草枕 小学生向け
夏目漱石(なつめそうせき)・1987年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-29)
一
原文を見る
一
山路を登りながら、こう考えた。
原文を見る
山路を登りながら、こう考えた。
頭でばかり考えて押し通すと、人とぶつかってしまう。
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智に働けば角が立つ。
気持ちのままに動くと、流されてしまう。
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情に棹させば流される。
意地を張り通すと、息苦しくなる。
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意地を通せば窮屈だ。
とにかく、人の世の中は住みにくい。
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とかくに人の世は住みにくい。
住みにくいという気持ちが強くなると、もっと気楽な場所へ引っ越したくなる。
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住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。
どこへ引っ越しても住みにくいと分かったとき、そこから詩が生まれ、絵が生まれる。
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どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
人の世を作ったものは、神でも鬼でもない。
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人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。
やはり、近所にいる、ただの人間である。
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やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。
ただの人間が作った世の中が住みにくいからといって、ほかに移り住める国はないだろう。
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ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。
あるとすれば、人でなしの国へ行くしかない。
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あれば人でなしの国へ行くばかりだ。
人でなしの国は、人の世よりもなお住みにくいだろう。
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人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
引っ越すことのできない世の中が住みにくいのなら、住みにくい所をなんとか居心地よくして、短い命を、少しの間でも住みよくしなければならない。
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越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。
そこで詩人という天職が生まれ、画家という使命が与えられる。
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ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。
あらゆる芸術に生きる人は、人の世をのどかにし、人の心を豊かにするから尊い。
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あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。
住みにくい世の中から、住みにくくてわずらわしいところを取りのぞいて、ありがたい世界を目の前に映し出すのが詩であり、絵である。
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住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。
あるいは音楽と彫刻である。
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あるは音楽と彫刻である。
細かく言えば、そのまま写さなくてもよい。
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こまかに云えば写さないでもよい。
ただ目の前に見さえすれば、そこに詩も生き、歌も湧く。
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ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。
思いついたことを紙に書かなくても、玉と玉がふれ合うような澄んだ音は、胸の中に起こる。
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着想を紙に落さぬとも璆鏘の音は胸裏に起る。
絵の具を筆につけて塗らなくても、色とりどりの美しさは、自然と心の目に映る。
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丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。
ただ自分の住む世の中を、こんなふうに見て取ることができて、心という小さなカメラに、にごりきった世の中を、清く明るく写し取ることができれば、それで十分なのだ。
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ただおのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。
だから、声に出さない詩人には一つの句もなく、絵を描かない画家には一枚の絵もないけれど、こうして人の世を見て取れる点で、こうして心の悩みから自由になれる点で、こうして清らかな世界に出たり入ったりできる点で、また、このかけがえのない一つの世界を作り上げられる点で、自分の得だけを考える気持ちをふり払える点で――お金持ちの子どもよりも、国を治める王様よりも、世の中で人気者と言われる人よりも幸せなのだ。
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この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺縑なきも、かく人世を観じ得るの点において、かく煩悩を解脱するの点において、かく清浄界に出入し得るの点において、またこの不同不二の乾坤を建立し得るの点において、我利私慾の覊絆を掃蕩するの点において、――千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。
世に住むこと二十年で、住むだけの値打ちのある世だと知った。
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世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。
二十五年で、明るさと暗さは裏表のようなもので、日の当たる所にはきっと影がさすと悟った。
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二十五年にして明暗は表裏のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。
三十になった今日はこう思っている。――
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三十の今日はこう思うている。――
喜びが深いときは悲しみもいよいよ深く、楽しみが大きいほど苦しみも大きい。
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喜びの深きとき憂いよいよ深く、楽みの大いなるほど苦しみも大きい。
これを切り離そうとすると、身が持たない。
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これを切り放そうとすると身が持てぬ。
片づけようとすれば、世の中が立ち行かない。
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片づけようとすれば世が立たぬ。
金は大事だ、大事なものが増えれば寝ている間も心配だろう。
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金は大事だ、大事なものが殖えれば寝る間も心配だろう。
恋はうれしい、うれしい恋が積もれば、恋をしなかった昔がかえって恋しくなるだろう。
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恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。
国の大臣は、何百万もの人々の暮らしを肩に背負っている。
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閣僚の肩は数百万人の足を支えている。
その背中には、重い国全体がおぶさっている。
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背中には重い天下がおぶさっている。
うまい物も食べなければ惜しい。
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うまい物も食わねば惜しい。
少し食べれば物足りない。
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少し食えば飽き足らぬ。
思う存分食べればあとが不愉快だ。……
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存分食えばあとが不愉快だ。……
私の考えがここまでただよってきたときに、右足が急に、ぐらぐらする石の角を踏みそこなった。
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余の考がここまで漂流して来た時に、余の右足は突然坐りのわるい角石の端を踏み損くなった。
バランスを取ろうとして、とっさに前へ飛び出した左足が失敗を埋め合わせてくれたおかげで、私の腰はちょうどよく、三尺(約九十センチ)四方ほどの岩の上に下りることができた。
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平衡を保つために、すわやと前に飛び出した左足が、仕損じの埋め合せをすると共に、余の腰は具合よく方三尺ほどな岩の上に卸りた。
肩にかけていた絵の具箱がわきの下から飛び出しただけで、幸い何ごともなかった。
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肩にかけた絵の具箱が腋の下から躍り出しただけで、幸いと何の事もなかった。
立ち上がるときに向こうを見ると、道から左の方に、バケツを伏せたような峰がそびえている。
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立ち上がる時に向うを見ると、路から左の方にバケツを伏せたような峰が聳えている。
杉なのか檜なのか分からないが、根元から頂上までびっしり青黒い木々の中に、山桜がうすい赤色でまだらにたなびいていて、その境目がはっきり見えないほど霧が濃い。
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杉か檜か分からないが根元から頂きまでことごとく蒼黒い中に、山桜が薄赤くだんだらに棚引いて、続ぎ目が確と見えぬくらい靄が濃い。
すこし手前に、木のはげた山が一つ、まわりより高くそびえて、すぐ目の前に迫ってくる。
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少し手前に禿山が一つ、群をぬきんでて眉に逼る。
そのはげた斜面は、まるで巨人が斧で削り取ったように、するどい平らな面を谷の底までうずめている。
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禿げた側面は巨人の斧で削り去ったか、鋭どき平面をやけに谷の底に埋めている。
てっぺんに一本見えるのは赤松だろう。
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天辺に一本見えるのは赤松だろう。
枝の間の空まではっきり見える。
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枝の間の空さえ判然している。
この先の道は二百メートルほどで見えなくなっているが、高いところから赤い毛布のようなものが動いてくるのを見ると、登っていけばあそこに出るのだろう。
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行く手は二丁ほどで切れているが、高い所から赤い毛布が動いて来るのを見ると、登ればあすこへ出るのだろう。
道はひどく歩きにくい。
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路はすこぶる難義だ。
土をならすだけならさほど手間もかからないだろうが、土の中には大きな石がある。
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土をならすだけならさほど手間も入るまいが、土の中には大きな石がある。
土は平らにしても、石は平らにならない。
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土は平らにしても石は平らにならぬ。
石は切り砕いても、岩は始末がつかない。
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石は切り砕いても、岩は始末がつかぬ。
掘りくずした土の上に、落ち着いた様子でそびえ立っていて、こちらのために道をゆずる気配はない。
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掘崩した土の上に悠然と峙って、吾らのために道を譲る景色はない。
向こうが聞き入れない以上は、乗り越すか、回らなければならない。
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向うで聞かぬ上は乗り越すか、廻らなければならん。
岩のない所でさえ、歩きやすくはない。
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巌のない所でさえ歩るきよくはない。
左右が高くて真ん中がくぼんでいて、まるで幅一間(約一・八メートル)を三角に掘りぬいて、その三角の先が真ん中をつらぬいているようなものだ。
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左右が高くって、中心が窪んで、まるで一間幅を三角に穿って、その頂点が真中を貫いていると評してもよい。
道を行くというより、川底を渡ると言った方が近い。
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路を行くと云わんより川底を渉ると云う方が適当だ。
もともと急ぐ旅ではないから、ぶらぶらと七曲がりにかかる。
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固より急ぐ旅でないから、ぶらぶらと七曲りへかかる。
たちまち足の下でひばりの声がし出した。
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たちまち足の下で雲雀の声がし出した。
谷を見下ろしたが、どこで鳴いているのか、姿は見えない。
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谷を見下したが、どこで鳴いてるか影も形も見えぬ。
ただ声だけがはっきり聞こえる。
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ただ声だけが明らかに聞える。
せっせと忙しく、絶え間なく鳴いている。
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せっせと忙しく、絶間なく鳴いている。
何里も四方に広がる空気全体が、蚤に刺されて、じっとしていられないような気がする。
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方幾里の空気が一面に蚤に刺されていたたまれないような気がする。
あの鳥の鳴く声には、一瞬の余裕もない。
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あの鳥の鳴く音には瞬時の余裕もない。
のどかな春の日を鳴きつくし、鳴き明かし、また鳴き暮らさなければ気が済まないと見える。
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のどかな春の日を鳴き尽くし、鳴きあかし、また鳴き暮らさなければ気が済まんと見える。
そのうえ、どこまでも登っていく、いつまでも登っていく。
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その上どこまでも登って行く、いつまでも登って行く。
ひばりはきっと、雲の中で死ぬにちがいない。
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雲雀はきっと雲の中で死ぬに相違ない。
登りつめたあげくは、流れて雲に入って、ただよっているうちに姿は消えてなくなり、ただ声だけが空に残るのかもしれない。
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登り詰めた揚句は、流れて雲に入って、漂うているうちに形は消えてなくなって、ただ声だけが空の裡に残るのかも知れない。
岩の角を鋭く曲がって、目の見えない人なら真っ逆さまに落ちてしまいそうな所を、きわどく右へ曲がって、横を見下ろすと、菜の花が一面に見える。
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巌角を鋭どく廻って、按摩なら真逆様に落つるところを、際どく右へ切れて、横に見下すと、菜の花が一面に見える。
ひばりはあそこへ落ちるのかと思った。
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雲雀はあすこへ落ちるのかと思った。
いや、あの黄金の原っぱから飛び上がってくるのかと思った。
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いいや、あの黄金の原から飛び上がってくるのかと思った。
次には、落ちるひばりと、上がるひばりが十文字にすれ違うのかと思った。
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次には落ちる雲雀と、上る雲雀が十文字にすれ違うのかと思った。
最後に、落ちる時も、上る時も、また十文字にすれ違う時にも、元気よく鳴き続けるだろうと思った。
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最後に、落ちる時も、上る時も、また十文字に擦れ違うときにも元気よく鳴きつづけるだろうと思った。
春は眠くなる。
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春は眠くなる。
猫はねずみを捕ることを忘れ、人間は借金のあることを忘れる。
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猫は鼠を捕る事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。
時には、自分の心がどこにあるかさえ忘れて、ぼんやりしてしまう。
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時には自分の魂の居所さえ忘れて正体なくなる。
ただ、菜の花を遠くにながめたときに目が覚める。
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ただ菜の花を遠く望んだときに眼が醒める。
ひばりの声を聞いたときに、自分の心のありかがはっきりする。
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雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然する。
ひばりが鳴くのは口だけで鳴くのではない、心全体で鳴いているのだ。
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雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。
心の動きが声になって表れたもののうちで、あれほど元気のよいものはない。
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魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれほど元気のあるものはない。
ああ愉快だ。
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ああ愉快だ。
こう思って、こう愉快になるのが詩である。
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こう思って、こう愉快になるのが詩である。
たちまち、イギリスの詩人シェレーが書いたひばりの詩を思い出して、覚えているところだけ口の中でとなえてみたが、覚えているのは二、三行しかなかった。
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たちまちシェレーの雲雀の詩を思い出して、口のうちで覚えたところだけ暗誦して見たが、覚えているところは二三句しかなかった。
その二、三行の中に、こんなのがある。
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その二三句のなかにこんなのがある。
私たちは前を見て、後ろを見て
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We look before and after
ここにないものを恋しがる。
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And pine for what is not:
心からの笑いにも
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Our sincerest laughter
どこかに痛みが隠れている。
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With some pain is fraught;
いちばん甘い歌とは、いちばん悲しい思いを語る歌だ。
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Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.
「前を見ても、後ろを見ても、私はないものを欲しがってあこがれる。心からの笑いだって、その底には苦しみがあるはずだ。いちばん美しい歌には、いちばん悲しい思いがこもっている、と知ってほしい」
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「前をみては、後えを見ては、物欲しと、あこがるるかなわれ。腹からの、笑といえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極みの歌に、悲しさの、極みの想、籠るとぞ知れ」
なるほど、どんなに詩人が幸せでも、あのひばりのように思いきって、むちゅうになって、前も後ろも忘れて、自分の喜びを歌うことはできないだろう。
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なるほどいくら詩人が幸福でも、あの雲雀のように思い切って、一心不乱に、前後を忘却して、わが喜びを歌う訳には行くまい。
西洋の詩はもちろん、中国の詩にも、よく「万石の愁い」(とても大きな悲しみ、という意味)という言葉が出てくる。
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西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よく万斛の愁などと云う字がある。
詩人だから万石という大きな量で言うが、ふつうの人なら一合(ごくわずかな量)ですむのかもしれない。
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詩人だから万斛で素人なら一合で済むかも知れぬ。
そう考えると、詩人はふつうの人よりも苦労性で、凡人の倍以上に神経が鋭いのかもしれない。
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して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨の倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。
俗を超えた喜びもあるだろうが、はかりしれない悲しみも多いだろう。
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超俗の喜びもあろうが、無量の悲も多かろう。
それなら詩人になるのも考えものだ。
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そんならば詩人になるのも考え物だ。
しばらくは道が平らで、右は雑木の山、左は菜の花が見えつづける。
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しばらくは路が平で、右は雑木山、左は菜の花の見つづけである。
足の下に、時々たんぽぽを踏みつける。
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足の下に時々蒲公英を踏みつける。
のこぎりのようなギザギザの葉が四方に思いきり伸びて、真ん中の黄色い玉を守っている。
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鋸のような葉が遠慮なく四方へのして真中に黄色な珠を擁護している。
菜の花に気を取られて、踏みつけたあとで、気の毒なことをしたと振り向いて見ると、黄色い玉は相変わらずギザギザの葉の中にどっしりとおさまっている。
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菜の花に気をとられて、踏みつけたあとで、気の毒な事をしたと、振り向いて見ると、黄色な珠は依然として鋸のなかに鎮座している。
のんきなものだ。
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呑気なものだ。
また考えを続ける。
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また考えをつづける。
詩人に悲しみはつきものかもしれないが、あのひばりを聞く気持ちになれば、少しの苦しみもない。
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詩人に憂はつきものかも知れないが、あの雲雀を聞く心持になれば微塵の苦もない。
菜の花を見ても、ただうれしくて胸が躍るばかりだ。
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菜の花を見ても、ただうれしくて胸が躍るばかりだ。
たんぽぽもその通り、桜も――桜はいつのまにか見えなくなった。
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蒲公英もその通り、桜も――桜はいつか見えなくなった。
こう山の中へ来て自然の眺めに接すれば、見るものも聞くものも面白い。
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こう山の中へ来て自然の景物に接すれば、見るものも聞くものも面白い。
面白いだけで、これといった苦しみも起こらない。
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面白いだけで別段の苦しみも起らぬ。
起こるとすれば、足が疲れて、うまいものが食べられないくらいのことだろう。
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起るとすれば足が草臥れて、旨いものが食べられぬくらいの事だろう。
しかし、苦しみのないのはなぜだろう。
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しかし苦しみのないのはなぜだろう。
ただ、この景色を一枚の絵として見て、一つの詩として読んでいるからである。
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ただこの景色を一幅の画として観、一巻の詩として読むからである。
絵であり詩である以上は、土地をもらって開拓する気にもならないし、鉄道を敷いて一儲けしようという考えも起こらない。
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画であり詩である以上は地面を貰って、開拓する気にもならねば、鉄道をかけて一儲けする了見も起らぬ。
ただこの景色が――腹の足しにもならない、月給の足しにもならないこの景色が、景色としてだけ私の心を楽しませているから、苦労も心配も伴わないのだろう。
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ただこの景色が――腹の足しにもならぬ、月給の補いにもならぬこの景色が景色としてのみ、余が心を楽ませつつあるから苦労も心配も伴わぬのだろう。
自然の力はこの点で尊い。
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自然の力はここにおいて尊とい。
私たちの心を、あっという間に磨き上げて、混じり気のない、澄みきった詩の世界に入らせてくれるのが自然である。
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吾人の性情を瞬刻に陶冶して醇乎として醇なる詩境に入らしむるのは自然である。
恋は美しいだろう、親孝行も美しいだろう、国や主君のために尽くすことも立派だろう。
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恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。
しかし自分がその当事者になれば、損得のつむじ風に巻き込まれて、美しいことにも、立派なことにも、目がくらんでしまう。
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しかし自身がその局に当れば利害の旋風に捲き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩んでしまう。
したがって、どこに詩があるか、自分では分かりかねる。
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したがってどこに詩があるか自身には解しかねる。
これが分かるためには、分かるだけの余裕のある、第三者の立場に立たなければならない。
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これがわかるためには、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。
第三者の立場に立つからこそ、芝居は見て面白い。
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三者の地位に立てばこそ芝居は観て面白い。
小説も読んで面白い。
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小説も見て面白い。
芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自分の損得は棚に上げている。
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芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚へ上げている。
見たり読んだりする間だけは詩人である。
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見たり読んだりする間だけは詩人である。
それすら、普通の芝居や小説では、人情から逃れられない。
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それすら、普通の芝居や小説では人情を免かれぬ。
苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。
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苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。
見る人もいつのまにかその中に同化して、苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。
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見るものもいつかその中に同化して苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。
良いところは、損得の気持ちが混じらないという点にあるのかもしれないが、混じらない分、ほかの感情はふだんよりも余計に動くだろう。
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取柄は利慾が交らぬと云う点に存するかも知れぬが、交らぬだけにその他の情緒は常よりは余計に活動するだろう。
それが嫌だ。
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それが嫌だ。
苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは、人の世につきものだ。
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苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。
私も三十年の間それをやり通して、飽き飽きした。
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余も三十年の間それを仕通して、飽々した。
飽き飽きした上に、芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。
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飽き飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。
私が欲しい詩は、そんな世間並みの人情をあおり立てるようなものではない。
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余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。
世間くさい気持ちを投げ捨てて、しばらくでも世の中のわずらわしさから離れた気分になれる詩である。
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俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である。
いくら傑作でも、人情を離れた芝居はないし、善悪の理屈を超えた小説は少ないだろう。
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いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少かろう。
どこまでも世間を出ることができないのが、彼らの特色である。
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どこまでも世間を出る事が出来ぬのが彼らの特色である。
とくに西洋の詩になると、人の営みが根本になるから、本当に純粋な詩でさえこの世界を抜け出すことを知らない。
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ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌の純粋なるものもこの境を解脱する事を知らぬ。
どこまでも、思いやりだとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、世の中に並んでいる品物のようなものだけで済ませている。
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どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世の勧工場にあるものだけで用を弁じている。
いくら詩的になっても、地面の上を駆け回って、お金の計算を忘れるひまがない。
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いくら詩的になっても地面の上を馳けてあるいて、銭の勘定を忘れるひまがない。
シェレーがひばりの声を聞いて嘆いたのも無理はない。
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シェレーが雲雀を聞いて嘆息したのも無理はない。
うれしいことに、東洋の詩歌には、そこを抜け出したものがある。
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うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。
東の垣根のもとで菊を摘み、ゆったりと南の山を眺める。
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採菊東籬下、悠然見南山。
ただそれだけのうちに、暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。
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ただそれぎりの裏に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。
垣根の向こうに、隣の娘がのぞいているわけでもなければ、南の山に親友が勤めているという話でもない。
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垣の向うに隣りの娘が覗いてる訳でもなければ、南山に親友が奉職している次第でもない。
世の中を超然と離れて、損得の汗を流し去った気分になれる。
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超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。
ひとり、奥深い竹やぶに座って、琴を弾いてはまた声を長く引いて歌う。深い林の中は誰も知らないが、明るい月がやって来て照らしてくれる。
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独坐幽篁裏、弾琴復長嘯、深林人不知、明月来相照。
ただ二十文字のうちに、ゆうゆうと別の世界を作り上げている。
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ただ二十字のうちに優に別乾坤を建立している。
この世界のありがたみは「不如帰」
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この乾坤の功徳は「不如帰」
や「金色夜叉」
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や「金色夜叉」
のありがたみとは違う。
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の功徳ではない。
汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼儀で疲れ果てたあとに、すべてを忘れてぐっすり眠りこむような、ありがたみである。
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汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた後に、すべてを忘却してぐっすり寝込むような功徳である。
二十世紀に睡眠が必要なら、二十世紀に、この世の中を離れた詩の味わいは大切である。
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二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀にこの出世間的の詩味は大切である。
惜しいことに、今の詩を作る人も、詩を読む人も、みんな西洋人にかぶれているから、わざわざのんきな小舟を浮かべて、この桃源郷へさかのぼる者はいないようだ。
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惜しい事に今の詩を作る人も、詩を読む人もみんな、西洋人にかぶれているから、わざわざ呑気な扁舟を泛べてこの桃源に溯るものはないようだ。
私はもともと詩人を仕事にしているわけではないから、王維(おうい)や淵明(えんめい)の心の境地を、今の世の中に広めようという気持ちもない。
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余は固より詩人を職業にしておらんから、王維や淵明の境界を今の世に布教して広げようと云う心掛も何もない。
ただ自分には、こういう感じ方のほうが、演芸会よりも舞踏会よりも、心の薬になるように思われる。
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ただ自分にはこう云う感興が演芸会よりも舞踏会よりも薬になるように思われる。
ファウストよりも、ハムレットよりもありがたく思われる。
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ファウストよりも、ハムレットよりもありがたく考えられる。
こうやって、ただ一人で絵の具箱と三脚の腰掛けを担いで春の山路をのそのそ歩くのも、まったくこのためである。
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こうやって、ただ一人絵の具箱と三脚几を担いで春の山路をのそのそあるくのも全くこれがためである。
淵明や王維の詩の心を、自然から直接吸収して、少しの間だけでも非人情(ひにんじょう、人情から離れて物事を見ること)の世界をぶらぶら歩いてみたいという願いなのだ。
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淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥したいからの願。
ちょっとした物好きなのだ。
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一つの酔興だ。
もちろん自分も人間の一人だから、いくら好きでも、非人情はそう長く続けられるものではない。
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もちろん人間の一分子だから、いくら好きでも、非人情はそう長く続く訳には行かぬ。
淵明だって年がら年中南山を見詰めていたわけでもないだろうし、王維も好きこのんで竹やぶの中に蚊帳も吊らずに寝た男でもないだろう。
原文を見る
淵明だって年が年中南山を見詰めていたのでもあるまいし、王維も好んで竹藪の中に蚊帳を釣らずに寝た男でもなかろう。
やはり余った菊は花屋へ売りさばいて、生えた筍は八百屋へ払い下げたものと思う。
原文を見る
やはり余った菊は花屋へ売りこかして、生えた筍は八百屋へ払い下げたものと思う。
こう言う私もその通り。
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こう云う余もその通り。
いくらひばりと菜の花が気に入ったって、山のなかへ野宿するほど非人情がつのってはいない。
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いくら雲雀と菜の花が気に入ったって、山のなかへ野宿するほど非人情が募ってはおらん。
こんな所でも人間に会う。
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こんな所でも人間に逢う。
裾を高くからげた頬かむりや、赤い腰巻の姉さんや、時には人間より顔の長い馬にまで会う。
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じんじん端折りの頬冠りや、赤い腰巻の姉さんや、時には人間より顔の長い馬にまで逢う。
百万本の檜に取り囲まれて、海面から何百尺も高い所の空気を吸ったり吐いたりしても、人の匂いはなかなか取れない。
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百万本の檜に取り囲まれて、海面を抜く何百尺かの空気を呑んだり吐いたりしても、人の臭いはなかなか取れない。
それどころか、山を越えて泊まる今夜の宿は、那古井(なこい)の温泉場だ。
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それどころか、山を越えて落ちつく先の、今宵の宿は那古井の温泉場だ。
ただ、物は見ようでどうにでもなる。
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ただ、物は見様でどうでもなる。
レオナルド・ダ・ヴィンチが弟子に告げた言葉に、あの鐘の音を聞け、鐘は一つだが、音はどうとでも聞けるとある。
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レオナルド・ダ・ヴィンチが弟子に告げた言に、あの鐘の音を聞け、鐘は一つだが、音はどうとも聞かれるとある。
一人の男、一人の女も、見ようしだいでどうとでも見立てがつく。
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一人の男、一人の女も見様次第でいかようとも見立てがつく。
どうせ非人情をしに出かけた旅なのだから、そのつもりで人間を見れば、せまい町で窮屈に暮らしていた時とは、また違って見えるだろう。
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どうせ非人情をしに出掛けた旅だから、そのつもりで人間を見たら、浮世小路の何軒目に狭苦しく暮した時とは違うだろう。
たとえまったく人情を離れることができなくても、せめて能を見物する時くらいの淡い心持ちにはなれそうなものだ。
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よし全く人情を離れる事が出来んでも、せめて御能拝見の時くらいは淡い心持ちにはなれそうなものだ。
能にも人情はある。
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能にも人情はある。
「七騎落」でも「墨田川」でも、泣かないとは言い切れない。
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七騎落でも、墨田川でも泣かぬとは保証が出来ん。
しかしあれは、情が三分、芸が七分で見せるわざだ。
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しかしあれは情三分芸七分で見せるわざだ。
私たちが能から受けるありがたみは、この世の人情をよくそのままに写す手際から出てくるのではない。
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我らが能から享けるありがた味は下界の人情をよくそのままに写す手際から出てくるのではない。
そのままの上へ芸術という着物を何枚も着せて、世の中にありえないほどゆったりした振る舞いをするからである。
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そのままの上へ芸術という着物を何枚も着せて、世の中にあるまじき悠長な振舞をするからである。
しばらくこの旅の間に起こる出来事と、旅の間に出会う人間を、能の仕組みと能役者の所作に見立てたらどうだろう。
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しばらくこの旅中に起る出来事と、旅中に出逢う人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだろう。
まるきり人情を捨てるわけには行かないだろうが、もとが詩的にできた旅だから、非人情のやりついでに、なるべく切り詰めてそこまで漕ぎつけたいものだ。
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まるで人情を棄てる訳には行くまいが、根が詩的に出来た旅だから、非人情のやりついでに、なるべく節倹してそこまでは漕ぎつけたいものだ。
南山や奥深い竹やぶとは性質の違うものに違いないし、またひばりや菜の花といっしょにすることもできないだろうが、なるべくこれに近づけて、近づけられる限りは同じ観察点から人間を見てみたい。
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南山や幽篁とは性の違ったものに相違ないし、また雲雀や菜の花といっしょにする事も出来まいが、なるべくこれに近づけて、近づけ得る限りは同じ観察点から人間を視てみたい。
芭蕉という男は、枕元へ馬が小便をするのさえ雅なことと見立てて句にした。
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芭蕉と云う男は枕元へ馬が尿するのをさえ雅な事と見立てて発句にした。
私もこれから会う人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、お爺さんもお婆さんも――ことごとく大自然の点景として描き出されたものと仮定して、扱ってみよう。
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余もこれから逢う人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、爺さんも婆さんも――ことごとく大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見よう。
もっとも絵の中の人物と違って、彼らはめいめい勝手な真似をするだろう。
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もっとも画中の人物と違って、彼らはおのがじし勝手な真似をするだろう。
しかし普通の小説家のように、その勝手な真似の根本をさぐって、心理作用に立ち入ったり、人間の葛藤を詮索したりしては俗になる。
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しかし普通の小説家のようにその勝手な真似の根本を探ぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる。
動いても構わない。
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動いても構わない。
絵の中の人間が動くと見れば差し支えない。
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画中の人間が動くと見れば差し支ない。
絵の中の人物はどう動いても平面の外へ出られるものではない。
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画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。
平面の外へ飛び出して、立体として動くと思うからこそ、こちらと衝突したり、利害のやり取りが起こったりして面倒になる。
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平面以外に飛び出して、立方的に働くと思えばこそ、こっちと衝突したり、利害の交渉が起ったりして面倒になる。
面倒になればなるほど、美しいものとして見ているわけに行かなくなる。
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面倒になればなるほど美的に見ている訳に行かなくなる。
これから会う人間には、超然と遠い高みから見物する気で、人情の電気が双方でむやみに起こらないようにする。
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これから逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気がむやみに双方で起らないようにする。
そうすれば相手がいくら動いても、こちらの懐には容易に飛び込めないわけだから、つまりは絵の前に立って、絵の中の人物が画面のなかをあちらこちらと騒ぎ回るのを見るのと同じことになる。
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そうすれば相手がいくら働いても、こちらの懐には容易に飛び込めない訳だから、つまりは画の前へ立って、画中の人物が画面の中をあちらこちらと騒ぎ廻るのを見るのと同じ訳になる。
間を三尺ほど隔てていれば落ち着いて見られる。
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間三尺も隔てていれば落ちついて見られる。
危なげなしに見られる。
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あぶな気なしに見られる。
言い換えれば、利害に気を奪われないから、全力を挙げて彼らの動作を芸術の面から観察することができる。
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言を換えて云えば、利害に気を奪われないから、全力を挙げて彼らの動作を芸術の方面から観察する事が出来る。
余念もなく、美か美でないかを見きわめることができる。
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余念もなく美か美でないかと鑒識する事が出来る。
ここまで決心をした時、空があやしくなってきた。
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ここまで決心をした時、空があやしくなって来た。
煮え切らない雲が、頭の上へもたれかかっていたと思ったが、いつのまにか崩れ出して、四方はただ雲の海かと疑われるなかから、しとしとと春の雨が降り出した。
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煮え切れない雲が、頭の上へ靠垂れ懸っていたと思ったが、いつのまにか、崩れ出して、四方はただ雲の海かと怪しまれる中から、しとしとと春の雨が降り出した。
菜の花はとうに通り過ぎて、今は山と山の間を行くのだが、雨の糸が細かくてほとんど霧と見まがうくらいだから、隔たりはどれほどか分からない。
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菜の花は疾くに通り過して、今は山と山の間を行くのだが、雨の糸が濃かでほとんど霧を欺くくらいだから、隔たりはどれほどかわからぬ。
時々風が来て、高い雲を吹き払うとき、薄黒い山の背が右手に見えることがある。
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時々風が来て、高い雲を吹き払うとき、薄黒い山の背が右手に見える事がある。
どうやら谷一つ隔てて向こうが、山脈の走っている所らしい。
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何でも谷一つ隔てて向うが脈の走っている所らしい。
左はすぐ山の裾と見える。
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左はすぐ山の裾と見える。
深く立ちこめる雨の奥から、松らしいものがちょくちょく顔を出す。
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深く罩める雨の奥から松らしいものが、ちょくちょく顔を出す。
出すかと思うと、隠れる。
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出すかと思うと、隠れる。
雨が動くのか、木が動くのか、夢が動くのか、何となく不思議な心持ちだ。
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雨が動くのか、木が動くのか、夢が動くのか、何となく不思議な心持ちだ。
道は思いのほか広くなって、その上平らだから、歩くのに骨は折れないが、雨具の用意がないので急ぐ。
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路は存外広くなって、かつ平だから、あるくに骨は折れんが、雨具の用意がないので急ぐ。
帽子から雨だれがぽたりぽたりと落ちるころ、十メートルほど先から鈴の音がして、雨の黒い中から馬子(まご、馬をひく人)がふうっと現れた。
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帽子から雨垂れがぽたりぽたりと落つる頃、五六間先きから、鈴の音がして、黒い中から、馬子がふうとあらわれた。
「ここらに休む所はないかね」
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「ここらに休む所はないかね」
「もう十五丁(一里半ほど)行くと茶屋がありますよ。だいぶ濡れたね」
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「もう十五丁行くと茶屋がありますよ。だいぶ濡れたね」
まだそんなにあるのかと、振り向いているうちに、馬子の姿は影絵のように雨に包まれて、またふうっと消えた。
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まだ十五丁かと、振り向いているうちに、馬子の姿は影画のように雨につつまれて、またふうと消えた。
糠のように見えた雨の粒は、しだいに太く長くなって、今では一筋一筋が風に巻かれる様子まで見えてくる。
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糠のように見えた粒は次第に太く長くなって、今は一筋ごとに風に捲かれる様までが目に入る。
羽織はとっくに濡れ尽くして、肌着に染み込んだ水が、体の温もりで生暖かく感じられる。
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羽織はとくに濡れ尽して肌着に浸み込んだ水が、身体の温度で生暖く感ぜられる。
気持ちが悪いから、帽子を傾けて、すたすた歩く。
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気持がわるいから、帽を傾けて、すたすた歩行く。
見わたす限り広がるうすずみ色の世界を、何本もの銀色の矢が斜めに走っていく。そのなかをひたすらぬれて歩く自分の姿を、自分ではない誰かの姿だと思えば、詩にもなる、俳句にも詠める。
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茫々たる薄墨色の世界を、幾条の銀箭が斜めに走るなかを、ひたぶるに濡れて行くわれを、われならぬ人の姿と思えば、詩にもなる、句にも咏まれる。
ありのままの自分を忘れ尽くして、まったくの客観に目を注ぐ時、はじめて私は絵の中の人物として、自然の眺めと美しい調和を保つ。
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有体なる己れを忘れ尽して純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ。
ただ降る雨が心苦しく、踏む足の疲れを気にかける瞬間には、私はもう詩の中の人でもなく、絵の中の人でもない。
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ただ降る雨の心苦しくて、踏む足の疲れたるを気に掛ける瞬間に、われはすでに詩中の人にもあらず、画裡の人にもあらず。
相変わらず、町にいるただの未熟な若者にすぎない。
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依然として市井の一豎子に過ぎぬ。
雲や霞が飛び動く趣も目に入らない。
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雲煙飛動の趣も眼に入らぬ。
散る花、鳴く鳥の情けも心に浮かばない。
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落花啼鳥の情けも心に浮ばぬ。
ものさびしく、ひとり春の山を行く自分がどれほど美しいかは、なおさら分からない。
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蕭々として独り春山を行く吾の、いかに美しきかはなおさらに解せぬ。
初めは帽子を傾けて歩いた。
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初めは帽を傾けて歩行た。
後にはただ足の甲だけを見詰めて歩いた。
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後にはただ足の甲のみを見詰めてあるいた。
終わりには肩をすぼめて、恐る恐る歩いた。
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終りには肩をすぼめて、恐る恐る歩行た。
雨は見渡すかぎりの梢を揺らして、四方から一人旅の私に迫る。
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雨は満目の樹梢を揺かして四方より孤客に逼る。
非人情が少し強過ぎたようだ。
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非人情がちと強過ぎたようだ。
二
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二
「おい」
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「おい」
と声を掛けたが返事がない。
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と声を掛けたが返事がない。
軒下から奥を覗くと、煤けた障子が閉め切ってある。
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軒下から奥を覗くと煤けた障子が立て切ってある。
向こう側は見えない。
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向う側は見えない。
五、六足の草鞋が寂しそうに庇から吊るされて、所在なげにふらりふらりと揺れる。
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五六足の草鞋が淋しそうに庇から吊されて、屈托気にふらりふらりと揺れる。
下に駄菓子の箱が三つばかり並んで、そばに五厘銭と文久銭(どちらも昔のお金)が散らばっている。
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下に駄菓子の箱が三つばかり並んで、そばに五厘銭と文久銭が散らばっている。
「おい」
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「おい」
とまた声をかける。
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とまた声をかける。
土間の隅に片寄せてある臼の上で、羽をふくらませていた鶏が、驚いて目を覚ます。
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土間の隅に片寄せてある臼の上に、ふくれていた鶏が、驚ろいて眼をさます。
ククク、クククと騒ぎ出す。
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ククク、クククと騒ぎ出す。
敷居の外に土のかまどが、今しがたの雨に濡れて半分ほど色が変わっている上に、真っ黒な茶釜がかけてあるが、土の茶釜か、銀の茶釜か分からない。
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敷居の外に土竈が、今しがたの雨に濡れて、半分ほど色が変ってる上に、真黒な茶釜がかけてあるが、土の茶釜か、銀の茶釜かわからない。
幸い下は焚きつけてある。
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幸い下は焚きつけてある。
返事がないから、無断でずっと入って、床几(しょうぎ、折りたたみ式の腰かけ)の上へ腰を下ろした。
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返事がないから、無断でずっと這入って、床几の上へ腰を卸した。
鶏は羽ばたきをして臼から飛び下りる。
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鶏は羽摶きをして臼から飛び下りる。
今度は畳の上へあがった。
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今度は畳の上へあがった。
障子が閉めてなければ奥まで駆け抜ける気かもしれない。
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障子がしめてなければ奥まで馳けぬける気かも知れない。
雄が太い声でこけっこっこと言うと、雌が細い声でけけっこっこと言う。
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雄が太い声でこけっこっこと云うと、雌が細い声でけけっこっこと云う。
まるで私を狐か犬のように思っているらしい。
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まるで余を狐か狗のように考えているらしい。
床几の上には一升ますくらいの大きさの煙草盆がひっそり控えて、中にはとぐろを巻いた線香が、日の移るのを知らん顔で、ずいぶんのんびりと燻っている。
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床几の上には一升枡ほどな煙草盆が閑静に控えて、中にはとぐろを捲いた線香が、日の移るのを知らぬ顔で、すこぶる悠長に燻っている。
雨はしだいに収まる。
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雨はしだいに収まる。
しばらくすると、奥の方から足音がして、煤けた障子がさらりと開く。
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しばらくすると、奥の方から足音がして、煤けた障子がさらりと開く。
なかから一人の婆さんが出る。
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なかから一人の婆さんが出る。
どうせ誰か出るだろうとは思っていた。
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どうせ誰か出るだろうとは思っていた。
かまどに火は燃えている。
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竈に火は燃えている。
菓子箱の上に銭が散らばっている。
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菓子箱の上に銭が散らばっている。
線香はのんきに燻っている。
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線香は呑気に燻っている。
どうせ出るに決まっている。
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どうせ出るにはきまっている。
しかし自分の店を開けっ放しにしても平気らしいところが、少し都とは違っている。
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しかし自分の見世を明け放しても苦にならないと見えるところが、少し都とは違っている。
返事がないのに床几に腰をかけて、いつまでも待っているのも、少し二十世紀とは受け取れない。
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返事がないのに床几に腰をかけて、いつまでも待ってるのも少し二十世紀とは受け取れない。
こういうところが非人情で面白い。
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ここらが非人情で面白い。
その上、出て来た婆さんの顔が気に入った。
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その上出て来た婆さんの顔が気に入った。
二、三年前、宝生(ほうしょう、能の流派の一つ)の舞台で「高砂」(たかさご、能の演目の一つ)を見たことがある。
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二三年前宝生の舞台で高砂を見た事がある。
その時、これは美しい活人画(かつじんが、人が絵のようにじっと動かずにいる見世物)だと思った。
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その時これはうつくしい活人画だと思った。
ほうきをかついだお爺さんが、能舞台の橋がかり(舞台に続く通路)を五、六歩歩いてきて、そろりと後ろを向いて、お婆さんと向かい合う。
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箒を担いだ爺さんが橋懸りを五六歩来て、そろりと後向になって、婆さんと向い合う。
その向かい合った姿勢が今でも目に残る。
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その向い合うた姿勢が今でも眼につく。
私の席からは婆さんの顔がほとんど真正面に見えたから、ああ美しいと思った時に、その表情はぴしゃりと心のカメラへ焼き付いてしまった。
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余の席からは婆さんの顔がほとんど真むきに見えたから、ああうつくしいと思った時に、その表情はぴしゃりと心のカメラへ焼き付いてしまった。
茶店の婆さんの顔は、この写真に血を通わせたほど似ている。
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茶店の婆さんの顔はこの写真に血を通わしたほど似ている。
「お婆さん、ここをちょっと借りたよ」
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「御婆さん、ここをちょっと借りたよ」
「はい、これは、まったく気がつきませんで」
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「はい、これは、いっこう存じませんで」
「だいぶ降ったね」
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「だいぶ降ったね」
「あいにくのお天気で、さぞお困りでしょう。おやおや、だいぶお濡れになった。今、火を焚いて乾かして差し上げましょう」
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「あいにくな御天気で、さぞ御困りで御座んしょ。おおおおだいぶお濡れなさった。今火を焚いて乾かして上げましょ」
「そこをもう少し燃やしつけてくれれば、あたりながら乾かすよ。どうも少し休んだら寒くなった」
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「そこをもう少し燃しつけてくれれば、あたりながら乾かすよ。どうも少し休んだら寒くなった」
「はい、ただいま焚いて差し上げます。まあお茶を一つ」
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「へえ、ただいま焚いて上げます。まあ御茶を一つ」
と立ち上がりながら、しっしっと二声で鶏を追い下げる。
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と立ち上がりながら、しっしっと二声で鶏を追い下げる。
ここここと駆け出した夫婦は、焦げ茶色の畳から、駄菓子箱の中を踏みつけて、往来へ飛び出す。
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ここここと馳け出した夫婦は、焦茶色の畳から、駄菓子箱の中を踏みつけて、往来へ飛び出す。
雄の方が逃げるとき駄菓子の上へ糞を垂れた。
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雄の方が逃げるとき駄菓子の上へ糞を垂れた。
「まあ一つ」
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「まあ一つ」
と婆さんは、いつのまにか木をくりぬいたお盆の上に茶碗をのせて出す。
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と婆さんはいつの間にか刳り抜き盆の上に茶碗をのせて出す。
茶の色が黒く焦げついている底に、一筆がきの梅の花が三輪、無造作に焼き付けられている。
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茶の色の黒く焦げている底に、一筆がきの梅の花が三輪無雑作に焼き付けられている。
「お菓子を」
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「御菓子を」
と、今度は鶏に踏まれた胡麻ねじと微塵棒(どちらも昔ながらの手作りのお菓子)を持ってくる。
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と今度は鶏の踏みつけた胡麻ねじと微塵棒を持ってくる。
糞はどこかについていないかと眺めてみたが、それは箱のなかに取り残されていた。
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糞はどこぞに着いておらぬかと眺めて見たが、それは箱のなかに取り残されていた。
婆さんは袖無しの上から襷をかけて、かまどの前へうずくまる。
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婆さんは袖無しの上から、襷をかけて、竈の前へうずくまる。
私は懐から写生帖を取り出して、婆さんの横顔を写しながら、話しかける。
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余は懐から写生帖を取り出して、婆さんの横顔を写しながら、話しをしかける。
「静かでいいね」
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「閑静でいいね」
「はい、ご覧の通りの山里で」
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「へえ、御覧の通りの山里で」
「鶯は鳴くかね」
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「鶯は鳴くかね」
「ええ、毎日のように鳴きます。ここらは夏も鳴きます」
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「ええ毎日のように鳴きます。此辺は夏も鳴きます」
「聞きたいな。ちっとも聞こえないと、なお聞きたい」
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「聞きたいな。ちっとも聞えないとなお聞きたい」
「あいにく今日は――さっきの雨でどこかへ逃げました」
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「あいにく今日は――先刻の雨でどこぞへ逃げました」
ちょうどその時、かまどのうちがぱちぱちと鳴って、赤い火がさっと風を起こして三十センチほど吹き出す。
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折りから、竈のうちが、ぱちぱちと鳴って、赤い火が颯と風を起して一尺あまり吹き出す。
「さあ、おあたりなさい。さぞお寒いでしょう」
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「さあ、御あたり。さぞ御寒かろ」
と言う。
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と云う。
軒端を見ると青い煙が、突き当たって崩れながら、かすかな跡をまだ板庇にからませている。
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軒端を見ると青い煙りが、突き当って崩れながらに、微かな痕をまだ板庇にからんでいる。
「ああ、いい心持ちだ、おかげで生き返った」
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「ああ、好い心持ちだ、御蔭で生き返った」
「いい具合に雨も晴れました。ほら、天狗巌(てんぐいわ)が見え出しました」
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「いい具合に雨も晴れました。そら天狗巌が見え出しました」
曇りやすい春の空を、いらだつように吹き払う山からの強い風が、思いきりよく吹き抜けた手前の山の一角は、すっかり晴れわたっていた。お婆さんの指さす方に高くとがって、あらけずりの柱のようにそびえているのが天狗岩だそうだ。
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逡巡として曇り勝ちなる春の空を、もどかしとばかりに吹き払う山嵐の、思い切りよく通り抜けた前山の一角は、未練もなく晴れ尽して、老嫗の指さす方に巑岏と、あら削りの柱のごとく聳えるのが天狗岩だそうだ。
私はまず天狗岩を眺めて、次にお婆さんを眺めて、三度目には半分ずつ両方を見比べた。
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余はまず天狗巌を眺めて、次に婆さんを眺めて、三度目には半々に両方を見比べた。
画家として私の頭の中にある、お婆さんの顔といえば、「高砂」に出てくるおばあさんと、蘆雪(ろせつ)という画家が描いた山姥(やまうば)だけである。
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画家として余が頭のなかに存在する婆さんの顔は高砂の媼と、蘆雪のかいた山姥のみである。
蘆雪の絵を見たとき、理想のお婆さんは物凄いものだと感じた。
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蘆雪の図を見たとき、理想の婆さんは物凄いものだと感じた。
紅葉のなかか、寒い月の下に置くべきものと考えた。
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紅葉のなかか、寒い月の下に置くべきものと考えた。
宝生の別会能(べつかいのう、特別な能の公演)を見て、なるほど、お年寄りの女性にもこんなやさしい表情があるものかと驚いた。
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宝生の別会能を観るに及んで、なるほど老女にもこんな優しい表情があり得るものかと驚ろいた。
あの面はきっと名人の刻んだものだろう。
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あの面は定めて名人の刻んだものだろう。
惜しいことに作者の名は聞き落としたが、老人もこう表せば、豊かに、穏やかに、あたたかに見える。
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惜しい事に作者の名は聞き落したが、老人もこうあらわせば、豊かに、穏やかに、あたたかに見える。
金屏風にも、春風にも、あるいは桜にもあしらって差し支えない道具である。
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金屏にも、春風にも、あるは桜にもあしらって差し支ない道具である。
私は天狗岩よりも、腰を伸ばして、手をかざして、遠く向こうを指さしている袖無し姿のお婆さんを、春の山路の眺めとしてぴったりのものだと考えた。
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余は天狗岩よりは、腰をのして、手を翳して、遠く向うを指している、袖無し姿の婆さんを、春の山路の景物として恰好なものだと考えた。
私が写生帖を取り上げて、もうしばらくそのままで、と思った途端に、お婆さんの姿勢は崩れた。
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余が写生帖を取り上げて、今しばらくという途端に、婆さんの姿勢は崩れた。
手持ち無沙汰に写生帖を火にあてて乾かしながら、
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手持無沙汰に写生帖を、火にあてて乾かしながら、
「お婆さん、丈夫そうだね」
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「御婆さん、丈夫そうだね」
と尋ねた。
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と訊ねた。
「はい。ありがたいことに達者で――針も持ちます、麻糸もうみます、お団子の粉も挽きます」
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「はい。ありがたい事に達者で――針も持ちます、苧もうみます、御団子の粉も磨きます」
このお婆さんに石臼を挽かせてみたくなった。
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この御婆さんに石臼を挽かして見たくなった。
しかしそんな注文もできないから、
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しかしそんな注文も出来ぬから、
「ここから那古井までは一里足らずだったね」
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「ここから那古井までは一里足らずだったね」
と別なことを聞いてみる。
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と別な事を聞いて見る。
「はい、二十八丁(三キロほど)と申します。旦那様は湯治(とうじ、温泉で体を治すこと)にお越しで……」
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「はい、二十八丁と申します。旦那は湯治に御越しで……」
「混んでいなければ、少し泊まろうかと思うが、まあ気が向けばね」
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「込み合わなければ、少し逗留しようかと思うが、まあ気が向けばさ」
「いえ、戦争が始まりましてから、とんと来る人はございません。まるで締め切り同然でございます」
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「いえ、戦争が始まりましてから、頓と参るものは御座いません。まるで締め切り同様で御座います」
「妙なことだね。それじゃ泊めてくれないかもしれないね」
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「妙な事だね。それじゃ泊めてくれないかも知れんね」
「いえ、お頼みになればいつでも泊めます」
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「いえ、御頼みになればいつでも宿めます」
「宿屋はたった一軒だったね」
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「宿屋はたった一軒だったね」
「はい、志保田(しほだ)さんとお聞きになればすぐ分かります。村のお金持ちで、湯治場だか、隠居所(いんきょじょ、仕事をやめた人が静かに暮らす家)だか分かりません」
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「へえ、志保田さんと御聞きになればすぐわかります。村のものもちで、湯治場だか、隠居所だかわかりません」
「じゃ、お客がなくても平気なわけだ」
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「じゃ御客がなくても平気な訳だ」
「旦那は初めてで」
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「旦那は始めてで」
「いや、ずっと前にちょっと行ったことがある」
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「いや、久しい以前ちょっと行った事がある」
会話はちょっと途切れる。
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会話はちょっと途切れる。
帳面をあけて、さっきの鶏を静かに写生していると、落ち着いた耳の底へ、じゃらんじゃらんという馬の鈴が聞こえ出した。
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帳面をあけて先刻の鶏を静かに写生していると、落ちついた耳の底へじゃらんじゃらんと云う馬の鈴が聴え出した。
この声がおのずと拍子をとって、頭の中に一種の調子ができる。
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この声がおのずと、拍子をとって頭の中に一種の調子が出来る。
眠りながら、夢の中で隣の臼の音に誘われるような心持ちである。
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眠りながら、夢に隣りの臼の音に誘われるような心持ちである。
私は鶏の写生をやめて、同じページの端に、
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余は鶏の写生をやめて、同じページの端に、
春風や惟然(いねん)が耳に馬の鈴(春風の中、俳人・惟然の耳に馬の鈴の音がひびく、という句)
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春風や惟然が耳に馬の鈴
と書いてみた。
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と書いて見た。
山を登ってから、馬には五、六匹会った。
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山を登ってから、馬には五六匹逢った。
会った五、六匹はみな腹掛けをかけて、鈴を鳴らしている。
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逢った五六匹は皆腹掛をかけて、鈴を鳴らしている。
今の世の馬とは思われない。
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今の世の馬とは思われない。
やがてのどかな馬子唄が、春も更けた人けのない山道の夢を破る。
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やがて長閑な馬子唄が、春に更けた空山一路の夢を破る。
憐れの底に気楽な響きがこもって、どう考えても絵にかいた声だ。
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憐れの底に気楽な響がこもって、どう考えても画にかいた声だ。
馬子唄の鈴鹿(すずか、峠の名前)越えるや春の雨(馬子唄を歌いながら鈴鹿峠を越えていく、春の雨の中、という句)
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馬子唄の鈴鹿越ゆるや春の雨
と、今度は斜めに書きつけたが、書いてみて、これは自分の句ではないと気がついた。
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と、今度は斜に書きつけたが、書いて見て、これは自分の句でないと気がついた。
「また誰か来ました」
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「また誰ぞ来ました」
と婆さんが半ば独り言のように言う。
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と婆さんが半ば独り言のように云う。
ただ一筋の春の道だから、行くのも帰るのも、みな顔なじみと見える。
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ただ一条の春の路だから、行くも帰るも皆近づきと見える。
さっき会った五、六匹のじゃらんじゃらんも、ことごとくこの婆さんの腹の中で、また誰か来たと思われては山を下り、思われては山を登ったのだろう。
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最前逢うた五六匹のじゃらんじゃらんもことごとくこの婆さんの腹の中でまた誰ぞ来たと思われては山を下り、思われては山を登ったのだろう。
道はひっそりと昔から今までの春を貫いて、花をうるさがれば足の踏み場もないような小さな村に、婆さんは何年もの昔からじゃらん、じゃらんを数え尽くして、今日の白髪頭に至ったのだろう。
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路寂寞と古今の春を貫いて、花を厭えば足を着くるに地なき小村に、婆さんは幾年の昔からじゃらん、じゃらんを数え尽くして、今日の白頭に至ったのだろう。
馬子唄や白髪も染めず暮れる春(白髪を染めもせずに、馬子唄を聞きながら春が暮れていく、という句)
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馬子唄や白髪も染めで暮るる春
と次のページへ書きつけたが、これでは自分の感じを言い尽くせない、もう少し工夫のありそうなものだと、鉛筆の先を見詰めながら考えた。
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と次のページへ認めたが、これでは自分の感じを云い終せない、もう少し工夫のありそうなものだと、鉛筆の先を見詰めながら考えた。
何でも「白髪」という言葉を入れて、「幾代」という古い言い方も入れて、「馬子唄」という題も入れて、春を表す言葉も加えて、それを十七文字にまとめたいと工夫しているうちに、
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何でも白髪という字を入れて、幾代の節と云う句を入れて、馬子唄という題も入れて、春の季も加えて、それを十七字に纏めたいと工夫しているうちに、
「はい、今日は」
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「はい、今日は」
と本物の馬子が店先に止まって大きな声をかける。
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と実物の馬子が店先に留って大きな声をかける。
「おや、源さんか。また城下へ行くのかい」
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「おや源さんか。また城下へ行くかい」
「何か買物があるなら頼まれてあげるよ」
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「何か買物があるなら頼まれて上げよ」
「そうさ、鍛冶町を通ったら、娘に霊厳寺のお札を一枚もらってきておくれ」
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「そうさ、鍛冶町を通ったら、娘に霊厳寺の御札を一枚もらってきておくれなさい」
「はい、もらってきてやろう。一枚か。――お秋さんはいい所へ片づいて仕合せだ。なあ、おばさん」
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「はい、貰ってきよ。一枚か。――御秋さんは善い所へ片づいて仕合せだ。な、御叔母さん」
「ありがたいことに、今のところ困りません。まあ仕合せと言うのだろうかね」
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「ありがたい事に今日には困りません。まあ仕合せと云うのだろか」
「仕合せだとも。あの那古井のお嬢さんと比べてご覧」
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「仕合せとも、御前。あの那古井の嬢さまと比べて御覧」
「本当にお気の毒な。あんな器量を持って。近頃は少しは具合がいいのかい」
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「本当に御気の毒な。あんな器量を持って。近頃はちっとは具合がいいかい」
「なあに、相変わらずさ」
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「なあに、相変らずさ」
「困るなあ」
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「困るなあ」
と婆さんが大きな息をつく。
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と婆さんが大きな息をつく。
「困るよう」
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「困るよう」
と源さんが馬の鼻を撫でる。
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と源さんが馬の鼻を撫でる。
枝の茂った山桜の葉も花も、深い空から落ちたままの雨のかたまりを、しっとりと宿していたが、この時わたる風に足をすくわれて、いたたまれずに、仮の住まいをさらさらと転げ落ちる。
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枝繁き山桜の葉も花も、深い空から落ちたままなる雨の塊まりを、しっぽりと宿していたが、この時わたる風に足をすくわれて、いたたまれずに、仮りの住居を、さらさらと転げ落ちる。
馬は驚いて、長いたてがみを上下に振る。
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馬は驚ろいて、長い鬣を上下に振る。
「コーラッ」
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「コーラッ」
と叱りつける源さんの声が、じゃらん、じゃらんと共に私の瞑想を破る。
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と叱りつける源さんの声が、じゃらん、じゃらんと共に余の冥想を破る。
お婆さんが言う。
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御婆さんが云う。
「源さん、私はね、お嫁入りのときの姿が、まだ目の前にちらついている。裾模様の振袖に、高島田で、馬に乗って……」
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「源さん、わたしゃ、お嫁入りのときの姿が、まだ眼前に散らついている。裾模様の振袖に、高島田で、馬に乗って……」
「そうさ、船ではなかった。馬だった。やはりここで休んで行ったな、おばさん」
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「そうさ、船ではなかった。馬であった。やはりここで休んで行ったな、御叔母さん」
「ええ、その桜の下でお嬢さんの馬が止まったとき、桜の花がほろほろと落ちて、せっかくの島田にまだらができました」
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「あい、その桜の下で嬢様の馬がとまったとき、桜の花がほろほろと落ちて、せっかくの島田に斑が出来ました」
私はまた写生帖をあける。
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余はまた写生帖をあける。
この景色は絵にもなる、詩にもなる。
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この景色は画にもなる、詩にもなる。
心のうちに花嫁の姿を浮かべて、当時の様子を想像してみて、したり顔で、
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心のうちに花嫁の姿を浮べて、当時の様を想像して見てしたり顔に、
花の頃越えてけなげな馬の嫁(桜の咲くころ、峠を越えていく、けなげなお嫁さんを乗せた馬、という句)
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花の頃を越えてかしこし馬に嫁
と書きつける。
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と書きつける。
不思議なことには、衣装も髪も馬も桜もはっきりと目に映ったが、花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。
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不思議な事には衣装も髪も馬も桜もはっきりと目に映じたが、花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。
しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレー(イギリスの画家)が描いた、オフェリヤという女性の面影が突然出てきて、高島田の下へすっぽりとはまった。
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しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの面影が忽然と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった。
これは駄目だと、せっかくの構図をさっそく取り崩す。
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これは駄目だと、せっかくの図面を早速取り崩す。
衣装も髪も馬も桜も一瞬のうちに心の道具立てからきれいに立ち退いたが、オフェリヤが合掌して水の上を流れて行く姿だけは、ぼんやりと胸の底に残って、ほうきで煙を払うように、さっぱりしなかった。
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衣装も髪も馬も桜も一瞬間に心の道具立から奇麗に立ち退いたが、オフェリヤの合掌して水の上を流れて行く姿だけは、朦朧と胸の底に残って、棕梠箒で煙を払うように、さっぱりしなかった。
空に尾を引く彗星のように、何となく妙な気になる。
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空に尾を曳く彗星の何となく妙な気になる。
「それじゃ、まあ御免」
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「それじゃ、まあ御免」
と源さんが挨拶する。
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と源さんが挨拶する。
「帰りにまたお寄り。あいにくの降りで七曲がりは難儀だろう」
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「帰りにまた御寄り。あいにくの降りで七曲りは難義だろ」
「はい、少し骨が折れるよ」
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「はい、少し骨が折れよ」
と源さんは歩き出す。
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と源さんは歩行出す。
源さんの馬も歩き出す。
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源さんの馬も歩行出す。
じゃらんじゃらん。
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じゃらんじゃらん。
「あれは那古井の男かい」
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「あれは那古井の男かい」
「はい、那古井の源兵衛でございます」
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「はい、那古井の源兵衛で御座んす」
「あの男がどこかの嫁さんを馬へ乗せて、峠を越したのかい」
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「あの男がどこぞの嫁さんを馬へ乗せて、峠を越したのかい」
「志保田のお嬢さんが城下へお輿入れのときに、お嬢さんを青毛の馬に乗せて、源兵衛が手綱を引いて通りました。――月日の立つのは早いもので、もう今年で五年になります」
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「志保田の嬢様が城下へ御輿入のときに、嬢様を青馬に乗せて、源兵衛が覊絏を牽いて通りました。――月日の立つのは早いもので、もう今年で五年になります」
鏡に向かうときだけ、自分の頭の白いのを嘆く者は、幸福の部類に属する人である。
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鏡に対うときのみ、わが頭の白きを喞つものは幸の部に属する人である。
指を折ってはじめて、五年の月日の流れに、時のめぐりの速さを知ったお婆さんは、人間としてはむしろ仙人に近づいている方だろう。
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指を折って始めて、五年の流光に、転輪の疾き趣を解し得たる婆さんは、人間としてはむしろ仙に近づける方だろう。
私はこう答えた。
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余はこう答えた。
「さぞ美しかっただろう。見に来ればよかった」
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「さぞ美くしかったろう。見にくればよかった」
「ハハハ、今でもご覧になれます。湯治場へお越しになれば、きっと出てご挨拶をなさるでしょう」
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「ハハハ今でも御覧になれます。湯治場へ御越しなされば、きっと出て御挨拶をなされましょう」
「へえ、今では里にいるのかい。やはり裾模様の振袖を着て、高島田に結っていればいいが」
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「はあ、今では里にいるのかい。やはり裾模様の振袖を着て、高島田に結っていればいいが」
「頼んでご覧なさい。着て見せますよ」
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「たのんで御覧なされ。着て見せましょ」
私はまさかと思ったが、婆さんの様子は思いのほか真面目である。
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余はまさかと思ったが、婆さんの様子は存外真面目である。
非人情の旅には、こんなのが出なくては面白くない。
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非人情の旅にはこんなのが出なくては面白くない。
婆さんが言う。
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婆さんが云う。
「お嬢さんと長良(ながら)の乙女とはよく似ております」
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「嬢様と長良の乙女とはよく似ております」
「顔がかい」
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「顔がかい」
「いいえ。身の成り行きがでございます」
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「いいえ。身の成り行きがで御座んす」
「へえ、その長良の乙女というのは何者だい」
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「へえ、その長良の乙女と云うのは何者かい」
「昔、この村に長良の乙女という、美しい長者(ちょうじゃ、大金持ち)の娘がいたそうでございます」
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「昔しこの村に長良の乙女と云う、美くしい長者の娘が御座りましたそうな」
「へえ」
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「へえ」
「ところがその娘に二人の男が一度に恋をして、あなた」
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「ところがその娘に二人の男が一度に懸想して、あなた」
「なるほど」
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「なるほど」
「ささだ男になびこうか、ささべ男になびこうかと、娘は明け暮れ思い煩ったが、どちらへもなびきかねて、とうとう
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「ささだ男に靡こうか、ささべ男に靡こうかと、娘はあけくれ思い煩ったが、どちらへも靡きかねて、とうとう
あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも(秋になると、すすきの上に置く露のように、消えてしまいたいと私は思う、という意味の歌)
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あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも
という歌を詠んで、淵川へ身を投げて果てました」
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と云う歌を咏んで、淵川へ身を投げて果てました」
私はこんな山里へ来て、こんな婆さんから、こんな古風で品のいい言葉で、こんな古風な話を聞こうとは思いがけなかった。
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余はこんな山里へ来て、こんな婆さんから、こんな古雅な言葉で、こんな古雅な話をきこうとは思いがけなかった。
「これから五丁(五百メートルほど)東へ下ると、道端に五輪塔(ごりんのとう、石を五つ重ねた昔のお墓)がございます。ついでに長良の乙女のお墓を見ておいでなさい」
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「これから五丁東へ下ると、道端に五輪塔が御座んす。ついでに長良の乙女の墓を見て御行きなされ」
私は心のうちに、ぜひ見て行こうと決心した。
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余は心のうちに是非見て行こうと決心した。
婆さんは、そのあとを語りつづける。
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婆さんは、そのあとを語りつづける。
「那古井のお嬢さんにも二人の男がまとわりつきました。一人はお嬢さんが京都へ修行に出ておいでの頃にお会いなさった方で、一人はここの城下で随一の物持ちでございます」
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「那古井の嬢様にも二人の男が祟りました。一人は嬢様が京都へ修行に出て御出での頃御逢いなさったので、一人はここの城下で随一の物持ちで御座んす」
「はあ、お嬢さんはどっちへなびいたんだい」
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「はあ、御嬢さんはどっちへ靡いたかい」
「ご自分はぜひ京都の方へとお望みなさったのを、そこには色々わけもあったのでしょうが、親御さんが無理にこちらへ取り決めて……」
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「御自身は是非京都の方へと御望みなさったのを、そこには色々な理由もありましたろが、親ご様が無理にこちらへ取りきめて……」
「めでたく、淵川へ身を投げないで済んだわけだね」
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「めでたく、淵川へ身を投げんでも済んだ訳だね」
「ところが――先方でも器量を見込んでもらいなさったのだから、ずいぶん大事にはなさったかもしれませんが、もともと無理に行かされたのだから、どうも折り合いが悪くて、ご親類でもだいぶご心配の様子でございました。そこへ今度の戦争で、旦那様の勤めておいでの銀行がつぶれました。それからお嬢さんは、また那古井の方へお帰りになります。世間ではお嬢さんのことを不人情だとか、薄情だとか色々申します。もとはごくごく内気で優しい方が、この頃ではだいぶ気が荒くなって、何だか心配だと源兵衛が来るたびに申します。……」
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「ところが――先方でも器量望みで御貰いなさったのだから、随分大事にはなさったかも知れませぬが、もともと強いられて御出なさったのだから、どうも折合がわるくて、御親類でもだいぶ御心配の様子で御座んした。ところへ今度の戦争で、旦那様の勤めて御出の銀行がつぶれました。それから嬢様はまた那古井の方へ御帰りになります。世間では嬢様の事を不人情だとか、薄情だとか色々申します。もとは極々内気の優しいかたが、この頃ではだいぶ気が荒くなって、何だか心配だと源兵衛が来るたびに申します。……」
これから先を聞くと、せっかくの趣向が壊れる。
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これからさきを聞くと、せっかくの趣向が壊れる。
ようやく仙人になりかけたところを、誰か来て羽衣を返せ返せと催促するような気がする。
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ようやく仙人になりかけたところを、誰か来て羽衣を帰せ帰せと催促するような気がする。
七曲がりの険しさを冒して、やっとの思いでここまで来たものを、そうむやみに俗世間へ引きずり下ろされては、ふらりと家を出た甲斐がない。
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七曲りの険を冒して、やっとの思で、ここまで来たものを、そうむやみに俗界に引きずり下されては、飄然と家を出た甲斐がない。
世間話もある程度以上に立ち入ると、浮世の匂いが毛穴から染み込んで、垢で体が重くなる。
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世間話しもある程度以上に立ち入ると、浮世の臭いが毛孔から染込んで、垢で身体が重くなる。
「お婆さん、那古井へは一本道だね」
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「御婆さん、那古井へは一筋道だね」
と十銭銀貨を一枚、床几の上へかちりと投げ出して立ち上がる。
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と十銭銀貨を一枚床几の上へかちりと投げ出して立ち上がる。
「長良の五輪塔から右へお下りになると、六丁(六百メートルほど)の近道になります。道は悪いですが、お若い方にはその方がよろしいでしょう。――これはたくさんですがお茶代を――気をつけてお越しなさい」
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「長良の五輪塔から右へ御下りなさると、六丁ほどの近道になります。路はわるいが、御若い方にはその方がよろしかろ。――これは多分に御茶代を――気をつけて御越しなされ」
三
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三
昨夜は妙な気持ちがした。
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昨夕は妙な気持ちがした。
宿へ着いたのは夜の八時頃だったから、家の造りや庭の作り方はもちろん、東西の区別さえ分からなかった。
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宿へ着いたのは夜の八時頃であったから、家の具合庭の作り方は無論、東西の区別さえわからなかった。
何だか回廊のような所をしきりに引き回されて、しまいに六畳ほどの小さな座敷へ入れられた。
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何だか廻廊のような所をしきりに引き廻されて、しまいに六畳ほどの小さな座敷へ入れられた。
昔来た時とはまるで見当が違う。
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昔し来た時とはまるで見当が違う。
夕食を済まして、湯に入って、部屋へ帰って茶を飲んでいると、小女(こおんな、若い女中)が来て床を延べましょうかと言う。
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晩餐を済まして、湯に入って、室へ帰って茶を飲んでいると、小女が来て床を延べよかと云う。
不思議に思ったのは、宿へ着いた時の取次も、晩飯の給仕も、湯壺への案内も、床を敷く面倒も、ことごとくこの小女一人でやってのけている。
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不思議に思ったのは、宿へ着いた時の取次も、晩食の給仕も、湯壺への案内も、床を敷く面倒も、ことごとくこの小女一人で弁じている。
それで口はめったにきかない。
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それで口は滅多にきかぬ。
といって、田舎じみてもいない。
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と云うて、田舎染みてもおらぬ。
赤い帯をそっけなく結んで、古風な紙燭(しそく、紙のこよりで作った昔の明かり)をともして、廊下のような、階段のような所をぐるぐる歩かされたとき、同じ帯の同じ明かりで、同じ廊下とも階段ともつかない所を何度も下りて、お風呂へ連れて行かれたときには、もう自分でも、絵の中を行ったり来たりしているような気がした。
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赤い帯を色気なく結んで、古風な紙燭をつけて、廊下のような、梯子段のような所をぐるぐる廻わらされた時、同じ帯の同じ紙燭で、同じ廊下とも階段ともつかぬ所を、何度も降りて、湯壺へ連れて行かれた時は、すでに自分ながら、カンヴァスの中を往来しているような気がした。
給仕の時には、近頃は客がないので、ほかの座敷は掃除がしてないから、普段使っている部屋で我慢してくれと言った。
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給仕の時には、近頃は客がないので、ほかの座敷は掃除がしてないから、普段使っている部屋で我慢してくれと云った。
床を延べる時には、ゆっくりお休みなさいと人間らしい言葉を述べて出て行ったが、その足音が、例の曲がりくねった廊下を、しだいに下の方へ遠ざかった時に、あとがひっそりとして、人の気配がしないのが気になった。
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床を延べる時にはゆるりと御休みと人間らしい、言葉を述べて、出て行ったが、その足音が、例の曲りくねった廊下を、次第に下の方へ遠かった時に、あとがひっそりとして、人の気がしないのが気になった。
生まれてから、こんな経験はただ一度しかない。
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生れてから、こんな経験はただ一度しかない。
昔、房州を館山から向こうへ突き抜けて、上総から銚子まで浜伝いに歩いたことがある。
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昔し房州を館山から向うへ突き抜けて、上総から銚子まで浜伝いに歩行た事がある。
その時ある晩、ある所へ泊まった。
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その時ある晩、ある所へ宿た。
ある所と言うよりほかに言いようがない。
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ある所と云うよりほかに言いようがない。
今では土地の名も宿の名も、まるで忘れてしまった。
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今では土地の名も宿の名も、まるで忘れてしまった。
第一、宿屋へ泊まったのかどうかが問題である。
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第一宿屋へとまったのかが問題である。
棟の高い大きな家に女がたった二人いた。
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棟の高い大きな家に女がたった二人いた。
私が泊めてくれるかと聞いたとき、年を取った方がはいと言って、若い方がこちらへと案内をするから、ついて行くと、荒れ果てた広い部屋をいくつも通り越して、一番奥の中二階へ案内をした。
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余がとめるかと聞いたとき、年を取った方がはいと云って、若い方がこちらへと案内をするから、ついて行くと、荒れ果てた、広い間をいくつも通り越して一番奥の、中二階へ案内をした。
三段登って廊下から部屋へ入ろうとすると、板庇の下に傾きかけていた一群れの長い竹が、そよりと夕風を受けて、私の肩から頭を撫でたので、それだけでひやりとした。
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三段登って廊下から部屋へ這入ろうとすると、板庇の下に傾きかけていた一叢の修竹が、そよりと夕風を受けて、余の肩から頭を撫でたので、すでにひやりとした。
縁の板はすでに朽ちかかっている。
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椽板はすでに朽ちかかっている。
来年は筍が縁を突き抜いて座敷のなかは竹だらけになるだろうと言ったら、若い女は何も言わずににやにやと笑って、出て行った。
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来年は筍が椽を突き抜いて座敷のなかは竹だらけになろうと云ったら、若い女が何にも云わずににやにやと笑って、出て行った。
その晩は例の竹が、枕元でざわざわと鳴って、寝られない。
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その晩は例の竹が、枕元で婆娑ついて、寝られない。
障子をあけたら、庭は一面の草原で、夏の夜の月が明るいので目を走らせると、垣も塀もありはしない、まともに大きな草山に続いている。
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障子をあけたら、庭は一面の草原で、夏の夜の月明かなるに、眼を走しらせると、垣も塀もあらばこそ、まともに大きな草山に続いている。
草山の向こうはすぐ大海原で、どどんどどんと大きな波が人の世を脅かしに来る。
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草山の向うはすぐ大海原でどどんどどんと大きな濤が人の世を威嚇しに来る。
私はとうとう夜が明けるまで一睡もせずに、あやしげな蚊帳の中でがまんしながら、まるで草双紙(くさぞうし、昔の絵入りの物語の本)にでも出てきそうな話だと思った。
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余はとうとう夜の明けるまで一睡もせずに、怪し気な蚊帳のうちに辛防しながら、まるで草双紙にでもありそうな事だと考えた。
その後、旅もいろいろしたが、こんな気持ちになったことは、今夜この那古井へ泊まるまでは一度もなかった。
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その後旅もいろいろしたが、こんな気持になった事は、今夜この那古井へ宿るまではかつて無かった。
仰向けに寝ながら、たまたま目を開けてみると、欄間(らんま、ふすまの上の飾りの部分)に、朱塗りのふちを取った額がかかっている。
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仰向に寝ながら、偶然目を開けて見ると欄間に、朱塗りの縁をとった額がかかっている。
文字は寝ながらでも、竹の影が石段をはいても、塵は動かない、とはっきり読める。
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文字は寝ながらも竹影払階塵不動と明らかに読まれる。
大徹(だいてつ)という落款(らっかん、書いた人の名前のはんこ)もたしかに見える。
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大徹という落款もたしかに見える。
私は書道についてはまったく目利きではない男だが、ふだんから黄檗(おうばく、禅宗の一派)の高泉(こうせん)和尚の筆づかいが好きだ。
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余は書においては皆無鑒識のない男だが、平生から、黄檗の高泉和尚の筆致を愛している。
隠元(いんげん)も即非(そくひ)も木庵(もくあん)も、それぞれに面白いところはあるが、高泉の字がいちばん、古びていて力強く、しかも品がいい。
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隠元も即非も木庵もそれぞれに面白味はあるが、高泉の字が一番蒼勁でしかも雅馴である。
今この七字を見ると、筆のあたりから手の運び具合まで、どうしても高泉としか思われない。
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今この七字を見ると、筆のあたりから手の運び具合、どうしても高泉としか思われない。
しかし現に大徹とあるからには別人だろう。
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しかし現に大徹とあるからには別人だろう。
ことによると黄檗に大徹という坊さんがいたのかもしれない。
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ことによると黄檗に大徹という坊主がいたかも知れぬ。
それにしては紙の色が非常に新しい。
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それにしては紙の色が非常に新しい。
どうしても近頃のものとしか受け取れない。
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どうしても昨今のものとしか受け取れない。
横を向く。
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横を向く。
床の間にかかっている若冲(じゃくちゅう)の鶴の絵が目につく。
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床にかかっている若冲の鶴の図が目につく。
これは商売柄だけに、部屋に入った時、すでに逸品と認めた。
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これは商売柄だけに、部屋に這入った時、すでに逸品と認めた。
若冲の絵はたいてい細かい彩色ものが多いが、この鶴は世間への気兼ねなしの一筆がきで、一本足ですらりと立った上に、卵形の胴がふわっと乗っかっている様子は、はなはだ私の気に入って、飄々とした趣は長いくちばしの先まで籠もっている。
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若冲の図は大抵精緻な彩色ものが多いが、この鶴は世間に気兼なしの一筆がきで、一本足ですらりと立った上に、卵形の胴がふわっと乗かっている様子は、はなはだ吾意を得て、飄逸の趣は、長い嘴のさきまで籠っている。
床の間の隣りは違い棚を略して、普通の戸棚につづく。
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床の隣りは違い棚を略して、普通の戸棚につづく。
戸棚の中には何があるか分からない。
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戸棚の中には何があるか分らない。
すやすやと寝入る。
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すやすやと寝入る。
夢に。
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夢に。
長良の乙女が振袖を着て、青毛の馬に乗って、峠を越すと、いきなり、ささだ男と、ささべ男が飛び出して両方から引っ張る。
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長良の乙女が振袖を着て、青馬に乗って、峠を越すと、いきなり、ささだ男と、ささべ男が飛び出して両方から引っ張る。
女が急にオフェリヤになって、柳の枝へ登って、河の中を流れながら、美しい声で歌をうたう。
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女が急にオフェリヤになって、柳の枝へ上って、河の中を流れながら、うつくしい声で歌をうたう。
救ってやろうと思って、長い竿を持って、向島を追いかけて行く。
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救ってやろうと思って、長い竿を持って、向島を追懸けて行く。
女は苦しい様子もなく、笑いながら、うたいながら、行方も知らず流れを下る。
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女は苦しい様子もなく、笑いながら、うたいながら、行末も知らず流れを下る。
私は竿をかついで、おおいおおいと呼ぶ。
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余は竿をかついで、おおいおおいと呼ぶ。
そこで目が覚めた。
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そこで眼が醒めた。
脇の下から汗が出ている。
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腋の下から汗が出ている。
妙に雅と俗の入り混じった夢を見たものだと思った。
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妙に雅俗混淆な夢を見たものだと思った。
昔、宋(そう、中国の昔の国の名前)の大慧禅師(だいえぜんじ)という人は、悟りを開いたあと、何事も思いどおりにできないことはないが、ただ夢の中では俗っぽい気持ちが出てきて困ると、長い間これを気にしていたそうだが、なるほどもっともだ。
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昔し宋の大慧禅師と云う人は、悟道の後、何事も意のごとくに出来ん事はないが、ただ夢の中では俗念が出て困ると、長い間これを苦にされたそうだが、なるほどもっともだ。
文芸を命にする者は、もう少し美しい夢を見なければ一人前とは言えない。
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文芸を性命にするものは今少しうつくしい夢を見なければ幅が利かない。
こんな夢では大部分、絵にも詩にもならないと思いながら寝返りを打つと、いつのまにか障子に月がさして、木の枝が二、三本、斜めに影を落としている。
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こんな夢では大部分画にも詩にもならんと思いながら、寝返りを打つと、いつの間にか障子に月がさして、木の枝が二三本斜めに影をひたしている。
冴えるほどの春の夜だ。
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冴えるほどの春の夜だ。
気のせいか、誰か小声で歌をうたっているような気がする。
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気のせいか、誰か小声で歌をうたってるような気がする。
夢のなかの歌が、この世へ抜け出したのか、あるいはこの世の声が遠い夢の国へ、うつつのままに紛れ込んだのかと耳を澄ませる。
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夢のなかの歌が、この世へ抜け出したのか、あるいはこの世の声が遠き夢の国へ、うつつながらに紛れ込んだのかと耳を峙てる。
たしかに誰かうたっている。
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たしかに誰かうたっている。
細くて低い声には違いないが、眠ろうとする春の夜に、一筋の脈をかすかに打たせている。
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細くかつ低い声には相違ないが、眠らんとする春の夜に一縷の脈をかすかに搏たせつつある。
不思議なことに、その調子はともかく、文句を聞くと――枕元でやっているのではないから、文句の分かりようはない。――
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不思議な事に、その調子はとにかく、文句をきくと――枕元でやってるのでないから、文句のわかりようはない。――
その聞こえないはずのものが、よく聞こえる。
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その聞えぬはずのものが、よく聞える。
あきづけば、をばなが上に、おく露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも、という長良の乙女の歌を、くり返しくり返しているように思われる。
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あきづけば、をばなが上に、おく露の、けぬべくもわは、おもほゆるかもと長良の乙女の歌を、繰り返し繰り返すように思われる。
初めのうちは縁側に近く聞こえた声が、しだいしだいに細く遠のいて行く。
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初めのうちは椽に近く聞えた声が、しだいしだいに細く遠退いて行く。
突然やむものには、突然の感じはあるが、憐れは薄い。
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突然とやむものには、突然の感はあるが、憐れはうすい。
ふっつりと思い切った声を聞く人の心には、やはりふっつりと思い切った感じが起こる。
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ふっつりと思い切ったる声をきく人の心には、やはりふっつりと思い切ったる感じが起る。
これという切れ目もなく自然に細って、いつのまにか消えるはずの現象には、私もまた秒を縮め、分を割いて、心細さの細さがなお細る。
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これと云う句切りもなく自然に細りて、いつの間にか消えるべき現象には、われもまた秒を縮め、分を割いて、心細さの細さが細る。
死のうとしては、死のうとする病人のように、消えようとしては、消えようとする灯火のように、今やむか、やむかとばかり心を乱すこの歌の奥には、天下の春の恨みをことごとく集めた調べがある。
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死なんとしては、死なんとする病夫のごとく、消えんとしては、消えんとする灯火のごとく、今やむか、やむかとのみ心を乱すこの歌の奥には、天下の春の恨みをことごとく萃めたる調べがある。
今までは布団の中で我慢して聞いていたが、聞く声が遠ざかるにつれて、私の耳は、釣り出されると知りながらも、その声を追いかけたくなる。
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今までは床の中に我慢して聞いていたが、聞く声の遠ざかるに連れて、わが耳は、釣り出さるると知りつつも、その声を追いかけたくなる。
細くなればなるほど、耳だけになっても、あとを慕って飛んで行きたい気がする。
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細くなればなるほど、耳だけになっても、あとを慕って飛んで行きたい気がする。
もうどう焦っても鼓膜に応えはないだろうと思う、その一瞬前に、私はたまらなくなって、われ知らず布団をすり抜けると同時に、さらりと障子を開けた。
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もうどう焦慮ても鼓膜に応えはあるまいと思う一刹那の前、余はたまらなくなって、われ知らず布団をすり抜けると共にさらりと障子を開けた。
途端に自分の膝から下が斜めに月の光りを浴びる。
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途端に自分の膝から下が斜めに月の光りを浴びる。
寝巻の上にも木の影が揺れながら落ちた。
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寝巻の上にも木の影が揺れながら落ちた。
障子をあけた時には、そんなことには気がつかなかった。
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障子をあけた時にはそんな事には気がつかなかった。
あの声はと、耳の走る見当を見きわめると――向こうにいた。
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あの声はと、耳の走る見当を見破ると――向うにいた。
花ならば海棠(かいどう、木に咲くピンク色の花)かと思われる幹を背にして、よそよそしく月の光りを避けるように、ぼんやりとした人影があった。
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花ならば海棠かと思わるる幹を背に、よそよそしくも月の光りを忍んで朦朧たる影法師がいた。
あれかと思う意識さえ、はっきりとは心に映らないうちに、黒いものは花の影を踏み砕いて右へ切れた。
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あれかと思う意識さえ、確とは心にうつらぬ間に、黒いものは花の影を踏み砕いて右へ切れた。
私のいる部屋つづきの棟の角が、すらりと動く背の高い女の姿を、すぐに遮ってしまう。
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わがいる部屋つづきの棟の角が、すらりと動く、背の高い女姿を、すぐに遮ってしまう。
借り着の浴衣一枚で、障子につかまったまま、しばらくぼんやりとしていたが、やがて我に返ると、山里の春はなかなか寒いものだと悟った。
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借着の浴衣一枚で、障子へつらまったまま、しばらく茫然としていたが、やがて我に帰ると、山里の春はなかなか寒いものと悟った。
ともかくもと、抜け出した布団の穴に再び戻って考え出した。
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ともかくもと抜け出でた布団の穴に、再び帰参して考え出した。
くくり枕の下から懐中時計を出してみると、一時十分過ぎである。
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括り枕のしたから、袂時計を出して見ると、一時十分過ぎである。
再び枕の下へ押し込んで考え出した。
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再び枕の下へ押し込んで考え出した。
まさか化物ではないだろう。
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よもや化物ではあるまい。
化物でなければ人間で、人間とすれば女だ。
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化物でなければ人間で、人間とすれば女だ。
あるいはこの家のお嬢さんかもしれない。
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あるいは此家の御嬢さんかも知れない。
しかし、一度嫁いで実家に戻ってきたお嬢さんとしては、夜中に山つづきの庭へ出るのは、少しふつうではない。
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しかし出帰りの御嬢さんとしては夜なかに山つづきの庭へ出るのがちと不穏当だ。
何にしても、なかなか寝られない。
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何にしてもなかなか寝られない。
枕の下にある時計までがちくちく口をきく。
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枕の下にある時計までがちくちく口をきく。
今まで懐中時計の音が気になったことはないが、今夜に限って、さあ考えろ、さあ考えろと催促するように、寝るな寝るなと忠告するように口をきく。
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今まで懐中時計の音の気になった事はないが、今夜に限って、さあ考えろ、さあ考えろと催促するごとく、寝るな寝るなと忠告するごとく口をきく。
けしからん。
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怪しからん。
怖いものも、ただ怖いものそのままの姿と見れば詩になる。
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怖いものもただ怖いものそのままの姿と見れば詩になる。
凄いことも、自分を離れて、ただ単独に凄いのだと思えば絵になる。
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凄い事も、己れを離れて、ただ単独に凄いのだと思えば画になる。
失恋が芸術の題目となるのも、まったくその通りである。
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失恋が芸術の題目となるのも全くその通りである。
失恋の苦しみを忘れて、そのやさしいところやら、同情の宿るところやら、憂いのこもるところやら、一歩進めて言えば失恋の苦しみそのものがあふれるところやらを、単に客観的に目の前に思い浮かべるから、文学美術の材料になる。
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失恋の苦しみを忘れて、そのやさしいところやら、同情の宿るところやら、憂のこもるところやら、一歩進めて云えば失恋の苦しみそのものの溢るるところやらを、単に客観的に眼前に思い浮べるから文学美術の材料になる。
世にはありもしない失恋を作り出して、自分から進んで悶えて、愉快をむさぼる者がある。
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世には有りもせぬ失恋を製造して、自から強いて煩悶して、愉快を貪ぼるものがある。
普通の人はこれを評して愚かだと言う、気が変だと言う。
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常人はこれを評して愚だと云う、気違だと云う。
しかし自分から不幸の輪郭を描いて、好んでその中で寝起きするのは、自分でありもしない山水を描き出して、壺の中の別天地に喜ぶのと、その芸術的な立ち位置を得た点においてまったく等しいと言わなければならない。
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しかし自から不幸の輪廓を描いて好んでその中に起臥するのは、自から烏有の山水を刻画して壺中の天地に歓喜すると、その芸術的の立脚地を得たる点において全く等しいと云わねばならぬ。
この点において、世間の多くの芸術家は(日常の人としてはいざ知らず)芸術家として普通の人よりも愚かである、気が変である。
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この点において世上幾多の芸術家は(日常の人としてはいざ知らず)芸術家として常人よりも愚である、気違である。
私たちは徒歩の旅をする間、朝から晩まで苦しい、苦しいと不平を鳴らし続けているが、人に向かって昔の旅を語る時分には、不平らしい様子は少しも見せない。
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われわれは草鞋旅行をする間、朝から晩まで苦しい、苦しいと不平を鳴らしつづけているが、人に向って曾遊を説く時分には、不平らしい様子は少しも見せぬ。
面白かったこと、愉快だったことはもちろん、昔の不平までも得意になってしゃべり立てて、したり顔である。
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面白かった事、愉快であった事は無論、昔の不平をさえ得意に喋々して、したり顔である。
これは何も自分をあざむくの、人をだますのという了見ではない。
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これはあえて自ら欺くの、人を偽わるのと云う了見ではない。
旅行をする間は普通の人の心持ちで、昔の旅を語るときはすでに詩人の態度にあるから、こんな矛盾が起こる。
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旅行をする間は常人の心持ちで、曾遊を語るときはすでに詩人の態度にあるから、こんな矛盾が起る。
してみると、四角な世界から常識と名のつく一角をすり減らして、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。
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して見ると四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。
だから自然にせよ、人の営みにせよ、世間の人がうんざりして近づきがたいとする所において、芸術家は無数の美しい玉を見、この上ない宝を知る。
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この故に天然にあれ、人事にあれ、衆俗の辟易して近づきがたしとなすところにおいて、芸術家は無数の琳琅を見、無上の宝璐を知る。
俗にこれを名づけて美化と言う。
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俗にこれを名けて美化と云う。
その実は美化でも何でもない。
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その実は美化でも何でもない。
きらびやかな彩りの光は、はっきりと昔から現象の世界に実在している。
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燦爛たる彩光は、炳乎として昔から現象世界に実在している。
ただ目に一つの曇りがあって、実際にはない花が乱れ落ちて見えるから、世の中のしがらみを断ち切りがたいから、栄光と恥、得と損が、一瞬一瞬、身にせまるように感じられるから、ターナーという画家が汽車を描くまでは汽車の美しさが分からず、応挙(おうきょ)という画家が幽霊を描くまでは幽霊の美しさを知らずに過ごしてしまうのである。
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ただ一翳眼に在って空花乱墜するが故に、俗累の覊絏牢として絶ちがたきが故に、栄辱得喪のわれに逼る事、念々切なるが故に、ターナーが汽車を写すまでは汽車の美を解せず、応挙が幽霊を描くまでは幽霊の美を知らずに打ち過ぎるのである。
私が今見た人影も、ただそれだけの出来事だとすれば、誰が見ても、誰に話しても、豊かに詩のおもむきを帯びている。――
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余が今見た影法師も、ただそれきりの現象とすれば、誰れが見ても、誰に聞かしても饒に詩趣を帯びている。――
ぽつんと離れた村の温泉、――春の夜の花の影、――月の前の低い口ずさみ、――おぼろ月夜の姿――どれもこれも芸術家にとって、よい題材である。
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孤村の温泉、――春宵の花影、――月前の低誦、――朧夜の姿――どれもこれも芸術家の好題目である。
この好題材が目の前にありながら、私はいらぬ詮索をして、余計な探りを投げ込んでいる。
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この好題目が眼前にありながら、余は入らざる詮義立てをして、余計な探ぐりを投げ込んでいる。
せっかくの雅な境地に理屈の筋が立って、願ってもない風流を、気味の悪さが踏みつけにしてしまった。
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せっかくの雅境に理窟の筋が立って、願ってもない風流を、気味の悪るさが踏みつけにしてしまった。
こんなことなら、非人情も看板に掲げる値打ちがない。
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こんな事なら、非人情も標榜する価値がない。
もう少し修行をしなければ、詩人とも画家とも人に向かって言いふらす資格はつかない。
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もう少し修行をしなければ詩人とも画家とも人に向って吹聴する資格はつかぬ。
昔、イタリアの画家サルヴァトル・ロザは、泥棒を研究してみたい一心から、自分の危険を賭けて山賊の群れに入り込んだと聞いたことがある。
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昔し以太利亜の画家サルヴァトル・ロザは泥棒が研究して見たい一心から、おのれの危険を賭にして、山賊の群に這入り込んだと聞いた事がある。
ふらりと画帖を懐にして家を出たからには、私にもそのくらいの覚悟がなくては恥ずかしいことだ。
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飄然と画帖を懐にして家を出でたからには、余にもそのくらいの覚悟がなくては恥ずかしい事だ。
こんな時にどうすれば詩的な立ち位置に帰れるかと言えば、自分の感じ、そのものを自分の前に据えつけて、その感じから一歩退いて、ありのままに落ち着いて、他人のようにこれを検査する余地さえ作ればいいのである。
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こんな時にどうすれば詩的な立脚地に帰れるかと云えば、おのれの感じ、そのものを、おのが前に据えつけて、その感じから一歩退いて有体に落ちついて、他人らしくこれを検査する余地さえ作ればいいのである。
詩人とは自分の屍を、自分で解剖して、その病状を天下に発表する義務を持っている。
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詩人とは自分の屍骸を、自分で解剖して、その病状を天下に発表する義務を有している。
その手だては色々あるが、一番手近なのは、何でもかんでも手当たり次第に十七字にまとめてみるのが一番いい。
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その方便は色々あるが一番手近なのは何でも蚊でも手当り次第十七字にまとめて見るのが一番いい。
十七字は詩の形としてもっとも手軽だから、顔を洗う時にも、便所に入った時にも、電車に乗った時にも、容易にできる。
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十七字は詩形としてもっとも軽便であるから、顔を洗う時にも、厠に上った時にも、電車に乗った時にも、容易に出来る。
十七字が容易にできるという意味は、手軽に詩人になれるという意味であって、詩人になるというのは一種の悟りであるから、手軽だといって侮る必要はない。
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十七字が容易に出来ると云う意味は安直に詩人になれると云う意味であって、詩人になると云うのは一種の悟りであるから軽便だと云って侮蔑する必要はない。
手軽であればあるほど功徳になるから、かえって尊重すべきものと思う。
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軽便であればあるほど功徳になるからかえって尊重すべきものと思う。
まあちょっと腹が立つと仮定する。
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まあちょっと腹が立つと仮定する。
腹が立ったところをすぐ十七字にする。
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腹が立ったところをすぐ十七字にする。
十七字にするときは、自分の腹立ちがすでに他人のものに変わっている。
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十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。
腹を立てたり、俳句を作ったり、そう一人が同時に働けるものではない。
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腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人が同時に働けるものではない。
ちょっと涙をこぼす。
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ちょっと涙をこぼす。
この涙を十七字にする。
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この涙を十七字にする。
するや否やうれしくなる。
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するや否やうれしくなる。
涙を十七字にまとめた時には、苦しみの涙は自分から離れて、おれは泣くことのできる男だといううれしさだけの自分になる。
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涙を十七字に纏めた時には、苦しみの涙は自分から遊離して、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉しさだけの自分になる。
これが日頃からの私の主張である。
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これが平生から余の主張である。
今夜も一つこの主張を実行してみようと、夜具の中で例の事件を色々と句に仕立てる。
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今夜も一つこの主張を実行して見ようと、夜具の中で例の事件を色々と句に仕立てる。
できたら書きつけないと散漫になっていけないと、念入りの修業だから、例の写生帖をあけて枕元へ置く。
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出来たら書きつけないと散漫になっていかぬと、念入りの修業だから、例の写生帖をあけて枕元へ置く。
「海棠の露を振るうや物狂い」(海棠の花についた露をふるい落とすように、心が乱れる、という句)
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「海棠の露をふるふや物狂ひ」
と真っ先に書きつけて読んでみると、別に面白くもないが、そうかといって気味の悪いこともない。
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と真先に書き付けて読んで見ると、別に面白くもないが、さりとて気味のわるい事もない。
次に「花の影、女の影の朧かな」(花の影と女の人影が、おぼろ月の下で重なって見える、という句)
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次に「花の影、女の影の朧かな」
とやったが、これは季語が重なっている。
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とやったが、これは季が重なっている。
しかし何でも構わない、気が落ち着いてのんきになればいい。
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しかし何でも構わない、気が落ちついて呑気になればいい。
それから「正一位、女に化けて朧月」(お稲荷さんのきつねが、女に化けて出てきた、おぼろ月夜だなあ、という句)
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それから「正一位、女に化けて朧月」
と作ったが、狂句めいて、自分ながらおかしくなった。
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と作ったが、狂句めいて、自分ながらおかしくなった。
この調子なら大丈夫と乗り気になって、出るだけの句をみな書きつける。
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この調子なら大丈夫と乗気になって出るだけの句をみなかき付ける。
春の星を落として夜半のかざしかな(春の星を落としたような、夜中のかんざしだなあ、という句)
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春の星を落して夜半のかざしかな
春の夜の雲に濡らすや洗い髪(春の夜の雲に、洗ったばかりの髪がぬれているようだ、という句)
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春の夜の雲に濡らすや洗ひ髪
春や今宵歌をささげる御姿(今夜、春の中で歌をささげているお姿だなあ、という句)
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春や今宵歌つかまつる御姿
海棠の精が出てくる月夜かな(海棠の花の精が出てくるような月夜だなあ、という句)
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海棠の精が出てくる月夜かな
うた折々月下の春をあちこちへ(歌が時おり、月明かりの春の中をあちこちへひびいていく、という句)
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うた折々月下の春ををちこちす
思い切って更け行く春の独りかな(思いきって、夜がふけていく春を、ひとりで過ごしているなあ、という句)
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思ひ切つて更け行く春の独りかな
などと試みているうちに、いつしか、うとうと眠くなる。
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などと、試みているうち、いつしか、うとうと眠くなる。
恍惚(こうこつ、うっとりすること)というのが、こんな時に使うべき言葉かと思う。
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恍惚と云うのが、こんな場合に用いるべき形容詞かと思う。
熟睡のうちには、誰も自分を認めることができない。
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熟睡のうちには何人も我を認め得ぬ。
はっきり目覚めている時には、誰一人外界を忘れる者はないだろう。
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明覚の際には誰あって外界を忘るるものはなかろう。
ただ両方の間に、糸のような幻の境が横たわる。
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ただ両域の間に縷のごとき幻境が横わる。
目が覚めたと言うにはあまりにおぼろで、眠っていると評するには少し生気が余る。
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醒めたりと云うには余り朧にて、眠ると評せんには少しく生気を剰す。
起きている世界と寝ている世界を同じ瓶の中に盛って、詩歌の彩り筆で、ひたすらにかき混ぜたような状態を言うのである。
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起臥の二界を同瓶裏に盛りて、詩歌の彩管をもって、ひたすらに攪き雑ぜたるがごとき状態を云うのである。
自然の色を夢の手前までぼかして、ありのままの宇宙を一段、霞の国へ押し流す。
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自然の色を夢の手前までぼかして、ありのままの宇宙を一段、霞の国へ押し流す。
睡魔の妖しい腕を借りて、ありとあらゆる実相の角を滑らかにすると同時に、そうして和らげられた天地に、自分の方からかすかに鈍い脈を通わせる。
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睡魔の妖腕をかりて、ありとある実相の角度を滑かにすると共に、かく和らげられたる乾坤に、われからと微かに鈍き脈を通わせる。
地を這う煙が飛ぼうとして飛べないように、私の魂が、私の殻を離れようとして離れるに忍びないという有様である。
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地を這う煙の飛ばんとして飛び得ざるごとく、わが魂の、わが殻を離れんとして離るるに忍びざる態である。
抜け出そうとしてはためらい、ためらってはまた抜け出そうとし、しまいには魂という個体をむりに保ちかねて、たちこめる霞のような気が、散るともなく手足や体じゅうにまとわりついて、名残惜しく、恋しいような心持ちである。
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抜け出でんとして逡巡い、逡巡いては抜け出でんとし、果ては魂と云う個体を、もぎどうに保ちかねて、氤氳たる瞑氛が散るともなしに四肢五体に纏綿して、依々たり恋々たる心持ちである。
私が、寝ているとも覚めているともつかない境目を、こうしてさまよっていると、入口の唐紙(からかみ、ふすまの一種)がすうと開いた。
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余が寤寐の境にかく逍遥していると、入口の唐紙がすうと開いた。
開いた所へ、まぼろしのように女の影がふうっと現れた。
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あいた所へまぼろしのごとく女の影がふうと現われた。
私は驚きもしない。
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余は驚きもせぬ。
恐れもしない。
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恐れもせぬ。
ただ心地よく眺めている。
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ただ心地よく眺めている。
眺めると言うのは、少し言葉が強過ぎる。
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眺めると云うてはちと言葉が強過ぎる。
私の閉じているまぶたの裏へ、まぼろしの女が断りもなく滑り込んで来たのである。
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余が閉じている瞼の裏に幻影の女が断りもなく滑り込んで来たのである。
まぼろしはそろりそろりと部屋のなかに入る。
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まぼろしはそろりそろりと部屋のなかに這入る。
仙女が波を渡るように、畳の上には人らしい音も立たない。
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仙女の波をわたるがごとく、畳の上には人らしい音も立たぬ。
閉じた目のなかから見る世の中だから、はっきりとは分からないが、色の白い、髪の濃い、襟足の長い女である。
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閉ずる眼のなかから見る世の中だから確とは解らぬが、色の白い、髪の濃い、襟足の長い女である。
近頃はやる、ぼかした写真を灯りにすかすような気がする。
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近頃はやる、ぼかした写真を灯影にすかすような気がする。
まぼろしは戸棚の前でとまる。
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まぼろしは戸棚の前でとまる。
戸棚があく。
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戸棚があく。
白い腕が袖をすべって、暗闇のなかにほのかに光った。
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白い腕が袖をすべって暗闇のなかにほのめいた。
戸棚がまたしまる。
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戸棚がまたしまる。
畳の波がおのずから幻を渡し返す。
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畳の波がおのずから幻影を渡し返す。
入口の唐紙がひとりでに閉まる。
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入口の唐紙がひとりでに閉たる。
私の眠りはしだいに深くなる。
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余が眠りはしだいに濃やかになる。
人として死んで、まだ牛にも馬にも生まれ変わらない途中は、こんなであろう。
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人に死して、まだ牛にも馬にも生れ変らない途中はこんなであろう。
いつまで人と馬の間に寝ていたか、私は知らない。
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いつまで人と馬の相中に寝ていたかわれは知らぬ。
耳元にききっと女の笑い声がしたと思ったら目がさめた。
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耳元にききっと女の笑い声がしたと思ったら眼がさめた。
見れば夜の幕はとうに切り落とされて、天下は隅から隅まで明るい。
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見れば夜の幕はとくに切り落されて、天下は隅から隅まで明るい。
うららかな春の日が丸窓の竹格子を黒く染め抜いた様子を見ると、世の中に不思議というものの潜む余地はなさそうだ。
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うららかな春日が丸窓の竹格子を黒く染め抜いた様子を見ると、世の中に不思議と云うものの潜む余地はなさそうだ。
神秘は十万億土(じゅうまんおくど、はるか遠くの極楽浄土)へ帰って、三途の川(さんずのかわ、死んだ人が渡るという川)の向こう側へ渡ったのだろう。
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神秘は十万億土へ帰って、三途の川の向側へ渡ったのだろう。
浴衣のまま風呂場へ下りて、五分ばかりぼんやりと湯壺のなかで顔を浮かしていた。
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浴衣のまま、風呂場へ下りて、五分ばかり偶然と湯壺のなかで顔を浮かしていた。
洗う気にも、出る気にもならない。
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洗う気にも、出る気にもならない。
第一、昨夜はどうしてあんな心持ちになったのだろう。
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第一昨夕はどうしてあんな心持ちになったのだろう。
昼と夜を境に、こう天地がでんぐり返るのは妙だ。
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昼と夜を界にこう天地が、でんぐり返るのは妙だ。
体を拭くのさえ面倒だから、いい加減にして、濡れたまま上がって、風呂場の戸を内から開けると、また驚かされた。
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身体を拭くさえ退儀だから、いい加減にして、濡れたまま上って、風呂場の戸を内から開けると、また驚かされた。
「お早う。昨夜はよく寝られましたか」
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「御早う。昨夕はよく寝られましたか」
戸を開けるのと、この言葉とはほとんど同時にきた。
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戸を開けるのと、この言葉とはほとんど同時にきた。
人がいることさえ予期していない出合い頭の挨拶だから、とっさの返事も出る間がないうちに、
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人のいるさえ予期しておらぬ出合頭の挨拶だから、さそくの返事も出る遑さえないうちに、
「さあ、お召しなさい」
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「さ、御召しなさい」
と後ろへ回って、ふわりと私の背中へ柔らかい着物をかけた。
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と後ろへ廻って、ふわりと余の背中へ柔かい着物をかけた。
ようやくのことで「これはありがとう……」
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ようやくの事「これはありがとう……」
だけ出して向き直る、その途端に女は二、三歩退いた。
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だけ出して、向き直る、途端に女は二三歩退いた。
昔から小説家は必ず主人公の容貌を極力描写することに相場が決まっている。
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昔から小説家は必ず主人公の容貌を極力描写することに相場がきまってる。
古今東西の言葉で、美人をたたえるために使われてきた言葉を全部あげたら、大蔵経(だいぞうきょう、仏教の経典を全部集めた、ぼうだいな量の本)と量を争うかもしれない。
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古今東西の言語で、佳人の品評に使用せられたるものを列挙したならば、大蔵経とその量を争うかも知れぬ。
このうんざりするほど大量の形容詞のなかから、私と三歩の隔たりに立って、体を斜めにねじって、横目に私の驚きとうろたえを心地よさそうに眺めている女を、もっとも適当に言い表す用語を拾い集めたなら、どれほどの数になるか知れない。
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この辟易すべき多量の形容詞中から、余と三歩の隔りに立つ、体を斜めに捩って、後目に余が驚愕と狼狽を心地よげに眺めている女を、もっとも適当に叙すべき用語を拾い来ったなら、どれほどの数になるか知れない。
しかし生まれて三十余年の今日に至るまで、まだかつて、こんな表情を見たことがない。
原文を見る
しかし生れて三十余年の今日に至るまで未だかつて、かかる表情を見た事がない。
美術家の評によると、ギリシャの彫刻の理想は、端粛(たんしゅく、きちんとして落ち着いていること)という二文字に集約されるそうである。
原文を見る
美術家の評によると、希臘の彫刻の理想は、端粛の二字に帰するそうである。
端粛とは、人間の活力が動こうとして、まだ動かない姿だと思う。
原文を見る
端粛とは人間の活力の動かんとして、未だ動かざる姿と思う。
動けばどう変化するか、風雲か雷か、見分けのつかないところに余韻がぼんやりと漂っているから、含みのある趣を百代ののちまで伝えるのだろう。
原文を見る
動けばどう変化するか、風雲か雷霆か、見わけのつかぬところに余韻が縹緲と存するから含蓄の趣を百世の後に伝うるのであろう。
世の中の多くの尊厳と威厳とは、この静かにたたえられた可能性の裏側にひそんでいる。
原文を見る
世上幾多の尊厳と威儀とはこの湛然たる可能力の裏面に伏在している。
動けばあらわれる。
原文を見る
動けばあらわれる。
あらわれれば一か二か三か、必ず始末がつく。
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あらわるれば一か二か三か必ず始末がつく。
一も二も三も必ず特殊な能力には違いないだろうが、いったん一となり、二となり、三となったあかつきには、泥にまみれ水を引きずるような卑しさを余すところなく示して、もともとの円満な姿に戻るわけには行かない。
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一も二も三も必ず特殊の能力には相違なかろうが、すでに一となり、二となり、三となった暁には、拖泥帯水の陋を遺憾なく示して、本来円満の相に戻る訳には行かぬ。
だから動と名のつくものは必ず卑しい。
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この故に動と名のつくものは必ず卑しい。
運慶の仁王も、北斎の漫画も、まったくこの動の一字で失敗している。
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運慶の仁王も、北斎の漫画も全くこの動の一字で失敗している。
動か静か。
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動か静か。
これが、私たち画工(がこう、絵をかく人、画家のこと)の運命を支配する大問題である。
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これがわれら画工の運命を支配する大問題である。
昔から美人の形容も、たいていこの二つの大きな枠のどちらかに投げ込むことができるはずだ。
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古来美人の形容も大抵この二大範疇のいずれにか打ち込む事が出来べきはずだ。
ところがこの女の表情を見ると、私はどちらとも判断に迷った。
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ところがこの女の表情を見ると、余はいずれとも判断に迷った。
口は一文字に結んで静かである。
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口は一文字を結んで静である。
目は五分のすきさえ見つけようと動いている。
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眼は五分のすきさえ見出すべく動いている。
顔は下がふっくらとした瓜実形(うりざねがた、瓜の種のような、卵形に近い輪郭)で、豊かに落ち着いた感じを見せているのに、額はせまくるしく、こせついていて、いわゆる富士額(ふじびたい、富士山のような形の髪の生えぎわ)の俗っぽさを帯びている。
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顔は下膨の瓜実形で、豊かに落ちつきを見せているに引き易えて、額は狭苦しくも、こせついて、いわゆる富士額の俗臭を帯びている。
そればかりか眉は両方から迫って、その間に数滴の薄荷をたらしたように、ぴくぴくといらだっている。
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のみならず眉は両方から逼って、中間に数滴の薄荷を点じたるごとく、ぴくぴく焦慮ている。
鼻だけは軽薄に鋭くもない、鈍く丸くもない。
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鼻ばかりは軽薄に鋭どくもない、遅鈍に丸くもない。
絵にしたら美しいだろう。
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画にしたら美しかろう。
こんなふうにばらばらの道具がみな一癖あって、調子外れにどやどやと私の両眼へ飛び込んだのだから、迷うのも無理はない。
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かように別れ別れの道具が皆一癖あって、乱調にどやどやと余の双眼に飛び込んだのだから迷うのも無理はない。
もともとは静であるはずの大地の一角に崩れが起こって、全体が思わず動いたが、動くのは本来の性に背くと悟って、努めて昔の姿に戻ろうとしたのを、つり合いを失った勢いに押し切られて、心ならずも動き続けた今日は、やけだから無理にでも動いて見せると言わんばかりの有様が――そんな有様がもしあるとすれば、ちょうどこの女を言い表すことができる。
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元来は静であるべき大地の一角に陥欠が起って、全体が思わず動いたが、動くは本来の性に背くと悟って、力めて往昔の姿にもどろうとしたのを、平衡を失った機勢に制せられて、心ならずも動きつづけた今日は、やけだから無理でも動いて見せると云わぬばかりの有様が――そんな有様がもしあるとすればちょうどこの女を形容する事が出来る。
だから見下すような表情の裏に、何となく人にすがりたい様子が見える。
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それだから軽侮の裏に、何となく人に縋りたい景色が見える。
人を馬鹿にした様子の底に、慎み深い分別がほのめいている。
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人を馬鹿にした様子の底に慎み深い分別がほのめいている。
才知にまかせ、気位を張れば百人の男子を物の数とも思わない勢いの下から、おとなしい情けが自分でも知らずに湧いて出る。
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才に任せ、気を負えば百人の男子を物の数とも思わぬ勢の下から温和しい情けが吾知らず湧いて出る。
どうしても表情に一致がない。
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どうしても表情に一致がない。
悟りと迷いが一軒の家に喧嘩をしながらも同居している有様だ。
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悟りと迷が一軒の家に喧嘩をしながらも同居している体だ。
この女の顔に統一の感じがないのは、心に統一がない証拠で、心に統一がないのは、この女の世界に統一がなかったからだろう。
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この女の顔に統一の感じのないのは、心に統一のない証拠で、心に統一がないのは、この女の世界に統一がなかったのだろう。
不幸に押しつけられながら、その不幸に打ち勝とうとしている顔だ。
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不幸に圧しつけられながら、その不幸に打ち勝とうとしている顔だ。
不仕合せな女に違いない。
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不仕合な女に違ない。
「ありがとう」
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「ありがとう」
と繰り返しながら、ちょっと会釈した。
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と繰り返しながら、ちょっと会釈した。
「ほほほほ、お部屋は掃除がしてあります。行ってご覧なさい。いずれ後ほど」
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「ほほほほ御部屋は掃除がしてあります。往って御覧なさい。いずれ後ほど」
と言うや否や、ひらりと腰をひねって、廊下を軽やかに駆けて行った。
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と云うや否や、ひらりと、腰をひねって、廊下を軽気に馳けて行った。
頭は銀杏返し(いちょうがえし、当時の女性の髪型の一つ)に結っている。
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頭は銀杏返に結っている。
白い襟が、たぼ(髪の後ろにふくらませた部分)の下から見える。
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白い襟がたぼの下から見える。
帯の黒繻子(くろじゅす、黒くてつやのある絹の布)は片側だけだろう。
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帯の黒繻子は片側だけだろう。
四
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四
ぼんやりしながら部屋に戻ると、たしかにきれいに掃除がしてあった。
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ぽかんと部屋へ帰ると、なるほど奇麗に掃除がしてある。
少し気になったので、念のため戸棚を開けてみた。
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ちょっと気がかりだから、念のため戸棚をあけて見る。
下のほうには小さな箪笥(たんす・引き出しのついた収納家具)が見えた。
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下には小さな用箪笥が見える。
上から友禅(ゆうぜん・美しい模様の染め物)の帯が半分たれ下がっていて、誰かが着物を取り出して急いで出ていったのだとわかる。
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上から友禅の扱帯が半分垂れかかって、いるのは、誰か衣類でも取り出して急いで、出て行ったものと解釈が出来る。
帯の上のほうは、なまめかしい着物の間にかくれて、先までは見えない。
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扱帯の上部はなまめかしい衣裳の間にかくれて先は見えない。
片側には本が少し並べてある。
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片側には書物が少々詰めてある。
一番上に白隠和尚(はくいんおしょう・江戸時代の有名なお坊さん)の本と、伊勢物語(いせものがたり・昔の恋の物語)が一冊並んでいる。
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一番上に白隠和尚の遠良天釜と、伊勢物語の一巻が並んでる。
昨夜のことは、夢ではなく本当だったのかもしれないと思った。
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昨夕のうつつは事実かも知れないと思った。
何気なく座布団の上に座ると、机の上に、あの写生帖(スケッチブック)が、鉛筆をはさんだまま、大事そうに開いてあった。
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何気なく座布団の上へ坐ると、唐木の机の上に例の写生帖が、鉛筆を挟んだまま、大事そうにあけてある。
夢中で書きなぐった句を、朝見たらどんなふうだろうと、手に取ってみる。
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夢中に書き流した句を、朝見たらどんな具合だろうと手に取る。
「海棠の露をふるうや物狂い」(海棠の花についた露をふるい落とすように、心が乱れている、という句)
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「海棠の露をふるふや物狂」
の下に、だれかが「海棠の露をふるうや朝烏」(同じ句のまねをして、朝のからすに変えて詠んだもの)
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の下にだれだか「海棠の露をふるふや朝烏」
と書いたものがある。
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とかいたものがある。
鉛筆で書いてあるので、字がだれのものかはっきりしないが、女の字にしては固すぎるし、男の字にしてはやわらかすぎる。
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鉛筆だから、書体はしかと解らんが、女にしては硬過ぎる、男にしては柔か過ぎる。
おや、とまたおどろく。
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おやとまた吃驚する。
次を見ると「花の影、女の影の朧かな」(花の影と女の影が、ぼんやりと重なって見える、という句)
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次を見ると「花の影、女の影の朧かな」
の下に「花の影女の影を重ねけり」(同じ句を少し変えて、影を重ねたと詠んだもの)
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の下に「花の影女の影を重ねけり」
と付け加えてある。
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とつけてある。
「正一位女に化けて朧月」(きつねの神様が女に化けて、おぼろ月の下に現れた、という句)
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「正一位女に化けて朧月」
の下には「御曹子女に化けて朧月」(正一位を、若い貴族の男に変えて詠んだもの)
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の下には「御曹子女に化けて朧月」
とある。
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とある。
まねをしたつもりか、直したつもりか、風流のやりとりか、ばかにされたのか、余は思わず首をかしげた。
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真似をしたつもりか、添削した気か、風流の交わりか、馬鹿か、馬鹿にしたのか、余は思わず首を傾けた。
「後ほど」と言っていたから、そろそろ食事の時にでも出てくるかもしれない。
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後ほどと云ったから、今に飯の時にでも出て来るかも知れない。
出てきたら、少しは様子がわかるだろう。
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出て来たら様子が少しは解るだろう。
ところで今何時だろうと時計を見ると、もう十一時を過ぎている。
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ときに何時だなと時計を見ると、もう十一時過ぎである。
よく眠ったものだ。
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よく寝たものだ。
これでは昼ご飯だけで済ませるほうが、胃のためにもよさそうだ。
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これでは午飯だけで間に合せる方が胃のためによかろう。
右側の障子(しょうじ)を開けて、昨夜の名残はどのあたりだろうと眺める。
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右側の障子をあけて、昨夜の名残はどの辺かなと眺める。
海棠(かいどう)だと思っていた木は、やはり海棠だったが、思ったより庭はせまい。
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海棠と鑑定したのははたして、海棠であるが、思ったよりも庭は狭い。
五、六枚の飛び石を、一面の青い苔がうめていて、はだしで踏んだら、さぞ気持ちがいいだろう。
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五六枚の飛石を一面の青苔が埋めて、素足で踏みつけたら、さも心持ちがよさそうだ。
左は山続きのがけに、赤松がななめに、岩の間から庭の上へさし出ている。
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左は山つづきの崖に赤松が斜めに岩の間から庭の上へさし出している。
海棠の後ろには少し茂みがあって、その奥には大きな竹やぶが、十丈(じゅうじょう・とても高い)もの緑を春の日にさらしている。
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海棠の後ろにはちょっとした茂みがあって、奥は大竹藪が十丈の翠りを春の日に曝している。
右手は建物の屋根にさえぎられて見えないが、地形から考えると、ゆるやかに下って風呂場のほうへ続いているに違いない。
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右手は屋の棟で遮ぎられて、見えぬけれども、地勢から察すると、だらだら下りに風呂場の方へ落ちているに相違ない。
山が終わって岡になり、岡が終わって幅三丁(さんちょう)ほどの平地になり、その平地が終わって海の底にもぐりこみ、十七里向こうでまた盛り上がって、周りが六里ある摩耶島(まやじま)になる。
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山が尽きて、岡となり、岡が尽きて、幅三丁ほどの平地となり、その平地が尽きて、海の底へもぐり込んで、十七里向うへ行ってまた隆然と起き上って、周囲六里の摩耶島となる。
これが那古井の地形である。
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これが那古井の地勢である。
温泉場は岡のふもとを、できるだけがけのほうへ張り出させて、山道の景色を半分庭に取り込んだつくりなので、前は二階建てでも、後ろは平屋になる。
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温泉場は岡の麓を出来るだけ崖へさしかけて、岨の景色を半分庭へ囲い込んだ一構であるから、前面は二階でも、後ろは平屋になる。
縁側から足をぶら下げれば、すぐかかとが苔に着く。
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椽から足をぶらさげれば、すぐと踵は苔に着く。
なるほど、昨夜ははしごの階段をむやみに上ったり下りたりして、変な造りの家だと思ったわけだ。
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道理こそ昨夕は楷子段をむやみに上ったり、下ったり、異な仕掛の家と思ったはずだ。
今度は左側の窓を開ける。
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今度は左り側の窓をあける。
自然にくぼんだ二畳ほどの岩の中に、春の水がいつのまにかたまって、静かに山桜の影をうつしている。
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自然と凹む二畳ばかりの岩のなかに春の水がいつともなく、たまって静かに山桜の影を蘸している。
二株、三株の熊笹(くまざさ)が岩の角を彩り、向こうにはくこ(木の名前)らしい生け垣があって、その外は浜から岡へ上る山道で、時々人の声が聞こえる。
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二株三株の熊笹が岩の角を彩どる、向うに枸杞とも見える生垣があって、外は浜から、岡へ上る岨道か時々人声が聞える。
道の向こうはゆるやかに南へ下って蜜柑(みかん)が植えてあり、谷のつきるところにまた大きな竹やぶが、白く光っている。
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往来の向うはだらだらと南下がりに蜜柑を植えて、谷の窮まる所にまた大きな竹藪が、白く光る。
竹の葉が遠くから見ると白く光るとは、このとき初めて知った。
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竹の葉が遠くから見ると、白く光るとはこの時初めて知った。
やぶから上は松の多い山で、赤い幹の間から石段が五、六段、手に取るように見える。
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藪から上は、松の多い山で、赤い幹の間から石磴が五六段手にとるように見える。
たぶんお寺だろう。
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大方御寺だろう。
入口のふすまを開けて縁側へ出ると、欄干(らんかん・手すり)が四角に曲がっていて、海が見えるはずの方角に、中庭をへだてて、表側の二階の部屋がある。
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入口の襖をあけて椽へ出ると、欄干が四角に曲って、方角から云えば海の見ゆべきはずの所に、中庭を隔てて、表二階の一間がある。
自分のいる部屋も、欄干に寄りかかってみると、同じ高さの二階だとわかって、おもしろく感じた。
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わが住む部屋も、欄干に倚ればやはり同じ高さの二階なのには興が催おされる。
湯ぶねは地面の下にあるのだから、入浴という点から言えば、余は三階建ての一番上に住んでいることになる。
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湯壺は地の下にあるのだから、入湯と云う点から云えば、余は三層楼上に起臥する訳になる。
家はずいぶん広いが、向かいの二階の部屋と、余が欄干づたいに右へ折れた部屋のほかは、居間や台所はともかく、客間らしいところはたいてい閉め切ってある。
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家は随分広いが、向う二階の一間と、余が欄干に添うて、右へ折れた一間のほかは、居室台所は知らず、客間と名がつきそうなのは大抵立て切ってある。
客は余のほかにはほとんどいないのだろう。
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客は、余をのぞくのほかほとんど皆無なのだろう。
閉め切った部屋は昼も雨戸を開けず、開けた部屋は夜も閉めないらしい。
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〆た部屋は昼も雨戸をあけず、あけた以上は夜も閉てぬらしい。
これでは表の戸締りをするのかしないのかもわからない。
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これでは表の戸締りさえ、するかしないか解らん。
「非人情」の旅には、もってこいの申し分ない場所だ。
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非人情の旅にはもって来いと云う屈強な場所だ。
時計は十二時近くになったが、食事を出す気配はまったくない。
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時計は十二時近くなったが飯を食わせる景色はさらにない。
だんだん空腹を覚えてきたが、「人けのない山に人の姿は見えない」という詩の一節を思えば、一食くらい減らしても構わない。
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ようやく空腹を覚えて来たが、空山不見人と云う詩中にあると思うと、一とかたげぐらい倹約しても遺憾はない。
絵をかくのも面倒だし、俳句は作らなくても、すでに俳句づくしの気分に入っているから、あえて作るのも野暮(やぼ)だ。
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画をかくのも面倒だ、俳句は作らんでもすでに俳三昧に入っているから、作るだけ野暮だ。
読もうと思って三脚几(さんきゃくき・三本足の小さな机)にくくりつけてきた二、三冊の本も、開く気になれない。
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読もうと思って三脚几に括りつけて来た二三冊の書籍もほどく気にならん。
こうして暖かい春の日に背中をあぶり、縁側で花の影と一緒に寝ころんでいるのが、この世でいちばんの楽しみだ。
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こうやって、煦々たる春日に背中をあぶって、椽側に花の影と共に寝ころんでいるのが、天下の至楽である。
考えごとをすれば、この楽しみから外れてしまう。
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考えれば外道に堕ちる。
動くのも危ない。
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動くと危ない。
できることなら、鼻で息もしたくないくらいだ。
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出来るならば鼻から呼吸もしたくない。
畳から根が生えた植物のように、じっとして二週間くらい暮らしてみたい。
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畳から根の生えた植物のようにじっとして二週間ばかり暮して見たい。
やがて廊下に足音がして、下からだんだんと誰かが上がってくる。
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やがて、廊下に足音がして、段々下から誰か上ってくる。
近づく音を聞いていると、二人らしい。
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近づくのを聞いていると、二人らしい。
それが部屋の前で止まったと思ったら、一人は何も言わずに、もと来たほうへ引き返した。
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それが部屋の前でとまったなと思ったら、一人は何にも云わず、元の方へ引き返す。
ふすまが開いたので、今朝の人かと思ったら、やはり昨夜の若い女中だった。
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襖があいたから、今朝の人と思ったら、やはり昨夜の小女郎である。
何だか物足りない。
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何だか物足らぬ。
「遅くなりました」
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「遅くなりました」
と、お膳を置く。
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と膳を据える。
朝ご飯の言い訳も何も言わない。
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朝食の言訳も何にも言わぬ。
焼き魚に青いものを添えて、椀のふたを取ると、早蕨(さわらび・春に出る若いわらび)の中に、紅白に染めたえびが沈めてある。
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焼肴に青いものをあしらって、椀の蓋をとれば早蕨の中に、紅白に染め抜かれた、海老を沈ませてある。
ああ、いい色だと思って、椀の中を眺めていた。
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ああ好い色だと思って、椀の中を眺めていた。
「お嫌いですか」
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「御嫌いか」
と女中が聞く。
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と下女が聞く。
「いいや、今に食べる」
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「いいや、今に食う」
と言ったが、実際食べるのは惜しい気がした。
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と云ったが実際食うのは惜しい気がした。
ターナー(イギリスの有名な画家)がある晩さんの席で、皿に盛ったサラダを見つめながら、「涼しい色だ、これが自分の使う色だ」と隣の人に話したという話を、ある本で読んだことがあるが、このえびとわらびの色を、ちょっとターナーに見せてやりたい。
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ターナーがある晩餐の席で、皿に盛るサラドを見詰めながら、涼しい色だ、これがわしの用いる色だと傍の人に話したと云う逸事をある書物で読んだ事があるが、この海老と蕨の色をちょっとターナーに見せてやりたい。
だいたい、西洋の食べ物で色のいいものは一つもない。
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いったい西洋の食物で色のいいものは一つもない。
あるとすればサラダと赤大根くらいのものだ。
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あればサラドと赤大根ぐらいなものだ。
栄養の点から言えばどうかわからないが、画家から見ると、あまり工夫のされていない料理だ。
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滋養の点から云ったらどうか知らんが、画家から見るとすこぶる発達せん料理である。
そこへいくと、日本の献立は、吸い物でも、前菜でも、刺身でも、見た目まできれいにできている。
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そこへ行くと日本の献立は、吸物でも、口取でも、刺身でも物奇麗に出来る。
会席膳(かいせきぜん・和食のコース料理)を前に置いて、一箸(ひとはし)もつけずに、眺めただけで帰っても、目の楽しみという点からいえば、料理屋に上がったかいは十分ある。
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会席膳を前へ置いて、一箸も着けずに、眺めたまま帰っても、目の保養から云えば、御茶屋へ上がった甲斐は充分ある。
「ここに若い女の人がいるだろう」
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「うちに若い女の人がいるだろう」
と椀を置きながら、質問をした。
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と椀を置きながら、質問をかけた。
「へえ」
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「へえ」
「あれは何だい」
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「ありゃ何だい」
「若い奥様でございます」
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「若い奥様でござんす」
「あのほかに、まだ年寄りの奥様がいるのかい」
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「あのほかにまだ年寄の奥様がいるのかい」
「去年、お亡くなりになりました」
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「去年御亡くなりました」
「旦那さんは」
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「旦那さんは」
「おります。旦那さんの娘さんでございます」
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「おります。旦那さんの娘さんでござんす」
「あの若い人がかい」
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「あの若い人がかい」
「へえ」
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「へえ」
「お客はいるかい」
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「御客はいるかい」
「おりません」
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「おりません」
「わたし一人かい」
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「わたし一人かい」
「へえ」
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「へえ」
「若い奥さんは毎日何をしているんだい」
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「若い奥さんは毎日何をしているかい」
「針仕事を……」
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「針仕事を……」
「それから」
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「それから」
「三味線(しゃみせん)をひきます」
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「三味を弾きます」
これは意外だった。
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これは意外であった。
おもしろいので、また
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面白いからまた
「それから」
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「それから」
と聞いてみた。
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と聞いて見た。
「お寺へ行きます」
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「御寺へ行きます」
と女中が言う。
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と小女郎が云う。
これもまた意外だった。
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これはまた意外である。
お寺と三味線とは妙な組み合わせだ。
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御寺と三味線は妙だ。
「お寺参りをするのかい」
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「御寺詣りをするのかい」
「いいえ、和尚様のところへ行きます」
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「いいえ、和尚様の所へ行きます」
「和尚さんが三味線でも習うのかい」
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「和尚さんが三味線でも習うのかい」
「いいえ」
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「いいえ」
「じゃあ、何をしに行くんだい」
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「じゃ何をしに行くのだい」
「大徹様のところへ行きます」
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「大徹様の所へ行きます」
なるほど、大徹というのは、あの額の字を書いた人に違いない。
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なあるほど、大徹と云うのはこの額を書いた男に相違ない。
この字から察するに、どうやら禅宗のお坊さんらしい。
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この句から察すると何でも禅坊主らしい。
戸棚に本があったのは、まったくあの女の持ち物なのだろう。
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戸棚に遠良天釜があったのは、全くあの女の所持品だろう。
「この部屋は、普段は誰か使っているのかい」
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「この部屋は普段誰か這入っている所かね」
「普段は奥様がおります」
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「普段は奥様がおります」
「それじゃあ、昨夜、わたしが来るときまで、ここにいたんだね」
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「それじゃ、昨夕、わたしが来る時までここにいたのだね」
「へえ」
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「へえ」
「それは気の毒なことをした。それで大徹さんのところへ何をしに行くんだい」
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「それは御気の毒な事をした。それで大徹さんの所へ何をしに行くのだい」
「知りません」
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「知りません」
「それから」
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「それから」
「何でございましょう」
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「何でござんす」
「それから、まだほかに何かするんだろう」
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「それから、まだほかに何かするのだろう」
「それから、いろいろ……」
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「それから、いろいろ……」
「いろいろって、どんなことを」
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「いろいろって、どんな事を」
「知りません」
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「知りません」
会話はこれで途切れる。
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会話はこれで切れる。
ご飯はようやく終わる。
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飯はようやく了る。
お膳を下げるとき、女中が入口のふすまを開けたら、中庭の植え込みをへだてて、向かいの二階の欄干に、銀杏返し(いちょうがえし・当時の髪の結い方)の髪をした人が、ほおづえをついて、まるで観音様の像のように下を見つめていた。
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膳を引くとき、小女郎が入口の襖を開たら、中庭の栽込みを隔てて、向う二階の欄干に銀杏返しが頬杖を突いて、開化した楊柳観音のように下を見詰めていた。
今朝とはうって変わって、たいそう静かな姿だ。
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今朝に引き替えて、はなはだ静かな姿である。
うつむいていて、瞳がこちらを見ないから、表情がこんなに変わって見えるのだろうか。
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俯向いて、瞳の働きが、こちらへ通わないから、相好にかほどな変化を来たしたものであろうか。
昔の人は「人を知るには瞳を見るのがいちばんだ」と言ったそうだが、なるほど人はごまかせない、人間のうちで目ほど生きている道具はない。
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昔の人は人に存するもの眸子より良きはなしと云ったそうだが、なるほど人焉んぞ廋さんや、人間のうちで眼ほど活きている道具はない。
ひっそりと欄干に寄りかかる姿の下から、ちょうちょが二羽、寄ったり離れたりしながら舞い上がる。
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寂然と倚る亜字欄の下から、蝶々が二羽寄りつ離れつ舞い上がる。
そのとき、余の部屋のふすまが開いた。
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途端にわが部屋の襖はあいたのである。
ふすまの音に、女は急に、ちょうちょから目を余のほうへ移した。
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襖の音に、女は卒然と蝶から眼を余の方に転じた。
その視線は毒矢のように空を貫いて、あいさつもなく余の眉間に落ちてきた。
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視線は毒矢のごとく空を貫いて、会釈もなく余が眉間に落ちる。
はっとする間もなく、女中がまたぱたりとふすまを閉め切った。
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はっと思う間に、小女郎が、またはたと襖を立て切った。
あとはこの上なくのんびりした春になる。
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あとは至極呑気な春となる。
余はまたごろりと寝ころんだ。
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余はまたごろりと寝ころんだ。
たちまち心に浮かんだのは、
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たちまち心に浮んだのは、
月の光が消えるよりも悲しい――
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Sadder than is the moon's lost light,
夜が明ける前に消えてしまう、あの光よりも、
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Lost ere the kindling of dawn,
旅をする人にとって悲しいのは、
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To travellers journeying on,
あなたの美しい顔が、私の目から見えなくなることだ。
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The shutting of thy fair face from my sight.
という詩だった。
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と云う句であった。
もし余が、あの銀杏返しの女の人を好きになって、なんとしても会いたいと思っているときに、今のような一目だけの別れを、たまらないほどうれしいとも、くやしいとも感じたなら、余はきっとこんな意味の詩を作るだろう。
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もし余があの銀杏返しに懸想して、身を砕いても逢わんと思う矢先に、今のような一瞥の別れを、魂消るまでに、嬉しとも、口惜しとも感じたら、余は必ずこんな意味をこんな詩に作るだろう。
その上に
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その上に
死ぬときにあなたを見られるなら、
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Might I look on thee in death,
このいのちを、喜んで手放そう。
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With bliss I would yield my breath.
という二行さえ、付け加えたかもしれない。
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と云う二句さえ、付け加えたかも知れぬ。
幸い、ふつうにある「恋」とか「愛」とかいう段階は、余にはもう通り過ぎていて、そんな苦しみは感じたくても感じられない。
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幸い、普通ありふれた、恋とか愛とか云う境界はすでに通り越して、そんな苦しみは感じたくても感じられない。
しかし、今このとき起こった出来事の詩のような味わいは、たっぷりとこの五、六行に表れている。
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しかし今の刹那に起った出来事の詩趣はゆたかにこの五六行にあらわれている。
余とあの銀杏返しの女の人の間に、こんなせつない思いはないとしても、二人の今の関係を、この詩に当てはめて考えてみるのはおもしろい。
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余と銀杏返しの間柄にこんな切ない思はないとしても、二人の今の関係を、この詩の中に適用て見るのは面白い。
あるいは、この詩の意味を自分たちの身の上に引きつけて考えてみるのも愉快だ。
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あるいはこの詩の意味をわれらの身の上に引きつけて解釈しても愉快だ。
二人の間には、ある因果(いんが・めぐりあわせ)の細い糸で、この詩に表れた境遇の一部分が、本当のこととして結びつけられている。
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二人の間には、ある因果の細い糸で、この詩にあらわれた境遇の一部分が、事実となって、括りつけられている。
因果もこのくらい糸が細いと、苦にはならない。
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因果もこのくらい糸が細いと苦にはならぬ。
その上、ただの糸ではない。
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その上、ただの糸ではない。
空を横切る虹の糸、野原にたなびく霞(かすみ)の糸、露に輝くくもの糸。
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空を横切る虹の糸、野辺に棚引く霞の糸、露にかがやく蜘蛛の糸。
切ろうとすれば、すぐ切れて、見ているうちはこの上なく美しい。
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切ろうとすれば、すぐ切れて、見ているうちは勝れてうつくしい。
もしこの糸が、見ているうちに太くなって、井戸のなわのように固くなったら?
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万一この糸が見る間に太くなって井戸縄のようにかたくなったら?
そんな危険はない。
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そんな危険はない。
余は画工である。
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余は画工である。
相手はただの女とは違う。
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先はただの女とは違う。
突然ふすまが開いた。
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突然襖があいた。
寝返りを打って入口を見ると、その因果の相手の銀杏返しの人が、敷居の上に立って、青磁(せいじ・青緑色の陶器)の鉢をお盆にのせたまま立っている。
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寝返りを打って入口を見ると、因果の相手のその銀杏返しが敷居の上に立って青磁の鉢を盆に乗せたまま佇んでいる。
「また寝ていらっしゃるの。昨夜はご迷惑だったでしょう。何度もおじゃまして、ほほほほ」
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「また寝ていらっしゃるか、昨夕は御迷惑で御座んしたろう。何返も御邪魔をして、ほほほほ」
と笑う。
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と笑う。
おびえた様子も、隠す様子も――恥ずかしがる様子はもちろんない。
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臆した景色も、隠す景色も――恥ずる景色は無論ない。
ただこちらが先を越されただけだ。
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ただこちらが先を越されたのみである。
「今朝はありがとう」
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「今朝はありがとう」
とまたお礼を言った。
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とまた礼を云った。
考えると、丹前(たんぜん・綿入れの着物)のお礼をこれで三回言ったことになる。
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考えると、丹前の礼をこれで三返云った。
しかも三回とも、ただ「ありがとう」という三文字だけだ。
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しかも、三返ながら、ただ難有うと云う三字である。
女は余が起き上がろうとする枕元に、早くも座って、
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女は余が起き返ろうとする枕元へ、早くも坐って
「まあ、寝ていらっしゃい。寝ていても話はできるでしょう」
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「まあ寝ていらっしゃい。寝ていても話は出来ましょう」
と、さも気さくに言う。
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と、さも気作に云う。
余はそのとおりだと思ったので、ひとまずうつぶせになって、両手であごを支え、しばらく畳の上へひじを立てた。
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余は全くだと考えたから、ひとまず腹這になって、両手で顎を支え、しばし畳の上へ肘壺の柱を立てる。
「退屈だろうと思って、お茶を入れに来ました」
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「御退屈だろうと思って、御茶を入れに来ました」
「ありがとう」
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「ありがとう」
またありがとうが出た。
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またありがとうが出た。
菓子皿の中を見ると、立派なようかんが並んでいる。
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菓子皿のなかを見ると、立派な羊羹が並んでいる。
余はすべてのお菓子の中でも、ようかんがいちばん好きだ。
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余はすべての菓子のうちでもっとも羊羹が好だ。
特に食べたいわけではないが、あのなめらかで、きめの細かい、しかも半分透きとおって光をうける感じは、どう見ても一つの美術品だ。
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別段食いたくはないが、あの肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。
特に青みを帯びた練り方は、宝石とろう石をまぜたようで、見ていてとても気持ちがいい。
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ことに青味を帯びた煉上げ方は、玉と蝋石の雑種のようで、はなはだ見て心持ちがいい。
そればかりか、青磁の皿に盛られた青いようかんは、青磁の中から今生まれたようにつやつやしていて、思わず手を出してなでてみたくなる。
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のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生れたようにつやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる。
西洋のお菓子で、これほど気持ちよさを与えるものは一つもない。
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西洋の菓子で、これほど快感を与えるものは一つもない。
クリームの色は少しやわらかいが、少し重苦しい。
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クリームの色はちょっと柔かだが、少し重苦しい。
ゼリーは、一見宝石のように見えるが、ぶるぶる震えて、ようかんほどの重みがない。
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ジェリは、一目宝石のように見えるが、ぶるぶる顫えて、羊羹ほどの重味がない。
白砂糖と牛乳で五重の塔を作るとなると、話にならない。
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白砂糖と牛乳で五重の塔を作るに至っては、言語道断の沙汰である。
「うん、なかなか見事だ」
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「うん、なかなか美事だ」
「さっき、源兵衛が買って帰りました。これならあなたも召し上がれるでしょう」
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「今しがた、源兵衛が買って帰りました。これならあなたに召し上がられるでしょう」
源兵衛は昨夜、城下町に泊まったらしい。
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源兵衛は昨夕城下へ留ったと見える。
余は特に返事もせず、ようかんを見ていた。
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余は別段の返事もせず羊羹を見ていた。
どこで誰が買ってきても構わない。
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どこで誰れが買って来ても構う事はない。
ただ美しければ美しいと思うだけで、十分満足だ。
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ただ美くしければ、美くしいと思うだけで充分満足である。
「この青磁の形はとてもいい。色も見事だ。ほとんどようかんに負けていない」
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「この青磁の形は大変いい。色も美事だ。ほとんど羊羹に対して遜色がない」
女はふふんと笑った。
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女はふふんと笑った。
口元に、ばかにするような波がかすかにゆれた。
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口元に侮どりの波が微かに揺れた。
余の言葉を冗談だと思ったのだろう。
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余の言葉を洒落と解したのだろう。
なるほど冗談だとしたら、ばかにされても仕方がない。
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なるほど洒落とすれば、軽蔑される価はたしかにある。
頭の足りない男が無理に冗談を言うときは、よくこんなことを言うものだ。
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智慧の足りない男が無理に洒落れた時には、よくこんな事を云うものだ。
「これは中国のものですか」
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「これは支那ですか」
「何ですか」
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「何ですか」
と相手はまるで青磁を見ていない。
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と相手はまるで青磁を眼中に置いていない。
「どうも中国のものらしい」
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「どうも支那らしい」
と皿を持ち上げて底をながめてみた。
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と皿を上げて底を眺めて見た。
「そんなものが好きなら、見せましょうか」
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「そんなものが、御好きなら、見せましょうか」
「ええ、見せてください」
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「ええ、見せて下さい」
「父が骨董(こっとう・古い美術品)が大好きなので、いろいろなものがあります。父にそう言って、いつかお茶でも差し上げましょう」
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「父が骨董が大好きですから、だいぶいろいろなものがあります。父にそう云って、いつか御茶でも上げましょう」
「お茶」と聞いて少しひるんだ。
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茶と聞いて少し辟易した。
世の中に茶道をたしなむ人ほど、もったいぶった風流人はいない。
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世間に茶人ほどもったいぶった風流人はない。
広い芸術の世界を、わざとらしく窮屈に区切って、ひどく自分だけ得意げに、ひどくわざとらしく、ひどくせせこましく、必要もないのにうやうやしく、あわを飲んで喜んでいるのが、いわゆる茶道好きだ。
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広い詩界をわざとらしく窮屈に縄張りをして、極めて自尊的に、極めてことさらに、極めてせせこましく、必要もないのに鞠躬如として、あぶくを飲んで結構がるものはいわゆる茶人である。
あんな面倒な規則の中に風流があるのなら、軍隊の中は風流であふれているだろう。
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あんな煩瑣な規則のうちに雅味があるなら、麻布の聯隊のなかは雅味で鼻がつかえるだろう。
「回れ右」「前へ」の号令に従う人たちは、みんな大茶人でなくてはならない。
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廻れ右、前への連中はことごとく大茶人でなくてはならぬ。
あれは商人とか町人とか、まるで趣味の教育を受けていない人たちが、どうするのが風流かわからないので、機械的に昔からの決まりをうのみにして、これでだいたい風流なんだろう、とかえって本当の風流人をばかにするための芸だ。
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あれは商人とか町人とか、まるで趣味の教育のない連中が、どうするのが風流か見当がつかぬところから、器械的に利休以後の規則を鵜呑みにして、これでおおかた風流なんだろう、とかえって真の風流人を馬鹿にするための芸である。
「お茶って、あの決まりのあるお茶ですかな」
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「御茶って、あの流儀のある茶ですかな」
「いいえ、決まりも何もありません。いやなら飲まなくてもいいお茶です」
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「いいえ、流儀も何もありゃしません。御厭なら飲まなくってもいい御茶です」
「それなら、ついでに飲んでもいいですよ」
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「そんなら、ついでに飲んでもいいですよ」
「ほほほほ。父は道具を人に見てもらうのが大好きなんですから……」
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「ほほほほ。父は道具を人に見ていただくのが大好きなんですから……」
「褒めなくちゃいけませんか」
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「褒めなくっちゃあ、いけませんか」
「年寄りだから、褒めてやれば喜びますよ」
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「年寄りだから、褒めてやれば、嬉しがりますよ」
「へえ、少しなら褒めておきましょう」
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「へえ、少しなら褒めて置きましょう」
「思いきり、たくさん褒めてください」
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「負けて、たくさん御褒めなさい」
「はははは、ときにあなたの言葉は田舎の言葉じゃないですね」
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「はははは、時にあなたの言葉は田舎じゃない」
「人間は田舎者なんですか」
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「人間は田舎なんですか」
「人間は田舎のほうがいいんです」
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「人間は田舎の方がいいのです」
「それじゃ、田舎者が幅を利かせますね」
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「それじゃ幅が利きます」
「しかし東京にいたことがあるでしょう」
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「しかし東京にいた事がありましょう」
「ええ、いました。京都にもいました。渡り歩く身の上ですから、あちこちにいました」
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「ええ、いました、京都にもいました。渡りものですから、方々にいました」
「ここと都と、どちらがいいですか」
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「ここと都と、どっちがいいですか」
「同じことですわ」
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「同じ事ですわ」
「こういう静かな所のほうが、かえって気楽でしょう」
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「こう云う静かな所が、かえって気楽でしょう」
「気楽も、気楽でないも、世の中は気の持ちよう一つでどうにでもなります。ノミの国がいやになったからって、カの国へ引っ越しても、何にもなりません」
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「気楽も、気楽でないも、世の中は気の持ちよう一つでどうでもなります。蚤の国が厭になったって、蚊の国へ引越しちゃ、何にもなりません」
「ノミもカもいない国へ行けばいいでしょう」
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「蚤も蚊もいない国へ行ったら、いいでしょう」
「そんな国があるなら、ここへ出してごらんなさい。さあ出してちょうだい」
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「そんな国があるなら、ここへ出して御覧なさい。さあ出してちょうだい」
と女は詰め寄る。
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と女は詰め寄せる。
「お望みなら、出してあげましょう」
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「御望みなら、出して上げましょう」
と、いつもの写生帖を取って、女が馬に乗って、山桜を見ている感じを――もちろんとっさに書いたものだから、絵にはならない。
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と例の写生帖をとって、女が馬へ乗って、山桜を見ている心持ち――無論とっさの筆使いだから、画にはならない。
ただ感じだけをさらさらと書いて、
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ただ心持ちだけをさらさらと書いて、
「さあ、この中へお入りなさい。ノミもカもいません」
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「さあ、この中へ御這入りなさい。蚤も蚊もいません」
と鼻の先へ突きつけた。
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と鼻の前へ突きつけた。
驚くか、恥ずかしがるか、この様子では、まさか、いやがることはないだろうと思って、ちょっと様子をうかがうと、
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驚くか、恥ずかしがるか、この様子では、よもや、苦しがる事はなかろうと思って、ちょっと景色を伺うと、
「まあ、窮屈な世界だこと、横に広いだけじゃありませんか。そんな所がお好きなの、まるでカニね」
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「まあ、窮屈な世界だこと、横幅ばかりじゃありませんか。そんな所が御好きなの、まるで蟹ね」
と言ってのけた。
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と云って退けた。
余は
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余は
「わはははは」
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「わはははは」
と笑う。
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と笑う。
軒先近くで鳴きかけたうぐいすが、途中で声をくずして、遠くのほうへ枝を移っていく。
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軒端に近く、啼きかけた鶯が、中途で声を崩して、遠き方へ枝移りをやる。
二人はわざと会話をやめて、しばらく耳をすませたが、いったん鳴きそこねたのどは、なかなか開かない。
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両人はわざと対話をやめて、しばらく耳を峙てたが、いったん鳴き損ねた咽喉は容易に開けぬ。
「昨日は山で源兵衛に会ったでしょう」
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「昨日は山で源兵衛に御逢いでしたろう」
「ええ」
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「ええ」
「長良の乙女の五輪塔(ごりんのとう・供養のための石の塔)を見ましたか」
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「長良の乙女の五輪塔を見ていらしったか」
「ええ」
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「ええ」
「秋になると、おばなの上に置く露のように、消えてしまいそうに、私は思われることです」(長良の乙女の歌。二人の男に想われて悩み、自分から命を絶った娘の悲しい気持ちをうたったもの)
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「あきづけば、をばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも」
と説明もなく、女はすらすらと節もつけずに歌だけを言った。
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と説明もなく、女はすらりと節もつけずに歌だけ述べた。
何のためかわからない。
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何のためか知らぬ。
「その歌はね、茶店で聞きましたよ」
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「その歌はね、茶店で聞きましたよ」
「おばあさんが教えましたか。あの人はもと私の家に奉公していた人で、私がまだお嫁に……」
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「婆さんが教えましたか。あれはもと私のうちへ奉公したもので、私がまだ嫁に……」
と言いかけて、これはと余の顔を見たので、余は知らないふりをしていた。
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と云いかけて、これはと余の顔を見たから、余は知らぬ風をしていた。
「私がまだ若かったころ、あの人が来るたびに長良の話をして聞かせてやりました。歌はなかなか覚えなかったのですが、何度も聞くうちに、とうとう全部そらで言えるようになりました」
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「私がまだ若い時分でしたが、あれが来るたびに長良の話をして聞かせてやりました。うただけはなかなか覚えなかったのですが、何遍も聴くうちに、とうとう何もかも諳誦してしまいました」
「どうりで、難しいことを知っていると思った。――しかしあの歌は、かわいそうな歌ですね」
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「どうれで、むずかしい事を知ってると思った。――しかしあの歌は憐れな歌ですね」
「かわいそうでしょうか。私ならあんな歌はよみませんね。第一、川に身を投げるなんて、つまらないじゃありませんか」
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「憐れでしょうか。私ならあんな歌は咏みませんね。第一、淵川へ身を投げるなんて、つまらないじゃありませんか」
「なるほどつまらないですね。あなたならどうしますか」
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「なるほどつまらないですね。あなたならどうしますか」
「どうするって、わけないじゃありませんか。ささだ男もささべ男も、両方とも自分のものにするだけですわ」
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「どうするって、訳ないじゃありませんか。ささだ男もささべ男も、男妾にするばかりですわ」
「両方ともですか」
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「両方ともですか」
「ええ」
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「ええ」
「えらいな」
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「えらいな」
「えらくなんかない、当たり前ですわ」
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「えらかあない、当り前ですわ」
「なるほど、それじゃカの国へも、ノミの国へも、飛び込まずに済むわけだ」
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「なるほどそれじゃ蚊の国へも、蚤の国へも、飛び込まずに済む訳だ」
「カニのような思いをしなくても、生きていられるでしょう」
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「蟹のような思いをしなくっても、生きていられるでしょう」
ほーう、ほけきょうと、忘れかけたうぐいすが、いつの間にか勢いを盛り返してか、思いがけない高い声を不意に張り上げた。
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ほーう、ほけきょうと忘れかけた鶯が、いつ勢を盛り返してか、時ならぬ高音を不意に張った。
一度立て直すと、あとは自然に出るものらしい。
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一度立て直すと、あとは自然に出ると見える。
体をそらして、ふくらむのどの奥をふるわせて、小さな口が張り裂けそうなほどに、
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身を逆まにして、ふくらむ咽喉の底を震わして、小さき口の張り裂くるばかりに、
ほーう、ほけきょーう。
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ほーう、ほけきょーう。
ほーー、ほけっーきょうーと、続けざまにさえずる。
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ほーー、ほけっーきょうーと、つづけ様に囀ずる。
「あれが本当の歌です」
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「あれが本当の歌です」
と女が余に教えた。
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と女が余に教えた。
五
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五
「失礼ですが旦那は、やっぱり東京ですか」
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「失礼ですが旦那は、やっぱり東京ですか」
「東京と見えるかい」
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「東京と見えるかい」
「見えるかいって、一目見りゃあ、――第一、言葉でわかりまさあ」
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「見えるかいって、一目見りゃあ、――第一言葉でわかりまさあ」
「東京のどこだかわかるかい」
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「東京はどこだか知れるかい」
「そうさね。東京はばかに広いからね。――どうも下町じゃねえようだ。山の手だね。山の手は麹町かね。え? それじゃ、小石川? でなければ牛込か四谷でしょう」
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「そうさね。東京は馬鹿に広いからね。――何でも下町じゃねえようだ。山の手だね。山の手は麹町かね。え? それじゃ、小石川? でなければ牛込か四谷でしょう」
「まあそんな見当だろう。よく知ってるな」
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「まあそんな見当だろう。よく知ってるな」
「こう見えて、あっしも江戸っ子だからね」
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「こう見えて、私も江戸っ子だからね」
「どうりで、江戸っ子らしいと思ったよ」
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「道理で生粋だと思ったよ」
「えへへへへ。まったく、どうも、人間もこうなっちゃ、みじめですぜ」
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「えへへへへ。からっきし、どうも、人間もこうなっちゃ、みじめですぜ」
「何でまたこんな田舎へ流れ込んで来たんだい」
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「何でまたこんな田舎へ流れ込んで来たのだい」
「違えねえ、旦那のおっしゃる通りだ。まったく流れ込んだんだからね。すっかり食いつめちまって……」
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「ちげえねえ、旦那のおっしゃる通りだ。全く流れ込んだんだからね。すっかり食い詰めっちまって……」
「もとから床屋の親方かね」
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「もとから髪結床の親方かね」
「親方じゃねえ、職人さ。え? 場所かね。場所は神田松永町でさあ。なあに猫のひたいみたいな小さな汚ねえ町でさあ。旦那なんか知らねえはずさ。あすこに竜閑橋てえ橋がありましょう。え? そいつも知らねえかね。竜閑橋ゃ、名の通った橋だがね」
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「親方じゃねえ、職人さ。え? 所かね。所は神田松永町でさあ。なあに猫の額見たような小さな汚ねえ町でさあ。旦那なんか知らねえはずさ。あすこに竜閑橋てえ橋がありましょう。え? そいつも知らねえかね。竜閑橋ゃ、名代な橋だがね」
「おい、もう少し石けんを塗ってくれないか。痛くていけない」
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「おい、もう少し、石鹸を塗けてくれないか、痛くって、いけない」
「痛うござんすかい。あっしゃ神経質でね、どうも、こうやって逆剃りをかけて、一本一本ひげの穴を掘らなくっちゃ気が済まねえんだから、――なあに今どきの職人なんてのは、剃るんじゃねえ、なでるんだ。もう少しだ、我慢おしなせえ」
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「痛うがすかい。私ゃ癇性でね、どうも、こうやって、逆剃をかけて、一本一本髭の穴を掘らなくっちゃ、気が済まねえんだから、――なあに今時の職人なあ、剃るんじゃねえ、撫でるんだ。もう少しだ我慢おしなせえ」
「我慢はさっきから、もうだいぶしたよ。お願いだから、もう少し湯か石けんをつけとくれ」
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「我慢は先から、もうだいぶしたよ。御願だから、もう少し湯か石鹸をつけとくれ」
「我慢しきれねえかね。そんなに痛かあねえはずだが。だいたい、ひげが伸びすぎてるんだ」
原文を見る
「我慢しきれねえかね。そんなに痛かあねえはずだが。全体、髭があんまり、延び過ぎてるんだ」
やけに頬の肉をつまみ上げた手を、残念そうに放した親方は、棚の上から、薄っぺらな赤い石けんを取りおろして、水にちょっと浸したと思ったら、そのまま余の顔をまんべんなくひとなでした。
原文を見る
やけに頬の肉をつまみ上げた手を、残念そうに放した親方は、棚の上から、薄っ片な赤い石鹸を取り卸ろして、水のなかにちょっと浸したと思ったら、それなり余の顔をまんべんなく一応撫で廻わした。
石けんを直接顔に塗りつけられたことはあまりない。
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裸石鹸を顔へ塗りつけられた事はあまりない。
しかも、それを濡らした水は、何日か前にくんで、ためておいたものかと考えると、あまりぞっとしない。
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しかもそれを濡らした水は、幾日前に汲んだ、溜め置きかと考えると、余りぞっとしない。
すでに床屋である以上、お客の権利として、余は鏡に向かわなければならない。
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すでに髪結床である以上は、御客の権利として、余は鏡に向わなければならん。
しかし余は、さっきからこの権利を捨てたいと考えている。
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しかし余はさっきからこの権利を放棄したく考えている。
鏡というものは、平らにできていて、なだらかに人の顔を映さなければ道具の役目を果たしていない。
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鏡と云う道具は平らに出来て、なだらかに人の顔を写さなくては義理が立たぬ。
もしこの性質を持たない鏡をかけて、これに向かえと言うなら、それは下手な写真屋と同じで、映すものの顔をわざと悪くしていると言わなければならない。
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もしこの性質が具わらない鏡を懸けて、これに向えと強いるならば、強いるものは下手な写真師と同じく、向うものの器量を故意に損害したと云わなければならぬ。
見えっぱりな気持ちをくじくのは、修行の上ではひとつの方法かもしれないが、何も本当の顔以下のみにくい姿を見せて、これがあなたですよと、こちらを見下すことはあるまい。
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虚栄心を挫くのは修養上一種の方便かも知れぬが、何も己れの真価以下の顔を見せて、これがあなたですよと、こちらを侮辱するには及ぶまい。
今、余がしかたなく向き合っている鏡は、たしかにさっきから余を見下している。
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今余が辛抱して向き合うべく余儀なくされている鏡はたしかに最前から余を侮辱している。
右を向くと顔中が鼻になる。
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右を向くと顔中鼻になる。
左を向けると口が耳元まで裂ける。
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左を出すと口が耳元まで裂ける。
あおむくとひきがえるを前から見たようにまっ平らにつぶれ、少しかがむと、頭が福々しい福の神のように、せり出してくる。
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仰向くと蟇蛙を前から見たように真平に圧し潰され、少しこごむと福禄寿の祈誓児のように頭がせり出してくる。
かりにもこの鏡に向かっている間は、一人でいろいろな化け物を演じなくてはならない。
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いやしくもこの鏡に対する間は一人でいろいろな化物を兼勤しなくてはならぬ。
映るわが顔が美しくないのはまず我慢するとしても、鏡の作りやら、色合いやら、裏の銀紙がはげ落ちて光が通りぬける様子などを合わせて考えると、この道具そのものがひどいみっともなさだ。
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写るわが顔の美術的ならぬはまず我慢するとしても、鏡の構造やら、色合や、銀紙の剥げ落ちて、光線が通り抜ける模様などを総合して考えると、この道具その物からが醜体を極めている。
つまらない人にののしられても、それ自体は痛くもかゆくもないが、そのつまらない人と顔をつき合わせて暮らさなければならないなら、誰でも不愉快だろう。
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小人から罵詈されるとき、罵詈それ自身は別に痛痒を感ぜぬが、その小人の面前に起臥しなければならぬとすれば、誰しも不愉快だろう。
その上、この親方はただの親方ではない。
原文を見る
その上この親方がただの親方ではない。
外からのぞいたときは、あぐらをかいて、長いきせるで、おもちゃの日英同盟の旗の上へ、しきりにたばこを吹きつけて、いかにも退屈そうに見えたが、店に入って、自分の首の始末をまかせることになって驚いた。
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そとから覗いたときは、胡坐をかいて、長煙管で、おもちゃの日英同盟国旗の上へ、しきりに煙草を吹きつけて、さも退屈気に見えたが、這入って、わが首の所置を托する段になって驚ろいた。
ひげをそる間、首の所有権はまるまる親方のものなのか、それとも少しは余のものでもあるのか、一人で疑い出したくらい、容赦なく扱われる。
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髭を剃る間は首の所有権は全く親方の手にあるのか、はた幾分かは余の上にも存するのか、一人で疑がい出したくらい、容赦なく取り扱われる。
余の首が肩の上にくぎづけにされているとしても、これでは長くはもたない。
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余の首が肩の上に釘付けにされているにしてもこれでは永く持たない。
彼はかみそりを使うとき、少しも文明のやり方を心得ていない。
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彼は髪剃を揮うに当って、毫も文明の法則を解しておらん。
頬に当たるときは、がりりと音がした。
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頬にあたる時はがりりと音がした。
もみあげのあたりでは、ぞきりと血の流れる音がした。
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揉み上の所ではぞきりと動脈が鳴った。
あごのあたりに刃がひらめくときには、ごりごり、ごりごりと、霜柱を踏みつけるような、あやしい音がした。
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顋のあたりに利刃がひらめく時分にはごりごり、ごりごりと霜柱を踏みつけるような怪しい声が出た。
しかも本人は、日本一の腕を持つ親方だと自分で思いこんでいる。
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しかも本人は日本一の手腕を有する親方をもって自任している。
そのうえ、この人は酒に酔っている。
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最後に彼は酔っ払っている。
「旦那え」と言うたびに、変なにおいがする。
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旦那えと云うたんびに妙な臭いがする。
時々、変な息を余の鼻先に吹きかける。
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時々は異な瓦斯を余が鼻柱へ吹き掛ける。
これでは、いつ何時、かみそりがどう狂って、どこへ飛んでいくかわからない。
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これではいつ何時、髪剃がどう間違って、どこへ飛んで行くか解らない。
使う本人にさえはっきりした計画がないのだから、顔をあずけている余に見当がつくはずもない。
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使う当人にさえ判然たる計画がない以上は、顔を貸した余に推察のできようはずがない。
納得して任せた顔だから、少しのけがなら文句は言わないつもりだが、急に気が変わってのど笛でも切られては大事だ。
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得心ずくで任せた顔だから、少しの怪我なら苦情は云わないつもりだが、急に気が変って咽喉笛でも掻き切られては事だ。
「石けんなんぞをつけてそるなあ、腕が未熟なんだが、旦那のは、ひげがひげだから仕方があるめえ」
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「石鹸なんぞを、つけて、剃るなあ、腕が生なんだが、旦那のは、髭が髭だから仕方があるめえ」
と言いながら親方は、石けんをそのまま棚の上へ放り出すと、石けんは親方の思いに反して、地面の上へ転がり落ちた。
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と云いながら親方は裸石鹸を、裸のまま棚の上へ放り出すと、石鹸は親方の命令に背いて地面の上へ転がり落ちた。
「旦那あ、あんまり見かけねえようだが、何ですかい、近ごろ来なすったのかい」
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「旦那あ、あんまり見受けねえようだが、何ですかい、近頃来なすったのかい」
「二、三日前来たばかりさ」
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「二三日前来たばかりさ」
「へえ、どこにいるんですかい」
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「へえ、どこにいるんですい」
「志保田に泊まってるよ」
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「志保田に逗ってるよ」
「うん、あすこのお客さんですか。おおかたそんなことだろうと思ってた。実あ、あっしもあの隠居さんを頼って来たんですよ。――なにね、あの隠居さんが東京にいたころ、あっしが近所にいて、――それで知ってるのさ。いい人でさあ。ものの分かった人でね。去年おかみさんが死んじまって、今じゃ骨董ばかりいじってるんだが――何でもすごいものがあるっていいますよ。売ったら、よっぽどのお金になるだろうって話さ」
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「うん、あすこの御客さんですか。おおかたそんな事たろうと思ってた。実あ、私もあの隠居さんを頼て来たんですよ。――なにね、あの隠居が東京にいた時分、わっしが近所にいて、――それで知ってるのさ。いい人でさあ。ものの解ったね。去年御新造が死んじまって、今じゃ道具ばかり捻くってるんだが――何でも素晴らしいものが、有るてえますよ。売ったらよっぽどな金目だろうって話さ」
「きれいなお嬢さんがいるじゃないか」
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「奇麗な御嬢さんがいるじゃないか」
「あぶねえね」
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「あぶねえね」
「何が?」
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「何が?」
「何がって。旦那の前だが、あれで出戻りですぜ」
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「何がって。旦那の前だが、あれで出返りですぜ」
「そうかい」
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「そうかい」
「そうかいどころの騒ぎじゃねえんだね。だいたい出て来なくってもいいところをさ。――銀行がつぶれてぜいたくができないからって、出ちまったんだから、義理が悪いやね。隠居さんが元気なうちはいいが、もしものことがあった日にゃ、取り返しがつかねえことになりまさあ」
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「そうかいどころの騒じゃねえんだね。全体なら出て来なくってもいいところをさ。――銀行が潰れて贅沢が出来ねえって、出ちまったんだから、義理が悪るいやね。隠居さんがああしているうちはいいが、もしもの事があった日にゃ、法返しがつかねえ訳になりまさあ」
「そうかな」
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「そうかな」
「当たり前でさあ。本家の兄さんとは、仲が悪いしさ」
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「当り前でさあ。本家の兄たあ、仲がわるしさ」
「本家があるのかい」
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「本家があるのかい」
「本家は岡の上にありまさあ。遊びに行ってごらんなさい。景色のいいところですよ」
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「本家は岡の上にありまさあ。遊びに行って御覧なさい。景色のいい所ですよ」
「おい、もう一度石けんをつけてくれないか。また痛くなってきた」
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「おい、もう一遍石鹸をつけてくれないか。また痛くなって来た」
「よく痛くなるひげだね。ひげが硬すぎるからだ。旦那のひげじゃ、三日に一度は必ずかみそりを当てなくっちゃだめですぜ。あっしのかみそりで痛けりゃ、どこへ行ったって我慢できっこねえ」
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「よく痛くなる髭だね。髭が硬過ぎるからだ。旦那の髭じゃ、三日に一度は是非剃を当てなくっちゃ駄目ですぜ。わっしの剃で痛けりゃ、どこへ行ったって、我慢出来っこねえ」
「これから、そうしよう。何なら毎日来てもいい」
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「これから、そうしよう。何なら毎日来てもいい」
「そんなに長く泊まる気なんですか。あぶねえ。およしなせえ。ろくなことはねえ。ろくでもねえものに引っかかって、どんな目にあうかわかりませんぜ」
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「そんなに長く逗留する気なんですか。あぶねえ。およしなせえ。益もねえ事った。碌でもねえものに引っかかって、どんな目に逢うか解りませんぜ」
「どうして」
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「どうして」
「旦那、あの娘は顔はいいようだが、本当は気の変な人ですぜ」
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「旦那あの娘は面はいいようだが、本当はき印しですぜ」
「なぜ」
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「なぜ」
「なぜって、旦那。村の者は、みんな気が変だって言ってるんでさあ」
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「なぜって、旦那。村のものは、みんな気狂だって云ってるんでさあ」
「それは何かの間違いだろう」
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「そりゃ何かの間違だろう」
「だって、ちゃんと証拠があるんだから、およしなせえ。あぶないですよ」
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「だって、現に証拠があるんだから、御よしなせえ。けんのんだ」
「おれは大丈夫だが、どんな証拠があるんだい」
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「おれは大丈夫だが、どんな証拠があるんだい」
「おかしな話しさね。まあゆっくりたばこでも吸っておいでなせえ、話すから。――頭を洗いましょうか」
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「おかしな話しさね。まあゆっくり、煙草でも呑んで御出なせえ話すから。――頭あ洗いましょうか」
「頭はやめよう」
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「頭はよそう」
「ふけだけ落としておくかね」
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「頭垢だけ落して置くかね」
親方は、あかのたまった十本の指を、遠慮なく余の頭にならべて、断りもなく、前後にはげしく動かしはじめた。
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親方は垢の溜った十本の爪を、遠慮なく、余が頭蓋骨の上に並べて、断わりもなく、前後に猛烈なる運動を開始した。
この指が、黒髪の根を一本ずつ押し分けて、まるで大きな熊手が強い風のような速さで通っていくように、頭の上を行ったり来たりする。
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この爪が、黒髪の根を一本ごとに押し分けて、不毛の境を巨人の熊手が疾風の速度で通るごとくに往来する。
余の頭に何十万本の髪の毛が生えているか知らないが、ありとあらゆる毛が根こそぎにされて、地肌がすべてみみずばれのようにふくれ上がった上、その勢いが頭の骨から脳みそまで響いたと感じるくらいはげしく、親方は余の頭をかき回した。
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余が頭に何十万本の髪の毛が生えているか知らんが、ありとある毛がことごとく根こぎにされて、残る地面がべた一面に蚯蚓腫にふくれ上った上、余勢が地磐を通して、骨から脳味噌まで震盪を感じたくらい烈しく、親方は余の頭を掻き廻わした。
「どうです、いい気持ちでしょう」
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「どうです、好い心持でしょう」
「たいへんな腕前だ」
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「非常な辣腕だ」
「え? こうやると誰でもさっぱりするからね」
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「え? こうやると誰でもさっぱりするからね」
「首が抜けそうだよ」
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「首が抜けそうだよ」
「そんなにだるうござんすかい。まったく陽気のせいだね。どうも春てえ奴あ、やたら体をなまけさせやがって――まあ一服おあがんなさい。一人で志保田にいちゃ退屈でしょう。ちっと話しにおいでなせえ。どうも江戸っ子は江戸っ子同士でなくっちゃ、話が合わねえものだから。何ですかい、やっぱりあのお嬢さんが、愛想に出てきますかい。どうもさっぱり見境のねえ人だから困っちまわあ」
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「そんなに倦怠うがすかい。全く陽気の加減だね。どうも春てえ奴あ、やに身体がなまけやがって――まあ一ぷく御上がんなさい。一人で志保田にいちゃ、退屈でしょう。ちと話しに御出なせえ。どうも江戸っ子は江戸っ子同志でなくっちゃ、話しが合わねえものだから。何ですかい、やっぱりあの御嬢さんが、御愛想に出てきますかい。どうもさっぱし、見境のねえ女だから困っちまわあ」
「お嬢さんがどうとか言ったところで、頭のあかが飛んで、首が抜けそうになったっけ」
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「御嬢さんが、どうとか、したところで頭垢が飛んで、首が抜けそうになったっけ」
「違えねえ、まったく話にしまりがねえったらねえ。――そこでその坊さんがのぼせちまって……」
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「違ねえ、がんがらがんだから、からっきし、話に締りがねえったらねえ。――そこでその坊主が逆せちまって……」
「その坊さんたあ、どの坊さんだい」
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「その坊主たあ、どの坊主だい」
「観海寺(かんかいじ)の下働きの坊さんがさ……」
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「観海寺の納所坊主がさ……」
「下働きにも住職にも、坊さんはまだ一人も出て来ないんだ」
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「納所にも住持にも、坊主はまだ一人も出て来ないんだ」
「そうか、せっかちだから、いけねえ。苦みばしった、色っぽそうな坊さんだったが、そいつが旦那さん、その人にすっかり参っちまって、とうとう手紙をつけたんだ。――おや待てよ。口説いたんだっけかな。いんにゃ手紙だ。手紙に違えねえ。すると――こうっと――何だか、話の順が少し変だぜ。うん、そうか、やっぱりそうか。すると、その人が驚ろいちまってからに……」
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「そうか、急勝だから、いけねえ。苦味走った、色の出来そうな坊主だったが、そいつが御前さん、レコに参っちまって、とうとう文をつけたんだ。――おや待てよ。口説たんだっけかな。いんにゃ文だ。文に違えねえ。すると――こうっと――何だか、行きさつが少し変だぜ。うん、そうか、やっぱりそうか。するてえと奴さん、驚ろいちまってからに……」
「誰が驚いたんだい」
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「誰が驚ろいたんだい」
「女がさ」
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「女がさ」
「女が手紙を受け取って驚いたんだね」
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「女が文を受け取って驚ろいたんだね」
「ところが驚くような女ならかわいらしいんだが、驚くどころじゃねえ」
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「ところが驚ろくような女なら、殊勝らしいんだが、驚ろくどころじゃねえ」
「じゃ誰が驚いたんだい」
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「じゃ誰が驚ろいたんだい」
「口説いたほうがさ」
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「口説た方がさ」
「口説いてないんじゃないか」
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「口説ないのじゃないか」
「ええ、じれってえ。話がこんがらがってらあ。手紙をもらってさ」
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「ええ、じれってえ。間違ってらあ。文をもらってさ」
「それじゃやっぱり女だろう」
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「それじゃやっぱり女だろう」
「なあに、男がさ」
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「なあに男がさ」
「男なら、その坊さんだろう」
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「男なら、その坊主だろう」
「ええ、その坊さんがさ」
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「ええ、その坊主がさ」
「坊さんがどうして驚いたのかい」
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「坊主がどうして驚ろいたのかい」
「どうしてって、本堂で和尚(おしょう)さんとお経をあげてると、いきなりあの女が飛び込んで来て――ウフフフフ。どうしても気の変な人だね」
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「どうしてって、本堂で和尚さんと御経を上げてると、突然あの女が飛び込んで来て――ウフフフフ。どうしても狂印だね」
「どうかしたのかい」
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「どうかしたのかい」
「そんなにかわいいなら、仏様の前で一緒に寝ようって、いきなり泰安(たいあん)さんの首っ玉にかじりついたんでさあ」
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「そんなに可愛いなら、仏様の前で、いっしょに寝ようって、出し抜けに、泰安さんの頸っ玉へかじりついたんでさあ」
「へええ」
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「へええ」
「面食らったなあ、泰安さ。気の変な人に手紙をつけられて、とんだ恥をかかされて、とうとうその晩こっそり姿を隠して、死んじまって……」
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「面喰ったなあ、泰安さ。気狂に文をつけて、飛んだ恥を掻かせられて、とうとう、その晩こっそり姿を隠して死んじまって……」
「死んだ?」
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「死んだ?」
「死んだろうと思うのさ。生きちゃいられめえ」
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「死んだろうと思うのさ。生きちゃいられめえ」
「何とも言えない」
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「何とも云えない」
「そうさ、相手が気の変な人じゃ、死んだって格好がつかねえから、ひょっとすると生きてるかもしれねえね」
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「そうさ、相手が気狂じゃ、死んだって冴えねえから、ことによると生きてるかも知れねえね」
「なかなか面白い話だ」
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「なかなか面白い話だ」
「面白いの、面白くないのって、村中大笑いでさあ。ところが本人だけは、もともと気持ちが変わってるんだから、平気なもんで――なあに旦那のようにしっかりしていりゃ大丈夫ですがね、相手が相手だから、めったにからかったりなんかすると、大変な目にあいますよ」
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「面白いの、面白くないのって、村中大笑いでさあ。ところが当人だけは、根が気が違ってるんだから、洒唖洒唖して平気なもんで――なあに旦那のようにしっかりしていりゃ大丈夫ですがね、相手が相手だから、滅多にからかったり何かすると、大変な目に逢いますよ」
「ちっと気をつけるかね。ははははは」
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「ちっと気をつけるかね。ははははは」
生ぬるい浜辺から、塩気のある春風がふわりふわりと来て、親方の店ののれんを眠たそうにあおる。
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生温い磯から、塩気のある春風がふわりふわりと来て、親方の暖簾を眠たそうに煽る。
体をななめにしてその下をくぐり抜けるつばめの姿が、ひらりと、鏡の中に映って消えていく。
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身を斜にしてその下をくぐり抜ける燕の姿が、ひらりと、鏡の裡に落ちて行く。
向かいの家では六十歳くらいのおじいさんが、軒下にしゃがみこんで、だまって貝をむいている。
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向うの家では六十ばかりの爺さんが、軒下に蹲踞まりながら、だまって貝をむいている。
かちゃりと、小刀が当たるたびに、赤い身がざるの中に隠れる。
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かちゃりと、小刀があたるたびに、赤い味が笊のなかに隠れる。
貝がらはきらりと光を放って、二尺あまりのかげろうの向こうを横切る。
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殻はきらりと光りを放って、二尺あまりの陽炎を向へ横切る。
丘のようにうずたかく積み上げられた貝がらは、かきか、ばか貝か、まて貝か。
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丘のごとくに堆かく、積み上げられた、貝殻は牡蠣か、馬鹿か、馬刀貝か。
崩れた貝がらは、いくらか砂川の底に落ちて、この世の表から暗い場所へ葬られる。
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崩れた、幾分は砂川の底に落ちて、浮世の表から、暗らい国へ葬られる。
葬られたあとから、すぐ新しい貝が、柳の下にたまる。
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葬られるあとから、すぐ新しい貝が、柳の下へたまる。
おじいさんは、貝がこの先どうなるかを考える暇もなく、ただ空になった貝がらを、かげろうの上へ放り出す。
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爺さんは貝の行末を考うる暇さえなく、ただ空しき殻を陽炎の上へ放り出す。
あの人のざるには底がなく、あの人の春の日は、いつまでも続きそうに、のどかに見える。
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彼れの笊には支うべき底なくして、彼れの春の日は無尽蔵に長閑かと見える。
砂川は、幅二間ほどの小橋の下を流れて、浜のほうへ春の水を注ぐ。
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砂川は二間に足らぬ小橋の下を流れて、浜の方へ春の水をそそぐ。
春の水が春の海と出会うあたりでは、あちこちに干してある何本もの網が、網の目を抜けて村へ吹く軟らかい風に、生ぐさい温もりを与えているように感じられる。
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春の水が春の海と出合うあたりには、参差として幾尋の干網が、網の目を抜けて村へ吹く軟風に、腥き微温を与えつつあるかと怪しまれる。
その間から見える、鈍い刀を溶かして、のんびりとうねらせたように見えるのが、海の色だ。
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その間から、鈍刀を溶かして、気長にのたくらせたように見えるのが海の色だ。
この景色と、この親方とは、とても釣り合わない。
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この景色とこの親方とはとうてい調和しない。
もしこの親方の人柄が強烈で、あたりの景色と張り合うほど余の頭に影響を与えたなら、余は両者の間で、まったくかみ合わない感じに打たれただろう。
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もしこの親方の人格が強烈で四辺の風光と拮抗するほどの影響を余の頭脳に与えたならば、余は両者の間に立ってすこぶる円枘方鑿の感に打たれただろう。
幸い、親方はそれほど大した人物ではなかった。
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幸にして親方はさほど偉大な豪傑ではなかった。
いくら江戸っ子でも、どれだけ威勢のいいことを言っても、このおだやかで、ひろびろとした天地の大きな気配にはかなわない。
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いくら江戸っ子でも、どれほどたんかを切っても、この渾然として駘蕩たる天地の大気象には叶わない。
腹いっぱいのおしゃべりを並べて、あくまでこの静けさを破ろうとする親方は、いつのまにか小さな一点となって、和やかな春の光の中に浮かんでいる。
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満腹の饒舌を弄して、あくまでこの調子を破ろうとする親方は、早く一微塵となって、怡々たる春光の裏に浮遊している。
矛盾というのは、力や大きさ、あるいは気持ちや体つきにおいて、水と炭のように相いれない、しかも同じくらいの立場の物や人の間にあって、はじめて見つかる現象だ。
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矛盾とは、力において、量において、もしくは意気体躯において氷炭相容るる能わずして、しかも同程度に位する物もしくは人の間に在って始めて、見出し得べき現象である。
両者の間があまりにかけ離れているときは、この矛盾はしだいにすり減って、かえって大きな力の一部として働くようになるかもしれない。
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両者の間隔がはなはだしく懸絶するときは、この矛盾はようやく澌礱磨して、かえって大勢力の一部となって活動するに至るかも知れぬ。
えらい人の手足となって才能のある人が働き、才能のある人の腕となって、あまり物事のわからない人が働き、その人の心となって牛や馬が働けるのは、このためだ。
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大人の手足となって才子が活動し、才子の股肱となって昧者が活動し、昧者の心腹となって牛馬が活動し得るのはこれがためである。
今、余の親方は、限りない春の景色を背景として、一種のこっけいな役回りを演じている。
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今わが親方は限りなき春の景色を背景として、一種の滑稽を演じている。
のどかな春の感じを壊してもよさそうな彼が、かえってのどかな春の感じを、わざとのように添えている。
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長閑な春の感じを壊すべきはずの彼は、かえって長閑な春の感じを刻意に添えつつある。
余は思わず、三月なかばのお気楽な江戸っ子と知り合いになったような気持ちになった。
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余は思わず弥生半ばに呑気な弥次と近づきになったような気持ちになった。
このいかにも安っぽい、いきがった男は、平和の様子をたたえた春の日に、いちばんよく似合う色どりだ。
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この極めて安価なる気燄家は、太平の象を具したる春の日にもっとも調和せる一彩色である。
こう考えると、この親方もなかなか絵にも詩にもなる男だから、とうに帰るべきところを、わざと腰を落ちつけて、あれこれと話をしていた。
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こう考えると、この親方もなかなか画にも、詩にもなる男だから、とうに帰るべきところを、わざと尻を据えて四方八方の話をしていた。
そこへ、のれんをくぐって小さな坊主頭が
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ところへ暖簾を滑って小さな坊主頭が
「ごめん、一つそってもらおうか」
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「御免、一つ剃って貰おうか」
と入って来る。
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と這入って来る。
白木綿の着物に同じ布の帯をしめて、その上から蚊帳のように粗い法衣を羽織った、いかにも気楽そうな小坊主だった。
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白木綿の着物に同じ丸絎の帯をしめて、上から蚊帳のように粗い法衣を羽織って、すこぶる気楽に見える小坊主であった。
「了念(りょうねん)さん。どうだい、こないだあ道草を食って、和尚さんに叱られたろう」
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「了念さん。どうだい、こないだあ道草あ、食って、和尚さんに叱られたろう」
「いんにゃ、褒められた」
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「いんにゃ、褒められた」
「使いに出て、途中で魚なんか捕っていて、了念は感心だって、褒められたのかい」
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「使に出て、途中で魚なんか、とっていて、了念は感心だって、褒められたのかい」
「若いのによく遊んで来て感心じゃと、老師が褒められたのよ」
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「若いに似ず了念は、よく遊んで来て感心じゃ云うて、老師が褒められたのよ」
「どうりで頭にこぶができてらあ。そんな不作法な頭あ、そるのは骨が折れていけねえ。今日は勘弁するから、この次から、ちゃんと直してこねえ」
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「道理で頭に瘤が出来てらあ。そんな不作法な頭あ、剃るなあ骨が折れていけねえ。今日は勘弁するから、この次から、捏ね直して来ねえ」
「直すくらいなら、もう少し上手な床屋へ行きます」
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「捏ね直すくらいなら、ますこし上手な床屋へ行きます」
「はははは、頭はでこぼこだが、口だけは達者なもんだ」
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「はははは頭は凹凸だが、口だけは達者なもんだ」
「腕は鈍いが、酒だけ強いのはおまえだろ」
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「腕は鈍いが、酒だけ強いのは御前だろ」
「べらぼうめ、腕が鈍いって……」
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「箆棒め、腕が鈍いって……」
「わしが言うたのじゃない。老師が言われたのじゃ。そう怒るまい。年がいもない」
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「わしが云うたのじゃない。老師が云われたのじゃ。そう怒るまい。年甲斐もない」
「へん、面白くもねえ。――ねえ、旦那」
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「ヘン、面白くもねえ。――ねえ、旦那」
「ええ?」
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「ええ?」
「だいたい坊さんなんてものは、高い石段の上に住んでやがって、屈託がねえから、自然に口が達者になる訳ですかね。こんな小坊主までなかなか一人前な口をききますぜ――おっと、もう少し頭を寝かして――寝かすんだてえのに、――言うことを聞かなけりゃ、切るよ、いいか、血が出るぜ」
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「全体坊主なんてえものは、高い石段の上に住んでやがって、屈托がねえから、自然に口が達者になる訳ですかね。こんな小坊主までなかなか口幅ってえ事を云いますぜ――おっと、もう少し頭を寝かして――寝かすんだてえのに、――言う事を聴かなけりゃ、切るよ、いいか、血が出るぜ」
「痛いがな。そう乱暴にしては」
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「痛いがな。そう無茶をしては」
「このくらいの我慢ができなくって坊さんになれるもんか」
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「このくらいな辛抱が出来なくって坊主になれるもんか」
「坊さんにはもうなっとるがな」
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「坊主にはもうなっとるがな」
「まだ一人前じゃねえ。――ときにあの泰安さんは、どうして死んだっけな、お小僧さん」
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「まだ一人前じゃねえ。――時にあの泰安さんは、どうして死んだっけな、御小僧さん」
「泰安さんは死んではおらんがな」
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「泰安さんは死にはせんがな」
「死なねえ? はてな。死んだはずだが」
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「死なねえ? はてな。死んだはずだが」
「泰安さんは、その後発憤して、陸前の大梅寺へ行って修行三昧じゃ。今に立派な僧になられよう。結構なことよ」
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「泰安さんは、その後発憤して、陸前の大梅寺へ行って、修業三昧じゃ。今に智識になられよう。結構な事よ」
「何が結構だい。いくら坊さんだって、夜逃げして結構な訳があるめえ。おまえなんざ、よく気をつけなくっちゃいけねえぜ。とかく、しくじるのは女だから――女ってえば、あの気の変な人は、やっぱり和尚さんの所へ行くかい」
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「何が結構だい。いくら坊主だって、夜逃をして結構な法はあるめえ。御前なんざ、よく気をつけなくっちゃいけねえぜ。とかく、しくじるなあ女だから――女ってえば、あの狂印はやっぱり和尚さんの所へ行くかい」
「気の変な人という女は聞いたことがない」
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「狂印と云う女は聞いた事がない」
「通じねえ、話のわからねえ坊主だ。行くのか、行かねえのか」
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「通じねえ、味噌擂だ。行くのか、行かねえのか」
「気の変な人は来んが、志保田の娘さんなら来る」
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「狂印は来んが、志保田の娘さんなら来る」
「いくら和尚さんのご祈祷でも、あればかりは治るめえ。まったく、前の旦那のたたりだ」
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「いくら、和尚さんの御祈祷でもあればかりゃ、癒るめえ。全く先の旦那が祟ってるんだ」
「あの娘さんはえらい人だ。老師がよく褒めておられる」
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「あの娘さんはえらい女だ。老師がよう褒めておられる」
「石段をあがると、何でも逆さまになるから、かなわねえ。和尚さんが何て言ったって、気が変なのは気が変だろう。――さあ、それたよ。早く行って和尚さんに叱られてこい」
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「石段をあがると、何でも逆様だから叶わねえ。和尚さんが、何て云ったって、気狂は気狂だろう。――さあ剃れたよ。早く行って和尚さんに叱られて来めえ」
「いや、もう少し遊んで行って褒められよう」
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「いやもう少し遊んで行って賞められよう」
「勝手にしろ、口の減らねえ餓鬼だ」
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「勝手にしろ、口の減らねえ餓鬼だ」
「えい、この糞かき棒(くそかきぼう・禅の言葉で、役に立たないやつという意味)」
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「咄この乾屎橛」
「何だと?」
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「何だと?」
青い頭は、すでにのれんをくぐって、春風に吹かれている。
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青い頭はすでに暖簾をくぐって、春風に吹かれている。
六
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六
夕方、机に向かう。
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夕暮の机に向う。
障子もふすまも、開けはなす。
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障子も襖も開け放つ。
宿の人はそんなに多くない上に、家はわりあい広い。
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宿の人は多くもあらぬ上に、家は割合に広い。
余が住む部屋は、その少ない人たちが人らしく暮らしている場所から、いくつも曲がった廊下でへだてられているので、物音さえ、考えごとのじゃまにはならない。
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余が住む部屋は、多くもあらぬ人の、人らしく振舞う境を、幾曲の廊下に隔てたれば、物の音さえ思索の煩にはならぬ。
今日はいっそう静かだ。
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今日は一層静かである。
主人も、娘も、女中も下男も、知らないうちに余を残して、どこかへ行ってしまったように思われる。
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主人も、娘も、下女も下男も、知らぬ間に、われを残して、立ち退いたかと思われる。
どこかへ行ったとしても、ただの場所へ行ったのではないだろう。
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立ち退いたとすればただの所へ立ち退きはせぬ。
霞の国か、雲の国だろう。
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霞の国か、雲の国かであろう。
あるいは、雲と水が自然に近づいて、舵を取るのもおっくうな海の上を、いつ流れついたともわからないうちに、白い帆が、雲とも水とも見分けがつかない場所まで漂ってきて、しまいには帆自身が、自分を雲と水のどちらだと区別すればいいのか困ってしまう――そんな遠い場所へ行ってしまったように思われる。
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あるいは雲と水が自然に近づいて、舵をとるさえ懶き海の上を、いつ流れたとも心づかぬ間に、白い帆が雲とも水とも見分け難き境に漂い来て、果ては帆みずからが、いずこに己れを雲と水より差別すべきかを苦しむあたりへ――そんな遥かな所へ立ち退いたと思われる。
それでなければ、急に春の中へ消えてしまって、これまで体をつくっていたものが、今ごろは目に見えない気配のようなものになって、広い天地の間に、顕微鏡を使ってもわずかな跡さえ残さなくなったのだろう。
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それでなければ卒然と春のなかに消え失せて、これまでの四大が、今頃は目に見えぬ霊氛となって、広い天地の間に、顕微鏡の力を藉るとも、些の名残を留めぬようになったのであろう。
あるいは、ひばりに姿を変えて、菜の花の黄色い景色の中で鳴き続けたあと、夕暮れの深い紫がたなびくあたりへ行ったのかもしれない。
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あるいは雲雀に化して、菜の花の黄を鳴き尽したる後、夕暮深き紫のたなびくほとりへ行ったかも知れぬ。
あるいは、長い一日を、さらに長く感じさせる虻(あぶ)としての役目を果たしたあと、花の芯にたまる甘い露を吸いそこねて、落ちた椿の花の下に押されながら、いい香りに包まれて眠っているのかもしれない。
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または永き日を、かつ永くする虻のつとめを果したる後、蕋に凝る甘き露を吸い損ねて、落椿の下に、伏せられながら、世を香ばしく眠っているかも知れぬ。
とにかく、静かなものだ。
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とにかく静かなものだ。
誰もいない家を、むなしく通りぬける春風は、通りぬけていくのに、誰かを迎える義理があるわけでもない。
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空しき家を、空しく抜ける春風の、抜けて行くは迎える人への義理でもない。
誰かを拒む相手へのあてつけでもない。
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拒むものへの面当でもない。
自然にやって来て、自然に去っていく、公平な宇宙の気持ちなのだ。
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自から来りて、自から去る、公平なる宇宙の意である。
手のひらにあごをのせている余の心も、自分の住む部屋と同じようにからっぽだから、春風は呼ばなくても、遠慮なく通りぬけていくだろう。
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掌に顎を支えたる余の心も、わが住む部屋のごとく空しければ、春風は招かぬに、遠慮もなく行き抜けるであろう。
踏んでいるのが地面だと思うからこそ、割れはしないかという心配も生まれる。
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踏むは地と思えばこそ、裂けはせぬかとの気遣も起る。
頭の上にあるのが空だとわかっているから、稲妻がこめかみのあたりで光ると、こわいと感じることもできる。
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戴くは天と知る故に、稲妻の米噛に震う怖も出来る。
人と争わなければ面目が立たないと、世の中がせきたててくるから、火事のような苦しみからはのがれられない。
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人と争わねば一分が立たぬと浮世が催促するから、火宅の苦は免かれぬ。
東と西のあるこの世に住んで、損か得かの綱わたりをしなければならない身には、本当の恋はやっかいなものだ。
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東西のある乾坤に住んで、利害の綱を渡らねばならぬ身には、事実の恋は讎である。
目に見える富は、しょせん土のようなものだ。
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目に見る富は土である。
手にした名声や、勝ち取った名誉も、ずるがしこいハチが、甘い蜜を作ると見せかけて、針だけ残して去っていくようなものだろう。
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握る名と奪える誉とは、小賢かしき蜂が甘く醸すと見せて、針を棄て去る蜜のごときものであろう。
いわゆる楽しみというものは、物にこだわることから生まれるので、あらゆる苦しみをふくんでいる。
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いわゆる楽は物に着するより起るが故に、あらゆる苦しみを含む。
ただ、詩人と画家というものだけは、この人と人とが向き合う世界のよいところを、心ゆくまで味わって、体の芯から清らかな気持ちを知っている。
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ただ詩人と画客なるものあって、飽くまでこの待対世界の精華を嚼んで、徹骨徹髄の清きを知る。
霞を食べ、露を飲み、紫の花を味わい、紅色の花を評しながら、死ぬときになっても悔いがない。
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霞を餐し、露を嚥み、紫を品し、紅を評して、死に至って悔いぬ。
彼らの楽しみは、物にこだわることではない。
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彼らの楽は物に着するのではない。
自分をその物と同じにして、その物になりきってしまうことなのだ。
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同化してその物になるのである。
その物になりきってしまったとき、「自分」を立てる場所は、どんなに広い大地を探しても見つからない。
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その物になり済ました時に、我を樹立すべき余地は茫々たる大地を極めても見出し得ぬ。
自由に、土くれのような自分の体を投げ出して、破れがさの内側に、限りない青葉の風をたっぷり感じる。
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自在に泥団を放下して、破笠裏に無限の青嵐を盛る。
わざわざこんな話を持ち出すのは、街のお金もうけばかり考えている人たちをおどかして、わざと自分を高い所に置きたいからではない。
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いたずらにこの境遇を拈出するのは、敢て市井の銅臭児の鬼嚇して、好んで高く標置するがためではない。
ただ、この中にある、よい知らせを話して、縁のある人たちを招いているだけである。
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ただ這裏の福音を述べて、縁ある衆生を麾くのみである。
ありのままに言えば、詩の世界も、絵の世界も、みんな誰にでも初めから備わっている道だ。
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有体に云えば詩境と云い、画界と云うも皆人々具足の道である。
何十年も年を重ねて、白髪頭になってうめいているような人でも、一生を振り返って、これまでのことを順番に見ていけば、かつてわずかな光が体にさし込んで、我を忘れて手をたたいて喜んだ、そんな気持ちを思い出せるはずだ。
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春秋に指を折り尽して、白頭に呻吟するの徒といえども、一生を回顧して、閲歴の波動を順次に点検し来るとき、かつては微光の臭骸に洩れて、吾を忘れし、拍手の興を喚び起す事が出来よう。
それができないと言うなら、生きるかいのない人だ。
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出来ぬと云わば生甲斐のない男である。
しかし、一つのことにぴったり寄りそって、一つの物になりきることだけが、詩人の感動というわけではない。
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されど一事に即し、一物に化するのみが詩人の感興とは云わぬ。
あるときは一枚の花びらになり、あるときは一組のちょうになり、あるいはワーズワース(イギリスの詩人)のように、ひとむらの水仙になって、心を谷を吹く風の中で咲き乱れさせることもあるだろうが、何だかわからないまわりの景色に心を奪われて、何が自分の心を奪ったのか、はっきりわからない場合もある。
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ある時は一弁の花に化し、あるときは一双の蝶に化し、あるはウォーヅウォースのごとく、一団の水仙に化して、心を沢風の裏に撩乱せしむる事もあろうが、何とも知れぬ四辺の風光にわが心を奪われて、わが心を奪えるは那物ぞとも明瞭に意識せぬ場合がある。
ある人は、「天地の澄んだ気配に触れる」と言うだろう。
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ある人は天地の耿気に触るると云うだろう。
ある人は、「弦のない琴を、心の奥で聴く」と言うだろう。
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ある人は無絃の琴を霊台に聴くと云うだろう。
またある人は、わかりにくく、理解しにくいからこそ、限りない世界をさまよって、かすんだ町をさまよっていると言い表すかもしれない。
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またある人は知りがたく、解しがたき故に無限の域に儃佪して、縹緲のちまたに彷徨すると形容するかも知れぬ。
何と言っても、それはその人の自由だ。
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何と云うも皆その人の自由である。
余が唐木(からき)の机によりかかって、ぼんやりしている心の中の様子は、まさにこれである。
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わが、唐木の机に憑りてぽかんとした心裡の状態は正にこれである。
余は、はっきりと何かを考えているわけではない。
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余は明かに何事をも考えておらぬ。
また、たしかに何かを見ているわけでもない。
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またはたしかに何物をも見ておらぬ。
自分の意識の中に、はっきりとした色をもって動くものがないから、余は、何かに自分を重ねているとは言えない。
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わが意識の舞台に著るしき色彩をもって動くものがないから、われはいかなる事物に同化したとも云えぬ。
それでも、余は動いている。
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されども吾は動いている。
世の中で動いているのでも、世の外で動いているのでもない。
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世の中に動いてもおらぬ、世の外にも動いておらぬ。
ただ何となく動いているのだ。
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ただ何となく動いている。
花に心を動かされているのでも、鳥に動かされているのでも、人に対して動いているのでもなく、ただうっとりと動いている。
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花に動くにもあらず、鳥に動くにもあらず、人間に対して動くにもあらず、ただ恍惚と動いている。
無理に説明しろと言われるなら、余の心は、ただ春と一緒に動いていると言いたい。
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強いて説明せよと云わるるならば、余が心はただ春と共に動いていると云いたい。
あらゆる春の色、春の風、春の物、春の声を打ちかためて練り上げ、それを不思議な薬の水にとかして、夢のような場所の日差しで蒸発させた、そのいい香りが、知らないうちに毛穴からしみこんで、心が気づかないうちに満たされてしまった、と言いたい。
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あらゆる春の色、春の風、春の物、春の声を打って、固めて、仙丹に練り上げて、それを蓬莱の霊液に溶いて、桃源の日で蒸発せしめた精気が、知らぬ間に毛孔から染み込んで、心が知覚せぬうちに飽和されてしまったと云いたい。
ふつう、何かに心を重ねるときには、きっかけがある。
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普通の同化には刺激がある。
きっかけがあるからこそ、うれしく感じるのだろう。
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刺激があればこそ、愉快であろう。
余の場合は、何に心を重ねているのかがはっきりしないから、まったくきっかけがない。
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余の同化には、何と同化したか不分明であるから、毫も刺激がない。
きっかけがないから、深くて言葉にしにくい楽しみがある。
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刺激がないから、窈然として名状しがたい楽がある。
風にもまれて、表面だけの波を立てる、うわついてさわがしい感じとはちがう。
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風に揉まれて上の空なる波を起す、軽薄で騒々しい趣とは違う。
目に見えない深い底を、大陸から大陸まで動いている、広くて果てしない青い海のようだと言うことができる。
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目に見えぬ幾尋の底を、大陸から大陸まで動いている潢洋たる蒼海の有様と形容する事が出来る。
ただ、それほど激しい力がないだけだ。
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ただそれほどに活力がないばかりだ。
しかし、そこにこそ、かえって幸せがある。
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しかしそこにかえって幸福がある。
大きな力がわき起こるときには、いつかその力が尽きてしまうのではないかという心配がついてまわる。
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偉大なる活力の発現は、この活力がいつか尽き果てるだろうとの懸念が籠る。
いつもの姿には、そんな心配はない。
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常の姿にはそう云う心配は伴わぬ。
いつもより淡い、今の余の心の様子は、激しい力がすり減るのではという不安から離れているだけでなく、いつもの心の、よくも悪くもない、ふつうの状態からもぬけ出している。
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常よりは淡きわが心の、今の状態には、わが烈しき力の銷磨しはせぬかとの憂を離れたるのみならず、常の心の可もなく不可もなき凡境をも脱却している。
淡いというのは、単に「つかまえにくい」という意味であって、弱すぎるという心配をふくんでいるわけではない。
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淡しとは単に捕え難しと云う意味で、弱きに過ぎる虞を含んではおらぬ。
「ゆったりとけあう」とか「おだやかに広がる」とかいう詩人の言葉は、いちばんこの気持ちをうまく言い表しているだろう。
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冲融とか澹蕩とか云う詩人の語はもっともこの境を切実に言い了せたものだろう。
この気持ちを絵にしてみたらどうだろうと考えた。
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この境界を画にして見たらどうだろうと考えた。
しかし、ふつうの絵にはならないに決まっている。
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しかし普通の画にはならないにきまっている。
私たちが世の中でふつう絵と呼んでいるものは、ただ目の前の人の暮らしや景色を、ありのままの姿として、あるいはそれを自分の美しさの好みでこしとって、絵絹(えぎぬ)の上にうつしたものにすぎない。
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われらが俗に画と称するものは、ただ眼前の人事風光をありのままなる姿として、もしくはこれをわが審美眼に漉過して、絵絹の上に移したものに過ぎぬ。
花が花に見え、水が水に見え、人物が人物として動いていれば、絵の仕事は終わったと考えられている。
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花が花と見え、水が水と映り、人物が人物として活動すれば、画の能事は終ったものと考えられている。
もしこの上を一歩ぬけ出るなら、自分が感じた物の姿に、自分が感じたままの雰囲気をそえて、画布(カンバス)の上に、いきいきと動かして見せる。
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もしこの上に一頭地を抜けば、わが感じたる物象を、わが感じたるままの趣を添えて、画布の上に淋漓として生動させる。
ある特別な感動を、自分がとらえた世界の中に込めるのが、この種の芸術家の目的なので、彼らの物の見方が、はっきりと筆の先から表れていなければ、絵を作ったとは言わない。
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ある特別の感興を、己が捕えたる森羅の裡に寓するのがこの種の技術家の主意であるから、彼らの見たる物象観が明瞭に筆端に迸しっておらねば、画を製作したとは云わぬ。
自分はこういうことを、こういうふうに見て、こういうふうに感じた、その見方も感じ方も、前の人のまねをして昔からの言い伝えに従ったのではなく、しかも自分の見方こそがいちばん正しく、いちばん美しいのだという主張を見せる作品でなければ、自分の作品とは言わない。
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己れはしかじかの事を、しかじかに観、しかじかに感じたり、その観方も感じ方も、前人の籬下に立ちて、古来の伝説に支配せられたるにあらず、しかももっとも正しくして、もっとも美くしきものなりとの主張を示す作品にあらざれば、わが作と云うをあえてせぬ。
この二種類の作り手には、どちらが主で、どちらが従うか、深いか浅いかのちがいはあるかもしれないが、はっきりとした外の刺激を待ってから、初めて筆を動かすという点は、どちらも同じである。
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この二種の製作家に主客深浅の区別はあるかも知れぬが、明瞭なる外界の刺激を待って、始めて手を下すのは双方共同一である。
しかし今、余が描こうとしている題材は、そんなにはっきりしたものではない。
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されど今、わが描かんとする題目は、さほどに分明なものではない。
ありったけの感覚を働かせて、心の外にそれを探してみても、四角や丸の形、赤や緑の色はもちろん、こい・うすいの影も、太い・細いの線も見つけられない。
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あらん限りの感覚を鼓舞して、これを心外に物色したところで、方円の形、紅緑の色は無論、濃淡の陰、洪繊の線を見出しかねる。
余の感じは、外からやってきたのではない。たとえ外から来たとしても、自分の目の前に横たわっている、はっきりした景色ではないから、「これが原因だ」と指をさして、人にはっきり見せることができない。
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わが感じは外から来たのではない、たとい来たとしても、わが視界に横わる、一定の景物でないから、これが源因だと指を挙げて明らかに人に示す訳に行かぬ。
あるものは、ただの気持ちだけだ。
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あるものはただ心持ちである。
この気持ちをどう表せば絵になるだろう――いや、この気持ちを、どんな形を借りて、人が「なるほど」と思うように、それらしく浮かび上がらせられるかが問題なのだ。
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この心持ちを、どうあらわしたら画になるだろう――否この心持ちをいかなる具体を藉りて、人の合点するように髣髴せしめ得るかが問題である。
ふつうの絵は、気持ちがなくても、物さえあればできる。
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普通の画は感じはなくても物さえあれば出来る。
二番目の絵は、物と気持ちの両方があればできる。
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第二の画は物と感じと両立すればできる。
三番目になると、あるのはただ気持ちだけだから、絵にするには、この気持ちにぴったり合う対象を、どうしても選ばなくてはならない。
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第三に至っては存するものはただ心持ちだけであるから、画にするには是非共この心持ちに恰好なる対象を択ばなければならん。
ところが、この対象はなかなか見つからない。
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しかるにこの対象は容易に出て来ない。
見つかっても、なかなかまとまらない。
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出て来ても容易に纏らない。
まとまっても、実際の自然にあるものとは、まるでちがう感じになることがある。
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纏っても自然界に存するものとは丸で趣を異にする場合がある。
だから、ふつうの人から見れば、絵とは思えない。
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したがって普通の人から見れば画とは受け取れない。
描いた本人も、自然のある部分をそのまま写したとは思っていない。ただ、感動したそのときの気持ちを、少しでも伝えて、つかみどころのない気分に、いくらかの命をあたえられれば大成功だと思っている。
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描いた当人も自然界の局部が再現したものとは認めておらん、ただ感興の上した刻下の心持ちを幾分でも伝えて、多少の生命を惝怳しがたきムードに与うれば大成功と心得ている。
昔からこの難しい仕事に、完全に成功した画家がいるかどうか、余は知らない。
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古来からこの難事業に全然の績を収め得たる画工があるかないか知らぬ。
ある程度までこの流派に手をつけたと言える例をあげれば、文与可(ぶんよか・中国の画家)がかいた竹である。
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ある点までこの流派に指を染め得たるものを挙ぐれば、文与可の竹である。
雲谷(うんこく)の弟子たちがかいた山水画である。
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雲谷門下の山水である。
それから、大雅堂(たいがどう)の風景画である。
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下って大雅堂の景色である。
蕪村(ぶそん)がかいた人物画である。
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蕪村の人物である。
西洋の画家となると、多くは目を、目に見える具体的な世界へ向けていて、目に見えないおもむきに心をよせる人は少ないから、この種の絵で、物のうしろにある雰囲気を伝えられる人が、いったい何人いるかわからない。
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泰西の画家に至っては、多く眼を具象世界に馳せて、神往の気韻に傾倒せぬ者が大多数を占めているから、この種の筆墨に物外の神韻を伝え得るものははたして幾人あるか知らぬ。
残念なことに、雪舟(せっしゅう)や蕪村がせいいっぱい描き出した一種の雰囲気は、あまりに単純で、しかもあまりに変化に乏しい。
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惜しい事に雪舟、蕪村らの力めて描出した一種の気韻は、あまりに単純でかつあまりに変化に乏しい。
筆の力から言えば、とてもこれらの大家にはかなわないが、今、余が絵にしてみようと思う気持ちは、もう少し複雑だ。
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筆力の点から云えばとうていこれらの大家に及ぶ訳はないが、今わが画にして見ようと思う心持ちはもう少し複雑である。
複雑であるだけに、どうも一枚の絵の中には気持ちがおさまりきらない。
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複雑であるだけにどうも一枚のなかへは感じが収まりかねる。
ほおづえをやめて、両腕を机の上で組んで考えたが、やはり出てこない。
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頬杖をやめて、両腕を机の上に組んで考えたがやはり出て来ない。
色、形、調子ができあがって、自分の心が「ああ、ここにいたな」と、たちまち気づくように、かかなければならない。
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色、形、調子が出来て、自分の心が、ああここにいたなと、たちまち自己を認識するようにかかなければならない。
生き別れになったわが子を探し当てるために、日本中を歩きまわり、寝ても覚めても忘れることがなかったある日、街の四つ角でばったり出会って、稲妻がひらめく間もなく「ここにいた」と思うように、かかなければならない。
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生き別れをした吾子を尋ね当てるため、六十余州を回国して、寝ても寤めても、忘れる間がなかったある日、十字街頭にふと邂逅して、稲妻の遮ぎるひまもなきうちに、あっ、ここにいた、と思うようにかかなければならない。
それが難しい。
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それがむずかしい。
この調子さえ出れば、人が見て何と言おうと構わない。
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この調子さえ出れば、人が見て何と云っても構わない。
「これは絵じゃない」とののしられても、うらみはない。
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画でないと罵られても恨はない。
少しでも、色の組み合わせがこの気持ちの一部を表し、線の曲がり方がこの気合いのいくらかを表し、全体の配置がこの雰囲気のどれほどかを伝えられるなら、形にあらわれたものは、牛でも馬でも、あるいは牛でも馬でもない何かでも、かまわない。
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いやしくも色の配合がこの心持ちの一部を代表して、線の曲直がこの気合の幾分を表現して、全体の配置がこの風韻のどれほどかを伝えるならば、形にあらわれたものは、牛であれ馬であれ、ないしは牛でも馬でも、何でもないものであれ、厭わない。
かまわないのだが、どうしてもできない。
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厭わないがどうも出来ない。
写生帖を机の上に置いて、両目が帖の中に落ち込みそうになるまで工夫したが、とても形にならない。
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写生帖を机の上へ置いて、両眼が帖のなかへ落ち込むまで、工夫したが、とても物にならん。
鉛筆を置いて考えた。
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鉛筆を置いて考えた。
こんな抽象的な感動を絵にしようとするのが、そもそもの間違いなのだ。
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こんな抽象的な興趣を画にしようとするのが、そもそもの間違である。
人間はそんなに変わらないから、多くの人の中には、きっと自分と同じ感動を味わった人がいて、この感動を何らかの方法で、永久に残そうとしたにちがいない。
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人間にそう変りはないから、多くの人のうちにはきっと自分と同じ感興に触れたものがあって、この感興を何らの手段かで、永久化せんと試みたに相違ない。
試みたとすれば、その方法は何だろう。
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試みたとすればその手段は何だろう。
たちまち「音楽」という二文字が、ぴかりと目にうつった。
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たちまち音楽の二字がぴかりと眼に映った。
なるほど、音楽は、こういうとき、こういう必要にせまられて生まれた、自然な声なのだろう。
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なるほど音楽はかかる時、かかる必要に逼られて生まれた自然の声であろう。
音楽は聴くもの、習うものだと初めて気づいたが、あいにく、余はその方面にはまったく詳しくない。
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楽は聴くべきもの、習うべきものであると、始めて気がついたが、不幸にして、その辺の消息はまるで不案内である。
次に、詩にはならないだろうかと、三番目の分野に足をふみ入れてみる。
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次に詩にはなるまいかと、第三の領分に踏み込んで見る。
レッシング(ドイツの学者)という人は、時間がたつにつれて起こる出来事こそが詩の本領だと論じて、詩と絵は同じではなく、それぞれ別のものだという考えを立てたと記憶しているが、そのように詩を考えると、今、余が形にしようとあせっているこの気持ちも、とても詩にはならなさそうだ。
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レッシングと云う男は、時間の経過を条件として起る出来事を、詩の本領であるごとく論じて、詩画は不一にして両様なりとの根本義を立てたように記憶するが、そう詩を見ると、今余の発表しようとあせっている境界もとうてい物になりそうにない。
余がうれしいと感じる、心の中のこの状態には、時間はあるかもしれないが、時間の流れにそって、順番に広がっていく出来事の中身がない。
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余が嬉しいと感ずる心裏の状況には時間はあるかも知れないが、時間の流れに沿うて、逓次に展開すべき出来事の内容がない。
一が去り、二が来て、二が消えて三が生まれるから、うれしいのではない。
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一が去り、二が来り、二が消えて三が生まるるがために嬉しいのではない。
初めから、深く、同じ場所にとどまり続ける感じで、うれしいのだ。
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初から窈然として同所に把住する趣きで嬉しいのである。
すでに同じ場所にとどまっている以上、これをふつうの言葉に訳したとしても、必ずしも時間の順番に材料を並べる必要はないだろう。
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すでに同所に把住する以上は、よしこれを普通の言語に翻訳したところで、必ずしも時間的に材料を按排する必要はあるまい。
やはり絵と同じように、空間的に景色を並べるだけでできるはずだ。
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やはり絵画と同じく空間的に景物を配置したのみで出来るだろう。
ただ、どんな景色と気持ちを詩の中に持ちこんで、この広々として、頼るもののない様子を写すかが問題で、これをすでにとらえた以上は、レッシングの説にしたがわなくても、詩として成功するはずだ。
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ただいかなる景情を詩中に持ち来って、この曠然として倚托なき有様を写すかが問題で、すでにこれを捕え得た以上はレッシングの説に従わんでも詩として成功する訳だ。
ホーマーがどうであろうと、ヴァージルがどうであろうと構わない。
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ホーマーがどうでも、ヴァージルがどうでも構わない。
もし詩が、ある種の気分を表すのに向いているとすれば、この気分は、時間に区切られて順に進んでいく出来事の助けを借りなくても、ただ空間的な、絵に必要な条件さえ満たせば、言葉で描けるはずだと思う。
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もし詩が一種のムードをあらわすに適しているとすれば、このムードは時間の制限を受けて、順次に進捗する出来事の助けを藉らずとも、単純に空間的なる絵画上の要件を充たしさえすれば、言語をもって描き得るものと思う。
議論はどうでもいい。
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議論はどうでもよい。
ラオコーン(古代の彫刻の話)のことなどは、たいてい忘れているから、よく調べたら、こちらのほうがあやしくなるかもしれない。
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ラオコーンなどは大概忘れているのだから、よく調べたら、こっちが怪しくなるかも知れない。
とにかく、絵にはできなかったから、今度は詩にしてみようと、写生帖の上に鉛筆を押しつけて、前後に体をゆすってみた。
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とにかく、画にしそくなったから、一つ詩にして見よう、と写生帖の上へ、鉛筆を押しつけて、前後に身をゆすぶって見た。
しばらくは、筆の先のとがった部分を、なんとか動かしたいと思うばかりで、少しも動かすことができなかった。
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しばらくは、筆の先の尖がった所を、どうにか運動させたいばかりで、毫も運動させる訳に行かなかった。
急に友だちの名前を忘れて、のどまで出かかっているのに、出てこないような感じがする。
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急に朋友の名を失念して、咽喉まで出かかっているのに、出てくれないような気がする。
そこであきらめると、出そこなった名前は、とうとう腹の底へおさまってしまう。
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そこで諦めると、出損なった名は、ついに腹の底へ収まってしまう。
くず湯を練るとき、はじめのうちはさらさらしていて、はしに手ごたえがない。
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葛湯を練るとき、最初のうちは、さらさらして、箸に手応がないものだ。
それをがまんしていると、だんだんねばりが出てきて、かき混ぜる手が少し重くなる。
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そこを辛抱すると、ようやく粘着が出て、攪き淆ぜる手が少し重くなる。
それでもかまわず、はしを休めずに回すと、今度は回しきれなくなる。
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それでも構わず、箸を休ませずに廻すと、今度は廻し切れなくなる。
しまいには、なべの中のくずが、求めなくても、向こうから争うようにはしにくっついてくる。
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しまいには鍋の中の葛が、求めぬに、先方から、争って箸に附着してくる。
詩を作るというのは、まさにこれだ。
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詩を作るのはまさにこれだ。
手がかりのなかった鉛筆が少しずつ動くようになったので勢いがついて、二、三十分もしたら、
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手掛りのない鉛筆が少しずつ動くようになるのに勢を得て、かれこれ二三十分したら、
若い春、二月三月。
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青春二三月。
悲しい気持ちは、いい香りの草とともに伸びていく。
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愁随芳草長。
ひっそりと、花が誰もいない庭に落ちる。
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閑花落空庭。
飾りのない琴が、がらんとした部屋に横たわる。
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素琴横虚堂。
くもが糸をかけたまま動かない。
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蠨蛸掛不動。
お香のけむりがゆらりと、竹の梁をめぐる。
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篆煙繞竹梁。
という六行の漢詩ができた。
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と云う六句だけ出来た。
読み返してみると、どれも絵になりそうな句ばかりだ。
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読み返して見ると、みな画になりそうな句ばかりである。
これなら初めから絵にすればよかったと思う。
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これなら始めから、画にすればよかったと思う。
なぜ絵よりも詩のほうが作りやすかったのだろうと思う。
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なぜ画よりも詩の方が作り易かったかと思う。
ここまでできたら、あとはそんなに苦労せずできそうだ。
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ここまで出たら、あとは大した苦もなく出そうだ。
しかし絵にできない気持ちを、次には詩にしてみたい。
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しかし画に出来ない情を、次には咏って見たい。
あれかこれかと迷ったすえ、とうとう、
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あれか、これかと思い煩った末とうとう、
ひとりで座り、ひと言も口にしない。
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独坐無隻語。
胸の中に、かすかな光を見つける。
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方寸認微光。
世の中は、むだに用事が多い。
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人間徒多事。
この静かな気持ちを、誰が忘れられるだろう。
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此境孰可忘。
一日の静けさをかみしめてこそ、
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会得一日静。
百年分のいそがしさが、はっきりわかる。
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正知百年忙。
この遠くまで広がる思いを、どこへ向けよう。
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遐懐寄何処。
はるか遠くの、白い雲の国へ。
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緬邈白雲郷。
という詩ができた。
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と出来た。
もう一度、最初から読み直してみると、少しおもしろく読めるが、自分が今しがた感じた不思議な気持ちを写したものとしては、どうも物足りない。
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もう一返最初から読み直して見ると、ちょっと面白く読まれるが、どうも、自分が今しがた入った神境を写したものとすると、索然として物足りない。
ついでだから、もう一つ詩を作ってみようかと、鉛筆を握ったまま、何気なく入口のほうを見ると、ふすまを引いて開けはなった、幅一メートルほどのすき間を、きれいな影がちらりと通った。
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ついでだから、もう一首作って見ようかと、鉛筆を握ったまま、何の気もなしに、入口の方を見ると、襖を引いて、開け放った幅三尺の空間をちらりと、奇麗な影が通った。
はてな。
原文を見る
はてな。
余が目を向けて入口を見たときには、そのきれいなものは、もう開いたふすまのかげに半分かくれかけていた。
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余が眼を転じて、入口を見たときは、奇麗なものが、すでに引き開けた襖の影に半分かくれかけていた。
しかもその姿は、余が見る前から動いていたらしく、はっと思う間に通りすぎた。
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しかもその姿は余が見ぬ前から、動いていたものらしく、はっと思う間に通り越した。
余は詩を作るのをやめて、入口を見守る。
原文を見る
余は詩をすてて入口を見守る。
一分もたたないうちに、影は反対の方から、もどるようにあらわれてきた。
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一分と立たぬ間に、影は反対の方から、逆にあらわれて来た。
振袖(ふりそで)姿のすらりとした女の人が、音もせず、向かいの二階の縁側を、静かに歩いていく。
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振袖姿のすらりとした女が、音もせず、向う二階の椽側を寂然として歩行て行く。
余は思わず鉛筆を落として、鼻から吸いかけた息をぴたりと止めた。
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余は覚えず鉛筆を落して、鼻から吸いかけた息をぴたりと留めた。
花曇りの空が、少しずつ天からずり落ちてきて、今にも雨が降りそうな夕暮れの欄干を、しとやかに行き、しとやかにもどる振袖の影は、余の部屋から、六間(けん)ほど先の中庭をへだてて、重たい空気の中に、さびしげに見えたり隠れたりする。
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花曇りの空が、刻一刻に天から、ずり落ちて、今や降ると待たれたる夕暮の欄干に、しとやかに行き、しとやかに帰る振袖の影は、余が座敷から六間の中庭を隔てて、重き空気のなかに蕭寥と見えつ、隠れつする。
女はもちろん、口もきかない。
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女はもとより口も聞かぬ。
わき目もふらない。
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傍目も触らぬ。
すそを引きずる音さえ自分の耳に入らないくらい、静かに歩いている。
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椽に引く裾の音さえおのが耳に入らぬくらい静かに歩行いている。
腰から下にぱっと色づく、すその模様は、何を染めたものか、遠くてわからない。
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腰から下にぱっと色づく、裾模様は何を染め抜いたものか、遠くて解からぬ。
ただ、無地の部分と模様がつながるところが、自然にぼやけていて、夜と昼の境目のような感じがする。
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ただ無地と模様のつながる中が、おのずから暈されて、夜と昼との境のごとき心地である。
女は、まさにその夜と昼の境目を歩いている。
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女はもとより夜と昼との境をあるいている。
この長い振袖を着て、長い廊下を何度行き来する気なのか、余にはわからない。
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この長い振袖を着て、長い廊下を何度往き何度戻る気か、余には解からぬ。
いつごろから、この不思議な服装で、この不思議な歩き方を続けているのかも、余にはわからない。
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いつ頃からこの不思議な装をして、この不思議な歩行をつづけつつあるかも、余には解らぬ。
その理由にいたっては、もちろんわからない。
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その主意に至ってはもとより解らぬ。
わかるはずのないことを、これほどきちんと、これほど静かに、これほど何度も繰り返す人の姿が、入口にあらわれては消え、消えてはあらわれるとき、余の感じたことは、どこか異様なものだった。
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もとより解るべきはずならぬ事を、かくまでも端正に、かくまでも静粛に、かくまでも度を重ねて繰り返す人の姿の、入口にあらわれては消え、消えてはあらわるる時の余の感じは一種異様である。
去っていく春をおしむしぐさなら、なぜこんなに無頓着なのか。
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逝く春の恨を訴うる所作ならば何が故にかくは無頓着なる。
無頓着なしぐさなら、なぜこんなに美しく着かざっているのか。
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無頓着なる所作ならば何が故にかくは綺羅を飾れる。
暮れていく春の色が美しく、しばらくは暗くて遠い戸口をまぼろしのように彩る中で、目もさめるようなその帯地は、金色の織物だろうか。
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暮れんとする春の色の、嬋媛として、しばらくは冥邈の戸口をまぼろしに彩どる中に、眼も醒むるほどの帯地は金襴か。
あざやかな織物は、行ったり来たりしながら、青白い夕方の空気に包まれて、静かな奥のほう、はるか遠くへと、一分ごとに消えていく。
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あざやかなる織物は往きつ、戻りつ蒼然たる夕べのなかにつつまれて、幽闃のあなた、遼遠のかしこへ一分ごとに消えて去る。
きらめく春の星が、明け方近くに、紫の深い空の底へ落ちていくような感じである。
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燦めき渡る春の星の、暁近くに、紫深き空の底に陥いる趣である。
大きな闇の門が自然に開いて、この華やかな姿を、暗い世界の中へ吸いこもうとするとき、余はこう感じた。
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太玄の閽おのずから開けて、この華やかなる姿を、幽冥の府に吸い込まんとするとき、余はこう感じた。
金色のびょうぶを背にして、明かりを前に、春の夜のひとときを大切にしながら、にぎやかに過ごすのがふさわしいこの装いが、いやがる様子もなく、あらがう様子も見せずに、この世界からうすれていくのは、ある意味で、この世のものとは思えない光景だ。
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金屏を背に、銀燭を前に、春の宵の一刻を千金と、さざめき暮らしてこそしかるべきこの装の、厭う景色もなく、争う様子も見えず、色相世界から薄れて行くのは、ある点において超自然の情景である。
少しずつ迫ってくる暗さの中で目をこらすと、女は静かに、あせりもせず、うろたえもせず、同じ足取りで、同じ場所を行き来しているようだ。
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刻々と逼る黒き影を、すかして見ると女は粛然として、焦きもせず、狼狽もせず、同じほどの歩調をもって、同じ所を徘徊しているらしい。
自分の身にせまる災いを知らないのなら、これ以上ないほど無邪気なことだ。
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身に落ちかかる災を知らぬとすれば無邪気の極である。
知っていて、それを災いだと思わないのなら、それはぞっとすることだ。
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知って、災と思わぬならば物凄い。
暗い場所こそが本当の住まいで、しばらくのまぼろしを、もとの暗やみの中にしまいこむからこそ、こんなに静かな様子で、あるかないかの境目をさまよっているのだろう。
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黒い所が本来の住居で、しばらくの幻影を、元のままなる冥漠の裏に収めればこそ、かように間靚の態度で、有と無の間に逍遥しているのだろう。
女の振袖の、入り乱れた模様が終わって、どうしようもなく濃い墨色に流れこむあたりが、自分の正体をほのめかしている。
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女のつけた振袖に、紛たる模様の尽きて、是非もなき磨墨に流れ込むあたりに、おのが身の素性をほのめかしている。
また、こう感じた。
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またこう感じた。
美しい人が美しい眠りについて、その眠りから覚める間もなく、夢を見たまま、この世の息を引き取るとき、枕元で病気を見守るわたしたちの心は、さぞつらいだろう。
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うつくしき人が、うつくしき眠りについて、その眠りから、さめる暇もなく、幻覚のままで、この世の呼吸を引き取るときに、枕元に病を護るわれらの心はさぞつらいだろう。
ひどく苦しみながら死んでいくのなら、生きるかいのなかった本人はもちろん、そばで見ている親しい人も、「これで楽にしてあげられた」とあきらめられるかもしれない。
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四苦八苦を百苦に重ねて死ぬならば、生甲斐のない本人はもとより、傍に見ている親しい人も殺すが慈悲と諦らめられるかも知れない。
しかし、すやすやと眠っている子どもに、死ななければならないどんな罪があるだろうか。
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しかしすやすやと寝入る児に死ぬべき何の科があろう。
眠ったまま、あの世へ連れていかれるのは、死ぬ覚悟をしないうちに、だまし討ちで大切な命を終わらせられるのと同じことだ。
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眠りながら冥府に連れて行かれるのは、死ぬ覚悟をせぬうちに、だまし打ちに惜しき一命を果すと同様である。
どうせ死んでしまうのなら、これは絶対にさけられない運命なのだと、自分でも納得し、あきらめもついて、念仏を唱えたい。
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どうせ殺すものなら、とても逃れぬ定業と得心もさせ、断念もして、念仏を唱えたい。
死ぬための理由もそろわないうちに、死ぬという事実だけがはっきりと感じられるとき、「なむあみだぶつ」と亡くなった人を思う声を出すくらいなら、その声で「おういおうい」と、半分あの世に足を踏み入れた人を、無理にでも呼びもどしたくなる。
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死ぬべき条件が具わらぬ先に、死ぬる事実のみが、ありありと、確かめらるるときに、南無阿弥陀仏と回向をする声が出るくらいなら、その声でおういおういと、半ばあの世へ足を踏み込んだものを、無理にも呼び返したくなる。
かりそめの眠りから、いつのまにか永遠の眠りへと移っていく本人にとっては、呼びもどされるほうが、切れかかった心の糸を無理に引っぱられるようで、つらいかもしれない。
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仮りの眠りから、いつの間とも心づかぬうちに、永い眠りに移る本人には、呼び返される方が、切れかかった煩悩の綱をむやみに引かるるようで苦しいかも知れぬ。
「これでよかったのだから、呼ばないでくれ、おだやかに眠らせてくれ」と思うかもしれない。
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慈悲だから、呼んでくれるな、穏かに寝かしてくれと思うかも知れぬ。
それでも、わたしたちは呼びもどしたくなる。
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それでも、われわれは呼び返したくなる。
余は、今度あの女の姿が入口にあらわれたら、声をかけて、夢うつつの中から救ってやろうかと思った。
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余は今度女の姿が入口にあらわれたなら、呼びかけて、うつつの裡から救ってやろうかと思った。
しかし、夢のように、一メートルほどのすき間を、すうっと通り抜ける影を見たとたん、なぜか声が出なくなる。
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しかし夢のように、三尺の幅を、すうと抜ける影を見るや否や、何だか口が聴けなくなる。
「今度こそは」と心に決めているうちに、また、すうっと簡単に通りすぎてしまう。
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今度はと心を定めているうちに、すうと苦もなく通ってしまう。
なぜ声をかけられないのだろうと考えたとたん、女はまた通る。
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なぜ何とも云えぬかと考うる途端に、女はまた通る。
こちらに見ている人がいて、その人が自分のことをどれほど気にかけているか、まったく気にしない様子で通る。
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こちらに窺う人があって、その人が自分のためにどれほどやきもき思うているか、微塵も気に掛からぬ有様で通る。
めんどうにも、気の毒にも、最初から、余のような者に気をつかっていない様子で通る。
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面倒にも気の毒にも、初手から、余のごときものに、気をかねておらぬ有様で通る。
「今度こそ、今度こそ」と思っているうちに、こらえきれなくなった雲が、雨の糸をしずかに降らせはじめて、女の影を、さびしく包みこんでしまう。
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今度は今度はと思うているうちに、こらえかねた、雲の層が、持ち切れぬ雨の糸を、しめやかに落し出して、女の影を、蕭々と封じ了る。
七
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七
寒い。
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寒い。
手ぬぐいをさげて、湯ぶねへ下りる。
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手拭を下げて、湯壺へ下る。
三畳の部屋で着物をぬいで、階段を四つ下りると、八畳ほどの風呂場に出る。
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三畳へ着物を脱いで、段々を、四つ下りると、八畳ほどな風呂場へ出る。
石がたくさんとれる土地らしく、床は御影石(みかげいし)でしきつめてあり、真ん中を一メートル二十センチほどの深さに掘って、豆腐屋の水そうくらいの湯ぶねを作ってある。
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石に不自由せぬ国と見えて、下は御影で敷き詰めた、真中を四尺ばかりの深さに掘り抜いて、豆腐屋ほどな湯槽を据える。
湯ぶねと言っても、やはり石で組み立ててある。
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槽とは云うもののやはり石で畳んである。
温泉と名がついている以上、いろいろな成分がふくまれているのだろうが、色がすきとおっているので、入り心地がいい。
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鉱泉と名のつく以上は、色々な成分を含んでいるのだろうが、色が純透明だから、入り心地がよい。
時々口に含んでみるが、これといった味もにおいもない。
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折々は口にさえふくんで見るが別段の味も臭もない。
病気にも効くそうだが、たずねてみたことがないので、どんな病気に効くのかは知らない。
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病気にも利くそうだが、聞いて見ぬから、どんな病に利くのか知らぬ。
もともと特に困っている病気もないので、実際に役立つかどうかは、これまで考えたこともない。
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もとより別段の持病もないから、実用上の価値はかつて頭のなかに浮んだ事がない。
ただ、入るたびに思い出すのは、白楽天(はくらくてん・中国の有名な詩人)の「温泉水滑洗凝脂」(温泉の水はなめらかで、つややかな肌を洗う、という詩句)というひと言だけだ。
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ただ這入る度に考え出すのは、白楽天の温泉水滑洗凝脂と云う句だけである。
温泉という言葉を聞くと、必ずこの句のような気持ちのいい感じになる。
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温泉と云う名を聞けば必ずこの句にあらわれたような愉快な気持になる。
またこの感じを出せない温泉は、温泉として、まったく価値がないと思っている。
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またこの気持を出し得ぬ温泉は、温泉として全く価値がないと思ってる。
この理想以外に、温泉についての注文はまったくない。
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この理想以外に温泉についての注文はまるでない。
すぽりとつかると、胸のあたりまで入る。
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すぽりと浸かると、乳のあたりまで這入る。
湯がどこからわいて出るのかは知らないが、いつも湯ぶねのふちを、きれいにこえている。
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湯はどこから湧いて出るか知らぬが、常でも槽の縁を奇麗に越している。
春の石は、かわくひまなくぬれて、あたたかく、足で踏むと、心がおだやかにうれしくなる。
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春の石は乾くひまなく濡れて、あたたかに、踏む足の、心は穏やかに嬉しい。
降る雨は、夜の目をぬすむようにひっそりと、そっと春をうるおすほどのやさしさだが、軒からしたたる水は、だんだんはげしくなって、ぽたり、ぽたりと耳に聞こえてくる。
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降る雨は、夜の目を掠めて、ひそかに春を潤おすほどのしめやかさであるが、軒のしずくは、ようやく繁く、ぽたり、ぽたりと耳に聞える。
部屋にたちこめた湯気は、床から天井まですみずみまでうずめて、すき間さえあれば、小さな節穴からでも、もれ出ようとしている様子だ。
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立て籠められた湯気は、床から天井を隈なく埋めて、隙間さえあれば、節穴の細きを厭わず洩れ出でんとする景色である。
秋の霧は冷たく、たなびくもやはのどかで、夕食のしたくをする家々からは、人の煙が青く立ちのぼって、大きな空に、自分のはかない姿をあずける。
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秋の霧は冷やかに、たなびく靄は長閑に、夕餉炊く、人の煙は青く立って、大いなる空に、わがはかなき姿を托す。
いろいろなしみじみとした景色があるが、春の夜の温泉のくもりだけは、湯につかる人の肌を、やわらかく包んで、まるで昔の人になったのかと自分を疑わせる。
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様々の憐れはあるが、春の夜の温泉の曇りばかりは、浴するものの肌を、柔らかにつつんで、古き世の男かと、われを疑わしむる。
目に映るものが見えなくなるほど、こく包みはしないが、うすい絹を一枚破れば、何の苦もなく、下の世界の人としての自分を見つけられる、というほど浅いものでもない。
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眼に写るものの見えぬほど、濃くまつわりはせぬが、薄絹を一重破れば、何の苦もなく、下界の人と、己れを見出すように、浅きものではない。
一枚破り、二枚破り、いくら破っても、この霧からは出られないというような顔をして、四方から余ひとりを、あたたかい虹の中にうずめてしまう。
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一重破り、二重破り、幾重を破り尽すともこの煙りから出す事はならぬ顔に、四方よりわれ一人を、温かき虹の中に埋め去る。
「酒に酔う」という言葉はあるが、「けむりに酔う」という言葉は聞いたことがない。
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酒に酔うと云う言葉はあるが、煙りに酔うと云う語句を耳にした事がない。
あるとすれば、「霧」ではもちろん使えないし、「かすみ」では少し強すぎる。
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あるとすれば、霧には無論使えぬ、霞には少し強過ぎる。
ただ、この立ちこめる空気に「春の宵」の二文字をつけたときに、初めてぴったりくるように感じる。
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ただこの靄に、春宵の二字を冠したるとき、始めて妥当なるを覚える。
余は湯ぶねのふちに、あおむけの頭をのせて、すきとおる湯の中で軽くなった体を、できるだけ力を入れずに、ただよわせてみた。
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余は湯槽のふちに仰向の頭を支えて、透き徹る湯のなかの軽き身体を、出来るだけ抵抗力なきあたりへ漂わして見た。
ふわり、ふわりと、たましいがくらげのように浮いている。
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ふわり、ふわりと魂がくらげのように浮いている。
世の中も、こんな気持ちになれば楽なものだ。
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世の中もこんな気になれば楽なものだ。
あれこれ考えるという鍵をあけて、物事へのこだわりというかんぬきをはずす。
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分別の錠前を開けて、執着の栓張をはずす。
どうにでもなれと、湯の中で、湯そのものになりきってしまう。
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どうともせよと、湯泉のなかで、湯泉と同化してしまう。
流れているものほど、生きるのに苦労はいらない。
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流れるものほど生きるに苦は入らぬ。
流れているものの中に、たましいまで流してしまえば、キリストの弟子になったより、ありがたい。
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流れるもののなかに、魂まで流していれば、基督の御弟子となったよりありがたい。
なるほど、この調子で考えると、水におぼれて死んだ人も、なんだか風流なものに思えてくる。
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なるほどこの調子で考えると、土左衛門は風流である。
スウィンバーン(イギリスの詩人)のある詩に、女の人が水の底で死んで、うれしがっているような感じを書いたものがあったと思う。
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スウィンバーンの何とか云う詩に、女が水の底で往生して嬉しがっている感じを書いてあったと思う。
余がいつも気になっていた、ミレー(フランスの画家)のえがいた「オフィーリア」の絵も、こう考えるとだいぶ美しく見えてくる。
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余が平生から苦にしていた、ミレーのオフェリヤも、こう観察するとだいぶ美しくなる。
どうしてあんな悲しい場面を選んだのだろうと、これまで不思議に思っていたが、あれはやはり絵になるのだ。
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何であんな不愉快な所を択んだものかと今まで不審に思っていたが、あれはやはり画になるのだ。
水に浮かんだまま、あるいは水に沈んだまま、あるいは浮いたり沈んだりしたまま、ただそのままの姿で、苦しまずに流れていく様子は、美しいものにちがいない。
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水に浮んだまま、あるいは水に沈んだまま、あるいは沈んだり浮んだりしたまま、ただそのままの姿で苦なしに流れる有様は美的に相違ない。
それで両岸にいろいろな草花をならべて、水の色と、流れていく人の顔の色と、着ているものの色に、落ちついた調和をつければ、きっと絵になるにちがいない。
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それで両岸にいろいろな草花をあしらって、水の色と流れて行く人の顔の色と、衣服の色に、落ちついた調和をとったなら、きっと画になるに相違ない。
しかし、流れていく人の表情が、あまりに穏やかすぎると、ほとんど神話か、たとえ話のようになってしまう。
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しかし流れて行く人の表情が、まるで平和ではほとんど神話か比喩になってしまう。
苦しそうな顔はもちろん、絵全体の雰囲気をこわしてしまうが、まったく表情のない、平気な顔でも、人としての気持ちが伝わらない。
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痙攣的な苦悶はもとより、全幅の精神をうち壊わすが、全然色気のない平気な顔では人情が写らない。
どんな顔をかいたら成功するだろう。
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どんな顔をかいたら成功するだろう。
ミレーの「オフィーリア」は成功しているのかもしれないが、彼の考えていることが、余と同じかどうかはわからない。
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ミレーのオフェリヤは成功かも知れないが、彼の精神は余と同じところに存するか疑わしい。
ミレーはミレー、余は余だから、余は余の興味にしたがって、一つ、風流な水死人の絵をかいてみたい。
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ミレーはミレー、余は余であるから、余は余の興味を以て、一つ風流な土左衛門をかいて見たい。
しかし、思うような顔は、そうたやすく心に浮かんできそうにない。
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しかし思うような顔はそうたやすく心に浮んで来そうもない。
湯の中に浮いたまま、今度は、水死人についての詩を作ってみる。
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湯のなかに浮いたまま、今度は土左衛門の賛を作って見る。
雨が降ったらぬれるだろう。
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雨が降ったら濡れるだろう。
霜が下りたら冷たいだろう。
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霜が下りたら冷たかろ。
土の下では暗いだろう。
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土のしたでは暗かろう。
浮かべば波の上、
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浮かば波の上、
沈めば波の底、
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沈まば波の底、
春の水なら苦しくないだろう。
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春の水なら苦はなかろ。
と口の中で小声に唱えながら、ぼんやり浮かんでいると、どこかで弾く三味線の音が聞こえる。
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と口のうちで小声に誦しつつ漫然と浮いていると、どこかで弾く三味線の音が聞える。
美術家なのにと言われると恥ずかしいが、実のところ、余のこの楽器についての知識はとてもあやしいもので、音が高くなろうが、低くなろうが、耳にはほとんど気づかれたことがない。
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美術家だのにと云われると恐縮するが、実のところ、余がこの楽器における智識はすこぶる怪しいもので二が上がろうが、三が下がろうが、耳には余り影響を受けた試しがない。
しかし、静かな春の夜に、雨さえも風情を添える山里の湯ぶねの中で、たましいまで春の温泉に浮かせながら、遠くの三味線を何も考えずに聞くのは、とても心地いい。
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しかし、静かな春の夜に、雨さえ興を添える、山里の湯壺の中で、魂まで春の温泉に浮かしながら、遠くの三味を無責任に聞くのははなはだ嬉しい。
遠いから、何を歌って、何を弾いているのかは、もちろんわからない。
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遠いから何を唄って、何を弾いているか無論わからない。
そこに何だか味わい深さがある。
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そこに何だか趣がある。
音色の落ちついている感じから察すると、上方(かみがた・京都や大阪のあたり)の目の見えない師匠さんが弾くような、しぶい三味線の音かとも思う。
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音色の落ちついているところから察すると、上方の検校さんの地唄にでも聴かれそうな太棹かとも思う。
子どものころ、家の門の前に「よろず屋」という酒屋があって、そこに「お倉さん」という娘さんがいた。
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小供の時分、門前に万屋と云う酒屋があって、そこに御倉さんと云う娘がいた。
このお倉さんは、静かな春の昼過ぎになると、必ず長唄(ながうた)のけいこをした。
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この御倉さんが、静かな春の昼過ぎになると、必ず長唄の御浚いをする。
けいこが始まると、余は庭に出る。
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御浚が始まると、余は庭へ出る。
十坪あまりの茶畑を前にひかえて、三本の松が、客間の東側に並んでいた。
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茶畠の十坪余りを前に控えて、三本の松が、客間の東側に並んでいる。
この松は、まわり三十センチほどもある大きな木で、おもしろいことに、三本そろって初めて、味わいのある形になっていた。
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この松は周り一尺もある大きな樹で、面白い事に、三本寄って、始めて趣のある恰好を形つくっていた。
子ども心にも、この松を見ると気持ちがよかった。
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小供心にこの松を見ると好い心持になる。
松の下には、黒くさびた鉄の灯籠(とうろう)が、名も知らない赤い石の上に、いつ見ても、頑固なおじいさんのように、かたく座っていた。
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松の下に黒くさびた鉄灯籠が名の知れぬ赤石の上に、いつ見ても、わからず屋の頑固爺のようにかたく坐っている。
余は、この灯籠を見つめるのが大好きだった。
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余はこの灯籠を見詰めるのが大好きであった。
灯籠の前後には、深い苔の間から、名も知らない春の草が、世の中の風など知らない顔で、ひとりで香り、ひとりで楽しんでいた。
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灯籠の前後には、苔深き地を抽いて、名も知らぬ春の草が、浮世の風を知らぬ顔に、独り匂うて独り楽しんでいる。
余はこの草の中に、わずかにひざを入れられる場所を見つけて、じっとしゃがみこむのが、そのころのくせだった。
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余はこの草のなかに、わずかに膝を容るるの席を見出して、じっと、しゃがむのがこの時分の癖であった。
この三本の松の下で、この灯籠をながめ、この草の香りをかぎ、そうしてお倉さんの長唄を遠くから聞くのが、そのころの日課だった。
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この三本の松の下に、この灯籠を睨めて、この草の香を臭いで、そうして御倉さんの長唄を遠くから聞くのが、当時の日課であった。
お倉さんは、もう若い娘のかざりの時代さえ通りすぎて、だいぶ所帯じみた顔を、店の帳場にさらしているだろう。
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御倉さんはもう赤い手絡の時代さえ通り越して、だいぶんと世帯じみた顔を、帳場へ曝してるだろう。
むこさんとは仲がいいだろうか。
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聟とは折合がいいか知らん。
つばめは毎年帰ってきて、泥をくわえたくちばしを、いそがしそうに動かしているだろうか。
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燕は年々帰って来て、泥を啣んだ嘴を、いそがしげに働かしているか知らん。
つばめと酒のにおいは、どうしても頭の中で切り離せない。
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燕と酒の香とはどうしても想像から切り離せない。
三本の松は、今もいい形で残っているだろうか。
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三本の松はいまだに好い恰好で残っているかしらん。
鉄の灯籠は、もうこわれてしまったにちがいない。
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鉄灯籠はもう壊れたに相違ない。
春の草は、昔しゃがみこんでいた人のことを覚えているだろうか。
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春の草は、昔し、しゃがんだ人を覚えているだろうか。
あのときでさえ、口もきかずに過ぎたのだから、今わかるはずがない。
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その時ですら、口もきかずに過ぎたものを、今に見知ろうはずがない。
お倉さんの「旅の衣はすずかけの……」という毎日の歌声も、まさか覚えているとは言うまい。
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御倉さんの旅の衣は鈴懸のと云う、日ごとの声もよも聞き覚えがあるとは云うまい。
三味線の音が、思いがけない昔の景色を余の目の前に広げるので、余は懐かしい過去のただ中に立って、二十年前に住んでいた、何もわかっていない子どもになりきっていたとき、突然、風呂場の戸がさらりと開いた。
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三味の音が思わぬパノラマを余の眼前に展開するにつけ、余は床しい過去の面のあたりに立って、二十年の昔に住む、頑是なき小僧と、成り済ましたとき、突然風呂場の戸がさらりと開いた。
誰か来たなと、体を浮かせたまま、目だけを入口に向ける。
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誰か来たなと、身を浮かしたまま、視線だけを入口に注ぐ。
湯ぶねのふちの、いちばん入口から遠い場所に頭をのせているので、湯ぶねに下りる階段は、七メートルほどはなれて、ななめに余の目に入る。
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湯槽の縁の最も入口から、隔たりたるに頭を乗せているから、槽に下る段々は、間二丈を隔てて斜めに余が眼に入る。
しかし、見上げた余の目には、まだ何も映らない。
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しかし見上げたる余の瞳にはまだ何物も映らぬ。
しばらくは、軒をめぐる雨だれの音だけが聞こえる。
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しばらくは軒を遶る雨垂の音のみが聞える。
三味線は、いつのまにかやんでいた。
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三味線はいつの間にかやんでいた。
やがて、階段の上に何かがあらわれた。
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やがて階段の上に何物かあらわれた。
広い風呂場を照らしているのは、たった一つの小さなつりランプだけなので、この距離では、空気がすんでいてさえ、はっきり見わけるのはむずかしい。
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広い風呂場を照すものは、ただ一つの小さき釣り洋灯のみであるから、この隔りでは澄切った空気を控えてさえ、確と物色はむずかしい。
まして、立ちのぼる湯気が、こまかい雨に押さえられて逃げ場をなくしている今夜の風呂では、立っているのが誰なのか、もともと見きわめにくい。
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まして立ち上がる湯気の、濃かなる雨に抑えられて、逃場を失いたる今宵の風呂に、立つを誰とはもとより定めにくい。
一段下り、二段目を踏んで、まっすぐにランプの光を浴びたときでなければ、男とも女とも、声をかけることはできない。
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一段を下り、二段を踏んで、まともに、照らす灯影を浴びたる時でなくては、男とも女とも声は掛けられぬ。
黒いものが、一歩下へ動いた。
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黒いものが一歩を下へ移した。
踏んでいる石はビロードのようにやわらかく見えて、足音だけで判断すれば、動いていないと言ってもいいくらいだ。
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踏む石は天鵞毧のごとく柔かと見えて、足音を証にこれを律すれば、動かぬと評しても差支ない。
けれども、輪郭が少し浮き上がる。
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が輪廓は少しく浮き上がる。
余は画家だけあって、人の体の形については、思いのほか目がするどい。
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余は画工だけあって人体の骨格については、存外視覚が鋭敏である。
何かわからないものが一段動いたとき、余は、女の人と二人で、この風呂場の中にいることに気づいた。
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何とも知れぬものの一段動いた時、余は女と二人、この風呂場の中に在る事を覚った。
声をかけたものか、かけないものかと、浮きながら考えているうちに、女の人の姿は、はっきりと余の前に、はやくもあらわれた。
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注意をしたものか、せぬものかと、浮きながら考える間に、女の影は遺憾なく、余が前に、早くもあらわれた。
部屋にたちこめる湯けむりが、やわらかな光をひとつぶひとつぶふくんで、うすい紅色にあたたかく見えるその奥に、黒い髪を雲のようにながして、せいいっぱい背をのばした女の人の姿を見たとき、礼儀とか、作法とか、行儀とかいう感じは、すべて余の頭から消えて、ただひたすら、美しい絵の題材を見つけたとだけ思った。
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漲ぎり渡る湯煙りの、やわらかな光線を一分子ごとに含んで、薄紅の暖かに見える奥に、漾わす黒髪を雲とながして、あらん限りの背丈を、すらりと伸した女の姿を見た時は、礼儀の、作法の、風紀のと云う感じはことごとく、わが脳裏を去って、ただひたすらに、うつくしい画題を見出し得たとのみ思った。
大昔のギリシャの彫刻はともかく、今のフランスの画家がだいじにしている裸の絵を見るたびに、あまりにもあからさまに、体の美しさを最後まで描ききろうとする様子がはっきり見えて、どこか気品にとぼしい感じが、これまで余を苦しめてきた。
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古代希臘の彫刻はいざ知らず、今世仏国の画家が命と頼む裸体画を見るたびに、あまりに露骨な肉の美を、極端まで描がき尽そうとする痕迹が、ありありと見えるので、どことなく気韻に乏しい心持が、今までわれを苦しめてならなかった。
しかしそのときどきは、ただ何となく品がないと感じるだけで、なぜ品がないのかがわからないので、自分でも気づかないうちに、答えを探して悩みながら今日まで来たのだろう。
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しかしその折々はただどことなく下品だと評するまでで、なぜ下品であるかが、解らぬ故、吾知らず、答えを得るに煩悶して今日に至ったのだろう。
体をおおいかくせば、美しいものが見えなくなる。
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肉を蔽えば、うつくしきものが隠れる。
かくさなければ、下品になる。
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かくさねば卑しくなる。
今の時代の裸の絵というものは、ただ「かくさない」という下品さに、技巧をとどめていない。
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今の世の裸体画と云うはただかくさぬと云う卑しさに、技巧を留めておらぬ。
服をぬがせた姿を、そのまま写すだけでは物足りないと見えて、どこまでも裸を、服を着ている世の中に、あえて見せつけようとする。
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衣を奪いたる姿を、そのままに写すだけにては、物足らぬと見えて、飽くまでも裸体を、衣冠の世に押し出そうとする。
服を着ているのが人間のふつうの姿だということを忘れて、裸にすべての力があるかのように思わせようとする。
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服をつけたるが、人間の常態なるを忘れて、赤裸にすべての権能を附与せんと試みる。
十分で足りるはずのところを、十二分にも、十五分にも、どこまでも進めて、ひたすら「これは裸だ」という感じを強く描き出そうとする。
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十分で事足るべきを、十二分にも、十五分にも、どこまでも進んで、ひたすらに、裸体であるぞと云う感じを強く描出しようとする。
技巧がこの極端なところまで行くと、人は、それを見せられる側にとってうっとうしいと感じ、下品だと思う。
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技巧がこの極端に達したる時、人はその観者を強うるを陋とする。
美しいものを、これでもかというほど美しくしようとあせるとき、美しいものはかえって、その美しさを失うものだ。
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うつくしきものを、いやが上に、うつくしくせんと焦せるとき、うつくしきものはかえってその度を減ずるが例である。
人の世のことでも「満ちれば欠ける」ということわざがあるのは、このためである。
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人事についても満は損を招くとの諺はこれがためである。
力の抜けた様子や、無邪気さは、心の余裕を表す。
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放心と無邪気とは余裕を示す。
余裕は、絵においても、詩においても、あるいは文章においても、なくてはならない条件である。
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余裕は画において、詩において、もしくは文章において、必須の条件である。
今の時代の芸術のいちばんの問題は、いわゆる文明の流れが、むやみに芸術家をせかせて、どこにいてもあくせくさせてしまうことにある。
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今代芸術の一大弊竇は、いわゆる文明の潮流が、いたずらに芸術の士を駆って、拘々として随処に齷齪たらしむるにある。
裸の絵はその良い例だろう。
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裸体画はその好例であろう。
都会には、芸者というものがいる。
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都会に芸妓と云うものがある。
美しさを売って、人にこびるのを仕事にしている。
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色を売りて、人に媚びるを商売にしている。
彼女たちは、お客さんに会うとき、自分の姿が相手の目にどう映るかを気にする以外、ほかの表情を出すことがほとんどできない。
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彼らは嫖客に対する時、わが容姿のいかに相手の瞳子に映ずるかを顧慮するのほか、何らの表情をも発揮し得ぬ。
毎年見る展覧会の作品目録は、この芸者に似た裸の美人の絵でいっぱいだ。
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年々に見るサロンの目録はこの芸妓に似たる裸体美人を以て充満している。
彼女たちは一秒たりとも、自分が裸であることを忘れられないだけでなく、体の筋肉を動かして、自分が裸であることを見る人にわからせようとしている。
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彼らは一秒時も、わが裸体なるを忘るる能わざるのみならず、全身の筋肉をむずつかして、わが裸体なるを観者に示さんと力めている。
今、余の目の前に、しなやかにあらわれた姿には、そういう俗っぽさは、少しも感じられない。
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今余が面前に娉婷と現われたる姿には、一塵もこの俗埃の眼に遮ぎるものを帯びておらぬ。
ふつうの人が着ている服をぬぎ捨てた様子だと言えば、それはもう人間の世界に戻ってしまう。
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常の人の纏える衣装を脱ぎ捨てたる様と云えばすでに人界に堕在する。
初めから、着るべき服も、ふるべき袖もあるとは知らない、神話の時代の姿を、雲の中に呼び起こしたかのように自然だ。
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始めより着るべき服も、振るべき袖も、あるものと知らざる神代の姿を雲のなかに呼び起したるがごとく自然である。
部屋をうずめる湯けむりは、うずめつくしたあとから、絶えずわき上がる。
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室を埋むる湯煙は、埋めつくしたる後から、絶えず湧き上がる。
春の夜の明かりを半分すきとおらせて、部屋いっぱいの虹の世界がこまかくゆれる中に、うっすらと、黒く見えるほどの髪をぼかして、真っ白な姿が、雲の底からしだいに浮き上がってくる。
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春の夜の灯を半透明に崩し拡げて、部屋一面の虹霓の世界が濃かに揺れるなかに、朦朧と、黒きかとも思わるるほどの髪を暈して、真白な姿が雲の底から次第に浮き上がって来る。
その輪郭を見てほしい。
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その輪廓を見よ。
首から肩へと、両側からゆるやかにせばまりながら、なだらかに流れ落ちる線が、ゆたかに丸く折れて、その先は五本の指に分かれていくのだろう。
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頸筋を軽く内輪に、双方から責めて、苦もなく肩の方へなだれ落ちた線が、豊かに、丸く折れて、流るる末は五本の指と分れるのであろう。
やわらかなふくらみの下には、しばらくくびれてから、またなめらかに盛り上がる線があって、おなかのあたりの張りを、おだやかに見せている。
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ふっくらと浮く二つの乳の下には、しばし引く波が、また滑らかに盛り返して下腹の張りを安らかに見せる。
その張りが後ろへぬけて、勢いのなくなるあたりから、腰の丸みが、つりあいをとるために少し前へかたむく。
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張る勢を後ろへ抜いて、勢の尽くるあたりから、分れた肉が平衡を保つために少しく前に傾く。
それを受けとめるひざが、今度はまっすぐに立ち直り、長いうねりがかかとにつくころには、平たい足が、すべての流れを、二枚の足の裏で、やすやすと受け止める。
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逆に受くる膝頭のこのたびは、立て直して、長きうねりの踵につく頃、平たき足が、すべての葛藤を、二枚の蹠に安々と始末する。
世の中に、これほど込み入った組み合わせはなく、これほどまとまりのある組み合わせもない。
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世の中にこれほど錯雑した配合はない、これほど統一のある配合もない。
これほど自然で、これほどやわらかく、これほどこわばりのない、これほど見ていて心地よい輪郭は、決して見つけられない。
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これほど自然で、これほど柔らかで、これほど抵抗の少い、これほど苦にならぬ輪廓は決して見出せぬ。
しかもこの姿は、ふつうの裸のように、あからさまに余の目の前に突きつけられているわけではない。
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しかもこの姿は普通の裸体のごとく露骨に、余が眼の前に突きつけられてはおらぬ。
すべてのものをぼんやりと美しく変える、一種の霧のようなもやのなかに、ふんわりと浮かび上がって、十分な美しさを、奥ゆかしくほのめかしているだけだ。
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すべてのものを幽玄に化する一種の霊氛のなかに髣髴として、十分の美を奥床しくもほのめかしているに過ぎぬ。
墨をたっぷりにじませた絵の中に、うろこの一片だけをかき込んで、竜のふしぎさを紙と筆の外側に想像させるように、この光景は、芸術として申し分のない、空気と、あたたかさと、遠くはるかな雰囲気を備えている。
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片鱗を溌墨淋漓の間に点じて、虬竜の怪を、楮毫のほかに想像せしむるがごとく、芸術的に観じて申し分のない、空気と、あたたかみと、冥邈なる調子とを具えている。
三十六枚のうろこをすべて丁寧にかいた竜が、かえっておかしく見えてしまうように、すっかりむき出しの体をさっぱりと見つめてしまわないうちにこそ、心をひきつける余韻がある。
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六々三十六鱗を丁寧に描きたる竜の、滑稽に落つるが事実ならば、赤裸々の肉を浄洒々に眺めぬうちに神往の余韻はある。
余は、この輪郭が目に入ったとき、月の都をのがれてきた月の女神が、虹の追手に取り囲まれて、しばらくためらっている姿のように眺めた。
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余はこの輪廓の眼に落ちた時、桂の都を逃れた月界の嫦娥が、彩虹の追手に取り囲まれて、しばらく躊躇する姿と眺めた。
輪郭は、しだいに白く浮き上がる。
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輪廓は次第に白く浮きあがる。
あと一歩を踏み出せば、せっかくの女神が、ああ、俗世間に落ちてしまうと思ったそのとき、緑がかった黒い髪が、波を切る大きなかめの尾のように、風を起こして、さっとなびいた。
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今一歩を踏み出せば、せっかくの嫦娥が、あわれ、俗界に堕落するよと思う刹那に、緑の髪は、波を切る霊亀の尾のごとくに風を起して、莽と靡いた。
うずまくけむりをつきやぶって、白い姿は階段をかけ上がる。
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渦捲く煙りを劈いて、白い姿は階段を飛び上がる。
ホホホホと明るく笑う女の人の声が、廊下に響いて、静かな風呂場から、だんだんと遠ざかっていく。
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ホホホホと鋭どく笑う女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場を次第に向へ遠退く。
余はがぶりと湯を飲んでしまいながら、湯ぶねの中に立ち上がる。
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余はがぶりと湯を呑んだまま槽の中に突立つ。
おどろいた波が、胸に当たる。
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驚いた波が、胸へあたる。
ふちをこえる湯の音が、さあさあと鳴る。
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縁を越す湯泉の音がさあさあと鳴る。
八
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八
お茶をごちそうになる。
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御茶の御馳走になる。
同じ席にいたのは、お坊さんが一人、観海寺の和尚さんで、名前は大徹というそうだ。
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相客は僧一人、観海寺の和尚で名は大徹と云うそうだ。
それと、お坊さんではない人が一人、二十四、五歳くらいの若い男の人だった。
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俗一人、二十四五の若い男である。
老人の部屋は、余の部屋の前の廊下を右へ突き当たって、左へ折れた先の行き止まりにある。
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老人の部屋は、余が室の廊下を右へ突き当って、左へ折れた行き留りにある。
広さは六畳くらいだろう。
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大さは六畳もあろう。
大きな紫檀(したん・こい色の高級な木)の机を真ん中に置いてあるので、思ったよりせまく感じる。
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大きな紫檀の机を真中に据えてあるから、思ったより狭苦しい。
「どうぞ」と言われた席を見ると、座布団の代わりに、花の模様のじゅうたんが敷いてある。
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それへと云う席を見ると、布団の代りに花毯が敷いてある。
もちろん中国製だろう。
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無論支那製だろう。
真ん中を六角形に区切って、変わった形の家と、変わった柳の木が織り込んである。
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真中を六角に仕切って、妙な家と、妙な柳が織り出してある。
周りは鉄のような色に近い青色で、四すみに、からくさの模様をあしらった茶色の輪が染めぬいてある。
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周囲は鉄色に近い藍で、四隅に唐草の模様を飾った茶の輪を染め抜いてある。
中国でこれを部屋に使っていたのかどうかは疑わしいが、こうして座布団の代わりにしてみると、とてもおもしろい。
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支那ではこれを座敷に用いたものか疑わしいが、こうやって布団に代用して見るとすこぶる面白い。
インドのさらさ布とか、ペルシャのかべかけとか呼ばれるものが、少し間の抜けたところに味わいがあるように、このじゅうたんも、こせこせしていないところに趣がある。
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印度の更紗とか、ペルシャの壁掛とか号するものが、ちょっと間が抜けているところに価値があるごとく、この花毯もこせつかないところに趣がある。
じゅうたんだけではない、だいたい中国の道具はどれもみな、どこか抜けている。
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花毯ばかりではない、すべて支那の器具は皆抜けている。
どうしても、おおらかで気の長い人たちが発明したものとしか思えない。
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どうしても馬鹿で気の長い人種の発明したものとほか取れない。
見ているうちに、ぼんやりしてくるところが尊い。
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見ているうちに、ぼおっとするところが尊とい。
日本は、こそどろのように細かく神経を使って美術品を作る。
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日本は巾着切りの態度で美術品を作る。
西洋は大きくて細かくて、それでいて、どこまでも世の中の匂いがぬけない。
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西洋は大きくて細かくて、そうしてどこまでも娑婆気がとれない。
まずこう考えながら、席に着く。
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まずこう考えながら席に着く。
若い男の人は、余とならんで、じゅうたんの半分を使っていた。
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若い男は余とならんで、花毯の半を占領した。
和尚さんはトラの皮の上に座った。
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和尚は虎の皮の上へ坐った。
トラの皮のしっぽが余のひざのそばを通りこえて、頭のほうは老人のおしりの下にしかれている。
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虎の皮の尻尾が余の膝の傍を通り越して、頭は老人の臀の下に敷かれている。
老人は、頭の毛をすっかり抜いて、ほおとあごに植え直したかのように、白いひげをむしゃむしゃと生やしていて、茶たくに乗せた茶わんを、ていねいに机の上へならべる。
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老人は頭の毛をことごとく抜いて、頬と顎へ移植したように、白い髯をむしゃむしゃと生やして、茶托へ載せた茶碗を丁寧に机の上へならべる。
「今日は久しぶりに、うちにお客さんが来られたので、お茶を差し上げようと思って……」
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「今日は久し振りで、うちへ御客が見えたから、御茶を上げようと思って、……」
と坊さんのほうを向くと、
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と坊さんの方を向くと、
「いや、お呼びありがとう。わしも、だいぶごぶさたしていたから、今日あたり来てみようかと思っていたところじゃ」
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「いや、御使をありがとう。わしも、だいぶ御無沙汰をしたから、今日ぐらい来て見ようかと思っとったところじゃ」
と言う。
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と云う。
このお坊さんは六十近くで、丸顔の、だるまのようなふしぎな顔立ちをしている。
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この僧は六十近い、丸顔の、達磨を草書に崩したような容貌を有している。
老人とは、ふだんから親しい間がららしい。
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老人とは平常からの昵懇と見える。
「この方がお客さんかな」
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「この方が御客さんかな」
老人はうなずきながら、赤茶色の急須(きゅうす)から、緑がかった琥珀(こはく)色のしずくを、二、三滴ずつ、茶わんの底へたらす。
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老人は首肯ながら、朱泥の急須から、緑を含む琥珀色の玉液を、二三滴ずつ、茶碗の底へしたたらす。
すんだいい香りが、かすかに鼻をかすめる気がした。
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清い香りがかすかに鼻を襲う気分がした。
「こんな田舎に一人ではさびしいでしょう」
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「こんな田舎に一人では御淋しかろ」
と和尚さんはすぐに余に話しかけた。
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と和尚はすぐ余に話しかけた。
「はああ」
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「はああ」
と、はっきりしない返事をする。
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となんともかとも要領を得ぬ返事をする。
「さびしい」と言えばうそになる。
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淋しいと云えば、偽りである。
「さびしくない」と言えば、長い説明がいる。
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淋しからずと云えば、長い説明が入る。
「なんの、和尚さん。この方は絵をかくために来られたのだから、お忙しいくらいですよ」
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「なんの、和尚さん。このかたは画を書かれるために来られたのじゃから、御忙がしいくらいじゃ」
「おお、そうか、それは結構だ。やはり中国風の水墨画かな」
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「おお左様か、それは結構だ。やはり南宗派かな」
「いいえ」
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「いいえ」
と、今度は自分で答えた。
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と今度は答えた。
「西洋画です」と言っても、この和尚さんにはわからないだろう。
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西洋画だなどと云っても、この和尚にはわかるまい。
「いや、あの西洋の絵です」
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「いや、例の西洋画じゃ」
と老人が、主人役として、また半分引き受けてくれる。
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と老人は、主人役に、また半分引き受けてくれる。
「ははあ、洋画ですか。すると、あの久一(きゅういち)さんがやっているようなものかな。あれは、わしもこの間はじめて見たが、ずいぶんきれいにかけていたのう」
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「ははあ、洋画か。すると、あの久一さんのやられるようなものかな。あれは、わしこの間始めて見たが、随分奇麗にかけたのう」
「いえ、つまらないものです」
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「いえ、詰らんものです」
と若い男の人が、このときようやく口を開いた。
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と若い男がこの時ようやく口を開いた。
「お前、何か和尚さんに見てもらったのか」
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「御前何ぞ和尚さんに見ていただいたか」
と老人が若い男の人に聞く。
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と老人が若い男に聞く。
言葉から言っても、様子から言っても、どうやら親せきらしい。
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言葉から云うても、様子から云うても、どうも親類らしい。
「いえ、見ていただいたわけじゃないんですが、鏡が池で写生していたところを、和尚さんに見つかったんです」
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「なあに、見ていただいたんじゃないですが、鏡が池で写生しているところを和尚さんに見つかったのです」
「ふん、そうか――さあ、お茶が入ったから、どうぞ」
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「ふん、そうか――さあ御茶が注げたから、一杯」
と老人は、茶わんをそれぞれの前に置く。
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と老人は茶碗を各自の前に置く。
お茶の量は三、四滴くらいしかないが、茶わんはとても大きい。
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茶の量は三四滴に過ぎぬが、茶碗はすこぶる大きい。
かべのような色の地に、こげた赤と、うすい黄色で、絵なのか、模様なのか、鬼の面になりかけたところなのか、ちょっと見当のつかないものが、いっぱいにかいてある。
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生壁色の地へ、焦げた丹と、薄い黄で、絵だか、模様だか、鬼の面の模様になりかかったところか、ちょっと見当のつかないものが、べたに描いてある。
「杢兵衛(もくべえ)です」
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「杢兵衛です」
と老人が簡単に説明した。
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と老人が簡単に説明した。
「これはおもしろい」
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「これは面白い」
と余も簡単にほめた。
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と余も簡単に賞めた。
「杢兵衛はにせものが多くて――その底のところを見てごらんなさい。名前が書いてありますから」
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「杢兵衛はどうも偽物が多くて、――その糸底を見て御覧なさい。銘があるから」
と言う。
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と云う。
手に取って、障子のほうへ向けてみる。
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取り上げて、障子の方へ向けて見る。
障子には、植木ばちの葉らんの影が、あたたかそうにうつっている。
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障子には植木鉢の葉蘭の影が暖かそうに写っている。
首をかたむけて、のぞきこむと、「杢」の字が小さく見える。
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首を曲げて、覗き込むと、杢の字が小さく見える。
作った人の名前は、鑑賞のうえでそれほど大事なものとは思わないが、道具好きの人はよほどこれが気になるらしい。
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銘は観賞の上において、さのみ大切のものとは思わないが、好事者はよほどこれが気にかかるそうだ。
茶わんを下に置かないで、そのまま口へつけた。
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茶碗を下へ置かないで、そのまま口へつけた。
こく甘く、ちょうどよい湯かげんで出た、重みのあるしずくを、舌の先へ一滴ずつ落として味わうのは、ひまな人がゆったり楽しむぜいたくである。
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濃く甘く、湯加減に出た、重い露を、舌の先へ一しずくずつ落して味って見るのは閑人適意の韻事である。
ふつうの人は「お茶は飲むものだ」と思いこんでいるが、あれはまちがいだ。
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普通の人は茶を飲むものと心得ているが、あれは間違だ。
舌の先にぽたりと乗せて、すきとおったものが口の中に広がってしまえば、のどまで下りていく分はほとんどない。
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舌頭へぽたりと載せて、清いものが四方へ散れば咽喉へ下るべき液はほとんどない。
ただ、いい香りが食道から胃の中まで、しみわたるだけだ。
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ただ馥郁たる匂が食道から胃のなかへ沁み渡るのみである。
歯を使うのは下品だ。
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歯を用いるは卑しい。
水はあまりに軽すぎる。
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水はあまりに軽い。
玉露(ぎょくろ・高級な緑茶)になると、濃さはただの水とはまるでちがうのに、あごが疲れるようなかたさはない。
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玉露に至っては濃かなる事、淡水の境を脱して、顎を疲らすほどの硬さを知らず。
すばらしい飲み物である。
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結構な飲料である。
「眠れない」と言う人がいたら、「眠らなくてもいいから、お茶を飲みなさい」とすすめたい。
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眠られぬと訴うるものあらば、眠らぬも、茶を用いよと勧めたい。
老人はいつのまにか、青玉(せいぎょく)のお菓子皿を出した。
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老人はいつの間にやら、青玉の菓子皿を出した。
大きなかたまりを、これほど薄く、これほどきちんと形よくくり抜いた職人の腕前は、おどろくべきものだと思う。
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大きな塊を、かくまで薄く、かくまで規則正しく、刳りぬいた匠人の手際は驚ろくべきものと思う。
すかして見ると、春の日の光が一面に差しこんで、差しこんだまま、外へ出ていく道を見失ったような感じがする。
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すかして見ると春の日影は一面に射し込んで、射し込んだまま、逃がれ出ずる路を失ったような感じである。
皿の中には、何ものせないほうがいい。
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中には何も盛らぬがいい。
「お客さんが、青磁(せいじ)をほめてくださったので、今日は少しばかりお見せしようと思って、出しておきました」
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「御客さんが、青磁を賞められたから、今日はちとばかり見せようと思うて、出して置きました」
「どの青磁を――うん、あのお菓子鉢かな。あれは、わしも好きじゃ。ときにあなた、西洋画では、ふすまなどはかかないものですかな。かけるなら、一つお願いしたいですが」
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「どの青磁を――うん、あの菓子鉢かな。あれは、わしも好じゃ。時にあなた、西洋画では襖などはかけんものかな。かけるなら一つ頼みたいがな」
「かいてくれ」と言われれば、かかないこともないが、この和尚さんの気に入るかどうかはわからない。
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かいてくれなら、かかぬ事もないが、この和尚の気に入るか入らぬかわからない。
せっかく苦労してかいたのに、「西洋画はだめだ」などと言われては、苦労したかいがない。
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せっかく骨を折って、西洋画は駄目だなどと云われては、骨の折栄がない。
「ふすまには向かないでしょう」
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「襖には向かないでしょう」
「向かないかな。そうさな、この間の久一さんの絵のようだと、少し派手すぎるかもしれん」
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「向かんかな。そうさな、この間の久一さんの画のようじゃ、少し派手過ぎるかも知れん」
「わたしのはだめです。あれはまるでいたずら書きです」
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「私のは駄目です。あれはまるでいたずらです」
と若い男の人は、しきりに、はずかしがってへりくだる。
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と若い男はしきりに、恥かしがって謙遜する。
「その何とかいう池は、どこにあるんですか」
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「その何とか云う池はどこにあるんですか」
と余は若い男の人に、念のため聞いておく。
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と余は若い男に念のため尋ねて置く。
「ちょっと観海寺の裏の谷のあたりで、静かで奥深いところです。――なあに、学校にいたころに習ったので、退屈しのぎに、やってみただけです」
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「ちょっと観海寺の裏の谷の所で、幽邃な所です。――なあに学校にいる時分、習ったから、退屈まぎれに、やって見ただけです」
「観海寺というと……」
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「観海寺と云うと……」
「観海寺というと、わしのいるところじゃ。いいところじゃ、海を一目で見下ろせての――まあ、泊まっている間に一度来てごらんなさい。なに、ここからはほんの五、六百メートルよ。あの廊下から、ほら、お寺の石段が見えるじゃろう」
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「観海寺と云うと、わしのいる所じゃ。いい所じゃ、海を一目に見下しての――まあ逗留中にちょっと来て御覧。なに、ここからはつい五六丁よ。あの廊下から、そら、寺の石段が見えるじゃろうが」
「いつか、おじゃましてもいいですか」
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「いつか御邪魔に上ってもいいですか」
「ああ、いいとも、いつでもいる。ここのお嬢さんも、よく来られる。――お嬢さんと言えば、今日は御那美(おなみ)さんが見えないようだが――どうかされたかな、隠居さん」
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「ああいいとも、いつでもいる。ここの御嬢さんも、よう、来られる。――御嬢さんと云えば今日は御那美さんが見えんようだが――どうかされたかな、隠居さん」
「どこかへ出かけましたかな。久一、お前のほうへ行かなかったか」
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「どこぞへ出ましたかな、久一、御前の方へ行きはせんかな」
「いいえ、見ていません」
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「いいや、見えません」
「また一人で散歩かな、ハハハハ。那美さんは、なかなか足が強い。この間、法事で礪並(となみ)まで行ったら、姿見橋のところで――どうも、よく似ていると思ったら、那美さんだった。すそをはしょって、ぞうりをはいて、『和尚さん、何をぐずぐずしていなさる、どこへ行きなさる』と、いきなりおどろかされてね、ハハハハ。『お前はそんな格好で、いったいどこへ行ったのだ』と聞くと、『今、せり摘みに行った帰りです。和尚さん、少しあげましょうか』と言って、いきなりわしのたもとに、泥だらけのせりを押しこんできて、ハハハハハ」
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「また独り散歩かな、ハハハハ。御那美さんはなかなか足が強い。この間法用で礪並まで行ったら、姿見橋の所で――どうも、善く似とると思ったら、御那美さんよ。尻を端折って、草履を穿いて、和尚さん、何をぐずぐず、どこへ行きなさると、いきなり、驚ろかされたて、ハハハハ。御前はそんな形姿で地体どこへ、行ったのぞいと聴くと、今芹摘みに行った戻りじゃ、和尚さん少しやろうかと云うて、いきなりわしの袂へ泥だらけの芹を押し込んで、ハハハハハ」
「どうも、……」
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「どうも、……」
と老人は苦笑いをしたが、急に立って「実はこれをお見せするつもりで」
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と老人は苦笑いをしたが、急に立って「実はこれを御覧に入れるつもりで」
と話をまた道具のほうへそらした。
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と話をまた道具の方へそらした。
老人が紫檀の本だなから、うやうやしく取りおろした、模様入りの絹の古い袋は、何だか重そうなものだった。
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老人が紫檀の書架から、恭しく取り下した紋緞子の古い袋は、何だか重そうなものである。
「和尚さん、これはあなたにお見せしたことがありましたかな」
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「和尚さん、あなたには、御目に懸けた事があったかな」
「何ですか、いったい」
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「なんじゃ、一体」
「すずりですよ」
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「硯よ」
「へえ、どんなすずりですか」
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「へえ、どんな硯かい」
「山陽(さんよう・江戸時代の学者)が大切にしていたという……」
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「山陽の愛蔵したと云う……」
「いいえ、それはまだ見ていません」
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「いいえ、そりゃまだ見ん」
「春水(しゅんすい)がふたを作りかえたもので……」
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「春水の替え蓋がついて……」
「それは、まだのようです。どれどれ」
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「そりゃ、まだのようだ。どれどれ」
老人は大事そうに絹の袋の口をとくと、小豆色の四角い石が、ちらりと角を見せる。
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老人は大事そうに緞子の袋の口を解くと、小豆色の四角な石が、ちらりと角を見せる。
「いい色合いですな。端渓(たんけい・中国の有名な石の産地)ですか」
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「いい色合じゃのう。端渓かい」
「端渓で、鴝鵒眼(くよくがん・石にできる目のような模様)が九つある」
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「端渓で鴝鵒眼が九つある」
「九つ?」
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「九つ?」
と和尚さんはたいそう感心した様子である。
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と和尚大に感じた様子である。
「これが春水の作りかえたふたです」
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「これが春水の替え蓋」
と老人は、うすい絹地を張ったふたを見せる。
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と老人は綸子で張った薄い蓋を見せる。
上には春水の字で、漢詩が書いてある。
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上に春水の字で七言絶句が書いてある。
「なるほど。春水は字がうまい。うまいが、字そのものは杏坪(きょうへい)のほうが上手ですな」
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「なるほど。春水はようかく。ようかくが、書は杏坪の方が上手じゃて」
「やはり杏坪のほうがいいですかな」
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「やはり杏坪の方がいいかな」
「山陽が一番へたなようです。どうも才能をひけらかす感じで、俗っぽくて、まったくおもしろくない」
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「山陽が一番まずいようだ。どうも才子肌で俗気があって、いっこう面白うない」
「ハハハハ。和尚さんは山陽がきらいだから、今日は山陽の掛け軸をかけかえておきました」
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「ハハハハ。和尚さんは、山陽が嫌いだから、今日は山陽の幅を懸け替えて置いた」
「ほんとうに」
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「ほんに」
と和尚さんは後ろを振り向く。
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と和尚さんは後ろを振り向く。
床の間は、平らな棚を鏡のようにふきこんであり、さびの出た古い銅の花びんには、木蘭(もくらん)の花が、二尺(六十センチ)ほどの高さに生けてある。
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床は平床を鏡のようにふき込んで、鏽気を吹いた古銅瓶には、木蘭を二尺の高さに、活けてある。
かけ軸は、底光りのする古い錦(にしき)の布に、表装(ひょうそう・掛け軸の仕立て)を工夫してある、物徂徠(ぶつそらい・江戸時代の学者)の大きな一幅である。
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軸は底光りのある古錦襴に、装幀の工夫を籠めた物徂徠の大幅である。
絹の布ではないが、多少年月がたっているので、字のうまいへたに関係なく、紙の色が周りの布とよく調和して見える。
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絹地ではないが、多少の時代がついているから、字の巧拙に論なく、紙の色が周囲のきれ地とよく調和して見える。
あの錦の布も、織りたてのころは、あれほどの味わいはなかっただろうが、色があせて、金色の糸が沈んで、はでなところがひっこみ、地味なところが目立つようになって、あんないい調子になったのだと思う。
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あの錦襴も織りたては、あれほどのゆかしさも無かったろうに、彩色が褪せて、金糸が沈んで、華麗なところが滅り込んで、渋いところがせり出して、あんないい調子になったのだと思う。
こげ茶色のかべに、白い象牙(ぞうげ)の軸先が際立って、両側に突っ張っている。手前に、あの木蘭がふわりと浮き出て見えるほかは、床の間全体の雰囲気は落ちつきすぎていて、むしろ陰気である。
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焦茶の砂壁に、白い象牙の軸が際立って、両方に突張っている、手前に例の木蘭がふわりと浮き出されているほかは、床全体の趣は落ちつき過ぎてむしろ陰気である。
「徂徠(そらい)かな」
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「徂徠かな」
と和尚さんが、首を向けたまま言う。
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と和尚が、首を向けたまま云う。
「徂徠もあまりお好きではないかもしれませんが、山陽よりはよかろうと思いまして」
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「徂徠もあまり、御好きでないかも知れんが、山陽よりは善かろうと思うて」
「それは徂徠のほうがはるかにいい。享保(きょうほ)のころの学者の字は、下手でも、どこか品がある」
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「それは徂徠の方が遥かにいい。享保頃の学者の字はまずくても、どこぞに品がある」
「『広沢が日本一の書き手だとしても、自分は中国人の中では下手なほうだ』と言ったのは、徂徠でしたかな、和尚さん」
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「広沢をして日本の能書ならしめば、われはすなわち漢人の拙なるものと云うたのは、徂徠だったかな、和尚さん」
「わしは知らん。そんなに自慢するほどの字でもないですよ、ワハハハハ」
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「わしは知らん。そう威張るほどの字でもないて、ワハハハハ」
「ときに和尚さんは、誰に字を習われたのですかな」
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「時に和尚さんは、誰を習われたのかな」
「わしですか。禅宗のお坊さんは本も読まず、習字もしないから、なあ」
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「わしか。禅坊主は本も読まず、手習もせんから、のう」
「しかし、誰かに習われたでしょう」
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「しかし、誰ぞ習われたろう」
「若いときに高泉の字を、少し習ったことがある。それだけじゃ。それでも人にたのまれれば、いつでも書きます。ワハハハハ。ときに、その端渓を一つお見せください」
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「若い時に高泉の字を、少し稽古した事がある。それぎりじゃ。それでも人に頼まれればいつでも、書きます。ワハハハハ。時にその端渓を一つ御見せ」
と和尚さんがせかす。
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と和尚が催促する。
とうとう絹の袋をとりのぞく。
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とうとう緞子の袋を取り除ける。
その場にいた全員の目が、すずりに集まる。
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一座の視線はことごとく硯の上に落ちる。
厚さはほとんど六センチ近くあるので、ふつうのものの倍はあるだろう。
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厚さはほとんど二寸に近いから、通例のものの倍はあろう。
横も縦も十二センチ、十八センチくらいで、これはまずふつうのサイズと言っていい。
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四寸に六寸の幅も長さもまず並と云ってよろしい。
ふたには、うろこの形にみがきをかけた松の皮を、そのまま使ってあり、上には赤い漆(うるし)で、読めない字が二文字ほど書いてある。
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蓋には、鱗のかたに研きをかけた松の皮をそのまま用いて、上には朱漆で、わからぬ書体が二字ばかり書いてある。
「このふたが」
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「この蓋が」
と老人が言う。
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と老人が云う。
「このふたが、ただのふたではなくて、見てのとおり松の皮にはちがいないのですが……」
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「この蓋が、ただの蓋ではないので、御覧の通り、松の皮には相違ないが……」
老人の目は余のほうを見ている。
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老人の眼は余の方を見ている。
しかし松の皮のふたに、どんないわれがあろうと、画家としての余は、あまり感心できなかったので、
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しかし松の皮の蓋にいかなる因縁があろうと、画工として余はあまり感服は出来んから、
「松のふたは、少し俗っぽいですね」
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「松の蓋は少し俗ですな」
と言った。
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と云った。
老人は「まあ」と言わんばかりに手をあげて、
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老人はまあと云わぬばかりに手を挙げて、
「ただ松のふたと言うだけなら俗っぽいですが、これはその、何ですよ。山陽が広島にいたとき、庭に生えていた松の皮をはいで、山陽が自分の手で作ったものなんですよ」
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「ただ松の蓋と云うばかりでは、俗でもあるが、これはその何ですよ。山陽が広島におった時に庭に生えていた松の皮を剥いで山陽が手ずから製したのですよ」
なるほど山陽は俗っぽい人だと思ったので、
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なるほど山陽は俗な男だと思ったから、
「どうせ自分で作るなら、もっと不器用に作ってもよさそうなものですね。わざわざこのうろこの形などをぴかぴかにみがき出さなくても、よさそうに思いますが」
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「どうせ、自分で作るなら、もっと不器用に作れそうなものですな。わざとこの鱗のかたなどをぴかぴか研ぎ出さなくっても、よさそうに思われますが」
と、えんりょのないことを言ってしまった。
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と遠慮のないところを云って退けた。
「ワハハハハ。そうじゃな、このふたは少し安っぽいようだな」
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「ワハハハハ。そうよ、この蓋はあまり安っぽいようだな」
と和尚さんは、すぐに余に賛成した。
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と和尚はたちまち余に賛成した。
若い男の人は気の毒そうに、老人の顔を見る。
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若い男は気の毒そうに、老人の顔を見る。
老人は少し不機嫌そうにふたをはらいのけた。
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老人は少々不機嫌の体に蓋を払いのけた。
下から、いよいよすずりの正体があらわれる。
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下からいよいよ硯が正体をあらわす。
もしこのすずりに、人の目を引く特別なところがあるとすれば、その表面に見える職人のほり方だ。
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もしこの硯について人の眼を峙つべき特異の点があるとすれば、その表面にあらわれたる匠人の刻である。
真ん中に、うで時計くらいの丸いふくらみが、ふちとすれすれの高さでほり残されていて、これがクモの背中をかたどっている。
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真中に袂時計ほどな丸い肉が、縁とすれすれの高さに彫り残されて、これを蜘蛛の背に象どる。
真ん中から四方に向かって、八本の足が曲がりながらのびていて、その先には、それぞれ石の目のような模様がついている。
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中央から四方に向って、八本の足が彎曲して走ると見れば、先には各鴝鵒眼を抱えている。
残る一つは、背中の真ん中に、黄色い汁をたらしたようににじんで見える。
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残る一個は背の真中に、黄な汁をしたたらしたごとく煮染んで見える。
背中と足とふちを残して、あとの部分は、ほとんど三センチほどの深さにほり下げてある。
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背と足と縁を残して余る部分はほとんど一寸余の深さに掘り下げてある。
墨をためるところは、まさかこの深いみぞの底ではないだろう。
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墨を湛える所は、よもやこの塹壕の底ではあるまい。
たとえ少しの水を注いだとしても、この深さをうめるには足りない。
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たとい一合の水を注ぐともこの深さを充たすには足らぬ。
思うに、別の水入れから、一滴の水を銀のさじですくって、クモの背中に落とし、それを大切な墨ですりつぶすのだろう。
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思うに水盂の中から、一滴の水を銀杓にて、蜘蛛の背に落したるを、貴き墨に磨り去るのだろう。
そうでなければ、名前はすずりでも、実際にはただの文房具のかざりものにすぎない。
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それでなければ、名は硯でも、その実は純然たる文房用の装飾品に過ぎぬ。
老人は、よだれが出そうな顔つきで言う。
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老人は涎の出そうな口をして云う。
「この手ざわりと、この目を見てください」
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「この肌合と、この眼を見て下さい」
なるほど、見れば見るほどいい色だ。
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なるほど見れば見るほどいい色だ。
冷たくてうるおいのある表面に、はっと息を一つ吹きかけたら、すぐに固まって、ひとかたまりの雲を作りそうな感じがする。
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寒く潤沢を帯びたる肌の上に、はっと、一息懸けたなら、直ちに凝って、一朶の雲を起すだろうと思われる。
とくにおどろくべきは、その目の色である。
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ことに驚くべきは眼の色である。
目の色というより、目とまわりの石が交わるところが、少しずつ色を変えていて、いつ変わったのかがわからないくらいで、自分の目がだまされていることにさえ気づけないほどだ。
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眼の色と云わんより、眼と地の相交わる所が、次第に色を取り替えて、いつ取り替えたか、ほとんど吾眼の欺かれたるを見出し得ぬ事である。
たとえて言うなら、紫色の蒸したようかんの中に、いんげん豆を、すけて見えるくらいの深さにうめこんだような感じである。
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形容して見ると紫色の蒸羊羹の奥に、隠元豆を、透いて見えるほどの深さに嵌め込んだようなものである。
石の目というものは、一つや二つでもとても大切にされる。
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眼と云えば一個二個でも大変に珍重される。
九つとなると、ほとんど他に例がないだろう。
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九個と云ったら、ほとんど類はあるまい。
しかもその九つが、きちんと同じ間隔にならんでいて、まるで人が作ったねりものと見まちがえそうなほどなので、これはもう、天下の名品と認めないわけにはいかない。
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しかもその九個が整然と同距離に按排されて、あたかも人造のねりものと見違えらるるに至ってはもとより天下の逸品をもって許さざるを得ない。
「なるほど、すばらしいですね。見て気持ちがいいだけじゃありません。こうして、さわっても楽しいです」
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「なるほど結構です。観て心持がいいばかりじゃありません。こうして触っても愉快です」
と言いながら、余は、となりの若い男の人にすずりを渡した。
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と云いながら、余は隣りの若い男に硯を渡した。
「久一に、そんなものがわかるかい」
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「久一に、そんなものが解るかい」
と老人が笑いながら聞いてみる。
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と老人が笑いながら聞いて見る。
久一君は、少しやけになったような様子で、
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久一君は、少々自棄の気味で、
「わかりゃしません」
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「分りゃしません」
と投げやりに言い放ったが、わからないすずりを、自分の前に置いてながめているのはもったいないと気づいたのか、また手にとって、余に返した。
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と打ち遣ったように云い放ったが、わからん硯を、自分の前へ置いて、眺めていては、もったいないと気がついたものか、また取り上げて、余に返した。
余はもう一度ていねいになでまわしたあと、とうとうこれをうやうやしく和尚さんに返した。
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余はもう一遍丁寧に撫で廻わした後、とうとうこれを恭しく禅師に返却した。
和尚さんはじっくり手のひらの上で見きわめたあと、それでは物足りないと思ったらしく、ねずみ色の木綿の着物のそでを、遠慮なくクモの背中にこすりつけて、つやが出たところを何度も気に入った様子でながめていた。
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禅師はとくと掌の上で見済ました末、それでは飽き足らぬと考えたと見えて、鼠木綿の着物の袖を容赦なく蜘蛛の背へこすりつけて、光沢の出た所をしきりに賞翫している。
「隠居さん、どうもこの色が実にいいな。使ったことがあるかね」
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「隠居さん、どうもこの色が実に善いな。使うた事があるかの」
「いいや、めったに使いたくないので、まだ買ったままです」
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「いいや、滅多には使いとう、ないから、まだ買うたなりじゃ」
「そうでしょう。こんなものは中国でもめずらしいでしょうな、隠居さん」
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「そうじゃろ。こないなのは支那でも珍らしかろうな、隠居さん」
「そうですな」
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「左様」
「わしも一つほしいものだ。何なら久一さんに頼もうか。どうかな、買ってきてくれるかな」
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「わしも一つ欲しいものじゃ。何なら久一さんに頼もうか。どうかな、買うて来ておくれかな」
「へへへへ。すずりを見つけないうちに、死んでしまいそうです」
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「へへへへ。硯を見つけないうちに、死んでしまいそうです」
「本当にすずりどころではないな。ときに、いつ出発かい」
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「本当に硯どころではないな。時にいつ御立ちか」
「二、三日のうちに出発します」
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「二三日うちに立ちます」
「隠居さん。吉田まで送ってあげなさい」
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「隠居さん。吉田まで送って御やり」
「ふだんなら、年を取っているし、まあ見送るのはやめておくところですが、もしかすると、もう会えないかもしれないので、送っていこうと思っております」
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「普段なら、年は取っとるし、まあ見合すところじゃが、ことによると、もう逢えんかも、知れんから、送ってやろうと思うております」
「おじさんは送ってくれなくてもいいです」
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「御伯父さんは送ってくれんでもいいです」
若い男の人は、この老人のおいらしい。
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若い男はこの老人の甥と見える。
なるほど、どこか似ている。
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なるほどどこか似ている。
「なあに、送ってもらうといい。川船で行けばわけない。なあ隠居さん」
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「なあに、送って貰うがいい。川船で行けば訳はない。なあ隠居さん」
「はい、山越えではつらいですが、遠回りでも船なら……」
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「はい、山越では難義だが、廻り路でも船なら……」
若い男の人は今度は、とくに断らなかった。
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若い男は今度は別に辞退もしない。
ただ、だまっている。
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ただ黙っている。
「中国のほうへ行かれるのですか」
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「支那の方へおいでですか」
と余はちょっと聞いてみた。
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と余はちょっと聞いて見た。
「ええ」
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「ええ」
「ええ」だけでは少し物足りなかったが、それ以上くわしく聞く必要もないので、やめておいた。
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ええの二字では少し物足らなかったが、その上掘って聞く必要もないから控えた。
障子を見ると、らんの影が少し位置を変えている。
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障子を見ると、蘭の影が少し位置を変えている。
「なあに、あなた。やはり今度の戦争で――この子はもともと志願兵だったので、それで呼び出されたんです」
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「なあに、あなた。やはり今度の戦争で――これがもと志願兵をやったものだから、それで召集されたので」
老人は本人に代わって、まもなく満州(まんしゅう・中国東北部)の戦場へ行くことになるこの青年の運命を、余に話してくれた。
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老人は当人に代って、満洲の野に日ならず出征すべきこの青年の運命を余に語げた。
この夢のような、詩のような春の里で、鳴くのは鳥、落ちるのは花、わき出るのは温泉ばかりだと思いこんでいたのは、まちがいだった。
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この夢のような詩のような春の里に、啼くは鳥、落つるは花、湧くは温泉のみと思い詰めていたのは間違である。
現実の世界は、山をこえ、海をこえて、平家の子孫だけが昔から住んできたこの小さな村にまでせまってくる。
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現実世界は山を越え、海を越えて、平家の後裔のみ住み古るしたる孤村にまで逼る。
北の果ての荒れ地を染める血の何万分の一かは、この青年の血管から流れ出る日が来るかもしれない。
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朔北の曠野を染むる血潮の何万分の一かは、この青年の動脈から迸る時が来るかも知れない。
この青年の腰に下げる長い剣の先から、けむりとなって吹き出すかもしれない。
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この青年の腰に吊る長き剣の先から煙りとなって吹くかも知れない。
そしてその青年は、夢を見ること以外に、人生に何の価値も見出せない一人の画家のとなりに座っている。
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しかしてその青年は、夢みる事よりほかに、何らの価値を、人生に認め得ざる一画工の隣りに坐っている。
耳をすませば、彼の胸を打つ心臓の音さえ聞こえるくらい近くに座っている。
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耳をそばだつれば彼が胸に打つ心臓の鼓動さえ聞き得るほど近くに坐っている。
その心臓の音の中には、広い平野を巻きこむ大きな波が、今すでに響いているのかもしれない。
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その鼓動のうちには、百里の平野を捲く高き潮が今すでに響いているかも知れぬ。
運命は、いきなりこの二人を同じ部屋に引き合わせただけで、そのほかには何も語らない。
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運命は卒然としてこの二人を一堂のうちに会したるのみにて、その他には何事をも語らぬ。
九
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九
「お勉強ですか」
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「御勉強ですか」
と女の人が言う。
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と女が云う。
部屋にもどった余は、三脚几(さんきゃくき)にしばりつけた本の一冊を抜き出して読んでいた。
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部屋に帰った余は、三脚几に縛りつけた、書物の一冊を抽いて読んでいた。
「お入りなさい。ぜんぜん構いません」
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「御這入りなさい。ちっとも構いません」
女の人は遠慮する様子もなく、つかつかと入ってくる。
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女は遠慮する景色もなく、つかつかと這入る。
くすんだ色の半えりの中から、形のいい首すじの色が、あざやかに出ている。
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くすんだ半襟の中から、恰好のいい頸の色が、あざやかに、抽き出ている。
女の人が余の前に座ったとき、この首すじと、この半えりの対比が、まず一番に目についた。
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女が余の前に坐った時、この頸とこの半襟の対照が第一番に眼についた。
「西洋の本ですか。難しいことが書いてあるんでしょうね」
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「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」
「いや、そうでもないですよ」
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「なあに」
「じゃ何が書いてあるんです」
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「じゃ何が書いてあるんです」
「そうですね。実は、わたしにもよくわからないんです」
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「そうですね。実はわたしにも、よく分らないんです」
「ホホホホ。それでお勉強なんですか」
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「ホホホホ。それで御勉強なの」
「勉強じゃありません。ただ机の上で、こうやって開いて、開いたところをてきとうに読んでいるんです」
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「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それでおもしろいんですか」
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「それで面白いんですか」
「それがおもしろいんです」
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「それが面白いんです」
「なぜ?」
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「なぜ?」
「なぜって、小説なんかは、そうやって読むほうがおもしろいんです」
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「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」
「よっぽど変わっていらっしゃるのね」
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「よっぽど変っていらっしゃるのね」
「ええ、少し変わっています」
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「ええ、ちっと変ってます」
「初めから読んで、どうしてだめなんでしょう」
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「初から読んじゃ、どうして悪るいでしょう」
「初めから読まなければならないとすると、終わりまで読まなければならないことになりますよね」
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「初から読まなけりゃならないとすると、しまいまで読まなけりゃならない訳になりましょう」
「変な理屈だこと。終わりまで読んだっていいじゃありませんか」
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「妙な理窟だ事。しまいまで読んだっていいじゃありませんか」
「もちろん悪くはありませんよ。あらすじを読みたいなら、わたしだってそうします」
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「無論わるくは、ありませんよ。筋を読む気なら、わたしだって、そうします」
「あらすじを読まないなら何を読むんです。あらすじのほかに、何か読むものがあるんですか」
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「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋のほかに何か読むものがありますか」
余は、やっぱり女の人だなと思った。
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余は、やはり女だなと思った。
少し、ためしてやる気になる。
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多少試験してやる気になる。
「あなたは小説が好きですか」
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「あなたは小説が好きですか」
「わたしが?」
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「私が?」
と、いったん言葉を切った女の人は、それから「そうですねえ」
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と句を切った女は、あとから「そうですねえ」
と、はっきりしない返事をした。
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と判然しない返事をした。
あまり好きでもなさそうだ。
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あまり好きでもなさそうだ。
「好きなのか、きらいなのか、自分でもわからないんじゃないですか」
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「好きだか、嫌だか自分にも解らないんじゃないですか」
「小説なんか読んだって、読まなくたって……」
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「小説なんか読んだって、読まなくったって……」
と、頭の中には小説の存在をまったく気にしていない様子だ。
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と眼中にはまるで小説の存在を認めていない。
「それじゃ、初めから読んだって、終わりから読んだって、てきとうなところをてきとうに読んだって、いいことになりますよね。あなたのように、そんなにふしぎがらなくてもいいでしょう」
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「それじゃ、初から読んだって、しまいから読んだって、いい加減な所をいい加減に読んだって、いい訳じゃありませんか。あなたのようにそう不思議がらないでもいいでしょう」
「だって、あなたとわたしとはちがいますもの」
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「だって、あなたと私とは違いますもの」
「どこが?」
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「どこが?」
と余は、女の人の目をじっと見つめた。
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と余は女の眼の中を見詰めた。
試すならここだと思ったが、女の人のひとみは少しも動かない。
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試験をするのはここだと思ったが、女の眸は少しも動かない。
「ホホホホ、わかりませんか」
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「ホホホホ解りませんか」
「しかし、若いころはずいぶん読まれたでしょう」
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「しかし若いうちは随分御読みなすったろう」
余は、まっすぐに押しても仕方ないと思い、ちょっと別の角度から聞いてみた。
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余は一本道で押し合うのをやめにして、ちょっと裏へ廻った。
「今でも若いつもりですよ。かわいそうに」
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「今でも若いつもりですよ。可哀想に」
放したタカは、また獲物にねらいをつける。
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放した鷹はまたそれかかる。
少しも油断ができない。
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すこしも油断がならん。
「そんなことが男の人の前で言えるようなら、もう年寄りのうちですよ」
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「そんな事が男の前で云えれば、もう年寄のうちですよ」
と、やっと言い返した。
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と、やっと引き戻した。
「そう言うあなたも、けっこうなお年じゃありませんか。そんなに年をとっても、やっぱり、好きになっただの、はれただの、にきびができただのっていうことが、おもしろいんですか」
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「そう云うあなたも随分の御年じゃあ、ありませんか。そんなに年をとっても、やっぱり、惚れたの、腫れたの、にきびが出来たのってえ事が面白いんですか」
「ええ、おもしろいんです。死ぬまでおもしろいんです」
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「ええ、面白いんです、死ぬまで面白いんです」
「あら、そう。それだから画家なんかになれるんですね」
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「おやそう。それだから画工なんぞになれるんですね」
「まったくです。画家だから、小説なんか初めから終わりまで読む必要はないんです。でも、どこを読んでもおもしろいんです。あなたと話をするのもおもしろい。ここに泊まっているあいだは、毎日話をしたいくらいです。何なら、あなたを好きになってもいい。そうなると、もっとおもしろい。しかし、いくら好きになっても、あなたと結婚する必要はないんです。好きになって結婚する必要があるなら、小説を初めから終わりまで読む必要があるんです」
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「全くです。画工だから、小説なんか初からしまいまで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。ここへ逗留しているうちは毎日話をしたいくらいです。何ならあなたに惚れ込んでもいい。そうなるとなお面白い。しかしいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初からしまいまで読む必要があるんです」
「すると、思いやりのない好き方をするのが画家なんですね」
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「すると不人情な惚れ方をするのが画工なんですね」
「思いやりがないんじゃありません。「非人情」(ひにんじょう・人の情に流されずに物事を見ること)な好き方をするんです。小説も非人情で読むから、あらすじなんかどうでもいいんです。こうして、おみくじを引くように、ぱっと開いて、開いたところを、何気なく読んでいるのがおもしろいんです」
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「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」
「なるほど、おもしろそうね。じゃ、今あなたが読んでいらっしゃるところを、少し話してちょうだい。どんなおもしろいことが出てくるのか、聞きたいから」
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「なるほど面白そうね。じゃ、今あなたが読んでいらっしゃる所を、少し話してちょうだい。どんな面白い事が出てくるか伺いたいから」
「話しちゃだめです。絵だって、話にしてしまったら、値打ちがなくなるじゃありませんか」
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「話しちゃ駄目です。画だって話にしちゃ一文の価値もなくなるじゃありませんか」
「ホホホ、それじゃ読んでください」
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「ホホホそれじゃ読んで下さい」
「英語でですか」
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「英語でですか」
「いいえ、日本語で」
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「いいえ日本語で」
「英語を日本語で読むのはつらいな」
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「英語を日本語で読むのはつらいな」
「いいじゃありませんか、非人情で」
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「いいじゃありませんか、非人情で」
これもおもしろそうだと思ったので、余は女の人のたのみに応じて、いつもの本を、ぽつりぽつりと日本語で読み始めた。
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これも一興だろうと思ったから、余は女の乞に応じて、例の書物をぽつりぽつりと日本語で読み出した。
もし世界に「非人情」な読み方があるとすれば、まさにこれである。
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もし世界に非人情な読み方があるとすればまさにこれである。
聞いている女の人も、もちろん非人情で聞いている。
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聴く女ももとより非人情で聴いている。
「思いやりの風が、女から吹く。声から、目から、肌から吹く。男に助けられて船の後ろへ行く女は、夕暮れのベニス(イタリアの水の都)をながめるためだろうか。助ける男は、自分の血管に、稲妻のような血を走らせるためだろうか。――非人情な読み方だから、いいかげんですよ。ところどころ、とばすかもしれません」
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「情けの風が女から吹く。声から、眼から、肌から吹く。男に扶けられて舳に行く女は、夕暮のヴェニスを眺むるためか、扶くる男はわが脈に稲妻の血を走らすためか。――非人情だから、いい加減ですよ。ところどころ脱けるかも知れません」
「かまいませんとも。都合しだいで、つけ足してくださっても構いません」
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「よござんすとも。御都合次第で、御足しなすっても構いません」
「女は男とならんで船べりに寄りかかる。二人のあいだは、風にふかれるリボンの幅よりもせまい。女は男と一緒にベニスへ行きましょうと言う。ベニスにある、ドウジ(むかしのベニスの元首)の御殿は、今、二度目の夕日のように、うすい赤色に消えていく……」
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「女は男とならんで舷に倚る。二人の隔りは、風に吹かるるリボンの幅よりも狭い。女は男と共にヴェニスに去らばと云う。ヴェニスなるドウジの殿楼は今第二の日没のごとく、薄赤く消えて行く。……」
「ドージって何です」
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「ドージとは何です」
「何でもかまいませんよ。昔ベニスを治めていた人の役職の名前です。何代くらい続いたんでしょうね。その御殿は今でもベニスに残っているんです」
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「何だって構やしません。昔しヴェニスを支配した人間の名ですよ。何代つづいたものですかね。その御殿が今でもヴェニスに残ってるんです」
「それで、その男の人と女の人というのは、誰のことなんでしょう」
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「それでその男と女と云うのは誰の事なんでしょう」
「誰だか、わたしにもわからないんだ。だから、おもしろいんですよ。今までのなりゆきなんかどうでもいいんです。ただ、あなたとわたしのように、こうやって一緒にいるところ、その場かぎりの感じがおもしろいでしょう」
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「誰だか、わたしにも分らないんだ。それだから面白いのですよ。今までの関係なんかどうでもいいでさあ。ただあなたとわたしのように、こういっしょにいるところなんで、その場限りで面白味があるでしょう」
「そんなものですかね。何だか船の中の話みたいですね」
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「そんなものですかね。何だか船の中のようですね」
「船でも陸でも、書いてあるとおりでいいんです。なぜと聞きだすと、探偵になってしまいますよ」
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「船でも岡でも、かいてある通りでいいんです。なぜと聞き出すと探偵になってしまうです」
「ホホホホ、じゃあ聞きません」
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「ホホホホじゃ聴きますまい」
「ふつうの小説は、みんな探偵が考えたようなものですよ。非人情なところがないから、少しも味わいがないんです」
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「普通の小説はみんな探偵が発明したものですよ。非人情なところがないから、ちっとも趣がない」
「じゃあ、非人情の続きを聞かせてください。それから?」
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「じゃ非人情の続きを伺いましょう。それから?」
「ベニスは沈みながら、沈みながら、ただ空にのびる一本のうすい線になる。線は切れる。切れて点になる。オパールのような空の中に、丸い柱がここ、あそこと立っている。とうとう一番高くそびえていた鐘の塔も沈む。『沈んだわ』と女が言う。ベニスを去る女の心は、空を行く風のように自由だ。しかし、消えていくベニスは、いつか戻らなければならない女の心に、しばられるような苦しさを与える。男と女は、暗い湾のほうへ目を向ける。星がだんだん増えていく。やわらかにゆれる海は、あわを立てない。男は女の手を取る。ずっと鳴り続ける弦を握っているような気持ちだ……」
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「ヴェニスは沈みつつ、沈みつつ、ただ空に引く一抹の淡き線となる。線は切れる。切れて点となる。蛋白石の空のなかに円き柱が、ここ、かしこと立つ。ついには最も高く聳えたる鐘楼が沈む。沈んだと女が云う。ヴェニスを去る女の心は空行く風のごとく自由である。されど隠れたるヴェニスは、再び帰らねばならぬ女の心に覊絏の苦しみを与う。男と女は暗き湾の方に眼を注ぐ。星は次第に増す。柔らかに揺ぐ海は泡を濺がず。男は女の手を把る。鳴りやまぬ弦を握った心地である。……」
「あんまり非人情でもないみたいですね」
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「あんまり非人情でもないようですね」
「いや、これが非人情に聞こえるものなんですよ。でも、いやなら少し省きましょうか」
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「なにこれが非人情的に聞けるのですよ。しかし厭なら少々略しましょうか」
「いえ、わたしは大丈夫ですよ」
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「なに私は大丈夫ですよ」
「わたしは、あなたよりもっと大丈夫です。――それからと、ええと、少し難しくなってきたな。どうも訳し――いや、読みにくい」
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「わたしは、あなたよりなお大丈夫です。――それからと、ええと、少しく六ずかしくなって来たな。どうも訳し――いや読みにくい」
「読みにくければ、省いてください」
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「読みにくければ、御略しなさい」
「ええ、てきとうにやりましょう。――『この一夜だけ』と女が言う。『一夜だけ?』と男が聞く。『一夜だけと決めるのはつれない。何夜も重ねてこそ』と女が言う」
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「ええ、いい加減にやりましょう。――この一夜と女が云う。一夜? と男がきく。一と限るはつれなし、幾夜を重ねてこそと云う」
「女が言うんですか、男が言うんですか」
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「女が云うんですか、男が云うんですか」
「男が言うんですよ。どうやら女がベニスに帰りたくないみたいなんです。それを男がなぐさめている言葉なんです。――真夜中の甲板で、帆を張る太いつなを枕にして横になっている男の記憶には、あの一瞬、熱い一滴の血のようなあの一瞬、女の手をしっかり握ったあの一瞬が、大きな波のようによみがえる。男は暗い夜空を見上げながら、無理やりさせられている結婚から、何としても女を救い出そうと心に決めた。そう決めて、男は目を閉じる……」
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「男が云うんですよ。何でも女がヴェニスへ帰りたくないのでしょう。それで男が慰める語なんです。――真夜中の甲板に帆綱を枕にして横わりたる、男の記憶には、かの瞬時、熱き一滴の血に似たる瞬時、女の手を確と把りたる瞬時が大濤のごとくに揺れる。男は黒き夜を見上げながら、強いられたる結婚の淵より、是非に女を救い出さんと思い定めた。かく思い定めて男は眼を閉ずる。――」
「女は?」
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「女は?」
「女は道に迷いながら、どこで迷っているのかもわからない様子だ。さらわれて空を飛ぶ人のように、ただ不思議で言葉にできないほどの――このあとが、ちょっと読みにくいですよ。どうも文にならない。――ただ不思議で言葉にできないほどの――何か動詞がないでしょうか」
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「女は路に迷いながら、いずこに迷えるかを知らぬ様である。攫われて空行く人のごとく、ただ不可思議の千万無量――あとがちょっと読みにくいですよ。どうも句にならない。――ただ不可思議の千万無量――何か動詞はないでしょうか」
「動詞なんていらないでしょう、それで十分です」
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「動詞なんぞいるものですか、それで沢山です」
「え?」
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「え?」
ゴウという音がして、山の木々がいっせいに鳴る。
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轟と音がして山の樹がことごとく鳴る。
思わず顔を見合わせたとたん、机の上の一輪ざしに生けた椿が、ふらふらとゆれる。
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思わず顔を見合わす途端に、机の上の一輪挿に活けた、椿がふらふらと揺れる。
「地震!」
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「地震!」
と小声で叫んだ女の人は、ひざをくずして、余の机によりかかる。
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と小声で叫んだ女は、膝を崩して余の机に靠りかかる。
おたがいの体が、すれすれに動く。
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御互の身躯がすれすれに動く。
キキーとするどい羽音を立てて、一羽のキジが、やぶの中から飛び出す。
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キキーと鋭どい羽摶をして一羽の雉子が藪の中から飛び出す。
「キジが」
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「雉子が」
と余は窓の外を見て言う。
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と余は窓の外を見て云う。
「どこに」
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「どこに」
と女の人は、くずした体をすり寄せる。
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と女は崩した、からだを擦寄せる。
余の顔と女の人の顔が、ふれそうなほど近づく。
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余の顔と女の顔が触れぬばかりに近づく。
細い鼻の穴から出る女の人の息が、余のひげにさわった。
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細い鼻の穴から出る女の呼吸が余の髭にさわった。
「非人情ですよ」
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「非人情ですよ」
と女の人は、すぐに座り直しながら、きっぱりと言う。
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と女はたちまち坐住居を正しながら屹と云う。
「もちろん」
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「無論」
と、すぐさま余は答えた。
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と言下に余は答えた。
岩のくぼみにたまった春の水が、おどろいて、のたりのたりとゆるやかにゆれている。
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岩の凹みに湛えた春の水が、驚ろいて、のたりのたりと鈍く揺いている。
地面のひびきで、たまった水全体が底から動くので、表面が不規則に曲線をえがくだけで、くだけている部分はどこにもない。
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地盤の響きに、満泓の波が底から動くのだから、表面が不規則に曲線を描くのみで、砕けた部分はどこにもない。
「まるく動く」という言葉があるとすれば、こんな場合に使われるのだろう。
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円満に動くと云う語があるとすれば、こんな場合に用いられるのだろう。
落ちついて影をうつしていた山桜が、水と一緒に、のびたりちぢんだり、曲がったり、くねったりする。
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落ちついて影を蘸していた山桜が、水と共に、延びたり縮んだり、曲がったり、くねったりする。
しかし、どう変化しても、やはりはっきりと桜の姿を保っているところが、とてもおもしろい。
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しかしどう変化してもやはり明らかに桜の姿を保っているところが非常に面白い。
「これは楽しいな。きれいで、変化があって。こういうふうに動かないとおもしろくない」
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「こいつは愉快だ。奇麗で、変化があって。こう云う風に動かなくっちゃ面白くない」
「人間も、そういうふうにさえ動いていれば、いくら動いても大丈夫ですね」
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「人間もそう云う風にさえ動いていれば、いくら動いても大丈夫ですね」
「非人情でなければ、こんなふうには動けませんよ」
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「非人情でなくっちゃ、こうは動けませんよ」
「ホホホホ、ずいぶん非人情がお好きなんですね」
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「ホホホホ大変非人情が御好きだこと」
「あなただって、きらいなわけじゃないでしょう。昨日の振袖なんか……」
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「あなた、だって嫌な方じゃありますまい。昨日の振袖なんか……」
と言いかけると、
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と言いかけると、
「何かごほうびをちょうだい」
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「何か御褒美をちょうだい」
と女の人は急に甘えるように言った。
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と女は急に甘えるように云った。
「なぜです」
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「なぜです」
「見たいとおっしゃったから、わざわざ見せてさしあげたんじゃありませんか」
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「見たいとおっしゃったから、わざわざ、見せて上げたんじゃありませんか」
「わたしがですか」
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「わたしがですか」
「山を越えていらした絵の先生が、茶屋のおばあさんに、わざわざお頼みになったそうですよ」
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「山越をなさった画の先生が、茶店の婆さんにわざわざ御頼みになったそうで御座います」
余は何と答えていいかわからず、ちょっと言葉が出なかった。
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余は何と答えてよいやらちょっと挨拶が出なかった。
女の人はすかさず、
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女はすかさず、
「そんなに忘れっぽい人に、どれだけ真心をつくしてもだめですわねえ」
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「そんな忘れっぽい人に、いくら実をつくしても駄目ですわねえ」
と、からかうように、うらむように、また真正面から切りつけるように、二の矢を放った。
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と嘲けるごとく、恨むがごとく、また真向から切りつけるがごとく二の矢をついだ。
だんだん形勢が悪くなるが、どうやって盛り返そうか、いったん先手をとられると、なかなかすきを見つけにくい。
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だんだん旗色がわるくなるが、どこで盛り返したものか、いったん機先を制せられると、なかなか隙を見出しにくい。
「じゃあ、昨夜の風呂場も、全部、親切心からだったんですね」
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「じゃ昨夕の風呂場も、全く御親切からなんですね」
と、ぎりぎりのところで、ようやく立て直す。
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と際どいところでようやく立て直す。
女の人は黙っている。
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女は黙っている。
「どうもすみません。お礼に何を差し上げましょう」
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「どうも済みません。御礼に何を上げましょう」
と、できるだけ先手を打っておく。
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と出来るだけ先へ出て置く。
いくら先手を打っても、何の効果もなかった。
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いくら出ても何の利目もなかった。
女の人は、何くわぬ顔で、大徹和尚がかいたがくをながめている。
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女は何喰わぬ顔で大徹和尚の額を眺めている。
やがて、
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やがて、
「竹影払階塵不動」(竹の影が階段をはらうように動いても、ちりは動かない、という禅の言葉)
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「竹影払階塵不動」
と口の中で静かに読み終えて、また余のほうへ向き直ったが、急に思い出したように、
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と口のうちで静かに読み了って、また余の方へ向き直ったが、急に思い出したように、
「何ですって」
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「何ですって」
と、わざと大きな声で聞いた。
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と、わざと大きな声で聞いた。
その手には乗らない。
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その手は喰わない。
「その坊さんに、さっき会いましたよ」
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「その坊主にさっき逢いましたよ」
と、地震でゆれた池の水のように、まるく落ちついた動き方をして見せる。
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と地震に揺れた池の水のように円満な動き方をして見せる。
「観海寺の和尚さんですか。太っているでしょう」
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「観海寺の和尚ですか。肥ってるでしょう」
「西洋画でふすまをかいてくれって言われましたよ。禅宗のお坊さんって、ずいぶんわけのわからないことを言いますね」
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「西洋画で唐紙をかいてくれって、云いましたよ。禅坊さんなんてものは随分訳のわからない事を云いますね」
「それだから、あんなに太れるんでしょう」
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「それだから、あんなに肥れるんでしょう」
「それから、もう一人、若い人にも会いましたよ……」
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「それから、もう一人若い人に逢いましたよ。……」
「久一さんでしょう」
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「久一でしょう」
「ええ、久一君です」
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「ええ久一君です」
「よくご存じですこと」
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「よく御存じです事」
「いや、久一君だけ知ってるんです。ほかは何にも知りません。口をきくのがきらいな人ですね」
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「なに久一君だけ知ってるんです。そのほかには何にも知りゃしません。口を聞くのが嫌な人ですね」
「いえ、遠慮しているんです。まだ子どもですから……」
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「なに、遠慮しているんです。まだ小供ですから……」
「子どもって、あなたと同じくらいじゃありませんか」
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「小供って、あなたと同じくらいじゃありませんか」
「ホホホホ、そうですか。あれはわたくしのいとこですが、今度戦地へ行くので、あいさつに来たんです」
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「ホホホホそうですか。あれは私しの従弟ですが、今度戦地へ行くので、暇乞に来たのです」
「ここに泊まっているんですか」
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「ここに留って、いるんですか」
「いいえ、兄の家にいます」
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「いいえ、兄の家におります」
「じゃあ、わざわざお茶を飲みに来たわけですね」
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「じゃ、わざわざ御茶を飲みに来た訳ですね」
「お茶より、お湯のほうが好きなんですよ。父が、よせばいいのに呼ぶものですから。足がしびれて困ったでしょう。わたしがいれば、途中で帰してあげたんですけど……」
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「御茶より御白湯の方が好なんですよ。父がよせばいいのに、呼ぶものですから。麻痺が切れて困ったでしょう。私がおれば中途から帰してやったんですが……」
「あなたはどこへ行ってらしたんです。和尚さんが聞いていましたよ、また一人で散歩かって」
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「あなたはどこへいらしったんです。和尚が聞いていましたぜ、また一人散歩かって」
「ええ、鏡が池のほうを回ってきました」
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「ええ鏡の池の方を廻って来ました」
「その鏡が池へ、わたしも行きたいんですが……」
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「その鏡の池へ、わたしも行きたいんだが……」
「行ってごらんなさい」
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「行って御覧なさい」
「絵にかくのにいい場所ですか」
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「画にかくに好い所ですか」
「身を投げるのにいい場所です」
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「身を投げるに好い所です」
「身は、まだ投げるつもりはありません」
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「身はまだなかなか投げないつもりです」
「わたしは、近いうちに投げるかもしれません」
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「私は近々投げるかも知れません」
女の人にしては、あまりに思い切った冗談だったので、余はふと顔を上げた。
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余りに女としては思い切った冗談だから、余はふと顔を上げた。
女の人は思いのほか、落ちついている。
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女は存外たしかである。
「わたしが身を投げて浮いているところを――苦しんで浮いているところじゃありません――やすらかに死んで浮いているところを――きれいな絵にかいてください」
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「私が身を投げて浮いているところを――苦しんで浮いてるところじゃないんです――やすやすと往生して浮いているところを――奇麗な画にかいて下さい」
「え?」
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「え?」
「おどろいた、おどろいた、おどろいたでしょう」
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「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでしょう」
女の人はすらりと立ち上がる。
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女はすらりと立ち上る。
三歩で行き着く部屋の入口を出るとき、ふり返ってにこりと笑った。
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三歩にして尽くる部屋の入口を出るとき、顧みてにこりと笑った。
ぼんやりしたまま、しばらく時が過ぎた。
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茫然たる事多時。
十
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十
鏡が池へ来てみる。
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鏡が池へ来て見る。
観海寺の裏道を、杉の木の間から谷へ下りて、向こうの山へ登る前に、道は二つに分かれていて、そのまま鏡が池をめぐる道になる。
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観海寺の裏道の、杉の間から谷へ降りて、向うの山へ登らぬうちに、路は二股に岐れて、おのずから鏡が池の周囲となる。
池のふちには、くまざさが多い。
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池の縁には熊笹が多い。
ある場所は、左右から生い茂って重なり、ほとんど音を立てずには通れない。
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ある所は、左右から生い重なって、ほとんど音を立てずには通れない。
木の間から見ると、池の水は見えるが、どこから始まって、どこで終わるのか、一度回ってみないと見当がつかない。
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木の間から見ると、池の水は見えるが、どこで始まって、どこで終るか一応廻った上でないと見当がつかぬ。
歩いてみると、思ったより小さい。
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あるいて見ると存外小さい。
三百メートルほどしかないだろう。
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三丁ほどよりあるまい。
ただ、とても不規則な形をしていて、ところどころに岩が自然のまま水ぎわに横たわっている。
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ただ非常に不規則な形ちで、ところどころに岩が自然のまま水際に横わっている。
ふちの高さも、池の形が言い表しにくいのと同じように、波打って、いろいろな起伏を不規則に連ねている。
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縁の高さも、池の形の名状しがたいように、波を打って、色々な起伏を不規則に連ねている。
池のまわりには雑木が多い。
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池をめぐりては雑木が多い。
何百本あるか、数えきれない。
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何百本あるか勘定がし切れぬ。
中には、まだ春の芽を出していないものもある。
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中には、まだ春の芽を吹いておらんのがある。
わりあい枝が混み合っていない場所には、うららかな春の日差しが差しこんで、芽を出したばかりの下草さえある。
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割合に枝の繁まない所は、依然として、うららかな春の日を受けて、萌え出でた下草さえある。
つぼすみれのうすい影が、ちらりちらりとその間に見える。
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壺菫の淡き影が、ちらりちらりとその間に見える。
日本のすみれは、眠っているような感じがする。
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日本の菫は眠っている感じである。
「天からのふしぎな思いつきのように」
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「天来の奇想のように」
と表現した西洋の詩人の言葉は、とてもここには当てはまらないだろう。
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、と形容した西人の句はとうていあてはまるまい。
そう思ったとたん、余の足はとまった。
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こう思う途端に余の足はとまった。
足がとまれば、いやになるまでそこにいる。
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足がとまれば、厭になるまでそこにいる。
それができるのは、幸せな人だ。
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いられるのは、幸福な人である。
東京でそんなことをすれば、すぐに電車にひかれてしまう。
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東京でそんな事をすれば、すぐ電車に引き殺される。
電車にひかれなければ、警察官に追い立てられる。
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電車が殺さなければ巡査が追い立てる。
都会は、平和にくらす人たちを物ごいとまちがえて、どろぼうの親分のような探偵に、高い給料をはらう場所である。
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都会は太平の民を乞食と間違えて、掏摸の親分たる探偵に高い月俸を払う所である。
余は草をしいて、のんびりと腰を下ろした。
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余は草を茵に太平の尻をそろりと卸した。
ここでなら、五、六日、こうしたまま動かずにいても、誰も文句を言いにくる心配はない。
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ここならば、五六日こうしたなり動かないでも、誰も苦情を持ち出す気遣はない。
自然のありがたいところは、ここにある。
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自然のありがたいところはここにある。
いざとなると容赦も未練もないかわりに、人によって扱いを変えるような、軽薄な態度は少しも見せない。
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いざとなると容赦も未練もない代りには、人に因って取り扱をかえるような軽薄な態度はすこしも見せない。
岩崎や三井(当時の大金持ちの一族)のことなど、まったく気にしない人は、いくらでもいる。
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岩崎や三井を眼中に置かぬものは、いくらでもいる。
冷静に構えて、昔から今までの王様の権威さえ、まるで気にせず受け流せるのは、自然だけだろう。
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冷然として古今帝王の権威を風馬牛し得るものは自然のみであろう。
自然の徳は、この世の中をはるかにこえていて、どこまでも平等な世界を打ち立てている。
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自然の徳は高く塵界を超越して、対絶の平等観を無辺際に樹立している。
世の中のつまらない人たちを相手にして、むやみにタイモン(シェイクスピアの劇に出てくる、人間ぎらいになった主人公)のような怒りをまねくよりは、蘭(らん)を広い畑にまき、蕙(けい・らんの仲間の花)を百のうねに植えて、ひとりその中で暮らすほうが、はるかに得策である。
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天下の羣小を麾いで、いたずらにタイモンの憤りを招くよりは、蘭を九畹に滋き、蕙を百畦に樹えて、独りその裏に起臥する方が遥かに得策である。
余は「公平」と言い、「私心がない」と言う。
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余は公平と云い無私と云う。
それほど大事なことなら、一日に千人の小悪党を切りすてて、畑いっぱいの草花を、その死がいで育てるのがよいのだろう。
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さほど大事なものならば、日に千人の小賊を戮して、満圃の草花を彼らの屍に培養うがよかろう。
何だか考えが理屈っぽくなって、まったくつまらなくなった。
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何だか考が理に落ちていっこうつまらなくなった。
こんな中学生程度の考えをねるために、わざわざ鏡が池まで来たのではない。
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こんな中学程度の観想を練りにわざわざ、鏡が池まで来はせぬ。
たもとからたばこを出して、マッチをシュッとする。
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袂から煙草を出して、寸燐をシュッと擦る。
手ごたえはあったが、火は見えない。
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手応はあったが火は見えない。
たばこの先につけて吸ってみると、鼻からけむりが出た。
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敷島のさきに付けて吸ってみると、鼻から煙が出た。
なるほど、火がついていたんだと、ようやく気がついた。
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なるほど、吸ったんだなとようやく気がついた。
マッチは短い草の中で、しばらく細いけむりを立てて、すぐに消えた。
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寸燐は短かい草のなかで、しばらく雨竜のような細い煙りを吐いて、すぐ寂滅した。
場所をずらして、だんだん水ぎわまで出てみる。
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席をずらせてだんだん水際まで出て見る。
余のしいた草は、自然に池の中まで流れこんでいて、足をひたせば、なまぬるい水につきそうな、そんなぎりぎりのところで止まる。
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余が茵は天然に池のなかに、ながれ込んで、足を浸せば生温い水につくかも知れぬと云う間際で、とまる。
水をのぞいてみる。
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水を覗いて見る。
目の届く場所は、そんなに深そうではない。
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眼の届く所はさまで深そうにもない。
底には、細長い水草が、あきらめたように沈んでいる。
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底には細長い水草が、往生して沈んでいる。
余は「あきらめた」と言うほかに、うまい言い方を知らない。
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余は往生と云うよりほかに形容すべき言葉を知らぬ。
岡に生えるすすきなら、風になびくことを知っている。
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岡の薄なら靡く事を知っている。
藻(も)の草なら、波がさそってくれるのを待つ。
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藻の草ならば誘う波の情けを待つ。
百年待っても動きそうもない、水の底に沈められたこの水草は、動くための姿勢はすべて整えているのに、朝も夕も、ゆらされる時を待ちくらし、待ちあかし、何代分もの思いを茎の先にこめながら、今にいたるまでついに動くこともできず、かといって死にきることもできずに、生きているらしい。
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百年待っても動きそうもない、水の底に沈められたこの水草は、動くべきすべての姿勢を調えて、朝な夕なに、弄らるる期を、待ち暮らし、待ち明かし、幾代の思を茎の先に籠めながら、今に至るまでついに動き得ずに、また死に切れずに、生きているらしい。
余は立ち上がって、草の中から手ごろな石を二つ拾ってくる。
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余は立ち上がって、草の中から、手頃の石を二つ拾って来る。
いいことをしてあげるつもりで、目の前へ一つ、ぽんと投げこんでやる。
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功徳になると思ったから、眼の先へ、一つ抛り込んでやる。
ぶくぶくとあわが二つ浮いて、すぐ消えた。
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ぶくぶくと泡が二つ浮いて、すぐ消えた。
すぐ消えた、すぐ消えたと、余は心の中で繰り返す。
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すぐ消えた、すぐ消えたと、余は心のうちで繰り返す。
すかして見ると、三本ほどの長い髪が、けだるそうにゆれかかっている。
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すかして見ると、三茎ほどの長い髪が、慵に揺れかかっている。
見つかってはたいへんと言わんばかりに、にごった水が底のほうから隠しにくる。
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見つかってはと云わぬばかりに、濁った水が底の方から隠しに来る。
なむあみだぶつ。
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南無阿弥陀仏。
今度は思いきって、力いっぱい真ん中へ投げる。
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今度は思い切って、懸命に真中へなげる。
ぽかんと、かすかに音がした。
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ぽかんと幽かに音がした。
静かなものは、決して相手にしない。
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静かなるものは決して取り合わない。
もう投げる気もなくなった。
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もう抛げる気も無くなった。
絵の具箱とぼうしを置いたまま、右手のほうへ回る。
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絵の具箱と帽子を置いたまま右手へ廻る。
四メートルほどを、つま先上がりに登る。
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二間余りを爪先上がりに登る。
頭の上には大きな木がおおいかぶさっていて、体が急に寒くなる。
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頭の上には大きな樹がかぶさって、身体が急に寒くなる。
向こう岸の暗いところに、椿が咲いている。
原文を見る
向う岸の暗い所に椿が咲いている。
椿の葉は緑が深すぎて、昼に見ても、日なたで見ても、軽やかな感じはしない。
原文を見る
椿の葉は緑が深すぎて、昼見ても、日向で見ても、軽快な感じはない。
とくにこの椿は、岩かどを、奥へ四、五メートルほど離れた、花がなければ何があるか気づかないような場所に、しんと静まりかえって、かたまって咲いている。
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ことにこの椿は岩角を、奥へ二三間遠退いて、花がなければ、何があるか気のつかない所に森閑として、かたまっている。
その花が!
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その花が!
一日かけて数えても、もちろん数えきれないほど多い。
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一日勘定しても無論勘定し切れぬほど多い。
しかし気づけば、どうしても数えたくなるほどあざやかである。
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しかし眼がつけば是非勘定したくなるほど鮮かである。
ただあざやかというだけで、まったく明るい感じはしない。
原文を見る
ただ鮮かと云うばかりで、いっこう陽気な感じがない。
ぱっと燃え立つようで、思わず目をうばわれ、そのあとは何だかぞっとしてくる。
原文を見る
ぱっと燃え立つようで、思わず、気を奪られた、後は何だか凄くなる。
あれほど人をだます花はない。
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あれほど人を欺す花はない。
余は深山椿(みやまつばき)を見るたびに、いつも魔女のような姿を思いうかべる。
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余は深山椿を見るたびにいつでも妖女の姿を連想する。
黒い目で人を引き寄せて、知らないうちに、にっこり笑いながら、血管に毒を吹きこむ。
原文を見る
黒い眼で人を釣り寄せて、しらぬ間に、嫣然たる毒を血管に吹く。
だまされたと気づいたときには、もう遅い。
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欺かれたと悟った頃はすでに遅い。
向こう岸の椿が目に入ったとき、余は「ああ、見なければよかった」と思った。
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向う側の椿が眼に入った時、余は、ええ、見なければよかったと思った。
あの花の色は、ただの赤ではない。
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あの花の色はただの赤ではない。
目がさめるほどのはでやかさの奥に、何とも言えない、沈んだ調子を持っている。
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眼を醒すほどの派出やかさの奥に、言うに言われぬ沈んだ調子を持っている。
しょんぼりとしおれる、雨に打たれた梨の花には、ただかわいそうな感じがする。
原文を見る
悄然として萎れる雨中の梨花には、ただ憐れな感じがする。
冷たくつややかな、月の下の海棠には、ただかわいらしい気持ちがする。
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冷やかに艶なる月下の海棠には、ただ愛らしい気持ちがする。
椿の沈んだ色あいは、まったくちがう。
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椿の沈んでいるのは全く違う。
黒ずんだ、毒々しい、おそろしい感じを帯びた調子である。
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黒ずんだ、毒気のある、恐ろし味を帯びた調子である。
この調子を底に持ちながら、表面はどこまでもはでに着かざっている。
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この調子を底に持って、上部はどこまでも派出に装っている。
しかも、人にこびる様子もなければ、わざと人を招くような様子も見せない。
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しかも人に媚ぶる態もなければ、ことさらに人を招く様子も見えぬ。
ぱっと咲き、ぽたりと落ち、ぽたりと落ち、ぱっと咲いて、何百年もの長い年月を、人目のつかない山かげで、落ちついてくらしている。
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ぱっと咲き、ぽたりと落ち、ぽたりと落ち、ぱっと咲いて、幾百年の星霜を、人目にかからぬ山陰に落ちつき払って暮らしている。
ただひと目見たが最後!
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ただ一眼見たが最後!
見た人は、あの花の魔力からは、絶対に逃れられない。
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見た人は彼女の魔力から金輪際、免るる事は出来ない。
あの色は、ただの赤ではない。
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あの色はただの赤ではない。
処刑された囚人の血が、自然と人の目を引きつけながら、自然と人の心を不快にさせるような、一種異様な赤である。
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屠られたる囚人の血が、自ずから人の眼を惹いて、自から人の心を不快にするごとく一種異様な赤である。
見ていると、ぽたりと赤いやつが水の上に落ちた。
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見ていると、ぽたり赤い奴が水の上に落ちた。
静かな春の中で動いたのは、ただこの一輪だけだ。
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静かな春に動いたものはただこの一輪である。
しばらくすると、また、ぽたりと落ちた。
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しばらくするとまたぽたり落ちた。
あの花は、決して散らない。
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あの花は決して散らない。
くずれるのではなく、まとまったまま枝を離れる。
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崩れるよりも、かたまったまま枝を離れる。
枝を離れるときは、一度に離れるので未練がないように見えるが、落ちてもかたまっているところが、どこか毒々しい。
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枝を離れるときは一度に離れるから、未練のないように見えるが、落ちてもかたまっているところは、何となく毒々しい。
また、ぽたりと落ちる。
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またぽたり落ちる。
あんなふうに落ち続けていたら、池の水が赤くなるだろうと考えた。
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ああやって落ちているうちに、池の水が赤くなるだろうと考えた。
花が静かに浮かんでいるあたりは、今でも少し赤いような気がする。
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花が静かに浮いている辺は今でも少々赤いような気がする。
また落ちた。
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また落ちた。
地面に落ちたのか、水の上に落ちたのか、区別がつかないくらい静かに浮く。
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地の上へ落ちたのか、水の上へ落ちたのか、区別がつかぬくらい静かに浮く。
また落ちる。
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また落ちる。
あれが沈むことなんてあるのだろうかと思う。
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あれが沈む事があるだろうかと思う。
毎年、落ちつくす何万もの椿は、水につかって、色が溶け出して、くさって泥になり、ようやく底に沈むのだろうか。
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年々落ち尽す幾万輪の椿は、水につかって、色が溶け出して、腐って泥になって、ようやく底に沈むのかしらん。
何千年か後には、この古い池が、誰も知らないうちに、落ちた椿でうずまって、もとの平地に戻るかもしれない。
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幾千年の後にはこの古池が、人の知らぬ間に、落ちた椿のために、埋もれて、元の平地に戻るかも知れぬ。
また一つ、大きなのが、血をぬったような人だまのように落ちる。
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また一つ大きいのが血を塗った、人魂のように落ちる。
また落ちる。
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また落ちる。
ぽたりぽたりと落ちる。
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ぽたりぽたりと落ちる。
きりなく落ちる。
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際限なく落ちる。
こんな場所に美しい女の人が浮いているところをかいたらどうだろうと思いながら、もとの場所へ戻って、またたばこを吸い、ぼんやり考えこむ。
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こんな所へ美しい女の浮いているところをかいたら、どうだろうと思いながら、元の所へ帰って、また煙草を呑んで、ぼんやり考え込む。
温泉宿の御那美さんが昨日冗談で言った言葉が、波のようにうねって、記憶の中に寄せてくる。
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温泉場の御那美さんが昨日冗談に云った言葉が、うねりを打って、記憶のうちに寄せてくる。
心は、大波に乗る一枚の板のようにゆれる。
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心は大浪にのる一枚の板子のように揺れる。
あの顔をもとにして、あの椿の下に浮かせて、上から椿を何輪も落とす。
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あの顔を種にして、あの椿の下に浮かせて、上から椿を幾輪も落とす。
椿が永遠に落ち続けて、女の人がずっと水に浮いている感じを表したいが、それを絵でかけるだろうか。
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椿が長えに落ちて、女が長えに水に浮いている感じをあらわしたいが、それが画でかけるだろうか。
あのラオコーン(古代の彫刻)には――ラオコーンのことなんて、どうでもいい。
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かのラオコーンには――ラオコーンなどはどうでも構わない。
絵の決まりごとに反しても、反しなくても、そういう気持ちさえ出ればいい。
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原理に背いても、背かなくっても、そう云う心持ちさえ出ればいい。
しかし、人間の姿からはなれずに、人間をこえた永遠という感じを出すのは、簡単なことではない。
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しかし人間を離れないで人間以上の永久と云う感じを出すのは容易な事ではない。
まず、顔に困る。
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第一顔に困る。
あの顔を借りるにしても、あの表情ではだめだ。
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あの顔を借りるにしても、あの表情では駄目だ。
苦しみが表に出すぎては、すべてをこわしてしまう。
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苦痛が勝ってはすべてを打ち壊わしてしまう。
かといって、むやみに気楽そうな顔でも、もっと困る。
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と云ってむやみに気楽ではなお困る。
いっそのこと、ほかの顔にしたらどうだろう。
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一層ほかの顔にしては、どうだろう。
あれか、これかと指を折って考えてみるが、どうもしっくりこない。
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あれか、これかと指を折って見るが、どうも思しくない。
やはり御那美さんの顔が一番似合うようだ。
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やはり御那美さんの顔が一番似合うようだ。
しかし何だか物足りない。
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しかし何だか物足らない。
物足りないというところまでは気づくが、どこが物足りないのかが、自分でもはっきりしない。
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物足らないとまでは気がつくが、どこが物足らないかが、吾ながら不明である。
だから、自分の想像で、いいかげんに作り変えるわけにもいかない。
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したがって自己の想像でいい加減に作り易える訳に行かない。
あれにねたみの気持ちを加えたらどうだろう。
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あれに嫉妒を加えたら、どうだろう。
ねたみでは、不安な感じが多すぎる。
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嫉妒では不安の感が多過ぎる。
にくしみはどうだろう。
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憎悪はどうだろう。
にくしみは、はげしすぎる。
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憎悪は烈げし過ぎる。
怒り?
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怒?
怒りでは、全体の調和をこわしてしまう。
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怒では全然調和を破る。
うらみ?
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恨?
うらみでも、「春の恨み」というような詩的なものなら別だが、ただのうらみでは、あまりに俗っぽい。
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恨でも春恨とか云う、詩的のものならば格別、ただの恨では余り俗である。
いろいろ考えたすえ、しまいに、ようやく「これだ」と気づいた。
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いろいろに考えた末、しまいにようやくこれだと気がついた。
たくさんある気持ちの中で、「憐れ(あわれ・かわいそうに思う気持ち)」という言葉があるのを忘れていた。
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多くある情緒のうちで、憐れと云う字のあるのを忘れていた。
憐れは、神様の知らない感情で、しかも神様にいちばん近い、人間らしい感情である。
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憐れは神の知らぬ情で、しかも神にもっとも近き人間の情である。
御那美さんの表情の中には、この憐れの気持ちが少しも表れていない。
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御那美さんの表情のうちにはこの憐れの念が少しもあらわれておらぬ。
そこが物足りないのだ。
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そこが物足らぬのである。
ある、ふとしたきっかけで、この気持ちがあの女の人のまゆのあたりにひらめいた瞬間に、余の絵は完成するだろう。
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ある咄嗟の衝動で、この情があの女の眉宇にひらめいた瞬時に、わが画は成就するであろう。
しかし――それがいつ見られるのかはわからない。
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しかし――いつそれが見られるか解らない。
あの女の人の顔にいつもあるのは、人をばかにするようなうす笑いと、勝とう、勝とうとあせる、まゆのしわだけである。
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あの女の顔に普段充満しているものは、人を馬鹿にする微笑と、勝とう、勝とうと焦る八の字のみである。
あれだけでは、とても絵にはならない。
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あれだけでは、とても物にならない。
がさりがさりと足音がする。
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がさりがさりと足音がする。
頭の中の絵の構想は、三分の二ほどくずれてしまった。
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胸裏の図案は三分二で崩れた。
見ると、筒そでを着た男の人が、背中にまきをのせて、くまざさの中を観海寺のほうへわたってくる。
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見ると、筒袖を着た男が、背へ薪を載せて、熊笹のなかを観海寺の方へわたってくる。
となりの山からおりてきたのだろう。
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隣りの山からおりて来たのだろう。
「よいお天気で」
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「よい御天気で」
と、手ぬぐいを取ってあいさつする。
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と手拭をとって挨拶する。
腰をかがめたとたん、細ひもに下げたなたの刃がぴかりと光った。
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腰を屈める途端に、三尺帯に落した鉈の刃がぴかりと光った。
四十歳くらいの、たくましい男の人だ。
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四十恰好の逞しい男である。
どこかで見たような気がする。
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どこかで見たようだ。
男の人は、まるで昔からの知り合いのように、なれなれしい。
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男は旧知のように馴々しい。
「旦那も絵をかかれるのかい」
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「旦那も画を御描きなさるか」
余の絵の具箱は開けたままだった。
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余の絵の具箱は開けてあった。
「ああ。この池でもかこうと思って来てみたが、さびしいところだね。誰も通らない」
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「ああ。この池でも画こうと思って来て見たが、淋しい所だね。誰も通らない」
「はあい。まったく山の中で……旦那あ、峠で雨に降られなさって、さぞお困りでしたろう」
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「はあい。まことに山の中で……旦那あ、峠で御降られなさって、さぞ御困りでござんしたろ」
「え? うん、お前はあのときの馬引きさんだね」
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「え? うん御前はあの時の馬子さんだね」
「はあい。こうやって、まきを切っては城下町へ持っていくんです」
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「はあい。こうやって薪を切っては城下へ持って出ます」
と源兵衛は荷物を下ろして、その上に腰をかける。
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と源兵衛は荷を卸して、その上へ腰をかける。
たばこ入れを出す。
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煙草入を出す。
古いものだ。
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古いものだ。
紙なのか皮なのか、よくわからない。
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紙だか革だか分らない。
余はマッチを貸してやる。
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余は寸燐を借してやる。
「あんなところを毎日越えるのはたいへんだね」
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「あんな所を毎日越すなあ大変だね」
「なあに、慣れていますから――それに、毎日は越えません。三日に一回、へたをすると四日目くらいになります」
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「なあに、馴れていますから――それに毎日は越しません。三日に一返、ことによると四日目くらいになります」
「四日に一回でもごめんだな」
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「四日に一返でも御免だ」
「アハハハハ。馬がかわいそうなので、四日目くらいにしておきます」
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「アハハハハ。馬が不憫ですから四日目くらいにして置きます」
「そりゃあ、どうも。自分より馬のほうが大事なんだね。ハハハハ」
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「そりゃあ、どうも。自分より馬の方が大事なんだね。ハハハハ」
「それほどでもないんですが……」
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「それほどでもないんで……」
「ときに、この池はよほど古いものだね。いったいいつごろからあるんだい」
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「時にこの池はよほど古いもんだね。全体いつ頃からあるんだい」
「昔からありますよ」
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「昔からありますよ」
「昔から? どのくらい昔から?」
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「昔から? どのくらい昔から?」
「何でも、よほど古い昔から」
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「なんでもよっぽど古い昔から」
「よほど古い昔からか。なるほど」
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「よっぽど古い昔しからか。なるほど」
「何でも昔、志保田のお嬢様が身を投げたころからありますよ」
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「なんでも昔し、志保田の嬢様が、身を投げた時分からありますよ」
「志保田って、あの温泉宿のかい」
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「志保田って、あの温泉場のかい」
「はあい」
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「はあい」
「お嬢さんが身を投げたって、今も元気にしているじゃないか」
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「御嬢さんが身を投げたって、現に達者でいるじゃないか」
「いいえ、あのお嬢様じゃない。ずっと昔のお嬢様が」
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「いんにえ。あの嬢さまじゃない。ずっと昔の嬢様が」
「ずっと昔のお嬢様。それはいつごろかね」
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「ずっと昔の嬢様。いつ頃かね、それは」
「何でも、よほど昔のお嬢様で……」
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「なんでも、よほど昔しの嬢様で……」
「その昔のお嬢様が、どうしてまた身を投げたんだい」
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「その昔の嬢様が、どうしてまた身を投げたんだい」
「そのお嬢様は、やはり今のお嬢様のように美しいお嬢様だったそうですが、旦那様」
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「その嬢様は、やはり今の嬢様のように美しい嬢様であったそうながな、旦那様」
「うん」
原文を見る
「うん」
「すると、ある日、一人の旅の僧が来て……」
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「すると、ある日、一人の梵論字が来て……」
「旅の僧というと、尺八を吹きながら旅をするお坊さんのことかい」
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「梵論字と云うと虚無僧の事かい」
「はあい。あの尺八を吹く旅の僧のことでございます。その旅の僧が志保田の庄屋(しょうや・村の代表を務める家)に泊まっているうちに、その美しいお嬢様が、その僧を好きになって――めぐりあわせと言いますか、どうしても一緒になりたいと言って、泣きました」
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「はあい。あの尺八を吹く梵論字の事でござんす。その梵論字が志保田の庄屋へ逗留しているうちに、その美くしい嬢様が、その梵論字を見染めて――因果と申しますか、どうしてもいっしょになりたいと云うて、泣きました」
「泣きました。ふうん」
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「泣きました。ふうん」
「ところが庄屋様が、聞き入れません。旅の僧をむこにはできないと言って。とうとう追い出しました」
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「ところが庄屋どのが、聞き入れません。梵論字は聟にはならんと云うて。とうとう追い出しました」
「その旅の僧をかい」
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「その虚無僧をかい」
「はあい。それでお嬢様が、その僧のあとを追って、ここまで来て――あの向こうに見える松のところから、身を投げて――とうとう、たいへんな騒ぎになりました。そのとき、何でも一枚の鏡を持っていたと言い伝えられておりますよ。それでこの池を、今でも鏡が池と呼ぶんです」
原文を見る
「はあい。そこで嬢様が、梵論字のあとを追うてここまで来て、――あの向うに見える松の所から、身を投げて、――とうとう、えらい騒ぎになりました。その時何でも一枚の鏡を持っていたとか申し伝えておりますよ。それでこの池を今でも鏡が池と申しまする」
「へええ。じゃあ、もう身を投げた人がいるんだね」
原文を見る
「へええ。じゃ、もう身を投げたものがあるんだね」
「まことにおそろしいことでございます」
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「まことに怪しからん事でござんす」
「何代くらい前のことだい、それは」
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「何代くらい前の事かい。それは」
「何でも、よほど昔のことだそうですよ。それから――これはここだけの話ですが、旦那さん」
原文を見る
「なんでもよっぽど昔の事でござんすそうな。それから――これはここ限りの話だが、旦那さん」
「何だい」
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「何だい」
「あの志保田の家には、代々、気の変な人が出るんです」
原文を見る
「あの志保田の家には、代々気狂が出来ます」
「へええ」
原文を見る
「へええ」
「まったく、たたりでございます。今のお嬢様も、近頃は少しおかしいと言って、みんながうわさしています」
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「全く祟りでござんす。今の嬢様も、近頃は少し変だ云うて、皆が囃します」
「ハハハハ、そんなことはないだろう」
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「ハハハハそんな事はなかろう」
「そうでしょうかね。でも、あのお母様が、やはり少し変わっていまして」
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「ござんせんかな。しかしあの御袋様がやはり少し変でな」
「家にいるのかい」
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「うちにいるのかい」
「いいえ、去年亡くなりました」
原文を見る
「いいえ、去年亡くなりました」
「ふん」
原文を見る
「ふん」
と余は、たばこの吸いがらから細いけむりが立つのを見て、口を閉じた。
原文を見る
と余は煙草の吸殻から細い煙の立つのを見て、口を閉じた。
源兵衛は、まきを背負って去っていく。
原文を見る
源兵衛は薪を背にして去る。
絵をかきに来て、こんなことを考えたり、こんな話を聞いたりしているばかりでは、何日かかっても一枚もできそうにない。
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画をかきに来て、こんな事を考えたり、こんな話しを聴くばかりでは、何日かかっても一枚も出来っこない。
せっかく絵の具箱まで持ち出した以上、今日は義理でも下絵をかいていこう。
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せっかく絵の具箱まで持ち出した以上、今日は義理にも下絵をとって行こう。
幸い、向こう岸の景色は、あのままでだいたいまとまっている。
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幸、向側の景色は、あれなりで略纏まっている。
あそこでも、義理がわりに、ちょっとかこう。
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あすこでも申し訳にちょっと描こう。
三メートルほどの青黒い岩が、真っすぐに池の底から突き出していて、こい色の水が折れ曲がるかどのところ、ごつごつとした右側には、いつものくまざさが、がけの上から水ぎわまで、すきまなく生い茂っている。
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一丈余りの蒼黒い岩が、真直に池の底から突き出して、濃き水の折れ曲る角に、嵯々と構える右側には、例の熊笹が断崖の上から水際まで、一寸の隙間なく叢生している。
上には、三人がかりで抱えるほどの大きな松が、若いつたにからまれた幹をななめにねじって、半分以上、水の上にせり出している。
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上には三抱ほどの大きな松が、若蔦にからまれた幹を、斜めに捩って、半分以上水の面へ乗り出している。
鏡をふところに入れていた女の人は、あの岩の上からでも飛びこんだのだろう。
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鏡を懐にした女は、あの岩の上からでも飛んだものだろう。
三脚几にこしを下ろして、絵にすべき材料を見わたす。
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三脚几に尻を据えて、面画に入るべき材料を見渡す。
松と、笹と、岩と水だが、さて、水はどこで区切ればいいのかわからない。
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松と、笹と、岩と水であるが、さて水はどこでとめてよいか分らぬ。
岩の高さが三メートルあれば、水にうつる影も三メートルある。
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岩の高さが一丈あれば、影も一丈ある。
くまざさは、水ぎわで止まらずに、水の中まで生い茂っているのではと思うほど、はっきりと水底にうつっている。
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熊笹は、水際でとまらずに、水の中まで茂り込んでいるかと怪まるるくらい、鮮やかに水底まで写っている。
松にいたっては、空にそびえる高さがそのまま、うつる影もかなり細長い。
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松に至っては空に聳ゆる高さが、見上げらるるだけ、影もまたすこぶる細長い。
目に映るとおりの寸法では、とても紙におさまりきらない。
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眼に写っただけの寸法ではとうてい収りがつかない。
いっそのこと、実物の景色をやめて、水にうつる影だけをかくのもおもしろいだろう。
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一層の事、実物をやめて影だけ描くのも一興だろう。
水をかいて、水の中のうつり影をかいて、それを「これが絵です」と人に見せたら、おどろくだろう。
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水をかいて、水の中の影をかいて、そうして、これが画だと人に見せたら驚ろくだろう。
しかし、ただおどろかせるだけではつまらない。
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しかしただ驚ろかせるだけではつまらない。
なるほど絵になっていると、おどろかせなければつまらない。
原文を見る
なるほど画になっていると驚かせなければつまらない。
どう工夫したものだろうと、一心に池の水面を見つめる。
原文を見る
どう工夫をしたものだろうと、一心に池の面を見詰める。
ふしぎなことに、うつり影だけをながめていても、まったく絵にならない。
原文を見る
奇体なもので、影だけ眺めていてはいっこう画にならん。
実物と見くらべて、工夫してみたくなる。
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実物と見比べて工夫がして見たくなる。
余は水面から目を移して、ゆっくりと上のほうへ視線を動かしていく。
原文を見る
余は水面から眸を転じて、そろりそろりと上の方へ視線を移して行く。
三メートルの岩を、影のはじから、水ぎわのつなぎ目まで見て、つなぎ目から少しずつ水の上に出る。
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一丈の巌を、影の先から、水際の継目まで眺めて、継目から次第に水の上に出る。
うるおいのある感じから、岩のしわの模様を一つひとつ確かめながら、だんだんと登っていく。
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潤沢の気合から、皴皺の模様を逐一吟味してだんだんと登って行く。
ようやく登りつめて、余の両目が、今まさに岩の頂上に達したとき、余はヘビににらまれたカエルのように、はたりと絵筆を取り落とした。
原文を見る
ようやく登り詰めて、余の双眼が今危巌の頂きに達したるとき、余は蛇に睨まれた蟇のごとく、はたりと画筆を取り落した。
緑の枝を通りぬける夕日を背にして、暮れかかる晩春の青黒い岩の頂上を彩る中に、すらりとうかび上がった女の人の顔は――花の下で余をおどろかせ、まぼろしで余をおどろかせ、振袖で余をおどろかせ、風呂場で余をおどろかせた、あの女の人の顔だった。
原文を見る
緑りの枝を通す夕日を背に、暮れんとする晩春の蒼黒く巌頭を彩どる中に、楚然として織り出されたる女の顔は、――花下に余を驚かし、まぼろしに余を驚ろかし、振袖に余を驚かし、風呂場に余を驚かしたる女の顔である。
余の視線は、青白い女の人の顔の真ん中に、ぐさりとくぎづけにされたまま動かない。
原文を見る
余が視線は、蒼白き女の顔の真中にぐさと釘付けにされたぎり動かない。
女の人も、しなやかな体をせいいっぱいのばして、高い岩の上に、指一本動かさずに立っている。
原文を見る
女もしなやかなる体躯を伸せるだけ伸して、高い巌の上に一指も動かさずに立っている。
この一瞬!
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この一刹那!
余は思わず飛び上がった。
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余は覚えず飛び上った。
女の人はひらりと体をひねる。
原文を見る
女はひらりと身をひねる。
帯のあいだに、椿の花のように赤いものが、ちらりと見えたと思ったら、もう向こうへ飛び下りていた。
原文を見る
帯の間に椿の花の如く赤いものが、ちらついたと思ったら、すでに向うへ飛び下りた。
夕日は木の枝の先をかすめて、松の幹をかすかに赤く染める。
原文を見る
夕日は樹梢を掠めて、幽かに松の幹を染むる。
くまざさは、ますます青い。
原文を見る
熊笹はいよいよ青い。
また、おどろかされた。
原文を見る
また驚かされた。
十一
原文を見る
十一
山里のおぼろ月に誘われて、あてもなく歩く。
原文を見る
山里の朧に乗じてそぞろ歩く。
観海寺の石段を登りながら、「見上げて数える春の星、一つ二つ三つ」という句を思いついた。
原文を見る
観海寺の石段を登りながら仰数春星一二三と云う句を得た。
余は別に和尚さんに会う用事はない。
原文を見る
余は別に和尚に逢う用事もない。
会っておしゃべりをする気もない。
原文を見る
逢うて雑話をする気もない。
たまたま宿を出て、足の向くままにぶらぶらしているうちに、ついこの石段の下に出た。
原文を見る
偶然と宿を出でて足の向くところに任せてぶらぶらするうち、ついこの石磴の下に出た。
しばらく「不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず・にんにくや酒を持って寺に入ってはいけない、という意味の禅寺の決まりを書いた石碑)」という石をなでて立っていたが、急にうれしくなって、登り始めたのである。
原文を見る
しばらく不許葷酒入山門と云う石を撫でて立っていたが、急にうれしくなって、登り出したのである。
「トリストラム・シャンディ」(イギリスの小説)という本の中に、この本ほど神様の思いに合った書き方はない、と書いてある。
原文を見る
トリストラム・シャンデーと云う書物のなかに、この書物ほど神の御覚召に叶うた書き方はないとある。
最初の一言だけは、とにかく自分の力で書く。
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最初の一句はともかくも自力で綴る。
あとはひたすら神様に願いながら、筆の動くままにまかせる。
原文を見る
あとはひたすらに神を念じて、筆の動くに任せる。
何を書くかは、自分でも見当がつかない。
原文を見る
何をかくか自分には無論見当がつかぬ。
書くのは自分だが、書かれる内容は神様のものだ。
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かく者は自己であるが、かく事は神の事である。
だから責任は作者にはないそうだ。
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したがって責任は著者にはないそうだ。
余の散歩も、またこのやり方をまねた、無責任な散歩である。
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余が散歩もまたこの流儀を汲んだ、無責任の散歩である。
ただ、神様にすらたよらないだけ、もっと無責任だ。
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ただ神を頼まぬだけが一層の無責任である。
スターン(この本の作者)は自分の責任からのがれると同時に、それを天の神様に押しつけた。
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スターンは自分の責任を免れると同時にこれを在天の神に嫁した。
引き受けてくれる神様を持たない余は、とうとうそれをどぶの中に捨ててしまった。
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引き受けてくれる神を持たぬ余はついにこれを泥溝の中に棄てた。
石段を登るのも、無理をしてまでは登らない。
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石段を登るにも骨を折っては登らない。
つらくなるくらいなら、すぐ引き返す。
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骨が折れるくらいなら、すぐ引き返す。
一段登って立ち止まると、何となく楽しい。
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一段登って佇むとき何となく愉快だ。
だから二段登る。
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それだから二段登る。
二段目で、詩を作りたくなる。
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二段目に詩が作りたくなる。
だまって、自分のかげを見る。
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黙然として、吾影を見る。
かどのある石にさえぎられて、かげが三段に切れているのがおもしろい。
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角石に遮られて三段に切れているのは妙だ。
おもしろいから、また登る。
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妙だからまた登る。
見上げて空をながめる。
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仰いで天を望む。
ねぼけたような空の奥で、小さな星がしきりにまたたいている。
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寝ぼけた奥から、小さい星がしきりに瞬きをする。
句になりそうだと思って、また登る。
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句になると思って、また登る。
こうして、余はとうとう、上まで登りきった。
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かくして、余はとうとう、上まで登り詰めた。
石段の上で思い出す。
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石段の上で思い出す。
昔、鎌倉へ遊びに行って、いわゆる五山(ござん・鎌倉の有名な五つの禅寺)をぐるぐる訪ねて回ったとき、たしか円覚寺(えんがくじ)の小さなお堂だったと思うが、やはりこんなふうに石段をのそりのそりと登っていくと、門の中から、黄色い法衣を着た、頭の張った坊さんが出てきた。
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昔し鎌倉へ遊びに行って、いわゆる五山なるものを、ぐるぐる尋ねて廻った時、たしか円覚寺の塔頭であったろう、やはりこんな風に石段をのそりのそりと登って行くと、門内から、黄な法衣を着た、頭の鉢の開いた坊主が出て来た。
余は登る、坊さんは下る。
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余は上る、坊主は下る。
すれちがったとき、坊さんが鋭い声で「どこへおいでですか」と聞いた。
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すれ違った時、坊主が鋭どい声でどこへ御出なさると問うた。
余はただ「境内を見に」と答えて、同時に足を止めたところ、坊さんはすぐに「何もありませんぞ」と言い捨てて、すたすたと下りていった。
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余はただ境内を拝見にと答えて、同時に足を停めたら、坊主は直ちに、何もありませんぞと言い捨てて、すたすた下りて行った。
あまりにさっぱりしているので、余は少し先手を打たれた気分で、段の上に立って坊さんを見送ると、坊さんは、あの張った頭を振り立てながら、ついに姿を杉の木の間に消した。
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あまり洒落だから、余は少しく先を越された気味で、段上に立って、坊主を見送ると、坊主は、かの鉢の開いた頭を、振り立て振り立て、ついに姿を杉の木の間に隠した。
その間、一度も振り返ることはなかった。
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その間かつて一度も振り返った事はない。
なるほど、禅宗のお坊さんはおもしろい。
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なるほど禅僧は面白い。
きびきびしているなと、のっそり山門を入ってみると、広い庫裏(くり・お寺の台所)も本堂も、がらんとして、人影はまるでない。
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きびきびしているなと、のっそり山門を這入って、見ると、広い庫裏も本堂も、がらんとして、人影はまるでない。
余はそのとき、心からうれしく感じた。
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余はその時に心からうれしく感じた。
世の中にこんなさっぱりした人がいて、こんなふうにさっぱりと人をあつかってくれたのかと思うと、何となく気分が晴れた。
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世の中にこんな洒落な人があって、こんな洒落に、人を取り扱ってくれたかと思うと、何となく気分が晴々した。
禅を理解していたからというわけではない。
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禅を心得ていたからと云う訳ではない。
禅の「ぜ」の字も、いまだに知らない。
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禅のぜの字もいまだに知らぬ。
ただ、あの頭の張った坊さんのふるまいが気に入っただけである。
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ただあの鉢の開いた坊主の所作が気に入ったのである。
世の中は、しつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうしい、いやなやつで埋まっている。
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世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうしい、いやな奴で埋っている。
そもそも何のために世の中に顔を出しているのか、わからないやつさえいる。
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元来何しに世の中へ面を曝しているんだか、解しかねる奴さえいる。
しかも、そんな顔にかぎって大きいものだ。
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しかもそんな面に限って大きいものだ。
世の中の風に当たる面積が多いのを、まるで名誉のように思いこんでいる。
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浮世の風にあたる面積の多いのをもって、さも名誉のごとく心得ている。
五年も十年も、人のあとに探偵をつけて、人がしたおならの数を数えて、それが人生だと思っている。
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五年も十年も人の臀に探偵をつけて、人のひる屁の勘定をして、それが人世だと思ってる。
そうして人の前へ出てきて、「お前はおならをいくつした、いくつした」と、頼んでもいないことを教える。
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そうして人の前へ出て来て、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと頼みもせぬ事を教える。
面と向かって言うのなら、それも参考にしてやらないでもないが、後ろのほうから「お前はおならをいくつした、いくつした」と言う。
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前へ出て云うなら、それも参考にして、やらんでもないが、後ろの方から、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと云う。
うるさいと言えば、もっと言う。
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うるさいと云えばなおなお云う。
やめろと言えば、ますます言う。
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よせと云えばますます云う。
わかったと言っても、おならをいくつした、したと言う。
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分ったと云っても、屁をいくつ、ひった、ひったと云う。
そうして、それが世の中を生きていく方針だと言う。
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そうしてそれが処世の方針だと云う。
方針は人それぞれ、自分の勝手である。
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方針は人々勝手である。
ただ、「した、した」と言わずに、だまって方針を立てればいい。
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ただひったひったと云わずに黙って方針を立てるがいい。
人のじゃまになる方針は、ひかえるのが礼儀だ。
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人の邪魔になる方針は差し控えるのが礼儀だ。
じゃまにならなければ方針が立たないと言うのなら、こちらもおならをすることを、こちらの方針とするだけだ。
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邪魔にならなければ方針が立たぬと云うなら、こっちも屁をひるのをもって、こっちの方針とするばかりだ。
そうなったら、日本もおしまいだろう。
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そうなったら日本も運の尽きだろう。
こうして、美しい春の夜に、何の方針も立てずに歩いているのは、本当に上品なことだ。
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こうやって、美しい春の夜に、何らの方針も立てずに、あるいてるのは実際高尚だ。
興味がわいたら、興味がわいたことを方針とする。
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興来れば興来るをもって方針とする。
興味が消えたら、興味が消えたことを方針とする。
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興去れば興去るをもって方針とする。
句ができれば、できたことに方針が立つ。
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句を得れば、得たところに方針が立つ。
できなければ、できなかったことに方針が立つ。
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得なければ、得ないところに方針が立つ。
しかも、誰にも迷惑をかけない。
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しかも誰の迷惑にもならない。
これが本当の方針である。
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これが真正の方針である。
おならの数を数えるのは人をせめる方針で、おならをするのは自分を守る方針で、こうやって観海寺の石段を登るのは、なりゆきのままに心を自由にする方針である。
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屁を勘定するのは人身攻撃の方針で、屁をひるのは正当防禦の方針で、こうやって観海寺の石段を登るのは随縁放曠の方針である。
「見上げて数える春の星、一つ二つ三つ」という句を思いついて、石段を登りきったとき、おぼろに光る春の海が、帯のように見えた。
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仰数春星一二三の句を得て、石磴を登りつくしたる時、朧にひかる春の海が帯のごとくに見えた。
山門をくぐる。
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山門を入る。
漢詩をまとめる気にはならなくなった。
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絶句は纏める気にならなくなった。
すぐにやめる方針を立てる。
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即座にやめにする方針を立てる。
石をしきつめて庫裏へ通じる一本道の右側は、岡つつじの生け垣で、垣の向こうはお墓だろう。
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石を甃んで庫裡に通ずる一筋道の右側は、岡つつじの生垣で、垣の向は墓場であろう。
左は本堂だ。
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左は本堂だ。
屋根がわらが、高いところで、かすかに光る。
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屋根瓦が高い所で、幽かに光る。
何万枚ものかわらに、何万個もの月が落ちたようだと見上げる。
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数万の甍に、数万の月が落ちたようだと見上る。
どこかでハトの声がしきりにする。
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どこやらで鳩の声がしきりにする。
屋根の下にでも住んでいるらしい。
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棟の下にでも住んでいるらしい。
気のせいか、ひさしのあたりに、白いものが点々と見える。
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気のせいか、廂のあたりに白いものが、点々見える。
ふんかもしれない。
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糞かも知れぬ。
雨だれの落ちるところに、へんなかげが一列に並んでいる。
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雨垂れ落ちの所に、妙な影が一列に並んでいる。
木にも見えないし、草ではもちろんない。
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木とも見えぬ、草では無論ない。
感じから言うと、岩佐又兵衛(いわさまたべえ・江戸時代の画家)のかいた、鬼の絵が念仏をやめて、踊りを踊っている姿のようだ。
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感じから云うと岩佐又兵衛のかいた、鬼の念仏が、念仏をやめて、踊りを踊っている姿である。
本堂のはしからはしまで、一列にきちんと並んで踊っている。
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本堂の端から端まで、一列に行儀よく並んで躍っている。
そのかげも、また本堂のはしからはしまで、一列にきちんと並んで踊っている。
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その影がまた本堂の端から端まで一列に行儀よく並んで躍っている。
おぼろ月にさそわれて、鐘も、鐘をつく棒も、寄付を集める帳面も投げ捨てて、みんなでさそいあって、このお寺へ踊りに来たのだろう。
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朧夜にそそのかされて、鉦も撞木も、奉加帳も打ちすてて、誘い合せるや否やこの山寺へ踊りに来たのだろう。
近づいてみると、大きなサボテンだった。
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近寄って見ると大きな覇王樹である。
高さは二メートル以上あるだろう、へちまくらいの青いきゅうりを、しゃもじのように押しつぶして、柄のほうを下にして、上へ上へとつなげたように見える。
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高さは七八尺もあろう、糸瓜ほどな青い黄瓜を、杓子のように圧しひしゃげて、柄の方を下に、上へ上へと継ぎ合せたように見える。
あのしゃもじのような形が、いくつつながったら終わるのかわからない。
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あの杓子がいくつ継がったら、おしまいになるのか分らない。
今夜のうちにも、ひさしを突き破って、屋根がわらの上まで出てきそうだ。
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今夜のうちにも廂を突き破って、屋根瓦の上まで出そうだ。
あのしゃもじの形ができるときには、きっと急に、どこからか現れて、ぴしゃりと飛びつくにちがいない。
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あの杓子が出来る時には、何でも不意に、どこからか出て来て、ぴしゃりと飛びつくに違いない。
古いしゃもじが新しい小さなしゃもじを生んで、その小さなしゃもじが長い年月をかけてだんだん大きくなる、というふうには思えない。
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古い杓子が新しい小杓子を生んで、その小杓子が長い年月のうちにだんだん大きくなるようには思われない。
しゃもじとしゃもじのつながり方が、いかにも突然すぎる。
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杓子と杓子の連続がいかにも突飛である。
こんなおかしな木は、そうたくさんはないだろう。
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こんな滑稽な樹はたんとあるまい。
しかも、すましたものだ。
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しかも澄ましたものだ。
「仏とは何か」と聞かれて、「庭先の柏(かしわ)の木だ」と答えたお坊さんがいるそうだが、もし同じことを聞かれたら、余は迷わず「月の下のサボテンだ」と答えるだろう。
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いかなるこれ仏と問われて、庭前の柏樹子と答えた僧があるよしだが、もし同様の問に接した場合には、余は一も二もなく、月下の覇王樹と応えるであろう。
若いころ、晁補之(ちょうほし・中国の詩人)という人の旅の文章を読んで、いまだに覚えている一節がある。
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少時、晁補之と云う人の記行文を読んで、いまだに暗誦している句がある。
「ちょうど九月で、空は高く、露はすんでいて、山はひっそりとして人けがなく、月は明るい。見上げて星を見れば、どれも大きく光っていて、まるで人のすぐ上にあるかのようだ。窓のそばの竹が何十本もあって、たがいにこすれ合い、こまかい音がやまない。竹の間の梅とやしの木が黒々と茂って、まるでばけものが並んで立ち、髪をふり乱して笑っているような姿だ。二、三人で顔を見合わせ、心がざわついて眠れない。夜が明けるころ、みんな帰っていった」
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「時に九月天高く露清く、山空しく、月明かに、仰いで星斗を視れば皆光大、たまたま人の上にあるがごとし、窓間の竹数十竿、相摩戞して声切々やまず。竹間の梅棕森然として鬼魅の離立笑髩の状のごとし。二三子相顧み、魄動いて寝るを得ず。遅明皆去る」
と、また口の中でくり返してみて、思わず笑った。
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とまた口の内で繰り返して見て、思わず笑った。
このサボテンも、時と場合によっては、余の心をざわつかせて、見るなり山を下りさせていたかもしれない。
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この覇王樹も時と場合によれば、余の魄を動かして、見るや否や山を追い下げたであろう。
とげにさわってみると、いらいらと指を刺す。
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刺に手を触れて見ると、いらいらと指をさす。
石だたみを行きつくして左に折れると、庫裏に出る。
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石甃を行き尽くして左へ折れると庫裏へ出る。
庫裏の前に大きなもくれんの木がある。
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庫裏の前に大きな木蓮がある。
ほとんど、両手でひとかかえもあるだろう。
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ほとんど一と抱もあろう。
高さは庫裏の屋根をこえている。
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高さは庫裏の屋根を抜いている。
見上げると、頭の上は枝である。
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見上げると頭の上は枝である。
枝の上も、また枝である。
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枝の上も、また枝である。
そうして枝の重なり合った上が、月である。
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そうして枝の重なり合った上が月である。
ふつう、枝があんなに重なると、下から空は見えない。
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普通、枝がああ重なると、下から空は見えぬ。
花があれば、なおさら見えない。
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花があればなお見えぬ。
もくれんの枝は、いくら重なっても、枝と枝の間が、さわやかにすいている。
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木蓮の枝はいくら重なっても、枝と枝の間はほがらかに隙いている。
もくれんは、木の下に立つ人の目をまどわせるほどの細い枝を、むだに広げたりしない。
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木蓮は樹下に立つ人の眼を乱すほどの細い枝をいたずらには張らぬ。
花さえ、はっきり見える。
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花さえ明かである。
このはるか下から見上げても、一輪の花は、はっきりと一輪に見える。
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この遥かなる下から見上げても一輪の花は、はっきりと一輪に見える。
その一輪が、どこまで集まって、どこまで咲いているのかはわからない。
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その一輪がどこまで簇がって、どこまで咲いているか分らぬ。
それでも一輪はどこまでも一輪であり、一輪と一輪の間から、うす青い空がはっきりと見える。
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それにもかかわらず一輪はついに一輪で、一輪と一輪の間から、薄青い空が判然と望まれる。
花の色は、もちろん真っ白ではない。
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花の色は無論純白ではない。
ただ白いだけでは、さむざむしすぎる。
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いたずらに白いのは寒過ぎる。
ひたすら白いのは、わざと人の目を引こうとするたくみさが見えてしまう。
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専らに白いのは、ことさらに人の眼を奪う巧みが見える。
もくれんの色は、それとはちがう。
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木蓮の色はそれではない。
すみずみまで白いのをわざとさけて、あたたかみのある、うすい黄色に、ひかえめに自分をおさえている。
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極度の白きをわざと避けて、あたたかみのある淡黄に、奥床しくも自らを卑下している。
余は石だたみの上に立って、このおとなしい花が、どこまでも空いっぱいに広がっている様子を見上げて、しばらくぼんやりしていた。
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余は石甃の上に立って、このおとなしい花が累々とどこまでも空裏に蔓る様を見上げて、しばらく茫然としていた。
目に入るのは花だけだ。
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眼に落つるのは花ばかりである。
葉は一枚もない。
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葉は一枚もない。
「もくれんの花ばかりの空を見上げる」
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木蓮の花ばかりなる空を瞻る
という句ができた。
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と云う句を得た。
どこかで、ハトがやさしく鳴きかわしている。
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どこやらで、鳩がやさしく鳴き合うている。
庫裏に入る。
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庫裏に入る。
庫裏は開けはなしてある。
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庫裏は明け放してある。
どろぼうのいない土地らしい。
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盗人はおらぬ国と見える。
犬も、もちろんほえない。
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狗はもとより吠えぬ。
「ごめんください」
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「御免」
と声をかける。
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と訪問れる。
しんとして、返事がない。
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森として返事がない。
「たのもう」
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「頼む」
と、案内を求める。
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と案内を乞う。
ハトの声が、くうくうと聞こえる。
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鳩の声がくううくううと聞える。
「たのみまああす」
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「頼みまああす」
と大きな声を出す。
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と大きな声を出す。
「おおおおおおお」
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「おおおおおおお」
と、はるか向こうで答えた声があった。
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と遥かの向で答えたものがある。
人の家をたずねて、こんな返事を聞かされたことは、これまで一度もない。
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人の家を訪うて、こんな返事を聞かされた事は決してない。
やがて足音が廊下に響くと、明かりのかげが、ついたての向こう側にさした。
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やがて足音が廊下へ響くと、紙燭の影が、衝立の向側にさした。
小坊主がひょっこりあらわれる。
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小坊主がひょこりとあらわれる。
了念だった。
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了念であった。
「和尚さんはいらっしゃるかい」
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「和尚さんはおいでかい」
「おられる。何しに来られた」
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「おられる。何しにござった」
「温泉宿にいる画家が来た、と取りついでおくれ」
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「温泉にいる画工が来たと、取次でおくれ」
「画家さんかい。それじゃ上がって」
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「画工さんか。それじゃ御上り」
「ことわらなくてもいいのかい」
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「断わらないでもいいのかい」
「かまわないだろう」
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「よろしかろ」
余は下駄をぬいで上がる。
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余は下駄を脱いで上がる。
「行儀の悪い画家さんじゃな」
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「行儀がわるい画工さんじゃな」
「なぜ」
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「なぜ」
「下駄を、きちんとそろえなさい。ほら、ここを見てごらん」
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「下駄を、よう御揃えなさい。そらここを御覧」
と、あかりを差し出す。
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と紙燭を差しつける。
黒い柱の真ん中に、土間から一メートル半ほどの高さのところに、半紙を四つに切ったものへ、何か書いてある。
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黒い柱の真中に、土間から五尺ばかりの高さを見計って、半紙を四つ切りにした上へ、何か認めてある。
「そおら。読めたろう。『脚下を見よ』と書いてあるが」
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「そおら。読めたろ。脚下を見よ、と書いてあるが」
「なるほど」
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「なるほど」
と、余は自分の下駄をていねいにそろえる。
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と余は自分の下駄を丁寧に揃える。
和尚さんの部屋は、廊下をかぎの形に曲がって、本堂の横手にある。
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和尚の室は廊下を鍵の手に曲って、本堂の横手にある。
障子をうやうやしく開けて、うやうやしく敷居ごしにひざまずいた了念が、
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障子を恭しくあけて、恭しく敷居越しにつくばった了念が、
「あのう、志保田から、画家さんが来られました」
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「あのう、志保田から、画工さんが来られました」
と言う。
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と云う。
とても恐縮している様子だ。
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はなはだ恐縮の体である。
余はちょっとおかしくなった。
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余はちょっとおかしくなった。
「そうか、こちらへ」
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「そうか、これへ」
余は了念と入れかわる。
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余は了念と入れ代る。
部屋はとてもせまい。
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室がすこぶる狭い。
中に囲炉裏(いろり)があって、鉄びんが音を立てている。
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中に囲炉裏を切って、鉄瓶が鳴る。
和尚さんは向こう側で本を読んでいた。
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和尚は向側に書見をしていた。
「さあこちらへ」
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「さあこれへ」
と、めがねをはずして、本をわきに押しやる。
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と眼鏡をはずして、書物を傍へおしやる。
「了念。りょううねええん」
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「了念。りょううねええん」
「ははははい」
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「ははははい」
「座ぶとんを出さんか」
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「座布団を上げんか」
「はははははい」
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「はははははい」
と了念は遠くで、長い返事をする。
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と了念は遠くで、長い返事をする。
「よう来られた。さぞ退屈だろう」
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「よう、来られた。さぞ退屈だろ」
「あまり月がいいので、ぶらぶら来ました」
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「あまり月がいいから、ぶらぶら来ました」
「いい月じゃな」
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「いい月じゃな」
と、障子を開ける。
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と障子をあける。
飛び石が二つと、松が一本のほかは何もない、平らな庭の向こうは、すぐ崖(がけ)になっていて、目の下に、おぼろ月の夜の海が、たちまち広がる。
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飛び石が二つ、松一本のほかには何もない、平庭の向うは、すぐ懸崖と見えて、眼の下に朧夜の海がたちまちに開ける。
急に気持ちが大きくなったような感じがする。
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急に気が大きくなったような心持である。
漁り火(いさりび・夜に魚をとる船の火)が、あちらこちらにちらついていて、遠くのほうは空に入りこんで、星に変わるつもりのようだ。
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漁火がここ、かしこに、ちらついて、遥かの末は空に入って、星に化けるつもりだろう。
「これはいい景色だ。和尚さん、障子を閉めているのはもったいないじゃありませんか」
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「これはいい景色。和尚さん、障子をしめているのはもったいないじゃありませんか」
「そうじゃな。しかし毎晩見ているからな」
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「そうよ。しかし毎晩見ているからな」
「何晩見てもいいですよ、この景色は。わたしなら寝ずに見ています」
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「何晩見てもいいですよ、この景色は。私なら寝ずに見ています」
「ハハハハ。もっとも、あなたは画家だから、わしとは少しちがって」
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「ハハハハ。もっともあなたは画工だから、わしとは少し違うて」
「和尚さんだって、美しいと思っているうちは画家ですよ」
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「和尚さんだって、うつくしいと思ってるうちは画工でさあ」
「なるほど、それもそうじゃろ。わしも達磨(だるま)の絵くらいは、これでかくがの。そら、ここにかけてある、このかけ軸は先代がかかれたものじゃが、なかなかうまくかいておられる」
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「なるほどそれもそうじゃろ。わしも達磨の画ぐらいはこれで、かくがの。そら、ここに掛けてある、この軸は先代がかかれたのじゃが、なかなかようかいとる」
なるほど、達磨の絵が小さな床の間にかかっている。
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なるほど達磨の画が小さい床に掛っている。
しかし、絵としてはとてもへたなものだ。
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しかし画としてはすこぶるまずいものだ。
ただ、俗っぽさがない。
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ただ俗気がない。
下手さをかくそうとしているところが、一つもない。
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拙を蔽おうと力めているところが一つもない。
無邪気な絵だ。
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無邪気な画だ。
この先代も、やはりこの絵のように、こだわらない人だったのだろう。
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この先代もやはりこの画のような構わない人であったんだろう。
「無邪気な絵ですね」
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「無邪気な画ですね」
「わしらのかく絵は、それで十分じゃ。気持ちさえ表れておれば……」
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「わしらのかく画はそれで沢山じゃ。気象さえあらわれておれば……」
「上手で俗っぽいのより、いいです」
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「上手で俗気があるのより、いいです」
「ははははは、まあ、そうでも、ほめておいてもらおう。ときに、近頃は画家にも博士があるのかな」
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「ははははまあ、そうでも、賞めて置いてもらおう。時に近頃は画工にも博士があるかの」
「画家の博士はありませんよ」
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「画工の博士はありませんよ」
「あ、そうか。この間、何でも博士に一人会うたが」
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「あ、そうか。この間、何でも博士に一人逢うた」
「へええ」
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「へええ」
「博士というと、えらいものじゃろな」
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「博士と云うとえらいものじゃろな」
「ええ。えらいんでしょう」
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「ええ。えらいんでしょう」
「画家にも博士がありそうなものじゃがな。なぜ無いのだろう」
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「画工にも博士がありそうなものじゃがな。なぜ無いだろう」
「そういえば、和尚さんのほうにも、博士がなければならないでしょう」
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「そういえば、和尚さんの方にも博士がなけりゃならないでしょう」
「ハハハハ、まあ、そんなものかな。――何とかいう人じゃったて、この間会った人は――どこかに名刺があるはずじゃが……」
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「ハハハハまあ、そんなものかな。――何とか云う人じゃったて、この間逢うた人は――どこぞに名刺があるはずだが……」
「どこで会われたんです、東京ですか」
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「どこで御逢いです、東京ですか」
「いや、ここでじゃ。東京へは、もう二十年も出ておらん。近頃は電車とかいうものができたそうじゃが、ちょっと乗ってみたい気がするな」
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「いやここで、東京へは、も二十年も出ん。近頃は電車とか云うものが出来たそうじゃが、ちょっと乗って見たいような気がする」
「つまらないものですよ。うるさくって」
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「つまらんものですよ。やかましくって」
「そうかな。よその土地のものは、よその土地の変わったものにびっくりするというから、わしのような田舎者は、かえって困るかもしれんのう」
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「そうかな。蜀犬日に吠え、呉牛月に喘ぐと云うから、わしのような田舎者は、かえって困るかも知れんてのう」
「困りはしませんがね。つまらないですよ」
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「困りゃしませんがね。つまらんですよ」
「そうかな」
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「そうかな」
鉄びんの口から、湯気がさかんに出る。
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鉄瓶の口から煙が盛に出る。
和尚さんは、茶だんすから茶器を取り出して、お茶をついでくれる。
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和尚は茶箪笥から茶器を取り出して、茶を注いでくれる。
「番茶を一つ、どうぞ。志保田の隠居さんのような、うまいお茶じゃないが」
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「番茶を一つ御上り。志保田の隠居さんのような甘い茶じゃない」
「いえ、けっこうです」
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「いえ結構です」
「あなたは、そうやって、あちこち歩いているようだが、やはり絵をかくためかの」
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「あなたは、そうやって、方々あるくように見受けるがやはり画をかくためかの」
「ええ。道具だけは持って歩きますが、絵はかかなくてもいいんです」
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「ええ。道具だけは持ってあるきますが、画はかかないでも構わないんです」
「はあ、それじゃ半分遊びかの」
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「はあ、それじゃ遊び半分かの」
「そうですね。そう言ってもいいでしょう。おならの数を数えられるのが、いやですからね」
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「そうですね。そう云っても善いでしょう。屁の勘定をされるのが、いやですからね」
さすがの禅宗のお坊さんも、この言葉だけは理解しかねたらしい。
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さすがの禅僧も、この語だけは解しかねたと見える。
「おならの数を数える、とは何かな」
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「屁の勘定た何かな」
「東京に長くいると、おならの数を数えられますよ」
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「東京に永くいると屁の勘定をされますよ」
「どうして」
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「どうして」
「ハハハハハ、数えるだけならいいですが。人のおならを分析して、しりの穴が三角だの、四角だのって、よけいなことをやりますよ」
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「ハハハハハ勘定だけならいいですが。人の屁を分析して、臀の穴が三角だの、四角だのって余計な事をやりますよ」
「はあ、やはり衛生関係かな」
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「はあ、やはり衛生の方かな」
「衛生じゃありません。探偵のほうです」
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「衛生じゃありません。探偵の方です」
「探偵? なるほど、それじゃ警察じゃな。いったい警察の、おまわりさんてのは、何の役に立つのかな。いなければならんのかな」
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「探偵? なるほど、それじゃ警察じゃの。いったい警察の、巡査のて、何の役に立つかの。なけりゃならんかいの」
「そうですね、画家には必要ありませんね」
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「そうですね、画工には入りませんね」
「わしにも必要ないがな。わしはまだ、おまわりさんの世話になったことがない」
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「わしにも入らんがな。わしはまだ巡査の厄介になった事がない」
「そうでしょう」
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「そうでしょう」
「しかし、いくら警察がおならの数を数えたって、構わんがな。落ちついていれば。自分に悪いことがなければ、いくら警察だって、どうもならんだろうがな」
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「しかし、いくら警察が屁の勘定をしたてて、構わんがな。澄ましていたら。自分にわるい事がなけりゃ、なんぼ警察じゃて、どうもなるまいがな」
「おならくらいで、どうにかされちゃたまりません」
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「屁くらいで、どうかされちゃたまりません」
「わしが小坊主のとき、先代がよう言われた。人間は日本橋の真ん中に、はらわたをさらけ出して、恥ずかしくないようにしなければ、修行を積んだとは言えんとな。あなたもそこまで修行したらよかろう。旅などはしなくてもよくなる」
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「わしが小坊主のとき、先代がよう云われた。人間は日本橋の真中に臓腑をさらけ出して、恥ずかしくないようにしなければ修業を積んだとは云われんてな。あなたもそれまで修業をしたらよかろ。旅などはせんでも済むようになる」
「画家になりきれば、いつでもそうなれます」
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「画工になり澄ませば、いつでもそうなれます」
「それじゃ、画家になりきったらよかろう」
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「それじゃ画工になり澄したらよかろ」
「おならの数を数えられちゃ、なりきれませんよ」
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「屁の勘定をされちゃ、なり切れませんよ」
「ハハハハ。それ、ごらんなさい。あの、あなたが泊まっている、志保田の御那美さんも、嫁に行って帰ってきてから、どうもいろいろなことが気になって仕方がない、仕方がないと言うて、しまいにとうとう、わしのところへ仏の教えを聞きに来られてな。ところが近頃はだいぶ変わってきて、そら、ごらんのとおり、あんなにものわかりのいい女になられてな」
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「ハハハハ。それ御覧。あの、あなたの泊っている、志保田の御那美さんも、嫁に入って帰ってきてから、どうもいろいろな事が気になってならん、ならんと云うてしまいにとうとう、わしの所へ法を問いに来たじゃて。ところが近頃はだいぶ出来てきて、そら、御覧。あのような訳のわかった女になったじゃて」
「へええ、どうもただの女の人じゃないと思いました」
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「へええ、どうもただの女じゃないと思いました」
「いや、なかなか頭の切れる女でな――わしのところへ修行に来ていた泰安という若い僧も、あの女の人のために、ちょっとしたことから大きな問題を考え直さなければならない出来事に出会って――今にりっぱなお坊さんになるようじゃ」
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「いやなかなか機鋒の鋭どい女で――わしの所へ修業に来ていた泰安と云う若僧も、あの女のために、ふとした事から大事を窮明せんならん因縁に逢着して――今によい智識になるようじゃ」
静かな庭に、松のかげが落ちる。遠くの海は、空の光に応えるように、応えないように、はっきりしないまま、かすかな輝きを放っている。
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静かな庭に、松の影が落ちる、遠くの海は、空の光りに応うるがごとく、応えざるがごとく、有耶無耶のうちに微かなる、耀きを放つ。
漁り火が、ついたり消えたりする。
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漁火は明滅す。
「あの松のかげを見てごらん」
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「あの松の影を御覧」
「きれいですな」
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「奇麗ですな」
「ただきれいなだけかな」
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「ただ奇麗かな」
「ええ」
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「ええ」
「きれいな上に、風が吹いても気にしない」
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「奇麗な上に、風が吹いても苦にしない」
茶わんに残った渋いお茶を飲みほして、底のほうを上にして、茶たくの上にふせて、立ち上がる。
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茶碗に余った渋茶を飲み干して、糸底を上に、茶托へ伏せて、立ち上る。
「門まで送ってあげよう。りょううねええん。お客さんがお帰りだぞよ」
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「門まで送ってあげよう。りょううねええん。御客が御帰だぞよ」
見送られて庫裏を出ると、ハトがくうくうと鳴く。
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送られて、庫裏を出ると、鳩がくううくううと鳴く。
「ハトほどかわいいものはない。わしが手をたたくと、みんな飛んでくる。呼んでみようか」
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「鳩ほど可愛いものはない、わしが、手をたたくと、みな飛んでくる。呼んで見よか」
月は、ますます明るい。
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月はいよいよ明るい。
しんと静まりかえって、もくれんは、いくつもの雲のような花を、空にかかげている。
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しんしんとして、木蓮は幾朶の雲華を空裏に擎げている。
がらんとして静かな春の夜のまん中で、和尚さんは、ぱんと手を打つ。
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泬寥たる春夜の真中に、和尚ははたと掌を拍つ。
音は風の中に消えて、一羽のハトも下りてこない。
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声は風中に死して一羽の鳩も下りぬ。
「下りてこんかいな。下りてきそうなものじゃが」
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「下りんかいな。下りそうなものじゃが」
了念は余の顔を見て、ちょっと笑った。
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了念は余の顔を見て、ちょっと笑った。
和尚さんは、ハトの目が夜でも見えると思っているらしい。
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和尚は鳩の眼が夜でも見えると思うているらしい。
のんきなものだ。
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気楽なものだ。
山門のところで、余は二人と別れる。
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山門の所で、余は二人に別れる。
ふり返ると、大きな丸いかげと、小さな丸いかげが、石だたみの上に落ちて、前後になって庫裏のほうへ消えていく。
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見返えると、大きな丸い影と、小さな丸い影が、石甃の上に落ちて、前後して庫裏の方に消えて行く。
十二
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十二
「キリストは、この上なく芸術家らしい態度をそなえた人だ」というのは、オスカー・ワイルドの考えだったと記憶している。
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基督は最高度に芸術家の態度を具足したるものなりとは、オスカー・ワイルドの説と記憶している。
キリストのことはわからない。
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基督は知らず。
観海寺の和尚さんのような人は、まさにこの資格を持っていると思う。
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観海寺の和尚のごときは、まさしくこの資格を有していると思う。
趣味があるという意味ではない。
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趣味があると云う意味ではない。
時代のことに詳しいというわけでもない。
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時勢に通じていると云う訳でもない。
和尚さんは、絵とはとても呼べないような達磨のかけ軸をかけて、よくかけているなどと得意になっている。
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彼は画と云う名のほとんど下すべからざる達磨の幅を掛けて、ようできたなどと得意である。
和尚さんは、画家にも博士がいるものだと思っている。
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彼は画工に博士があるものと心得ている。
和尚さんは、ハトの目が夜でも見えるものだと思っている。
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彼は鳩の眼を夜でも利くものと思っている。
それでも、芸術家の資格があると言うのだ。
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それにも関わらず、芸術家の資格があると云う。
和尚さんの心は、底の抜けたふくろのように、何もかも通りぬけてしまう。
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彼の心は底のない嚢のように行き抜けである。
何ひとつ、心にたまらない。
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何にも停滞しておらん。
どこででも自由に動き、思うままにふるまって、わずかなよごれさえ、心の底に残らない。
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随処に動き去り、任意に作し去って、些の塵滓の腹部に沈澱する景色がない。
もし和尚さんの頭に、趣味というものを一点でも貼りつけられたら、和尚さんは行く先々でそこに溶けこんで、日常のふとした瞬間にも、完全な芸術家として存在できるだろう。
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もし彼の脳裏に一点の趣味を貼し得たならば、彼は之く所に同化して、行屎走尿の際にも、完全たる芸術家として存在し得るだろう。
余のような者は、探偵におならの数を数えられている間は、とても画家にはなれない。
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余のごときは、探偵に屁の数を勘定される間は、とうてい画家にはなれない。
画架(がか・絵をかくときに使う台)に向かうことはできる。
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画架に向う事は出来る。
絵の具を混ぜる板を持つことはできる。
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小手板を握る事は出来る。
しかし、画家にはなれない。
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しかし画工にはなれない。
こうやって、名も知らない山里へ来て、暮れようとする春の景色の中に、自分の体をすっかりうずめて、初めて、本当の芸術家であるべき態度に、自分の身を置くことができるのである。
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こうやって、名も知らぬ山里へ来て、暮れんとする春色のなかに五尺の痩躯を埋めつくして、始めて、真の芸術家たるべき態度に吾身を置き得るのである。
一度この境地に入れば、美しさの世界すべてが自分のものになる。
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一たびこの境界に入れば美の天下はわが有に帰する。
紙を一枚も染めず、布を一枚も塗らなくても、余は第一流の大画家である。
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尺素を染めず、寸縑を塗らざるも、われは第一流の大画工である。
腕前ではミケランジェロに及ばず、たくみさではラファエロに劣ることがあっても、芸術家としての人としてのあり方では、昔から今までの大画家たちと肩を並べて、少しも引けを取らない。
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技において、ミケルアンゼロに及ばず、巧みなる事ラフハエルに譲る事ありとも、芸術家たるの人格において、古今の大家と歩武を斉ゅうして、毫も遜るところを見出し得ない。
余は、この温泉宿に来てから、まだ一枚の絵もかいていない。
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余はこの温泉場へ来てから、まだ一枚の画もかかない。
絵の具箱は、物好きでかついできただけのような気さえする。
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絵の具箱は酔興に、担いできたかの感さえある。
人は「あれでも画家か」と笑うかもしれない。
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人はあれでも画家かと嗤うかもしれぬ。
いくら笑われても、今の余は本物の画家である。
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いくら嗤われても、今の余は真の画家である。
りっぱな画家である。
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立派な画家である。
こういう境地に達した人が、必ず名画をかけるとは限らない。
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こう云う境を得たものが、名画をかくとは限らん。
しかし、名画をかける人は、必ずこの境地を知っていなければならない。
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しかし名画をかき得る人は必ずこの境を知らねばならん。
朝ごはんをすませて、たばこを一本、ゆったりとふかしていたときの余の考えは、以上のようなものである。
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朝飯をすまして、一本の敷島をゆたかに吹かしたるときの余の観想は以上のごとくである。
日は、かすみをはなれて高く上っている。
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日は霞を離れて高く上っている。
障子を開けて後ろの山をながめたら、青い木が、とてもすき通って見えて、いつになくあざやかに見えた。
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障子をあけて、後ろの山を眺めたら、蒼い樹が非常にすき通って、例になく鮮やかに見えた。
余はいつも、空気と、物の形と、色との関係を、世の中でいちばんおもしろい研究テーマの一つだと考えている。
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余は常に空気と、物象と、彩色の関係を宇宙でもっとも興味ある研究の一と考えている。
色を主役にして空気を表すか、物を主役にして空気をかくか。
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色を主にして空気を出すか、物を主にして、空気をかくか。
それとも、空気を主役にして、その中に色と物を織りこむか。
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または空気を主にしてそのうちに色と物とを織り出すか。
絵は、少しの気合いひとつで、いろいろな雰囲気が出る。
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画は少しの気合一つでいろいろな調子が出る。
この雰囲気は、画家自身の好みでちがってくる。
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この調子は画家自身の嗜好で異なってくる。
それはもちろんだが、時と場所とで自然に決まってしまうのも、また当然のことだ。
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それは無論であるが、時と場所とで、自ずから制限されるのもまた当前である。
イギリス人のかいた風景画に、明るいものは一つもない。
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英国人のかいた山水に明るいものは一つもない。
明るい絵がきらいなのかもしれないが、たとえ好きだとしても、あの空気ではどうしようもない。
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明るい画が嫌なのかも知れぬが、よし好きであっても、あの空気では、どうする事も出来ない。
同じイギリス人でも、グーダルという画家などは、色の雰囲気がまるでちがう。
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同じ英人でもグーダルなどは色の調子がまるで違う。
ちがうはずである。
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違うはずである。
彼はイギリス人でありながら、これまでイギリスの景色をかいたことがない。
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彼は英人でありながら、かつて英国の景色をかいた事がない。
彼の絵の題材は、彼の故郷にはない。
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彼の画題は彼の郷土にはない。
自分の国とくらべて、空気のすき通り具合がとてもすぐれている、エジプトやペルシャあたりの景色ばかりを選んでいる。
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彼の本国に比すると、空気の透明の度の非常に勝っている、埃及または波斯辺の光景のみを択んでいる。
だから、彼のかいた絵を初めて見ると、誰でもおどろく。
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したがって彼のかいた画を、始めて見ると誰も驚ろく。
「イギリス人にもこんな明るい色を出せる人がいるのか」と疑うくらい、はっきりと仕上がっている。
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英人にもこんな明かな色を出すものがあるかと疑うくらい判然出来上っている。
人それぞれの好みは、どうしようもない。
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個人の嗜好はどうする事も出来ん。
しかし、日本の風景をかくのが目的であるなら、余たちもまた、日本らしい空気と色を出さなければならない。
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しかし日本の山水を描くのが主意であるならば、吾々もまた日本固有の空気と色を出さなければならん。
いくらフランスの絵がうまいと言っても、その色をそのまま写して、「これが日本の景色だ」とは言えない。
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いくら仏蘭西の絵がうまいと云って、その色をそのままに写して、これが日本の景色だとは云われない。
やはり、実際に自然に接して、朝も夕方も、雲やもやのいろいろな姿を研究したあげく、「あの色こそ」と思ったときに、すぐ三脚几をかついで飛び出さなければならない。
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やはり面のあたり自然に接して、朝な夕なに雲容煙態を研究したあげく、あの色こそと思ったとき、すぐ三脚几を担いで飛び出さなければならん。
色は一瞬で変わる。
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色は刹那に移る。
一度チャンスをのがせば、同じ色は簡単には見られない。
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一たび機を失すれば、同じ色は容易に眼には落ちぬ。
余が今見上げた山のはしには、めったにこのあたりでは見られないほどいい色が満ちている。
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余が今見上げた山の端には、滅多にこの辺で見る事の出来ないほどな好い色が充ちている。
せっかく来たのに、あれをのがすのはもったいない。
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せっかく来て、あれを逃すのは惜しいものだ。
ちょっと写してこよう。
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ちょっと写してきよう。
ふすまを開けて縁側へ出ると、向かいの二階の障子に体をもたせて、那美さんが立っている。
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襖をあけて、椽側へ出ると、向う二階の障子に身を倚たして、那美さんが立っている。
あごをえりの中にうずめていて、横顔しか見えない。
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顋を襟のなかへ埋めて、横顔だけしか見えぬ。
余があいさつをしようと思ったとたん、女の人は、左の手を下げたまま、右の手を風のように動かした。
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余が挨拶をしようと思う途端に、女は、左の手を落としたまま、右の手を風のごとく動かした。
ひらめいたのは稲妻か、二回三回と折れ曲がりながら胸のあたりをするりと走ったと思うと、かちりと音がして、ひらめきはすぐに消えた。
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閃くは稲妻か、二折れ三折れ胸のあたりを、するりと走るや否や、かちりと音がして、閃めきはすぐ消えた。
女の人の左手には、三十センチほどの白いさやに入った短刀がある。
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女の左り手には九寸五分の白鞘がある。
姿は、すぐに障子のかげに隠れた。
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姿はたちまち障子の影に隠れた。
余は、朝っぱらから歌舞伎座をのぞいたような気分で、宿を出る。
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余は朝っぱらから歌舞伎座を覗いた気で宿を出る。
門を出て左に曲がると、すぐに崖ぞいの、つま先上がりの道になる。
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門を出て、左へ切れると、すぐ岨道つづきの、爪上りになる。
うぐいすが、ところどころで鳴く。
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鶯が所々で鳴く。
左手はなだらかな谷へ落ちこんでいて、みかんが一面に植えてある。
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左り手がなだらかな谷へ落ちて、蜜柑が一面に植えてある。
右には高くない丘が二つほど並んでいて、ここにあるのもみかんばかりのようだ。
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右には高からぬ岡が二つほど並んで、ここにもあるは蜜柑のみと思われる。
何年前だったか、一度この土地に来たことがある。
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何年前か一度この地に来た。
指を折って数えるのも面倒だ。
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指を折るのも面倒だ。
たしか、寒い十二月のころだった。
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何でも寒い師走の頃であった。
そのとき、みかん山にみかんがびっしり実る景色を初めて見た。
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その時蜜柑山に蜜柑がべた生りに生る景色を始めて見た。
みかんを取っている人に「一枝売ってくれ」と言ったら、「いくつでもあげますよ、持っていらっしゃい」と答えて、木の上で変わった節まわしの歌をうたい出した。
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蜜柑取りに一枝売ってくれと云ったら、幾顆でも上げますよ、持っていらっしゃいと答えて、樹の上で妙な節の唄をうたい出した。
東京ではみかんの皮でさえ薬屋に買いに行かなければならないのに、と思った。
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東京では蜜柑の皮でさえ薬種屋へ買いに行かねばならぬのにと思った。
夜になると、しきりに銃の音がする。
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夜になると、しきりに銃の音がする。
何の音かと聞いたら、猟師がカモをとっているのだと教えてくれた。
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何だと聞いたら、猟師が鴨をとるんだと教えてくれた。
そのときは、那美さんの「な」の字も知らずにすんだ。
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その時は那美さんの、なの字も知らずに済んだ。
あの女の人を役者にしたら、りっぱな女形(おんながた・女性の役を演じる男の役者)になれるだろう。
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あの女を役者にしたら、立派な女形が出来る。
ふつうの役者は、舞台に出るとよそゆきの演技をする。
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普通の役者は、舞台へ出ると、よそ行きの芸をする。
あの女の人は、家の中でいつも芝居をしている。
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あの女は家のなかで、常住芝居をしている。
しかも、芝居をしているとは気づいていない。
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しかも芝居をしているとは気がつかん。
まったく自然に芝居をしている。
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自然天然に芝居をしている。
あんなのを美的な生き方とでも言うのだろう。
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あんなのを美的生活とでも云うのだろう。
あの女の人のおかげで、絵の修業がだいぶできた。
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あの女の御蔭で画の修業がだいぶ出来た。
あの女の人のふるまいを芝居だと思わなければ、気味が悪くて一日もいたたまれない。
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あの女の所作を芝居と見なければ、薄気味がわるくて一日もいたたまれん。
義理とか人情とかいう、ありふれた見方を背景にして、ふつうの小説家のような視点であの女の人を観察したら、刺激が強すぎて、すぐいやになってしまうだろう。
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義理とか人情とか云う、尋常の道具立を背景にして、普通の小説家のような観察点からあの女を研究したら、刺激が強過ぎて、すぐいやになる。
もし現実の世界で、余とあの女の人の間に、からみつくような関係ができてしまったら、余の苦しみは、おそらく言葉にできないほどのものになるだろう。
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現実世界に在って、余とあの女の間に纏綿した一種の関係が成り立ったとするならば、余の苦痛は恐らく言語に絶するだろう。
余の今度の旅は、世間のふつうの感情からはなれて、あくまで画家になりきることが目的だから、目に入るものはすべて絵として見なければならない。
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余のこのたびの旅行は俗情を離れて、あくまで画工になり切るのが主意であるから、眼に入るものはことごとく画として見なければならん。
能や、芝居や、詩の中の人物としてしか、観察してはいけない。
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能、芝居、もしくは詩中の人物としてのみ観察しなければならん。
この心構えというめがねを通してのぞいてみると、あの女の人は、これまで見た女の人の中でも、いちばん美しいふるまいをする。
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この覚悟の眼鏡から、あの女を覗いて見ると、あの女は、今まで見た女のうちでもっともうつくしい所作をする。
自分から美しい芸をして見せようという気がないだけに、役者のふるまいよりも、なお美しい。
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自分でうつくしい芸をして見せると云う気がないだけに役者の所作よりもなおうつくしい。
こういう考えを持つ余を、誤解してはいけない。
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こんな考をもつ余を、誤解してはならん。
「社会の一員としてふさわしくない」などと言うのは、とんでもない話だ。
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社会の公民として不適当だなどと評してはもっとも不届きである。
善いことをするのは難しい、人に情けをかけるのも簡単ではない、正しい心を守り続けるのも楽ではない、正義のために命を捨てるのも惜しいものだ。
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善は行い難い、徳は施こしにくい、節操は守り安からぬ、義のために命を捨てるのは惜しい。
これらをあえて行うのは、誰にとっても苦しいことだ。
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これらをあえてするのは何人に取っても苦痛である。
その苦しみをおかすためには、苦しみに勝るだけの楽しさが、どこかにひそんでいなければならない。
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その苦痛を冒すためには、苦痛に打ち勝つだけの愉快がどこかに潜んでおらねばならん。
絵と言うのも、詩と言うのも、あるいは芝居と言うのも、この苦しさの中にひそんでいる、心地よさの別の呼び方にすぎない。
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画と云うも、詩と云うも、あるは芝居と云うも、この悲酸のうちに籠る快感の別号に過ぎん。
この気持ちが理解できて初めて、余たちのふるまいは、はげしくもなり、しずかで上品にもなり、あらゆる苦しみに打ち勝って、心の中にある「この上ない美しさ」というものを満たしたくなる。
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この趣きを解し得て、始めて吾人の所作は壮烈にもなる、閑雅にもなる、すべての困苦に打ち勝って、胸中の一点の無上趣味を満足せしめたくなる。
体の苦しみを気にせず、物質面の不便を何とも思わず、勇ましく努力する心をふるいたたせて、人としての正しい道のために、大きな釜(かま)で煮られることさえ、おもしろいと思う。
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肉体の苦しみを度外に置いて、物質上の不便を物とも思わず、勇猛精進の心を駆って、人道のために、鼎鑊に烹らるるを面白く思う。
もし人情という、せまい立場から芸術を定義するとすれば、芸術とは、余たち教育を受けた人間の心の中にひそんでいて、悪いことをさけて正しいことに従い、曲がったことをしりぞけてまっすぐなことに味方し、弱い者を助け強い者をくじかなければ、どうしても耐えられないという、その一つの思いが結晶して、きらきらと昼の日光を照り返すものである。
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もし人情なる狭き立脚地に立って、芸術の定義を下し得るとすれば、芸術は、われら教育ある士人の胸裏に潜んで、邪を避け正に就き、曲を斥け直にくみし、弱を扶け強を挫かねば、どうしても堪えられぬと云う一念の結晶して、燦として白日を射返すものである。
「芝居がかっている」と言って、人の行動を笑うことがある。
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芝居気があると人の行為を笑う事がある。
美しい趣味をつらぬくために、必要のない犠牲をあえて払う、その人情から遠いところを笑うのである。
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うつくしき趣味を貫かんがために、不必要なる犠牲をあえてするの人情に遠きを嗤うのである。
自然に美しい性格が発揮される機会を待たずに、無理やり自分の趣味の見方をひけらかす愚かさを笑うのである。
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自然にうつくしき性格を発揮するの機会を待たずして、無理矢理に自己の趣味観を衒うの愚を笑うのである。
本当にその事情がわかっている人が笑うのなら、それは理にかなっている。
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真に個中の消息を解し得たるものの嗤うはその意を得ている。
趣味とは何かも知らない品のない人が、自分の心の卑しさを基準にして、他人を見下すのは、許しがたい。
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趣味の何物たるをも心得ぬ下司下郎の、わが卑しき心根に比較して他を賤しむに至っては許しがたい。
昔、崖の上に詩を残して、百五十メートルの滝をまっさかさまに落ち、はげしい流れに身を投げた青年がいた。
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昔し巌頭の吟を遺して、五十丈の飛瀑を直下して急湍に赴いた青年がある。
余が思うに、あの青年は「美」という一文字のために、捨ててはいけない命を捨てたのだと思う。
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余の視るところにては、彼の青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う。
死そのものは、本当にはげしく心を打つものである。ただ、その死を選ばせた理由は、わかりにくい。
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死そのものは洵に壮烈である、ただその死を促がすの動機に至っては解しがたい。
けれども、死そのもののはげしさすら自分では示せない者が、どうして藤村さん(この青年)のふるまいを笑うことができるだろうか。
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されども死そのものの壮烈をだに体し得ざるものが、いかにして藤村子の所作を嗤い得べき。
そういう人たちは、はげしい最期をとげるという気持ちを味わったことがないので、たとえ正しい事情があったとしても、とうてい、はげしい最期をとげることができない、という限界がある点で、藤村さんよりも人としておとっている。だから、笑う権利はない、と余は思う。
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彼らは壮烈の最後を遂ぐるの情趣を味い得ざるが故に、たとい正当の事情のもとにも、とうてい壮烈の最後を遂げ得べからざる制限ある点において、藤村子よりは人格として劣等であるから、嗤う権利がないものと余は主張する。
余は画家である。
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余は画工である。
画家であるからこそ、趣味を専門とする者として、たとえ人情の世界に落ちこんだとしても、両どなりの、風流を知らない人たちよりは上品だ。
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画工であればこそ趣味専門の男として、たとい人情世界に堕在するも、東西両隣りの没風流漢よりも高尚である。
社会の一員として、じゅうぶんに他人を教育できる立場にいる。
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社会の一員として優に他を教育すべき地位に立っている。
詩を持たない人、絵を持たない人、芸術のたしなみを持たない人よりは、美しいふるまいができる。
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詩なきもの、画なきもの、芸術のたしなみなきものよりは、美くしき所作が出来る。
人情の世界にあって、美しいふるまいは、正しいことであり、義であり、まっすぐなことである。
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人情世界にあって、美くしき所作は正である、義である、直である。
正しさと義とまっすぐさを行動で示す人は、世の中の人々の手本である。
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正と義と直を行為の上において示すものは天下の公民の模範である。
しばらく人情の世界をはなれた余は、少なくともこの旅の間は、人情の世界に戻る必要はない。
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しばらく人情界を離れたる余は、少なくともこの旅中に人情界に帰る必要はない。
戻ってしまえば、せっかくの旅がむだになる。
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あってはせっかくの旅が無駄になる。
人情の世界から、じゃりじゃりする砂をふるい落として、底に残る美しい金だけをながめてくらさなければならない。
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人情世界から、じゃりじゃりする砂をふるって、底にあまる、うつくしい金のみを眺めて暮さなければならぬ。
余自身も、社会の一員だとは思っていない。
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余自らも社会の一員をもって任じてはおらぬ。
純粋に絵だけを専門とする画家として、自分自身さえ、からみつく損得のしがらみを断ち切って、ゆうゆうと絵の世界を行き来している。
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純粋なる専門画家として、己れさえ、纏綿たる利害の累索を絶って、優に画布裏に往来している。
まして、山も、水も、他人も、なおさらのことである。
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いわんや山をや水をや他人をや。
那美さんの行動やしぐさも、ただそのままの姿として見るよりほかにやりようがない。
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那美さんの行為動作といえどもただそのままの姿と見るよりほかに致し方がない。
三丁(三百メートル)ほど登ると、向こうに白いかべの家が見える。
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三丁ほど上ると、向うに白壁の一構が見える。
みかん畑の中の住まいだなと思う。
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蜜柑のなかの住居だなと思う。
道は、まもなく二本に分かれる。
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道は間もなく二筋に切れる。
白いかべを横に見て左へ折れるとき、ふり返ると、下から赤い腰巻をした娘さんが上がってくる。
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白壁を横に見て左りへ折れる時、振り返ったら、下から赤い腰巻をした娘が上ってくる。
腰巻がだんだん短くなって、下から茶色のすねが見えてくる。
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腰巻がしだいに尽きて、下から茶色の脛が出る。
すねが見えきると、わらぞうりになって、そのわらぞうりがだんだん近づいてくる。
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脛が出切ったら、藁草履になって、その藁草履がだんだん動いて来る。
頭の上に山桜が落ちかかる。
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頭の上に山桜が落ちかかる。
背中には、光る海を背負っている。
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背中には光る海を負ている。
崖ぞいの道を登りきると、山の出っ張ったところの平らな場所に出た。
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岨道を登り切ると、山の出鼻の平な所へ出た。
北側は緑が重なる春の峰で、今朝、縁側から見上げたあたりかもしれない。
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北側は翠りを畳む春の峰で、今朝椽から仰いだあたりかも知れない。
南側には、焼け野原のような土地が、幅五十メートルほど広がっていて、先はくずれた崖になる。
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南側には焼野とも云うべき地勢が幅半丁ほど広がって、末は崩れた崖となる。
崖の下は、今通り過ぎたみかん山で、村をまたいで向こうを見ると、目に入るのは言うまでもなく青い海である。
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崖の下は今過ぎた蜜柑山で、村を跨いで向を見れば、眼に入るものは言わずも知れた青海である。
道は何本もあるが、合わさっては分かれ、分かれては合わさるので、どれが本当の道かわからない。
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路は幾筋もあるが、合うては別れ、別れては合うから、どれが本筋とも認められぬ。
どれも道である代わりに、どれも道ではない。
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どれも路である代りに、どれも路でない。
草の中に、黒っぽい赤色の地面が、見えたり隠れたりして、どの道につながるのか見わけがつかないところが、変化があっておもしろい。
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草のなかに、黒赤い地が、見えたり隠れたりして、どの筋につながるか見分のつかぬところに変化があって面白い。
どこに腰を下ろそうかと、草の中をあちこち歩き回る。
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どこへ腰を据えたものかと、草のなかを遠近と徘徊する。
縁側から見たときは絵になると思った景色も、いざとなると意外にまとまらない。
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椽から見たときは画になると思った景色も、いざとなると存外纏まらない。
色もだんだん変わってくる。
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色もしだいに変ってくる。
草原をぶらぶらしているうちに、いつの間にかかく気がなくなった。
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草原をのそつくうちに、いつしか描く気がなくなった。
かかないのなら、場所はどこでもいい。どこに座っても、そこが余の住まいだ。
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描かぬとすれば、地位は構わん、どこへでも坐った所がわが住居である。
しみこんだ春の日ざしが、深く草の根にこもっていて、どっかりと腰を下ろすと、目に見えないかげろうを踏みつぶしたような感じがする。
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染み込んだ春の日が、深く草の根に籠って、どっかと尻を卸すと、眼に入らぬ陽炎を踏み潰したような心持ちがする。
海は足の下に光っている。
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海は足の下に光る。
さえぎる雲ひとつない春の日ざしは、水の上をあまねく照らして、いつのまにか熱が波の底までしみわたったと思えるほど、あたたかく見える。
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遮ぎる雲の一片さえ持たぬ春の日影は、普ねく水の上を照らして、いつの間にかほとぼりは波の底まで浸み渡ったと思わるるほど暖かに見える。
色は、一はけの紺色(こんいろ)を平らに流したところどころに、銀色の小さなうろこのようなきらめきが、こまかく動いている。
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色は一刷毛の紺青を平らに流したる所々に、しろかねの細鱗を畳んで濃やかに動いている。
春の日は、果てしない大空の下を照らし、その大空の下には、果てしない水がたたえられていて、その間には、白い帆が小指のつめほどの大きさに見えるだけである。
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春の日は限り無き天が下を照らして、天が下は限りなき水を湛えたる間には、白き帆が小指の爪ほどに見えるのみである。
しかも、その帆はまったく動かない。
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しかもその帆は全く動かない。
昔、朝貢のために来ていた高麗(こま)の船が遠くから渡ってきたときには、あんなふうに見えたのだろう。
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往昔入貢の高麗船が遠くから渡ってくるときには、あんなに見えたであろう。
そのほかには、広い世界の果てまで、照らす日の世界と、照らされる海の世界があるだけだ。
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そのほかは大千世界を極めて、照らす日の世、照らさるる海の世のみである。
ごろりと寝ころぶ。
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ごろりと寝る。
帽子が額をすべって、頭のうしろにずれる。
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帽子が額をすべって、やけに阿弥陀となる。
ところどころに草をぬけて、木瓜(ぼけ)の小さな株が茂っている。
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所々の草を一二尺抽いて、木瓜の小株が茂っている。
余の顔は、ちょうどその一つの前に落ちついた。
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余が顔はちょうどその一つの前に落ちた。
木瓜はおもしろい花である。
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木瓜は面白い花である。
枝は頑固で、これまで曲がったことがない。
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枝は頑固で、かつて曲った事がない。
それなら真っすぐかというと、決して真っすぐでもない。
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そんなら真直かと云うと、けっして真直でもない。
ただ、まっすぐな短い枝に、まっすぐな短い枝が、ある角度でぶつかって、ななめに構えながら、全体ができあがっている。
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ただ真直な短かい枝に、真直な短かい枝が、ある角度で衝突して、斜に構えつつ全体が出来上っている。
そこへ、紅色か白色かはっきりしない花が、のんびりと咲く。
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そこへ、紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く。
やわらかい葉さえ、ちらちらとつける。
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柔かい葉さえちらちら着ける。
評してみると、木瓜は花の中で、ばか正直に、それでいてどこか悟りきったものなのだろう。
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評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。
世の中には、下手なままでいることを貫く人がいる。
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世間には拙を守ると云う人がある。
この人は、来世に生まれ変わったら、きっと木瓜になる。
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この人が来世に生れ変るときっと木瓜になる。
余も木瓜になりたい。
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余も木瓜になりたい。
子どものころ、花の咲いた、葉のついた木瓜を切って、おもしろい枝ぶりを作って、筆を置く台をこしらえたことがある。
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小供のうち花の咲いた、葉のついた木瓜を切って、面白く枝振を作って、筆架をこしらえた事がある。
それに二銭五厘の水筆(すいひつ・水で使う筆)を立てかけて、白い穂が花と葉の間からちらちら見えるのを、机の上に置いて楽しんだ。
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それへ二銭五厘の水筆を立てかけて、白い穂が花と葉の間から、隠見するのを机へ載せて楽んだ。
その日は、木瓜の筆置きのことばかり気になって眠った。
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その日は木瓜の筆架ばかり気にして寝た。
あくる日、目が覚めるとすぐに飛び起きて、机の前へ行ってみると、花はしおれ、葉は枯れて、白い穂だけがもとのように光っていた。
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あくる日、眼が覚めるや否や、飛び起きて、机の前へ行って見ると、花は萎え葉は枯れて、白い穂だけが元のごとく光っている。
あんなにきれいだったものが、どうしてこう一晩でしおれてしまうのだろうと、そのときは不思議でたまらなかった。
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あんなに奇麗なものが、どうして、こう一晩のうちに、枯れるだろうと、その時は不審の念に堪えなかった。
今思うと、そのころのほうが、よほど俗世間からはなれた気持ちを持っていたようだ。
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今思うとその時分の方がよほど出世間的である。
寝ころんで目についた木瓜は、二十年来の古い知り合いのようなものだ。
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寝るや否や眼についた木瓜は二十年来の旧知己である。
見つめているうちに、だんだん気が遠くなって、いい気持ちになる。
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見詰めているとしだいに気が遠くなって、いい心持ちになる。
また、詩を作りたい気持ちがわいてくる。
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また詩興が浮ぶ。
寝ころんだまま考える。
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寝ながら考える。
一句できるごとに、写生帖に書きとめていく。
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一句を得るごとに写生帖に記して行く。
しばらくして、できあがったようだ。
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しばらくして出来上ったようだ。
初めから読み直してみる。
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始めから読み直して見る。
「門を出れば、いろいろな思いがわく。
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出門多所思。
春風が私の着物を吹く。
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春風吹吾衣。
香りのいい草が、車の通ったあとに生えている。
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芳草生車轍。
使われなくなった道が、かすみの中へと消えていく。
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廃道入霞微。
つえを止めて、あたりをながめれば、
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停笻而矚目。
すべてのものが、晴れた光をおびている。
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万象帯晴暉。
うぐいすの、なめらかな鳴き声を聞き、
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聴黄鳥宛転。
散っていく花びらをながめる。
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観落英紛霏。
歩きつくせば、平らな野原がはるかに広がり、
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行尽平蕪遠。
古いお寺の扉に、詩を書きつける。
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題詩古寺扉。
ひとりの、さびしい思いは高い雲のあたりにあり、
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孤愁高雲際。
大空を、はぐれた一羽の雁(かり)が帰っていく」
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大空断鴻帰。
「この小さな心は、なんと静かで深いことか。
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寸心何窈窕。
かすんでぼんやりして、正しい悪いも忘れてしまう。
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縹緲忘是非。
三十歳になって、私は年老いようとしている。
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三十我欲老。
それでも春の光は、まだ名残おしそうにまとわりついてくる。
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韶光猶依々。
あてもなく歩いて、うつり変わるものに身をまかせ、
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逍遥随物化。
ゆったりと、かおる花に向かい合う」
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悠然対芬菲。
ああ、できた、できた。
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ああ出来た、出来た。
これでできた。
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これで出来た。
寝ころんで木瓜を見て、世の中を忘れている感じが、うまく出た。
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寝ながら木瓜を観て、世の中を忘れている感じがよく出た。
木瓜が出てこなくても、海が出てこなくても、感じさえ出ればそれでいい。
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木瓜が出なくっても、海が出なくっても、感じさえ出ればそれで結構である。
とうなりながら喜んでいると、エヘンという人間のせきばらいが聞こえた。
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と唸りながら、喜んでいると、エヘンと云う人間の咳払が聞えた。
これはおどろいた。
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こいつは驚いた。
寝返りをうって、声のしたほうを見ると、山の出っ張りを回って、雑木の間から、一人の男があらわれた。
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寝返りをして、声の響いた方を見ると、山の出鼻を回って、雑木の間から、一人の男があらわれた。
茶色の中折れ帽(なかおれぼう)をかぶっている。
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茶の中折れを被っている。
中折れ帽の形はくずれていて、かたむいたつばの下から目が見える。
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中折れの形は崩れて、傾く縁の下から眼が見える。
目の形はわからないが、たしかにきょろきょろと動いているようだ。
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眼の恰好はわからんが、たしかにきょろきょろときょろつくようだ。
あい色のしま模様の着物のすそをはしょって、はだしに下駄という格好は、何だか判断がつかない。
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藍の縞物の尻を端折って、素足に下駄がけの出で立ちは、何だか鑑定がつかない。
のばしっぱなしのひげだけで判断すると、まさに野武士(のぶし・野山にかくれ住む荒々しい武士)といったところだ。
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野生の髯だけで判断するとまさに野武士の価値はある。
男は崖ぞいの道を下りるかと思いきや、曲がり角からまた引き返した。
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男は岨道を下りるかと思いのほか、曲り角からまた引き返した。
もと来た道へ姿を消すかと思うと、そうでもない。
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もと来た路へ姿をかくすかと思うと、そうでもない。
また歩き直してくる。
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またあるき直してくる。
この草原を散歩する人のほかに、こんなに行ったり来たりする人はいないはずだ。
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この草原を、散歩する人のほかに、こんなに行きつ戻りつするものはないはずだ。
しかし、あれが散歩の姿なのだろうか。
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しかしあれが散歩の姿であろうか。
それに、あんな男がこの近くに住んでいるとも考えられない。
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またあんな男がこの近辺に住んでいるとも考えられない。
男は時々立ち止まる。
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男は時々立ち留る。
首をかしげる。
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首を傾ける。
あるいは、あたりを見回す。
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または四方を見廻わす。
何か深く考えこんでいるようにも見える。
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大に考え込むようにもある。
人を待ち合わせているようにも見える。
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人を待ち合せる風にも取られる。
何だかわからない。
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何だかわからない。
余は、このあやしい男から、ついに目をはなすことができなかった。
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余はこの物騒な男から、ついに吾眼をはなす事ができなかった。
別にこわいわけでもなく、絵にしようという気も起きない。
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別に恐しいでもない、また画にしようと云う気も出ない。
ただ目をはなせなかった。
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ただ眼をはなす事ができなかった。
右から左、左から右へと、男を追って目を動かしているうちに、男がぴたりと止まった。
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右から左、左りから右と、男に添うて、眼を働かせているうちに、男ははたと留った。
止まると同時に、もう一人の人物が、余の視界に入ってきた。
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留ると共に、またひとりの人物が、余が視界に点出された。
二人はおたがいに気づいたように、少しずつ近づいてくる。
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二人は双方で互に認識したように、しだいに双方から近づいて来る。
余の視界は、だんだんせばまっていって、原っぱの真ん中の、せまい一点にたたまれてしまう。
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余が視界はだんだん縮まって、原の真中で一点の狭き間に畳まれてしまう。
二人は、春の山を背に、春の海を前にして、ぴたりと向き合った。
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二人は春の山を背に、春の海を前に、ぴたりと向き合った。
男は、もちろんあの野武士のような男だ。
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男は無論例の野武士である。
相手は?
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相手は?
相手は女の人だ。
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相手は女である。
那美さんである。
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那美さんである。
余は那美さんの姿を見たとき、すぐに今朝の短刀を思い出した。
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余は那美さんの姿を見た時、すぐ今朝の短刀を連想した。
もしかしてふところに隠し持っているのではと思ったら、さすがに非人情な余も、ひやりとした。
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もしや懐に呑んでおりはせぬかと思ったら、さすが非人情の余もただ、ひやりとした。
男の人と女の人は向き合ったまま、しばらくは同じ様子で立っている。
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男女は向き合うたまま、しばらくは、同じ態度で立っている。
動く様子は見えない。
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動く景色は見えぬ。
口は動かしているかもしれないが、言葉はまったく聞こえない。
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口は動かしているかも知れんが、言葉はまるで聞えぬ。
男の人は、やがて首をたれた。
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男はやがて首を垂れた。
女の人は山のほうを向く。
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女は山の方を向く。
顔は余の目に入らない。
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顔は余の眼に入らぬ。
山ではうぐいすが鳴く。
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山では鶯が啼く。
女の人は、うぐいすに耳をかたむけているようにも見える。
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女は鶯に耳を借して、いるとも見える。
しばらくすると、男の人は、きっと、たれていた首を上げて、半分体をひるがえしかける。
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しばらくすると、男は屹と、垂れた首を挙げて、半ば踵を回らしかける。
ふつうの様子ではない。
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尋常の様ではない。
女の人は、さっと体を開いて、海のほうへ向き直る。
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女は颯と体を開いて、海の方へ向き直る。
帯の間から頭を出しているのは、短刀らしい。
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帯の間から頭を出しているのは懐剣らしい。
男の人は、胸を張って、歩き出しかける。
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男は昂然として、行きかかる。
女の人は、二歩ほど、男の人のかかとをぬうように進む。
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女は二歩ばかり、男の踵を縫うて進む。
女の人はぞうりばきだ。
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女は草履ばきである。
男の人が止まったのは、呼び止められたからだろうか。
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男の留ったのは、呼び留められたのか。
ふり向いた瞬間、女の人の右手は帯の間へ落ちた。
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振り向く瞬間に女の右手は帯の間へ落ちた。
あぶない!
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あぶない!
するりと抜き出されたのは、短刀かと思いきや、財布のような包みだった。
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するりと抜け出たのは、九寸五分かと思いのほか、財布のような包み物である。
差し出した白い手の下から、長いひもが、ふらふらと春風にゆれる。
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差し出した白い手の下から、長い紐がふらふらと春風に揺れる。
片足を前に出し、腰から上を少しそらして、差し出した白い手首に、紫色の包み。
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片足を前に、腰から上を少しそらして、差し出した、白い手頸に、紫の包。
これだけの姿勢で、十分に絵になるだろう。
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これだけの姿勢で充分画にはなろう。
紫色でちょっと区切られた構図が、五、六センチの間をあけて、ふり返る男の人の体の動きで、うまい具合につながれている。
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紫でちょっと切れた図面が、二三寸の間隔をとって、振り返る男の体のこなし具合で、うまい按排につながれている。
「つかず離れず」とは、この瞬間の様子を言い表すのにぴったりの言葉だと思う。
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不即不離とはこの刹那の有様を形容すべき言葉と思う。
女の人は前へ引くしぐさで、男の人は後ろへ引かれる様子だ。
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女は前を引く態度で、男は後えに引かれた様子だ。
しかも、実際には引いても引かれてもいない。
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しかもそれが実際に引いてもひかれてもおらん。
二人のつながりは、紫の財布が終わるところで、ぷつりと切れている。
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両者の縁は紫の財布の尽くる所で、ふつりと切れている。
二人の姿勢がこれほど美しい調和を保っているのと同時に、二人の顔と着ているものには、はっきりとした対比が見られるので、絵として見ると、なおいっそう興味深い。
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二人の姿勢がかくのごとく美妙な調和を保っていると同時に、両者の顔と、衣服にはあくまで、対照が認められるから、画として見ると一層の興味が深い。
背がずんぐりとして、色黒の、ひげ面と、くっきり引きしまった細おもてで、えりの長い、なで肩の、ほっそりとした姿。
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背のずんぐりした、色黒の、髯づらと、くっきり締った細面に、襟の長い、撫肩の、華奢姿。
ぶっきらぼうに体をひねった、下駄ばきの野武士のような男と、ふだん着の銘仙(めいせん・絹織物)さえしなやかに着こなした上、腰から上をおとなしく反り身にした、やせ形の女。
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ぶっきらぼうに身をひねった下駄がけの野武士と、不断着の銘仙さえしなやかに着こなした上、腰から上を、おとなしく反り身に控えたる痩形。
すりきれた茶色の帽子に、あい色のしま模様の着物というかっこうと、かげろうさえ燃え立たせそうなくしめの通ったびんの毛の色、黒い繻子(しゅす・つやのある絹織物)の光る奥から、ちらりと見えた帯上げの、なまめかしさ。
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はげた茶の帽子に、藍縞の尻切り出立ちと、陽炎さえ燃やすべき櫛目の通った鬢の色に、黒繻子のひかる奥から、ちらりと見せた帯上の、なまめかしさ。
すべてが、いい絵の題材だ。
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すべてが好画題である。
男の人は手を出して、財布を受け取る。
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男は手を出して財布を受け取る。
引き合いながら、うまくつり合いを保っていた二人の位置が、たちまちくずれる。
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引きつ引かれつ巧みに平均を保ちつつあった二人の位置はたちまち崩れる。
女の人はもう引かない、男の人も引かれようとしない。
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女はもう引かぬ、男は引かりょうともせぬ。
心の状態が絵を作り上げる上に、これほどの影響をあたえるとは、画家でありながら、今まで気づかなかった。
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心的状態が絵を構成する上に、かほどの影響を与えようとは、画家ながら、今まで気がつかなかった。
二人は左右に分かれる。
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二人は左右へ分かれる。
どちらにも気持ちの通い合いがないから、もう絵としては、めちゃくちゃである。
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双方に気合がないから、もう画としては、支離滅裂である。
雑木林の入口で、男の人は一度ふり返った。
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雑木林の入口で男は一度振り返った。
女の人はふり返りもしない。
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女は後をも見ぬ。
すらすらと、こちらへ歩いてくる。
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すらすらと、こちらへ歩行てくる。
やがて、余の真正面まで来て、
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やがて余の真正面まで来て、
「先生、先生」
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「先生、先生」
と二回呼んだ。
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と二声掛けた。
これはたいへん、いつ見つかったんだろう。
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これはしたり、いつ目付かったろう。
「何です」
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「何です」
と余は木瓜の上へ顔を出す。
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と余は木瓜の上へ顔を出す。
帽子は草原へ落ちた。
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帽子は草原へ落ちた。
「何を、そんなところでしていらっしゃるの」
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「何をそんな所でしていらっしゃる」
「詩を作って、寝ころんでいました」
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「詩を作って寝ていました」
「うそをおっしゃい。今のを見たんでしょう」
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「うそをおっしゃい。今のを御覧でしょう」
「今のって、あれですか。ええ、少し拝見しました」
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「今の? 今の、あれですか。ええ。少々拝見しました」
「ホホホホ、少しじゃなくても、たっぷり見てくださればよかったのに」
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「ホホホホ少々でなくても、たくさん御覧なさればいいのに」
「実のところは、たっぷり拝見しました」
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「実のところはたくさん拝見しました」
「それ見なさい。まあ、ちょっとこちらへ出ていらっしゃい。木瓜の中から出ていらっしゃい」
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「それ御覧なさい。まあちょっと、こっちへ出ていらっしゃい。木瓜の中から出ていらっしゃい」
余は言われるままに、木瓜の中から出ていく。
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余は唯々として木瓜の中から出て行く。
「まだ木瓜の中に用があるんですか」
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「まだ木瓜の中に御用があるんですか」
「もうないんです。帰ろうかとも思っています」
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「もう無いんです。帰ろうかとも思うんです」
「それじゃ、いっしょに参りましょうか」
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「それじゃごいっしょに参りましょうか」
「ええ」
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「ええ」
余はまた言われるままに、木瓜の中に一度もどって、帽子をかぶり、絵の道具をまとめて、那美さんといっしょに歩き出す。
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余は再び唯々として、木瓜の中に退いて、帽子を被り、絵の道具を纏めて、那美さんといっしょにあるき出す。
「絵をおかきになったの」
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「画を御描きになったの」
「やめました」
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「やめました」
「ここへいらしって、まだ一枚もおかきになっていないじゃありませんか」
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「ここへいらしって、まだ一枚も御描きなさらないじゃありませんか」
「ええ」
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「ええ」
「でも、せっかく絵をかきにいらしって、ちっともおかきにならないんじゃ、つまらないですわね」
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「でもせっかく画をかきにいらしって、ちっとも御かきなさらなくっちゃ、つまりませんわね」
「いえ、つまっているんです」
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「なにつまってるんです」
「あら、そう。なぜ?」
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「おやそう。なぜ?」
「なぜでも、ちゃんとつまるんです。絵なんて、かいても、かかなくても、行きつくところは同じことでさあ」
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「なぜでも、ちゃんとつまるんです。画なんぞ描いたって、描かなくったって、つまるところは同じ事でさあ」
「それは冗談なの、ホホホホ、ずいぶんのんきなんですね」
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「そりゃ洒落なの、ホホホホ随分呑気ですねえ」
「こんなところへ来るからには、のんきにでもしていなくちゃ、来たかいがないじゃありませんか」
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「こんな所へくるからには、呑気にでもしなくっちゃ、来た甲斐がないじゃありませんか」
「なあに、どこにいても、のんきにしていなくちゃ、生きているかいはありませんよ。わたしなんぞは、今のようなところを人に見られても、恥ずかしいとも何とも思いません」
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「なあにどこにいても、呑気にしなくっちゃ、生きている甲斐はありませんよ。私なんぞは、今のようなところを人に見られても恥かしくも何とも思いません」
「思わなくてもいいでしょう」
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「思わんでもいいでしょう」
「そうでしょうか。あなたは、今の男の人をいったい何だと思われました」
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「そうですかね。あなたは今の男をいったい何だと御思いです」
「そうですね。どうも、あまりお金持ちじゃなさそうですね」
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「そうさな。どうもあまり、金持ちじゃありませんね」
「ホホホ、よく当たりました。あなたは占いの名人ですよ。あの男は、貧乏して日本にいられないからと言って、わたしにお金をもらいに来たんです」
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「ホホホ善くあたりました。あなたは占いの名人ですよ。あの男は、貧乏して、日本にいられないからって、私に御金を貰いに来たのです」
「へえ、どこから来たんですか」
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「へえ、どこから来たのです」
「城下町から来ました」
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「城下から来ました」
「ずいぶん遠くから来たものですね。それで、どこへ行くんですか」
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「随分遠方から来たもんですね。それで、どこへ行くんですか」
「何でも満州へ行くそうです」
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「何でも満洲へ行くそうです」
「何をしに行くんですか」
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「何しに行くんですか」
「何をしに行くんでしょうね。お金を拾いに行くのか、死にに行くのか、わかりません」
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「何しに行くんですか。御金を拾いに行くんだか、死にに行くんだか、分りません」
このとき余は目を上げて、ちょっと女の人の顔を見た。
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この時余は眼をあげて、ちょと女の顔を見た。
今結んだ口元には、かすかな笑いのかげが消えかかっている。
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今結んだ口元には、微かなる笑の影が消えかかりつつある。
意味はわからない。
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意味は解せぬ。
「あれは、わたくしの夫です」
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「あれは、わたくしの亭主です」
かくす間もない、いきなりの雷のように、女の人は突然、一太刀(ひとたち)浴びせかけた。
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迅雷を掩うに遑あらず、女は突然として一太刀浴びせかけた。
余は、まったくの不意打ちをくらった。
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余は全く不意撃を喰った。
もちろん、そんなことを聞くつもりはなく、女の人も、まさかここまで打ち明けようとは思っていなかっただろう。
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無論そんな事を聞く気はなし、女も、よもや、ここまで曝け出そうとは考えていなかった。
「どうです、おどろいたでしょう」
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「どうです、驚ろいたでしょう」
と女の人が言う。
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と女が云う。
「ええ、少しおどろきました」
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「ええ、少々驚ろいた」
「今の夫じゃありません、離縁された夫です」
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「今の亭主じゃありません、離縁された亭主です」
「なるほど、それで……」
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「なるほど、それで……」
「それだけです」
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「それぎりです」
「そうですか。――あのみかん山に、りっぱな白いかべの家がありますね。あれは、いい場所にありますが、誰の家なんですか」
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「そうですか。――あの蜜柑山に立派な白壁の家がありますね。ありゃ、いい地位にあるが、誰の家なんですか」
「あれが兄の家です。帰り道に、ちょっと寄っていきましょう」
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「あれが兄の家です。帰り路にちょっと寄って、行きましょう」
「用でもあるんですか」
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「用でもあるんですか」
「ええ、少し頼まれものがあります」
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「ええちっと頼まれものがあります」
「いっしょに行きましょう」
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「いっしょに行きましょう」
崖ぞいの道の登り口へ出て、村へ下りずに、すぐ右に折れて、また百メートルほど登ると、門がある。
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岨道の登り口へ出て、村へ下りずに、すぐ、右に折れて、また一丁ほどを登ると、門がある。
門から玄関へは行かずに、すぐ庭の入口へ回る。
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門から玄関へかからずに、すぐ庭口へ廻る。
女の人が遠慮なくつかつかと歩いていくので、余も遠慮なくつかつかと歩いていく。
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女が無遠慮につかつか行くから、余も無遠慮につかつか行く。
南向きの庭に、しゅろの木が三、四本あって、土べいの下は、すぐみかん畑になっている。
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南向きの庭に、棕梠が三四本あって、土塀の下はすぐ蜜柑畠である。
女の人はすぐに、縁側のはしに腰をかけて、言う。
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女はすぐ、椽鼻へ腰をかけて、云う。
「いい景色でしょう。ごらんなさい」
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「いい景色だ。御覧なさい」
「なるほど、いいですね」
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「なるほど、いいですな」
障子の内側は、静かで人の気配もしない。
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障子のうちは、静かに人の気合もせぬ。
女の人は、音を立てる様子もない。
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女は音のう景色もない。
ただ腰をかけて、みかん畑を見下ろして、平気な顔をしている。
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ただ腰をかけて、蜜柑畠を見下して平気でいる。
余は不思議に思った。
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余は不思議に思った。
そもそも、何の用があるのだろう。
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元来何の用があるのかしら。
しまいには話もなくなって、二人とも無言のまま、みかん畑を見下ろしている。
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しまいには話もないから、両方共無言のままで蜜柑畠を見下している。
正午に近づく太陽は、まともにあたたかい光を山一面にあびせて、見わたすかぎりのみかんの葉は、葉の裏まで蒸されたように輝いている。
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午に逼る太陽は、まともに暖かい光線を、山一面にあびせて、眼に余る蜜柑の葉は、葉裏まで、蒸し返されて耀やいている。
やがて、裏の納屋(なや)のほうで、ニワトリが大きな声で、こけこっこうと鳴く。
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やがて、裏の納屋の方で、鶏が大きな声を出して、こけこっこううと鳴く。
「あら、もうお昼ですね。用事を忘れていました。――久一さん、久一さん」
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「おやもう。御午ですね。用事を忘れていた。――久一さん、久一さん」
女の人は身を乗り出すようにして、閉め切った障子を、からりと開ける。
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女は及び腰になって、立て切った障子を、からりと開ける。
中は、誰もいない十畳の部屋で、狩野派(かのうは)の二枚一組の掛け軸が、むなしく春の床の間を飾っている。
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内は空しき十畳敷に、狩野派の双幅が空しく春の床を飾っている。
「久一さん」
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「久一さん」
納屋のほうで、ようやく返事がする。
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納屋の方でようやく返事がする。
足音がふすまの向こうで止まって、からりと開いたと思うと、白いさやの短刀が、畳の上へころがり出す。
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足音が襖の向でとまって、からりと、開くが早いか、白鞘の短刀が畳の上へ転がり出す。
「それ、おじさんのお別れの贈り物だよ」
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「そら御伯父さんの餞別だよ」
帯の間に、いつ手が入ったのか、余はまったく気づかなかった。
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帯の間に、いつ手が這入ったか、余は少しも知らなかった。
短刀は、二、三回とんぼ返りをして、静かな畳の上を、久一さんの足元へ走っていく。
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短刀は二三度とんぼ返りを打って、静かな畳の上を、久一さんの足下へ走る。
さやの作りがゆるすぎたのか、ぴかりと、冷たそうなものが三センチほど光った。
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作りがゆる過ぎたと見えて、ぴかりと、寒いものが一寸ばかり光った。
十三
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十三
川船で、久一さんを吉田の駅まで見送る。
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川舟で久一さんを吉田の停車場まで見送る。
船の中に座っているのは、見送られる久一さん、見送る老人、那美さん、那美さんの兄さん、荷物の世話をする源兵衛、それから余である。
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舟のなかに坐ったものは、送られる久一さんと、送る老人と、那美さんと、那美さんの兄さんと、荷物の世話をする源兵衛と、それから余である。
余は、もちろん、ただのお供にすぎない。
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余は無論御招伴に過ぎん。
お供として呼ばれれば行く。
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御招伴でも呼ばれれば行く。
何の意味だかわからなくても行く。
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何の意味だか分らなくても行く。
非人情の旅には、あれこれ考える必要はない。
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非人情の旅に思慮は入らぬ。
船は、いかだにふちをつけたように、底が平らだ。
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舟は筏に縁をつけたように、底が平たい。
老人を真ん中に、余と那美さんが船の後ろ、久一さんと兄さんが船の先に座った。
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老人を中に、余と那美さんが艫、久一さんと、兄さんが、舳に座をとった。
源兵衛は荷物と一緒に、一人だけ離れて座っている。
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源兵衛は荷物と共に独り離れている。
「久一さん、戦争は好きかしら、きらいかしら」
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「久一さん、軍さは好きか嫌いかい」
と那美さんが聞く。
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と那美さんが聞く。
「行ってみなければわからないさ。つらいこともあるだろうが、楽しいことも出てくるんだろう」
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「出て見なければ分らんさ。苦しい事もあるだろうが、愉快な事も出て来るんだろう」
と、戦争を知らない久一さんが言う。
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と戦争を知らぬ久一さんが云う。
「どんなにつらくても、国のためだから」
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「いくら苦しくっても、国家のためだから」
と老人が言う。
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と老人が云う。
「短刀なんかもらうと、ちょっと戦争に出てみたくなりゃしない?」
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「短刀なんぞ貰うと、ちょっと戦争に出て見たくなりゃしないか」
と女の人が、また変なことを聞く。
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と女がまた妙な事を聞く。
久一さんは、
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久一さんは、
「そうだね」
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「そうさね」
と軽くうなずく。
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と軽く首肯う。
老人はひげを持ち上げて笑う。
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老人は髯を掀げて笑う。
兄さんは、知らんぷりをしている。
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兄さんは知らぬ顔をしている。
「そんな平気な様子で、戦争ができるの?」
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「そんな平気な事で、軍さが出来るかい」
と女の人は、遠慮なく、白い顔を久一さんの前に突き出す。
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と女は、委細構わず、白い顔を久一さんの前へ突き出す。
久一さんと兄さんが、ちょっと目を見合わせた。
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久一さんと、兄さんがちょっと眼を見合せた。
「那美が軍人になったら、さぞ強いだろうな」
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「那美さんが軍人になったらさぞ強かろう」
兄さんが妹に話しかけた最初の言葉はこれだった。
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兄さんが妹に話しかけた第一の言葉はこれである。
言い方から見ると、ただの冗談とも思えない。
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語調から察すると、ただの冗談とも見えない。
「わたしが? わたしが軍人? わたしが軍人になれるなら、とっくになっています。今ごろは死んでいます。久一さん、あなたも死んだほうがいいわ。生きて帰ってきたら、みっともないもの」
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「わたしが? わたしが軍人? わたしが軍人になれりゃとうになっています。今頃は死んでいます。久一さん。御前も死ぬがいい。生きて帰っちゃ外聞がわるい」
「そんな乱暴なことを――まあまあ、無事に勝って帰ってきておくれ。死ぬことだけが国のためではない。わしも、まだ二、三年は生きるつもりじゃ。また会えるじゃろう」
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「そんな乱暴な事を――まあまあ、めでたく凱旋をして帰って来てくれ。死ぬばかりが国家のためではない。わしもまだ二三年は生きるつもりじゃ。まだ逢える」
老人の言葉の最後をたどっていくと、しだいに細くなって、ついには涙の糸になっていく。
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老人の言葉の尾を長く手繰と、尻が細くなって、末は涙の糸になる。
ただ、男の人だけに、そこまで涙は見せない。
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ただ男だけにそこまではだまを出さない。
久一さんは、何も言わずに横を向いて、岸のほうを見た。
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久一さんは何も云わずに、横を向いて、岸の方を見た。
岸には大きな柳の木がある。
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岸には大きな柳がある。
下に小さな船をつないで、一人の男の人が、しきりに釣り糸を見つめている。
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下に小さな舟を繋いで、一人の男がしきりに垂綸を見詰めている。
一行の乗った船が、ゆるやかに波を立てながら、その前を通ったとき、この男の人は、ふと顔を上げて久一さんと目を合わせた。
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一行の舟が、ゆるく波足を引いて、その前を通った時、この男はふと顔をあげて、久一さんと眼を見合せた。
目を合わせた二人の間には、何の通じ合いも生まれない。
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眼を見合せた両人の間には何らの電気も通わぬ。
男の人は、魚のことばかり考えている。
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男は魚の事ばかり考えている。
久一さんの頭の中には、一匹のフナが入りこむすきもない。
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久一さんの頭の中には一尾の鮒も宿る余地がない。
一行の船は、静かにその釣り人の前を通りすぎる。
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一行の舟は静かに太公望の前を通り越す。
日本橋を通る人の数は、一分間に何百人か知らない。
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日本橋を通る人の数は、一分に何百か知らぬ。
もし橋のたもとに立って、行き来する人の心の中にある悩みを一つ一つ聞き取れたら、この世は目まぐるしくて生きづらいだろう。
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もし橋畔に立って、行く人の心に蟠まる葛藤を一々に聞き得たならば、浮世は目眩しくて生きづらかろう。
ただ、知らない人として出会い、知らない人として別れるから、結局、日本橋に立って電車の旗をふる仕事をやりたがる人も出てくる。
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ただ知らぬ人で逢い、知らぬ人でわかれるから結句日本橋に立って、電車の旗を振る志願者も出て来る。
釣り人が、久一さんの泣きそうな顔に何の説明も求めなかったのは、幸いだった。
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太公望が、久一さんの泣きそうな顔に、何らの説明をも求めなかったのは幸である。
ふり返って見ると、安心したように、うきを見つめている。
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顧り見ると、安心して浮標を見詰めている。
おおかた、日露戦争が終わるまで見つめているつもりなのだろう。
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おおかた日露戦争が済むまで見詰める気だろう。
川の幅は、あまり広くない。
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川幅はあまり広くない。
底は浅い。
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底は浅い。
流れはゆるやかである。
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流れはゆるやかである。
船べりによりかかって、水の上をすべっていく。どこまで行くのか。春が終わって、人が騒ぎ立てて、ぶつかり合いたがるところまで、行かないと終わらない。
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舷に倚って、水の上を滑って、どこまで行くか、春が尽きて、人が騒いで、鉢ち合せをしたがるところまで行かねばやまぬ。
生々しい血を眉間にきざまれたこの青年は、余たち一行を、容赦なく引っぱっていく。
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腥き一点の血を眉間に印したるこの青年は、余ら一行を容赦なく引いて行く。
運命の縄が、この青年を、遠くて、暗くて、おそろしい北の国まで引いていくから、ある日、ある月、ある年のめぐりあわせで、この青年に結びつけられた余たちは、そのめぐりあわせが尽きるところまで、この青年に引かれていかなければならない。
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運命の縄はこの青年を遠き、暗き、物凄き北の国まで引くが故に、ある日、ある月、ある年の因果に、この青年と絡みつけられたる吾らは、その因果の尽くるところまでこの青年に引かれて行かねばならぬ。
めぐりあわせが尽きるとき、彼と余たちの間で、ふっと何かが切れる音がして、彼一人だけが、有無を言わせず、運命の手元まで引き寄せられる。
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因果の尽くるとき、彼と吾らの間にふっと音がして、彼一人は否応なしに運命の手元まで手繰り寄せらるる。
残された余たちも、有無を言わせず、残らなければならない。
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残る吾らも否応なしに残らねばならぬ。
たのんでも、あがいても、一緒に引いていってもらうわけにはいかない。
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頼んでも、もがいても、引いていて貰う訳には行かぬ。
船は、おもしろいほどおだやかに流れる。
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舟は面白いほどやすらかに流れる。
左右の岸には、つくしでも生えていそうな土手があり、
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左右の岸には土筆でも生えておりそうな。
土手の上には、柳の木が多く見える。
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土堤の上には柳が多く見える。
まばらに、低い家が、その間からわら屋根をのぞかせ、
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まばらに、低い家がその間から藁屋根を出し。
すすけた窓をのぞかせ、
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煤けた窓を出し。
ときには、白いアヒルをのぞかせる。
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時によると白い家鴨を出す。
アヒルはがあがあと鳴いて、川の中まで出てくる。
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家鴨はがあがあと鳴いて川の中まで出て来る。
柳と柳の間で、きらきらと光っているのは、白い桃の花らしい。
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柳と柳の間に的皪と光るのは白桃らしい。
とんかたんと、機(はた)を織る音が聞こえる。
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とんかたんと機を織る音が聞える。
とんかたんの合間から、女の人の歌声が、はああい、いようう――と水の上まで響いてくる。
原文を見る
とんかたんの絶間から女の唄が、はああい、いようう――と水の上まで響く。
何を歌っているのかは、まったくわからない。
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何を唄うのやらいっこう分らぬ。
「先生、わたくしの絵をかいてくださいな」
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「先生、わたくしの画をかいて下さいな」
と那美さんが注文する。
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と那美さんが注文する。
久一さんは、兄さんとしきりに軍隊の話をしている。
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久一さんは兄さんと、しきりに軍隊の話をしている。
老人はいつのまにか居眠りを始めた。
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老人はいつか居眠りをはじめた。
「かいてあげましょう」
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「書いてあげましょう」
と写生帖を取り出して、
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と写生帖を取り出して、
「春風にほら解けていく、繻子(しゅす)の帯のもよう模様は何」
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春風にそら解け繻子の銘は何
と書いて見せる。
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と書いて見せる。
女の人は笑いながら、
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女は笑いながら、
「こんな一筆がきでは、だめです。もっとわたしらしさが出るように、ていねいにかいてください」
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「こんな一筆がきでは、いけません。もっと私の気象の出るように、丁寧にかいて下さい」
「わたしもかきたいのですが。どうも、あなたの顔は、それだけじゃ絵になりません」
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「わたしもかきたいのだが。どうも、あなたの顔はそれだけじゃ画にならない」
「ずいぶんな言われようですこと。それじゃ、どうすれば絵になるんです」
原文を見る
「御挨拶です事。それじゃ、どうすれば画になるんです」
「いや、今でも絵にはできますがね。ただ、少し足りないところがある。それが出ないままかくのは、もったいないですよ」
原文を見る
「なに今でも画に出来ますがね。ただ少し足りないところがある。それが出ないところをかくと、惜しいですよ」
「足りないと言われても、生まれつきの顔だから仕方がありませんわ」
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「足りないたって、持って生れた顔だから仕方がありませんわ」
「生まれつきの顔でも、いろいろに変わるものです」
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「持って生れた顔はいろいろになるものです」
「自分の思うままにですか」
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「自分の勝手にですか」
「ええ」
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「ええ」
「女だと思って、人をずいぶんばかにするのね」
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「女だと思って、人をたんと馬鹿になさい」
「あなたが女の人だから、そんなばかなことを言うんですよ」
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「あなたが女だから、そんな馬鹿を云うのですよ」
「それじゃ、あなたの顔を、いろいろに変えて見せてちょうだい」
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「それじゃ、あなたの顔をいろいろにして見せてちょうだい」
「これだけ毎日いろいろに変わっていれば、十分です」
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「これほど毎日いろいろになってればたくさんだ」
女の人は、だまって向こうを向く。
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女は黙って向をむく。
川べりは、いつのまにか、水すれすれの低い場所になっていて、見渡す田んぼは、一面のれんげの花でうずまっている。
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川縁はいつか、水とすれすれに低く着いて、見渡す田のもは、一面のげんげんで埋っている。
あざやかな紅色のしずくが、いつの雨に流されたのか、半分溶けたような花の海は、かすみの中に果てしなく広がっていて、見上げる空の中ほどには、けわしい一つの峰が、中腹から、かすかに春の雲を吐いている。
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鮮やかな紅の滴々が、いつの雨に流されてか、半分溶けた花の海は霞のなかに果しなく広がって、見上げる半空には崢嶸たる一峰が半腹から微かに春の雲を吐いている。
「あの山の向こうを、あなたは越えていらしたんですね」
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「あの山の向うを、あなたは越していらしった」
と女の人が、白い手を船べりの外に出して、夢のような春の山を指さす。
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と女が白い手を舷から外へ出して、夢のような春の山を指す。
「天狗岩(てんぐいわ)は、あのあたりですか」
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「天狗岩はあの辺ですか」
「あの緑の濃いところの下に、紫に見える場所があるでしょう」
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「あの翠の濃い下の、紫に見える所がありましょう」
「あの日かげの場所ですか」
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「あの日影の所ですか」
「日かげでしょうか。はげているんじゃないかしら」
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「日影ですかしら。禿げてるんでしょう」
「いや、くぼんでいるんですよ。はげているなら、もっと茶色に見えます」
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「なあに凹んでるんですよ。禿げていりゃ、もっと茶に見えます」
「そうでしょうか。とにかく、あの裏あたりになるそうです」
原文を見る
「そうでしょうか。ともかく、あの裏あたりになるそうです」
「そうすると、七曲がりは、もう少し左になりますね」
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「そうすると、七曲りはもう少し左りになりますね」
「七曲がりは、向こうへずっとそれます。あの山の、さらに一つ先の山ですよ」
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「七曲りは、向うへ、ずっと外れます。あの山のまた一つ先きの山ですよ」
「なるほど、そうでした。しかし見当をつけると、あのうすい雲がかかっているあたりでしょう」
原文を見る
「なるほどそうだった。しかし見当から云うと、あのうすい雲が懸ってるあたりでしょう」
「ええ、方角はあのあたりです」
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「ええ、方角はあの辺です」
居眠りをしていた老人は、船べりからひじを落として、はっと目を覚ます。
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居眠をしていた老人は、舷から、肘を落して、ほいと眼をさます。
「まだ着かんかな」
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「まだ着かんかな」
胸を前に出して、右のひじを後ろに張って、左手をまっすぐ伸ばして、うーんとのびをするついでに、弓を引くまねをして見せる。
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胸膈を前へ出して、右の肘を後ろへ張って、左り手を真直に伸して、ううんと欠伸をするついでに、弓を攣く真似をして見せる。
女の人はホホホと笑う。
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女はホホホと笑う。
「どうも、これがくせで、……」
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「どうもこれが癖で、……」
「弓がお好きなようですね」
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「弓が御好と見えますね」
と余も笑いながらたずねる。
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と余も笑いながら尋ねる。
「若いころは、七分五厘(弓を引く力の程度を表す当時の言い方)まで引きました。押す力は、意外に今でもたしかです」
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「若いうちは七分五厘まで引きました。押しは存外今でもたしかです」
と、左の肩をたたいて見せる。
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と左の肩を叩いて見せる。
船の先では、戦争の話が盛り上がっている。
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舳では戦争談が酣である。
船は、ようやく町らしいところに入る。
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舟はようやく町らしいなかへ這入る。
腰高障子に「おさかな」と書いた居酒屋が見える。
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腰障子に御肴と書いた居酒屋が見える。
古風な、なわのれんが見える。
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古風な縄暖簾が見える。
材木の置き場が見える。
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材木の置場が見える。
人力車の音さえ、時々聞こえる。
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人力車の音さえ時々聞える。
つばめが、ちちと鳴きながらお腹を返して飛ぶ。
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乙鳥がちちと腹を返して飛ぶ。
アヒルが、があがあ鳴く。
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家鴨ががあがあ鳴く。
一行は、船をおりて駅に向かう。
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一行は舟を捨てて停車場に向う。
いよいよ、現実の世界へ引きずり出された。
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いよいよ現実世界へ引きずり出された。
汽車の見えるところを、現実の世界と言う。
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汽車の見える所を現実世界と云う。
汽車ほど、二十世紀の文明を代表するものはないだろう。
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汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。
何百人という人間を、同じ箱に詰めこんで、ゴウと音を立てて通り過ぎる。
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何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。
情け容赦もない。
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情け容赦はない。
詰めこまれた人間は、みな同じ速さで、同じ駅に止まって、そうして、同じように蒸気の恩恵にあずからなければならない。
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詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまってそうして、同様に蒸滊の恩沢に浴さねばならぬ。
人は「汽車に乗る」と言う。
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人は汽車へ乗ると云う。
余は「積みこまれる」と言う。
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余は積み込まれると云う。
人は「汽車で行く」と言う。
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人は汽車で行くと云う。
余は「運ばれる」と言う。
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余は運搬されると云う。
汽車ほど、一人ひとりの個性を軽んじるものはない。
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汽車ほど個性を軽蔑したものはない。
文明は、できる限りの方法をつくして人の個性を育てておきながら、できる限りの方法で、この個性を踏みつけようとする。
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文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする。
一人あたり何坪かの土地をあたえて、この土地の中でなら、寝るのも起きるのも自由にしていい、というのが今の文明である。
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一人前何坪何合かの地面を与えて、この地面のうちでは寝るとも起きるとも勝手にせよと云うのが現今の文明である。
同時に、この何坪かの土地の周りに鉄のさくを作って、これより先へは一歩も出てはいけないぞとおどすのが、今の文明である。
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同時にこの何坪何合の周囲に鉄柵を設けて、これよりさきへは一歩も出てはならぬぞと威嚇かすのが現今の文明である。
何坪かの中で自由を思うままにした者が、このさくの外でも自由を思うままにしたくなるのは、自然な流れである。
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何坪何合のうちで自由を擅にしたものが、この鉄柵外にも自由を擅にしたくなるのは自然の勢である。
かわいそうな文明の国民は、毎日毎晩、このさくにかみついて、うなっている。
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憐むべき文明の国民は日夜にこの鉄柵に噛みついて咆哮している。
文明は、人に自由をあたえてトラのように荒々しくしておいてから、それをおりの中に投げこんで、世の中の平和を保っている。
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文明は個人に自由を与えて虎のごとく猛からしめたる後、これを檻穽の内に投げ込んで、天下の平和を維持しつつある。
この平和は、本当の平和ではない。
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この平和は真の平和ではない。
動物園のトラが、見物人をにらみながら寝ころんでいるのと同じような平和である。
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動物園の虎が見物人を睨めて、寝転んでいると同様な平和である。
おりの鉄の棒が一本でもぬけたら――世の中はめちゃめちゃになる。
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檻の鉄棒が一本でも抜けたら――世はめちゃめちゃになる。
二度目のフランス革命は、そのときに起こるのだろう。
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第二の仏蘭西革命はこの時に起るのであろう。
一人ひとりの中での「革命」は、今すでに、毎日毎晩起こりつつある。
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個人の革命は今すでに日夜に起りつつある。
北ヨーロッパの偉大な人、イプセン(ノルウェーの劇作家)は、この革命が起こる様子について、くわしい例を余たちに示してくれた。
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北欧の偉人イブセンはこの革命の起るべき状態についてつぶさにその例証を吾人に与えた。
余は、汽車がはげしく、見境もなく、すべての人を荷物のように扱って走る様子を見るたびに、客車の中に閉じこめられた一人ひとりの人と、その人たちの個性にまったく気を配らないこの鉄の車とを見比べて――あぶない、あぶないと思う。
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余は汽車の猛烈に、見界なく、すべての人を貨物同様に心得て走る様を見るたびに、客車のうちに閉じ籠められたる個人と、個人の個性に寸毫の注意をだに払わざるこの鉄車とを比較して、――あぶない、あぶない。
気をつけなければあぶないと思う。
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気をつけねばあぶないと思う。
今の文明は、この「あぶない」で、鼻をつくくらいいっぱいだ。
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現代の文明はこのあぶないで鼻を衝かれるくらい充満している。
先の見えないまま、やみくもに動く汽車は、その「あぶない」の見本の一つである。
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おさき真闇に盲動する汽車はあぶない標本の一つである。
駅前の茶店に腰を下ろして、よもぎもちをながめながら、汽車についての考えごとをした。
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停車場前の茶店に腰を下ろして、蓬餅を眺めながら汽車論を考えた。
これは写生帖に書くわけにもいかず、人に話す必要もないので、だまって、もちを食べながらお茶を飲む。
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これは写生帖へかく訳にも行かず、人に話す必要もないから、だまって、餅を食いながら茶を飲む。
向こうのこしかけには、二人座っている。
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向うの床几には二人かけている。
同じようにわらじばきで、一人は赤い毛布を、もう一人は千草色(ちくさいろ・うすい青緑色)のもも引きのひざに、つぎ布を当てていて、そのつぎ布の当たったところを手でおさえている。
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等しく草鞋穿きで、一人は赤毛布、一人は千草色の股引の膝頭に継布をあてて、継布のあたった所を手で抑えている。
「やっぱりだめかね」
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「やっぱり駄目かね」
「だめさあ」
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「駄目さあ」
「牛のように胃袋が二つあるといいなあ」
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「牛のように胃袋が二つあると、いいなあ」
「二つあれば言うことなしさ。一つが悪くなったら、切ってしまえばすむから」
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「二つあれば申し分はなえさ、一つが悪るくなりゃ、切ってしまえば済むから」
この田舎の人は、胃の病気らしい。
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この田舎者は胃病と見える。
彼らは、満州の野に吹く風のにおいも知らない。
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彼らは満洲の野に吹く風の臭いも知らぬ。
今の文明の悪いところにも気づいていない。
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現代文明の弊をも見認めぬ。
「革命」とは何か、その言葉さえ聞いたことがないだろう。
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革命とはいかなるものか、文字さえ聞いた事もあるまい。
あるいは、自分の胃袋が一つなのか二つなのかさえ、わかっていないかもしれない。
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あるいは自己の胃袋が一つあるか二つあるかそれすら弁じ得んだろう。
余は写生帖を出して、二人の姿をかき取った。
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余は写生帖を出して、二人の姿を描き取った。
じゃらんじゃらんとベルが鳴る。
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じゃらんじゃらんと号鈴が鳴る。
切符はもう買ってある。
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切符はすでに買うてある。
「さあ、行きましょう」
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「さあ、行きましょ」
と那美さんが立つ。
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と那美さんが立つ。
「どれ」
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「どうれ」
と老人も立つ。
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と老人も立つ。
一行はそろって改札口を通りぬけて、プラットホームへ出る。
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一行は揃って改札場を通り抜けて、プラットフォームへ出る。
ベルがしきりに鳴る。
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号鈴がしきりに鳴る。
ゴウと音がして、白く光る線路の上を、文明の長い蛇のようなものが、くねくねと近づいてくる。
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轟と音がして、白く光る鉄路の上を、文明の長蛇が蜿蜒て来る。
文明の長い蛇は、口から黒いけむりをはく。
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文明の長蛇は口から黒い煙を吐く。
「いよいよお別れかな」
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「いよいよ御別かれか」
と老人が言う。
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と老人が云う。
「それでは、ごきげんよう」
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「それでは御機嫌よう」
と久一さんが頭を下げる。
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と久一さんが頭を下げる。
「死んでいらっしゃい」
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「死んで御出で」
と那美さんが、また言う。
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と那美さんが再び云う。
「荷物は来たかい」
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「荷物は来たかい」
と兄さんが聞く。
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と兄さんが聞く。
蛇は、余たちの前で止まる。
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蛇は吾々の前でとまる。
横腹の戸が、いくつも開く。
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横腹の戸がいくつもあく。
人が出たり入ったりする。
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人が出たり、這入ったりする。
久一さんは乗った。
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久一さんは乗った。
老人も、兄さんも、那美さんも、余も、外に立っている。
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老人も兄さんも、那美さんも、余もそとに立っている。
車輪が一つ回れば、久一さんは、もう余たちの世界の人ではなくなる。
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車輪が一つ廻れば久一さんはすでに吾らが世の人ではない。
遠い、遠い世界へ行ってしまう。
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遠い、遠い世界へ行ってしまう。
その世界では、火薬のにおいの中で、人々が働いている。
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その世界では煙硝の臭いの中で、人が働いている。
そうして赤いものにすべって、むやみに転ぶ。
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そうして赤いものに滑って、むやみに転ぶ。
空では、大きな音がどどんどどんと鳴る。
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空では大きな音がどどんどどんと云う。
これから、そういう場所へ行く久一さんは、車の中に立って、無言のまま、余たちを見つめている。
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これからそう云う所へ行く久一さんは車のなかに立って無言のまま、吾々を眺めている。
余たちを山の中から連れ出した久一さんと、連れ出された余たちとのつながりは、ここで切れる。
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吾々を山の中から引き出した久一さんと、引き出された吾々の因果はここで切れる。
もう、すでに切れかかっている。
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もうすでに切れかかっている。
車の戸と窓が開いているだけで、おたがいの顔が見えるだけで、行く人と残る人の間が、二メートルほどはなれているだけで、そのつながりはもう切れかかっている。
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車の戸と窓があいているだけで、御互の顔が見えるだけで、行く人と留まる人の間が六尺ばかり隔っているだけで、因果はもう切れかかっている。
車掌が、ぴしゃりぴしゃりと戸を閉めながら、こちらへ走ってくる。
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車掌が、ぴしゃりぴしゃりと戸を閉てながら、こちらへ走って来る。
一つ閉まるごとに、行く人と、見送る人との距離が、ますます遠くなる。
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一つ閉てるごとに、行く人と、送る人の距離はますます遠くなる。
やがて、久一さんの車両の戸も、ぴしゃりと閉まった。
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やがて久一さんの車室の戸もぴしゃりとしまった。
世界は、もう二つになった。
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世界はもう二つに為った。
老人は、思わず窓のそばへ寄る。
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老人は思わず窓側へ寄る。
青年は、窓から首を出す。
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青年は窓から首を出す。
「あぶない。出ますよ」
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「あぶない。出ますよ」
という声のすぐあとから、未練のない鉄の車の音が、ごっとりごっとりとリズムを刻んで動き出す。
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と云う声の下から、未練のない鉄車の音がごっとりごっとりと調子を取って動き出す。
窓が一つ一つ、余たちの前を通っていく。
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窓は一つ一つ、余等の前を通る。
久一さんの顔が小さくなって、最後の三等車が余の前を通るとき、窓の中から、もう一つ顔が出た。
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久一さんの顔が小さくなって、最後の三等列車が、余の前を通るとき、窓の中から、また一つ顔が出た。
すりきれた茶色の中折れ帽の下から、ひげだらけの、あの野武士のような男が、名残おしそうに首を出した。
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茶色のはげた中折帽の下から、髯だらけな野武士が名残り惜気に首を出した。
そのとき、那美さんとその男は、思わず顔を見合わせた。
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そのとき、那美さんと野武士は思わず顔を見合せた。
鉄の車は、ごとりごとりと走っていく。
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鉄車はごとりごとりと運転する。
その男の顔は、すぐに消えた。
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野武士の顔はすぐ消えた。
那美さんは、ぼんやりと、去っていく汽車を見送る。
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那美さんは茫然として、行く汽車を見送る。
そのぼんやりとした顔には、不思議なことに、これまで一度も見たことのない「憐れ(あわれ・かわいそうに思う気持ち)」
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その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない「憐れ」
が、一面に浮かんでいる。
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が一面に浮いている。
「それだ! それだ! それが出れば、絵になりますよ」
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「それだ! それだ! それが出れば画になりますよ」
と余は、那美さんの肩をたたきながら、小声で言った。
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と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った。
余の心の中にあった絵は、このとっさの瞬間に、完成したのである。
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余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである。