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現代語訳

夏目漱石なつめそうせき)・1988

AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-30

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宗助はさっきから縁側へ座布団を持ち出して、日当たりのよさそうな所へ気楽にあぐらをかいてみたが、やがて手に持っていた雑誌を放り出すと同時に、ごろりと横になった。

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宗助そうすけ先刻さっきから縁側えんがわ坐蒲団ざぶとんを持ち出して、日当りの好さそうな所へ気楽に胡坐あぐらをかいて見たが、やがて手に持っている雑誌を放り出すと共に、ごろりと横になった。

秋日和と呼べるほどの上天気なので、通りを行く人の下駄の音が、静かな町だけに、朗らかに聞こえてくる。

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秋日和あきびよりと名のつくほどの上天気なので、往来を行く人の下駄げたの響が、静かな町だけに、朗らかに聞えて来る。

肘枕をして軒から上を見上げると、きれいな空が一面に青く澄んでいる。

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肱枕ひじまくらをして軒から上を見上げると、奇麗きれいな空が一面にあおく澄んでいる。

その空は、自分の寝ている縁側の窮屈な寸法と比べてみると、非常に広大である。

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その空が自分の寝ている縁側の、窮屈な寸法にくらべて見ると、非常に広大である。

たまの日曜にこうしてゆっくり空を見るだけでもだいぶ違うな、と思いながら、眉を寄せてぎらぎらする日をしばらく見つめていたが、まぶしくなったので、今度はぐるりと寝返りを打って障子の方を向いた。

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たまの日曜にこうしてゆっくり空を見るだけでもだいぶ違うなと思いながら、まゆを寄せて、ぎらぎらする日をしばらく見つめていたが、まぼしくなったので、今度はぐるりと寝返りをして障子しょうじの方を向いた。

障子の中では細君が針仕事をしている。

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障子の中では細君が裁縫しごとをしている。

「おい、いい天気だな」

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「おい、好い天気だな」

と話しかけた。

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と話しかけた。

細君は、

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細君は、

「ええ」

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「ええ」

と言ったきりだった。

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ったなりであった。

宗助も特に話がしたいわけでもなかったと見えて、そのまま黙ってしまった。

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宗助も別に話がしたい訳でもなかったと見えて、それなり黙ってしまった。

しばらくすると、今度は細君の方から、

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しばらくすると今度は細君の方から、

「少し散歩でもしていらっしゃい」

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「ちっと散歩でもしていらっしゃい」

と言った。

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と云った。

しかしその時は、宗助はただうんという生返事を返しただけだった。

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しかしその時は宗助がただうんと云う生返事なまへんじを返しただけであった。

二、三分して、細君は障子のガラスの所へ顔を寄せて、縁側に寝ている夫の姿を覗いてみた。

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二三分して、細君は障子しょうじ硝子ガラスの所へ顔を寄せて、縁側に寝ている夫の姿をのぞいて見た。

夫はどういうつもりか両膝を曲げて、海老のように窮屈になっている。

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夫はどう云う了見りょうけん両膝りょうひざを曲げて海老えびのように窮屈になっている。

そうして両手を組み合わせて、その中へ黒い頭を突っ込んでいるので、肘に挟まれて顔がまるで見えない。

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そうして両手を組み合わして、その中へ黒い頭を突っ込んでいるから、ひじはさまれて顔がちっとも見えない。

「あなた、そんな所で寝ると風邪を引きますよ」

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「あなたそんな所へ寝ると風邪かぜいてよ」

と細君が注意した。

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と細君が注意した。

細君の言葉は、東京のような、東京でないような、今どきの女学生に共通した一種の調子を持っている。

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細君の言葉は東京のような、東京でないような、現代の女学生に共通な一種の調子を持っている。

宗助は両肘の中で大きな目をぱちぱちさせながら、

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宗助は両肱の中で大きな眼をぱちぱちさせながら、

「寝やしない、大丈夫だ」

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「寝やせん、大丈夫だ」

と小声で答えた。

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と小声で答えた。

それからまた静かになった。

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それからまた静かになった。

外を通るゴム車のベルの音が二、三度鳴ったあとから、遠くで鶏が時をつくる声が聞こえた。

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外を通る護謨車ゴムぐるまのベルの音が二三度鳴ったあとから、遠くで鶏の時音ときをつくる声が聞えた。

宗助は仕立て下ろしの紡績織りの背中へ自然と浸み込んでくる光線の暖かみを、シャツの下で貪るほど味わいながら、表の音を聞くともなく聞いていたが、急に思い出したように、障子越しの細君を呼んで、

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宗助は仕立したておろしの紡績織ぼうせきおりの背中へ、自然じねんと浸み込んで来る光線の暖味あたたかみを、襯衣シャツの下でむさぼるほどあじわいながら、表の音をくともなく聴いていたが、急に思い出したように、障子越しの細君を呼んで、

「御米、近来の近の字はどう書いたっけね」

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御米およね近来きんらいきんの字はどう書いたっけね」

と尋ねた。

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と尋ねた。

細君は特に呆れた様子もなく、若い女に特有のけたたましい笑い声も立てず、

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細君は別にあきれた様子もなく、若い女に特有なけたたましい笑声も立てず、

「近江のおうの字じゃなくて」

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近江おうみおうの字じゃなくって」

と答えた。

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と答えた。

「その近江のおうの字が分からないんだ」

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「その近江おうみおうの字が分らないんだ」

細君は立て切った障子を半分ほど開けて、敷居の外へ長い物差しを出し、その先で近の字を縁側へ書いてみせて、

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細君は立て切った障子を半分ばかり開けて、敷居の外へ長い物指ものさしを出して、その先で近の字を縁側へ書いて見せて、

「こうでしょう」

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「こうでしょう」

と言ったきり、物差しの先を字の終わった所へ置いたまま、澄み渡った空をひとしきり眺め入った。

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と云ったぎり、物指の先を、字の留った所へ置いたなり、澄み渡った空を一しきりながめ入った。

宗助は細君の顔も見ずに、

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宗助は細君の顔も見ずに、

「やっぱりそうか」

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「やっぱりそうか」

と言ったが、冗談でもなかったと見えて、特に笑いもしなかった。

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と云ったが、冗談じょうだんでもなかったと見えて、別に笑もしなかった。

細君も近の字はまるで気にならない様子で、

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細君も近の字はまるで気にならない様子で、

「本当にいいお天気だわね」

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「本当に好い御天気だわね」

と半ば独り言のように言いながら、障子を開けたまままた針仕事を始めた。

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なかひとごとのように云いながら、障子を開けたまままた裁縫しごとを始めた。

すると宗助は肘で挟んだ頭を少し持ち上げて、

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すると宗助は肱で挟んだ頭を少しもたげて、

「どうも字というものは不思議だよ」

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「どうも字と云うものは不思議だよ」

と初めて細君の顔を見た。

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と始めて細君の顔を見た。

「なぜ」

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「なぜ」

「なぜって、どんなに易しい字でも、これは変だと思って疑い出すと分からなくなる。この間も今日の今の字でひどく迷った。紙の上へちゃんと書いてみて、じっと眺めていると、何だか違ったような気がする。しまいには見れば見るほど今らしくなくなってくる。――お前はそんな経験をしたことはないかい」

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「なぜって、いくら容易やさしい字でも、こりゃ変だと思って疑ぐり出すと分らなくなる。この間も今日こんにちこんの字で大変迷った。紙の上へちゃんと書いて見て、じっと眺めていると、何だか違ったような気がする。しまいには見れば見るほどこんらしくなくなって来る。――御前おまいそんな事を経験した事はないかい」

「まさか」

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「まさか」

「おれだけかな」

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「おれだけかな」

と宗助は頭へ手を当てた。

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と宗助は頭へ手を当てた。

「あなた、どうかしていらっしゃるのよ」

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「あなたどうかしていらっしゃるのよ」

「やっぱり神経衰弱のせいかもしれない」

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「やっぱり神経衰弱のせいかも知れない」

「そうよ」

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「そうよ」

と細君は夫の顔を見た。

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と細君は夫の顔を見た。

夫はようやく立ち上がった。

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夫はようやく立ち上った。

針箱と糸くずの上を飛び越すようにまたいで、茶の間の襖を開けると、すぐ座敷である。

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針箱と糸屑いとくずの上を飛び越すようにまたいで、茶の間のふすまを開けると、すぐ座敷である。

南が玄関でふさがれているので、突き当たりの障子が、日向から急に入って来た目にはうそ寒く映った。

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南が玄関でふさがれているので、突き当りの障子が、日向ひなたから急に這入はいって来たひとみには、うそ寒く映った。

そこを開けると、ひさしに迫るような勾配の崖が縁先から聳えているので、朝のうちは当たっていいはずの日も容易に影を落とさない。

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そこを開けると、ひさしせまるような勾配こうばいがけが、縁鼻えんばなからそびえているので、朝の内は当ってしかるべきはずの日も容易に影を落さない。

崖には草が生えている。

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崖には草が生えている。

下から一段も石を積んでいないので、いつ崩れるか分からない不安があるのだけれども、不思議にまだ崩れたことがないそうで、そのためか家主も長い間昔のままに放ってある。

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下からして一側ひとかわも石で畳んでないから、いつくずれるか分らないおそれがあるのだけれども、不思議にまだ壊れた事がないそうで、そのためか家主やぬしも長い間昔のままにして放ってある。

もっとも元は一面の竹藪だったとかで、それを切り開く時に根だけは掘り返さずに土手の中に埋めておいたから、地面は思いのほか締まっていますからね、と、町内に二十年も住んでいる八百屋の主人が勝手口でわざわざ説明してくれたことがある。

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もっとも元は一面の竹藪たけやぶだったとかで、それを切り開く時に根だけは掘り返さずに土堤どての中に埋めて置いたから、は存外しまっていますからねと、町内に二十年も住んでいる八百屋のおやじが勝手口でわざわざ説明してくれた事がある。

その時、宗助は、だって根が残っていればまた竹が生えて藪になりそうなものじゃないか、と聞き返してみた。

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その時宗助はだって根が残っていれば、また竹が生えて藪になりそうなものじゃないかと聞き返して見た。

すると主人は、それがですね、ああ切り開かれてみると、そううまくは行かないものですよ。

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すると爺は、それがね、ああ切り開かれて見ると、そううまく行くもんじゃありませんよ。

しかし崖だけは大丈夫です。

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しかし崖だけは大丈夫です。

どんなことがあったって崩れっこはないんだから、と、まるで自分のものを弁護でもするように力んで帰って行った。

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どんな事があったってえっこはねえんだからと、あたかも自分のものを弁護でもするようにりきんで帰って行った。

崖は秋に入っても特に色づく様子もない。

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崖は秋にっても別に色づく様子もない。

ただ青い草の匂いが褪せて、不揃いにもじゃもじゃするばかりである。

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ただ青い草のにおいめて、不揃ぶそろにもじゃもじゃするばかりである。

すすきや蔦といった洒落たものに至っては、まるで見当たらない。

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すすきだのつただのと云う洒落しゃれたものに至ってはさらに見当らない。

その代わり、昔の名残の孟宗竹が中ほどに二本、上の方に三本ほど、すっくりと立っている。

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その代り昔の名残なごりの孟宗もうそうが中途に二本、上の方に三本ほどすっくりと立っている。

それが多少黄色く染まって、幹に日が射す時などは、軒から首を出すと、土手の上に秋の暖かみを眺められるような心持ちがする。

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それが多少黄に染まって、幹に日のすときなぞは、軒から首を出すと、土手の上に秋の暖味あたたかみながめられるような心持がする。

宗助は朝出て四時過ぎに帰る男だから、日の詰まるこの頃は、めったに崖の上を覗く暇を持たなかった。

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宗助は朝出て四時過に帰る男だから、日のまるこの頃は、滅多めったに崖の上をのぞひまたなかった。

暗い便所から出て、手水鉢の水を手に受けながら、ふとひさしの外を見上げた時、初めて竹のことを思い出した。

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暗い便所から出て、手水鉢ちょうずばちの水を手に受けながら、ふとひさしの外を見上げた時、始めて竹の事を思い出した。

幹のてっぺんに細かい葉が集まって、まるで坊主頭のように見える。

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幹のいただきこまかな葉が集まって、まるで坊主頭ぼうずあたまのように見える。

それが秋の日に酔って重く下を向いて、ひっそりと重なった葉が一枚も動かない。

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それが秋の日に酔って重く下を向いて、ひっそりと重なった葉が一枚も動かない。

宗助は障子を閉めて座敷へ帰り、机の前へ座った。

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宗助は障子をてて座敷へ帰って、机の前へ坐った。

座敷とは言っても、客を通すからそう呼ぶだけで、実際は書斎とか居間とか言う方が適当である。

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座敷とは云いながら客を通すからそう名づけるまでで、実は書斎とか居間とか云う方が穏当である。

北側に床の間があるので、申し訳のために妙な軸を掛けて、その前に朱泥の色をした下手な花生けが飾ってある。

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北側にとこがあるので、申訳のために変なじくを掛けて、その前に朱泥しゅでいの色をしたせつ花活はないけが飾ってある。

欄間には額も何もない。

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欄間らんまにはがくも何もない。

ただ真鍮の折れ釘だけが二本光っている。

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ただ真鍮しんちゅう折釘おれくぎだけが二本光っている。

そのほかにはガラス戸の張った書棚が一つある。

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その他には硝子戸ガラスどの張った書棚が一つある。

けれども中には特にこれといって目立つほど立派なものも入っていない。

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けれども中には別にこれと云って目立つほどの立派なものも這入っていない。

宗助は銀金具の付いた机の引き出しを開けて、しきりに中を調べ出したが、特に何も見つけないうちに、はたりと閉めてしまった。

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宗助は銀金具ぎんかなぐの付いた机の抽出ひきだしを開けてしきりに中をしらべ出したが、別に何も見つけ出さないうちに、はたりとあきらめてしまった。

それから硯箱の蓋を取って、手紙を書き始めた。

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それから硯箱すずりばこふたを取って、手紙を書き始めた。

一本書いて封をして、少し考えたが、

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一本書いて封をして、ちょっと考えたが、

「おい、佐伯の家は中六番町の何番地だったかね」

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「おい、佐伯さえきのうちは中六番町なかろくばんちょう何番地だったかね」

と襖越しに細君に聞いた。

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と襖ごしに細君に聞いた。

「二十五番地じゃなくて」

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「二十五番地じゃなくって」

と細君は答えたが、宗助が宛名を書き終わる頃になって、

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と細君は答えたが、宗助が名宛を書き終る頃になって、

「手紙じゃ駄目よ、行ってよく話をして来なくちゃ」

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「手紙じゃ駄目よ、行ってよく話をして来なくっちゃ」

と付け加えた。

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と付け加えた。

「まあ、駄目でも手紙を一本出しておこう。それでいけなかったら出掛けるとするさ」

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「まあ、駄目までも手紙を一本出しておこう。それでいけなかったら出掛けるとするさ」

と言い切ったが、細君が返事をしないので、

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と云い切ったが、細君が返事をしないので、

「なあ、おい、それでいいだろう」

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「ねえ、おい、それで好いだろう」

と念を押した。

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と念を押した。

細君は悪いとも言いかねたと見えて、それ以上言い争いもしなかった。

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細君は悪いとも云い兼ねたと見えて、その上争いもしなかった。

宗助は郵便を持ったまま、座敷からすぐ玄関に出た。

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宗助は郵便を持ったまま、座敷からぐ玄関に出た。

細君は夫の足音を聞いて初めて座を立ったが、こちらは茶の間から縁伝いに玄関へ出た。

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細君は夫の足音を聞いて始めて、座を立ったが、これは茶の間の縁伝えんづたいに玄関に出た。

「ちょっと散歩に行って来るよ」

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「ちょっと散歩に行って来るよ」

「行っていらっしゃい」

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「行っていらっしゃい」

と細君は微笑しながら答えた。

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と細君は微笑しながら答えた。

三十分ほどして格子ががらりと開いたので、御米はまた針仕事の手を止めて縁伝いに玄関へ出てみると、帰ったと思った宗助の代わりに、高等学校の制帽をかぶった弟の小六が入って来た。

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三十分ばかりして格子こうしががらりといたので、御米はまた裁縫しごとの手をやめて、縁伝いに玄関へ出て見ると、帰ったと思う宗助の代りに、高等学校の制帽をかぶった、弟の小六ころく這入はいって来た。

袴の裾が五、六寸しか出ないくらい長い黒羅紗のマントのボタンを外しながら、

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はかますそが五六寸しか出ないくらいの長い黒羅紗くろらしゃのマントのボタンはずしながら、

「暑い」

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「暑い」

と言っている。

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と云っている。

「だってあんまりだわ。このお天気にそんな厚いものを着て出るなんて」

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「だってあんまりだわ。この御天気にそんな厚いものを着て出るなんて」

「なに、日が暮れたら寒いだろうと思って」

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「何、日が暮れたら寒いだろうと思って」

と小六は言い訳を半分しながら、兄嫁のあとについて茶の間へ通ったが、縫いかけの着物に目を留めて、

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と小六は云訳いいわけを半分しながら、あによめあといて、茶の間へ通ったが、縫い掛けてある着物へ眼を着けて、

「相変わらず精が出ますね」

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「相変らず精が出ますね」

と言ったきり、長火鉢の前へあぐらをかいた。

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と云ったなり、長火鉢ながひばちの前へ胡坐あぐらをかいた。

兄嫁は針仕事を隅の方へ押しやっておいて、小六の向かいへ来て、ちょっと鉄瓶を下ろして炭を継ぎ始めた。

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嫂は裁縫をすみの方へ押しやっておいて、小六のむこうへ来て、ちょっと鉄瓶てつびんをおろして炭をぎ始めた。

「お茶ならたくさんです」

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「御茶ならたくさんです」

と小六が言った。

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と小六が云った。

「嫌?」

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いや?」

と女学生流に念を押した御米は、

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と女学生流に念を押した御米は、

「じゃ、お菓子は」

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「じゃ御菓子は」

と言って笑いかけた。

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と云って笑いかけた。

「あるんですか」

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「あるんですか」

と小六が聞いた。

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と小六が聞いた。

「いいえ、無いの」

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「いいえ、無いの」

と正直に答えたが、思い出したように、「待ってちょうだい、あるかもしれないわ」

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と正直に答えたが、思い出したように、「待ってちょうだい、あるかも知れないわ」

と言いながら立ち上がる拍子に、横にあった炭取りを取りのけて、袋戸棚を開けた。

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と云いながら立ち上がる拍子ひょうしに、横にあった炭取を取り退けて、袋戸棚ふくろとだなを開けた。

小六は御米の後ろ姿の、羽織が帯で高くなったあたりを眺めていた。

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小六は御米の後姿うしろすがたの、羽織はおりが帯で高くなったあたりながめていた。

何を探すのか、なかなか手間が取れそうなので、

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何をさがすのだかなかなか手間てまが取れそうなので、

「じゃ、お菓子もやめにしましょう。それより、今日は兄さんはどうしました」

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「じゃ御菓子もしにしましょう。それよりか、今日は兄さんはどうしました」

と聞いた。

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と聞いた。

「兄さんは今ちょっと」

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「兄さんは今ちょいと」

と後ろ向きのまま答えて、御米はやはり戸棚の中を探している。

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と後向のまま答えて、御米はやはり戸棚の中を探している。

やがてぱたりと戸を閉めて、

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やがてぱたりと戸を締めて、

「駄目よ。いつの間にか兄さんがみんな食べてしまった」

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「駄目よ。いつのにか兄さんがみんな食べてしまった」

と言いながら、また火鉢の向かいへ帰って来た。

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と云いながら、また火鉢のむこうへ帰って来た。

「じゃ、晩に何かご馳走してください」

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「じゃ晩に何か御馳走ごちそうなさい」

「ええ、するわ」

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「ええしてよ」

と柱時計を見ると、もう四時近くである。

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と柱時計を見ると、もう四時近くである。

御米は「四時、五時、六時」

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御米は「四時、五時、六時」

と時間を数えた。

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と時間を勘定かんじょうした。

小六は黙って兄嫁の顔を見ていた。

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小六は黙って嫂の顔を見ていた。

彼は実際、兄嫁のご馳走にはあまり興味を持てなかったのである。

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彼は実際嫂の御馳走には余り興味を持ち得なかったのである。

「姉さん、兄さんは佐伯へ行ってくれたんですかね」

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「姉さん、兄さんは佐伯さえきへ行ってくれたんですかね」

と聞いた。

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と聞いた。

「この間から行く行くって言ってることは言ってるのよ。だけど、兄さんも朝出て夕方に帰るんでしょう。帰ると疲れきってしまって、お湯に行くのも大儀そうなんですもの。だから、そう責めるのも実際お気の毒よ」

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「この間から行く行くって云ってる事は云ってるのよ。だけど、兄さんも朝出て夕方に帰るんでしょう。帰ると草臥くたびれちまって、御湯に行くのも大儀そうなんですもの。だから、そう責めるのも実際御気の毒よ」

「そりゃ兄さんも忙しいには違いないだろうけれど、僕もあれが決まらないと気がかりで落ち着いて勉強もできないんだから」

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「そりゃ兄さんも忙がしいには違なかろうけれども、僕もあれがきまらないと気がかりで落ちついて勉強もできないんだから」

と言いながら、小六は真鍮の火箸を取って、火鉢の灰の中へ何かしきりに書き出した。

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と云いながら、小六は真鍮しんちゅう火箸ひばしを取って火鉢ひばちの灰の中へ何かしきりに書き出した。

御米はその動く火箸の先を見ていた。

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御米はその動く火箸の先を見ていた。

「だから、さっき手紙を出しておいたのよ」

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「だから先刻さっき手紙を出しておいたのよ」

と慰めるように言った。

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と慰めるように云った。

「何て」

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「何て」

「それは私もつい見なかったの。けれど、きっとあの相談よ。今に兄さんが帰って来たら聞いてご覧なさい。きっとそうよ」

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「そりゃわたしもつい見なかったの。けれども、きっとあの相談よ。今に兄さんが帰って来たら聞いて御覧なさい。きっとそうよ」

「もし手紙を出したのなら、その用には違いないでしょう」

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「もし手紙を出したのなら、その用には違ないでしょう」

「ええ、本当に出したのよ。今、兄さんがその手紙を持って出しに行ったところなの」

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「ええ、本当に出したのよ。今兄さんがその手紙を持って、出しに行ったところなの」

小六はこれ以上、弁解のような慰めのような兄嫁の言葉に耳を貸したくなかった。

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小六はこれ以上弁解のような慰藉いしゃのようなあによめの言葉に耳を借したくなかった。

散歩に出る暇があるなら、手紙の代わりに自分で足を運んでくれたらよさそうなものだと思うと、あまりいい心持ちでもなかった。

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散歩に出るひまがあるなら、手紙の代りに自分で足を運んでくれたらよさそうなものだと思うと余り好い心持でもなかった。

座敷へ来て、書棚の中から赤い表紙の洋書を出して、あちこちのページをめくって見ていた。

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座敷へ来て、書棚の中から赤い表紙の洋書を出して、方々ページはぐって見ていた。

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そこに気のつかなかった宗助は、町の角まで来て、切手と「敷島」

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そこに気のつかなかった宗助そうすけは、町のかどまで来て、切手と「敷島しきしま

を同じ店で買い、郵便だけはすぐ出したが、その足でまた同じ道を戻るのが何だか物足りなかったので、くわえ煙草の煙を秋の日に揺らめかせながらぶらぶら歩いているうちに、どこか遠くへ行って、東京というのはこういう所だという印象をはっきり頭の中へ刻みつけ、それを今日の日曜の土産に家へ帰って寝ようという気になった。

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を同じ店で買って、郵便だけはすぐ出したが、その足でまた同じ道を戻るのが何だか不足だったので、くわ煙草たばこけむを秋の日にゆらつかせながら、ぶらぶら歩いているうちに、どこか遠くへ行って、東京と云う所はこんな所だと云う印象をはっきり頭の中へ刻みつけて、そうしてそれを今日の日曜の土産みやげうちへ帰ってようと云う気になった。

彼は長年東京の空気を吸って生きている男であるばかりでなく、毎日役所の行き帰りには電車を使って、賑やかな町を二度ずつは必ず行ったり来たりする習慣になっているのだが、体と頭に余裕がないので、いつも上の空で素通りすることになっているから、自分がその賑やかな町の中に生きているという自覚は、近ごろまるで起こったことがない。

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彼は年来東京の空気を吸って生きている男であるのみならず、毎日役所の行通ゆきかよいには電車を利用して、にぎやかな町を二度ずつはきっとったり来たりする習慣になっているのではあるが、身体からだと頭にらくがないので、いつでもうわそらで素通りをする事になっているから、自分がその賑やかな町の中にきていると云う自覚は近来とんと起った事がない。

もっとも普段は忙しさに追われて特に気にも掛からないが、七日に一度の休日が来て、心がゆったりと落ち着ける機会に出会うと、普段の生活が急にそわそわした上っ調子なものに見えてくる。

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もっとも平生へいぜいは忙がしさに追われて、別段気にも掛からないが、七日なのか一返いっぺんの休日が来て、心がゆったりと落ちつける機会に出逢であうと、不断の生活が急にそわそわした上調子うわちょうしに見えて来る。

結局、自分は東京の中に住みながら、まだ東京というものを見たことがないんだ、という結論に行き着くと、彼はそこにいつも妙な物寂しさを感じるのである。

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必竟ひっきょう自分は東京の中に住みながら、ついまだ東京というものを見た事がないんだという結論に到着すると、彼はそこにいつも妙な物さびしさを感ずるのである。

そういう時には、彼は急に思い出したように町へ出る。

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そう云う時には彼は急に思い出したように町へ出る。

その上、懐に多少余裕でもあると、これで一つ豪遊でもしてみようかと考えることもある。

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その上ふところに多少余裕よゆうでもあると、これで一つ豪遊でもしてみようかと考える事もある。

けれども彼の寂しさは、彼を思い切った極端へ駆り立てるほど強烈なものではないから、そこまで猛進する前に、それも馬鹿馬鹿しくなってやめてしまう。

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けれども彼の淋しみは、彼を思い切った極端にり去るほどに、強烈の程度なものでないから、彼がそこまで猛進する前に、それも馬鹿馬鹿しくなってやめてしまう。

それだけでなく、こういう人の常として、財布の底はたいていの場合、軽はずみを戒める程度にしか膨らんでいないので、億劫な工夫を凝らすより、懐手をしてぶらりと家へ帰る方が、つい楽になる。

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のみならず、こんな人の常態として、紙入の底が大抵の場合には、軽挙をいましめる程度内にふくらんでいるので、億劫おっくうな工夫をらすよりも、懐手ふところでをして、ぶらりとうちへ帰る方が、つい楽になる。

だから宗助の寂しさは、ただの散歩か勧工場の見物くらいのところで、次の日曜まではどうにか慰められるのである。

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だから宗助のさびしみは単なる散歩か勧工場かんこうば縦覧ぐらいなところで、次の日曜まではどうかこうか慰藉いしゃされるのである。

この日も宗助は、ともかくもと思って電車に乗った。

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この日も宗助はともかくもと思って電車へ乗った。

ところが日曜の好天気にもかかわらず、いつもより乗客が少ないので、めずらしく乗り心地がよかった。

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ところが日曜の好天気にもかかわらず、平常よりは乗客が少ないので例になく乗心地が好かった。

その上、乗客がみんな平和な顔をして、どれもこれもゆったりと落ち着いているように見えた。

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その上乗客がみんな平和な顔をして、どれもこれもゆったりと落ちついているように見えた。

宗助は腰を掛けながら、毎朝決まった時刻に先を争って席を奪い合いながら丸の内方面へ向かう自分の運命を振り返った。

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宗助は腰を掛けながら、毎朝例刻に先を争って席を奪い合いながら、丸の内方面へ向う自分の運命をかえりみた。

出勤時刻の電車の道連れほど殺風景なものはない。

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出勤刻限の電車の道伴みちづれほど殺風景なものはない。

吊り革にぶら下がるにしても、ビロードの席に腰を掛けるにしても、人間らしい優しい心持ちが起こったためしは、いまだかつてない。

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かわにぶら下がるにしても、天鵞絨びろうどに腰を掛けるにしても、人間的なやさしい心持の起ったためしはいまだかつてない。

自分もそれで十分だと考えて、機械か何かと膝を突き合わせ肩を並べているかのように、行きたい所まで同席して、ふいに降りてしまうだけだった。

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自分もそれでたくさんだと考えて、器械か何ぞとひざを突き合せ肩を並べたかのごとくに、行きたい所まで同席して不意と下りてしまうだけであった。

前の老婦人が八つくらいの孫娘の耳もとに口を寄せて何か言っているのを、そばで見ていた三十くらいの商家のおかみさんらしい女が、可愛らしがって年を聞いたり名を尋ねたりしているのを眺めていると、今さらのように別の世界へ来たような心持ちがした。

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前の御婆さんが八つぐらいになる孫娘の耳の所へ口を付けて何か云っているのを、そばに見ていた三十恰好がっこうの商家の御神おかみさんらしいのが、可愛らしがって、年を聞いたり名を尋ねたりするところをながめていると、今更いまさらながら別の世界に来たような心持がした。

頭の上には広告が一面に枠に嵌めて掛けてあった。

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頭の上には広告が一面にわくめて掛けてあった。

宗助は普段はこれにさえ気がつかなかった。

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宗助は平生これにさえ気がつかなかった。

何ということもなく一番目のを読んでみると、引っ越しは簡単にできますという移転会社の引き札だった。

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何心なしに一番目のを読んで見ると、引越は容易にできますと云う移転会社の引札ひきふだであった。

その次には、経済を心得る人は、衛生に注意する人は、火の用心を好む者は、と三行に並べておいて、そのあとにガス釜を使えと書き、ガス釜から火の出ている絵まで添えてあった。

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その次には経済を心得る人は、衛生に注意する人は、火の用心を好むものは、と三行に並べておいてそのあと瓦斯竈ガスがまを使えと書いて、瓦斯竈から火の出ているまで添えてあった。

三番目には、ロシアの文豪トルストイ伯の傑作「千古の雪」

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三番目には露国文豪トルストイ伯傑作「千古の雪」

というのと、バンカラ喜劇・小辰大一座というのが、赤地に白で染め抜いてあった。

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と云うのと、バンカラ喜劇小辰こたつ大一座と云うのが、赤地に白で染め抜いてあった。

宗助は約十分もかけて、すべての広告を丁寧に三度ほど読み直した。

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宗助は約十分もかかって、すべての広告を丁寧ていねいに三返ほど読み直した。

特に行ってみようと思うものも、買ってみたいと思うものもなかったが、ただこれらの広告がはっきりと自分の頭に映り、それを一つ一つ読み終えるだけの時間があったことと、それをすっかり理解できたという心の余裕とが、宗助に少なからぬ満足を与えた。

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別に行って見ようと思うものも、買って見たいと思うものも無かったが、ただこれらの広告が判然はっきりと自分の頭に映って、そうしてそれを一々読みおおせた時間のあった事と、それをことごとく理解し得たと云う心の余裕よゆうが、宗助には少なからぬ満足を与えた。

彼の生活は、これほどの余裕にすら誇りを感じるほど、日曜以外の行き帰りには落ち着いていられないものだった。

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彼の生活はこれほどの余裕にすら誇りを感ずるほどに、日曜以外の出入ではいりには、落ちついていられないものであった。

宗助は駿河台下で電車を降りた。

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宗助は駿河台下するがだいしたで電車を降りた。

降りるとすぐ、右側の窓ガラスの中に美しく並べてある洋書に目が留まった。

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降りるとすぐ右側の窓硝子まどガラスの中に美しく並べてある洋書に眼がついた。

宗助はしばらくその前に立って、赤や青や縞や模様の上に鮮やかに打ち込んである金文字を眺めた。

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宗助はしばらくその前に立って、赤や青やしまや模様の上に、あざやかにたたき込んである金文字を眺めた。

表題の意味はもちろん分かるが、手に取って中を調べてみようという好奇心はまるで起こらなかった。

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表題の意味は無論解るが、手に取って、中をしらべて見ようという好奇心はちっとも起らなかった。

本屋の前を通ると必ず中へ入ってみたくなったり、中へ入ると必ず何か欲しくなったりするのは、宗助から言えば、もう一昔前の生活である。

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本屋の前を通ると、きっと中へ這入はいって見たくなったり、中へ這入ると必ず何か欲しくなったりするのは、宗助から云うと、すでに一昔ひとむかし前の生活である。

ただ「ヒストリ・オブ・ガムブリング(博打の歴史)」というのがことさら美しく装丁されて一番真ん中に飾ってあったので、それが幾らか彼の頭に突飛な新しさを加えただけだった。

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ただ Historyヒストリ ofオフ Gamblingガムブリング博奕史ばくえきし)と云うのが、ことさらに美装して、一番真中に飾られてあったので、それが幾分か彼の頭に突飛とっぴな新し味を加えただけであった。

宗助は微笑しながら、せわしい通りを向かい側へ渡って、今度は時計屋の店を覗き込んだ。

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宗助は微笑しながら、急忙せわしい通りを向側むこうがわへ渡って、今度は時計屋の店をのぞき込んだ。

金時計や金鎖がいくつも並べてあるが、これもただ美しい色や形として彼の目に映るだけで、買いたいという気を起こさせるには至らなかった。

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金時計だの金鎖が幾つも並べてあるが、これもただ美しい色や恰好かっこうとして、彼のひとみに映るだけで、買いたい了簡りょうけんを誘致するには至らなかった。

そのくせ彼は、一つ一つ絹糸で吊るした値札を読んで、品物と見比べてみた。

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その癖彼は一々絹糸で釣るした価格札ねだんふだを読んで、品物と見較みくらべて見た。

そうして実際、金時計の安さに驚いた。

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そうして実際金時計の安価なのに驚ろいた。

洋傘屋の前にもちょっと立ち止まった。

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蝙蝠傘屋こうもりがさやの前にもちょっと立ちどまった。

西洋小間物を売る店先では、シルクハットの脇に掛けてあったネクタイに目が留まった。

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西洋小間物こまものを売る店先では、礼帽シルクハットわきにかけてあった襟飾えりかざりに眼がついた。

自分が毎日締めているのよりずっと柄がよかったので、値を聞いてみようかと思って半分店の中へ入りかけたが、明日からネクタイを替えたところでつまらないことだと思い直すと、急に財布の口を開けるのが嫌になって行き過ぎた。

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自分の毎日かけているのよりも大変がらが好かったので、を聞いてみようかと思って、半分店の中へ這入はいりかけたが、明日あしたから襟飾りなどをかけ替えたところが下らない事だと思い直すと、急に蟇口がまぐちの口を開けるのがいやになって行き過ぎた。

呉服店でもだいぶ立ち見をした。

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呉服店でもだいぶ立見をした。

鶉御召だの、高貴織だの、清凌織だの、今日まで知らずに過ごした名をたくさん覚えた。

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鶉御召うずらおめしだの、高貴織こうきおりだの、清凌織せいりょうおりだの、自分の今日こんにちまで知らずに過ぎた名をたくさん覚えた。

京都の襟新という店の出店の前で、窓ガラスへ帽子のつばを突きつけるほど近く寄って、精巧に刺繍をした女物の半襟をいつまでも眺めていた。

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京都の襟新えりしんと云ううちの出店の前で、窓硝子まどガラスへ帽子のつばを突きつけるように近く寄せて、精巧に刺繍ぬいをした女の半襟はんえりを、いつまでもながめていた。

そのうちに、ちょうど細君に似合いそうな上品なものがあった。

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そのうちにちょうど細君に似合いそうな上品なのがあった。

買って行ってやろうかという気がちょっと起こるやいなや、それは五、六年前のことだという考えがあとから出て来て、せっかくの心持ちのよい思いつきをすぐ揉み消してしまった。

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買って行ってやろうかという気がちょっと起るやいなや、そりゃ五六年ぜんの事だと云う考があとから出て来て、せっかく心持の好い思いつきをすぐみ消してしまった。

宗助は苦笑しながら窓ガラスを離れてまた歩き出したが、それから半町ほどの間は何だかつまらないような気分がして、通りにも店先にも特別な注意を払わなかった。

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宗助は苦笑しながら窓硝子を離れてまた歩き出したが、それから半町ほどの間は何だかつまらないような気分がして、往来にも店先にも格段の注意を払わなかった。

ふと気がつくと、角に大きな雑誌屋があって、その軒先には新刊の本が大きな字で広告してある。

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ふと気がついて見ると角に大きな雑誌屋があって、その軒先には新刊の書物が大きな字で広告してある。

梯子のような細長い枠へ紙を張ったり、ペンキ塗りの一枚板へ模様絵のような色彩を施したりしてある。

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梯子はしごのような細長いわくへ紙を張ったり、ペンキ塗の一枚板へ模様画みたような色彩を施こしたりしてある。

宗助はそれを一つ一つ読んだ。

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宗助はそれを一々読んだ。

著者の名前も作品の名前も、一度は新聞の広告で見たようでもあり、まったく初めてのようでもあった。

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著者の名前も作物さくぶつの名前も、一度は新聞の広告で見たようでもあり、また全く新奇のようでもあった。

この店の曲がり角の影になった所で、黒い山高帽をかぶった三十くらいの男が、地面の上へ気楽そうにあぐらをかいて、ええ、お子供衆のお慰み、と言いながら大きなゴム風船を膨らませている。

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この店の曲り角の影になった所で、黒い山高帽をかぶった三十ぐらいの男が地面の上へ気楽そうに胡坐あぐらをかいて、ええ御子供衆の御慰おなぐさみと云いながら、大きな護謨風船ゴムふうせんふくらましている。

それが膨れると自然と達磨の形になり、いい加減な所に目や口まで墨で書いてあるのに宗助は感心した。

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それが膨れると自然と達磨だるま恰好かっこうになって、好加減いいかげんな所に眼口まで墨で書いてあるのに宗助は感心した。

その上、一度息を入れるといつまでも膨れている。

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その上一度息を入れると、いつまでも膨れている。

しかも指の先へでも手のひらの上へでも、自由に尻が据わる。

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かつ指の先へでも、手の平の上へでも自由に尻がすわる。

それが、尻の穴へ楊枝のような細いものを突っ込むと、しゅうっと一度に縮んでしまう。

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それが尻の穴へ楊枝ようじのような細いものを突っ込むとしゅうっと一度に収縮してしまう。

忙しい通行人は何人でも通るが、誰も立ち止まって見るほどの者はいない。

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忙がしい往来の人は何人でも通るが、誰も立ちどまって見るほどのものはない。

山高帽の男は賑やかな町の隅に冷ややかにあぐらをかいて、自分の周りに何が起こりつつあるかを感じていないかのように、ええ、お子供衆のお慰み、と言っては達磨を膨らませている。

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山高帽の男はにぎやかな町の隅に、冷やかに胡坐あぐらをかいて、身の周囲まわりに何事が起りつつあるかを感ぜざるもののごとくに、ええ御子供衆の御慰みと云っては、達磨を膨らましている。

宗助は一銭五厘出してその風船を一つ買い、しゅっと縮ましてもらって、それを袂へ入れた。

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宗助は一銭五厘出して、その風船を一つ買って、しゅっと縮ましてもらって、それをたもとへ入れた。

きれいな床屋へ行って髪を刈りたくなったが、どこにそんなきれいな店があるか、ちょっと見つからないうちに日が傾いてきたので、また電車に乗って家の方へ向かった。

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奇麗きれいな床屋へ行って、髪を刈りたくなったが、どこにそんな奇麗なのがあるか、ちょっと見つからないうちに、日がかぎって来たので、また電車へ乗って、うちの方へ向った。

宗助が電車の終点まで来て運転手に切符を渡した時には、もう空の色が光を失いかけて、湿った通りに暗い影が濃くなる頃だった。

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宗助が電車の終点まで来て、運転手に切符を渡した時には、もう空の色が光を失いかけて、湿った往来に、暗い影がつのる頃であった。

降りようとして鉄の柱を握ったら、急に寒い心持ちがした。

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降りようとして、鉄の柱を握ったら、急に寒い心持がした。

いっしょに降りた人はみんな離れ離れになって、用事あり気に忙しく歩いて行く。

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いっしょに降りた人は、みんな離れ離れになって、事あり気に忙がしく歩いて行く。

町のはずれを見ると、左右の家の軒から屋根にかけて、ほの白い煙が大気の中に動いているように見える。

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町のはずれを見ると、左右の家の軒から家根やねへかけて、仄白ほのしろい煙りが大気の中に動いているように見える。

宗助も木の多い方角に向かって早足に歩を進めた。

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宗助もの多い方角に向いて早足に歩を移した。

今日の日曜も、のんびりしたお天気も、もうおしまいだと思うと、少しはかないような、また寂しいような一種の気分が起こって来た。

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今日の日曜も、のんびりした御天気も、もうすでにおしまいだと思うと、少しはかないようなまたさみしいような一種の気分が起って来た。

そうして明日からまた例によって例のごとくせっせと働かなくてはならない身だと考えると、今日半日の生活が急に惜しくなり、残る六日半の非精神的な行動がいかにもつまらなく感じられた。

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そうして明日あしたからまた例によって例のごとく、せっせと働らかなくてはならない身体からだだと考えると、今日半日の生活が急に惜しくなって、残る六日半むいかはんの非精神的な行動が、いかにもつまらなく感ぜられた。

歩いているうちにも、日当たりの悪い、窓の少ない大きな部屋の様子や、隣に座っている同僚の顔や、野中さんちょっと、と言う上役の姿ばかりが目に浮かんだ。

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歩いているうちにも、日当の悪い、窓の乏しい、大きな部屋の模様や、隣りにすわっている同僚の顔や、野中さんちょっとと云う上官の様子ばかりが眼に浮かんだ。

魚勝という魚屋の前を通り越して、その五、六軒先の路地とも横丁ともつかない所を曲がると、突き当たりが高い崖で、その左右に四、五軒、同じ造りの貸家が並んでいる。

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魚勝と云う肴屋さかなやの前を通り越して、その五六軒先の露次ろじとも横丁ともつかない所を曲ると、行き当りが高いがけで、その左右に四五軒同じかまえの貸家が並んでいる。

つい先ごろまでは、まばらな杉垣の奥に、御家人でも住み古したと思われる物寂びた家も一つこの地所の中に混じっていたが、崖の上の坂井という人がここを買ってから、たちまち茅葺きを壊し、杉垣を引き抜いて、今のような新しい建物に建て替えてしまった。

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ついこの間まではまばらな杉垣の奥に、御家人ごけにんでも住み古したと思われる、物寂ものさびた家も一つ地所のうちにまじっていたが、崖の上の坂井さかいという人がここを買ってから、たちまち萱葺かやぶきを壊して、杉垣を引き抜いて、今のような新らしい普請ふしんに建てえてしまった。

宗助の家は横丁の突き当たりで、一番奥の左側、すぐ崖の下だから多少陰気ではあるが、その代わり通りからもっとも離れているだけに、まあ幾らか静かだろうというので、細君と相談の上、わざわざそこを選んだのである。

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宗助のうちは横丁を突き当って、一番奥の左側で、すぐの崖下だから、多少陰気ではあるが、その代り通りからはもっとも隔っているだけに、まあ幾分か閑静だろうと云うので、細君と相談の上、とくにそこをえらんだのである。

宗助は、七日に一度の日曜ももう暮れかかったので、早く湯にでも入って、暇があったら髪でも刈って、それからゆっくり晩飯を食おうと思い、急いで格子を開けた。

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宗助は七日なのかに一返の日曜ももう暮れかかったので、早く湯にでもって、暇があったら髪でも刈って、そうしてゆっくり晩食ばんめしを食おうと思って、急いで格子こうしを開けた。

台所の方で皿や小鉢の音がする。

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台所の方で皿小鉢さらこばちの音がする。

上がろうとした拍子に、小六の脱ぎ捨てた下駄の上へ、気がつかずに足を乗せた。

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上がろうとする拍子ひょうしに、小六ころくてた下駄げたの上へ、気がつかずに足を乗せた。

かがんで下駄の向きを直しているところへ、小六が出て来た。

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こごんで位置を調ととのえているところへ小六が出て来た。

台所の方で御米が、

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台所の方で御米およねが、

「誰? 兄さん?」

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「誰? 兄さん?」

と聞いた。

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と聞いた。

宗助は、

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宗助は、

「やあ、来ていたのか」

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「やあ、来ていたのか」

と言いながら座敷へ上がった。

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と云いながら座敷へ上った。

さっき郵便を出してから、神田を散歩して、電車を降りて家へ帰るまで、宗助の頭には小六の小の字も浮かばなかった。

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先刻さっき郵便を出してから、神田を散歩して、電車を降りて家へ帰るまで、宗助の頭には小六の小の字もひらめかなかった。

宗助は小六の顔を見た時、何となく悪いことでもしたようで、きまりが悪かった。

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宗助は小六の顔を見た時、何となく悪い事でもしたようにきまりが好くなかった。

「御米、御米」

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「御米、御米」

と細君を台所から呼んで、

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と細君を台所から呼んで、

「小六が来たんだから、何かご馳走でもするといい」

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「小六が来たから、何か御馳走ごちそうでもするが好い」

と言いつけた。

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と云いつけた。

細君は忙しそうに台所の障子を開け放したまま出て来て、座敷の入口に立っていたが、この分かり切った注意を聞くやいなや、

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細君は、忙がしそうに、台所の障子しょうじを開け放したまま出て来て、座敷の入口に立っていたが、この分り切った注意を聞くや否や、

「ええ、今すぐ」

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「ええ今じき

と言ったきり引き返そうとしたが、また戻って来て、

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と云ったなり、引き返そうとしたが、また戻って来て、

「その代わり小六さん、お手数だけど、座敷の戸を閉めてランプを点けてちょうだい。今、私も清も手が放せないところだから」

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「その代り小六さん、はばかさま。座敷の戸をてて、洋灯ランプけてちょうだい。今わたしきよも手が放せないところだから」

と頼んだ。

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依頼たのんだ。

小六は簡単に、

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小六は簡単に、

「はい」

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「はあ」

と言って立ち上がった。

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と云って立ち上がった。

勝手では清が物を刻む音がする。

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勝手では清が物を刻む音がする。

湯か水をざあっと流しへ空ける音がする。

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湯か水をざあと流しへける音がする。

「奥様、これはどちらへ移します」

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「奥様これはどちらへ移します」

という声がする。

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と云う声がする。

「姉さん、ランプの芯を切る鋏はどこにあるんですか」

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「姉さん、ランプのしんはさみはどこにあるんですか」

という小六の声がする。

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と云う小六の声がする。

しゅうっと湯が沸きこぼれて七輪の火にかかった様子である。

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しゅうと湯がたぎって七輪しちりんの火へかかった様子である。

宗助は暗い座敷の中で黙って手あぶりに手をかざしていた。

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宗助は暗い座敷の中で黙然もくねん手焙てあぶりへ手をかざしていた。

灰の上に出た火の塊だけが色づいて赤く見えた。

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灰の上に出た火のかたまりだけが色づいて赤く見えた。

その時、裏の崖の上の家主の家のお嬢さんがピアノを鳴らし出した。

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その時裏のがけの上の家主やぬしの家の御嬢さんがピヤノを鳴らし出した。

宗助は思い出したように立ち上がって、座敷の雨戸を閉めに縁側へ出た。

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宗助は思い出したように立ち上がって、座敷の雨戸を引きに縁側えんがわへ出た。

孟宗竹が薄黒く空の色を乱している上に、一つ二つの星がきらめいた。

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孟宗竹もうそうちくが薄黒く空の色を乱す上に、一つ二つの星がきらめいた。

ピアノの音は孟宗竹の後ろから響いた。

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ピヤノのは孟宗竹のうしろから響いた。

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宗助と小六が手拭いを下げて風呂から帰って来た時には、座敷の真ん中に真四角な食卓を据えて、御米の手料理が手際よくその上に並べてあった。

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宗助そうすけ小六ころく手拭てぬぐいを下げて、風呂ふろから帰って来た時は、座敷の真中に真四角な食卓をえて、御米およねの手料理が手際てぎわよくその上に並べてあった。

手あぶりの火も出がけより濃い色に燃えていた。

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手焙てあぶりの火も出がけよりは濃い色に燃えていた。

ランプも明るかった。

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洋灯ランプも明るかった。

宗助が机の前の座布団を引き寄せてその上に楽々とあぐらをかいた時、手拭いと石鹸を受け取った御米は、

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宗助が机の前の座蒲団ざぶとんを引き寄せて、その上に楽々らくらく胡坐あぐらいた時、手拭と石鹸シャボンを受取った御米は、

「いいお湯だった?」

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「好い御湯だった事?」

と聞いた。

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と聞いた。

宗助はただ一言、

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宗助はただ一言ひとこと

「うん」

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「うん」

と答えただけだったが、その様子はそっけないというより、むしろ湯上がりで精神が緩んだ気味に見えた。

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と答えただけであったが、その様子は素気そっけないと云うよりも、むしろ湯上りで、精神が弛緩しかんした気味に見えた。

「なかなかいい湯でした」

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「なかなか好い湯でした」

と小六が御米の方を見て調子を合わせた。

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と小六が御米の方を見て調子を合せた。

「しかし、ああ混んじゃたまらないよ」

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「しかしああ込んじゃたまらないよ」

と宗助が机の端に肘をもたせながら、けだるそうに言った。

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と宗助が机のはじひじを持たせながら、倦怠けたるそうに云った。

宗助が風呂に行くのはいつも役所が退けて家へ帰ってからのことだから、ちょうど人の立て込む夕食前の黄昏どきである。

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宗助が風呂に行くのは、いつでも役所が退けて、うちへ帰ってからの事だから、ちょうど人の立て込む夕食前ゆうめしまえ黄昏たそがれである。

彼はこの二、三か月の間、一度も日の光に透かして湯の色を眺めたことがない。

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彼はこの二三カ月間ついぞ、日の光にかして湯の色をながめた事がない。

それならまだしも、ともすると三日も四日もまるで銭湯の敷居をまたがずに過ごしてしまう。

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それならまだしもだが、ややともすると三日も四日もまるで銭湯の敷居をまたがずに過してしまう。

日曜になったら朝早く起きて、何よりもまずきれいな湯に首まで浸かってみようと普段は考えているが、さてその日曜が来てみると、たまにゆっくり寝られるのは今日だけじゃないかという気になって、つい床の中でぐずぐずしているうちに時間が遠慮なく過ぎ、ええ面倒だ、今日はやめにして、その代わり今度の日曜に行こうと思い直すのが、ほとんど惰性のようになっている。

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日曜になったら、朝早く起きて何よりも第一に奇麗きれいな湯に首だけつかってみようと、常は考えているが、さてその日曜が来て見ると、たまにゆっくり寝られるのは、今日ばかりじゃないかと云う気になって、つい床のうちでぐずぐずしているうちに、時間が遠慮なく過ぎて、ええ面倒だ、今日はやめにして、その代り今度こんだの日曜に行こうと思い直すのが、ほとんど惰性のようになっている。

「どうにかして、朝湯にだけは行きたいね」

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「どうかして、朝湯にだけは行きたいね」

と宗助が言った。

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と宗助が云った。

「そのくせ朝湯に行ける日は、きっと寝坊なさるのね」

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「その癖朝湯に行ける日は、きっと寝坊ねぼうなさるのね」

と細君はからかうような口調だった。

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と細君は調戯からかうような口調であった。

小六は腹の中で、これが兄の生まれつきの弱点だと思い込んでいた。

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小六は腹の中でこれが兄の性来うまれつきの弱点であると思い込んでいた。

彼は自分が学校生活を送っているにもかかわらず、兄の日曜が兄にとってどれほど貴重かを理解できなかった。

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彼は自分で学校生活をしているにもかかわらず、兄の日曜が、いかに兄にとってたっといかを会得えとくできなかった。

六日間の暗い精神の働きを、ただこの一日で暖かく回復しようと、兄は多くの望みを二十四時間のうちに投げ込んでいる。

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六日間の暗い精神作用を、ただこの一日で暖かに回復すべく、兄は多くの希望を二十四時間のうちに投げ込んでいる。

だからやりたいことがあり過ぎて、十のうち二つ三つも実行できない。

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だからやりたい事があり過ぎて、十の二三も実行できない。

いや、その二つ三つにしても、進んで実行にかかると、かえってそのために費やす時間の方が惜しくなってきて、つい手を引っ込め、じっとしているうちに日曜はいつか暮れてしまうのである。

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否、その二三にしろ進んで実行にかかると、かえってそのために費やす時間の方が惜しくなって来て、ついまた手を引込めて、じっとしているうちに日曜はいつか暮れてしまうのである。

自分の気晴らしや保養や、娯楽あるいは趣味についてさえ、これほど切り詰めなければならない境遇にある宗助が、小六のために尽くさないのは、尽くさないのではなく、頭に尽くす余裕がないのだということは、小六から見るとどうしても受け取れなかった。

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自分の気晴しや保養や、娯楽もしくは好尚こうしょうについてですら、かように節倹しなければならない境遇にある宗助が、小六のために尽さないのは、尽さないのではない、頭に尽す余裕よゆうのないのだとは、小六から見ると、どうしても受取れなかった。

兄はただ手前勝手な男で、暇があればぶらぶらして細君と遊んでばかりいて、まるで頼りにも力にもなってくれない、本当は情の薄い人だ、くらいに考えていた。

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兄はただ手前勝手な男で、暇があればぶらぶらして細君と遊んでばかりいて、いっこう頼りにも力にもなってくれない、真底は情合じょうあいに薄い人だぐらいに考えていた。

けれども小六がそう感じ出したのはつい近ごろのことで、実を言えば佐伯とのやり取りが始まって以来の話である。

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けれども、小六がそう感じ出したのは、つい近頃の事で、実を云うと、佐伯との交渉が始まって以来の話である。

年が若いだけにすべてに性急な小六は、兄に頼めば今日明日にも片がつくものと思い込んでいたのに、いつまでも埒が明かないばかりか、まだ先方へ出かけてもくれないので、だいぶ不平になったのである。

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年の若いだけ、すべてに性急な小六は、兄に頼めば今日明日きょうあすにもかたがつくものと、思い込んでいたのに、何日いつまでもらちが明かないのみか、まだ先方へ出かけてもくれないので、だいぶ不平になったのである。

ところが今日、帰りを待ち受けて会ってみると、そこは兄弟で、特にお世辞も使わないうちにどこか暖かみのある仕打ちも見えるので、つい言いたいことも後回しにして、いっしょに湯に入ったりして、穏やかに打ち解けて話せるようになってきた。

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ところが今日帰りを待ち受けてって見ると、そこが兄弟で、別に御世辞も使わないうちに、どこか暖味あたたかみのある仕打も見えるので、つい云いたい事も後廻しにして、いっしょに湯になんぞ這入はいって、穏やかに打ち解けて話せるようになって来た。

兄弟はくつろいで膳についた。

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兄弟はくつろいでぜんについた。

御米も遠慮なく食卓の一隅を占めた。

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御米も遠慮なく食卓の一隅ひとすみりょうした。

宗助も小六も猪口を二、三杯ずつ干した。

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宗助も小六も猪口ちょくを二三杯ずつ干した。

飯にかかる前に、宗助は笑いながら、

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飯にかかる前に、宗助は笑いながら、

「そうだ、面白いものがあったっけ」

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「うん、面白いものが有ったっけ」

と言いながら、袂から買って来たゴム風船の達磨を出して、大きく膨らませてみせた。

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と云いながら、たもとから買って来た護謨風船ゴムふうせん達磨だるまを出して、大きくふくらませて見せた。

そうしてそれを椀の蓋の上に載せて、その特徴を説明して聞かせた。

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そうして、それをわんふたの上へせて、その特色を説明して聞かせた。

御米も小六も面白がって、ふわふわした玉を見ていた。

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御米も小六も面白がって、ふわふわした玉を見ていた。

しまいに小六がふうっと吹いたら、達磨は膳の上から畳の上へ落ちた。

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しまいに小六が、ふうっと吹いたら達磨はぜんの上から畳の上へ落ちた。

それでもまだ倒れなかった。

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それでも、まだかえらなかった。

「それご覧」

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「それ御覧」

と宗助が言った。

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と宗助が云った。

御米は女だけに声を出して笑ったが、お櫃の蓋を開けて夫の飯をよそいながら、

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御米は女だけに声を出して笑ったが、御櫃おはちふたを開けて、夫の飯をよそいながら、

「兄さんもずいぶんのんきね」

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「兄さんも随分呑気のんきね」

と小六の方を向いて、半ば夫を弁護するように言った。

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と小六の方を向いて、半ば夫を弁護するように云った。

宗助は細君から茶碗を受け取って、一言の弁解もなく食事を始めた。

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宗助は細君から茶碗を受取って、一言ひとことの弁解もなく食事を始めた。

小六も正式に箸を取り上げた。

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小六も正式にはしを取り上げた。

達磨はそれきり話題に上らなかったが、これがきっかけになって、三人は飯の済むまで無邪気にのどかな話を続けた。

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達磨はそれぎり話題にのぼらなかったが、これがいとくちになって、三人は飯の済むまで無邪気に長閑のどかな話をつづけた。

しまいに小六が話を変えて、

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しまいに小六が気を換えて、

「ところで、伊藤さんもとんだことになりましたね」

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「時に伊藤さんもとんだ事になりましたね」

と言い出した。

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と云い出した。

宗助は五、六日前に伊藤公暗殺の号外を見た時、御米の働いている台所へ出て来て、「おい、大変だ、伊藤さんが殺された」

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宗助は五六日前伊藤公暗殺の号外を見たとき、御米の働いている台所へ出て来て、「おい大変だ、伊藤さんが殺された」

と言って、手に持った号外を御米のエプロンの上に乗せたまま書斎へ入ったが、その語気からいえば、むしろ落ち着いたものだった。

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と云って、手に持った号外を御米のエプロンの上に乗せたなり書斎へ這入はいったが、その語気からいうと、むしろ落ちついたものであった。

「あなた、大変だって言うくせに、ちっとも大変らしい声じゃなくてよ」

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「あなた大変だって云う癖に、ちっとも大変らしい声じゃなくってよ」

と御米があとから冗談半分にわざわざ注意したくらいである。

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と御米があとから冗談じょうだん半分にわざわざ注意したくらいである。

その後、毎日の新聞に伊藤公のことが五、六段ずつ出ない日はないが、宗助はそれに目を通しているのかいないのか分からないほど、暗殺事件については平気に見えた。

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その後日ごとの新聞に伊藤公の事が五六段ずつ出ない事はないが、宗助はそれに目を通しているんだか、いないんだか分らないほど、暗殺事件については平気に見えた。

夜帰って来て、御米が飯の給仕をする時などに、「今日も伊藤さんのことが何か出ていて」

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夜帰って来て、御米が飯の御給仕をするときなどに、「今日も伊藤さんの事が何か出ていて」

と聞くことがあるが、その時には「うん、だいぶ出ている」

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と聞く事があるが、その時には「うんだいぶ出ている」

と答えるくらいだから、夫のポケットの中に畳んである今朝の読み残しをあとから出して読んでみないと、その日の記事は分からなかった。

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と答えるぐらいだから、夫の隠袋かくしの中に畳んである今朝の読殻よみがらを、あとから出して読んで見ないと、その日の記事は分らなかった。

御米も結局は夫が帰宅したあとの会話の材料として伊藤公を引き合いに出すくらいのところだから、宗助が気の進まない方向へ、無理に話を引っ張りたくはなかった。

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御米もつまりは夫が帰宅後の会話の材料として、伊藤公を引合に出すぐらいのところだから、宗助が進まない方向へは、たって話を引張りたくはなかった。

それでこの二人の間では、号外発行の当日以後、今夜小六がそれを言い出すまで、世間では天下を動かしている問題も、特別な興味をもって迎えられてはいなかったのである。

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それでこの二人の間には、号外発行の当日以後、今夜小六がそれを云い出したまでは、おおやけには天下を動かしつつある問題も、格別の興味をもって迎えられていなかったのである。

「どうして、まあ殺されたんでしょう」

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「どうして、まあ殺されたんでしょう」

と御米は、号外を見た時に宗助に聞いたのと同じことを、また小六に向かって聞いた。

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と御米は号外を見たとき、宗助に聞いたと同じ事をまた小六に向って聞いた。

「ピストルをポンポン連発したのが命中したんです」

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短銃ピストルをポンポン連発したのが命中めいちゅうしたんです」

と小六は正直に答えた。

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と小六は正直に答えた。

「だけどさ。どうして、まあ殺されたんでしょう」

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「だけどさ。どうして、まあ殺されたんでしょう」

小六は要領を得ないような顔をしている。

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小六は要領を得ないような顔をしている。

宗助は落ち着いた調子で、

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宗助は落ちついた調子で、

「やっぱり運命だなあ」

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「やっぱり運命だなあ」

と言って、茶碗の茶をうまそうに飲んだ。

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と云って、茶碗の茶をうまそうに飲んだ。

御米はこれでも納得できなかったと見えて、

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御米はこれでも納得なっとくができなかったと見えて、

「どうしてまた満州などへ行ったんでしょう」

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「どうしてまた満洲まんしゅうなどへ行ったんでしょう」

と聞いた。

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と聞いた。

「本当にな」

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「本当にな」

と宗助は腹がふくれて十分満ち足りた様子だった。

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と宗助は腹が張って充分物足りた様子であった。

「何でも、ロシアに秘密の用があったんだそうです」

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「何でも露西亜ロシアに秘密な用があったんだそうです」

と小六が真面目な顔をして言った。

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と小六が真面目まじめな顔をして云った。

御米は、

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御米は、

「そう。でも嫌ねえ。殺されちゃ」

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「そう。でもいやねえ。殺されちゃ」

と言った。

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と云った。

「おれみたいな安月給取りは殺されちゃ嫌だが、伊藤さんみたいな人は、ハルビンへ行って殺される方がいいんだよ」

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「おれみたような腰弁こしべんは、殺されちゃ厭だが、伊藤さんみたような人は、哈爾賓ハルピンへ行って殺される方がいいんだよ」

と宗助が初めて調子づいた口をきいた。

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と宗助が始めて調子づいた口をいた。

「あら、なぜ」

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「あら、なぜ」

「なぜって、伊藤さんは殺されたから歴史的に偉い人になれるのさ。ただ死んでご覧、こうはいかないよ」

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「なぜって伊藤さんは殺されたから、歴史的に偉い人になれるのさ。ただ死んで御覧、こうはいかないよ」

「なるほど、そんなものかもしれないな」

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「なるほどそんなものかも知れないな」

と小六は少し感服したようだったが、やがて、

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と小六は少し感服したようだったが、やがて、

「とにかく満州だの、ハルビンだのって物騒な所ですね。僕は何だか危険なような心持ちがしてならない」

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「とにかく満洲だの、哈爾賓だのって物騒な所ですね。僕は何だか危険なような心持がしてならない」

と言った。

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と云った。

「そりゃ、いろんな人が落ち合っているからね」

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「そりゃ、色んな人が落ち合ってるからね」

この時、御米は妙な顔をして、そう答えた夫の顔を見た。

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この時御米は妙な顔をして、こう答えた夫の顔を見た。

宗助もそれに気がついたらしく、

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宗助もそれに気がついたらしく、

「さあ、もう膳を下げたらいいだろう」

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「さあ、もう御膳おぜんを下げたら好かろう」

と細君を促して、さっきの達磨をまた畳の上から取り、人差し指の先に載せながら、

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と細君をうながして、先刻さっき達磨だるまをまた畳の上から取って、人指指ひとさしゆびの先へせながら、

「どうも妙だよ。よくこう具合よくできるものだと思ってね」

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「どうも妙だよ。よくこう調子好くできるものだと思ってね」

と言っていた。

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と云っていた。

台所から清が出て来て、食い散らかした皿や小鉢を食卓ごと引いて行ったあと、御米も茶を入れ替えるために次の間へ立ったので、兄弟は差し向かいになった。

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台所からきよが出て来て、食い散らした皿小鉢さらこばちを食卓ごと引いて行った後で、御米も茶を入れ替えるために、次の間へ立ったから、兄弟は差向いになった。

「ああ、きれいになった。どうも食ったあとは汚いものでね」

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「ああ奇麗きれいになった。どうも食った後は汚ないものでね」

と宗助はまったく食卓に未練のない顔をした。

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と宗助は全く食卓に未練のない顔をした。

勝手の方で清がしきりに笑っている。

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勝手の方で清がしきりに笑っている。

「何がそんなにおかしいの、清」

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「何がそんなにおかしいの、清」

と御米が障子越しに話しかける声が聞こえた。

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と御米が障子越しょうじごしに話しかける声が聞えた。

清は、へえ、と言ってなお笑い出した。

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清はへえと云ってなお笑い出した。

兄弟は何も言わず、半ば下女の笑い声に耳を傾けていた。

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兄弟は何にも云わず、なかば下女の笑い声に耳を傾けていた。

しばらくして、御米が菓子皿と茶盆を両手に持ってまた出て来た。

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しばらくして、御米が菓子皿と茶盆を両手に持って、また出て来た。

藤蔓の付いた大きな急須から、胃にも頭にも障らない番茶を、湯呑みほど大きな茶碗に注いで、二人の前へ置いた。

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藤蔓ふじづるの着いた大きな急須きゅうすから、胃にも頭にもこたえない番茶を、湯呑ゆのみほどな大きな茶碗ちゃわんいで、両人ふたりの前へ置いた。

「何だって、あんなに笑うんだい」

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「何だって、あんなに笑うんだい」

と夫が聞いた。

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と夫が聞いた。

けれども御米の顔は見ずに、かえって菓子皿の中を覗いていた。

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けれども御米の顔は見ずにかえって菓子皿の中をのぞいていた。

「あなたがあんな玩具を買って来て、面白そうに指の先へ乗せていらっしゃるからよ。子供もないくせに」

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「あなたがあんな玩具おもちゃを買って来て、面白そうに指の先へ乗せていらっしゃるからよ。子供もない癖に」

宗助は気にも留めないように、軽く「そうか」

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宗助は意にも留めないように、軽く「そうか」

と言ったが、あとからゆっくり、

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と云ったが、あとからゆっくり、

「これでも元は子供があったんだがね」

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「これでも元は子供があったんだがね」

と、いかにも自分で自分の言葉を味わっている風に付け足して、生ぬるい目を挙げて細君を見た。

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と、さも自分で自分の言葉を味わっている風につけ足して、生温なまぬるい眼を挙げて細君を見た。

御米はぴたりと黙ってしまった。

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御米はぴたりと黙ってしまった。

「あなた、お菓子を食べなくて」

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「あなた御菓子食べなくって」

と、しばらくしてから小六の方へ向いて話しかけたが、

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と、しばらくしてから小六の方へ向いて話し掛けたが、

「ええ、食べます」

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「ええ食べます」

という小六の返事を聞き流して、つと茶の間へ立って行った。

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と云う小六の返事を聞き流して、ついと茶の間へ立って行った。

兄弟はまた差し向かいになった。

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兄弟はまた差向いになった。

電車の終点から歩くと二十分近くもかかる山の手の奥だけあって、まだ宵の口だけれども、あたりは思いのほか静かである。

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電車の終点から歩くと二十分近くもかかる山の手の奥だけあって、まだよいくちだけれども、四隣あたりは存外静かである。

時々表を通る薄歯の下駄の音が冴えて、夜の寒さがしだいに増してくる。

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時々表を通る薄歯の下駄の響がえて、夜寒よさむがしだいに増して来る。

宗助は懐手をして、

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宗助は懐手ふところでをして、

「昼間は暖かいが、夜になると急に寒くなるね。寄宿ではもうスチームを通しているかい」

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「昼間はあったかいが、夜になると急に寒くなるね。寄宿じゃもう蒸汽スチームを通しているかい」

と聞いた。

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と聞いた。

「いえ、まだです。学校ではよほど寒くならないと、スチームなんか焚きゃしません」

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「いえ、まだです。学校じゃよっぽど寒くならなくっちゃ、蒸汽なんかきゃしません」

「そうかい。それじゃ寒いだろう」

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「そうかい。それじゃ寒いだろう」

「ええ。しかし寒いくらいはどうでも構わないつもりですが」

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「ええ。しかし寒いくらいどうでも構わないつもりですが」

と言ったまま、小六は少し言いよどんでいたが、しまいにとうとう思い切って、

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と云ったまま、小六はすこし云いよどんでいたが、しまいにとうとう思い切って、

「兄さん、佐伯の方はいったいどうなるんでしょう。さっき姉さんから聞いたら、今日手紙を出してくださったそうですが」

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「兄さん、佐伯さえきの方はいったいどうなるんでしょう。先刻さっき姉さんから聞いたら、今日手紙を出して下すったそうですが」

「ああ、出した。二、三日中に何とか言って来るだろう。その上でまたおれが行くとでも、どうとでもしようよ」

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「ああ出した。二三日中に何とか云って来るだろう。その上でまたおれが行くともどうともしようよ」

小六は兄の平気な態度を、心の中では飽き足りない思いで眺めた。

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小六は兄の平気な態度を、心のうちでは飽足らずながめた。

しかし宗助の様子には、どこと言って人を怒らせるような鋭いところも、自分をかばうような卑しい点もないので、食ってかかる勇気はまるで出なかった。

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しかし宗助の様子にどこと云って、ひとを激させるようなするどいところも、みずからを庇護かばうようないやしい点もないので、ってかかる勇気はさらに出なかった。

ただ

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ただ

「じゃ、今日まであのままにしてあったんですか」

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「じゃ今日きょうまであのままにしてあったんですか」

と、ただ事実を確かめた。

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と単に事実を確めた。

「うん、実は済まないがあのままだ。手紙も今日やっとのことで書いたくらいだ。どうも仕方がないよ。近ごろ神経衰弱でね」

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「うん、実は済まないがあのままだ。手紙も今日やっとの事で書いたくらいだ。どうも仕方がないよ。近頃神経衰弱でね」

と真面目に言う。

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真面目まじめに云う。

小六は苦笑した。

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小六は苦笑した。

「もし駄目なら、僕は学校をやめて、いっそ今のうちに満州か朝鮮へでも行こうかと思っているんです」

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「もし駄目なら、僕は学校をやめて、いっそ今のうち、満洲か朝鮮へでも行こうかと思ってるんです」

「満州か朝鮮? ずいぶんまた思い切ったものだね。だってお前、さっき満州は物騒で嫌だと言ったじゃないか」

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「満洲か朝鮮? ひどくまた思い切ったもんだね。だって、御前先刻さっき満洲は物騒でいやだって云ったじゃないか」

用談はこんなところを行ったり来たりして、ついに要領を得なかった。

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用談はこんなところに往ったり来たりして、ついに要領を得なかった。

しまいに宗助が、

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しまいに宗助が、

「まあ、いいや、そう心配しなくてもどうにかなるよ。とにかく返事が来しだい、おれがすぐ知らせてやる。その上でまた相談するとしよう」

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「まあ、好いや、そう心配しないでも、どうかなるよ。何しろ返事の来しだい、おれがすぐ知らせてやる。その上でまた相談するとしよう」

と言ったので、話に区切りがついた。

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と云ったので、談話はなしに区切がついた。

小六が帰りがけに茶の間を覗いたら、御米は何もせずに長火鉢に寄りかかっていた。

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小六が帰りがけに茶の間をのぞいたら、御米は何にもしずに、長火鉢ながひばちりかかっていた。

「姉さん、さようなら」

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「姉さん、さようなら」

と声を掛けたら、「おや、お帰り」

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と声を掛けたら、「おや御帰り」

と言いながらようやく立って来た。

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と云いながらようやく立って来た。

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小六が気に病んでいた佐伯からは、予期のとおり二、三日して返事があったが、それはきわめて簡単なもので、葉書でも用の足りるところを丁寧に封筒へ入れて三銭の切手を貼った、叔母の自筆に過ぎなかった。

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小六ころくにしていた佐伯さえきからは、予期の通り二三日して返事があったが、それはきわめて簡単なもので、端書はがきでも用の足りるところを、鄭重ていちょうに封筒へ入れて三銭の切手をった、叔母の自筆に過ぎなかった。

役所から帰って、筒袖の仕事着を窮屈そうに脱ぎ替え、火鉢の前へ座るやいなや、引き出しから一寸ほどわざと余して差し込んである封筒に目が留まったので、御米が汲んで出す番茶を一口飲んだまま、宗助はすぐ封を切った。

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役所から帰って、筒袖つつそでの仕事着を、窮屈そうにえて、火鉢ひばちの前へすわるや否や、抽出ひきだしから一寸ほどわざと余して差し込んであった状袋に眼が着いたので、御米およねの汲んで出す番茶を一口んだまま、宗助そうすけはすぐ封を切った。

「へえ、安さんは神戸へ行ったんだってね」

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「へえ、やすさんは神戸へ行ったんだってね」

と手紙を読みながら言った。

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と手紙を読みながら云った。

「いつ?」

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「いつ?」

と御米は湯呑みを夫の前に出した時の姿勢のままで聞いた。

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と御米は湯呑を夫の前に出した時の姿勢のままで聞いた。

「いつとも書いてないがね。とにかく、遠からぬうちには帰京いたすはずでございますから、と書いてあるから、もうじき帰って来るんだろう」

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「いつとも書いてないがね。何しろ遠からぬうちには帰京仕るべく候間と書いてあるから、もうじき帰って来るんだろう」

「遠からぬうちなんて、やっぱり叔母さんね」

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「遠からぬうちなんて、やっぱり叔母さんね」

宗助は御米の批評に、同意も不同意も示さなかった。

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宗助は御米の批評に、同意も不同意も表しなかった。

読んだ手紙を巻き納めて、投げるようにそこへ放り出し、四、五日目になるざらざらした顎を気味悪そうに撫で回した。

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読んだ手紙を巻き納めて、投げるようにそこへ放り出して、四五日目になる、ざらざらしたあごを、気味わるそうにで廻した。

御米はすぐその手紙を拾ったが、特に読もうともしなかった。

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御米はすぐその手紙を拾ったが、別に読もうともしなかった。

それを膝の上に乗せたまま、夫の顔を見て、

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それをひざの上へ乗せたまま、夫の顔を見て、

「遠からぬうちには帰京いたすはずでございますから、どうだって言うの」

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「遠からぬうちには帰京つかまつるべく候間、どうだって云うの」

と聞いた。

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と聞いた。

「いずれ帰ったら、安之助と相談して何とかご挨拶をいたします、と言うのさ」

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「いずれ帰ったら、安之助やすのすけと相談して何とか御挨拶ごあいさつを致しますと云うのさ」

「遠からぬうちじゃ曖昧ね。いつ帰るとも書いてなくて」

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「遠からぬうちじゃ曖昧あいまいね。いつ帰るとも書いてなくって」

「いいや」

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「いいや」

御米は念のため、膝の上の手紙を初めて開いてみた。

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御米は念のため、膝の上の手紙を始めて開いて見た。

そうしてそれを元のように畳んで、

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そうしてそれを元のように畳んで、

「ちょっと、その封筒を」

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「ちょっとその状袋を」

と手を夫の方へ出した。

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と手をおっとの方へ出した。

宗助は自分と火鉢の間に挟まっている青い封筒を取って細君に渡した。

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宗助は自分と火鉢の間に挟まっている青い封筒を取って細君に渡した。

御米はそれをふっと吹いて中を膨らませ、手紙を収めた。

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御米はそれをふっと吹いて、中をふくらまして手紙を収めた。

そうして台所へ立った。

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そうして台所へ立った。

宗助はそれきり手紙のことに気を留めなかった。

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宗助はそれぎり手紙の事には気を留めなかった。

今日役所で同僚が、この間イギリスから来たキチナー元帥に新橋のそばで会ったという話をしたのを思い出して、ああいう人間になると、世界中どこへ行っても世間を騒がせるようにできているようだが、実際そういう風に生まれついて来たのかもしれない。

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今日役所で同僚が、この間英吉利イギリスから来遊したキチナー元帥に、新橋のそばったと云う話を思い出して、ああ云う人間になると、世界中どこへ行っても、世間を騒がせるようにできているようだが、実際そういう風に生れついて来たものかも知れない。

自分の過去から引きずってきた運命や、またその続きとしてこれから自分の目の前に開けるはずの将来を取って、キチナーという人のそれと比べてみると、とうてい同じ人間とは思えないほど懸け隔たっている。

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自分の過去から引きってきた運命や、またその続きとして、これから自分の眼前に展開されべき将来を取って、キチナーと云う人のそれに比べて見ると、とうてい同じ人間とは思えないぐらいへだたっている。

こう考えて、宗助はしきりに煙草を吹かした。

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こう考えて宗助はしきりに煙草たばこを吹かした。

表は夕方から風が吹き出して、わざと遠くの方から襲って来るような音がする。

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表は夕方から風が吹き出して、わざと遠くの方からおそって来るような音がする。

それが時々やむと、やんだ間はしんとして、吹き荒れる時よりもなお寂しい。

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それが時々やむと、やんだ間はしんとして、吹き荒れる時よりはなおさびしい。

宗助は腕組みをしながら、もうそろそろ火事の半鐘が鳴り出す時節だと思った。

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宗助は腕組をしながら、もうそろそろ火事の半鐘はんしょうが鳴り出す時節だと思った。

台所へ出てみると、細君は七輪の火を赤くして魚の切り身を焼いていた。

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台所へ出て見ると、細君は七輪しちりんの火を赤くして、さかなの切身を焼いていた。

清は流しもとにかがんで漬物を洗っていた。

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きよは流し元にこごんで漬物を洗っていた。

二人とも口をきかずに、せっせと自分のやることをやっている。

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二人とも口をかずにせっせと自分のやる事をやっている。

宗助は障子を開けたまま、しばらく魚から垂れる汁か脂の音を聞いていたが、無言のまままた障子を閉めて元の座へ戻った。

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宗助は障子しょうじを開けたなり、しばらく肴からつゆあぶらの音を聞いていたが、無言のまままた障子をてて元の座へ戻った。

細君は目さえ魚から離さなかった。

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細君は眼さえ肴から離さなかった。

食事を済まして、夫婦が火鉢を間に向かい合った時、御米はまた

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食事を済まして、夫婦が火鉢をあいに向い合った時、御米はまた

「佐伯の方は困るのね」

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「佐伯の方は困るのね」

と言い出した。

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と云い出した。

「まあ仕方がない。安さんが神戸から帰るまで待つよりほかに道はあるまい」

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「まあ仕方がない。安さんが神戸から帰るまで待つよりほかに道はあるまい」

「その前に、ちょっと叔母さんに会って話をしておいた方がよくなくて」

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「その前にちょっと叔母さんに逢って話をしておいた方が好かなくって」

「そうさ。まあそのうち何とか言って来るだろう。それまで放っておこうよ」

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「そうさ。まあそのうち何とか云って来るだろう。それまで打遣うっちゃっておこうよ」

「小六さんが怒ってよ。いいの」

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「小六さんが怒ってよ。よくって」

と御米はわざと念を押しておいて微笑した。

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と御米はわざと念を押しておいて微笑した。

宗助は目を伏せて、手に持った楊枝を着物の襟へ差した。

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宗助は下眼を使って、手に持った小楊枝こようじを着物のえりへ差した。

一日おいて、宗助はようやく佐伯からの返事を小六に知らせてやった。

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中一日なかいちんち置いて、宗助はようやく佐伯からの返事を小六に知らせてやった。

その時も手紙の終わりに、まあそのうちどうにかなるだろうという意味を、例のごとく付け加えた。

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その時も手紙のしりに、まあそのうちどうかなるだろうと云う意味を、例のごとく付け加えた。

そうして当分はこの件について肩の荷が下りたように感じた。

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そうして当分はこの事件について肩が抜けたように感じた。

成り行きがまた窮屈に目の前へ押し寄せて来るまでは、忘れている方が面倒がなくていいくらいな顔をして、毎日役所へ出てはまた役所から帰って来た。

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自然の経過なりゆきがまた窮屈に眼の前に押し寄せて来るまでは、忘れている方が面倒がなくって好いぐらいな顔をして、毎日役所へ出てはまた役所から帰って来た。

帰りも遅いが、帰ってから出かけるなどという億劫なことはめったになかった。

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帰りも遅いが、帰ってから出かけるなどという億劫おっくうな事は滅多めったになかった。

客はほとんど来ない。

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客はほとんど来ない。

用のない時は、清を十時前に寝かすことさえあった。

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用のない時は清を十時前にかす事さえあった。

夫婦は毎晩同じ火鉢の両側に向き合って、食後一時間ほど話をした。

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夫婦は毎夜同じ火鉢の両側に向き合って、食後一時間ぐらい話をした。

話の題は、彼らの暮らしぶりに相応した程度のものだった。

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話の題目は彼らの生活状態に相応した程度のものであった。

けれども、米屋の払いをこの月末にはどうしたものだろうという苦しい所帯話は、いまだかつて一度も彼らの口に上らなかった。

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けれども米屋の払を、この三十日みそかにはどうしたものだろうという、苦しい世帯話は、いまだかつて一度も彼らの口には上らなかった。

かといって、小説や文学の批評はもちろん、男と女の間を陽炎のように飛び回る華やかな言葉のやり取りも、ほとんど聞かれなかった。

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と云って、小説や文学の批評はもちろんの事、男と女の間を陽炎かげろうのように飛び廻る、花やかな言葉のやりとりはほとんど聞かれなかった。

彼らはそれほどの年輩でもないのに、もうそこを通り抜けて、日ごとに地味になって行く人のようにも見えた。

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彼らはそれほどの年輩でもないのに、もうそこを通り抜けて、日ごとに地味になって行く人のようにも見えた。

あるいは最初から、色彩の薄いきわめて平凡な人間が、習慣的に夫婦の関係を結ぶために寄り合ったようにも見えた。

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または最初から、色彩の薄いきわめて通俗の人間が、習慣的に夫婦の関係を結ぶために寄り合ったようにも見えた。

うわべから見ると、夫婦ともそれほど物事にくよくよする様子はなかった。

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上部うわべから見ると、夫婦ともそう物に屈托くったくする気色けしきはなかった。

それは彼らが小六の件に関して取った態度を見ても、だいたい想像がつく。

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それは彼らが小六の事に関して取った態度について見てもほぼ想像がつく。

さすがに女だけに、御米は一、二度、

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さすが女だけに御米は一二度、

「安さんはまだ帰らないんでしょうかね。あなた、今度の日曜にでも番町まで行ってご覧にならなくて」

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「安さんは、まだ帰らないんでしょうかね。あなた今度こんだの日曜ぐらいに番町まで行って御覧なさらなくって」

と注意したことがあるが、宗助は、

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と注意した事があるが、宗助は、

「うん、行ってもいい」

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「うん、行っても好い」

くらいな返事をするだけで、その行ってもいい日曜が来ると、まるで忘れたように済ましている。

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ぐらいな返事をするだけで、その行っても好い日曜が来ると、まるで忘れたように済ましている。

御米もそれを見て、責める様子もない。

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御米もそれを見て、責める様子もない。

天気がいいと、

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天気が好いと、

「少し散歩でもしていらっしゃい」

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「ちと散歩でもしていらっしゃい」

と言う。

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と云う。

雨が降ったり風が吹いたりすると、

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雨が降ったり、風が吹いたりすると、

「今日は日曜で幸せね」

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「今日は日曜で仕合せね」

と言う。

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と云う。

幸いなことに、小六はその後一度もやって来ない。

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幸にして小六はその一度もやって来ない。

この青年はきわめて凝り性の神経質で、こうと思うとどこまでも突き進んで行くところが書生時代の宗助によく似ている代わりに、ふと気が変わると、昨日のことはまるで忘れたようにひっくり返って、けろりとした顔をしている。

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この青年は、至ってしょうの神経質で、こうと思うとどこまでも進んで来るところが、書生時代の宗助によく似ている代りに、ふと気が変ると、昨日きのうの事はまるで忘れたように引っ繰り返って、けろりとした顔をしている。

そこも兄弟だけあって、昔の宗助そのままである。

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そこも兄弟だけあって、昔の宗助にそのままである。

それから、頭が比較的はっきりしていて、理屈に感情を注ぎ込むのか、あるいは感情に理屈の枠を張るのか、どちらか分からないが、とにかく物事に筋道を付けないと承知しないし、いったん筋道が付くと、その筋道を生かさずにはおかないほど熱中したがる。

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それから、頭脳が比較的明暸めいりょうで、理路に感情をぎ込むのか、または感情に理窟りくつわくを張るのか、どっちか分らないが、とにかく物に筋道を付けないと承知しないし、また一返いっぺん筋道が付くと、その筋道を生かさなくってはおかないように熱中したがる。

その上、体質の割に精力が続くので、若い血気にまかせてたいていのことはやる。

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その上体質の割合に精力がつづくから、若い血気に任せて大抵の事はする。

宗助は弟を見るたびに、昔の自分が再び生き返って自分の目の前で動いているような気がしてならなかった。

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宗助は弟を見るたびに、昔の自分が再び蘇生そせいして、自分の眼の前に活動しているような気がしてならなかった。

時にははらはらすることもあった。

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時には、はらはらする事もあった。

また苦々しく思う折もあった。

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また苦々にがにがしく思う折もあった。

そういう場合には、心の中で、当時の自分が一途に振る舞った苦い記憶をできるだけ何度も呼び起こさせるために、わざわざ天が小六を自分の目の前に据え付けるのではないかと思った。

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そう云う場合には、心のうちに、当時の自分が一図に振舞った苦い記憶を、できるだけしばしば呼び起させるために、とくに天が小六を自分の眼の前にえ付けるのではなかろうかと思った。

そうして非常に恐ろしくなった。

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そうして非常に恐ろしくなった。

こいつも、あるいは自分と同じ運命に陥るために生まれて来たのではないかと考えると、今度は大いに気がかりになった。

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こいつもあるいはおれと同一の運命におちいるために生れて来たのではなかろうかと考えると、今度は大いに心がかりになった。

時によっては、気がかりというより不愉快だった。

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時によると心がかりよりは不愉快であった。

けれども今日まで、宗助は小六に対して意見がましいことを言ったこともなければ、将来について注意を与えたこともなかった。

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けれども、今日こんにちまで宗助は、小六に対して意見がましい事を云った事もなければ、将来について注意を与えた事もなかった。

彼の弟に対する接し方は、ただ普通のありふれたものだった。

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彼の弟に対する待遇ほうはただ普通凡庸ぼんようのものであった。

彼の今の生活が、彼のような過去を持っている人とは思えないほど沈んでいるように、弟を扱う様子にも、過去と呼べるほどの経験を持った年長者らしい素振りは容易に出なかった。

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彼の今の生活が、彼のような過去を有っている人とは思えないほどに、沈んでいるごとく、彼の弟を取り扱う様子にも、過去と名のつくほどの経験をった年長者の素振そぶりは容易に出なかった。

宗助と小六の間には、まだ二人ほど男の子が挟まっていたが、いずれも早く亡くなってしまったので、兄弟とは言いながら、年は十ほど違っている。

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宗助と小六の間には、まだ二人ほど男の子がはさまっていたが、いずれも早世そうせいしてしまったので、兄弟とは云いながら、年はとおばかり違っている。

その上、宗助はある事情のために一年生の時に京都へ転学したから、朝夕いっしょに暮らしていたのは小六が十二、三の時までである。

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その上宗助はある事情のために、一年の時京都へ転学したから、朝夕ちょうせきいっしょに生活していたのは、小六の十二三の時までである。

宗助は、強情で聞かん気の腕白小僧としての小六を、いまだに覚えている。

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宗助は剛情ごうじょうかぬ気の腕白小僧としての小六をいまだに記憶している。

その時分は父も生きていたし、家の都合も悪くはなかったので、抱えの車夫を屋敷内の長屋に住まわせて、楽に暮らしていた。

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その時分は父も生きていたし、うちの都合も悪くはなかったので、抱車夫かかえしゃふを邸内の長屋に住まわして、楽に暮していた。

この車夫に小六より三つほど年下の子供がいて、いつも小六の相手をして遊んでいた。

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この車夫に小六よりは三つほど年下の子供があって、始終しじゅう小六の御相手をして遊んでいた。

ある夏の日盛りに、二人で長い竿の先に菓子袋をくくり付けて、大きな柿の木の下で蝉の捕り競べをしているのを宗助が見て、兼坊、そんなに頭を日に照らしつけると日射病になるよ、さあこれをかぶれ、と言って小六の古い夏帽子を出してやった。

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ある夏の日盛りに、二人して、長い竿さおのさきへ菓子袋をくくり付けて、大きな柿の木の下でせみの捕りくらをしているのを、宗助が見て、兼坊けんぼうそんなに頭を日に照らしつけると霍乱かくらんになるよ、さあこれをかぶれと云って、小六の古い夏帽を出してやった。

すると小六は、自分の物を兄が無断で他人にくれてやったのが癪に障ったので、いきなり兼坊の受け取った帽子を引ったくり、それを地面の上へ投げつけるやいなや、駆け上がるようにその上へ乗って、くしゃりと麦わら帽子を踏み潰してしまった。

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すると、小六は自分の所有物を兄が無断でひとにくれてやったのが、しゃくさわったので、突然いきなり兼坊の受取った帽子を引ったくって、それを地面の上へげつけるや否や、け上がるようにその上へ乗って、くしゃりと麦藁帽むぎわらぼうを踏みつぶしてしまった。

宗助は縁側から裸足で飛び下りて、小六の頭を殴りつけた。

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宗助は縁から跣足はだしで飛んで下りて、小六の頭をなぐりつけた。

その時から、宗助の目には小六が小憎らしい小僧として映った。

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その時から、宗助の眼には、小六が小悪こにくらしい小僧として映った。

二年生の時、宗助は大学を去らなければならないことになった。

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二年の時宗助は大学を去らなければならない事になった。

東京の家へも帰れないことになった。

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東京のうちへもえれない事になった。

京都からすぐ広島へ行って、そこで半年ほど暮らしているうちに父が死んだ。

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京都からすぐ広島へ行って、そこに半年ばかり暮らしているうちに父が死んだ。

母は父より六年ほど前に死んでいた。

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母は父よりも六年ほど前に死んでいた。

だからあとには、二十五、六になる妾と、十六になる小六が残っただけだった。

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だから後には二十五六になるめかけと、十六になる小六が残っただけであった。

佐伯から電報を受け取って久しぶりに上京した宗助は、葬式を済ませた上で家の始末をつけようと思ってだんだん調べてみると、あると思った財産は案外に少なく、かえって無いつもりの借金がだいぶあったのに驚かされた。

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佐伯から電報を受け取って、久しぶりに出京した宗助は、葬式を済ました上、うちの始末をつけようと思ってだんだん調べて見ると、あると思った財産は案外に少なくって、かえって無いつもりの借金がだいぶあったに驚ろかされた。

叔父の佐伯に相談すると、仕方がないから屋敷を売るのがいいだろうという話だった。

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叔父の佐伯に相談すると、仕方がないからやしきを売るが好かろうと云う話であった。

妾は相当の金をやってすぐ暇を出すことに決めた。

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めかけは相当の金をやってすぐ暇を出す事にきめた。

小六は当分叔父の家に引き取って世話をしてもらうことにした。

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小六は当分叔父の家に引き取って世話をしてもらう事にした。

しかし肝心の家屋敷は、すぐ右から左へと売れるわけには行かなかった。

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しかし肝心かんじんの家屋敷はすぐ右から左へと売れるわけには行かなかった。

仕方がないので、叔父に一時の工面を頼んで、当座の片をつけてもらった。

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仕方がないから、叔父に一時の工面くめんを頼んで、当座の片をつけて貰った。

叔父は事業家で、いろいろなことに手を出しては失敗する、いわば山っ気の多い男だった。

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叔父は事業家でいろいろな事に手を出しては失敗する、云わば山気やまぎの多い男であった。

宗助が東京にいた時分も、よく宗助の父を説きつけては、うまいことを言って金を引き出したものである。

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宗助が東京にいる時分も、よく宗助の父を説きつけては、うまい事を云って金を引き出したものである。

宗助の父にも欲があったかもしれないが、この調子で叔父の事業に注ぎ込んだ金額はけっして少ないものではなかった。

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宗助の父にも慾があったかも知れないが、このでんで叔父の事業にぎ込んだ金高はけっして少ないものではなかった。

父の亡くなったこの時にも、叔父の都合は元とあまり変わっていない様子だったが、生前の義理もあるし、またこういう男の常として、いざという場合には比較的融通がつくものと見えて、叔父は快く整理を引き受けてくれた。

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父の亡くなったこの際にも、叔父の都合は元と余り変っていない様子であったが、生前の義理もあるし、またこう云う男の常として、いざと云う場合には比較的融通のつくものと見えて、叔父は快よく整理を引き受けてくれた。

その代わり、宗助は自分の家屋敷の売却についていっさいを叔父に任せてしまった。

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その代り宗助は自分の家屋敷の売却方についていっさいの事を叔父に一任してしまった。

手短に言えば、急場の金策に対する報酬として土地家屋を提供したようなものである。

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早く云うと、急場の金策に対する報酬として土地家屋を提供したようなものである。

叔父は、

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叔父は、

「何しろ、こういうものは買い手を見て売らないと損だからね」

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「何しろ、こう云うものは買手を見て売らないと損だからね」

と言った。

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と云った。

道具類もかさばるばかりで金目にならないものはことごとく売り払ったが、五、六幅の掛け物と十二、三点の骨董品だけは、やはり気長に欲しがる人を探さないと損だという叔父の意見に同意して、叔父に預けることにした。

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道具類もせきばかり取って、金目にならないものは、ことごとく売り払ったが、五六幅の掛物と十二三点の骨董品こっとうひんだけは、やはり気長に欲しがる人をさがさないと損だと云う叔父の意見に同意して、叔父に保管を頼む事にした。

すべてを差し引いて手元に残った現金は約二千円ほどだったが、宗助はそのうちの幾分かを小六の学資として使わなければならないと気がついた。

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すべてを差し引いて手元に残った有金は、約二千円ほどのものであったが、宗助はそのうちの幾分を、小六の学資として、使わなければならないと気がついた。

しかし月々自分の方から送るとすると、今の身分が安定していない当時、はなはだ実行しにくい結果に陥りそうなので、苦しくはあったが思い切って半分だけを叔父に渡して、何分よろしくと頼んだ。

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しかし月々自分の方から送るとすると、今日こんにちの位置が堅固でない当時、はなはだ実行しにくい結果におちいりそうなので、苦しくはあったが、思い切って、半分だけを叔父に渡して、何分よろしくと頼んだ。

自分が中途で失敗したのだから、せめて弟だけは一人前にしてやりたい気もあるので、この千円が尽きたあとはまたどうにか工面もできようし、してもくれるだろう、というくらいの心もとない望みを残して、また広島へ帰って行った。

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自分が中途で失敗しくじったから、せめて弟だけは物にしてやりたい気もあるので、この千円が尽きたあとは、またどうにか心配もできようしまたしてくれるだろうぐらいの不慥ふたしかな希望を残して、また広島へ帰って行った。

それから半年ほどして、叔父の自筆で、家はとうとう売れたから安心しろという手紙が来たが、いくらで売れたとも何とも書いていないので、折り返して問い合わせると、二週間ほど経ってからの返事に、例の立て替えを十分に償うだけの金額だから心配しなくていいとあった。

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それから半年ばかりして、叔父の自筆で、家はとうとう売れたから安心しろと云う手紙が来たが、いくらに売れたとも何とも書いてないので、折り返して聞き合せると、二週間ほどっての返事に、優に例の立替をつぐなうに足る金額だから心配しなくても好いとあった。

宗助はこの返事に少なからず不満を感じたには感じたが、同じ手紙の中に、詳しいことはいずれお目にかかった折に、とあったので、すぐにも東京へ行きたいような気がして、実はこうこうだが、と相談半分に細君に話してみると、御米は気の毒そうな顔をして、

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宗助はこの返事に対して少なからず不満を感じたには感じたが、同じ書信の中に、委細はいずれ御面会の節云々とあったので、すぐにも東京へ行きたいような気がして、実はこうこうだがと、相談半分細君に話して見ると、御米は気の毒そうな顔をして、

「でも、行けないんだから仕方がないわね」

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「でも、行けないんだから、仕方がないわね」

と言って、例のごとく微笑した。

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と云って、例のごとく微笑した。

その時、宗助は初めて細君から宣告を受けた人のようにしばらく腕組みをして考えたが、どう工夫しても抜け出せないような立場と事情に縛られていたので、つい、そのままになってしまった。

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その時宗助は始めて細君から宣告を受けた人のように、しばらく腕組をして考えたが、どう工夫したって、抜ける事のできないような位地いちと事情のもと束縛そくばくされていたので、ついそれなりになってしまった。

仕方がないので、なお三、四回手紙のやり取りを重ねてみたが、結果はいつも同じことで、判で押したように、いずれお目にかかった折に、を繰り返してくるだけだった。

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仕方がないから、なお三四回書面で往復を重ねて見たが、結果はいつも同じ事で、版行はんこうで押したようにいずれ御面会の節を繰り返して来るだけであった。

「これじゃしようがないよ」

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「これじゃしようがないよ」

と宗助は腹が立ったような顔をして御米を見た。

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と宗助は腹が立ったような顔をして御米を見た。

三か月ほどして、ようやく都合がついたので、久しぶりに御米を連れて上京しようと思っていた矢先に、つい風邪を引いて寝たのがもとで腸チフスになったため、六十日余りを床の上で暮らした上、あとの三十日ほどは十分に仕事もできないくらい衰えてしまった。

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三カ月ばかりして、ようやく都合がついたので、久し振りに御米を連れて、出京しようと思う矢先に、つい風邪かぜを引いてたのが元で、腸窒扶斯ちょうチフスに変化したため、六十日余りを床の上に暮らした上に、あとの三十日ほどは充分仕事もできないくらい衰えてしまった。

病気が全快してから間もなく、宗助はまた広島を去って福岡の方へ移らなければならない身になった。

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病気が本復してから間もなく、宗助はまた広島を去って福岡の方へ移らなければならない身となった。

移る前に、いい機会だからちょっと東京まで出たいものだと考えているうちに、今度もいろいろの事情に押さえられて、つい、それも果たせずに、やはり下り列車の走る方に自分の運命を託した。

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移る前に、好い機会だからちょっと東京まで出たいものだと考えているうちに、今度もいろいろの事情に制せられて、ついそれも遂行すいこうせずに、やはり下り列車の走るかたに自己の運命を托した。

その頃には、東京の家を畳む時に懐にして出た金は、ほとんど使い果たしていた。

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その頃は東京の家を畳むとき、ふところにして出た金は、ほとんど使い果たしていた。

彼の福岡生活は、前後二年を通じてなかなかの苦闘だった。

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彼の福岡生活は前後二年を通じて、なかなかの苦闘であった。

彼は書生として京都にいた時分、いろいろな口実のもとに父から臨時に思うまま多額の学資を請求し、勝手し放題に使った昔をよく思い出して、今の身分と比べながら、しきりに因果の縛りを恐れた。

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彼は書生として京都にいる時分、種々の口実のもとに、父から臨時随意に多額の学資を請求して、勝手しだいに消費した昔をよく思い出して、今の身分と比較しつつ、しきりに因果いんがの束縛を恐れた。

ある時は、ひそかに過ぎた春を振り返って、あれが自分の栄華の頂点だったのだと、初めて覚めた目で遠い霞を眺めることもあった。

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ある時はひそかに過ぎた春を回顧して、あれがおれの栄華の頂点だったんだと、始めてめた眼に遠いかすみながめる事もあった。

いよいよ苦しくなった時、

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いよいよ苦しくなった時、

「御米、長く放っておいたが、また東京へ掛け合ってみようかな」

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「御米、久しく放っておいたが、また東京へ掛合かけあってみようかな」

と言い出した。

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と云い出した。

御米はもちろん逆らいはしなかった。

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御米は無論さからいはしなかった。

ただ下を向いて、

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ただ下を向いて、

「駄目よ。だって、叔父さんにまるで信用がないんですもの」

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「駄目よ。だって、叔父さんに全く信用がないんですもの」

と心細そうに答えた。

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と心細そうに答えた。

「向こうはこちらを信用していないかもしれないが、こっちだって向こうを信用していないんだ」

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「向うじゃこっちに信用がないかも知れないが、こっちじゃまた向うに信用がないんだ」

と宗助は威張って言い出したが、御米が伏し目になっている様子を見ると、急に勇気がくじける風に見えた。

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と宗助は威張って云い出したが、御米の俯目ふしめになっている様子を見ると、急に勇気がくじける風に見えた。

こんなやり取りを最初は月に一、二度くらい繰り返していたが、のちには二か月に一度になり、三か月に一度になり、とうとう、

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こんな問答を最初は月に一二返ぐらい繰り返していたが、のちには二月ふたつきに一返になり、三月みつきに一返になり、とうとう、

「いいや、小六さえどうかしてくれれば。あとのことはいずれ東京へ出たら、会った上で話をつけてやる。なあ御米、そうすることにしようじゃないか」

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いや、小六さえどうかしてくれれば。あとの事はいずれ東京へ出たら、った上で話をつけらあ。ねえ御米、そうすると、しようじゃないか」

と言い出した。

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と云い出した。

「それでよろしゅうございますとも」

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「それで、ござんすとも」

と御米は答えた。

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と御米は答えた。

宗助は佐伯のことをそれきり放ってしまった。

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宗助は佐伯の事をそれなり放ってしまった。

ただの無心は、自分の過去を思っても叔父に向かって言い出せるものではないと、宗助は考えていた。

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単なる無心は、自分の過去に対しても、叔父に向って云い出せるものでないと、宗助は考えていた。

したがって、その方の掛け合いは、初めから一度も筆にしたことがなかった。

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したがってその方の談判は、始めからいまだかつて筆にした事がなかった。

小六からは時々手紙が来たが、きわめて短い形式的なものが多かった。

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小六からは時々手紙が来たが、きわめて短かい形式的のものが多かった。

宗助は父が死んだ時に東京で会った小六を覚えているだけだから、いまだに小六を他愛のない子供くらいに思っているので、自分の代理に叔父と交渉させようなどという気はもちろん起こらなかった。

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宗助は父の死んだ時、東京で逢った小六を覚えているだけだから、いまだに小六を他愛たわいない小供ぐらいに想像するので、自分の代理に叔父と交渉させようなどと云う気は無論起らなかった。

夫婦は、世の中で日の目を見ない者が寒さに耐えかねて抱き合って暖を取るような具合に、互いを頼りとして暮らしていた。

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夫婦は世の中の日の目を見ないものが、寒さにえかねて、抱き合ってだんを取るような具合に、御互同志を頼りとして暮らしていた。

苦しい時には、御米がいつでも宗助に、

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苦しい時には、御米がいつでも、宗助に、

「でも仕方がないわ」

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「でも仕方がないわ」

と言った。

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と云った。

宗助は御米に、

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宗助は御米に、

「まあ我慢するさ」

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「まあ我慢するさ」

と言った。

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と云った。

二人の間には諦めとか忍耐とかいうものが絶えず動いていたが、未来とか希望とかいうものの影は、ほとんど射さないように見えた。

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二人の間にはあきらめとか、忍耐とか云うものが断えず動いていたが、未来とか希望と云うものの影はほとんど射さないように見えた。

彼らはあまり多く過去を語らなかった。

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彼らは余り多く過去を語らなかった。

時には申し合わせたように、それを避ける風さえあった。

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時としては申し合わせたように、それを回避する風さえあった。

御米が時として、

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御米が時として、

「そのうちにはまたきっといいことがあってよ。そうそう悪いことばかり続くものじゃないから」

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「そのうちにはまたきっと好い事があってよ。そうそう悪い事ばかり続くものじゃないから」

と夫を慰めるように言うことがあった。

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おっとを慰さめるように云う事があった。

すると宗助には、それが真心のある妻の口を借りて自分を弄ぶ運命の毒舌のように感じられた。

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すると、宗助にはそれが、真心まごころあるさいの口をりて、自分を翻弄ほんろうする運命の毒舌のごとくに感ぜられた。

宗助はそういう場合には何も答えず、ただ苦笑するだけだった。

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宗助はそう云う場合には何にも答えずにただ苦笑するだけであった。

御米がそれでも気がつかずに何か言い続けると、

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御米がそれでも気がつかずに、なにか云い続けると、

「我々は、そんないいことを期待する権利のない人間じゃないか」

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「我々は、そんな好い事を予期する権利のない人間じゃないか」

と思い切って投げ出してしまう。

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と思い切って投げ出してしまう。

細君はようやく気がついて口をつぐんでしまう。

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細君はようやく気がついて口をつぐんでしまう。

そうして二人が黙って向き合っていると、いつの間にか、自分たちは自分たちのこしらえた過去という暗い大きな穴の中に落ちている。

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そうして二人が黙って向き合っていると、いつの間にか、自分達は自分達のこしらえた、過去という暗い大きなあなの中に落ちている。

彼らは自業自得で、自分たちの未来を塗り潰した。

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彼らは自業自得じごうじとくで、彼らの未来を塗抹とまつした。

だから歩いて行く先には華やかな色彩を認めることはできないものと諦めて、ただ二人手を取り合って行く気になった。

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だから歩いている先の方には、花やかな色彩を認める事ができないものとあきらめて、ただ二人手をたずさえて行く気になった。

叔父が売り払ったという土地家屋についても、もとより大きな期待は持っていなかった。

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叔父の売り払ったと云う地面家作についても、もとより多くの期待は持っていなかった。

時々思い出したように、

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時々考え出したように、

「だって、近ごろの相場なら捨て売りにしたって、あの時叔父がこしらえてくれた金の倍にはなるんだもの。あんまり馬鹿馬鹿しいからね」

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「だって、近頃の相場なら、捨売すてうりにしたって、あの時叔父の拵らえてくれた金の倍にはなるんだもの。あんまり馬鹿馬鹿しいからね」

と宗助が言い出すと、御米は寂しそうに笑って、

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と宗助が云い出すと、御米はさみしそうに笑って、

「また土地? いつまでもそのことばかり考えていらっしゃるのね。だって、あなたが万事よろしくお願いしますと叔父さんにおっしゃったんでしょう」

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「また地面? いつまでもあの事ばかり考えていらっしゃるのね。だって、あなたが万事よろしく願いますと、叔父さんにおっしゃったんでしょう」

と言う。

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と云う。

「そりゃ仕方がないさ。あの場合ああでもしなければ片がつかないんだもの」

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「そりゃ仕方がないさ。あの場合ああでもしなければほうがつかないんだもの」

と宗助が言う。

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と宗助が云う。

「だからさ。叔父さんの方では、お金の代わりに家と土地をもらったつもりでいらっしゃるかもしれなくてよ」

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「だからさ。叔父さんの方では、御金の代りにうちと地面を貰ったつもりでいらっしゃるかも知れなくってよ」

と御米が言う。

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と御米が云う。

そう言われると宗助も叔父の処置に一理あるようにも思われて、口では、

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そう云われると、宗助も叔父の処置に一理あるようにも思われて、口では、

「そのつもりがよくないじゃないか」

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「そのつもりが好くないじゃないか」

と言い返すようなものの、この問題はそのたびに少しずつ背景の奥へ遠ざかって行くのだった。

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と答弁するようなものの、この問題はその都度つどしだいしだいに背景の奥に遠ざかって行くのであった。

夫婦がこんな風に寂しく睦まじく暮らして来た二年目の末に、宗助は元の同級生で、学生時代にはたいへん親しかった杉原という男に偶然出会った。

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夫婦がこんな風に淋しくむつまじく暮らして来た二年目の末に、宗助はもとの同級生で、学生時代には大変懇意であった杉原と云う男に偶然出逢った。

杉原は卒業後に高等文官試験に合格して、その時すでにある省に勤めていたのだが、公務で福岡と佐賀へ出張することになって、東京からわざわざやって来たのである。

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杉原は卒業後高等文官試験に合格して、その時すでに或省に奉職していたのだが、公務上福岡と佐賀へ出張することになって、東京からわざわざやって来たのである。

宗助は土地の新聞で、杉原がいつ着いてどこに泊まっているかをよく知ってはいたが、失敗者としての自分を顧みて、成功者の前に頭を下げるという対照を恥ずかしく思った上、在学当時の旧友に会うのをことさら避けたい理由を持っていたので、その旅館を訪ねる気は毛頭なかった。

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宗助は所の新聞で、杉原のいつ着いて、どこに泊っているかをよく知ってはいたが、失敗者としての自分にかえりみて、成効者せいこうしゃの前に頭を下げる対照を恥ずかしく思った上に、自分は在学当時の旧友に逢うのを、特に避けたい理由を持っていたので、彼の旅館を訪ねる気は毛頭なかった。

ところが杉原の方では妙な引っ掛かりから、宗助がここでくすぶっていることを聞き出して、しきりに面会を望むので、宗助もやむを得ず折れた。

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ところが杉原の方では、妙な引掛りから、宗助のここにくすぶっている事を聞き出して、いて面会を希望するので、宗助もやむを得ずを折った。

宗助が福岡から東京へ移れるようになったのは、まったくこの杉原のおかげである。

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宗助が福岡から東京へ移れるようになったのは、全くこの杉原の御蔭おかげである。

杉原から手紙が来て、いよいよ話が決まった時、宗助は箸を置いて、

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杉原から手紙が来て、いよいよ事がきまったとき、宗助ははしを置いて、

「御米、とうとう東京へ行けるよ」

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「御米、とうとう東京へ行けるよ」

と言った。

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と云った。

「まあ、結構ね」

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「まあ結構ね」

と御米が夫の顔を見た。

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と御米が夫の顔を見た。

東京に着いてから二、三週間は、目の回るように日が経った。

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東京に着いてから二三週間は、眼のまわるように日がった。

新しく所帯を持って新しい仕事を始める人にありがちな慌ただしさと、自分たちを包む大都会の空気が日夜激しく揺れ動く刺激とに駆られて、何事もじっと考える暇がなく、また落ち着いて手をつける分別も出なかった。

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新らしく世帯をって、新らしい仕事を始める人に、あり勝ちな急忙せわしなさと、自分達を包む大都の空気の、日夜はげしく震盪しんとうする刺戟しげきとにられて、何事をもじっと考えるひまもなく、また落ちついて手をくだす分別も出なかった。

夜汽車で新橋へ着いた時は、久しぶりに叔父夫婦の顔を見たが、夫婦とも、灯りのせいか、晴れやかな顔色には宗助の目に映らなかった。

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夜汽車で新橋へ着いた時は、久しぶりに叔父夫婦の顔を見たが、夫婦とものせいか晴れやかな色には宗助の眼に映らなかった。

途中で事故があって到着の時刻がめずらしく三十分ほど遅れたのを、まるで宗助の落ち度ででもあるかのように、待ちくたびれた様子だった。

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途中に事故があって、ちゃくの時間が珍らしく三十分ほど後れたのを、宗助の過失ででもあるかのように、待草臥まちくたびれた気色けしきであった。

宗助がこの時叔母から聞いた言葉は、

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宗助がこの時叔母から聞いた言葉は、

「おや宗さん、しばらくお目に掛からないうちに、たいへんお老けになったこと」

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「おやそうさん、しばらく御目にからないうちに、大変御老おふけなすった事」

という一句だった。

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という一句であった。

御米はその折、初めて叔父夫婦に紹介された。

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御米はそのおり始めて叔父夫婦に紹介された。

「これがあの……」

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「これがあの……」

と叔母はためらって宗助の方を見た。

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と叔母は逡巡ためらって宗助の方を見た。

御米は何と挨拶のしようもないので、無言のままただ頭を下げた。

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御米は何と挨拶あいさつのしようもないので、無言のままただ頭を下げた。

小六ももちろん叔父夫婦とともに二人を迎えに来ていた。

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小六も無論叔父夫婦と共に二人を迎いに来ていた。

宗助はひと目その姿を見た時、いつの間にか自分をしのぐほど大きくなった弟の成長に驚かされた。

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宗助は一眼その姿を見たとき、いつの間にか自分をしのぐように大きくなった、弟の発育に驚ろかされた。

小六はその時、中学を出てこれから高等学校へ入ろうという間際だった。

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小六はその時中学を出て、これから高等学校へ這入はいろうという間際まぎわであった。

宗助を見て、「兄さん」

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宗助を見て、「兄さん」

とも「お帰りなさい」

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とも「御帰りなさい」

とも言わずに、ただ不器用に挨拶をした。

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とも云わないで、ただ不器用に挨拶をした。

宗助と御米は一週間ほど宿屋住まいをして、それから今の所へ移った。

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宗助と御米は一週ばかり宿屋住居ずまいをして、それから今の所に引き移った。

その時は叔父夫婦がいろいろ世話を焼いてくれた。

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その時は叔父夫婦がいろいろ世話を焼いてくれた。

細々した台所道具のようなものは買うまでもないだろう、古いのでよければ、というので、少人数に必要なだけひととおり取りそろえて送って来た。

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細々こまごましい台所道具のようなものは買うまでもあるまい、古いのでよければと云うので、小人数に必要なだけ一通り取りそろえて送って来た。

その上、

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その上、

「お前も新所帯だから、さぞ物入りが多かろう」

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「御前も新世帯だから、さぞ物要ものいりが多かろう」

と言って金を六十円くれた。

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と云って金を六十円くれた。

家を持ってあれこれ取り紛れているうちに、もう半月余りも経ったが、地方にいた時分あれほど気にしていた家屋敷のことは、つい、まだ叔父に言い出さずにいた。

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うちを持ってかれこれ取りまぎれているうちに、はや半月も経ったが、地方にいる時分あんなに気にしていた家邸いえやしきの事は、ついまだ叔父に言い出さずにいた。

ある時、御米が、

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ある時御米が、

「あなた、あのことを叔父さんにおっしゃって」

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「あなたあの事を叔父さんにおっしゃって」

と聞いた。

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と聞いた。

宗助はそれで急に思い出したように、

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宗助はそれで急に思い出したように、

「うん、まだ言わないよ」

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「うん、まだ云わないよ」

と答えた。

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と答えた。

「妙ね、あれほど気にしていらしたのに」

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「妙ね、あれほど気にしていらしったのに」

と御米が薄笑いをした。

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と御米がうす笑をした。

「だって、落ち着いてそんなことを言い出す暇がないんだもの」

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「だって、落ちついて、そんな事を云い出すひまがないんだもの」

と宗助が弁解した。

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と宗助が弁解した。

また十日ほど経った。

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また十日ほどった。

すると今度は宗助の方から、

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すると今度こんだは宗助の方から、

「御米、あのことはまだ言わないよ。どうも言うのが面倒で嫌になった」

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「御米、あの事はまだ云わないよ。どうも云うのが面倒でいやになった」

と言い出した。

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と云い出した。

「嫌なのを無理におっしゃらなくてもいいわ」

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「厭なのを無理におっしゃらなくってもいいわ」

と御米が答えた。

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と御米が答えた。

「いいのかい」

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「好いかい」

と宗助が聞き返した。

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と宗助が聞き返した。

「いいのかいって、もともとあなたのことじゃなくて。私は前からどうでもいいんだわ」

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「好いかいって、もともとあなたの事じゃなくって。私はせんからどうでも好いんだわ」

と御米が答えた。

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と御米が答えた。

その時、宗助は、

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その時宗助は、

「じゃ、しかつめらしく言い出すのも何だか妙だから、そのうち折があったら聞くとしよう。なに、そのうち聞いてみる折がきっと出て来るよ」

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「じゃ、鹿爪しかつめらしく云い出すのも何だか妙だから、そのうち機会おりがあったら、聞くとしよう。なにそのうち聞いて見る機会おりがきっと出て来るよ」

と言って先延ばしにしてしまった。

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と云って延ばしてしまった。

小六は何不足なく叔父の家に寝起きしていた。

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小六は何不足なく叔父の家に寝起ねおきしていた。

試験を受けて高等学校へ入れれば寄宿舎に入らなければならないというので、その相談まですでに叔父と打ち合わせがしてあるようだった。

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試験を受けて高等学校へ這入はいれれば、寄宿へ入舎しなければならないと云うので、その相談まですでに叔父と打合せがしてあるようであった。

新しく上京した兄からは特に学資の世話を受けないせいか、自分の身の上については叔父ほどには親しく相談を持ち込んで来なかった。

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新らしく出京した兄からは別段学資の世話を受けないせいか、自分の身の上については叔父ほどに親しい相談も持ち込んで来なかった。

いとこの安之助とは、今までの関係からたいへん仲がよかった。

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従兄弟いとこの安之助とは今までの関係上大変仲が好かった。

かえってこちらの方が兄弟らしかった。

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かえってこの方が兄弟らしかった。

宗助は自然と叔父の家に足が遠くなるようになった。

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宗助は自然叔父のうちに足が遠くなるようになった。

たまに行っても義理一遍の訪問に終わることが多いので、帰り道にはいつもつまらない気がしてならなかった。

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たまに行っても、義理一遍の訪問に終る事が多いので、帰り路にはいつもつまらない気がしてならなかった。

しまいには時候の挨拶を済ませると、すぐ帰りたくなることもあった。

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しまいには時候の挨拶あいさつを済ますと、すぐ帰りたくなる事もあった。

こういう時には、三十分座って世間話で時間をつなぐのにさえ骨が折れた。

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こう云う時には三十分とすわって、世間話に時間をつなぐのにさえ骨が折れた。

向こうでも何だか気詰まりで窮屈だという風が見えた。

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向うでも何だか気が置けて窮屈だと云う風が見えた。

「まあ、いいじゃありませんか」

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「まあいいじゃありませんか」

と叔母が引き留めてくれるのが常だが、そうするとなおさら居づらい心持ちがした。

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と叔母が留めてくれるのが例であるが、そうすると、なおさらいにくい心持がした。

それでも、たまには行かないと心の中で気がとがめるような不安を感じるので、また行くようになった。

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それでも、たまには行かないと、心のうちで気がとがめるような不安を感ずるので、また行くようになった。

折々は、

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折々は、

「どうも小六がご厄介になりまして」

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「どうも小六が御厄介ごやっかいになりまして」

と、こちらから頭を下げて礼を言うこともあった。

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とこっちから頭を下げて礼を云う事もあった。

けれども、それ以上は、弟の将来の学資についても、また自分が叔父に頼んで留守中に売り払ってもらった土地家屋についても、口を切るのがつい面倒になった。

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けれども、それ以上は、弟の将来の学資についても、また自分が叔父に頼んで、留守中に売り払ってもらった地所家作についても、口を切るのがつい面倒になった。

しかし、宗助が興味を持たない叔父の所へ、気が進まないなりに時たま出掛けて行くのは、単に叔父と甥の血縁を世間並みに保つための義務心からではなく、いつか機会があったら片をつけたいある物を胸の奥に控えていた結果に過ぎないのは明らかだった。

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しかし宗助が興味をたない叔父の所へ、不精無精ふしょうぶしょうにせよ、時たま出掛けて行くのは、単に叔父おいの血属関係を、世間並に持ちこたえるための義務心からではなくって、いつか機会があったら、片をつけたい或物を胸の奥に控えていた結果に過ぎないのは明かであった。

「宗さんはどうもすっかり変わってしまいましたね」

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「宗さんはどうもすっかり変っちまいましたね」

と叔母が叔父に話すことがあった。

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と叔母が叔父に話す事があった。

すると叔父は、

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すると叔父は、

「そうよなあ。やっぱり、ああいうことがあると、長くあとまで響くものだからな」

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「そうよなあ。やっぱり、ああ云う事があると、ながくまであとへ響くものだからな」

と答えて、因果は恐ろしいという顔をする。

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と答えて、因果いんがは恐ろしいと云う風をする。

叔母は重ねて、

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叔母は重ねて、

「本当に怖いものですね。元はあんな沈んだ子ではなかったが――どうもはしゃぎ過ぎるくらい活発でしたからね。それが二、三年見ないうちに、まるで別の人のように老けてしまって。今じゃあなたよりお爺さんお爺さんしていますよ」

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「本当に、こわいもんですね。元はあんな寝入ねいったじゃなかったが――どうもはしゃぎ過ぎるくらい活溌かっぱつでしたからね。それが二三年見ないうちに、まるで別の人みたようにけちまって。今じゃあなたより御爺おじいさん御爺さんしていますよ」

と言う。

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と云う。

「まさか」

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真逆まさか

と叔父がまた答える。

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と叔父がまた答える。

「いえ、頭や顔は別として、様子がですよ」

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「いえ、頭や顔は別として、様子がさ」

と叔母がまた言い直す。

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と叔母がまた弁解する。

こんな会話が老夫婦の間で交わされたのは、宗助が上京して以来、一度や二度ではなかった。

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こんな会話が老夫婦の間に取り換わされたのは、宗助が出京して以来一度や二度ではなかった。

実際、彼は叔父の所へ来ると、老人の目に映るとおりの人間に見えた。

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実際彼は叔父の所へ来ると、老人の眼に映る通りの人間に見えた。

御米はどういうものか、新橋へ着いた時に老人夫婦に紹介されたきり、一度も叔父の家の敷居をまたいだことがない。

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御米はどう云うものか、新橋へ着いた時、老人夫婦に紹介されたぎり、かつて叔父の家の敷居をまたいだ事がない。

向こうから見えれば叔父さん叔母さんと丁寧にもてなすが、帰りがけに、

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むこうから見えれば叔父さん叔母さんと丁寧ていねいに接待するが、帰りがけに、

「どうです、少しはお出かけになっては」

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「どうです、ちと御出かけなすっちゃ」

などと言われると、ただ、

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などと云われると、ただ、

「ありがとうございます」

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「ありがとう」

と頭を下げるだけで、一度も出掛けたためしはなかった。

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と頭を下げるだけで、ついぞ出掛けたためしはなかった。

さすがの宗助も一度は、

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さすがの宗助さえ一度は、

「叔父さんの所へ一度行ってみてはどうだい」

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「叔父さんの所へ一度行って見ちゃ、どうだい」

と勧めたことがあるが、

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すすめた事があるが、

「でも」

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「でも」

と変な顔をするので、宗助はそれきり決してそのことを言い出さなかった。

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と変な顔をするので、宗助はそれぎりけっしてその事を云い出さなかった。

両家はこの状態で約一年ほどを送った。

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両家族はこの状態で約一年ばかりを送った。

すると、宗助より気分は若いと言われていた叔父が突然死んだ。

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すると宗助よりも気分は若いと許された叔父が突然死んだ。

病気は脊髄脳膜炎とかいう重い症状で、二、三日風邪気味で寝ていたが、便所へ行った帰りに手を洗おうとして、柄杓を持ったまま卒倒し、一日経つか経たないうちに冷たくなってしまったのである。

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病症は脊髄脳膜炎せきずいのうまくえんとかいう劇症げきしょうで、二三日風邪かぜの気味でていたが、便所へ行った帰りに、手を洗おうとして、柄杓ひしゃくを持ったまま卒倒したなり、一日いちんちつか経たないうちに冷たくなってしまったのである。

「御米、叔父はとうとう話をしないまま死んでしまったよ」

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「御米、叔父はとうとう話をしずに死んでしまったよ」

と宗助が言った。

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と宗助が云った。

「あなた、まだあのことを聞くつもりだったの。あなたもずいぶん執念深いのね」

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「あなたまだ、あの事を聞くつもりだったの、あなたも随分執念深しゅうねんぶかいのね」

と御米が言った。

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と御米が云った。

それからまた一年ほど経つと、叔父の子の安之助が大学を卒業し、小六が高等学校の二年生になった。

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それからまた一年ばかり経ったら、叔父の子の安之助が大学を卒業して、小六が高等学校の二年生になった。

叔母は安之助といっしょに中六番町へ引き移った。

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叔母は安之助といっしょに中六番町に引き移った。

三年目の夏休みに、小六は房州の海水浴へ行った。

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三年目の夏休みに小六は房州の海水浴へ行った。

そこに一か月余りも滞在しているうちに九月になりかけたので、保田から向こうへ突っ切って、上総の海岸を九十九里伝いに銚子まで来たが、そこから思い出したように東京へ帰った。

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そこに一月余りも滞在しているうちに九月になり掛けたので、保田ほたから向うへ突切つっきって、上総かずさの海岸を九十九里伝いに、銚子ちょうしまで来たが、そこから思い出したように東京へ帰った。

宗助の所へ現れたのは、帰ってからまだ二、三日しか経たない、残暑の強い午後である。

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宗助の所へ見えたのは、帰ってから、まだ二三日しか立たない、残暑の強い午後である。

真っ黒に焼けた顔の中で目だけを光らせ、見違えるほど野性を帯びた彼は、比較的日の当たらない座敷へ入るなり横になって兄の帰りを待ち受けていたが、宗助の顔を見るやいなや、むっくり起き上がって、

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真黒にげた顔の中に、眼だけ光らして、見違えるように蛮色ばんしょくを帯びた彼は、比較的日の遠い座敷へ這入はいったなり横になって、兄の帰りを待ち受けていたが、宗助の顔を見るや否や、むっくり起き上がって、

「兄さん、少し話があって来たんですが」

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「兄さん、少し御話があって来たんですが」

と改まって切り出したので、宗助は少し驚いた気味で、暑苦しい洋服さえ脱ぎ替えずに小六の話を聞いた。

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と開き直られたので、宗助は少し驚ろいた気味で、暑苦しい洋服さえ脱ぎえずに、小六の話を聞いた。

小六の言うところによると、二、三日前、彼が上総から帰った晩に、彼の学資はこの年末限りで、気の毒ながら出してやれないと叔母から申し渡されたのだそうである。

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小六の云うところによると、二三日前彼が上総から帰った晩、彼の学資はこの暮限り、気の毒ながら出してやれないと叔母から申し渡されたのだそうである。

小六は父が死んですぐ叔父に引き取られて以来、学校へも行けるし、着物も自然にできるし、小遣いも適当にもらえるので、父の存命中と同じように何不足なく暮らせて来た惰性から、その日その晩まで一度も学資という問題を頭に浮かべたことがなかったため、叔母の宣告を受けた時はぼんやりして、返事らしい返事さえできなかったという。

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小六は父が死んで、すぐと叔父に引き取られて以来、学校へも行けるし、着物も自然ひとりでにできるし、小遣こづかい適宜てきぎに貰えるので、父の存生中ぞんしょうちゅうと同じように、何不足なく暮らせて来た惰性から、その日その晩までも、ついぞ学資と云う問題を頭に思い浮べた事がなかったため、叔母の宣告を受けた時は、茫然ぼんやりしてとかくの挨拶あいさつさえできなかったのだと云う。

叔母は気の毒そうに、なぜ小六の世話ができなくなったかを、女だけに一時間もかけて詳しく説明してくれたそうである。

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叔母は気の毒そうに、なぜ小六の世話ができなくなったかを、女だけに、一時間も掛かってくわしく説明してくれたそうである。

それには、叔父が亡くなったことや、続いて起こる経済上の変化や、また安之助の卒業や、卒業後に控えている結婚問題やらが入っていたのだという。

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それには叔父のくなった事やら、いで起る経済上の変化やら、また安之助の卒業やら、卒業後に控えている結婚問題やらが這入っていたのだと云う。

「できるなら、せめて高等学校を卒業するまではと思って、今日までいろいろ骨を折ったんだけれども」

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「できるならば、せめて高等学校を卒業するまでと思って、今日きょうまでいろいろ骨を折ったんだけれども」

叔母はこう言ったと小六は繰り返した。

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叔母はこう云ったと小六は繰り返した。

小六はその時ふと、兄が先年父の葬式で上京して万事を片づけたあと、広島へ帰る時に、お前の学資は叔父さんに預けてあるから、と言ったことがあるのを思い出して、叔母に初めて聞いてみると、叔母は思いがけないという顔をして、

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小六はその時ふと兄が、先年父の葬式の時に出京して、万事を片づけた後、広島へ帰るとき、小六に、御前の学資は叔父さんに預けてあるからと云った事があるのを思い出して、叔母に始めて聞いて見ると、叔母は案外な顔をして、

「そりゃ、あの時、宗さんがいくらか置いて行きなすったことは行きなすったが、それはもうありゃしないよ。叔父さんがまだ生きておいでの時分から、お前の学資は融通して来たんだから」

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「そりゃ、あの時、そうさんが若干いくらか置いて行きなすった事は、行きなすったが、それはもうありゃしないよ。叔父さんのまだ生きて御出おいでの時分から、御前の学資は融通して来たんだから」

と答えた。

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と答えた。

小六は兄から、自分の学資がどれほどあって、何年分の勘定で叔父に預けられたのかを聞いておかなかったから、叔母にこう言われてみると、一言も返しようがなかった。

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小六は兄から自分の学資がどれほどあって、何年分の勘定かんじょうで、叔父に預けられたかを、聞いておかなかったから、叔母からこう云われて見ると、一言ひとことも返しようがなかった。

「お前も一人じゃなし、兄さんもあることだから、よく相談をしてみたらいいだろう。その代わり私も宗さんに会って、とっくり訳を話しますから。どうも宗さんもあまり近ごろはおいでにならないし、私もご無沙汰ばかりしているのでね、つい、お前のことはお話しするわけにも行かなかったんだよ」

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御前おまえも一人じゃなし、兄さんもある事だからよく相談をして見たら好いだろう。その代りわたしも宗さんに逢って、とっくりわけを話しましょうから。どうも、宗さんもあんまり近頃は御出おいででないし、私も御無沙汰ごぶさたばかりしているのでね、つい御前の事は御話をする訳にも行かなかったんだよ」

と叔母は最後に付け加えたそうである。

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と叔母は最後につけ加えたそうである。

小六から一部始終を聞いた時、宗助はただ弟の顔を眺めて、一言、

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小六から一部始終いちぶしじゅうを聞いた時、宗助はただ弟の顔をながめて、一口、

「困ったな」

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「困ったな」

と言った。

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と云った。

昔のようにかっと激して、すぐ叔母の所へ談判に押しかける様子もなければ、今まで自分に対して、世話にならないでも済む人のようによそよそしく振る舞って来た弟の態度が急に方向を変えたのを、憎いと思う様子も見えなかった。

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昔のようにかっと激して、すぐ叔母の所へ談判に押し掛ける気色けしきもなければ、今まで自分に対して、世話にならないでも済む人のように、よそよそしく仕向けて来た弟の態度が、急に方向を転じたのを、にくいと思う様子も見えなかった。

自分が勝手に作り上げた美しい未来が半分崩れかかったのを、いかにも周りの人のせいででもあるかのように心を乱している小六の帰る姿を見送った宗助は、暗い玄関の敷居の上に立って、格子の外に射す夕日をしばらく眺めていた。

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自分の勝手に作り上げた美くしい未来が、半分くずれかかったのを、さもはたの人のせいででもあるかのごとく心を乱している小六の帰る姿を見送った宗助は、暗い玄関の敷居の上に立って、格子こうしの外に射す夕日をしばらくながめていた。

その晩、宗助は裏から大きな芭蕉の葉を二枚切って来て、それを座敷の縁に敷き、その上に御米と並んで涼みながら小六のことを話した。

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その晩宗助は裏から大きな芭蕉ばしょうの葉を二枚って来て、それを座敷の縁に敷いて、その上に御米と並んですずみながら、小六の事を話した。

「叔母さんは、こっちで小六さんの世話をしろっていう気なんじゃなくて」

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「叔母さんは、こっちで、小六さんの世話をしろって云う気なんじゃなくって」

と御米が聞いた。

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と御米が聞いた。

「まあ、会って聞いてみないうちは、どういう考えか分からないがね」

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「まあ、逢って聞いて見ないうちは、どう云う料簡りょうけんか分らないがね」

と宗助が言うと、御米は、

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と宗助が云うと、御米は、

「きっとそうよ」

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「きっとそうよ」

と答えながら、暗がりで団扇をぱたぱた動かした。

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と答えながら、暗がりで団扇うちわをはたはた動かした。

宗助は何も言わずに首を伸ばして、ひさしと崖の間に細く映る空の色を眺めた。

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宗助は何も云わずに、くびを延ばして、ひさしがけの間に細く映る空の色を眺めた。

二人はそのまましばらく黙っていたが、ややあって、

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二人はそのまましばらく黙っていたが、ややあって、

「だって、それじゃ無理ね」

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「だってそれじゃ無理ね」

と御米がまた言った。

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と御米がまた云った。

「人間一人を大学まで出させるなんて、おれの腕じゃとても駄目だ」

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「人間一人大学を卒業させるなんて、おれの手際てぎわじゃ到底とても駄目だ」

と宗助は自分の力量だけをはっきりさせた。

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と宗助は自分の能力だけを明らかにした。

会話はそこで別の話題に移って、二度と小六の上にも叔母の上にも戻って来なかった。

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会話はそこで別の題目に移って、再び小六の上にも叔母の上にも帰って来なかった。

それから二、三日するとちょうど土曜が来たので、宗助は役所の帰りに番町の叔母の所へ寄ってみた。

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それから二三日するとちょうど土曜が来たので、宗助は役所の帰りに、番町の叔母の所へ寄って見た。

叔母は、

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叔母は、

「おやおや、まあお珍しいこと」

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「おやおや、まあ御珍らしい事」

と言って、いつもより愛想よく宗助をもてなしてくれた。

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と云って、いつもよりは愛想あいそよく宗助を款待もてなしてくれた。

その時、宗助は嫌なのを我慢して、この四、五年来ためておいた質問を初めて叔母にぶつけた。

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その時宗助はいやなのを我慢して、この四五年来溜めて置いた質問を始めて叔母に掛けた。

叔母はもとより、できるだけの弁解をしないわけには行かなかった。

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叔母はもとよりできるだけは弁解しない訳に行かなかった。

叔母の言うところによると、宗助の屋敷を売り払った時に叔父の手に入った金は、確かには覚えていないが、とにかく宗助のために急場をしのいだ借財を返した上、なお四千五百円とか四千三百円とか余ったそうである。

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叔母の云うところによると、宗助の邸宅やしきを売払った時、叔父の手に這入はいった金は、たしかには覚えていないが、何でも、宗助のために、急場の間に合せた借財を返した上、なお四千五百円とか四千三百円とか余ったそうである。

ところが叔父の考えでは、あの屋敷は宗助が自分に提供して行ったのだから、たとえいくら余ろうと、余った分は自分の所得と見なして差し支えない。

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ところが叔父の意見によると、あの屋敷は宗助が自分に提供して行ったのだから、たといいくら余ろうと、余った分は自分の所得と見傚みなして差支さしつかえない。

しかし宗助の屋敷を売って儲けたと言われては心持ちが悪いから、これは小六の名義で預かっておいて、小六の財産にしてやる。

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しかし宗助の邸宅を売ってもうけたと云われては心持が悪いから、これは小六の名義で保管して置いて、小六の財産にしてやる。

宗助はあんなことをして廃嫡にまでされかかった男だから、一文だって取る権利はない。

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宗助はあんな事をして廃嫡はいちゃくにまでされかかった奴だから、一文いちもんだって取る権利はない。

「宗さん、怒っちゃいけませんよ。ただ叔父さんの言ったとおりを話すんだから」

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「宗さん怒っちゃいけませんよ。ただ叔父さんの云った通りを話すんだから」

と叔母が断った。

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と叔母が断った。

宗助は黙ってあとを聞いていた。

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宗助は黙ってあとを聞いていた。

小六の名義で保管されるはずだった財産は、不幸にして叔父の腕で、すぐ神田の賑やかな表通りの家屋に姿を変えた。

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小六の名義で保管されべき財産は、不幸にして、叔父の手腕で、すぐ神田のにぎやかな表通りの家屋に変形した。

そうして、まだ保険を掛けないうちに火事で焼けてしまった。

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そうして、まだ保険をつけないうちに、火事で焼けてしまった。

小六には初めから話していないことだから、そのままにして、わざと知らせずにおいた。

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小六には始めから話してない事だから、そのままにして、わざと知らせずにおいた。

「そういうわけでね、本当に宗さんにもお気の毒だけれど、何しろ取り返しのつかないことだから仕方がない。運だと思って諦めてください。もっとも叔父さんさえ生きていれば、またどうにでもなるんでしょうさ。小六一人くらい、そりゃ訳はありますまいよ。よしんば叔父さんがいらっしゃらない今にしたって、こっちの都合さえよければ、焼けた家と同じだけのものを小六に返すか、それでなくても、当人が卒業するまでくらいはどうにか世話もできるんですけれど」

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「そう云う訳でね、まことに宗さんにも、御気の毒だけれども、何しろ取って返しのつかない事だから仕方がない。運だと思ってあきらめて下さい。もっとも叔父さんさえ生きていれば、またどうともなるんでしょうさ。小六一人ぐらいそりゃ訳はありますまいよ。よしんば、叔父さんがいなさらない、今にしたって、こっちの都合さえ好ければ、焼けたうちと同じだけのものを、小六に返すか、それでなくっても、当人の卒業するまでぐらいは、どうにかして世話もできるんですけれども」

と言って、叔母はまた別の内幕話をして聞かせた。

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と云って叔母はまたほかの内幕話をして聞かせた。

それは安之助の職業についてだった。

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それは安之助の職業についてであった。

安之助は叔父の一人息子で、この夏大学を出たばかりの青年である。

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安之助は叔父の一人息子で、この夏大学を出たばかりの青年である。

家庭で暖かに育った上に、同級の学生くらいしか付き合いのない男だから、世の中のことにはむしろ疎いと言ってもいいが、その疎いところにどこかおおらかな趣を備えて実社会へ顔を出したのである。

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家庭で暖かに育った上に、同級の学生ぐらいよりほかに交際のない男だから、世の中の事にはむしろ迂濶うかつと云ってもいいが、その迂濶なところにどこか鷹揚おうようおもむきそなえて実社会へ顔を出したのである。

専門は工科の機械学だから、企業熱の下火になった今日といえども、日本中にたくさんある会社に相応の口の一つや二つあるのはもちろんだが、親譲りの山っ気がどこかに潜んでいると見えて、自分で自分の仕事をしてみたくてならない矢先へ、同じ科の出身で、小規模ながら自前の工場を月島あたりに建てて独立の経営をやっている先輩に出会ったのが縁となり、その先輩と相談の上、自分も幾分かの資本を注ぎ込んでいっしょに仕事をしてみようという考えになった。

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専門は工科の器械学だから、企業熱の下火になった今日こんにちといえども、日本中にたくさんある会社に、相応の口の一つや二つあるのは、もちろんであるが、親譲おやゆずりの山気やまぎがどこかにひそんでいるものと見えて、自分で自分の仕事をして見たくてならない矢先へ、同じ科の出身で、小規模ながら専有の工場こうばを月島へんに建てて、独立の経営をやっている先輩に出逢ったのが縁となって、その先輩と相談の上、自分も幾分かの資本をぎ込んで、いっしょに仕事をしてみようという考になった。

叔母の内幕話というのはそこである。

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叔母の内幕話と云ったのはそこである。

「でね、少しあった株をみんなその方へ回すことにしたものだから、今では本当に一文なし同然な有り様でいるんですよ。それは世間から見れば、人数は少ないし、家屋敷は持っているし、楽に見えるのも無理のないところでしょうさ。この間も原のお母さんが来て、まああなたほど気楽な方はない、いつ来て見ても万年青の葉ばかり丹念に洗っている、ってね。まさかそうでもないんですけれど」

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「でね、少しあった株をみんなその方へ廻す事にしたもんだから、今じゃ本当に一文いちもんなし同然な仕儀しぎでいるんですよ。それは世間から見ると、人数は少なし、家邸いえやしきは持っているし、楽に見えるのも無理のないところでしょうさ。この間も原の御母おっかさんが来て、まああなたほど気楽な方はない、いつ来て見ても万年青おもとの葉ばかり丹念に洗っているってね。真逆まさかそうでも無いんですけれども」

と叔母が言った。

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と叔母が云った。

宗助は叔母の説明を聞いた時、ぼんやりして、これという返事が容易に出なかった。

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宗助が叔母の説明を聞いた時は、ぼんやりしてとかくの返事が容易に出なかった。

心の中で、これは神経衰弱の結果、昔のように機敏で明快な判断をすぐ組み立てる頭がなくなった証拠だろうと自覚した。

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心のなかで、これは神経衰弱の結果、昔のように機敏で明快な判断を、すぐ作り上げる頭がくなった証拠しょうこだろうと自覚した。

叔母は自分の言うことが宗助に本当と受け取られないのを気にするように、安之助が持ち出した資本の額まで話した。

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叔母は自分の云う通りが、宗助に本当と受けられないのを気にするように、安之助から持ち出した資本の高まで話した。

それは五千円ほどだった。

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それは五千円ほどであった。

安之助は当分の間、わずかな月給と、この五千円に対する利益配当とで暮らさなければならないのだそうである。

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安之助は当分の間、わずかな月給と、この五千円に対する利益配当とで暮らさなければならないのだそうである。

「その配当だって、まだどうなるか分かりゃしないんですからね。うまく行ったところで一割か一割五分くらいなものでしょうし、また一つ間違えば、まるで煙になってしまわないとも限らないんですから」

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「その配当だって、まだどうなるか分りゃしないんでさあね。うまく行ったところで、一割か一割五分ぐらいなものでしょうし、また一つ間違えばまるでけむにならないとも限らないんですから」

と叔母が付け加えた。

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と叔母がつけ加えた。

宗助は叔母のやり方に、これという目立ったあくどさも見えないので、心の中では少なからず困ったが、小六の将来について一言の掛け合いもせずに帰るのは、いかにも馬鹿馬鹿しい気がした。

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宗助は叔母の仕打に、これと云う目立った阿漕あこぎなところも見えないので、心のうちでは少なからず困ったが、小六の将来について一口の掛合かけあいもせずに帰るのはいかにも馬鹿馬鹿しい気がした。

そこで今までの問題はそこに据え置きにしておいて、自分が当時小六の学資として叔父に預けて行った千円の始末を問いただしてみると、叔母は、

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そこで今までの問題はそこにえっきりにして置いて、自分が当時小六の学資として叔父に預けて行った千円の所置を聞きただして見ると、叔母は、

「宗さん、あれこそ本当に小六が使ってしまったんですよ。小六が高等学校へ入ってからでも、もうかれこれ七百円はかかっているんですもの」

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「宗さん、あれこそ本当に小六が使っちまったんですよ。小六が高等学校へ這入はいってからでも、もうかれこれ七百円は掛かっているんですもの」

と答えた。

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と答えた。

宗助はついでだから、それと同時に、叔父に預けた書画や骨董品の行方を確かめてみた。

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宗助はついでだから、それと同時に、叔父に保管を頼んだ書画や骨董品こっとうひん成行なりゆきを確かめて見た。

すると叔母は、

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すると、叔母は、

「ありゃ、とんだ馬鹿な目に遭って」

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「ありあとんだ馬鹿な目に逢って」

と言いかけたが、宗助の様子を見て、

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と云いかけたが、宗助の様子を見て、

「宗さん、何ですか、あのことはまだお話ししていなかったんでしたかね」

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「宗さん、何ですか、あの事はまだ御話をしなかったんでしたかね」

と聞いた。

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と聞いた。

宗助がいいえと答えると、

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宗助がいいえと答えると、

「おやおや、それじゃ叔父さんが忘れてしまったんですよ」

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「おやおや、それじゃ叔父さんが忘れちまったんですよ」

と言いながら、その顛末を語って聞かせた。

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と云いながら、その顛末てんまつを語って聞かした。

宗助が広島へ帰ると間もなく、叔父はその売りさばきを真田とかいう懇意の男に頼んだ。

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宗助が広島へ帰ると間もなく、叔父はその売捌方うりさばきかた真田さなだとかいう懇意の男に依頼した。

この男は書画骨董の道に明るいとかで、普段からそういうものの売買の周旋をしてあちこちへ出入りするそうだったが、すぐさま叔父の依頼を引き受け、誰それが何を欲しいと言うからちょっと拝見、とか、何々氏がこういう物を希望だからお見せしましょう、とか称して品物を持って行ったきり、返して来ない。

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この男は書画骨董の道に明るいとかいうので、平生そんなものの売買の周旋をして諸方へ出入するそうであったが、すぐさま叔父の依頼を引き受けて、誰某だれそれがしが何を欲しいと云うから、ちょっと拝見とか、何々氏がこう云う物を希望だから、見せましょうとかごうして、品物を持って行ったぎり、返して来ない。

催促すると、まだ先方から戻って参りませんから、とか何とか言い訳をするだけで、一度も埒が明いたためしがなかったが、とうとう持ちこたえられなくなったと見えて、どこかへ姿を隠してしまった。

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催促すると、まだ先方から戻って参りませんからとか何とか言訳をするだけでかつてらちの明いたためしがなかったが、とうとう持ち切れなくなったと見えて、どこかへ姿を隠してしまった。

「でもね、まだ屏風が一つ残っていますよ。この間の引っ越しの時に気がついて、これは宗さんのだから、今度ついでがあったら届けてあげたらいいだろうって、安がそう言っていましたっけ」

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「でもね、まだ屏風びょうぶが一つ残っていますよ。この間引越の時に、気がついて、こりゃ宗さんのだから、今度こんだついでがあったら届けて上げたらいいだろうって、安がそう云っていましたっけ」

叔母は、宗助が預けて行った品物にはまるで重きを置いていないような物の言い方をした。

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叔母は宗助の預けて行った品物にはまるで重きを置いていないような、ものの云い方をした。

宗助も今日まで放っておくくらいだから、あまりその方面には興味を持てなかったので、少しも良心に悩まされている様子のない叔母の顔を見ても、特に腹は立たなかった。

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宗助も今日きょうまで放っておくくらいだから、あまりその方面には興味をち得なかったので、少しも良心に悩まされている気色けしきのない叔母の様子を見ても、別に腹は立たなかった。

それでも、叔母が、

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それでも、叔母が、

「宗さん、どうせうちでは使っていないんだから、なんなら持っておいでになってはどうです。この頃はああいうものがたいへん値が出たという話じゃありませんか」

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「宗さん、どうせうちじゃ使っていないんだから、なんなら持っておいでなすっちゃどうです。この頃はああいうものが、大変が出たと云う話じゃありませんか」

と言った時は、実際それを持って帰る気になった。

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と云ったときは、実際それを持って帰る気になった。

納戸から取り出してもらって明るい所で眺めると、たしかに見覚えのある二枚折りだった。

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納戸なんどから取り出して貰って、明るい所でながめると、たしかに見覚みおぼえのある二枚折であった。

下に萩、桔梗、すすき、葛、女郎花を隙間なく描いた上に、真ん丸い月を銀で出し、その横の空いた所に、野路や空・月の中なる女郎花、と句を記して其一と題してある。

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下にはぎ桔梗ききょうすすきくず女郎花おみなえし隙間すきまなくいた上に、真丸な月を銀で出して、その横のいた所へ、野路のじや空月の中なる女郎花、其一きいちと題してある。

宗助は膝をついて、銀の色が黒く焦げたあたりから、葛の葉が風に裏を返している色の乾いた様子から、大福ほどの大きな丸い朱の輪郭の中に抱一と行書で書いた落款まで、つくづくと見て、父の生きていた当時を思い起こさずにはいられなかった。

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宗助はひざを突いて銀の色の黒くげたあたりから、葛の葉の風に裏を返している色の乾いた様から、大福だいふくほどな大きな丸い朱の輪廓りんかくの中に、抱一ほういつと行書で書いた落款らっかんをつくづくと見て、父の生きている当時をおもい起さずにはいられなかった。

父は正月になると必ずこの屏風を薄暗い蔵の中から出して玄関の仕切りに立て、その前へ紫檀の角ばった名刺入れを置いて年賀を受けたものである。

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父は正月になると、きっとこの屏風びょうぶを薄暗いくらの中から出して、玄関の仕切りに立てて、その前へ紫檀したんかくな名刺入を置いて、年賀を受けたものである。

その時はめでたいからというので、客間の床の間には必ず虎の双幅を掛けた。

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その時はめでたいからと云うので、客間のとこには必ず虎の双幅そうふくけた。

これは岸駒ではない岸岱だと父が宗助に言って聞かせたことがあるのを、宗助はいまだに覚えていた。

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これは岸駒がんくじゃない岸岱がんたいだと父が宗助に云って聞かせた事があるのを、宗助はいまだに記憶していた。

この虎の絵には墨が付いていた。

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この虎のには墨が着いていた。

虎が舌を出して谷の水を飲んでいる鼻柱が少し汚されたのを、父はひどく気にして、宗助を見るたびに、お前、ここへ墨を塗ったことを覚えているか、これはお前が小さい時分の悪戯だぞ、と言って、おかしいような恨めしいような一種の表情をした。

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虎が舌を出して谷の水をんでいる鼻柱が少しけがされたのを、父はひどく気にして、宗助を見るたびに、御前ここへ墨を塗った事を覚えているか、これは御前の小さい時分の悪戯いたずらだぞと云って、おかしいようなうらめしいような一種の表情をした。

宗助は屏風の前にかしこまって、自分が東京にいた昔のことを考えながら、

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宗助は屏風びょうぶの前にかしこまって、自分が東京にいた昔の事を考えながら、

「叔母さん、じゃ、この屏風はいただいて行きましょう」

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「叔母さん、じゃこの屏風はちょうだいして行きましょう」

と言った。

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と云った。

「ああ、ああ、お持ちなさいとも。なんなら使いに持たせてあげましょう」

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「ああああ、御持ちなさいとも。何なら使に持たせて上げましょう」

と叔母は好意から言い添えた。

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と叔母は好意から申し添えた。

宗助はしかるべく叔母に頼んで、その日はそれで切り上げて帰った。

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宗助はしかるべく叔母に頼んで、その日はそれで切り上げて帰った。

晩飯のあと、御米といっしょにまた縁側へ出て、暗い所で白地の浴衣を並べ、涼みながら絵の話をした。

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晩食ばんめしのち御米といっしょにまた縁側へ出て、暗い所で白地の浴衣ゆかたを並べて、涼みながら、画の話をした。

「安さんには、お会いにならなかったの」

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「安さんには、御逢いなさらなかったの」

と御米が聞いた。

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と御米が聞いた。

「ああ、安さんは土曜でも何でも夕方まで工場にいるんだそうだ」

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「ああ、安さんは土曜でも何でも夕方まで、工場にいるんだそうだ」

「ずいぶん骨が折れるでしょうね」

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「随分骨が折れるでしょうね」

御米はそう言ったきり、叔父や叔母の処置については一言の批評も加えなかった。

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御米はそう云ったなり、叔父や叔母の処置については、一言ひとことの批評も加えなかった。

「小六のことはどうしたものだろう」

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「小六の事はどうしたものだろう」

と宗助が聞くと、

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と宗助が聞くと、

「そうね」

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「そうね」

と言うだけだった。

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と云うだけであった。

「理屈を言えばこっちにも言い分はあるが、言い出せば、とどのつまりは裁判沙汰になるばかりだから、証拠も何もなければ勝てるわけのものじゃなし」

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理窟りくつを云えば、こっちにも云い分はあるが、云い出せば、とどのつまりは裁判沙汰になるばかりだから、証拠しょうこも何もなければ勝てる訳のものじゃなし」

と宗助が極端を予想すると、

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と宗助が極端を予想すると、

「裁判なんかに勝たなくたっていいわ」

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「裁判なんかに勝たなくたってもいいわ」

と御米がすぐ言ったので、宗助は苦笑してやめた。

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と御米がすぐ云ったので、宗助は苦笑してやめた。

「つまり、おれがあの時東京へ出られなかったからのことさ」

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「つまりおれがあの時東京へ出られなかったからの事さ」

「そうして東京へ出られた時には、もうそんなことはどうでもよかったんですもの」

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「そうして東京へ出られた時は、もうそんな事はどうでもよかったんですもの」

夫婦はこんな話をしながら、また細い空をひさしの下から覗いてみて、明日の天気を語り合って蚊帳に入った。

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夫婦はこんな話をしながら、また細い空をひさしの下からのぞいて見て、明日あしたの天気を語り合って蚊帳かや這入はいった。

次の日曜に、宗助は小六を呼んで、叔母の言ったとおりを残らず話して聞かせ、

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次の日曜に宗助は小六を呼んで、叔母の云った通りを残らず話して聞かせて、

「叔母さんがお前に詳しい説明をしなかったのは、せっかちなお前の性質を知っているせいか、それともまだ子供だと思ってわざと省いたのか、そこはおれにも分からないが、とにかく事実は今言ったとおりなんだよ」

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「叔母さんが御前に詳しい説明をしなかったのは、短兵急な御前の性質を知ってるせいか、それともまだ小供だと思ってわざと略してしまったのか、そこはおれにも分らないが、何しろ事実は今云った通りなんだよ」

と教えた。

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と教えた。

小六には、どんなに詳しい説明も腹の足しにはならなかった。

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小六にはいかに詳しい説明も腹の足しにはならなかった。

ただ、

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ただ、

「そうですか」

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「そうですか」

と言って、難しい不満な顔をして宗助を見た。

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と云ってむずかしい不満な顔をして宗助を見た。

「仕方がないよ。叔母さんだって安さんだって、そう悪い了見はないんだから」

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「仕方がないよ。叔母さんだって、安さんだって、そう悪い料簡りょうけんはないんだから」

「それは分っています」

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「そりゃ、分っています」

と弟は険しい物の言い方をした。

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と弟はけわしい物の云い方をした。

「じゃ、おれが悪いって言うんだろう。おれはもちろん悪いよ。昔から今日まで悪いところだらけな男だもの」

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「じゃおれが悪いって云うんだろう。おれは無論悪いよ。昔から今日こんにちまで悪いところだらけな男だもの」

宗助は横になって煙草を吹かしながら、これ以上は何も語らなかった。

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宗助は横になって煙草たばこを吹かしながら、これより以上は何とも語らなかった。

小六も黙って、座敷の隅に立ててあった二枚折りの抱一の屏風を眺めていた。

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小六も黙って、座敷のすみに立ててあった二枚折の抱一の屏風びょうぶながめていた。

「お前、あの屏風を覚えているかい」

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「御前あの屏風を覚えているかい」

とやがて兄が聞いた。

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とやがて兄が聞いた。

「ええ」

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「ええ」

と小六が答えた。

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と小六が答えた。

「一昨日、佐伯から届けてくれた。お父さんの持っていたもので、おれの手に残ったのは今ではこれだけだ。これがお前の学資になるなら今すぐにでもやるが、剥げた屏風一枚で大学を卒業するわけにも行かずな」

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一昨日おととい佐伯から届けてくれた。御父さんの持ってたもので、おれの手に残ったのは、今じゃこれだけだ。これが御前の学資になるなら、今すぐにでもやるが、げた屏風一枚で大学を卒業する訳にも行かずな」

と宗助が言った。

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と宗助が云った。

そうして苦笑しながら、

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そうして苦笑しながら、

「この暑いのにこんなものを立てておくのは正気の沙汰でないが、しまっておく所がないから仕方がない」

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「この暑いのに、こんなものを立てて置くのは、気狂きちがいじみているが、入れておく所がないから、仕方がない」

という述懐をした。

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と云う述懐じゅっかいをした。

小六は、この気楽なような、ぐずのような、自分とはあまりに懸け隔たった兄を、いつも物足りなくは思うものの、いざという場合には決して喧嘩ができなかった。

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小六はこの気楽なような、ぐずのような、自分とは余りにへだたっている兄を、いつも物足りなくは思うものの、いざという場合に、けっして喧嘩けんかはし得なかった。

この時も急に癇癪の角を折られた気味で、

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この時も急に癇癪かんしゃくつのを折られた気味で、

「屏風はどうでもいいが、これから先、僕はどうしたものでしょう」

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「屏風はどうでも好いが、これからさき僕はどうしたもんでしょう」

と聞き出した。

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と聞き出した。

「それは問題だ。とにかく今年いっぱいに決まればいいことだから、まあよく考えるさ。おれも考えておこう」

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「それは問題だ。何しろことしいっぱいにきまれば好い事だから、まあよく考えるさ。おれも考えて置こう」

と宗助が言った。

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と宗助が云った。

弟は彼の性分として、そんな宙ぶらりんの状態が嫌いである、学校へ出ても落ち着いて授業も受けられず、下調べも手につかないような境遇はとうてい自分には耐えられない、という訴えをしきりに始めたが、宗助の態度は依然として変わらなかった。

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弟は彼の性質として、そんな中ぶらりんの姿はきらいである、学校へ出ても落ちついて稽古けいこもできず、下調も手につかないような境遇は、とうてい自分にはえられないと云ううったえを切にやり出したが、宗助の態度は依然として変らなかった。

小六があまり神経質に不平を並べると、

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小六があまりかんの高い不平を並べると、

「そのくらいのことでそれほど不平が並べられるなら、どこへ行ったって大丈夫だ。学校をやめたってまるで差し支えない。お前の方がおれよりよっぽど偉いよ」

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「そのくらいな事でそれほど不平が並べられれば、どこへ行ったって大丈夫だ。学校をやめたって、いっこう差支さしつかえない。御前の方がおれよりよっぽどえらいよ」

と兄が言ったので、話はそれきり頓挫して、小六はとうとう本郷へ帰って行った。

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と兄が云ったので、話はそれぎり頓挫とんざして、小六はとうとう本郷へ帰って行った。

宗助はそれから湯を浴びて、晩飯を済ませ、夜は近所の縁日へ御米といっしょに出掛けた。

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宗助はそれから湯を浴びて、晩食ばんめしを済まして、夜は近所の縁日へ御米といっしょに出掛けた。

そうして手ごろな花の鉢を二つ買って、夫婦で一つずつ持って帰って来た。

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そうして手頃な花物を二鉢買って、夫婦して一つずつ持って帰って来た。

夜露に当てた方がいいだろうというので、崖下の雨戸を開けて、庭先にそれを二つ並べて置いた。

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夜露にあてた方がよかろうと云うので、崖下がけしたの雨戸を明けて、庭先にそれを二つ並べて置いた。

蚊帳の中へ入った時、御米は、

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蚊帳かやの中へ這入はいった時、御米は、

「小六さんのことはどうなって」

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「小六さんの事はどうなって」

と夫に聞くと、

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と夫に聞くと、

「まだどうにもならないさ」

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「まだどうもならないさ」

と宗助は答えたが、十分ほどのちには夫婦ともすやすや寝入った。

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と宗助は答えたが、十分ばかりののち夫婦ともすやすや寝入ねいった。

翌日目が覚めて役所の生活が始まると、宗助はもう小六のことを考える暇を持たなかった。

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翌日眼が覚めて役所の生活が始まると、宗助はもう小六の事を考える暇をたなかった。

家へ帰ってのっそりしている時でさえ、この問題をはっきり目の前に描いて、明らかにそれを眺めることをためらった。

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うちへ帰って、のっそりしている時ですら、この問題を確的はっきり眼の前にえがいて明らかにそれをながめる事をはばかった。

髪の毛の中に包まれている彼の脳は、その煩わしさに耐えられなかった。

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髪の毛の中に包んである彼の脳は、そのわずらわしさにえなかった。

昔は数学が好きで、ずいぶん込み入った幾何の問題を頭の中ではっきりした図にしてみるだけの根気があったことを思い出すと、経った年月の割には非常に激しく来たこの変化が、自分でも恐ろしく思えた。

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昔は数学が好きで、随分込み入った幾何きかの問題を、頭の中で明暸めいりょうな図にして見るだけの根気があった事をおもい出すと、時日の割には非常にはげしく来たこの変化が自分にも恐ろしく映った。

それでも日に一度くらいは小六の姿がぼんやり頭の奥に浮かんで来ることがあって、その時だけは、あいつの将来も何とか考えておかなくてはならないという気も起こった。

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それでも日に一度ぐらいは小六の姿がぼんやり頭の奥に浮いて来る事があって、その時だけは、あいつの将来も何とか考えておかなくっちゃならないと云う気も起った。

しかしすぐあとから、まあ急ぐにも及ぶまい、くらいに自分で打ち消してしまうのが常だった。

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しかしすぐあとから、まあ急ぐにも及ぶまいぐらいに、自分と打ち消してしまうのが常であった。

そうして、胸の筋が一本鉤に引っ掛かったような心を抱いて日を暮らしていた。

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そうして、胸のきんが一本かぎに引っ掛ったような心をいだいて、日を暮らしていた。

そのうち九月も末になって、毎晩天の川が濃く見えるある宵のこと、空から降ったように安之助がやって来た。

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そのうち九月も末になって、毎晩あまがわが濃く見えるあるよいの事、空から降ったように安之助がやって来た。

宗助にも御米にも思いがけないほどまれな客なので、二人とも何か用があっての訪問だろうと推したが、はたして小六に関する件だった。

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宗助にも御米にも思い掛けないほどたまな客なので、二人とも何か用があっての訪問だろうとすいしたが、はたして小六に関する件であった。

この間、月島の工場へひょっこり小六がやって来て言うには、自分の学資についての詳しい話は兄から聞いたが、自分も今まで学問をやって来て、とうとう大学へ入れずじまいになるのはいかにも残念だから、借金でも何でもして行けるところまで行きたい、何かいい工夫はないだろうかと相談をかけるので、安之助が、よく宗さんにも話してみようと答えると、小六はたちまちそれを遮って、兄はとうてい相談になってくれる人ではない。

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この間月島の工場へひょっくり小六がやって来て云うには、自分の学資についての詳しい話は兄から聞いたが、自分も今まで学問をやって来て、とうとう大学へ這入はいれずじまいになるのはいかにも残念だから、借金でも何でもして、行けるところまで行きたいが、何か好い工夫はあるまいかと相談をかけるので、安之助はよく宗さんにも話して見ようと答えると、小六はたちまちそれをさえぎって、兄はとうてい相談になってくれる人じゃない。

自分が大学を卒業していないから、他人も中途でやめるのは当然だ、くらいに考えている。

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自分が大学を卒業しないから、ひとも中途でやめるのは当然だぐらいに考えている。

もともと今度のことも元をただせば兄が責任者であるのに、あのとおりまるで平気で、こちらが何を言っても取り合ってくれない。

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元来今度の事も元をただせば兄が責任者であるのに、あの通りいっこう平気なもので、他が何を云っても取り合ってくれない。

だから、頼りにするのは君だけだ。

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だから、ただ頼りにするのは君だけだ。

叔母さんに正式に断られながら、また君に頼むのはおかしいようだが、君の方が叔母さんより話が分かるだろうと思って来た、と言って、なかなか動きそうもなかったそうである。

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叔母さんに正式に断わられながら、また君に依頼するのはおかしいようだが、君の方が叔母さんより話が分るだろうと思って来たと云って、なかなか動きそうもなかったそうである。

安之助は、そんなことはない、宗さんも君のことではだいぶ心配して、近いうちにまた家へ相談に来るはずになっているんだから、と慰めて、小六を帰したのだという。

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安之助は、そんな事はない、宗さんも君の事ではだいぶ心配して、近いうちまたうちへ相談に来るはずになっているんだからと慰めて、小六を帰したんだと云う。

帰る時、小六は袂から半紙を何枚も出して、欠席届が要るからこれに判を押してくれと求め、僕は退学か在学か片がつくまでは勉強ができないから、毎日学校へ出る必要はないんだ、と言ったそうである。

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帰るときに、小六はたもとから半紙を何枚も出して、欠席届が入用にゅうようだからこれに判を押してくれと請求して、僕は退学か在学か片がつくまでは勉強ができないから、毎日学校へ出る必要はないんだと云ったそうである。

安之助は忙しいとかで、一時間足らず話して帰って行ったが、小六の処遇については二人の間に具体的な案は特に出なかった。

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安之助は忙がしいとかで、一時間足らず話して帰って行ったが、小六の所置については、両人の間に具体的の案は別に出なかった。

いずれゆっくりみんなで集まって決めよう、都合がよければ小六も同席するといい、というのが別れる時の言葉だった。

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いずれゆっくりみんなで寄ってきめよう、都合がよければ小六も列席するが好かろうというのが別れる時の言葉であった。

二人になった時、御米は宗助に、

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二人になったとき、御米は宗助に、

「何を考えていらっしゃるの」

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「何を考えていらっしゃるの」

と聞いた。

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と聞いた。

宗助は両手を兵児帯の間に挟んで、心持ち肩を高くしたまま、

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宗助は両手を兵児帯へこおびの間にはさんで、心持肩を高くしたなり、

「おれももう一度、小六みたいになってみたい」

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「おれももう一返小六みたようになって見たい」

と言った。

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と云った。

「こっちは、向こうがおれのような運命に陥るだろうと思って心配しているのに、向こうは兄貴なんぞ眼中にないんだから偉いや」

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「こっちじゃ、むこうがおれのような運命におちいるだろうと思って心配しているのに、向じゃ兄貴なんざあ眼中にないから偉いや」

御米は茶器を下げて台所へ出た。

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御米は茶器を引いて台所へ出た。

夫婦はそれきり話を切り上げて、また床を延べて寝た。

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夫婦はそれぎり話を切り上げて、またとこを延べてた。

夢の上に高い天の川が涼しくかかった。

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夢の上に高い銀河あまのがわが涼しくかかった。

次の一週間は小六も来ず、佐伯からの便りもなく、宗助の家庭はまた普段の無事に戻った。

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次の週間には、小六も来ず、佐伯からの音信たよりもなく、宗助の家庭はまた平日の無事に帰った。

夫婦は毎朝、露が光る頃に起きて、美しい日をひさしの上に見た。

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夫婦は毎朝露に光る頃起きて、美しい日をひさしの上に見た。

夜は煤竹の台を付けたランプの両側に、長い影を描いて座っていた。

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夜は煤竹すすだけの台を着けた洋灯ランプの両側に、長い影をえがいて坐っていた。

話が途切れた時はひっそりとして、柱時計の振り子の音だけが聞こえることもまれではなかった。

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話が途切れた時はひそりとして、柱時計の振子の音だけが聞える事もまれではなかった。

それでも夫婦はこの間に小六のことを相談した。

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それでも夫婦はこの間に小六の事を相談した。

小六がもしどうしても学問を続ける気ならもちろんのこと、そうでなくても、今の下宿を一時引き払わなければならなくなるのは分かっているが、そうすればまた佐伯へ帰るか、あるいは宗助の所へ置くよりほかに道はない。

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小六がもしどうしても学問を続ける気なら無論の事、そうでなくても、今の下宿を一時引き上げなければならなくなるのは知れているが、そうすればまた佐伯へ帰るか、あるいは宗助の所へ置くよりほかにみちはない。

佐伯ではいったんああ言い出したようなものの、頼んでみたら、当分家に置くくらいのことは、好意で引き受けてくれないものでもない。

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佐伯ではいったんああ云い出したようなものの、頼んで見たら、当分うちへ置くぐらいの事は、好意上してくれまいものでもない。

が、その上で修業をさせるとなると、月謝や小遣いその他は宗助の方で受け持たなければ義理が悪い。

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が、その上修業をさせるとなると、月謝小遣その他は宗助の方で担任たんにんしなければ義理が悪い。

ところが、それは家計の上で宗助に耐えられることではなかった。

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ところがそれは家計上宗助のえるところでなかった。

月々の収支を細かく計算してみた二人は、

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月々の収支を事細かに計算して見た両人ふたりは、

「とうてい駄目だね」

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「とうてい駄目だね」

「どうしたって無理ですわ」

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「どうしたって無理ですわ」

と言った。

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と云った。

夫婦の座っている茶の間の次が台所で、台所の右に下女部屋、左に六畳が一間ある。

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夫婦のすわっている茶の間の次が台所で、台所の右に下女部屋、左に六畳が一間ひとまある。

下女を入れて三人の小人数だから、この六畳にはあまり必要を感じない御米は、東向きの窓際にいつも自分の鏡台を置いていた。

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下女を入れて三人の小人数こにんずだから、この六畳には余り必要を感じない御米は、東向の窓側にいつも自分の鏡台を置いた。

宗助も朝起きて顔を洗い、飯を済ますと、ここへ来て着物を着替えた。

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宗助も朝起きて顔を洗って、飯を済ますと、ここへ来て着物をえた。

「それより、あの六畳を空けて、あそこへ来てもらってはいけなくて」

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「それよりか、あの六畳をけて、あすこへ来ちゃいけなくって」

と御米が言い出した。

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と御米が云い出した。

御米の考えでは、こうして自分の方で部屋と食事だけを受け持ち、あとのところを月々いくらか佐伯から助けてもらったら、小六の望みどおり大学卒業までやって行けるだろうというのである。

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御米の考えでは、こうして自分の方で部屋と食物だけを分担して、あとのところを月々いくらか佐伯からすけもらったら、小六の望み通り大学卒業までやって行かれようと云うのである。

「着物は安さんの古いのや、あなたのを直してあげたら、どうにかなるでしょう」

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「着物は安さんの古いのや、あなたのを直して上げたら、どうかなるでしょう」

と御米が言い添えた。

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と御米が云い添えた。

実は宗助にも、こんな考えが多少頭に浮かんでいた。

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実は宗助にもこんな考が、多少頭に浮かんでいた。

ただ御米に遠慮がある上に、それほど気が進まなかったので、つい口に出さなかっただけだから、細君の方からこう逆に相談を持ちかけられてみると、もとよりそれを拒むだけの勇気はなかった。

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ただ御米に遠慮がある上に、それほど気が進まなかったので、つい口へ出さなかったまでだから、細君からこう反対あべこべに相談を掛けられて見ると、もとよりそれをこばむだけの勇気はなかった。

小六にそのとおりを知らせて、お前さえそれで差し支えなければ、おれがもう一度佐伯へ行って掛け合ってみるが、と手紙で問い合わせると、小六は郵便の着いた晩、すぐ雨の降る中を傘に音を立ててやって来て、もう学資ができでもしたように喜んだ。

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小六にその通りを通知して、御前さえそれで差支さしつかえなければ、おれがもう一遍佐伯へ行って掛合って見るがと、手紙で問い合せると、小六は郵便の着いた晩、すぐ雨の降る中を、からかさに音を立ててやって来て、もう学資ができでもしたようにうれしがった。

「なに、叔母さんの方では、こっちがいつまでもあなたのことを放り出したまま構わずにおくものだから、それでああおっしゃるのよ。なに、兄さんだって、もう少し都合がよければとっくにどうにかしたんですけれど、ご存じのとおりだから実際やむを得なかったんですわ。しかしこっちからこう言って行けば、叔母さんだって安さんだって、それでも嫌だとは言えないわ。きっとできるから安心していらっしゃい。私が請け合うわ」

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「何、叔母さんの方じゃ、こっちでいつまでもあなたの事を放り出したまんま、構わずにおくもんだから、それでああおっしゃるのよ。なに兄さんだって、もう少し都合が好ければ、うにもどうにかしたんですけれども、御存じの通りだから実際やむを得なかったんですわ。しかしこっちからこう云って行けば、叔母さんだって、安さんだって、それでもいやだとは云われないわ。きっとできるから安心していらっしゃい。わたし受合うわ」

御米にこう請け合ってもらった小六は、また雨の音を頭の上に受けて本郷へ帰って行った。

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御米にこう受合って貰った小六は、また雨の音を頭の上に受けて本郷へ帰って行った。

しかし一日おいて、兄さんはまだ行かないんですかと聞きに来た。

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しかし中一日置いて、兄さんはまだ行かないんですかと聞きに来た。

また三日ほど過ぎてから、今度は叔母さんの所へ行って聞いたら兄さんはまだ来ないそうだから、なるべく早く行くように勧めてくれ、と催促して行った。

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また三日ばかり過ぎてから、今度は叔母さんの所へ行って聞いたら、兄さんはまだ来ないそうだから、なるべく早く行くようにすすめてくれと催促して行った。

宗助が行く行くと言って日を暮らしているうちに、世の中はようやく秋になった。

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宗助が行く行くと云って、日を暮らしているうちに世の中はようやく秋になった。

その朗らかなある日曜の午後、宗助はあまりに佐伯へ行くのが遅れるので、この用件を手紙にしたためて番町へ相談したのである。

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その朗らかな或日曜の午後に、宗助はあまり佐伯へ行くのがおくれるので、この要件を手紙にしたためて番町へ相談したのである。

すると叔母から、安之助は神戸へ行って留守だという返事が来たのである。

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すると、叔母から安之助は神戸へ行って留守だと云う返事が来たのである。

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佐伯の叔母が訪ねて来たのは、土曜の午後二時過ぎだった。

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佐伯さえきの叔母の尋ねて来たのは、土曜の午後の二時過であった。

その日はめずらしく朝から雲が出て、突然風が北に変わったように寒かった。

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その日は例になく朝から雲が出て、突然と風が北に変ったように寒かった。

叔母は竹で編んだ丸い火桶の上へ手をかざして、

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叔母は竹で編んだ丸い火桶ひおけの上へ手をかざして、

「何ですね、御米さん。このお部屋は夏は涼しそうで結構だけれど、これからは少し寒うございますね」

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「何ですね、御米およねさん。この御部屋は夏は涼しそうで結構だが、これからはちと寒うござんすね」

と言った。

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と云った。

叔母は癖のある髪をきれいに髷に結って、古風な丸打ちの羽織の紐を胸の所で結んでいた。

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叔母は癖のある髪を、奇麗きれいまげって、古風な丸打の羽織のひもを、胸の所で結んでいた。

酒の好きな質で、今でも少しずつは晩酌をやるせいか、色つやもよく、でっぷり太っているから、年よりよほど若く見える。

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酒の好きなたちで、今でも少しずつは晩酌をやるせいか、色沢いろつやもよく、でっぷりふとっているから、年よりはよほど若く見える。

御米は叔母が来るたびに、叔母さんは若いのね、とあとでよく宗助に話した。

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御米は叔母が来るたんびに、叔母さんは若いのねと、あとでよく宗助そうすけに話した。

すると宗助はいつでも、若いはずだ、あの年になるまで子供をたった一人しか生まないんだから、と説明した。

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すると宗助がいつでも、若いはずだ、あの年になるまで、子供をたった一人しか生まないんだからと説明した。

御米は実際そうかもしれないと思った。

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御米は実際そうかも知れないと思った。

そうしてこう言われたあとでは、折々そっと六畳へ入って、自分の顔を鏡に映してみた。

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そうしてこう云われた後では、折々そっと六畳へ這入はいって、自分の顔を鏡に映して見た。

その時は、何だか自分の頬が見るたびにこけて行くような気がした。

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その時は何だか自分のほおが見るたびにけて行くような気がした。

御米には、自分と子供とを結びつけて考えるほど辛いことはなかったのである。

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御米には自分と子供とを連想して考えるほどつらい事はなかったのである。

裏の家主の家に小さい子供が大勢いて、それが崖の上の庭へ出てブランコに乗ったり鬼ごっこをしたりして騒ぐ声がよく聞こえると、御米はいつでも、はかないような恨めしいような心持ちになった。

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裏の家主のうちに、小さい子供が大勢いて、それががけの上の庭へ出て、ブランコへ乗ったり、鬼ごっこをやったりして騒ぐ声が、よく聞えると、御米はいつでも、はかないようなうらめしいような心持になった。

今、自分の前に座っている叔母は、たった一人の男の子を生んで、その男の子が順当に育って立派な学士になったからこそ、叔父が死んだ今日でも何不足のない顔をして、顎などは二重に見えるほど豊かなのである。

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今自分の前に坐っている叔母は、たった一人の男の子を生んで、その男の子が順当に育って、立派な学士になったればこそ、叔父が死んだ今日こんにちでも、何不足のない顔をして、あごなどは二重ふたえに見えるくらいにゆたかなのである。

お母さんは太っているから危ない、気をつけないと卒中でやられるかもしれないと安之助がいつも心配するそうだけれど、御米から言わせれば、心配する安之助も、心配される叔母も、ともに幸福を分け合っているものとしか思えなかった。

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御母さんは肥っているから剣呑けんのんだ、気をつけないと卒中でやられるかも知れないと、安之助やすのすけ始終しじゅう心配するそうだけれども、御米から云わせると、心配する安之助も、心配される叔母も、共に幸福をけ合っているものとしか思われなかった。

「安さんは」

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「安さんは」

と御米が聞いた。

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と御米が聞いた。

「ええ、ようやくね。一昨日の晩帰りましてね。それでついつい、お返事も遅れてしまって、まことに済まないようなわけで」

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「ええようやくね、あなた。一昨日おとといの晩帰りましてね。それでついつい御返事もおくれちまって、まことに済みませんような訳で」

と言ったが、返事のことはそれきりにして、話はまた安之助へ戻って来た。

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と云ったが、返事の方はそれなりにして、話はまた安之助へ戻って来た。

「あれもね、おかげさまでようやく学校だけは卒業しましたが、これからが大事なところで、心配でございます。――それでもこの九月から月島の工場の方へ出ることになりまして、まあ幸いこの分で勉強さえして行ってくれれば、この先ともにそう悪いこともなかろうかと思っているんですけれど、まあ若い者のことですから、これから先どう変わるか分かりゃしませんよ」

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「あれもね、御蔭おかげさまでようやく学校だけは卒業しましたが、これからが大事のところで、心配でございます。――それでもこの九月から、月島の工場の方へ出る事になりまして、まあさいわいとこの分で勉強さえして行ってくれれば、この末ともに、そう悪い事も無かろうかと思ってるんですけれども、まあ若いものの事ですから、これから先どう変化へんげるか分りゃしませんよ」

御米はただ、結構でございますとか、おめでとうございますとかいう言葉を合間合間に挟んでいた。

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御米はただ結構でございますとか、おめでとうございますとか云う言葉を、間々あいだあいだはさんでいた。

「神戸へ参ったのも、まったくその方の用向きで。石油発動機とか何とかいうものを鰹船へ据え付けるんだとかってね、あなた」

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「神戸へ参ったのも、全くその方の用向なので。石油発動機とか何とか云うものを鰹船かつおぶねえ付けるんだとかってねあなた」

御米にはまるで意味が分からなかった。

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御米にはまるで意味が分らなかった。

分からないながら、ただ、へえ、と受けていると、叔母はすぐあとを話した。

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分らないながらただへええと受けていると、叔母はすぐあとを話した。

「私にも何のことか、ちっとも分からなかったんですが、安之助の講釈を聞いて初めて、おや、そうかい、と言うようなわけでしてね。――もっとも石油発動機は今もって分からないんですけれど」

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「私にも何のこったか、ちっとも分らなかったんですが、安之助の講釈を聞いて始めて、おやそうかいと云うような訳でしてね。――もっとも石油発動機は今もって分らないんですけれども」

と言いながら、大きな声を出して笑った。

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と云いながら、大きな声を出して笑った。

「何でも石油を焚いて、それで船を自由に動かす器械なんだそうですが、聞いてみるとよほど重宝なものらしいんですよ。それさえ付ければ、舟を漕ぐ手間がまるで省けるとかでね。五里も十里も沖へ出るのにたいへん楽なんですとさ。ところがあなた、この日本全国で鰹船の数といったら、それこそ大したものでしょう。その鰹船が一つずつこの器械を備え付けるようになったら莫大な利益だというので、この頃は夢中になってその方ばかりにかかっているようですよ。莫大な利益はありがたいけれど、そう凝って体でも悪くしてはつまらないじゃないかって、この間も笑ったくらいで」

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「何でも石油をいて、それで船を自由にする器械なんだそうですが、聞いて見るとよほど重宝なものらしいんですよ。それさえ付ければ、舟を手間てまがまるで省けるとかでね。五里も十里も沖へ出るのに、大変楽なんですとさ。ところがあなた、この日本全国で鰹船の数ったら、それこそ大したものでしょう。その鰹船が一つずつこの器械をそなえ付けるようになったら、莫大ばくだいな利益だって云うんで、この頃は夢中になってその方ばっかりにかかっているようですよ。莫大な利益はありがたいが、そうって身体からだでも悪くしちゃつまらないじゃないかって、この間も笑ったくらいで」

叔母はしきりに鰹船と安之助の話をした。

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叔母はしきりに鰹船と安之助の話をした。

そうしてたいへん得意そうに見えたが、小六のことはなかなか言い出さなかった。

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そうして大変得意のように見えたが、小六の事はなかなか云い出さなかった。

もうとっくに帰るはずの宗助も、どうしたのか帰って来なかった。

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もうとうに帰るはずの宗助もどうしたか帰って来なかった。

彼はその日、役所の帰りがけに駿河台下まで来て電車を降り、酸っぱいものを頬張ったような口をすぼめて一、二町歩いたあと、ある歯医者の門をくぐったのである。

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彼はその日役所の帰りがけに駿河台下するがだいしたまで来て、電車を下りて、いものを頬張ほおばったような口を穿すぼめて一二町歩いたのち、ある歯医者のかどくぐったのである。

三、四日前、彼は御米と差し向かいで夕飯の膳に着き、話しながら箸を取っているうちに、どうした拍子か前歯を逆にぎりりと噛んでから、それが急に痛み出した。

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三四日前彼は御米と差向いで、夕飯のぜんに着いて、話しながらはしを取っている際に、どうした拍子か、前歯を逆にぎりりとんでから、それが急に痛み出した。

指で動かすと、根がぐらぐらする。

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指でうごかすと、根がぐらぐらする。

食事の時には湯や茶がしみる。

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食事の時には湯茶がみる。

口を開けて息をすると、風もしみた。

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口を開けて息をすると風も染みた。

宗助はこの朝、歯を磨くためにわざと痛い所を避けて楊枝を使いながら、口の中を鏡に照らしてみたら、広島で銀を詰めた二枚の奥歯と、研いだようにすり減った不揃いの前歯とが、にわかに寒く光った。

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宗助はこの朝歯をみがくために、わざと痛い所をけて楊枝ようじを使いながら、口の中を鏡に照らして見たら、広島で銀をめた二枚の奥歯と、いだようにり減らした不揃ぶそろの前歯とが、にわかに寒く光った。

洋服に着替える時、

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洋服に着換える時、

「御米、おれは歯の質がよほど悪いと見えるね。こうやるとたいてい動くぜ」

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「御米、おれは歯のしょうがよっぽど悪いと見えるね。こうやると大抵動くぜ」

と下の歯を指で動かしてみせた。

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と下歯を指で動かして見せた。

御米は笑いながら、

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御米は笑いながら、

「もうお年のせいよ」

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「もう御年のせいよ」

と言って、白い襟を後ろへ回ってシャツに付けた。

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と云って白いえりを後へ廻って襯衣シャツへ着けた。

宗助はその日の午後、とうとう思い切って歯医者へ寄ったのである。

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宗助はその日の午後とうとう思い切って、歯医者へ寄ったのである。

応接間へ通ると、大きなテーブルの周りにビロードで張った腰掛けが並んでいて、待っている三、四人がうずくまるように顎を襟に埋めていた。

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応接間へ通ると、大きな洋卓テーブル周囲まわり天鵞絨びろうどで張った腰掛がならんでいて、待ち合している三四人が、うずくまるようにあごえりうずめていた。

それが皆女だった。

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それが皆女であった。

きれいな茶色のガスストーブには、まだ火が入っていなかった。

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奇麗きれいな茶色の瓦斯暖炉ガスストーヴには火がまだいてなかった。

宗助は大きな姿見に映る白壁の色を斜めに見ながら順番の来るのを待っていたが、あまり退屈になったので、テーブルの上に重ねてあった雑誌に目をつけた。

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宗助は大きな姿見に映る白壁の色をななめに見て、番の来るのを待っていたが、あまり退屈になったので、洋卓の上に重ねてあった雑誌に眼を着けた。

一、二冊手に取ってみると、いずれも婦人向けのものだった。

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一二冊手に取って見ると、いずれも婦人用のものであった。

宗助はその口絵に出ている女の写真を、何枚も繰り返して眺めた。

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宗助はその口絵に出ている女の写真を、何枚も繰り返してながめた。

それから「成功」

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それから「成功」

という雑誌を取り上げた。

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と云う雑誌を取り上げた。

その初めに成功の秘訣というようなものが箇条書きにしてあったうち、何でも猛進しなくてはいけないという一か条と、ただ猛進してもいけない、立派な土台の上に立って猛進しなくてはならないという一か条を読んで、それきり雑誌を伏せた。

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その初めに、成効の秘訣ひけつというようなものが箇条書にしてあったうちに、何でも猛進しなくってはいけないと云う一カ条と、ただ猛進してもいけない、立派な根底の上に立って、猛進しなくってはならないと云う一カ条を読んで、それなり雑誌を伏せた。

「成功」

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「成功」

と宗助とは、非常に縁の遠いものだった。

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と宗助は非常に縁の遠いものであった。

宗助は、こういう名の雑誌があるということさえ今日まで知らなかった。

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宗助はこういう名の雑誌があると云う事さえ、今日こんにちまで知らなかった。

それでまためずらしくなって、いったん伏せたのをまた開いてみると、ふと仮名の交じらない四角な字が二行ほど並んでいた。

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それでまた珍らしくなって、いったん伏せたのをまた開けて見ると、ふと仮名かなの交らない四角な字が二行ほど並んでいた。

それには、風が青空を吹いて浮かぶ雲は消え、月が東の山に上って玉のような光が一つにまとまる、とあった。

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それにはかぜ碧落へきらくいて浮雲ふうんき、つき東山とうざんのぼってぎょく一団いちだんとあった。

宗助は詩とか歌とかいうものにはもともとあまり興味を持たない男だったが、どういうわけかこの二句を読んだ時、たいへん感心した。

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宗助は詩とか歌とかいうものには、元から余り興味を持たない男であったが、どう云う訳かこの二句を読んだ時に大変感心した。

対句がうまくできたとか何とかいう意味ではなく、こんな景色と同じような心持ちになれたら、人間もさぞ嬉しかろうと、ふと心が動いたのである。

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対句ついくうまくできたとか何とか云う意味ではなくって、こんな景色けしきと同じような心持になれたら、人間もさぞうれしかろうと、ひょっと心が動いたのである。

宗助は好奇心から、この句の前に付いている論文を読んでみた。

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宗助は好奇心からこの句の前に付いている論文を読んで見た。

しかしそれはまるで無関係のように思われた。

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しかしそれはまるで無関係のように思われた。

ただこの二句だけが、雑誌を置いたあとでもしきりに彼の頭の中をさまよった。

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ただこの二句が雑誌を置いたあとでも、しきりに彼の頭の中を徘徊はいかいした。

彼の生活は、実際この四、五年こういう景色に出会ったことがなかったのである。

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彼の生活は実際この四五年来こういう景色に出逢った事がなかったのである。

その時、向こうの戸が開いて、紙切れを持った書生が、野中さん、と宗助を手術室へ呼び入れた。

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その時向うの戸がいて、紙片かみぎれを持った書生が野中さんと宗助を手術室へ呼び入れた。

中へ入ると、そこは応接間の倍も広かった。

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中へ這入はいると、そこは応接間よりは倍も広かった。

光線がなるべく多く取れるように明るくこしらえた部屋の二方に、手術用の椅子を四台ほど据えて、白い胸掛けをかけた担当の男が一人ずつ別々に治療をしていた。

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光線がなるべく余計取れるように明るくこしらえた部屋の二側ふたがわに、手術用の椅子いすを四台ほどえて、白い胸掛をかけた受持の男が、一人ずつ別々に療治をしていた。

宗助は一番奥にある一脚に案内されて、これへ、と言われるので、踏み段のようなものの上へ乗って椅子に腰を下ろした。

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宗助は一番奥の方にある一脚に案内されて、これへと云われるので、踏段のようなものの上へ乗って、椅子へ腰をおろした。

書生が厚い縞入りの前掛けで、丁寧に膝から下を包んでくれた。

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書生が厚い縞入しまいりの前掛で丁寧ていねいひざから下をくるんでくれた。

こう穏やかに寝かされた時、宗助は例の歯がさほど苦になるほど痛んでいないことに気がついた。

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こうおだやかにかされた時、宗助は例の歯がさほど苦になるほど痛んでいないと云う事を発見した。

それどころか、肩も背中も腰の周りも心安く落ち着いて、いかにも楽に釣り合いが取れていることに気がついた。

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そればかりか、肩もせなも、腰のまわりも、心安く落ちついて、いかにも楽に調子が取れている事に気がついた。

彼はただ仰向いて、天井から下がっているガス管を眺めた。

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彼はただ仰向あおむいて天井てんじょうから下っている瓦斯管ガスかんを眺めた。

そうして、この構えと設備では帰りがけに思ったより高い治療代を取られるかもしれないと気にした。

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そうしてこのかまえと設備では、帰りがけに思ったより高い療治代を取られるかも知れないと気遣きづかった。

そこへ、顔の割に頭の薄くなり過ぎた太った男が出て来て、たいへん丁寧に挨拶をしたので、宗助は少し椅子の上で慌てたように首を動かした。

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ところへ顔の割に頭の薄くなり過ぎたふとった男が出て来て、大変丁寧ていねい挨拶あいさつをしたので、宗助は少し椅子の上で狼狽あわてたように首を動かした。

太った男はひととおり容態を聞き、口の中を検査して、宗助の痛いという歯をちょっと揺すってみたが、

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肥った男は一応容体を聞いて、口中を検査して、宗助の痛いと云う歯をちょっとゆすって見たが、

「どうも、こう緩みますと、とても元のように締まるわけには参りますまいと思いますが。何しろ中が壊死になっておりますから」

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「どうもこうゆるみますと、とても元のようにしまる訳には参りますまいと思いますが。何しろ中がエソになっておりますから」

と言った。

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と云った。

宗助はこの宣告を、寂しい秋の光のように感じた。

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宗助はこの宣告をさびしい秋の光のように感じた。

もうそんな年なんでしょうか、と聞いてみたくなったが、少しきまりが悪いので、ただ、

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もうそんな年なんでしょうかと聞いて見たくなったが、少しきまりが悪いので、ただ、

「じゃ、治らないんですか」

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「じゃなおらないんですか」

と念を押した。

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と念を押した。

太った男は笑いながらこう言った。――

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ふとった男は笑いながらこう云った。――

「まあ、治らないと申し上げるよりほかに仕方がございませんな。やむを得なければ思い切って抜いてしまうんですが、今のところではまだそれほどでもございますまいから、ただお痛みだけを止めておきましょう。何しろ壊死――壊死と申してもお分かりにならないかもしれませんが、中がまるで腐っております」

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「まあ癒らないと申し上げるよりほかに仕方がござんせんな。やむを得なければ、思い切って抜いてしまうんですが、今のところでは、まだそれほどでもございますまいから、ただ御痛みだけを留めておきましょう。何しろエソ――エソと申しても御分りにならないかも知れませんが、中がまるで腐っております」

宗助は、そうですか、と言って、ただ太った男のするがままにしておいた。

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宗助は、そうですかと云って、ただ肥った男のなすがままにしておいた。

すると彼は器械をぐるぐる回して、宗助の歯の根へ穴を開け始めた。

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すると彼は器械をぐるぐる廻して、宗助の歯の根へ穴を開け始めた。

そうしてその中へ細長い針のようなものを刺し通してはその先を嗅いでいたが、しまいに糸ほどの筋を引き出して、神経がこれだけ取れました、と言いながらそれを宗助に見せてくれた。

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そうしてその中へ細長い針のようなものを刺し通しては、その先をいでいたが、しまいに糸ほどな筋を引き出して、神経がこれだけ取れましたと云いながら、それを宗助に見せてくれた。

それから薬でその穴を埋めて、明日もまたいらっしゃい、と注意を与えた。

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それから薬でその穴をめて、明日みょうにちまたいらっしゃいと注意を与えた。

椅子を下りる時、体がまっすぐになったので、視線の位置が天井からふと庭先に移ると、そこにあった高さ五尺もあろうという大きな鉢植えの松が宗助の目に入った。

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椅子いすを下りるとき、身体からだ真直まっすぐになったので、視線の位置が天井からふと庭先に移ったら、そこにあった高さ五尺もあろうと云う大きな鉢栽はちうえの松が宗助の眼に這入はいった。

その根もとの所を、草鞋がけの植木屋が丁寧に薦で包んでいた。

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その根方の所を、草鞋わらじがけの植木屋が丁寧ていねいこもくるんでいた。

だんだん露が凝って霜になる時節なので、余裕のある者はもう今時分から手回しをするのだと気がついた。

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だんだん露がってしもになる時節なので、余裕よゆうのあるものは、もう今時分から手廻しをするのだと気がついた。

帰りがけに玄関脇の薬局で、粉薬のままうがい薬を受け取り、それを百倍のぬるま湯に溶かして一日十数回使うようにと注意を受けた時、宗助は会計の請求した治療代が案外安いのを喜んだ。

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帰りがけに玄関脇の薬局で、粉薬こぐすりのまま含嗽剤がんそうざいを受取って、それを百倍の微温湯びおんとうに溶解して、一日十数回使用すべき注意を受けた時、宗助は会計の請求した治療代の案外れんなのを喜んだ。

これなら向こうの言うとおり四、五回通ったところで、それほど難儀でもないと思って靴を履こうとすると、今度は靴の底がいつの間にか破れていることに気がついた。

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これならば向うで云う通り四五回かよったところが、さして困難でもないと思って、靴を穿こうとすると、今度は靴の底がいつの間にか破れている事に気がついた。

家へ着いた時は、ひと足違いで叔母がもう帰ったあとだった。

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うちへ着いた時は一足違ひとあしちがいで叔母がもう帰ったあとであった。

宗助は、

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宗助は、

「おお、そうだったか」

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「おお、そうだったか」

と言いながら、はなはだ面倒そうに洋服を脱ぎ替えて、いつものとおり火鉢の前に座った。

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と云いながら、はなはだ面倒そうに洋服を脱ぎえて、いつもの通り火鉢ひばちの前に坐った。

御米はシャツやズボンや靴下をひと抱えにして六畳へ入った。

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御米は襯衣シャツ洋袴ズボン靴足袋くつたび一抱ひとかかえにして六畳へ這入はいった。

宗助はぼんやりして煙草を吹かし始めたが、向こうの部屋でブラシを掛ける音がし出した時、

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宗助はぼんやりして、煙草たばこを吹かし始めたが、向うの部屋で、刷毛ブラッシを掛ける音がし出した時、

「御米、佐伯の叔母さんは何と言って来たのかい」

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「御米、佐伯の叔母さんは何とか云って来たのかい」

と聞いた。

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と聞いた。

歯の痛みが自然と治まったので、秋に襲われるような寒い気分は少し軽くなったけれど、やがて御米がポケットから取り出して来た粉薬をぬるま湯に溶いてもらって、しきりにうがいを始めた。

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歯痛しつうおのずからおさまったので、秋におそわれるような寒い気分は、少し軽くなったけれども、やがて御米が隠袋ポッケットから取り出して来た粉薬を、ぬるま湯にいてもらって、しきりに含嗽うがいを始めた。

その時、彼は縁側に立ったまま、

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その時彼は縁側えんがわへ立ったまま、

「どうも日が短くなったなあ」

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「どうも日が短かくなったなあ」

と言った。

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と云った。

やがて日が暮れた。

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やがて日が暮れた。

昼間からあまり車の音を聞かない町内は、宵の口からしんとしていた。

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昼間からあまり車の音を聞かない町内は、よいくちからしんとしていた。

夫婦は例のとおりランプのもとに寄った。

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夫婦は例の通り洋灯ランプもとに寄った。

広い世の中で、自分たちの座っている所だけが明るく思われた。

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広い世の中で、自分達の坐っている所だけが明るく思われた。

そうしてこの明るい灯かげで、宗助は御米だけを、御米は宗助だけを意識して、ランプの力の届かない暗い社会は忘れていた。

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そうしてこの明るい灯影に、宗助は御米だけを、御米は宗助だけを意識して、洋灯の力の届かない暗い社会は忘れていた。

彼らは毎晩こう暮らして行くうちに、自分たちの命を見出していたのである。

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彼らは毎晩こう暮らして行くうちに、自分達の生命を見出していたのである。

この静かな夫婦は、安之助が神戸から土産に買って来たという養老昆布の缶をがらがら振って、中から山椒入りの小さく結んだのを選り出しながら、ゆっくり佐伯からの返事を語り合った。

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この静かな夫婦は、安之助の神戸から土産みやげに買って来たと云う養老昆布ようろうこぶかんをがらがら振って、中から山椒さんしょりの小さく結んだ奴をり出しながら、ゆっくり佐伯からの返事を語り合った。

「しかし、月謝と小遣いくらいは都合してやってくれてもよさそうなものじゃないか」

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「しかし月謝と小遣こづかいぐらいは都合してやってくれても好さそうなもんじゃないか」

「それができないんだって。どう見積もっても両方合わせると十円にはなる。十円というまとまったお金を今のところ月々出すのは骨が折れるって言うのよ」

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「それができないんだって。どう見積っても両方寄せると、十円にはなる。十円と云うまとまった御金を、今のところ月々出すのは骨が折れるって云うのよ」

「それじゃ、今年の暮れまで二十何円ずつか出してやるのも無理じゃないか」

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「それじゃことしの暮まで二十何円ずつか出してやるのも無理じゃないか」

「だから、無理をしてももう一、二か月のところだけは間に合わせるから、そのうちにどうかしてくださいと、安さんがそう言うんだって」

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「だから、無理をしても、もう一二カ月のところだけは間に合せるから、そのうちにどうかして下さいと、安さんがそう云うんだって」

「実際できないのかな」

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「実際できないのかな」

「それは私には分からないわ。とにかく叔母さんがそう言うのよ」

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「そりゃわたしには分らないわ。何しろ叔母さんが、そう云うのよ」

「鰹船で儲けたら、そのくらい訳なさそうなものじゃないか」

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鰹舟かつおぶねもうけたら、そのくらい訳なさそうなもんじゃないか」

「本当ね」

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「本当ね」

御米は低い声で笑った。

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御米は低い声で笑った。

宗助もちょっと口の端を動かしたが、話はそれで途切れてしまった。

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宗助もちょっと口のはたを動かしたが、話はそれで途切とぎれてしまった。

しばらくしてから、

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しばらくしてから、

「とにかく小六は家へ来ると決めるよりほかに道はあるまいよ。あとはその上のことだ。今は学校へは出ているんだね」

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「何しろ小六はうちへ来るときめるよりほかに道はあるまいよ。あとはその上の事だ。今じゃ学校へは出ているんだね」

と宗助が言った。

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と宗助が云った。

「そうでしょう」

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「そうでしょう」

と御米が答えるのを聞き流して、彼はめずらしく書斎に入った。

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と御米が答えるのを聞き流して、彼は珍らしく書斎に這入はいった。

一時間ほどして御米がそっと襖を開けて覗いてみると、机に向かって何か読んでいた。

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一時間ほどして、御米がそっとふすまけてのぞいて見ると、机に向って、何か読んでいた。

「勉強? もうお休みにならなくて」

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「勉強? もう御休みなさらなくって」

と誘われた時、彼は振り返って、

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と誘われた時、彼は振り返って、

「うん、もう寝よう」

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「うん、もう寝よう」

と答えながら立ち上がった。

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と答えながら立ち上った。

寝る時、着物を脱いで寝巻きの上に絞りの兵児帯をぐるぐる巻きつけながら、

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寝る時、着物を脱いで、寝巻の上に、しぼりの兵児帯へこおびをぐるぐる巻きつけながら、

「今夜は久しぶりに論語を読んだ」

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「今夜は久し振に論語を読んだ」

と言った。

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と云った。

「論語に何かあって」

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「論語に何かあって」

と御米が聞き返すと、宗助は、

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と御米が聞き返したら、宗助は、

「いや、何にもない」

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「いや何にもない」

と答えた。

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と答えた。

それから、「おい、おれの歯はやっぱり年のせいだとさ。ぐらぐらするのはとても治らないそうだ」

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それから、「おい、おれの歯はやっぱり年のせいだとさ。ぐらぐらするのはとてもなおらないそうだ」

と言いつつ、黒い頭を枕の上に着けた。

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と云いつつ、黒い頭を枕の上に着けた。

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小六はともかく都合しだい下宿を引き払って兄の家へ移ることに話がまとまった。

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小六ころくはともかくも都合しだい下宿を引き払って兄の家へ移る事に相談が調ととのった。

御米は六畳に置きつけた桑の鏡台を眺めて、ちょっと名残惜しい顔をしたが、

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御米およねは六畳に置きつけたくわの鏡台をながめて、ちょっと残り惜しい顔をしたが、

「こうなると、少し置き場に困るのね」

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「こうなると少し遣場やりばに困るのね」

と訴えるように宗助に告げた。

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と訴えるように宗助そうすけに告げた。

実際ここを取り上げられては、御米が化粧をする場所がなくなってしまうのである。

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実際ここを取り上げられては、御米の御化粧おつくりをする場所が無くなってしまうのである。

宗助は何の工夫もつかずに、立ったまま、向こうの窓際に据えてある鏡の裏を斜めに眺めた。

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宗助は何の工夫もつかずに、立ちながら、向うの窓側まどぎわえてある鏡の裏をはすながめた。

すると角度の具合で、そこに御米の襟もとから片頬が映っていた。

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すると角度の具合で、そこに御米の襟元えりもとから片頬が映っていた。

それがいかにも血色の悪い横顔なのに驚かされて、

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それがいかにも血色のわるい横顔なのに驚ろかされて、

「お前、どうかしたのかい。たいへん色が悪いよ」

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御前おまい、どうかしたのかい。大変色が悪いよ」

と言いながら鏡から目を離して、実際の御米の姿を見た。

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と云いながら、鏡から眼を放して、実際の御米の姿を見た。

鬢が乱れて、襟の後ろのあたりが垢で少し汚れていた。

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びんが乱れて、襟のうしろあたりあかで少しよごれていた。

御米はただ、

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御米はただ、

「寒いせいなんでしょう」

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「寒いせいなんでしょう」

と答えて、すぐ西側に付いている

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と答えて、すぐ西側に付いている。

一間の戸棚を開けた。

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一間いっけん戸棚とだなを明けた。

下には古い傷だらけの箪笥があって、上には中国製の鞄と柳行李が二つ三つ載っていた。

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下には古いきずだらけの箪笥たんすがあって、上には支那鞄しなかばん柳行李やなぎごりが二つ三つっていた。

「こんなもの、どうしたって片づけようがないわね」

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「こんなもの、どうしたって片づけようがないわね」

「だから、そのままにしておくさ」

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「だからそのままにしておくさ」

小六がここへ移って来ることは、こういう点から見て、夫婦のどちらにも多少迷惑だった。

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小六のここへ引移って来るのは、こう云う点から見て、夫婦のいずれにも、多少迷惑であった。

だから、来ると言って約束しておきながら今だに来ない小六に対しては、特に催促もしなかった。

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だから来ると云って約束しておきながら、今だに来ない小六に対しては、別段の催促もしなかった。

一日延びれば延びただけ窮屈が逃げたような気が、どこかでした。

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一日延びれば延びただけ窮屈が逃げたような気がどこかでした。

小六にもちょうど同じ気兼ねがあったので、いられる限りは下宿にいる方が便利だと心を決めたものか、つい一日一日と引っ越しを先へ送っていた。

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小六にもちょうどそれと同じはばかりがあったので、いられるかぎりは下宿にいる方が便利だと胸をきめたものか、つい一日一日と引越をさきへ送っていた。

そのくせ彼の性分として、兄夫婦のようにずるずると引き延ばした境地に落ち着いてはいられなかったのである。

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そのくせ彼の性質として、兄夫婦のごとく、荏苒じんぜんの境に落ちついてはいられなかったのである。

そのうち薄い霜が降りて、裏の芭蕉を見事に打ち砕いた。

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そのうち薄いしもりて、裏の芭蕉ばしょうを見事にくだいた。

朝は崖の上の家主の庭の方で、ひよどりが鋭い声を立てた。

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朝は崖上がけうえ家主やぬしの庭の方で、ひよどりが鋭どい声を立てた。

夕方には、表を急ぐ豆腐屋のラッパに交じって円明寺の木魚の音が聞こえた。

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夕方には表を急ぐ豆腐屋の喇叭らっぱに交って、円明寺の木魚の音が聞えた。

日はますます短くなった。

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日はますます短かくなった。

そうして御米の顔色は、宗助が鏡の中に見た時よりも爽やかにはならなかった。

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そうして御米の顔色は、宗助が鏡の中に認めた時よりも、さやかにはならなかった。

夫が役所から帰って来てみると、六畳で寝ていることが一、二度あった。

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おっとが役所から帰って来て見ると、六畳で寝ている事が一二度あった。

どうかしたかと尋ねると、ただ少し心持ちが悪いと答えるだけだった。

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どうかしたかと尋ねると、ただ少し心持が悪いと答えるだけであった。

医者に見てもらえと勧めると、それには及ばないと言って取り合わなかった。

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医者に見て貰えと勧めると、それには及ばないと云って取り合わなかった。

宗助は心配した。

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宗助は心配した。

役所へ出ていてもよく御米のことが気にかかって、仕事の邪魔になるのを意識する時もあった。

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役所へ出ていてもよく御米の事が気にかかって、用の邪魔になるのを意識する時もあった。

ところがある日、帰りがけに突然、電車の中で膝を打った。

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ところがある日帰りがけに突然電車の中でひざった。

その日はいつになく元気よく格子を開けて、すぐ勢いよく、今日はどうだい、と御米に聞いた。

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その日は例になく元気よく格子こうしを明けて、すぐといきおいよく今日はどうだいと御米に聞いた。

御米がいつものとおり服や靴下をひとまとめにして六畳へ入るあとから追いて行って、

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御米がいつもの通り服や靴足袋くつたび一纏ひとまとめにして、六畳へ這入はいあとからいて来て、

「御米、お前、子供ができたんじゃないか」

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「御米、御前おまい子供ができたんじゃないか」

と笑いながら言った。

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と笑いながら云った。

御米は返事もせずにうつむいて、しきりに夫の背広の埃を払った。

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御米は返事もせずに俯向うつむいてしきりに夫の背広せびろほこりを払った。

ブラシの音がやんでもなかなか六畳から出て来ないので、また行ってみると、薄暗い部屋の中で御米はたった一人、寒そうに鏡台の前に座っていた。

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刷毛ブラッシの音がやんでもなかなか六畳から出て来ないので、また行って見ると、薄暗い部屋の中で、御米はたった一人寒そうに、鏡台の前にすわっていた。

はい、と言って立ったが、その声が泣いたあとの声のようだった。

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はいと云って立ったが、その声が泣いた後の声のようであった。

その晩、夫婦は火鉢に掛けた鉄瓶を双方から手で覆うようにして差し向かった。

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その晩夫婦は火鉢ひばちに掛けた鉄瓶てつびんを、双方から手でおおうようにして差し向った。

「どうですな、世の中は」

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「どうですな世の中は」

と宗助がいつにない浮いた調子を出した。

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と宗助が例にない浮いた調子を出した。

御米の頭の中には、夫婦にならない前の宗助と自分の姿がきれいに浮かんだ。

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御米の頭の中には、夫婦にならない前の、宗助と自分の姿が奇麗きれいに浮んだ。

「少し面白くしようじゃないか。この頃はいかにも不景気だよ」

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「ちっと、面白くしようじゃないか。このごろはいかにも不景気だよ」

と宗助がまた言った。

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と宗助がまた云った。

二人はそれから、今度の日曜にはいっしょにどこへ行こうか、ここへ行こうかと、しばらくそればかり話し合っていた。

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二人はそれから今度の日曜にはいっしょにどこへ行こうか、ここへ行こうかと、しばらくそればかり話し合っていた。

それから二人の春着のことが話題になった。

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それから二人の春着の事が題目になった。

宗助の同僚の高木とかいう男が細君に小袖をねだられた時、おれは細君の虚栄心を満足させるために稼いでいるんじゃないと言ってはねつけたら、細君が、それはひどい、実際寒くなっても着て出るものがないんだ、と弁解するので、寒ければやむを得ない、夜具を着るとか毛布をかぶるとかして当分我慢しろと言った、という話を、宗助はおかしく繰り返して御米を笑わせた。

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宗助の同僚の高木とか云う男が、細君に小袖こそでとかを強請ねだられた時、おれは細君の虚栄心を満足させるためにかせいでるんじゃないと云ってねつけたら、細君がそりゃ非道ひどい、実際寒くなっても着て出るものがないんだと弁解するので、寒ければやむを得ない、夜具を着るとか、毛布けっとかぶるとかして、当分我慢しろと云った話を、宗助はおかしく繰り返して御米を笑わした。

御米は夫のこの様子を見て、昔がまた目の前に戻ったような気がした。

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御米は夫のこの様子を見て、昔がまた眼の前に戻ったような気がした。

「高木の細君は夜具でも構わないが、おれは一つ新しい外套をこしらえたいな。この間歯医者へ行ったら、植木屋が薦で盆栽の松の根を包んでいたので、つくづくそう思った」

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「高木の細君は夜具でも構わないが、おれは一つ新らしい外套マントこしらえたいな。この間歯医者へ行ったら、植木屋がこも盆栽ぼんさいの松の根を包んでいたので、つくづくそう思った」

「外套が欲しいって」

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「外套が欲しいって」

「ああ」

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「ああ」

御米は夫の顔を見て、いかにも気の毒だという風に、

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御米は夫の顔を見て、さも気の毒だと云う風に、

「おこしらえなさいな。月賦で」

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御拵おこしらえなさいな。月賦で」

と言った。

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と云った。

宗助は、

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宗助は、

「まあ、よそうよ」

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「まあ止そうよ」

と急に侘しく答えた。

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と急にわびしく答えた。

そうして、「ときに小六はいつから来る気なんだろう」

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そうして「時に小六はいつから来る気なんだろう」

と聞いた。

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と聞いた。

「来るのは嫌なんでしょう」

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「来るのは厭なんでしょう」

と御米が答えた。

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と御米が答えた。

御米には、自分が初めから小六に嫌われているという自覚があった。

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御米には、自分が始めから小六にきらわれていると云う自覚があった。

それでも夫の弟だと思うので、なるべく反りを合わせて、少しでも近づけるように近づけるようにと今日まで仕向けて来た。

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それでも夫の弟だと思うので、なるべくはそりを合せて、少しでも近づけるように近づけるようにと、今日こんにちまで仕向けて来た。

そのためか、今では以前と違って、まあ普通の小舅くらいの親しみはあると信じているようなものの、こういう場合になると、つい実際以上に気を回して、自分だけが小六の来ない唯一の原因のように思われるのだった。

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そのためか、今では以前と違って、まあ普通の小舅こじゅうとぐらいの親しみはあると信じているようなものの、こんな場合になると、つい実際以上にも気を回して、自分だけが小六の来ない唯一ゆいいつの原因のように考えられるのであった。

「そりゃ下宿からこんな所へ移るのは好きじゃないだろうよ。ちょうどこっちが迷惑を感じるのと同じで、向こうでも窮屈を感じるわけだから。おれだって、小六が来ないとすれば、今のうちに思い切って外套を作るだけの勇気があるんだけれど」

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「そりゃ下宿からこんな所へ移るのは好かあないだろうよ。ちょうどこっちが迷惑を感ずる通り、向うでも窮屈を感ずる訳だから。おれだって、小六が来ないとすれば、今のうち思い切って外套マントを作るだけの勇気があるんだけれども」

宗助は男だけに、思い切ってこう言ってしまった。

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宗助は男だけに思い切ってこう云ってしまった。

けれども、これだけでは御米の心を汲みきってはいなかった。

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けれどもこれだけでは御米の心を尽していなかった。

御米は返事もせずにしばらく黙っていたが、細い顎を襟の中へ埋めたまま、上目を使って、

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御米は返事もせずに、しばらく黙っていたが、細いあごえりの中へめたまま、上眼うわめを使って、

「小六さんは、まだ私のことを憎んでいらっしゃるでしょうか」

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「小六さんは、まだ私の事をにくんでいらっしゃるでしょうか」

と聞き出した。

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と聞き出した。

宗助が東京へ来た当座は、時々これに似た質問を御米から受けて、そのたびに慰めるのにだいぶ骨が折れたこともあったが、近ごろはまるで忘れたように何も言わなくなったので、宗助もつい気に留めなかったのである。

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宗助が東京へ来た当座は、時々これに類似の質問を御米から受けて、その都度つど慰めるのにだいぶ骨の折れた事もあったが、近来は全く忘れたように何も云わなくなったので、宗助もつい気に留めなかったのである。

「またヒステリーが始まったね。いいじゃないか、小六なんかがどう思ったって。おれさえついていれば」

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「またヒステリーが始まったね。好いじゃないか小六なんぞが、どう思ったって。おれさえついてれば」

「論語にそう書いてあって」

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「論語にそう書いてあって」

御米はこんな時に、こういう冗談を言う女だった。

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御米はこんな時に、こういう冗談じょうだんを云う女であった。

宗助は

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宗助は

「うん、書いてある」

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「うん、書いてある」

と答えた。

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と答えた。

それで二人の会話が終わりになった。

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それで二人の会話がしまいになった。

翌日、宗助が目を覚ますと、トタン張りのひさしの上で寒い音がした。

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翌日宗助が眼をますと、亜鉛張トタンばりひさしの上で寒い音がした。

御米が襷掛けのまま枕もとへ来て、

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御米が襷掛たすきがけのまま枕元へ来て、

「さあ、もう時間よ」

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「さあ、もう時間よ」

と注意した時、彼はこの雨だれの音を聞きながら、もう少し暖かい布団の中でぬくもっていたかった。

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と注意したとき、彼はこの点滴てんてきの音を聞きながら、もう少し暖かい蒲団ふとんの中にぬくもっていたかった。

けれども血色のよくない御米の甲斐甲斐しい姿を見るやいなや、

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けれども血色のよくない御米の、かいがいしい姿を見るやいなや、

「おい」

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「おい」

と言ってすぐ起き上がった。

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と云ってすぐ起き上った。

外は濃い雨に閉ざされていた。

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外は濃い雨にとざされていた。

崖の上の孟宗竹が時々たてがみを振るうように、雨を吹いて動いた。

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がけの上の孟宗竹もうそうちくが時々たてがみふるうように、雨を吹いて動いた。

この侘しい空の下へ濡れに出る宗助にとって、力になるものは暖かい味噌汁と暖かい飯よりほかになかった。

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このびしい空の下へれに出る宗助に取って、力になるものは、暖かい味噌汁みそしると暖かい飯よりほかになかった。

「また靴の中が濡れる。どうしても二足持っていないと困る」

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「また靴の中がれる。どうしても二足持っていないと困る」

と言って、底に小さい穴のあるのを仕方なく履いて、ズボンの裾を一寸ばかりまくり上げた。

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と云って、底に小さい穴のあるのを仕方なしに穿いて、洋袴ズボンすそ一寸いっすんばかりまくり上げた。

昼過ぎに帰って来てみると、御米は金だらいの中に雑巾を浸けて、六畳の鏡台のそばに置いていた。

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午過ひるすぎに帰って来て見ると、御米は金盥かなだらいの中に雑巾ぞうきんけて、六畳の鏡台のそばに置いていた。

その上の所だけ天井の色が変わって、時々しずくが落ちて来た。

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その上の所だけ天井てんじょうの色が変って、時々しずくが落ちて来た。

「靴ばかりじゃない。家の中まで濡れるんだね」

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「靴ばかりじゃない。うちの中までれるんだね」

と言って宗助は苦笑した。

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と云って宗助は苦笑した。

御米はその晩、夫のために置き炬燵へ火を入れて、スコッチの靴下と縞羅紗のズボンを乾かした。

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御米はその晩夫のために置炬燵おきごたつへ火を入れて、スコッチの靴下と縞羅紗しまらしゃ洋袴ズボンを乾かした。

翌る日もまた同じように雨が降った。

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あくる日もまた同じように雨が降った。

夫婦もまた同じように同じことを繰り返した。

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夫婦もまた同じように同じ事を繰り返した。

その翌る日もまだ晴れなかった。

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その明る日もまだ晴れなかった。

三日目の朝になって、宗助は眉をしかめて舌打ちをした。

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三日目の朝になって、宗助はまゆを縮めて舌打をした。

「いつまで降る気なんだ。靴がじめじめして、我慢にも履けやしない」

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「いつまで降る気なんだ。靴がじめじめして我慢にも穿けやしない」

「六畳だって困るわ、ああ漏っては」

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「六畳だって困るわ、ああっちゃ」

夫婦は相談して、雨が晴れしだい屋根を繕ってもらうように家主へ掛け合うことにした。

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夫婦は相談して、雨が晴れしだい、家根をつくろって貰うように家主やぬしへ掛け合う事にした。

けれども靴の方はどうしようもなかった。

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けれども靴の方は何ともしようがなかった。

宗助はきしんで入らないのを無理に履いて出て行った。

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宗助はきしんで這入はいらないのを無理に穿いて出て行った。

幸いその日は十一時頃からからりと晴れて、垣に雀の鳴く小春日和になった。

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さいわいにその日は十一時頃からからりと晴れて、垣にすずめの鳴く小春日和こはるびよりになった。

宗助が帰った時、御米はいつもより冴え冴えした顔色をして、

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宗助が帰った時、御米はいつもよりえしい顔色をして、

「あなた、あの屏風を売ってはいけなくて」

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「あなた、あの屏風びょうぶを売っちゃいけなくって」

と突然聞いた。

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と突然聞いた。

抱一の屏風は、先だって佐伯から受け取ったまま元のとおり書斎の隅に立ててあったのである。

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抱一ほういつの屏風はせんだって佐伯さえきから受取ったまま、元の通り書斎の隅に立ててあったのである。

二枚折りだけれども、座敷の位置と広さから言っても、実はむしろ邪魔な飾りだった。

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二枚折だけれども、座敷の位置と広さから云っても、実はむしろ邪魔な装飾であった。

南へ回すと玄関からの入口を半分ふさいでしまうし、東へ出すと暗くなる、かといって残る一方へ立てれば床の間を隠すので、宗助は、

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南へ廻すと、玄関からの入口を半分ふさいでしまうし、東へ出すと暗くなる、と云って、残る一方へ立てれば床の間を隠すので、宗助は、

「せっかく親父の形見だと思って取って来たようなものの、しようがないね、これじゃ、場所ふさぎで」

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「せっかく親爺おやじ記念かたみだと思って、取って来たようなものの、しようがないねこれじゃ、場塞ばふさげで」

とこぼしたことも一、二度あった。

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こぼした事も一二度あった。

そのたびに御米は、真ん丸い縁の焼けた銀の月と、絹地からほとんど区別のつかないような穂すすきの色を眺めて、こんなものを珍重する人の気が知れない、というような顔をした。

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その都度つど御米は真丸なふちの焼けた銀の月と、絹地からほとんど区別できないような穂芒ほすすきの色をながめて、こんなものを珍重する人の気が知れないと云うような見えをした。

けれども夫に遠慮して、あからさまには何も言い出さなかった。

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けれども、夫をはばかって、明白あからさまには何とも云い出さなかった。

ただ一度、

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ただ一返いっぺん

「これでもいい絵なんでしょうかね」

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「これでもいい絵なんでしょうかね」

と聞いたことがあった。

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と聞いた事があった。

その時、宗助は初めて抱一の名を御米に説明して聞かせた。

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その時宗助は始めて抱一の名を御米に説明して聞かした。

しかしそれは、自分が昔、父から聞いた覚えのあるおぼろげな記憶をいい加減に繰り返したに過ぎなかった。

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しかしそれは自分がむかし父から聞いたおぼえのある、朧気おぼろげな記憶を好加減いいかげんに繰り返すに過ぎなかった。

実際の絵の価値や、また抱一についての詳しい歴史などになると、宗助にも実のところ、はなはだ心もとなかったのである。

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実際のの価値や、また抱一についての詳しい歴史などに至ると宗助にもそのじつはなはだ覚束おぼつかなかったのである。

ところが、それが偶然、御米にとって妙な行為の動機を形づくる原因となった。

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ところがそれが偶然御米のために妙な行為の動機を構成かたちづくる原因となった。

過去一週間、夫と自分の間で交わされた会話に、ふとこの知識を結びつけて考えられた彼女は、ちょっと微笑んだ。

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過去一週間夫と自分の間に起った会話に、ふとこの知識を結びつけて考え得た彼女はちょっと微笑ほほえんだ。

この日、雨が上がって日脚がさっと茶の間の障子に射した時、御米は普段着の上へ、妙な色の肩掛けとも襟巻きともつかない織物をまとって外へ出た。

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この日雨が上って、日脚ひあしがさっと茶の間の障子しょうじに射した時、御米は不断着の上へ、妙な色の肩掛とも、襟巻えりまきともつかない織物をまとって外へ出た。

通りを二丁ほど来て、それを電車の方角へ曲がってまっすぐに来ると、乾物屋とパン屋の間に、古道具を売っているかなり大きな店があった。

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通りを二丁目ほど来て、それを電車の方角へ曲って真直まっすぐに来ると、乾物かんぶつ屋と麺麭パン屋の間に、古道具を売っているかなり大きな店があった。

御米は、かつてそこで足の畳める食卓を買った覚えがある。

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御米はかつてそこで足の畳み込める食卓を買った記憶がある。

今、火鉢に掛けてある鉄瓶も、宗助がここから提げて帰ったものである。

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火鉢ひばちに掛けてある鉄瓶てつびんも、宗助がここからげて帰ったものである。

御米は手を袖に入れて、道具屋の前に立ち止まった。

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御米は手をそでにして道具屋の前に立ち留まった。

見ると、相変わらず新しい鉄瓶がたくさん並べてあった。

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見ると相変らず新らしい鉄瓶がたくさん並べてあった。

そのほかには、時節柄とでもいうのか、火鉢が一番多く目についた。

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そのほかには時節柄とでも云うのか火鉢ひばちが一番多く眼に着いた。

しかし骨董と呼べるほどのものは一つもないようだった。

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しかし骨董こっとうと名のつくほどのものは、一つもないようであった。

ただ、何とも知れない大きな亀の甲羅が正面に吊るしてあって、その下から長い黄ばんだ払子が尻尾のように出ていた。

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ひとり何とも知れぬ大きな亀のこうが、真向まむこうに釣るしてあって、その下から長い黄ばんだ払子ほっす尻尾しっぽのように出ていた。

それから紫檀の茶棚が一つ二つ飾ってあったが、いずれも狂いの出そうな生木のものばかりだった。

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それから紫檀したん茶棚ちゃだなが一つ二つ飾ってあったが、いずれもくるいの出そうななまなものばかりであった。

しかし御米には、そんな区別はまるで目に入らなかった。

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しかし御米にはそんな区別はいっこう映らなかった。

ただ掛け物も屏風も一つも見当たらないことだけを確かめて、中へ入った。

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ただ掛物も屏風びょうぶも一つも見当らない事だけ確かめて、中へ這入はいった。

御米はもちろん、夫が佐伯から受け取った屏風をいくらかに売り払うつもりでわざわざここまで足を運んだのだが、広島以来こういうことにだいぶ経験を積んだおかげで、普通の細君のような気負いも苦痛も感じずに、思い切って主人と口をきくことができた。

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御米は無論夫が佐伯から受取った屏風びょうぶを、いくらかに売り払うつもりでわざわざここまで足を運んだのであるが、広島以来こう云う事にだいぶ経験を積んだ御蔭おかげで、普通の細君のような努力も苦痛も感ぜずに、思い切って亭主と口をく事ができた。

主人は五十くらいの色の黒い頬のこけた男で、鼈甲の縁を取ったばかに大きな眼鏡をかけ、新聞を読みながら、いぼだらけの唐金の火鉢に手をかざしていた。

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亭主は五十恰好かっこうの色の黒い頬のけた男で、鼈甲べっこうふちを取った馬鹿に大きな眼鏡めがねを掛けて、新聞を読みながら、いぼだらけの唐金からかねの火鉢に手をかざしていた。

「そうですな、拝見に出てもようがす」

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「そうですな、拝見に出てもようがす」

と軽く請け合ったが、特に気の乗った様子もないので、御米は腹の中で少し失望した。

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と軽く受合ったが、別に気の乗った様子もないので、御米は腹の中で少し失望した。

しかし自分からしてすでに大した望みを抱いて出て来たわけでもないので、こう手軽に受けられると、こちらから頼むようにしてでも見てもらわなければならなかった。

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しかし自分からがすでに大した望をいだいて出て来た訳でもないので、こう簡易に受けられると、こっちから頼むようにしても、見て貰わなければならなかった。

「ようがす。じゃ、のちほど伺いましょう。今、小僧がちょっと出ておりませんからな」

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「ようがす。じゃのちほど伺いましょう。今小僧がちょっと出ておりませんからな」

御米はこのぞんざいな言葉を聞いてそのまま家へ帰ったが、心の中では、はたして道具屋が来るか来ないか、はなはだ疑わしく思った。

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御米はこの存在ぞんざいな言葉を聞いてそのままうちへ帰ったが、心の中では、はたして道具屋が来るか来ないかはなはだ疑わしく思った。

一人でいつものように簡単な食事を済ませ、清に膳を下げさせていると、いきなり、御免ください、と大きな声を出して道具屋が玄関からやって来た。

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一人でいつものように簡単な食事を済まして、きよに膳を下げさしていると、いきなり御免下さいと云って、大きな声を出して道具屋が玄関からやって来た。

座敷へ上げて例の屏風を見せると、なるほど、と言って裏だの縁だのを撫でていたが、

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座敷へ上げて、例の屏風を見せると、なるほどと云って裏だの縁だのをでていたが、

「お払いになるなら」

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御払おはらいになるなら」

と少し考えて、「六円にいただいておきましょう」

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と少し考えて、「六円に頂いておきましょう」

と気の進まなそうに値を付けた。

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否々いやいやそうにを付けた。

御米には、道具屋の付けた相場が妥当のように思われた。

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御米には道具屋の付けた相場が至当のように思われた。

けれども、いったん宗助に話してからでなくてはあまりに独断が過ぎると気づいた上、品物の由来が由来だけになおさら遠慮して、いずれ帰ったらよく相談してみた上で、と答えたまま道具屋を帰そうとした。

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けれども一応宗助に話してからでなくっては、余り専断過ぎると心づいた上、品物の歴史が歴史だけに、なおさら遠慮して、いずれ帰ったらよく相談して見た上でと答えたまま、道具屋を帰そうとした。

道具屋は出がけに、

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道具屋は出掛に、

「じゃ奥さん、せっかくだから、もう一円奮発しましょう。それでお払いください」

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「じゃ、奥さんせっかくだから、もう一円奮発しましょう。それで御払い下さい」

と言った。

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と云った。

御米はその時思い切って、

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御米はその時思い切って、

「でも、道具屋さん、あれは抱一ですよ」

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「でも、道具屋さん、ありゃ抱一ほういつですよ」

と答えて、腹の中ではひやりとした。

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と答えて、腹の中ではひやりとした。

道具屋は平気で、

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道具屋は、平気で、

「抱一は近ごろ流行りませんからな」

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「抱一は近来流行はやりませんからな」

と受け流したが、じろじろ御米の姿を眺めた上、

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と受け流したが、じろじろ御米の姿をながめた上、

「じゃ、なおよくご相談なすって」

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「じゃなおよく御相談なすって」

と言い捨てて帰って行った。

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と云い捨てて帰って行った。

御米はその時の様子を詳しく話したあとで、

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御米はその時の模様を詳しく話したあとで、

「売ってはいけなくて」

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「売っちゃいけなくって」

と、また無邪気に聞いた。

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とまた無邪気に聞いた。

宗助の頭の中には、この間から物質上の欲求が絶えず動いていた。

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宗助の頭の中には、この間から物質上の欲求が、絶えず動いていた。

ただ地味な生活をし慣れた結果として、足りない暮らしを足りていると諦める癖がついているので、毎月決まって入るもののほかに、臨時に不意の工面をしてまで、少しでも普段以上にくつろいでみようという働きは出なかった。

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ただ地味な生活をしなれた結果として、足らぬ家計くらしを足るとあきらめる癖がついているので、毎月きまって這入はいるもののほかには、臨時に不意の工面くめんをしてまで、少しでも常以上にくつろいでみようと云う働は出なかった。

話を聞いた時、彼はむしろ御米の機敏な才覚に驚かされた。

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話を聞いたとき彼はむしろ御米の機敏な才覚に驚ろかされた。

同時に、はたしてそれだけの必要があるかを疑った。

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同時にはたしてそれだけの必要があるかを疑った。

御米の思惑を聞いてみると、ここで十円足らずの金が入れば、宗助の履く新しい靴をあつらえた上、銘仙の一反くらいは買えるというのである。

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御米のおもわくを聞いて見ると、ここで十円足らずの金がはいれば、宗助の穿く新らしい靴をあつらえた上、銘仙めいせんの一反ぐらいは買えると云うのである。

宗助も、それもそうだと思った。

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宗助はそれもそうだと思った。

けれども親から伝わった抱一の屏風を一方に置いて、もう一方に新しい靴と新しい銘仙を並べて考えてみると、この二つを交換することがいかにも突飛で、しかも滑稽だった。

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けれども親から伝わった抱一の屏風びょうぶを一方に置いて、片方に新らしい靴及び新らしい銘仙めいせんを並べて考えて見ると、この二つを交換する事がいかにも突飛とっぴでかつ滑稽こっけいであった。

「売るなら売っていいがね。どうせ家にあったって邪魔になるばかりだから。けれども、おれはまだ靴は買わなくても済むよ。この間じゅうのように降り続けに降られると困るが、もう天気もよくなったから」

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「売るなら売っていいがね。どうせうちったって邪魔になるばかりだから。けれどもおれはまだ靴は買わないでも済むよ。この間中みたように、降り続けに降られると困るが、もう天気も好くなったから」

「だって、また降ると困るわ」

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「だってまた降ると困るわ」

宗助は御米に対して、永久に天気を保証するわけにも行かなかった。

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宗助は御米に対して永久に天気を保証する訳にも行かなかった。

御米も、降らないうちに是非とも屏風を売れとも言いかねた。

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御米も降らない前に是非屏風を売れとも云いかねた。

二人は顔を見合わせて笑っていた。

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二人は顔を見合して笑っていた。

やがて、

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やがて、

「安過ぎるでしょうか」

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「安過ぎるでしょうか」

と御米が聞いた。

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と御米が聞いた。

「そうだな」

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「そうさな」

と宗助が答えた。

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と宗助が答えた。

彼は安いと言われれば、安いような気がした。

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彼は安いと云われれば、安いような気がした。

もし買い手があれば、買い手の出すだけの金はいくらでも取りたかった。

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もし買手があれば、買手の出すだけの金はいくらでも取りたかった。

彼は新聞で、近ごろ古書画の入札が非常に高値になったと読んだような心持ちがした。

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彼は新聞で、近来古書画の入札が非常に高価になった事を見たような心持がした。

せめてそんなものが一幅でもあったらと思った。

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せめてそんなものが一幅でもあったらと思った。

けれども、それは自分の呼吸する空気の届くあたりには落ちていないものと諦めていた。

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けれどもそれは自分の呼吸する空気の届くうちには、落ちていないものとあきらめていた。

「買い手にもよるだろうが、売り手にもよるんだよ。いくら名画だって、おれが持っていた分にはとうていそう高く売れっこはないさ。しかし七円や八円というのは、あんまり安いようだね」

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「買手にもるだろうが、売手にも因るんだよ。いくら名画だって、おれが持っていた分にはとうていそう高く売れっこはないさ。しかし七円や八円てえな、あんまり安いようだね」

宗助は抱一の屏風を弁護すると同時に、道具屋をも弁護するような語気を漏らした。

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宗助は抱一の屏風を弁護すると共に、道具屋をも弁護するような語気をらした。

そうして、ただ自分だけが弁護に値しない者のように感じた。

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そうしてただ自分だけが弁護にあたいしないもののように感じた。

御米も少し気を腐らせた気味で、屏風の話はそれきりにした。

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御米も少し気を腐らした気味で、屏風の話はそれなりにした。

翌日、宗助は役所へ出て、同僚の誰彼にこの話をした。

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翌日あくるひ宗助は役所へ出て、同僚の誰彼にこの話をした。

すると皆、申し合わせたように、それは値じゃないと言った。

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すると皆申し合せたように、それはじゃないと云った。

けれども、誰も自分が世話をして相当の値で売り払ってやろうと言う者はなかった。

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けれども誰も自分が周旋して、相当の価に売払ってやろうと云うものはなかった。

また、どういう筋を通れば馬鹿な目に遭わずに済むかという手続きを教えてくれる者もなかった。

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またどう云う筋を通れば、馬鹿な目に逢わないで済むという手続を教えてくれるものもなかった。

宗助はやはり、横町の道具屋に屏風を売るよりほかに仕方がなかった。

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宗助はやっぱり横町の道具屋に屏風を売るよりほかに仕方がなかった。

それでなければ、元のとおり、邪魔でも何でも座敷に立てておくよりほかに仕方がなかった。

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それでなければ元の通り、邪魔でも何でも座敷へ立てておくよりほかに仕方がなかった。

彼は元のとおり、それを座敷に立てておいた。

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彼は元の通りそれを座敷へ立てておいた。

すると道具屋が来て、あの屏風を十五円で売ってくれと言い出した。

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すると道具屋が来て、あの屏風を十五円に売ってくれと云い出した。

夫婦は顔を見合わせて微笑んだ。

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夫婦は顔を見合して微笑ほほえんだ。

もう少し売らずに置いてみようじゃないかと言って、売らずにおいた。

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もう少し売らずに置いてみようじゃないかと云って、売らずにおいた。

すると道具屋がまた来た。

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すると道具屋がまた来た。

また売らなかった。

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また売らなかった。

御米は断るのが面白くなって来た。

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御米は断るのが面白くなって来た。

四度目には知らない男を一人連れて来たが、その男とこそこそ相談して、とうとう三十五円に値を付けた。

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四度目よたびめには知らない男を一人連れて来たが、その男とこそこそ相談して、とうとう三十五円に価を付けた。

その時、夫婦も立ったまま相談した。

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その時夫婦も立ちながら相談した。

そうしてついに思い切って屏風を売り払った。

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そうしてついに思い切って屏風を売り払った。

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円明寺の杉が焦げたように赤黒くなった。

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円明寺の杉がげたように赭黒あかぐろくなった。

天気のいい日には、風に洗われた空のはずれに、白い筋が険しく見える山が出た。

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天気の好い日には、風に洗われた空のずれに、白い筋のけわしく見える山が出た。

年は宗助夫婦を駆り立てて、日ごとに寒い方へ吹き寄せた。

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年は宗助そうすけ夫婦をって日ごとに寒い方へ吹き寄せた。

朝になると欠かさず通る納豆売りの声が、瓦を閉ざす霜の色を連想させた。

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朝になると欠かさず通る納豆売なっとううりの声が、かわらとざしもの色を連想せしめた。

宗助は床の中でその声を聞きながら、また冬が来たと思い出した。

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宗助は床の中でその声を聞きながら、また冬が来たと思い出した。

御米は台所で、今年も去年のように水道の栓が凍ってくれなければ助かるが、と、暮れから春にかけての取り越し苦労をした。

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御米およねは台所で、今年も去年のように水道のせんが氷ってくれなければ助かるがと、暮から春へ掛けての取越苦労をした。

夜になると、夫婦とも炬燵にばかり親しんだ。

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夜になると夫婦とも炬燵こたつにばかり親しんだ。

そうして広島や福岡の暖かい冬を羨んだ。

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そうして広島や福岡の暖かい冬をうらやんだ。

「まるで前の本多さんみたいね」

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「まるで前の本多さんみたようね」

と御米が笑った。

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と御米が笑った。

前の本多さんというのは、やはり同じ構内に住んで、同じ坂井の貸家を借りている隠居夫婦だった。

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前の本多さんと云うのは、やはり同じ構内かまえうちに住んで、同じ坂井の貸家を借りている隠居夫婦であった。

小女を一人使って、朝から晩までことりと音もしないように静かな暮らしを立てていた。

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小女こおんなを一人使って、朝から晩までことりと音もしないように静かな生計くらしを立てていた。

御米が茶の間でたった一人針仕事をしていると、時々、お爺さん、という声がした。

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御米が茶の間で、たった一人裁縫しごとをしていると、時々御爺おじいさんと云う声がした。

それはこの本多のお婆さんが夫を呼ぶ声だった。

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それはこの本多の御婆さんが夫を呼ぶ声であった。

門口などで行き会うと丁寧に時候の挨拶をして、少しお話にいらっしゃい、と言うが、一度も行ったことがなければ、向こうから来たためしもない。

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門口かどぐちなどで行き逢うと、丁寧ていねいに時候の挨拶あいさつをして、ちと御話にいらっしゃいと云うが、ついぞ行った事もなければ、向うからも来たためしがない。

したがって、夫婦の本多さんに関する知識はきわめて乏しかった。

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したがって夫婦の本多さんに関する知識はきわめて乏しかった。

ただ息子が一人いて、それが朝鮮の統監府とかで立派な役人になっているから、月々その仕送りで気楽に暮らして行けるのだということだけを、出入りの商人の誰かから耳にした。

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ただ息子が一人あって、それが朝鮮の統監府とうかんふとかで、立派な役人になっているから、月々その方の仕送しおくりで、気楽に暮らして行かれるのだと云う事だけを、出入でいりの商人のあるものから耳にした。

「お爺さんはやっぱり植木をいじっているかい」

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「御爺さんはやっぱり植木をいじっているかい」

「だんだん寒くなったから、もうやめたんでしょう。縁の下に植木鉢がたくさん並んでるわ」

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「だんだん寒くなったから、もうやめたんでしょう。縁の下に植木鉢がたくさん並んでるわ」

話はそれから前の家を離れて、家主の方へ移った。

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話はそれから前のうちを離れて、家主やぬしの方へ移った。

これは本多とはまるで反対で、夫婦から見ると、この上もなく賑やかそうな家庭に思われた。

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これは、本多とはまるで反対で、夫婦から見ると、この上もないにぎやかそうな家庭に思われた。

この頃は庭が荒れているので、大勢の子供が崖の上へ出て騒ぐことはなくなったが、ピアノの音は毎晩のようにする。

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この頃は庭が荒れているので、大勢の小供ががけの上へ出て騒ぐ事はなくなったが、ピヤノの音は毎晩のようにする。

折々は下女か何かが台所の方で高笑いをする声さえ、宗助の茶の間まで響いて来た。

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折々は下女か何ぞの、台所の方で高笑をする声さえ、宗助の茶の間まで響いて来た。

「あれはいったい何をする男なんだい」

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「ありゃいったい何をする男なんだい」

と宗助が聞いた。

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と宗助が聞いた。

この問いは、今までにも幾度か御米に向かって繰り返されたものだった。

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この問は今までも幾度か御米に向って繰り返されたものであった。

「何もしないで遊んでいるんでしょう。土地や貸家を持って」

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「何にもしないであすんでるんでしょう。地面や家作を持って」

と御米が答えた。

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と御米が答えた。

この答えも、今までにもう何度か宗助に向かって繰り返されたものだった。

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この答も今までにもう何遍か宗助に向って繰り返されたものであった。

宗助はこれ以上立ち入って坂井のことを聞いたことがなかった。

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宗助はこれより以上立ち入って、坂井の事を聞いた事がなかった。

学校をやめた当座は、順境にいて得意げに振る舞う者に会うと、今に見ろという気も起こった。

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学校をやめた当座は、順境にいて得意な振舞をするものに逢うと、今に見ろと云う気も起った。

それがしばらくすると、ただの憎しみに変わった。

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それがしばらくすると、単なる憎悪ぞうおの念に変化した。

ところが一、二年このかたは、まるで自分と他人との違いに無頓着になって、自分は自分のように生まれついた者、相手は相手のような運を持って世の中へ出て来た者、両方とも初めから別の種類の人間だから、ただ人間として生きている以外に何の関わりも利害もないのだと考えるようになってきた。

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ところが一二年このかたは全く自他の差違に無頓着むとんじゃくになって、自分は自分のように生れついたもの、先は先のような運を持って世の中へ出て来たもの、両方共始から別種類の人間だから、ただ人間として生息する以外に、何の交渉も利害もないのだと考えるようになってきた。

たまに世間話のついでに、あれはいったい何をしている人だ、くらいは聞きもするが、それより先は、教えてもらう努力さえ出すのが面倒だった。

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たまに世間話のついでとして、ありゃいったい何をしている人だぐらいは聞きもするが、それより先は、教えて貰う努力さえ出すのが面倒だった。

御米にも、これと同じ傾きがあった。

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御米にもこれと同じ傾きがあった。

けれどもその夜はめずらしく、坂井の主人は四十くらいの髭のない人だということや、ピアノを弾くのは長女で十二、三になるということや、また他所の家の子供が遊びに来てもブランコに乗せてやらないということなどを話した。

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けれどもそのは珍らしく、坂井の主人は四十恰好かっこうひげのない人であると云う事やら、ピヤノを弾くのは惣領そうりょうの娘で十二三になると云う事やら、またほかのうちの小供が遊びに来ても、ブランコへ乗せてやらないと云う事やらを話した。

「なぜ他所の家の子供はブランコに乗せないんだい」

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「なぜほかの家の子供はブランコへ乗せないんだい」

「つまりけちなんでしょう。早く傷むから」

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「つまりけちなんでしょう。早く悪くなるから」

宗助は笑い出した。

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宗助は笑い出した。

彼は、それほどけちな家主が、屋根が漏ると言えばすぐ瓦屋を寄こしてくれ、垣が腐ったと訴えればすぐ植木屋に手を入れさせてくれるのは矛盾だと思ったのである。

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彼はそのくらい吝嗇けちな家主が、屋根がると云えば、すぐ瓦師かわらしを寄こしてくれる、垣が腐ったと訴えればすぐ植木屋に手を入れさしてくれるのは矛盾だと思ったのである。

その晩、宗助の夢には本多の植木鉢も坂井のブランコも出て来なかった。

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その晩宗助の夢には本多の植木鉢も坂井のブランコもなかった。

彼は十時半頃に床に入って、あらゆるものに疲れた人のようにいびきをかいた。

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彼は十時半頃床に入って、万象に疲れた人のようにいびきをかいた。

この間から頭の具合がよくないため、寝つきの悪いのを苦にしていた御米は、時々目を開けて薄暗い部屋を眺めた。

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この間から頭の具合がよくないため、寝付ねつきの悪いのを苦にしていた御米は、時々眼を開けて薄暗い部屋をながめた。

細い灯りが床の間の上に載せてあった。

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細いが床の間の上に乗せてあった。

夫婦は夜じゅう灯りを点けておく習慣がついているので、寝る時はいつでも芯を細めにしてランプをここへ上げた。

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夫婦は夜中よじゅう灯火あかりけておく習慣がついているので、寝る時はいつでもしんを細目にして洋灯ランプをここへ上げた。

御米は気にするように枕の位置を動かした。

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御米は気にするように枕の位置を動かした。

そうして、そのたびに下にしている方の肩の骨を布団の上で滑らせた。

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そうしてそのたびに、下にしている方の肩の骨を、蒲団ふとんの上ですべらした。

しまいには腹ばいになったまま両肘をついて、しばらく夫の方を眺めていた。

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しまいには腹這はらばいになったまま、両肱りょうひじを突いて、しばらく夫の方を眺めていた。

それから起き上がって、夜具の裾に掛けてあった普段着を寝巻きの上へ羽織ったまま、床の間のランプを取り上げた。

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それから起き上って、夜具のすそに掛けてあった不断着を、寝巻ねまきの上へ羽織はおったなり、床の間の洋灯を取り上げた。

「あなた、あなた」

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「あなたあなた」

と宗助の枕もとへ来てかがみながら呼んだ。

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と宗助の枕元へ来てこごみながら呼んだ。

その時、夫はもういびきをかいていなかった。

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その時夫はもう鼾をかいていなかった。

けれども、元のとおり深い眠りから来る息を続けていた。

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けれども、元の通り深いねむりから来る呼吸いきを続けていた。

御米はまた立ち上がって、ランプを手にしたまま間の襖を開けて茶の間へ出た。

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御米はまた立ち上って、洋灯を手にしたまま、あいふすまを開けて茶の間へ出た。

暗い部屋がぼんやり手もとの灯りに照らされた時、御米は鈍く光る箪笥の環を見た。

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暗い部屋が茫漠ぼんやり手元の灯に照らされた時、御米は鈍く光る箪笥たんすかんを認めた。

それを通り過ぎると、黒くすすけた台所に、腰障子の紙だけが白く見えた。

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それを通り過ぎると黒くくすぶった台所に、腰障子こししょうじの紙だけが白く見えた。

御米は火の気のない真ん中にしばらく佇んでいたが、やがて右手にあたる下女部屋の戸を音のしないようにそっと引いて、中へランプの灯りをかざした。

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御米は火ののない真中に、しばらくたたずんでいたが、やがて右手に当る下女部屋の戸を、音のしないようにそっと引いて、中へ洋灯の灯をかざした。

下女は縞も色もはっきり映らない夜具の中に、もぐらのように塊まって寝ていた。

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下女はしまも色も判然はっきり映らない夜具の中に、土竜もぐらのごとくかたまって寝ていた。

今度は左側の六畳を覗いた。

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今度は左側の六畳をのぞいた。

がらんとして寂しい中に例の鏡台が置いてあって、鏡の面が夜中だけにすごく目に応えた。

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がらんとしてさみしい中に、例の鏡台が置いてあって、鏡の表が夜中だけにすごく眼にこたえた。

御米は家じゅうをひと回りしたあと、すべてに異状のないことを確かめた上、また床の中へ戻った。

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御米は家中を一回ひとまわり回ったあと、すべてに異状のない事を確かめた上、また床の中へ戻った。

そうしてようやく目を閉じた。

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そうしてようやく眼を眠った。

今度はいい具合に、まぶたのあたりに気を遣わずに済むように思えて、しばらくするうちにうとうととした。

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今度は好い具合に、眼蓋まぶたのあたりに気をつかわないで済むように覚えて、しばらくするうちに、うとうととした。

するとまた、ふと目が開いた。

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するとまたふと眼がいた。

何だか、ずしんと枕もとで響いたような心持ちがする。

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何だかずしんと枕元で響いたような心持がする。

耳を枕から離して考えると、それはある大きな重い物が裏の崖から自分たちの寝ている座敷の縁の外へ転がり落ちたとしか思われなかった。

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耳を枕から離して考えると、それはある大きな重いものが、裏の崖から自分達の寝ている座敷の縁の外へ転がり落ちたとしか思われなかった。

しかし、今目が覚めるすぐ前に起こった出来事で、決して夢の続きではないと考えた時、御米は急に気味が悪くなった。

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しかし今眼がめるすぐ前に起った出来事で、けっして夢の続じゃないと考えた時、御米は急に気味を悪くした。

そうして、そばに寝ている夫の夜具の袖を引いて、今度は真剣に宗助を起こし始めた。

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そうして傍に寝ている夫の夜具のそでを引いて、今度は真面目まじめに宗助を起し始めた。

宗助はそれまでまったくよく寝ていたが、急に目が覚めると、御米が、

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宗助はそれまで全くよく寝ていたが、急に眼がめると、御米が、

「あなた、ちょっと起きてください」

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「あなたちょっと起きて下さい」

と揺すっていたので、半分は夢中で、

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ゆすっていたので、半分は夢中に、

「おい、よし」

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「おい、好し」

とすぐ布団の上に起き直った。

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とすぐ蒲団ふとんの上へ起き直った。

御米は小声で、さっきからの様子を話した。

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御米は小声で先刻さっきからの様子を話した。

「音は一度しただけなのかい」

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「音は一遍したぎりなのかい」

「だって、今したばかりなのよ」

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「だって今したばかりなのよ」

二人はそれで黙った。

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二人はそれで黙った。

ただじっと外の様子をうかがっていた。

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ただじっと外の様子を伺っていた。

けれども世間はしんと静かだった。

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けれども世間はしんと静であった。

いつまで耳をそばだてていても、再び物の落ちて来る気配はなかった。

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いつまで耳をそばだてていても、再び物の落ちて来る気色けしきはなかった。

宗助は寒いと言いながら、単衣の寝巻きの上へ羽織をかぶって縁側へ出て、雨戸を一枚繰った。

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宗助は寒いと云いながら、単衣ひとえの寝巻の上へ羽織をかぶって、縁側えんがわへ出て、雨戸を一枚繰った。

外を覗くと何も見えない。

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外をのぞくと何にも見えない。

ただ暗い中から寒い空気がにわかに肌に迫って来た。

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ただ暗い中から寒い空気がにわかに肌にせまって来た。

宗助はすぐ戸を閉めた。

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宗助はすぐ戸をてた。

掛け金を下ろして座敷へ戻るやいなや、また布団の中へ潜り込んだが、

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かきがねをおろして座敷へ戻るや否や、また蒲団の中へもぐり込んだが、

「何も変わったことはありゃしない。たぶんお前の夢だろう」

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「何にも変った事はありゃしない。多分御前おまいの夢だろう」

と言って、宗助は横になった。

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と云って、宗助は横になった。

御米は決して夢ではないと主張した。

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御米はけっして夢でないと主張した。

たしかに頭の上で大きな音がしたのだと言い張った。

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たしかに頭の上で大きな音がしたのだと固執こしつした。

宗助は夜具から半分出した顔を御米の方へ振り向けて、

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宗助は夜具から半分出した顔を、御米の方へ振り向けて、

「御米、お前は神経が過敏になって、近ごろどうかしているよ。もう少し頭を休めてよく寝る工夫でもしなくちゃいけない」

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「御米、お前は神経が過敏になって、近頃どうかしているよ。もう少し頭を休めてよく寝る工夫でもしなくっちゃいけない」

と言った。

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と云った。

その時、次の間の柱時計が二時を打った。

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その時次の間の柱時計が二時を打った。

その音で二人ともちょっと言葉を途切らせ、黙ってみると、夜はさらに静まり返ったように思われた。

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その音で二人ともちょっと言葉を途切らして、黙って見ると、夜はさらに静まり返ったように思われた。

二人は目が冴えて、すぐには寝つけそうにもなかった。

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二人は眼がえて、すぐ寝つかれそうにもなかった。

御米が、

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御米が、

「でも、あなたは気楽ね。横になると十分と経たないうちに、もう寝ていらっしゃるんだから」

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「でもあなたは気楽ね。横になると十分たないうちに、もう寝ていらっしゃるんだから」

と言った。

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と云った。

「寝ることは寝るが、気が楽で寝られるんじゃない。つまり疲れるからよく寝るんだろう」

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「寝る事は寝るが、気が楽で寝られるんじゃない。つまり疲れるからよく寝るんだろう」

と宗助が答えた。

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と宗助が答えた。

こんな話をしているうちに、宗助はまた寝入ってしまった。

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こんな話をしているうちに、宗助はまた寝入ってしまった。

御米は相変わらず、もぞもぞと床の中で動いていた。

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御米は依然として、のつそつ床の中で動いていた。

すると表を、がらがらと激しい音を立てて車が一台通った。

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すると表をがらがらとはげしい音を立てて車が一台通った。

近ごろ御米は、時々夜明け前の車の音を聞いて驚かされることがあった。

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近頃御米は時々夜明前の車の音を聞いて驚ろかされる事があった。

そうしてそれを思い合わせると、いつも似たような時刻なので、結局は毎朝同じ車が同じ所を通るのだろうと推測した。

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そうしてそれを思い合わせると、いつも似寄った刻限なので、必竟ひっきょうは毎朝同じ車が同じ所を通るのだろうと推測した。

たぶん牛乳を配達するためなどで、ああ急ぐに違いないと決めていたから、この音を聞くと同時に、もう夜が明けて隣人の活動が始まったように心強くなった。

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多分牛乳を配達するためかなどで、ああ急ぐに違ないときめていたから、この音を聞くと等しく、もう夜が明けて、隣人の活動が始ったごとくに、心丈夫になった。

そうこうしていると、どこかで鶏の声が聞こえた。

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そうこうしていると、どこかでとりの声が聞えた。

またしばらくすると、下駄の音を高く立てて通りを行く者があった。

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またしばらくすると、下駄げたの音を高く立てて往来を通るものがあった。

そのうち清が下女部屋の戸を開けて便所へ起きた様子だったが、やがて茶の間へ来て時計を見ているらしかった。

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そのうちきよが下女部屋の戸を開けてかわやへ起きた模様だったが、やがて茶の間へ来て時計を見ているらしかった。

この時、床の間に置いたランプの油が減って短い芯に届かなくなったので、御米の寝ている所は真っ暗になっていた。

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この時床の間に置いた洋灯ランプの油が減って、短かいしんに届かなくなったので、御米の寝ている所は真暗になっていた。

そこへ清の手にした灯りの影が、襖の間から射し込んだ。

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そこへ清の手にした灯火あかりの影が、ふすまの間から射し込んだ。

「清かい」

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「清かい」

と御米が声を掛けた。

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と御米が声を掛けた。

清はそれからすぐ起きた。

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清はそれからすぐ起きた。

三十分ほど経って御米も起きた。

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三十分ほどって御米も起きた。

また三十分ほど経って、宗助もついに起きた。

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また三十分ほど経って宗助もついに起きた。

普段はいい頃合いに御米がやって来て、

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平常いつもは好い時分に御米がやって来て、

「もう起きてもよくってよ」

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「もう起きてもよくってよ」

と言うのが常だった。

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と云うのが例であった。

日曜とたまの祝日には、それが、

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日曜とたまの旗日はたびには、それが、

「さあ、もう起きてちょうだい」

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「さあもう起きてちょうだい」

に変わるだけだった。

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に変るだけであった。

しかし今日は昨夜のことが何となく気にかかるので、御米が迎えに来ないうちに宗助は床を離れた。

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しかし今日は昨夕ゆうべの事が何となく気にかかるので、御米のむかえに来ないうち宗助は床を離れた。

そうしてすぐ崖下の雨戸を繰った。

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そうしてすぐ崖下の雨戸を繰った。

下から覗くと、寒い竹が朝の空気に閉ざされてじっとしている後ろから、霜を破る日の色が射して、いくらか頂きを染めていた。

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下からのぞくと、寒い竹が朝の空気にとざされてじっとしているうしろから、しもを破る日の色が射して、幾分かいただきを染めていた。

その二尺ほど下の、勾配の一番急な所に生えている枯れ草が妙にすり剥けて、赤土の肌をなまなましく露出している様子に、宗助はちょっと驚かされた。

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その二尺ほど下の勾配こうばいの一番急な所に生えている枯草が、妙にけて、赤土の肌を生々なまなましく露出した様子に、宗助はちょっと驚ろかされた。

それから一直線に下りて、ちょうど自分の立っている縁先の土が、霜柱を砕いたように荒れていた。

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それから一直線にりて、ちょうど自分の立っている縁鼻えんばなの土が、霜柱をくだいたように荒れていた。

宗助は、大きな犬でも上から転がり落ちたのではないかと思った。

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宗助は大きな犬でも上から転がり落ちたのじゃなかろうかと思った。

しかし犬にしては、いくら大きいにしても、あまりに勢いが激し過ぎると思った。

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しかし犬にしてはいくら大きいにしても、余り勢が烈し過ぎると思った。

宗助は玄関から下駄を提げて来て、すぐ庭へ下りた。

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宗助は玄関から下駄をげて来て、すぐ庭へ下りた。

縁の先へ便所が折れ曲がって突き出しているので、ただでさえ狭い崖下が、裏へ抜ける半間ほどの所ではなおさら狭苦しくなっていた。

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縁の先へ便所が折れ曲って突き出しているので、いとど狭い崖下が、裏へ抜ける半間ほどの所はなおさら狭苦しくなっていた。

御米は掃除屋が来るたびにこの曲がり角を気にして、

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御米は掃除屋そうじやが来るたびに、この曲り角を気にしては、

「あそこがもう少し広いといいけれど」

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「あすこがもう少し広いといいけれども」

と危ながるので、よく宗助に笑われたことがあった。

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危険あぶながるので、よく宗助から笑われた事があった。

そこを通り抜けると、まっすぐに台所まで細い道が付いている。

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そこを通り抜けると、真直まっすぐに台所まで細い路が付いている。

元は枯れ枝の交じった杉垣があって隣の庭との仕切りになっていたが、この間家主が手を入れた時に穴だらけの杉葉をきれいに取り払って、今では節の多い板塀が片側を勝手口までふさいでしまった。

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元は枯枝の交った杉垣があって、隣の庭の仕切りになっていたが、この間家主が手を入れた時、穴だらけの杉葉を奇麗きれいに取り払って、今ではふしの多い板塀いたべいが片側を勝手口までふさいでしまった。

日当たりが悪い上に、樋から雨だればかり落ちるので、夏になると秋海棠がいっぱい生える。

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日当りの悪い上に、といから雨滴あまだればかり落ちるので、夏になると秋海棠しゅうかいどうがいっぱい生える。

その盛りの頃は青い葉が重なり合って、ほとんど通り道がなくなるほど茂って来る。

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その盛りな頃は青い葉が重なり合って、ほとんど通り路がなくなるくらい茂って来る。

初めて越した年は、宗助も御米もこの景色を見て驚かされたくらいである。

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始めて越した年は、宗助も御米もこの景色けしきを見て驚ろかされたくらいである。

この秋海棠は杉垣がまだ引き抜かれない前から何年となく地下にはびこっていたもので、古家の取り壊された今でも、時節が来れば昔のとおり芽を吹くものと分かった時、御米は、

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この秋海棠は杉垣のまだ引き抜かれない前から、何年となく地下にはびこっていたもので、古家ふるやの取りこぼたれた今でも、時節が来ると昔の通り芽を吹くものと解った時、御米は、

「でも可愛いわね」

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「でも可愛いわね」

と喜んだ。

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と喜んだ。

宗助が霜を踏んでこの思い出の多い横手へ出た時、彼の目は細長い路地の一点に落ちた。

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宗助が霜を踏んで、この記念の多い横手へ出た時、彼の眼は細長い路次ろじの一点に落ちた。

そうして彼は、日の通わない寒さの中にはたと立ち止まった。

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そうして彼は日の通わない寒さの中にはたと留まった。

彼の足もとには、黒塗りの蒔絵の手文庫が放り出してあった。

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彼の足元には黒塗の蒔絵まきえの手文庫が放り出してあった。

中身はわざわざそこへ持って来て置いて行ったように霜の上にちゃんと据わっているが、蓋は二、三尺離れて塀の根に打ちつけられたようにひっくり返り、中を張った千代紙の模様がはっきり見えた。

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中味はわざわざそこへ持って来て置いて行ったように、霜の上にちゃんとすわっているが、ふたは二三尺離れて、へいの根に打ちつけられたごとくに引っ繰り返って、中を張った千代紙ちよがみの模様が判然はっきり見えた。

文庫の中からこぼれた手紙や書き付けの類がそこいらに遠慮なく散らばっている中に、比較的長い一通がわざわざ二尺ばかり広げられて、その先が紙屑のように丸めてあった。

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文庫の中かられた、手紙や書付類が、そこいらに遠慮なく散らばっている中に、比較的長い一通がわざわざ二尺ばかり広げられて、その先が紙屑のごとく丸めてあった。

宗助は近づいて、このもみくちゃになった紙の下を覗いて、思わず苦笑した。

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宗助は近づいて、この揉苦茶もみくちゃになった紙の下をのぞいて覚えず苦笑した。

下には大便が垂れてあった。

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下には大便が垂れてあった。

土の上に散らばっている書類をひとまとめにして文庫の中へ入れ、霜と泥に汚れたまま、宗助は勝手口まで持って来た。

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土の上に散らばっている書類を一纏ひとまとめにして、文庫の中へ入れて、霜と泥に汚れたまま宗助は勝手口まで持って来た。

腰障子を開けて、清に

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腰障子こししょうじを開けて、清に

「おい、これをちょっとそこへ置いてくれ」

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「おいこれをちょっとそこへ置いてくれ」

と渡すと、清は妙な顔をして、不思議そうにそれを受け取った。

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と渡すと、清は妙な顔をして、不思議そうにそれを受取った。

御米は奥で座敷にはたきを掛けていた。

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御米は奥で座敷へ払塵はたきを掛けていた。

宗助はそれから懐手をして、玄関や門のあたりをよく見回ったが、どこにも普段と違う点は見当たらなかった。

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宗助はそれから懐手ふところでをして、玄関だの門のあたりをよく見廻ったが、どこにも平常と異なる点は認められなかった。

宗助はようやく家に入った。

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宗助はようやくうちへ入った。

茶の間へ来ていつものとおり火鉢の前に座ったが、すぐ大きな声を出して御米を呼んだ。

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茶の間へ来て例の通り火鉢ひばちの前へすわったが、すぐ大きな声を出して御米を呼んだ。

御米は、

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御米は、

「起き抜けにどこへ行っていらしたの」

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「起き抜けにどこへ行っていらしったの」

と言いながら奥から出て来た。

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と云いながら奥から出て来た。

「おい、昨夜枕もとで大きな音がしたのは、やっぱり夢じゃなかったんだ。泥棒だよ。泥棒が坂井さんの崖の上からうちの庭へ飛び下りた音だ。今、裏へ回ってみたら、この文庫が落ちていて、中に入っていた手紙なんかがむちゃくちゃに放り出してあった。おまけにご馳走まで置いて行った」

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「おい昨夜ゆうべ枕元で大きな音がしたのは、やっぱり夢じゃなかったんだ。泥棒だよ。泥棒が坂井さんのがけの上からうちの庭へ飛び下りた音だ。今裏へ回って見たら、この文庫が落ちていて、中にはいっていた手紙なんぞが、むちゃくちゃに放り出してあった。おまけに御馳走ごちそうまで置いて行った」

宗助は文庫の中から二、三通の手紙を出して御米に見せた。

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宗助は文庫の中から、二三通の手紙を出して御米に見せた。

それには皆、坂井の宛名が書いてあった。

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それにはみんな坂井の名宛なあてが書いてあった。

御米はびっくりして立て膝のまま、

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御米は吃驚びっくりして立膝のまま、

「坂井さんでは、ほかに何か取られたでしょうか」

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「坂井さんじゃほかに何か取られたでしょうか」

と聞いた。

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と聞いた。

宗助は腕組みをして、

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宗助は腕組をして、

「ことによると、まだ何かやられたね」

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「ことにると、まだ何かやられたね」

と答えた。

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と答えた。

夫婦はともかくもというので、文庫をそこへ置いたまま朝飯の膳に着いた。

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夫婦はともかくもと云うので、文庫をそこへ置いたなり朝飯のぜんに着いた。

しかし箸を動かす間も泥棒の話は忘れなかった。

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しかしはしを動かすも泥棒の話は忘れなかった。

御米は自分の耳と頭の確かなことを夫に誇った。

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御米は自分の耳と頭のたしかな事を夫に誇った。

宗助は耳と頭が確かでないことを幸福とした。

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宗助は耳と頭のたしかでない事を幸福とした。

「そうおっしゃるけれど、これが坂井さんでなくて、うちだったらご覧なさい。あなたみたいにぐうぐう寝ていらしたら困るじゃないの」

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「そうおっしゃるけれど、これが坂井さんでなくって、宅で御覧なさい。あなたみたように、ぐうぐう寝ていらしったら困るじゃないの」

と御米が宗助をやり込めた。

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と御米が宗助をやり込めた。

「なに、うちなんかへ入る気遣いはないから大丈夫だ」

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「なに、宅なんぞへ這入はい気遣きづかいはないから大丈夫だ」

と宗助も口の減らない返事をした。

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と宗助も口の減らない返事をした。

そこへ清が突然台所から顔を出して、

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そこへ清が突然台所から顔を出して、

「この間こしらえた旦那様の外套でも取られようものなら、それこそ騒ぎでございましたね。お宅でなくて坂井さんだったから、本当に結構でございます」

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「この間こしらえた旦那様の外套マントでも取られようものなら、それこそ騒ぎでございましたね。御宅おうちでなくって坂井さんだったから、本当に結構でございます」

と真面目に喜びの言葉を述べたので、宗助も御米も少し挨拶に困った。

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真面目まじめよろこびの言葉を述べたので、宗助も御米も少し挨拶あいさつきゅうした。

食事を済ませても、出勤の時刻にはまだだいぶ間があった。

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食事を済ましても、出勤の時刻にはまだだいぶ間があった。

坂井ではさぞ騒いでいるだろうというので、文庫は宗助が自分で持って行ってやることにした。

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坂井では定めて騒いでるだろうと云うので、文庫は宗助が自分で持って行ってやる事にした。

蒔絵ではあるが、ただ黒地に亀甲形を金で置いただけのもので、特に大した金目の物とも思えなかった。

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蒔絵まきえではあるが、ただ黒地に亀甲形きっこうがたきんで置いただけの事で、別に大して金目の物とも思えなかった。

御米は唐桟の風呂敷を出してそれを包んだ。

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御米は唐桟とうざん風呂敷ふろしきを出してそれをくるんだ。

風呂敷が少し小さいので、四隅を向かい同士つないで、真ん中にこま結びを二つこしらえた。

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風呂敷が少し小さいので、四隅よすみむこう同志つないで、真中にこま結びを二つこしらえた。

宗助がそれを提げたところは、まるで進物の菓子折のようだった。

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宗助がそれをげたところは、まるで進物の菓子折のようであった。

座敷から見ればすぐ崖の上だが、表から回ると、通りを半町ばかり来て坂を上り、また半町ほど逆に戻らなければ坂井の門前へは出られなかった。

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座敷で見ればすぐ崖の上だが、表から廻ると、通りを半町ばかり来て、坂をのぼって、また半町ほど逆に戻らなければ、坂井の門前へは出られなかった。

宗助は、石の上へ芝を盛ってかなめもちをきれいに植えつけた垣に沿って門内に入った。

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宗助は石の上へ芝を盛って扇骨木かなめ奇麗きれいに植えつけた垣に沿うて門内に入った。

家の中は、むしろ静か過ぎるくらいしんとしていた。

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いえの内はむしろ静か過ぎるくらいしんとしていた。

すりガラスの戸が閉めてある玄関へ来てベルを二、三度押してみたが、ベルが利かないと見えて誰も出て来なかった。

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摺硝子すりガラスの戸がててある玄関へ来て、ベルを二三度押して見たが、ベルがかないと見えて誰も出て来なかった。

宗助は仕方なく勝手口へ回った。

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宗助は仕方なしに勝手口へ廻った。

そこにも、すりガラスのはまった腰障子が二枚閉めてあった。

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そこにも摺硝子のまった腰障子こししょうじが二枚閉ててあった。

中では器物を扱う音がした。

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中では器物を取り扱う音がした。

宗助は戸を開けて、ガス七輪を置いた板の間にしゃがんでいる下女に挨拶をした。

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宗助は戸を開けて、瓦斯七輪ガスしちりんを置いた板の間に蹲踞しゃがんでいる下女に挨拶あいさつをした。

「これはこちらのでしょう。今朝、私の家の裏に落ちていましたから持って来ました」

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「これはこちらのでしょう。今朝わたしうちの裏に落ちていましたから持って来ました」

と言いながら、文庫を出した。

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と云いながら、文庫を出した。

下女は「そうでございましたか、どうも」

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下女は「そうでございましたか、どうも」

と簡単に礼を述べて、文庫を持ったまま板の間の仕切りまで行き、仲働きらしい女を呼び出した。

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と簡単に礼を述べて、文庫を持ったまま、板の間の仕切まで行って、仲働なかばたらきらしい女を呼び出した。

そこで小声に説明をして品物を渡すと、仲働きはそれを受け取ったまま、ちょっと宗助の方を見たが、すぐ奥へ入った。

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そこで小声に説明をして、品物を渡すと、仲働はそれを受取ったなり、ちょっと宗助の方を見たがすぐ奥へ入った。

入れ違いに、十二、三になる丸顔の目の大きな女の子と、その妹らしい、おそろいのリボンを掛けた子がいっしょに駆けて来て、小さい首を二つ並べて台所へ出した。

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ちがえに、十二三になる丸顔の眼の大きな女の子と、その妹らしいそろいのリボンをけた子がいっしょにけて来て、小さい首を二つ並べて台所へ出した。

そうして宗助の顔を眺めながら、泥棒よ、とささやき合った。

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そうして宗助の顔をながめながら、泥棒よと耳語ささやきやった。

宗助は文庫を渡してしまえばもう用は済んだのだから、奥への挨拶はどうでもいいとして、すぐ帰ろうかと考えた。

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宗助は文庫を渡してしまえば、もう用が済んだのだから、奥の挨拶はどうでもいいとして、すぐ帰ろうかと考えた。

「文庫はお宅のでしょうね。いいんでしょうね」

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「文庫は御宅のでしょうね。いいんでしょうね」

と念を押して、何も知らない下女を気の毒がらせているところへ、さきほどの仲働きが出て来て、

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と念を押して、にも知らない下女を気の毒がらしているところへ、最前の仲働が出て来て、

「どうぞお通りください」

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「どうぞ御通り下さい」

と丁寧に頭を下げたので、今度は宗助の方が少し恐縮するようになった。

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丁寧ていねいに頭を下げたので、今度は宗助の方が少し痛み入るようになった。

下女はいよいよしとやかに同じ求めを繰り返した。

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下女はいよいよしとやかに同じ請求を繰り返した。

宗助は恐縮を通り越して、ついに迷惑を感じ出した。

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宗助は痛み入る境を通り越して、ついに迷惑を感じ出した。

そこへ主人が自分で出て来た。

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ところへ主人が自分で出て来た。

主人は予想どおり血色のいい下ぶくれの福相を備えていたが、御米の言ったような髭のない男ではなかった。

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主人は予想通り血色の好い下膨しもぶくれ福相ふくそうそなえていたが、御米の云ったようにひげのない男ではなかった。

鼻の下に短く刈り込んだのを生やして、ただ頬から顎をきれいに青くしていた。

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鼻の下に短かく刈り込んだのを生やして、ただほおからあご奇麗きれいあおくしていた。

「いや、どうもとんだお手数で」

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「いやどうもとんだ御手数ごてかずで」

と主人は目尻に皺を寄せながら礼を述べた。

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と主人は眼尻めじりしわを寄せながら礼を述べた。

米沢の絣を着た膝を板の間について、宗助からいろいろ様子を聞いている態度が、いかにもゆったりしていた。

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米沢よねざわかすりを着たひざを板の間に突いて、宗助からいろいろ様子を聞いている態度が、いかにもゆっくりしていた。

宗助は昨夜から今朝にかけての出来事をひととおりかいつまんで話した上、文庫のほかに何か取られたものがあるかないかを尋ねてみた。

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宗助は昨夕ゆうべから今朝へかけての出来事を一通りつまんで話した上、文庫のほかに何か取られたものがあるかないかを尋ねて見た。

主人は机の上に置いた金時計を一つ取られたと答えた。

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主人は机の上に置いた金時計を一つ取られたよしを答えた。

けれども、まるで他人のものでも無くしたかのように、まるで困ったという様子はなかった。

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けれどもまるでひとのものでもくなした時のように、いっこう困ったと云う気色けしきはなかった。

時計よりも、むしろ宗助の話の方に多くの興味を持って、泥棒ははたして崖を伝って裏から逃げるつもりだったのか、それとも逃げる拍子に崖から落ちたのか、というような質問をした。

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時計よりはむしろ宗助の叙述の方に多くの興味をって、泥棒が果して崖を伝って裏から逃げるつもりだったろうか、または逃げる拍子ひょうしに、崖から落ちたものだろうかと云うような質問を掛けた。

宗助はもとより返答ができなかった。

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宗助はもとより返答ができなかった。

そこへさきほどの仲働きが奥から茶や煙草を運んで来たので、宗助はまた帰りそこねた。

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そこへ最前の仲働が、奥から茶やたばこを運んで来たので、宗助はまた帰りはぐれた。

主人はわざわざ座布団まで取り寄せて、とうとうその上に宗助の尻を据えさせた。

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主人はわざわざ座蒲団ざぶとんまで取り寄せて、とうとうその上へ宗助の尻をえさした。

そうして、今朝早く来た刑事の話をし始めた。

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そうして今朝けさ早く来た刑事の話をし始めた。

刑事の判断によると、賊は宵のうちから屋敷内に忍び込んで、何でも物置か何かに隠れていたに違いない。

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刑事の判定によると、賊はよいから邸内に忍び込んで、何でも物置かなぞに隠れていたに違ない。

入口はやはり勝手口である。

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這入口はいりくちはやはり勝手である。

マッチを擦って蝋燭を灯し、それを台所にあった小桶の中へ立てて茶の間へ出たが、次の部屋には細君と子供が寝ているので、廊下伝いに主人の書斎へ来てそこで仕事をしていると、この間生まれた末の男の子が乳を飲む時刻が来たものか、目を覚まして泣き出したため、賊は書斎の戸を開けて庭へ逃げたらしい。

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燐寸マッチって蝋燭ろうそくともして、それを台所にあった小桶こおけの中へ立てて、茶の間へ出たが、次の部屋には細君と子供が寝ているので、廊下伝いに主人の書斎へ来て、そこで仕事をしていると、この間生れた末の男の子が、乳をむ時刻が来たものか、眼をまして泣き出したため、賊は書斎の戸を開けて庭へ逃げたらしい。

「いつものように犬がいるとよかったんですがね。あいにく病気なので、四、五日前に病院へ入れてしまったものですから」

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平常いつものように犬がいると好かったんですがね。あいにく病気なので、四五日前病院へ入れてしまったもんですから」

と主人は残念がった。

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と主人は残念がった。

宗助も、

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宗助も、

「それは惜しいことでした」

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「それは惜しい事でした」

と答えた。

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と答えた。

すると主人は、その犬の品種や血統や、時々猟に連れて行くことや、いろいろなことを話し始めた。

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すると主人はその犬のブリードやら血統やら、時々かりに連れて行く事や、いろいろな事を話し始めた。

「猟は好きですから。もっとも近ごろは神経痛で少し休んでいますが。何しろ秋口から冬にかけて鴫などを撃ちに行くと、どうしても腰から下は田の中に浸かって二時間も三時間も過ごさなければならないんですから、まったく体にはよくないようです」

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りょうは好ですから。もっとも近来は神経痛で少し休んでいますが。何しろ秋口から冬へ掛けてしぎなぞを打ちに行くと、どうしても腰から下は田の中へつかって、二時間も三時間も暮らさなければならないんですから、全く身体からだには好くないようです」

主人は時間に制限のない人と見えて、宗助が、なるほど、とか、そうですか、とか言っていると、いつまでも話しているので、宗助はやむを得ず途中で立ち上がった。

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主人は時間に制限のない人と見えて、宗助が、なるほどとか、そうですか、とか云っていると、いつまでも話しているので、宗助はやむを得ず中途で立ち上がった。

「これからまた例のとおり出かけなければなりませんから」

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「これからまた例の通り出かけなければなりませんから」

と切り上げると、主人は初めて気がついたように、忙しいところを引き留めた失礼を詫びた。

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と切り上げると、主人は始めて気がついたように、忙がしいところを引き留めた失礼を謝した。

そうして、いずれまた刑事が現状を見に行くかもしれないから、その時はよろしく願う、というようなことを述べた。

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そうしていずれまた刑事が現状を見に行くかも知れないから、その時はよろしく願うと云うような事を述べた。

最後に、

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最後に、

「どうぞ少しお話に。私も近ごろはむしろ暇な方ですから、またお邪魔に出ますから」

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「どうかちと御話に。私も近頃はむしろひまな方ですから、また御邪魔に出ますから」

と丁寧に挨拶をした。

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丁寧ていねいに挨拶をした。

門を出て急ぎ足で家へ帰ると、毎朝出る時刻よりもう三十分ほど遅れていた。

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門を出て急ぎ足にうちへ帰ると、毎朝出る時刻よりも、もう三十分ほど後れていた。

「あなた、どうなさったの」

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「あなたどうなすったの」

と御米が気を揉んで玄関へ出た。

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と御米が気をんで玄関へ出た。

宗助はすぐ着物を脱いで洋服に着替えながら、

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宗助はすぐ着物を脱いで洋服に着換えながら、

「あの坂井という人はよほど気楽な人だね。金があるとああゆっくりできるものかな」

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「あの坂井と云う人はよっぽど気楽な人だね。金があるとああゆっくりできるもんかな」

と言った。

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と云った。

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「小六さん、茶の間から始める? それとも座敷の方を先にする?」

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小六ころくさん、茶の間から始めて。それとも座敷の方を先にして」

と御米が聞いた。

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御米およねが聞いた。

小六は四、五日前にとうとう兄の所へ移った結果、今日の障子の張り替えを手伝わなければならないことになった。

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小六は四五日前とうとう兄の所へ引き移った結果として、今日の障子しょうじ張替はりかえを手伝わなければならない事となった。

彼は昔、叔父の家にいた時、安之助といっしょに自分の部屋の襖を張り替えた経験がある。

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彼はむかし叔父の家にいた時、安之助やすのすけといっしょになって、自分の部屋の唐紙からかみを張り替えた経験がある。

その時は糊を盆に溶いたり、へらを使ってみたりと、だいぶ本式にやり出したが、首尾よく乾かして、いざ元の所へ建てるという段になると、二枚とも反り返って敷居の溝にはまらなかった。

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その時はのりを盆にいたり、へらを使って見たり、だいぶ本式にやり出したが、首尾好く乾かして、いざ元の所へ建てるという段になると、二枚ともり返って敷居のみぞまらなかった。

それから、これも安之助と共同して失敗した仕事だが、叔母の言いつけで障子を張らされた時には、水道でざぶざぶ枠を洗ったため、やはり乾いたあとで全体に歪みができて非常に困った。

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それからこれも安之助と共同して失敗した仕事であるが、叔母の云いつけで、障子を張らせられたときには、水道でざぶざぶわくを洗ったため、やっぱり乾いた後で、惣体そうたいゆがみができて非常に困難した。

「姉さん、障子を張る時はよほど慎重にしないと失敗するんです。洗っちゃ駄目ですよ」

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「姉さん、障子を張るときは、よほど慎重にしないと失策しくじるです。洗っちゃ駄目ですぜ」

と言いながら、小六は茶の間の縁側からびりびり破き始めた。

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と云いながら、小六は茶の間の縁側えんがわからびりびり破き始めた。

縁先は、右の方に小六のいる六畳が折れ曲がり、左には玄関が突き出している。

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縁先は右の方に小六のいる六畳が折れ曲って、左には玄関が突き出している。

その向こうを塀が縁と平行にふさいでいるから、まあ四角な囲いの中と言っていい。

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その向うをへいが縁と平行にふさいでいるから、まあ四角な囲内かこいうちと云っていい。

夏になるとコスモスを一面に茂らせて、夫婦とも毎朝露の深い景色を喜んだこともあるし、また塀の下へ細い竹を立ててそれに朝顔を絡ませたこともある。

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夏になるとコスモスを一面に茂らして、夫婦とも毎朝露の深い景色けしきを喜んだ事もあるし、また塀の下へ細い竹を立てて、それへ朝顔をからませた事もある。

その時は起き抜けに、今朝咲いた花の数を数え合って二人が楽しみにした。

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その時は起き抜けに、今朝咲いた花の数を勘定かんじょうし合って二人がたのしみにした。

けれども秋から冬にかけては花も草もまるで枯れてしまうので、小さな砂漠のように、眺めるのも気の毒なくらい寂しくなる。

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けれども秋から冬へかけては、花も草もまるで枯れてしまうので、小さな砂漠さばくみたように、ながめるのも気の毒なくらいさびしくなる。

小六はこの霜ばかり降りた四角な地面を背にして、しきりに障子の紙を剥がしていた。

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小六はこのしもばかり降りた四角な地面を背にして、しきりに障子の紙をがしていた。

時々寒い風が来て、後ろから小六の坊主頭と襟のあたりを襲った。

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時々寒い風が来て、うしろから小六の坊主頭とえりあたりおそった。

そのたびに彼は、吹きさらしの縁から六畳の中へ引っ込みたくなった。

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そのたびに彼はさらしの縁から六畳の中へ引っ込みたくなった。

彼は赤い手を無言のまま働かせながら、バケツの中で雑巾を絞って障子の桟を拭き出した。

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彼は赤い手を無言のまま働らかしながら、馬尻バケツの中で雑巾ぞうきんしぼって障子のさんを拭き出した。

「寒いでしょう、お気の毒さまね。あいにくお天気が時雨れたものだから」

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「寒いでしょう、御気の毒さまね。あいにく御天気が時雨しぐれたもんだから」

と御米が愛想を言って、鉄瓶の湯を注ぎ注ぎ、昨日煮た糊を溶いた。

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と御米が愛想あいそを云って、鉄瓶てつびんの湯をぎ、昨日きのう煮たのりを溶いた。

小六は実際、こんな用をするのを内心では大いに軽蔑していた。

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小六は実際こんな用をするのを、内心では大いに軽蔑けいべつしていた。

ことに昨今、自分がやむなく置かれた境遇からして、この際多少は自分を侮辱しているかのような思いを抱いて雑巾を手にしていた。

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ことに昨今自分がやむなく置かれた境遇からして、この際多少自己を侮辱しているかの観をいだいて雑巾を手にしていた。

昔、叔父の家でこれと同じことをやらされた時は、暇つぶしの慰みとして、不愉快どころかかえって面白かった記憶さえあるのに、今ではこのくらいの仕事よりほかにする力のない者だと、無理やり周りから諦めさせられたような気がして、縁側の寒いのがなおのこと癪に障った。

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昔し叔父の家で、これと同じ事をやらせられた時は、暇潰ひまつぶしの慰みとして、不愉快どころかかえって面白かった記憶さえあるのに、今じゃこのくらいな仕事よりほかにする能力のないものと、強いて周囲からあきらめさせられたような気がして、縁側の寒いのがなおのことしゃくに触った。

それで兄嫁には快い返事さえろくにしなかった。

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それであによめには快よい返事さえろくにしなかった。

そうして頭の中で、自分の下宿にいた法科大学生が、ちょっと散歩に出るついでに資生堂へ寄って、三つ入りの石鹸と歯磨きを買うのにさえ五円近くの金を払う贅沢を思い浮かべた。

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そうして頭の中で、自分の下宿にいた法科大学生が、ちょっと散歩に出るついでに、資生堂へ寄って、三つ入りの石鹸シャボンと歯磨を買うのにさえ、五円近くの金を払う華奢かしゃを思い浮べた。

するとどうしても、自分一人がこんな窮境に陥るべき理由がないように感じられた。

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するとどうしても自分一人が、こんな窮境におちいるべき理由がないように感ぜられた。

それから、こんな生活に甘んじて一生を送る兄夫婦がいかにも不憫に見えた。

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それから、こんな生活状態に甘んじて一生を送る兄夫婦がいかにも憫然ふびんに見えた。

彼らは障子を張る美濃紙を買うのにさえ気兼ねをしはしまいかと思われるほど、小六から見ると消極的な暮らし方をしていた。

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彼らは障子を張る美濃紙みのがみを買うのにさえ気兼きがねをしやしまいかと思われるほど、小六から見ると、消極的な暮し方をしていた。

「こんな紙じゃ、またすぐ破けますね」

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「こんな紙じゃ、またすぐ破けますね」

と言いながら、小六は巻いた小口を一尺ほど日に透かして、二、三度力任せに鳴らした。

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と云いながら、小六は巻いた小口を一尺ほど日にかして、二三度力任せに鳴らした。

「そう? でも、うちは子供がないから、それほどでもなくってよ」

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「そう? でもうちじゃ小供がないから、それほどでもなくってよ」

と答えた御米は、糊を含ませた刷毛を取って、とんとんとんと桟の上を渡した。

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と答えた御米は糊を含ました刷毛はけを取ってとんとんとんと桟の上を渡した。

二人は長くつないだ紙を双方から引き合って、なるべくたるみのできないように努めたが、小六が時々面倒くさそうな顔をすると、御米はつい遠慮が出て、いい加減に剃刀で小口を切り落としてしまうこともあった。

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二人は長くいだ紙を双方から引き合って、なるべくるみのできないようにつとめたが、小六が時々面倒臭そうな顔をすると、御米はつい遠慮が出て、好加減いいかげん髪剃かみそりで小口を切り落してしまう事もあった。

したがって、でき上がったものには所々のぶくぶくがだいぶ目についた。

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したがってでき上ったものには、所々のぶくぶくがだいぶ目についた。

御米は情けなさそうに、戸袋に立てかけた張り立ての障子を眺めた。

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御米はなさけなさそうに、戸袋に立てけた張り立ての障子をながめた。

そうして心の中で、相手が小六でなくて夫だったらと思った。

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そうして心のうちで、相手が小六でなくって、夫であったならと思った。

「皺が少しできたのね」

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しわが少しできたのね」

「どうせ僕の手際じゃうまく行きません」

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「どうせ僕の御手際おてぎわじゃうまく行かない」

「なに、兄さんだってそう上手じゃなくってよ。それに兄さんはあなたよりよっぽど無精ね」

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「なに兄さんだって、そう御上手じゃなくってよ。それに兄さんはあなたよりよっぽど無精ぶしょうね」

小六は何も答えなかった。

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小六は何にも答えなかった。

台所から清が持って来たうがい茶碗を受け取って、戸袋の前に立ち、紙が一面に濡れるほど霧を吹いた。

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台所からきよが持って来た含嗽茶碗うがいぢゃわんを受け取って、戸袋の前へ立って、紙が一面にれるほど霧を吹いた。

二枚目を張った時には、先に霧を吹いた分がほぼ乾いて、皺がおおかた平らになっていた。

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二枚目を張ったときは、先に霧を吹いた分がほぼ乾いてしわがおおかた平らになっていた。

三枚目を張った時、小六は腰が痛くなったと言い出した。

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三枚目を張ったとき、小六は腰が痛くなったと云い出した。

実を言うと、御米の方は今朝から頭が痛かったのである。

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実を云うと御米の方は今朝けさから頭が痛かったのである。

「もう一枚張って、茶の間だけ済ませてから休みましょう」

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「もう一枚張って、茶の間だけ済ましてから休みましょう」

と言った。

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と云った。

茶の間を済ませているうちに昼になったので、二人は食事を始めた。

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茶の間を済ましているうちにひるになったので、二人は食事を始めた。

小六が移って来てからのこの四、五日、御米は宗助のいない昼飯をいつも小六と差し向かいで食べることになった。

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小六が引き移ってからこの四五日しごんち、御米は宗助そうすけのいない午飯ひるはんを、いつも小六と差向さしむかいで食べる事になった。

宗助といっしょになって以来、御米が毎日膳をともにしたものは夫よりほかになかった。

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宗助といっしょになって以来、御米の毎日ぜんを共にしたものは、夫よりほかになかった。

夫の留守の時は、ただ一人で箸を取るのが長年の習わしだった。

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夫の留守の時は、ただひとはしるのが多年の習慣ならわしであった。

だから突然この小舅と自分の間にお櫃を置いて、互いに顔を見合わせながら口を動かすのは、御米にとって一種異様な経験だった。

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だから突然この小舅こじゅうとと自分の間に御櫃おはちを置いて、互に顔を見合せながら、口を動かすのが、御米に取っては一種な経験であった。

それも下女が台所で働いている時はまだしもだが、清の影も音もしないとなると、なおのこと変に窮屈な感じが起こった。

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それも下女が台所で働らいているときは、まだしもだが、清の影も音もしないとなると、なおのこと変に窮屈な感じが起った。

もちろん小六より御米の方が年上だし、また従来の関係から言っても、男女を絡めとる艶っぽい空気は、堅苦しかった初めの頃でさえ、二人の間に起こり得るはずのものではなかった。

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無論小六よりも御米の方が年上であるし、また従来の関係から云っても、両性をからみつけるつやっぽい空気は、箝束的けんそくてきな初期においてすら、二人の間に起り得べきはずのものではなかった。

御米は、小六と差し向かいで膳に着く時のこの気詰まりな心持ちがいつになったら消えるだろうと、心の中でひそかに疑った。

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御米は小六と差向さしむかいに膳に着くときのこの気ぶっせいな心持が、いつになったら消えるだろうと、心のうちひそかに疑ぐった。

小六が移って来るまでは、こんな結果が出ようとはまるで気がつかなかったのだから、なおさら当惑した。

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小六が引き移るまでは、こんな結果が出ようとは、まるで気がつかなかったのだからなおさら当惑した。

仕方がないので、なるべく食事中に話をして、せめて手持ち無沙汰な隙間だけでも埋めようと努めた。

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仕方がないからなるべく食事中に話をして、せめて手持無沙汰てもちぶさた隙間すきまだけでも補おうとつとめた。

不幸にして今の小六は、この兄嫁の態度に対して、ほどよい調子を出すだけの余裕と分別を頭の中に見出せなかったのである。

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不幸にして今の小六は、このあによめの態度に対してほどの好い調子を出すだけの余裕と分別ふんべつを頭の中に発見し得なかったのである。

「小六さん、下宿はご馳走があって」

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「小六さん、下宿は御馳走ごちそうがあって」

こんな質問に遭うと、小六は下宿から遊びに来た時分のような、あっさりした遠慮のない答えをするわけには行かなくなった。

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こんな質問に逢うと、小六は下宿から遊びに来た時分のように、淡泊たんぱくな遠慮のない答をする訳に行かなくなった。

やむを得ず、

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やむを得ず、

「なに、そうでもありません」

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「なにそうでもありません」

くらいにしておくと、その語気がからりと澄んでいないので、御米の方では、自分のもてなしが悪いせいかと解釈することもあった。

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ぐらいにしておくと、その語気がからりと澄んでいないので、御米の方では、自分の待遇が悪いせいかと解釈する事もあった。

それがまた、無言のうちに小六の頭に映ることもあった。

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それがまた無言のあいだに、小六の頭に映る事もあった。

ことに今日は頭の具合がよくないので、膳に向かっても、御米はいつものように努めるのが億劫だった。

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ことに今日は頭の具合が好くないので、膳に向っても、御米はいつものようにつとめるのが退儀たいぎであった。

努めて失敗するのは、なお嫌だった。

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つとめて失敗するのはなおいやであった。

それで二人とも、障子を張る時より言葉少なに食事を済ませた。

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それで二人とも障子しょうじを張るときよりも言葉少なに食事を済ました。

午後は手が慣れたせいか、朝に比べると仕事が少しはかどった。

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午後は手がれたせいか、朝に比べると仕事が少し果取はかどった。

しかし二人の気分は、飯前よりもかえって縁遠くなった。

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しかし二人の気分は飯前よりもかえって縁遠くなった。

ことに寒い天気が二人の頭に応えた。

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ことに寒い天気が二人の頭にこたえた。

起きた時は、日を載せた空がしだいに遠のいて行くかと思われるほどよく晴れていたが、それが真っ青に色づく頃から急に雲が出て、暗い中で粉雪でも醸しているように日の目を封じてしまった。

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起きた時は、日をせた空がしだいに遠退とおのいて行くかと思われるほどに、好く晴れていたが、それが真蒼まっさおに色づく頃から急に雲が出て、暗い中で粉雪こゆきでもかもしているように、日の目を密封した。

二人はかわるがわる火鉢に手をかざした。

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二人はかわがわる火鉢に手をかざした。

「兄さんは来年になると月給が上がるんでしょう」

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「兄さんは来年になると月給が上がるんでしょう」

ふと小六がこんな問いを御米にかけた。

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ふと小六がこんな問を御米にかけた。

御米はその時、畳の上の紙切れを取って糊に汚れた手を拭いていたが、まるで思いも寄らないという顔をした。

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御米はその時畳の上の紙片かみぎれを取って、糊によごれた手を拭いていたが、全く思も寄らないという顔をした。

「どうして」

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「どうして」

「でも新聞で見ると、来年から一般に官吏の増俸があるという話じゃありませんか」

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「でも新聞で見ると、来年から一般に官吏の増俸があると云う話じゃありませんか」

御米はそんな話をまるで知らなかった。

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御米はそんな消息を全く知らなかった。

小六から詳しい説明を聞いて、初めて、なるほど、とうなずいた。

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小六から詳しい説明を聞いて、始めてなるほどと首肯うなずいた。

「本当にね。これじゃ誰だってやって行けないわ。お魚の切り身なんか、私が東京へ来てからでももう倍になっているんですもの」

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「全くね。これじゃ誰だって、やって行けないわ。御肴おさかなの切身なんか、わたしが東京へ来てからでも、もう倍になってるんですもの」

と言った。

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と云った。

魚の切り身の値段になると、小六の方がまるで無知だった。

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肴の切身の値段になると小六の方が全く無識であった。

御米に言われて初めて、それほどむやみに高くなるものかと思った。

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御米に注意されて始めてそれほどむやみに高くなるものかと思った。

小六にちょっとした好奇心が出たため、二人の会話は思いのほか素直に流れて行った。

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小六にちょっとした好奇心の出たため、二人の会話は存外素直に流れて行った。

御米は裏の家主の十八、九の時代に物価がたいへん安かった話を、この間宗助から聞いたとおりに繰り返した。

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御米は裏の家主の十八九時代に物価の大変安かった話を、この間宗助から聞いた通り繰り返した。

その時分は蕎麦を食うにしても、盛りやかけが八厘、種ものが二銭五厘だった。

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その時分は蕎麦そばを食うにしても、もりかけが八厘、たねものが二銭五厘であった。

牛肉は並が一人前四銭で、ロースは六銭だった。

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牛肉は普通なみ一人前いちにんまえ四銭で、ロースは六銭であった。

寄席は三銭か四銭だった。

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寄席よせは三銭か四銭であった。

学生は月に七円ほど国からもらえば中くらいだった。

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学生は月に七円ぐらい国からもらえばちゅうの部であった。

十円も取れば、もう贅沢と思われた。

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十円も取るとすでに贅沢ぜいたくと思われた。

「小六さんも、その時分だったら訳なく大学が卒業できたのにね」

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「小六さんも、その時分だと訳なく大学が卒業できたのにね」

と御米が言った。

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と御米が云った。

「兄さんも、その時分ならたいへん暮らしやすいわけですね」

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「兄さんもその時分だと大変暮しやすい訳ですね」

と小六が答えた。

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と小六が答えた。

座敷の張り替えが済んだ時には、もう三時過ぎになった。

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座敷の張易はりかえが済んだときにはもう三時過になった。

そうこうしているうちには宗助も帰って来るし、晩の支度も始めなくてはならないので、二人はこれを一区切りとして、糊や剃刀を片づけた。

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そうこうしているうちには、宗助も帰って来るし、晩の支度したくも始めなくってはならないので、二人はこれを一段落として、糊や髪剃かみそりを片づけた。

小六は大きく伸びを一つして、握り拳で自分の頭をこんこんと叩いた。

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小六は大きなのびを一つして、にぎこぶしで自分の頭をこんこんとたたいた。

「どうもご苦労さま。疲れたでしょう」

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「どうも御苦労さま。疲れたでしょう」

と御米は小六をねぎらった。

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と御米は小六をいたわった。

小六はそれよりも口寂しい思いがした。

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小六はそれよりも口淋くちさむしい思がした。

この間文庫を届けてやった礼に坂井がくれたという菓子を、戸棚から出してもらって食べた。

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この間文庫を届けてやった礼に、坂井からくれたと云う菓子を、戸棚とだなから出して貰って食べた。

御米はお茶を入れた。

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御米は御茶を入れた。

「坂井という人は大学出なんですか」

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「坂井と云う人は大学出なんですか」

「ええ、やっぱりそうなんですって」

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「ええ、やっぱりそうなんですって」

小六は茶を飲んで煙草を吹かした。

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小六は茶を飲んで煙草たばこを吹いた。

やがて、

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やがて、

「兄さんは増俸のことを、まだあなたに話さないんですか」

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「兄さんは増俸の事をまだあなたに話さないんですか」

と聞いた。

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と聞いた。

「いいえ、ちっとも」

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「いいえ、ちっとも」

と御米が答えた。

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と御米が答えた。

「兄さんみたいになれたらいいだろうな。不平も何もなくて」

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「兄さんみたようになれたら好いだろうな。不平も何もなくって」

御米は特別の受け答えもしなかった。

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御米は特別の挨拶あいさつもしなかった。

小六はそのまま立って六畳へ入ったが、やがて火が消えたと言って、火鉢を抱えてまた出て来た。

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小六はそのままって六畳へ這入はいったが、やがて火が消えたと云って、火鉢をかかえてまた出て来た。

彼は兄の家に厄介になりながら、もう少し経てば都合がつくだろうと慰めた安之助の言葉を信じて、学校は表向き休学ということにして一時の始末をつけたのである。

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彼は兄のいえ厄介やっかいになりながら、もう少し立てば都合がつくだろうと慰めた安之助の言葉を信じて、学校は表向おもてむき休学のていにして一時の始末をつけたのである。

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裏の坂井と宗助とは、文庫が縁になって思わぬ関係ができた。

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裏の坂井と宗助そうすけとは文庫が縁になって思わぬ関係がついた。

それまでは、月に一度こちらから清に家賃を持たせてやると、向こうからその受け取りを寄こすだけのやり取りに過ぎなかったのだから、崖の上に西洋人が住んでいるのと同じで、隣人としての親しみはまるで存在していなかったのである。

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それまでは月に一度こちらからきよに家賃を持たしてやると、むこうからその受取を寄こすだけの交渉に過ぎなかったのだから、がけの上に西洋人が住んでいると同様で、隣人としての親みは、まるで存在していなかったのである。

宗助が文庫を届けた日の午後、坂井の言ったとおり刑事が宗助の家の裏手から崖下を調べに来たが、その時坂井もいっしょだったので、御米は初めて噂に聞いた家主の顔を見た。

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宗助が文庫を届けた日の午後に、坂井の云った通り、刑事が宗助の家の裏手から崖下をしらべに来たが、その時坂井もいっしょだったので、御米およねは始めてうわさに聞いた家主の顔を見た。

髭がないと思っていたのに髭を生やしているのと、自分などに対しても思いのほか丁寧な言葉を使うのが、御米には少し意外だった。

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ひげのないと思ったのに、髭を生やしているのと、自分なぞに対しても、存外丁寧ていねいな言葉を使うのが、御米には少し案外であった。

「あなた、坂井さんはやっぱり髭を生やしていてよ」

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「あなた、坂井さんはやっぱり髭を生やしていてよ」

と宗助が帰った時、御米はわざわざ注意した。

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と宗助が帰ったとき、御米はわざわざ注意した。

それから二日ほどして、坂井の名刺を添えた立派な菓子折を持って下女が礼に来たが、先だってはいろいろお世話になりましてありがとう存じます、いずれ主人が自分で伺うはずでございますが、と言い置いて帰って行った。

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それから二日ばかりして、坂井の名刺を添えた立派な菓子折を持って、下女が礼に来たが、せんだってはいろいろ御世話になりまして、ありがとう存じます、いずれ主人が自身に伺うはずでございますがと云いおいて、帰って行った。

その晩、宗助はいただき物の菓子折の蓋を開けて、唐饅頭を頬張りながら、

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その晩宗助は到来の菓子折のふたを開けて、唐饅頭とうまんじゅう頬張ほおばりながら、

「こんなものをくれるところをみると、それほどけちでもないようだね。他所の家の子をブランコに乗せてやらないっていうのは嘘だろう」

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「こんなものをくれるところをもって見ると、それほどけちでもないようだね。ひとうちの子をブランコへ乗せてやらないって云うのは嘘だろう」

と言った。

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と云った。

御米も、

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御米も、

「きっと嘘よ」

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「きっと嘘よ」

と坂井を弁護した。

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と坂井を弁護した。

夫婦と坂井とは、泥棒が入る前よりこれだけ親しみの度が増したようなものの、それ以上に近づこうという思いは、宗助の頭にも御米の胸にも宿らなかった。

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夫婦と坂井とは泥棒の這入はいらない前より、これだけ親しみの度が増したようなものの、それ以上に接近しようと云う念は、宗助の頭にも、御米の胸にも宿らなかった。

利害の打算から言えばもちろんのこと、単に隣人の付き合いとか情義とかいう点から見ても、夫婦はこれ以上前へ進む勇気を持たなかったのである。

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利害の打算から云えば無論の事、単に隣人の交際とか情誼じょうぎとか云う点から見ても、夫婦はこれよりも前進する勇気をたなかったのである。

もし自然がこのまま何もない月日を運んで行ったなら、遠からず坂井は昔の坂井になり、宗助は元の宗助になって、崖の上と崖の下で互いの家が隔たっているように、互いの心も離れ離れになったに違いなかった。

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もし自然がこのままに無為むいの月日をったなら、久しからぬうちに、坂井は昔の坂井になり、宗助は元の宗助になって、崖の上と崖の下に互の家がへだたるごとく、互の心も離れ離れになったに違なかった。

ところがそれからまた二日おいて、三日目の暮れ方に、かわうその襟の付いた暖かそうな外套を着て、突然坂井が宗助の所へやって来た。

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ところがそれからまた二日置いて、三日目の暮れ方に、かわうそえりの着いた暖かそうな外套マントを着て、突然坂井が宗助の所へやって来た。

夜に客を迎えつけない夫婦は、軽い狼狽を感じるくらい驚かされたが、座敷へ上げて話してみると、坂井は丁寧に先日の礼を述べたあと、

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夜間客におそわれつけない夫婦は、軽微の狼狽ろうばいを感じたくらい驚ろかされたが、座敷へ上げて話して見ると、坂井は丁寧に先日の礼を述べたのち

「おかげで取られた品物がまた戻りましたよ」

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「御蔭で取られた品物がまた戻りましたよ」

と言いながら、白縮緬の兵児帯に巻き付けた金鎖を外して、両蓋の金時計を出して見せた。

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と云いながら、白縮緬しろちりめん兵児帯へこおびに巻き付けた金鎖をはずして、両葢りょうぶたの金時計を出して見せた。

規則だから警察へ届けることは届けたが、実はだいぶ古い時計なので、取られてもそれほど惜しくもないくらいに諦めていたら、昨日になって突然差出人の分からない小包が着き、その中にちゃんと自分の失くしたものが包んであったのだという。

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規則だから警察へ届ける事は届けたが、実はだいぶ古い時計なので、取られてもそれほど惜しくもないぐらいにあきらめていたら、昨日きのうになって、突然差出人の不明な小包が着いて、その中にちゃんと自分のくしたのがくるんであったんだと云う。

「泥棒も持て余したんでしょう。それとも、あまり金にならないのでやむを得ず返してくれる気になったんですかね。とにかくめずらしいことで」

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「泥棒も持ち扱かったんでしょう。それとも余り金にならないんで、やむを得ず返してくれる気になったんですかね。何しろ珍らしい事で」

と坂井は笑っていた。

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と坂井は笑っていた。

それから、

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それから、

「なに、私から言えば、実はあの文庫の方がむしろ大切な品でしてね。祖母が昔、御殿に勤めていた時分にいただいたんだとかで、まあ形見のようなものですから」

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「何私から云うと、実はあの文庫の方がむしろ大切な品でしてね。祖母ばばが昔し御殿へ勤めていた時分、いただいたんだとか云って、まあ記念かたみのようなものですから」

というようなことも説明して聞かせた。

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と云うような事も説明して聞かした。

その晩、坂井はそんな話を約二時間もして帰って行ったが、相手になった宗助も、茶の間で聞いていた御米も、たいへん話の材料に富んだ人だと思わないわけには行かなかった。

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その晩坂井はそんな話を約二時間もして帰って行ったが、相手になった宗助も、茶の間で聞いていた御米も、大変談話の材料に富んだ人だと思わぬ訳に行かなかった。

あとで、

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あとで、

「世間の広い方ね」

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「世間の広いかたね」

と御米が評した。

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と御米が評した。

「暇だからさ」

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ひまだからさ」

と宗助が解釈した。

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と宗助が解釈した。

次の日、宗助が役所の帰りがけに電車を降りて横町の道具屋の前まで来ると、例のかわうその襟を付けた坂井の外套がちょっと目についた。

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次の日宗助が役所の帰りがけに、電車を降りて横町の道具屋の前まで来ると、例のかわうそえりを着けた坂井の外套マントがちょっと眼に着いた。

横顔を通りの方へ向けて、主人を相手に何か言っている。

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横顔を往来の方へ向けて、主人を相手に何か云っている。

主人は大きな眼鏡を掛けたまま、下から坂井の顔を見上げている。

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主人は大きな眼鏡を掛けたまま、下から坂井の顔を見上げている。

宗助は挨拶をすべき折でもないと思ったので、そのまま行き過ぎようとして店の正面まで来ると、坂井の目が通りへ向いた。

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宗助は挨拶あいさつをすべき折でもないと思ったから、そのまま行き過ぎようとして、店の正面まで来ると、坂井の眼が往来へ向いた。

「やあ、昨夜は。今お帰りですか」

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「やあ昨夜は。今御帰りですか」

と気軽に声をかけられたので、宗助も愛想なく通り過ぎるわけにも行かなくなり、ちょっと歩調を緩めながら帽子を取った。

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と気軽に声をかけられたので、宗助も愛想あいそなく通り過ぎる訳にも行かなくなって、ちょっと歩調をゆるめながら、帽子を取った。

すると坂井は、用はもう済んだという風に店から出て来た。

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すると坂井は、用はもう済んだと云う風をして、店から出て来た。

「何かお求めですか」

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「何か御求めですか」

と宗助が聞くと、

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と宗助が聞くと、

「いえ、なに」

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「いえ、何」

と答えたまま、宗助と並んで家の方へ歩き出した。

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と答えたまま、宗助と並んでうちの方へ歩き出した。

六、七間来た時、

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六七間来たとき、

「あの爺い、なかなかずるい奴ですよ。崋山の偽物を持って来て押しつけようとしやがるから、今叱りつけてやったんです」

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「あのじじい、なかなかずるい奴ですよ。崋山かざん偽物にせものを持って来て押付おっつけようとしやがるから、今叱りつけてやったんです」

と言い出した。

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と云い出した。

宗助は初めて、この坂井も余裕のある人に共通の物好きを道楽にしているのだと気づいた。

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宗助は始めて、この坂井も余裕よゆうある人に共通な好事こうずを道楽にしているのだと心づいた。

そうして、この間売り払った抱一の屏風も、最初からこういう人に見せたらよかっただろうにと腹の中で考えた。

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そうしてこの間売り払った抱一ほういつ屏風びょうぶも、最初からこう云う人に見せたら、好かったろうにと、腹の中で考えた。

「あれは書画には明るい男なんですか」

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「あれは書画には明るい男なんですか」

「なに、書画どころか、まるで何も分からない奴です。あの店の様子を見ても分かるじゃありませんか。骨董らしいものは一つも並んでいやしない。もとが紙屑屋から出世してあれだけになったんですからね」

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「なに書画どころか、まるで何も分らない奴です。あの店の様子を見ても分るじゃありませんか。骨董こっとうらしいものは一つも並んでいやしない。もとが紙屑屋かみくずやから出世してあれだけになったんですからね」

坂井は道具屋の素性をよく知っていた。

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坂井は道具屋の素性すじょうをよく知っていた。

出入りの八百屋の主人の話によると、坂井の家は旧幕府の頃に何とかの守と名乗ったもので、この界隈では一番古い家柄なのだそうである。

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出入でいりの八百屋の阿爺おやじの話によると、坂井の家は旧幕の頃何とかのかみと名乗ったもので、この界隈かいわいでは一番古い門閥家もんばつかなのだそうである。

幕府が倒れた際に駿府へ引き上げなかったのだとか、あるいは引き上げてまた出て来たのだとかいうことも耳にしたようだが、それははっきり宗助の頭に残っていなかった。

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瓦解がかいの際、駿府すんぷへ引き上げなかったんだとか、あるいは引き上げてまた出て来たんだとか云う事も耳にしたようであるが、それは判然はっきり宗助の頭に残っていなかった。

「小さい頃から悪戯者でね。あいつが餓鬼大将になって、よく喧嘩をしに行ったことがありますよ」

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「小さい内から悪戯いたずらものでね。あいつが餓鬼大将がきだいしょうになってよく喧嘩けんかをしに行った事がありますよ」

と坂井は、お互いの子供の頃のことまで一口漏らした。

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と坂井は御互の子供の時の事まで一口らした。

それがまた、どうして崋山の贋物を売り込もうと企んだのかと聞くと、坂井は笑ってこう説明した。――

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それがまたどうして崋山の贋物にせものを売り込もうとたくんだのかと聞くと、坂井は笑って、こう説明した。――

「なに、親父の代から贔屓にしてやっているものですから、時々何だかんだと持って来るんです。ところが目も利かないくせに、ただ欲ばりたがってね、まことに扱いにくい代物です。それに、つい先ごろ抱一の屏風を買ってもらって味を占めたのでね」

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「なに親父おやじの代から贔屓ひいきにしてやってるものですから、時々なんだって持って来るんです。ところが眼もかない癖に、ただ慾ばりたがってね、まことに取扱いにく代物しろものです。それについこの間抱一の屏風を買って貰って、味を占めたんでね」

宗助は驚いた。

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宗助は驚ろいた。

けれども話の途中を遮るわけには行かなかったので、黙っていた。

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けれども話の途中をさえぎる訳に行かなかったので、黙っていた。

坂井は、道具屋がそれ以来乗り気になって、自分でも分からない書画類をしきりに持ち込んで来ることや、大坂で作られた高麗焼を本物だと思って大事に飾っておいたことなどを話した末、

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坂井は道具屋がそれ以来乗気になって、自身に分りもしない書画類をしきりに持ち込んで来る事やら、大坂出来の高麗焼こうらいやきを本物だと思って、大事に飾っておいた事やら話した末、

「まあ台所で使う卓袱台か、せいぜい新品の鉄瓶くらいしか、あんな所では買えたものじゃありません」

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「まあ台所だいどこで使う食卓ちゃぶだいか、たかだかあら鉄瓶てつびんぐらいしか、あんな所じゃ買えたもんじゃありません」

と言った。

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と云った。

そのうち二人は坂の上へ出た。

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そのうち二人は坂の上へ出た。

坂井はそこを右へ曲がる、宗助はそこを下へ下りなければならなかった。

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坂井はそこを右へ曲る、宗助はそこを下へ下りなければならなかった。

宗助はもう少しいっしょに歩いて屏風のことを聞きたかったが、わざわざ回り道をするのも変だと気づいて、それきり別れた。

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宗助はもう少しいっしょに歩いて、屏風びょうぶの事を聞きたかったが、わざわざまわみちをするのも変だと心づいて、それなり分れた。

別れる時、

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分れる時、

「近いうちにお邪魔に出てもようございますか」

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「近いうち御邪魔に出てもようございますか」

と聞くと、坂井は、

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と聞くと、坂井は、

「どうぞ」

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「どうぞ」

と快く答えた。

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と快よく答えた。

その日は風もなくひとしきり日も照ったが、家にいると底冷えのする寒さに襲われるとかで、御米はわざわざ置き炬燵に宗助の着物を掛けて、それを座敷の真ん中に据えて夫の帰りを待ち受けていた。

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その日は風もなくひとしきり日も照ったが、うちにいると底冷そこびえのする寒さにおそわれるとか云って、御米はわざわざ置炬燵おきごたつに宗助の着物を掛けて、それを座敷の真中にえて、夫の帰りを待ち受けていた。

この冬になって昼のうちに炬燵をこしらえたのは、その日が初めてだった。

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この冬になって、昼のうち炬燵こたつこしらえたのは、その日が始めてであった。

夜はとっくに使っていたが、いつも六畳に置くだけだった。

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夜はうから用いていたが、いつも六畳に置くだけであった。

「座敷の真ん中にそんなものを据えて、今日はどうしたんだい」

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「座敷の真中にそんなものを据えて、今日はどうしたんだい」

「でも、お客も何もないからいいでしょう。だって六畳の方は小六さんがいてふさがっているんですもの」

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「でも、御客も何もないからいいでしょう。だって六畳の方は小六ころくさんがいて、ふさがっているんですもの」

宗助は初めて、自分の家に小六がいることに気がついた。

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宗助は始めて自分の家に小六のいる事に気がついた。

シャツの上から暖かい紡績織りを掛けてもらって帯をぐるぐる巻きつけたが、

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襯衣シャツの上から暖かい紡績織ぼうせきおりを掛けて貰って、帯をぐるぐる巻きつけたが、

「ここは寒帯だから、炬燵でも置かないと凌げない」

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「ここは寒帯だから炬燵でも置かなくっちゃしのげない」

と言った。

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と云った。

小六の部屋になった六畳は、畳こそきれいでないが、南と東が開いていて、家じゅうで一番暖かい部屋なのである。

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小六の部屋になった六畳は、畳こそ奇麗きれいでないが、南と東がいていて、家中うちじゅうで一番暖かい部屋なのである。

宗助は御米が汲んで来た熱い茶を湯呑みから二口ほど飲んで、

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宗助は御米のんで来た熱い茶を湯呑ゆのみから二口ほど飲んで、

「小六はいるのかい」

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「小六はいるのかい」

と聞いた。

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と聞いた。

小六はもちろんいたはずである。

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小六はもとよりいたはずである。

けれども六畳はひっそりして、人がいるようにも思われなかった。

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けれども六畳はひっそりして人のいるようにも思われなかった。

御米が呼びに立とうとするのを、用はないからいいと止めたまま、宗助は炬燵布団の中へ潜り込んですぐ横になった。

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御米が呼びに立とうとするのを、用はないからいいと留めたまま、宗助は炬燵蒲団ぶとんの中へもぐり込んで、すぐ横になった。

一方に崖を控えている座敷には、もう暮れ方の色が兆していた。

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一方口いっぽうぐちに崖を控えている座敷には、もう暮方の色がきざしていた。

宗助は手枕をして、何を考えるともなく、ただこの暗く狭い景色を眺めていた。

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宗助は手枕をして、何を考えるともなく、ただこの暗く狭い景色けしきながめていた。

すると御米と清が台所で働く音が、自分に関係のない隣の人の動きのように聞こえた。

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すると御米と清が台所で働く音が、自分に関係のない隣の人の活動のごとくに聞えた。

そのうち、障子だけがただ薄白く宗助の目に映るように、部屋の中が暮れて来た。

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そのうち、障子だけがただ薄白く宗助の眼に映るように、部屋の中が暮れて来た。

彼はそれでもじっとして動かずにいた。

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彼はそれでもじっとして動かずにいた。

声を出してランプの催促もしなかった。

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声を出して洋灯ランプの催促もしなかった。

彼が暗い所から出て晩飯の膳に着いた時は、小六も六畳から出て来て兄の向かいに座った。

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彼が暗い所から出て、晩食ばんめしぜんに着いた時は、小六も六畳から出て来て、兄の向うにすわった。

御米は忙しくてつい忘れたと言って、座敷の戸を閉めに立った。

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御米は忙しいので、つい忘れたと云って、座敷の戸をめに立った。

宗助は弟に、夕方になったら少しはランプを点けるとか戸を閉めるとかして、忙しい姉の手伝いでもしたらいいだろうと注意したかったが、昨今移って来たばかりの者に気まずいことを言うのも悪かろうと思ってやめた。

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宗助は弟に夕方になったら、ちと洋灯ランプけるとか、戸をてるとかして、せわしい姉の手伝でもしたら好かろうと注意したかったが、昨今引き移ったばかりのものに、気まずい事を云うのも悪かろうと思ってやめた。

御米が座敷から帰って来るのを待って、兄弟は初めて茶碗に手を着けた。

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御米が座敷から帰って来るのを待って、兄弟は始めて茶碗に手を着けた。

その時、宗助はようやく、今日役所の帰りがけに道具屋の前で坂井に会ったことと、坂井があの大きな眼鏡を掛けている道具屋から抱一の屏風を買ったという話をした。

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その時宗助はようやく今日役所の帰りがけに、道具屋の前で坂井に逢った事と、坂井があの大きな眼鏡めがねを掛けている道具屋から、抱一ほういつ屏風びょうぶを買ったと云う話をした。

御米は、

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御米は、

「まあ」

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「まあ」

と言ったきり、しばらく宗助の顔を見ていた。

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と云ったなり、しばらく宗助の顔を見ていた。

「じゃ、きっとあれよ。きっとあれに違いないわね」

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「じゃきっとあれよ。きっとあれに違ないわね」

小六は初めのうち何も口を出さなかったが、だんだん兄夫婦の話を聞いているうちにおおよその関係がはっきりしたので、

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小六は始めのうち何にも口を出さなかったが、だんだん兄夫婦の話を聞いているうちに、ほぼ関係が明暸めいりょうになったので、

「いったい、いくらで売ったんです」

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「全体いくらで売ったのです」

と聞いた。

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と聞いた。

御米は返事をする前に、ちょっと夫の顔を見た。

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御米は返事をする前にちょっと夫の顔を見た。

食事が終わると、小六はすぐ六畳へ入った。

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食事が終ると、小六はじきに六畳へ這入はいった。

宗助はまた炬燵へ戻った。

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宗助はまた炬燵こたつへ帰った。

しばらくして御米も足を温めに来た。

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しばらくして御米も足をぬくめに来た。

そうして、次の土曜か日曜には坂井へ行って一つ屏風を見て来たらいいだろう、というようなことを話し合った。

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そうして次の土曜か日曜には坂井へ行って、一つ屏風を見て来たらいいだろうと云うような事を話し合った。

次の日曜になると、宗助は例のとおり一週に一度の楽な寝坊を貪ったため、午前の半日をとうとう空に潰してしまった。

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次の日曜になると、宗助は例の通り一週に一返いっぺん楽寝らくねを貪ぼったため、午前ひるまえ半日をとうとうくうつぶしてしまった。

御米はまた頭が重いとかで、火鉢の縁に寄りかかって、何をするのも億劫そうに見えた。

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御米はまた頭が重いとか云って、火鉢ひばちふちりかかって、何をするのもものうそうに見えた。

こんな時に六畳が空いていれば朝からでも引っ込む場所があるのに、と思うと、宗助は小六に六畳をあてがったことが、間接に御米の避難場所を取り上げたのと同じ結果になるので、ことに済まないような気がした。

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こんな時に六畳がいていれば、朝からでも引込む場所があるのにと思うと、宗助は小六に六畳をあてがった事が、間接に御米の避難場を取り上げたと同じ結果におちいるので、ことに済まないような気がした。

心持ちが悪ければ座敷へ床を敷いて寝たらいいだろうと注意しても、御米は遠慮して容易に応じなかった。

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心持が悪ければ、座敷へ床を敷いて寝たら好かろうと注意しても、御米は遠慮して容易に応じなかった。

それではまた炬燵でもこしらえたらどうだ、自分も当たるから、と言って、とうとうやぐらと掛け布団を清に言いつけて座敷へ運ばせた。

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それではまた炬燵でもこしらえたらどうだ、自分も当るからと云って、とうとうやぐら掛蒲団かけぶとんきよに云いつけて、座敷へ運ばした。

小六は宗助が起きる少し前にどこかへ出て行って、今朝は顔さえ見せなかった。

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小六は宗助が起きる少し前に、どこかへ出て行って、今朝けさは顔さえ見せなかった。

宗助は御米に向かって、特にその行き先を問いただしもしなかった。

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宗助は御米に向って別段その行先を聞きただしもしなかった。

この頃では、小六に関することを言い出して御米に返事をさせるのが気の毒になって来た。

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この頃では小六に関係した事を云い出して、御米にその返事をさせるのが、気の毒になって来た。

御米の方から進んで弟の悪口でも言うようなら、叱るにしても慰めるにしても、かえって始末がいいと考える時もあった。

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御米の方から、進んで弟の讒訴ざんそでもするようだと、叱るにしろ、慰さめるにしろ、かえって始末が好いと考える時もあった。

昼になっても御米は炬燵から出なかった。

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ひるになっても御米は炬燵から出なかった。

宗助は、いっそ静かに寝かせておく方が体のためによかろうと思ったので、そっと台所へ出て、清に、ちょっと上の坂井まで行って来るからと告げ、普段着の上へ袂の出る短いインバネスをまとって表へ出た。

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宗助はいっそ静かに寝かしておく方が身体からだのためによかろうと思ったので、そっと台所へ出て、清にちょっと上の坂井まで行ってくるからと告げて、不断着の上へ、たもとの出る短いインヴァネスをまとって表へ出た。

今まで陰気な部屋にいたせいか、通りへ来ると急にからりと気が晴れた。

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今まで陰気なへやにいた所為せいか、とおりへ来ると急にからりと気が晴れた。

肌の筋肉が寒い風に抵抗して一度に縮むような冬の心持ちが鋭く出る中に、ある快さを覚えたので、宗助は、御米もああ家にばかり置いてはよくない、気候がよくなったら少しは外の空気を吸わせるようにしてやらなくては毒だ、と思いながら歩いた。

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肌の筋肉が寒い風に抵抗して、一時に緊縮するような冬の心持の鋭どく出るうちに、ある快感を覚えたので、宗助は御米もああうちにばかり置いてはくない、気候が好くなったら、ちと戸外の空気を呼吸させるようにしてやらなくては毒だと思いながら歩いた。

坂井の家の門を入ると、玄関と勝手口の仕切りになっている生垣の目に、冬に似合わないぱっとした赤いものが見えた。

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坂井の家の門を入ったら、玄関と勝手口の仕切になっている生垣いけがきの目に、冬に似合わないぱっとした赤いものが見えた。

そばへ寄ってわざわざ調べると、それは人形に掛ける小さい夜具だった。

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そばへ寄ってわざわざしらべると、それは人形に掛ける小さい夜具であった。

細い竹を袖に通して、落ちないようにかなめもちの枝に寄せ掛けた手際が、いかにも女の子のしわざらしく殊勝に思われた。

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細い竹をそでに通して、落ちないように、扇骨木かなめの枝に寄せ掛けた手際てぎわが、いかにも女の子の所作しょさらしく殊勝しゅしょうに思われた。

こういう遊びをする年頃の娘はもちろんのこと、子供という子供を育て上げた経験のない宗助は、この小さい赤い夜具がきちんと日に干してある様子をしばらく立って眺めていた。

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こう云う悪戯いたずらをする年頃の娘はもとよりの事、子供と云う子供を育て上げた経験のない宗助は、この小さい赤い夜具の尋常に日に干してある有様をしばらく立ってながめていた。

そうして二十年も昔に父母が死んだ妹のために飾った赤い雛壇と五人囃子と、模様の美しい干菓子と、それから甘いようで辛い白酒を思い出した。

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そうして二十年も昔に父母が、死んだいもとのために飾った、赤い雛段ひなだん五人囃ごにんばやしと、模様の美くしい干菓子と、それから甘いようでからい白酒を思い出した。

坂井の主人は在宅ではあったけれども、食事中だというのでしばらく待たされた。

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坂井の主人は在宅ではあったけれども、食事中だと云うので、しばらく待たせられた。

宗助は座に着くやいなや、隣の部屋で小さい夜具を干した人たちの騒ぐ声を耳にした。

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宗助は座に着くや否や、隣のへやで小さい夜具を干した人達の騒ぐ声を耳にした。

下女が茶を運ぶために襖を開けると、襖の影から大きな目が四つほど、すでに宗助を覗いていた。

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下女が茶を運ぶためにふすまを開けると、襖の影から大きな眼が四つほどすでに宗助をのぞいていた。

火鉢を持って出ると、そのあとからまた違った顔が見えた。

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火鉢を持って出ると、そのあとからまた違った顔が見えた。

初めてのせいか、襖の開け閉てのたびに出る顔がことごとく違っていて、子供の数が何人あるか分からないように思われた。

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始めてのせいか、襖の開閉あけたてのたびに出る顔がことごとく違っていて、子供の数が何人あるか分らないように思われた。

ようやく下女が下がりきりに下がると、今度は誰だか襖を一寸ほど細目に開けて、黒く光る目だけをその間から出した。

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ようやく下女が退がりきりに退がると、今度は誰だか唐紙からかみを一寸ほど細目に開けて、黒い光る眼だけをその間から出した。

宗助も面白くなって、黙って手招ぎをしてみた。

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宗助も面白くなって、黙って手招ぎをして見た。

すると襖をぴたりと閉めて、向こう側で三、四人が声を合わせて笑い出した。

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すると唐紙をぴたりとてて、向う側で三四人が声を合して笑い出した。

やがて一人の女の子が、

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やがて一人の女の子が、

「ねえ、お姉様、またいつものように叔母さんごっこしましょうよ」

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「よう、御姉様またいつものように叔母さんごっこしましょうよ」

と言い出した。

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と云い出した。

すると姉らしいのが、

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すると姉らしいのが、

「ええ、今日は西洋の叔母さんごっこよ。東作さんはお父さまだからパパで、雪子さんはお母さまだからママって言うのよ。いいこと」

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「ええ、今日は西洋の叔母さんごっこよ。東作さんは御父さまだからパパで、雪子さんは御母さまだからママって云うのよ。よくって」

と説明した。

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と説明した。

その時また別の声で、

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その時また別の声で、

「おかしいわね。ママだって」

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「おかしいわね。ママだって」

と言って嬉しそうに笑った者があった。

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と云ってうれしそうに笑ったものがあった。

「私、それでもいつもお祖母さまなのよ。お祖母さまの西洋の名がなくちゃいけないわねえ。お祖母さまは何て言うの」

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わたしそれでもいつも御祖母おばばさまなのよ。御祖母さまの西洋の名がなくっちゃいけないわねえ。御祖母さまは何て云うの」

と聞いた者もあった。

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と聞いたものもあった。

「お祖母さまは、やっぱりババでいいでしょう」

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「御祖母さまはやっぱりババでいいでしょう」

と姉がまた説明した。

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と姉がまた説明した。

それから当分の間は、御免くださいませ、だの、どちらからいらっしゃいました、だのと、盛んに挨拶の言葉が交わされていた。

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それから当分の間は、御免下さいましだの、どちらからいらっしゃいましたのとさかん挨拶あいさつの言葉が交換されていた。

その間には、ちりんちりんという電話の声色も交じった。

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その間にはちりんちりんと云う電話の仮色こわいろも交った。

すべてが宗助には陽気でめずらしく聞こえた。

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すべてが宗助には陽気で珍らしく聞えた。

そこへ奥の方から足音がして、主人がこちらへ出て来たらしかったが、次の間へ入るやいなや、

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そこへ奥の方から足音がして、主人がこっちへ出て来たらしかったが、次の間へ入るや否や、

「さあ、お前たちはここで騒ぐんじゃない。あっちへ行っておいで。お客さまだから」

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「さあ、御前達はここで騒ぐんじゃない。あっちへ行っておいで。御客さまだから」

と制した。

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と制した。

その時、誰だかすぐに、

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その時、誰だかすぐに、

「嫌だよ。お父っちゃん。大きいお馬買ってくれなくちゃ、あっちへ行かないよ」

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いやだよ。御父おとっちゃんべい。大きい御馬買ってくれなくっちゃ、あっちへ行かないよ」

と答えた。

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と答えた。

声は小さい男の子の声だった。

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声は小さい男の子の声であった。

年がいかないためか舌がよく回らないので、言い返すのがいかにも億劫で手間がかかった。

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年が行かないためか、舌がよく回らないので、抗弁のしようがいかにも億劫おっくうで手間がかかった。

宗助はそこをことに面白く思った。

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宗助はそこを特に面白く思った。

主人が席に着いて、長い間待たせた失礼を詫びている間に、子供は遠くへ行ってしまった。

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主人が席に着いて、長い間待たした失礼をびている間に、子供は遠くへ行ってしまった。

「たいへんお賑やかで結構です」

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「大変御賑おにぎやかで結構です」

と宗助が今自分の感じたとおりを述べると、主人はそれを世辞と受け取ったと見えて、

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と宗助が今自分の感じた通を述べると、主人はそれを愛嬌あいきょうと受取ったものと見えて、

「いや、ご覧のとおり乱雑な有り様で」

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「いや御覧のごとく乱雑な有様で」

と言い訳らしい返事をしたが、それをきっかけに、子供の世話が焼けて、おびただしく手がかかることなどをいろいろ宗助に話して聞かせた。

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と言訳らしい返事をしたが、それをいとくちに、子供の世話の焼けて、おびただしく手のかかる事などをいろいろ宗助に話して聞かした。

その中で、きれいな中国製の花籠の中に炭団をいっぱい盛って床の間に飾ったという滑稽と、主人の編み上げ靴の中へ水を汲み込んで金魚を放したという悪戯が、宗助にはたいへん耳新しかった。

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そのうち綺麗きれいな支那製の花籃はなかごのなかへ炭団たどんを一杯って床の間に飾ったと云う滑稽こっけいと、主人の編上の靴のなかへ水を汲み込んで、金魚を放したと云う悪戯いたずらが、宗助には大変耳新しかった。

しかし、女の子が多いので着る物に金がかかるとか、二週間も旅行して帰って来ると急にみんなの背が一寸ずつも伸びているので、何だか後ろから追いつかれるような心持ちがするとか、もう少しすると嫁入りの支度で忙殺されるばかりか、きっと貧乏に押し潰されるだろうとかいう話になると、子供のない宗助の耳にはそれほどの同情も起こせなかった。

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しかし、女の子が多いので服装に物がるとか、二週間も旅行して帰ってくると、急にみんなの背が一寸いっすんずつも伸びているので、何だかうしろから追いつかれるような心持がするとか、もう少しすると、嫁入の支度で忙殺ぼうさつされるのみならず、きっと貧殺ひんさつされるだろうとか云う話になると、子供のない宗助の耳にはそれほどの同情も起し得なかった。

かえって、主人が口では子供をうるさがる割に、少しもそれを苦にする様子が顔にも態度にも見えないのを羨ましく思った。

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かえって主人が口で子供を煩冗うるさがる割に、少しもそれを苦にする様子の、顔にも態度にも見えないのをうらやましく思った。

いい頃合いを見計らって、宗助は、先だって話のあった屏風をちょっと見せてもらえまいかと主人に申し出た。

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好い加減な頃を見計みはからって宗助は、せんだって話のあった屏風びょうぶをちょっと見せて貰えまいかと、主人に申し出た。

主人はさっそく引き受けて、ぱちぱちと手を鳴らして召使いを呼び、蔵の中にしまってあるのを取り出して来るように命じた。

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主人はさっそく引き受けて、ぱちぱちと手を鳴らして、召使を呼んだが、くらの中にしまってあるのを取り出して来るように命じた。

そうして宗助の方を向いて、

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そうして宗助の方を向いて、

「つい二、三日前までそこに立てておいたのですが、例の子供が面白半分にわざと屏風の陰へ集まっていろいろな悪戯をするものですから、傷でもつけられては大変だと思ってしまい込んでしまいました」

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「つい二三日前までそこへ立てておいたのですが、例の子供が面白半分にわざと屏風の影へ集まって、いろいろな悪戯をするものですから、傷でもつけられちゃ大変だと思ってしまい込んでしまいました」

と言った。

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と云った。

宗助は主人のこの言葉を聞いた時、今さら手数をかけて屏風を見せてもらうのが気の毒にもなり、また面倒にもなった。

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宗助は主人のこの言葉を聞いた時、今更手数てかずをかけて、屏風を見せて貰うのが、気の毒にもなり、また面倒にもなった。

実を言うと、彼の好奇心はそれほど強くなかったのである。

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実を云うと彼の好奇心は、それほど強くなかったのである。

なるほど、いったん他人の所有になったものは、たとえ元が自分のであったにしろ、なかったにしろ、そこを突き止めたところで実際には何の効果もない話に違いなかった。

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なるほどいったんひとの所有に帰したものは、たとい元が自分のであったにしろ、無かったにしろ、そこを突き留めたところで、実際上には何の効果もない話に違なかった。

けれども屏風は宗助の申し出たとおり、間もなく奥から縁伝いに運び出されて彼の目の前に現れた。

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けれども、屏風は宗助の申し出た通り、間もなく奥から縁伝いに運び出されて、彼の眼の前に現れた。

そうしてそれが、予想どおり、つい先ごろまで自分の座敷に立ててあった物だった。

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そうしてそれが予想通りついこの間まで自分の座敷に立ててあった物であった。

この事実を見つけた時、宗助の頭にはこれといって大した感動も起こらなかった。

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この事実を発見した時、宗助の頭には、これと云って大した感動も起らなかった。

ただ、自分が今座っている畳の色や、天井の柾目や、床の置物や、襖の模様などの中にこの屏風を立ててみて、それに召使いが二人がかりで蔵の中から大事そうに取り出して来たという所作を付け加えて考えると、自分が持っていた時よりは、たしかに十倍以上尊い品のように眺められただけだった。

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ただ自分が今坐っている畳の色や、天井の柾目まさめや、床の置物や、ふすまの模様などの中に、この屏風を立てて見て、それに、召使が二人がかりで、蔵の中から大事そうに取り出して来たと云う所作しょさを付け加えて考えると、自分が持っていた時よりは、たしかに十倍以上たっとい品のようにながめられただけであった。

彼は即座に言うべき言葉を見つけられなかったので、ただ、見慣れたものの上に、さらに新しくもない目を据えていた。

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彼は即座に云うべき言葉を見出し得なかったので、いたずらに、見慣れたものの上に、さらに新らしくもない眼をえていた。

主人は宗助をある程度の鑑賞家と誤解した。

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主人は宗助をもってある程度の鑑賞家と誤解した。

立ったまま屏風の縁に手を掛けて、宗助の顔と屏風の面とを見比べていたが、宗助が容易に批評を下さないので、

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立ちながら屏風のふちへ手を掛けて、宗助のおもてと屏風の面とを比較していたが、宗助が容易に批評を下さないので、

「これは素性の確かなものです。出どころが出どころですからね」

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「これは素性すじょうのたしかなものです。出が出ですからね」

と言った。

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と云った。

宗助は、ただ

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宗助は、ただ

「なるほど」

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「なるほど」

と言った。

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と云った。

主人はやがて宗助の後ろへ回って来て、指でそこここを指しながら品評やら説明やらをした。

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主人はやがて宗助の後へ回って来て、指でそこここをしながら、品評やら説明やらした。

その中には、さすがに大名だけあっていい絵の具を惜しげもなく使うのがこの画家の特色だから、色がいかにも見事である、というような、宗助には耳新しいけれど世間一般には知れ渡ったこともだいぶ交じっていた。

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そのうちには、さすが御大名だけあって、好い絵の具を惜気おしげもなく使うのがこの画家の特色だから、色がいかにもみごとであると云うような、宗助には耳新らしいけれども、普通一般に知れ渡った事もだいぶ交っていた。

宗助はいい頃合いを見計らって、丁寧に礼を述べて元の席に戻った。

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宗助は好い加減な頃を見計らって、丁寧ていねいに礼を述べて元の席に復した。

主人も布団の上に座り直した。

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主人も蒲団ふとんの上に直った。

そうして今度は、野路や空という題句やら書体やらについて語り出した。

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そうして、今度は野路のじや空云々という題句やら書体やらについて語り出した。

宗助から見ると、主人は書にも俳句にも多くの興味を持っていた。

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宗助から見ると、主人は書にも俳句にも多くの興味をっていた。

いつの間にこれほどの知識を頭の中へたくわえられるのかと思うくらい、すべてに心得のある男らしく思われた。

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いつの間にこれほどの知識を頭の中へたくわえ得らるるかと思うくらい、すべてに心得のある男らしく思われた。

宗助は自分を恥じて、なるべく口数を言わないようにして、ただ向こうの話だけに耳を貸すことに努めた。

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宗助はおのれを恥じて、なるべく物数ものかずを云わないようにして、ただ向うの話だけに耳を借す事をつとめた。

主人は客がこの方面の興味に乏しい様子を見て、再び話を絵の方へ戻した。

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主人は客がこの方面の興味に乏しい様子を見て、再び話をの方へ戻した。

ろくなものはないけれど、望みならば所蔵の画帖や掛け物を見せてもいいと親切に申し出た。

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ろくなものはないけれども、望ならば所蔵の画帖がじょうや幅物を見せてもいいと親切に申し出した。

宗助はせっかくの好意を辞退しないわけには行かなかった。

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宗助はせっかくの好意を辞退しない訳に行かなかった。

その代わりに、失礼ですがと前置きをして、主人がこの屏風を手に入れるのにどれほどの金額を払ったかを尋ねた。

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その代りに、失礼ですがと前置をして、主人がこの屏風を手に入れるについて、どれほどの金額を払ったかを尋ねた。

「まあ掘り出し物ですね。八十円で買いました」

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「まあ掘出し物ですね。八十円で買いました」

と主人はすぐ答えた。

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と主人はすぐ答えた。

宗助は主人の前に座って、この屏風に関するいっさいのことを打ち明けようか、しまいかと思案したが、ふと打ち明けるのも一興だろうと気づいて、とうとう、実はこれこれだ、と今までの顛末を詳しく話し出した。

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宗助は主人の前に坐って、この屏風に関するいっさいの事を自白しようか、しまいかと思案したが、ふと打ち明けるのも一興だろうと心づいて、とうとう実はこれこれだと、今までの顛末てんまつを詳しく話し出した。

主人は時々、へえ、へえ、と驚いたような言葉を挟んで聞いていたが、しまいに、

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主人は時々へえ、へえと驚ろいたような言葉をはさんで聞いていたが、しまいに、

「じゃ、あなたは特に書画が好きで見にいらしたわけでもないんですね」

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「じゃあなたは別に書画が好きで、見にいらしった訳でもないんですね」

と、自分の誤解を、いかにも面白い経験でもしたように笑い出した。

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と自分の誤解を、さも面白い経験でもしたように笑い出した。

同時に、そういうわけなら自分が直接に宗助から相応の値で譲ってもらえばよかった、惜しいことをした、と言った。

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同時に、そう云う訳なら、自分がじかに宗助から相当の値で譲って貰えばよかったに、惜しい事をしたと云った。

最後に横町の道具屋をひどく罵って、けしからん奴だと言った。

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最後に横町の道具屋をひどくののしって、しからんやつだと云った。

宗助と坂井とは、これからだいぶ親しくなった。

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宗助と坂井とはこれからだいぶ親しくなった。

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佐伯の叔母も安之助も、その後まるで宗助の家へは現れなかった。

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佐伯さえきの叔母も安之助やすのすけもその後とんと宗助そうすけうちへは見えなかった。

宗助はもとより麹町へ行く余暇を持たなかった。

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宗助はもとより麹町こうじまちへ行く余暇をたなかった。

またそれだけの興味もなかった。

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またそれだけの興味もなかった。

親類とは言いながら、別々の日が二人の家を照らしていた。

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親類とは云いながら、別々の日が二人の家を照らしていた。

ただ小六だけが時々話しに出かける様子だったが、これとても、そう足しげく運ぶわけでもないらしかった。

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ただ小六ころくだけが時々話しに出かける様子であったが、これとても、そう繁々しげしげ足を運ぶ訳でもないらしかった。

それに彼は帰って来て、叔母の家の様子をほとんど御米に語らないのを常としていた。

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それに彼は帰って来て、叔母の家の消息をほとんど御米およねに語らないのを常としておった。

御米はこれを、わざとする小六の仕打ちかとも疑った。

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御米はこれを故意こいから出る小六の仕打かともうたぐった。

しかし自分が佐伯に対して特別の利害を感じない以上、御米は叔母の動静を耳にしない方をかえって喜んだ。

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しかし自分が佐伯に対して特別の利害を感じない以上、御米は叔母の動静を耳にしない方を、かえって喜こんだ。

それでも時々は、先方の様子を小六と兄の対話から聞き込むこともあった。

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それでも時々は、先方さきの様子を、小六と兄の対話から聞き込む事もあった。

一週間ほど前に、小六は兄に、安之助がまた新発明の応用に苦心している話をした。

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一週間ほど前に、小六は兄に、安之助がまた新発明の応用に苦心している話をした。

それはインクの助けを借りずに鮮明な印刷物をこしらえるとかいう、ちょっと聞くとすこぶる重宝な器械についてだった。

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それは印気インキの助けを借らないで、鮮明な印刷物をこしらえるとか云う、ちょっと聞くとすこぶる重宝な器械についてであった。

話題の性質から言っても、自分とはまるで利害の関わりのない難しいことなので、御米は例のとおり黙って口を出さずにいたが、宗助は男だけにいくらか好奇心が動いたと見えて、どうしてインクを使わずに印刷ができるのか、などと問いただしていた。

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話題の性質から云っても、自分とは全く利害の交渉のないむずかしい事なので、御米は例の通り黙って口を出さずにいたが、宗助は男だけに幾分か好奇心が動いたと見えて、どうして印気を使わずに印刷ができるかなどと問いただしていた。

専門の知識のない小六が精密な返答をできるはずは、もちろんなかった。

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専門上の知識のない小六が、精密な返答をし得るはずは無論なかった。

彼はただ安之助から聞いたままを、覚えている限り念を入れて説明した。

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彼はただ安之助から聞いたままを、覚えている限り念を入れて説明した。

この印刷術は近ごろイギリスで発明されたもので、根本的にいえば、やはり電気の利用に過ぎなかった。

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この印刷術は近来英国で発明になったもので、根本的にいうとやはり電気の利用に過ぎなかった。

電気の一方の極を活字とつないでおいて、もう一方の極を紙に通じ、その紙を活字の上へ押しつけさえすればすぐできるのだと小六が言った。

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電気の一極を活字と結びつけておいて、他の一極を紙に通じて、その紙を活字の上へしつけさえすれば、すぐできるのだと小六が云った。

色は普通は黒だが、手加減しだいで赤にも青にもなるから、色刷りなどの場合には絵の具を乾かす時間が省けるだけでもたいへん重宝で、これを新聞に応用すれば、インクやインクローラーの費用を節約する上、全体として少なくとも従来の四分の一の手間がなくなる点から見ても、前途は非常に有望な事業である、と小六はまた安之助の話したとおりを繰り返した。

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色は普通黒であるが、手加減しだいで赤にも青にもなるから色刷などの場合には、絵の具を乾かす時間がはぶけるだけでも大変重宝で、これを新聞に応用すれば、印気インキや印気ロールのついえを節約する上に、全体から云って、少くとも従来の四分の一の手数がなくなる点から見ても、前途は非常に有望な事業であると、小六はまた安之助の話した通りを繰り返した。

そうして、その有望な前途を安之助がすでに手の中に握ったかのような口ぶりだった。

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そうしてその有望な前途を、安之助がすでに手のうちに握ったかのごとき口気こうきであった。

しかも、その望みの多い安之助の未来の中に、同じく望みの多い自分の影が含まれているように、目を輝かせた。

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かつその多望な安之助の未来のなかには、同じく多望な自分の影が、含まれているように、眼を輝やかした。

その時、宗助はいつもの調子で、むしろ穏やかに弟の言うことを聞いていたが、聞いてしまったあとでも、特にこれという目立った批評は加えなかった。

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その時宗助はいつもの調子で、むしろ穏やかに、弟の云う事を聞いていたが、聞いてしまったあとでも、別にこれという眼立った批評は加えなかった。

実際こんな発明は、宗助から見ると本当のようでもあり、また嘘のようでもあり、いよいよそれが世の中で行われるまでは賛成も反対もできかねたのである。

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実際こんな発明は、宗助から見ると、本当のようでもあり、また嘘のようでもあり、いよいよそれが世間に行われるまでは、賛成も反対もできかねたのである。

「じゃ、鰹船の方はもうやめたの」

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「じゃ鰹船かつおぶねの方はもう止したの」

と、今まで黙っていた御米が、この時初めて口を出した。

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と、今まで黙っていた御米が、この時始めて口を出した。

「やめたんじゃないんですが、あの方は費用がずいぶんかかるので、いくら便利でも、そう誰も彼もがこしらえるわけには行かないんだそうです」

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「止したんじゃないんですが、あの方は費用が随分かかるので、いくら便利でも、そう誰も彼もこしらえる訳に行かないんだそうです」

と小六が答えた。

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と小六が答えた。

小六はいくらか安之助の利害を代弁しているような口ぶりだった。

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小六は幾分か安之助の利害を代表しているような口振であった。

それから三人の間でしばらく話が交わされたが、しまいに、

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それから三人の間に、しばらく談話が交換されたが、しまいに、

「やっぱり何をしたって、そううまく行くものじゃあるまいよ」

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「やっぱり何をしたって、そううまく行くもんじゃあるまいよ」

と言った宗助の言葉と、

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と云った宗助の言葉と、

「坂井さんみたいに、お金があって遊んでいるのが一番いいわね」

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「坂井さんみたように、御金があって遊んでいるのが一番いいわね」

と言った御米の言葉を聞いて、小六はまた自分の部屋へ帰って行った。

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と云った御米の言葉を聞いて、小六はまた自分の部屋へ帰って行った。

こういう機会に佐伯の消息は折々夫婦の耳へ漏れることはあるが、そのほかには、まるで何をして暮らしているか、互いに知らずに過ごす月日が多かった。

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こう云う機会に、佐伯の消息は折々夫婦の耳へれる事はあるが、そのほかには、全く何をして暮らしているか、互に知らないで過す月日が多かった。

ある時、御米は宗助にこんな問いをかけた。

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ある時御米は宗助にこんな問を掛けた。

「小六さんは、安さんの所へ行くたびに小遣いでももらって来るんでしょうか」

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「小六さんは、安さんの所へ行くたんびに、小遣こづかいでももらって来るんでしょうか」

今まで小六についてそれほどの注意を払っていなかった宗助は、突然この問いに遭って、すぐ、「なぜ」

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今まで小六について、それほどの注意を払っていなかった宗助は、突然この問に逢って、すぐ、「なぜ」

と聞き返した。

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と聞き返した。

御米はしばらくためらった末、

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御米はしばらく逡巡ためらった末、

「だって、この頃よくお酒を飲んで帰って来ることがあるのよ」

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「だって、この頃よく御酒をんで帰って来る事があるのよ」

と注意した。

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と注意した。

「安さんが例の発明や金儲けの話をする時、その聞き賃におごるのかもしれない」

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「安さんが例の発明や、金儲かねもうけの話をするとき、その聞き賃におごるのかも知れない」

と言って、宗助は笑っていた。

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と云って宗助は笑っていた。

会話はそれきりで、つい発展せずに終わった。

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会話はそれなりでつい発展せずにしまった。

それから三日目の夕方に、小六はまた飯時を外して帰って来なかった。

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越えて三日目の夕方に、小六はまた飯時めしどきはずして帰って来なかった。

しばらく待ち合わせていたが、宗助はついに空腹だとか言い出して、ちょっと湯にでも行って時間を延ばしたら、という御米の小六に対する気兼ねに頓着なく、食事を始めた。

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しばらく待ち合せていたが、宗助はついに空腹だとか云い出して、ちょっと湯にでも行って時間を延ばしたらという御米の小六に対する気兼きがね頓着とんじゃくなく、食事を始めた。

その時、御米は夫に、

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その時御米は夫に、

「小六さんにお酒をやめるように、あなたから言ってはいけなくて」

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「小六さんに御酒をめるように、あなたから云っちゃいけなくって」

と切り出した。

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と切り出した。

「そんなに意見しなければならないほど飲むのか」

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「そんなに意見しなければならないほど飲むのか」

と宗助は少し意外な顔をした。

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と宗助は少し案外な顔をした。

御米は、それほどでもない、と弁護しなければならなかった。

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御米はそれほどでもないと、弁護しなければならなかった。

けれども実際は、誰もいない昼間などにあまり顔を赤くして帰って来られるのが不安だったのである。

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けれども実際は誰もいない昼間のうちなどに、あまり顔を赤くして帰って来られるのが、不安だったのである。

宗助はそれきり放っておいた。

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宗助はそれなり放っておいた。

しかし腹の中では、はたして御米の言うとおり、どこかで金を借りるかもらうかして、それほど好きでもないものをわざと飲むのではなかろうかと疑った。

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しかし腹の中では、はたして御米の云うごとく、どこかで金を借りるか、貰うかして、それほど好きもしないものを、わざと飲むのではなかろうかと疑ぐった。

そのうち年がだんだん押し詰まって、夜が世界の三分の二を占めるようになって来た。

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そのうち年がだんだん片寄って、夜が世界の三分の二をりょうするように押しつまって来た。

風が毎日吹いた。

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風が毎日吹いた。

その音を聞いているだけでも、暮らしに陰気な響きを与えた。

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その音を聞いているだけでも生活ライフに陰気な響を与えた。

小六はどうしても、六畳にこもって一日を送るのに耐えられなかった。

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小六はどうしても、六畳にこもって、一日を送るにえなかった。

落ち着いて考えれば考えるほど、頭が寂しくて、いたたまれなくなるばかりだった。

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落ちついて考えれば考えるほど、頭がさむしくって、いたたまれなくなるばかりであった。

茶の間へ出て兄嫁と話すのは、なお嫌だった。

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茶の間へ出てあによめと話すのはなおいやであった。

やむを得ず外へ出た。

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やむを得ず外へ出た。

そうして友達の家をぐるぐる回って歩いた。

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そうして友達のうちをぐるぐる回って歩いた。

友達も初めのうちは、いつもの小六に対するように、若い学生のしたがる面白い話をいくらでもした。

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友達も始のうちは、平生いつもの小六に対するように、若い学生のしたがる面白い話をいくらでもした。

けれども小六は、そういう話が尽きてもまだやって来た。

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けれども小六はそう云う話が尽きても、まだやって来た。

それでしまいには、友達が、小六は退屈のあまりに訪問をして、話の復習にふけるものだと評した。

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それでしまいには、友達が、小六は、退屈の余りに訪問をして、談話の復習にふけるものだと評した。

たまには学校の下読みやら研究やらに追われている多忙の身だという風も見せた。

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たまには学校の下読したよみやら研究やらに追われている多忙の身だと云う風もして見せた。

小六は、友達からそんなのんきな怠け者のように扱われるのをたいへん不愉快に感じた。

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小六は友達からそう呑気のんきな怠けもののように取り扱われるのを、大変不愉快に感じた。

けれども家に落ち着いては、読書も思索もまるでできなかった。

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けれども宅に落ちついては、読書も思索も、まるでできなかった。

要するに、彼くらいの年輩の青年が一人前の人間になる段階として修めるべきこと、努めるべきことには、内部の動揺やら外部の束縛やらで、いっさい手が着かなかったのである。

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要するに彼ぐらいの年輩の青年が、一人前の人間になる階梯かいていとして、おさむべき事、つとむべき事には、内部の動揺やら、外部の束縛やらで、いっさい手が着かなかったのである。

それでも冷たい雨が横に降ったり、雪解けの道がひどくぬかったりする時は、着物を濡らさなければならず、足袋の泥を乾かさなければならない面倒があるので、さすがの小六も時によっては外出を見合わせることがあった。

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それでも冷たい雨が横に降ったり、雪融ゆきどけの道がはげしくぬかったりする時は、着物をらさなければならず、足袋たびの泥を乾かさなければならない面倒があるので、いかな小六も時によると、外出を見合せる事があった。

そういう日には実際困り果てると見えて、時々六畳から出て来て、のそりと火鉢のそばへ座り、茶などを注いで飲んだ。

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そう云う日には、実際困却すると見えて、時々六畳から出て来て、のそりと火鉢のそばへ坐って、茶などをいで飲んだ。

そうしてそこに御米でもいれば、世間話の一つ二つはしないとも限らなかった。

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そうしてそこに御米でもいると、世間話の一つや二つはしないとも限らなかった。

「小六さん、お酒は好き」

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「小六さん御酒好き」

と御米が聞いたことがあった。

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と御米が聞いた事があった。

「もうすぐお正月ね。あなた、お雑煮はいくつ召し上がる」

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「もうじき御正月ね。あなた御雑煮おぞうにいくつ上がって」

と聞いたこともあった。

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と聞いた事もあった。

そういう機会が重なるにつれて、二人の間は少しずつ近づくことができた。

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そう云う場合が度重たびかさなるにれて、二人の間は少しずつ近寄る事ができた。

しまいには、姉さん、ちょっとここを縫ってください、と小六の方から進んで御米に物を頼むようになった。

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しまいには、姉さんちょっとここを縫って下さいと、小六の方から進んで、御米に物を頼むようになった。

そうして御米が絣の羽織を受け取って袖口のほころびを繕っている間、小六は何もせずにそこへ座って、御米の手先を見つめていた。

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そうして御米がかすりの羽織を受取って、袖口そでくちほころびつくろっている間、小六は何にもせずにそこへすわって、御米の手先を見つめていた。

これが夫なら、いつまでも黙って針を動かすのが御米の常だったが、相手が小六の時にはそう投げやりにできないのが、また御米の性分だった。

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これが夫だと、いつまでも黙って針を動かすのが、御米の例であったが、相手が小六の時には、そう投遣なげやりにできないのが、また御米の性質であった。

だからそんな時には努めて話をした。

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だからそんな時には力めても話をした。

話の題で、ともすると小六の口に宿りたがるものは、自分の未来をどうしたらいいだろうという心配だった。

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話の題目で、ややともすると小六の口に宿りたがるものは、彼の未来をどうしたら好かろうと云う心配であった。

「だって小六さんなんか、まだ若いじゃありませんか。何をしたってこれからだわ。そりゃ兄さんのことよ。そんなに悲観していいのは」

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「だって小六さんなんか、まだ若いじゃありませんか。何をしたってこれからだわ。そりゃ兄さんの事よ。そう悲観してもいいのは」

御米は二度ほど、こういう慰め方をした。

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御米は二度ばかりこういう慰め方をした。

三度目には、

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三度目には、

「来年になれば、安さんの方でどうか都合してあげるって請け合ってくださったんじゃなくて」

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「来年になれば、安さんの方でどうか都合して上げるって受合って下すったんじゃなくって」

と聞いた。

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と聞いた。

小六はその時、心もとない表情をして、

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小六はその時不慥ふたしかな表情をして、

「そりゃ安さんの計画が口で言うとおりうまく行けば訳はないんでしょうが、だんだん考えると、何だか少し当てにならないような気がし出してね。鰹船もあまり儲からないようだから」

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「そりゃ安さんの計画が、口でいう通りうまく行けば訳はないんでしょうが、だんだん考えると、何だか少し当にならないような気がし出してね。鰹船かつおぶねもあんまりもうからないようだから」

と言った。

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と云った。

御米は小六の憮然としている姿を見て、それを、時々酒気を帯びて帰って来る、どこか殺気を含んだ、しかも何が癪に障るのか訳が分からないでいて、はなはだ不平らしい小六と比べると、心の中で気の毒でもあり、またおかしくもあった。

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御米は小六の憮然ぶぜんとしている姿を見て、それを時々酒気を帯びて帰って来る、どこかに殺気さっきを含んだ、しかも何がしゃくさわるんだか訳が分らないでいてはなはだ不平らしい小六と比較すると、心のうちで気の毒にもあり、またおかしくもあった。

その時は、

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その時は、

「本当にね。兄さんにさえお金があれば、どうにでもしてあげることができるんだけれど」

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「本当にね。兄さんにさえ御金があると、どうでもして上げる事ができるんだけれども」

と、お世辞でも何でもない同情の意を表した。

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と、御世辞でも何でもない、同情の意を表した。

その夕暮れだったか、小六はまた寒い体を外套にくるんで出て行ったが、八時過ぎに帰って来て、兄夫婦の前で袂から白い細長い袋を出し、寒いから蕎麦がきをこしらえて食おうと思って佐伯へ行った帰りに買って来た、と言った。

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その夕暮であったか、小六はまた寒い身体からだ外套マントくるんで出て行ったが、八時過に帰って来て、兄夫婦の前で、たもとから白い細長い袋を出して、寒いから蕎麦掻そばがきこしらえて食おうと思って、佐伯へ行った帰りに買って来たと云った。

そうして御米が湯を沸かしているうちに、出汁をこしらえるとか言って、しきりに鰹節を削った。

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そうして御米が湯をかしているうちに、煮出しを拵えるとか云って、しきりに鰹節かつぶしいた。

その時、宗助夫婦は最近の消息として、安之助の結婚がとうとう春まで延びたことを聞いた。

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その時宗助夫婦は、最近の消息として、安之助の結婚がとうとう春まで延びた事を聞いた。

この縁談は安之助が学校を卒業すると間もなく起こったもので、小六が房州から帰って叔母に学資の打ち切りを告げられる時分には、もうだいぶ話が進んでいたのである。

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この縁談は安之助が学校を卒業すると間もなく起ったもので、小六が房州から帰って、叔母に学資の供給を断わられる時分には、もうだいぶ話が進んでいたのである。

正式の知らせが来ないので、いつまとまったのか宗助はまるで知らなかったが、ただ折々佐伯へ行っては何か聞いて来る小六を通してのみ、彼は年内に式を挙げるはずの新夫婦を思い描いた。

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正式の通知が来ないので、いつまとまったか、宗助はまるで知らなかったが、ただ折々佐伯へ行っては、何か聞いて来る小六を通じてのみ、彼は年内に式を挙げるはずの新夫婦を予想した。

そのほかには、嫁の実家がある会社員で裕福な暮らしをしていることと、その学校が女学館だということと、兄弟がたくさんいるということだけを、同じく小六を通して耳にした。

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その他には、嫁の里がある会社員で、有福な生計くらしをしている事と、その学校が女学館であるという事と、兄弟がたくさんあると云う事だけを、同じく小六を通じて耳にした。

写真にせよ顔を知っているのは小六ばかりだった。

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写真にせよ顔を知ってるのは小六ばかりであった。

「いい器量?」

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「好い器量?」

と御米が聞いたことがある。

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と御米が聞いた事がある。

「まあいい方でしょう」

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「まあ好い方でしょう」

と小六が答えたことがある。

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と小六が答えた事がある。

その晩は、なぜ暮れのうちに式を済まさないのかというのが、蕎麦がきのでき上がる間、三人の話題になった。

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その晩はなぜ暮のうちに式を済まさないかと云うのが、蕎麦掻のでき上る間、三人の話題になった。

御米は方角でも悪いのだろうと推し量った。

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御米は方位でも悪いのだろうと臆測おくそくした。

宗助は押し詰まって日がないからだろうと考えた。

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宗助は押しつまって日がないからだろうと考えた。

ただ小六だけが、

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ひとり小六だけが、

「やっぱり物質的な必要からのようです。先方が何でもよほど派手な家なので、叔母さんの方でもそう簡単に済ませられないんでしょう」

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「やっぱり物質的の必要かららしいです。先が何でもよほど派出はでうちなんで、叔母さんの方でもそう単簡たんかんに済まされないんでしょう」

と、いつにない所帯じみたことを言った。

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といつにない世帯染みた事を云った。

十一

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十一

御米がぶらぶらし出したのは、秋も半ば過ぎて紅葉が赤黒く縮れる頃だった。

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御米およねのぶらぶらし出したのは、秋もなかば過ぎて、紅葉もみじの赤黒くちぢれる頃であった。

京都にいた時分は別として、広島でも福岡でも、あまり健康な月日を送った経験のない御米は、この点にかけては、東京へ帰ってからもやはり幸せとは言えなかった。

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京都にいた時分は別として、広島でも福岡でも、あまり健康な月日を送った経験のない御米は、この点に掛けると、東京へ帰ってからも、やはり仕合せとは云えなかった。

この女には生まれ故郷の水が性に合わないのだろうと、疑おうと思えば疑えるくらい、御米は一時悩んだこともあった。

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この女には生れ故郷の水が、しょうに合わないのだろうと、疑ぐれば疑ぐられるくらい、御米は一時悩んだ事もあった。

近ごろはそれがだんだん落ち着いて来て、宗助が気を揉む場合も、年に幾度と数えられるくらい少なくなったから、宗助は役所の行き帰りに、御米はまた夫の留守の立ち居に、等しく安心して時間を過ごすことができたのである。

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近頃はそれがだんだん落ちついて来て、宗助そうすけの気を機会ばあいも、年に幾度と勘定かんじょうができるくらい少なくなったから、宗助は役所の出入でいりに、御米はまた夫の留守の立居たちいに、等しく安心して時間を過す事ができたのである。

だから今年の秋が暮れて、薄い霜を渡る風がつらく肌を吹く時分になり、また少し心持ちが悪くなり出しても、御米はそれほど苦にもならなかった。

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だからことしの秋が暮れて、薄いしもを渡る風が、つらく肌を吹く時分になって、また少し心持が悪くなり出しても、御米はそれほど苦にもならなかった。

初めのうちは宗助にさえ知らせなかった。

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始のうちは宗助にさえ知らせなかった。

宗助が見つけて医者に掛かれと勧めても、容易に掛からなかった。

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宗助が見つけて、医者に掛かれと勧めても、容易に掛からなかった。

そこへ小六が引っ越して来た。

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そこへ小六ころくが引越して来た。

宗助はその頃の御米を観察して、体質の状態やら精神の様子やら、夫だけによく知っていたから、なるべくは人数を増やして家の中をごたつかせたくないとは思ったが、事情やむを得ないので、成るがままにしておくよりほかに手段の講じようもなかった。

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宗助はその頃の御米を観察して、体質の状態やら、精神の模様やら、おっとだけによく知っていたから、なるべくは、人数ひとかずやしてうちの中を混雑ごたつかせたくないとは思ったが、事情やむを得ないので、成るがままにしておくよりほかに、手段の講じようもなかった。

ただ口の先で、なるべく安静にしていなくてはいけない、という矛盾した助言は与えた。

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ただ口の先で、なるべく安静にしていなくてはいけないと云う矛盾した助言は与えた。

御米は微笑して、

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御米は微笑して、

「大丈夫よ」

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「大丈夫よ」

と言った。

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と云った。

この答えを得た時、宗助はなおのこと安心ができなくなった。

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この答を得た時、宗助はなおの事安心ができなくなった。

ところが不思議にも、御米の気分は小六が引っ越して来てからずっと引き立った。

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ところが不思議にも、御米の気分は、小六が引越して来てから、ずっと引立った。

自分に責任が少しでも加わったため心が張ったと見えて、かえって普段より甲斐甲斐しく夫や小六の世話をした。

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自分に責任の少しでも加わったため、心が緊張したものと見えて、かえって平生よりは、かいがいしく夫や小六の世話をした。

小六にはそれがまるで通じなかったが、宗助から見ると、御米が今までよりどれほど努めているかがよく分かった。

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小六にはそれがまるで通じなかったが、宗助から見ると、御米が在来よりどれほどつとめているかがよく解った。

宗助は心の中で、このまめやかな細君に新しい感謝の念を抱くと同時に、こう気を張り過ぎた結果が一度に体に障るような騒ぎでも引き起こしてくれなければいいが、と心配した。

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宗助は心のうちで、このまめやかな細君に新らしい感謝の念をいだくと同時に、こう気を張り過ぎる結果が、一度に身体からださわるような騒ぎでも引き起してくれなければいいがと心配した。

不幸にも、この心配が暮れの二十日過ぎになって突然事実になりかけたので、宗助は予期していた恐れに火が点いたようにひどく狼狽した。

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不幸にも、この心配が暮の二十日過はつかすぎになって、突然事実になりかけたので、宗助は予期の恐怖に火がいたように、いたく狼狽ろうばいした。

その日は、はっきり土に映らない空が朝から重なり合って、重い寒さが一日じゅう人の頭を押さえつけていた。

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その日は判然はっきり土に映らない空が、朝から重なり合って、重い寒さが終日人の頭をおさえつけていた。

御米は前の晩にまた寝られず、休ませそこなった頭を抱えながら辛抱して働き出したが、立ったり動いたりするたびに多少脳に応える苦痛はあっても、比較的明るい外の刺激に紛れたためか、じっと寝ていながら頭だけが冴えて痛むよりは、かえって凌ぎやすかった。

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御米は前の晩にまた寝られないで、休ませそくなった頭を抱えながら、辛抱して働らき出したが、ったり動いたりするたびに、多少脳にこたえる苦痛はあっても、比較的明るい外界の刺戟しげきまぎれたためか、じっと寝ていながら、頭だけがえて痛むよりは、かえってしのぎやすかった。

そうこうして夫を送り出すまでは、しばらくすればまたいつものように折り合って来ることと思って我慢していた。

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とかくして夫を送り出すまでは、しばらくしたらまたいつものように折り合って来る事と思って我慢していた。

ところが宗助がいなくなって、自分の務めに一区切りついたという気の緩みが出ると同時に、濁った天気がそろそろ御米の頭を攻め始めた。

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ところが宗助がいなくなって、自分の義務に一段落が着いたという気のゆるみが出ると等しく、濁った天気がそろそろ御米の頭を攻め始めた。

空を見ると凍っているようだし、家の中にいると陰気な障子の紙を通して寒さが浸み込んで来るかと思われるくらいなのに、御米の頭はしきりにほてって来た。

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空を見るとこおっているようであるし、うちの中にいると、陰気な障子しょうじの紙をとおして、寒さがみ込んで来るかと思われるくらいだのに、御米の頭はしきりにほてって来た。

仕方がないので、今朝上げた布団をまた出して来て、座敷へ延べたまま横になった。

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仕方がないから、今朝あげた蒲団ふとんをまた出して来て、座敷へ延べたまま横になった。

それでも耐えられないので、清に濡れ手拭いを絞らせて頭へ乗せた。

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それでもえられないので、清に濡手拭ぬれてぬぐいしぼらして頭へ乗せた。

それがすぐ生ぬるくなるので、枕もとに金だらいを取り寄せて時々絞り替えた。

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それがじき生温なまぬるくなるので、枕元に金盥かなだらいを取り寄せて時々しぼえた。

昼までこんな間に合わせのやり方で絶えず額を冷やしてみたが、まるではかばかしい効き目もないので、御米は小六のためにわざわざ起きていっしょに食事をする根気もなかった。

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ひるまでこんな姑息手段こそくしゅだんで断えず額を冷やして見たが、いっこうはかばかしいげんもないので、御米は小六のために、わざわざ起きて、いっしょに食事をする根気もなかった。

清に言いつけて膳立てをさせ、それを小六に勧めさせたまま、自分はやはり床を離れずにいた。

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きよにいいつけて膳立ぜんだてをさせて、それを小六にすすめさしたまま、自分はやはり床を離れずにいた。

そうして、普段夫が使う柔らかいくくり枕を持って来てもらって、堅いのと取り替えた。

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そうして、平生夫のするやわらかい括枕くくりまくらを持って来て貰って、堅いのと取り替えた。

御米は、髪が崩れるのを女らしく気にする勇気さえ乏しかったのである。

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御米は髪のこわれるのを、女らしく苦にする勇気にさえ乏しかったのである。

小六は六畳から出て来て、ちょっと襖を開けて御米の姿を覗き込んだが、御米が半ば床の間の方を向いて目を閉じていたので、寝ついたとでも思ったのか、一言も口をきかずにまたそっと襖を閉めた。

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小六は六畳から出て来て、ちょっとふすまを開けて、御米の姿をのぞき込んだが、御米がなかば床の間の方を向いて、眼をふさいでいたので、寝ついたとでも思ったものか、一言ひとことの口もかずに、またそっと襖を閉めた。

そうして、たった一人で大きな食卓を独り占めにし、初めからさらさらと茶漬けをかき込む音をさせた。

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そうして、たった一人大きな食卓を専領して、始めからさらさらと茶漬をき込む音をさせた。

二時頃になって、御米はやっとのことでとろとろと眠ったが、目が覚めたら額に巻いた濡れ手拭いがほとんど乾くくらい暖かくなっていた。

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二時頃になって、御米はやっとの事、とろとろと眠ったが、眼がめたら額をいた濡れ手拭がほとんど乾くくらい暖かになっていた。

その代わり、頭の方は少し楽になった。

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その代り頭の方は少し楽になった。

ただ肩から背筋にかけて、全体に重苦しいような感じが新しく加わった。

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ただ肩から背筋せすじへ掛けて、全体に重苦しいような感じが新らしく加わった。

御米は、何でも精をつけなくては毒だという考えから、一人で起きて遅い昼飯を軽く食べた。

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御米は何でも精をつけなくては毒だという考から、一人で起きて遅い午飯ひるはんを軽く食べた。

「ご気分はいかがでございます」

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「御気分はいかがでございます」

と清が給仕をしながらしきりに聞いた。

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と清が御給仕をしながら、しきりに聞いた。

御米はだいぶよくなったようだったので、床を上げてもらい、火鉢に寄りかかったまま宗助の帰りを待ち受けた。

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御米はだいぶいいようだったので、床を上げて貰って、火鉢にったなり、宗助の帰りを待ち受けた。

宗助はいつもの時刻に帰って来た。

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宗助は例刻に帰って来た。

神田の通りで軒並みに旗を立ててもう暮れの売り出しを始めていることや、勧工場で紅白の幕を張って楽隊に景気をつけさせていることなどを話した末、

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神田の通りで、門並かどなみ旗を立てて、もう暮の売出しを始めた事だの、勧工場かんこうばで紅白の幕を張って楽隊に景気をつけさしている事だのを話した末、

「賑やかだよ。ちょっと行ってご覧。なに、電車に乗って行けば訳はない」

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にぎやかだよ。ちょっと行って御覧。なに電車に乗って行けば訳はない」

と勧めた。

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と勧めた。

そうして自分は、寒さに蝕まれたように赤い顔をしていた。

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そうして自分は寒さに腐蝕ふしょくされたように赤い顔をしていた。

御米はこう宗助にいたわられた時、何だか自分の体の悪いことを訴えるに忍びない心持ちがした。

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御米はこう宗助からいたわられた時、何だか自分の身体の悪い事を訴たえるに忍びない心持がした。

実際、またそれほど苦しくもなかった。

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実際またそれほど苦しくもなかった。

それでいつものとおり何気ない顔をして、夫に着物を着替えさせたり洋服を畳んだりして夜に入った。

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それでいつもの通り何気なにげない顔をして、夫に着物を着換えさしたり、洋服を畳んだりしてった。

ところが九時近くになって、突然宗助に向かって、少し加減が悪いから先に寝たいと言い出した。

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ところが九時近くになって、突然宗助に向って、少し加減が悪いから先へ寝たいと云い出した。

今まで普段どおり機嫌よく話していただけに、宗助はこの言葉を聞いてちょっと驚いたが、大したことではないという御米の言葉にようやく安心して、すぐ休む支度をさせた。

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今まで平生の通り機嫌よく話していただけに、宗助はこの言葉を聞いてちょっと驚ろいたが、大した事でもないと云う御米の保証に、ようやく安心してすぐ休む支度をさせた。

御米が床に入ってから約二十分ほどの間、宗助は耳のそばに鉄瓶の音を聞きながら、静かな夜を丸芯のランプに照らしていた。

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御米がとこ這入はいってから、約二十分ばかりの間、宗助は耳のはた鉄瓶てつびんの音を聞きながら、静な夜を丸心まるじん洋灯ランプに照らしていた。

彼は来年度に一般官吏の増俸の沙汰があるという評判を思い浮かべた。

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彼は来年度に一般官吏に増俸の沙汰さたがあるという評判を思い浮べた。

またその前に改革か人員整理が行われるに違いないという噂に思い及んだ。

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またその前に改革か淘汰とうたが行われるに違ないという噂に思い及んだ。

そうして自分はどちらの方へ入れられるのだろうと疑った。

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そうして自分はどっちの方へ編入されるのだろうと疑った。

彼は、自分を東京へ呼んでくれた杉原が今もなお課長として本省にいないのを残念に思った。

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彼は自分を東京へ呼んでくれた杉原が、今もなお課長として本省にいないのを遺憾いかんとした。

彼は東京へ移ってから、不思議とまだ病気をしたことがなかった。

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彼は東京へ移ってから不思議とまだ病気をした事がなかった。

したがって、まだ欠勤届を出したことがなかった。

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したがってまだ欠勤届を出した事がなかった。

学校を中途でやめたきり本はほとんど読まないのだから学問は人並みにできないが、役所でやる仕事に差し支えるほどの頭ではなかった。

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学校を中途でやめたなり、本はほとんど読まないのだから、学問は人並にできないが、役所でやる仕事に差支さしつかえるほどの頭脳ではなかった。

彼はいろいろな事情を突き合わせて考えた上、まあ大丈夫だろうと腹の中で決めた。

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彼はいろいろな事情を綜合そうごうして考えた上、まあ大丈夫だろうと腹の中できめた。

そうして爪の先で軽く鉄瓶の縁を叩いた。

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そうして爪の先で軽く鉄瓶のふちたたいた。

その時、座敷で、

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その時座敷で、

「あなた、ちょっと」

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「あなたちょっと」

という御米の苦しそうな声が聞こえたので、われ知らず立ち上がった。

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と云う御米の苦しそうな声が聞えたので、我知らず立ち上がった。

座敷へ来てみると、御米は眉を寄せて、右の手で自分の肩を押さえながら、胸まで布団の外へ乗り出していた。

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座敷へ来て見ると、御米はまゆを寄せて、右の手で自分の肩をおさえながら、胸まで蒲団ふとんの外へ乗り出していた。

宗助はほとんど機械的に、同じ所へ手を出した。

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宗助はほとんど器械的に、同じ所へ手を出した。

そうして御米が押さえている上から、固く骨の角をつかんだ。

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そうして御米の抑えている上から、固く骨のかどつかんだ。

「もう少し後ろの方」

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「もう少しうしろの方」

と御米が訴えるように言った。

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と御米が訴えるように云った。

宗助の手が御米の思う所に落ち着くまでには、二度も三度もそこここと位置を変えなければならなかった。

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宗助の手が御米の思う所へ落ちつくまでには、二度も三度もそこここと位置をえなければならなかった。

指で押してみると、首と肩の継ぎ目の少し背中へ寄った部分が石のように凝っていた。

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指でしてみると、くびと肩の継目の少し背中へ寄った局部が、石のようにっていた。

御米は、男の力いっぱいにそれを押さえてくれと頼んだ。

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御米は男の力いっぱいにそれを抑えてくれと頼んだ。

宗助の額からは汗がにじみ出した。

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宗助の額からは汗が煮染にじみ出した。

それでも御米が満足するほどは力が出なかった。

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それでも御米の満足するほどは力が出なかった。

宗助は昔の言葉で早打ち肩というのを覚えていた。

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宗助は昔の言葉で早打肩はやうちかたというのを覚えていた。

小さい時に祖父から聞いた話に、ある侍が馬に乗ってどこかへ行く途中、急にこの早打ち肩に襲われたので、すぐ馬から飛び下りてたちまち小柄を抜くやいなや肩先を切って血を出したため、危うい命を取り留めた、というのがあったが、その話が今、はっきりと記憶の焦点に浮かんで出た。

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小さい時祖父じじいから聞いた話に、あるさむらいが馬に乗ってどこかへ行く途中で、急にこの早打肩はやうちかたおかされたので、すぐ馬から飛んで下りて、たちまち小柄こづかを抜くやいなや、肩先を切って血を出したため、危うい命を取り留めたというのがあったが、その話が今明らかに記憶の焼点しょうてんに浮んで出た。

その時、宗助はこれはいけないと思った。

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その時宗助はこれはならんと思った。

けれども、はたして刃物を使って肩の肉を突いていいものやら悪いものやら、決めかねた。

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けれどもはたして刃物を用いて、肩の肉を突いていいものやら、悪いものやら、決しかねた。

御米はいつになくのぼせて、耳まで赤くしていた。

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御米はいつになく逆上のぼせて、耳まで赤くしていた。

頭が熱いかと聞くと、苦しそうに熱いと答えた。

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頭が熱いかと聞くと苦しそうに熱いと答えた。

宗助は大きな声を出して、清に氷嚢へ冷たい水を入れて来いと命じた。

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宗助は大きな声を出して清に氷嚢こおりぶくろへ冷たい水を入れて来いと命じた。

氷嚢があいにくなかったので、清は朝と同じように金だらいに手拭いを浸して持って来た。

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氷嚢があいにく無かったので、清は朝の通り金盥かなだらい手拭てぬぐいけて持って来た。

清が頭を冷やしている間、宗助はやはり精いっぱい肩を押さえていた。

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清が頭を冷やしているうち、宗助はやはり精いっぱい肩を抑えていた。

時々、少しはいいかと聞いても、御米はかすかに苦しいと答えるだけだった。

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時々少しはいいかと聞いても、御米はかすかに苦しいと答えるだけであった。

宗助はまったく心細くなった。

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宗助は全く心細くなった。

思い切って自分で駆け出して医者を迎えに行こうとしたが、あとが心配で一足も表へ出る気にはなれなかった。

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思い切って、自分でけ出して医者をむかいに行こうとしたが、あとが心配で一足も表へ出る気にはなれなかった。

「清、お前、急いで通りへ行って氷嚢を買って医者を呼んで来い。まだ早いから起きているだろう」

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「清、御前急いで通りへ行って、氷嚢を買って医者を呼んで来い。まだ早いから起きてるだろう」

清はすぐ立って茶の間の時計を見て、

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清はすぐ立って茶の間の時計を見て、

「九時十五分でございます」

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「九時十五分でございます」

と言いながら、そのまま勝手口へ回ってごそごそ下駄を探しているところへ、うまい具合に外から小六が帰って来た。

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と云いながら、それなり勝手口へ回って、ごそごそ下駄をさがしているところへ、うまい具合に外から小六が帰って来た。

例のとおり兄には挨拶もせずに自分の部屋へ入ろうとするのを、宗助は、おい、小六、と激しく呼び止めた。

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例の通り兄には挨拶あいさつもしないで、自分の部屋へ這入はいろうとするのを、宗助はおい小六とはげしく呼び止めた。

小六は茶の間で少しためらっていたが、兄からまた二声ほど続けざまに大きな声を掛けられたので、やむを得ず低い返事をして襖から顔を出した。

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小六は茶の間で少し躊躇ちゅうちょしていたが、兄からまた二声ほど続けざまに大きな声を掛けられたので、やむを得ず低い返事をして、ふすまから顔を出した。

その顔は、酒気のまだ醒めない赤い色を目の縁に帯びていた。

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その顔は酒気しゅきのまだめない赤い色を眼のふちに帯びていた。

部屋の中を覗き込んで、初めてびっくりした様子で、

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部屋の中をのぞき込んで、始めて吃驚びっくりした様子で、

「どうかなさったんですか」

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「どうかなすったんですか」

と、酔いが一度に去ったような表情をした。

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よいが一時に去ったような表情をした。

宗助は清に命じたとおりを小六に繰り返して、早くしてくれと急き立てた。

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宗助は清に命じた通りを、小六に繰り返して、早くしてくれとき立てた。

小六は外套も脱がずに、すぐ玄関へ取って返した。

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小六は外套マントがずに、すぐ玄関へ取って返した。

「兄さん、医者まで行くのは急いでも時間がかかりますから、坂井さんの電話を借りてすぐ来るように頼みましょう」

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「兄さん、医者まで行くのは急いでも時間が掛かりますから、坂井さんの電話を借りて、すぐ来るように頼みましょう」

「ああ。そうしてくれ」

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「ああ。そうしてくれ」

と宗助は答えた。

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と宗助は答えた。

そうして小六が帰るまでの間、清に何度となく金だらいの水を替えさせては、一生懸命に御米の肩を押しつけたり揉んだりしてみた。

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そうして小六の帰る間、清に何返なんべんとなく金盥の水をえさしては、一生懸命に御米の肩をしつけたり、んだりしてみた。

御米が苦しむのを何もせずにただ見ているのに耐えられなかったから、こうして自分の気を紛らわしていたのである。

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御米の苦しむのを、何もせずにただ見ているにえなかったから、こうして自分の気をまぎらしていたのである。

この時の宗助にとって、医者の来るのを今か今かと待ち受ける心ほどつらいものはなかった。

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この時の宗助に取って、医者の来るのを今か今かと待ち受ける心ほどつらいものはなかった。

彼は御米の肩を揉みながらも、絶えず表の物音に気を配った。

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彼は御米の肩を揉みながらも、絶えず表の物音に気を配った。

ようやく医者が来た時は、初めて夜が明けたような心持ちがした。

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ようやく医者が来たときは、始めて夜が明けたような心持がした。

医者は商売柄だけあって、少しも慌てた様子を見せなかった。

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医者は商売柄だけあって、少しも狼狽うろたえた様子を見せなかった。

小さい折り鞄を脇に引き寄せて、落ち着き払った態度で、慢性病の患者でも扱うようにゆっくりした診察をした。

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小さい折鞄おりかばんを脇に引き付けて、落ちつき払った態度で、慢性病の患者でも取り扱うようにゆっくりした診察をした。

その落ち着いた顔色をそばで見ていたせいか、わくわくしていた宗助の胸もようやく治まった。

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そのせまらない顔色をはたで見ていたせいか、わくわくした宗助の胸もようやくおさまった。

医者は、芥子を患部に貼ることと、足を湿布で温めることと、それから頭を氷で冷やすこととを、応急手当として宗助に指示した。

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医者は芥子からしを局部へる事と、足を湿布しっぷで温める事と、それから頭を氷で冷す事とを、応急手段として宗助に注意した。

そうして自分で芥子を練って、御米の肩から首の根へ貼りつけてくれた。

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そうして自分で芥子をいて、御米の肩からくびの根へ貼りつけてくれた。

湿布は清と小六とで受け持った。

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湿布は清と小六とで受持った。

宗助は手拭いの上から氷嚢を額の上に当てがった。

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宗助は手拭てぬぐいの上から氷嚢こおりぶくろを額の上に当てがった。

そうこうするうち、約一時間も経った。

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とかくするうち約一時間も経った。

医者はしばらく経過を見て行こうと言って、それまで御米の枕もとに座っていた。

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医者はしばらく経過を見て行こうと云って、それまで御米の枕元にすわっていた。

世間話も折々は交えたが、おおかたは無言のまま、二人とも御米の容態を見守ることが多かった。

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世間話も折々はまじえたが、おおかたは無言のまま二人共に御米の容体を見守る事が多かった。

夜は例のごとく静かに更けた。

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は例のごとくしずかけた。

「だいぶ冷えますな」

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「だいぶ冷えますな」

と医者が言った。

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と医者が云った。

宗助は気の毒になったので、あとの注意をよく聞いた上、遠慮なく引き取ってくれるようにと頼んだ。

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宗助は気の毒になったので、あとの注意をよく聞いた上、遠慮なく引き取ってくれるようにと頼んだ。

その時、御米はさきほどよりだいぶ軽くなっていたからである。

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その時御米は先刻さっきよりはだいぶ軽快になっていたからである。

「もう大丈夫でしょう。頓服を一回差し上げますから、今夜飲んでご覧なさい。たぶん寝られるだろうと思います」

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「もう大丈夫でしょう。頓服とんぷくを一回上げますから今夜飲んで御覧なさい。多分寝られるだろうと思います」

と言って医者は帰った。

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と云って医者は帰った。

小六はすぐそのあとを追って出て行った。

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小六はすぐそのあとを追って出て行った。

小六が薬を取りに行っている間に、御米は

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小六が薬取に行った間に、御米は

「もう何時」

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「もう何時」

と言いながら、枕もとの宗助を見上げた。

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と云いながら、枕元の宗助を見上げた。

宵とは違って頬から血が引いて、ランプに照らされた所がことに青白く映った。

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よいとは違って頬から血が退いて、洋灯ランプに照らされた所が、ことに蒼白あおじろく映った。

宗助は黒い毛が乱れたせいだろうと思って、わざわざ鬢の毛を掻き上げてやった。

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宗助は黒い毛の乱れたせいだろうと思って、わざわざびんの毛を掻き上げてやった。

そうして、

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そうして、

「少しはいいだろう」

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「少しはいいだろう」

と聞いた。

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と聞いた。

「ええ、よほど楽になったわ」

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「ええよっぽど楽になったわ」

と御米はいつものとおり微笑を漏らした。

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と御米はいつもの通り微笑をらした。

御米はたいてい苦しい場合でも、宗助に微笑を見せることを忘れなかった。

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御米は大抵苦しい場合でも、宗助に微笑を見せる事を忘れなかった。

茶の間では、清が突っ伏したままいびきをかいていた。

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茶の間では、清が突伏したままいびきをかいていた。

「清を寝かせてやってください」

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「清を寝かしてやって下さい」

と御米が宗助に頼んだ。

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と御米が宗助に頼んだ。

小六が薬を取って帰って来て、医者の言いつけどおり服薬を済ませたのは、もうかれこれ十二時近くだった。

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小六が薬取りから帰って来て、医者の云いつけ通り服薬を済ましたのは、もうかれこれ十二時近くであった。

それから二十分と経たないうちに、病人はすやすやと寝入った。

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それから二十分と経たないうちに、病人はすやすや寝入った。

「いい具合だ」

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「好い塩梅あんばいだ」

と宗助が御米の顔を見ながら言った。

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と宗助が御米の顔を見ながら云った。

小六もしばらく兄嫁の様子を見守っていたが、

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小六もしばらくあによめの様子を見守っていたが、

「もう大丈夫でしょう」

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「もう大丈夫でしょう」

と答えた。

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と答えた。

二人は氷嚢を額から下ろした。

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二人は氷嚢を額からおろした。

やがて小六は自分の部屋へ入る。

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やがて小六は自分の部屋へ這入はいる。

宗助は御米のそばへ床を延べて、いつものように寝た。

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宗助は御米のそばへ床を延べていつものごとく寝た。

五、六時間ののち、冬の夜は錐のような霜を挟んでからりと明け渡った。

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五六時間ののち冬の夜はきりのようなしもさしはさんで、からりと明け渡った。

それから一時間すると、大地を染める太陽が、遮るもののない青空に憚りなく上った。

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それから一時間すると、大地を染める太陽が、さえぎるもののない蒼空あおぞらはばかりなくのぼった。

御米はまだすやすや寝ていた。

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御米はまだすやすや寝ていた。

そのうち朝食も済んで、出勤の時刻がようやく近づいた。

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そのうち朝餉あさげも済んで、出勤の時刻がようやく近づいた。

けれども御米は眠りから覚める気配もなかった。

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けれども御米は眠りからめる気色けしきもなかった。

宗助は枕もとにかがんで深い寝息を聞きながら、役所へ行こうか休もうかと考えた。

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宗助は枕辺まくらべこごんで、深い寝息を聞きながら、役所へ行こうか休もうかと考えた。

十二

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十二

朝のうちは役所でいつものように事務を執っていたが、折々昨夜の光景が目に浮かぶにつれて、自然と御米の病気が気にかかるので、仕事は思うように運ばなかった。

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朝の内は役所で常のごとく事務をっていたが、折々昨夕ゆうべの光景が眼に浮ぶに連れて、自然御米およねの病気が気にかかるので、仕事は思うように運ばなかった。

時には変な間違いさえした。

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時には変な間違をさえした。

宗助は昼になるのを待って、思い切って家へ帰って来た。

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宗助そうすけひるになるのを待って、思い切ってうちへ帰って来た。

電車の中では、御米の目はいつ頃覚めただろう、覚めたあとは心持ちがだいぶよくなっただろう、発作ももう起こる気遣いはなかろうと、すべて悪くない想像ばかりを思い浮かべた。

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電車の中では、御米の眼がいつ頃めたろう、覚めた後は心持がだいぶ好くなったろう、発作ほっさももう起る気遣きづかいなかろうと、すべて悪くない想像ばかり思い浮べた。

いつもと違って乗客の非常に少ない時間に乗り合わせたので、宗助は周りの刺激に気を使う必要がほとんどなかった。

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いつもと違って、乗客の非常に少ない時間に乗り合わせたので、宗助は周囲の刺戟しげきに気を使う必要がほとんどなかった。

それで自由に頭の中へ現れる絵を何枚となく眺めた。

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それで自由に頭の中へ現われる画を何枚となくながめた。

そのうちに、電車は終点に来た。

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そのうちに、電車は終点に来た。

家の門口まで来ると、家の中はひっそりして誰もいないようだった。

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宅の門口かどぐちまで来ると、家の中はひっそりして、誰もいないようであった。

格子を開けて靴を脱ぎ、玄関に上がっても、出て来る者はなかった。

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格子こうしを開けて、靴を脱いで、玄関に上がっても、出て来るものはなかった。

宗助はいつものように縁側から茶の間へ行かず、すぐ手前の襖を開けて御米の寝ている座敷へ入った。

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宗助はいつものように縁側えんがわから茶の間へ行かずに、すぐ取付とっつきふすまを開けて、御米の寝ている座敷へ這入はいった。

見ると、御米は相変わらず寝ていた。

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見ると、御米は依然として寝ていた。

枕もとの朱塗りの盆に粉薬の袋とコップが載っていて、そのコップの水が半分残っているところも朝と同じだった。

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枕元の朱塗の盆に散薬さんやくの袋と洋杯がっていて、その洋杯コップの水が半分残っているところも朝と同じであった。

頭を床の間の方へ向けて、左の頬と芥子を貼った襟もとが少し見えるところも朝と同じだった。

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頭を床の間の方へ向けて、左の頬と芥子からしを貼った襟元えりもとが少し見えるところも朝と同じであった。

息よりほかに現実の世界と行き来のないように思われる深い眠りも、朝見たとおりだった。

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呼息いきよりほかに現実世界と交通のないように思われる深いねむりも朝見た通りであった。

すべてが今朝出がけに頭の中へ収めて行った光景と少しも変わっていなかった。

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すべてが今朝出掛に頭の中へ収めて行った光景と少しも変っていなかった。

宗助は外套も脱がずに上からかがんで、すうすういう御米の寝息をしばらく聞いていた。

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宗助は外套マントも脱がずに、上からこごんで、すうすういう御米の寝息をしばらく聞いていた。

御米は容易に覚めそうにも見えなかった。

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御米は容易に覚めそうにも見えなかった。

宗助は昨夜御米が粉薬を飲んでからの時間を指を折って数えた。

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宗助は昨夕ゆうべ御米が散薬を飲んでから以後の時間を指を折って勘定した。

そうしてようやく不安の色を顔に表した。

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そうしてようやく不安の色をおもてに表わした。

昨夜までは寝られないのが心配だったが、こう前後不覚に長く寝るところを目の当たりに見ると、寝る方が何かの異状ではないかと考え出した。

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昨夕までは寝られないのが心配になったが、こう前後不覚に長く寝るところをのあたりに見ると、寝る方が何かの異状ではないかと考え出した。

宗助は布団に手を掛けて、二、三度軽く御米を揺すぶった。

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宗助は蒲団ふとんへ手を掛けて二三度軽く御米を揺振ゆすぶった。

御米の髪がくくり枕の上で波を打つように動いたが、御米は相変わらずすうすう寝ていた。

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御米の髪が括枕くくりまくらの上で、波を打つように動いたが、御米は依然としてすうすう寝ていた。

宗助は御米を置いて、茶の間から台所へ出た。

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宗助は御米を置いて、茶の間から台所へ出た。

流しもとの小桶の中に、茶碗と塗り椀が洗わないまま浸けてあった。

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流し元の小桶こおけの中に茶碗と塗椀が洗わないままけてあった。

下女部屋を覗くと、清が自分の前に小さな膳を控えたまま、お櫃に寄りかかって突っ伏していた。

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下女部屋をのぞくと、きよが自分の前に小さなぜんを控えたなり、御櫃おはちりかかって突伏していた。

宗助はまた六畳の戸を引いて首を差し込んだ。

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宗助はまた六畳の戸を引いて首を差し込んだ。

そこには小六が掛け布団を一枚頭からかぶって寝ていた。

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そこには小六ころくが掛蒲団を一枚頭から引被って寝ていた。

宗助は一人で着物を着替えたが、脱ぎ捨てた洋服も人手を借りずに自分で畳んで押し入れにしまった。

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宗助は一人で着物を着換えたが、脱ぎ捨てた洋服も、人手を借りずに自分で畳んで、押入にしまった。

それから火鉢へ火を継いで、湯を沸かす用意をした。

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それから火鉢へ火をいで、湯をかす用意をした。

二、三分は火鉢にもたれて考えていたが、やがて立ち上がって、まず小六から起こしにかかった。

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二三分は火鉢に持たれて考えていたが、やがて立ち上がって、まず小六から起しにかかった。

次に清を起こした。

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次に清を起した。

二人とも驚いて飛び起きた。

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二人とも驚ろいて飛び起きた。

小六に御米の今朝から今までの様子を聞くと、実はあまり眠いので十一時半頃に飯を食って寝たのだが、それまでは御米もよく熟睡していたのだという。

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小六に御米の今朝から今までの様子を聞くと、実は余り眠いので、十一時半頃飯を食って寝たのだが、それまでは御米もよく熟睡していたのだと云う。

「医者へ行ってね。昨夜の薬をいただいてから寝出して、今になっても目が覚めませんが、差し支えないでしょうか、と聞いて来てくれ」

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「医者へ行ってね。昨夜ゆうべの薬をいただいてから寝出して、今になっても眼が覚めませんが、差支さしつかえないでしょうかって聞いて来てくれ」

「はい」

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「はあ」

小六は簡単な返事をして出て行った。

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小六は簡単な返事をして出て行った。

宗助はまた座敷へ来て、御米の顔をじっと見た。

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宗助はまた座敷へ来て御米の顔を熟視した。

起こしてやらなくては悪いような、また起こしては体に障るような、分別のつかない迷いを抱いて腕組みをした。

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起してやらなくっては悪いような、また起しては身体からださわるような、分別ふんべつのつかないまどいいだいて腕組をした。

間もなく小六が帰って来て、医者はちょうど往診に出かけるところだった、訳を話したら、では今から一、二軒寄ってすぐ行こうと答えた、と告げた。

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間もなく小六が帰って来て、医者はちょうど往診に出かけるところであった、訳を話したら、では今から一二軒寄ってすぐ行こうと答えた、と告げた。

宗助は、医者が来るまでこうして放っておいて構わないのかと小六に問い返したが、小六は医者がそれ以上何も言わなかったと言うだけなので、やむを得ず元のとおり枕もとにじっと座っていた。

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宗助は医者が見えるまで、こうして放っておいて構わないのかと小六に問い返したが、小六は医者が以上よりほかに何にも語らなかったと云うだけなので、やむを得ず元のごとく枕辺まくらべにじっと坐っていた。

そうして心の中で、医者も小六も不親切過ぎるように感じた。

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そうして心のうちで、医者も小六も不親切過ぎるように感じた。

彼はその上、昨夜御米を介抱している時に帰って来た小六の顔を思い出して、なお不愉快になった。

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彼はその上昨夕ゆうべ御米を介抱している時に帰って来た小六の顔を思い出して、なお不愉快になった。

小六が酒を飲むことは御米の注意で初めて知ったのだが、その後気をつけて弟の様子をよく見ていると、なるほど何だか真面目でないところもあるようなので、いつかみっちり意見でもしなければなるまいくらいに考えてはいたが、面白くもない二人の顔を御米に見せるのが気の毒なので、今日までわざと遠慮していたのである。

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小六が酒をむ事は、御米の注意で始めて知ったのであるが、その後気をつけて弟の様子をよく見ていると、なるほど何だか真面目まじめでないところもあるようなので、いつかみっちり異見でもしなければなるまいくらいに考えてはいたが、面白くもない二人の顔を御米に見せるのが、気の毒なので、今日きょうまでわざと遠慮していたのである。

「言い出すなら御米の寝ている今である。今ならどんなに気まずいことを双方で言い募っても、御米の神経に障る気遣いはない」

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「云い出すなら御米の寝ている今である。今ならどんな気不味きまずいことを双方で言いつのったって、御米の神経に障る気遣きづかいはない」

ここまで考えついたけれども、意識のない御米の顔を見ると、またその方が気がかりになって、すぐにでも起こしたい心持ちがするので、つい決めかねてぐずぐずしていた。

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ここまで考えついたけれども、知覚のない御米の顔を見ると、またその方が気がかりになって、すぐにでも起したい心持がするので、つい決し兼てぐずぐずしていた。

そこへようやく医者が来てくれた。

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そこへようやく医者が来てくれた。

昨夜の折り鞄をまた丁寧に脇へ引き寄せて、ゆっくり巻き煙草を吹かしながら宗助の言うことを、はあ、はあ、と聞いていたが、どれ拝見いたしましょう、と御米の方へ向き直った。

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昨夕の折鞄おりかばんをまた丁寧ていねいわきへ引きつけて、ゆっくり巻煙草まきたばこを吹かしながら、宗助の云うことを、はあはあと聞いていたが、どれ拝見致しましょうと御米の方へ向き直った。

彼は普通の場合と同じように病人の脈を取って、長い間自分の時計を見つめていた。

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彼は普通の場合のように病人の脈を取って、長い間自分の時計を見つめていた。

それから黒い聴診器を心臓の上に当てた。

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それから黒い聴診器を心臓の上に当てた。

それを丁寧にあちらこちらと動かした。

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それを丁寧にあちらこちらと動かした。

最後に丸い穴の開いた反射鏡を出して、宗助に蝋燭を点けてくれと言った。

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最後に丸い穴のいた反射鏡を出して、宗助に蝋燭ろうそくけてくれと云った。

宗助は蝋燭を持たないので、清にランプを点けさせた。

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宗助は蝋燭を持たないので、清に洋灯ランプけさした。

医者は眠っている御米の目を押し開けて、細かに反射鏡の光を睫毛の奥へ集めた。

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医者は眠っている御米の眼を押し開けて、仔細しさいに反射鏡の光をまつげの奥に集めた。

診察はそれで終わった。

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診察はそれで終った。

「少し薬が効き過ぎましたね」

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「少し薬がき過ぎましたね」

と言って宗助の方へ向き直ったが、宗助の目の色を見るやいなや、すぐ、

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と云って宗助の方へ向き直ったが、宗助の眼の色を見るやいなや、すぐ、

「しかしご心配になることはありません。こういう場合にもし悪い結果が起こるとすると、きっと心臓か脳を冒すものですが、今拝見したところでは双方とも異状は認められませんから」

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「しかし御心配になる事はありません。こう云う場合に、もし悪い結果が起るとすると、きっと心臓か脳をおかすものですが、今拝見したところでは双方共異状は認められませんから」

と説明してくれた。

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と説明してくれた。

宗助はそれでようやく安心した。

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宗助はそれでようやく安心した。

医者はまた、自分の使った眠り薬が比較的新しいもので、学理の上でも他の睡眠剤のように有害でないことや、またその効き目が患者の体質によって程度に大変な違いがあることなどを語って帰った。

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医者はまた自分の用いた眠り薬が比較的新らしいもので、学理上、他の睡眠剤のように有害でない事や、またその効目ききめが患者の体質にって、程度に大変な相違のある事などを語って帰った。

帰る時、宗助は、

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帰るとき宗助は、

「では、寝られるだけ寝かせておいても差し支えありませんか」

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「では寝られるだけ寝かしておいても差支さしつかえありませんか」

と聞いたら、医者は、用さえなければ特に起こす必要もあるまいと答えた。

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と聞いたら、医者は用さえなければ別に起す必要もあるまいと答えた。

医者が帰ったあとで、宗助は急に空腹になった。

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医者が帰ったあとで、宗助は急に空腹になった。

茶の間へ出ると、さきほど掛けておいた鉄瓶がちんちんたぎっていた。

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茶の間へ出ると、先刻さっき掛けておいた鉄瓶てつびんがちんちんたぎっていた。

清を呼んで膳を出せと命じると、清は困った顔つきをして、まだ何の用意もできていないと答えた。

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清を呼んで、ぜんを出せと命ずると、清は困った顔つきをして、まだ何の用意もできていないと答えた。

なるほど晩飯には少し間があった。

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なるほど晩食ばんめしには少し間があった。

宗助は楽々と火鉢のそばにあぐらをかいて、大根の漬物を噛みながら湯漬けを四杯ほど続けざまにかき込んだ。

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宗助は楽々と火鉢のそば胡坐あぐらいて、大根のこうものみながら湯漬ゆづけを四杯ほどつづけざまにき込んだ。

それから約三十分ほどしたら、御米の目がひとりでに覚めた。

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それから約三十分ほどしたら御米の眼がひとりでにめた。

十三

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十三

新年の頭をこしらえようという気になって、宗助は久しぶりに髪結い床の敷居をまたいだ。

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新年の頭をこしらえようという気になって、宗助そうすけは久し振に髪結床かみゆいどこの敷居をまたいだ。

暮れのせいか客がだいぶ立て込んでいるので、鋏の音が二、三か所で同時にちょきちょき鳴った。

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暮のせいか客がだいぶ立て込んでいるので、はさみの音が二三カ所で、同時にちょきちょき鳴った。

この寒さを無理に乗り越えて一日も早く春に入ろうと焦るような表通りの動きを、宗助は今見て来たばかりなので、その鋏の音がいかにも慌ただしい響きとなって彼の鼓膜を打った。

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この寒さを無理に乗り越して、一日も早く春に入ろうと焦慮あせるような表通の活動を、宗助は今見て来たばかりなので、その鋏の音が、いかにもせわしない響となって彼の鼓膜を打った。

しばらくストーブのそばで煙草を吹かして待っている間に、宗助は自分と関係のない大きな世間の活動に否応なしに巻き込まれ、やむを得ず年を越さなければならない人のように感じた。

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しばらく煖炉ストーブはた煙草たばこを吹かして待っている間に、宗助は自分と関係のない大きな世間の活動に否応なしにき込まれて、やむを得ず年を越さなければならない人のごとくに感じた。

正月を目の前に控えた彼は、実際これという新しい望みもないのに、いたずらに周囲から誘われて、何だかざわざわした心持ちを抱いていたのである。

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正月を眼の前へ控えた彼は、実際これという新らしい希望もないのに、いたずらに周囲から誘われて、何だかざわざわした心持をいだいていたのである。

御米の発作はようやく落ち着いた。

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御米およね発作ほっさはようやく落ちついた。

今ではいつものように外へ出ても、家のことがそれほど気にかからないくらいになった。

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今では平日いつものごとく外へ出ても、うちの事がそれほど気にかからないぐらいになった。

よそに比べれば静かな春の支度も、御米から言えば年に一度の忙しさには違いなかったので、いっそいつもどおりの準備さえ省いて、常より簡単に年を越す覚悟をした宗助は、生き返ったようにはっきりした妻の姿を見て、恐ろしい悲劇が一歩遠のいた時のように胸を撫で下ろした。

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余所よそに比べると閑静な春の支度も、御米から云えば、年に一度の忙がしさには違なかったので、あるいはいつも通りの準備さえ抜いて、常よりも簡単に年を越す覚悟をした宗助は、蘇生よみがえったようにはっきりしたさいの姿を見て、恐ろしい悲劇が一歩遠退とおのいた時のごとくに、胸をでおろした。

しかしその悲劇が、またいつどんな形で自分の家族を捕らえに来るか分からないという、ぼんやりした懸念が、折々彼の頭の中に霧となってかかった。

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しかしその悲劇がまたいついかなる形で、自分の家族をとらえに来るか分らないと云う、ぼんやりした掛念けねんが、折々彼の頭のなかにきりとなってかかった。

年の暮れに、事を好むとしか思えない世間の人がわざと短い日を前へ押し出したがってあくせくする様子を見ると、宗助はなおのこと、この漠然とした恐怖の念に襲われた。

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年の暮に、事を好むとしか思われない世間の人が、故意わざと短い日を前へ押し出したがって齷齪あくせくする様子を見ると、宗助はなおの事この茫漠ぼうばくたる恐怖の念におそわれた。

できることなら、自分だけは陰気な暗い師走の中に一人残っていたいという思いさえ起こった。

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成ろうことなら、自分だけは陰気な暗い師走しわすうちに一人残っていたい思さえ起った。

ようやく自分の番が来て、彼は冷たい鏡の中に自分の影を見出した時、ふと、この影は本来何者だろうと眺めた。

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ようやく自分の番が来て、彼は冷たい鏡のうちに、自分の影を見出した時、ふとこの影は本来何者だろうとながめた。

首から下は真っ白な布に包まれて、自分の着ている着物の色も縞もまるで見えなかった。

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首から下は真白な布に包まれて、自分の着ている着物の色もしまも全く見えなかった。

その時、彼はまた床屋の主人が飼っている小鳥の籠が鏡の奥に映っていることに気がついた。

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その時彼はまた床屋の亭主が飼っている小鳥のかごが、鏡の奥に映っている事に気がついた。

鳥が止まり木の上をちらりちらりと動いた。

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鳥がとまの上をちらりちらりと動いた。

頭に香りのする油を塗られ、景気のいい声を後ろから掛けられて表へ出た時は、それでもさっぱりした心持ちだった。

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頭へにおいのする油を塗られて、景気のいい声をうしろから掛けられて、表へ出たときは、それでも清々せいせいした心持であった。

御米の勧めどおり髪を刈った方が、結局は気を新たにする効き目があったことを、冷たい空気の中で宗助は自覚した。

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御米の勧め通り髪を刈った方が、結局つまり気を新たにする効果があったのを、冷たい空気の中で、宗助は自覚した。

水道税のことでちょっと問い合わせる必要が生じたので、宗助は帰り道に坂井へ寄った。

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水道税の事でちょっと聞き合せる必要が生じたので、宗助は帰り路に坂井へ寄った。

下女が出て来て、こちらへ、と言うから、いつもの座敷へ案内するのかと思うと、そこを通り越して茶の間へ導いて行った。

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下女が出て来て、こちらへと云うから、いつもの座敷へ案内するかと思うと、そこを通り越して、茶の間へ導びいていった。

すると茶の間の襖が二尺ばかり開いていて、中から三、四人の笑い声が聞こえた。

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すると茶の間のふすまが二尺ばかりいていて、中から三四人の笑い声が聞えた。

坂井の家庭は相変わらず陽気だった。

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坂井の家庭は相変らず陽気であった。

主人はつやのいい長火鉢の向こう側に座っていた。

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主人は光沢つやの好い長火鉢ながひばちの向側に坐っていた。

細君は火鉢を離れて、少し縁側の障子の方へ寄って、やはりこちらを向いていた。

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細君は火鉢を離れて、少し縁側えんがわ障子しょうじの方へ寄って、やはりこちらを向いていた。

主人の後ろに、細長い黒い枠にはめた柱時計がかかっていた。

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主人のうしろに細長い黒いわくめた柱時計がかかっていた。

時計の右が壁で、左が袋戸棚になっていた。

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時計の右が壁で、左が袋戸棚ふくろとだなになっていた。

その張り交ぜに、石摺りだの俳画だの、扇の骨を抜いたものなどが見えた。

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その張交はりまぜ石摺いしずりだの、俳画だの、扇の骨を抜いたものなどが見えた。

主人と細君のほかに、筒袖のおそろいの模様の被布を着た女の子が二人、肩をすり合わせて座っていた。

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主人と細君のほかに、筒袖つつそでそろいの模様の被布ひふを着た女の子が二人肩をりつけ合って坐っていた。

一方は十二、三で、もう一方は十くらいに見えた。

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片方は十二三で、片方はとおぐらいに見えた。

大きな目をそろえて、襖の陰から入って来た宗助の方を向いたが、二人の目もとにも口もとにも、今笑ったばかりの影がまだ豊かに残っていた。

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大きな眼を揃えて、ふすまの陰から入って来た宗助の方を向いたが、二人の眼元にも口元にも、今笑ったばかりの影が、まだゆたかに残っていた。

宗助はひととおり部屋の中を見回して、この親子のほかにもう一人、妙な男が一番入口に近い所にかしこまっているのを見つけた。

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宗助は一応へやの内を見回して、この親子のほかに、まだ一人妙な男が、一番入口に近い所にかしこまっているのを見出した。

宗助は座って五分と経たないうちに、さきほどの笑い声が、この変な男と坂井の家族との間で交わされた問答から出るものだと知った。

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宗助は坐って五分と立たないうちに、先刻さっきの笑声は、この変な男と坂井の家族との間に取り換わされた問答から出る事を知った。

男は砂埃でざらつきそうな赤い毛と、日に焼けて一生褪せそうもない強い色を持っていた。

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男は砂埃すなほこりでざらつきそうな赤い毛と、日に焼けて生涯しょうがいめっこない強い色をっていた。

瀬戸物のボタンの付いた白木綿のシャツを着て、手織りの硬い綿入れの襟から財布の紐のような長い丸打ちをかけた様子は、めったに東京などへ出る機会のない遠い山国の者としか受け取れなかった。

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瀬戸物のボタンの着いた白木綿しろもめん襯衣シャツを着て、手織のこわ布子ぬのこえりから財布のひもみたような長い丸打まるうちをかけた様子は、滅多めったに東京などへ出る機会のない遠い山の国のものとしか受け取れなかった。

その上、男はこの寒いのに膝小僧を少し出して、紺の落ちた小倉の帯の尻に差した手拭いを抜いては鼻の下をこすった。

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その上男はこの寒いのに膝小僧ひざこぞうを少し出して、こんの落ちた小倉こくらの帯の尻に差した手拭てぬぐいを抜いては鼻の下をこすった。

「これは甲斐の国から反物を背負ってわざわざ東京まで出て来る男なんです」

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「これは甲斐かいの国から反物たんもの背負しょってわざわざ東京まで出て来る男なんです」

と坂井の主人が紹介すると、男は宗助の方を向いて、

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と坂井の主人が紹介すると、男は宗助の方を向いて、

「どうか旦那、一つ買っておくれ」

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「どうか旦那、一つ買っておくれ」

と挨拶をした。

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挨拶あいさつをした。

なるほど、銘仙だの御召だの白紬だのが、そこら一面に取り散らしてあった。

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なるほど銘仙めいせんだの御召おめしだの、白紬しろつむぎだのがそこら一面に取り散らしてあった。

宗助は、この男の身なりや言葉遣いのおかしい割に立派な品物を背中に載せて歩くのを、むしろ不思議に思った。

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宗助はこの男の形装なり言葉遣ことばづかいのおかしい割に、立派な品物を背中へ乗せて歩行あるくのをむしろ不思議に思った。

主人の細君の説明によると、この織屋の住んでいる村は焼け石ばかりで米も粟も取れないから、やむを得ず桑を植えて蚕を飼うのだそうだが、よほど貧しい所と見えて、柱時計を持っている家が一軒だけで、高等小学へ通う子供が三人しかないという話だった。

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主人の細君の説明によると、この織屋の住んでいる村は焼石ばかりで、米もあわれないから、やむを得ずくわを植えてかいこを飼うんだそうであるが、よほど貧しい所と見えて、柱時計を持っている家が一軒だけで、高等小学へ通う小供が三人しかないという話であった。

「字の書ける者は、この人だけなんだそうですよ」

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「字の書けるものは、この人ぎりなんだそうですよ」

と言って細君は笑った。

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と云って細君は笑った。

すると織屋も、

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すると織屋も、

「本当のこったよ、奥さん。読み書き算盤のできる者は、おれよりほかにねえんだからね。まったくひどい所には違いねえ」

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「本当のこんだよ、奥さん。読み書き算筆さんぴつのできるものは、おれよりほかにねえんだからね。全く非道ひどい所にゃ違ない」

と真面目に細君の言うことにうなずいた。

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と真面目に細君の云う事を首肯うけがった。

織屋はいろいろの反物を主人や細君の前へ突きつけては、「買っておくれ」

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織屋はいろいろの反物を主人や細君の前へ突きつけては、「買っておくれ」

という言葉をしきりに繰り返した。

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という言葉をしきりに繰り返した。

それは高いよ、いくらいくらにお負けなさい、などと言われると、「値じゃねえね」

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そりゃ高いよいくらいくらに御負けなどと云われると、「値じゃねえね」

とか、「拝むから、それで買っておくれ」

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とか、「拝むからそれで買っておくれ」

とか、「まあ目方を見ておくれ」

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とか、「まあ目方を見ておくれ」

とか、すべて異様な田舎びた答えをした。

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とかすべて異様な田舎いなかびた答をした。

そのたびにみんなが笑った。

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そのたびにみんなが笑った。

主人夫婦もまた暇と見えて、面白半分にいつまでも織屋を相手にした。

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主人夫婦はまたひまだと見えて、面白半分にいつまでも織屋を相手にした。

「織屋、お前、そうして荷を背負って外へ出て、時分どきになったら、やっぱりご飯を食べるんだろうね」

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「織屋、御前そうして荷を背負しょって、外へ出て、時分どきになったら、やっぱり御膳ごぜんを食べるんだろうね」

と細君が聞いた。

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と細君が聞いた。

「飯を食わねえでいられるもんじゃないよ。腹の減ることといったら」

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「飯を食わねえでいられるもんじゃないよ。腹の減る事ちゅうたら」

「どんな所で食べるの」

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「どんな所で食べるの」

「どんな所で食べるちゅうて、やっぱり茶屋で食うだね」

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「どんな所で食べるちゅうて、やっぱり茶屋で食うだね」

主人は笑いながら、茶屋とは何だと聞いた。

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主人は笑いながら茶屋とは何だと聞いた。

織屋は、飯を食わせる所が茶屋だと答えた。

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織屋は、飯を食わす所が茶屋だと答えた。

それから、東京へ出て来たての頃は飯が非常にうまいので、腹を据えて食い出すとたいていの宿屋はかなわない、三度三度食っては気の毒だ、というようなことを話して、またみんなを笑わせた。

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それから東京へ出立でたてには飯が非常にうまいので、腹をえて食い出すと、大抵の宿屋はかなわない、三度三度食っちゃ気の毒だと云うような事を話して、またみんなを笑わした。

織屋はしまいに、撚り糸の紬と白絽を一匹、細君に売りつけた。

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織屋はしまいに撚糸よりいとつむぎと、白絽しろろ一匹いっぴき細君に売りつけた。

宗助はこの押し詰まった暮れに夏の絽を買う人を見て、余裕のある者はやはり格別だと感じた。

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宗助はこの押しつまった暮に、夏の絽を買う人を見て余裕よゆうのあるものはまた格別だと感じた。

すると主人が宗助に向かって、

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すると、主人が宗助に向って、

「どうです、あなたもついでに何か一つ。奥さんの普段着でも」

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「どうですあなたも、ついでに何か一つ。奥さんの不断着でも」

と勧めた。

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と勧めた。

細君も、こういう機会に買っておくと何割か安く買える得を説いた。

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細君もこう云う機会に買って置くと、幾割か値安に買える便宜べんぎを説いた。

そうして、

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そうして、

「なに、お支払いはいつでもいいんです」

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「なに、御払おはらいはいつでもいいんです」

と請け合ってくれた。

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と受合ってくれた。

宗助はとうとう御米のために銘仙を一反買うことにした。

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宗助はとうとう御米のために銘仙めいせんを一反買う事にした。

主人はそれをさんざん値切って三円に負けさせた。

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主人はそれをさんざん値切って三円に負けさした。

織屋は負けたあとでまた、

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織屋は負けたあとでまた、

「まったく値じゃねえね。泣きたくなるね」

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「全く値じゃねえね。泣きたくなるね」

と言ったので、大勢がまた一度に笑った。

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と云ったので、大勢がまた一度に笑った。

織屋はどこへ行っても、こういう鄙びた言葉を使って通しているらしかった。

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織屋はどこへ行ってもこういうひなびた言葉を使って通しているらしかった。

毎日なじみの家をぐるぐる回って歩いているうちに背中の荷がだんだん軽くなって、しまいに紺の風呂敷と真田紐だけが残る。

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毎日馴染なじみの家をぐるぐるまわって歩いているうちには、背中の荷がだんだんかろくなって、しまいにこん風呂敷ふろしき真田紐さなだひもだけが残る。

その時分にはちょうど旧暦の正月が来るので、ひとまず国もとへ帰って古い春を山の中で越し、それからまた新しい反物を背負えるだけ背負って出て来るのだと言った。

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その時分にはちょうど旧の正月が来るので、ひとまず国元へ帰って、古い春を山の中で越して、それからまた新らしい反物を背負えるだけ背負って出て来るのだと云った。

そうして養蚕の忙しい四月の末か五月の初めまでに、それをすっかり金に換えて、また富士の北側の焼け石ばかり転がっている小さな村へ帰って行くのだそうである。

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そうして養蚕ようさんせわしい四月の末か五月の初までに、それを悉皆すっかり金に換えて、また富士の北影の焼石ばかりころがっている小村へ帰って行くのだそうである。

「うちへ来出してから、もう四、五年になりますが、いつ見ても同じことで、少しも変わらないんですよ」

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うちへ来出してから、もう四五年になりますが、いつ見ても同じ事で、少しも変らないんですよ」

と細君が注意した。

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と細君が注意した。

「実際めずらしい男です」

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「実際珍らしい男です」

と主人も評語を添えた。

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と主人も評語を添えた。

三日も外へ出ないと町幅がいつの間にか広げられていたり、一日新聞を読まないと電車の開通を知らずに過ごしたりする今の世に、年に二度も東京へ出ながらこう山男の特色をどこまでも保って行くのは、実際めずらしいに違いなかった。

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三日も外へ出ないと、町幅がいつの間にか取り広げられていたり、一日新聞を読まないと、電車の開通を知らずに過したりする今の世に、年に二度も東京へ出ながら、こう山男の特色をどこまでも維持して行くのは、実際珍らしいに違なかった。

宗助はつくづく、この織屋の容貌やら態度やら服装やら言葉遣いやらを観察して、一種気の毒な思いをした。

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宗助はつくづくこの織屋の容貌ようぼうやら態度やら服装やら言葉使やらを観察して、一種気の毒な思をなした。

彼は坂井を辞して家へ帰る途中も、折々インバネスの羽根の下に抱えて来た銘仙の包みを持ち替えながら、それを三円という安い値で売った男の粗末な綿入れの縞と、赤くてばさばさした髪の毛と、その油気のない硬い髪の毛がどういうわけか頭の真ん中で立派に左右に分けられている様子とを、絶えず目の前に浮かべた。

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彼は坂井を辞して、うちへ帰る途中にも、折々インヴァネスの羽根の下に抱えて来た銘仙のつつみを持ちえながら、それを三円という安いで売った男の、粗末な布子ぬのこしまと、赤くてばさばさした髪の毛と、その油気あぶらけのないこわい髪の毛が、どういう訳か、頭の真中で立派に左右に分けられている様を、絶えず眼の前に浮べた。

家では御米が、宗助に着せる春の羽織をようやく縫い上げて、重しの代わりに座布団の下へ入れ、自分でその上に座っているところだった。

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宅では御米が、宗助に着せる春の羽織をようやく縫い上げて、おしの代りに坐蒲団ざぶとんの下へ入れて、自分でその上へ坐っているところであった。

「あなた、今夜敷いて寝てください」

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「あなた今夜敷いて寝て下さい」

と言って、御米は宗助を振り返った。

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と云って、御米は宗助をかえりみた。

夫から坂井へ来ていた甲斐の男の話を聞いた時は、御米もさすがに大きな声を出して笑った。

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夫から、坂井へ来ていた甲斐かいの男の話を聞いた時は、御米もさすがに大きな声を出して笑った。

そうして宗助の持って帰った銘仙の縞柄と地合いを飽かず眺めては、安い安いと言った。

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そうして宗助の持って帰った銘仙めいせん縞柄しまがら地合じあいかずながめては、安い安いと云った。

銘仙はまったく品のいいものだった。

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銘仙は全くしないものであった。

「どうして、そう安く売って割に合うんでしょう」

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「どうして、そう安く売って割に合うんでしょう」

としまいに聞き出した。

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としまいに聞き出した。

「なに、間に立つ呉服屋が儲け過ぎているのさ」

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「なに中へ立つ呉服屋がもうけ過ぎてるのさ」

と宗助は、この一反の銘仙から推し量って、その道に明るいようなことを答えた。

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と宗助はその道に明るいような事を、この一反の銘仙から推断して答えた。

夫婦の話はそれから、坂井の暮らしに余裕のあることと、その余裕のために横町の道具屋などに意外な儲け方をされる代わりに、時にはこういう織屋などから差し当たり不用のものを安く買っておける得を持っていることなどに移り、しまいにその家庭がいかにも陽気で賑やかな様子だという話に落ちて行った。

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夫婦の話はそれから、坂井の生活に余裕のある事と、その余裕のために、横町の道具屋などに意外なもうかたをされる代りに、時とするとこう云う織屋などから、差し向き不用のものを廉価れんかに買っておく便宜べんぎを有している事などに移って、しまいにその家庭のいかにも陽気で、にぎやかな模様に落ちて行った。

宗助はその時、突然語調を変えて、

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宗助はその時突然語調をえて、

「なに、金があるばかりじゃない。一つは子供が多いからさ。子供さえあれば、たいてい貧乏な家でも陽気になるものだ」

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「なに金があるばかりじゃない。一つは子供が多いからさ。子供さえあれば、大抵貧乏なうちでも陽気になるものだ」

と御米に言い聞かせた。

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と御米をさとした。

その言い方が、自分たちの寂しい生涯を多少自ら戒めるような苦い調子を御米の耳に伝えたので、御米は思わず膝の上の反物から手を放して夫の顔を見た。

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その云い方が、自分達のさみしい生涯しょうがいを、多少みずかたしなめるようなにがい調子を、御米の耳に伝えたので、御米は覚えずひざの上の反物から手を放して夫の顔を見た。

宗助は坂井から取って来た品が御米の好みに合ったので、久しぶりに細君を喜ばせてやったという自覚があるばかりだったから、特にそこには気がつかなかった。

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宗助は坂井から取って来た品が、御米の嗜好しこうに合ったので、久しぶりに細君を喜ばせてやった自覚があるばかりだったから、別段そこには気がつかなかった。

御米もちょっと宗助の顔を見たきり、その時は何も言わなかった。

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御米もちょっと宗助の顔を見たなりその時は何にも云わなかった。

けれども、夜になって寝る時間が来るまで、御米はそれをわざと延ばしておいたのである。

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けれどもって寝る時間が来るまで御米はそれをわざと延ばしておいたのである。

二人はいつものとおり十時過ぎに床に入ったが、夫の目がまだ覚めている頃を見計らって、御米は宗助の方を向いて話しかけた。

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二人はいつもの通り十時過床に入ったが、夫の眼がまだめている頃を見計らって、御米は宗助の方を向いて話しかけた。

「あなた、さっき、子供がないと寂しくていけないとおっしゃってね」

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「あなた先刻さっき小供がないとさむしくっていけないとおっしゃってね」

宗助は、これに似たことを一般論として言った覚えはたしかにあった。

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宗助はこれに類似の事を普般的に云ったおぼえはたしかにあった。

けれどもそれは、必ずしも自分たちの身の上について、特に御米の注意を引くために口にした、わざとの見方ではないのだから、こう改まって問いただされると困るよりほかはなかった。

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けれどもそれはあながちに、自分達の身の上について、特に御米の注意をくために口にした、故意の観察でないのだから、こう改たまって聞きただされると、困るよりほかはなかった。

「何もうちのことを言ったんじゃないよ」

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「何もうちの事を云ったのじゃないよ」

この返事を受けた御米は、しばらく黙っていた。

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この返事を受けた御米は、しばらく黙っていた。

やがて、

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やがて、

「でも、うちのことをいつも寂しい寂しいと思っていらっしゃるから、つまりあんなことをおっしゃるんでしょう」

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「でも宅の事を始終淋しい淋しいと思っていらっしゃるから、必竟つまりあんな事をおっしゃるんでしょう」

と、前とほぼ似た問いを繰り返した。

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と前とほぼ似たような問を繰り返した。

宗助はもとより、そうだと答えなければならないあるものを頭の中に持っていた。

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宗助はもとよりそうだと答えなければならない或物を頭の中にっていた。

けれども御米に遠慮して、それほどあからさまな自白をあえてできなかった。

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けれども御米をはばかって、それほど明白地あからさまな自白をあえてし得なかった。

この病み上がりの細君の心を休めるためには、かえってそれを冗談にして笑ってしまう方がよかろうと考えたので、

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この病気上りの細君の心を休めるためには、かえってそれを冗談じょうだんにして笑ってしまう方がかろうと考えたので、

「寂しいと言えば、そりゃ寂しくないでもないがね」

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「淋しいと云えば、そりゃ淋しくないでもないがね」

と調子を変えてなるべく陽気に出たが、そこで詰まったきり、新しい文句も面白い言葉も容易に思いつけなかった。

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と調子をえてなるべく陽気に出たが、そこで詰まったぎり、新らしい文句も、面白い言葉も容易に思いつけなかった。

やむを得ず、

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やむを得ず、

「まあいいや。心配するな」

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「まあいいや。心配するな」

と言った。

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と云った。

御米はまた何とも答えなかった。

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御米はまた何とも答えなかった。

宗助は話題を変えようと思って、

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宗助は話題を変えようと思って、

「昨夜も火事があったね」

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昨夕ゆうべも火事があったね」

と世間話をし出した。

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と世間話をし出した。

すると御米は急に、

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すると御米は急に、

「私は本当にあなたにお気の毒で」

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「私は実にあなたに御気の毒で」

と切なそうに言い訳を半分して、またそれきり黙ってしまった。

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と切なそうに言訳を半分して、またそれなり黙ってしまった。

ランプはいつものように床の間の上に据えてあった。

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洋灯ランプはいつものように床の間の上にえてあった。

御米は灯りに背を向けていたから、宗助には顔の表情がはっきり分からなかったけれど、その声は多少涙でうるんでいるように思われた。

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御米はそむいていたから、宗助には顔の表情が判然はっきり分らなかったけれども、その声は多少涙でうるんでいるように思われた。

今まで仰向いて天井を見ていた彼は、すぐ妻の方へ向き直った。

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今まで仰向あおむいて天井を見ていた彼は、すぐ妻の方へ向き直った。

そうして、薄暗い影になった御米の顔をじっと眺めた。

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そうして薄暗い影になった御米の顔をじっとながめた。

御米も暗い中からじっと宗助を見ていた。

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御米も暗い中からじっと宗助を見ていた。

そうして、

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そうして、

「とっくにあなたに打ち明けて謝ろう謝ろうと思っていたんですが、つい言いにくかったものだから、そのままにしておいたのです」

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とうからあなたに打ち明けて謝罪あやまろう謝罪まろうと思っていたんですが、つい言いにくかったもんだから、それなりにしておいたのです」

と途切れ途切れに言った。

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と途切れ途切れに云った。

宗助には何の意味かまるで分からなかった。

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宗助には何の意味かまるで解らなかった。

多少はヒステリーのせいかとも思ったが、まったくそうとも決めかねて、しばらくぼんやりしていた。

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多少はヒステリーのせいかとも思ったが、全然そうとも決しかねて、しばらく茫然ぼんやりしていた。

すると御米が思い詰めた調子で、

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すると御米が思い詰めた調子で、

「私にはとても子供のできる見込みはないのよ」

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「私にはとても子供のできる見込はないのよ」

と言い切って泣き出した。

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と云い切って泣き出した。

宗助は、この痛ましい打ち明け話をどう慰めていいか分別に余って当惑しているうちにも、御米に対してはなはだ気の毒だという思いが非常に高まった。

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宗助はこの可憐な自白をどう慰さめていいか分別に余って当惑していたうちにも、御米に対してはなはだ気の毒だという思が非常に高まった。

「子供なんか、なくてもいいじゃないか。上の坂井さんみたいにたくさん生まれてご覧、傍から見ていても気の毒だよ。まるで幼稚園のようで」

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「子供なんざ、無くてもいいじゃないか。上の坂井さんみたようにたくさん生れて御覧、はたから見ていても気の毒だよ。まるで幼稚園のようで」

「だって、一人もできないと決まってしまったら、あなただってよくはないでしょう」

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「だって一人もできないときまっちまったら、あなただってかないでしょう」

「まだできないと決まりゃしないじゃないか。これから生まれるかもしれないさ」

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「まだできないときまりゃしないじゃないか。これから生れるかも知れないやね」

御米はなおも泣き出した。

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御米はなおと泣き出した。

宗助も途方に暮れて、発作の治まるのを穏やかに待っていた。

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宗助も途方とほうに暮れて、発作の治まるのを穏やかに待っていた。

そうして、ゆっくり御米の説明を聞いた。

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そうして、ゆっくり御米の説明を聞いた。

夫婦は睦まじく暮らすという点では人並み以上に成功したと同時に、子供にかけては一般の隣人よりも不幸だった。

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夫婦は和合同棲どうせいという点において、人並以上に成功したと同時に、子供にかけては、一般の隣人よりも不幸であった。

それも初めから宿る種がなかったのならまだしも、育つべきものを中途で取り落としたのだから、いっそう不幸の感じが深かった。

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それも始から宿る種がなかったのなら、まだしもだが、育つべきものを中途で取り落したのだから、さらに不幸の感が深かった。

初めて身重になったのは、二人が京都を去って広島で細い暮らしを立てていた時だった。

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始めて身重みおもになったのは、二人が京都を去って、広島に瘠世帯やせじょたいを張っている時であった。

妊娠と決まった時、御米はこの新しい経験に対して、恐ろしい未来と嬉しい未来を一度に夢に見るような心持ちを抱いて日を過ごした。

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懐妊かいにんと事がきまったとき、御米はこの新らしい経験に対して、恐ろしい未来と、うれしい未来を一度に夢に見るような心持をいだいて日を過ごした。

宗助はそれを、目に見えない愛の精に一種の確かな形を与えた事実と一人で解釈して、少なからず喜んだ。

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宗助はそれを眼に見えない愛の精に、一種の確証となるべき形を与えた事実と、ひとり解釈して少なからず喜んだ。

そうして、自分の命を吹き込んだ肉の塊が目の前で踊る時節を、指を折って楽しみに待った。

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そうして自分の命を吹き込んだ肉のかたまりが、目の前に踊る時節を指を折って楽しみに待った。

ところが胎児は夫婦の予期に反して、五か月まで育って突然流れてしまった。

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ところが胎児は、夫婦の予期に反して、五カ月まで育って突然りてしまった。

その時分の夫婦の暮らしは、苦しくつらい月ばかり続いていた。

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その時分の夫婦の活計くらしは苦しいつらい月ばかり続いていた。

宗助は流産した御米の青い顔を眺めて、これも結局は所帯の苦労から起こるのだと判じた。

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宗助は流産した御米のあおい顔を眺めて、これも必竟つまりは世帯の苦労から起るんだと判じた。

そうして愛情の結果が貧しさのために打ち崩され、長く手の中に捕らえることのできなくなったのを残念がった。

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そうして愛情の結果が、貧のために打ちくずされて、永く手のうちに捕える事のできなくなったのを残念がった。

御米はひたすら泣いた。

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御米はひたすら泣いた。

福岡へ移ってから間もなく、御米はまた酸っぱいものを好む人になった。

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福岡へ移ってから間もなく、御米はまたいものをたしむ人となった。

一度流産すると癖になると聞いたので、御米は万事に注意してつつましく振る舞っていた。

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一度流産すると癖になると聞いたので、御米はよろずに注意して、つつましやかに振舞っていた。

そのせいか経過はきわめて順調に行ったが、どうしたわけか、これという原因もないのに月足らずで生まれてしまった。

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そのせいか経過は至極しごく順当に行ったが、どうした訳か、これという原因もないのに、月足らずで生れてしまった。

産婆は首を傾げて、一度医者に見せるように勧めた。

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産婆は首を傾けて、一度医者に見せるように勧めた。

医者に診てもらうと、発育が十分でないから、室内の温度を一定の高さにして昼夜とも変わらないくらい人工的に暖めなければいけないと言った。

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医者にて貰うと、発育が充分でないから、室内の温度を一定の高さにして、昼夜とも変らないくらい、人工的に暖めなければいけないと云った。

宗助の力では、室内に暖炉を据えつける設備をするだけでも容易ではなかった。

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宗助の手際てぎわでは、室内に煖炉だんろを据えつける設備をするだけでも容易ではなかった。

夫婦は自分たちの時間と算段の許す限りを尽くして、ひたすら赤ん坊の命を守った。

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夫婦はわが時間と算段の許す限りを尽して、専念に赤児の命をまもった。

けれども、すべては徒労に終わった。

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けれどもすべては徒労に帰した。

一週間ののち、二人の血を分けた情の塊はついに冷たくなった。

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一週間の後、二人の血を分けたなさけかたまりはついに冷たくなった。

御米は幼子の亡骸を抱いて、

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御米は幼児の亡骸なきがらいて、

「どうしましょう」

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「どうしましょう」

とすすり泣いた。

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すすり泣いた。

宗助は再度の打撃を男らしく受けた。

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宗助は再度の打撃を男らしく受けた。

冷たい肉が灰になって、その灰がまた黒い土に混じるまで、一口も愚痴らしい言葉は出さなかった。

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冷たい肉が灰になって、その灰がまた黒い土にするまで、一口も愚痴ぐちらしい言葉は出さなかった。

そのうちいつとなく、二人の間に挟まっていた影のようなものがしだいに遠のいて、ほどなく消えてしまった。

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そのうちいつとなく、二人の間にはさまっていた影のようなものが、しだいに遠退とおのいて、ほどなく消えてしまった。

すると三度目の記憶が来た。

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すると三度目の記憶が来た。

宗助が東京に移って初めての年に、御米はまた妊娠したのである。

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宗助が東京に移って始ての年に、御米はまた懐妊したのである。

上京の当座はだいぶ体が衰えていたので、御米はもちろん宗助もひどくそこを気遣ったが、今度こそはという思いは両方にあったので、張りのある月を無事にだんだんと重ねて行った。

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出京の当座は、だいぶん身体からだが衰ろえていたので、御米はもちろん、宗助もひどくそこを気遣きづかったが、今度こそはという腹は両方にあったので、張のある月を無事にだんだんと重ねて行った。

ところがちょうど五か月目になって、御米はまた思いがけない失敗をした。

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ところがちょうど五月目いつつきめになって、御米はまた意外の失敗しくじりをやった。

その頃はまだ水道も引いていなかったから、朝晩、下女が井戸端へ出て水を汲んだり洗濯をしなければならなかった。

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その頃はまだ水道も引いてなかったから、朝晩下女が井戸端へ出て水を汲んだり、洗濯をしなければならなかった。

御米はある日、裏にいる下女に言いつける用ができたので、井戸の流しのそばに置いたたらいの傍まで行って話をしたついでに、流しを向こうへ渡ろうとして、青い苔の生えた濡れた板の上に尻もちをついた。

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御米はある日裏にいる下女に云いつける用ができたので、井戸流いどながしそばに置いたたらいの傍まで行って話をしたついでに、ながしむこうへ渡ろうとして、青いこけの生えているれた板の上へ尻持しりもちを突いた。

御米はまたやりそこなったとは思ったが、自分の粗忽を面目なく思って、宗助にはわざと何も語らずにその場を通した。

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御米はまたやりそくなったとは思ったが、自分の粗忽そこつを面目ながって、宗助にはわざと何事も語らずにその場を通した。

けれども、この衝撃がいつまで経っても胎児の発育にこれという影響も及ぼさず、したがって自分の体にも少しの異状も起こさなかったことが確かに分かった時、御米はようやく安心して、過去の過ちを改めて宗助の前に告げた。

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けれどもこの震動が、いつまで経っても胎児の発育にこれという影響も及ぼさず、したがって自分の身体からだにも少しの異状を引き起さなかった事がたしかに分った時、御米はようやく安心して、過去のしつを改めて宗助の前に告げた。

宗助はもとより妻を咎める気もなかった。

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宗助はもとより妻をとがめる意もなかった。

ただ、

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ただ、

「よく気をつけないと危ないよ」

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「よく気をつけないと危ないよ」

と穏やかに注意を加えて済ませた。

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と穏やかに注意を加えて過ぎた。

そうこうするうちに月が満ちた。

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とかくするうちに月が満ちた。

いよいよ生まれるという間際まで日が詰まった時、宗助は役所へ出ていても、御米のことがしきりに気にかかった。

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いよいよ生れるという間際まぎわまで日が詰ったとき、宗助は役所へ出ながらも、御米の事がしきりに気にかかった。

帰りにはいつも、今日はことによると留守のうちに、などと案じ続けては自分の家の格子の前に立った。

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帰りにはいつも、今日はことによると留守のうちになどと案じ続けては、自分の家の格子こうしの前に立った。

そうして半ば予期している赤ん坊の泣き声が聞こえないと、かえって何か変でも起こったように感じ、急いで家へ飛び込んで、自分で自分の粗忽を恥じることがあった。

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そうして半ば予期している赤児の泣声が聞えないと、かえって何かの変でも起ったらしく感じて、急いでうちへ飛び込んで、自分と自分の粗忽を恥ずる事があった。

幸い御米が産気づいたのは宗助に外の用のない夜中だったので、そばにいて世話ができるという点から見れば、はなはだ都合がよかった。

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さいわいに御米の産気さんけづいたのは、宗助の外に用のない夜中だったので、傍にいて世話のできると云う点から見ればはなはだ都合が好かった。

産婆もゆっくり間に合うし、脱脂綿その他の準備もことごとく不足なく取りそろえてあった。

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産婆もゆっくり間に合うし、脱脂綿その他の準備もことごとく不足なく取りそろえてあった。

お産も案外軽かった。

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産も案外軽かった。

けれども肝心の子供は、ただ子宮を逃れて広い所へ出たというだけで、この世の空気を一口も吸わなかった。

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けれども肝心かんじん小児こどもは、ただ子宮をのがれて広い所へ出たというまでで、浮世の空気を一口も呼吸しなかった。

産婆は細いガラスの管のようなものを取って、小さい口の中へ強い息をしきりに吹き込んだが、効き目はまるでなかった。

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産婆は細い硝子ガラスの管のようなものを取って、さい口のなかへ強い呼息いきをしきりに吹き込んだが、効目ききめはまるでなかった。

生まれたものは肉だけだった。

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生れたものは肉だけであった。

夫婦はこの肉に刻みつけられた目と鼻と口とを思い描いた。

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夫婦はこの肉に刻みつけられた、眼と鼻と口とを髣髴ほうふつした。

しかし、その喉から出る声はついに聞くことができなかった。

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しかしその咽喉のどから出る声はついに聞く事ができなかった。

産婆は出産のつい一週間前に来て、丁寧に胎児の心臓まで聴診し、きわめてご健全だと保証して行ったのである。

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産婆は出産のあったつい一週間前に来て、丁寧ていねいに胎児の心臓まで聴診して、至極しごく御健全だと保証して行ったのである。

たとえ産婆の言うことに間違いがあって、腹の子の発育が今までのうちにどこかで止まっていたにしても、それがすぐ取り出されない以上、母体が今日まで平気で持ちこたえるわけがなかった。

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よし産婆の云う事に間違があって、腹のの発育が今までのうちにどこかで止っていたにしたところで、それがすぐ取り出されない以上、母体は今日こんにちまで平気に持ちこたえる訳がなかった。

そこをだんだん調べてみて、宗助は自分がいまだかつて聞いたことのない事実を見つけた時、思わず恐れ驚いた。

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そこをだんだん調べて見て、宗助は自分がいまだかつて聞いた事のない事実を発見した時に、思わず恐れ驚ろいた。

胎児は出る間際まで健康だったのである。

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胎児は出る間際まで健康であったのである。

けれども臍帯纏絡といって、俗に言う胞衣の緒を首に巻きつけていた。

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けれども臍帯纏絡さいたいてんらくと云って、俗に云うえなくびきつけていた。

こういう異常の場合には、もとより産婆の腕で切り抜けるよりほかにしようのないもので、経験のある婆さんなら、取り上げる時にうまく首に掛かった緒を外して引き出すはずだった。

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こう云う異常の場合には、もとより産婆の腕で切り抜けるよりほかにしようのないもので、経験のある婆さんなら、取り上げる時に、うまく頸に掛かった胞をはずして引き出すはずであった。

宗助の頼んだ産婆もかなり年を取っているだけに、このくらいのことは心得ていた。

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宗助の頼んだ産婆もかなり年を取っているだけに、このくらいのことは心得ていた。

しかし胎児の首に絡んでいた臍帯は、時たまあるように一重ではなかった。

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しかし胎児の頸をからんでいた臍帯は、時たまあるごとく一重ひとえではなかった。

二重に細い喉を巻いている緒を、あの細い所を通す時に外しそこなったので、子供はぐっと気管を絞められて窒息してしまったのである。

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二重ふたえに細い咽喉のどを巻いている胞を、あの細い所を通す時に外しそくなったので、小児こどもはぐっと気管をめられて窒息してしまったのである。

罪は産婆にもあった。

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罪は産婆にもあった。

けれども半ば以上は御米の落ち度に違いなかった。

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けれどもなかば以上は御米の落度おちどに違なかった。

臍帯纏絡という異常は、御米が井戸端で滑ってひどく尻もちをついた五か月前に、すでに自ら招いたものだと分かった。

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臍帯纏絡の変状は、御米が井戸端で滑って痛く尻餅しりもちいた五カ月前すでにみずかかもしたものと知れた。

御米は産後の床の中でその始末を聞いて、ただ軽くうなずいたきり何も言わなかった。

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御米は産後の蓐中じょくちゅうにその始末を聞いて、ただ軽く首肯うなずいたぎり何にも云わなかった。

そうして、疲労に少し落ちくぼんだ目をうるませて、長い睫毛をしきりに動かした。

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そうして、疲労に少し落ち込んだ眼をうるませて、長い睫毛まつげをしきりに動かした。

宗助は慰めながら、ハンカチで頬に流れる涙を拭いてやった。

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宗助は慰さめながら、手帛ハンケチで頬に流れる涙をいてやった。

これが子供に関する夫婦の過去だった。

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これが子供に関する夫婦の過去であった。

この苦い経験をなめた彼らは、それ以後、幼子について多くを語ることを好まなかった。

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このにがい経験をめた彼らは、それ以後幼児について余り多くを語るを好まなかった。

けれども二人の生活の裏側は、この記憶のために寂しく染めつけられて、容易に剥げそうには見えなかった。

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けれども二人の生活の裏側は、この記憶のためにさむしく染めつけられて、容易にげそうには見えなかった。

時には、互いの笑い声を通してさえ、この裏側が薄暗く胸に映ることもあった。

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時としては、彼我ひがの笑声を通してさえ、御互の胸に、この裏側が薄暗く映る事もあった。

こういうわけだから、過去の歴史を今、夫に向かって新たに繰り返そうとは、御米も思いも寄らなかったのである。

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こういう訳だから、過去の歴史を今夫に向って新たに繰り返そうとは、御米も思い寄らなかったのである。

宗助も今さら妻からそれを聞かされる必要は少しも認めていなかったのである。

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宗助も今更妻からそれを聞かせられる必要は少しも認めていなかったのである。

御米が夫に打ち明けると言ったのは、もとより二人が共有していた事実についてではなかった。

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御米の夫に打ち明けると云ったのは、固より二人の共有していた事実についてではなかった。

彼女は三度目の胎児を失った時、夫からその折の様子を聞いて、いかにも自分が残酷な母であるかのように感じた。

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彼女は三度目の胎児を失った時、夫からその折の模様を聞いて、いかにも自分が残酷な母であるかのごとく感じた。

自分が手を下した覚えがないにせよ、考えようによっては、自分が命を与えたものの命を奪うために、暗闇と明るみの途中で待ち受けてこれを絞め殺したのと同じことだったからである。

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自分が手をくだした覚がないにせよ、考えようによっては、自分と生を与えたものの生を奪うために、暗闇くらやみ明海あかるみの途中に待ち受けて、これを絞殺こうさつしたと同じ事であったからである。

こう解釈した時、御米は恐ろしい罪を犯した悪人と自分を見なさないわけには行かなかった。

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こう解釈した時、御米は恐ろしい罪を犯した悪人とおのれ見傚みなさない訳に行かなかった。

そうして思いがけない道義上の呵責を人知れず受けた。

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そうして思わざる徳義上の苛責かしゃくを人知れず受けた。

しかも、その呵責を分かち合って共に苦しんでくれる者は、世界中に一人もなかった。

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しかもその苛責を分って、共に苦しんでくれるものは世界中に一人もなかった。

御米は夫にさえ、この苦しみを語らなかったのである。

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御米は夫にさえこの苦しみを語らなかったのである。

彼女はその時、普通の産婦のように三週間を床の中で暮らした。

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彼女はその時普通の産婦のように、三週間を床の中で暮らした。

それは体から言えば、きわめて安静の三週間に違いなかった。

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それは身体からだから云うときわめて安静の三週間に違なかった。

同時に心から言えば、恐るべき忍耐の三週間だった。

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同時に心から云うと、恐るべき忍耐の三週間であった。

宗助は亡くなった子のために小さい柩をこしらえて、人目に立たない葬儀を営んだ。

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宗助は亡児のために、小さいひつぎこしらえて、人の眼に立たない葬儀を営なんだ。

そののち、また死んだもののために小さな位牌を作った。

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しかる後、また死んだもののために小さな位牌いはいを作った。

位牌には黒い漆で戒名が書いてあった。

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位牌には黒いうるし戒名かいみょうが書いてあった。

位牌の主は戒名を持っていた。

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位牌のぬしは戒名を持っていた。

けれども俗名は、両親といえども知らなかった。

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けれども俗名ぞくみょう両親ふたおやといえども知らなかった。

宗助は最初それを茶の間の箪笥の上に載せて、役所から帰ると絶えず線香を焚いた。

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宗助は最初それを茶の間の箪笥たんすの上へせて、役所から帰ると絶えず線香をいた。

その香りが、六畳に寝ている御米の鼻に時々通った。

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そのにおいが六畳に寝ている御米の鼻に時々かよった。

彼女の感覚は当時それほどに鋭くなっていたのである。

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彼女の官能は当時それほどに鋭どくなっていたのである。

しばらくしてから、宗助は何を考えたか、小さい位牌を箪笥の引き出しの底へしまってしまった。

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しばらくしてから、宗助は何を考えたか、小さい位牌いはい箪笥たんす抽出ひきだしの底へしまってしまった。

そこには福岡で亡くなった子供の位牌と、東京で死んだ父の位牌が、別々に綿でくるんで丁寧に入れてあった。

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そこには福岡で亡くなった小供の位牌と、東京で死んだ父の位牌が別々に綿でくるんで丁寧ていねいに入れてあった。

東京の家を畳む時、宗助は先祖の位牌を一つ残らず携えてあちこちを漂うわずらわしさに耐えられなかったので、新しい父の分だけを鞄の中に収めて、その他はことごとく寺へ預けておいたのである。

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東京の家を畳むとき宗助は先祖の位牌を一つ残らずたずさえて、諸所を漂泊ひょうはくするのわずらわしさにえなかったので、新らしい父の分だけをかばんの中に収めて、その他はことごとく寺へ預けておいたのである。

御米は宗助のするすべてを、寝ながら見たり聞いたりしていた。

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御米は宗助のするすべてを寝ながら見たり聞いたりしていた。

そうして布団の上に仰向けになったまま、この二つの小さい位牌を、目に見えない因果の糸を長く引いて互いに結びつけた。

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そうして布団ふとんの上に仰向あおむけになったまま、この二つのさい位牌を、眼に見えない因果いんがの糸を長く引いて互に結びつけた。

それからその糸をなお遠く延ばして、位牌にもならずに流れてしまった、初めから形のない、ぼんやりした影のような死んだ子の上に投げかけた。

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それからその糸をなお遠く延ばして、これは位牌にもならずに流れてしまった、始めから形のない、ぼんやりした影のような死児の上に投げかけた。

御米は広島と福岡と東京に残る一つずつの記憶の底に、動かしがたい運命の厳かな支配を認め、その厳かな支配のもとに立つ幾月日かの自分を、不思議にも同じ不幸を繰り返すべく作られた母であると見た時、時ならぬ呪いの声を耳のそばに聞いた。

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御米は広島と福岡と東京に残る一つずつの記憶の底に、動かしがたい運命のおごそかな支配を認めて、その厳かな支配のもとに立つ、幾月日いくつきひの自分を、不思議にも同じ不幸を繰り返すべく作られた母であると観じた時、時ならぬ呪詛のろいの声を耳のはたに聞いた。

彼女が三週間の安静を布団の上で貪らなければならないように体の上から強いられている間、彼女の鼓膜はこの呪いの声でほとんど絶えず鳴っていた。

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彼女が三週間の安静を、蒲団ふとんの上にむさぼらなければならないように、生理的にいられている間、彼女の鼓膜はこの呪詛の声でほとんど絶えず鳴っていた。

三週間の安臥は、御米にとって実に比類のない忍耐の三週間だった。

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三週間の安臥は、御米に取って実に比類のない忍耐の三週間であった。

御米はこの苦しい半月余りを、枕の上でじっと見つめながら過ごした。

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御米はこの苦しい半月余りを、枕の上でじっと見つめながら過ごした。

しまいには我慢して横になっているのがいかにもつらかったので、看護婦の帰った翌る日にこっそり起きてぶらぶらしてみたが、それでも心に迫る不安は容易に紛れなかった。

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しまいには我慢して横になっているのが、いかにもつらかったので、看護婦の帰ったあくる日に、こっそり起きてぶらぶらして見たが、それでも心にせまる不安は、容易にまぎらせなかった。

だるい体を無理に動かす割に頭の中は少しも動いてくれないので、またがっかりして、しまいには取り放しの夜具の下へ潜り込んで、人の世を遠ざけるように目を固く閉じてしまうこともあった。

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退儀たいぎ身体からだを無理に動かす割に、頭の中は少しも動いてくれないので、また落胆がっかりして、ついには取り放しの夜具の下へもぐり込んで、人の世を遠ざけるように、眼を堅くつぶってしまう事もあった。

そのうち定めの三週間も過ぎて、御米の体は自然とすっきりした。

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そのうち定期の三週間も過ぎて、御米の身体はおのずからすっきりなった。

御米はきれいに床を払って、新しい気のする眉を再び鏡に映した。

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御米は奇麗きれいに床を払って、新らしい気のするまゆを再び鏡に照らした。

それは衣替えの時節だった。

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それは更衣ころもがえの時節であった。

御米も久しぶりに綿の入った重いものを脱ぎ捨てて、肌に垢の触れない軽い気持ちを爽やかに感じた。

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御米も久しぶりに綿のった重いものをてて、肌にあかの触れない軽い気持をさわやかに感じた。

春と夏の境をぱっと飾る陽気な日本の風物は、寂しい御米の頭にもいくらかの響きを与えた。

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春と夏の境をぱっと飾る陽気な日本の風物は、さむしい御米の頭にも幾分かの反響を与えた。

けれどもそれは、ただ沈んだものを掻き立てて賑やかな光の中に浮かせただけだった。

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けれども、それはただ沈んだものをき立てて、にぎやかな光りのうちに浮かしたまでであった。

御米の暗い過去の中に、その時、一種の好奇心が芽ばえたのである。

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御米の暗い過去の中にその時一種の好奇心がきざしたのである。

天気の格別に美しいある日の午前、御米はいつものとおり宗助を送り出してからすぐ表へ出た。

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天気のすぐれて美くしいある日の午前、御米はいつもの通り宗助を送り出してからじきに、表へ出た。

もう女は日傘を差して外を行くべき時節だった。

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もう女は日傘ひがさを差して外を行くべき時節であった。

急いで日向を歩くと、額のあたりが少し汗ばんだ。

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急いで日向ひなたを歩くと額のあたりが少し汗ばんだ。

御米は歩きながら、着物を着替える時に箪笥を開けたら、思わず一番上の引き出しの底にしまってあった新しい位牌に手が触れたことを思い続けて、とうとうある易者の門をくぐった。

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御米は歩き歩き、着物を着換える時、箪笥を開けたら、思わず一番目の抽出の底にしまってあった、新らしい位牌に手が触れた事を思いつづけて、とうとうある易者えきしゃの門をくぐった。

彼女は多くの文明人に共通の迷信を、子供の時から持っていた。

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彼女は多数の文明人に共通な迷信を子供の時から持っていた。

けれども普段は、その迷信もまた多くの文明人と同じように、遊び半分に外へ現れるだけで済んでいた。

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けれども平生はその迷信がまた多数の文明人と同じように、遊戯的に外に現われるだけで済んでいた。

それが実生活の厳かな部分を侵すようになったのは、まったくめずらしいと言わなければならなかった。

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それが実生活の厳かな部分をおかすようになったのは、全く珍らしいと云わなければならなかった。

御米はその時、真面目な態度と真面目な心をもって易者の前に座り、自分が将来子を生み、また子を育てるべき運命を天から与えられるだろうかを確かめた。

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御米はその時真面目まじめな態度と真面目な心をって、易者の前に坐って、自分が将来子を生むべき、また子を育てるべき運命を天から与えられるだろうかを確めた。

易者は、大道に店を出して通行人の身の上を一、二銭で占う人と少しも違った様子もなく、算木をいろいろに並べてみたり筮竹を揉んだり数えたりしたあと、もっともらしく顎の下の髭を握って何か考えたが、終わりに御米の顔をつくづく眺めた末、

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易者は大道に店を出して、往来の人の身の上を一二銭でうらなう人と、少しも違った様子もなく、算木さんぎをいろいろに並べて見たり、筮竹ぜいちくんだり数えたりした後で、仔細しさいらしくあごの下のひげを握って何か考えたが、終りに御米の顔をつくづくながめた末、

「あなたには子供はできません」

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「あなたには子供はできません」

と落ち着き払って宣告した。

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と落ちつき払って宣告した。

御米は無言のまま、しばらく易者の言葉を頭の中で噛んだり砕いたりした。

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御米は無言のまま、しばらく易者の言葉を頭の中でんだりくだいたりした。

それから顔を上げて、

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それから顔を上げて、

「なぜでしょう」

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「なぜでしょう」

と聞き返した。

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と聞き返した。

その時、御米は易者が返事をする前にまた考えるだろうと思った。

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その時御米は易者が返事をする前に、また考えるだろうと思った。

ところが彼は、まともに御米の眉間を見つめたまま、すぐ

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ところが彼はまともに御米の眼の間を見詰めたまま、すぐ

「あなたは人に対して済まないことをした覚えがある。その罪が祟っているから、子供は決して育たない」

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「あなたは人に対してすまない事をしたおぼえがある。その罪がたたっているから、子供はけっして育たない」

と言い切った。

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と云い切った。

御米はこの一言に心臓を射抜かれる思いがした。

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御米はこの一言いちげんに心臓を射抜かれる思があった。

くしゃりと首を折ったまま家へ帰って、その夜は夫の顔さえろくに見上げなかった。

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くしゃりと首を折ったなりうちへ帰って、その夜は夫の顔さえろくろく見上げなかった。

御米が宗助に打ち明けずに今まで過ごしたというのは、この易者の判断だった。

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御米の宗助に打ち明けないで、今まで過したというのは、この易者の判断であった。

宗助は、床の間に載せた細いランプの灯りが夜の中に沈んで行きそうな静かな晩に、初めて御米の口からその話を聞いた時、さすがにいい気持ちはしなかった。

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宗助は床の間に乗せた細い洋灯ランプが、夜の中に沈んで行きそうな静かな晩に、始めて御米の口からその話を聞いたとき、さすがに好い気味はしなかった。

「神経が立った時に、わざわざそんな馬鹿な所へ出かけるからさ。銭を出してつまらないことを言われて、馬鹿らしいじゃないか。その後もその占い師の所へ行くのかい」

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「神経の起った時、わざわざそんな馬鹿な所へ出かけるからさ。ぜにを出して下らない事を云われてつまらないじゃないか。その後もそのうらないうちへ行くのかい」

「恐ろしいから、もう決して行かないわ」

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「恐ろしいから、もうけっして行かないわ」

「行かない方がいい。馬鹿げている」

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「行かないがいい。馬鹿気ている」

宗助はわざとおおらかな答えをして、また寝てしまった。

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宗助はわざと鷹揚おうような答をしてまた寝てしまった。

十四

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十四

宗助と御米とは、仲のいい夫婦に違いなかった。

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宗助そうすけ御米およねとは仲の好い夫婦に違なかった。

いっしょになってから今日まで六年ほどの長い月日を、まだ半日も気まずく暮らしたことはなかった。

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いっしょになってから今日こんにちまで六年ほどの長い月日を、まだ半日も気不味きまずく暮した事はなかった。

言い争いで顔を赤らめ合ったためしは、なおのことなかった。

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言逆いさかいに顔を赤らめ合ったためしはなおなかった。

二人は呉服屋の反物を買って着た。

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二人は呉服屋の反物を買って着た。

米屋から米を取って食べた。

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米屋から米を取って食った。

けれどもそのほかには、世間一般に頼るところのきわめて少ない人間だった。

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けれどもその他には一般の社会に待つところのきわめて少ない人間であった。

彼らは、日常の必要品を供給する以上の意味において、社会の存在をほとんど認めていなかった。

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彼らは、日常の必要品を供給する以上の意味において、社会の存在をほとんど認めていなかった。

彼らにとって絶対に必要なものは互いだけで、その互いだけが彼らにはまた十分だった。

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彼らに取って絶対に必要なものは御互だけで、その御互だけが、彼らにはまた充分であった。

彼らは山の中にいる心を抱いて、都会に住んでいた。

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彼らは山の中にいる心をいだいて、都会に住んでいた。

自然の勢いとして、彼らの生活は単調に流れないわけには行かなかった。

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自然のいきおいとして、彼らの生活は単調に流れない訳に行かなかった。

彼らは複雑な社会のわずらわしさを避け得たと同時に、その社会の動きから出るさまざまの経験に直接触れる機会を自分でふさいでしまい、都会に住みながら都会に住む文明人の特権を捨てたような結果に行き着いた。

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彼らは複雑な社会のわずらいを避け得たと共に、その社会の活動から出るさまざまの経験に直接触れる機会を、自分とふさいでしまって、都会に住みながら、都会に住む文明人の特権をてたような結果に到着した。

彼らも、自分たちの日常に変化のないことは折々自覚した。

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彼らも自分達の日常に変化のない事は折々自覚した。

互いが互いに飽きるとか、物足りなくなるとかいう心は微塵も起こらなかったけれど、互いの頭に受け入れる生活の中身には、刺激に乏しいあるものが潜んでいるような鈍い訴えがあった。

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御互が御互にきるの、物足りなくなるのという心は微塵みじんも起らなかったけれども、御互の頭に受け入れる生活の内容には、刺戟しげきに乏しい或物が潜んでいるようなにぶうったえがあった。

それにもかかわらず、彼らが毎日同じ判を同じ胸に押して長い月日を倦まずに渡って来たのは、彼らが初めから世間一般に興味を失っていたためではなかった。

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それにもかかわらず、彼らが毎日同じ判を同じ胸に押して、長の月日をまず渡って来たのは、彼らが始から一般の社会に興味を失っていたためではなかった。

社会の方が彼らを二人きりに切り詰めて、その二人に冷たい背を向けた結果にほかならなかった。

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社会の方で彼らを二人ぎりに切りつめて、その二人に冷かなそびらを向けた結果にほかならなかった。

外に向かって伸びる余地を見出せなかった二人は、内に向かって深く伸び始めたのである。

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外に向って生長する余地を見出し得なかった二人は、内に向って深く延び始めたのである。

彼らの生活は広さを失うと同時に、深さを増して来た。

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彼らの生活は広さを失なうと同時に、深さを増して来た。

彼らは六年の間、世間との散らばった付き合いを求めなかった代わりに、同じ六年の歳月をすべて挙げて互いの胸を掘り下げた。

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彼らは六年の間世間に散漫な交渉を求めなかった代りに、同じ六年の歳月さいげつげて、互の胸を掘り出した。

彼らの命は、いつの間にか互いの底にまで食い入った。

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彼らの命は、いつの間にか互の底にまで喰い入った。

二人は世間から見れば、相変わらず二人だった。

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二人は世間から見れば依然として二人であった。

けれども互いから言えば、道義の上で切り離すことのできない一つの有機体になった。

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けれども互から云えば、道義上切り離す事のできない一つの有機体になった。

二人の精神を組み立てる神経の系は、最後の繊維に至るまで互いに抱き合ってでき上がっていた。

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二人の精神を組み立てる神経系は、最後の繊維に至るまで、互に抱き合ってでき上っていた。

彼らは大きな水盤の面に落ちた二滴の油のようなものだった。

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彼らは大きな水盤の表にしたたった二点の油のようなものであった。

水をはじいて二つがいっしょに集まったというより、水にはじかれた勢いで丸く寄り添った結果、離れることができなくなったと言う方が適当だった。

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水をはじいて二つがいっしょに集まったと云うよりも、水に弾かれた勢で、丸く寄り添った結果、離れる事ができなくなったと評する方が適当であった。

彼らはこの抱き合いの中に、普通の夫婦には見つけがたい親しみと満ち足りと、それに伴う倦怠とを兼ね備えていた。

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彼らはこの抱合ほうごううちに、尋常の夫婦に見出しがたい親和と飽満ほうまんと、それに伴なう倦怠けんたいとを兼ね具えていた。

そうして、その倦怠のけだるい気分に支配されながら、自分たちを幸福と評価することだけは忘れなかった。

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そうしてその倦怠のものうい気分に支配されながら、自己を幸福と評価する事だけは忘れなかった。

倦怠は彼らの意識に眠りのような幕を掛けて、二人の愛をうっとりと霞ませることはあった。

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倦怠は彼らの意識に眠のような幕を掛けて、二人の愛をうっとりかすます事はあった。

けれども、ささらで神経を洗われるような不安は決して起こし得なかった。

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けれどもささらで神経を洗われる不安はけっして起し得なかった。

要するに、彼らは世間に疎いだけ、それだけ仲のいい夫婦だったのである。

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要するに彼らは世間にうといだけそれだけ仲の好い夫婦であったのである。

彼らは人並み以上に睦まじい月日を変わらずに今日から明日へとつないで行きながら、普段はそこに気がつかずに顔を見合わせているようなものの、時々、自分たちの睦まじがる心を自分ではっきりと認めることがあった。

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彼らは人並以上にむつましい月日をかわらずに今日きょうから明日あすへとつないで行きながら、常はそこに気がつかずに顔を見合わせているようなものの、時々自分達の睦まじがる心を、自分でしかと認める事があった。

その場合には、必ず今まで睦まじく過ごした長い年月をさかのぼって、自分たちがどんな犠牲を払って結婚をあえてしたかという当時を思い出さないわけには行かなかった。

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その場合には必ず今まで睦まじく過ごした長の歳月としつきさかのぼって、自分達がいかな犠牲を払って、結婚をあえてしたかと云う当時を憶い出さない訳には行かなかった。

彼らは、自然が彼らの前にもたらした恐るべき復讐のもとにおののきながらひざまずいた。

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彼らは自然が彼らの前にもたらした恐るべき復讐ふくしゅうもとおののきながらひざまずいた。

同時に、この復讐を受けるために得た互いの幸福に対して、愛の神に一片の香を焚くことを忘れなかった。

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同時にこの復讐を受けるために得た互の幸福に対して、愛の神に一弁いちべんこうく事を忘れなかった。

彼らは鞭打たれながら死に赴く者だった。

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彼らはむちうたれつつ死に赴くものであった。

ただ、その鞭の先にすべてを癒す甘い蜜が着いていることを知ったのである。

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ただその鞭の先に、すべてをやす甘い蜜の着いている事をさとったのである。

宗助は相応に資産のある東京の者の子弟として、彼らに共通の派手な好みを、学生時代には遠慮なく満たした男である。

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宗助は相当に資産のある東京ものの子弟として、彼らに共通な派出はで嗜好しこうを、学生時代には遠慮なくたした男である。

彼はその時、身なりにも動作にも思想にも、ことごとく今風の才子の面影をみなぎらせて、高い首を世間にもたげながら、行こうと思うあたりを闊歩した。

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彼はその時服装なりにも、動作にも、思想にも、ことごとく当世らしい才人の面影おもかげみなぎらして、たかい首を世間にもたげつつ、行こうと思うあたりを濶歩かっぽした。

彼の襟が白かったように、彼のズボンの裾がきれいに折り返されていたように、その下から見える彼の靴下が模様入りのカシミヤだったように、彼の頭は華奢な世間向きだった。

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彼のえりの白かったごとく、彼の洋袴ズボンすそ奇麗きれいに折り返されていたごとく、その下から見える彼の靴足袋くつたびが模様入のカシミヤであったごとく、彼の頭は華奢きゃしゃな世間向きであった。

彼は生まれつき理解のいい男だった。

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彼は生れつき理解の好い男であった。

したがって、大した勉強をする気にはなれなかった。

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したがって大した勉強をする気にはなれなかった。

学問は社会へ出るための手段と心得ていたから、社会を一歩退かなくては届かない学者という地位には、あまり多くの興味を持っていなかった。

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学問は社会へ出るための方便と心得ていたから、社会を一歩退しりぞかなくっては達する事のできない、学者という地位には、余り多くの興味をっていなかった。

彼はただ教室へ出て、普通の学生のするとおり、多くのノートを黒くした。

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彼はただ教場へ出て、普通の学生のする通り、多くのノートブックを黒くした。

けれども家へ帰って来て、それを読み直したり手を入れたりしたことはめったになかった。

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けれどもうちへ帰って来て、それを読み直したり、手を入れたりした事は滅多めったになかった。

休んで抜けた所さえ、たいていはそのままにして放っておいた。

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休んで抜けた所さえ大抵はそのままにして放って置いた。

彼は下宿の机の上にこのノートをきれいに積み上げて、いつ見ても整然と秩序のついた書斎を空にしては外を出歩いた。

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彼は下宿の机の上に、このノートブックを奇麗に積み上げて、いつ見ても整然と秩序のついた書斎をからにしては、外を出歩るいた。

友達は多く彼の大らかさを羨んだ。

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友達は多く彼の寛濶かんかつうらやんだ。

宗助も得意だった。

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宗助も得意であった。

彼の未来は虹のように美しく彼の瞳を照らした。

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彼の未来はにじのように美くしく彼のひとみを照らした。

その頃の宗助は今と違って、多くの友達を持っていた。

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その頃の宗助は今と違って多くの友達を持っていた。

実を言うと、軽やかな彼の目に映るすべての人は、ほとんど誰彼の区別なく友達だった。

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実を云うと、軽快な彼の眼に映ずるすべての人は、ほとんど誰彼の区別なく友達であった。

彼は敵という言葉の意味を正しく理解できない楽天家として、若い世をのびのびと渡った。

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彼は敵という言葉の意味を正当に解し得ない楽天家として、若い世をのびのびと渡った。

「なに、不景気な顔さえしなければ、どこへ行ったって歓迎されるものだよ」

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「なに不景気な顔さえしなければ、どこへ行ったって驩迎かんげいされるもんだよ」

と学友の安井によく話したことがあった。

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と学友の安井によく話した事があった。

実際、彼の顔は、他人を不愉快にするほど深刻な表情を示せたためしがなかった。

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実際彼の顔は、ひとを不愉快にするほど深刻な表情を示し得たためしがなかった。

「君は体が丈夫だから結構だ」

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「君は身体からだが丈夫だから結構だ」

と、よくどこかに故障の起こる安井が羨ましがった。

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とよくどこかに故障の起る安井がうらやましがった。

この安井というのは、国は越前だが長く横浜にいたので、言葉や様子は少しも東京の者と違う点がなかった。

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この安井というのは国は越前えちぜんだが、長く横浜にいたので、言葉や様子はごうも東京ものと異なる点がなかった。

着物道楽で、髪の毛を長くして真ん中から分ける癖があった。

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着物道楽で、髪の毛を長くして真中から分ける癖があった。

高等学校は違っていたけれども、講義の時によく隣り合わせに並んで、時々聞きそこなった所などをあとから質問するので、口をきき出したのがもとになって、つい親しくなった。

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高等学校は違っていたけれども、講義のときよく隣合せに並んで、時々聞きそくなった所などを後から質問するので、口をき出したのが元になって、つい懇意になった。

それが学年の初めだったので、京都へ来て日のまだ浅い宗助にはだいぶ助けになった。

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それが学年のはじまりだったので、京都へ来て日のまだ浅い宗助にはだいぶんの便宜べんぎであった。

彼は安井の案内で、新しい土地の印象を酒のように吸い込んだ。

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彼は安井の案内で新らしい土地の印象を酒のごとく吸い込んだ。

二人は毎晩のように三条とか四条とかいう賑やかな町を歩いた。

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二人は毎晩のように三条とか四条とかいうにぎやかな町を歩いた。

時によっては京極も通り抜けた。

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時によると京極きょうごくも通り抜けた。

橋の真ん中に立って鴨川の水を眺めた。

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橋の真中に立って鴨川かもがわの水を眺めた。

東山の上に出る静かな月を見た。

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東山ひがしやまの上に出る静かな月を見た。

そうして京都の月は東京の月より丸くて大きいように感じた。

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そうして京都の月は東京の月よりも丸くて大きいように感じた。

町や人に飽きた時は、土曜と日曜を利用して遠い郊外に出た。

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町や人にきたときは、土曜と日曜を利用して遠い郊外に出た。

宗助は至る所の大きな竹藪に緑のこもる深い姿を喜んだ。

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宗助は至る所の大竹藪おおたけやぶに緑のこもる深い姿を喜んだ。

松の幹が染めたように赤いのが日を照り返して幾本となく並ぶ風情を楽しんだ。

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松の幹の染めたように赤いのが、日を照り返して幾本となく並ぶ風情ふぜいを楽しんだ。

ある時は大悲閣へ登って、即非の額の下で仰向きながら、谷底の流れを下る櫓の音を聞いた。

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ある時は大悲閣だいひかくへ登って、即非そくひの額の下に仰向あおむきながら、谷底の流をくだの音を聞いた。

その音が雁の鳴き声によく似ているのを、二人とも面白がった。

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その音がかりの鳴声によく似ているのを二人とも面白がった。

ある時は平八茶屋まで出掛けて行って、そこに一日寝ていた。

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ある時は、平八茶屋へいはちぢゃやまで出掛けて行って、そこに一日寝ていた。

そうして、まずい川魚の串に刺したのをおかみさんに焼かせて酒を飲んだ。

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そうして不味まずい河魚のくしに刺したのを、かみさんに焼かして酒をんだ。

そのおかみさんは手拭いをかぶって、紺の裁着け袴のようなものを履いていた。

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そのかみさんは、手拭てぬぐいかぶって、こん立付たっつけみたようなものを穿いていた。

宗助はこんな新しい刺激のもとに、しばらくは欲求の満足を得た。

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宗助はこんな新らしい刺戟しげきもとに、しばらくは慾求の満足を得た。

けれども、ひととおり古い都の匂いを嗅いで歩くうちに、すべてがやがて平板に見え出して来た。

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けれどもひととおり古い都のにおいいで歩くうちに、すべてがやがて、平板に見えだして来た。

その時、彼は美しい山の色と清い水の色が最初ほど鮮やかな影を自分の頭に宿さないのを物足りなく思い始めた。

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その時彼は美くしい山の色と清い水の色が、最初ほど鮮明な影を自分の頭に宿さないのを物足らず思い始めた。

彼は暖かい若い血を抱いて、そのほてりを冷ます深い緑に出会えなくなった。

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彼は暖かな若い血をいだいて、そのほてりをさます深い緑に逢えなくなった。

かといって、この情熱を焼き尽くすほどの激しい活動には、もちろん出会わなかった。

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そうかといって、この情熱をき尽すほどのはげしい活動には無論出会わなかった。

彼の血は高い脈を打って、いたずらにむずがゆく彼の体の中を流れた。

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彼の血は高い脈を打って、いたずらにむずがゆく彼の身体の中を流れた。

彼は腕組みをして、座ったまま四方の山を眺めた。

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彼は腕組をして、ながら四方の山を眺めた。

そうして、

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そうして、

「もうこんな古臭い所には飽きた」

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「もうこんな古臭い所には厭きた」

と言った。

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と云った。

安井は笑いながら、比較のために自分の知っているある友達の故郷の話をして宗助に聞かせた。

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安井は笑いながら、比較のため、自分の知っている或友達の故郷の物語をして宗助に聞かした。

それは、浄瑠璃の「間の土山、雨が降る」で知られたある有名な宿場のことだった。

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それは浄瑠璃じょうるりあい土山つちやま雨が降るとある有名な宿しゅくの事であった。

朝起きてから夜寝るまで目に入るものは山よりほかにない所で、まるですり鉢の底に住んでいるのと同じ有り様だと告げた上、安井はその友達の小さい時分の経験として、五月雨の降り続く折などは、子供心に、今にも自分の住んでいる宿場が四方の山から流れて来る雨の中に浸かってしまいそうで心配でならなかった、という話をした。

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朝起きてから夜寝るまで、眼に入るものは山よりほかにない所で、まるで擂鉢すりばちの底に住んでいると同じ有様だと告げた上、安井はその友達の小さい時分の経験として、五月雨さみだれの降りつづく折などは、小供心に、今にも自分の住んでいる宿しゅくが、四方の山から流れて来る雨の中にかってしまいそうで、心配でならなかったと云う話をした。

宗助は、そんなすり鉢の底で一生を過ごす人の運命ほど情けないものはあるまいと考えた。

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宗助はそんな擂鉢の底で一生を過す人の運命ほど情ないものはあるまいと考えた。

「そういう所で、人間がよく生きていられるな」

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「そう云う所に、人間がよく生きていられるな」

と不思議そうな顔をして安井に言った。

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と不思議そうな顔をして安井に云った。

安井も笑っていた。

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安井も笑っていた。

そうして土山から出た人物の中では、千両箱をすり替えて磔になったのが一番大物なのだという小話を、やはり友達から聞いたとおりに繰り返した。

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そうして土山つちやまから出た人物のうちでは、千両函せんりょうばこえてはりつけになったのが一番大きいのだと云う一口話をやはり友達から聞いた通り繰り返した。

狭い京都に飽きた宗助は、単調な生活を破る彩りとして、そういう出来事も百年に一度くらいは必要だろうとまで思った。

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狭い京都に飽きた宗助は、単調な生活を破る色彩として、そう云う出来事も百年に一度ぐらいは必要だろうとまで思った。

その時分の宗助の目は、常に新しい世界にばかり注がれていた。

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その時分の宗助の眼は、常に新らしい世界にばかりそそがれていた。

だから、自然がひととおり四季の色を見せてしまったあとでは、再び去年の記憶を呼び戻すために花や紅葉を迎える必要がなくなった。

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だから自然がひととおり四季の色を見せてしまったあとでは、再び去年の記憶を呼び戻すために、花や紅葉もみじを迎える必要がなくなった。

強く激しい命に生きたという証しを飽くまで握りたかった彼には、生きた現在とこれから生まれようとする未来が当面の問題だったけれど、消えかかる過去は夢と同じで、価値の乏しい幻に過ぎなかった。

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強くはげしい命に生きたと云う証券をくまで握りたかった彼には、きた現在と、これから生れようとする未来が、当面の問題であったけれども、消えかかる過去は、夢同様にあたいの乏しい幻影に過ぎなかった。

彼は多くの剥げかかった社と、さびれ果てた寺を見尽くして、色の褪せた歴史の上に黒い頭を振り向ける勇気を失いかけた。

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彼は多くのげかかったやしろと、寂果さびはてた寺を見尽して、色のめた歴史の上に、黒い頭を振り向ける勇気を失いかけた。

寝ぼけた昔をさまよい歩くほど、彼の気分は枯れていなかったのである。

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寝耄ねぼけた昔に彽徊ていかいするほど、彼の気分は枯れていなかったのである。

学年の終わりに、宗助と安井とは再会を約束して別れた。

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学年の終りに宗助と安井とは再会を約して手を分った。

安井はひとまず郷里の福井へ帰って、それから横浜へ行くつもりだから、その時には手紙を出して知らせよう、そうしてなるべくなら同じ汽車で京都へ下ろう、もし時間が許すなら興津あたりで泊まって、清見寺や三保の松原や久能山でも見ながらゆっくり遊んで行こうと言った。

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安井はひとまず郷里の福井へ帰って、それから横浜へ行くつもりだから、もしその時には手紙を出して通知をしよう、そうしてなるべくならいっしょの汽車で京都へくだろう、もし時間が許すなら、興津おきつあたりで泊って、清見寺せいけんじ三保みほの松原や、久能山くのうざんでも見ながらゆっくり遊んで行こうと云った。

宗助は大いに結構だと答えて、腹の中ではすでに安井の葉書を手にする時の心持ちさえ思い描いた。

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宗助は大いによかろうと答えて、腹のなかではすでに安井の端書はがきを手にする時の心持さえ予想した。

宗助が東京へ帰った時は、父はもちろんまだ丈夫だった。

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宗助が東京へ帰ったときは、父はもとよりまだ丈夫であった。

小六は子供だった。

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小六ころくは子供であった。

彼は一年ぶりに盛んな都の炎熱と煤煙を吸うのを、かえって嬉しく感じた。

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彼は一年ぶりにさかんな都の炎熱と煤煙ばいえんを呼吸するのをかえってうれしく感じた。

焼けるような日の下に、渦を巻いて狂い出しそうな瓦の色が幾里となく続く景色を高い所から眺めて、これでこそ東京だと思うことさえあった。

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くような日の下に、うずいて狂い出しそうなかわらの色が、幾里となく続く景色けしきを、高い所から眺めて、これでこそ東京だと思う事さえあった。

今の宗助なら目を回しかねない事々物々が、ことごとく壮快の二字を彼の額に焼きつけるように、その時は照り返して来たのである。

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今の宗助なら目をまわしかねない事々物々が、ことごとく壮快の二字を彼の額に焼き付けべく、その時は反射して来たのである。

彼の未来は封じられた蕾のように、開かないうちは他人に分からないばかりでなく、自分にも確かには分からなかった。

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彼の未来は封じられたつぼみのように、開かない先はひとに知れないばかりでなく、自分にもしかとは分らなかった。

宗助はただ、洋々の二字が彼の前途にたなびいている気がしただけだった。

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宗助はただ洋々の二字が彼の前途に棚引たなびいている気がしただけであった。

彼はこの暑い休暇中にも、卒業後の自分についての算段をおろそかにはしなかった。

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彼はこの暑い休暇中にも卒業後の自分に対するはかりごとゆるがせにはしなかった。

彼は大学を出てから役所に入ろうか、それとも実業に進もうか、それさえまだはっきりと心に決めていなかったにもかかわらず、どちらの方面でも構わない、今のうちから進めるだけ進んでおく方が得だと気づいた。

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彼は大学を出てから、官途につこうか、または実業に従おうか、それすら、まだ判然はっきりと心にきめていなかったにかかわらず、どちらの方面でも構わず、今のうちから、進めるだけ進んでおく方が利益だと心づいた。

彼は直接、父の紹介を得た。

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彼は直接父の紹介を得た。

父を通して、間接にその知人の紹介を得た。

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父を通して間接にその知人の紹介を得た。

そうして自分の将来に影響を与えられそうな人を物色して、二、三の訪問を試みた。

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そうして自分の将来を影響し得るような人を物色して、二三の訪問を試みた。

彼らのある者は、避暑という名目のもとにすでに東京を離れていた。

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彼らのあるものは、避暑という名義のもとに、すでに東京を離れていた。

ある者は不在だった。

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あるものは不在であった。

またある者は多忙のため、時を決めて勤め先で会おうと言った。

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またあるものは多忙のため時を期して、勤務先で会おうと云った。

宗助は日のまだ高くならない七時頃にエレベーターで煉瓦造りの三階へ案内されて、そこの応接間にもう七、八人も自分と同じように同じ人を待っている光景を見て驚いたこともあった。

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宗助は日のまだ高くならない七時頃に、昇降器エレヴェーター煉瓦造れんがづくりの三階へ案内されて、そこの応接間に、もう七八人も自分と同じように、同じ人を待っている光景を見て驚ろいた事もあった。

彼はこうして新しい所へ行って新しい物に接するのが、用向きの成否にかかわらず、今まで目につかずに過ぎた生きた世界の断片を頭へ詰め込むような気がして、何となく愉快だった。

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彼はこうして新らしい所へ行って、新らしい物に接するのが、用向の成否に関わらず、今まで眼に付かずに過ぎたきた世界の断片を頭へ詰め込むような気がして何となく愉快であった。

父の言いつけで毎年のとおり虫干しの手伝いをさせられるのも、こんな時にはかえって興味の多い仕事の一部分に数えられた。

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父の云いつけで、毎年の通り虫干の手伝をさせられるのも、こんな時には、かえって興味の多い仕事の一部分に数えられた。

彼は冷たい風の吹き通す土蔵の入口の湿っぽい石の上に腰を掛けて、古くから家にあった江戸名所図会と江戸砂子という本を物めずらしそうに眺めた。

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彼は冷たい風の吹き通す土蔵の戸前とまえ湿しめっぽい石の上に腰を掛けて、古くから家にあった江戸名所図会えどめいしょずえと、江戸砂子えどすなごという本を物珍しそうに眺めた。

畳まで熱くなった座敷の真ん中にあぐらをかいて、下女の買って来た樟脳を小さな紙切れに取り分けては、医者でくれる粉薬のような形に畳んだ。

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畳まで熱くなった座敷の真中へ胡坐あぐらいて、下女の買って来た樟脳しょうのうを、小さな紙片かみぎれに取り分けては、医者でくれる散薬のような形に畳んだ。

宗助は子供の時から、この樟脳の高い香りと、汗の出る土用と、ほうろく灸と、青空をゆるく舞う鳶とを結びつけて思い浮かべていた。

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宗助は小供の時から、この樟脳の高いかおりと、汗の出る土用と、炮烙灸ほうろくぎゅうと、蒼空あおぞらゆるく舞うとびとを連想していた。

そうこうするうちに、暦は立秋に入った。

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とかくするうちにせつは立秋に入った。

二百十日の前には風が吹いて、雨が降った。

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二百十日の前には、風が吹いて、雨が降った。

空には薄墨のにじんだような雲がしきりに動いた。

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空には薄墨うすずみ煮染にじんだような雲がしきりに動いた。

寒暖計が二、三日下がりっきりに下がった。

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寒暖計が二三日下がり切りに下がった。

宗助はまた行李を麻縄でからげて、京都へ向かう支度をしなければならなくなった。

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宗助はまた行李こうりを麻縄でからげて、京都へ向う支度をしなければならなくなった。

彼はこの間にも、安井との約束は忘れなかった。

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彼はこの間にも安井と約束のある事は忘れなかった。

家へ帰った当座は、まだ二か月も先のことだからとゆっくり構えていたが、だんだん日が迫るにつれて安井の消息が気になってきた。

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うちへ帰った当座は、まだ二カ月も先の事だからと緩くり構えていたが、だんだん時日がせまるに従って、安井の消息が気になってきた。

安井はその後、一枚の葉書さえ寄こさなかったのである。

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安井はその後一枚の端書はがきさえ寄こさなかったのである。

宗助は安井の郷里の福井へ宛てて手紙を出してみた。

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宗助は安井の郷里の福井へ向けて手紙を出して見た。

けれども返事はついに来なかった。

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けれども返事はついに来なかった。

宗助は横浜の方へ問い合わせてみようと思ったが、つい番地も町名も聞いておかなかったので、どうすることもできなかった。

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宗助は横浜の方へ問い合わせて見ようと思ったが、つい番地も町名も聞いて置かなかったので、どうする事もできなかった。

立つ前の晩に、父は宗助を呼んで、宗助の求めどおり、普通の旅費のほかに途中で二、三日滞在した上、京都へ着いてからの当分の小遣いを渡して、

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立つ前の晩に、父は宗助を呼んで、宗助の請求通り、普通の旅費以外に、途中で二三日滞在した上、京都へ着いてからの当分の小遣こづかいを渡して、

「なるべく節約しなくてはいけない」

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「なるたけ節倹せっけんしなくちゃいけない」

と諭した。

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さとした。

宗助はそれを、普通の子が普通の親の訓戒を聞く時のように聞いた。

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宗助はそれを、普通の子が普通の親の訓戒を聞く時のごとくに聞いた。

父はまた、

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父はまた、

「来年また帰って来るまでは会わないから、ずいぶん気をつけて」

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「来年また帰って来るまでは会わないから、随分気をつけて」

と言った。

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と云った。

その帰って来る時節には、宗助はもう帰れなくなっていたのである。

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その帰って来る時節には、宗助はもう帰れなくなっていたのである。

そうして帰って来た時は、父の亡骸がもう冷たくなっていたのである。

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そうして帰って来た時は、父の亡骸なきがらがもう冷たくなっていたのである。

宗助は今に至るまで、その時の父の面影を思い浮かべては済まないような気がした。

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宗助は今に至るまでその時の父の面影おもかげを思い浮べてはすまないような気がした。

いよいよ立つという間際に、宗助は安井から一通の封書を受け取った。

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いよいよ立つと云う間際まぎわに、宗助は安井から一通の封書を受取った。

開いてみると、約束どおりいっしょに帰るつもりでいたが、少し事情があって先に立たなければならなくなったから、という断りを述べた末に、いずれ京都でゆっくり会おうと書いてあった。

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開いて見ると、約束通りいっしょに帰るつもりでいたが、少し事情があって先へ立たなければならない事になったからと云うことわりを述べた末に、いずれ京都でゆっくり会おうと書いてあった。

宗助はそれを洋服の内懐に押し込んで汽車に乗った。

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宗助はそれを洋服の内懐うちぶところに押し込んで汽車に乗った。

約束の興津へ来た時、彼は一人でプラットフォームへ降りて、細長い一筋町を清見寺の方へ歩いた。

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約束の興津おきつへ来たとき彼は一人でプラットフォームへ降りて、細長い一筋町を清見寺せいけんじの方へ歩いた。

夏もすでに過ぎた九月の初めなので、おおかたの避暑客は早く引き上げたあとで、宿屋は比較的静かだった。

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夏もすでに過ぎた九月の初なので、おおかたの避暑客は早く引き上げた後だから、宿屋は比較的閑静であった。

宗助は海の見える一室の中で腹ばいになって、安井へ送る絵葉書に二、三行の文句を書いた。

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宗助は海の見える一室の中に腹這はらばいになって、安井へ送る絵端書えはがきへ二三行の文句を書いた。

その中に、君が来ないから僕一人でここへ来た、という言葉を入れた。

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そのなかに、君が来ないから僕一人でここへ来たという言葉を入れた。

翌日も約束どおり一人で三保と竜華寺を見物して、京都へ行ってから安井に話す材料をできるだけこしらえた。

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翌日も約束通り一人で三保みほ竜華寺りゅうげじを見物して、京都へ行ってから安井に話す材料をできるだけこしらえた。

しかし天気のせいか、当てにした連れがいないためか、海を見ても山へ登ってもそれほど面白くなかった。

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しかし天気のせいか、あてにしたつれのないためか、海を見ても、山へ登っても、それほど面白くなかった。

宿にじっとしているのは、なお退屈だった。

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宿にじっとしているのは、なお退屈であった。

宗助はそそくさとまた宿の浴衣を脱ぎ捨てて、絞りの帯とともに欄干に掛け、興津を去った。

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宗助は匆々そうそうにまた宿の浴衣ゆかたてて、しぼりの三尺と共に欄干らんかんに掛けて、興津を去った。

京都へ着いた一日目は、夜汽車の疲れやら荷物の整理やらで、通りの日陰を知らずに暮らした。

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京都へ着いた一日目は、夜汽車の疲れやら、荷物の整理やらで、往来の日影を知らずに暮らした。

二日目になってようやく学校へ出てみると、教師はまだ出そろっていなかった。

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二日目になってようやく学校へ出て見ると、教師はまだ出揃でそろっていなかった。

学生もいつもより数が足りなかった。

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学生も平日いつもよりは数が不足であった。

不審なことに、自分より三、四日前に帰っているはずの安井の顔さえどこにも見えなかった。

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不審な事には、自分より三四さんよ前に帰っているべきはずの安井の顔さえどこにも見えなかった。

宗助はそれが気にかかるので、帰りにわざわざ安井の下宿へ回ってみた。

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宗助はそれが気にかかるので、帰りにわざわざ安井の下宿へ回って見た。

安井のいる所は、木と水の多い加茂の社のそばだった。

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安井のいる所は樹と水の多い加茂かもやしろの傍であった。

彼は夏休み前から、少し静かな町外れへ移って勉強するつもりだとか言って、わざわざこの不便な、村同然の田舎へ引っ込んだのである。

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彼は夏休み前から、少し閑静な町外れへ移って勉強するつもりだとか云って、わざわざこの不便な村同様な田舎いなかへ引込んだのである。

彼の見つけ出した家からしてさびた土塀を二方に巡らして、すでに古風に整っていた。

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彼の見つけ出した家からがさび土塀どべいを二方にめぐらして、すでに古風に片づいていた。

宗助は安井から、そこの主人はもと加茂神社の神官の一人だったという話を聞いた。

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宗助は安井から、そこの主人はもと加茂神社の神官の一人であったと云う話を聞いた。

非常に能弁な京都言葉を操る四十ばかりの細君がいて、安井の世話をしていた。

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非常に能弁な京都言葉をあやつる四十ばかりの細君がいて、安井の世話をしていた。

「世話といったって、ただまずいおかずをこしらえて、三度ずつ部屋へ運んでくれるだけだよ」

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「世話って、ただ不味まずさいこしらえて、三度ずつへやへ運んでくれるだけだよ」

と安井は移り立ての頃からこの細君の悪口を言っていた。

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と安井は移り立てからこの細君の悪口をいていた。

宗助は安井をここに二、三度訪ねた縁で、彼のいわゆるまずいおかずをこしらえる主を知っていた。

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宗助は安井をここに二三度訪ねた縁故で、彼のいわゆる不味い菜を拵らえるぬしを知っていた。

細君の方でも宗助の顔を覚えていた。

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細君の方でも宗助の顔を覚えていた。

細君は宗助を見るやいなや、例の柔らかい舌で丁寧な挨拶を述べたあと、こちらから聞こうと思って来た安井の消息を、かえって向こうから尋ねた。

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細君は宗助を見るや否や、例の柔かい舌で慇懃いんぎん挨拶あいさつを述べた後、こっちから聞こうと思って来た安井の消息を、かえって向うから尋ねた。

細君の言うところによると、彼は郷里へ帰ってから当日に至るまで、一片の便りさえ下宿へは出さなかったのである。

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細君の云うところによると、彼は郷里へ帰ってから当日に至るまで、一片の音信さえ下宿へは出さなかったのである。

宗助は意外な思いで自分の下宿へ帰って来た。

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宗助は案外な思で自分の下宿へ帰って来た。

それから一週間ほどは、学校へ出るたびに、今日は安井の顔が見えるか、明日は安井の声がするかと、毎日漠然とした期待を抱いては教室の戸を開けた。

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それから一週間ほどは、学校へ出るたんびに、今日は安井の顔が見えるか、明日あすは安井の声がするかと、毎日漠然ばくぜんとした予期をいだいては教室の戸を開けた。

そうして毎日また、漠然とした物足りなさを感じては帰って来た。

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そうして毎日また漠然とした不足を感じては帰って来た。

もっとも最後の三、四日の宗助は、早く安井に会いたいと思うよりも、少し事情があるから失敬して先に立つ、とわざわざ知らせておきながら、いつまで待っても影も見せない彼の安否を、関係者としてむしろ気にかけていたのである。

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もっとも最後の三四日における宗助は早く安井に会いたいと思うよりも、少し事情があるから、失敬して先へ立つとわざわざ通知しながら、いつまで待っても影も見せない彼の安否を、関係者としてむしろ気にかけていたのである。

彼は学友の誰彼にまんべんなく安井の動静を聞いてみた。

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彼は学友の誰彼に万遍まんべんなく安井の動静を聞いて見た。

しかし誰も知る者はなかった。

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しかし誰も知るものはなかった。

ただ一人が、昨夜四条の人込みの中で安井によく似た浴衣がけの男を見た、と答えたことがあった。

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ただ一人が、昨夕ゆうべ四条の人込の中で、安井によく似た浴衣ゆかたがけの男を見たと答えた事があった。

しかし宗助には、それが安井だろうとは信じられなかった。

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しかし宗助にはそれが安井だろうとは信じられなかった。

ところがその話を聞いた翌日、つまり宗助が京都へ着いてから約一週間ののち、話のとおりの身なりをした安井が突然宗助の所へ訪ねて来た。

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ところがその話を聞いた翌日、すなわち宗助が京都へ着いてから約一週間の後、話の通りの服装なりをした安井が、突然宗助の所へ尋ねて来た。

宗助は、着流しのまま麦わら帽子を手に持った友達の姿を久しぶりに眺めた時、夏休み前の彼の顔の上に新しい何物かがさらに付け加えられたような気がした。

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宗助は着流しのまま麦藁帽むぎわらぼうを手に持った友達の姿を久し振に眺めた時、夏休み前の彼の顔の上に、新らしい何物かがさらに付け加えられたような気がした。

安井は黒い髪に油を塗って、目立つほどきれいに頭を分けていた。

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安井は黒い髪に油を塗って、目立つほど奇麗きれいに頭を分けていた。

そうして、今床屋へ行って来たところだ、と言い訳らしいことを言った。

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そうして今床屋へ行って来たところだと言訳らしい事を云った。

その晩、彼は宗助と一時間余りも雑談にふけった。

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その晩彼は宗助と一時間余りも雑談にふけった。

彼の重々しい口のきき方、自分に遠慮して思い切れないような話の調子、「しかるに」

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彼の重々しい口の利き方、自分をはばかって、思い切れないような話の調子、「しかるに」

という口癖、すべて普段の彼と違う点はなかった。

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と云う口癖、すべて平生の彼と異なる点はなかった。

ただ彼は、なぜ宗助より先に横浜を立ったかを語らなかった。

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ただ彼はなぜ宗助より先へ横浜を立ったかを語らなかった。

また途中どこで手間取ったために宗助より遅れて京都へ着いたかを、はっきり告げなかった。

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また途中どこで暇取ひまどったため、宗助よりおくれて京都へ着いたかを判然はっきり告げなかった。

しかし彼は、三、四日前にようやく京都へ着いたことだけを明らかにした。

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しかし彼は三四日前ようやく京都へ着いた事だけを明かにした。

そうして、夏休み前にいた下宿へはまだ帰らずにいると言った。

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そうして、夏休み前にいた下宿へはまだ帰らずにいると云った。

「それで、どこに」

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「それでどこに」

と宗助が聞いた時、彼は自分が今泊まっている宿屋の名前を宗助に教えた。

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と宗助が聞いたとき、彼は自分の今泊っている宿屋の名前を、宗助に教えた。

それは三条あたりの三流どころの家だった。

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それは三条へんの三流位のいえであった。

宗助はその名前を知っていた。

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宗助はその名前を知っていた。

「どうしてそんな所へ入ったんだ。当分そこにいるつもりなのかい」

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「どうして、そんな所へ這入はいったのだ。当分そこにいるつもりなのかい」

と宗助は重ねて聞いた。

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と宗助は重ねて聞いた。

安井はただ、少し都合があって、とだけ答えたが、

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安井はただ少し都合があってとばかり答えたが、

「下宿生活はもうやめて、小さい家でも借りようかと思っている」

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「下宿生活はもうやめて、小さいうちでも借りようかと思っている」

と思いがけない計画を打ち明けて、宗助を驚かせた。

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と思いがけない計画を打ち明けて、宗助を驚ろかした。

それから一週間ばかりのうちに、安井はとうとう宗助に話したとおり、学校近くの静かな所に一戸を構えた。

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それから一週間ばかりの中に、安井はとうとう宗助に話した通り、学校近くの閑静な所に一戸を構えた。

それは京都に共通の暗く陰気な造りの上に、柱や格子を黒赤く塗ってわざと古臭く見せた狭い貸家だった。

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それは京都に共通な暗い陰気な作りの上に、柱や格子こうしを黒赤く塗って、わざと古臭ふるくさく見せた狭い貸家であった。

門口に誰の所有ともつかない柳が一本あって、長い枝がほとんど軒に触れそうに風に吹かれる様子を宗助は見た。

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門口かどぐちに誰の所有ともつかない柳が一本あって、長い枝がほとんど軒にさわりそうに風に吹かれる様を宗助は見た。

庭も東京と違って、少しは整っていた。

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庭も東京と違って、少しは整っていた。

石の自由になる土地だけに、比較的大きなのが座敷の真正面に据えてあった。

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石の自由になる所だけに、比較的大きなのが座敷の真正面にえてあった。

その下には涼しそうな苔がいくらでも生えた。

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その下には涼しそうなこけがいくらでも生えた。

裏には敷居の腐った物置が空のままがらんと立っていて、その後ろに隣の竹藪が便所の出入りに望まれた。

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裏には敷居の腐った物置がからのままがらんと立っているうしろに、隣の竹藪たけやぶが便所の出入ではいりに望まれた。

宗助がここを訪ねたのは、十月に少し間のある学期の初めだった。

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宗助のここを訪問したのは、十月に少し間のある学期の始めであった。

残暑がまだ強いので、宗助は学校の行き帰りに洋傘を使っていたことを、今も覚えていた。

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残暑がまだ強いので宗助は学校の往復に、蝙蝠傘こうもりがさを用いていた事を今に記憶していた。

彼は格子の前で傘を畳んで中を覗き込んだ時、粗い縞の浴衣を着た女の影をちらりと見た。

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彼は格子の前で傘を畳んで、内をのぞき込んだ時、あらしま浴衣ゆかたを着た女の影をちらりと認めた。

格子の内は土間で、それがまっすぐに裏まで突き抜けているのだから、入ってすぐ右手の玄関めいた上がり口を上らない限り、暗いながら一筋に奥の方まで見えるわけだった。

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格子の内は三和土たたきで、それが真直まっすぐに裏まで突き抜けているのだから、這入ってすぐ右手の玄関めいた上り口を上らない以上は、暗いながら一筋に奥の方まで見える訳であった。

宗助は、浴衣の後ろ姿が裏口へ出る所で消えてなくなるまで、そこに立っていた。

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宗助は浴衣の後影うしろかげが、裏口へ出る所で消えてなくなるまでそこに立っていた。

それから格子を開けた。

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それから格子を開けた。

玄関へは安井自身が現れた。

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玄関へは安井自身が現れた。

座敷へ通ってしばらく話していたが、さっきの女はまるで顔を出さなかった。

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座敷へ通ってしばらく話していたが、さっきの女は全く顔を出さなかった。

声も立てず、音もさせなかった。

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声も立てず、音もさせなかった。

広い家ではないから、つい隣の部屋あたりにいたのだろうけれど、いないのとまるで違わなかった。

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広い家でないから、つい隣の部屋ぐらいにいたのだろうけれども、いないのとまるで違わなかった。

この影のように静かな女が御米だった。

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この影のように静かな女が御米であった。

安井は郷里のこと、東京のこと、学校の講義のこと、何くれとなく話した。

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安井は郷里の事、東京の事、学校の講義の事、何くれとなく話した。

けれども、御米のことについては一言も口にしなかった。

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けれども、御米の事については一言いちごんも口にしなかった。

宗助も聞く勇気に乏しかった。

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宗助も聞く勇気に乏しかった。

その日はそれきり別れた。

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その日はそれなり別れた。

次の日、二人が顔を合わせた時、宗助はやはり女のことを胸の中に覚えていたが、口に出しては一言も語らなかった。

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次の日二人が顔を合したとき、宗助はやはり女の事を胸の中に記憶していたが、口へ出しては一言ひとことも語らなかった。

安井も何気ない風をしていた。

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安井も何気ない風をしていた。

親しい若い青年が気安く話し合う遠慮のない話題は、これまで二人の間で何度となく交わされたにもかかわらず、安井はここへ来て息が詰まったように見えた。

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懇意な若い青年が心易立こころやすだてに話し合う遠慮のない題目は、これまで二人の間に何度となく交換されたにもかかわらず、安井はここへ来て、息詰ったごとくに見えた。

宗助も、そこを無理にこじ開けるほどの強い好奇心は持たなかった。

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宗助もそこを無理にこじ開けるほどの強い好奇心はたなかった。

したがって女は二人の意識の間に挟まりながら、つい話に上らないまま、また一週間ばかり過ぎた。

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したがって女は二人の意識の間にはさまりながら、つい話頭に上らないで、また一週間ばかり過ぎた。

その日曜に、彼はまた安井を訪ねた。

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その日曜に彼はまた安井をうた。

それは二人が関わっているある会について用事が起こったためで、女とはまるで縁のない動機から出たあっさりした訪問だった。

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それは二人の関係している或会について用事が起ったためで、女とは全く縁故のない動機から出た淡泊たんぱくな訪問であった。

けれども座敷へ上がって同じ所に座らされ、垣根に沿った小さな梅の木を見ると、この前来た時のことがはっきり思い出された。

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けれども座敷へ上がって、同じ所へ坐らせられて、垣根に沿うた小さな梅の木を見ると、この前来た時の事が明らかに思い出された。

その日も座敷の外はしんとして静かだった。

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その日も座敷の外は、しんとしてしずかであった。

宗助はその静かさの中に潜んでいる若い女の影を想像しないわけには行かなかった。

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宗助はその静かなうちに忍んでいる若い女の影を想像しない訳に行かなかった。

同時に、その若い女はこの前と同じように、決して自分の前に出て来る気遣いはあるまいと信じていた。

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同時にその若い女はこの前と同じように、けっして自分の前に出て来る気遣きづかいはあるまいと信じていた。

この予想のもとに、宗助は突然御米に紹介されたのである。

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この予期のもとに、宗助は突然御米に紹介されたのである。

その時、御米はこの間のように粗い浴衣を着てはいなかった。

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その時御米はこの間のようにあら浴衣ゆかたを着てはいなかった。

これからよそへ行くか、または今外から帰って来たという風な装いをして、次の間から出て来た。

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これからよそへ行くか、または今外から帰って来たと云う風なよそおいをして、次の間から出て来た。

宗助にはそれが意外だった。

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宗助にはそれが意外であった。

しかし大した晴れ着を着飾ったわけでもないので、衣服の色も帯の光も、それほど彼を驚かせるまでには至らなかった。

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しかし大した綺羅きらを着飾った訳でもないので、衣服の色も、帯の光も、それほど彼を驚かすまでには至らなかった。

その上、御米は若い女にありがちな恥じらいというものを、初対面の宗助に向かってあまり多く見せなかった。

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その上御米は若い女にありがちの嬌羞きょうしゅうというものを、初対面の宗助に向って、あまり多く表わさなかった。

ただ普通の人間を静かにして、言葉を少なく切り詰めただけに見えた。

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ただ普通の人間を静にして言葉すくなに切りつめただけに見えた。

人の前へ出ても隣の部屋に潜んでいる時とあまり違わないほど落ち着いた女だと分かった宗助は、そこから推して、御米がひっそりしていたのは、必ずしも恥ずかしがって人の前へ出るのを避けるためばかりでもなかったのだと思った。

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人の前へ出ても、隣のへやに忍んでいる時と、あまり区別のないほど落ちついた女だという事を見出した宗助は、それから推して、御米のひっそりしていたのは、穴勝あながち恥かしがって、人の前へ出るのを避けるためばかりでもなかったんだと思った。

安井は御米を紹介する時、

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安井は御米を紹介する時、

「これは僕の妹だ」

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「これは僕のいもとだ」

という言葉を使った。

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という言葉を用いた。

宗助は四、五分向かい合って少し話を交わすうちに、御米の口調のどこにも国訛りらしい音が混じっていないことに気がついた。

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宗助は四五分対坐して、少し談話を取り換わしているうちに、御米の口調くちょうのどこにも、国訛くになまりらしいおんまじっていない事に気がついた。

「今までお国の方に」

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「今まで御国の方に」

と聞いたら、御米が返事をする前に安井が、

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と聞いたら、御米が返事をする前に安井が、

「いや、横浜に長く」

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「いや横浜に長く」

と答えた。

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と答えた。

その日は二人で町へ買物に出ようというので、御米は普段着を着替えて、暑いところをわざわざ新しい白足袋まで履いたのだと分かった。

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その日は二人して町へ買物に出ようと云うので、御米は不断着ふだんぎを脱ぎ更えて、暑いところをわざわざ新らしい白足袋しろたびまで穿いたものと知れた。

宗助は、せっかくの出がけを引き止めて邪魔でもしたように気の毒な思いをした。

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宗助はせっかくの出がけを喰い留めて、邪魔でもしたように気の毒な思をした。

「なに、家を持ち立てだものだから、毎日毎日要るものを新しく見つけるので、一週に一、二度は是非とも町まで買い出しに行かなければならない」

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「なにうちを持ち立てだものだから、毎日毎日るものを新らしく発見するんで、一週に一二返は是非都まで買い出しに行かなければならない」

と言いながら安井は笑った。

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と云いながら安井は笑った。

「途中までいっしょに出掛けよう」

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みちまでいっしょに出掛けよう」

と宗助はすぐ立ち上がった。

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と宗助はすぐ立ち上がった。

ついでに家の様子を見てくれという安井の言葉に任せた。

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ついでにうちの様子を見てくれと安井の云うに任せた。

宗助は次の間にあるトタンの落としの付いた四角な火鉢や、黄色い安っぽい色をした真鍮の薬缶や、古びた流しのそばに置かれた新し過ぎる手桶を眺めて、門へ出た。

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宗助は次の間にある亜鉛トタンの落しのついた四角な火鉢ひばちや、黄な安っぽい色をした真鍮しんちゅう薬鑵やかんや、古びた流しのそばに置かれた新らし過ぎる手桶ておけを眺めて、かどへ出た。

安井は門口に錠を下ろして、鍵を裏の家へ預けるとか言って駆けて行った。

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安井は門口かどぐちじょうをおろして、かぎを裏のうちへ預けるとか云って、けて行った。

宗助と御米は待っている間、二言三言、当たり障りのない言葉を交わした。

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宗助と御米は待っている間、二言、三言、尋常な口をいた。

宗助はこの三、四分間に交わし合った言葉を、いまだに覚えていた。

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宗助はこの三四分間に取り換わした互の言葉を、いまだに覚えていた。

それはただの男がただの女に対して人としての親しみを表すためにやり取りする、簡略な言葉に過ぎなかった。

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それはただの男がただの女に対して人間たるしたしみを表わすために、やりとりする簡略な言葉に過ぎなかった。

形容すれば、水のように浅く淡いものだった。

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形容すれば水のように浅く淡いものであった。

彼は今日まで道端で、何かの折に触れて、知らない人を相手にこれくらいの挨拶をどれほど繰り返して来たか分からなかった。

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彼は今日こんにちまで路傍道上において、何かの折に触れて、知らない人を相手に、これほどの挨拶あいさつをどのくらい繰り返して来たか分らなかった。

宗助はきわめて短いその時の会話を一つ一つ思い浮かべるたびに、その一つ一つがほとんど無着色と言っていいほど淡かったことを認めた。

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宗助はきわめて短かいその時の談話を、一々思い浮べるたびに、その一々が、ほとんど無着色と云っていいほどに、平淡であった事を認めた。

そうして、これほど透明な声が二人の未来をどうしてああ真っ赤に塗りつけたのかを不思議に思った。

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そうして、かく透明な声が、二人の未来を、どうしてああ真赤まっかに、塗りつけたかを不思議に思った。

今では赤い色が日を経て昔の鮮やかさを失っていた。

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今では赤い色が日をて昔のあざやかさを失っていた。

互いを焼き焦がした炎は、自然と変色して黒くなっていた。

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互をがしたほのおは、自然と変色して黒くなっていた。

二人の生活は、こうして暗い中に沈んでいた。

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二人の生活はかようにして暗い中に沈んでいた。

宗助は過去を振り返り、事の成り行きを逆にたどっては、このあっさりした挨拶がいかに自分たちの歴史を濃く彩ったかを胸の中で飽くまで味わいながら、平凡な出来事を重大に変化させる運命の力を恐れた。

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宗助は過去を振り向いて、事の成行なりゆきを逆に眺め返しては、この淡泊たんぱく挨拶あいさつが、いかに自分らの歴史を濃くいろどったかを、胸の中であくまで味わいつつ、平凡な出来事を重大に変化させる運命の力を恐ろしがった。

宗助は、二人で門の前に佇んでいる時、彼らの影が折れ曲がって半分ばかり土塀に映ったのを覚えていた。

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宗助は二人で門の前にたたずんでいる時、彼らの影が折れ曲って、半分ばかり土塀どべいに映ったのを記憶していた。

御米の影が洋傘に遮られて、頭の代わりに不規則な傘の形が壁に落ちたのを覚えていた。

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御米の影が蝙蝠傘こうもりがささえぎられて、頭の代りに不規則な傘の形が壁に落ちたのを記憶していた。

少し傾きかけた初秋の日がじりじり二人を照りつけたのを覚えていた。

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少し傾むきかけた初秋はつあきの日が、じりじり二人を照り付けたのを記憶していた。

御米は傘を差したまま、それほど涼しくもない柳の下に寄った。

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御米は傘を差したまま、それほど涼しくもない柳の下に寄った。

宗助は、白い筋を縁に取った紫の傘の色と、まだ褪せ切らない柳の葉の色を、一歩下がって眺め合わせたことを覚えていた。

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宗助は白い筋をふちに取ったむらさきの傘の色と、まだめ切らない柳の葉の色を、一歩遠退とおのいて眺め合わした事を記憶していた。

今考えるとすべてが明らかだった。

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今考えるとすべてが明らかであった。

したがって、何の不思議もなかった。

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したがって何らの奇もなかった。

二人は土塀の影から再び現れた安井を待ち合わせて、町の方へ歩いた。

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二人は土塀の影から再び現われた安井を待ち合わして、町の方へ歩いた。

歩く時、男同士は肩を並べた。

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歩く時、男同志は肩を並べた。

御米は草履を引いてあとに下がった。

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御米は草履ぞうりを引いてあとに落ちた。

話も多くは男だけで受け持った。

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話も多くは男だけで受持った。

それも長くはなかった。

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それも長くはなかった。

途中まで来て、宗助は一人別れて自分の家へ帰ったからである。

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途中まで来て宗助は一人分れて、自分のうちへ帰ったからである。

けれども彼の頭には、その日の印象が長く残っていた。

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けれども彼の頭にはその日の印象が長く残っていた。

家へ帰って湯に入り、灯りの前に座ったあとにも、折々色の着いた平たい絵として、安井と御米の姿が目先にちらついた。

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家へ帰って、湯に入って、灯火ともしびの前に坐ったのちにも、折々色の着いた平たいとして、安井と御米の姿が眼先にちらついた。

それどころか床に入ってからは、妹だと言って紹介された御米が、はたして本当の妹だろうかと考え始めた。

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それのみかとこってからは、いもとだと云って紹介された御米が、果して本当の妹であろうかと考え始めた。

安井に問い詰めない限りこの疑いの解決は容易でなかったけれど、当て推量はすぐついた。

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安井に問いつめない限り、このうたがいの解決は容易でなかったけれども、臆断おくだんはすぐついた。

宗助は、この当て推量を許す余地が安井と御米の間に十分にあり得るだろうくらいに考えて、寝ながらおかしく思った。

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宗助はこの臆断を許すべき余地が、安井と御米の間に充分存在し得るだろうぐらいに考えて、寝ながらおかしく思った。

しかもその当て推量に腹の中でこだわり続けるのが馬鹿馬鹿しいことに気がついて、消し忘れたランプをようやくふっと吹き消した。

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しかもその臆断に、腹の中で彽徊ていかいする事の馬鹿馬鹿しいのに気がついて、消し忘れた洋灯ランプをようやくふっと吹き消した。

こういう記憶がしだいに沈んで跡形もなくなるまで互いの顔を見ずに過ごすほど、宗助と安井とは疎遠ではなかった。

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こう云う記憶の、しだいに沈んで痕迹あとかたもなくなるまで、御互の顔を見ずに過すほど、宗助と安井とは疎遠ではなかった。

二人は毎日学校で出会うばかりでなく、相変わらず夏休み前のとおり行き来を続けていた。

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二人は毎日学校で出合うばかりでなく、依然として夏休み前の通り往来を続けていた。

けれども宗助が行くたびに、御米が必ず挨拶に出るとは限らなかった。

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けれども宗助が行くたびに、御米は必ず挨拶あいさつに出るとは限らなかった。

三度に一度くらいは顔を見せないで、初めての時のようにひっそり隣の部屋に潜んでいることもあった。

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三返に一返ぐらい、顔を見せないで、始ての時のように、ひっそり隣りのへやに忍んでいる事もあった。

宗助は特にそれを気にも留めなかった。

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宗助は別にそれを気にも留めなかった。

それにもかかわらず、二人はしだいに近づいた。

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それにもかかわらず、二人はようやく接近した。

いくらもしないうちに、冗談を言うほどの親しみができた。

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幾何いくばくならずして冗談じょうだんを云うほどのしたしみができた。

そのうちまた秋が来た。

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そのうちまた秋が来た。

去年と同じ事情のもとで京都の秋を繰り返す興味に乏しかった宗助は、安井と御米に誘われて茸狩りに行った時、朗らかな空気の中にまた新しい匂いを見つけた。

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去年と同じ事情のもとに、京都の秋を繰り返す興味に乏しかった宗助は、安井と御米に誘われて茸狩たけがりに行った時、朗らかな空気のうちにまた新らしいにおいを見出した。

紅葉も三人で見た。

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紅葉もみじも三人で観た。

嵯峨から山を抜けて高雄へ歩く途中で、御米は着物の裾をまくって、長襦袢だけを足袋の上まで引き、細い傘を杖にした。

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嵯峨さがから山を抜けて高雄たかおへ歩く途中で、御米は着物のすそくって、長襦袢ながじゅばんだけを足袋たびの上までいて、細いかさつえにした。

山の上から一町も下に見える流れに日が射して、水の底が遠くから明らかに透けて見えた時、御米は

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山の上から一町も下に見える流れに日が射して、水の底が明らかに遠くからかされた時、御米は

「京都はいい所ね」

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「京都は好い所ね」

と言って二人を振り返った。

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と云って二人をかえりみた。

それをいっしょに眺めた宗助にも、京都はまったくいい所のように思われた。

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それをいっしょに眺めた宗助にも、京都は全く好い所のように思われた。

こうそろって外へ出たこともめずらしくはなかった。

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こうそろって外へ出た事も珍らしくはなかった。

家の中で顔を合わせることは、なおしばしばあった。

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うちの中で顔を合わせる事はなおしばしばあった。

ある時、宗助が例のごとく安井を訪ねたら、安井は留守で、御米ばかりが寂しい秋の中に取り残されたように一人座っていた。

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或時宗助が例のごとく安井を尋ねたら、安井は留守で、御米ばかりさみしい秋の中に取り残されたように一人すわっていた。

宗助は、寂しいでしょう、と言って、つい座敷に上がり込み、一つ火鉢の両側に手をかざしながら、思ったより長話をして帰った。

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宗助はさむしいでしょうと云って、つい座敷に上り込んで、一つ火鉢ひばちの両側に手をかざしながら、思ったより長話をして帰った。

ある時、宗助がぼんやりして下宿の机に寄りかかったまま、めずらしく時間の使い方に困っていると、ふと御米がやって来た。

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或時宗助がぽかんとして、下宿の机にりかかったまま、珍らしく時間の使い方に困っていると、ふと御米がやって来た。

そこまで買物に出たからついでに寄ったのだとか言って、宗助の勧めるとおり茶を飲んだり菓子を食べたり、ゆっくりくつろいだ話をして帰った。

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そこまで買物に出たから、ついでに寄ったんだとか云って、宗助のすすめる通り、茶を飲んだり菓子を食べたり、ゆっくりくつろいだ話をして帰った。

こんなことが重なって行くうちに、木の葉がいつの間にか落ちてしまった。

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こんな事が重なって行くうちに、がいつのにか落ちてしまった。

そうして高い山の頂きが、ある朝真っ白に見えた。

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そうして高い山のいただきが、ある朝真白に見えた。

吹きさらしの河原が白くなって、橋を渡る人の影が細く動いた。

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さらしの河原かわらが白くなって、橋を渡る人の影が細く動いた。

その年の京都の冬は、音を立てずに肌を通す陰にこもった質のものだった。

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その年の京都の冬は、音を立てずに肌をとお陰忍いんにんたちのものであった。

安井はこの悪性の寒気に当てられて、ひどいインフルエンザにかかった。

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安井はこの悪性の寒気かんきにあてられて、ひどいインフルエンザにかかった。

熱が普通の風邪よりよほど高かったので、初めは御米も驚いたが、それは一時のことで、すぐ引くには引いたから、これでもう全快と思うと、いつまで経ってもはっきりしなかった。

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熱が普通の風邪かぜよりもよほど高かったので、始は御米も驚ろいたが、それは一時いちじの事で、すぐ退いたには退いたから、これでもう全快と思うと、いつまで立っても判然はっきりしなかった。

安井は鳥もちのような熱に絡みつかれて、毎日その上がり下がりに苦しんだ。

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安井はもちのような熱にからみつかれて、毎日その差し引きに苦しんだ。

医者は少し呼吸器を冒されているようだからと言って、しきりに転地を勧めた。

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医者は少し呼吸器をおかされているようだからと云って、切に転地を勧めた。

安井は心ならずも押し入れの中の柳行李に麻縄を掛けた。

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安井は心ならず押入の中の柳行李やなぎごうり麻縄あさなわを掛けた。

御米は手提げ鞄に錠を下ろした。

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御米は手提鞄てさげかばんじょうをおろした。

宗助は二人を七条まで見送って、汽車が出るまで客室の中へ入り、わざと陽気な話をした。

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宗助は二人を七条まで見送って、汽車が出るまでへやの中へ這入はいって、わざと陽気な話をした。

プラットフォームへ下りた時、窓の中から、

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プラットフォームへ下りた時、窓の内から、

「遊びに来たまえ」

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「遊びに来たまえ」

と安井が言った。

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と安井が云った。

「どうぞ、ぜひ」

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「どうぞ是非」

と御米が言った。

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と御米が言った。

汽車は血色のいい宗助の前をそろそろ過ぎて、たちまち神戸の方に向かって煙を吐いた。

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汽車は血色の好い宗助の前をそろそろ過ぎて、たちまち神戸の方に向って煙をいた。

病人は転地先で年を越した。

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病人は転地先で年を越した。

絵葉書は着いた日から毎日のように寄こした。

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絵端書えはがきは着いた日から毎日のように寄こした。

それに、いつでも遊びに来い、と繰り返して書いてないことはなかった。

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それにいつでも遊びに来いと繰り返して書いてない事はなかった。

御米の文字も一、二行ずつは必ず交じっていた。

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御米の文字も一二行ずつは必ずまじっていた。

宗助は、安井と御米から届いた絵葉書を別にして机の上に重ねて置いた。

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宗助は安井と御米から届いた絵端書を別にして机の上に重ねて置いた。

外から帰ると、それがすぐ目についた。

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外から帰るとそれがすぐ眼に着いた。

時々はそれを一枚ずつ順に読み直したり、見直したりした。

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時々はそれを一枚ずつ順に読み直したり、見直したりした。

しまいに、もうすっかり治ったから帰る。

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しまいにもうすっかりなおったから帰る。

しかしせっかくここまで来ながら、ここで君の顔を見ないのは残念だから、この手紙が着きしだいちょっとでいいから来い、という葉書が来た。

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しかしせっかくここまで来ながら、ここで君の顔を見ないのは遺憾いかんだから、この手紙が着きしだい、ちょっとでいいから来いという端書が来た。

無事と退屈を嫌う宗助を動かすには、この十いくつかの言葉で十分だった。

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無事と退屈をむ宗助を動かすには、この十数言じゅうすうげんで充分であった。

宗助は汽車を使って、その夜のうちに安井の宿に着いた。

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宗助は汽車を利用してその夜のうちに安井の宿に着いた。

明るい灯りの下で三人が待ち構えた顔を合わせた時、宗助は何よりもまず、病人の色つやが戻って来たことに気がついた。

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明るい灯火ともしびの下に三人が待設けた顔を合わした時、宗助は何よりもまず病人の色沢いろつやの回復して来た事に気がついた。

立つ前よりかえっていいくらいに見えた。

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立つ前よりもかえって好いくらいに見えた。

安井自身もそんな心持ちがすると言って、わざわざシャツの袖をまくり上げ、青筋の浮いた腕を一人で撫でていた。

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安井自身もそんな心持がすると云って、わざわざ襯衣シャツそでまくり上げて、青筋の入った腕をひとりでていた。

御米も嬉しそうに目を輝かせた。

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御米もうれしそうに眼を輝かした。

宗助には、その活発な目遣いがことにめずらしく受け取れた。

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宗助にはその活溌かっぱつ目遣めづかいがことに珍らしく受取れた。

今まで宗助の心に映った御米は、色と音の乱れ咲く中に立ってさえ、きわめて落ち着いていた。

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今まで宗助の心に映じた御米は、色と音の撩乱りょうらんするなかに立ってさえ、きわめて落ちついていた。

そうして、その落ち着きの大部分は、やたらに動かさない目の働きから来たとしか思われなかった。

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そうしてその落ちつきの大部分はやたらに動かさない眼の働らきから来たとしか思われなかった。

次の日、三人は表へ出て、遠く濃い色を流す海を眺めた。

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次の日三人は表へ出て遠く濃い色を流す海を眺めた。

松の幹から脂の出る空気を吸った。

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松の幹からやにの出る空気を吸った。

冬の日は短い空をあからさまに横切って、おとなしく西へ落ちた。

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冬の日は短い空を赤裸々に横切っておとなしく西へ落ちた。

落ちる時、低い雲を黄に赤に、かまどの火の色に染めて行った。

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落ちる時、低い雲を黄に赤にかまどの火の色に染めて行った。

風は夜になっても起こらなかった。

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風は夜に入っても起らなかった。

ただ時々松を鳴らして過ぎた。

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ただ時々松を鳴らして過ぎた。

暖かいいい日が、宗助の泊まっている三日の間続いた。

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暖かい好い日が宗助の泊っている三日の間続いた。

宗助はもっと遊んで行きたいと言った。

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宗助はもっと遊んで行きたいと云った。

御米はもっと遊んで行きましょうと言った。

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御米はもっと遊んで行きましょうと云った。

安井は、宗助が遊びに来たからいい天気になったんだろうと言った。

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安井は宗助が遊びに来たから好い天気になったんだろうと云った。

三人はまた行李と鞄を携えて京都へ帰った。

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三人はまた行李こうりかばんたずさえて京都へ帰った。

冬は何事もなく北風を寒い国へ吹きやった。

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冬は何事もなく北風を寒い国へ吹きやった。

山の上をくっきりさせていたまだらな雪がしだいに落ちて、あとから青い色が一度に芽を吹いた。

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山の上を明らかにしたまだらな雪がしだいに落ちて、後から青い色が一度に芽を吹いた。

宗助は当時を思い出すたびに、自然の歩みがそこではたりと止まって自分も御米もたちまち化石してしまったら、かえって苦しみはなかっただろうと思った。

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宗助は当時をおもい出すたびに、自然の進行がそこではたりと留まって、自分も御米もたちまち化石してしまったら、かえって苦はなかったろうと思った。

事は冬の下から春が頭をもたげる時分に始まって、散り尽くした桜の花が若葉に色を変える頃に終わった。

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事は冬の下から春が頭をもたげる時分に始まって、散り尽した桜の花が若葉に色をえる頃に終った。

すべてが生死の戦いだった。

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すべてが生死しょうしたたかいであった。

青竹をあぶって油を絞るほどの苦しみだった。

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青竹をあぶって油をしぼるほどの苦しみであった。

大風は突然、不用意の二人を吹き倒したのである。

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大風は突然不用意の二人を吹き倒したのである。

二人が起き上がった時は、どこもかしこもすでに砂だらけだったのである。

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二人が起き上がった時はどこもかしこもすでに砂だらけであったのである。

彼らは砂だらけになった自分たちを認めた。

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彼らは砂だらけになった自分達を認めた。

けれども、いつ吹き倒されたのかを知らなかった。

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けれどもいつ吹き倒されたかを知らなかった。

世間は容赦なく彼らに道義上の罪を背負わせた。

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世間は容赦なく彼らに徳義上の罪を背負しょわした。

しかし彼ら自身は、道義上の良心に責められる前に、いったんぼう然として、自分たちの頭が確かかどうかを疑った。

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しかし彼ら自身は徳義上の良心に責められる前に、いったん茫然ぼうぜんとして、彼らの頭がたしかであるかを疑った。

彼らは自分たちの目に、不道徳な男女として恥ずべく映る前に、すでに理屈の通らない男女として不可思議に映ったのである。

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彼らは彼らの眼に、不徳義な男女なんにょとして恥ずべく映る前に、すでに不合理な男女として、不可思議に映ったのである。

そこに言い訳らしい言い訳は何もなかった。

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そこに言訳らしい言訳が何にもなかった。

だからそこに、言うに忍びない苦痛があった。

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だからそこに云うに忍びない苦痛があった。

彼らは、残酷な運命が気まぐれに罪もない二人の不意を打って、面白半分に落とし穴の中へ突き落としたのを無念に思った。

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彼らは残酷な運命が気紛きまぐれに罪もない二人の不意を打って、面白半分おとしあなの中に突き落したのを無念に思った。

すべてが露見した日がまともに彼らの眉間を射た時、彼らはすでに道義の上での引きつるような苦痛を乗り切っていた。

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曝露ばくろの日がまともに彼らの眉間みけんを射たとき、彼らはすでに徳義的に痙攣けいれんの苦痛を乗り切っていた。

彼らは青白い額を素直に前に出して、そこに炎のような焼き印を受けた。

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彼らは蒼白あおしろい額を素直に前に出して、そこにほのおに似た烙印やきいんを受けた。

そうして目に見えない鎖でつながれたまま、手を取り合ってどこまでもいっしょに歩調を共にしなければならないことを知った。

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そうして無形の鎖でつながれたまま、手をたずさえてどこまでも、いっしょに歩調を共にしなければならない事を見出した。

彼らは親を捨てた。

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彼らは親をてた。

親類を捨てた。

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親類を棄てた。

友達を捨てた。

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友達を棄てた。

大きく言えば、世間一般を捨てた。

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大きく云えば一般の社会を棄てた。

あるいは、それらから捨てられた。

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もしくはそれらから棄てられた。

学校からはもちろん捨てられた。

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学校からは無論棄てられた。

ただ表向きだけはこちらから退学したことになって、形の上では人間らしい跡を留めた。

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ただ表向だけはこちらから退学した事になって、形式の上に人間らしいあととどめた。

これが宗助と御米の過去だった。

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これが宗助と御米の過去であった。

十五

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十五

この過去を負わされた二人は、広島へ行っても苦しんだ。

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この過去を負わされた二人は、広島へ行っても苦しんだ。

福岡へ行っても苦しんだ。

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福岡へ行っても苦しんだ。

東京へ出て来ても、相変わらず重い荷に押さえつけられていた。

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東京へ出て来ても、依然として重い荷におさえつけられていた。

佐伯の家とは親しい関係が結べなくなった。

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佐伯さえきの家とは親しい関係が結べなくなった。

叔父は死んだ。

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叔父は死んだ。

叔母と安之助はまだ生きているが、生きている間に打ち解けた付き合いはできないほど、もう冷たい日を重ねてしまった。

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叔母と安之助やすのすけはまだ生きているが、生きている間に打ち解けた交際つきあいはできないほど、もう冷淡の日を重ねてしまった。

今年はまだ歳暮にも行かなかった。

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今年はまだ歳暮にも行かなかった。

向こうからも来なかった。

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むこうからも来なかった。

家に引き取った小六さえ、腹の底では兄に敬意を払っていなかった。

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いえに引取った小六ころくさえ腹の底では兄に敬意を払っていなかった。

二人が東京へ出たての頃には、単純な子供の頭から、正直に御米を憎んでいた。

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二人が東京へ出たてには、単純な小供の頭から、正直に御米およねにくんでいた。

御米にも宗助にも、それがよく分かっていた。

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御米にも宗助そうすけにもそれがよく分っていた。

夫婦は日の前に笑み、月の前に考えて、静かな年を送り迎えた。

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夫婦は日の前に笑み、月の前に考えて、静かな年を送り迎えた。

今年ももう尽きる間際まで来た。

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今年ももう尽きる間際まぎわまで来た。

通り町では暮れのうちから軒並みそろいの注連飾りをした。

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通町とおりちょうでは暮の内から門並揃かどなみそろい注連飾しめかざりをした。

通りの左右に何十本となく並んだ、軒より高い笹がことごとく寒い風に吹かれて、さらさらと鳴った。

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往来の左右に何十本となく並んだ、軒より高いささが、ことごとく寒い風に吹かれて、さらさらと鳴った。

宗助も二尺余りの細い松を買って、門の柱に釘付けにした。

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宗助も二尺余りの細い松を買って、門の柱に釘付くぎづけにした。

それから大きな赤い橙を鏡餅の上に載せて、床の間に据えた。

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それから大きな赤いだいだい御供おそなえの上にせて、床の間にえた。

床の間には、いかがわしい墨絵の梅が、蛤の形をした月を吐いて掛かっていた。

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床にはいかがわしい墨画すみえの梅が、はまぐり格好かっこうをした月をいてかかっていた。

宗助には、この変な軸の前に橙と鏡餅を置く意味が分からなかった。

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宗助にはこの変な軸の前に、橙と御供を置く意味が解らなかった。

「いったいこれは、どういうつもりなんだね」

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「いったいこりゃ、どう云う了見りょうけんだね」

と、自分で飾りつけた物を眺めながら御米に聞いた。

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と自分で飾りつけた物をながめながら、御米に聞いた。

御米にも、毎年こうする意味はまるで分からなかった。

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御米にも毎年こうする意味はとんと解らなかった。

「知らないわ。ただそうしておけばいいのよ」

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「知らないわ。ただそうしておけばいいのよ」

と言って台所へ去った。

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と云って台所へ去った。

宗助は、

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宗助は、

「こうしておいて、つまり食うためか」

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「こうしておいて、つまり食うためか」

と首を傾げて鏡餅の位置を直した。

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と首を傾けて御供の位置を直した。

のし餅は夜なべにまな板を茶の間まで持ち出して、みんなで切った。

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伸餅のしもち夜業よなべまないたを茶の間まで持ち出して、みんなで切った。

包丁が足りないので、宗助は初めから終わりまで手を出さなかった。

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庖丁ほうちょうが足りないので、宗助は始からしまいまで手を出さなかった。

力があるだけに、小六が一番多く切った。

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力のあるだけに小六が一番多く切った。

その代わり、不ぞろいも一番多かった。

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その代り不同も一番多かった。

中には見かけの悪い形のものも交じった。

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中には見かけの悪い形のものも交った。

変なのができるたびに、清が声を出して笑った。

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変なのができるたびにきよが声を出して笑った。

小六は包丁の背に濡れ布巾をあてがって、硬い耳の所を断ち切りながら、

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小六は庖丁の背に濡布巾ぬれぶきんをあてがって、硬い耳の所を断ち切りながら、

「格好はどうでも、食えさえすればいいんだ」

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「格好はどうでも、食いさいすればいいんだ」

と、うんと力を入れて耳まで赤くした。

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と、うんと力を入れて耳まで赤くした。

そのほかに年を迎える支度としては、ごまめを炒って、煮しめを重箱に詰めるくらいのものだった。

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そのほかに迎年げいねんの支度としては、小殿原ごまめって、煮染にしめを重詰にするくらいなものであった。

大晦日の夜になって、宗助は挨拶かたがた家賃を持って坂井の家に行った。

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大晦日おおみそかって、宗助は挨拶あいさつかたがた屋賃を持って、坂井の家に行った。

わざと遠慮して勝手口へ回ると、すりガラスに明るい灯りが映って、中はざわざわしていた。

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わざと遠慮して勝手口へ回ると、摺硝子すりガラスへ明るいが映って、中はざわざわしていた。

上がり框に帳面を持って腰をかけた掛け取りらしい小僧が、立って宗助に挨拶をした。

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あががまちに帳面を持って腰をかけた掛取らしい小僧が、立って宗助に挨拶をした。

茶の間には主人も細君もいた。

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茶の間には主人も細君もいた。

その片隅に印半纏を着た出入りの者らしいのが、下を向いて小さい輪飾りをいくつもこしらえていた。

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その片隅かたすみ印袢天しるしばんてんを着た出入でいりのものらしいのが、下を向いて、さい輪飾わかざりをいくつもこしらえていた。

そばに譲り葉と裏白と半紙と鋏が置いてあった。

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そば譲葉ゆずりは裏白うらじろと半紙とはさみが置いてあった。

若い下女が細君の前に座って、釣り銭らしい札と銀貨を畳に並べていた。

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若い下女が細君の前に坐って、釣銭らしいさつと銀貨を畳に並べていた。

主人は宗助を見て、

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主人は宗助を見て、

「いや、どうも」

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「いやどうも」

と言った。

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と云った。

「押し詰まって、さぞお忙しいでしょう。このとおりごたごたです。さあ、どうぞこちらへ。何ですな、お互いに正月にはもう飽きましたな。いくら面白いものでも四十遍以上繰り返すと嫌になりますね」

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「押しつまってさぞ御忙おいそがしいでしょう。この通りごたごたです。さあどうぞこちらへ。何ですな、御互に正月にはもうきましたな。いくら面白いものでも四十ぺん以上繰り返すといやになりますね」

主人は年の送り迎えがわずらわしいようなことを言ったが、その態度にはどこと言ってくさくさしたところは見えなかった。

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主人は年の送迎にわずらわしいような事を云ったが、その態度にはどこと指してくさくさしたところは認められなかった。

言葉遣いは活発だった。

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言葉遣ことばづかい活溌かっぱつであった。

顔はつやつやしていた。

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顔はつやつやしていた。

晩の食事で傾けた酒の勢いが、まだ頬の上に差しているように思われた。

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晩食ばんしょくに傾けた酒のいきおいが、まだ頬の上に差しているごとく思われた。

宗助は煙草をもらって、二、三十分ばかり話して帰った。

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宗助は貰い煙草たばこをして二三十分ばかり話して帰った。

家では御米が清を連れて湯に行くとかで、石鹸入れを手拭いにくるんで、留守番を頼む夫の帰りを待ち受けていた。

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うちでは御米が清を連れて湯に行くとか云って、石鹸入シャボンいれ手拭てぬぐいくるんで、留守居を頼む夫のかえりを待ち受けていた。

「どうなさったの、ずいぶん長かったわね」

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「どうなすったの、随分長かったわね」

と言って時計を眺めた。

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と云って時計を眺めた。

時計はもう十時近くだった。

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時計はもう十時近くであった。

その上、清は湯の帰りに髪結いの所へ回って頭をこしらえるはずだそうだった。

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その上清は湯の戻りに髪結かみゆいの所へ回って頭をこしらえるはずだそうであった。

静かな宗助の暮らしも、大晦日にはそれ相応の出来事が押し寄せて来た。

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閑静な宗助の活計くらしも、大晦日おおみそかにはそれ相応そうおうの事件が寄せて来た。

「払いはもうみんな済んだのかい」

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はらいはもうみんな済んだのかい」

と宗助は立ちながら御米に聞いた。

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と宗助は立ちながら御米に聞いた。

御米は、まだ薪屋が一軒残っていると答えた。

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御米はまだ薪屋まきやが一軒残っていると答えた。

「来たら払ってちょうだい」

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「来たら払ってちょうだい」

と言って、懐の中から汚れた男持ちの紙入れと銀貨入れの財布を出して、宗助に渡した。

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と云ってふところの中からよごれた男持の紙入と、銀貨入の蟇口がまぐちを出して、宗助に渡した。

「小六はどうした」

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「小六はどうした」

と夫はそれを受け取りながら言った。

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と夫はそれを受取ながら云った。

「さっき、大晦日の夜の景色を見て来るって出て行ったのよ。ずいぶんご苦労さまね。この寒いのに」

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先刻さっき大晦日の夜の景色けしきを見て来るって出て行ったのよ。随分御苦労さまね。この寒いのに」

と言う御米のあとについて、清は大きな声を出して笑った。

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と云う御米のあといて、清は大きな声を出して笑った。

やがて、

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やがて、

「お若いから」

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「御若いから」

と評しながら勝手口へ行って、御米の下駄をそろえた。

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と評しながら、勝手口へ行って、御米の下駄げたそろえた。

「どこの夜景を見る気なんだ」

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「どこの夜景を見る気なんだ」

「銀座から日本橋通りのだって」

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「銀座から日本橋通のだって」

御米はその時もう框から下りかけていた。

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御米はその時もうかまちからりかけていた。

すぐ腰障子を開ける音がした。

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すぐ腰障子こししょうじを開ける音がした。

宗助はその音を聞き送って、たった一人火鉢の前に座り、灰になる炭の色を眺めていた。

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宗助はその音を聞き送って、たった一人火鉢ひばちの前に坐って、灰になる炭の色をながめていた。

彼の頭には明日の日の丸が映った。

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彼の頭には明日あしたの日の丸が映った。

外を乗り回す人のシルクハットの光が見えた。

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外を乗り回す人の絹帽子きぬぼうしの光が見えた。

サーベルの音だの、馬のいななきだの、羽根つきの声が聞こえた。

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洋剣サアベルの音だの、馬のいななきだの、遣羽子やりはごの声が聞えた。

彼は今から数時間ののち、また年中行事のうちでもっとも人の心を新しくするように仕組まれた景物に出会わなければならなかった。

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彼は今から数時間ののちまた年中行事のうちで、もっとも人の心を新にすべく仕組まれた景物に出逢わなければならなかった。

陽気そうに見えるもの、賑やかそうに見えるものが幾組となく彼の心の前を通り過ぎたが、その中で彼の肘を取っていっしょに引っ張って行こうとするものは一つもなかった。

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陽気そうに見えるもの、にぎやかそうに見えるものが、幾組となく彼の心の前を通り過ぎたが、その中で彼のひじって、いっしょに引張って行こうとするものは一つもなかった。

彼はただ、宴に招かれない部外者として、酔うことを禁じられたように、また酔うことを免れた人だった。

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彼はただ饗宴きょうえんに招かれない局外者として、酔う事を禁じられたごとくに、また酔う事をまぬかれた人であった。

彼は自分と御米の生活を、毎年平凡な波の中に送る以上に、目の前に大した望みも持っていなかった。

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彼は自分と御米の生命ライフを、毎年平凡な波瀾はらんのうちに送る以上に、面前まのあたり大した希望も持っていなかった。

こうして忙しい大晦日に一人家を守る静かさが、ちょうど彼の普段の現実を代表していた。

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こうして忙がしい大晦日に、一人家を守る静かさが、ちょうど彼の平生の現実を代表していた。

御米は十時過ぎに帰って来た。

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御米は十時過に帰って来た。

いつもよりつやのいい頬を灯りに照らして、湯のぬくもりのまだ抜けない襟を少し開けるように襦袢を重ねていた。

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いつもより光沢つやの好い頬をに照らして、湯のぬくもりのまだ抜けないえりを少し開けるように襦袢じゅばんを重ねていた。

長い襟首がよく見えた。

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長い襟首がよく見えた。

「どうも混んで混んで、洗うことも桶を取ることもできないくらいなの」

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「どうも込んで込んで、洗う事もおけを取る事もできないくらいなの」

と、初めてゆっくり息をついた。

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と始めてゆっくり息をいた。

清が帰ったのは十一時過ぎだった。

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清の帰ったのは十一時過であった。

これもきれいな頭を障子から出して、ただ今、どうも遅くなりました、と挨拶をしたついでに、あれから二人とか三人とか待ち合わせた、という話をした。

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これも綺麗きれいな頭を障子から出して、ただ今、どうも遅くなりましたと挨拶あいさつをしたついでに、あれから二人とか三人とか待ち合したと云う話をした。

ただ小六だけは、なかなか帰らなかった。

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ただ小六だけは容易に帰らなかった。

十二時を打った時、宗助はもう寝ようと言い出した。

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十二時を打ったとき、宗助はもう寝ようと云い出した。

御米は今日に限って先に寝るのも変なものだと思って、できるだけ話をつないでいた。

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御米は今日に限って、先へ寝るのも変なものだと思って、できるだけ話をつないでいた。

小六は幸い、間もなく帰った。

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小六はさいわいにして間もなく帰った。

日本橋から銀座へ出て、それから水天宮の方へ回ったところ、電車が混んで何台も待ち合わせたために遅くなったという言い訳をした。

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日本橋から銀座へ出てそれから、水天宮の方へ廻ったところが、電車が込んで何台も待ち合わしたために遅くなったという言訳をした。

白牡丹へ入って景品の金時計でも取ろうと思ったが、何も買うものがなかったので、仕方なく鈴の付いたお手玉を一箱買い、そうして幾百となく器械で吹き上げられる風船を一つつかんだら、金時計は当たらずにこんなものが当たった、と言って、袂からクラブ洗い粉を一袋出した。

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白牡丹はくぼたん這入はいって、景物の金時計でも取ろうと思ったが、何も買うものがなかったので、仕方なしに鈴の着いた御手玉おてだまを一箱買って、そうして幾百となく器械で吹き上げられる風船を一つつかんだら、金時計は当らないで、こんなものがあたったと云って、たもとから倶楽部くらぶ洗粉あらいこを一袋出した。

それを御米の前に置いて、

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それを御米の前に置いて、

「姉さんに差し上げましょう」

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「姉さんに上げましょう」

と言った。

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と云った。

それから、鈴を付けた梅の花の形に縫ったお手玉を宗助の前に置いて、

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それから鈴を着けた、梅の花の形に縫った御手玉を宗助の前に置いて、

「坂井のお嬢さんにでも差し上げなさい」

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「坂井の御嬢さんにでも御上げなさい」

と言った。

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と云った。

出来事に乏しい一つの小さな家族の大晦日は、それで終わりを告げた。

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事に乏しい一小家族の大晦日おおみそかは、それで終りを告げた。

十六

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十六

正月は二日目に雪を連れて来て、注連飾りの都を白くした。

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正月は二日目の雪をひきい注連飾しめかざりの都を白くした。

降りやんだ屋根の色が元に戻る前に、夫婦はトタン張りのひさしを滑り落ちる雪の音に幾度か驚かされた。

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降りやんだ屋根の色がもとにかえる前、夫婦は亜鉛張トタンばりひさしすべり落ちる雪の音に幾遍か驚ろかされた。

夜中には、どさっという響きがことに激しかった。

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夜半よなかにはどさと云う響がことにはなはだしかった。

小路のぬかるみは雨上がりと違って、一日や二日では容易に乾かなかった。

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小路こうじ泥濘ぬかるみは雨上りと違って一日いちんち二日ふつかでは容易に乾かなかった。

外から靴を汚して帰って来る宗助が、御米の顔を見るたびに、

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外から靴をよごして帰って来る宗助そうすけが、御米およねの顔を見るたびに、

「これはいけない」

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「こりゃいけない」

と言いながら玄関へ上がった。

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と云いながら玄関へ上った。

その様子が、まるで御米を道を悪くした責任者と見なしている風に受け取れるので、御米はしまいに、

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その様子があたかも御米を路を悪くした責任者と見傚みなしている風に受取られるので、御米はしまいに、

「どうも済みません。本当にお気の毒さま」

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「どうも済みません。本当に御気の毒さま」

と言って笑い出した。

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と云って笑い出した。

宗助は、特に返すべき冗談も持たなかった。

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宗助は別に返すべき冗談じょうだんたなかった。

「御米、ここから出かけるには、どこへ行くにも足駄を履かなくちゃならないように見えるだろう。ところが下町へ出ると大違いだ。どの通りもどの通りもからからで、かえって埃が立つくらいだから、足駄なんぞ履いてはきまりが悪くて歩けやしない。つまりこういう所に住んでいる我々は、一世紀ばかり遅れることになるんだね」

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「御米ここから出かけるには、どこへ行くにも足駄あしだ穿かなくっちゃならないように見えるだろう。ところが下町へ出ると大違だ。どの通もどの通もからからで、かえってほこりが立つくらいだから、足駄なんぞ穿いちゃきまりが悪くって歩けやしない。つまりこう云う所に住んでいる我々は一世紀がたおくれる事になるんだね」

こんなことを口にする宗助は、特に不満そうな顔もしていなかった。

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こんな事を口にする宗助は、別に不足らしい顔もしていなかった。

御米も、夫の鼻の穴をくぐる煙草の煙を眺めるくらいの気持ちでそれを聞いていた。

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御米も夫の鼻の穴をくぐ煙草たばこけむを眺めるくらいな気で、それを聞いていた。

「坂井さんへ行って、そう言っていらっしゃいな」

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「坂井さんへ行って、そう云っていらっしゃいな」

と軽い返事をした。

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と軽い返事をした。

「そうして家賃でも負けてもらうことにしよう」

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「そうして屋賃でも負けて貰う事にしよう」

と答えたまま、宗助はついに坂井へは行かなかった。

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と答えたまま、宗助はついに坂井へは行かなかった。

その坂井には元日の朝早く名刺を投げ込んだだけで、わざと主人の顔を見ずに門を出たが、義理のある所を一日のうちにほぼ片づけて夕方帰ってみると、留守の間に坂井がちゃんと来ていたので恐縮した。

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その坂井には元日の朝早く名刺を投げ込んだだけで、わざと主人の顔を見ずに門を出たが、義理のある所を一日のうちにほぼ片づけて夕方帰って見ると、留守の間に坂井がちゃんと来ていたので恐縮した。

二日は雪が降っただけで、何事もなく過ぎた。

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二日は雪が降っただけで何事もなく過ぎた。

三日目の日暮れに下女が使いに来て、お暇なら旦那様と奥様と、それから若旦那様に、ぜひ今晩お遊びにいらっしゃるように、と言って帰った。

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三日目の日暮ひくれに下女が使に来て、御閑おひまならば、旦那様と奥さまと、それから若旦那様に是非今晩御遊びにいらっしゃるようにと云って帰った。

「何をするんだろう」

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「何をするんだろう」

と宗助は疑った。

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と宗助は疑ぐった。

「きっと歌がるたでしょう。子供が多いから」

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「きっと歌加留多うたがるたでしょう。小供が多いから」

と御米が言った。

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と御米が云った。

「あなた、行っていらっしゃい」

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「あなた行っていらっしゃい」

「せっかくだからお前が行くといい。おれはかるたは長く取らないから駄目だ」

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「せっかくだから御前行くが好い。おれは歌留多は久しく取らないから駄目だ」

「私も長く取らないから駄目ですわ」

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「私も久しく取らないから駄目ですわ」

二人はなかなか行こうとはしなかった。

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二人は容易に行こうとはしなかった。

しまいに、では若旦那がみんなを代表して行くのがよかろう、ということになった。

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しまいに、では若旦那がみんなを代表して行くがかろうという事になった。

「若旦那、行って来い」

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「若旦那行って来い」

と宗助が小六に言った。

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と宗助が小六ころくに云った。

小六は苦笑いして立った。

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小六は苦笑にがわらいして立った。

夫婦は、若旦那という名を小六にかぶせることを大変な滑稽のように感じた。

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夫婦は若旦那と云う名を小六にかむらせる事を大変な滑稽こっけいのように感じた。

若旦那と呼ばれて苦笑いする小六の顔を見ると、二人そろって声を出して笑い出した。

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若旦那と呼ばれて、苦笑いする小六の顔を見ると、等しく声を出して笑い出した。

小六は春らしい空気の中から出た。

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小六は春らしい空気のうちから出た。

そうして一町ほどの寒さを横切って、また春らしい電灯の下に座った。

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そうして一町ほどの寒さを横切って、また春らしい電灯のもとに坐った。

その晩、小六は大晦日に買った梅の花のお手玉を袂に入れて、これは兄から差し上げますとわざわざ断って、坂井のお嬢さんに贈り物にした。

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その晩小六は大晦日おおみそかに買った梅の花の御手玉おてだまたもとに入れて、これは兄から差上げますとわざわざ断って、坂井の御嬢さんに贈物にした。

その代わり帰りには、福引きに当たった小さな裸人形を同じ袂へ入れて来た。

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その代り帰りには、福引に当った小さな裸人形を同じ袂へ入れて来た。

その人形の額が少し欠けて、そこだけ墨で塗ってあった。

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その人形の額が少し欠けて、そこだけ墨で塗ってあった。

小六は真面目な顔をして、これが袖萩だそうです、と言ってそれを兄夫婦の前に置いた。

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小六は真面目まじめな顔をして、これが袖萩そではぎだそうですと云って、それを兄夫婦の前に置いた。

なぜ袖萩なのか、夫婦には分からなかった。

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なぜ袖萩だか夫婦には分らなかった。

小六にはもちろん分からなかったのを、坂井の奥さんが丁寧に説明してくれたそうだが、それでも腑に落ちなかったので、主人がわざわざ半紙に洒落と元の文句を並べて書いて、帰ったらこれを兄さんと姉さんに見せなさい、と言って渡したとかいう話だった。

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小六には無論分らなかったのを、坂井の奥さんが叮嚀ていねいに説明してくれたそうであるが、それでもに落ちなかったので、主人がわざわざ半切はんきれ洒落しゃれ本文ほんもんを並べて書いて、帰ったらこれを兄さんと姉さんに御見せなさいと云って渡したとかいう話であった。

小六は袂を探って、その書き付けを取り出して見せた。

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小六は袂を探ってその書付を取り出して見せた。

それには「この垣一重が黒鉄の」

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それに「このかき一重ひとえ黒鉄くろがねの」

としたためたあとに括弧をして、(この餓鬼、額が黒欠けの)と付け加えてあったので、宗助と御米はまた春らしい笑いを漏らした。

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したためた後に括弧かっこをして、(この餓鬼がきひたえ黒欠くろがけの)とつけ加えてあったので、宗助と御米はまた春らしい笑をらした。

「ずいぶん念の入った趣向だね。いったい誰の考えだい」

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「随分念の入った趣向しゅこうだね。いったい誰のかんがえだい」

と兄が聞いた。

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と兄が聞いた。

「誰でしょうかね」

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「誰ですかな」

と小六はやはりつまらなそうな顔をして、人形をそこへ放り出したまま自分の部屋に帰った。

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と小六はやっぱりつまらなそうな顔をして、人形をそこへ放り出したまま、自分のへやに帰った。

それから二、三日して、たしか七日の夕方に、また例の坂井の下女が来て、もしお暇ならどうぞお話に、と丁寧に主人の言葉を伝えた。

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それから二三日して、たしか七日なぬかの夕方に、また例の坂井の下女が来て、もし御閑おひまならどうぞ御話にと、叮嚀ていねいに主人の命を伝えた。

宗助と御米はランプを点けて、ちょうど晩飯を始めたところだった。

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宗助と御米は洋灯ランプけてちょうど晩食ばんめしを始めたところであった。

宗助はその時、茶碗を持ちながら、

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宗助はその時茶碗を持ちながら、

「春もようやく一区切りついた」

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「春もようやく一段落が着いた」

と語っていた。

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と語っていた。

そこへ清が坂井からの口上を取り次いだので、御米は夫の顔を見て微笑した。

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そこへ清が坂井からの口上を取り次いだので、御米は夫の顔を見て微笑した。

宗助は茶碗を置いて、

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宗助は茶碗を置いて、

「まだ何か催しがあるのかい」

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「まだ何か催おしがあるのかい」

と少し迷惑そうに眉を寄せた。

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と少し迷惑そうなまゆをした。

坂井の下女に聞いてみると、特に来客もなければ何の支度もないということだった。

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坂井の下女に聞いて見ると、別に来客もなければ、何の支度もないという事であった。

その上、細君は子供を連れて親類へ呼ばれて行って留守だという話までした。

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その上細君は子供を連れて親類へ呼ばれて行って留守だという話までした。

「それじゃ行こう」

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「それじゃ行こう」

と言って宗助は出掛けた。

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と云って宗助は出掛けた。

宗助は一般の付き合いを嫌っていた。

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宗助は一般の社交をきらっていた。

やむを得なければ、会合の席などへ顔を出す男ではなかった。

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やむを得なければ会合の席などへ顔を出す男でなかった。

個人としての友達も多くは求めなかった。

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個人としての朋友ともだちも多くは求めなかった。

訪問はする暇を持たなかった。

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訪問はする暇をたなかった。

ただ坂井だけは別だった。

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ただ坂井だけは取除とりのけであった。

折々は用もないのにこちらからわざわざ出掛けて行って、時を潰して来ることさえあった。

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折々は用もないのにこっちからわざわざ出掛けて行って、時をつぶして来る事さえあった。

そのくせ坂井は、世の中でもっとも社交的な人だった。

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その癖坂井は世の中でもっとも社交的の人であった。

この社交的な坂井と孤独な宗助の二人が寄って話ができるのは、御米にさえ妙に見える現象だった。

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この社交的な坂井と、孤独な宗助が二人寄って話ができるのは、御米にさえ妙に見える現象であった。

坂井は、

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坂井は、

「あちらへ行きましょう」

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「あっちへ行きましょう」

と言って、茶の間を通り越し、廊下伝いに小さな書斎へ入った。

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と云って、茶の間を通り越して、廊下伝いに小さな書斎へ入った。

そこには棕櫚の筆で書いたような大きな硬い字が五字ばかり床の間に掛かっていた。

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そこには棕梠しゅろの筆で書いたような、大きなこわい字が五字ばかり床の間にかかっていた。

棚の上に見事な白い牡丹が生けてあった。

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たなの上に見事な白い牡丹ぼたんけてあった。

そのほか机でも布団でも、ことごとくきれいだった。

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そのほか机でも蒲団ふとんでもことごとく綺麗きれいであった。

坂井は初め暗い入口に立って、

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坂井は始め暗い入口に立って、

「さあ、どうぞ」

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「さあどうぞ」

と言いながら、どこかをぴちりとひねって電灯を点けた。

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と云いながら、どこかぴちりとひねって、電気灯をけた。

それから、

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それから、

「ちょっと待ちたまえ」

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「ちょっと待ちたまえ」

と言って、マッチでガスストーブを焚いた。

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と云って、燐寸マッチ瓦斯煖炉ガスだんろいた。

ガスストーブは部屋に見合ったごく小さいものだった。

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瓦斯煖炉はへやに比例したごく小さいものであった。

坂井はそのあとで座布団を勧めた。

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坂井はしかる後蒲団をすすめた。

「これが僕の洞窟で、面倒になるとここへ避難するんです」

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「これが僕の洞窟どうくつで、面倒になるとここへ避難するんです」

宗助も厚い綿の上で、一種の静かさを感じた。

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宗助も厚い綿わたの上で、一種の静かさを感じた。

ガスの燃える音がかすかにして、しだいに背中からほかほか暖まって来た。

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瓦斯の燃える音がかすかにしてしだいに背中からほかほか煖まって来た。

「ここにいると、もうどことも関わりがない。まったく気楽です。ゆっくりしていらっしゃい。実際、正月というものは思ったより煩わしいものですね。私も昨日までで、ほとんどへとへとに降参させられました。新年がもたれているのは実に苦しいですよ。それで今日の昼から、とうとう俗世を遠ざけて、病気になってぐっと寝込んでしまいました。今しがた目を覚まして、湯に入って、それから飯を食って煙草を飲んで、気がついてみると、家内が子供を連れて親類へ行って留守なんでしょう。なるほど静かなはずだと思いましてね。すると今度は急に退屈になったのです。人間もずいぶん身勝手なものですよ。しかしいくら退屈だって、この上おめでたいものを見たり聞いたりしては骨が折れますし、またお正月らしいものを飲んだり食ったりするのも恐れますから、それで、お正月らしくない、と言うと失礼だが、まあ世の中とあまり縁のないあなた、と言ってもまだ失敬かもしれないが、つまり一口に言えば、超然派の一人と話がしてみたくなったので、それでわざわざ使いを差し上げたようなわけなんです」

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「ここにいると、もうどことも交渉はない。全く気楽です。ゆっくりしていらっしゃい。実際正月と云うものは予想外に煩瑣うるさいものですね。私も昨日きのうまででほとんどへとへとに降参させられました。新年が停滞もたれているのは実に苦しいですよ。それで今日のひるから、とうとう塵世じんせいを遠ざけて、病気になってぐっと寝込んじまいました。今しがた眼をまして、湯に入って、それから飯を食って、煙草たばこんで、気がついて見ると、家内が子供を連れて親類へ行って留守なんでしょう。なるほど静かなはずだと思いましてね。すると今度は急に退屈になったのです。人間も随分わがままなものですよ。しかしいくら退屈だって、この上おめでたいものを、見たり聞いたりしちゃ骨が折れますし、また御正月らしいものを呑んだり食ったりするのも恐れますから、それで、御正月らしくない、と云うと失礼だが、まあ世の中とあまり縁のないあなた、と云ってもまだ失敬かも知れないが、つまり一口に云うと、超然派ちょうぜんは一人いちにんと話しがして見たくなったんで、それでわざわざ使を上げたような訳なんです」

と坂井は例の調子で、ことごとくすらすらしたものだった。

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と坂井は例の調子で、ことごとくすらすらしたものであった。

宗助はこの楽天家の前では、よく自分の過去を忘れることがあった。

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宗助はこの楽天家の前では、よく自分の過去を忘れる事があった。

そうして時には、自分がもし順当に伸びて来ていたら、こんな人物になりはしなかっただろうかと考えた。

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そうして時によると、自分がもし順当に発展して来たら、こんな人物になりはしなかったろうかと考えた。

そこへ下女が三尺の狭い入口を開けて入って来たが、改めて宗助に丁重なお辞儀をした上、木皿とも菓子皿ともつかないものを一つ前に置いた。

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そこへ下女が三尺の狭い入口を開けて這入はいって来たが、改ためて宗助に鄭重ていちょうな御辞儀をした上、木皿のような菓子皿のようなものを、一つ前に置いた。

それから同じ物をもう一つ主人の前に置いて、一言も物を言わずに下がった。

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それから同じ物をもう一つ主人の前に置いて、一口もものを云わずに退がった。

木皿の上には、ゴム毬ほどもある大きな田舎饅頭が一つ載せてあった。

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木皿の上には護謨毬ゴムまりほどな大きな田舎饅頭いなかまんじゅうが一つせてあった。

それに、普通の倍以上もあろうと思われる楊枝が添えてあった。

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それに普通の倍以上もあろうと思われる楊枝ようじが添えてあった。

「どうです、暖かいうちに」

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「どうですあったかい内に」

と主人が言ったので、宗助は初めて、この饅頭が蒸してから間もない新しさであることに気がついた。

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と主人が云ったので、宗助は始めてこの饅頭のして間もない新らしさに気がついた。

めずらしそうに黄色い皮を眺めた。

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珍らしそうに黄色い皮をながめた。

「いや、できたてじゃありません」

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「いやできたてじゃありません」

と主人がまた言った。

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と主人がまた云った。

「実は昨夜ある所へ行って、冗談半分に褒めたら、お土産に持っていらっしゃいと言うのでもらって来たんです。その時はまったく暖かだったんですがね。これは今差し上げようと思って蒸し返させたのです」

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「実は昨夜さくやある所へ行って、冗談じょうだん半分にめたら、御土産おみやげに持っていらっしゃいと云うから貰って来たんです。その時は全くあったかだったんですがね。これは今上げようと思ってし返さしたのです」

主人は箸とも楊枝とも片のつかないもので無造作に饅頭を割って、むしゃむしゃ食い始めた。

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主人ははしとも楊枝ようじとも片のつかないもので、無雑作むぞうさに饅頭を割って、むしゃむしゃ食い始めた。

宗助もそれにならった。

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宗助もひんならった。

その間に主人は、昨夜行った料理屋で会ったとかいう妙な芸者の話をした。

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その間に主人は昨夕ゆうべ行った料理屋で逢ったとか云って妙な芸者の話をした。

この芸者はポケット版の論語が好きで、汽車に乗ったり遊びに行ったりする時は、いつでもそれを懐にして出るそうだった。

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この芸者はポッケット論語が好きで、汽車へ乗ったり遊びに行ったりするときは、いつでもそれをふところにして出るそうであった。

「それでね、孔子の門人のうちで子路が一番好きだと言うんですがね。そのいわれを聞くと、子路という男は、一つ何か教わってそれをまだ行わないうちにまた新しいことを聞くと苦にするほど正直だからだと言うんです。実のところ私も子路はあまりよく知らないから困ったが、とにかく一人いい人ができて、それと夫婦にならないうちにまた新しくいい人ができると苦になるようなものじゃないか、と聞いてみたんです……」

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「それでね孔子の門人のうちで、子路しろが一番すきだって云うんですがね。そのいわれを聞くと、子路と云う男は、一つ何かおすわって、それをまだ行わないうちに、また新らしい事を聞くと苦にするほど正直だからだって云うんです。実のところわたしも子路はあまりよく知らないから困ったが、何しろ一人好い人ができて、それと夫婦にならない前に、また新らしく好い人ができると苦になるようなものじゃないかって、聞いて見たんです……」

主人はこんなことを、はなはだ気楽そうに述べ立てた。

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主人はこんな事をはなはだ気楽そうに述べ立てた。

その話の様子から考えると、彼はしょっちゅうこういう場所に出入りして、その刺激にはとうに麻痺しながら、習慣の結果、相変わらず月に何度となく同じことを繰り返しているらしかった。

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その話の様子からして考えると、彼はのべつにこういう場所に出入しつにゅうして、その刺戟しげきにはとうに麻痺まひしながら、因習の結果、依然として月に何度となく同じ事を繰り返しているらしかった。

よく問いただしてみると、これほど平気な男も、時々は歓楽の飽き足りに疲れて、書斎の中で精神を休める必要が起こるのだそうだった。

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よく聞きただして見ると、しかく平気な男も、時々は歓楽の飽満ほうまんに疲労して、書斎のなかで精神を休める必要が起るのだそうであった。

宗助はそういう方面にまるで経験のない男ではなかったので、無理に興味を装う必要もなく、ただ当たり前の受け答えをするところが、かえって主人の気に入るらしかった。

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宗助はそういう方面にまるで経験のない男ではなかったので、いて興味をよそおう必要もなく、ただ尋常な挨拶あいさつをするところが、かえって主人の気に入るらしかった。

彼は平凡な宗助の言葉の中から、一種異彩のある過去を覗こうとする素振りを見せた。

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彼は平凡な宗助の言葉のなかから、一種異彩のある過去をのぞくような素振そぶりを見せた。

しかしそちらへは宗助が進みたがらない気配が少しでも出ると、すぐ話を変えた。

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しかしそちらへは宗助が進みたがらない痕迹こんせきが少しでも出ると、すぐ話を転じた。

それは駆け引きよりも、むしろ礼儀からだった。

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それは政略よりもむしろ礼譲からであった。

したがって、宗助には少しも不愉快を与えなかった。

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したがって宗助にはごうも不愉快を与えなかった。

そのうち小六の噂が出た。

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そのうち小六のうわさが出た。

主人はこの青年について、肉親の兄が見逃すような新しい観察を二つ三つ持っていた。

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主人はこの青年について、肉身の兄が見逃すような新らしい観察を、二三っていた。

宗助は主人の評語を、当たると当たらないとにかかわらず面白く聞いた。

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宗助は主人の評語を、当ると当らないとに論なく、面白く聞いた。

その中に、彼は年の割には複雑で実用に適さない頭を持っていながら、年より若い単純な気質を平気で表す子供ではないか、という問いがあった。

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そのなかに、彼は年に合わしては複雑な実用に適しない頭を有っていながら、年よりも若い単純な性情を平気であらわす子供じゃないかという質問があった。

宗助はすぐそれにうなずいた。

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宗助はすぐそれを首肯うけがった。

しかし学校教育だけで社会での教育のない者は、いくら年を取ってもその傾きがあるだろうと答えた。

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しかし学校教育だけで社会教育のないものは、いくら年を取ってもそのかたむきがあるだろうと答えた。

「なるほど。それと反対に、社会での教育だけあって学校教育のない者は、ずいぶん複雑な気質を発揮する代わりに、頭はいつまでも子供ですからね。かえって始末が悪いかもしれない」

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「さよう、それと反対で、社会教育だけあって学校教育のないものは、随分複雑な性情を発揮する代りに、頭はいつまでも小供ですからね。かえって始末が悪いかも知れない」

主人はここでちょっと笑ったが、やがて、

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主人はここでちょっと笑ったが、やがて、

「どうです、私の所へ書生に寄こしては。少しは社会の教育になるかもしれない」

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「どうです、わたしの所へ書生に寄こしちゃ、少しは社会教育になるかも知れない」

と言った。

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と云った。

主人の書生は、彼の犬が病気で病院へ入る一か月前とかに徴兵検査に合格して入営したきり、今では一人もいないのだそうだった。

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主人の書生は彼の犬が病気で病院へ這入はいる一カ月前とかに、徴兵検査に合格して入営したぎり今では一人もいないのだそうであった。

宗助は小六の身の振り方をつけるいい機会が、求めもしないうちに春とともに自然と巡って来たのを喜んだ。

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宗助は小六の所置をつける好機会が、求めざるに先だって、春と共におのずからめぐって来たのを喜こんだ。

同時に、今まで世間に向かって積極的に好意と親切を求める勇気を持たなかった彼は、突然この主人の申し出に遭って、少しまごつくほど驚いた。

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同時に、今まで世間に向って、積極的に好意と親切を要求する勇気をたなかった彼は、突然この主人のもういでに逢って少しまごつくくらい驚ろいた。

けれども、できるならなるべく早く弟を坂井に預けておいて、この変化から出る自分の余裕にいくらか安之助の補助を足し、そうして本人の望みどおり高等の教育を受けさせてやろうという考えを立てた。

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けれどもできるならなりたけ早く弟を坂井に預けて置いて、この変動から出る自分の余裕よゆうに、幾分か安之助の補助を足して、そうして本人の希望通り、高等の教育を受けさしてやろうという分別をした。

そこで打ち明けた話を包み隠さず主人にすると、主人はなるほどなるほどと聞いているだけだったが、しまいに造作なく、

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そこで打ち明けた話を腹蔵なく主人にすると、主人はなるほどなるほどと聞いているだけであったが、しまいに雑作ぞうさなく、

「それはいいでしょう」

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「そいつは好いでしょう」

と言ったので、相談はほぼその場でまとまった。

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と云ったので、相談はほぼその座でまとまった。

宗助はそこで辞して帰ればよかったのである。

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宗助はそこで辞して帰ればよかったのである。

また、辞して帰ろうとしたのである。

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また辞して帰ろうとしたのである。

ところが主人から、まあゆっくりなさい、と言って引き留められた。

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ところが主人からまあゆっくりなさいと云って留められた。

主人は、夜は長い、まだ宵だと言って時計まで出して見せた。

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主人は夜は長い、まだよいだと云って時計まで出して見せた。

実際、彼は退屈らしかった。

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実際彼は退屈らしかった。

宗助も帰ればただ寝るよりほかに用のない身なので、つい、また腰を据えて濃い煙草を新しく吹かし始めた。

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宗助も帰ればただ寝るよりほかに用のない身体からだなので、ついまた尻をえて、濃い煙草たばこを新らしく吹かし始めた。

しまいには主人にならって、柔らかい座布団の上で膝さえ崩した。

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しまいには主人の例にならって、柔らかい座蒲団ざぶとんの上でひざさえくずした。

主人は小六のことに関連して、

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主人は小六の事に関聯して、

「いや、弟などを持っていると、ずいぶん厄介なものですよ。私も一人、ろくでもないのを世話した覚えがありますがね」

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「いやおととなどを有っていると、随分厄介やっかいなものですよ。わたくしも一人やくざなのを世話をした覚がありますがね」

と言って、自分の弟が大学にいた時に金のかかったことなどを、自分の学生時代の質素さと比べていろいろ話した。

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と云って、自分の弟が大学にいるとき金のかかった事などを、自分が学生時代の質朴しつぼくさに比べていろいろ話した。

宗助は、この派手好きな弟がその後どんな道をたどってどう展開したかを、気味の悪い運命の意図をうかがう一端として主人に聞いてみた。

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宗助はこの派出好はでずきな弟が、その後どんな径路を取って、どう発展したかを、気味の悪い運命の意思をうかがう一端として、主人に聞いて見た。

主人は突然

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主人は卒然

「冒険者」

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冒険者アドヴェンチュアラー

と、頭も尻尾もない一句を投げるように吐いた。

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と、頭もしっぽもない一句を投げるように吐いた。

この弟は卒業後、主人の紹介である銀行に入ったが、何でも金を儲けなくてはいけないと口癖のように言っていたそうで、日露戦争後間もなく、主人の止めるのも聞かずに、大いに伸びてみたいとか唱えて、ついに満州へ渡ったのだという。

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この弟は卒業後主人の紹介で、ある銀行に這入はいったが、何でも金をもうけなくっちゃいけないと口癖のように云っていたそうで、日露戦争後間もなく、主人の留めるのも聞かずに、大いに発展して見たいとかとなえてついに満洲へ渡ったのだと云う。

そこで何を始めるかと思うと、遼河を利用して豆かすや大豆を船で下す大仕掛けな運送業を始めて、たちまち失敗してしまったのだそうである。

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そこで何を始めるかと思うと、遼河りょうがを利用して、豆粕大豆まめかすだいずを船でくだす、大仕掛な運送業を経営して、たちまち失敗してしまったのだそうである。

もとより当人は出資者ではなかったけれど、いよいよという時になって勘定してみると大きな欠損と決まったので、もちろん事業は続けるわけに行かず、当人は当然の結果として地位を失ったきりになった。

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元より当人は、資本主ではなかったのだけれども、いよいよというあかつきに、勘定して見ると大きな欠損と事がきまったので、無論事業は継続する訳に行かず、当人は必然の結果、地位を失ったぎりになった。

「それから後、私もどうしたかよく知らなかったんですが、その後ようやく聞いてみて驚きましたね。蒙古へ入ってうろついているんです。どこまで山っ気があるのか分からないので、私も少々危なく思っているんですよ。それでも離れているうちは、まあどうにかしているだろうくらいに思って放っておきます。たまに便りがあったって、蒙古という所は水に乏しい所で、暑い時には往来にどぶの水を撒くとかね、またはそのどぶの水がなくなると今度は馬の小便を撒くとか、したがってはなはだ臭いとか、まあそんな手紙が来るだけですから――そりゃあ金のことも言って来ますが、なに、東京と蒙古だから放っておけばそれまでです。だから離れてさえいればまあいいんですが、そいつが去年の暮れに突然出て来ましてね」

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「それからあとわたしもどうしたかよく知らなかったんですが、そののちようやく聞いて見ると、驚ろきましたね。蒙古もうこへ這入って漂浪うろついているんです。どこまで山気やまぎがあるんだか分らないんで、私も少々剣呑けんのんになってるんですよ。それでも離れているうちは、まあどうかしているだろうぐらいに思って放っておきます。時たま音便たよりがあったって、蒙古もうこという所は、水に乏しい所で、暑い時には往来へ泥溝どぶの水をくとかね、またはその泥溝の水が無くなると、今度は馬の小便を撒くとか、したがってはなはだ臭いとか、まあそんな手紙が来るだけですから、――そりゃあ金の事も云って来ますが、なに東京と蒙古だから打遣うちやっておけばそれまでです。だから離れてさえいれば、まあいいんですが、そいつが去年の暮突然出て来ましてね」

主人は思いついたように、床の柱に掛けたきれいな房のついた一種の飾り物を取り下ろした。

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主人は思いついたように、床の柱にかけた、綺麗きれいな房のついた一種の装飾物を取りおろした。

それは錦の袋に入った一尺ばかりの刀だった。

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それは錦の袋に這入はいった一尺ばかりの刀であった。

鞘は何とも知れない緑色の雲母のようなものでできていて、その所々が三か所ほど巻いてあった。

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さやなにとも知れぬ緑色の雲母きららのようなものでできていて、その所々が三カ所ほど巻いてあった。

中身は六寸ぐらいしかなかった。

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中身は六寸ぐらいしかなかった。

したがって刃も薄かった。

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したがっても薄かった。

けれども鞘の格好は、ちょうど六角の樫の棒のように厚かった。

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けれども鞘の格好かっこうはあたかも六角のかしの棒のように厚かった。

よく見ると、柄の後ろに細い棒が二本並んで差してあった。

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よく見ると、つかうしろに細い棒が二本並んで差さっていた。

結果としては、鞘を重ねて離れないように銀の鉢巻きをしたのと同じだった。

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結果は鞘を重ねて離れないために銀の鉢巻をしたと同じであった。

主人は

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主人は

「土産にこんなものを持って来ました。蒙古刀だそうです」

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土産みやげにこんなものを持って来ました。蒙古刀もうことうだそうです」

と言いながら、すぐ抜いて見せた。

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と云いながら、すぐ抜いて見せた。

後ろに差してあった象牙のような棒も二本抜いて見せた。

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うしろに差してあった象牙ぞうげのような棒も二本抜いて見せた。

「これは箸ですよ。蒙古の人はいつもこれを腰にぶら下げていて、いざご馳走という段になると、この刀を抜いて肉を切って、そうしてこの箸でそばから食うんだそうです」

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「こりゃはしですよ。蒙古人は始終しじゅうこれを腰へぶら下げていて、いざ御馳走ごちそうという段になると、この刀を抜いて肉を切って、そうしてこの箸でそばから食うんだそうです」

主人はことさらに刀と箸を両手に持って、切ったり食ったりする真似をして見せた。

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主人はことさらに刀と箸を両手に持って、切ったり食ったりする真似をして見せた。

宗助はひたすら、その精巧な作りを眺めた。

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宗助はひたすらにその精巧な作りをながめた。

「ほかに蒙古の人が天幕に使うフェルトももらいましたが、まあ昔の毛氈と変わったところもありませんね」

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「まだ蒙古人の天幕テントに使うフェルトも貰いましたが、まあ昔の毛氈もうせんと変ったところもありませんね」

主人は、蒙古の人が上手に馬を扱うことや、蒙古犬が痩せて細長く、西洋のグレーハウンドに似ていることや、彼らが中国の人にだんだん押し狭められて行くことや――すべて近ごろ向こうから帰ったという弟に聞いたままを宗助に話した。

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主人は蒙古人の上手に馬を扱う事や、蒙古犬のせて細長くて、西洋のグレー・ハウンドに似ている事や、彼らが支那人のためにだんだん押しせばめられて行く事や、――すべて近頃あっちから帰ったという弟に聞いたままを宗助に話した。

宗助はまた、自分がいまだかつて耳にしたことのない話だけに、一つ一つ少なからぬ興味を持ってそれを聞いて行った。

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宗助はまた自分のいまだかつて耳にした事のない話だけに、一々少なからぬ興味をってそれを聞いて行った。

そのうちに、そもそもこの弟は蒙古で何をしているのだろうという好奇心が出た。

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そのうちに、元来この弟は蒙古で何をしているのだろうという好奇心が出た。

そこでちょっと主人に尋ねてみると、主人は、

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そこでちょっと主人に尋ねて見ると、主人は、

「冒険者」

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冒険者アドヴェンチュアラー

と、再びさきほどの言葉を力強く繰り返した。

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と再び先刻さっきの言葉を力強く繰り返した。

「何をしているか分からない。私には、牧畜をやっています、しかも成功しています、と言うんですがね、まるで当てにはなりません。今までもよく法螺を吹いて私を欺したものです。それに今度東京へ出て来た用事というのがよほど妙です。何とかいう蒙古王のために金を二万円ばかり借りたい。もし貸してやらないと自分の信用に関わる、と言って奔走しているんですからね。その手始めに捕まったのが私だが、いくら蒙古王だって、いくら広い土地を抵当にするといったって、蒙古と東京では催促さえできやしませんもの。で、私が断ると、陰へ回って家内に、兄さんはああだから大きな仕事ができっこない、と威張っているんです。しようがない」

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「何をしているか分らない。私には、牧畜をやっています。しかも成功していますと云うんですがね、いっこうあてにはなりません。今までもよく法螺ほらを吹いて私をだましたもんです。それに今度東京へ出て来た用事と云うのがよっぽど妙です。何とか云う蒙古王のために、金を二万円ばかり借りたい。もし借してやらないと自分の信用に関わるって奔走しているんですからね。そのとっぱじめに捕まったのは私だが、いくら蒙古王だって、いくら広い土地を抵当にするったって、蒙古と東京じゃ催促さえできやしませんもの。で、私が断ると、かげへ廻ってさいに、兄さんはあれだから大きな仕事ができっこないって、威張っているんです。しようがない」

主人はここで少し笑ったが、妙に緊張した宗助の顔を見て、

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主人はここで少し笑ったが、妙に緊張した宗助の顔を見て、

「どうです、一度会ってご覧になっては。わざわざ毛皮の付いただぶだぶしたものなんか着て、ちょっと面白いですよ。何ならご紹介しましょう。ちょうど明後日の晩に呼んで飯を食わせることになっているから。――なに、引っ掛かってはいけませんがね。黙って向こうに喋らせて聞いている分には、少しも危険はありません。ただ面白いだけです」

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「どうです一遍逢って御覧になっちゃ、わざわざ毛皮の着いただぶだぶしたものなんか着て、ちょっと面白いですよ。何なら御紹介しましょう。ちょうど明後日あさっての晩呼んで飯を食わせる事になっているから。――なに引っ掛っちゃいけませんがね。黙ってむこう喋舌しゃべらして、聞いている分には、少しも危険はありません。ただ面白いだけです」

としきりに勧め出した。

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としきりにすすめ出した。

宗助は多少心を動かした。

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宗助は多少心を動かした。

「おいでになるのは弟さんだけですか」

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「おいでになるのは御令弟だけですか」

「いや、ほかに一人、弟の友達で向こうからいっしょに来た者が来るはずになっています。安井とかいって、私はまだ会ったこともない男ですが、弟がしきりに私に紹介したがるので、実はそれで二人を呼ぶことにしたんです」

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「いやほかに一人おととの友達でむこうからいっしょに来たものが、来るはずになっています。安井とか云って私はまだ逢った事もない男ですが、弟がしきりに私に紹介したがるから、実はそれで二人を呼ぶ事にしたんです」

宗助はその夜、青い顔をして坂井の門を出た。

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宗助はその夜あおい顔をして坂井の門を出た。

十七

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十七

宗助と御米の一生を暗く彩った関係は、二人の影を薄くして、幽霊のような思いをどこかに抱かせていた。

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宗助そうすけ御米およねの一生を暗くいろどった関係は、二人の影を薄くして、幽霊ゆうれいのような思をどこかにいだかしめた。

彼らは自分の心のある部分に、人に見えない結核のような恐ろしいものが潜んでいるのをうっすら自覚しながら、わざと知らぬ顔で互いと向き合って年を過ごした。

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彼らは自己の心のある部分に、人に見えない結核性の恐ろしいものがひそんでいるのを、ほのかに自覚しながら、わざと知らぬ顔に互と向き合って年を過した。

当初、彼らの頭にひどく応えたのは、彼らの過ちが安井の前途に及ぼした影響だった。

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当初彼らの頭脳に痛くこたえたのは、彼らのあやまちが安井の前途に及ぼした影響であった。

二人の頭の中で沸き返ったすさまじい泡のようなものがようやく静まった時、二人は安井もまた中途で学校を退いたという消息を耳にした。

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二人の頭の中でき返ったすごあわのようなものがようやく静まった時、二人は安井もまた半途で学校を退しりぞいたという消息を耳にした。

彼らはもとより、安井の前途を傷つけた原因をなしたに違いなかった。

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彼らはもとより安井の前途をきずつけた原因をなしたに違なかった。

次に、安井が郷里に帰ったという噂を聞いた。

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次に安井が郷里に帰ったといううわさを聞いた。

次に、病気にかかって家に寝ているという知らせを得た。

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次に病気にかかって家に寝ているという報知しらせを得た。

二人はそれを聞くたびに重い胸を痛めた。

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二人はそれを聞くたびに重い胸を痛めた。

最後に、安井が満州に行ったという便りが来た。

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最後に安井が満洲に行ったと云う音信たよりが来た。

宗助は腹の中で、病気はもう治ったのだろうかと思った。

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宗助は腹の中で、病気はもうなおったのだろうかと思った。

あるいは満州行きの方が嘘ではなかろうかと考えた。

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または満洲行の方がうそではなかろうかと考えた。

安井は体から言っても性質から言っても、満州や台湾に向く男ではなかったからである。

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安井は身体からだから云っても、性質から云っても、満洲や台湾に向く男ではなかったからである。

宗助はできるだけ手を回して、事の真偽を探った。

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宗助はできるだけ手を回して、事の真疑を探った。

そうしてある関係から、安井が確かに奉天にいることを確かめ得た。

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そうして、或る関係から、安井がたしかに奉天にいる事を確め得た。

同時に、彼が健康で、活発で、多忙であることも確かめ得た。

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同時に彼の健康で、活溌かっぱつで、多忙である事も確め得た。

その時、夫婦は顔を見合わせて、ほっと息をついた。

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その時夫婦は顔を見合せて、ほっという息をいた。

「まあよかろう」

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「まあよかろう」

と宗助が言った。

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と宗助が云った。

「病気よりはね」

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「病気よりはね」

と御米が言った。

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と御米が云った。

二人はそれ以後、安井の名を口にするのを避けた。

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二人はそれから以後安井の名を口にするのを避けた。

考え出すことさえあえてしなかった。

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考え出す事さえもあえてしなかった。

彼らは、安井を中途で退学させ、郷里へ帰らせ、病気にかからせ、あるいは満州へ追いやった罪に対して、どれほど悔いの苦しみを重ねてもどうすることもできない立場にいたからである。

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彼らは安井を半途で退学させ、郷里へ帰らせ、病気に罹らせ、もしくは満洲へりやった罪に対して、いかに悔恨の苦しみを重ねても、どうする事もできない地位に立っていたからである。

「御米、お前、信仰の心が起こったことがあるかい」

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「御米、御前信仰の心が起った事があるかい」

とある時、宗助が御米に聞いた。

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と或時宗助が御米に聞いた。

御米はただ、

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御米は、ただ、

「あるわ」

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「あるわ」

と答えただけで、すぐ「あなたは」

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と答えただけで、すぐ「あなたは」

と聞き返した。

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と聞き返した。

宗助は薄笑いをしたきり、何とも答えなかった。

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宗助は薄笑いをしたぎり、何とも答えなかった。

その代わり、押して御米の信仰について詳しい質問もしなかった。

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その代りして、御米の信仰について、詳しい質問も掛けなかった。

御米には、それが幸せだったかもしれない。

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御米には、それが仕合しあわせかも知れなかった。

彼女はその方面に、これというほどはっきり凝り固まった何物も持っていなかったからである。

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彼女はその方面に、これというほど判然はっきりしたり整った何物もっていなかったからである。

二人はそうこうして、教会の腰掛けにも寄らず、寺の門もくぐらずに過ぎた。

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二人はとかくして会堂の腰掛ベンチにもらず、寺院の門もくぐらずに過ぎた。

そうしてただ、自然の恵みから来る月日という和らげ薬の力だけで、ようやく落ち着いた。

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そうしてただ自然の恵から来る月日つきひと云う緩和剤かんわざいの力だけで、ようやく落ちついた。

時々遠くから不意に現れる訴えも、苦しみとか恐れとかいう残酷な名を付けるには、あまりにかすかで、あまりに薄く、あまりに肉体と損得を離れ過ぎるようになった。

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時々遠くから不意に現れるうったえも、苦しみとか恐れとかいう残酷の名を付けるには、あまりかすかに、あまり薄く、あまりに肉体と慾得を離れ過ぎるようになった。

結局のところ、彼らの信仰は、神を得なかったため、仏に会わなかったために、互いを目印として働いた。

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必竟ひっきょうずるに、彼らの信仰は、神を得なかったため、ほとけに逢わなかったため、互を目標めじるしとして働らいた。

互いに抱き合って、丸い円を描き始めた。

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互にき合って、丸い円をえがき始めた。

彼らの生活は寂しいなりに落ち着いて来た。

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彼らの生活はさみしいなりに落ちついて来た。

その寂しい落ち着きのうちに、一種の甘い悲しみを味わった。

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その淋しい落ちつきのうちに、一種の甘い悲哀を味わった。

文芸にも哲学にも縁のない彼らは、この味をなめ尽くしながら、自分で自分の状態を得意に思って自覚するほどの知識を持たなかったから、同じ境遇にある詩人や文人などよりも一層純粋だった。――

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文芸にも哲学にも縁のない彼らは、この味をめ尽しながら、自分で自分の状態を得意がって自覚するほどの知識をたなかったから、同じ境遇にある詩人や文人などよりも、一層純粋であった。――

これが、七日の晩に坂井へ呼ばれて安井の消息を聞くまでの夫婦の有り様だった。

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これが七日なのかの晩に坂井へ呼ばれて、安井の消息を聞くまでの夫婦の有様であった。

その夜、宗助は家に帰って御米の顔を見るやいなや、

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その夜宗助は家に帰って御米の顔を見るやいなや、

「少し具合が悪いから、すぐ寝よう」

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「少し具合が悪いから、すぐ寝よう」

と言って、火鉢に寄りかかりながら帰りを待ち受けていた御米を驚かせた。

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と云って、火鉢ひばちりながら、かえりを待ち受けていた御米を驚ろかした。

「どうなさったの」

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「どうなすったの」

と御米は目を上げて宗助を眺めた。

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と御米は眼を上げて宗助をながめた。

宗助はそこに突っ立っていた。

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宗助はそこに突っ立っていた。

宗助が外から帰って来てこんな風をするのは、ほとんど御米の記憶にないくらいめずらしかった。

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宗助が外から帰って来て、こんな風をするのは、ほとんど御米の記憶にないくらい珍らしかった。

御米は突然、何とも知れない恐怖の念に襲われたように立ち上がったが、ほとんど機械的に、戸棚から夜具や布団を取り出して夫の言いつけどおり床を延べ始めた。

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御米は卒然何とも知れない恐怖の念におそわれたごとくに立ち上がったが、ほとんど器械的に、戸棚とだなから夜具蒲団やぐふとんを取り出して、夫の云いつけ通り床を延べ始めた。

その間、宗助はやはり懐手をしてそばに立っていた。

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その間宗助はやっぱり懐手ふところでをしてそばに立っていた。

そうして床が敷けるやいなや、そこそこに着物を脱ぎ捨てて、すぐその中に潜り込んだ。

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そうして床が敷けるや否や、そこそこに着物を脱ぎ捨てて、すぐその中にもぐり込んだ。

御米は枕もとを離れられなかった。

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御米は枕元を離れ得なかった。

「どうなさったの」

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「どうなすったの」

「何だか、少し心持ちが悪い。しばらくこうしてじっとしていたらよくなるだろう」

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「何だか、少し心持が悪い。しばらくこうしてじっとしていたら、よくなるだろう」

宗助の答えは半ば夜着の下から出た。

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宗助の答は半ば夜着の下から出た。

その声がこもったように御米の耳に響いた時、御米は済まない顔をして枕もとに座ったまま動かなかった。

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その声がこもったように御米の耳に響いた時、御米は済まない顔をして、枕元にすわったなり動かなかった。

「あっちへ行っていてもいいよ。用があれば呼ぶから」

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「あっちへ行っていてもいいよ。用があれば呼ぶから」

御米はようやく茶の間へ帰った。

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御米はようやく茶の間へ帰った。

宗助は夜具をかぶったまま、一人硬くなって目を閉じていた。

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宗助は夜具をかぶったまま、ひとり硬くなって眼をねむっていた。

彼はこの暗い中で、坂井から聞いた話を何度となく繰り返した。

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彼はこの暗い中で、坂井から聞いた話を何度となく反覆した。

彼は満州にいる安井の消息を、家主である坂井の口を通して知ろうとは、今の今まで予想していなかった。

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彼は満洲にいる安井の消息を、家主たる坂井の口を通して知ろうとは、今が今まで予期していなかった。

もう少しのことで、その安井と同じ家主の家へ同時に招かれて、隣り合わせか向かい合わせに座る運命になろうとは、今夜晩飯を済ますまで夢にも思いがけなかった。

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もう少しの事で、その安井と同じ家主の家へ同時に招かれて、隣り合せか、向い合せに坐る運命になろうとは、今夜晩食ばんめしを済ますまで、夢にも思いがけなかった。

彼は寝ながら過去二、三時間の経過を考えて、その山場が突如として、いかにも不意に起こったのを不思議に感じた。

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彼は寝ながら過去二三時間の経過を考えて、そのクライマックスが突如として、いかにも不意に起ったのを不思議に感じた。

しかも悲しく感じた。

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かつ悲しく感じた。

彼は、これほど偶然な出来事を借りて後ろから断りなしに足を掛けなければ倒すことのできないほど強い者とは、自分でも思っていなかったのである。

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彼はこれほど偶然な出来事を借りて、うしろから断りなしに足絡あしがらをかけなければ、倒す事のできないほど強いものとは、自分ながら任じていなかったのである。

自分のような弱い男を放り出すには、もっと穏やかな手段で十分でありそうなものだと信じていたのである。

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自分のような弱い男を放り出すには、もっと穏当おんとうな手段でたくさんでありそうなものだと信じていたのである。

小六から坂井の弟、それから満州、蒙古、上京、安井――こう話の跡をたどればたどるほど、偶然の度合いはあまりにはなはだしかった。

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小六ころくから坂井の弟、それから満洲、蒙古もうこ、出京、安井、――こう談話のあと辿たどれば辿るほど、偶然の度はあまりにはなはだしかった。

過去の痛恨を新たにするために、普通の人がめったに出会わないこの偶然に出会うべく、千人百人の中から選び出されなければならないほどの人物だったのかと思うと、宗助は苦しかった。

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過去の痛恨をあらたにすべく、普通の人が滅多めったに出逢わないこの偶然に出逢うために、千百人のうちからり出されなければならないほどの人物であったかと思うと、宗助は苦しかった。

また腹立たしかった。

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また腹立たしかった。

彼は暗い夜着の中で熱い息をついた。

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彼は暗い夜着の中で熱い息をいた。

この二、三年の月日でようやく治りかけた傷口が、急にうずき始めた。

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この二三年の月日でようやくなおりかけた創口きずぐちが、急にうずき始めた。

うずくにつれてほてって来た。

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疼くにれてほてって来た。

再び傷口が裂けて、毒のある風が容赦なく吹き込みそうになった。

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再び創口が裂けて、毒のある風が容赦なく吹き込みそうになった。

宗助は、いっそのこと万事を御米に打ち明けて、共に苦しみを分かってもらおうかと思った。

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宗助はいっそのこと、万事を御米に打ち明けて、共に苦しみを分って貰おうかと思った。

「御米、御米」

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「御米、御米」

と二声呼んだ。

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と二声呼んだ。

御米はすぐ枕もとへ来て、上から覗き込むように宗助を見た。

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御米はすぐ枕元へ来て、上からのぞき込むように宗助を見た。

宗助は夜具の襟から顔をすっかり出した。

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宗助は夜具のえりから顔を全く出した。

次の間の灯りが御米の頬を半分照らしていた。

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次の間のが御米の頬を半分照らしていた。

「熱い湯を一杯もらおう」

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「熱い湯を一杯貰おう」

宗助はとうとう言おうとしたことを言い切る勇気を失って、嘘をついてごまかした。

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宗助はとうとう言おうとした事を言い切る勇気を失って、うそいてごまかした。

翌日、宗助は例のごとく起きて、いつもと変わることなく食事を済ませた。

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翌日宗助は例のごとく起きて、平日と変る事なく食事を済ました。

そうして給仕をしてくれる御米の顔に多少安心の色が見えたのを、嬉しいような哀れなような一種の感情をもって眺めた。

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そうして給仕をしてくれる御米の顔に、多少安心の色が見えたのを、うれしいようなあわれなような一種の情緒じょうしょをもってながめた。

「昨夜は驚いたわ。どうなさったのかと思って」

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昨夕ゆうべは驚ろいたわ。どうなすったのかと思って」

宗助は下を向いて茶碗に注いだ茶を飲んだだけだった。

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宗助は下を向いて茶碗にいだ茶をんだだけであった。

何と答えていいか、適当な言葉を見つけられなかったからである。

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何と答えていいか、適当な言葉を見出さなかったからである。

その日は朝からから風が吹きすさんで、折々埃とともに行く人の帽子を奪った。

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その日は朝からから風が吹きすさんで、折々ほこりと共に行く人の帽を奪った。

熱があると悪いから一日休んだら、という御米の心配を聞き流して、いつものとおり電車に乗った宗助は、風の音と車の音の中に首を縮めて、ただ一つの所を見つめていた。

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熱があると悪いから、一日休んだらと云う御米の心配を聞き捨てにして、例の通り電車へ乗った宗助は、風の音と車の音の中に首をちぢめて、ただ一つ所を見つめていた。

降りる時、ひゅうという音がして頭の上の針金が鳴ったのに気がついて空を見たら、この猛烈な自然の力が荒れ狂う間に、いつもより明るい日がのそりと出ていた。

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降りる時、ひゅうという音がして、頭の上の針線はりがねが鳴ったのに気がついて、空を見たら、この猛烈な自然の力の狂う間に、いつもより明らかな日がのそりと出ていた。

風はズボンの股を冷たくして過ぎた。

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風は洋袴ズボンまたを冷たくして過ぎた。

宗助には、その砂を巻いて向こうの堀の方へ進んで行く姿が、斜めに吹かれる雨脚のようにはっきり見えた。

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宗助にはその砂をいて向うの堀の方へ進んで行く影が、斜めに吹かれる雨のあしのように判然はっきり見えた。

役所では仕事が手につかなかった。

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役所では用が手に着かなかった。

筆を持って頬杖をついたまま何か考えた。

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筆を持って頬杖ほおづえを突いたまま何か考えた。

時々は必要のない墨をむやみに磨り下ろした。

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時々は不必要な墨をみだりにりおろした。

煙草はむやみに飲んだ。

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煙草たばこはむやみに呑んだ。

そうしては、思い出したように窓ガラス越しに外を眺めた。

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そうしては、思い出したように窓硝子まどガラスを通して外を眺めた。

外は見るたびに風の世界だった。

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外は見るたびに風の世界であった。

宗助はただ早く帰りたかった。

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宗助はただ早く帰りたかった。

ようやく時間が来て家へ帰った時、御米は不安そうに宗助の顔を見て、

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ようやく時間が来てうちへ帰ったとき、御米は不安らしく宗助の顔を見て、

「どうもなくて」

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「どうもなくって」

と聞いた。

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と聞いた。

宗助はやむを得ず、どうもないが、ただ疲れた、と答えて、すぐ炬燵の中へ入ったきり晩飯まで動かなかった。

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宗助はやむを得ず、どうもないが、ただ疲れたと答えて、すぐ炬燵こたつの中へ入ったなり、晩食ばんめしまで動かなかった。

そのうち風は日とともに落ちた。

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そのうち風は日と共に落ちた。

昼の反動で、あたりは急にひっそり静まった。

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昼の反動で四隣あたりは急にひっそり静まった。

「いい具合ね、風がなくなって。昼間のように吹かれると、家に座っていても何だか気味が悪くて仕方がないわ」

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「好い案排あんばいね、風が無くなって。昼間のように吹かれると、家に坐っていても何だか気味が悪くってしようがないわ」

御米の言葉には、魔物でもあるかのように風を恐れる調子があった。

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御米の言葉には、魔物でもあるかのように、風を恐れる調子があった。

宗助は落ち着いて、

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宗助は落ちついて、

「今夜は少し暖かいようだね。穏やかでいいお正月だ」

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「今夜は少しあったかいようだね。おだやかで好い御正月だ」

と言った。

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と云った。

飯を済ませて煙草を一本吸う段になって、突然、

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飯を済まして煙草たばこを一本吸う段になって、突然、

「御米、寄席へでも行ってみようか」

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「御米、寄席よせへでも行って見ようか」

とめずらしく細君を誘った。

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と珍らしく細君を誘った。

御米はもちろん断る理由を持たなかった。

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御米は無論いなむ理由をたなかった。

小六は義太夫などを聞くより家にいて餅でも焼いて食う方が気楽だというので、留守を頼んで二人が出た。

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小六は義太夫などを聞くより、うちにいてもちでも焼いて食った方が勝手だというので、留守を頼んで二人出た。

少し時間が遅れたので、寄席はいっぱいだった。

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少し時間が遅れたので、寄席はいっぱいであった。

二人は座布団を敷く余地もない一番後ろの方に、立て膝をするようにして割り込ませてもらった。

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二人は座蒲団ざぶとんを敷く余地もない一番うしろの方に、立膝たてひざをするように割り込まして貰った。

「大変な人ね」

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「大変な人ね」

「やっぱり春だから入るんだろう」

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「やっぱり春だから入るんだろう」

二人は小声で話しながら、大きな部屋にぎっしり詰まった人の頭を見回した。

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二人は小声で話しながら、大きな部屋にぎっしり詰まった人の頭を見回みまわした。

その頭のうちで、高座に近い前の方は煙草の煙で霞んでいるようにぼんやり見えた。

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その頭のうちで、高座こうざに近い前の方は、煙草の煙でかすんでいるようにぼんやり見えた。

宗助には、この累々と並ぶ黒いものが、ことごとくこういう娯楽の席へ来て面白く半夜を潰すことのできる余裕のある人のように思われた。

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宗助にはこの累々るいるいたる黒いものが、ことごとくこう云う娯楽の席へ来て、面白く半夜をつぶす事のできる余裕のある人らしく思われた。

彼はどの顔を見ても羨ましかった。

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彼はどの顔を見てもうらやましかった。

彼は高座の方を正面から見て、熱心に浄瑠璃を聞こうと努めた。

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彼は高座の方を正視して、熱心に浄瑠璃じょうるりを聞こうとつとめた。

けれども、いくら努めても面白くならなかった。

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けれどもいくら力めても面白くならなかった。

時々目をそらして、御米の顔を盗み見た。

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時々眼をらして、御米の顔をぬすみ見た。

見るたびに、御米の視線は正しい所を向いていた。

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見るたびに御米の視線は正しい所を向いていた。

そばに夫がいることはほとんど忘れて、真面目に聴いているらしかった。

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そばに夫のいる事はほとんど忘れて、真面目まじめに聴いているらしかった。

宗助は、羨ましい人のうちに御米まで数えなければならなかった。

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宗助はうらやましい人のうちに、御米まで勘定かんじょうしなければならなかった。

中入りの時、宗助は御米に、

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中入の時、宗助は御米に、

「どうだ、もう帰ろうか」

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「どうだ、もう帰ろうか」

と言いかけた。

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と云い掛けた。

御米はその唐突さに驚かされた。

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御米はその唐突とうとつなのに驚ろかされた。

「嫌なの」

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「厭なの」

と聞いた。

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と聞いた。

宗助は何とも答えなかった。

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宗助は何とも答えなかった。

御米は、

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御米は、

「どうでもいいわ」

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「どうでもいいわ」

と、半ば夫の意に逆らわないような返事をした。

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と半分夫の意にさからわないような挨拶あいさつをした。

宗助は、せっかく連れて来た御米に対してかえって気の毒な心が起こった。

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宗助はせっかく連れて来た御米に対して、かえって気の毒な心が起った。

とうとう終わりまで辛抱して座っていた。

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とうとうしまいまで辛抱しんぼうして坐っていた。

家へ帰ると、小六は火鉢の前にあぐらをかいて、背表紙の反り返るのも構わずに、手に持った本を上からかざして読んでいた。

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うちへ帰ると、小六は火鉢ひばちの前に胡坐あぐらいて、背表紙せびょうしり返るのも構わずに、手に持った本を上からかざして読んでいた。

鉄瓶は脇へ下ろしたまま、湯は生ぬるく冷めてしまった。

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鉄瓶てつびんわきおろしたなり、湯は生温なまぬるくめてしまった。

盆の上に、焼き余りの餅が三切れか四切れ載せてあった。

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盆の上に焼き余りの餅が三切みきれ四片よきれせてあった。

網の下から、小皿に残った醤油の色が見えた。

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網の下から小皿に残った醤油の色が見えた。

小六は席を立って、

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小六は席を立って、

「面白かったですか」

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「面白かったですか」

と聞いた。

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と聞いた。

夫婦は十分ほど体を炬燵で暖めた上、すぐ床に入った。

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夫婦は十分ほど身体からだ炬燵こたつで暖めた上すぐ床へ入った。

翌日になっても宗助の心に落ち着きが来なかったのは、ほぼ前の日と同じだった。

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翌日になっても宗助の心に落ちつきが来なかった事は、ほぼ前の日と同じであった。

役所が退けて、いつものとおり電車に乗ったが、今夜自分と前後して安井が坂井の家へ客に来るということを思うと、どうしても、わざわざその人に近づくためにこんな速さで家へ帰って行くのが理屈に合わないように思われた。

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役所が退けて、例の通り電車へ乗ったが、今夜自分と前後して、安井が坂井の家へ客に来ると云う事を想像すると、どうしても、わざわざその人と接近するために、こんな速力で、うちへ帰って行くのが不合理に思われた。

同時に、安井はその後どんなに変わっただろうと思うと、よそからひと目その様子を眺めたくもあった。

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同時に安井はその後どんなに変化したろうと思うと、よそから一目彼の様子がながめたくもあった。

坂井が一昨日の晩、自分の弟を評して一口に「冒険者」

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坂井が一昨日おとといの晩、自分のおととを評して、一口に「冒険者アドヴェンチュアラー

と言った、その音が今、宗助の耳に高く響き渡った。

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と云った、そのおんが今宗助の耳に高く響き渡った。

宗助はこの一語の中に、あらゆる自暴と自棄、不平と憎悪、乱倫と背徳、盲信と決行を思い描いて、これらの一角に触れなければならないほどの坂井の弟と、それと利害を共にすべく満州からいっしょに出て来た安井とが、どの程度の人物になったかを頭の中で描いてみた。

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宗助はこの一語の中に、あらゆる自暴と自棄と、不平と憎悪ぞうおと、乱倫と悖徳はいとくと、盲断と決行とを想像して、これらの一角いっかくに触れなければならないほどの坂井の弟と、それと利害を共にすべく満洲からいっしょに出て来た安井が、いかなる程度の人物になったかを、頭の中でえがいて見た。

描かれた絵は、もちろん冒険者という字面の許す範囲内で、もっとも強い色彩を帯びたものだった。

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描かれたは無論冒険者アドヴェンチュアラー字面じづらの許す範囲内で、もっとも強い色彩を帯びたものであった。

こうして堕落の方面をことさら誇張した冒険者を頭の中でこしらえ上げた宗助は、その責任を自分一人ですべて負わなければならないような気がした。

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かように、堕落の方面をとくに誇張した冒険者アドヴェンチュアラーを頭の中でこしらえ上げた宗助は、その責任を自身一人で全く負わなければならないような気がした。

彼はただ、坂井へ客に来る安井の姿をひと目見て、その姿から安井の今の人柄を思い浮かべたかった。

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彼はただ坂井へ客に来る安井の姿を一目見て、その姿から、安井の今日こんにちの人格を髣髴ほうふつしたかった。

そうして、自分の想像ほど彼は堕落していないという慰めを得たかった。

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そうして、自分の想像ほど彼は堕落していないという慰藉いしゃを得たかった。

彼は坂井の家のそばに立って、向こうに知られずに人をうかがえる都合のいい場所はあるまいかと考えた。

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彼は坂井のいえそばに立って、むこうに知れずに、ひとうかがうような便利な場所はあるまいかと考えた。

不幸にして、身を隠せる所は思いつけなかった。

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不幸にして、身を隠すべきところを思いつき得なかった。

もし日が落ちてから来るとすれば、こちらが気づかれない利点がある一方で、暗い中を通る人の顔が分からない不都合があった。

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もし日が落ちてから来るとすれば、こちらが認められない便宜べんぎがあると同時に、暗い中を通る人の顔の分らない不都合があった。

そのうち電車が神田へ来た。

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そのうち電車が神田へ来た。

宗助はいつものとおりそこで乗り換えて家の方へ向かって行くのが苦痛になった。

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宗助はいつもの通りそこで乗り換えてうちの方へ向いて行くのが苦痛になった。

彼の神経は、一歩でも安井の来る方角へ近づくのに耐えられなかった。

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彼の神経は一歩でも安井の来る方角へ近づくにえなかった。

安井をよそながら見たいという好奇心は、初めからさほど強くなかっただけに、乗り換えの間際になってまったく抑えつけられてしまった。

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安井をよそながら見たいという好奇心は、始めからさほど強くなかっただけに、乗換の間際まぎわになって、全くおさえつけられてしまった。

彼は寒い町を、多くの人と同じように歩いた。

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彼は寒い町を多くの人のごとく歩いた。

けれども多くの人のようなはっきりした目的は持っていなかった。

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けれども多くの人のごとくに判然はっきりした目的はっていなかった。

そのうち店に灯りが点いた。

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そのうち店にいた。

電車も灯りを点した。

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電車も灯火あかりもした。

宗助はある牛肉屋に上がって酒を飲み出した。

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宗助はある牛肉店に上がって酒をみ出した。

一本は夢中で飲んだ。

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一本は夢中に呑んだ。

二本目は無理に飲んだ。

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二本目は無理に呑んだ。

三本目にも酔えなかった。

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三本目にも酔えなかった。

宗助は背を壁にもたせて、酔って相手のない人のような目をして、ぼんやりどこかを見つめていた。

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宗助は背を壁に持たして、酔って相手のない人のような眼をして、ぼんやりどこかを見つめていた。

時刻が時刻なので、夕飯を食いに来る客は入れ代わり立ち代わり来た。

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時刻が時刻なので、夕飯ゆうめしを食いに来る客は入れ代り立ち代り来た。

その多くは用を足すように飲み食いを済ませて、さっさと勘定をして出て行くだけだった。

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その多くは用弁的ようべんてき飲食いんしょくを済まして、さっさと勘定かんじょうをして出て行くだけであった。

宗助は周りのざわつく中に黙って、他人の倍も三倍も時を過ごしたように感じた末、ついに座っていられずに席を立った。

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宗助は周囲のざわつく中に黙然もくねんとして、ひとの倍も三倍も時を過ごしたごとくに感じた末、ついに坐り切れずに席を立った。

表は左右から射す店の灯りで明るかった。

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表は左右から射す店の灯で明らかであった。

軒先を通る人は、帽子も衣装もはっきり見分けることができた。

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軒先を通る人は、帽も衣装いしょうもはっきり物色する事ができた。

けれども広い寒さを照らすには、あまりに弱過ぎた。

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けれども広い寒さを照らすには余りに弱過ぎた。

夜は家ごとのガス灯や電灯を無視して、相変わらず暗く大きく見えた。

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夜はごとの瓦斯ガスと電灯を閑却かんきゃくして、依然として暗く大きく見えた。

宗助はこの世界と釣り合うほど黒みの勝った外套に包まれて歩いた。

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宗助はこの世界と調和するほどな黒味の勝った外套マントに包まれて歩いた。

その時、彼は自分の吸う空気さえ灰色になって、肺の中の血管に触れるような気がした。

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その時彼は自分の呼吸する空気さえ灰色になって、肺の中の血管に触れるような気がした。

彼はこの晩に限って、ベルを鳴らして忙しそうに目の前を行ったり来たりする電車を使う考えが起こらなかった。

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彼はこの晩に限って、ベルを鳴らして忙がしそうに眼の前を往ったり来たりする電車を利用するかんがえが起らなかった。

目的を持って道を行く人とともに、抜け目なく足を運ぶことを忘れた。

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目的をってみちを行く人と共に、抜目なく足を運ばす事を忘れた。

しかも彼は、根の据わらない人間としてこうして漂う手本を演じつつある自分の心を顧みて、もしこの状態が長く続いたらどうしたらよかろうと、ひそかに自分の未来を案じ煩った。

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しかも彼は根のしまらない人間として、かく漂浪ひょうろう雛形ひながたを演じつつある自分の心をかえりみて、もしこの状態が長く続いたらどうしたらよかろうと、ひそかに自分の未来を案じわずらった。

今日までの経過から推して、すべての傷口を癒すのは時日であるという格言を、彼は自分の経験から割り出して深く胸に刻みつけていた。

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今日こんにちまでの経過からして、すべての創口きずぐち癒合ゆごうするものは時日であるという格言を、彼は自家の経験から割り出して、深く胸に刻みつけていた。

それが一昨日の晩にすっかり崩れたのである。

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それが一昨日おとといの晩にすっかりくずれたのである。

彼は黒い夜の中を歩きながら、ただどうにかしてこの心から逃れ出たいと思った。

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彼は黒い夜の中を歩るきながら、ただどうかしてこの心から逃れ出たいと思った。

その心はいかにも弱くて落ち着かず、不安で定まらず、度胸がなさ過ぎて情けなく見えた。

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その心はいかにも弱くて落ちつかなくって、不安で不定で、度胸がなさ過ぎて希知けちに見えた。

彼は胸を押さえつける一種の圧迫のもとで、どうすれば今の自分を救えるかという実際の方法だけを考えて、その圧迫のもとになった自分の罪や過ちは、まるでこの結果から切り離してしまった。

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彼は胸をおさえつける一種の圧迫のもとに、いかにせば、今の自分を救う事ができるかという実際の方法のみを考えて、その圧迫の原因になった自分の罪や過失は全くこの結果から切り放してしまった。

その時の彼は他人のことを考える余裕を失って、ことごとく自分本位になっていた。

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その時の彼はひとの事を考える余裕よゆうを失って、ことごとく自己本位になっていた。

今までは忍耐で世を渡って来た。

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今までは忍耐で世を渡って来た。

これからは積極的に人生観を作り替えなければならなかった。

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これからは積極的に人世観を作りえなければならなかった。

そうして、その人生観は口で述べるもの、頭で聞くものでは駄目だった。

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そうしてその人世観は口で述べるもの、頭で聞くものでは駄目であった。

心の中身が太くなるものでなくては駄目だった。

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心の実質が太くなるものでなくては駄目であった。

彼は歩き歩き、口の中で何度も宗教の二字を繰り返した。

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彼は行く行く口の中で何遍も宗教の二字を繰り返した。

けれども、その響きは繰り返すそばからすぐ消えて行った。

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けれどもその響は繰り返すあとからすぐ消えて行った。

つかんだと思った煙が、手を開けるといつの間にかなくなっているように、宗教とははかない文字だった。

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つかんだと思う煙が、手を開けるといつの間にか無くなっているように、宗教とははかない文字であった。

宗教に関連して、宗助は座禅という記憶を呼び起こした。

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宗教と関聯かんれんして宗助は坐禅ざぜんという記憶を呼び起した。

昔、京都にいた時分、彼の同級生に相国寺へ行って座禅をする者があった。

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昔し京都にいた時分彼の級友に相国寺しょうこくじへ行って坐禅をするものがあった。

当時、彼はその世間離れを笑っていた。

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当時彼はその迂濶うかつを笑っていた。

「今の世に……」

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「今の世に……」

と思っていた。

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と思っていた。

その同級生の動作が特に自分と違ったところもないようなのを見て、彼はますます馬鹿馬鹿しい気を起こした。

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その級友の動作が別に自分と違ったところもないようなのを見て、彼はますます馬鹿馬鹿しい気を起した。

彼は今さらながら、あの同級生が自分の侮蔑に値する以上のある動機から、貴重な時間を惜しまずに相国寺へ行ったのではなかろうかと考え出して、自分の軽薄を深く恥じた。

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彼は今更ながら彼の級友が、彼の侮蔑ぶべつあたいする以上のある動機から、貴重な時間を惜しまずに、相国寺へ行ったのではなかろうかと考え出して、自分の軽薄を深く恥じた。

もし昔から世間で言うとおり、心の安らぎとか運命への落ち着きとかいう境地に座禅の力で達することができるなら、十日や二十日役所を休んでも構わないからやってみたいと思った。

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もし昔から世俗で云う通り安心あんじんとか立命りつめいとかいう境地に、坐禅の力で達する事ができるならば、十日とおか二十日はつか役所を休んでも構わないからやって見たいと思った。

けれども彼はこの道にかけてはまったくの門外漢だった。

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けれども彼はこの道にかけては全くの門外漢であった。

したがって、これ以上はっきりした考えも浮かばなかった。

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したがって、これより以上明瞭めいりょうかんがえも浮ばなかった。

ようやく家へたどり着いた時、彼はいつものような御米と、いつものような小六と、それからいつものような茶の間と座敷とランプと箪笥を見て、自分だけがいつにない状態のもとでこの四、五時間を過ごしていたのだという自覚を深くした。

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ようやくうち辿たどり着いた時、彼は例のような御米と、例のような小六と、それから例のような茶の間と座敷と洋灯ランプ箪笥たんすを見て、自分だけが例にない状態のもとに、この四五時間を暮していたのだという自覚を深くした。

火鉢には小さな鍋が掛けてあって、その蓋の隙間から湯気が立っていた。

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火鉢ひばちには小さななべが掛けてあって、そのふた隙間すきまから湯気が立っていた。

火鉢の脇の彼がいつも座る所には、いつもの座布団が敷いてあり、その前にちゃんと膳立てがしてあった。

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火鉢のわきには彼の常に坐る所に、いつもの座蒲団ざぶとんを敷いて、その前にちゃんと膳立ぜんだてがしてあった。

宗助は糸底を上にしてわざと伏せた自分の茶碗と、この二、三年来朝晩使い慣れた木の箸を眺めて、

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宗助は糸底いとぞこを上にしてわざと伏せた自分の茶碗と、この二三年来朝晩使いれた木のはしながめて、

「もう飯は食わないよ」

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「もう飯は食わないよ」

と言った。

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と云った。

御米は多少不本意らしい風もした。

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御米は多少不本意らしい風もした。

「おや、そう。あまり遅いから、おおかたどこかで召し上がっただろうとは思ったけれど、もしまだだといけないから」

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「おやそう。あんまり遅いから、おおかたどこかで召上めしやがったろうとは思ったけれど、もしまだだといけないから」

と言いながら、布巾で鍋の耳をつまんで土瓶敷きの上に下ろした。

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と云いながら、布巾ふきんなべの耳をつまんで、土瓶敷どびんしきの上におろした。

それから清を呼んで、膳を台所へ下げさせた。

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それからきよを呼んでぜんを台所へ退げさした。

宗助はこういう風に、何か事情ができて役所が退けてからすぐ外へ回って遅くなる場合には、いつでもその顛末のあらましを帰宅早々に御米へ話すのを常にしていた。

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宗助はこういう風に、何ぞ事故ができて、役所の退出ひけからすぐ外へ回って遅くなる場合には、いつでもその顛末てんまつの大略を、帰宅早々御米に話すのを例にしていた。

御米もそれを聞かないうちは気が済まなかった。

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御米もそれを聞かないうちは気がすまなかった。

けれども今夜に限って、彼は神田で電車を降りたことも、牛肉屋へ上がったことも、無理に酒を飲んだことも、まるで話したくなかった。

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けれども今夜に限って彼は神田で電車を降りた事も、牛肉屋へ上った事も、無理に酒をんだ事も、まるで話したくなかった。

何も知らない御米は、また普段のとおり無邪気にあれこれ聞きたがった。

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何も知らない御米はまた平常の通り無邪気にそれからそれへと聞きたがった。

「なに、特にこれというわけもなかったんだけれど――つい、あのあたりで牛が食いたくなっただけのことさ」

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「何別にこれという理由わけもなかったのだけれども、――ついあすこいらでぎゅうが食いたくなっただけの事さ」

「そうしてお腹をこなすために、わざわざここまで歩いていらしたの」

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「そうして御腹おなか消化こなすために、わざわざここまで歩るいていらしったの」

「まあ、そうだ」

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「まあ、そうだ」

御米はおかしそうに笑った。

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御米はおかしそうに笑った。

宗助はむしろ苦しかった。

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宗助はむしろ苦しかった。

しばらくして、

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しばらくして、

「留守に坂井さんから迎えに来なかったかい」

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「留守に坂井さんから迎いに来なかったかい」

と聞いた。

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と聞いた。

「いいえ、なぜ」

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「いいえ、なぜ」

「一昨日の晩に行った時、ご馳走するとか言っていたからさ」

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一昨日おとといの晩行ったとき、御馳走ごちそうするとか云っていたからさ」

「また?」

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「また?」

御米は少し呆れた顔をした。

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御米は少しあきれた顔をした。

宗助はそれきり話を切り上げて寝た。

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宗助はそれなり話を切り上げて寝た。

頭の中をざわざわと何かが通った。

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頭の中をざわざわ何か通った。

時々目を開けてみると、例のごとくランプが暗くして床の間の上に載せてあった。

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時々眼を開けて見ると、例のごとく洋灯ランプが暗くして床の間の上にせてあった。

御米はいかにも心地よさそうに眠っていた。

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御米はさも心地好さそうに眠っていた。

つい先ごろまでは自分の方がよく寝られて、御米は幾晩も睡眠の不足に悩まされたのだった。

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ついこの間までは、自分の方が好く寝られて、御米は幾晩も睡眠の不足に悩まされたのであった。

宗助は目を閉じながら、はっきりと次の間の時計の音を聞かなければならない今の自分を、いっそう心苦しく感じた。

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宗助は眼を閉じながら、明らかに次の間の時計の音を聞かなければならない今の自分をさらに心苦しく感じた。

その時計は最初、いくつも続けざまに打った。

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その時計は最初は幾つも続けざまに打った。

それが過ぎると、びんと、ただ一つ鳴った。

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それが過ぎると、びんとただ一つ鳴った。

その濁った音が彗星の尾のように、ほうと宗助の耳たぶにしばらく響いていた。

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その濁った音が彗星ほうきぼしの尾のようにほうと宗助の耳朶みみたぶにしばらく響いていた。

次には二つ鳴った。

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次には二つ鳴った。

はなはだ寂しい音だった。

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はなはださみしい音であった。

宗助はその間に、何とかしてもっとおおらかに生きて行く分別をしなければならないという決心だけをした。

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宗助はその間に、何とかして、もっと鷹揚おうように生きて行く分別をしなければならないと云う決心だけをした。

三時はぼんやりして、聞こえたような聞こえないようなうちに過ぎた。

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三時は朦朧もうろうとして聞えたような聞えないようなうちに過ぎた。

四時、五時、六時はまるで知らなかった。

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四時、五時、六時はまるで知らなかった。

ただ世の中が膨れた。

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ただ世の中がふくれた。

天が波を打って伸び、また縮んだ。

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天が波を打って伸びかつ縮んだ。

地球が糸で吊るした毬のように大きな弧を描いて空間に揺れた。

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地球が糸で釣るしたまりのごとくに大きな弧線こせんえがいて空間にうごいた。

すべてが恐ろしい魔物の支配する夢だった。

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すべてが恐ろしい魔の支配する夢であった。

七時過ぎに、彼ははっとしてこの夢から覚めた。

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七時過に彼ははっとして、この夢からめた。

御米がいつものとおり微笑して枕もとにかがんでいた。

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御米がいつもの通り微笑して枕元にかがんでいた。

冴えた日は、黒い世の中をとっくにどこかへ追いやっていた。

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えた日は黒い世の中をとくにどこかへ追いやっていた。

十八

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十八

宗助は一通の紹介状を懐にして山門を入った。

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宗助そうすけは一封の紹介状をふところにして山門さんもんを入った。

彼はこれを、同僚の知人の某から得た。

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彼はこれを同僚の知人のなにがしから得た。

その同僚は役所の行き帰りに、電車の中で洋服のポケットから菜根譚を出して読む男だった。

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その同僚は役所の往復に、電車の中で洋服の隠袋かくしから菜根譚さいこんたんを出して読む男であった。

こういう方面に趣味のない宗助は、もとより菜根譚が何であるかを知らなかった。

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こう云う方面に趣味のない宗助は、もとより菜根譚の何物なるかを知らなかった。

ある日、同じ車の腰掛けに膝を並べて乗った時、それは何だと聞いてみた。

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ある日一つ車の腰掛に膝を並べて乗った時、それは何だと聞いて見た。

同僚は小型の黄色い表紙を宗助の前に出して、こんな妙な本だと答えた。

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同僚は小形の黄色い表紙を宗助の前に出して、こんな妙な本だと答えた。

宗助は重ねて、どんなことが書いてあるかと尋ねた。

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宗助は重ねてどんな事が書いてあるかと尋ねた。

その時、同僚は一口に説明できるうまい言葉を持っていなかったと見えて、まあ禅の本だろう、というような妙な答えをした。

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その時同僚は、一口に説明のできる格好かっこうな言葉をっていなかったと見えて、まあ禅学の書物だろうというような妙な挨拶あいさつをした。

宗助は同僚から聞いたこの返事をよく覚えていた。

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宗助は同僚から聞いたこの返事をよく覚えていた。

紹介状をもらう四、五日前、彼はこの同僚のそばへ行って、君は禅をやるのかと突然質問をした。

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紹介状を貰う四五日前しごんちまえ、彼はこの同僚のそばへ行って、君は禅学をやるのかと、突然質問を掛けた。

同僚は強く緊張した宗助の顔を見てすこぶる驚いた様子だったが、いや、やらない、ただ慰み半分にあんな本を読むだけだ、とすぐ逃げてしまった。

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同僚は強く緊張した宗助の顔を見てすこぶる驚ろいた様子であったが、いややらない、ただなぐさみ半分にあんな書物を読むだけだと、すぐ逃げてしまった。

宗助は多少失望に緩んだ下唇を垂らして、自分の席に帰った。

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宗助は多少失望にゆるんだ下唇したくちびるを垂れて自分の席に帰った。

その日の帰りがけに、彼らはまた同じ電車に乗り合わせた。

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その日帰りがけに、彼らはまた同じ電車に乗り合わした。

さきほどの宗助の様子を気の毒に見た同僚は、彼の質問の奥に雑談以上のある意味を認めたと見えて、前よりもっと親切にその方面の話をして聞かせた。

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先刻さっき宗助の様子を、気の毒に観察した同僚は、彼の質問の奥に雑談以上のある意味を認めたものと見えて、前よりはもっと親切にその方面の話をして聞かした。

しかし自分はいまだかつて参禅ということをした経験がないと打ち明けた。

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しかし自分はいまだかつて参禅という事をした経験がないと自白した。

もし詳しい話が聞きたければ、幸い自分の知り合いによく鎌倉へ行く男がいるから紹介してやろうと言った。

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もしくわしい話が聞きたければ、幸い自分の知り合によく鎌倉へ行く男があるから紹介してやろうと云った。

宗助は車の中でその人の名前と番地を手帳に書き留めた。

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宗助は車の中でその人の名前と番地を手帳に書き留めた。

そうして次の日、同僚の手紙を持ってわざわざ回り道をして訪問に出かけた。

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そうして次の日同僚の手紙を持ってわざわざ回り道をして訪問に出かけた。

宗助が懐にした手紙は、その折、その場でしたためてもらったものだった。

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宗助のふところにした書状はその折席上でしたためて貰ったものであった。

役所は病気ということにして、十日ばかり休むことにした。

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役所は病気になって十日ばかり休む事にした。

御米の手前も、やはり病気だと取り繕った。

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御米およねの手前もやはり病気だと取りつくろった。

「少し脳が悪いから、一週間ほど役所を休んで遊んで来るよ」

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「少し脳が悪いから、一週間ほど役所を休んであすんで来るよ」

と言った。

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と云った。

御米はこの頃の夫の様子のどこかに異状があるらしく思われるので、内心ではいつも心配していた矢先だから、普段は煮え切らない宗助の思い切りを喜んだ。

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御米はこの頃の夫の様子のどこかに異状があるらしく思われるので、内心では始終しじゅう心配していた矢先だから、平生煮え切らない宗助の果断を喜んだ。

けれども、その突然さにはまったく驚いた。

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けれどもその突然なのにも全く驚ろいた。

「遊びに行くって、どこへいらっしゃるの」

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「遊びに行くって、どこへいらっしゃるの」

と目を丸くしないばかりに聞いた。

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と眼を丸くしないばかりに聞いた。

「やっぱり鎌倉あたりがいいだろうと思っている」

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「やっぱり鎌倉辺が好かろうと思っている」

と宗助は落ち着いて答えた。

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と宗助は落ちついて答えた。

地味な宗助とハイカラな鎌倉とは、ほとんど縁の遠いものだった。

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地味な宗助とハイカラな鎌倉とはほとんど縁の遠いものであった。

突然その二つを結びつけるのは滑稽だった。

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突然二つのものを結びつけるのは滑稽こっけいであった。

御米も微笑を禁じ得なかった。

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御米も微笑を禁じ得なかった。

「まあ、お金持ちね。私もいっしょに連れて行ってちょうだい」

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「まあ御金持ね。わたしもいっしょに連れてってちょうだい」

と言った。

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と云った。

宗助は、愛すべき細君のこの冗談を味わう余裕を持たなかった。

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宗助は愛すべき細君のこの冗談じょうだんを味わう余裕を有たなかった。

真面目な顔をして、

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真面目まじめな顔をして、

「そんな贅沢な所へ行くんじゃないよ。禅寺へ泊めてもらって、一週間か十日、ただ静かに頭を休めてみるだけのことさ。それも、はたしてよくなるのかならないのか分からないが、空気のいい所へ行くと頭にはたいへん違うとみんな言うから」

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「そんな贅沢ぜいたくな所へ行くんじゃないよ。禅寺へめてもらって、一週間か十日、ただ静かに頭を休めて見るだけの事さ。それもはたして好くなるか、ならないか分らないが、空気のいい所へ行くと、頭には大変違うとみんな云うから」

と弁解した。

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と弁解した。

「そりゃ違いますわ。だから行っていらっしゃいとも。今のは本当の冗談よ」

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「そりゃ違いますわ。だから行っていらっしゃいとも。今のは本当の冗談よ」

御米は、善良な夫をからかったことを多少済まないように感じた。

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御米は善良な夫に調戯からかったのを、多少済まないように感じた。

宗助はその翌日、すぐもらっておいた紹介状を懐にして新橋から汽車に乗ったのである。

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宗助はその翌日あくるひすぐ貰って置いた紹介状をふところにして、新橋から汽車に乗ったのである。

その紹介状の表には、釈宜道様と書いてあった。

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その紹介状の表には釈宜道しゃくぎどう様と書いてあった。

「この間までお付きの僧をしていましたが、この頃は塔頭にある古い庵に手を入れて、そこに住んでいるとか聞きました。どうですか、まあ着いたら訪ねてご覧なさい。庵の名はたしか一窓庵でした」

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「この間まで侍者じしゃをしていましたが、この頃では塔頭たっちゅうにある古い庵室に手を入れて、そこに住んでいるとか聞きました。どうですか、まあ着いたら尋ねて御覧なさい。庵の名はたしか一窓庵いっそうあんでした」

と書いてくれる時にわざわざ注意があったので、宗助は礼を言って手紙を受け取りながら、お付きの僧だの塔頭だのという、自分にはまるで耳新しい言葉の説明を聞いて帰ったのである。

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と書いてくれる時、わざわざ注意があったので、宗助は礼を云って手紙を受取りながら、侍者じしゃだの塔頭たっちゅうだのという自分には全く耳新らしい言葉の説明を聞いて帰ったのである。

山門を入ると、左右には大きな杉があって高く空を遮っているために、道が急に暗くなった。

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山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空をさえぎっているために、路が急に暗くなった。

その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との違いを急に悟った。

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その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急にさとった。

静かな境内の入口に立った彼は、初めて風邪を意識する時に似た一種の寒気を覚えた。

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静かな境内けいだいの入口に立った彼は、始めて風邪ふうじゃを意識する場合に似た一種の悪寒さむけを催した。

彼はまずまっすぐに歩き出した。

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彼はまず真直まっすぐに歩るき出した。

左右にも行く手にも、堂のようなものや院のようなものがちょいちょい見えた。

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左右にも行手いくてにも、堂のようなものや、院のようなものがちょいちょい見えた。

けれども人の出入りはいっさいなかった。

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けれども人の出入でいりはいっさいなかった。

ことごとく寂しく、さび果てていた。

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ことごとく寂寞せきばくとしててていた。

宗助は、どこへ行って宜道のいる所を教えてもらおうかと考えながら、誰も通らない道の真ん中に立って四方を見回した。

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宗助はどこへ行って、宜道ぎどうのいる所を教えて貰おうかと考えながら、誰も通らない路の真中に立って四方を見回みまわした。

山の裾を切り開いて、一、二町奥へ上るように建てた寺と見えて、後ろの方は木の色で高くふさがっていた。

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山のすそを切り開いて、一二丁奥へのぼるように建てた寺だと見えて、うしろの方はの色で高くふさがっていた。

道の左右も山続きか丘続きの地形に制せられて、決して平らではないようだった。

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路の左右も山続やまつづきか丘続の地勢に制せられて、けっして平ではないようであった。

その小高い所々に、下から石段を積んで寺らしい門を高く構えたのが二、三軒目についた。

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その小高い所々に、下から石段を畳んで、寺らしい門を高く構えたのが二三軒目に着いた。

平地に垣を巡らして点在しているのは、いくつもあった。

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平地ひらちに垣をめぐらして、点在しているのは、幾多いくらもあった。

近寄って見ると、いずれも門の瓦の下に院号やら庵号やらが額にして掛けてあった。

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近寄って見ると、いずれも門瓦もんがわらの下に、院号やら庵号やらが額にしてかけてあった。

宗助は箔の剥げた古い額を一、二枚読んで歩いたが、ふと、一窓庵から先に探し出して、もしそこに手紙の宛先の坊さんがいなかったら、もっと奥へ行って尋ねる方が便利だろうと思いついた。

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宗助ははくげた古い額を一二枚読んで歩いたが、ふと一窓庵から先へさがし出して、もしそこに手紙の名宛なあての坊さんがいなかったら、もっと奥へ行って尋ねる方が便利だろうと思いついた。

それから逆戻りをして塔頭を一つ一つ調べにかかると、一窓庵は山門を入るやいなや、すぐ右手の方の高い石段の上にあった。

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それから逆戻りをして塔頭を一々調べにかかると、一窓庵は山門を這入はいるや否やすぐ右手の方の高い石段の上にあった。

丘のはずれなので日当たりのいい、からりとした玄関先を控えて、後ろの山の懐に暖まっているような位置で冬を凌いでいるように見えた。

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丘外おかはずれなので、日当ひあたりの好い、からりとした玄関先を控えて、うしろの山のふところに暖まっているような位置に冬をしの気色けしきに見えた。

宗助は玄関を通り越して、庫裏の方から土間に足を入れた。

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宗助は玄関を通り越して庫裡くりの方から土間に足を入れた。

上がり口の障子が立ててある所まで来て、たのむ、たのむ、と二、三度呼んでみた。

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上り口の障子しょうじの立ててある所まで来て、たのむたのむと二三度呼んで見た。

しかし誰も出て来てくれる者はなかった。

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しかし誰も出て来てくれるものはなかった。

宗助はしばらくそこに立ったまま、中の様子をうかがっていた。

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宗助はしばらくそこに立ったまま、中の様子をうかがっていた。

いつまで立っていても音沙汰がないので、宗助は不思議に思って、また庫裏を出て門の方へ引き返した。

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いつまで立っていても音沙汰おとさたがないので、宗助は不思議な思いをして、また庫裡を出て門の方へ引返した。

すると石段の下から、剃り立ての頭を青く光らせた坊さんが上って来た。

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すると石段の下から剃立そりたての頭を青く光らした坊さんが上って来た。

年はまだ二十四、五としか見えない若い色白の顔だった。

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年はまだ二十四五としか見えない若い色白の顔であった。

宗助は門の扉の所で待ち合わせて、

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宗助は門の扉の所に待ち合わして、

「宜道さんとおっしゃる方はこちらにおいででしょうか」

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「宜道さんとおっしゃる方はこちらにおいででしょうか」

と聞いた。

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と聞いた。

「私が宜道です」

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「私が宜道です」

と若い僧は答えた。

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と若い僧は答えた。

宗助は少し驚いたが、また嬉しくもあった。

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宗助は少し驚ろいたが、またうれしくもあった。

すぐ懐から例の紹介状を出して渡すと、宜道は立ったまま封を切って、その場で読み下した。

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すぐ懐中から例の紹介状を出して渡すと、宜道は立ちながら封を切って、その場で読みくだした。

やがて手紙を巻き返して封筒へ入れると、

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やがて手紙を巻き返して封筒へ入れると、

「ようこそ」

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「ようこそ」

と言って丁寧に会釈したまま、先に立って宗助を導いた。

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と云って、叮嚀ていねい会釈えしゃくしたなり、先に立って宗助を導いた。

二人は庫裏で下駄を脱いで、障子を開けて中へ入った。

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二人は庫裡に下駄げたを脱いで、障子を開けて内へ這入った。

そこには大きな囲炉裏が切ってあった。

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そこには大きな囲炉裏いろりが切ってあった。

宜道は鼠色の木綿の上に羽織っていた薄い粗末な法衣を脱いで釘に掛け、

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宜道は鼠木綿ねずみもめんの上に羽織はおっていた薄い粗末な法衣ころもを脱いでくぎにかけて、

「お寒うございましょう」

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「御寒うございましょう」

と言って、囲炉裏の中に深く埋けてあった炭を灰の下から掘り出した。

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と云って、囲炉裏の中に深くけてあった炭を灰の下から掘り出した。

この僧は若いに似合わず、はなはだ落ち着いた話し方をする男だった。

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この僧は若いに似合わずはなはだ落ちついた話振はなしぶりをする男であった。

低い声で何か受け答えをしたあとで、にやりと笑う具合などは、まるで女のような感じを宗助に与えた。

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低い声で何か受答えをしたあとで、にやりと笑う具合などは、まるで女のような感じを宗助に与えた。

宗助は心の中で、この青年がどういういきさつから思い切って頭を剃ったのだろうかと考えて、そのしとやかな様子を何となく哀れに思った。

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宗助は心のうちに、この青年がどういう機縁のもとに、思い切って頭をったものだろうかと考えて、その様子のしとやかなところを、何となくあわれに思った。

「たいへんお静かなようですが、今日はどなたもお留守なんですか」

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「大変御静なようですが、今日はどなたも御留守なんですか」

「いえ、今日に限らず、いつも私一人です。だから用のある時は構わず開け放しにして出ます。今もちょっと下まで行って用を足して参りました。そのためにせっかくおいでのところを失礼いたしました」

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「いえ、今日に限らず、いつも私一人です。だから用のあるときは構わず明け放しにして出ます。今もちょっと下まで行って用を足して参りました。それがためせっかくおいでのところを失礼致しました」

宜道はこの時、改めて遠来の客に対して自分の不在を詫びた。

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宜道はこの時改めて遠来の人に対して自分の不在をびた。

この大きな庵をたった一人で預かっているだけでも相応に骨が折れるのに、その上に厄介が増えたらさぞ迷惑だろうと、宗助は少し気の毒な色を顔に出した。

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この大きな庵を、たった一人で預かっているさえ、相応に骨が折れるのに、その上に厄介やっかいが増したらさぞ迷惑だろうと、宗助は少し気の毒な色をほかに動かした。

すると宜道は、

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すると宜道は、

「いえ、少しもご遠慮には及びません。道のためでございますから」

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「いえ、ちっとも御遠慮には及びません。道のためでございますから」

とゆかしいことを言った。

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とゆかしい事を云った。

そうして、今のところ自分の所には宗助のほかにもう一人世話になっている居士がいることを告げた。

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そうして、目下自分の所に、宗助のほかに、まだ一人世話になっている居士こじのあるむねを告げた。

この居士は山へ来てもう二年になるとかいう話だった。

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この居士は山へ来てもう二年になるとかいう話であった。

宗助はそれから二、三日して初めてこの居士を見たが、彼はひょうきんな羅漢のような顔をしている気楽そうな男だった。

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宗助はそれから二三日して、始めてこの居士を見たが、彼は剽軽ひょうきん羅漢らかんのような顔をしている気楽そうな男であった。

細い大根を三、四本ぶら下げて、今日はご馳走を買って来たと言って、それを宜道に煮てもらって食べた。

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細い大根だいこを三四本ぶら下げて、今日は御馳走ごちそうを買って来たと云って、それを宜道に煮てもらって食った。

宜道も宗助も、そのお相伴をした。

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宜道も宗助もその相伴しょうばんをした。

この居士は顔が坊さんらしいので、時々僧堂の人々に交じって村の法事などに出かけることがあるとか言って、宜道が笑っていた。

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この居士は顔が坊さんらしいので、時々僧堂の衆に交って、村の御斎おときなどに出かける事があるとか云って宜道が笑っていた。

そのほか、俗人で山へ修行に来ている人の話もいろいろ聞いた。

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そのほか俗人で山へ修業に来ている人の話もいろいろ聞いた。

中に筆や墨を商う男がいた。

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中に筆墨ふですみあきなう男がいた。

背中へ荷をいっぱい背負って、二十日なり三十日なり、そこら中を回って歩き、ほぼ売り尽くしてしまうと山へ帰って来て座禅をする。

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背中へ荷をいっぱいしょって、二十日はつかなり三十日さんじゅうにちなり、そこら中回って歩いて、ほぼ売り尽してしまうと山へ帰って来て坐禅をする。

それからしばらくして食うものがなくなると、また筆と墨を背に載せて行商に出る。

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それからしばらくして食うものがなくなると、また筆墨を背にせて行商に出る。

彼はこの二つの生活を、ほとんど循環小数のように繰り返して、飽きることを知らないのだという。

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彼はこの両面の生活を、ほとんど循環小数じゅんかんしょうすうのごとく繰り返して、く事を知らないのだと云う。

宗助は、一見こだわりのなさそうなこれらの人の月日と、自分の内側にある今の生活とを比べて、その隔たりのはなはだしさに驚いた。

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宗助は一見いっけんこだわりの無さそうなこれらの人の月日と、自分の内面にある今の生活とを比べて、その懸隔けんかくはなはだしいのに驚ろいた。

そんな気楽な身分だから座禅ができるのか、あるいは座禅をした結果そういう気楽な心になれるのか、迷った。

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そんな気楽な身分だから坐禅ざぜんができるのか、あるいは坐禅をした結果そういう気楽な心になれるのか迷った。

「気楽ではいけません。道楽でできるものなら、二十年も三十年も雲水をして苦しむ者はいません」

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「気楽ではいけません。道楽にできるものなら、二十年も三十年も雲水うんすいをして苦しむものはありません」

と宜道は言った。

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と宜道は云った。

彼は、座禅をする時の一般の心得や、老師から公案が出ることや、その公案に一生懸命かじりついて、朝も晩も昼も夜もかじり続けにかじらなくてはいけないことなど、すべて今の宗助には心もとなく見える助言を与えた末、

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彼は坐禅をするときの一般の心得や、老師ろうしから公案こうあんの出る事や、その公案に一生懸命かじりついて、朝も晩も昼も夜も噛りつづけに噛らなくてはいけない事やら、すべて今の宗助には心元なく見える助言じょごんを与えた末、

「お部屋へご案内しましょう」

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御室おへやへ御案内しましょう」

と言って立ち上がった。

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と云って立ち上がった。

囲炉裏の切ってある所を出て、本堂を横に抜け、そのはずれにある六畳の座敷の障子を縁から開けて中へ案内された時、宗助は初めて一人で遠くに来た心持ちがした。

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囲炉裏いろりの切ってある所を出て、本堂を横に抜けて、そのはずれにある六畳の座敷の障子しょうじを縁から開けて、中へ案内された時、宗助は始めて一人遠くに来た心持がした。

けれども頭の中は、周りの静かな趣と照り返すためか、かえって町にいる時よりも揺れ動いた。

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けれども頭の中は、周囲の幽静なおもむき反照はんしょうするためか、かえって町にいるときよりも動揺した。

約一時間もしたと思う頃、宜道の足音がまた本堂の方から響いた。

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約一時間もしたと思う頃宜道の足音がまた本堂の方から響いた。

「老師がお会いになるそうですから、ご都合がよろしければ参りましょう」

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老師ろうし相見しょうけんになるそうでございますから、御都合がよろしければ参りましょう」

と言って、丁寧に敷居の上に膝をついた。

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と云って、丁寧ていねいに敷居の上にひざを突いた。

二人はまた寺を空にして連れ立って出た。

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二人はまた寺をからにして連立って出た。

山門の通りをほぼ一町ほど奥へ来ると、左側に蓮池があった。

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山門の通りをほぼ一丁ほど奥へ来ると、左側に蓮池はすいけがあった。

寒い時分だから池の中はただ薄濁りに淀んでいるだけで、少しも清らかな趣はなかったが、向こう側に見える高い石の崖のはずれまで、縁に欄干のある座敷が突き出しているところが、文人画にでもありそうな風情を添えた。

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寒い時分だから池の中はただ薄濁りによどんでいるだけで、少しも清浄しょうじょうおもむきはなかったが、向側むこうがわに見える高い石の崖外がけはずれまで、縁に欄干らんかんのある座敷が突き出しているところが、文人画ぶんじんがにでもありそうな風致を添えた。

「あそこが老師の住んでおられる所です」

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「あすこが老師の住んでいられる所です」

と宜道は比較的新しいその建物を指さした。

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と宜道は比較的新らしいその建物をゆびさした。

二人は蓮池の前を通り越して、五、六段の石段を上り、その正面にある大きな伽藍の屋根を仰いだまま、すぐ左へ折れた。

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二人は蓮池の前を通り越して、五六級の石段をのぼって、その正面にある大きな伽藍がらんの屋根をあおいだまますぐ左りへ切れた。

玄関に差しかかった時、宜道は

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玄関へ差しかかった時、宜道は

「ちょっと失礼します」

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「ちょっと失礼します」

と言って自分だけ裏口の方へ回ったが、やがて奥から出て来て、

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と云って、自分だけ裏口の方へ回ったが、やがて奥から出て来て、

「さあ、どうぞ」

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「さあどうぞ」

と案内をして、老師のいる所へ連れて行った。

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と案内をして、老師のいる所へれて行った。

老師というのは五十くらいに見えた。

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老師というのは五十格好がっこうに見えた。

赤黒いつやのある顔をしていた。

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赭黒あかぐろ光沢つやのある顔をしていた。

その皮膚も筋肉もことごとく締まって、どこにも緩みのないところが、銅像の与える印象を宗助の胸に刻みつけた。

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その皮膚も筋肉もことごとくしまって、どこにもおこたりのないところが、銅像のもたらす印象を、宗助の胸に彫りつけた。

ただ唇があまり厚過ぎるので、そこに幾分の緩みが見えた。

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ただくちびるがあまり厚過ぎるので、そこに幾分のゆるみが見えた。

その代わり、彼の目には普通の人間にとうてい見られない一種の輝きが閃いた。

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その代り彼の眼には、普通の人間にとうてい見るべからざる一種の精彩せいさいひらめいた。

宗助が初めてその視線に触れた時は、暗闇の中で突然白刃を見る思いがした。

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宗助が始めてその視線に接した時は、暗中に卒然として白刃を見る思があった。

「まあ、何から入っても同じだが」

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「まあ何から入っても同じであるが」

と老師は宗助に向かって言った。

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と老師は宗助に向って云った。

「父母がまだ生まれない以前の、本来のおのれの姿とは何か、それを一つ考えてみたらよかろう」

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父母未生ふぼみしょう以前いぜん本来ほんらい面目めんもくなんだか、それを一つ考えて見たらかろう」

宗助には父母未生以前という意味がよく分からなかったが、とにかく自分というものは結局何物なのか、その本体をつかまえてみろという意味だろうと判断した。

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宗助には父母未生以前という意味がよく分らなかったが、何しろ自分と云うものは必竟ひっきょう何物だか、その本体をつらまえて見ろと云う意味だろうと判断した。

それ以上口をきくには、あまりに禅というものの知識に乏しかったので、黙ってまた宜道に連れられて一窓庵へ帰って来た。

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それより以上口をくには、余り禅というものの知識に乏しかったので、黙ってまた宜道に伴れられて一窓庵へ帰って来た。

晩飯の時、宜道は宗助に、老師の部屋へ入る時間が朝夕二回あることと、講義の時間が午前であることなどを話した上、

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晩食ばんめしの時宜道は宗助に、入室にゅうしつの時間の朝夕ちょうせき二回あることと、提唱ていしょうの時間が午前である事などを話した上、

「今夜はまだ見解もできないかもしれませんから、明朝か明晩お誘い申しましょう」

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「今夜はまだ見解けんげもできないかも知れませんから、明朝みょうちょうか明晩御誘い申しましょう」

と親切に言ってくれた。

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と親切に云ってくれた。

それから、最初のうちは詰めて座るのは難儀だから線香を立てて、それで時間を計り、少しずつ休んだらよかろう、というような注意もしてくれた。

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それから最初のうちは、つめてわるのは難儀だから線香を立てて、それで時間を計って、少しずつ休んだら好かろうと云うような注意もしてくれた。

宗助は線香を持って本堂の前を通り、自分の部屋と決まった六畳に入ってぼんやりと座った。

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宗助は線香を持って、本堂の前を通って自分のへやときまった六畳に這入はいって、ぼんやりして坐った。

彼から言えば、いわゆる公案なるものの性質が、いかにも自分の現在と縁の遠いような気がしてならなかった。

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彼から云うといわゆる公案こうあんなるものの性質が、いかにも自分の現在と縁の遠いような気がしてならなかった。

自分は今、腹痛で悩んでいる。

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自分は今腹痛で悩んでいる。

その腹痛という訴えを抱いて来てみると、あろうことか、その治療として難しい数学の問題を出され、まあこれでも考えたらよかろうと言われたのと同じだった。

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その腹痛と言ううったえいだいて来て見ると、あにはからんや、その対症療法として、むずかしい数学の問題を出して、まあこれでも考えたらよかろうと云われたと一般であった。

考えろと言われれば考えないでもないが、それはひとまず腹痛が治まってからのことでなくては無理だった。

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考えろと云われれば、考えないでもないが、それは一応腹痛が治まってからの事でなくては無理であった。

同時に彼は勤めを休んで、わざわざここまで来た男だった。

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同時に彼はつとめを休んで、わざわざここまで来た男であった。

紹介状を書いてくれた人や、万事に気をつけてくれる宜道に対しても、あまりに軽率な振る舞いはできなかった。

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紹介状を書いてくれた人、万事に気をつけてくれる宜道に対しても、あまりに軽卒な振舞ふるまいはできなかった。

彼はまず、現在の自分に許される限りの勇気を引っ提げて公案に向かおうと決心した。

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彼はまず現在の自分が許す限りの勇気をひっさげて、公案に向おうと決心した。

それがどこへ彼を導き、どんな結果を彼の心にもたらすかは、彼自身にもまるで分からなかった。

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それがいずれのところに彼を導びいて、どんな結果を彼の心に持ちきたすかは、彼自身といえども全く知らなかった。

彼は悟りという美名に欺かれて、彼の普段に似合わない冒険を試みようと企てたのである。

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彼はさとりという美名にあざむかれて、彼の平生に似合わぬ冒険を試みようと企てたのである。

そうして、もしこの冒険に成功すれば、今の不安で不安定な弱々しい自分を救えはしまいかと、はかない望みを抱いたのである。

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そうして、もしこの冒険に成功すれば、今の不安な不定な弱々しい自分を救う事ができはしまいかと、はかない望を抱いたのである。

彼は冷たい火鉢の灰の中に細い線香をくゆらせて、教えられたとおり座布団の上に半跏を組んだ。

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彼は冷たい火鉢ひばちの灰の中に細い線香をくゆらして、教えられた通り座蒲団ざぶとんの上に半跏はんかを組んだ。

昼のうちはそれほどとも思わなかった部屋が、日が落ちてから急に寒くなった。

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昼のうちはさまでとは思わなかったへやが、日が落ちてから急に寒くなった。

彼は座りながら、背中のぞくぞくするほど温度の低い空気に耐えられなかった。

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彼は坐りながら、背中のぞくぞくするほど温度の低い空気にえなかった。

彼は考えた。

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彼は考えた。

けれども考える方向も、考える問題の中身も、ほとんどつかまえようのない空漠としたものだった。

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けれども考える方向も、考える問題の実質も、ほとんどつらまえようのない空漠くうばくなものであった。

彼は考えながら、自分は非常に見当違いなことをしているのではなかろうかと疑った。

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彼は考えながら、自分は非常に迂濶うかつ真似まねをしているのではなかろうかとうたがった。

火事見舞いに行く間際に細かい地図を出して、こまごまと町名や番地を調べているよりも、ずっとかけ離れた見当違いの振る舞いを演じているように感じた。

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火事見舞に行く間際まぎわに、細かい地図を出して、仔細しさいに町名や番地を調べているよりも、ずっと飛び離れた見当違の所作しょさを演じているごとく感じた。

彼の頭の中をいろいろなものが流れた。

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彼の頭の中をいろいろなものが流れた。

そのあるものは、はっきり目に見えた。

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そのあるものは明らかに眼に見えた。

あるものは混沌として雲のように動いた。

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あるものは混沌こんとんとして雲のごとくに動いた。

どこから来てどこへ行くとも分からなかった。

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どこから来てどこへ行くとも分らなかった。

ただ先のものが消えると、すぐあとから次のものが現れた。

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ただ先のものが消える、すぐあとから次のものが現われた。

そうして絶え間なく、それからそれへと続いた。

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そうして仕切りなしにそれからそれへと続いた。

頭の往来を通るものは無限で無数で無尽蔵で、決して宗助の命令によって留まることも休むこともなかった。

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頭の往来を通るものは、無限で無数で無尽蔵で、けっして宗助の命令によって、留まる事も休む事もなかった。

断ち切ろうと思えば思うほど、こんこんと湧いて出た。

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断ち切ろうと思えば思うほど、滾々こんこんとしていて出た。

宗助は怖くなって、急に日常の自分を呼び起こし、部屋の中を眺めた。

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宗助はこわくなって、急に日常の我を呼び起して、室の中をながめた。

部屋はかすかな灯りで薄暗く照らされていた。

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室はかすかなで薄暗く照らされていた。

灰の中に立てた線香は、まだ半分ほどしか燃えていなかった。

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灰の中に立てた線香は、まだ半分ほどしか燃えていなかった。

宗助は、恐ろしいほど時間が長いことに初めて気がついた。

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宗助は恐るべく時間の長いのに始めて気がついた。

宗助はまた考え始めた。

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宗助はまた考え始めた。

すると、すぐに色のあるもの、形のあるものが頭の中を通り出した。

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すると、すぐ色のあるもの、形のあるものが頭の中を通り出した。

ぞろぞろと群がる蟻のように動いて行き、あとからまたぞろぞろと群がる蟻のように現れた。

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ぞろぞろと群がるありのごとくに動いて行く、あとからまたぞろぞろと群がる蟻のごとくに現われた。

じっとしているのは、ただ宗助の体だけだった。

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じっとしているのはただ宗助の身体からだだけであった。

心は切ないほど、苦しいほど、耐えがたいほど動いた。

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心は切ないほど、苦しいほど、堪えがたいほど動いた。

そのうち、じっとしている体も膝頭から痛み始めた。

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そのうちじっとしている身体も、膝頭ひざがしらから痛み始めた。

まっすぐ伸ばしていた背骨がしだいに前の方へ曲がって来た。

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真直に延ばしていた脊髄がしだいしだいに前の方に曲って来た。

宗助は両手で左の足の甲を抱えるようにして下ろした。

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宗助は両手で左の足の甲をかかえるようにして下へおろした。

彼は何をする当てもなく部屋の中に立ち上がった。

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彼は何をする目的めあてもなくへやの中に立ち上がった。

障子を開けて表へ出て、門前をぐるぐる駆け回って歩きたくなった。

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障子しょうじを明けて表へ出て、門前をぐるぐるまわって歩きたくなった。

夜はしんとしていた。

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夜はしんとしていた。

寝ている人も起きている人も、どこにもいそうには思えなかった。

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寝ている人も起きている人もどこにもおりそうには思えなかった。

宗助は外へ出る勇気を失った。

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宗助は外へ出る勇気を失った。

じっと生きながら妄想に苦しめられるのは、なお恐ろしかった。

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じっと生きながら妄想もうぞうに苦しめられるのはなお恐ろしかった。

彼は思い切って、また新しい線香を立てた。

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彼は思い切ってまた新らしい線香を立てた。

そうしてまた、ほぼ前と同じ過程を繰り返した。

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そうしてまたほぼぜんと同じ過程を繰り返した。

最後に、もし考えるのが目的なら、座って考えるのも寝て考えるのも同じだろうと考えた。

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最後に、もし考えるのが目的だとすれば、坐って考えるのも寝て考えるのも同じだろうと分別した。

彼は部屋の隅に畳んであった薄汚い布団を敷いて、その中に潜り込んだ。

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彼は室のすみに畳んであった薄汚ない蒲団ふとんを敷いて、その中にもぐり込んだ。

するとさきほどからの疲れで、何を考える暇もないうちに深い眠りに落ちてしまった。

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すると先刻さっきからの疲れで、何を考える暇もないうちに、深い眠りに落ちてしまった。

目が覚めると、枕もとの障子がいつの間にか明るくなって、白い紙にやがて日の迫るはずの色が動いた。

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眼がめると枕元の障子がいつの間にか明るくなって、白い紙にやがて日のせまるべき色が動いた。

昼も留守番を置かずに済む山寺は、夜になっても戸を閉てる音を聞かなかったのである。

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昼も留守るすを置かずに済む山寺は、夜に入っても戸をてる音を聞かなかったのである。

宗助は、自分が坂井の崖下の暗い部屋に寝ていたのではないと意識するやいなや、すぐ起き上がった。

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宗助は自分が坂井の崖下がけしたの暗い部屋に寝ていたのでないと意識するやいなや、すぐ起き上がった。

縁へ出ると、軒端に高く大きなサボテンの影が目に映った。

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縁へ出ると、軒端のきばに高く大覇王樹おおさぼてんの影が眼に映った。

宗助はまた本堂の仏壇の前を抜けて、囲炉裏の切ってある昨日の茶の間へ出た。

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宗助はまた本堂の仏壇の前を抜けて、囲炉裏いろりの切ってある昨日きのうの茶の間へ出た。

そこには昨日のとおり、宜道の法衣が折れ釘に掛けてあった。

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そこには昨日の通り宜道の法衣ころも折釘おりくぎにかけてあった。

そうして本人は勝手のかまどの前にうずくまって、火を焚いていた。

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そうして本人は勝手のかまどの前に蹲踞うずくまって、火をいていた。

宗助を見て、

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宗助を見て、

「お早う」

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「御早う」

と丁重に礼をした。

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慇懃いんぎんに礼をした。

「さきほどお誘い申そうと思いましたが、よくお休みのようでしたから、失礼して一人で参りました」

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先刻さっき御誘い申そうと思いましたが、よく御寝おやすみのようでしたから、失礼して一人参りました」

宗助は、この若い僧が今朝、夜明け前にすでに参禅を済ませ、それから帰って来て飯を炊いているのだということを知った。

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宗助はこの若い僧が、今朝夜明がたにすでに参禅を済まして、それから帰って来て、飯をかしいでいるのだという事を知った。

見ると彼は、左の手でしきりに薪を差し替えながら、右の手に黒い表紙の本を持って、用の合間合間にそれを読んでいる様子だった。

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見ると彼は左の手でしきりにまきを差しえながら、右の手に黒い表紙の本を持って、用の合間合間にそれを読んでいる様子であった。

宗助は宜道に、本の名を尋ねた。

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宗助は宜道に書物の名を尋ねた。

それは碧巌集という難しい名前のものだった。

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それは碧巌集へきがんしゅうというむずかしい名前のものであった。

宗助は腹の中で、昨夜のように当てもない考えにふけって脳を疲れさせるより、いっそその道の本でも借りて読む方が要領を得る近道ではなかろうかと思いついた。

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宗助は腹の中で、昨夕ゆうべのように当途あてどもないかんがえふけって脳を疲らすより、いっそその道の書物でも借りて読む方が、要領を得る捷径ちかみちではなかろうかと思いついた。

宜道にそう言うと、宜道は一も二もなく宗助の考えを退けた。

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宜道にそう云うと、宜道は一も二もなく宗助の考を排斥した。

「本を読むのは、ごく悪うございます。ありていに言えば、読書ほど修行の妨げになるものはないようです。私どももこうして碧巌などを読みますが、自分の程度以上のところになるとまるで見当がつきません。それをいい加減に推し量る癖がつくと、それが座る時の妨げになって、自分以上の境地を予想してみたり、悟りを待ち受けてみたり、十分に突っ込んで行くべきところで頓挫します。たいへん毒になりますから、およしになった方がよいでしょう。もしどうしても何かお読みになりたければ、禅関策進というような、人の勇気を鼓舞したり激励したりするものがよろしゅうございましょう。それだって、ただ刺激の手立てとして読むだけで、道そのものとは無関係です」

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「書物を読むのはごく悪うございます。有体ありていに云うと、読書ほど修業のさまたげになるものは無いようです。私共でも、こうして碧巌などを読みますが、自分の程度以上のところになると、まるで見当けんとうがつきません。それを好加減いいかげん揣摩しまする癖がつくと、それが坐る時の妨になって、自分以上の境界きょうがいを予期して見たり、悟を待ち受けて見たり、充分突込んで行くべきところに頓挫とんざができます。大変毒になりますから、御止しになった方がよいでしょう。もしいて何か御読みになりたければ、禅関策進ぜんかんさくしんというような、人の勇気を鼓舞こぶしたり激励したりするものがよろしゅうございましょう。それだって、ただ刺戟しげきの方便として読むだけで、道その物とは無関係です」

宗助には、宜道の言う意味がよく分からなかった。

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宗助には宜道の意味がよく解らなかった。

彼はこの若々しい青い頭をした坊さんの前に立って、まるで自分が一個の出来の悪い子供であるかのような心持ちを起こした。

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彼はこの生若なまわかい青い頭をした坊さんの前に立って、あたかも一個の低能児であるかのごとき心持を起した。

彼の慢心は京都以来すでに磨り減り尽くしていた。

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彼の慢心は京都以来すでに銷磨しょうまし尽していた。

彼は平凡を分として、今日まで生きて来た。

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彼は平凡を分として、今日こんにちまで生きて来た。

名を挙げることほど彼の心に遠いものはなかった。

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聞達ぶんたつほど彼の心に遠いものはなかった。

彼はただ、ありのままの彼として宜道の前に立ったのである。

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彼はただありのままの彼として、宜道の前に立ったのである。

しかも普段の自分より遥かに無力無能な赤子であると、さらに自分を認めざるを得なくなった。

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しかも平生の自分よりはるかに無力無能な赤子あかごであると、さらに自分を認めざるを得なくなった。

彼にとっては新しい発見だった。

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彼に取っては新らしい発見であった。

同時に、自尊心を根絶するほどの発見だった。

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同時に自尊心を根絶するほどの発見であった。

宜道がかまどの火を消して飯を蒸らしている間に、宗助は台所から下りて庭の井戸端へ出て顔を洗った。

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宜道がへっついの火を消して飯をむらしている間に、宗助は台所から下りて庭の井戸端いどばたへ出て顔を洗った。

鼻の先にはすぐ雑木山が見えた。

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鼻の先にはすぐ雑木山ぞうきやまが見えた。

その裾の少し平らな所を開いて、菜園がこしらえてあった。

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そのすその少したいらな所をひらいて、菜園がこしらえてあった。

宗助は濡れた頭を冷たい空気にさらして、わざわざ菜園まで下りて行った。

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宗助はれた頭を冷たい空気にさらして、わざと菜園まで下りて行った。

そうして、そこに崖を横に掘った大きな穴を見つけた。

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そうして、そこにがけを横に掘った大きな穴を見出した。

宗助はしばらくその前に立って、暗い奥の方を眺めていた。

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宗助はしばらくその前に立って、暗い奥の方をながめていた。

やがて茶の間へ帰ると、囲炉裏には暖かい火が起こって、鉄瓶に湯のたぎる音が聞こえた。

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やがて、茶の間へ帰ると、囲炉裏いろりには暖かい火が起って、鉄瓶てつびんに湯のたぎる音が聞えた。

「手がないものだから、つい遅くなりましてお気の毒です。すぐお膳にしましょう。しかしこんな所だから、差し上げるものがなくて困ります。その代わり、明日あたりはご馳走に風呂でも立てましょう」

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「手がないものだから、つい遅くなりまして御気の毒です。すぐ御膳ごぜんに致しましょう。しかしこんな所だから上げるものがなくって困ります。その代り明日あしたあたりは御馳走ごちそう風呂ふろでも立てましょう」

と宜道が言ってくれた。

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と宜道が云ってくれた。

宗助はありがたく囲炉裏の向こうに座った。

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宗助はありがたく囲炉裏いろりむこうに坐った。

やがて食事を終えて自分の部屋へ帰った宗助は、また父母未生以前という珍しい問題を目の前に据えて、じっと眺めた。

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やがて食事をえて、わがへやへ帰った宗助は、また父母未生ふぼみしょう以前いぜんと云う稀有けうな問題を眼の前にえて、じっとながめた。

けれども、もともと筋の立たない、したがって展開のしようのない問題だから、いくら考えてもどこからも手を出すことはできなかった。

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けれども、もともと筋の立たない、したがって発展のしようのない問題だから、いくら考えてもどこからも手を出す事はできなかった。

そうして、すぐ考えるのが嫌になった。

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そうして、すぐ考えるのがいやになった。

宗助は、ふと御米にここへ着いた消息を書かなければならないことに気がついた。

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宗助はふと御米にここへ着いた消息を書かなければならない事に気がついた。

彼は俗な用事ができたのを喜ぶように、すぐ鞄の中から巻紙と封筒を取り出して、御米に送る手紙を書き始めた。

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彼は俗用の生じたのを喜こぶごとくに、すぐかばんの中から巻紙と封じ袋を取り出して、御米にやる手紙を書き始めた。

まずここの静かなこと、海に近いせいか東京よりよほど暖かいこと、空気の清らかなこと、紹介された坊さんの親切なこと、食事のまずいこと、夜具や布団がきれいでないことなどを書き連ねているうちに、もう三尺余りの長さになったのでそこで筆を置いたが、公案に苦しめられていることや、座禅をして膝の関節を痛くしていることや、考えるためにますます神経衰弱がひどくなりそうなことは、おくびにも出さなかった。

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まずここの閑静な事、海に近いせいか、東京よりはよほど暖かい事、空気の清朗な事、紹介された坊さんの親切な事、食事の不味まずい事、夜具蒲団やぐふとん綺麗きれいに行かない事、などを書き連ねているうちに、はや三尺余りの長さになったので、そこで筆をいたが、公案に苦しめられている事や、坐禅をしてひざの関節を痛くしている事や、考えるためにますます神経衰弱がはげしくなりそうな事は、おくびにも出さなかった。

彼はこの手紙に切手を貼ってポストに入れなければならないという口実を作って、さっそく山を下りた。

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彼はこの手紙に切手をって、ポストに入れなければならない口実を求めて、早速山を下った。

そうして父母未生以前と、御米と、安井とに脅かされながら、村の中をうろついて帰った。

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そうして父母未生以前と、御米と、安井に、おびやかされながら、村の中をうろついて帰った。

昼には、宜道から話のあった居士に会った。

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ひるには、宜道から話のあった居士こじに会った。

この居士は茶碗を出して宜道に飯をよそってもらう時、恐れ入りますとも何とも言わずに、ただ合掌して礼を述べたり合図をしたりした。

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この居士は茶碗を出して、宜道に飯をよそってもらうとき、はばかり様とも何とも云わずに、ただ合掌がっしょうして礼を述べたり、相図をしたりした。

これくらい静かに物事をするのが法だとか言った。

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このくらい静かに物事をるのが法だとか云った。

口をきかず音を立てないのは、考えの邪魔になるという精神からだそうだった。

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口をかず、音を立てないのは、考えの邪魔になると云う精神からだそうであった。

それほど真剣にやるべきものを、と、宗助は昨夜からの自分が何となく恥ずかしく思われた。

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それほど真剣にやるべきものをと、宗助は昨夜からの自分が、何となく恥ずかしく思われた。

食後、三人は囲炉裏のそばでしばらく話した。

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食後三人は囲炉裏のはたでしばらく話した。

その時、居士は、自分が座禅をしながらいつか気がつかずにうとうとと眠ってしまっていて、はっと正気に返る間際に、おや悟ったな、と喜ぶことがあるが、さていよいよ目を開けてみるとやはり元のとおりの自分なので失望するばかりだ、と言って宗助を笑わせた。

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その時居士は、自分が坐禅をしながら、いつか気がつかずにうとうとと眠ってしまっていて、はっと正気に帰る間際まぎわに、おや悟ったなと喜ぶことがあるが、さていよいよ眼をいて見ると、やっぱり元の通の自分なので失望するばかりだと云って、宗助を笑わした。

こういう気楽な考えで参禅している人もあると思うと、宗助も多少はくつろいだ。

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こう云う気楽な考で、参禅している人もあると思うと、宗助も多少はくつろいだ。

けれども三人が別れ別れに自分の部屋へ入る時、宜道が、

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けれども三人が分れ分れに自分のへやに入る時、宜道が、

「今夜はお誘い申しますから、これから夕方までしっかりお座りなさいまし」

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「今夜は御誘い申しますから、これから夕方までしっかり御坐りなさいまし」

と真面目に勧めた時、宗助はまた一種の責任を感じた。

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真面目まじめすすめたとき、宗助はまた一種の責任を感じた。

こなれない堅い団子が胃にとどこおっているような不安な胸を抱いて、自分の部屋へ帰って来た。

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消化こなれない堅い団子が胃にとどこおっているような不安な胸をいだいて、わが室へ帰って来た。

そうしてまた線香を焚いて座り出した。

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そうしてまた線香をいて坐わり出した。

そのくせ、夕方までは座り続けられなかった。

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そのくせ夕方までは坐り続けられなかった。

どんな答えにしろ一つこしらえておかなければならないと思いながらも、しまいには根気が尽きて、早く宜道が夕飯の知らせに本堂を通り抜けて来てくれればいいと、そればかりが気にかかった。

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どんな解答にしろ一つこしらえておかなければならないと思いながらも、しまいには根気が尽きて、早く宜道が夕食ゆうめし報知しらせに本堂を通り抜けて来てくれれば好いと、そればかり気にかかった。

日は悩みと疲れのうちに傾いた。

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日は懊悩おうのう困憊こんぱいうちに傾むいた。

障子に映る時の影がしだいに遠くへ退くにつれて、寺の空気が床の下から冷えて来た。

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障子しょうじに映る時の影がしだいに遠くへ立ち退くにつれて、寺の空気がゆかの下から冷え出した。

風は朝から枝を吹かなかった。

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風は朝から枝を吹かなかった。

縁側に出て高いひさしを仰ぐと、黒い瓦の小口だけがそろって長く一列に見えるほかは、穏やかな空が青い光を自分の底の方に沈めながら、しだいに薄くなって行くところだった。

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縁側えんがわに出て、高いひさしを仰ぐと、黒いかわらの小口だけがそろって、長く一列に見える外に、おだやかな空が、あおい光をわが底の方に沈めつつ、自分と薄くなって行くところであった。

十九

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十九

「危のうございます」

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危険あぶのうございます」

と言って、宜道は一足先に暗い石段を下りた。

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と云って宜道ぎどうは一足先へ暗い石段を下りた。

宗助はあとから続いた。

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宗助そうすけはあとから続いた。

町と違って夜になると足もとが悪いので、宜道は提灯を点けて、わずか一町ばかりの道を照らした。

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町と違って夜になると足元が悪いので、宜道は提灯ちょうちんけてわずか一丁ばかりのみちを照らした。

石段を下り切ると、大きな樹の枝が左右から二人の頭に覆いかぶさるように空を遮った。

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石段を下り切ると、大きな樹の枝が左右から二人の頭にかぶさるように空をさえぎった。

闇だけれども、青い葉の色が二人の着物の織り目に染み込むほどに宗助を寒がらせた。

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やみだけれども蒼い葉の色が二人の着物の織目に染み込むほどに宗助を寒がらせた。

提灯の灯りにも、その色が多少映る感じがあった。

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提灯のにもその色が多少映る感じがあった。

その提灯は、一方に大きな樹の幹を思わせるせいか、はなはだ小さく見えた。

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その提灯は一方に大きな樹の幹を想像するせいか、はなはだ小さく見えた。

光の地面に届く範囲もわずかだった。

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光の地面に届く尺数もわずかであった。

照らされた部分は明るい灰色の断片となって、暗い中にほっかりと落ちた。

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照らされた部分は明るい灰色の断片となって暗い中にほっかり落ちた。

そうして二人の影が動くにつれて動いた。

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そうして二人の影が動くにれて動いた。

蓮池を行き過ぎて左へ上る所は、夜が初めての宗助にとって少し足もとが滑らかに行かなかった。

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蓮池れんちを行き過ぎて、左へのぼる所は、夜はじめての宗助に取って、少し足元がなめらかに行かなかった。

土の中に根を食い込ませた石に、一、二度下駄の台を引っ掛けた。

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土の中に根を食っている石に、一二度下駄げたの台を引っ掛けた。

蓮池の手前から横に折れる裏道もあるが、こちらは凸凹が多くて、慣れない宗助には近くても不便だろうというので、宜道はわざわざ広い方を案内したのである。

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蓮池の手前から横に切れる裏路もあるが、この方は凸凹とつおうが多くて、れない宗助には近くても不便だろうと云うので、宜道はわざわざ広い方を案内したのである。

玄関を入ると、暗い土間に下駄がだいぶ並んでいた。

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玄関を入ると、暗い土間に下駄がだいぶ並んでいた。

宗助はかがんで、人の履物を踏まないようにそっと上へ上がった。

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宗助はこごんで、人の履物はきものを踏まないようにそっと上へのぼった。

部屋は八畳ほどの広さだった。

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へやは八畳ほどの広さであった。

その壁際に列を作って、六、七人の男が一列に並んでいた。

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その壁際かべぎわに列を作って、六七人の男が一側ひとかわに並んでいた。

中には頭を光らせて黒い法衣を着た僧も交じっていた。

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中に頭を光らして、黒い法衣ころもを着た僧も交っていた。

ほかの者はたいてい袴を履いていた。

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ほかのものは大概はかま穿いていた。

この六、七人の男は上がり口と奥へ通じる三尺の廊下口を残して、行儀よくかぎの手に並んでいた。

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この六七人の男はあがぐちと奥へ通ずる三尺の廊下ろうか口を残して、行儀よくかぎに並んでいた。

そうして、一言も口をきかなかった。

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そうして、一言ひとことも口をかなかった。

宗助はこれらの人の顔をひと目見て、まずその厳しさに気を奪われた。

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宗助はこれらの人の顔を一目見て、まずその峻刻しゅんこくなのに気を奪われた。

彼らは皆、固く口を結んでいた。

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彼らは皆固く口を結んでいた。

事あり気に眉を強く寄せていた。

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事ありげなまゆを強く寄せていた。

そばにどんな人がいるか見向きもしなかった。

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そばにどんな人がいるか見向きもしなかった。

どんな者が外から入って来ても、まるで気に留めなかった。

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いかなるものが外から入って来ても、全く注意しなかった。

彼らは生きた彫刻のように自分を保って、火の気のない部屋に厳かに座っていた。

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彼らは活きた彫刻のようにおのれを持して、火の気のないへや粛然しゅくぜんと坐っていた。

宗助の感覚には、山寺の寒さ以上に一種厳かな気が加わった。

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宗助の感覚には、山寺の寒さ以上に、一種おごそかな気が加わった。

やがて静けさの中に、人の足音が聞こえた。

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やがて寂寞せきばくうちに、人の足音が聞えた。

初めはかすかに響いたが、しだいに強く床を踏んで、宗助の座っている方へ近づいて来た。

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初はかすかに響いたが、しだいに強くゆかを踏んで、宗助の坐っている方へ近づいて来た。

しまいに一人の僧が廊下口からぬっと現れた。

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しまいに一人の僧が廊下口からぬっと現れた。

そうして宗助のそばを通って、黙って外の暗がりへ抜けて行った。

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そうして宗助のそばを通って、黙って外の暗がりへ抜けて行った。

すると、遠くの奥の方で鈴を振る音がした。

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すると遠くの奥の方でれいを振る音がした。

この時、宗助と並んで厳粛に控えていた男のうちで、小倉の袴を着けた一人が、やはり無言のまま立ち上がって、部屋の隅の廊下口の真正面へ来て座った。

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この時宗助と並んで厳粛げんしゅくに控えていた男のうちで、小倉こくらはかまを着けた一人が、やはり無言のまま立ち上がって、室のすみの廊下口の真正面へ来て着座した。

そこには高さ二尺幅一尺ほどの木の枠の中に、銅鑼のような形をした、銅鑼よりもずっと重くて厚そうなものが掛かっていた。

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そこには高さ二尺幅一尺ほどの木のわくの中に、銅鑼どらのような形をした、銅鑼よりも、ずっと重くて厚そうなものがかかっていた。

色は青黒く、貧しい灯りに照らされていた。

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色は蒼黒あおぐろく貧しいに照らされていた。

袴を着けた男は台の上にある撞木を取り上げて、銅鑼に似た鐘の真ん中を二つほど打ち鳴らした。

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袴を着けた男は、台の上にある撞木しゅもくを取り上げて、銅鑼に似た鐘の真中を二つほど打ち鳴らした。

そうして、つと立って廊下口を出て、奥の方へ進んで行った。

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そうして、ついと立って、廊下口を出て、奥の方へ進んで行った。

今度は前と反対に、足音がだんだん遠くの方へ去るにつれてかすかになった。

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今度は前と反対に、足音がだんだん遠くの方へ去るに従って、かすかになった。

そうして一番しまいに、ぴたりとどこかで止まった。

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そうして一番しまいにぴたりとどこかで留まった。

宗助は座ったまま、はっとした。

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宗助はながら、はっとした。

彼は、この袴を着けた男の身の上に今何事が起こりつつあるだろうかを想像したのである。

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彼はこの袴を着けた男の身の上に、今何事が起りつつあるだろうかを想像したのである。

けれども奥はしんとして静まり返っていた。

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けれども奥はしんとして静まり返っていた。

宗助と並んでいる者も、一人として顔の筋肉を動かす者はなかった。

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宗助と並んでいるものも、一人として顔の筋肉を動かすものはなかった。

ただ宗助は心の中で、奥からの何物かを待ち受けた。

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ただ宗助は心の中で、奥からの何物かを待ち受けた。

すると突然、鈴を振る響きが彼の耳に応えた。

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すると忽然こつぜんとして鈴を振る響が彼の耳にこたえた。

同時に長い廊下を踏んで、こちらへ近づく足音がした。

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同時に長い廊下を踏んで、こちらへ近づく足音がした。

袴を着けた男はまた廊下口から現れて、無言のまま玄関を下り、霜の中に消え去った。

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袴を着けた男はまた廊下口から現われて、無言のまま玄関を下りて、しもうちに消え去った。

入れ代わって、また新しい男が立って、さきほどの鐘を打った。

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入れ代ってまた新らしい男が立って、最前の鐘を打った。

そうしてまた廊下を踏み鳴らして奥の方へ行った。

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そうして、また廊下を踏み鳴らして奥の方へ行った。

宗助は沈黙の中で行われるこの順序を見ながら、膝に手を載せて自分の番の来るのを待っていた。

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宗助は沈黙の間に行われるこの順序を見ながら、ひざに手をせて、自分の番の来るのを待っていた。

自分より一人置いて前の男が立って行った時は、ややしばらくしてから、わっという大きな声が奥の方で聞こえた。

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自分より一人置いて前の男が立って行った時は、ややしばらくしてから、わっと云う大きな声が、奥の方で聞えた。

その声は距離が遠いので、激しく宗助の鼓膜を打つほど強くは響かなかったけれど、たしかに精いっぱい威を振るったものだった。

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その声は距離が遠いので、はげしく宗助の鼓膜を打つほど、強くは響かなかったけれども、たしかに精一杯せいいっぱい威をふるったものであった。

そうして、ただ一人の喉から出た個人の特色を帯びていた。

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そうしてただ一人いちにん咽喉のどから出た個人の特色を帯びていた。

自分のすぐ前の人が立った時は、いよいよ自分の番が回って来たという意識に押されて、いっそう落ち着きを失った。

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自分のすぐ前の人が立った時は、いよいよわが番が回って来たと云う意識に制せられて、一層落ちつきを失った。

宗助はこの間の公案に対して、自分なりの答えは用意していた。

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宗助はこの間の公案に対して、自分だけの解答は準備していた。

けれども、それははなはだ心もとない薄っぺらなものに過ぎなかった。

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けれども、それははなはだ覚束おぼつかない薄手うすでのものに過ぎなかった。

部屋へ入る以上は何か見解を示さないわけには行かないので、やむを得ず、収まらないところをわざと収まったように取り繕った、その場限りの返事だった。

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室中しつちゅうに入る以上は、何か見解けんげを呈しない訳に行かないので、やむを得ず納まらないところを、わざと納まったように取繕とりつくろった、その場限りの挨拶あいさつであった。

彼はこの心細い答えで、まぐれ当たりにも難関を通過してみたいなどとは夢にも思っていなかった。

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彼はこの心細い解答で、僥倖ぎょうこうにも難関を通過して見たいなどとは、夢にも思い設けなかった。

老師をごまかす気は、もちろんなかった。

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老師をごまかす気は無論なかった。

その時の宗助は、もう少し真面目だったのである。

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その時の宗助はもう少し真面目まじめであったのである。

ただ頭から割り出した、まるで絵に描いた餅のような代物を持って、義理にも部屋へ入らなければならない自分の空虚さを恥じたのである。

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単に頭から割り出した、あたかもにかいたもちのような代物しろものを持って、義理にも室中に入らなければならない自分の空虚な事を恥じたのである。

宗助は人のするように鐘を打った。

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宗助は人のするごとくに鐘を打った。

しかも打ちながら、自分には人並みにこの鐘を撞木で叩く資格がないことを知っていた。

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しかも打ちながら、自分は人並にこの鐘を撞木でたたくべき権能けんのうがないのを知っていた。

それを人並みに鳴らしてみる猿のような自分を、深く嫌った。

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それを人並に鳴らして見る猿のごときおのれを深く嫌忌けんきした。

彼は弱みのある自分に恐れを抱きながら、入口を出て冷たい廊下へ足を踏み出した。

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彼は弱味のある自分に恐れを抱きつつ、入口を出て冷たい廊下へ足を踏み出した。

廊下は長く続いた。

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廊下は長く続いた。

右側にある部屋はことごとく暗かった。

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右側にあるへやはことごとく暗かった。

角を二つ折れ曲がると、向こうのはずれの障子に灯りの影が差した。

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角を二つ折れ曲ると、むこうはずれの障子に灯影ひかげが差した。

宗助はその敷居際へ来て止まった。

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宗助はその敷居際しきいぎわへ来て留まった。

部屋に入る者は老師に向かって三度拝するのが礼だった。

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室中に入るものは老師に向って三拝するのが礼であった。

拝し方は、普通の挨拶のように頭を畳に近く下げると同時に、両手のひらを上向きに開いてそれを頭の左右に並べたまま、少し物を抱える心持ちで耳のあたりまで上げるのである。

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拝しかたは普通の挨拶あいさつのように頭を畳に近く下げると同時に、両手のてのひら上向うえむきに開いて、それを頭の左右に並べたまま、少し物をかかえた心持に耳のあたりまで上げるのである。

宗助は敷居際にひざまずいて、形どおりに拝を行った。

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宗助は敷居際にひざまずいてかたのごとく拝を行なった。

すると座敷の中で、

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すると座敷の中で、

「一拝でよろしい」

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一拝いっぱいよろしい」

という声があった。

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と云う会釈えしゃくがあった。

宗助はあとを省いて中へ入った。

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宗助はあとを略して中へ入った。

部屋の中は、ただ薄暗い灯りに照らされていた。

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室の中はただ薄暗いに照らされていた。

その弱い光は、どんなに大きな字の本でも読ませないほどのものだった。

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その弱い光は、いかに大字だいじな書物をも披見ひけんせしめぬ程度のものであった。

宗助は今日までの経験に照らして、これほどかすかな灯りで夜を営む人間を思い起こすことができなかった。

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宗助は今日こんにちまでの経験に訴えて、これくらいかすかな灯火ともしびに、夜を営なむ人間をおもい起す事ができなかった。

その光はもちろん月より強かった。

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その光は無論月よりも強かった。

しかも月のように青白い色ではなかった。

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かつ月のごとく蒼白あおじろい色ではなかった。

けれども、もう少しでぼんやりした境に沈むはずの性質のものだった。

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けれどももう少しで朦朧もうろうさかいに沈むべき性質たちのものであった。

この静かではっきりしない灯りの力で、宗助は自分から四、五尺離れた正面に、宜道のいわゆる老師なるものを認めた。

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この静かな判然はっきりしない灯火の力で、宗助は自分を去る四五尺の正面に、宜道のいわゆる老師なるものを認めた。

彼の顔は例によって鋳物のように動かなかった。

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彼の顔は例によって鋳物いもののように動かなかった。

色は銅だった。

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色はあかがねであった。

彼は全身に、渋に似た柿に似た茶に似た色の法衣をまとっていた。

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彼は全身にしぶに似たかきに似た茶に似た色の法衣ころもまとっていた。

足も手も見えなかった。

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足も手も見えなかった。

ただ首から上が見えた。

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ただくびから上が見えた。

その首から上が、厳粛さと緊張の極みに落ち着いて、いつまで経っても変わる恐れを持たないかのように人を引きつけた。

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その頸から上が、厳粛げんしゅくと緊張の極度に安んじて、いつまで経っても変るおそれを有せざるごとくに人をした。

そうして頭には一本の毛もなかった。

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そうして頭には一本の毛もなかった。

この面前に気力なく座った宗助が口にした言葉は、ただ一句で尽きた。

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この面前に気力なくすわった宗助の、口にした言葉はただ一句で尽きた。

「もっと、ぎろりとしたところを持って来なければ駄目だ」

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「もっと、ぎろりとしたところを持って来なければ駄目だ」

とたちまち言われた。

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とたちまち云われた。

「そのくらいのことは、少し学問をした者なら誰でも言える」

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「そのくらいな事は少し学問をしたものなら誰でも云える」

宗助は宿なしの犬のように部屋を退いた。

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宗助は喪家そうかの犬のごとく室中を退いた。

後ろに鈴を振る音が激しく響いた。

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後にれいを振る音がはげしく響いた。

二十

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二十

障子の外で、野中さん、野中さん、と呼ぶ声が二度ほど聞こえた。

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障子しょうじの外で野中さん、野中さんと呼ぶ声が二度ほど聞えた。

宗助は半分眠ったまま、はい、と答えたつもりだったが、返事をし終わらないうちに早くも意識を失って、また正体もなく寝入ってしまった。

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宗助そうすけ半睡はんすいうちにはいとこたえたつもりであったが、返事を仕切らない先に、早く知覚を失って、また正体なく寝入ってしまった。

二度目に目が覚めた時、彼は驚いて飛び起きた。

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二度目に眼がめた時、彼は驚ろいて飛び起きた。

縁側へ出ると、宜道が鼠色の木綿の着物に襷を掛けて、甲斐甲斐しくそこいらを拭いていた。

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縁側えんがわへ出ると、宜道ぎどう鼠木綿ねずみもめんの着物にたすきを掛けて、甲斐甲斐かいがいしくそこいらを拭いていた。

赤くかじかんだ手で濡れ雑巾を絞りながら、例のごとく優しいにこやかな顔をして、

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赤くかじかんだ手で、濡雑巾ぬれぞうきんしぼりながら、例のごとく柔和やさしいにこやかな顔をして、

「お早う」

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「御早う」

と挨拶した。

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挨拶あいさつした。

彼は今朝も早くに参禅を済ませたあと、こうして庵に帰って働いていたのである。

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彼は今朝もまたとくに参禅を済ましたのち、こうして庵に帰って働いていたのである。

宗助はわざわざ呼び起こされても起きられなかった自分の怠慢を顧みて、まったくきまりの悪い思いをした。

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宗助はわざわざ呼び起されても起き得なかった自分の怠慢をかえりみて、全くきまりの悪い思をした。

「今朝もつい寝過ごして失礼しました」

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「今朝もつい寝忘れて失礼しました」

彼はこそこそ勝手口から井戸端の方へ出た。

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彼はこそこそ勝手口から井戸端いどばたの方へ出た。

そうして冷たい水を汲んで、できるだけ早く顔を洗った。

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そうして冷たい水をんでできるだけ早く顔を洗った。

伸びかけた髭が頬のあたりで手を刺すようにざらざらしたが、今の宗助にはそれを気にするほどの余裕はなかった。

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延びかかったひげが、頬のあたりで手を刺すようにざらざらしたが、今の宗助にはそれを苦にするほどの余裕はなかった。

彼はしきりに宜道と自分とを引き比べて考えた。

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彼はしきりに宜道と自分とを対照して考えた。

紹介状をもらう時に東京で聞いたところによると、この宜道という坊さんはたいへん性質のいい男で、今では修行もだいぶでき上がっているという話だったが、会ってみると、まるで一字も知らない下働きの者のように丁寧だった。

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紹介状を貰うときに東京で聞いたところによると、この宜道という坊さんは、大変性質たちのいい男で、今では修業もだいぶでき上がっていると云う話だったが、会って見ると、まるで一丁字いっていじもない小廝こもののように丁寧ていねいであった。

こうして襷掛けで働いているところを見ると、どうしても一個の独立した庵の主人らしくはなかった。

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こうして襷掛たすきがけで働いているところを見ると、どうしても一個の独立したあんの主人らしくはなかった。

寺の下働きとも小坊主とも言えた。

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納所なっしょとも小坊主とも云えた。

この小柄な若い僧は、まだ出家しない前、ただの俗人としてここへ修行に来た時、七日の間結跏したきり少しも動かなかったのである。

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この矮小わいしょう若僧じゃくそうは、まだ出家をしない前、ただの俗人としてここへ修業に来た時、七日の間結跏けっかしたぎり少しも動かなかったのである。

しまいには足が痛んで腰が立たなくなり、便所へ行く折などはやっとのことで壁伝いに体を運んだのである。

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しまいには足が痛んで腰が立たなくなって、かわやのぼる折などは、やっとの事壁伝いに身体からだを運んだのである。

その時分の彼は彫刻家だった。

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その時分の彼は彫刻家であった。

悟りを得た日には、嬉しさのあまり裏の山へ駆け上って、草も木も国土もことごとく仏になる、と大きな声を出して叫んだ。

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見性けんしょうした日に、うれしさの余り、裏の山へけ上って、草木国土そうもくこくど悉皆成仏しっかいじょうぶつと大きな声を出して叫んだ。

そうしてついに頭を剃ってしまった。

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そうしてついに頭をってしまった。

この庵を預かるようになってからもう二年になるが、まだ本式に床を延べて楽に足を伸ばして寝たことはないと言った。

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この庵を預かるようになってから、もう二年になるが、まだ本式に床を延べて、楽に足を延ばして寝た事はないと云った。

冬でも着物のまま壁にもたれて座ったまま眠るだけだと言った。

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冬でも着物のまま壁にもたれて坐睡ざすいするだけだと云った。

お付きの僧をしていた頃などは、老師の下帯まで洗わされたと言った。

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侍者じしゃをしていた頃などは、老師の犢鼻褌ふんどしまで洗わせられたと云った。

その上、少しの暇を盗んで座りでもすると、後ろから来て意地の悪い邪魔をされる、毒づかれる、頭を剃り立ての頃には何の因果で坊主になったかと悔やむことが多かったと言った。

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その上少しの暇をぬすんで坐りでもすると、うしろから来て意地の悪い邪魔をされる、毒吐どくづかれる、頭の剃り立てには何の因果いんがで坊主になったかと悔む事が多かったと云った。

「ようやくこの頃になって少し楽になりました。しかしまだ先がございます。修行は実際苦しいものです。そう簡単にできるものなら、いくら私どもが馬鹿だって、こうして十年も二十年も苦しむわけがございません」

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「ようやくこの頃になって少し楽になりました。しかしまだ先がございます。修業は実際苦しいものです。そう容易にできるものなら、いくら私共が馬鹿だって、こうして十年も二十年も苦しむ訳がございません」

宗助はただぼう然とした。

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宗助はただ惘然ぼうぜんとした。

自分の根気と精力の足りないことをはがゆく思う上に、それほど年月をかけなければ成し遂げられないものなら、自分は何をしにこの山の中までやって来たのか、それがまず第一の矛盾だった。

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自己の根気と精力の足らない事をはがゆく思う上に、それほど歳月を掛けなければ成就じょうじゅできないものなら、自分は何しにこの山の中までやって来たか、それからが第一の矛盾であった。

「決して損になる気遣いはございません。十分座れば十分の功があり、二十分座れば二十分の徳があるのはもちろんです。その上、最初を一つきれいにぶち抜いておけば、あとはこういう風にいつもここにおいでにならなくても済みますから」

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「けっして損になる気遣きづかいはございません。十分じっぷん坐れば、十分の功があり、二十分坐れば二十分の徳があるのは無論です。その上最初を一つ奇麗きれいにぶち抜いておけば、あとはこう云う風に始終しじゅうここにおいでにならないでも済みますから」

宗助は義理にもまた自分の部屋へ帰って座らなければならなかった。

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宗助は義理にもまた自分のへやへ帰って坐らなければならなかった。

こんな時に宜道が来て、

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こんな時に宜道が来て、

「野中さん、講義です」

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「野中さん提唱ていしょうです」

と誘ってくれると、宗助は心から嬉しい気がした。

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と誘ってくれると、宗助は心から嬉しい気がした。

彼は禿げ頭をつかまえるような手のつけようのない難題に悩まされて、座ったままじっと悶えるのを、いかにも切なく思った。

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彼は禿頭はげあたまつらまえるような手の着けどころのない難題に悩まされて、ながらじっと煩悶はんもんするのを、いかにも切なく思った。

どんなに精力を使う仕事でもいいから、もう少し積極的に体を働かせたいと思った。

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どんなに精力を消耗しょうこうする仕事でもいいから、もう少し積極的に身体からだを働らかしたく思った。

講義のある場所は、やはり一窓庵から一町も離れていた。

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提唱のある場所は、やはり一窓庵から一町もへだたっていた。

蓮池の前を通り越して、それを左へ曲がらずにまっすぐ突き当たると、屋根瓦をいかめしく重ねた高い軒が松の間に仰がれた。

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蓮池れんちの前を通り越して、それを左へ曲らずに真直まっすぐに突き当ると、屋根瓦やねがわらいかめしく重ねた高い軒が、松の間にあおがれた。

宜道は懐に黒い表紙の本を入れていた。

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宜道はふところに黒い表紙の本を入れていた。

宗助はもちろん手ぶらだった。

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宗助は無論手ぶらであった。

提唱というのが学校でいう講義の意味であることさえ、ここへ来て初めて知った。

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提唱ていしょうと云うのが、学校でいう講義の意味である事さえ、ここへ来て始めて知った。

部屋は高い天井に見合って広く、しかも寒かった。

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へやは高い天井てんじょうに比例して広くかつ寒かった。

色の変わった畳の色が古い柱と映り合って、昔を物語るようにさび果てていた。

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色の変った畳の色が古い柱とり合って、昔を物語るようにび果てていた。

そこに座っている人々も、皆地味に見えた。

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そこに坐っている人々も皆地味に見えた。

席次に決まりなく思い思いの座を占めてはいるが、大声で語る者、笑う者は一人もいなかった。

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席次不同に思い思いの座を占めてはいるが、高声こうせいに語るもの、笑うものは一人もなかった。

僧は皆、紺の麻の法衣を着て、正面の椅子の左右に列を作って向かい合わせに並んだ。

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僧は皆紺麻こんあさ法衣ころもを着て、正面の曲彔きょくろくの左右に列を作って向い合せに並んだ。

その椅子は朱で塗ってあった。

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その曲彔は朱で塗ってあった。

やがて老師が現れた。

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やがて老師が現われた。

畳を見つめていた宗助には、彼がどこを通ってどこからここへ出たのか、さっぱり分からなかった。

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畳を見つめていた宗助には、彼がどこを通って、どこからここへ出たかさっぱり分らなかった。

ただ、彼が落ち着き払って椅子に寄る重々しい姿を見た。

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ただ彼の落ちつき払って曲彔にる重々しい姿を見た。

一人の若い僧が立ちながら紫の袱紗を解いて、中から取り出した本をうやうやしく机の上に置くところを見た。

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一人の若い僧が立ちながら、むらさき袱紗ふくさを解いて、中から取り出した書物を、うやうやしく卓上に置くところを見た。

また、その僧が礼拝して退く様子を見た。

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またその礼拝らいはいして退しりぞくさまを見た。

この時、堂の上の僧は一斉に合掌して、夢窓国師の遺誡を唱え始めた。

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この時堂上の僧は一斉いっせい合掌がっしょうして、夢窓国師むそうこくし遺誡いかいじゅし始めた。

思い思いに席を取った宗助の前後にいる居士も、皆同じ声で調子を合わせた。

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思い思いに席を取った宗助の前後にいる居士こじも皆同音どうおんに調子を合せた。

聞いていると、経文のような、普通の言葉のような、一種の節を帯びた文句だった。

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聞いていると、経文のような、普通の言葉のような、一種の節を帯びた文字であった。

「我に三等の弟子あり。いわゆる猛烈にして諸縁を放下し、専一に己事を究明する、これを上等と名づく。修行が純粋でなく、雑多に学を好む、これを中等という」

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「我に三等の弟子あり。いわゆる猛烈にして諸縁しょえん放下ほうげし、専一に己事こじを究明するこれを上等と名づく。修業純ならず駁雑はくざつ学を好む、これを中等と云う」

というような、あまり長くはないものだった。

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と云々という、余り長くはないものであった。

宗助は初め、夢窓国師が何者であるかを知らなかった。

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宗助は始め夢窓国師むそうこくし何人なんびとなるかを知らなかった。

宜道から、この夢窓国師と大燈国師とは禅門を中興した祖であるということを教わったのである。

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宜道からこの夢窓国師と大燈国師だいとうこくしとは、禅門中興の祖であると云う事を教わったのである。

普段、足が不自由で十分に足を組めないのを憤って、死ぬ間際に、今日こそ自分の思いどおりにしてみせると言いながら、悪い方の足を無理に折り曲げて結跏したため、血が流れて法衣ににじんだという大燈国師の話も、その折に宜道から聞いた。

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平生ちんばで充分に足を組む事ができないのをいきどおって、死ぬ間際まぎわに、今日きょうこそおれの意のごとくにして見せると云いながら、悪い方の足を無理に折っぺしょって、結跏けっかしたため、血が流れて法衣ころも煮染にじましたという大燈国師の話もそのおり宜道から聞いた。

やがて講義が始まった。

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やがて提唱が始まった。

宜道は懐から例の本を出して、ページを半ば開いて宗助の前へ置いた。

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宜道はふところから例の書物を出して、ページなからして宗助の前へ置いた。

それは宗門無尽燈論という本だった。

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それは宗門無尽燈論しゅうもんむじんとうろんと云う書物であった。

初めて聞きに出た時、宜道は、

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始めて聞きに出た時、宜道は、

「ありがたい結構な本です」

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「ありがたい結構な本です」

と宗助に教えてくれた。

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と宗助に教えてくれた。

白隠和尚の弟子の東嶺和尚とかいう人の編んだもので、主に禅を修行する者が浅い所から深い所へ進んで行く道筋や、それに伴う心境の変化を順序立てて書いたものらしかった。

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白隠和尚はくいんおしょうの弟子の東嶺とうれい和尚とかいう人の編輯へんしゅうしたもので、重に禅を修行するものが、浅い所から深い所へ進んで行く径路やら、それに伴なう心境の変化やらを秩序立てて書いたものらしかった。

途中から顔を出した宗助にはよく分からなかったけれど、講じる人は能弁の方で、黙って聞いているうちにたいへん面白いところがあった。

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中途から顔を出した宗助には、よくもせなかったけれども、講者こうじゃは能弁の方で、黙って聞いているうちに、大変面白いところがあった。

その上、参禅の人々を励ますためか、古来この道に苦しんだ人の来歴の話などを取り混ぜて、一段の彩りを添えるのが常だった。

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その上参禅の士を鼓舞こぶするためか、古来からこの道に苦しんだ人の閲歴譚えつれきだんなどをぜて、一段の精彩を着けるのが例であった。

この日もそのとおりだったが、ある所へ来ると突然語調を改めて、

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この日もその通りであったが、或所へ来ると、突然語調を改めて、

「この頃、部屋に来て、どうも妄想が起こっていけないなどと訴える者があるが」

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「この頃室中に来って、どうも妄想もうぞうが起っていけないなどと訴えるものがあるが」

と急に入室者の不熱心を戒め出したので、宗助は思わずぎくりとした。

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と急に入室者の不熱心を戒しめ出したので、宗助は覚えずぎくりとした。

部屋に入ってその訴えをしたのは、実に彼自身だった。

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室中に入って、そのうったえをなしたものは実に彼自身であった。

一時間ののち、宜道と宗助は連れ立ってまた一窓庵に帰った。

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一時間の後宜道と宗助はそでをつらねてまた一窓庵に帰った。

その帰り道で宜道は、

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その帰り路に宜道は、

「ああして講義のある時に、よく参禅者の心得違いを遠回しに戒められます」

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「ああして提唱のある時に、よく参禅者の不心得をふうせられます」

と言った。

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と云った。

宗助は何も答えなかった。

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宗助は何も答えなかった。

二十一

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二十一

そのうち、山の中の日は一日一日と経った。

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そのうち、山の中の日は、一日一日とった。

御米からは、かなり長い手紙がもう二通来た。

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御米およねからはかなり長い手紙がもう二本来た。

もっとも二通とも、新たに宗助の心を乱すような心配事は書いてなかった。

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もっとも二本とも新たに宗助そうすけの心を乱すような心配事は書いてなかった。

宗助は普段の細君思いに似ず、ついに返事を出すのを怠った。

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宗助は常の細君思いに似ずついに返事を出すのを怠った。

彼は山を出る前に何とかこの間の問題に片をつけなければ、せっかく来た甲斐がないような、また宜道に対して済まないような気がしていた。

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彼は山を出る前に、何とかこの間の問題に片をつけなければ、せっかく来た甲斐かいがないような、また宜道ぎどうに対してすまないような気がしていた。

目が覚めている時は、これがために名状しがたい一種の圧迫を受け続けに受けた。

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眼がめている時は、これがために名状しがたい一種の圧迫を受けつづけに受けた。

したがって日が暮れて夜が明け、寺で見る太陽の数が重なるにつれて、まるで後ろから追いかけられでもするように気が焦った。

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したがって日が暮れて夜が明けて、寺で見る太陽の数が重なるにつけて、あたかも後から追いかけられでもするごとく気をいらった。

けれども彼は、最初の解決よりほかに一歩もこの問題に近づく手立てを知らなかった。

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けれども彼は最初の解決よりほかに、一歩もこの問題にちかづくすべを知らなかった。

彼はまた、いくら考えてもこの最初の解決は確かなものだと信じていた。

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彼はまたいくら考えてもこの最初の解決は確なものであると信じていた。

ただ理屈から割り出したものだから、腹の足しにはまるでならなかった。

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ただ理窟りくつから割り出したのだから、腹のたしにはいっこうならなかった。

彼はこの確かなものを放り出して、さらにまた確かなものを求めようとした。

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彼はこの確なものを放り出して、さらにまた確なものを求めようとした。

けれども、そんなものは少しも出て来なかった。

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けれどもそんなものは少しも出て来なかった。

彼は自分の部屋で一人考えた。

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彼は自分のへやひとり考えた。

疲れると、台所から下りて裏の菜園へ出た。

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疲れると、台所から下りて、裏の菜園へ出た。

そうして崖の下に掘った横穴の中へ入って、じっと動かずにいた。

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そうしてがけの下に掘った横穴の中へ這入はいって、じっと動かずにいた。

宜道は、気が散るようでは駄目だと言った。

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宜道は気が散るようでは駄目だと云った。

だんだん集中して凝り固まって、しまいに鉄の棒のようにならなくては駄目だと言った。

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だんだん集注してり固まって、しまいに鉄の棒のようにならなくては駄目だと云った。

そういうことを聞けば聞くほど、実際にそうなるのが難しくなった。

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そう云う事を聞けば聞くほど、実際にそうなるのが、困難になった。

「すでに頭の中にそうしようという下心があるからいけないのです」

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「すでに頭の中に、そうしようと云う下心があるからいけないのです」

と宜道がまた言って聞かせた。

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と宜道がまた云って聞かした。

宗助はいよいよ行き詰まった。

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宗助はいよいよ窮した。

突然、安井のことを考え出した。

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忽然こつぜん安井の事を考え出した。

安井がもし坂井の家へ頻繁に出入りでもするようになって、当分満州へ帰らないとすれば、今のうちにあの借家を引き払ってどこかへ引っ越すのが上策だろう。

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安井がもし坂井の家へ頻繁ひんぱん出入でいりでもするようになって、当分満洲へ帰らないとすれば、今のうちあの借家しゃくやを引き上げて、どこかへ転宅するのが上分別じょうふんべつだろう。

こんな所でぐずぐずしているより、早く東京へ帰ってその方の始末をつけた方が、まだ実際的かもしれない。

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こんな所にぐずぐずしているより、早く東京へ帰ってその方の所置をつけた方がまだ実際的かも知れない。

ゆっくり構えて御米にでも知れれば、また心配が増えるだけだと思った。

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ゆっくり構えて、御米にでも知れるとまた心配がえるだけだと思った。

「私のような者には、とうてい悟りは開けそうにありません」

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「私のようなものにはとうていさとりは開かれそうに有りません」

と思い詰めたように宜道をつかまえて言った。

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と思いつめたように宜道をつらまえて云った。

それは帰る二、三日前のことだった。

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それは帰る二三日にさんち前の事であった。

「いえ、信念さえあれば誰でも悟れます」

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「いえ信念さえあれば誰でも悟れます」

と宜道はためらいもなく答えた。

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と宜道は躊躇ちゅうちょもなく答えた。

「法華の凝り固まりが夢中で太鼓を叩くようにやってご覧なさい。頭のてっぺんから足の爪先までがことごとく公案で満たされた時、突如として新しい天地が現れるのでございます」

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法華ほっけり固まりが夢中に太鼓をたたくようにやって御覧なさい。頭の巓辺てっぺんから足の爪先までがことごとく公案で充実したとき、俄然がぜんとして新天地が現前するのでございます」

宗助は、自分の境遇や性質がそれほど盲目的に猛烈な働きをあえてするのに向いていないことを深く悲しんだ。

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宗助は自分の境遇やら性質が、それほど盲目的に猛烈なはたらきをあえてするに適しない事を深く悲しんだ。

まして、自分がこの山で暮らせる日はすでに限られていた。

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いわんや自分のこの山で暮らすべき日はすでに限られていた。

彼はまっすぐに生活のもつれを切り払うつもりで、かえって迂闊にも山の中へ迷い込んだ愚か者だった。

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彼は直截ちょくせつに生活の葛藤かっとうを切り払うつもりで、かえって迂濶うかつに山の中へ迷い込んだ愚物ぐぶつであった。

彼は腹の中でこう考えながら、宜道の面前でそれだけのことを言い切る力がなかった。

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彼は腹の中でこう考えながら、宜道の面前で、それだけの事を言い切る力がなかった。

彼は心から、この若い禅僧の勇気と熱心と真面目さと親切とに敬意を表していたのである。

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彼は心からこの若い禅僧の勇気と熱心と真面目まじめと親切とに敬意を表していたのである。

「道は近くにあるのに、かえってこれを遠くに求める、という言葉がありますが、実際です。つい鼻の先にあるのですけれども、どうしても気がつきません」

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「道は近きにあり、かえってこれを遠きに求むという言葉があるが実際です。つい鼻の先にあるのですけれども、どうしても気がつきません」

と宜道はいかにも残念そうだった。

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と宜道はさも残念そうであった。

宗助はまた自分の部屋に退いて線香を立てた。

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宗助はまた自分のへや退しりぞいて線香を立てた。

こういう状態は、不幸にして宗助が山を去らなければならない日まで、目立つほどの新しい局面を開く機会もなく続いた。

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こう云う状態は、不幸にして宗助の山を去らなければならない日まで、目に立つほどの新生面を開く機会なく続いた。

いよいよ出発の朝になって、宗助はいさぎよく未練を投げ捨てた。

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いよいよ出立の朝になって宗助はいさぎよく未練をてた。

「長々お世話になりました。残念ですが、どうも仕方がありません。もう当分お目にかかる折もございますまいから、どうかご機嫌よう」

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「永々御世話になりました。残念ですが、どうも仕方がありません。もう当分御眼にかかる折もございますまいから、随分御機嫌ごきげんよう」

と宜道に挨拶をした。

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と宜道に挨拶あいさつをした。

宜道は気の毒そうだった。

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宜道は気の毒そうであった。

「お世話どころか、万事行き届かず、さぞご窮屈でございましたろう。しかしこれだけお座りになっても、だいぶ違います。わざわざおいでになっただけのことは十分ございます」

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「御世話どころか、万事不行届でさぞ御窮屈でございましたろう。しかしこれほど御坐りになってもだいぶ違います。わざわざおいでになっただけの事は充分ございます」

と言った。

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と云った。

しかし宗助には、まるで時間を潰しに来たという自覚がはっきりあった。

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しかし宗助にはまるで時間をつぶしに来たような自覚が明らかにあった。

それをこう取り繕って言ってもらうのも自分の不甲斐なさからだと、一人で恥じ入った。

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それをこう取りつくろって云ってもらうのも、自分の腑甲斐ふがいなさからであると、ひとり恥じ入った。

「悟りの早い遅いはまったくその人の性質で、それだけでは優劣にはなりません。入りやすくてもあとでつかえて動かない人もいますし、また初めは長くかかっても、いよいよという場合に非常に痛快にできる人もあります。決して失望なさることはございません。ただ熱心が大切です。亡くなられた洪川和尚などは、もと儒教をやられて中年からの修行でございましたが、僧になってから三年の間、まるで一則も通りませんでした。それで、自分は業が深くて悟れないのだと言って、毎朝便所に向かって礼拝されたくらいでしたが、後にはあのような知識になられました。これなどはもっともいい例です」

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「悟の遅速は全く人の性質たちで、それだけでは優劣にはなりません。入りやすくてもあとつかえて動かない人もありますし、また初め長く掛かっても、いよいよと云う場合に非常に痛快にできるのもあります。けっして失望なさる事はございません。ただ熱心が大切です。くなられた洪川和尚こうせんおしょうなどは、もと儒教をやられて、中年からの修業でございましたが、僧になってから三年の間と云うものまるで一則いっそくも通らなかったです。それでわしごうが深くて悟れないのだと云って、毎朝かわやに向って礼拝らいはいされたくらいでありましたが、後にはあのような知識になられました。これなどはもっとも好い例です」

宜道はこんな話をして、それとなく宗助が東京へ帰ってからもまったくこの道を断念しないように、あらかじめ遠回しの注意を与えるように見えた。

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宜道はこんな話をして、あんに宗助が東京へ帰ってからも、全くこの方を断念しないようにあらかじめ間接の注意を与えるように見えた。

宗助は謹んで、宜道の言うことに耳を貸した。

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宗助はつつしんで、宜道のいう事に耳を借した。

けれども腹の中では、大事がもうすでに半分去ったように感じた。

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けれども腹の中では大事がもうすでに半分去ったごとくに感じた。

自分は門を開けてもらいに来た。

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自分は門をけて貰いに来た。

けれども門番は扉の向こう側にいて、叩いてもついに顔さえ出してくれなかった。

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けれども門番は扉の向側むこうがわにいて、たたいてもついに顔さえ出してくれなかった。

ただ、

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ただ、

「叩いても駄目だ。自分で開けて入れ」

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「敲いても駄目だ。ひとりで開けて入れ」

という声が聞こえただけだった。

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と云う声が聞えただけであった。

彼は、どうすればこの門の閂を開けられるかを考えた。

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彼はどうしたらこの門のかんのきを開ける事ができるかを考えた。

そうして、その手段と方法をはっきり頭の中でこしらえた。

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そうしてその手段と方法を明らかに頭の中でこしらえた。

けれども、それを実際に開ける力は少しも養うことができなかった。

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けれどもそれを実地に開ける力は、少しも養成する事ができなかった。

したがって自分の立っている場所は、この問題を考えなかった昔と少しも違うところがなかった。

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したがって自分の立っている場所は、この問題を考えない昔とごうも異なるところがなかった。

彼は相変わらず無能無力に、閉ざされた扉の前に取り残された。

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彼は依然として無能無力に鎖ざされた扉の前に取り残された。

彼は普段、自分の分別を頼りに生きて来た。

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彼は平生自分の分別を便たよりに生きて来た。

その分別が今は彼に祟ったのを悔しく思った。

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その分別が今は彼にたたったのを口惜くちおしく思った。

そうして、初めから取捨も思案も入れない愚かな者の一途な一図さを羨んだ。

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そうして始から取捨も商量もれない愚なものの一徹一図をうらやんだ。

あるいは、信仰の篤い善男善女の、知恵も忘れ思案も浮かばない精進のありようを崇高だと仰いだ。

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もしくは信念にあつい善男善女の、知慧も忘れ思議も浮ばぬ精進しょうじんの程度を崇高と仰いだ。

彼自身は、長く門の外に佇むべき運命を持って生まれて来た者らしかった。

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彼自身は長く門外に佇立たたずむべき運命をもって生れて来たものらしかった。

それは是非もなかった。

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それは是非もなかった。

けれども、どうせ通れない門なら、わざわざそこまでたどり着くのが矛盾だった。

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けれども、どうせ通れない門なら、わざわざそこまで辿たどりつくのが矛盾であった。

彼は後ろを顧みた。

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彼はうしろかえりみた。

そうして、とうていまた元の道へ引き返す勇気を持たなかった。

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そうしてとうていまた元の路へ引き返す勇気をたなかった。

彼は前を眺めた。

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彼は前をながめた。

前には堅固な扉がいつまでも見通しを遮っていた。

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前には堅固な扉がいつまでも展望をさえぎっていた。

彼は門を通る人ではなかった。

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彼は門を通る人ではなかった。

また門を通らないで済む人でもなかった。

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また門を通らないで済む人でもなかった。

要するに彼は、門の下に立ちすくんで日の暮れるのを待つべき不幸な人だった。

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要するに、彼は門の下に立ちすくんで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。

宗助は立つ前に、宜道と連れ立って老師のもとへちょっと暇乞いに行った。

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宗助は立つ前に、宜道と連れだって、老師のもとへちょっと暇乞いとまごいに行った。

老師は二人を蓮池の上の、縁に欄干の付いた座敷に通した。

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老師は二人を蓮池れんちの上の、縁に勾欄こうらんの着いた座敷に通した。

宜道は自分で次の間に立って、茶を入れて出た。

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宜道はみずから次の間に立って、茶を入れて出た。

「東京はまだ寒いでしょう」

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「東京はまだ寒いでしょう」

と老師が言った。

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と老師が云った。

「少しでも手がかりができてからだと、帰ったあとも楽なのだが。惜しいことで」

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「少しでも手がかりができてからだと、帰ったあとも楽だけれども。惜しい事で」

宗助は老師のこの言葉に対して丁寧に礼を述べ、また十日前にくぐった山門を出た。

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宗助は老師のこの挨拶あいさつに対して、丁寧ていねいに礼を述べて、また十日前にくぐった山門を出た。

甍を圧する杉の色が、冬を閉じ込めて黒く彼の後ろに聳えた。

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いらかを圧する杉の色が、冬を封じて黒く彼のうしろそびえた。

二十二

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二十二

家の敷居をまたいだ宗助は、自分でさえ哀れに思う姿を心に描いた。

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家の敷居をまたいだ宗助そうすけは、おのれにさえ憫然びんぜんな姿をえがいた。

彼は過去十日間、毎朝頭を冷たい水で濡らしたきり、一度も櫛の歯を通したことがなかった。

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彼は過去十日間毎朝頭を冷水れいすいらしたなり、いまだかつてくしの歯を通した事がなかった。

髭はもとより剃る暇を持たなかった。

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ひげもとよりいとまたなかった。

三度とも宜道の好意で白米の炊いたのを食べたには食べたが、おかずといっては菜の煮たのか大根の煮たのくらいのものだった。

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三度とも宜道ぎどうの好意で白米のかしいだのを食べたには食べたが、副食物と云っては、菜の煮たのか、大根の煮たのぐらいなものであった。

彼の顔は自然と青かった。

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彼の顔はおのずからあおかった。

出る前より多少やつれていた。

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出る前よりも多少面窶おもやつれていた。

その上、彼は一窓庵で考え続けに考えた癖が、まだまるで抜け切らなかった。

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その上彼は一窓庵で考えつづけに考えた習慣がまだ全く抜け切らなかった。

どこかに卵を抱く雌鶏のような心持ちが残って、頭が普段のように自由に働かなかった。

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どこかに卵をいだ牝鶏めんどりのような心持が残って、頭が平生の通り自由に働らかなかった。

そのくせ一方では、坂井のことが気にかかった。

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そのくせ一方では坂井の事が気にかかった。

坂井というより、坂井のいわゆる冒険者として宗助の耳に響いたその弟と、その弟の友達として彼の胸を騒がせた安井の消息が気にかかった。

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坂井と云うよりも、坂井のいわゆる冒険者アドヴェンチュアラーとして宗助の耳に響いたそのおととと、その弟の友達として彼の胸を騒がした安井の消息が気にかかった。

けれども彼は、自分から家主の家へ出向いてそれを問いただす勇気を持たなかった。

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けれども彼は自身に家主の宅へ出向いて、それを聞きただす勇気を有たなかった。

間接にそれを御米に問うことは、なおできなかった。

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間接にそれを御米およねに問うことはなおできなかった。

彼は山にいる間さえ、御米がこの件について何も耳にしてくれなければいいがと気遣わない日はなかったくらいである。

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彼は山にいる間さえ、御米がこの事件について何事も耳にしてくれなければいいがと気遣きづかわない日はなかったくらいである。

宗助は長年住み慣れた家の座敷に座って、

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宗助は年来住み慣れた家の座敷に坐って、

「汽車に乗ると短い道中でも気のせいか疲れるね。留守中に特に変わったことはなかったかい」

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「汽車に乗ると短かい道中でも気のせいか疲れるね。留守中に別段変った事はなかったかい」

と聞いた。

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と聞いた。

実際、彼は短い汽車旅行にさえ耐えかねる顔つきをしていた。

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実際彼は短かい汽車旅行にさええかねる顔つきをしていた。

御米はどんな場合にも夫の前で忘れなかった笑顔さえ作れなかった。

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御米はいかな場合にも夫の前に忘れなかった笑顔さえ作り得なかった。

かといって、せっかく保養に行った転地先から今帰って来たばかりの夫に、行かない前よりかえって健康が悪くなったらしいとは、気の毒であからさまには話しにくかった。

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と云って、せっかく保養に行った転地先から今帰って来たばかりの夫に、行かない前よりかえって健康が悪くなったらしいとは、気の毒で露骨に話しにくかった。

わざと明るく、

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わざと活溌かっぱつに、

「いくら保養でも、家へ帰ると少しは気疲れが出るものよ。けれどもあなたはあまりに汚らしいわ。後生だから、ひと休みしたらお湯に行って頭を刈って髭を剃って来てちょうだい」

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「いくら保養でも、うちへ帰ると、少しは気疲きづかれが出るものよ。けれどもあなたはあんまり爺々汚じじむさいわ。後生ごしょうだから一休ひとやすみしたら御湯に行って頭を刈ってひげって来てちょうだい」

と言いながら、わざわざ机の引き出しから小さな鏡を出して見せた。

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と云いながら、わざわざ机の引出から小さな鏡を出して見せた。

宗助は御米の言葉を聞いて、初めて一窓庵の空気を風で払ったような心持ちがした。

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宗助は御米の言葉を聞いて、始めて一窓庵の空気を風で払ったような心持がした。

いったん山を出て家へ帰れば、やはり元の宗助だった。

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一たび山を出て家へ帰ればやはり元の宗助であった。

「坂井さんからは、その後何とも言って来ないかい」

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「坂井さんからはその後何とも云って来ないかい」

「いいえ、何とも」

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「いいえ何とも」

「小六のことも」

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小六ころくの事も」

「いいえ」

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「いいえ」

その小六は図書館へ行って留守だった。

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その小六は図書館へ行って留守だった。

宗助は手拭いと石鹸を持って外へ出た。

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宗助は手拭てぬぐい石鹸シャボンを持って外へ出た。

翌る日、役所へ出ると、みんなから病気はどうだと聞かれた。

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明る日役所へ出ると、みんなから病気はどうだと聞かれた。

中には、少し痩せたようですね、と言う者もあった。

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中には少しせたようですねと云うものもあった。

宗助には、それが無意識の冷やかしの意味に聞こえた。

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宗助にはそれが無意識の冷評の意味に聞えた。

菜根譚を読む男は、ただ、どうです、うまく行きましたか、と尋ねた。

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菜根譚さいこんたんを読む男はただどうですうまく行きましたかと尋ねた。

宗助はこの問いにもだいぶ痛い思いをした。

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宗助はこの問にもだいぶ痛い思をした。

その晩はまた、御米と小六からかわるがわる鎌倉のことを根掘り葉掘り聞かれた。

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その晩はまた御米と小六から代る代る鎌倉の事を根掘り葉掘り問われた。

「気楽でしょうね。留守番も何も置かずに出られたら」

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「気楽でしょうね。留守居るすいも何もおかないで出られたら」

と御米が言った。

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と御米が云った。

「それで、一日いくら出すと置いてくれるんです」

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「それで一日いちんちいくら出すと置いてくれるんです」

と小六が聞いた。

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と小六が聞いた。

「鉄砲でも担いで行って猟でもしたら面白かろう」

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「鉄砲でもかついで行って、りょうでもしたら面白かろう」

とも言った。

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とも云った。

「しかし退屈ね。そんなに寂しくては。朝から晩まで寝ていらっしゃるわけにも行かないでしょう」

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「しかし退屈ね。そんなにさむしくっちゃ。朝から晩まで寝ていらっしゃる訳にも行かないでしょう」

と御米がまた言った。

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と御米がまた云った。

「もう少し滋養のあるものが食える所でなくては、やっぱり体によくないでしょう」

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「もう少し滋養物が食える所でなくっちゃあ、やっぱり身体からだによくないでしょう」

と小六がまた言った。

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と小六がまた云った。

宗助はその夜、床の中に入って、明日こそ思い切って坂井へ行き、安井の消息をそれとなく問いただして、もし彼がまだ東京にいて、なおしばしば坂井と行き来があるようなら、遠くの方へ引っ越してしまおうと考えた。

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宗助はその夜床の中へ入って、明日あしたこそ思い切って、坂井へ行って安井の消息をそれとなく聞きただして、もし彼がまだ東京にいて、なおしばしば坂井と往復があるようなら、遠くの方へ引越してしまおうと考えた。

次の日は平凡に宗助の頭を照らして、何事もない光を西に落とした。

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次の日は平凡に宗助の頭を照らして、事なき光を西に落した。

夜になって、彼は、

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って彼は、

「ちょっと坂井さんまで行って来る」

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「ちょっと坂井さんまで行って来る」

と言い置いて門を出た。

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と云い捨てて門を出た。

月のない坂を上って、ガス灯に照らされた砂利を鳴らしながらくぐり戸を開けた時、彼は、今夜ここで安井に出くわすような万一はまず起こらないだろうと度胸を据えた。

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月のない坂を上って、瓦斯灯ガスとうに照らされた砂利を鳴らしながら潜戸くぐりどを開けた時、彼は今夜ここで安井に落ち合うような万一はまず起らないだろうと度胸をえた。

それでもわざと勝手口へ回って、お客ですか、と聞くことは忘れなかった。

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それでもわざと勝手口へ回って、御客来ですかと聞くことは忘れなかった。

「よくおいでです。どうも相変わらず寒いじゃありませんか」

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「よくおいでです。どうも相変らず寒いじゃありませんか」

と言う、いつものとおり元気のいい主人を見ると、子供を大勢自分の前に並べて、その中の一人と掛け声をかけながらじゃんけんをやっていた。

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と云う常の通り元気の好い主人を見ると、子供を大勢自分の前へ並べて、そのうちの一人と掛声をかけながら、じゃんけんをやっていた。

相手の女の子の年は、六つばかりに見えた。

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相手の女の子の年は、六つばかりに見えた。

赤い幅の広いリボンを蝶々のように頭の上に付けて、主人に負けないほどの勢いで小さな手を握り固めてさっと前へ出した。

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赤い幅のあるリボンを蝶々ちょうちょうのように頭の上にくっつけて、主人に負けないほどの勢で、小さな手を握り固めてさっと前へ出した。

その断固とした様子と握り拳の小ささ、これに対して主人の大げさに大きな拳骨とが対照になって、みんなの笑いを誘った。

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その断然たる様子と、そのにぎこぶしの小ささと、これに反して主人の仰山ぎょうさんらしく大きな拳骨げんこつが、対照になってみんなの笑をいた。

火鉢のそばで見ていた細君は、

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火鉢ひばちはたに見ていた細君は、

「そら、今度こそ雪子の勝ちだ」

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「そら今度こんだこそ雪子の勝だ」

と言って、愉快そうにきれいな歯を見せた。

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と云って愉快そうに綺麗きれいな歯をあらわした。

子供の膝のそばには、白だの赤だの藍だののガラス玉がたくさんあった。

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子供のひざそばには白だの赤だのあいだのの硝子玉ガラスだまがたくさんあった。

主人は、

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主人は、

「とうとう雪子に負けた」

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「とうとう雪子に負けた」

と席を外して宗助の方を向いたが、「どうです、また洞窟へでも引っ込みますかな」

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と席をはずして、宗助の方を向いたが、「どうですまた洞窟とうくつへでも引き込みますかな」

と言って立ち上がった。

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と云って立ち上がった。

書斎の柱には、例のごとく錦の袋に入れた蒙古刀がぶら下がっていた。

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書斎の柱には、例のごとく錦の袋に入れた蒙古刀もうことうがっていた。

花生けには、どこで咲いたのか、もう黄色い菜の花が挿してあった。

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花活はないけにはどこで咲いたか、もう黄色い菜の花がしてあった。

宗助は床柱の中ほどを華やかに彩る袋に目をつけて、

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宗助は床柱の中途をはなやかにいろどる袋に眼を着けて、

「相変わらず掛かっておりますな」

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「相変らず掛かっておりますな」

と言った。

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と云った。

そうして主人の顔色を頭の奥からうかがった。

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そうして主人の気色けしきを頭の奥からうかがった。

主人は、

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主人は、

「ええ、少し物好きが過ぎますね、蒙古刀は」

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「ええちと物数奇ものずき過ぎますね、蒙古刀は」

と答えた。

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と答えた。

「ところが弟の野郎、そんな玩具を持って来ては兄貴を丸め込むつもりだから、困りものじゃありませんか」

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「ところがおととの野郎そんな玩具おもちゃを持って来ては、兄貴を籠絡ろうらくするつもりだから困りものじゃありませんか」

「弟さんは、その後どうなさいました」

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御舎弟ごしゃていはその後どうなさいました」

と宗助は何気ない風を装った。

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と宗助は何気ない風を示した。

「ええ、ようやく四、五日前に帰りました。あれはまったく蒙古向きですね。お前のような野蛮人は東京には合わないから早く帰れ、と言ったら、私もそう思う、と言って帰って行きました。どうしてもあれは万里の長城の向こう側にいるべき人物ですよ。そうしてゴビの砂漠の中でダイヤモンドでも探していればいいんです」

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「ええようやく四五日前帰りました。ありゃ全く蒙古向ですね。御前のような夷狄いてきは東京にゃ調和しないから早く帰れったら、わたしもそう思うって帰って行きました。どうしても、ありゃ万里の長城の向側むこうがわにいるべき人物ですよ。そうしてゴビの沙漠さばくの中で金剛石ダイヤモンドでも捜していればいいんです」

「もう一人のお連れは」

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「もう一人の御伴侶おつれは」

「安井ですか、あれももちろんいっしょです。ああなると落ち着いてはいられないと見えますね。何でも、元は京都の大学にいたこともあるんだとかいう話ですが。どうしてああ変わったものですかね」

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「安井ですか、あれも無論いっしょです。ああなると落ちついちゃいられないと見えますね。何でも元は京都大学にいたこともあるんだとか云う話ですが。どうして、ああ変化したものですかね」

宗助は脇の下から汗が出た。

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宗助はわきの下から汗が出た。

安井がどう変わって、どう落ち着かないのか、まるで聞く気にはならなかった。

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安井がどう変って、どう落ちつかないのか、全く聞く気にはならなかった。

ただ、自分が主人に安井と同じ大学にいたことをまだ漏らしていなかったのを、天の助けのようにありがたく思った。

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ただ自分が主人に安井と同じ大学にいた事を、まだらさなかったのを天祐てんゆうのようにありがたく思った。

けれども主人は、その弟と安井とを晩餐に呼ぶ時、自分をこの二人に紹介しようと申し出た男である。

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けれども主人はその弟と安井とを晩餐ばんさんに呼ぶとき、自分をこの二人に紹介しようと申し出た男である。

辞退してその席に顔を出す不面目だけはやっと免れたようなものの、その晩、主人が何かの弾みでつい自分の名を二人に漏らさないとは限らなかった。

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辞退をしてその席へ顔を出す不面目だけはやっとまぬかれたようなものの、その晩主人が何かの機会はずみについ自分の名を二人にらさないとは限らなかった。

宗助は、後ろ暗い人が偽名を使って世を渡る便利さを切に感じた。

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宗助は後暗うしろぐらい人の、変名へんみょうを用いて世を渡る便利を切に感じた。

彼は主人に向かって、「あなたはもしや私の名を安井の前で口にしませんか」

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彼は主人に向って、「あなたはもしや私の名を安井の前で口にしやしませんか」

と聞いてみたくてたまらなかった。

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と聞いて見たくてたまらなかった。

けれども、それだけはどうしても聞けなかった。

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けれども、それだけはどうしても聞けなかった。

下女が平たい大きな菓子皿に妙な菓子を盛って出た。

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下女が平たい大きな菓子皿に妙な菓子を盛って出た。

一丁の豆腐ほどの大きさの寒天菓子の中に金魚が二匹透けて見えるのを、そのまま包丁の刃を入れて、元の形を崩さずに皿に移したものだった。

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一丁の豆腐ぐらいな大きさの金玉糖きんぎょくとうの中に、金魚が二疋いて見えるのを、そのまま庖丁ほうちょうの刃を入れて、元の形をくずさずに、皿に移したものであった。

宗助はひと目見て、ただめずらしいと感じた。

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宗助は一目見て、ただ珍らしいと感じた。

けれども彼の頭は、むしろ別の方面に気を奪われていた。

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けれども彼の頭はむしろ他の方面に気を奪われていた。

すると主人が、

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すると主人が、

「どうです、一つ」

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「どうです一つ」

と、いつものとおりまず自分から手を出した。

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いつもの通りまず自分から手を出した。

「これはね、昨日ある人の銀婚式に呼ばれてもらって来たのだから、すこぶるおめでたいのです。あなたも一切れくらいあやかってもいいでしょう」

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「これはね、昨日きのうある人の銀婚式に呼ばれて、もらって来たのだから、すこぶるおめでたいのです。あなたも一切ぐらいあやかってもいいでしょう」

主人はあやかりたいという名目のもとに、甘ったるい寒天菓子を幾切れか頬張った。

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主人は肖りたい名のもとに、甘垂あまたるい金玉糖きんぎょくとうを幾切か頬張ほおばった。

これは酒も飲み、茶も飲み、飯も菓子も食えるようにできた、重宝で健康な男だった。

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これは酒も呑み、茶も呑み、飯も菓子も食えるようにできた、重宝で健康な男であった。

「なに、実を言うと、二十年も三十年も夫婦が皺だらけになって生きていたって特におめでたくもありませんが、そこが物は比べようでしてね。私はいつか清水谷の公園の前を通って驚いたことがある」

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「何実を云うと、二十年も三十年も夫婦がしわだらけになって生きていたって、別におめでたくもありませんが、そこが物は比較的なところでね。私はいつか清水谷の公園の前を通って驚ろいた事がある」

と、変な方面へ話を持って行った。

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と変な方面へ話を持って行った。

こういう風に、それからそれへと客を飽きさせないように引っ張って行くのが、社交に慣れた主人の普段の調子だった。

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こういう風に、それからそれへと客をかせないように引張って行くのが、社交になれた主人の平生の調子であった。

彼の言うところによると、清水谷から弁慶橋へ通じるどぶのような細い流れの中に、春先になると無数の蛙が生まれるのだそうである。

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彼の云うところによると、清水谷から弁慶橋へ通じる泥溝どぶのような細い流の中に、春先になると無数のかえるが生れるのだそうである。

その蛙が押し合い鳴き合って育つうちに、幾百組か幾千組の恋がどぶの中で成立する。

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その蛙が押し合い鳴き合って生長するうちに、幾百組か幾千組の恋が泥渠どぶの中で成立する。

そうしてそれらの愛に生きるものが重ならないばかりに隙間なく清水谷から弁慶橋へ続いて、互いに睦まじく浮いていると、通りがかりの小僧だの暇な人だのが石を打ちつけて無残にも蛙の夫婦を殺して行くものだから、その数はほとんど数え切れないほど多くなるのだそうである。

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そうしてそれらの愛に生きるものが重ならないばかりに隙間すきまなく清水谷から弁慶橋へ続いて、互にむつまじく浮いていると、通り掛りの小僧だの閑人ひまじんが、石を打ちつけて、無残にも蛙の夫婦を殺して行くものだから、その数がほとんど勘定かんじょうし切れないほど多くなるのだそうである。

「屍が累々とはあのことですね。それが皆夫婦なんだから、実際気の毒ですよ。つまりあそこを二、三町通るうちに、我々は悲劇にいくつ出会うか分からないんです。それを考えると、お互いは実に幸福でさあ。夫婦になっているのが憎らしいといって石で頭を割られる恐れは、まあないですからね。しかも双方とも二十年も三十年も無事なら、まったくおめでたいに違いありませんよ。だから一切れくらいあやかっておく必要もあるでしょう」

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死屍累々ししるいるいとはあの事ですね。それがみんな夫婦なんだから実際気の毒ですよ。つまりあすこを二三丁通るうちに、我々は悲劇にいくつ出逢うか分らないんです。それを考えると御互は実に幸福でさあ。夫婦になってるのがにくらしいって、石で頭をられる恐れは、まあ無いですからね。しかも双方ともに二十年も三十年も安全なら、全くおめでたいに違ありませんよ。だから一切ぐらい肖っておく必要もあるでしょう」

と言って、主人はわざと箸で寒天菓子を挟んで宗助の前に出した。

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と云って、主人はわざとはしで金玉糖をはさんで、宗助の前に出した。

宗助は苦笑しながらそれを受けた。

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宗助は苦笑しながら、それを受けた。

こんな冗談交じりの話を主人はいくらでも続けるので、宗助はやむを得ずある程度までは釣られて行った。

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こんな冗談交じょうだんまじりの話を、主人はいくらでも続けるので、宗助はやむを得ず或る辺までは釣られて行った。

けれども腹の中は、決して主人のように呑気には行かなかった。

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けれども腹の中はけっして主人のように太平楽たいへいらくには行かなかった。

辞して表へ出て、また月のない空を眺めた時は、その深く黒い色の下に、何とも知れない一種の悲哀とすさまじさを感じた。

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辞して表へ出て、また月のない空をながめた時は、その深く黒い色の下に、何とも知れない一種の悲哀と物凄ものすごさを感じた。

彼は坂井の家へ、ただ何とか難を逃れようという心づもりで行った。

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彼は坂井の家に、ただいやしくもまぬかれんとする料簡りょうけんで行った。

そうしてその目的を果たすために、恥と不愉快を忍んで、好意と率直さに満ちた主人に対して駆け引きずくで話を運んだ。

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そうして、その目的を達するために、恥と不愉快を忍んで、好意と真率しんそつの気にちた主人に対して、政略的に談話をった。

しかも知ろうと思うことは、ことごとく知ることができなかった。

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しかも知ろうと思う事はことごとく知る事ができなかった。

自分の弱点については、一言も彼の前で打ち明ける勇気も必要も認めなかった。

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おのれの弱点に付いては、一言ひとことも彼の前に自白するの勇気も必要も認めなかった。

彼の頭をかすめようとした雨雲は、辛うじて頭に触れずに過ぎたらしかった。

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彼の頭をかすめんとした雨雲あまぐもは、かろうじて、頭に触れずに過ぎたらしかった。

けれども、これに似た不安をこれから先何度でも、いろいろな程度で繰り返さなければ済まないような虫の知らせが、どこかにあった。

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けれども、これに似た不安はこれから先何度でも、いろいろな程度において、繰り返さなければすまないような虫の知らせがどこかにあった。

それを繰り返させるのは天のすることだった。

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それを繰り返させるのは天の事であった。

それを逃げて回るのは宗助のすることだった。

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それを逃げて回るのは宗助の事であった。

二十三

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二十三

月が変わってから、寒さがだいぶ緩んだ。

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月が変ってから寒さがだいぶゆるんだ。

官吏の増俸問題につれて必ず起こるはずだと多くの噂に上った局員や課員の人員整理も、月末までにほぼ片づいた。

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官吏の増俸問題につれて必然起るべく、多数のうわさに上った局員課員の淘汰とうたも、月末までにほぼ片づいた。

その間、ぽつりぽつりと首を切られる知人や見知らぬ人の名前を絶えず耳にした宗助は、時々家へ帰って御米に、

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その間ぽつりぽつりと首をられる知人や未知人の名前を絶えず耳にした宗助そうすけは、時々家へ帰って御米およねに、

「今度はおれの番かもしれない」

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今度こんだはおれの番かも知れない」

と言うことがあった。

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と云う事があった。

御米はそれを冗談とも聞き、また本気とも聞いた。

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御米はそれを冗談じょうだんとも聞き、また本気とも聞いた。

まれには、隠れた未来をわざと呼び出す不吉な言葉とも解釈した。

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まれには隠れた未来を故意に呼び出す不吉な言葉とも解釈した。

それを口にする宗助の胸の中にも、御米と同じような雲が行き来した。

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それを口にする宗助の胸の中にも、御米と同じような雲が去来した。

月が改まって、役所の動揺もこれで一区切りだと言われた時、宗助は生き残った自分の運命を顧みて、当然のようにも思った。

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月が改って、役所の動揺もこれで一段落だと沙汰さたせられた時、宗助は生き残った自分の運命をかえりみて、当然のようにも思った。

また偶然のようにも思った。

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また偶然のようにも思った。

立ったまま御米を見下ろして、

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立ちながら、御米を見下して、

「まあ助かった」

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「まあ助かった」

と難しい顔で言った。

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とむずかしに云った。

その嬉しくも悲しくもない様子が、御米には天から落ちて来た滑稽に見えた。

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そのうれしくも悲しくもない様子が、御米には天から落ちた滑稽こっけいに見えた。

また二、三日して、宗助の月給が五円上がった。

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また二三日して宗助の月給が五円昇った。

「原則どおり二割五分増えなくても仕方があるまい。やめさせられた人も、元の給料のままの人もたくさんいるんだから」

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「原則通り二割五分増さないでも仕方があるまい。められた人も、元給のままでいる人もたくさんあるんだから」

と言った宗助は、この五円に自分以上の価値を持ち帰ったかのように満足の色を見せた。

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と云った宗助は、この五円に自己以上の価値をもたらし帰ったごとく満足の色を見せた。

御米はもちろん、心の中に不足を訴える余地を見出さなかった。

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御米は無論の事心のうちに不足を訴えるべき余地を見出さなかった。

翌る日の晩、宗助は自分の膳の上に、頭つきの魚が尾を皿の外に躍らせている様子を眺めた。

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翌日あくるひの晩宗助はわがぜんの上にかしらつきのうおの、尾を皿の外におどらすさまを眺めた。

小豆の色に染まった飯の香りを嗅いだ。

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小豆あずきの色に染まった飯のかおりいだ。

御米はわざわざ清をやって、坂井の家に移った小六を招いた。

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御米はわざわざ清をやって、坂井の家に引き移った小六ころくを招いた。

小六は、

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小六は、

「やあ、ご馳走だなあ」

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「やあ御馳走ごちそうだなあ」

と言って勝手から入って来た。

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と云って勝手から入って来た。

梅がちらほらと目に入るようになった。

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梅がちらほらと眼にるようになった。

早いものはすでに色を失って散りかけた。

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早いのはすでに色を失なって散りかけた。

雨は煙るように降り始めた。

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雨は煙るように降り始めた。

それが晴れて日に蒸される時、地面からも屋根からも、春の記憶を新たにするはずの湿気がむらむらと立ち上った。

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それがれて、日にされるとき、地面からも、屋根からも、春の記憶を新にすべき湿気がむらむらと立ちのぼった。

背戸に干した雨傘に小犬がじゃれかかって、蛇の目の色がきらきらする所に陽炎が燃えるように、のどかに思われる日もあった。

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背戸せどに干した雨傘あまがさに、小犬がじゃれかかって、じゃの目の色がきらきらする所に陽炎かげろうが燃えるごとく長閑のどかに思われる日もあった。

「ようやく冬が過ぎたようね。あなた、今度の土曜に佐伯の叔母さんの所へ回って、小六さんのことを決めていらっしゃいよ。あまりいつまでも放っておくと、また安さんが忘れてしまうから」

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「ようやく冬が過ぎたようね。あなた今度こんだの土曜に佐伯さえきの叔母さんのところへ回って、小六さんの事をきめていらっしゃいよ。あんまりいつまでも放っておくと、またやすさんが忘れてしまうから」

と御米が催促した。

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と御米が催促した。

宗助は、

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宗助は、

「うん、思い切って行って来よう」

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「うん、思い切って行ってよう」

と答えた。

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と答えた。

小六は坂井の好意で、そこの書生に住み込んだ。

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小六は坂井の好意で、そこの書生に住み込んだ。

その上で宗助と安之助が足りないところを分担できたら、と小六に言って聞かせたのは宗助自身だった。

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その上に宗助と安之助が、不足のところを分担する事ができたらと小六に云って聞かしたのは、宗助自身であった。

小六は兄の働きかけを待たずに、すぐ安之助に直談判をした。

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小六は兄の運動を待たずに、すぐ安之助に直談判じきだんぱんをした。

そうして、形式的に宗助の方から頼めばすぐ安之助が引き受けるところまで、自分で話をつけたのである。

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そうして、形式的に宗助の方から依頼すればすぐ安之助が引き受けるまでに自分でらちを明けたのである。

つかの間の安らぎは、こうして事を好まない夫婦の上に落ちた。

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小康はかくして事を好まない夫婦の上に落ちた。

ある日曜の昼、宗助は久しぶりに四日目の垢を流すため横町の洗い場に行くと、五十ばかりの頭を剃った男と三十代の商人らしい男が、ようやく春らしくなったと言って時候の挨拶を交わしていた。

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ある日曜のひる宗助は久しぶりに、四日目のあかを流すため横町の洗場に行ったら、五十ばかりの頭をった男と、三十代の商人あきんどらしい男が、ようやく春らしくなったと云って、時候の挨拶あいさつを取り換わしていた。

若い方が、今朝初めて鶯の鳴き声を聞いたと話すと、坊さんの方が、私は二、三日前にも一度聞いたことがあると答えていた。

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若い方が、今朝始めてうぐいすの鳴声を聞いたと話すと、坊さんの方が、わたしは二三日前にも一度聞いた事があると答えていた。

「まだ鳴き始めだから下手だね」

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「まだ鳴きはじめだから下手だね」

「ええ、まだ十分に舌が回りません」

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「ええ、まだ充分にしたが回りません」

宗助は家へ帰って、御米にこの鶯の問答を繰り返して聞かせた。

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宗助はうちへ帰って御米にこの鶯の問答を繰り返して聞かせた。

御米は障子のガラスに映る麗らかな日影を透かして見て、

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御米は障子しょうじ硝子ガラスに映るうららかな日影をすかして見て、

「本当にありがたいわね。ようやくのことで春になって」

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「本当にありがたいわね。ようやくの事春になって」

と言って、晴れ晴れとした眉を開いた。

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と云って、晴れ晴れしいまゆを張った。

宗助は縁に出て、長く伸びた爪を切りながら、

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宗助は縁に出て長く延びた爪をりながら、

「うん、しかしまたすぐ冬になるよ」

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「うん、しかしまたじき冬になるよ」

と答えて、下を向いたまま鋏を動かしていた。

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と答えて、下を向いたままはさみを動かしていた。