はすぐ起き上って、敷居際まで行きました。
そこから彼の部屋の様子を、暗いランプの光で見回してみました。
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そこから彼の室の様子を、暗い洋燈の光で見廻してみました。
その時私の受けた第一の感じは、Kから突然恋の告白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。
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その時私の受けた第一の感じは、Kから突然恋の自白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。
私の目は彼の部屋の中を一目見るやいなや、あたかもガラスで作った義眼のように動く力を失いました。
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私の眼は彼の室の中を一目見るや否や、あたかも硝子で作った義眼のように、動く能力を失いました。
私は棒立ちに立ちすくみました。
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私は棒立ちに立ち竦みました。
それが疾風のように私を通り過ぎた後で、私はまた、ああしくじったと思いました。
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それが疾風のごとく私を通過したあとで、私はまたああ失策ったと思いました。
もう取り返しがつかないという黒い光が私の未来を貫いて、一瞬に私の前に横たわる全生涯をものすごく照らしました。
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もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯を物凄く照らしました。
そうして私は、がたがた震え出したのです。
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そうして私はがたがた顫え出したのです。
それでも私は、ついに私を忘れることができませんでした。
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それでも私はついに私を忘れる事ができませんでした。
私はすぐ、机の上に置いてある手紙に目をつけました。
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私はすぐ机の上に置いてある手紙に眼を着けました。
それは予期どおり、私のあて名になっていました。
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それは予期通り私の名宛になっていました。
私は夢中で封を切りました。
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私は夢中で封を切りました。
しかし中には、私の予期したようなことは何も書いてありませんでした。
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しかし中には私の予期したような事は何にも書いてありませんでした。
私は、私にとってどんなにつらい文句がその中に書き並べてあるだろうと予期したのです。
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私は私に取ってどんなに辛い文句がその中に書き列ねてあるだろうと予期したのです。
そうして、もしそれが奥さんやお嬢さんの目に触れたら、どんなに軽蔑されるかもしれないという恐怖があったのです。
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そうして、もしそれが奥さんやお嬢さんの眼に触れたら、どんなに軽蔑されるかも知れないという恐怖があったのです。
私はちょっと目を通しただけで、まず助かったと思いました。
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私はちょっと眼を通しただけで、まず助かったと思いました。
(もとより世間の目の上だけで助かったのですが、その世間の目がこの場合、私にとっては非常な重大事件に見えたのです。)
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(固より世間体の上だけで助かったのですが、その世間体がこの場合、私にとっては非常な重大事件に見えたのです。)
手紙の内容は簡単でした。
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手紙の内容は簡単でした。
そうして、むしろ抽象的でした。
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そうしてむしろ抽象的でした。
自分は意志が弱く行いも伴わないからとうてい行く末の望みがないので、自殺するというだけなのです。
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自分は薄志弱行で到底行先の望みがないから、自殺するというだけなのです。
それから今まで私に世話になった礼が、ごくあっさりとした文句でその後に付け加えてありました。
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それから今まで私に世話になった礼が、ごくあっさりとした文句でその後に付け加えてありました。
世話ついでに死んだ後の片づけ方も頼みたいという言葉もありました。
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世話ついでに死後の片付方も頼みたいという言葉もありました。
奥さんに迷惑をかけて済まないから、よろしく詫びをしてくれという文句もありました。
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奥さんに迷惑を掛けて済まんから宜しく詫をしてくれという句もありました。
国元へは私から知らせてもらいたいという依頼もありました。
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国元へは私から知らせてもらいたいという依頼もありました。
必要なことはみんな一言ずつ書いてある中に、お嬢さんの名前だけはどこにも見えません。
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必要な事はみんな一口ずつ書いてある中にお嬢さんの名前だけはどこにも見えません。
私はしまいまで読んで、すぐKがわざと避けたのだということに気がつきました。
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私はしまいまで読んで、すぐKがわざと回避したのだという事に気が付きました。
しかし私がもっとも痛切に感じたのは、最後に墨の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだったのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句でした。
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しかし私のもっとも痛切に感じたのは、最後に墨の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句でした。
私は震える手で手紙を巻き収めて、再び封の中へ入れました。
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私は顫える手で、手紙を巻き収めて、再び封の中へ入れました。
私はわざとそれをみんなの目につくように、元のとおり机の上に置きました。
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私はわざとそれを皆なの眼に着くように、元の通り机の上に置きました。
そうして振り返って、ふすまに飛び散っている血潮を初めて見たのです。
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そうして振り返って、襖に迸っている血潮を始めて見たのです。
四十九
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四十九
「私は突然Kの頭を抱えるように、両手で少し持ち上げました。私はKの死に顔が一目見たかったのです。しかしうつ伏せになっている彼の顔をこうして下からのぞき込んだ時、私はすぐその手を放してしまいました。ぞっとしたばかりではないのです。彼の頭が非常に重たく感じられたのです。私は上から、今触った冷たい耳と、ふだんと変わらない五分刈りの濃い髪の毛をしばらく眺めていました。私は少しも泣く気にはなれませんでした。私はただ恐ろしかったのです。そうしてその恐ろしさは、目の前の光景が感覚を刺激して起こる単純な恐ろしさばかりではありません。私は突然冷たくなったこの友達によって暗示された運命の恐ろしさを、深く感じたのです。
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「私は突然Kの頭を抱えるように両手で少し持ち上げました。私はKの死顔が一目見たかったのです。しかし俯伏しになっている彼の顔を、こうして下から覗き込んだ時、私はすぐその手を放してしまいました。慄としたばかりではないのです。彼の頭が非常に重たく感ぜられたのです。私は上から今触った冷たい耳と、平生に変らない五分刈の濃い髪の毛を少時眺めていました。私は少しも泣く気にはなれませんでした。私はただ恐ろしかったのです。そうしてその恐ろしさは、眼の前の光景が官能を刺激して起る単調な恐ろしさばかりではありません。私は忽然と冷たくなったこの友達によって暗示された運命の恐ろしさを深く感じたのです。
私は何の考えもなく、また私の部屋に帰りました。
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私は何の分別もなくまた私の室に帰りました。
そうして、八畳の中をぐるぐる回り始めました。
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そうして八畳の中をぐるぐる廻り始めました。
私の頭は、無意味でも当分そうして動いていろと私に命令するのです。
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私の頭は無意味でも当分そうして動いていろと私に命令するのです。
私は、どうかしなければならないと思いました。
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私はどうかしなければならないと思いました。
同時に、もうどうすることもできないのだと思いました。
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同時にもうどうする事もできないのだと思いました。
部屋の中をぐるぐる回らなければいられなくなったのです。
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座敷の中をぐるぐる廻らなければいられなくなったのです。
檻の中へ入れられた熊のような様子で。
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檻の中へ入れられた熊のような態度で。
私は時々奥へ行って、奥さんを起こそうという気になります。
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私は時々奥へ行って奥さんを起そうという気になります。
けれども女にこの恐ろしい有様を見せては悪いという気持ちが、すぐ私を止めます。
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けれども女にこの恐ろしい有様を見せては悪いという心持がすぐ私を遮ります。
奥さんはとにかく、お嬢さんを驚かすことはとてもできないという強い意志が、私を抑えつけます。
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奥さんはとにかく、お嬢さんを驚かす事は、とてもできないという強い意志が私を抑えつけます。
私はまた、ぐるぐる回り始めるのです。
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私はまたぐるぐる廻り始めるのです。
私はその間に、自分の部屋のランプをつけました。
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私はその間に自分の室の洋燈を点けました。
それから時計を、折々見ました。
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それから時計を折々見ました。
その時の時計ほど、らちの明かない遅いものはありませんでした。
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その時の時計ほど埒の明かない遅いものはありませんでした。
私の起きた時間は正確に分からないのですけれども、もう夜明けに間もなかったことだけは明らかです。
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私の起きた時間は、正確に分らないのですけれども、もう夜明に間もなかった事だけは明らかです。
ぐるぐる回りながらその夜明けを待ち焦がれた私は、永久に暗い夜が続くのではなかろうかという思いに悩まされました。
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ぐるぐる廻りながら、その夜明を待ち焦れた私は、永久に暗い夜が続くのではなかろうかという思いに悩まされました。
我々は、七時前に起きる習慣でした。
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我々は七時前に起きる習慣でした。
学校は八時に始まることが多いので、それでないと授業に間に合わないのです。
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学校は八時に始まる事が多いので、それでないと授業に間に合わないのです。
お手伝いはその関係で、六時頃に起きる訳になっていました。
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下女はその関係で六時頃に起きる訳になっていました。
しかしその日私がお手伝いを起こしに行ったのは、まだ六時前でした。
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しかしその日私が下女を起しに行ったのはまだ六時前でした。
すると奥さんが、今日は日曜だと言って注意してくれました。
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すると奥さんが今日は日曜だといって注意してくれました。
奥さんは、私の足音で目を覚ましたのです。
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奥さんは私の足音で眼を覚ましたのです。
私は奥さんに、目が覚めているならちょっと私の部屋まで来てくれと頼みました。
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私は奥さんに眼が覚めているなら、ちょっと私の室まで来てくれと頼みました。
奥さんは寝巻きの上へふだん着の羽織を引っかけて、私の後についてきました。
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奥さんは寝巻の上へ不断着の羽織を引っ掛けて、私の後に跟いて来ました。
私は部屋へ入るやいなや、今まで開いていた仕切りのふすまをすぐ閉め切りました。
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私は室へはいるや否や、今まで開いていた仕切りの襖をすぐ立て切りました。
そうして奥さんに、とんだことができたと小声で告げました。
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そうして奥さんに飛んだ事ができたと小声で告げました。
奥さんは、何だと聞きました。
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奥さんは何だと聞きました。
私はあごで隣の部屋を指すようにして、「驚いちゃいけません」
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私は顋で隣の室を指すようにして、「驚いちゃいけません」
と言いました。
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といいました。
奥さんは、青い顔をしました。
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奥さんは蒼い顔をしました。
「奥さん、Kは自殺しました」
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「奥さん、Kは自殺しました」
と、私がまた言いました。
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と私がまたいいました。
奥さんはそこに立ちすくんだように、私の顔を見て黙っていました。
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奥さんはそこに居竦まったように、私の顔を見て黙っていました。
その時私は突然、奥さんの前へ手をついて頭を下げました。
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その時私は突然奥さんの前へ手を突いて頭を下げました。
「済みません。私が悪かったのです。あなたにもお嬢さんにも済まないことになりました」
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「済みません。私が悪かったのです。あなたにもお嬢さんにも済まない事になりました」
と詫びました。
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と詫まりました。
私は奥さんと向かい合うまで、そんな言葉を口にする気はまるでなかったのです。
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私は奥さんと向い合うまで、そんな言葉を口にする気はまるでなかったのです。
しかし奥さんの顔を見た時、不意に我知らずそう言ってしまったのです。
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しかし奥さんの顔を見た時不意に我とも知らずそういってしまったのです。
Kに詫びることのできない私は、こうして奥さんとお嬢さんに詫びなければいられなくなったのだと思ってください。
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Kに詫まる事のできない私は、こうして奥さんとお嬢さんに詫びなければいられなくなったのだと思って下さい。
つまり私の自然な気持ちが、ふだんの私を出し抜いてふらふらと懺悔の口を開かせたのです。
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つまり私の自然が平生の私を出し抜いてふらふらと懺悔の口を開かしたのです。
奥さんがそんな深い意味に私の言葉を解釈しなかったのは、私にとって幸いでした。
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奥さんがそんな深い意味に、私の言葉を解釈しなかったのは私にとって幸いでした。
青い顔をしながら、「不慮の出来事なら仕方がないじゃありませんか」
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蒼い顔をしながら、「不慮の出来事なら仕方がないじゃありませんか」
と、慰めるように言ってくれました。
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と慰めるようにいってくれました。
しかしその顔には驚きと恐れとが彫りつけられたように、硬く筋肉をつかんでいました。
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しかしその顔には驚きと怖れとが、彫り付けられたように、硬く筋肉を攫んでいました。
五十
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五十
「私は奥さんに気の毒でしたけれども、また立って今閉めたばかりのふすまを開けました。その時Kのランプに油が尽きたと見えて、部屋の中はほとんど真っ暗でした。私は引き返して自分のランプを手に持ったまま、入り口に立って奥さんを振り返りました。奥さんは私の後ろから隠れるようにして、四畳の中をのぞき込みました。しかし入ろうとはしません。そこはそのままにしておいて雨戸を開けてくれと、私に言いました。
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「私は奥さんに気の毒でしたけれども、また立って今閉めたばかりの唐紙を開けました。その時Kの洋燈に油が尽きたと見えて、室の中はほとんど真暗でした。私は引き返して自分の洋燈を手に持ったまま、入口に立って奥さんを顧みました。奥さんは私の後ろから隠れるようにして、四畳の中を覗き込みました。しかしはいろうとはしません。そこはそのままにしておいて、雨戸を開けてくれと私にいいました。
それから後の奥さんの態度は、さすがに軍人の未亡人だけあって要領を得ていました。
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それから後の奥さんの態度は、さすがに軍人の未亡人だけあって要領を得ていました。
私は、医者の所へも行きました。
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私は医者の所へも行きました。
また、警察へも行きました。
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また警察へも行きました。
しかしみんな、奥さんに命じられて行ったのです。
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しかしみんな奥さんに命令されて行ったのです。
奥さんはそうした手続きの済むまで、誰もKの部屋へは入れませんでした。
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奥さんはそうした手続の済むまで、誰もKの部屋へは入れませんでした。
Kは小さなナイフで頸動脈を切って、一息に死んでしまったのです。
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Kは小さなナイフで頸動脈を切って一息に死んでしまったのです。
ほかに傷らしいものは、何もありませんでした。
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外に創らしいものは何にもありませんでした。
私が夢のような薄暗い明かりで見たふすまの血潮は、彼の首筋から一度に迸ったものと分かりました。
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私が夢のような薄暗い灯で見た唐紙の血潮は、彼の頸筋から一度に迸ったものと知れました。
私は日中の光で、はっきりとその跡を再び眺めました。
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私は日中の光で明らかにその迹を再び眺めました。
そうして、人間の血の勢いというものの激しいのに驚きました。
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そうして人間の血の勢いというものの劇しいのに驚きました。
奥さんと私は、できるだけの手際と工夫を用いてKの部屋を掃除しました。
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奥さんと私はできるだけの手際と工夫を用いて、Kの室を掃除しました。
彼の血潮の大部分は幸い彼の布団に吸い取られてしまったので畳はそれほど汚れないで済みましたから、後始末はまだ楽でした。
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彼の血潮の大部分は、幸い彼の蒲団に吸収されてしまったので、畳はそれほど汚れないで済みましたから、後始末はまだ楽でした。
二人は彼の死骸を私の部屋に入れて、ふだんのとおり寝ている形に横にしました。
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二人は彼の死骸を私の室に入れて、不断の通り寝ている体に横にしました。
私はそれから、彼の実家へ電報を打ちに出たのです。
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私はそれから彼の実家へ電報を打ちに出たのです。
私が帰った時は、Kの枕元にもう線香が立てられていました。
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私が帰った時は、Kの枕元にもう線香が立てられていました。
部屋へ入るとすぐ仏臭い煙で鼻を打たれた私は、その煙の中に座っている女二人を見ました。
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室へはいるとすぐ仏臭い烟で鼻を撲たれた私は、その烟の中に坐っている女二人を認めました。
私がお嬢さんの顔を見たのは、昨夜からこの時が初めてでした。
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私がお嬢さんの顔を見たのは、昨夜来この時が始めてでした。
お嬢さんは泣いていました。
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お嬢さんは泣いていました。
奥さんも、目を赤くしていました。
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奥さんも眼を赤くしていました。
事件が起こってからそれまで泣くことを忘れていた私は、その時ようやく悲しい気分に誘われることができたのです。
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事件が起ってからそれまで泣く事を忘れていた私は、その時ようやく悲しい気分に誘われる事ができたのです。
私の胸はその悲しさのために、どのくらいくつろいだか知れません。
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私の胸はその悲しさのために、どのくらい寛ろいだか知れません。
苦痛と恐怖でぐいと握り締められた私の心に一滴の潤いを与えてくれたものは、その時の悲しさでした。
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苦痛と恐怖でぐいと握り締められた私の心に、一滴の潤を与えてくれたものは、その時の悲しさでした。
私は黙って、二人のそばに座っていました。
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私は黙って二人の傍に坐っていました。
奥さんは、私にも線香を上げてやれと言います。
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奥さんは私にも線香を上げてやれといいます。
私は線香を上げて、また黙って座っていました。
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私は線香を上げてまた黙って坐っていました。
お嬢さんは、私には何も言いません。
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お嬢さんは私には何ともいいません。
たまに奥さんと一言二言言葉を交わすことがありましたが、それはその場の用事についてだけでした。
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たまに奥さんと一口二口言葉を換わす事がありましたが、それは当座の用事についてのみでした。
お嬢さんには、Kの生きていた頃について語るほどの余裕がまだ出て来なかったのです。
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お嬢さんにはKの生前について語るほどの余裕がまだ出て来なかったのです。
私はそれでも、昨夜のものすごい有様を見せずに済んでまだよかったと心のうちで思いました。
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私はそれでも昨夜の物凄い有様を見せずに済んでまだよかったと心のうちで思いました。
若い美しい人に恐ろしいものを見せると、せっかくの美しさがそのために壊されてしまいそうで、私は怖かったのです。
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若い美しい人に恐ろしいものを見せると、折角の美しさが、そのために破壊されてしまいそうで私は怖かったのです。
私の恐ろしさが私の髪の毛の先まで来た時ですら、私はその考えを度外に置いて行動することはできませんでした。
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私の恐ろしさが私の髪の毛の末端まで来た時ですら、私はその考えを度外に置いて行動する事はできませんでした。
私には、きれいな花を罪もないのにみだりにむち打つのと同じような不快が、そのうちにこもっていたのです。
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私には綺麗な花を罪もないのに妄りに鞭うつと同じような不快がそのうちに籠っていたのです。
国元からKの父と兄が出て来た時、私はKの遺骨をどこへ埋めるかについて自分の意見を述べました。
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国元からKの父と兄が出て来た時、私はKの遺骨をどこへ埋めるかについて自分の意見を述べました。
私は彼の生きている間に、雑司ヶ谷近辺をよくいっしょに散歩したことがあります。
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私は彼の生前に雑司ヶ谷近辺をよくいっしょに散歩した事があります。
Kにはそこが、大変気に入っていたのです。
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Kにはそこが大変気に入っていたのです。
それで私は冗談半分に、そんなに好きなら死んだらここへ埋めてやろうと約束した覚えがあるのです。
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それで私は笑談半分に、そんなに好きなら死んだらここへ埋めてやろうと約束した覚えがあるのです。
私も今その約束どおりKを雑司ヶ谷へ葬ったところで、どのくらいの供養になるものかとは思いました。
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私も今その約束通りKを雑司ヶ谷へ葬ったところで、どのくらいの功徳になるものかとは思いました。
けれども私は私の生きている限り、Kの墓の前にひざまずいて月々私の懺悔を新たにしたかったのです。
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けれども私は私の生きている限り、Kの墓の前に跪いて月々私の懺悔を新たにしたかったのです。
今まで構いつけなかったKを私がすべて世話をして来たという義理もあったのでしょう、Kの父も兄も私の言うことを聞いてくれました。
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今まで構い付けなかったKを、私が万事世話をして来たという義理もあったのでしょう、Kの父も兄も私のいう事を聞いてくれました。
五十一
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五十一
「Kの葬式の帰り道に、私はその友人の一人から、Kがどうして自殺したのだろうという質問を受けました。事件があって以来、私はもう何度となくこの質問で苦しめられていたのです。奥さんもお嬢さんも、国から出て来たKの父と兄も、通知を出した知り合いも、彼とは何の縁もない新聞記者までも、必ず同じ質問を私にかけないことはなかったのです。私の良心はそのたびに、ちくちく刺されるように痛みました。そうして私はこの質問の裏に、早くお前が殺したと白状してしまえという声を聞いたのです。
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「Kの葬式の帰り路に、私はその友人の一人から、Kがどうして自殺したのだろうという質問を受けました。事件があって以来私はもう何度となくこの質問で苦しめられていたのです。奥さんもお嬢さんも、国から出て来たKの父兄も、通知を出した知り合いも、彼とは何の縁故もない新聞記者までも、必ず同様の質問を私に掛けない事はなかったのです。私の良心はそのたびにちくちく刺されるように痛みました。そうして私はこの質問の裏に、早くお前が殺したと白状してしまえという声を聞いたのです。
私の答えは、誰に対しても同じでした。
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私の答えは誰に対しても同じでした。
私はただ彼が私あてで書き残した手紙を繰り返すだけで、ほかに一言も付け加えることはしませんでした。
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私はただ彼の私宛で書き残した手紙を繰り返すだけで、外に一口も附け加える事はしませんでした。
葬式の帰りに同じ問いをかけて同じ答えを得たKの友人は、ふところから一枚の新聞を出して私に見せました。
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葬式の帰りに同じ問いを掛けて、同じ答えを得たKの友人は、懐から一枚の新聞を出して私に見せました。
私は歩きながら、その友人に指し示された箇所を読みました。
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私は歩きながらその友人によって指し示された箇所を読みました。
それには、Kが父や兄から勘当された結果、世をはかなむ考えを起こして自殺したと書いてあるのです。
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それにはKが父兄から勘当された結果厭世的な考えを起して自殺したと書いてあるのです。
私は何も言わずに、その新聞を畳んで友人の手に返しました。
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私は何にもいわずに、その新聞を畳んで友人の手に帰しました。
友人はこのほかにも、Kが気が狂って自殺したと書いた新聞があると言って教えてくれました。
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友人はこの外にもKが気が狂って自殺したと書いた新聞があるといって教えてくれました。
忙しいのでほとんど新聞を読む暇がなかった私はまるでそうした方面の知識を欠いていましたが、腹の中では始終気にかかっていたところでした。
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忙しいので、ほとんど新聞を読む暇がなかった私は、まるでそうした方面の知識を欠いていましたが、腹の中では始終気にかかっていたところでした。
私は何よりも、家の者の迷惑になるような記事の出るのを恐れたのです。
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私は何よりも宅のものの迷惑になるような記事の出るのを恐れたのです。
特に名前だけにせよ、お嬢さんが引き合いに出たらたまらないと思っていたのです。
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ことに名前だけにせよお嬢さんが引合いに出たら堪らないと思っていたのです。
私はその友人に、ほかに何とか書いたのはないかと聞きました。
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私はその友人に外に何とか書いたのはないかと聞きました。
友人は、自分の目についたのはただその二種きりだと答えました。
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友人は自分の眼に着いたのは、ただその二種ぎりだと答えました。
私が今いる家へ引っ越したのは、それからまもなくでした。
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私が今おる家へ引っ越したのはそれから間もなくでした。
奥さんもお嬢さんも前の所にいるのを嫌がりますし、私もその夜の記憶を毎晩繰り返すのが苦痛だったので、相談の上移ることに決めたのです。
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奥さんもお嬢さんも前の所にいるのを厭がりますし、私もその夜の記憶を毎晩繰り返すのが苦痛だったので、相談の上移る事に極めたのです。
移って二か月ほどしてから、私は無事に大学を卒業しました。
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移って二カ月ほどしてから私は無事に大学を卒業しました。
卒業して半年も経たないうちに、私はとうとうお嬢さんと結婚しました。
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卒業して半年も経たないうちに、私はとうとうお嬢さんと結婚しました。
外側から見れば、すべてが予期どおりに運んだのですから、めでたいと言わなければなりません。
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外側から見れば、万事が予期通りに運んだのですから、目出度といわなければなりません。
奥さんもお嬢さんも、いかにも幸福らしく見えました。
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奥さんもお嬢さんもいかにも幸福らしく見えました。
私も幸福だったのです。
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私も幸福だったのです。
けれども私の幸福には、黒い影がついていました。
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けれども私の幸福には黒い影が随いていました。
私はこの幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなかろうかと思いました。
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私はこの幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなかろうかと思いました。
結婚した時お嬢さんが、――もうお嬢さんではありませんから、妻と言います。――
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結婚した時お嬢さんが、――もうお嬢さんではありませんから、妻といいます。――
妻が何を思い出したのか、二人でKの墓参りをしようと言い出しました。
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妻が、何を思い出したのか、二人でKの墓参りをしようといい出しました。
私は意味もなく、ただぎょっとしました。
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私は意味もなくただぎょっとしました。
どうしてそんなことを急に思い立ったのかと聞きました。
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どうしてそんな事を急に思い立ったのかと聞きました。
妻は、二人そろってお参りをしたらKがさぞ喜ぶだろうと言うのです。
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妻は二人揃ってお参りをしたら、Kがさぞ喜ぶだろうというのです。
私は何も知らない妻の顔をしげしげ眺めていましたが、妻からなぜそんな顔をするのかと問われて初めて気がつきました。
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私は何事も知らない妻の顔をしけじけ眺めていましたが、妻からなぜそんな顔をするのかと問われて始めて気が付きました。
私は妻の望みどおり、二人連れ立って雑司ヶ谷へ行きました。
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私は妻の望み通り二人連れ立って雑司ヶ谷へ行きました。
私は新しいKの墓へ水をかけて、洗ってやりました。
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私は新しいKの墓へ水をかけて洗ってやりました。
妻はその前へ、線香と花を立てました。
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妻はその前へ線香と花を立てました。
二人は頭を下げて、手を合わせました。
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二人は頭を下げて、合掌しました。
妻はきっと、私といっしょになったいきさつを述べてKに喜んでもらうつもりだったのでしょう。
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妻は定めて私といっしょになった顛末を述べてKに喜んでもらうつもりでしたろう。
私は腹の中で、ただ自分が悪かったと繰り返すだけでした。
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私は腹の中で、ただ自分が悪かったと繰り返すだけでした。
その時妻はKの墓をなでてみて、立派だと評していました。
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その時妻はKの墓を撫でてみて立派だと評していました。
その墓は大したものではないのですけれども、私が自分で石屋へ行って見立てたりした縁があるので、妻は特にそう言いたかったのでしょう。
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その墓は大したものではないのですけれども、私が自分で石屋へ行って見立てたりした因縁があるので、妻はとくにそういいたかったのでしょう。
私はその新しい墓と、新しい私の妻と、それから地面の下に埋められたKの新しい白骨とを思い比べて、運命の冷たいあざけりを感じずにはいられなかったのです。
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私はその新しい墓と、新しい私の妻と、それから地面の下に埋められたKの新しい白骨とを思い比べて、運命の冷罵を感ぜずにはいられなかったのです。
私はそれ以後、決して妻といっしょにKの墓参りをしないことにしました。
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私はそれ以後決して妻といっしょにKの墓参りをしない事にしました。
五十二
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五十二
「私の亡くなった友に対するこうした感じは、いつまでも続きました。実は私も初めからそれを恐れていたのです。長年の望みであった結婚すら、不安のうちに式を挙げたと言えば言えないこともないでしょう。しかし自分で自分の先が見えない人間のことですから、ことによるとあるいはこれが私の気持ちを一転して新しい生涯に入るきっかけになるかもしれないとも思ったのです。ところがいよいよ夫として朝夕妻と顔を合わせてみると、私のはかない望みは手厳しい現実のためにもろくも壊されてしまいました。私は妻と顔を合わせているうちに、突然Kに脅かされるのです。つまり妻が中間に立って、Kと私をどこまでも結びつけて離さないようにするのです。妻のどこにも不足を感じない私は、ただこの一点において彼女を遠ざけたがりました。すると女の胸には、すぐそれが映ります。映るけれども、理由は分からないのです。私は時々妻から、なぜそんなに考えているのだとか、何か気に入らないことがあるのだろうとかいう問い詰めを受けました。笑って済ませる時はそれで差し支えないのですが、時によると妻の癇も高じて来ます。しまいには「あなたは私を嫌っていらっしゃるんでしょう」とか、「何でも私に隠していらっしゃることがあるに違いない」とかいう恨み言も聞かなくてはなりません。私はそのたびに苦しみました。
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「私の亡友に対するこうした感じはいつまでも続きました。実は私も初めからそれを恐れていたのです。年来の希望であった結婚すら、不安のうちに式を挙げたといえばいえない事もないでしょう。しかし自分で自分の先が見えない人間の事ですから、ことによるとあるいはこれが私の心持を一転して新しい生涯に入る端緒になるかも知れないとも思ったのです。ところがいよいよ夫として朝夕妻と顔を合せてみると、私の果敢ない希望は手厳しい現実のために脆くも破壊されてしまいました。私は妻と顔を合せているうちに、卒然Kに脅かされるのです。つまり妻が中間に立って、Kと私をどこまでも結び付けて離さないようにするのです。妻のどこにも不足を感じない私は、ただこの一点において彼女を遠ざけたがりました。すると女の胸にはすぐそれが映ります。映るけれども、理由は解らないのです。私は時々妻からなぜそんなに考えているのだとか、何か気に入らない事があるのだろうとかいう詰問を受けました。笑って済ませる時はそれで差支えないのですが、時によると、妻の癇も高じて来ます。しまいには「あなたは私を嫌っていらっしゃるんでしょう」とか、「何でも私に隠していらっしゃる事があるに違いない」とかいう怨言も聞かなくてはなりません。私はそのたびに苦しみました。
私はいっそ思い切って、ありのままを妻に打ち明けようとしたことが何度もあります。
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私は一層思い切って、ありのままを妻に打ち明けようとした事が何度もあります。
しかしいざという間際になると、自分以外のある力が不意に来て私を抑えつけるのです。
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しかしいざという間際になると自分以外のある力が不意に来て私を抑え付けるのです。
私を理解してくれるあなたのことだから説明する必要もあるまいと思いますが、話すべき筋だから話しておきます。
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私を理解してくれるあなたの事だから、説明する必要もあるまいと思いますが、話すべき筋だから話しておきます。
その時分の私は、妻に対して自分を飾る気はまるでなかったのです。
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その時分の私は妻に対して己れを飾る気はまるでなかったのです。
もし私が亡くなった友に対するのと同じような善良な心で妻の前に懺悔の言葉を並べたなら、妻はうれし涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違いないのです。
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もし私が亡友に対すると同じような善良な心で、妻の前に懺悔の言葉を並べたなら、妻は嬉し涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違いないのです。
それをあえてしない私に、損得の計算があるはずはありません。
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それをあえてしない私に利害の打算があるはずはありません。
私はただ、妻の記憶に暗黒な一点を印するに忍びなかったから打ち明けなかったのです。
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私はただ妻の記憶に暗黒な一点を印するに忍びなかったから打ち明けなかったのです。
純白なものに一滴のインクでも容赦なく振りかけるのは、私にとって大変な苦痛だったのだと解釈してください。
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純白なものに一雫の印気でも容赦なく振り掛けるのは、私にとって大変な苦痛だったのだと解釈して下さい。
一年経ってもKを忘れることのできなかった私の心は、常に不安でした。
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一年経ってもKを忘れる事のできなかった私の心は常に不安でした。
私はこの不安を追い払うために、書物に溺れようと努めました。
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私はこの不安を駆逐するために書物に溺れようと力めました。
私は猛烈な勢いをもって、勉強し始めたのです。
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私は猛烈な勢をもって勉強し始めたのです。
そうして、その結果を世の中に公にする日の来るのを待ちました。
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そうしてその結果を世の中に公にする日の来るのを待ちました。
けれども無理に目的をこしらえて、無理にその目的の達せられる日を待つのは嘘ですから、不愉快です。
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けれども無理に目的を拵えて、無理にその目的の達せられる日を待つのは嘘ですから不愉快です。
私はどうしても、書物の中に心を埋めていられなくなりました。
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私はどうしても書物のなかに心を埋めていられなくなりました。
私はまた腕組みをして、世の中を眺め出したのです。
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私はまた腕組みをして世の中を眺めだしたのです。
妻はそれを、今日に困らないから心に緩みが出るのだと見ていたようでした。
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妻はそれを今日に困らないから心に弛みが出るのだと観察していたようでした。
妻の家にも親子二人ぐらいは座っていてどうにか暮らして行ける財産がある上に、私も職業を求めないで差し支えのない境遇にいたのですから、そう思われるのももっともです。
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妻の家にも親子二人ぐらいは坐っていてどうかこうか暮して行ける財産がある上に、私も職業を求めないで差支えのない境遇にいたのですから、そう思われるのももっともです。
私も、いくらか甘やかされた気味があるでしょう。
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私も幾分かスポイルされた気味がありましょう。
しかし私が動かなくなった原因の主なものは、まったくそこにはなかったのです。
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しかし私の動かなくなった原因の主なものは、全くそこにはなかったのです。
叔父にだまされた当時の私は、他人が頼みにならないことをつくづくと感じたには違いありませんが、他人を悪く取るだけあって、自分はまだたしかな気がしていました。
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叔父に欺かれた当時の私は、他の頼みにならない事をつくづくと感じたには相違ありませんが、他を悪く取るだけあって、自分はまだ確かな気がしていました。
世間はどうあろうとも、この自分は立派な人間だという信念がどこかにあったのです。
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世間はどうあろうともこの己は立派な人間だという信念がどこかにあったのです。
それがKのために見事に壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。
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それがKのために美事に破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。
他人に愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。
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他に愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。
五十三
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五十三
「書物の中に自分を生き埋めにすることのできなかった私は、酒に魂を浸して自分を忘れようと試みた時期もあります。私は酒が好きだとは言いません。けれども飲めば飲めるたちでしたから、ただ量を頼みに心を盛りつぶそうと努めたのです。この浅はかな手段は、しばらくするうちに私をなお世をはかなませました。私は酔いつぶれた真っ最中に、ふと自分の位置に気がつくのです。自分はわざとこんな真似をして自分を偽っている愚か者だということに気がつくのです。すると身震いとともに、目も心も覚めてしまいます。時にはいくら飲んでも、こうした仮の状態にさえ入り込めないでむやみに沈んで行く場合も出て来ます。その上作り事で愉快を買った後には、きっと沈んだ反動があるのです。私は自分のもっとも愛している妻とその母親に、いつでもそこを見せなければならなかったのです。しかも彼らは彼らに自然な立場から、私を解釈してかかります。
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「書物の中に自分を生埋めにする事のできなかった私は、酒に魂を浸して、己れを忘れようと試みた時期もあります。私は酒が好きだとはいいません。けれども飲めば飲める質でしたから、ただ量を頼みに心を盛り潰そうと力めたのです。この浅薄な方便はしばらくするうちに私をなお厭世的にしました。私は爛酔の真最中にふと自分の位置に気が付くのです。自分はわざとこんな真似をして己れを偽っている愚物だという事に気が付くのです。すると身振いと共に眼も心も醒めてしまいます。時にはいくら飲んでもこうした仮装状態にさえ入り込めないでむやみに沈んで行く場合も出て来ます。その上技巧で愉快を買った後には、きっと沈鬱な反動があるのです。私は自分の最も愛している妻とその母親に、いつでもそこを見せなければならなかったのです。しかも彼らは彼らに自然な立場から私を解釈して掛ります。
妻の母は時々、気まずいことを妻に言うようでした。
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妻の母は時々気拙い事を妻にいうようでした。
それを妻は、私に隠していました。
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それを妻は私に隠していました。
しかし自分は自分で、単独に私を責めなければ気が済まなかったらしいのです。
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しかし自分は自分で、単独に私を責めなければ気が済まなかったらしいのです。
責めると言っても、決して強い言葉ではありません。
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責めるといっても、決して強い言葉ではありません。
妻から何か言われたために私が激したためしは、ほとんどなかったくらいですから。
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妻から何かいわれたために、私が激した例はほとんどなかったくらいですから。
妻は度々、どこが気に入らないのか遠慮なく言ってくれと頼みました。
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妻はたびたびどこが気に入らないのか遠慮なくいってくれと頼みました。
それから私の未来のために、酒をやめろと忠告しました。
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それから私の未来のために酒を止めろと忠告しました。
ある時は泣いて「あなたはこの頃人間が変わった」
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ある時は泣いて「あなたはこの頃人間が違った」
と言いました。
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といいました。
それだけならまだいいのですけれども、「Kさんが生きていたら、あなたもそんなにはならなかったでしょう」
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それだけならまだいいのですけれども、「Kさんが生きていたら、あなたもそんなにはならなかったでしょう」
と言うのです。
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というのです。
私はそうかもしれないと答えたことがありましたが、私の答えた意味と妻の理解した意味とはまったく違っていたのですから、私は心のうちで悲しかったのです。
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私はそうかも知れないと答えた事がありましたが、私の答えた意味と、妻の了解した意味とは全く違っていたのですから、私は心のうちで悲しかったのです。
それでも私は、妻に何も説明する気にはなれませんでした。
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それでも私は妻に何事も説明する気にはなれませんでした。
私は時々、妻に詫びました。
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私は時々妻に詫まりました。
それは多く、酒に酔って遅く帰った翌日の朝でした。
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それは多く酒に酔って遅く帰った翌日の朝でした。
妻は笑いました。
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妻は笑いました。
あるいは黙っていました。
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あるいは黙っていました。
たまにぽろぽろと涙を落とすこともありました。
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たまにぽろぽろと涙を落す事もありました。
私はどちらにしても、自分が不愉快でたまらなかったのです。
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私はどっちにしても自分が不愉快で堪らなかったのです。
だから私が妻に詫びるのは、自分に詫びるのとつまり同じことになるのです。
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だから私の妻に詫まるのは、自分に詫まるのとつまり同じ事になるのです。
私はしまいに、酒をやめました。
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私はしまいに酒を止めました。
妻の忠告でやめたというより、自分で嫌になったからやめたと言った方が適当でしょう。
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妻の忠告で止めたというより、自分で厭になったから止めたといった方が適当でしょう。
酒はやめたけれども、何もする気にはなりません。
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酒は止めたけれども、何もする気にはなりません。
仕方がないから、書物を読みます。
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仕方がないから書物を読みます。
しかし読めば読んだなりで、放っておきます。
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しかし読めば読んだなりで、打ち遣って置きます。
私は妻から、何のために勉強するのかという質問を度々受けました。
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私は妻から何のために勉強するのかという質問をたびたび受けました。
私はただ、苦笑していました。
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私はただ苦笑していました。
しかし腹の底では、世の中で自分がもっとも信じ愛しているたった一人の人間すら自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。
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しかし腹の底では、世の中で自分が最も信愛しているたった一人の人間すら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。
理解させる手段があるのに理解させる勇気が出せないのだと思うと、ますます悲しかったのです。
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理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うとますます悲しかったのです。
私は孤独でした。
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私は寂寞でした。
どこからも切り離されて、世の中にたった一人住んでいるような気のしたこともよくありました。
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どこからも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事もよくありました。
同時に私は、Kの死んだ理由を繰り返し繰り返し考えたのです。
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同時に私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。
その当座は頭がただ恋の一字で支配されていたせいでもありましょうが、私の見方はむしろ簡単で、しかも一直線でした。
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その当座は頭がただ恋の一字で支配されていたせいでもありましょうが、私の観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。
Kはまさしく失恋のために死んだものと、すぐ決めてしまったのです。
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Kは正しく失恋のために死んだものとすぐ極めてしまったのです。
しかしだんだん落ち着いた気分で同じ出来事に向かってみると、そう簡単には解決がつかないように思われて来ました。
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しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向ってみると、そう容易くは解決が着かないように思われて来ました。
現実と理想の衝突、――それでもまだ不十分でした。
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現実と理想の衝突、――それでもまだ不充分でした。
私はしまいに、Kが私のようにたった一人で寂しくて仕方がなくなった結果、急に思い決したのではなかろうかと疑い出しました。
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私はしまいにKが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。
そうしてまた、ぞっとしたのです。
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そうしてまた慄としたのです。
私もKの歩いた道をKと同じようにたどっているのだという予感が、折々風のように私の胸を横切り始めたからです。
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私もKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、折々風のように私の胸を横過り始めたからです。
五十四
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五十四
「そのうち妻の母が病気になりました。医者に見せると、とうてい治らないという診断でした。私は力の及ぶ限り、心をこめて看護をしてやりました。これは病人自身のためでもありますし、また愛する妻のためでもありましたが、もっと大きな意味から言うと、つまるところ人間のためでした。私はそれまでにも何かしたくてたまらなかったのだけれども、何もすることができないのでやむを得ず手をこまねいていたに違いありません。世間と切り離された私が初めて自分から手を出して、いくらかでもよいことをしたという自覚を得たのは、この時でした。私は罪滅ぼしとでも名づけなければならない、一種の気分に支配されていたのです。
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「その内妻の母が病気になりました。医者に見せると到底癒らないという診断でした。私は力の及ぶかぎり懇切に看護をしてやりました。これは病人自身のためでもありますし、また愛する妻のためでもありましたが、もっと大きな意味からいうと、ついに人間のためでした。私はそれまでにも何かしたくって堪らなかったのだけれども、何もする事ができないのでやむをえず懐手をしていたに違いありません。世間と切り離された私が、始めて自分から手を出して、幾分でも善い事をしたという自覚を得たのはこの時でした。私は罪滅しとでも名づけなければならない、一種の気分に支配されていたのです。
母は死にました。
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母は死にました。
私と妻は、たった二人きりになりました。
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私と妻はたった二人ぎりになりました。
妻は私に向かって、これから世の中で頼りにするものは一人しかなくなったと言いました。
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妻は私に向って、これから世の中で頼りにするものは一人しかなくなったといいました。
自分自身さえ頼りにすることのできない私は、妻の顔を見て思わず涙ぐみました。
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自分自身さえ頼りにする事のできない私は、妻の顔を見て思わず涙ぐみました。
そうして、妻を不幸な女だと思いました。
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そうして妻を不幸な女だと思いました。
また、不幸な女だと口へ出しても言いました。
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また不幸な女だと口へ出してもいいました。
妻は、なぜだと聞きます。
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妻はなぜだと聞きます。
妻には、私の意味が分からないのです。
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妻には私の意味が解らないのです。
私も、それを説明してやることができないのです。
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私もそれを説明してやる事ができないのです。
妻は泣きました。
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妻は泣きました。
私がふだんからひねくれた考えで彼女を観察しているために、そんなことも言うようになるのだと恨みました。
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私が不断からひねくれた考えで彼女を観察しているために、そんな事もいうようになるのだと恨みました。
母の亡くなった後、私はできるだけ妻を親切に扱ってやりました。
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母の亡くなった後、私はできるだけ妻を親切に取り扱ってやりました。
ただ当人を愛していたからばかりではありません。
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ただ、当人を愛していたからばかりではありません。
私の親切には、個人を離れてもっと広い背景があったようです。
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私の親切には箇人を離れてもっと広い背景があったようです。
ちょうど妻の母の看護をしたのと同じ意味で、私の心は動いたらしいのです。
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ちょうど妻の母の看護をしたと同じ意味で、私の心は動いたらしいのです。
妻は満足らしく見えました。
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妻は満足らしく見えました。
けれどもその満足のうちには、私を理解できないために起こるぼんやりした薄い点が、どこかに含まれているようでした。
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けれどもその満足のうちには、私を理解し得ないために起るぼんやりした稀薄な点がどこかに含まれているようでした。
しかし妻が私を理解できたにしたところで、この物足りなさは増すとも減る心配はなかったのです。
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しかし妻が私を理解し得たにしたところで、この物足りなさは増すとも減る気遣いはなかったのです。
女には大きな人の道の立場から来る愛情よりも、多少義理を外れても自分だけに注がれる親切を喜ぶ性質が、男よりも強いように思われますから。
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女には大きな人道の立場から来る愛情よりも、多少義理をはずれても自分だけに集注される親切を嬉しがる性質が、男よりも強いように思われますから。
妻はある時、男の心と女の心とはどうしてもぴたりと一つになれないものだろうかと言いました。
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妻はある時、男の心と女の心とはどうしてもぴたりと一つになれないものだろうかといいました。
私はただ、若い時ならなれるだろうと曖昧な返事をしておきました。
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私はただ若い時ならなれるだろうと曖昧な返事をしておきました。
妻は自分の過去を振り返って眺めているようでしたが、やがてかすかなため息をもらしました。
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妻は自分の過去を振り返って眺めているようでしたが、やがて微かな溜息を洩らしました。
私の胸には、その時分から時々恐ろしい影がひらめきました。
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私の胸にはその時分から時々恐ろしい影が閃きました。
初めはそれが、偶然外から襲って来るのです。
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初めはそれが偶然外から襲って来るのです。
私は驚きました。
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私は驚きました。
私はぞっとしました。
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私はぞっとしました。
しかししばらくしているうちに、私の心がそのものすごいひらめきに応じるようになりました。
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しかししばらくしている中に、私の心がその物凄い閃きに応ずるようになりました。
しまいには外から来なくても、自分の胸の底に生まれた時から潜んでいるもののように思われ出して来たのです。
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しまいには外から来ないでも、自分の胸の底に生れた時から潜んでいるもののごとくに思われ出して来たのです。
私はそうした気持ちになるたびに、自分の頭がどうかしたのではなかろうかと疑ってみました。
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私はそうした心持になるたびに、自分の頭がどうかしたのではなかろうかと疑ってみました。
けれども私は、医者にも誰にも診てもらう気にはなりませんでした。
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けれども私は医者にも誰にも診てもらう気にはなりませんでした。
私はただ、人間の罪というものを深く感じたのです。
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私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。
その感じが、私をKの墓へ毎月行かせます。
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その感じが私をKの墓へ毎月行かせます。
その感じが、私に妻の母の看護をさせます。
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その感じが私に妻の母の看護をさせます。
そうしてその感じが、妻に優しくしてやれと私に命じます。
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そうしてその感じが妻に優しくしてやれと私に命じます。
私はその感じのために、知らない道端の人からむち打たれたいとまで思ったこともあります、こうした段階をだんだん経て行くうちに、人にむち打たれるよりも自分で自分をむち打つべきだという気になります。
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私はその感じのために、知らない路傍の人から鞭うたれたいとまで思った事もあります、こうした階段を段々経過して行くうちに、人に鞭うたれるよりも、自分で自分を鞭うつべきだという気になります。
自分で自分をむち打つよりも、自分で自分を殺すべきだという考えが起こります。
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自分で自分を鞭うつよりも、自分で自分を殺すべきだという考えが起ります。
私は仕方がないから、死んだ気で生きて行こうと決心しました。
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私は仕方がないから、死んだ気で生きて行こうと決心しました。
私がそう決心してから、今日まで何年になるでしょう。
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私がそう決心してから今日まで何年になるでしょう。
私と妻とは、元のとおり仲よく暮らして来ました。
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私と妻とは元の通り仲好く暮して来ました。
私と妻とは決して不幸ではありません、幸福でした。
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私と妻とは決して不幸ではありません、幸福でした。
しかし私の持っている一点、私にとっては容易でないこの一点が、妻には常に暗黒に見えたらしいのです。
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しかし私のもっている一点、私に取っては容易ならんこの一点が、妻には常に暗黒に見えたらしいのです。
それを思うと、私は妻に対して非常に気の毒な気がします。
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それを思うと、私は妻に対して非常に気の毒な気がします。
五十五
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五十五
「死んだつもりで生きて行こうと決心した私の心は、時々外界の刺激で躍り上がりました。しかし私がどの方面かへ切って出ようと思い立つやいなや、恐ろしい力がどこからか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力が私に、お前は何をする資格もない男だと抑えつけるように言って聞かせます。すると私はその一言で、すぐぐたりとしおれてしまいます。しばらくしてまた立ち上がろうとすると、また締めつけられます。私は歯を食いしばって、なぜ人の邪魔をするのかと怒鳴りつけます。不可思議な力は、冷ややかな声で笑います。自分でよく知っているくせにと言います。私はまた、ぐたりとなります。
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「死んだつもりで生きて行こうと決心した私の心は、時々外界の刺戟で躍り上がりました。しかし私がどの方面かへ切って出ようと思い立つや否や、恐ろしい力がどこからか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力が私にお前は何をする資格もない男だと抑え付けるようにいって聞かせます。すると私はその一言で直ぐたりと萎れてしまいます。しばらくしてまた立ち上がろうとすると、また締め付けられます。私は歯を食いしばって、何で他の邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力は冷やかな声で笑います。自分でよく知っているくせにといいます。私はまたぐたりとなります。
波乱も曲折もない単調な生活を続けて来た私の内面には、常にこうした苦しい戦いがあったものと思ってください。
原文を見る
波瀾も曲折もない単調な生活を続けて来た私の内面には、常にこうした苦しい戦争があったものと思って下さい。
妻が見てじれったがる前に、私自身が何倍じれったい思いを重ねて来たか知れないくらいです。
原文を見る
妻が見て歯痒がる前に、私自身が何層倍歯痒い思いを重ねて来たか知れないくらいです。
私がこの牢屋の中にじっとしていることがどうしてもできなくなった時、またその牢屋をどうしても突き破ることができなくなった時、結局私にとって一番楽な努力で成し遂げられるものは自殺よりほかにないと、私は感じるようになったのです。
原文を見る
私がこの牢屋の中に凝としている事がどうしてもできなくなった時、またその牢屋をどうしても突き破る事ができなくなった時、必竟私にとって一番楽な努力で遂行できるものは自殺より外にないと私は感ずるようになったのです。
あなたはなぜと言って目を見張るかもしれませんが、いつも私の心を握り締めに来るその不可思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食い止めながら、死の道だけを自由に私のために開けておくのです。
原文を見る
あなたはなぜといって眼を睜るかも知れませんが、いつも私の心を握り締めに来るその不可思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食い留めながら、死の道だけを自由に私のために開けておくのです。
動かずにいればともかく、少しでも動く以上は、その道を歩いて進まなければ私には進みようがなくなったのです。
原文を見る
動かずにいればともかくも、少しでも動く以上は、その道を歩いて進まなければ私には進みようがなくなったのです。
私は今日に至るまで、すでに二、三度運命の導いて行くもっとも楽な方向へ進もうとしたことがあります。
原文を見る
私は今日に至るまですでに二、三度運命の導いて行く最も楽な方向へ進もうとした事があります。
しかし私はいつでも、妻に心を引かされました。
原文を見る
しかし私はいつでも妻に心を惹かされました。
そうしてその妻をいっしょに連れて行く勇気は、もちろんないのです。
原文を見る
そうしてその妻をいっしょに連れて行く勇気は無論ないのです。
妻にすべてを打ち明けることのできないくらいな私ですから、自分の運命の犠牲として妻の天寿を奪うなどという手荒な仕打ちは、考えてさえ恐ろしかったのです。
原文を見る
妻にすべてを打ち明ける事のできないくらいな私ですから、自分の運命の犠牲として、妻の天寿を奪うなどという手荒な所作は、考えてさえ恐ろしかったのです。
私に私の宿命があるとおり、妻には妻の巡り合わせがあります、二人を一束にして火にくべるのは、無理という点から見ても痛ましい極端としか私には思えませんでした。
原文を見る
私に私の宿命がある通り、妻には妻の廻り合せがあります、二人を一束にして火に燻べるのは、無理という点から見ても、痛ましい極端としか私には思えませんでした。
同時に、私だけがいなくなった後の妻を想像してみると、いかにも不憫でした。
原文を見る
同時に私だけがいなくなった後の妻を想像してみるといかにも不憫でした。
母の死んだ時、これから世の中で頼りにするものは私よりほかになくなったと言った彼女の述懐を、私ははらわたに染み込むように記憶させられていたのです。
原文を見る
母の死んだ時、これから世の中で頼りにするものは私より外になくなったといった彼女の述懐を、私は腸に沁み込むように記憶させられていたのです。
私はいつも、ためらいました。
原文を見る
私はいつも躊躇しました。
妻の顔を見て、やめてよかったと思うこともありました。
原文を見る
妻の顔を見て、止してよかったと思う事もありました。
そうしてまた、じっとすくんでしまいます。
原文を見る
そうしてまた凝と竦んでしまいます。
そうして妻から時々、物足りなそうな目で眺められるのです。
原文を見る
そうして妻から時々物足りなそうな眼で眺められるのです。
記憶してください。
原文を見る
記憶して下さい。
私はこんなふうにして生きて来たのです。
原文を見る
私はこんな風にして生きて来たのです。
初めてあなたに鎌倉で会った時も、あなたといっしょに郊外を散歩した時も、私の気分に大した変わりはなかったのです。
原文を見る
始めてあなたに鎌倉で会った時も、あなたといっしょに郊外を散歩した時も、私の気分に大した変りはなかったのです。
私の後ろには、いつでも黒い影がくっついていました。
原文を見る
私の後ろにはいつでも黒い影が括ッ付いていました。
私は妻のために、命を引きずって世の中を歩いていたようなものです。
原文を見る
私は妻のために、命を引きずって世の中を歩いていたようなものです。
あなたが卒業して国へ帰る時も、同じことでした。
原文を見る
あなたが卒業して国へ帰る時も同じ事でした。
九月になったらまたあなたに会おうと約束した私は、嘘をついたのではありません。
原文を見る
九月になったらまたあなたに会おうと約束した私は、嘘を吐いたのではありません。
まったく会う気でいたのです。
原文を見る
全く会う気でいたのです。
秋が去って冬が来て、その冬が尽きても、きっと会うつもりでいたのです。
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秋が去って、冬が来て、その冬が尽きても、きっと会うつもりでいたのです。
すると夏の暑い盛りに、明治天皇が崩御になりました。
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すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。
その時私は、明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました。
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その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。
もっとも強く明治の影響を受けた私どもがその後に生き残っているのは、つまるところ時代遅れだという感じが激しく私の胸を打ちました。
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最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。
私ははっきりと、妻にそう言いました。
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私は明白さまに妻にそういいました。
妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたらよかろうとからかいました。
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妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたらよかろうと調戯いました。
五十六
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五十六
「私は殉死という言葉を、ほとんど忘れていました。ふだん使う必要のない言葉だから、記憶の底に沈んだまま腐れかけていたものと見えます。妻の冗談を聞いて初めてそれを思い出した時、私は妻に向かって、もし自分が殉死するならば明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えももちろん冗談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛ることができたような気持ちがしたのです。
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「私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。妻の笑談を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。
それから、約一か月ほど経ちました。
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それから約一カ月ほど経ちました。
御大葬の夜、私はいつものとおり書斎に座って、合図の号砲を聞きました。
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御大葬の夜私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。
私にはそれが、明治が永久に去った知らせのように聞こえました。
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私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。
後で考えると、それが乃木大将の永久に去った知らせにもなっていたのです。
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後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。
私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だと言いました。
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私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。
私は新聞で、乃木大将が死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。
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私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。
西南戦争の時敵に旗を奪われて以来、申し訳のために死のう死のうと思ってつい今日まで生きていたという意味の文句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生き長らえて来た年月を数えてみました。
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西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。
西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の隔たりがあります。
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西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。
乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。
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乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。
私はそういう人にとって、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一瞬が苦しいか、どちらが苦しいだろうと考えました。
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私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。
それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。
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それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。
私に乃木さんの死んだ理由がよく分からないように、あなたにも私の自殺する訳がはっきりのみ込めないかもしれませんが、もしそうだとすると、それは時代の移り変わりから来る人間の違いだから仕方がありません。
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私に乃木さんの死んだ理由がよく解らないように、あなたにも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。
あるいは、個人の持って生まれた性格の違いと言った方がたしかかもしれません。
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あるいは箇人のもって生れた性格の相違といった方が確かかも知れません。
私は私のできる限りこの不可思議な私というものをあなたに分からせるように、今までの記述で自分を尽くしたつもりです。
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私は私のできる限りこの不可思議な私というものを、あなたに解らせるように、今までの叙述で己れを尽したつもりです。
私は妻を残して行きます。
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私は妻を残して行きます。
私がいなくなっても妻に衣食住の心配がないのは、幸せです。
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私がいなくなっても妻に衣食住の心配がないのは仕合せです。
私は妻に、残酷な恐怖を与えることを好みません。
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私は妻に残酷な驚怖を与える事を好みません。
私は妻に血の色を見せないで死ぬつもりです。
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私は妻に血の色を見せないで死ぬつもりです。
妻の知らない間に、こっそりこの世からいなくなるようにします。
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妻の知らない間に、こっそりこの世からいなくなるようにします。
私は死んだ後で、妻から急死したと思われたいのです。
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私は死んだ後で、妻から頓死したと思われたいのです。
気が狂ったと思われても、満足なのです。
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気が狂ったと思われても満足なのです。
私が死のうと決心してからもう十日以上になりますが、その大部分はあなたにこの長い自叙伝の一節を書き残すために使ったものと思ってください。
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私が死のうと決心してから、もう十日以上になりますが、その大部分はあなたにこの長い自叙伝の一節を書き残すために使用されたものと思って下さい。
初めはあなたに会って話をする気でいたのですが、書いてみると、かえってその方が自分をはっきり描き出すことができたような気持ちがしてうれしいのです。
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始めはあなたに会って話をする気でいたのですが、書いてみると、かえってその方が自分を判然描き出す事ができたような心持がして嬉しいのです。
私は物好きで書くのではありません。
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私は酔興に書くのではありません。
私を生んだ私の過去は人間の経験の一部分として、私よりほかに誰も語り得るものはないのですから、それを偽りなく書き残しておく私の努力は、人間を知る上においてあなたにとってもほかの人にとっても無駄ではなかろうと思います。
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私を生んだ私の過去は、人間の経験の一部分として、私より外に誰も語り得るものはないのですから、それを偽りなく書き残して置く私の努力は、人間を知る上において、あなたにとっても、外の人にとっても、徒労ではなかろうと思います。
渡辺崋山は邯鄲という絵を描くために死ぬ日を一週間繰り延べたという話を、つい先日聞きました。
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渡辺華山は邯鄲という画を描くために、死期を一週間繰り延べたという話をつい先達て聞きました。
他人から見たら余計なことのようにも解釈できましょうが、当人にはまた当人相応の要求が心の中にあるのだからやむを得ないとも言えるでしょう。
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他から見たら余計な事のようにも解釈できましょうが、当人にはまた当人相応の要求が心の中にあるのだからやむをえないともいわれるでしょう。
私の努力も、単にあなたに対する約束を果たすためばかりではありません。
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私の努力も単にあなたに対する約束を果たすためばかりではありません。
半分以上は、自分自身の要求に動かされた結果なのです。
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半ば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。
しかし私は今、その要求を果たしました。
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しかし私は今その要求を果たしました。
もう何もすることはありません。
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もう何にもする事はありません。
この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。
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この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。
とっくに死んでいるでしょう。
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とくに死んでいるでしょう。
妻は十日ばかり前から、市ヶ谷の叔母の所へ行きました。
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妻は十日ばかり前から市ヶ谷の叔母の所へ行きました。
叔母が病気で手が足りないというから、私が勧めてやったのです。
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叔母が病気で手が足りないというから私が勧めてやったのです。
私は妻の留守の間に、この長いものの大部分を書きました。
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私は妻の留守の間に、この長いものの大部分を書きました。
時々妻が帰って来ると、私はすぐそれを隠しました。
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時々妻が帰って来ると、私はすぐそれを隠しました。
私は私の過去を、善悪ともに他人の参考に供するつもりです。
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私は私の過去を善悪ともに他の参考に供するつもりです。
しかし妻だけはたった一人の例外だと、承知してください。
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しかし妻だけはたった一人の例外だと承知して下さい。
私は妻には、何も知らせたくないのです。
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私は妻には何にも知らせたくないのです。
妻が自分の過去に対して持つ記憶をなるべく純白に保存しておいてやりたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなただけに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいてください。」
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妻が己れの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。」