門 小学生向け
夏目漱石(なつめそうせき)・1988年
AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-30)
一
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一
宗助(そうすけ)はさっきから縁側(えんがわ)に座布団(ざぶとん)を持ち出して、日当たりのよさそうな所であぐらをかいてみた。けれどもすぐに、手に持っていた雑誌を投げ出して、ごろりと横になった。
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宗助は先刻から縁側へ坐蒲団を持ち出して、日当りの好さそうな所へ気楽に胡坐をかいて見たが、やがて手に持っている雑誌を放り出すと共に、ごろりと横になった。
秋にしてはとてもいい天気だった。静かな町なので、道を歩く人の下駄(げた)の音が、明るく気持ちよく聞こえてくる。
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秋日和と名のつくほどの上天気なので、往来を行く人の下駄の響が、静かな町だけに、朗らかに聞えて来る。
ひじを枕にして、屋根の下から上を見上げると、きれいな空が一面に青くすんでいる。
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肱枕をして軒から上を見上げると、奇麗な空が一面に蒼く澄んでいる。
その空は、自分が寝ている狭い縁側と比べると、とても広かった。
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その空が自分の寝ている縁側の、窮屈な寸法に較べて見ると、非常に広大である。
たまの日曜にこうしてゆっくり空を見るだけでもだいぶ違うな、と思いながら、まぶしく光る日をしばらく見つめていた。けれども目がくらんだので、今度はぐるりと寝返りをして障子(しょうじ)の方を向いた。
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たまの日曜にこうして緩くり空を見るだけでもだいぶ違うなと思いながら、眉を寄せて、ぎらぎらする日をしばらく見つめていたが、眩しくなったので、今度はぐるりと寝返りをして障子の方を向いた。
障子の向こうでは、奥さんが針仕事をしている。
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障子の中では細君が裁縫をしている。
「おい、いい天気だな」
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「おい、好い天気だな」
と話しかけた。
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と話しかけた。
奥さんは、
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細君は、
「ええ」
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「ええ」
と言っただけだった。
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と云ったなりであった。
宗助も特に話したいわけではなかったらしく、そのまま黙ってしまった。
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宗助も別に話がしたい訳でもなかったと見えて、それなり黙ってしまった。
しばらくすると、今度は奥さんの方から、
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しばらくすると今度は細君の方から、
「少し散歩でもしていらっしゃい」
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「ちっと散歩でもしていらっしゃい」
と言った。
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と云った。
けれどもその時、宗助はただ「うん」といい加減な返事をしただけだった。
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しかしその時は宗助がただうんと云う生返事を返しただけであった。
二、三分たって、奥さんは障子のガラスに顔を寄せて、縁側で寝ている夫の姿をのぞいてみた。
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二三分して、細君は障子の硝子の所へ顔を寄せて、縁側に寝ている夫の姿を覗いて見た。
夫はどういうつもりか、両方の膝(ひざ)を曲げて、えびのように体を丸くしている。
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夫はどう云う了見か両膝を曲げて海老のように窮屈になっている。
しかも両手を組んで、その中に黒い頭を突っこんでいるので、ひじにはさまれて顔がまるで見えない。
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そうして両手を組み合わして、その中へ黒い頭を突っ込んでいるから、肱に挟まれて顔がちっとも見えない。
「あなた、そんな所で寝ると風邪(かぜ)を引きますよ」
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「あなたそんな所へ寝ると風邪引いてよ」
と奥さんが注意した。
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と細君が注意した。
奥さんの話し方は、東京のようでもあり、東京でないようでもあり、今の女学生に共通した調子を持っている。
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細君の言葉は東京のような、東京でないような、現代の女学生に共通な一種の調子を持っている。
宗助は両ひじの中で大きな目をぱちぱちさせながら、
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宗助は両肱の中で大きな眼をぱちぱちさせながら、
「寝やしない、大丈夫だ」
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「寝やせん、大丈夫だ」
と小さい声で答えた。
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と小声で答えた。
それからまた静かになった。
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それからまた静かになった。
外を通る車のベルの音が二、三度鳴ったあと、遠くでにわとりの鳴く声が聞こえた。
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外を通る護謨車のベルの音が二三度鳴った後から、遠くで鶏の時音をつくる声が聞えた。
宗助は、新しく仕立てた着物の背中に自然としみこんでくる日ざしの暖かさを、シャツの下でたっぷり味わいながら、外の音を聞くともなく聞いていた。けれども急に思い出したように、障子の向こうの奥さんを呼んで、
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宗助は仕立おろしの紡績織の背中へ、自然と浸み込んで来る光線の暖味を、襯衣の下で貪ぼるほど味いながら、表の音を聴くともなく聴いていたが、急に思い出したように、障子越しの細君を呼んで、
「御米(およね)、近来(きんらい)の近の字はどう書いたっけね」
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「御米、近来の近の字はどう書いたっけね」
とたずねた。
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と尋ねた。
奥さんは特にあきれた様子もなく、若い女の人がよく立てるような大きな笑い声も出さずに、
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細君は別に呆れた様子もなく、若い女に特有なけたたましい笑声も立てず、
「近江(おうみ)のおうの字じゃなくて」
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「近江のおうの字じゃなくって」
と答えた。
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と答えた。
「その近江のおうの字が分からないんだ」
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「その近江のおうの字が分らないんだ」
奥さんは閉めきった障子を半分ほど開けて、敷居(しきい)の外へ長い物差しを出し、その先で近の字を縁側に書いてみせて、
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細君は立て切った障子を半分ばかり開けて、敷居の外へ長い物指を出して、その先で近の字を縁側へ書いて見せて、
「こうでしょう」
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「こうでしょう」
と言ったきり、物差しの先を字の終わった所に置いたまま、すみわたった空をしばらく眺めていた。
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と云ったぎり、物指の先を、字の留った所へ置いたなり、澄み渡った空を一しきり眺め入った。
宗助は奥さんの顔も見ずに、
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宗助は細君の顔も見ずに、
「やっぱりそうか」
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「やっぱりそうか」
と言った。冗談(じょうだん)ではなかったらしく、笑いもしなかった。
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と云ったが、冗談でもなかったと見えて、別に笑もしなかった。
奥さんも近の字のことはまるで気にしない様子で、
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細君も近の字はまるで気にならない様子で、
「本当にいいお天気だわね」
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「本当に好い御天気だわね」
と半分ひとりごとのように言いながら、障子を開けたまままた針仕事を始めた。
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と半ば独り言のように云いながら、障子を開けたまままた裁縫を始めた。
すると宗助は、ひじにはさんだ頭を少し持ち上げて、
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すると宗助は肱で挟んだ頭を少し擡げて、
「どうも字というものは不思議だよ」
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「どうも字と云うものは不思議だよ」
と、初めて奥さんの顔を見た。
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と始めて細君の顔を見た。
「なぜ」
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「なぜ」
「なぜって、どんなにやさしい字でも、これは変だと思って疑い出すと分からなくなる。この間も今日(こんにち)の今の字でひどく迷った。紙にちゃんと書いてみて、じっと見ていると、何だか違うような気がする。しまいには見れば見るほど今らしくなくなってくる。――お前はそんな経験をしたことはないかい」
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「なぜって、いくら容易い字でも、こりゃ変だと思って疑ぐり出すと分らなくなる。この間も今日の今の字で大変迷った。紙の上へちゃんと書いて見て、じっと眺めていると、何だか違ったような気がする。しまいには見れば見るほど今らしくなくなって来る。――御前そんな事を経験した事はないかい」
「まさか」
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「まさか」
「おれだけかな」
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「おれだけかな」
と宗助は頭に手を当てた。
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と宗助は頭へ手を当てた。
「あなた、どうかしていらっしゃるのよ」
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「あなたどうかしていらっしゃるのよ」
「やっぱり神経が弱っているせいかもしれない」
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「やっぱり神経衰弱のせいかも知れない」
「そうよ」
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「そうよ」
と奥さんは夫の顔を見た。
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と細君は夫の顔を見た。
夫はようやく立ち上がった。
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夫はようやく立ち上った。
針箱と糸くずの上を飛び越すようにまたいで、茶の間の襖(ふすま)を開けると、すぐ座敷(ざしき)である。
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針箱と糸屑の上を飛び越すように跨いで、茶の間の襖を開けると、すぐ座敷である。
南は玄関でふさがっているので、突き当たりの障子は、日なたから急に入って来た目にはうす寒く見えた。
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南が玄関で塞がれているので、突き当りの障子が、日向から急に這入って来た眸には、うそ寒く映った。
そこを開けると、屋根に迫るような急な崖(がけ)が縁の先からそびえている。だから朝のうちは当たってもいいはずの日も、なかなか影を落とさない。
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そこを開けると、廂に逼るような勾配の崖が、縁鼻から聳えているので、朝の内は当って然るべきはずの日も容易に影を落さない。
崖には草が生えている。
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崖には草が生えている。
下から石を一段も積んでいないので、いつくずれるか分からない。けれども不思議にまだくずれたことがないそうで、そのためか家主(やぬし)も長い間、昔のままに放っている。
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下からして一側も石で畳んでないから、いつ壊れるか分らない虞があるのだけれども、不思議にまだ壊れた事がないそうで、そのためか家主も長い間昔のままにして放ってある。
もともとは一面の竹やぶだったとかで、切り開く時に根だけは掘り返さず土手の中にうめておいたから、地面は思ったよりかたく締まっていますよ、と、町内に二十年も住んでいる八百屋の主人が勝手口でわざわざ説明してくれたことがある。
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もっとも元は一面の竹藪だったとかで、それを切り開く時に根だけは掘り返さずに土堤の中に埋めて置いたから、地は存外緊っていますからねと、町内に二十年も住んでいる八百屋の爺が勝手口でわざわざ説明してくれた事がある。
その時、宗助は、でも根が残っていればまた竹が生えてやぶになりそうなものじゃないか、と聞き返してみた。
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その時宗助はだって根が残っていれば、また竹が生えて藪になりそうなものじゃないかと聞き返して見た。
すると主人は、それがですね、ああ切り開かれてしまうと、そううまくは行かないものですよ。
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すると爺は、それがね、ああ切り開かれて見ると、そう甘く行くもんじゃありませんよ。
しかし崖だけは大丈夫です。
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しかし崖だけは大丈夫です。
どんなことがあってもくずれっこはないんだから、と、まるで自分のものをかばうように力を入れて言い、帰って行った。
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どんな事があったって壊えっこはねえんだからと、あたかも自分のものを弁護でもするように力んで帰って行った。
崖は秋になっても特に色づく様子はない。
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崖は秋に入っても別に色づく様子もない。
ただ青い草のにおいがうすくなって、ふぞろいにもじゃもじゃしているだけである。
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ただ青い草の匂が褪めて、不揃にもじゃもじゃするばかりである。
すすきやつたのような風情のあるものは、まるで見当たらない。
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薄だの蔦だのと云う洒落たものに至ってはさらに見当らない。
その代わり、昔の名残の孟宗竹(もうそうちく)が中ほどに二本、上の方に三本ほど、すっと立っている。
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その代り昔の名残りの孟宗が中途に二本、上の方に三本ほどすっくりと立っている。
それが少し黄色くなって、幹に日が当たる時などは、屋根の下から首を出すと、土手の上に秋の暖かさが見えるような気持ちがする。
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それが多少黄に染まって、幹に日の射すときなぞは、軒から首を出すと、土手の上に秋の暖味を眺められるような心持がする。
宗助は朝出て四時過ぎに帰る男だから、日が短くなったこの頃は、めったに崖の上をのぞく暇がなかった。
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宗助は朝出て四時過に帰る男だから、日の詰まるこの頃は、滅多に崖の上を覗く暇を有たなかった。
暗い便所から出て、手を洗う水を手に受けながら、ふと屋根の外を見上げた時、初めて竹のことを思い出した。
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暗い便所から出て、手水鉢の水を手に受けながら、ふと廂の外を見上げた時、始めて竹の事を思い出した。
幹のてっぺんに細かい葉が集まって、まるで坊主頭のように見える。
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幹の頂に濃かな葉が集まって、まるで坊主頭のように見える。
それが秋の日に酔ったように重く下を向いて、静かに重なった葉が一枚も動かない。
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それが秋の日に酔って重く下を向いて、寂そりと重なった葉が一枚も動かない。
宗助は障子を閉めて座敷へ帰り、机の前に座った。
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宗助は障子を閉てて座敷へ帰って、机の前へ坐った。
座敷とは言っても、客を通すからそう呼ぶだけで、本当は書斎とか居間と言った方がいい部屋である。
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座敷とは云いながら客を通すからそう名づけるまでで、実は書斎とか居間とか云う方が穏当である。
北側に床(とこ)の間があるので、形だけでも変な掛け軸をかけて、その前に赤茶色の下手な花生けをかざってある。
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北側に床があるので、申訳のために変な軸を掛けて、その前に朱泥の色をした拙な花活が飾ってある。
上の欄間(らんま)には額も何もない。
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欄間には額も何もない。
ただ真鍮(しんちゅう)の折れた釘(くぎ)が二本光っているだけだ。
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ただ真鍮の折釘だけが二本光っている。
そのほかには、ガラス戸の付いた本棚が一つある。
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その他には硝子戸の張った書棚が一つある。
けれども中には、特にこれといって目立つほど立派なものも入っていない。
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けれども中には別にこれと云って目立つほどの立派なものも這入っていない。
宗助は銀の金具の付いた机の引き出しを開けて、しきりに中を調べ出したが、何も見つからないうちに、ぱたりと閉めてしまった。
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宗助は銀金具の付いた机の抽出を開けてしきりに中を検べ出したが、別に何も見つけ出さないうちに、はたりと締めてしまった。
それから硯箱(すずりばこ)のふたを取って、手紙を書き始めた。
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それから硯箱の葢を取って、手紙を書き始めた。
一通書いて封をして、少し考えたが、
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一本書いて封をして、ちょっと考えたが、
「おい、佐伯(さえき)の家は中六番町の何番地だったかね」
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「おい、佐伯のうちは中六番町何番地だったかね」
と襖の向こうの奥さんに聞いた。
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と襖越に細君に聞いた。
「二十五番地じゃなくて」
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「二十五番地じゃなくって」
と奥さんは答えたが、宗助が宛名(あてな)を書き終わる頃になって、
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と細君は答えたが、宗助が名宛を書き終る頃になって、
「手紙じゃ駄目よ、行ってよく話をして来なくちゃ」
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「手紙じゃ駄目よ、行ってよく話をして来なくっちゃ」
と付け足した。
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と付け加えた。
「まあ、駄目でも手紙を一通出しておこう。それでいけなかったら出かけるとするさ」
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「まあ、駄目までも手紙を一本出しておこう。それでいけなかったら出掛けるとするさ」
と言い切ったが、奥さんが返事をしないので、
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と云い切ったが、細君が返事をしないので、
「なあ、おい、それでいいだろう」
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「ねえ、おい、それで好いだろう」
と念を押した。
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と念を押した。
奥さんは、駄目だとも言えなかったらしく、それ以上は言い争わなかった。
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細君は悪いとも云い兼ねたと見えて、その上争いもしなかった。
宗助は手紙を持ったまま、座敷からすぐ玄関へ出た。
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宗助は郵便を持ったまま、座敷から直ぐ玄関に出た。
奥さんは夫の足音を聞いて初めて立ったが、こちらは茶の間から縁側を通って玄関へ出た。
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細君は夫の足音を聞いて始めて、座を立ったが、これは茶の間の縁伝いに玄関に出た。
「ちょっと散歩に行って来るよ」
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「ちょっと散歩に行って来るよ」
「行っていらっしゃい」
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「行っていらっしゃい」
と奥さんは笑いながら答えた。
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と細君は微笑しながら答えた。
三十分ほどして戸ががらりと開いたので、御米はまた針仕事の手を止めて縁側を通って玄関へ出てみた。すると、帰ったと思った宗助ではなく、高等学校の制帽をかぶった弟の小六(ころく)が入って来た。
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三十分ばかりして格子ががらりと開いたので、御米はまた裁縫の手をやめて、縁伝いに玄関へ出て見ると、帰ったと思う宗助の代りに、高等学校の制帽を被った、弟の小六が這入って来た。
袴(はかま)のすそが五、六寸しか出ないくらい長い、黒い羅紗(らしゃ)のマントのボタンを外しながら、
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袴の裾が五六寸しか出ないくらいの長い黒羅紗のマントの釦を外しながら、
「暑い」
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「暑い」
と言っている。
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と云っている。
「だってあんまりだわ。このお天気にそんな厚いものを着て出るなんて」
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「だって余まりだわ。この御天気にそんな厚いものを着て出るなんて」
「なに、日が暮れたら寒いだろうと思って」
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「何、日が暮れたら寒いだろうと思って」
と小六は半分言い訳をしながら、兄のお嫁さんのあとについて茶の間へ通った。けれども縫いかけの着物に目を留めて、
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と小六は云訳を半分しながら、嫂の後に跟いて、茶の間へ通ったが、縫い掛けてある着物へ眼を着けて、
「相変わらず精が出ますね」
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「相変らず精が出ますね」
と言ったきり、長火鉢(ながひばち)の前にあぐらをかいた。
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と云ったなり、長火鉢の前へ胡坐をかいた。
御米は針仕事をすみの方へ押しやって、小六の向かいへ来て、鉄瓶(てつびん)を下ろして炭をつぎ始めた。
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嫂は裁縫を隅の方へ押しやっておいて、小六の向へ来て、ちょっと鉄瓶をおろして炭を継ぎ始めた。
「お茶ならけっこうです」
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「御茶ならたくさんです」
と小六が言った。
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と小六が云った。
「嫌?」
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「厭?」
と女学生のような言い方で念を押した御米は、
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と女学生流に念を押した御米は、
「じゃ、お菓子は」
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「じゃ御菓子は」
と言って笑いかけた。
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と云って笑いかけた。
「あるんですか」
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「あるんですか」
と小六が聞いた。
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と小六が聞いた。
「いいえ、無いの」
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「いいえ、無いの」
と正直に答えたが、思い出したように、「待ってちょうだい、あるかもしれないわ」
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と正直に答えたが、思い出したように、「待ってちょうだい、あるかも知れないわ」
と言いながら立ち上がるついでに、横にあった炭入れをどけて、戸棚(とだな)を開けた。
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と云いながら立ち上がる拍子に、横にあった炭取を取り退けて、袋戸棚を開けた。
小六は御米の後ろ姿の、羽織(はおり)が帯で高くなったあたりを眺めていた。
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小六は御米の後姿の、羽織が帯で高くなった辺を眺めていた。
何を探すのか、なかなか時間がかかりそうなので、
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何を探すのだかなかなか手間が取れそうなので、
「じゃ、お菓子もやめにしましょう。それより、今日は兄さんはどうしました」
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「じゃ御菓子も廃しにしましょう。それよりか、今日は兄さんはどうしました」
と聞いた。
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と聞いた。
「兄さんは今ちょっと」
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「兄さんは今ちょいと」
と後ろを向いたまま答えて、御米はやはり戸棚の中を探している。
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と後向のまま答えて、御米はやはり戸棚の中を探している。
やがてぱたりと戸を閉めて、
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やがてぱたりと戸を締めて、
「駄目よ。いつの間にか兄さんがみんな食べてしまった」
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「駄目よ。いつの間にか兄さんがみんな食べてしまった」
と言いながら、また火鉢の向かいへ帰って来た。
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と云いながら、また火鉢の向へ帰って来た。
「じゃ、晩に何かおいしいものを作ってください」
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「じゃ晩に何か御馳走なさい」
「ええ、作るわ」
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「ええしてよ」
と柱時計を見ると、もう四時近くである。
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と柱時計を見ると、もう四時近くである。
御米は「四時、五時、六時」
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御米は「四時、五時、六時」
と時間を数えた。
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と時間を勘定した。
小六は黙って兄のお嫁さんの顔を見ていた。
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小六は黙って嫂の顔を見ていた。
彼は実は、この人の作る料理にはあまり期待していなかったのである。
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彼は実際嫂の御馳走には余り興味を持ち得なかったのである。
「姉さん、兄さんは佐伯へ行ってくれたんですかね」
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「姉さん、兄さんは佐伯へ行ってくれたんですかね」
と聞いた。
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と聞いた。
「この間から行く行くって言ってはいるのよ。だけど、兄さんも朝出て夕方に帰るんでしょう。帰るとすっかり疲れてしまって、お風呂に行くのも面倒そうなんですもの。だから、そう責めるのも本当にかわいそうよ」
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「この間から行く行くって云ってる事は云ってるのよ。だけど、兄さんも朝出て夕方に帰るんでしょう。帰ると草臥れちまって、御湯に行くのも大儀そうなんですもの。だから、そう責めるのも実際御気の毒よ」
「そりゃ兄さんも忙しいには違いないだろうけれど、僕もあれが決まらないと気になって、落ち着いて勉強もできないんだから」
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「そりゃ兄さんも忙がしいには違なかろうけれども、僕もあれがきまらないと気がかりで落ちついて勉強もできないんだから」
と言いながら、小六は真鍮の火箸(ひばし)を取って、火鉢の灰の中に何かしきりに書き出した。
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と云いながら、小六は真鍮の火箸を取って火鉢の灰の中へ何かしきりに書き出した。
御米はその動く火箸の先を見ていた。
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御米はその動く火箸の先を見ていた。
「だから、さっき手紙を出しておいたのよ」
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「だから先刻手紙を出しておいたのよ」
となぐさめるように言った。
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と慰めるように云った。
「何て」
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「何て」
「それは私もつい見なかったの。けれど、きっとあの相談よ。今に兄さんが帰って来たら聞いてご覧なさい。きっとそうよ」
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「そりゃ私もつい見なかったの。けれども、きっとあの相談よ。今に兄さんが帰って来たら聞いて御覧なさい。きっとそうよ」
「もし手紙を出したのなら、その用に違いないでしょう」
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「もし手紙を出したのなら、その用には違ないでしょう」
「ええ、本当に出したのよ。今、兄さんがその手紙を持って出しに行ったところなの」
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「ええ、本当に出したのよ。今兄さんがその手紙を持って、出しに行ったところなの」
小六は、これ以上、言い訳のようななぐさめのような兄のお嫁さんの言葉を聞きたくなかった。
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小六はこれ以上弁解のような慰藉のような嫂の言葉に耳を借したくなかった。
散歩に出る暇があるなら、手紙の代わりに自分で行ってくれたらいいのに、と思うと、あまりいい気持ちではなかった。
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散歩に出る閑があるなら、手紙の代りに自分で足を運んでくれたらよさそうなものだと思うと余り好い心持でもなかった。
座敷へ来て、本棚から赤い表紙の外国の本を出して、あちこちのページをめくって見ていた。
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座敷へ来て、書棚の中から赤い表紙の洋書を出して、方々頁を剥って見ていた。
二
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二
そんなことに気がつかない宗助は、町の角まで来て、切手と「敷島」
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そこに気のつかなかった宗助は、町の角まで来て、切手と「敷島」
という名前のたばこを同じ店で買った。手紙はすぐ出したが、そのまま同じ道を戻るのが何だか物足りない。それでたばこの煙を秋の日にゆらしながら、ぶらぶら歩いているうちに、どこか遠くへ行ってみたくなった。東京というのはこういう所だという印象をはっきり頭に刻みつけて、それを今日の日曜のみやげにして家に帰って寝よう、という気になったのである。
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を同じ店で買って、郵便だけはすぐ出したが、その足でまた同じ道を戻るのが何だか不足だったので、啣え煙草の煙を秋の日に揺つかせながら、ぶらぶら歩いているうちに、どこか遠くへ行って、東京と云う所はこんな所だと云う印象をはっきり頭の中へ刻みつけて、そうしてそれを今日の日曜の土産に家へ帰って寝ようと云う気になった。
彼は長い間東京の空気を吸って生きてきた男である。しかも毎日、役所の行き帰りに電車を使い、賑(にぎ)やかな町を二度は必ず通っている。けれども体も頭もゆとりがないので、いつもぼんやりしたまま通り過ぎてしまう。だから、自分がその賑やかな町の中で生きているという気持ちは、近ごろまるで起こったことがない。
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彼は年来東京の空気を吸って生きている男であるのみならず、毎日役所の行通には電車を利用して、賑やかな町を二度ずつはきっと往ったり来たりする習慣になっているのではあるが、身体と頭に楽がないので、いつでも上の空で素通りをする事になっているから、自分がその賑やかな町の中に活きていると云う自覚は近来とんと起った事がない。
普段は忙しさに追われて特に気にもならない。けれども七日に一度の休みが来て、心がゆっくり落ち着ける時になると、普段の生活が急にそわそわした落ち着かないものに見えてくる。
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もっとも平生は忙がしさに追われて、別段気にも掛からないが、七日に一返の休日が来て、心がゆったりと落ちつける機会に出逢うと、不断の生活が急にそわそわした上調子に見えて来る。
つまり、自分は東京の中に住みながら、まだ東京というものを見たことがないのだ。そういう結論に行き着くと、彼はいつも妙な物寂しさを感じるのである。
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必竟自分は東京の中に住みながら、ついまだ東京というものを見た事がないんだという結論に到着すると、彼はそこにいつも妙な物淋しさを感ずるのである。
そういう時には、彼は急に思い出したように町へ出る。
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そう云う時には彼は急に思い出したように町へ出る。
その上、少しでもお金にゆとりがあると、これで一つ派手に遊んでみようかと考えることもある。
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その上懐に多少余裕でもあると、これで一つ豪遊でもしてみようかと考える事もある。
けれども彼の寂しさは、思い切ったことをさせるほど強いものではない。だからそこまで進む前に、それも馬鹿らしくなってやめてしまう。
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けれども彼の淋しみは、彼を思い切った極端に駆り去るほどに、強烈の程度なものでないから、彼がそこまで猛進する前に、それも馬鹿馬鹿しくなってやめてしまう。
それだけではない。こういう人によくあることで、財布の中身はいつも、無駄使いを止めるくらいしか入っていない。だから面倒な工夫をするより、手を懐(ふところ)に入れてぶらりと家へ帰る方が楽になる。
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のみならず、こんな人の常態として、紙入の底が大抵の場合には、軽挙を戒める程度内に膨らんでいるので、億劫な工夫を凝らすよりも、懐手をして、ぶらりと家へ帰る方が、つい楽になる。
だから宗助の寂しさは、ただの散歩か、勧工場(かんこうば。今のデパートのような店)の見物くらいで、次の日曜まではどうにかなぐさめられるのである。
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だから宗助の淋しみは単なる散歩か勧工場縦覧ぐらいなところで、次の日曜まではどうかこうか慰藉されるのである。
この日も宗助は、とにかく、と思って電車に乗った。
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この日も宗助はともかくもと思って電車へ乗った。
ところが日曜のいい天気なのに、いつもより乗客が少ないので、めずらしく乗り心地がよかった。
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ところが日曜の好天気にもかかわらず、平常よりは乗客が少ないので例になく乗心地が好かった。
その上、乗客がみんな穏やかな顔をして、どれもゆったり落ち着いているように見えた。
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その上乗客がみんな平和な顔をして、どれもこれも悠たりと落ちついているように見えた。
宗助は席に座りながら、毎朝決まった時刻に、先を争って席を取り合いながら丸の内の方へ向かう自分の運命を振り返った。
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宗助は腰を掛けながら、毎朝例刻に先を争って席を奪い合いながら、丸の内方面へ向う自分の運命を顧みた。
出勤の時刻の電車の乗り合わせほど、味気ないものはない。
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出勤刻限の電車の道伴ほど殺風景なものはない。
つり革にぶら下がっていても、ビロードの席に座っていても、人間らしい優しい気持ちが起こったことは、今まで一度もない。
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革にぶら下がるにしても、天鵞絨に腰を掛けるにしても、人間的な優しい心持の起った試はいまだかつてない。
自分もそれで十分だと思って、まるで機械と膝を突き合わせ、肩を並べているように、行きたい所まで同じ席にいて、ふいに降りてしまうだけだった。
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自分もそれでたくさんだと考えて、器械か何ぞと膝を突き合せ肩を並べたかのごとくに、行きたい所まで同席して不意と下りてしまうだけであった。
前の席の年配の女の人が、八つくらいの孫娘の耳もとで何か言っている。それをそばで見ていた三十くらいの、お店のおかみさんらしい女の人が、可愛らしがって年を聞いたり名前をたずねたりしている。それを眺めていると、今さらのように別の世界へ来たような気持ちがした。
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前の御婆さんが八つぐらいになる孫娘の耳の所へ口を付けて何か云っているのを、傍に見ていた三十恰好の商家の御神さんらしいのが、可愛らしがって、年を聞いたり名を尋ねたりするところを眺めていると、今更ながら別の世界に来たような心持がした。
頭の上には、広告が一面に枠(わく)に入れて掛けてあった。
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頭の上には広告が一面に枠に嵌めて掛けてあった。
宗助は普段はこれにさえ気がつかなかった。
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宗助は平生これにさえ気がつかなかった。
何ということもなく一番目のを読んでみると、引っ越しは簡単にできますという引っ越し会社のちらしだった。
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何心なしに一番目のを読んで見ると、引越は容易にできますと云う移転会社の引札であった。
その次には、お金を大事にする人は、健康に気をつける人は、火の用心をしたい人は、と三行に並べて、そのあとにガス釜(がま)を使えと書き、ガス釜から火の出ている絵まで添えてあった。
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その次には経済を心得る人は、衛生に注意する人は、火の用心を好むものは、と三行に並べておいてその後に瓦斯竈を使えと書いて、瓦斯竈から火の出ている画まで添えてあった。
三番目には、ロシアの有名な作家トルストイの傑作「千古の雪」
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三番目には露国文豪トルストイ伯傑作「千古の雪」
というのと、バンカラ喜劇・小辰大一座というのが、赤地に白で染め抜いてあった。
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と云うのと、バンカラ喜劇小辰大一座と云うのが、赤地に白で染め抜いてあった。
宗助は十分ほどかけて、すべての広告を丁寧に三度ほど読み直した。
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宗助は約十分もかかって、すべての広告を丁寧に三返ほど読み直した。
行ってみたいものも買いたいものもなかった。ただ、これらの広告がはっきり頭に映り、それを一つ一つ読み終えるだけの時間があったこと、そしてそれをすっかり分かるだけの心のゆとりがあったことが、宗助を少なからず満足させた。
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別に行って見ようと思うものも、買って見たいと思うものも無かったが、ただこれらの広告が判然と自分の頭に映って、そうしてそれを一々読み終せた時間のあった事と、それをことごとく理解し得たと云う心の余裕が、宗助には少なからぬ満足を与えた。
彼の生活は、これくらいのゆとりにさえ誇りを感じるほど、日曜以外の行き帰りには落ち着いていられないものだった。
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彼の生活はこれほどの余裕にすら誇りを感ずるほどに、日曜以外の出入りには、落ちついていられないものであった。
宗助は駿河台下(するがだいした)で電車を降りた。
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宗助は駿河台下で電車を降りた。
降りるとすぐ、右側の窓ガラスの中に美しく並んだ外国の本に目が留まった。
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降りるとすぐ右側の窓硝子の中に美しく並べてある洋書に眼がついた。
宗助はしばらくその前に立って、赤や青や縞(しま)や模様の上に、鮮やかに押された金色の文字を眺めた。
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宗助はしばらくその前に立って、赤や青や縞や模様の上に、鮮かに叩き込んである金文字を眺めた。
題名の意味はもちろん分かるが、手に取って中を調べてみようという気はまるで起こらなかった。
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表題の意味は無論解るが、手に取って、中を検べて見ようという好奇心はちっとも起らなかった。
本屋の前を通ると必ず中へ入りたくなったり、中へ入ると必ず何か欲しくなったりするのは、宗助にとってはもう一昔前の生活である。
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本屋の前を通ると、きっと中へ這入って見たくなったり、中へ這入ると必ず何か欲しくなったりするのは、宗助から云うと、すでに一昔し前の生活である。
ただ「ヒストリ・オブ・ガムブリング(かけごとの歴史)」という本が、わざわざ美しく飾られて一番真ん中に置いてあったので、それが少しだけ彼の頭に思いがけない新しさを加えただけだった。
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ただ History of Gambling(博奕史)と云うのが、ことさらに美装して、一番真中に飾られてあったので、それが幾分か彼の頭に突飛な新し味を加えただけであった。
宗助は笑いながら、忙しい通りを向かい側へ渡って、今度は時計屋の店をのぞきこんだ。
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宗助は微笑しながら、急忙しい通りを向側へ渡って、今度は時計屋の店を覗き込んだ。
金の時計や金の鎖(くさり)がいくつも並べてあるが、これもただ美しい色や形として彼の目に映るだけで、買いたい気持ちにはならなかった。
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金時計だの金鎖が幾つも並べてあるが、これもただ美しい色や恰好として、彼の眸に映るだけで、買いたい了簡を誘致するには至らなかった。
それでも彼は、一つ一つ絹糸で吊るした値札を読んで、品物と見比べてみた。
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その癖彼は一々絹糸で釣るした価格札を読んで、品物と見較べて見た。
そうして、金の時計が思ったより安いのに驚いた。
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そうして実際金時計の安価なのに驚ろいた。
洋傘(ようがさ)屋の前にもちょっと立ち止まった。
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蝙蝠傘屋の前にもちょっと立ちどまった。
西洋の小物を売る店先では、シルクハットの脇に掛けてあったネクタイに目が留まった。
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西洋小間物を売る店先では、礼帽の傍にかけてあった襟飾りに眼がついた。
自分が毎日締めているのよりずっと柄(がら)がよかったので、値段を聞いてみようかと思って半分店の中へ入りかけた。けれども、明日からネクタイを替えたところでつまらないと思い直すと、急に財布を開けるのが嫌になって行き過ぎた。
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自分の毎日かけているのよりも大変柄が好かったので、価を聞いてみようかと思って、半分店の中へ這入りかけたが、明日から襟飾りなどをかけ替えたところが下らない事だと思い直すと、急に蟇口の口を開けるのが厭になって行き過ぎた。
呉服(ごふく)屋でもだいぶ立ち止まって見た。
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呉服店でもだいぶ立見をした。
鶉御召(うずらおめし)だの、高貴織(こうきおり)だの、清凌織(せいりょうおり)だの、今日まで知らなかった布の名前をたくさん覚えた。
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鶉御召だの、高貴織だの、清凌織だの、自分の今日まで知らずに過ぎた名をたくさん覚えた。
京都の襟新(えりしん)という店の出店の前では、窓ガラスに帽子のつばが当たるほど近く寄って、細かく刺繍(ししゅう)をした女の人用の半襟(はんえり)をいつまでも眺めていた。
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京都の襟新と云う家の出店の前で、窓硝子へ帽子の鍔を突きつけるように近く寄せて、精巧に刺繍をした女の半襟を、いつまでも眺めていた。
そのうちに、ちょうど奥さんに似合いそうな上品なものがあった。
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その中にちょうど細君に似合いそうな上品なのがあった。
買って行ってやろうかという気がちょっと起こると、すぐに、それは五、六年前のことだという考えが出て来て、せっかくのいい思いつきを消してしまった。
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買って行ってやろうかという気がちょっと起るや否や、そりゃ五六年前の事だと云う考が後から出て来て、せっかく心持の好い思いつきをすぐ揉み消してしまった。
宗助は苦笑いしながら窓ガラスを離れてまた歩き出した。それから半町ほどの間は何だかつまらない気分で、通りにも店先にも目を向けなかった。
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宗助は苦笑しながら窓硝子を離れてまた歩き出したが、それから半町ほどの間は何だかつまらないような気分がして、往来にも店先にも格段の注意を払わなかった。
ふと気がつくと、角に大きな雑誌の店があって、その軒先には新しい本が大きな字で広告してある。
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ふと気がついて見ると角に大きな雑誌屋があって、その軒先には新刊の書物が大きな字で広告してある。
はしごのような細長い枠に紙を張ったり、ペンキを塗った板に模様のような色をつけたりしてある。
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梯子のような細長い枠へ紙を張ったり、ペンキ塗の一枚板へ模様画みたような色彩を施こしたりしてある。
宗助はそれを一つ一つ読んだ。
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宗助はそれを一々読んだ。
作者の名前も作品の名前も、一度は新聞の広告で見たようでもあり、まるで初めてのようでもあった。
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著者の名前も作物の名前も、一度は新聞の広告で見たようでもあり、また全く新奇のようでもあった。
この店の曲がり角の陰になった所で、黒い山高帽(やまたかぼう)をかぶった三十くらいの男が、地面に気楽そうにあぐらをかいて、ええ、お子さまのお楽しみ、と言いながら大きなゴム風船をふくらませている。
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この店の曲り角の影になった所で、黒い山高帽を被った三十ぐらいの男が地面の上へ気楽そうに胡坐をかいて、ええ御子供衆の御慰みと云いながら、大きな護謨風船を膨らましている。
それがふくらむと自然と達磨(だるま)の形になり、いい加減な所に目や口まで墨で書いてあるのに宗助は感心した。
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それが膨れると自然と達磨の恰好になって、好加減な所に眼口まで墨で書いてあるのに宗助は感心した。
その上、一度息を入れるといつまでもふくらんでいる。
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その上一度息を入れると、いつまでも膨れている。
しかも指の先でも手のひらの上でも、自由に立つ。
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かつ指の先へでも、手の平の上へでも自由に尻が据る。
それが、下の穴に楊枝(ようじ)のような細いものを突っこむと、しゅうっと一度に縮んでしまう。
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それが尻の穴へ楊枝のような細いものを突っ込むとしゅうっと一度に収縮してしまう。
忙しい通行人は何人も通るが、誰も立ち止まって見る者はいない。
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忙がしい往来の人は何人でも通るが、誰も立ちどまって見るほどのものはない。
山高帽の男は賑やかな町の隅で平気であぐらをかいて、自分の周りで何が起きているかまるで気にしない様子で、ええ、お子さまのお楽しみ、と言っては達磨をふくらませている。
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山高帽の男は賑やかな町の隅に、冷やかに胡坐をかいて、身の周囲に何事が起りつつあるかを感ぜざるもののごとくに、ええ御子供衆の御慰みと云っては、達磨を膨らましている。
宗助は一銭五厘出してその風船を一つ買い、しゅっと縮ませてもらって、それを袂(たもと)に入れた。
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宗助は一銭五厘出して、その風船を一つ買って、しゅっと縮ましてもらって、それを袂へ入れた。
きれいな床屋へ行って髪を刈りたくなったが、どこにそんなきれいな店があるか見つからないうちに日が傾いてきたので、また電車に乗って家の方へ向かった。
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奇麗な床屋へ行って、髪を刈りたくなったが、どこにそんな奇麗なのがあるか、ちょっと見つからないうちに、日が限って来たので、また電車へ乗って、宅の方へ向った。
宗助が電車の終点まで来て運転手に切符を渡した時には、もう空の色が光を失いかけて、湿った通りに暗い影が濃くなる頃だった。
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宗助が電車の終点まで来て、運転手に切符を渡した時には、もう空の色が光を失いかけて、湿った往来に、暗い影が射し募る頃であった。
降りようとして鉄の柱をつかんだら、急に寒い気持ちがした。
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降りようとして、鉄の柱を握ったら、急に寒い心持がした。
いっしょに降りた人はみんな離れ離れになって、用事があり気に忙しく歩いて行く。
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いっしょに降りた人は、皆な離れ離れになって、事あり気に忙がしく歩いて行く。
町のはずれを見ると、左右の家の軒から屋根にかけて、白っぽい煙が空気の中で動いているように見える。
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町のはずれを見ると、左右の家の軒から家根へかけて、仄白い煙りが大気の中に動いているように見える。
宗助も木の多い方へ向かって早足で歩いた。
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宗助も樹の多い方角に向いて早足に歩を移した。
今日の日曜も、のんびりした天気も、もうおしまいだと思うと、少しはかないような、寂しいような気分になってきた。
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今日の日曜も、暢びりした御天気も、もうすでにおしまいだと思うと、少しはかないようなまた淋しいような一種の気分が起って来た。
そして明日からまた同じようにせっせと働かなくてはならない身だと考えると、今日の半日が急に惜しくなった。残りの六日半の、心の潤いのない暮らしが、いかにもつまらなく感じられた。
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そうして明日からまた例によって例のごとく、せっせと働らかなくてはならない身体だと考えると、今日半日の生活が急に惜しくなって、残る六日半の非精神的な行動が、いかにもつまらなく感ぜられた。
歩いているうちにも、日当たりの悪い、窓の少ない大きな部屋の様子や、隣に座っている同僚の顔や、野中さんちょっと、と呼ぶ上役の姿ばかりが目に浮かんだ。
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歩いているうちにも、日当の悪い、窓の乏しい、大きな部屋の模様や、隣りに坐っている同僚の顔や、野中さんちょっとと云う上官の様子ばかりが眼に浮かんだ。
魚勝(うおかつ)という魚屋の前を通り越して、その五、六軒先の、路地とも横丁ともつかない所を曲がると、突き当たりが高い崖だった。その左右に四、五軒、同じ造りの貸家が並んでいる。
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魚勝と云う肴屋の前を通り越して、その五六軒先の露次とも横丁ともつかない所を曲ると、行き当りが高い崖で、その左右に四五軒同じ構の貸家が並んでいる。
つい先ごろまでは、まばらな杉垣の奥に、昔の武士でも住み古したような古びた家も一つこの土地の中に混じっていた。けれども崖の上の坂井(さかい)という人がここを買ってから、すぐに茅葺(かやぶ)きの屋根を壊し、杉垣を抜いて、今のような新しい家に建て替えてしまった。
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ついこの間までは疎らな杉垣の奥に、御家人でも住み古したと思われる、物寂た家も一つ地所のうちに混っていたが、崖の上の坂井という人がここを買ってから、たちまち萱葺を壊して、杉垣を引き抜いて、今のような新らしい普請に建て易えてしまった。
宗助の家は横丁の突き当たり、一番奥の左側で、すぐ崖の下だから少し暗い。けれどもその代わり通りから一番離れているので、まあ少しは静かだろうというので、奥さんと相談してわざわざそこを選んだのである。
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宗助の家は横丁を突き当って、一番奥の左側で、すぐの崖下だから、多少陰気ではあるが、その代り通りからはもっとも隔っているだけに、まあ幾分か閑静だろうと云うので、細君と相談の上、とくにそこを択んだのである。
宗助は、七日に一度の日曜ももう暮れかかったので、早くお風呂に入って、暇があったら髪を刈って、それからゆっくり晩ご飯を食べようと思い、急いで戸を開けた。
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宗助は七日に一返の日曜ももう暮れかかったので、早く湯にでも入って、暇があったら髪でも刈って、そうして緩くり晩食を食おうと思って、急いで格子を開けた。
台所の方で皿や小鉢の音がする。
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台所の方で皿小鉢の音がする。
上がろうとした時、小六の脱ぎ捨てた下駄の上に、気がつかずに足を乗せた。
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上がろうとする拍子に、小六の脱ぎ棄てた下駄の上へ、気がつかずに足を乗せた。
かがんで下駄の向きを直しているところへ、小六が出て来た。
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曲んで位置を調えているところへ小六が出て来た。
台所の方で御米が、
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台所の方で御米が、
「誰? 兄さん?」
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「誰? 兄さん?」
と聞いた。
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と聞いた。
宗助は、
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宗助は、
「やあ、来ていたのか」
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「やあ、来ていたのか」
と言いながら座敷へ上がった。
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と云いながら座敷へ上った。
さっき手紙を出してから、神田を散歩して、電車を降りて家へ帰るまで、宗助の頭には小六のことがまるで浮かばなかった。
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先刻郵便を出してから、神田を散歩して、電車を降りて家へ帰るまで、宗助の頭には小六の小の字も閃めかなかった。
宗助は小六の顔を見た時、何となく悪いことでもしたようで、きまりが悪かった。
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宗助は小六の顔を見た時、何となく悪い事でもしたようにきまりが好くなかった。
「御米、御米」
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「御米、御米」
と奥さんを台所から呼んで、
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と細君を台所から呼んで、
「小六が来たんだから、何かおいしいものを作るといい」
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「小六が来たから、何か御馳走でもするが好い」
と言いつけた。
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と云いつけた。
奥さんは忙しそうに台所の障子を開けたまま出て来て、座敷の入口に立っていた。けれども、この言われなくても分かっている注意を聞くとすぐ、
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細君は、忙がしそうに、台所の障子を開け放したまま出て来て、座敷の入口に立っていたが、この分り切った注意を聞くや否や、
「ええ、今すぐ」
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「ええ今直」
と言って戻ろうとしたが、また引き返して来て、
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と云ったなり、引き返そうとしたが、また戻って来て、
「その代わり小六さん、悪いけれど、座敷の戸を閉めてランプを点けてちょうだい。今、私も清(きよ)も手が放せないところだから」
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「その代り小六さん、憚り様。座敷の戸を閉てて、洋灯を点けてちょうだい。今私も清も手が放せないところだから」
と頼んだ。
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と依頼んだ。
小六は短く、
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小六は簡単に、
「はい」
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「はあ」
と言って立ち上がった。
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と云って立ち上がった。
台所では清が物を刻む音がする。
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勝手では清が物を刻む音がする。
湯か水をざあっと流しへ空ける音がする。
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湯か水をざあと流しへ空ける音がする。
「奥様、これはどちらへ移します」
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「奥様これはどちらへ移します」
という声がする。
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と云う声がする。
「姉さん、ランプの芯(しん)を切る鋏(はさみ)はどこにあるんですか」
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「姉さん、ランプの心を剪る鋏はどこにあるんですか」
という小六の声がする。
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と云う小六の声がする。
しゅうっと湯があふれて、七輪(しちりん)の火にかかった様子である。
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しゅうと湯が沸って七輪の火へかかった様子である。
宗助は暗い座敷の中で黙って、小さな火鉢に手をかざしていた。
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宗助は暗い座敷の中で黙然と手焙へ手を翳していた。
灰の上に出た火のかたまりだけが赤く色づいて見えた。
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灰の上に出た火の塊まりだけが色づいて赤く見えた。
その時、裏の崖の上の、家主の家のお嬢さんがピアノを鳴らし出した。
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その時裏の崖の上の家主の家の御嬢さんがピヤノを鳴らし出した。
宗助は思い出したように立ち上がって、座敷の雨戸を閉めに縁側へ出た。
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宗助は思い出したように立ち上がって、座敷の雨戸を引きに縁側へ出た。
孟宗竹が黒っぽく空の色をさえぎっている上に、一つ二つの星が光った。
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孟宗竹が薄黒く空の色を乱す上に、一つ二つの星が燦めいた。
ピアノの音は孟宗竹の後ろから響いた。
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ピヤノの音は孟宗竹の後から響いた。
三
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三
宗助と小六が手拭いを下げてお風呂から帰って来た時には、座敷の真ん中に四角い食卓を置いて、御米の作った料理が手際よくその上に並べてあった。
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宗助と小六が手拭を下げて、風呂から帰って来た時は、座敷の真中に真四角な食卓を据えて、御米の手料理が手際よくその上に並べてあった。
小さな火鉢の火も、出かける時より赤く燃えていた。
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手焙の火も出がけよりは濃い色に燃えていた。
ランプも明るかった。
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洋灯も明るかった。
宗助が机の前の座布団を引き寄せて楽々とあぐらをかいた時、手拭いと石鹸を受け取った御米は、
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宗助が机の前の座蒲団を引き寄せて、その上に楽々と胡坐を掻いた時、手拭と石鹸を受取った御米は、
「いいお湯だった?」
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「好い御湯だった事?」
と聞いた。
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と聞いた。
宗助はただ一言、
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宗助はただ一言、
「うん」
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「うん」
と答えただけだった。けれどもその様子は、そっけないというより、湯上がりで心がゆるんだように見えた。
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と答えただけであったが、その様子は素気ないと云うよりも、むしろ湯上りで、精神が弛緩した気味に見えた。
「なかなかいい湯でした」
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「なかなか好い湯でした」
と小六が御米の方を見て調子を合わせた。
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と小六が御米の方を見て調子を合せた。
「しかし、あんなに混んじゃたまらないよ」
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「しかしああ込んじゃ溜らないよ」
と宗助が机の端にひじをもたせながら、だるそうに言った。
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と宗助が机の端へ肱を持たせながら、倦怠るそうに云った。
宗助がお風呂に行くのはいつも役所が終わって家へ帰ってからだから、ちょうど人が混み合う夕飯前の夕暮れどきである。
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宗助が風呂に行くのは、いつでも役所が退けて、家へ帰ってからの事だから、ちょうど人の立て込む夕食前の黄昏である。
彼はこの二、三か月の間、一度も日の光にすかして湯の色を眺めたことがない。
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彼はこの二三カ月間ついぞ、日の光に透かして湯の色を眺めた事がない。
それならまだしも、ともすると三日も四日も、まるでお風呂屋に行かずに過ごしてしまう。
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それならまだしもだが、ややともすると三日も四日もまるで銭湯の敷居を跨がずに過してしまう。
日曜になったら朝早く起きて、まずきれいなお湯に首まで浸かってみよう、と普段は考えている。けれども日曜が来てみると、たまにゆっくり寝られるのは今日だけじゃないかという気になって、つい布団の中でぐずぐずしているうちに時間が過ぎてしまう。ええ面倒だ、今日はやめにして、その代わり今度の日曜に行こう、と思い直すのが、もう癖のようになっている。
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日曜になったら、朝早く起きて何よりも第一に奇麗な湯に首だけ浸ってみようと、常は考えているが、さてその日曜が来て見ると、たまに悠くり寝られるのは、今日ばかりじゃないかと云う気になって、つい床のうちでぐずぐずしているうちに、時間が遠慮なく過ぎて、ええ面倒だ、今日はやめにして、その代り今度の日曜に行こうと思い直すのが、ほとんど惰性のようになっている。
「どうにかして、朝のお風呂にだけは行きたいね」
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「どうかして、朝湯にだけは行きたいね」
と宗助が言った。
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と宗助が云った。
「そのくせ朝のお風呂に行ける日は、きっと寝坊なさるのね」
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「その癖朝湯に行ける日は、きっと寝坊なさるのね」
と奥さんはからかうような言い方をした。
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と細君は調戯うような口調であった。
小六は心の中で、これが兄の生まれつきの弱いところだと思い込んでいた。
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小六は腹の中でこれが兄の性来の弱点であると思い込んでいた。
彼は自分も学校に通っているのに、兄にとって日曜がどれほど大事かを分かってやれなかった。
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彼は自分で学校生活をしているにもかかわらず、兄の日曜が、いかに兄にとって貴といかを会得できなかった。
六日間の暗い気持ちの働きを、この一日で暖かく取り戻そうと、兄は多くの望みを二十四時間の中に投げ込んでいる。
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六日間の暗い精神作用を、ただこの一日で暖かに回復すべく、兄は多くの希望を二十四時間のうちに投げ込んでいる。
だからやりたいことがあり過ぎて、十のうち二つ三つもできない。
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だからやりたい事があり過ぎて、十の二三も実行できない。
いや、その二つ三つにしても、いざやり出すと、かえってそのために使う時間の方が惜しくなって、つい手を引っ込めてしまう。そうしてじっとしているうちに、日曜はいつか暮れてしまうのである。
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否、その二三にしろ進んで実行にかかると、かえってそのために費やす時間の方が惜しくなって来て、ついまた手を引込めて、じっとしているうちに日曜はいつか暮れてしまうのである。
自分の気晴らしや休養や、楽しみや好きなことについてさえ、これほど切り詰めなければならない立場にいる宗助が、小六のために動いてくれないのは、動く気がないのではなく、そこまで考える余裕が頭にないのだ。そのことが、小六にはどうしても分からなかった。
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自分の気晴しや保養や、娯楽もしくは好尚についてですら、かように節倹しなければならない境遇にある宗助が、小六のために尽さないのは、尽さないのではない、頭に尽す余裕のないのだとは、小六から見ると、どうしても受取れなかった。
兄はただ勝手な男で、暇があればぶらぶらして奥さんと遊んでばかりいて、まるで頼りにも力にもなってくれない、本当は情の薄い人だ、くらいに考えていた。
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兄はただ手前勝手な男で、暇があればぶらぶらして細君と遊んでばかりいて、いっこう頼りにも力にもなってくれない、真底は情合に薄い人だぐらいに考えていた。
けれども小六がそう感じ出したのはつい近ごろのことで、実を言えば佐伯とのやり取りが始まってからの話である。
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けれども、小六がそう感じ出したのは、つい近頃の事で、実を云うと、佐伯との交渉が始まって以来の話である。
年が若いだけに何でも急ぎたい小六は、兄に頼めば今日明日にも片がつくものと思い込んでいた。それがいつまでも決まらないばかりか、まだ相手の家へ出かけてもくれないので、だいぶ不満になったのである。
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年の若いだけ、すべてに性急な小六は、兄に頼めば今日明日にも方がつくものと、思い込んでいたのに、何日までも埒が明かないのみか、まだ先方へ出かけてもくれないので、だいぶ不平になったのである。
ところが今日、帰りを待って会ってみると、そこは兄弟である。お世辞など使わなくてもどこか暖かい思いやりが見えるので、つい言いたいことも後回しにして、いっしょにお風呂に入ったりして、穏やかに打ち解けて話せるようになってきた。
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ところが今日帰りを待ち受けて逢って見ると、そこが兄弟で、別に御世辞も使わないうちに、どこか暖味のある仕打も見えるので、つい云いたい事も後廻しにして、いっしょに湯になんぞ這入って、穏やかに打ち解けて話せるようになって来た。
兄弟はくつろいで食事の席についた。
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兄弟は寛ろいで膳についた。
御米も遠慮なく食卓のすみに座った。
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御米も遠慮なく食卓の一隅を領した。
宗助も小六も、小さな杯で二、三杯ずつお酒を飲んだ。
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宗助も小六も猪口を二三杯ずつ干した。
ご飯にかかる前に、宗助は笑いながら、
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飯にかかる前に、宗助は笑いながら、
「そうだ、面白いものがあったっけ」
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「うん、面白いものが有ったっけ」
と言いながら、袂から買って来たゴム風船の達磨を出して、大きくふくらませてみせた。
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と云いながら、袂から買って来た護謨風船の達磨を出して、大きく膨らませて見せた。
そしてそれをお椀のふたの上に載せて、その面白さを説明して聞かせた。
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そうして、それを椀の葢の上へ載せて、その特色を説明して聞かせた。
御米も小六も面白がって、ふわふわした玉を見ていた。
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御米も小六も面白がって、ふわふわした玉を見ていた。
しまいに小六がふうっと吹いたら、達磨は食卓から畳の上へ落ちた。
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しまいに小六が、ふうっと吹いたら達磨は膳の上から畳の上へ落ちた。
それでもまだ倒れなかった。
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それでも、まだ覆らなかった。
「それご覧」
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「それ御覧」
と宗助が言った。
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と宗助が云った。
御米は声を出して笑ったが、お櫃(ひつ)のふたを開けて夫のご飯をよそいながら、
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御米は女だけに声を出して笑ったが、御櫃の葢を開けて、夫の飯を盛いながら、
「兄さんもずいぶんのんきね」
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「兄さんも随分呑気ね」
と小六の方を向いて、半分は夫をかばうように言った。
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と小六の方を向いて、半ば夫を弁護するように云った。
宗助は奥さんから茶碗を受け取って、何も言い返さずに食事を始めた。
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宗助は細君から茶碗を受取って、一言の弁解もなく食事を始めた。
小六もきちんと箸を取った。
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小六も正式に箸を取り上げた。
達磨のことはそれきり話に出なかったが、これがきっかけになって、三人はご飯が済むまで楽しくのんびりした話を続けた。
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達磨はそれぎり話題に上らなかったが、これが緒になって、三人は飯の済むまで無邪気に長閑な話をつづけた。
しまいに小六が話を変えて、
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しまいに小六が気を換えて、
「ところで、伊藤さんもとんだことになりましたね」
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「時に伊藤さんもとんだ事になりましたね」
と言い出した。
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と云い出した。
宗助は五、六日前に伊藤(いとう)公が殺されたことを伝える号外を見た時、御米の働いている台所へ出て来て、「おい、大変だ、伊藤さんが殺された」
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宗助は五六日前伊藤公暗殺の号外を見たとき、御米の働いている台所へ出て来て、「おい大変だ、伊藤さんが殺された」
と言い、手に持った号外を御米のエプロンの上に置いたまま書斎へ入った。けれどもその言い方は、むしろ落ち着いたものだった。
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と云って、手に持った号外を御米のエプロンの上に乗せたなり書斎へ這入ったが、その語気からいうと、むしろ落ちついたものであった。
「あなた、大変だって言うくせに、ちっとも大変らしい声じゃなくてよ」
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「あなた大変だって云う癖に、ちっとも大変らしい声じゃなくってよ」
と御米があとから冗談半分にわざわざ注意したくらいである。
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と御米が後から冗談半分にわざわざ注意したくらいである。
その後、毎日の新聞に伊藤公のことが五、六段ずつ出ない日はない。けれども宗助はそれを読んでいるのかいないのか分からないほど、この事件について平気に見えた。
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その後日ごとの新聞に伊藤公の事が五六段ずつ出ない事はないが、宗助はそれに目を通しているんだか、いないんだか分らないほど、暗殺事件については平気に見えた。
夜帰って来て、御米がご飯の給仕をする時などに、「今日も伊藤さんのことが何か出ていて」
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夜帰って来て、御米が飯の御給仕をするときなどに、「今日も伊藤さんの事が何か出ていて」
と聞くことがあるが、その時には「うん、だいぶ出ている」
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と聞く事があるが、その時には「うんだいぶ出ている」
と答えるくらいである。だから夫のポケットに畳んである今朝の読み終わった新聞をあとから出して読まないと、その日の記事は分からなかった。
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と答えるぐらいだから、夫の隠袋の中に畳んである今朝の読殻を、後から出して読んで見ないと、その日の記事は分らなかった。
御米も結局は、夫が帰ったあとの話の材料として伊藤公を持ち出すくらいのつもりだから、宗助の気の進まない方へ無理に話を引っ張りたくはなかった。
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御米もつまりは夫が帰宅後の会話の材料として、伊藤公を引合に出すぐらいのところだから、宗助が進まない方向へは、たって話を引張りたくはなかった。
それでこの二人の間では、号外が出た日から、今夜小六が言い出すまで、世間を大きく動かしている問題も、特別な興味を持たれてはいなかったのである。
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それでこの二人の間には、号外発行の当日以後、今夜小六がそれを云い出したまでは、公けには天下を動かしつつある問題も、格別の興味をもって迎えられていなかったのである。
「どうして、まあ殺されたんでしょう」
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「どうして、まあ殺されたんでしょう」
と御米は、号外を見た時に宗助に聞いたのと同じことを、また小六に向かって聞いた。
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と御米は号外を見たとき、宗助に聞いたと同じ事をまた小六に向って聞いた。
「ピストルをポンポン続けて撃ったのが当たったんです」
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「短銃をポンポン連発したのが命中したんです」
と小六は正直に答えた。
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と小六は正直に答えた。
「だけどさ。どうして、まあ殺されたんでしょう」
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「だけどさ。どうして、まあ殺されたんでしょう」
小六は分からないという顔をしている。
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小六は要領を得ないような顔をしている。
宗助は落ち着いた調子で、
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宗助は落ちついた調子で、
「やっぱり運命だなあ」
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「やっぱり運命だなあ」
と言って、茶碗のお茶をうまそうに飲んだ。
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と云って、茶碗の茶を旨そうに飲んだ。
御米はこれでも納得できなかったらしく、
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御米はこれでも納得ができなかったと見えて、
「どうしてまた満州(まんしゅう)などへ行ったんでしょう」
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「どうしてまた満洲などへ行ったんでしょう」
と聞いた。
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と聞いた。
「本当にな」
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「本当にな」
と宗助はお腹がいっぱいになって満足した様子だった。
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と宗助は腹が張って充分物足りた様子であった。
「何でも、ロシアに秘密の用があったんだそうです」
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「何でも露西亜に秘密な用があったんだそうです」
と小六が真面目な顔をして言った。
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と小六が真面目な顔をして云った。
御米は、
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御米は、
「そう。でも嫌ねえ。殺されちゃ」
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「そう。でも厭ねえ。殺されちゃ」
と言った。
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と云った。
「おれみたいな安い給料の役人は殺されちゃ嫌だが、伊藤さんみたいな人は、ハルビンへ行って殺される方がいいんだよ」
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「おれみたような腰弁は、殺されちゃ厭だが、伊藤さんみたような人は、哈爾賓へ行って殺される方がいいんだよ」
と宗助が初めて調子づいて言った。
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と宗助が始めて調子づいた口を利いた。
「あら、なぜ」
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「あら、なぜ」
「なぜって、伊藤さんは殺されたから歴史に残る偉い人になれるのさ。ただ死んでご覧、こうはいかないよ」
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「なぜって伊藤さんは殺されたから、歴史的に偉い人になれるのさ。ただ死んで御覧、こうはいかないよ」
「なるほど、そんなものかもしれないな」
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「なるほどそんなものかも知れないな」
と小六は少し感心したようだったが、やがて、
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と小六は少し感服したようだったが、やがて、
「とにかく満州だの、ハルビンだのって危ない所ですね。僕は何だか危険な気がしてならない」
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「とにかく満洲だの、哈爾賓だのって物騒な所ですね。僕は何だか危険なような心持がしてならない」
と言った。
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と云った。
「そりゃ、いろんな人が集まっているからね」
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「そりゃ、色んな人が落ち合ってるからね」
この時、御米は妙な顔をして、そう答えた夫の顔を見た。
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この時御米は妙な顔をして、こう答えた夫の顔を見た。
宗助もそれに気がついたらしく、
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宗助もそれに気がついたらしく、
「さあ、もう食卓を下げたらいいだろう」
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「さあ、もう御膳を下げたら好かろう」
と奥さんをうながして、さっきの達磨をまた畳の上から取り、人差し指の先に載せながら、
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と細君を促がして、先刻の達磨をまた畳の上から取って、人指指の先へ載せながら、
「どうも妙だよ。よくこう具合よくできるものだと思ってね」
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「どうも妙だよ。よくこう調子好くできるものだと思ってね」
と言っていた。
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と云っていた。
台所から清が出て来て、食べ散らかした皿や小鉢を食卓ごと引いて行った。そのあと御米もお茶を入れ替えに次の部屋へ立ったので、兄弟は向かい合って二人だけになった。
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台所から清が出て来て、食い散らした皿小鉢を食卓ごと引いて行った後で、御米も茶を入れ替えるために、次の間へ立ったから、兄弟は差向いになった。
「ああ、きれいになった。どうも食べたあとは汚いものでね」
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「ああ奇麗になった。どうも食った後は汚ないものでね」
と宗助は、食卓にまるで心を残していない顔をした。
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と宗助は全く食卓に未練のない顔をした。
台所の方で清がしきりに笑っている。
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勝手の方で清がしきりに笑っている。
「何がそんなにおかしいの、清」
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「何がそんなにおかしいの、清」
と御米が障子の向こうから話しかける声が聞こえた。
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と御米が障子越に話しかける声が聞えた。
清は、へえ、と言ってまた笑い出した。
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清はへえと云ってなお笑い出した。
兄弟は何も言わず、半分は手伝いの女の笑い声に耳を傾けていた。
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兄弟は何にも云わず、半ば下女の笑い声に耳を傾けていた。
しばらくして、御米が菓子の皿とお茶の盆を両手に持ってまた出て来た。
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しばらくして、御米が菓子皿と茶盆を両手に持って、また出て来た。
藤(ふじ)のつるを巻いた大きな急須(きゅうす)から、胃にも頭にもさわらない番茶を、湯呑みほど大きな茶碗に注いで、二人の前に置いた。
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藤蔓の着いた大きな急須から、胃にも頭にも応えない番茶を、湯呑ほどな大きな茶碗に注いで、両人の前へ置いた。
「何だって、あんなに笑うんだい」
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「何だって、あんなに笑うんだい」
と夫が聞いた。
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と夫が聞いた。
けれども御米の顔は見ずに、菓子の皿の中をのぞいていた。
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けれども御米の顔は見ずにかえって菓子皿の中を覗いていた。
「あなたがあんな玩具(おもちゃ)を買って来て、面白そうに指の先に乗せていらっしゃるからよ。子供もいないくせに」
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「あなたがあんな玩具を買って来て、面白そうに指の先へ乗せていらっしゃるからよ。子供もない癖に」
宗助は気にもしないように、軽く「そうか」
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宗助は意にも留めないように、軽く「そうか」
と言ったが、あとからゆっくり、
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と云ったが、後から緩くり、
「これでも元は子供があったんだがね」
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「これでも元は子供があったんだがね」
と、自分で自分の言葉を味わうように付け足して、力のない目を上げて奥さんを見た。
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と、さも自分で自分の言葉を味わっている風につけ足して、生温い眼を挙げて細君を見た。
御米はぴたりと黙ってしまった。
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御米はぴたりと黙ってしまった。
「あなた、お菓子を食べなくて」
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「あなた御菓子食べなくって」
と、しばらくしてから小六の方を向いて話しかけたが、
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と、しばらくしてから小六の方へ向いて話し掛けたが、
「ええ、食べます」
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「ええ食べます」
という小六の返事を聞き流して、つと茶の間へ立って行った。
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と云う小六の返事を聞き流して、ついと茶の間へ立って行った。
兄弟はまた二人で向かい合った。
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兄弟はまた差向いになった。
電車の終点から歩くと二十分近くもかかる山の手の奥だけあって、まだ夜の早い時間だけれども、あたりは思ったより静かである。
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電車の終点から歩くと二十分近くもかかる山の手の奥だけあって、まだ宵の口だけれども、四隣は存外静かである。
時々表を通る下駄の音がはっきり響いて、夜の寒さがしだいに増してくる。
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時々表を通る薄歯の下駄の響が冴えて、夜寒がしだいに増して来る。
宗助は手を懐に入れて、
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宗助は懐手をして、
「昼間は暖かいが、夜になると急に寒くなるね。寄宿舎ではもう暖房を入れているかい」
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「昼間は暖たかいが、夜になると急に寒くなるね。寄宿じゃもう蒸汽を通しているかい」
と聞いた。
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と聞いた。
「いえ、まだです。学校ではよほど寒くならないと、暖房なんか入れません」
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「いえ、まだです。学校じゃよっぽど寒くならなくっちゃ、蒸汽なんか焚きゃしません」
「そうかい。それじゃ寒いだろう」
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「そうかい。それじゃ寒いだろう」
「ええ。しかし寒いくらいはどうでも構わないつもりですが」
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「ええ。しかし寒いくらいどうでも構わないつもりですが」
と言ったまま、小六は少し言いにくそうにしていたが、しまいにとうとう思い切って、
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と云ったまま、小六はすこし云い淀んでいたが、しまいにとうとう思い切って、
「兄さん、佐伯の方はいったいどうなるんでしょう。さっき姉さんから聞いたら、今日手紙を出してくださったそうですが」
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「兄さん、佐伯の方はいったいどうなるんでしょう。先刻姉さんから聞いたら、今日手紙を出して下すったそうですが」
「ああ、出した。二、三日中に何とか言って来るだろう。その上でまたおれが行くとでも、どうとでもしようよ」
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「ああ出した。二三日中に何とか云って来るだろう。その上でまたおれが行くともどうともしようよ」
小六は兄の平気な態度を、心の中では物足りない思いで眺めた。
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小六は兄の平気な態度を、心の中では飽足らず眺めた。
しかし宗助の様子には、人を怒らせるような鋭いところも、自分をかばうようなずるいところもないので、食ってかかる勇気はまるで出なかった。
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しかし宗助の様子にどこと云って、他を激させるような鋭どいところも、自らを庇護うような卑しい点もないので、喰ってかかる勇気はさらに出なかった。
ただ
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ただ
「じゃ、今日まであのままにしてあったんですか」
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「じゃ今日まであのままにしてあったんですか」
と、事実だけを確かめた。
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と単に事実を確めた。
「うん、実は済まないがあのままだ。手紙も今日やっとのことで書いたくらいだ。どうも仕方がないよ。近ごろ神経が弱っていてね」
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「うん、実は済まないがあのままだ。手紙も今日やっとの事で書いたくらいだ。どうも仕方がないよ。近頃神経衰弱でね」
と真面目に言う。
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と真面目に云う。
小六は苦笑いした。
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小六は苦笑した。
「もし駄目なら、僕は学校をやめて、いっそ今のうちに満州か朝鮮へでも行こうかと思っているんです」
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「もし駄目なら、僕は学校をやめて、いっそ今のうち、満洲か朝鮮へでも行こうかと思ってるんです」
「満州か朝鮮? ずいぶんまた思い切ったものだね。だってお前、さっき満州は危ないから嫌だと言ったじゃないか」
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「満洲か朝鮮? ひどくまた思い切ったもんだね。だって、御前先刻満洲は物騒で厭だって云ったじゃないか」
相談はこんなところを行ったり来たりして、結局はっきりしなかった。
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用談はこんなところに往ったり来たりして、ついに要領を得なかった。
しまいに宗助が、
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しまいに宗助が、
「まあ、いいや、そう心配しなくてもどうにかなるよ。とにかく返事が来たらすぐ知らせてやる。その上でまた相談するとしよう」
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「まあ、好いや、そう心配しないでも、どうかなるよ。何しろ返事の来しだい、おれがすぐ知らせてやる。その上でまた相談するとしよう」
と言ったので、話に区切りがついた。
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と云ったので、談話に区切がついた。
小六が帰りがけに茶の間をのぞくと、御米は何もせずに長火鉢に寄りかかっていた。
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小六が帰りがけに茶の間を覗いたら、御米は何にもしずに、長火鉢に倚りかかっていた。
「姉さん、さようなら」
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「姉さん、さようなら」
と声を掛けたら、「おや、お帰り」
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と声を掛けたら、「おや御帰り」
と言いながらようやく立って来た。
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と云いながらようやく立って来た。
四
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四
小六が気にしていた佐伯からは、思っていたとおり二、三日して返事が来た。けれどもそれはとても短いもので、葉書でも足りるような用をわざわざ封筒に入れて三銭の切手を貼った、叔母(おば)の自筆の手紙にすぎなかった。
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小六の苦にしていた佐伯からは、予期の通り二三日して返事があったが、それは極めて簡単なもので、端書でも用の足りるところを、鄭重に封筒へ入れて三銭の切手を貼った、叔母の自筆に過ぎなかった。
役所から帰って、袖の細い仕事着を窮屈そうに脱ぎ替え、火鉢の前に座るとすぐ、引き出しから一寸ほどわざと出して差してある封筒に目が留まった。それで御米が注いで出す番茶を一口飲んだまま、宗助はすぐ封を切った。
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役所から帰って、筒袖の仕事着を、窮屈そうに脱ぎ易えて、火鉢の前へ坐るや否や、抽出から一寸ほどわざと余して差し込んであった状袋に眼が着いたので、御米の汲んで出す番茶を一口呑んだまま、宗助はすぐ封を切った。
「へえ、安(やす)さんは神戸へ行ったんだってね」
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「へえ、安さんは神戸へ行ったんだってね」
と手紙を読みながら言った。
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と手紙を読みながら云った。
「いつ?」
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「いつ?」
と御米は湯呑みを夫の前に出した時の姿のままで聞いた。
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と御米は湯呑を夫の前に出した時の姿勢のままで聞いた。
「いつとも書いてないがね。とにかく、近いうちに東京へ帰るはずでございますから、と書いてあるから、もうじき帰って来るんだろう」
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「いつとも書いてないがね。何しろ遠からぬうちには帰京仕るべく候間と書いてあるから、もうじき帰って来るんだろう」
「近いうちなんて、やっぱり叔母さんね」
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「遠からぬうちなんて、やっぱり叔母さんね」
宗助は御米の言葉に、賛成も反対もしなかった。
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宗助は御米の批評に、同意も不同意も表しなかった。
読んだ手紙を巻いて、投げるようにそこへ放り出し、四、五日ひげをそっていないざらざらした顎(あご)を、気味悪そうに撫(な)で回した。
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読んだ手紙を巻き納めて、投げるようにそこへ放り出して、四五日目になる、ざらざらした腮を、気味わるそうに撫で廻した。
御米はすぐその手紙を拾ったが、読もうとはしなかった。
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御米はすぐその手紙を拾ったが、別に読もうともしなかった。
それを膝の上に置いたまま、夫の顔を見て、
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それを膝の上へ乗せたまま、夫の顔を見て、
「近いうちに東京へ帰るはずでございますから、どうだって言うの」
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「遠からぬうちには帰京仕るべく候間、どうだって云うの」
と聞いた。
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と聞いた。
「いずれ帰ったら、安之助(やすのすけ)と相談して何とかご挨拶をいたします、と言うのさ」
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「いずれ帰ったら、安之助と相談して何とか御挨拶を致しますと云うのさ」
「近いうちじゃはっきりしないわね。いつ帰るとも書いてなくて」
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「遠からぬうちじゃ曖昧ね。いつ帰るとも書いてなくって」
「いいや」
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「いいや」
御米は念のため、膝の上の手紙を初めて開いてみた。
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御米は念のため、膝の上の手紙を始めて開いて見た。
そうしてそれを元のように畳んで、
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そうしてそれを元のように畳んで、
「ちょっと、その封筒を」
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「ちょっとその状袋を」
と手を夫の方へ出した。
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と手を夫の方へ出した。
宗助は自分と火鉢の間に挟まっている青い封筒を取って奥さんに渡した。
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宗助は自分と火鉢の間に挟まっている青い封筒を取って細君に渡した。
御米はそれをふっと吹いて中をふくらませ、手紙を入れた。
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御米はそれをふっと吹いて、中を膨らまして手紙を収めた。
そうして台所へ立った。
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そうして台所へ立った。
宗助はそれきり手紙のことを気にしなかった。
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宗助はそれぎり手紙の事には気を留めなかった。
今日役所で同僚が、この間イギリスから来たキチナー元帥(げんすい)に新橋のそばで会ったという話をした。それを思い出して、ああいう人間になると、世界中どこへ行っても世間を騒がせるようにできているようだが、本当にそういう風に生まれついて来たのかもしれない、と考えた。
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今日役所で同僚が、この間英吉利から来遊したキチナー元帥に、新橋の傍で逢ったと云う話を思い出して、ああ云う人間になると、世界中どこへ行っても、世間を騒がせるようにできているようだが、実際そういう風に生れついて来たものかも知れない。
自分の過去から引きずってきた運命や、その続きとしてこれから目の前に開けるはずの将来を、キチナーという人のそれと比べてみると、とても同じ人間とは思えないほど遠く離れている。
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自分の過去から引き摺ってきた運命や、またその続きとして、これから自分の眼前に展開されべき将来を取って、キチナーと云う人のそれに比べて見ると、とうてい同じ人間とは思えないぐらい懸け隔たっている。
こう考えて、宗助はしきりに煙草をふかした。
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こう考えて宗助はしきりに煙草を吹かした。
外は夕方から風が吹き出して、わざと遠くの方から襲って来るような音がする。
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表は夕方から風が吹き出して、わざと遠くの方から襲って来るような音がする。
それが時々やむと、やんだ間はしんとして、吹き荒れる時よりもなお寂しい。
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それが時々やむと、やんだ間は寂として、吹き荒れる時よりはなお淋しい。
宗助は腕を組みながら、もうそろそろ火事を知らせる鐘が鳴り出す季節だと思った。
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宗助は腕組をしながら、もうそろそろ火事の半鐘が鳴り出す時節だと思った。
台所へ出てみると、奥さんは七輪の火を赤くして魚の切り身を焼いていた。
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台所へ出て見ると、細君は七輪の火を赤くして、肴の切身を焼いていた。
清は流しの所にかがんで漬物を洗っていた。
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清は流し元に曲んで漬物を洗っていた。
二人とも口をきかずに、せっせと自分の仕事をしている。
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二人とも口を利かずにせっせと自分のやる事をやっている。
宗助は障子を開けたまま、しばらく魚から垂れる汁か脂(あぶら)の音を聞いていたが、黙ってまた障子を閉めて元の場所へ戻った。
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宗助は障子を開けたなり、しばらく肴から垂る汁か膏の音を聞いていたが、無言のまままた障子を閉てて元の座へ戻った。
奥さんは目さえ魚から離さなかった。
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細君は眼さえ肴から離さなかった。
食事を済ませて、夫婦が火鉢をはさんで向かい合った時、御米はまた
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食事を済まして、夫婦が火鉢を間に向い合った時、御米はまた
「佐伯の方は困るのね」
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「佐伯の方は困るのね」
と言い出した。
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と云い出した。
「まあ仕方がない。安さんが神戸から帰るまで待つよりほかに道はあるまい」
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「まあ仕方がない。安さんが神戸から帰るまで待つよりほかに道はあるまい」
「その前に、ちょっと叔母さんに会って話をしておいた方がよくないかしら」
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「その前にちょっと叔母さんに逢って話をしておいた方が好かなくって」
「そうさ。まあそのうち何とか言って来るだろう。それまで放っておこうよ」
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「そうさ。まあそのうち何とか云って来るだろう。それまで打遣っておこうよ」
「小六さんが怒ってよ。いいの」
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「小六さんが怒ってよ。よくって」
と御米はわざと念を押して、そのあと笑った。
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と御米はわざと念を押しておいて微笑した。
宗助は目を伏せて、手に持った楊枝を着物の襟(えり)に差した。
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宗助は下眼を使って、手に持った小楊枝を着物の襟へ差した。
一日おいて、宗助はようやく佐伯からの返事を小六に知らせてやった。
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中一日置いて、宗助はようやく佐伯からの返事を小六に知らせてやった。
その時も手紙の終わりに、まあそのうちどうにかなるだろうという意味を、いつものように付け加えた。
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その時も手紙の尻に、まあそのうちどうかなるだろうと云う意味を、例のごとく付け加えた。
そうして当分はこの件について、肩の荷が下りたように感じた。
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そうして当分はこの事件について肩が抜けたように感じた。
事の進み方がまた窮屈に目の前へ迫って来るまでは、忘れている方が面倒がなくていい、というような顔をして、毎日役所へ出てはまた役所から帰って来た。
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自然の経過がまた窮屈に眼の前に押し寄せて来るまでは、忘れている方が面倒がなくって好いぐらいな顔をして、毎日役所へ出てはまた役所から帰って来た。
帰りも遅いが、帰ってから出かけるなどという面倒なことはめったになかった。
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帰りも遅いが、帰ってから出かけるなどという億劫な事は滅多になかった。
客はほとんど来ない。
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客はほとんど来ない。
用のない時は、清を十時前に寝かせることさえあった。
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用のない時は清を十時前に寝かす事さえあった。
夫婦は毎晩同じ火鉢の両側に向き合って、食事のあと一時間ほど話をした。
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夫婦は毎夜同じ火鉢の両側に向き合って、食後一時間ぐらい話をした。
話の中身は、二人の暮らしに合った程度のものだった。
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話の題目は彼らの生活状態に相応した程度のものであった。
けれども、米屋への支払いをこの月末にはどうしよう、というような苦しいお金の話は、一度も二人の口に出なかった。
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けれども米屋の払を、この三十日にはどうしたものだろうという、苦しい世帯話は、いまだかつて一度も彼らの口には上らなかった。
かといって、小説や文学の話はもちろん、男と女の間を行き来する華やかな言葉のやり取りも、ほとんど聞かれなかった。
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と云って、小説や文学の批評はもちろんの事、男と女の間を陽炎のように飛び廻る、花やかな言葉のやりとりはほとんど聞かれなかった。
二人はそれほど年を取っているわけでもないのに、もうそこを通り過ぎて、日ごとに地味になって行く人のようにも見えた。
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彼らはそれほどの年輩でもないのに、もうそこを通り抜けて、日ごとに地味になって行く人のようにも見えた。
あるいは最初から、色のうすいごく平凡な人間が、ただ習慣で夫婦になるために寄り合ったようにも見えた。
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または最初から、色彩の薄い極めて通俗の人間が、習慣的に夫婦の関係を結ぶために寄り合ったようにも見えた。
外から見ると、夫婦ともそれほどくよくよしている様子はなかった。
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上部から見ると、夫婦ともそう物に屈托する気色はなかった。
それは、二人が小六の件で取った態度を見ても、だいたい分かる。
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それは彼らが小六の事に関して取った態度について見てもほぼ想像がつく。
さすがに女だけに、御米は一、二度、
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さすが女だけに御米は一二度、
「安さんはまだ帰らないんでしょうかね。あなた、今度の日曜にでも番町(ばんちょう)まで行ってご覧にならなくて」
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「安さんは、まだ帰らないんでしょうかね。あなた今度の日曜ぐらいに番町まで行って御覧なさらなくって」
と注意したことがあるが、宗助は、
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と注意した事があるが、宗助は、
「うん、行ってもいい」
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「うん、行っても好い」
くらいの返事をするだけで、その行ってもいい日曜が来ると、まるで忘れたように平気にしている。
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ぐらいな返事をするだけで、その行っても好い日曜が来ると、まるで忘れたように済ましている。
御米もそれを見て、責める様子もない。
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御米もそれを見て、責める様子もない。
天気がいいと、
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天気が好いと、
「少し散歩でもしていらっしゃい」
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「ちと散歩でもしていらっしゃい」
と言う。
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と云う。
雨が降ったり風が吹いたりすると、
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雨が降ったり、風が吹いたりすると、
「今日は日曜で幸せね」
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「今日は日曜で仕合せね」
と言う。
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と云う。
幸いなことに、小六はその後一度もやって来ない。
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幸にして小六はその後一度もやって来ない。
この青年は一つのことに夢中になりやすくて神経の細かい人で、こうと思うとどこまでも突き進んで行く。そこは学生だった頃の宗助によく似ている。その代わり、ふと気が変わると、昨日のことはまるで忘れたようにけろりとした顔をしている。
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この青年は、至って凝り性の神経質で、こうと思うとどこまでも進んで来るところが、書生時代の宗助によく似ている代りに、ふと気が変ると、昨日の事はまるで忘れたように引っ繰り返って、けろりとした顔をしている。
そこも兄弟だけあって、昔の宗助そのままである。
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そこも兄弟だけあって、昔の宗助にそのままである。
それから、頭は比較的よく働いて、理屈に気持ちを注ぎ込むのか、気持ちに理屈の形を当てはめるのか分からないが、とにかく物事に筋道を付けないと納まらない。しかもいったん筋道が付くと、その筋道を必ず生かそうとして夢中になる。
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それから、頭脳が比較的明暸で、理路に感情を注ぎ込むのか、または感情に理窟の枠を張るのか、どっちか分らないが、とにかく物に筋道を付けないと承知しないし、また一返筋道が付くと、その筋道を生かさなくってはおかないように熱中したがる。
その上、体つきの割に元気が続くので、若さにまかせてたいていのことはやる。
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その上体質の割合に精力がつづくから、若い血気に任せて大抵の事はする。
宗助は弟を見るたびに、昔の自分が生き返って目の前で動いているような気がしてならなかった。
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宗助は弟を見るたびに、昔の自分が再び蘇生して、自分の眼の前に活動しているような気がしてならなかった。
時にははらはらすることもあった。
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時には、はらはらする事もあった。
また苦い気持ちになる時もあった。
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また苦々しく思う折もあった。
そういう時には、あの頃の自分が一途に振る舞った苦い記憶を何度も思い出させるために、わざわざ天が小六を自分の目の前に置いたのではないか、と心の中で思った。
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そう云う場合には、心のうちに、当時の自分が一図に振舞った苦い記憶を、できるだけしばしば呼び起させるために、とくに天が小六を自分の眼の前に据え付けるのではなかろうかと思った。
そうしてとても恐ろしくなった。
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そうして非常に恐ろしくなった。
こいつも自分と同じ運命に落ちるために生まれて来たのではないか、と考えると、今度はとても気になった。
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こいつもあるいはおれと同一の運命に陥るために生れて来たのではなかろうかと考えると、今度は大いに心がかりになった。
時には、気になるというより不愉快だった。
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時によると心がかりよりは不愉快であった。
けれども今日まで、宗助は小六に説教のようなことを言ったこともなければ、将来について注意したこともなかった。
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けれども、今日まで宗助は、小六に対して意見がましい事を云った事もなければ、将来について注意を与えた事もなかった。
弟への接し方は、ただ普通のありふれたものだった。
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彼の弟に対する待遇方はただ普通凡庸のものであった。
今の彼の暮らしが、あんな過去を持つ人とは思えないほど静かに沈んでいるのと同じで、弟を扱う様子にも、大きな経験をした年上の人らしいところは、なかなか出なかった。
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彼の今の生活が、彼のような過去を有っている人とは思えないほどに、沈んでいるごとく、彼の弟を取り扱う様子にも、過去と名のつくほどの経験を有った年長者の素振は容易に出なかった。
宗助と小六の間には、もう二人ほど男の子がいたが、どちらも早く亡くなってしまったので、兄弟とは言っても年は十ほど違っている。
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宗助と小六の間には、まだ二人ほど男の子が挟まっていたが、いずれも早世してしまったので、兄弟とは云いながら、年は十ばかり違っている。
その上、宗助はある事情で一年生の時に京都の学校へ移ったから、朝も晩もいっしょに暮らしていたのは、小六が十二、三の時までである。
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その上宗助はある事情のために、一年の時京都へ転学したから、朝夕いっしょに生活していたのは、小六の十二三の時までである。
宗助は、強情で言うことを聞かない、いたずら小僧だった小六を、いまだに覚えている。
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宗助は剛情な聴かぬ気の腕白小僧としての小六をいまだに記憶している。
その頃は父も生きていたし、家の暮らしも悪くはなかったので、専属の車夫(しゃふ。人力車を引く人)を屋敷の中の長屋に住まわせて、楽に暮らしていた。
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その時分は父も生きていたし、家の都合も悪くはなかったので、抱車夫を邸内の長屋に住まわして、楽に暮していた。
この車夫に小六より三つほど年下の子供がいて、いつも小六の相手をして遊んでいた。
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この車夫に小六よりは三つほど年下の子供があって、始終小六の御相手をして遊んでいた。
ある夏の暑い日、二人で長い竿(さお)の先に菓子の袋をくくり付けて、大きな柿の木の下で蝉(せみ)を捕る競争をしていた。それを宗助が見て、兼坊(けんぼう)、そんなに頭を日に照らされると倒れてしまうよ、さあこれをかぶれ、と言って小六の古い夏帽子を出してやった。
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ある夏の日盛りに、二人して、長い竿のさきへ菓子袋を括り付けて、大きな柿の木の下で蝉の捕りくらをしているのを、宗助が見て、兼坊そんなに頭を日に照らしつけると霍乱になるよ、さあこれを被れと云って、小六の古い夏帽を出してやった。
すると小六は、自分の物を兄が黙って他人にあげたのが腹立たしくて、いきなり兼坊の受け取った帽子を引ったくった。そして地面に投げつけるとすぐ、駆け上がるようにその上に乗って、くしゃりと麦わら帽子を踏み潰してしまった。
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すると、小六は自分の所有物を兄が無断で他にくれてやったのが、癪に障ったので、突然兼坊の受取った帽子を引ったくって、それを地面の上へ抛げつけるや否や、馳け上がるようにその上へ乗って、くしゃりと麦藁帽を踏み潰してしまった。
宗助は縁側から裸足で飛び下りて、小六の頭をなぐった。
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宗助は縁から跣足で飛んで下りて、小六の頭を擲りつけた。
その時から、宗助の目に小六は憎らしい小僧として映った。
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その時から、宗助の眼には、小六が小悪らしい小僧として映った。
二年生の時、宗助は大学をやめなければならないことになった。
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二年の時宗助は大学を去らなければならない事になった。
東京の家へも帰れないことになった。
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東京の家へも帰えれない事になった。
京都からすぐ広島へ行って、そこで半年ほど暮らしているうちに父が死んだ。
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京都からすぐ広島へ行って、そこに半年ばかり暮らしているうちに父が死んだ。
母は父より六年ほど前に死んでいた。
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母は父よりも六年ほど前に死んでいた。
だからあとには、二十五、六になる父の身の回りの世話をしていた女の人と、十六になる小六が残っただけだった。
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だから後には二十五六になる妾と、十六になる小六が残っただけであった。
佐伯から電報を受け取って久しぶりに東京へ出た宗助は、葬式を済ませてから家の始末をつけようと思って調べてみた。すると、あると思っていた財産は思ったより少なく、逆に無いと思っていた借金がだいぶあったので驚かされた。
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佐伯から電報を受け取って、久しぶりに出京した宗助は、葬式を済ました上、家の始末をつけようと思ってだんだん調べて見ると、あると思った財産は案外に少なくって、かえって無いつもりの借金がだいぶあったに驚ろかされた。
叔父の佐伯に相談すると、仕方がないから屋敷を売るのがいいだろうという話だった。
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叔父の佐伯に相談すると、仕方がないから邸を売るが好かろうと云う話であった。
父の世話をしていた女の人には、相当のお金をわたしてすぐやめてもらうことに決めた。
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妾は相当の金をやってすぐ暇を出す事にきめた。
小六は当分、叔父の家に引き取って世話をしてもらうことにした。
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小六は当分叔父の家に引き取って世話をして貰う事にした。
しかし大事な家と土地は、すぐには売れなかった。
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しかし肝心の家屋敷はすぐ右から左へと売れる訳には行かなかった。
仕方がないので、叔父に一時のお金を用意してもらって、当座の始末をつけてもらった。
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仕方がないから、叔父に一時の工面を頼んで、当座の片をつけて貰った。
叔父は商売人で、いろいろなことに手を出しては失敗する、言ってみれば一もうけをねらいたがる男だった。
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叔父は事業家でいろいろな事に手を出しては失敗する、云わば山気の多い男であった。
宗助が東京にいた頃も、よく宗助の父を説きふせて、うまいことを言ってお金を引き出したものである。
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宗助が東京にいる時分も、よく宗助の父を説きつけては、旨い事を云って金を引き出したものである。
宗助の父にも欲があったかもしれないが、こんな調子で叔父の商売に注ぎ込んだお金は、けっして少なくはなかった。
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宗助の父にも慾があったかも知れないが、この伝で叔父の事業に注ぎ込んだ金高はけっして少ないものではなかった。
父が亡くなったこの時にも、叔父の暮らしは前とあまり変わらない様子だった。けれども生きている間の義理もあるし、またこういう男によくあることで、いざという時には案外お金が動くものらしく、叔父は気持ちよく後始末を引き受けてくれた。
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父の亡くなったこの際にも、叔父の都合は元と余り変っていない様子であったが、生前の義理もあるし、またこう云う男の常として、いざと云う場合には比較的融通のつくものと見えて、叔父は快よく整理を引き受けてくれた。
その代わり、宗助は自分の家と土地を売ることのいっさいを叔父に任せてしまった。
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その代り宗助は自分の家屋敷の売却方についていっさいの事を叔父に一任してしまった。
手短に言えば、急に用意してもらったお金のお礼として、土地と家をわたしたようなものである。
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早く云うと、急場の金策に対する報酬として土地家屋を提供したようなものである。
叔父は、
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叔父は、
「何しろ、こういうものは買い手を見て売らないと損だからね」
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「何しろ、こう云うものは買手を見て売らないと損だからね」
と言った。
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と云った。
道具類も、場所を取るばかりでお金にならないものはみんな売り払った。けれども五、六本の掛け物と十二、三点の骨董(こっとう)品だけは、気長に欲しがる人を探さないと損だという叔父の意見に従って、叔父に預けることにした。
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道具類も積ばかり取って、金目にならないものは、ことごとく売り払ったが、五六幅の掛物と十二三点の骨董品だけは、やはり気長に欲しがる人を探さないと損だと云う叔父の意見に同意して、叔父に保管を頼む事にした。
すべてを引いて手元に残った現金は約二千円ほどだった。宗助はそのうちのいくらかを小六の学費として使わなければならないと気がついた。
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すべてを差し引いて手元に残った有金は、約二千円ほどのものであったが、宗助はそのうちの幾分を、小六の学資として、使わなければならないと気がついた。
しかし毎月自分の方から送るとすると、まだ自分の身の上が安定していない当時、とても続けられそうになかった。それで苦しくはあったが、思い切って半分だけを叔父にわたして、どうかよろしくお願いしますと頼んだ。
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しかし月々自分の方から送るとすると、今日の位置が堅固でない当時、はなはだ実行しにくい結果に陥りそうなので、苦しくはあったが、思い切って、半分だけを叔父に渡して、何分宜しくと頼んだ。
自分が途中で失敗したのだから、せめて弟だけは一人前にしてやりたい気持ちもある。この千円が無くなったあとは、またどうにか工面もできようし、してもくれるだろう、というくらいの心もとない望みを残して、また広島へ帰って行った。
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自分が中途で失敗ったから、せめて弟だけは物にしてやりたい気もあるので、この千円が尽きたあとは、またどうにか心配もできようしまたしてくれるだろうぐらいの不慥な希望を残して、また広島へ帰って行った。
それから半年ほどして、叔父の手で、家はとうとう売れたから安心しろという手紙が来た。けれどもいくらで売れたとも書いていないので、すぐに問い合わせると、二週間ほどたってからの返事に、立て替えたお金を十分に返せるだけの金額だから心配しなくていい、とあった。
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それから半年ばかりして、叔父の自筆で、家はとうとう売れたから安心しろと云う手紙が来たが、いくらに売れたとも何とも書いてないので、折り返して聞き合せると、二週間ほど経っての返事に、優に例の立替を償うに足る金額だから心配しなくても好いとあった。
宗助はこの返事に少なからず不満を感じた。けれども同じ手紙の中に、詳しいことはいずれお会いした時に、とあったので、すぐにも東京へ行きたい気がした。それで、実はこうこうだが、と相談半分に奥さんに話してみると、御米は気の毒そうな顔をして、
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宗助はこの返事に対して少なからず不満を感じたには感じたが、同じ書信の中に、委細はいずれ御面会の節云々とあったので、すぐにも東京へ行きたいような気がして、実はこうこうだがと、相談半分細君に話して見ると、御米は気の毒そうな顔をして、
「でも、行けないんだから仕方がないわね」
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「でも、行けないんだから、仕方がないわね」
と言って、いつものように笑った。
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と云って、例のごとく微笑した。
その時、宗助は初めて言い渡された人のようにしばらく腕を組んで考えた。けれどもどう工夫しても抜け出せない立場と事情に縛られていたので、つい、そのままになってしまった。
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その時宗助は始めて細君から宣告を受けた人のように、しばらく腕組をして考えたが、どう工夫したって、抜ける事のできないような位地と事情の下に束縛されていたので、ついそれなりになってしまった。
仕方がないので、なお三、四回手紙のやり取りを重ねてみた。けれども結果はいつも同じで、判で押したように、いずれお会いした時に、と繰り返してくるだけだった。
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仕方がないから、なお三四回書面で往復を重ねて見たが、結果はいつも同じ事で、版行で押したようにいずれ御面会の節を繰り返して来るだけであった。
「これじゃしようがないよ」
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「これじゃしようがないよ」
と宗助は腹が立ったような顔をして御米を見た。
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と宗助は腹が立ったような顔をして御米を見た。
三か月ほどして、ようやく都合がついたので、久しぶりに御米を連れて東京へ行こうと思っていた矢先に、風邪を引いて寝た。それがもとで腸(ちょう)チフスという重い病気になり、六十日余りを床の上で暮らした上、そのあとの三十日ほどは十分に仕事もできないくらい体が弱ってしまった。
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三カ月ばかりして、ようやく都合がついたので、久し振りに御米を連れて、出京しようと思う矢先に、つい風邪を引いて寝たのが元で、腸窒扶斯に変化したため、六十日余りを床の上に暮らした上に、あとの三十日ほどは充分仕事もできないくらい衰えてしまった。
病気がすっかり治って間もなく、宗助はまた広島を去って福岡の方へ移らなければならない身になった。
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病気が本復してから間もなく、宗助はまた広島を去って福岡の方へ移らなければならない身となった。
移る前に、いい機会だからちょっと東京まで出たいものだと考えているうちに、今度もいろいろな事情にじゃまされて、それも果たせなかった。そうしてまた、下り列車の走る方へ自分の運命を任せた。
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移る前に、好い機会だからちょっと東京まで出たいものだと考えているうちに、今度もいろいろの事情に制せられて、ついそれも遂行せずに、やはり下り列車の走る方に自己の運命を托した。
その頃には、東京の家を畳んだ時に持って出たお金は、ほとんど使い切っていた。
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その頃は東京の家を畳むとき、懐にして出た金は、ほとんど使い果たしていた。
彼の福岡の暮らしは、二年の間ずっと苦しい戦いだった。
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彼の福岡生活は前後二年を通じて、なかなかの苦闘であった。
彼は学生として京都にいた頃、いろいろな言い訳をして父から好きなだけ多くの学費をもらい、勝手に使った昔をよく思い出した。そして今の自分と比べながら、悪いことをした報いが来るのを恐れた。
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彼は書生として京都にいる時分、種々の口実の下に、父から臨時随意に多額の学資を請求して、勝手しだいに消費した昔をよく思い出して、今の身分と比較しつつ、しきりに因果の束縛を恐れた。
ある時は、ひそかに過ぎた春を振り返って、あれが自分の一番よかった時だったのだと、初めて覚めた目で遠い霞(かすみ)を眺めることもあった。
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ある時はひそかに過ぎた春を回顧して、あれが己の栄華の頂点だったんだと、始めて醒めた眼に遠い霞を眺める事もあった。
いよいよ苦しくなった時、
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いよいよ苦しくなった時、
「御米、長く放っておいたが、また東京へ掛け合ってみようかな」
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「御米、久しく放っておいたが、また東京へ掛合ってみようかな」
と言い出した。
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と云い出した。
御米はもちろん逆らわなかった。
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御米は無論逆いはしなかった。
ただ下を向いて、
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ただ下を向いて、
「駄目よ。だって、叔父さんにまるで信用がないんですもの」
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「駄目よ。だって、叔父さんに全く信用がないんですもの」
と心細そうに答えた。
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と心細そうに答えた。
「向こうはこちらを信用していないかもしれないが、こっちだって向こうを信用していないんだ」
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「向うじゃこっちに信用がないかも知れないが、こっちじゃまた向うに信用がないんだ」
と宗助は威張って言い出した。けれども御米が目を伏せている様子を見ると、急に勇気がくじけるように見えた。
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と宗助は威張って云い出したが、御米の俯目になっている様子を見ると、急に勇気が挫ける風に見えた。
こんなやり取りを、最初は月に一、二度くらい繰り返していた。それがのちには二か月に一度になり、三か月に一度になり、とうとう、
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こんな問答を最初は月に一二返ぐらい繰り返していたが、後には二月に一返になり、三月に一返になり、とうとう、
「いいや、小六さえどうかしてくれれば。あとのことはいずれ東京へ出たら、会った上で話をつけてやる。なあ御米、そうすることにしようじゃないか」
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「好いや、小六さえどうかしてくれれば。あとの事はいずれ東京へ出たら、逢った上で話をつけらあ。ねえ御米、そうすると、しようじゃないか」
と言い出した。
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と云い出した。
「それでよろしゅうございますとも」
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「それで、好ござんすとも」
と御米は答えた。
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と御米は答えた。
宗助は佐伯のことをそれきり放ってしまった。
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宗助は佐伯の事をそれなり放ってしまった。
ただお金を貸してくれと頼むだけのことは、自分の過去を思うと叔父に言い出せるものではない、と宗助は考えていた。
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単なる無心は、自分の過去に対しても、叔父に向って云い出せるものでないと、宗助は考えていた。
だからその方の掛け合いは、初めから一度も手紙に書いたことがなかった。
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したがってその方の談判は、始めからいまだかつて筆にした事がなかった。
小六からは時々手紙が来たが、とても短い、形だけのものが多かった。
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小六からは時々手紙が来たが、極めて短かい形式的のものが多かった。
宗助は父が死んだ時に東京で会った小六を覚えているだけだから、いまだに小六を何も分からない子供くらいに思っている。だから自分の代わりに叔父と交渉させようなどという気は、もちろん起こらなかった。
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宗助は父の死んだ時、東京で逢った小六を覚えているだけだから、いまだに小六を他愛ない小供ぐらいに想像するので、自分の代理に叔父と交渉させようなどと云う気は無論起らなかった。
夫婦は、世の中で日の当たらない者が寒さに耐えかねて抱き合って暖まるように、互いを頼りにして暮らしていた。
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夫婦は世の中の日の目を見ないものが、寒さに堪えかねて、抱き合って暖を取るような具合に、御互同志を頼りとして暮らしていた。
苦しい時には、御米がいつでも宗助に、
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苦しい時には、御米がいつでも、宗助に、
「でも仕方がないわ」
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「でも仕方がないわ」
と言った。
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と云った。
宗助は御米に、
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宗助は御米に、
「まあ我慢するさ」
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「まあ我慢するさ」
と言った。
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と云った。
二人の間には、諦めや我慢というものが絶えず動いていた。けれども未来や希望というものの影は、ほとんど射さないように見えた。
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二人の間には諦めとか、忍耐とか云うものが断えず動いていたが、未来とか希望と云うものの影はほとんど射さないように見えた。
二人はあまり過去のことを語らなかった。
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彼らは余り多く過去を語らなかった。
時には、約束したようにそれを避ける様子さえあった。
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時としては申し合わせたように、それを回避する風さえあった。
御米が時々、
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御米が時として、
「そのうちにはまたきっといいことがあってよ。そうそう悪いことばかり続くものじゃないから」
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「そのうちにはまたきっと好い事があってよ。そうそう悪い事ばかり続くものじゃないから」
と夫をなぐさめるように言うことがあった。
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と夫を慰さめるように云う事があった。
すると宗助には、それが、心のこもった妻の口を借りて自分をからかう運命の意地悪な言葉のように感じられた。
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すると、宗助にはそれが、真心ある妻の口を藉りて、自分を翻弄する運命の毒舌のごとくに感ぜられた。
宗助はそういう時には何も答えず、ただ苦笑いするだけだった。
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宗助はそう云う場合には何にも答えずにただ苦笑するだけであった。
御米がそれでも気がつかずに何か言い続けると、
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御米がそれでも気がつかずに、なにか云い続けると、
「我々は、そんないいことを期待する資格のない人間じゃないか」
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「我々は、そんな好い事を予期する権利のない人間じゃないか」
と思い切って投げ出してしまう。
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と思い切って投げ出してしまう。
奥さんはようやく気がついて口をつぐんでしまう。
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細君はようやく気がついて口を噤んでしまう。
そうして二人が黙って向き合っていると、いつの間にか、自分たちが自分たちで作った、過去という暗い大きな穴の中に落ちている。
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そうして二人が黙って向き合っていると、いつの間にか、自分達は自分達の拵えた、過去という暗い大きな窖の中に落ちている。
二人は自分のしたことのせいで、自分たちの未来を塗り潰してしまった。
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彼らは自業自得で、彼らの未来を塗抹した。
だから行く先に明るい色は見えないものと諦めて、ただ二人手を取り合って行こうという気になった。
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だから歩いている先の方には、花やかな色彩を認める事ができないものと諦らめて、ただ二人手を携えて行く気になった。
叔父が売り払ったという土地と家についても、もともと大きな期待は持っていなかった。
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叔父の売り払ったと云う地面家作についても、固より多くの期待は持っていなかった。
時々思い出したように、
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時々考え出したように、
「だって、近ごろの値段なら安売りしたって、あの時叔父が用意してくれたお金の倍にはなるんだもの。あんまり馬鹿らしいからね」
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「だって、近頃の相場なら、捨売にしたって、あの時叔父の拵らえてくれた金の倍にはなるんだもの。あんまり馬鹿馬鹿しいからね」
と宗助が言い出すと、御米は寂しそうに笑って、
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と宗助が云い出すと、御米は淋しそうに笑って、
「また土地? いつまでもそのことばかり考えていらっしゃるのね。だって、あなたが万事よろしくお願いしますと叔父さんにおっしゃったんでしょう」
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「また地面? いつまでもあの事ばかり考えていらっしゃるのね。だって、あなたが万事宜しく願いますと、叔父さんにおっしゃったんでしょう」
と言う。
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と云う。
「そりゃ仕方がないさ。あの時ああでもしなければ片がつかないんだもの」
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「そりゃ仕方がないさ。あの場合ああでもしなければ方がつかないんだもの」
と宗助が言う。
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と宗助が云う。
「だからさ。叔父さんの方では、お金の代わりに家と土地をもらったつもりでいらっしゃるかもしれなくてよ」
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「だからさ。叔父さんの方では、御金の代りに家と地面を貰ったつもりでいらっしゃるかも知れなくってよ」
と御米が言う。
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と御米が云う。
そう言われると、宗助も叔父のやり方に一理あるようにも思われて、口では、
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そう云われると、宗助も叔父の処置に一理あるようにも思われて、口では、
「そのつもりがよくないじゃないか」
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「そのつもりが好くないじゃないか」
と言い返すようなものの、この問題はそのたびに少しずつ心の奥へ遠ざかって行くのだった。
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と答弁するようなものの、この問題はその都度しだいしだいに背景の奥に遠ざかって行くのであった。
夫婦がこんな風に寂しく、けれども仲よく暮らして来た二年目の終わりに、宗助は元の同級生で、学生時代にとても親しかった杉原(すぎはら)という男に偶然出会った。
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夫婦がこんな風に淋しく睦まじく暮らして来た二年目の末に、宗助はもとの同級生で、学生時代には大変懇意であった杉原と云う男に偶然出逢った。
杉原は卒業後に高等文官試験という難しい試験に合格して、その時すでにある省で働いていた。それが仕事で福岡と佐賀へ出張することになって、東京からわざわざやって来たのである。
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杉原は卒業後高等文官試験に合格して、その時すでに或省に奉職していたのだが、公務上福岡と佐賀へ出張することになって、東京からわざわざやって来たのである。
宗助は地元の新聞で、杉原がいつ着いてどこに泊まっているかをよく知っていた。けれども失敗した自分をふり返って、成功した人の前で頭を下げるのが恥ずかしかった。その上、学校時代の古い友達に会うのをことさら避けたい理由があったので、その旅館を訪ねる気はまるでなかった。
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宗助は所の新聞で、杉原のいつ着いて、どこに泊っているかをよく知ってはいたが、失敗者としての自分に顧みて、成効者の前に頭を下げる対照を恥ずかしく思った上に、自分は在学当時の旧友に逢うのを、特に避けたい理由を持っていたので、彼の旅館を訪ねる気は毛頭なかった。
ところが杉原の方が、妙なつながりから宗助がここでくすぶっていることを聞き出して、しきりに会いたいと言うので、宗助もやむを得ず折れた。
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ところが杉原の方では、妙な引掛りから、宗助のここに燻ぶっている事を聞き出して、強いて面会を希望するので、宗助もやむを得ず我を折った。
宗助が福岡から東京へ移れるようになったのは、まったくこの杉原のおかげである。
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宗助が福岡から東京へ移れるようになったのは、全くこの杉原の御蔭である。
杉原から手紙が来て、いよいよ話が決まった時、宗助は箸を置いて、
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杉原から手紙が来て、いよいよ事がきまったとき、宗助は箸を置いて、
「御米、とうとう東京へ行けるよ」
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「御米、とうとう東京へ行けるよ」
と言った。
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と云った。
「まあ、よかったわね」
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「まあ結構ね」
と御米が夫の顔を見た。
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と御米が夫の顔を見た。
東京に着いてから二、三週間は、目が回るように日が過ぎた。
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東京に着いてから二三週間は、眼の回るように日が経った。
新しく家を持って新しい仕事を始める人によくある忙しさと、自分たちを包む大きな都会の空気が昼も夜も激しく動く刺激に追われて、何もじっと考える暇がなかった。落ち着いて物事に手をつける余裕も出なかった。
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新らしく世帯を有って、新らしい仕事を始める人に、あり勝ちな急忙しなさと、自分達を包む大都の空気の、日夜劇しく震盪する刺戟とに駆られて、何事をもじっと考える閑もなく、また落ちついて手を下す分別も出なかった。
夜汽車で新橋に着いた時、久しぶりに叔父夫婦の顔を見た。けれども二人とも、灯りのせいか、宗助の目には明るい顔には見えなかった。
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夜汽車で新橋へ着いた時は、久しぶりに叔父夫婦の顔を見たが、夫婦とも灯のせいか晴れやかな色には宗助の眼に映らなかった。
途中で事故があって、到着の時刻がめずらしく三十分ほど遅れた。それをまるで宗助が悪いかのように、待ちくたびれた様子だった。
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途中に事故があって、着の時間が珍らしく三十分ほど後れたのを、宗助の過失ででもあるかのように、待草臥れた気色であった。
宗助がこの時、叔母から聞いた言葉は、
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宗助がこの時叔母から聞いた言葉は、
「おや宗さん、しばらくお目に掛からないうちに、たいへんお老けになったこと」
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「おや宗さん、しばらく御目に掛からないうちに、大変御老けなすった事」
という一言だった。
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という一句であった。
御米はその時、初めて叔父夫婦に紹介された。
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御米はその折始めて叔父夫婦に紹介された。
「これがあの……」
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「これがあの……」
と叔母はためらって宗助の方を見た。
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と叔母は逡巡って宗助の方を見た。
御米は何と挨拶していいか分からないので、黙ってただ頭を下げた。
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御米は何と挨拶のしようもないので、無言のままただ頭を下げた。
小六ももちろん、叔父夫婦といっしょに二人を迎えに来ていた。
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小六も無論叔父夫婦と共に二人を迎いに来ていた。
宗助はひと目その姿を見た時、いつの間にか自分より大きくなった弟の成長に驚かされた。
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宗助は一眼その姿を見たとき、いつの間にか自分を凌ぐように大きくなった、弟の発育に驚ろかされた。
小六はその時、中学を出てこれから高等学校へ入ろうという時期だった。
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小六はその時中学を出て、これから高等学校へ這入ろうという間際であった。
宗助を見て、「兄さん」
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宗助を見て、「兄さん」
とも「お帰りなさい」
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とも「御帰りなさい」
とも言わずに、ただ不器用に挨拶をした。
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とも云わないで、ただ不器用に挨拶をした。
宗助と御米は一週間ほど宿屋に泊まって、それから今の家へ移った。
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宗助と御米は一週ばかり宿屋住居をして、それから今の所に引き移った。
その時は叔父夫婦がいろいろ世話をしてくれた。
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その時は叔父夫婦がいろいろ世話を焼いてくれた。
細かい台所道具のようなものは買うまでもないだろう、古いのでよければ、というので、少ない人数に必要なだけひととおりそろえて送って来た。
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細々しい台所道具のようなものは買うまでもあるまい、古いのでよければと云うので、小人数に必要なだけ一通り取り揃えて送って来た。
その上、
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その上、
「お前も新しい所帯だから、さぞ物入りが多かろう」
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「御前も新世帯だから、さぞ物要が多かろう」
と言ってお金を六十円くれた。
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と云って金を六十円くれた。
家を持ってあれこれしているうちに、もう半月余りたった。けれども地方にいた頃あれほど気にしていた家と土地のことは、まだ叔父に言い出さずにいた。
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家を持ってかれこれ取り紛れているうちに、早半月余も経ったが、地方にいる時分あんなに気にしていた家邸の事は、ついまだ叔父に言い出さずにいた。
ある時、御米が、
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ある時御米が、
「あなた、あのことを叔父さんにおっしゃって」
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「あなたあの事を叔父さんにおっしゃって」
と聞いた。
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と聞いた。
宗助はそれで急に思い出したように、
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宗助はそれで急に思い出したように、
「うん、まだ言わないよ」
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「うん、まだ云わないよ」
と答えた。
原文を見る
と答えた。
「妙ね、あれほど気にしていらしたのに」
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「妙ね、あれほど気にしていらしったのに」
と御米が少し笑った。
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と御米がうす笑をした。
「だって、落ち着いてそんなことを言い出す暇がないんだもの」
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「だって、落ちついて、そんな事を云い出す暇がないんだもの」
と宗助が言い訳した。
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と宗助が弁解した。
また十日ほどたった。
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また十日ほど経った。
すると今度は宗助の方から、
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すると今度は宗助の方から、
「御米、あのことはまだ言わないよ。どうも言うのが面倒で嫌になった」
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「御米、あの事はまだ云わないよ。どうも云うのが面倒で厭になった」
と言い出した。
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と云い出した。
「嫌なのを無理におっしゃらなくてもいいわ」
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「厭なのを無理におっしゃらなくってもいいわ」
と御米が答えた。
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と御米が答えた。
「いいのかい」
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「好いかい」
と宗助が聞き返した。
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と宗助が聞き返した。
「いいのかいって、もともとあなたのことじゃなくて。私は前からどうでもいいんだわ」
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「好いかいって、もともとあなたの事じゃなくって。私は先からどうでも好いんだわ」
と御米が答えた。
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と御米が答えた。
その時、宗助は、
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その時宗助は、
「じゃ、かたくるしく言い出すのも何だか妙だから、そのうち機会があったら聞くとしよう。なに、そのうち聞いてみる機会がきっと出て来るよ」
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「じゃ、鹿爪らしく云い出すのも何だか妙だから、そのうち機会があったら、聞くとしよう。なにそのうち聞いて見る機会がきっと出て来るよ」
と言って、先へ延ばしてしまった。
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と云って延ばしてしまった。
小六は何も足りないものなく、叔父の家で暮らしていた。
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小六は何不足なく叔父の家に寝起していた。
試験を受けて高等学校に入れれば寄宿舎に入らなければならないというので、その相談まですでに叔父としてあるようだった。
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試験を受けて高等学校へ這入れれば、寄宿へ入舎しなければならないと云うので、その相談まですでに叔父と打合せがしてあるようであった。
新しく東京へ出て来た兄からは特に学費の世話を受けないせいか、自分の身の上については叔父ほど親しく相談を持ち込んで来なかった。
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新らしく出京した兄からは別段学資の世話を受けないせいか、自分の身の上については叔父ほどに親しい相談も持ち込んで来なかった。
いとこの安之助とは、今までの付き合いからとても仲がよかった。
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従兄弟の安之助とは今までの関係上大変仲が好かった。
かえってこちらの方が兄弟らしかった。
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かえってこの方が兄弟らしかった。
宗助は自然と、叔父の家へ足が向かなくなった。
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宗助は自然叔父の家に足が遠くなるようになった。
たまに行っても、義理だけの訪問に終わることが多いので、帰り道にはいつもつまらない気がしてならなかった。
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たまに行っても、義理一遍の訪問に終る事が多いので、帰り路にはいつもつまらない気がしてならなかった。
しまいには、季節の挨拶を済ませるとすぐ帰りたくなることもあった。
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しまいには時候の挨拶を済ますと、すぐ帰りたくなる事もあった。
こういう時には、三十分座って世間話で時間をつなぐのさえ骨が折れた。
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こう云う時には三十分と坐って、世間話に時間を繋ぐのにさえ骨が折れた。
向こうでも何だか気詰まりで窮屈そうな様子が見えた。
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向うでも何だか気が置けて窮屈だと云う風が見えた。
「まあ、いいじゃありませんか」
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「まあいいじゃありませんか」
と叔母が引き留めてくれるのが常だが、そうするとなおさら居づらい気持ちがした。
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と叔母が留めてくれるのが例であるが、そうすると、なおさらいにくい心持がした。
それでも、たまには行かないと心の中で気がとがめて落ち着かないので、また行くようになった。
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それでも、たまには行かないと、心のうちで気が咎めるような不安を感ずるので、また行くようになった。
時々は、
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折々は、
「どうも小六がお世話になりまして」
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「どうも小六が御厄介になりまして」
と、こちらから頭を下げて礼を言うこともあった。
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とこっちから頭を下げて礼を云う事もあった。
けれどもそれ以上は、弟の将来の学費についても、また自分が叔父に頼んで留守の間に売ってもらった土地と家についても、口に出すのがつい面倒になった。
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けれども、それ以上は、弟の将来の学資についても、また自分が叔父に頼んで、留守中に売り払って貰った地所家作についても、口を切るのがつい面倒になった。
しかし、興味の持てない叔父の所へ、気が進まないなりに時々出かけて行くのは、ただ叔父と甥(おい)という関係を世間並みに保つための義務からではない。いつか機会があったら片をつけたいあるものを、胸の奥に持っていたからにすぎないのは明らかだった。
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しかし宗助が興味を有たない叔父の所へ、不精無精にせよ、時たま出掛けて行くのは、単に叔父甥の血属関係を、世間並に持ち堪えるための義務心からではなくって、いつか機会があったら、片をつけたい或物を胸の奥に控えていた結果に過ぎないのは明かであった。
「宗さんはどうもすっかり変わってしまいましたね」
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「宗さんはどうもすっかり変っちまいましたね」
と叔母が叔父に話すことがあった。
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と叔母が叔父に話す事があった。
すると叔父は、
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すると叔父は、
「そうよなあ。やっぱり、ああいうことがあると、長くあとまで響くものだからな」
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「そうよなあ。やっぱり、ああ云う事があると、永くまで後へ響くものだからな」
と答えて、悪いことをした報いは恐ろしいという顔をする。
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と答えて、因果は恐ろしいと云う風をする。
叔母は重ねて、
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叔母は重ねて、
「本当に怖いものですね。元はあんな沈んだ子ではなかったのに――どうもはしゃぎ過ぎるくらい元気でしたからね。それが二、三年見ないうちに、まるで別の人のように老けてしまって。今じゃあなたよりお爺さんお爺さんしていますよ」
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「本当に、怖いもんですね。元はあんな寝入った子じゃなかったが――どうもはしゃぎ過ぎるくらい活溌でしたからね。それが二三年見ないうちに、まるで別の人みたように老けちまって。今じゃあなたより御爺さん御爺さんしていますよ」
と言う。
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と云う。
「まさか」
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「真逆」
と叔父がまた答える。
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と叔父がまた答える。
「いえ、頭や顔は別として、様子がですよ」
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「いえ、頭や顔は別として、様子がさ」
と叔母がまた言い直す。
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と叔母がまた弁解する。
こんな会話が年を取った夫婦の間で交わされたのは、宗助が東京へ出て来てから一度や二度ではなかった。
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こんな会話が老夫婦の間に取り換わされたのは、宗助が出京して以来一度や二度ではなかった。
実際、彼は叔父の所へ来ると、二人の目に映るとおりの人間に見えた。
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実際彼は叔父の所へ来ると、老人の眼に映る通りの人間に見えた。
御米はどういうわけか、新橋に着いた時に叔父夫婦に紹介されたきり、一度も叔父の家へ行ったことがない。
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御米はどう云うものか、新橋へ着いた時、老人夫婦に紹介されたぎり、かつて叔父の家の敷居を跨いだ事がない。
向こうが来れば叔父さん叔母さんと丁寧にもてなすが、帰りがけに、
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むこうから見えれば叔父さん叔母さんと丁寧に接待するが、帰りがけに、
「どうです、少しはお出かけになっては」
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「どうです、ちと御出かけなすっちゃ」
などと言われると、ただ、
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などと云われると、ただ、
「ありがとうございます」
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「ありがとう」
と頭を下げるだけで、一度も出かけたことはなかった。
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と頭を下げるだけで、ついぞ出掛けた試はなかった。
さすがの宗助も一度は、
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さすがの宗助さえ一度は、
「叔父さんの所へ一度行ってみてはどうだい」
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「叔父さんの所へ一度行って見ちゃ、どうだい」
と勧めたことがあるが、
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と勧めた事があるが、
「でも」
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「でも」
と変な顔をするので、宗助はそれきり決してそのことを言い出さなかった。
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と変な顔をするので、宗助はそれぎりけっしてその事を云い出さなかった。
二つの家はこの状態で一年ほどを過ごした。
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両家族はこの状態で約一年ばかりを送った。
すると、宗助より気持ちは若いと言われていた叔父が突然死んだ。
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すると宗助よりも気分は若いと許された叔父が突然死んだ。
病気は脊髄脳膜炎(せきずいのうまくえん)とかいう重い病気で、二、三日風邪気味で寝ていた。それが便所から帰って手を洗おうとして、柄杓(ひしゃく)を持ったまま倒れ、一日たつかたたないうちに冷たくなってしまったのである。
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病症は脊髄脳膜炎とかいう劇症で、二三日風邪の気味で寝ていたが、便所へ行った帰りに、手を洗おうとして、柄杓を持ったまま卒倒したなり、一日経つか経たないうちに冷たくなってしまったのである。
「御米、叔父はとうとう話をしないまま死んでしまったよ」
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「御米、叔父はとうとう話をしずに死んでしまったよ」
と宗助が言った。
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と宗助が云った。
「あなた、まだあのことを聞くつもりだったの。あなたもずいぶんしつこいのね」
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「あなたまだ、あの事を聞くつもりだったの、あなたも随分執念深いのね」
と御米が言った。
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と御米が云った。
それからまた一年ほどたつと、叔父の子の安之助が大学を卒業し、小六が高等学校の二年生になった。
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それからまた一年ばかり経ったら、叔父の子の安之助が大学を卒業して、小六が高等学校の二年生になった。
叔母は安之助といっしょに中六番町へ引っ越した。
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叔母は安之助といっしょに中六番町に引き移った。
三年目の夏休みに、小六は房州(ぼうしゅう)の海水浴へ行った。
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三年目の夏休みに小六は房州の海水浴へ行った。
そこに一か月余りもいるうちに九月になりかけたので、保田(ほた)から向こうへ突っ切って、上総(かずさ)の海岸を九十九里(くじゅうくり)伝いに銚子(ちょうし)まで来た。それから思い出したように東京へ帰った。
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そこに一月余りも滞在しているうちに九月になり掛けたので、保田から向うへ突切って、上総の海岸を九十九里伝いに、銚子まで来たが、そこから思い出したように東京へ帰った。
宗助の所に現れたのは、帰ってからまだ二、三日しかたたない、暑さの残る午後である。
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宗助の所へ見えたのは、帰ってから、まだ二三日しか立たない、残暑の強い午後である。
真っ黒に焼けた顔の中で目だけを光らせ、見違えるほど荒っぽくなった彼は、日の当たらない座敷へ入るとすぐ横になって兄の帰りを待っていた。そして宗助の顔を見るやいなや、むっくり起き上がって、
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真黒に焦げた顔の中に、眼だけ光らして、見違えるように蛮色を帯びた彼は、比較的日の遠い座敷へ這入ったなり横になって、兄の帰りを待ち受けていたが、宗助の顔を見るや否や、むっくり起き上がって、
「兄さん、少し話があって来たんですが」
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「兄さん、少し御話があって来たんですが」
と改まって切り出した。それで宗助は少し驚いて、暑苦しい洋服さえ着替えずに小六の話を聞いた。
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と開き直られたので、宗助は少し驚ろいた気味で、暑苦しい洋服さえ脱ぎ更えずに、小六の話を聞いた。
小六の言うところによると、二、三日前、彼が上総から帰った晩に、学費はこの年末までで、気の毒だがもう出してやれないと叔母から言い渡されたのだそうである。
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小六の云うところによると、二三日前彼が上総から帰った晩、彼の学資はこの暮限り、気の毒ながら出してやれないと叔母から申し渡されたのだそうである。
小六は父が死んですぐ叔父に引き取られてから、学校へも行けるし、着物もできるし、小遣いも適当にもらえるので、父が生きていた時と同じように何不足なく暮らして来た。だからその日その晩まで一度も学費のことを考えたことがなく、叔母に言い渡された時はぼんやりして、返事らしい返事さえできなかったという。
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小六は父が死んで、すぐと叔父に引き取られて以来、学校へも行けるし、着物も自然にできるし、小遣も適宜に貰えるので、父の存生中と同じように、何不足なく暮らせて来た惰性から、その日その晩までも、ついぞ学資と云う問題を頭に思い浮べた事がなかったため、叔母の宣告を受けた時は、茫然してとかくの挨拶さえできなかったのだと云う。
叔母は気の毒そうに、なぜ小六の世話ができなくなったかを、女だけに一時間もかけて詳しく説明してくれたそうである。
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叔母は気の毒そうに、なぜ小六の世話ができなくなったかを、女だけに、一時間も掛かって委しく説明してくれたそうである。
その説明には、叔父が亡くなったことや、そのあとに起こるお金の変化や、また安之助の卒業や、卒業後に控えている結婚の話などが入っていたのだという。
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それには叔父の亡くなった事やら、継いで起る経済上の変化やら、また安之助の卒業やら、卒業後に控えている結婚問題やらが這入っていたのだと云う。
「できるなら、せめて高等学校を卒業するまではと思って、今日までいろいろ苦労したんだけれども」
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「できるならば、せめて高等学校を卒業するまでと思って、今日までいろいろ骨を折ったんだけれども」
叔母はこう言った、と小六は繰り返した。
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叔母はこう云ったと小六は繰り返した。
小六はその時ふと、兄が前に父の葬式で東京へ来て万事を片づけたあと、広島へ帰る時に、お前の学費は叔父さんに預けてあるから、と言ったのを思い出した。それで叔母に初めて聞いてみると、叔母は思いがけないという顔をして、
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小六はその時ふと兄が、先年父の葬式の時に出京して、万事を片づけた後、広島へ帰るとき、小六に、御前の学資は叔父さんに預けてあるからと云った事があるのを思い出して、叔母に始めて聞いて見ると、叔母は案外な顔をして、
「そりゃ、あの時、宗さんがいくらか置いて行きなさったことは行きなさったが、それはもうありゃしないよ。叔父さんがまだ生きておいでの時から、お前の学費はそこから出して来たんだから」
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「そりゃ、あの時、宗さんが若干か置いて行きなすった事は、行きなすったが、それはもうありゃしないよ。叔父さんのまだ生きて御出の時分から、御前の学資は融通して来たんだから」
と答えた。
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と答えた。
小六は兄から、自分の学費がどれくらいあって、何年分として叔父に預けられたのかを聞いていなかった。だから叔母にこう言われると、一言も返せなかった。
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小六は兄から自分の学資がどれほどあって、何年分の勘定で、叔父に預けられたかを、聞いておかなかったから、叔母からこう云われて見ると、一言も返しようがなかった。
「お前も一人じゃないし、兄さんもいるんだから、よく相談してみたらいいだろう。その代わり私も宗さんに会って、よく訳を話しますから。どうも宗さんも近ごろはあまりおいでにならないし、私もご無沙汰ばかりしているのでね、つい、お前のことはお話しできなかったんだよ」
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「御前も一人じゃなし、兄さんもある事だからよく相談をして見たら好いだろう。その代り私も宗さんに逢って、とっくり訳を話しましょうから。どうも、宗さんも余まり近頃は御出でないし、私も御無沙汰ばかりしているのでね、つい御前の事は御話をする訳にも行かなかったんだよ」
と叔母は最後に付け足したそうである。
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と叔母は最後につけ加えたそうである。
小六から始めから終わりまでを聞いた時、宗助はただ弟の顔を眺めて、一言、
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小六から一部始終を聞いた時、宗助はただ弟の顔を眺めて、一口、
「困ったな」
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「困ったな」
と言った。
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と云った。
昔のようにかっとなってすぐ叔母の所へ文句を言いに行く様子もない。今まで自分に対して、世話にならなくても済む人のようによそよそしくしていた弟が急に態度を変えたのを、憎いと思う様子も見えなかった。
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昔のように赫と激して、すぐ叔母の所へ談判に押し掛ける気色もなければ、今まで自分に対して、世話にならないでも済む人のように、よそよそしく仕向けて来た弟の態度が、急に方向を転じたのを、悪いと思う様子も見えなかった。
自分で勝手に作り上げた美しい未来が半分こわれかかったのを、まるで周りの人のせいのように思って心を乱している小六。その帰る姿を見送った宗助は、暗い玄関の敷居の上に立って、戸の外に射す夕日をしばらく眺めていた。
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自分の勝手に作り上げた美くしい未来が、半分壊れかかったのを、さも傍の人のせいででもあるかのごとく心を乱している小六の帰る姿を見送った宗助は、暗い玄関の敷居の上に立って、格子の外に射す夕日をしばらく眺めていた。
その晩、宗助は裏から大きな芭蕉(ばしょう)の葉を二枚切って来て、それを座敷の縁に敷いた。そしてその上に御米と並んで涼みながら、小六のことを話した。
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その晩宗助は裏から大きな芭蕉の葉を二枚剪って来て、それを座敷の縁に敷いて、その上に御米と並んで涼みながら、小六の事を話した。
「叔母さんは、こっちで小六さんの世話をしろっていう気なんじゃなくて」
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「叔母さんは、こっちで、小六さんの世話をしろって云う気なんじゃなくって」
と御米が聞いた。
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と御米が聞いた。
「まあ、会って聞いてみないうちは、どういう考えか分からないがね」
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「まあ、逢って聞いて見ないうちは、どう云う料簡か分らないがね」
と宗助が言うと、御米は、
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と宗助が云うと、御米は、
「きっとそうよ」
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「きっとそうよ」
と答えながら、暗がりで団扇(うちわ)をぱたぱた動かした。
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と答えながら、暗がりで団扇をはたはた動かした。
宗助は何も言わずに首を伸ばして、屋根と崖の間に細く見える空の色を眺めた。
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宗助は何も云わずに、頸を延ばして、庇と崖の間に細く映る空の色を眺めた。
二人はそのまましばらく黙っていたが、少しして、
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二人はそのまましばらく黙っていたが、良あって、
「だって、それじゃ無理ね」
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「だってそれじゃ無理ね」
と御米がまた言った。
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と御米がまた云った。
「人一人を大学まで出させるなんて、おれの力じゃとても駄目だ」
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「人間一人大学を卒業させるなんて、おれの手際じゃ到底駄目だ」
と宗助は、自分にできることの限りをはっきり言った。
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と宗助は自分の能力だけを明らかにした。
話はそこで別の話題に移って、二度と小六のことにも叔母のことにも戻らなかった。
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会話はそこで別の題目に移って、再び小六の上にも叔母の上にも帰って来なかった。
それから二、三日するとちょうど土曜が来たので、宗助は役所の帰りに番町の叔母の所へ寄ってみた。
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それから二三日するとちょうど土曜が来たので、宗助は役所の帰りに、番町の叔母の所へ寄って見た。
叔母は、
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叔母は、
「おやおや、まあお珍しいこと」
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「おやおや、まあ御珍らしい事」
と言って、いつもより愛想よく宗助をもてなしてくれた。
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と云って、いつもよりは愛想よく宗助を款待してくれた。
その時、宗助は嫌なのを我慢して、この四、五年ためておいた質問を初めて叔母にぶつけた。
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その時宗助は厭なのを我慢して、この四五年来溜めて置いた質問を始めて叔母に掛けた。
叔母はもちろん、できるだけの言い訳をしないわけには行かなかった。
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叔母は固よりできるだけは弁解しない訳に行かなかった。
叔母の言うところによると、宗助の屋敷を売った時に叔父の手に入ったお金は、確かには覚えていないが、とにかく宗助のために急いで用意した借金を返した上、なお四千五百円とか四千三百円とか余ったそうである。
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叔母の云うところによると、宗助の邸宅を売払った時、叔父の手に這入った金は、たしかには覚えていないが、何でも、宗助のために、急場の間に合せた借財を返した上、なお四千五百円とか四千三百円とか余ったそうである。
ところが叔父の考えでは、あの屋敷は宗助が自分にわたして行ったのだから、いくら余っても、余った分は自分のものと考えて差し支えない。
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ところが叔父の意見によると、あの屋敷は宗助が自分に提供して行ったのだから、たといいくら余ろうと、余った分は自分の所得と見傚して差支ない。
しかし宗助の屋敷を売って儲けたと言われては気持ちが悪いから、これは小六の名前で預かっておいて、小六の財産にしてやる。
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しかし宗助の邸宅を売って儲けたと云われては心持が悪いから、これは小六の名義で保管して置いて、小六の財産にしてやる。
宗助はあんなことをして、家をつぐ資格まで取られかかった男だから、一銭も取る権利はない。
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宗助はあんな事をして廃嫡にまでされかかった奴だから、一文だって取る権利はない。
「宗さん、怒っちゃいけませんよ。ただ叔父さんの言ったとおりを話すんだから」
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「宗さん怒っちゃいけませんよ。ただ叔父さんの云った通りを話すんだから」
と叔母が前置きした。
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と叔母が断った。
宗助は黙ってあとを聞いていた。
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宗助は黙ってあとを聞いていた。
小六の名前で預かっておくはずだった財産は、不幸なことに叔父の手で、すぐ神田の賑やかな表通りの家に姿を変えた。
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小六の名義で保管されべき財産は、不幸にして、叔父の手腕で、すぐ神田の賑やかな表通りの家屋に変形した。
そうして、まだ保険を掛けないうちに火事で焼けてしまった。
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そうして、まだ保険をつけないうちに、火事で焼けてしまった。
小六には初めから話していないことだから、そのままにして、わざと知らせずにおいた。
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小六には始めから話してない事だから、そのままにして、わざと知らせずにおいた。
「そういうわけでね、本当に宗さんにもお気の毒だけれど、何しろ取り返しのつかないことだから仕方がない。運だと思って諦めてください。もっとも叔父さんさえ生きていれば、またどうにでもなったんでしょうよ。小六一人くらい、それは訳はなかったでしょう。たとえ叔父さんがいらっしゃらない今でも、こっちの都合さえよければ、焼けた家と同じだけのものを小六に返すか、それでなくても、本人が卒業するまでくらいはどうにか世話もできるんですけれど」
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「そう云う訳でね、まことに宗さんにも、御気の毒だけれども、何しろ取って返しのつかない事だから仕方がない。運だと思って諦らめて下さい。もっとも叔父さんさえ生きていれば、またどうともなるんでしょうさ。小六一人ぐらいそりゃ訳はありますまいよ。よしんば、叔父さんがいなさらない、今にしたって、こっちの都合さえ好ければ、焼けた家と同じだけのものを、小六に返すか、それでなくっても、当人の卒業するまでぐらいは、どうにかして世話もできるんですけれども」
と言って、叔母はまた別の内輪の話をして聞かせた。
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と云って叔母はまたほかの内幕話をして聞かせた。
それは安之助の仕事についてだった。
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それは安之助の職業についてであった。
安之助は叔父の一人息子で、この夏大学を出たばかりの青年である。
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安之助は叔父の一人息子で、この夏大学を出たばかりの青年である。
家庭で暖かく育った上に、同級の学生くらいしか付き合いのない男だから、世の中のことにはむしろうといと言ってもいい。けれども、そのうといところにどこかおおらかな味を持って、社会に出て来たのである。
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家庭で暖かに育った上に、同級の学生ぐらいよりほかに交際のない男だから、世の中の事にはむしろ迂濶と云ってもいいが、その迂濶なところにどこか鷹揚な趣を具えて実社会へ顔を出したのである。
専門は工学の機械なので、会社を作る勢いが弱くなった今でも、日本中にたくさんある会社に相応の仕事の口の一つや二つあるのはもちろんだった。けれども親から受けついだ一もうけをねらう気持ちがどこかにあるらしく、自分で自分の仕事をしてみたくてならなかった。そこへ、同じ科を出て、小さいながら自分の工場を月島(つきしま)あたりに建てて自分で経営している先輩に出会った。それが縁になり、その先輩と相談の上、自分もいくらかお金を出していっしょに仕事をしてみようという考えになった。
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専門は工科の器械学だから、企業熱の下火になった今日といえども、日本中にたくさんある会社に、相応の口の一つや二つあるのは、もちろんであるが、親譲りの山気がどこかに潜んでいるものと見えて、自分で自分の仕事をして見たくてならない矢先へ、同じ科の出身で、小規模ながら専有の工場を月島辺に建てて、独立の経営をやっている先輩に出逢ったのが縁となって、その先輩と相談の上、自分も幾分かの資本を注ぎ込んで、いっしょに仕事をしてみようという考になった。
叔母の内輪の話というのは、そこである。
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叔母の内幕話と云ったのはそこである。
「でね、少しあった株をみんなその方へ回すことにしたものだから、今では本当にお金がないのと同じ有り様なんですよ。それは世間から見れば、人数は少ないし、家も土地も持っているし、楽に見えるのも無理はないでしょうよ。この間も原(はら)のお母さんが来て、まああなたほど気楽な方はない、いつ来て見ても万年青(おもと)の葉ばかり丁寧に洗っている、ってね。まさかそうでもないんですけれど」
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「でね、少しあった株をみんなその方へ廻す事にしたもんだから、今じゃ本当に一文なし同然な仕儀でいるんですよ。それは世間から見ると、人数は少なし、家邸は持っているし、楽に見えるのも無理のないところでしょうさ。この間も原の御母さんが来て、まああなたほど気楽な方はない、いつ来て見ても万年青の葉ばかり丹念に洗っているってね。真逆そうでも無いんですけれども」
と叔母が言った。
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と叔母が云った。
宗助は叔母の説明を聞いた時、ぼんやりして、これという返事がすぐには出なかった。
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宗助が叔母の説明を聞いた時は、ぼんやりしてとかくの返事が容易に出なかった。
心の中で、これは神経が弱ったせいで、昔のように素早くはっきりした判断をすぐ作る頭がなくなった証拠だろう、と気づいた。
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心のなかで、これは神経衰弱の結果、昔のように機敏で明快な判断を、すぐ作り上げる頭が失くなった証拠だろうと自覚した。
叔母は自分の言うことを宗助が本当だと思わないのを気にするように、安之助が出したお金の額まで話した。
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叔母は自分の云う通りが、宗助に本当と受けられないのを気にするように、安之助から持ち出した資本の高まで話した。
それは五千円ほどだった。
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それは五千円ほどであった。
安之助は当分の間、わずかな給料と、この五千円に対する利益の分け前とで暮らさなければならないのだそうである。
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安之助は当分の間、わずかな月給と、この五千円に対する利益配当とで暮らさなければならないのだそうである。
「その分け前だって、まだどうなるか分かりゃしないんですからね。うまく行ったところで一割か一割五分くらいでしょうし、一つ間違えば、まるで消えてしまわないとも限らないんですから」
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「その配当だって、まだどうなるか分りゃしないんでさあね。旨く行ったところで、一割か一割五分ぐらいなものでしょうし、また一つ間違えばまるで煙にならないとも限らないんですから」
と叔母が付け足した。
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と叔母がつけ加えた。
宗助は叔母のやり方に、これといってひどいところも見えないので、心の中では困った。けれども小六の将来について一言も掛け合わずに帰るのは、いかにも馬鹿らしい気がした。
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宗助は叔母の仕打に、これと云う目立った阿漕なところも見えないので、心の中では少なからず困ったが、小六の将来について一口の掛合もせずに帰るのはいかにも馬鹿馬鹿しい気がした。
そこで今までの話はそのままにしておいて、自分があの時、小六の学費として叔父に預けて行った千円の始末を問いただしてみた。すると叔母は、
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そこで今までの問題はそこに据えっきりにして置いて、自分が当時小六の学資として叔父に預けて行った千円の所置を聞き糺して見ると、叔母は、
「宗さん、あれこそ本当に小六が使ってしまったんですよ。小六が高等学校へ入ってからだけでも、もうかれこれ七百円はかかっているんですもの」
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「宗さん、あれこそ本当に小六が使っちまったんですよ。小六が高等学校へ這入ってからでも、もうかれこれ七百円は掛かっているんですもの」
と答えた。
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と答えた。
宗助はついでだから、それと同時に、叔父に預けた書や絵、骨董品の行方を確かめてみた。
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宗助はついでだから、それと同時に、叔父に保管を頼んだ書画や骨董品の成行を確かめて見た。
すると叔母は、
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すると、叔母は、
「あれは、とんだひどい目に遭って」
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「ありあとんだ馬鹿な目に逢って」
と言いかけたが、宗助の様子を見て、
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と云いかけたが、宗助の様子を見て、
「宗さん、何ですか、あのことはまだお話ししていませんでしたかね」
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「宗さん、何ですか、あの事はまだ御話をしなかったんでしたかね」
と聞いた。
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と聞いた。
宗助がいいえと答えると、
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宗助がいいえと答えると、
「おやおや、それじゃ叔父さんが忘れてしまったんですよ」
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「おやおや、それじゃ叔父さんが忘れちまったんですよ」
と言いながら、その話の始めから終わりまでを語って聞かせた。
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と云いながら、その顛末を語って聞かした。
宗助が広島へ帰ると間もなく、叔父はその売り方を真田(さなだ)とかいう親しい男に頼んだ。
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宗助が広島へ帰ると間もなく、叔父はその売捌方を真田とかいう懇意の男に依頼した。
この男は書や絵、骨董に詳しいとかで、普段からそういうものの売り買いの世話をしてあちこちへ出入りするそうだった。すぐに叔父の頼みを引き受けて、誰それが何を欲しいと言うからちょっと拝見、とか、何々さんがこういう物をご希望だからお見せしましょう、とか言って品物を持って行ったきり、返して来ない。
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この男は書画骨董の道に明るいとかいうので、平生そんなものの売買の周旋をして諸方へ出入するそうであったが、すぐさま叔父の依頼を引き受けて、誰某が何を欲しいと云うから、ちょっと拝見とか、何々氏がこう云う物を希望だから、見せましょうとか号して、品物を持って行ったぎり、返して来ない。
催促すると、まだ先方から戻って来ませんから、とか何とか言い訳をするだけで、一度も片づいたことがなかった。そしてとうとうごまかしきれなくなったと見えて、どこかへ姿を隠してしまった。
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催促すると、まだ先方から戻って参りませんからとか何とか言訳をするだけでかつて埒の明いた試がなかったが、とうとう持ち切れなくなったと見えて、どこかへ姿を隠してしまった。
「でもね、まだ屏風(びょうぶ)が一つ残っていますよ。この間の引っ越しの時に気がついて、これは宗さんのだから、今度ついでがあったら届けてあげたらいいだろうって、安がそう言っていましたっけ」
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「でもね、まだ屏風が一つ残っていますよ。この間引越の時に、気がついて、こりゃ宗さんのだから、今度ついでがあったら届けて上げたらいいだろうって、安がそう云っていましたっけ」
叔母は、宗助が預けて行った品物をまるで大事に思っていないような言い方をした。
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叔母は宗助の預けて行った品物にはまるで重きを置いていないような、ものの云い方をした。
宗助も今日まで放っておくくらいだから、あまりその方には興味が持てなかった。だから、少しも心を痛めている様子のない叔母の顔を見ても、特に腹は立たなかった。
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宗助も今日まで放っておくくらいだから、あまりその方面には興味を有ち得なかったので、少しも良心に悩まされている気色のない叔母の様子を見ても、別に腹は立たなかった。
それでも、叔母が、
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それでも、叔母が、
「宗さん、どうせうちでは使っていないんだから、なんなら持っておいでになってはどうです。この頃はああいうものがたいへん値が上がったという話じゃありませんか」
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「宗さん、どうせ家じゃ使っていないんだから、なんなら持っておいでなすっちゃどうです。この頃はああいうものが、大変価が出たと云う話じゃありませんか」
と言った時は、本当にそれを持って帰る気になった。
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と云ったときは、実際それを持って帰る気になった。
納戸(なんど)から取り出してもらって明るい所で眺めると、たしかに見覚えのある二枚折りの屏風だった。
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納戸から取り出して貰って、明るい所で眺めると、たしかに見覚のある二枚折であった。
下の方に萩(はぎ)、桔梗(ききょう)、すすき、葛(くず)、女郎花(おみなえし)を隙間なく描いた上に、真ん丸い月を銀で描き、その横の空いた所に「野路や空・月の中なる女郎花」という句を書いて、其一(きいち)と署名してある。
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下に萩、桔梗、芒、葛、女郎花を隙間なく描いた上に、真丸な月を銀で出して、その横の空いた所へ、野路や空月の中なる女郎花、其一と題してある。
宗助は膝をついて、銀の色が黒くなったあたりから、葛の葉が風に裏を返している色のかすれた様子、それに大福ほどの大きな丸い赤い印の中に抱一(ほういつ)と書いた署名まで、じっくり見た。そうして父が生きていた頃を思い出さずにはいられなかった。
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宗助は膝を突いて銀の色の黒く焦げた辺から、葛の葉の風に裏を返している色の乾いた様から、大福ほどな大きな丸い朱の輪廓の中に、抱一と行書で書いた落款をつくづくと見て、父の生きている当時を憶い起さずにはいられなかった。
父は正月になると必ずこの屏風を薄暗い蔵から出して玄関の仕切りに立て、その前に紫檀(したん)の四角い名刺入れを置いて年始のあいさつを受けたものである。
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父は正月になると、きっとこの屏風を薄暗い蔵の中から出して、玄関の仕切りに立てて、その前へ紫檀の角な名刺入を置いて、年賀を受けたものである。
その時はめでたいからというので、客間の床の間には必ず虎(とら)の二枚の掛け軸をかけた。
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その時はめでたいからと云うので、客間の床には必ず虎の双幅を懸けた。
これは岸駒(がんく)ではなく岸岱(がんたい)が描いたものだと父が宗助に言って聞かせたことがあるのを、宗助はいまだに覚えていた。
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これは岸駒じゃない岸岱だと父が宗助に云って聞かせた事があるのを、宗助はいまだに記憶していた。
この虎の絵には墨が付いていた。
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この虎の画には墨が着いていた。
虎が舌を出して谷の水を飲んでいる鼻の所が少し汚れていた。父はそれをひどく気にして、宗助を見るたびに、お前、ここに墨を塗ったことを覚えているか、これはお前が小さい時のいたずらだぞ、と言って、おかしいような恨めしいような顔をした。
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虎が舌を出して谷の水を呑んでいる鼻柱が少し汚されたのを、父は苛く気にして、宗助を見るたびに、御前ここへ墨を塗った事を覚えているか、これは御前の小さい時分の悪戯だぞと云って、おかしいような恨めしいような一種の表情をした。
宗助は屏風の前にかしこまって、自分が東京にいた昔のことを考えながら、
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宗助は屏風の前に畏まって、自分が東京にいた昔の事を考えながら、
「叔母さん、じゃ、この屏風はいただいて行きましょう」
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「叔母さん、じゃこの屏風はちょうだいして行きましょう」
と言った。
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と云った。
「ああ、ああ、お持ちなさいとも。なんなら使いの者に持たせてあげましょう」
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「ああああ、御持ちなさいとも。何なら使に持たせて上げましょう」
と叔母は親切に言い添えた。
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と叔母は好意から申し添えた。
宗助はそのように叔母に頼んで、その日はそれで切り上げて帰った。
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宗助は然るべく叔母に頼んで、その日はそれで切り上げて帰った。
晩ご飯のあと、御米といっしょにまた縁側へ出て、暗い所で白い浴衣(ゆかた)を並べて涼みながら、絵の話をした。
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晩食の後御米といっしょにまた縁側へ出て、暗い所で白地の浴衣を並べて、涼みながら、画の話をした。
「安さんには、お会いにならなかったの」
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「安さんには、御逢いなさらなかったの」
と御米が聞いた。
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と御米が聞いた。
「ああ、安さんは土曜でも何でも夕方まで工場にいるんだそうだ」
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「ああ、安さんは土曜でも何でも夕方まで、工場にいるんだそうだ」
「ずいぶん大変でしょうね」
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「随分骨が折れるでしょうね」
御米はそう言ったきり、叔父や叔母のやり方については一言も言わなかった。
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御米はそう云ったなり、叔父や叔母の処置については、一言の批評も加えなかった。
「小六のことはどうしたものだろう」
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「小六の事はどうしたものだろう」
と宗助が聞くと、
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と宗助が聞くと、
「そうね」
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「そうね」
と言うだけだった。
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と云うだけであった。
「理屈を言えばこっちにも言い分はあるが、言い出せば、結局は裁判になるばかりだ。証拠も何もなければ勝てるものじゃないしね」
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「理窟を云えば、こっちにも云い分はあるが、云い出せば、とどのつまりは裁判沙汰になるばかりだから、証拠も何もなければ勝てる訳のものじゃなし」
と宗助が一番悪い場合を考えて言うと、
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と宗助が極端を予想すると、
「裁判なんかに勝たなくたっていいわ」
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「裁判なんかに勝たなくたってもいいわ」
と御米がすぐ言ったので、宗助は苦笑いしてやめた。
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と御米がすぐ云ったので、宗助は苦笑してやめた。
「つまり、おれがあの時東京へ出られなかったからのことさ」
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「つまりおれがあの時東京へ出られなかったからの事さ」
「そうして東京へ出られた時には、もうそんなことはどうでもよかったんですもの」
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「そうして東京へ出られた時は、もうそんな事はどうでもよかったんですもの」
夫婦はこんな話をしながら、また細い空を屋根の下からのぞいて、明日の天気を語り合って蚊帳(かや)に入った。
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夫婦はこんな話をしながら、また細い空を庇の下から覗いて見て、明日の天気を語り合って蚊帳に這入った。
次の日曜に、宗助は小六を呼んで、叔母の言ったとおりを残らず話して聞かせ、
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次の日曜に宗助は小六を呼んで、叔母の云った通りを残らず話して聞かせて、
「叔母さんがお前に詳しく説明しなかったのは、せっかちなお前の性質を知っているせいか、それともまだ子供だと思ってわざと省いたのか、そこはおれにも分からない。とにかく事実は今言ったとおりなんだよ」
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「叔母さんが御前に詳しい説明をしなかったのは、短兵急な御前の性質を知ってるせいか、それともまだ小供だと思ってわざと略してしまったのか、そこはおれにも分らないが、何しろ事実は今云った通りなんだよ」
と教えた。
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と教えた。
小六には、どんなに詳しい説明もお腹の足しにはならなかった。
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小六にはいかに詳しい説明も腹の足しにはならなかった。
ただ、
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ただ、
「そうですか」
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「そうですか」
と言って、難しい不満そうな顔をして宗助を見た。
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と云ってむずかしい不満な顔をして宗助を見た。
「仕方がないよ。叔母さんだって安さんだって、そんなに悪い考えはないんだから」
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「仕方がないよ。叔母さんだって、安さんだって、そう悪い料簡はないんだから」
「それは分かっています」
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「そりゃ、分っています」
と弟はとげのある言い方をした。
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と弟は峻しい物の云い方をした。
「じゃ、おれが悪いって言うんだろう。おれはもちろん悪いよ。昔から今日まで悪いところだらけな男だもの」
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「じゃおれが悪いって云うんだろう。おれは無論悪いよ。昔から今日まで悪いところだらけな男だもの」
宗助は横になって煙草をふかしながら、これ以上は何も言わなかった。
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宗助は横になって煙草を吹かしながら、これより以上は何とも語らなかった。
小六も黙って、座敷のすみに立ててあった二枚折りの抱一の屏風を眺めていた。
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小六も黙って、座敷の隅に立ててあった二枚折の抱一の屏風を眺めていた。
「お前、あの屏風を覚えているかい」
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「御前あの屏風を覚えているかい」
とやがて兄が聞いた。
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とやがて兄が聞いた。
「ええ」
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「ええ」
と小六が答えた。
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と小六が答えた。
「一昨日、佐伯から届けてくれた。お父さんの持っていたもので、おれの手に残ったのは今ではこれだけだ。これがお前の学費になるなら今すぐにでもやるが、色のはげた屏風一枚で大学を卒業するわけにも行かないしな」
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「一昨日佐伯から届けてくれた。御父さんの持ってたもので、おれの手に残ったのは、今じゃこれだけだ。これが御前の学資になるなら、今すぐにでもやるが、剥げた屏風一枚で大学を卒業する訳にも行かずな」
と宗助が言った。
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と宗助が云った。
そうして苦笑いしながら、
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そうして苦笑しながら、
「この暑いのにこんなものを立てておくのはおかしいが、しまう所がないから仕方がない」
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「この暑いのに、こんなものを立てて置くのは、気狂じみているが、入れておく所がないから、仕方がない」
と、思っていることを口に出した。
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と云う述懐をした。
小六は、この気楽なような、のんびりしたような、自分とはあまりに違う兄を、いつも物足りなく思っていた。けれどもいざという時には、決して喧嘩ができなかった。
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小六はこの気楽なような、ぐずのような、自分とは余りに懸け隔たっている兄を、いつも物足りなくは思うものの、いざという場合に、けっして喧嘩はし得なかった。
この時も急に怒る気持ちをそがれて、
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この時も急に癇癪の角を折られた気味で、
「屏風はどうでもいいが、これから先、僕はどうしたらいいんでしょう」
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「屏風はどうでも好いが、これから先僕はどうしたもんでしょう」
と聞き出した。
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と聞き出した。
「それは問題だ。とにかく今年いっぱいに決まればいいことだから、まあよく考えるさ。おれも考えておこう」
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「それは問題だ。何しろことしいっぱいにきまれば好い事だから、まあよく考えるさ。おれも考えて置こう」
と宗助が言った。
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と宗助が云った。
弟は自分の性分として、そんな中途半端な状態が嫌いだ、学校へ出ても落ち着いて授業も受けられず、下調べも手につかないような立場はとても耐えられない、としきりに訴え出した。けれども宗助の態度は変わらなかった。
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弟は彼の性質として、そんな中ぶらりんの姿は嫌である、学校へ出ても落ちついて稽古もできず、下調も手につかないような境遇は、とうてい自分には堪えられないと云う訴を切にやり出したが、宗助の態度は依然として変らなかった。
小六があまり細かく不満を並べると、
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小六があまり癇の高い不平を並べると、
「そのくらいのことでそれだけ不満が言えるなら、どこへ行ったって大丈夫だ。学校をやめてもまるで困らない。お前の方がおれよりよっぽど偉いよ」
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「そのくらいな事でそれほど不平が並べられれば、どこへ行ったって大丈夫だ。学校をやめたって、いっこう差支ない。御前の方がおれよりよっぽどえらいよ」
と兄が言ったので、話はそれきり止まって、小六はとうとう本郷(ほんごう)へ帰って行った。
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と兄が云ったので、話はそれぎり頓挫して、小六はとうとう本郷へ帰って行った。
宗助はそれからお風呂に入り、晩ご飯を済ませて、夜は近所の縁日(えんにち)へ御米といっしょに出かけた。
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宗助はそれから湯を浴びて、晩食を済まして、夜は近所の縁日へ御米といっしょに出掛けた。
そうして手ごろな花の鉢を二つ買って、夫婦で一つずつ持って帰って来た。
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そうして手頃な花物を二鉢買って、夫婦して一つずつ持って帰って来た。
夜の露に当てた方がいいだろうというので、崖の下の雨戸を開けて、庭先にそれを二つ並べて置いた。
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夜露にあてた方がよかろうと云うので、崖下の雨戸を明けて、庭先にそれを二つ並べて置いた。
蚊帳の中へ入った時、御米は、
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蚊帳の中へ這入った時、御米は、
「小六さんのことはどうなって」
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「小六さんの事はどうなって」
と夫に聞いた。すると、
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と夫に聞くと、
「まだどうにもならないさ」
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「まだどうもならないさ」
と宗助は答えたが、十分ほどあとには夫婦ともすやすや寝入った。
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と宗助は答えたが、十分ばかりの後夫婦ともすやすや寝入った。
翌日目が覚めて役所の生活が始まると、宗助はもう小六のことを考える暇がなかった。
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翌日眼が覚めて役所の生活が始まると、宗助はもう小六の事を考える暇を有たなかった。
家へ帰ってぼんやりしている時でさえ、この問題をはっきり目の前に置いて、しっかり見ることをためらった。
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家へ帰って、のっそりしている時ですら、この問題を確的眼の前に描いて明らかにそれを眺める事を憚かった。
髪の毛に包まれた彼の頭は、その面倒さに耐えられなかった。
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髪の毛の中に包んである彼の脳は、その煩わしさに堪えなかった。
昔は数学が好きで、とても込み入った図形の問題を頭の中ではっきりした図にしてみるだけの根気があった。それを思い出すと、たった何年かの間にこれほど激しく変わった自分が、恐ろしく思えた。
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昔は数学が好きで、随分込み入った幾何の問題を、頭の中で明暸な図にして見るだけの根気があった事を憶い出すと、時日の割には非常に烈しく来たこの変化が自分にも恐ろしく映った。
それでも日に一度くらいは小六の姿がぼんやり頭の奥に浮かんで来て、その時だけは、あいつの将来も何とか考えておかなくてはならないという気も起こった。
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それでも日に一度ぐらいは小六の姿がぼんやり頭の奥に浮いて来る事があって、その時だけは、あいつの将来も何とか考えておかなくっちゃならないと云う気も起った。
しかしすぐあとから、まあ急ぐこともないだろう、くらいに自分で打ち消してしまうのが常だった。
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しかしすぐあとから、まあ急ぐにも及ぶまいぐらいに、自分と打ち消してしまうのが常であった。
そうして、胸の筋が一本かぎに引っ掛かったような気持ちを抱いて日を過ごしていた。
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そうして、胸の筋が一本鉤に引っ掛ったような心を抱いて、日を暮らしていた。
そのうち九月も終わりになって、毎晩天の川が濃く見えるある夜、空から降ったように安之助がやって来た。
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そのうち九月も末になって、毎晩天の河が濃く見えるある宵の事、空から降ったように安之助がやって来た。
宗助にも御米にも思いがけないほどめずらしい客なので、二人とも何か用があって来たのだろうと思ったが、やはり小六のことだった。
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宗助にも御米にも思い掛けないほど稀な客なので、二人とも何か用があっての訪問だろうと推したが、はたして小六に関する件であった。
この間、月島の工場へひょっこり小六がやって来て言うには、自分の学費についての詳しい話は兄から聞いたが、これまで学問をやって来て、とうとう大学へ入れないままになるのはいかにも残念だから、借金でも何でもして行けるところまで行きたい、何かいい方法はないだろうか、という相談だった。安之助が、よく宗さんにも話してみようと答えると、小六はすぐにそれをさえぎって、兄はとても相談になってくれる人ではない、と言った。
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この間月島の工場へひょっくり小六がやって来て云うには、自分の学資についての詳しい話は兄から聞いたが、自分も今まで学問をやって来て、とうとう大学へ這入れずじまいになるのはいかにも残念だから、借金でも何でもして、行けるところまで行きたいが、何か好い工夫はあるまいかと相談をかけるので、安之助はよく宗さんにも話して見ようと答えると、小六はたちまちそれを遮ぎって、兄はとうてい相談になってくれる人じゃない。
自分が大学を卒業していないから、人も途中でやめるのは当然だ、くらいに考えている。
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自分が大学を卒業しないから、他も中途でやめるのは当然だぐらいに考えている。
もともと今度のことも、元をただせば兄の責任なのに、あのとおりまるで平気で、こちらが何を言っても取り合ってくれない。
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元来今度の事も元を糺せば兄が責任者であるのに、あの通りいっこう平気なもので、他が何を云っても取り合ってくれない。
だから、頼りにするのは君だけだ。
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だから、ただ頼りにするのは君だけだ。
叔母さんにきちんと断られたのに、また君に頼むのはおかしいようだが、君の方が叔母さんより話が分かるだろうと思って来た、と言って、なかなか動きそうもなかったそうである。
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叔母さんに正式に断わられながら、また君に依頼するのはおかしいようだが、君の方が叔母さんより話が分るだろうと思って来たと云って、なかなか動きそうもなかったそうである。
安之助は、そんなことはない、宗さんも君のことではだいぶ心配して、近いうちにまた家へ相談に来るはずになっているんだから、となぐさめて、小六を帰したのだという。
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安之助は、そんな事はない、宗さんも君の事ではだいぶ心配して、近いうちまた家へ相談に来るはずになっているんだからと慰めて、小六を帰したんだと云う。
帰る時、小六は袂から半紙を何枚も出して、欠席届が要るからこれに判を押してくれと頼み、僕は退学か在学か決まるまでは勉強ができないから、毎日学校へ出る必要はないんだ、と言ったそうである。
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帰るときに、小六は袂から半紙を何枚も出して、欠席届が入用だからこれに判を押してくれと請求して、僕は退学か在学か片がつくまでは勉強ができないから、毎日学校へ出る必要はないんだと云ったそうである。
安之助は忙しいとかで、一時間足らず話して帰って行った。けれども小六をどうするかについて、二人の間ではっきりした案は出なかった。
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安之助は忙がしいとかで、一時間足らず話して帰って行ったが、小六の所置については、両人の間に具体的の案は別に出なかった。
いずれゆっくりみんなで集まって決めよう、都合がよければ小六もいっしょでいい、というのが別れる時の言葉だった。
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いずれ緩くりみんなで寄ってきめよう、都合がよければ小六も列席するが好かろうというのが別れる時の言葉であった。
二人になった時、御米は宗助に、
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二人になったとき、御米は宗助に、
「何を考えていらっしゃるの」
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「何を考えていらっしゃるの」
と聞いた。
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と聞いた。
宗助は両手を帯の間に入れて、少し肩を高くしたまま、
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宗助は両手を兵児帯の間に挟んで、心持肩を高くしたなり、
「おれももう一度、小六みたいになってみたい」
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「おれももう一返小六みたようになって見たい」
と言った。
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と云った。
「こっちは、あいつがおれと同じ運命に落ちるだろうと思って心配しているのに、向こうは兄のことなど気にしていないんだから偉いや」
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「こっちじゃ、向がおれのような運命に陥るだろうと思って心配しているのに、向じゃ兄貴なんざあ眼中にないから偉いや」
御米はお茶の道具を下げて台所へ出た。
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御米は茶器を引いて台所へ出た。
夫婦はそれきり話を切り上げて、また布団を敷いて寝た。
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夫婦はそれぎり話を切り上げて、また床を延べて寝た。
夢の上に、高い天の川が涼しくかかった。
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夢の上に高い銀河が涼しく懸った。
次の一週間は小六も来ず、佐伯からの便りもなく、宗助の家はまた普段の静けさに戻った。
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次の週間には、小六も来ず、佐伯からの音信もなく、宗助の家庭はまた平日の無事に帰った。
夫婦は毎朝、露が光る頃に起きて、美しい日を屋根の上に見た。
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夫婦は毎朝露に光る頃起きて、美しい日を廂の上に見た。
夜は、竹の台を付けたランプの両側に長い影を作って座っていた。
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夜は煤竹の台を着けた洋灯の両側に、長い影を描いて坐っていた。
話が途切れた時はひっそりとして、柱時計の振り子の音だけが聞こえることもめずらしくなかった。
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話が途切れた時はひそりとして、柱時計の振子の音だけが聞える事も稀ではなかった。
それでも夫婦はこの間に小六のことを相談した。
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それでも夫婦はこの間に小六の事を相談した。
小六がどうしても学問を続ける気ならもちろん、そうでなくても、今の下宿をいったん引き払わなければならないのは分かっている。そうすればまた佐伯へ帰るか、あるいは宗助の家に置くよりほかに道はない。
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小六がもしどうしても学問を続ける気なら無論の事、そうでなくても、今の下宿を一時引き上げなければならなくなるのは知れているが、そうすればまた佐伯へ帰るか、あるいは宗助の所へ置くよりほかに途はない。
佐伯ではいったんああ言い出したものの、頼んでみれば、当分家に置くくらいのことは親切で引き受けてくれないものでもない。
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佐伯ではいったんああ云い出したようなものの、頼んで見たら、当分宅へ置くぐらいの事は、好意上してくれまいものでもない。
けれども、その上で学校を続けさせるとなると、月謝や小遣いなどは宗助の方で受け持たなければ義理が立たない。
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が、その上修業をさせるとなると、月謝小遣その他は宗助の方で担任しなければ義理が悪い。
ところが、それは宗助の家計では無理だった。
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ところがそれは家計上宗助の堪えるところでなかった。
毎月の出入りを細かく計算してみた二人は、
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月々の収支を事細かに計算して見た両人は、
「とても駄目だね」
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「とうてい駄目だね」
「どうしても無理ですわ」
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「どうしたって無理ですわ」
と言った。
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と云った。
夫婦の座っている茶の間の次が台所で、台所の右に手伝いの女の部屋、左に六畳の部屋が一つある。
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夫婦の坐っている茶の間の次が台所で、台所の右に下女部屋、左に六畳が一間ある。
手伝いを入れて三人だけの少ない人数だから、この六畳はあまり使わない。御米は東向きの窓際にいつも自分の鏡台を置いていた。
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下女を入れて三人の小人数だから、この六畳には余り必要を感じない御米は、東向の窓側にいつも自分の鏡台を置いた。
宗助も朝起きて顔を洗い、ご飯を済ますと、ここへ来て着物を着替えた。
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宗助も朝起きて顔を洗って、飯を済ますと、ここへ来て着物を脱ぎ更えた。
「それより、あの六畳を空けて、あそこへ来てもらってはどうかしら」
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「それよりか、あの六畳を空けて、あすこへ来ちゃいけなくって」
と御米が言い出した。
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と御米が云い出した。
御米の考えでは、こうして自分の方で部屋と食事だけを受け持ち、あとの分を毎月いくらか佐伯から助けてもらえば、小六の望みどおり大学を卒業させられるだろうというのである。
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御米の考えでは、こうして自分の方で部屋と食物だけを分担して、あとのところを月々いくらか佐伯から助て貰ったら、小六の望み通り大学卒業までやって行かれようと云うのである。
「着物は安さんの古いのや、あなたのを直してあげたら、どうにかなるでしょう」
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「着物は安さんの古いのや、あなたのを直して上げたら、どうかなるでしょう」
と御米が言い添えた。
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と御米が云い添えた。
実は宗助にも、こんな考えが少し頭に浮かんでいた。
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実は宗助にもこんな考が、多少頭に浮かんでいた。
ただ御米に遠慮があり、その上あまり気が進まなかったので、つい口に出さなかっただけだった。だから奥さんの方から先に相談を持ちかけられると、それを断る勇気はなかった。
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ただ御米に遠慮がある上に、それほど気が進まなかったので、つい口へ出さなかったまでだから、細君からこう反対に相談を掛けられて見ると、固よりそれを拒むだけの勇気はなかった。
小六にそのとおりを知らせて、お前さえそれで構わなければ、おれがもう一度佐伯へ行って掛け合ってみるが、と手紙で聞いてみた。すると小六は郵便の着いた晩、雨の降る中を傘に音を立ててやって来て、もう学費ができたかのように喜んだ。
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小六にその通りを通知して、御前さえそれで差支なければ、おれがもう一遍佐伯へ行って掛合って見るがと、手紙で問い合せると、小六は郵便の着いた晩、すぐ雨の降る中を、傘に音を立ててやって来て、もう学資ができでもしたように嬉しがった。
「なに、叔母さんの方では、こっちがいつまでもあなたのことを放り出したままにしているから、それでああおっしゃるのよ。兄さんだって、もう少し都合がよければとっくにどうにかしたんですけれど、ご存じのとおりだから本当に仕方がなかったんですわ。でもこっちからこう言って行けば、叔母さんだって安さんだって、嫌だとは言えないわ。きっとできるから安心していらっしゃい。私が請け合うわ」
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「何、叔母さんの方じゃ、こっちでいつまでもあなたの事を放り出したまんま、構わずにおくもんだから、それでああおっしゃるのよ。なに兄さんだって、もう少し都合が好ければ、疾うにもどうにかしたんですけれども、御存じの通りだから実際やむを得なかったんですわ。しかしこっちからこう云って行けば、叔母さんだって、安さんだって、それでも否だとは云われないわ。きっとできるから安心していらっしゃい。私受合うわ」
御米にこう請け合ってもらった小六は、また雨の音を頭の上に受けて本郷へ帰って行った。
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御米にこう受合って貰った小六は、また雨の音を頭の上に受けて本郷へ帰って行った。
しかし一日おいて、兄さんはまだ行かないんですか、と聞きに来た。
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しかし中一日置いて、兄さんはまだ行かないんですかと聞きに来た。
また三日ほどたってから、今度は、叔母さんの所へ行って聞いたら兄さんはまだ来ないそうだから、なるべく早く行くように勧めてくれ、と催促して行った。
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また三日ばかり過ぎてから、今度は叔母さんの所へ行って聞いたら、兄さんはまだ来ないそうだから、なるべく早く行くように勧めてくれと催促して行った。
宗助が行く行くと言って日を過ごしているうちに、世の中はようやく秋になった。
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宗助が行く行くと云って、日を暮らしているうちに世の中はようやく秋になった。
その明るいある日曜の午後、宗助はあまりに佐伯へ行くのが遅れるので、この用件を手紙に書いて番町へ相談したのである。
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その朗らかな或日曜の午後に、宗助はあまり佐伯へ行くのが後れるので、この要件を手紙に認めて番町へ相談したのである。
すると叔母から、安之助は神戸へ行って留守だという返事が来たのである。
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すると、叔母から安之助は神戸へ行って留守だと云う返事が来たのである。
五
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五
佐伯の叔母が訪ねて来たのは、土曜の午後二時過ぎだった。
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佐伯の叔母の尋ねて来たのは、土曜の午後の二時過であった。
その日はめずらしく朝から雲が出て、急に風が北に変わったように寒かった。
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その日は例になく朝から雲が出て、突然と風が北に変ったように寒かった。
叔母は竹で編んだ丸い火桶(ひおけ)に手をかざして、
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叔母は竹で編んだ丸い火桶の上へ手を翳して、
「何ですね、御米さん。このお部屋は夏は涼しそうで結構だけれど、これからは少し寒うございますね」
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「何ですね、御米さん。この御部屋は夏は涼しそうで結構だが、これからはちと寒うござんすね」
と言った。
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と云った。
叔母は癖のある髪をきれいに結い上げて、古風な丸い紐(ひも)の羽織のひもを胸の所で結んでいた。
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叔母は癖のある髪を、奇麗に髷に結って、古風な丸打の羽織の紐を、胸の所で結んでいた。
お酒の好きな人で、今でも少しずつは晩に飲むせいか、色つやもよく、でっぷり太っているから、年よりよほど若く見える。
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酒の好きな質で、今でも少しずつは晩酌をやるせいか、色沢もよく、でっぷり肥っているから、年よりはよほど若く見える。
御米は叔母が来るたびに、叔母さんは若いのね、とあとでよく宗助に話した。
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御米は叔母が来るたんびに、叔母さんは若いのねと、後でよく宗助に話した。
すると宗助はいつも、若いはずだ、あの年になるまで子供をたった一人しか生まないんだから、と説明した。
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すると宗助がいつでも、若いはずだ、あの年になるまで、子供をたった一人しか生まないんだからと説明した。
御米は本当にそうかもしれないと思った。
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御米は実際そうかも知れないと思った。
そうしてこう言われたあとでは、時々そっと六畳へ入って、自分の顔を鏡に映してみた。
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そうしてこう云われた後では、折々そっと六畳へ這入って、自分の顔を鏡に映して見た。
その時は、何だか自分の頬が見るたびにやせて行くような気がした。
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その時は何だか自分の頬が見るたびに瘠けて行くような気がした。
御米には、自分と子供とを結びつけて考えるほど辛いことはなかったのである。
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御米には自分と子供とを連想して考えるほど辛い事はなかったのである。
裏の家主の家に小さい子供が大勢いて、それが崖の上の庭へ出てブランコに乗ったり鬼ごっこをしたりして騒ぐ声がよく聞こえる。それを聞くと御米はいつも、はかないような恨めしいような気持ちになった。
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裏の家主の宅に、小さい子供が大勢いて、それが崖の上の庭へ出て、ブランコへ乗ったり、鬼ごっこをやったりして騒ぐ声が、よく聞えると、御米はいつでも、はかないような恨めしいような心持になった。
今、自分の前に座っている叔母は、たった一人の男の子を生んで、その子が無事に育って立派な学士になった。だからこそ、叔父が死んだ今でも何も足りないもののない顔をして、顎(あご)などは二重に見えるほどふっくらしているのである。
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今自分の前に坐っている叔母は、たった一人の男の子を生んで、その男の子が順当に育って、立派な学士になったればこそ、叔父が死んだ今日でも、何不足のない顔をして、腮などは二重に見えるくらいに豊なのである。
お母さんは太っているから危ない、気をつけないと脳の病気で倒れるかもしれないと安之助がいつも心配するそうだが、御米から言えば、心配する安之助も、心配される叔母も、どちらも幸せを分け合っているものとしか思えなかった。
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御母さんは肥っているから剣呑だ、気をつけないと卒中でやられるかも知れないと、安之助が始終心配するそうだけれども、御米から云わせると、心配する安之助も、心配される叔母も、共に幸福を享け合っているものとしか思われなかった。
「安さんは」
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「安さんは」
と御米が聞いた。
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と御米が聞いた。
「ええ、ようやくね。一昨日の晩帰りましてね。それでついつい、お返事も遅れてしまって、まことに済まないようなわけで」
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「ええようやくね、あなた。一昨日の晩帰りましてね。それでついつい御返事も後れちまって、まことに済みませんような訳で」
と言ったが、返事のことはそれきりにして、話はまた安之助に戻って来た。
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と云ったが、返事の方はそれなりにして、話はまた安之助へ戻って来た。
「あれもね、おかげさまでようやく学校だけは卒業しましたが、これからが大事なところで、心配でございます。――それでもこの九月から月島の工場へ出ることになりまして、まあ幸いこの調子で勉強さえしてくれれば、この先そう悪いこともなかろうと思っているんですけれど、まあ若い者のことですから、これから先どう変わるか分かりゃしませんよ」
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「あれもね、御蔭さまでようやく学校だけは卒業しましたが、これからが大事のところで、心配でございます。――それでもこの九月から、月島の工場の方へ出る事になりまして、まあさいわいとこの分で勉強さえして行ってくれれば、この末ともに、そう悪い事も無かろうかと思ってるんですけれども、まあ若いものの事ですから、これから先どう変化るか分りゃしませんよ」
御米はただ、結構でございますとか、おめでとうございますとかいう言葉を、合間合間に挟んでいた。
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御米はただ結構でございますとか、おめでとうございますとか云う言葉を、間々に挟んでいた。
「神戸へ参ったのも、まったくその用事で。石油発動機(せきゆはつどうき)とか何とかいうものを、鰹(かつお)を捕る船に取り付けるんだとかってね、あなた」
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「神戸へ参ったのも、全くその方の用向なので。石油発動機とか何とか云うものを鰹船へ据え付けるんだとかってねあなた」
御米にはまるで意味が分からなかった。
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御米にはまるで意味が分らなかった。
分からないまま、ただ、へえ、と受けていると、叔母はすぐあとを話した。
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分らないながらただへええと受けていると、叔母はすぐ後を話した。
「私にも何のことか、ちっとも分からなかったんですが、安之助の説明を聞いて初めて、おや、そうかい、と言うようなわけでしてね。――もっとも石油発動機は今も分からないんですけれど」
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「私にも何のこったか、ちっとも分らなかったんですが、安之助の講釈を聞いて始めて、おやそうかいと云うような訳でしてね。――もっとも石油発動機は今もって分らないんですけれども」
と言いながら、大きな声を出して笑った。
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と云いながら、大きな声を出して笑った。
「何でも石油を燃やして、それで船を自由に動かす器械なんだそうですが、聞いてみるとよほど便利なものらしいんですよ。それさえ付ければ、舟をこぐ手間がまるでいらないとかでね。五里も十里も沖へ出るのにとても楽なんですとさ。ところがあなた、この日本全国で鰹を捕る船の数といったら、それこそ大したものでしょう。その船が一つずつこの器械を付けるようになったら大もうけだというので、この頃は夢中になってそのことばかり考えているようですよ。大もうけはありがたいけれど、そんなに夢中になって体でも悪くしたらつまらないじゃないかって、この間も笑ったくらいで」
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「何でも石油を焚いて、それで船を自由にする器械なんだそうですが、聞いて見るとよほど重宝なものらしいんですよ。それさえ付ければ、舟を漕ぐ手間がまるで省けるとかでね。五里も十里も沖へ出るのに、大変楽なんですとさ。ところがあなた、この日本全国で鰹船の数ったら、それこそ大したものでしょう。その鰹船が一つずつこの器械を具え付けるようになったら、莫大な利益だって云うんで、この頃は夢中になってその方ばっかりに掛っているようですよ。莫大な利益はありがたいが、そう凝って身体でも悪くしちゃつまらないじゃないかって、この間も笑ったくらいで」
叔母はしきりに鰹の船と安之助の話をした。
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叔母はしきりに鰹船と安之助の話をした。
そうしてとても得意そうに見えたが、小六のことはなかなか言い出さなかった。
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そうして大変得意のように見えたが、小六の事はなかなか云い出さなかった。
もうとっくに帰るはずの宗助も、どうしたのか帰って来なかった。
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もう疾に帰るはずの宗助もどうしたか帰って来なかった。
彼はその日、役所の帰りに駿河台下まで来て電車を降り、酸っぱいものを口に入れたような顔で一、二町歩いたあと、ある歯医者の門をくぐったのである。
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彼はその日役所の帰りがけに駿河台下まで来て、電車を下りて、酸いものを頬張ったような口を穿めて一二町歩いた後、ある歯医者の門を潜ったのである。
三、四日前、彼は御米と向かい合って夕飯を食べながら、話しながら箸を動かしているうちに、どうした拍子か前歯をぎりりと噛んだ。それから急に痛み出したのである。
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三四日前彼は御米と差向いで、夕飯の膳に着いて、話しながら箸を取っている際に、どうした拍子か、前歯を逆にぎりりと噛んでから、それが急に痛み出した。
指で動かすと、根がぐらぐらする。
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指で揺かすと、根がぐらぐらする。
食事の時にはお湯やお茶がしみる。
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食事の時には湯茶が染みる。
口を開けて息をすると、風もしみた。
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口を開けて息をすると風も染みた。
宗助はこの朝、歯を磨くのにわざと痛い所を避けて楊枝を使いながら、口の中を鏡に映してみた。すると、広島で銀を詰めた二本の奥歯と、削ったようにすり減ったふぞろいの前歯が、急に寒々と光った。
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宗助はこの朝歯を磨くために、わざと痛い所を避けて楊枝を使いながら、口の中を鏡に照らして見たら、広島で銀を埋めた二枚の奥歯と、研いだように磨り減らした不揃の前歯とが、にわかに寒く光った。
洋服に着替える時、
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洋服に着換える時、
「御米、おれは歯の質がよほど悪いと見えるね。こうやるとたいてい動くぜ」
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「御米、おれは歯の性がよっぽど悪いと見えるね。こうやると大抵動くぜ」
と下の歯を指で動かしてみせた。
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と下歯を指で動かして見せた。
御米は笑いながら、
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御米は笑いながら、
「もうお年のせいよ」
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「もう御年のせいよ」
と言って、白い襟を後ろへ回ってシャツに付けた。
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と云って白い襟を後へ廻って襯衣へ着けた。
宗助はその日の午後、とうとう思い切って歯医者へ寄ったのである。
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宗助はその日の午後とうとう思い切って、歯医者へ寄ったのである。
待合室へ通ると、大きなテーブルの周りにビロードを張った腰掛けが並んでいて、待っている三、四人がうずくまるように顎を襟に埋めていた。
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応接間へ通ると、大きな洋卓の周囲に天鵞絨で張った腰掛が并んでいて、待ち合している三四人が、うずくまるように腮を襟に埋めていた。
それが皆女の人だった。
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それが皆女であった。
きれいな茶色のガスストーブには、まだ火が入っていなかった。
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奇麗な茶色の瓦斯暖炉には火がまだ焚いてなかった。
宗助は大きな鏡に映る白い壁の色を斜めに見ながら順番を待っていたが、あまり退屈になったので、テーブルの上に重ねてあった雑誌に目をつけた。
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宗助は大きな姿見に映る白壁の色を斜めに見て、番の来るのを待っていたが、あまり退屈になったので、洋卓の上に重ねてあった雑誌に眼を着けた。
一、二冊手に取ってみると、どれも女性向けのものだった。
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一二冊手に取って見ると、いずれも婦人用のものであった。
宗助はその初めのページに出ている女の人の写真を、何枚も繰り返して眺めた。
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宗助はその口絵に出ている女の写真を、何枚も繰り返して眺めた。
それから「成功」
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それから「成功」
という雑誌を取り上げた。
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と云う雑誌を取り上げた。
その初めに、成功のこつというようなものが箇条書きにしてあった。何でも突き進まなくてはいけないという一つと、ただ突き進んでもいけない、立派な土台の上に立って突き進まなくてはならないという一つを読んで、それきり雑誌を伏せた。
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その初めに、成効の秘訣というようなものが箇条書にしてあったうちに、何でも猛進しなくってはいけないと云う一カ条と、ただ猛進してもいけない、立派な根底の上に立って、猛進しなくってはならないと云う一カ条を読んで、それなり雑誌を伏せた。
「成功」
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「成功」
と宗助とは、とても縁の遠いものだった。
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と宗助は非常に縁の遠いものであった。
宗助は、こういう名の雑誌があることさえ今日まで知らなかった。
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宗助はこういう名の雑誌があると云う事さえ、今日まで知らなかった。
それでまためずらしくなって、いったん伏せたのをまた開いてみると、ふと、仮名の混じらない漢字だけの字が二行ほど並んでいた。
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それでまた珍らしくなって、いったん伏せたのをまた開けて見ると、ふと仮名の交らない四角な字が二行ほど並んでいた。
それには、風が青空を吹いて浮かぶ雲は消え、月が東の山に上って玉のような光が一つにまとまる、とあった。
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それには風碧落を吹いて浮雲尽き、月東山に上って玉一団とあった。
宗助は詩や歌にはもともとあまり興味を持たない男だったが、どういうわけかこの二行を読んだ時、とても感心した。
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宗助は詩とか歌とかいうものには、元から余り興味を持たない男であったが、どう云う訳かこの二句を読んだ時に大変感心した。
言葉の組み立てがうまいという意味ではない。こんな景色と同じような気持ちになれたら、人間もさぞ嬉しかろうと、ふと心が動いたのである。
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対句が旨くできたとか何とか云う意味ではなくって、こんな景色と同じような心持になれたら、人間もさぞ嬉しかろうと、ひょっと心が動いたのである。
宗助は気になって、この二行の前に付いている文章を読んでみた。
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宗助は好奇心からこの句の前に付いている論文を読んで見た。
しかしそれはまるで関係がないように思われた。
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しかしそれはまるで無関係のように思われた。
ただこの二行だけが、雑誌を置いたあとでもしきりに彼の頭の中をさまよった。
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ただこの二句が雑誌を置いた後でも、しきりに彼の頭の中を徘徊した。
彼の生活は、この四、五年こういう景色に出会ったことがなかったのである。
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彼の生活は実際この四五年来こういう景色に出逢った事がなかったのである。
その時、向こうの戸が開いて、紙切れを持った書生が、野中さん、と宗助を治療室へ呼び入れた。
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その時向うの戸が開いて、紙片を持った書生が野中さんと宗助を手術室へ呼び入れた。
中へ入ると、そこは待合室の倍も広かった。
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中へ這入ると、そこは応接間よりは倍も広かった。
光がなるべく多く入るように明るく作った部屋の二方の壁ぎわに、治療用の椅子を四台ほど置いて、白い胸当てをかけた係の男が一人ずつ別々に治療をしていた。
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光線がなるべく余計取れるように明るく拵らえた部屋の二側に、手術用の椅子を四台ほど据えて、白い胸掛をかけた受持の男が、一人ずつ別々に療治をしていた。
宗助は一番奥の一つに案内されて、これへ、と言われるので、踏み台のようなものに乗って椅子に腰を下ろした。
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宗助は一番奥の方にある一脚に案内されて、これへと云われるので、踏段のようなものの上へ乗って、椅子へ腰をおろした。
書生が厚い縞の前掛けで、丁寧に膝から下を包んでくれた。
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書生が厚い縞入の前掛で丁寧に膝から下を包んでくれた。
こう静かに寝かされた時、宗助はあの歯がそれほど痛んでいないことに気がついた。
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こう穏やかに寝かされた時、宗助は例の歯がさほど苦になるほど痛んでいないと云う事を発見した。
それどころか、肩も背中も腰の周りも安心して落ち着き、体全体がとても楽になっていることに気がついた。
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そればかりか、肩も背も、腰の周りも、心安く落ちついて、いかにも楽に調子が取れている事に気がついた。
彼はただ上を向いて、天井から下がっているガス管を眺めた。
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彼はただ仰向いて天井から下っている瓦斯管を眺めた。
そうして、この立派な部屋と道具では、帰りに思ったより高い治療代を取られるかもしれないと気にした。
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そうしてこの構と設備では、帰りがけに思ったより高い療治代を取られるかも知れないと気遣った。
そこへ、顔の割に髪の薄くなり過ぎた太った男が出て来て、とても丁寧にあいさつをしたので、宗助は少し椅子の上で慌てたように首を動かした。
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ところへ顔の割に頭の薄くなり過ぎた肥った男が出て来て、大変丁寧に挨拶をしたので、宗助は少し椅子の上で狼狽たように首を動かした。
太った男はひととおり具合を聞き、口の中を調べて、宗助の痛いという歯をちょっと揺すってみたが、
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肥った男は一応容体を聞いて、口中を検査して、宗助の痛いと云う歯をちょっと揺って見たが、
「どうも、こうゆるむと、とても元のようにしっかりするとは思えませんが。何しろ中が死んでしまっておりますから」
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「どうもこう弛みますと、とても元のように緊る訳には参りますまいと思いますが。何しろ中がエソになっておりますから」
と言った。
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と云った。
宗助はこの言葉を、寂しい秋の光のように感じた。
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宗助はこの宣告を淋しい秋の光のように感じた。
もうそんな年なんでしょうか、と聞いてみたくなったが、少しきまりが悪いので、ただ、
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もうそんな年なんでしょうかと聞いて見たくなったが、少しきまりが悪いので、ただ、
「じゃ、治らないんですか」
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「じゃ癒らないんですか」
と念を押した。
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と念を押した。
太った男は笑いながらこう言った。――
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肥った男は笑いながらこう云った。――
「まあ、治らないと申し上げるよりほかに仕方がございませんな。どうしようもなければ思い切って抜いてしまうんですが、今のところではまだそれほどでもございませんから、痛みだけを止めておきましょう。何しろ中が死んで――と申してもお分かりにならないかもしれませんが、中がまるで腐っております」
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「まあ癒らないと申し上げるよりほかに仕方がござんせんな。やむを得なければ、思い切って抜いてしまうんですが、今のところでは、まだそれほどでもございますまいから、ただ御痛みだけを留めておきましょう。何しろエソ――エソと申しても御分りにならないかも知れませんが、中がまるで腐っております」
宗助は、そうですか、と言って、ただ太った男のするままにしておいた。
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宗助は、そうですかと云って、ただ肥った男のなすがままにしておいた。
すると彼は器械をぐるぐる回して、宗助の歯の根に穴を開け始めた。
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すると彼は器械をぐるぐる廻して、宗助の歯の根へ穴を開け始めた。
そうしてその中へ細長い針のようなものを刺し通しては、その先をかいでいた。しまいに糸のような筋を引き出して、神経がこれだけ取れました、と言いながらそれを宗助に見せてくれた。
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そうしてその中へ細長い針のようなものを刺し通しては、その先を嗅いでいたが、しまいに糸ほどな筋を引き出して、神経がこれだけ取れましたと云いながら、それを宗助に見せてくれた。
それから薬でその穴をふさいで、明日もまたいらっしゃい、と言った。
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それから薬でその穴を埋めて、明日またいらっしゃいと注意を与えた。
椅子を下りる時、体がまっすぐになったので、目の向きが天井からふと庭先に移った。すると、そこにあった高さ五尺もありそうな大きな鉢植えの松が宗助の目に入った。
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椅子を下りるとき、身体が真直ぐになったので、視線の位置が天井からふと庭先に移ったら、そこにあった高さ五尺もあろうと云う大きな鉢栽の松が宗助の眼に這入った。
その根もとの所を、草鞋(わらじ)をはいた植木屋が丁寧にわらのむしろで包んでいた。
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その根方の所を、草鞋がけの植木屋が丁寧に薦で包んでいた。
だんだん露が凍って霜になる季節なので、余裕のある人はもう今から冬の用意をするのだと気がついた。
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だんだん露が凝って霜になる時節なので、余裕のあるものは、もう今時分から手廻しをするのだと気がついた。
帰りに玄関わきの薬局で、粉のままのうがい薬を受け取った。それを百倍のぬるま湯に溶かして一日十数回使うようにと言われた時、宗助は会計で言われた治療代が思ったより安いのを喜んだ。
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帰りがけに玄関脇の薬局で、粉薬のまま含嗽剤を受取って、それを百倍の微温湯に溶解して、一日十数回使用すべき注意を受けた時、宗助は会計の請求した治療代の案外廉なのを喜んだ。
これなら向こうの言うとおり四、五回通っても、それほど大変ではないと思って靴をはこうとすると、今度は靴の底がいつの間にか破れていることに気がついた。
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これならば向うで云う通り四五回通ったところが、さして困難でもないと思って、靴を穿こうとすると、今度は靴の底がいつの間にか破れている事に気がついた。
家に着いた時は、ひと足違いで叔母がもう帰ったあとだった。
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宅へ着いた時は一足違で叔母がもう帰ったあとであった。
宗助は、
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宗助は、
「おお、そうだったか」
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「おお、そうだったか」
と言いながら、とても面倒そうに洋服を着替えて、いつものとおり火鉢の前に座った。
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と云いながら、はなはだ面倒そうに洋服を脱ぎ更えて、いつもの通り火鉢の前に坐った。
御米はシャツやズボンや靴下をひと抱えにして六畳へ入った。
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御米は襯衣や洋袴や靴足袋を一抱にして六畳へ這入った。
宗助はぼんやりして煙草をふかし始めたが、向こうの部屋でブラシを掛ける音がし出した時、
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宗助はぼんやりして、煙草を吹かし始めたが、向うの部屋で、刷毛を掛ける音がし出した時、
「御米、佐伯の叔母さんは何と言って来たのかい」
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「御米、佐伯の叔母さんは何とか云って来たのかい」
と聞いた。
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と聞いた。
歯の痛みが自然と治まったので、秋に襲われるような寒い気分は少し軽くなった。けれどもやがて、御米がポケットから取り出して来た粉薬をぬるま湯に溶いてもらって、しきりにうがいを始めた。
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歯痛が自から治まったので、秋に襲われるような寒い気分は、少し軽くなったけれども、やがて御米が隠袋から取り出して来た粉薬を、温ま湯に溶いて貰って、しきりに含嗽を始めた。
その時、彼は縁側に立ったまま、
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その時彼は縁側へ立ったまま、
「どうも日が短くなったなあ」
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「どうも日が短かくなったなあ」
と言った。
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と云った。
やがて日が暮れた。
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やがて日が暮れた。
昼間からあまり車の音を聞かない町内は、夜の早い時間からしんとしていた。
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昼間からあまり車の音を聞かない町内は、宵の口から寂としていた。
夫婦はいつものようにランプのそばに寄った。
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夫婦は例の通り洋灯の下に寄った。
広い世の中で、自分たちの座っている所だけが明るく思われた。
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広い世の中で、自分達の坐っている所だけが明るく思われた。
そうしてこの明るい灯りの中で、宗助は御米だけを、御米は宗助だけを見ていて、ランプの光の届かない暗い世の中は忘れていた。
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そうしてこの明るい灯影に、宗助は御米だけを、御米は宗助だけを意識して、洋灯の力の届かない暗い社会は忘れていた。
二人は毎晩こう暮らしていく中に、自分たちの命を見つけていたのである。
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彼らは毎晩こう暮らして行く裡に、自分達の生命を見出していたのである。
この静かな夫婦は、安之助が神戸からみやげに買って来たという昆布(こんぶ)の缶をがらがら振って、中から山椒(さんしょう)入りの小さく結んだものを選び出しながら、ゆっくり佐伯からの返事について話し合った。
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この静かな夫婦は、安之助の神戸から土産に買って来たと云う養老昆布の缶をがらがら振って、中から山椒入りの小さく結んだ奴を撰り出しながら、緩くり佐伯からの返事を語り合った。
「しかし、月謝と小遣いくらいは何とかしてくれてもよさそうなものじゃないか」
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「しかし月謝と小遣ぐらいは都合してやってくれても好さそうなもんじゃないか」
「それができないんだって。どう計算しても両方合わせると十円にはなる。十円というまとまったお金を今のところ毎月出すのは大変だって言うのよ」
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「それができないんだって。どう見積っても両方寄せると、十円にはなる。十円と云う纏った御金を、今のところ月々出すのは骨が折れるって云うのよ」
「それじゃ、今年の暮れまで二十何円ずつか出してやるのも無理じゃないか」
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「それじゃことしの暮まで二十何円ずつか出してやるのも無理じゃないか」
「だから、無理をしてももう一、二か月のところだけは間に合わせるから、そのうちにどうかしてくださいと、安さんがそう言うんだって」
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「だから、無理をしても、もう一二カ月のところだけは間に合せるから、そのうちにどうかして下さいと、安さんがそう云うんだって」
「本当にできないのかな」
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「実際できないのかな」
「それは私には分からないわ。とにかく叔母さんがそう言うのよ」
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「そりゃ私には分らないわ。何しろ叔母さんが、そう云うのよ」
「鰹の船でもうけたら、そのくらい訳なさそうなものじゃないか」
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「鰹舟で儲けたら、そのくらい訳なさそうなもんじゃないか」
「本当ね」
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「本当ね」
御米は低い声で笑った。
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御米は低い声で笑った。
宗助もちょっと口もとを動かしたが、話はそれで途切れてしまった。
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宗助もちょっと口の端を動かしたが、話はそれで途切れてしまった。
しばらくしてから、
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しばらくしてから、
「とにかく小六は家へ来ると決めるよりほかに道はあるまいよ。あとはその先のことだ。今は学校へ出ているんだね」
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「何しろ小六は家へ来るときめるよりほかに道はあるまいよ。後はその上の事だ。今じゃ学校へは出ているんだね」
と宗助が言った。
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と宗助が云った。
「そうでしょう」
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「そうでしょう」
と御米が答えるのを聞き流して、彼はめずらしく書斎に入った。
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と御米が答えるのを聞き流して、彼は珍らしく書斎に這入った。
一時間ほどして御米がそっと襖を開けてのぞいてみると、机に向かって何か読んでいた。
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一時間ほどして、御米がそっと襖を開けて覗いて見ると、机に向って、何か読んでいた。
「勉強? もうお休みにならなくて」
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「勉強? もう御休みなさらなくって」
と誘われた時、彼は振り返って、
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と誘われた時、彼は振り返って、
「うん、もう寝よう」
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「うん、もう寝よう」
と答えながら立ち上がった。
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と答えながら立ち上った。
寝る時、着物を脱いで寝巻きの上に帯をぐるぐる巻きつけながら、
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寝る時、着物を脱いで、寝巻の上に、絞りの兵児帯をぐるぐる巻きつけながら、
「今夜は久しぶりに論語(ろんご)を読んだ」
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「今夜は久し振に論語を読んだ」
と言った。
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と云った。
「論語に何かあって」
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「論語に何かあって」
と御米が聞き返すと、宗助は、
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と御米が聞き返したら、宗助は、
「いや、何にもない」
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「いや何にもない」
と答えた。
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と答えた。
それから、「おい、おれの歯はやっぱり年のせいだとさ。ぐらぐらするのはとても治らないそうだ」
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それから、「おい、おれの歯はやっぱり年のせいだとさ。ぐらぐらするのはとても癒らないそうだ」
と言いながら、黒い頭を枕の上に着けた。
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と云いつつ、黒い頭を枕の上に着けた。
六
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六
小六は、とにかく都合がつきしだい下宿を引き払って兄の家へ移ることに話がまとまった。
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小六はともかくも都合しだい下宿を引き払って兄の家へ移る事に相談が調った。
御米は六畳に置いてある桑(くわ)の鏡台を眺めて、ちょっと名残惜しい顔をしたが、
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御米は六畳に置きつけた桑の鏡台を眺めて、ちょっと残り惜しい顔をしたが、
「こうなると、少し置き場に困るのね」
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「こうなると少し遣場に困るのね」
と訴えるように宗助に言った。
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と訴えるように宗助に告げた。
実際ここを取られてしまうと、御米が化粧をする場所がなくなってしまうのである。
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実際ここを取り上げられては、御米の御化粧をする場所が無くなってしまうのである。
宗助は何の工夫も思いつかず、立ったまま、向こうの窓際に置いてある鏡の裏を斜めに眺めた。
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宗助は何の工夫もつかずに、立ちながら、向うの窓側に据えてある鏡の裏を斜に眺めた。
すると角度の具合で、そこに御米の襟もとから片方の頬が映っていた。
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すると角度の具合で、そこに御米の襟元から片頬が映っていた。
それがいかにも血の色の悪い横顔なので驚いて、
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それがいかにも血色のわるい横顔なのに驚ろかされて、
「お前、どうかしたのかい。たいへん色が悪いよ」
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「御前、どうかしたのかい。大変色が悪いよ」
と言いながら鏡から目を離して、本当の御米の姿を見た。
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と云いながら、鏡から眼を放して、実際の御米の姿を見た。
耳のあたりの髪が乱れて、襟の後ろのあたりが少し汚れていた。
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鬢が乱れて、襟の後の辺が垢で少し汚れていた。
御米はただ、
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御米はただ、
「寒いせいなんでしょう」
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「寒いせいなんでしょう」
と答えて、すぐ西側に付いている
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と答えて、すぐ西側に付いている。
一間(いっけん)の戸棚を開けた。
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一間の戸棚を明けた。
下には古い傷だらけの箪笥(たんす)があって、上には中国製の鞄と柳(やなぎ)の行李(こうり)が二つ三つ載っていた。
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下には古い創だらけの箪笥があって、上には支那鞄と柳行李が二つ三つ載っていた。
「こんなもの、どうしたって片づけようがないわね」
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「こんなもの、どうしたって片づけようがないわね」
「だから、そのままにしておくさ」
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「だからそのままにしておくさ」
小六がここへ移って来ることは、こういう点から見て、夫婦のどちらにも少し迷惑だった。
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小六のここへ引移って来るのは、こう云う点から見て、夫婦のいずれにも、多少迷惑であった。
だから、来ると約束しておきながらまだ来ない小六に、特に催促もしなかった。
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だから来ると云って約束しておきながら、今だに来ない小六に対しては、別段の催促もしなかった。
一日延びれば延びただけ、窮屈さが遠のいたような気が、どこかでした。
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一日延びれば延びただけ窮屈が逃げたような気がどこかでした。
小六にもちょうど同じ気兼ねがあったので、いられるだけは下宿にいる方が便利だと思ったのか、つい一日一日と引っ越しを先へ延ばしていた。
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小六にもちょうどそれと同じ憚があったので、いられる限は下宿にいる方が便利だと胸をきめたものか、つい一日一日と引越を前へ送っていた。
そのくせ彼の性分では、兄夫婦のようにずるずると引き延ばした状態に落ち着いてはいられなかったのである。
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その癖彼の性質として、兄夫婦のごとく、荏苒の境に落ちついてはいられなかったのである。
そのうち薄い霜が降りて、裏の芭蕉の葉を見事にだめにした。
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そのうち薄い霜が降りて、裏の芭蕉を見事に摧いた。
朝は崖の上の家主の庭の方で、ひよどりが鋭い声を立てた。
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朝は崖上の家主の庭の方で、鵯が鋭どい声を立てた。
夕方には、表を急ぐ豆腐屋のラッパに混じって、円明寺(えんみょうじ)の木魚(もくぎょ)の音が聞こえた。
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夕方には表を急ぐ豆腐屋の喇叭に交って、円明寺の木魚の音が聞えた。
日はますます短くなった。
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日はますます短かくなった。
そうして御米の顔色は、宗助が鏡の中に見た時よりよくならなかった。
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そうして御米の顔色は、宗助が鏡の中に認めた時よりも、爽かにはならなかった。
夫が役所から帰って来てみると、六畳で寝ていることが一、二度あった。
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夫が役所から帰って来て見ると、六畳で寝ている事が一二度あった。
どうかしたかとたずねると、ただ少し具合が悪いと答えるだけだった。
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どうかしたかと尋ねると、ただ少し心持が悪いと答えるだけであった。
医者に見てもらえと勧めると、その必要はないと言って取り合わなかった。
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医者に見て貰えと勧めると、それには及ばないと云って取り合わなかった。
宗助は心配した。
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宗助は心配した。
役所へ出ていても御米のことが気にかかって、仕事の邪魔になると感じる時もあった。
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役所へ出ていてもよく御米の事が気にかかって、用の邪魔になるのを意識する時もあった。
ところがある日、帰りがけに突然、電車の中で膝を打った。
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ところがある日帰りがけに突然電車の中で膝を拍った。
その日はいつになく元気よく戸を開けて、すぐ勢いよく、今日はどうだい、と御米に聞いた。
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その日は例になく元気よく格子を明けて、すぐと勢よく今日はどうだいと御米に聞いた。
御米がいつものとおり服や靴下をひとまとめにして六畳へ入るあとを追って行って、
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御米がいつもの通り服や靴足袋を一纏めにして、六畳へ這入る後から追いて来て、
「御米、お前、子供ができたんじゃないか」
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「御米、御前子供ができたんじゃないか」
と笑いながら言った。
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と笑いながら云った。
御米は返事もせずにうつむいて、しきりに夫の背広の埃を払った。
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御米は返事もせずに俯向いてしきりに夫の背広の埃を払った。
ブラシの音がやんでもなかなか六畳から出て来ないので、また行ってみると、薄暗い部屋の中で御米はたった一人、寒そうに鏡台の前に座っていた。
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刷毛の音がやんでもなかなか六畳から出て来ないので、また行って見ると、薄暗い部屋の中で、御米はたった一人寒そうに、鏡台の前に坐っていた。
はい、と言って立ったが、その声は泣いたあとの声のようだった。
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はいと云って立ったが、その声が泣いた後の声のようであった。
その晩、夫婦は火鉢に掛けた鉄瓶を両側から手で包むようにして向かい合った。
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その晩夫婦は火鉢に掛けた鉄瓶を、双方から手で掩うようにして差し向った。
「どうですな、世の中は」
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「どうですな世の中は」
と宗助がいつにない明るい調子を出した。
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と宗助が例にない浮いた調子を出した。
御米の頭の中には、夫婦になる前の宗助と自分の姿がきれいに浮かんだ。
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御米の頭の中には、夫婦にならない前の、宗助と自分の姿が奇麗に浮んだ。
「少し楽しくしようじゃないか。この頃はいかにも景気が悪いよ」
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「ちっと、面白くしようじゃないか。この頃はいかにも不景気だよ」
と宗助がまた言った。
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と宗助がまた云った。
二人はそれから、今度の日曜にはいっしょにどこへ行こうか、ここへ行こうかと、しばらくそればかり話し合っていた。
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二人はそれから今度の日曜にはいっしょにどこへ行こうか、ここへ行こうかと、しばらくそればかり話し合っていた。
それから二人の春の着物のことが話題になった。
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それから二人の春着の事が題目になった。
宗助の同僚の高木(たかぎ)という男が、奥さんに着物をねだられた時、おれは奥さんの見栄のために働いているんじゃないと言ってはねつけた。すると奥さんが、それはひどい、寒くなっても着て出るものがないんだ、と言うので、寒ければ仕方がない、布団を着るとか毛布をかぶるとかして当分我慢しろと言った。宗助はその話をおかしく繰り返して御米を笑わせた。
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宗助の同僚の高木とか云う男が、細君に小袖とかを強請られた時、おれは細君の虚栄心を満足させるために稼いでるんじゃないと云って跳ねつけたら、細君がそりゃ非道い、実際寒くなっても着て出るものがないんだと弁解するので、寒ければやむを得ない、夜具を着るとか、毛布を被るとかして、当分我慢しろと云った話を、宗助はおかしく繰り返して御米を笑わした。
御米は夫のこの様子を見て、昔がまた目の前に戻ったような気がした。
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御米は夫のこの様子を見て、昔がまた眼の前に戻ったような気がした。
「高木の奥さんは布団でも構わないが、おれは一つ新しい外套(がいとう)を作りたいな。この間歯医者へ行ったら、植木屋がむしろで盆栽の松の根を包んでいたので、つくづくそう思った」
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「高木の細君は夜具でも構わないが、おれは一つ新らしい外套を拵えたいな。この間歯医者へ行ったら、植木屋が薦で盆栽の松の根を包んでいたので、つくづくそう思った」
「外套が欲しいって」
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「外套が欲しいって」
「ああ」
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「ああ」
御米は夫の顔を見て、いかにも気の毒だという風に、
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御米は夫の顔を見て、さも気の毒だと云う風に、
「お作りなさいな。月々の分けばらいで」
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「御拵らえなさいな。月賦で」
と言った。
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と云った。
宗助は、
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宗助は、
「まあ、やめておくよ」
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「まあ止そうよ」
と急に寂しそうに答えた。
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と急に侘しく答えた。
そうして、「ところで小六はいつから来る気なんだろう」
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そうして「時に小六はいつから来る気なんだろう」
と聞いた。
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と聞いた。
「来るのは嫌なんでしょう」
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「来るのは厭なんでしょう」
と御米が答えた。
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と御米が答えた。
御米には、自分が初めから小六に嫌われているという気持ちがあった。
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御米には、自分が始めから小六に嫌われていると云う自覚があった。
それでも夫の弟だと思うので、なるべく気を合わせて、少しでも近づけるようにと今日まで努めて来た。
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それでも夫の弟だと思うので、なるべくは反を合せて、少しでも近づけるように近づけるようにと、今日まで仕向けて来た。
そのためか、今では前と違って、まあ普通の夫の弟くらいの親しみはあると信じている。けれどもこういう時になると、つい実際以上に気を回して、自分だけが小六の来ない理由のように思われるのだった。
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そのためか、今では以前と違って、まあ普通の小舅ぐらいの親しみはあると信じているようなものの、こんな場合になると、つい実際以上にも気を回して、自分だけが小六の来ない唯一の原因のように考えられるのであった。
「そりゃ下宿からこんな所へ移るのは好きじゃないだろうよ。こっちが迷惑なのと同じで、向こうでも窮屈なわけだから。おれだって、小六が来ないとすれば、今のうちに思い切って外套を作るだけの勇気があるんだけれど」
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「そりゃ下宿からこんな所へ移るのは好かあないだろうよ。ちょうどこっちが迷惑を感ずる通り、向うでも窮屈を感ずる訳だから。おれだって、小六が来ないとすれば、今のうち思い切って外套を作るだけの勇気があるんだけれども」
宗助は男だけに、思い切ってこう言ってしまった。
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宗助は男だけに思い切ってこう云ってしまった。
けれども、これだけでは御米の気持ちを分かってやったことにはならなかった。
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けれどもこれだけでは御米の心を尽していなかった。
御米は返事もせずしばらく黙っていたが、細い顎を襟の中に埋めたまま、目を上に向けて、
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御米は返事もせずに、しばらく黙っていたが、細い腮を襟の中へ埋めたまま、上眼を使って、
「小六さんは、まだ私のことを憎んでいらっしゃるでしょうか」
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「小六さんは、まだ私の事を悪んでいらっしゃるでしょうか」
と聞き出した。
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と聞き出した。
宗助が東京へ来たばかりの頃は、時々これに似た質問を御米から受けて、そのたびになぐさめるのにだいぶ骨が折れたこともあった。けれども近ごろはまるで忘れたように何も言わなくなったので、宗助もつい気に留めなかったのである。
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宗助が東京へ来た当座は、時々これに類似の質問を御米から受けて、その都度慰めるのにだいぶ骨の折れた事もあったが、近来は全く忘れたように何も云わなくなったので、宗助もつい気に留めなかったのである。
「また気持ちが乱れて来たね。いいじゃないか、小六なんかがどう思ったって。おれさえついていれば」
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「またヒステリーが始まったね。好いじゃないか小六なんぞが、どう思ったって。おれさえついてれば」
「論語にそう書いてあって」
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「論語にそう書いてあって」
御米はこんな時に、こういう冗談を言う人だった。
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御米はこんな時に、こういう冗談を云う女であった。
宗助は
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宗助は
「うん、書いてある」
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「うん、書いてある」
と答えた。
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と答えた。
それで二人の話は終わりになった。
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それで二人の会話がしまいになった。
翌日、宗助が目を覚ますと、トタン張りの屋根の上で寒そうな音がした。
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翌日宗助が眼を覚ますと、亜鉛張の庇の上で寒い音がした。
御米が襷(たすき)をかけたまま枕もとへ来て、
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御米が襷掛のまま枕元へ来て、
「さあ、もう時間よ」
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「さあ、もう時間よ」
と言った時、彼はこの雨だれの音を聞きながら、もう少し暖かい布団の中にいたかった。
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と注意したとき、彼はこの点滴の音を聞きながら、もう少し暖かい蒲団の中に温もっていたかった。
けれども血の色のよくない御米のよく働く姿を見るとすぐ、
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けれども血色のよくない御米の、かいがいしい姿を見るや否や、
「おい」
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「おい」
と言って起き上がった。
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と云って直起き上った。
外は濃い雨に閉ざされていた。
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外は濃い雨に鎖されていた。
崖の上の孟宗竹が時々、たてがみを振るように雨をはらって動いた。
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崖の上の孟宗竹が時々鬣を振うように、雨を吹いて動いた。
この寂しい空の下へ濡れに出て行く宗助にとって、力になるものは暖かい味噌汁と暖かいご飯よりほかになかった。
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この侘びしい空の下へ濡れに出る宗助に取って、力になるものは、暖かい味噌汁と暖かい飯よりほかになかった。
「また靴の中が濡れる。どうしても二足持っていないと困る」
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「また靴の中が濡れる。どうしても二足持っていないと困る」
と言って、底に小さい穴のあるのを仕方なく履いて、ズボンのすそを一寸ほどまくり上げた。
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と云って、底に小さい穴のあるのを仕方なしに穿いて、洋袴の裾を一寸ばかりまくり上げた。
昼過ぎに帰って来てみると、御米は金だらいの中に雑巾を浸けて、六畳の鏡台のそばに置いていた。
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午過に帰って来て見ると、御米は金盥の中に雑巾を浸けて、六畳の鏡台の傍に置いていた。
その上の所だけ天井の色が変わって、時々しずくが落ちて来た。
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その上の所だけ天井の色が変って、時々雫が落ちて来た。
「靴ばかりじゃない。家の中まで濡れるんだね」
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「靴ばかりじゃない。家の中まで濡れるんだね」
と言って宗助は苦笑いした。
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と云って宗助は苦笑した。
御米はその晩、夫のために置き炬燵(こたつ)に火を入れて、毛の靴下と縞(しま)のズボンを乾かした。
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御米はその晩夫のために置炬燵へ火を入れて、スコッチの靴下と縞羅紗の洋袴を乾かした。
翌る日もまた同じように雨が降った。
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明る日もまた同じように雨が降った。
夫婦もまた同じことを繰り返した。
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夫婦もまた同じように同じ事を繰り返した。
その翌る日もまだ晴れなかった。
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その明る日もまだ晴れなかった。
三日目の朝になって、宗助は眉をしかめて舌打ちをした。
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三日目の朝になって、宗助は眉を縮めて舌打をした。
「いつまで降る気なんだ。靴がじめじめして、我慢しても履けやしない」
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「いつまで降る気なんだ。靴がじめじめして我慢にも穿けやしない」
「六畳だって困るわ、あんなに漏っては」
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「六畳だって困るわ、ああ漏っちゃ」
夫婦は相談して、雨が晴れしだい屋根を直してもらうように家主へ頼むことにした。
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夫婦は相談して、雨が晴れしだい、家根を繕って貰うように家主へ掛け合う事にした。
けれども靴の方はどうしようもなかった。
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けれども靴の方は何ともしようがなかった。
宗助はきしんで入らないのを無理に履いて出て行った。
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宗助はきしんで這入らないのを無理に穿いて出て行った。
幸いその日は十一時頃からからりと晴れて、垣に雀の鳴く小春日和(こはるびより)になった。
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幸にその日は十一時頃からからりと晴れて、垣に雀の鳴く小春日和になった。
宗助が帰った時、御米はいつもより明るい顔色をして、
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宗助が帰った時、御米は例より冴え冴えしい顔色をして、
「あなた、あの屏風を売ってはいけないかしら」
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「あなた、あの屏風を売っちゃいけなくって」
と突然聞いた。
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と突然聞いた。
抱一の屏風は、先日佐伯から受け取ったまま、元のとおり書斎のすみに立ててあったのである。
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抱一の屏風はせんだって佐伯から受取ったまま、元の通り書斎の隅に立ててあったのである。
二枚折りだけれども、座敷の場所と広さから言えば、実はむしろ邪魔な飾りだった。
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二枚折だけれども、座敷の位置と広さから云っても、実はむしろ邪魔な装飾であった。
南へ回すと玄関からの入口を半分ふさいでしまう。東へ出すと暗くなる。かといって残った一方に立てれば床の間を隠してしまうので、宗助は、
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南へ廻すと、玄関からの入口を半分塞いでしまうし、東へ出すと暗くなる、と云って、残る一方へ立てれば床の間を隠すので、宗助は、
「せっかく父の形見だと思って取って来たようなものの、しようがないね、これじゃ、場所ふさぎで」
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「せっかく親爺の記念だと思って、取って来たようなものの、しようがないねこれじゃ、場塞げで」
とこぼしたことも一、二度あった。
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と零した事も一二度あった。
そのたびに御米は、真ん丸い縁の黒くなった銀の月と、絹の地と区別がつかないようなすすきの穂の色を眺めて、こんなものを大事にする人の気持ちが分からない、というような顔をした。
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その都度御米は真丸な縁の焼けた銀の月と、絹地からほとんど区別できないような穂芒の色を眺めて、こんなものを珍重する人の気が知れないと云うような見えをした。
けれども夫に遠慮して、はっきりとは何も言わなかった。
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けれども、夫を憚って、明白さまには何とも云い出さなかった。
ただ一度、
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ただ一返
「これでもいい絵なんでしょうかね」
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「これでもいい絵なんでしょうかね」
と聞いたことがあった。
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と聞いた事があった。
その時、宗助は初めて抱一の名を御米に説明して聞かせた。
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その時宗助は始めて抱一の名を御米に説明して聞かした。
しかしそれは、自分が昔、父から聞いた覚えのあるぼんやりした記憶を、いい加減に繰り返しただけだった。
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しかしそれは自分が昔し父から聞いた覚のある、朧気な記憶を好加減に繰り返すに過ぎなかった。
本当の絵の値打ちや、抱一についての詳しいことになると、宗助も実のところ、まるで自信がなかったのである。
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実際の画の価値や、また抱一についての詳しい歴史などに至ると宗助にもその実はなはだ覚束なかったのである。
ところがそれが偶然、御米にあることを思いつかせる元になった。
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ところがそれが偶然御米のために妙な行為の動機を構成る原因となった。
この一週間に夫と自分の間で交わした話に、ふとこの知識を結びつけて考えることができた彼女は、ちょっと微笑んだ。
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過去一週間夫と自分の間に起った会話に、ふとこの知識を結びつけて考え得た彼女はちょっと微笑んだ。
この日、雨が上がって日の光がさっと茶の間の障子に射した時、御米は普段着の上に、妙な色の肩掛けとも襟巻きともつかない布をまとって外へ出た。
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この日雨が上って、日脚がさっと茶の間の障子に射した時、御米は不断着の上へ、妙な色の肩掛とも、襟巻ともつかない織物を纏って外へ出た。
通りを二丁ほど来て、電車の方へ曲がってまっすぐ行くと、乾物屋とパン屋の間に、古道具を売っているかなり大きな店があった。
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通りを二丁目ほど来て、それを電車の方角へ曲って真直に来ると、乾物屋と麺麭屋の間に、古道具を売っているかなり大きな店があった。
御米は、前にそこで足の畳める食卓を買った覚えがある。
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御米はかつてそこで足の畳み込める食卓を買った記憶がある。
今、火鉢に掛けてある鉄瓶も、宗助がここから提げて帰ったものである。
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今火鉢に掛けてある鉄瓶も、宗助がここから提げて帰ったものである。
御米は手を袖に入れて、道具屋の前に立ち止まった。
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御米は手を袖にして道具屋の前に立ち留まった。
見ると、相変わらず新しい鉄瓶がたくさん並べてあった。
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見ると相変らず新らしい鉄瓶がたくさん並べてあった。
そのほかには、季節のせいか、火鉢が一番多く目についた。
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そのほかには時節柄とでも云うのか火鉢が一番多く眼に着いた。
しかし骨董と呼べるようなものは一つもないようだった。
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しかし骨董と名のつくほどのものは、一つもないようであった。
ただ、何とも分からない大きな亀の甲羅が正面に吊るしてあって、その下から長い黄ばんだ飾り(払子)が尻尾のように出ていた。
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ひとり何とも知れぬ大きな亀の甲が、真向に釣るしてあって、その下から長い黄ばんだ払子が尻尾のように出ていた。
それから紫檀の茶棚が一つ二つ飾ってあったが、どれも形が狂いそうな新しい木のものばかりだった。
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それから紫檀の茶棚が一つ二つ飾ってあったが、いずれも狂の出そうな生なものばかりであった。
しかし御米には、そんな違いはまるで分からなかった。
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しかし御米にはそんな区別はいっこう映らなかった。
ただ掛け物も屏風も一つも見当たらないことだけを確かめて、中へ入った。
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ただ掛物も屏風も一つも見当らない事だけ確かめて、中へ這入った。
御米はもちろん、夫が佐伯から受け取った屏風をいくらかで売るつもりでわざわざここまで来たのである。広島以来こういうことにだいぶ慣れたおかげで、普通の奥さんのような気負いも苦しさも感じずに、思い切って店の主人に話しかけることができた。
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御米は無論夫が佐伯から受取った屏風を、いくらかに売り払うつもりでわざわざここまで足を運んだのであるが、広島以来こう云う事にだいぶ経験を積んだ御蔭で、普通の細君のような努力も苦痛も感ぜずに、思い切って亭主と口を利く事ができた。
主人は五十くらいの色の黒い、頬のこけた男で、鼈甲(べっこう)の縁のとても大きな眼鏡をかけ、新聞を読みながら、いぼだらけの銅の火鉢に手をかざしていた。
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亭主は五十恰好の色の黒い頬の瘠けた男で、鼈甲の縁を取った馬鹿に大きな眼鏡を掛けて、新聞を読みながら、疣だらけの唐金の火鉢に手を翳していた。
「そうですな、見に行ってもようがす」
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「そうですな、拝見に出てもようがす」
と軽く引き受けたが、あまり気の乗った様子もないので、御米は心の中で少し失望した。
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と軽く受合ったが、別に気の乗った様子もないので、御米は腹の中で少し失望した。
しかし自分でも大した望みを持って出て来たわけではないので、こう軽く受けられると、こちらから頼むようにしてでも見てもらわなければならなかった。
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しかし自分からがすでに大した望を抱いて出て来た訳でもないので、こう簡易に受けられると、こっちから頼むようにしても、見て貰わなければならなかった。
「ようがす。じゃ、あとで伺いましょう。今、小僧がちょっと出ておりませんからな」
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「ようがす。じゃのちほど伺いましょう。今小僧がちょっと出ておりませんからな」
御米はこの雑な言葉を聞いてそのまま家へ帰ったが、心の中では、本当に道具屋が来るかどうか、とても疑わしく思った。
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御米はこの存在な言葉を聞いてそのまま宅へ帰ったが、心の中では、はたして道具屋が来るか来ないかはなはだ疑わしく思った。
一人でいつものように簡単な食事を済ませ、清に食器を下げさせていると、いきなり、御免ください、と大きな声を出して道具屋が玄関からやって来た。
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一人でいつものように簡単な食事を済まして、清に膳を下げさしていると、いきなり御免下さいと云って、大きな声を出して道具屋が玄関からやって来た。
座敷へ上げてあの屏風を見せると、なるほど、と言って裏や縁を撫でていたが、
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座敷へ上げて、例の屏風を見せると、なるほどと云って裏だの縁だのを撫でていたが、
「お売りになるなら」
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「御払になるなら」
と少し考えて、「六円でいただいておきましょう」
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と少し考えて、「六円に頂いておきましょう」
と気の進まなそうに値段を付けた。
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と否々そうに価を付けた。
御米には、道具屋の付けた値段が妥当のように思われた。
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御米には道具屋の付けた相場が至当のように思われた。
けれども、いったん宗助に話してからでなくては勝手を過ぎると気づいた。その上、品物の由来が由来だけになおさら遠慮して、いずれ帰ったらよく相談してみた上で、と答えて道具屋を帰そうとした。
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けれども一応宗助に話してからでなくっては、余り専断過ぎると心づいた上、品物の歴史が歴史だけに、なおさら遠慮して、いずれ帰ったらよく相談して見た上でと答えたまま、道具屋を帰そうとした。
道具屋は出がけに、
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道具屋は出掛に、
「じゃ奥さん、せっかくだから、もう一円出しましょう。それで売ってください」
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「じゃ、奥さんせっかくだから、もう一円奮発しましょう。それで御払い下さい」
と言った。
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と云った。
御米はその時思い切って、
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御米はその時思い切って、
「でも、道具屋さん、あれは抱一ですよ」
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「でも、道具屋さん、ありゃ抱一ですよ」
と答えて、心の中ではひやりとした。
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と答えて、腹の中ではひやりとした。
道具屋は平気で、
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道具屋は、平気で、
「抱一は近ごろ人気がありませんからな」
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「抱一は近来流行りませんからな」
と受け流したが、じろじろ御米の姿を眺めた上、
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と受け流したが、じろじろ御米の姿を眺めた上、
「じゃ、なおよくご相談なさって」
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「じゃなおよく御相談なすって」
と言い捨てて帰って行った。
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と云い捨てて帰って行った。
御米はその時の様子を詳しく話したあとで、
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御米はその時の模様を詳しく話した後で、
「売ってはいけないかしら」
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「売っちゃいけなくって」
と、また素直に聞いた。
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とまた無邪気に聞いた。
宗助の頭の中には、この間から物が欲しいという気持ちが絶えず動いていた。
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宗助の頭の中には、この間から物質上の欲求が、絶えず動いていた。
ただ地味な生活に慣れたせいで、足りない暮らしを足りていると諦める癖がついている。だから毎月決まって入るお金のほかに、わざわざ工面をして少しでも普段以上に楽をしてみようという気は起こらなかった。
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ただ地味な生活をしなれた結果として、足らぬ家計を足ると諦らめる癖がついているので、毎月きまって這入るもののほかには、臨時に不意の工面をしてまで、少しでも常以上に寛ろいでみようと云う働は出なかった。
話を聞いた時、彼はむしろ御米の頭の回り方に驚かされた。
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話を聞いたとき彼はむしろ御米の機敏な才覚に驚ろかされた。
同時に、本当にそれだけの必要があるかを疑った。
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同時にはたしてそれだけの必要があるかを疑った。
御米の考えを聞いてみると、ここで十円足らずのお金が入れば、宗助の履く新しい靴を作った上、銘仙の反物一つくらいは買えるというのである。
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御米の思わくを聞いて見ると、ここで十円足らずの金が入れば、宗助の穿く新らしい靴を誂らえた上、銘仙の一反ぐらいは買えると云うのである。
宗助も、それもそうだと思った。
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宗助はそれもそうだと思った。
けれども親から伝わった抱一の屏風を一方に置き、もう一方に新しい靴と新しい銘仙を並べて考えてみると、この二つを取り替えることがいかにも思いがけなく、しかもおかしかった。
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けれども親から伝わった抱一の屏風を一方に置いて、片方に新らしい靴及び新らしい銘仙を並べて考えて見ると、この二つを交換する事がいかにも突飛でかつ滑稽であった。
「売るなら売っていいがね。どうせ家にあったって邪魔になるばかりだから。けれども、おれはまだ靴は買わなくても済むよ。この間のように降り続けられると困るが、もう天気もよくなったから」
原文を見る
「売るなら売っていいがね。どうせ家に在ったって邪魔になるばかりだから。けれどもおれはまだ靴は買わないでも済むよ。この間中みたように、降り続けに降られると困るが、もう天気も好くなったから」
「だって、また降ると困るわ」
原文を見る
「だってまた降ると困るわ」
宗助は御米に、ずっと天気がいいと約束するわけにも行かなかった。
原文を見る
宗助は御米に対して永久に天気を保証する訳にも行かなかった。
御米も、降らないうちにぜひ屏風を売れとも言いにくかった。
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御米も降らない前に是非屏風を売れとも云いかねた。
二人は顔を見合わせて笑っていた。
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二人は顔を見合して笑っていた。
やがて、
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やがて、
「安過ぎるでしょうか」
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「安過ぎるでしょうか」
と御米が聞いた。
原文を見る
と御米が聞いた。
「そうだな」
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「そうさな」
と宗助が答えた。
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と宗助が答えた。
彼は安いと言われれば、安いような気がした。
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彼は安いと云われれば、安いような気がした。
もし買い手があれば、買い手の出すだけのお金はいくらでも取りたかった。
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もし買手があれば、買手の出すだけの金はいくらでも取りたかった。
彼は新聞で、近ごろ古い書や絵の値段がとても高くなったと読んだような気がした。
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彼は新聞で、近来古書画の入札が非常に高価になった事を見たような心持がした。
せめてそんなものが一つでもあったらと思った。
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せめてそんなものが一幅でもあったらと思った。
けれども、それは自分の手の届くあたりには落ちていないものと諦めていた。
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けれどもそれは自分の呼吸する空気の届くうちには、落ちていないものと諦めていた。
「買い手にもよるだろうが、売り手にもよるんだよ。いくら名画だって、おれが持っていた物じゃとてもそう高くは売れないさ。しかし七円や八円というのは、あんまり安いようだね」
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「買手にも因るだろうが、売手にも因るんだよ。いくら名画だって、おれが持っていた分にはとうていそう高く売れっこはないさ。しかし七円や八円てえな、余り安いようだね」
宗助は抱一の屏風をかばうと同時に、道具屋もかばうような言い方をした。
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宗助は抱一の屏風を弁護すると共に、道具屋をも弁護するような語気を洩らした。
そうして、ただ自分だけがかばうに値しない者のように感じた。
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そうしてただ自分だけが弁護に価しないもののように感じた。
御米も少しがっかりした気味で、屏風の話はそれきりにした。
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御米も少し気を腐らした気味で、屏風の話はそれなりにした。
翌日、宗助は役所へ出て、同僚の何人かにこの話をした。
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翌日宗助は役所へ出て、同僚の誰彼にこの話をした。
すると皆、口をそろえたように、それは安すぎると言った。
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すると皆申し合せたように、それは価じゃないと云った。
けれども、誰も自分が世話をして相応の値段で売ってやろうと言う者はいなかった。
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けれども誰も自分が周旋して、相当の価に売払ってやろうと云うものはなかった。
また、どういう道を通れば損をせずに済むか、その手続きを教えてくれる者もいなかった。
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またどう云う筋を通れば、馬鹿な目に逢わないで済むという手続を教えてくれるものもなかった。
宗助はやはり、横町の道具屋に屏風を売るよりほかに仕方がなかった。
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宗助はやっぱり横町の道具屋に屏風を売るよりほかに仕方がなかった。
そうでなければ、元のとおり、邪魔でも何でも座敷に立てておくよりほかに仕方がなかった。
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それでなければ元の通り、邪魔でも何でも座敷へ立てておくよりほかに仕方がなかった。
彼は元のとおり、それを座敷に立てておいた。
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彼は元の通りそれを座敷へ立てておいた。
すると道具屋が来て、あの屏風を十五円で売ってくれと言い出した。
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すると道具屋が来て、あの屏風を十五円に売ってくれと云い出した。
夫婦は顔を見合わせて笑った。
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夫婦は顔を見合して微笑んだ。
もう少し売らずに置いてみようじゃないか、と言って売らずにおいた。
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もう少し売らずに置いてみようじゃないかと云って、売らずにおいた。
すると道具屋がまた来た。
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すると道具屋がまた来た。
また売らなかった。
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また売らなかった。
御米は断るのが面白くなって来た。
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御米は断るのが面白くなって来た。
四度目には知らない男を一人連れて来て、その男とこそこそ相談し、とうとう三十五円という値段を付けた。
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四度目には知らない男を一人連れて来たが、その男とこそこそ相談して、とうとう三十五円に価を付けた。
その時、夫婦も立ったまま相談した。
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その時夫婦も立ちながら相談した。
そうしてついに思い切って屏風を売り払った。
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そうしてついに思い切って屏風を売り払った。
七
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七
円明寺の杉が、焦げたように赤黒くなった。
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円明寺の杉が焦げたように赭黒くなった。
天気のいい日には、風に洗われた空のはずれに、白い筋が険しく見える山が現れた。
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天気の好い日には、風に洗われた空の端ずれに、白い筋の嶮しく見える山が出た。
年の終わりが、宗助夫婦を日ごとに寒い方へ押し流して行った。
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年は宗助夫婦を駆って日ごとに寒い方へ吹き寄せた。
朝になると必ず通る納豆売りの声が、瓦をおおう霜の色を思い出させた。
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朝になると欠かさず通る納豆売の声が、瓦を鎖す霜の色を連想せしめた。
宗助は布団の中でその声を聞きながら、また冬が来たと思った。
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宗助は床の中でその声を聞きながら、また冬が来たと思い出した。
御米は台所で、今年も去年のように水道の栓が凍らなければ助かるが、と、暮れから春にかけての心配を先にしていた。
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御米は台所で、今年も去年のように水道の栓が氷ってくれなければ助かるがと、暮から春へ掛けての取越苦労をした。
夜になると、夫婦とも炬燵ばかりに寄っていた。
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夜になると夫婦とも炬燵にばかり親しんだ。
そうして広島や福岡の暖かい冬をうらやんだ。
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そうして広島や福岡の暖かい冬を羨やんだ。
「まるで前の本多(ほんだ)さんみたいね」
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「まるで前の本多さんみたようね」
と御米が笑った。
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と御米が笑った。
前の本多さんというのは、同じ敷地に住んで、同じ坂井の貸家を借りている、仕事を退いた年配の夫婦だった。
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前の本多さんと云うのは、やはり同じ構内に住んで、同じ坂井の貸家を借りている隠居夫婦であった。
小さい手伝いの女の子を一人使って、朝から晩まで音もしないような静かな暮らしをしていた。
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小女を一人使って、朝から晩までことりと音もしないように静かな生計を立てていた。
御米が茶の間でたった一人針仕事をしていると、時々、お爺さん、という声がした。
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御米が茶の間で、たった一人裁縫をしていると、時々御爺さんと云う声がした。
それはこの本多のお婆さんが夫を呼ぶ声だった。
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それはこの本多の御婆さんが夫を呼ぶ声であった。
門の所などで行き会うと丁寧に季節のあいさつをして、少しお話にいらっしゃい、と言う。けれども一度も行ったことがないし、向こうから来たこともない。
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門口などで行き逢うと、丁寧に時候の挨拶をして、ちと御話にいらっしゃいと云うが、ついぞ行った事もなければ、向うからも来た試がない。
だから、夫婦が本多さんについて知っていることは、とても少なかった。
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したがって夫婦の本多さんに関する知識は極めて乏しかった。
ただ息子が一人いて、それが朝鮮の役所で立派な役人になっているから、毎月その送金で気楽に暮らして行けるのだということだけを、出入りの商人の誰かから耳にした。
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ただ息子が一人あって、それが朝鮮の統監府とかで、立派な役人になっているから、月々その方の仕送で、気楽に暮らして行かれるのだと云う事だけを、出入の商人のあるものから耳にした。
「お爺さんはやっぱり植木をいじっているかい」
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「御爺さんはやっぱり植木を弄っているかい」
「だんだん寒くなったから、もうやめたんでしょう。縁の下に植木鉢がたくさん並んでるわ」
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「だんだん寒くなったから、もうやめたんでしょう。縁の下に植木鉢がたくさん並んでるわ」
話はそれから前の家を離れて、家主の方へ移った。
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話はそれから前の家を離れて、家主の方へ移った。
こちらは本多とはまるで反対で、夫婦から見ると、これ以上ないほど賑やかな家庭に思われた。
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これは、本多とはまるで反対で、夫婦から見ると、この上もない賑やかそうな家庭に思われた。
この頃は庭が荒れているので、大勢の子供が崖の上へ出て騒ぐことはなくなったが、ピアノの音は毎晩のようにする。
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この頃は庭が荒れているので、大勢の小供が崖の上へ出て騒ぐ事はなくなったが、ピヤノの音は毎晩のようにする。
時々は、手伝いの女の人あたりが台所の方で大きな声で笑うのさえ、宗助の茶の間まで響いて来た。
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折々は下女か何ぞの、台所の方で高笑をする声さえ、宗助の茶の間まで響いて来た。
「あれはいったい何をする男なんだい」
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「ありゃいったい何をする男なんだい」
と宗助が聞いた。
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と宗助が聞いた。
この問いは、今までにも何度か御米に向かって繰り返されたものだった。
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この問は今までも幾度か御米に向って繰り返されたものであった。
「何もしないで遊んでいるんでしょう。土地や貸家を持って」
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「何にもしないで遊んでるんでしょう。地面や家作を持って」
と御米が答えた。
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と御米が答えた。
この答えも、今までにもう何度か宗助に向かって繰り返されたものだった。
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この答も今までにもう何遍か宗助に向って繰り返されたものであった。
宗助はこれ以上詳しく坂井のことを聞いたことがなかった。
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宗助はこれより以上立ち入って、坂井の事を聞いた事がなかった。
学校をやめたばかりの頃は、うまくいっていて得意そうに振る舞う人に会うと、今に見ろという気も起こった。
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学校をやめた当座は、順境にいて得意な振舞をするものに逢うと、今に見ろと云う気も起った。
それがしばらくすると、ただの憎しみに変わった。
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それがしばらくすると、単なる憎悪の念に変化した。
ところが一、二年前からは、自分と他人との違いにまるでこだわらなくなった。自分は自分のように生まれついた者、相手は相手のような運を持って世の中へ出て来た者、どちらも初めから別の種類の人間だから、ただ同じ人間として生きている以外に何の関わりもないのだと考えるようになってきた。
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ところが一二年このかたは全く自他の差違に無頓着になって、自分は自分のように生れついたもの、先は先のような運を持って世の中へ出て来たもの、両方共始から別種類の人間だから、ただ人間として生息する以外に、何の交渉も利害もないのだと考えるようになってきた。
たまに世間話のついでに、あれはいったい何をしている人だ、くらいは聞く。けれどもそれ以上は、教えてもらう手間をかけるのさえ面倒だった。
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たまに世間話のついでとして、ありゃいったい何をしている人だぐらいは聞きもするが、それより先は、教えて貰う努力さえ出すのが面倒だった。
御米にも、これと同じ傾きがあった。
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御米にもこれと同じ傾きがあった。
けれどもその夜はめずらしく、坂井の主人は四十くらいの髭のない人だということや、ピアノを弾くのは一番上の娘で十二、三になるということや、また他所の家の子供が遊びに来てもブランコに乗せてやらないということなどを話した。
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けれどもその夜は珍らしく、坂井の主人は四十恰好の髯のない人であると云う事やら、ピヤノを弾くのは惣領の娘で十二三になると云う事やら、またほかの家の小供が遊びに来ても、ブランコへ乗せてやらないと云う事やらを話した。
「なぜ他所の家の子供はブランコに乗せないんだい」
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「なぜほかの家の子供はブランコへ乗せないんだい」
「つまりけちなんでしょう。早く傷むから」
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「つまり吝なんでしょう。早く悪くなるから」
宗助は笑い出した。
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宗助は笑い出した。
彼は、それほどけちな家主が、屋根が漏ると言えばすぐ瓦屋を寄こしてくれ、垣が腐ったと言えばすぐ植木屋に直させてくれるのは、おかしいと思ったのである。
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彼はそのくらい吝嗇な家主が、屋根が漏ると云えば、すぐ瓦師を寄こしてくれる、垣が腐ったと訴えればすぐ植木屋に手を入れさしてくれるのは矛盾だと思ったのである。
その晩、宗助の夢には本多の植木鉢も坂井のブランコも出て来なかった。
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その晩宗助の夢には本多の植木鉢も坂井のブランコもなかった。
彼は十時半頃に布団に入って、すべてに疲れた人のようにいびきをかいた。
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彼は十時半頃床に入って、万象に疲れた人のように鼾をかいた。
この間から頭の具合がよくないため、寝つきの悪いのを気にしていた御米は、時々目を開けて薄暗い部屋を眺めた。
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この間から頭の具合がよくないため、寝付の悪いのを苦にしていた御米は、時々眼を開けて薄暗い部屋を眺めた。
細い灯りが床の間の上に置いてあった。
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細い灯が床の間の上に乗せてあった。
夫婦は夜じゅう灯りを点けておく習慣なので、寝る時はいつも芯を細くしてランプをここへ上げた。
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夫婦は夜中灯火を点けておく習慣がついているので、寝る時はいつでも心を細目にして洋灯をここへ上げた。
御米は気になるように枕の場所を動かした。
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御米は気にするように枕の位置を動かした。
そうして、そのたびに下になっている方の肩の骨を布団の上で滑らせた。
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そうしてそのたびに、下にしている方の肩の骨を、蒲団の上で滑らした。
しまいには腹ばいになって両ひじをつき、しばらく夫の方を眺めていた。
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しまいには腹這になったまま、両肱を突いて、しばらく夫の方を眺めていた。
それから起き上がって、布団のすそに掛けてあった普段着を寝巻きの上に羽織り、床の間のランプを取り上げた。
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それから起き上って、夜具の裾に掛けてあった不断着を、寝巻の上へ羽織ったなり、床の間の洋灯を取り上げた。
「あなた、あなた」
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「あなたあなた」
と宗助の枕もとへ来てかがみながら呼んだ。
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と宗助の枕元へ来て曲みながら呼んだ。
その時、夫はもういびきをかいていなかった。
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その時夫はもう鼾をかいていなかった。
けれども、元のとおり深い眠りの息を続けていた。
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けれども、元の通り深い眠から来る呼吸を続けていた。
御米はまた立ち上がって、ランプを手にしたまま間の襖を開けて茶の間へ出た。
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御米はまた立ち上って、洋灯を手にしたまま、間の襖を開けて茶の間へ出た。
暗い部屋が手もとの灯りにぼんやり照らされた時、御米は鈍く光る箪笥の取っ手を見た。
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暗い部屋が茫漠手元の灯に照らされた時、御米は鈍く光る箪笥の環を認めた。
それを通り過ぎると、黒くすすけた台所に、障子の紙だけが白く見えた。
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それを通り過ぎると黒く燻ぶった台所に、腰障子の紙だけが白く見えた。
御米は火の気のない真ん中にしばらく立っていたが、やがて右手にある手伝いの女の部屋の戸を音のしないようにそっと引いて、中へランプの灯りをかざした。
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御米は火の気のない真中に、しばらく佇ずんでいたが、やがて右手に当る下女部屋の戸を、音のしないようにそっと引いて、中へ洋灯の灯を翳した。
清は、縞も色もはっきり見えない布団の中で、もぐらのように丸くなって寝ていた。
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下女は縞も色も判然映らない夜具の中に、土竜のごとく塊まって寝ていた。
今度は左側の六畳をのぞいた。
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今度は左側の六畳を覗いた。
がらんとして寂しい中にあの鏡台が置いてあって、鏡の面が夜中だけに恐ろしく目にこたえた。
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がらんとして淋しい中に、例の鏡台が置いてあって、鏡の表が夜中だけに凄く眼に応えた。
御米は家じゅうをひと回りして、どこにも変わったことがないのを確かめた上、また布団の中へ戻った。
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御米は家中を一回回った後、すべてに異状のない事を確かめた上、また床の中へ戻った。
そうしてようやく目を閉じた。
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そうしてようやく眼を眠った。
今度はいい具合に、まぶたのあたりに気を遣わずに済むように思えて、しばらくするうちにうとうとした。
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今度は好い具合に、眼蓋のあたりに気を遣わないで済むように覚えて、しばらくするうちに、うとうととした。
するとまた、ふと目が開いた。
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するとまたふと眼が開いた。
何だか、ずしんと枕もとで響いたような気がする。
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何だかずしんと枕元で響いたような心持がする。
耳を枕から離して考えると、それは大きな重い物が裏の崖から自分たちの寝ている座敷の縁の外へ転がり落ちたとしか思えなかった。
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耳を枕から離して考えると、それはある大きな重いものが、裏の崖から自分達の寝ている座敷の縁の外へ転がり落ちたとしか思われなかった。
しかも、目が覚めるすぐ前に起こったことで、決して夢の続きではないと考えた時、御米は急に気味が悪くなった。
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しかし今眼が覚めるすぐ前に起った出来事で、けっして夢の続じゃないと考えた時、御米は急に気味を悪くした。
そうして、そばに寝ている夫の布団の袖を引いて、今度は本気で宗助を起こし始めた。
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そうして傍に寝ている夫の夜具の袖を引いて、今度は真面目に宗助を起し始めた。
宗助はそれまでよく寝ていたが、急に目が覚めると、御米が、
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宗助はそれまで全くよく寝ていたが、急に眼が覚めると、御米が、
「あなた、ちょっと起きてください」
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「あなたちょっと起きて下さい」
と揺すっていたので、半分は寝たままの気持ちで、
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と揺っていたので、半分は夢中に、
「おい、よし」
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「おい、好し」
とすぐ布団の上に起き直った。
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とすぐ蒲団の上へ起き直った。
御米は小さい声で、さっきからの様子を話した。
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御米は小声で先刻からの様子を話した。
「音は一度しただけなのかい」
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「音は一遍した限なのかい」
「だって、今したばかりなのよ」
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「だって今したばかりなのよ」
二人はそれで黙った。
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二人はそれで黙った。
ただじっと外の様子をうかがっていた。
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ただじっと外の様子を伺っていた。
けれども外はしんと静かだった。
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けれども世間は森と静であった。
いつまで耳をすませていても、また物が落ちて来る気配はなかった。
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いつまで耳を峙てていても、再び物の落ちて来る気色はなかった。
宗助は寒いと言いながら、薄い寝巻きの上に羽織をかぶって縁側へ出て、雨戸を一枚開けた。
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宗助は寒いと云いながら、単衣の寝巻の上へ羽織を被って、縁側へ出て、雨戸を一枚繰った。
外をのぞいても何も見えない。
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外を覗くと何にも見えない。
ただ暗い中から寒い空気が急に肌に迫って来た。
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ただ暗い中から寒い空気がにわかに肌に逼って来た。
宗助はすぐ戸を閉めた。
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宗助はすぐ戸を閉てた。
掛け金を下ろして座敷へ戻るとすぐ、また布団の中へ入ったが、
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鐉をおろして座敷へ戻るや否や、また蒲団の中へ潜り込んだが、
「何も変わったことはありゃしない。たぶんお前の夢だろう」
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「何にも変った事はありゃしない。多分御前の夢だろう」
と言って、宗助は横になった。
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と云って、宗助は横になった。
御米は決して夢ではないと言った。
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御米はけっして夢でないと主張した。
たしかに頭の上で大きな音がしたのだと言い張った。
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たしかに頭の上で大きな音がしたのだと固執した。
宗助は布団から半分出した顔を御米の方へ向けて、
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宗助は夜具から半分出した顔を、御米の方へ振り向けて、
「御米、お前は神経が敏感になって、近ごろどうかしているよ。もう少し頭を休めてよく寝る工夫でもしなくちゃいけない」
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「御米、お前は神経が過敏になって、近頃どうかしているよ。もう少し頭を休めてよく寝る工夫でもしなくっちゃいけない」
と言った。
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と云った。
その時、次の部屋の柱時計が二時を打った。
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その時次の間の柱時計が二時を打った。
その音で二人とも言葉を止めた。そうして黙っていると、夜はさらに静まり返ったように思われた。
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その音で二人ともちょっと言葉を途切らして、黙って見ると、夜はさらに静まり返ったように思われた。
二人は目が冴えて、すぐには寝つけそうになかった。
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二人は眼が冴えて、すぐ寝つかれそうにもなかった。
御米が、
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御米が、
「でも、あなたは気楽ね。横になると十分もしないうちに、もう寝ていらっしゃるんだから」
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「でもあなたは気楽ね。横になると十分経たないうちに、もう寝ていらっしゃるんだから」
と言った。
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と云った。
「寝ることは寝るが、気が楽で寝られるんじゃない。つまり疲れるからよく寝るんだろう」
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「寝る事は寝るが、気が楽で寝られるんじゃない。つまり疲れるからよく寝るんだろう」
と宗助が答えた。
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と宗助が答えた。
こんな話をしているうちに、宗助はまた寝入ってしまった。
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こんな話をしているうちに、宗助はまた寝入ってしまった。
御米は相変わらず、もぞもぞと布団の中で動いていた。
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御米は依然として、のつそつ床の中で動いていた。
すると表を、がらがらと激しい音を立てて車が一台通った。
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すると表をがらがらと烈しい音を立てて車が一台通った。
近ごろ御米は、時々夜明け前の車の音を聞いて驚かされることがあった。
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近頃御米は時々夜明前の車の音を聞いて驚ろかされる事があった。
それを思い合わせると、いつも同じような時刻なので、結局は毎朝同じ車が同じ所を通るのだろうと考えた。
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そうしてそれを思い合わせると、いつも似寄った刻限なので、必竟は毎朝同じ車が同じ所を通るのだろうと推測した。
たぶん牛乳を配達するために急いでいるのだと決めていたので、この音を聞くと同時に、もう夜が明けて近所の人が動き出したように心強くなった。
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多分牛乳を配達するためかなどで、ああ急ぐに違ないときめていたから、この音を聞くと等しく、もう夜が明けて、隣人の活動が始ったごとくに、心丈夫になった。
そうしていると、どこかでにわとりの声が聞こえた。
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そうこうしていると、どこかで鶏の声が聞えた。
またしばらくすると、下駄の音を高く立てて通りを行く人があった。
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またしばらくすると、下駄の音を高く立てて往来を通るものがあった。
そのうち清が部屋の戸を開けて便所へ起きた様子だったが、やがて茶の間へ来て時計を見ているらしかった。
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そのうち清が下女部屋の戸を開けて厠へ起きた模様だったが、やがて茶の間へ来て時計を見ているらしかった。
この時、床の間に置いたランプの油が減って短い芯に届かなくなったので、御米の寝ている所は真っ暗になっていた。
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この時床の間に置いた洋灯の油が減って、短かい心に届かなくなったので、御米の寝ている所は真暗になっていた。
そこへ清の手にした灯りの光が、襖の間から射し込んだ。
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そこへ清の手にした灯火の影が、襖の間から射し込んだ。
「清かい」
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「清かい」
と御米が声を掛けた。
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と御米が声を掛けた。
清はそれからすぐ起きた。
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清はそれからすぐ起きた。
三十分ほどして御米も起きた。
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三十分ほど経って御米も起きた。
また三十分ほどして、宗助もついに起きた。
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また三十分ほど経って宗助もついに起きた。
普段はいい頃合いに御米がやって来て、
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平常は好い時分に御米がやって来て、
「もう起きてもよくってよ」
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「もう起きてもよくってよ」
と言うのが常だった。
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と云うのが例であった。
日曜とたまの祝日には、それが、
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日曜とたまの旗日には、それが、
「さあ、もう起きてちょうだい」
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「さあもう起きてちょうだい」
に変わるだけだった。
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に変るだけであった。
しかし今日は昨夜のことが何となく気にかかるので、御米が迎えに来ないうちに宗助は布団を出た。
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しかし今日は昨夕の事が何となく気にかかるので、御米の迎に来ないうち宗助は床を離れた。
そうしてすぐ崖の下の雨戸を開けた。
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そうして直崖下の雨戸を繰った。
下からのぞくと、寒い竹が朝の空気に包まれてじっとしている後ろから、霜を破る日の光が射して、少しだけ先の方を染めていた。
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下から覗くと、寒い竹が朝の空気に鎖されてじっとしている後から、霜を破る日の色が射して、幾分か頂を染めていた。
その二尺ほど下の、坂の一番急な所に生えている枯れ草が、妙にすりむけて赤土がなまなましく出ている。その様子に宗助はちょっと驚かされた。
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その二尺ほど下の勾配の一番急な所に生えている枯草が、妙に摺り剥けて、赤土の肌を生々しく露出した様子に、宗助はちょっと驚ろかされた。
そこから一直線に下って、ちょうど自分の立っている縁の先の土が、霜柱を砕いたように荒れていた。
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それから一直線に降りて、ちょうど自分の立っている縁鼻の土が、霜柱を摧いたように荒れていた。
宗助は、大きな犬でも上から転がり落ちたのではないかと思った。
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宗助は大きな犬でも上から転がり落ちたのじゃなかろうかと思った。
しかし犬にしては、いくら大きくても勢いが激し過ぎると思った。
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しかし犬にしてはいくら大きいにしても、余り勢が烈し過ぎると思った。
宗助は玄関から下駄を提げて来て、すぐ庭へ下りた。
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宗助は玄関から下駄を提げて来て、すぐ庭へ下りた。
縁の先に便所が折れ曲がって突き出しているので、ただでさえ狭い崖の下が、裏へ抜ける所ではなおさら狭くなっていた。
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縁の先へ便所が折れ曲って突き出しているので、いとど狭い崖下が、裏へ抜ける半間ほどの所はなおさら狭苦しくなっていた。
御米は掃除の人が来るたびにこの曲がり角を気にして、
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御米は掃除屋が来るたびに、この曲り角を気にしては、
「あそこがもう少し広いといいけれど」
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「あすこがもう少し広いといいけれども」
と心配するので、よく宗助に笑われたことがあった。
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と危険がるので、よく宗助から笑われた事があった。
そこを通り抜けると、まっすぐ台所まで細い道が付いている。
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そこを通り抜けると、真直に台所まで細い路が付いている。
元は枯れ枝の混じった杉の垣が隣の庭との仕切りになっていた。けれどもこの間家主が手を入れた時に、穴だらけの杉の葉をきれいに取り払い、今では節の多い板の塀が片側を勝手口までふさいでしまった。
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元は枯枝の交った杉垣があって、隣の庭の仕切りになっていたが、この間家主が手を入れた時、穴だらけの杉葉を奇麗に取り払って、今では節の多い板塀が片側を勝手口まで塞いでしまった。
日当たりが悪い上に、雨どいから雨だればかり落ちるので、夏になると秋海棠(しゅうかいどう)がいっぱい生える。
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日当りの悪い上に、樋から雨滴ばかり落ちるので、夏になると秋海棠がいっぱい生える。
その盛りの頃は青い葉が重なり合って、ほとんど通り道がなくなるほど茂って来る。
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その盛りな頃は青い葉が重なり合って、ほとんど通り路がなくなるくらい茂って来る。
初めて引っ越した年は、宗助も御米もこの様子を見て驚いたくらいである。
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始めて越した年は、宗助も御米もこの景色を見て驚ろかされたくらいである。
この秋海棠は、杉垣がまだ抜かれない前から何年も地面の下に広がっていたものだった。古い家がこわされた今でも、季節が来れば昔のとおり芽を出すものだと分かった時、御米は、
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この秋海棠は杉垣のまだ引き抜かれない前から、何年となく地下に蔓っていたもので、古家の取り毀たれた今でも、時節が来ると昔の通り芽を吹くものと解った時、御米は、
「でも可愛いわね」
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「でも可愛いわね」
と喜んだ。
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と喜んだ。
宗助が霜を踏んでこの思い出の多い横の道へ出た時、彼の目は細長い路地の一点に留まった。
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宗助が霜を踏んで、この記念の多い横手へ出た時、彼の眼は細長い路次の一点に落ちた。
そうして彼は、日の当たらない寒さの中ではたと立ち止まった。
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そうして彼は日の通わない寒さの中にはたと留まった。
彼の足もとには、黒く塗った蒔絵(まきえ)の手文庫(てぶんこ。書類を入れる小さな箱)が放り出してあった。
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彼の足元には黒塗の蒔絵の手文庫が放り出してあった。
中身はわざわざそこへ持って来て置いたように霜の上にちゃんと据わっている。けれどもふたは二、三尺離れて塀の根もとにひっくり返り、内側に張った千代紙(ちよがみ)の模様がはっきり見えた。
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中味はわざわざそこへ持って来て置いて行ったように、霜の上にちゃんと据っているが、蓋は二三尺離れて、塀の根に打ちつけられたごとくに引っ繰り返って、中を張った千代紙の模様が判然見えた。
箱の中からこぼれた手紙や書き付けが、そこら中に散らばっていた。その中に比較的長い一通が、わざわざ二尺ほど広げられて、その先が紙くずのように丸めてあった。
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文庫の中から洩れた、手紙や書付類が、そこいらに遠慮なく散らばっている中に、比較的長い一通がわざわざ二尺ばかり広げられて、その先が紙屑のごとく丸めてあった。
宗助は近づいて、このもみくちゃになった紙の下をのぞいて、思わず苦笑いした。
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宗助は近づいて、この揉苦茶になった紙の下を覗いて覚えず苦笑した。
下には大便がしてあった。
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下には大便が垂れてあった。
土の上に散らばっている書類をひとまとめにして箱の中に入れ、霜と泥に汚れたまま、宗助は勝手口まで持って来た。
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土の上に散らばっている書類を一纏にして、文庫の中へ入れて、霜と泥に汚れたまま宗助は勝手口まで持って来た。
障子を開けて、清に
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腰障子を開けて、清に
「おい、これをちょっとそこへ置いてくれ」
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「おいこれをちょっとそこへ置いてくれ」
と渡すと、清は妙な顔をして、不思議そうにそれを受け取った。
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と渡すと、清は妙な顔をして、不思議そうにそれを受取った。
御米は奥で座敷にはたきを掛けていた。
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御米は奥で座敷へ払塵を掛けていた。
宗助はそれから手を懐に入れて、玄関や門のあたりをよく見回ったが、どこにも普段と違う所は見当たらなかった。
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宗助はそれから懐手をして、玄関だの門の辺をよく見廻ったが、どこにも平常と異なる点は認められなかった。
宗助はようやく家に入った。
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宗助はようやく家へ入った。
茶の間へ来ていつものとおり火鉢の前に座ったが、すぐ大きな声を出して御米を呼んだ。
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茶の間へ来て例の通り火鉢の前へ坐ったが、すぐ大きな声を出して御米を呼んだ。
御米は、
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御米は、
「起きたばかりで、どこへ行っていたの」
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「起き抜けにどこへ行っていらしったの」
と言いながら奥から出て来ました。
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と云いながら奥から出て来た。
「おい、昨日の夜、枕もとで大きな音がしたのは、やっぱり夢じゃなかったんだ。泥棒だよ。泥棒が坂井さんの家の崖の上から、うちの庭へ飛び下りた音だ。今、裏へ回ってみたら、この文庫(ぶんこ。手紙などを入れる箱)が落ちていて、中に入っていた手紙がめちゃくちゃに放り出してあった。おまけにごちそうまで置いて行ったよ」
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「おい昨夜枕元で大きな音がしたのは、やっぱり夢じゃなかったんだ。泥棒だよ。泥棒が坂井さんの崖の上から宅の庭へ飛び下りた音だ。今裏へ回って見たら、この文庫が落ちていて、中にはいっていた手紙なんぞが、むちゃくちゃに放り出してあった。おまけに御馳走まで置いて行った」
宗助は文庫の中から手紙を二、三通出して、御米に見せました。
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宗助は文庫の中から、二三通の手紙を出して御米に見せた。
どれにも坂井さんの名前が書いてありました。
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それには皆坂井の名宛が書いてあった。
御米はびっくりして、膝を立てたまま、
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御米は吃驚して立膝のまま、
「坂井さんは、ほかにも何か取られたのかしら」
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「坂井さんじゃほかに何か取られたでしょうか」
と聞きました。
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と聞いた。
宗助は腕を組んで、
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宗助は腕組をして、
「もしかしたら、まだ何かやられているね」
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「ことに因ると、まだ何かやられたね」
と答えました。
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と答えた。
二人はとにかく、と言って、文庫をそこへ置いたまま、朝ご飯のお膳に着きました。
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夫婦はともかくもと云うので、文庫をそこへ置いたなり朝飯の膳に着いた。
けれども、はしを動かしている間も、泥棒の話は忘れませんでした。
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しかし箸を動かす間も泥棒の話は忘れなかった。
御米は、自分の耳と頭がしっかりしていたことを夫に自慢しました。
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御米は自分の耳と頭のたしかな事を夫に誇った。
宗助は、耳と頭がしっかりしていないことを幸せだと思いました。
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宗助は耳と頭のたしかでない事を幸福とした。
「そうおっしゃるけれど、これが坂井さんじゃなくて、うちだったらどうするの。あなたみたいにぐうぐう寝ていらしたら困るじゃないの」
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「そうおっしゃるけれど、これが坂井さんでなくって、宅で御覧なさい。あなたみたように、ぐうぐう寝ていらしったら困るじゃないの」
と御米は宗助をやりこめました。
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と御米が宗助をやり込めた。
「なに、うちなんかに入る心配はないから大丈夫だ」
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「なに、宅なんぞへ這入る気遣はないから大丈夫だ」
と宗助も負けずに言い返しました。
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と宗助も口の減らない返事をした。
そこへ清が急に台所から顔を出して、
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そこへ清が突然台所から顔を出して、
「この間つくった旦那様の外套(がいとう。コートのこと)でも取られたら、それこそ大騒ぎでございましたね。お宅じゃなくて坂井さんだったから、本当によかったです」
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「この間拵えた旦那様の外套でも取られようものなら、それこそ騒ぎでございましたね。御宅でなくって坂井さんだったから、本当に結構でございます」
と、まじめに喜びの言葉を言ったので、宗助も御米も、何と返事をしたらいいか少し困りました。
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と真面目に悦の言葉を述べたので、宗助も御米も少し挨拶に窮した。
食事が終わっても、会社へ出かける時刻まではまだかなり時間がありました。
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食事を済ましても、出勤の時刻にはまだだいぶ間があった。
坂井さんの家はきっと騒いでいるだろうというので、文庫は宗助が自分で持って行ってやることにしました。
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坂井では定めて騒いでるだろうと云うので、文庫は宗助が自分で持って行ってやる事にした。
蒔絵(まきえ。漆に金で模様をつけたもの)ではありましたが、黒い地に亀の甲のような形を金で置いただけのもので、そんなに高い物とも思えませんでした。
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蒔絵ではあるが、ただ黒地に亀甲形を金で置いただけの事で、別に大して金目の物とも思えなかった。
御米はしま模様の風呂敷(ふろしき)を出して、それを包みました。
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御米は唐桟の風呂敷を出してそれを包んだ。
風呂敷が少し小さいので、四つの角を向かい合わせにつないで、真ん中でかたく二つ結びました。
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風呂敷が少し小さいので、四隅を対う同志繋いで、真中にこま結びを二つ拵えた。
宗助がそれを下げているところは、まるでおみやげのお菓子の箱を持っているように見えました。
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宗助がそれを提げたところは、まるで進物の菓子折のようであった。
座敷から見ればすぐ崖の上なのですが、表から回ると、通りを五十メートルほど来て坂を上り、また五十メートルほど逆に戻らないと、坂井さんの門の前には出られませんでした。
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座敷で見ればすぐ崖の上だが、表から廻ると、通りを半町ばかり来て、坂を上って、また半町ほど逆に戻らなければ、坂井の門前へは出られなかった。
宗助は、石の上に芝を盛って、かなめもちという木をきれいに植えつけた垣(かき)に沿って、門の中に入りました。
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宗助は石の上へ芝を盛って扇骨木を奇麗に植えつけた垣に沿うて門内に入った。
家の中は、むしろ静かすぎるくらい、しんとしていました。
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家の内はむしろ静か過ぎるくらいしんとしていた。
すりガラスの戸が閉まっている玄関へ行って、ベルを二、三度押してみましたが、ベルがこわれているらしく、だれも出て来ませんでした。
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摺硝子の戸が閉ててある玄関へ来て、ベルを二三度押して見たが、ベルが利かないと見えて誰も出て来なかった。
宗助はしかたなく勝手口(かってぐち。台所の出入り口)へ回りました。
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宗助は仕方なしに勝手口へ廻った。
そこにも、すりガラスをはめた障子が二枚閉まっていました。
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そこにも摺硝子の嵌まった腰障子が二枚閉ててあった。
中では食器を動かす音がしていました。
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中では器物を取り扱う音がした。
宗助は戸を開けて、ガスこんろを置いた板の間にしゃがんでいるお手伝いの女の人に、あいさつをしました。
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宗助は戸を開けて、瓦斯七輪を置いた板の間に蹲踞んでいる下女に挨拶をした。
「これはこちらのものでしょう。今朝、うちの裏に落ちていましたから、持って来ました」
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「これはこちらのでしょう。今朝私の家の裏に落ちていましたから持って来ました」
と言いながら、文庫を出しました。
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と云いながら、文庫を出した。
女の人は「そうでございましたか、どうも」
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下女は「そうでございましたか、どうも」
と短くお礼を言って、文庫を持ったまま板の間の仕切りまで行き、家の中の世話をしている女の人を呼び出しました。
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と簡単に礼を述べて、文庫を持ったまま、板の間の仕切まで行って、仲働らしい女を呼び出した。
そこで小さな声で説明をして品物を渡すと、その人はそれを受け取ったまま、ちょっと宗助の方を見ましたが、すぐ奥へ入って行きました。
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そこで小声に説明をして、品物を渡すと、仲働はそれを受取ったなり、ちょっと宗助の方を見たがすぐ奥へ入った。
入れかわりに、十二、三歳の丸い顔で目の大きな女の子と、その妹らしい、同じリボンをつけた子がいっしょに駆けて来て、小さな首を二つ並べて台所へ出しました。
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入れ違に、十二三になる丸顔の眼の大きな女の子と、その妹らしい揃のリボンを懸けた子がいっしょに馳けて来て、小さい首を二つ並べて台所へ出した。
そして宗助の顔を眺めながら、泥棒よ、とささやき合いました。
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そうして宗助の顔を眺めながら、泥棒よと耳語やった。
宗助は文庫を渡してしまえばもう用は済んだのだから、奥の人へのあいさつはどうでもいいと思って、すぐ帰ろうかと考えました。
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宗助は文庫を渡してしまえば、もう用が済んだのだから、奥の挨拶はどうでもいいとして、すぐ帰ろうかと考えた。
「文庫はお宅のものでしょうね。それでいいんでしょうね」
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「文庫は御宅のでしょうね。いいんでしょうね」
と念を押して、何も知らない女の人を困らせているところへ、さっきの女の人が出て来て、
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と念を押して、何にも知らない下女を気の毒がらしているところへ、最前の仲働が出て来て、
「どうぞお上がりください」
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「どうぞ御通り下さい」
とていねいに頭を下げたので、今度は宗助の方が少し困ってしまいました。
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と丁寧に頭を下げたので、今度は宗助の方が少し痛み入るようになった。
女の人は、さらにていねいに同じことを繰り返しました。
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下女はいよいよしとやかに同じ請求を繰り返した。
宗助は困るのを通りこして、とうとうめんどうに感じ始めました。
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宗助は痛み入る境を通り越して、ついに迷惑を感じ出した。
そこへ、この家の主人が自分で出て来ました。
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ところへ主人が自分で出て来た。
主人は思ったとおり、血色のいい、下ぶくれの福々しい顔をしていましたが、御米が言ったようなひげのない男ではありませんでした。
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主人は予想通り血色の好い下膨の福相を具えていたが、御米の云ったように髭のない男ではなかった。
鼻の下に短く刈ったひげを生やして、ほおからあごだけをきれいにそっていました。
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鼻の下に短かく刈り込んだのを生やして、ただ頬から腮を奇麗に蒼くしていた。
「いや、どうもお手数をかけました」
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「いやどうもとんだ御手数で」
と主人は目のしりにしわを寄せながらお礼を言いました。
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と主人は眼尻に皺を寄せながら礼を述べた。
米沢(よねざわ)のかすりの着物を着た膝を板の間について、宗助からいろいろ様子を聞いている態度が、いかにもゆったりしていました。
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米沢の絣を着た膝を板の間に突いて、宗助からいろいろ様子を聞いている態度が、いかにも緩くりしていた。
宗助は昨日の夜から今朝までの出来事をひととおり短く話した上で、文庫のほかに何か取られたものがあるかどうかを聞いてみました。
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宗助は昨夕から今朝へかけての出来事を一通り掻い撮んで話した上、文庫のほかに何か取られたものがあるかないかを尋ねて見た。
主人は、机の上に置いた金の時計を一つ取られたと答えました。
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主人は机の上に置いた金時計を一つ取られた由を答えた。
けれども、まるで他人のものをなくしたかのように、困った様子はまるでありませんでした。
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けれどもまるで他のものでも失くなした時のように、いっこう困ったと云う気色はなかった。
時計よりも、むしろ宗助の話の方に興味を持って、泥棒は本当に崖を通って裏から逃げるつもりだったのか、それとも逃げるときに崖から落ちたのか、というような質問をしました。
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時計よりはむしろ宗助の叙述の方に多くの興味を有って、泥棒が果して崖を伝って裏から逃げるつもりだったろうか、または逃げる拍子に、崖から落ちたものだろうかと云うような質問を掛けた。
宗助はもちろん答えられませんでした。
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宗助は固より返答ができなかった。
そこへさっきの女の人が奥からお茶とたばこを運んで来たので、宗助はまた帰りそこねました。
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そこへ最前の仲働が、奥から茶や莨を運んで来たので、宗助はまた帰りはぐれた。
主人はわざわざ座布団まで取り寄せて、とうとうその上に宗助を座らせてしまいました。
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主人はわざわざ座蒲団まで取り寄せて、とうとうその上へ宗助の尻を据えさした。
そして、今朝早く来た刑事(けいじ)の話をし始めました。
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そうして今朝早く来た刑事の話をし始めた。
刑事の考えでは、泥棒は夜のはじめのうちから家の中にしのび込んで、物置か何かに隠れていたにちがいないということでした。
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刑事の判定によると、賊は宵から邸内に忍び込んで、何でも物置かなぞに隠れていたに違ない。
入り口はやはり勝手口です。
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這入口はやはり勝手である。
マッチをすってろうそくをつけ、それを台所にあった小さなおけの中へ立てて茶の間へ出たが、次の部屋には奥さんと子どもが寝ているので、廊下を通って主人の書斎へ来て、そこで仕事をしていた。すると、この間生まれた一番下の男の子がお乳を飲む時間になったのか、目を覚まして泣き出したので、泥棒は書斎の戸を開けて庭へ逃げたらしい、ということでした。
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燐寸を擦って蝋燭を点して、それを台所にあった小桶の中へ立てて、茶の間へ出たが、次の部屋には細君と子供が寝ているので、廊下伝いに主人の書斎へ来て、そこで仕事をしていると、この間生れた末の男の子が、乳を呑む時刻が来たものか、眼を覚まして泣き出したため、賊は書斎の戸を開けて庭へ逃げたらしい。
「いつものように犬がいるとよかったんですがね。ちょうど病気で、四、五日前に病院へ入れてしまったものですから」
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「平常のように犬がいると好かったんですがね。あいにく病気なので、四五日前病院へ入れてしまったもんですから」
と主人は残念そうに言いました。
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と主人は残念がった。
宗助も、
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宗助も、
「それは惜しいことでした」
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「それは惜しい事でした」
と答えました。
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と答えた。
すると主人は、その犬の種類や血筋のこと、時々狩りに連れて行くことなど、いろいろな話を始めました。
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すると主人はその犬の種やら血統やら、時々猟に連れて行く事や、いろいろな事を話し始めた。
「狩りは好きですから。もっとも、近ごろは神経痛(しんけいつう。神経が痛む病気)で少し休んでいますが。何しろ秋の初めから冬にかけて鴫(しぎ。水辺の鳥)などをうちに行くと、どうしても腰から下は田んぼの水に浸かって、二時間も三時間も過ごさなければならないんですから、まったく体にはよくないようです」
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「猟は好ですから。もっとも近来は神経痛で少し休んでいますが。何しろ秋口から冬へ掛けて鴫なぞを打ちに行くと、どうしても腰から下は田の中へ浸って、二時間も三時間も暮らさなければならないんですから、全く身体には好くないようです」
主人は時間に制限のない人らしく、宗助が、なるほど、とか、そうですか、とか言っていると、いつまでも話しているので、宗助はしかたなく途中で立ち上がりました。
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主人は時間に制限のない人と見えて、宗助が、なるほどとか、そうですか、とか云っていると、いつまでも話しているので、宗助はやむを得ず中途で立ち上がった。
「これからまた、いつものように出かけなければなりませんから」
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「これからまた例の通り出かけなければなりませんから」
と話を切り上げると、主人は初めて気がついたように、忙しいところを引き留めた失礼をわびました。
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と切り上げると、主人は始めて気がついたように、忙がしいところを引き留めた失礼を謝した。
そして、いずれまた刑事が現場を見に行くかもしれないから、その時はよろしくお願いします、というようなことを言いました。
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そうしていずれまた刑事が現状を見に行くかも知れないから、その時はよろしく願うと云うような事を述べた。
最後に、
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最後に、
「どうぞ、また話しに来てください。私も近ごろはむしろ暇な方ですから、こちらからもおじゃまに行きますから」
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「どうかちと御話に。私も近頃はむしろ閑な方ですから、また御邪魔に出ますから」
とていねいにあいさつをしました。
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と丁寧に挨拶をした。
門を出て急ぎ足で家へ帰ると、毎朝出かける時刻より、もう三十分ほど遅れていました。
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門を出て急ぎ足に宅へ帰ると、毎朝出る時刻よりも、もう三十分ほど後れていた。
「あなた、どうなさったの」
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「あなたどうなすったの」
と御米が心配して玄関へ出て来ました。
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と御米が気を揉んで玄関へ出た。
宗助はすぐ着物を脱いで洋服に着がえながら、
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宗助はすぐ着物を脱いで洋服に着換えながら、
「あの坂井という人は、よほど気楽な人だね。お金があると、ああゆっくりできるものかな」
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「あの坂井と云う人はよっぽど気楽な人だね。金があるとああ緩くりできるもんかな」
と言いました。
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と云った。
八
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八
「小六さん、茶の間から始める。それとも座敷の方を先にする」
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「小六さん、茶の間から始めて。それとも座敷の方を先にして」
と御米が聞きました。
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と御米が聞いた。
小六は四、五日前にとうとう兄の家へ移ったので、今日の障子の張りかえを手伝わなければならないことになりました。
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小六は四五日前とうとう兄の所へ引き移った結果として、今日の障子の張替を手伝わなければならない事となった。
彼は昔、叔父の家にいた時、安之助といっしょに自分の部屋の襖を張りかえた経験があります。
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彼は昔し叔父の家にいた時、安之助といっしょになって、自分の部屋の唐紙を張り替えた経験がある。
その時は糊(のり)をお盆に溶かしたり、へらを使ってみたりと、かなり本式にやり始めたのですが、うまく乾かして、さあ元の所へ建てようという時になると、二枚とも反ってしまって、敷居(しきい)の溝にはまりませんでした。
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その時は糊を盆に溶いたり、箆を使って見たり、だいぶ本式にやり出したが、首尾好く乾かして、いざ元の所へ建てるという段になると、二枚とも反っ繰り返って敷居の溝へ嵌まらなかった。
それから、これも安之助といっしょに失敗した仕事ですが、叔母に言われて障子を張らされた時には、水道でざぶざぶ枠を洗ったため、やはり乾いたあとで全体にゆがみができて、とても困りました。
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それからこれも安之助と共同して失敗した仕事であるが、叔母の云いつけで、障子を張らせられたときには、水道でざぶざぶ枠を洗ったため、やっぱり乾いた後で、惣体に歪ができて非常に困難した。
「姉さん、障子を張る時はよほど気をつけないと失敗しますよ。洗っちゃ駄目です」
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「姉さん、障子を張るときは、よほど慎重にしないと失策るです。洗っちゃ駄目ですぜ」
と言いながら、小六は茶の間の縁側から、びりびりと紙を破き始めました。
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と云いながら、小六は茶の間の縁側からびりびり破き始めた。
縁側の先は、右の方に小六のいる六畳の部屋が折れ曲がっていて、左には玄関が突き出しています。
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縁先は右の方に小六のいる六畳が折れ曲って、左には玄関が突き出している。
その向こうを塀が縁側と平行にふさいでいるので、まあ四角い囲いの中と言っていいでしょう。
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その向うを塀が縁と平行に塞いでいるから、まあ四角な囲内と云っていい。
夏になるとコスモスを一面に茂らせて、夫婦とも毎朝、露のいっぱいおりた景色を喜んだこともありますし、また塀の下へ細い竹を立てて、それに朝顔をからませたこともあります。
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夏になるとコスモスを一面に茂らして、夫婦とも毎朝露の深い景色を喜んだ事もあるし、また塀の下へ細い竹を立てて、それへ朝顔を絡ませた事もある。
その時は起きるとすぐ、今朝咲いた花の数を数え合って、二人で楽しみにしていました。
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その時は起き抜けに、今朝咲いた花の数を勘定し合って二人が楽にした。
けれども秋から冬にかけては花も草もすっかり枯れてしまうので、小さな砂漠のように、見ているのがかわいそうなくらい寂しくなります。
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けれども秋から冬へかけては、花も草もまるで枯れてしまうので、小さな砂漠みたように、眺めるのも気の毒なくらい淋しくなる。
小六は、この霜だけがおりた四角い地面を背にして、しきりに障子の紙をはがしていました。
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小六はこの霜ばかり降りた四角な地面を背にして、しきりに障子の紙を剥がしていた。
時々冷たい風が来て、後ろから小六の坊主頭と首のあたりを吹きました。
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時々寒い風が来て、後から小六の坊主頭と襟の辺を襲った。
そのたびに彼は、風の当たる縁側から六畳の部屋の中へ引っこみたくなりました。
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そのたびに彼は吹き曝しの縁から六畳の中へ引っ込みたくなった。
彼は赤くなった手を黙って動かしながら、バケツの中で雑巾をしぼって、障子の桟(さん。障子の細い骨)をふき始めました。
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彼は赤い手を無言のまま働らかしながら、馬尻の中で雑巾を絞って障子の桟を拭き出した。
「寒いでしょう、お気の毒さまね。ちょうどお天気が悪くなったものだから」
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「寒いでしょう、御気の毒さまね。あいにく御天気が時雨れたもんだから」
と御米が愛想を言って、鉄びんのお湯を注ぎながら、昨日煮た糊を溶かしました。
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と御米が愛想を云って、鉄瓶の湯を注ぎ注ぎ、昨日煮た糊を溶いた。
小六は本当は、こんな用事をするのを心の中で大いにばかにしていました。
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小六は実際こんな用をするのを、内心では大いに軽蔑していた。
特に近ごろ、自分がしかたなく置かれた立場のせいで、これは自分を少しばかにしているのではないか、というような気持ちで雑巾を持っていました。
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ことに昨今自分がやむなく置かれた境遇からして、この際多少自己を侮辱しているかの観を抱いて雑巾を手にしていた。
昔、叔父の家で同じことをやらされた時は、暇つぶしの遊びとして、いやどころかかえって面白かった覚えさえあるのに、今では、これくらいの仕事しかできない人間だと、周りから無理にあきらめさせられたような気がして、縁側が寒いのがなおさら腹立たしく思えました。
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昔し叔父の家で、これと同じ事をやらせられた時は、暇潰しの慰みとして、不愉快どころかかえって面白かった記憶さえあるのに、今じゃこのくらいな仕事よりほかにする能力のないものと、強いて周囲から諦めさせられたような気がして、縁側の寒いのがなおのこと癪に触った。
それで、兄のお嫁さんにもろくに気持ちのいい返事をしませんでした。
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それで嫂には快よい返事さえ碌にしなかった。
そして頭の中で、自分がいた下宿の法科大学生が、ちょっと散歩に出るついでに資生堂へ寄って、三つ入りのせっけんと歯みがきを買うだけでも五円近いお金を払う、そのぜいたくを思いうかべました。
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そうして頭の中で、自分の下宿にいた法科大学生が、ちょっと散歩に出るついでに、資生堂へ寄って、三つ入りの石鹸と歯磨を買うのにさえ、五円近くの金を払う華奢を思い浮べた。
するとどうしても、自分一人がこんな苦しい立場に落ちる理由はないように感じられました。
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するとどうしても自分一人が、こんな窮境に陥るべき理由がないように感ぜられた。
それから、こんな生活で満足して一生を送る兄夫婦が、いかにもかわいそうに見えました。
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それから、こんな生活状態に甘んじて一生を送る兄夫婦がいかにも憫然に見えた。
二人は、障子を張る紙を買うのにさえ気をつかうのではないかと思われるほど、小六から見ると小さくちぢんだ暮らし方をしていました。
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彼らは障子を張る美濃紙を買うのにさえ気兼をしやしまいかと思われるほど、小六から見ると、消極的な暮し方をしていた。
「こんな紙じゃ、またすぐ破けますね」
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「こんな紙じゃ、またすぐ破けますね」
と言いながら、小六は巻いた紙のはしを三十センチほど日に透かして、二、三度力いっぱい鳴らしました。
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と云いながら、小六は巻いた小口を一尺ほど日に透かして、二三度力任せに鳴らした。
「そう。でも、うちは子どもがないから、それほどでもないわ」
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「そう? でも宅じゃ小供がないから、それほどでもなくってよ」
と答えた御米は、糊をふくませた刷毛(はけ)を取って、とんとんとんと桟の上をなでました。
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と答えた御米は糊を含ました刷毛を取ってとんとんとんと桟の上を渡した。
二人は長くつないだ紙を両側から引っぱり合って、なるべくたるまないようにしましたが、小六が時々めんどうそうな顔をすると、御米はつい遠慮して、いいかげんに剃刀(かみそり)で紙のはしを切り落としてしまうこともありました。
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二人は長く継いだ紙を双方から引き合って、なるべく垂るみのできないように力めたが、小六が時々面倒臭そうな顔をすると、御米はつい遠慮が出て、好加減に髪剃で小口を切り落してしまう事もあった。
そのため、でき上がったものには、あちこちにぶくぶくした所がかなり目立ちました。
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したがってでき上ったものには、所々のぶくぶくがだいぶ目についた。
御米は情けなさそうに、戸袋(とぶくろ。雨戸を入れる所)に立てかけた張りたての障子を眺めました。
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御米は情なさそうに、戸袋に立て懸けた張り立ての障子を眺めた。
そして心の中で、相手が小六ではなく夫だったらいいのに、と思いました。
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そうして心の中で、相手が小六でなくって、夫であったならと思った。
「しわが少しできたのね」
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「皺が少しできたのね」
「どうせ僕の腕じゃうまく行きません」
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「どうせ僕の御手際じゃ旨く行かない」
「なに、兄さんだってそんなに上手じゃないわ。それに兄さんはあなたよりよっぽど面倒くさがりよ」
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「なに兄さんだって、そう御上手じゃなくってよ。それに兄さんはあなたよりよっぽど無精ね」
小六は何も答えませんでした。
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小六は何にも答えなかった。
台所から清が持って来た茶碗を受け取って、戸袋の前に立ち、紙が一面にぬれるほど霧を吹きかけました。
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台所から清が持って来た含嗽茶碗を受け取って、戸袋の前へ立って、紙が一面に濡れるほど霧を吹いた。
二枚目を張った時には、先に霧を吹いた分がだいたい乾いて、しわもほとんど平らになっていました。
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二枚目を張ったときは、先に霧を吹いた分がほぼ乾いて皺がおおかた平らになっていた。
三枚目を張った時、小六は腰が痛くなったと言い出しました。
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三枚目を張ったとき、小六は腰が痛くなったと云い出した。
実は御米の方は、今朝から頭が痛かったのです。
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実を云うと御米の方は今朝から頭が痛かったのである。
「もう一枚張って、茶の間だけ終わらせてから休みましょう」
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「もう一枚張って、茶の間だけ済ましてから休みましょう」
と言いました。
原文を見る
と云った。
茶の間を終わらせているうちにお昼になったので、二人は食事を始めました。
原文を見る
茶の間を済ましているうちに午になったので、二人は食事を始めた。
小六が移って来てからのこの四、五日、御米は宗助のいないお昼ご飯を、いつも小六と向かい合って食べることになりました。
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小六が引き移ってからこの四五日、御米は宗助のいない午飯を、いつも小六と差向で食べる事になった。
宗助と結婚してから、御米が毎日いっしょにご飯を食べた相手は、夫のほかにはいませんでした。
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宗助といっしょになって以来、御米の毎日膳を共にしたものは、夫よりほかになかった。
夫が留守の時は、ただ一人ではしを取るのが長年の習わしでした。
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夫の留守の時は、ただ独り箸を執るのが多年の習慣であった。
ですから急に、この夫の弟と自分の間にごはんのおひつを置いて、お互いに顔を見合わせながら口を動かすのは、御米にとって何とも変わった経験でした。
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だから突然この小舅と自分の間に御櫃を置いて、互に顔を見合せながら、口を動かすのが、御米に取っては一種異な経験であった。
それも清が台所で働いている時はまだいいのですが、清の姿も音もしなくなると、なおさら変に窮屈な感じがしました。
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それも下女が台所で働らいているときは、まだしもだが、清の影も音もしないとなると、なおのこと変に窮屈な感じが起った。
もちろん小六より御米の方が年上ですし、これまでの関係から言っても、男女の色っぽい空気は、まだ堅苦しかった初めの頃でさえ、二人の間に生まれるはずのないものでした。
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無論小六よりも御米の方が年上であるし、また従来の関係から云っても、両性を絡みつける艶っぽい空気は、箝束的な初期においてすら、二人の間に起り得べきはずのものではなかった。
御米は、小六と向かい合ってご飯を食べる時のこの気まずい気持ちが、いつになったら消えるのだろうと、心の中でそっと考えました。
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御米は小六と差向に膳に着くときのこの気ぶっせいな心持が、いつになったら消えるだろうと、心の中で私に疑ぐった。
小六が移って来るまでは、こんなことになるとはまるで気がつかなかったので、なおさら困ってしまいました。
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小六が引き移るまでは、こんな結果が出ようとは、まるで気がつかなかったのだからなおさら当惑した。
しかたがないので、なるべく食事の間に話をして、せめて何も言うことのないすき間だけでも埋めようとしました。
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仕方がないからなるべく食事中に話をして、せめて手持無沙汰な隙間だけでも補おうと力めた。
ところが今の小六には、この兄のお嫁さんの気づかいに、ちょうどいい調子で応えるだけの余裕も分別も、頭の中にありませんでした。
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不幸にして今の小六は、この嫂の態度に対してほどの好い調子を出すだけの余裕と分別を頭の中に発見し得なかったのである。
「小六さん、下宿はおいしい物が出るの」
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「小六さん、下宿は御馳走があって」
こんな質問をされると、小六は、下宿から遊びに来ていた頃のような、あっさりした遠慮のない答え方ができなくなりました。
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こんな質問に逢うと、小六は下宿から遊びに来た時分のように、淡泊な遠慮のない答をする訳に行かなくなった。
しかたなく、
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やむを得ず、
「なに、そうでもありません」
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「なにそうでもありません」
くらいにしておくと、その言い方がすっきりしていないので、御米の方では、自分のもてなしが悪いせいかと思うこともありました。
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ぐらいにしておくと、その語気がからりと澄んでいないので、御米の方では、自分の待遇が悪いせいかと解釈する事もあった。
それがまた、口に出さないまま小六に伝わることもありました。
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それがまた無言の間に、小六の頭に映る事もあった。
特に今日は頭の具合がよくないので、ご飯に向かっても、御米はいつものように気をつかうのがめんどうでした。
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ことに今日は頭の具合が好くないので、膳に向っても、御米はいつものように力めるのが退儀であった。
気をつかって失敗するのは、もっといやでした。
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力めて失敗するのはなお厭であった。
それで二人とも、障子を張っている時よりも言葉少なに食事を終わらせました。
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それで二人とも障子を張るときよりも言葉少なに食事を済ました。
午後は手が慣れたのか、朝に比べると仕事が少し早く進みました。
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午後は手が慣れたせいか、朝に比べると仕事が少し果取った。
けれども二人の気分は、ご飯の前よりもかえって遠くなりました。
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しかし二人の気分は飯前よりもかえって縁遠くなった。
特に寒い天気が二人の頭にこたえました。
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ことに寒い天気が二人の頭に応えた。
起きた時は、日の載った空がだんだん遠のいて行くかと思われるほどよく晴れていたのに、空が真っ青になる頃から急に雲が出て、暗い雲の中で粉雪でも作っているように、日の光をふさいでしまいました。
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起きた時は、日を載せた空がしだいに遠退いて行くかと思われるほどに、好く晴れていたが、それが真蒼に色づく頃から急に雲が出て、暗い中で粉雪でも醸しているように、日の目を密封した。
二人はかわるがわる火鉢に手をかざしました。
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二人は交る交る火鉢に手を翳した。
「兄さんは来年になると給料が上がるんでしょう」
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「兄さんは来年になると月給が上がるんでしょう」
ふと小六がこんなことを御米に聞きました。
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ふと小六がこんな問を御米にかけた。
御米はその時、畳の上の紙切れを取って、糊で汚れた手をふいていましたが、まるで思ってもみなかったという顔をしました。
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御米はその時畳の上の紙片を取って、糊に汚れた手を拭いていたが、全く思も寄らないという顔をした。
「どうして」
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「どうして」
「でも新聞で見ると、来年から役人の給料がみんな上がるという話じゃありませんか」
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「でも新聞で見ると、来年から一般に官吏の増俸があると云う話じゃありませんか」
御米はそんな話をまるで知りませんでした。
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御米はそんな消息を全く知らなかった。
小六から詳しい説明を聞いて、初めて、なるほど、とうなずきました。
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小六から詳しい説明を聞いて、始めてなるほどと首肯いた。
「本当にね。これじゃだれだって暮らして行けないわ。お魚の切り身なんか、私が東京へ来てからでも、もう二倍になっているんですもの」
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「全くね。これじゃ誰だって、やって行けないわ。御肴の切身なんか、私が東京へ来てからでも、もう倍になってるんですもの」
と言いました。
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と云った。
魚の切り身の値段のことになると、小六の方がまるで何も知りませんでした。
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肴の切身の値段になると小六の方が全く無識であった。
御米に言われて初めて、そんなに高くなるものかと思いました。
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御米に注意されて始めてそれほどむやみに高くなるものかと思った。
小六が少し興味を持ったので、二人の会話は思ったよりすんなり進みました。
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小六にちょっとした好奇心の出たため、二人の会話は存外素直に流れて行った。
御米は、裏の家主が十八、九歳だった時代には物の値段がとても安かったという話を、この間宗助から聞いたとおりに話しました。
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御米は裏の家主の十八九時代に物価の大変安かった話を、この間宗助から聞いた通り繰り返した。
その頃はそばを食べるにしても、もりやかけが一銭にもならないくらいで、具の入ったものが二銭五厘(にせんごりん。一銭の四分の一が二厘五毛。とても安い)でした。
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その時分は蕎麦を食うにしても、盛かけが八厘、種ものが二銭五厘であった。
牛肉は普通のものが一人分四銭で、いい所は六銭でした。
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牛肉は普通が一人前四銭で、ロースは六銭であった。
寄席(よせ。落語などを聞く小屋)は三銭か四銭でした。
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寄席は三銭か四銭であった。
学生は月に七円ほど家から送ってもらえば、まあ普通でした。
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学生は月に七円ぐらい国から貰えば中の部であった。
十円ももらえば、もうぜいたくだと思われました。
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十円も取るとすでに贅沢と思われた。
「小六さんも、その頃だったら簡単に大学を卒業できたのにね」
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「小六さんも、その時分だと訳なく大学が卒業できたのにね」
と御米が言いました。
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と御米が云った。
「兄さんも、その頃ならとても暮らしやすいわけですね」
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「兄さんもその時分だと大変暮しやすい訳ですね」
と小六が答えました。
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と小六が答えた。
座敷の張りかえが終わった時には、もう三時を過ぎていました。
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座敷の張易が済んだときにはもう三時過になった。
そのうちに宗助も帰って来ますし、晩ご飯の支度も始めなければならないので、二人はここで一区切りにして、糊や剃刀を片づけました。
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そうこうしているうちには、宗助も帰って来るし、晩の支度も始めなくってはならないので、二人はこれを一段落として、糊や髪剃を片づけた。
小六は大きくのびを一つして、にぎった手で自分の頭をこんこんとたたきました。
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小六は大きな伸を一つして、握り拳で自分の頭をこんこんと叩いた。
「どうもご苦労さま。疲れたでしょう」
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「どうも御苦労さま。疲れたでしょう」
と御米は小六をねぎらいました。
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と御米は小六を労わった。
小六はそれよりも、何か口に入れたい気持ちでした。
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小六はそれよりも口淋しい思がした。
この間、文庫を届けてやったお礼に坂井がくれたというお菓子を、戸棚から出してもらって食べました。
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この間文庫を届けてやった礼に、坂井からくれたと云う菓子を、戸棚から出して貰って食べた。
御米はお茶を入れました。
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御米は御茶を入れた。
「坂井という人は大学を出ているんですか」
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「坂井と云う人は大学出なんですか」
「ええ、やっぱりそうなんですって」
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「ええ、やっぱりそうなんですって」
小六はお茶を飲んでたばこを吸いました。
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小六は茶を飲んで煙草を吹いた。
やがて、
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やがて、
「兄さんは給料が上がることを、まだあなたに話さないんですか」
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「兄さんは増俸の事をまだあなたに話さないんですか」
と聞きました。
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と聞いた。
「いいえ、ちっとも」
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「いいえ、ちっとも」
と御米が答えました。
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と御米が答えた。
「兄さんみたいになれたらいいだろうな。不満も何もなくて」
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「兄さんみたようになれたら好いだろうな。不平も何もなくって」
御米は特に何も答えませんでした。
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御米は特別の挨拶もしなかった。
小六はそのまま立って六畳の部屋へ入りましたが、やがて火が消えたと言って、火鉢を抱えてまた出て来ました。
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小六はそのまま起って六畳へ這入ったが、やがて火が消えたと云って、火鉢を抱えてまた出て来た。
彼は兄の家に世話になりながら、もう少したてば都合がつくだろうと言ってなぐさめてくれた安之助の言葉を信じて、学校は形の上では休学ということにして、とりあえずの始末をつけたのでした。
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彼は兄の家に厄介になりながら、もう少し立てば都合がつくだろうと慰めた安之助の言葉を信じて、学校は表向休学の体にして一時の始末をつけたのである。
九
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九
裏の坂井と宗助とは、文庫がきっかけになって、思いがけないつながりができました。
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裏の坂井と宗助とは文庫が縁になって思わぬ関係がついた。
それまでは、月に一度こちらから清に家賃を持たせてやると、向こうからその受け取りを寄こすだけのやり取りしかなかったので、崖の上に外国人が住んでいるのと同じで、近所の人としての親しみはまるでありませんでした。
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それまでは月に一度こちらから清に家賃を持たしてやると、向からその受取を寄こすだけの交渉に過ぎなかったのだから、崖の上に西洋人が住んでいると同様で、隣人としての親みは、まるで存在していなかったのである。
宗助が文庫を届けた日の午後、坂井の言ったとおり刑事が宗助の家の裏から崖の下を調べに来ましたが、その時坂井もいっしょだったので、御米は初めて噂に聞いていた家主の顔を見ました。
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宗助が文庫を届けた日の午後に、坂井の云った通り、刑事が宗助の家の裏手から崖下を検べに来たが、その時坂井もいっしょだったので、御米は始めて噂に聞いた家主の顔を見た。
ひげがないと思っていたのにひげを生やしているのと、自分などに対しても思ったよりていねいな言葉を使うのが、御米には少し意外でした。
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髭のないと思ったのに、髭を生やしているのと、自分なぞに対しても、存外丁寧な言葉を使うのが、御米には少し案外であった。
「あなた、坂井さんはやっぱりひげを生やしていたわ」
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「あなた、坂井さんはやっぱり髭を生やしていてよ」
と宗助が帰った時、御米はわざわざ教えました。
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と宗助が帰ったとき、御米はわざわざ注意した。
それから二日ほどして、坂井の名刺をつけた立派なお菓子の箱を持ってお手伝いの人がお礼に来て、この間はいろいろお世話になりましてありがとうございます、いずれ主人が自分でうかがうはずでございますが、と言い置いて帰って行きました。
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それから二日ばかりして、坂井の名刺を添えた立派な菓子折を持って、下女が礼に来たが、せんだってはいろいろ御世話になりまして、ありがとう存じます、いずれ主人が自身に伺うはずでございますがと云いおいて、帰って行った。
その晩、宗助はもらったお菓子の箱のふたを開けて、まんじゅうを口いっぱいに入れながら、
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その晩宗助は到来の菓子折の葢を開けて、唐饅頭を頬張りながら、
「こんなものをくれるところをみると、それほどけちでもないようだね。よその家の子をブランコに乗せてやらないっていうのは嘘だろう」
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「こんなものをくれるところをもって見ると、それほど吝でもないようだね。他の家の子をブランコへ乗せてやらないって云うのは嘘だろう」
と言いました。
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と云った。
御米も、
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御米も、
「きっと嘘よ」
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「きっと嘘よ」
と坂井をかばいました。
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と坂井を弁護した。
夫婦と坂井とは、泥棒が入る前よりこれだけ親しみが増したものの、それ以上に近づこうという気持ちは、宗助の頭にも御米の胸にも生まれませんでした。
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夫婦と坂井とは泥棒の這入らない前より、これだけ親しみの度が増したようなものの、それ以上に接近しようと云う念は、宗助の頭にも、御米の胸にも宿らなかった。
得か損かという計算から言えばもちろんですが、ただの近所付き合いとか人情とかいう点から見ても、夫婦はこれ以上前へ進む勇気を持っていなかったのです。
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利害の打算から云えば無論の事、単に隣人の交際とか情誼とか云う点から見ても、夫婦はこれよりも前進する勇気を有たなかったのである。
もし何事もない日々がそのまま続いていったなら、そのうち坂井は昔の坂井に戻り、宗助も元の宗助に戻って、崖の上と崖の下でお互いの家が離れているように、お互いの心も離れ離れになったにちがいありません。
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もし自然がこのままに無為の月日を駆ったなら、久しからぬうちに、坂井は昔の坂井になり、宗助は元の宗助になって、崖の上と崖の下に互の家が懸け隔るごとく、互の心も離れ離れになったに違なかった。
ところがそれからまた二日おいて、三日目の夕方に、かわうその毛皮の襟のついた暖かそうな外套を着て、突然坂井が宗助の所へやって来ました。
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ところがそれからまた二日置いて、三日目の暮れ方に、獺の襟の着いた暖かそうな外套を着て、突然坂井が宗助の所へやって来た。
夜にお客を迎えることのない夫婦は、少しあわてるほど驚きましたが、座敷へ上げて話してみると、坂井はていねいに先日のお礼を言ったあと、
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夜間客に襲われつけない夫婦は、軽微の狼狽を感じたくらい驚ろかされたが、座敷へ上げて話して見ると、坂井は丁寧に先日の礼を述べた後、
「おかげで、取られた品物がまた戻って来ましたよ」
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「御蔭で取られた品物がまた戻りましたよ」
と言いながら、白い絹の帯に巻きつけた金のくさりを外して、両側にふたのついた金の時計を出して見せました。
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と云いながら、白縮緬の兵児帯に巻き付けた金鎖を外して、両葢の金時計を出して見せた。
決まりだから警察へ届けることは届けたが、実はかなり古い時計なので、取られてもそれほど惜しくないくらいにあきらめていたら、昨日になって急に、だれが送ったのか分からない小包が届き、その中にちゃんと自分のなくしたものが包んであったのだそうです。
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規則だから警察へ届ける事は届けたが、実はだいぶ古い時計なので、取られてもそれほど惜しくもないぐらいに諦らめていたら、昨日になって、突然差出人の不明な小包が着いて、その中にちゃんと自分の失くしたのが包んであったんだと云う。
「泥棒も持ちきれなかったんでしょう。それとも、あまりお金にならないのでしかたなく返してくれる気になったんですかね。とにかくめずらしいことで」
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「泥棒も持ち扱かったんでしょう。それとも余り金にならないんで、やむを得ず返してくれる気になったんですかね。何しろ珍らしい事で」
と坂井は笑っていました。
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と坂井は笑っていた。
それから、
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それから、
「なに、私から言えば、実はあの文庫の方がむしろ大事な品でしてね。祖母が昔、お屋敷に勤めていた頃にいただいたものだとかで、まあ形見のようなものですから」
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「何私から云うと、実はあの文庫の方がむしろ大切な品でしてね。祖母が昔し御殿へ勤めていた時分、戴いたんだとか云って、まあ記念のようなものですから」
というようなことも説明して聞かせました。
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と云うような事も説明して聞かした。
その晩、坂井はそんな話を二時間ほどもして帰って行きましたが、相手になった宗助も、茶の間で聞いていた御米も、とても話の種の多い人だと思わずにはいられませんでした。
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その晩坂井はそんな話を約二時間もして帰って行ったが、相手になった宗助も、茶の間で聞いていた御米も、大変談話の材料に富んだ人だと思わぬ訳に行かなかった。
あとで、
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後で、
「世間の広い方ね」
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「世間の広い方ね」
と御米が言いました。
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と御米が評した。
「暇だからさ」
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「閑だからさ」
と宗助が言いました。
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と宗助が解釈した。
次の日、宗助が役所からの帰りに電車を降りて、横町の道具屋の前まで来ると、あのかわうその襟のついた坂井の外套がちょっと目に入りました。
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次の日宗助が役所の帰りがけに、電車を降りて横町の道具屋の前まで来ると、例の獺の襟を着けた坂井の外套がちょっと眼に着いた。
横を向いて通りの方を向きながら、店の主人を相手に何か言っています。
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横顔を往来の方へ向けて、主人を相手に何か云っている。
主人は大きな眼鏡をかけたまま、下から坂井の顔を見上げています。
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主人は大きな眼鏡を掛けたまま、下から坂井の顔を見上げている。
宗助はあいさつをするような時でもないと思ったので、そのまま行き過ぎようとして店の正面まで来ると、坂井の目が通りの方へ向きました。
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宗助は挨拶をすべき折でもないと思ったから、そのまま行き過ぎようとして、店の正面まで来ると、坂井の眼が往来へ向いた。
「やあ、昨日の夜はどうも。今お帰りですか」
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「やあ昨夜は。今御帰りですか」
と気軽に声をかけられたので、宗助も知らないふりをして通り過ぎるわけにも行かなくなり、少し歩く速さをゆるめながら帽子を取りました。
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と気軽に声をかけられたので、宗助も愛想なく通り過ぎる訳にも行かなくなって、ちょっと歩調を緩めながら、帽子を取った。
すると坂井は、用はもう済んだという様子で店から出て来ました。
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すると坂井は、用はもう済んだと云う風をして、店から出て来た。
「何かお買い物ですか」
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「何か御求めですか」
と宗助が聞くと、
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と宗助が聞くと、
「いえ、なに」
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「いえ、何」
と答えたまま、宗助と並んで家の方へ歩き出しました。
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と答えたまま、宗助と並んで家の方へ歩き出した。
十メートルほど来た時、
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六七間来たとき、
「あのじいさん、なかなかずるい奴ですよ。崋山のにせものを持って来て押しつけようとするから、今しかりつけてやったんです」
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「あの爺い、なかなか猾い奴ですよ。崋山の偽物を持って来て押付ようとしやがるから、今叱りつけてやったんです」
と言い出しました。
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と云い出した。
宗助は初めて、この坂井も、お金と時間に余裕のある人によくある物好きを趣味にしているのだと気づきました。
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宗助は始めて、この坂井も余裕ある人に共通な好事を道楽にしているのだと心づいた。
そして、この間売ってしまった抱一の屏風も、最初からこういう人に見せたらよかったのに、と心の中で思いました。
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そうしてこの間売り払った抱一の屏風も、最初からこう云う人に見せたら、好かったろうにと、腹の中で考えた。
「あの人は書や絵に詳しいんですか」
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「あれは書画には明るい男なんですか」
「なに、書や絵どころか、まるで何も分からない奴です。あの店の様子を見ても分かるでしょう。値打ちのありそうな物は一つも並んでいませんよ。もとは紙くず屋から出発してあれだけになったんですからね」
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「なに書画どころか、まるで何も分らない奴です。あの店の様子を見ても分るじゃありませんか。骨董らしいものは一つも並んでいやしない。もとが紙屑屋から出世してあれだけになったんですからね」
坂井は道具屋の生まれや育ちをよく知っていました。
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坂井は道具屋の素性をよく知っていた。
出入りの八百屋の主人の話によると、坂井の家は昔の幕府の頃に何とかの守(かみ)と名乗った家で、この辺りでは一番古い家柄なのだそうです。
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出入の八百屋の阿爺の話によると、坂井の家は旧幕の頃何とかの守と名乗ったもので、この界隈では一番古い門閥家なのだそうである。
幕府がたおれた時に駿府(すんぷ。今の静岡)へ引きあげなかったのだとか、いや一度引きあげてまた出て来たのだとかいうことも聞いた気がしますが、それははっきり宗助の頭に残っていませんでした。
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瓦解の際、駿府へ引き上げなかったんだとか、あるいは引き上げてまた出て来たんだとか云う事も耳にしたようであるが、それは判然宗助の頭に残っていなかった。
「小さい頃からいたずら者でね。あいつが子どもたちの親分になって、よく喧嘩をしに行ったことがありますよ」
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「小さい内から悪戯ものでね。あいつが餓鬼大将になってよく喧嘩をしに行った事がありますよ」
と坂井は、お互いの子どもの頃のことまで少し話しました。
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と坂井は御互の子供の時の事まで一口洩らした。
それならどうして崋山のにせものを売りこもうとしたのかと聞くと、坂井は笑ってこう説明しました。
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それがまたどうして崋山の贋物を売り込もうと巧んだのかと聞くと、坂井は笑って、こう説明した。――
「なに、父の代からひいきにしてやっているものですから、時々あれこれと持って来るんです。ところが見る目もないくせに、ただ欲ばりたがってね、まったく扱いにくい相手です。それに、つい先ごろ抱一の屏風を買ってもらって、うまい話だと思ったのでね」
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「なに親父の代から贔屓にしてやってるものですから、時々何だ蚊だって持って来るんです。ところが眼も利かない癖に、ただ慾ばりたがってね、まことに取扱い悪い代物です。それについこの間抱一の屏風を買って貰って、味を占めたんでね」
宗助は驚きました。
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宗助は驚ろいた。
けれども話の途中でさえぎるわけには行かないので、黙っていました。
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けれども話の途中を遮ぎる訳に行かなかったので、黙っていた。
坂井は、道具屋がそれからすっかり気をよくして、自分でも分からない書や絵をしきりに持ちこんで来ることや、大坂で作られたやきものを本物だと思って大事に飾っておいたことなどを話したあと、
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坂井は道具屋がそれ以来乗気になって、自身に分りもしない書画類をしきりに持ち込んで来る事やら、大坂出来の高麗焼を本物だと思って、大事に飾っておいた事やら話した末、
「まあ台所で使うちゃぶ台か、せいぜい新品の鉄びんくらいしか、あんな所では買えたものじゃありません」
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「まあ台所で使う食卓か、たかだか新の鉄瓶ぐらいしか、あんな所じゃ買えたもんじゃありません」
と言いました。
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と云った。
そのうち二人は坂の上へ出ました。
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そのうち二人は坂の上へ出た。
坂井はそこを右へ曲がり、宗助はそこを下へ下りなければなりませんでした。
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坂井はそこを右へ曲る、宗助はそこを下へ下りなければならなかった。
宗助はもう少しいっしょに歩いて屏風のことを聞きたかったのですが、わざわざ回り道をするのも変だと気づいて、そこで別れました。
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宗助はもう少しいっしょに歩いて、屏風の事を聞きたかったが、わざわざ回り路をするのも変だと心づいて、それなり分れた。
別れる時、
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分れる時、
「近いうちにおじゃまに行ってもよろしいですか」
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「近い中御邪魔に出てもようございますか」
と聞くと、坂井は、
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と聞くと、坂井は、
「どうぞ」
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「どうぞ」
と気持ちよく答えました。
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と快よく答えた。
その日は風もなく、しばらく日も照りましたが、家の中にいると底冷えのする寒さがするとかで、御米はわざわざ炬燵(こたつ)に宗助の着物を掛けて、それを座敷の真ん中に置いて夫の帰りを待っていました。
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その日は風もなくひとしきり日も照ったが、家にいると底冷のする寒さに襲われるとか云って、御米はわざわざ置炬燵に宗助の着物を掛けて、それを座敷の真中に据えて、夫の帰りを待ち受けていた。
この冬になって昼のうちに炬燵を出したのは、その日が初めてでした。
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この冬になって、昼のうち炬燵を拵らえたのは、その日が始めてであった。
夜はずっと前から使っていましたが、いつも六畳の部屋に置くだけでした。
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夜は疾うから用いていたが、いつも六畳に置くだけであった。
「座敷の真ん中にそんなものを置いて、今日はどうしたんだい」
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「座敷の真中にそんなものを据えて、今日はどうしたんだい」
「でも、お客も何もないからいいでしょう。だって六畳の方は小六さんがいてふさがっているんですもの」
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「でも、御客も何もないからいいでしょう。だって六畳の方は小六さんがいて、塞がっているんですもの」
宗助は初めて、自分の家に小六がいることに気がつきました。
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宗助は始めて自分の家に小六のいる事に気がついた。
シャツの上から暖かい着物を掛けてもらって帯をぐるぐる巻きつけながら、
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襯衣の上から暖かい紡績織を掛けて貰って、帯をぐるぐる巻きつけたが、
「ここは寒い国だから、炬燵でも置かないと過ごせない」
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「ここは寒帯だから炬燵でも置かなくっちゃ凌げない」
と言いました。
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と云った。
小六の部屋になった六畳は、畳はきれいではありませんが、南と東が開いていて、家の中で一番暖かい部屋なのです。
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小六の部屋になった六畳は、畳こそ奇麗でないが、南と東が開いていて、家中で一番暖かい部屋なのである。
宗助は御米がくんで来た熱いお茶を湯呑みから二口ほど飲んで、
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宗助は御米の汲んで来た熱い茶を湯呑から二口ほど飲んで、
「小六はいるのかい」
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「小六はいるのかい」
と聞きました。
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と聞いた。
小六はもちろんいたはずです。
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小六は固よりいたはずである。
けれども六畳はしんとしていて、人がいるようにも思えませんでした。
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けれども六畳はひっそりして人のいるようにも思われなかった。
御米が呼びに立とうとするのを、用はないからいいと止めて、宗助は炬燵の布団の中へ潜りこんで、すぐ横になりました。
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御米が呼びに立とうとするのを、用はないからいいと留めたまま、宗助は炬燵蒲団の中へ潜り込んで、すぐ横になった。
片側が崖になっている座敷には、もう夕方の色がさし始めていました。
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一方口に崖を控えている座敷には、もう暮方の色が萌していた。
宗助は自分の手をまくらにして、何を考えるということもなく、ただこの暗くて狭い景色を眺めていました。
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宗助は手枕をして、何を考えるともなく、ただこの暗く狭い景色を眺めていた。
すると御米と清が台所で働く音が、自分に関係のない、隣の人の動きのように聞こえました。
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すると御米と清が台所で働く音が、自分に関係のない隣の人の活動のごとくに聞えた。
そのうち、障子だけがうす白く宗助の目に映るくらい、部屋の中が暗くなって来ました。
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そのうち、障子だけがただ薄白く宗助の眼に映るように、部屋の中が暮れて来た。
彼はそれでもじっとして動かずにいました。
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彼はそれでもじっとして動かずにいた。
声を出してランプをつけてくれとも言いませんでした。
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声を出して洋灯の催促もしなかった。
彼が暗い所から出て晩ご飯の席に着いた時は、小六も六畳から出て来て兄の向かいに座りました。
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彼が暗い所から出て、晩食の膳に着いた時は、小六も六畳から出て来て、兄の向うに坐った。
御米は忙しくてつい忘れたと言って、座敷の戸を閉めに立ちました。
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御米は忙しいので、つい忘れたと云って、座敷の戸を締めに立った。
宗助は弟に、夕方になったら少しはランプをつけるとか戸を閉めるとかして、忙しい姉の手伝いでもしたらいいだろうと言いたかったのですが、来たばかりの者に気まずいことを言うのも悪いだろうと思ってやめました。
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宗助は弟に夕方になったら、ちと洋灯を点けるとか、戸を閉てるとかして、忙しい姉の手伝でもしたら好かろうと注意したかったが、昨今引き移ったばかりのものに、気まずい事を云うのも悪かろうと思ってやめた。
御米が座敷から戻って来るのを待って、兄弟は初めて茶碗に手をつけました。
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御米が座敷から帰って来るのを待って、兄弟は始めて茶碗に手を着けた。
その時、宗助はようやく、今日役所からの帰りに道具屋の前で坂井に会ったことと、坂井があの大きな眼鏡をかけている道具屋から抱一の屏風を買ったという話をしました。
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その時宗助はようやく今日役所の帰りがけに、道具屋の前で坂井に逢った事と、坂井があの大きな眼鏡を掛けている道具屋から、抱一の屏風を買ったと云う話をした。
御米は、
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御米は、
「まあ」
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「まあ」
と言ったまま、しばらく宗助の顔を見ていました。
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と云ったなり、しばらく宗助の顔を見ていた。
「じゃ、きっとあれよ。きっとあれにちがいないわね」
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「じゃきっとあれよ。きっとあれに違ないわね」
小六は初めのうち何も言いませんでしたが、だんだん兄夫婦の話を聞いているうちに、だいたいの事情が分かったので、
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小六は始めのうち何にも口を出さなかったが、だんだん兄夫婦の話を聞いているうちに、ほぼ関係が明暸になったので、
「いったい、いくらで売ったんです」
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「全体いくらで売ったのです」
と聞きました。
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と聞いた。
御米は返事をする前に、ちょっと夫の顔を見ました。
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御米は返事をする前にちょっと夫の顔を見た。
食事が終わると、小六はすぐ六畳へ入りました。
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食事が終ると、小六はじきに六畳へ這入った。
宗助はまた炬燵へ戻りました。
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宗助はまた炬燵へ帰った。
しばらくして御米も足を温めに来ました。
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しばらくして御米も足を温めに来た。
そして、次の土曜か日曜には坂井の家へ行って、一度屏風を見て来たらいいだろう、というようなことを話し合いました。
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そうして次の土曜か日曜には坂井へ行って、一つ屏風を見て来たらいいだろうと云うような事を話し合った。
次の日曜になると、宗助はいつものように週に一度の気楽な寝坊をたっぷりしたので、午前の半日をとうとう無駄にしてしまいました。
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次の日曜になると、宗助は例の通り一週に一返の楽寝を貪ぼったため、午前半日をとうとう空に潰してしまった。
御米はまた頭が重いとかで、火鉢のふちに寄りかかって、何をするのもめんどうそうに見えました。
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御米はまた頭が重いとか云って、火鉢の縁に倚りかかって、何をするのも懶そうに見えた。
こんな時に六畳が空いていれば朝からでも引っこむ場所があるのに、と思うと、宗助は小六に六畳をあてがったことが、間接に御米の逃げ場を取り上げたのと同じことになるので、なおさら悪いような気がしました。
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こんな時に六畳が空いていれば、朝からでも引込む場所があるのにと思うと、宗助は小六に六畳をあてがった事が、間接に御米の避難場を取り上げたと同じ結果に陥るので、ことに済まないような気がした。
具合が悪いなら座敷に布団を敷いて寝たらいいと言っても、御米は遠慮してなかなか聞きませんでした。
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心持が悪ければ、座敷へ床を敷いて寝たら好かろうと注意しても、御米は遠慮して容易に応じなかった。
それならまた炬燵でも出したらどうだ、自分も当たるから、と言って、とうとう炬燵のわくと掛け布団を清に言いつけて座敷へ運ばせました。
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それではまた炬燵でも拵えたらどうだ、自分も当るからと云って、とうとう櫓と掛蒲団を清に云いつけて、座敷へ運ばした。
小六は宗助が起きる少し前にどこかへ出かけて、今朝は顔さえ見せませんでした。
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小六は宗助が起きる少し前に、どこかへ出て行って、今朝は顔さえ見せなかった。
宗助は御米に向かって、特にその行き先を聞きただしもしませんでした。
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宗助は御米に向って別段その行先を聞き糺しもしなかった。
最近では、小六のことを言い出して御米に返事をさせるのが、かわいそうに思えて来たのです。
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この頃では小六に関係した事を云い出して、御米にその返事をさせるのが、気の毒になって来た。
御米の方から進んで弟の悪口でも言うようなら、しかるにしてもなぐさめるにしても、かえって始末がいいと思う時もありました。
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御米の方から、進んで弟の讒訴でもするようだと、叱るにしろ、慰さめるにしろ、かえって始末が好いと考える時もあった。
昼になっても御米は炬燵から出ませんでした。
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午になっても御米は炬燵から出なかった。
宗助は、いっそ静かに寝かせておく方が体のためにいいだろうと思ったので、そっと台所へ出て、清に、ちょっと上の坂井さんまで行って来るからと言って、普段着の上に袖の短い外套をはおって外へ出ました。
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宗助はいっそ静かに寝かしておく方が身体のためによかろうと思ったので、そっと台所へ出て、清にちょっと上の坂井まで行ってくるからと告げて、不断着の上へ、袂の出る短いインヴァネスを纏って表へ出た。
今まで暗い部屋にいたせいか、通りへ出ると急にからりと気が晴れました。
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今まで陰気な室にいた所為か、通へ来ると急にからりと気が晴れた。
肌の筋肉が寒い風に負けないよう一度にちぢむような、冬らしい気持ちが強く出る中に、ある気持ちよさを感じたので、宗助は、御米もああやって家にばかり置いてはよくない、暖かくなったら少しは外の空気を吸わせてやらないと体に悪い、と思いながら歩きました。
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肌の筋肉が寒い風に抵抗して、一時に緊縮するような冬の心持の鋭どく出るうちに、ある快感を覚えたので、宗助は御米もああ家にばかり置いては善くない、気候が好くなったら、ちと戸外の空気を呼吸させるようにしてやらなくては毒だと思いながら歩いた。
坂井の家の門を入ると、玄関と勝手口の仕切りになっている生垣に、冬に似合わない、ぱっと明るい赤いものが見えました。
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坂井の家の門を入ったら、玄関と勝手口の仕切になっている生垣の目に、冬に似合わないぱっとした赤いものが見えた。
近くへ寄ってわざわざ見ると、それは人形に掛ける小さな布団でした。
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傍へ寄ってわざわざ検べると、それは人形に掛ける小さい夜具であった。
細い竹を袖に通して、落ちないようにかなめもちの枝に寄せかけたやり方が、いかにも女の子のしたことらしくてかわいらしく思えました。
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細い竹を袖に通して、落ちないように、扇骨木の枝に寄せ掛けた手際が、いかにも女の子の所作らしく殊勝に思われた。
こういう遊びをする年頃の娘はもちろん、子どもというものを育てた経験のない宗助は、この小さな赤い布団がきちんと日に干してある様子を、しばらく立って眺めていました。
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こう云う悪戯をする年頃の娘は固よりの事、子供と云う子供を育て上げた経験のない宗助は、この小さい赤い夜具の尋常に日に干してある有様をしばらく立って眺めていた。
そして二十年も昔に、父と母が死んだ妹のために飾った赤いひな壇と五人囃子(ばやし。ひな人形の楽器を持った五人)と、模様のきれいな干菓子(ひがし。かわいたお菓子)と、それから甘いようで辛い白酒(しろざけ)を思い出しました。
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そうして二十年も昔に父母が、死んだ妹のために飾った、赤い雛段と五人囃と、模様の美くしい干菓子と、それから甘いようで辛い白酒を思い出した。
坂井の主人は家にいましたが、食事中だというのでしばらく待たされました。
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坂井の主人は在宅ではあったけれども、食事中だと云うので、しばらく待たせられた。
宗助は座った途端に、隣の部屋で、あの小さな布団を干した子どもたちの騒ぐ声を聞きました。
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宗助は座に着くや否や、隣の室で小さい夜具を干した人達の騒ぐ声を耳にした。
お手伝いの人がお茶を運ぶために襖を開けると、襖の陰から大きな目が四つほど、もう宗助をのぞいていました。
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下女が茶を運ぶために襖を開けると、襖の影から大きな眼が四つほどすでに宗助を覗いていた。
火鉢を持って出ると、そのあとからまた違う顔が見えました。
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火鉢を持って出ると、その後からまた違った顔が見えた。
初めてだからか、襖を開けたり閉めたりするたびに出る顔が全部違っていて、子どもが何人いるのか分からないように思えました。
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始めてのせいか、襖の開閉のたびに出る顔がことごとく違っていて、子供の数が何人あるか分らないように思われた。
ようやくお手伝いの人が下がってしまうと、今度はだれかが襖を三センチほど細く開けて、黒く光る目だけをそのすき間から出しました。
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ようやく下女が退がりきりに退がると、今度は誰だか唐紙を一寸ほど細目に開けて、黒い光る眼だけをその間から出した。
宗助も面白くなって、黙って手招きをしてみました。
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宗助も面白くなって、黙って手招ぎをして見た。
すると襖をぴたりと閉めて、向こう側で三、四人が声を合わせて笑い出しました。
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すると唐紙をぴたりと閉てて、向う側で三四人が声を合して笑い出した。
やがて一人の女の子が、
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やがて一人の女の子が、
「ねえ、お姉様、またいつものように叔母さんごっこしましょうよ」
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「よう、御姉様またいつものように叔母さんごっこしましょうよ」
と言い出しました。
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と云い出した。
すると姉らしい子が、
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すると姉らしいのが、
「ええ、今日は西洋の叔母さんごっこよ。東作さんはお父さまだからパパで、雪子さんはお母さまだからママって言うのよ。いいこと」
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「ええ、今日は西洋の叔母さんごっこよ。東作さんは御父さまだからパパで、雪子さんは御母さまだからママって云うのよ。よくって」
と説明しました。
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と説明した。
その時また別の声で、
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その時また別の声で、
「おかしいわね。ママだって」
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「おかしいわね。ママだって」
と言って、うれしそうに笑った子がいました。
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と云って嬉しそうに笑ったものがあった。
「私、それでもいつもおばあさまなのよ。おばあさまの西洋の名前がなくちゃいけないわねえ。おばあさまは何て言うの」
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「私それでもいつも御祖母さまなのよ。御祖母さまの西洋の名がなくっちゃいけないわねえ。御祖母さまは何て云うの」
と聞いた子もいました。
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と聞いたものもあった。
「おばあさまは、やっぱりババでいいでしょう」
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「御祖母さまはやっぱりババでいいでしょう」
と姉がまた説明しました。
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と姉がまた説明した。
それからしばらくの間は、ごめんくださいませ、だの、どちらからいらっしゃいました、だのと、盛んにあいさつの言葉が交わされていました。
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それから当分の間は、御免下さいましだの、どちらからいらっしゃいましたのと盛に挨拶の言葉が交換されていた。
その間には、ちりんちりんという電話の音の真似も混じりました。
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その間にはちりんちりんと云う電話の仮色も交った。
何もかもが宗助には陽気で、めずらしく聞こえました。
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すべてが宗助には陽気で珍らしく聞えた。
そこへ奥の方から足音がして、主人がこちらへ出て来たようでしたが、隣の部屋へ入るとすぐに、
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そこへ奥の方から足音がして、主人がこっちへ出て来たらしかったが、次の間へ入るや否や、
「さあ、お前たちはここで騒ぐんじゃない。あっちへ行っておいで。お客さまだから」
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「さあ、御前達はここで騒ぐんじゃない。あっちへ行っておいで。御客さまだから」
と止めました。
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と制した。
その時、だれかがすぐに、
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その時、誰だかすぐに、
「いやだよ。お父っちゃん。大きいお馬買ってくれなくちゃ、あっちへ行かないよ」
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「厭だよ。御父っちゃんべい。大きい御馬買ってくれなくっちゃ、あっちへ行かないよ」
と答えました。
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と答えた。
声は小さな男の子の声でした。
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声は小さい男の子の声であった。
まだ小さくて舌がよく回らないので、言い返すのがいかにも大変で、時間がかかりました。
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年が行かないためか、舌がよく回らないので、抗弁のしようがいかにも億劫で手間がかかった。
宗助はそこを特に面白く思いました。
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宗助はそこを特に面白く思った。
主人が座って、長い間待たせた失礼をわびている間に、子どもたちは遠くへ行ってしまいました。
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主人が席に着いて、長い間待たした失礼を詫びている間に、子供は遠くへ行ってしまった。
「とてもにぎやかでいいですね」
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「大変御賑やかで結構です」
と宗助が今感じたとおりを言うと、主人はそれをお愛想と受け取ったようで、
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と宗助が今自分の感じた通を述べると、主人はそれを愛嬌と受取ったものと見えて、
「いや、ご覧のとおり散らかった有り様で」
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「いや御覧のごとく乱雑な有様で」
と言い訳のような返事をしましたが、それをきっかけに、子どもの世話が大変で、ひどく手がかかることなどをいろいろ宗助に話して聞かせました。
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と言訳らしい返事をしたが、それを緒に、子供の世話の焼けて、夥だしく手のかかる事などをいろいろ宗助に話して聞かした。
その中で、きれいな中国製の花かごの中に炭のかたまりをいっぱい入れて床の間に飾ったという笑い話と、主人のひもで結ぶ靴の中へ水をくみ入れて金魚を放したといういたずらは、宗助にはとてもめずらしく聞こえました。
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その中で綺麗な支那製の花籃のなかへ炭団を一杯盛って床の間に飾ったと云う滑稽と、主人の編上の靴のなかへ水を汲み込んで、金魚を放したと云う悪戯が、宗助には大変耳新しかった。
けれども、女の子が多いので着る物にお金がかかるとか、二週間も旅行して帰って来ると急にみんなの背が三センチずつも伸びているので、何だか後ろから追いつかれるような気がするとか、もう少しすると嫁入りの支度で忙しくてたまらなくなるだけでなく、きっと貧乏に押しつぶされるだろうとかいう話になると、子どものない宗助の耳には、それほど同情もわきませんでした。
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しかし、女の子が多いので服装に物が要るとか、二週間も旅行して帰ってくると、急にみんなの背が一寸ずつも伸びているので、何だか後から追いつかれるような心持がするとか、もう少しすると、嫁入の支度で忙殺されるのみならず、きっと貧殺されるだろうとか云う話になると、子供のない宗助の耳にはそれほどの同情も起し得なかった。
かえって、主人が口では子どもをうるさがるのに、少しもそれを苦にしている様子が顔にも態度にも見えないのを、うらやましく思いました。
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かえって主人が口で子供を煩冗がる割に、少しもそれを苦にする様子の、顔にも態度にも見えないのを羨ましく思った。
いい頃合いを見て、宗助は、先日話に出た屏風をちょっと見せてもらえないかと主人に言ってみました。
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好い加減な頃を見計って宗助は、せんだって話のあった屏風をちょっと見せて貰えまいかと、主人に申し出た。
主人はすぐに引き受けて、ぱちぱちと手を鳴らして使いの人を呼び、蔵の中にしまってあるのを取り出して来るように言いつけました。
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主人はさっそく引き受けて、ぱちぱちと手を鳴らして、召使を呼んだが、蔵の中にしまってあるのを取り出して来るように命じた。
そして宗助の方を向いて、
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そうして宗助の方を向いて、
「つい二、三日前までそこに立てておいたのですが、あの子どもたちが面白半分にわざと屏風の陰に集まっていろいろいたずらをするものですから、傷でもつけられては大変だと思ってしまいこんだんです」
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「つい二三日前までそこへ立てておいたのですが、例の子供が面白半分にわざと屏風の影へ集まって、いろいろな悪戯をするものですから、傷でもつけられちゃ大変だと思ってしまい込んでしまいました」
と言いました。
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と云った。
宗助は主人のこの言葉を聞いた時、今さら手間をかけて屏風を見せてもらうのが申し訳なくもなり、まためんどうにもなりました。
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宗助は主人のこの言葉を聞いた時、今更手数をかけて、屏風を見せて貰うのが、気の毒にもなり、また面倒にもなった。
実は、彼の見たい気持ちはそれほど強くなかったのです。
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実を云うと彼の好奇心は、それほど強くなかったのである。
たしかに、いったん他人のものになったものは、もとが自分のものだったにしても、そうでなかったにしても、それをはっきりさせたところで、実際には何の役にも立たない話にちがいありませんでした。
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なるほどいったん他の所有に帰したものは、たとい元が自分のであったにしろ、無かったにしろ、そこを突き留めたところで、実際上には何の効果もない話に違なかった。
けれども屏風は宗助が言ったとおり、間もなく奥から縁側を通って運び出され、彼の目の前に現れました。
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けれども、屏風は宗助の申し出た通り、間もなく奥から縁伝いに運び出されて、彼の眼の前に現れた。
そしてそれは、思ったとおり、つい先ごろまで自分の座敷に立ててあった物でした。
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そうしてそれが予想通りついこの間まで自分の座敷に立ててあった物であった。
このことに気づいた時、宗助の頭にはこれといって大した感動も起きませんでした。
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この事実を発見した時、宗助の頭には、これと云って大した感動も起らなかった。
ただ、自分が今座っている畳の色や、天井の木目や、床の間の置き物や、襖の模様などの中にこの屏風を立ててみて、そこに、使いの人が二人がかりで蔵の中から大事そうに取り出して来たという動きを付け加えて考えると、自分が持っていた時よりも、たしかに十倍以上りっぱな品のように見えただけでした。
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ただ自分が今坐っている畳の色や、天井の柾目や、床の置物や、襖の模様などの中に、この屏風を立てて見て、それに、召使が二人がかりで、蔵の中から大事そうに取り出して来たと云う所作を付け加えて考えると、自分が持っていた時よりは、たしかに十倍以上貴とい品のように眺められただけであった。
彼はすぐに言うべき言葉が見つからなかったので、ただ、見慣れたものの上に、別にめずらしくもない目を向けていました。
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彼は即座に云うべき言葉を見出し得なかったので、いたずらに、見慣れたものの上に、さらに新らしくもない眼を据えていた。
主人は宗助を、ある程度の目の利く人だと思いこんでいました。
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主人は宗助をもってある程度の鑑賞家と誤解した。
立ったまま屏風のふちに手をかけて、宗助の顔と屏風の面とを見比べていましたが、宗助がなかなか感想を言わないので、
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立ちながら屏風の縁へ手を掛けて、宗助の面と屏風の面とを比較していたが、宗助が容易に批評を下さないので、
「これは来歴のはっきりしたものです。出どころが出どころですからね」
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「これは素性のたしかなものです。出が出ですからね」
と言いました。
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と云った。
宗助は、ただ
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宗助は、ただ
「なるほど」
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「なるほど」
と言いました。
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と云った。
主人はやがて宗助の後ろへ回って来て、指であちこちを指しながら、批評や説明をしました。
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主人はやがて宗助の後へ回って来て、指でそこここを指しながら、品評やら説明やらした。
その中には、さすがに大名だけあっていい絵の具を惜しがらずに使うのがこの絵かきの特色だから、色がいかにも見事である、というような、宗助には初めて聞くけれど、世間ではよく知られていることもかなり混じっていました。
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その中には、さすが御大名だけあって、好い絵の具を惜気もなく使うのがこの画家の特色だから、色がいかにもみごとであると云うような、宗助には耳新らしいけれども、普通一般に知れ渡った事もだいぶ交っていた。
宗助はいい頃合いを見て、ていねいにお礼を言って元の席に戻りました。
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宗助は好い加減な頃を見計らって、丁寧に礼を述べて元の席に復した。
主人も座布団の上に座り直しました。
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主人も蒲団の上に直った。
そして今度は、屏風に書かれた「野路や空」という句のことや、字の書き方について話し始めました。
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そうして、今度は野路や空云々という題句やら書体やらについて語り出した。
宗助から見ると、主人は字にも俳句にもたいへん興味を持っていました。
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宗助から見ると、主人は書にも俳句にも多くの興味を有っていた。
いつの間にこれほどの知識を頭の中にたくわえられるのかと思うくらい、何にでも心得のある男らしく思えました。
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いつの間にこれほどの知識を頭の中へ貯え得らるるかと思うくらい、すべてに心得のある男らしく思われた。
宗助は自分を恥ずかしく思って、なるべく口数を少なくして、ただ相手の話を聞くことにしました。
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宗助は己れを恥じて、なるべく物数を云わないようにして、ただ向うの話だけに耳を借す事を力めた。
主人はお客がこの方面にあまり興味がない様子を見て、また話を絵の方へ戻しました。
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主人は客がこの方面の興味に乏しい様子を見て、再び話を画の方へ戻した。
たいしたものはないけれど、見たいなら持っている画集や掛け軸を見せてもいい、と親切に言ってくれました。
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碌なものはないけれども、望ならば所蔵の画帖や幅物を見せてもいいと親切に申し出した。
宗助はせっかくの好意を断らなければなりませんでした。
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宗助はせっかくの好意を辞退しない訳に行かなかった。
その代わりに、失礼ですがと前置きをして、主人がこの屏風を手に入れるのにいくら払ったかを聞きました。
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その代りに、失礼ですがと前置をして、主人がこの屏風を手に入れるについて、どれほどの金額を払ったかを尋ねた。
「まあ掘り出し物ですね。八十円で買いました」
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「まあ掘出し物ですね。八十円で買いました」
と主人はすぐ答えました。
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と主人はすぐ答えた。
宗助は主人の前に座って、この屏風についての事情を全部打ち明けようか、やめようかと考えましたが、ふと打ち明けるのも面白いだろうと気づいて、とうとう、実はこれこれで、と今までのいきさつを詳しく話し出しました。
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宗助は主人の前に坐って、この屏風に関するいっさいの事を自白しようか、しまいかと思案したが、ふと打ち明けるのも一興だろうと心づいて、とうとう実はこれこれだと、今までの顛末を詳しく話し出した。
主人は時々、へえ、へえ、と驚いたような声をはさんで聞いていましたが、最後に、
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主人は時々へえ、へえと驚ろいたような言葉を挟んで聞いていたが、しまいに、
「じゃ、あなたは特に書や絵が好きで見にいらしたわけでもないんですね」
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「じゃあなたは別に書画が好きで、見にいらしった訳でもないんですね」
と、自分のかんちがいを、いかにも面白い経験でもしたように笑い出しました。
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と自分の誤解を、さも面白い経験でもしたように笑い出した。
同時に、そういうわけなら自分が直接に宗助からちょうどいい値段で譲ってもらえばよかった、惜しいことをした、と言いました。
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同時に、そう云う訳なら、自分が直に宗助から相当の値で譲って貰えばよかったに、惜しい事をしたと云った。
最後に横町の道具屋をひどく悪く言って、とんでもない奴だと言いました。
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最後に横町の道具屋をひどく罵しって、怪しからん奴だと云った。
宗助と坂井とは、これからかなり親しくなりました。
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宗助と坂井とはこれからだいぶ親しくなった。
十
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十
佐伯の叔母も安之助も、その後まるで宗助の家へ来ませんでした。
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佐伯の叔母も安之助もその後とんと宗助の宅へは見えなかった。
宗助はもちろん麹町(こうじまち)へ行く暇がありませんでした。
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宗助は固より麹町へ行く余暇を有たなかった。
またそれだけの気持ちもありませんでした。
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またそれだけの興味もなかった。
親類とはいっても、別々の日が二つの家を照らしていました。
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親類とは云いながら、別々の日が二人の家を照らしていた。
ただ小六だけが時々話しに出かける様子でしたが、それも、そう何度も行くわけではないようでした。
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ただ小六だけが時々話しに出かける様子であったが、これとても、そう繁々足を運ぶ訳でもないらしかった。
それに彼は帰って来て、叔母の家の様子をほとんど御米に話さないのが普通でした。
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それに彼は帰って来て、叔母の家の消息をほとんど御米に語らないのを常としておった。
御米はこれを、小六がわざとやっているのかとも思いました。
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御米はこれを故意から出る小六の仕打かとも疑った。
けれども自分は佐伯に対して特に得も損もないのだから、御米は叔母の様子を聞かない方をかえって喜びました。
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しかし自分が佐伯に対して特別の利害を感じない以上、御米は叔母の動静を耳にしない方を、かえって喜こんだ。
それでも時々は、向こうの様子を小六と兄の会話から聞くこともありました。
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それでも時々は、先方の様子を、小六と兄の対話から聞き込む事もあった。
一週間ほど前に、小六は兄に、安之助がまた新しい発明を役立てようとして苦心している話をしました。
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一週間ほど前に、小六は兄に、安之助がまた新発明の応用に苦心している話をした。
それはインクを使わずにはっきりした印刷物を作るとかいう、ちょっと聞くとたいへん便利そうな機械についてでした。
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それは印気の助けを借らないで、鮮明な印刷物を拵らえるとか云う、ちょっと聞くとすこぶる重宝な器械についてであった。
話の内容から言っても、自分にはまるで関係のない難しいことなので、御米はいつものように黙っていましたが、宗助は男だけに少し興味が出たようで、どうしてインクを使わずに印刷ができるのか、などと聞いていました。
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話題の性質から云っても、自分とは全く利害の交渉のないむずかしい事なので、御米は例の通り黙って口を出さずにいたが、宗助は男だけに幾分か好奇心が動いたと見えて、どうして印気を使わずに印刷ができるかなどと問い糺していた。
専門の知識のない小六が、細かいところまできちんと答えられるはずはもちろんありません。
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専門上の知識のない小六が、精密な返答をし得るはずは無論なかった。
彼はただ安之助から聞いたままを、覚えている限りていねいに説明しました。
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彼はただ安之助から聞いたままを、覚えている限り念を入れて説明した。
この印刷の方法は近ごろイギリスで発明されたもので、もとをたどればやはり電気を使うだけのものでした。
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この印刷術は近来英国で発明になったもので、根本的にいうとやはり電気の利用に過ぎなかった。
電気の片方の極を活字(かつじ。印刷に使う字の型)につないでおいて、もう片方の極を紙に通し、その紙を活字の上へ押しつけさえすればすぐできるのだと小六が言いました。
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電気の一極を活字と結びつけておいて、他の一極を紙に通じて、その紙を活字の上へ圧しつけさえすれば、すぐできるのだと小六が云った。
色は普通は黒だが、やり方しだいで赤にも青にもなるから、色を刷る時には絵の具を乾かす時間が省けるだけでもたいへん便利で、これを新聞に使えば、インクやインクを塗るローラーの費用が節約できる上に、全体で少なくとも今までの四分の一の手間がなくなる点から見ても、これからとても有望な事業である、と小六はまた安之助の話したとおりを繰り返しました。
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色は普通黒であるが、手加減しだいで赤にも青にもなるから色刷などの場合には、絵の具を乾かす時間が省けるだけでも大変重宝で、これを新聞に応用すれば、印気や印気ロールの費を節約する上に、全体から云って、少くとも従来の四分の一の手数がなくなる点から見ても、前途は非常に有望な事業であると、小六はまた安之助の話した通りを繰り返した。
そして、その有望な将来を安之助がもう手の中ににぎったかのような言い方でした。
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そうしてその有望な前途を、安之助がすでに手の中に握ったかのごとき口気であった。
しかも、その望みの多い安之助の将来の中に、同じく望みの多い自分の姿も入っているように、目を輝かせました。
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かつその多望な安之助の未来のなかには、同じく多望な自分の影が、含まれているように、眼を輝やかした。
その時、宗助はいつものように、むしろ静かに弟の言うことを聞いていましたが、聞き終わったあとも、特にこれといった批評はしませんでした。
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その時宗助はいつもの調子で、むしろ穏やかに、弟の云う事を聞いていたが、聞いてしまった後でも、別にこれという眼立った批評は加えなかった。
実際こんな発明は、宗助から見ると本当のようでもあり、また嘘のようでもあり、いよいよそれが世の中で使われるようになるまでは、賛成も反対もできなかったのです。
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実際こんな発明は、宗助から見ると、本当のようでもあり、また嘘のようでもあり、いよいよそれが世間に行われるまでは、賛成も反対もできかねたのである。
「じゃ、かつお船の方はもうやめたの」
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「じゃ鰹船の方はもう止したの」
と、今まで黙っていた御米が、この時初めて口を出しました。
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と、今まで黙っていた御米が、この時始めて口を出した。
「やめたんじゃないんですが、あの方は費用がずいぶんかかるので、いくら便利でも、そう誰も彼もが作るわけには行かないんだそうです」
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「止したんじゃないんですが、あの方は費用が随分かかるので、いくら便利でも、そう誰も彼も拵える訳に行かないんだそうです」
と小六が答えました。
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と小六が答えた。
小六は少し、安之助の側に立って話しているような言い方でした。
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小六は幾分か安之助の利害を代表しているような口振であった。
それから三人の間でしばらく話が交わされましたが、最後に、
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それから三人の間に、しばらく談話が交換されたが、しまいに、
「やっぱり何をやっても、そううまく行くものじゃないだろうよ」
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「やっぱり何をしたって、そう旨く行くもんじゃあるまいよ」
と言った宗助の言葉と、
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と云った宗助の言葉と、
「坂井さんみたいに、お金があって遊んでいるのが一番いいわね」
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「坂井さんみたように、御金があって遊んでいるのが一番いいわね」
と言った御米の言葉を聞いて、小六はまた自分の部屋へ帰って行きました。
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と云った御米の言葉を聞いて、小六はまた自分の部屋へ帰って行った。
こういう時に佐伯の家の様子が時々夫婦の耳に入ることはありますが、そのほかには、お互いが何をして暮らしているのかまるで知らずに過ごす日々が多かったのです。
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こう云う機会に、佐伯の消息は折々夫婦の耳へ洩れる事はあるが、そのほかには、全く何をして暮らしているか、互に知らないで過す月日が多かった。
ある時、御米は宗助にこんな質問をしました。
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ある時御米は宗助にこんな問を掛けた。
「小六さんは、安さんの所へ行くたびに小遣いでももらって来るんでしょうか」
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「小六さんは、安さんの所へ行くたんびに、小遣でも貰って来るんでしょうか」
今まで小六についてそれほど気をつけていなかった宗助は、急にこう聞かれて、すぐ、「なぜ」
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今まで小六について、それほどの注意を払っていなかった宗助は、突然この問に逢って、すぐ、「なぜ」
と聞き返しました。
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と聞き返した。
御米はしばらくためらったあと、
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御米はしばらく逡巡った末、
「だって、この頃よくお酒を飲んで帰って来ることがあるのよ」
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「だって、この頃よく御酒を呑んで帰って来る事があるのよ」
と教えました。
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と注意した。
「安さんが例の発明やお金もうけの話をする時、それを聞いてやったお礼におごるのかもしれない」
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「安さんが例の発明や、金儲けの話をするとき、その聞き賃に奢るのかも知れない」
と言って、宗助は笑っていました。
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と云って宗助は笑っていた。
会話はそれだけで、それ以上進まずに終わりました。
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会話はそれなりでつい発展せずにしまった。
それから三日目の夕方に、小六はまたご飯の時間になっても帰って来ませんでした。
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越えて三日目の夕方に、小六はまた飯時を外して帰って来なかった。
しばらく待っていましたが、宗助はとうとうお腹がすいたとか言い出して、ちょっとお風呂にでも行って時間をのばしたら、という御米の小六への気づかいも気にせず、食事を始めました。
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しばらく待ち合せていたが、宗助はついに空腹だとか云い出して、ちょっと湯にでも行って時間を延ばしたらという御米の小六に対する気兼に頓着なく、食事を始めた。
その時、御米は夫に、
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その時御米は夫に、
「小六さんにお酒をやめるように、あなたから言ってくださらない」
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「小六さんに御酒を止めるように、あなたから云っちゃいけなくって」
と言い出しました。
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と切り出した。
「そんなに注意しなければならないほど飲むのか」
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「そんなに意見しなければならないほど飲むのか」
と宗助は少し意外な顔をしました。
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と宗助は少し案外な顔をした。
御米は、それほどでもない、と言い直さなければなりませんでした。
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御米はそれほどでもないと、弁護しなければならなかった。
けれども実際は、だれもいない昼間などに、あまり顔を赤くして帰って来られるのが不安だったのです。
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けれども実際は誰もいない昼間のうちなどに、あまり顔を赤くして帰って来られるのが、不安だったのである。
宗助はそれきりそのままにしておきました。
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宗助はそれなり放っておいた。
しかし心の中では、本当に御米の言うとおり、どこかでお金を借りるかもらうかして、それほど好きでもないものをわざと飲んでいるのではないかと思いました。
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しかし腹の中では、はたして御米の云うごとく、どこかで金を借りるか、貰うかして、それほど好きもしないものを、わざと飲むのではなかろうかと疑ぐった。
そのうち年の終わりがだんだん近づいて、夜が一日の三分の二を占めるようになって来ました。
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そのうち年がだんだん片寄って、夜が世界の三分の二を領するように押しつまって来た。
風が毎日吹きました。
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風が毎日吹いた。
その音を聞いているだけでも、暮らしが暗く感じられました。
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その音を聞いているだけでも生活に陰気な響を与えた。
小六はどうしても、六畳の部屋にこもって一日を過ごすのに我慢できませんでした。
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小六はどうしても、六畳に籠って、一日を送るに堪えなかった。
落ち着いて考えれば考えるほど、心が寂しくて、いてもたってもいられなくなるばかりでした。
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落ちついて考えれば考えるほど、頭が淋しくって、いたたまれなくなるばかりであった。
茶の間へ出て兄のお嫁さんと話すのは、もっといやでした。
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茶の間へ出て嫂と話すのはなお厭であった。
しかたなく外へ出ました。
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やむを得ず外へ出た。
そして友達の家をぐるぐる回って歩きました。
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そうして友達の宅をぐるぐる回って歩いた。
友達も初めのうちは、いつもの小六に対するように、若い学生が好きな面白い話をいくらでもしました。
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友達も始のうちは、平生の小六に対するように、若い学生のしたがる面白い話をいくらでもした。
けれども小六は、そういう話が尽きてもまだやって来ました。
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けれども小六はそう云う話が尽きても、まだやって来た。
それでとうとう、友達は、小六は退屈のあまり訪ねて来て、前にした話をまた繰り返しているだけだと言うようになりました。
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それでしまいには、友達が、小六は、退屈の余りに訪問をして、談話の復習に耽るものだと評した。
たまには、学校の予習や研究に追われて忙しいのだという様子も見せました。
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たまには学校の下読やら研究やらに追われている多忙の身だと云う風もして見せた。
小六は、友達からそんな気楽な怠け者のように扱われるのを、とても不愉快に思いました。
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小六は友達からそう呑気な怠けもののように取り扱われるのを、大変不愉快に感じた。
けれども家に落ち着いていては、本を読むことも考えることもまるでできませんでした。
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けれども宅に落ちついては、読書も思索も、まるでできなかった。
つまり、彼くらいの年齢の若者が一人前の人間になるために学ぶべきこと、努力すべきことには、心の中の揺れや、外からの縛りのせいで、まるで手がつかなかったのです。
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要するに彼ぐらいの年輩の青年が、一人前の人間になる階梯として、修むべき事、力むべき事には、内部の動揺やら、外部の束縛やらで、いっさい手が着かなかったのである。
それでも冷たい雨が横から降ったり、雪がとけて道がひどくぬかるんだりする時は、着物をぬらさなければならず、足袋(たび)の泥を乾かさなければならないめんどうがあるので、あの小六も時々は外出をやめることがありました。
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それでも冷たい雨が横に降ったり、雪融の道がはげしく泥ったりする時は、着物を濡らさなければならず、足袋の泥を乾かさなければならない面倒があるので、いかな小六も時によると、外出を見合せる事があった。
そういう日には本当に困ってしまうらしく、時々六畳から出て来て、のそりと火鉢のそばへ座り、お茶などを注いで飲みました。
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そう云う日には、実際困却すると見えて、時々六畳から出て来て、のそりと火鉢の傍へ坐って、茶などを注いで飲んだ。
そしてそこに御米でもいれば、世間話の一つ二つはすることもありました。
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そうしてそこに御米でもいると、世間話の一つや二つはしないとも限らなかった。
「小六さん、お酒は好き」
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「小六さん御酒好き」
と御米が聞いたことがありました。
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と御米が聞いた事があった。
「もうすぐお正月ね。あなた、お雑煮(ぞうに)はいくつ食べる」
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「もう直御正月ね。あなた御雑煮いくつ上がって」
と聞いたこともありました。
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と聞いた事もあった。
そういう機会が重なるにつれて、二人の間は少しずつ近づいて行きました。
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そう云う場合が度重なるに連れて、二人の間は少しずつ近寄る事ができた。
とうとう、姉さん、ちょっとここを縫ってください、と小六の方から進んで御米に頼むようになりました。
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しまいには、姉さんちょっとここを縫って下さいと、小六の方から進んで、御米に物を頼むようになった。
そして御米がかすりの羽織を受け取って、袖口のほつれを直している間、小六は何もせずにそこに座って、御米の手先を見つめていました。
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そうして御米が絣の羽織を受取って、袖口の綻を繕っている間、小六は何にもせずにそこへ坐って、御米の手先を見つめていた。
これが夫なら、いつまでも黙って針を動かすのが御米の普段の様子でしたが、相手が小六の時はそう気楽にできないのが、また御米の性格でした。
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これが夫だと、いつまでも黙って針を動かすのが、御米の例であったが、相手が小六の時には、そう投遣にできないのが、また御米の性質であった。
ですからそんな時には、がんばって話をしました。
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だからそんな時には力めても話をした。
話の中で、つい小六の口に出たがるのは、自分の将来をどうしたらいいだろうという心配でした。
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話の題目で、ややともすると小六の口に宿りたがるものは、彼の未来をどうしたら好かろうと云う心配であった。
「だって小六さんなんか、まだ若いじゃありませんか。何をするにもこれからだわ。そんなに悲観していいのは兄さんのことよ」
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「だって小六さんなんか、まだ若いじゃありませんか。何をしたってこれからだわ。そりゃ兄さんの事よ。そう悲観してもいいのは」
御米は二度ほど、こういうなぐさめ方をしました。
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御米は二度ばかりこういう慰め方をした。
三度目には、
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三度目には、
「来年になれば、安さんの方でどうにかしてあげるって約束してくださったんじゃなかったの」
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「来年になれば、安さんの方でどうか都合して上げるって受合って下すったんじゃなくって」
と聞きました。
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と聞いた。
小六はその時、心細そうな顔をして、
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小六はその時不慥な表情をして、
「そりゃ安さんの計画が口で言うとおりうまく行けば問題ないんでしょうが、だんだん考えると、何だか少し当てにならないような気がして来てね。かつお船もあまりもうからないようだから」
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「そりゃ安さんの計画が、口でいう通り旨く行けば訳はないんでしょうが、だんだん考えると、何だか少し当にならないような気がし出してね。鰹船もあんまり儲からないようだから」
と言いました。
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と云った。
御米は小六のがっかりした姿を見て、それを、時々お酒のにおいをさせて帰って来る、どこかとげとげした、しかも何が気にさわるのか分からないまま、ひどく不満そうな小六と比べると、心の中でかわいそうにも思い、またおかしくも思いました。
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御米は小六の憮然としている姿を見て、それを時々酒気を帯びて帰って来る、どこかに殺気を含んだ、しかも何が癪に障るんだか訳が分らないでいてはなはだ不平らしい小六と比較すると、心の中で気の毒にもあり、またおかしくもあった。
その時は、
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その時は、
「本当にね。兄さんにお金さえあれば、どうにでもしてあげられるんだけれど」
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「本当にね。兄さんにさえ御金があると、どうでもして上げる事ができるんだけれども」
と、お愛想でも何でもない、本当の同情を表しました。
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と、御世辞でも何でもない、同情の意を表した。
その日の夕方だったか、小六はまた寒い体を外套に包んで出かけましたが、八時過ぎに帰って来て、兄夫婦の前で袖から白い細長い袋を出し、寒いから蕎麦がき(そばがき。そば粉を湯で練った食べ物)を作って食べようと思って、佐伯の家からの帰りに買って来た、と言いました。
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その夕暮であったか、小六はまた寒い身体を外套に包んで出て行ったが、八時過に帰って来て、兄夫婦の前で、袂から白い細長い袋を出して、寒いから蕎麦掻を拵らえて食おうと思って、佐伯へ行った帰りに買って来たと云った。
そして御米がお湯を沸かしているうちに、出汁(だし)を作るとか言って、しきりにかつお節を削りました。
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そうして御米が湯を沸かしているうちに、煮出しを拵えるとか云って、しきりに鰹節を掻いた。
その時、宗助夫婦は最近の知らせとして、安之助の結婚がとうとう春まで延びたことを聞きました。
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その時宗助夫婦は、最近の消息として、安之助の結婚がとうとう春まで延びた事を聞いた。
この縁談は安之助が学校を卒業してすぐに起こったもので、小六が房州(ぼうしゅう。今の千葉県の南)から帰って、叔母に学費を止めると言われた頃には、もうかなり話が進んでいたのです。
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この縁談は安之助が学校を卒業すると間もなく起ったもので、小六が房州から帰って、叔母に学資の供給を断わられる時分には、もうだいぶ話が進んでいたのである。
正式な知らせが来ないので、いつまとまったのか宗助はまるで知りませんでしたが、ただ時々佐伯の家へ行って何か聞いて来る小六を通してだけ、彼は年内に式を挙げるはずの新しい夫婦を思いうかべていました。
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正式の通知が来ないので、いつ纏ったか、宗助はまるで知らなかったが、ただ折々佐伯へ行っては、何か聞いて来る小六を通じてのみ、彼は年内に式を挙げるはずの新夫婦を予想した。
そのほかには、お嫁さんの実家が会社員で豊かな暮らしをしていることと、通っていた学校が女学館だということと、兄弟がたくさんいるということだけを、同じく小六を通して聞いていました。
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その他には、嫁の里がある会社員で、有福な生計をしている事と、その学校が女学館であるという事と、兄弟がたくさんあると云う事だけを、同じく小六を通じて耳にした。
写真だけでも顔を知っているのは小六だけでした。
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写真にせよ顔を知ってるのは小六ばかりであった。
「きれいな人」
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「好い器量?」
と御米が聞いたことがあります。
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と御米が聞いた事がある。
「まあいい方でしょう」
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「まあ好い方でしょう」
と小六が答えたことがあります。
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と小六が答えた事がある。
その晩は、なぜ年内に式を済まさないのかというのが、蕎麦がきができるまでの三人の話題になりました。
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その晩はなぜ暮のうちに式を済まさないかと云うのが、蕎麦掻のでき上る間、三人の話題になった。
御米は方角でも悪いのだろうと考えました。
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御米は方位でも悪いのだろうと臆測した。
宗助は年の終わりが近くて日がないからだろうと考えました。
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宗助は押しつまって日がないからだろうと考えた。
ただ小六だけが、
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独り小六だけが、
「やっぱりお金の都合のようです。相手の家が何でもよほど派手な家なので、叔母さんの方でもそう簡単に済ませられないんでしょう」
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「やっぱり物質的の必要かららしいです。先が何でもよほど派出な家なんで、叔母さんの方でもそう単簡に済まされないんでしょう」
と、いつもと違って暮らしのことを分かったようなことを言いました。
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といつにない世帯染みた事を云った。
十一
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十一
御米の具合が悪くなり始めたのは、秋も半ばを過ぎて、紅葉が赤黒くちぢれる頃でした。
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御米のぶらぶらし出したのは、秋も半ば過ぎて、紅葉の赤黒く縮れる頃であった。
京都にいた頃は別として、広島でも福岡でも、あまり健康な日々を過ごしたことのない御米は、この点では、東京へ帰ってからもやはり幸せとは言えませんでした。
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京都にいた時分は別として、広島でも福岡でも、あまり健康な月日を送った経験のない御米は、この点に掛けると、東京へ帰ってからも、やはり仕合せとは云えなかった。
この人には生まれた土地の水が合わないのだろうかと、疑おうと思えば疑えるくらい、御米は一時ひどく苦しんだこともありました。
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この女には生れ故郷の水が、性に合わないのだろうと、疑ぐれば疑ぐられるくらい、御米は一時悩んだ事もあった。
近ごろはそれがだんだん落ち着いて来て、宗助が心配することも年に何度と数えられるくらい少なくなったので、宗助は役所への行き帰りに、御米はまた夫の留守の暮らしの中で、どちらも安心して時間を過ごせるようになったのです。
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近頃はそれがだんだん落ちついて来て、宗助の気を揉む機会も、年に幾度と勘定ができるくらい少なくなったから、宗助は役所の出入に、御米はまた夫の留守の立居に、等しく安心して時間を過す事ができたのである。
ですから今年の秋が終わって、うすい霜の上を通る風がつらく肌に当たる頃になり、また少し具合が悪くなり出しても、御米はそれほど気にしませんでした。
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だからことしの秋が暮れて、薄い霜を渡る風が、つらく肌を吹く時分になって、また少し心持が悪くなり出しても、御米はそれほど苦にもならなかった。
初めのうちは宗助にさえ知らせませんでした。
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始のうちは宗助にさえ知らせなかった。
宗助が気づいて医者に行けと言っても、なかなか行きませんでした。
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宗助が見つけて、医者に掛かれと勧めても、容易に掛からなかった。
そこへ小六が引っ越して来ました。
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そこへ小六が引越して来た。
宗助はその頃の御米を見ていて、体の状態も心の様子も、夫だけによく知っていたので、なるべく人数を増やして家の中をごたごたさせたくないと思いましたが、事情がどうにもならないので、なるようにしておくほかに方法がありませんでした。
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宗助はその頃の御米を観察して、体質の状態やら、精神の模様やら、夫だけによく知っていたから、なるべくは、人数を殖やして宅の中を混雑かせたくないとは思ったが、事情やむを得ないので、成るがままにしておくよりほかに、手段の講じようもなかった。
ただ口先だけで、なるべく静かに休んでいなくてはいけない、という、実際とは合わない助言をしました。
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ただ口の先で、なるべく安静にしていなくてはいけないと云う矛盾した助言は与えた。
御米はにこにこして、
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御米は微笑して、
「大丈夫よ」
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「大丈夫よ」
と言いました。
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と云った。
この答えを聞いた時、宗助はなおさら安心できなくなりました。
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この答を得た時、宗助はなおの事安心ができなくなった。
ところが不思議に、御米の気分は小六が引っ越して来てからずっとよくなりました。
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ところが不思議にも、御米の気分は、小六が引越して来てから、ずっと引立った。
自分の責任が少しでも増えたので気持ちが張ったらしく、かえって普段よりもよく働いて、夫や小六の世話をしました。
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自分に責任の少しでも加わったため、心が緊張したものと見えて、かえって平生よりは、かいがいしく夫や小六の世話をした。
小六にはそれがまるで分かりませんでしたが、宗助から見ると、御米が今までよりどれほどがんばっているかがよく分かりました。
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小六にはそれがまるで通じなかったが、宗助から見ると、御米が在来よりどれほど力めているかがよく解った。
宗助は心の中で、この働き者の奥さんに新しく感謝しながら、同時に、こう気を張りすぎた結果が一度に体にきて、大変なことにならなければいいが、と心配しました。
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宗助は心のうちで、このまめやかな細君に新らしい感謝の念を抱くと同時に、こう気を張り過ぎる結果が、一度に身体に障るような騒ぎでも引き起してくれなければいいがと心配した。
あいにく、この心配が年の暮れの二十日過ぎになって急に本当になりかけたので、宗助は前から思っていた不安に火がついたように、ひどくあわてました。
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不幸にも、この心配が暮の二十日過になって、突然事実になりかけたので、宗助は予期の恐怖に火が点いたように、いたく狼狽した。
その日は、はっきり地面に影の映らない空が朝から重なり合って、重い寒さが一日じゅう人の頭を押さえつけていました。
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その日は判然土に映らない空が、朝から重なり合って、重い寒さが終日人の頭を抑えつけていた。
御米は前の晩にまた眠れず、休ませられなかった頭を抱えながら我慢して働き出しましたが、立ったり動いたりするたびに少し頭にこたえる痛みはあっても、明るい外の様子に気がまぎれたからか、じっと寝ていながら頭だけがさえて痛むよりは、かえって楽でした。
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御米は前の晩にまた寝られないで、休ませ損なった頭を抱えながら、辛抱して働らき出したが、起ったり動いたりするたびに、多少脳に応える苦痛はあっても、比較的明るい外界の刺戟に紛れたためか、じっと寝ていながら、頭だけが冴えて痛むよりは、かえって凌ぎやすかった。
そうして夫を送り出すまでは、しばらくすればまたいつものように落ち着くだろうと思って我慢していました。
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とかくして夫を送り出すまでは、しばらくしたらまたいつものように折り合って来る事と思って我慢していた。
ところが宗助がいなくなって、自分の仕事が一区切りついたという気のゆるみが出ると同時に、どんよりした天気がそろそろ御米の頭を攻め始めました。
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ところが宗助がいなくなって、自分の義務に一段落が着いたという気の弛みが出ると等しく、濁った天気がそろそろ御米の頭を攻め始めた。
空を見ると凍っているようで、家の中にいると暗い障子の紙を通して寒さがしみこんで来るかと思われるくらいなのに、御米の頭はしきりに熱くなって来ました。
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空を見ると凍っているようであるし、家の中にいると、陰気な障子の紙を透して、寒さが浸み込んで来るかと思われるくらいだのに、御米の頭はしきりに熱って来た。
しかたがないので、今朝上げた布団をまた出して来て、座敷に敷いたまま横になりました。
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仕方がないから、今朝あげた蒲団をまた出して来て、座敷へ延べたまま横になった。
それでも我慢できないので、清にぬれた手ぬぐいをしぼらせて頭に乗せました。
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それでも堪えられないので、清に濡手拭を絞らして頭へ乗せた。
それがすぐ生ぬるくなるので、枕もとにたらいを持って来させて、時々しぼり直しました。
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それが直生温くなるので、枕元に金盥を取り寄せて時々絞り易えた。
昼までこんな間に合わせの方法でずっと額を冷やしてみましたが、まるで効き目がないので、御米は小六のためにわざわざ起きていっしょに食事をする元気もありませんでした。
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午までこんな姑息手段で断えず額を冷やして見たが、いっこうはかばかしい験もないので、御米は小六のために、わざわざ起きて、いっしょに食事をする根気もなかった。
清に言いつけて食事の支度をさせ、それを小六にすすめさせたまま、自分はやはり布団から出ずにいました。
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清にいいつけて膳立をさせて、それを小六に薦めさしたまま、自分はやはり床を離れずにいた。
そして、普段夫が使う柔らかい枕を持って来てもらって、かたいのと取りかえました。
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そうして、平生夫のする柔かい括枕を持って来て貰って、堅いのと取り替えた。
御米は、髪がくずれるのを女らしく気にする元気さえなかったのです。
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御米は髪の損れるのを、女らしく苦にする勇気にさえ乏しかったのである。
小六は六畳から出て来て、ちょっと襖を開けて御米の様子をのぞきましたが、御米が半分床の間の方を向いて目を閉じていたので、寝たとでも思ったのか、一言も言わずにまたそっと襖を閉めました。
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小六は六畳から出て来て、ちょっと襖を開けて、御米の姿を覗き込んだが、御米が半ば床の間の方を向いて、眼を塞いでいたので、寝ついたとでも思ったものか、一言の口も利かずに、またそっと襖を閉めた。
そして、たった一人で大きな食卓を独り占めにして、初めからさらさらとお茶漬けをかきこむ音を立てました。
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そうして、たった一人大きな食卓を専領して、始めからさらさらと茶漬を掻き込む音をさせた。
二時頃になって、御米はやっとうとうと眠りましたが、目が覚めたら額に巻いたぬれ手ぬぐいがほとんど乾くくらい暖かくなっていました。
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二時頃になって、御米はやっとの事、とろとろと眠ったが、眼が覚めたら額を捲いた濡れ手拭がほとんど乾くくらい暖かになっていた。
その代わり、頭の方は少し楽になりました。
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その代り頭の方は少し楽になった。
ただ肩から背中にかけて、全体に重苦しいような感じが新しく加わりました。
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ただ肩から背筋へ掛けて、全体に重苦しいような感じが新らしく加わった。
御米は、とにかく力をつけないと体に悪いという考えから、一人で起きて遅いお昼ご飯を軽く食べました。
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御米は何でも精をつけなくては毒だという考から、一人で起きて遅い午飯を軽く食べた。
「ご気分はいかがでございます」
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「御気分はいかがでございます」
と清が給仕をしながら何度も聞きました。
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と清が御給仕をしながら、しきりに聞いた。
御米はだいぶよくなったようだったので、布団を片づけてもらい、火鉢に寄りかかったまま宗助の帰りを待ちました。
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御米はだいぶいいようだったので、床を上げて貰って、火鉢に倚ったなり、宗助の帰りを待ち受けた。
宗助はいつもの時刻に帰って来ました。
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宗助は例刻に帰って来た。
神田の通りで店が並んで旗を立てて、もう年末の売り出しを始めていることや、勧工場で紅白の幕を張って楽隊に景気をつけさせていることなどを話したあと、
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神田の通りで、門並旗を立てて、もう暮の売出しを始めた事だの、勧工場で紅白の幕を張って楽隊に景気をつけさしている事だのを話した末、
「にぎやかだよ。ちょっと行ってごらん。なに、電車に乗って行けば簡単だ」
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「賑やかだよ。ちょっと行って御覧。なに電車に乗って行けば訳はない」
とすすめました。
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と勧めた。
そして自分は、寒さにやられたように赤い顔をしていました。
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そうして自分は寒さに腐蝕されたように赤い顔をしていた。
御米はこう宗助にやさしくされると、何だか自分の体の悪いことを言い出せない気持ちになりました。
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御米はこう宗助から労わられた時、何だか自分の身体の悪い事を訴たえるに忍びない心持がした。
実際、またそれほど苦しくもありませんでした。
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実際またそれほど苦しくもなかった。
それでいつものように何でもない顔をして、夫に着物を着がえさせたり洋服をたたんだりしているうちに夜になりました。
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それでいつもの通り何気ない顔をして、夫に着物を着換えさしたり、洋服を畳んだりして夜に入った。
ところが九時近くになって、突然宗助に向かって、少し具合が悪いから先に寝たいと言い出しました。
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ところが九時近くになって、突然宗助に向って、少し加減が悪いから先へ寝たいと云い出した。
今まで普段どおり機嫌よく話していただけに、宗助はこの言葉を聞いてちょっと驚きましたが、大したことではないという御米の言葉にようやく安心して、すぐ休む支度をさせました。
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今まで平生の通り機嫌よく話していただけに、宗助はこの言葉を聞いてちょっと驚ろいたが、大した事でもないと云う御米の保証に、ようやく安心してすぐ休む支度をさせた。
御米が布団に入ってから二十分ほどの間、宗助は耳のそばに鉄びんの音を聞きながら、静かな夜をランプで照らしていました。
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御米が床へ這入ってから、約二十分ばかりの間、宗助は耳の傍に鉄瓶の音を聞きながら、静な夜を丸心の洋灯に照らしていた。
彼は来年、役人の給料が上がるという知らせが出るという噂を思いうかべました。
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彼は来年度に一般官吏に増俸の沙汰があるという評判を思い浮べた。
またその前に組織の変更か人減らしが行われるにちがいないという噂も思い出しました。
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またその前に改革か淘汰が行われるに違ないという噂に思い及んだ。
そして自分はどちらの方に入れられるのだろうと考えました。
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そうして自分はどっちの方へ編入されるのだろうと疑った。
彼は、自分を東京へ呼んでくれた杉原が、今はもう課長として本省にいないのを残念に思いました。
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彼は自分を東京へ呼んでくれた杉原が、今もなお課長として本省にいないのを遺憾とした。
彼は東京へ移ってから、不思議とまだ病気をしたことがありませんでした。
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彼は東京へ移ってから不思議とまだ病気をした事がなかった。
ですから、まだ欠勤届を出したこともありませんでした。
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したがってまだ欠勤届を出した事がなかった。
学校を途中でやめてから本はほとんど読まないので学問は人並みにできませんが、役所でやる仕事に困るほどの頭ではありませんでした。
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学校を中途でやめたなり、本はほとんど読まないのだから、学問は人並にできないが、役所でやる仕事に差支えるほどの頭脳ではなかった。
彼はいろいろな事情を合わせて考えた上で、まあ大丈夫だろうと心の中で決めました。
原文を見る
彼はいろいろな事情を綜合して考えた上、まあ大丈夫だろうと腹の中できめた。
そして爪の先で軽く鉄びんのふちをたたきました。
原文を見る
そうして爪の先で軽く鉄瓶の縁を敲いた。
その時、座敷で、
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その時座敷で、
「あなた、ちょっと」
原文を見る
「あなたちょっと」
という御米の苦しそうな声が聞こえたので、思わず立ち上がりました。
原文を見る
と云う御米の苦しそうな声が聞えたので、我知らず立ち上がった。
座敷へ来てみると、御米はまゆを寄せて、右手で自分の肩を押さえながら、胸まで布団の外へ出していました。
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座敷へ来て見ると、御米は眉を寄せて、右の手で自分の肩を抑えながら、胸まで蒲団の外へ乗り出していた。
宗助はほとんど考えるより先に、同じ所へ手を出しました。
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宗助はほとんど器械的に、同じ所へ手を出した。
そして御米が押さえている上から、かたく骨の角をつかみました。
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そうして御米の抑えている上から、固く骨の角を攫んだ。
「もう少し後ろの方」
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「もう少し後の方」
と御米が訴えるように言いました。
原文を見る
と御米が訴えるように云った。
宗助の手が御米の思う所に落ち着くまでには、二度も三度も場所を変えなければなりませんでした。
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宗助の手が御米の思う所へ落ちつくまでには、二度も三度もそこここと位置を易えなければならなかった。
指で押してみると、首と肩のつなぎ目の少し背中に寄った部分が、石のようにかたくなっていました。
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指で圧してみると、頸と肩の継目の少し背中へ寄った局部が、石のように凝っていた。
御米は、男の力いっぱいでそれを押さえてくれと頼みました。
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御米は男の力いっぱいにそれを抑えてくれと頼んだ。
宗助の額からは汗がにじみ出しました。
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宗助の額からは汗が煮染み出した。
それでも御米が満足するほどには力が出ませんでした。
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それでも御米の満足するほどは力が出なかった。
宗助は、昔の言葉で早打ち肩(はやうちがた)というものを覚えていました。
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宗助は昔の言葉で早打肩というのを覚えていた。
小さい時におじいさんから聞いた話に、ある侍が馬に乗ってどこかへ行く途中、急にこの早打ち肩になったので、すぐ馬から飛び下りて小刀を抜き、肩先を切って血を出したため、危ないところで命が助かった、というのがありましたが、その話が今、はっきりと頭にうかんで来ました。
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小さい時祖父から聞いた話に、ある侍が馬に乗ってどこかへ行く途中で、急にこの早打肩に冒されたので、すぐ馬から飛んで下りて、たちまち小柄を抜くや否や、肩先を切って血を出したため、危うい命を取り留めたというのがあったが、その話が今明らかに記憶の焼点に浮んで出た。
その時、宗助はこれはいけないと思いました。
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その時宗助はこれはならんと思った。
けれども、本当に刃物を使って肩の肉を突いていいものかどうか、決められませんでした。
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けれどもはたして刃物を用いて、肩の肉を突いていいものやら、悪いものやら、決しかねた。
御米はいつになく顔に血が上って、耳まで赤くしていました。
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御米はいつになく逆上せて、耳まで赤くしていた。
頭が熱いかと聞くと、苦しそうに熱いと答えました。
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頭が熱いかと聞くと苦しそうに熱いと答えた。
宗助は大きな声を出して、清に氷嚢(ひょうのう。氷を入れて体を冷やす袋)へ冷たい水を入れて来いと言いつけました。
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宗助は大きな声を出して清に氷嚢へ冷たい水を入れて来いと命じた。
氷嚢があいにくなかったので、清は朝と同じようにたらいに手ぬぐいを浸して持って来ました。
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氷嚢があいにく無かったので、清は朝の通り金盥に手拭を浸けて持って来た。
清が頭を冷やしている間、宗助はやはり力いっぱい肩を押さえていました。
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清が頭を冷やしているうち、宗助はやはり精いっぱい肩を抑えていた。
時々、少しはいいかと聞いても、御米はかすかに苦しいと答えるだけでした。
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時々少しはいいかと聞いても、御米は微かに苦しいと答えるだけであった。
宗助はすっかり心細くなりました。
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宗助は全く心細くなった。
思い切って自分で走って医者を呼びに行こうとしましたが、あとが心配で一歩も外へ出る気になれませんでした。
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思い切って、自分で馳け出して医者を迎に行こうとしたが、後が心配で一足も表へ出る気にはなれなかった。
「清、お前、急いで通りへ行って氷嚢を買って、医者を呼んで来い。まだ早いから起きているだろう」
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「清、御前急いで通りへ行って、氷嚢を買って医者を呼んで来い。まだ早いから起きてるだろう」
清はすぐ立って茶の間の時計を見て、
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清はすぐ立って茶の間の時計を見て、
「九時十五分でございます」
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「九時十五分でございます」
と言いながら、そのまま勝手口へ回ってごそごそ下駄を探しているところへ、ちょうどよく外から小六が帰って来ました。
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と云いながら、それなり勝手口へ回って、ごそごそ下駄を探しているところへ、旨い具合に外から小六が帰って来た。
いつものように兄にあいさつもせず自分の部屋へ入ろうとするのを、宗助は、おい、小六、と強く呼び止めました。
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例の通り兄には挨拶もしないで、自分の部屋へ這入ろうとするのを、宗助はおい小六と烈しく呼び止めた。
小六は茶の間で少しためらっていましたが、兄からまた二回ほど続けて大きな声で呼ばれたので、しかたなく小さな声で返事をして襖から顔を出しました。
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小六は茶の間で少し躊躇していたが、兄からまた二声ほど続けざまに大きな声を掛けられたので、やむを得ず低い返事をして、襖から顔を出した。
その顔は、お酒がまだ残っている赤い色を目のふちに残していました。
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その顔は酒気のまだ醒めない赤い色を眼の縁に帯びていた。
部屋の中をのぞきこんで、初めてびっくりした様子で、
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部屋の中を覗き込んで、始めて吃驚した様子で、
「どうかなさったんですか」
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「どうかなすったんですか」
と、酔いが一度にさめたような顔をしました。
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と酔が一時に去ったような表情をした。
宗助は清に言いつけたことを小六に繰り返して、早くしてくれとせかしました。
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宗助は清に命じた通りを、小六に繰り返して、早くしてくれと急き立てた。
小六は外套も脱がずに、すぐ玄関へ引き返しました。
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小六は外套も脱がずに、すぐ玄関へ取って返した。
「兄さん、医者の所まで行くのは急いでも時間がかかりますから、坂井さんの電話を借りて、すぐ来るように頼みましょう」
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「兄さん、医者まで行くのは急いでも時間が掛かりますから、坂井さんの電話を借りて、すぐ来るように頼みましょう」
「ああ。そうしてくれ」
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「ああ。そうしてくれ」
と宗助は答えました。
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と宗助は答えた。
そして小六が帰って来るまでの間、清に何度もたらいの水を替えさせては、けんめいに御米の肩を押したりもんだりしてみました。
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そうして小六の帰る間、清に何返となく金盥の水を易えさしては、一生懸命に御米の肩を圧しつけたり、揉んだりしてみた。
御米が苦しむのを何もせずにただ見ているのが我慢できなかったので、こうして自分の気をまぎらわしていたのです。
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御米の苦しむのを、何もせずにただ見ているに堪えなかったから、こうして自分の気を紛らしていたのである。
この時の宗助にとって、医者が来るのを今か今かと待っている気持ちほどつらいものはありませんでした。
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この時の宗助に取って、医者の来るのを今か今かと待ち受ける心ほど苛いものはなかった。
彼は御米の肩をもみながらも、ずっと外の音に気をつけていました。
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彼は御米の肩を揉みながらも、絶えず表の物音に気を配った。
ようやく医者が来た時は、初めて夜が明けたような気持ちがしました。
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ようやく医者が来たときは、始めて夜が明けたような心持がした。
医者は慣れているだけに、少しもあわてた様子を見せませんでした。
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医者は商売柄だけあって、少しも狼狽えた様子を見せなかった。
小さなかばんをわきに引き寄せて、落ち着いた態度で、長引いた病気の人でも診るようにゆっくり診察をしました。
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小さい折鞄を脇に引き付けて、落ちつき払った態度で、慢性病の患者でも取り扱うように緩くりした診察をした。
その落ち着いた顔をそばで見ていたせいか、どきどきしていた宗助の胸もようやく落ち着きました。
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その逼らない顔色を傍で見ていたせいか、わくわくした宗助の胸もようやく治まった。
医者は、からしを痛む所に貼ることと、足を湿布(しっぷ)で温めることと、それから頭を氷で冷やすことを、とりあえずの手当てとして宗助に教えました。
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医者は芥子を局部へ貼る事と、足を湿布で温める事と、それから頭を氷で冷す事とを、応急手段として宗助に注意した。
そして自分でからしを練って、御米の肩から首の付け根へ貼ってくれました。
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そうして自分で芥子を掻いて、御米の肩から頸の根へ貼りつけてくれた。
湿布は清と小六が受け持ちました。
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湿布は清と小六とで受持った。
宗助は手ぬぐいの上から氷嚢を額に当てました。
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宗助は手拭の上から氷嚢を額の上に当てがった。
そうしているうちに、一時間ほどたちました。
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とかくするうち約一時間も経った。
医者はしばらく様子を見て行こうと言って、それまで御米の枕もとに座っていました。
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医者はしばらく経過を見て行こうと云って、それまで御米の枕元に坐っていた。
世間話も時々しましたが、たいていは黙ったまま、二人とも御米の様子を見守っていることが多かったのです。
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世間話も折々は交えたが、おおかたは無言のまま二人共に御米の容体を見守る事が多かった。
夜はいつものように静かにふけて行きました。
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夜は例のごとく静に更けた。
「だいぶ冷えますね」
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「だいぶ冷えますな」
と医者が言いました。
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と医者が云った。
宗助は申し訳なくなったので、あとの注意をよく聞いた上で、遠慮なく帰ってくださいと頼みました。
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宗助は気の毒になったので、あとの注意をよく聞いた上、遠慮なく引き取ってくれるようにと頼んだ。
その時、御米はさっきよりだいぶ楽になっていたからです。
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その時御米は先刻よりはだいぶ軽快になっていたからである。
「もう大丈夫でしょう。すぐ効く薬を一回分差し上げますから、今夜飲んでみてください。たぶん眠れると思います」
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「もう大丈夫でしょう。頓服を一回上げますから今夜飲んで御覧なさい。多分寝られるだろうと思います」
と言って医者は帰りました。
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と云って医者は帰った。
小六はすぐそのあとを追って出て行きました。
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小六はすぐその後を追って出て行った。
小六が薬を取りに行っている間に、御米は
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小六が薬取に行った間に、御米は
「もう何時」
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「もう何時」
と言いながら、枕もとの宗助を見上げました。
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と云いながら、枕元の宗助を見上げた。
夜のはじめとは違って、ほおから血が引いて、ランプに照らされた所が特に青白く見えました。
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宵とは違って頬から血が退いて、洋灯に照らされた所が、ことに蒼白く映った。
宗助は黒い髪が乱れたせいだろうと思って、わざわざ耳のそばの髪をかき上げてやりました。
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宗助は黒い毛の乱れたせいだろうと思って、わざわざ鬢の毛を掻き上げてやった。
そして、
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そうして、
「少しはいいだろう」
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「少しはいいだろう」
と聞きました。
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と聞いた。
「ええ、よほど楽になったわ」
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「ええよっぽど楽になったわ」
と御米はいつものようににっこりしました。
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と御米はいつもの通り微笑を洩らした。
御米はたいてい苦しい時でも、宗助に笑顔を見せることを忘れませんでした。
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御米は大抵苦しい場合でも、宗助に微笑を見せる事を忘れなかった。
茶の間では、清がうつぶせのままいびきをかいていました。
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茶の間では、清が突伏したまま鼾をかいていた。
「清を寝かせてやってください」
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「清を寝かしてやって下さい」
と御米が宗助に頼みました。
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と御米が宗助に頼んだ。
小六が薬を取って帰って来て、医者に言われたとおり薬を飲ませ終わったのは、もう十二時近くでした。
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小六が薬取りから帰って来て、医者の云いつけ通り服薬を済ましたのは、もうかれこれ十二時近くであった。
それから二十分もたたないうちに、病人はすやすやと眠りました。
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それから二十分と経たないうちに、病人はすやすや寝入った。
「いい具合だ」
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「好い塩梅だ」
と宗助が御米の顔を見ながら言いました。
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と宗助が御米の顔を見ながら云った。
小六もしばらく兄のお嫁さんの様子を見守っていましたが、
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小六もしばらく嫂の様子を見守っていたが、
「もう大丈夫でしょう」
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「もう大丈夫でしょう」
と答えました。
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と答えた。
二人は氷嚢を額から下ろしました。
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二人は氷嚢を額からおろした。
やがて小六は自分の部屋へ入ります。
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やがて小六は自分の部屋へ這入る。
宗助は御米のそばに布団を敷いて、いつものように寝ました。
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宗助は御米の傍へ床を延べていつものごとく寝た。
五、六時間のあと、冬の夜は針のようにとがった霜を残して、からりと明けました。
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五六時間の後冬の夜は錐のような霜を挟さんで、からりと明け渡った。
それから一時間すると、大地を照らす太陽が、何もさえぎるもののない青空に堂々と上りました。
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それから一時間すると、大地を染める太陽が、遮ぎるもののない蒼空に憚りなく上った。
御米はまだすやすや眠っていました。
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御米はまだすやすや寝ていた。
そのうち朝ご飯も終わって、出勤の時刻がだんだん近づきました。
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そのうち朝餉も済んで、出勤の時刻がようやく近づいた。
けれども御米は目を覚ます様子もありませんでした。
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けれども御米は眠りから覚める気色もなかった。
宗助は枕もとにかがんで深い寝息を聞きながら、役所へ行こうか休もうかと考えました。
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宗助は枕辺に曲んで、深い寝息を聞きながら、役所へ行こうか休もうかと考えた。
十二
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十二
朝のうちは役所でいつものように仕事をしていましたが、時々昨日の夜の様子が目にうかぶにつれて、自然と御米の病気が気になるので、仕事は思うように進みませんでした。
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朝の内は役所で常のごとく事務を執っていたが、折々昨夕の光景が眼に浮ぶに連れて、自然御米の病気が気に罹るので、仕事は思うように運ばなかった。
時には変な間違いさえしました。
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時には変な間違をさえした。
宗助は昼になるのを待って、思い切って家へ帰って来ました。
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宗助は午になるのを待って、思い切って宅へ帰って来た。
電車の中では、御米の目はいつ頃覚めただろう、覚めたあとは気分がだいぶよくなっただろう、また急に痛み出す心配はないだろうと、みんないい方の想像ばかりを思いうかべました。
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電車の中では、御米の眼がいつ頃覚めたろう、覚めた後は心持がだいぶ好くなったろう、発作ももう起る気遣なかろうと、すべて悪くない想像ばかり思い浮べた。
いつもと違って、乗る人がとても少ない時間に乗ったので、宗助は周りに気を使う必要がほとんどありませんでした。
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いつもと違って、乗客の非常に少ない時間に乗り合わせたので、宗助は周囲の刺戟に気を使う必要がほとんどなかった。
それで自由に頭の中に現れる絵を、何枚も何枚も眺めました。
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それで自由に頭の中へ現われる画を何枚となく眺めた。
そのうちに、電車は終点に着きました。
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そのうちに、電車は終点に来た。
家の門の前まで来ると、家の中はしんとして、だれもいないようでした。
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宅の門口まで来ると、家の中はひっそりして、誰もいないようであった。
格子戸を開けて靴を脱ぎ、玄関に上がっても、出て来る人はいませんでした。
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格子を開けて、靴を脱いで、玄関に上がっても、出て来るものはなかった。
宗助はいつものように縁側から茶の間へ行かず、すぐ手前の襖を開けて、御米の寝ている座敷へ入りました。
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宗助はいつものように縁側から茶の間へ行かずに、すぐ取付の襖を開けて、御米の寝ている座敷へ這入った。
見ると、御米は相変わらず眠っていました。
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見ると、御米は依然として寝ていた。
枕もとの赤い塗りのお盆に粉薬の袋とコップが載っていて、そのコップの水が半分残っているところも朝と同じでした。
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枕元の朱塗の盆に散薬の袋と洋杯が載っていて、その洋杯の水が半分残っているところも朝と同じであった。
頭を床の間の方へ向けて、左のほおと、からしを貼った首もとが少し見えるところも朝と同じでした。
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頭を床の間の方へ向けて、左の頬と芥子を貼った襟元が少し見えるところも朝と同じであった。
息のほかには現実の世界とつながりがないように思える深い眠りも、朝見たとおりでした。
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呼息よりほかに現実世界と交通のないように思われる深い眠も朝見た通りであった。
何もかもが、今朝出かける時に頭の中に入れて行った様子と少しも変わっていませんでした。
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すべてが今朝出掛に頭の中へ収めて行った光景と少しも変っていなかった。
宗助は外套も脱がずに上からかがんで、すうすうという御米の寝息をしばらく聞いていました。
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宗助は外套も脱がずに、上から曲んで、すうすういう御米の寝息をしばらく聞いていた。
御米はなかなか目を覚ましそうにも見えませんでした。
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御米は容易に覚めそうにも見えなかった。
宗助は昨日の夜、御米が粉薬を飲んでからの時間を指を折って数えました。
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宗助は昨夕御米が散薬を飲んでから以後の時間を指を折って勘定した。
そしてようやく不安な顔になりました。
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そうしてようやく不安の色を面に表わした。
昨日までは眠れないのが心配でしたが、こうして何も分からないほど長く眠るところを目の前で見ると、眠る方が何か具合の悪いことなのではないかと考え出しました。
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昨夕までは寝られないのが心配になったが、こう前後不覚に長く寝るところを眼のあたりに見ると、寝る方が何かの異状ではないかと考え出した。
宗助は布団に手をかけて、二、三度軽く御米をゆすりました。
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宗助は蒲団へ手を掛けて二三度軽く御米を揺振った。
御米の髪が枕の上で波を打つように動きましたが、御米は相変わらずすうすう眠っていました。
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御米の髪が括枕の上で、波を打つように動いたが、御米は依然としてすうすう寝ていた。
宗助は御米をそのままにして、茶の間から台所へ出ました。
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宗助は御米を置いて、茶の間から台所へ出た。
流しの小さなおけの中に、茶碗と塗りのお椀が洗わないまま浸かっていました。
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流し元の小桶の中に茶碗と塗椀が洗わないまま浸けてあった。
お手伝いの部屋をのぞくと、清が自分の前に小さなお膳を置いたまま、ごはんのおひつに寄りかかってうつぶせになっていました。
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下女部屋を覗くと、清が自分の前に小さな膳を控えたなり、御櫃に倚りかかって突伏していた。
宗助はまた六畳の戸を引いて首を入れました。
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宗助はまた六畳の戸を引いて首を差し込んだ。
そこには小六が掛け布団を一枚頭からかぶって寝ていました。
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そこには小六が掛蒲団を一枚頭から引被って寝ていた。
宗助は一人で着物を着がえましたが、脱いだ洋服も人に頼まず自分でたたんで押し入れにしまいました。
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宗助は一人で着物を着換えたが、脱ぎ捨てた洋服も、人手を借りずに自分で畳んで、押入にしまった。
それから火鉢に炭を足して、お湯を沸かす用意をしました。
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それから火鉢へ火を継いで、湯を沸かす用意をした。
二、三分は火鉢にもたれて考えていましたが、やがて立ち上がって、まず小六から起こしにかかりました。
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二三分は火鉢に持たれて考えていたが、やがて立ち上がって、まず小六から起しにかかった。
次に清を起こしました。
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次に清を起した。
二人とも驚いて飛び起きました。
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二人とも驚ろいて飛び起きた。
小六に御米の今朝から今までの様子を聞くと、実はあまり眠いので十一時半頃にご飯を食べて寝たのだが、それまでは御米もよく眠っていたのだそうです。
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小六に御米の今朝から今までの様子を聞くと、実は余り眠いので、十一時半頃飯を食って寝たのだが、それまでは御米もよく熟睡していたのだと云う。
「医者へ行ってね。昨日の夜の薬をいただいてから寝始めて、今になっても目が覚めませんが、大丈夫でしょうか、と聞いて来てくれ」
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「医者へ行ってね。昨夜の薬を戴いてから寝出して、今になっても眼が覚めませんが、差支ないでしょうかって聞いて来てくれ」
「はい」
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「はあ」
小六は短く返事をして出て行きました。
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小六は簡単な返事をして出て行った。
宗助はまた座敷へ来て、御米の顔をじっと見ました。
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宗助はまた座敷へ来て御米の顔を熟視した。
起こしてやらないと悪いような、また起こしては体に悪いような、どちらとも決められない気持ちで腕を組みました。
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起してやらなくっては悪いような、また起しては身体へ障るような、分別のつかない惑を抱いて腕組をした。
間もなく小六が帰って来て、医者はちょうど患者の家へ出かけるところだった、事情を話したら、では今から一、二軒寄ってすぐ行こうと答えた、と伝えました。
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間もなく小六が帰って来て、医者はちょうど往診に出かけるところであった、訳を話したら、では今から一二軒寄ってすぐ行こうと答えた、と告げた。
宗助は、医者が来るまでこうしてそのままにしておいていいのかと小六に聞き返しましたが、小六は医者がそれ以上何も言わなかったと言うだけなので、しかたなく元のとおり枕もとにじっと座っていました。
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宗助は医者が見えるまで、こうして放っておいて構わないのかと小六に問い返したが、小六は医者が以上よりほかに何にも語らなかったと云うだけなので、やむを得ず元のごとく枕辺にじっと坐っていた。
そして心の中で、医者も小六も親切さが足りないように感じました。
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そうして心の中で、医者も小六も不親切過ぎるように感じた。
彼はその上、昨日の夜、御米の看病をしている時に帰って来た小六の顔を思い出して、もっと不愉快になりました。
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彼はその上昨夕御米を介抱している時に帰って来た小六の顔を思い出して、なお不愉快になった。
小六がお酒を飲むことは御米に言われて初めて知ったのですが、その後気をつけて弟の様子をよく見ていると、たしかに何だかまじめでないところもあるようなので、いつかしっかり注意しなければならないくらいに考えてはいたのですが、仲の悪い二人の顔を御米に見せるのがかわいそうなので、今日までわざと我慢していたのです。
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小六が酒を呑む事は、御米の注意で始めて知ったのであるが、その後気をつけて弟の様子をよく見ていると、なるほど何だか真面目でないところもあるようなので、いつかみっちり異見でもしなければなるまいくらいに考えてはいたが、面白くもない二人の顔を御米に見せるのが、気の毒なので、今日までわざと遠慮していたのである。
「言い出すなら、御米が寝ている今だ。今ならどんなに気まずいことをお互いに言い合っても、御米の気持ちを乱す心配はない」
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「云い出すなら御米の寝ている今である。今ならどんな気不味いことを双方で言い募ったって、御米の神経に障る気遣はない」
そこまで考えたけれども、意識のない御米の顔を見ると、またそちらの方が気がかりになって、すぐにでも起こしたい気持ちになるので、つい決められずにぐずぐずしていました。
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ここまで考えついたけれども、知覚のない御米の顔を見ると、またその方が気がかりになって、すぐにでも起したい心持がするので、つい決し兼てぐずぐずしていた。
そこへようやく医者が来てくれました。
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そこへようやく医者が来てくれた。
昨日の夜のかばんをまたていねいにわきへ引き寄せて、ゆっくりたばこを吸いながら宗助の言うことを、はあ、はあ、と聞いていましたが、どれ見せていただきましょう、と御米の方へ向き直りました。
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昨夕の折鞄をまた丁寧に傍へ引きつけて、緩くり巻煙草を吹かしながら、宗助の云うことを、はあはあと聞いていたが、どれ拝見致しましょうと御米の方へ向き直った。
彼は普通の時と同じように病人の脈を取って、長い間自分の時計を見つめていました。
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彼は普通の場合のように病人の脈を取って、長い間自分の時計を見つめていた。
それから黒い聴診器(ちょうしんき。心臓や肺の音を聞く道具)を心臓の上に当てました。
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それから黒い聴診器を心臓の上に当てた。
それをていねいにあちらこちらと動かしました。
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それを丁寧にあちらこちらと動かした。
最後に丸い穴の開いた鏡を出して、宗助にろうそくをつけてくれと言いました。
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最後に丸い穴の開いた反射鏡を出して、宗助に蝋燭を点けてくれと云った。
宗助はろうそくを持っていないので、清にランプをつけさせました。
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宗助は蝋燭を持たないので、清に洋灯を点けさした。
医者は眠っている御米の目を押し開けて、細かく鏡の光をまつげの奥へ集めました。
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医者は眠っている御米の眼を押し開けて、仔細に反射鏡の光を睫の奥に集めた。
診察はそれで終わりました。
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診察はそれで終った。
「少し薬が効きすぎましたね」
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「少し薬が利き過ぎましたね」
と言って宗助の方へ向き直りましたが、宗助の目の色を見るとすぐ、
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と云って宗助の方へ向き直ったが、宗助の眼の色を見るや否や、すぐ、
「しかしご心配になることはありません。こういう時にもし悪い結果が出るとすると、きっと心臓か脳をやられるものですが、今見たところではどちらも悪いところはありませんから」
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「しかし御心配になる事はありません。こう云う場合に、もし悪い結果が起るとすると、きっと心臓か脳を冒すものですが、今拝見したところでは双方共異状は認められませんから」
と説明してくれました。
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と説明してくれた。
宗助はそれでようやく安心しました。
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宗助はそれでようやく安心した。
医者はまた、自分の使った眠り薬が比較的新しいもので、理屈の上でもほかの眠り薬のように害がないことや、その効き方が病人の体質によって程度が大きく違うことなどを話して帰りました。
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医者はまた自分の用いた眠り薬が比較的新らしいもので、学理上、他の睡眠剤のように有害でない事や、またその効目が患者の体質に因って、程度に大変な相違のある事などを語って帰った。
帰る時、宗助は、
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帰るとき宗助は、
「では、眠れるだけ寝かせておいても大丈夫ですか」
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「では寝られるだけ寝かしておいても差支ありませんか」
と聞いたところ、医者は、用がなければ特に起こす必要もないだろうと答えました。
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と聞いたら、医者は用さえなければ別に起す必要もあるまいと答えた。
医者が帰ったあとで、宗助は急にお腹がすきました。
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医者が帰ったあとで、宗助は急に空腹になった。
茶の間へ出ると、さっき火にかけておいた鉄びんがちんちん音を立てていました。
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茶の間へ出ると、先刻掛けておいた鉄瓶がちんちん沸っていた。
清を呼んでご飯を出せと言うと、清は困った顔をして、まだ何の支度もできていないと答えました。
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清を呼んで、膳を出せと命ずると、清は困った顔つきをして、まだ何の用意もできていないと答えた。
たしかに晩ご飯には少し早い時間でした。
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なるほど晩食には少し間があった。
宗助は気楽に火鉢のそばであぐらをかいて、大根のつけものをかみながら、お湯をかけたご飯を四杯ほど続けてかきこみました。
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宗助は楽々と火鉢の傍に胡坐を掻いて、大根の香の物を噛みながら湯漬を四杯ほどつづけざまに掻き込んだ。
それから三十分ほどしたら、御米の目が自然に覚めました。
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それから約三十分ほどしたら御米の眼がひとりでに覚めた。
十三
原文を見る
十三
新しい年にふさわしい頭にしようという気になって、宗助は久しぶりに髪結い床(かみゆいどこ。今の理髪店)の敷居をまたぎました。
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新年の頭を拵らえようという気になって、宗助は久し振に髪結床の敷居を跨いだ。
年の暮れのせいかお客がかなり多くて、はさみの音が二、三か所で同時にちょきちょき鳴っていました。
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暮のせいか客がだいぶ立て込んでいるので、鋏の音が二三カ所で、同時にちょきちょき鳴った。
この寒さを無理に乗りこえて、一日でも早く春になろうとあせるような表通りの動きを、宗助は今見て来たばかりなので、そのはさみの音がいかにもあわただしい響きになって彼の耳を打ちました。
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この寒さを無理に乗り越して、一日も早く春に入ろうと焦慮るような表通の活動を、宗助は今見て来たばかりなので、その鋏の音が、いかにも忙しない響となって彼の鼓膜を打った。
しばらくストーブのそばでたばこを吸って待っている間に、宗助は自分に関係のない大きな世間の動きに、いやでも巻きこまれて、しかたなく年を越さなければならない人のように感じました。
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しばらく煖炉の傍で煙草を吹かして待っている間に、宗助は自分と関係のない大きな世間の活動に否応なしに捲き込まれて、やむを得ず年を越さなければならない人のごとくに感じた。
お正月を目の前にした彼は、実はこれという新しい望みもないのに、ただ周りにさそわれて、何だかざわざわした気持ちになっていたのです。
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正月を眼の前へ控えた彼は、実際これという新らしい希望もないのに、いたずらに周囲から誘われて、何だかざわざわした心持を抱いていたのである。
御米の急な痛みはようやく落ち着きました。
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御米の発作はようやく落ちついた。
今ではいつものように外へ出ても、家のことがそれほど気にならないくらいになりました。
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今では平日のごとく外へ出ても、家の事がそれほど気にかからないぐらいになった。
よその家に比べれば静かな新年の支度も、御米にとっては年に一度の忙しさにちがいなかったので、いっそいつもの準備さえやめて、普段よりも簡単に年を越そうと決めていた宗助は、生き返ったようにはっきりした妻の姿を見て、恐ろしい出来事が一歩遠のいた時のように胸をなでおろしました。
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余所に比べると閑静な春の支度も、御米から云えば、年に一度の忙がしさには違なかったので、あるいはいつも通りの準備さえ抜いて、常よりも簡単に年を越す覚悟をした宗助は、蘇生ったようにはっきりした妻の姿を見て、恐ろしい悲劇が一歩遠退いた時のごとくに、胸を撫でおろした。
しかしその恐ろしい出来事が、またいつどんな形で自分の家族をつかまえに来るか分からないという、ぼんやりした不安が、時々彼の頭の中に霧のようにかかりました。
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しかしその悲劇がまたいついかなる形で、自分の家族を捕えに来るか分らないと云う、ぼんやりした掛念が、折々彼の頭のなかに霧となってかかった。
年の暮れに、騒ぐのが好きなのだとしか思えない世間の人が、わざと短い日を前へ押し出したがってあくせくする様子を見ると、宗助はなおさら、このはっきりしない恐ろしさに襲われました。
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年の暮に、事を好むとしか思われない世間の人が、故意と短い日を前へ押し出したがって齷齪する様子を見ると、宗助はなおの事この茫漠たる恐怖の念に襲われた。
できることなら、自分だけは暗く陰気な十二月の中に一人残っていたいという気持ちさえ起こりました。
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成ろうことなら、自分だけは陰気な暗い師走の中に一人残っていたい思さえ起った。
ようやく自分の順番が来て、彼は冷たい鏡の中に自分の姿を見つけた時、ふと、この姿はいったい何者なのだろうと眺めました。
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ようやく自分の番が来て、彼は冷たい鏡のうちに、自分の影を見出した時、ふとこの影は本来何者だろうと眺めた。
首から下は真っ白な布に包まれて、自分の着ている着物の色もしま模様もまるで見えませんでした。
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首から下は真白な布に包まれて、自分の着ている着物の色も縞も全く見えなかった。
その時、彼はまた、床屋の主人が飼っている小鳥のかごが鏡の奥に映っていることに気がつきました。
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その時彼はまた床屋の亭主が飼っている小鳥の籠が、鏡の奥に映っている事に気がついた。
鳥が止まり木の上をちらりちらりと動きました。
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鳥が止り木の上をちらりちらりと動いた。
頭にいいにおいの油を塗られ、元気のいい声を後ろからかけられて外へ出た時は、それでもさっぱりした気持ちでした。
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頭へ香のする油を塗られて、景気のいい声を後から掛けられて、表へ出たときは、それでも清々した心持であった。
御米の言うとおり髪を切った方が、結局は気分を新しくする効き目があったことを、冷たい空気の中で宗助は感じました。
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御米の勧め通り髪を刈った方が、結局気を新たにする効果があったのを、冷たい空気の中で、宗助は自覚した。
水道の料金のことでちょっと聞く必要ができたので、宗助は帰り道に坂井の家へ寄りました。
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水道税の事でちょっと聞き合せる必要が生じたので、宗助は帰り路に坂井へ寄った。
お手伝いの人が出て来て、こちらへ、と言うので、いつもの座敷へ案内するのかと思ったら、そこを通り越して茶の間へ連れて行きました。
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下女が出て来て、こちらへと云うから、いつもの座敷へ案内するかと思うと、そこを通り越して、茶の間へ導びいていった。
すると茶の間の襖が六十センチほど開いていて、中から三、四人の笑い声が聞こえました。
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すると茶の間の襖が二尺ばかり開いていて、中から三四人の笑い声が聞えた。
坂井の家は相変わらず陽気でした。
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坂井の家庭は相変らず陽気であった。
主人はつやのいい長火鉢の向こう側に座っていました。
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主人は光沢の好い長火鉢の向側に坐っていた。
奥さんは火鉢から離れて、少し縁側の障子の方へ寄って、やはりこちらを向いていました。
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細君は火鉢を離れて、少し縁側の障子の方へ寄って、やはりこちらを向いていた。
主人の後ろに、細長い黒いわくにはめた柱時計がかかっていました。
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主人の後に細長い黒い枠に嵌めた柱時計がかかっていた。
時計の右が壁で、左が戸棚になっていました。
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時計の右が壁で、左が袋戸棚になっていた。
その戸に張ったものの中に、石に彫った字を写したものや、俳句の絵や、扇の骨を抜いた紙などが見えました。
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その張交に石摺だの、俳画だの、扇の骨を抜いたものなどが見えた。
主人と奥さんのほかに、筒のような袖の、同じ模様の上着を着た女の子が二人、肩をくっつけて座っていました。
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主人と細君のほかに、筒袖の揃いの模様の被布を着た女の子が二人肩を擦りつけ合って坐っていた。
一人は十二、三歳で、もう一人は十歳くらいに見えました。
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片方は十二三で、片方は十ぐらいに見えた。
大きな目をそろえて、襖の陰から入って来た宗助の方を向きましたが、二人の目もとにも口もとにも、今笑ったばかりの気配がまだたっぷり残っていました。
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大きな眼を揃えて、襖の陰から入って来た宗助の方を向いたが、二人の眼元にも口元にも、今笑ったばかりの影が、まだゆたかに残っていた。
宗助はひととおり部屋の中を見回して、この親子のほかにもう一人、変わった男が一番入口に近い所にきちんと座っているのを見つけました。
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宗助は一応室の内を見回して、この親子のほかに、まだ一人妙な男が、一番入口に近い所に畏まっているのを見出した。
宗助は座って五分もたたないうちに、さっきの笑い声が、この変わった男と坂井の家族との間のやり取りから出たものだと分かりました。
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宗助は坐って五分と立たないうちに、先刻の笑声は、この変な男と坂井の家族との間に取り換わされた問答から出る事を知った。
男は砂ぼこりでざらざらしそうな赤い髪と、日に焼けて一生さめそうにない濃い肌の色をしていました。
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男は砂埃でざらつきそうな赤い毛と、日に焼けて生涯褪めっこない強い色を有っていた。
焼き物のボタンのついた白い木綿のシャツを着て、家で織ったかたい綿入れの襟から、財布のひものような長い丸いひもをかけている様子は、めったに東京などへ出て来ることのない、遠い山国の人としか思えませんでした。
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瀬戸物の釦の着いた白木綿の襯衣を着て、手織の硬い布子の襟から財布の紐みたような長い丸打をかけた様子は、滅多に東京などへ出る機会のない遠い山の国のものとしか受け取れなかった。
その上、男はこの寒いのに膝を少し出して、色のあせた帯のうしろに差した手ぬぐいを抜いては鼻の下をこすりました。
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その上男はこの寒いのに膝小僧を少し出して、紺の落ちた小倉の帯の尻に差した手拭を抜いては鼻の下を擦った。
「これは甲斐(かい。今の山梨県)の国から反物(たんもの。着物にする布)を背負って、わざわざ東京まで出て来る男なんです」
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「これは甲斐の国から反物を背負ってわざわざ東京まで出て来る男なんです」
と坂井の主人が紹介すると、男は宗助の方を向いて、
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と坂井の主人が紹介すると、男は宗助の方を向いて、
「どうか旦那、一つ買っておくれ」
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「どうか旦那、一つ買っておくれ」
とあいさつをしました。
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と挨拶をした。
たしかに、銘仙(めいせん)や御召(おめし)や白い紬(つむぎ)といった絹の布が、そこら一面に散らばっていました。
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なるほど銘仙だの御召だの、白紬だのがそこら一面に取り散らしてあった。
宗助は、この男の身なりや言葉づかいが変わっているのに比べて、りっぱな品物を背中に載せて歩いているのを、むしろ不思議に思いました。
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宗助はこの男の形装や言葉遣のおかしい割に、立派な品物を背中へ乗せて歩行くのをむしろ不思議に思った。
主人の奥さんの説明によると、この織物売りの住んでいる村は焼けた石ばかりで米もあわも取れないので、しかたなく桑を植えて蚕(かいこ)を飼うのだそうですが、よほど貧しい所らしく、柱時計を持っている家が一軒だけで、上の学校へ通う子どもが三人しかいないという話でした。
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主人の細君の説明によると、この織屋の住んでいる村は焼石ばかりで、米も粟も収れないから、やむを得ず桑を植えて蚕を飼うんだそうであるが、よほど貧しい所と見えて、柱時計を持っている家が一軒だけで、高等小学へ通う小供が三人しかないという話であった。
「字の書ける人は、この人だけなんだそうですよ」
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「字の書けるものは、この人ぎりなんだそうですよ」
と言って奥さんは笑いました。
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と云って細君は笑った。
すると織物売りも、
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すると織屋も、
「本当のことだよ、奥さん。読み書きそろばんのできる者は、おれのほかにいねえんだからね。まったくひどい所にはちがいねえ」
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「本当のこんだよ、奥さん。読み書き算筆のできるものは、おれよりほかにねえんだからね。全く非道い所にゃ違ない」
と、まじめに奥さんの言うことにうなずきました。
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と真面目に細君の云う事を首肯った。
織物売りはいろいろな反物を主人や奥さんの前へ突き出しては、「買っておくれ」
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織屋はいろいろの反物を主人や細君の前へ突きつけては、「買っておくれ」
という言葉をしきりに繰り返しました。
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という言葉をしきりに繰り返した。
それは高いよ、いくらいくらに安くしなさい、などと言われると、「値段の問題じゃねえね」
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そりゃ高いよいくらいくらに御負けなどと云われると、「値じゃねえね」
とか、「頼むから、それで買っておくれ」
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とか、「拝むからそれで買っておくれ」
とか、「まあ重さを見ておくれ」
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とか、「まあ目方を見ておくれ」
とか、みんな変わった田舎らしい答えをしました。
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とかすべて異様な田舎びた答をした。
そのたびにみんなが笑いました。
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そのたびに皆が笑った。
主人夫婦もまた暇らしく、面白半分にいつまでも織物売りを相手にしていました。
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主人夫婦はまた閑だと見えて、面白半分にいつまでも織屋を相手にした。
「織屋さん、お前、そうやって荷物を背負って外へ出て、時間になったら、やっぱりご飯を食べるんだろうね」
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「織屋、御前そうして荷を背負って、外へ出て、時分どきになったら、やっぱり御膳を食べるんだろうね」
と奥さんが聞きました。
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と細君が聞いた。
「飯を食わねえでいられるもんじゃないよ。腹の減ることといったら」
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「飯を食わねえでいられるもんじゃないよ。腹の減る事ちゅうたら」
「どんな所で食べるの」
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「どんな所で食べるの」
「どんな所で食べるって、やっぱり茶屋で食うだね」
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「どんな所で食べるちゅうて、やっぱり茶屋で食うだね」
主人は笑いながら、茶屋とは何だと聞きました。
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主人は笑いながら茶屋とは何だと聞いた。
織物売りは、飯を食わせる所が茶屋だと答えました。
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織屋は、飯を食わす所が茶屋だと答えた。
それから、東京へ出て来たばかりの頃はご飯がとてもおいしいので、腰をすえて食べ出すとたいていの宿屋はかなわない、三度三度食べては気の毒だ、というようなことを話して、またみんなを笑わせました。
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それから東京へ出立には飯が非常に旨いので、腹を据えて食い出すと、大抵の宿屋は叶わない、三度三度食っちゃ気の毒だと云うような事を話して、また皆を笑わした。
織物売りは最後に、よりをかけた糸の紬と、白いすかし織りの布を一本、奥さんに売りました。
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織屋はしまいに撚糸の紬と、白絽を一匹細君に売りつけた。
宗助はこの年の押し詰まった時に夏の布を買う人を見て、余裕のある人はやはり違うと感じました。
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宗助はこの押しつまった暮に、夏の絽を買う人を見て余裕のあるものはまた格別だと感じた。
すると主人が宗助に向かって、
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すると、主人が宗助に向って、
「どうです、あなたもついでに何か一つ。奥さんの普段着でも」
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「どうですあなたも、ついでに何か一つ。奥さんの不断着でも」
とすすめました。
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と勧めた。
奥さんも、こういう時に買っておくと何割か安く買えて得だと言いました。
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細君もこう云う機会に買って置くと、幾割か値安に買える便宜を説いた。
そして、
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そうして、
「なに、お支払いはいつでもいいんです」
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「なに、御払はいつでもいいんです」
と約束してくれました。
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と受合ってくれた。
宗助はとうとう御米のために銘仙を一本買うことにしました。
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宗助はとうとう御米のために銘仙を一反買う事にした。
主人はそれをさんざん値切って三円にさせました。
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主人はそれをさんざん値切って三円に負けさした。
織物売りは安くしたあとでまた、
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織屋は負けた後でまた、
「まったく値段じゃねえね。泣きたくなるね」
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「全く値じゃねえね。泣きたくなるね」
と言ったので、みんながまた一度に笑いました。
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と云ったので、大勢がまた一度に笑った。
織物売りはどこへ行っても、こういう田舎らしい言葉を使い通しているようでした。
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織屋はどこへ行ってもこういう鄙びた言葉を使って通しているらしかった。
毎日なじみの家をぐるぐる回って歩いているうちに背中の荷物がだんだん軽くなって、最後には紺の風呂敷と細いひもだけが残ります。
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毎日馴染みの家をぐるぐる回って歩いているうちには、背中の荷がだんだん軽くなって、しまいに紺の風呂敷と真田紐だけが残る。
その頃にはちょうど昔のこよみの正月が来るので、いったん故郷へ帰って古い春を山の中で越し、それからまた新しい反物を背負えるだけ背負って出て来るのだと言いました。
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その時分にはちょうど旧の正月が来るので、ひとまず国元へ帰って、古い春を山の中で越して、それからまた新らしい反物を背負えるだけ背負って出て来るのだと云った。
そして蚕を飼うのに忙しい四月の終わりか五月の初めまでに、それをすっかりお金に換えて、また富士山の北側の、焼けた石ばかり転がっている小さな村へ帰って行くのだそうです。
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そうして養蚕の忙しい四月の末か五月の初までに、それを悉皆金に換えて、また富士の北影の焼石ばかりころがっている小村へ帰って行くのだそうである。
「うちへ来るようになってから、もう四、五年になりますが、いつ見ても同じことで、少しも変わらないんですよ」
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「宅へ来出してから、もう四五年になりますが、いつ見ても同じ事で、少しも変らないんですよ」
と奥さんが言いました。
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と細君が注意した。
「実際めずらしい男です」
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「実際珍らしい男です」
と主人も言い足しました。
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と主人も評語を添えた。
三日も外へ出ないと道の幅がいつの間にか広がっていたり、一日新聞を読まないと電車が新しく通ったことを知らずに過ごしたりする今の世の中で、年に二度も東京へ出て来ながら、こう山の男らしさをどこまでも変えずにいるのは、たしかにめずらしいことでした。
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三日も外へ出ないと、町幅がいつの間にか取り広げられていたり、一日新聞を読まないと、電車の開通を知らずに過したりする今の世に、年に二度も東京へ出ながら、こう山男の特色をどこまでも維持して行くのは、実際珍らしいに違なかった。
宗助はしみじみと、この織物売りの顔つきや態度や服装や言葉づかいを見て、何とも気の毒な気持ちになりました。
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宗助はつくづくこの織屋の容貌やら態度やら服装やら言葉使やらを観察して、一種気の毒な思をなした。
彼は坂井の家を出て帰る途中も、時々外套の下に抱えて来た銘仙の包みを持ちかえながら、それを三円という安い値で売った男の粗末な綿入れのしま模様と、赤くてばさばさした髪の毛と、その油気のないかたい髪の毛が、どういうわけか頭の真ん中でりっぱに左右に分けられている様子とを、ずっと目の前にうかべていました。
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彼は坂井を辞して、家へ帰る途中にも、折々インヴァネスの羽根の下に抱えて来た銘仙の包を持ち易えながら、それを三円という安い価で売った男の、粗末な布子の縞と、赤くてばさばさした髪の毛と、その油気のない硬い髪の毛が、どういう訳か、頭の真中で立派に左右に分けられている様を、絶えず眼の前に浮べた。
家では御米が、宗助に着せる春の羽織をようやく縫い上げて、重しの代わりに座布団の下へ入れ、自分でその上に座っているところでした。
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宅では御米が、宗助に着せる春の羽織をようやく縫い上げて、圧の代りに坐蒲団の下へ入れて、自分でその上へ坐っているところであった。
「あなた、今夜敷いて寝てください」
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「あなた今夜敷いて寝て下さい」
と言って、御米は宗助を振り返りました。
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と云って、御米は宗助を顧みた。
夫から坂井の家に来ていた甲斐の男の話を聞いた時は、御米もさすがに大きな声を出して笑いました。
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夫から、坂井へ来ていた甲斐の男の話を聞いた時は、御米もさすがに大きな声を出して笑った。
そして宗助が持って帰った銘仙のしま模様と生地を、いつまでも眺めては、安い安いと言いました。
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そうして宗助の持って帰った銘仙の縞柄と地合を飽かず眺めては、安い安いと云った。
銘仙はまったく品のいいものでした。
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銘仙は全く品の良いものであった。
「どうして、そんなに安く売って商売になるんでしょう」
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「どうして、そう安く売って割に合うんでしょう」
と最後に聞きました。
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としまいに聞き出した。
「なに、間に入る呉服屋(ごふくや。着物の生地を売る店)がもうけすぎているのさ」
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「なに中へ立つ呉服屋が儲け過ぎてるのさ」
と宗助は、この一本の銘仙から考えて、その道に詳しいようなことを答えました。
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と宗助はその道に明るいような事を、この一反の銘仙から推断して答えた。
夫婦の話はそれから、坂井の暮らしに余裕があることと、その余裕のせいで横町の道具屋などに思いがけないもうけ方をされる代わりに、時にはこういう織物売りから今すぐ使わないものを安く買っておける得もあることなどに移り、最後にはあの家がいかにも陽気でにぎやかだという話になりました。
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夫婦の話はそれから、坂井の生活に余裕のある事と、その余裕のために、横町の道具屋などに意外な儲け方をされる代りに、時とするとこう云う織屋などから、差し向き不用のものを廉価に買っておく便宜を有している事などに移って、しまいにその家庭のいかにも陽気で、賑やかな模様に落ちて行った。
宗助はその時、急に言い方を変えて、
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宗助はその時突然語調を更えて、
「なに、お金があるからだけじゃない。一つは子どもが多いからさ。子どもさえいれば、たいていの貧しい家でも陽気になるものだ」
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「なに金があるばかりじゃない。一つは子供が多いからさ。子供さえあれば、大抵貧乏な家でも陽気になるものだ」
と御米に言いました。
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と御米を覚した。
その言い方が、自分たちの寂しい暮らしを少し自分でとがめるような苦い調子で御米の耳に届いたので、御米は思わず膝の上の反物から手を放して夫の顔を見ました。
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その云い方が、自分達の淋しい生涯を、多少自ら窘めるような苦い調子を、御米の耳に伝えたので、御米は覚えず膝の上の反物から手を放して夫の顔を見た。
宗助は坂井の家から持って来た品が御米の好みに合ったので、久しぶりに奥さんを喜ばせてやったという気持ちだけだったので、そこには特に気がつきませんでした。
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宗助は坂井から取って来た品が、御米の嗜好に合ったので、久しぶりに細君を喜ばせてやった自覚があるばかりだったから、別段そこには気がつかなかった。
御米もちょっと宗助の顔を見ただけで、その時は何も言いませんでした。
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御米もちょっと宗助の顔を見たなりその時は何にも云わなかった。
けれども、夜になって寝る時間が来るまで、御米はそれをわざと延ばしておいたのです。
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けれども夜に入って寝る時間が来るまで御米はそれをわざと延ばしておいたのである。
二人はいつものように十時過ぎに布団に入りましたが、夫の目がまだ覚めている頃を見て、御米は宗助の方を向いて話しかけました。
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二人はいつもの通り十時過床に入ったが、夫の眼がまだ覚めている頃を見計らって、御米は宗助の方を向いて話しかけた。
「あなた、さっき、子どもがないと寂しくていけないとおっしゃったわね」
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「あなた先刻小供がないと淋しくっていけないとおっしゃってね」
宗助は、これに似たことを世間一般の話として言った覚えはたしかにありました。
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宗助はこれに類似の事を普般的に云った覚はたしかにあった。
けれどもそれは、自分たちのことについて、特に御米に気づかせようとしてわざと言った見方ではないので、こう改めて聞かれると困るしかありませんでした。
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けれどもそれは強がちに、自分達の身の上について、特に御米の注意を惹くために口にした、故意の観察でないのだから、こう改たまって聞き糺されると、困るよりほかはなかった。
「何もうちのことを言ったんじゃないよ」
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「何も宅の事を云ったのじゃないよ」
この返事を聞いた御米は、しばらく黙っていました。
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この返事を受けた御米は、しばらく黙っていた。
やがて、
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やがて、
「でも、うちのことをいつも寂しい寂しいと思っていらっしゃるから、つまりあんなことをおっしゃるんでしょう」
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「でも宅の事を始終淋しい淋しいと思っていらっしゃるから、必竟あんな事をおっしゃるんでしょう」
と、前とほとんど同じことをまた聞きました。
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と前とほぼ似たような問を繰り返した。
宗助はもちろん、そうだと答えなければならないものを心の中に持っていました。
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宗助は固よりそうだと答えなければならない或物を頭の中に有っていた。
けれども御米に気をつかって、それほどはっきり言うことはできませんでした。
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けれども御米を憚って、それほど明白地な自白をあえてし得なかった。
この病み上がりの奥さんの心を休めるためには、かえってそれを冗談にして笑ってしまう方がいいだろうと考えて、
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この病気上りの細君の心を休めるためには、かえってそれを冗談にして笑ってしまう方が善かろうと考えたので、
「寂しいと言えば、そりゃ寂しくないこともないがね」
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「淋しいと云えば、そりゃ淋しくないでもないがね」
と調子を変えてなるべく明るく言ってみましたが、そこで止まってしまって、新しい言い方も面白い言葉もなかなか思いつきませんでした。
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と調子を易えてなるべく陽気に出たが、そこで詰まったぎり、新らしい文句も、面白い言葉も容易に思いつけなかった。
しかたなく、
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やむを得ず、
「まあいいや。心配するな」
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「まあいいや。心配するな」
と言いました。
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と云った。
御米はまた何も答えませんでした。
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御米はまた何とも答えなかった。
宗助は話を変えようと思って、
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宗助は話題を変えようと思って、
「昨日の夜も火事があったね」
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「昨夕も火事があったね」
と世間話を始めました。
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と世間話をし出した。
すると御米は急に、
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すると御米は急に、
「私は本当にあなたに申し訳なくて」
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「私は実にあなたに御気の毒で」
と、つらそうに言いかけて、またそれきり黙ってしまいました。
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と切なそうに言訳を半分して、またそれなり黙ってしまった。
ランプはいつものように床の間の上に置いてありました。
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洋灯はいつものように床の間の上に据えてあった。
御米は明かりに背を向けていたので、宗助には顔の様子がはっきり分かりませんでしたが、その声は少し涙でうるんでいるように思えました。
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御米は灯に背いていたから、宗助には顔の表情が判然分らなかったけれども、その声は多少涙でうるんでいるように思われた。
今まで上を向いて天井を見ていた彼は、すぐ妻の方へ向き直りました。
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今まで仰向いて天井を見ていた彼は、すぐ妻の方へ向き直った。
そして、うす暗い影になった御米の顔をじっと眺めました。
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そうして薄暗い影になった御米の顔をじっと眺めた。
御米も暗い中からじっと宗助を見ていました。
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御米も暗い中からじっと宗助を見ていた。
そして、
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そうして、
「ずっと前からあなたに打ち明けて謝ろう謝ろうと思っていたんですが、つい言いにくかったので、そのままにしておいたのです」
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「疾からあなたに打ち明けて謝罪まろう謝罪まろうと思っていたんですが、つい言い悪かったもんだから、それなりにしておいたのです」
と、とぎれとぎれに言いました。
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と途切れ途切れに云った。
宗助には何のことかまるで分かりませんでした。
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宗助には何の意味かまるで解らなかった。
少しは病気のせいかとも思いましたが、そうとも決められなくて、しばらくぼんやりしていました。
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多少はヒステリーのせいかとも思ったが、全然そうとも決しかねて、しばらく茫然していた。
すると御米が思いつめた調子で、
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すると御米が思い詰めた調子で、
「私にはとても子どもができる見込みはないのよ」
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「私にはとても子供のできる見込はないのよ」
と言い切って泣き出しました。
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と云い切って泣き出した。
宗助は、このつらい打ち明け話をどうなぐさめたらいいか分からず困っているうちにも、御米に対してとても申し訳ないという気持ちがどんどん強くなりました。
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宗助はこの可憐な自白をどう慰さめていいか分別に余って当惑していたうちにも、御米に対してはなはだ気の毒だという思が非常に高まった。
「子どもなんか、いなくてもいいじゃないか。上の坂井さんみたいにたくさん生まれてごらん、そばで見ていても気の毒だよ。まるで幼稚園のようで」
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「子供なんざ、無くてもいいじゃないか。上の坂井さんみたようにたくさん生れて御覧、傍から見ていても気の毒だよ。まるで幼稚園のようで」
「だって、一人もできないと決まってしまったら、あなただってよくはないでしょう」
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「だって一人もできないときまっちまったら、あなただって好かないでしょう」
「まだできないと決まったわけじゃないじゃないか。これから生まれるかもしれないさ」
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「まだできないときまりゃしないじゃないか。これから生れるかも知れないやね」
御米はさらに泣きました。
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御米はなおと泣き出した。
宗助もどうしていいか分からず、泣きが治まるのを静かに待っていました。
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宗助も途方に暮れて、発作の治まるのを穏やかに待っていた。
そして、ゆっくり御米の話を聞きました。
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そうして、緩くり御米の説明を聞いた。
夫婦は仲よく暮らすという点では人並み以上にうまくいっていましたが、同時に、子どもについては近所のどの家より不幸でした。
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夫婦は和合同棲という点において、人並以上に成功したと同時に、子供にかけては、一般の隣人よりも不幸であった。
それも初めから子どもが宿らなかったのならまだしも、育つはずの子を途中で失ったのですから、なおさら不幸だと感じられました。
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それも始から宿る種がなかったのなら、まだしもだが、育つべきものを中途で取り落したのだから、さらに不幸の感が深かった。
初めて赤ちゃんができたのは、二人が京都を出て広島でつつましく暮らしていた時でした。
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始めて身重になったのは、二人が京都を去って、広島に瘠世帯を張っている時であった。
赤ちゃんができたと分かった時、御米はこの初めての経験に、恐ろしい未来とうれしい未来を一度に夢に見るような気持ちで日を過ごしました。
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懐妊と事がきまったとき、御米はこの新らしい経験に対して、恐ろしい未来と、嬉しい未来を一度に夢に見るような心持を抱いて日を過ごした。
宗助はそれを、目に見えない愛にはっきりした形が与えられたことだと自分なりに考えて、とても喜びました。
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宗助はそれを眼に見えない愛の精に、一種の確証となるべき形を与えた事実と、ひとり解釈して少なからず喜んだ。
そして、自分の命を分けた小さな体が目の前で動き回る時が来るのを、指を折って楽しみに待ちました。
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そうして自分の命を吹き込んだ肉の塊が、目の前に踊る時節を指を折って楽しみに待った。
ところがお腹の子は夫婦の思いに反して、五か月まで育ったところで急に流れてしまいました。
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ところが胎児は、夫婦の予期に反して、五カ月まで育って突然下りてしまった。
その頃の夫婦の暮らしは、苦しくつらい月ばかり続いていました。
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その時分の夫婦の活計は苦しい苛い月ばかり続いていた。
宗助は流産した御米の青い顔を見て、これも結局は暮らしの苦労から起きたのだと考えました。
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宗助は流産した御米の蒼い顔を眺めて、これも必竟は世帯の苦労から起るんだと判じた。
そして愛の結果が貧しさのためにこわされ、もう手の中につかむことができなくなったのを残念に思いました。
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そうして愛情の結果が、貧のために打ち崩されて、永く手の裡に捕える事のできなくなったのを残念がった。
御米はただ泣いていました。
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御米はひたすら泣いた。
福岡へ移ってすぐに、御米はまた酸っぱいものを好むようになりました。
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福岡へ移ってから間もなく、御米はまた酸いものを嗜む人となった。
一度流産すると癖になると聞いていたので、御米は何もかも気をつけて、静かに過ごしていました。
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一度流産すると癖になると聞いたので、御米は万に注意して、つつましやかに振舞っていた。
そのせいか経過はとても順調でしたが、どうしたわけか、これという理由もないのに、予定の月より早く生まれてしまいました。
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そのせいか経過は至極順当に行ったが、どうした訳か、これという原因もないのに、月足らずで生れてしまった。
産婆(さんば。お産を助ける人)は首をかしげて、一度医者に見せるようにすすめました。
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産婆は首を傾けて、一度医者に見せるように勧めた。
医者に診てもらうと、育ち方が足りないから、部屋の温度をいつも同じ高さにして、昼も夜も変わらないくらいに人の手で暖めなければいけないと言いました。
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医者に診て貰うと、発育が充分でないから、室内の温度を一定の高さにして、昼夜とも変らないくらい、人工的に暖めなければいけないと云った。
宗助の力では、部屋にストーブを置く用意をするだけでも簡単ではありませんでした。
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宗助の手際では、室内に煖炉を据えつける設備をするだけでも容易ではなかった。
夫婦は自分たちの時間とやりくりのできる限りをつくして、ひたすら赤ちゃんの命を守りました。
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夫婦はわが時間と算段の許す限りを尽して、専念に赤児の命を護った。
けれども、すべてはむだになりました。
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けれどもすべては徒労に帰した。
一週間のあと、二人の血を分けた小さな体は、とうとう冷たくなりました。
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一週間の後、二人の血を分けた情の塊はついに冷たくなった。
御米は赤ちゃんの体を抱いて、
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御米は幼児の亡骸を抱いて、
「どうしましょう」
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「どうしましょう」
とすすり泣きました。
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と啜り泣いた。
宗助は二度目の打撃を、男らしく受け止めました。
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宗助は再度の打撃を男らしく受けた。
冷たくなった体が灰になって、その灰がまた黒い土に混じるまで、一言も愚痴らしい言葉は出しませんでした。
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冷たい肉が灰になって、その灰がまた黒い土に和するまで、一口も愚痴らしい言葉は出さなかった。
そのうちいつの間にか、二人の間にはさまっていた影のようなものがだんだん遠のいて、やがて消えてしまいました。
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そのうちいつとなく、二人の間に挟まっていた影のようなものが、しだいに遠退いて、ほどなく消えてしまった。
すると三度目の出来事が来ました。
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すると三度目の記憶が来た。
宗助が東京へ移って初めての年に、御米はまた赤ちゃんができたのです。
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宗助が東京に移って始ての年に、御米はまた懐妊したのである。
東京へ来たばかりの頃はかなり体が弱っていたので、御米はもちろん宗助もひどく心配しましたが、今度こそはという気持ちが二人にあったので、張りのある月を無事にだんだん重ねて行きました。
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出京の当座は、だいぶん身体が衰ろえていたので、御米はもちろん、宗助もひどくそこを気遣ったが、今度こそはという腹は両方にあったので、張のある月を無事にだんだんと重ねて行った。
ところがちょうど五か月目になって、御米はまた思いがけない失敗をしました。
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ところがちょうど五月目になって、御米はまた意外の失敗をやった。
その頃はまだ水道も引いていなかったので、朝と晩に、お手伝いの人が井戸のそばへ出て水をくんだり洗濯をしなければなりませんでした。
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その頃はまだ水道も引いてなかったから、朝晩下女が井戸端へ出て水を汲んだり、洗濯をしなければならなかった。
御米はある日、裏にいるお手伝いの人に言いつける用ができたので、井戸の流しのそばに置いたたらいの近くまで行って話をしたついでに、流しを向こうへ渡ろうとして、青いこけの生えたぬれた板の上でしりもちをついてしまいました。
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御米はある日裏にいる下女に云いつける用ができたので、井戸流の傍に置いた盥の傍まで行って話をしたついでに、流を向へ渡ろうとして、青い苔の生えている濡れた板の上へ尻持を突いた。
御米はまた失敗したとは思いましたが、自分のうっかりが恥ずかしくて、宗助にはわざと何も言わずにそのままにしておきました。
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御米はまたやり損なったとは思ったが、自分の粗忽を面目ながって、宗助にはわざと何事も語らずにその場を通した。
けれども、このしりもちがいつまでたってもお腹の子の育ちにこれという影響も与えず、自分の体にも少しも変わったことが起きないとはっきり分かった時、御米はようやく安心して、前の失敗を改めて宗助に話しました。
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けれどもこの震動が、いつまで経っても胎児の発育にこれという影響も及ぼさず、したがって自分の身体にも少しの異状を引き起さなかった事がたしかに分った時、御米はようやく安心して、過去の失を改めて宗助の前に告げた。
宗助はもちろん妻を責める気もありませんでした。
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宗助は固より妻を咎める意もなかった。
ただ、
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ただ、
「よく気をつけないと危ないよ」
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「よく気をつけないと危ないよ」
と静かに注意しただけで済ませました。
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と穏やかに注意を加えて過ぎた。
そうしているうちに、生まれる月になりました。
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とかくするうちに月が満ちた。
いよいよ生まれるという間際まで日が近づいた時、宗助は役所に出ていても、御米のことがしきりに気になりました。
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いよいよ生れるという間際まで日が詰ったとき、宗助は役所へ出ながらも、御米の事がしきりに気にかかった。
帰りにはいつも、今日はもしかしたら留守の間に、などと心配し続けながら自分の家の格子戸の前に立ちました。
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帰りにはいつも、今日はことによると留守のうちになどと案じ続けては、自分の家の格子の前に立った。
そして半ば待っている赤ちゃんの泣き声が聞こえないと、かえって何か変なことでも起きたように感じて、急いで家へ飛びこみ、自分で自分のあわてぶりを恥ずかしく思うことがありました。
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そうして半ば予期している赤児の泣声が聞えないと、かえって何かの変でも起ったらしく感じて、急いで宅へ飛び込んで、自分と自分の粗忽を恥ずる事があった。
さいわい御米が産気づいたのは、宗助にほかの用のない夜中だったので、そばにいて世話ができるという点ではとても都合がよかったのです。
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幸に御米の産気づいたのは、宗助の外に用のない夜中だったので、傍にいて世話のできると云う点から見ればはなはだ都合が好かった。
産婆もゆっくり間に合いましたし、脱脂綿(だっしめん)そのほかの準備も全部そろえてありました。
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産婆も緩くり間に合うし、脱脂綿その他の準備もことごとく不足なく取り揃えてあった。
お産も思ったより軽く済みました。
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産も案外軽かった。
けれども大事な子どもは、ただお母さんのお腹から広い所へ出て来ただけで、この世の空気を一口も吸いませんでした。
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けれども肝心の小児は、ただ子宮を逃れて広い所へ出たというまでで、浮世の空気を一口も呼吸しなかった。
産婆は細いガラスの管のようなものを取って、小さな口の中へ強い息をしきりに吹きこみましたが、効き目はまるでありませんでした。
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産婆は細い硝子の管のようなものを取って、小さい口の内へ強い呼息をしきりに吹き込んだが、効目はまるでなかった。
生まれたのは体だけでした。
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生れたものは肉だけであった。
夫婦はこの体にきざまれた目と鼻と口とを見つめました。
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夫婦はこの肉に刻みつけられた、眼と鼻と口とを髣髴した。
しかし、そののどから出る声は、とうとう聞くことができませんでした。
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しかしその咽喉から出る声はついに聞く事ができなかった。
産婆はお産のつい一週間前に来て、ていねいにお腹の子の心臓の音まで聞いて、とても元気ですと言って帰ったのです。
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産婆は出産のあったつい一週間前に来て、丁寧に胎児の心臓まで聴診して、至極御健全だと保証して行ったのである。
たとえ産婆の言うことに間違いがあって、お腹の子の育ちが今までのうちにどこかで止まっていたとしても、それがすぐ取り出されない限り、お母さんの体が今日まで平気でいられるはずはありませんでした。
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よし産婆の云う事に間違があって、腹の児の発育が今までのうちにどこかで止っていたにしたところで、それが直取り出されない以上、母体は今日まで平気に持ち応える訳がなかった。
そこをだんだん調べてみて、宗助は自分が今まで聞いたことのない事実を知った時、思わず恐れ驚きました。
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そこをだんだん調べて見て、宗助は自分がいまだかつて聞いた事のない事実を発見した時に、思わず恐れ驚ろいた。
お腹の子は生まれる間際まで元気だったのです。
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胎児は出る間際まで健康であったのである。
けれども、へその緒(お)を首に巻きつけていました。
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けれども臍帯纏絡と云って、俗に云う胞を頸へ捲きつけていた。
こういう普通でない場合は、もちろん産婆の腕で乗りこえるしかないもので、経験のある人なら、取り上げる時にうまく首にかかった緒を外して引き出すはずでした。
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こう云う異常の場合には、固より産婆の腕で切り抜けるよりほかにしようのないもので、経験のある婆さんなら、取り上げる時に、旨く頸に掛かった胞を外して引き出すはずであった。
宗助が頼んだ産婆もかなり年を取っているだけに、これくらいのことは知っていました。
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宗助の頼んだ産婆もかなり年を取っているだけに、このくらいのことは心得ていた。
しかし赤ちゃんの首に巻きついていたへその緒は、たまにあるように一重ではありませんでした。
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しかし胎児の頸を絡んでいた臍帯は、時たまあるごとく一重ではなかった。
二重に細いのどを巻いている緒を、あの細い所を通す時に外しそこなったので、子どもはぐっと息の通り道をしめられて、息ができなくなってしまったのです。
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二重に細い咽喉を巻いている胞を、あの細い所を通す時に外し損なったので、小児はぐっと気管を絞められて窒息してしまったのである。
産婆にも責任はありました。
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罪は産婆にもあった。
けれども半分以上は御米の落ち度にちがいありませんでした。
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けれどもなかば以上は御米の落度に違なかった。
へその緒が首に巻きつくということは、御米が井戸のそばですべってひどくしりもちをついた五か月前に、もう自分で招いてしまったものだと分かりました。
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臍帯纏絡の変状は、御米が井戸端で滑って痛く尻餅を搗いた五カ月前すでに自ら醸したものと知れた。
御米はお産のあとの布団の中でそのことを聞いて、ただ軽くうなずいただけで何も言いませんでした。
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御米は産後の蓐中にその始末を聞いて、ただ軽く首肯いたぎり何にも云わなかった。
そして、疲れて少しくぼんだ目をうるませ、長いまつげをしきりに動かしました。
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そうして、疲労に少し落ち込んだ眼を霑ませて、長い睫毛をしきりに動かした。
宗助はなぐさめながら、ハンカチでほおに流れる涙をふいてやりました。
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宗助は慰さめながら、手帛で頬に流れる涙を拭いてやった。
これが子どもについての夫婦の過去でした。
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これが子供に関する夫婦の過去であった。
このつらい経験をした二人は、それから、小さな子どものことを多く話すのを好みませんでした。
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この苦い経験を甞めた彼らは、それ以後幼児について余り多くを語るを好まなかった。
けれども二人の暮らしの裏側は、この思い出のために寂しく染まってしまって、簡単には落ちそうに見えませんでした。
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けれども二人の生活の裏側は、この記憶のために淋しく染めつけられて、容易に剥げそうには見えなかった。
時には、お互いの笑い声を通してさえ、この裏側がうす暗く胸に映ることもありました。
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時としては、彼我の笑声を通してさえ、御互の胸に、この裏側が薄暗く映る事もあった。
こういうわけですから、過ぎたことを今、夫に向かってもう一度話そうとは、御米も思っていなかったのです。
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こういう訳だから、過去の歴史を今夫に向って新たに繰り返そうとは、御米も思い寄らなかったのである。
宗助も今さら妻からそれを聞かされる必要は、少しも感じていませんでした。
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宗助も今更妻からそれを聞かせられる必要は少しも認めていなかったのである。
御米が夫に打ち明けると言ったのは、もちろん二人ともが知っていることについてではありませんでした。
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御米の夫に打ち明けると云ったのは、固より二人の共有していた事実についてではなかった。
彼女は三度目の子を失った時、夫からその時の様子を聞いて、いかにも自分がひどい母親であるかのように感じました。
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彼女は三度目の胎児を失った時、夫からその折の模様を聞いて、いかにも自分が残酷な母であるかのごとく感じた。
自分で手を出した覚えはないにしても、考えようによっては、自分が命を与えたものの命を奪うために、暗い所と明るい所の途中で待ちかまえて、その首をしめたのと同じことだったからです。
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自分が手を下した覚がないにせよ、考えようによっては、自分と生を与えたものの生を奪うために、暗闇と明海の途中に待ち受けて、これを絞殺したと同じ事であったからである。
そう考えた時、御米は恐ろしい罪を犯した悪い人間だと自分を思わずにいられませんでした。
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こう解釈した時、御米は恐ろしい罪を犯した悪人と己を見傚さない訳に行かなかった。
そして思いがけない自分への責めを、だれにも言えずに受けました。
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そうして思わざる徳義上の苛責を人知れず受けた。
しかも、その責めを分け合っていっしょに苦しんでくれる人は、世界中に一人もいませんでした。
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しかもその苛責を分って、共に苦しんでくれるものは世界中に一人もなかった。
御米は夫にさえ、この苦しみを話さなかったのです。
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御米は夫にさえこの苦しみを語らなかったのである。
彼女はその時、普通のお産のあとの人と同じように、三週間を布団の中で過ごしました。
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彼女はその時普通の産婦のように、三週間を床の中で暮らした。
それは体から言えば、とても静かな三週間にちがいありませんでした。
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それは身体から云うと極めて安静の三週間に違なかった。
同時に心から言えば、恐ろしいほど我慢の三週間でした。
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同時に心から云うと、恐るべき忍耐の三週間であった。
宗助は亡くなった子のために小さな棺(ひつぎ)を作って、人目につかないお葬式をしました。
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宗助は亡児のために、小さい柩を拵らえて、人の眼に立たない葬儀を営なんだ。
そのあと、また死んだ子のために小さな位牌(いはい。亡くなった人の名を書いて拝む木の札)を作りました。
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しかる後、また死んだもののために小さな位牌を作った。
位牌には黒い漆で戒名(かいみょう。亡くなった人に付ける名前)が書いてありました。
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位牌には黒い漆で戒名が書いてあった。
その子は戒名を持っていました。
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位牌の主は戒名を持っていた。
けれども生きている時の名前は、親でさえ知りませんでした。
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けれども俗名は両親といえども知らなかった。
宗助は最初それを茶の間のたんすの上に置いて、役所から帰るといつも線香をあげました。
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宗助は最初それを茶の間の箪笥の上へ載せて、役所から帰ると絶えず線香を焚いた。
そのにおいが、六畳に寝ている御米の鼻に時々届きました。
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その香が六畳に寝ている御米の鼻に時々通った。
彼女の感覚は、その時それほど鋭くなっていたのです。
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彼女の官能は当時それほどに鋭どくなっていたのである。
しばらくしてから、宗助は何を考えたのか、小さな位牌をたんすの引き出しの奥へしまってしまいました。
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しばらくしてから、宗助は何を考えたか、小さい位牌を箪笥の抽出の底へしまってしまった。
そこには福岡で亡くなった子の位牌と、東京で死んだ父の位牌が、それぞれ綿に包んでていねいに入れてありました。
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そこには福岡で亡くなった小供の位牌と、東京で死んだ父の位牌が別々に綿で包んで丁寧に入れてあった。
東京の家をやめる時、宗助は先祖の位牌を一つ残らず持ってあちこち移り歩くのは大変だったので、新しい父の分だけをかばんに入れて、そのほかは全部お寺へ預けておいたのです。
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東京の家を畳むとき宗助は先祖の位牌を一つ残らず携えて、諸所を漂泊するの煩わしさに堪えなかったので、新らしい父の分だけを鞄の中に収めて、その他はことごとく寺へ預けておいたのである。
御米は宗助のすることを全部、寝ながら見たり聞いたりしていました。
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御米は宗助のするすべてを寝ながら見たり聞いたりしていた。
そして布団の上で上を向いたまま、この二つの小さな位牌を、目に見えないつながりの糸を長く引いてお互いに結びつけました。
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そうして布団の上に仰向になったまま、この二つの小さい位牌を、眼に見えない因果の糸を長く引いて互に結びつけた。
それからその糸をもっと遠くまで延ばして、位牌にもならずに流れてしまった、初めから形のない、ぼんやりした影のような死んだ子の上に投げかけました。
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それからその糸をなお遠く延ばして、これは位牌にもならずに流れてしまった、始めから形のない、ぼんやりした影のような死児の上に投げかけた。
御米は広島と福岡と東京に残る一つずつの思い出の底に、変えることのできない運命の重い力を感じました。そして、その力の下で暮らして来た自分を、不思議にも同じ不幸を繰り返すように作られた母親だと見た時、思いもしない呪いの声を耳のそばに聞きました。
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御米は広島と福岡と東京に残る一つずつの記憶の底に、動かしがたい運命の厳かな支配を認めて、その厳かな支配の下に立つ、幾月日の自分を、不思議にも同じ不幸を繰り返すべく作られた母であると観じた時、時ならぬ呪詛の声を耳の傍に聞いた。
彼女が三週間、静かに布団の上で休まなければならないと体から言われている間、その耳はこの呪いの声でほとんどずっと鳴っていました。
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彼女が三週間の安静を、蒲団の上に貪ぼらなければならないように、生理的に強いられている間、彼女の鼓膜はこの呪詛の声でほとんど絶えず鳴っていた。
三週間寝て過ごすことは、御米にとって本当に、たとえようもない我慢の三週間でした。
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三週間の安臥は、御米に取って実に比類のない忍耐の三週間であった。
御米はこの苦しい半月あまりを、枕の上でじっと一点を見つめながら過ごしました。
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御米はこの苦しい半月余りを、枕の上でじっと見つめながら過ごした。
最後には我慢して横になっているのがいかにもつらかったので、看護婦が帰った次の日にこっそり起きて歩いてみましたが、それでも心に迫る不安はなかなかまぎれませんでした。
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しまいには我慢して横になっているのが、いかにも苛かったので、看護婦の帰った明る日に、こっそり起きてぶらぶらして見たが、それでも心に逼る不安は、容易に紛らせなかった。
重い体を無理に動かすのに、頭の中は少しも動いてくれないので、またがっかりして、最後には敷いたままの布団の下へ潜りこんで、世の中から離れるように目をかたく閉じてしまうこともありました。
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退儀な身体を無理に動かす割に、頭の中は少しも動いてくれないので、また落胆りして、ついには取り放しの夜具の下へ潜り込んで、人の世を遠ざけるように、眼を堅く閉ってしまう事もあった。
そのうち決まりの三週間も過ぎて、御米の体は自然とすっきりしました。
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そのうち定期の三週間も過ぎて、御米の身体は自からすっきりなった。
御米はきれいに布団を片づけて、新しい気持ちのする自分の顔をまた鏡に映しました。
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御米は奇麗に床を払って、新らしい気のする眉を再び鏡に照らした。
それは着る物を夏のものに替える時期でした。
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それは更衣の時節であった。
御米も久しぶりに綿の入った重いものを脱いで、肌が軽くなった気持ちよさを感じました。
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御米も久しぶりに綿の入った重いものを脱ぎ棄てて、肌に垢の触れない軽い気持を爽やかに感じた。
春と夏の境をぱっと飾る明るい日本の景色は、寂しい御米の心にも少しは響きました。
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春と夏の境をぱっと飾る陽気な日本の風物は、淋しい御米の頭にも幾分かの反響を与えた。
けれどもそれは、ただ沈んでいたものをかき立てて、にぎやかな光の中に浮かべただけでした。
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けれども、それはただ沈んだものを掻き立てて、賑やかな光りのうちに浮かしたまでであった。
御米の暗い過去の中に、その時、ある知りたい気持ちが芽を出したのです。
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御米の暗い過去の中にその時一種の好奇心が萌したのである。
天気がとくべつにきれいなある日の午前、御米はいつものように宗助を送り出してから、すぐ外へ出ました。
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天気の勝れて美くしいある日の午前、御米はいつもの通り宗助を送り出してから直に、表へ出た。
もう女は日傘をさして歩く時期でした。
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もう女は日傘を差して外を行くべき時節であった。
急いで日なたを歩くと、額のあたりが少し汗ばみました。
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急いで日向を歩くと額の辺が少し汗ばんだ。
御米は歩きながら、着物を替える時にたんすを開けたら、思わず一番上の引き出しの奥にしまってあった新しい位牌に手が触れたことをずっと考え続けて、とうとうある占い師の家の門をくぐりました。
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御米は歩き歩き、着物を着換える時、箪笥を開けたら、思わず一番目の抽出の底にしまってあった、新らしい位牌に手が触れた事を思いつづけて、とうとうある易者の門を潜った。
彼女は多くの現代人と同じような、占いを信じる気持ちを子どもの時から持っていました。
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彼女は多数の文明人に共通な迷信を子供の時から持っていた。
けれども普段は、その気持ちもまた多くの現代人と同じように、遊び半分で表に出るだけで済んでいました。
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けれども平生はその迷信がまた多数の文明人と同じように、遊戯的に外に現われるだけで済んでいた。
それが本当の暮らしの大事な部分に入りこむようになったのは、まったくめずらしいことと言わなければなりませんでした。
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それが実生活の厳かな部分を冒すようになったのは、全く珍らしいと云わなければならなかった。
御米はその時、まじめな態度とまじめな心で占い師の前に座って、自分がこれから子どもを生み、また育てる運命を天から与えられるだろうかを確かめました。
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御米はその時真面目な態度と真面目な心を有って、易者の前に坐って、自分が将来子を生むべき、また子を育てるべき運命を天から与えられるだろうかを確めた。
占い師は、道ばたに店を出して通る人の運を一、二銭で占う人と少しも違わない様子で、占いの木の棒をいろいろに並べてみたり、細い竹の棒をもんだり数えたりしたあと、もっともらしくあごの下のひげをつかんで何か考えていましたが、最後に御米の顔をじっと眺めたあげく、
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易者は大道に店を出して、往来の人の身の上を一二銭で占なう人と、少しも違った様子もなく、算木をいろいろに並べて見たり、筮竹を揉んだり数えたりした後で、仔細らしく腮の下の髯を握って何か考えたが、終りに御米の顔をつくづく眺めた末、
「あなたには子どもはできません」
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「あなたには子供はできません」
と落ち着き払って言いました。
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と落ちつき払って宣告した。
御米は黙ったまま、しばらく占い師の言葉を頭の中でかみくだいていました。
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御米は無言のまま、しばらく易者の言葉を頭の中で噛んだり砕いたりした。
それから顔を上げて、
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それから顔を上げて、
「なぜでしょう」
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「なぜでしょう」
と聞き返しました。
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と聞き返した。
その時、御米は占い師が返事をする前にまた考えるだろうと思いました。
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その時御米は易者が返事をする前に、また考えるだろうと思った。
ところが彼は、まっすぐ御米のまゆの間を見つめたまま、すぐ
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ところが彼はまともに御米の眼の間を見詰めたまま、すぐ
「あなたは人に対して悪いことをした覚えがある。その罪がたたっているから、子どもは決して育たない」
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「あなたは人に対してすまない事をした覚がある。その罪が祟っているから、子供はけっして育たない」
と言い切りました。
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と云い切った。
御米はこの一言に、心臓を射抜かれるような気がしました。
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御米はこの一言に心臓を射抜かれる思があった。
がっくり首を落としたまま家へ帰って、その夜は夫の顔さえろくに見上げませんでした。
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くしゃりと首を折ったなり家へ帰って、その夜は夫の顔さえろくろく見上げなかった。
御米が宗助に打ち明けないまま今まで来たというのは、この占い師の言葉でした。
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御米の宗助に打ち明けないで、今まで過したというのは、この易者の判断であった。
宗助は、床の間に置いた細いランプの明かりが夜の中に沈んで行きそうな静かな晩に、初めて御米の口からその話を聞いた時、さすがにいい気持ちはしませんでした。
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宗助は床の間に乗せた細い洋灯の灯が、夜の中に沈んで行きそうな静かな晩に、始めて御米の口からその話を聞いたとき、さすがに好い気味はしなかった。
「気持ちが弱っている時に、わざわざそんな馬鹿な所へ出かけるからさ。お金を出してつまらないことを言われて、馬鹿らしいじゃないか。その後もその占い師の所へ行くのかい」
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「神経の起った時、わざわざそんな馬鹿な所へ出かけるからさ。銭を出して下らない事を云われてつまらないじゃないか。その後もその占の宅へ行くのかい」
「恐ろしいから、もう決して行かないわ」
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「恐ろしいから、もうけっして行かないわ」
「行かない方がいい。馬鹿げている」
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「行かないがいい。馬鹿気ている」
宗助はわざと大きく構えた答えをして、また寝てしまいました。
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宗助はわざと鷹揚な答をしてまた寝てしまった。
十四
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十四
宗助と御米とは、仲のいい夫婦にちがいありませんでした。
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宗助と御米とは仲の好い夫婦に違なかった。
いっしょになってから今日までの六年ほどの長い間、まだ半日も気まずく過ごしたことがありませんでした。
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いっしょになってから今日まで六年ほどの長い月日を、まだ半日も気不味く暮した事はなかった。
言い争って顔を赤くし合ったことは、もちろんありませんでした。
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言逆に顔を赤らめ合った試はなおなかった。
二人は呉服屋の布を買って着ました。
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二人は呉服屋の反物を買って着た。
米屋から米を取って食べました。
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米屋から米を取って食った。
けれどもそのほかには、世間に頼るところがとても少ない人間でした。
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けれどもその他には一般の社会に待つところのきわめて少ない人間であった。
二人は、毎日の必要な品を売ってくれるという意味を超えては、世の中の存在をほとんど認めていませんでした。
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彼らは、日常の必要品を供給する以上の意味において、社会の存在をほとんど認めていなかった。
二人にとってどうしても必要なのはお互いだけで、そのお互いだけで二人には十分でした。
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彼らに取って絶対に必要なものは御互だけで、その御互だけが、彼らにはまた充分であった。
二人は山の中にいるような心を持って、都会に住んでいました。
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彼らは山の中にいる心を抱いて、都会に住んでいた。
当然のなりゆきとして、二人の暮らしは変化のないものにならざるを得ませんでした。
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自然の勢として、彼らの生活は単調に流れない訳に行かなかった。
二人は複雑な世の中のめんどうを避けられたと同時に、その世の中の動きから生まれるいろいろな経験に直接触れる機会を自分でふさいでしまいました。そして、都会に住みながら都会に住む人の得を捨てたような形になったのです。
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彼らは複雑な社会の煩を避け得たと共に、その社会の活動から出るさまざまの経験に直接触れる機会を、自分と塞いでしまって、都会に住みながら、都会に住む文明人の特権を棄てたような結果に到着した。
二人も、自分たちの毎日に変化がないことは時々気づいていました。
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彼らも自分達の日常に変化のない事は折々自覚した。
お互いにあきるとか、物足りなくなるとかいう気持ちは少しも起きませんでしたが、二人が受け取る暮らしの中身には、刺激の足りない何かがひそんでいるような、はっきりしない不満がありました。
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御互が御互に飽きるの、物足りなくなるのという心は微塵も起らなかったけれども、御互の頭に受け入れる生活の内容には、刺戟に乏しい或物が潜んでいるような鈍い訴があった。
それでも、二人が毎日同じ判をおすように長い月日をあきずに過ごして来たのは、初めから世の中に興味がなかったからではありませんでした。
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それにもかかわらず、彼らが毎日同じ判を同じ胸に押して、長の月日を倦まず渡って来たのは、彼らが始から一般の社会に興味を失っていたためではなかった。
世の中の方が二人を二人だけに切り縮めて、その二人に冷たい背を向けた結果にすぎませんでした。
原文を見る
社会の方で彼らを二人ぎりに切りつめて、その二人に冷かな背を向けた結果にほかならなかった。
外へ向かって伸びる場所を見つけられなかった二人は、内へ向かって深く伸び始めたのです。
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外に向って生長する余地を見出し得なかった二人は、内に向って深く延び始めたのである。
二人の暮らしは広さを失うと同時に、深さを増して来ました。
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彼らの生活は広さを失なうと同時に、深さを増して来た。
二人は六年の間、世間とのあちこちの付き合いを求めなかった代わりに、その同じ六年の時間を全部使って、お互いの心を掘り下げました。
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彼らは六年の間世間に散漫な交渉を求めなかった代りに、同じ六年の歳月を挙げて、互の胸を掘り出した。
二人の命は、いつの間にかお互いの底まで入りこんでいました。
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彼らの命は、いつの間にか互の底にまで喰い入った。
二人は世間から見れば、相変わらず二人でした。
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二人は世間から見れば依然として二人であった。
けれどもお互いから言えば、切り離すことのできない一つの生き物になっていました。
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けれども互から云えば、道義上切り離す事のできない一つの有機体になった。
二人の心を作っている神経のつながりは、一番細いところまでお互いに抱き合ってでき上がっていました。
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二人の精神を組み立てる神経系は、最後の繊維に至るまで、互に抱き合ってでき上っていた。
二人は大きな水ばんの水の上に落ちた二つぶの油のようなものでした。
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彼らは大きな水盤の表に滴たった二点の油のようなものであった。
水をはじいて二つがいっしょに集まったというより、水にはじかれた勢いで丸く寄り添った結果、離れられなくなったと言う方が近かったのです。
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水を弾いて二つがいっしょに集まったと云うよりも、水に弾かれた勢で、丸く寄り添った結果、離れる事ができなくなったと評する方が適当であった。
二人はこの抱き合いの中に、普通の夫婦には見つけにくい親しみと満足と、それについて来るあきの気持ちとを、いっしょに持っていました。
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彼らはこの抱合の中に、尋常の夫婦に見出しがたい親和と飽満と、それに伴なう倦怠とを兼ね具えていた。
そして、そのだるいあきの気分に支配されながらも、自分たちを幸せだと思うことだけは忘れませんでした。
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そうしてその倦怠の慵い気分に支配されながら、自己を幸福と評価する事だけは忘れなかった。
あきの気持ちは二人の意識に眠りのような幕をかけて、二人の愛をぼんやりかすませることはありました。
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倦怠は彼らの意識に眠のような幕を掛けて、二人の愛をうっとり霞ます事はあった。
けれども、神経をこすられるような不安を起こすことは決してありませんでした。
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けれども簓で神経を洗われる不安はけっして起し得なかった。
つまり、二人は世間から離れているだけ、それだけ仲のいい夫婦だったのです。
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要するに彼らは世間に疎いだけそれだけ仲の好い夫婦であったのである。
二人は人並み以上に仲のいい日々を、変わらず今日から明日へとつないで行きながら、普段はそれに気づかないまま顔を見合わせているようなものでしたが、時々、自分たちが仲よくしている心を自分ではっきり感じることがありました。
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彼らは人並以上に睦ましい月日を渝らずに今日から明日へと繋いで行きながら、常はそこに気がつかずに顔を見合わせているようなものの、時々自分達の睦まじがる心を、自分で確と認める事があった。
その時には、必ず今まで仲よく過ごした長い年月をさかのぼって、自分たちがどんな犠牲を払って結婚を決めたかという当時を思い出さずにいられませんでした。
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その場合には必ず今まで睦まじく過ごした長の歳月を溯のぼって、自分達がいかな犠牲を払って、結婚をあえてしたかと云う当時を憶い出さない訳には行かなかった。
二人は、世の中が自分たちの前に持って来た恐ろしい仕返しの前で、ふるえながらひざまずきました。
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彼らは自然が彼らの前にもたらした恐るべき復讐の下に戦きながら跪ずいた。
同時に、この仕返しを受けるために得たお互いの幸せに対して、愛の神に感謝をささげることも忘れませんでした。
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同時にこの復讐を受けるために得た互の幸福に対して、愛の神に一弁の香を焚く事を忘れなかった。
二人はむち打たれながら死に向かって行く者でした。
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彼らは鞭たれつつ死に赴くものであった。
ただ、そのむちの先に、すべてを治す甘いみつがついていることを知ったのです。
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ただその鞭の先に、すべてを癒やす甘い蜜の着いている事を覚ったのである。
宗助はそれなりに財産のある東京の家の子として、そういう家の子に多い派手な好みを、学生時代には遠慮なく満たした男でした。
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宗助は相当に資産のある東京ものの子弟として、彼らに共通な派出な嗜好を、学生時代には遠慮なく充たした男である。
彼はその時、身なりにも動きにも考え方にも、今風の切れる若者らしさをあふれさせて、頭を高くあげて、行きたい所を大きな顔で歩いていました。
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彼はその時服装にも、動作にも、思想にも、ことごとく当世らしい才人の面影を漲らして、昂い首を世間に擡げつつ、行こうと思う辺りを濶歩した。
彼の襟が白かったように、彼のズボンのすそがきれいに折り返されていたように、その下から見える靴下が模様入りの上等な毛の靴下だったように、彼の頭の中も、世間向けにおしゃれでした。
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彼の襟の白かったごとく、彼の洋袴の裾が奇麗に折り返されていたごとく、その下から見える彼の靴足袋が模様入のカシミヤであったごとく、彼の頭は華奢な世間向きであった。
彼は生まれつき物わかりのいい男でした。
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彼は生れつき理解の好い男であった。
ですから、たいして勉強をする気にはなれませんでした。
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したがって大した勉強をする気にはなれなかった。
学問は世の中へ出るための手段だと思っていたので、世の中から一歩下がらないとなれない学者という立場には、あまり興味を持っていませんでした。
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学問は社会へ出るための方便と心得ていたから、社会を一歩退ぞかなくっては達する事のできない、学者という地位には、余り多くの興味を有っていなかった。
彼はただ教室へ出て、普通の学生がするように、たくさんのノートを字で黒くしました。
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彼はただ教場へ出て、普通の学生のする通り、多くのノートブックを黒くした。
けれども家へ帰って来て、それを読み直したり書き直したりしたことは、めったにありませんでした。
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けれども宅へ帰って来て、それを読み直したり、手を入れたりした事は滅多になかった。
休んで抜けた所さえ、たいていはそのままにしておきました。
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休んで抜けた所さえ大抵はそのままにして放って置いた。
彼は下宿の机の上にこのノートをきれいに積み上げて、いつ見てもきちんと片づいた部屋を空にして、外を出歩いていました。
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彼は下宿の机の上に、このノートブックを奇麗に積み上げて、いつ見ても整然と秩序のついた書斎を空にしては、外を出歩るいた。
友達はたいてい彼のおおらかさをうらやみました。
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友達は多く彼の寛濶を羨んだ。
宗助も得意でした。
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宗助も得意であった。
彼の未来は虹のように美しく彼の目を照らしていました。
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彼の未来は虹のように美くしく彼の眸を照らした。
その頃の宗助は今と違って、たくさんの友達を持っていました。
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その頃の宗助は今と違って多くの友達を持っていた。
実を言うと、明るい彼の目に映るすべての人が、だれということもなくみんな友達でした。
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実を云うと、軽快な彼の眼に映ずるすべての人は、ほとんど誰彼の区別なく友達であった。
彼は敵という言葉の意味を本当には分からない、明るい人として、若い日々をのびのびと過ごしました。
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彼は敵という言葉の意味を正当に解し得ない楽天家として、若い世をのびのびと渡った。
「なに、暗い顔さえしなければ、どこへ行ったって歓迎されるものだよ」
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「なに不景気な顔さえしなければ、どこへ行ったって驩迎されるもんだよ」
と学校の友達の安井によく話していました。
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と学友の安井によく話した事があった。
実際、彼の顔は、人をいやな気持ちにさせるほど深刻な表情になったことがありませんでした。
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実際彼の顔は、他を不愉快にするほど深刻な表情を示し得た試がなかった。
「君は体が丈夫だからいいね」
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「君は身体が丈夫だから結構だ」
と、よくどこか具合の悪くなる安井がうらやましがりました。
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とよくどこかに故障の起る安井が羨ましがった。
この安井というのは、生まれは越前(えちぜん。今の福井県)ですが、長く横浜にいたので、言葉も様子も少しも東京の人と違いませんでした。
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この安井というのは国は越前だが、長く横浜にいたので、言葉や様子は毫も東京ものと異なる点がなかった。
着物にこだわる人で、髪の毛を長くして真ん中から分ける癖がありました。
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着物道楽で、髪の毛を長くして真中から分ける癖があった。
通っていた高等学校は違いましたが、講義の時によく隣に並んで、時々聞きそこなった所などをあとから質問するので、それで話すようになり、つい親しくなりました。
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高等学校は違っていたけれども、講義のときよく隣合せに並んで、時々聞き損なった所などを後から質問するので、口を利き出したのが元になって、つい懇意になった。
それが学年の初めだったので、京都へ来てまだ日の浅い宗助にはとても助かりました。
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それが学年の始りだったので、京都へ来て日のまだ浅い宗助にはだいぶんの便宜であった。
彼は安井に案内されて、新しい土地の感じをお酒のように吸いこみました。
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彼は安井の案内で新らしい土地の印象を酒のごとく吸い込んだ。
二人は毎晩のように三条とか四条とかいうにぎやかな町を歩きました。
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二人は毎晩のように三条とか四条とかいう賑やかな町を歩いた。
時には京極も通りぬけました。
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時によると京極も通り抜けた。
橋の真ん中に立って鴨川(かもがわ)の水を眺めました。
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橋の真中に立って鴨川の水を眺めた。
東山(ひがしやま)の上に出る静かな月を見ました。
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東山の上に出る静かな月を見た。
そして京都の月は東京の月より丸くて大きいように感じました。
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そうして京都の月は東京の月よりも丸くて大きいように感じた。
町や人にあきた時は、土曜と日曜を使って遠い郊外へ出ました。
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町や人に厭きたときは、土曜と日曜を利用して遠い郊外に出た。
宗助はどこにでもある大きな竹やぶの、緑がこもった深い姿を喜びました。
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宗助は至る所の大竹藪に緑の籠る深い姿を喜んだ。
松の幹が染めたように赤いのが日を照り返して、何本も並んでいる様子を楽しみました。
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松の幹の染めたように赤いのが、日を照り返して幾本となく並ぶ風情を楽しんだ。
ある時は大悲閣(だいひかく)という寺に登って、額の下で上を向きながら、谷底の川を下る舟のろの音を聞きました。
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ある時は大悲閣へ登って、即非の額の下に仰向きながら、谷底の流を下る櫓の音を聞いた。
その音が雁(かり)の鳴き声によく似ているのを、二人とも面白がりました。
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その音が雁の鳴声によく似ているのを二人とも面白がった。
ある時は平八茶屋(へいはちぢゃや)まで出かけて行って、そこで一日寝ていました。
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ある時は、平八茶屋まで出掛けて行って、そこに一日寝ていた。
そして、おいしくない川の魚を串にさしたものをおかみさんに焼かせて、お酒を飲みました。
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そうして不味い河魚の串に刺したのを、かみさんに焼かして酒を呑んだ。
そのおかみさんは手ぬぐいをかぶって、紺のもんぺのようなものをはいていました。
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そのかみさんは、手拭を被って、紺の立付みたようなものを穿いていた。
宗助はこんな新しい刺激の中で、しばらくは満足していました。
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宗助はこんな新らしい刺戟の下に、しばらくは慾求の満足を得た。
けれども、ひととおり古い都のにおいをかいで歩くうちに、何もかもがやがて平らでつまらないものに見え出しました。
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けれどもひととおり古い都の臭を嗅いで歩くうちに、すべてがやがて、平板に見えだして来た。
その時、彼は美しい山の色ときれいな水の色が、初めほど鮮やかに自分の心に残らなくなったのを、物足りなく思い始めました。
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その時彼は美くしい山の色と清い水の色が、最初ほど鮮明な影を自分の頭に宿さないのを物足らず思い始めた。
彼は暖かい若い血を持っていて、その熱を冷ましてくれる深い緑に出会えなくなりました。
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彼は暖かな若い血を抱いて、その熱りを冷す深い緑に逢えなくなった。
かといって、この熱を焼き尽くすほどの激しい活動にも、もちろん出会いませんでした。
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そうかといって、この情熱を焚き尽すほどの烈しい活動には無論出会わなかった。
彼の血は速く脈を打って、ただむずむずと彼の体の中を流れていました。
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彼の血は高い脈を打って、いたずらにむず痒く彼の身体の中を流れた。
彼は腕を組んで、座ったまま四方の山を眺めました。
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彼は腕組をして、坐ながら四方の山を眺めた。
そして、
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そうして、
「もうこんな古くさい所にはあきた」
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「もうこんな古臭い所には厭きた」
と言いました。
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と云った。
安井は笑いながら、比べるために、自分の知っているある友達の故郷の話をして宗助に聞かせました。
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安井は笑いながら、比較のため、自分の知っている或友達の故郷の物語をして宗助に聞かした。
それは、昔の語り物の芝居の「間の土山、雨が降る」という文句で知られた、ある有名な宿場町(しゅくばまち。街道の宿の集まった町)のことでした。
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それは浄瑠璃の間の土山雨が降るとある有名な宿の事であった。
朝起きてから夜寝るまで、目に入るものは山しかない所で、まるですりばちの底に住んでいるのと同じだと言った上で、安井はその友達の小さい頃の話として、梅雨(つゆ)の雨が降り続く時などは、子ども心に、今にも自分の住んでいる町が四方の山から流れて来る雨の中に浸かってしまいそうで心配でならなかった、という話をしました。
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朝起きてから夜寝るまで、眼に入るものは山よりほかにない所で、まるで擂鉢の底に住んでいると同じ有様だと告げた上、安井はその友達の小さい時分の経験として、五月雨の降りつづく折などは、小供心に、今にも自分の住んでいる宿が、四方の山から流れて来る雨の中に浸かってしまいそうで、心配でならなかったと云う話をした。
宗助は、そんなすりばちの底で一生を過ごす人の運命ほど情けないものはないだろうと思いました。
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宗助はそんな擂鉢の底で一生を過す人の運命ほど情ないものはあるまいと考えた。
「そういう所で、人間がよく生きていられるな」
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「そう云う所に、人間がよく生きていられるな」
と不思議そうな顔をして安井に言いました。
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と不思議そうな顔をして安井に云った。
安井も笑っていました。
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安井も笑っていた。
そして土山から出た人物の中では、千両箱をすりかえて死刑になったのが一番の大物なのだという話を、やはり友達から聞いたとおりに話しました。
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そうして土山から出た人物の中では、千両函を摩り替えて磔になったのが一番大きいのだと云う一口話をやはり友達から聞いた通り繰り返した。
狭い京都にあきていた宗助は、変化のない暮らしに色をつけるものとして、そういう出来事も百年に一度くらいは必要だろうとまで思いました。
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狭い京都に飽きた宗助は、単調な生活を破る色彩として、そう云う出来事も百年に一度ぐらいは必要だろうとまで思った。
その頃の宗助の目は、いつも新しい世界ばかりを見ていました。
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その時分の宗助の眼は、常に新らしい世界にばかり注がれていた。
ですから、自然がひととおり四季の色を見せてしまったあとでは、また去年の思い出を呼び戻すために花や紅葉を迎える必要がなくなりました。
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だから自然がひととおり四季の色を見せてしまったあとでは、再び去年の記憶を呼び戻すために、花や紅葉を迎える必要がなくなった。
強く激しい命を生きたという証しをどうしてもつかみたかった彼には、生きている今と、これから生まれる未来が目の前の問題でした。けれども消えかかる過去は夢と同じで、価値の少ないまぼろしにすぎませんでした。
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強く烈しい命に生きたと云う証券を飽くまで握りたかった彼には、活きた現在と、これから生れようとする未来が、当面の問題であったけれども、消えかかる過去は、夢同様に価の乏しい幻影に過ぎなかった。
彼は色のはげかけたたくさんの神社と、さびれ果てた寺を見つくして、色のあせた歴史の方へ黒い頭を向ける気持ちを失いかけていました。
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彼は多くの剥げかかった社と、寂果てた寺を見尽して、色の褪めた歴史の上に、黒い頭を振り向ける勇気を失いかけた。
眠ったような昔の中をさまよい歩くほど、彼の気持ちは枯れていなかったのです。
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寝耄けた昔に彽徊するほど、彼の気分は枯れていなかったのである。
学年の終わりに、宗助と安井とはまた会う約束をして別れました。
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学年の終りに宗助と安井とは再会を約して手を分った。
安井はいったん故郷の福井へ帰って、それから横浜へ行くつもりだから、その時には手紙で知らせよう、そしてできれば同じ汽車で京都へ行こう、もし時間があれば興津(おきつ)あたりで泊まって、清見寺(せいけんじ)や三保の松原や久能山(くのうざん)でも見ながらゆっくり遊んで行こうと言いました。
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安井はひとまず郷里の福井へ帰って、それから横浜へ行くつもりだから、もしその時には手紙を出して通知をしよう、そうしてなるべくならいっしょの汽車で京都へ下ろう、もし時間が許すなら、興津あたりで泊って、清見寺や三保の松原や、久能山でも見ながら緩くり遊んで行こうと云った。
宗助はそれはいいと答えて、心の中ではもう、安井のはがきを手にする時の気持ちまで思いうかべていました。
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宗助は大いによかろうと答えて、腹のなかではすでに安井の端書を手にする時の心持さえ予想した。
宗助が東京へ帰った時は、父はもちろんまだ元気でした。
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宗助が東京へ帰ったときは、父は固よりまだ丈夫であった。
小六は子どもでした。
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小六は子供であった。
彼は一年ぶりに、にぎやかな都の暑さとけむりを吸うのを、かえってうれしく感じました。
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彼は一年ぶりに殷んな都の炎熱と煤煙を呼吸するのをかえって嬉しく感じた。
焼けるような日の下で、うずを巻いて狂い出しそうな屋根がわらの色が何キロも続く景色を高い所から眺めて、これでこそ東京だと思うことさえありました。
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燬くような日の下に、渦を捲いて狂い出しそうな瓦の色が、幾里となく続く景色を、高い所から眺めて、これでこそ東京だと思う事さえあった。
今の宗助なら目が回りそうなあれこれが、全部「気持ちがいい」と彼に思わせるように、その時は照り返って来たのです。
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今の宗助なら目を眩しかねない事々物々が、ことごとく壮快の二字を彼の額に焼き付けべく、その時は反射して来たのである。
彼の未来はまだ閉じたつぼみのようなもので、開くまでは他人に分からないだけでなく、自分にもはっきりとは分かりませんでした。
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彼の未来は封じられた蕾のように、開かない先は他に知れないばかりでなく、自分にも確とは分らなかった。
宗助はただ、広々とした将来が自分の前に開けている気がしていただけでした。
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宗助はただ洋々の二字が彼の前途に棚引いている気がしただけであった。
彼はこの暑い休みの間にも、卒業したあとの自分についての用意をおろそかにはしませんでした。
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彼はこの暑い休暇中にも卒業後の自分に対する謀を忽がせにはしなかった。
彼は大学を出てから役所に入ろうか、それとも商売の世界へ進もうか、それさえまだはっきり決めていませんでしたが、どちらでも構わない、今のうちから進められるだけ進んでおく方が得だと気づきました。
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彼は大学を出てから、官途につこうか、または実業に従おうか、それすら、まだ判然と心にきめていなかったにかかわらず、どちらの方面でも構わず、今のうちから、進めるだけ進んでおく方が利益だと心づいた。
彼は直接、父に紹介してもらいました。
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彼は直接父の紹介を得た。
父を通して、その知り合いにも紹介してもらいました。
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父を通して間接にその知人の紹介を得た。
そして自分の将来に力になってくれそうな人を探して、二、三軒訪ねてみました。
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そうして自分の将来を影響し得るような人を物色して、二三の訪問を試みた。
その中のある人は、暑さをさけるという名目でもう東京を離れていました。
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彼らのあるものは、避暑という名義の下に、すでに東京を離れていた。
ある人は留守でした。
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あるものは不在であった。
またある人は忙しいので、時間を決めて勤め先で会おうと言いました。
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またあるものは多忙のため時を期して、勤務先で会おうと云った。
宗助は日がまだ高くならない七時頃にエレベーターでれんが造りの三階へ案内されて、そこの応接間にもう七、八人も、自分と同じように同じ人を待っている様子を見て驚いたこともありました。
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宗助は日のまだ高くならない七時頃に、昇降器で煉瓦造の三階へ案内されて、そこの応接間に、もう七八人も自分と同じように、同じ人を待っている光景を見て驚ろいた事もあった。
彼はこうして新しい所へ行って新しい物に触れるのが、用が済むかどうかは別にして、今まで目につかずに過ぎた生きた世界の一部を頭に詰めこむような気がして、何となく楽しかったのです。
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彼はこうして新らしい所へ行って、新らしい物に接するのが、用向の成否に関わらず、今まで眼に付かずに過ぎた活きた世界の断片を頭へ詰め込むような気がして何となく愉快であった。
父に言われて毎年のように着物を風に当てて干す手伝いをさせられるのも、こんな時にはかえって面白い仕事の一つに数えられました。
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父の云いつけで、毎年の通り虫干の手伝をさせられるのも、こんな時には、かえって興味の多い仕事の一部分に数えられた。
彼は冷たい風の通る土蔵の入口の、しめった石の上に腰かけて、昔から家にあった「江戸名所図会」と「江戸砂子」という本をめずらしそうに眺めました。
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彼は冷たい風の吹き通す土蔵の戸前の湿っぽい石の上に腰を掛けて、古くから家にあった江戸名所図会と、江戸砂子という本を物珍しそうに眺めた。
畳まで熱くなった座敷の真ん中にあぐらをかいて、お手伝いの人が買って来た樟脳(しょうのう。虫よけの薬)を小さな紙切れに取り分けては、医者でくれる粉薬のような形にたたみました。
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畳まで熱くなった座敷の真中へ胡坐を掻いて、下女の買って来た樟脳を、小さな紙片に取り分けては、医者でくれる散薬のような形に畳んだ。
宗助は子どもの時から、この樟脳の強いにおいと、汗の出る夏の暑さと、頭にすえるお灸(きゅう)と、青空をゆっくり舞うとんびとを、いっしょに思いうかべていました。
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宗助は小供の時から、この樟脳の高い香と、汗の出る土用と、炮烙灸と、蒼空を緩く舞う鳶とを連想していた。
そうしているうちに、こよみは秋に入りました。
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とかくするうちに節は立秋に入った。
台風の来やすい時期の前には風が吹いて、雨が降りました。
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二百十日の前には、風が吹いて、雨が降った。
空にはうすい墨がにじんだような雲がしきりに動きました。
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空には薄墨の煮染んだような雲がしきりに動いた。
温度計が二、三日下がったままになりました。
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寒暖計が二三日下がり切りに下がった。
宗助はまた行李(こうり。竹や柳で編んだ荷物入れ)を麻のなわでしばって、京都へ向かう支度をしなければならなくなりました。
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宗助はまた行李を麻縄で絡げて、京都へ向う支度をしなければならなくなった。
彼はこの間にも、安井との約束は忘れていませんでした。
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彼はこの間にも安井と約束のある事は忘れなかった。
家へ帰ったばかりの頃は、まだ二か月も先のことだからとゆっくり構えていましたが、だんだん日が近づくにつれて安井からの知らせが気になって来ました。
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家へ帰った当座は、まだ二カ月も先の事だからと緩くり構えていたが、だんだん時日が逼るに従って、安井の消息が気になってきた。
安井はその後、はがき一枚さえ送って来なかったのです。
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安井はその後一枚の端書さえ寄こさなかったのである。
宗助は安井の故郷の福井へ手紙を出してみました。
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宗助は安井の郷里の福井へ向けて手紙を出して見た。
けれども返事はとうとう来ませんでした。
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けれども返事はついに来なかった。
宗助は横浜の方へ問い合わせてみようと思いましたが、番地も町名も聞いていなかったので、どうすることもできませんでした。
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宗助は横浜の方へ問い合わせて見ようと思ったが、つい番地も町名も聞いて置かなかったので、どうする事もできなかった。
出発する前の晩に、父は宗助を呼んで、宗助が言ったとおり、普通の旅費のほかに途中で二、三日泊まる分と、京都へ着いてからしばらくの小遣いを渡して、
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立つ前の晩に、父は宗助を呼んで、宗助の請求通り、普通の旅費以外に、途中で二三日滞在した上、京都へ着いてからの当分の小遣を渡して、
「なるべく節約しなくてはいけない」
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「なるたけ節倹しなくちゃいけない」
と言い聞かせました。
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と諭した。
宗助はそれを、普通の子が普通の親の注意を聞く時のように聞きました。
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宗助はそれを、普通の子が普通の親の訓戒を聞く時のごとくに聞いた。
父はまた、
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父はまた、
「来年また帰って来るまでは会わないから、ずいぶん気をつけて」
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「来年また帰って来るまでは会わないから、随分気をつけて」
と言いました。
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と云った。
その帰って来るはずの時には、宗助はもう帰れなくなっていたのです。
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その帰って来る時節には、宗助はもう帰れなくなっていたのである。
そして帰って来た時には、父の体はもう冷たくなっていたのです。
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そうして帰って来た時は、父の亡骸がもう冷たくなっていたのである。
宗助は今でも、その時の父の姿を思いうかべると、申し訳ないような気がしました。
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宗助は今に至るまでその時の父の面影を思い浮べてはすまないような気がした。
いよいよ出発するという間際に、宗助は安井から一通の手紙を受け取りました。
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いよいよ立つと云う間際に、宗助は安井から一通の封書を受取った。
開いてみると、約束どおりいっしょに帰るつもりだったが、少し事情があって先に行かなければならなくなったから、というおわびを書いたあとに、いずれ京都でゆっくり会おうと書いてありました。
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開いて見ると、約束通りいっしょに帰るつもりでいたが、少し事情があって先へ立たなければならない事になったからと云う断を述べた末に、いずれ京都で緩くり会おうと書いてあった。
宗助はそれを洋服の内側に入れて汽車に乗りました。
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宗助はそれを洋服の内懐に押し込んで汽車に乗った。
約束の興津へ来た時、彼は一人でホームへ降りて、細長い一本道を清見寺の方へ歩きました。
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約束の興津へ来たとき彼は一人でプラットフォームへ降りて、細長い一筋町を清見寺の方へ歩いた。
夏も過ぎた九月の初めなので、たいていの避暑客は早く帰ってしまったあとで、宿屋は比べると静かでした。
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夏もすでに過ぎた九月の初なので、おおかたの避暑客は早く引き上げた後だから、宿屋は比較的閑静であった。
宗助は海の見える部屋の中で腹ばいになって、安井へ送る絵はがきに二、三行の文を書きました。
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宗助は海の見える一室の中に腹這になって、安井へ送る絵端書へ二三行の文句を書いた。
その中に、君が来ないから僕一人でここへ来た、という言葉を入れました。
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そのなかに、君が来ないから僕一人でここへ来たという言葉を入れた。
次の日も約束どおり一人で三保と竜華寺(りゅうげじ)を見物して、京都へ行ってから安井に話す材料をできるだけ作りました。
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翌日も約束通り一人で三保と竜華寺を見物して、京都へ行ってから安井に話す材料をできるだけ拵えた。
しかし天気のせいか、あてにしていた連れがいないせいか、海を見ても山へ登ってもそれほど面白くありませんでした。
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しかし天気のせいか、当にした連のないためか、海を見ても、山へ登っても、それほど面白くなかった。
宿にじっとしているのは、もっと退屈でした。
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宿にじっとしているのは、なお退屈であった。
宗助はさっさとまた宿の浴衣を脱いで、しぼり染めの帯といっしょに手すりにかけ、興津を出発しました。
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宗助は匆々にまた宿の浴衣を脱ぎ棄てて、絞りの三尺と共に欄干に掛けて、興津を去った。
京都へ着いた一日目は、夜行列車の疲れや荷物の片づけで、通りの日陰も知らないまま過ぎました。
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京都へ着いた一日目は、夜汽車の疲れやら、荷物の整理やらで、往来の日影を知らずに暮らした。
二日目になってようやく学校へ出てみると、先生はまだそろっていませんでした。
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二日目になってようやく学校へ出て見ると、教師はまだ出揃っていなかった。
学生もいつもより数が少なかったのです。
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学生も平日よりは数が不足であった。
おかしなことに、自分より三、四日前に帰っているはずの安井の顔さえ、どこにも見えませんでした。
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不審な事には、自分より三四っ日前に帰っているべきはずの安井の顔さえどこにも見えなかった。
宗助はそれが気になるので、帰りにわざわざ安井の下宿へ回ってみました。
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宗助はそれが気にかかるので、帰りにわざわざ安井の下宿へ回って見た。
安井のいる所は、木と水の多い加茂(かも)の神社のそばでした。
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安井のいる所は樹と水の多い加茂の社の傍であった。
彼は夏休みの前から、少し静かな町のはずれへ移って勉強するつもりだとか言って、わざわざこの不便な、村と同じような田舎へ引っこんだのです。
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彼は夏休み前から、少し閑静な町外れへ移って勉強するつもりだとか云って、わざわざこの不便な村同様な田舎へ引込んだのである。
彼が見つけた家は、古びた土の塀を二方向に回して、いかにも昔風に整っていました。
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彼の見つけ出した家からが寂た土塀を二方に回らして、すでに古風に片づいていた。
宗助は安井から、そこの主人はもと加茂神社の神主の一人だったという話を聞いていました。
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宗助は安井から、そこの主人はもと加茂神社の神官の一人であったと云う話を聞いた。
とてもよくしゃべる京都言葉の、四十歳ぐらいの奥さんがいて、安井の世話をしていました。
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非常に能弁な京都言葉を操る四十ばかりの細君がいて、安井の世話をしていた。
「世話といっても、ただおいしくないおかずを作って、三度ずつ部屋へ運んでくれるだけだよ」
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「世話って、ただ不味い菜を拵らえて、三度ずつ室へ運んでくれるだけだよ」
と安井は移ったばかりの頃から、この奥さんの悪口を言っていました。
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と安井は移り立てからこの細君の悪口を利いていた。
宗助は安井をここに二、三度訪ねたので、彼の言うおいしくないおかずを作る主に会ったことがありました。
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宗助は安井をここに二三度訪ねた縁故で、彼のいわゆる不味い菜を拵らえる主を知っていた。
奥さんの方でも宗助の顔を覚えていました。
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細君の方でも宗助の顔を覚えていた。
奥さんは宗助を見るとすぐ、あの柔らかい言葉でていねいなあいさつをしたあと、こちらから聞こうと思って来た安井のことを、かえって向こうから聞いて来ました。
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細君は宗助を見るや否や、例の柔かい舌で慇懃な挨拶を述べた後、こっちから聞こうと思って来た安井の消息を、かえって向うから尋ねた。
奥さんの言うところでは、安井は故郷へ帰ってからその日まで、手紙一枚さえ下宿へ出していないというのです。
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細君の云うところによると、彼は郷里へ帰ってから当日に至るまで、一片の音信さえ下宿へは出さなかったのである。
宗助は思いがけない気持ちで自分の下宿へ帰って来ました。
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宗助は案外な思で自分の下宿へ帰って来た。
それから一週間ほどは、学校へ出るたびに、今日は安井の顔が見えるか、明日は安井の声がするかと、毎日ぼんやりした期待を持って教室の戸を開けました。
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それから一週間ほどは、学校へ出るたんびに、今日は安井の顔が見えるか、明日は安井の声がするかと、毎日漠然とした予期を抱いては教室の戸を開けた。
そして毎日また、ぼんやりした物足りなさを感じて帰って来ました。
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そうして毎日また漠然とした不足を感じては帰って来た。
もっとも最後の三、四日の宗助は、早く安井に会いたいと思うよりも、少し事情があるから失礼して先に行くとわざわざ知らせておきながら、いつまで待っても姿を見せない彼が無事なのかどうかを、むしろ心配していたのです。
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もっとも最後の三四日における宗助は早く安井に会いたいと思うよりも、少し事情があるから、失敬して先へ立つとわざわざ通知しながら、いつまで待っても影も見せない彼の安否を、関係者としてむしろ気にかけていたのである。
彼は学校の友達のあちこちに安井の様子を聞いてみました。
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彼は学友の誰彼に万遍なく安井の動静を聞いて見た。
しかしだれも知っている人はいませんでした。
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しかし誰も知るものはなかった。
ただ一人が、昨日の夜、四条の人ごみの中で安井によく似た浴衣の男を見た、と答えたことがありました。
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ただ一人が、昨夕四条の人込の中で、安井によく似た浴衣がけの男を見たと答えた事があった。
しかし宗助には、それが安井だとは信じられませんでした。
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しかし宗助にはそれが安井だろうとは信じられなかった。
ところがその話を聞いた次の日、つまり宗助が京都へ着いてから一週間ほどあとに、話のとおりの身なりをした安井が、突然宗助の所へ訪ねて来ました。
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ところがその話を聞いた翌日、すなわち宗助が京都へ着いてから約一週間の後、話の通りの服装をした安井が、突然宗助の所へ尋ねて来た。
宗助は、着物のまま麦わら帽子を手に持った友達の姿を久しぶりに見た時、夏休み前の彼の顔に、何か新しいものが付け加わったような気がしました。
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宗助は着流しのまま麦藁帽を手に持った友達の姿を久し振に眺めた時、夏休み前の彼の顔の上に、新らしい何物かがさらに付け加えられたような気がした。
安井は黒い髪に油をつけて、目立つほどきれいに頭を分けていました。
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安井は黒い髪に油を塗って、目立つほど奇麗に頭を分けていた。
そして、今床屋へ行って来たところだ、と言い訳のようなことを言いました。
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そうして今床屋へ行って来たところだと言訳らしい事を云った。
その晩、彼は宗助と一時間あまりもいろいろな話をしました。
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その晩彼は宗助と一時間余りも雑談に耽った。
彼の落ち着いた話し方、こちらに気をつかって言い切らないような話の調子、「しかるに」
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彼の重々しい口の利き方、自分を憚かって、思い切れないような話の調子、「しかるに」
という口癖、どれも普段の彼と変わりませんでした。
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と云う口癖、すべて平生の彼と異なる点はなかった。
ただ彼は、なぜ宗助より先に横浜を出たのかを話しませんでした。
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ただ彼はなぜ宗助より先へ横浜を立ったかを語らなかった。
また途中どこで手間取ったせいで宗助より遅く京都へ着いたのかも、はっきり言いませんでした。
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また途中どこで暇取ったため、宗助より後れて京都へ着いたかを判然告げなかった。
しかし彼は、三、四日前にようやく京都へ着いたことだけは言いました。
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しかし彼は三四日前ようやく京都へ着いた事だけを明かにした。
そして、夏休み前にいた下宿へはまだ帰っていないと言いました。
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そうして、夏休み前にいた下宿へはまだ帰らずにいると云った。
「それで、どこに」
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「それでどこに」
と宗助が聞くと、彼は自分が今泊まっている宿屋の名前を宗助に教えました。
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と宗助が聞いたとき、彼は自分の今泊っている宿屋の名前を、宗助に教えた。
それは三条あたりの、あまり上等でない宿でした。
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それは三条辺の三流位の家であった。
宗助はその名前を知っていました。
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宗助はその名前を知っていた。
「どうしてそんな所へ入ったんだ。しばらくそこにいるつもりなのかい」
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「どうして、そんな所へ這入ったのだ。当分そこにいるつもりなのかい」
と宗助はもう一度聞きました。
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と宗助は重ねて聞いた。
安井はただ、少し都合があって、とだけ答えましたが、
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安井はただ少し都合があってとばかり答えたが、
「下宿の暮らしはもうやめて、小さい家でも借りようかと思っている」
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「下宿生活はもうやめて、小さい家でも借りようかと思っている」
と思いがけない計画を打ち明けて、宗助を驚かせました。
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と思いがけない計画を打ち明けて、宗助を驚ろかした。
それから一週間ほどのうちに、安井はとうとう宗助に話したとおり、学校の近くの静かな所に家を借りました。
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それから一週間ばかりの中に、安井はとうとう宗助に話した通り、学校近くの閑静な所に一戸を構えた。
それは京都によくある暗くて陰気な造りの上に、柱や格子を黒っぽい赤に塗ってわざと古くさく見せた、狭い借家でした。
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それは京都に共通な暗い陰気な作りの上に、柱や格子を黒赤く塗って、わざと古臭く見せた狭い貸家であった。
門の前にだれのものとも分からない柳が一本あって、長い枝がほとんど屋根に触れそうに風に吹かれる様子を宗助は見ました。
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門口に誰の所有ともつかない柳が一本あって、長い枝がほとんど軒に触りそうに風に吹かれる様を宗助は見た。
庭も東京と違って、少しは整っていました。
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庭も東京と違って、少しは整っていた。
石が手に入りやすい土地だけに、かなり大きな石が座敷の真正面に置いてありました。
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石の自由になる所だけに、比較的大きなのが座敷の真正面に据えてあった。
その下には涼しそうなこけがいくらでも生えていました。
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その下には涼しそうな苔がいくらでも生えた。
裏には敷居のくさった物置が、空のままがらんと立っていて、その後ろに隣の竹やぶがトイレの出入りの時に見えました。
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裏には敷居の腐った物置が空のままがらんと立っている後に、隣の竹藪が便所の出入りに望まれた。
宗助がここを訪ねたのは、十月まで少しある学期の初めでした。
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宗助のここを訪問したのは、十月に少し間のある学期の始めであった。
残暑がまだ強いので、宗助は学校の行き帰りに日傘を使っていたことを、今でも覚えていました。
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残暑がまだ強いので宗助は学校の往復に、蝙蝠傘を用いていた事を今に記憶していた。
彼は格子戸の前で傘をたたんで中をのぞきこんだ時、粗いしま模様の浴衣を着た女の影をちらりと見ました。
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彼は格子の前で傘を畳んで、内を覗き込んだ時、粗い縞の浴衣を着た女の影をちらりと認めた。
格子戸の内側は土間で、それがまっすぐ裏まで通っているので、入ってすぐ右手の玄関のような上がり口を上がらなければ、暗いながら一本道に奥の方まで見えるのでした。
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格子の内は三和土で、それが真直に裏まで突き抜けているのだから、這入ってすぐ右手の玄関めいた上り口を上らない以上は、暗いながら一筋に奥の方まで見える訳であった。
宗助は、浴衣の後ろ姿が裏口へ出る所で消えてなくなるまで、そこに立っていました。
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宗助は浴衣の後影が、裏口へ出る所で消えてなくなるまでそこに立っていた。
それから格子戸を開けました。
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それから格子を開けた。
玄関へは安井自身が出て来ました。
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玄関へは安井自身が現れた。
座敷へ通ってしばらく話していましたが、さっきの女はまるで顔を出しませんでした。
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座敷へ通ってしばらく話していたが、さっきの女は全く顔を出さなかった。
声も出さず、音も立てませんでした。
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声も立てず、音もさせなかった。
広い家ではないので、すぐ隣の部屋あたりにいたのでしょうが、いないのとまるで変わりませんでした。
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広い家でないから、つい隣の部屋ぐらいにいたのだろうけれども、いないのとまるで違わなかった。
この影のように静かな女が御米でした。
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この影のように静かな女が御米であった。
安井は故郷のこと、東京のこと、学校の講義のこと、あれこれと話しました。
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安井は郷里の事、東京の事、学校の講義の事、何くれとなく話した。
けれども、御米のことについては一言も言いませんでした。
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けれども、御米の事については一言も口にしなかった。
宗助も聞く勇気がありませんでした。
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宗助も聞く勇気に乏しかった。
その日はそれだけで別れました。
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その日はそれなり別れた。
次の日、二人が顔を合わせた時、宗助はやはり女のことを心の中で覚えていましたが、口に出しては一言も言いませんでした。
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次の日二人が顔を合したとき、宗助はやはり女の事を胸の中に記憶していたが、口へ出しては一言も語らなかった。
安井も何でもない様子をしていました。
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安井も何気ない風をしていた。
親しい若者どうしが気楽に話し合う遠慮のない話題は、これまで二人の間で何度も出ていたのに、安井はここへ来ると息が詰まったように見えました。
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懇意な若い青年が心易立に話し合う遠慮のない題目は、これまで二人の間に何度となく交換されたにもかかわらず、安井はここへ来て、息詰ったごとくに見えた。
宗助も、そこを無理にこじ開けるほど強い好奇心は持っていませんでした。
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宗助もそこを無理にこじ開けるほどの強い好奇心は有たなかった。
ですから女は二人の心の間にはさまったまま、つい話に出ないまま、また一週間ほど過ぎました。
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したがって女は二人の意識の間に挟まりながら、つい話頭に上らないで、また一週間ばかり過ぎた。
その日曜に、彼はまた安井を訪ねました。
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その日曜に彼はまた安井を訪うた。
それは二人が関わっているある会について用ができたためで、女とはまるで関係のない理由からのあっさりした訪問でした。
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それは二人の関係している或会について用事が起ったためで、女とは全く縁故のない動機から出た淡泊な訪問であった。
けれども座敷へ上がって同じ所に座らされ、垣根に沿った小さな梅の木を見ると、この前来た時のことがはっきり思い出されました。
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けれども座敷へ上がって、同じ所へ坐らせられて、垣根に沿うた小さな梅の木を見ると、この前来た時の事が明らかに思い出された。
その日も座敷の外はしんと静かでした。
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その日も座敷の外は、しんとして静であった。
宗助はその静けさの中にひそんでいる若い女の姿を想像せずにいられませんでした。
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宗助はその静かなうちに忍んでいる若い女の影を想像しない訳に行かなかった。
同時に、その若い女はこの前と同じように、決して自分の前に出て来ることはないだろうと思っていました。
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同時にその若い女はこの前と同じように、けっして自分の前に出て来る気遣はあるまいと信じていた。
ところがこう思っていたところへ、宗助は突然御米に紹介されたのです。
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この予期の下に、宗助は突然御米に紹介されたのである。
その時、御米はこの間のような粗い浴衣を着てはいませんでした。
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その時御米はこの間のように粗い浴衣を着てはいなかった。
これからよそへ行くか、または今外から帰って来たという格好で、隣の部屋から出て来ました。
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これからよそへ行くか、または今外から帰って来たと云う風な粧をして、次の間から出て来た。
宗助にはそれが意外でした。
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宗助にはそれが意外であった。
しかしそんなに立派な晴れ着を着ていたわけでもないので、着物の色も帯のつやも、それほど彼を驚かせるほどではありませんでした。
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しかし大した綺羅を着飾った訳でもないので、衣服の色も、帯の光も、それほど彼を驚かすまでには至らなかった。
その上、御米は若い女によくある恥ずかしがる様子を、初めて会う宗助に対してあまり見せませんでした。
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その上御米は若い女にありがちの嬌羞というものを、初対面の宗助に向って、あまり多く表わさなかった。
ただ普通の人を静かにして、言葉を少なくしただけのように見えました。
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ただ普通の人間を静にして言葉寡なに切りつめただけに見えた。
人の前へ出ても隣の部屋にひそんでいる時とあまり変わらないほど落ち着いた女だと分かった宗助は、そこから考えて、御米が静かにしていたのは、必ずしも恥ずかしがって人の前へ出るのを避けるためだけではなかったのだと思いました。
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人の前へ出ても、隣の室に忍んでいる時と、あまり区別のないほど落ちついた女だという事を見出した宗助は、それから推して、御米のひっそりしていたのは、穴勝恥かしがって、人の前へ出るのを避けるためばかりでもなかったんだと思った。
安井は御米を紹介する時、
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安井は御米を紹介する時、
「これは僕の妹だ」
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「これは僕の妹だ」
という言葉を使いました。
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という言葉を用いた。
宗助は四、五分向かい合って少し話すうちに、御米の話し方のどこにも故郷のなまりが混じっていないことに気がつきました。
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宗助は四五分対坐して、少し談話を取り換わしているうちに、御米の口調のどこにも、国訛らしい音の交っていない事に気がついた。
「今まで国の方に」
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「今まで御国の方に」
と聞くと、御米が返事をする前に安井が、
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と聞いたら、御米が返事をする前に安井が、
「いや、横浜に長く」
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「いや横浜に長く」
と答えました。
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と答えた。
その日は二人で町へ買い物に出るところで、御米は普段着を着がえて、暑いのにわざわざ新しい白い足袋まではいたのだと分かりました。
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その日は二人して町へ買物に出ようと云うので、御米は不断着を脱ぎ更えて、暑いところをわざわざ新らしい白足袋まで穿いたものと知れた。
宗助は、せっかく出かけるところを引き止めてじゃまをしたようで、申し訳ない気持ちがしました。
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宗助はせっかくの出がけを喰い留めて、邪魔でもしたように気の毒な思をした。
「なに、家を持ち始めたばかりだから、毎日毎日いるものを新しく見つけるので、一週間に一、二度はどうしても町まで買い出しに行かなければならないんだ」
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「なに宅を持ち立てだものだから、毎日毎日要るものを新らしく発見するんで、一週に一二返は是非都まで買い出しに行かなければならない」
と言いながら安井は笑いました。
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と云いながら安井は笑った。
「途中までいっしょに出かけよう」
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「途までいっしょに出掛けよう」
と宗助はすぐ立ち上がりました。
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と宗助はすぐ立ち上がった。
ついでに家の様子を見てくれという安井の言葉にしたがいました。
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ついでに家の様子を見てくれと安井の云うに任せた。
宗助は隣の部屋にあるトタンの灰受けのついた四角い火鉢や、黄色い安っぽい色をした真鍮(しんちゅう)のやかんや、古びた流しのそばに置かれた新しすぎるおけを眺めて、門へ出ました。
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宗助は次の間にある亜鉛の落しのついた四角な火鉢や、黄な安っぽい色をした真鍮の薬鑵や、古びた流しの傍に置かれた新らし過ぎる手桶を眺めて、門へ出た。
安井は門にかぎをかけて、それを裏の家へ預けるとか言って駆けて行きました。
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安井は門口へ錠をおろして、鍵を裏の家へ預けるとか云って、走けて行った。
宗助と御米は待っている間、二言三言、当たり障りのない言葉を交わしました。
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宗助と御米は待っている間、二言、三言、尋常な口を利いた。
宗助はこの三、四分間に交わした言葉を、今でも覚えていました。
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宗助はこの三四分間に取り換わした互の言葉を、いまだに覚えていた。
それはただの男がただの女に対して、人としての親しみを表すためにやり取りする、簡単な言葉にすぎませんでした。
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それはただの男がただの女に対して人間たる親みを表わすために、やりとりする簡略な言葉に過ぎなかった。
たとえて言えば、水のように浅くうすいものでした。
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形容すれば水のように浅く淡いものであった。
彼は今日まで道ばたで、何かのついでに、知らない人を相手にこれくらいのあいさつをどれほど繰り返して来たか分かりませんでした。
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彼は今日まで路傍道上において、何かの折に触れて、知らない人を相手に、これほどの挨拶をどのくらい繰り返して来たか分らなかった。
宗助はとても短いその時の会話を一つ一つ思いうかべるたびに、その一つ一つがほとんど色のないと言っていいほどうすいものだったことを確かめました。
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宗助は極めて短かいその時の談話を、一々思い浮べるたびに、その一々が、ほとんど無着色と云っていいほどに、平淡であった事を認めた。
そして、これほど透き通った声が、二人の未来をどうしてああ真っ赤に塗ってしまったのかを不思議に思いました。
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そうして、かく透明な声が、二人の未来を、どうしてああ真赤に、塗りつけたかを不思議に思った。
今ではその赤い色も、時がたって昔の鮮やかさを失っていました。
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今では赤い色が日を経て昔の鮮かさを失っていた。
お互いを焼いた炎は、自然と色が変わって黒くなっていました。
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互を焚き焦がした燄は、自然と変色して黒くなっていた。
二人の暮らしは、こうして暗い中に沈んでいました。
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二人の生活はかようにして暗い中に沈んでいた。
宗助は過去を振り返り、出来事を逆にたどって、このあっさりしたあいさつが自分たちの歴史をどれほど濃く塗ったかを心の中で何度も味わいながら、ありふれた出来事を大きな出来事に変えてしまう運命の力を恐れました。
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宗助は過去を振り向いて、事の成行を逆に眺め返しては、この淡泊な挨拶が、いかに自分らの歴史を濃く彩ったかを、胸の中であくまで味わいつつ、平凡な出来事を重大に変化させる運命の力を恐ろしがった。
宗助は、二人で門の前に立っていた時、二人の影が折れ曲がって半分ほど土の塀に映ったのを覚えていました。
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宗助は二人で門の前に佇んでいる時、彼らの影が折れ曲って、半分ばかり土塀に映ったのを記憶していた。
御米の影が日傘にさえぎられて、頭の代わりに傘のいびつな形が壁に落ちたのを覚えていました。
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御米の影が蝙蝠傘で遮ぎられて、頭の代りに不規則な傘の形が壁に落ちたのを記憶していた。
少し傾きかけた初秋の日がじりじり二人を照りつけたのを覚えていました。
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少し傾むきかけた初秋の日が、じりじり二人を照り付けたのを記憶していた。
御米は傘をさしたまま、それほど涼しくもない柳の下に寄りました。
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御米は傘を差したまま、それほど涼しくもない柳の下に寄った。
宗助は、白い筋をふちに入れた紫の傘の色と、まだ色のあせ切らない柳の葉の色を、一歩下がって見比べたことを覚えていました。
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宗助は白い筋を縁に取った紫の傘の色と、まだ褪め切らない柳の葉の色を、一歩遠退いて眺め合わした事を記憶していた。
今考えると何もかもがはっきりしていました。
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今考えるとすべてが明らかであった。
ですから、何の不思議もありませんでした。
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したがって何らの奇もなかった。
二人は土の塀の影からまた現れた安井を待って、町の方へ歩きました。
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二人は土塀の影から再び現われた安井を待ち合わして、町の方へ歩いた。
歩く時、男どうしは肩を並べました。
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歩く時、男同志は肩を並べた。
御米は草履を引いて後ろに下がりました。
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御米は草履を引いて後に落ちた。
話もたいてい男だけでしました。
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話も多くは男だけで受持った。
それも長くはありませんでした。
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それも長くはなかった。
途中まで来て、宗助は一人で別れて自分の家へ帰ったからです。
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途中まで来て宗助は一人分れて、自分の家へ帰ったからである。
けれども彼の心には、その日の印象が長く残りました。
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けれども彼の頭にはその日の印象が長く残っていた。
家へ帰ってお風呂に入り、明かりの前に座ったあとでも、時々色のついた平らな絵のように、安井と御米の姿が目の前にちらつきました。
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家へ帰って、湯に入って、灯火の前に坐った後にも、折々色の着いた平たい画として、安井と御米の姿が眼先にちらついた。
それどころか布団に入ってからは、妹だと言って紹介された御米が、本当に妹なのだろうかと考え始めました。
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それのみか床に入ってからは、妹だと云って紹介された御米が、果して本当の妹であろうかと考え始めた。
安井に問いつめない限りこの疑いは解けませんが、想像はすぐつきました。
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安井に問いつめない限り、この疑の解決は容易でなかったけれども、臆断はすぐついた。
宗助は、この想像が当たるだけの理由が安井と御米の間に十分にあるだろうくらいに考えて、寝ながらおかしく思いました。
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宗助はこの臆断を許すべき余地が、安井と御米の間に充分存在し得るだろうぐらいに考えて、寝ながらおかしく思った。
しかも、その想像を心の中で気にし続けるのが馬鹿らしいことに気がついて、消し忘れたランプをようやくふっと吹き消しました。
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しかもその臆断に、腹の中で彽徊する事の馬鹿馬鹿しいのに気がついて、消し忘れた洋灯をようやくふっと吹き消した。
こういう記憶がだんだん沈んで跡形もなくなるまでお互いの顔を見ずに過ごすほど、宗助と安井とは遠い仲ではありませんでした。
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こう云う記憶の、しだいに沈んで痕迹もなくなるまで、御互の顔を見ずに過すほど、宗助と安井とは疎遠ではなかった。
二人は毎日学校で会うだけでなく、相変わらず夏休み前のように行き来を続けていました。
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二人は毎日学校で出合うばかりでなく、依然として夏休み前の通り往来を続けていた。
けれども宗助が行くたびに、御米が必ずあいさつに出て来るとは限りませんでした。
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けれども宗助が行くたびに、御米は必ず挨拶に出るとは限らなかった。
三度に一度くらいは顔を見せないで、初めての時のようにひっそり隣の部屋にいることもありました。
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三返に一返ぐらい、顔を見せないで、始ての時のように、ひっそり隣りの室に忍んでいる事もあった。
宗助は特にそれを気にもしませんでした。
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宗助は別にそれを気にも留めなかった。
それでも、二人はだんだん親しくなりました。
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それにもかかわらず、二人はようやく接近した。
そう長くたたないうちに、冗談を言うくらいの親しさになりました。
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幾何ならずして冗談を云うほどの親みができた。
そのうちまた秋が来ました。
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そのうちまた秋が来た。
去年と同じ様子で京都の秋を繰り返すことにあきていた宗助は、安井と御米にさそわれてきのこ狩りに行った時、明るい空気の中にまた新しいにおいを見つけました。
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去年と同じ事情の下に、京都の秋を繰り返す興味に乏しかった宗助は、安井と御米に誘われて茸狩に行った時、朗らかな空気のうちにまた新らしい香を見出した。
紅葉も三人で見ました。
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紅葉も三人で観た。
嵯峨(さが)から山をぬけて高雄(たかお)へ歩く途中で、御米は着物のすそをまくって、下着だけを足袋の上まで引き上げ、細い傘をつえにしました。
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嵯峨から山を抜けて高雄へ歩く途中で、御米は着物の裾を捲くって、長襦袢だけを足袋の上まで牽いて、細い傘を杖にした。
山の上から百メートルほど下に見える川に日がさして、水の底が遠くからはっきり透けて見えた時、御米は
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山の上から一町も下に見える流れに日が射して、水の底が明らかに遠くから透かされた時、御米は
「京都はいい所ね」
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「京都は好い所ね」
と言って二人を振り返りました。
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と云って二人を顧みた。
それをいっしょに眺めた宗助にも、京都は本当にいい所のように思えました。
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それをいっしょに眺めた宗助にも、京都は全く好い所のように思われた。
こうしてそろって外へ出ることも、めずらしくありませんでした。
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こう揃って外へ出た事も珍らしくはなかった。
家の中で顔を合わせることは、もっとよくありました。
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家の中で顔を合わせる事はなおしばしばあった。
ある時、宗助がいつものように安井を訪ねると、安井は留守で、御米だけが寂しい秋の中に取り残されたように一人で座っていました。
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或時宗助が例のごとく安井を尋ねたら、安井は留守で、御米ばかり淋しい秋の中に取り残されたように一人坐っていた。
宗助は、寂しいでしょう、と言って、つい座敷に上がりこみ、一つの火鉢の両側に手をかざしながら、思ったより長く話をして帰りました。
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宗助は淋しいでしょうと云って、つい座敷に上り込んで、一つ火鉢の両側に手を翳しながら、思ったより長話をして帰った。
ある時、宗助がぼんやりして下宿の机に寄りかかったまま、めずらしく時間のつぶし方に困っていると、ふと御米がやって来ました。
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或時宗助がぽかんとして、下宿の机に倚りかかったまま、珍らしく時間の使い方に困っていると、ふと御米がやって来た。
そこまで買い物に出たからついでに寄ったのだとか言って、宗助のすすめるままにお茶を飲んだりお菓子を食べたり、ゆっくりくつろいだ話をして帰りました。
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そこまで買物に出たから、ついでに寄ったんだとか云って、宗助の薦める通り、茶を飲んだり菓子を食べたり、緩くり寛ろいだ話をして帰った。
こんなことが重なって行くうちに、木の葉がいつの間にか落ちてしまいました。
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こんな事が重なって行くうちに、木の葉がいつの間にか落ちてしまった。
そして高い山の頂上が、ある朝真っ白に見えました。
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そうして高い山の頂が、ある朝真白に見えた。
風の吹きさらす河原が白くなって、橋を渡る人の影が細く動きました。
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吹き曝しの河原が白くなって、橋を渡る人の影が細く動いた。
その年の京都の冬は、音を立てずに肌にしみこんで来る、内にこもった寒さでした。
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その年の京都の冬は、音を立てずに肌を透す陰忍な質のものであった。
安井はこのたちの悪い寒さにやられて、ひどい流行かぜにかかりました。
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安井はこの悪性の寒気にあてられて、苛いインフルエンザに罹った。
熱が普通のかぜよりよほど高かったので、初めは御米も驚きましたが、それは一時のことで、すぐ下がるには下がったので、これでもう治ったと思うと、いつまでたってもすっきりしませんでした。
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熱が普通の風邪よりもよほど高かったので、始は御米も驚ろいたが、それは一時の事で、すぐ退いたには退いたから、これでもう全快と思うと、いつまで立っても判然しなかった。
安井は、べたべたした鳥もちのような熱にまとわりつかれて、毎日その上がり下がりに苦しみました。
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安井は黐のような熱に絡みつかれて、毎日その差し引きに苦しんだ。
医者は少し肺をやられているようだからと言って、しきりに場所を変えて療養することをすすめました。
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医者は少し呼吸器を冒されているようだからと云って、切に転地を勧めた。
安井はしかたなく押し入れの中の行李に麻のなわをかけました。
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安井は心ならず押入の中の柳行李に麻縄を掛けた。
御米は手さげかばんにかぎをかけました。
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御米は手提鞄に錠をおろした。
宗助は二人を七条(しちじょう)の駅まで見送って、汽車が出るまで客車の中に入り、わざと明るい話をしました。
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宗助は二人を七条まで見送って、汽車が出るまで室の中へ這入って、わざと陽気な話をした。
ホームへ下りた時、窓の中から、
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プラットフォームへ下りた時、窓の内から、
「遊びに来たまえ」
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「遊びに来たまえ」
と安井が言いました。
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と安井が云った。
「どうぞ、ぜひ」
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「どうぞ是非」
と御米が言いました。
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と御米が言った。
汽車は血色のいい宗助の前をそろそろ通り過ぎて、すぐに神戸の方へ向かって煙を吐きました。
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汽車は血色の好い宗助の前をそろそろ過ぎて、たちまち神戸の方に向って煙を吐いた。
病人は療養先で年を越しました。
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病人は転地先で年を越した。
絵はがきは着いた日から毎日のように送って来ました。
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絵端書は着いた日から毎日のように寄こした。
それに、いつでも遊びに来い、と繰り返し書いていないことはありませんでした。
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それにいつでも遊びに来いと繰り返して書いてない事はなかった。
御米の字も一、二行ずつは必ず入っていました。
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御米の文字も一二行ずつは必ず交っていた。
宗助は、安井と御米から届いた絵はがきを別にして机の上に重ねて置きました。
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宗助は安井と御米から届いた絵端書を別にして机の上に重ねて置いた。
外から帰ると、それがすぐ目につきました。
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外から帰るとそれが直眼に着いた。
時々はそれを一枚ずつ順に読み直したり、見直したりしました。
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時々はそれを一枚ずつ順に読み直したり、見直したりした。
最後に、もうすっかり治ったから帰る。
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しまいにもうすっかり癒ったから帰る。
しかしせっかくここまで来ながら、ここで君の顔を見ないのは残念だから、この手紙が着いたらすぐ、ちょっとでいいから来い、というはがきが来ました。
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しかしせっかくここまで来ながら、ここで君の顔を見ないのは遺憾だから、この手紙が着きしだい、ちょっとでいいから来いという端書が来た。
何もない退屈な日々をきらう宗助を動かすには、この十いくつかの言葉で十分でした。
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無事と退屈を忌む宗助を動かすには、この十数言で充分であった。
宗助は汽車に乗って、その夜のうちに安井の宿に着きました。
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宗助は汽車を利用してその夜のうちに安井の宿に着いた。
明るい明かりの下で三人が待ちかねた顔を合わせた時、宗助は何よりもまず、病人の顔色が戻っていることに気がつきました。
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明るい灯火の下に三人が待設けた顔を合わした時、宗助は何よりもまず病人の色沢の回復して来た事に気がついた。
出発する前よりかえっていいくらいに見えました。
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立つ前よりもかえって好いくらいに見えた。
安井自身もそんな気がすると言って、わざわざシャツの袖をまくり上げ、青い血管の浮いた腕を自分でなでていました。
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安井自身もそんな心持がすると云って、わざわざ襯衣の袖を捲り上げて、青筋の入った腕を独で撫でていた。
御米もうれしそうに目を輝かせました。
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御米も嬉しそうに眼を輝かした。
宗助には、その生き生きした目つきが特にめずらしく感じられました。
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宗助にはその活溌な目遣がことに珍らしく受取れた。
今まで宗助の心に映った御米は、色と音がにぎやかに乱れる中に立っていてさえ、とても落ち着いていました。
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今まで宗助の心に映じた御米は、色と音の撩乱する裏に立ってさえ、極めて落ちついていた。
そして、その落ち着きの大部分は、むやみに動かさない目の働きから来ているとしか思えませんでした。
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そうしてその落ちつきの大部分はやたらに動かさない眼の働らきから来たとしか思われなかった。
次の日、三人は外へ出て、遠くまで濃い色を広げる海を眺めました。
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次の日三人は表へ出て遠く濃い色を流す海を眺めた。
松の幹からやにのにおいのする空気を吸いました。
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松の幹から脂の出る空気を吸った。
冬の日は短い空をまっすぐ横切って、おとなしく西へ落ちました。
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冬の日は短い空を赤裸々に横切っておとなしく西へ落ちた。
落ちる時、低い雲を黄色や赤に、かまどの火の色に染めて行きました。
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落ちる時、低い雲を黄に赤に竈の火の色に染めて行った。
風は夜になっても出ませんでした。
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風は夜に入っても起らなかった。
ただ時々松を鳴らして通り過ぎました。
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ただ時々松を鳴らして過ぎた。
暖かくていい日が、宗助の泊まっている三日の間続きました。
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暖かい好い日が宗助の泊っている三日の間続いた。
宗助はもっと遊んで行きたいと言いました。
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宗助はもっと遊んで行きたいと云った。
御米はもっと遊んで行きましょうと言いました。
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御米はもっと遊んで行きましょうと云った。
安井は、宗助が遊びに来たからいい天気になったんだろうと言いました。
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安井は宗助が遊びに来たから好い天気になったんだろうと云った。
三人はまた行李とかばんを持って京都へ帰りました。
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三人はまた行李と鞄を携えて京都へ帰った。
冬は何事もなく、北風を寒い国へ吹き送りました。
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冬は何事もなく北風を寒い国へ吹きやった。
山の上をくっきりさせていたまだらな雪がだんだん消えて、そのあとから青い色が一度に芽を出しました。
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山の上を明らかにした斑な雪がしだいに落ちて、後から青い色が一度に芽を吹いた。
宗助はその頃を思い出すたびに、自然の歩みがそこでぴたりと止まって、自分も御米もそのまま石になってしまったら、かえって苦しみはなかっただろうと思いました。
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宗助は当時を憶い出すたびに、自然の進行がそこではたりと留まって、自分も御米もたちまち化石してしまったら、かえって苦はなかったろうと思った。
事は冬の下から春が頭を出す頃に始まって、散り終わった桜の花が若葉に変わる頃に終わりました。
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事は冬の下から春が頭を擡げる時分に始まって、散り尽した桜の花が若葉に色を易える頃に終った。
すべてが生きるか死ぬかの戦いでした。
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すべてが生死の戦であった。
青竹をあぶって油をしぼり出すほどの苦しみでした。
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青竹を炙って油を絞るほどの苦しみであった。
大風は突然、何も用意していない二人を吹き倒したのです。
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大風は突然不用意の二人を吹き倒したのである。
二人が起き上がった時は、どこもかしこももう砂だらけでした。
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二人が起き上がった時はどこもかしこもすでに砂だらけであったのである。
二人は砂だらけになった自分たちを見ました。
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彼らは砂だらけになった自分達を認めた。
けれども、いつ吹き倒されたのかは分かりませんでした。
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けれどもいつ吹き倒されたかを知らなかった。
世の中は容赦なく二人に、人としてしてはいけないことをしたという責めを負わせました。
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世間は容赦なく彼らに徳義上の罪を背負した。
しかし二人自身は、自分の良心に責められる前に、いったんぼう然として、自分たちの頭がおかしくなっていないかを疑いました。
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しかし彼ら自身は徳義上の良心に責められる前に、いったん茫然として、彼らの頭が確であるかを疑った。
二人は自分の目に、道に外れた男と女として恥ずかしく映る前に、もう筋の通らない男と女として不思議に映ったのです。
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彼らは彼らの眼に、不徳義な男女として恥ずべく映る前に、すでに不合理な男女として、不可思議に映ったのである。
そこに言い訳らしい言い訳は何もありませんでした。
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そこに言訳らしい言訳が何にもなかった。
だからそこに、言葉にできない苦しみがありました。
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だからそこに云うに忍びない苦痛があった。
二人は、むごい運命が気まぐれに、罪もない二人の不意をついて、面白半分に落とし穴の中へ突き落としたのを、くやしく思いました。
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彼らは残酷な運命が気紛に罪もない二人の不意を打って、面白半分穽の中に突き落したのを無念に思った。
すべてが知れわたった日が、まっすぐ二人のまゆの間を射た時、二人はもう、良心の引きつるような苦しみを乗り越えていました。
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曝露の日がまともに彼らの眉間を射たとき、彼らはすでに徳義的に痙攣の苦痛を乗り切っていた。
二人は青白い額を素直に前へ出して、そこに炎のような焼き印を受けました。
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彼らは蒼白い額を素直に前に出して、そこに燄に似た烙印を受けた。
そして目に見えない鎖でつながれたまま、手を取り合ってどこまでもいっしょに歩いて行かなければならないことを知りました。
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そうして無形の鎖で繋がれたまま、手を携えてどこまでも、いっしょに歩調を共にしなければならない事を見出した。
二人は親を捨てました。
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彼らは親を棄てた。
親類を捨てました。
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親類を棄てた。
友達を捨てました。
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友達を棄てた。
大きく言えば、世の中全部を捨てました。
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大きく云えば一般の社会を棄てた。
あるいは、その方から捨てられました。
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もしくはそれらから棄てられた。
学校からはもちろん捨てられました。
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学校からは無論棄てられた。
ただ表向きだけはこちらから退学したことになって、形の上では人らしい跡を残しました。
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ただ表向だけはこちらから退学した事になって、形式の上に人間らしい迹を留めた。
これが宗助と御米の過去でした。
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これが宗助と御米の過去であった。
十五
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十五
この過去を背負わされた二人は、広島へ行っても苦しみました。
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この過去を負わされた二人は、広島へ行っても苦しんだ。
福岡へ行っても苦しみました。
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福岡へ行っても苦しんだ。
東京へ出て来ても、相変わらず重い荷に押さえつけられていました。
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東京へ出て来ても、依然として重い荷に抑えつけられていた。
佐伯の家とは親しい関係が結べなくなりました。
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佐伯の家とは親しい関係が結べなくなった。
叔父は死にました。
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叔父は死んだ。
叔母と安之助はまだ生きていますが、生きている間に打ち解けた付き合いはできないほど、もう冷たい日を重ねてしまいました。
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叔母と安之助はまだ生きているが、生きている間に打ち解けた交際はできないほど、もう冷淡の日を重ねてしまった。
今年はまだ年末のあいさつにも行きませんでした。
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今年はまだ歳暮にも行かなかった。
向こうからも来ませんでした。
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向からも来なかった。
家に引き取った小六さえ、心の底では兄を敬っていませんでした。
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家に引取った小六さえ腹の底では兄に敬意を払っていなかった。
二人が東京へ出たばかりの頃には、単純な子どもの頭で、正直に御米を憎んでいました。
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二人が東京へ出たてには、単純な小供の頭から、正直に御米を悪んでいた。
御米にも宗助にも、それがよく分かっていました。
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御米にも宗助にもそれがよく分っていた。
夫婦は日の光の前で笑い、月の前で考えごとをして、静かに年を送り迎えしました。
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夫婦は日の前に笑み、月の前に考えて、静かな年を送り迎えた。
今年ももう終わりの間際まで来ました。
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今年ももう尽きる間際まで来た。
表通りでは暮れのうちから、どの店も同じ正月かざりをつけました。
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通町では暮の内から門並揃の注連飾をした。
通りの左右に何十本も並んだ、屋根より高いささが、みんな寒い風に吹かれてさらさらと鳴りました。
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往来の左右に何十本となく並んだ、軒より高い笹が、ことごとく寒い風に吹かれて、さらさらと鳴った。
宗助も六十センチほどの細い松を買って、門の柱にくぎで留めました。
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宗助も二尺余りの細い松を買って、門の柱に釘付にした。
それから大きな赤いだいだいを鏡もちの上に載せて、床の間に置きました。
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それから大きな赤い橙を御供の上に載せて、床の間に据えた。
床の間には、あやしい墨絵の梅が、はまぐりの形をした月をはき出している絵が掛かっていました。
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床にはいかがわしい墨画の梅が、蛤の格好をした月を吐いてかかっていた。
宗助には、この変な掛け軸の前にだいだいと鏡もちを置く意味が分かりませんでした。
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宗助にはこの変な軸の前に、橙と御供を置く意味が解らなかった。
「いったいこれは、どういうつもりなんだね」
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「いったいこりゃ、どう云う了見だね」
と、自分で飾ったものを眺めながら御米に聞きました。
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と自分で飾りつけた物を眺めながら、御米に聞いた。
御米にも、毎年こうする意味はまるで分かりませんでした。
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御米にも毎年こうする意味はとんと解らなかった。
「知らないわ。ただそうしておけばいいのよ」
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「知らないわ。ただそうしておけばいいのよ」
と言って台所へ行きました。
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と云って台所へ去った。
宗助は、
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宗助は、
「こうしておいて、つまり食べるためか」
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「こうしておいて、つまり食うためか」
と首をかしげて、鏡もちの位置を直しました。
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と首を傾けて御供の位置を直した。
のし餅(もち。板のように平らにのばしたもち)は夜、まな板を茶の間まで持ち出して、みんなで切りました。
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伸餅は夜業に俎を茶の間まで持ち出して、みんなで切った。
包丁が足りないので、宗助は初めから終わりまで手を出しませんでした。
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庖丁が足りないので、宗助は始からしまいまで手を出さなかった。
力があるだけに、小六が一番多く切りました。
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力のあるだけに小六が一番多く切った。
その代わり、大きさのそろわないものも一番多かったのです。
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その代り不同も一番多かった。
中には格好の悪いものも混じりました。
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中には見かけの悪い形のものも交った。
変なのができるたびに、清が声を出して笑いました。
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変なのができるたびに清が声を出して笑った。
小六は包丁の背にぬれたふきんを当てて、かたいはしの所を切りながら、
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小六は庖丁の背に濡布巾をあてがって、硬い耳の所を断ち切りながら、
「格好はどうでも、食べられさえすればいいんだ」
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「格好はどうでも、食いさいすればいいんだ」
と、うんと力を入れて耳まで赤くしました。
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と、うんと力を入れて耳まで赤くした。
そのほかにお正月を迎える支度としては、ごまめ(小さな干した魚)をいって、煮しめを重箱に詰めるくらいのものでした。
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そのほかに迎年の支度としては、小殿原を熬って、煮染を重詰にするくらいなものであった。
大みそかの夜になって、宗助はあいさつのついでに家賃を持って坂井の家へ行きました。
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大晦日の夜に入って、宗助は挨拶かたがた屋賃を持って、坂井の家に行った。
わざと遠慮して勝手口へ回ると、すりガラスに明るい明かりが映って、中はざわざわしていました。
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わざと遠慮して勝手口へ回ると、摺硝子へ明るい灯が映って、中はざわざわしていた。
上がり口に帳面を持って腰かけている、お金を集めに来たらしい店の若い人が、立って宗助にあいさつをしました。
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上り框に帳面を持って腰をかけた掛取らしい小僧が、立って宗助に挨拶をした。
茶の間には主人も奥さんもいました。
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茶の間には主人も細君もいた。
その隅に、店の名の入ったはんてんを着た出入りの職人らしい人が、下を向いて小さな正月かざりをいくつも作っていました。
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その片隅に印袢天を着た出入のものらしいのが、下を向いて、小さい輪飾をいくつも拵えていた。
そばにゆずり葉とうらじろ(正月かざりに使う葉)と半紙とはさみが置いてありました。
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傍に譲葉と裏白と半紙と鋏が置いてあった。
若いお手伝いの人が奥さんの前に座って、おつりらしいお札と銀貨を畳に並べていました。
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若い下女が細君の前に坐って、釣銭らしい札と銀貨を畳に並べていた。
主人は宗助を見て、
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主人は宗助を見て、
「いや、どうも」
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「いやどうも」
と言いました。
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と云った。
「年の暮れで、さぞお忙しいでしょう。うちはこのとおりごたごたです。さあ、どうぞこちらへ。何ですな、お互いに正月にはもうあきましたな。いくら面白いものでも四十回以上繰り返すといやになりますね」
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「押しつまってさぞ御忙しいでしょう。この通りごたごたです。さあどうぞこちらへ。何ですな、御互に正月にはもう飽きましたな。いくら面白いものでも四十辺以上繰り返すと厭になりますね」
主人は年の送り迎えがめんどうくさいようなことを言いましたが、その様子にはどこにも暗いところは見えませんでした。
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主人は年の送迎に煩らわしいような事を云ったが、その態度にはどこと指してくさくさしたところは認められなかった。
話し方は元気でした。
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言葉遣は活溌であった。
顔はつやつやしていました。
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顔はつやつやしていた。
晩ご飯で飲んだお酒の勢いが、まだほおに残っているように思えました。
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晩食に傾けた酒の勢が、まだ頬の上に差しているごとく思われた。
宗助はたばこをもらって、二、三十分ほど話して帰りました。
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宗助は貰い煙草をして二三十分ばかり話して帰った。
家では御米が清を連れてお風呂に行くとかで、せっけん入れを手ぬぐいに包んで、留守番を頼む夫の帰りを待っていました。
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家では御米が清を連れて湯に行くとか云って、石鹸入を手拭に包んで、留守居を頼む夫の帰を待ち受けていた。
「どうなさったの、ずいぶん長かったわね」
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「どうなすったの、随分長かったわね」
と言って時計を見ました。
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と云って時計を眺めた。
時計はもう十時近くでした。
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時計はもう十時近くであった。
その上、清はお風呂の帰りに髪結いの所へ寄って髪を結ってもらうはずだそうでした。
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その上清は湯の戻りに髪結の所へ回って頭を拵えるはずだそうであった。
静かな宗助の暮らしにも、大みそかにはそれなりの用事が押し寄せて来ました。
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閑静な宗助の活計も、大晦日にはそれ相応の事件が寄せて来た。
「支払いはもうみんな済んだのかい」
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「払はもう皆済んだのかい」
と宗助は立ちながら御米に聞きました。
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と宗助は立ちながら御米に聞いた。
御米は、まだまき屋が一軒残っていると答えました。
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御米はまだ薪屋が一軒残っていると答えた。
「来たら払ってちょうだい」
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「来たら払ってちょうだい」
と言って、ふところの中から汚れた男物の札入れと、銀貨を入れる財布を出して、宗助に渡しました。
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と云って懐の中から汚れた男持の紙入と、銀貨入の蟇口を出して、宗助に渡した。
「小六はどうした」
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「小六はどうした」
と夫はそれを受け取りながら言いました。
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と夫はそれを受取ながら云った。
「さっき、大みそかの夜の景色を見て来るって出て行ったのよ。ずいぶんご苦労さまね。この寒いのに」
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「先刻大晦日の夜の景色を見て来るって出て行ったのよ。随分御苦労さまね。この寒いのに」
と言う御米に続いて、清が大きな声で笑いました。
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と云う御米の後に追いて、清は大きな声を出して笑った。
やがて、
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やがて、
「お若いから」
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「御若いから」
と言いながら勝手口へ行って、御米の下駄をそろえました。
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と評しながら、勝手口へ行って、御米の下駄を揃えた。
「どこの夜景を見る気なんだ」
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「どこの夜景を見る気なんだ」
「銀座から日本橋通りのだって」
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「銀座から日本橋通のだって」
御米はその時もう上がり口から下りかけていました。
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御米はその時もう框から下りかけていた。
すぐに障子を開ける音がしました。
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すぐ腰障子を開ける音がした。
宗助はその音を聞き送って、たった一人火鉢の前に座り、灰になる炭の色を眺めていました。
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宗助はその音を聞き送って、たった一人火鉢の前に坐って、灰になる炭の色を眺めていた。
彼の頭には明日の日の丸がうかびました。
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彼の頭には明日の日の丸が映った。
外を乗り回す人のシルクハットの光が見えました。
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外を乗り回す人の絹帽子の光が見えた。
刀の音や、馬の鳴き声や、羽根つきの声が聞こえました。
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洋剣の音だの、馬の嘶だの、遣羽子の声が聞えた。
彼は今から数時間あと、また一年の行事の中でも一番人の心を新しくするように作られた飾りに、出会わなければなりませんでした。
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彼は今から数時間の後また年中行事のうちで、もっとも人の心を新にすべく仕組まれた景物に出逢わなければならなかった。
陽気そうに見えるもの、にぎやかそうに見えるものが次々に彼の心の前を通り過ぎましたが、その中で彼のひじを取っていっしょに連れて行こうとするものは一つもありませんでした。
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陽気そうに見えるもの、賑かそうに見えるものが、幾組となく彼の心の前を通り過ぎたが、その中で彼の臂を把って、いっしょに引張って行こうとするものは一つもなかった。
彼はただ、お祝いに呼ばれていない外の人として、酔うことを禁じられたような、また酔わずに済んだ人でした。
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彼はただ饗宴に招かれない局外者として、酔う事を禁じられたごとくに、また酔う事を免かれた人であった。
彼は自分と御米の暮らしを、毎年ありふれた波の中で送る以上に、これといった望みも持っていませんでした。
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彼は自分と御米の生命を、毎年平凡な波瀾のうちに送る以上に、面前大した希望も持っていなかった。
こうして忙しい大みそかに一人で家を守っている静けさが、ちょうど彼の普段の暮らしを表していました。
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こうして忙がしい大晦日に、一人家を守る静かさが、ちょうど彼の平生の現実を代表していた。
御米は十時過ぎに帰って来ました。
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御米は十時過に帰って来た。
いつもよりつやのいいほおを明かりに照らして、お風呂の温かさがまだ残る襟を少し開けるように下着を重ねていました。
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いつもより光沢の好い頬を灯に照らして、湯の温のまだ抜けない襟を少し開けるように襦袢を重ねていた。
長い首すじがよく見えました。
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長い襟首がよく見えた。
「どうも混んで混んで、洗うこともおけを取ることもできないくらいなの」
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「どうも込んで込んで、洗う事も桶を取る事もできないくらいなの」
と、初めてゆっくり息をつきました。
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と始めて緩くり息を吐いた。
清が帰ったのは十一時過ぎでした。
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清の帰ったのは十一時過であった。
これもきれいに結った頭を障子から出して、ただ今、どうも遅くなりました、とあいさつをしたついでに、あれから二人とか三人とか順番を待った、という話をしました。
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これも綺麗な頭を障子から出して、ただ今、どうも遅くなりましたと挨拶をしたついでに、あれから二人とか三人とか待ち合したと云う話をした。
ただ小六だけは、なかなか帰りませんでした。
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ただ小六だけは容易に帰らなかった。
十二時が鳴った時、宗助はもう寝ようと言い出しました。
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十二時を打ったとき、宗助はもう寝ようと云い出した。
御米は今日に限って先に寝るのも変だと思って、できるだけ話を続けていました。
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御米は今日に限って、先へ寝るのも変なものだと思って、できるだけ話を繋いでいた。
小六はさいわい、間もなく帰りました。
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小六は幸にして間もなく帰った。
日本橋から銀座へ出て、それから水天宮の方へ回ったところ、電車が混んで何台も待ったために遅くなったという言い訳をしました。
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日本橋から銀座へ出てそれから、水天宮の方へ廻ったところが、電車が込んで何台も待ち合わしたために遅くなったという言訳をした。
白牡丹(はくぼたん)という店に入って景品の金時計でも当てようと思ったが、何も買うものがなかったので、しかたなく鈴のついたお手玉を一箱買い、そして何百と機械で吹き上げられる風船を一つつかんだら、金時計は当たらずにこんなものが当たった、と言って、袖から洗い粉を一袋出しました。
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白牡丹へ這入って、景物の金時計でも取ろうと思ったが、何も買うものがなかったので、仕方なしに鈴の着いた御手玉を一箱買って、そうして幾百となく器械で吹き上げられる風船を一つ攫んだら、金時計は当らないで、こんなものがあたったと云って、袂から倶楽部洗粉を一袋出した。
それを御米の前に置いて、
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それを御米の前に置いて、
「姉さんに差し上げましょう」
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「姉さんに上げましょう」
と言いました。
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と云った。
それから、鈴をつけた梅の花の形に縫ったお手玉を宗助の前に置いて、
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それから鈴を着けた、梅の花の形に縫った御手玉を宗助の前に置いて、
「坂井のお嬢さんにでも差し上げてください」
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「坂井の御嬢さんにでも御上げなさい」
と言いました。
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と云った。
出来事の少ない一つの小さな家族の大みそかは、それで終わりました。
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事に乏しい一小家族の大晦日は、それで終りを告げた。
十六
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十六
お正月は二日目に雪を連れて来て、正月かざりの都を白くしました。
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正月は二日目の雪を率て注連飾の都を白くした。
雪がやんで屋根の色が元に戻る前に、夫婦はトタン張りのひさしをすべり落ちる雪の音に何度も驚かされました。
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降りやんだ屋根の色がもとに復る前、夫婦は亜鉛張の庇を滑り落ちる雪の音に幾遍か驚ろかされた。
夜中には、どさっという音が特に大きく響きました。
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夜半にはどさと云う響がことにはなはだしかった。
小道のぬかるみは雨上がりと違って、一日や二日ではなかなか乾きませんでした。
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小路の泥濘は雨上りと違って一日や二日では容易に乾かなかった。
外から靴を汚して帰って来る宗助が、御米の顔を見るたびに、
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外から靴を汚して帰って来る宗助が、御米の顔を見るたびに、
「これはいけない」
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「こりゃいけない」
と言いながら玄関へ上がりました。
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と云いながら玄関へ上った。
その様子が、まるで御米が道を悪くした責任者だと言っているように見えるので、御米はとうとう、
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その様子があたかも御米を路を悪くした責任者と見傚している風に受取られるので、御米はしまいに、
「どうもすみません。本当にお気の毒さま」
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「どうも済みません。本当に御気の毒さま」
と言って笑い出しました。
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と云って笑い出した。
宗助は、返す冗談も特にありませんでした。
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宗助は別に返すべき冗談も有たなかった。
「御米、ここから出かけるには、どこへ行くにも高い下駄をはかなくちゃならないように見えるだろう。ところが下町へ出ると大違いだ。どの通りもからからで、かえってほこりが立つくらいだから、高い下駄なんかはいていたら恥ずかしくて歩けやしない。つまりこういう所に住んでいる我々は、百年ばかり遅れていることになるんだね」
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「御米ここから出かけるには、どこへ行くにも足駄を穿かなくっちゃならないように見えるだろう。ところが下町へ出ると大違だ。どの通もどの通もからからで、かえって埃が立つくらいだから、足駄なんぞ穿いちゃきまりが悪くって歩けやしない。つまりこう云う所に住んでいる我々は一世紀がた後れる事になるんだね」
こんなことを言う宗助は、特に不満そうな顔もしていませんでした。
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こんな事を口にする宗助は、別に不足らしい顔もしていなかった。
御米も、夫の鼻から出るたばこのけむりを眺めるくらいの気持ちでそれを聞いていました。
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御米も夫の鼻の穴を潜る煙草の煙を眺めるくらいな気で、それを聞いていた。
「坂井さんへ行って、そう言っていらっしゃいな」
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「坂井さんへ行って、そう云っていらっしゃいな」
と軽く返事をしました。
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と軽い返事をした。
「そうして家賃でも安くしてもらうことにしよう」
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「そうして屋賃でも負けて貰う事にしよう」
と答えたまま、宗助はとうとう坂井の家へは行きませんでした。
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と答えたまま、宗助はついに坂井へは行かなかった。
その坂井の家には元日の朝早く名刺を入れただけで、わざと主人の顔を見ずに門を出ましたが、義理のある所を一日のうちにだいたい回って夕方帰ってみると、留守の間に坂井がちゃんと来ていたので、恐縮しました。
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その坂井には元日の朝早く名刺を投げ込んだだけで、わざと主人の顔を見ずに門を出たが、義理のある所を一日のうちにほぼ片づけて夕方帰って見ると、留守の間に坂井がちゃんと来ていたので恐縮した。
二日は雪が降っただけで、何事もなく過ぎました。
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二日は雪が降っただけで何事もなく過ぎた。
三日目の夕方にお手伝いの人が使いに来て、お暇なら旦那様と奥様と、それから若旦那様に、ぜひ今晩遊びにいらっしゃるように、と言って帰りました。
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三日目の日暮に下女が使に来て、御閑ならば、旦那様と奥さまと、それから若旦那様に是非今晩御遊びにいらっしゃるようにと云って帰った。
「何をするんだろう」
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「何をするんだろう」
と宗助は不思議がりました。
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と宗助は疑ぐった。
「きっと歌がるたでしょう。子どもが多いから」
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「きっと歌加留多でしょう。小供が多いから」
と御米が言いました。
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と御米が云った。
「あなた、行っていらっしゃい」
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「あなた行っていらっしゃい」
「せっかくだからお前が行くといい。おれはかるたは長く取らないから駄目だ」
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「せっかくだから御前行くが好い。おれは歌留多は久しく取らないから駄目だ」
「私も長く取らないから駄目ですわ」
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「私も久しく取らないから駄目ですわ」
二人はなかなか行こうとしませんでした。
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二人は容易に行こうとはしなかった。
とうとう、では若旦那がみんなの代わりに行くのがいいだろう、ということになりました。
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しまいに、では若旦那がみんなを代表して行くが宜かろうという事になった。
「若旦那、行って来い」
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「若旦那行って来い」
と宗助が小六に言いました。
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と宗助が小六に云った。
小六は苦笑いして立ちました。
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小六は苦笑いして立った。
夫婦は、若旦那という名前を小六につけることを、とてもおかしく感じました。
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夫婦は若旦那と云う名を小六に冠らせる事を大変な滑稽のように感じた。
若旦那と呼ばれて苦笑いする小六の顔を見ると、二人そろって声を出して笑い出しました。
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若旦那と呼ばれて、苦笑いする小六の顔を見ると、等しく声を出して笑い出した。
小六は春らしい空気の中から出ました。
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小六は春らしい空気の中から出た。
そして百メートルほどの寒さを横切って、また春らしい電灯の下に座りました。
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そうして一町ほどの寒さを横切って、また春らしい電灯の下に坐った。
その晩、小六は大みそかに買った梅の花のお手玉を袖に入れて、これは兄から差し上げますとわざわざ言って、坂井のお嬢さんにおみやげにしました。
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その晩小六は大晦日に買った梅の花の御手玉を袂に入れて、これは兄から差上げますとわざわざ断って、坂井の御嬢さんに贈物にした。
その代わり帰りには、福引きに当たった小さな裸の人形を同じ袖に入れて来ました。
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その代り帰りには、福引に当った小さな裸人形を同じ袂へ入れて来た。
その人形の額が少し欠けていて、そこだけ墨で塗ってありました。
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その人形の額が少し欠けて、そこだけ墨で塗ってあった。
小六はまじめな顔をして、これが袖萩(そではぎ)だそうです、と言ってそれを兄夫婦の前に置きました。
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小六は真面目な顔をして、これが袖萩だそうですと云って、それを兄夫婦の前に置いた。
なぜ袖萩なのか、夫婦には分かりませんでした。
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なぜ袖萩だか夫婦には分らなかった。
小六にはもちろん分からなかったのを、坂井の奥さんがていねいに説明してくれたそうですが、それでも納得できなかったので、主人がわざわざ半紙にしゃれと元の文句を並べて書いて、帰ったらこれを兄さんと姉さんに見せなさい、と言って渡したという話でした。
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小六には無論分らなかったのを、坂井の奥さんが叮嚀に説明してくれたそうであるが、それでも腑に落ちなかったので、主人がわざわざ半切に洒落と本文を並べて書いて、帰ったらこれを兄さんと姉さんに御見せなさいと云って渡したとかいう話であった。
小六は袖をさぐって、その紙を取り出して見せました。
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小六は袂を探ってその書付を取り出して見せた。
それには「この垣一重が黒鉄(くろがね)の」
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それに「此垣一重が黒鉄の」
と書いたあとにかっこをして、(この餓鬼、額が黒欠けの)と付け足してあったので、宗助と御米はまた春らしい笑い声を出しました。
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と認めた後に括弧をして、(此餓鬼額が黒欠の)とつけ加えてあったので、宗助と御米はまた春らしい笑を洩らした。
「ずいぶん手のこんだ思いつきだね。いったいだれの考えだい」
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「随分念の入った趣向だね。いったい誰の考だい」
と兄が聞きました。
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と兄が聞いた。
「だれでしょうかね」
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「誰ですかな」
と小六はやはりつまらなそうな顔をして、人形をそこへ放り出したまま自分の部屋へ帰りました。
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と小六はやっぱりつまらなそうな顔をして、人形をそこへ放り出したまま、自分の室に帰った。
それから二、三日して、たしか七日の夕方に、また坂井のお手伝いの人が来て、もしお暇ならどうぞお話に、とていねいに主人の言葉を伝えました。
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それから二三日して、たしか七日の夕方に、また例の坂井の下女が来て、もし御閑ならどうぞ御話にと、叮嚀に主人の命を伝えた。
宗助と御米はランプをつけて、ちょうど晩ご飯を始めたところでした。
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宗助と御米は洋灯を点けてちょうど晩食を始めたところであった。
宗助はその時、茶碗を持ちながら、
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宗助はその時茶碗を持ちながら、
「お正月もようやく一区切りついた」
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「春もようやく一段落が着いた」
と言っていました。
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と語っていた。
そこへ清が坂井からの言づけを伝えたので、御米は夫の顔を見てにっこりしました。
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そこへ清が坂井からの口上を取り次いだので、御米は夫の顔を見て微笑した。
宗助は茶碗を置いて、
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宗助は茶碗を置いて、
「まだ何か催しがあるのかい」
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「まだ何か催おしがあるのかい」
と少しめんどうそうにまゆを寄せました。
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と少し迷惑そうな眉をした。
坂井のお手伝いの人に聞いてみると、特にお客もなければ何の支度もないということでした。
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坂井の下女に聞いて見ると、別に来客もなければ、何の支度もないという事であった。
その上、奥さんは子どもを連れて親類に呼ばれて行って留守だという話までしました。
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その上細君は子供を連れて親類へ呼ばれて行って留守だという話までした。
「それじゃ行こう」
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「それじゃ行こう」
と言って宗助は出かけました。
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と云って宗助は出掛けた。
宗助は世間との付き合いをきらっていました。
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宗助は一般の社交を嫌っていた。
どうしても必要でなければ、集まりの席などへ顔を出す男ではありませんでした。
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やむを得なければ会合の席などへ顔を出す男でなかった。
個人としての友達も多くは求めませんでした。
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個人としての朋友も多くは求めなかった。
人を訪ねる暇も持っていませんでした。
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訪問はする暇を有たなかった。
ただ坂井だけは別でした。
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ただ坂井だけは取除であった。
時々は用もないのにこちらからわざわざ出かけて行って、時間をつぶして来ることさえありました。
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折々は用もないのにこっちからわざわざ出掛けて行って、時を潰して来る事さえあった。
それなのに坂井は、世の中で一番人付き合いの好きな人でした。
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その癖坂井は世の中でもっとも社交的の人であった。
この人付き合いの好きな坂井と、一人でいるのが好きな宗助の二人が集まって話ができるのは、御米にも不思議に見えることでした。
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この社交的な坂井と、孤独な宗助が二人寄って話ができるのは、御米にさえ妙に見える現象であった。
坂井は、
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坂井は、
「あちらへ行きましょう」
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「あっちへ行きましょう」
と言って、茶の間を通り越し、廊下を通って小さな書斎へ入りました。
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と云って、茶の間を通り越して、廊下伝いに小さな書斎へ入った。
そこには太い筆で書いたような大きなかたい字が五字ほど、床の間に掛かっていました。
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そこには棕梠の筆で書いたような、大きな硬い字が五字ばかり床の間にかかっていた。
棚の上に見事な白い牡丹(ぼたん)が生けてありました。
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棚の上に見事な白い牡丹が活けてあった。
そのほか机でも座布団でも、みんなきれいでした。
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そのほか机でも蒲団でもことごとく綺麗であった。
坂井は初め暗い入口に立って、
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坂井は始め暗い入口に立って、
「さあ、どうぞ」
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「さあどうぞ」
と言いながら、どこかをぴちりとひねって電灯をつけました。
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と云いながら、どこかぴちりと捩って、電気灯を点けた。
それから、
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それから、
「ちょっと待ってください」
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「ちょっと待ちたまえ」
と言って、マッチでガスストーブに火をつけました。
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と云って、燐寸で瓦斯煖炉を焚いた。
ガスストーブは部屋に合わせたとても小さなものでした。
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瓦斯煖炉は室に比例したごく小さいものであった。
坂井はそのあとで座布団をすすめました。
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坂井はしかる後蒲団を薦めた。
「これが僕の洞窟(どうくつ)で、めんどうになるとここへ逃げこむんです」
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「これが僕の洞窟で、面倒になるとここへ避難するんです」
宗助も厚い座布団の上で、静けさを感じました。
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宗助も厚い綿の上で、一種の静かさを感じた。
ガスの燃える音がかすかにして、だんだん背中からほかほか暖まって来ました。
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瓦斯の燃える音が微かにしてしだいに背中からほかほか煖まって来た。
「ここにいると、もうどことも関係がない。まったく気楽です。ゆっくりしていってください。実際、お正月というものは思ったよりめんどうなものですね。私も昨日までで、ほとんどへとへとになりました。新年が続くのは実に苦しいですよ。それで今日の昼から、とうとう世の中を離れて、病気ということにしてぐっと寝こんでしまいました。今しがた目を覚まして、お風呂に入って、それからご飯を食べてたばこを吸って、気がついてみると、家内が子どもを連れて親類へ行って留守なんです。なるほど静かなはずだと思いましてね。すると今度は急に退屈になったのです。人間もずいぶん勝手なものですよ。しかしいくら退屈でも、この上おめでたいものを見たり聞いたりするのは疲れますし、またお正月らしいものを飲んだり食べたりするのもこわいですから、それで、お正月らしくない、と言うと失礼だが、まあ世の中とあまり関係のないあなた、と言ってもまだ失礼かもしれないが、つまり一言で言えば、世の中から離れた人と話をしてみたくなったので、それでわざわざ使いを出したようなわけなんです」
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「ここにいると、もうどことも交渉はない。全く気楽です。悠くりしていらっしゃい。実際正月と云うものは予想外に煩瑣いものですね。私も昨日まででほとんどへとへとに降参させられました。新年が停滞ているのは実に苦しいですよ。それで今日の午から、とうとう塵世を遠ざけて、病気になってぐっと寝込んじまいました。今しがた眼を覚まして、湯に入って、それから飯を食って、煙草を呑んで、気がついて見ると、家内が子供を連れて親類へ行って留守なんでしょう。なるほど静かなはずだと思いましてね。すると今度は急に退屈になったのです。人間も随分わがままなものですよ。しかしいくら退屈だって、この上おめでたいものを、見たり聞いたりしちゃ骨が折れますし、また御正月らしいものを呑んだり食ったりするのも恐れますから、それで、御正月らしくない、と云うと失礼だが、まあ世の中とあまり縁のないあなた、と云ってもまだ失敬かも知れないが、つまり一口に云うと、超然派の一人と話しがして見たくなったんで、それでわざわざ使を上げたような訳なんです」
と坂井はいつもの調子で、何もかもすらすらしていました。
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と坂井は例の調子で、ことごとくすらすらしたものであった。
宗助はこの明るい人の前では、よく自分の過去を忘れることがありました。
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宗助はこの楽天家の前では、よく自分の過去を忘れる事があった。
そして時には、自分がもし順調に育っていたら、こんな人物になっていたのではないかと考えました。
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そうして時によると、自分がもし順当に発展して来たら、こんな人物になりはしなかったろうかと考えた。
そこへお手伝いの人が狭い入口を開けて入って来て、改めて宗助にていねいなおじぎをした上、木の皿ともお菓子の皿ともつかないものを一つ前に置きました。
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そこへ下女が三尺の狭い入口を開けて這入って来たが、改ためて宗助に鄭重な御辞儀をした上、木皿のような菓子皿のようなものを、一つ前に置いた。
それから同じ物をもう一つ主人の前に置いて、一言も言わずに下がりました。
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それから同じ物をもう一つ主人の前に置いて、一口もものを云わずに退がった。
木の皿の上には、ゴムまりほどもある大きな田舎まんじゅうが一つ載せてありました。
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木皿の上には護謨毬ほどな大きな田舎饅頭が一つ載せてあった。
それに、普通の倍以上もありそうなようじが添えてありました。
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それに普通の倍以上もあろうと思われる楊枝が添えてあった。
「どうです、暖かいうちに」
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「どうです暖かい内に」
と主人が言ったので、宗助は初めて、このまんじゅうが蒸してから間もない新しいものだと気がつきました。
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と主人が云ったので、宗助は始めてこの饅頭の蒸して間もない新らしさに気がついた。
めずらしそうに黄色い皮を眺めました。
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珍らしそうに黄色い皮を眺めた。
「いや、作りたてじゃありません」
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「いやできたてじゃありません」
と主人がまた言いました。
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と主人がまた云った。
「実は昨日の夜ある所へ行って、冗談半分にほめたら、おみやげに持っていらっしゃいと言うのでもらって来たんです。その時はまったく暖かかったんですがね。これは今出そうと思って蒸し直させたのです」
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「実は昨夜ある所へ行って、冗談半分に賞めたら、御土産に持っていらっしゃいと云うから貰って来たんです。その時は全く暖たかだったんですがね。これは今上げようと思って蒸し返さしたのです」
主人は、はしともようじともつかないもので無造作にまんじゅうを割って、むしゃむしゃ食べ始めました。
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主人は箸とも楊枝とも片のつかないもので、無雑作に饅頭を割って、むしゃむしゃ食い始めた。
宗助も同じようにしました。
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宗助も顰に傚った。
その間に主人は、昨日の夜行った料理屋で会ったとかいう変わった芸者の話をしました。
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その間に主人は昨夕行った料理屋で逢ったとか云って妙な芸者の話をした。
この芸者は小さい本の論語(ろんご。孔子の言葉を集めた本)が好きで、汽車に乗ったり遊びに行ったりする時は、いつもそれをふところに入れて出るそうでした。
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この芸者はポッケット論語が好きで、汽車へ乗ったり遊びに行ったりするときは、いつでもそれを懐にして出るそうであった。
「それでね、孔子(こうし)の弟子の中では子路(しろ)が一番好きだと言うんですがね。その理由を聞くと、子路という男は、一つ何か教わってそれをまだ実行しないうちにまた新しいことを聞くと気にするほど正直だからだと言うんです。実のところ私も子路はあまりよく知らないから困ったんですが、とにかく一人いい人ができて、それと夫婦にならないうちにまた新しくいい人ができると気になるようなものじゃないか、と聞いてみたんです……」
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「それでね孔子の門人のうちで、子路が一番好だって云うんですがね。そのいわれを聞くと、子路と云う男は、一つ何か教わって、それをまだ行わないうちに、また新らしい事を聞くと苦にするほど正直だからだって云うんです。実のところ私も子路はあまりよく知らないから困ったが、何しろ一人好い人ができて、それと夫婦にならない前に、また新らしく好い人ができると苦になるようなものじゃないかって、聞いて見たんです……」
主人はこんなことを、とても気楽そうに話しました。
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主人はこんな事をはなはだ気楽そうに述べ立てた。
その話し方から考えると、彼はしょっちゅうこういう場所に出入りして、その刺激にはもう慣れきっているのに、習慣で相変わらず月に何度も同じことを繰り返しているらしいのでした。
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その話の様子からして考えると、彼はのべつにこういう場所に出入して、その刺戟にはとうに麻痺しながら、因習の結果、依然として月に何度となく同じ事を繰り返しているらしかった。
よく聞いてみると、これほど平気な男でも、時々は遊びすぎて疲れて、書斎の中で心を休める必要が出て来るのだそうでした。
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よく聞き糺して見ると、しかく平気な男も、時々は歓楽の飽満に疲労して、書斎のなかで精神を休める必要が起るのだそうであった。
宗助はそういう方面にまるで経験のない男ではなかったので、無理に面白がるふりをする必要もなく、ただ当たり前の受け答えをするところが、かえって主人の気に入るようでした。
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宗助はそういう方面にまるで経験のない男ではなかったので、強いて興味を装う必要もなく、ただ尋常な挨拶をするところが、かえって主人の気に入るらしかった。
彼はありふれた宗助の言葉の中から、変わった過去をのぞこうとする様子を見せました。
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彼は平凡な宗助の言葉のなかから、一種異彩のある過去を覗くような素振を見せた。
しかしそちらへは宗助が進みたがらない気配が少しでも出ると、すぐ話を変えました。
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しかしそちらへは宗助が進みたがらない痕迹が少しでも出ると、すぐ話を転じた。
それはかけひきというより、むしろ礼儀からでした。
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それは政略よりもむしろ礼譲からであった。
ですから、宗助にはいやな気持ちを少しも与えませんでした。
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したがって宗助には毫も不愉快を与えなかった。
そのうち小六の話が出ました。
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そのうち小六の噂が出た。
主人はこの若者について、実の兄が見のがすような新しい見方を二つ三つ持っていました。
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主人はこの青年について、肉身の兄が見逃すような新らしい観察を、二三有っていた。
宗助は主人の言葉を、当たっているかどうかに関係なく面白く聞きました。
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宗助は主人の評語を、当ると当らないとに論なく、面白く聞いた。
その中に、彼は年の割に複雑で役に立たない頭を持っていながら、年より若い単純な性質を平気で出す子どもではないか、という問いがありました。
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そのなかに、彼は年に合わしては複雑な実用に適しない頭を有っていながら、年よりも若い単純な性情を平気で露わす子供じゃないかという質問があった。
宗助はすぐそれにうなずきました。
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宗助はすぐそれを首肯った。
しかし学校の教育だけで世の中での教育のない者は、いくら年を取ってもそういうところがあるだろうと答えました。
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しかし学校教育だけで社会教育のないものは、いくら年を取ってもその傾があるだろうと答えた。
「なるほど。それと反対に、世の中での教育だけあって学校の教育のない者は、ずいぶん複雑な性質を見せる代わりに、頭はいつまでも子どもですからね。かえって始末が悪いかもしれない」
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「さよう、それと反対で、社会教育だけあって学校教育のないものは、随分複雑な性情を発揮する代りに、頭はいつまでも小供ですからね。かえって始末が悪いかも知れない」
主人はここでちょっと笑いましたが、やがて、
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主人はここでちょっと笑ったが、やがて、
「どうです、私の所へ書生(しょせい。家に住みこんで手伝いをする学生)に寄こしては。少しは世の中の教育になるかもしれない」
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「どうです、私の所へ書生に寄こしちゃ、少しは社会教育になるかも知れない」
と言いました。
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と云った。
主人の書生は、彼の犬が病気で病院に入る一か月前とかに兵隊の検査に受かって軍に入ったきり、今では一人もいないのだそうです。
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主人の書生は彼の犬が病気で病院へ這入る一カ月前とかに、徴兵検査に合格して入営したぎり今では一人もいないのだそうであった。
宗助は小六の身の振り方を決めるいい機会が、こちらから求めもしないのに春といっしょに自然とめぐって来たのを喜びました。
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宗助は小六の所置をつける好機会が、求めざるに先だって、春と共に自から回って来たのを喜こんだ。
同時に、今まで世間に向かって自分から親切を求める勇気を持たなかった彼は、急にこの主人の申し出に出会って、少しまごつくほど驚きました。
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同時に、今まで世間に向って、積極的に好意と親切を要求する勇気を有たなかった彼は、突然この主人の申し出に逢って少しまごつくくらい驚ろいた。
けれども、できるならなるべく早く弟を坂井に預けて、そのおかげでできる自分のお金の余裕に安之助の助けを少し足し、そして本人の望みどおり上の学校の教育を受けさせてやろうという考えを立てました。
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けれどもできるならなりたけ早く弟を坂井に預けて置いて、この変動から出る自分の余裕に、幾分か安之助の補助を足して、そうして本人の希望通り、高等の教育を受けさしてやろうという分別をした。
そこで本当のことを包み隠さず主人に話すと、主人はなるほどなるほどと聞いているだけでしたが、最後にあっさり、
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そこで打ち明けた話を腹蔵なく主人にすると、主人はなるほどなるほどと聞いているだけであったが、しまいに雑作なく、
「それはいいでしょう」
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「そいつは好いでしょう」
と言ったので、話はだいたいその場でまとまりました。
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と云ったので、相談はほぼその座で纏まった。
宗助はそこで帰ればよかったのです。
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宗助はそこで辞して帰ればよかったのである。
また、帰ろうとしたのです。
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また辞して帰ろうとしたのである。
ところが主人から、まあゆっくりしてください、と言って引き止められました。
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ところが主人からまあ緩くりなさいと云って留められた。
主人は、夜は長い、まだ早いと言って時計まで出して見せました。
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主人は夜は長い、まだ宵だと云って時計まで出して見せた。
実際、彼は退屈らしかったのです。
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実際彼は退屈らしかった。
宗助も帰ればただ寝るしかない身なので、つい、また腰を落ち着けて濃いたばこを新しく吸い始めました。
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宗助も帰ればただ寝るよりほかに用のない身体なので、ついまた尻を据えて、濃い煙草を新らしく吹かし始めた。
最後には主人と同じように、柔らかい座布団の上で足をくずしました。
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しまいには主人の例に傚って、柔らかい座蒲団の上で膝さえ崩した。
主人は小六のことに関係して、
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主人は小六の事に関聯して、
「いや、弟などを持っていると、ずいぶんめんどうなものですよ。私も一人、ろくでもないのを世話した覚えがありますがね」
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「いや弟などを有っていると、随分厄介なものですよ。私も一人やくざなのを世話をした覚がありますがね」
と言って、自分の弟が大学にいた時にお金がかかったことなどを、自分の学生時代の質素さと比べていろいろ話しました。
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と云って、自分の弟が大学にいるとき金のかかった事などを、自分が学生時代の質朴さに比べていろいろ話した。
宗助は、この派手好きな弟がその後どんな道を通ってどうなったかを、気味の悪い運命のやり方を知る手がかりとして主人に聞いてみました。
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宗助はこの派出好な弟が、その後どんな径路を取って、どう発展したかを、気味の悪い運命の意思を窺う一端として、主人に聞いて見た。
主人は突然
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主人は卒然
「冒険者」
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「冒険者」
と、前も後ろもない一言を投げるように言いました。
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と、頭も尾もない一句を投げるように吐いた。
この弟は卒業後、主人の紹介である銀行に入りましたが、何でもお金をもうけなくてはいけないと口癖のように言っていたそうで、日露戦争のあとすぐ、主人が止めるのも聞かずに、大きくやってみたいとか言って、とうとう満州(まんしゅう。今の中国の北東部)へ渡ったのだそうです。
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この弟は卒業後主人の紹介で、ある銀行に這入ったが、何でも金を儲けなくっちゃいけないと口癖のように云っていたそうで、日露戦争後間もなく、主人の留めるのも聞かずに、大いに発展して見たいとかとなえてついに満洲へ渡ったのだと云う。
そこで何を始めるかと思うと、遼河(りょうが)という川を使って豆のかすや大豆を船で運ぶ、大がかりな運送の仕事を始めて、すぐに失敗してしまったのだそうです。
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そこで何を始めるかと思うと、遼河を利用して、豆粕大豆を船で下す、大仕掛な運送業を経営して、たちまち失敗してしまったのだそうである。
もちろん本人はお金を出した人ではありませんでしたが、いよいよという時に計算してみると大きな赤字だと分かったので、当然仕事は続けられず、本人も当たり前の結果として地位を失ったままになりました。
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元より当人は、資本主ではなかったのだけれども、いよいよという暁に、勘定して見ると大きな欠損と事がきまったので、無論事業は継続する訳に行かず、当人は必然の結果、地位を失ったぎりになった。
「それから後、私もどうしたかよく知らなかったんですが、その後ようやく聞いてみて驚きましたね。モンゴルへ入ってうろうろしているんです。どこまで山っ気があるのか分からないので、私も少し危ないと思っているんですよ。それでも離れているうちは、まあどうにかしているだろうくらいに思って放っておきます。たまに便りがあったって、モンゴルという所は水の少ない所で、暑い時には道にどぶの水をまくとかね、またはそのどぶの水がなくなると今度は馬の小便をまくとか、だからとても臭いとか、まあそんな手紙が来るだけですから。そりゃお金のことも言って来ますが、なに、東京とモンゴルだから放っておけばそれまでです。だから離れてさえいればまあいいんですが、そいつが去年の暮れに突然出て来ましてね」
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「それから後私もどうしたかよく知らなかったんですが、その後ようやく聞いて見ると、驚ろきましたね。蒙古へ這入って漂浪いているんです。どこまで山気があるんだか分らないんで、私も少々剣呑になってるんですよ。それでも離れているうちは、まあどうかしているだろうぐらいに思って放っておきます。時たま音便があったって、蒙古という所は、水に乏しい所で、暑い時には往来へ泥溝の水を撒くとかね、またはその泥溝の水が無くなると、今度は馬の小便を撒くとか、したがってはなはだ臭いとか、まあそんな手紙が来るだけですから、――そりゃあ金の事も云って来ますが、なに東京と蒙古だから打遣っておけばそれまでです。だから離れてさえいれば、まあいいんですが、そいつが去年の暮突然出て来ましてね」
主人は思いついたように、床の間の柱に掛けた、きれいな房のついた飾り物を取り下ろしました。
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主人は思いついたように、床の柱にかけた、綺麗な房のついた一種の装飾物を取りおろした。
それは錦(にしき)の袋に入った三十センチほどの刀でした。
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それは錦の袋に這入った一尺ばかりの刀であった。
さやは何とも分からない緑色の、きらきらした石のようなものでできていて、その所々が三か所ほど巻いてありました。
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鞘は何とも知れぬ緑色の雲母のようなものでできていて、その所々が三カ所ほど巻いてあった。
刀身は十八センチくらいしかありませんでした。
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中身は六寸ぐらいしかなかった。
ですから刃もうすいものでした。
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したがって刃も薄かった。
けれどもさやの形は、ちょうど六角のかしの棒のように太かったのです。
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けれども鞘の格好はあたかも六角の樫の棒のように厚かった。
よく見ると、柄(つか)の後ろに細い棒が二本並んで差してありました。
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よく見ると、柄の後に細い棒が二本並んで差さっていた。
結果として、さやを重ねて離れないように銀の帯を巻いたのと同じでした。
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結果は鞘を重ねて離れないために銀の鉢巻をしたと同じであった。
主人は
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主人は
「おみやげにこんなものを持って来ました。モンゴルの刀だそうです」
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「土産にこんなものを持って来ました。蒙古刀だそうです」
と言いながら、すぐ抜いて見せました。
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と云いながら、すぐ抜いて見せた。
後ろに差してあった象牙(ぞうげ)のような棒も二本抜いて見せました。
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後に差してあった象牙のような棒も二本抜いて見せた。
「これははしですよ。モンゴルの人はいつもこれを腰にぶら下げていて、いざごちそうという時になると、この刀を抜いて肉を切って、そしてこのはしでそばから食べるんだそうです」
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「こりゃ箸ですよ。蒙古人は始終これを腰へぶら下げていて、いざ御馳走という段になると、この刀を抜いて肉を切って、そうしてこの箸で傍から食うんだそうです」
主人はわざわざ刀とはしを両手に持って、切ったり食べたりする真似をして見せました。
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主人はことさらに刀と箸を両手に持って、切ったり食ったりする真似をして見せた。
宗助はひたすら、その細かく上手な作りを眺めました。
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宗助はひたすらにその精巧な作りを眺めた。
「ほかにモンゴルの人がテントに使うフェルトももらいましたが、まあ昔の敷き物と変わったところもありませんね」
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「まだ蒙古人の天幕に使うフェルトも貰いましたが、まあ昔の毛氈と変ったところもありませんね」
主人は、モンゴルの人が馬を上手に扱うことや、モンゴルの犬がやせて細長く、西洋のグレーハウンドという犬に似ていることや、彼らが中国の人にだんだん押されて土地をせばめられていることなど、みんな近ごろ向こうから帰ったという弟に聞いたままを宗助に話しました。
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主人は蒙古人の上手に馬を扱う事や、蒙古犬の瘠せて細長くて、西洋のグレー・ハウンドに似ている事や、彼らが支那人のためにだんだん押し狭められて行く事や、――すべて近頃あっちから帰ったという弟に聞いたままを宗助に話した。
宗助はまた、自分が今まで聞いたことのない話だけに、一つ一つとても興味を持って聞いて行きました。
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宗助はまた自分のいまだかつて耳にした事のない話だけに、一々少なからぬ興味を有ってそれを聞いて行った。
そのうちに、そもそもこの弟はモンゴルで何をしているのだろうという気持ちが出て来ました。
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そのうちに、元来この弟は蒙古で何をしているのだろうという好奇心が出た。
そこでちょっと主人に聞いてみると、主人は、
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そこでちょっと主人に尋ねて見ると、主人は、
「冒険者」
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「冒険者」
と、またさっきの言葉を強く繰り返しました。
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と再び先刻の言葉を力強く繰り返した。
「何をしているか分からない。私には、牧場をやっています、しかもうまく行っています、と言うんですがね、まるで当てになりません。今までもよく大きな嘘をついて私をだましたものです。それに今度東京へ出て来た用事というのがよほど変です。何とかいうモンゴルの王様のためにお金を二万円ほど借りたい。もし貸してやらないと自分の信用にかかわる、と言って走り回っているんですからね。その手始めにつかまったのが私ですが、いくらモンゴルの王様だって、いくら広い土地を担保にすると言ったって、モンゴルと東京では催促さえできませんもの。それで私が断ると、陰に回って家内に、兄さんはああだから大きな仕事ができるはずがない、といばっているんです。しようがない」
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「何をしているか分らない。私には、牧畜をやっています。しかも成功していますと云うんですがね、いっこう当にはなりません。今までもよく法螺を吹いて私を欺したもんです。それに今度東京へ出て来た用事と云うのがよっぽど妙です。何とか云う蒙古王のために、金を二万円ばかり借りたい。もし借してやらないと自分の信用に関わるって奔走しているんですからね。そのとっぱじめに捕まったのは私だが、いくら蒙古王だって、いくら広い土地を抵当にするったって、蒙古と東京じゃ催促さえできやしませんもの。で、私が断ると、蔭へ廻って妻に、兄さんはあれだから大きな仕事ができっこないって、威張っているんです。しようがない」
主人はここで少し笑いましたが、変に緊張した宗助の顔を見て、
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主人はここで少し笑ったが、妙に緊張した宗助の顔を見て、
「どうです、一度会ってごらんになっては。わざわざ毛皮のついただぶだぶしたものなんか着ていて、ちょっと面白いですよ。何ならご紹介しましょう。ちょうどあさっての晩に呼んでご飯を食べさせることになっているから。なに、話に引っかかってはいけませんがね。黙って向こうにしゃべらせて聞いている分には、少しも危なくありません。ただ面白いだけです」
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「どうです一遍逢って御覧になっちゃ、わざわざ毛皮の着いただぶだぶしたものなんか着て、ちょっと面白いですよ。何なら御紹介しましょう。ちょうど明後日の晩呼んで飯を食わせる事になっているから。――なに引っ掛っちゃいけませんがね。黙って向に喋舌らして、聞いている分には、少しも危険はありません。ただ面白いだけです」
としきりにすすめ出しました。
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としきりに勧め出した。
宗助は少し心を動かされました。
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宗助は多少心を動かした。
「いらっしゃるのは弟さんだけですか」
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「おいでになるのは御令弟だけですか」
「いや、ほかに一人、弟の友達で向こうからいっしょに来た者が来るはずになっています。安井とかいって、私はまだ会ったこともない男ですが、弟がしきりに私に紹介したがるので、実はそれで二人を呼ぶことにしたんです」
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「いやほかに一人弟の友達で向からいっしょに来たものが、来るはずになっています。安井とか云って私はまだ逢った事もない男ですが、弟がしきりに私に紹介したがるから、実はそれで二人を呼ぶ事にしたんです」
宗助はその夜、青い顔をして坂井の門を出ました。
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宗助はその夜蒼い顔をして坂井の門を出た。
十七
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十七
宗助と御米の一生を暗く染めた出来事は、二人の姿をうすくして、まるで幽霊のような気持ちをどこかに残していました。
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宗助と御米の一生を暗く彩どった関係は、二人の影を薄くして、幽霊のような思をどこかに抱かしめた。
二人は自分の心のどこかに、人には見えない病気のような恐ろしいものがひそんでいるのをうすうす感じながら、わざと知らない顔をしてお互いと向き合い、年を過ごして来ました。
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彼らは自己の心のある部分に、人に見えない結核性の恐ろしいものが潜んでいるのを、仄かに自覚しながら、わざと知らぬ顔に互と向き合って年を過した。
初めの頃、二人の頭にひどくこたえたのは、自分たちのしたことが安井のこれからに与えた影響でした。
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当初彼らの頭脳に痛く応えたのは、彼らの過が安井の前途に及ぼした影響であった。
二人の頭の中でわき返っていたすさまじいあわのようなものがようやく静まった時、二人は安井もまた途中で学校をやめたという知らせを聞きました。
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二人の頭の中で沸き返った凄い泡のようなものがようやく静まった時、二人は安井もまた半途で学校を退いたという消息を耳にした。
二人はもちろん、安井の将来を傷つけた原因を作ったにちがいありませんでした。
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彼らは固より安井の前途を傷けた原因をなしたに違なかった。
次に、安井が故郷へ帰ったという噂を聞きました。
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次に安井が郷里に帰ったという噂を聞いた。
次に、病気になって家で寝ているという知らせを聞きました。
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次に病気に罹って家に寝ているという報知を得た。
二人はそれを聞くたびに重い胸を痛めました。
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二人はそれを聞くたびに重い胸を痛めた。
最後に、安井が満州に行ったという便りが来ました。
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最後に安井が満洲に行ったと云う音信が来た。
宗助は心の中で、病気はもう治ったのだろうかと思いました。
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宗助は腹の中で、病気はもう癒ったのだろうかと思った。
あるいは満州へ行ったというのは嘘ではないかと考えました。
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または満洲行の方が嘘ではなかろうかと考えた。
安井は体から言っても性格から言っても、満州や台湾に向く男ではなかったからです。
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安井は身体から云っても、性質から云っても、満洲や台湾に向く男ではなかったからである。
宗助はできるだけ人をたどって、話が本当かどうかを調べました。
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宗助はできるだけ手を回して、事の真疑を探った。
そしてあるつながりから、安井が確かに奉天(ほうてん)にいることを確かめました。
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そうして、或る関係から、安井がたしかに奉天にいる事を確め得た。
同時に、彼が元気で、活発で、忙しくしていることも確かめました。
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同時に彼の健康で、活溌で、多忙である事も確め得た。
その時、夫婦は顔を見合わせて、ほっと息をつきました。
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その時夫婦は顔を見合せて、ほっという息を吐いた。
「まあよかった」
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「まあよかろう」
と宗助が言いました。
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と宗助が云った。
「病気よりはね」
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「病気よりはね」
と御米が言いました。
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と御米が云った。
二人はそれから、安井の名前を口にするのを避けました。
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二人はそれから以後安井の名を口にするのを避けた。
考えることさえしませんでした。
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考え出す事さえもあえてしなかった。
二人は、安井を途中で学校をやめさせ、故郷へ帰らせ、病気にかからせ、あるいは満州へ追いやった罪に対して、どれほど後悔して苦しんでもどうすることもできない立場にいたからです。
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彼らは安井を半途で退学させ、郷里へ帰らせ、病気に罹らせ、もしくは満洲へ駆りやった罪に対して、いかに悔恨の苦しみを重ねても、どうする事もできない地位に立っていたからである。
「御米、お前、信じる心が起きたことがあるかい」
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「御米、御前信仰の心が起った事があるかい」
とある時、宗助が御米に聞きました。
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と或時宗助が御米に聞いた。
御米はただ、
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御米は、ただ、
「あるわ」
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「あるわ」
と答えただけで、すぐ「あなたは」
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と答えただけで、すぐ「あなたは」
と聞き返しました。
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と聞き返した。
宗助はうすく笑っただけで、何も答えませんでした。
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宗助は薄笑いをしたぎり、何とも答えなかった。
その代わり、無理に御米の信じる心について詳しく聞くこともしませんでした。
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その代り推して、御米の信仰について、詳しい質問も掛けなかった。
御米には、それが幸せだったかもしれません。
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御米には、それが仕合せかも知れなかった。
彼女はその方面に、これといってはっきりした固いものを何も持っていなかったからです。
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彼女はその方面に、これというほど判然した凝り整った何物も有っていなかったからである。
二人はそうして、教会の腰かけにも寄らず、寺の門もくぐらずに過ごしました。
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二人はとかくして会堂の腰掛にも倚らず、寺院の門も潜らずに過ぎた。
そしてただ、自然がくれる時間という和らげる薬の力だけで、ようやく落ち着きました。
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そうしてただ自然の恵から来る月日と云う緩和剤の力だけで、ようやく落ちついた。
時々遠くから急に現れる胸の痛みも、苦しみとか恐れとかいうむごい名前をつけるには、あまりにかすかで、あまりにうすく、あまりに体や損得から離れたものになりました。
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時々遠くから不意に現れる訴も、苦しみとか恐れとかいう残酷の名を付けるには、あまり微かに、あまり薄く、あまりに肉体と慾得を離れ過ぎるようになった。
結局のところ、二人の信じる心は、神を得られず、仏にも会えなかったために、お互いを目印にして働きました。
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必竟ずるに、彼らの信仰は、神を得なかったため、仏に逢わなかったため、互を目標として働らいた。
お互いに抱き合って、丸い輪を描き始めました。
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互に抱き合って、丸い円を描き始めた。
二人の暮らしは寂しいなりに落ち着いて来ました。
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彼らの生活は淋しいなりに落ちついて来た。
その寂しい落ち着きの中で、一種の甘い悲しみを味わいました。
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その淋しい落ちつきのうちに、一種の甘い悲哀を味わった。
文学にも哲学にも縁のない二人は、この味を味わい尽くしながら、自分で自分の状態を得意に思うほどの知識を持たなかったので、同じ立場にいる詩人や文章家などよりも、いっそう純粋でした。
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文芸にも哲学にも縁のない彼らは、この味を舐め尽しながら、自分で自分の状態を得意がって自覚するほどの知識を有たなかったから、同じ境遇にある詩人や文人などよりも、一層純粋であった。――
これが、七日の晩に坂井に呼ばれて安井のことを聞くまでの夫婦の様子でした。
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これが七日の晩に坂井へ呼ばれて、安井の消息を聞くまでの夫婦の有様であった。
その夜、宗助は家に帰って御米の顔を見るとすぐ、
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その夜宗助は家に帰って御米の顔を見るや否や、
「少し具合が悪いから、すぐ寝よう」
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「少し具合が悪いから、すぐ寝よう」
と言って、火鉢に寄りかかりながら帰りを待っていた御米を驚かせました。
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と云って、火鉢に倚りながら、帰を待ち受けていた御米を驚ろかした。
「どうなさったの」
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「どうなすったの」
と御米は目を上げて宗助を見ました。
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と御米は眼を上げて宗助を眺めた。
宗助はそこに突っ立っていました。
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宗助はそこに突っ立っていた。
宗助が外から帰って来てこんな様子をするのは、御米の記憶にほとんどないくらいめずらしいことでした。
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宗助が外から帰って来て、こんな風をするのは、ほとんど御米の記憶にないくらい珍らしかった。
御米は突然、何とも分からない恐ろしさにおそわれたように立ち上がりましたが、ほとんど考えるより先に、戸棚から布団を取り出して夫の言うとおりに寝床を敷き始めました。
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御米は卒然何とも知れない恐怖の念に襲われたごとくに立ち上がったが、ほとんど器械的に、戸棚から夜具蒲団を取り出して、夫の云いつけ通り床を延べ始めた。
その間、宗助はやはり手をふところに入れたままそばに立っていました。
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その間宗助はやっぱり懐手をして傍に立っていた。
そして布団が敷けるとすぐ、大急ぎで着物を脱いで、その中に潜りこみました。
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そうして床が敷けるや否や、そこそこに着物を脱ぎ捨てて、すぐその中に潜り込んだ。
御米は枕もとを離れられませんでした。
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御米は枕元を離れ得なかった。
「どうなさったの」
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「どうなすったの」
「何だか、少し気分が悪い。しばらくこうしてじっとしていたらよくなるだろう」
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「何だか、少し心持が悪い。しばらくこうしてじっとしていたら、よくなるだろう」
宗助の答えは半分布団の下から出ました。
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宗助の答は半ば夜着の下から出た。
その声がこもって御米の耳に響いた時、御米は申し訳なさそうな顔をして枕もとに座ったまま動きませんでした。
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その声が籠ったように御米の耳に響いた時、御米は済まない顔をして、枕元に坐ったなり動かなかった。
「あっちへ行っていてもいいよ。用があれば呼ぶから」
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「あっちへ行っていてもいいよ。用があれば呼ぶから」
御米はようやく茶の間へ戻りました。
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御米はようやく茶の間へ帰った。
宗助は布団をかぶったまま、一人かたくなって目を閉じていました。
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宗助は夜具を被ったまま、ひとり硬くなって眼を眠っていた。
彼はこの暗い中で、坂井から聞いた話を何度も繰り返しました。
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彼はこの暗い中で、坂井から聞いた話を何度となく反覆した。
彼は満州にいる安井のことを、家主である坂井の口から聞くとは、今の今まで思ってもいませんでした。
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彼は満洲にいる安井の消息を、家主たる坂井の口を通して知ろうとは、今が今まで予期していなかった。
もう少しのことで、その安井と同じ家主の家へ同時に招かれて、隣か向かいに座ることになるとは、今夜晩ご飯を済ますまで夢にも思いませんでした。
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もう少しの事で、その安井と同じ家主の家へ同時に招かれて、隣り合せか、向い合せに坐る運命になろうとは、今夜晩食を済ますまで、夢にも思いがけなかった。
彼は寝ながら、この二、三時間の出来事を考えて、その山場が急に、いかにも思いがけなく起きたことを不思議に感じました。
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彼は寝ながら過去二三時間の経過を考えて、そのクライマックスが突如として、いかにも不意に起ったのを不思議に感じた。
しかも悲しく感じました。
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かつ悲しく感じた。
彼は、これほど偶然な出来事を使って、後ろから断りなしに足をかけなければ倒せないほど強い者だとは、自分でも思っていなかったのです。
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彼はこれほど偶然な出来事を借りて、後から断りなしに足絡をかけなければ、倒す事のできないほど強いものとは、自分ながら任じていなかったのである。
自分のような弱い男を放り出すには、もっと静かな方法で十分だろうと思っていたのです。
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自分のような弱い男を放り出すには、もっと穏当な手段でたくさんでありそうなものだと信じていたのである。
小六から坂井の弟、それから満州、モンゴル、東京へ来たこと、安井。こう話の跡をたどればたどるほど、偶然が重なりすぎていました。
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小六から坂井の弟、それから満洲、蒙古、出京、安井、――こう談話の迹を辿れば辿るほど、偶然の度はあまりにはなはだしかった。
過去の後悔をまた新しくするために、普通の人がめったに出会わないこの偶然に出会うよう、千人百人の中から選び出されなければならないほどの人間だったのかと思うと、宗助は苦しくなりました。
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過去の痛恨を新にすべく、普通の人が滅多に出逢わないこの偶然に出逢うために、千百人のうちから撰り出されなければならないほどの人物であったかと思うと、宗助は苦しかった。
また腹立たしくもなりました。
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また腹立たしかった。
彼は暗い布団の中で熱い息をつきました。
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彼は暗い夜着の中で熱い息を吐いた。
この二、三年の月日でようやく治りかけた傷口が、急にうずき始めました。
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この二三年の月日でようやく癒りかけた創口が、急に疼き始めた。
うずくにつれて熱くなって来ました。
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疼くに伴れて熱って来た。
また傷口が裂けて、毒のある風が容赦なく吹きこみそうになりました。
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再び創口が裂けて、毒のある風が容赦なく吹き込みそうになった。
宗助は、いっそ何もかも御米に打ち明けて、いっしょに苦しみを分けてもらおうかと思いました。
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宗助はいっそのこと、万事を御米に打ち明けて、共に苦しみを分って貰おうかと思った。
「御米、御米」
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「御米、御米」
と二度呼びました。
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と二声呼んだ。
御米はすぐ枕もとへ来て、上からのぞきこむように宗助を見ました。
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御米はすぐ枕元へ来て、上から覗き込むように宗助を見た。
宗助は布団の襟から顔をすっかり出しました。
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宗助は夜具の襟から顔を全く出した。
隣の部屋の明かりが御米のほおを半分照らしていました。
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次の間の灯が御米の頬を半分照らしていた。
「熱いお湯を一杯もらおう」
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「熱い湯を一杯貰おう」
宗助はとうとう言おうとしたことを言い切る勇気を失って、嘘をついてごまかしました。
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宗助はとうとう言おうとした事を言い切る勇気を失って、嘘を吐いてごまかした。
次の日、宗助はいつものように起きて、いつもと変わらず食事を済ませました。
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翌日宗助は例のごとく起きて、平日と変る事なく食事を済ました。
そして給仕をしてくれる御米の顔に少し安心の色が見えたのを、うれしいような、かわいそうなような、不思議な気持ちで眺めました。
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そうして給仕をしてくれる御米の顔に、多少安心の色が見えたのを、嬉しいような憐れなような一種の情緒をもって眺めた。
「昨日の夜は驚いたわ。どうなさったのかと思って」
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「昨夕は驚ろいたわ。どうなすったのかと思って」
宗助は下を向いて茶碗に注いだお茶を飲んだだけでした。
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宗助は下を向いて茶碗に注いだ茶を呑んだだけであった。
何と答えていいか、ちょうどいい言葉が見つからなかったからです。
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何と答えていいか、適当な言葉を見出さなかったからである。
その日は朝から強い風が吹き荒れて、時々ほこりといっしょに通る人の帽子を飛ばしました。
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その日は朝からから風が吹き荒んで、折々埃と共に行く人の帽を奪った。
熱があると悪いから一日休んだら、という御米の心配を聞き流して、いつものように電車に乗った宗助は、風の音と車の音の中で首をすくめて、ただ一点を見つめていました。
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熱があると悪いから、一日休んだらと云う御米の心配を聞き捨てにして、例の通り電車へ乗った宗助は、風の音と車の音の中に首を縮めて、ただ一つ所を見つめていた。
降りる時、ひゅうという音がして頭の上の電線が鳴ったのに気がついて空を見たら、この激しい自然の力が荒れ狂う中に、いつもより明るい日がのそりと出ていました。
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降りる時、ひゅうという音がして、頭の上の針線が鳴ったのに気がついて、空を見たら、この猛烈な自然の力の狂う間に、いつもより明らかな日がのそりと出ていた。
風はズボンの中を冷たくして通り過ぎました。
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風は洋袴の股を冷たくして過ぎた。
宗助には、その砂を巻き上げて向こうの堀の方へ進んで行く姿が、ななめに降る雨のようにはっきり見えました。
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宗助にはその砂を捲いて向うの堀の方へ進んで行く影が、斜めに吹かれる雨の脚のように判然見えた。
役所では仕事が手につきませんでした。
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役所では用が手に着かなかった。
筆を持ってほおづえをついたまま何か考えていました。
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筆を持って頬杖を突いたまま何か考えた。
時々は必要のない墨をむやみにすりました。
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時々は不必要な墨を妄りに磨りおろした。
たばこもむやみに吸いました。
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煙草はむやみに呑んだ。
そして、思い出したように窓ガラス越しに外を眺めました。
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そうしては、思い出したように窓硝子を通して外を眺めた。
外は見るたびに風の世界でした。
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外は見るたびに風の世界であった。
宗助はただ早く帰りたいだけでした。
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宗助はただ早く帰りたかった。
ようやく時間が来て家へ帰った時、御米は不安そうに宗助の顔を見て、
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ようやく時間が来て家へ帰ったとき、御米は不安らしく宗助の顔を見て、
「どうもなくて」
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「どうもなくって」
と聞きました。
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と聞いた。
宗助はしかたなく、どうもないが、ただ疲れた、と答えて、すぐ炬燵の中に入ったまま晩ご飯まで動きませんでした。
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宗助はやむを得ず、どうもないが、ただ疲れたと答えて、すぐ炬燵の中へ入ったなり、晩食まで動かなかった。
そのうち風は日が沈むとともに止みました。
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そのうち風は日と共に落ちた。
昼のはげしさの反対に、あたりは急にひっそり静まりました。
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昼の反動で四隣は急にひっそり静まった。
「よかった、風がなくなって。昼間のように吹かれると、家に座っていても何だか気味が悪くてしかたがないわ」
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「好い案排ね、風が無くなって。昼間のように吹かれると、家に坐っていても何だか気味が悪くってしようがないわ」
御米の言葉には、まるで化け物のように風を恐れる調子がありました。
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御米の言葉には、魔物でもあるかのように、風を恐れる調子があった。
宗助は落ち着いて、
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宗助は落ちついて、
「今夜は少し暖かいようだね。おだやかでいいお正月だ」
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「今夜は少し暖たかいようだね。穏やかで好い御正月だ」
と言いました。
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と云った。
ご飯を済ませてたばこを一本吸う時になって、急に、
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飯を済まして煙草を一本吸う段になって、突然、
「御米、寄席へでも行ってみようか」
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「御米、寄席へでも行って見ようか」
と、めずらしく奥さんをさそいました。
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と珍らしく細君を誘った。
御米はもちろん断る理由がありませんでした。
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御米は無論否む理由を有たなかった。
小六は語り物を聞くより家で餅でも焼いて食べる方が気楽だというので、留守番を頼んで二人が出かけました。
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小六は義太夫などを聞くより、宅にいて餅でも焼いて食った方が勝手だというので、留守を頼んで二人出た。
少し時間が遅かったので、寄席はいっぱいでした。
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少し時間が遅れたので、寄席はいっぱいであった。
二人は座布団を敷く場所もない一番後ろの方に、膝を立てるようにして入れてもらいました。
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二人は座蒲団を敷く余地もない一番後の方に、立膝をするように割り込まして貰った。
「すごい人ね」
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「大変な人ね」
「やっぱりお正月だから入るんだろう」
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「やっぱり春だから入るんだろう」
二人は小さな声で話しながら、大きな部屋にぎっしり詰まった人の頭を見回しました。
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二人は小声で話しながら、大きな部屋にぎっしり詰まった人の頭を見回した。
その頭のうちで、舞台に近い前の方はたばこのけむりでかすんだようにぼんやり見えました。
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その頭のうちで、高座に近い前の方は、煙草の煙で霞んでいるようにぼんやり見えた。
宗助には、この並んだ黒いものが全部、こういう楽しみの席へ来て面白く半分の夜をつぶすことのできる余裕のある人のように思えました。
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宗助にはこの累々たる黒いものが、ことごとくこう云う娯楽の席へ来て、面白く半夜を潰す事のできる余裕のある人らしく思われた。
彼はどの顔を見てもうらやましく思いました。
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彼はどの顔を見ても羨ましかった。
彼は舞台の方を正面から見て、一生けんめい語りを聞こうとしました。
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彼は高座の方を正視して、熱心に浄瑠璃を聞こうと力めた。
けれども、いくらがんばっても面白くなりませんでした。
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けれどもいくら力めても面白くならなかった。
時々目をそらして、御米の顔をそっと見ました。
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時々眼を外らして、御米の顔を偸み見た。
見るたびに、御米の目はちゃんと舞台の方を向いていました。
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見るたびに御米の視線は正しい所を向いていた。
そばに夫がいることはほとんど忘れて、まじめに聞いているようでした。
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傍に夫のいる事はほとんど忘れて、真面目に聴いているらしかった。
宗助は、うらやましい人の中に御米まで数えなければなりませんでした。
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宗助は羨やましい人のうちに、御米まで勘定しなければならなかった。
休みの時、宗助は御米に、
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中入の時、宗助は御米に、
「どうだ、もう帰ろうか」
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「どうだ、もう帰ろうか」
と言いかけました。
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と云い掛けた。
御米はその急な言葉に驚きました。
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御米はその唐突なのに驚ろかされた。
「いやなの」
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「厭なの」
と聞きました。
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と聞いた。
宗助は何も答えませんでした。
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宗助は何とも答えなかった。
御米は、
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御米は、
「どうでもいいわ」
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「どうでもいいわ」
と、半分は夫の気持ちに逆らわないような返事をしました。
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と半分夫の意に忤らわないような挨拶をした。
宗助は、せっかく連れて来た御米に対して、かえって申し訳ない気持ちになりました。
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宗助はせっかく連れて来た御米に対して、かえって気の毒な心が起った。
とうとう終わりまで我慢して座っていました。
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とうとうしまいまで辛抱して坐っていた。
家へ帰ると、小六は火鉢の前にあぐらをかいて、背表紙が反り返るのも気にせず、手に持った本を上からかざして読んでいました。
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家へ帰ると、小六は火鉢の前に胡坐を掻いて、背表紙の反り返るのも構わずに、手に持った本を上から翳して読んでいた。
鉄びんはわきに下ろしたまま、お湯は生ぬるく冷めてしまっていました。
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鉄瓶は傍へ卸したなり、湯は生温るく冷めてしまった。
お盆の上に、焼き残りの餅が三切れか四切れ載せてありました。
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盆の上に焼き余りの餅が三切か四片載せてあった。
焼き網の下から、小皿に残ったしょうゆの色が見えました。
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網の下から小皿に残った醤油の色が見えた。
小六は立ち上がって、
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小六は席を立って、
「面白かったですか」
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「面白かったですか」
と聞きました。
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と聞いた。
夫婦は十分ほど体を炬燵で暖めてから、すぐ布団に入りました。
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夫婦は十分ほど身体を炬燵で暖めた上すぐ床へ入った。
次の日になっても宗助の心が落ち着かないのは、前の日とほとんど同じでした。
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翌日になっても宗助の心に落ちつきが来なかった事は、ほぼ前の日と同じであった。
役所が終わって、いつものように電車に乗りましたが、今夜自分と前後して安井が坂井の家へお客に来るということを思うと、どうしても、わざわざその人に近づくためにこんなに急いで家へ帰るのが、筋の通らないことのように思えました。
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役所が退けて、例の通り電車へ乗ったが、今夜自分と前後して、安井が坂井の家へ客に来ると云う事を想像すると、どうしても、わざわざその人と接近するために、こんな速力で、家へ帰って行くのが不合理に思われた。
同時に、安井はその後どんなに変わっただろうと思うと、遠くからひと目その様子を見たい気もしました。
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同時に安井はその後どんなに変化したろうと思うと、よそから一目彼の様子が眺めたくもあった。
坂井がおとといの晩、自分の弟のことを一言で「冒険者」
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坂井が一昨日の晩、自分の弟を評して、一口に「冒険者」
と言った、その音が今、宗助の耳に大きく響きました。
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と云った、その音が今宗助の耳に高く響き渡った。
宗助はこの一言の中に、あらゆる投げやりな気持ちや、不満や憎しみ、人の道を外れた行いや、思いこみと勝手な行動を思いうかべて、こういうものの一つにでも触れなければならないほどの坂井の弟と、その人と得も損もいっしょにするために満州からいっしょに出て来た安井とが、どんな人物になったのかを頭の中で描いてみました。
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宗助はこの一語の中に、あらゆる自暴と自棄と、不平と憎悪と、乱倫と悖徳と、盲断と決行とを想像して、これらの一角に触れなければならないほどの坂井の弟と、それと利害を共にすべく満洲からいっしょに出て来た安井が、いかなる程度の人物になったかを、頭の中で描いて見た。
描かれた絵は、もちろん「冒険者」という言葉の許す範囲で、一番強い色をしたものでした。
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描かれた画は無論冒険者の字面の許す範囲内で、もっとも強い色彩を帯びたものであった。
こうして落ちぶれた方をわざと大げさにした冒険者を頭の中で作り上げた宗助は、その責任を自分一人で全部背負わなければならないような気がしました。
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かように、堕落の方面をとくに誇張した冒険者を頭の中で拵え上げた宗助は、その責任を自身一人で全く負わなければならないような気がした。
彼はただ、坂井の家へお客に来る安井の姿をひと目見て、その姿から安井の今の人柄を想像したかったのです。
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彼はただ坂井へ客に来る安井の姿を一目見て、その姿から、安井の今日の人格を髣髴したかった。
そして、自分の想像ほど彼は落ちぶれていないという安心を得たかったのです。
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そうして、自分の想像ほど彼は堕落していないという慰藉を得たかった。
彼は坂井の家のそばに立って、向こうに気づかれずに人を見られる、都合のいい場所はないだろうかと考えました。
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彼は坂井の家の傍に立って、向に知れずに、他を窺うような便利な場所はあるまいかと考えた。
あいにく、身を隠せる所は思いつきませんでした。
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不幸にして、身を隠すべきところを思いつき得なかった。
もし日が沈んでから来るとすれば、こちらが気づかれないという利点はありますが、暗い中を通る人の顔が分からないという不都合がありました。
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もし日が落ちてから来るとすれば、こちらが認められない便宜があると同時に、暗い中を通る人の顔の分らない不都合があった。
そのうち電車が神田へ来ました。
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そのうち電車が神田へ来た。
宗助はいつものようにそこで乗りかえて家の方へ向かうのが苦しくなりました。
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宗助はいつもの通りそこで乗り換えて家の方へ向いて行くのが苦痛になった。
彼の神経は、一歩でも安井の来る方角へ近づくのに耐えられませんでした。
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彼の神経は一歩でも安井の来る方角へ近づくに堪えなかった。
安井を遠くから見たいという気持ちは、初めからそれほど強くなかっただけに、乗りかえの間際になってすっかり消えてしまいました。
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安井をよそながら見たいという好奇心は、始めからさほど強くなかっただけに、乗換の間際になって、全く抑えつけられてしまった。
彼は寒い町を、たくさんの人と同じように歩きました。
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彼は寒い町を多くの人のごとく歩いた。
けれどもほかの人のようなはっきりした目的は持っていませんでした。
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けれども多くの人のごとくに判然した目的は有っていなかった。
そのうち店に明かりがつきました。
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そのうち店に灯が点いた。
電車も明かりをつけました。
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電車も灯火を照もした。
宗助はある牛肉屋に上がってお酒を飲み始めました。
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宗助はある牛肉店に上がって酒を呑み出した。
一本は夢中で飲みました。
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一本は夢中に呑んだ。
二本目は無理に飲みました。
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二本目は無理に呑んだ。
三本目でも酔えませんでした。
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三本目にも酔えなかった。
宗助は背中を壁にもたせて、酔って話し相手のいない人のような目をして、ぼんやりどこかを見つめていました。
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宗助は背を壁に持たして、酔って相手のない人のような眼をして、ぼんやりどこかを見つめていた。
時間が時間なので、晩ご飯を食べに来るお客は次々に来ました。
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時刻が時刻なので、夕飯を食いに来る客は入れ代り立ち代り来た。
その多くは用を済ませるように飲み食いして、さっさとお金を払って出て行くだけでした。
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その多くは用弁的に飲食を済まして、さっさと勘定をして出て行くだけであった。
宗助は周りのざわざわする中で黙って、ほかの人の二倍も三倍も長く時間を過ごしたように感じたあげく、とうとう座っていられなくなって席を立ちました。
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宗助は周囲のざわつく中に黙然として、他の倍も三倍も時を過ごしたごとくに感じた末、ついに坐り切れずに席を立った。
外は左右からさす店の明かりで明るくなっていました。
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表は左右から射す店の灯で明らかであった。
軒先を通る人は、帽子も服もはっきり見分けられました。
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軒先を通る人は、帽も衣装もはっきり物色する事ができた。
けれども広い寒さを照らすには、あまりに弱すぎました。
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けれども広い寒さを照らすには余りに弱過ぎた。
夜は家ごとのガス灯や電灯を気にもせず、相変わらず暗く大きく見えました。
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夜は戸ごとの瓦斯と電灯を閑却して、依然として暗く大きく見えた。
宗助はこの世界とつり合うほど黒っぽい外套に包まれて歩きました。
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宗助はこの世界と調和するほどな黒味の勝った外套に包まれて歩いた。
その時、彼は自分の吸う空気さえ灰色になって、肺の中の血管に触れるような気がしました。
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その時彼は自分の呼吸する空気さえ灰色になって、肺の中の血管に触れるような気がした。
彼はこの晩に限って、ベルを鳴らして忙しそうに目の前を行ったり来たりする電車に乗る気になりませんでした。
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彼はこの晩に限って、ベルを鳴らして忙がしそうに眼の前を往ったり来たりする電車を利用する考が起らなかった。
目的を持って道を行く人のように、きびきびと足を運ぶことも忘れていました。
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目的を有って途を行く人と共に、抜目なく足を運ばす事を忘れた。
しかも彼は、根のない人間としてこうしてさまよう見本になっている自分の心を振り返って、もしこの状態が長く続いたらどうしたらいいだろうと、ひそかに自分の未来を心配しました。
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しかも彼は根の締らない人間として、かく漂浪の雛形を演じつつある自分の心を省みて、もしこの状態が長く続いたらどうしたらよかろうと、ひそかに自分の未来を案じ煩った。
今日までの経験から、すべての傷を治すのは時間だという言葉を、彼は自分の経験から導き出して深く胸にきざんでいました。
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今日までの経過から推して、すべての創口を癒合するものは時日であるという格言を、彼は自家の経験から割り出して、深く胸に刻みつけていた。
それがおとといの晩にすっかりくずれてしまったのです。
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それが一昨日の晩にすっかり崩れたのである。
彼は黒い夜の中を歩きながら、ただどうにかしてこの気持ちから抜け出したいと思いました。
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彼は黒い夜の中を歩るきながら、ただどうかしてこの心から逃れ出たいと思った。
その心はいかにも弱くて落ち着かず、不安で定まらず、度胸がなさすぎて情けなく見えました。
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その心はいかにも弱くて落ちつかなくって、不安で不定で、度胸がなさ過ぎて希知に見えた。
彼は胸を押さえつける重さの下で、どうすれば今の自分を救えるかという実際の方法だけを考えて、その重さのもとになった自分の罪や過ちは、この結果からすっかり切り離してしまいました。
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彼は胸を抑えつける一種の圧迫の下に、いかにせば、今の自分を救う事ができるかという実際の方法のみを考えて、その圧迫の原因になった自分の罪や過失は全くこの結果から切り放してしまった。
その時の彼は他人のことを考える余裕を失って、すっかり自分のことだけになっていました。
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その時の彼は他の事を考える余裕を失って、ことごとく自己本位になっていた。
今までは我慢で世の中を渡って来ました。
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今までは忍耐で世を渡って来た。
これからは自分から進んで、生き方の考え方を作り直さなければなりませんでした。
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これからは積極的に人世観を作り易えなければならなかった。
そして、その考え方は口で言うもの、頭で聞くものでは駄目でした。
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そうしてその人世観は口で述べるもの、頭で聞くものでは駄目であった。
心の中身が太くなるものでなくては駄目でした。
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心の実質が太くなるものでなくては駄目であった。
彼は歩きながら、口の中で何度も「宗教」という言葉を繰り返しました。
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彼は行く行く口の中で何遍も宗教の二字を繰り返した。
けれども、その響きは繰り返すそばからすぐ消えて行きました。
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けれどもその響は繰り返す後からすぐ消えて行った。
つかんだと思ったけむりが、手を開けるといつの間にかなくなっているように、宗教とははかない言葉でした。
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攫んだと思う煙が、手を開けるといつの間にか無くなっているように、宗教とははかない文字であった。
宗教から続いて、宗助は座禅(ざぜん。静かに座って心を落ち着ける修行)という記憶を思い出しました。
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宗教と関聯して宗助は坐禅という記憶を呼び起した。
昔、京都にいた頃、彼の同級生に相国寺(しょうこくじ)へ行って座禅をする人がいました。
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昔し京都にいた時分彼の級友に相国寺へ行って坐禅をするものがあった。
当時、彼はその世間離れを笑っていました。
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当時彼はその迂濶を笑っていた。
「今の世の中に……」
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「今の世に……」
と思っていました。
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と思っていた。
その同級生の動きが特に自分と違うところもないようなのを見て、彼はますます馬鹿らしい気持ちになりました。
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その級友の動作が別に自分と違ったところもないようなのを見て、彼はますます馬鹿馬鹿しい気を起した。
彼は今になって、あの同級生が自分がばかにしていた以上の何かの理由があって、大事な時間を惜しまずに相国寺へ行ったのではないかと考え出して、自分の軽はずみを深く恥じました。
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彼は今更ながら彼の級友が、彼の侮蔑に値する以上のある動機から、貴重な時間を惜しまずに、相国寺へ行ったのではなかろうかと考え出して、自分の軽薄を深く恥じた。
もし昔から世間で言うとおり、心の安らぎとか、運命を受け入れる落ち着きとかいうものに座禅の力で届くことができるなら、十日や二十日役所を休んでも構わないからやってみたいと思いました。
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もし昔から世俗で云う通り安心とか立命とかいう境地に、坐禅の力で達する事ができるならば、十日や二十日役所を休んでも構わないからやって見たいと思った。
けれども彼はこの道についてはまるで素人でした。
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けれども彼はこの道にかけては全くの門外漢であった。
ですから、これ以上はっきりした考えも浮かびませんでした。
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したがって、これより以上明瞭な考も浮ばなかった。
ようやく家へたどり着いた時、彼はいつもと同じ御米と、いつもと同じ小六と、それからいつもと同じ茶の間と座敷とランプとたんすを見て、自分だけがいつもと違う気持ちでこの四、五時間を過ごしていたのだと、はっきり感じました。
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ようやく家へ辿り着いた時、彼は例のような御米と、例のような小六と、それから例のような茶の間と座敷と洋灯と箪笥を見て、自分だけが例にない状態の下に、この四五時間を暮していたのだという自覚を深くした。
火鉢には小さな鍋がかけてあって、そのふたのすき間から湯気が立っていました。
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火鉢には小さな鍋が掛けてあって、その葢の隙間から湯気が立っていた。
火鉢のわきの、彼がいつも座る所には、いつもの座布団が敷いてあり、その前にちゃんと食事の用意がしてありました。
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火鉢の傍には彼の常に坐る所に、いつもの座蒲団を敷いて、その前にちゃんと膳立がしてあった。
宗助は、底を上にしてわざと伏せた自分の茶碗と、この二、三年、朝晩使い慣れた木のはしを眺めて、
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宗助は糸底を上にしてわざと伏せた自分の茶碗と、この二三年来朝晩使い慣れた木の箸を眺めて、
「もうご飯は食べないよ」
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「もう飯は食わないよ」
と言いました。
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と云った。
御米は少し不満そうな様子もしました。
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御米は多少不本意らしい風もした。
「おや、そう。あまり遅いから、たぶんどこかで召し上がっただろうとは思ったけれど、もしまだだといけないから」
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「おやそう。余り遅いから、おおかたどこかで召上がったろうとは思ったけれど、もしまだだといけないから」
と言いながら、ふきんで鍋の取っ手をつまんで、敷き板の上に下ろしました。
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と云いながら、布巾で鍋の耳を撮んで、土瓶敷の上におろした。
それから清を呼んで、お膳を台所へ下げさせました。
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それから清を呼んで膳を台所へ退げさした。
宗助はこんなふうに、何か事情ができて役所が終わってからすぐ外へ回って遅くなる時には、いつでもそのいきさつを帰ってすぐ御米に話すのが普通でした。
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宗助はこういう風に、何ぞ事故ができて、役所の退出からすぐ外へ回って遅くなる場合には、いつでもその顛末の大略を、帰宅早々御米に話すのを例にしていた。
御米もそれを聞かないうちは気が済みませんでした。
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御米もそれを聞かないうちは気がすまなかった。
けれども今夜に限って、彼は神田で電車を降りたことも、牛肉屋へ上がったことも、無理にお酒を飲んだことも、まるで話したくありませんでした。
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けれども今夜に限って彼は神田で電車を降りた事も、牛肉屋へ上った事も、無理に酒を呑んだ事も、まるで話したくなかった。
何も知らない御米は、またいつものように何も疑わずにあれこれ聞きたがりました。
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何も知らない御米はまた平常の通り無邪気にそれからそれへと聞きたがった。
「なに、特にこれという理由もなかったんだけれど。つい、あのあたりで牛肉が食べたくなっただけのことさ」
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「何別にこれという理由もなかったのだけれども、――ついあすこいらで牛が食いたくなっただけの事さ」
「そしてお腹をこなすために、わざわざここまで歩いていらしたの」
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「そうして御腹を消化すために、わざわざここまで歩るいていらしったの」
「まあ、そうだ」
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「まあ、そうだ」
御米はおかしそうに笑いました。
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御米はおかしそうに笑った。
宗助はむしろ苦しい気持ちでした。
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宗助はむしろ苦しかった。
しばらくして、
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しばらくして、
「留守に坂井さんから迎えに来なかったかい」
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「留守に坂井さんから迎いに来なかったかい」
と聞きました。
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と聞いた。
「いいえ、なぜ」
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「いいえ、なぜ」
「おとといの晩に行った時、ごちそうするとか言っていたからさ」
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「一昨日の晩行ったとき、御馳走するとか云っていたからさ」
「また」
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「また?」
御米は少しあきれた顔をしました。
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御米は少し呆れた顔をした。
宗助はそれきり話をやめて寝ました。
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宗助はそれなり話を切り上げて寝た。
頭の中をざわざわと何かが通りました。
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頭の中をざわざわ何か通った。
時々目を開けてみると、いつものようにランプが暗くしてあって床の間の上に置いてありました。
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時々眼を開けて見ると、例のごとく洋灯が暗くして床の間の上に載せてあった。
御米はいかにも気持ちよさそうに眠っていました。
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御米はさも心地好さそうに眠っていた。
つい先ごろまでは自分の方がよく眠れて、御米は何晩も眠れずに苦しんでいたのでした。
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ついこの間までは、自分の方が好く寝られて、御米は幾晩も睡眠の不足に悩まされたのであった。
宗助は目を閉じながら、隣の部屋の時計の音をはっきり聞かなければならない今の自分を、いっそうつらく感じました。
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宗助は眼を閉じながら、明らかに次の間の時計の音を聞かなければならない今の自分をさらに心苦しく感じた。
その時計は最初、いくつも続けて鳴りました。
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その時計は最初は幾つも続けざまに打った。
それが過ぎると、びん、とただ一つ鳴りました。
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それが過ぎると、びんとただ一つ鳴った。
その濁った音がほうき星の尾のように、ほうと宗助の耳にしばらく響いていました。
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その濁った音が彗星の尾のようにほうと宗助の耳朶にしばらく響いていた。
次には二つ鳴りました。
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次には二つ鳴った。
とても寂しい音でした。
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はなはだ淋しい音であった。
宗助はその間に、何とかしてもっとおおらかに生きて行く方法を考えなければならないという決心だけをしました。
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宗助はその間に、何とかして、もっと鷹揚に生きて行く分別をしなければならないと云う決心だけをした。
三時はぼんやりして、聞こえたような聞こえないような間に過ぎました。
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三時は朦朧として聞えたような聞えないようなうちに過ぎた。
四時、五時、六時はまるで分かりませんでした。
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四時、五時、六時はまるで知らなかった。
ただ世の中がふくらみました。
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ただ世の中が膨れた。
空が波を打って伸び、また縮みました。
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天が波を打って伸びかつ縮んだ。
地球が糸でつるしたまりのように大きく弧を描いて空間に揺れました。
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地球が糸で釣るした毬のごとくに大きな弧線を描いて空間に揺いた。
すべてが恐ろしい化け物の支配する夢でした。
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すべてが恐ろしい魔の支配する夢であった。
七時過ぎに、彼ははっとしてこの夢から覚めました。
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七時過に彼ははっとして、この夢から覚めた。
御米がいつものようににっこりして枕もとにかがんでいました。
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御米がいつもの通り微笑して枕元に曲んでいた。
さえた日の光は、黒い世の中をとっくにどこかへ追いやっていました。
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冴えた日は黒い世の中を疾にどこかへ追いやっていた。
十八
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十八
宗助は一通の紹介状をふところに入れて山門(さんもん。寺の正門)を入りました。
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宗助は一封の紹介状を懐にして山門を入った。
彼はこれを、同僚の知り合いのある人からもらいました。
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彼はこれを同僚の知人の某から得た。
その同僚は役所への行き帰りに、電車の中で洋服のポケットから「菜根譚(さいこんたん)」という本を出して読む男でした。
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その同僚は役所の往復に、電車の中で洋服の隠袋から菜根譚を出して読む男であった。
こういう方面に興味のない宗助は、もちろん菜根譚が何なのかを知りませんでした。
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こう云う方面に趣味のない宗助は、固より菜根譚の何物なるかを知らなかった。
ある日、同じ電車の席で膝を並べて乗った時、それは何だと聞いてみました。
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ある日一つ車の腰掛に膝を並べて乗った時、それは何だと聞いて見た。
同僚は小さな黄色い表紙を宗助の前に出して、こんな変な本だと答えました。
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同僚は小形の黄色い表紙を宗助の前に出して、こんな妙な本だと答えた。
宗助はもう一度、どんなことが書いてあるのかと聞きました。
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宗助は重ねてどんな事が書いてあるかと尋ねた。
その時、同僚は一言で説明できるうまい言葉がなかったらしく、まあ禅(ぜん)の本だろう、というような変な答えをしました。
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その時同僚は、一口に説明のできる格好な言葉を有っていなかったと見えて、まあ禅学の書物だろうというような妙な挨拶をした。
宗助は同僚から聞いたこの返事をよく覚えていました。
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宗助は同僚から聞いたこの返事をよく覚えていた。
紹介状をもらう四、五日前、彼はこの同僚のそばへ行って、君は禅をやるのかと急に質問しました。
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紹介状を貰う四五日前、彼はこの同僚の傍へ行って、君は禅学をやるのかと、突然質問を掛けた。
同僚は強く緊張した宗助の顔を見てとても驚いた様子でしたが、いや、やらない、ただ楽しみ半分にあんな本を読むだけだ、とすぐ逃げてしまいました。
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同僚は強く緊張した宗助の顔を見てすこぶる驚ろいた様子であったが、いややらない、ただ慰み半分にあんな書物を読むだけだと、すぐ逃げてしまった。
宗助は少しがっかりして下くちびるを垂らしたまま、自分の席に帰りました。
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宗助は多少失望に弛んだ下唇を垂れて自分の席に帰った。
その日の帰りに、二人はまた同じ電車に乗り合わせました。
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その日帰りがけに、彼らはまた同じ電車に乗り合わした。
さっきの宗助の様子を気の毒に思った同僚は、彼の質問の奥に世間話以上の意味があると気づいたらしく、前よりもっと親切にその方面の話をしてくれました。
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先刻宗助の様子を、気の毒に観察した同僚は、彼の質問の奥に雑談以上のある意味を認めたものと見えて、前よりはもっと親切にその方面の話をして聞かした。
しかし自分は今まで座禅をした経験がないと打ち明けました。
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しかし自分はいまだかつて参禅という事をした経験がないと自白した。
もし詳しい話が聞きたければ、ちょうど自分の知り合いによく鎌倉へ行く男がいるから紹介してやろうと言いました。
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もし詳しい話が聞きたければ、幸い自分の知り合によく鎌倉へ行く男があるから紹介してやろうと云った。
宗助は電車の中でその人の名前と住所を手帳に書き留めました。
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宗助は車の中でその人の名前と番地を手帳に書き留めた。
そして次の日、同僚の手紙を持ってわざわざ回り道をして訪ねに行きました。
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そうして次の日同僚の手紙を持ってわざわざ回り道をして訪問に出かけた。
宗助がふところに入れた手紙は、その時、その場で書いてもらったものでした。
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宗助の懐にした書状はその折席上で認めて貰ったものであった。
役所は病気ということにして、十日ほど休むことにしました。
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役所は病気になって十日ばかり休む事にした。
御米に対しても、やはり病気だということにしました。
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御米の手前もやはり病気だと取り繕った。
「少し頭の具合が悪いから、一週間ほど役所を休んで出かけて来るよ」
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「少し脳が悪いから、一週間ほど役所を休んで遊んで来るよ」
と言いました。
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と云った。
御米はこの頃の夫の様子のどこかがおかしいと思って、心の中でずっと心配していたところだったので、普段は決断の遅い宗助が思い切ったことを喜びました。
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御米はこの頃の夫の様子のどこかに異状があるらしく思われるので、内心では始終心配していた矢先だから、平生煮え切らない宗助の果断を喜んだ。
けれども、その急なことにはまったく驚きました。
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けれどもその突然なのにも全く驚ろいた。
「出かけるって、どこへいらっしゃるの」
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「遊びに行くって、どこへいらっしゃるの」
と目を丸くしそうな顔で聞きました。
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と眼を丸くしないばかりに聞いた。
「やっぱり鎌倉あたりがいいだろうと思っている」
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「やっぱり鎌倉辺が好かろうと思っている」
と宗助は落ち着いて答えました。
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と宗助は落ちついて答えた。
地味な宗助と、おしゃれな人の集まる鎌倉とは、ほとんど縁の遠いものでした。
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地味な宗助とハイカラな鎌倉とはほとんど縁の遠いものであった。
急にその二つを結びつけるのはおかしなことでした。
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突然二つのものを結びつけるのは滑稽であった。
御米も笑わずにいられませんでした。
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御米も微笑を禁じ得なかった。
「まあ、お金持ちね。私もいっしょに連れて行ってちょうだい」
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「まあ御金持ね。私もいっしょに連れてってちょうだい」
と言いました。
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と云った。
宗助は、かわいい奥さんのこの冗談を楽しむ余裕がありませんでした。
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宗助は愛すべき細君のこの冗談を味わう余裕を有たなかった。
まじめな顔をして、
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真面目な顔をして、
「そんなぜいたくな所へ行くんじゃないよ。禅寺(ぜんでら)へ泊めてもらって、一週間か十日、ただ静かに頭を休めてみるだけのことさ。それも、本当によくなるのかならないのか分からないが、空気のいい所へ行くと頭にはずいぶん違うとみんな言うから」
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「そんな贅沢な所へ行くんじゃないよ。禅寺へ留めて貰って、一週間か十日、ただ静かに頭を休めて見るだけの事さ。それもはたして好くなるか、ならないか分らないが、空気のいい所へ行くと、頭には大変違うと皆云うから」
と言い訳をしました。
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と弁解した。
「そりゃ違いますわ。だから行っていらっしゃいとも。今のは本当の冗談よ」
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「そりゃ違いますわ。だから行っていらっしゃいとも。今のは本当の冗談よ」
御米は、やさしい夫をからかったことを少し申し訳なく感じました。
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御米は善良な夫に調戯ったのを、多少済まないように感じた。
宗助はその次の日、すぐもらっておいた紹介状をふところに入れて、新橋から汽車に乗りました。
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宗助はその翌日すぐ貰って置いた紹介状を懐にして、新橋から汽車に乗ったのである。
その紹介状の表には、釈宜道(しゃくぎどう)様と書いてありました。
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その紹介状の表には釈宜道様と書いてあった。
「この間まで和尚(おしょう)さんのお付きの僧をしていましたが、この頃は寺の中にある古い庵(あん。小さなお堂)に手を入れて、そこに住んでいるとか聞きました。どうですか、まあ着いたら訪ねてごらんなさい。庵の名はたしか一窓庵(いっそうあん)でした」
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「この間まで侍者をしていましたが、この頃では塔頭にある古い庵室に手を入れて、そこに住んでいるとか聞きました。どうですか、まあ着いたら尋ねて御覧なさい。庵の名はたしか一窓庵でした」
と書いてくれる時にわざわざ教えてくれたので、宗助はお礼を言って手紙を受け取りながら、お付きの僧とか寺の中の小さな寺とか、自分には初めて聞く言葉の説明を聞いて帰ったのです。
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と書いてくれる時、わざわざ注意があったので、宗助は礼を云って手紙を受取りながら、侍者だの塔頭だのという自分には全く耳新らしい言葉の説明を聞いて帰ったのである。
山門を入ると、左右に大きな杉があって高く空をふさいでいるので、道が急に暗くなりました。
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山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮っているために、路が急に暗くなった。
その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との違いを急に感じました。
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その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚った。
静かな寺の入口に立った彼は、初めてかぜをひいたと気づく時に似た寒気を覚えました。
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静かな境内の入口に立った彼は、始めて風邪を意識する場合に似た一種の悪寒を催した。
彼はまずまっすぐ歩き出しました。
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彼はまず真直に歩るき出した。
左右にも前にも、お堂のようなものや、小さな寺のようなものがちょこちょこ見えました。
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左右にも行手にも、堂のようなものや、院のようなものがちょいちょい見えた。
けれども人の出入りはまったくありませんでした。
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けれども人の出入はいっさいなかった。
どこも寂しく、古びていました。
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ことごとく寂寞として錆び果てていた。
宗助は、どこへ行って宜道のいる所を教えてもらおうかと考えながら、だれも通らない道の真ん中に立って四方を見回しました。
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宗助はどこへ行って、宜道のいる所を教えて貰おうかと考えながら、誰も通らない路の真中に立って四方を見回した。
山のふもとを切り開いて、百メートルか二百メートル奥へ上るように建てた寺らしく、後ろの方は木の色で高くふさがっていました。
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山の裾を切り開いて、一二丁奥へ上るように建てた寺だと見えて、後の方は樹の色で高く塞がっていた。
道の左右も山続きか丘続きの地形のせいで、決して平らではないようでした。
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路の左右も山続か丘続の地勢に制せられて、けっして平ではないようであった。
その少し高い所々に、下から石段を積んで寺らしい門を高く構えたものが二、三軒目につきました。
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その小高い所々に、下から石段を畳んで、寺らしい門を高く構えたのが二三軒目に着いた。
平らな所に垣根を回してぽつぽつ建っているものは、いくつもありました。
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平地に垣を繞らして、点在しているのは、幾多もあった。
近寄って見ると、どれも門のかわらの下に、その建物の名前が額にして掛けてありました。
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近寄って見ると、いずれも門瓦の下に、院号やら庵号やらが額にしてかけてあった。
宗助は金ぱくのはげた古い額を一、二枚読んで歩きましたが、ふと、一窓庵から先に探して、もしそこに手紙のあて先の坊さんがいなかったら、もっと奥へ行って聞く方が早いだろうと思いつきました。
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宗助は箔の剥げた古い額を一二枚読んで歩いたが、ふと一窓庵から先へ探し出して、もしそこに手紙の名宛の坊さんがいなかったら、もっと奥へ行って尋ねる方が便利だろうと思いついた。
それで引き返して一つ一つ調べにかかると、一窓庵は山門を入るとすぐ右手の、高い石段の上にありました。
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それから逆戻りをして塔頭を一々調べにかかると、一窓庵は山門を這入るや否やすぐ右手の方の高い石段の上にあった。
丘のはしなので日当たりのいい、からりとした玄関先で、後ろの山のふところに抱かれて暖まっているような場所で冬をしのいでいるように見えました。
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丘外れなので、日当の好い、からりとした玄関先を控えて、後の山の懐に暖まっているような位置に冬を凌ぐ気色に見えた。
宗助は玄関を通り越して、台所の方から土間に足を入れました。
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宗助は玄関を通り越して庫裡の方から土間に足を入れた。
上がり口の障子が立ててある所まで来て、ごめんください、ごめんください、と二、三度呼んでみました。
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上り口の障子の立ててある所まで来て、たのむたのむと二三度呼んで見た。
しかしだれも出て来ませんでした。
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しかし誰も出て来てくれるものはなかった。
宗助はしばらくそこに立ったまま、中の様子をうかがっていました。
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宗助はしばらくそこに立ったまま、中の様子を窺っていた。
いつまで立っていても返事がないので、宗助は不思議に思って、また台所を出て門の方へ引き返しました。
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いつまで立っていても音沙汰がないので、宗助は不思議な思いをして、また庫裡を出て門の方へ引返した。
すると石段の下から、そりたての頭を青く光らせた坊さんが上って来ました。
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すると石段の下から剃立の頭を青く光らした坊さんが上って来た。
年はまだ二十四、五にしか見えない、若くて色の白い顔でした。
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年はまだ二十四五としか見えない若い色白の顔であった。
宗助は門の所で待って、
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宗助は門の扉の所に待ち合わして、
「宜道さんとおっしゃる方はこちらにいらっしゃいますか」
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「宜道さんとおっしゃる方はこちらにおいででしょうか」
と聞きました。
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と聞いた。
「私が宜道です」
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「私が宜道です」
と若い僧は答えました。
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と若い僧は答えた。
宗助は少し驚きましたが、うれしくもありました。
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宗助は少し驚ろいたが、また嬉しくもあった。
すぐふところから紹介状を出して渡すと、宜道は立ったまま封を切って、その場で読みました。
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すぐ懐中から例の紹介状を出して渡すと、宜道は立ちながら封を切って、その場で読み下した。
やがて手紙を巻き直して封筒へ入れると、
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やがて手紙を巻き返して封筒へ入れると、
「ようこそ」
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「ようこそ」
と言ってていねいにおじぎをして、先に立って宗助を案内しました。
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と云って、叮嚀に会釈したなり、先に立って宗助を導いた。
二人は台所で下駄を脱いで、障子を開けて中へ入りました。
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二人は庫裡に下駄を脱いで、障子を開けて内へ這入った。
そこには大きな囲炉裏(いろり。床を四角く切って火をたく所)が切ってありました。
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そこには大きな囲炉裏が切ってあった。
宜道はねずみ色の木綿の上に羽織っていた、うすくて粗末な僧の衣を脱いでくぎに掛け、
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宜道は鼠木綿の上に羽織っていた薄い粗末な法衣を脱いで釘にかけて、
「お寒うございましょう」
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「御寒うございましょう」
と言って、囲炉裏の中に深く埋めてあった炭を灰の下から掘り出しました。
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と云って、囲炉裏の中に深く埋けてあった炭を灰の下から掘り出した。
この僧は若いのに似合わず、とても落ち着いた話し方をする男でした。
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この僧は若いに似合わずはなはだ落ちついた話振をする男であった。
低い声で何か返事をしたあとで、にやりと笑うところなどは、まるで女のような感じを宗助に与えました。
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低い声で何か受答えをした後で、にやりと笑う具合などは、まるで女のような感じを宗助に与えた。
宗助は心の中で、この若者がどんな事情から思い切って頭をそったのだろうかと考えて、そのしとやかな様子を何となくかわいそうに思いました。
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宗助は心のうちに、この青年がどういう機縁の元に、思い切って頭を剃ったものだろうかと考えて、その様子のしとやかなところを、何となく憐れに思った。
「とてもお静かなようですが、今日はどなたもお留守なんですか」
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「大変御静なようですが、今日はどなたも御留守なんですか」
「いえ、今日に限らず、いつも私一人です。だから用のある時は構わず開けたままにして出ます。今もちょっと下まで行って用を足して来ました。そのためにせっかくおいでのところを失礼しました」
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「いえ、今日に限らず、いつも私一人です。だから用のあるときは構わず明け放しにして出ます。今もちょっと下まで行って用を足して参りました。それがためせっかくおいでのところを失礼致しました」
宜道はこの時、改めて遠くから来たお客に対して、留守にしていたことをわびました。
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宜道はこの時改めて遠来の人に対して自分の不在を詫びた。
この大きな庵をたった一人で預かっているだけでも大変なのに、その上に世話をする人が増えたらさぞめんどうだろうと、宗助は少し申し訳なさそうな顔をしました。
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この大きな庵を、たった一人で預かっているさえ、相応に骨が折れるのに、その上に厄介が増したらさぞ迷惑だろうと、宗助は少し気の毒な色をほかに動かした。
すると宜道は、
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すると宜道は、
「いえ、少しもご遠慮はいりません。道のためでございますから」
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「いえ、ちっとも御遠慮には及びません。道のためでございますから」
と、心のこもったことを言いました。
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とゆかしい事を云った。
そして、今のところ自分の所には宗助のほかにもう一人、修行に来ている人がいることを教えました。
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そうして、目下自分の所に、宗助のほかに、まだ一人世話になっている居士のある旨を告げた。
この人は山へ来てもう二年になるとかいう話でした。
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この居士は山へ来てもう二年になるとかいう話であった。
宗助はそれから二、三日して初めてこの人を見ましたが、彼はおかしみのある仏像のような顔をした、気楽そうな男でした。
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宗助はそれから二三日して、始めてこの居士を見たが、彼は剽軽な羅漢のような顔をしている気楽そうな男であった。
細い大根を三、四本ぶら下げて、今日はごちそうを買って来たと言って、それを宜道に煮てもらって食べました。
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細い大根を三四本ぶら下げて、今日は御馳走を買って来たと云って、それを宜道に煮てもらって食った。
宜道も宗助も、いっしょにいただきました。
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宜道も宗助もその相伴をした。
この人は顔が坊さんらしいので、時々修行僧たちに混じって村の法事などに出かけることがあるとか言って、宜道が笑っていました。
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この居士は顔が坊さんらしいので、時々僧堂の衆に交って、村の御斎などに出かける事があるとか云って宜道が笑っていた。
そのほか、僧ではないのに山へ修行に来ている人の話もいろいろ聞きました。
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そのほか俗人で山へ修業に来ている人の話もいろいろ聞いた。
中に筆や墨を売る男がいました。
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中に筆墨を商う男がいた。
背中に荷物をいっぱい背負って、二十日なり三十日なり、あちこちを回って歩き、だいたい売り切ってしまうと山へ帰って来て座禅をします。
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背中へ荷をいっぱい負って、二十日なり三十日なり、そこら中回って歩いて、ほぼ売り尽してしまうと山へ帰って来て坐禅をする。
それからしばらくして食べる物がなくなると、また筆と墨を背負って売りに出ます。
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それからしばらくして食うものがなくなると、また筆墨を背に載せて行商に出る。
彼はこの二つの暮らしを、同じことを何度も繰り返すようにずっと続けて、あきることを知らないのだそうです。
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彼はこの両面の生活を、ほとんど循環小数のごとく繰り返して、飽く事を知らないのだと云う。
宗助は、見たところこだわりのなさそうなこういう人たちの日々と、自分の心の中の今の暮らしとを比べて、その違いの大きさに驚きました。
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宗助は一見こだわりの無さそうなこれらの人の月日と、自分の内面にある今の生活とを比べて、その懸隔の甚だしいのに驚ろいた。
そんな気楽な身分だから座禅ができるのか、それとも座禅をした結果そういう気楽な心になれるのか、迷いました。
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そんな気楽な身分だから坐禅ができるのか、あるいは坐禅をした結果そういう気楽な心になれるのか迷った。
「気楽ではいけません。遊び半分でできるものなら、二十年も三十年も修行の旅をして苦しむ者はいません」
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「気楽ではいけません。道楽にできるものなら、二十年も三十年も雲水をして苦しむものはありません」
と宜道は言いました。
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と宜道は云った。
彼は、座禅をする時の一般の心得や、老師(ろうし。寺の先生)から公案(こうあん。考えるべき問い)が出ること、その公案に一生けんめい食いついて、朝も晩も昼も夜もかじり続けなければいけないことなど、今の宗助には心細く見える話をしたあと、
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彼は坐禅をするときの一般の心得や、老師から公案の出る事や、その公案に一生懸命噛りついて、朝も晩も昼も夜も噛りつづけに噛らなくてはいけない事やら、すべて今の宗助には心元なく見える助言を与えた末、
「お部屋へご案内しましょう」
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「御室へ御案内しましょう」
と言って立ち上がりました。
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と云って立ち上がった。
囲炉裏のある所を出て、本堂を横に通りぬけ、そのはずれにある六畳の部屋の障子を縁側から開けて中へ案内された時、宗助は初めて一人で遠くへ来た気持ちがしました。
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囲炉裏の切ってある所を出て、本堂を横に抜けて、その外れにある六畳の座敷の障子を縁から開けて、中へ案内された時、宗助は始めて一人遠くに来た心持がした。
けれども頭の中は、周りの静かさと反対に、かえって町にいる時よりも揺れ動きました。
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けれども頭の中は、周囲の幽静な趣と反照するためか、かえって町にいるときよりも動揺した。
一時間ほどたったと思う頃、宜道の足音がまた本堂の方から聞こえました。
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約一時間もしたと思う頃宜道の足音がまた本堂の方から響いた。
「老師がお会いになるそうですから、ご都合がよろしければ参りましょう」
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「老師が相見になるそうでございますから、御都合が宜しければ参りましょう」
と言って、ていねいに敷居の上に膝をつきました。
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と云って、丁寧に敷居の上に膝を突いた。
二人はまた寺を空にして、連れ立って出ました。
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二人はまた寺を空にして連立って出た。
山門の通りを百メートルほど奥へ来ると、左側に蓮(はす)の池がありました。
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山門の通りをほぼ一丁ほど奥へ来ると、左側に蓮池があった。
寒い時期なので池の中はうすく濁ってよどんでいるだけで、少しもきれいな感じはありませんでしたが、向こう側に見える高い石の崖のはしまで、手すりのある座敷が突き出しているところが、昔の絵にでもありそうな趣を出していました。
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寒い時分だから池の中はただ薄濁りに淀んでいるだけで、少しも清浄な趣はなかったが、向側に見える高い石の崖外れまで、縁に欄干のある座敷が突き出しているところが、文人画にでもありそうな風致を添えた。
「あそこが老師の住んでおられる所です」
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「あすこが老師の住んでいられる所です」
と宜道は、比較的新しいその建物を指さしました。
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と宜道は比較的新らしいその建物を指した。
二人は蓮の池の前を通り越して、五、六段の石段を上り、その正面にある大きなお堂の屋根を見上げたまま、すぐ左へ曲がりました。
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二人は蓮池の前を通り越して、五六級の石段を上って、その正面にある大きな伽藍の屋根を仰いだまま直左りへ切れた。
玄関に来た時、宜道は
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玄関へ差しかかった時、宜道は
「ちょっと失礼します」
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「ちょっと失礼します」
と言って自分だけ裏口の方へ回りましたが、やがて奥から出て来て、
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と云って、自分だけ裏口の方へ回ったが、やがて奥から出て来て、
「さあ、どうぞ」
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「さあどうぞ」
と案内をして、老師のいる所へ連れて行きました。
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と案内をして、老師のいる所へ伴れて行った。
老師というのは五十歳くらいに見えました。
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老師というのは五十格好に見えた。
赤黒いつやのある顔をしていました。
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赭黒い光沢のある顔をしていた。
その皮膚も筋肉も全部引きしまっていて、どこにもゆるみがないところが、銅像のような印象を宗助の胸にきざみました。
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その皮膚も筋肉もことごとく緊って、どこにも怠のないところが、銅像のもたらす印象を、宗助の胸に彫りつけた。
ただくちびるがあまり厚すぎるので、そこに少しゆるみが見えました。
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ただ唇があまり厚過ぎるので、そこに幾分の弛みが見えた。
その代わり、彼の目には普通の人にはとても見られない光がありました。
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その代り彼の眼には、普通の人間にとうてい見るべからざる一種の精彩が閃めいた。
宗助が初めてその目に見つめられた時は、暗やみの中で急に抜き身の刀を見たような気がしました。
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宗助が始めてその視線に接した時は、暗中に卒然として白刃を見る思があった。
「まあ、何から入っても同じだが」
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「まあ何から入っても同じであるが」
と老師は宗助に向かって言いました。
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と老師は宗助に向って云った。
「父母がまだ生まれない以前の、本来のおのれの姿とは何か、それを一つ考えてみたらよかろう」
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「父母未生以前本来の面目は何だか、それを一つ考えて見たら善かろう」
宗助にはその言葉の意味がよく分かりませんでしたが、とにかく自分というものは結局何なのか、その本当の姿をつかまえてみろという意味だろうと考えました。
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宗助には父母未生以前という意味がよく分らなかったが、何しろ自分と云うものは必竟何物だか、その本体を捕まえて見ろと云う意味だろうと判断した。
それ以上何か言うには、あまりに禅の知識がなかったので、黙ってまた宜道に連れられて一窓庵へ帰って来ました。
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それより以上口を利くには、余り禅というものの知識に乏しかったので、黙ってまた宜道に伴れられて一窓庵へ帰って来た。
晩ご飯の時、宜道は宗助に、老師の部屋へ入る時間が朝と夕方の二回あることと、講義の時間が午前であることなどを話した上で、
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晩食の時宜道は宗助に、入室の時間の朝夕二回あることと、提唱の時間が午前である事などを話した上、
「今夜はまだ答えもできないかもしれませんから、明日の朝か明日の晩にお誘いしましょう」
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「今夜はまだ見解もできないかも知れませんから、明朝か明晩御誘い申しましょう」
と親切に言ってくれました。
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と親切に云ってくれた。
それから、初めのうちはずっと座っているのは大変だから線香を立てて、それで時間をはかり、少しずつ休んだらいい、というような注意もしてくれました。
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それから最初のうちは、つめて坐わるのは難儀だから線香を立てて、それで時間を計って、少しずつ休んだら好かろうと云うような注意もしてくれた。
宗助は線香を持って本堂の前を通り、自分の部屋と決まった六畳に入って、ぼんやり座りました。
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宗助は線香を持って、本堂の前を通って自分の室ときまった六畳に這入って、ぼんやりして坐った。
彼から言えば、公案というものの中身が、いかにも自分の今の悩みと縁の遠いもののような気がしてなりませんでした。
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彼から云うといわゆる公案なるものの性質が、いかにも自分の現在と縁の遠いような気がしてならなかった。
自分は今、お腹が痛くて苦しんでいる。
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自分は今腹痛で悩んでいる。
そのお腹が痛いという訴えを持って来てみると、その治療として難しい算数の問題を出されて、まあこれでも考えたらいいと言われたのと同じでした。
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その腹痛と言う訴を抱いて来て見ると、あにはからんや、その対症療法として、むずかしい数学の問題を出して、まあこれでも考えたらよかろうと云われたと一般であった。
考えろと言われれば考えないこともないけれど、それはまずお腹の痛みが治まってからでなければ無理でした。
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考えろと云われれば、考えないでもないが、それは一応腹痛が治まってからの事でなくては無理であった。
同時に彼は仕事を休んで、わざわざここまで来た男でした。
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同時に彼は勤を休んで、わざわざここまで来た男であった。
紹介状を書いてくれた人や、何かと気をつかってくれる宜道に対しても、いいかげんなことはできませんでした。
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紹介状を書いてくれた人、万事に気をつけてくれる宜道に対しても、あまりに軽卒な振舞はできなかった。
彼はまず、今の自分にできる限りの勇気を持って公案に向かおうと決めました。
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彼はまず現在の自分が許す限りの勇気を提さげて、公案に向おうと決心した。
それが自分をどこへ導き、どんな結果を心にもたらすかは、彼自身にもまるで分かりませんでした。
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それがいずれのところに彼を導びいて、どんな結果を彼の心に持ち来すかは、彼自身といえども全く知らなかった。
彼は悟りという美しい言葉にだまされて、自分らしくない冒険をしようとしたのです。
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彼は悟という美名に欺かれて、彼の平生に似合わぬ冒険を試みようと企てたのである。
そして、もしこの冒険がうまく行けば、今の不安で頼りない弱い自分を救えるのではないかと、はかない望みを持ったのです。
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そうして、もしこの冒険に成功すれば、今の不安な不定な弱々しい自分を救う事ができはしまいかと、はかない望を抱いたのである。
彼は冷たい火鉢の灰の中に細い線香を立てて、教えられたとおり座布団の上に足を組んで座りました。
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彼は冷たい火鉢の灰の中に細い線香を燻らして、教えられた通り座蒲団の上に半跏を組んだ。
昼のうちはそれほどとも思わなかった部屋が、日が落ちてから急に寒くなりました。
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昼のうちはさまでとは思わなかった室が、日が落ちてから急に寒くなった。
彼は座りながら、背中がぞくぞくするほど冷たい空気に耐えられませんでした。
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彼は坐りながら、背中のぞくぞくするほど温度の低い空気に堪えなかった。
彼は考えました。
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彼は考えた。
けれども考える方向も、考える問題の中身も、ほとんどつかまえようのないぼんやりしたものでした。
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けれども考える方向も、考える問題の実質も、ほとんど捕まえようのない空漠なものであった。
彼は考えながら、自分はとても見当違いなことをしているのではないかと疑いました。
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彼は考えながら、自分は非常に迂濶な真似をしているのではなかろうかと疑った。
火事見舞いに行く間際に細かい地図を出して、こまごまと町名や番地を調べているよりも、もっと見当違いなことをしているように感じました。
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火事見舞に行く間際に、細かい地図を出して、仔細に町名や番地を調べているよりも、ずっと飛び離れた見当違の所作を演じているごとく感じた。
彼の頭の中をいろいろなものが流れました。
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彼の頭の中をいろいろなものが流れた。
その中のあるものは、はっきり目に見えました。
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そのあるものは明らかに眼に見えた。
あるものはごちゃごちゃして雲のように動きました。
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あるものは混沌として雲のごとくに動いた。
どこから来てどこへ行くのかも分かりませんでした。
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どこから来てどこへ行くとも分らなかった。
ただ先のものが消えると、すぐあとから次のものが現れました。
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ただ先のものが消える、すぐ後から次のものが現われた。
そして絶え間なく、次から次へと続きました。
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そうして仕切りなしにそれからそれへと続いた。
頭の中を通るものは限りがなく数えきれず、決して宗助の命令で止まることも休むこともありませんでした。
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頭の往来を通るものは、無限で無数で無尽蔵で、けっして宗助の命令によって、留まる事も休む事もなかった。
断ち切ろうと思えば思うほど、こんこんとわいて出ました。
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断ち切ろうと思えば思うほど、滾々として湧いて出た。
宗助はこわくなって、急に普段の自分に戻り、部屋の中を眺めました。
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宗助は怖くなって、急に日常の我を呼び起して、室の中を眺めた。
部屋はかすかな明かりでうす暗く照らされていました。
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室は微かな灯で薄暗く照らされていた。
灰の中に立てた線香は、まだ半分ほどしか燃えていませんでした。
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灰の中に立てた線香は、まだ半分ほどしか燃えていなかった。
宗助は、恐ろしいほど時間が長いことに初めて気がつきました。
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宗助は恐るべく時間の長いのに始めて気がついた。
宗助はまた考え始めました。
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宗助はまた考え始めた。
すると、すぐに色のあるもの、形のあるものが頭の中を通り出しました。
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すると、すぐ色のあるもの、形のあるものが頭の中を通り出した。
ぞろぞろと群がるありのように動いて行き、あとからまたぞろぞろと群がるありのように現れました。
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ぞろぞろと群がる蟻のごとくに動いて行く、あとからまたぞろぞろと群がる蟻のごとくに現われた。
じっとしているのは、ただ宗助の体だけでした。
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じっとしているのはただ宗助の身体だけであった。
心は切ないほど、苦しいほど、我慢できないほど動きました。
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心は切ないほど、苦しいほど、堪えがたいほど動いた。
そのうち、じっとしている体もひざがしらから痛み始めました。
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そのうちじっとしている身体も、膝頭から痛み始めた。
まっすぐ伸ばしていた背骨がだんだん前へ曲がって来ました。
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真直に延ばしていた脊髄がしだいしだいに前の方に曲って来た。
宗助は両手で左足の甲を抱えるようにして下ろしました。
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宗助は両手で左の足の甲を抱えるようにして下へおろした。
彼は何をする当てもなく部屋の中に立ち上がりました。
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彼は何をする目的もなく室の中に立ち上がった。
障子を開けて外へ出て、門の前をぐるぐる駆け回って歩きたくなりました。
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障子を明けて表へ出て、門前をぐるぐる駈け回って歩きたくなった。
夜はしんとしていました。
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夜はしんとしていた。
寝ている人も起きている人も、どこにもいそうに思えませんでした。
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寝ている人も起きている人もどこにもおりそうには思えなかった。
宗助は外へ出る勇気を失いました。
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宗助は外へ出る勇気を失った。
じっと生きたまま、勝手にわいて来る考えに苦しめられるのは、もっと恐ろしいことでした。
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じっと生きながら妄想に苦しめられるのはなお恐ろしかった。
彼は思い切って、また新しい線香を立てました。
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彼は思い切ってまた新らしい線香を立てた。
そしてまた、ほとんど前と同じことを繰り返しました。
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そうしてまたほぼ前と同じ過程を繰り返した。
最後に、もし考えるのが目的なら、座って考えるのも寝て考えるのも同じだろうと考えました。
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最後に、もし考えるのが目的だとすれば、坐って考えるのも寝て考えるのも同じだろうと分別した。
彼は部屋の隅にたたんであったうす汚い布団を敷いて、その中に潜りこみました。
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彼は室の隅に畳んであった薄汚ない蒲団を敷いて、その中に潜り込んだ。
するとさっきからの疲れで、何を考える間もなく深い眠りに落ちてしまいました。
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すると先刻からの疲れで、何を考える暇もないうちに、深い眠りに落ちてしまった。
目が覚めると、枕もとの障子がいつの間にか明るくなって、白い紙にやがて日がさして来る色が動いていました。
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眼が覚めると枕元の障子がいつの間にか明るくなって、白い紙にやがて日の逼るべき色が動いた。
昼も留守番を置かずに済む山の寺は、夜になっても戸を閉める音がしなかったのです。
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昼も留守を置かずに済む山寺は、夜に入っても戸を閉てる音を聞かなかったのである。
宗助は、自分が坂井の崖の下の暗い部屋に寝ていたのではないと気づくとすぐ、起き上がりました。
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宗助は自分が坂井の崖下の暗い部屋に寝ていたのでないと意識するや否や、すぐ起き上がった。
縁側へ出ると、屋根のはしに高く大きなサボテンの影が目に入りました。
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縁へ出ると、軒端に高く大覇王樹の影が眼に映った。
宗助はまた本堂の仏壇の前を通って、囲炉裏のある昨日の茶の間へ出ました。
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宗助はまた本堂の仏壇の前を抜けて、囲炉裏の切ってある昨日の茶の間へ出た。
そこには昨日のとおり、宜道の衣が曲がったくぎに掛けてありました。
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そこには昨日の通り宜道の法衣が折釘にかけてあった。
そして本人は台所のかまどの前にしゃがんで、火をたいていました。
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そうして本人は勝手の竈の前に蹲踞まって、火を焚いていた。
宗助を見て、
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宗助を見て、
「お早う」
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「御早う」
とていねいにおじぎをしました。
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と慇懃に礼をした。
「さきほどお誘いしようと思いましたが、よくお休みのようでしたから、失礼して一人で行って来ました」
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「先刻御誘い申そうと思いましたが、よく御寝のようでしたから、失礼して一人参りました」
宗助は、この若い僧が今朝、夜明け前にもう老師の所へ行って来て、それから帰ってご飯をたいているのだと知りました。
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宗助はこの若い僧が、今朝夜明がたにすでに参禅を済まして、それから帰って来て、飯を炊いでいるのだという事を知った。
見ると彼は、左手でしきりにまきを入れかえながら、右手に黒い表紙の本を持って、合間合間にそれを読んでいる様子でした。
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見ると彼は左の手でしきりに薪を差し易えながら、右の手に黒い表紙の本を持って、用の合間合間にそれを読んでいる様子であった。
宗助は宜道に、本の名前を聞きました。
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宗助は宜道に書物の名を尋ねた。
それは碧巌集(へきがんしゅう)という難しい名前のものでした。
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それは碧巌集というむずかしい名前のものであった。
宗助は心の中で、昨日の夜のように当てのない考えにふけって頭を疲れさせるより、いっそその道の本でも借りて読む方が近道ではないかと思いつきました。
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宗助は腹の中で、昨夕のように当途もない考に耽って脳を疲らすより、いっそその道の書物でも借りて読む方が、要領を得る捷径ではなかろうかと思いついた。
宜道にそう言うと、宜道はすぐに宗助の考えを止めました。
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宜道にそう云うと、宜道は一も二もなく宗助の考を排斥した。
「本を読むのは、とてもよくありません。正直に言えば、読書ほど修行のじゃまになるものはないようです。私たちもこうして碧巌集などを読みますが、自分の程度以上のところになるとまるで見当がつきません。それをいいかげんに当て推量する癖がつくと、それが座る時のじゃまになって、自分以上の境地を想像してみたり、悟りを待ちかまえてみたりして、しっかり進むべきところで止まってしまいます。とても毒になりますから、おやめになった方がいいでしょう。もしどうしても何かお読みになりたければ、禅関策進(ぜんかんさくしん)というような、人の勇気をふるい立たせるものがよろしいでしょう。それだって、ただ気持ちを起こさせるために読むだけで、道そのものとは関係ありません」
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「書物を読むのはごく悪うございます。有体に云うと、読書ほど修業の妨になるものは無いようです。私共でも、こうして碧巌などを読みますが、自分の程度以上のところになると、まるで見当がつきません。それを好加減に揣摩する癖がつくと、それが坐る時の妨になって、自分以上の境界を予期して見たり、悟を待ち受けて見たり、充分突込んで行くべきところに頓挫ができます。大変毒になりますから、御止しになった方がよいでしょう。もし強いて何か御読みになりたければ、禅関策進というような、人の勇気を鼓舞したり激励したりするものが宜しゅうございましょう。それだって、ただ刺戟の方便として読むだけで、道その物とは無関係です」
宗助には、宜道の言う意味がよく分かりませんでした。
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宗助には宜道の意味がよく解らなかった。
彼はこの若々しい青い頭をした坊さんの前に立って、まるで自分が出来の悪い子どもであるかのような気持ちになりました。
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彼はこの生若い青い頭をした坊さんの前に立って、あたかも一個の低能児であるかのごとき心持を起した。
彼のおごりの心は、京都以来もうすり減ってなくなっていました。
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彼の慢心は京都以来すでに銷磨し尽していた。
彼は普通であることを自分の分として、今日まで生きて来ました。
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彼は平凡を分として、今日まで生きて来た。
有名になることほど彼の心に遠いものはありませんでした。
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聞達ほど彼の心に遠いものはなかった。
彼はただ、ありのままの自分として宜道の前に立ったのです。
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彼はただありのままの彼として、宜道の前に立ったのである。
それなのに、普段の自分よりはるかに力のない赤ん坊のようだと、さらに自分を認めなければならなくなりました。
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しかも平生の自分より遥かに無力無能な赤子であると、さらに自分を認めざるを得なくなった。
彼にとっては新しい発見でした。
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彼に取っては新らしい発見であった。
同時に、自分を誇る心を根こそぎにするほどの発見でした。
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同時に自尊心を根絶するほどの発見であった。
宜道がかまどの火を消してご飯を蒸らしている間に、宗助は台所から下りて庭の井戸のそばへ出て顔を洗いました。
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宜道が竈の火を消して飯をむらしている間に、宗助は台所から下りて庭の井戸端へ出て顔を洗った。
鼻の先にはすぐ雑木の山が見えました。
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鼻の先にはすぐ雑木山が見えた。
そのふもとの少し平らな所を開いて、畑が作ってありました。
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その裾の少し平な所を拓いて、菜園が拵えてあった。
宗助はぬれた頭を冷たい空気にさらして、わざわざ畑まで下りて行きました。
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宗助は濡れた頭を冷たい空気に曝して、わざと菜園まで下りて行った。
そして、そこに崖を横に掘った大きな穴を見つけました。
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そうして、そこに崖を横に掘った大きな穴を見出した。
宗助はしばらくその前に立って、暗い奥の方を眺めていました。
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宗助はしばらくその前に立って、暗い奥の方を眺めていた。
やがて茶の間へ帰ると、囲炉裏には暖かい火が起きて、鉄びんのお湯がわく音が聞こえました。
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やがて、茶の間へ帰ると、囲炉裏には暖かい火が起って、鉄瓶に湯の沸る音が聞えた。
「手が足りないものだから、つい遅くなってお気の毒です。すぐお食事にしましょう。しかしこんな所だから、差し上げるものがなくて困ります。その代わり、明日あたりはごちそうにお風呂でもわかしましょう」
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「手がないものだから、つい遅くなりまして御気の毒です。すぐ御膳に致しましょう。しかしこんな所だから上げるものがなくって困ります。その代り明日あたりは御馳走に風呂でも立てましょう」
と宜道が言ってくれました。
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と宜道が云ってくれた。
宗助はありがたく囲炉裏の向こうに座りました。
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宗助はありがたく囲炉裏の向に坐った。
やがて食事を終えて自分の部屋へ帰った宗助は、また父母がまだ生まれない以前という変わった問題を目の前に置いて、じっと眺めました。
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やがて食事を了えて、わが室へ帰った宗助は、また父母未生以前と云う稀有な問題を眼の前に据えて、じっと眺めた。
けれども、もともと筋道の立たない、ですから広げようのない問題なので、いくら考えてもどこからも手をつけられませんでした。
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けれども、もともと筋の立たない、したがって発展のしようのない問題だから、いくら考えてもどこからも手を出す事はできなかった。
そして、すぐ考えるのがいやになりました。
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そうして、すぐ考えるのが厭になった。
宗助は、ふと御米にここへ着いたことを知らせなければならないのに気がつきました。
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宗助はふと御米にここへ着いた消息を書かなければならない事に気がついた。
彼は普通の用事ができたのを喜ぶように、すぐかばんの中から巻紙と封筒を取り出して、御米に送る手紙を書き始めました。
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彼は俗用の生じたのを喜こぶごとくに、すぐ鞄の中から巻紙と封じ袋を取り出して、御米にやる手紙を書き始めた。
まずここが静かなこと、海に近いせいか東京よりよほど暖かいこと、空気がきれいなこと、紹介された坊さんが親切なこと、食事がおいしくないこと、布団がきれいでないことなどを書き並べているうちに、もう一メートル近い長さになったのでそこで筆を置きましたが、公案に苦しめられていることや、座禅をしてひざの関節を痛くしていることや、考えるためにますます頭の具合が悪くなりそうなことは、少しも書きませんでした。
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まずここの閑静な事、海に近いせいか、東京よりはよほど暖かい事、空気の清朗な事、紹介された坊さんの親切な事、食事の不味い事、夜具蒲団の綺麗に行かない事、などを書き連ねているうちに、はや三尺余りの長さになったので、そこで筆を擱いたが、公案に苦しめられている事や、坐禅をして膝の関節を痛くしている事や、考えるためにますます神経衰弱が劇しくなりそうな事は、噫にも出さなかった。
彼はこの手紙に切手を貼ってポストに入れなければならないという口実を作って、さっそく山を下りました。
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彼はこの手紙に切手を貼って、ポストに入れなければならない口実を求めて、早速山を下った。
そして父母がまだ生まれない以前という問いと、御米と、安井とにおびやかされながら、村の中をうろついて帰りました。
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そうして父母未生以前と、御米と、安井に、脅かされながら、村の中をうろついて帰った。
昼には、宜道から話のあった修行の人に会いました。
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午には、宜道から話のあった居士に会った。
この人は茶碗を出して宜道にご飯をよそってもらう時、恐れ入りますとも何とも言わずに、ただ手を合わせてお礼や合図をしました。
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この居士は茶碗を出して、宜道に飯を盛って貰うとき、憚かり様とも何とも云わずに、ただ合掌して礼を述べたり、相図をしたりした。
これくらい静かに物事をするのが決まりだとか言いました。
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このくらい静かに物事を為るのが法だとか云った。
口をきかず音を立てないのは、考えのじゃまになるからだそうです。
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口を利かず、音を立てないのは、考えの邪魔になると云う精神からだそうであった。
それほど真剣にやるべきものなのか、と、宗助は昨日の夜からの自分が何となく恥ずかしくなりました。
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それほど真剣にやるべきものをと、宗助は昨夜からの自分が、何となく恥ずかしく思われた。
食事のあと、三人は囲炉裏のそばでしばらく話しました。
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食後三人は囲炉裏の傍でしばらく話した。
その時、その人は、自分が座禅をしながらいつの間にか気づかずにうとうと眠ってしまっていて、はっと目が覚める間際に、おや悟ったな、と喜ぶことがあるが、さていよいよ目を開けてみるとやはり元のままの自分なのでがっかりするばかりだ、と言って宗助を笑わせました。
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その時居士は、自分が坐禅をしながら、いつか気がつかずにうとうとと眠ってしまっていて、はっと正気に帰る間際に、おや悟ったなと喜ぶことがあるが、さていよいよ眼を開いて見ると、やっぱり元の通の自分なので失望するばかりだと云って、宗助を笑わした。
こういう気楽な考えで修行している人もいると思うと、宗助も少しほっとしました。
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こう云う気楽な考で、参禅している人もあると思うと、宗助も多少は寛ろいだ。
けれども三人がそれぞれ自分の部屋へ入る時、宜道が、
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けれども三人が分れ分れに自分の室に入る時、宜道が、
「今夜はお誘いしますから、これから夕方までしっかりお座りなさい」
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「今夜は御誘い申しますから、これから夕方までしっかり御坐りなさいまし」
とまじめにすすめた時、宗助はまた責任を感じました。
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と真面目に勧めたとき、宗助はまた一種の責任を感じた。
消化されないかたい団子が胃に残っているような不安な胸を抱いて、自分の部屋へ帰って来ました。
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消化れない堅い団子が胃に滞おっているような不安な胸を抱いて、わが室へ帰って来た。
そしてまた線香をたいて座り始めました。
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そうしてまた線香を焚いて坐わり出した。
それなのに、夕方までは座り続けられませんでした。
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その癖夕方までは坐り続けられなかった。
どんな答えでもいいから一つ作っておかなければと思いながらも、しまいには根気が尽きて、早く宜道が晩ご飯の知らせに本堂を通り抜けて来てくれればいいと、そればかりが気になりました。
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どんな解答にしろ一つ拵らえておかなければならないと思いながらも、しまいには根気が尽きて、早く宜道が夕食の報知に本堂を通り抜けて来てくれれば好いと、そればかり気にかかった。
日は悩みと疲れのうちに傾きました。
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日は懊悩と困憊の裡に傾むいた。
障子に映る影がだんだん遠くへ下がるにつれて、寺の空気が床の下から冷えて来ました。
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障子に映る時の影がしだいに遠くへ立ち退くにつれて、寺の空気が床の下から冷え出した。
風は朝から枝を吹きませんでした。
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風は朝から枝を吹かなかった。
縁側に出て高い屋根を見上げると、黒いかわらの小口だけがそろって長く一列に見えるほかは、おだやかな空が青い光を底の方に沈めながら、だんだんうすくなって行くところでした。
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縁側に出て、高い庇を仰ぐと、黒い瓦の小口だけが揃って、長く一列に見える外に、穏かな空が、蒼い光をわが底の方に沈めつつ、自分と薄くなって行くところであった。
十九
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十九
「危のうございます」
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「危険うございます」
と言って、宜道は一足先に暗い石段を下りました。
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と云って宜道は一足先へ暗い石段を下りた。
宗助はあとから続きました。
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宗助はあとから続いた。
町と違って夜になると足もとが悪いので、宜道はちょうちんをつけて、わずか百メートルほどの道を照らしました。
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町と違って夜になると足元が悪いので、宜道は提灯を点けてわずか一丁ばかりの路を照らした。
石段を下り切ると、大きな木の枝が左右から二人の頭に覆いかぶさるように空をふさぎました。
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石段を下り切ると、大きな樹の枝が左右から二人の頭に蔽い被さるように空を遮った。
暗いのに、青い葉の色が二人の着物の織り目にしみこむほど、宗助を寒がらせました。
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闇だけれども蒼い葉の色が二人の着物の織目に染み込むほどに宗助を寒がらせた。
ちょうちんの明かりにも、その色が少し映る感じがありました。
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提灯の灯にもその色が多少映る感じがあった。
そのちょうちんは、片方に大きな木の幹があるせいか、とても小さく見えました。
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その提灯は一方に大きな樹の幹を想像するせいか、はなはだ小さく見えた。
光が地面に届く範囲もわずかでした。
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光の地面に届く尺数もわずかであった。
照らされた部分は明るい灰色のかけらになって、暗い中にぽっかりと落ちていました。
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照らされた部分は明るい灰色の断片となって暗い中にほっかり落ちた。
そして二人の影が動くにつれて動きました。
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そうして二人の影が動くに伴れて動いた。
蓮の池を通り過ぎて左へ上る所は、夜が初めての宗助には少し足もとがうまく運びませんでした。
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蓮池を行き過ぎて、左へ上る所は、夜はじめての宗助に取って、少し足元が滑かに行かなかった。
土の中に根を張った石に、一、二度下駄を引っかけました。
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土の中に根を食っている石に、一二度下駄の台を引っ掛けた。
蓮の池の手前から横に曲がる裏道もありますが、こちらはでこぼこが多くて、慣れない宗助には近くても不便だろうというので、宜道はわざわざ広い方を案内したのです。
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蓮池の手前から横に切れる裏路もあるが、この方は凸凹が多くて、慣れない宗助には近くても不便だろうと云うので、宜道はわざわざ広い方を案内したのである。
玄関を入ると、暗い土間に下駄がかなり並んでいました。
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玄関を入ると、暗い土間に下駄がだいぶ並んでいた。
宗助はかがんで、人のはき物をふまないようにそっと上へ上がりました。
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宗助は曲んで、人の履物を踏まないようにそっと上へのぼった。
部屋は八畳ほどの広さでした。
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室は八畳ほどの広さであった。
その壁ぎわに、六、七人の男が一列に並んでいました。
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その壁際に列を作って、六七人の男が一側に並んでいた。
中には頭を光らせて黒い衣を着た僧も混じっていました。
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中に頭を光らして、黒い法衣を着た僧も交っていた。
ほかの人はたいてい袴をはいていました。
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他のものは大概袴を穿いていた。
この六、七人の男は、上がり口と奥へ通じる廊下の入口を残して、行儀よくかぎの形に並んでいました。
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この六七人の男は上り口と奥へ通ずる三尺の廊下口を残して、行儀よく鉤の手に並んでいた。
そして、一言も口をききませんでした。
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そうして、一言も口を利かなかった。
宗助はこの人たちの顔をひと目見て、まずその厳しさに気をのまれました。
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宗助はこれらの人の顔を一目見て、まずその峻刻なのに気を奪われた。
みんなかたく口を結んでいました。
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彼らは皆固く口を結んでいた。
何か大事があるようにまゆを強く寄せていました。
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事ありげな眉を強く寄せていた。
そばにどんな人がいるか見向きもしませんでした。
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傍にどんな人がいるか見向きもしなかった。
どんな人が外から入って来ても、まるで気にしませんでした。
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いかなるものが外から入って来ても、全く注意しなかった。
みんな生きた彫刻のように自分を保って、火の気のない部屋に厳かに座っていました。
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彼らは活きた彫刻のように己れを持して、火の気のない室に粛然と坐っていた。
宗助の感じる寒さには、山寺の寒さ以上に、厳かな空気が加わりました。
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宗助の感覚には、山寺の寒さ以上に、一種厳かな気が加わった。
やがて静けさの中に、人の足音が聞こえました。
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やがて寂寞の中に、人の足音が聞えた。
初めはかすかでしたが、だんだん強く床を踏んで、宗助の座っている方へ近づいて来ました。
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初は微かに響いたが、しだいに強く床を踏んで、宗助の坐っている方へ近づいて来た。
最後に一人の僧が廊下の入口からぬっと現れました。
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しまいに一人の僧が廊下口からぬっと現れた。
そして宗助のそばを通って、黙って外の暗がりへ出て行きました。
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そうして宗助の傍を通って、黙って外の暗がりへ抜けて行った。
すると、遠くの奥の方で鈴を振る音がしました。
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すると遠くの奥の方で鈴を振る音がした。
この時、宗助と並んで厳しい顔で控えていた男のうち、袴をつけた一人が、やはり黙ったまま立ち上がって、部屋の隅の廊下の入口の真正面へ来て座りました。
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この時宗助と並んで厳粛に控えていた男のうちで、小倉の袴を着けた一人が、やはり無言のまま立ち上がって、室の隅の廊下口の真正面へ来て着座した。
そこには高さ六十センチ、幅三十センチほどの木のわくの中に、どらのような形をした、どらよりもずっと重くて厚そうなものが掛かっていました。
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そこには高さ二尺幅一尺ほどの木の枠の中に、銅鑼のような形をした、銅鑼よりも、ずっと重くて厚そうなものがかかっていた。
色は青黒く、暗い明かりに照らされていました。
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色は蒼黒く貧しい灯に照らされていた。
袴をつけた男は台の上にある木づちを取り上げて、どらに似たその鐘の真ん中を二つほど打ち鳴らしました。
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袴を着けた男は、台の上にある撞木を取り上げて、銅鑼に似た鐘の真中を二つほど打ち鳴らした。
そして、すっと立って廊下の入口を出て、奥の方へ進んで行きました。
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そうして、ついと立って、廊下口を出て、奥の方へ進んで行った。
今度は前と反対に、足音がだんだん遠くへ行くにつれてかすかになりました。
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今度は前と反対に、足音がだんだん遠くの方へ去るに従って、微かになった。
そして一番最後に、ぴたりとどこかで止まりました。
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そうして一番しまいにぴたりとどこかで留まった。
宗助は座ったまま、はっとしました。
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宗助は坐ながら、はっとした。
彼は、この袴をつけた男の身に今何が起きているのだろうかと想像したのです。
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彼はこの袴を着けた男の身の上に、今何事が起りつつあるだろうかを想像したのである。
けれども奥はしんと静まり返っていました。
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けれども奥はしんとして静まり返っていた。
宗助と並んでいる人も、一人として顔の筋肉を動かす人はいませんでした。
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宗助と並んでいるものも、一人として顔の筋肉を動かすものはなかった。
ただ宗助は心の中で、奥からの何かを待っていました。
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ただ宗助は心の中で、奥からの何物かを待ち受けた。
すると突然、鈴を振る音が彼の耳に届きました。
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すると忽然として鈴を振る響が彼の耳に応えた。
同時に長い廊下を踏んで、こちらへ近づく足音がしました。
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同時に長い廊下を踏んで、こちらへ近づく足音がした。
袴をつけた男はまた廊下の入口から現れて、黙ったまま玄関を下り、霜の中に消えて行きました。
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袴を着けた男はまた廊下口から現われて、無言のまま玄関を下りて、霜の裡に消え去った。
入れかわって、また新しい男が立って、さっきの鐘を打ちました。
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入れ代ってまた新らしい男が立って、最前の鐘を打った。
そしてまた廊下を踏み鳴らして奥の方へ行きました。
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そうして、また廊下を踏み鳴らして奥の方へ行った。
宗助は黙って行われるこの順番を見ながら、ひざに手を置いて自分の番が来るのを待っていました。
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宗助は沈黙の間に行われるこの順序を見ながら、膝に手を載せて、自分の番の来るのを待っていた。
自分より一人前の男が立って行った時は、しばらくしてから、わっという大きな声が奥の方で聞こえました。
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自分より一人置いて前の男が立って行った時は、ややしばらくしてから、わっと云う大きな声が、奥の方で聞えた。
その声は遠いので、激しく宗助の耳を打つほど強くは響きませんでしたが、たしかに力いっぱいの声でした。
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その声は距離が遠いので、劇しく宗助の鼓膜を打つほど、強くは響かなかったけれども、たしかに精一杯威を振ったものであった。
そして、ただ一人ののどから出た、その人らしい特色を持っていました。
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そうしてただ一人の咽喉から出た個人の特色を帯びていた。
自分のすぐ前の人が立った時は、いよいよ自分の番が来たという気持ちに押されて、いっそう落ち着きを失いました。
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自分のすぐ前の人が立った時は、いよいよわが番が回って来たと云う意識に制せられて、一層落ちつきを失った。
宗助はこの間の公案に対して、自分なりの答えは用意していました。
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宗助はこの間の公案に対して、自分だけの解答は準備していた。
けれども、それはとても心細くうすっぺらなものにすぎませんでした。
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けれども、それははなはだ覚束ない薄手のものに過ぎなかった。
部屋へ入る以上は何か答えを見せなければならないので、しかたなく、まとまらないところをわざとまとまったように見せかけた、その場かぎりの返事でした。
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室中に入る以上は、何か見解を呈しない訳に行かないので、やむを得ず納まらないところを、わざと納まったように取繕った、その場限りの挨拶であった。
彼はこの心細い答えで、まぐれ当たりにも難しい関門を通ってみたいなどとは夢にも思っていませんでした。
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彼はこの心細い解答で、僥倖にも難関を通過して見たいなどとは、夢にも思い設けなかった。
老師をだます気は、もちろんありませんでした。
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老師をごまかす気は無論なかった。
その時の宗助は、もう少しまじめだったのです。
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その時の宗助はもう少し真面目であったのである。
ただ頭だけで作った、絵に描いた餅のようなものを持って、義理でも部屋へ入らなければならない自分の中身のなさを恥じたのです。
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単に頭から割り出した、あたかも画にかいた餅のような代物を持って、義理にも室中に入らなければならない自分の空虚な事を恥じたのである。
宗助は人のするように鐘を打ちました。
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宗助は人のするごとくに鐘を打った。
しかも打ちながら、自分には人並みにこの鐘を木づちでたたく資格がないことを知っていました。
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しかも打ちながら、自分は人並にこの鐘を撞木で敲くべき権能がないのを知っていた。
それを人並みに鳴らしてみる、猿のような自分を深くいやに思いました。
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それを人並に鳴らして見る猿のごとき己れを深く嫌忌した。
彼は自分の弱さを恐れながら、入口を出て冷たい廊下へ足を踏み出しました。
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彼は弱味のある自分に恐れを抱きつつ、入口を出て冷たい廊下へ足を踏み出した。
廊下は長く続きました。
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廊下は長く続いた。
右側にある部屋はどれも暗いままでした。
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右側にある室はことごとく暗かった。
角を二つ曲がると、向こうのはしの障子に明かりの影がさしていました。
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角を二つ折れ曲ると、向の外れの障子に灯影が差した。
宗助はその敷居のきわまで来て止まりました。
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宗助はその敷居際へ来て留まった。
部屋に入る人は老師に向かって三度おじぎをするのが決まりでした。
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室中に入るものは老師に向って三拝するのが礼であった。
おじぎの仕方は、普通のあいさつのように頭を畳の近くまで下げると同時に、両手のひらを上に向けて開き、それを頭の左右に並べたまま、少し物を抱えるような感じで耳のあたりまで上げるのです。
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拝しかたは普通の挨拶のように頭を畳に近く下げると同時に、両手の掌を上向に開いて、それを頭の左右に並べたまま、少し物を抱えた心持に耳の辺まで上げるのである。
宗助は敷居のきわにひざをついて、決まりどおりにおじぎをしました。
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宗助は敷居際に跪ずいて形のごとく拝を行なった。
すると座敷の中で、
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すると座敷の中で、
「一回でよろしい」
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「一拝で宜しい」
という声がしました。
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と云う会釈があった。
宗助はあとを省いて中へ入りました。
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宗助はあとを略して中へ入った。
部屋の中は、ただうす暗い明かりに照らされていました。
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室の中はただ薄暗い灯に照らされていた。
その弱い光は、どんなに大きな字の本でも読めないほどのものでした。
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その弱い光は、いかに大字な書物をも披見せしめぬ程度のものであった。
宗助は今日までの経験で、これほどかすかな明かりで夜を過ごす人を思い出せませんでした。
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宗助は今日までの経験に訴えて、これくらい微かな灯火に、夜を営なむ人間を憶い起す事ができなかった。
その光はもちろん月より強いものでした。
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その光は無論月よりも強かった。
しかも月のような青白い色ではありませんでした。
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かつ月のごとく蒼白い色ではなかった。
けれども、もう少しでぼんやりした暗さに沈んでしまいそうなものでした。
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けれどももう少しで朦朧の境に沈むべき性質のものであった。
この静かではっきりしない明かりの中で、宗助は自分から一メートルちょっと離れた正面に、宜道の言う老師を見ました。
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この静かな判然しない灯火の力で、宗助は自分を去る四五尺の正面に、宜道のいわゆる老師なるものを認めた。
彼の顔はいつものように金属で作ったもののように動きませんでした。
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彼の顔は例によって鋳物のように動かなかった。
色は銅の色でした。
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色は銅であった。
彼は体全部に、渋(しぶ)のような柿のような茶色のような色の衣をまとっていました。
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彼は全身に渋に似た柿に似た茶に似た色の法衣を纏っていた。
足も手も見えませんでした。
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足も手も見えなかった。
ただ首から上が見えました。
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ただ頸から上が見えた。
その首から上が、厳しさと張りつめた気持ちのきわみに落ち着いていて、いつまでたっても変わりそうにない様子で人を引きつけました。
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その頸から上が、厳粛と緊張の極度に安んじて、いつまで経っても変る恐を有せざるごとくに人を魅した。
そして頭には一本の毛もありませんでした。
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そうして頭には一本の毛もなかった。
この人の前に力なく座った宗助が口にした言葉は、ただ一言で終わりました。
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この面前に気力なく坐った宗助の、口にした言葉はただ一句で尽きた。
「もっと、ぎろりとしたところを持って来なければ駄目だ」
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「もっと、ぎろりとしたところを持って来なければ駄目だ」
とすぐ言われました。
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とたちまち云われた。
「そのくらいのことは、少し学問をした者ならだれでも言える」
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「そのくらいな事は少し学問をしたものなら誰でも云える」
宗助は宿なしの犬のように部屋を出ました。
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宗助は喪家の犬のごとく室中を退いた。
後ろで鈴を振る音が激しく鳴りました。
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後に鈴を振る音が烈しく響いた。
二十
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二十
障子の外で、野中さん、野中さん、と呼ぶ声が二度ほど聞こえました。
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障子の外で野中さん、野中さんと呼ぶ声が二度ほど聞えた。
宗助は半分眠ったまま、はい、と答えたつもりでしたが、返事を言い終わらないうちにもう意識を失って、またぐっすり寝入ってしまいました。
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宗助は半睡の裡にはいと応えたつもりであったが、返事を仕切らない先に、早く知覚を失って、また正体なく寝入ってしまった。
二度目に目が覚めた時、彼は驚いて飛び起きました。
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二度目に眼が覚めた時、彼は驚ろいて飛び起きた。
縁側へ出ると、宜道がねずみ色の木綿の着物にたすきを掛けて、きびきびとそこら中をふいていました。
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縁側へ出ると、宜道が鼠木綿の着物に襷を掛けて、甲斐甲斐しくそこいらを拭いていた。
赤くかじかんだ手でぬれ雑巾をしぼりながら、いつものようにやさしいにこやかな顔をして、
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赤く凍んだ手で、濡雑巾を絞りながら、例のごとく柔和しいにこやかな顔をして、
「お早う」
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「御早う」
とあいさつしました。
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と挨拶した。
彼は今朝も早くに老師の所へ行って来たあと、こうして庵に帰って働いていたのです。
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彼は今朝もまたとくに参禅を済ました後、こうして庵に帰って働いていたのである。
宗助はわざわざ呼び起こされても起きられなかった自分のだらしなさを思って、本当に恥ずかしくなりました。
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宗助はわざわざ呼び起されても起き得なかった自分の怠慢を省みて、全くきまりの悪い思をした。
「今朝もつい寝すごして失礼しました」
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「今朝もつい寝忘れて失礼しました」
彼はこそこそ勝手口から井戸のそばへ出ました。
原文を見る
彼はこそこそ勝手口から井戸端の方へ出た。
そして冷たい水をくんで、できるだけ早く顔を洗いました。
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そうして冷たい水を汲んでできるだけ早く顔を洗った。
伸びかけたひげがほおのあたりで手を刺すようにざらざらしましたが、今の宗助にはそれを気にする余裕はありませんでした。
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延びかかった髯が、頬の辺で手を刺すようにざらざらしたが、今の宗助にはそれを苦にするほどの余裕はなかった。
彼はしきりに宜道と自分を比べて考えました。
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彼はしきりに宜道と自分とを対照して考えた。
紹介状をもらう時に東京で聞いたところでは、この宜道という坊さんはとても性格のいい男で、今では修行もかなり進んでいるという話でしたが、会ってみると、まるで字も知らない下働きの人のようにていねいでした。
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紹介状を貰うときに東京で聞いたところによると、この宜道という坊さんは、大変性質のいい男で、今では修業もだいぶでき上がっていると云う話だったが、会って見ると、まるで一丁字もない小廝のように丁寧であった。
こうしてたすきを掛けて働いているところを見ると、どうしても一つの庵の主人らしくは見えませんでした。
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こうして襷掛で働いているところを見ると、どうしても一個の独立した庵の主人らしくはなかった。
寺の下働きとも、小さな坊さんとも言えました。
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納所とも小坊主とも云えた。
この小柄な若い僧は、まだ僧になる前、ただの普通の人としてここへ修行に来た時、七日の間足を組んだまま少しも動かなかったのです。
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この矮小な若僧は、まだ出家をしない前、ただの俗人としてここへ修業に来た時、七日の間結跏したぎり少しも動かなかったのである。
最後には足が痛んで腰が立たなくなり、トイレへ行く時などはやっとのことで壁を伝って体を運んだのです。
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しまいには足が痛んで腰が立たなくなって、厠へ上る折などは、やっとの事壁伝いに身体を運んだのである。
その頃の彼は彫刻家でした。
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その時分の彼は彫刻家であった。
悟りを開いた日には、うれしさのあまり裏の山へ駆け上って、草も木も国土もみんな仏になる、と大きな声で叫びました。
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見性した日に、嬉しさの余り、裏の山へ馳け上って、草木国土悉皆成仏と大きな声を出して叫んだ。
そしてとうとう頭をそってしまいました。
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そうしてついに頭を剃ってしまった。
この庵を預かるようになってからもう二年になりますが、まだきちんと布団を敷いて楽に足を伸ばして寝たことはないと言いました。
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この庵を預かるようになってから、もう二年になるが、まだ本式に床を延べて、楽に足を延ばして寝た事はないと云った。
冬でも着物のまま壁にもたれて座ったまま眠るだけだと言いました。
原文を見る
冬でも着物のまま壁に倚れて坐睡するだけだと云った。
和尚さんのお付きをしていた頃などは、老師の下着まで洗わされたと言いました。
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侍者をしていた頃などは、老師の犢鼻褌まで洗わせられたと云った。
その上、少しの暇を見つけて座禅をしても、後ろから来て意地の悪いじゃまをされる、ひどいことを言われる、頭をそったばかりの頃には何のために坊主になったのかと後悔することが多かったと言いました。
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その上少しの暇を偸んで坐りでもすると、後から来て意地の悪い邪魔をされる、毒吐かれる、頭の剃り立てには何の因果で坊主になったかと悔む事が多かったと云った。
「ようやくこの頃になって少し楽になりました。しかしまだ先があります。修行は実際苦しいものです。そう簡単にできるものなら、いくら私たちが馬鹿だって、こうして十年も二十年も苦しむわけがありません」
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「ようやくこの頃になって少し楽になりました。しかしまだ先がございます。修業は実際苦しいものです。そう容易にできるものなら、いくら私共が馬鹿だって、こうして十年も二十年も苦しむ訳がございません」
宗助はただぼう然としました。
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宗助はただ惘然とした。
自分の根気と力の足りないことをくやしく思う上に、それほど年月をかけなければできないものなら、自分は何をしにこの山の中まで来たのか、それがまず第一の矛盾でした。
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自己の根気と精力の足らない事をはがゆく思う上に、それほど歳月を掛けなければ成就できないものなら、自分は何しにこの山の中までやって来たか、それからが第一の矛盾であった。
「決して損になることはありません。十分座れば十分の効き目があり、二十分座れば二十分の効き目があるのはもちろんです。その上、最初を一つきれいに突き抜けておけば、あとはこうしていつもここにいらっしゃらなくても済みますから」
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「けっして損になる気遣はございません。十分坐れば、十分の功があり、二十分坐れば二十分の徳があるのは無論です。その上最初を一つ奇麗にぶち抜いておけば、あとはこう云う風に始終ここにおいでにならないでも済みますから」
宗助は義理でもまた自分の部屋へ帰って座らなければなりませんでした。
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宗助は義理にもまた自分の室へ帰って坐らなければならなかった。
こんな時に宜道が来て、
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こんな時に宜道が来て、
「野中さん、講義です」
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「野中さん提唱です」
とさそってくれると、宗助は心からうれしい気がしました。
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と誘ってくれると、宗助は心から嬉しい気がした。
彼は、つるつるした頭をつかまえるような手のつけようのない難しい問題に悩まされて、座ったままじっと苦しむのを、いかにもつらく思いました。
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彼は禿頭を捕まえるような手の着けどころのない難題に悩まされて、坐ながらじっと煩悶するのを、いかにも切なく思った。
どんなに力を使う仕事でもいいから、もう少し体を動かしたいと思いました。
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どんなに精力を消耗する仕事でもいいから、もう少し積極的に身体を働らかしたく思った。
講義のある場所は、やはり一窓庵から百メートルほど離れていました。
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提唱のある場所は、やはり一窓庵から一町も隔っていた。
蓮の池の前を通り越して、それを左へ曲がらずにまっすぐ突き当たると、屋根がわらを重ねた高い軒が松の間に見上げられました。
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蓮池の前を通り越して、それを左へ曲らずに真直に突き当ると、屋根瓦を厳めしく重ねた高い軒が、松の間に仰がれた。
宜道はふところに黒い表紙の本を入れていました。
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宜道は懐に黒い表紙の本を入れていた。
宗助はもちろん手ぶらでした。
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宗助は無論手ぶらであった。
提唱(ていしょう)というのが学校でいう講義の意味だということさえ、ここへ来て初めて知りました。
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提唱と云うのが、学校でいう講義の意味である事さえ、ここへ来て始めて知った。
部屋は高い天井に合わせて広く、しかも寒いところでした。
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室は高い天井に比例して広くかつ寒かった。
色の変わった畳の色が古い柱と合って、昔を語るように古びていました。
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色の変った畳の色が古い柱と映り合って、昔を物語るように寂び果てていた。
そこに座っている人たちも、みんな地味に見えました。
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そこに坐っている人々も皆地味に見えた。
座る順番の決まりはなく思い思いに座っていましたが、大声で話す人、笑う人は一人もいませんでした。
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席次不同に思い思いの座を占めてはいるが、高声に語るもの、笑うものは一人もなかった。
僧はみんな紺の麻の衣を着て、正面の椅子の左右に並んで向かい合いました。
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僧は皆紺麻の法衣を着て、正面の曲彔の左右に列を作って向い合せに並んだ。
その椅子は赤く塗ってありました。
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その曲彔は朱で塗ってあった。
やがて老師が現れました。
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やがて老師が現われた。
畳を見つめていた宗助には、彼がどこを通ってどこからここへ出たのか、さっぱり分かりませんでした。
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畳を見つめていた宗助には、彼がどこを通って、どこからここへ出たかさっぱり分らなかった。
ただ、彼が落ち着き払って椅子に近づく重々しい姿を見ました。
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ただ彼の落ちつき払って曲彔に倚る重々しい姿を見た。
一人の若い僧が立ちながら紫の布を解いて、中から取り出した本をうやうやしく机の上に置くところを見ました。
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一人の若い僧が立ちながら、紫の袱紗を解いて、中から取り出した書物を、恭しく卓上に置くところを見た。
また、その僧がおじぎをして下がる様子を見ました。
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またその礼拝して退ぞく態を見た。
この時、部屋にいる僧は一斉に手を合わせて、夢窓国師(むそうこくし)の残した教えを唱え始めました。
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この時堂上の僧は一斉に合掌して、夢窓国師の遺誡を誦し始めた。
思い思いに座った宗助の前後にいる修行の人たちも、みんな同じ声で調子を合わせました。
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思い思いに席を取った宗助の前後にいる居士も皆同音に調子を合せた。
聞いていると、お経のような、普通の言葉のような、節のついた文句でした。
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聞いていると、経文のような、普通の言葉のような、一種の節を帯びた文字であった。
「私に三つの種類の弟子がいる。まわりのつながりをすべて捨てて、ひたすら自分のことを究める者、これを上等という。修行が純粋でなく、あれこれ学ぶのを好む者、これを中等という」
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「我に三等の弟子あり。いわゆる猛烈にして諸縁を放下し、専一に己事を究明するこれを上等と名づく。修業純ならず駁雑学を好む、これを中等と云う」
というような、あまり長くないものでした。
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と云々という、余り長くはないものであった。
宗助は初め、夢窓国師が何者なのかを知りませんでした。
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宗助は始め夢窓国師の何人なるかを知らなかった。
宜道から、この夢窓国師と大燈国師(だいとうこくし)とは禅を立て直した祖であることを教わったのです。
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宜道からこの夢窓国師と大燈国師とは、禅門中興の祖であると云う事を教わったのである。
普段、足が不自由できちんと足を組めないのをくやしく思って、死ぬ間際に、今日こそ自分の思いどおりにしてみせると言いながら、悪い方の足を無理に折り曲げて組んだので、血が流れて衣ににじんだという大燈国師の話も、その時に宜道から聞きました。
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平生跛で充分に足を組む事ができないのを憤って、死ぬ間際に、今日こそおれの意のごとくにして見せると云いながら、悪い方の足を無理に折っぺしょって、結跏したため、血が流れて法衣を煮染ましたという大燈国師の話もその折宜道から聞いた。
やがて講義が始まりました。
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やがて提唱が始まった。
宜道はふところからあの本を出して、ページを半分開いて宗助の前へ置きました。
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宜道は懐から例の書物を出して、頁を半ば擦らして宗助の前へ置いた。
それは宗門無尽燈論(しゅうもんむじんとうろん)という本でした。
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それは宗門無尽燈論と云う書物であった。
初めて聞きに出た時、宜道は、
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始めて聞きに出た時、宜道は、
「ありがたい立派な本です」
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「ありがたい結構な本です」
と宗助に教えてくれました。
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と宗助に教えてくれた。
白隠(はくいん)和尚の弟子の東嶺(とうれい)和尚とかいう人が作ったもので、主に禅を修行する人が浅い所から深い所へ進んで行く道すじや、それにつれての心の変化を順番に書いたものらしいのでした。
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白隠和尚の弟子の東嶺和尚とかいう人の編輯したもので、重に禅を修行するものが、浅い所から深い所へ進んで行く径路やら、それに伴なう心境の変化やらを秩序立てて書いたものらしかった。
途中から聞き始めた宗助にはよく分かりませんでしたが、話す人は話し上手で、黙って聞いているうちにとても面白いところがありました。
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中途から顔を出した宗助には、よくも解せなかったけれども、講者は能弁の方で、黙って聞いているうちに、大変面白いところがあった。
その上、修行する人たちをはげますためか、昔からこの道で苦しんだ人の話などを混ぜて、話に彩りを添えるのがいつものことでした。
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その上参禅の士を鼓舞するためか、古来からこの道に苦しんだ人の閲歴譚などを取り交ぜて、一段の精彩を着けるのが例であった。
この日もそうでしたが、ある所へ来ると突然話し方を変えて、
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この日もその通りであったが、或所へ来ると、突然語調を改めて、
「この頃、部屋に来て、どうも余計な考えが浮かんでいけないなどと訴える者があるが」
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「この頃室中に来って、どうも妄想が起っていけないなどと訴えるものがあるが」
と、急に部屋へ入る人たちの熱心さの足りなさを注意し始めたので、宗助は思わずぎくりとしました。
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と急に入室者の不熱心を戒しめ出したので、宗助は覚えずぎくりとした。
部屋に入ってその訴えをしたのは、まさに彼自身でした。
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室中に入って、その訴をなしたものは実に彼自身であった。
一時間のあと、宜道と宗助は連れ立ってまた一窓庵へ帰りました。
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一時間の後宜道と宗助は袖をつらねてまた一窓庵に帰った。
その帰り道で宜道は、
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その帰り路に宜道は、
「ああして講義のある時に、よく修行する人の心がけの間違いを遠回しに注意されます」
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「ああして提唱のある時に、よく参禅者の不心得を諷せられます」
と言いました。
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と云った。
宗助は何も答えませんでした。
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宗助は何も答えなかった。
二十一
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二十一
そのうち、山の中の日は一日一日と過ぎました。
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そのうち、山の中の日は、一日一日と経った。
御米からは、かなり長い手紙がもう二通来ました。
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御米からはかなり長い手紙がもう二本来た。
もっとも二通とも、新しく宗助の心を乱すような心配事は書いてありませんでした。
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もっとも二本とも新たに宗助の心を乱すような心配事は書いてなかった。
宗助は普段の奥さん思いに似ず、とうとう返事を出さずにいました。
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宗助は常の細君思いに似ずついに返事を出すのを怠った。
彼は山を出る前に何とかこの間の問題に決着をつけなければ、せっかく来た甲斐がないような、また宜道に申し訳ないような気がしていました。
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彼は山を出る前に、何とかこの間の問題に片をつけなければ、せっかく来た甲斐がないような、また宜道に対してすまないような気がしていた。
目が覚めている時は、このために言葉にできない重さをずっと受け続けていました。
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眼が覚めている時は、これがために名状しがたい一種の圧迫を受けつづけに受けた。
ですから日が暮れて夜が明け、寺で見る太陽の数が重なるにつれて、まるで後ろから追いかけられるように気があせりました。
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したがって日が暮れて夜が明けて、寺で見る太陽の数が重なるにつけて、あたかも後から追いかけられでもするごとく気を焦った。
けれども彼は、最初の答えのほかに一歩もこの問題に近づく方法を知りませんでした。
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けれども彼は最初の解決よりほかに、一歩もこの問題にちかづく術を知らなかった。
彼はまた、いくら考えてもこの最初の答えは確かなものだと信じていました。
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彼はまたいくら考えてもこの最初の解決は確なものであると信じていた。
ただ理屈から出したものなので、腹の足しにはまるでなりませんでした。
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ただ理窟から割り出したのだから、腹の足にはいっこうならなかった。
彼はこの確かなものを放り出して、さらにもっと確かなものを求めようとしました。
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彼はこの確なものを放り出して、さらにまた確なものを求めようとした。
けれども、そんなものは少しも出て来ませんでした。
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けれどもそんなものは少しも出て来なかった。
彼は自分の部屋で一人考えました。
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彼は自分の室で独り考えた。
疲れると、台所から下りて裏の畑へ出ました。
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疲れると、台所から下りて、裏の菜園へ出た。
そして崖の下に掘った横穴の中へ入って、じっと動かずにいました。
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そうして崖の下に掘った横穴の中へ這入って、じっと動かずにいた。
宜道は、気が散るようでは駄目だと言いました。
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宜道は気が散るようでは駄目だと云った。
だんだん一つに集まって固まって、しまいに鉄の棒のようにならなくては駄目だと言いました。
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だんだん集注して凝り固まって、しまいに鉄の棒のようにならなくては駄目だと云った。
そういうことを聞けば聞くほど、実際にそうなるのが難しくなりました。
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そう云う事を聞けば聞くほど、実際にそうなるのが、困難になった。
「もう頭の中にそうしようという下心があるからいけないのです」
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「すでに頭の中に、そうしようと云う下心があるからいけないのです」
と宜道がまた言って聞かせました。
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と宜道がまた云って聞かした。
宗助はいよいよ行きづまりました。
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宗助はいよいよ窮した。
突然、安井のことを考え出しました。
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忽然安井の事を考え出した。
安井がもし坂井の家へよく出入りするようになって、しばらく満州へ帰らないとすれば、今のうちにあの借家を出てどこかへ引っ越すのが一番いいだろう。
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安井がもし坂井の家へ頻繁に出入でもするようになって、当分満洲へ帰らないとすれば、今のうちあの借家を引き上げて、どこかへ転宅するのが上分別だろう。
こんな所でぐずぐずしているより、早く東京へ帰ってその始末をつけた方が、まだ役に立つかもしれない。
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こんな所にぐずぐずしているより、早く東京へ帰ってその方の所置をつけた方がまだ実際的かも知れない。
のんびりしていて御米にでも知れたら、また心配が増えるだけだと思いました。
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緩くり構えて、御米にでも知れるとまた心配が殖えるだけだと思った。
「私のような者には、とても悟りは開けそうにありません」
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「私のようなものにはとうてい悟は開かれそうに有りません」
と思いつめたように宜道をつかまえて言いました。
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と思いつめたように宜道を捕まえて云った。
それは帰る二、三日前のことでした。
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それは帰る二三日前の事であった。
「いえ、信じる心さえあればだれでも悟れます」
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「いえ信念さえあれば誰でも悟れます」
と宜道はためらわずに答えました。
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と宜道は躊躇もなく答えた。
「一つのことに凝り固まった人が夢中で太鼓をたたくようにやってごらんなさい。頭のてっぺんから足の爪先までが全部その問いでいっぱいになった時、突然新しい世界が現れるのでございます」
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「法華の凝り固まりが夢中に太鼓を叩くようにやって御覧なさい。頭の巓辺から足の爪先までがことごとく公案で充実したとき、俄然として新天地が現前するのでございます」
宗助は、自分の立場や性格が、それほど何も見ずに激しく打ちこむのに向いていないことを深く悲しみました。
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宗助は自分の境遇やら性質が、それほど盲目的に猛烈な働をあえてするに適しない事を深く悲しんだ。
その上、自分がこの山で過ごせる日はもう残り少なくなっていました。
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いわんや自分のこの山で暮らすべき日はすでに限られていた。
彼はまっすぐに暮らしのもつれを切り開くつもりで、かえって考えなしに山の中へ迷いこんだ愚か者でした。
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彼は直截に生活の葛藤を切り払うつもりで、かえって迂濶に山の中へ迷い込んだ愚物であった。
彼は心の中でこう考えながら、宜道の前でそれだけのことを言い切る力がありませんでした。
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彼は腹の中でこう考えながら、宜道の面前で、それだけの事を言い切る力がなかった。
彼は心から、この若い禅の僧の勇気と熱心さとまじめさと親切とを尊敬していたのです。
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彼は心からこの若い禅僧の勇気と熱心と真面目と親切とに敬意を表していたのである。
「道は近くにあるのに、かえってこれを遠くに求める、という言葉がありますが、本当です。つい鼻の先にあるのですけれども、どうしても気がつきません」
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「道は近きにあり、かえってこれを遠きに求むという言葉があるが実際です。つい鼻の先にあるのですけれども、どうしても気がつきません」
と宜道はいかにも残念そうでした。
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と宜道はさも残念そうであった。
宗助はまた自分の部屋に下がって線香を立てました。
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宗助はまた自分の室に退いて線香を立てた。
こういう状態は、残念ながら宗助が山を去らなければならない日まで、目立つほどの新しい変化もなく続きました。
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こう云う状態は、不幸にして宗助の山を去らなければならない日まで、目に立つほどの新生面を開く機会なく続いた。
いよいよ出発の朝になって、宗助はきっぱりと未練を捨てました。
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いよいよ出立の朝になって宗助は潔よく未練を抛げ棄てた。
「長々お世話になりました。残念ですが、どうもしかたがありません。もうしばらくお目にかかることもないでしょうから、どうかお元気で」
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「永々御世話になりました。残念ですが、どうも仕方がありません。もう当分御眼にかかる折もございますまいから、随分御機嫌よう」
と宜道にあいさつをしました。
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と宜道に挨拶をした。
宜道は気の毒そうでした。
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宜道は気の毒そうであった。
「お世話どころか、何もかも行き届かず、さぞ窮屈でございましたでしょう。しかしこれだけお座りになっても、だいぶ違います。わざわざおいでになっただけのことは十分ございます」
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「御世話どころか、万事不行届でさぞ御窮屈でございましたろう。しかしこれほど御坐りになってもだいぶ違います。わざわざおいでになっただけの事は充分ございます」
と言いました。
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と云った。
しかし宗助には、ただ時間をつぶしに来たという気持ちがはっきりありました。
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しかし宗助にはまるで時間を潰しに来たような自覚が明らかにあった。
それをこう言いつくろってもらうのも自分の情けなさのせいだと、一人で恥ずかしくなりました。
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それをこう取り繕ろって云って貰うのも、自分の腑甲斐なさからであると、独り恥じ入った。
「悟りが早いか遅いかはまったくその人の性質で、それだけでは上下にはなりません。入りやすくてもあとでつかえて動かない人もいますし、また初めは長くかかっても、いよいよという時にとても見事にできる人もあります。決してがっかりなさることはありません。ただ熱心が大切です。亡くなられた洪川(こうせん)和尚などは、もと儒教(じゅきょう)をやられて中年からの修行でしたが、僧になってから三年の間、問いを一つも通れませんでした。それで、自分は罪が深くて悟れないのだと言って、毎朝トイレに向かっておじぎをされたくらいでしたが、後にはあれほどの人になられました。これなどは一番いい例です」
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「悟の遅速は全く人の性質で、それだけでは優劣にはなりません。入りやすくても後で塞えて動かない人もありますし、また初め長く掛かっても、いよいよと云う場合に非常に痛快にできるのもあります。けっして失望なさる事はございません。ただ熱心が大切です。亡くなられた洪川和尚などは、もと儒教をやられて、中年からの修業でございましたが、僧になってから三年の間と云うものまるで一則も通らなかったです。それで私は業が深くて悟れないのだと云って、毎朝厠に向って礼拝されたくらいでありましたが、後にはあのような知識になられました。これなどはもっとも好い例です」
宜道はこんな話をして、それとなく宗助が東京へ帰ってからもこの道をあきらめないように、遠回しに注意を与えているように見えました。
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宜道はこんな話をして、暗に宗助が東京へ帰ってからも、全くこの方を断念しないようにあらかじめ間接の注意を与えるように見えた。
宗助は謹んで、宜道の言うことに耳を傾けました。
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宗助は謹んで、宜道のいう事に耳を借した。
けれども心の中では、大事なことがもう半分過ぎ去ったように感じていました。
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けれども腹の中では大事がもうすでに半分去ったごとくに感じた。
自分は門を開けてもらいに来た。
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自分は門を開けて貰いに来た。
けれども門番は扉の向こう側にいて、たたいてもとうとう顔さえ出してくれなかった。
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けれども門番は扉の向側にいて、敲いてもついに顔さえ出してくれなかった。
ただ、
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ただ、
「たたいても駄目だ。自分で開けて入れ」
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「敲いても駄目だ。独りで開けて入れ」
という声が聞こえただけだった。
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と云う声が聞えただけであった。
彼は、どうすればこの門のかんぬきを開けられるかを考えました。
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彼はどうしたらこの門の閂を開ける事ができるかを考えた。
そして、その手立てと方法をはっきり頭の中で作りました。
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そうしてその手段と方法を明らかに頭の中で拵えた。
けれども、それを実際に開ける力は少しも身につきませんでした。
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けれどもそれを実地に開ける力は、少しも養成する事ができなかった。
ですから自分の立っている場所は、この問題を考えなかった昔と少しも変わりませんでした。
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したがって自分の立っている場所は、この問題を考えない昔と毫も異なるところがなかった。
彼は相変わらず力のないまま、閉ざされた扉の前に取り残されました。
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彼は依然として無能無力に鎖ざされた扉の前に取り残された。
彼は普段、自分の考える力を頼りに生きて来ました。
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彼は平生自分の分別を便に生きて来た。
その考える力が今は自分にたたっていることを、くやしく思いました。
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その分別が今は彼に祟ったのを口惜く思った。
そして、初めから選んだり迷ったりしない、愚かな人のひたむきさをうらやみました。
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そうして始から取捨も商量も容れない愚なものの一徹一図を羨んだ。
あるいは、信じる心の厚い人たちの、知恵も忘れ迷いも浮かばない一心なありさまを、尊いものとして見上げました。
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もしくは信念に篤い善男善女の、知慧も忘れ思議も浮ばぬ精進の程度を崇高と仰いだ。
彼自身は、長く門の外に立ち続ける運命を持って生まれて来た者らしかったのです。
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彼自身は長く門外に佇立むべき運命をもって生れて来たものらしかった。
それはしかたのないことでした。
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それは是非もなかった。
けれども、どうせ通れない門なら、わざわざそこまでたどり着くのが矛盾でした。
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けれども、どうせ通れない門なら、わざわざそこまで辿りつくのが矛盾であった。
彼は後ろを振り返りました。
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彼は後を顧みた。
そして、とても元の道へ引き返す勇気はありませんでした。
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そうしてとうていまた元の路へ引き返す勇気を有たなかった。
彼は前を見ました。
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彼は前を眺めた。
前にはかたい扉がいつまでも見通しをふさいでいました。
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前には堅固な扉がいつまでも展望を遮ぎっていた。
彼は門を通る人ではありませんでした。
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彼は門を通る人ではなかった。
また門を通らないで済む人でもありませんでした。
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また門を通らないで済む人でもなかった。
つまり彼は、門の下に立ちすくんで日が暮れるのを待つしかない、不幸な人でした。
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要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。
宗助は出発する前に、宜道と連れ立って老師の所へちょっとお別れのあいさつに行きました。
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宗助は立つ前に、宜道と連れだって、老師の許へちょっと暇乞に行った。
老師は二人を、蓮の池の上の、手すりのついた座敷に通しました。
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老師は二人を蓮池の上の、縁に勾欄の着いた座敷に通した。
宜道は自分で隣の部屋に立って、お茶を入れて出しました。
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宜道は自ら次の間に立って、茶を入れて出た。
「東京はまだ寒いでしょう」
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「東京はまだ寒いでしょう」
と老師が言いました。
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と老師が云った。
「少しでも手がかりができてからだと、帰ったあとも楽なのだが。惜しいことで」
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「少しでも手がかりができてからだと、帰ったあとも楽だけれども。惜しい事で」
宗助は老師のこの言葉にていねいにお礼を言って、また十日前にくぐった山門を出ました。
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宗助は老師のこの挨拶に対して、丁寧に礼を述べて、また十日前に潜った山門を出た。
かわらの屋根を押さえつけるような杉の色が、冬を閉じこめて黒く彼の後ろにそびえていました。
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甍を圧する杉の色が、冬を封じて黒く彼の後に聳えた。
二十二
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二十二
家の敷居をまたいだ宗助は、自分でも情けなく思う姿を心に思いうかべました。
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家の敷居を跨いだ宗助は、己れにさえ憫然な姿を描いた。
彼はこの十日間、毎朝頭を冷たい水でぬらしただけで、一度もくしを通したことがありませんでした。
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彼は過去十日間毎朝頭を冷水で濡らしたなり、いまだかつて櫛の歯を通した事がなかった。
ひげはもちろんそる暇がありませんでした。
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髭は固より剃る暇を有たなかった。
三度とも宜道の親切で白いご飯を食べるには食べましたが、おかずといえば菜を煮たものか大根を煮たものくらいでした。
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三度とも宜道の好意で白米の炊いだのを食べたには食べたが、副食物と云っては、菜の煮たのか、大根の煮たのぐらいなものであった。
彼の顔は自然と青くなっていました。
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彼の顔は自から蒼かった。
出かける前より少しやせていました。
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出る前よりも多少面窶れていた。
その上、彼は一窓庵で考え続けた癖が、まだまるで抜けていませんでした。
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その上彼は一窓庵で考えつづけに考えた習慣がまだ全く抜け切らなかった。
どこかに卵を抱くめんどりのような気持ちが残って、頭が普段のように自由に働きませんでした。
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どこかに卵を抱く牝鶏のような心持が残って、頭が平生の通り自由に働らかなかった。
それなのに一方では、坂井のことが気になりました。
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その癖一方では坂井の事が気にかかった。
坂井というより、坂井が「冒険者」と呼んだその弟と、その弟の友達として彼の胸を騒がせた安井のことが気になりました。
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坂井と云うよりも、坂井のいわゆる冒険者として宗助の耳に響いたその弟と、その弟の友達として彼の胸を騒がした安井の消息が気にかかった。
けれども彼は、自分から家主の家へ行ってそれを聞く勇気がありませんでした。
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けれども彼は自身に家主の宅へ出向いて、それを聞き糺す勇気を有たなかった。
遠回しにそれを御米に聞くことは、もっとできませんでした。
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間接にそれを御米に問うことはなおできなかった。
彼は山にいる間さえ、御米がこのことについて何も聞かなければいいがと心配しない日はなかったくらいです。
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彼は山にいる間さえ、御米がこの事件について何事も耳にしてくれなければいいがと気遣わない日はなかったくらいである。
宗助は長年住み慣れた家の座敷に座って、
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宗助は年来住み慣れた家の座敷に坐って、
「汽車に乗ると短い道のりでも気のせいか疲れるね。留守の間に変わったことはなかったかい」
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「汽車に乗ると短かい道中でも気のせいか疲れるね。留守中に別段変った事はなかったかい」
と聞きました。
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と聞いた。
実際、彼は短い汽車の旅にさえ耐えられないような顔つきをしていました。
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実際彼は短かい汽車旅行にさえ堪えかねる顔つきをしていた。
御米はどんな時でも夫の前で忘れなかった笑顔さえ作れませんでした。
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御米はいかな場合にも夫の前に忘れなかった笑顔さえ作り得なかった。
かといって、せっかく体を休めに行った先から今帰って来たばかりの夫に、行く前よりかえって健康が悪くなったようだとは、気の毒ではっきり言いにくいことでした。
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と云って、せっかく保養に行った転地先から今帰って来たばかりの夫に、行かない前よりかえって健康が悪くなったらしいとは、気の毒で露骨に話し悪かった。
わざと明るく、
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わざと活溌に、
「いくら休みに行っても、家へ帰ると少しは疲れが出るものよ。けれどもあなたはあまりに汚らしいわ。お願いだから、ひと休みしたらお風呂に行って、頭を刈ってひげをそって来てちょうだい」
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「いくら保養でも、家へ帰ると、少しは気疲が出るものよ。けれどもあなたは余まり爺々汚いわ。後生だから一休したら御湯に行って頭を刈って髭を剃って来てちょうだい」
と言いながら、わざわざ机の引き出しから小さな鏡を出して見せました。
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と云いながら、わざわざ机の引出から小さな鏡を出して見せた。
宗助は御米の言葉を聞いて、初めて一窓庵の空気を風で払ったような気持ちになりました。
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宗助は御米の言葉を聞いて、始めて一窓庵の空気を風で払ったような心持がした。
いったん山を出て家へ帰れば、やはり元の宗助でした。
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一たび山を出て家へ帰ればやはり元の宗助であった。
「坂井さんからは、その後何とも言って来ないかい」
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「坂井さんからはその後何とも云って来ないかい」
「いいえ、何とも」
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「いいえ何とも」
「小六のことも」
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「小六の事も」
「いいえ」
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「いいえ」
その小六は図書館へ行って留守でした。
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その小六は図書館へ行って留守だった。
宗助は手ぬぐいとせっけんを持って外へ出ました。
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宗助は手拭と石鹸を持って外へ出た。
次の日、役所へ出ると、みんなから病気はどうだと聞かれました。
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明る日役所へ出ると、みんなから病気はどうだと聞かれた。
中には、少しやせたようですね、と言う人もありました。
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中には少し瘠せたようですねと云うものもあった。
宗助には、それが知らずにからかわれているように聞こえました。
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宗助にはそれが無意識の冷評の意味に聞えた。
菜根譚を読む男は、ただ、どうです、うまく行きましたか、と聞きました。
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菜根譚を読む男はただどうです旨く行きましたかと尋ねた。
宗助はこの問いにもかなり痛い思いをしました。
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宗助はこの問にもだいぶ痛い思をした。
その晩はまた、御米と小六からかわるがわる鎌倉のことを細かく聞かれました。
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その晩はまた御米と小六から代る代る鎌倉の事を根掘り葉掘り問われた。
「気楽でしょうね。留守番も何も置かずに出かけられたら」
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「気楽でしょうね。留守居も何もおかないで出られたら」
と御米が言いました。
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と御米が云った。
「それで、一日いくら出すと置いてくれるんです」
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「それで一日いくら出すと置いてくれるんです」
と小六が聞きました。
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と小六が聞いた。
「鉄砲でもかついで行って狩りでもしたら面白いだろう」
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「鉄砲でも担いで行って、猟でもしたら面白かろう」
とも言いました。
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とも云った。
「しかし退屈ね。そんなに寂しくては。朝から晩まで寝ているわけにも行かないでしょう」
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「しかし退屈ね。そんなに淋しくっちゃ。朝から晩まで寝ていらっしゃる訳にも行かないでしょう」
と御米がまた言いました。
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と御米がまた云った。
「もう少し栄養のあるものが食べられる所でなくては、やっぱり体によくないでしょう」
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「もう少し滋養物が食える所でなくっちゃあ、やっぱり身体によくないでしょう」
と小六がまた言いました。
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と小六がまた云った。
宗助はその夜、布団に入って、明日こそ思い切って坂井の家へ行き、安井のことをそれとなく聞いて、もし彼がまだ東京にいて、なお何度も坂井と行き来があるようなら、遠くへ引っ越してしまおうと考えました。
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宗助はその夜床の中へ入って、明日こそ思い切って、坂井へ行って安井の消息をそれとなく聞き糺して、もし彼がまだ東京にいて、なおしばしば坂井と往復があるようなら、遠くの方へ引越してしまおうと考えた。
次の日はいつもどおり宗助の頭を照らして、何事もない光を西に落としました。
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次の日は平凡に宗助の頭を照らして、事なき光を西に落した。
夜になって、彼は、
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夜に入って彼は、
「ちょっと坂井さんまで行って来る」
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「ちょっと坂井さんまで行って来る」
と言い置いて門を出ました。
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と云い捨てて門を出た。
月のない坂を上って、ガス灯に照らされた砂利を鳴らしながらくぐり戸を開けた時、彼は、今夜ここで安井に出会うようなことはまず起こらないだろうと腹を決めました。
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月のない坂を上って、瓦斯灯に照らされた砂利を鳴らしながら潜戸を開けた時、彼は今夜ここで安井に落ち合うような万一はまず起らないだろうと度胸を据えた。
それでもわざと勝手口へ回って、お客ですか、と聞くことは忘れませんでした。
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それでもわざと勝手口へ回って、御客来ですかと聞くことは忘れなかった。
「よくおいでです。どうも相変わらず寒いじゃありませんか」
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「よくおいでです。どうも相変らず寒いじゃありませんか」
と言う、いつものように元気のいい主人を見ると、子どもを大勢自分の前に並べて、その中の一人とかけ声をかけながらじゃんけんをしていました。
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と云う常の通り元気の好い主人を見ると、子供を大勢自分の前へ並べて、その中の一人と掛声をかけながら、じゃん拳をやっていた。
相手の女の子は六歳くらいに見えました。
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相手の女の子の年は、六つばかりに見えた。
赤い幅の広いリボンをちょうちょうのように頭の上につけて、主人に負けないくらいの勢いで小さな手をかたくにぎって、さっと前に出しました。
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赤い幅のあるリボンを蝶々のように頭の上にくっつけて、主人に負けないほどの勢で、小さな手を握り固めてさっと前へ出した。
その思い切った様子とにぎりこぶしの小ささ、それに対する主人の大げさに大きなこぶしとが並んで、みんなの笑いをさそいました。
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その断然たる様子と、その握り拳の小ささと、これに反して主人の仰山らしく大きな拳骨が、対照になって皆の笑を惹いた。
火鉢のそばで見ていた奥さんは、
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火鉢の傍に見ていた細君は、
「そら、今度こそ雪子の勝ちだ」
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「そら今度こそ雪子の勝だ」
と言って、楽しそうにきれいな歯を見せました。
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と云って愉快そうに綺麗な歯を露わした。
子どものひざのそばには、白や赤や青のガラス玉がたくさんありました。
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子供の膝の傍には白だの赤だの藍だのの硝子玉がたくさんあった。
主人は、
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主人は、
「とうとう雪子に負けた」
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「とうとう雪子に負けた」
と言って席を立ち、宗助の方を向いて、「どうです、また洞窟へでも引っこみますかな」
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と席を外して、宗助の方を向いたが、「どうですまた洞窟へでも引き込みますかな」
と言って立ち上がりました。
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と云って立ち上がった。
書斎の柱には、いつものように錦の袋に入れたモンゴルの刀がぶら下がっていました。
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書斎の柱には、例のごとく錦の袋に入れた蒙古刀が振ら下がっていた。
花生けには、どこで咲いたのか、もう黄色い菜の花がさしてありました。
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花活にはどこで咲いたか、もう黄色い菜の花が挿してあった。
宗助は床の間の柱の真ん中を華やかに飾る袋に目をつけて、
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宗助は床柱の中途を華やかに彩どる袋に眼を着けて、
「相変わらず掛かっておりますな」
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「相変らず掛かっておりますな」
と言いました。
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と云った。
そして主人の顔色を心の奥からうかがいました。
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そうして主人の気色を頭の奥から窺った。
主人は、
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主人は、
「ええ、少し物好きが過ぎますね、モンゴルの刀は」
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「ええちと物数奇過ぎますね、蒙古刀は」
と答えました。
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と答えた。
「ところが弟の奴、そんなおもちゃを持って来ては兄をうまく丸めこむつもりだから、困りものじゃありませんか」
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「ところが弟の野郎そんな玩具を持って来ては、兄貴を籠絡するつもりだから困りものじゃありませんか」
「弟さんは、その後どうなさいました」
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「御舎弟はその後どうなさいました」
と宗助は何でもないふりをしました。
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と宗助は何気ない風を示した。
「ええ、ようやく四、五日前に帰りました。あれはまったくモンゴル向きですね。お前のような野蛮な男は東京には合わないから早く帰れ、と言ったら、私もそう思う、と言って帰って行きました。どうしてもあれは万里の長城の向こう側にいるべき人物ですよ。そしてゴビの砂漠の中でダイヤモンドでも探していればいいんです」
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「ええようやく四五日前帰りました。ありゃ全く蒙古向ですね。御前のような夷狄は東京にゃ調和しないから早く帰れったら、私もそう思うって帰って行きました。どうしても、ありゃ万里の長城の向側にいるべき人物ですよ。そうしてゴビの沙漠の中で金剛石でも捜していればいいんです」
「もう一人のお連れは」
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「もう一人の御伴侶は」
「安井ですか、あれももちろんいっしょです。ああなると落ち着いてはいられないと見えますね。何でも、もとは京都の大学にいたこともあるんだとかいう話ですが。どうしてああ変わったものですかね」
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「安井ですか、あれも無論いっしょです。ああなると落ちついちゃいられないと見えますね。何でも元は京都大学にいたこともあるんだとか云う話ですが。どうして、ああ変化したものですかね」
宗助はわきの下から汗が出ました。
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宗助は腋の下から汗が出た。
安井がどう変わって、どう落ち着かないのか、まるで聞く気にはなれませんでした。
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安井がどう変って、どう落ちつかないのか、全く聞く気にはならなかった。
ただ、自分が主人に、安井と同じ大学にいたことをまだ話していなかったのを、天の助けのようにありがたく思いました。
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ただ自分が主人に安井と同じ大学にいた事を、まだ洩らさなかったのを天祐のようにありがたく思った。
けれども主人は、その弟と安井とを晩ご飯に呼ぶ時、自分をこの二人に紹介しようと言ってくれた人です。
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けれども主人はその弟と安井とを晩餐に呼ぶとき、自分をこの二人に紹介しようと申し出た男である。
断ってその席に出る恥ずかしさだけはやっと避けられたものの、その晩、主人が何かのはずみでつい自分の名前を二人に言わないとは限りませんでした。
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辞退をしてその席へ顔を出す不面目だけはやっと免かれたようなものの、その晩主人が何かの機会につい自分の名を二人に洩らさないとは限らなかった。
宗助は、後ろ暗いことのある人が本名を隠して世を渡る便利さを、しみじみと感じました。
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宗助は後暗い人の、変名を用いて世を渡る便利を切に感じた。
彼は主人に向かって、「あなたはもしかして私の名前を安井の前で言いませんでしたか」
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彼は主人に向って、「あなたはもしや私の名を安井の前で口にしやしませんか」
と聞いてみたくてたまりませんでした。
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と聞いて見たくて堪らなかった。
けれども、それだけはどうしても聞けませんでした。
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けれども、それだけはどうしても聞けなかった。
お手伝いの人が平たい大きなお菓子の皿に、変わったお菓子を盛って出しました。
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下女が平たい大きな菓子皿に妙な菓子を盛って出た。
豆腐一丁ほどの大きさの寒天のお菓子の中に、金魚が二匹透けて見えるのを、そのまま包丁で切って、元の形をくずさずに皿に移したものでした。
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一丁の豆腐ぐらいな大きさの金玉糖の中に、金魚が二疋透いて見えるのを、そのまま庖丁の刃を入れて、元の形を崩さずに、皿に移したものであった。
宗助はひと目見て、ただめずらしいと思いました。
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宗助は一目見て、ただ珍らしいと感じた。
けれども彼の頭は、むしろ別のことに気を取られていました。
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けれども彼の頭はむしろ他の方面に気を奪われていた。
すると主人が、
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すると主人が、
「どうです、一つ」
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「どうです一つ」
と、いつものようにまず自分から手を出しました。
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と例の通りまず自分から手を出した。
「これはね、昨日ある人の銀婚式(ぎんこんしき。結婚して二十五年のお祝い)に呼ばれてもらって来たのだから、とてもおめでたいのです。あなたも一切れくらい、あやかってもいいでしょう」
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「これはね、昨日ある人の銀婚式に呼ばれて、貰って来たのだから、すこぶるおめでたいのです。あなたも一切ぐらい肖ってもいいでしょう」
主人はあやかりたいという名目で、甘ったるい寒天のお菓子を何切れも口に入れました。
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主人は肖りたい名の下に、甘垂るい金玉糖を幾切か頬張った。
この人はお酒も飲み、お茶も飲み、ご飯もお菓子も食べられるようにできた、便利で健康な男でした。
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これは酒も呑み、茶も呑み、飯も菓子も食えるようにできた、重宝で健康な男であった。
「なに、実を言うと、二十年も三十年も夫婦がしわだらけになって生きていたって特におめでたくもありませんが、そこは物の比べようでしてね。私はいつか清水谷(しみずだに)の公園の前を通って驚いたことがある」
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「何実を云うと、二十年も三十年も夫婦が皺だらけになって生きていたって、別におめでたくもありませんが、そこが物は比較的なところでね。私はいつか清水谷の公園の前を通って驚ろいた事がある」
と、変な方へ話を持って行きました。
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と変な方面へ話を持って行った。
こんなふうに、次から次へとお客をあきさせないように話を引っぱって行くのが、人付き合いに慣れた主人のいつもの調子でした。
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こういう風に、それからそれへと客を飽かせないように引張って行くのが、社交になれた主人の平生の調子であった。
彼の言うところによると、清水谷から弁慶橋(べんけいばし)へ通じる、どぶのような細い流れの中に、春の初めになると数えきれないほどのかえるが生まれるのだそうです。
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彼の云うところによると、清水谷から弁慶橋へ通じる泥溝のような細い流の中に、春先になると無数の蛙が生れるのだそうである。
そのかえるが押し合い鳴き合って育つうちに、何百組も何千組もの恋がどぶの中で生まれます。
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その蛙が押し合い鳴き合って生長するうちに、幾百組か幾千組の恋が泥渠の中で成立する。
そして、その愛し合うものたちが重ならないばかりにすき間なく清水谷から弁慶橋まで続いて、仲よく浮いていると、通りがかりの小僧さんや暇な人が石を投げつけて、むごくもかえるの夫婦を殺して行くので、その数はほとんど数え切れないほど多くなるのだそうです。
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そうしてそれらの愛に生きるものが重ならないばかりに隙間なく清水谷から弁慶橋へ続いて、互に睦まじく浮いていると、通り掛りの小僧だの閑人が、石を打ちつけて、無残にも蛙の夫婦を殺して行くものだから、その数がほとんど勘定し切れないほど多くなるのだそうである。
「死んだものが積み重なるとはあのことですね。それがみんな夫婦なんだから、実際気の毒ですよ。つまりあそこを二、三百メートル通るうちに、我々は悲しい出来事にいくつ出会うか分からないんです。それを考えると、お互いは実に幸せでさあ。夫婦になっているのが憎らしいといって石で頭を割られる心配は、まあないですからね。しかも二人とも二十年も三十年も無事なら、まったくおめでたいにちがいありませんよ。だから一切れくらいあやかっておく必要もあるでしょう」
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「死屍累々とはあの事ですね。それが皆夫婦なんだから実際気の毒ですよ。つまりあすこを二三丁通るうちに、我々は悲劇にいくつ出逢うか分らないんです。それを考えると御互は実に幸福でさあ。夫婦になってるのが悪らしいって、石で頭を破られる恐れは、まあ無いですからね。しかも双方ともに二十年も三十年も安全なら、全くおめでたいに違ありませんよ。だから一切ぐらい肖っておく必要もあるでしょう」
と言って、主人はわざとはしで寒天のお菓子をはさんで宗助の前に出しました。
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と云って、主人はわざと箸で金玉糖を挟んで、宗助の前に出した。
宗助は苦笑いしながらそれを受け取りました。
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宗助は苦笑しながら、それを受けた。
こんな冗談混じりの話を主人はいくらでも続けるので、宗助はしかたなくある程度までは合わせて行きました。
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こんな冗談交りの話を、主人はいくらでも続けるので、宗助はやむを得ず或る辺までは釣られて行った。
けれども心の中は、決して主人のようにのんきではありませんでした。
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けれども腹の中はけっして主人のように太平楽には行かなかった。
あいさつをして外へ出て、また月のない空を眺めた時は、その深く黒い色の下に、何とも言えない悲しさと恐ろしさを感じました。
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辞して表へ出て、また月のない空を眺めた時は、その深く黒い色の下に、何とも知れない一種の悲哀と物凄さを感じた。
彼は坂井の家へ、ただ何とか災いをのがれようという気持ちで行きました。
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彼は坂井の家に、ただいやしくも免かれんとする料簡で行った。
そしてその目的のために、恥ずかしさといやな気持ちを我慢して、好意にあふれた正直な主人に対して、かけひきで話を進めました。
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そうして、その目的を達するために、恥と不愉快を忍んで、好意と真率の気に充ちた主人に対して、政略的に談話を駆った。
しかも知りたいと思ったことは、結局何も知ることができませんでした。
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しかも知ろうと思う事はことごとく知る事ができなかった。
自分の弱いところについては、一言も彼の前で打ち明ける勇気も必要も感じませんでした。
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己れの弱点に付いては、一言も彼の前に自白するの勇気も必要も認めなかった。
彼の頭をかすめようとした雨雲は、やっと頭に触れずに過ぎたようでした。
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彼の頭を掠めんとした雨雲は、辛うじて、頭に触れずに過ぎたらしかった。
けれども、これに似た不安をこれから先何度も、いろいろな形で繰り返さなければならないような予感が、どこかにありました。
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けれども、これに似た不安はこれから先何度でも、いろいろな程度において、繰り返さなければすまないような虫の知らせがどこかにあった。
それを繰り返させるのは天のすることでした。
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それを繰り返させるのは天の事であった。
それをのがれて回るのは宗助のすることでした。
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それを逃げて回るのは宗助の事であった。
二十三
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二十三
月が変わってから、寒さがだいぶゆるみました。
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月が変ってから寒さがだいぶ緩んだ。
役人の給料が上がる問題につれて必ず起こるはずだと噂されていた人減らしも、月末までにだいたい終わりました。
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官吏の増俸問題につれて必然起るべく、多数の噂に上った局員課員の淘汰も、月末までにほぼ片づいた。
その間、ぽつりぽつりと仕事を失う知り合いや知らない人の名前をずっと聞いていた宗助は、時々家へ帰って御米に、
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その間ぽつりぽつりと首を斬られる知人や未知人の名前を絶えず耳にした宗助は、時々家へ帰って御米に、
「今度はおれの番かもしれない」
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「今度はおれの番かも知れない」
と言うことがありました。
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と云う事があった。
御米はそれを冗談とも聞き、また本気とも聞きました。
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御米はそれを冗談とも聞き、また本気とも聞いた。
たまには、隠れている未来をわざと呼び出す不吉な言葉とも思いました。
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まれには隠れた未来を故意に呼び出す不吉な言葉とも解釈した。
それを口にする宗助の胸の中にも、御米と同じような雲が行き来していました。
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それを口にする宗助の胸の中にも、御米と同じような雲が去来した。
月が変わって、役所の揺れもこれで一区切りだと言われた時、宗助は生き残った自分の運命を振り返って、当たり前のようにも思いました。
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月が改って、役所の動揺もこれで一段落だと沙汰せられた時、宗助は生き残った自分の運命を顧りみて、当然のようにも思った。
また偶然のようにも思いました。
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また偶然のようにも思った。
立ったまま御米を見下ろして、
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立ちながら、御米を見下して、
「まあ助かった」
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「まあ助かった」
と難しい顔で言いました。
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とむずかし気に云った。
そのうれしくも悲しくもない様子が、御米には天から落ちて来たおかしさに見えました。
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その嬉しくも悲しくもない様子が、御米には天から落ちた滑稽に見えた。
また二、三日して、宗助の月給が五円上がりました。
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また二三日して宗助の月給が五円昇った。
「決まりどおり二割五分増えなくてもしかたがあるまい。やめさせられた人も、元の給料のままの人もたくさんいるんだから」
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「原則通り二割五分増さないでも仕方があるまい。休められた人も、元給のままでいる人もたくさんあるんだから」
と言った宗助は、この五円に自分以上の値打ちを持ち帰ったかのように、満足そうな顔を見せました。
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と云った宗助は、この五円に自己以上の価値をもたらし帰ったごとく満足の色を見せた。
御米はもちろん、心の中に不満を言う余地はありませんでした。
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御米は無論の事心のうちに不足を訴えるべき余地を見出さなかった。
次の日の晩、宗助は自分のお膳の上に、頭のついた魚が尾を皿の外に出している様子を見ました。
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翌日の晩宗助はわが膳の上に頭つきの魚の、尾を皿の外に躍らす態を眺めた。
小豆の色に染まったご飯のにおいをかぎました。
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小豆の色に染まった飯の香を嗅いだ。
御米はわざわざ清を行かせて、坂井の家に移った小六を呼びました。
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御米はわざわざ清をやって、坂井の家に引き移った小六を招いた。
小六は、
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小六は、
「やあ、ごちそうだなあ」
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「やあ御馳走だなあ」
と言って勝手口から入って来ました。
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と云って勝手から入って来た。
梅がちらほらと目に入るようになりました。
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梅がちらほらと眼に入るようになった。
早いものはもう色を失って散りかけていました。
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早いのはすでに色を失なって散りかけた。
雨は煙るように降り始めました。
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雨は煙るように降り始めた。
それが晴れて日に温められる時、地面からも屋根からも、春の記憶を新しくするような湿り気がむらむらと立ち上りました。
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それが霽れて、日に蒸されるとき、地面からも、屋根からも、春の記憶を新にすべき湿気がむらむらと立ち上った。
家の裏に干した雨傘に子犬がじゃれついて、傘の輪の模様がきらきらする所にかげろうが燃えるように、のどかに思える日もありました。
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背戸に干した雨傘に、小犬がじゃれかかって、蛇の目の色がきらきらする所に陽炎が燃えるごとく長閑に思われる日もあった。
「ようやく冬が過ぎたようね。あなた、今度の土曜に佐伯の叔母さんの所へ寄って、小六さんのことを決めていらっしゃいよ。あまりいつまでも放っておくと、また安さんが忘れてしまうから」
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「ようやく冬が過ぎたようね。あなた今度の土曜に佐伯の叔母さんのところへ回って、小六さんの事をきめていらっしゃいよ。あんまりいつまでも放っておくと、また安さんが忘れてしまうから」
と御米がせかしました。
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と御米が催促した。
宗助は、
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宗助は、
「うん、思い切って行って来よう」
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「うん、思い切って行って来よう」
と答えました。
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と答えた。
小六は坂井の好意で、その家に書生として住みこみました。
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小六は坂井の好意で、そこの書生に住み込んだ。
その上で宗助と安之助が足りない分を分けて出せたら、と小六に言って聞かせたのは宗助自身でした。
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その上に宗助と安之助が、不足のところを分担する事ができたらと小六に云って聞かしたのは、宗助自身であった。
小六は兄が動くのを待たずに、すぐ安之助に直接かけ合いました。
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小六は兄の運動を待たずに、すぐ安之助に直談判をした。
そして、形の上で宗助の方から頼めばすぐ安之助が引き受けるところまで、自分で話をつけたのです。
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そうして、形式的に宗助の方から依頼すればすぐ安之助が引き受けるまでに自分で埒を明けたのである。
短い間の安らぎは、こうして騒ぎをきらう夫婦の上に落ちて来ました。
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小康はかくして事を好まない夫婦の上に落ちた。
ある日曜の昼、宗助は久しぶりに四日目の体の汚れを落とすため横町の風呂屋に行くと、五十歳ぐらいの頭をそった男と、三十代の商人らしい男が、ようやく春らしくなったと言って季節のあいさつを交わしていました。
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ある日曜の午宗助は久しぶりに、四日目の垢を流すため横町の洗場に行ったら、五十ばかりの頭を剃った男と、三十代の商人らしい男が、ようやく春らしくなったと云って、時候の挨拶を取り換わしていた。
若い方が、今朝初めてうぐいすの鳴き声を聞いたと話すと、坊さんの方が、私は二、三日前にも一度聞いたことがあると答えていました。
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若い方が、今朝始めて鶯の鳴声を聞いたと話すと、坊さんの方が、私は二三日前にも一度聞いた事があると答えていた。
「まだ鳴き始めだから下手だね」
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「まだ鳴きはじめだから下手だね」
「ええ、まだ十分に舌が回りません」
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「ええ、まだ充分に舌が回りません」
宗助は家へ帰って、御米にこのうぐいすの話を繰り返して聞かせました。
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宗助は家へ帰って御米にこの鶯の問答を繰り返して聞かせた。
御米は障子のガラスに映る明るい日の光を透かして見て、
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御米は障子の硝子に映る麗かな日影をすかして見て、
「本当にありがたいわね。ようやくのことで春になって」
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「本当にありがたいわね。ようやくの事春になって」
と言って、晴れ晴れとした顔になりました。
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と云って、晴れ晴れしい眉を張った。
宗助は縁側に出て、長く伸びた爪を切りながら、
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宗助は縁に出て長く延びた爪を剪りながら、
「うん、しかしまたすぐ冬になるよ」
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「うん、しかしまたじき冬になるよ」
と答えて、下を向いたままはさみを動かしていました。
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と答えて、下を向いたまま鋏を動かしていた。