よめる文庫

三四郎 小学生向け

夏目漱石なつめそうせき)・1951

AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-08-02

原文を見る

うとうとして目が覚めると、女の人はいつのまにか、となりのおじいさんと話を始めている。

原文を見る

うとうととして目がさめると女はいつのまにか、隣のじいさんと話を始めている。

このおじいさんはたしかに、二つ前の駅から乗った田舎の人である。

原文を見る

このじいさんはたしかに前の前の駅から乗ったいなか者である。

発車ぎりぎりに、とんきょうな声を出して駆けこんで来て、いきなり着物をぬいだと思ったら、背中にお灸(きゅう)のあとがいっぱいあったので、三四郎(さんしろう)はよく覚えている。

原文を見る

発車まぎわに頓狂とんきょうな声を出して駆け込んで来て、いきなりはだをぬいだと思ったら背中におきゅうのあとがいっぱいあったので、三四郎さんしろうの記憶に残っている。

おじいさんが汗をふいて、着物を直して、女の人のとなりに腰かけるまで、じっと見ていたくらいである。

原文を見る

じいさんが汗をふいて、肌を入れて、女の隣に腰をかけたまでよく注意して見ていたくらいである。

女の人とは京都から同じ車両に乗っている。

原文を見る

女とは京都からの相乗りである。

乗った時から三四郎の目についた。

原文を見る

乗った時から三四郎の目についた。

まず、はだの色が黒い。

原文を見る

第一色が黒い。

三四郎は九州から山陽線に乗りかえて、だんだん京都や大阪に近づいて来るうちに、女の人のはだの色がだんだん白くなるので、いつのまにか、ふるさとから遠ざかるようなさびしさを感じていた。

原文を見る

三四郎は九州から山陽線に移って、だんだん京大阪へ近づいて来るうちに、女の色が次第に白くなるのでいつのまにか故郷を遠のくような哀れを感じていた。

だからこの女の人が車内に入って来た時は、なんとなく味方を見つけたような気がした。

原文を見る

それでこの女が車室にはいって来た時は、なんとなく異性の味方を得た心持ちがした。

この女の人のはだの色は、たしかに九州の色であった。

原文を見る

この女の色はじっさい九州色きゅうしゅういろであった。

三輪田(みわた)のお光さんと同じ色である。

原文を見る

三輪田みわたのおみつさんと同じ色である。

ふるさとを出るぎりぎりまでは、お光さんはうるさい人であった。

原文を見る

国を立つまぎわまでは、お光さんは、うるさい女であった。

そばをはなれるのが、とてもありがたかった。

原文を見る

そばを離れるのが大いにありがたかった。

けれども、こうしてみると、お光さんのような人もけっして悪くはない。

原文を見る

けれども、こうしてみると、お光さんのようなのもけっして悪くはない。

ただ顔立ちから言うと、この女の人のほうがずっと上等である。

原文を見る

ただ顔だちからいうと、この女のほうがよほど上等である。

口もとがきりっとしている。

原文を見る

口に締まりがある。

目がはっきりしている。

原文を見る

目がはっきりしている。

ひたいがお光さんのようにだだっ広くない。

原文を見る

額がお光さんのようにだだっ広くない。

なんとなく、いい感じにできあがっている。

原文を見る

なんとなくいい心持ちにできあがっている。

それで三四郎は、五分に一度くらいは目を上げて女の人のほうを見ていた。

原文を見る

それで三四郎は五分に一度ぐらいは目を上げて女の方を見ていた。

時々は女の人と自分の目が合うこともあった。

原文を見る

時々は女と自分の目がゆきあたることもあった。

おじいさんが女の人のとなりに腰かけた時などは、いちばんよく気をつけて、できるだけ長い間、女の人の様子を見ていた。

原文を見る

じいさんが女の隣へ腰をかけた時などは、もっとも注意して、できるだけ長いあいだ、女の様子を見ていた。

その時、女の人はにこりと笑って、さあお掛けなさいと言って、おじいさんに席をゆずっていた。

原文を見る

その時女はにこりと笑って、さあおかけと言ってじいさんに席を譲っていた。

それからしばらくして、三四郎はねむくなって寝てしまったのである。

原文を見る

それからしばらくして、三四郎は眠くなって寝てしまったのである。

その寝ている間に、女の人とおじいさんは仲よくなって、話を始めたものと見える。

原文を見る

その寝ているあいだに女とじいさんは懇意になって話を始めたものとみえる。

目を開けた三四郎は、黙って二人の話を聞いていた。

原文を見る

目をあけた三四郎は黙って二人ふたりの話を聞いていた。

女の人はこんなことを言う。――

原文を見る

女はこんなことを言う。――

子供のおもちゃは、やはり広島より京都のほうが安くていいものがある。

原文を見る

子供の玩具おもちゃはやっぱり広島より京都のほうが安くっていいものがある。

京都でちょっと用があって降りたついでに、蛸薬師(たこやくし)のそばでおもちゃを買って来た。

原文を見る

京都でちょっと用があって降りたついでに、蛸薬師たこやくしのそばで玩具を買って来た。

久しぶりにふるさとへ帰って子供に会うのはうれしい。

原文を見る

久しぶりで国へ帰って子供に会うのはうれしい。

しかし、夫からの仕送りがとぎれて、しかたなく親の家へ帰るのだから心配だ。

原文を見る

しかし夫の仕送りがとぎれて、しかたなしに親の里へ帰るのだから心配だ。

夫は呉(くれ)にいて、長い間海軍の工場で働いていたが、戦争の間は旅順(りょじゅん)のほうへ行っていた。

原文を見る

夫はくれにいて長らく海軍の職工をしていたが戦争中は旅順りょじゅんの方に行っていた。

戦争が終わってから、いったん帰って来た。

原文を見る

戦争が済んでからいったん帰って来た。

まもなく、あちらのほうがお金がもうかると言って、また大連(だいれん)へ出かせぎに行った。

原文を見る

まもなくあっちのほうが金がもうかるといって、また大連たいれんへ出かせぎに行った。

初めのうちは手紙もあり、毎月のお金もきちんと送って来たからよかったが、この半年ほど前から手紙もお金もまるで来なくなってしまった。

原文を見る

はじめのうちは音信たよりもあり、月々のものもちゃんちゃんと送ってきたからよかったが、この半年ばかり前から手紙も金もまるで来なくなってしまった。

いいかげんな人ではないから大丈夫だけれど、いつまでも遊んで食べているわけにはいかないので、無事だとわかるまではしかたがないから、親の家へ帰って待っているつもりだ。

原文を見る

不実な性質たちではないから、大丈夫だいじょうぶだけれども、いつまでも遊んで食べているわけにはゆかないので、安否のわかるまではしかたがないから、里へ帰って待っているつもりだ。

おじいさんは蛸薬師も知らず、おもちゃにも興味がないと見えて、初めのうちはただ、はいはいと返事だけしていたが、旅順の話から急にかわいそうになって、それは大いに気の毒だと言い出した。

原文を見る

じいさんは蛸薬師も知らず、玩具にも興味がないとみえて、はじめのうちはただはいはいと返事だけしていたが、旅順以後急に同情を催して、それは大いに気の毒だと言いだした。

自分の子も戦争の間に兵隊に取られて、とうとうあちらで死んでしまった。

原文を見る

自分の子も戦争中兵隊にとられて、とうとうあっちで死んでしまった。

いったい戦争は何のためにするものだかわからない。

原文を見る

いったい戦争はなんのためにするものだかわからない。

あとで景気でもよくなればいいが、大事な子は殺される、物のねだんは高くなる。

原文を見る

あとで景気でもよくなればだが、大事な子は殺される、物価しょしきは高くなる。

こんなばかげたものはない。

原文を見る

こんなばかげたものはない。

世の中がよかったころには、出かせぎなどというものはなかった。

原文を見る

世のいい時分に出かせぎなどというものはなかった。

みんな戦争のせいだ。

原文を見る

みんな戦争のおかげだ。

なにしろ、神仏を信じることが大切だ。

原文を見る

なにしろ信心しんじんが大切だ。

生きて働いているに違いない。

原文を見る

生きて働いているに違いない。

もう少し待っていれば、きっと帰って来る。――

原文を見る

もう少し待っていればきっと帰って来る。――

おじいさんはこんなことを言って、しきりに女の人をなぐさめていた。

原文を見る

じいさんはこんな事を言って、しきりに女を慰めていた。

やがて汽車が止まると、ではお大事に、と女の人にあいさつをして、元気よく出て行った。

原文を見る

やがて汽車がとまったら、ではお大事にと、女に挨拶あいさつをして元気よく出て行った。

おじいさんに続いて降りた人が四人ほどあったが、入れかわりに乗ったのはたった一人しかない。

原文を見る

じいさんに続いて降りた者が四人ほどあったが、入れ代って、乗ったのはたった一人ひとりしかない。

もともと混んだ車両でもなかったのが、急にさびしくなった。

原文を見る

もとから込み合った客車でもなかったのが、急に寂しくなった。

日がくれたせいかもしれない。

原文を見る

日の暮れたせいかもしれない。

駅員が屋根をどしどしふんで、上から火のついたランプを差しこんで行く。

原文を見る

駅夫が屋根をどしどし踏んで、上からのついたランプをさしこんでゆく。

三四郎は思い出したように、前の駅で買った弁当を食べ出した。

原文を見る

三四郎は思い出したように前の停車場ステーションで買った弁当を食いだした。

車が動き出して二分もたっただろうと思うころ、例の女の人はすうと立って、三四郎の横を通りこして車両の外へ出て行った。

原文を見る

車が動きだして二分もたったろうと思うころ、例の女はすうと立って三四郎の横を通り越して車室の外へ出て行った。

この時、女の人の帯の色が初めて三四郎の目に入った。

原文を見る

この時女の帯の色がはじめて三四郎の目にはいった。

三四郎はあゆの煮つけの頭をくわえたまま、女の人の後ろすがたを見送っていた。

原文を見る

三四郎はあゆの煮びたしの頭をくわえたまま女の後姿を見送っていた。

便所に行ったんだなと思いながら、しきりに食べている。

原文を見る

便所に行ったんだなと思いながらしきりに食っている。

女の人はやがて帰って来た。

原文を見る

女はやがて帰って来た。

今度は正面が見えた。

原文を見る

今度は正面が見えた。

三四郎の弁当は、もう終わりに近い。

原文を見る

三四郎の弁当はもうしまいがけである。

下を向いて一生けんめいに箸(はし)をつっこんで、二口三口ほおばったが、女の人はどうも、まだもとの席へ帰らないらしい。

原文を見る

下を向いて一生懸命にはしを突っ込んで二口三口ほおばったが、女は、どうもまだ元の席へ帰らないらしい。

もしやと思って、ひょいと目を上げて見ると、やはり正面に立っていた。

原文を見る

もしやと思って、ひょいと目を上げて見るとやっぱり正面に立っていた。

しかし三四郎が目を上げると同時に、女の人は動き出した。

原文を見る

しかし三四郎が目を上げると同時に女は動きだした。

ただ三四郎の横を通って自分の席へ帰るはずのところを、すぐ前へ来て、体を横に向けて、窓から首を出して、静かに外をながめ出した。

原文を見る

ただ三四郎の横を通って、自分の座へ帰るべきところを、すぐと前へ来て、からだを横へ向けて、窓から首を出して、静かに外をながめだした。

風が強く当たって、耳ぎわの髪がふわふわするところが三四郎の目に入った。

原文を見る

風が強くあたって、びんがふわふわするところが三四郎の目にはいった。

この時、三四郎は空になった弁当の箱を、力いっぱい窓から放り出した。

原文を見る

この時三四郎はからになった弁当のおりを力いっぱいに窓からほうり出した。

女の人の窓と三四郎の窓は、一つおいてとなりであった。

原文を見る

女の窓と三四郎の窓は一軒おきの隣であった。

風にさからって投げた箱のふたが、白くまい戻ったように見えた時、三四郎はとんでもないことをしたと気がついて、ふと女の人の顔を見た。

原文を見る

風に逆らってなげた折のふたが白く舞いもどったように見えた時、三四郎はとんだことをしたのかと気がついて、ふと女の顔を見た。

顔は、あいにく列車の外に出ていた。

原文を見る

顔はあいにく列車の外に出ていた。

けれども女の人は静かに首を引っこめて、更紗(さらさ。模様を染めた布)のハンカチでひたいのところをていねいにふき始めた。

原文を見る

けれども、女は静かに首を引っ込めて更紗さらさのハンケチで額のところを丁寧にふき始めた。

三四郎は、ともかくあやまるほうが安全だと考えた。

原文を見る

三四郎はともかくもあやまるほうが安全だと考えた。

「ごめんなさい」

原文を見る

「ごめんなさい」

と言った。

原文を見る

と言った。

女の人は「いいえ」

原文を見る

女は「いいえ」

と答えた。

原文を見る

と答えた。

まだ顔をふいている。

原文を見る

まだ顔をふいている。

三四郎はしかたなく黙ってしまった。

原文を見る

三四郎はしかたなしに黙ってしまった。

女の人も黙ってしまった。

原文を見る

女も黙ってしまった。

そうして、また首を窓から出した。

原文を見る

そうしてまた首を窓から出した。

三、四人の乗客は暗いランプの下で、みんな寝ぼけた顔をしている。

原文を見る

三、四人の乗客は暗いランプの下で、みんな寝ぼけた顔をしている。

口をきいている人はだれもいない。

原文を見る

口をきいている者はだれもない。

汽車だけがすさまじい音を立てて行く。

原文を見る

汽車だけがすさまじい音をたてて行く。

三四郎は目を閉じた。

原文を見る

三四郎は目を眠った。

しばらくすると「名古屋はもうじきでしょうか」

原文を見る

しばらくすると「名古屋はもうじきでしょうか」

と言う女の人の声がした。

原文を見る

と言う女の声がした。

見ると、いつのまにか向き直って、前かがみになって、顔を三四郎のそばまで持って来ている。

原文を見る

見るといつのまにか向き直って、及び腰になって、顔を三四郎のそばまでもって来ている。

三四郎は驚いた。

原文を見る

三四郎は驚いた。

「そうですね」

原文を見る

「そうですね」

と言ったが、初めて東京へ行くのだから、まるでわからない。

原文を見る

と言ったが、はじめて東京へ行くんだからいっこう要領を得ない。

「この分ではおくれますでしょうか」

原文を見る

「この分では遅れますでしょうか」

「おくれるでしょう」

原文を見る

「遅れるでしょう」

「あなたも名古屋でお降りで……」

原文を見る

「あんたも名古屋へおりで……」

「ええ、降ります」

原文を見る

「はあ、降ります」

この汽車は名古屋止まりであった。

原文を見る

この汽車は名古屋どまりであった。

会話はごくありふれたものであった。

原文を見る

会話はすこぶる平凡であった。

ただ女の人が三四郎のななめ向かいに腰かけたばかりである。

原文を見る

ただ女が三四郎の筋向こうに腰をかけたばかりである。

それで、しばらくの間はまた汽車の音だけになってしまう。

原文を見る

それで、しばらくのあいだはまた汽車の音だけになってしまう。

次の駅で汽車が止まった時、女の人はようやく三四郎に、名古屋へ着いたら、めいわくでも宿屋へ案内してくれと言い出した。

原文を見る

次の駅で汽車がとまった時、女はようやく三四郎に名古屋へ着いたら迷惑でも宿屋へ案内してくれと言いだした。

一人では気味が悪いからと言って、しきりに頼む。

原文を見る

一人では気味が悪いからと言って、しきりに頼む。

三四郎も、もっともだと思った。

原文を見る

三四郎ももっともだと思った。

けれども、そう気持ちよく引き受ける気にもならなかった。

原文を見る

けれども、そう快く引き受ける気にもならなかった。

なにしろ知らない人なのだから、ずいぶんためらいはしたが、きっぱり断る勇気も出なかったので、まあ、いいかげんな生返事をしていた。

原文を見る

なにしろ知らない女なんだから、すこぶる躊躇ちゅうちょしたにはしたが、断然断る勇気も出なかったので、まあいいかげんな生返事なまへんじをしていた。

そのうち汽車は名古屋へ着いた。

原文を見る

そのうち汽車は名古屋へ着いた。

大きな荷物は新橋まで預けてあるから心配はない。

原文を見る

大きな行李こうり新橋しんばしまで預けてあるから心配はない。

三四郎は手ごろな布のかばんとかさだけを持って改札を出た。

原文を見る

三四郎はてごろなズックのかばんかさだけ持って改札場を出た。

頭には高等学校の夏帽子をかぶっている。

原文を見る

頭には高等学校の夏帽をかぶっている。

しかし卒業したしるしに、記章だけはもぎ取ってしまった。

原文を見る

しかし卒業したしるしに徽章きしょうだけはもぎ取ってしまった。

昼間見ると、そこだけ色が新しい。

原文を見る

昼間見るとそこだけ色が新しい。

後ろから女の人がついて来る。

原文を見る

うしろから女がついて来る。

三四郎は、この帽子が少しきまり悪かった。

原文を見る

三四郎はこの帽子に対して少々きまりが悪かった。

けれども、ついて来るのだからしかたがない。

原文を見る

けれどもついて来るのだからしかたがない。

女の人のほうでは、この帽子をもちろん、ただの汚い帽子と思っている。

原文を見る

女のほうでは、この帽子をむろん、ただのきたない帽子と思っている。

九時半に着くはずの汽車が四十分ほどおくれたのだから、もう十時は回っている。

原文を見る

九時半に着くべき汽車が四十分ほど遅れたのだから、もう十時はまわっている。

けれども暑いころだから、町はまだ夜の始めのようににぎやかだ。

原文を見る

けれども暑い時分だから町はまだよいの口のようににぎやかだ。

宿屋も目の前に二、三軒ある。

原文を見る

宿屋も目の前に二、三軒ある。

ただ三四郎には、少し立派すぎるように思われた。

原文を見る

ただ三四郎にはちとりっぱすぎるように思われた。

そこで電灯のついている三階建ての前を、すまして通りこして、ぶらぶら歩いて行った。

原文を見る

そこで電気燈のついている三階作りの前をすまして通り越して、ぶらぶら歩いて行った。

もちろん知らない土地だから、どこへ出るかわからない。

原文を見る

むろん不案内の土地だからどこへ出るかわからない。

ただ暗いほうへ行った。

原文を見る

ただ暗い方へ行った。

女の人は何も言わずについて来る。

原文を見る

女はなんともいわずについて来る。

すると、わりあいにさびしい横町の角から二軒目に、御宿(おんやど)という看板が見えた。

原文を見る

すると比較的寂しい横町のかどから二軒目に御宿おんやどという看板が見えた。

これは三四郎にも女の人にも似合いの、汚い看板であった。

原文を見る

これは三四郎にも女にも相応なきたない看板であった。

三四郎はちょっと振り返って、一言、女の人にどうですと相談したが、女の人はけっこうだと言うので、思い切ってずっと入った。

原文を見る

三四郎はちょっと振り返って、一口ひとくち女にどうですと相談したが、女は結構だというんで、思いきってずっとはいった。

上がり口で二人連れではないと断るはずのところを、いらっしゃい、――どうぞお上がり――ご案内――梅の四番、などと立て続けにしゃべられたので、しかたなく無言のまま、二人とも梅の四番へ通されてしまった。

原文を見る

上がり口で二人連れではないと断るはずのところを、いらっしゃい、――どうぞお上がり――御案内――うめの四番などとのべつにしゃべられたので、やむをえず無言のまま二人とも梅の四番へ通されてしまった。

女中がお茶を持って来る間、二人はぼんやり向かい合って座っていた。

原文を見る

下女が茶を持って来るあいだ二人はぼんやり向かい合ってすわっていた。

女中がお茶を持って来て、お風呂をと言った時は、もうこの人は自分の連れではないと断るだけの勇気が出なかった。

原文を見る

下女が茶を持って来て、お風呂ふろをと言った時は、もうこの婦人は自分の連れではないと断るだけの勇気が出なかった。

そこで手ぬぐいをぶら下げて、お先へとあいさつをして、風呂場へ出て行った。

原文を見る

そこで手ぬぐいをぶら下げて、お先へと挨拶あいさつをして、風呂場へ出て行った。

風呂場は廊下のつき当たりで、便所のとなりにあった。

原文を見る

風呂場は廊下の突き当りで便所の隣にあった。

薄暗くて、だいぶ汚いようである。

原文を見る

薄暗くって、だいぶ不潔のようである。

三四郎は着物をぬいで、風呂おけの中へ飛びこんで、少し考えた。

原文を見る

三四郎は着物を脱いで、風呂桶ふろおけの中へ飛び込んで、少し考えた。

こいつはやっかいだとじゃぶじゃぶやっていると、廊下に足音がする。

原文を見る

こいつはやっかいだとじゃぶじゃぶやっていると、廊下に足音がする。

だれかが便所へ入った様子である。

原文を見る

だれか便所へはいった様子である。

やがて出て来た。

原文を見る

やがて出て来た。

手を洗う。

原文を見る

手を洗う。

それが済んだら、ぎいと風呂場の戸を半分開けた。

原文を見る

それが済んだら、ぎいと風呂場の戸を半分あけた。

例の女の人が入口から、「少しお背中を流しましょうか」

原文を見る

例の女が入口から、「ちいと流しましょうか」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

三四郎は大きな声で、

原文を見る

三四郎は大きな声で、

「いえ、けっこうです」

原文を見る

「いえ、たくさんです」

と断った。

原文を見る

と断った。

しかし女の人は出て行かない。

原文を見る

しかし女は出ていかない。

かえって入って来た。

原文を見る

かえってはいって来た。

そうして帯を解き出した。

原文を見る

そうして帯を解きだした。

三四郎といっしょにお風呂に入る気と見える。

原文を見る

三四郎といっしょに湯を使う気とみえる。

べつに恥ずかしそうな様子も見えない。

原文を見る

べつに恥かしい様子も見えない。

三四郎はたちまち湯ぶねを飛び出した。

原文を見る

三四郎はたちまち湯槽ゆぶねを飛び出した。

そこそこに体をふいて部屋へ帰って、座布団の上に座って、たいへん驚いていると、女中が宿帳(やどちょう。泊まる人が名前を書く帳面)を持って来た。

原文を見る

そこそこにからだをふいて座敷へ帰って、座蒲団ざぶとんの上にすわって、少なからず驚いていると、下女が宿帳を持って来た。

三四郎は宿帳を取り上げて、福岡県京都郡真崎村、小川三四郎、二十三年、学生と正直に書いたが、女の人のところへ来てすっかり困ってしまった。

原文を見る

三四郎は宿帳を取り上げて、福岡県京都郡みやこぐん真崎村まさきむら小川おがわ三四郎二十三年学生と正直に書いたが、女のところへいってまったく困ってしまった。

お風呂から出るまで待っていればよかったと思ったが、しかたがない。

原文を見る

湯から出るまで待っていればよかったと思ったが、しかたがない。

女中がちゃんと待っている。

原文を見る

下女がちゃんと控えている。

しかたなく、同じ県、同じ郡、同じ村、同じ名字で花、二十三年と、でたらめを書いて渡した。

原文を見る

やむをえず同県同郡同村同姓はな二十三年とでたらめを書いて渡した。

そうして、しきりにうちわを使っていた。

原文を見る

そうしてしきりに団扇うちわを使っていた。

やがて女の人は帰って来た。

原文を見る

やがて女は帰って来た。

「どうも、失礼いたしました」

原文を見る

「どうも、失礼いたしました」

と言っている。

原文を見る

と言っている。

三四郎は「いいえ」

原文を見る

三四郎は「いいや」

と答えた。

原文を見る

と答えた。

三四郎はかばんの中から帳面を取り出して、日記をつけ出した。

原文を見る

三四郎は鞄の中から帳面を取り出して日記をつけだした。

書くことも何もない。

原文を見る

書く事も何もない。

女の人がいなければ、書くことがたくさんあるように思われた。

原文を見る

女がいなければ書く事がたくさんあるように思われた。

すると女の人は「ちょっと出て参ります」

原文を見る

すると女は「ちょいと出てまいります」

と言って部屋を出て行った。

原文を見る

と言って部屋へやを出ていった。

三四郎はますます日記が書けなくなった。

原文を見る

三四郎はますます日記が書けなくなった。

どこへ行ったんだろうと考え出した。

原文を見る

どこへ行ったんだろうと考え出した。

そこへ女中が布団をしきに来る。

原文を見る

そこへ下女がとこをのべに来る。

広い布団を一枚しか持って来ないから、布団は二つしかなくてはいけないと言うと、部屋がせまいとか、蚊帳(かや)がせまいとか言って話にならない。

原文を見る

広い蒲団を一枚しか持って来ないから、床は二つ敷かなくてはいけないと言うと、部屋が狭いとか、蚊帳かやが狭いとか言ってらちがあかない。

面倒がっているようにも見える。

原文を見る

めんどうがるようにもみえる。

しまいには、ただいま番頭がちょっと出ましたから、帰ったら聞いて持って参りましょうと言って、がんこに一枚の布団を蚊帳いっぱいにしいて出て行った。

原文を見る

しまいにはただいま番頭がちょっと出ましたから、帰ったら聞いて持ってまいりましょうと言って、頑固がんこに一枚の蒲団を蚊帳いっぱいに敷いて出て行った。

それからしばらくすると、女の人が帰って来た。

原文を見る

それから、しばらくすると女が帰って来た。

どうもおそくなりまして、と言う。

原文を見る

どうもおそくなりましてと言う。

蚊帳の陰で何かしているうちに、がらんがらんという音がした。

原文を見る

蚊帳の影で何かしているうちに、がらんがらんという音がした。

子供へのおみやげのおもちゃが鳴ったに違いない。

原文を見る

子供にみやげの玩具が鳴ったに違いない。

女の人はやがて風呂敷包みをもとのとおりに結んだと見える。

原文を見る

女はやがて風呂敷包みをもとのとおりに結んだとみえる。

蚊帳の向こうで「お先へ」

原文を見る

蚊帳の向こうで「お先へ」

と言う声がした。

原文を見る

と言う声がした。

三四郎はただ「はあ」

原文を見る

三四郎はただ「はあ」

と答えたままで、敷居に腰をのせて、うちわを使っていた。

原文を見る

と答えたままで、敷居にしりを乗せて、団扇を使っていた。

いっそこのままで夜を明かしてしまおうかとも思った。

原文を見る

いっそこのままで夜を明かしてしまおうかとも思った。

けれども蚊がぶんぶん来る。

原文を見る

けれどもがぶんぶん来る。

外ではとても我慢しきれない。

原文を見る

外ではとてもしのぎきれない。

三四郎はついと立って、かばんの中から白い木綿のシャツとズボン下を出して、それを素はだに着けて、その上から紺の帯をしめた。

原文を見る

三四郎はついと立って、鞄の中から、キャラコのシャツとズボン下を出して、それを素肌すはだへ着けて、その上からこん兵児帯へこおびを締めた。

それからタオルを二本持ったまま、蚊帳の中へ入った。

原文を見る

それから西洋手拭タウエル二筋ふたすじ持ったまま蚊帳の中へはいった。

女の人は布団の向こうの隅で、まだうちわを動かしている。

原文を見る

女は蒲団の向こうのすみでまだ団扇を動かしている。

「失礼ですが、私は神経質で人の布団に寝るのがきらいだから……少しのみよけのくふうをやりますから、ごめんなさい」

原文を見る

「失礼ですが、私は癇症かんしょうでひとの蒲団に寝るのがいやだから……少しのみよけの工夫をやるから御免なさい」

三四郎はこんなことを言って、しいてあるシーツの余っている端を、女の人が寝ているほうへ向けてぐるぐる巻き出した。

原文を見る

三四郎はこんなことを言って、あらかじめ、敷いてある敷布シートの余っているはじを女の寝ている方へ向けてぐるぐる巻きだした。

そうして、布団の真ん中に白い長い仕切りをこしらえた。

原文を見る

そうして蒲団のまん中に白い長い仕切りをこしらえた。

女の人は向こうへ寝返りを打った。

原文を見る

女は向こうへ寝返りを打った。

三四郎はタオルを広げて、これを自分の側に二枚続きに長くしいて、その上に細長く寝た。

原文を見る

三四郎は西洋手拭を広げて、これを自分の領分に二枚続きに長く敷いて、その上に細長く寝た。

その晩は三四郎の手も足も、この幅のせまいタオルの外へは少しも出なかった。

原文を見る

その晩は三四郎の手も足もこの幅の狭い西洋手拭の外には一寸も出なかった。

女の人は一言も口をきかなかった。

原文を見る

女は一言ひとことも口をきかなかった。

女の人も壁を向いたまま、じっとして動かなかった。

原文を見る

女も壁を向いたままじっとして動かなかった。

夜はようやく明けた。

原文を見る

夜はようよう明けた。

顔を洗って食事の膳に向かった時、女の人はにこりと笑って、「昨夜はのみは出ませんでしたか」

原文を見る

顔を洗ってぜんに向かった時、女はにこりと笑って、「ゆうべは蚤は出ませんでしたか」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

三四郎は「ええ、ありがとう、おかげさまで」

原文を見る

三四郎は「ええ、ありがとう、おかげさまで」

というようなことをまじめに答えながら、下を向いて小皿の煮豆をしきりにつつき出した。

原文を見る

というようなことをまじめに答えながら、下を向いて、お猪口ちょく葡萄豆ぶどうまめをしきりに突っつきだした。

お金をはらって宿を出て、駅へ着いた時、女の人は初めて、関西線で四日市のほうへ行くのだということを三四郎に話した。

原文を見る

勘定かんじょうをして宿を出て、停車場ステーションへ着いた時、女ははじめて関西線で四日市よっかいちの方へ行くのだということを三四郎に話した。

三四郎の汽車はまもなく来た。

原文を見る

三四郎の汽車はまもなく来た。

時間の都合で、女の人は少し待つことになった。

原文を見る

時間のつごうで女は少し待ち合わせることとなった。

改札のきわまで送って来た女の人は、

原文を見る

改札場のきわまで送って来た女は、

「いろいろお世話になりまして、……ではごきげんよう」

原文を見る

「いろいろごやっかいになりまして、……ではごきげんよう」

とていねいにおじぎをした。

原文を見る

と丁寧にお辞儀をした。

三四郎はかばんとかさを片手に持ったまま、あいた手で例の古い帽子を取って、ただ一言、

原文を見る

三四郎は鞄と傘を片手に持ったまま、あいた手で例の古帽子を取って、ただ一言、

「さよなら」

原文を見る

「さよなら」

と言った。

原文を見る

と言った。

女の人はその顔をじっとながめていたが、やがて落ち着いた調子で、

原文を見る

女はその顔をじっとながめていた、が、やがておちついた調子で、

「あなたはよほど度胸のない方ですね」

原文を見る

「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」

と言って、にやりと笑った。

原文を見る

と言って、にやりと笑った。

三四郎はホームの上へはじき出されたような気持ちがした。

原文を見る

三四郎はプラットフォームの上へはじき出されたような心持ちがした。

車の中へ入ったら、両方の耳がいっそう熱くなり出した。

原文を見る

車の中へはいったら両方の耳がいっそうほてりだした。

しばらくは、じっと小さくなっていた。

原文を見る

しばらくはじっと小さくなっていた。

やがて車掌の鳴らす笛が、長い列車の端から端まで響きわたった。

原文を見る

やがて車掌の鳴らす口笛が長い列車の果から果まで響き渡った。

列車は動き出す。

原文を見る

列車は動きだす。

三四郎はそっと窓から首を出した。

原文を見る

三四郎はそっと窓から首を出した。

女の人は、とっくにどこかへ行ってしまった。

原文を見る

女はとくの昔にどこかへ行ってしまった。

大きな時計ばかりが目についた。

原文を見る

大きな時計ばかりが目についた。

三四郎はまたそっと自分の席に帰った。

原文を見る

三四郎はまたそっと自分の席に帰った。

乗り合わせた客はだいぶいる。

原文を見る

乗合いはだいぶいる。

けれども三四郎の様子に気をつけるような人は一人もいない。

原文を見る

けれども三四郎の挙動に注意するような者は一人もない。

ただ、ななめ向かいに座った男が、自分の席に帰る三四郎をちょっと見た。

原文を見る

ただ筋向こうにすわった男が、自分の席に帰る三四郎をちょっと見た。

三四郎はこの男に見られた時、なんとなくきまりが悪かった。

原文を見る

三四郎はこの男に見られた時、なんとなくきまりが悪かった。

本でも読んで気をまぎらそうと思って、かばんを開けてみると、昨夜のタオルが上のところにぎっしり詰まっている。

原文を見る

本でも読んで気をまぎらかそうと思って、鞄をあけてみると、昨夜の西洋手拭が、上のところにぎっしり詰まっている。

それをそばへかき寄せて、底のほうから、手にさわったものを何でもかまわず引き出すと、読んでもわからないベーコンの論文集が出た。

原文を見る

そいつをそばへかき寄せて、底のほうから、手にさわったやつをなんでもかまわず引き出すと、読んでもわからないベーコンの論文集が出た。

ベーコンには気の毒なくらい、うすっぺらで粗末なとじ方である。

原文を見る

ベーコンには気の毒なくらい薄っぺらな粗末な仮綴かりとじである。

もともと汽車の中で読むつもりもないものを、大きな荷物に入れそこなったから、片づけるついでに手さげかばんの底へ、ほかの二、三冊といっしょに放りこんでおいたのが、運悪く当たったのである。

原文を見る

元来汽車の中で読む了見もないものを、大きな行李に入れそくなったから、片づけるついでに提鞄さげかばんの底へ、ほかの二、三冊といっしょにほうり込んでおいたのが、運悪く当選したのである。

三四郎はベーコンの二十三ページを開いた。

原文を見る

三四郎はベーコンの二十三ページを開いた。

ほかの本でも読めそうにはない。

原文を見る

他の本でも読めそうにはない。

まして、ベーコンなどはもちろん読む気にならない。

原文を見る

ましてベーコンなどはむろん読む気にならない。

けれども三四郎は、うやうやしく二十三ページを開いて、まんべんなくページ全体を見回していた。

原文を見る

けれども三四郎はうやうやしく二十三ページを開いて、万遍まんべんなくページ全体を見回していた。

三四郎は二十三ページの前で、ひとまず昨夜のことを思い返す気である。

原文を見る

三四郎は二十三ページの前で一応昨夜のおさらいをする気である。

いったいあの人は何だろう。

原文を見る

元来あの女はなんだろう。

あんな人が世の中にいるものだろうか。

原文を見る

あんな女が世の中にいるものだろうか。

女の人というものは、ああ落ち着いて平気でいられるものだろうか。

原文を見る

女というものは、ああおちついて平気でいられるものだろうか。

教育を受けていないのだろうか、大胆なのだろうか。

原文を見る

無教育なのだろうか、大胆なのだろうか。

それとも無邪気なのだろうか。

原文を見る

それとも無邪気なのだろうか。

要するに、行けるところまで行ってみなかったから、見当がつかない。

原文を見る

要するにいけるところまでいってみなかったから、見当がつかない。

思い切って、もう少し行ってみるとよかった。

原文を見る

思いきってもう少しいってみるとよかった。

けれども恐ろしい。

原文を見る

けれども恐ろしい。

別れぎわに、あなたは度胸のない方だと言われた時にはびっくりした。

原文を見る

別れぎわにあなたは度胸のないかただと言われた時には、びっくりした。

二十三年の弱点が一度にばれたような気持ちであった。

原文を見る

二十三年の弱点が一度に露見したような心持ちであった。

親でも、ああうまく言い当てるものではない。――

原文を見る

親でもああうまく言いあてるものではない。――

三四郎はここまで来て、さらにしょげてしまった。

原文を見る

三四郎はここまで来て、さらにしょげてしまった。

どこのだれだかわからない人に、頭の上がらないくらいたたきのめされたような気がした。

原文を見る

どこの馬の骨だかわからない者に、頭の上がらないくらいどやされたような気がした。

ベーコンの二十三ページに対しても、たいへん申しわけないくらいに感じた。

原文を見る

ベーコンの二十三ページに対しても、はなはだ申し訳がないくらいに感じた。

どうも、ああうろたえてはだめだ。

原文を見る

どうも、ああ狼狽ろうばいしちゃだめだ。

学問も大学生もあったものじゃない。

原文を見る

学問も大学生もあったものじゃない。

ひどく人がらに関わってくる。

原文を見る

はなはだ人格に関係してくる。

もう少しやりようがあっただろう。

原文を見る

もう少しはしようがあったろう。

けれども相手がいつでもああ出るとすると、教育を受けた自分には、あれよりほかに受け止めようがないとも思われる。

原文を見る

けれども相手がいつでもああ出るとすると、教育を受けた自分には、あれよりほかに受けようがないとも思われる。

すると、むやみに女の人に近づいてはならないというわけになる。

原文を見る

するとむやみに女に近づいてはならないというわけになる。

なんだか意気地がない。

原文を見る

なんだか意気地いくじがない。

たいへん窮屈だ。

原文を見る

非常に窮屈だ。

まるで体の不自由な者にでも生まれたようなものである。

原文を見る

まるで不具かたわにでも生まれたようなものである。

けれども……

原文を見る

けれども……

三四郎は急に気を変えて、別の世界のことを思い出した。――

原文を見る

三四郎は急に気をかえて、別の世界のことを思い出した。――

これから東京に行く。

原文を見る

これから東京に行く。

大学に入る。

原文を見る

大学にはいる。

有名な学者に会う。

原文を見る

有名な学者に接触する。

趣味と人がらの備わった学生と付き合う。

原文を見る

趣味品性の備わった学生と交際する。

図書館で研究をする。

原文を見る

図書館で研究をする。

本を書く。

原文を見る

著作をやる。

世の中の人がほめてくれる。

原文を見る

世間で喝采かっさいする。

母がうれしがる。

原文を見る

母がうれしがる。

というような先のことをだらしなく考えて、大いに元気を取りもどしてみると、べつに二十三ページの中に顔をうずめている必要がなくなった。

原文を見る

というような未来をだらしなく考えて、大いに元気を回復してみると、べつに二十三ページのなかに顔を埋めている必要がなくなった。

そこで、ひょいと頭を上げた。

原文を見る

そこでひょいと頭を上げた。

すると、ななめ向かいにいたさっきの男が、また三四郎のほうを見ていた。

原文を見る

すると筋向こうにいたさっきの男がまた三四郎の方を見ていた。

今度は三四郎のほうでも、この男を見返した。

原文を見る

今度は三四郎のほうでもこの男を見返した。

ひげを濃くはやしている。

原文を見る

ひげを濃くはやしている。

細長い顔のやせた、どことなく神主(かんぬし)じみた男であった。

原文を見る

面長おもながのやせぎすの、どことなく神主かんぬしじみた男であった。

ただ鼻筋がまっすぐに通っているところだけが西洋らしい。

原文を見る

ただ鼻筋がまっすぐに通っているところだけが西洋らしい。

学校で教育を受けている三四郎は、こんな男を見るときっと先生にしてしまう。

原文を見る

学校教育を受けつつある三四郎は、こんな男を見るときっと教師にしてしまう。

男は白地のかすりの下に、ていねいに白いじゅばんを重ねて、紺の足袋(たび)をはいていた。

原文を見る

男は白地しろじかすりの下に、鄭重ていちょうに白い襦袢じゅばんを重ねて、紺足袋こんたびをはいていた。

この身なりから考えて、三四郎は相手を中学校の先生と見当をつけた。

原文を見る

この服装からおして、三四郎は先方を中学校の教師と鑑定した。

大きな未来を持っている自分から見ると、なんだかつまらなく感じられる。

原文を見る

大きな未来を控えている自分からみると、なんだかくだらなく感ぜられる。

男はもう四十だろう。

原文を見る

男はもう四十だろう。

これから先、もう伸びそうにもない。

原文を見る

これよりさきもう発展しそうにもない。

男はしきりにたばこを吸っている。

原文を見る

男はしきりに煙草たばこをふかしている。

長いけむりを鼻の穴から吹き出して、腕組みをしたところは、たいへんのんびりして見える。

原文を見る

長い煙を鼻の穴から吹き出して、腕組をしたところはたいへん悠長ゆうちょうにみえる。

そうかと思うと、やたらに便所か何かに立つ。

原文を見る

そうかと思うとむやみに便所か何かに立つ。

立つ時に、うんと伸びをすることがある。

原文を見る

立つ時にうんと伸びをすることがある。

いかにも退屈そうである。

原文を見る

さも退屈そうである。

となりに乗り合わせた人が、読み終わった新聞をそばに置くのに、借りてみる気も起こさない。

原文を見る

隣に乗り合わせた人が、新聞の読みがらをそばに置くのに借りてみる気も出さない。

三四郎は自然と妙な気になって、ベーコンの論文集を伏せてしまった。

原文を見る

三四郎はおのずから妙になって、ベーコンの論文集を伏せてしまった。

ほかの小説でも出して本気に読んでみようとも考えたが、面倒だからやめにした。

原文を見る

ほかの小説でも出して、本気に読んでみようとも考えたが、面倒だからやめにした。

それよりは、前にいる人の新聞を借りたくなった。

原文を見る

それよりは前にいる人の新聞を借りたくなった。

あいにく前の人はぐうぐう寝ている。

原文を見る

あいにく前の人はぐうぐう寝ている。

三四郎は手を伸ばして新聞に手をかけながら、わざと「空いていますか」

原文を見る

三四郎は手を延ばして新聞に手をかけながら、わざと「おあきですか」

と、ひげのある男に聞いた。

原文を見る

と髭のある男に聞いた。

男は平気な顔で「空いているでしょう。お読みなさい」

原文を見る

男は平気な顔で「あいてるでしょう。お読みなさい」

と言った。

原文を見る

と言った。

新聞を手に取った三四郎のほうが、かえって平気でなかった。

原文を見る

新聞を手に取った三四郎のほうはかえって平気でなかった。

開けてみると、新聞にはべつに見るほどのことも載っていない。

原文を見る

あけてみると新聞にはべつに見るほどの事ものっていない。

一、二分で読み通してしまった。

原文を見る

一、二分で通読してしまった。

きちんとたたんでもとの場所へ返しながら、ちょっと会釈すると、向こうでも軽くあいさつをして、

原文を見る

律義りちぎに畳んでもとの場所へ返しながら、ちょっと会釈えしゃくすると、向こうでも軽く挨拶をして、

「君は高等学校の生徒ですか」

原文を見る

「君は高等学校の生徒ですか」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

三四郎は、かぶっている古い帽子の記章のあとが、この男の目に映ったのをうれしく感じた。

原文を見る

三四郎は、かぶっている古帽子の徽章のあとが、この男の目に映ったのをうれしく感じた。

「ええ」

原文を見る

「ええ」

と答えた。

原文を見る

と答えた。

「東京の?」

原文を見る

「東京の?」

と聞き返された時、初めて、

原文を見る

と聞き返した時、はじめて、

「いえ、熊本です。……しかし……」

原文を見る

「いえ、熊本です。……しかし……」

と言ったなり黙ってしまった。

原文を見る

と言ったなり黙ってしまった。

大学生だと言いたかったけれども、言うほどの必要がないからと思って遠慮した。

原文を見る

大学生だと言いたかったけれども、言うほどの必要がないからと思って遠慮した。

相手も「はあ、そう」

原文を見る

相手も「はあ、そう」

と言ったなり、たばこを吸っている。

原文を見る

と言ったなり煙草を吹かしている。

なぜ熊本の生徒が今ごろ東京へ行くんだとも何とも聞いてくれない。

原文を見る

なぜ熊本の生徒が今ごろ東京へ行くんだともなんとも聞いてくれない。

熊本の生徒には興味がないらしい。

原文を見る

熊本の生徒には興味がないらしい。

この時、三四郎の前に寝ていた男が「うん、なるほど」

原文を見る

この時三四郎の前に寝ていた男が「うん、なるほど」

と言った。

原文を見る

と言った。

それでいて、たしかに寝ている。

原文を見る

それでいてたしかに寝ている。

ひとりごとでも何でもない。

原文を見る

ひとりごとでもなんでもない。

ひげのある人は三四郎を見て、にやにやと笑った。

原文を見る

髭のある人は三四郎を見てにやにやと笑った。

三四郎はそれをきっかけに、

原文を見る

三四郎はそれを機会しおに、

「あなたはどちらへ」

原文を見る

「あなたはどちらへ」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

「東京」

原文を見る

「東京」

とゆっくり言ったきりである。

原文を見る

とゆっくり言ったぎりである。

なんだか中学校の先生らしくなくなってきた。

原文を見る

なんだか中学校の先生らしくなくなってきた。

けれども三等の車両に乗っているくらいだから、たいしたものでないことは明らかである。

原文を見る

けれども三等へ乗っているくらいだからたいしたものでないことは明らかである。

三四郎はそれで話を切り上げた。

原文を見る

三四郎はそれで談話を切り上げた。

ひげのある男は腕組みをしたまま、時々下駄の前の歯で拍子を取って、床を鳴らしたりしている。

原文を見る

髭のある男は腕組をしたまま、時々下駄げたの前歯で、拍子ひょうしを取って、ゆかを鳴らしたりしている。

よほど退屈に見える。

原文を見る

よほど退屈にみえる。

しかしこの男の退屈は、話したがらない退屈である。

原文を見る

しかしこの男の退屈は話したがらない退屈である。

汽車が豊橋へ着いた時、寝ていた男がむっくり起きて、目をこすりながら降りて行った。

原文を見る

汽車が豊橋とよはしへ着いた時、寝ていた男がむっくり起きて目をこすりながら降りて行った。

よく、あんなに都合よく目をさますことができるものだと思った。

原文を見る

よくあんなにつごうよく目をさますことができるものだと思った。

ことによると寝ぼけて駅を間違えたんだろうと心配しながら窓から眺めていると、けっしてそうでない。

原文を見る

ことによると寝ぼけて停車場を間違えたんだろうと気づかいながら、窓からながめていると、けっしてそうでない。

無事に改札を通って、しっかりした人のように出て行った。

原文を見る

無事に改札場を通過して、正気しょうきの人間のように出て行った。

三四郎は安心して、席を向こう側へ移した。

原文を見る

三四郎は安心して席を向こう側へ移した。

これで、ひげのある人ととなり合わせになった。

原文を見る

これで髭のある人と隣り合わせになった。

ひげのある人は入れかわりに、窓から首を出して水蜜桃(すいみつとう。あまい桃)を買っている。

原文を見る

髭のある人は入れ代って、窓から首を出して、水蜜桃すいみつとうを買っている。

やがて二人の間に果物を置いて、

原文を見る

やがて二人のあいだに果物くだものを置いて、

「食べませんか」

原文を見る

「食べませんか」

と言った。

原文を見る

と言った。

三四郎はお礼を言って、一つ食べた。

原文を見る

三四郎は礼を言って、一つ食べた。

ひげのある人は好きと見えて、やたらに食べた。

原文を見る

髭のある人は好きとみえて、むやみに食べた。

三四郎に、もっと食べろと言う。

原文を見る

三四郎にもっと食べろと言う。

三四郎はまた一つ食べた。

原文を見る

三四郎はまた一つ食べた。

二人が桃を食べているうちに、だいぶ親しくなって、いろいろな話を始めた。

原文を見る

二人が水蜜桃を食べているうちにだいぶ親密になっていろいろな話を始めた。

その男の説によると、桃は果物のうちでいちばん仙人(せんにん)めいている。

原文を見る

その男の説によると、ももは果物のうちでいちばん仙人せんにんめいている。

なんだか、ばかみたいな味がする。

原文を見る

なんだか馬鹿ばかみたような味がする。

第一、種の格好が不器用だ。

原文を見る

第一核子たね恰好かっこうが無器用だ。

その上、穴だらけでたいへんおもしろくできあがっていると言う。

原文を見る

かつ穴だらけでたいへんおもしろくできあがっていると言う。

三四郎は初めて聞く説だが、ずいぶんつまらないことを言う人だと思った。

原文を見る

三四郎ははじめて聞く説だが、ずいぶんつまらないことを言う人だと思った。

次に、その男がこんなことを言い出した。

原文を見る

次にその男がこんなことを言いだした。

子規(しき。俳人の正岡子規)は果物がたいへん好きだった。

原文を見る

子規しきは果物がたいへん好きだった。

その上、いくらでも食べられる人だった。

原文を見る

かついくらでも食える男だった。

ある時、大きなたる柿を十六個食べたことがある。

原文を見る

ある時大きな樽柿たるがきを十六食ったことがある。

それで何ともなかった。

原文を見る

それでなんともなかった。

自分などは、とても子規のまねはできない。――

原文を見る

自分などはとても子規のまねはできない。――

三四郎は笑って聞いていた。

原文を見る

三四郎は笑って聞いていた。

けれども子規の話だけには興味があるような気がした。

原文を見る

けれども子規の話だけには興味があるような気がした。

もう少し子規のことでも話そうかと思っていると、

原文を見る

もう少し子規のことでも話そうかと思っていると、

「どうも好きなものには自然と手が出るものでね。しかたがない。豚などは手が出ないかわりに鼻が出る。豚をね、しばって動けないようにしておいて、その鼻の先へごちそうを並べて置くと、動けないものだから鼻の先がだんだん伸びてくるそうだ。ごちそうに届くまでは伸びるそうです。どうも、思いこみほど恐ろしいものはない」

原文を見る

「どうも好きなものにはしぜんと手が出るものでね。しかたがない。ぶたなどは手が出ない代りに鼻が出る。豚をね、縛って動けないようにしておいて、その鼻の先へ、ごちそうを並べて置くと、動けないものだから、鼻の先がだんだん延びてくるそうだ。ごちそうに届くまでは延びるそうです。どうも一念ほど恐ろしいものはない」

と言って、にやにや笑っている。

原文を見る

と言って、にやにや笑っている。

まじめだか冗談だか、はっきり区別しにくいような話し方である。

原文を見る

まじめだか冗談だか、判然と区別しにくいような話し方である。

「まあ、お互いに豚でなくてしあわせだ。そう、ほしいもののほうへむやみに鼻が伸びて行ったら、今ごろは汽車にも乗れないくらい長くなって困るに違いない」

原文を見る

「まあお互に豚でなくってしあわせだ。そうほしいものの方へむやみに鼻が延びていったら、今ごろは汽車にも乗れないくらい長くなって困るに違いない」

三四郎は吹き出した。

原文を見る

三四郎は吹き出した。

けれども相手は思いのほか静かである。

原文を見る

けれども相手は存外静かである。

「実際あぶない。レオナルド・ダ・ヴィンチという人は、桃のみきにひ石(せき。毒のある石)を注射してね、その実にも毒が回るものだろうか、どうだろうかという実験をしたことがある。ところが、その桃を食べて死んだ人がある。あぶない。気をつけないとあぶない」

原文を見る

「じっさいあぶない。レオナルド・ダ・ヴィンチという人は桃の幹に砒石ひせきを注射してね、その実へも毒が回るものだろうか、どうだろうかという試験をしたことがある。ところがその桃を食って死んだ人がある。あぶない。気をつけないとあぶない」

と言いながら、さんざん食い散らした桃の種や皮を、一まとめに新聞にくるんで窓の外へ投げ出した。

原文を見る

と言いながら、さんざん食い散らした水蜜桃の核子たねやら皮やらを、ひとまとめに新聞にくるんで、窓の外へなげ出した。

今度は三四郎も笑う気が起こらなかった。

原文を見る

今度は三四郎も笑う気が起こらなかった。

レオナルド・ダ・ヴィンチという名を聞いて少し困った上に、なんだか昨夜の女の人のことを考え出して、みょうに不愉快になったから、つつしんで黙ってしまった。

原文を見る

レオナルド・ダ・ヴィンチという名を聞いて少しく辟易へきえきしたうえに、なんだかゆうべの女のことを考え出して、妙に不愉快になったから、謹んで黙ってしまった。

けれども相手は、そんなことにはまるで気がつかないらしい。

原文を見る

けれども相手はそんなことにいっこう気がつかないらしい。

やがて、

原文を見る

やがて、

「東京はどこへ」

原文を見る

「東京はどこへ」

と聞き出した。

原文を見る

と聞きだした。

「じつは初めてで様子がよくわからないのですが……さしあたり、ふるさとの人が集まる寄宿舎へでも行こうかと思っています」

原文を見る

「じつははじめてで様子がよくわからんのですが……さしあたり国の寄宿舎へでも行こうかと思っています」

と言う。

原文を見る

と言う。

「じゃ熊本はもう……」

原文を見る

「じゃ熊本はもう……」

「今度卒業したのです」

原文を見る

「今度卒業したのです」

「はあ、そりゃ」

原文を見る

「はあ、そりゃ」

と言ったが、おめでとうともけっこうだとも付け加えなかった。

原文を見る

と言ったがおめでたいとも結構だともつけなかった。

ただ「すると、これから大学へ入るのですね」

原文を見る

ただ「するとこれから大学へはいるのですね」

と、いかにも当たり前のことのように聞いた。

原文を見る

といかにも平凡であるかのごとく聞いた。

三四郎は少し物足りなかった。

原文を見る

三四郎はいささか物足りなかった。

そのかわり、

原文を見る

その代り、

「ええ」

原文を見る

「ええ」

という二字であいさつを片づけた。

原文を見る

という二字で挨拶を片づけた。

「学科は?」

原文を見る

「科は?」

と、また聞かれる。

原文を見る

とまた聞かれる。

「一部です」

原文を見る

「一部です」

「法科ですか」

原文を見る

「法科ですか」

「いいえ、文科です」

原文を見る

「いいえ文科です」

「はあ、そりゃ」

原文を見る

「はあ、そりゃ」

と、また言った。

原文を見る

とまた言った。

三四郎は、この「はあ、そりゃ」を聞くたびにみょうな気になる。

原文を見る

三四郎はこのはあ、そりゃを聞くたびに妙になる。

向こうが大いに偉いか、大いに人を見下しているか、そうでなければ、大学にまったく縁もゆかりもない男に違いない。

原文を見る

向こうが大いに偉いか、大いに人を踏み倒しているか、そうでなければ大学にまったく縁故も同情もない男に違いない。

しかし、そのうちのどれだか見当がつかないので、この男に対する態度もきわめてあいまいであった。

原文を見る

しかしそのうちのどっちだか見当がつかないので、この男に対する態度もきわめて不明瞭であった。

浜松で二人とも、申し合わせたように弁当を食べた。

原文を見る

浜松で二人とも申し合わせたように弁当を食った。

食べてしまっても、汽車はなかなか出ない。

原文を見る

食ってしまっても汽車は容易に出ない。

窓から見ると、西洋人が四、五人、列車の前を行ったり来たりしている。

原文を見る

窓から見ると、西洋人が四、五人列車の前を行ったり来たりしている。

そのうちの一組は夫婦と見えて、暑いのに手を組み合わせている。

原文を見る

そのうちの一組は夫婦とみえて、暑いのに手を組み合わせている。

女の人は上も下もまっ白な着物で、たいへん美しい。

原文を見る

女は上下うえしたともまっ白な着物で、たいへん美しい。

三四郎は生まれてから今日まで、西洋人というものを五、六人しか見たことがない。

原文を見る

三四郎は生まれてから今日に至るまで西洋人というものを五、六人しか見たことがない。

そのうちの二人は熊本の高等学校の先生で、その二人のうちの一人は、運悪く背中の曲がった人であった。

原文を見る

そのうちの二人は熊本の高等学校の教師で、その二人のうちの一人は運悪くせむしであった。

女の人では、宣教師(せんきょうし。キリスト教を広める人)を一人知っている。

原文を見る

女では宣教師を一人知っている。

ずいぶんとがった顔で、きすやかますという魚に似ていた。

原文を見る

ずいぶんとんがった顔で、きすまたはかますに類していた。

だから、こういうはなやかできれいな西洋人は珍しいばかりではない。

原文を見る

だから、こういう派手はでなきれいな西洋人は珍しいばかりではない。

とても上等に見える。

原文を見る

すこぶる上等に見える。

三四郎は一生けんめいに見とれていた。

原文を見る

三四郎は一生懸命にみとれていた。

これでは、いばるのももっともだと思った。

原文を見る

これではいばるのももっともだと思った。

自分が西洋へ行って、こんな人の中に入ったら、さぞ肩身のせまいことだろうとまで考えた。

原文を見る

自分が西洋へ行って、こんな人のなかにはいったらさだめし肩身の狭いことだろうとまで考えた。

窓の前を通る時、二人の話を熱心に聞いてみたが、ちっともわからない。

原文を見る

窓の前を通る時二人の話を熱心に聞いてみたがちっともわからない。

熊本の先生とは、まるで発音が違うようだった。

原文を見る

熊本の教師とはまるで発音が違うようだった。

そこへ例の男が首を後ろから出して、

原文を見る

ところへ例の男が首を後から出して、

「まだ出そうもないのですかね」

原文を見る

「まだ出そうもないのですかね」

と言いながら、今通り過ぎた西洋の夫婦をちょいと見て、

原文を見る

と言いながら、今行き過ぎた西洋の夫婦をちょいと見て、

「ああ美しい」

原文を見る

「ああ美しい」

と小声で言って、すぐに大きなあくびをした。

原文を見る

と小声に言って、すぐに生欠伸なまあくびをした。

三四郎は自分がいかにも田舎者らしいのに気がついて、さっそく首を引っこめて座った。

原文を見る

三四郎は自分がいかにもいなか者らしいのに気がついて、さっそく首を引き込めて、着座した。

男も続いて席にもどった。

原文を見る

男もつづいて席に返った。

そうして、

原文を見る

そうして、

「どうも西洋人は美しいですね」

原文を見る

「どうも西洋人は美しいですね」

と言った。

原文を見る

と言った。

三四郎はとくに言うこともないので、ただ、はあと受けて笑っていた。

原文を見る

三四郎はべつだんの答も出ないのでただはあと受けて笑っていた。

すると、ひげの男は、

原文を見る

すると髭の男は、

「お互いは哀れだなあ」

原文を見る

「お互いは哀れだなあ」

と言い出した。

原文を見る

と言い出した。

「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って一等国になってもだめですね。もっとも、建物を見ても庭園を見ても、どれも顔にふさわしいところだが、――あなたは東京が初めてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。そのうち見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところが、その富士山は昔から自然にあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」

原文を見る

「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一にほんいちの名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」

と言って、またにやにや笑っている。

原文を見る

と言ってまたにやにや笑っている。

三四郎は日露戦争のあとで、こんな人に出会うとは思いもよらなかった。

原文を見る

三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。

どうも日本人じゃないような気がする。

原文を見る

どうも日本人じゃないような気がする。

「しかし、これからは日本もだんだん発展するでしょう」

原文を見る

「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」

と、かばうように言った。

原文を見る

と弁護した。

すると、その男はすました顔で、

原文を見る

すると、かの男は、すましたもので、

「ほろびるね」

原文を見る

「滅びるね」

と言った。――

原文を見る

と言った。――

熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。

原文を見る

熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。

悪くすると、国を裏切る者のようにあつかわれる。

原文を見る

悪くすると国賊取り扱いにされる。

三四郎は頭の中のどこの隅にも、こういう考えを入れる余地はないような空気の中で育った。

原文を見る

三四郎は頭の中のどこのすみにもこういう思想を入れる余裕はないような空気のうちで生長した。

だから、ことによると自分の年の若いのにつけこんで、人をばかにしているのではなかろうかとも考えた。

原文を見る

だからことによると自分の年の若いのに乗じて、ひとを愚弄ぐろうするのではなかろうかとも考えた。

男はいつものように、にやにや笑っている。

原文を見る

男は例のごとく、にやにや笑っている。

そのくせ、言葉つきはどこまでも落ち着いている。

原文を見る

そのくせ言葉ことばつきはどこまでもおちついている。

どうも見当がつかないから、相手になるのをやめて黙ってしまった。

原文を見る

どうも見当がつかないから、相手になるのをやめて黙ってしまった。

すると男が、こう言った。

原文を見る

すると男が、こう言った。

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」

原文を見る

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」

でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。

原文を見る

でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。

「日本より頭の中のほうが広いでしょう」

原文を見る

「日本より頭の中のほうが広いでしょう」

と言った。

原文を見る

と言った。

「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって、味方したつもりで足を引っぱるばかりだ」

原文を見る

「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓ひいきの引き倒しになるばかりだ」

この言葉を聞いた時、三四郎は本当に熊本を出たような気持ちがした。

原文を見る

この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。

同時に、熊本にいた時の自分はとても臆病であったと気がついた。

原文を見る

同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯ひきょうであったと悟った。

その晩、三四郎は東京に着いた。

原文を見る

その晩三四郎は東京に着いた。

ひげの男は別れる時まで名前を言わなかった。

原文を見る

髭の男は別れる時まで名前を明かさなかった。

三四郎は東京へ着きさえすれば、このくらいの男はどこにでもいるものと信じて、べつに名前をたずねようともしなかった。

原文を見る

三四郎は東京へ着きさえすれば、このくらいの男は到るところにいるものと信じて、べつに姓名を尋ねようともしなかった。

原文を見る

三四郎が東京で驚いたものはたくさんある。

原文を見る

三四郎が東京で驚いたものはたくさんある。

第一に、電車がちんちん鳴るので驚いた。

原文を見る

第一電車のちんちん鳴るので驚いた。

それから、そのちんちん鳴る間に、たいへん多くの人が乗ったり降りたりするので驚いた。

原文を見る

それからそのちんちん鳴るあいだに、非常に多くの人間が乗ったり降りたりするので驚いた。

次に丸の内で驚いた。

原文を見る

次に丸の内で驚いた。

いちばん驚いたのは、どこまで行っても東京がなくならないということであった。

原文を見る

もっとも驚いたのは、どこまで行っても東京がなくならないということであった。

しかも、どこをどう歩いても、材木が放り出してある、石が積んである、新しい家が通りから四、五メートル引っこんでいる、古い蔵が半分こわされて心細く前のほうに残っている。

原文を見る

しかもどこをどう歩いても、材木がほうり出してある、石が積んである、新しい家が往来から二、三間引っ込んでいる、古い蔵が半分とりくずされて心細く前の方に残っている。

すべての物がこわされつつあるように見える。

原文を見る

すべての物が破壊されつつあるようにみえる。

そうして、すべての物がまた同時に建てられつつあるように見える。

原文を見る

そうしてすべての物がまた同時に建設されつつあるようにみえる。

たいへんな動き方である。

原文を見る

たいへんな動き方である。

三四郎はまったく驚いた。

原文を見る

三四郎はまったく驚いた。

要するに、ふつうの田舎者が初めて都の真ん中に立って驚くのと同じくらい、また同じ感じで大いに驚いてしまった。

原文を見る

要するに普通のいなか者がはじめて都のまん中に立って驚くと同じ程度に、また同じ性質において大いに驚いてしまった。

今までの学問は、この驚きを防ぐ上で、売り薬ほどのききめもなかった。

原文を見る

今までの学問はこの驚きを予防するうえにおいて、売薬ほどの効能もなかった。

三四郎の自信は、この驚きとともに四割ほど減ってしまった。

原文を見る

三四郎の自信はこの驚きとともに四割がた減却した。

不愉快でたまらない。

原文を見る

不愉快でたまらない。

この激しい動きそのものが、つまり本当の世の中だとすると、自分の今日までの生活は、本当の世の中に少しも触れていないことになる。

原文を見る

この劇烈な活動そのものがとりもなおさず現実世界だとすると、自分が今日までの生活は現実世界にごうも接触していないことになる。

洞ヶ峠(ほらがとうげ)で昼寝をしていたのと同じである。

原文を見る

ほらとうげで昼寝をしたと同然である。

それでは今日かぎり昼寝をやめて、動きの分け前が払えるかというと、それは難しい。

原文を見る

それではきょうかぎり昼寝をやめて、活動の割り前が払えるかというと、それは困難である。

自分は今、動きの中心に立っている。

原文を見る

自分は今活動の中心に立っている。

けれども自分は、ただ自分の左右前後に起こる動きを見なければならない位置に置きかえられたというだけで、学生としての生活は前と変わるわけがない。

原文を見る

けれども自分はただ自分の左右前後に起こる活動を見なければならない地位に置きかえられたというまでで、学生としての生活は以前と変るわけはない。

世界はこのようにゆれ動く。

原文を見る

世界はかように動揺する。

自分はこのゆれ動くのを見ている。

原文を見る

自分はこの動揺を見ている。

けれども、それに加わることはできない。

原文を見る

けれどもそれに加わることはできない。

自分の世界と本当の世の中は、一つの平面に並んでいながら、どこも接していない。

原文を見る

自分の世界と現実の世界は、一つ平面に並んでおりながら、どこも接触していない。

そうして本当の世の中は、このようにゆれ動いて、自分を置き去りにして行ってしまう。

原文を見る

そうして現実の世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。

たいへん不安である。

原文を見る

はなはだ不安である。

三四郎は東京の真ん中に立って、電車と、汽車と、白い着物を着た人と、黒い着物を着た人との動きを見て、こう感じた。

原文を見る

三四郎は東京のまん中に立って電車と、汽車と、白い着物を着た人と、黒い着物を着た人との活動を見て、こう感じた。

けれども、学生生活の裏に横たわる考えの世界の動きには、少しも気がつかなかった。――

原文を見る

けれども学生生活の裏面に横たわる思想界の活動にはごうも気がつかなかった。――

明治の思想は、西洋の歴史に現れた三百年の動きを四十年で繰り返している。

原文を見る

明治の思想は西洋の歴史にあらわれた三百年の活動を四十年で繰り返している。

三四郎が動く東京の真ん中に閉じこめられて、一人でふさぎこんでいるうちに、ふるさとの母から手紙が来た。

原文を見る

三四郎が動く東京のまん中に閉じ込められて、一人ひとりでふさぎこんでいるうちに、国元の母から手紙が来た。

東京で受け取った最初のものである。

原文を見る

東京で受け取った最初のものである。

見るといろいろ書いてある。

原文を見る

見るといろいろ書いてある。

まず今年は豊作でめでたいというところから始まって、体を大事にしなくてはいけないという注意があって、東京の者はみんな利口で人が悪いから用心しろと書いて、学費は毎月月末に届くようにするから安心しろとあって、勝田の政さんのいとこに当たる人が大学を卒業して理科大学とかに出ているそうだから、訪ねて行って何ごともよろしく頼むがいい、で結んである。

原文を見る

まず今年ことしは豊作でめでたいというところから始まって、からだを大事にしなくってはいけないという注意があって、東京の者はみんな利口で人が悪いから用心しろと書いて、学資は毎月月末に届くようにするから安心しろとあって、勝田かつたまささんの従弟いとこに当る人が大学校を卒業して、理科大学とかに出ているそうだから、尋ねて行って、万事よろしく頼むがいいで結んである。

肝心の名前を忘れたと見えて、余白のようなところに野々宮宗八どのと書いてあった。

原文を見る

肝心かんじんの名前を忘れたとみえて、欄外というようなところに野々宮宗八ののみやそうはちどのと書いてあった。

この余白には、そのほか二、三件ある。

原文を見る

この欄外にはそのほか二、三件ある。

作の青馬が急な病気で死んだので、作は大弱りである。

原文を見る

さく青馬あおが急病で死んだんで、作は大弱りである。

三輪田のお光さんがあゆをくれたけれども、東京へ送ると途中でくさってしまうから、家じゅうで食べてしまった、などである。

原文を見る

三輪田みわたのおみつさんがあゆをくれたけれども、東京へ送ると途中で腐ってしまうから、家内うちで食べてしまった、等である。

三四郎はこの手紙を見て、なんだか古ぼけた昔から届いたような気がした。

原文を見る

三四郎はこの手紙を見て、なんだか古ぼけた昔から届いたような気がした。

母にはすまないが、こんなものを読んでいる暇はないとまで考えた。

原文を見る

母にはすまないが、こんなものを読んでいる暇はないとまで考えた。

それにもかかわらず、繰り返して二度読んだ。

原文を見る

それにもかかわらず繰り返して二へん読んだ。

要するに、自分がもし本当の世の中と接しているならば、今のところ母よりほかにないのだろう。

原文を見る

要するに自分がもし現実世界と接触しているならば、今のところ母よりほかにないのだろう。

その母は古い人で、古い田舎にいる。

原文を見る

その母は古い人で古いいなかにおる。

そのほかには、汽車の中で乗り合わせた女の人がいる。

原文を見る

そのほかには汽車の中で乗り合わした女がいる。

あれは本当の世の中のいなずまである。

原文を見る

あれは現実世界の稲妻いなずまである。

接したと言うには、あまりに短くて、しかもあまりに鋭すぎた。――

原文を見る

接触したというには、あまりに短くってかつあまりに鋭すぎた。――

三四郎は母の言いつけどおり、野々宮宗八を訪ねることにした。

原文を見る

三四郎は母の言いつけどおり野々宮宗八を尋ねることにした。

翌日はいつもよりも暑い日であった。

原文を見る

あくる日は平生よりも暑い日であった。

休みの間だから理科大学を訪ねても野々宮君はいないだろうと思ったが、母が住所を知らせてこないから、聞き合わせがてら行ってみようという気になって、午後四時ごろ、高等学校の横を通って弥生町の門から入った。

原文を見る

休暇中だから理科大学を尋ねても野々宮君はおるまいと思ったが、母が宿所を知らせてこないから、聞き合わせかたがた行ってみようという気になって、午後四時ごろ、高等学校の横を通って弥生町やよいちょうの門からはいった。

通りはほこりが五、六センチも積もっていて、その上に下駄の歯や、靴の底や、わらじの裏がきれいに写っている。

原文を見る

往来はほこりが二寸も積もっていて、その上に下駄げたの歯や、くつの底や、草鞋わらじの裏がきれいにできあがってる。

車輪と自転車のあとは、何本あるかわからない。

原文を見る

車の輪と自転車のあとは幾筋だかわからない。

むっとするほどたまらない道だったが、大学の中へ入ると、さすがに木が多いだけに気分がすっきりした。

原文を見る

むっとするほどたまらない道だったが、構内へはいるとさすがに木の多いだけに気分がせいせいした。

手前の戸を当たってみたら、かぎがかかっている。

原文を見る

とっつきの戸をあたってみたら錠が下りている。

裏へ回ってもだめであった。

原文を見る

裏へ回ってもだめであった。

しまいに横へ出た。

原文を見る

しまいに横へ出た。

念のためと思って押してみたら、うまい具合に開いた。

原文を見る

念のためと思って押してみたら、うまいぐあいにあいた。

廊下の四つ角に、小使いさんが一人、居眠りをしていた。

原文を見る

廊下の四つ角に小使が一人居眠りをしていた。

用件を伝えると、しばらくの間は目をさますために上野の森を眺めていたが、突然「おいでかも知れません」

原文を見る

来意を通じると、しばらくのあいだは、正気を回復するために、上野うえのの森をながめていたが、突然「おいでかもしれません」

と言って奥へ入って行った。

原文を見る

と言って奥へはいって行った。

とても静かである。

原文を見る

すこぶる閑静である。

やがてまた出て来た。

原文を見る

やがてまた出て来た。

「おいでですよ。お入りなさい」

原文を見る

「おいででやす。おはいんなさい」

と友だちのように言う。

原文を見る

と友だちみたように言う。

小使いさんについて行くと、四つ角を曲がって、コンクリートの廊下を下へ降りた。

原文を見る

小使にくっついて行くと四つ角を曲がって和土たたきの廊下を下へ降りた。

世界が急に暗くなる。

原文を見る

世界が急に暗くなる。

暑い日ざしで目がくらんだ時のようであったが、しばらくすると瞳がようやく落ち着いて、あたりが見えるようになった。

原文を見る

炎天で目がくらんだ時のようであったがしばらくするとひとみがようやくおちついて、あたりが見えるようになった。

地下だから、わりあいに涼しい。

原文を見る

穴倉だから比較的涼しい。

左のほうに戸があって、その戸が開け放してある。

原文を見る

左の方に戸があって、その戸があけ放してある。

そこから顔が出た。

原文を見る

そこから顔が出た。

ひたいの広い、目の大きな、仏教に縁のある顔つきである。

原文を見る

額の広い目の大きな仏教に縁のあるそうである。

縮みのシャツの上に背広を着ているが、背広はところどころにしみがある。

原文を見る

縮みのシャツの上へ背広を着ているが、背広はところどころにしみがある。

背はとても高い。

原文を見る

背はすこぶる高い。

やせているところが暑さに合っている。

原文を見る

やせているところが暑さに釣り合っている。

頭と背中を一直線に前のほうへ伸ばしておじぎをした。

原文を見る

頭と背中を一直線に前の方へ延ばしてお辞儀をした。

「こっちへ」

原文を見る

「こっちへ」

と言ったまま、顔を部屋の中へ入れてしまった。

原文を見る

と言ったまま、顔を部屋へやの中へ入れてしまった。

三四郎は戸の前まで来て、部屋の中をのぞいた。

原文を見る

三四郎は戸の前まで来て部屋の中をのぞいた。

すると野々宮君は、もう椅子に腰かけている。

原文を見る

すると野々宮君はもう椅子いすへ腰をかけている。

もう一度「こっちへ」

原文を見る

もう一ぺん「こっちへ」

と言った。

原文を見る

と言った。

こっちへと言うところに台がある。

原文を見る

こっちへと言うところに台がある。

四角な棒を四本立てて、その上を板でおおったものである。

原文を見る

四角な棒を四本立てて、その上を板で張ったものである。

三四郎は台の上に腰かけて、初めて会うあいさつをする。

原文を見る

三四郎は台の上へ腰をかけて初対面の挨拶をする。

それから、どうぞよろしくお願いしますと言った。

原文を見る

それからなにぶんよろしく願いますと言った。

野々宮君はただ、はあ、はあと言って聞いている。

原文を見る

野々宮君はただはあ、はあと言って聞いている。

その様子が、いくらか汽車の中で桃を食べた男に似ている。

原文を見る

その様子がいくぶんか汽車の中で水蜜桃すいみつとうを食った男に似ている。

ひととおりあいさつを述べた三四郎は、もう何も言うことがなくなってしまった。

原文を見る

ひととおり口上こうじょうを述べた三四郎はもう何も言う事がなくなってしまった。

野々宮君も、はあ、はあと言わなくなった。

原文を見る

野々宮君もはあ、はあ言わなくなった。

部屋の中を見回すと、真ん中に大きな長いかしのテーブルが置いてある。

原文を見る

部屋の中を見回すとまん中に大きな長いかしのテーブルが置いてある。

その上には、なんだか込み入った、太い針金だらけの器械がのっていて、そのわきに大きなガラスの鉢に水が入れてある。

原文を見る

その上にはなんだかこみいった、太い針金だらけの器械が乗っかって、そのわきに大きなガラスのはちに水が入れてある。

そのほかに、やすりとナイフとネクタイが一つ落ちている。

原文を見る

そのほかにやすりとナイフとえり飾りが一つ落ちている。

最後に向こうの隅を見ると、一メートルくらいの花こう岩の台の上に、福神漬けの缶ほどの複雑な器械がのせてある。

原文を見る

最後に向こうのすみを見ると、三尺ぐらいの花崗石みかげいしの台の上に、福神漬ふくじんづけかんほどな複雑な器械が乗せてある。

三四郎は、この缶の横腹に開いている二つの穴に目をつけた。

原文を見る

三四郎はこの缶の横っ腹にあいている二つの穴に目をつけた。

穴が大蛇の目玉のように光っている。

原文を見る

穴が蟒蛇うわばみの目玉のように光っている。

野々宮君は笑いながら、光るでしょうと言った。

原文を見る

野々宮君は笑いながら光るでしょうと言った。

そうして、こういう説明をしてくれた。

原文を見る

そうして、こういう説明をしてくれた。

「昼間のうちにあんな準備をしておいて、夜になって、人や車の動きがおさまるころに、この静かな暗い地下で、望遠鏡の中からあの目玉のようなものをのぞくのです。そうして、光がおす力を調べる。今年の正月ごろからとりかかったが、しかけがなかなか面倒なので、まだ思うような結果が出て来ません。夏はわりあいに我慢できるが、寒い夜になるとたいへん耐えにくい。外とうを着て、えりまきをしても冷たくてやりきれない。……」

原文を見る

「昼間のうちに、あんな準備したくをしておいて、夜になって、交通その他の活動が鈍くなるころに、この静かな暗い穴倉で、望遠鏡の中から、あの目玉のようなものをのぞくのです。そうして光線の圧力を試験する。今年の正月ごろからとりかかったが、装置がなかなかめんどうなのでまだ思うような結果が出てきません。夏は比較的こらえやすいが、寒夜になると、たいへんしのぎにくい。外套がいとうを着て襟巻をしても冷たくてやりきれない。……」

三四郎は大いに驚いた。

原文を見る

三四郎は大いに驚いた。

驚くとともに、光にどんなおす力があって、その力が何の役に立つのだか、まったくのみこめなかった。

原文を見る

驚くとともに光線にどんな圧力があって、その圧力がどんな役に立つんだか、まったく要領を得るに苦しんだ。

その時、野々宮君は三四郎に、「のぞいて御覧なさい」

原文を見る

その時野々宮君は三四郎に、「のぞいてごらんなさい」

と勧めた。

原文を見る

と勧めた。

三四郎はおもしろ半分、石の台の四、五メートル手前にある望遠鏡のそばへ行って右の目を当てたが、何にも見えない。

原文を見る

三四郎はおもしろ半分、石の台の二、三間手前にある望遠鏡のそばへ行って右の目をあてがったが、なんにも見えない。

野々宮君は「どうです、見えますか」

原文を見る

野々宮君は「どうです、見えますか」

と聞く。

原文を見る

と聞く。

「まるで見えません」

原文を見る

「いっこう見えません」

と答えると、「うん、まだふたを取っていなかった」

原文を見る

と答えると、「うんまだふたが取らずにあった」

と言いながら、椅子を立って望遠鏡の先にかぶせてあるものを取ってくれた。

原文を見る

と言いながら、椅子を立って望遠鏡の先にかぶせてあるものをけてくれた。

見ると、ただ形のぼんやりした明るい中に、物差しの目もりがある。

原文を見る

見ると、ただ輪郭のぼんやりした明るいなかに、物差しの度盛りがある。

下に2の字が出た。

原文を見る

下に2の字が出た。

野々宮君がまた「どうです」

原文を見る

野々宮君がまた「どうです」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

「2の字が見えます」

原文を見る

「2の字が見えます」

と言うと、「今に動きます」

原文を見る

と言うと、「いまに動きます」

と言いながら、向こうへ回って何かしているようであった。

原文を見る

と言いながら向こうへ回って何かしているようであった。

やがて目もりが明るい中で動き出した。

原文を見る

やがて度盛りが明るいなかで動きだした。

2が消えた。

原文を見る

2が消えた。

あとから3が出る。

原文を見る

あとから3が出る。

そのあとから4が出る。

原文を見る

そのあとから4が出る。

5が出る。

原文を見る

5が出る。

とうとう10まで出た。

原文を見る

とうとう10まで出た。

すると目もりが、また逆に動き出した。

原文を見る

すると度盛りがまた逆に動きだした。

10が消え、9が消え、8から7、7から6と順々に1まで来て止まった。

原文を見る

10が消え、9が消え、8から7、7から6と順々に1まで来てとまった。

野々宮君はまた「どうです」

原文を見る

野々宮君はまた「どうです」

と言う。

原文を見る

と言う。

三四郎は驚いて、望遠鏡から目をはなしてしまった。

原文を見る

三四郎は驚いて、望遠鏡から目を放してしまった。

目もりの意味を聞く気にもならない。

原文を見る

度盛りの意味を聞く気にもならない。

ていねいにお礼を述べて地下を上がって、人の通るところへ出てみると、世の中はまだかんかん照っている。

原文を見る

丁寧に礼を述べて穴倉を上がって、人の通る所へ出て見ると世の中はまだかんかんしている。

暑いけれども、深く息をした。

原文を見る

暑いけれども深い息をした。

西のほうへかたむいた日がななめに広い坂を照らして、坂の上の両側にある工科の建物のガラス窓が燃えるように輝いている。

原文を見る

西の方へ傾いた日が斜めに広い坂を照らして、坂の上の両側にある工科の建築のガラス窓が燃えるように輝いている。

空は深く澄んで、澄んだ中に、西の果てから焼ける火のほのおが薄赤く吹き返して来て、三四郎の頭の上まで熱くなっているように思われた。

原文を見る

空は深く澄んで、澄んだなかに、西の果から焼ける火の炎が、薄赤く吹き返してきて、三四郎の頭の上までほてっているように思われた。

横から照りつける日を半分背中に受けて、三四郎は左の森の中へ入った。

原文を見る

横に照りつける日を半分背中に受けて、三四郎は左の森の中へはいった。

その森も同じ夕日を半分背中に受けている。

原文を見る

その森も同じ夕日を半分背中に受けている。

黒ずんだ青い葉と葉の間は、染めたように赤い。

原文を見る

黒ずんだ青い葉と葉のあいだは染めたように赤い。

太いけやきのみきで、ひぐらしが鳴いている。

原文を見る

太いけやきの幹で日暮らしが鳴いている。

三四郎は池のそばへ来てしゃがんだ。

原文を見る

三四郎は池のそばへ来てしゃがんだ。

とても静かである。

原文を見る

非常に静かである。

電車の音もしない。

原文を見る

電車の音もしない。

赤門の前を通るはずの電車は、大学が反対したので小石川を回ることになったと、ふるさとにいたころ新聞で見たことがある。

原文を見る

赤門あかもんの前を通るはずの電車は、大学の抗議で小石川こいしかわを回ることになったと国にいる時分新聞で見たことがある。

三四郎は池のはたにしゃがみながら、ふと、この出来事を思い出した。

原文を見る

三四郎は池のはたにしゃがみながら、ふとこの事件を思い出した。

電車さえ通さないという大学は、よほど世の中とはなれている。

原文を見る

電車さえ通さないという大学はよほど社会と離れている。

たまたま、その中に入ってみると、地下で半年余りも光のおす力を調べている野々宮君のような人もいる。

原文を見る

たまたまその中にはいってみると、穴倉の下で半年余りも光線の圧力の試験をしている野々宮君のような人もいる。

野々宮君はとても質素な身なりをして、外で会えば電灯会社の技師くらいの格好である。

原文を見る

野々宮君はすこぶる質素な服装なりをして、外で会えば電燈会社の技手くらいな格である。

それで地下の底を根城として、喜んで、あきずに研究に打ちこんでいるのだから偉い。

原文を見る

それで穴倉の底を根拠地として欣然きんぜんとたゆまずに研究を専念にやっているから偉い。

しかし、望遠鏡の中の目もりがいくら動いたって、本当の世の中と関わりのないのは明らかである。

原文を見る

しかし望遠鏡の中の度盛りがいくら動いたって現実世界と交渉のないのは明らかである。

野々宮君は一生、本当の世の中と接する気がないのかもしれない。

原文を見る

野々宮君は生涯しょうがい現実世界と接触する気がないのかもしれない。

要するに、この静かな空気を吸っているから、自然とああいう気分にもなれるのだろう。

原文を見る

要するにこの静かな空気を呼吸するから、おのずからああいう気分にもなれるのだろう。

自分もいっそのこと、気を散らさずに、生きた世の中と関わりのない一生を送ってみようかしら。

原文を見る

自分もいっそのこと気を散らさずに、生きた世の中と関係のない生涯を送ってみようかしらん。

三四郎がじっとして池の面を見つめていると、大きな木が何本となく水の底に映って、そのまた底に青い空が見える。

原文を見る

三四郎がじっとして池のおもてを見つめていると、大きな木が、幾本となく水の底に映って、そのまた底に青い空が見える。

三四郎はこの時、電車よりも、東京よりも、日本よりも、遠くはるかな気持ちがした。

原文を見る

三四郎はこの時電車よりも、東京よりも、日本よりも、遠くかつはるかな心持ちがした。

しかし、しばらくすると、その気持ちの中に、薄雲のようなさびしさが一面に広がって来た。

原文を見る

しかししばらくすると、その心持ちのうちに薄雲のような寂しさがいちめんに広がってきた。

そうして、野々宮君の地下に入って、たった一人で座っているかと思われるほどのさびしさを覚えた。

原文を見る

そうして、野々宮君の穴倉にはいって、たった一人ですわっているかと思われるほどな寂寞せきばくを覚えた。

熊本の高等学校にいたころも、これより静かな竜田山に登ったり、月見草ばかり生えている運動場に寝たりして、まったく世の中を忘れた気になったことは何度となくある。けれども、この一人ぼっちの感じは今初めて起こった。

原文を見る

熊本の高等学校にいる時分もこれより静かな竜田山たつたやまに上ったり、月見草ばかりはえている運動場に寝たりして、まったく世の中を忘れた気になったことは幾度となくある、けれどもこの孤独の感じは今はじめて起こった。

動きの激しい東京を見たためだろうか。

原文を見る

活動の激しい東京を見たためだろうか。

あるいは――三四郎はこの時赤くなった。

原文を見る

あるいは――三四郎はこの時赤くなった。

汽車で乗り合わせた女の人のことを思い出したからである。――

原文を見る

汽車で乗り合わした女の事を思い出したからである。――

本当の世の中は、どうも自分に必要らしい。

原文を見る

現実世界はどうも自分に必要らしい。

けれども本当の世の中は、危なくて近寄れない気がする。

原文を見る

けれども現実世界はあぶなくて近寄れない気がする。

三四郎は早く下宿に帰って、母に手紙を書いてやろうと思った。

原文を見る

三四郎は早く下宿に帰って母に手紙を書いてやろうと思った。

ふと目を上げると、左手の丘の上に女の人が二人立っている。

原文を見る

ふと目を上げると、左手の丘の上に女が二人立っている。

すぐ下が池で、向こう側が高いがけの木立で、その後ろが派手な赤れんがの、とがった屋根の建物である。

原文を見る

女のすぐ下が池で、向こう側が高いがけ木立こだちで、その後がはでな赤煉瓦あかれんがのゴシック風の建築である。

そうして、落ちかかった日が、すべての向こうから横に光を通してくる。

原文を見る

そうして落ちかかった日が、すべての向こうから横に光をとおしてくる。

女の人はこの夕日に向かって立っていた。

原文を見る

女はこの夕日に向いて立っていた。

三四郎のしゃがんでいる低い陰から見ると、丘の上はたいへん明るい。

原文を見る

三四郎のしゃがんでいる低い陰から見ると丘の上はたいへん明るい。

女の人の一人はまぶしいと見えて、うちわをひたいのところにかざしている。

原文を見る

女の一人はまぼしいとみえて、団扇うちわを額のところにかざしている。

顔はよくわからない。

原文を見る

顔はよくわからない。

けれども着物の色、帯の色はあざやかにわかった。

原文を見る

けれども着物の色、帯の色はあざやかにわかった。

白い足袋の色も目についた。

原文を見る

白い足袋たびの色も目についた。

鼻緒の色はともかく、ぞうりをはいていることもわかった。

原文を見る

鼻緒はなおの色はとにかく草履ぞうりをはいていることもわかった。

もう一人はまっ白である。

原文を見る

もう一人はまっしろである。

これはうちわも何も持っていない。

原文を見る

これは団扇もなにも持っていない。

ただ、ひたいに少ししわを寄せて、向こう岸からおおいかぶさりそうに、高く池の面に枝を伸ばした古木の奥を眺めていた。

原文を見る

ただ額に少ししわを寄せて、向こう岸からおいかぶさりそうに、高く池の面に枝を伸ばした古木の奥をながめていた。

うちわを持った人は少し前へ出ている。

原文を見る

団扇を持った女は少し前へ出ている。

白いほうは一足、土手のふちから下がっている。

原文を見る

白いほうは一足土堤どての縁からさがっている。

三四郎から見ると、二人の姿がななめに見える。

原文を見る

三四郎が見ると、二人の姿が筋かいに見える。

この時、三四郎の受けた感じは、ただきれいな色だということであった。

原文を見る

この時三四郎の受けた感じはただきれいな色彩だということであった。

けれども田舎者だから、この色がどういうふうにきれいなのだか、口にも言えず、筆にも書けない。

原文を見る

けれどもいなか者だから、この色彩がどういうふうにきれいなのだか、口にも言えず、筆にも書けない。

ただ、白いほうが看護婦だと思ったばかりである。

原文を見る

ただ白いほうが看護婦だと思ったばかりである。

三四郎はまた見とれていた。

原文を見る

三四郎はまたみとれていた。

すると白いほうが動き出した。

原文を見る

すると白いほうが動きだした。

用事のあるような動き方ではなかった。

原文を見る

用事のあるような動き方ではなかった。

自分の足がいつのまにか動いた、というふうであった。

原文を見る

自分の足がいつのまにか動いたというふうであった。

見ると、うちわを持った人もいつのまにか、また動いている。

原文を見る

見ると団扇を持った女もいつのまにかまた動いている。

二人は申し合わせたように用のない歩き方をして、坂を降りて来る。

原文を見る

二人は申し合わせたように用のない歩き方をして、坂を降りて来る。

三四郎はやはり見ていた。

原文を見る

三四郎はやっぱり見ていた。

坂の下に石橋がある。

原文を見る

坂の下に石橋がある。

わたらなければ、まっすぐに理科大学のほうへ出る。

原文を見る

渡らなければまっすぐに理科大学の方へ出る。

わたれば、水ぎわを伝ってこちらへ来る。

原文を見る

渡れば水ぎわを伝ってこっちへ来る。

二人は石橋をわたった。

原文を見る

二人は石橋を渡った。

うちわは、もうかざしていない。

原文を見る

団扇はもうかざしていない。

左の手に白い小さな花を持って、それをかぎながら来る。

原文を見る

左の手に白い小さな花を持って、それをかぎながら来る。

かぎながら、鼻の下に当てた花を見ながら歩くので、目は伏せている。

原文を見る

かぎながら、鼻の下にあてがった花を見ながら、歩くので、目は伏せている。

それで三四郎から二メートルばかりのところへ来て、ひょいと止まった。

原文を見る

それで三四郎から一間ばかりの所へ来てひょいととまった。

「これは何でしょう」

原文を見る

「これはなんでしょう」

と言って、上を向いた。

原文を見る

と言って、仰向いた。

頭の上には大きなしいの木が、日の光がもれないほど厚い葉をしげらせて、丸い形に水ぎわまで張り出していた。

原文を見る

頭の上には大きなしいの木が、日の目のもらないほど厚い葉を茂らして、丸い形に、水ぎわまで張り出していた。

「これはしい」

原文を見る

「これは椎」

と看護婦が言った。

原文を見る

と看護婦が言った。

まるで子供に物を教えるようであった。

原文を見る

まるで子供に物を教えるようであった。

「そう。実はなっていないの」

原文を見る

「そう。実はなっていないの」

と言いながら、上を向いた顔をもとにもどす、そのはずみに三四郎を一目見た。

原文を見る

と言いながら、仰向いた顔をもとへもどす、その拍子ひょうしに三四郎を一目見た。

三四郎はたしかに、女の人の黒目が動く瞬間を感じ取った。

原文を見る

三四郎はたしかに女の黒目の動く刹那せつなを意識した。

その時、色の感じはことごとく消えて、何とも言えない何かに出会った。

原文を見る

その時色彩の感じはことごとく消えて、なんともいえぬある物に出会った。

その何かは、汽車の女の人に「あなたは度胸のない方ですね」

原文を見る

そのある物は汽車の女に「あなたは度胸のないかたですね」

と言われた時の感じと、どこか似ている。

原文を見る

と言われた時の感じとどこか似通っている。

三四郎は恐ろしくなった。

原文を見る

三四郎は恐ろしくなった。

二人の女の人は、三四郎の前を通り過ぎる。

原文を見る

二人の女は三四郎の前を通り過ぎる。

若いほうが、今までかいでいた白い花を三四郎の前へ落として行った。

原文を見る

若いほうが今までかいでいた白い花を三四郎の前へ落として行った。

三四郎は二人の後ろすがたをじっと見つめていた。

原文を見る

三四郎は二人の後姿をじっと見つめていた。

看護婦は先へ行く。

原文を見る

看護婦は先へ行く。

若いほうがあとから行く。

原文を見る

若いほうがあとから行く。

はなやかな色の中に、白いすすきをそめ抜いた帯が見える。

原文を見る

はなやかな色のなかに、白いすすきを染め抜いた帯が見える。

頭にも、まっ白なばらを一つさしている。

原文を見る

頭にもまっ白な薔薇ばらを一つさしている。

そのばらが、しいの木陰の下の黒い髪の中で、きわだって光っていた。

原文を見る

その薔薇が椎の木陰こかげの下の、黒い髪のなかできわだって光っていた。

三四郎はぼんやりしていた。

原文を見る

三四郎はぼんやりしていた。

やがて、小さな声で「つじつまが合わない」

原文を見る

やがて、小さな声で「矛盾むじゅんだ」

と言った。

原文を見る

と言った。

大学の空気とあの人が合わないのだか、あの色とあの目つきが合わないのだか、あの人を見て汽車の女の人を思い出したのが合わないのだか、それとも先のことについての自分の考えが二つに分かれているのか、または、とてもうれしいものに対して恐れを感じるところが合わないのか、――この田舎から出て来た青年には、すべてわからなかった。

原文を見る

大学の空気とあの女が矛盾なのだか、あの色彩とあの目つきが矛盾なのだか、あの女を見て汽車の女を思い出したのが矛盾なのだか、それとも未来に対する自分の方針が二道に矛盾しているのか、または非常にうれしいものに対して恐れをいだくところが矛盾しているのか、――このいなか出の青年には、すべてわからなかった。

ただ、なんだか合わなかった。

原文を見る

ただなんだか矛盾であった。

三四郎は女の人の落として行った花を拾った。

原文を見る

三四郎は女の落として行った花を拾った。

そうして、かいでみた。

原文を見る

そうしてかいでみた。

けれども、とくべつのにおいもなかった。

原文を見る

けれどもべつだんのにおいもなかった。

三四郎はこの花を池の中へ投げこんだ。

原文を見る

三四郎はこの花を池の中へ投げ込んだ。

花は浮いている。

原文を見る

花は浮いている。

すると突然、向こうで自分の名を呼んだ人がある。

原文を見る

すると突然向こうで自分の名を呼んだ者がある。

三四郎は花から目をはなした。

原文を見る

三四郎は花から目を放した。

見ると、野々宮君が石橋の向こうに長く立っている。

原文を見る

見ると野々宮君が石橋の向こうに長く立っている。

「君、まだいたんですか」

原文を見る

「君まだいたんですか」

と言う。

原文を見る

と言う。

三四郎は答える前に、立ってのそのそ歩いて行った。

原文を見る

三四郎は答をするまえに、立ってのそのそ歩いて行った。

石橋の上まで来て、

原文を見る

石橋の上まで来て、

「ええ」

原文を見る

「ええ」

と言った。

原文を見る

と言った。

なんとなく間が抜けている。

原文を見る

なんとなくまが抜けている。

けれども野々宮君は少しも驚かない。

原文を見る

けれども野々宮君は、少しも驚かない。

「涼しいですか」

原文を見る

「涼しいですか」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

三四郎はまた、

原文を見る

三四郎はまた、

「ええ」

原文を見る

「ええ」

と言った。

原文を見る

と言った。

野々宮君はしばらく池の水を眺めていたが、右の手をポケットへ入れて何か捜し出した。

原文を見る

野々宮君はしばらく池の水をながめていたが、右の手をポケットへ入れて何か捜しだした。

ポケットから半分、封筒がはみ出している。

原文を見る

ポケットから半分封筒がはみ出している。

その上に書いてある字が、女の人の筆跡らしい。

原文を見る

その上に書いてある字が女の手跡しゅせきらしい。

野々宮君は捜す物を見つけられなかったと見えて、もとのとおりに手を出してぶらりと下げた。

原文を見る

野々宮君は思う物を捜しあてなかったとみえて、もとのとおりの手を出してぶらりと下げた。

そうして、こう言った。

原文を見る

そうして、こう言った。

「今日は少ししかけが狂ったので、晩の実験はやめだ。これから本郷のほうを散歩して帰ろうと思うが、君どうです、いっしょに歩きませんか」

原文を見る

「きょうは少し装置が狂ったので晩の実験はやめだ。これから本郷ほんごうの方を散歩して帰ろうと思うが、君どうです、いっしょに歩きませんか」

三四郎は気持ちよく応じた。

原文を見る

三四郎は快く応じた。

二人で坂を上がって、丘の上へ出た。

原文を見る

二人で坂を上がって、丘の上へ出た。

野々宮君はさっき女の人の立っていたあたりでちょっと止まって、向こうの青い木立の間から見える赤い建物と、がけの高いわりに水の落ちた池を一面に見わたして、

原文を見る

野々宮君はさっき女の立っていたあたりでちょっととまって、向こうの青い木立のあいだから見える赤い建物と、がけの高いわりに、水の落ちた池をいちめんに見渡して、

「ちょっといい景色でしょう。あの建物の角のところだけが少し出ている。木の間から。ね。いいでしょう。君、気がついていますか。あの建物はなかなかうまくできていますよ。工科もよくできているが、このほうがうまいですね」

原文を見る

「ちょっといい景色けしきでしょう。あの建築ビルジング角度アングルのところだけが少し出ている。木のあいだから。ね。いいでしょう。君気がついていますか。あの建物はなかなかうまくできていますよ。工科もよくできてるがこのほうがうまいですね」

三四郎は野々宮君の見る目に少し驚いた。

原文を見る

三四郎は野々宮君の鑑賞力に少々驚いた。

実を言うと、自分にはどちらがいいかまるでわからないのである。

原文を見る

実をいうと自分にはどっちがいいかまるでわからないのである。

そこで今度は三四郎のほうが、はあ、はあと言い出した。

原文を見る

そこで今度は三四郎のほうが、はあ、はあと言い出した。

「それから、この木と水の感じがね。――たいしたものじゃないが、なにしろ東京の真ん中にあるんだから――静かでしょう。こういう所でないと学問をやるにはいけませんね。近ごろは東京があまりやかましくなりすぎて困る。これが御殿」

原文を見る

「それから、この木と水の感じエフフェクトがね。――たいしたものじゃないが、なにしろ東京のまん中にあるんだから――静かでしょう。こういう所でないと学問をやるにはいけませんね。近ごろは東京があまりやかましくなりすぎて困る。これが御殿ごてん

と歩き出しながら、左手の建物を指して見せる。

原文を見る

と歩きだしながら、左手ゆんでの建物をさしてみせる。

「教授の会議をやる所です。うん、なに、ぼくなんか出なくていいのです。ぼくは地下の暮らしをやっていればすむのです。近ごろの学問はすごい勢いで動いているので、少し油断するとすぐ取り残されてしまう。人が見ると地下の中で遊んでいるようだが、これでもやっている本人の頭の中は激しく働いているんですよ。電車よりよほど激しく働いているかもしれない。だから夏でも旅行をするのが惜しくてね」

原文を見る

「教授会をやる所です。うむなに、ぼくなんか出ないでいいのです。ぼくは穴倉生活をやっていればすむのです。近ごろの学問は非常な勢いで動いているので、少しゆだんすると、すぐ取り残されてしまう。人が見ると穴倉の中で冗談をしているようだが、これでもやっている当人の頭の中は劇烈に働いているんですよ。電車よりよっぽど激しく働いているかもしれない。だから夏でも旅行をするのが惜しくってね」

と言いながら、上を向いて大きな空を見た。

原文を見る

と言いながら仰向いて大きな空を見た。

空には、もう日の光が乏しい。

原文を見る

空にはもう日の光が乏しい。

青い空の静まり返った表面に、白い薄雲がはけの先でかき払ったあとのように、ななめに長く浮いている。

原文を見る

青い空の静まり返った、上皮うわかわに白い薄雲が刷毛先はけさきでかき払ったあとのように、すじかいに長く浮いている。

「あれを知っていますか」

原文を見る

「あれを知ってますか」

と言う。

原文を見る

と言う。

三四郎は見上げて、透き通るような雲を見た。

原文を見る

三四郎は仰いで半透明の雲を見た。

「あれは、みんな雪の粉ですよ。こうやって下から見ると、ちっとも動いていない。しかしあれで、地上に起こるあらし以上の速さで動いているんですよ。――君、ラスキンを読みましたか」

原文を見る

「あれは、みんな雪のですよ。こうやって下から見ると、ちっとも動いていない。しかしあれで地上に起こる颶風ぐふう以上の速力で動いているんですよ。――君ラスキンを読みましたか」

三四郎はがっかりして、読まないと答えた。

原文を見る

三四郎は憮然ぶぜんとして読まないと答えた。

野々宮君はただ

原文を見る

野々宮君はただ

「そうですか」

原文を見る

「そうですか」

と言ったばかりである。

原文を見る

と言ったばかりである。

しばらくしてから、

原文を見る

しばらくしてから、

「この空を写生したらおもしろいですね。――原口にでも話してやろうかしら」

原文を見る

「この空を写生したらおもしろいですね。――原口はらぐちにでも話してやろうかしら」

と言った。

原文を見る

と言った。

三四郎はもちろん、原口という画家の名前を知らなかった。

原文を見る

三四郎はむろん原口という画工の名前を知らなかった。

二人はベルツの銅像の前から、からたち寺の横を通って電車通りへ出た。

原文を見る

二人はベルツの銅像の前から枳殻寺からたちでらの横を電車の通りへ出た。

銅像の前で、この銅像はどうですかと聞かれて、三四郎はまた困った。

原文を見る

銅像の前で、この銅像はどうですかと聞かれて三四郎はまた弱った。

表通りは、たいへんにぎやかである。

原文を見る

表はたいへんにぎやかである。

電車がひっきりなしに通る。

原文を見る

電車がしきりなしに通る。

「君、電車はうるさくはないですか」

原文を見る

「君電車はうるさくはないですか」

と、また聞かれた。

原文を見る

とまた聞かれた。

三四郎はうるさいより、すさまじいくらいである。

原文を見る

三四郎はうるさいよりすさまじいくらいである。

しかし、ただ「ええ」

原文を見る

しかしただ「ええ」

と答えておいた。

原文を見る

と答えておいた。

すると野々宮君は「ぼくもうるさい」

原文を見る

すると野々宮君は「ぼくもうるさい」

と言った。

原文を見る

と言った。

しかし、まるでうるさそうにも見えなかった。

原文を見る

しかしいっこううるさいようにもみえなかった。

「ぼくは車掌に教わらないと、一人で乗り換えが自由にできない。この二、三年むやみに増えたのでね。便利になって、かえって困る。ぼくの学問と同じことだ」

原文を見る

「ぼくは車掌に教わらないと、一人で乗換えが自由にできない。この二、三年むやみにふえたのでね。便利になってかえって困る。ぼくの学問と同じことだ」

と言って笑った。

原文を見る

と言って笑った。

学期の始まりぎわなので、新しい高等学校の帽子をかぶった生徒がだいぶ通る。

原文を見る

学期の始まりぎわなので新しい高等学校の帽子をかぶった生徒がだいぶ通る。

野々宮君は愉快そうに、この人たちを見ている。

原文を見る

野々宮君は愉快そうに、この連中れんじゅうを見ている。

「だいぶ新しいのが来ましたね」

原文を見る

「だいぶ新しいのが来ましたね」

と言う。

原文を見る

と言う。

「若い人は活気があっていい。ところで君はいくつですか」

原文を見る

「若い人は活気があっていい。ときに君はいくつですか」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

三四郎は宿帳へ書いたとおりを答えた。

原文を見る

三四郎は宿帳へ書いたとおりを答えた。

すると、

原文を見る

すると、

「それじゃ、ぼくより七つばかり若い。七年もあると、人間はたいていのことができる。しかし月日はたちやすいものでね。七年ぐらいすぐですよ」

原文を見る

「それじゃぼくより七つばかり若い。七年もあると、人間はたいていの事ができる。しかし月日つきひはたちやすいものでね。七年ぐらいじきですよ」

と言う。

原文を見る

と言う。

どちらが本当なんだか、三四郎にはわからなかった。

原文を見る

どっちが本当なんだか、三四郎にはわからなかった。

四つ角の近くへ来ると、左右に本屋と雑誌屋がたくさんある。

原文を見る

四角よつかど近くへ来ると左右に本屋と雑誌屋がたくさんある。

そのうちの二、三軒には人が黒山のように集まっている。そうして雑誌を読んでいる。

原文を見る

そのうちの二、三軒には人が黒山のようにたかっている、そうして雑誌を読んでいる。

そうして、買わずに行ってしまう。

原文を見る

そうして買わずに行ってしまう。

野々宮君は、

原文を見る

野々宮君は、

「みんなずるいなあ」

原文を見る

「みんなずるいなあ」

と言って笑っている。

原文を見る

と言って笑っている。

もっとも、本人もちょいと「太陽」という雑誌を開けてみた。

原文を見る

もっとも当人もちょいと太陽をあけてみた。

四つ角へ出ると、左手のこちら側に西洋の小物を売る店があって、向こう側に日本の小物を売る店がある。

原文を見る

四角へ出ると、左手のこちら側に西洋小間物屋こまものやがあって、向こう側に日本小間物屋がある。

その間を電車がぐるっと曲がって、ものすごい勢いで通る。

原文を見る

そのあいだを電車がぐるっと曲がって、非常な勢いで通る。

ベルがちんちんちんちん言う。

原文を見る

ベルがちんちんちんちんいう。

わたりにくいほど混み合う。

原文を見る

渡りにくいほど雑踏する。

野々宮君は向こうの店を指して、

原文を見る

野々宮君は、向こうの小間物屋をさして、

「あそこでちょいと買い物をしますからね」

原文を見る

「あすこでちょいと買物をしますからね」

と言って、ちりんちりんと鳴る間を駆け抜けた。

原文を見る

と言って、ちりんちりんと鳴るあいだを駆け抜けた。

三四郎もくっついて、向こうへわたった。

原文を見る

三四郎もくっついて、向こうへ渡った。

野々宮君はさっそく店へ入った。

原文を見る

野々宮君はさっそく店へはいった。

表に待っていた三四郎が気がついて見ると、店先のガラス張りのたなに、くしだの、花のかんざしだのが並べてある。

原文を見る

表に待っていた三四郎が、気がついて見ると、店先のガラス張りのたなくしだの花簪はなかんざしだのが並べてある。

三四郎はみょうに思った。

原文を見る

三四郎は妙に思った。

野々宮君は何を買っているのかしらと不思議に思って、店の中へ入ってみると、せみの羽根のようなリボンをぶら下げて、

原文を見る

野々宮君が何を買っているのかしらと、不審を起こして、店の中へはいってみると、せみの羽根のようなリボンをぶら下げて、

「どうですか」

原文を見る

「どうですか」

と聞かれた。

原文を見る

と聞かれた。

三四郎はこの時、自分も何か買って、あゆのお礼に三輪田のお光さんに送ってやろうかと思った。

原文を見る

三四郎はこの時自分も何か買って、あゆのお礼に三輪田のお光さんに送ってやろうかと思った。

けれども、お光さんがそれをもらって、あゆのお礼と思わずに、きっと何だかんだと勝手な理屈をつけるに違いないと考えたからやめにした。

原文を見る

けれどもお光さんが、それをもらって、鮎のお礼と思わずに、きっとなんだかんだと手前がっての理屈をつけるに違いないと考えたからやめにした。

それから真砂町で、野々宮君に西洋料理をごちそうになった。

原文を見る

それから真砂町まさごちょうで野々宮君に西洋料理のごちそうになった。

野々宮君の話では、本郷でいちばんうまい店だそうだ。

原文を見る

野々宮君の話では本郷でいちばんうまいうちだそうだ。

けれども三四郎には、ただ西洋料理の味がするだけであった。

原文を見る

けれども三四郎にはただ西洋料理の味がするだけであった。

しかし、食べることはみんな食べた。

原文を見る

しかし食べることはみんな食べた。

西洋料理屋の前で野々宮君に別れて、追分に帰るところを、ていねいにもとの四つ角まで出て、左へ折れた。

原文を見る

西洋料理屋の前で野々宮君に別れて、追分おいわけに帰るところを丁寧にもとの四角まで出て、左へ折れた。

下駄を買おうと思って下駄屋をのぞきこんだら、白く明るいガス灯の下に、まっ白におしろいを塗った娘さんが、石こうの人形のように座っていたので、急にいやになってやめた。

原文を見る

下駄げたを買おうと思って、下駄屋をのぞきこんだら、白熱ガスの下に、まっ白に塗り立てた娘が、石膏せっこうの化物のようにすわっていたので、急にいやになってやめた。

それから家へ帰る間、大学の池のふちで会った女の人の顔の色ばかり考えていた。――

原文を見る

それからうちへ帰るあいだ、大学の池の縁で会った女の、顔の色ばかり考えていた。――

その色は、薄くもちを焦がしたようなきつね色であった。

原文を見る

その色は薄くもちをこがしたような狐色きつねいろであった。

そうして、きめがとても細かであった。

原文を見る

そうして肌理きめが非常に細かであった。

三四郎は、女の人の色はどうしてもあれでなくてはだめだと決めた。

原文を見る

三四郎は、女の色は、どうしてもあれでなくってはだめだと断定した。

原文を見る

学年は九月十一日に始まった。

原文を見る

学年は九月十一日に始まった。

三四郎は正直に午前十時半ごろ学校へ行ってみたが、玄関前の掲示板に講義の時間割りがあるばかりで、学生は一人もいない。

原文を見る

三四郎は正直に午前十時半ごろ学校へ行ってみたが、玄関前の掲示場に講義の時間割りがあるばかりで学生は一人ひとりもいない。

自分の聞くべき分だけを手帳に書き留めて、それから事務室へ寄ったら、さすがに事務の人だけは出ていた。

原文を見る

自分の聞くべき分だけを手帳に書きとめて、それから事務室へ寄ったら、さすがに事務員だけは出ていた。

講義はいつから始まりますかと聞くと、九月十一日から始まると言っている。

原文を見る

講義はいつから始まりますかと聞くと、九月十一日から始まると言っている。

すましたものである。

原文を見る

すましたものである。

でも、どの部屋を見ても講義がないようですがとたずねると、それは先生がいないからだと答えた。

原文を見る

でも、どの部屋へやを見ても講義がないようですがと尋ねると、それは先生がいないからだと答えた。

三四郎はなるほどと思って事務室を出た。

原文を見る

三四郎はなるほどと思って事務室を出た。

裏へ回って、大きなけやきの下から高い空をのぞいたら、ふつうの空よりも明るく見えた。

原文を見る

裏へ回って、大きなけやきの下から高い空をのぞいたら、普通の空よりも明らかに見えた。

くまざさの中を水ぎわへ下りて、例のしいの木の所まで来て、またしゃがんだ。

原文を見る

熊笹くまざさの中を水ぎわへおりて、例のしいの木の所まで来て、またしゃがんだ。

あの女の人がもう一度通ればいいくらいに考えて、たびたび丘の上を眺めたが、丘の上には人影もなかった。

原文を見る

あの女がもう一ぺん通ればいいくらいに考えて、たびたび丘の上をながめたが、丘の上には人影もしなかった。

三四郎は、それが当たり前だと考えた。

原文を見る

三四郎はそれが当然だと考えた。

けれども、やはりしゃがんでいた。

原文を見る

けれどもやはりしゃがんでいた。

すると、正午を知らせる大砲が鳴ったので驚いて下宿へ帰った。

原文を見る

すると、午砲どんが鳴ったんで驚いて下宿へ帰った。

翌日はちょうど八時に学校へ行った。

原文を見る

翌日は正八時に学校へ行った。

正門を入ると、手前の大通りの左右に植えてあるいちょうの並木が目についた。

原文を見る

正門をはいると、とっつきの大通りの左右に植えてある銀杏いちょうの並木が目についた。

いちょうが向こうのほうで終わるあたりから、だらだら坂に下がって、正門のきわに立った三四郎から見ると、坂の向こうにある理科大学は二階の一部しか見えていない。

原文を見る

銀杏が向こうの方で尽きるあたりから、だらだら坂に下がって、正門のきわに立った三四郎から見ると、坂の向こうにある理科大学は二階の一部しか出ていない。

その屋根の後ろに、朝日を受けた上野の森が遠く輝いている。

原文を見る

その屋根のうしろに朝日を受けた上野の森が遠く輝いている。

日は正面にある。

原文を見る

日は正面にある。

三四郎は、この奥行きのある景色を愉快に感じた。

原文を見る

三四郎はこの奥行のある景色けしきを愉快に感じた。

いちょうの並木がこちら側で終わる右手には、法文科大学がある。

原文を見る

銀杏の並木がこちら側で尽きる右手には法文科大学がある。

左手には少し下がって、博物の教室がある。

原文を見る

左手には少しさがって博物の教室がある。

建物は両方とも同じで、細長い窓の上に三角にとがった屋根が突き出している。

原文を見る

建築は双方ともに同じで、細長い窓の上に、三角にとがった屋根が突き出している。

その三角のふちに当たる赤れんがと黒い屋根のつぎ目のところが、細い石の直線でできている。

原文を見る

その三角の縁に当る赤煉瓦あかれんがと黒い屋根のつぎめの所が細い石の直線でできている。

そうして、その石の色が少し青みを帯びて、すぐ下に来る派手な赤れんがに一種の味わいをそえている。

原文を見る

そうしてその石の色が少し青味を帯びて、すぐ下にくるはでな赤煉瓦に一種の趣を添えている。

そうして、この長い窓と高い三角が横にいくつも続いている。

原文を見る

そうしてこの長い窓と、高い三角が横にいくつも続いている。

三四郎は、この間野々宮君の説を聞いてから急にこの建物をありがたく思っていたが、今朝は、この考えが野々宮君の考えではなく、初めから自分の持っていた考えであるような気がし出した。

原文を見る

三四郎はこのあいだ野々宮君の説を聞いてから以来、急にこの建物をありがたく思っていたが、けさは、この意見が野々宮君の意見でなくって、初手しょてから自分の持説であるような気がしだした。

とくに博物の教室が法文科と一直線に並んでいないで、少し奥へ引っこんでいるところが、そろっていなくてみょうだと思った。

原文を見る

ことに博物室が法文科と一直線に並んでいないで、少し奥へ引っ込んでいるところが不規則で妙だと思った。

今度野々宮君に会ったら、自分の発見としてこの説を持ち出そうと考えた。

原文を見る

こんど野々宮君に会ったら自分の発明としてこの説を持ち出そうと考えた。

法文科の右の端から五十メートルほど前へ突き出している図書館にも感心した。

原文を見る

法文科の右のはずれから半町ほど前へ突き出している図書館にも感服した。

よくわからないが、何でも同じ造りだろうと思われる。

原文を見る

よくわからないがなんでも同じ建築だろうと考えられる。

その赤い壁に沿って、大きなしゅろの木を五、六本植えたところが大いにいい。

原文を見る

その赤い壁につけて、大きな棕櫚しゅろの木を五、六本植えたところが大いにいい。

左手のずっと奥にある工科大学は、昔の西洋のお城から思いついたように見えた。

原文を見る

左手のずっと奥にある工科大学は封建時代の西洋のお城から割り出したように見えた。

まっ四角にできあがっている。

原文を見る

まっ四角にできあがっている。

窓も四角である。

原文を見る

窓も四角である。

ただ四すみと入口が丸い。

原文を見る

ただ四すみと入口が丸い。

これはお城のやぐらをまねたのだろう。

原文を見る

これはやぐらを形取ったんだろう。

お城だけに、しっかりしている。

原文を見る

お城だけにしっかりしている。

法文科のように、たおれそうでない。

原文を見る

法文科みたように倒れそうでない。

なんだか背の低い相撲取りに似ている。

原文を見る

なんだかせいの低い相撲取すもうとりに似ている。

三四郎は見わたすかぎり見わたして、このほかにもまだ目に入らない建物がたくさんあることを数に入れて、どことなく雄大な感じを起こした。

原文を見る

三四郎は見渡すかぎり見渡して、このほかにもまだ目に入らない建物がたくさんあることを勘定に入れて、どことなく雄大な感じを起こした。

「学問の場はこうでなくてはならない。こういう構えがあればこそ研究もできる。えらいものだ」

原文を見る

「学問の府はこうなくってはならない。こういう構えがあればこそ研究もできる。えらいものだ」

――三四郎は大学者になったような気持ちがした。

原文を見る

――三四郎は大学者になったような心持ちがした。

けれども教室へ入ってみたら、鐘は鳴っても先生は来なかった。

原文を見る

けれども教室へはいってみたら、鐘は鳴っても先生は来なかった。

そのかわり、学生も出て来ない。

原文を見る

その代り学生も出て来ない。

次の時間もそのとおりであった。

原文を見る

次の時間もそのとおりであった。

三四郎は腹を立てて教室を出た。

原文を見る

三四郎は癇癪かんしゃくを起こして教場を出た。

そうして念のために池のまわりを二度ばかり回って下宿へ帰った。

原文を見る

そうして念のために池の周囲まわりを二へんばかり回って下宿へ帰った。

それから約十日ばかりたってから、ようやく講義が始まった。

原文を見る

それから約十日ばかりたってから、ようやく講義が始まった。

三四郎が初めて教室へ入って、ほかの学生といっしょに先生の来るのを待っていた時の気持ちは、実に神妙なものであった。

原文を見る

三四郎がはじめて教室へはいって、ほかの学生といっしょに先生の来るのを待っていた時の心持ちはじつに殊勝しゅしょうなものであった。

神主が装束を着けて、これから祭りでも行おうとするぎりぎりには、こういう気分がするだろうと、三四郎は自分で自分の気持ちを考えてみた。

原文を見る

神主かんぬし装束しょうぞくを着けて、これから祭典でも行なおうとするまぎわには、こういう気分がするだろうと、三四郎は自分で自分の了見を推定した。

実際、学問の重々しさに打たれたに違いない。

原文を見る

じっさい学問の威厳に打たれたに違いない。

それだけでなく、先生がベルが鳴って十五分たっても出て来ないので、ますます期待から生まれるうやまいの気持ちを強めた。

原文を見る

それのみならず、先生がベルが鳴って十五分立っても出て来ないのでますます予期から生ずる敬畏けいいの念を増した。

そのうち、人がらのいいおじいさんの西洋人が戸を開けて入って来て、なめらかな英語で講義を始めた。

原文を見る

そのうち人品のいいおじいさんの西洋人が戸をあけてはいってきて、流暢りゅうちょうな英語で講義を始めた。

三四郎はその時、answer という字はアングロ・サクソン語の and-swaru から出たのだということを覚えた。

原文を見る

三四郎はその時 answerアンサー という字はアングロ・サクソン語の and-swaruアンド・スワル から出たんだということを覚えた。

それからスコットの通った小学校の村の名を覚えた。

原文を見る

それからスコットの通った小学校の村の名を覚えた。

どちらも大切にノートに書き留めておいた。

原文を見る

いずれも大切に筆記帳にしるしておいた。

その次には文学論の講義に出た。

原文を見る

その次には文学論の講義に出た。

この先生は教室に入って、ちょっと黒板を眺めていたが、黒板の上に書いてある Geschehen という字と Nachbild という字を見て、はあ、ドイツ語かと言って、笑いながらさっさと消してしまった。

原文を見る

この先生は教室にはいって、ちょっと黒板ボールドをながめていたが、黒板の上に書いてある Geschehenゲシェーヘン という字と Nachbildナハビルド という字を見て、はあドイツ語かと言って、笑いながらさっさと消してしまった。

三四郎は、そのためにドイツ語に対する敬いの気持ちを少し失ったように感じた。

原文を見る

三四郎はこれがためにドイツ語に対する敬意を少し失ったように感じた。

先生はそれから、昔から文学者が文学に対して下した意味づけを、およそ二十ばかり並べた。

原文を見る

先生は、それから古来文学者が文学に対して下した定義をおよそ二十ばかり並べた。

三四郎はこれも大事に手帳に書き留めておいた。

原文を見る

三四郎はこれも大事に手帳に筆記しておいた。

午後は大教室に出た。

原文を見る

午後は大教室に出た。

その教室には約七、八十人ほどの聞き手がいた。

原文を見る

その教室には約七、八十人ほどの聴講者がいた。

だから先生も演説の口調であった。

原文を見る

したがって先生も演説口調くちょうであった。

大砲一発、浦賀の夢を破って、という書き出しであったから、三四郎はおもしろがって聞いていると、しまいにはドイツの哲学者の名がたくさん出て来て、ひどくわかりにくくなった。

原文を見る

砲声一発浦賀うらがの夢を破ってという冒頭ぼうとうであったから、三四郎はおもしろがって聞いていると、しまいにはドイツの哲学者の名がたくさん出てきてはなはだしにくくなった。

机の上を見ると、落第という字がみごとに彫ってある。

原文を見る

机の上を見ると、落第という字がみごとに彫ってある。

よほど暇にまかせて仕上げたものと見えて、堅いかしの板をきれいに彫りこんだ手ぎわは素人とは思われない。

原文を見る

よほど暇に任せて仕上げたものとみえて、堅いかしの板をきれいに切り込んだてぎわは素人しろうととは思われない。

みごとなできである。

原文を見る

深刻のできである。

となりの男は感心に根気よく書き取りを続けている。

原文を見る

隣の男は感心に根気よく筆記をつづけている。

のぞいて見ると書き取りではない。

原文を見る

のぞいて見ると筆記ではない。

遠くから先生の似顔を絵に描いていたのである。

原文を見る

遠くから先生の似顔をポンチにかいていたのである。

三四郎がのぞくやいなや、となりの男はノートを三四郎のほうに出して見せた。

原文を見る

三四郎がのぞくやいなや隣の男はノートを三四郎の方に出して見せた。

絵はうまくできているが、そばに「久方の雲井の空の子規」と書いてあるのは、何のことだかわからなかった。

原文を見る

絵はうまくできているが、そばに久方ひさかた雲井くもいの空の子規ほととぎすと書いてあるのは、なんのことだか判じかねた。

講義が終わってから、三四郎はなんとなく疲れたような気持ちで、二階の窓からほおづえをついて、正門の中の庭を見下ろしていた。

原文を見る

講義が終ってから、三四郎はなんとなく疲労したような気味で、二階の窓から頬杖ほおづえを突いて、正門内の庭を見おろしていた。

ただ大きな松や桜を植えて、その間に砂利を敷いた広い道をつけたばかりであるが、手を入れすぎていないだけに、見ていて心持ちがいい。

原文を見る

ただ大きな松や桜を植えてそのあいだに砂利じゃりを敷いた広い道をつけたばかりであるが、手を入れすぎていないだけに、見ていて心持ちがいい。

野々宮君の話によると、ここは昔はこうきれいではなかった。

原文を見る

野々宮君の話によるとここは昔はこうきれいではなかった。

野々宮君の先生の何とかいう人が、学生のころ馬に乗ってここを乗り回すうち、馬が言うことを聞かないで、意地悪くわざと木の下を通るので、帽子が松の枝に引っかかる。

原文を見る

野々宮君の先生のなんとかいう人が、学生の時分馬に乗って、ここを乗り回すうち、馬がいうことを聞かないで、意地を悪くわざと木の下を通るので、帽子が松の枝に引っかかる。

下駄の歯があぶみ(足をかける道具)にはさまる。

原文を見る

下駄の歯があぶみにはさまる。

先生はたいへん困っていると、正門前の喜多床という床屋の職人が大勢出て来て、おもしろがって笑っていたそうである。

原文を見る

先生はたいへん困っていると、正門前の喜多床きたどこという髪結床かみゆいどこの職人がおおぜい出てきて、おもしろがって笑っていたそうである。

そのころには、やる気のある人たちがお金を出し合って、大学の中に馬小屋をこしらえて、三頭の馬と馬の先生とを置いておいた。

原文を見る

その時分には有志の者が醵金きょきんして構内にうまやをこしらえて、三頭の馬と、馬の先生とを飼っておいた。

ところが先生がたいへんな酒飲みで、とうとう三頭のうちのいちばんいい白い馬を売って飲んでしまった。

原文を見る

ところが先生がたいへんな酒飲みで、とうとう三頭のうちのいちばんいい白い馬を売って飲んでしまった。

それはナポレオン三世の時代の老馬であったそうだ。

原文を見る

それはナポレオン三世時代の老馬であったそうだ。

まさかナポレオン三世の時代でもなかろう。

原文を見る

まさかナポレオン三世時代でもなかろう。

しかし、のんきな時代もあったものだと考えていると、さっき絵を描いた男が来て、

原文を見る

しかしのん気な時代もあったものだと考えていると、さっきポンチ絵をかいた男が来て、

「大学の講義はつまらんなあ」

原文を見る

「大学の講義はつまらんなあ」

と言った。

原文を見る

と言った。

三四郎はいいかげんな返事をした。

原文を見る

三四郎はいいかげんな返事をした。

じつは、つまるかつまらないか、三四郎にはちっとも判断ができないのである。

原文を見る

じつはつまるかつまらないか、三四郎にはちっとも判断ができないのである。

しかし、この時からこの男と口をきくようになった。

原文を見る

しかしこの時からこの男と口をきくようになった。

その日はなんとなく気がふさいでおもしろくなかったので、池のまわりを回ることはやめて家へ帰った。

原文を見る

その日はなんとなく気がうっして、おもしろくなかったので、池の周囲まわりを回ることは見合わせてうちへ帰った。

夕食後、ノートを繰り返して読んでみたが、べつに愉快にも不愉快にもならなかった。

原文を見る

晩食後筆記を繰り返して読んでみたが、べつに愉快にも不愉快にもならなかった。

母に、話し言葉のままの手紙を書いた。――

原文を見る

母に言文一致の手紙を書いた。――

学校は始まった。

原文を見る

学校は始まった。

これから毎日出る。

原文を見る

これから毎日出る。

学校はたいへん広いいい場所で、建物もたいへん美しい。

原文を見る

学校はたいへん広いいい場所で、建物もたいへん美しい。

真ん中に池がある。

原文を見る

まん中に池がある。

池のまわりを散歩するのが楽しみだ。

原文を見る

池の周囲を散歩するのが楽しみだ。

電車には近ごろようやく乗り慣れた。

原文を見る

電車には近ごろようやく乗り馴れた。

何か買ってあげたいが、何がいいかわからないから買ってあげない。

原文を見る

何か買ってあげたいが、何がいいかわからないから、買ってあげない。

ほしければ、そちらから言ってきてくれ。

原文を見る

ほしければそっちから言ってきてくれ。

今年の米は今にねだんが出るから、売らずにおくほうが得だろう。

原文を見る

今年ことしの米はいまにが出るから、売らずにおくほうが得だろう。

三輪田のお光さんには、あまり愛想よくしないほうがよかろう。

原文を見る

三輪田のお光さんにはあまり愛想あいそよくしないほうがよかろう。

東京へ来てみると人はいくらでもいる。

原文を見る

東京へ来てみると人はいくらでもいる。

男も多いが女も多い。

原文を見る

男も多いが女も多い。

というようなことを、ごたごた並べたものであった。

原文を見る

というような事をごたごた並べたものであった。

手紙を書いて、英語の本を六、七ページ読んだらいやになった。

原文を見る

手紙を書いて、英語の本を六、七ページ読んだらいやになった。

こんな本を一冊ぐらい読んでもだめだと思い出した。

原文を見る

こんな本を一冊ぐらい読んでもだめだと思いだした。

布団をしいて寝ることにしたが、寝つかれない。

原文を見る

床を取って寝ることにしたが、寝つかれない。

ねむれない病気になったら早く病院に行って見てもらおうなどと考えているうちに寝てしまった。

原文を見る

不眠症になったらはやく病院に行って見てもらおうなどと考えているうちに寝てしまった。

次の日も決まった時刻に学校へ行って講義を聞いた。

原文を見る

あくる日も例刻に学校へ行って講義を聞いた。

講義の間に、今年の卒業生がどこそこへいくらで決まったという話を耳にした。

原文を見る

講義のあいだに今年の卒業生がどこそこへいくらで売れたという話を耳にした。

だれとだれがまだ残っていて、それがある官立学校の職を争ううわさだなどと話している人があった。

原文を見る

だれとだれがまだ残っていて、それがある官立学校の地位を競争しているうわさだなどと話している者があった。

三四郎はぼんやりと、先のことが遠くから目の前に押し寄せるような鈍い重さを感じたが、それはすぐ忘れてしまった。

原文を見る

三四郎は漠然ばくぜんと、未来が遠くから眼前に押し寄せるようなにぶい圧迫を感じたが、それはすぐ忘れてしまった。

むしろ、昇之助(しょうのすけ)が何とかしたというほうの話がおもしろかった。

原文を見る

むしろ昇之助しょうのすけがなんとかしたというほうの話がおもしろかった。

そこで廊下で熊本出身の同級生をつかまえて、昇之助とは何だと聞いたら、寄席(よせ)に出る娘義太夫(むすめぎだゆう。語りものを語る若い女の人)だと教えてくれた。

原文を見る

そこで廊下で熊本出の同級生をつかまえて、昇之助とはなんだと聞いたら、寄席よせへ出る娘義太夫ぎだゆうだと教えてくれた。

それから寄席の看板はこんなもので、本郷のどこにあるということまで言って聞かせた上、今度の土曜にいっしょに行こうとさそってくれた。

原文を見る

それから寄席の看板はこんなもので、本郷のどこにあるということまで言って聞かせたうえ、今度の土曜にいっしょに行こうと誘ってくれた。

よく知っていると思ったら、この男は昨夜初めて寄席へ入ったのだそうだ。

原文を見る

よく知ってると思ったら、この男はゆうべはじめて、寄席へ、はいったのだそうだ。

三四郎はなんだか寄席へ行って、昇之助が見たくなった。

原文を見る

三四郎はなんだか寄席へ行って昇之助が見たくなった。

昼飯を食いに下宿へ帰ろうと思ったら、昨日絵を描いた男が来て、おい、おいと言いながら、本郷の通りの淀見軒という所に引っぱって行って、ライスカレーを食わせた。

原文を見る

昼飯を食いに下宿へ帰ろうと思ったら、きのうポンチ絵をかいた男が来て、おいおいと言いながら、本郷の通りの淀見軒よどみけんという所に引っ張って行って、ライスカレーを食わした。

淀見軒という所は、店で果物を売っている。

原文を見る

淀見軒という所は店で果物くだものを売っている。

新しい建物であった。

原文を見る

新しい普請であった。

絵を描いた男は、この建物の表を指さして、これがアール・ヌーヴォー式だと教えた。

原文を見る

ポンチ絵をかいた男はこの建築の表を指さして、これがヌーボー式だと教えた。

三四郎は建築にもアール・ヌーヴォー式があるものと初めて知った。

原文を見る

三四郎は建築にもヌーボー式があるものとはじめて悟った。

帰り道に青木堂も教わった。

原文を見る

帰り道に青木堂あおきどうも教わった。

やはり大学生のよく行く所だそうである。

原文を見る

やはり大学生のよく行く所だそうである。

赤門を入って、二人で池のまわりを散歩した。

原文を見る

赤門をはいって、二人ふたりで池の周囲を散歩した。

その時、絵の男は、死んだ小泉八雲先生は先生たちの控え室へ入るのが嫌いで、講義がすむといつでも、このまわりをぐるぐる回って歩いたのだと、まるで小泉先生に教わったようなことを言った。

原文を見る

その時ポンチ絵の男は、死んだ小泉八雲こいずみやくも先生は教員控室へはいるのがきらいで講義がすむといつでもこの周囲をぐるぐる回って歩いたんだと、あたかも小泉先生に教わったようなことを言った。

なぜ控え室へ入らなかったのだろうかと三四郎がたずねたら、

原文を見る

なぜ控室へはいらなかったのだろうかと三四郎が尋ねたら、

「そりゃ当たり前ださ。第一、彼らの講義を聞いてもわかるじゃないか。話せるものは一人もいやしない」

原文を見る

「そりゃあたりまえださ。第一彼らの講義を聞いてもわかるじゃないか。話せるものは一人もいやしない」

と、手ひどいことを平気で言ったのには三四郎も驚いた。

原文を見る

と手ひどいことを平気で言ったには三四郎も驚いた。

この男は佐々木与次郎といって、専門学校を卒業して、今年また選科(せんか。決まった学科だけを学ぶ課程)へ入ったのだそうだ。

原文を見る

この男は佐々木与次郎ささきよじろうといって、専門学校を卒業して、今年また選科へはいったのだそうだ。

東片町の五番地の広田という家にいるから、遊びに来いと言う。

原文を見る

東片町ひがしかたまちの五番地の広田ひろたといううちにいるから、遊びに来いと言う。

下宿かと聞くと、なに、高等学校の先生の家だと答えた。

原文を見る

下宿かと聞くと、なに高等学校の先生の家だと答えた。

それからしばらくの間、三四郎は毎日学校へ通って、きちんと講義を聞いた。

原文を見る

それから当分のあいだ三四郎は毎日学校へ通って、律義りちぎに講義を聞いた。

必ず取らなくてはいけない科目のほかにも、時々出席してみた。

原文を見る

必修課目以外のものへも時々出席してみた。

それでも、まだ物足りない。

原文を見る

それでも、まだもの足りない。

そこで、ついには、自分の専門とまるで縁のないものにまで、時々は顔を出した。

原文を見る

そこでついには専攻課目にまるで縁故のないものまでへもおりおりは顔を出した。

しかし、たいていは二度か三度でやめてしまった。

原文を見る

しかしたいていは二度か三度でやめてしまった。

一か月と続いたのは少しもなかった。

原文を見る

一か月と続いたのは少しもなかった。

それでも平均して、一週間に約四十時間ほどになる。

原文を見る

それでも平均一週に約四十時間ほどになる。

いくらまじめな三四郎にも、四十時間は少し多すぎる。

原文を見る

いかな勤勉な三四郎にも四十時間はちと多すぎる。

三四郎は絶えず、一種の重さを感じていた。

原文を見る

三四郎はたえず一種の圧迫を感じていた。

それなのに物足りない。

原文を見る

しかるにもの足りない。

三四郎は楽しめなくなった。

原文を見る

三四郎は楽しまなくなった。

ある日、佐々木与次郎に会ってその話をすると、与次郎は四十時間と聞いて目を丸くして、「ばかばか」

原文を見る

ある日佐々木与次郎に会ってその話をすると、与次郎は四十時間と聞いて、目を丸くして、「ばかばか」

と言ったが、「下宿屋のまずい飯を一日に十回食ったら、物足りるようになるか考えてみろ」

原文を見る

と言ったが、「下宿屋のまずい飯を一日に十ぺん食ったらもの足りるようになるか考えてみろ」

と、いきなり気の利いた一言で三四郎をやっつけた。

原文を見る

といきなり警句でもって三四郎をどやしつけた。

三四郎はすぐさま恐れ入って、「どうしたらよかろう」

原文を見る

三四郎はすぐさま恐れ入って、「どうしたらよかろう」

と相談を持ちかけた。

原文を見る

と相談をかけた。

「電車に乗るがいい」

原文を見る

「電車に乗るがいい」

と与次郎が言った。

原文を見る

と与次郎が言った。

三四郎は何かたとえでもあることと思って、しばらく考えてみたが、べつにこれという思いつきも浮かばないので、

原文を見る

三四郎は何か寓意ぐういでもあることと思って、しばらく考えてみたが、べつにこれという思案も浮かばないので、

「本当の電車か」

原文を見る

「本当の電車か」

と聞き直した。

原文を見る

と聞き直した。

その時、与次郎はげらげら笑って、

原文を見る

その時与次郎はげらげら笑って、

「電車に乗って、東京を十五、六回乗り回しているうちには、自然と物足りるようになるさ」

原文を見る

「電車に乗って、東京を十五、六ぺん乗り回しているうちにはおのずからもの足りるようになるさ」

と言う。

原文を見る

と言う。

「なぜ」

原文を見る

「なぜ」

「なぜって、そう、生きている頭を死んだ講義で閉じこめては助からない。外へ出て風を入れるさ。その上に物足りるくふうはいくらでもあるが、まあ電車がいちばんの初歩で、しかもいちばん手軽だ」

原文を見る

「なぜって、そう、生きてる頭を、死んだ講義で封じ込めちゃ、助からない。外へ出て風を入れるさ。その上にもの足りる工夫はいくらでもあるが、まあ電車が一番の初歩でかつもっとも軽便だ」

その日の夕方、与次郎は三四郎を引っぱって、四丁目から電車に乗って新橋へ行って、新橋からまた引き返して日本橋へ来て、そこで降りて、

原文を見る

その日の夕方、与次郎は三四郎をらっして、四丁目から電車に乗って、新橋へ行って、新橋からまた引き返して、日本橋へ来て、そこで降りて、

「どうだ」

原文を見る

「どうだ」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

次に大通りから細い横町へ曲がって、平の家という看板のある料理屋へ上がって、晩ごはんを食べて酒を飲んだ。

原文を見る

次に大通りから細い横町へ曲がって、ひらという看板のある料理屋へ上がって、晩飯を食って酒を飲んだ。

そこの女中はみんな京都の言葉を使う。

原文を見る

そこの下女はみんな京都弁を使う。

とても、まとわりつくような感じである。

原文を見る

はなはだ纏綿てんめんしている。

表へ出た与次郎は赤い顔をして、また

原文を見る

表へ出た与次郎は赤い顔をして、また

「どうだ」

原文を見る

「どうだ」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

次に、本場の寄席へ連れて行ってやると言って、また細い横町へ入って、木原店という寄席に上がった。

原文を見る

次に本場の寄席よせへ連れて行ってやると言って、また細い横町へはいって、木原店きはらだなという寄席を上がった。

ここで小さんという落語家を聞いた。

原文を見る

ここでさんという落語家はなしかを聞いた。

十時過ぎ、通りへ出た与次郎は、また

原文を見る

十時過ぎ通りへ出た与次郎は、また

「どうだ」

原文を見る

「どうだ」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

三四郎は物足りたとは答えなかった。

原文を見る

三四郎は物足りたとは答えなかった。

しかし、まるで物足りない気持ちもしなかった。

原文を見る

しかしまんざらもの足りない心持ちもしなかった。

すると与次郎は、大いに小さん論を始めた。

原文を見る

すると与次郎は大いに小さん論を始めた。

小さんは天才である。

原文を見る

小さんは天才である。

あんな芸術家はめったに出るものじゃない。

原文を見る

あんな芸術家はめったに出るものじゃない。

いつでも聞けると思うから安っぽい感じがして、はなはだ気の毒だ。

原文を見る

いつでも聞けると思うから安っぽい感じがして、はなはだ気の毒だ。

じつは、彼と同じ時代に生きている我々はたいへんしあわせである。

原文を見る

じつは彼と時を同じゅうして生きている我々はたいへんなしあわせである。

今から少し前に生まれても小さんは聞けない。

原文を見る

今から少しまえに生まれても小さんは聞けない。

少しおくれても同じだ。――

原文を見る

少しおくれても同様だ。――

円遊もうまい。

原文を見る

円遊えんゆうもうまい。

しかし小さんとは味わいが違っている。

原文を見る

しかし小さんとは趣が違っている。

円遊の演じる太鼓持ち(宴会をもり上げる男)は、太鼓持ちになった円遊だからおもしろいので、小さんのやる太鼓持ちは、小さんをはなれた太鼓持ちだからおもしろい。

原文を見る

円遊のふんした太鼓持たいこもちは、太鼓持になった円遊だからおもしろいので、小さんのやる太鼓持は、小さんを離れた太鼓持だからおもしろい。

円遊の演じる人物から円遊を隠せば、人物がまるで消えてしまう。

原文を見る

円遊の演ずる人物から円遊を隠せば、人物がまるで消滅してしまう。

小さんの演じる人物から、いくら小さんを隠したって、人物は生き生きと動くばかりだ。

原文を見る

小さんの演ずる人物から、いくら小さんを隠したって、人物は活発溌地はっちに躍動するばかりだ。

そこがえらい。

原文を見る

そこがえらい。

与次郎はこんなことを言って、また

原文を見る

与次郎はこんなことを言って、また

「どうだ」

原文を見る

「どうだ」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

実を言うと、三四郎には小さんの味わいがよくわからなかった。

原文を見る

実をいうと三四郎には小さんの味わいがよくわからなかった。

その上、円遊というものは今まで一度も聞いたことがない。

原文を見る

そのうえ円遊なるものはいまだかつて聞いたことがない。

だから与次郎の説が正しいかどうかは、判断しにくい。

原文を見る

したがって与次郎の説の当否は判定しにくい。

しかし、その比べ方がほとんど文学的と言えるほど的を射ているのには感心した。

原文を見る

しかしその比較のほとんど文学的といいうるほどに要領を得たには感服した。

高等学校の前で別れる時、三四郎は、

原文を見る

高等学校の前で別れる時、三四郎は、

「ありがとう、大いに物足りた」

原文を見る

「ありがとう、大いにもの足りた」

とお礼を述べた。

原文を見る

と礼を述べた。

すると与次郎は、

原文を見る

すると与次郎は、

「これから先は図書館でなくては物足りない」

原文を見る

「これからさきは図書館でなくっちゃもの足りない」

と言って、片町のほうへ曲がってしまった。

原文を見る

と言って片町かたまちの方へ曲がってしまった。

この一言で、三四郎は初めて図書館に入ることを知った。

原文を見る

この一言で三四郎ははじめて図書館にはいることを知った。

その翌日から、三四郎は四十時間の講義をほとんど半分に減らしてしまった。

原文を見る

その翌日から三四郎は四十時間の講義をほとんど半分に減らしてしまった。

そうして図書館に入った。

原文を見る

そうして図書館にはいった。

広く、長く、天井が高く、左右に窓のたくさんある建物であった。

原文を見る

広く、長く、天井が高く、左右に窓のたくさんある建物であった。

本をしまう部屋は入口しか見えない。

原文を見る

書庫は入口しか見えない。

こちらの正面からのぞくと、奥には本がいくらでも置いてあるように思われる。

原文を見る

こっちの正面からのぞくと奥には、書物がいくらでも備えつけてあるように思われる。

立って見ていると、本の部屋の中から厚い本を二、三冊かかえて、出口へ来て左へ折れて行く人がある。

原文を見る

立って見ていると、書庫の中から、厚い本を二、三冊かかえて、出口へ来て左へ折れて行く者がある。

先生たちの読書室へ行く人である。

原文を見る

職員閲覧室へ行く人である。

中には必要な本をたなから取り下ろして、胸いっぱいに広げて、立ったまま調べている人もある。

原文を見る

なかには必要の本を書棚しょだなからとりおろして、胸いっぱいにひろげて、立ちながら調べている人もある。

三四郎はうらやましくなった。

原文を見る

三四郎はうらやましくなった。

奥まで行って二階へ上がって、それから三階へ上がって、本郷より高い所で、生きたものを近づけずに、紙のにおいをかぎながら、――読んでみたい。

原文を見る

奥まで行って二階へ上がって、それから三階へ上がって、本郷より高い所で、生きたものを近づけずに、紙のにおいをかぎながら、――読んでみたい。

けれども、何を読むかについては、べつにはっきりした考えがない。

原文を見る

けれども何を読むかにいたっては、べつにはっきりした考えがない。

読んでみなければわからないが、何かあの奥にたくさんありそうに思う。

原文を見る

読んでみなければわからないが、何かあの奥にたくさんありそうに思う。

三四郎は一年生だから、本の部屋へ入る資格がない。

原文を見る

三四郎は一年生だから書庫へはいる権利がない。

しかたなしに、大きな箱入りのカード目録をかがんで一枚一枚調べて行くと、いくらめくってもあとから新しい本の名が出てくる。

原文を見る

しかたなしに、大きな箱入りの札目録ふだもくろくを、こごんで一枚一枚調べてゆくと、いくらめくってもあとから新しい本の名が出てくる。

しまいに肩が痛くなった。

原文を見る

しまいに肩が痛くなった。

顔を上げて、休みがてら中を見回すと、さすがに図書館だけあって静かなものである。

原文を見る

顔を上げて、中休みに、館内を見回すと、さすがに図書館だけあって静かなものである。

しかも人がたくさんいる。

原文を見る

しかも人がたくさんいる。

そうして、向こうのはずれにいる人の頭が黒く見える。

原文を見る

そうして向こうのはずれにいる人の頭が黒く見える。

目や口ははっきりしない。

原文を見る

目口ははっきりしない。

高い窓の外から、ところどころに木が見える。

原文を見る

高い窓の外から所々に木が見える。

空も少し見える。

原文を見る

空も少し見える。

遠くから町の音がする。

原文を見る

遠くから町の音がする。

三四郎は立ったまま、学者の生活は静かで深いものだと考えた。

原文を見る

三四郎は立ちながら、学者の生活は静かで深いものだと考えた。

それで、その日はそのまま帰った。

原文を見る

それでその日はそのまま帰った。

次の日は空想をやめて、入るとさっそく本を借りた。

原文を見る

次の日は空想をやめて、はいるとさっそく本を借りた。

しかし借りそこなったので、すぐ返した。

原文を見る

しかし借りそくなったので、すぐ返した。

あとから借りた本はむずかしすぎて読めなかったから、また返した。

原文を見る

あとから借りた本はむずかしすぎて読めなかったからまた返した。

三四郎はこういうふうにして、毎日本を八、九冊ずつは必ず借りた。

原文を見る

三四郎はこういうふうにして毎日本を八、九冊ずつは必ず借りた。

もっとも、たまには少し読んだのもある。

原文を見る

もっともたまにはすこし読んだのもある。

三四郎が驚いたのは、どんな本を借りても、きっとだれかが一度は目を通しているという事実を見つけた時であった。

原文を見る

三四郎が驚いたのは、どんな本を借りても、きっとだれか一度は目を通しているという事実を発見した時であった。

それは本の中のここかしこに見える鉛筆のあとでたしかである。

原文を見る

それは書中ここかしこに見える鉛筆のあとでたしかである。

ある時、三四郎は念のため、アフラ・ベーンという作家の小説を借りてみた。

原文を見る

ある時三四郎は念のため、アフラ・ベーンという作家の小説を借りてみた。

開けるまでは、まさかと思ったが、見るとやはり鉛筆でていねいに印がつけてあった。

原文を見る

あけるまでは、よもやと思ったが、見るとやはり鉛筆で丁寧にしるしがつけてあった。

この時、三四郎は、これはとてもやりきれないと思った。

原文を見る

この時三四郎はこれはとうていやりきれないと思った。

そこへ窓の外を楽隊が通ったので、つい散歩に出る気になって、通りへ出て、とうとう青木堂へ入った。

原文を見る

ところへ窓の外を楽隊が通ったんで、つい散歩に出る気になって、通りへ出て、とうとう青木堂へはいった。

入ってみると客が二組あって、どちらも学生であったが、向こうの隅にたった一人はなれてお茶を飲んでいた男がある。

原文を見る

はいってみると客が二組あって、いずれも学生であったが、向こうのすみにたった一人離れて茶を飲んでいた男がある。

三四郎がふと、その横顔を見ると、どうも東京へ来る時に汽車の中で桃をたくさん食べた人のようである。

原文を見る

三四郎がふとその横顔を見ると、どうも上京の節汽車の中で水蜜桃すいみつとうをたくさん食った人のようである。

向こうは気がつかない。

原文を見る

向こうは気がつかない。

お茶を一口飲んではたばこを一服吸って、たいへんゆっくり構えている。

原文を見る

茶を一口飲んでは煙草たばこを一吸いすって、たいへんゆっくり構えている。

今日は白地のゆかたをやめて、背広を着ている。

原文を見る

きょうは白地しろじ浴衣ゆかたをやめて、背広を着ている。

しかし、けっして立派なものじゃない。

原文を見る

しかしけっしてりっぱなものじゃない。

光のおす力の野々宮君より、白いシャツだけがましなくらいのものである。

原文を見る

光線の圧力の野々宮君より白シャツだけがましなくらいなものである。

三四郎は様子を見ているうちに、たしかに桃の人だと見きわめた。

原文を見る

三四郎は様子を見ているうちにたしかに水蜜桃だと物色ぶっしょくした。

大学の講義を聞いてから、汽車の中でこの男の話したことが、なんだか急に意味のあるように思われ出したところなので、三四郎はそばへ行ってあいさつをしようかと思った。

原文を見る

大学の講義を聞いてから以来、汽車の中でこの男の話したことがなんだか急に意義のあるように思われだしたところなので、三四郎はそばへ行って挨拶あいさつをしようかと思った。

けれども相手は正面を見たまま、お茶を飲んではたばこを吸い、たばこを吸ってはお茶を飲んでいる。

原文を見る

けれども先方は正面を見たなり、茶を飲んでは煙草をふかし、煙草をふかしては茶を飲んでいる。

手の出しようがない。

原文を見る

手の出しようがない。

三四郎はじっとその横顔を眺めていたが、突然コップにあるぶどう酒を飲み干して、表へ飛び出した。

原文を見る

三四郎はじっとその横顔をながめていたが、突然コップにある葡萄酒ぶどうしゅを飲み干して、表へ飛び出した。

そうして図書館に帰った。

原文を見る

そうして図書館に帰った。

その日はぶどう酒の勢いと、一種の気分の働きとで、いつになくおもしろい勉強ができたので、三四郎は大いにうれしく思った。

原文を見る

その日は葡萄酒の景気と、一種の精神作用とで、例になくおもしろい勉強ができたので、三四郎は大いにうれしく思った。

二時間ほど読書に打ちこんだのち、ようやく気がついて、そろそろ帰る支度をしながら、いっしょに借りた本のうち、まだ開けてみなかった最後の一冊を何気なくめくってみると、本の初めのあいた所に、乱暴にも鉛筆でいっぱい何か書いてある。

原文を見る

二時間ほど読書三昧ざんまいに入ったのち、ようやく気がついて、そろそろ帰るしたくをしながら、いっしょに借りた書物のうち、まだあけてみなかった最後の一冊を何気なく引っぺがしてみると、本の見返しのあいた所に、乱暴にも、鉛筆でいっぱい何か書いてある。

「ヘーゲルがベルリン大学で哲学を講じた時、ヘーゲルには少しも哲学を売る気はなかった。彼の講義は真理を説く講義ではなく、真理を身につけた人の講義である。舌の講義ではなく、心の講義である。真理と人とが溶け合って一つになった時、その説くところ、言うところは、講義のための講義ではなく、道のための講義となる。哲学の講義はここに至って初めて聞く値打ちがある。むだに真理を舌先でころがすものは、死んだ墨で死んだ紙の上にむなしい書き取りを残すにすぎない。何の意味があろう。……自分は今、試験のため、つまり食べるために、うらみをのみ、なみだをのんでこの本を読む。ずきずきする頭を押さえて、いつまでも試験のしくみをのろうことを覚えておけ」

原文を見る

「ヘーゲルのベルリン大学に哲学を講じたる時、ヘーゲルにごうも哲学を売るの意なし。彼の講義は真を説くの講義にあらず、真を体せる人の講義なり。舌の講義にあらず、心の講義なり。真と人と合して醇化じゅんか一致せる時、その説くところ、言うところは、講義のための講義にあらずして、道のための講義となる。哲学の講義はここに至ってはじめて聞くべし。いたずらに真を舌頭に転ずるものは、死したる墨をもって、死したる紙の上に、むなしき筆記を残すにすぎず。なんの意義かこれあらん。……今試験のため、すなわちパンのために、恨みをのみ涙をのんでこの書を読む。岑々しんしんたるかしらをおさえて未来永劫えいごうに試験制度を呪詛じゅそすることを記憶せよ」

とある。

原文を見る

とある。

署名はもちろんない。

原文を見る

署名はむろんない。

三四郎は思わずほほえんだ。

原文を見る

三四郎は覚えず微笑した。

けれども、どこか目を開かれたような気がした。

原文を見る

けれどもどこか啓発されたような気がした。

哲学ばかりじゃない、文学もこのとおりだろうと考えながらページをめくると、まだある。

原文を見る

哲学ばかりじゃない、文学もこのとおりだろうと考えながら、ページをはぐると、まだある。

「ヘーゲルの……」

原文を見る

「ヘーゲルの……」

よほどヘーゲルの好きな男と見える。

原文を見る

よほどヘーゲルの好きな男とみえる。

「ヘーゲルの講義を聞こうとして四方からベルリンに集まった学生は、この講義を食べるための元手に使おうという野心で集まったのではない。ただ哲人ヘーゲルという人があって、講壇の上でこの上ない、だれにも通じる真理を伝えると聞いて、上を目ざし、道を求める思いがつのるあまり、壇の下で自分の心にわだかまる疑いを解きたいと願った、その清らかな心の現れにほかならない。だから彼らはヘーゲルを聞いて、自分の未来を決めることができた。自分の運命を作り直すことができた。ぼんやり講義を聞いて、ぼんやり卒業して行く諸君ら日本の大学生と同じことだと思うのは、とんだうぬぼれである。諸君らはタイプライターにすぎない。しかも欲張ったタイプライターである。諸君らのすること、思うこと、言うことは、ついに切実な社会の生きた動きに関わらない。死ぬまでぼんやりであるかな。死ぬまでぼんやりであるかな」

原文を見る

「ヘーゲルの講義を聞かんとして、四方よりベルリンに集まれる学生は、この講義を衣食の資に利用せんとの野心をもって集まれるにあらず。ただ哲人ヘーゲルなるものありて、講壇の上に、無上普遍の真を伝うると聞いて、向上求道ぐどうの念に切なるがため、壇下に、わが不穏底ふおんていの疑義を解釈せんと欲したる清浄心しょうじょうしんの発現にほかならず。このゆえに彼らはヘーゲルを聞いて、彼らの未来を決定けつじょうしえたり。自己の運命を改造しえたり。のっぺらぼうに講義を聞いて、のっぺらぼうに卒業し去る公ら日本の大学生と同じ事と思うは、天下の己惚うぬぼれなり。公らはタイプ・ライターにすぎず。しかも欲張ったるタイプ・ライターなり。公らのなすところ、思うところ、言うところ、ついに切実なる社会の活気運に関せず。死に至るまでのっぺらぼうなるかな。死に至るまでのっぺらぼうなるかな」

と、ぼんやりを二度繰り返している。

原文を見る

と、のっぺらぼうを二へん繰り返している。

三四郎は黙って考えこんでいた。

原文を見る

三四郎は黙然として考え込んでいた。

すると、後ろからちょいと肩をたたいた人がある。

原文を見る

すると、うしろからちょいと肩をたたいた者がある。

例の与次郎であった。

原文を見る

例の与次郎であった。

与次郎を図書館で見かけるのは珍しい。

原文を見る

与次郎を図書館で見かけるのは珍しい。

彼は講義はだめだが、図書館は大切だと言い張る男である。

原文を見る

彼は講義はだめだが、図書館は大切だと主張する男である。

けれども、言うとおりには入ることも少ない男である。

原文を見る

けれども主張どおりにはいることも少ない男である。

「おい、野々宮宗八さんが君を捜していた」

原文を見る

「おい、野々宮宗八さんが、君を捜していた」

と言う。

原文を見る

と言う。

与次郎が野々宮君を知っていようとは思いがけなかったから、念のため理科大学の野々宮さんかと聞き直すと、うんという答えを得た。

原文を見る

与次郎が野々宮君を知ろうとは思いがけなかったから、念のため理科大学の野々宮さんかと聞き直すと、うんという答を得た。

さっそく本を置いて、入口の新聞を読む所まで出て行ったが、野々宮君がいない。

原文を見る

さっそく本を置いて入口の新聞を閲覧する所まで出て行ったが、野々宮君がいない。

玄関まで出てみたが、やはりいない。

原文を見る

玄関まで出てみたがやっぱりいない。

石段を降りて、首を伸ばしてそのあたりを見回したが、影も形も見えない。

原文を見る

石段を降りて、首を延ばしてその辺を見回したが影も形も見えない。

しかたなく引き返した。

原文を見る

やむを得ず引き返した。

もとの席へ来てみると、与次郎が例のヘーゲル論を指して、小さな声で、

原文を見る

もとの席へ来てみると、与次郎が、例のヘーゲル論をさして、小さな声で、

「だいぶ威勢がいい。昔の卒業生に違いない。昔のやつは乱暴だが、どこかおもしろいところがある。実際このとおりだ」

原文を見る

「だいぶふるってる。昔の卒業生に違いない。昔のやつは乱暴だが、どこかおもしろいところがある。実際このとおりだ」

と、にやにやしている。

原文を見る

とにやにやしている。

だいぶ気に入ったらしい。

原文を見る

だいぶ気に入ったらしい。

三四郎は

原文を見る

三四郎は

「野々宮さんはいないぜ」

原文を見る

「野々宮さんはおらんぜ」

と言う。

原文を見る

と言う。

「さっき入口にいたがな」

原文を見る

「さっき入口にいたがな」

「何か用があるようだったか」

原文を見る

「何か用があるようだったか」

「あるようでもあった」

原文を見る

「あるようでもあった」

二人はいっしょに図書館を出た。

原文を見る

二人はいっしょに図書館を出た。

その時、与次郎が話した。――

原文を見る

その時与次郎が話した。――

野々宮君は、自分が世話になっている広田先生の、もとの弟子でよく来る。

原文を見る

野々宮君は自分の寄寓きぐうしている広田先生の、もとの弟子でしでよく来る。

たいへんな学問好きで、研究もだいぶある。

原文を見る

たいへんな学問好きで、研究もだいぶある。

その道の人なら、西洋人でもみんな野々宮君の名を知っている。

原文を見る

その道の人なら、西洋人でもみんな野々宮君の名を知っている。

三四郎はまた、野々宮君の先生で、昔正門の中で馬に苦しめられた人の話を思い出して、あるいはそれが広田先生ではなかろうかと考え出した。

原文を見る

三四郎はまた、野々宮君の先生で、昔正門内で馬に苦しめられた人の話を思い出して、あるいはそれが広田先生ではなかろうかと考えだした。

与次郎にそのことを話すと、与次郎は、ことによるとうちの先生だ、そんなことをやりかねない人だと言って笑っていた。

原文を見る

与次郎にその事を話すと、与次郎は、ことによると、うちの先生だ、そんなことをやりかねない人だと言って笑っていた。

その翌日はちょうど日曜なので、学校では野々宮君に会うわけにいかない。

原文を見る

その翌日はちょうど日曜なので、学校では野々宮君に会うわけにゆかない。

しかし昨日自分を捜していたことが気がかりになる。

原文を見る

しかしきのう自分を捜していたことが気がかりになる。

さいわい、まだ新しい家を訪ねたことがないから、こちらから行って用事を聞いて来ようという気になった。

原文を見る

さいわいまだ新宅を訪問したことがないから、こっちから行って用事を聞いてきようという気になった。

思い立ったのは朝であったが、新聞を読んでぐずぐずしているうちに昼になる。

原文を見る

思い立ったのは朝であったが、新聞を読んでぐずぐずしているうちに昼になる。

昼ごはんを食べたから出かけようとすると、久しぶりに熊本出身の友人が来る。

原文を見る

昼飯ひるを食べたから、出かけようとすると、久しぶりに熊本出の友人が来る。

ようやくそれを帰したのは、かれこれ四時過ぎである。

原文を見る

ようやくそれを帰したのはかれこれ四時過ぎである。

少しおそくなったが、決めたとおり出た。

原文を見る

ちとおそくなったが、予定のとおり出た。

野々宮の家はとても遠い。

原文を見る

野々宮の家はすこぶる遠い。

四、五日前に大久保へ引っこした。

原文を見る

四、五日前大久保おおくぼへ越した。

しかし電車を使えばすぐに行かれる。

原文を見る

しかし電車を利用すれば、すぐに行かれる。

何でも駅の近くと聞いているから、捜すのに不便はない。

原文を見る

なんでも停車場ステーションの近辺と聞いているから、捜すに不便はない。

実を言うと、三四郎は例の平の家へ行って以来、とんだ失敗をしている。

原文を見る

実をいうと三四郎はかの平野家行き以来とんだ失敗をしている。

神田の高等商業学校へ行くつもりで本郷四丁目から乗ったところが、乗り越して九段まで来て、ついでに飯田橋まで運ばれて、そこでようやく外濠線へ乗り換えて、御茶ノ水から神田橋へ出て、まだ気づかずに鎌倉河岸を数寄屋橋のほうへ向いて急いで行ったことがある。

原文を見る

神田かんだの高等商業学校へ行くつもりで、本郷四丁目から乗ったところが、乗り越して九段くだんまで来て、ついでに飯田橋いいだばしまで持ってゆかれて、そこでようやく外濠線そとぼりせんへ乗り換えて、御茶おちゃみずから、神田橋へ出て、まだ悟らずに鎌倉河岸かまくらがし数寄屋橋すきやばしの方へ向いて急いで行ったことがある。

それ以来、電車はどうも危なっかしい感じがしてならないのだが、甲武線は一本道だと前から聞いているから、安心して乗った。

原文を見る

それより以来電車はとかくぶっそうな感じがしてならないのだが、甲武線こうぶせん一筋ひとすじだと、かねて聞いているから安心して乗った。

大久保の駅を降りて、仲百人の通りを戸山学校のほうへ行かずに、ふみきりからすぐ横へ折れると、ほとんど一メートルばかりの細い道になる。

原文を見る

大久保の停車場を降りて、仲百人なかひゃくにんの通りを戸山とやま学校の方へ行かずに、踏切からすぐ横へ折れると、ほとんど三尺ばかりの細い道になる。

それを、つま先上がりにだらだらと上がると、まばらなもうそう竹の林がある。

原文を見る

それを爪先つまさき上がりにだらだらと上がると、まばらな孟宗藪もうそうやぶがある。

その林の手前と先に、一軒ずつ人が住んでいる。

原文を見る

その藪の手前と先に一軒ずつ人が住んでいる。

野々宮の家は、その手前のほうであった。

原文を見る

野々宮の家はその手前の分であった。

小さな門が、道の向きにまるで関係のないような位置に、ななめに立っていた。

原文を見る

小さな門が道の向きにまるで関係のないような位置にすじかいに立っていた。

入ると、家がまた見当違いの所にあった。

原文を見る

はいると、家がまた見当違いの所にあった。

門も入口も、まったくあとからつけたものらしい。

原文を見る

門も入口もまったくあとからつけたものらしい。

台所のわきに立派な生け垣があって、庭のほうには、かえって仕切りも何もない。

原文を見る

台所のわきにりっぱな生垣いけがきがあって、庭の方にはかえって仕切りもなんにもない。

ただ大きなはぎが人の背より高く伸びて、座敷の縁側を少し隠しているばかりである。

原文を見る

ただ大きなはぎが人の背より高く延びて、座敷の椽側えんがわを少し隠しているばかりである。

野々宮君はこの縁側に椅子を持ち出して、それに腰かけて西洋の雑誌を読んでいた。

原文を見る

野々宮君はこの椽側に椅子いすを持ち出して、それへ腰を掛けて西洋の雑誌を読んでいた。

三四郎が入って来たのを見て、

原文を見る

三四郎のはいって来たのを見て、

「こっちへ」

原文を見る

「こっちへ」

と言った。

原文を見る

と言った。

まるで理科大学の地下の中と同じあいさつである。

原文を見る

まるで理科大学の穴倉の中と同じ挨拶である。

庭から入るべきか、玄関から回るべきか、三四郎は少しためらっていた。

原文を見る

庭からはいるべきのか、玄関から回るべきのか、三四郎は少しく躊躇ちゅうちょしていた。

すると、また

原文を見る

するとまた

「こっちへ」

原文を見る

「こっちへ」

とせかすので、思い切って庭から上がることにした。

原文を見る

と催促するので、思い切って庭から上がることにした。

座敷はつまり書斎で、広さは八畳、わりに西洋の本がたくさんある。

原文を見る

座敷はすなわち書斎で、広さは八畳で、わりあいに西洋の書物がたくさんある。

野々宮君は椅子をはなれて座った。

原文を見る

野々宮君は椅子を離れてすわった。

三四郎は、静かな所だとか、わりに御茶ノ水まで早く出られるとか、望遠鏡の実験はどうなりましたとか、――しまりのない、その場の話をしたあと、

原文を見る

三四郎は閑静な所だとか、わりあいに御茶の水まで早く出られるとか、望遠鏡の試験はどうなりましたとか、――締まりのない当座の話をやったあと、

「昨日私を捜しておいでだったそうですが、何か御用ですか」

原文を見る

「きのう私を捜しておいでだったそうですが、何か御用ですか」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

すると野々宮君は少し気の毒そうな顔をして、

原文を見る

すると野々宮君は、少し気の毒そうな顔をして、

「なに、じつは何でもないですよ」

原文を見る

「なにじつはなんでもないですよ」

と言った。

原文を見る

と言った。

三四郎はただ「はあ」

原文を見る

三四郎はただ「はあ」

と言った。

原文を見る

と言った。

「それでわざわざ来てくれたんですか」

原文を見る

「それでわざわざ来てくれたんですか」

「なに、そういうわけでもありません」

原文を見る

「なに、そういうわけでもありません」

「じつは、お国のお母さんがね、せがれがいろいろお世話になるからと言って、けっこうなものを送ってくださったから、ちょっとあなたにもお礼を言おうと思って……」

原文を見る

「じつはお国のおっかさんがね、せがれがいろいろお世話になるからと言って、結構なものを送ってくださったから、ちょっとあなたにもお礼を言おうと思って……」

「はあ、そうですか。何か送って来ましたか」

原文を見る

「はあ、そうですか。何か送ってきましたか」

「ええ、赤い魚のかす漬けなんですがね」

原文を見る

「ええ赤いさかな粕漬かすづけなんですがね」

「じゃ、ひめいちでしょう」

原文を見る

「じゃひめいちでしょう」

三四郎は、つまらないものを送ったものだと思った。

原文を見る

三四郎はつまらんものを送ったものだと思った。

しかし野々宮君は、そのひめいちについていろいろなことを質問した。

原文を見る

しかし野々宮君はかのひめいちについていろいろな事を質問した。

三四郎は、とくに食べる時の心得を説明した。

原文を見る

三四郎は特に食う時の心得を説明した。

酒かすごと焼いて、いざ皿へ移すという時にかすを取らないと味が抜けると言って教えてやった。

原文を見る

粕ごと焼いて、いざさらへうつすという時に、粕を取らないと味が抜けると言って教えてやった。

二人がひめいちについてやりとりをしているうちに、日が暮れた。

原文を見る

二人がひめいちについて問答をしているうちに、日が暮れた。

三四郎はもう帰ろうと思ってあいさつをしかけるところへ、どこからか電報が来た。

原文を見る

三四郎はもう帰ろうと思って挨拶あいさつをしかけるところへ、どこからか電報が来た。

野々宮君は封を切って電報を読んだが、口の中で「困ったな」

原文を見る

野々宮君は封を切って、電報を読んだが、口のうちで、「困ったな」

と言った。

原文を見る

と言った。

三四郎はすましているわけにもいかず、かといって、むやみに立ち入ったことを聞く気にもならなかったので、ただ、

原文を見る

三四郎はすましているわけにもゆかず、といってむやみに立ち入った事を聞く気にもならなかったので、ただ、

「何かありましたか」

原文を見る

「何かできましたか」

と、ぶっきらぼうに聞いた。

原文を見る

と棒のように聞いた。

すると野々宮君は、

原文を見る

すると野々宮君は、

「なに、たいしたことでもないのです」

原文を見る

「なにたいしたことでもないのです」

と言って、手に持った電報を三四郎に見せてくれた。

原文を見る

と言って、手に持った電報を、三四郎に見せてくれた。

すぐ来てくれとある。

原文を見る

すぐ来てくれとある。

「どこかへおいでになるのですか」

原文を見る

「どこかへおいでになるのですか」

「ええ、妹がこの間から病気をして大学の病院に入っているんですが、それがすぐ来てくれと言うんです」

原文を見る

「ええ、妹がこのあいだから病気をして、大学の病院にはいっているんですが、そいつがすぐ来てくれと言うんです」

と、まるで騒ぐ様子もない。

原文を見る

といっこう騒ぐ気色けしきもない。

三四郎のほうが、かえって驚いた。

原文を見る

三四郎のほうはかえって驚いた。

野々宮君の妹と、妹の病気と、大学の病院をいっしょにまとめて、それに池のまわりで会った女の人を加えて、それを一度にかき回して驚いている。

原文を見る

野々宮君の妹と、妹の病気と、大学の病院をいっしょにまとめて、それに池の周囲で会った女を加えて、それを一どきにかき回して、驚いている。

「じゃ、よほどお悪いんですな」

原文を見る

「じゃ、よほどお悪いんですな」

「なに、そうじゃないんでしょう。じつは母が看病に行っているんですが、――もし病気のためなら、電車に乗って駆けて来たほうが早いわけですからね。――なに、妹のいたずらでしょう。ばかだから、よくこんなまねをします。ここへ引っこしてからまだ一度も行かないものだから、今日の日曜には来ると思って待ってでもいたのでしょう、それで」

原文を見る

「なにそうじゃないんでしょう。じつは母が看病に行ってるんですが、――もし病気のためなら、電車へ乗って駆けて来たほうが早いわけですからね。――なに妹のいたずらでしょう。ばかだから、よくこんなまねをします。ここへ越してからまだ一ぺんも行かないものだから、きょうの日曜には来ると思って待ってでもいたのでしょう、それで」

と言って、首を横に曲げて考えた。

原文を見る

と言って首を横に曲げて考えた。

「しかし、おいでになったほうがいいでしょう。もし悪いといけません」

原文を見る

「しかしおいでになったほうがいいでしょう。もし悪いといけません」

「そうですね。四、五日行かないうちに、そう急に変わるわけもなさそうですが、まあ行ってみるか」

原文を見る

「さよう。五日ごんち行かないうちにそう急に変るわけもなさそうですが、まあ行ってみるか」

「おいでになるに越したことはないでしょう」

原文を見る

「おいでになるにしくはないでしょう」

野々宮は行くことにした。

原文を見る

野々宮は行くことにした。

行くと決めたについては、三四郎に頼みがあると言い出した。

原文を見る

行くときめたについては、三四郎に頼みがあると言いだした。

万一、病気のための電報だとすると、今夜は帰れない。

原文を見る

万一病気のための電報とすると、今夜は帰れない。

すると留守が女中一人になる。

原文を見る

すると留守るすが下女一人になる。

女中がとてもおくびょうで、近所がことのほか物騒である。

原文を見る

下女が非常に臆病おくびょうで、近所がことのほかぶっそうである。

来合わせたのがちょうどさいわいだから、明日の授業に差し支えがなければ泊まってくれまいか、もっとも、ただの電報ならばすぐ帰って来る。

原文を見る

来合わせたのがちょうど幸いだから、あすの課業にさしつかえがなければ泊ってくれまいか、もっともただの電報ならばすぐ帰ってくる。

前からわかっていれば例の佐々木でも頼むはずだったが、今からではとても間に合わない。

原文を見る

まえからわかっていれば、例の佐々木でも頼むはずだったが、今からではとても間に合わない。

たった一晩のことではあるし、病院へ泊まるか泊まらないかまだわからないうちから、関係もない人にめいわくをかけるのはわがまますぎて、ぜひにとは言いかねるが、――もちろん野々宮はこう、すらすらとは頼まなかったが、相手の三四郎が、そう、すらすら頼まれる必要のない男だから、すぐ承知してしまった。

原文を見る

たった一晩のことではあるし、病院へ泊るか、泊らないか、まだわからないさきから、関係もない人に、迷惑をかけるのはわがまますぎて、しいてとは言いかねるが、――むろん野々宮はこう流暢りゅうちょうには頼まなかったが、相手の三四郎が、そう流暢に頼まれる必要のない男だから、すぐ承知してしまった。

女中がごはんはと言うのを、「食べない」

原文を見る

下女が御飯はというのを、「食わない」

と言ったまま、三四郎に「失礼だが、君一人であとで食べてください」

原文を見る

と言ったまま、三四郎に「失敬だが、君一人で、あとで食ってください」

と、夕ごはんまで置き去りにして出て行った。

原文を見る

と夕飯まで置き去りにして、出ていった。

行ったと思ったら、暗いはぎの間から大きな声を出して、

原文を見る

行ったと思ったら暗いはぎの間から大きな声を出して、

「ぼくの書斎にある本は何でも読んでいいです。べつにおもしろいものもないが、何か御覧なさい。小説も少しはある」

原文を見る

「ぼくの書斎にある本はなんでも読んでいいです。別におもしろいものもないが、何か御覧なさい。小説も少しはある」

と言ったまま消えてなくなった。

原文を見る

と言ったまま消えてなくなった。

縁側まで見送って三四郎がお礼を述べた時は、十平方メートルほどのもうそう竹の林の竹が、まばらなだけに一本ずつまだ見えた。

原文を見る

椽側まで見送って三四郎が礼を述べた時は、三坪みつぼほどな孟宗藪の竹が、まばらなだけに一本ずつまだ見えた。

まもなく三四郎は八畳の書斎の真ん中で小さな膳を前にして、晩ごはんを食べた。

原文を見る

まもなく三四郎は八畳敷の書斎のまん中で小さいぜんを控えて、晩飯を食った。

膳の上を見ると、主人の言葉のとおり、例のひめいちがついている。

原文を見る

膳の上を見ると、主人の言葉にたがわず、かのひめいちがついている。

久しぶりでふるさとの香りをかいだようでうれしかったが、ごはんはそのわりにうまくなかった。

原文を見る

久しぶりで故郷ふるさとの香をかいだようでうれしかったが、飯はそのわりにうまくなかった。

給仕に出た女中の顔を見ると、これも主人の言ったとおり、おくびょうそうにできた目鼻であった。

原文を見る

お給仕に出た下女の顔を見ると、これも主人の言ったとおり、臆病にできた目鼻であった。

ごはんがすむと女中は台所へ下がる。

原文を見る

飯が済むと下女は台所へ下がる。

三四郎は一人になる。

原文を見る

三四郎は一人になる。

一人になって落ち着くと、野々宮君の妹のことが急に心配になってきた。

原文を見る

一人になっておちつくと、野々宮君の妹の事が急に心配になってきた。

とても危ないような気がする。

原文を見る

危篤きとくなような気がする。

野々宮君の駆けつけ方がおそいような気がする。

原文を見る

野々宮君の駆けつけ方がおそいような気がする。

そうして、妹がこの間見た女の人のような気がしてたまらない。

原文を見る

そうして妹がこのあいだ見た女のような気がしてたまらない。

三四郎はもう一度、女の人の顔つきと目つきと服装とを、あの時あのままに思い返して、それを病院の寝台の上に乗せて、そのそばに野々宮君を立たせて、二、三の会話をさせたが、兄では物足りないので、いつのまにか自分が代わりになって、いろいろ親切に世話をしていた。

原文を見る

三四郎はもう一ぺん、女の顔つきと目つきと、服装とを、あの時あのままに、繰り返して、それを病院の寝台ねだいの上に乗せて、そのそばに野々宮君を立たして、二、三の会話をさせたが、兄ではもの足らないので、いつのまにか、自分が代理になって、いろいろ親切に介抱していた。

そこへ汽車がごうと鳴って、もうそう竹の林のすぐ下を通った。

原文を見る

ところへ汽車がごうと鳴って孟宗藪のすぐ下を通った。

床下の具合か、土のせいか、座敷が少しふるえるようである。

原文を見る

根太ねだのぐあいか、土質のせいか座敷が少し震えるようである。

三四郎は看病をやめて、座敷を見回した。

原文を見る

三四郎は看病をやめて、座敷を見回した。

なるほど古い建物と思われて、柱に古びた味わいがある。

原文を見る

いかさま古い建物と思われて、柱にさびがある。

そのかわり、ふすまの立てつけが悪い。

原文を見る

その代り唐紙からかみの立てつけが悪い。

天井はまっ黒だ。

原文を見る

天井はまっ黒だ。

ランプばかりが今ふうに光っている。

原文を見る

ランプばかりが当世に光っている。

野々宮君のような新しい学者が、物好きにこんな家を借りて、大昔からのようなもうそう竹の林を見て暮らすのと同じことである。

原文を見る

野々宮君のような新式の学者が、もの好きにこんなうちを借りて、封建時代の孟宗藪を見て暮らすのと同格である。

物好きならば本人の勝手だが、もしお金にせまられて郊外に自分を追いやったとすると、たいへん気の毒である。

原文を見る

もの好きならば当人の随意だが、もし必要にせまられて、郊外にみずからを放逐したとすると、はなはだ気の毒である。

聞くところによると、あれだけの学者で、月にたった五十五円しか大学からもらっていないそうだ。

原文を見る

聞くところによると、あれだけの学者で、月にたった五十五円しか、大学からもらっていないそうだ。

だから、しかたなく私立学校へ教えに行くのだろう。

原文を見る

だからやむをえず私立学校へ教えにゆくのだろう。

それで妹に入院されてはたまるまい。

原文を見る

それで妹に入院されてはたまるまい。

大久保へ引っこしたのも、あるいはそんなお金の都合かもしれない。……

原文を見る

大久保へ越したのも、あるいはそんな経済上のつごうかもしれない。……

まだ夜の始めではあるが、場所が場所だけにしんとしている。

原文を見る

よいの口ではあるが、場所が場所だけにしんとしている。

庭の先で虫の音がする。

原文を見る

庭の先で虫のがする。

一人で座っていると、さびしい秋の初めである。

原文を見る

ひとりですわっていると、さみしい秋の初めである。

その時、遠い所でだれかが、

原文を見る

その時遠い所でだれか、

「ああああ、もう少しの間だ」

原文を見る

「ああああ、もう少しの間だ」

と言う声がした。

原文を見る

と言う声がした。

方角は家の裏手のようにも思えるが、遠いのではっきりとはわからなかった。

原文を見る

方角は家の裏手のようにも思えるが、遠いのでしっかりとはわからなかった。

また、方角を聞き分ける暇もないうちに終わってしまった。

原文を見る

また方角を聞き分ける暇もないうちに済んでしまった。

けれども三四郎の耳には、はっきりとこの一言が、すべてに捨てられた人の、すべてから返事を期待しない、本当のひとりごとと聞こえた。

原文を見る

けれども三四郎の耳には明らかにこの一句が、すべてに捨てられた人の、すべてから返事を予期しない、真実の独白ひとりごとと聞こえた。

三四郎は気味が悪くなった。

原文を見る

三四郎は気味が悪くなった。

そこへ、また汽車が遠くから響いて来た。

原文を見る

ところへまた汽車が遠くから響いて来た。

その音がだんだん近づいて、もうそう竹の林の下を通る時には、前の列車よりも倍も高い音を立てて過ぎ去った。

原文を見る

その音が次第に近づいて孟宗藪の下を通る時には、前の列車よりも倍も高い音を立てて過ぎ去った。

座敷の細かいふるえがやむまでぼんやりしていた三四郎は、火花のように、さっきのなげきの声と今の列車の響きとを、一つのつながりで結びつけた。

原文を見る

座敷の微震がやむまでは茫然ぼうぜんとしていた三四郎は、石火せっかのごとく、さっきの嘆声と今の列車の響きとを、一種の因果いんがで結びつけた。

そうして、ぎくんと飛び上がった。

原文を見る

そうして、ぎくんと飛び上がった。

そのつながりは恐ろしいものである。

原文を見る

その因果は恐るべきものである。

三四郎はこの時、じっと座っていることがとても難しいのを知った。

原文を見る

三四郎はこの時じっと座に着いていることのきわめて困難なのを発見した。

背中から足の裏までが、疑いと恐れの刺激でむずむずする。

原文を見る

背筋から足の裏までが疑惧ぎぐの刺激でむずむずする。

立って便所に行った。

原文を見る

立って便所に行った。

窓から外をのぞくと、一面の星空で、土手下の汽車の線路は死んだように静かである。

原文を見る

窓から外をのぞくと、一面の星月夜で、土手下の汽車道は死んだように静かである。

それでも竹格子の間から鼻を出すようにして、暗い所を眺めていた。

原文を見る

それでも竹格子たけごうしのあいだから鼻を出すくらいにして、暗い所をながめていた。

すると駅のほうから提灯(ちょうちん)をつけた男が、線路の上を伝ってこちらへ来る。

原文を見る

すると停車場ステーションの方から提灯ちょうちんをつけた男がレールの上を伝ってこっちへ来る。

話し声で判断すると三、四人らしい。

原文を見る

話し声で判じると三、四人らしい。

提灯の影はふみきりから土手下へ隠れて、もうそう竹の林の下を通る時は話し声だけになった。

原文を見る

提灯の影は踏切から土手下へ隠れて、孟宗藪の下を通る時は、話し声だけになった。

けれども、その言葉は手に取るように聞こえた。

原文を見る

けれども、その言葉は手に取るように聞こえた。

「もう少し先だ」

原文を見る

「もう少し先だ」

足音は向こうへ遠のいて行く。

原文を見る

足音は向こうへ遠のいて行く。

三四郎は庭先へ回って、下駄を突っかけたまま、もうそう竹の林の所から二メートル余りの土手をはい降りて、提灯のあとを追いかけて行った。

原文を見る

三四郎は庭先へ回って下駄を突っ掛けたまま孟宗藪の所から、一間余の土手をい降りて、提灯のあとを追っかけて行った。

十メートルほど行くか行かないうちに、また一人土手から飛び降りた人がある。――

原文を見る

五、六間行くか行かないうちに、また一人土手から飛び降りた者がある。――

「ひかれて死んだんじゃないですか」

原文を見る

轢死れきしじゃないですか」

三四郎は何か答えようとしたが、ちょっと声が出なかった。

原文を見る

三四郎は何か答えようとしたが、ちょっと声が出なかった。

そのうち黒い男は行き過ぎた。

原文を見る

そのうち黒い男は行き過ぎた。

これは野々宮君の奥に住んでいる家の主人だろうと、あとをつけながら考えた。

原文を見る

これは野々宮君の奥に住んでいる家の主人あるじだろうと、後をつけながら考えた。

五十メートルほど来ると提灯が止まっている。

原文を見る

半町ほどくると提灯が留まっている。

人も止まっている。

原文を見る

人も留まっている。

人は明かりをかざしたまま黙っている。

原文を見る

人はをかざしたまま黙っている。

三四郎は黙って明かりの下を見た。

原文を見る

三四郎は無言で灯の下を見た。

下には体が半分ある。

原文を見る

下には死骸しがいが半分ある。

汽車は右の肩から胸の下を腰の上まで、みごとに引きちぎって、ななめに切れた胴を置き去りにして行ったのである。

原文を見る

汽車は右の肩から乳の下を腰の上までみごとに引きちぎって、斜掛はすかけの胴を置き去りにして行ったのである。

顔は傷がない。

原文を見る

顔は無傷である。

若い女の人だ。

原文を見る

若い女だ。

三四郎は、その時の気持ちを今でも覚えている。

原文を見る

三四郎はその時の心持ちをいまだに覚えている。

すぐ帰ろうとして足を返しかけたが、足がすくんでほとんど動けなかった。

原文を見る

すぐ帰ろうとして、きびすをめぐらしかけたが、足がすくんでほとんど動けなかった。

土手をはい上がって座敷へもどったら、胸がどきどきし出した。

原文を見る

土手をい上がって、座敷へもどったら、動悸どうきが打ち出した。

水をもらおうと思って女中を呼ぶと、女中はさいわい何にも知らないらしい。

原文を見る

水をもらおうと思って、下女を呼ぶと、下女はさいわいになんにも知らないらしい。

しばらくすると、奥の家でなんだか騒ぎ出した。

原文を見る

しばらくすると、奥の家で、なんだか騒ぎ出した。

三四郎は、主人が帰ったんだなと悟った。

原文を見る

三四郎は主人が帰ったんだなとさとった。

やがて土手の下ががやがやする。

原文を見る

やがて土手の下ががやがやする。

それがすむと、また静かになる。

原文を見る

それが済むとまた静かになる。

ほとんど耐えられないほどの静けさであった。

原文を見る

ほとんど堪え難いほどの静かさであった。

三四郎の目の前には、ありありとさっきの女の人の顔が見える。

原文を見る

三四郎の目の前には、ありありとさっきの女の顔が見える。

その顔と「ああああ……」

原文を見る

その顔と「ああああ……」

と言った力のない声と、その二つの奥にひそんでいるはずのむごい運命とを、つなぎ合わせて考えてみると、人生という丈夫そうな命の根が、知らない間にゆるんで、いつでも暗闇へ浮き出して行きそうに思われる。

原文を見る

と言った力のない声と、その二つの奥に潜んでおるべきはずの無残な運命とを、継ぎ合わして考えてみると、人生という丈夫じょうぶそうな命の根が、知らぬまに、ゆるんで、いつでも暗闇くらやみへ浮き出してゆきそうに思われる。

三四郎は何もかもどうでもよくなるほどこわかった。

原文を見る

三四郎は欲も得もいらないほどこわかった。

ただ、ごうという一瞬である。

原文を見る

ただごうという一瞬間である。

その前まではたしかに生きていたに違いない。

原文を見る

そのまえまではたしかに生きていたに違いない。

三四郎はこの時ふと、汽車で桃をくれた男が、あぶないあぶない、気をつけないとあぶない、と言ったことを思い出した。

原文を見る

三四郎はこの時ふと汽車で水蜜桃をくれた男が、あぶないあぶない、気をつけないとあぶない、と言ったことを思い出した。

あぶないあぶないと言いながら、あの男はいやに落ち着いていた。

原文を見る

あぶないあぶないと言いながら、あの男はいやにおちついていた。

つまり、あぶないあぶないと言えるほどに、自分はあぶなくない位置に立っていれば、あんな男にもなれるだろう。

原文を見る

つまりあぶないあぶないと言いうるほどに、自分はあぶなくない地位に立っていれば、あんな男にもなれるだろう。

世の中にいて、世の中をわきから見ている人には、ここにおもしろみがあるかもしれない。

原文を見る

世の中にいて、世の中を傍観している人はここに面白味おもしろみがあるかもしれない。

どうも、あの桃の食べっぷりから、青木堂でお茶を飲んではたばこを吸い、たばこを吸ってはお茶を飲んで、じっと正面を見ていた様子は、まさにこの種の人物である。――

原文を見る

どうもあの水蜜桃の食いぐあいから、青木堂で茶を飲んでは煙草を吸い、煙草を吸っては茶を飲んで、じっと正面を見ていた様子は、まさにこの種の人物である。――

わきから見て評する人である。――

原文を見る

批評家である。――

三四郎はみょうな意味で、評する人という言葉を使ってみた。

原文を見る

三四郎は妙な意味に批評家という字を使ってみた。

使ってみて、自分でうまいと感心した。

原文を見る

使ってみて自分でうまいと感心した。

それだけでなく、自分もそういう人として先を生きようかとまで考え出した。

原文を見る

のみならず自分も批評家として、未来に存在しようかとまで考えだした。

あのすごい死に顔を見ると、こんな気も起こる。

原文を見る

あのすごい死顔を見るとこんな気も起こる。

三四郎は部屋の隅にあるテーブルと、テーブルの前にある椅子と、椅子の横にある本箱と、その本箱の中に行儀よく並べてある洋書を見回して、この静かな書斎の主人は、あの評する人と同じく無事で幸せであると思った。――

原文を見る

三四郎は部屋のすみにあるテーブルと、テーブルの前にある椅子と、椅子の横にある本箱と、その本箱の中に行儀よく並べてある洋書を見回して、この静かな書斎の主人は、あの批評家と同じく無事で幸福であると思った。――

光のおす力を研究するために、女の人をひき殺すことはあるまい。

原文を見る

光線の圧力を研究するために、女を轢死れきしさせることはあるまい。

主人の妹は病気である。

原文を見る

主人の妹は病気である。

けれども兄が作った病気ではない。

原文を見る

けれども兄の作った病気ではない。

自分でかかった病気である。

原文を見る

みずからかかった病気である。

などと、それからそれへと頭が移って行くうちに、十一時になった。

原文を見る

などとそれからそれへと頭が移ってゆくうちに、十一時になった。

中野行きの電車はもう来ない。

原文を見る

中野行の電車はもう来ない。

あるいは病気が悪いので帰らないのかしらと、また心配になる。

原文を見る

あるいは病気が悪いので帰らないのかしらと、また心配になる。

そこへ野々宮から電報が来た。

原文を見る

ところへ野々宮から電報が来た。

妹無事、明日朝帰る、とあった。

原文を見る

妹無事、あす朝帰るとあった。

安心して布団に入ったが、三四郎の夢はとても危ういものであった。――

原文を見る

安心して床にはいったが、三四郎の夢はすこぶる危険であった。――

ひかれて死のうとした女の人は野々宮に関わりのある人で、野々宮はそれと知って家へ帰って来ない。

原文を見る

轢死を企てた女は、野々宮に関係のある女で、野々宮はそれと知って家へ帰って来ない。

ただ三四郎を安心させるために電報だけ打った。

原文を見る

ただ三四郎を安心させるために電報だけ掛けた。

妹無事とあるのはうそで、今夜ひかれた時刻に妹も死んでしまった。

原文を見る

妹無事とあるのは偽りで、今夜轢死のあった時刻に妹も死んでしまった。

そうして、その妹はつまり、三四郎が池のはたで会った女の人である。……

原文を見る

そうしてその妹はすなわち三四郎が池のはたで会った女である。……

三四郎は次の日、いつになく早く起きた。

原文を見る

三四郎はあくる日例になく早く起きた。

寝つけないところに寝た布団のあとを眺めて、たばこを一本吸ったが、昨夜のことはすべて夢のようである。

原文を見る

寝つけない所に寝た床のあとをながめて、煙草を一本のんだが、ゆうべの事は、すべて夢のようである。

縁側へ出て、低い屋根の外にある空を見上げると、今日はいい天気だ。

原文を見る

椽側へ出て、低いひさしの外にある空を仰ぐと、きょうはいい天気だ。

世界が今、明るくなったばかりの色をしている。

原文を見る

世界が今朗らかになったばかりの色をしている。

ごはんをすませてお茶を飲んで、縁側に椅子を持ち出して新聞を読んでいると、約束どおり野々宮君が帰って来た。

原文を見る

飯を済まして茶を飲んで、椽側に椅子を持ち出して新聞を読んでいると、約束どおり野々宮君が帰って来た。

「昨夜、そこで人がひかれて死んだそうですね」

原文を見る

「昨夜、そこに轢死があったそうですね」

と言う。

原文を見る

と言う。

駅か何かで聞いたものらしい。

原文を見る

停車場か何かで聞いたものらしい。

三四郎は自分の経験を残らず話した。

原文を見る

三四郎は自分の経験を残らず話した。

「それは珍しい。めったに出会えないことだ。ぼくも家にいればよかった。体はもう片づけただろうな。行っても見られないだろうな」

原文を見る

「それは珍しい。めったに会えないことだ。ぼくも家におればよかった。死骸はもう片づけたろうな。行っても見られないだろうな」

「もうだめでしょう」

原文を見る

「もうだめでしょう」

と一言答えたが、野々宮君ののんきなのには驚いた。

原文を見る

と一口答えたが、野々宮君ののん気なのには驚いた。

三四郎はこの平気さを、まったく夜と昼の違いから起こるものと決めつけた。

原文を見る

三四郎はこの無神経をまったく夜と昼の差別から起こるものと断定した。

光のおす力を調べる人の癖が、こういう場合にも同じ態度で表れて来るのだとは、まるで気がつかなかった。

原文を見る

光線の圧力を試験する人の性癖が、こういう場合にも、同じ態度で表われてくるのだとはまるで気がつかなかった。

年が若いからだろう。

原文を見る

年が若いからだろう。

三四郎は話を変えて、病人のことをたずねた。

原文を見る

三四郎は話を転じて、病人のことを尋ねた。

野々宮君の返事によると、やはり自分の考えたとおり、病人に変わりはなかった。

原文を見る

野々宮君の返事によると、はたして自分の推測どおり病人に異状はなかった。

ただ五、六日行ってやらなかったものだから、それを物足りなく思って、退屈しのぎに兄を呼び寄せたのである。

原文を見る

ただ六日ろくんち以来行ってやらなかったものだから、それを物足りなく思って、退屈紛れに兄を釣り寄せたのである。

今日は日曜なのに来てくれないのはひどいと言って怒っていたそうである。

原文を見る

きょうは日曜だのに来てくれないのはひどいと言って怒っていたそうである。

それで野々宮君は妹をばかだと言っている。

原文を見る

それで野々宮君は妹をばかだと言っている。

本当にばかだと思っているらしい。

原文を見る

本当にばかだと思っているらしい。

この忙しい人間に大切な時間をむだにさせるのは愚かだ、というのである。

原文を見る

この忙しいものに大切な時間を浪費させるのは愚だというのである。

けれども三四郎には、その意味がほとんどわからなかった。

原文を見る

けれども三四郎にはその意味がほとんどわからなかった。

わざわざ電報を打ってまで会いたがる妹なら、日曜の一晩や二晩をつぶしたって惜しくはないはずである。

原文を見る

わざわざ電報を掛けてまで会いたがる妹なら、日曜の一晩や二晩をつぶしたって惜しくはないはずである。

そういう人に会って過ごす時間が本当の時間で、地下で光の実験をして暮らす月日は、むしろ人生から遠い、暇な一生と言うべきものである。

原文を見る

そういう人に会って過ごす時間が、本当の時間で、穴倉で光線の試験をして暮らす月日はむしろ人生に遠い閑生涯かんしょうがいというべきものである。

自分が野々宮君であったなら、この妹のために勉強のじゃまをされるのを、かえってうれしく思うだろう。

原文を見る

自分が野々宮君であったならば、この妹のために勉強の妨害をされるのをかえってうれしく思うだろう。

くらいに感じたが、その時はひかれて死んだことを忘れていた。

原文を見る

くらいに感じたが、その時は轢死の事を忘れていた。

野々宮君は昨夜よく寝られなかったものだから、ぼんやりしていけないと言い出した。

原文を見る

野々宮君は昨夜よく寝られなかったものだからぼんやりしていけないと言いだした。

今日はさいわい昼から早稲田の学校へ行く日で、大学のほうは休みだから、それまで寝ようと言っている。

原文を見る

きょうはさいわい昼から早稲田わせだの学校へ行く日で、大学のほうは休みだから、それまで寝ようと言っている。

「だいぶおそくまで起きていたんですか」

原文を見る

「だいぶおそくまで起きていたんですか」

と三四郎が聞くと、じつは偶然、高等学校で教わった昔の先生の広田という人が妹の見舞いに来てくれて、みんなで話をしているうちに電車の時間におくれて、つい泊まることにした。

原文を見る

と三四郎が聞くと、じつは偶然、高等学校で教わったもとの先生の広田という人が妹の見舞いに来てくれて、みんなで話をしているうちに、電車の時間に遅れて、つい泊ることにした。

広田の家へ泊まるべきところを、また妹がだだをこねて、ぜひ病院に泊まれと言って聞かないから、しかたなくせまい所へ寝たら、なんだか苦しくて寝つかれなかった。

原文を見る

広田のうちへ泊るべきのを、また妹がだだをこねて、ぜひ病院に泊れと言って聞かないから、やむをえず狭い所へ寝たら、なんだか苦しくって寝つかれなかった。

どうも妹は愚か者だ。

原文を見る

どうも妹は愚物ぐぶつだ。

と、また妹を悪く言う。

原文を見る

とまた妹を攻撃する。

三四郎はおかしくなった。

原文を見る

三四郎はおかしくなった。

少し妹をかばおうかと思ったが、なんだか言いにくいのでやめにした。

原文を見る

少し妹のために弁護しようかと思ったが、なんだか言いにくいのでやめにした。

そのかわり、広田さんのことを聞いた。

原文を見る

その代り広田さんの事を聞いた。

三四郎は広田さんの名前を、これで三、四度耳にしている。

原文を見る

三四郎は広田さんの名前をこれで三、四へん耳にしている。

そうして、桃の先生と青木堂の先生に、こっそり広田さんの名をつけている。

原文を見る

そうして、水蜜桃の先生と青木堂の先生に、ひそかに広田さんの名をつけている。

それから、正門の中で意地の悪い馬に苦しめられて、喜多床の職人に笑われたのも、やはり広田先生にしてある。

原文を見る

それから正門内で意地の悪い馬に苦しめられて、喜多床の職人に笑われたのもやはり広田先生にしてある。

ところが今うかがってみると、馬の件はやはり広田先生であった。

原文を見る

ところが今承ってみると、馬の件ははたして広田先生であった。

それで桃もきっと同じ先生に違いないと決めた。

原文を見る

それで水蜜桃も必ず同先生に違いないと決めた。

考えると、少し無理のようでもある。

原文を見る

考えると、少し無理のようでもある。

帰る時に、ついでだから午前中に届けてもらいたいと言って、あわせ(うら地のついた着物)を一枚、病院まで頼まれた。

原文を見る

帰る時に、ついでだから、午前中に届けてもらいたいと言って、あわせを一枚病院まで頼まれた。

三四郎は大いにうれしかった。

原文を見る

三四郎は大いにうれしかった。

三四郎は新しい四角な帽子をかぶっている。

原文を見る

三四郎は新しい四角な帽子をかぶっている。

この帽子をかぶって病院に行けるのが、ちょっと得意である。

原文を見る

この帽子をかぶって病院に行けるのがちょっと得意である。

晴れ晴れした顔をして野々宮君の家を出た。

原文を見る

さえざえしい顔をして野々宮君の家を出た。

御茶ノ水で電車を降りて、すぐ人力車に乗った。

原文を見る

御茶の水で電車を降りて、すぐくるまに乗った。

いつもの三四郎に似合わない振る舞いである。

原文を見る

いつもの三四郎に似合わぬ所作しょさである。

威勢よく赤門を車で入った時、法文科のベルが鳴り出した。

原文を見る

威勢よく赤門を引き込ませた時、法文科のベルが鳴り出した。

いつもならノートとインク壺を持って、八番の教室に入るころである。

原文を見る

いつもならノートとインキつぼを持って、八番の教室にはいる時分である。

一、二時間の講義くらい聞きそこなってもかまわないという気で、まっすぐに青山内科の玄関まで乗りつけた。

原文を見る

一、二時間の講義ぐらい聞きそくなってもかまわないという気で、まっすぐに青山内科の玄関まで乗りつけた。

上がり口を奥へ、二つ目の角を右へ折れて、突き当たりを左へ曲がると東側の部屋だと教わったとおり歩いて行くと、はたしてあった。

原文を見る

上がり口を奥へ、二つ目の角を右へ切れて、突当たりを左へ曲がると東側の部屋へやだと教わったとおり歩いて行くと、はたしてあった。

黒塗りの札に野々宮よし子と仮名で書いて、戸口に掛けてある。

原文を見る

黒塗りの札に野々宮よし子と仮名かなで書いて、戸口に掛けてある。

三四郎はこの名前を読んだまま、しばらく戸口の所で立っていた。

原文を見る

三四郎はこの名前を読んだまま、しばらく戸口の所でたたずんでいた。

田舎者だから、ノックするなどという気の利いたことはやらない。

原文を見る

いなか物だからノックするなぞという気のいた事はやらない。

「この中にいる人が野々宮君の妹で、よし子という人である」

原文を見る

「この中にいる人が、野々宮君の妹で、よし子という女である」

三四郎はこう思って立っていた。

原文を見る

三四郎はこう思って立っていた。

戸を開けて顔が見たくもあるし、見てがっかりするのがいやでもある。

原文を見る

戸をあけて顔が見たくもあるし、見て失望するのがいやでもある。

自分の頭の中を行き来する女の人の顔は、どうも野々宮宗八さんに似ていないのだから困る。

原文を見る

自分の頭の中に往来する女の顔は、どうも野々宮宗八さんに似ていないのだから困る。

後ろから看護婦がぞうりの音を立てて近づいて来た。

原文を見る

うしろから看護婦が草履ぞうりの音をたてて近づいて来た。

三四郎は思い切って戸を半分ほど開けた。

原文を見る

三四郎は思い切って戸を半分ほどあけた。

そうして中にいる人と顔を見合わせた。

原文を見る

そうして中にいる女と顔を見合わせた。

(片手にノブを持ったまま)

原文を見る

(片手にハンドルをもったまま)

目の大きな、鼻の細い、くちびるの薄い、頭がはったと思うくらいにひたいが広くて、あごのこけた人であった。

原文を見る

目の大きな、鼻の細い、くちびるの薄い、はちが開いたと思うくらいに、額が広くってあごがこけた女であった。

顔のつくりはそれだけである。

原文を見る

造作はそれだけである。

けれども三四郎は、こういう顔立ちから出る、この時ひらめいた一瞬の表情を生まれて初めて見た。

原文を見る

けれども三四郎は、こういう顔だちから出る、この時にひらめいた咄嗟とっさの表情を生まれてはじめて見た。

青白いひたいの後ろに、自然のままに垂れた濃い髪が肩まで見える。

原文を見る

青白い額のうしろに、自然のままにたれた濃い髪が、肩まで見える。

それへ東の窓からもれる朝日の光が後ろからさすので、髪と日光の触れ合う境のところがすみれ色に燃えて、生きた光の輪を背負っている。

原文を見る

それへ東窓をもれる朝日の光が、うしろからさすので、髪と日光の触れ合う境のところが菫色すみれいろに燃えて、生きたつきかさをしょってる。

それでいて、顔もひたいもとても暗い。

原文を見る

それでいて、顔も額もはなはだ暗い。

暗くて青白い。

原文を見る

暗くて青白い。

その中に、遠い感じのする目がある。

原文を見る

そのなかに遠い心持ちのする目がある。

高い雲が空の奥にいて、なかなか動かない。

原文を見る

高い雲が空の奥にいて容易に動かない。

けれども動かずにもいられない。

原文を見る

けれども動かずにもいられない。

ただ、なだれるように動く。

原文を見る

ただなだれるように動く。

その人が三四郎を見た時は、こういう目つきであった。

原文を見る

女が三四郎を見た時は、こういう目つきであった。

三四郎はこの表情の中に、けだるい暗さと、隠さない明るさとが一つになっているのを見つけた。

原文を見る

三四郎はこの表情のうちにものうい憂鬱ゆううつと、隠さざる快活との統一を見いだした。

その一つになった感じは、三四郎にとって最も尊い人生の一片である。

原文を見る

その統一の感じは三四郎にとって、最も尊き人生の一片である。

そうして、大発見である。

原文を見る

そうして一大発見である。

三四郎はノブを持ったまま、――顔を戸の陰から半分部屋の中に差し出したまま、この瞬間の感じに自分を投げ出してしまった。

原文を見る

三四郎はハンドルをもったまま、――顔を戸の影から半分部屋の中に差し出したままこの刹那せつなの感にみずからを放下ほうげし去った。

「お入りなさい」

原文を見る

「おはいりなさい」

その人は三四郎を待ちかまえていたように言う。

原文を見る

女は三四郎を待ち設けたように言う。

その調子には、初めて会う人には見つけられない、安らかな響きがあった。

原文を見る

その調子には初対面の女には見いだすことのできない、安らかな音色ねいろがあった。

まじり気のない子供か、あらゆる男に接しつくした女性でなければ、こうは出られない。

原文を見る

純粋の子供か、あらゆる男児に接しつくした婦人でなければ、こうは出られない。

なれなれしいのとは違う。

原文を見る

なれなれしいのとは違う。

初めから古い知り合いなのである。

原文を見る

初めから古い知り合いなのである。

同時に、その人は肉のうすい頬を動かしてにこりと笑った。

原文を見る

同時に女は肉の豊かでないほおを動かしてにこりと笑った。

青白い中に、なつかしい暖かみができた。

原文を見る

青白いうちに、なつかしい暖かみができた。

三四郎の足は自然と部屋の中へ入った。

原文を見る

三四郎の足はしぜんと部屋の内へはいった。

その時、青年の頭の中には遠いふるさとにある母の影がひらめいた。

原文を見る

その時青年の頭のうちには遠い故郷にある母の影がひらめいた。

戸の後ろへ回って初めて正面を向いた時、五十あまりの女の人が三四郎にあいさつをした。

原文を見る

戸のうしろへ回って、はじめて正面に向いた時、五十あまりの婦人が三四郎に挨拶をした。

この人は、三四郎の体がまだ戸の陰を出ない前から席を立って待っていたものと見える。

原文を見る

この婦人は三四郎のからだがまだ扉の陰を出ないまえから席を立って待っていたものとみえる。

「小川さんですか」

原文を見る

小川おがわさんですか」

と向こうからたずねてくれた。

原文を見る

と向こうから尋ねてくれた。

顔は野々宮君に似ている。

原文を見る

顔は野々宮君に似ている。

娘さんにも似ている。

原文を見る

娘にも似ている。

しかし、ただ似ているというだけである。

原文を見る

しかしただ似ているというだけである。

頼まれた風呂敷包みを出すと、受け取って、お礼を述べて、

原文を見る

頼まれた風呂敷包ふろしきづつみを出すと、受け取って、礼を述べて、

「どうぞ」

原文を見る

「どうぞ」

と言いながら椅子をすすめたまま、自分は寝台の向こう側へ回った。

原文を見る

と言いながら椅子をすすめたまま、自分は寝台ベッドの向こう側へ回った。

寝台の上にしいた布団を見るとまっ白である。

原文を見る

寝台の上に敷いた蒲団ふとんを見るとまっ白である。

上に掛けるものもまっ白である。

原文を見る

上へ掛けるものもまっ白である。

それを半分ほどななめにはいで、足もとのほうが厚く見えるところをよけるように、その人は窓を背にして腰を掛けた。

原文を見る

それを半分ほどはすにはぐって、すそのほうが厚く見えるところを、よけるように、女は窓を背にして腰をかけた。

足は床に届かない。

原文を見る

足は床に届かない。

手に編み針を持っている。

原文を見る

手に編針を持っている。

毛糸の玉が寝台の下に転がった。

原文を見る

毛糸のたまが寝台の下に転がった。

その人の手から長い赤い糸が筋を引いている。

原文を見る

女の手から長い赤い糸が筋を引いている。

三四郎は寝台の下から毛糸の玉を取り出してやろうかと思った。けれども、その人が毛糸にはまるで気を留めないので控えた。

原文を見る

三四郎は寝台の下から、毛糸のたまを取り出してやろうかと思った、けれども、女が毛糸にはまるで無頓着むとんじゃくでいるので控えた。

お母さんが向こう側から、しきりに昨夜のお礼を述べる。

原文を見る

おっかさんが向こう側から、しきりに昨夜の礼を述べる。

お忙しいところを、などと言う。

原文を見る

お忙しいところをなどと言う。

三四郎は、いいえ、どうせ遊んでいますから、と言う。

原文を見る

三四郎は、いいえ、どうせ遊んでいますからと言う。

二人が話をしている間、よし子は黙っていた。

原文を見る

二人が話をしているあいだ、よし子は黙っていた。

二人の話が切れた時、突然、

原文を見る

二人の話が切れた時、突然、

「昨夜ひかれて死んだのを御覧になって」

原文を見る

「ゆうべの轢死を御覧になって」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

見ると部屋の隅に新聞がある。

原文を見る

見ると部屋のすみに新聞がある。

三四郎が、

原文を見る

三四郎が、

「ええ」

原文を見る

「ええ」

と言う。

原文を見る

と言う。

「こわかったでしょう」

原文を見る

「こわかったでしょう」

と言いながら、少し首を横に曲げて三四郎を見た。

原文を見る

と言いながら、少し首を横に曲げて、三四郎を見た。

兄に似て首の長い人である。

原文を見る

兄に似て首の長い女である。

三四郎はこわいともこわくないとも答えずに、その人の首の曲がり具合を眺めていた。

原文を見る

三四郎はこわいともこわくないとも答えずに、女の首の曲がりぐあいをながめていた。

半分は質問があまり単純なので、答えに困ったのである。

原文を見る

半分は質問があまり単純なので、答に窮したのである。

半分は答えるのを忘れたのである。

原文を見る

半分は答えるのを忘れたのである。

その人は気がついたと見えて、すぐ首をまっすぐにした。

原文を見る

女は気がついたとみえて、すぐ首をまっすぐにした。

そうして青白い頬の奥を少し赤くした。

原文を見る

そうして青白い頬の奥を少し赤くした。

三四郎は、もう帰るべき時間だと考えた。

原文を見る

三四郎はもう帰るべき時間だと考えた。

あいさつをして部屋を出て、玄関の正面へ来て向こうを見ると、長い廊下のはずれが四角に切れて、ぱっと明るく、表の緑が映る上がり口に、池の女の人が立っている。

原文を見る

挨拶をして、部屋を出て、玄関正面へ来て、向こうを見ると、長い廊下のはずれが四角に切れて、ぱっと明るく、表の緑が映る上がり口に、池の女が立っている。

はっと驚いた三四郎の足は、さっそく歩き方に狂いができた。

原文を見る

はっと驚いた三四郎の足は、さっそく歩調に狂いができた。

その時、透き通る空気のカンバスの中に暗く描かれたその人の影は、一足前へ動いた。

原文を見る

その時透明な空気の画布カンバスの中に暗く描かれた女の影は一足前へ動いた。

三四郎もさそわれたように前へ動いた。

原文を見る

三四郎も誘われたように前へ動いた。

二人は一本道の廊下のどこかですれ違わなければならない運命を持って、互いに近づいて来た。

原文を見る

二人は一筋道の廊下のどこかですれ違わねばならぬ運命をもって互いに近づいて来た。

すると、その人が振り返った。

原文を見る

すると女が振り返った。

明るい表の空気の中には、秋の初めの緑が浮いているばかりである。

原文を見る

明るい表の空気の中には、初秋はつあきの緑が浮いているばかりである。

振り返った目に応えて、四角の中に現れたものもなければ、これを待ち受けていたものもない。

原文を見る

振り返った女の目に応じて、四角の中に、現われたものもなければ、これを待ち受けていたものもない。

三四郎はその間に、その人の姿勢と服装を頭の中へ入れた。

原文を見る

三四郎はそのあいだに女の姿勢と服装を頭の中へ入れた。

着物の色は何という名かわからない。

原文を見る

着物の色はなんという名かわからない。

大学の池の水へ、曇った日に常緑樹の影が映る時のようである。

原文を見る

大学の池の水へ、曇った常磐木ときわぎの影が映る時のようである。

それは、あざやかな縞が上から下へ貫いている。

原文を見る

それはあざやかなしまが、上から下へ貫いている。

そうして、その縞が貫きながら波を打って、互いに寄ったりはなれたり、重なって太くなったり、割れて二本になったりする。

原文を見る

そうしてその縞が貫きながら波を打って、互いに寄ったり離れたり、重なって太くなったり、割れて二筋になったりする。

きちんとそろってはいないけれど、乱れない。

原文を見る

不規則だけれども乱れない。

上から三分の一のところを、広い帯で横に仕切った。

原文を見る

上から三一のところを、広い帯で横に仕切った。

帯の感じには暖かみがある。

原文を見る

帯の感じには暖かみがある。

黄色を含んでいるためだろう。

原文を見る

黄を含んでいるためだろう。

後ろを振り向いた時、右の肩があとへ引けて、左の手が腰に添ったまま前へ出た。

原文を見る

うしろを振り向いた時、右の肩が、あとへ引けて、左の手が腰に添ったまま前へ出た。

ハンカチを持っている。

原文を見る

ハンケチを持っている。

そのハンカチの、指に余ったところが、さらりと開いている。

原文を見る

そのハンケチの指に余ったところが、さらりと開いている。

絹のためだろう。――

原文を見る

絹のためだろう。――

腰から下はきちんとした姿勢である。

原文を見る

腰から下は正しい姿勢にある。

その人はやがて、もとのとおりに向き直った。

原文を見る

女はやがてもとのとおりに向き直った。

目を伏せて二足ばかり三四郎に近づいた時、突然首を少し後ろに引いて、まっすぐに男を見た。

原文を見る

目を伏せて二足ばかり三四郎に近づいた時、突然首を少しうしろに引いて、まともに男を見た。

二重まぶたの切れ長の、落ち着いた形である。

原文を見る

二重瞼ふたえまぶた切長きれながのおちついた恰好かっこうである。

目立って黒いまゆ毛の下に生きている。

原文を見る

目立って黒い眉毛まゆげの下に生きている。

同時にきれいな歯が現れた。

原文を見る

同時にきれいな歯があらわれた。

この歯とこの顔色とは、三四郎にとって忘れられない取り合わせであった。

原文を見る

この歯とこの顔色とは三四郎にとって忘るべからざる対照であった。

今日は白いおしろいを薄く塗っている。

原文を見る

きょうは白いものを薄く塗っている。

けれども、もとのはだを隠すほど、味わいのない塗り方ではなかった。

原文を見る

けれども本来の地を隠すほどに無趣味ではなかった。

きめの細かいはだが、ほどよく色づいて、強い日ざしに負けないように見える上を、きわめて薄く粉が吹いている。

原文を見る

こまやかな肉が、ほどよく色づいて、強い日光にめげないように見える上を、きわめて薄くが吹いている。

てらてら光る顔ではない。

原文を見る

てらてらひかる顔ではない。

肉は頬といわず、あごといわず、きちんと締まっている。

原文を見る

肉は頬といわず顎といわずきちりと締まっている。

骨の上に余ったものは、たいしてないくらいである。

原文を見る

骨の上に余ったものはたんとないくらいである。

それでいて、顔全体が柔らかい。

原文を見る

それでいて、顔全体が柔かい。

肉が柔らかいのではない。骨そのものが柔らかいように思われる。

原文を見る

肉が柔かいのではない骨そのものが柔かいように思われる。

奥行きの長い感じを起こさせる顔である。

原文を見る

奥行きの長い感じを起こさせる顔である。

その人は腰をかがめた。

原文を見る

女は腰をかがめた。

三四郎は知らない人にあいさつをされて驚いたというよりも、むしろあいさつのしかたが上手なのに驚いた。

原文を見る

三四郎は知らぬ人に礼をされて驚いたというよりも、むしろ礼のしかたの巧みなのに驚いた。

腰から上が、風に乗る紙のようにふわりと前に落ちた。

原文を見る

腰から上が、風に乗る紙のようにふわりと前に落ちた。

しかも早い。

原文を見る

しかも早い。

それで、ある角度まで来て、苦もなくはっきりと止まった。

原文を見る

それで、ある角度まで来て苦もなくはっきりととまった。

もちろん、習って覚えたものではない。

原文を見る

むろん習って覚えたものではない。

「ちょっとうかがいますが……」

原文を見る

「ちょっと伺いますが……」

と言う声が白い歯の間から出た。

原文を見る

と言う声が白い歯のあいだから出た。

きりりとしている。

原文を見る

きりりとしている。

しかし、ゆったりとしている。

原文を見る

しかし鷹揚おうようである。

ただ、夏のさかりにしいの実がなっているかと人に聞きそうには思われなかった。

原文を見る

ただ夏のさかりにしいの実がなっているかと人に聞きそうには思われなかった。

三四郎は、そんなことに気のつく余裕はない。

原文を見る

三四郎はそんな事に気のつく余裕はない。

「はあ」

原文を見る

「はあ」

と言って立ち止まった。

原文を見る

と言って立ち止まった。

「十五号室はどのあたりになりましょう」

原文を見る

「十五号室はどの辺になりましょう」

十五号は、三四郎が今出て来た部屋である。

原文を見る

十五号は三四郎が今出て来た部屋である。

「野々宮さんの部屋ですか」

原文を見る

「野々宮さんの部屋ですか」

今度はその人のほうが「はあ」

原文を見る

今度は女のほうが「はあ」

と言う。

原文を見る

と言う。

「野々宮さんの部屋はね、その角を曲がって突き当たって、また左へ曲がって、二番目の右側です」

原文を見る

「野々宮さんの部屋はね、その角を曲がって突き当って、また左へ曲がって、二番目の右側です」

「その角を……」

原文を見る

「その角を……」

と言いながら、その人は細い指を前へ出した。

原文を見る

と言いながら女は細い指を前へ出した。

「ええ、すぐその先の角です」

原文を見る

「ええ、ついその先の角です」

「どうもありがとう」

原文を見る

「どうもありがとう」

その人は行き過ぎた。

原文を見る

女は行き過ぎた。

三四郎は立ったまま、その人の後ろ姿を見守っている。

原文を見る

三四郎は立ったまま、女の後姿を見守っている。

その人は角へ来た。

原文を見る

女は角へ来た。

曲がろうとしたとたんに振り返った。

原文を見る

曲がろうとするとたんに振り返った。

三四郎は顔が赤くなるほどうろたえた。

原文を見る

三四郎は赤面するばかりに狼狽ろうばいした。

その人はにこりと笑って、この角ですか、というような合図を顔でした。

原文を見る

女はにこりと笑って、この角ですかというようなあいずを顔でした。

三四郎は思わずうなずいた。

原文を見る

三四郎は思わずうなずいた。

その人の影は右へ折れて、白い壁の中へ隠れた。

原文を見る

女の影は右へ切れて白い壁の中へ隠れた。

三四郎はぶらりと玄関を出た。

原文を見る

三四郎はぶらりと玄関を出た。

医科大学生と間違えて部屋の番号を聞いたのかしらんと思って、五、六歩歩いたが、急に気がついた。

原文を見る

医科大学生と間違えて部屋の番号を聞いたのかしらんと思って、五、六歩あるいたが、急に気がついた。

十五号を聞かれた時、もう一度よし子の部屋へ引き返して案内すればよかった。

原文を見る

女に十五号を聞かれた時、もう一ぺんよし子の部屋へあともどりをして、案内すればよかった。

残念なことをした。

原文を見る

残念なことをした。

三四郎は今さら引き返す勇気は出なかった。

原文を見る

三四郎はいまさらとって帰す勇気は出なかった。

しかたなく、また五、六歩歩いたが、今度はぴたりと止まった。

原文を見る

やむをえずまた五、六歩あるいたが、今度はぴたりととまった。

三四郎の頭の中に、その人の結んでいたリボンの色が浮かんだ。

原文を見る

三四郎の頭の中に、女の結んでいたリボンの色が映った。

そのリボンの色も生地も、たしかに野々宮君が兼安で買ったものと同じであると考え出した時、三四郎は急に足が重くなった。

原文を見る

そのリボンの色も質も、たしかに野々宮君が兼安かねやすで買ったものと同じであると考え出した時、三四郎は急に足が重くなった。

図書館の横をのろのろと正門の方へ出ると、どこから来たか与次郎が突然声をかけた。

原文を見る

図書館の横をのたくるように正門の方へ出ると、どこから来たか与次郎が突然声をかけた。

「おい、なぜ休んだ。今日はイタリア人がマカロニをどうやって食うかという講義を聞いた」

原文を見る

「おいなぜ休んだ。きょうはイタリー人がマカロニーをいかにして食うかという講義を聞いた」

と言いながら、そばへ寄って来て三四郎の肩をたたいた。

原文を見る

と言いながら、そばへ寄って来て三四郎の肩をたたいた。

二人は少しいっしょに歩いた。

原文を見る

二人は少しいっしょに歩いた。

正門のそばへ来た時、三四郎は、

原文を見る

正門のそばへ来た時、三四郎は、

「君、今ごろでも薄いリボンをつけるものかな。あれはひどく暑い時期に限るんじゃないか」

原文を見る

「君、今ごろでも薄いリボンをかけるものかな。あれは極暑ごくしょに限るんじゃないか」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

与次郎はアハハハと笑って、

原文を見る

与次郎はアハハハと笑って、

「○○教授に聞くがいい。なんでも知ってる男だから」

原文を見る

「○○教授に聞くがいい。なんでも知ってる男だから」

と言って相手にしなかった。

原文を見る

と言って取り合わなかった。

正門の所で、三四郎は具合が悪いから今日は学校を休むと言い出した。

原文を見る

正門の所で三四郎はぐあいが悪いからきょうは学校を休むと言い出した。

与次郎はいっしょについて来て損をしたと言わんばかりに、教室の方へ帰って行った。

原文を見る

与次郎はいっしょについて来て損をしたといわぬばかりに教室の方へ帰って行った。

原文を見る

三四郎の心が浮ついてきた。

原文を見る

三四郎の魂がふわつき出した。

講義を聞いていると、遠くに聞こえる。

原文を見る

講義を聞いていると、遠方に聞こえる。

悪くすると肝心なことを書き落とす。

原文を見る

わるくすると肝要な事を書き落とす。

ひどい時は、人の耳を借り賃を払って借りているような気がする。

原文を見る

はなはだしい時はひとの耳を損料で借りているような気がする。

三四郎はばかばかしくてたまらない。

原文を見る

三四郎はばかばかしくてたまらない。

しかたなしに、与次郎に向かって、どうも近ごろは講義がおもしろくないと言い出した。

原文を見る

仕方しかたなしに、与次郎に向かって、どうも近ごろは講義がおもしろくないと言い出した。

与次郎の答えはいつも同じことであった。

原文を見る

与次郎の答はいつも同じことであった。

「講義がおもしろいわけがない。君は田舎者だから、そのうち立派なことになると思って、今日まで我慢して聞いていたんだろう。愚かのきわみだ。彼らの講義は世界のはじまり以来こんなものだ。今さらがっかりしたってしかたがないや」

原文を見る

「講義がおもしろいわけがない。君はいなか者だから、いまに偉い事になると思って、今日こんにちまでしんぼうして聞いていたんだろう。愚の至りだ。彼らの講義は開闢かいびゃく以来こんなものだ。いまさら失望したってしかたがないや」

「そういうわけでもないが……」

原文を見る

「そういうわけでもないが……」

三四郎は言いわけをする。

原文を見る

三四郎は弁解する。

与次郎のへらへらした調子と、三四郎の重苦しい口のききようが、不釣り合いでとてもおかしい。

原文を見る

与次郎のへらへら調と、三四郎の重苦しい口のききようが、不釣合ふつりあいではなはだおかしい。

こういうやりとりを二、三度繰り返しているうちに、いつのまにか半月ばかりたった。

原文を見る

こういう問答を二、三度繰り返しているうちに、いつのまにか半月はんつきばかりたった。

三四郎の耳は、だんだん借り物でないようになってきた。

原文を見る

三四郎の耳は漸々ぜんぜん借りものでないようになってきた。

すると今度は与次郎のほうから、三四郎に向かって、

原文を見る

すると今度は与次郎のほうから、三四郎に向かって、

「どうも妙な顔だな。いかにも暮らしに疲れているような顔だ。世紀末の顔だ」

原文を見る

「どうも妙な顔だな。いかにも生活に疲れているような顔だ。世紀末の顔だ」

と評し出した。

原文を見る

と批評し出した。

三四郎は、この言葉に対しても相変わらず、

原文を見る

三四郎は、この批評に対しても依然として、

「そういうわけでもないが……」

原文を見る

「そういうわけでもないが……」

を繰り返していた。

原文を見る

を繰り返していた。

三四郎は世紀末などという言葉を聞いてうれしがるほどには、まだ人の手の加わった空気に触れていなかった。

原文を見る

三四郎は世紀末などという言葉を聞いてうれしがるほどに、まだ人工的の空気に触れていなかった。

また、これをおもしろいおもちゃとして使いこなせるほどに、ある世界の事情に通じていなかった。

原文を見る

またこれを興味ある玩具おもちゃとして使用しうるほどに、ある社会の消息に通じていなかった。

ただ、暮らしに疲れているという言い方が少し気に入った。

原文を見る

ただ生活に疲れているという句が少し気にいった。

なるほど疲れ出したようでもある。

原文を見る

なるほど疲れだしたようでもある。

三四郎は、おなかをこわしたためばかりとは思わなかった。

原文を見る

三四郎は下痢げりのためばかりとは思わなかった。

けれども、大いに疲れた顔を看板にするほど、ものの見方がしゃれてもいなかった。

原文を見る

けれども大いに疲れた顔を標榜ひょうぼうするほど、人生観のハイカラでもなかった。

それで、この会話はそれきり広がらずに済んだ。

原文を見る

それでこの会話はそれぎり発展しずに済んだ。

そのうち秋は深くなる。

原文を見る

そのうち秋は高くなる。

食欲は進む。

原文を見る

食欲は進む。

二十三の青年が、とうてい人生に疲れていることなどできない季節が来た。

原文を見る

二十三の青年がとうてい人生に疲れていることができない時節が来た。

三四郎はよく出かける。

原文を見る

三四郎はよく出る。

大学の池の周りもだいぶ回ってみたが、とくに変わったこともない。

原文を見る

大学の池の周囲まわりもだいぶん回ってみたが、べつだんの変もない。

病院の前も何度となく行き来したが、ふつうの人に会うばかりである。

原文を見る

病院の前も何べんとなく往復したが普通の人間に会うばかりである。

また理科大学の地下へ行って野々宮君に聞いてみたら、妹はもう病院を出たと言う。

原文を見る

また理科大学の穴倉へ行って野々宮君に聞いてみたら、妹はもう病院を出たと言う。

玄関で会った女の人のことを話そうと思ったが、相手が忙しそうなので、つい遠慮してやめてしまった。

原文を見る

玄関で会った女の事を話そうと思ったが、先方さきが忙しそうなので、つい遠慮してやめてしまった。

今度大久保へ行ってゆっくり話せば、名前も生まれもたいていはわかることだから、急がずに帰った。

原文を見る

今度大久保へ行ってゆっくり話せば、名前も素姓すじょうもたいていはわかることだから、せかずに引き取った。

そうして、ふわふわしてあちこち歩いている。

原文を見る

そうして、ふわふわして方々歩いている。

田端だの、道灌山だの、染井の墓地だの、巣鴨の刑務所だの、護国寺だの、――三四郎は新井の薬師までも行った。

原文を見る

田端たばただの、道灌山どうかんやまだの、染井そめいの墓地だの、巣鴨すがもの監獄だの、護国寺ごこくじだの、――三四郎は新井あらい薬師やくしまでも行った。

新井の薬師の帰りに、大久保へ出て野々宮君の家へ回ろうと思ったら、落合の火葬場のあたりで道を間違えて高田へ出たので、目白から汽車に乗って帰った。

原文を見る

新井の薬師の帰りに、大久保へ出て野々宮君の家へ回ろうと思ったら、落合おちあい火葬場やきばの辺で道を間違えて、高田たかたへ出たので、目白めじろから汽車へ乗って帰った。

汽車の中で、みやげに買った栗を一人でさんざん食べた。

原文を見る

汽車の中でみやげに買ったくりを一人でさんざん食った。

その残りは、翌日与次郎が来てみんな平らげた。

原文を見る

その余りはあくる日与次郎が来て、みんな平らげた。

三四郎はふわふわすればするほど愉快になってきた。

原文を見る

三四郎はふわふわすればするほど愉快になってきた。

初めのうちはあまり講義に気を入れすぎたので、耳が遠くなって書き取りに困ったが、近ごろはほどほどに聞いているから何ともない。

原文を見る

初めのうちはあまり講義に念を入れ過ぎたので、耳が遠くなって筆記に困ったが、近ごろはたいていに聞いているからなんともない。

講義中にいろいろなことを考える。

原文を見る

講義中にいろいろな事を考える。

少しくらい聞き落としても惜しい気も起こらない。

原文を見る

少しぐらい落としても惜しい気も起こらない。

よく見ていると、与次郎をはじめ、みんな同じことである。

原文を見る

よく観察してみると与次郎はじめみんな同じことである。

三四郎は、これくらいでいいものだろうと思い出した。

原文を見る

三四郎はこれくらいでいいものだろうと思い出した。

三四郎がいろいろ考えるうちに、時々例のリボンが出てくる。

原文を見る

三四郎がいろいろ考えるうちに、時々例のリボンが出てくる。

そうすると気がかりになる。

原文を見る

そうすると気がかりになる。

とても不愉快になる。

原文を見る

はなはだ不愉快になる。

すぐ大久保へ出かけてみたくなる。

原文を見る

すぐ大久保へ出かけてみたくなる。

しかし、次から次へ浮かぶ思いやら、外からの刺激やらで、しばらくするとまぎれてしまう。

原文を見る

しかし想像の連鎖やら、外界の刺激やらで、しばらくするとまぎれてしまう。

だから、だいたいはのんきである。

原文を見る

だからだいたいはのん気である。

それで夢を見ている。

原文を見る

それで夢を見ている。

大久保へはなかなか行かない。

原文を見る

大久保へはなかなか行かない。

ある日の午後、三四郎はいつものようにぶらついて、団子坂の上から左へ折れて、千駄木林町の広い通りへ出た。

原文を見る

ある日の午後三四郎は例のごとくぶらついて、団子坂だんござかの上から、左へ折れて千駄木せんだぎ林町はやしちょうの広い通りへ出た。

秋晴れといって、このごろは東京の空も田舎のように深く見える。

原文を見る

秋晴れといって、このごろは東京の空もいなかのように深く見える。

こういう空の下に生きていると思うだけでも、頭ははっきりする。

原文を見る

こういう空の下に生きていると思うだけでも頭ははっきりする。

そのうえ、野原へ出れば申し分はない。

原文を見る

そのうえ、野へ出れば申し分はない。

気がのびのびして、心が大空ほどの大きさになる。

原文を見る

気がのびのびして魂が大空ほどの大きさになる。

それでいて、体全体が引き締まってくる。

原文を見る

それでいてからだ総体がしまってくる。

だらしのない春ののどかさとは違う。

原文を見る

だらしのない春ののどかさとは違う。

三四郎は左右の生け垣を眺めながら、生まれて初めての東京の秋をかぎながらやって来た。

原文を見る

三四郎は左右の生垣いけがきをながめながら、生まれてはじめての東京の秋をかぎつつやって来た。

坂下では菊人形が二、三日前に始まったばかりである。

原文を見る

坂下では菊人形が二、三日前開業したばかりである。

坂を曲がる時はのぼりさえ見えた。

原文を見る

坂を曲がる時はのぼりさえ見えた。

今はただ声だけ聞こえる。どんちゃんどんちゃんと遠くではやしている。

原文を見る

今はただ声だけ聞こえる、どんちゃんどんちゃん遠くからはやしている。

そのはやしの音が下の方からだんだん浮き上がってきて、澄み切った秋の空気の中へ広がり尽くすと、ついにはとても薄い波になる。

原文を見る

そのはやしの音が、下の方から次第に浮き上がってきて、澄み切った秋の空気の中へ広がり尽くすと、ついにはきわめて稀薄な波になる。

そのまた残りの波が三四郎の耳のそばまで来て、自然に止まる。

原文を見る

そのまた余波が三四郎の鼓膜こまくのそばまで来てしぜんにとまる。

騒がしいというよりは、かえっていい心持ちである。

原文を見る

騒がしいというよりはかえっていい心持ちである。

その時、突然左の横町から二人現れた。

原文を見る

時に突然左の横町から二人あらわれた。

その一人が三四郎を見て、「おい」

原文を見る

その一人が三四郎を見て、「おい」

と言う。

原文を見る

と言う。

与次郎の声は今日にかぎって、きちんとしている。

原文を見る

与次郎の声はきょうにかぎって、几帳面きちょうめんである。

その代わり連れがある。

原文を見る

その代りつれがある。

三四郎はその連れを見た時、やはり日ごろ考えたとおり、青木堂でお茶を飲んでいた人が広田さんであるということを悟った。

原文を見る

三四郎はその連を見た時、はたして日ごろの推察どおり、青木堂で茶を飲んでいた人が、広田さんであるということを悟った。

この人とは桃以来、妙な関わりがある。

原文を見る

この人とは水蜜桃すいみつとう以来妙な関係がある。

とくに青木堂でお茶を飲んでたばこを吸って、自分を図書館に走らせて以来、いっそうよく記憶にしみている。

原文を見る

ことに青木堂で茶を飲んで煙草をのんで、自分を図書館に走らしてよりこのかた、いっそうよく記憶にしみている。

いつ見ても神主のような顔に西洋人の鼻をつけている。

原文を見る

いつ見ても神主かんぬしのような顔に西洋人の鼻をつけている。

今日もこの間の夏服で、とくに寒そうな様子もない。

原文を見る

きょうもこのあいだの夏服で、べつだん寒そうな様子もない。

三四郎は何とか言ってあいさつをしようと思ったが、あまり時間がたっているので、どう口をきいていいかわからない。

原文を見る

三四郎はなんとか言って、挨拶あいさつをしようと思ったが、あまり時間がたっているので、どう口をきいていいかわからない。

ただ帽子を取ってあいさつをした。

原文を見る

ただ帽子を取って礼をした。

与次郎に対しては、あまり丁寧すぎる。

原文を見る

与次郎に対しては、あまり丁寧すぎる。

広田に対しては、少し簡単すぎる。

原文を見る

広田に対しては、少し簡略すぎる。

三四郎は、どっちつかずの中くらいのあいさつになった。

原文を見る

三四郎はどっちつかずの中間にでた。

すると与次郎がすぐ、

原文を見る

すると与次郎が、すぐ、

「この男は私の同級生です。熊本の高等学校からはじめて東京へ出て来た――」

原文を見る

「この男は私の同級生です。熊本の高等学校からはじめて東京へ出て来た――」

と、聞かれもしないうちから田舎者だと言いふらしておいて、それから三四郎の方を向いて、

原文を見る

と聞かれもしないさきからいなか者を吹聴ふいちょうしておいて、それから三四郎の方を向いて、

「これが広田先生。高等学校の……」

原文を見る

「これが広田先生。高等学校の……」

と、わけもなく二人を紹介してしまった。

原文を見る

とわけもなく双方そうほうを紹介してしまった。

この時広田先生は「知ってる、知ってる」

原文を見る

この時広田先生は「知ってる、知ってる」

と二度繰り返して言ったので、与次郎は妙な顔をしている。

原文を見る

と二へん繰り返して言ったので、与次郎は妙な顔をしている。

しかし、なぜ知ってるんですか、などと面倒なことは聞かなかった。

原文を見る

しかしなぜ知ってるんですかなどとめんどうな事は聞かなかった。

すぐに、

原文を見る

ただちに、

「君、この辺に貸家はないか。広くて、きれいな、書生部屋のある」

原文を見る

「君、この辺に貸家はないか。広くて、きれいな、書生部屋のある」

とたずね出した。

原文を見る

と尋ねだした。

「貸家はと……ある」

原文を見る

「貸家はと……ある」

「どのあたりだ。汚くってはいけないぜ」

原文を見る

「どの辺だ。きたなくっちゃいけないぜ」

「いや、きれいなのがある。大きな石の門が立っているのがある」

原文を見る

「いやきれいなのがある。大きな石の門が立っているのがある」

「そりゃうまい。どこだ。先生、石の門はいいですな。ぜひそれにしようじゃありませんか」

原文を見る

「そりゃうまい。どこだ。先生、石の門はいいですな。ぜひそれにしようじゃありませんか」

と与次郎は大いに乗り気である。

原文を見る

と与次郎は大いに進んでいる。

「石の門はいかん」

原文を見る

「石の門はいかん」

と先生が言う。

原文を見る

と先生が言う。

「いかん? そりゃ困る。なぜいかんです」

原文を見る

「いかん? そりゃ困る。なぜいかんです」

「なぜでもいかん」

原文を見る

「なぜでもいかん」

「石の門はいいがな。新しい男爵のようでいいじゃないですか、先生」

原文を見る

「石の門はいいがな。新しい男爵のようでいいじゃないですか、先生」

与次郎はまじめである。

原文を見る

与次郎はまじめである。

広田先生はにやにや笑っている。

原文を見る

広田先生はにやにや笑っている。

とうとう、まじめなほうが勝って、ともかく見ることに話がまとまって、三四郎が案内をした。

原文を見る

とうとうまじめのほうが勝って、ともかくも見ることに相談ができて、三四郎が案内をした。

横町をあとへ引き返して裏通りへ出ると、五十メートルばかり北へ来た所に、突き当たりと思われるような小道がある。

原文を見る

横町をあとへ引き返して、裏通りへ出ると、半町ばかり北へ来た所に、突き当りと思われるような小路こうじがある。

その小道の中へ三四郎は二人を連れこんだ。

原文を見る

その小路の中へ三四郎は二人を連れ込んだ。

まっすぐに行くと植木屋の庭へ出てしまう。

原文を見る

まっすぐに行くと植木屋の庭へ出てしまう。

三人は入口の十メートルほど手前で止まった。

原文を見る

三人は入口の五、六間手前でとまった。

右手に、かなり大きな御影石の柱が二本立っている。

原文を見る

右手にかなり大きな御影みかげの柱が二本立っている。

とびらは鉄である。

原文を見る

とびらは鉄である。

三四郎が、これだと言う。

原文を見る

三四郎がこれだと言う。

なるほど貸家の札がついている。

原文を見る

なるほど貸家札がついている。

「こりゃ恐ろしいもんだ」

原文を見る

「こりゃ恐ろしいもんだ」

と言いながら、与次郎は鉄のとびらをうんと押したが、かぎがかかっている。

原文を見る

と言いながら、与次郎は鉄の扉をうんと押したが、錠がおりている。

「ちょっとお待ちなさい、聞いてくる」

原文を見る

「ちょっとお待ちなさい聞いてくる」

と言うやいなや、与次郎は植木屋の奥の方へ駆けこんで行った。

原文を見る

と言うやいなや、与次郎は植木屋の奥の方へ駆け込んで行った。

広田と三四郎は取り残されたようなものである。

原文を見る

広田と三四郎は取り残されたようなものである。

二人で話を始めた。

原文を見る

二人で話を始めた。

「東京はどうです」

原文を見る

「東京はどうです」

「ええ……」

原文を見る

「ええ……」

「広いばかりで汚い所でしょう」

原文を見る

「広いばかりできたない所でしょう」

「ええ……」

原文を見る

「ええ……」

「富士山に比べられるようなものは何にもないでしょう」

原文を見る

「富士山に比較するようなものはなんにもないでしょう」

三四郎は富士山のことをまるで忘れていた。

原文を見る

三四郎は富士山の事をまるで忘れていた。

広田先生に言われて、汽車の窓からはじめて眺めた富士は、考え出すと、なるほど気高いものである。

原文を見る

広田先生の注意によって、汽車の窓からはじめてながめた富士は、考え出すと、なるほど崇高なものである。

ただ今、自分の頭の中にごたごたしている世の中のありさまとは、とても比べものにならない。

原文を見る

ただ今自分の頭の中にごたごたしている世相せそうとは、とても比較にならない。

三四郎は、あの時の思いをいつのまにか落としていたのを恥ずかしく思った。

原文を見る

三四郎はあの時の印象をいつのまにか取り落していたのを恥ずかしく思った。

すると、

原文を見る

すると、

「君、富士山を翻訳してみたことがありますか」

原文を見る

「君、不二山ふじさんを翻訳してみたことがありますか」

と思いがけない質問をぶつけられた。

原文を見る

と意外な質問を放たれた。

「翻訳とは……」

原文を見る

「翻訳とは……」

「自然を翻訳すると、みんな人間に化けてしまうからおもしろい。気高いとか、偉大だとか、雄大だとか」

原文を見る

「自然を翻訳すると、みんな人間に化けてしまうからおもしろい。崇高だとか、偉大だとか、雄壮だとか」

三四郎は翻訳の意味を理解した。

原文を見る

三四郎は翻訳の意味を了した。

「みんな人がらの上の言葉になる。人がらの上の言葉に翻訳することのできないものには、自然が少しも人がらの上の影響を与えていない」

原文を見る

「みんな人格上の言葉になる。人格上の言葉に翻訳することのできないものには、自然がごうも人格上の感化を与えていない」

三四郎は、まだあとがあるかと思って黙って聞いていた。

原文を見る

三四郎はまだあとがあるかと思って、黙って聞いていた。

ところが広田さんは、それでやめてしまった。

原文を見る

ところが広田さんはそれでやめてしまった。

植木屋の奥の方をのぞいて、

原文を見る

植木屋の奥の方をのぞいて、

「佐々木は何をしているのかしら。おそいな」

原文を見る

「佐々木は何をしているのかしら。おそいな」

とひとりごとのように言う。

原文を見る

とひとりごとのように言う。

「見てきましょうか」

原文を見る

「見てきましょうか」

と三四郎が聞いた。

原文を見る

と三四郎が聞いた。

「なに、見に行ったって、それで出てくるような男じゃない。それよりここに待っているほうが手間がかからないでいい」

原文を見る

「なに、見にいったって、それで出てくるような男じゃない。それよりここに待ってるほうが手間がかからないでいい」

と言って、からたちの垣根の下にしゃがんで、小石を拾って土の上へ何か描き出した。

原文を見る

と言って枳殻からたちの垣根の下にしゃがんで、小石を拾って、土の上へ何かかき出した。

のんきなことである。

原文を見る

のん気なことである。

与次郎ののんきさとは向きが反対で、程度はほぼ同じくらいである。

原文を見る

与次郎ののん気とは方角が反対で、程度がほぼ相似ている。

そこへ植えこみの松の向こうから、与次郎が大きな声を出した。

原文を見る

ところへ植込みの松の向こうから、与次郎が大きな声を出した。

「先生、先生」

原文を見る

「先生先生」

先生は相変わらず何か描いている。

原文を見る

先生は依然として、何かかいている。

どうも灯台のようである。

原文を見る

どうも燈明台とうみょうだいのようである。

返事をしないので、与次郎はしかたなしに出て来た。

原文を見る

返事をしないので、与次郎はしかたなしに出て来た。

「先生、ちょっと見てごらんなさい。いい家だ。この植木屋が持ってるんです。門を開けさせてもいいが、裏から回ったほうが早い」

原文を見る

「先生ちょっと見てごらんなさい。いいうちだ。この植木屋で持ってるんです。門をあけさせてもいいが、裏から回ったほうが早い」

三人は裏から回った。

原文を見る

三人は裏から回った。

雨戸を開けて、一部屋一部屋見て歩いた。

原文を見る

雨戸をあけて、一間一間ひとまひとま見て歩いた。

ふつうの暮らしの人が住んで恥ずかしくないようにできている。

原文を見る

中流の人が住んで恥ずかしくないようにできている。

家賃が四十円で、敷金が三か月分だという。

原文を見る

家賃が四十円で、敷金が三か月分だという。

三人はまた表へ出た。

原文を見る

三人はまた表へ出た。

「なんで、あんな立派な家を見るのだ」

原文を見る

「なんで、あんなりっぱな家を見るのだ」

と広田さんが言う。

原文を見る

と広田さんが言う。

「なんで見るって、ただ見るだけだからいいじゃありませんか」

原文を見る

「なんで見るって、ただ見るだけだからいいじゃありませんか」

と与次郎は言う。

原文を見る

と与次郎は言う。

「借りもしないのに……」

原文を見る

「借りもしないのに……」

「なに、借りるつもりでいたんです。ところが家賃をどうしても二十五円にしようと言わない……」

原文を見る

「なに借りるつもりでいたんです。ところが家賃をどうしても二十五円にしようと言わない……」

広田先生は「あたりまえさ」

原文を見る

広田先生は「あたりまえさ」

と言ったきりである。

原文を見る

と言ったぎりである。

すると与次郎が石の門の由来を話し出した。

原文を見る

すると与次郎が石の門の歴史を話し出した。

この間まで、ある出入り先の屋敷の入口にあったのを、建て直しの時にもらってきて、すぐあそこへ立てたのだと言う。

原文を見る

このあいだまである出入りの屋敷の入口にあったのを、改築のときもらってきて、すぐあすこへ立てたのだと言う。

与次郎らしく、妙なことを調べてきた。

原文を見る

与次郎だけに妙な事を研究してきた。

それから三人はもとの大通りへ出て、動坂から田端の谷へ降りたが、降りたころには三人ともただ歩いている。

原文を見る

それから三人はもとの大通りへ出て、動坂どうざかから田端たばたの谷へ降りたが、降りた時分には三人ともただ歩いている。

貸家のことはみんな忘れてしまった。

原文を見る

貸家の事はみんな忘れてしまった。

与次郎ひとりが時々石の門のことを言う。

原文を見る

ひとり与次郎が時々石の門のことを言う。

麹町からあれを千駄木まで引いてくるのに、運び賃が五円ほどかかったなどと言う。

原文を見る

麹町こうじまちからあれを千駄木まで引いてくるのに、手間が五円ほどかかったなどと言う。

あの植木屋はだいぶ金持ちらしい、などとも言う。

原文を見る

あの植木屋はだいぶ金持ちらしいなどとも言う。

あそこへ四十円の貸家を建てて、いったいだれが借りるだろう、などと余計なことまで言う。

原文を見る

あすこへ四十円の貸家を建てて、ぜんたいだれが借りるだろうなどとよけいなことまで言う。

しまいには、そのうち借り手がなくなって、きっと家賃を下げるに違いないから、その時もう一度かけ合ってぜひ借りようじゃありませんか、という話であった。

原文を見る

ついには、いまに借手がなくなってきっと家賃を下げるに違いないから、その時もう一ぺん談判してぜひ借りようじゃありませんかという結論であった。

広田先生は、べつにそういうつもりもないと見えて、こう言った。

原文を見る

広田先生はべつに、そういう了見もないとみえて、こう言った。

「君があんまり余計な話ばかりしているものだから、時間がかかってしかたがない。いいかげんにして出てくるものだ」

原文を見る

「君が、あんまりよけいな話ばかりしているものだから、時間がかかってしかたがない。いいかげんにして出てくるものだ」

「よほど長くかかりましたか。何か絵を描いていましたね。先生もずいぶんのんきだな」

原文を見る

「よほど長くかかりましたか。何か絵をかいていましたね。先生もずいぶんのん気だな」

「どっちがのんきかわかりゃしない」

原文を見る

「どっちがのんきかわかりゃしない」

「ありゃ何の絵です」

原文を見る

「ありゃなんの絵です」

先生は黙っている。

原文を見る

先生は黙っている。

その時、三四郎がまじめな顔をして、

原文を見る

その時三四郎がまじめな顔をして、

「灯台じゃないですか」

原文を見る

「燈台じゃないですか」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

描いた本人と与次郎は笑い出した。

原文を見る

かき手と与次郎は笑い出した。

「灯台は思いつかなかったな。じゃ野々宮宗八さんを描いていらしったんですね」

原文を見る

「燈台は奇抜だな。じゃ野々宮宗八さんをかいていらしったんですね」

「なぜ」

原文を見る

「なぜ」

「野々宮さんは外国では光ってるが、日本ではまっ暗だから。――だれもまるで知らない。それでわずかばかりの給料をもらって、地下にたてこもって、――じつに割に合わない仕事だ。野々宮さんの顔を見るたびに気の毒になってたまらない」

原文を見る

「野々宮さんは外国じゃ光ってるが、日本じゃまっ暗だから。――だれもまるで知らない。それでわずかばかりの月給をもらって、穴倉へたてこもって、――じつに割に合わない商売だ。野々宮さんの顔を見るたびに気の毒になってたまらない」

「君などは自分のすわっている周り六十センチくらいの所をぼんやり照らすだけだから、丸あんどんのようなものだ」

原文を見る

「君なぞは自分のすわっている周囲方二尺ぐらいの所をぼんやり照らすだけだから、丸行燈まるあんどんのようなものだ」

丸あんどんに例えられた与次郎は、突然三四郎の方を向いて、

原文を見る

丸行燈に比較された与次郎は、突然三四郎の方を向いて、

「小川君、君は明治何年生まれかな」

原文を見る

「小川君、君は明治何年生まれかな」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

三四郎は簡単に、

原文を見る

三四郎は簡単に、

「ぼくは二十三だ」

原文を見る

「ぼくは二十三だ」

と答えた。

原文を見る

と答えた。

「そんなものだろう。――先生、ぼくは丸あんどんだの、きせるの雁首(がんくび。たばこをつめる部分)だのっていうものが、どうも嫌いですがね。明治十五年以後に生まれたせいかもしれないが、なんだか古くさくていやな心持ちがする。君はどうだ」

原文を見る

「そんなものだろう。――先生ぼくは、丸行燈だの、雁首がんくびだのっていうものが、どうもきらいですがね。明治十五年以後に生まれたせいかもしれないが、なんだか旧式でいやな心持ちがする。君はどうだ」

と、また三四郎の方を向く。

原文を見る

とまた三四郎の方を向く。

三四郎は、

原文を見る

三四郎は、

「ぼくは、べつに嫌いでもない」

原文を見る

「ぼくはべつだんきらいでもない」

と言った。

原文を見る

と言った。

「もっとも君は九州の田舎から出たばかりだから、明治元年ぐらいの頭と同じなんだろう」

原文を見る

「もっとも君は九州のいなかから出たばかりだから、明治元年ぐらいの頭と同じなんだろう」

三四郎も広田も、これに対してべつに返事をしなかった。

原文を見る

三四郎も広田もこれに対してべつだんの挨拶をしなかった。

少し行くと、古い寺の隣の杉林を切りたおして、きれいに地ならしをした上に、青いペンキ塗りの西洋館を建てている。

原文を見る

少し行くと古い寺の隣の杉林を切り倒して、きれいに地ならしをした上に、青ペンキ塗りの西洋館を建てている。

広田先生は寺とペンキ塗りを同じくらいずつ見ていた。

原文を見る

広田先生は寺とペンキ塗りを等分に見ていた。

「時代がちぐはぐだ。日本の物の世界も心の世界も、このとおりだ。君、九段の灯台を知っているだろう」

原文を見る

時代錯誤アナクロニズムだ。日本の物質界も精神界もこのとおりだ。君、九段の燈明台を知っているだろう」

と、また灯台が出た。

原文を見る

とまた燈明台が出た。

「あれは古いもので、江戸名所図会に出ている」

原文を見る

「あれは古いもので、江戸名所図会えどめいしょずえに出ている」

「先生、冗談言っちゃいけません。いくら九段の灯台が古いといったって、江戸名所図会に出ちゃたいへんだ」

原文を見る

「先生冗談言っちゃいけません。なんぼ九段の燈明台が古いたって、江戸名所図会に出ちゃたいへんだ」

広田先生は笑い出した。

原文を見る

広田先生は笑い出した。

じつは東京名所という色刷りの絵の間違いだということがわかった。

原文を見る

じつは東京名所という錦絵にしきえの間違いだということがわかった。

先生の説によると、こんなに古い灯台がまだ残っているそばに、偕行社という新しい様式のれんが造りができた。

原文を見る

先生の説によると、こんなに古い燈台が、まだ残っているそばに、偕行社かいこうしゃという新式の煉瓦れんが作りができた。

二つ並べて見ると、じつにばかげている。

原文を見る

二つ並べて見るとじつにばかげている。

けれども、だれも気がつかない。平気でいる。

原文を見る

けれどもだれも気がつかない、平気でいる。

これが日本の世の中を代表しているんだと言う。

原文を見る

これが日本の社会を代表しているんだと言う。

与次郎も三四郎もなるほどと言ったまま、お寺の前を通り越して五、六百メートル来ると、大きな黒い門がある。

原文を見る

与次郎も三四郎もなるほどと言ったまま、お寺の前を通り越して、五、六町来ると、大きな黒い門がある。

与次郎が、ここを抜けて道灌山へ出ようと言い出した。

原文を見る

与次郎が、ここを抜けて道灌山どうかんやまへ出ようと言い出した。

抜けてもいいのかと念を押すと、なに、これは佐竹の屋敷で、だれでも通れるんだからかまわないと言い張るので、二人ともその気になって門をくぐり、やぶの下を通って古い池のそばまで来ると、番人が出てきて、たいへん三人をしかりつけた。

原文を見る

抜けてもいいのかと念を押すと、なにこれは佐竹さたけ下屋敷しもやしきで、だれでも通れるんだからかまわないと主張するので、二人ともその気になって門をくぐって、やぶの下を通って古い池のそばまで来ると、番人が出てきて、たいへん三人をしかりつけた。

その時、与次郎はへいへいと言って番人にあやまった。

原文を見る

その時与次郎はへいへいと言って番人にあやまった。

それから谷中へ出て、根津を回って、夕方に本郷の下宿へ帰った。

原文を見る

それから谷中やなかへ出て、根津ねづを回って、夕方に本郷の下宿へ帰った。

三四郎は近ごろにない気楽な半日を暮らしたように感じた。

原文を見る

三四郎は近来にない気楽な半日を暮らしたように感じた。

翌日学校へ出てみると、与次郎がいない。

原文を見る

翌日学校へ出てみると与次郎がいない。

昼から来るかと思ったが来ない。

原文を見る

昼から来るかと思ったが来ない。

図書館へも入ったが、やっぱり見当たらなかった。

原文を見る

図書館へもはいったがやっぱり見当らなかった。

五時から六時まで、文科みんなが受ける講義がある。

原文を見る

五時から六時まで純文科共通の講義がある。

三四郎はこれに出た。

原文を見る

三四郎はこれへ出た。

書き取るには暗すぎる。

原文を見る

筆記するには暗すぎる。

電灯がつくには早すぎる。

原文を見る

電燈がつくには早すぎる。

細長い窓の外に見える大きなけやきの枝の奥が、だんだん黒くなるころだから、部屋の中は先生の顔も学生の顔も同じようにぼんやりしている。

原文を見る

細長い窓の外に見える大きなけやきの枝の奥が、次第に黒くなる時分だから、部屋へやの中は講師の顔も聴講生の顔も等しくぼんやりしている。

だから、暗闇でまんじゅうを食べるように、なんとなく不思議な感じである。

原文を見る

したがって暗闇くらやみ饅頭まんじゅうを食うように、なんとなく神秘的である。

三四郎は、講義がわからないところが妙だと思った。

原文を見る

三四郎は講義がわからないところが妙だと思った。

ほおづえをついて聞いていると、頭がにぶくなって、気が遠くなる。

原文を見る

頬杖ほおづえを突いて聞いていると、神経がにぶくなって、気が遠くなる。

これでこそ講義の値打ちがあるような心持ちがする。

原文を見る

これでこそ講義の価値があるような心持ちがする。

そこへ電灯がぱっとついて、すべてがややはっきりした。

原文を見る

ところへ電燈がぱっとついて、万事がやや明瞭めいりょうになった。

すると急に下宿へ帰ってごはんが食べたくなった。

原文を見る

すると急に下宿へ帰って飯が食いたくなった。

先生もみんなの心を察して、いいかげんに講義を切り上げてくれた。

原文を見る

先生もみんなの心を察して、いいかげんに講義を切り上げてくれた。

三四郎は早足で追分まで帰ってくる。

原文を見る

三四郎は早足で追分おいわけまで帰ってくる。

着物を着替えて食事の膳に向かうと、膳の上に茶わん蒸しといっしょに手紙が一通載せてある。

原文を見る

着物を脱ぎ換えてぜんに向かうと、膳の上に、茶碗蒸ちゃわんむしといっしょに手紙が一本載せてある。

その表書きを見た時、三四郎はすぐ母から来たものだと悟った。

原文を見る

その上封うわふうを見たとき、三四郎はすぐ母から来たものだと悟った。

すまないことだが、この半月あまり母のことはまるで忘れていた。

原文を見る

すまんことだがこの半月あまり母の事はまるで忘れていた。

昨日から今日へかけては、時代のちぐはぐさだの、富士山の人がらだの、不思議な講義だので、例の女の人の影もまるで頭の中へ出てこなかった。

原文を見る

きのうからきょうへかけては時代錯誤アナクロニズムだの、不二山の人格だの、神秘的な講義だので、例の女の影もいっこう頭の中へ出てこなかった。

三四郎はそれで満足である。

原文を見る

三四郎はそれで満足である。

母の手紙はあとでゆっくり見ることにして、とりあえず食事を済ませて、たばこを吸った。

原文を見る

母の手紙はあとでゆっくり見ることとして、とりあえず食事を済まして、煙草を吹かした。

その煙を見ると、さっきの講義を思い出す。

原文を見る

その煙を見るとさっきの講義を思い出す。

そこへ与次郎がふらりと現れた。

原文を見る

そこへ与次郎がふらりと現われた。

どうして学校を休んだかと聞くと、貸家捜しで学校どころじゃないそうである。

原文を見る

どうして学校を休んだかと聞くと、貸家捜しで学校どころじゃないそうである。

「そんなに急いで引っ越すのか」

原文を見る

「そんなに急いで越すのか」

と三四郎が聞くと、

原文を見る

と三四郎が聞くと、

「急ぐって、先月中に引っ越すはずのところを、あさっての天長節(てんちょうせつ。天皇の誕生日を祝う日)まで待たせたんだから、どうしたって明日じゅうに捜さなければならない。どこか心当たりはないか」

原文を見る

「急ぐって先月中に越すはずのところをあさっての天長節まで待たしたんだから、どうしたってあしたじゅうに捜さなければならない。どこか心当りはないか」

と言う。

原文を見る

と言う。

こんなに忙しがるくせに、昨日は散歩だか貸家捜しだかわからないように、ぶらぶらつぶしていた。

原文を見る

こんなに忙しがるくせに、きのうは散歩だか、貸家捜しだかわからないようにぶらぶらつぶしていた。

三四郎にはほとんど納得がいかない。

原文を見る

三四郎にはほとんど合点がてんがいかない。

与次郎はこれを説明して、それは先生がいっしょだからさ、と言った。

原文を見る

与次郎はこれを解釈して、それは先生がいっしょだからさと言った。

「そもそも先生が家を捜すなんて間違っている。けっして捜したことのない男なんだが、昨日はどうかしていたに違いない。おかげで佐竹の屋敷でひどくしかられて、いい面の皮だ。――君、どこかないか」

原文を見る

「元来先生が家を捜すなんて間違っている。けっして捜したことのない男なんだが、きのうはどうかしていたに違いない。おかげで佐竹のやしきでひどい目にしかられていいつらの皮だ。――君どこかないか」

と急に催促する。

原文を見る

と急に催促する。

与次郎が来たのは、まったくそれが目的らしい。

原文を見る

与次郎が来たのはまったくそれが目的らしい。

よくよく事情を聞いてみると、今の持ち主が高い利子でお金を貸す人で、家賃をむやみに上げるのが腹立たしいというので、与次郎がこちらから出て行くと言いわたしたのだそうだ。

原文を見る

よくよく原因を聞いてみると、今の持ち主が高利貸で、家賃をむやみに上げるのが、業腹ごうはらだというので、与次郎がこっちからたちのきを宣告したのだそうだ。

それでは与次郎に責任があるわけだ。

原文を見る

それでは与次郎に責任があるわけだ。

「今日は大久保まで行ってみたが、やっぱりない。――大久保といえば、ついでに宗八さんの所に寄って、よし子さんに会ってきた。かわいそうに、まだ顔色つやが悪い。――はっかのようにすっとした美人――お母さんが君によろしく言ってくれってことだ。しかしその後はあの辺も穏やかなようだ。ひかれて死ぬのも、あれきりないそうだ」

原文を見る

「きょうは大久保まで行ってみたが、やっぱりない。――大久保といえば、ついでに宗八さんの所に寄って、よし子さんに会ってきた。かわいそうにまだ色光沢いろつやが悪い。――辣薑性らっきょうせいの美人――おっかさんが君によろしく言ってくれってことだ。しかしその後はあの辺も穏やかなようだ。轢死れきしもあれぎりないそうだ」

与次郎の話は、それからそれへと飛んで行く。

原文を見る

与次郎の話はそれから、それへと飛んで行く。

ふだんから締まりがないうえに、今日は家捜しで少しあせっている。

原文を見る

平生から締まりのないうえに、きょうは捜しで少しせきこんでいる。

話が一区切りつくと、合いの手のように、どこかないかないかと聞く。

原文を見る

話が一段落つくと、相の手のように、どこかないかないかと聞く。

しまいには三四郎も笑い出した。

原文を見る

しまいには三四郎も笑い出した。

そのうち与次郎の腰がだんだん落ち着いてきて、灯火親しむべし(秋は明かりの下で本を読むのによい)、などという古い言葉まで借りてきてうれしがるようになった。

原文を見る

そのうち与次郎のしりが次第におちついてきて、燈火親しむべしなどという漢語さえ借用してうれしがるようになった。

話はふとしたことから広田先生のことに移った。

原文を見る

話題ははしなく広田先生の上に落ちた。

「君のところの先生の名は何というのか」

原文を見る

「君の所の先生の名はなんというのか」

「名は萇(ちょう)」

原文を見る

「名はちょう

と指で書いて見せて、「くさかんむりが余計だ。字引にあるかしらん。妙な名をつけたものだね」

原文を見る

と指で書いて見せて、「艸冠くさかんむりがよけいだ。字引にあるかしらん。妙な名をつけたものだね」

と言う。

原文を見る

と言う。

「高等学校の先生か」

原文を見る

「高等学校の先生か」

「昔から今日まで高等学校の先生。たいしたものだ。十年一日のごとしというが、もう十二、三年になるだろう」

原文を見る

「昔から今日こんにちに至るまで高等学校の先生。えらいものだ。十年一じつのごとしというが、もう十二、三年になるだろう」

「子供はいるのか」

原文を見る

「子供はおるのか」

「子供どころか、まだ独身だ」

原文を見る

「子供どころか、まだ独身ひとりみだ」

三四郎は少し驚いた。

原文を見る

三四郎は少し驚いた。

あの年まで一人でいられるものかとも思った。

原文を見る

あの年まで一人でいられるものかとも疑った。

「なぜ奥さんをもらわないのだろう」

原文を見る

「なぜ奥さんをもらわないのだろう」

「そこが先生の先生たるところで、あれでたいへんな理屈屋なんだ。奥さんをもらってみもしないうちから、奥さんはいけないものだと理屈で決まっているんだそうだ。ばかげてるよ。だから、いつもつじつまが合わないことばかりしている。先生は、東京ほど汚い所はないように言う。それで石の門を見ると恐れをなして、いかんいかんとか、立派すぎるとか言うだろう」

原文を見る

「そこが先生の先生たるところで、あれでたいへんな理論家なんだ。細君さいくんをもらってみないさきから、細君はいかんものと理論できまっているんだそうだ。愚だよ。だからしじゅう矛盾むじゅんばかりしている。先生、東京ほどきたない所はないように言う。それで石の門を見ると恐れをなして、いかんいかんとか、りっぱすぎるとか言うだろう」

「じゃ奥さんも試しに持ってみたらよかろう」

原文を見る

「じゃ細君も試みに持ってみたらよかろう」

「大いによし、とか何とか言うかもしれない」

原文を見る

「大いによしとかなんとか言うかもしれない」

「先生は東京が汚いとか、日本人が醜いとか言うが、外国へ行ったことでもあるのか」

原文を見る

「先生は東京がきたないとか、日本人が醜いとか言うが、洋行でもしたことがあるのか」

「なに、あるもんか。ああいう人なんだ。何ごとも頭のほうが事実より育っているんだから、ああなるんだね。その代わり西洋は写真で研究している。パリの凱旋門だの、ロンドンの議事堂だの、たくさん持っている。あの写真で日本をはかるんだからたまらない。汚いわけさ。それで自分の住んでいる所は、いくら汚くても案外平気だから不思議だ」

原文を見る

「なにするもんか。ああいう人なんだ。万事頭のほうが事実より発達しているんだからああなるんだね。その代り西洋は写真で研究している。パリの凱旋門がいせんもんだの、ロンドンの議事堂だの、たくさん持っている。あの写真で日本を律するんだからたまらない。きたないわけさ。それで自分の住んでる所は、いくらきたなくっても存外平気だから不思議だ」

「三等の汽車に乗っていたぞ」

原文を見る

「三等汽車へ乗っておったぞ」

「汚い汚いって文句を言いはしないか」

原文を見る

「きたないきたないって不平を言やしないか」

「いや、べつに文句も言わなかった」

原文を見る

「いやべつに不平も言わなかった」

「しかし先生は哲学者だね」

原文を見る

「しかし先生は哲学者だね」

「学校で哲学でも教えているのか」

原文を見る

「学校で哲学でも教えているのか」

「いや、学校では英語だけしか受け持っていないがね、あの人間が、自然と哲学にできあがっているからおもしろい」

原文を見る

「いや学校じゃ英語だけしか受け持っていないがね、あの人間が、おのずから哲学にできあがっているからおもしろい」

「本でもあるのか」

原文を見る

「著述でもあるのか」

「何もない。時々論文を書くことはあるが、ちっとも反応がない。あれではだめだ。まるで世間が知らないんだからしようがない。先生はぼくのことを丸あんどんだと言ったが、先生自身は偉大な暗闇だ」

原文を見る

「何もない。時々論文を書く事はあるが、ちっとも反響がない。あれじゃだめだ。まるで世間が知らないんだからしようがない。先生、ぼくの事を丸行燈まるあんどんだと言ったが、夫子ふうし自身は偉大な暗闇だ」

「どうにかして世の中へ出たらよさそうなものだな」

原文を見る

「どうかして、世の中へ出たらよさそうなものだな」

「出たらよさそうなものだって、――先生は自分では何にもやらない人だからね。第一、ぼくがいなければ三度のごはんさえ食べられない人なんだ」

原文を見る

「出たらよさそうなものだって、――先生、自分じゃなんにもやらない人だからね。第一ぼくがいなけりゃ三度の飯さえ食えない人なんだ」

三四郎は、まさかと言わんばかりに笑い出した。

原文を見る

三四郎はまさかといわぬばかりに笑い出した。

「うそじゃない。気の毒なほど何にもやらないんでね。何でもぼくが女中に言いつけて、先生の気に入るように片づけるんだが――そんな細かいことはともかく、これから大いに動いて、先生を一つ大学教授にしてやろうと思う」

原文を見る

うそじゃない。気の毒なほどなんにもやらないんでね。なんでも、ぼくが下女に命じて、先生の気にいるように始末をつけるんだが――そんな瑣末さまつな事はとにかく、これから大いに活動して、先生を一つ大学教授にしてやろうと思う」

与次郎はまじめである。

原文を見る

与次郎はまじめである。

三四郎は、その大きな口ぶりに驚いた。

原文を見る

三四郎はその大言たいげんに驚いた。

驚いてもかまわない。

原文を見る

驚いてもかまわない。

驚いたままに話は進んで、しまいに、

原文を見る

驚いたままに進行して、しまいに、

「引っ越しをする時はぜひ手伝いに来てくれ」

原文を見る

「引っ越しをする時はぜひ手伝いに来てくれ」

と頼んだ。

原文を見る

と頼んだ。

まるで話の決まった家がとっくにあるかのような口ぶりである。

原文を見る

まるで約束のできた家がとうからあるごとき口吻こうふんである。

与次郎が帰ったのは、かれこれ十時近くである。

原文を見る

与次郎の帰ったのはかれこれ十時近くである。

一人ですわっていると、どことなく肌寒い感じがする。

原文を見る

一人ですわっていると、どことなく肌寒はださむの感じがする。

ふと気がついたら、机の前の窓がまだ閉めずにあった。

原文を見る

ふと気がついたら、机の前の窓がまだたてずにあった。

障子を開けると月夜だ。

原文を見る

障子をあけると月夜だ。

目に触れるたびに不愉快なひのきに青い光がさして、黒い影のふちが少し煙って見える。

原文を見る

目に触れるたびに不愉快なひのきに、青い光りがさして、黒い影の縁が少し煙って見える。

ひのきに秋が来たのは珍しいと思いながら、雨戸を閉めた。

原文を見る

檜に秋が来たのは珍しいと思いながら、雨戸をたてた。

三四郎はすぐ布団に入った。

原文を見る

三四郎はすぐとこへはいった。

三四郎は勉強家というよりむしろ、ぶらぶらと物思いにふけるたちなので、わりあい本を読まない。

原文を見る

三四郎は勉強家というよりむしろ彽徊家ていかいかなので、わりあい書物を読まない。

その代わり、味わうべき場面に出会うと、何度もこれを頭の中で思い返して喜んでいる。

原文を見る

その代りあるきくすべき情景にあうと、何べんもこれを頭の中で新たにして喜んでいる。

そのほうが命に奥行きがあるような気がする。

原文を見る

そのほうが命に奥行おくゆきがあるような気がする。

今日も、いつもなら不思議な講義の最中にぱっと電灯がつくところなどを繰り返してうれしがるはずだが、母の手紙があるので、まずそれから片づけ始めた。

原文を見る

きょうも、いつもなら、神秘的講義の最中に、ぱっと電燈がつくところなどを繰り返してうれしがるはずだが、母の手紙があるので、まず、それから片づけ始めた。

手紙には、新蔵がはちみつをくれたから、焼酎を混ぜて毎晩杯に一杯ずつ飲んでいるとある。

原文を見る

手紙には新蔵しんぞう蜂蜜はちみつをくれたから、焼酎しょうちゅうを混ぜて、毎晩杯に一杯ずつ飲んでいるとある。

新蔵は家の田畑を借りて作っている人で、毎年冬になると米を二十俵ずつ持ってくる。

原文を見る

新蔵は家の小作人で、毎年冬になると年貢米ねんぐまいを二十俵ずつ持ってくる。

いたって正直者だが、おこりっぽいので、時々おかみさんをまきでなぐることがある。――

原文を見る

いたって正直者だが、癇癪かんしゃくが強いので、時々女房をまきでなぐることがある。――

三四郎は布団の中で、新蔵が蜂を飼い出した昔のことまで思い浮かべた。

原文を見る

三四郎は床の中で新蔵が蜂を飼い出した昔の事まで思い浮かべた。

それは五年ほど前である。

原文を見る

それは五年ほどまえである。

裏のしいの木に蜜蜂が二、三百匹ぶら下がっていたのを見つけて、すぐ、もみをふるうじょうごに酒を吹きかけて、残らず生けどりにした。

原文を見る

裏のしいの木に蜜蜂が二、三百匹ぶら下がっていたのを見つけてすぐ籾漏斗もみじょうごに酒を吹きかけて、ことごとく生捕いけどりにした。

それからこれを箱へ入れて、出入りのできるような穴をあけて、日当たりのいい石の上に置いてやった。

原文を見る

それからこれを箱へ入れて、出入ではいりのできるような穴をあけて、日当りのいい石の上に据えてやった。

すると蜂がだんだんふえてくる。

原文を見る

すると蜂がだんだんふえてくる。

箱が一つでは足りなくなる。

原文を見る

箱が一つでは足りなくなる。

二つにする。

原文を見る

二つにする。

また足りなくなる。

原文を見る

また足りなくなる。

三つにする。

原文を見る

三つにする。

というふうにふやしていった結果、今では何でも六箱か七箱ある。

原文を見る

というふうにふやしていった結果、今ではなんでも六箱か七箱ある。

そのうちの一箱を年に一度ずつ石から下ろして、蜂のために蜜を切り取ると言っていた。

原文を見る

そのうちの一箱を年に一度ずつ石からおろして蜂のために蜜を切り取るといっていた。

毎年夏休みに帰るたびに蜜をあげましょうと言わないことはないが、ついに持ってきたためしがなかった。

原文を見る

毎年まいとし夏休みに帰るたびに蜜をあげましょうと言わないことはないが、ついに持ってきたためしがなかった。

が、今年は物覚えが急によくなって、長年の約束を果たしたものであろう。

原文を見る

が、今年ことしは物覚えが急によくなって、年来の約束を履行したものであろう。

平太郎がお父さんのお墓の石を建てたから見に来てくれと頼みに来たとある。

原文を見る

平太郎へいたろうがおやじの石塔せきとうを建てたから見にきてくれろと頼みにきたとある。

行ってみると、木も草も生えていない庭の赤土のまん中に、御影石でできていたそうである。

原文を見る

行ってみると、木も草もはえていない庭の赤土のまん中に、御影石みかげいしでできていたそうである。

平太郎は、その御影石が自慢なのだと書いてある。

原文を見る

平太郎はその御影石が自慢なのだと書いてある。

山から切り出すのに何日とかかかって、それから石屋に頼んだら十円取られた。

原文を見る

山から切り出すのに幾日いくかとかかかって、それから石屋に頼んだら十円取られた。

お百姓か何かにはわからないが、あなたのところの若旦那は大学校に入っているくらいだから、石の善し悪しはきっとわかる。

原文を見る

百姓や何かにはわからないが、あなたのとこの若旦那わかだんなは大学校へはいっているくらいだから、石の善悪よしあしはきっとわかる。

今度手紙のついでに聞いてみてくれ、そうして十円もかけてお父さんのためにこしらえてやったお墓の石をほめてもらってくれ、と言うんだそうだ。――

原文を見る

今度手紙のついでに聞いてみてくれ、そうして十円もかけておやじのためにこしらえてやった石塔をほめてもらってくれと言うんだそうだ。――

三四郎は一人でくすくす笑い出した。

原文を見る

三四郎はひとりでくすくす笑い出した。

千駄木の石の門よりよほど激しい。

原文を見る

千駄木の石門よりよほど激しい。

大学の制服を着た写真をよこせとある。

原文を見る

大学の制服を着た写真をよこせとある。

三四郎はいつか撮ってやろうと思いながら、次へ移ると、思ったとおり、三輪田のお光さんが出てきた。――

原文を見る

三四郎はいつかってやろうと思いながら、次へ移ると、案のごとく三輪田のお光さんが出てきた。――

この間、お光さんのお母さんが来て、三四郎さんも近々大学を卒業なさることだが、卒業したら家の娘をもらってくれまいか、という相談であった。

原文を見る

このあいだお光さんのおっかさんが来て、三四郎さんも近々きんきん大学を卒業なさることだが、卒業したらうちの娘をもらってくれまいかという相談であった。

お光さんは器量もよいし気立ても優しいし、家に田畑もだいぶあるし、そのうえ家と家との今までの関わりもあることだから、そうしたら両方とも都合がよいだろうと書いて、そのあとにただし書きがつけてある。――

原文を見る

お光さんは器量もよし気質きだても優しいし、家に田地でんちもだいぶあるし、その上家と家との今までの関係もあることだから、そうしたら双方ともつごうがよいだろうと書いて、そのあとへ但し書がつけてある。――

お光さんもうれしがるだろう。――

原文を見る

お光さんもうれしがるだろう。――

東京の者は気心が知れないから私はいやです。

原文を見る

東京の者は気心きごころが知れないから私はいやじゃ。

三四郎は手紙を巻きもどして封に入れ、枕元へ置いたまま目をつぶった。

原文を見る

三四郎は手紙を巻き返して、封に入れて、枕元まくらもとへ置いたまま目を眠った。

ねずみが急に天井で暴れ出したが、やがて静まった。

原文を見る

ねずみが急に天井てんじょうであばれだしたが、やがて静まった。

三四郎には三つの世界ができた。

原文を見る

三四郎には三つの世界ができた。

一つは遠くにある。

原文を見る

一つは遠くにある。

与次郎の言う、明治十五年より前の香りがする。

原文を見る

与次郎のいわゆる明治十五年以前のがする。

すべてが穏やかである代わりに、すべてが寝ぼけている。

原文を見る

すべてが平穏である代りにすべてが寝ぼけている。

もっとも、帰るのに手間はいらない。

原文を見る

もっとも帰るに世話はいらない。

もどろうとすれば、すぐもどれる。

原文を見る

もどろうとすれば、すぐにもどれる。

ただ、よほどのことがない限りもどる気がしない。

原文を見る

ただいざとならない以上はもどる気がしない。

いわば、にげこむ場所のようなものである。

原文を見る

いわば立退場たちのきばのようなものである。

三四郎はぬぎ捨てた過去を、このにげこむ場所の中へ封じこめた。

原文を見る

三四郎は脱ぎ棄てた過去を、この立退場の中へ封じ込めた。

なつかしい母までここに葬ったかと思うと、急に申しわけなくなる。

原文を見る

なつかしい母さえここに葬ったかと思うと、急にもったいなくなる。

そこで手紙が来た時だけは、しばらくこの世界に立ちもどって、昔の喜びをあたためる。

原文を見る

そこで手紙が来た時だけは、しばらくこの世界に彽徊ていかいして旧歓をあたためる。

第二の世界の中には、こけの生えたれんが造りがある。

原文を見る

第二の世界のうちには、こけのはえた煉瓦造りがある。

片すみから片すみを見わたすと、向こうの人の顔がよくわからないほど広い閲覧室がある。

原文を見る

片すみから片すみを見渡すと、向こうの人の顔がよくわからないほどに広い閲覧室がある。

はしごをかけなければ手の届かないほど高く積み重ねた本がある。

原文を見る

梯子はしごをかけなければ、手の届きかねるまで高く積み重ねた書物がある。

手ずれ、指のあかで黒くなっている。

原文を見る

手ずれ、指のあかで、黒くなっている。

金文字で光っている。

原文を見る

金文字で光っている。

羊の皮、牛の皮、二百年前の紙、それからすべての上に積もったほこりがある。

原文を見る

羊皮、牛皮、二百年前の紙、それからすべての上に積もったちりがある。

このほこりは二、三十年かかってようやく積もった尊いほこりである。

原文を見る

この塵は二、三十年かかってようやく積もった尊い塵である。

静かな明日に打ち勝つほどの静かなほこりである。

原文を見る

静かな明日に打ち勝つほどの静かな塵である。

第二の世界に動く人の影を見ると、たいてい、そりのこしたひげをはやしている。

原文を見る

第二の世界に動く人の影を見ると、たいてい不精ぶしょうひげをはやしている。

ある人は空を見て歩いている。

原文を見る

ある者は空を見て歩いている。

ある人はうつむいて歩いている。

原文を見る

ある者は俯向うつむいて歩いている。

服装は必ず汚い。

原文を見る

服装なりは必ずきたない。

暮らし向きは、きっと貧しい。

原文を見る

生計くらしはきっと貧乏である。

そうして落ち着き払っている。

原文を見る

そうして晏如あんじょとしている。

電車に取り巻かれながら、のどかな空気を都会の空の下で堂々と吸っている。

原文を見る

電車に取り巻かれながら、太平の空気を、通天に呼吸してはばからない。

この中に入る人は、今の世を知らないから不幸で、火の燃える家のような世間をのがれるから幸いである。

原文を見る

このなかに入る者は、現世を知らないから不幸で、火宅かたくをのがれるから幸いである。

広田先生はこの中にいる。

原文を見る

広田先生はこの内にいる。

野々宮君もこの中にいる。

原文を見る

野々宮君もこの内にいる。

三四郎は、この中の空気をほぼ理解できたところにいる。

原文を見る

三四郎はこの内の空気をほぼ解しえた所にいる。

出ようと思えば出られる。

原文を見る

出れば出られる。

しかし、せっかくわかりかけた味わいを思い切って捨てるのも残念だ。

原文を見る

しかしせっかくしかけた趣味を思いきって捨てるのも残念だ。

第三の世界は、きらきらと春のように動いている。

原文を見る

第三の世界はさんとして春のごとくうごいている。

電灯がある。

原文を見る

電燈がある。

銀のさじがある。

原文を見る

銀匙ぎんさじがある。

喜びの声がある。

原文を見る

歓声がある。

笑い声と語らいがある。

原文を見る

笑語がある。

あわ立つシャンパンの杯がある。

原文を見る

泡立あわだつシャンパンの杯がある。

そうして、すべての上に立つ冠として、美しい女の人がある。

原文を見る

そうしてすべての上の冠として美しい女性にょしょうがある。

三四郎は、その女の人の一人と口をきいた。

原文を見る

三四郎はその女性の一人ひとりに口をきいた。

一人を二度見た。

原文を見る

一人を二へん見た。

この世界は三四郎にとって、最も深く濃い世界である。

原文を見る

この世界は三四郎にとって最も深厚な世界である。

この世界は鼻の先にある。

原文を見る

この世界は鼻の先にある。

ただ近づきにくい。

原文を見る

ただ近づき難い。

近づきにくい点では、空のかなたのいなずまと同じである。

原文を見る

近づき難い点において、天外の稲妻いなずまと一般である。

三四郎は遠くからこの世界を眺めて、不思議に思う。

原文を見る

三四郎は遠くからこの世界をながめて、不思議に思う。

自分がこの世界のどこかへ入らなければ、その世界のどこかに欠けたところができるような気がする。

原文を見る

自分がこの世界のどこかへはいらなければ、その世界のどこかに欠陥ができるような気がする。

自分はこの世界のどこかで主人公であるべき資格を持っているらしい。

原文を見る

自分はこの世界のどこかの主人公であるべき資格を有しているらしい。

それなのに、みんなが育つのを願うはずのこの世界が、かえって自分自身をしばって、自分が自由に出入りすべき道をふさいでいる。

原文を見る

それにもかかわらず、円満の発達をこいねがうべきはずのこの世界がかえってみずからを束縛して、自分が自由に出入すべき通路をふさいでいる。

三四郎にはこれが不思議であった。

原文を見る

三四郎にはこれが不思議であった。

三四郎は布団の中で、この三つの世界を並べて互いに比べてみた。

原文を見る

三四郎は床のなかで、この三つの世界を並べて、互いに比較してみた。

次に、この三つの世界をかき混ぜて、その中から一つの答えを得た。――

原文を見る

次にこの三つの世界をかき混ぜて、そのなかから一つの結果を得た。――

要するに、ふるさとから母を呼び寄せて、美しい妻をむかえて、そうして身を学問にささげるのに越したことはない。

原文を見る

要するに、国から母を呼び寄せて、美しい細君を迎えて、そうして身を学問にゆだねるにこしたことはない。

答えはとてもありふれている。

原文を見る

結果はすこぶる平凡である。

けれども、この答えに着くまでにいろいろ考えたのだから、考えた苦労を計算に入れて答えの値打ちを上げ下げしがちな、考える本人から見ると、それほどありふれてはいなかった。

原文を見る

けれどもこの結果に到着するまえにいろいろ考えたのだから、思索の労力を打算して、結論の価値を上下しょうかしやすい思索家自身からみると、それほど平凡ではなかった。

ただ、こうすると広い第三の世界を、ちっぽけな一人の妻で代表させることになる。

原文を見る

ただこうすると広い第三の世界をびょうたる一個の細君で代表させることになる。

美しい女の人はたくさんある。

原文を見る

美しい女性はたくさんある。

美しい女の人を翻訳するといろいろになる。――

原文を見る

美しい女性を翻訳するといろいろになる。――

三四郎は広田先生にならって、翻訳という字を使ってみた。――

原文を見る

三四郎は広田先生にならって、翻訳という字を使ってみた。――

かりにも人がらの上の言葉に翻訳ができるかぎりは、その翻訳から生じる影響の広さを大きくして、自分らしさを完全なものにするために、なるべく多くの美しい女の人に会わなければならない。

原文を見る

いやしくも人格上の言葉に翻訳のできるかぎりは、その翻訳から生ずる感化の範囲を広くして、自己の個性を全からしむるために、なるべく多くの美しい女性に接触しなければならない。

妻一人を知って満足するのは、進んで自分の育ちを不完全にするようなものである。

原文を見る

細君一人を知って甘んずるのは、進んで自己の発達を不完全にするようなものである。

三四郎は理屈をここまで伸ばしてみて、少し広田さんにかぶれたなと思った。

原文を見る

三四郎は論理をここまで延長してみて、少し広田さんにかぶれたなと思った。

実際のところは、これほど強く足りなさを感じていなかったからである。

原文を見る

実際のところは、これほど痛切に不足を感じていなかったからである。

翌日学校へ出ると、講義はいつものようにつまらないが、部屋の中の空気は相変わらず世間ばなれしているので、午後三時までの間にすっかり第二の世界の人になりきって、いかにも偉い人のような様子で追分の交番の前まで来ると、ばったり与次郎に出会った。

原文を見る

翌日学校へ出ると講義は例によってつまらないが、室内の空気は依然として俗を離れているので、午後三時までのあいだに、すっかり第二の世界の人となりおおせて、さも偉人のような態度をもって、追分の交番の前まで来ると、ばったり与次郎に出会った。

「アハハハ。アハハハ」

原文を見る

「アハハハ。アハハハ」

偉い人のような様子は、このためにすっかりくずれた。

原文を見る

偉人の態度はこれがためにまったくくずれた。

交番の巡査まで薄笑いをしている。

原文を見る

交番の巡査さえ薄笑いをしている。

「なんだ」

原文を見る

「なんだ」

「なんだもないものだ。もう少しふつうの人間らしく歩くがいい。まるでロマンチック・アイロニーだ」

原文を見る

「なんだもないものだ。もう少し普通の人間らしく歩くがいい。まるでロマンチック・アイロニーだ」

三四郎には、この外国語の意味がよくわからなかった。

原文を見る

三四郎にはこの洋語の意味がよくわからなかった。

しかたがないから、

原文を見る

しかたがないから、

「家はあったか」

原文を見る

「家はあったか」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

「そのことで今、君の所へ行ったんだ――明日いよいよ引っ越す。手伝いに来てくれ」

原文を見る

「その事で今君の所へ行ったんだ――あすいよいよ引っ越す。手伝いに来てくれ」

「どこへ引っ越す」

原文を見る

「どこへ越す」

「西片町十番地への三号。九時までに向こうへ行って掃除をしてね。待っててくれ。あとから行くから。いいか、九時までだぜ。への三号だよ。失敬」

原文を見る

西片町にしかたまち十番地への三号。九時までに向こうへ行って掃除そうじをしてね。待っててくれ。あとから行くから。いいか、九時までだぜ。への三号だよ。失敬」

与次郎は急いで行き過ぎた。

原文を見る

与次郎は急いで行き過ぎた。

三四郎も急いで下宿へ帰った。

原文を見る

三四郎も急いで下宿へ帰った。

その晩また出かけて、図書館でロマンチック・アイロニーという言葉を調べてみたら、ドイツのシュレーゲルが言い出した言葉で、何でも天才というものは目的も努力もなく、一日じゅうぶらぶらしていなくてはだめだという説だと書いてあった。

原文を見る

その晩取って返して、図書館でロマンチック・アイロニーという句を調べてみたら、ドイツのシュレーゲルが唱えだした言葉で、なんでも天才というものは、目的も努力もなく、終日ぶらぶらぶらついていなくってはだめだという説だと書いてあった。

三四郎はようやく安心して、下宿へ帰ってすぐ寝た。

原文を見る

三四郎はようやく安心して、下宿へ帰って、すぐ寝た。

翌日は約束だから、天長節にもかかわらずいつもの時刻に起きて、学校へ行くつもりで西片町十番地へ入り、への三号を調べてみると、妙に細い通りの中ほどにある。

原文を見る

あくる日は約束だから、天長節にもかかわらず、例刻に起きて、学校へ行くつもりで西片町十番地へはいって、への三号を調べてみると、妙に細い通りの中ほどにある。

古い家だ。

原文を見る

古い家だ。

玄関の代わりに西洋間が一つ突き出していて、それと直角に座敷がある。

原文を見る

玄関の代りに西洋間が一つ突き出していて、それとかぎの手に座敷がある。

座敷の後ろが茶の間で、茶の間の向こうが台所、女中部屋と順に並んでいる。

原文を見る

座敷のうしろが茶の間で、茶の間の向こうが勝手、下女部屋と順に並んでいる。

ほかに二階がある。

原文を見る

ほかに二階がある。

ただし何畳だかわからない。

原文を見る

ただし何畳だかわからない。

三四郎は掃除を頼まれたのだが、べつに掃除をする必要もないと見た。

原文を見る

三四郎は掃除を頼まれたのだが、べつに掃除をする必要もないと認めた。

もちろんきれいではない。

原文を見る

むろんきれいじゃない。

しかし、これといって取り除いて捨てるものも見当たらない。

原文を見る

しかし何といって、取って捨てべきものも見当らない。

あえて捨てれば畳や戸くらいなものだと考えながら、雨戸だけを開けて、座敷の縁側へ腰をかけて庭を眺めていた。

原文を見る

しいて捨てれば畳建具ぐらいなものだと考えながら、雨戸だけをあけて、座敷の椽側えんがわへ腰をかけて庭をながめていた。

大きなさるすべりがある。

原文を見る

大きな百日紅ひゃくじつこうがある。

しかしこれは根が隣にあるので、みきの半分以上が横に杉垣からこちらの土地へはみ出しているだけである。

原文を見る

しかしこれは根が隣にあるので、幹の半分以上が横に杉垣すぎがきから、こっちの領分をおかしているだけである。

大きな桜がある。

原文を見る

大きな桜がある。

これはたしかに垣根の中に生えている。

原文を見る

これはたしかに垣根の中にはえている。

その代わり枝が半分道へにげ出して、もう少しすると電話線のじゃまになる。

原文を見る

その代り枝が半分往来へ逃げ出して、もう少しすると電話の妨害になる。

菊が一株ある。

原文を見る

菊が一株ある。

けれども寒菊と見えて、まるで咲いていない。

原文を見る

けれども寒菊かんぎくとみえて、いっこう咲いていない。

このほかには何にもない。

原文を見る

このほかにはなんにもない。

気の毒なような庭である。

原文を見る

気の毒なような庭である。

ただ土だけは平らで、きめが細かくて、とても美しい。

原文を見る

ただ土だけは平らで、肌理きめが細かではなはだ美しい。

三四郎は土を見ていた。

原文を見る

三四郎は土を見ていた。

実際、土を見るようにできた庭である。

原文を見る

じっさい土を見るようにできた庭である。

そのうち高等学校で、天長節の式の始まるベルが鳴り出した。

原文を見る

そのうち高等学校で天長節の式の始まるベルが鳴りだした。

三四郎はベルを聞きながら、九時が来たんだろうと考えた。

原文を見る

三四郎はベルを聞きながら九時がきたんだろうと考えた。

何もしないでいても悪いから、桜の枯れ葉でも掃こうかしらんと、ようやく気がついた時、また、ほうきがないということを考え出した。

原文を見る

何もしないでいても悪いから、桜の枯葉でも掃こうかしらんとようやく気がついた時、またほうきがないということを考えだした。

また縁側へ腰をかけた。

原文を見る

また椽側へ腰をかけた。

かけて二分もしたかと思うと、庭の木戸がすうと開いた。

原文を見る

かけて二分もしたかと思うと、庭木戸がすうとあいた。

そうして、思いもよらない池の女の人が庭の中に現れた。

原文を見る

そうして思いもよらぬ池の女が庭の中にあらわれた。

二方は生け垣で仕切ってある。

原文を見る

二方は生垣いけがきで仕切ってある。

四角な庭は三十平方メートルに足りない。

原文を見る

四角な庭は十坪に足りない。

三四郎はこのせまい囲いの中に立った池の女の人を見るやいなや、たちまち悟った。――

原文を見る

三四郎はこの狭い囲いの中に立った池の女を見るやいなや、たちまち悟った。――

花は必ず切って、花びんの中で眺めるべきものである。

原文を見る

花は必ずって、瓶裏へいりにながむべきものである。

この時、三四郎の腰は縁側をはなれた。

原文を見る

この時三四郎の腰は椽側を離れた。

その人は折り戸をはなれた。

原文を見る

女は折戸を離れた。

「失礼でございますが……」

原文を見る

「失礼でございますが……」

その人は、この言葉を最初に置いて会釈した。

原文を見る

女はこの句を冒頭に置いて会釈えしゃくした。

腰から上をいつものように前へ浮かせたが、顔はけっして下げない。

原文を見る

腰から上を例のとおり前へ浮かしたが、顔はけっして下げない。

会釈しながら三四郎を見つめている。

原文を見る

会釈しながら、三四郎を見つめている。

その人ののどが、正面から見ると長く伸びた。

原文を見る

女の咽喉のどが正面から見ると長く延びた。

同時に、その目が三四郎の瞳に映った。

原文を見る

同時にその目が三四郎のひとみに映った。

二、三日前、三四郎は美学の先生からグルーズの絵を見せてもらった。

原文を見る

二、三日まえ三四郎は美学の教師からグルーズの絵を見せてもらった。

その時美学の先生が、この人の描いた女の人の絵はどれも、ヴォラプチュアス(体に強くうったえる、なまめかしい感じ)な表情に富んでいると説明した。

原文を見る

その時美学の教師が、この人のかいた女の肖像はことごとくヴォラプチュアスな表情に富んでいると説明した。

ヴォラプチュアス!

原文を見る

ヴォラプチュアス!

池の女の人のこの時の目つきを言い表すには、これよりほかに言葉がない。

原文を見る

 池の女のこの時の目つきを形容するにはこれよりほかに言葉がない。

何か訴えている。

原文を見る

何か訴えている。

なまめかしい何かを訴えている。

原文を見る

えんなるあるものを訴えている。

そうして、まさに体そのものに訴えている。

原文を見る

そうしてまさしく官能に訴えている。

けれども、体の感じの骨を通して、しんまで届く訴え方である。

原文を見る

けれども官能の骨をとおして髄に徹する訴え方である。

甘いものに耐えられる程度を越えて、激しい刺激に変わる訴え方である。

原文を見る

甘いものにえうる程度をこえて、激しい刺激と変ずる訴え方である。

甘いというよりは苦しい。

原文を見る

甘いといわんよりは苦痛である。

いやしくこびるのとは、もちろん違う。

原文を見る

卑しくこびるのとはむろん違う。

見られるほうが、ぜひこびたくなるほど、むごい目つきである。

原文を見る

見られるもののほうがぜひこびたくなるほどに残酷な目つきである。

しかも、この人にグルーズの絵と似たところは一つもない。

原文を見る

しかもこの女にグルーズの絵と似たところは一つもない。

目はグルーズのより半分も小さい。

原文を見る

目はグルーズのより半分も小さい。

「広田さんがお引っ越しになるのは、こちらでございましょうか」

原文を見る

「広田さんのお移転こしになるのは、こちらでございましょうか」

「はあ、ここです」

原文を見る

「はあ、ここです」

その人の声と調子に比べると、三四郎の答えはひどくぶっきらぼうである。

原文を見る

女の声と調子に比べると、三四郎の答はすこぶるぶっきらぼうである。

三四郎も気がついている。

原文を見る

三四郎も気がついている。

けれども、ほかに言いようがなかった。

原文を見る

けれどもほかに言いようがなかった。

「まだお移りにならないんでございますか」

原文を見る

「まだお移りにならないんでございますか」

その人の言葉ははっきりしている。

原文を見る

女の言葉ははっきりしている。

ふつうのように、終わりをあいまいにしない。

原文を見る

普通のようにあとを濁さない。

「まだ来ません。もう来るでしょう」

原文を見る

「まだ来ません。もう来るでしょう」

その人はしばらくためらった。

原文を見る

女はしばしためらった。

手に大きなかごを提げている。

原文を見る

手に大きなバスケットをさげている。

その人の着物は、いつものようによくわからない。

原文を見る

女の着物は例によって、わからない。

ただ、いつものように光らないことだけが目についた。

原文を見る

ただいつものように光らないだけが目についた。

生地が何だかぶつぶつしている。

原文を見る

地がなんだかぶつぶつしている。

それに縞だか模様だかある。

原文を見る

それにしまだか模様だかある。

その模様が、いかにもでたらめである。

原文を見る

その模様がいかにもでたらめである。

上から桜の葉が時々落ちてくる。

原文を見る

上から桜の葉が時々落ちてくる。

その一つが、かごのふたの上に乗った。

原文を見る

その一つが籃のふたの上に乗った。

乗ったと思ううちに吹かれていった。

原文を見る

乗ったと思ううちに吹かれていった。

風がその人を包んだ。

原文を見る

風が女を包んだ。

その人は秋の中に立っている。

原文を見る

女は秋の中に立っている。

「あなたは……」

原文を見る

「あなたは……」

風が隣へ移ったころ、その人が三四郎に聞いた。

原文を見る

風が隣へ越した時分、女が三四郎に聞いた。

「掃除に頼まれて来たのです」

原文を見る

「掃除に頼まれて来たのです」

と言ったが、現に腰をかけてぽかんとしていたところを見られたのだから、三四郎は自分でおかしくなった。

原文を見る

と言ったが、現に腰をかけてぽかんとしていたところを見られたのだから、三四郎は自分でおかしくなった。

すると、その人も笑いながら、

原文を見る

すると女も笑いながら、

「じゃ私も少しお待ちしましょうか」

原文を見る

「じゃ私も少しお待ち申しましょうか」

と言った。

原文を見る

と言った。

その言い方が三四郎に許しを求めるように聞こえたので、三四郎は大いに愉快であった。

原文を見る

その言い方が三四郎に許諾を求めるように聞こえたので、三四郎は大いに愉快であった。

そこで「ああ」

原文を見る

そこで「ああ」

と答えた。

原文を見る

と答えた。

三四郎のつもりでは、「ああ、お待ちなさい」

原文を見る

三四郎の了見では、「ああ、お待ちなさい」

を省いたつもりである。

原文を見る

を略したつもりである。

その人はそれでも、まだ立っている。

原文を見る

女はそれでもまだ立っている。

三四郎はしかたがないから、

原文を見る

三四郎はしかたがないから、

「あなたは……」

原文を見る

「あなたは……」

と、向こうが聞いたようなことをこちらからも聞いた。

原文を見る

と向こうで聞いたようなことをこっちからも聞いた。

すると、その人はかごを縁側の上へ置いて、帯の間から一枚の名刺を出して三四郎にくれた。

原文を見る

すると、女は籃を椽の上へ置いて、帯の間から、一枚の名刺を出して、三四郎にくれた。

名刺には里見美禰子(さとみ みねこ)とあった。

原文を見る

名刺には里見美禰子さとみみねことあった。

本郷真砂町だから、谷を越すとすぐ向こうである。

原文を見る

本郷ほんごう真砂町まさごちょうだから谷を越すとすぐ向こうである。

三四郎がこの名刺を眺めている間に、その人は縁側に腰を下ろした。

原文を見る

三四郎がこの名刺をながめているあいだに、女は椽に腰をおろした。

「あなたにはお目にかかりましたね」

原文を見る

「あなたにはお目にかかりましたな」

と、名刺をたもとへ入れた三四郎が顔を上げた。

原文を見る

と名刺をたもとへ入れた三四郎が顔をあげた。

「はあ。いつか病院で……」

原文を見る

「はあ。いつか病院で……」

と言って、その人もこちらを向いた。

原文を見る

と言って女もこっちを向いた。

「まだある」

原文を見る

「まだある」

「それから池のほとりで……」

原文を見る

「それから池のはたで……」

と、その人はすぐ言った。

原文を見る

と女はすぐ言った。

よく覚えている。

原文を見る

よく覚えている。

三四郎はそれで言うことがなくなった。

原文を見る

三四郎はそれで言う事がなくなった。

その人は最後に、

原文を見る

女は最後に、

「どうも失礼いたしました」

原文を見る

「どうも失礼いたしました」

と区切りをつけたので、三四郎は、

原文を見る

と句切りをつけたので、三四郎は、

「いいえ」

原文を見る

「いいえ」

と答えた。

原文を見る

と答えた。

とても短い。

原文を見る

すこぶる簡潔である。

二人は桜の枝を見ていた。

原文を見る

二人ふたりは桜の枝を見ていた。

こずえに、虫の食ったような葉がわずかばかり残っている。

原文を見る

こずえに虫の食ったような葉がわずかばかり残っている。

引っ越しの荷物はなかなかやってこない。

原文を見る

引っ越しの荷物はなかなかやってこない。

「何か先生に御用なんですか」

原文を見る

「なにか先生に御用なんですか」

三四郎は突然こう聞いた。

原文を見る

三四郎は突然こう聞いた。

高い桜の枯れ枝をじっと眺めていた美禰子は、急に三四郎の方を振り向く。

原文を見る

高い桜の枯枝を余念なくながめていた女は、急に三四郎の方を振りむく。

あら、びっくりした、ひどいわ、という顔つきであった。

原文を見る

あらびっくりした、ひどいわ、という顔つきであった。

しかし答えはふつうである。

原文を見る

しかし答は尋常である。

「私もお手伝いに頼まれました」

原文を見る

「私もお手伝いに頼まれました」

三四郎はこの時はじめて気がついて見ると、美禰子の腰をかけている縁側に砂がいっぱいたまっている。

原文を見る

三四郎はこの時はじめて気がついて見ると、女の腰をかけている椽に砂がいっぱいたまっている。

「砂でたいへんだ。着物が汚れます」

原文を見る

「砂でたいへんだ。着物がよごれます」

「ええ」

原文を見る

「ええ」

と左右を眺めただけである。

原文を見る

と左右をながめたぎりである。

腰を上げない。

原文を見る

腰を上げない。

しばらく縁側を見回した目を三四郎に移すやいなや、

原文を見る

しばらく椽を見回した目を、三四郎に移すやいなや、

「掃除はもうなさったんですか」

原文を見る

「掃除はもうなすったんですか」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

笑っている。

原文を見る

笑っている。

三四郎はその笑いの中に、すぐ打ち解けたくなる何かを感じ取った。

原文を見る

三四郎はその笑いのなかに慣れやすいあるものを認めた。

「まだやりません」

原文を見る

「まだやらんです」

「お手伝いをして、いっしょに始めましょうか」

原文を見る

「お手伝いをして、いっしょに始めましょうか」

三四郎はすぐに立った。

原文を見る

三四郎はすぐに立った。

美禰子は動かない。

原文を見る

女は動かない。

腰をかけたまま、ほうきやはたきのある場所を聞く。

原文を見る

腰をかけたまま、箒やはたきのありかを聞く。

三四郎は、ただ手ぶらで来たのだからどこにもない、なんなら通りへ行って買ってこようかと聞くと、それはむだだから隣で借りるほうがよかろうと言う。

原文を見る

三四郎は、ただてぶらで来たのだから、どこにもない、なんなら通りへ行って買ってこようかと聞くと、それはむだだから、隣で借りるほうがよかろうと言う。

三四郎はすぐ隣へ行った。

原文を見る

三四郎はすぐ隣へ行った。

さっそくほうきとはたきと、それからバケツとぞうきんまで借りて急いで帰ってくると、美禰子は相変わらずもとの所に腰をかけて、高い桜の枝を眺めていた。

原文を見る

さっそく箒とはたきと、それからバケツと雑巾ぞうきんまで借りて急いで帰ってくると、女は依然としてもとの所へ腰をかけて、高い桜の枝をながめていた。

「あって……」

原文を見る

「あって……」

と一言言っただけである。

原文を見る

と一口言っただけである。

三四郎はほうきを肩にかついで、バケツを右の手にぶら下げて「ええ、ありました」

原文を見る

三四郎は箒を肩へかついで、バケツを右の手へぶら下げて「ええありました」

と当たり前のことを答えた。

原文を見る

とあたりまえのことを答えた。

美禰子は白い足袋のまま、砂だらけの縁側へ上がった。

原文を見る

女は白足袋しろたびのまま砂だらけの椽側へ上がった。

歩くと細い足のあとができる。

原文を見る

歩くと細い足のあとができる。

たもとから白い前掛けを出して、帯の上から締めた。

原文を見る

袂から白い前だれを出して帯の上から締めた。

その前掛けのふちが、レースのようにかがってある。

原文を見る

その前だれのふちがレースのようにかがってある。

掃除をするにはもったいないほどきれいな色である。

原文を見る

掃除をするにはもったいないほどきれいな色である。

美禰子はほうきを取った。

原文を見る

女は箒を取った。

「まず、はき出しましょう」

原文を見る

「いったんはき出しましょう」

と言いながら、そでの裏から右の手を出して、ぶらつくたもとを肩の上へかついだ。

原文を見る

と言いながら、そでの裏から右の手を出して、ぶらつく袂を肩の上へかついだ。

きれいな手が二の腕まで出た。

原文を見る

きれいな手が二の腕まで出た。

かついだたもとの端からは、美しいじゅばんのそでが見える。

原文を見る

かついだ袂のはじからは美しい襦袢じゅばんの袖が見える。

ぼんやりと立っていた三四郎は、突然バケツを鳴らして台所口へ回った。

原文を見る

茫然ぼうぜんとして立っていた三四郎は、突然バケツを鳴らして勝手口へ回った。

美禰子が掃くあとを、三四郎がぞうきんをかける。

原文を見る

美禰子が掃くあとを、三四郎が雑巾をかける。

三四郎が畳をたたく間に、美禰子が障子をはたく。

原文を見る

三四郎が畳をたたくあいだに、美禰子が障子をはたく。

どうにか掃除がひととおり済んだ時は、二人ともだいぶ親しくなった。

原文を見る

どうかこうか掃除がひととおり済んだ時は二人ともだいぶ親しくなった。

三四郎がバケツの水を取り換えに台所へ行ったあとで、美禰子がはたきとほうきを持って二階へ上がった。

原文を見る

三四郎がバケツの水を取り換えに台所へ行ったあとで、美禰子がはたきと箒を持って二階へ上がった。

「ちょっと来てください」

原文を見る

「ちょっと来てください」

と上から三四郎を呼ぶ。

原文を見る

と上から三四郎を呼ぶ。

「なんですか」

原文を見る

「なんですか」

と、バケツを提げた三四郎がはしご段の下から言う。

原文を見る

とバケツをさげた三四郎が梯子段はしごだんの下から言う。

美禰子は暗い所に立っている。

原文を見る

女は暗い所に立っている。

前掛けだけがまっ白だ。

原文を見る

前だれだけがまっ白だ。

三四郎はバケツを提げたまま二、三段上がった。

原文を見る

三四郎はバケツをさげたまま二、三段上がった。

美禰子はじっとしている。

原文を見る

女はじっとしている。

三四郎はまた二段上がった。

原文を見る

三四郎はまた二段上がった。

薄暗い所で、美禰子の顔と三四郎の顔が三十センチばかりの近さに来た。

原文を見る

薄暗い所で美禰子の顔と三四郎の顔が一尺ばかりの距離に来た。

「なんですか」

原文を見る

「なんですか」

「なんだか暗くってわからないの」

原文を見る

「なんだか暗くってわからないの」

「なぜ」

原文を見る

「なぜ」

「なぜでも」

原文を見る

「なぜでも」

三四郎は問いつめる気がなくなった。

原文を見る

三四郎は追窮する気がなくなった。

美禰子のそばをすり抜けて上へ出た。

原文を見る

美禰子のそばをすり抜けて上へ出た。

バケツを暗い縁側へ置いて戸を開ける。

原文を見る

バケツを暗い椽側へ置いて戸をあける。

なるほど、さんの具合がよくわからない。

原文を見る

なるほどさんのぐあいがよくわからない。

そのうち美禰子も上がってきた。

原文を見る

そのうち美禰子も上がってきた。

「まだ開かなくって」

原文を見る

「まだあからなくって」

美禰子は反対の側へ行った。

原文を見る

美禰子は反対の側へ行った。

「こっちです」

原文を見る

「こっちです」

三四郎は黙って美禰子の方へ近寄った。

原文を見る

三四郎は黙って、美禰子の方へ近寄った。

もう少しで美禰子の手に自分の手が触れるという所で、バケツにけつまずいた。

原文を見る

もう少しで美禰子の手に自分の手が触れる所で、バケツに蹴つまずいた。

大きな音がする。

原文を見る

大きな音がする。

ようやくのことで戸を一枚開けると、強い日がまともにさしこんだ。

原文を見る

ようやくのことで戸を一枚あけると、強い日がまともにさし込んだ。

まぶしいくらいである。

原文を見る

まぼしいくらいである。

二人は顔を見合わせて思わず笑い出した。

原文を見る

二人は顔を見合わせて思わず笑い出した。

裏の窓も開ける。

原文を見る

裏の窓もあける。

窓には竹の格子がついている。

原文を見る

窓には竹の格子こうしがついている。

家の持ち主の庭が見える。

原文を見る

家主やぬしの庭が見える。

にわとりを飼っている。

原文を見る

鶏を飼っている。

美禰子はいつものように掃き出した。

原文を見る

美禰子は例のごとく掃き出した。

三四郎は四つんばいになって、あとからふき出した。

原文を見る

三四郎は四ついになって、あとからき出した。

美禰子はほうきを両手で持ったまま、三四郎の姿を見て、

原文を見る

美禰子は箒を両手で持ったまま、三四郎の姿を見て、

「まあ」

原文を見る

「まあ」

と言った。

原文を見る

と言った。

やがて、ほうきを畳の上へ投げ出して、裏の窓の所へ行って、立ったまま外を眺めている。

原文を見る

やがて、箒を畳の上へなげ出して、裏の窓の所へ行って、立ったまま外面そとをながめている。

そのうち三四郎もふき終わった。

原文を見る

そのうち三四郎も拭き終った。

ぬれぞうきんをバケツの中へぼちゃんとたたきこんで、美禰子のそばへ来て並んだ。

原文を見る

ぬれ雑巾をバケツの中へぼちゃんとたたきこんで、美禰子のそばへ来て並んだ。

「何を見ているんです」

原文を見る

「何を見ているんです」

「当ててごらんなさい」

原文を見る

「あててごらんなさい」

「にわとりですか」

原文を見る

とりですか」

「いいえ」

原文を見る

「いいえ」

「あの大きな木ですか」

原文を見る

「あの大きな木ですか」

「いいえ」

原文を見る

「いいえ」

「じゃ何を見ているんです。ぼくにはわからない」

原文を見る

「じゃ何を見ているんです。ぼくにはわからない」

「私、さっきからあの白い雲を見ておりますの」

原文を見る

「私さっきからあの白い雲を見ておりますの」

なるほど白い雲が大きな空をわたっている。

原文を見る

なるほど白い雲が大きな空を渡っている。

空はかぎりなく晴れて、どこまでも青く澄んでいる上を、綿が光ったような濃い雲がしきりに飛んで行く。

原文を見る

空はかぎりなく晴れて、どこまでも青く澄んでいる上を、綿の光ったような濃い雲がしきりに飛んで行く。

風の力が激しいと見えて、雲の端が吹き散らされると、青い空が透けて見えるほどに薄くなる。

原文を見る

風の力が激しいと見えて、雲の端が吹き散らされると、青い地がすいて見えるほどに薄くなる。

あるいは吹き散らされながらかたまって、白く柔らかな針を集めたように、ささくれ立つ。

原文を見る

あるいは吹き散らされながら、塊まって、白く柔かな針を集めたように、ささくれだつ。

美禰子は、そのかたまりを指さして言った。

原文を見る

美禰子はそのかたまりを指さして言った。

「ダチョウのえりまきに似ているでしょう」

原文を見る

駝鳥だちょう襟巻ボーアに似ているでしょう」

三四郎はボア(羽毛で作ったえりまき)という言葉を知らなかった。

原文を見る

三四郎はボーアという言葉を知らなかった。

それで知らないと言った。

原文を見る

それで知らないと言った。

美禰子はまた、

原文を見る

美禰子はまた、

「まあ」

原文を見る

「まあ」

と言ったが、すぐ丁寧にボアを説明してくれた。

原文を見る

と言ったが、すぐ丁寧にボーアを説明してくれた。

その時三四郎は、

原文を見る

その時三四郎は、

「うん、あれなら知ってる」

原文を見る

「うん、あれなら知っとる」

と言った。

原文を見る

と言った。

そうして、あの白い雲はみんな雪の粉で、下から見てあのくらいに動く以上は、あらし以上の速さでなくてはならないと、この間野々宮さんから聞いたとおりを教えた。

原文を見る

そうして、あの白い雲はみんな雪ので、下から見てあのくらいに動く以上は、颶風ぐふう以上の速度でなくてはならないと、このあいだ野々宮さんから聞いたとおりを教えた。

美禰子は、

原文を見る

美禰子は、

「あら、そう」

原文を見る

「あらそう」

と言いながら三四郎を見たが、

原文を見る

と言いながら三四郎を見たが、

「雪じゃつまらないわね」

原文を見る

「雪じゃつまらないわね」

と、言い返させないような調子であった。

原文を見る

と否定を許さぬような調子であった。

「なぜです」

原文を見る

「なぜです」

「なぜでも、雲は雲でなくっちゃいけないわ。こうして遠くから眺めているかいがないじゃありませんか」

原文を見る

「なぜでも、雲は雲でなくっちゃいけないわ。こうして遠くからながめているかいがないじゃありませんか」

「そうですか」

原文を見る

「そうですか」

「そうですかって、あなたは雪でもかまわなくって」

原文を見る

「そうですかって、あなたは雪でもかまわなくって」

「あなたは高い所を見るのが好きのようですね」

原文を見る

「あなたは高い所を見るのが好きのようですな」

「ええ」

原文を見る

「ええ」

美禰子は竹の格子の中から、まだ空を眺めている。

原文を見る

美禰子は竹の格子の中から、まだ空をながめている。

白い雲はあとから、あとから飛んで来る。

原文を見る

白い雲はあとから、あとから、飛んで来る。

そこへ遠くから荷車の音が聞こえる。

原文を見る

ところへ遠くから荷車の音が聞こえる。

今、静かな横町を曲がってこちらへ近づいて来るのが、地ひびきでよくわかる。

原文を見る

今静かな横町を曲がって、こっちへ近づいて来るのが地響きでよくわかる。

三四郎は「来た」

原文を見る

三四郎は「来た」

と言った。

原文を見る

と言った。

美禰子は「早いのね」

原文を見る

美禰子は「早いのね」

と言ったまま、じっとしている。

原文を見る

と言ったままじっとしている。

車の音が動くのが、白い雲の動くのに関係でもあるように耳を澄ましている。

原文を見る

車の音の動くのが、白い雲の動くのに関係でもあるように耳をすましている。

車は落ち着いた秋の中を、容赦なく近づいて来る。

原文を見る

車はおちついた秋の中を容赦なく近づいて来る。

やがて門の前へ来て止まった。

原文を見る

やがて門の前へ来てとまった。

三四郎は美禰子を置いて二階を駆け下りた。

原文を見る

三四郎は美禰子を捨てて二階を駆け降りた。

三四郎が玄関へ出るのと、与次郎が門を入るのとが同時であった。

原文を見る

三四郎が玄関へ出るのと、与次郎が門をはいるのとが同時同刻であった。

「早いな」

原文を見る

「早いな」

と与次郎がまず声をかけた。

原文を見る

と与次郎がまず声をかけた。

「おそいな」

原文を見る

「おそいな」

と三四郎が答えた。

原文を見る

と三四郎が答えた。

美禰子とは反対である。

原文を見る

美禰子とは反対である。

「おそいって、荷物を一度に出したんだからしかたがない。それにぼく一人だから。あとは女中と車屋ばかりでどうすることもできない」

原文を見る

「おそいって、荷物を一度に出したんだからしかたがない。それにぼく一人だから。あとは下女と車屋ばかりでどうすることもできない」

「先生は」

原文を見る

「先生は」

「先生は学校」

原文を見る

「先生は学校」

二人が話を始めているうちに、車屋が荷物を下ろし始めた。

原文を見る

二人が話を始めているうちに、車屋が荷物をおろし始めた。

女中も入って来た。

原文を見る

下女もはいって来た。

台所の方を女中と車屋に頼んで、与次郎と三四郎は本を西洋間へ入れる。

原文を見る

台所の方を下女と車屋に頼んで、与次郎と三四郎は書物を西洋間へ入れる。

本がたくさんある。

原文を見る

書物がたくさんある。

並べるのは一仕事だ。

原文を見る

並べるのは一仕事だ。

「里見のお嬢さんは、まだ来ていないか」

原文を見る

「里見のお嬢さんは、まだ来ていないか」

「来ている」

原文を見る

「来ている」

「どこに」

原文を見る

「どこに」

「二階にいる」

原文を見る

「二階にいる」

「二階で何をしている」

原文を見る

「二階に何をしている」

「何をしているか、二階にいる」

原文を見る

「何をしているか、二階にいる」

「冗談じゃない」

原文を見る

「冗談じゃない」

与次郎は本を一冊持ったまま、廊下伝いにはしご段の下まで行って、いつものとおりの声で、

原文を見る

与次郎は本を一冊持ったまま、廊下伝いに梯子段の下まで行って、例のとおりの声で、

「里見さん、里見さん。本を片づけるから、ちょっと手伝ってください」

原文を見る

「里見さん、里見さん。書物をかたづけるから、ちょっと手伝ってください」

と言う。

原文を見る

と言う。

「ただ今参ります」

原文を見る

「ただ今参ります」

ほうきとはたきを持って、美禰子は静かに下りて来た。

原文を見る

箒とはたきを持って、美禰子は静かに降りて来た。

「何をしていたんです」

原文を見る

「何をしていたんです」

と下から与次郎がせき立てるように聞く。

原文を見る

と下から与次郎がせきたてるように聞く。

「二階のお掃除」

原文を見る

「二階のお掃除」

と上から返事があった。

原文を見る

と上から返事があった。

下りるのを待ちかねて、与次郎は美禰子を西洋間の戸口の所へ連れて来た。

原文を見る

降りるのを待ちかねて、与次郎は美禰子を西洋間の戸口の所へ連れて来た。

車屋の下ろした本がいっぱい積んである。

原文を見る

車力しゃりきのおろした書物がいっぱい積んである。

三四郎が、その中へ向こう向きにしゃがんで、しきりに何か読み始めている。

原文を見る

三四郎がその中へ、向こうむきにしゃがんで、しきりに何か読み始めている。

「まあ、たいへんね。これをどうするの」

原文を見る

「まあたいへんね。これをどうするの」

と美禰子が言った時、三四郎はしゃがんだまま振り返った。

原文を見る

と美禰子が言った時、三四郎はしゃがみながら振り返った。

にやにや笑っている。

原文を見る

にやにや笑っている。

「たいへんも何もありゃしない。これを部屋の中へ入れて片づけるんです。そのうち先生も帰って来て手伝うはずだからわけはない。――君、しゃがんで本なんぞ読み出しちゃ困る。あとで借りていってゆっくり読むがいい」

原文を見る

「たいへんもなにもありゃしない。これを部屋へやの中へ入れて、片づけるんです。いまに先生も帰って来て手伝うはずだからわけはない。――君、しゃがんで本なんぞ読みだしちゃ困る。あとで借りていってゆっくり読むがいい」

と与次郎が小言を言う。

原文を見る

と与次郎が小言を言う。

美禰子と三四郎が戸口で本をそろえると、それを与次郎が受け取って部屋の中の本だなへ並べる、という役割ができた。

原文を見る

美禰子と三四郎が戸口で本をそろえると、それを与次郎が受け取って部屋の中の書棚へ並べるという役割ができた。

「そう乱暴に出しちゃ困る。まだこの続きが一冊あるはずだ」

原文を見る

「そう乱暴に、出しちゃ困る。まだこの続きが一冊あるはずだ」

と与次郎が青い平たい本を振り回す。

原文を見る

と与次郎が青い平たい本を振り回す。

「だって、ないんですもの」

原文を見る

「だってないんですもの」

「なに、ないことがあるものか」

原文を見る

「なにないことがあるものか」

「あった、あった」

原文を見る

「あった、あった」

と三四郎が言う。

原文を見る

と三四郎が言う。

「どれ、拝見」

原文を見る

「どら、拝見」

と美禰子が顔を寄せて来る。

原文を見る

と美禰子が顔を寄せて来る。

「ヒストリー・オブ・インテレクチュアル・ディベロップメント。あら、あったのね」

原文を見る

「ヒストリー・オフ・インテレクチュアル・デベロップメント。あらあったのね」

「あら、あったもないもんだ。早くお出しなさい」

原文を見る

「あらあったもないもんだ。早くお出しなさい」

三人は約三十分ばかり根気よく働いた。

原文を見る

三人は約三十分ばかり根気に働いた。

しまいには、さすがの与次郎もあまりせかさなくなった。

原文を見る

しまいにはさすがの与次郎もあまりせっつかなくなった。

見ると、本だなの方を向いてあぐらをかいて黙っている。

原文を見る

見ると書棚の方を向いてあぐらをかいて黙っている。

美禰子は三四郎の肩をちょっとつついた。

原文を見る

美禰子は三四郎の肩をちょっと突っついた。

三四郎は笑いながら、

原文を見る

三四郎は笑いながら、

「おい、どうした」

原文を見る

「おいどうした」

と聞く。

原文を見る

と聞く。

「うん。先生もまあ、こんなにいりもしない本を集めてどうする気かなあ。まったく人泣かせだ。今これを売って株でも買っておくともうかるんだが、しかたがない」

原文を見る

「うん。先生もまあ、こんなにいりもしない本を集めてどうする気かなあ。まったく人泣かせだ。いまこれを売って株でも買っておくともうかるんだが、しかたがない」

と、ため息をついたまま、やはり壁を向いてあぐらをかいている。

原文を見る

と嘆息したまま、やはり壁を向いてあぐらをかいている。

三四郎と美禰子は顔を見合わせて笑った。

原文を見る

三四郎と美禰子は顔を見合わせて笑った。

肝心の中心の人が動かないので、二人とも本をそろえるのを控えている。

原文を見る

肝心かんじんの主脳が動かないので、二人とも書物をそろえるのを控えている。

三四郎は詩の本をいじり出した。

原文を見る

三四郎は詩の本をひねくり出した。

美禰子は大きな画集をひざの上に開いた。

原文を見る

美禰子は大きな画帖をひざの上に開いた。

台所の方では、その日だけ雇われた車夫と女中がしきりに言い合っている。

原文を見る

勝手の方では臨時雇いの車夫と下女がしきりに論判している。

たいへん、そうぞうしい。

原文を見る

たいへん騒々しい。

「ちょっと御覧なさい」

原文を見る

「ちょっと御覧なさい」

と美禰子が小さな声で言う。

原文を見る

と美禰子が小さな声で言う。

三四郎は前かがみになって、画集の上へ顔を出した。

原文を見る

三四郎は及び腰になって、画帖の上へ顔を出した。

美禰子の髪から香水のにおいがする。

原文を見る

美禰子のあたまで香水のにおいがする。

絵は人魚の図である。

原文を見る

絵はマーメイドの図である。

はだかの女の人の腰から下が魚になって、魚の胴がぐるりと腰を回って、向こう側に尾だけ出ている。

原文を見る

裸体の女の腰から下が魚になって、魚の胴がぐるりと腰を回って、向こう側に尾だけ出ている。

女の人は長い髪をくしですきながら、すいて余った分を手に受けながら、こちらを向いている。

原文を見る

女は長い髪をくしですきながら、すき余ったのを手に受けながら、こっちを向いている。

後ろは広い海である。

原文を見る

背景は広い海である。

「人魚」

原文を見る

人魚マーメイド

「人魚」

原文を見る

人魚マーメイド

頭を寄せ合った二人は同じことをささやいた。

原文を見る

頭をすりつけた二人は同じ事をささやいた。

この時あぐらをかいていた与次郎が、何と思ったか、

原文を見る

この時あぐらをかいていた与次郎がなんと思ったか、

「なんだ、何を見ているんだ」

原文を見る

「なんだ、何を見ているんだ」

と言いながら廊下へ出て来た。

原文を見る

と言いながら廊下へ出て来た。

三人は首を寄せて、画集を一枚ごとにめくっていった。

原文を見る

三人は首をあつめて画帖を一枚ごとに繰っていった。

いろいろな感想が出る。

原文を見る

いろいろな批評が出る。

みんないいかげんである。

原文を見る

みんないいかげんである。

そこへ広田先生がフロックコートで天長節の式から帰ってきた。三人はあいさつをする時に画集を伏せてしまった。

原文を見る

ところへ広田先生がフロックコートで天長節の式から帰ってきた、三人は挨拶をする時に画帖を伏せてしまった。

先生が、本だけは早く片づけようというので、三人がまた根気よくやり始めた。

原文を見る

先生が書物だけはやく片づけようというので、三人がまた根気にやり始めた。

今度は主人がいるので、そうなまけることもできなかったと見えて、一時間後には、どうにか廊下の本が本だなの中へ収まってしまった。

原文を見る

今度は主人公がいるので、そう油を売ることもできなかったとみえて、一時間後には、どうか、こうか廊下の書物が書棚の中へ詰まってしまった。

四人は立ち並んで、きれいに片づいた本をひととおり眺めた。

原文を見る

四人は立ち並んできれいに片づいた書物を一応ながめた。

「あとの整理は明日だ」

原文を見る

「あとの整理はあしただ」

と与次郎が言った。

原文を見る

と与次郎が言った。

これで我慢なさいと言わんばかりである。

原文を見る

これでがまんなさいといわぬばかりである。

「だいぶお集めになりましたね」

原文を見る

「だいぶお集めになりましたね」

と美禰子が言う。

原文を見る

と美禰子が言う。

「先生、これだけみんなお読みになったんですか」

原文を見る

「先生これだけみんなお読みになったですか」

と最後に三四郎が聞いた。

原文を見る

と最後に三四郎が聞いた。

三四郎は実際、これから先の参考のために、この事実を確かめておく必要があったと見える。

原文を見る

三四郎はじっさい参考のため、この事実を確かめておく必要があったとみえる。

「みんな読めるものか。佐々木なら読むかもしれないが」

原文を見る

「みんな読めるものか、佐々木なら読むかもしれないが」

与次郎は頭をかいている。

原文を見る

与次郎は頭をかいている。

三四郎はまじめになって、じつはこの間から大学の図書館で少しずつ本を借りて読むが、どんな本を借りても必ずだれかが目を通している。

原文を見る

三四郎はまじめになって、じつはこのあいだから大学の図書館で、少しずつ本を借りて読むが、どんな本を借りても、必ずだれか目を通している。

試しにアフラ・ベーンという人の小説を借りてみたが、やっぱりだれかが読んだあとがあるので、みんなが読む本の範囲はどこまでか知りたくなったから聞いてみた、と言う。

原文を見る

試しにアフラ・ベーンという人の小説を借りてみたが、やっぱりだれか読んだあとがあるので、読書範囲の際限が知りたくなったから聞いてみたと言う。

「アフラ・ベーンなら、ぼくも読んだ」

原文を見る

「アフラ・ベーンならぼくも読んだ」

広田先生のこの一言には三四郎も驚いた。

原文を見る

広田先生のこの一言いちごんには三四郎も驚いた。

「驚いたな。先生はなんでも人の読まないものを読む癖がある」

原文を見る

「驚いたな。先生はなんでも人の読まないものを読む癖がある」

と与次郎が言った。

原文を見る

と与次郎が言った。

広田は笑って座敷の方へ行く。

原文を見る

広田は笑って座敷の方へ行く。

着物を着替えるためだろう。

原文を見る

着物を着換えるためだろう。

美禰子もついて出た。

原文を見る

美禰子もついて出た。

あとで与次郎が三四郎にこう言った。

原文を見る

あとで与次郎が三四郎にこう言った。

「あれだから偉大な暗闇だ。なんでも読んでいる。けれども、ちっとも光らない。もう少しはやっているものを読んで、もう少し前へ出てくれるといいがな」

原文を見る

「あれだから偉大な暗闇だ。なんでも読んでいる。けれどもちっとも光らない。もう少し流行はやるものを読んで、もう少し出しゃばってくれるといいがな」

与次郎の言葉は、けっしてばかにしたものではなかった。

原文を見る

与次郎の言葉はけっして冷評ではなかった。

三四郎は黙って本箱を眺めていた。

原文を見る

三四郎は黙って本箱をながめていた。

すると座敷から美禰子の声が聞こえた。

原文を見る

すると座敷から美禰子の声が聞こえた。

「ごちそうをあげるから、お二人ともいらっしゃい」

原文を見る

「ごちそうをあげるからお二人ともいらっしゃい」

二人が書斎から廊下伝いに座敷へ来てみると、座敷のまん中に美禰子の持って来たかごが置いてある。

原文を見る

二人が書斎から廊下伝いに、座敷へ来てみると、座敷のまん中に美禰子の持って来たバスケットが据えてある。

ふたが取ってある。

原文を見る

ふたが取ってある。

中にサンドイッチがたくさん入っている。

原文を見る

中にサンドイッチがたくさんはいっている。

美禰子はそのそばにすわって、かごの中のものを小皿へ取り分けている。

原文を見る

美禰子はそのそばにすわって、籃の中のものを小皿へ取り分けている。

与次郎と美禰子のやりとりが始まった。

原文を見る

与次郎と美禰子の問答が始まった。

「よく忘れずに持ってきましたね」

原文を見る

「よく忘れずに持ってきましたね」

「だって、わざわざの御注文ですもの」

原文を見る

「だって、わざわざ御注文ですもの」

「そのかごも買ってきたんですか」

原文を見る

「その籃も買ってきたんですか」

「いいえ」

原文を見る

「いいえ」

「家にあったんですか」

原文を見る

「家にあったんですか」

「ええ」

原文を見る

「ええ」

「たいへん大きなものですね。車夫でも連れてきたんですか。ついでに、少しの間置いて働かせればいいのに」

原文を見る

「たいへん大きなものですね。車夫でも連れてきたんですか。ついでに、少しのあいだ置いて働かせればいいのに」

「車夫は今日は使いに出ました。女だって、このくらいのものは持てますわ」

原文を見る

「車夫はきょうは使いに出ました。女だってこのくらいなものは持てますわ」

「あなただから持つんです。ほかのお嬢さんなら、まあやめますね」

原文を見る

「あなただから持つんです。ほかのお嬢さんなら、まあやめますね」

「そうでしょうか。それなら私もやめればよかった」

原文を見る

「そうでしょうか。それなら私もやめればよかった」

美禰子は食べ物を小皿へ取りながら、与次郎と受け答えをしている。

原文を見る

美禰子は食い物を小皿へ取りながら、与次郎と応対している。

言葉に少しもつまるところがない。

原文を見る

言葉に少しもよどみがない。

しかも、ゆっくり落ち着いている。

原文を見る

しかもゆっくりおちついている。

ほとんど与次郎の顔を見ないくらいである。

原文を見る

ほとんど与次郎の顔を見ないくらいである。

三四郎は感心した。

原文を見る

三四郎は敬服した。

台所から女中がお茶を持って来る。

原文を見る

台所から下女が茶を持って来る。

かごを取り巻いた人たちは、サンドイッチを食べ出した。

原文を見る

籃を取り巻いた連中は、サンドイッチを食い出した。

少しの間は静かであったが、思い出したように与次郎がまた広田先生に話しかけた。

原文を見る

少しのあいだは静かであったが、思い出したように与次郎がまた広田先生に話しかけた。

「先生、ついでだからちょっと聞いておきますが、さっきの何とかベーンですね」

原文を見る

「先生、ついでだからちょっと聞いておきますがさっきのなんとかベーンですね」

「アフラ・ベーンか」

原文を見る

「アフラ・ベーンか」

「いったい何です、そのアフラ・ベーンというのは」

原文を見る

「ぜんたいなんです、そのアフラ・ベーンというのは」

「イギリスの女性の作家だ。十七世紀の」

原文を見る

「英国の閨秀けいしゅう作家だ。十七世紀の」

「十七世紀は古すぎる。雑誌の材料にはなりませんね」

原文を見る

「十七世紀は古すぎる。雑誌の材料にゃなりませんね」

「古い。しかし、仕事として小説に取り組んだ初めての女の人だから、それで有名だ」

原文を見る

「古い。しかし職業として小説に従事したはじめての女だから、それで有名だ」

「有名じゃ困るな。もう少しうかがっておこう。どんなものを書いたんですか」

原文を見る

「有名じゃ困るな。もう少し伺っておこう。どんなものを書いたんですか」

「ぼくはオルノーコという小説を読んだだけだが、小川さん、そういう名の小説が全集の中にあったでしょう」

原文を見る

「ぼくはオルノーコという小説を読んだだけだが、小川さん、そういう名の小説が全集のうちにあったでしょう」

三四郎はきれいに忘れている。

原文を見る

三四郎はきれいに忘れている。

先生にそのあらすじを聞いてみると、オルノーコという黒人の王族がイギリスの船長にだまされて奴隷(どれい)に売られ、たいへんな苦労をすることが書いてあるのだそうだ。

原文を見る

先生にその梗概こうがいを聞いてみると、オルノーコという黒ん坊の王族が英国の船長にだまされて、奴隷どれいに売られて、非常に難儀をする事が書いてあるのだそうだ。

しかも、これは作家が実際に見た話だとして、後の世に信じられているという話である。

原文を見る

しかもこれは作家の実見譚じっけんだんだとして後世に信ぜられているという話である。

「おもしろいな。里見さん、どうです、一つオルノーコでも書いちゃあ」

原文を見る

「おもしろいな。里見さん、どうです、一つオルノーコでも書いちゃあ」

と与次郎は、また美禰子の方へ向いた。

原文を見る

と与次郎はまた美禰子の方へ向かった。

「書いてもよろしゅうございますけれども、私にはそんな、実際に見た話がないんですもの」

原文を見る

「書いてもよござんすけれども、私にはそんな実見譚がないんですもの」

「黒人の主人公が必要なら、その小川君でもいいじゃありませんか。九州の男で色が黒いから」

原文を見る

「黒ん坊の主人公が必要なら、その小川君でもいいじゃありませんか。九州の男で色が黒いから」

「口の悪い」

原文を見る

「口の悪い」

と美禰子は三四郎をかばうように言ったが、すぐあとから三四郎の方を向いて、

原文を見る

と美禰子は三四郎を弁護するように言ったが、すぐあとから三四郎の方を向いて、

「書いてもよくって」

原文を見る

「書いてもよくって」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

その目を見た時、三四郎は今朝かごを提げて折り戸から現れた瞬間の美禰子を思い出した。

原文を見る

その目を見た時に、三四郎はけさ籃をさげて、折戸からあらわれた瞬間の女を思い出した。

自然と酔ったような気持ちである。

原文を見る

おのずから酔った心地ここちである。

けれども、酔ってすくんだ気持ちである。

原文を見る

けれども酔ってすくんだ心地である。

どうぞ願います、などとは、もちろん言えなかった。

原文を見る

どうぞ願いますなどとはむろん言いえなかった。

広田先生はいつものようにたばこを吸い出した。

原文を見る

広田先生は例によって煙草をのみ出した。

与次郎はこれを評して、鼻から哲学の煙を吐くと言った。

原文を見る

与次郎はこれを評して鼻から哲学の煙の吐くと言った。

なるほど煙の出方が少し違う。

原文を見る

なるほど煙の出方が少し違う。

ゆったりと、太くたくましい棒が二本、鼻の穴を抜けて来る。

原文を見る

悠然ゆうぜんとして太くたくましい棒が二本穴を抜けて来る。

与次郎はその煙の柱を眺めて、半分背をふすまにもたせたまま黙っている。

原文を見る

与次郎はその煙柱えんちゅうをながめて、半分背を唐紙からかみに持たしたまま黙っている。

三四郎の目はぼんやり庭の上にある。

原文を見る

三四郎の目はぼんやり庭の上にある。

引っ越しではない。

原文を見る

引っ越しではない。

まるで、ちょっとした集まりのように見える。

原文を見る

まるで小集のていに見える。

話も、したがって気楽なものである。

原文を見る

談話もしたがって気楽なものである。

ただ美禰子だけが広田先生の陰で、先生がさっきぬぎ捨てた洋服を畳み始めた。

原文を見る

ただ美禰子だけが広田先生の陰で、先生がさっき脱ぎ捨てた洋服を畳み始めた。

先生に和服を着せたのも美禰子のしたことと見える。

原文を見る

先生に和服を着せたのも美禰子の所為しょいとみえる。

「今のオルノーコの話だが、君はそそっかしいから間違えるといけないので、ついでに言うがね」

原文を見る

「今のオルノーコの話だが、君はそそっかしいから間違えるといけないからついでに言うがね」

と、先生の煙がちょっととぎれた。

原文を見る

と先生の煙がちょっととぎれた。

「へえ、うかがっておきます」

原文を見る

「へえ、伺っておきます」

と与次郎がきちんと言う。

原文を見る

と与次郎が几帳面きちょうめんに言う。

「あの小説が出てから、サザーンという人がその話を劇の台本に仕立てたのが別にある。やはり同じ名でね。それをいっしょにしちゃいけない」

原文を見る

「あの小説が出てから、サザーンという人がその話を脚本に仕組んだのが別にある。やはり同じ名でね。それをいっしょにしちゃいけない」

「へえ、いっしょにしやしません」

原文を見る

「へえ、いっしょにしやしません」

洋服を畳んでいた美禰子は、ちょっと与次郎の顔を見た。

原文を見る

洋服を畳んでいた美禰子はちょっと与次郎の顔を見た。

「その台本の中に有名な言葉がある。Pity's akin to love という言葉だが……」

原文を見る

「その脚本のなかに有名な句がある。Pity'sピチーズ akinアキン toツー loveラッブ という句だが……」

それだけで、また哲学の煙をさかんに吹き出した。

原文を見る

それだけでまた哲学の煙をさかんに吹き出した。

「日本にもありそうな言葉ですな」

原文を見る

「日本にもありそうな句ですな」

と今度は三四郎が言った。

原文を見る

と今度は三四郎が言った。

ほかの人もみんな、ありそうだと言い出した。

原文を見る

ほかの者も、みんなありそうだと言いだした。

けれども、だれにも思い出せない。

原文を見る

けれどもだれにも思い出せない。

では一つ訳してみたらよかろうということになって、四人がいろいろに試してみたが、いっこうにまとまらない。

原文を見る

ではひとつ訳してみたらよかろうということになって、四人がいろいろに試みたがいっこうにまとまらない。

しまいに与次郎が、

原文を見る

しまいに与次郎が、

「これはどうしても、はやり歌でいかなくっちゃだめですよ。言葉の感じがはやり歌だもの」

原文を見る

「これは、どうしても俗謡でいかなくっちゃだめですよ。句の趣が俗謡だもの」

と、与次郎らしい意見を出した。

原文を見る

と与次郎らしい意見を提出した。

そこで三人が、訳をすっかり与次郎にまかせることにした。

原文を見る

そこで三人がぜんぜん翻訳権を与次郎に委任することにした。

与次郎はしばらく考えていたが、

原文を見る

与次郎はしばらく考えていたが、

「少し無理ですがね、こういうのはどうでしょう。かわいそうだた、ほれたってことよ」

原文を見る

「少しむりですがね、こういうなどうでしょう。かあいそうだたほれたってことよ」

「いかん、いかん、下品のきわみだ」

原文を見る

「いかん、いかん、下劣の極だ」

と先生がたちまち苦い顔をした。

原文を見る

と先生がたちまち苦い顔をした。

その言い方がいかにも下品らしいので、三四郎と美禰子は一度に笑い出した。

原文を見る

その言い方がいかにも下劣らしいので、三四郎と美禰子は一度に笑い出した。

この笑い声がまだやまないうちに、庭の木戸がぎいと開いて、野々宮さんが入って来た。

原文を見る

この笑い声がまだやまないうちに、庭の木戸がぎいと開いて、野々宮さんがはいって来た。

「もう、たいてい片づいたんですか」

原文を見る

「もうたいてい片づいたんですか」

と言いながら、野々宮さんは縁側の正面の所まで来て、部屋の中にいる四人をのぞくように見わたした。

原文を見る

と言いながら、野々宮さんは椽側の正面の所まで来て、部屋の中にいる四人をのぞくように見渡した。

「まだ片づきませんよ」

原文を見る

「まだ片づきませんよ」

と与次郎がさっそく言う。

原文を見る

と与次郎がさっそく言う。

「少し手伝っていただきましょうか」

原文を見る

「少し手伝っていただきましょうか」

と美禰子が与次郎に調子を合わせた。

原文を見る

と美禰子が与次郎に調子を合わせた。

野々宮さんはにやにや笑いながら、

原文を見る

野々宮さんはにやにや笑いながら、

「だいぶにぎやかなようですね。何かおもしろいことがありますか」

原文を見る

「だいぶにぎやかなようですね。何かおもしろい事がありますか」

と言って、ぐるりと後ろ向きに縁側へ腰をかけた。

原文を見る

と言って、ぐるりと後向きに椽側へ腰をかけた。

「今ぼくが訳をして、先生にしかられたところです」

原文を見る

「今ぼくが翻訳をして先生にしかられたところです」

「訳を? どんな訳ですか」

原文を見る

「翻訳を? どんな翻訳ですか」

「なに、つまらない――かわいそうだた、ほれたってことよ、というんです」

原文を見る

「なにつまらない――かわいそうだたほれたってことよというんです」

「へえ」

原文を見る

「へえ」

と言った野々宮君は、縁側でななめに向き直った。

原文を見る

と言った野々宮君は椽側ですじかいに向き直った。

「いったいそりゃ何ですか。ぼくには意味がわからない」

原文を見る

「いったいそりゃなんですか。ぼくにゃ意味がわからない」

「だれだってわからんさ」

原文を見る

「だれだってわからんさ」

と今度は先生が言った。

原文を見る

と今度は先生が言った。

「いや、少し言葉をつめすぎたから――ふつうに伸ばすと、こうです。かわいそうだとは、ほれたということよ」

原文を見る

「いや、少し言葉をつめすぎたから――あたりまえにのばすと、こうです。かあいそうだとはほれたということよ」

「アハハハ。そうして、そのもとの言葉は何というのです」

原文を見る

「アハハハ。そうしてその原文はなんというのです」

「Pity's akin to love」

原文を見る

「Pity'sピチーズ akinアキン toツー loveラッブ

と美禰子が繰り返した。

原文を見る

と美禰子が繰り返した。

美しいきれいな発音であった。

原文を見る

美しいきれいな発音であった。

野々宮さんは縁側から立って、二、三歩庭の方へ歩き出したが、やがてまたぐるりと向き直って、部屋を正面に見て立ち止まった。

原文を見る

野々宮さんは、椽側から立って、二、三歩庭の方へ歩き出したが、やがてまたぐるりと向き直って、部屋を正面に留まった。

「なるほど、うまい訳だ」

原文を見る

「なるほどうまい訳だ」

三四郎は野々宮君の様子と目の向きに、気をつけずにはいられなかった。

原文を見る

三四郎は野々宮君の態度と視線とを注意せずにはいられなかった。

美禰子は台所へ立って、茶わんを洗って、新しいお茶をついで、縁側の端まで持って出る。

原文を見る

美禰子は台所へ立って、茶碗ちゃわんを洗って、新しい茶をついで、椽側の端まで持って出る。

「お茶を」

原文を見る

「お茶を」

と言ったまま、そこへすわった。

原文を見る

と言ったまま、そこへすわった。

「よし子さんは、どうなさって」

原文を見る

「よし子さんは、どうなすって」

と聞く。

原文を見る

と聞く。

「ええ、体のほうはもうよくなりましたが」

原文を見る

「ええ、からだのほうはもう回復しましたが」

と、また腰をかけてお茶を飲む。

原文を見る

とまた腰をかけて茶を飲む。

それから、少し先生の方を向いた。

原文を見る

それから、少し先生の方へ向いた。

「先生、せっかく大久保へ引っ越したが、またこちらの方へ出なければならないようになりそうです」

原文を見る

「先生、せっかく大久保へ越したが、またこっちの方へ出なければならないようになりそうです」

「なぜ」

原文を見る

「なぜ」

「妹が学校の行き帰りに戸山の原を通るのがいやだと言い出しましてね。それにぼくが夜実験をやるものですから、おそくまで待っているのがさびしくていけないんだそうです。もっとも今のうちは母がいるからかまいませんが、もう少しして母がふるさとへ帰ると、あとは女中だけになるものですからね。こわがりの二人では、とうてい我慢しきれないのでしょう。――じつにやっかいだな」

原文を見る

「妹が学校へ行き帰りに、戸山とやまの原を通るのがいやだと言いだしましてね。それにぼくが夜実験をやるものですから、おそくまで待っているのがさむしくっていけないんだそうです。もっとも今のうちは母がいるからかまいませんが、もう少しして、母が国へ帰ると、あとは下女だけになるものですからね。臆病者おくびょうものの二人ではとうていしんぼうしきれないのでしょう。――じつにやっかいだな」

と冗談半分のなげきをもらしたが、「どうです里見さん、あなたの所へでも置いてくれませんか」

原文を見る

と冗談半分の嘆声をもらしたが、「どうです里見さん、あなたの所へでも食客いそうろうに置いてくれませんか」

と美禰子の顔を見た。

原文を見る

と美禰子の顔を見た。

「いつでも置いてあげますわ」

原文を見る

「いつでも置いてあげますわ」

「どっちです。宗八さんのほうをですか、よし子さんのほうをですか」

原文を見る

「どっちです。宗八さんのほうをですか、よし子さんのほうをですか」

と与次郎が口を出した。

原文を見る

と与次郎が口を出した。

「どちらでも」

原文を見る

「どちらでも」

三四郎だけ黙っていた。

原文を見る

三四郎だけ黙っていた。

広田先生は少しまじめになって、

原文を見る

広田先生は少しまじめになって、

「そうして君はどうする気なんだ」

原文を見る

「そうして君はどうする気なんだ」

「妹の落ち着き先さえ決まれば、当分下宿してもいいです。それでなければ、またどこかへ引っ越さなければならない。いっそ学校の寄宿舎へでも入れようかと思うんですがね。なにしろ子供だから、ぼくがしょっちゅう行けるか、向こうがしょっちゅう来られる所でないと困るんです」

原文を見る

「妹の始末さえつけば、当分下宿してもいいです。それでなければ、またどこかへ引っ越さなければならない。いっそ学校の寄宿舎へでも入れようかと思うんですがね。なにしろ子供だから、ぼくがしじゅう行けるか、向こうがしじゅう来られる所でないと困るんです」

「それじゃ里見さんの所に限る」

原文を見る

「それじゃ里見さんの所に限る」

と与次郎がまた口をはさんだ。

原文を見る

と与次郎がまた注意を与えた。

広田さんは与次郎を相手にしない様子で、

原文を見る

広田さんは与次郎を相手にしない様子で、

「ぼくの所の二階へ置いてやってもいいが、なにしろ佐々木のような者がいるから」

原文を見る

「ぼくの所の二階へ置いてやってもいいが、なにしろ佐々木のような者がいるから」

と言う。

原文を見る

と言う。

「先生、二階へはぜひ佐々木を置いてやってください」

原文を見る

「先生、二階へはぜひ佐々木を置いてやってください」

と与次郎自身が頼んだ。

原文を見る

と与次郎自身が依頼した。

野々宮君は笑いながら、

原文を見る

野々宮君は笑いながら、

「まあ、どうかしましょう。――背ばかり大きくてばかだから、じつに弱る。あれで団子坂の菊人形が見たいから連れていけ、なんて言うんだから」

原文を見る

「まあ、どうかしましょう。――身長なりばかり大きくってばかだからじつに弱る。あれで団子坂の菊人形が見たいから、連れていけなんて言うんだから」

「連れていってあげればいいのに。私だって見たいわ」

原文を見る

「連れていっておあげなさればいいのに。私だって見たいわ」

「じゃ、いっしょに行きましょうか」

原文を見る

「じゃいっしょに行きましょうか」

「ええ、ぜひ。小川さんもいらっしゃい」

原文を見る

「ええぜひ。小川さんもいらっしゃい」

「ええ、行きましょう」

原文を見る

「ええ行きましょう」

「佐々木さんも」

原文を見る

「佐々木さんも」

「菊人形は御免だ。菊人形を見るくらいなら、活動写真(今の映画)を見に行きます」

原文を見る

「菊人形は御免だ。菊人形を見るくらいなら活動写真を見に行きます」

「菊人形はいいよ」

原文を見る

「菊人形はいいよ」

と今度は広田先生が言い出した。

原文を見る

と今度は広田先生が言いだした。

「あれほど人の手で作ったものは、おそらく外国にもないだろう。人の力でよくこんなものをこしらえたというところを見ておく必要がある。あれがふつうの人間にできていたら、おそらく団子坂へ行く者は一人もあるまい。ふつうの人間なら、どこの家にも四、五人は必ずいる。団子坂へ出かけるまでもない」

原文を見る

「あれほどに人工的なものはおそらく外国にもないだろう。人工的によくこんなものをこしらえたというところを見ておく必要がある。あれが普通の人間にできていたら、おそらく団子坂へ行く者は一人もあるまい。普通の人間なら、どこの家でも四、五人は必ずいる。団子坂へ出かけるにはあたらない」

「先生らしい理屈だ」

原文を見る

「先生一流の論理だ」

と与次郎が評した。

原文を見る

と与次郎が評した。

「昔教室で教わる時にも、よくあれでやられたものだ」

原文を見る

「昔教場で教わる時にも、よくあれでやられたものだ」

と野々宮君が言った。

原文を見る

と野々宮君が言った。

「じゃ先生もいらっしゃい」

原文を見る

「じゃ先生もいらっしゃい」

と美禰子が最後に言う。

原文を見る

と美禰子が最後に言う。

先生は黙っている。

原文を見る

先生は黙っている。

みんな笑い出した。

原文を見る

みんな笑いだした。

台所からおばあさんが「どなたかちょいと」

原文を見る

台所からばあさんが「どなたかちょいと」

と言う。

原文を見る

と言う。

与次郎は「おい」

原文を見る

与次郎は「おい」

とすぐ立った。

原文を見る

とすぐ立った。

三四郎はやはりすわっていた。

原文を見る

三四郎はやはりすわっていた。

「どれ、ぼくも失礼しようか」

原文を見る

「どれぼくも失礼しようか」

と野々宮さんが腰を上げる。

原文を見る

と野々宮さんが腰を上げる。

「あら、もうお帰り。ずいぶんね」

原文を見る

「あらもうお帰り。ずいぶんね」

と美禰子が言う。

原文を見る

と美禰子が言う。

「この間のものは、もう少し待ってくれたまえ」

原文を見る

「このあいだのものはもう少し待ってくれたまえ」

と広田先生が言うのを、「ええ、よろしゅうございます」

原文を見る

と広田先生が言うのを、「ええ、ようござんす」

と受けて、野々宮さんが庭から出ていった。

原文を見る

と受けて、野々宮さんが庭から出ていった。

その影が折り戸の外へ隠れると、美禰子は急に思い出したように「そうそう」

原文を見る

その影が折戸の外へ隠れると、美禰子は急に思い出したように「そうそう」

と言いながら、庭先にぬいであった下駄をはいて、野々宮のあとを追いかけた。

原文を見る

と言いながら、庭先に脱いであった下駄をはいて、野々宮のあとを追いかけた。

表で何か話している。

原文を見る

表で何か話している。

三四郎は黙ってすわっていた。

原文を見る

三四郎は黙ってすわっていた。

原文を見る

門を入ると、この間の萩が人の背より高くしげって、株の根もとに黒い影ができている。

原文を見る

門をはいると、このあいだのはぎが、人のたけより高く茂って、株の根に黒い影ができている。

この黒い影が地の上をはって奥の方へ行くと、見えなくなる。

原文を見る

この黒い影が地の上をはって、奥の方へゆくと、見えなくなる。

葉と葉の重なる裏まで上ってくるようにも思われる。

原文を見る

葉と葉の重なる裏まで上ってくるようにも思われる。

それほど表には濃い日が当たっている。

原文を見る

それほど表には濃い日があたっている。

手を洗う水のそばに南天がある。

原文を見る

手洗水のそばに南天なんてんがある。

これもふつうより背が高い。

原文を見る

これも普通よりは背が高い。

三本寄ってひょろひょろしている。

原文を見る

三本寄ってひょろひょろしている。

葉は便所の窓の上にある。

原文を見る

葉は便所の窓の上にある。

萩と南天の間に縁側が少し見える。

原文を見る

萩と南天の間に椽側が少し見える。

縁側は南天のあたりから、ななめに向こうへ走っている。

原文を見る

椽側は南天を基点としてはすに向こうへ走っている。

萩の影になった所は、いちばん遠いはずれになる。

原文を見る

萩の影になった所は、いちばん遠いはずれになる。

それで萩はいちばん手前にある。

原文を見る

それで萩はいちばん手前にある。

よし子はこの萩の影にいた。

原文を見る

よし子はこの萩の影にいた。

縁側に腰をかけて。

原文を見る

椽側に腰をかけて。

三四郎は萩とすれすれに立った。

原文を見る

三四郎は萩とすれすれに立った。

よし子は縁側から腰を上げた。

原文を見る

よし子は椽から腰を上げた。

足は平たい石の上にある。

原文を見る

足は平たい石の上にある。

三四郎は今さらのように、その背の高いのに驚いた。

原文を見る

三四郎はいまさらその背の高いのに驚いた。

「お入りなさい」

原文を見る

「おはいりなさい」

相変わらず、三四郎を待ちかまえていたような言葉づかいである。

原文を見る

依然として三四郎を待ち設けたような言葉づかいである。

三四郎は病院の時のことを思い出した。

原文を見る

三四郎は病院の当時を思い出した。

萩を通り越して縁側の先まで来た。

原文を見る

萩を通り越して椽鼻まで来た。

「お掛けなさい」

原文を見る

「お掛けなさい」

三四郎は靴をはいている。

原文を見る

三四郎は靴をはいている。

言われたとおりに腰をかけた。

原文を見る

めいのごとく腰をかけた。

よし子は座布団を取って来た。

原文を見る

よし子は座蒲団ざぶとんを取って来た。

「お敷きなさい」

原文を見る

「お敷きなさい」

三四郎は座布団を敷いた。

原文を見る

三四郎は蒲団を敷いた。

門を入ってから、三四郎はまだ一言も口を開かない。

原文を見る

門をはいってから、三四郎はまだ一言ひとことも口を開かない。

この飾り気のない少女は、ただ自分の思うとおりを三四郎に言うが、三四郎からは少しも返事を求めていないように思われる。

原文を見る

この単純な少女はただ自分の思うとおりを三四郎に言うが、三四郎からはごうも返事を求めていないように思われる。

三四郎は、無邪気な女王の前に出たような気持ちがした。

原文を見る

三四郎は無邪気なる女王の前に出た心持ちがした。

言いつけを聞くだけである。

原文を見る

命を聞くだけである。

お世辞を使う必要がない。

原文を見る

お世辞を使う必要がない。

一言でも相手の気に入るようなことを言えば、急に卑しくなる。口のきけない召し使いのように、相手の言うがままにふるまっていれば愉快である。

原文を見る

一言でも先方の意を迎えるような事をいえば、急に卑しくなる、おしの奴隷のごとく、さきのいうがままにふるまっていれば愉快である。

三四郎は子供のようなよし子から子供あつかいにされながら、少しも自分のほこりを傷つけられたとは感じなかった。

原文を見る

三四郎は子供のようなよし子から子供扱いにされながら、少しもわが自尊心を傷つけたとは感じえなかった。

「兄ですか」

原文を見る

「兄ですか」

と、よし子はその次に聞いた。

原文を見る

とよし子はその次に聞いた。

野々宮を訪ねて来たわけでもない。

原文を見る

野々宮を尋ねて来たわけでもない。

訪ねないわけでもない。

原文を見る

尋ねないわけでもない。

何をしに来たか、三四郎にもじつはわからないのである。

原文を見る

なんで来たか三四郎にもじつはわからないのである。

「野々宮さんはまだ学校ですか」

原文を見る

「野々宮さんはまだ学校ですか」

「ええ、いつでも夜おそくでなくては帰りません」

原文を見る

「ええ、いつでも夜おそくでなくっちゃ帰りません」

これは三四郎も知っていることである。

原文を見る

これは三四郎も知ってる事である。

三四郎は話に困った。

原文を見る

三四郎は挨拶あいさつに窮した。

見ると縁側に絵の具箱がある。

原文を見る

見ると椽側に絵の具箱がある。

描きかけの水彩画がある。

原文を見る

かきかけた水彩がある。

「絵をお習いですか」

原文を見る

「絵をお習いですか」

「ええ、好きだから描きます」

原文を見る

「ええ、好きだからかきます」

「先生はだれですか」

原文を見る

「先生はだれですか」

「先生に習うほど上手じゃないの」

原文を見る

「先生に習うほどじょうずじゃないの」

「ちょっと見せてください」

原文を見る

「ちょっと拝見」

「これ? これ、まだできていないの」

原文を見る

「これ? これまだできていないの」

と、描きかけを三四郎の方へ出す。

原文を見る

とかきかけを三四郎の方へ出す。

なるほど自分の家の庭が描きかけてある。

原文を見る

なるほど自分のうちの庭がかきかけてある。

空と、前の家の柿の木と、入口の萩だけができている。

原文を見る

空と、前の家のかきの木と、はいり口の萩だけができている。

中でも柿の木は、とても赤くできている。

原文を見る

なかにも柿の木ははなはだ赤くできている。

「なかなかうまい」

原文を見る

「なかなかうまい」

と三四郎が絵を眺めながら言う。

原文を見る

と三四郎が絵をながめながら言う。

「これが?」

原文を見る

「これが?」

と、よし子は少し驚いた。

原文を見る

とよし子は少し驚いた。

本当に驚いたのである。

原文を見る

本当に驚いたのである。

三四郎のようなわざとらしい調子は少しもなかった。

原文を見る

三四郎のようなわざとらしい調子は少しもなかった。

三四郎は今さら自分の言葉を冗談にすることもできず、またまじめにすることもできなくなった。

原文を見る

三四郎はいまさら自分の言葉を冗談にすることもできず、またまじめにすることもできなくなった。

どちらにしても、よし子から見下されそうである。

原文を見る

どっちにしても、よし子から軽蔑けいべつされそうである。

三四郎は絵を眺めながら、心の中で顔を赤くした。

原文を見る

三四郎は絵をながめながら、腹の中で赤面した。

縁側から座敷を見回すと、しんと静かである。

原文を見る

椽側から座敷を見回すと、しんと静かである。

茶の間はもちろん、台所にも人はいないようである。

原文を見る

茶の間はむろん、台所にも人はいないようである。

「お母さんはもうお国へお帰りになったんですか」

原文を見る

「おっかさんはもうお国へお帰りになったんですか」

「まだ帰りません。近いうちに発つはずですけれど」

原文を見る

「まだ帰りません。近いうちに立つはずですけれど」

「今、いらっしゃるんですか」

原文を見る

「今、いらっしゃるんですか」

「今ちょっと買い物に出ました」

原文を見る

「今ちょっと買物に出ました」

「あなたが里見さんの所へお移りになるというのは本当ですか」

原文を見る

「あなたが里見さんの所へお移りになるというのは本当ですか」

「どうして」

原文を見る

「どうして」

「どうしてって――この間広田先生の所でそんな話がありましたから」

原文を見る

「どうしてって――このあいだ広田先生の所でそんな話がありましたから」

「まだ決まりません。ことによると、そうなるかもしれませんけれど」

原文を見る

「まだきまりません。ことによると、そうなるかもしれませんけれど」

三四郎は少し様子がわかった。

原文を見る

三四郎は少しく要領を得た。

「野々宮さんは、もとから里見さんと親しくなさっているんですか」

原文を見る

「野々宮さんはもとから里見さんと御懇意なんですか」

「ええ。お友だちなの」

原文を見る

「ええ。お友だちなの」

男と女の友だちという意味かしらと思ったが、なんだかおかしい。

原文を見る

男と女の友だちという意味かしらと思ったが、なんだかおかしい。

けれども三四郎は、それ以上は聞けなかった。

原文を見る

けれども三四郎はそれ以上を聞きえなかった。

「広田先生は野々宮さんのもとの先生だそうですね」

原文を見る

「広田先生は野々宮さんのもとの先生だそうですね」

「ええ」

原文を見る

「ええ」

話は「ええ」

原文を見る

話は「ええ」

でつかえた。

原文を見る

でつかえた。

「あなたは里見さんの所へいらっしゃるほうがいいんですか」

原文を見る

「あなたは里見さんの所へいらっしゃるほうがいいんですか」

「私? そうね。でも、美禰子さんのお兄さんにお気の毒ですから」

原文を見る

「私? そうね。でも美禰子さんのおあにいさんにお気の毒ですから」

「美禰子さんにお兄さんがあるんですか」

原文を見る

「美禰子さんのにいさんがあるんですか」

「ええ。うちの兄と同じ年の卒業なんです」

原文を見る

「ええ。うちの兄と同年の卒業なんです」

「やっぱり理学士ですか」

原文を見る

「やっぱり理学士ですか」

「いいえ、学科は違います。法学士です。そのまた上のお兄さんが広田先生のお友だちだったのですけれど、早くお亡くなりになって、今では恭助さんだけなんです」

原文を見る

「いいえ、科は違います。法学士です。そのまた上の兄さんが広田先生のお友だちだったのですけれども、早くおなくなりになって、今では恭助きょうすけさんだけなんです」

「お父さんやお母さんは」

原文を見る

「おとっさんやおっかさんは」

よし子は少し笑いながら、

原文を見る

よし子は少し笑いながら、

「ないわ」

原文を見る

「ないわ」

と言った。

原文を見る

と言った。

美禰子の父母がいると想像するのはおかしい、と言わんばかりである。

原文を見る

美禰子の父母の存在を想像するのは滑稽こっけいであるといわぬばかりである。

よほど早く死んだものと見える。

原文を見る

よほど早く死んだものとみえる。

よし子の覚えにはまるでないのだろう。

原文を見る

よし子の記憶にはまるでないのだろう。

「そういう関わりで、美禰子さんは広田先生の家へ出入りをなさるんですね」

原文を見る

「そういう関係で美禰子さんは広田先生のうち出入でいりをなさるんですね」

「ええ。死んだお兄さんが広田先生とはたいへん仲良しだったそうです。それに美禰子さんは英語が好きだから、時々英語を習いにいらっしゃるんでしょう」

原文を見る

「ええ。死んだにいさんが広田先生とはたいへん仲良しだったそうです。それに美禰子さんは英語が好きだから、時々英語を習いにいらっしゃるんでしょう」

「こちらへも来ますか」

原文を見る

「こちらへも来ますか」

よし子はいつのまにか水彩画の続きを描き始めた。

原文を見る

よし子はいつのまにか、水彩画の続きをかき始めた。

三四郎がそばにいるのが、まるで気にならない。

原文を見る

三四郎がそばにいるのがまるで苦になっていない。

それでいて、よく返事をする。

原文を見る

それでいて、よく返事をする。

「美禰子さん?」

原文を見る

「美禰子さん?」

と聞きながら、柿の木の下にあるわらぶき屋根に影をつけたが、

原文を見る

と聞きながら、柿の木の下にある藁葺わらぶき屋根に影をつけたが、

「少し黒すぎますね」

原文を見る

「少し黒すぎますね」

と絵を三四郎の前へ出した。

原文を見る

と絵を三四郎の前へ出した。

三四郎は今度は正直に、

原文を見る

三四郎は今度は正直に、

「ええ、少し黒すぎます」

原文を見る

「ええ、少し黒すぎます」

と答えた。

原文を見る

と答えた。

すると、よし子は絵筆に水を含ませて、黒い所を洗いながら、

原文を見る

すると、よし子は画筆に水を含ませて、黒い所を洗いながら、

「いらっしゃいますわ」

原文を見る

「いらっしゃいますわ」

と、ようやく三四郎に返事をした。

原文を見る

とようやく三四郎に返事をした。

「たびたび?」

原文を見る

「たびたび?」

「ええ、たびたび」

原文を見る

「ええたびたび」

と、よし子は相変わらず画用紙に向かっている。

原文を見る

とよし子は依然として画紙に向かっている。

三四郎は、よし子が絵の続きを描き出してから、やりとりがたいへん楽になった。

原文を見る

三四郎は、よし子が絵のつづきをかきだしてから、問答がたいへん楽になった。

しばらく無言のまま絵の中をのぞいていると、よし子は念入りにわらぶき屋根の黒い影を洗っていたが、あまり水が多すぎたのと、筆の使い方がなかなか不慣れなので、黒いものが勝手に四方へにじみ出して、せっかく赤くできた柿が、干した渋柿のような色になった。

原文を見る

しばらく無言のまま、絵のなかをのぞいていると、よし子はたんねんに藁葺屋根の黒い影を洗っていたが、あまり水が多すぎたのと、筆の使い方がなかなか不慣れなので、黒いものがかってに四方へ浮き出して、せっかく赤くできた柿が、陰干の渋柿しぶがきのような色になった。

よし子は絵筆の手を休めて、両手を伸ばし、首をあとへ引いて、画用紙をなるべく遠くから眺めていたが、しまいに小さな声で、

原文を見る

よし子は画筆の手を休めて、両手を伸ばして、首をあとへ引いて、ワットマンをなるべく遠くからながめていたが、しまいに、小さな声で、

「もうだめね」

原文を見る

「もう駄目ね」

と言う。

原文を見る

と言う。

実際だめなのだから、しかたがない。

原文を見る

じっさいだめなのだから、しかたがない。

三四郎は気の毒になった。

原文を見る

三四郎は気の毒になった。

「もうおよしなさい。そうして、また新しくお描きなさい」

原文を見る

「もうおよしなさい。そうして、また新しくおかきなさい」

よし子は顔を絵に向けたまま、横目で三四郎を見た。

原文を見る

よし子は顔を絵に向けたまま、しりめに三四郎を見た。

大きな、うるんだ目である。

原文を見る

大きな潤いのある目である。

三四郎はますます気の毒になった。

原文を見る

三四郎はますます気の毒になった。

すると、よし子が急に笑い出した。

原文を見る

すると女が急に笑いだした。

「ばかね。二時間ばかり損をして」

原文を見る

「ばかね。二時間ばかり損をして」

と言いながら、せっかく描いた水彩画の上へ、横縦に二、三本太い棒を引いて、絵の具箱のふたをぱたりと伏せた。

原文を見る

と言いながら、せっかくかいた水彩の上へ、横縦に二、三本太い棒を引いて、絵の具箱の蓋をぱたりと伏せた。

「もうやめましょう。座敷へお入りなさい。お茶をあげますから」

原文を見る

「もうよしましょう。座敷へおはいりなさい。お茶をあげますから」

と言いながら、自分は上へ上がった。

原文を見る

と言いながら、自分は上へ上がった。

三四郎は靴をぬぐのが面倒なので、やはり縁側に腰をかけていた。

原文を見る

三四郎は靴を脱ぐのが面倒なので、やはり椽側に腰をかけていた。

心の中では、今になってお茶をやるという人をたいへんおもしろいと思っていた。

原文を見る

腹の中では、今になって、茶をやるという女を非常におもしろいと思っていた。

三四郎に、変わった人をおもしろがるつもりは少しもないのだが、突然お茶をあげますと言われた時には、一種の愉快さを感じないわけにはいかなかったのである。

原文を見る

三四郎に度はずれの女をおもしろがるつもりは少しもないのだが、突然お茶をあげますといわれた時には、一種の愉快を感ぜぬわけにゆかなかったのである。

その感じは、どうしても異性に近づいて得られる感じではなかった。

原文を見る

その感じは、どうしても異性に近づいて得られる感じではなかった。

茶の間で話し声がする。

原文を見る

茶の間で話し声がする。

女中はいたに違いない。

原文を見る

下女はいたに違いない。

やがてふすまを開いて、お茶の道具を持ってよし子が現れた。

原文を見る

やがてふすまを開いて、茶器を持って、よし子があらわれた。

その顔を正面から見た時、三四郎はまた、女の人の中でもっとも女らしい顔であると思った。

原文を見る

その顔を正面から見た時に、三四郎はまた、女性中のもっとも女性的な顔であると思った。

よし子はお茶をついで縁側へ出し、自分は座敷の畳の上にすわった。

原文を見る

よし子は茶をくんで椽側へ出して、自分は座敷の畳の上へすわった。

三四郎はもう帰ろうと思っていたが、この人のそばにいると、帰らないでもかまわないような気がする。

原文を見る

三四郎はもう帰ろうと思っていたが、この女のそばにいると、帰らないでもかまわないような気がする。

病院では、かつてこの人の顔を眺めすぎて少し赤面させたためにすぐ帰ったが、今日は何ともない。

原文を見る

病院ではかつてこの女の顔をながめすぎて、少し赤面させたために、さっそく引き取ったが、きょうはなんともない。

お茶を出したのをさいわいに、縁側と座敷でまた話を始めた。

原文を見る

茶を出したのをさいわいに椽側と座敷でまた談話を始めた。

いろいろ話しているうちに、よし子は三四郎に妙なことを聞き出した。

原文を見る

いろいろ話しているうちに、よし子は三四郎に妙な事を聞きだした。

それは、自分の兄の野々宮が好きかいやかという質問であった。

原文を見る

それは、自分の兄の野々宮が好きかいやかという質問であった。

ちょっと聞くと、まるで小さな子供の言いそうなことであるが、よし子の言う意味はもう少し深いところにあった。

原文を見る

ちょっと聞くとまるでがんぜない子供の言いそうな事であるが、よし子の意味はもう少し深いところにあった。

調べたい気持ちの強い、学問好きの人は、何もかも調べる気で見るから、情が薄くなるわけである。

原文を見る

研究心の強い学問好きの人は、万事を研究する気で見るから、情愛が薄くなるわけである。

人の情で物を見ると、すべてが好き嫌いの二つになる。

原文を見る

人情で物をみると、すべてが好ききらいの二つになる。

調べる気など起こるものではない。

原文を見る

研究する気なぞが起こるものではない。

自分の兄は理学者だものだから、自分を調べていけない。

原文を見る

自分の兄は理学者だものだから、自分を研究していけない。

自分を調べれば調べるほど自分をかわいがる度合いは減るのだから、妹に対して不親切になる。

原文を見る

自分を研究すればするほど、自分を可愛がる度は減るのだから、妹に対して不親切になる。

けれども、あれほど調べるのが好きな兄が、これほど自分をかわいがってくれるのだから、それを思うと、兄は日本じゅうでいちばんいい人に違いない、という話であった。

原文を見る

けれども、あのくらい研究好きの兄が、このくらい自分を可愛がってくれるのだから、それを思うと、兄は日本じゅうでいちばんいい人に違いないという結論であった。

三四郎はこの話を聞いて、大いにもっともなような、またどこか抜けているような気がしたが、さてどこが抜けているんだか、頭がぼんやりしてちょっとわからなかった。

原文を見る

三四郎はこの説を聞いて、大いにもっともなような、またどこか抜けているような気がしたが、さてどこが抜けているんだか、頭がぼんやりして、ちょっとわからなかった。

それで、表向きこの話に対してはとくに何も言わなかった。

原文を見る

それでおもてむきこの説に対してはべつだんの批評を加えなかった。

ただ心の中で、これしきの人の言うことをはっきりと言い返せないのは男としてふがいないことだと、ひどく恥ずかしくなった。

原文を見る

ただ腹の中で、これしきの女の言う事を、明瞭めいりょうに批評しえないのは、男児としてふがいないことだと、いたく赤面した。

同時に、東京の女学生はけっしてばかにできないものだということを悟った。

原文を見る

同時に、東京の女学生はけっしてばかにできないものだということを悟った。

三四郎はよし子をうやまい、したう気持ちをいだいて下宿へ帰った。

原文を見る

三四郎はよし子に対する敬愛の念をいだいて下宿へ帰った。

はがきが来ている。

原文を見る

はがきが来ている。

「明日午後一時ごろから菊人形を見にまいりますから、広田先生の家までいらっしゃい。美禰子」

原文を見る

「明日午後一時ごろから菊人形を見にまいりますから、広田先生のうちまでいらっしゃい。美禰子」

その字が、野々宮さんのポケットから半分はみ出していた封筒の表書きに似ているので、三四郎は何度も読み直してみた。

原文を見る

その字が、野々宮さんのポッケットから半分はみ出していた封筒の上書うわがきに似ているので、三四郎は何べんも読み直してみた。

翌日は日曜である。

原文を見る

翌日は日曜である。

三四郎は昼ごはんを済ませて、すぐ西片町へ来た。

原文を見る

三四郎は昼飯を済ましてすぐ西片町へ来た。

新しく作った制服を着て、光った靴をはいている。

原文を見る

新調の制服を着て、光った靴をはいている。

静かな横町を広田先生の前まで来ると、人の声がする。

原文を見る

静かな横町を広田先生の前まで来ると、人声がする。

先生の家は門を入ると、左手がすぐ庭で、木戸を開ければ玄関へ回らずに座敷の縁側へ出られる。

原文を見る

先生の家は門をはいると、左手がすぐ庭で、木戸をあければ玄関へかからずに、座敷の椽へ出られる。

三四郎は竹垣の間に見えるさんをはずそうとして、ふと庭の中の話し声を耳にした。

原文を見る

三四郎は要目垣かなめがきのあいだに見えるさんをはずそうとして、ふと、庭の中の話し声を耳にした。

話は野々宮と美禰子の間で交わされている。

原文を見る

話は野々宮と美禰子のあいだに起こりつつある。

「そんなことをすれば、地面の上へ落ちて死ぬばかりだ」

原文を見る

「そんな事をすれば、地面の上へ落ちて死ぬばかりだ」

これは男の声である。

原文を見る

これは男の声である。

「死んでも、そのほうがいいと思います」

原文を見る

「死んでも、そのほうがいいと思います」

これは女の人の答えである。

原文を見る

これは女の答である。

「もっとも、そんな向こう見ずな人間は、高い所から落ちて死ぬだけの値打ちは十分ある」

原文を見る

「もっともそんな無謀な人間は、高い所から落ちて死ぬだけの価値は十分ある」

「むごいことをおっしゃる」

原文を見る

「残酷な事をおっしゃる」

三四郎はここで木戸を開けた。

原文を見る

三四郎はここで木戸をあけた。

庭のまん中に立って話していた二人は、ともにこちらを見た。

原文を見る

庭のまん中に立っていた会話の主は二人ふたりともこっちを見た。

野々宮はただ「やあ」

原文を見る

野々宮はただ「やあ」

と、ふつうに言って頭をうなずかせただけである。

原文を見る

と平凡に言って、頭をうなずかせただけである。

頭に新しい茶色の中折れ帽をかぶっている。

原文を見る

頭に新しい茶の中折帽なかおれぼうをかぶっている。

美禰子はすぐ、

原文を見る

美禰子は、すぐ、

「はがきはいつごろ着きましたか」

原文を見る

「はがきはいつごろ着きましたか」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

二人が今までやっていた話は、これでとぎれた。

原文を見る

二人の今までやっていた会話はこれで中絶した。

縁側には主人が洋服を着て腰をかけて、相変わらず哲学の煙を吹いている。

原文を見る

椽側には主人が洋服を着て腰をかけて、相変らず哲学を吹いている。

これは西洋の雑誌を手にしていた。

原文を見る

これは西洋の雑誌を手にしていた。

そばによし子がいる。

原文を見る

そばによし子がいる。

両手を後ろについて、体をあずけながら、伸ばした足にはいた厚いぞうりを眺めていた。――

原文を見る

両手をうしろに突いて、からだを空に持たせながら、伸ばした足にはいた厚い草履ぞうりをながめていた。――

三四郎はみんなから待たれていたと見える。

原文を見る

三四郎はみんなから待ち受けられていたとみえる。

主人は雑誌を投げ出した。

原文を見る

主人は雑誌をなげ出した。

「では行くかな。とうとう引っぱり出された」

原文を見る

「では行くかな。とうとう引っぱり出された」

「御苦労さま」

原文を見る

「御苦労さま」

と野々宮さんが言った。

原文を見る

と野々宮さんが言った。

女の人は二人で顔を見合わせて、人に知れないような笑いをもらした。

原文を見る

女は二人で顔を見合わせて、ひとに知れないような笑をもらした。

庭を出る時、女の人が二人続いた。

原文を見る

庭を出る時、女が二人つづいた。

「背が高いのね」

原文を見る

「背が高いのね」

と美禰子があとから言った。

原文を見る

と美禰子があとから言った。

「のっぽ」

原文を見る

「のっぽ」

と、よし子が一言答えた。

原文を見る

とよし子が一言ひとこと答えた。

門のそばで並んだ時、「だから、なるべくぞうりをはくの」

原文を見る

門のわきで並んだ時、「だから、なりたけ草履をはくの」

と言いわけをした。

原文を見る

と弁解をした。

三四郎も続いて庭を出ようとすると、二階の障子ががらりと開いた。

原文を見る

三四郎もつづいて庭を出ようとすると、二階の障子ががらりと開いた。

与次郎が手すりの所まで出てきた。

原文を見る

与次郎が手欄てすりの所まで出てきた。

「行くのか」

原文を見る

「行くのか」

と聞く。

原文を見る

と聞く。

「うん、君は」

原文を見る

「うん、君は」

「行かない。菊細工なんぞ見て何になるものか。ばかだな」

原文を見る

「行かない。菊細工なんぞ見てなんになるものか。ばかだな」

「いっしょに行こう。家にいたってしようがないじゃないか」

原文を見る

「いっしょに行こう。うちにいたってしようがないじゃないか」

「今論文を書いている。大論文を書いている。なかなかそれどころじゃない」

原文を見る

「今論文を書いている。大論文を書いている。なかなかそれどころじゃない」

三四郎はあきれ返ったような笑い方をして、四人のあとを追いかけた。

原文を見る

三四郎はあきれ返ったような笑い方をして、四人のあとを追いかけた。

四人は細い横町を三分の二ほど、広い通りの方へ遠ざかったところである。

原文を見る

四人は細い横町を三分の二ほど広い通りの方へ遠ざかったところである。

この一団の影を高い空の下に見た時、三四郎は自分の今の生活が熊本にいたころよりも、ずっと意味の深いものになりつつあると感じた。

原文を見る

この一団の影を高い空気の下に認めた時、三四郎は自分の今の生活が熊本当時のそれよりも、ずっと意味の深いものになりつつあると感じた。

かつて考えた三つの世界のうち、第二・第三の世界は、まさにこの一団の影が表している。

原文を見る

かつて考えた三個の世界のうちで、第二第三の世界はまさにこの一団の影で代表されている。

影の半分は薄黒い。

原文を見る

影の半分は薄黒い。

半分は花畑のように明るい。

原文を見る

半分は花野はなののごとく明らかである。

そうして三四郎の頭の中では、この両方が溶け合ってつり合っている。

原文を見る

そうして三四郎の頭のなかではこの両方が渾然こんぜんとして調和されている。

それだけでなく、自分もいつのまにか、自然とこの織り目の中に織りこまれている。

原文を見る

のみならず、自分もいつのまにか、しぜんとこの経緯よこたてのなかに織りこまれている。

ただ、そのうちのどこかに落ち着かないところがある。

原文を見る

ただそのうちのどこかにおちつかないところがある。

それが不安である。

原文を見る

それが不安である。

歩きながら考えると、たった今、庭の中で野々宮と美禰子が話していた話が、その直接の原因である。

原文を見る

歩きながら考えると、いまさき庭のうちで、野々宮と美禰子が話していた談柄だんぺいが近因である。

三四郎はこの不安な気持ちを追い払うために、二人の話をふたたびほじくり出してみたい気がした。

原文を見る

三四郎はこの不安の念をるために、二人の談柄をふたたびほじくり出してみたい気がした。

四人はもう曲がり角へ来た。

原文を見る

四人はすでに曲がり角へ来た。

四人とも足を止めて振り返った。

原文を見る

四人とも足をとめて、振り返った。

美禰子はひたいに手をかざしている。

原文を見る

美禰子は額に手をかざしている。

三四郎は一分かからないうちに追いついた。

原文を見る

三四郎は一分かからぬうちに追いついた。

追いついても、だれも何とも言わない。

原文を見る

追いついてもだれもなんとも言わない。

ただ歩き出しただけである。

原文を見る

ただ歩きだしただけである。

しばらくすると美禰子が、

原文を見る

しばらくすると、美禰子が、

「野々宮さんは理学者だから、なおそんなことをおっしゃるんでしょう」

原文を見る

「野々宮さんは、理学者だから、なおそんな事をおっしゃるんでしょう」

と言い出した。

原文を見る

と言いだした。

話の続きらしい。

原文を見る

話の続きらしい。

「なに、理学をやらなくても同じことです。高く飛ぼうというには、飛べるだけの仕組みを考えたうえでなければできないに決まっている。頭のほうが先に要るに違いないじゃありませんか」

原文を見る

「なに理学をやらなくっても同じ事です。高く飛ぼうというには、飛べるだけの装置を考えたうえでなければできないにきまっている。頭のほうがさきにるに違いないじゃありませんか」

「そんなに高く飛びたくない人は、それで我慢するかもしれません」

原文を見る

「そんなに高く飛びたくない人は、それで我慢するかもしれません」

「我慢しなければ、死ぬばかりですもの」

原文を見る

「我慢しなければ、死ぬばかりですもの」

「そうすると、安全に地面の上に立っているのがいちばんいいことになりますね。なんだかつまらないようだ」

原文を見る

「そうすると安全で地面の上に立っているのがいちばんいい事になりますね。なんだかつまらないようだ」

野々宮さんは返事をやめて広田先生の方を向いたが、

原文を見る

野々宮さんは返事をやめて、広田先生の方を向いたが、

「女の人には詩人が多いですね」

原文を見る

「女には詩人が多いですね」

と笑いながら言った。

原文を見る

と笑いながら言った。

すると広田先生が、

原文を見る

すると広田先生が、

「男の困ったところは、かえって本物の詩人になりきれないところにあるだろう」

原文を見る

「男子の弊はかえって純粋の詩人になりきれないところにあるだろう」

と妙な返事をした。

原文を見る

と妙な挨拶あいさつをした。

野々宮さんは、それで黙った。

原文を見る

野々宮さんはそれで黙った。

よし子と美禰子は、何かお互いの話を始める。

原文を見る

よし子と美禰子は何かお互いの話を始める。

三四郎はようやく質問の機会を得た。

原文を見る

三四郎はようやく質問の機会を得た。

「今のは何のお話なんですか」

原文を見る

「今のは何のお話なんですか」

「なに、飛行機のことです」

原文を見る

「なに空中飛行機の事です」

と野々宮さんがあっさり言った。

原文を見る

と野々宮さんが無造作に言った。

三四郎は落語の落ちを聞くような気がした。

原文を見る

三四郎は落語のおちを聞くような気がした。

それからは、とくに会話も出なかった。

原文を見る

それからはべつだんの会話も出なかった。

また、長い会話ができないほど人がぞろぞろ歩く所へ来た。

原文を見る

また長い会話ができかねるほど、人がぞろぞろ歩く所へ来た。

大観音の前に物ごいがいる。

原文を見る

大観音おおがんのんの前に乞食こじきがいる。

ひたいを地にすりつけて、大きな声を出しっぱなしにして、しきりに助けを求めている。

原文を見る

額を地にすりつけて、大きな声をのべつに出して、哀願をたくましゅうしている。

時々顔を上げると、ひたいのところだけが砂で白くなっている。

原文を見る

時々顔を上げると、額のところだけが砂で白くなっている。

だれも振り向く人がない。

原文を見る

だれも顧みるものがない。

五人も平気で行き過ぎた。

原文を見る

五人も平気で行き過ぎた。

十メートルほど来た時に、広田先生が急に振り向いて三四郎に聞いた。

原文を見る

五、六間も来た時に、広田先生が急に振り向いて三四郎に聞いた。

「君、あの物ごいにお金をやりましたか」

原文を見る

「君あの乞食に銭をやりましたか」

「いいえ」

原文を見る

「いいえ」

と三四郎があとを見ると、例の物ごいは白いひたいの下で両手を合わせて、相変わらず大きな声を出している。

原文を見る

と三四郎があとを見ると、例の乞食は、白い額の下で両手を合わせて、相変らず大きな声を出している。

「やる気にならないわね」

原文を見る

「やる気にならないわね」

と、よし子がすぐに言った。

原文を見る

とよし子がすぐに言った。

「なぜ」

原文を見る

「なぜ」

と、よし子の兄は妹を見た。

原文を見る

とよし子の兄は妹を見た。

しかるほど強い言葉でもなかった。

原文を見る

たしなめるほどに強い言葉でもなかった。

野々宮の顔つきは、むしろ落ち着いている。

原文を見る

野々宮の顔つきはむしろ冷静である。

「ああ、しょっちゅう求められては、求めるかいがないからだめですよ」

原文を見る

「ああしじゅうせっついていちゃ、せっつきばえがしないからだめですよ」

と美禰子が言った。

原文を見る

と美禰子が評した。

「いや、場所が悪いからだ」

原文を見る

「いえ場所が悪いからだ」

と今度は広田先生が言った。

原文を見る

と今度は広田先生が言った。

「あまり人通りが多すぎるからいけない。山の上の寂しい所でああいう男に会ったら、だれでもやる気になるんだよ」

原文を見る

「あまり人通りが多すぎるからいけない。山の上の寂しい所で、ああいう男に会ったら、だれでもやる気になるんだよ」

「その代わり、一日待っていてもだれも通らないかもしれない」

原文を見る

「その代り一日待っていても、だれも通らないかもしれない」

と野々宮はくすくす笑い出した。

原文を見る

と野々宮はくすくす笑い出した。

三四郎は四人の物ごいについての言葉を聞いて、自分が今日まで育ててきた正しさの考えを、いくらか傷つけられるような気がした。

原文を見る

三四郎は四人の乞食に対する批評を聞いて、自分が今日こんにちまで養成した徳義上の観念を幾分か傷つけられるような気がした。

けれども、自分が物ごいの前を通る時、一銭も投げてやる気が起こらなかっただけでなく、実を言えば、むしろいやな感じが強まった事実を振り返ってみると、自分よりもこの四人のほうが、かえって自分に正直であると気がついた。

原文を見る

けれども自分が乞食の前を通る時、一銭も投げてやる了見が起こらなかったのみならず、実をいえば、むしろ不愉快な感じが募った事実を反省してみると、自分よりもこれら四人のほうがかえっておのれに誠であると思いついた。

また、彼らは自分に正直でいられるほど広い天地の下で息をする、都会の人たちである、ということを悟った。

原文を見る

また彼らは己に誠でありうるほどな広い天地の下に呼吸する都会人種であるということを悟った。

行くにつれて人が多くなる。

原文を見る

行くに従って人が多くなる。

しばらくすると一人の迷子に出会った。

原文を見る

しばらくすると一人の迷子まいごに出会った。

七つばかりの女の子である。

原文を見る

七つばかりの女の子である。

泣きながら、人のそでの下を右へ行ったり左へ行ったり、うろうろしている。

原文を見る

泣きながら、人のそでの下を右へ行ったり、左へ行ったりうろうろしている。

おばあさん、おばあさんと、むやみに言う。

原文を見る

おばあさん、おばあさんとむやみに言う。

これには通りの人もみんな心を動かしているように見える。

原文を見る

これには往来の人もみんな心を動かしているようにみえる。

立ち止まる人もある。

原文を見る

立ちどまる者もある。

かわいそうだと言う人もある。

原文を見る

かあいそうだという者もある。

しかし、だれも手を出さない。

原文を見る

しかしだれも手をつけない。

子供はすべての人の注意と同情を引きながら、しきりに泣き叫んでおばあさんを捜している。

原文を見る

子供はすべての人の注意と同情をひきつつ、しきりに泣きさけんでおばあさんを捜している。

不思議な光景である。

原文を見る

不可思議の現象である。

「これも場所が悪いせいじゃないか」

原文を見る

「これも場所が悪いせいじゃないか」

と野々宮君が子供の影を見送りながら言った。

原文を見る

と野々宮君が子供の影を見送りながら言った。

「そのうち巡査が始末をつけるに決まっているから、みんな責任をのがれるんだね」

原文を見る

「いまに巡査が始末をつけるにきまっているから、みんな責任をのがれるんだね」

と広田先生が説明した。

原文を見る

と広田先生が説明した。

「私のそばまで来れば交番まで送ってやるわ」

原文を見る

「わたしのそばまで来れば交番まで送ってやるわ」

と、よし子が言う。

原文を見る

とよし子が言う。

「じゃ、追いかけて行って連れて行くがいい」

原文を見る

「じゃ、追っかけて行って、連れて行くがいい」

と兄が言った。

原文を見る

と兄が注意した。

「追いかけるのはいや」

原文を見る

「追っかけるのはいや」

「なぜ」

原文を見る

「なぜ」

「なぜって――こんなにおおぜいの人がいるんですもの。私でなくてもいいわ」

原文を見る

「なぜって――こんなにおおぜいの人がいるんですもの。私にかぎったことはないわ」

「やっぱり責任をのがれるんだ」

原文を見る

「やっぱり責任をのがれるんだ」

と広田が言う。

原文を見る

と広田が言う。

「やっぱり場所が悪いんだ」

原文を見る

「やっぱり場所が悪いんだ」

と野々宮が言う。

原文を見る

と野々宮が言う。

男は二人で笑った。

原文を見る

男は二人で笑った。

団子坂の上まで来ると、交番の前に人が黒山のように集まっている。

原文を見る

団子坂の上まで来ると、交番の前へ人が黒山のようにたかっている。

迷子はとうとう巡査の手にわたったのである。

原文を見る

迷子はとうとう巡査の手に渡ったのである。

「もう安心、大丈夫です」

原文を見る

「もう安心大丈夫だいじょうぶです」

と美禰子が、よし子を振り返って言った。

原文を見る

と美禰子が、よし子を顧みて言った。

よし子は「まあ、よかった」

原文を見る

よし子は「まあよかった」

と言う。

原文を見る

という。

坂の上から見ると、坂は曲がっている。

原文を見る

坂の上から見ると、坂は曲がっている。

刀の切っ先のようである。

原文を見る

刀の切っ先のようである。

幅はもちろんせまい。

原文を見る

幅はむろん狭い。

右側の二階建てが、左側の高い小屋の前を半分さえぎっている。

原文を見る

右側の二階建が左側の高い小屋の前を半分さえぎっている。

その後ろには、また高いのぼりが何本となく立ててある。

原文を見る

そのうしろにはまた高いのぼりが何本となく立ててある。

人は急に谷の底へ落ちこむように思われる。

原文を見る

人は急に谷底へ落ち込むように思われる。

その落ちこむ人が、はい上がる人と入り乱れて道いっぱいをふさいでいるから、谷の底にあたる所は幅いっぱいに、へんな動き方をする。

原文を見る

その落ち込むものが、はい上がるものと入り乱れて、道いっぱいにふさがっているから、谷の底にあたる所は幅をつくして異様に動く。

見ていると目が疲れるほど、ばらばらにうごめいている。

原文を見る

見ていると目が疲れるほど不規則にうごめいている。

広田先生はこの坂の上に立って、

原文を見る

広田先生はこの坂の上に立って、

「これはたいへんだ」

原文を見る

「これはたいへんだ」

と、いかにも帰りたそうである。

原文を見る

と、さも帰りたそうである。

四人はあとから先生を押すようにして谷へ入った。

原文を見る

四人はあとから先生を押すようにして、谷へはいった。

その谷が途中からだらだらと向こうへ回りこむ所に、右にも左にも大きなよしず張りの小屋を、せまい両側から高く構えたので、空さえ案外きゅうくつに見える。

原文を見る

その谷が途中からだらだらと向こうへ回り込む所に、右にも左にも、大きな葭簀掛よしずがけの小屋を、狭い両側から高く構えたので、空さえ存外窮屈にみえる。

通りは暗くなるまで混み合っている。

原文を見る

往来は暗くなるまで込み合っている。

その中で、木戸番ができるだけ大きな声を出す。

原文を見る

そのなかで木戸番ができるだけ大きな声を出す。

「人間から出る声じゃない。菊人形から出る声だ」

原文を見る

「人間から出る声じゃない。菊人形から出る声だ」

と広田先生が言った。

原文を見る

と広田先生が評した。

それほど彼らの声はふつうとかけはなれている。

原文を見る

それほど彼らの声は尋常を離れている。

一行は左の小屋へ入った。

原文を見る

一行は左の小屋へはいった。

曾我兄弟の討ち入りがある。

原文を見る

曾我そが討入うちいりがある。

五郎も十郎も頼朝も、みな同じように菊の着物を着ている。

原文を見る

五郎も十郎も頼朝よりとももみな平等に菊の着物を着ている。

ただし、顔や手足はどれも木彫りである。

原文を見る

ただし顔や手足はことごとく木彫りである。

その次は雪が降っている。

原文を見る

その次は雪が降っている。

若い女の人が急な腹の痛みで苦しんでいる。

原文を見る

若い女がしゃくを起こしている。

これも人形の芯に菊を一面にはわせて、花と葉が平らにすき間なく着物の形になるように作ったものである。

原文を見る

これも人形のしんに、菊をいちめんにはわせて、花と葉が平に隙間すきまなく衣装の恰好かっこうとなるように作ったものである。

よし子はじっと眺めている。

原文を見る

よし子は余念なくながめている。

広田先生と野々宮はしきりに話を始めた。

原文を見る

広田先生と野々宮はしきりに話を始めた。

菊の育て方が違うとか何とか言うところで、三四郎はほかの見物人にへだてられて、二メートルばかり離れた。

原文を見る

菊の培養法が違うとかなんとかいうところで、三四郎は、ほかの見物に隔てられて、一間ばかり離れた。

美禰子はもう三四郎より先にいる。

原文を見る

美禰子はもう三四郎より先にいる。

見物人は、たいてい町の店の人である。

原文を見る

見物は、がいして町家ちょうかの者である。

教育のありそうな人はとても少ない。

原文を見る

教育のありそうな者はきわめて少ない。

美禰子はその間に立って振り返った。

原文を見る

美禰子はその間に立って振り返った。

首を伸ばして、野々宮のいる方を見た。

原文を見る

首を延ばして、野々宮のいる方を見た。

野々宮は右の手を竹の手すりから出して、菊の根をさしながら、何か熱心に説明している。

原文を見る

野々宮は右の手を竹の手欄てすりから出して、菊の根をさしながら、何か熱心に説明している。

美禰子はまた向こうを向いた。

原文を見る

美禰子はまた向こうをむいた。

見物人に押されて、さっさと出口の方へ行く。

原文を見る

見物に押されて、さっさと出口の方へ行く。

三四郎は人ごみを押し分けながら、三人を置いて美禰子のあとを追って行った。

原文を見る

三四郎は群集ぐんしゅうを押し分けながら、三人を棄てて、美禰子のあとを追って行った。

ようやくのことで美禰子のそばまで来て、

原文を見る

ようやくのことで、美禰子のそばまで来て、

「里見さん」

原文を見る

「里見さん」

と呼んだ時、美禰子は青竹の手すりに手をついて、少し首をもどして三四郎を見た。

原文を見る

と呼んだ時に、美禰子は青竹あおだけ手欄てすりに手を突いて、心持ち首をもどして、三四郎を見た。

何とも言わない。

原文を見る

なんとも言わない。

手すりの中は養老の滝の場面である。

原文を見る

手欄のなかは養老の滝である。

丸い顔の、腰におのをさした男が、ひょうたんを持って滝つぼのそばにかがんでいる。

原文を見る

丸い顔の、腰におのをさした男が、瓢箪ひょうたんを持って、滝壺のそばにかがんでいる。

三四郎が美禰子の顔を見た時には、青竹の中に何があるか、ほとんど気がつかなかった。

原文を見る

三四郎が美禰子の顔を見た時には、青竹のなかに何があるかほとんど気がつかなかった。

「どうかしましたか」

原文を見る

「どうかしましたか」

と思わず言った。

原文を見る

と思わず言った。

美禰子はまだ何とも答えない。

原文を見る

美禰子はまだなんとも答えない。

黒い目を、いかにもだるそうに三四郎のひたいの上に向けた。

原文を見る

黒い目をさもものうそうに三四郎の額の上にすえた。

その時、三四郎は美禰子の二重まぶたに、不思議な何かの意味を感じ取った。

原文を見る

その時三四郎は美禰子の二重瞼ふたえまぶたに不可思議なある意味を認めた。

その意味の中には、心の疲れがある。

原文を見る

その意味のうちには、霊の疲れがある。

体のゆるみがある。

原文を見る

肉のゆるみがある。

苦しみに近い訴えがある。

原文を見る

苦痛に近き訴えがある。

三四郎は、美禰子の答えを待っている今の場面を忘れて、この瞳とこのまぶたの間にすべてを忘れ去った。

原文を見る

三四郎は、美禰子の答を予期しつつある今の場合を忘れて、このひとみとこのまぶたの間にすべてを遺却いきゃくした。

すると、美禰子は言った。

原文を見る

すると、美禰子は言った。

「もう出ましょう」

原文を見る

「もう出ましょう」

瞳とまぶたの近さが、だんだん近づくように見えた。

原文を見る

眸と瞼の距離が次第に近づくようにみえた。

近づくにつれて、三四郎の心には、この人のために出なければすまないという気持ちが芽ばえてきた。

原文を見る

近づくに従って三四郎の心には女のために出なければすまない気がきざしてきた。

それがいちばん強くなったころ、美禰子は首を投げるように向こうを向いた。

原文を見る

それが頂点に達したころ、女は首を投げるように向こうをむいた。

手を青竹の手すりから離して、出口の方へ歩いて行く。

原文を見る

手を青竹の手欄てすりから離して、出口の方へ歩いて行く。

三四郎はすぐあとからついて出た。

原文を見る

三四郎はすぐあとからついて出た。

二人が表で並んだ時、美禰子はうつむいて右の手をひたいに当てた。

原文を見る

二人が表で並んだ時、美禰子はうつむいて右の手を額に当てた。

周りは人が渦を巻いている。

原文を見る

周囲は人がうずを巻いている。

三四郎は美禰子の耳へ口を寄せた。

原文を見る

三四郎は女の耳へ口を寄せた。

「どうかしましたか」

原文を見る

「どうかしましたか」

美禰子は人ごみの中を谷中の方へ歩き出した。

原文を見る

女は人込みの中を谷中やなかの方へ歩きだした。

三四郎ももちろん、いっしょに歩き出した。

原文を見る

三四郎もむろんいっしょに歩きだした。

五十メートルばかり来た時、美禰子は人の中で立ち止まった。

原文を見る

半町ばかり来た時、女は人の中で留まった。

「ここはどこでしょう」

原文を見る

「ここはどこでしょう」

「こっちへ行くと谷中の天王寺の方へ出てしまいます。帰り道とはまるで反対です」

原文を見る

「こっちへ行くと谷中の天王寺てんのうじの方へ出てしまいます。帰り道とはまるで反対です」

「そう。私、気分が悪くって……」

原文を見る

「そう。私心持ちが悪くって……」

三四郎は通りのまん中で、どうにもならない苦しさを感じた。

原文を見る

三四郎は往来のまん中で助けなき苦痛を感じた。

立って考えていた。

原文を見る

立って考えていた。

「どこか静かな所はないでしょうか」

原文を見る

「どこか静かな所はないでしょうか」

と美禰子が聞いた。

原文を見る

と女が聞いた。

谷中と千駄木が谷で出会うと、いちばん低い所に小川が流れている。

原文を見る

谷中と千駄木が谷で出会うと、いちばん低い所に小川が流れている。

この小川に沿って、町を左へ折れるとすぐ野原に出る。

原文を見る

この小川を沿うて、町を左へ切れるとすぐ野に出る。

川はまっすぐに北へ通っている。

原文を見る

川はまっすぐに北へかよっている。

三四郎は東京へ来てから、何度もこの小川の向こう側を歩いて、何度こちら側を歩いたかよく覚えている。

原文を見る

三四郎は東京へ来てから何べんもこの小川の向こう側を歩いて、何べんこっち側を歩いたかよく覚えている。

美禰子の立っている所は、この小川がちょうど谷中の町を横切って根津へ抜ける石橋のそばである。

原文を見る

美禰子の立っている所は、この小川が、ちょうど谷中の町を横切って根津ねづへ抜ける石橋のそばである。

「もう百メートルばかり歩けますか」

原文を見る

「もう一町ばかり歩けますか」

と美禰子に聞いてみた。

原文を見る

と美禰子に聞いてみた。

「歩きます」

原文を見る

「歩きます」

二人はすぐ石橋をわたって、左へ折れた。

原文を見る

二人はすぐ石橋を渡って、左へ折れた。

人の家の路地のような所を二十メートルほど行き尽くして、門の手前から板橋をこちら側へわたり返して、しばらく川のふちを上ると、もう人は通らない。

原文を見る

人の家の路地のような所を十間ほど行き尽して、門の手前から板橋をこちら側へ渡り返して、しばらく川の縁を上ると、もう人は通らない。

広い野原である。

原文を見る

広い野である。

三四郎はこの静かな秋の中へ出たら、急にしゃべり出した。

原文を見る

三四郎はこの静かな秋のなかへ出たら、急にしゃべり出した。

「どうです、具合は。頭が痛みますか。あんまり人がおおぜいいたせいでしょう。あの人形を見ている人たちの中には、ずいぶん下品なのがいたようだから――何か失礼でもしましたか」

原文を見る

「どうです、ぐあいは。頭痛でもしますか。あんまり人がおおぜい、いたせいでしょう。あの人形を見ている連中のうちにはずいぶん下等なのがいたようだから――なにか失礼でもしましたか」

美禰子は黙っている。

原文を見る

女は黙っている。

やがて川の流れから目を上げて三四郎を見た。

原文を見る

やがて川の流れから目を上げて、三四郎を見た。

二重まぶたにはっきりと張りがあった。

原文を見る

二重瞼にはっきりと張りがあった。

三四郎はその目つきで半ば安心した。

原文を見る

三四郎はその目つきでなかば安心した。

「ありがとう。だいぶよくなりました」

原文を見る

「ありがとう。だいぶよくなりました」

と言う。

原文を見る

と言う。

「休みましょうか」

原文を見る

「休みましょうか」

「ええ」

原文を見る

「ええ」

「もう少し歩けますか」

原文を見る

「もう少し歩けますか」

「ええ」

原文を見る

「ええ」

「歩ければ、もう少しお歩きなさい。ここは汚い。あそこまで行くと、ちょうど休むのにいい場所があるから」

原文を見る

「歩ければ、もう少しお歩きなさい。ここはきたない。あすこまで行くと、ちょうど休むにいい場所があるから」

「ええ」

原文を見る

「ええ」

百メートルばかり来た。

原文を見る

一丁ばかり来た。

また橋がある。

原文を見る

また橋がある。

三十センチに足りない古い板を、ぞんざいにわたした上を、三四郎は大またに歩いた。

原文を見る

一尺に足らない古板を造作なく渡した上を、三四郎は大またに歩いた。

美禰子も続いて通った。

原文を見る

女もつづいて通った。

待ち合わせた三四郎の目には、美禰子の足がふだんの地面を踏むのと同じように軽く見えた。

原文を見る

待ち合わせた三四郎の目には、女の足が常の大地を踏むと同じように軽くみえた。

この人はすなおな足をまっすぐに前へ運ぶ。

原文を見る

この女はすなおな足をまっすぐに前へ運ぶ。

わざと女らしく甘えた歩き方をしない。

原文を見る

わざと女らしく甘えた歩き方をしない。

だから、むやみにこちらから手を貸すわけにはいかない。

原文を見る

したがってむやみにこっちから手を貸すわけにはいかない。

向こうにわらぶき屋根がある。

原文を見る

向こうにわら屋根がある。

屋根の下が一面に赤い。

原文を見る

屋根の下が一面に赤い。

近寄って見ると、とうがらしを干したのであった。

原文を見る

近寄って見ると、唐辛子とうがらしを干したのであった。

美禰子は、この赤いものがとうがらしだと見分けのつくところまで来て止まった。

原文を見る

女はこの赤いものが、唐辛子であると見分けのつくところまで来て留まった。

「美しいこと」

原文を見る

「美しいこと」

と言いながら、草の上に腰を下ろした。

原文を見る

と言いながら、草の上に腰をおろした。

草は小川のふちに、わずかな幅で生えているだけである。

原文を見る

草は小川の縁にわずかな幅をはえているのみである。

それさえ夏の半ばのようには青くない。

原文を見る

それすら夏の半ばのように青くはない。

美禰子は派手な着物が汚れるのを、まるで気にしていない。

原文を見る

美禰子は派手はでな着物のよごれるのをまるで苦にしていない。

「もう少し歩けませんか」

原文を見る

「もう少し歩けませんか」

と三四郎は立ったまま、うながすように言ってみた。

原文を見る

と三四郎は立ちながら、促すように言ってみた。

「ありがとう。これでたくさん」

原文を見る

「ありがとう。これでたくさん」

「やっぱり気分が悪いですか」

原文を見る

「やっぱり心持ちが悪いですか」

「あんまり疲れたから」

原文を見る

「あんまり疲れたから」

三四郎もとうとう汚い草の上にすわった。

原文を見る

三四郎もとうとうきたない草の上にすわった。

美禰子と三四郎の間は一メートルほど離れている。

原文を見る

美禰子と三四郎の間は四尺ばかり離れている。

二人の足の下には小さな川が流れている。

原文を見る

二人の足の下には小さな川が流れている。

秋になって水が減ったから浅い。

原文を見る

秋になって水が落ちたから浅い。

角の出た石の上にセキレイが一羽止まったくらいである。

原文を見る

角の出た石の上に鶺鴒せきれいが一羽とまったくらいである。

三四郎は水の中を眺めていた。

原文を見る

三四郎は水の中をながめていた。

水がだんだん濁ってくる。

原文を見る

水が次第に濁ってくる。

見ると川上でお百姓が大根を洗っていた。

原文を見る

見ると川上で百姓が大根を洗っていた。

美禰子の目は遠くの向こうを見ている。

原文を見る

美禰子の視線は遠くの向こうにある。

向こうは広い畑で、畑の先が森で、森の上が空になる。

原文を見る

向こうは広い畑で、畑の先が森で森の上が空になる。

空の色がだんだん変わってくる。

原文を見る

空の色がだんだん変ってくる。

ただ一色に澄んでいたものの中に、色が幾通りもできてきた。

原文を見る

ただ単調に澄んでいたもののうちに、色が幾通りもできてきた。

透き通る藍(あい)色の地が、消えるようにだんだん薄くなる。

原文を見る

透き通るあいが消えるように次第に薄くなる。

その上に白い雲が鈍く重なりかかる。

原文を見る

その上に白い雲が鈍く重なりかかる。

重なったものが溶けて流れ出す。

原文を見る

重なったものが溶けて流れ出す。

どこで地が終わって、どこで雲が始まるかわからないほど、ぼんやり広がった上を、少し黄色い色がふうと一面にかかっている。

原文を見る

どこで地が尽きて、どこで雲が始まるかわからないほどにものうい上を、心持ち黄な色がふうと一面にかかっている。

「空の色がにごりました」

原文を見る

「空の色が濁りました」

と美禰子が言った。

原文を見る

と美禰子が言った。

三四郎は流れから目を離して上を見た。

原文を見る

三四郎は流れから目を放して、上を見た。

こういう空の様子を見たのは初めてではない。

原文を見る

こういう空の模様を見たのははじめてではない。

けれども、空がにごったという言葉を聞いたのは、この時が初めてである。

原文を見る

けれども空が濁ったという言葉を聞いたのはこの時がはじめてである。

気がついて見ると、にごったと言うよりほかに言いようのない色であった。

原文を見る

気がついて見ると、濁ったと形容するよりほかに形容のしかたのない色であった。

三四郎が何か答えようとする前に、美禰子はまた言った。

原文を見る

三四郎が何か答えようとするまえに、女はまた言った。

「重いこと。大理石のように見えます」

原文を見る

「重いこと。大理石マーブルのように見えます」

美禰子は二重まぶたを細くして高い所を眺めていた。

原文を見る

美禰子は二重瞼を細くして高い所をながめていた。

それから、その細くなったままの目を静かに三四郎の方に向けた。

原文を見る

それから、その細くなったままの目を静かに三四郎の方に向けた。

そうして、

原文を見る

そうして、

「大理石のように見えるでしょう」

原文を見る

「大理石のように見えるでしょう」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

三四郎は、

原文を見る

三四郎は、

「ええ、大理石のように見えます」

原文を見る

「ええ、大理石のように見えます」

と答えるよりほかはなかった。

原文を見る

と答えるよりほかはなかった。

美禰子はそれで黙った。

原文を見る

女はそれで黙った。

しばらくしてから、今度は三四郎が言った。

原文を見る

しばらくしてから、今度は三四郎が言った。

「こういう空の下にいると、心が重くなるが気は軽くなる」

原文を見る

「こういう空の下にいると、心が重くなるが気は軽くなる」

「どういうわけですか」

原文を見る

「どういうわけですか」

と美禰子が問い返した。

原文を見る

と美禰子が問い返した。

三四郎には、どういうわけもなかった。

原文を見る

三四郎には、どういうわけもなかった。

返事はせずに、またこう言った。

原文を見る

返事はせずに、またこう言った。

「安心して夢を見ているような空の様子だ」

原文を見る

「安心して夢を見ているような空模様だ」

「動くようで、なかなか動きませんね」

原文を見る

「動くようで、なかなか動きませんね」

と美禰子は、また遠くの雲を眺め出した。

原文を見る

と美禰子はまた遠くの雲をながめだした。

菊人形で客を呼ぶ声が、時々二人のすわっている所まで聞こえる。

原文を見る

菊人形で客を呼ぶ声が、おりおり二人のすわっている所まで聞こえる。

「ずいぶん大きな声ね」

原文を見る

「ずいぶん大きな声ね」

「朝から晩まで、ああいう声を出しているんでしょうか。たいしたもんだな」

原文を見る

「朝から晩までああいう声を出しているんでしょうか。えらいもんだな」

と言ったが、三四郎は急に置き去りにした三人のことを思い出した。

原文を見る

と言ったが、三四郎は急に置き去りにした三人のことを思い出した。

何か言おうとしているうちに、美禰子は答えた。

原文を見る

何か言おうとしているうちに、美禰子は答えた。

「商売ですもの、ちょうど大観音の物ごいと同じことなんですよ」

原文を見る

「商売ですもの、ちょうど大観音の乞食と同じ事なんですよ」

「場所が悪くはないですか」

原文を見る

「場所が悪くはないですか」

三四郎は珍しく冗談を言って、そうして一人でおもしろそうに笑った。

原文を見る

三四郎は珍しく冗談を言って、そうして一人でおもしろそうに笑った。

物ごいについて言った広田の言葉が、よほどおかしく響いたからである。

原文を見る

乞食について下した広田の言葉をよほどおかしく受けたからである。

「広田先生は、よくああいうことをおっしゃるかたなんですよ」

原文を見る

「広田先生は、よく、ああいう事をおっしゃるかたなんですよ」

と、とても軽くひとりごとのように言ったあとで、急に調子を変えて、

原文を見る

ときわめて軽くひとりごとのように言ったあとで、急に調子をかえて、

「こういう所に、こうしてすわっていたら、大丈夫、合格よ」

原文を見る

「こういう所に、こうしてすわっていたら、大丈夫及第よ」

と、わりあいに元気よくつけ加えた。

原文を見る

と比較的活発につけ加えた。

そうして、今度は自分のほうでおもしろそうに笑った。

原文を見る

そうして、今度は自分のほうでおもしろそうに笑った。

「なるほど野々宮さんの言ったとおり、いつまで待っていてもだれも通りそうもありませんね」

原文を見る

「なるほど野々宮さんの言ったとおり、いつまで待っていてもだれも通りそうもありませんね」

「ちょうどいいじゃありませんか」

原文を見る

「ちょうどいいじゃありませんか」

と早口に言ったが、あとで「おもらいをしない物ごいなんだから」

原文を見る

と早口に言ったが、あとで「おもらいをしない乞食なんだから」

と結んだ。

原文を見る

と結んだ。

これは前の言葉を説明するためにつけたように聞こえた。

原文を見る

これは前句の解釈のためにつけたように聞こえた。

そこへ知らない人が突然現れた。

原文を見る

ところへ知らん人が突然あらわれた。

とうがらしの干してある家の陰から出て、いつのまにか川を向こうへわたったものと見える。

原文を見る

唐辛子の干してある家の陰から出て、いつのまにか川を向こうへ渡ったものとみえる。

二人のすわっている方へだんだん近づいて来る。

原文を見る

二人のすわっている方へだんだん近づいて来る。

洋服を着てひげをはやして、年ごろから言うと広田先生くらいの男である。

原文を見る

洋服を着てひげをはやして、年輩からいうと広田先生くらいな男である。

この男が二人の前へ来た時、顔をぐるりと向け直して、正面から三四郎と美禰子をにらみつけた。

原文を見る

この男が二人の前へ来た時、顔をぐるりと向け直して、正面から三四郎と美禰子をにらめつけた。

その目の中には、はっきりと憎しみの色がある。

原文を見る

その目のうちには明らかに憎悪ぞうおの色がある。

三四郎は、じっとすわっていにくいほどのきゅうくつさを感じた。

原文を見る

三四郎はじっとすわっていにくいほどな束縛を感じた。

男はやがて行き過ぎた。

原文を見る

男はやがて行き過ぎた。

その後ろすがたを見送りながら、三四郎は、

原文を見る

その後影を見送りながら、三四郎は、

「広田先生や野々宮さんは、さぞあとでぼくらを捜したでしょう」

原文を見る

「広田先生や野々宮さんはさぞあとでぼくらを捜したでしょう」

と、はじめて気がついたように言った。

原文を見る

とはじめて気がついたように言った。

美禰子はむしろ冷たい。

原文を見る

美禰子はむしろ冷やかである。

「なに、大丈夫よ。大きな迷子ですもの」

原文を見る

「なに大丈夫よ。大きな迷子ですもの」

「迷子だから捜したでしょう」

原文を見る

「迷子だから捜したでしょう」

と三四郎は、やはり前の考えを言い張った。

原文を見る

と三四郎はやはり前説を主張した。

すると美禰子は、なお冷たい調子で、

原文を見る

すると美禰子は、なお冷やかな調子で、

「責任をのがれたがる人だから、ちょうどいいでしょう」

原文を見る

「責任をのがれたがる人だから、ちょうどいいでしょう」

「だれが? 広田先生がですか」

原文を見る

「だれが? 広田先生がですか」

美禰子は答えなかった。

原文を見る

美禰子は答えなかった。

「野々宮さんがですか」

原文を見る

「野々宮さんがですか」

美禰子はやっぱり答えなかった。

原文を見る

美禰子はやっぱり答えなかった。

「もう気分はよくなりましたか。よくなったら、そろそろ帰りましょうか」

原文を見る

「もう気分はよくなりましたか。よくなったら、そろそろ帰りましょうか」

美禰子は三四郎を見た。

原文を見る

美禰子は三四郎を見た。

三四郎は上げかけた腰を、また草の上に下ろした。

原文を見る

三四郎は上げかけた腰をまた草の上におろした。

その時三四郎は、この人にはとてもかなわないような気がどこかでした。

原文を見る

その時三四郎はこの女にはとてもかなわないような気がどこかでした。

同時に、自分の心の中を見抜かれたと気づいて、少し恥ずかしさを感じた。

原文を見る

同時に自分の腹を見抜かれたという自覚に伴なう一種の屈辱をかすかに感じた。

「迷子」

原文を見る

「迷子」

美禰子は三四郎を見たまま、この一言を繰り返した。

原文を見る

女は三四郎を見たままでこの一言ひとことを繰り返した。

三四郎は答えなかった。

原文を見る

三四郎は答えなかった。

「迷子の英語を知っていらっしゃって」

原文を見る

「迷子の英訳を知っていらしって」

三四郎は知るとも知らぬとも言えないほど、この問いを思ってもみなかった。

原文を見る

三四郎は知るとも、知らぬとも言いえぬほどに、この問を予期していなかった。

「教えてあげましょうか」

原文を見る

「教えてあげましょうか」

「ええ」

原文を見る

「ええ」

「迷える子――わかって?」

原文を見る

迷える子ストレイ・シープ――わかって?」

三四郎はこういう場合になると、返事に困る男である。

原文を見る

三四郎はこういう場合になると挨拶あいさつに困る男である。

その場が過ぎて、頭が落ち着いて働き出した時、あとから振り返って、ああ言えばよかった、こうすればよかったと後悔する。

原文を見る

咄嗟とっさの機が過ぎて、頭が冷やかに働きだした時、過去を顧みて、ああ言えばよかった、こうすればよかったと後悔する。

といって、この後悔を見こして、無理に間に合わせの返事を、いかにも自然らしく得意になって言い散らすほど軽い男ではなかった。

原文を見る

といって、この後悔を予期して、むりに応急の返事を、さもしぜんらしく得意に吐き散らすほどに軽薄ではなかった。

だから、ただ黙っている。

原文を見る

だからただ黙っている。

そうして、黙っていることがいかにも間が抜けていると自分でわかっている。

原文を見る

そうして黙っていることがいかにも半間はんまであると自覚している。

迷える子という言葉はわかったようでもある。

原文を見る

迷える子ストレイ・シープという言葉はわかったようでもある。

また、わからないようでもある。

原文を見る

またわからないようでもある。

わかるわからないは、この言葉の意味よりも、むしろこの言葉を使った美禰子の気持ちのほうである。

原文を見る

わかるわからないはこの言葉の意味よりも、むしろこの言葉を使った女の意味である。

三四郎はむだに美禰子の顔を眺めて黙っていた。

原文を見る

三四郎はいたずらに女の顔をながめて黙っていた。

すると美禰子は急にまじめになった。

原文を見る

すると女は急にまじめになった。

「私、そんなに生意気に見えますか」

原文を見る

「私そんなに生意気に見えますか」

その調子には言いわけの気持ちがある。

原文を見る

その調子には弁解の心持ちがある。

三四郎は思いがけない気持ちに打たれた。

原文を見る

三四郎は意外の感に打たれた。

今までは霧の中にいた。

原文を見る

今までは霧の中にいた。

霧が晴れればいいと思っていた。

原文を見る

霧が晴れればいいと思っていた。

この言葉で霧が晴れた。

原文を見る

この言葉で霧が晴れた。

はっきりした美禰子が出て来た。

原文を見る

明瞭な女が出て来た。

晴れたのがうらめしい気がする。

原文を見る

晴れたのが恨めしい気がする。

三四郎は美禰子の様子を、もとのような、――二人の頭の上に広がっている、澄むともにごるとも決まらない空のような、――意味のあるものにしたかった。

原文を見る

三四郎は美禰子の態度をもとのような、――二人の頭の上に広がっている、澄むとも濁るとも片づかない空のような、――意味のあるものにしたかった。

けれども、それは相手の機嫌を取るための言葉くらいでもどせるものではないと思った。

原文を見る

けれども、それは女のきげんを取るための挨拶ぐらいでもどせるものではないと思った。

美禰子はだしぬけに、

原文を見る

女は卒然として、

「じゃ、もう帰りましょう」

原文を見る

「じゃ、もう帰りましょう」

と言った。

原文を見る

と言った。

いやみのある言い方ではなかった。

原文を見る

厭味いやみのある言い方ではなかった。

ただ、三四郎にとって自分は興味のないものだとあきらめるような、静かな口調であった。

原文を見る

ただ三四郎にとって自分は興味のないものとあきらめるように静かな口調くちょうであった。

空はまた変わってきた。

原文を見る

空はまた変ってきた。

風が遠くから吹いてくる。

原文を見る

風が遠くから吹いてくる。

広い畑の上には日が届かず、見ていると寒いほど寂しい。

原文を見る

広い畑の上には日が限って、見ていると、寒いほど寂しい。

草から上がる地面の息で、体は冷えていた。

原文を見る

草からあがる地息じいきでからだは冷えていた。

気がつけば、こんな所によく今までべったりすわっていられたものだと思う。

原文を見る

気がつけば、こんな所に、よく今までべっとりすわっていられたものだと思う。

自分一人なら、とっくにどこかへ行ってしまったに違いない。

原文を見る

自分一人なら、とうにどこかへ行ってしまったに違いない。

美禰子も――美禰子はこんな所にすわる人かもしれない。

原文を見る

美禰子も――美禰子はこんな所へすわる女かもしれない。

「少し寒くなったようですから、とにかく立ちましょう。冷えると体に悪い。しかし気分はもうすっかり直りましたか」

原文を見る

「少し寒くなったようですから、とにかく立ちましょう。冷えると毒だ。しかし気分はもうすっかり直りましたか」

「ええ、すっかり直りました」

原文を見る

「ええ、すっかり直りました」

とはっきり答えたが、急に立ち上がった。

原文を見る

と明らかに答えたが、にわかに立ち上がった。

立ち上がる時、小さな声でひとりごとのように、

原文を見る

立ち上がる時、小さな声で、ひとりごとのように、

「迷える子」

原文を見る

迷える子ストレイ・シープ

と長く引っ張って言った。

原文を見る

と長く引っ張って言った。

三四郎はもちろん答えなかった。

原文を見る

三四郎はむろん答えなかった。

美禰子は、さっき洋服を着た男の出て来た方角をさして、道があるなら、あのとうがらしのそばを通って行きたいと言う。

原文を見る

美禰子は、さっき洋服を着た男の出て来た方角をさして、道があるなら、あの唐辛子のそばを通って行きたいという。

二人は、その方へ歩いて行った。

原文を見る

二人は、その見当へ歩いて行った。

わらぶきの後ろには、はたして細い一メートルほどの道があった。

原文を見る

藁葺わらぶきのうしろにはたして細い三尺ほどの道があった。

その道を半分ほど来た所で三四郎は聞いた。

原文を見る

その道を半分ほど来た所で三四郎は聞いた。

「よし子さんは、あなたの所へ来ることに決まったんですか」

原文を見る

「よし子さんは、あなたの所へ来ることにきまったんですか」

美禰子は片方の頬で笑った。

原文を見る

女は片頬かたほおで笑った。

そうして問い返した。

原文を見る

そうして問い返した。

「なぜお聞きになるの」

原文を見る

「なぜお聞きになるの」

三四郎が何か言おうとすると、足の前にぬかるみがあった。

原文を見る

三四郎が何か言おうとすると、足の前に泥濘ぬかるみがあった。

一メートルほどの所、土がへこんで水がひたひたにたまっている。

原文を見る

四尺ばかりの所、土がへこんで水がぴたぴたにたまっている。

そのまん中に、足をかけるために手ごろな石を置いた人がある。

原文を見る

そのまん中に足掛かりのためにてごろな石を置いた者がある。

三四郎は石を使わずに、すぐ向こうへ飛んだ。

原文を見る

三四郎は石の助けをからずに、すぐに向こうへ飛んだ。

そうして美禰子を振り返って見た。

原文を見る

そうして美禰子を振り返って見た。

美禰子は右の足を、ぬかるみのまん中にある石の上へ乗せた。

原文を見る

美禰子は右の足を泥濘のまん中にある石の上へ乗せた。

石の置かれ方があまりよくない。

原文を見る

石のすわりがあまりよくない。

足に力を入れて、肩をゆすって調子を取っている。

原文を見る

足へ力を入れて、肩をゆすって調子を取っている。

三四郎はこちら側から手を出した。

原文を見る

三四郎はこちら側から手を出した。

「おつかまりなさい」

原文を見る

「おつかまりなさい」

「いえ、大丈夫」

原文を見る

「いえ大丈夫」

と美禰子は笑っている。

原文を見る

と女は笑っている。

手を出している間は、調子を取るだけでわたらない。

原文を見る

手を出しているあいだは、調子を取るだけで渡らない。

三四郎は手を引っこめた。

原文を見る

三四郎は手を引っ込めた。

すると美禰子は、石の上にある右の足に体の重みをあずけて、左の足でひらりとこちら側へわたった。

原文を見る

すると美禰子は石の上にある右の足に、からだの重みを託して、左の足でひらりとこちら側へ渡った。

あまりに下駄を汚すまいと気をつけすぎたため、力が余って腰が浮いた。

原文を見る

あまりに下駄げたをよごすまいと念を入れすぎたため、力が余って、腰が浮いた。

のめりそうに胸が前へ出る。

原文を見る

のめりそうに胸が前へ出る。

その勢いで、美禰子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。

原文を見る

その勢で美禰子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。

「迷える子」

原文を見る

迷える子ストレイ・シープ

と美禰子が口の中で言った。

原文を見る

と美禰子が口の内で言った。

三四郎は、その息づかいを感じることができた。

原文を見る

三四郎はその呼吸いきを感ずることができた。

原文を見る

ベルが鳴って、先生は教室から出ていった。

原文を見る

ベルが鳴って、講師は教室から出ていった。

三四郎はインクのついたペンを振って、ノートを伏せようとした。

原文を見る

三四郎はインキの着いたペンを振って、ノートを伏せようとした。

すると、となりにいた与次郎が声をかけた。

原文を見る

すると隣にいた与次郎が声をかけた。

「おい、ちょっと貸せ。書き落としたところがある」

原文を見る

「おいちょっと借せ。書き落としたところがある」

与次郎は三四郎のノートを引き寄せて、上からのぞきこんだ。

原文を見る

与次郎は三四郎のノートを引き寄せて上からのぞきこんだ。

stray sheep という字がむやみに書いてある。

原文を見る

strayストレイ sheepシープ という字がむやみに書いてある。

「なんだ、これは」

原文を見る

「なんだこれは」

「講義を書き取るのがいやになったから、いたずら書きをしていた」

原文を見る

「講義を筆記するのがいやになったから、いたずらを書いていた」

「そうなまけてはいかん。カントの考え方がバークリーの考え方にどうだとか言ったな」

原文を見る

「そう不勉強ではいかん。カントの超絶唯心論がバークレーの超絶実在論にどうだとか言ったな」

「どうだとか言った」

原文を見る

「どうだとか言った」

「聞いていなかったのか」

原文を見る

「聞いていなかったのか」

「いいや」

原文を見る

「いいや」

「まるで stray sheep だ。しかたがない」

原文を見る

「まるで strayストレイ sheepシープ だ。しかたがない」

与次郎は自分のノートをかかえて立ち上がった。

原文を見る

与次郎は自分のノートをかかえて立ち上がった。

机の前を離れながら、三四郎に、

原文を見る

机の前を離れながら、三四郎に、

「おい、ちょっと来い」

原文を見る

「おいちょっと来い」

と言う。

原文を見る

と言う。

三四郎は与次郎について教室を出た。

原文を見る

三四郎は与次郎について教室を出た。

はしご段を下りて、玄関前の草原へ来た。

原文を見る

梯子段はしごだんを降りて、玄関前の草原へ来た。

大きな桜がある。

原文を見る

大きな桜がある。

二人はその下にすわった。

原文を見る

二人ふたりはその下にすわった。

ここは夏の初めになると、うまごやしが一面に生える。

原文を見る

ここは夏の初めになると苜蓿うまごやしが一面にはえる。

与次郎が入学の願書を持って事務室へ来た時、この桜の下に二人の学生が寝ころんでいた。

原文を見る

与次郎が入学願書を持って事務へ来た時に、この桜の下に二人の学生が寝転んでいた。

その一人がもう一人に向かって、口で答える試験を都々逸(どどいつ。短いはやり歌)で負けておいてくれるなら、いくらでも歌ってみせるがな、と言うと、一人が小声で、粋なさばきの博士の前で、恋の試験がしてみたい、と歌っていた。

原文を見る

その一人ひとりが一人に向かって、口答試験を都々逸どどいつで負けておいてくれると、いくらでも歌ってみせるがなと言うと、一人が小声で、すいなさばきの博士の前で、恋の試験がしてみたいと歌っていた。

その時から与次郎はこの桜の木の下が好きになって、何かことがあると三四郎をここへ引っ張り出す。

原文を見る

その時から与次郎はこの桜の木の下が好きになって、なにか事があると、三四郎をここへ引っ張り出す。

三四郎はそのわけを与次郎から聞いた時、なるほど与次郎ははやり歌で pity's love を訳すはずだと思った。

原文を見る

三四郎はその歴史を与次郎から聞いた時に、なるほど与次郎は俗謡で pity'sピチーズ loveラッブ を訳すはずだと思った。

今日はしかし、与次郎がことのほかまじめである。

原文を見る

きょうはしかし与次郎がことのほかまじめである。

草の上にあぐらをかくやいなや、ふところから文芸時評という雑誌を出して、開いたままの一ページを逆さに三四郎の方へ向けた。

原文を見る

草の上にあぐらをかくやいなや、懐中から、文芸時評という雑誌を出してあけたままの一ページをさかに三四郎の方へ向けた。

「どうだ」

原文を見る

「どうだ」

と言う。

原文を見る

と言う。

見ると見出しに大きな活字で「偉大なる暗闇」

原文を見る

見ると標題に大きな活字で「偉大なる暗闇くらやみ

とある。

原文を見る

とある。

下には零余子(むかご)というペンネームを使っている。

原文を見る

下には零余子れいよしと雅号を使っている。

偉大なる暗闇とは、与次郎がいつも広田先生を言い表す言葉で、三四郎も二、三度聞かされたものである。

原文を見る

偉大なる暗闇とは与次郎がいつでも広田先生を評する語で、三四郎も二、三度聞かされたものである。

しかし零余子はまったく知らない名である。

原文を見る

しかし零余子はまったく知らん名である。

どうだと言われた時、三四郎は返事をする前に、ひとまず与次郎の顔を見た。

原文を見る

どうだと言われた時に、三四郎は、返事をする前提としてひとまず与次郎の顔を見た。

すると与次郎は何も言わずに、その平べったい顔を前へ出して、右の人さし指の先で自分の鼻の頭を押さえてじっとしている。

原文を見る

すると与次郎はなんにも言わずにその扁平へんぺいな顔を前へ出して、右の人さし指の先で、自分の鼻の頭を押えてじっとしている。

向こうに立っていた一人の学生が、この様子を見てにやにや笑い出した。

原文を見る

向こうに立っていた一人の学生が、この様子を見てにやにや笑い出した。

それに気がついた与次郎は、ようやく指を鼻から離した。

原文を見る

それに気がついた与次郎はようやく指を鼻から放した。

「おれが書いたんだ」

原文を見る

「おれが書いたんだ」

と言う。

原文を見る

と言う。

三四郎は、なるほどそうかと悟った。

原文を見る

三四郎はなるほどそうかと悟った。

「ぼくらが菊細工を見に行く時に書いていたのは、これか」

原文を見る

「ぼくらが菊細工を見にゆく時書いていたのは、これか」

「いや、ありゃ、たった二、三日前じゃないか。そう早く活字になってたまるものか。あれは来月出る。これは、ずっと前に書いたものだ。何を書いたものか、見出しでわかるだろう」

原文を見る

「いや、ありゃ、たった三日さんちまえじゃないか。そうはやく活版になってたまるものか。あれは来月出る。これは、ずっと前に書いたものだ。何を書いたものか標題でわかるだろう」

「広田先生のことか」

原文を見る

「広田先生の事か」

「うん。こうしてみんなの声を起こしておいてね。そうして、先生が大学へ入れる下地を作る……」

原文を見る

「うん。こうして輿論よろんを喚起しておいてね。そうして、先生が大学へはいれる下地したじを作る……」

「その雑誌はそんなに力のある雑誌か」

原文を見る

「その雑誌はそんなに勢力のある雑誌か」

三四郎は雑誌の名前さえ知らなかった。

原文を見る

三四郎は雑誌の名前さえ知らなかった。

「いや、力がないから、じつは困る」

原文を見る

「いや無勢力だから、じつは困る」

と与次郎は答えた。

原文を見る

と与次郎は答えた。

三四郎は笑わないわけにいかなかった。

原文を見る

三四郎は微笑わらわざるをえなかった。

「何部ぐらい売れるのか」

原文を見る

「何部ぐらい売れるのか」

与次郎は何部売れるとも言わない。

原文を見る

与次郎は何部売れるとも言わない。

「まあいいさ。書かないよりはましだ」

原文を見る

「まあいいさ。書かんよりはましだ」

と言いわけしている。

原文を見る

と弁解している。

だんだん聞いてみると、与次郎は前からこの雑誌に関わりがあって、ひまさえあればほとんど毎号書いているが、その代わりペンネームも毎号変えるから、二、三の仲間のほかだれも知らないんだと言う。

原文を見る

だんだん聞いてみると、与次郎は従来からこの雑誌に関係があって、ひまさえあればほとんど毎号筆を執っているが、その代り雅名も毎号変えるから、二、三の同人のほか、だれも知らないんだと言う。

なるほどそうだろう。

原文を見る

なるほどそうだろう。

三四郎は今はじめて、与次郎と文学の世界とのつながりを聞いたくらいのものである。

原文を見る

三四郎は今はじめて与次郎と文壇との交渉を聞いたくらいのものである。

しかし与次郎が何のために、遊びのような名前を使って、彼の言う大論文をこっそり世に出しつつあるのか、そこが三四郎にはわからなかった。

原文を見る

しかし与次郎がなんのために、遊戯いたずらに等しい匿名とくめいを用いて、彼のいわゆる大論文をひそかに公けにしつつあるか、そこが三四郎にはわからなかった。

いくらか小遣いかせぎのつもりでやっている仕事かと遠慮なく聞いた時、与次郎は目を丸くした。

原文を見る

いくぶんか小遣い取りのつもりで、やっている仕事かと不遠慮に尋ねた時、与次郎は目を丸くした。

「君は九州の田舎から出たばかりだから、中央の文学の世界の流れを知らないために、そんなのんきなことを言うのだろう。今の考えの世界の中心にいて、その揺れ動く激しいありさまを目の前にしながら、考えのある者が知らん顔をしていられるものか。じっさい今日の文学を動かす力は、まったく我々青年の手にあるんだから、一言でも半分でも進んで言えるだけ言わなければ損じゃないか。文学の世界はものすごい勢いで大きく変わっている。すべてがことごとく動いて新しい流れに向かって行くんだから、取り残されちゃたいへんだ。進んで自分からこの流れをこしらえ上げなくちゃ、生きている甲斐はない。文学文学って安っぽいように言うが、そりゃ大学なんかで聞く文学のことだ。新しい、我々の言う文学は、人生そのものの大きな映しだ。文学の新しい流れは、日本の社会全体の動きに影響しなければならない。また、現に影響しつつある。彼らが昼寝をして夢を見ているまに、いつのまにか影響しつつある。恐ろしいものだ。……」

原文を見る

「君は九州のいなかから出たばかりだから、中央文壇の趨勢すうせいを知らないために、そんなのん気なことをいうのだろう。今の思想界の中心にいて、その動揺のはげしいありさまを目撃しながら、考えのある者が知らん顔をしていられるものか。じっさい今日こんにちの文権はまったく我々青年の手にあるんだから、一言いちごんでも半句でも進んで言えるだけ言わなけりゃ損じゃないか。文壇は急転直下の勢いでめざましい革命を受けている。すべてがことごとく動いて、新気運に向かってゆくんだから、取り残されちゃたいへんだ。進んで自分からこの気運をこしらえ上げなくちゃ、生きてる甲斐かいはない。文学文学って安っぽいようにいうが、そりゃ大学なんかで聞く文学のことだ。新しい我々のいわゆる文学は、人生そのものの大反射だ。文学の新気運は日本全社会の活動に影響しなければならない。また現にしつつある。彼らが昼寝をして夢を見ているまに、いつか影響しつつある。恐ろしいものだ。……」

三四郎は黙って聞いていた。

原文を見る

三四郎は黙って聞いていた。

少し大げさな話のような気がする。

原文を見る

少しほらのような気がする。

しかし、大げさでも与次郎はなかなか熱心に語っている。

原文を見る

しかしほらでも与次郎はなかなか熱心に吹いている。

少なくとも本人だけは、とてもまじめらしく見える。

原文を見る

すくなくとも当人だけは至極まじめらしくみえる。

三四郎はだいぶ動かされた。

原文を見る

三四郎はだいぶ動かされた。

「そういう気持ちでやっているのか。では君は原稿料なんか、どうでもかまわないんだったな」

原文を見る

「そういう精神でやっているのか。では君は原稿料なんか、どうでもかまわんのだったな」

「いや、原稿料は取るよ。取れるだけ取る。しかし雑誌が売れないから、なかなかよこさない。どうにかして、もう少し売れる工夫をしないといけない。何かいい思いつきはないだろうか」

原文を見る

「いや、原稿料は取るよ。取れるだけ取る。しかし雑誌が売れないからなかなかよこさない。どうかして、もう少し売れる工夫くふうをしないといけない。何かいい趣向はないだろうか」

と、今度は三四郎に相談を持ちかけた。

原文を見る

と今度は三四郎に相談をかけた。

話が急に、現実の問題に落ちてしまった。

原文を見る

話が急に実際問題に落ちてしまった。

三四郎は妙な気持ちがする。

原文を見る

三四郎は妙な心持ちがする。

与次郎は平気である。

原文を見る

与次郎は平気である。

ベルが激しく鳴り出した。

原文を見る

ベルが激しく鳴りだした。

「ともかく、この雑誌を一部君にやるから読んでみてくれ。偉大なる暗闇という題がおもしろいだろう。この題なら人が驚くに決まっている。――驚かせないと読まないからだめだ」

原文を見る

「ともかくこの雑誌を一部君にやるから読んでみてくれ。偉大なる暗闇という題がおもしろいだろう。この題なら人が驚くにきまっている。――驚かせないと読まないからだめだ」

二人は玄関を上がって教室へ入り、机についた。

原文を見る

二人は玄関を上がって、教室へはいって、机に着いた。

やがて先生が来る。

原文を見る

やがて先生が来る。

二人とも書き取りを始めた。

原文を見る

二人とも筆記を始めた。

三四郎は「偉大なる暗闇」

原文を見る

三四郎は「偉大なる暗闇」

が気にかかるので、ノートのそばに文芸時評を開いたまま、書き取りの合間合間に先生に知れないように読み出した。

原文を見る

が気にかかるので、ノートのそばに文芸時評をあけたまま、筆記のあいまあいまに先生に知れないように読みだした。

先生はさいわい近眼である。

原文を見る

先生はさいわい近眼である。

そのうえ、自分の講義の中にすっかり入りこんでいる。

原文を見る

のみならず自己の講義のうちにぜんぜん埋没している。

三四郎のいけない行いにはまるで気づかない。

原文を見る

三四郎の不心得にはまるで関係しない。

三四郎はいい気になって、こっちを書き取ったり、あっちを読んだりしていったが、もともと二人でやることを一人で兼ねる無理なわざだから、しまいには「偉大なる暗闇」

原文を見る

三四郎はいい気になって、こっちを筆記したり、あっちを読んだりしていったが、もともと二人でする事を一人で兼ねるむりな芸だからしまいには「偉大なる暗闇」

も講義の書き取りも、両方ともつながりがわからなくなった。

原文を見る

も講義の筆記も双方そうほうともに関係がわからなくなった。

ただ与次郎の文章が一つだけ、はっきり頭に入った。

原文を見る

ただ与次郎の文章が一句だけはっきり頭にはいった。

「自然は宝石を作るのに何年の年月を費やしたか。またこの宝石が掘り出される時に出会うまでに、何年の年月を静かに輝いていたか」

原文を見る

「自然は宝石を作るに幾年の星霜を費やしたか。またこの宝石が採掘の運にあうまでに、幾年の星霜を静かに輝やいていたか」

という言葉である。

原文を見る

という句である。

そのほかは、よくわからないまま終わった。

原文を見る

その他は不得要領に終った。

その代わり、この時間には stray sheep という字を一つも書かずに済んだ。

原文を見る

その代りこの時間には strayストレイ sheepシープ という字を一つも書かずにすんだ。

講義が終わるやいなや、与次郎は三四郎に向かって、

原文を見る

講義が終るやいなや、与次郎は三四郎に向かって、

「どうだ」

原文を見る

「どうだ」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

じつはまだよく読まないと答えると、時間の使い方を知らない男だと言って責めた。

原文を見る

じつはまだよく読まないと答えると、時間の経済を知らない男だといって非難した。

ぜひ読めと言う。

原文を見る

ぜひ読めという。

三四郎は家へ帰ってぜひ読むと約束した。

原文を見る

三四郎は家へ帰ってぜひ読むと約束した。

やがて昼になった。

原文を見る

やがて昼になった。

二人は連れ立って門を出た。

原文を見る

二人は連れ立って門を出た。

「今晩出席するだろうな」

原文を見る

「今晩出席するだろうな」

と、与次郎が西片町へ入る横町の角で立ち止まった。

原文を見る

と与次郎が西片町へはいる横町の角で立ち留まった。

今夜は同級生の集まりがある。

原文を見る

今夜は同級生の懇親会がある。

三四郎は忘れていた。

原文を見る

三四郎は忘れていた。

ようやく思い出して、行くつもりだと答えると、与次郎は、

原文を見る

ようやく思い出して、行くつもりだと答えると、与次郎は、

「出る前にちょっとさそってくれ。君に話すことがある」

原文を見る

「出るまえにちょっと誘ってくれ。君に話す事がある」

と言う。

原文を見る

と言う。

耳の後ろにペンをはさんでいる。

原文を見る

耳のうしろへペンじくをはさんでいる。

なんとなく得意そうである。

原文を見る

なんとなく得意である。

三四郎は承知した。

原文を見る

三四郎は承知した。

下宿へ帰って風呂に入り、いい気分になって上がってみると、机の上に絵はがきがある。

原文を見る

下宿へ帰って、湯にはいって、いい心持ちになって上がってみると、机の上に絵はがきがある。

小川を描いて、草をもじゃもじゃ生やして、そのふちに羊を二匹寝かせて、その向こう側に大きな男がステッキを持って立っているところを写したものである。

原文を見る

小川をかいて、草をもじゃもじゃはやして、その縁に羊を二匹寝かして、その向こう側に大きな男がステッキを持って立っているところを写したものである。

男の顔が、とても荒々しくできている。

原文を見る

男の顔がはなはだ獰猛どうもうにできている。

まったく西洋の絵にある悪魔をまねたもので、念のため、わきにちゃんとデビルと仮名が書いてある。

原文を見る

まったく西洋の絵にある悪魔デビルを模したもので、念のため、わきにちゃんとデビルと仮名かなが振ってある。

表は三四郎のあて名の下に、迷える子と小さく書いてあるだけである。

原文を見る

表は三四郎の宛名あてなの下に、迷える子と小さく書いたばかりである。

三四郎は、迷える子が何を指すのかすぐに悟った。

原文を見る

三四郎は迷える子の何者かをすぐ悟った。

それだけでなく、はがきの裏に迷える子を二匹描いて、その一匹をそれとなく自分に見立ててくれたのを、とてもうれしく思った。

原文を見る

のみならず、はがきの裏に、迷える子を二匹書いて、その一匹をあんに自分に見立ててくれたのをはなはだうれしく思った。

迷える子の中には美禰子だけでなく、自分ももちろん入っていたのである。

原文を見る

迷える子のなかには、美禰子のみではない、自分ももとよりはいっていたのである。

それが美禰子の考えであったと見える。

原文を見る

それが美禰子のおもわくであったとみえる。

美禰子の使った stray sheep の意味が、これでようやくはっきりした。

原文を見る

美禰子の使った strayストレイ sheepシープ の意味がこれでようやくはっきりした。

与次郎に約束した「偉大なる暗闇」

原文を見る

与次郎に約束した「偉大なる暗闇」

を読もうと思うが、ちょっと読む気にならない。

原文を見る

を読もうと思うが、ちょっと読む気にならない。

しきりに絵はがきを眺めて考えた。

原文を見る

しきりに絵はがきをながめて考えた。

イソップにもないようなおかしみがある。

原文を見る

イソップにもないような滑稽こっけい趣味がある。

無邪気にも見える。

原文を見る

無邪気にもみえる。

しゃれてもいる。

原文を見る

洒落しゃらくでもある。

そうして、すべての下に、三四郎の心を動かす何かがある。

原文を見る

そうしてすべての下に、三四郎の心を動かすあるものがある。

手ぎわから言っても感心のきわみである。

原文を見る

手ぎわからいっても敬服の至りである。

何もかもはっきりとできあがっている。

原文を見る

諸事明瞭にでき上がっている。

よし子の描いた柿の木とは比べものにならない。――

原文を見る

よし子のかいた柿の木の比ではない。――

と三四郎には思われた。

原文を見る

と三四郎には思われた。

しばらくしてから、三四郎はようやく「偉大なる暗闇」

原文を見る

しばらくしてから、三四郎はようやく「偉大なる暗闇」

を読み出した。

原文を見る

を読みだした。

じつはふわふわして読み出したのであるが、二、三ページ来るとだんだん引きこまれるように気が乗ってきて、知らず知らずのうちに五ページ六ページと進んで、ついに二十七ページの長い論文を苦もなく読み終えた。

原文を見る

じつはふわふわして読みだしたのであるが、二、三ページくると、次第に釣り込まれるように気が乗ってきて、知らず知らずのまに、五ページ六ページと進んで、ついに二十七ページの長論文を苦もなく片づけた。

最後の一言を読み終えた時、はじめてこれで終わりだなと気がついた。

原文を見る

最後の一句を読了した時、はじめてこれでしまいだなと気がついた。

目を雑誌から離して、ああ読んだな、と思った。

原文を見る

目を雑誌から離して、ああ読んだなと思った。

しかし次の瞬間に、何を読んだかと考えてみると、何もない。

原文を見る

しかし次の瞬間に、何を読んだかと考えてみると、なんにもない。

おかしいくらい何もない。

原文を見る

おかしいくらいなんにもない。

ただ大いに、そしてさかんに読んだ気がする。

原文を見る

ただ大いにかつ盛んに読んだ気がする。

三四郎は与次郎の腕前に感心した。

原文を見る

三四郎は与次郎の技倆ぎりょうに感服した。

論文は今の文学者を責める言葉に始まって、広田先生をほめる言葉に終わっている。

原文を見る

論文は現今の文学者の攻撃に始まって、広田先生の賛辞に終っている。

とくに文科の西洋人を手ひどくののしっている。

原文を見る

ことに文学文科の西洋人を手痛く罵倒ばとうしている。

早く適当な日本人を招いて大学にふさわしい講義を開かなくては、学問のいちばん高い場である大学も昔の寺子屋同然のありさまになって、れんが造りのミイラと変わりがないようになる。

原文を見る

はやく適当の日本人を招聘しょうへいして、大学相当の講義を開かなくっては、学問の最高府たる大学も昔の寺子屋同然のありさまになって、煉瓦石れんがせきのミイラと選ぶところがないようになる。

もっとも、人がいなければしかたがないが、ここに広田先生がある。

原文を見る

もっとも人がなければしかたがないが、ここに広田先生がある。

先生は十年一日のように高等学校で教えて、安い給料と、名の知られないことに文句も言わずにいる。

原文を見る

先生は十年一日のごとく高等学校に教鞭きょうべんを執って薄給と無名に甘んじている。

しかし本物の学者である。

原文を見る

しかし真正の学者である。

学問の世界の新しい流れに力をつくし、日本の生きた社会とつながりのある講義を受け持つべき人物である。――

原文を見る

学海の新気運に貢献して、日本の活社会と交渉のある教授を担任すべき人物である。――

短くまとめるとこれだけであるが、そのこれだけが、たいへんもっともらしい口ぶりと、きらびやかな決め言葉とによって、前後二十七ページに引き延ばされている。

原文を見る

せんじ詰めるとこれだけであるが、そのこれだけが、非常にもっともらしい口吻こうふん燦爛さんらんたる警句とによって前後二十七ページに延長している。

その中には「はげを自慢するのは老人に限る」

原文を見る

その中には「禿はげを自慢するものは老人に限る」

とか「ヴィーナスは波から生まれたが、見る目のある人は大学から生まれない」

原文を見る

とか「ヴィーナスは波から生まれたが、活眼の士は大学から生まれない」

とか「博士を学問の世界の名産と考えるのは、クラゲを田子の浦の名産と考えるようなものだ」

原文を見る

とか「博士を学界の名産と心得るのは、海月くらげ田子たごうらの名産と考えるようなものだ」

とか、いろいろおもしろい言葉がたくさんある。

原文を見る

とかいろいろおもしろい句がたくさんある。

しかし、それよりほかに何もない。

原文を見る

しかしそれよりほかになんにもない。

とくに妙なのは、広田先生を偉大なる暗闇にたとえたついでに、ほかの学者を丸あんどんにたとえて、せいぜい六十センチ四方くらいの所をぼんやり照らすにすぎない、などと、自分が広田から言われたとおりを書いている。

原文を見る

ことに妙なのは、広田先生を偉大なる暗闇にたとえたついでに、ほかの学者を丸行燈まるあんどんに比較して、たかだか方二尺ぐらいの所をぼんやり照らすにすぎないなどと、自分が広田から言われたとおりを書いている。

そうして、丸あんどんだの、きせるの雁首だのはすべて古い時代の残り物で、我々青年にはまったく役に立たないと、この間のとおり、わざわざ書いてある。

原文を見る

そうして、丸行燈だの雁首がんくびなどはすべて旧時代の遺物で我々青年にはまったく無用であると、このあいだのとおりわざわざ断わってある。

よく考えてみると、与次郎の論文には元気がある。

原文を見る

よく考えてみると、与次郎の論文には活気がある。

いかにも自分一人で新しい日本を代表しているようだから、読んでいるうちは、つい、その気になる。

原文を見る

いかにも自分一人で新日本を代表しているようであるから、読んでいるうちは、ついその気になる。

けれども、まったく中身がない。

原文を見る

けれどもまったくがない。

よりどころのない戦いのようなものである。

原文を見る

根拠地のない戦争のようなものである。

それだけでなく、悪く取ると、かけひきの意味もあるかもしれない書き方である。

原文を見る

のみならず悪く解釈すると、政略的の意味もあるかもしれない書き方である。

田舎者の三四郎には、そこだとはっきり見抜くことはできなかったが、ただ読んだあとで、自分の心を探ってみて、どこかに物足りなさがあるように感じた。

原文を見る

いなか者の三四郎にはてっきりそこと気取けどることはできなかったが、ただ読んだあとで、自分の心を探ってみてどこかに不満足があるように覚えた。

また美禰子の絵はがきを取って、二匹の羊と例の悪魔を眺め出した。

原文を見る

また美禰子の絵はがきを取って、二匹の羊と例の悪魔デビルをながめだした。

すると、こちらのほうは何もかも気持ちがいい。

原文を見る

するとこっちのほうは万事が快感である。

この気持ちよさにつれて、先ほどの物足りなさはますますはっきりしてきた。

原文を見る

この快感につれてまえの不満足はますます著しくなった。

それで論文のことは、それきり考えなくなった。

原文を見る

それで論文の事はそれぎり考えなくなった。

美禰子に返事をやろうと思う。

原文を見る

美禰子に返事をやろうと思う。

あいにく絵が描けない。

原文を見る

不幸にして絵がかけない。

文章にしようと思う。

原文を見る

文章にしようと思う。

文章なら、この絵はがきに釣り合う文句でなくてはいけない。

原文を見る

文章ならこの絵はがきに匹敵する文句でなくってはいけない。

それは簡単には思いつけない。

原文を見る

それは容易に思いつけない。

ぐずぐずしているうちに四時過ぎになった。

原文を見る

ぐずぐずしているうちに四時過ぎになった。

はかまをつけて、与次郎をさそいに西片町へ行く。

原文を見る

はかまを着けて、与次郎を誘いに、西片町へ行く。

台所口から入ると、茶の間で広田先生が小さな食卓を前にして夕ごはんを食べていた。

原文を見る

勝手口からはいると、茶の間に、広田先生が小さな食卓を控えて、晩食ばんめしを食っていた。

そばに与次郎がかしこまって世話をしている。

原文を見る

そばに与次郎がかしこまってお給仕をしている。

「先生、どうですか」

原文を見る

「先生どうですか」

と聞いている。

原文を見る

と聞いている。

先生は何か堅いものをほおばったらしい。

原文を見る

先生は何か堅いものをほおばったらしい。

食卓の上を見ると、時計ほどの大きさの、赤くて黒くて焦げたものが十ばかり皿の中に並んでいる。

原文を見る

食卓の上を見ると、たもと時計ほどな大きさの、赤くって黒くって、焦げたものがとおばかりさらの中に並んでいる。

三四郎は座についた。

原文を見る

三四郎は座に着いた。

あいさつをする。

原文を見る

礼をする。

先生は口をもぐもぐさせる。

原文を見る

先生は口をもがもがさせる。

「おい、君も一つ食ってみろ」

原文を見る

「おい君も一つ食ってみろ」

と与次郎が箸で皿のものをつまんで出した。

原文を見る

と与次郎がはしで皿のものをつまんで出した。

手のひらに載せてみると、バカガイのむき身を干したものを、たれをつけて焼いたのである。

原文を見る

てのひらへ載せてみると、馬鹿貝ばかがい剥身むきみの干したのをつけ焼にしたのである。

「妙なものを食うな」

原文を見る

「妙なものを食うな」

と聞くと、

原文を見る

と聞くと、

「妙なものって、うまいぜ、食ってみろ。これはね、ぼくがわざわざ先生にみやげに買ってきたんだ。先生はまだ、これを食ったことがないとおっしゃる」

原文を見る

「妙なものって、うまいぜ食ってみろ。これはね、ぼくがわざわざ先生にみやげに買ってきたんだ。先生はまだ、これを食ったことがないとおっしゃる」

「どこから」

原文を見る

「どこから」

「日本橋から」

原文を見る

「日本橋から」

三四郎はおかしくなった。

原文を見る

三四郎はおかしくなった。

こういうところになると、さっきの論文の調子とは少し違う。

原文を見る

こういうところになると、さっきの論文の調子とは少し違う。

「先生、どうです」

原文を見る

「先生、どうです」

「堅いね」

原文を見る

「堅いね」

「堅いけれども、うまいでしょう。よくかまなくちゃいけません。かむと味が出る」

原文を見る

「堅いけれどもうまいでしょう。よくかまなくっちゃいけません。かむと味が出る」

「味が出るまでかんでいては、歯が疲れてしまう。なんでこんな古くさいものを買ってきたものかな」

原文を見る

「味が出るまでかんでいちゃ、歯が疲れてしまう。なんでこんな古風なものを買ってきたものかな」

「いけませんか。こりゃ、ことによると先生にはだめかもしれない。里見の美禰子さんならいいだろう」

原文を見る

「いけませんか。こりゃ、ことによると先生にはだめかもしれない。里見の美禰子さんならいいだろう」

「なぜ」

原文を見る

「なぜ」

と三四郎が聞いた。

原文を見る

と三四郎が聞いた。

「ああ落ち着いていれば、味が出るまできっとかんでるに違いない」

原文を見る

「ああおちついていりゃ味の出るまできっとかんでるに違いない」

「あの人は落ち着いていて、乱暴だ」

原文を見る

「あの女はおちついていて、乱暴だ」

と広田が言った。

原文を見る

と広田が言った。

「ええ、乱暴です。イプセンの女の人のようなところがある」

原文を見る

「ええ乱暴です。イブセンの女のようなところがある」

「イプセンの女の人はあからさまだが、あの人は心が乱暴だ。もっとも乱暴といっても、ふつうの乱暴とは意味が違うが。野々宮の妹のほうが、ちょっと見ると乱暴のようで、やっぱり女らしい。妙なものだね」

原文を見る

「イブセンの女は露骨ろこつだが、あの女はしんが乱暴だ。もっとも乱暴といっても、普通の乱暴とは意味が違うが。野々宮の妹のほうが、ちょっと見ると乱暴のようで、やっぱり女らしい。妙なものだね」

「里見のは、乱暴が内にこもっているんですか」

原文を見る

「里見のは乱暴の内訌ないこうですか」

三四郎は黙って二人の言葉を聞いていた。

原文を見る

三四郎は黙って二人の批評を聞いていた。

どちらの言葉も納得できない。

原文を見る

どっちの批評もふにおちない。

乱暴という言葉が、どうして美禰子に使えるか、それからが第一に不思議であった。

原文を見る

乱暴という言葉が、どうして美禰子の上に使えるか、それからが第一不思議であった。

与次郎はやがて、はかまをはいて、あらたまって出て来て、

原文を見る

与次郎はやがて、袴をはいて、改まって出て来て、

「ちょっと行ってまいります」

原文を見る

「ちょっと行ってまいります」

と言う。

原文を見る

と言う。

先生は黙ってお茶を飲んでいる。

原文を見る

先生は黙って茶を飲んでいる。

二人は表へ出た。

原文を見る

二人は表へ出た。

表はもう暗い。

原文を見る

表はもう暗い。

門を離れて四、五メートル来ると、三四郎はすぐ話しかけた。

原文を見る

門を離れて二、三間来ると、三四郎はすぐ話しかけた。

「先生は里見のお嬢さんを乱暴だと言ったね」

原文を見る

「先生は里見のお嬢さんを乱暴だと言ったね」

「うん。先生は勝手なことを言う人だから、時と場合によっては何でも言う。第一、先生が女の人を評するのがおかしい。先生の女の人についての知識は、おそらくゼロだろう。恋をしたことがない人に女の人がわかるものか」

原文を見る

「うん。先生はかってな事をいう人だから、時と場合によるとなんでも言う。第一先生が女を評するのが滑稽だ。先生の女における知識はおそらく零だろう。ラッブをしたことがないものに女がわかるものか」

「先生はそれでいいとして、君は先生の言うことに賛成したじゃないか」

原文を見る

「先生はそれでいいとして、君は先生の説に賛成したじゃないか」

「うん、乱暴だと言った。なぜ」

原文を見る

「うん乱暴だと言った。なぜ」

「どういうところを乱暴というのか」

原文を見る

「どういうところを乱暴というのか」

「どういうところも、こういうところもありゃしない。今の女の人はみんな乱暴に決まっている。あの人ばかりじゃない」

原文を見る

「どういうところも、こういうところもありゃしない。現代の女性にょしょうはみんな乱暴にきまっている。あの女ばかりじゃない」

「君はあの人をイプセンの登場人物に似ていると言ったじゃないか」

原文を見る

「君はあの人をイブセンの人物に似ていると言ったじゃないか」

「言った」

原文を見る

「言った」

「イプセンのだれに似ているつもりなのか」

原文を見る

「イブセンのだれに似ているつもりなのか」

「だれって……似ているよ」

原文を見る

「だれって……似ているよ」

三四郎はもちろん納得しない。

原文を見る

三四郎はむろん納得なっとくしない。

しかし問いつめもしない。

原文を見る

しかし追窮もしない。

黙って二メートルばかり歩いた。

原文を見る

黙って一間ばかり歩いた。

すると突然、与次郎がこう言った。

原文を見る

すると突然与次郎がこう言った。

「イプセンの登場人物に似ているのは里見のお嬢さんばかりじゃない。今の女の人はみんな似ている。女の人ばかりじゃない。かりにも新しい空気に触れた男はみんな、イプセンの登場人物に似たところがある。ただ男も女も、イプセンのように自由な行いをしないだけだ。腹の中ではたいていかぶれている」

原文を見る

「イブセンの人物に似ているのは里見のお嬢さんばかりじゃない。今の一般の女性にょしょうはみんな似ている。女性ばかりじゃない。いやしくも新しい空気に触れた男はみんなイブセンの人物に似たところがある。ただ男も女もイブセンのように自由行動を取らないだけだ。腹のなかではたいていかぶれている」

「ぼくはあんまりかぶれていない」

原文を見る

「ぼくはあんまり、かぶれていない」

「いないと自分をだましているのだ。――どんな社会だって、欠けたところのない社会はあるまい」

原文を見る

「いないとみずから欺いているのだ。――どんな社会だって陥欠かんけつのない社会はあるまい」

「それはないだろう」

原文を見る

「それはないだろう」

「ないとすれば、その中で生きている生き物はどこかに足りなさを感じるわけだ。イプセンの登場人物は、今の世の中の仕組みの欠けたところをもっともはっきり感じ取ったものだ。我々もだんだん、ああなってくる」

原文を見る

「ないとすれば、そのなかに生息している動物はどこかに不足を感じるわけだ。イブセンの人物は、現代社会制度の陥欠をもっとも明らかに感じたものだ。我々もおいおいああなってくる」

「君はそう思うか」

原文を見る

「君はそう思うか」

「ぼくばかりじゃない。見る目のある人はみんなそう思っている」

原文を見る

「ぼくばかりじゃない。具眼ぐがんの士はみんなそう思っている」

「君の家の先生もそんな考えか」

原文を見る

「君のうちの先生もそんな考えか」

「うちの先生? 先生はわからない」

原文を見る

「うちの先生? 先生はわからない」

「だって、さっき里見さんを評して、落ち着いていて乱暴だと言ったじゃないか。それを考えてみると、周りに合わせていけるから落ち着いていられるので、どこかに足りないところがあるから、底のほうが乱暴だ、という意味じゃないのか」

原文を見る

「だって、さっき里見さんを評して、おちついていて乱暴だと言ったじゃないか。それを解釈してみると、周囲に調和していけるから、おちついていられるので、どこかに不足があるから、底のほうが乱暴だという意味じゃないのか」

「なるほど。――先生は偉いところがあるよ。ああいうところへ行くと、やっぱり偉い」

原文を見る

「なるほど。――先生は偉いところがあるよ。ああいうところへゆくとやっぱり偉い」

と与次郎は急に広田先生をほめ出した。

原文を見る

と与次郎は急に広田先生をほめだした。

三四郎は美禰子の人がらについてもう少し話を進めたかったのだが、与次郎のこの一言でまったくはぐらかされてしまった。

原文を見る

三四郎は美禰子の性格についてもう少し議論の歩を進めたかったのだが、与次郎のこの一言でまったくはぐらかされてしまった。

すると与次郎が言った。

原文を見る

すると与次郎が言った。

「じつは今日、君に用があると言ったのはね。――うん、それより前に、君、あの偉大なる暗闇を読んだか。あれを読んでおかないと、ぼくの用事が頭に入りにくい」

原文を見る

「じつはきょう君に用があると言ったのはね。――うん、それよりまえに、君あの偉大なる暗闇を読んだか。あれを読んでおかないとぼくの用事が頭へはいりにくい」

「今日あれから家へ帰って読んだ」

原文を見る

「きょうあれから家へ帰って読んだ」

「どうだ」

原文を見る

「どうだ」

「先生は何と言った」

原文を見る

「先生はなんと言った」

「先生は読むものかね。まるで知りゃしない」

原文を見る

「先生は読むものかね。まるで知りゃしない」

「そうさな。おもしろいことはおもしろいが、――なんだか腹のたしにならないビールを飲んだようだね」

原文を見る

「そうさな。おもしろいことはおもしろいが、――なんだか腹のたしにならないビールを飲んだようだね」

「それでたくさんだ。読んで勢いがつきさえすればいい。だから名前をかくしてある。どうせ今は準備の時期だ。こうしておいて、ちょうどいい時分に本当の名を名乗って出る。――それはそれとして、さっきの用事を話しておこう」

原文を見る

「それでたくさんだ。読んで景気がつきさえすればいい。だから匿名にしてある。どうせ今は準備時代だ。こうしておいて、ちょうどいい時分に、本名を名乗って出る。――それはそれとして、さっきの用事を話しておこう」

与次郎の用事というのは、こうである。――

原文を見る

与次郎の用事というのはこうである。――

今夜の会で、自分たちの学科がふるわないことをしきりに嘆いてみせるから、三四郎もいっしょに嘆かなくてはいけないんだそうだ。

原文を見る

今夜の会で自分たちの科の不振の事をしきりに慨嘆するから、三四郎もいっしょに慨嘆しなくってはいけないんだそうだ。

ふるわないのは事実であるから、ほかの人も嘆くに決まっている。

原文を見る

不振は事実であるからほかの者も慨嘆するにきまっている。

それから、おおぜいいっしょに立て直しの手だてを考えることになる。

原文を見る

それから、おおぜいいっしょに挽回策ばんかいさくを講ずることとなる。

なにしろ、ふさわしい日本人を一人大学に入れるのが急ぎの仕事だと言い出す。

原文を見る

なにしろ適当な日本人を一人大学に入れるのが急務だと言い出す。

みんなが賛成する。

原文を見る

みんなが賛成する。

当然だから、賛成するのはもちろんだ。

原文を見る

当然だから賛成するのはむろんだ。

次に、だれがよかろうという相談に移る。

原文を見る

次にだれがよかろうという相談に移る。

その時、広田先生の名を持ち出す。

原文を見る

その時広田先生の名を持ち出す。

その時、三四郎は与次郎に口を合わせて、力のかぎり先生をほめろ、という話である。

原文を見る

その時三四郎は与次郎に口を添えて極力先生を賞賛しろという話である。

そうしないと、与次郎が広田の家に置いてもらっていることを知っている人が、疑いを起こさないともかぎらない。

原文を見る

そうしないと、与次郎が広田の食客いそうろうだということを知っている者が疑いを起こさないともかぎらない。

自分は現に置いてもらっているんだから、どう思われてもかまわないが、万一めいわくが広田先生に及ぶようではすまないことになる。

原文を見る

自分は現に食客なんだから、どう思われてもかまわないが、万一わずらいが広田先生に及ぶようではすまんことになる。

もっとも、ほかに仲間が三、四人いるから大丈夫だが、一人でも味方は多いほうが都合がいいから、三四郎もなるべくしゃべるに越したことはない、との考えである。

原文を見る

もっともほかに同志が三、四人はいるから、大丈夫だが、一人でも味方は多いほうが便利だから、三四郎もなるべくしゃべるにしくはないとの意見である。

さて、いよいよみんなの意見がまとまったら、代表を選んで学長の所へ行く、また総長の所へ行く。

原文を見る

さていよいよ衆議一決の暁は、総代を選んで学長の所へ行く、また総長の所へ行く。

もっとも、今夜のうちにそこまでは進まないかもしれない。

原文を見る

もっとも今夜中にそこまでは運ばないかもしれない。

また、進める必要もない。

原文を見る

また運ぶ必要もない。

そのあたりは、その場に合わせてやる。……

原文を見る

そのへんは臨機応変である。……

与次郎はとても口がうまい。

原文を見る

与次郎はすこぶる能弁である。

惜しいことに、その話しぶりがつるつるしているので重みがない。

原文を見る

惜しいことにその能弁がつるつるしているので重みがない。

ある所へ行くと、冗談をまじめに講義しているのかと思われる。

原文を見る

あるところへゆくと冗談をまじめに講義しているかと疑われる。

けれども、もともとたちのいい動きだから、三四郎もだいたいのところで賛成の気持ちを表した。

原文を見る

けれども本来が性質たちのいい運動だから、三四郎もだいたいのうえにおいて賛成の意を表した。

ただ、そのやり方が少し小細工になっておもしろくないと言った。

原文を見る

ただその方法が少しく細工さいくに落ちておもしろくないと言った。

その時、与次郎は通りのまん中で立ち止まった。

原文を見る

その時与次郎は往来のまん中へ立ち留まった。

二人はちょうど森川町の神社の鳥居の前にいる。

原文を見る

二人はちょうど森川町もりかわちょうの神社の鳥居とりいの前にいる。

「小細工になると言うが、ぼくのやることは、自然の手順が狂わないように、あらかじめ人の力で仕組むだけだ。自然にそむいた、わけのわからないことをたくらむのとは中身が違う。細工だってかまわん。細工が悪いのではない。悪い細工が悪いのだ」

原文を見る

「細工に落ちるというが、ぼくのやる事は自然の手順が狂わないようにあらかじめ人力じんりょくで装置するだけだ。自然にそむいた没分暁ぼつぶんぎょうの事を企てるのとはたちが違う。細工だってかまわん。細工が悪いのではない。悪い細工が悪いのだ」

三四郎は言い返せなかった。

原文を見る

三四郎はぐうのも出なかった。

なんだか言いたいことがあるようだけれども、口へ出てこない。

原文を見る

なんだか文句があるようだけれども、口へ出てこない。

与次郎の言い分のうちで、自分がまだ考えていなかった部分だけがはっきり頭に映っている。

原文を見る

与次郎の言いぐさのうちで、自分がまだ考えていなかった部分だけがはっきり頭へ映っている。

三四郎はむしろ、そのほうに感心した。

原文を見る

三四郎はむしろそのほうに感服した。

「それもそうだ」

原文を見る

「それもそうだ」

と、とてもあいまいな返事をして、また肩を並べて歩き出した。

原文を見る

とすこぶる曖昧あいまいな返事をして、また肩を並べて歩きだした。

正門を入ると、急に目の前が広くなる。

原文を見る

正門をはいると、急に目の前が広くなる。

大きな建物が所々に黒く立っている。

原文を見る

大きな建物が所々に黒く立っている。

その屋根がはっきり終わる所から、明るい空になる。

原文を見る

その屋根がはっきり尽きる所から明らかな空になる。

星がとてもたくさんある。

原文を見る

星がおびただしく多い。

「美しい空だ」

原文を見る

「美しい空だ」

と三四郎が言った。

原文を見る

と三四郎が言った。

与次郎も空を見ながら、二メートルばかり歩いた。

原文を見る

与次郎も空を見ながら、一間ばかり歩いた。

突然、

原文を見る

突然、

「おい、君」

原文を見る

「おい、君」

と三四郎を呼んだ。

原文を見る

と三四郎を呼んだ。

三四郎は、またさっきの話の続きかと思って「なんだ」

原文を見る

三四郎はまたさっきの話の続きかと思って「なんだ」

と答えた。

原文を見る

と答えた。

「君、こういう空を見てどんな感じがする」

原文を見る

「君、こういう空を見てどんな感じを起こす」

与次郎に似合わないことを言った。

原文を見る

与次郎に似合わぬことを言った。

かぎりがないとか、いつまでも続くとか、ありきたりの答えはいくらでもあるが、そんなことを言うと与次郎に笑われると思って、三四郎は黙っていた。

原文を見る

無限とか永久とかいう持ち合わせの答はいくらでもあるが、そんなことを言うと与次郎に笑われると思って三四郎は黙っていた。

「つまらんなあ、我々は。明日から、こんな動きをするのはもうやめにしようかしら。偉大なる暗闇を書いても、何の役にも立ちそうにもない」

原文を見る

「つまらんなあ我々は。あしたから、こんな運動をするのはもうやめにしようかしら。偉大なる暗闇を書いてもなんの役にも立ちそうにもない」

「なぜ急にそんなことを言い出したのか」

原文を見る

「なぜ急にそんな事を言いだしたのか」

「この空を見ると、そういう考えになる。――君、女の人にほれたことがあるか」

原文を見る

「この空を見ると、そういう考えになる。――君、女にほれたことがあるか」

三四郎はすぐには答えられなかった。

原文を見る

三四郎は即答ができなかった。

「女の人は恐ろしいものだよ」

原文を見る

「女は恐ろしいものだよ」

と与次郎が言った。

原文を見る

と与次郎が言った。

「恐ろしいものだ。ぼくも知っている」

原文を見る

「恐ろしいものだ、ぼくも知っている」

と三四郎も言った。

原文を見る

と三四郎も言った。

すると与次郎が大きな声で笑い出した。

原文を見る

すると与次郎が大きな声で笑いだした。

静かな夜の中で、たいへん高く聞こえる。

原文を見る

静かな夜の中でたいへん高く聞こえる。

「知りもしないくせに。知りもしないくせに」

原文を見る

「知りもしないくせに。知りもしないくせに」

三四郎はがっかりして黙っていた。

原文を見る

三四郎は憮然ぶぜんとしていた。

「明日もよい天気だ。運動会はしあわせだ。きれいな女の人がたくさん来る。ぜひ見に来るがいい」

原文を見る

「あすもよい天気だ。運動会はしあわせだ。きれいな女がたくさん来る。ぜひ見にくるがいい」

暗い中を、二人は学生集会所の前まで来た。

原文を見る

暗い中を二人は学生集会所の前まで来た。

中には電灯が輝いている。

原文を見る

中には電燈が輝いている。

木の廊下を回って部屋へ入ると、早く来た人はもうかたまっている。

原文を見る

木造の廊下を回って、部屋へやへはいると、そうそう来た者は、もうかたまっている。

そのかたまりが、大きいのと小さいのと合わせて三つほどある。

原文を見る

そのかたまりが大きいのと小さいのと合わせて三つほどある。

中には黙って備え付けの雑誌や新聞を見ながら、わざと列を離れているのもある。

原文を見る

なかには無言で備え付けの雑誌や新聞を見ながら、わざと列を離れているのもある。

話はあちこちに聞こえる。

原文を見る

話は方々に聞こえる。

話の数はかたまりの数より多いように思われる。

原文を見る

話の数はかたまりの数より多いように思われる。

しかし、わりあいに落ち着いて静かである。

原文を見る

しかしわりあいにおちついて静かである。

たばこの煙のほうがものすごく立ち上る。

原文を見る

煙草たばこの煙のほうが猛烈に立ち上る。

そのうち、だんだん寄って来る。

原文を見る

そのうちだんだん寄って来る。

黒い影が闇の中から吹きさらしの廊下の上へぽつりと現れると、それが一人一人に明るくなって、部屋の中へ入って来る。

原文を見る

黒い影がやみの中から吹きさらしの廊下の上へ、ぽつりと現われると、それが一人一人に明るくなって、部屋の中へはいって来る。

時には五、六人続けて明るくなることもある。

原文を見る

時には五、六人続けて、明るくなることもある。

が、やがて人数はほぼそろった。

原文を見る

が、やがて人数にんずはほぼそろった。

与次郎はさっきから、たばこの煙の中をしきりにあちこちと行き来していた。

原文を見る

与次郎は、さっきから、煙草の煙の中を、しきりにあちこちと往来していた。

行く先々で何か小声に話している。

原文を見る

行く所で何か小声に話している。

三四郎は、そろそろ動き出したなと思って眺めていた。

原文を見る

三四郎は、そろそろ運動を始めたなと思ってながめていた。

しばらくすると世話係が大きな声で、みんなに席へ着けと言う。

原文を見る

しばらくすると幹事が大きな声で、みんなに席へ着けと言う。

食卓はもちろん前から用意ができていた。

原文を見る

食卓はむろん前から用意ができていた。

みんな、ばらばらに席へ着いた。

原文を見る

みんな、ごたごたに席へ着いた。

順序も何もない。

原文を見る

順序もなにもない。

食事は始まった。

原文を見る

食事は始まった。

三四郎は熊本で赤酒ばかり飲んでいた。

原文を見る

三四郎は熊本で赤酒あかざけばかり飲んでいた。

赤酒というのは、その土地でできる安い酒である。

原文を見る

赤酒というのは、所でできる下等な酒である。

熊本の学生はみんな赤酒を飲む。

原文を見る

熊本の学生はみんな赤酒を飲む。

それが当たり前だと思っている。

原文を見る

それが当然と心得ている。

たまに食べ物屋へ上がれば牛肉屋である。

原文を見る

たまたま飲食店へ上がれば牛肉屋である。

その牛肉屋の牛が馬の肉かもしれないという疑いがある。

原文を見る

その牛肉屋のぎゅうが馬肉かもしれないという嫌疑けんぎがある。

学生は皿に盛った肉を手づかみにして、座敷の壁へたたきつける。

原文を見る

学生は皿に盛った肉を手づかみにして、座敷の壁へたたきつける。

落ちれば牛肉で、くっつけば馬の肉だという。

原文を見る

落ちれば牛肉で、ひっつけば馬肉だという。

まるで、まじないのようなことをしていた。

原文を見る

まるでまじないみたような事をしていた。

その三四郎にとって、こういう行儀のいい学生の集まりは珍しい。

原文を見る

その三四郎にとって、こういう紳士的な学生親睦会しんぼくかいは珍しい。

喜んでナイフとフォークを動かしていた。

原文を見る

喜んでナイフとフォークを動かしていた。

その間にはビールをさかんに飲んだ。

原文を見る

そのあいだにはビールをさかんに飲んだ。

「学生集会所の料理はまずいですね」

原文を見る

「学生集会所の料理はまずいですね」

と、三四郎のとなりにすわった男が話しかけた。

原文を見る

と三四郎に隣にすわった男が話しかけた。

この男は頭を坊主に刈って、金ぶちの眼鏡をかけたおとなしい学生であった。

原文を見る

この男は頭を坊主に刈って、金縁の眼鏡めがねをかけたおとなしい学生であった。

「そうですな」

原文を見る

「そうですな」

と三四郎はいいかげんな返事をした。

原文を見る

と三四郎はなま返事をした。

相手が与次郎なら、ぼくのような田舎者にはたいへんうまい、と正直なところを言うはずであったが、その正直がかえって皮肉に聞こえると悪いと思ってやめにした。

原文を見る

相手が与次郎なら、ぼくのようないなか者には非常にうまいと正直なところをいうはずであったが、その正直がかえって皮肉に聞こえると悪いと思ってやめにした。

すると、その男が、

原文を見る

するとその男が、

「君はどこの高等学校ですか」

原文を見る

「君はどこの高等学校ですか」

と聞き出した。

原文を見る

と聞きだした。

「熊本です」

原文を見る

「熊本です」

「熊本ですか。熊本にはぼくのいとこもいたが、ずいぶんひどい所だそうですね」

原文を見る

「熊本ですか。熊本にはぼくの従弟いとこもいたが、ずいぶんひどい所だそうですね」

「乱暴な所です」

原文を見る

「野蛮な所です」

二人が話していると、向こうの方で急に高い声がし出した。

原文を見る

二人が話していると、向こうの方で、急に高い声がしだした。

見ると与次郎がとなりの席の二、三人を相手に、しきりに何か語っている。

原文を見る

見ると与次郎が隣席の二、三人を相手に、しきりに何か弁じている。

時々ダーターファブラと言う。

原文を見る

時々ダーターファブラと言う。

何のことだかわからない。

原文を見る

なんの事だかわからない。

しかし与次郎の相手は、この言葉を聞くたびに笑い出す。

原文を見る

しかし与次郎の相手は、この言葉を聞くたびに笑いだす。

与次郎はますます得意になって、ダーターファブラ、我々新しい時代の青年は……とやっている。

原文を見る

与次郎はますます得意になって、ダーターファブラ我々新時代の青年は……とやっている。

三四郎のななめ向かいにすわっていた色の白い品のいい学生が、しばらくナイフの手を休めて与次郎たちを眺めていたが、やがて笑いながら Il a le diable au corps(悪魔が乗り移っている)と冗談半分にフランス語を使った。

原文を見る

三四郎の筋向こうにすわっていた色の白い品のいい学生が、しばらくナイフの手を休めて、与次郎の連中をながめていたが、やがて笑いながら Ilイル a le diableディアブル auオー corpsコール(悪魔が乗り移っている)と冗談半分にフランス語を使った。

向こうの人たちにはまったく聞こえなかったと見えて、この時ビールのコップが四つばかり一度に高く上がった。

原文を見る

向こうの連中にはまったく聞こえなかったとみえて、この時ビールのコップが四つばかり一度に高く上がった。

得意そうに乾杯をしている。

原文を見る

得意そうに祝盃をあげている。

「あの人はたいへんにぎやかな人ですね」

原文を見る

「あの人はたいへんにぎやかな人ですね」

と、三四郎のとなりの金ぶち眼鏡をかけた学生が言った。

原文を見る

と三四郎の隣の金縁眼鏡をかけた学生が言った。

「ええ。よくしゃべります」

原文を見る

「ええ。よくしゃべります」

「ぼくはいつか、あの人に淀見軒でライスカレーをごちそうになった。まるで知らないのに、突然来て、君、淀見軒へ行こうって、とうとう引っ張っていって……」

原文を見る

「ぼくはいつか、あの人に淀見軒でライスカレーをごちそうになった。まるで知らないのに、突然来て、君淀見軒へ行こうって、とうとう引っ張っていって……」

学生はハハハと笑った。

原文を見る

学生はハハハと笑った。

三四郎は、淀見軒で与次郎からライスカレーをごちそうになったのは自分ばかりではないんだな、と悟った。

原文を見る

三四郎は、淀見軒で与次郎からライスカレーをごちそうになったものは自分ばかりではないんだなと悟った。

やがてコーヒーが出る。

原文を見る

やがてコーヒーが出る。

一人が椅子を離れて立った。

原文を見る

一人が椅子いすを離れて立った。

与次郎が激しく手をたたくと、ほかの人もたちまち調子を合わせた。

原文を見る

与次郎が激しく手をたたくと、ほかの者もたちまち調子を合わせた。

立った人は、新しい黒の制服を着て、鼻の下にもうひげをはやしている。

原文を見る

立った者は、新しい黒の制服を着て、鼻の下にもうひげをはやしている。

背がとても高い。

原文を見る

背がすこぶる高い。

立つには格好のよい男である。

原文を見る

立つには恰好かっこうのよい男である。

演説のようなことを始めた。

原文を見る

演説めいたことを始めた。

我々が今夜ここに集まって、仲よくするために一晩の楽しみを尽くすのは、それだけでも愉快なことであるが、この集まりが単に付き合いの意味ばかりでなく、それ以外に一つの大事な力を生むと、たまたま気がついたら、自分は立ちたくなった。

原文を見る

我々が今夜ここへ寄って、懇親のために、一夕いっせきの歓をつくすのは、それ自身において愉快な事であるが、この懇親が単に社交上の意味ばかりでなく、それ以外に一種重要な影響を生じうると偶然ながら気がついたら自分は立ちたくなった。

この会はビールに始まってコーヒーに終わっている。

原文を見る

この会合はビールに始まってコーヒーに終っている。

まったくふつうの会である。

原文を見る

まったく普通の会合である。

しかし、このビールを飲んでコーヒーを飲んだ四十人近くの人間はふつうの人間ではない。

原文を見る

しかしこのビールを飲んでコーヒーを飲んだ四十人近くの人間は普通の人間ではない。

しかも、そのビールを飲み始めてからコーヒーを飲み終わるまでの間に、すでに自分の運命がふくらむのを感じ取れた。

原文を見る

しかもそのビールを飲み始めてからコーヒーを飲み終るまでのあいだに、すでに自己の運命の膨脹を自覚しえた。

政治の自由を説いたのは昔のことである。

原文を見る

政治の自由を説いたのは昔の事である。

言葉の自由を説いたのも過ぎたことである。

原文を見る

言論の自由を説いたのも過去の事である。

自由とは、ただ、こうした表に出やすい事がらのためだけに使われるべき言葉ではない。

原文を見る

自由とは単にこれらの表面にあらわれやすい事実のために専有されべき言葉ではない。

我ら新しい時代の青年は、大いなる心の自由を説かねばならない時にめぐり会ったと信じる。

原文を見る

我ら新時代の青年は偉大なる心の自由を説かねばならぬ時運に際会したと信ずる。

我々は古い日本の押しつけに耐えられない青年である。

原文を見る

我々は古き日本の圧迫にええぬ青年である。

同時に、新しい西洋の押しつけにも耐えられない青年であるということを、世間に言わずにはいられない中で生きている。

原文を見る

同時に新しき西洋の圧迫にもええぬ青年であるということを、世間に発表せねばいられぬ状況のもとに生きている。

新しい西洋の押しつけは、世の中の上でも文芸の上でも、我ら新しい時代の青年にとっては古い日本の押しつけと同じく苦しい。

原文を見る

新しき西洋の圧迫は社会の上においても文芸の上においても、我ら新時代の青年にとっては古き日本の圧迫と同じく、苦痛である。

我々は西洋の文芸を研究する者である。

原文を見る

我々は西洋の文芸を研究する者である。

しかし、研究はどこまでも研究である。

原文を見る

しかし研究はどこまでも研究である。

その文芸の下にしたがうのとは、もとから違いがある。

原文を見る

その文芸のもとに屈従するのとは根本的に相違がある。

我々は西洋の文芸にとらわれるためにこれを研究するのではない。

原文を見る

我々は西洋の文芸にとらわれんがために、これを研究するのではない。

とらわれた心を解き放つためにこれを研究しているのである。

原文を見る

とらわれたる心を解脱げだつせしめんがために、これを研究しているのである。

この目的に合わない文芸は、どんなに強く押しつけられようとも、あえて学ばないという自信と決心とを持っている。

原文を見る

この方便に合せざる文芸はいかなる威圧のもとにしいらるるとも学ぶ事をあえてせざるの自信と決心とを有している。

我々はこの自信と決心とを持っている点で、ふつうの人間とは違っている。

原文を見る

我々はこの自信と決心とを有するの点において普通の人間とは異なっている。

文芸は技術でもない、事務でもない。

原文を見る

文芸は技術でもない、事務でもない。

より多く人生のいちばん大事な意味に触れた、社会を動かす力である。

原文を見る

より多く人生の根本義に触れた社会の原動力である。

我々はこの意味で文芸を研究し、この意味で右のような自信と決心とを持ち、この意味で今夜の会に、世間ふつう以上の大事な力を思い描くのである。

原文を見る

我々はこの意味において文芸を研究し、この意味において如上じょじょうの自信と決心とを有し、この意味において今夕こんせきの会合に一般以上の重大なる影響を想見するのである。

社会は激しく動きつつある。

原文を見る

社会は激しく動きつつある。

社会が生んだ文芸もまた動きつつある。

原文を見る

社会の産物たる文芸もまた動きつつある。

動く勢いに乗って、我々の理想どおりに文芸を導くためには、ばらばらの一人一人が力を合わせて、自分の運命を満たし、伸ばし、ふくらませなくてはならない。

原文を見る

動く勢いに乗じて、我々の理想どおりに文芸を導くためには、零細なる個人を団結して、自己の運命を充実し発展し膨脹しなくてはならぬ。

今夜のビールとコーヒーは、こうした隠れた目的を一歩前に進めた点で、ふつうのビールとコーヒーよりも百倍以上の値打ちある尊いビールとコーヒーである。

原文を見る

今夕のビールとコーヒーは、かかる隠れたる目的を、一歩前に進めた点において、普通のビールとコーヒーよりも百倍以上の価ある尊きビールとコーヒーである。

演説の意味は、ざっとこんなものである。

原文を見る

演説の意味はざっとこんなものである。

演説が済んだ時、席にいた学生はみんな拍手した。

原文を見る

演説が済んだ時、席にあった学生はことごとく喝采かっさいした。

三四郎はもっとも熱心に拍手した一人であった。

原文を見る

三四郎はもっとも熱心なる喝采者の一人であった。

すると与次郎が突然立った。

原文を見る

すると与次郎が突然立った。

「ダーターファブラ、シェークスピアの使った字数が何万字だの、イプセンの白髪の数が何千本だのと言ってたってしかたがない。もっとも、そんなばかげた講義を聞いたって、とらわれる心配はないから大丈夫だが、大学に気の毒でいけない。どうしても新しい時代の青年を満足させるような人を引っ張って来なくちゃ。西洋人じゃだめだ。第一、幅がきかない。……」

原文を見る

「ダーターファブラ、シェクスピヤの使った字数じかずが何万字だの、イブセンの白髪しらがの数が何千本だのと言ってたってしかたがない。もっともそんなばかげた講義を聞いたってとらわれる気づかいはないから大丈夫だが、大学に気の毒でいけない。どうしても新時代の青年を満足させるような人間を引っ張って来なくっちゃ。西洋人じゃだめだ。第一幅がきかない。……」

部屋じゅうが、またみんな拍手した。

原文を見る

満堂はまたことごとく喝采した。

そうして、みんな笑った。

原文を見る

そうしてことごとく笑った。

与次郎のとなりにいた人が、

原文を見る

与次郎の隣にいた者が、

「ダーターファブラのために乾杯しよう」

原文を見る

「ダーターファブラのために祝盃をあげよう」

と言い出した。

原文を見る

と言いだした。

さっき演説をした学生がすぐに賛成した。

原文を見る

さっき演説をした学生がすぐに賛成した。

あいにくビールがみな空である。

原文を見る

あいにくビールがみなからである。

よろしいと言って、与次郎はすぐ台所の方へ駆けて行った。

原文を見る

よろしいと言って与次郎はすぐ台所の方へかけて行った。

世話をする人が酒を持って出る。

原文を見る

給仕が酒を持って出る。

乾杯をするやいなや、

原文を見る

祝盃をあげるやいなや、

「もう一つ。今度は偉大なる暗闇のために」

原文を見る

「もう一つ。今度は偉大なる暗闇のために」

と言った人がある。

原文を見る

と言った者がある。

与次郎の周りにいた人は声を合わせて、アハハと笑った。

原文を見る

与次郎の周囲にいた者は声を合して、アハハと笑った。

与次郎は頭をかいている。

原文を見る

与次郎は頭をかいている。

会が終わる時刻が来て、若い男がみな暗い夜の中に散った時、三四郎が与次郎に聞いた。

原文を見る

散会の時刻が来て、若い男がみな暗い夜の中に散った時に、三四郎が与次郎に聞いた。

「ダーターファブラとは何のことだ」

原文を見る

「ダーターファブラとはなんの事だ」

「ギリシア語だ」

原文を見る

「ギリシア語だ」

与次郎はそれよりほかに答えなかった。

原文を見る

与次郎はそれよりほかに答えなかった。

三四郎もそれよりほかに聞かなかった。

原文を見る

三四郎もそれよりほかに聞かなかった。

二人は美しい空の下を家に帰った。

原文を見る

二人は美しい空をいただいて家に帰った。

翌日は思ったとおりの好天気である。

原文を見る

あくる日は予想のごとく好天気である。

今年はいつもの年より気候がずっとおだやかである。

原文を見る

今年は例年より気候がずっとゆるんでいる。

とくに今日は暖かい。

原文を見る

ことさらきょうは暖かい。

三四郎は朝のうち風呂屋に行った。

原文を見る

三四郎は朝のうち湯に行った。

ひまな人の少ない世の中だから、午前はとてもすいている。

原文を見る

閑人ひまじんの少ない世の中だから、午前はすこぶるすいている。

三四郎は板の間にかけてある三越呉服店の看板を見た。

原文を見る

三四郎は板の間にかけてある三越みつこし呉服店の看板を見た。

きれいな女の人が描いてある。

原文を見る

きれいな女がかいてある。

その人の顔がどこか美禰子に似ている。

原文を見る

その女の顔がどこか美禰子に似ている。

よく見ると目つきが違っている。

原文を見る

よく見ると目つきが違っている。

歯並びがわからない。

原文を見る

歯並がわからない。

美禰子の顔でもっとも三四郎を驚かせたものは、目つきと歯並びである。

原文を見る

美禰子の顔でもっとも三四郎を驚かしたものは目つきと歯並である。

与次郎の説によると、あの人は出っ歯ぎみだから、ああしょっちゅう歯が出るんだそうだが、三四郎にはけっしてそうは思えない。……

原文を見る

与次郎の説によると、あの女はの気味だから、ああしじゅう歯が出るんだそうだが、三四郎にはけっしてそうは思えない。……

三四郎は湯につかってこんなことを考えていたので、体のほうはあまり洗わずに出た。

原文を見る

三四郎は湯につかってこんな事を考えていたので、からだのほうはあまり洗わずに出た。

昨夜から急に新しい時代の青年だという気持ちが強くなったけれども、強いのは気持ちだけで、体のほうはもとのままである。

原文を見る

ゆうべから急に新時代の青年という自覚が強くなったけれども、強いのは自覚だけで、からだのほうはもとのままである。

休みになると、ほかの人よりずっと楽にしている。

原文を見る

休みになるとほかの者よりずっと楽にしている。

今日は昼から大学の陸上運動会を見に行くつもりである。

原文を見る

きょうは昼から大学の陸上運動会を見に行く気である。

三四郎はもともとあまり運動好きではない。

原文を見る

三四郎は元来あまり運動好きではない。

ふるさとにいる時、うさぎ狩りを二、三度したことがある。

原文を見る

国にいるとき兎狩うさぎがりを二、三度したことがある。

それから高等学校のボートレースの時に、旗振りの役をしたことがある。

原文を見る

それから高等学校の端艇競漕ボートきょうそうの時に旗振りの役を勤めたことがある。

その時、青と赤とを間違えて振って、たいへん文句が出た。

原文を見る

その時青と赤と間違えて振ってたいへん苦情が出た。

もっとも、ゴールの合図の鉄砲を撃つ係の先生が鉄砲を撃ちそこなった。

原文を見る

もっとも決勝の鉄砲を打つ係りの教授が鉄砲を打ちそくなった。

撃つには撃ったが音がしなかった。

原文を見る

打つには打ったが音がしなかった。

これが三四郎のあわてたわけである。

原文を見る

これが三四郎のあわてた原因である。

それ以来、三四郎は運動会へ近づかなかった。

原文を見る

それより以来三四郎は運動会へ近づかなかった。

しかし今日は東京へ来てはじめての競技会だから、ぜひ行ってみるつもりである。

原文を見る

しかしきょうは上京以来はじめての競技会だから、ぜひ行ってみるつもりである。

与次郎もぜひ行ってみろと勧めた。

原文を見る

与次郎もぜひ行ってみろと勧めた。

与次郎の言うところによると、競技より女の人のほうが見に行く値打ちがあるのだそうだ。

原文を見る

与次郎の言うところによると競技より女のほうが見にゆく価値があるのだそうだ。

女の人の中には野々宮さんの妹がいるだろう。

原文を見る

女のうちには野々宮さんの妹がいるだろう。

野々宮さんの妹といっしょに美禰子もいるだろう。

原文を見る

野々宮さんの妹といっしょに美禰子もいるだろう。

そこへ行って、こんにちは、とか何とかあいさつをしてみたい。

原文を見る

そこへ行って、こんちわとかなんとか挨拶あいさつをしてみたい。

昼過ぎになったから出かけた。

原文を見る

昼過ぎになったから出かけた。

会場の入口は運動場の南の隅にある。

原文を見る

会場の入口は運動場の南のすみにある。

大きな日の丸とイギリスの国旗が交差してある。

原文を見る

大きな日の丸とイギリスの国旗が交差してある。

日の丸はわかるが、イギリスの国旗は何のためだかわからない。

原文を見る

日の丸は合点がてんがいくが、イギリスの国旗はなんのためだかわからない。

三四郎は日英同盟のせいかとも考えた。

原文を見る

三四郎は日英同盟のせいかとも考えた。

けれども日英同盟と大学の陸上運動会とにどういう関係があるか、まるで見当がつかなかった。

原文を見る

けれども日英同盟と大学の陸上運動会とは、どういう関係があるか、とんと見当がつかなかった。

運動場は長方形の芝生である。

原文を見る

運動場は長方形の芝生しばふである。

秋が深いので芝の色がだいぶさめている。

原文を見る

秋が深いので芝の色がだいぶさめている。

競技を見る所は西側にある。

原文を見る

競技を見る所は西側にある。

後ろに大きな築山(つきやま)をいっぱいに置いて、前は運動場の柵で仕切られた中へ、みんなを追いこむ仕掛けになっている。

原文を見る

後に大きな築山つきやまをいっぱいに控えて、前は運動場のさくで仕切られた中へ、みんなを追い込むしかけになっている。

せまいわりに見物人が多いので、とてもきゅうくつである。

原文を見る

狭いわりに見物人が多いのではなはだ窮屈である。

さいわい天気がよいので寒くはない。

原文を見る

さいわい日和ひよりがよいので寒くはない。

しかし外とうを着ている人がだいぶある。

原文を見る

しかし外套がいとうを着ている者がだいぶある。

その代わり、かさをさして来た女の人もある。

原文を見る

その代りかさをさして来た女もある。

三四郎ががっかりしたのは、女の人の席が別になっていて、ふつうの人には近寄れないことであった。

原文を見る

三四郎が失望したのは婦人席が別になっていて、普通の人間には近寄れないことであった。

それから、フロックコートや何か着た偉そうな男がたくさん集まって、自分が案外幅がきかないように見えたことであった。

原文を見る

それからフロックコートや何か着た偉そうな男がたくさん集って、自分が存外幅のきかないようにみえたことであった。

新しい時代の青年だと思っている三四郎は、少し小さくなっていた。

原文を見る

新時代の青年をもってみずからおる三四郎は少し小さくなっていた。

それでも、人と人との間から女の人の席の方を見わたすことは忘れなかった。

原文を見る

それでも人と人との間から婦人席の方を見渡すことは忘れなかった。

横からだからよく見えないが、ここはさすがにきれいである。

原文を見る

横からだからよく見えないが、ここはさすがにきれいである。

みんな着飾っている。

原文を見る

ことごとく着飾っている。

そのうえ遠いから、顔がみんな美しい。

原文を見る

そのうえ遠距離だから顔がみんな美しい。

その代わり、だれが目立って美しいということもない。

原文を見る

その代りだれが目立って美しいということもない。

ただ全体が全体として美しい。

原文を見る

ただ総体が総体として美しい。

女の人が男をやりこめる色である。

原文を見る

女が男を征服する色である。

ある人がほかの人に勝つ色ではなかった。

原文を見る

甲の女が乙の女に打ち勝つ色ではなかった。

そこで三四郎はまたがっかりした。

原文を見る

そこで三四郎はまた失望した。

しかし気をつけたらどこかにいるだろうと思ってよく見わたすと、はたして前列のいちばん柵に近い所に二人並んでいた。

原文を見る

しかし注意したら、どこかにいるだろうと思って、よく見渡すと、はたして前列のいちばん柵に近い所に二人並んでいた。

三四郎は見るところがようやくわかったので、まず一区切りついたような気で安心していると、たちまち五、六人の男が目の前に飛んで出た。

原文を見る

三四郎は目のつけ所がようやくわかったので、まず一段落告げたような気で、安心していると、たちまち五、六人の男が目の前に飛んで出た。

二百メートルの競走が済んだのである。

原文を見る

二百メートルの競走が済んだのである。

ゴールは美禰子とよし子がすわっている真正面で、しかも鼻の先だから、二人を見つめていた三四郎の目の中には、どうしてもこの若者たちが入ってくる。

原文を見る

決勝点は美禰子とよし子がすわっている真正面で、しかも鼻の先だから、二人を見つめていた三四郎の視線のうちにはぜひともこれらの壮漢がはいってくる。

五、六人はやがて十二、三人にふえた。

原文を見る

五、六人はやがて一二、三人にふえた。

みんな息をはずませているように見える。

原文を見る

みんな呼吸いきをはずませているようにみえる。

三四郎はこの学生たちの様子と自分の様子とを比べてみて、その違いに驚いた。

原文を見る

三四郎はこれらの学生の態度と自分の態度とを比べてみて、その相違に驚いた。

どうして、ああ後先も考えずに走る気になれたものだろうと思った。

原文を見る

どうして、ああ無分別にかける気になれたものだろうと思った。

しかし女の人たちはみんな熱心に見ている。

原文を見る

しかし婦人連はことごとく熱心に見ている。

その中でも美禰子とよし子はもっとも熱心らしい。

原文を見る

そのうちでも美禰子とよし子はもっとも熱心らしい。

三四郎は自分も後先を考えずに走ってみたくなった。

原文を見る

三四郎は自分も無分別にかけてみたくなった。

一番に着いた人が、紫のパンツをはいて女の人の席の方を向いて立っている。

原文を見る

一番に到着した者が、紫の猿股さるまたをはいて婦人席の方を向いて立っている。

よく見ると、昨夜の集まりで演説をした学生に似ている。

原文を見る

よく見ると昨夜の親睦会しんぼくかいで演説をした学生に似ている。

ああ背が高くては一番になるはずである。

原文を見る

ああ背が高くては一番になるはずである。

記録の係が黒板に二十五秒七四と書いた。

原文を見る

計測係りが黒板に二十五秒七四と書いた。

書き終わって、余ったチョークを向こうへ投げて、こちらを向いたところを見ると野々宮さんであった。

原文を見る

書き終って、余りの白墨を向こうへなげて、こっちを向いたところを見ると野々宮さんであった。

野々宮さんはいつになくまっ黒なフロックコートを着て、胸に係の記章をつけて、だいぶ立派に見える。

原文を見る

野々宮さんはいつになくまっ黒なフロックを着て、胸に係り員の徽章きしょうをつけて、だいぶ人品がいい。

ハンカチを出して洋服のそでを二、三度はたいたが、やがて黒板を離れて芝生の上を横切って来た。

原文を見る

ハンケチを出して、洋服のそでを二、三度はたいたが、やがて黒板を離れて、芝生の上を横切って来た。

ちょうど美禰子とよし子のすわっている真ん前の所へ出た。

原文を見る

ちょうど美禰子とよし子のすわっているまん前の所へ出た。

低い柵の向こう側から首を女の人の席の中へ伸ばして、何か言っている。

原文を見る

低い柵の向こう側から首を婦人席の中へ延ばして、何か言っている。

美禰子は立った。

原文を見る

美禰子は立った。

野々宮さんの所まで歩いて行く。

原文を見る

野々宮さんの所まで歩いてゆく。

柵の向こうとこちらで話を始めたように見える。

原文を見る

柵の向こうとこちらで話を始めたように見える。

美禰子は急に振り返った。

原文を見る

美禰子は急に振り返った。

うれしそうな笑いに満ちた顔である。

原文を見る

うれしそうな笑いにみちた顔である。

三四郎は遠くから一生けんめいに二人を見守っていた。

原文を見る

三四郎は遠くから一生懸命に二人を見守っていた。

すると、よし子が立った。

原文を見る

すると、よし子が立った。

また柵のそばへ寄って行く。

原文を見る

また柵のそばへ寄って行く。

二人が三人になった。

原文を見る

二人が三人になった。

芝生の中では砲丸投げが始まった。

原文を見る

芝生の中では砲丸投げが始まった。

砲丸投げほど力のいるものはなかろう。

原文を見る

砲丸投げほど力のいるものはなかろう。

力のいるわりに、これほどおもしろくないものもそうはない。

原文を見る

力のいるわりにこれほどおもしろくないものもたんとない。

ただ、文字どおり砲丸を投げるのである。

原文を見る

ただ文字どおり砲丸を投げるのである。

わざでも何でもない。

原文を見る

芸でもなんでもない。

野々宮さんは柵の所でちょっとこの様子を見て笑っていた。

原文を見る

野々宮さんは柵の所で、ちょっとこの様子を見て笑っていた。

けれども、見物のじゃまになると悪いと思ったのであろう。

原文を見る

けれども見物のじゃまになると悪いと思ったのであろう。

柵を離れて芝生の中へもどった。

原文を見る

柵を離れて芝生の中へ引き取った。

二人の女の人も、もとの席へもどった。

原文を見る

二人の女も、もとの席へ復した。

砲丸は時々投げられている。

原文を見る

砲丸は時々投げられている。

第一、どのくらい遠くまで行くんだか、ほとんど三四郎にはわからない。

原文を見る

第一どのくらい遠くまでゆくんだか、ほとんど三四郎にはわからない。

三四郎はばかばかしくなった。

原文を見る

三四郎はばかばかしくなった。

それでも我慢して立っていた。

原文を見る

それでも我慢して立っていた。

ようやくのことで終わったと見えて、野々宮さんはまた黒板へ十一メートル三八と書いた。

原文を見る

ようやくのことで片がついたとみえて、野々宮さんはまた黒板へ十一メートル三八と書いた。

それからまた競走があって、走り幅とびがあって、その次にはハンマー投げが始まった。

原文を見る

それからまた競走があって、長飛びがあって、その次にはつち投げが始まった。

三四郎はこのハンマー投げになって、とうとう我慢しきれなくなった。

原文を見る

三四郎はこの槌投げにいたって、とうとう辛抱しんぼうがしきれなくなった。

運動会はめいめい勝手に開くべきものである。

原文を見る

運動会はめいめいかってに開くべきものである。

人に見せるべきものではない。

原文を見る

人に見せべきものではない。

あんなものを熱心に見物する女の人はみんな間違っている、とまで思いこんで、会場を抜け出して裏の築山の所まで来た。

原文を見る

あんなものを熱心に見物する女はことごとく間違っているとまで思い込んで、会場を抜け出して、裏の築山の所まで来た。

幕が張ってあって通れない。

原文を見る

幕が張ってあって通れない。

引き返して砂利の敷いてある所を少し来ると、会場からにげた人がちらほら歩いている。

原文を見る

引き返して砂利じゃりの敷いてある所を少し来ると、会場から逃げた人がちらほら歩いている。

着飾った女の人も見える。

原文を見る

盛装した婦人も見える。

三四郎はまた右へ折れて、つま先上がりの道を丘のてっぺんまで来た。

原文を見る

三四郎はまた右へ折れて、爪先上つまさきのぼりを丘のてっぺんまで来た。

道はてっぺんで終わっている。

原文を見る

道はてっぺんで尽きている。

大きな石がある。

原文を見る

大きな石がある。

三四郎はその上に腰をかけて、高いがけの下にある池を眺めた。

原文を見る

三四郎はその上へ腰をかけて、高いがけの下にある池をながめた。

下の運動会場で、わあというおおぜいの声がする。

原文を見る

下の運動会場でわあというおおぜいの声がする。

三四郎はおよそ五分ばかり、石に腰をかけたままぼんやりしていた。

原文を見る

三四郎はおよそ五分ばかり石へ腰をかけたままぼんやりしていた。

やがてまた動く気になったので腰を上げて、立ちながら靴のかかとを向け直すと、丘の上り口の、薄く色づいた紅葉の間にさっきの二人の影が見えた。

原文を見る

やがてまた動く気になったので腰を上げて、立ちながらくつかかとを向け直すと、丘の上りぎわの、薄く色づいた紅葉もみじの間に、さっきの女の影が見えた。

並んで丘のふもとを通る。

原文を見る

並んで丘のすそを通る。

三四郎は上から二人を見下ろしていた。

原文を見る

三四郎は上から、二人を見おろしていた。

二人は枝のすき間から明るい日なたへ出て来た。

原文を見る

二人は枝のすきから明らかな日向ひなたへ出て来た。

黙っていると、前を通り抜けてしまう。

原文を見る

黙っていると、前を通り抜けてしまう。

三四郎は声をかけようかと考えた。

原文を見る

三四郎は声をかけようかと考えた。

きょりがあまり遠すぎる。

原文を見る

距離があまり遠すぎる。

急いで二、三歩、芝の上をふもとの方へ降りた。

原文を見る

急いで二、三歩芝の上を裾の方へ降りた。

降り出すと、いい具合に一人がこちらを向いてくれた。

原文を見る

降り出すといいぐあいに女の一人がこっちを向いてくれた。

三四郎はそれで止まった。

原文を見る

三四郎はそれでとまった。

じつは、こちらからあまり機嫌を取りたくない。

原文を見る

じつはこちらからあまりごきげんをとりたくない。

運動会が少ししゃくにさわっている。

原文を見る

運動会が少ししゃくにさわっている。

「あんな所に……」

原文を見る

「あんな所に……」

と、よし子が言い出した。

原文を見る

とよし子が言いだした。

驚いて笑っている。

原文を見る

驚いて笑っている。

この人はどんなありふれたものを見ても、珍しそうな目つきをするように思われる。

原文を見る

この女はどんな陳腐ちんぷなものを見ても珍しそうな目つきをするように思われる。

その代わり、どんな珍しいものに出会っても、やはり待ちかまえていたような目つきでむかえるだろうと思われる。

原文を見る

その代り、いかな珍しいものに出会っても、やはり待ち受けていたような目つきで迎えるかと想像される。

だから、この人に会うと重苦しいところが少しもなくて、しかも落ち着いた感じがする。

原文を見る

だからこの女に会うと重苦しいところが少しもなくって、しかもおちついた感じが起こる。

三四郎は立ったまま、これはまったく、この大きな、いつもうるんでいる黒い瞳のおかげだと考えた。

原文を見る

三四郎は立ったまま、これはまったく、この大きな、常にぬれている、黒いひとみのおかげだと考えた。

美禰子も止まった。

原文を見る

美禰子も留まった。

三四郎を見た。

原文を見る

三四郎を見た。

しかし、その目はこの時にかぎって何も訴えていなかった。

原文を見る

しかしその目はこの時にかぎって何物をも訴えていなかった。

まるで高い木を眺めるような目であった。

原文を見る

まるで高い木をながめるような目であった。

三四郎は心の中で、火の消えたランプを見るような気持ちがした。

原文を見る

三四郎は心のうちで、火の消えたランプを見る心持ちがした。

もとの所に立ちすくんでいる。

原文を見る

もとの所に立ちすくんでいる。

美禰子も動かない。

原文を見る

美禰子も動かない。

「なぜ競技を御覧にならないの」

原文を見る

「なぜ競技を御覧にならないの」

と、よし子が下から聞いた。

原文を見る

とよし子が下から聞いた。

「今まで見ていたんですが、つまらないからやめて来たのです」

原文を見る

「今まで見ていたんですが、つまらないからやめて来たのです」

よし子は美禰子を振り返った。

原文を見る

よし子は美禰子を顧みた。

美禰子はやはり顔色を変えない。

原文を見る

美禰子はやはり顔色を動かさない。

三四郎は、

原文を見る

三四郎は、

「それより、あなたがたこそなぜ出て来たんです。たいへん熱心に見ていたじゃありませんか」

原文を見る

「それより、あなたがたこそなぜ出て来たんです。たいへん熱心に見ていたじゃありませんか」

と、あてこすったような、あてこすらないようなことを大きな声で言った。

原文を見る

と当てたような当てないようなことを大きな声で言った。

美禰子はこの時はじめて、少し笑った。

原文を見る

美禰子はこの時はじめて、少し笑った。

三四郎には、その笑いの意味がよくわからない。

原文を見る

三四郎にはその笑いの意味がよくわからない。

二歩ばかり二人の方に近づいた。

原文を見る

二歩ばかり女の方に近づいた。

「もう家へ帰るんですか」

原文を見る

「もううちへ帰るんですか」

二人とも答えなかった。

原文を見る

女は二人とも答えなかった。

三四郎はまた二歩ばかり二人の方へ近づいた。

原文を見る

三四郎はまた二歩ばかり女の方へ近づいた。

「どこかへ行くんですか」

原文を見る

「どこかへ行くんですか」

「ええ、ちょっと」

原文を見る

「ええ、ちょっと」

と美禰子が小さな声で言う。

原文を見る

と美禰子が小さな声で言う。

よく聞こえない。

原文を見る

よく聞こえない。

三四郎はとうとう二人の前まで降りて来た。

原文を見る

三四郎はとうとう女の前まで降りて来た。

しかし、どこへ行くとも聞かずに立っている。

原文を見る

しかしどこへ行くとも追窮もしないで立っている。

会場の方で拍手の声が聞こえる。

原文を見る

会場の方で喝采の声が聞こえる。

「走り高とびよ」

原文を見る

「高飛びよ」

と、よし子が言う。

原文を見る

とよし子が言う。

「今度は何メートルになったでしょう」

原文を見る

「今度は何メートルになったでしょう」

美禰子は軽く笑ったばかりである。

原文を見る

美禰子は軽く笑ったばかりである。

三四郎も黙っている。

原文を見る

三四郎も黙っている。

三四郎は走り高とびに口を出すのを、みっともないと思っているのである。

原文を見る

三四郎は高飛びに口を出すのをいさぎよしとしないつもりである。

すると美禰子が聞いた。

原文を見る

すると美禰子が聞いた。

「この上には何かおもしろいものがあって?」

原文を見る

「この上には何かおもしろいものがあって?」

この上には石があって、がけがあるばかりである。

原文を見る

この上には石があって、崖があるばかりである。

おもしろいものがあるはずがない。

原文を見る

おもしろいものがありようはずがない。

「何にもないです」

原文を見る

「なんにもないです」

「そう」

原文を見る

「そう」

と、まだ疑うように言った。

原文を見る

と疑いを残したように言った。

「ちょいと上がってみましょうか」

原文を見る

「ちょいと上がってみましょうか」

よし子が気持ちよく言う。

原文を見る

よし子が、快く言う。

「あなた、まだここを御存じないの」

原文を見る

「あなた、まだここを御存じないの」

と、美禰子は落ち着いて言った。

原文を見る

と相手の女はおちついて出た。

「いいからいらっしゃいよ」

原文を見る

「いいからいらっしゃいよ」

よし子は先に上る。

原文を見る

よし子は先へ上る。

二人もまたついて行った。

原文を見る

二人はまたついて行った。

よし子は足を芝生の端まで出して、振り向きながら、

原文を見る

よし子は足を芝生のはしまで出して、振り向きながら、

「絶壁ね」

原文を見る

「絶壁ね」

と大げさな言葉を使った。

原文を見る

と大げさな言葉を使った。

「サッフォー(古代ギリシアの詩人)でも飛びこみそうな所じゃありませんか」

原文を見る

「サッフォーでも飛び込みそうな所じゃありませんか」

美禰子と三四郎は声を出して笑った。

原文を見る

美禰子と三四郎は声を出して笑った。

そのくせ三四郎は、サッフォーがどんな所から飛びこんだかよくわからなかった。

原文を見る

そのくせ三四郎はサッフォーがどんな所から飛び込んだかよくわからなかった。

「あなたも飛びこんでごらんなさい」

原文を見る

「あなたも飛び込んでごらんなさい」

と美禰子が言う。

原文を見る

と美禰子が言う。

「私? 飛びこみましょうか。でも、あんまり水が汚いわね」

原文を見る

「私? 飛び込みましょうか。でもあんまり水がきたないわね」

と言いながら、こちらへ帰って来た。

原文を見る

と言いながら、こっちへ帰って来た。

やがて二人の間で相談が始まった。

原文を見る

やがて女二人のあいだに用談が始まった。

「あなた、いらっしゃって」

原文を見る

「あなた、いらしって」

と美禰子が言う。

原文を見る

と美禰子が言う。

「ええ。あなたは」

原文を見る

「ええ。あなたは」

と、よし子が言う。

原文を見る

とよし子が言う。

「どうしましょう」

原文を見る

「どうしましょう」

「どうでも。なんなら私、ちょっと行ってくるから、ここに待っていらっしゃい」

原文を見る

「どうでも。なんならわたしちょっと行ってくるから、ここに待っていらっしゃい」

「そうね」

原文を見る

「そうね」

なかなか決まらない。

原文を見る

なかなか片づかない。

三四郎が聞いてみると、よし子が病院の看護婦のところへ、ついでだからちょっとお礼に行ってくるんだと言う。

原文を見る

三四郎が聞いてみると、よし子が病院の看護婦のところへ、ついでだから、ちょっと礼に行ってくるんだと言う。

美禰子はこの夏、自分の親戚が入院していた時に知り合いになった看護婦を訪ねれば訪ねるのだが、これは必要でも何でもないのだそうだ。

原文を見る

美禰子はこの夏自分の親戚しんせきが入院していた時近づきになった看護婦を尋ねれば尋ねるのだが、これは必要でもなんでもないのだそうだ。

よし子はすなおで気の軽い人だから、しまいに、すぐ帰って来ますと言い捨てて、早足に一人で丘を降りて行った。

原文を見る

よし子は、すなおに気の軽い女だから、しまいに、すぐ帰って来ますと言い捨てて、早足はやあしに一人丘を降りて行った。

止めるほどのこともなし、いっしょに行くほどのことでもないので、二人は自然とあとに残るわけになった。

原文を見る

止めるほどの必要もなし、いっしょに行くほどの事件でもないので、二人はしぜん後にのこるわけになった。

二人の遠慮がちな様子から言えば、残るというより、残された形にもなる。

原文を見る

二人の消極な態度からいえば、のこるというより、のこされたかたちにもなる。

三四郎はまた石に腰をかけた。

原文を見る

三四郎はまた石に腰をかけた。

美禰子は立っている。

原文を見る

女は立っている。

秋の日は鏡のようににごった池の上に落ちた。

原文を見る

秋の日は鏡のように濁った池の上に落ちた。

中に小さな島がある。

原文を見る

中に小さな島がある。

島にはただ二本の木が生えている。

原文を見る

島にはただ二本の木がはえている。

青い松と薄い紅葉が具合よく枝を交わし合って、箱庭のような味わいがある。

原文を見る

青いまつと薄い紅葉がぐあいよく枝をかわし合って、箱庭の趣がある。

島を越して向こう側の突き当たりが、こんもりとどす黒く光っている。

原文を見る

島を越して向こう側の突き当りがこんもりとどす黒く光っている。

美禰子は丘の上から、その暗い木陰を指さした。

原文を見る

女は丘の上からその暗い木陰こかげを指さした。

「あの木を知っていらっしゃって」

原文を見る

「あの木を知っていらしって」

と言う。

原文を見る

と言う。

「あれはしい」

原文を見る

「あれはしい

美禰子は笑い出した。

原文を見る

女は笑い出した。

「よく覚えていらっしゃること」

原文を見る

「よく覚えていらっしゃること」

「あの時の看護婦ですか、あなたが今訪ねようと言ったのは」

原文を見る

「あの時の看護婦ですか、あなたが今尋ねようと言ったのは」

「ええ」

原文を見る

「ええ」

「よし子さんの看護婦とは違うんですか」

原文を見る

「よし子さんの看護婦とは違うんですか」

「違います。これはしい――と言った看護婦です」

原文を見る

「違います。これは椎――といった看護婦です」

今度は三四郎が笑い出した。

原文を見る

今度は三四郎が笑い出した。

「あそこですね。あなたがあの看護婦といっしょに、うちわを持って立っていたのは」

原文を見る

「あすこですね。あなたがあの看護婦といっしょに団扇うちわを持って立っていたのは」

二人のいる所は高く池の中に突き出している。

原文を見る

二人のいる所は高く池の中に突き出している。

この丘とはまるで縁のない小山が一段低く、右側を走っている。

原文を見る

この丘とはまるで縁のない小山が一段低く、右側を走っている。

大きな松と御殿の一角と、運動会の幕の一部と、なだらかな芝生が見える。

原文を見る

大きな松と御殿の一角ひとかどと、運動会の幕の一部と、なだらかな芝生が見える。

「暑い日でしたね。病院があんまり暑いものだから、とうとう我慢できないで出てきたの。――あなたはまた、なんであんな所にしゃがんでいらっしゃったんです」

原文を見る

「熱い日でしたね。病院があんまり暑いものだから、とうとうこらえきれないで出てきたの。――あなたはまたなんであんな所にしゃがんでいらしったんです」

「暑いからです。あの日ははじめて野々宮さんに会って、それからあそこへ来てぼんやりしていたのです。なんだか心細くなって」

原文を見る

「熱いからです。あの日ははじめて野々宮さんに会って、それから、あすこへ来てぼんやりしていたのです。なんだか心細くなって」

「野々宮さんにお会いになってから、心細くおなりになったの」

原文を見る

「野々宮さんにお会いになってから、心細くおなりになったの」

「いいえ、そういうわけじゃない」

原文を見る

「いいえ、そういうわけじゃない」

と言いかけて美禰子の顔を見たが、急に話を変えた。

原文を見る

と言いかけて、美禰子の顔を見たが、急に話頭を転じた。

「野々宮さんといえば、今日はたいへん働いていますね」

原文を見る

「野々宮さんといえば、きょうはたいへん働いていますね」

「ええ、珍しくフロックコートをお着になって――ずいぶん御迷惑でしょう。朝から晩までですから」

原文を見る

「ええ、珍しくフロックコートをお着になって――ずいぶん御迷惑でしょう。朝から晩までですから」

「だって、だいぶ得意のようじゃありませんか」

原文を見る

「だってだいぶ得意のようじゃありませんか」

「だれが、野々宮さんが。――あなたもずいぶんね」

原文を見る

「だれが、野々宮さんが。――あなたもずいぶんね」

「なぜですか」

原文を見る

「なぜですか」

「だって、まさか運動会の記録係になって得意になるようなかたでもないでしょう」

原文を見る

「だって、まさか運動会の計測係りになって得意になるようなかたでもないでしょう」

三四郎はまた話を変えた。

原文を見る

三四郎はまた話頭を転じた。

「さっき、あなたの所へ来て何か話していましたね」

原文を見る

「さっきあなたの所へ来て何か話していましたね」

「会場で?」

原文を見る

「会場で?」

「ええ、運動会の柵の所で」

原文を見る

「ええ、運動会の柵の所で」

と言ったが、三四郎はこの問いを急に取り消したくなった。

原文を見る

と言ったが、三四郎はこの問を急に撤回したくなった。

美禰子は「ええ」

原文を見る

女は「ええ」

と言ったまま、三四郎の顔をじっと見ている。

原文を見る

と言ったまま男の顔をじっと見ている。

少し下くちびるをそらして笑いかけている。

原文を見る

少し下唇したくちびるをそらして笑いかけている。

三四郎はたまらなくなった。

原文を見る

三四郎はたまらなくなった。

何か言ってごまかそうとした時、美禰子は口を開いた。

原文を見る

何か言ってまぎらそうとした時に、女は口を開いた。

「あなたはまだ、この間の絵はがきの返事をくださらないのね」

原文を見る

「あなたはまだこのあいだの絵はがきの返事をくださらないのね」

三四郎はまごつきながら「あげます」

原文を見る

三四郎はまごつきながら「あげます」

と答えた。

原文を見る

と答えた。

美禰子はくれとも何とも言わない。

原文を見る

女はくれともなんとも言わない。

「あなた、原口さんという画家を御存じ?」

原文を見る

「あなた、原口はらぐちさんという画工えかきを御存じ?」

と聞き直した。

原文を見る

と聞き直した。

「知りません」

原文を見る

「知りません」

「そう」

原文を見る

「そう」

「どうかしましたか」

原文を見る

「どうかしましたか」

「なに、その原口さんが今日見に来ていらっしゃってね、みんなを写生しているから、私たちも用心しないと、からかう絵に描かれるからって、野々宮さんがわざわざ注意してくださったんです」

原文を見る

「なに、その原口さんが、きょう見に来ていらしってね、みんなを写生しているから、私たちも用心しないと、ポンチにかかれるからって、野々宮さんがわざわざ注意してくだすったんです」

美禰子はそばへ来て腰をかけた。

原文を見る

美禰子はそばへ来て腰をかけた。

三四郎は、自分がいかにも愚か者のような気がした。

原文を見る

三四郎は自分がいかにも愚物のような気がした。

「よし子さんはお兄さんといっしょに帰らないんですか」

原文を見る

「よし子さんはにいさんといっしょに帰らないんですか」

「いっしょに帰ろうったって帰れないわ。よし子さんは昨日から私の家にいるんですもの」

原文を見る

「いっしょに帰ろうったって帰れないわ。よし子さんは、きのうから私の家にいるんですもの」

三四郎はその時はじめて、美禰子から野々宮のお母さんが国へ帰ったということを聞いた。

原文を見る

三四郎はその時はじめて美禰子から野々宮のおっかさんが国へ帰ったということを聞いた。

お母さんが帰ると同時に大久保を引き払って、野々宮さんは下宿をする、よし子は当分美禰子の家から学校へ通うことに相談が決まったんだそうである。

原文を見る

おっかさんが帰ると同時に、大久保を引き払って、野々宮さんは下宿をする、よし子は当分美禰子のうちから学校へ通うことに、相談がきまったんだそうである。

三四郎はむしろ、野々宮さんの気楽なのに驚いた。

原文を見る

三四郎はむしろ野々宮さんの気楽なのに驚いた。

そう簡単に下宿の暮らしにもどるくらいなら、はじめから家を持たないほうがよかろう。

原文を見る

そうたやすく下宿生活にもどるくらいなら、はじめから家を持たないほうがよかろう。

第一、鍋、釜、手おけなどという家の道具の始末はどうつけたろうと、余計なことまで考えたが、口に出して言うほどのことでもないから、とくに何も言わなかった。

原文を見る

第一鍋、かま手桶ておけなどという世帯しょたい道具の始末はどうつけたろうと、よけいなことまで考えたが、口に出して言うほどのことでもないから、べつだんの批評は加えなかった。

そのうえ、野々宮さんが一家の主人からあともどりして、ふたたび学生と同じ暮らしぶりにもどるのは、つまり家族の仕組みから一歩遠のいたのと同じことで、自分にとっては、目の前の心配を少し遠くへ移したような都合のよさにもなる。

原文を見る

そのうえ、野々宮さんが一家の主人あるじから、あともどりをして、ふたたび純書生と同様な生活状態に復するのは、とりもなおさず家族制度から一歩遠のいたと同じことで、自分にとっては、目前の迷惑を少し長距離へ引き移したような好都合にもなる。

その代わり、よし子が美禰子の家へいっしょに住んでしまった。

原文を見る

その代りよし子が美禰子の家へ同居してしまった。

この兄妹は絶えず行き来していないと収まらないようにできあがっている。

原文を見る

この兄妹きょうだいは絶えず往来していないと治まらないようにできあがっている。

絶えず行き来しているうちには、野々宮さんと美禰子との仲もだんだん変わってくる。

原文を見る

絶えず往来しているうちには野々宮さんと美禰子との関係も次第次第に移ってくる。

すると野々宮さんが、またいつ下宿の暮らしをすっかりやめる時が来ないともかぎらない。

原文を見る

すると野々宮さんがまたいつなんどき下宿生活を永久にやめる時機がこないともかぎらない。

三四郎は頭の中に、こういう心配のある先のことを描きながら美禰子と受け答えをしている。

原文を見る

三四郎は頭のなかに、こういう疑いある未来を、描きながら、美禰子と応対をしている。

いっこうに気が乗らない。

原文を見る

いっこうに気が乗らない。

それを、見た目だけでもふつうのように取りつくろおうとすると、苦しくなってくる。

原文を見る

それを外部の態度だけでも普通のごとくつくろおうとすると苦痛になってくる。

そこへうまい具合に、よし子が帰ってきてくれた。

原文を見る

そこへうまいぐあいによし子が帰ってきてくれた。

二人の間では、もう一度競技を見に行こうかという相談があったが、短くなりかけた秋の日がだいぶかたむいたのと、かたむくにつれて広い外の肌寒さがようやく増してくるので、帰ることに話が決まる。

原文を見る

女同志のあいだには、もう一ぺん競技を見に行こうかという相談があったが、短くなりかけた秋の日がだいぶ回ったのと、回るにつれて、広い戸外の肌寒はださむがようやく増してくるので、帰ることに話がきまる。

三四郎も二人に別れて下宿へもどろうと思ったが、三人が話しながら、ずるずるべったりに歩き出したものだから、はっきりしたあいさつをする機会がない。

原文を見る

三四郎も女れんに別れて下宿へもどろうと思ったが、三人が話しながら、ずるずるべったりに歩き出したものだから、きわだった挨拶あいさつをする機会がない。

二人は自分を引っ張って行くように見える。

原文を見る

二人は自分を引っ張ってゆくようにみえる。

自分もまた引っ張られて行きたいような気がする。

原文を見る

自分もまた引っ張られてゆきたいような気がする。

それで二人にくっついて、池のほとりを図書館の横から、方角違いの赤門の方へ向いて来た。

原文を見る

それで二人にくっついて池のはたを図書館の横から、方角違いの赤門の方へ向いてきた。

その時、三四郎はよし子に向かって、

原文を見る

そのとき三四郎は、よし子に向かって、

「お兄さんは下宿をなさったそうですね」

原文を見る

「おあにいさんは下宿をなすったそうですね」

と聞いたら、よし子はすぐ、

原文を見る

と聞いたら、よし子は、すぐ、

「ええ。とうとう。人を美禰子さんの所へ押しつけておいて。ひどいでしょう」

原文を見る

「ええ。とうとう。ひとを美禰子さんの所へ押しつけておいて。ひどいでしょう」

と、同意を求めるように言った。

原文を見る

と同意を求めるように言った。

三四郎は何か返事をしようとした。

原文を見る

三四郎は何か返事をしようとした。

その前に美禰子が口を開いた。

原文を見る

そのまえに美禰子が口を開いた。

「宗八さんのようなかたは、私たちの考えではわかりませんよ。ずっと高い所にいて、大きなことを考えていらっしゃるんだから」

原文を見る

「宗八さんのようなかたは、我々の考えじゃわかりませんよ。ずっと高い所にいて、大きな事を考えていらっしゃるんだから」

と、大いに野々宮さんをほめ出した。

原文を見る

と大いに野々宮さんをほめだした。

よし子は黙って聞いている。

原文を見る

よし子は黙って聞いている。

学問をする人がわずらわしい世間の用事をさけて、なるべく簡素な暮らしに我慢するのは、みんな研究のためしかたがないのだからしようがない。

原文を見る

学問をする人がうるさい俗用を避けて、なるべく単純な生活にがまんするのは、みんな研究のためやむをえないんだからしかたがない。

野々宮のような、外国にまで名の聞こえるほどの仕事をする人が、ふつうの学生と同じ下宿に入っているのも、つまるところ野々宮が偉いからのことで、下宿が汚ければ汚いほど尊敬しなくてはならない。――

原文を見る

野々宮のような外国にまで聞こえるほどの仕事をする人が、普通の学生同様な下宿にはいっているのも必竟ひっきょう野々宮が偉いからのことで、下宿がきたなければきたないほど尊敬しなくってはならない。――

美禰子の、野々宮をほめる言葉の続きは、ざっとこうである。

原文を見る

美禰子の野々宮に対する賛辞のつづきは、ざっとこうである。

三四郎は赤門の所で二人に別れた。

原文を見る

三四郎は赤門の所で二人に別れた。

追分の方へ足を向けながら考え出した。――

原文を見る

追分おいわけの方へ足を向けながら考えだした。――

なるほど美禰子の言ったとおりである。

原文を見る

なるほど美禰子の言ったとおりである。

自分と野々宮を比べてみると、だいぶ差がある。

原文を見る

自分と野々宮を比較してみるとだいぶ段が違う。

自分は田舎から出て大学へ入ったばかりである。

原文を見る

自分は田舎から出て大学へはいったばかりである。

学問という学問もなければ、見る目もない。

原文を見る

学問という学問もなければ、見識という見識もない。

自分が、野々宮に対するほどの尊敬を美禰子から受けられないのは当たり前である。

原文を見る

自分が、野々宮に対するほどな尊敬を美禰子から受けえないのは当然である。

そう言えば、なんだかあの人からばかにされているようでもある。

原文を見る

そういえばなんだか、あの女からばかにされているようでもある。

さっき、運動会はつまらないからここにいると丘の上で答えた時、美禰子はまじめな顔をして、この上には何かおもしろいものがありますかと聞いた。

原文を見る

さっき、運動会はつまらないから、ここにいると、丘の上で答えた時に、美禰子はまじめな顔をして、この上には何かおもしろいものがありますかと聞いた。

あの時は気がつかなかったが、今考えてみると、わざと自分をからかった言葉かもしれない。――

原文を見る

あの時は気がつかなかったが、いま解釈してみると、故意に自分を愚弄ぐろうした言葉かもしれない。――

三四郎は気がついて、今日まで美禰子が自分に取った様子や言葉を一つ一つ思い返してみると、どれもこれもみんな悪い意味に取れる。

原文を見る

三四郎は気がついて、きょうまで美禰子の自分に対する態度や言語を一々繰り返してみると、どれもこれもみんな悪い意味がつけられる。

三四郎は通りのまん中でまっ赤になってうつむいた。

原文を見る

三四郎は往来のまん中でまっ赤になってうつむいた。

ふと顔を上げると、向こうから与次郎と、昨夜の会で演説をした学生が並んで来た。

原文を見る

ふと、顔を上げると向こうから、与次郎とゆうべの会で演説をした学生が並んで来た。

与次郎は首を縦に振っただけで黙っている。

原文を見る

与次郎は首を縦に振ったぎり黙っている。

学生は帽子を取ってあいさつをしながら、

原文を見る

学生は帽子をとって礼をしながら、

「昨夜は。どうですか。とらわれちゃいけませんよ」

原文を見る

「昨夜は。どうですか。とらわれちゃいけませんよ」

と笑って行き過ぎた。

原文を見る

と笑って行き過ぎた。

原文を見る

裏から回っておばあさんに聞くと、おばあさんが小さな声で、与次郎さんは昨日からお帰りなさらないと言う。

原文を見る

裏から回ってばあさんに聞くと、ばあさんが小さな声で、与次郎さんはきのうからお帰りなさらないと言う。

三四郎は台所口に立って考えた。

原文を見る

三四郎は勝手口に立って考えた。

おばあさんは気をきかせて、まあお入りなさい。

原文を見る

ばあさんは気をきかして、まあおはいりなさい。

先生は書斎においでですからと言いながら、手を休めずに膳やお椀を洗っている。

原文を見る

先生は書斎においでですからと言いながら、手を休めずに、膳椀ぜんわんを洗っている。

今、夕ごはんが済んだばかりのところらしい。

原文を見る

晩食ゆうめしがすんだばかりのところらしい。

三四郎は茶の間を通り抜けて、廊下伝いに書斎の入口まで来た。

原文を見る

三四郎は茶の間を通り抜けて、廊下伝いに書斎の入口まで来た。

戸が開いている。

原文を見る

戸があいている。

中から「おい」

原文を見る

中から「おい」

と人を呼ぶ声がする。

原文を見る

と人を呼ぶ声がする。

三四郎は敷居の内へ入った。

原文を見る

三四郎は敷居のうちへはいった。

先生は机に向かっている。

原文を見る

先生は机に向かっている。

机の上には何があるかわからない。

原文を見る

机の上には何があるかわからない。

高い背中が調べものを隠している。

原文を見る

高いが研究を隠している。

三四郎は入口の近くにすわって、

原文を見る

三四郎は入口に近くすわって、

「御勉強ですか」

原文を見る

「御勉強ですか」

と丁寧に聞いた。

原文を見る

と丁寧に聞いた。

先生は顔を後ろへねじ向けた。

原文を見る

先生は顔をうしろへねじ向けた。

ひげの影がはっきりせずに、もじゃもじゃしている。

原文を見る

ひげの影が不明瞭にもじゃもじゃしている。

写真で見た、だれかの絵姿に似ている。

原文を見る

写真版で見ただれかの肖像に似ている。

「やあ、与次郎かと思ったら君ですか、失敬した」

原文を見る

「やあ、与次郎かと思ったら、君ですか、失敬した」

と言って、席を立った。

原文を見る

と言って、席を立った。

机の上には筆と紙がある。

原文を見る

机の上には筆と紙がある。

先生は何か書いていた。

原文を見る

先生は何か書いていた。

与次郎の話では、うちの先生は時々何か書いている。

原文を見る

与次郎の話に、うちの先生は時々何か書いている。

しかし何を書いているんだか、ほかの人が読んでもちっともわからない。

原文を見る

しかし何を書いているんだか、ほかの者が読んでもちっともわからない。

生きているうちに大きな本にでもまとめられれば結構だが、あれで死んでしまっては、いらない紙がたまるばかりだ。

原文を見る

生きているうちに、大著述にでもまとめられれば結構だが、あれで死んでしまっちゃあ、反古ほごがたまるばかりだ。

じつにつまらない。

原文を見る

じつにつまらない。

と、ため息をついていたことがある。

原文を見る

と嘆息していたことがある。

三四郎は広田の机の上を見て、すぐ与次郎の話を思い出した。

原文を見る

三四郎は広田の机の上を見て、すぐ与次郎の話を思い出した。

「おじゃまなら帰ります。とくに用事でもありません」

原文を見る

「おじゃまなら帰ります。べつだんの用事でもありません」

「いや、帰ってもらうほどじゃまでもありません。こっちの用事もとくに大事なことでもないんだから。そう急いで片づけるものをやっていたんじゃない」

原文を見る

「いや、帰ってもらうほどじゃまでもありません。こっちの用事もべつだんのことでもないんだから。そう急に片づけるたちのものをやっていたんじゃない」

三四郎はちょっと返す言葉がなかった。

原文を見る

三四郎はちょっと挨拶あいさつができなかった。

しかし心の中では、この人のような気分になれたら、勉強も楽にできてよかろうと思った。

原文を見る

しかし腹のうちでは、この人のような気分になれたら、勉強も楽にできてよかろうと思った。

しばらくしてから、こう言った。

原文を見る

しばらくしてから、こう言った。

「じつは佐々木君のところへ来たんですが、いなかったものですから……」

原文を見る

「じつは佐々木君のところへ来たんですが、いなかったものですから……」

「ああ。与次郎はなんでも昨夜から帰らないようだ。時々ふらふら出歩いて困る」

原文を見る

「ああ。与次郎はなんでもゆうべから帰らないようだ。時々漂泊して困る」

「何か急に用事でもできたんですか」

原文を見る

「何か急に用事でもできたんですか」

「用事はけっしてできる男じゃない。ただ用事をこしらえる男でね。ああいうばかは少ない」

原文を見る

「用事はけっしてできる男じゃない。ただ用事をこしらえる男でね。ああいうばかは少ない」

三四郎はしかたがないから、

原文を見る

三四郎はしかたがないから、

「なかなか気楽ですな」

原文を見る

「なかなか気楽ですな」

と言った。

原文を見る

と言った。

「気楽ならいいけれども。与次郎のは気楽なのじゃない。気が移るので――たとえば田んぼの中を流れている小川のようなものと思っていれば間違いはない。浅くてせまい。しかし水だけはしょっちゅう変わっている。だから、することがちっとも締まりがない。縁日へひやかしになど行くと、急に思い出したように、先生、松を一鉢お買いなさい、なんて妙なことを言う。そうして、買うとも何とも言わないうちに値切って買ってしまう。その代わり、縁日のものを買うことなんぞは上手でね。あいつに買わせるとたいへん安く買える。そうかと思うと、夏になってみんなが家を留守にする時なんか、松を座敷へ入れたまま雨戸を閉めてかぎをかけてしまう。帰ってみると、松が蒸れてまっ赤になっている。何もかもそういうふうで、まことに困る」

原文を見る

「気楽ならいいけれども。与次郎のは気楽なのじゃない。気が移るので――たとえば田の中を流れている小川のようなものと思っていれば間違いはない。浅くて狭い。しかし水だけはしじゅう変っている。だから、する事が、ちっとも締まりがない。縁日へひやかしになど行くと、急に思い出したように、先生松を一鉢ひとはちお買いなさいなんて妙なことを言う。そうして買うともなんとも言わないうちに値切ねぎって買ってしまう。その代り縁日ものを買うことなんぞはじょうずでね。あいつに買わせるとたいへん安く買える。そうかと思うと、夏になってみんなが家を留守るすにするときなんか、松を座敷へ入れたまんま雨戸をたてて錠をおろしてしまう。帰ってみると、松が温気うんきでむれてまっ赤になっている。万事そういうふうでまことに困る」

実を言うと、三四郎はこの間与次郎に二十円貸した。

原文を見る

実をいうと三四郎はこのあいだ与次郎に二十円貸した。

二週間後には文芸時評社から原稿料が取れるはずだから、それまで立て替えてくれと言う。

原文を見る

二週間後には文芸時評社から原稿料が取れるはずだから、それまで立替たてかえてくれろと言う。

事情を聞いてみると気の毒であったから、ふるさとから送ってきたばかりのお金を五円だけ残して、あとはすっかり貸してしまった。

原文を見る

事理わけを聞いてみると、気の毒であったから、国から送ってきたばかりの為替かわせを五円引いて、余りはことごとく貸してしまった。

まだ返す期限ではないが、広田の話を聞いてみると少し心配になる。

原文を見る

まだ返す期限ではないが、広田の話を聞いてみると少々心配になる。

しかし先生にそんなことは打ち明けられないから、反対に、

原文を見る

しかし先生にそんな事は打ち明けられないから、反対に、

「でも佐々木君は大いに先生をうやまって、陰では先生のためになかなか力を尽くしています」

原文を見る

「でも佐々木君は、大いに先生に敬服して、陰では先生のためになかなか尽力しています」

と言うと、先生はまじめになって、

原文を見る

と言うと、先生はまじめになって、

「どんな力の尽くし方をしているんですか」

原文を見る

「どんな尽力をしているんですか」

と聞き出した。

原文を見る

と聞きだした。

ところが「偉大なる暗闇」

原文を見る

ところが「偉大なる暗闇くらやみ

その他すべて広田先生に関する与次郎のしたことは、先生に話してはならないと本人から口止めされている。

原文を見る

その他すべて広田先生に関する与次郎の所為しょいは、先生に話してはならないと、当人から封じられている。

やりかけた途中でそんなことが知れると先生にしかられるに決まっているから、黙っているべきだという。

原文を見る

やりかけた途中でそんな事が知れると先生にしかられるにきまってるから黙っているべきだという。

話していい時には、おれが話すと言いきっているんだからしかたがない。

原文を見る

話していい時にはおれが話すと明言しているんだからしかたがない。

三四郎は話をそらしてしまった。

原文を見る

三四郎は話をそらしてしまった。

三四郎が広田の家へ来るには、いろいろなわけがある。

原文を見る

三四郎が広田の家へ来るにはいろいろな意味がある。

一つは、この人の暮らし方などが、ふつうのものと変わっている。

原文を見る

一つは、この人の生活その他が普通のものと変っている。

とくに自分の性質とはまったく合わないようなところがある。

原文を見る

ことに自分の性情とはまったくれないようなところがある。

そこで三四郎は、どうしたらああなるだろうという知りたい気持ちから、参考のために調べに来る。

原文を見る

そこで三四郎はどうしたらああなるだろうという好奇心から参考のため研究に来る。

次に、この人の前に出るとのんきになる。

原文を見る

次にこの人の前に出るとのん気になる。

世の中の競争があまり気にならない。

原文を見る

世の中の競争があまり苦にならない。

野々宮さんも広田先生と同じく世間ばなれした感じはあるが、学問の世界で名を上げたいために、世間並みの欲を遠ざけているかのように思われる。

原文を見る

野々宮さんも広田先生と同じく世外せがいの趣はあるが、世外の功名心こうみょうしんのために、流俗の嗜欲しよくを遠ざけているかのように思われる。

だから野々宮さんを相手に二人きりで話していると、自分も早く一人前の仕事をして学問の世界に役立たなくてはすまないような気が起こる。

原文を見る

だから野々宮さんを相手に二人ふたりぎりで話していると、自分もはやく一人前の仕事をして、学海に貢献しなくては済まないような気が起こる。

いらいらしてたまらない。

原文を見る

いらついてたまらない。

そこへ行くと広田先生はのんびりしている。

原文を見る

そこへゆくと広田先生は太平である。

先生は高等学校でただ語学を教えるだけで、ほかに何のわざもない――と言っては失礼だが、ほかに何の研究も世に出さない。

原文を見る

先生は高等学校でただ語学を教えるだけで、ほかになんの芸もない――といっては失礼だが、ほかになんらの研究も公けにしない。

しかも堂々と落ち着き払っている。

原文を見る

しかも泰然と取り澄ましている。

そこに、このんきさのもとは隠れているのだろうと思う。

原文を見る

そこに、こののん気の源は伏在しているのだろうと思う。

三四郎は近ごろ女の人にとらわれた。

原文を見る

三四郎は近ごろ女にとらわれた。

恋人にとらわれたのなら、かえっておもしろいが、ほれられているんだか、ばかにされているんだか、こわがっていいんだか、見下していいんだか、やめるべきか、続けるべきか、わけのわからないとらわれ方である。

原文を見る

恋人にとらわれたのなら、かえっておもしろいが、ほれられているんだか、ばかにされているんだか、こわがっていいんだか、さげすんでいいんだか、よすべきだか、続けべきだかわけのわからないとらわれ方である。

三四郎はくやしくなった。

原文を見る

三四郎はいまいましくなった。

そういう時は広田さんにかぎる。

原文を見る

そういう時は広田さんにかぎる。

三十分ほど先生と向かい合っていると、気持ちがゆったりしてくる。

原文を見る

三十分ほど先生と相対していると心持ちが悠揚ゆうようになる。

女の人の一人や二人どうなってもかまわないと思う。

原文を見る

女の一人や二人どうなってもかまわないと思う。

実を言うと、三四郎が今夜出かけてきたのは、七割ほどこの気持ちからである。

原文を見る

実をいうと、三四郎が今夜出かけてきたのは七分方ぶがたこの意味である。

訪ねる三つ目のわけは、だいぶ食い違っている。

原文を見る

訪問理由の第三はだいぶ矛盾むじゅんしている。

自分は美禰子に苦しんでいる。

原文を見る

自分は美禰子に苦しんでいる。

美禰子のそばに野々宮さんを置くと、なお苦しくなってくる。

原文を見る

美禰子のそばに野々宮さんを置くとなお苦しんでくる。

その野々宮さんにもっとも近いのは、この先生である。

原文を見る

その野々宮さんにもっとも近いものはこの先生である。

だから先生の所へ来ると、野々宮さんと美禰子との仲が自然とはっきりしてくるだろうと思う。

原文を見る

だから先生の所へ来ると、野々宮さんと美禰子との関係がおのずから明瞭になってくるだろうと思う。

これがはっきりしさえすれば、自分の身の振り方もきっぱり決めることができる。

原文を見る

これが明瞭になりさえすれば、自分の態度も判然きめることができる。

そのくせ二人のことを、今まで一度も先生に聞いたことがない。

原文を見る

そのくせ二人の事をいまだかつて先生に聞いたことがない。

今夜は一つ聞いてみようかしらと、心を動かした。

原文を見る

今夜は一つ聞いてみようかしらと、心を動かした。

「野々宮さんは下宿なさったそうですね」

原文を見る

「野々宮さんは下宿なすったそうですね」

「ええ、下宿したそうです」

原文を見る

「ええ、下宿したそうです」

「家を持った人が、また下宿をしたら不便だろうと思いますが、野々宮さんはよく……」

原文を見る

「家をもった者が、また下宿をしたら不便だろうと思いますが、野々宮さんはよく……」

「ええ、そんなことにはいっこう気にしないほうでね。あの服装を見てもわかる。家庭向きの人じゃない。その代わり、学問にかけるとたいへん細かい」

原文を見る

「ええ、そんな事にはいっこう無頓着むとんじゃくなほうでね。あの服装を見てもわかる。家庭的な人じゃない。その代り学問にかけると非常に神経質だ」

「当分ああやっておいでのつもりなんでしょうか」

原文を見る

「当分ああやっておいでのつもりなんでしょうか」

「わからない。また突然家を持つかもしれない」

原文を見る

「わからない。また突然家を持つかもしれない」

「奥さんでもおもらいになるお考えはないんでしょうか」

原文を見る

「奥さんでもお貰いになるお考えはないんでしょうか」

「あるかもしれない。いいのを世話してやりたまえ」

原文を見る

「あるかもしれない。いいのを周旋してやりたまえ」

三四郎は苦笑いをして、余計なことを言ったと思った。

原文を見る

三四郎は苦笑いをして、よけいな事を言ったと思った。

すると広田さんが、

原文を見る

すると広田さんが、

「君はどうです」

原文を見る

「君はどうです」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

「私は……」

原文を見る

「私は……」

「まだ早いですね。今から奥さんを持ってはたいへんだ」

原文を見る

「まだ早いですね。今から細君を持っちゃたいへんだ」

「ふるさとの者は勧めますが」

原文を見る

「国の者は勧めますが」

「ふるさとのだれが」

原文を見る

「国のだれが」

「母です」

原文を見る

「母です」

「お母さんの言うとおり持つ気になりますか」

原文を見る

「おっかさんのいうとおり持つ気になりますか」

「なかなかなりません」

原文を見る

「なかなかなりません」

広田さんはひげの下から歯を出して笑った。

原文を見る

広田さんはひげの下から歯を出して笑った。

わりあいにきれいな歯を持っている。

原文を見る

わりあいにきれいな歯を持っている。

三四郎はその時、急になつかしい気持ちがした。

原文を見る

三四郎はその時急になつかしい心持ちがした。

けれども、そのなつかしさは美禰子とは関わりがない。

原文を見る

けれどもそのなつかしさは美禰子を離れている。

野々宮とも関わりがない。

原文を見る

野々宮を離れている。

三四郎の目の前の損得を越えたなつかしさであった。

原文を見る

三四郎の眼前の利害には超絶したなつかしさであった。

三四郎はこれで、野々宮などのことを聞くのが恥ずかしい気がし出して、質問をやめてしまった。

原文を見る

三四郎はこれで、野々宮などの事を聞くのが恥ずかしい気がしだして、質問をやめてしまった。

すると広田先生がまた話し出した。――

原文を見る

すると広田先生がまた話しだした。――

「お母さんの言うことは、なるべく聞いてあげるがよい。近ごろの青年は我々の時代の青年と違って、自分というものの意識が強すぎていけない。我々が学生をしていたころには、することなすこと一つとして他人を離れたことはなかった。すべてが、君主とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他人が中心であった。それを一口に言うと、教育を受ける者がみんな、うわべだけの善い人であった。そのうわべだけの善さが世の中の変化でとうとう続けられなくなった結果、だんだん自分中心を考えや行いの上に取り入れると、今度は自分の意識がたいへん強くなりすぎてしまった。昔のうわべだけの善い人に対して、今は、わざと悪ぶって見せる人ばかりの状態にある。――君、わざと悪ぶる人という言葉を聞いたことがありますか」

原文を見る

「おっかさんのいうことはなるべく聞いてあげるがよい。近ごろの青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしているころには、する事なす事一としてひとを離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんなひと本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々ぜんぜん自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。――君、露悪家という言葉を聞いたことがありますか」

「いいえ」

原文を見る

「いいえ」

「今ぼくがその場で作った言葉だ。君もその、わざと悪ぶる人の一人――だかどうだか、まあたぶんそうだろう。与次郎のようなのに至っては、その最たるものだ。あの君の知ってる里見という人があるでしょう。あれも一種のわざと悪ぶる人で、それから野々宮の妹ね、あれはまた、あれなりにそうだからおもしろい。昔は殿様と父親だけがわざと悪ぶって済んでいたが、今日ではめいめい同じ権利でそうなりたがる。もっとも、悪いことでも何でもない。臭いもののふたを取れば肥だめで、見事な形をはげば、たいてい中は見苦しいのはわかりきっている。形だけ見事だって面倒なばかりだから、みんな省いて中身だけで用を足している。とても気持ちがいい。世の中の見苦しさがまっ盛りである。ところが、このまっ盛りが度を越すと、わざと悪ぶる人同士がお互いに不便を感じてくる。その不便がだんだんつのって行きつくところまで行った時、人のためを思う考えがまた生き返る。それがまた形ばかりになって腐ると、また自分のためになる。つまりきりがない。我々はそういうふうにして暮らしてゆくものと思えば差し支えない。そうしてゆくうちに進む。イギリスを見たまえ。この両方の考えが昔からうまく釣り合いがとれている。だから動かない。だから進まない。イプセンも出なければニーチェも出ない。気の毒なものだ。自分だけは得意のようだが、はたから見れば堅くなって石のようになりかかっている。……」

原文を見る

「今ぼくが即席に作った言葉だ。君もその露悪家の一人いちにん――だかどうだか、まあたぶんそうだろう。与次郎のごときにいたるとその最たるものだ。あの君の知ってる里見という女があるでしょう。あれも一種の露悪家で、それから野々宮の妹ね、あれはまた、あれなりに露悪家だから面白い。昔は殿様と親父おやじだけが露悪家ですんでいたが、今日では各自同等の権利で露悪家になりたがる。もっとも悪い事でもなんでもない。臭いもののふたをとれば肥桶こえたごで、見事な形式をはぐとたいていは露悪になるのは知れ切っている。形式だけ見事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地きじだけで用を足している。はなはだ痛快である。天醜爛漫らんまんとしている。ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じてくる。その不便がだんだん高じて極端に達した時利他主義がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういうふうにして暮らしてゆくものと思えばさしつかえない。そうしてゆくうちに進歩する。英国を見たまえ。この両主義が昔からうまく平衡がとれている。だから動かない。だから進歩しない。イブセンも出なければニイチェも出ない。気の毒なものだ。自分だけは得意のようだが、はたから見れば堅くなって、化石しかかっている。……」

三四郎は心の中で感心したものの、話がそれてとんだところへ曲がって、曲がりなりに大きくなってゆくので、少し驚いていた。

原文を見る

三四郎は内心感心したようなものの、話がそれてとんだところへ曲がって、曲がりなりに太くなってゆくので、少し驚いていた。

すると広田さんもようやく気がついた。

原文を見る

すると広田さんもようやく気がついた。

「いったい何を話していたのかな」

原文を見る

「いったい何を話していたのかな」

「結婚のことです」

原文を見る

「結婚の事です」

「結婚?」

原文を見る

「結婚?」

「ええ、私が母の言うことを聞いて……」

原文を見る

「ええ、私が母の言うことを聞いて……」

「うん、そうそう。なるべくお母さんの言うことを聞かなければいけない」

原文を見る

「うん、そうそう。なるべくおっかさんの言うことを聞かなければいけない」

と言ってにこにこしている。

原文を見る

と言ってにこにこしている。

まるで子供に言うようである。

原文を見る

まるで子供に対するようである。

三四郎はべつに腹も立たなかった。

原文を見る

三四郎はべつに腹も立たなかった。

「我々がわざと悪ぶるのはいいですが、先生の時代の人がうわべだけの善い人なのは、どういう意味ですか」

原文を見る

「我々が露悪家なのは、いいですが、先生時代の人が偽善家なのは、どういう意味ですか」

「君、人から親切にされて愉快ですか」

原文を見る

「君、人から親切にされて愉快ですか」

「ええ、まあ愉快です」

原文を見る

「ええ、まあ愉快です」

「きっと? ぼくはそうでない。たいへん親切にされて不愉快なことがある」

原文を見る

「きっと? ぼくはそうでない、たいへん親切にされて不愉快な事がある」

「どんな場合ですか」

原文を見る

「どんな場合ですか」

「形だけは親切に合っている。しかし親切そのものが目的でない場合」

原文を見る

「形式だけは親切にかなっている。しかし親切自身が目的でない場合」

「そんな場合があるでしょうか」

原文を見る

「そんな場合があるでしょうか」

「君、元日におめでとうと言われて、本当におめでたい気がしますか」

原文を見る

「君、元日におめでとうと言われて、じっさいおめでたい気がしますか」

「そりゃ……」

原文を見る

「そりゃ……」

「しないだろう。それと同じく、腹をかかえて笑うだの、転げ返って笑うだのというやつに、一人だって本当に笑ってるやつはない。親切もそのとおり。お役目で親切をしてくれるのがある。ぼくが学校で先生をしているようなものでね。本当の目的は食べていくことにあるんだから、生徒から見たらさぞ不愉快だろう。これに対して与次郎のようなのは、わざと悪ぶる仲間の親分だけに、たびたびぼくに迷惑をかけて手に負えないいたずら者だが、悪気がない。かわいらしいところがある。ちょうどアメリカ人がお金に対してあけすけなのと同じだ。それ自体が目的である。それ自体が目的である行いほど正直なものはなくて、正直ほどいやみのないものはないんだから、何ごとも正直に出られないような我々の時代の、こむずかしい教育を受けた者はみんな気取っている」

原文を見る

「しないだろう。それと同じく腹をかかえて笑うだの、ころげかえって笑うだのというやつに、一人だってじっさい笑ってるやつはない。親切もそのとおり。お役目に親切をしてくれるのがある。ぼくが学校で教師をしているようなものでね。実際の目的は衣食にあるんだから、生徒から見たらさだめて不愉快だろう。これに反して与次郎のごときは露悪党の領袖りょうしゅうだけに、たびたびぼくに迷惑をかけて、始末におえぬいたずら者だが、悪気にくげがない。可愛らしいところがある。ちょうどアメリカ人の金銭に対して露骨なのと一般だ。それ自身が目的である。それ自身が目的である行為ほど正直なものはなくって、正直ほど厭味いやみのないものはないんだから、万事正直に出られないような我々時代の、こむずかしい教育を受けたものはみんな気障きざだ」

ここまでの理屈は三四郎にもわかっている。

原文を見る

ここまでの理屈は三四郎にもわかっている。

けれども三四郎にとって、今さしせまった問題は、全体にわたっての理屈ではない。

原文を見る

けれども三四郎にとって、目下痛切な問題は、だいたいにわたっての理屈ではない。

実際に関わりのある、ある一人の相手が正直か正直でないかを知りたいのである。

原文を見る

実際に交渉のある、ある格段な相手が、正直か正直でないかを知りたいのである。

三四郎は心の中で、美禰子の自分に対する様子をもう一度考えてみた。

原文を見る

三四郎は腹の中で美禰子の自分に対する素振そぶりをもう一ぺん考えてみた。

ところが、気取っているのかいないのか、ほとんど判断ができない。

原文を見る

ところが気障か気障でないかほとんど判断ができない。

三四郎は、自分の感じ取る力が人一倍にぶいのではなかろうかと疑い出した。

原文を見る

三四郎は自分の感受性が人一倍鈍いのではなかろうかと疑いだした。

その時、広田さんは急にうんと言って、何か思い出したようである。

原文を見る

その時広田さんは急にうんと言って、何か思い出したようである。

「うん、まだある。この二十世紀になってから妙なのがはやる。人のためという中身を自分のためで満たすという、むずかしいやり口なんだが、君、そんな人に出会ったですか」

原文を見る

「うん、まだある。この二十世紀になってから妙なのが流行はやる。利他本位の内容を利己本位でみたすというむずかしいやり口なんだが、君そんな人に出会ったですか」

「どんなのです」

原文を見る

「どんなのです」

「ほかの言葉で言うと、うわべだけの善さを、わざと悪ぶることでやる。まだわからないだろうな。ちと説明のしかたが悪いようだ。――昔のうわべだけの善い人はね、なんでも人によく思われたいが先に立つんでしょう。ところが、その反対で、人の気持ちを害するためにわざと善い顔をする。横から見ても縦から見ても、相手にはうわべだけとしか思われないようにしむけてゆく。相手はもちろんいやな気持ちがする。そこで本人の目的は果たせる。うわべだけの善さを、うわべだけのまま相手に通そうとする正直なところが、わざと悪ぶる人の特色で、しかも表向きの行いや言葉はどこまでも善に違いないから、――そら、二つが一つになるようなことになる。この方法を上手に使う人が近ごろだいぶふえてきたようだ。とても神経の細かくなった今の人が、もっとも上品にわざと悪ぶろうとすると、これがいちばんいい方法になる。血を出さなければ人が殺せないというのは、ずいぶん乱暴な話だからな君、だんだんはやらなくなる」

原文を見る

「ほかの言葉でいうと、偽善を行うに露悪をもってする。まだわからないだろうな。ちと説明し方が悪いようだ。――昔の偽善家はね、なんでも人によく思われたいが先に立つんでしょう。ところがその反対で、人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる。横から見ても縦から見ても、相手には偽善としか思われないようにしむけてゆく。相手はむろんいやな心持ちがする。そこで本人の目的は達せられる。偽善を偽善そのままで先方に通用させようとする正直なところが露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語はあくまでも善に違いないから、――そら、二位一体というようなことになる。この方法を巧妙に用いる者が近来だいぶふえてきたようだ。きわめて神経の鋭敏になった文明人種が、もっとも優美に露悪家になろうとすると、これがいちばんいい方法になる。血を出さなければ人が殺せないというのはずいぶん野蛮な話だからな君、だんだん流行はやらなくなる」

広田先生の話し方は、ちょうど案内の人が昔の戦場を説明するようなもので、実際を遠くから眺めた所に自分を置いている。

原文を見る

広田先生の話し方は、ちょうど案内者が古戦場を説明するようなもので、実際を遠くからながめた地位にみずからを置いている。

それがとても明るい味わいがある。

原文を見る

それがすこぶる楽天の趣がある。

まるで教室で講義を聞くのと同じ感じを起こさせる。

原文を見る

あたかも教場で講義を聞くと一般の感を起こさせる。

しかし三四郎にはこたえた。

原文を見る

しかし三四郎にはこたえた。

頭の中に美禰子という人があって、この理屈をすぐ当てはめられるからである。

原文を見る

念頭に美禰子という女があって、この理論をすぐ適用できるからである。

三四郎は頭の中にこの物差しを置いて、美禰子のすべてを測ってみた。

原文を見る

三四郎は頭の中にこの標準を置いて、美禰子のすべてを測ってみた。

しかし、測りきれないところがたいへんある。

原文を見る

しかし測り切れないところがたいへんある。

先生は口を閉じて、いつものように鼻から哲学の煙を吐き始めた。

原文を見る

先生は口を閉じて、例のごとく鼻から哲学の煙を吐き始めた。

そこへ玄関に足音がした。

原文を見る

ところへ玄関に足音がした。

案内も頼まずに、廊下伝いに入って来る。

原文を見る

案内も乞わずに廊下伝いにはいって来る。

たちまち与次郎が書斎の入口にすわって、

原文を見る

たちまち与次郎が書斎の入口にすわって、

「原口さんがおいでになりました」

原文を見る

「原口さんがおいでになりました」

と言う。

原文を見る

と言う。

ただ今帰りましたというあいさつを省いている。

原文を見る

ただ今帰りましたという挨拶を省いている。

わざと省いたのかもしれない。

原文を見る

わざと省いたのかもしれない。

三四郎にはぞんざいに目であいさつをしただけで、すぐに出ていった。

原文を見る

三四郎にはぞんざいな目礼をしたばかりですぐに出ていった。

与次郎と敷居ぎわですれ違って、原口さんが入って来た。

原文を見る

与次郎と敷居ぎわですれ違って、原口さんがはいって来た。

原口さんはフランス式のひげをはやして、頭を短く刈った、太った男である。

原文を見る

原口さんはフランス式のひげをはやして、頭を五分刈にした、脂肪の多い男である。

野々宮さんより年が二つ三つ上に見える。

原文を見る

野々宮さんより年が二つ三つ上に見える。

広田先生よりずっときれいな和服を着ている。

原文を見る

広田先生よりずっときれいな和服を着ている。

「やあ、しばらく。今まで佐々木が家へ来ていてね。いっしょにごはんを食ったり何かして――それから、とうとう引っ張り出されて……」

原文を見る

「やあ、しばらく。今まで佐々木がうちへ来ていてね。いっしょに飯を食ったり何かして――それから、とうとう引っ張り出されて……」

と、だいぶ明るい口調である。

原文を見る

とだいぶ楽天的な口調である。

そばにいると自然と元気になるような声を出す。

原文を見る

そばにいるとしぜん陽気になるような声を出す。

三四郎は原口という名前を聞いた時から、おおかたあの画家だろうと思っていた。

原文を見る

三四郎は原口という名前を聞いた時から、おおかたあの画工えかきだろうと思っていた。

それにしても与次郎は付き合いのうまい男だ。

原文を見る

それにしても与次郎は交際家だ。

たいていの先輩とはみんな知り合いになっているからえらい、と感心して堅くなった。

原文を見る

たいていな先輩とはみんな知合いになっているからえらいと感心して堅くなった。

三四郎は年上の人の前へ出ると堅くなる。

原文を見る

三四郎は年長者の前へ出ると堅くなる。

九州流の育ち方をした結果だと自分では思っている。

原文を見る

九州流の教育を受けた結果だと自分では解釈している。

やがて主人が原口に紹介してくれる。

原文を見る

やがて主人が原口に紹介してくれる。

三四郎は丁寧に頭を下げた。

原文を見る

三四郎は丁寧に頭を下げた。

向こうは軽く会釈した。

原文を見る

向こうは軽く会釈した。

三四郎はそれから黙って二人の話を聞いていた。

原文を見る

三四郎はそれから黙って二人の談話を承っていた。

原口さんは、まず用事から片づけると言って、近いうちに会をするから出てくれと頼んでいる。

原文を見る

原口さんはまず用談から片づけると言って、近いうちに会をするから出てくれと頼んでいる。

会員と名のつくほどの立派なものはこしらえないつもりだが、知らせを出すのは文学者とか芸術家とか、大学の教授とか、わずかな人数にかぎっておくから差し支えはない。

原文を見る

会員と名のつくほどのりっぱなものはこしらえないつもりだが、通知を出すものは、文学者とか芸術家とか、大学の教授とか、わずかな人数にかぎっておくからさしつかえはない。

しかも、たいてい知り合いの間だから、堅苦しい決まりはまったくいらない。

原文を見る

しかもたいてい知り合いのあいだだから、形式はまったく不必要である。

目的は、ただおおぜい集まって夕ごはんを食べる。

原文を見る

目的はただおおぜい寄って晩餐ばんさんを食う。

それから文芸の上でためになる話を交わす。

原文を見る

それから文芸上有益な談話を交換する。

そんなものである。

原文を見る

そんなものである。

広田先生は一言「出よう」

原文を見る

広田先生は一口「出よう」

と言った。

原文を見る

と言った。

用事はそれで済んでしまった。

原文を見る

用事はそれで済んでしまった。

用事はそれで済んでしまったが、それから後の原口さんと広田先生の話が、とてもおもしろかった。

原文を見る

用事はそれで済んでしまったが、それから後の原口さんと広田先生の会話がすこぶるおもしろかった。

広田先生が「君、近ごろ何をしているかね」

原文を見る

広田先生が「君近ごろ何をしているかね」

と原口さんに聞くと、原口さんがこんなことを言う。

原文を見る

と原口さんに聞くと、原口さんがこんな事を言う。

「やっぱり一中節(いっちゅうぶし。三味線に合わせて語るもの)を習っている。もう五つほど覚えた。花紅葉吉原八景だの、小稲半兵衛唐崎心中だのって、なかなかおもしろいのがあるよ。君も少しやってみないか。もっとも、ありゃ、あまり大きな声を出しちゃいけないんだってね。もともと四畳半の座敷にかぎったものだそうだ。ところが、ぼくがこのとおり大きな声だろう。それに節回しが、あれでなかなか込み入っているんで、どうしてもうまくいかん。今度一つやるから聞いてくれたまえ」

原文を見る

「やっぱり一中節いっちゅうぶし稽古けいこしている。もう五つほど上げた。花紅葉吉原八景はなもみじよしわらはっけいだの、小稲半兵衛唐崎心中こいなはんべえからさきしんじゅうだのってなかなかおもしろいのがあるよ。君も少しやってみないか。もっともありゃ、あまり大きな声を出しちゃいけないんだってね。本来が四畳半の座敷にかぎったものだそうだ。ところがぼくがこのとおり大きな声だろう。それに節回しがあれでなかなか込み入っているんで、どうしてもうまくいかん。こんだ一つやるから聞いてくれたまえ」

広田先生は笑っていた。

原文を見る

広田先生は笑っていた。

すると原口さんは、続きをこういうふうに述べた。

原文を見る

すると原口さんは続きをこういうふうに述べた。

「それでも、ぼくはまだいいんだが、里見恭助ときたら、まるで形なしだからね。どういうものかしらん。妹はあんなに器用だのに。この間はとうとう降参して、もう歌はやめる、その代わり何か楽器を習おうと言い出したところが、ばか囃子(ばやし)をお習いなさらないかと勧めた人がいてね。大笑いさ」

原文を見る

「それでもぼくはまだいいんだが、里見恭助さとみきょうすけときたら、まるで形無しだからね。どういうものかしらん。妹はあんなに器用だのに。このあいだはとうとう降参して、もううたはやめる、その代り何か楽器を習おうと言いだしたところが、馬鹿囃子ばかばやしをお習いなさらないかと勧めた者があってね。大笑いさ」

「そりゃ本当かい」

原文を見る

「そりゃ本当かい」

「本当とも。現に里見がぼくに、君がやるならやってもいいと言ったくらいだもの。あれでばか囃子には八通りの囃し方があるんだそうだ」

原文を見る

「本当とも。現に里見がぼくに、君がやるならやってもいいと言ったくらいだもの。あれで馬鹿囃子には八通り囃し方があるんだそうだ」

「君、やってはどうだ。あれならふつうの人間にでもできそうだ」

原文を見る

「君、やっちゃどうだ。あれなら普通の人間にでもできそうだ」

「いや、ばか囃子はいやだ。それよりか鼓(つづみ)が打ってみたくてね。なぜだか鼓の音を聞いていると、まったく二十世紀の気がしなくなるからいい。どうして今の世に、ああ、ゆったりしていられるだろうと思うと、それだけでたいへんな薬になる。いくらぼくがのんきでも、鼓の音のような絵はとても描けないから」

原文を見る

「いや馬鹿囃子はいやだ。それよりかつづみが打ってみたくってね。なぜだか鼓の音を聞いていると、まったく二十世紀の気がしなくなるからいい。どうして今の世にああ間が抜けていられるだろうと思うと、それだけでたいへんな薬になる。いくらぼくがのん気でも、鼓の音のような絵はとてもかけないから」

「描こうともしないんじゃないか」

原文を見る

「かこうともしないんじゃないか」

「描けないんだもの。今の東京にいる者に、ゆったりした絵ができるものか。もっとも絵にかぎるまいけれども。――絵といえば、この間大学の運動会へ行って、里見と野々宮さんの妹の、からかう絵を描いてやろうと思ったら、とうとうにげられてしまった。今度一つ本当の絵を描いて展覧会にでも出そうかと思って」

原文を見る

「かけないんだもの。今の東京にいる者に悠揚ゆうような絵ができるものか。もっとも絵にもかぎるまいけれども。――絵といえば、このあいだ大学の運動会へ行って、里見と野々宮さんの妹のカリカチュアーをかいてやろうと思ったら、とうとう逃げられてしまった。こんだ一つ本当の肖像画をかいて展覧会にでも出そうかと思って」

「だれの」

原文を見る

「だれの」

「里見の妹の。どうもふつうの日本の女の人の顔は歌麿ふうか何かばかりで、西洋のカンバスには映りが悪くていけないが、あの人や野々宮さんはいい。両方ともに絵になる。あの人がうちわをかざして、木立を後ろに、明るい方を向いているところを、実物大に写してみようかしらと思っている。西洋の扇はいやみでいけないが、日本のうちわは新しくておもしろいだろう。とにかく早くしないとだめだ。そのうち嫁にでも行かれようものなら、そうこちらの思うようにいかなくなるかもしれないから」

原文を見る

「里見の妹の。どうも普通の日本の女の顔は歌麿式うたまろしきや何かばかりで、西洋の画布カンバスにはうつりが悪くっていけないが、あの女や野々宮さんはいい。両方ともに絵になる。あの女が団扇うちわをかざして、木立こだちをうしろに、明るい方を向いているところを等身ライフサイズに写してみようかしらと思っている。西洋の扇は厭味いやみでいけないが、日本の団扇は新しくっておもしろいだろう。とにかくはやくしないとだめだ。いまに嫁にでもいかれようものなら、そうこっちの自由にいかなくなるかもしれないから」

三四郎はたいへんな興味をもって原口の話を聞いていた。

原文を見る

三四郎は多大な興味をもって原口の話を聞いていた。

とくに美禰子がうちわをかざしている絵の形は、ひどく三四郎の心を動かした。

原文を見る

ことに美禰子が団扇をかざしている構図は非常な感動を三四郎に与えた。

不思議な縁が二人の間にあるのではないかと思うほどであった。

原文を見る

不思議の因縁が二人の間に存在しているのではないかと思うほどであった。

すると広田先生が、「そんな絵はそうおもしろいこともないじゃないか」

原文を見る

すると広田先生が、「そんな図はそうおもしろいこともないじゃないか」

と遠慮のないことを言い出した。

原文を見る

と無遠慮な事を言いだした。

「でも本人の希望なんだもの。うちわをかざしているところはどうでしょうと言うから、とても結構でしょうと言って承知したのさ。なに、悪い形ではないよ。描きようにもよるが」

原文を見る

「でも当人の希望なんだもの。団扇をかざしているところは、どうでしょうと言うから、すこぶる妙でしょうと言って承知したのさ。なに、悪い図どりではないよ。かきようにもよるが」

「あんまり美しく描くと、結婚の申しこみが多くなって困るぜ」

原文を見る

「あんまり美しくかくと、結婚の申込みが多くなって困るぜ」

「ハハハ、じゃ中ぐらいに描いておこう。結婚といえば、あの人ももう嫁に行く年ごろだね。どうだろう、どこかいい相手はないだろうか。里見にも頼まれているんだが」

原文を見る

「ハハハじゃ中ぐらいにかいておこう。結婚といえば、あの女も、もう嫁にゆく時期だね。どうだろう、どこかいい口はないだろうか。里見にも頼まれているんだが」

「君がもらってはどうだ」

原文を見る

「君もらっちゃどうだ」

「ぼくか。ぼくでよければもらうが、どうもあの人には信用がなくてね」

原文を見る

「ぼくか。ぼくでよければもらうが、どうもあの女には信用がなくってね」

「なぜ」

原文を見る

「なぜ」

「原口さんは外国へ行く時にはたいへんな意気ごみで、わざわざかつお節を買いこんで、これでパリの下宿に立てこもるなんて大いばりだったが、パリへ着くやいなや、たちまち急に変わったそうですねって笑うんだから始末が悪い。おおかた兄からでも聞いたんだろう」

原文を見る

「原口さんは洋行する時にはたいへんな気込みで、わざわざ鰹節かつぶしを買い込んで、これでパリーの下宿に籠城ろうじょうするなんて大いばりだったが、パリーへ着くやいなや、たちまち豹変ひょうへんしたそうですねって笑うんだから始末がわるい。おおかたあにきからでも聞いたんだろう」

「あの人は自分の行きたい所でなくては行きっこない。勧めたってだめだ。好きな人ができるまで独身で置くがいい」

原文を見る

「あの女は自分の行きたい所でなくっちゃ行きっこない。勧めたってだめだ。好きな人があるまで独身で置くがいい」

「まったく西洋ふうだね。もっとも、これからの女の人はみんなそうなるんだから、それもよかろう」

原文を見る

「まったく西洋流だね。もっともこれからの女はみんなそうなるんだから、それもよかろう」

それから二人の間に長い絵の話があった。

原文を見る

それから二人の間に長い絵画談があった。

三四郎は、広田先生が西洋の画家の名をたくさん知っているのに驚いた。

原文を見る

三四郎は広田先生の西洋の画工の名をたくさん知っているのに驚いた。

帰る時、台所口で下駄を捜していると、先生がはしご段の下へ来て「おい佐々木、ちょっと降りて来い」

原文を見る

帰るとき勝手口で下駄げたを捜していると、先生が梯子段はしごだんの下へ来て「おい佐々木ちょっと降りて来い」

と言っていた。

原文を見る

と言っていた。

外は寒い。

原文を見る

戸外そとは寒い。

空は高く晴れて、どこから露が降るかと思うくらいである。

原文を見る

空は高く晴れて、どこから露が降るかと思うくらいである。

手が着物にさわると、さわった所だけがひやりとする。

原文を見る

手が着物にさわると、さわった所だけがひやりとする。

人通りの少ない小道を二、三度折れたり曲がったりしてゆくうちに、突然、辻占(つじうら。うらないの紙)を売る人に会った。

原文を見る

人通りの少ない小路こうじを二、三度折れたり曲がったりしてゆくうちに、突然辻占屋つじうらやに会った。

大きな丸い提灯をつけて、腰から下をまっ赤にしている。

原文を見る

大きな丸い提灯ちょうちんをつけて、腰から下をまっ赤にしている。

三四郎は辻占が買ってみたくなった。

原文を見る

三四郎は辻占が買ってみたくなった。

しかし、あえて買わなかった。

原文を見る

しかしあえて買わなかった。

杉垣に羽織の肩が触れるほどに、赤い提灯をよけて通した。

原文を見る

杉垣すぎがきに羽織の肩が触れるほどに、赤い提灯をよけて通した。

しばらくして暗い所をななめに抜けると、追分の通りへ出た。

原文を見る

しばらくして、暗い所をはすに抜けると、追分の通りへ出た。

角にそば屋がある。

原文を見る

かど蕎麦屋そばやがある。

三四郎は今度は思い切ってのれんをくぐった。

原文を見る

三四郎は今度は思い切って暖簾のれんをくぐった。

少し酒を飲むためである。

原文を見る

少し酒を飲むためである。

高等学校の生徒が三人いる。

原文を見る

高等学校の生徒が三人いる。

近ごろ学校の先生で、昼の弁当にそばを食う人が多くなったと話している。

原文を見る

近ごろ学校の先生が昼の弁当に蕎麦を食う者が多くなったと話している。

そば屋の出前の人が正午の合図の大砲が鳴ると、せいろや、たね物を山のように肩へ載せて、急いで校門を入ってくる。

原文を見る

蕎麦屋の担夫かつぎ午砲どんが鳴ると、蒸籠せいろたねものを山のように肩へ載せて、急いで校門をはいってくる。

ここのそば屋はあれでだいぶもうかるだろうと話している。

原文を見る

ここの蕎麦屋はあれでだいぶもうかるだろうと話している。

何とかいう先生は夏でも釜あげうどんを食うが、どういうものだろうと言っている。

原文を見る

なんとかいう先生は夏でも釜揚饂飩かまあげうどんを食うが、どういうものだろうと言っている。

おおかた胃が悪いんだろうと言っている。

原文を見る

おおかた胃が悪いんだろうと言っている。

そのほかいろいろのことを言っている。

原文を見る

そのほかいろいろの事を言っている。

先生の名はたいてい呼び捨てにする。

原文を見る

教師の名はたいてい呼び棄てにする。

中に一人、広田さんと言った人がある。

原文を見る

なかに一人広田さんと言った者がある。

それから、なぜ広田さんは独身でいるかという言い合いを始めた。

原文を見る

それからなぜ広田さんは独身でいるかという議論を始めた。

広田さんの所へ行くと女の人のはだかの絵がかけてあるから、女の人が嫌いなんじゃなかろうという説である。

原文を見る

広田さんの所へ行くと女の裸体画がかけてあるから、女がきらいなんじゃなかろうという説である。

もっとも、そのはだかの絵は西洋人だからあてにならない。

原文を見る

もっともその裸体画は西洋人だからあてにならない。

日本の女の人は嫌いかもしれないという説である。

原文を見る

日本の女はきらいかもしれないという説である。

いや、失恋のせいに違いないという説も出た。

原文を見る

いや失恋の結果に違いないという説も出た。

失恋してあんな変わり者になったのかと聞いた人もあった。

原文を見る

失恋してあんな変人になったのかと質問した者もあった。

しかし、若い美人が出入りするという噂があるが本当かと聞きただした人もあった。

原文を見る

しかし若い美人が出入するといううわさがあるが本当かと聞きただした者もあった。

だんだん聞いているうちに、要するに広田先生は偉い人だということになった。

原文を見る

だんだん聞いているうちに、要するに広田先生は偉い人だということになった。

なぜ偉いか三四郎にもよくわからないが、とにかくこの三人は三人とも、与次郎の書いた「偉大なる暗闇」

原文を見る

なぜ偉いか三四郎にもよくわからないが、とにかくこの三人は三人ながら与次郎の書いた「偉大なる暗闇」

を読んでいる。

原文を見る

を読んでいる。

現に、あれを読んでから急に広田さんが好きになったと言っている。

原文を見る

現にあれを読んでから、急に広田さんが好きになったと言っている。

時々は「偉大なる暗闇」

原文を見る

時々は「偉大なる暗闇」

の中にある決め言葉などを引いてくる。

原文を見る

のなかにある警句などを引用してくる。

そうして、さかんに与次郎の文章をほめている。

原文を見る

そうしてさかんに与次郎の文章をほめている。

零余子とはだれだろうと不思議がっている。

原文を見る

零余子れいよしとはだれだろうと不思議がっている。

なにしろ、よほどよく広田さんを知っている男に違いないということには三人とも同じ考えであった。

原文を見る

なにしろよほどよく広田さんを知っている男に相違ないということには三人とも同意した。

三四郎はそばにいて、なるほどと感心した。

原文を見る

三四郎はそばにいて、なるほどと感心した。

与次郎が「偉大なる暗闇」

原文を見る

与次郎が「偉大なる暗闇」

を書くはずである。

原文を見る

を書くはずである。

文芸時評の売れ行きが少ないのは本人が白状したとおりであるのに、はでばでしく彼の言う大論文を載せて得意がるのは、見えを張る満足のほかに何のためになるだろうと思っていたが、これで見ると活字の力はやはりたいしたものである。

原文を見る

文芸時評の売れ高の少ないのは当人の自白したとおりであるのに、麗々れいれいしく彼のいわゆる大論文を掲げて得意がるのは、虚栄心の満足以外になんのためになるだろうと疑っていたが、これでみると活版の勢力はやはりたいしたものである。

与次郎の言うとおり、一言でも半分でも言わないほうが損になる。

原文を見る

与次郎の主張するとおり、一言いちごんでも半句でも言わないほうが損になる。

人の評判はこんなところから上がり、またこんなところから落ちると思うと、筆を執る者の責任が恐ろしくなって、三四郎はそば屋を出た。

原文を見る

人の評判はこんなところからあがり、またこんなところから落ちると思うと、筆を執るものの責任が恐ろしくなって、三四郎は蕎麦屋を出た。

下宿へ帰ると、酒はもうさめてしまった。

原文を見る

下宿へ帰ると、酒はもうさめてしまった。

なんだかつまらなくていけない。

原文を見る

なんだかつまらなくっていけない。

机の前にすわってぼんやりしていると、女中が下から湯わかしに熱い湯を入れて持ってきたついでに、手紙を一通置いていった。

原文を見る

机の前にすわって、ぼんやりしていると、下女が下から湯沸ゆわかしに熱い湯を入れて持ってきたついでに、封書を一通置いていった。

また母の手紙である。

原文を見る

また母の手紙である。

三四郎はすぐ封を切った。

原文を見る

三四郎はすぐ封を切った。

今日は母の字を見るのがとてもうれしい。

原文を見る

きょうは母の手跡を見るのがはなはだうれしい。

手紙はかなり長いものであったが、とくべつなことも書いてない。

原文を見る

手紙はかなり長いものであったが、べつだんの事も書いてない。

とくに三輪田のお光さんについては一言も書いていないので、大いにありがたかった。

原文を見る

ことに三輪田のお光さんについては一口も述べてないので大いにありがたかった。

けれども、中に妙な助言がある。

原文を見る

けれどもなかに妙な助言じょげんがある。

お前は子供の時から度胸がなくていけない。

原文を見る

お前は子供の時から度胸がなくっていけない。

度胸のないのはたいへんな損で、試験の時などにはどのくらい困るかしれない。

原文を見る

度胸の悪いのはたいへんな損で、試験の時なぞにはどのくらい困るかしれない。

興津の高さんは、あんなに学問ができて中学校の先生をしているが、資格の試験を受けるたびに体がふるえてうまく答えが書けないので、気の毒なことに、いまだに給料が上がらずにいる。

原文を見る

興津おきつたかさんは、あんなに学問ができて、中学校の先生をしているが、検定試験を受けるたびに、からだがふるえて、うまく答案ができないんで、気の毒なことにいまだに月給が上がらずにいる。

友だちのお医者さんとかに頼んで、ふるえの止まる丸薬をこしらえてもらって試験前に飲んで出たが、やっぱりふるえたそうである。

原文を見る

友だちの医学士とかに頼んでふるえのとまる丸薬をこしらえてもらって、試験前に飲んで出たがやっぱりふるえたそうである。

お前のは、ぶるぶるふるえるほどでもないようだから、ふだんから飲む薬として度胸のすわる薬を東京のお医者さんにこしらえてもらって飲んでみろ。

原文を見る

お前のはぶるぶるふるえるほどでもないようだから、平生から持薬じやくに度胸のすわる薬を東京の医者にこしらえてもらって飲んでみろ。

直らないこともなかろう、というのである。

原文を見る

直らないこともなかろうというのである。

三四郎はばかばかしいと思った。

原文を見る

三四郎はばかばかしいと思った。

けれども、ばかばかしい中に大きなありがたさを見つけた。

原文を見る

けれどもばかばかしいうちに大いなる感謝を見出した。

母は本当に親切なものであると、つくづく感心した。

原文を見る

母は本当に親切なものであると、つくづく感心した。

その晩一時ごろまでかかって、長い返事を母に出した。

原文を見る

その晩一時ごろまでかかって長い返事を母にやった。

その中には、東京はあまりおもしろい所ではないという一言があった。

原文を見る

そのなかには東京はあまりおもしろい所ではないという一句があった。

原文を見る

三四郎が与次郎にお金を貸したいきさつは、こうである。

原文を見る

三四郎が与次郎に金を貸したてんまつは、こうである。

この間の晩、九時ごろになって、与次郎が雨の中を突然やって来て、開口一番、大いに弱ったと言う。

原文を見る

このあいだの晩九時ごろになって、与次郎が雨のなかを突然やって来て、あたまから大いに弱ったと言う。

見ると、いつになく顔の色が悪い。

原文を見る

見ると、いつになく顔の色が悪い。

はじめは秋の雨にぬれた冷たい空気に吹かれすぎたからのことと思っていたが、座について見ると、悪いのは顔色ばかりではない。

原文を見る

はじめは秋雨あきさめにぬれた冷たい空気に吹かれすぎたからのことと思っていたが、座について見ると、悪いのは顔色ばかりではない。

珍しく落ちこんでいる。

原文を見る

珍しく消沈している。

三四郎が「具合でも悪いのか」

原文を見る

三四郎が「ぐあいでもよくないのか」

とたずねると、与次郎は鹿のような目を二度ほどぱちつかせて、こう答えた。

原文を見る

と尋ねると、与次郎は鹿しかのような目を二度ほどぱちつかせて、こう答えた。

「じつはお金をなくしてね。困っちまった」

原文を見る

「じつは金をなくしてね。困っちまった」

そこで、ちょっと心配そうな顔をして、たばこの煙を二、三本鼻から吐いた。

原文を見る

そこで、ちょっと心配そうな顔をして、煙草の煙を二、三本鼻から吐いた。

三四郎は黙って待っているわけにもいかない。

原文を見る

三四郎は黙って待っているわけにもゆかない。

どういう種類のお金を、どこでなくしたのかとだんだん聞いてみると、すぐわかった。

原文を見る

どういう種類の金を、どこでなくなしたのかとだんだん聞いてみると、すぐわかった。

与次郎はたばこの煙が二、三本鼻から出きる間だけ黙っていたばかりで、そのあとは何もかも、わけもなくすらすらと話してしまった。

原文を見る

与次郎は煙草の煙の、二、三本鼻から出切るあいだだけ控えていたばかりで、そのあとは、一部始終をわけもなくすらすらと話してしまった。

与次郎のなくしたお金は二十円、ただし人のものである。

原文を見る

与次郎のなくした金は、たかで二十円、ただし人のものである。

去年広田先生がこの前の家を借りるころに、三か月分の敷金に困って、足りないところを一時、野々宮さんから立て替えてもらったことがある。

原文を見る

去年広田先生がこのまえの家を借りる時分に、三か月の敷金に窮して、足りないところを一時野々宮さんから用達ようだってもらったことがある。

ところがそのお金は、野々宮さんが妹にバイオリンを買ってやらなくてはならないとかで、わざわざふるさとのお父さんから送らせたものだそうだ。

原文を見る

しかるにその金は野々宮さんが、いもとにバイオリンを買ってやらなくてはならないとかで、わざわざ国元の親父おやじさんから送らせたものだそうだ。

だから今日すぐ必要というほどでない代わりに、延びれば延びるほどよし子が困る。

原文を見る

それだからきょうがきょう必要というほどでない代りに、延びれば延びるほどよし子が困る。

よし子は現に今でもバイオリンを買わずに済ましている。

原文を見る

よし子は現に今でもバイオリンを買わずに済ましている。

広田先生が返さないからである。

原文を見る

広田先生が返さないからである。

先生だって返せればとっくに返すんだろうが、月々余りが一円も出ないうえに、給料以外にけっして稼がない人だから、つい、そのままにしてあった。

原文を見る

先生だって返せればとうに返すんだろうが、月々余裕が一文も出ないうえに、月給以外にけっしてかせがない男だから、ついそれなりにしてあった。

ところが、この夏、高等学校の受験生の答案を調べる仕事を引き受けた時の手当が六十円、このごろになってようやく受け取れた。

原文を見る

ところがこの夏高等学校の受験生の答案調べを引き受けた時の手当てあてが六十円このごろになってようやく受け取れた。

それでようやく義理を果たすことになって、与次郎がその使いを言いつかった。

原文を見る

それでようやく義理を済ますことになって、与次郎がその使いを言いつかった。

「そのお金をなくしたんだからすまない」

原文を見る

「その金をなくなしたんだからすまない」

と与次郎が言っている。

原文を見る

と与次郎が言っている。

実際すまなそうな顔つきでもある。

原文を見る

じっさいすまないような顔つきでもある。

どこへ落としたんだと聞くと、なに、落としたんじゃない。

原文を見る

どこへ落としたんだと聞くと、なに落としたんじゃない。

馬券を何枚とか買って、みんななくしてしまったのだと言う。

原文を見る

馬券ばけんを何枚とか買って、みんななくなしてしまったのだと言う。

三四郎もこれにはあきれ返った。

原文を見る

三四郎もこれにはあきれ返った。

あまりに考えなしなので、注意する気にもならない。

原文を見る

あまり無分別の度を通り越しているので意見をする気にもならない。

そのうえ本人がしょんぼりしている。

原文を見る

そのうえ本人が悄然しょうぜんとしている。

これをいつもの元気いっぱいな様子と比べると、与次郎という人が二人いるとしか思われない。

原文を見る

これをいつもの活発溌地はっちと比べると与次郎なるものが二人ふたりいるとしか思われない。

その違いが激しすぎる。

原文を見る

その対照が激しすぎる。

だから、おかしいのと気の毒なのとがいっしょになって三四郎をおそってきた。

原文を見る

だからおかしいのと気の毒なのとがいっしょになって三四郎を襲ってきた。

三四郎は笑い出した。

原文を見る

三四郎は笑いだした。

すると与次郎も笑い出した。

原文を見る

すると与次郎も笑いだした。

「まあいいや、どうかなるだろう」

原文を見る

「まあいいや、どうかなるだろう」

と言う。

原文を見る

と言う。

「先生はまだ知らないのか」

原文を見る

「先生はまだ知らないのか」

と聞くと、

原文を見る

と聞くと、

「まだ知らない」

原文を見る

「まだ知らない」

「野々宮さんは」

原文を見る

「野々宮さんは」

「もちろん、まだ知らない」

原文を見る

「むろん、まだ知らない」

「お金はいつ受け取ったのか」

原文を見る

「金はいつ受け取ったのか」

「お金は今月の初めだから、今日でちょうど二週間ほどになる」

原文を見る

「金はこの月始まりだから、きょうでちょうど二週間ほどになる」

「馬券を買ったのは」

原文を見る

「馬券を買ったのは」

「受け取った翌日だ」

原文を見る

「受け取ったあくる日だ」

「それから今日までそのままにしておいたのか」

原文を見る

「それからきょうまでそのままにしておいたのか」

「いろいろ走り回ったができないんだからしかたがない。どうしようもなければ、今月末までこのままにしておこう」

原文を見る

「いろいろ奔走したができないんだからしかたがない。やむをえなければ今月すえまでこのままにしておこう」

「今月末になればできる見こみでもあるのか」

原文を見る

「今月末になればできる見込みでもあるのか」

「文芸時評社から、どうかなるだろう」

原文を見る

「文芸時評社から、どうかなるだろう」

三四郎は立って、机の引き出しを開けた。

原文を見る

三四郎は立って、机の引出しをあけた。

昨日母から来たばかりの手紙の中をのぞいて、

原文を見る

きのう母から来たばかりの手紙の中をのぞいて、

「お金はここにある。今月はふるさとから早く送ってきた」

原文を見る

「金はここにある。今月は国から早く送ってきた」

と言った。

原文を見る

と言った。

与次郎は、

原文を見る

与次郎は、

「ありがたい。親愛なる小川君」

原文を見る

「ありがたい。親愛なる小川君」

と急に元気のいい声で、落語家のようなことを言った。

原文を見る

と急に元気のいい声で落語家のようなことを言った。

二人は十時過ぎ、雨をおして追分の通りへ出て、角のそば屋へ入った。

原文を見る

二人は十時すぎ雨を冒して、追分おいわけの通りへ出て、角の蕎麦屋へはいった。

三四郎がそば屋で酒を飲むことを覚えたのは、この時である。

原文を見る

三四郎が蕎麦屋で酒を飲むことを覚えたのはこの時である。

その晩は二人とも愉快に飲んだ。

原文を見る

その晩は二人とも愉快に飲んだ。

お金は与次郎が払った。

原文を見る

勘定は与次郎が払った。

与次郎はなかなか人に払わせない男である。

原文を見る

与次郎はなかなか人に払わせない男である。

それから今日にいたるまで、与次郎はお金を返さない。

原文を見る

それからきょうにいたるまで与次郎は金を返さない。

三四郎は正直だから、下宿屋の払いを気にしている。

原文を見る

三四郎は正直だから下宿屋の払いを気にしている。

催促はしないけれども、どうにかしてくれればいいがと思って日を過ごすうちに、月末近くなった。

原文を見る

催促はしないけれども、どうかしてくれればいいがと思って、日を過ごすうちに晦日みそか近くなった。

もう一日二日しか残っていない。

原文を見る

もう一日二日ふつかしか余っていない。

だめなら下宿の払いを延ばしておこうなどという考えは、まだ三四郎の頭に浮かばない。

原文を見る

間違ったら下宿の勘定を延ばしておこうなどという考えはまだ三四郎の頭にのぼらない。

必ず与次郎が持って来てくれる――とまでは、もちろん彼を信じていないのだが、まあ、どうにかやりくりしてみようくらいの親切心はあるだろうと考えている。

原文を見る

必ず与次郎が持って来てくれる――とまではむろん彼を信用していないのだが、まあどうかくめんしてみようくらいの親切気はあるだろうと考えている。

広田先生の言うところによると、与次郎の頭は浅瀬の水のようにしょっちゅう移っているのだそうだが、むやみに移るばかりで責任を忘れるようでは困る。

原文を見る

広田先生の評によると与次郎の頭は浅瀬の水のようにしじゅう移っているのだそうだが、むやみに移るばかりで責任を忘れるようでは困る。

まさか、それほどのこともあるまい。

原文を見る

まさかそれほどの事もあるまい。

三四郎は二階の窓から通りを眺めていた。

原文を見る

三四郎は二階の窓から往来をながめていた。

すると向こうから与次郎が足早にやって来た。

原文を見る

すると向こうから与次郎が足早にやって来た。

窓の下まで来て上を向いて、三四郎の顔を見上げて、「おい、いるか」

原文を見る

窓の下まで来てあおむいて、三四郎の顔を見上げて、「おい、おるか」

と言う。

原文を見る

と言う。

三四郎は上から与次郎を見下ろして、「うん、いる」

原文を見る

三四郎は上から、与次郎を見下みおろして、「うん、おる」

と言う。

原文を見る

と言う。

このばかみたいなあいさつが上と下で一つずつ交わされると、三四郎は部屋の中へ首を引っこめる。

原文を見る

このばかみたような挨拶あいさつが上下で一句交換されると、三四郎は部屋へやの中へ首を引っ込める。

与次郎ははしご段をとんとん上がってきた。

原文を見る

与次郎は梯子段はしごだんをとんとん上がってきた。

「待っていやしないか。君のことだから下宿の払いを心配しているだろうと思って、だいぶ走り回った。ばかげている」

原文を見る

「待っていやしないか。君のことだから下宿の勘定を心配しているだろうと思って、だいぶ奔走した。ばかげている」

「文芸時評から原稿料をくれたか」

原文を見る

「文芸時評から原稿料をくれたか」

「原稿料って、原稿料はみんな取ってしまった」

原文を見る

「原稿料って、原稿料はみんな取ってしまった」

「だって、この間は月末に取るように言っていたじゃないか」

原文を見る

「だってこのあいだは月末に取るように言っていたじゃないか」

「そうかな、それは間違いだろう。もう一円も取るのはない」

原文を見る

「そうかな、それは間違いだろう。もう一文も取るのはない」

「おかしいな。だって君はたしかにそう言ったぜ」

原文を見る

「おかしいな。だって君はたしかにそう言ったぜ」

「なに、先にもらおうと言ったのだ。ところがなかなか貸さない。ぼくに貸すと返さないと思っている。けしからん。わずか二十円ばかりのお金だのに。いくら偉大なる暗闇を書いてやっても信じない。つまらない。いやになっちまった」

原文を見る

「なに、前借りをしようと言ったのだ。ところがなかなか貸さない。ぼくに貸すと返さないと思っている。けしからん。わずか二十円ばかりの金だのに。いくら偉大なる暗闇を書いてやっても信用しない。つまらない。いやになっちまった」

「じゃお金はできないのか」

原文を見る

「じゃ金はできないのか」

「いや、ほかでこしらえたよ。君が困るだろうと思って」

原文を見る

「いやほかでこしらえたよ。君が困るだろうと思って」

「そうか。それは気の毒だ」

原文を見る

「そうか。それは気の毒だ」

「ところが困ったことができた。お金はここにはない。君が取りに行かなくちゃ」

原文を見る

「ところが困った事ができた。金はここにはない。君が取りにいかなくっちゃ」

「どこへ」

原文を見る

「どこへ」

「じつは文芸時評がだめだから、原口だの何だの二、三軒歩いたが、どこも月末で都合がつかない。それから最後に里見の所へ行って――里見というのは知らないかね。里見恭助。法学士だ。美禰子さんのお兄さんだ。あそこへ行ったところが、今度は留守でやっぱり話が進まない。そのうち腹が減って歩くのが面倒になったから、とうとう美禰子さんに会って話をした」

原文を見る

「じつは文芸時評がいけないから、原口だのなんだの二、三軒歩いたが、どこも月末でつごうがつかない。それから最後に里見の所へ行って――里見というのは知らないかね。里見恭助。法学士だ。美禰子さんのにいさんだ。あすこへ行ったところが、今度は留守るすでやっぱり要領を得ない。そのうち腹が減って歩くのがめんどうになったから、とうとう美禰子さんに会って話をした」

「野々宮さんの妹がいやしないか」

原文を見る

「野々宮さんの妹がいやしないか」

「なに、昼少し過ぎだから学校に行っている時分だ。それに応接間だから、いっこうにかまやしない」

原文を見る

「なに昼少し過ぎだから学校に行ってる時分だ。それに応接間だからいたってかまやしない」

「そうか」

原文を見る

「そうか」

「それで美禰子さんが引き受けてくれて、お貸ししますと言うんだがね」

原文を見る

「それで美禰子さんが、引き受けてくれて、御用立て申しますと言うんだがね」

「あの人は自分のお金があるのかい」

原文を見る

「あの女は自分の金があるのかい」

「そりゃ、どうだか知らない。しかし、とにかく大丈夫だよ。引き受けたんだから。ありゃ妙な人で、年が若いくせに姉さんじみたことをするのが好きな性質なんだから、引き受けさえすれば安心だ。心配しないでもいい。よろしく願っておけばかまわない。ところが、いちばんしまいになって、お金はここにありますが、あなたには渡せませんと言うんだから、驚いたね。ぼくはそんなに信じられていないんですかと聞くと、ええと言って笑っている。いやになっちまった。じゃ小川をよこしますかなと、また聞いたら、ええ、小川さんに手わたししましょうと言われた。どうでも勝手にするがいい。君、取りに行けるかい」

原文を見る

「そりゃ、どうだか知らない。しかしとにかく大丈夫だいじょうぶだよ。引き受けたんだから。ありゃ妙な女で、年のいかないくせにねえさんじみた事をするのが好きな性質たちなんだから、引き受けさえすれば、安心だ。心配しないでもいい。よろしく願っておけばかまわない。ところがいちばんしまいになって、お金はここにありますが、あなたには渡せませんと言うんだから、驚いたね。ぼくはそんなに不信用なんですかと聞くと、ええと言って笑っている。いやになっちまった。じゃ小川をよこしますかなとまた聞いたら、え、小川さんにお手渡しいたしましょうと言われた。どうでもかってにするがいい。君取りにいけるかい」

「取りに行かなければ、ふるさとへ電報でもかけるんだな」

原文を見る

「取りにいかなければ、国へ電報でもかけるんだな」

「電報はよそう。ばかげている。いくら君だって借りに行けるだろう」

原文を見る

「電報はよそう。ばかげている。いくら君だって借りにいけるだろう」

「行ける」

原文を見る

「いける」

これでようやく二十円の話がついた。

原文を見る

これでようやく二十円のらちがあいた。

それが済むと、与次郎はすぐ広田先生に関する話の報告を始めた。

原文を見る

それが済むと、与次郎はすぐ広田先生に関する事件の報告を始めた。

動きは着々と進んでいる。

原文を見る

運動は着々歩を進めつつある。

ひまさえあれば下宿へ出かけていって、一人一人に相談する。

原文を見る

暇さえあれば下宿へ出かけていって、一人一人に相談する。

相談は一人一人にかぎる。

原文を見る

相談は一人一人にかぎる。

おおぜい集まると、めいめいが自分の考えを通そうとして、ともすれば反対する。

原文を見る

おおぜい寄ると、めいめいが自分の存在を主張しようとして、ややともすればをたてる。

それでなければ、自分が無視された気持ちになって、はじめから冷たくかまえる。

原文を見る

それでなければ、自分の存在を閑却された心持ちになって、初手しょてから冷淡にかまえる。

相談はどうしても一人一人にかぎる。

原文を見る

相談はどうしても一人一人にかぎる。

その代わり、ひまがいる。

原文を見る

その代り暇はいる。

お金もいる。

原文を見る

金もいる。

それを気にしていては動けない。

原文を見る

それを苦にしていては運動はできない。

それから、相談中には広田先生の名前をあまり出さないことにする。

原文を見る

それから相談中には広田先生の名前をあまり出さないことにする。

我々のための相談でなくて、広田先生のための相談だと思われると、話がまとまらなくなる。

原文を見る

我々のための相談でなくって、広田先生のための相談だと思われると、事がまとまらなくなる。

与次郎はこの方法で進めているのだそうだ。

原文を見る

与次郎はこの方法で運動の歩を進めているのだそうだ。

それで今日までのところはうまくいった。

原文を見る

それできょうまでのところはうまくいった。

西洋人ばかりではいけないから、ぜひとも日本人を入れてもらおうというところまで話は来た。

原文を見る

西洋人ばかりではいけないから、ぜひとも日本人を入れてもらおうというところまで話はきた。

これから先は、もう一度集まって代表を選んで、学長なり総長なりに我々の願いを述べに行くばかりである。

原文を見る

これから先はもう一ぺん寄って、委員を選んで、学長なり、総長なりに、我々の希望を述べにやるばかりである。

もっとも、集まりだけはほんの形だから省いてもいい。

原文を見る

もっとも会合だけはほんの形式だから略してもいい。

代表になるべき学生も、だいたいはわかっている。

原文を見る

委員になるべき学生もだいたいは知れている。

みんな広田先生に味方する人たちだから、話し合いの様子によっては、こちらから先生の名を担当の人へ持ち出すかもしれない。……

原文を見る

みんな広田先生に同情を持っている連中だから、談判の模様によっては、こっちから先生の名を当局者へ持ち出すかもしれない。……

聞いていると、与次郎一人で世の中が思いどおりになるように思われる。

原文を見る

聞いていると、与次郎一人で天下が自由になるように思われる。

三四郎は少なからず与次郎の腕前に感心した。

原文を見る

三四郎は少なからず与次郎の手腕に感服した。

与次郎はまた、この間の晩に原口さんを先生の所へ連れてきたことについて語り出した。

原文を見る

与次郎はまたこのあいだの晩、原口さんを先生の所へ連れてきた事について、弁じだした。

「あの晩、原口さんが先生に、文芸家の会をやるから出ろと勧めていたろう」

原文を見る

「あの晩、原口さんが、先生に文芸家の会をやるから出ろと、勧めていたろう」

と言う。

原文を見る

と言う。

三四郎はもちろん覚えている。

原文を見る

三四郎はむろん覚えている。

与次郎の話によると、じつはあれも自分が言い出したものだそうだ。

原文を見る

与次郎の話によると、じつはあれも自身の発起ほっきにかかるものだそうだ。

そのわけはいろいろあるが、まず第一に身近なところを言えば、あの会員の中には大学の文科で力のある教授がいる。

原文を見る

その理由はいろいろあるが、まず第一に手近なところを言えば、あの会員のうちには、大学の文科で有力な教授がいる。

その人と広田先生を引き合わせるのは、この際先生にとってたいへん都合がいい。

原文を見る

その男と広田先生を接触させるのは、このさい先生にとって、たいへんな便利である。

先生は変わり者だから、自分から進んでだれとも付き合わない。

原文を見る

先生は変人だから、求めてだれとも交際しない。

しかしこちらで適当な機会を作って引き合わせれば、変わり者なりに付き合ってゆく。……

原文を見る

しかしこっちで相当の機会を作って、接触させれば、変人なりに付合ってゆく。……

「そういうわけがあるのか、ちっとも知らなかった。それで君が言い出しっぺだというんだが、会をやる時、君の名前で知らせを出して、そういう偉い人たちがみんな集まって来るのかな」

原文を見る

「そういう意味があるのか、ちっとも知らなかった。それで君が発起人だというんだが、会をやる時、君の名前で通知を出して、そういう偉い人たちがみんな寄って来るのかな」

与次郎はしばらくまじめに三四郎を見ていたが、やがて苦笑いをしてわきを向いた。

原文を見る

与次郎は、しばらくまじめに、三四郎を見ていたが、やがて苦笑いをしてわきを向いた。

「ばか言っちゃいけない。言い出しっぺって、表向きの世話人じゃない。ただ、ぼくがそういう会を思いついたのだ。つまり、ぼくが原口さんを勧めて、何もかも原口さんが世話をするように仕組んだのだ」

原文を見る

「ばかいっちゃいけない。発起人って、おもてむきの発起人じゃない。ただぼくがそういう会を企てたのだ。つまりぼくが原口さんを勧めて、万事原口さんが周旋するようにこしらえたのだ」

「そうか」

原文を見る

「そうか」

「そうか、は田舎くさいね。ときに君もあの会へ出るがいい。もう近いうちにあるはずだから」

原文を見る

「そうかは田臭でんしゅうだね。時に君もあの会へ出るがいい。もう近いうちにあるはずだから」

「そんな偉い人ばかり出る所へ行ったってしかたがない。ぼくはよそう」

原文を見る

「そんな偉い人ばかり出る所へ行ったってしかたがない。ぼくはよそう」

「また田舎くささを出した。偉い人も偉くない人も、世の中へ出た順番が違うだけだ。なに、あんな人たち、博士とか学士とか言ったって、会って話してみるとなんでもないものだよ。第一、向こうがそう偉いとも何とも思ってやしない。ぜひ出ておくがいい。君の先のためだから」

原文を見る

「また田臭を放った。偉い人も偉くない人も社会へ頭を出した順序が違うだけだ。なにあんな連中、博士とか学士とかいったって、会って話してみるとなんでもないものだよ。第一向こうがそう偉いともなんとも思ってやしない。ぜひ出ておくがいい。君の将来のためだから」

「どこであるのか」

原文を見る

「どこであるのか」

「たぶん上野の精養軒になるだろう」

原文を見る

「たぶん上野うえの精養軒せいようけんになるだろう」

「ぼくはあんな所へ入ったことがない。高い会費を取るんだろう」

原文を見る

「ぼくはあんな所へ、はいったことがない。高い会費を取るんだろう」

「まあ二円ぐらいだろう。なに、会費なんか心配しなくてもいい。なければぼくが出しておくから」

原文を見る

「まあ二円ぐらいだろう。なに会費なんか、心配しなくってもいい。なければぼくがだしておくから」

三四郎はたちまち、さきの二十円のことを思い出した。

原文を見る

三四郎はたちまち、さきの二十円の件を思い出した。

けれども不思議におかしくならなかった。

原文を見る

けれども不思議におかしくならなかった。

与次郎はそのうち、銀座のどこかへ天ぷらを食いに行こうと言い出した。

原文を見る

与次郎はそのうち銀座ぎんざのどことかへ天麩羅てんぷらを食いに行こうと言いだした。

お金はあると言う。

原文を見る

金はあると言う。

不思議な男である。

原文を見る

不思議な男である。

言いなりになる三四郎も、これは断った。

原文を見る

言いなり次第になる三四郎もこれは断った。

その代わり、いっしょに散歩に出た。

原文を見る

その代りいっしょに散歩に出た。

帰りに岡野へ寄って、与次郎は栗まんじゅうをたくさん買った。

原文を見る

帰りに岡野おかのへ寄って、与次郎は栗饅頭くりまんじゅうをたくさん買った。

これを先生におみやげに持ってゆくんだと言って、袋をかかえて帰っていった。

原文を見る

これを先生にみやげに持ってゆくんだと言って、袋をかかえて帰っていった。

三四郎はその晩、与次郎の人がらを考えた。

原文を見る

三四郎はその晩与次郎の性格を考えた。

長く東京にいると、あんなになるものかと思った。

原文を見る

長く東京にいるとあんなになるものかと思った。

それから里見へお金を借りに行くことを考えた。

原文を見る

それから里見へ金を借りに行くことを考えた。

美禰子の所へ行く用事ができたのはうれしいような気がする。

原文を見る

美禰子の所へ行く用事ができたのはうれしいような気がする。

しかし、頭を下げてお金を借りるのはありがたくない。

原文を見る

しかし頭を下げて金を借りるのはありがたくない。

三四郎は生まれてから今日まで、人にお金を借りたことのない男である。

原文を見る

三四郎は生まれてから今日にいたるまで、人に金を借りた経験のない男である。

そのうえ、貸すという本人が若い娘さんである。

原文を見る

その上貸すという当人が娘である。

一人立ちした人ではない。

原文を見る

独立した人間ではない。

たとえお金が自由になるとしても、兄の許しを得ない内緒のお金を借りたとなると、借りる自分はともかく、あとで貸した人のめいわくになるかもしれない。

原文を見る

たとい金が自由になるとしても、兄の許諾を得ない内証の金を借りたとなると、借りる自分はとにかく、あとで、貸した人の迷惑になるかもしれない。

あるいは、あの人のことだから、めいわくにならないようにはじめからできているかとも思える。

原文を見る

あるいはあの女のことだから、迷惑にならないようにはじめからできているかとも思える。

なにしろ会ってみよう。

原文を見る

なにしろ会ってみよう。

会ったうえで、借りるのがおもしろくない様子だったら断って、しばらく下宿の払いを延ばしておいて、ふるさとから取り寄せれば済む。――

原文を見る

会ったうえで、借りるのがおもしろくない様子だったら、断わって、しばらく下宿の払いを延ばしておいて、国から取り寄せれば事は済む。――

さしあたっての用はここまで考えて区切りをつけた。

原文を見る

当用はここまで考えて句切りをつけた。

あとは、とりとめもなく美禰子のことが頭に浮かんで来る。

原文を見る

あとは散漫に美禰子の事が頭に浮かんで来る。

美禰子の顔や手や、えりや、帯や、着物やらを、思い浮かべるままに、載せたり取りのぞいたりしていた。

原文を見る

美禰子の顔や手や、えりや、帯や、着物やらを、想像にまかせて、けたりったりしていた。

とくに明日会う時に、どんな様子でどんなことを言うだろうと、その場面が十通りにも二十通りにもなっていろいろに出て来る。

原文を見る

ことにあした会う時に、どんな態度で、どんな事を言うだろうとその光景が通りにも二十にじっ通りにもなって、いろいろに出て来る。

三四郎はもともとこんな男である。

原文を見る

三四郎は本来からこんな男である。

用があって人と会う約束などをする時には、相手がどう出るだろうということばかり思い浮かべる。

原文を見る

用談があって人と会見の約束などをする時には、先方がどう出るだろうということばかり想像する。

自分がこんな顔をして、こんなことをこんな声で言ってやろう、などとはけっして考えない。

原文を見る

自分が、こんな顔をして、こんな事を、こんな声で言ってやろうなどとはけっして考えない。

しかも会い終わると、あとからきっと、そのほうを考える。

原文を見る

しかも会見が済むと後からきっとそのほうを考える。

そうして後悔する。

原文を見る

そうして後悔する。

とくに今夜は自分のほうを思い浮かべる余地がない。

原文を見る

ことに今夜は自分のほうを想像する余地がない。

三四郎はこの間から美禰子を疑っている。

原文を見る

三四郎はこのあいだから美禰子を疑っている。

しかし疑うばかりで、いっこうに答えが出ない。

原文を見る

しかし疑うばかりでいっこうらちがあかない。

そうかといって、面と向かって問いただすべきことは一つもないのだから、すっぱり決めるなど思いもよらないことである。

原文を見る

そうかといって面と向かって、聞きただすべき事件は一つもないのだから、一刀両断の解決などは思いもよらぬことである。

もし三四郎の安心のために答えが必要なら、それはただ美禰子に会う機会を使って、相手の様子からいいかげんに最後の答えを自分に出してしまうだけである。

原文を見る

もし三四郎の安心のために解決が必要なら、それはただ美禰子に接触する機会を利用して、先方の様子から、いいかげんに最後の判決を自分に与えてしまうだけである。

明日会うのは、この答えに欠かせない手がかりである。

原文を見る

あしたの会見はこの判決に欠くべからざる材料である。

だから、いろいろに向こうを思い浮かべてみる。

原文を見る

だから、いろいろに向こうを想像してみる。

しかし、どう思い浮かべても、自分に都合のいい場面ばかり出てくる。

原文を見る

しかし、どう想像しても、自分につごうのいい光景ばかり出てくる。

それでいて、実際はとても疑わしい。

原文を見る

それでいて、実際ははなはだ疑わしい。

ちょうど汚い所をきれいな写真に撮って眺めているような気がする。

原文を見る

ちょうどきたない所をきれいな写真にとってながめているような気がする。

写真は写真としてどこまでも本当に違いないが、実物の汚いことも打ち消せないのと同じで、同じでなければならないはずの二つがけっして合わない。

原文を見る

写真は写真としてどこまでも本当に違いないが、実物のきたないことも争われないと一般で、同じでなければならぬはずの二つがけっして一致しない。

最後にうれしいことを思いついた。

原文を見る

最後にうれしいことを思いついた。

美禰子は与次郎にお金を貸すと言った。

原文を見る

美禰子は与次郎に金を貸すと言った。

けれども、与次郎には渡さないと言った。

原文を見る

けれども与次郎には渡さないと言った。

実際、与次郎はお金のことでは信じにくい男かもしれない。

原文を見る

じっさい与次郎は金銭のうえにおいては、信用しにくい男かもしれない。

しかし、その意味で美禰子が渡さないのかどうか疑わしい。

原文を見る

しかしその意味で美禰子が渡さないのか、どうだか疑わしい。

もし、その意味でないとすると、自分にはとても頼もしいことになる。

原文を見る

もしその意味でないとすると、自分にははなはだたのもしいことになる。

ただお金を貸してくれるだけでも十分な親切である。

原文を見る

ただ金を貸してくれるだけでも十分の好意である。

自分に会って手わたしにしたいというのは――三四郎はここまでうぬぼれてみたが、たちまち、

原文を見る

自分に会って手渡しにしたいというのは――三四郎はここまで己惚れてみたが、たちまち、

「やっぱりからかっているんじゃないか」

原文を見る

「やっぱり愚弄ぐろうじゃないか」

と考え出して、急に赤くなった。

原文を見る

と考えだして、急に赤くなった。

もし、だれかがいて、その人は何のために君をからかうのかと聞いたら、三四郎はおそらく答えられなかっただろう。

原文を見る

もし、ある人があって、その女はなんのために君を愚弄するのかと聞いたら、三四郎はおそらく答ええなかったろう。

むりに考えてみろと言われたら、三四郎は、からかうことそのものに興味を持っている人だから、とまでは答えたかもしれない。

原文を見る

しいて考えてみろと言われたら、三四郎は愚弄そのものに興味をもっている女だからとまでは答えたかもしれない。

自分のうぬぼれをこらしめるためとは、まったく思いつけなかったに違いない。――

原文を見る

自分の己惚れを罰するためとはまったく考ええなかったに違いない。――

三四郎は、美禰子のせいでうぬぼれさせられたのだと信じている。

原文を見る

三四郎は美禰子のために己惚れしめられたんだと信じている。

翌日はさいわい先生が二人休んで、昼からの授業が休みになった。

原文を見る

翌日はさいわい教師が二人欠席して、昼からの授業が休みになった。

下宿へ帰るのも面倒だから、途中で軽く腹ごしらえをして、美禰子の家へ行った。

原文を見る

下宿へ帰るのもめんどうだから、途中で一品いっぴん料理の腹をこしらえて、美禰子の家へ行った。

前を通ったことは何度でもある。

原文を見る

前を通ったことはなんべんでもある。

けれども入るのははじめてである。

原文を見る

けれどもはいるのははじめてである。

瓦ぶきの門の柱に里見恭助という表札が出ている。

原文を見る

瓦葺かわらぶきの門の柱に里見恭助という標札が出ている。

三四郎はここを通るたびに、里見恭助という人はどんな人だろうと思う。

原文を見る

三四郎はここを通るたびに、里見恭助という人はどんな男だろうと思う。

まだ会ったことがない。

原文を見る

まだ会ったことがない。

門は閉まっている。

原文を見る

門は締まっている。

小さな戸から入ると、玄関までのきょりは案外短い。

原文を見る

くぐりからはいると玄関までの距離は存外短かい。

長方形の御影石が飛び飛びに敷いてある。

原文を見る

長方形の御影石みかげいしが飛び飛びに敷いてある。

玄関は細いきれいな格子で閉め切ってある。

原文を見る

玄関は細いきれいな格子こうしでたてきってある。

ベルを押す。

原文を見る

ベルを押す。

取り次ぎの女中に、「美禰子さんはお宅ですか」

原文を見る

取次ぎの下女に、「美禰子さんはお宅ですか」

と言った時、三四郎は自分でも気恥ずかしいような妙な気持ちがした。

原文を見る

と言った時、三四郎は自分ながら気恥ずかしいような妙な心持ちがした。

人の玄関で、年ごろの女の人がいるかどうかをたずねたことはまだない。

原文を見る

ひとの玄関で、妙齢の女の在否を尋ねたことはまだない。

とてもたずねにくい気がする。

原文を見る

はなはだ尋ねにくい気がする。

女中のほうは案外まじめである。

原文を見る

下女のほうは案外まじめである。

しかも、ていねいである。

原文を見る

しかもうやうやしい。

いったん奥へ入って、また出て来て、ていねいにおじぎをして、どうぞと言うからついて上がると、応接間へ通した。

原文を見る

いったん奥へはいって、また出て来て、丁寧にお辞儀をして、どうぞと言うからついて上がると応接間へ通した。

重いカーテンのかかっている西洋間である。

原文を見る

重い窓掛けの掛かっている西洋室である。

少し暗い。

原文を見る

少し暗い。

女中はまた、「しばらく、どうか……」

原文を見る

下女はまた、「しばらく、どうか……」

とあいさつして出て行った。

原文を見る

と挨拶して出て行った。

三四郎は静かな部屋の中に席を取った。

原文を見る

三四郎は静かな部屋へやの中に席を占めた。

正面に壁を切り抜いた小さい暖炉がある。

原文を見る

正面に壁を切り抜いた小さい暖炉だんろがある。

その上が横に長い鏡になっていて、前にろうそく立てが二本ある。

原文を見る

その上が横に長い鏡になっていて前に蝋燭立ろうそくたてが二本ある。

三四郎は左右のろうそく立てのまん中に自分の顔を映して見て、またすわった。

原文を見る

三四郎は左右の蝋燭立のまん中に自分の顔を写して見て、またすわった。

すると奥の方でバイオリンの音がした。

原文を見る

すると奥の方でバイオリンの音がした。

それが、どこからか風が持って来て捨てて行ったように、すぐ消えてしまった。

原文を見る

それがどこからか、風が持って来て捨てて行ったように、すぐ消えてしまった。

三四郎は惜しい気がする。

原文を見る

三四郎は惜しい気がする。

厚く張った椅子の背によりかかって、もう少しやればいいがと思って耳を澄ましていたが、音はそれきりでやんだ。

原文を見る

厚く張った椅子いすの背によりかかって、もう少しやればいいがと思って耳を澄ましていたが、音はそれぎりでやんだ。

約一分もたつうちに、三四郎はバイオリンのことを忘れた。

原文を見る

約一分もたつうちに、三四郎はバイオリンの事を忘れた。

向こうにある鏡とろうそく立てを眺めている。

原文を見る

向こうにある鏡と蝋燭立をながめている。

妙に西洋のにおいがする。

原文を見る

妙に西洋のにおいがする。

それからカトリックを思い浮かべる。

原文を見る

それからカソリックの連想がある。

なぜカトリックだか三四郎にもわからない。

原文を見る

なぜカソリックだか三四郎にもわからない。

その時バイオリンがまた鳴った。

原文を見る

その時バイオリンがまた鳴った。

今度は高い音と低い音が二、三度急に続いて響いた。

原文を見る

今度は高いと低い音が二、三度急に続いて響いた。

それでぱったり消えてしまった。

原文を見る

それでぱったり消えてしまった。

三四郎はまったく西洋の音楽を知らない。

原文を見る

三四郎はまったく西洋の音楽を知らない。

しかし今の音は、けっして、まとまったものの一部分を弾いたとは受け取れない。

原文を見る

しかし今の音は、けっして、まとまったものの一部分をひいたとは受け取れない。

ただ鳴らしただけである。

原文を見る

ただ鳴らしただけである。

その、無作法にただ鳴らしたところが、三四郎の気持ちによく合った。

原文を見る

その無作法にただ鳴らしたところが三四郎の情緒じょうしょによく合った。

不意に空から二、三粒落ちて来た、でたらめのひょうのようである。

原文を見る

不意に天から二、三つぶ落ちて来た、でたらめのひょうのようである。

三四郎が半ばぼんやりした目を鏡の中に移すと、鏡の中に美禰子がいつのまにか立っている。

原文を見る

三四郎がなかば感覚を失った目を鏡の中に移すと、鏡の中に美禰子がいつのまにか立っている。

女中が閉めたと思った戸が開いている。

原文を見る

下女がたてたと思った戸があいている。

戸の後ろにかけてある布を片手で押し分けた美禰子の胸から上が、はっきり映っている。

原文を見る

戸のうしろにかけてある幕を片手で押し分けた美禰子の胸から上が明らかに写っている。

美禰子は鏡の中で三四郎を見た。

原文を見る

美禰子は鏡の中で三四郎を見た。

三四郎は鏡の中の美禰子を見た。

原文を見る

三四郎は鏡の中の美禰子を見た。

美禰子はにこりと笑った。

原文を見る

美禰子はにこりと笑った。

「いらっしゃい」

原文を見る

「いらっしゃい」

声は後ろで聞こえた。

原文を見る

女の声はうしろで聞こえた。

三四郎は振り向かなければならなかった。

原文を見る

三四郎は振り向かなければならなかった。

二人はじかに顔を見合わせた。

原文を見る

女と男はじかに顔を見合わせた。

その時、美禰子はひさしの広い髪をちょっと前に動かしてあいさつをした。

原文を見る

その時女はひさしの広い髪をちょっと前に動かして礼をした。

あいさつをするには及ばないくらい親しい様子であった。

原文を見る

礼をするにはおよばないくらいに親しい態度であった。

男のほうは、かえって椅子から腰を浮かして頭を下げた。

原文を見る

男のほうはかえって椅子から腰を浮かして頭を下げた。

美禰子は知らないふうをして向こうへ回り、鏡を背に、三四郎の正面に腰を下ろした。

原文を見る

女は知らぬふうをして、向こうへ回って、鏡を背に、三四郎の正面に腰をおろした。

「とうとういらっしゃった」

原文を見る

「とうとういらしった」

同じような親しい調子である。

原文を見る

同じような親しい調子である。

三四郎には、この一言がたいへんうれしく聞こえた。

原文を見る

三四郎にはこの一言いちげんが非常にうれしく聞こえた。

美禰子は光る絹を着ている。

原文を見る

女は光る絹を着ている。

さっきからだいぶ待たせたところをみると、応接間へ出るためにわざわざきれいなのに着替えたのかもしれない。

原文を見る

さっきからだいぶ待たしたところをもってみると、応接間へ出るためにわざわざきれいなのに着換えたのかもしれない。

それで、きちんとすわっている。

原文を見る

それで端然とすわっている。

目と口に笑いを浮かべて、黙ったまま三四郎を見守った姿に、三四郎はむしろ甘い苦しさを感じた。

原文を見る

目と口にえみを帯びて無言のまま三四郎を見守った姿に、男はむしろ甘い苦しみを感じた。

じっと見られるのに耐えられない気持ちが起こったのは、そのくせ美禰子が腰を下ろすやいなやである。

原文を見る

じっとして見らるるに堪えない心の起こったのは、そのくせ女の腰をおろすやいなやである。

三四郎はすぐ口を開いた。

原文を見る

三四郎はすぐ口を開いた。

ほとんど、こらえきれずに出た言葉である。

原文を見る

ほとんど発作ほっさに近い。

「佐々木が」

原文を見る

「佐々木が」

「佐々木さんが、あなたの所へいらしったでしょう」

原文を見る

「佐々木さんが、あなたの所へいらしったでしょう」

と言って、例の白い歯を見せた。

原文を見る

と言って例の白い歯を現わした。

美禰子の後ろには、さっきのろうそく立てが暖炉のかざり棚の左右に並んでいる。

原文を見る

女のうしろにはさきの蝋燭立がマントルピースの左右に並んでいる。

金で細工をした妙な形の台である。

原文を見る

金で細工さいくをした妙な形の台である。

これをろうそく立てと見たのは三四郎の思いこみで、じつは何だかわからない。

原文を見る

これを蝋燭立と見たのは三四郎の臆断おくだんで、じつはなんだかわからない。

この不思議なろうそく立ての後ろに明るい鏡がある。

原文を見る

この不可思議の蝋燭立のうしろに明らかな鏡がある。

光は厚いカーテンにさえぎられて、十分に入らない。

原文を見る

光線は厚い窓掛けにさえぎられて、十分にはいらない。

そのうえ天気は曇っている。

原文を見る

そのうえ天気は曇っている。

三四郎はこの中で美禰子の白い歯を見た。

原文を見る

三四郎はこのあいだに美禰子の白い歯を見た。

「佐々木が来ました」

原文を見る

「佐々木が来ました」

「何と言っていらっしゃいました」

原文を見る

「なんと言っていらっしゃいました」

「ぼくに、あなたの所へ行けと言って来ました」

原文を見る

「ぼくにあなたの所へ行けと言って来ました」

「そうでしょう。――それでいらしったの」

原文を見る

「そうでしょう。――それでいらしったの」

と、わざわざ聞いた。

原文を見る

とわざわざ聞いた。

「ええ」

原文を見る

「ええ」

と言って少しためらった。

原文を見る

と言って少し躊躇ちゅうちょした。

あとから「まあ、そうです」

原文を見る

あとから「まあ、そうです」

と答えた。

原文を見る

と答えた。

美禰子はまったく歯を隠した。

原文を見る

女はまったく歯を隠した。

静かに席を立って窓の所へ行き、外を眺め出した。

原文を見る

静かに席を立って、窓の所へ行って、外面そとをながめだした。

「曇りましたね。寒いでしょう、外は」

原文を見る

「曇りましたね。寒いでしょう、戸外そとは」

「いいえ、案外暖かい。風はまるでありません」

原文を見る

「いいえ、存外暖かい。風はまるでありません」

「そう」

原文を見る

「そう」

と言いながら席へ帰って来た。

原文を見る

と言いながら席へ帰って来た。

「じつは佐々木がお金を……」

原文を見る

「じつは佐々木が金を……」

と三四郎から言い出した。

原文を見る

と三四郎から言いだした。

「わかってるの」

原文を見る

「わかってるの」

と途中で止めた。

原文を見る

と中途でとめた。

三四郎も黙った。

原文を見る

三四郎も黙った。

すると

原文を見る

すると

「どうしてなくしておしまいになったの」

原文を見る

「どうしておなくしになったの」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

「馬券を買ったのです」

原文を見る

「馬券を買ったのです」

美禰子は「まあ」

原文を見る

女は「まあ」

と言った。

原文を見る

と言った。

まあと言ったわりに、顔は驚いていない。

原文を見る

まあと言ったわりに顔は驚いていない。

かえって笑っている。

原文を見る

かえって笑っている。

少したって、「悪いかたね」

原文を見る

すこしたって、「悪いかたね」

とつけ加えた。

原文を見る

とつけ加えた。

三四郎は答えずにいた。

原文を見る

三四郎は答えずにいた。

「馬券で当てるのは、人の心を当てるよりむずかしいじゃありませんか。あなたは、答えの手がかりがついている人の心さえ当ててみようとなさらない、のんきなかただのに」

原文を見る

「馬券であてるのは、人の心をあてるよりむずかしいじゃありませんか。あなたは索引のついている人の心さえあててみようとなさらないのん気なかただのに」

「ぼくが馬券を買ったんじゃありません」

原文を見る

「ぼくが馬券を買ったんじゃありません」

「あら。だれが買ったの」

原文を見る

「あら。だれが買ったの」

「佐々木が買ったのです」

原文を見る

「佐々木が買ったのです」

美禰子は急に笑い出した。

原文を見る

女は急に笑いだした。

三四郎もおかしくなった。

原文を見る

三四郎もおかしくなった。

「じゃ、あなたがお金がいるんじゃなかったのね。ばかばかしい」

原文を見る

「じゃ、あなたがお金がお入用いりようじゃなかったのね。ばかばかしい」

「いることはぼくがいるのです」

原文を見る

「いることはぼくがいるのです」

「ほんとうに?」

原文を見る

「ほんとうに?」

「ほんとうに」

原文を見る

「ほんとうに」

「だって、それじゃおかしいわね」

原文を見る

「だってそれじゃおかしいわね」

「だから借りなくてもいいんです」

原文を見る

「だから借りなくってもいいんです」

「なぜ。おいやなの?」

原文を見る

「なぜ。おいやなの?」

「いやじゃないが、お兄さんに黙ってあなたから借りてはよくないからです」

原文を見る

「いやじゃないが、おあにいさんに黙って、あなたから借りちゃ、好くないからです」

「どういうわけで? でも兄は承知しているんですもの」

原文を見る

「どういうわけで? でも兄は承知しているんですもの」

「そうですか。じゃ借りてもいい。――しかし借りないでもいい。家へそう言ってやりさえすれば、一週間ぐらいすると来ますから」

原文を見る

「そうですか。じゃ借りてもいい。――しかし借りないでもいい。うちへそう言ってやりさえすれば、一週間ぐらいすると来ますから」

「御迷惑なら、むりには……」

原文を見る

「御迷惑なら、しいて……」

美禰子は急に冷たくなった。

原文を見る

美禰子は急に冷淡になった。

今までそばにいたものが百メートルばかり遠のいた気がする。

原文を見る

今までそばにいたものが一町ばかり遠のいた気がする。

三四郎は借りておけばよかったと思った。

原文を見る

三四郎は借りておけばよかったと思った。

けれども、もうしかたがない。

原文を見る

けれども、もうしかたがない。

ろうそく立てを見てすましている。

原文を見る

蝋燭立を見てすましている。

三四郎は自分から進んで人の機嫌を取ったことのない男である。

原文を見る

三四郎は自分から進んで、ひとのきげんをとったことのない男である。

美禰子も遠ざかったきり近づいて来ない。

原文を見る

女も遠ざかったぎり近づいて来ない。

しばらくすると、また立ち上がった。

原文を見る

しばらくするとまた立ち上がった。

窓から外を透かして見て、

原文を見る

窓から戸外をすかして見て、

「降りそうもありませんね」

原文を見る

「降りそうもありませんね」

と言う。

原文を見る

と言う。

三四郎も同じ調子で、「降りそうもありません」

原文を見る

三四郎も同じ調子で、「降りそうもありません」

と答えた。

原文を見る

と答えた。

「降らなければ、私ちょっと出て来ようかしら」

原文を見る

「降らなければ、私ちょっと出てようかしら」

と、窓の所で立ったまま言う。

原文を見る

と窓の所で立ったまま言う。

三四郎は、帰ってくれという意味に取った。

原文を見る

三四郎は帰ってくれという意味に解釈した。

光る絹に着替えたのも、自分のためではなかった。

原文を見る

光る絹を着換えたのも自分のためではなかった。

「もう帰りましょう」

原文を見る

「もう帰りましょう」

と立ち上がった。

原文を見る

と立ち上がった。

美禰子は玄関まで送って来た。

原文を見る

美禰子は玄関まで送って来た。

くつ脱ぎへ降りて靴をはいていると、上から美禰子が、

原文を見る

沓脱くつぬぎへ降りて、くつをはいていると、上から美禰子が、

「そこまでごいっしょに出ましょう。いいでしょう」

原文を見る

「そこまでごいっしょに出ましょう。いいでしょう」

と言った。

原文を見る

と言った。

三四郎は靴のひもを結びながら、「ええ、どうでも」

原文を見る

三四郎は靴のひもを結びながら、「ええ、どうでも」

と答えた。

原文を見る

と答えた。

美禰子はいつのまにか土間の上へ降りた。

原文を見る

女はいつのまにか、和土たたきの上へ下りた。

降りながら三四郎の耳のそばへ口を持ってきて、「おこっていらっしゃるの」

原文を見る

下りながら三四郎の耳のそばへ口を持ってきて、「おこっていらっしゃるの」

とささやいた。

原文を見る

とささやいた。

そこへ女中があわてながら送りに出て来た。

原文を見る

ところへ下女があわてながら、送りに出て来た。

二人は五十メートルほど黙ったまま連れ立って来た。

原文を見る

二人は半町ほど無言のまま連れだって来た。

その間、三四郎はずっと美禰子のことを考えている。

原文を見る

そのあいだ三四郎はしじゅう美禰子の事を考えている。

この人はわがままに育ったに違いない。

原文を見る

この女はわがままに育ったに違いない。

それから家庭にいて、ふつうの女の人以上の自由を持って、何ごとも思うようにふるまうに違いない。

原文を見る

それから家庭にいて、普通の女性にょしょう以上の自由を有して、万事意のごとくふるまうに違いない。

こうして、だれの許しも得ずに自分といっしょに通りを歩くのでもわかる。

原文を見る

こうして、だれの許諾も経ずに、自分といっしょに、往来を歩くのでもわかる。

年寄りの親がなくて、若い兄が好きにさせているから、こうもできるのだろうが、これが田舎であったら、さぞ困ることだろう。

原文を見る

年寄りの親がなくって、若い兄が放任主義だから、こうもできるのだろうが、これがいなかであったらさぞ困ることだろう。

この人に三輪田のお光さんのような暮らしを送れと言ったら、どうする気かしらん。

原文を見る

この女に三輪田のお光さんのような生活を送れと言ったら、どうする気かしらん。

東京は田舎と違って何もかも開けっぴろげだから、こちらの女の人はたいていこうなのかもわからないが、遠くから思い浮かべてみると、もう少しは昔ふうのようでもある。

原文を見る

東京はいなかと違って、万事があけ放しだから、こちらの女は、たいていこうなのかもわからないが、遠くから想像してみると、もう少しは旧式のようでもある。

すると与次郎が美禰子をイプセン流と言ったのも、なるほどと思い当たる。

原文を見る

すると与次郎が美禰子をイブセン流と評したのもなるほどと思い当る。

ただし、世間並みの決まりにこだわらないところだけがイプセン流なのか、あるいは心の底の考えまでもそうなのか。

原文を見る

ただし俗礼にかかわらないところだけがイブセン流なのか、あるいは腹の底の思想までも、そうなのか。

そこはわからない。

原文を見る

そこはわからない。

そのうち本郷の通りへ出た。

原文を見る

そのうち本郷の通りへ出た。

いっしょに歩いている二人は、いっしょに歩いていながら、相手がどこへ行くのだかまったく知らない。

原文を見る

いっしょに歩いている二人は、いっしょに歩いていながら、相手がどこへ行くのだか、まったく知らない。

今までに横町を三つばかり曲がった。

原文を見る

今までに横町を三つばかり曲がった。

曲がるたびに、二人の足は申し合わせたように黙ったまま同じ方角へ曲がった。

原文を見る

曲がるたびに、二人の足は申し合わせたように無言のまま同じ方角へ曲がった。

本郷の通りを四丁目の角へ来る途中で、美禰子が聞いた。

原文を見る

本郷の通りを四丁目の角へ来る途中で、女が聞いた。

「どこへいらっしゃるの」

原文を見る

「どこへいらっしゃるの」

「あなたはどこへ行くんです」

原文を見る

「あなたはどこへ行くんです」

二人はちょっと顔を見合わせた。

原文を見る

二人はちょっと顔を見合わせた。

三四郎はとてもまじめである。

原文を見る

三四郎はしごくまじめである。

美禰子はこらえきれずに、また白い歯を見せた。

原文を見る

女はこらえきれずにまた白い歯をあらわした。

「いっしょにいらっしゃい」

原文を見る

「いっしょにいらっしゃい」

二人は四丁目の角を切り通しの方へ折れた。

原文を見る

二人は四丁目の角を切り通しの方へ折れた。

五十メートルほど行くと、右側に大きな西洋館がある。

原文を見る

三十間ほど行くと、右側に大きな西洋館がある。

美禰子はその前で止まった。

原文を見る

美禰子はその前にとまった。

帯の間から薄い帳面とはんこを出して、

原文を見る

帯の間から薄い帳面と、印形を出して、

「お願い」

原文を見る

「お願い」

と言った。

原文を見る

と言った。

「なんですか」

原文を見る

「なんですか」

「これでお金を取ってちょうだい」

原文を見る

「これでお金を取ってちょうだい」

三四郎は手を出して帳面を受け取った。

原文を見る

三四郎は手を出して、帳面を受取った。

まん中に貯金の通帳とあって、横に里見美禰子殿と書いてある。

原文を見る

まん中に小口当座預金通帳あずかりきんかよいちょうとあって、横に里見美禰子殿と書いてある。

三四郎は帳面とはんこを持ったまま、美禰子の顔を見て立った。

原文を見る

三四郎は帳面と印形を持ったまま、女の顔を見て立った。

「三十円」

原文を見る

「三十円」

と美禰子が金額を言った。

原文を見る

と女が金高きんだかを言った。

まるで毎日銀行へお金を取りに行き慣れた人に言うような口ぶりである。

原文を見る

あたかも毎日銀行へ金を取りに行きつけた者に対する口ぶりである。

さいわい三四郎はふるさとにいたころ、こういう帳面を持ってたびたび豊津まで出かけたことがある。

原文を見る

さいわい、三四郎は国にいる時分、こういう帳面を持ってたびたび豊津とよつまで出かけたことがある。

すぐ石段を上って戸を開け、銀行の中へ入った。

原文を見る

すぐ石段を上って、戸をあけて、銀行の中へはいった。

帳面とはんこを係の人に渡して、必要なお金を受け取って出てみると、美禰子は待っていない。

原文を見る

帳面と印形を係りの者に渡して、必要の金額を受け取って出てみると、美禰子は待っていない。

もう切り通しの方へ四十メートルばかり歩き出している。

原文を見る

もう切り通しの方へ二十間ばかり歩きだしている。

三四郎は急いで追いついた。

原文を見る

三四郎は急いで追いついた。

すぐ受け取ったものを渡そうとしてポケットへ手を入れると、美禰子が、

原文を見る

すぐ受け取ったものを渡そうとして、ポッケットへ手を入れると、美禰子が、

「丹青会の展覧会を御覧になって」

原文を見る

丹青会たんせいかいの展覧会を御覧になって」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

「まだ見ません」

原文を見る

「まだ見ません」

「招待券を二枚もらったんですけれど、つい暇がなかったものだからまだ行かずにいたんですが、行ってみましょうか」

原文を見る

招待券しょうたいけんを二枚もらったんですけれども、つい暇がなかったものだからまだ行かずにいたんですが、行ってみましょうか」

「行ってもいいです」

原文を見る

「行ってもいいです」

「行きましょう。もうじき終わりますから。私、一度は見ておかないと原口さんに済まないのです」

原文を見る

「行きましょう。もうじき閉会になりますから。私、一ぺんは見ておかないと原口さんに済まないのです」

「原口さんが招待券をくれたんですか」

原文を見る

「原口さんが招待券をくれたんですか」

「ええ。あなた、原口さんを御存じなの?」

原文を見る

「ええ。あなた原口さんを御存じなの?」

「広田先生の所で一度会いました」

原文を見る

「広田先生の所で一度会いました」

「おもしろいかたでしょう。ばか囃子を習っていらっしゃるんですって」

原文を見る

「おもしろいかたでしょう。馬鹿囃子を稽古なさるんですって」

「この間は鼓を習いたいと言っていました。それから――」

原文を見る

「このあいだはつづみをならいたいと言っていました。それから――」

「それから?」

原文を見る

「それから?」

「それから、あなたの絵を描くとか言っていました。本当ですか」

原文を見る

「それから、あなたの肖像をかくとか言っていました。本当ですか」

「ええ、上等なモデルなの」

原文を見る

「ええ、高等モデルなの」

と言った。

原文を見る

と言った。

三四郎は、これ以上に気の利いたことが言えない性質である。

原文を見る

男はこれより以上に気の利いたことが言えない性質たちである。

それで黙ってしまった。

原文を見る

それで黙ってしまった。

美禰子は何か言ってもらいたかったらしい。

原文を見る

女はなんとか言ってもらいたかったらしい。

三四郎はまたポケットへ手を入れた。

原文を見る

三四郎はまた隠袋かくしへ手を入れた。

銀行の通帳とはんこを出して美禰子に渡した。

原文を見る

銀行の通帳かよいちょうと印形を出して、女に渡した。

お金は帳面の間にはさんでおいたはずである。

原文を見る

金は帳面の間にはさんでおいたはずである。

ところが美禰子が、

原文を見る

しかるに女が、

「お金は」

原文を見る

「お金は」

と言った。

原文を見る

と言った。

見ると、間にはない。

原文を見る

見ると、間にはない。

三四郎はまたポケットを探った。

原文を見る

三四郎はまたポッケットを探った。

中から手あかのついた札をつかみ出した。

原文を見る

中から手ずれのした札をつかみ出した。

美禰子は手を出さない。

原文を見る

女は手を出さない。

「預かっておいてちょうだい」

原文を見る

「預かっておいてちょうだい」

と言った。

原文を見る

と言った。

三四郎は少しめいわくな気がした。

原文を見る

三四郎はいささか迷惑のような気がした。

しかし、こんな時に言い争うのを好まない男である。

原文を見る

しかしこんな時に争うことを好まぬ男である。

そのうえ通りだから、なおさら遠慮をした。

原文を見る

そのうえ往来だからなおさら遠慮をした。

せっかくにぎった札をまたもとの所へしまって、妙な人だと思った。

原文を見る

せっかく握った札をまたもとの所へ収めて、妙な女だと思った。

学生が多く通る。

原文を見る

学生が多く通る。

すれ違う時にきっと二人を見る。

原文を見る

すれ違う時にきっと二人を見る。

中には遠くから目をつけて来る人もある。

原文を見る

なかには遠くから目をつけて来る者もある。

三四郎は池のほとりへ出るまでの道を、とても長く感じた。

原文を見る

三四郎は池のはたへ出るまでの道をすこぶる長く感じた。

それでも電車に乗る気にはならない。

原文を見る

それでも電車に乗る気にはならない。

二人とものそのそ歩いている。

原文を見る

二人とものそのそ歩いている。

会場へ着いたのはほとんど三時近くである。

原文を見る

会場へ着いたのはほとんど三時近くである。

妙な看板が出ている。

原文を見る

妙な看板が出ている。

丹青会という字も、字の周りについている模様も、三四郎の目にはどれも新しい。

原文を見る

丹青会という字も、字の周囲まわりについている図案も、三四郎の目にはことごとく新しい。

しかし熊本では見ることのできない意味で新しいので、むしろ、なんだか変わった感じがある。

原文を見る

しかし熊本では見ることのできない意味で新しいので、むしろ一種異様の感がある。

中はなおさらである。

原文を見る

中はなおさらである。

三四郎の目には、ただ油絵と水彩画の区別がはっきり映るくらいのものにすぎない。

原文を見る

三四郎の目にはただ油絵と水彩画の区別が判然と映ずるくらいのものにすぎない。

それでも好き嫌いはある。

原文を見る

それでも好悪こうおはある。

買ってもいいと思うのもある。

原文を見る

買ってもいいと思うのもある。

しかし、うまい下手はまったくわからない。

原文を見る

しかし巧拙はまったくわからない。

だから、見分ける力がないものとはじめからあきらめた三四郎は、いっこうに口を開かない。

原文を見る

したがって鑑別力のないものと、初手からあきらめた三四郎は、いっこう口をあかない。

美禰子がこれはどうですかと言うと、そうですなと言う。

原文を見る

美禰子がこれはどうですかと言うと、そうですなという。

これはおもしろいじゃありませんかと言うと、おもしろそうですなと言う。

原文を見る

これはおもしろいじゃありませんかと言うと、おもしろそうですなという。

まるで張り合いがない。

原文を見る

まるで張り合いがない。

話のできないばかか、こちらを相手にしない偉い人か、どちらかに見える。

原文を見る

話のできないばかか、こっちを相手にしない偉い男か、どっちかにみえる。

ばかとすれば、気取らないところに愛嬌がある。

原文を見る

ばかとすればてらわないところに愛嬌あいきょうがある。

偉いとすれば、相手にならないところが憎らしい。

原文を見る

偉いとすれば、相手にならないところが憎らしい。

長い間外国を旅行して歩いた兄妹の絵がたくさんある。

原文を見る

長い間外国を旅行して歩いた兄妹きょうだいの絵がたくさんある。

二人とも同じ名字で、しかも一つ所に並べてかけてある。

原文を見る

双方とも同じ姓で、しかも一つ所に並べてかけてある。

美禰子はその一枚の前で止まった。

原文を見る

美禰子はその一枚の前にとまった。

「ベニスでしょう」

原文を見る

「ベニスでしょう」

これは三四郎にもわかった。

原文を見る

これは三四郎にもわかった。

なんだかベニスらしい。

原文を見る

なんだかベニスらしい。

ゴンドラ(ベニスの細長い舟)にでも乗ってみたい気持ちがする。

原文を見る

ゴンドラにでも乗ってみたい心持ちがする。

三四郎は高等学校にいたころ、ゴンドラという言葉を覚えた。

原文を見る

三四郎は高等学校にいる時分ゴンドラという字を覚えた。

それからこの言葉が好きになった。

原文を見る

それからこの字が好きになった。

ゴンドラというと、女の人といっしょに乗らなければすまないような気がする。

原文を見る

ゴンドラというと、女といっしょに乗らなければすまないような気がする。

黙って、青い水と、水と左右の高い家と、逆さに映る家の影と、影の中にちらちらする赤いかけらとを眺めていた。

原文を見る

黙って青い水と、水と左右の高い家と、さかさに映る家の影と、影の中にちらちらする赤いきれとをながめていた。

すると、

原文を見る

すると、

「お兄さんのほうがよほどうまいようですね」

原文を見る

あにさんのほうがよほどうまいようですね」

と美禰子が言った。

原文を見る

と美禰子が言った。

三四郎にはこの意味が通じなかった。

原文を見る

三四郎にはこの意味が通じなかった。

「お兄さんとは……」

原文を見る

「兄さんとは……」

「この絵はお兄さんのほうでしょう」

原文を見る

「この絵は兄さんのほうでしょう」

「だれの?」

原文を見る

「だれの?」

美禰子は不思議そうな顔をして三四郎を見た。

原文を見る

美禰子は不思議そうな顔をして、三四郎を見た。

「だって、あっちのほうが妹さんので、こっちのほうがお兄さんのじゃありませんか」

原文を見る

「だって、あっちのほうが妹さんので、こっちのほうが兄さんのじゃありませんか」

三四郎は一歩下がって、今通って来た道の片側を振り返って見た。

原文を見る

三四郎は一歩退いて、今通って来た道の片側を振り返って見た。

同じように外国の景色を描いたものが何点となくかかっている。

原文を見る

同じように外国の景色けしきをかいたものが幾点となくかかっている。

「違うんですか」

原文を見る

「違うんですか」

「一人と思っていらしったの」

原文を見る

「一人と思っていらしったの」

「ええ」

原文を見る

「ええ」

と言って、ぼんやりしている。

原文を見る

と言って、ぼんやりしている。

やがて二人が顔を見合わせた。

原文を見る

やがて二人が顔を見合わした。

そうして一度に笑い出した。

原文を見る

そうして一度に笑いだした。

美禰子は驚いたようにわざと大きな目をして、しかも、いちだんと低い小声になって、

原文を見る

美禰子は、驚いたように、わざと大きな目をして、しかもいちだんと調子を落とした小声になって、

「ずいぶんね」

原文を見る

「ずいぶんね」

と言いながら、二メートルばかり、ずんずん先へ行ってしまった。

原文を見る

と言いながら、一間ばかり、ずんずん先へ行ってしまった。

三四郎は立ち止まったまま、もう一度ベニスの水路を眺め出した。

原文を見る

三四郎は立ちどまったまま、もう一ぺんベニスの掘割りをながめだした。

先へ行った美禰子は、この時振り返った。

原文を見る

先へ抜けた女は、この時振り返った。

三四郎は自分の方を見ていない。

原文を見る

三四郎は自分の方を見ていない。

美禰子は先へ行く足をぴたりと止めた。

原文を見る

女は先へ行く足をぴたりと留めた。

向こうから三四郎の横顔をじっと見つめていた。

原文を見る

向こうから三四郎の横顔を熟視していた。

「里見さん」

原文を見る

「里見さん」

だしぬけに、だれか大きな声で呼んだ人がある。

原文を見る

だしぬけにだれか大きな声で呼んだ者がある。

美禰子も三四郎も同じように顔を向け直した。

原文を見る

美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。

事務室と書いた入口を二メートルばかり離れて、原口さんが立っている。

原文を見る

事務室と書いた入口を一間ばかり離れて、原口さんが立っている。

原口さんの後ろに、少し重なり合って野々宮さんが立っている。

原文を見る

原口さんのうしろに、少し重なり合って、野々宮さんが立っている。

美禰子は呼んだ原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。

原文を見る

美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。

見るやいなや、二、三歩あともどりをして三四郎のそばへ来た。

原文を見る

見るやいなや、二、三歩あともどりをして三四郎のそばへ来た。

人に目立たないくらいに、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。

原文を見る

人に目立たぬくらいに、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。

そうして何かささやいた。

原文を見る

そうして何かささやいた。

三四郎には何を言ったのか少しもわからない。

原文を見る

三四郎には何を言ったのか、少しもわからない。

聞き直そうとするうちに、美禰子は二人の方へ引き返していった。

原文を見る

聞き直そうとするうちに、美禰子は二人の方へ引き返していった。

もうあいさつをしている。

原文を見る

もう挨拶あいさつをしている。

野々宮は三四郎に向かって、

原文を見る

野々宮は三四郎に向かって、

「妙な連れと来ましたね」

原文を見る

「妙なつれと来ましたね」

と言った。

原文を見る

と言った。

三四郎が何か答えようとするうちに、美禰子が、

原文を見る

三四郎が何か答えようとするうちに、美禰子が、

「似合うでしょう」

原文を見る

「似合うでしょう」

と言った。

原文を見る

と言った。

野々宮さんは何とも言わなかった。

原文を見る

野々宮さんはなんとも言わなかった。

くるりと後ろを向いた。

原文を見る

くるりとうしろを向いた。

後ろには畳一枚ほどの大きな絵がある。

原文を見る

うしろには畳一枚ほどの大きな絵がある。

その絵は人をえがいたものである。

原文を見る

その絵は肖像画である。

そうして一面に黒い。

原文を見る

そうしていちめんに黒い。

着物も帽子も背景と見分けがつかないほど光を受けていない中に、顔ばかり白い。

原文を見る

着物も帽子も背景から区別のできないほど光線を受けていないなかに、顔ばかり白い。

顔はやせて、頬の肉が落ちている。

原文を見る

顔はやせて、ほおの肉が落ちている。

「写しですね」

原文を見る

「模写ですね」

と野々宮さんが原口さんに言った。

原文を見る

と野々宮さんが原口さんに言った。

原口は今しきりに美禰子に何か話している。――

原文を見る

原口は今しきりに美禰子に何か話している。――

もう終わりである。

原文を見る

もう閉会である。

来る人もだいぶ減った。

原文を見る

来観者もだいぶ減った。

始まったころには毎日事務所へ来ていたが、このごろはめったに顔を出さない。

原文を見る

開会の初めには毎日事務所へ来ていたが、このごろはめったに顔を出さない。

今日は久しぶりにこちらへ用があって、野々宮さんを引っ張って来たところだ。

原文を見る

きょうはひさしぶりに、こっちへ用があって、野々宮さんを引っ張って来たところだ。

うまく出会ったものだ。

原文を見る

うまく出っくわしたものだ。

この会を終えると、すぐ来年の準備にかからなければならないから、とても忙しい。

原文を見る

この会をしまうと、すぐ来年の準備にかからなければならないから、非常に忙しい。

いつもは花の季節に開くのだが、来年は少し会員の都合で早くするつもりだから、ちょうど会を二つ続けて開くのと同じことになる。

原文を見る

いつもは花の時分に開くのだが、来年は少し会員のつごうで早くするつもりだから、ちょうど会を二つ続けて開くと同じことになる。

必死になって取り組まなければならない。

原文を見る

必死の勉強をやらなければならない。

それまでに、ぜひ美禰子の絵を描き上げてしまうつもりである。

原文を見る

それまでにぜひ美禰子の肖像をかきあげてしまうつもりである。

めいわくだろうが、大みそかでも描かせてくれ。

原文を見る

迷惑だろうが大晦日おおみそかでもかかしてくれ。

「その代わり、ここの所へかけるつもりです」

原文を見る

「その代りここん所へかけるつもりです」

原口さんはこの時はじめて、黒い絵の方を向いた。

原文を見る

原口さんはこの時はじめて、黒い絵の方を向いた。

野々宮さんは、その間ぽかんとして同じ絵を眺めていた。

原文を見る

野々宮さんはそのあいだぽかんとして同じ絵をながめていた。

「どうです、ベラスケスは。もっとも写しですがね。しかも、あまり出来がよくない」

原文を見る

「どうです。ベラスケスは。もっとも模写ですがね。しかもあまり上できではない」

と原口がはじめて説明する。

原文を見る

と原口がはじめて説明する。

野々宮さんは何も言う必要がなくなった。

原文を見る

野々宮さんはなんにも言う必要がなくなった。

「どなたがお写しになったの」

原文を見る

「どなたがお写しになったの」

と美禰子が聞いた。

原文を見る

と女が聞いた。

「三井です。三井はもっとうまいんですがね。この絵はあまり感心できない」

原文を見る

三井みついです。三井はもっとうまいんですがね。この絵はあまり感服できない」

と、一、二歩さがって見た。

原文を見る

と一、二歩さがって見た。

「どうも、もとの絵が、わざのきわみに達した人のものだから、うまくいかないね」

原文を見る

「どうも、原画が技巧の極点に達した人のものだから、うまくいかないね」

原口は首を曲げた。

原文を見る

原口は首を曲げた。

三四郎は原口の首を曲げたところを見ていた。

原文を見る

三四郎は原口の首を曲げたところを見ていた。

「もう、みんな見たんですか」

原文を見る

「もう、みんな見たんですか」

と画家が美禰子に聞いた。

原文を見る

と画工が美禰子に聞いた。

原口は美禰子にばかり話しかける。

原文を見る

原口は美禰子にばかり話しかける。

「まだ」

原文を見る

「まだ」

「どうです。もうやめて、いっしょに出ては。精養軒でお茶でもあげます。なに、わたしは用があるから、どうせちょっと行かなければならない。――会のことでね、支配人に相談しておきたいことがある。親しい男だから。――今ちょうどお茶にいい時分です。もう少しするとね、お茶にはおそいし夕ごはんには早い、中途半端になる。どうです。いっしょにいらっしゃいな」

原文を見る

「どうです。もうよして、いっしょに出ちゃ。精養軒でお茶でもあげます。なにわたしは用があるから、どうせちょっと行かなければならない。――会の事でね、マネジャーに相談しておきたい事がある。懇意の男だから。――今ちょうどお茶にいい時分です。もう少しするとね、お茶にはおそし晩餐デナーには早し、中途はんぱになる。どうです。いっしょにいらっしゃいな」

美禰子は三四郎を見た。

原文を見る

美禰子は三四郎を見た。

三四郎はどうでもいい顔をしている。

原文を見る

三四郎はどうでもいい顔をしている。

野々宮は立ったまま口を出さない。

原文を見る

野々宮は立ったまま関係しない。

「せっかく来たものだから、みんな見て行きましょう。ねえ、小川さん」

原文を見る

「せっかく来たものだから、みんな見てゆきましょう。ねえ、小川さん」

三四郎はええと言った。

原文を見る

三四郎はええと言った。

「じゃ、こうなさい。この奥の別の部屋にね、深見さんの残した絵があるから、それだけ見て、帰りに精養軒へいらっしゃい。先に行って待っていますから」

原文を見る

「じゃ、こうなさい。この奥の別室にね。深見ふかみさんの遺画があるから、それだけ見て、帰りに精養軒へいらっしゃい。先へ行って待っていますから」

「ありがとう」

原文を見る

「ありがとう」

「深見さんの水彩はふつうの水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。どこまでも深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気品を見る気になっていると、なかなかおもしろいところが出てきます」

原文を見る

「深見さんの水彩は普通の水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。どこまでも深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、なかなかおもしろいところが出てきます」

と注意して、原口は野々宮と出て行った。

原文を見る

と注意して、原口は野々宮と出て行った。

美禰子はお礼を言って、その後ろすがたを見送った。

原文を見る

美禰子は礼を言ってその後影を見送った。

二人は振り返らなかった。

原文を見る

二人は振り返らなかった。

美禰子は向きを変えて別の部屋へ入った。

原文を見る

女は歩をめぐらして、別室へはいった。

三四郎は一足あとから続いた。

原文を見る

男は一足あとから続いた。

光の乏しい暗い部屋である。

原文を見る

光線の乏しい暗い部屋である。

細長い壁に一列にかかっている深見先生の残した絵を見ると、なるほど原口さんが注意したとおり、ほとんど水彩ばかりである。

原文を見る

細長い壁に一列にかかっている深見先生の遺画を見ると、なるほど原口さんの注意したごとくほとんど水彩ばかりである。

三四郎が強く感じたのは、その水彩の色がどれもこれも薄くて、数が少なくて、色の差が少なくて、日なたへでも出さないと引き立たないと思うほど地味に描いてあるということである。

原文を見る

三四郎が著しく感じたのは、その水彩の色が、どれもこれも薄くて、数が少なくって、対照に乏しくって、日向ひなたへでも出さないと引き立たないと思うほど地味にかいてあるという事である。

その代わり、筆がちっとも止まっていない。

原文を見る

その代り筆がちっとも滞っていない。

ほとんど一気に仕上げた感じがある。

原文を見る

ほとんど一気呵成いっきかせいに仕上げた趣がある。

絵の具の下に鉛筆の線がはっきり透けて見えるのでも、すっきりした描き方がわかる。

原文を見る

絵の具の下に鉛筆の輪郭が明らかに透いて見えるのでも、洒落しゃらくな画風がわかる。

人などになると、細くて長くて、まるで麦を打つ棒のようである。

原文を見る

人間などになると、細くて長くて、まるで殻竿からざおのようである。

ここにもベニスが一枚ある。

原文を見る

ここにもベニスが一枚ある。

「これもベニスですね」

原文を見る

「これもベニスですね」

と美禰子が寄って来た。

原文を見る

と女が寄って来た。

「ええ」

原文を見る

「ええ」

と言ったが、ベニスで急に思い出した。

原文を見る

と言ったが、ベニスで急に思い出した。

「さっき何を言ったんですか」

原文を見る

「さっき何を言ったんですか」

美禰子は「さっき?」

原文を見る

女は「さっき?」

と聞き返した。

原文を見る

と聞き返した。

「さっき、ぼくが立ってあっちのベニスを見ている時です」

原文を見る

「さっき、ぼくが立って、あっちのベニスを見ている時です」

美禰子はまた、まっ白な歯を見せた。

原文を見る

女はまたまっ白な歯をあらわした。

けれども何とも言わない。

原文を見る

けれどもなんとも言わない。

「用でなければ聞かなくてもいいです」

原文を見る

「用でなければ聞かなくってもいいです」

「用じゃないのよ」

原文を見る

「用じゃないのよ」

三四郎はまだ変な顔をしている。

原文を見る

三四郎はまだ変な顔をしている。

曇った秋の日は、もう四時を過ぎた。

原文を見る

曇った秋の日はもう四時を越した。

部屋は薄暗くなってくる。

原文を見る

部屋は薄暗くなってくる。

見に来る人はとても少ない。

原文を見る

観覧人はきわめて少ない。

別の部屋の中には、ただ二人の影があるだけである。

原文を見る

別室のうちには、ただ男女なんにょ二人の影があるのみである。

美禰子は絵を離れて、三四郎の真正面に立った。

原文を見る

女は絵を離れて、三四郎の真正面に立った。

「野々宮さん。ね、ね」

原文を見る

「野々宮さん。ね、ね」

「野々宮さん……」

原文を見る

「野々宮さん……」

「わかったでしょう」

原文を見る

「わかったでしょう」

美禰子の言う意味は、大波がくずれるように一度に三四郎の胸を浸した。

原文を見る

美禰子の意味は、大波のくずれるごとく一度に三四郎の胸を浸した。

「野々宮さんをからかったのですか」

原文を見る

「野々宮さんを愚弄ぐろうしたのですか」

「なんで?」

原文を見る

「なんで?」

美禰子の言い方はまったく無邪気である。

原文を見る

女の語気はまったく無邪気である。

三四郎はたちまち、あとを言う勇気がなくなった。

原文を見る

三四郎は忽然こつぜんとして、あとを言う勇気がなくなった。

黙ったまま二、三歩動き出した。

原文を見る

無言のまま二、三歩動きだした。

美禰子はすがるようについて来た。

原文を見る

女はすがるようについて来た。

「あなたをからかったんじゃないのよ」

原文を見る

「あなたを愚弄したんじゃないのよ」

三四郎はまた立ち止まった。

原文を見る

三四郎はまた立ちどまった。

三四郎は背の高い男である。

原文を見る

三四郎は背の高い男である。

上から美禰子を見下ろした。

原文を見る

上から美禰子を見おろした。

「それでいいです」

原文を見る

「それでいいです」

「なぜ悪いの?」

原文を見る

「なぜ悪いの?」

「だからいいです」

原文を見る

「だからいいです」

美禰子は顔をそむけた。

原文を見る

女は顔をそむけた。

二人とも戸口の方へ歩いて来た。

原文を見る

二人とも戸口の方へ歩いて来た。

戸口を出る拍子に互いの肩が触れた。

原文を見る

戸口を出る拍子ひょうしに互いの肩が触れた。

三四郎は急に、汽車で乗り合わせた女の人を思い出した。

原文を見る

男は急に汽車で乗り合わした女を思い出した。

美禰子のはだに触れたところが、夢の中でうずくような気持ちがした。

原文を見る

美禰子の肉に触れたところが、夢にうずくような心持ちがした。

「ほんとうにいいの?」

原文を見る

「ほんとうにいいの?」

と美禰子が小さい声で聞いた。

原文を見る

と美禰子が小さい声で聞いた。

向こうから二、三人連れの客が来る。

原文を見る

向こうから二、三人連の観覧者が来る。

「ともかく出ましょう」

原文を見る

「ともかく出ましょう」

と三四郎が言った。

原文を見る

と三四郎が言った。

はき物を受け取って出ると、外は雨だ。

原文を見る

下足げそくを受け取って、出ると戸外は雨だ。

「精養軒へ行きますか」

原文を見る

「精養軒へ行きますか」

美禰子は答えなかった。

原文を見る

美禰子は答えなかった。

雨の中をぬれながら、博物館前の広い原の中に立った。

原文を見る

雨のなかをぬれながら、博物館前の広い原のなかに立った。

さいわい雨は今降り出したばかりである。

原文を見る

さいわい雨は今降りだしたばかりである。

そのうえ激しくはない。

原文を見る

そのうえ激しくはない。

美禰子は雨の中に立って見回しながら、向こうの森をさした。

原文を見る

女は雨のなかに立って、見回しながら、向こうの森をさした。

「あの木の陰へ入りましょう」

原文を見る

「あの木の陰へはいりましょう」

少し待てばやみそうである。

原文を見る

少し待てばやみそうである。

二人は大きな杉の下に入った。

原文を見る

二人は大きな杉の下にはいった。

雨を防ぐには都合のよくない木である。

原文を見る

雨を防ぐにはつごうのよくない木である。

けれども二人とも動かない。

原文を見る

けれども二人とも動かない。

ぬれても立っている。

原文を見る

ぬれても立っている。

二人とも寒くなった。

原文を見る

二人とも寒くなった。

美禰子が「小川さん」

原文を見る

女が「小川さん」

と言う。

原文を見る

と言う。

三四郎はまゆの間にしわを寄せて、空を見ていた顔を美禰子の方へ向けた。

原文を見る

男は八の字を寄せて、空を見ていた顔を女の方へ向けた。

「悪くって? さっきのこと」

原文を見る

「悪くって? さっきのこと」

「いいです」

原文を見る

「いいです」

「だって」

原文を見る

「だって」

と言いながら、寄って来た。

原文を見る

と言いながら、寄って来た。

「私、なぜだか、ああしたかったんですもの。野々宮さんに失礼するつもりじゃないんですけれども」

原文を見る

「私、なぜだか、ああしたかったんですもの。野々宮さんに失礼するつもりじゃないんですけれども」

美禰子は瞳をじっと定めて三四郎を見た。

原文を見る

女はひとみを定めて、三四郎を見た。

三四郎は、その瞳の中に言葉よりも深い訴えを感じ取った。――

原文を見る

三四郎はその瞳のなかに言葉よりも深き訴えを認めた。――

つまるところ、あなたのためにしたことじゃありませんかと、二重まぶたの奥で訴えている。

原文を見る

必竟ひっきょうあなたのためにした事じゃありませんかと、二重瞼ふたえまぶたの奥で訴えている。

三四郎はもう一度、

原文を見る

三四郎は、もう一ぺん、

「だから、いいです」

原文を見る

「だから、いいです」

と答えた。

原文を見る

と答えた。

雨はだんだん強くなった。

原文を見る

雨はだんだん濃くなった。

しずくの落ちない場所はわずかしかない。

原文を見る

しずくの落ちない場所はわずかしかない。

二人はだんだん一つ所へかたまってきた。

原文を見る

二人はだんだん一つ所へかたまってきた。

肩と肩がすれ合うくらいにして立ちすくんでいた。

原文を見る

肩と肩とすれ合うくらいにして立ちすくんでいた。

雨の音の中で、美禰子が、

原文を見る

雨の音のなかで、美禰子が、

「さっきのお金をお使いなさい」

原文を見る

「さっきのお金をお使いなさい」

と言った。

原文を見る

と言った。

「借りましょう。いるだけ」

原文を見る

「借りましょう。るだけ」

と答えた。

原文を見る

と答えた。

「みんな、お使いなさい」

原文を見る

「みんな、お使いなさい」

と言った。

原文を見る

と言った。

原文を見る

与次郎が勧めるので、三四郎はとうとう精養軒の会へ出た。

原文を見る

与次郎が勧めるので、三四郎はとうとう精養軒の会へ出た。

その時三四郎は黒いつむぎの羽織を着た。

原文を見る

その時三四郎は黒いつむぎの羽織を着た。

この羽織は、三輪田のお光さんのお母さんが織ってくれたのを紋付きに染めて、お光さんが縫い上げたものだと、母の手紙に長い説明がある。

原文を見る

この羽織は、三輪田のお光さんのおっかさんが織ってくれたのを、紋付もんつきに染めて、お光さんが縫い上げたものだと、母の手紙に長い説明がある。

小包みが届いた時、ひととおり着てみて、おもしろくないから戸だなへ入れておいた。

原文を見る

小包みが届いた時、いちおう着てみて、おもしろくないから、戸棚とだなへ入れておいた。

それを与次郎が、もったいないからぜひ着ろ着ろと言う。

原文を見る

それを与次郎が、もったいないからぜひ着ろ着ろと言う。

三四郎が着なければ、自分が持っていって着そうな勢いであったから、つい着る気になった。

原文を見る

三四郎が着なければ、自分が持っていって着そうな勢いであったから、つい着る気になった。

着てみると悪くはないようだ。

原文を見る

着てみると悪くはないようだ。

三四郎はこの姿で、与次郎と二人で精養軒の玄関に立っていた。

原文を見る

三四郎はこのいでたちで、与次郎と二人ふたりで精養軒の玄関に立っていた。

与次郎の言うところによると、客はこうしてむかえるべきものだそうだ。

原文を見る

与次郎の説によると、お客はこうして迎えべきものだそうだ。

三四郎はそんなこととは知らなかった。

原文を見る

三四郎はそんなこととは知らなかった。

第一、自分が客のつもりでいた。

原文を見る

第一自分がお客のつもりでいた。

こうなると、つむぎの羽織ではなんだか安っぽい受付の気がする。

原文を見る

こうなると、紬の羽織ではなんだか安っぽい受け付けの気がする。

制服を着てくればよかったと思った。

原文を見る

制服を着てくればよかったと思った。

そのうち会員がだんだん来る。

原文を見る

そのうち会員がだんだん来る。

与次郎は来る人をつかまえて、きっと何か話をする。

原文を見る

与次郎は来る人をつらまえてきっとなんとか話をする。

どの人も、昔からの知り合いのようにあしらっている。

原文を見る

ことごとく旧知のようにあしらっている。

客が帽子と外とうを係の人に渡して、広いはしご段の横を暗い廊下の方へ折れると、三四郎に向かって、今のはだれそれだと教えてくれる。

原文を見る

お客が帽子と外套がいとうを給仕に渡して、広い梯子段はしごだんの横を、暗い廊下の方へ折れると、三四郎に向かって、今のは誰某だれそれがしだと教えてくれる。

三四郎はおかげで、名の知れた人の顔をだいぶ覚えた。

原文を見る

三四郎はおかげで知名な人の顔をだいぶ覚えた。

そのうち客はほぼ集まった。

原文を見る

そのうちお客はほぼ集まった。

約三十人足らずである。

原文を見る

約三十人足らずである。

広田先生もいる。

原文を見る

広田先生もいる。

野々宮さんもいる。――

原文を見る

野々宮さんもいる。――

これは理学者だけれども、絵や文学が好きだからというので、原口さんが無理に引っ張り出したのだそうだ。

原文を見る

これは理学者だけれども、絵や文学が好きだからというので、原口さんが、むりに引っ張り出したのだそうだ。

原口さんはもちろんいる。

原文を見る

原口さんはむろんいる。

いちばん先へ来て、世話を焼いたり、あいそよくしたり、フランス式のひげをつまんでみたり、何もかも忙しそうである。

原文を見る

いちばんさきへ来て、世話を焼いたり、愛嬌あいきょうを振りまいたり、フランス式のひげをつまんでみたり、万事忙しそうである。

やがて席についた。

原文を見る

やがて着席となった。

めいめい勝手な所にすわる。

原文を見る

めいめいかってな所へすわる。

ゆずる人もなければ、争う人もない。

原文を見る

譲る者もなければ、争う者もない。

その中でも広田先生は、のろいのに似合わずいちばんに腰を下ろしてしまった。

原文を見る

そのうちでも広田先生はのろいにも似合わずいちばんに腰をおろしてしまった。

ただ与次郎と三四郎だけがいっしょになって、入口の近くに席を取った。

原文を見る

ただ与次郎と三四郎だけがいっしょになって、入口に近く座を占めた。

あとの人はみんな、たまたま向かい合わせ、となり同士になった。

原文を見る

その他はことごとく偶然の向かい合わせ、隣同志であった。

野々宮さんと広田先生の間に、縞の羽織を着た、絵や本を評する人がすわった。

原文を見る

野々宮さんと広田先生のあいだにしまの羽織を着た批評家がすわった。

向こうには庄司という博士が席についた。

原文を見る

向こうには庄司しょうじという博士が座に着いた。

これは与次郎の言う、文科で力のある教授である。

原文を見る

これは与次郎のいわゆる文科で有力な教授である。

フロックコートを着た品のある男であった。

原文を見る

フロックを着た品格のある男であった。

髪をふつうの倍以上長くしている。

原文を見る

髪を普通の倍以上長くしている。

それが電灯の光で、黒く渦を巻いて見える。

原文を見る

それが電燈の光で、黒くうずをまいて見える。

広田先生の坊主頭と比べると、だいぶ違いがある。

原文を見る

広田先生の坊主頭ぼうずあたまと比べるとだいぶ相違がある。

原口さんはだいぶ離れて席を取った。

原文を見る

原口さんはだいぶ離れて席を取った。

あちらの角だから、遠く三四郎と真向かいになる。

原文を見る

あちらのかどだから、遠く三四郎と真向かいになる。

折りえりに、幅の広い黒いつやのある布を結んだ先がぱっと開いて胸いっぱいになっている。

原文を見る

折襟おりえりに、幅の広い黒襦子くろじゅすを結んださきがぱっと開いて胸いっぱいになっている。

与次郎が、フランスの画家はみんな、ああいうえりかざりをつけるものだと教えてくれた。

原文を見る

与次郎が、フランスの画工アーチストは、みんなああいう襟飾りを着けるものだと教えてくれた。

三四郎はスープを飲みながら、まるで帯の結び目のようだと考えた。

原文を見る

三四郎は肉汁ソップを吸いながら、まるで兵児帯へこおびの結び目のようだと考えた。

そのうち話がだんだん始まった。

原文を見る

そのうち談話がだんだん始まった。

与次郎はビールを飲む。

原文を見る

与次郎はビールを飲む。

いつものように口をきかない。

原文を見る

いつものように口をきかない。

さすがのこの男も、今日は少しつつしんでいると見える。

原文を見る

さすがの男もきょうは少々つつしんでいるとみえる。

三四郎が小さな声で、

原文を見る

三四郎が、小さな声で、

「ちと、ダーターファブラをやらないか」

原文を見る

「ちと、ダーターファブラをやらないか」

と言うと、「今日はいけない」

原文を見る

と言うと、「きょうはいけない」

と答えたが、すぐ横を向いてとなりの男と話を始めた。

原文を見る

と答えたが、すぐ横を向いて、隣の男と話を始めた。

あなたのあの論文を拝見して大いに勉強になりましたとか何とか、お礼を述べている。

原文を見る

あなたの、あの論文を拝見して、大いに利益を得ましたとかなんとか礼を述べている。

ところが、その論文は、彼が自分の前でさかんに悪く言ったものだから、三四郎にはとても不思議に思える。

原文を見る

ところがその論文は、彼が自分の前で、さかんに罵倒ばとうしたものだから、三四郎にはすこぶる不思議の思いがある。

与次郎はまたこちらを向いた。

原文を見る

与次郎はまたこっちを向いた。

「その羽織はなかなか立派だ。よく似合う」

原文を見る

「その羽織はなかなかりっぱだ。よく似合う」

と、白い紋をわざわざよく見て眺めている。

原文を見る

と白い紋をことさら注意してながめている。

その時向こうの端から、原口さんが野々宮に話しかけた。

原文を見る

その時向こうのはじから、原口さんが、野々宮に話しかけた。

もともと大きな声の人だから、遠くで受け答えするには都合がいい。

原文を見る

元来が大きな声の人だから、遠くで応対するにはつごうがいい。

今まで向かい合わせに言葉を交わしていた広田先生と庄司という教授は、二人のやりとりを途中でさえぎるのを気づかって話をやめた。

原文を見る

今まで向かい合わせに言葉をかわしていた広田先生と庄司という教授は、二人の応答を途中でさえぎることを恐れて、談話をやめた。

ほかの人もみんな黙った。

原文を見る

その他の人もみんな黙った。

会の中心が、はじめてできあがった。

原文を見る

会の中心点がはじめてできあがった。

「野々宮さん、光のおす力の実験はもう済みましたか」

原文を見る

「野々宮さん光線の圧力の試験はもう済みましたか」

「いや、まだなかなかだ」

原文を見る

「いや、まだなかなかだ」

「ずいぶん手間がかかるもんだね。我々の仕事も根気のいる仕事だが、君のほうはもっと激しいようだ」

原文を見る

「ずいぶん手数てすうがかかるもんだね。我々の職業も根気仕事だが、君のほうはもっと激しいようだ」

「絵はひらめきですぐ描けるからいいが、物理の実験はそううまくはいかない」

原文を見る

「絵はインスピレーションですぐかけるからいいが、物理の実験はそううまくはいかない」

「ひらめきには困る。この夏ある所を通ったら、おばあさんが二人で話し合っていた。聞いてみると、梅雨はもう明けたんだろうか、どうだろうかという話なんだが、一人のおばあさんが、昔は雷さえ鳴れば梅雨は明けるに決まっていたが、近ごろはそうはいかないとこぼしている。すると、もう一人が、どうしてどうして、雷ぐらいで明けることじゃありゃしないと怒っていた。――絵もそのとおり、今の絵はひらめきぐらいで描けることじゃありゃしない。ねえ田村さん、小説だってそうだろう」

原文を見る

「インスピレーションには辟易へきえきする。この夏ある所を通ったらばあさんが二人で問答をしていた。聞いてみると梅雨つゆはもう明けたんだろうか、どうだろうかという研究なんだが、一人ひとりのばあさんが、昔は雷さえ鳴れば梅雨は明けるにきまっていたが、近ごろじゃそうはいかないとこぼしている。すると一人がどうしてどうして、雷ぐらいで明けることじゃありゃしないと憤慨していた。――絵もそのとおり、今の絵はインスピレーションぐらいでかけることじゃありゃしない。ねえ田村たむらさん、小説だって、そうだろう」

となりに田村という小説家がすわっていた。

原文を見る

隣に田村という小説家がすわっていた。

この男は、自分のひらめきは原稿の催促以外に何にもないと答えたので、大笑いになった。

原文を見る

この男は自分のインスピレーションは原稿の催促以外になんにもないと答えたので、大笑いになった。

田村はそれから改まって、野々宮さんに、光におす力があるものか、あればどうやって実験するかと聞き出した。

原文を見る

田村は、それから改まって、野々宮さんに、光線に圧力があるものか、あれば、どうして試験するかと聞きだした。

野々宮さんの答えはおもしろかった。――

原文を見る

野々宮さんの答はおもしろかった。――

雲母(うんも)か何かで、小さな盤ぐらいの大きさの薄い円盤を作って、水晶の糸でつるして空気のない中に置いて、この円盤の面へ強い明かりの光を直角に当てると、この円盤が光におされて動く。

原文を見る

雲母マイカか何かで、十六武蔵じゅうろくむさしぐらいの大きさの薄い円盤を作って、水晶すいしょうの糸で釣るして、真空しんくうのうちに置いて、この円盤のめん弧光燈アークとうの光を直角にあてると、この円盤が光にされて動く。

と言うのである。

原文を見る

と言うのである。

みんなは耳を傾けて聞いていた。

原文を見る

一座は耳を傾けて聞いていた。

中でも三四郎は心の中で、あの福神漬の缶の中にそんな仕掛けがしてあるのだろうと、東京へ来た時に望遠鏡で驚かされた昔を思い出した。

原文を見る

なかにも三四郎は腹のなかで、あの福神漬ふくじんづけかんのなかに、そんな装置がしてあるのだろうと、上京のさい、望遠鏡で驚かされた昔を思い出した。

「君、水晶の糸があるのか」

原文を見る

「君、水晶の糸があるのか」

と小さい声で与次郎に聞いてみた。

原文を見る

と小さい声で与次郎に聞いてみた。

与次郎は頭を振っている。

原文を見る

与次郎は頭を振っている。

「野々宮さん、水晶の糸がありますか」

原文を見る

「野々宮さん、水晶の糸がありますか」

「ええ、水晶の粉をね、強い炎で溶かしておいて、両方の手で左右へ引っ張ると細い糸ができるのです」

原文を見る

「ええ、水晶のをね。酸水素吹管すいかんの炎で溶かしておいて、両方の手で、左右へ引っ張ると細い糸ができるのです」

三四郎は「そうですか」

原文を見る

三四郎は「そうですか」

と言ったきり、引っこんだ。

原文を見る

と言ったぎり、引っ込んだ。

今度は野々宮さんのとなりにいる、縞の羽織の人が口を出した。

原文を見る

今度は野々宮さんの隣にいる縞の羽織の批評家が口を出した。

「我々はそういう方面についてはまるで知らないんですが、はじめはどうして気がついたものでしょうな」

原文を見る

「我々はそういう方面へかけると、全然無学なんですが、はじめはどうして気がついたものでしょうな」

「考えの上ではマクスウェル以来、そうだろうと言われていたのですが、それをレベデフという人がはじめて実験でたしかめたのです。近ごろ、あのすい星の尾が太陽の方へ引きつけられるはずなのに、出るたびにいつでも反対の方角になびくのは、光のおす力で吹き飛ばされるんじゃなかろうかと思いついた人もいるくらいです」

原文を見る

「理論上はマクスウェル以来予想されていたのですが、それをレベデフという人がはじめて実験で証明したのです。近ごろあの彗星すいせいの尾が、太陽の方へ引きつけられべきはずであるのに、出るたびにいつでも反対の方角になびくのは光の圧力で吹き飛ばされるんじゃなかろうかと思いついた人もあるくらいです」

その人はだいぶ感心したらしい。

原文を見る

批評家はだいぶ感心したらしい。

「思いつきもおもしろいが、第一、話が大きくていいですね」

原文を見る

「思いつきもおもしろいが、第一大きくていいですね」

と言った。

原文を見る

と言った。

「大きいばかりじゃない、だれも傷つけなくて愉快だ」

原文を見る

「大きいばかりじゃない、罪がなくって愉快だ」

と広田先生が言った。

原文を見る

と広田先生が言った。

「それで、その思いつきがはずれたら、なお、だれも傷つかなくていい」

原文を見る

「それでその思いつきがはずれたら、なお罪がなくっていい」

と原口さんが笑っている。

原文を見る

と原口さんが笑っている。

「いや、どうも当たっているらしい。光のおす力は半径の二乗に比べて増えるが、引力のほうは半径の三乗に比べて増えるんだから、物が小さくなればなるほど引力のほうが負けて、光のおす力が強くなる。もし、すい星の尾がとても細かいかけらからできているとすれば、どうしても太陽とは反対の方へ吹き飛ばされるわけだ」

原文を見る

「いや、どうもあたっているらしい。光線の圧力は半径の二乗に比例するが、引力のほうは半径の三乗に比例するんだから、物が小さくなればなるほど引力のほうが負けて、光線の圧力が強くなる。もし彗星の尾が非常に細かい小片パーチクルからできているとすれば、どうしても太陽とは反対の方へ吹き飛ばされるわけだ」

野々宮は、つい、まじめになった。

原文を見る

野々宮は、ついまじめになった。

すると原口が例の調子で、

原文を見る

すると原口が例の調子で、

「だれも傷つかない代わりに、たいへん計算が面倒になってきた。やっぱりいいことと悪いことが半分ずつだ」

原文を見る

「罪がない代りに、たいへん計算がめんどうになってきた。やっぱり一利一害だ」

と言った。

原文を見る

と言った。

この一言で、人々はもとのとおりビールの気分にもどった。

原文を見る

この一言いちごんで、人々はもとのとおりビールの気分に復した。

広田先生が、こんなことを言う。

原文を見る

広田先生が、こんな事を言う。

「どうも物理学者はありのままを写すだけじゃだめのようだね」

原文を見る

「どうも物理学者は自然派じゃだめのようだね」

物理学者とありのまま、という言葉は、少なからずみんなの興味を引いた。

原文を見る

物理学者と自然派の二字は少なからず満場の興味を刺激した。

「それはどういう意味ですか」

原文を見る

「それはどういう意味ですか」

と本人の野々宮さんが聞き出した。

原文を見る

と本人の野々宮さんが聞き出した。

広田先生は説明しなければならなくなった。

原文を見る

広田先生は説明しなければならなくなった。

「だって、光のおす力を実験するために、目だけ開けて自然を見ていたってだめだからさ。自然の献立の中に、光のおす力という事実は書かれていないようじゃないか。だから人の手で、水晶の糸だの、空気のない場所だの、雲母だのという仕掛けをして、そのおす力が物理学者の目に見えるようにするのだろう。だから、ありのままを写す派じゃないよ」

原文を見る

「だって、光線の圧力を試験するために、目だけあけて、自然を観察していたって、だめだからさ。自然の献立こんだてのうちに、光線の圧力という事実は印刷されていないようじゃないか。だから人工的に、水晶の糸だの、真空だの、雲母マイカだのという装置をして、その圧力が物理学者の目に見えるように仕掛けるのだろう。だから自然派じゃないよ」

「しかし夢を描く派でもないだろう」

原文を見る

「しかし浪漫派ローマンはでもないだろう」

と原口さんが口をはさんだ。

原文を見る

と原口さんがまぜ返した。

「いや、夢を描く派だ」

原文を見る

「いや浪漫派だ」

と広田先生がもったいぶって言いわけをした。

原文を見る

と広田先生がもったいらしく弁解した。

「光と、光を受けるものとを、ふつうの自然の中では見つけられないような置き方にするところが、まったく夢を描く派じゃないか」

原文を見る

「光線と、光線を受けるものとを、普通の自然界においては見出せないような位置関係に置くところがまったく浪漫派じゃないか」

「しかし、いったんそういう置き方にした以上は、光そのもののおす力を見るだけだから、それから後は、ありのままを写す派でしょう」

原文を見る

「しかし、いったんそういう位置関係に置いた以上は、光線固有の圧力を観察するだけだから、それからあとは自然派でしょう」

と野々宮さんが言った。

原文を見る

と野々宮さんが言った。

「すると、物理学者は夢を描くありのまま派ですね。文学のほうで言うと、イプセンのようなものじゃないか」

原文を見る

「すると、物理学者は浪漫的自然派ですね。文学のほうでいうと、イブセンのようなものじゃないか」

と、ななめ向かいの博士が例えを持ち出した。

原文を見る

と筋向こうの博士が比較を持ち出した。

「さよう、イプセンの劇は野々宮君と同じくらいの仕掛けがあるが、その仕掛けの下で動く人物は、光のように自然の決まりに従っているか疑わしい」

原文を見る

「さよう、イブセンの劇は野々宮君と同じくらいな装置があるが、その装置の下に働く人物は、光線のように自然の法則に従っているか疑わしい」

これは縞の羽織の人の言葉であった。

原文を見る

これは縞の羽織の批評家の言葉であった。

「そうかもしれないが、こういうことは人間を調べる上で覚えておくべきことだと思う。――つまり、ある場面に置かれた人間は、反対の方向に動ける力と自由とを持っている。ということなんだが、――ところが妙な思いこみで、人間も光も同じように機械の決まりに従って動くと思うものだから、時々とんだ間違いができる。おこらせようと思って仕掛けをすると笑ったり、笑わせようとしてかかるとおこったり、まるで反対だ。しかし、どちらにしても人間に違いない」

原文を見る

「そうかもしれないが、こういうことは人間の研究上記憶しておくべき事だと思う。――すなわち、ある状況のもとに置かれた人間は、反対の方向に働きうる能力と権力とを有している。ということなんだが、――ところが妙な習慣で、人間も光線も同じように器械的の法則に従って活動すると思うものだから、時々とんだ間違いができる。おこらせようと思って装置をすると、笑ったり、笑わせようともくろんでかかると、おこったり、まるで反対だ。しかしどちらにしても人間に違いない」

と広田先生が、また話を大きくしてしまった。

原文を見る

と広田先生がまた問題を大きくしてしまった。

「じゃ、ある場面で、ある人間がどんなふるまいをしても自然だということになりますね」

原文を見る

「じゃ、ある状況のもとに、ある人間が、どんな所作をしてもしぜんだということになりますね」

と向こうの小説家が質問した。

原文を見る

と向こうの小説家が質問した。

広田先生はすぐ、

原文を見る

広田先生は、すぐ、

「ええ、ええ。どんな人間をどう描いても、世界に一人くらいはいるようじゃないですか」

原文を見る

「ええ、ええ。どんな人間を、どう描いても世界に一人くらいはいるようじゃないですか」

と答えた。

原文を見る

と答えた。

「実際、人間である我々は、人間らしくない行いや動きを、どうしたって思い浮かべられるものじゃない。ただ下手に書くから人間と思われないのじゃないですか」

原文を見る

「じっさい人間たる我々は、人間らしからざる行為動作を、どうしたって想像できるものじゃない。ただへたに書くから人間と思われないのじゃないですか」

小説家はそれで黙った。

原文を見る

小説家はそれで黙った。

今度は博士がまた口をきいた。

原文を見る

今度は博士がまた口をきいた。

「物理学者でも、ガリレオが寺のつりランプが一回ゆれる時間が、ゆれの大きさにかかわらず同じであることに気がついたり、ニュートンがりんごが引力で落ちるのを見つけたりするのは、はじめからありのままを見る派ですね」

原文を見る

「物理学者でも、ガリレオが寺院の釣りランプの一振動の時間が、振動の大小にかかわらず同じであることに気がついたり、ニュートンが林檎りんごが引力で落ちるのを発見したりするのは、はじめから自然派ですね」

「そういう派なら、文学のほうでも結構でしょう。原口さん、絵のほうでも、ありのままを写す派がありますか」

原文を見る

「そういう自然派なら、文学のほうでも結構でしょう。原口さん、絵のほうでも自然派がありますか」

と野々宮さんが聞いた。

原文を見る

と野々宮さんが聞いた。

「あるとも。恐るべきクールベというやつがいる。ヴェリテ・ヴレー(本当の真実)だ。なんでも事実でなければ承知しない。しかし、そう幅をきかせているものじゃない。ただ一つの流れとして認められるだけさ。また、そうでなくては困るからね。小説だって同じことだろう、ねえ君。やっぱりモローやシャバンヌのようなのもいるはずだろうじゃないか」

原文を見る

「あるとも。恐るべきクールベエというやつがいる。〔ve'rite'《ヴェリテ》 vraieヴレイ.〕 なんでも事実でなければ承知しない。しかしそう猖獗しょうけつを極めているものじゃない。ただ一派として存在を認められるだけさ。またそうでなくっちゃ困るからね。小説だって同じことだろう、ねえ君。やっぱりモローや、シャバンヌのようなのもいるはずだろうじゃないか」

「いるはずだ」

原文を見る

「いるはずだ」

と、となりの小説家が答えた。

原文を見る

と隣の小説家が答えた。

食事のあとには、食卓での演説も何もなかった。

原文を見る

食後には卓上演説も何もなかった。

ただ原口さんが、しきりに九段の上の銅像の悪口を言っていた。

原文を見る

ただ原口さんが、しきりに九段くだんの上の銅像の悪口わるくちを言っていた。

あんな銅像をむやみに立てられては、東京の人がめいわくする。

原文を見る

あんな銅像をむやみに立てられては、東京市民が迷惑する。

それより、美しい芸者の銅像でもこしらえるほうが気が利いている、という話であった。

原文を見る

それより、美しい芸者の銅像でもこしらえるほうが気が利いているという説であった。

与次郎は三四郎に、九段の銅像は原口さんと仲の悪い人が作ったんだと教えた。

原文を見る

与次郎は三四郎に九段の銅像は原口さんと仲の悪い人が作ったんだと教えた。

会が済んで外へ出ると、いい月であった。

原文を見る

会が済んで、外へ出るといい月であった。

今夜の広田先生は庄司博士によい感じを与えたろうかと与次郎が聞いた。

原文を見る

今夜の広田先生は庄司博士によい印象を与えたろうかと与次郎が聞いた。

三四郎は与えたろうと答えた。

原文を見る

三四郎は与えたろうと答えた。

与次郎はみんなで使う水道の栓のそばに立って、この夏、夜散歩に来て、あまり暑いからここで水を浴びていたら巡査に見つかって、すり鉢山へ駆け上がったと話した。

原文を見る

与次郎は共同水道せんのそばに立って、この夏、夜散歩に来て、あまり暑いからここで水を浴びていたら、巡査に見つかって、擂鉢山すりばちやまへ駆け上がったと話した。

二人はすり鉢山の上で月を見て帰った。

原文を見る

二人は擂鉢山の上で月を見て帰った。

帰り道に与次郎が三四郎に向かって、突然、借りたお金の言いわけをし出した。

原文を見る

帰り道に与次郎が三四郎に向かって、突然借金の言い訳をしだした。

月のさえた、わりあいに寒い晩である。

原文を見る

月のさえた比較的寒い晩である。

三四郎はほとんどお金のことなどは考えていなかった。

原文を見る

三四郎はほとんど金の事などは考えていなかった。

言いわけを聞くのでさえ本気ではない。

原文を見る

言い訳を聞くのでさえ本気ではない。

どうせ返すことはあるまいと思っている。

原文を見る

どうせ返すことはあるまいと思っている。

与次郎もけっして返すとは言わない。

原文を見る

与次郎もけっして返すとは言わない。

ただ、返せないわけをいろいろに話す。

原文を見る

ただ返せない事情をいろいろに話す。

その話し方のほうが、三四郎にはよほどおもしろい。――

原文を見る

その話し方のほうが三四郎にはよほどおもしろい。――

自分の知っているある男が、失恋のせいで世の中がいやになって、とうとう自分の命を絶とうと決心したが、海もいや川もいや、火山の口はなおいや、首をくくるのはもっともいやというわけで、しかたなくピストルを買ってきた。

原文を見る

自分の知ってるさる男が、失恋の結果、世の中がいやになって、とうとう自殺をしようと決心したが、海もいや川もいや、噴火口はなおいや、首をくくるのはもっともいやというわけで、やむをえず短銃ピストルを買ってきた。

買ってきて、まだそれを使わないうちに、友だちがお金を借りに来た。

原文を見る

買ってきて、まだ目的を遂行すいこうしないうちに、友だちが金を借りにきた。

お金はないと断ったが、ぜひどうかしてくれと言うので、しかたなしに大事なピストルを貸してやった。

原文を見る

金はないと断ったが、ぜひどうかしてくれと訴えるので、しかたなしに、大事の短銃を貸してやった。

友だちはそれを質に入れてその場をしのいだ。

原文を見る

友だちはそれを質に入れて一時をしのいだ。

都合がついて、質から出して返しに来た時は、肝心のピストルの持ち主はもう死ぬ気がなくなっていた。

原文を見る

つごうがついて、質を受け出して返しにきた時は、肝心の短銃の主はもう死ぬ気がなくなっていた。

だから、この男の命はお金を借りに来られたために助かったのと同じことである。

原文を見る

だからこの男の命は金を借りにこられたために助かったと同じ事である。

「そういうこともあるからなあ」

原文を見る

「そういう事もあるからなあ」

と与次郎が言った。

原文を見る

と与次郎が言った。

三四郎には、ただおかしいだけである。

原文を見る

三四郎にはただおかしいだけである。

そのほかには何の意味もない。

原文を見る

そのほかにはなんらの意味もない。

高い月を見上げて大きな声を出して笑った。

原文を見る

高い月を仰いで大きな声を出して笑った。

お金を返されなくても愉快である。

原文を見る

金を返されないでも愉快である。

与次郎は、

原文を見る

与次郎は、

「笑っちゃいかん」

原文を見る

「笑っちゃいかん」

と注意した。

原文を見る

と注意した。

三四郎はなおおかしくなった。

原文を見る

三四郎はなおおかしくなった。

「笑わないで、よく考えてみろ。おれがお金を返さないからこそ、君が美禰子さんからお金を借りることができたんだろう」

原文を見る

「笑わないで、よく考えてみろ。おれが金を返さなければこそ、君が美禰子さんから金を借りることができたんだろう」

三四郎は笑うのをやめた。

原文を見る

三四郎は笑うのをやめた。

「それで?」

原文を見る

「それで?」

「それだけでたくさんじゃないか。――君、あの人を好きなんだろう」

原文を見る

「それだけでたくさんじゃないか。――君、あの女を愛しているんだろう」

与次郎はよく知っている。

原文を見る

与次郎はよく知っている。

三四郎はふんと言って、また高い月を見た。

原文を見る

三四郎はふんと言って、また高い月を見た。

月のそばに白い雲が出た。

原文を見る

月のそばに白い雲が出た。

「君、あの人にはもう返したのか」

原文を見る

「君、あの女には、もう返したのか」

「いいや」

原文を見る

「いいや」

「いつまでも借りておいてやれ」

原文を見る

「いつまでも借りておいてやれ」

のんきなことを言う。

原文を見る

のん気な事を言う。

三四郎は何とも答えなかった。

原文を見る

三四郎はなんとも答えなかった。

しかし、いつまでも借りておく気はもちろんなかった。

原文を見る

しかしいつまでも借りておく気はむろんなかった。

じつは必要な二十円を下宿へ払って、残りの十円をその翌日すぐ里見の家へ届けようと思ったが、今返してはかえって親切な気持ちにそむいてよくないと考え直して、せっかく門の中へ入れる機会をあきらめてまで引き返した。

原文を見る

じつは必要な二十円を下宿へ払って、残りの十円をそのあくる日すぐ里見の家へ届けようと思ったが、今返してはかえって、好意にそむいて、よくないと考え直して、せっかく門内に、はいられる機会を犠牲にしてまでも引き返した。

その時、何かの拍子で気がゆるんで、その十円をくずしてしまった。

原文を見る

その時何かの拍子ひょうしで、気がゆるんで、その十円をくずしてしまった。

じつは今夜の会費もその中から出ている。

原文を見る

じつは今夜の会費もそのうちから出ている。

自分ばかりではない。

原文を見る

自分ばかりではない。

与次郎の分もその中から出ている。

原文を見る

与次郎のもそのうちから出ている。

あとには、ようやく二、三円残っている。

原文を見る

あとには、ようやく二、三円残っている。

三四郎はそれで冬のシャツを買おうと思った。

原文を見る

三四郎はそれで冬シャツを買おうと思った。

じつは与次郎がとうてい返しそうもないから、三四郎は思い切って、この間ふるさとへ三十円足りないと頼んだ。

原文を見る

じつは与次郎がとうてい返しそうもないから、三四郎は思いきって、このあいだ国元くにもとへ三十円の不足を請求した。

十分な学費を月々もらっていながら、ただ足りないからといって頼むわけにはいかない。

原文を見る

十分な学資を月々もらっていながら、ただ不足だからといって請求するわけにはゆかない。

三四郎はあまりうそをついたことのない男だから、頼むわけを考えるのにひどく困った。

原文を見る

三四郎はあまりうそをついたことのない男だから、請求の理由にいたって困却した。

しかたがないから、ただ友だちがお金をなくして弱っていたから、つい気の毒になって貸してやった。

原文を見る

しかたがないからただ友だちが金をなくして弱っていたから、つい気の毒になって貸してやった。

その結果として、今度はこちらが弱るようになった。

原文を見る

その結果として、今度はこっちが弱るようになった。

どうか送ってくれと書いた。

原文を見る

どうか送ってくれと書いた。

すぐ返事を出してくれれば、もう届くころであるのにまだ来ない。

原文を見る

すぐ返事を出してくれれば、もう届く時分であるのにまだ来ない。

今夜あたりは、ことによると来ているかもしれないくらいに考えて下宿へ帰ってみると、はたして母の字で書いた封筒がちゃんと机の上に載っている。

原文を見る

今夜あたりはことによると来ているかもしれぬくらいに考えて、下宿へ帰ってみると、はたして、母の手蹟で書いた封筒がちゃんと机の上に乗っている。

不思議なことに、いつも必ず書留で来るのが、今日は三銭切手一枚で済ませてある。

原文を見る

不思議なことに、いつも必ず書留で来るのが、きょうは三銭切手一枚で済ましてある。

開いてみると、中はいつになく短い。

原文を見る

開いてみると、中はいつになく短かい。

母としては素っ気ないくらい、用件だけで書き終えてしまった。

原文を見る

母としては不親切なくらい、用事だけで申し納めてしまった。

頼んだお金は野々宮さんの方へ送ったから、野々宮さんから受け取れという知らせにすぎない。

原文を見る

依頼の金は野々宮さんの方へ送ったから、野々宮さんから受け取れというさしずにすぎない。

三四郎は布団をしいて寝た。

原文を見る

三四郎は床を取ってねた。

翌日もその翌日も、三四郎は野々宮さんの所へ行かなかった。

原文を見る

翌日もその翌日も三四郎は野々宮さんの所へ行かなかった。

野々宮さんのほうでも何とも言ってこなかった。

原文を見る

野々宮さんのほうでもなんともいってこなかった。

そうしているうちに一週間ほどたった。

原文を見る

そうしているうちに一週間ほどたった。

しまいに野々宮さんから、下宿の女中を使いにして手紙をよこした。

原文を見る

しまいに野々宮さんから、下宿の下女を使いに手紙をよこした。

お母さんから頼まれたものがあるから、ちょっと来てくれとある。

原文を見る

おっかさんから頼まれものがあるから、ちょっと来てくれろとある。

三四郎は講義の合間をみて、また理科大学の地下へ降りていった。

原文を見る

三四郎は講義のすきをみて、また理科大学の穴倉へ降りていった。

そこで立ち話の間に用を済ませようと思ったところが、そううまくはいかなかった。

原文を見る

そこで立談たちばなしのあいだに事を済ませようと思ったところが、そううまくはいかなかった。

この夏は野々宮さんだけで使っていた部屋に、ひげの生えた人が二、三人いる。

原文を見る

この夏は野々宮さんだけで専領していた部屋へやひげのはえた人が二、三人いる。

制服を着た学生も二、三人いる。

原文を見る

制服を着た学生も二、三人いる。

それがみんな熱心に、静かに、頭の上の日の当たる世界をよそにして研究をやっている。

原文を見る

それが、みんな熱心に、静粛せいしゅくに、頭の上の日のあたる世界をよそにして、研究をやっている。

その中で野々宮さんはもっとも忙しく見えた。

原文を見る

そのうちで野々宮さんはもっとも多忙に見えた。

部屋の入口に顔を出した三四郎をちょっと見て、黙ったまま近寄ってきた。

原文を見る

部屋の入口に顔を出した三四郎をちょっと見て、無言のまま近寄ってきた。

「ふるさとからお金が届いたから、取りに来てくれたまえ。今ここに持っていないから。それから、まだほかに話すこともある」

原文を見る

「国から、金が届いたから、取りに来てくれたまえ。今ここに持っていないから。それからまだほかに話す事もある」

三四郎ははあと答えた。

原文を見る

三四郎ははあと答えた。

今夜でもいいかとたずねた。

原文を見る

今夜でもいいかと尋ねた。

野々宮は少し考えていたが、しまいに思い切ってよろしいと言った。

原文を見る

野々宮はすこしく考えていたが、しまいに思いきってよろしいと言った。

三四郎はそれで地下を出た。

原文を見る

三四郎はそれで穴倉を出た。

出ながら、さすがに理学者は根気のいいものだと感心した。

原文を見る

出ながら、さすがに理学者は根気のいいものだと感心した。

この夏見た福神漬の缶と望遠鏡が、相変わらずもとのとおりの場所に置いてあった。

原文を見る

この夏見た福神漬ふくじんづけかんと、望遠鏡が依然としてもとのとおりの位置に備えつけてあった。

次の講義の時間に与次郎に会って、これこれだと話すと、与次郎はばかだと言わんばかりに三四郎を眺めて、

原文を見る

次の講義の時間に与次郎に会ってこれこれだと話すと、与次郎はばかだと言わないばかりに三四郎をながめて、

「だから、いつまでも借りておいてやれと言ったのに。余計なことをして年寄りには心配をかける。宗八さんにはお説教をされる。これくらい愚かなことはない」

原文を見る

「だからいつまでも借りておいてやれと言ったのに。よけいな事をして年寄りには心配をかける。宗八さんにはお談義をされる。これくらい愚な事はない」

と、まるで自分から起こったこととは認めていない言い分である。

原文を見る

とまるで自分から事が起こったとは認めていない申し分である。

三四郎もこのことについては、もう与次郎の責任を忘れてしまった。

原文を見る

三四郎もこの問題に関しては、もう与次郎の責任を忘れてしまった。

だから、与次郎を責めない返事をした。

原文を見る

したがって与次郎の頭にかかってこない返事をした。

「いつまでも借りておくのはいやだから、家へそう言ってやったんだ」

原文を見る

「いつまでも借りておくのは、いやだから、家へそう言ってやったんだ」

「君はいやでも、向こうでは喜ぶよ」

原文を見る

「君はいやでも、向こうでは喜ぶよ」

「なぜ」

原文を見る

「なぜ」

このなぜが、三四郎自身にはいくらかうそっぽく聞こえた。

原文を見る

このなぜが三四郎自身にはいくぶんか虚偽の響らしく聞こえた。

しかし相手には何の影響も与えなかったらしい。

原文を見る

しかし相手にはなんらの影響も与えなかったらしい。

「当たり前じゃないか。ぼくを例にしたって同じことだ。ぼくにお金が余っているとするぜ。そうすれば、そのお金を君から返してもらうよりも、君に貸しておくほうがいい気持ちだ。人間はね、自分が困らない程度で、なるべく人に親切がしてみたいものだ」

原文を見る

「あたりまえじゃないか。ぼくを人にしたって、同じことだ。ぼくに金が余っているとするぜ。そうすれば、その金を君から返してもらうよりも、君に貸しておくほうがいい心持ちだ。人間はね、自分が困らない程度内で、なるべく人に親切がしてみたいものだ」

三四郎は返事をしないで、講義を書き取りはじめた。

原文を見る

三四郎は返事をしないで、講義を筆記しはじめた。

二、三行書き出すと、与次郎がまた耳のそばへ口を持ってきた。

原文を見る

二、三行書きだすと、与次郎がまた、耳のそばへ口を持ってきた。

「おれだって、お金のある時はたびたび人に貸したことがある。しかし、だれもけっして返した人がない。それだから、おれはこのとおり愉快だ」

原文を見る

「おれだって、金のある時はたびたび人に貸したことがある。しかしだれもけっして返したものがない。それだからおれはこのとおり愉快だ」

三四郎はまさか、そうかとも言えなかった。

原文を見る

三四郎はまさか、そうかとも言えなかった。

薄笑いをしただけで、またペンを走らせはじめた。

原文を見る

薄笑いをしただけで、またペンを走らしはじめた。

与次郎もそれからは落ち着いて、時間が終わるまで口をきかなかった。

原文を見る

与次郎もそれからはおちついて、時間の終るまで口をきかなかった。

ベルが鳴って、二人肩を並べて教室を出る時、与次郎が突然聞いた。

原文を見る

ベルが鳴って、二人肩を並べて教場を出る時、与次郎が、突然聞いた。

「あの人は君にほれているのか」

原文を見る

「あの女は君にほれているのか」

二人のあとから続々と学生が出てくる。

原文を見る

二人のあとから続々聴講生が出てくる。

三四郎はしかたなく黙ったままはしご段を降りて、横手の玄関から図書館わきの空き地へ出て、はじめて与次郎を振り返った。

原文を見る

三四郎はやむをえず無言のまま梯子段はしごだんを降りて横手の玄関から、図書館わきの空地あきちへ出て、はじめて与次郎を顧みた。

「よくわからない」

原文を見る

「よくわからない」

与次郎はしばらく三四郎を見ていた。

原文を見る

与次郎はしばらく三四郎を見ていた。

「そういうこともある。しかし、よくわかったとして、君、あの人の夫になれるか」

原文を見る

「そういうこともある。しかしよくわかったとして、君、あの女のハスバンドになれるか」

三四郎は今まで、この問題を考えたことがなかった。

原文を見る

三四郎はいまだかつてこの問題を考えたことがなかった。

美禰子に好かれるということそのものが、その夫になるただ一つの資格のような気がしていた。

原文を見る

美禰子に愛せられるという事実そのものが、彼女かのおんなハスバンドたる唯一ゆいいつの資格のような気がしていた。

言われてみると、なるほど疑問である。

原文を見る

言われてみると、なるほど疑問である。

三四郎は首をかしげた。

原文を見る

三四郎は首を傾けた。

「野々宮さんならなれる」

原文を見る

「野々宮さんならなれる」

と与次郎が言った。

原文を見る

と与次郎が言った。

「野々宮さんとあの人とは、何か今までに関わりがあるのか」

原文を見る

「野々宮さんと、あの人とは何か今までに関係があるのか」

三四郎の顔は彫りつけたようにまじめであった。

原文を見る

三四郎の顔は彫りつけたようにまじめであった。

与次郎は一言、

原文を見る

与次郎は一口、

「知らん」

原文を見る

「知らん」

と言った。

原文を見る

と言った。

三四郎は黙っている。

原文を見る

三四郎は黙っている。

「また野々宮さんの所へ行って、お説教を聞いてこい」

原文を見る

「また野々宮さんの所へ行って、お談義を聞いてこい」

と言い捨てて、相手は池の方へ行きかけた。

原文を見る

と言いすてて、相手は池の方へ行きかけた。

三四郎は、間の抜けた見本のように突っ立った。

原文を見る

三四郎は愚劣の看板のごとく突っ立った。

与次郎は五、六歩行ったが、また笑いながら帰ってきた。

原文を見る

与次郎は五、六歩行ったが、また笑いながら帰ってきた。

「君、いっそ、よし子さんをもらわないか」

原文を見る

「君、いっそ、よし子さんをもらわないか」

と言いながら、三四郎を引っ張って池の方へ連れて行った。

原文を見る

と言いながら、三四郎を引っ張って、池の方へ連れて行った。

歩きながら、あれならいい、あれならいいと二度ほど繰り返した。

原文を見る

歩きながら、あれならいい、あれならいいと、二度ほど繰り返した。

そのうち、またベルが鳴った。

原文を見る

そのうちまたベルが鳴った。

三四郎はその夕方、野々宮さんの所へ出かけたが、時間がまだ少し早すぎるので、散歩がてら四丁目まで来て、シャツを買いに大きな洋品店へ入った。

原文を見る

三四郎はその夕方野々宮さんの所へ出かけたが、時間がまだすこし早すぎるので、散歩かたがた四丁目まで来て、シャツを買いに大きな唐物屋とうぶつやへはいった。

店の子が奥からいろいろ持ってきたのをなでてみたり、広げてみたりして、なかなか買わない。

原文を見る

小僧が奥からいろいろ持ってきたのをなでてみたり、広げてみたりして、容易に買わない。

わけもなくゆったりかまえていると、たまたま美禰子とよし子が連れ立って香水を買いに来た。

原文を見る

わけもなく鷹揚おうようにかまえていると、偶然美禰子とよし子が連れ立って香水を買いに来た。

あら、と言ってあいさつをしたあとで、美禰子が、

原文を見る

あらと言って挨拶をしたあとで、美禰子が、

「せんだってはありがとう」

原文を見る

「せんだってはありがとう」

とお礼を述べた。

原文を見る

と礼を述べた。

三四郎には、このお礼の意味がはっきりわかった。

原文を見る

三四郎にはこのお礼の意味が明らかにわかった。

美禰子からお金を借りた翌日にもう一度たずねて余りをすぐ返すべきところを、ひとまず見合わせた代わりに、二日ばかり待って、三四郎はていねいなお礼の手紙を美禰子に送った。

原文を見る

美禰子から金を借りたあくる日もう一ぺん訪問して余分をすぐに返すべきところを、ひとまず見合わせた代りに、二日ふつかばかり待って、三四郎は丁寧な礼状を美禰子に送った。

手紙の言葉は、書いた人のその時の気持ちをすなおに表したものではあるが、もちろん書きすぎている。

原文を見る

手紙の文句は、書いた人の、書いた当時の気分をすなおに表わしたものではあるが、むろん書きすぎている。

三四郎はできるだけの言葉を幾重にも並べて、ありがたい気持ちを熱く表した。

原文を見る

三四郎はできるだけの言葉を層々そうそうと排列して感謝の意を熱烈にいたした。

ふつうの人から見れば、ほとんど借りたお金のお礼の手紙とは思われないくらい、熱のこもったものである。

原文を見る

普通の者から見ればほとんど借金の礼状とは思われないくらいに、湯気の立ったものである。

しかし、ありがたい気持ち以外には何も書いてない。

原文を見る

しかし感謝以外には、なんにも書いてない。

それだから、自然の勢いで、ありがたさがそれ以上のものになったのでもある。

原文を見る

それだから、自然の勢い、感謝が感謝以上になったのでもある。

三四郎はこの手紙をポストに入れる時、すぐに来る美禰子の返事を待つ気持ちでいた。

原文を見る

三四郎はこの手紙をポストに入れる時、時を移さぬ美禰子の返事を予期していた。

ところが、せっかくの手紙はただ行ったままである。

原文を見る

ところがせっかくの封書はただ行ったままである。

それから美禰子に会う機会は今日までなかった。

原文を見る

それから美禰子に会う機会はきょうまでなかった。

三四郎は、このかすかな「この間はありがとう」

原文を見る

三四郎はこの微弱なる「このあいだはありがとう」

という返しに対して、はっきりした返事をする勇気も出なかった。

原文を見る

という反響に対して、はっきりした返事をする勇気も出なかった。

大きなシャツを両手で目の先へ広げて眺めながら、よし子がいるから、ああ冷たいんだろうかと考えた。

原文を見る

大きなシャツを両手で目のさきへ広げてながめながら、よし子がいるからああ冷淡なんだろうかと考えた。

それから、このシャツもこの人のお金で買うんだなと考えた。

原文を見る

それからこのシャツもこの女の金で買うんだなと考えた。

店の子は、どれになさいますとせかした。

原文を見る

小僧はどれになさいますと催促した。

二人は笑いながらそばへ来て、いっしょにシャツを見てくれた。

原文を見る

二人の女は笑いながらそばへ来て、いっしょにシャツを見てくれた。

しまいに、よし子が「これになさい」

原文を見る

しまいに、よし子が「これになさい」

と言った。

原文を見る

と言った。

三四郎はそれにした。

原文を見る

三四郎はそれにした。

今度は三四郎のほうが香水の相談を受けた。

原文を見る

今度は三四郎のほうが香水の相談を受けた。

いっこうにわからない。

原文を見る

いっこうわからない。

ヘリオトロープと書いてあるびんを持って、いいかげんに、これはどうですと言うと、美禰子が、「それにしましょう」

原文を見る

ヘリオトロープと書いてあるびんを持って、いいかげんに、これはどうですと言うと、美禰子が、「それにしましょう」

とすぐ決めた。

原文を見る

とすぐ決めた。

三四郎は気の毒なくらいであった。

原文を見る

三四郎は気の毒なくらいであった。

表へ出て別れようとすると、二人は互いにおじぎを始めた。

原文を見る

表へ出て別れようとすると、女のほうが互いにお辞儀を始めた。

よし子が「じゃ行ってきてよ」

原文を見る

よし子が「じゃ行ってきてよ」

と言うと、美禰子が、「お早く……」

原文を見る

と言うと、美禰子が、「お早く……」

と言っている。

原文を見る

と言っている。

聞いてみて、妹が兄の下宿へ行くところだということがわかった。

原文を見る

聞いてみて、いもとが兄の下宿へ行くところだということがわかった。

三四郎は、またきれいな人と二人連れで追分の方へ歩く夕方となった。

原文を見る

三四郎はまたきれいな女と二人連ふたりづれで追分の方へ歩くべきよいとなった。

日はまだまったく落ちていない。

原文を見る

日はまだまったく落ちていない。

三四郎はよし子といっしょに歩くよりは、よし子といっしょに野々宮の下宿で顔を合わせなければならないことを、少しめいわくに感じた。

原文を見る

三四郎はよし子といっしょに歩くよりは、よし子といっしょに野々宮の下宿で落ち合わねばならぬ機会をいささか迷惑に感じた。

いっそのこと今夜は家へ帰って、また出直そうかと考えた。

原文を見る

いっそのこと今夜は家へ帰って、また出直そうかと考えた。

しかし、与次郎の言うお説教を聞くには、よし子がそばにいてくれるほうが都合がいいかもしれない。

原文を見る

しかし、与次郎のいわゆるお談義を聞くには、よし子がそばにいてくれるほうが便利かもしれない。

まさか人の前で、母からこういう頼みがあったと、遠慮なしに注意を言うわけはなかろう。

原文を見る

まさか人の前で、母から、こういう依頼があったと、遠慮なしの注意を与えるわけはなかろう。

ことによると、ただお金を受け取るだけで済むかもわからない。――

原文を見る

ことによると、ただ金を受け取るだけで済むかもわからない。――

三四郎は心の中で、ちょっとずるい決心をした。

原文を見る

三四郎は腹の中で、ちょっとずるい決心をした。

「ぼくも野々宮さんの所へ行くところです」

原文を見る

「ぼくも野々宮さんの所へ行くところです」

「そう、お遊びに?」

原文を見る

「そう、お遊びに?」

「いえ、少し用があるんです。あなたは遊びですか」

原文を見る

「いえ、すこし用があるんです。あなたは遊びですか」

「いいえ、私も御用なの」

原文を見る

「いいえ、私も御用なの」

両方が同じようなことを聞いて、同じような答えを得た。

原文を見る

両方が同じようなことを聞いて、同じような答を得た。

しかし両方とも、めいわくそうな様子がまるでない。

原文を見る

しかし両方とも迷惑を感じている気色けしきがさらにない。

三四郎は念のため、じゃまじゃないかとたずねてみた。

原文を見る

三四郎は念のため、じゃまじゃないかと尋ねてみた。

ちっともじゃまにはならないそうである。

原文を見る

ちっともじゃまにはならないそうである。

よし子は言葉でじゃまを打ち消したばかりではない。

原文を見る

女は言葉でじゃまを否定したばかりではない。

顔では、むしろ、なぜそんなことを聞くのかと驚いている。

原文を見る

顔ではむしろなぜそんなことを質問するかと驚いている。

三四郎は店先のガス灯の光で、よし子の黒い目の中にその驚きを見たと思った。

原文を見る

三四郎は店先のガスの光で、女の黒い目の中に、その驚きを認めたと思った。

実際には、ただ大きく黒く見えたばかりである。

原文を見る

事実としては、ただ大きく黒く見えたばかりである。

「バイオリンを買いましたか」

原文を見る

「バイオリンを買いましたか」

「どうして御存じ」

原文を見る

「どうして御存じ」

三四郎は返事に困った。

原文を見る

三四郎は返答に窮した。

よし子は気にせず、すぐこう言った。

原文を見る

女は頓着とんじゃくなく、すぐ、こう言った。

「いくら兄さんにそう言っても、ただ買ってやる、買ってやると言うばかりで、ちっとも買ってくれなかったんですの」

原文を見る

「いくら兄さんにそう言っても、ただ買ってやる、買ってやると言うばかりで、ちっとも買ってくれなかったんですの」

三四郎は心の中で、野々宮よりも広田よりも、むしろ与次郎を責めた。

原文を見る

三四郎は腹の中で、野々宮よりも広田よりも、むしろ与次郎を非難した。

二人は追分の通りから細い路地に折れた。

原文を見る

二人は追分の通りを細い路地に折れた。

折れると、中に家がたくさんある。

原文を見る

折れると中に家がたくさんある。

暗い道を、戸ごとの軒の明かりが照らしている。

原文を見る

暗い道をごとの軒燈が照らしている。

その軒の明かりの一つの前で止まった。

原文を見る

その軒燈の一つの前にとまった。

野々宮はこの奥にいる。

原文を見る

野々宮はこの奥にいる。

三四郎の下宿とはほとんど百メートルほどのきょりである。

原文を見る

三四郎の下宿とはほとんど一丁ほどの距離である。

野々宮がここへ移ってから、三四郎は二、三度たずねたことがある。

原文を見る

野々宮がここへ移ってから、三四郎は二、三度訪問したことがある。

野々宮の部屋は、広い廊下を突き当たって二段ばかりまっすぐに上がると、左手に離れた二部屋である。

原文を見る

野々宮の部屋は広い廊下を突き当って、二段ばかりまっすぐに上がると、左手に離れた二間である。

南向きに、よその広い庭をほとんど縁側の下に見て、昼も夜もとても静かである。

原文を見る

南向きによその広い庭をほとんどえんの下に控えて、昼も夜も至極静かである。

この離れの座敷にこもった野々宮さんを見た時、なるほど家をたたんで下宿をするのも悪い思いつきではなかったと、はじめて来た時から感心したくらい、居心地のいい所である。

原文を見る

この離れ座敷に立てこもった野々宮さんを見た時、なるほど家を畳んで下宿をするのも悪い思いつきではなかったと、はじめて来た時から、感心したくらい、居心地いごこちのいい所である。

その時野々宮さんは廊下へ下りて、下から自分の部屋の軒を見上げて、ちょっと見たまえ、わらぶきだと言った。

原文を見る

その時野々宮さんは廊下へ下りて、下から自分の部屋ののきを見上げて、ちょっと見たまえ、藁葺わらぶきだと言った。

なるほど珍しく屋根に瓦を置いてなかった。

原文を見る

なるほど珍しく屋根にかわらを置いてなかった。

今日は夜だから屋根はもちろん見えないが、部屋の中には電灯がついている。

原文を見る

きょうは夜だから、屋根はむろん見えないが、部屋の中には電燈がついている。

三四郎は電灯を見るやいなや、わらぶきを思い出した。

原文を見る

三四郎は電燈を見るやいなや藁葺を思い出した。

そうしておかしくなった。

原文を見る

そうしておかしくなった。

「妙な客が落ち合ったな。入口で会ったのか」

原文を見る

「妙なお客が落ち合ったな。入口で会ったのか」

と野々宮さんが妹に聞いている。

原文を見る

と野々宮さんが妹に聞いている。

妹は、そうではないと説明している。

原文を見る

妹はしからざるむねを説明している。

ついでに、三四郎のようなシャツを買ったらよかろうと言っている。

原文を見る

ついでに三四郎のようなシャツを買ったらよかろうと助言じょげんしている。

それから、この間のバイオリンは国産で音が悪くていけない。

原文を見る

それから、このあいだのバイオリンは和製で音が悪くっていけない。

買うのを今まで延ばしたのだから、もう少しよいのと買い換えてくれと頼んでいる。

原文を見る

買うのをこれまで延期したのだから、もうすこし良いのと買いかえてくれと頼んでいる。

せめて美禰子さんくらいのなら我慢すると言っている。

原文を見る

せめて美禰子さんくらいのなら我慢すると言っている。

そのほか似たようなわがままをしきりに言っている。

原文を見る

そのほか似たりよったりの駄々だだをしきりにこねている。

野々宮さんは、べつにこわい顔もせず、といって優しい言葉もかけず、ただそうかそうかと聞いている。

原文を見る

野々宮さんはべつだんこわい顔もせず、といって、優しい言葉もかけず、ただそうかそうかと聞いている。

三四郎はこの間、何も言わずにいた。

原文を見る

三四郎はこのあいだなんにも言わずにいた。

よし子は他愛のないことばかり言う。

原文を見る

よし子は愚な事ばかり述べる。

そのうえ、少しも遠慮をしない。

原文を見る

かつ少しも遠慮をしない。

それがばかとも思えなければ、わがままとも受け取れない。

原文を見る

それがばかとも思えなければ、わがままとも受け取れない。

兄とのやりとりをそばで聞いていると、広い日当たりのいい畑へ出たような気持ちがする。

原文を見る

兄との応待をそばにいて聞いていると、広い日あたりのいい畑へ出たような心持ちがする。

三四郎は、来るはずのお説教のことをまるで忘れてしまった。

原文を見る

三四郎は来たるべきお談義の事をまるで忘れてしまった。

その時、突然驚かされた。

原文を見る

その時突然驚かされた。

「ああ、私忘れていた。美禰子さんのお言づけがあってよ」

原文を見る

「ああ、わたし忘れていた。美禰子さんのお言伝ことづてがあってよ」

「そうか」

原文を見る

「そうか」

「うれしいでしょう。うれしくなくって?」

原文を見る

「うれしいでしょう。うれしくなくって?」

野々宮さんはくすぐったいような顔をした。

原文を見る

野々宮さんはかゆいような顔をした。

そうして、三四郎の方を向いた。

原文を見る

そうして、三四郎の方を向いた。

「ぼくの妹はばかですね」

原文を見る

「ぼくの妹はばかですね」

と言った。

原文を見る

と言った。

三四郎はしかたなしに、ただ笑っていた。

原文を見る

三四郎はしかたなしに、ただ笑っていた。

「ばかじゃないわ。ねえ、小川さん」

原文を見る

「ばかじゃないわ。ねえ、小川さん」

三四郎はまた笑っていた。

原文を見る

三四郎はまた笑っていた。

心の中では、もう笑うのがいやになった。

原文を見る

腹の中ではもう笑うのがいやになった。

「美禰子さんがね、兄さんに文芸協会の演芸会に連れて行ってちょうだいって」

原文を見る

「美禰子さんがね、兄さんに文芸協会の演芸会に連れて行ってちょうだいって」

「里見さんといっしょに行ったらよかろう」

原文を見る

「里見さんといっしょに行ったらよかろう」

「御用があるんですって」

原文を見る

「御用があるんですって」

「お前も行くのか」

原文を見る

「お前も行くのか」

「もちろんだわ」

原文を見る

「むろんだわ」

野々宮さんは行くとも行かないとも答えなかった。

原文を見る

野々宮さんは行くとも行かないとも答えなかった。

また三四郎の方を向いて、今夜妹を呼んだのはまじめな用があるんだのに、あんなのんきなことばかり言っていて困ると話した。

原文を見る

また三四郎の方を向いて、今夜妹を呼んだのは、まじめの用があるんだのに、あんなのん気ばかり言っていて困ると話した。

聞いてみると、学者だけあって案外あっさりしている。

原文を見る

聞いてみると、学者だけあって、存外淡泊である。

よし子に結婚の話がある。

原文を見る

よし子に縁談の口がある。

ふるさとへそう言ってやったら、両親も反対はないと返事をしてきた。

原文を見る

国へそう言ってやったら、両親も異存はないと返事をしてきた。

それについて、本人の考えをよく確かめる必要が出てきたのだと言う。

原文を見る

それについて本人の意見をよく確かめる必要が起こったのだと言う。

三四郎はただ結構ですと答えて、なるべく早く自分の用を片づけて帰ろうとした。

原文を見る

三四郎はただ結構ですと答えて、なるべく早く自分のほうを片づけて帰ろうとした。

そこで、

原文を見る

そこで、

「母からあなたに御面倒をお願いしたそうで」

原文を見る

「母からあなたにごめんどうを願ったそうで」

と切り出した。

原文を見る

と切り出した。

野々宮さんは、

原文を見る

野々宮さんは、

「なに、たいして面倒でもありませんがね」

原文を見る

「なに、大してめんどうでもありませんがね」

と、すぐに机の引き出しから預かったものを出して三四郎に渡した。

原文を見る

とすぐに机の引出しから、預かったものを出して、三四郎に渡した。

「お母さんが心配して、長い手紙を書いてよこしましたよ。三四郎はしかたのない事情で月々の学費を友だちに貸したと言うが、いくら友だちだって、そうむやみにお金を借りるものじゃあるまいし、たとえ借りたって返すはずだろうって。田舎の人は正直だから、そう思うのも無理はない。それからね、三四郎が貸すにしても、あまり貸し方が大げさだ。親から月々学費を送ってもらう身でいながら、一度に二十円の三十円のと人に貸すなんて、いかにも考えが足りないとあるんですがね――なんだかぼくに責任があるように書いてあるから困る。……」

原文を見る

「おっかさんが心配して、長い手紙を書いてよこしましたよ。三四郎は余儀ない事情で月々の学資を友だちに貸したと言うが、いくら友だちだって、そうむやみに金を借りるものじゃあるまいし、よし借りたって返すはずだろうって。いなかの者は正直だから、そう思うのもむりはない。それからね、三四郎が貸すにしても、あまり貸し方が大げさだ。親から月々学資を送ってもらう身分でいながら、一度に二十円の三十円のと、人に用立てるなんて、いかにも無分別だとあるんですがね――なんだかぼくに責任があるように書いてあるから困る。……」

野々宮さんは三四郎を見て、にやにや笑っている。

原文を見る

野々宮さんは三四郎を見て、にやにや笑っている。

三四郎はまじめに、「お気の毒です」

原文を見る

三四郎はまじめに、「お気の毒です」

と言ったばかりである。

原文を見る

と言ったばかりである。

野々宮さんは、若い者をやりこめるつもりで言ったんではないと見えて、少し調子を変えた。

原文を見る

野々宮さんは、若い者を、めつけるつもりで言ったんでないとみえて、少し調子を変えた。

「なに、心配することはありませんよ。なんでもないことなんだから。ただお母さんは田舎のねだんの感じでお金の値打ちを考えるから、三十円がたいへん重くなるんだね。なんでも三十円あると、四人の家族が半年食べていけると書いてあったが、そんなものかな、君」

原文を見る

「なに、心配することはありませんよ。なんでもない事なんだから。ただおっかさんは、いなかの相場で、金の価値をつけるから、三十円がたいへん重くなるんだね。なんでも三十円あると、四人の家族が半年はんねん食っていけると書いてあったが、そんなものかな、君」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

よし子は大きな声を出して笑った。

原文を見る

よし子は大きな声を出して笑った。

三四郎にも、ばかげているところがとてもおかしいのだが、母の言い分がまったく事実からはなれた作り話でないのだから、そこに気がついた時には、なるほど軽はずみなことをして悪かったと少し後悔した。

原文を見る

三四郎にもばかげているところがすこぶるおかしいんだが、母の言条いいじょうが、まったく事実を離れた作り話でないのだから、そこに気がついた時には、なるほど軽率な事をして悪かったと少しく後悔した。

「そうすると、月に五円の割だから、一人あたり一円二十五銭にあたる。それを三十日に割ると四銭ばかりだが――いくら田舎でも少し安すぎるようだな」

原文を見る

「そうすると、月に五円のわりだから、一人前一円二十五銭にあたる。それを三十日に割りつけると、四銭ばかりだが――いくらいなかでも少し安すぎるようだな」

と野々宮さんが計算をした。

原文を見る

と野々宮さんが計算を立てた。

「何を食べたら、そのくらいで生きていられるでしょう」

原文を見る

「何を食べたら、そのくらいで生きていられるでしょう」

と、よし子がまじめに聞き出した。

原文を見る

とよし子がまじめに聞きだした。

三四郎も後悔する暇がなくなって、自分の知っている田舎の暮らしのありさまをいろいろ話して聞かせた。

原文を見る

三四郎も後悔する暇がなくなって、自分の知っているいなか生活のありさまをいろいろ話して聞かした。

その中には宮ごもりという習わしもあった。

原文を見る

そのなかには宮籠みやごもりという慣例もあった。

三四郎の家では、年に一度ずつ村全体へ十円お金を出すことになっている。

原文を見る

三四郎の家では、年に一度ずつ村全体へ十円寄付することになっている。

その時には六十軒から一人ずつ出て、その六十人が仕事を休んで村のお宮へ集まって、朝から晩まで酒を飲み続けに飲んで、ごちそうを食べ続けに食べるんだという。

原文を見る

その時には六十から一人ずつ出て、その六十人が、仕事を休んで、村のお宮へ寄って、朝から晩まで、酒を飲みつづけに飲んで、ごちそうを食いつづけに食うんだという。

「それで十円」

原文を見る

「それで十円」

と、よし子が驚いていた。

原文を見る

とよし子が驚いていた。

お説教はこれでどこかへ行ったらしい。

原文を見る

お談義はこれでどこかへいったらしい。

それから少しおしゃべりをして一区切りついた時に、野々宮さんが改めてこう言った。

原文を見る

それから少し雑談をして一段落ついた時に、野々宮さんがあらためて、こう言った。

「なにしろ、お母さんのほうではね。ぼくが一応事情を調べて、おかしなところがないと認めたらお金を渡してくれ、そうして面倒でもその事情を知らせてもらいたいというんだが、お金は事情も何も聞かないうちにもう渡してしまったし、――どうするかね。君、たしかに佐々木に貸したんですね」

原文を見る

「なにしろ、おっかさんのほうではね。ぼくが一応事情を調べて、不都合がないと認めたら、金を渡してくれろ。そうしてめんどうでもその事情を知らせてもらいたいというんだが、金は事情もなんにも聞かないうちに、もう渡してしまったしと、――どうするかね。君たしかに佐々木に貸したんですね」

三四郎は、美禰子からもれてよし子に伝わって、それが野々宮さんに知れているんだと思った。

原文を見る

三四郎は美禰子からもれて、よし子に伝わって、それが野々宮さんに知れているんだと判じた。

しかし、そのお金が回り回ってバイオリンに変わったものとは兄妹とも気がつかないから、一種妙な感じがした。

原文を見る

しかしその金が巡り巡ってバイオリンに変形したものとは、兄妹きょうだいとも気がつかないから一種妙な感じがした。

ただ「そうです」

原文を見る

ただ「そうです」

と答えておいた。

原文を見る

と答えておいた。

「佐々木が馬券を買って、自分のお金をなくしたんだってね」

原文を見る

「佐々木が馬券を買って、自分の金をなくしたんだってね」

「ええ」

原文を見る

「ええ」

よし子はまた大きな声を出して笑った。

原文を見る

よし子はまた大きな声を出して笑った。

「じゃ、いいかげんにお母さんの所へそう言ってあげよう。しかし今度から、そんなお金はもう貸さないことにしたらいいでしょう」

原文を見る

「じゃ、いいかげんにおっかさんの所へそう言ってあげよう。しかし今度から、そんな金はもう貸さないことにしたらいいでしょう」

三四郎は貸さないことにすると答えて、あいさつをして立ちかけると、よし子ももう帰ろうと言い出した。

原文を見る

三四郎は貸さないことにするむねを答えて、挨拶をして、立ちかけると、よし子も、もう帰ろうと言い出した。

「さっきの話をしなくっちゃ」

原文を見る

「さっきの話をしなくっちゃ」

と兄が言った。

原文を見る

と兄が注意した。

「いいわ」

原文を見る

「よくってよ」

と妹がことわった。

原文を見る

と妹が拒絶した。

「よくはないよ」

原文を見る

「よくはないよ」

「いいわ。知らないわ」

原文を見る

「よくってよ。知らないわ」

兄は妹の顔を見て黙っている。

原文を見る

兄は妹の顔を見て黙っている。

妹は、またこう言った。

原文を見る

妹は、またこう言った。

「だって、しかたがないじゃありませんか。知りもしない人の所へ行くか行かないかって聞かれたって。好きでも嫌いでもないんだから、何にも言いようはありゃしないわ。だから知らないわ」

原文を見る

「だってしかたがないじゃ、ありませんか。知りもしない人の所へ、行くか行かないかって、聞いたって。好きでもきらいでもないんだから、なんにも言いようはありゃしないわ。だから知らないわ」

三四郎は、知らないわの本当の意味をようやくのみこんだ。

原文を見る

三四郎は知らないわの本意をようやく会得えとくした。

兄妹をそのままにして、急いで表へ出た。

原文を見る

兄妹をそのままにして急いで表へ出た。

人の通らない、軒の明かりばかり明るい路地を抜けて表へ出ると、風が吹く。

原文を見る

人の通らない軒燈ばかり明らかな路地を抜けて表へ出ると、風が吹く。

北へ向き直ると、まともに顔へ当たる。

原文を見る

北へ向き直ると、まともに顔へ当る。

間をおいて、自分の下宿の方から吹いてくる。

原文を見る

時を切って、自分の下宿の方から吹いてくる。

その時三四郎は考えた。

原文を見る

その時三四郎は考えた。

この風の中を、野々宮さんは妹を送って里見まで連れて行ってやるだろう。

原文を見る

この風の中を、野々宮さんは、妹を送って里見まで連れていってやるだろう。

下宿の二階へ上がって自分の部屋へ入り、すわってみると、やっぱり風の音がする。

原文を見る

下宿の二階へ上って、自分の部屋へはいって、すわってみると、やっぱり風の音がする。

三四郎はこういう風の音を聞くたびに、運命という言葉を思い出す。

原文を見る

三四郎はこういう風の音を聞くたびに、運命という字を思い出す。

ごうと鳴ってくるたびに身がすくみたくなる。

原文を見る

ごうと鳴ってくるたびにすくみたくなる。

自分でも、けっして強い男とは思っていない。

原文を見る

自分ながらけっして強い男とは思っていない。

考えると、東京へ来てから自分の運命はたいがい与次郎のためにこしらえられている。

原文を見る

考えると、上京以来自分の運命はたいがい与次郎のためにこしらえられている。

しかも、ある程度は、なごやかにふり回されるようにこしらえられている。

原文を見る

しかも多少の程度において、和気靄然あいぜんたる翻弄ほんろうを受けるようにこしらえられている。

与次郎はにくめないいたずら者である。

原文を見る

与次郎は愛すべき悪戯者いたずらものである。

これから先も、この、にくめないいたずら者のために自分の運命をにぎられていそうに思う。

原文を見る

向後もこの愛すべき悪戯者のために、自分の運命を握られていそうに思う。

風がしきりに吹く。

原文を見る

風がしきりに吹く。

たしかに与次郎以上の風である。

原文を見る

たしかに与次郎以上の風である。

三四郎は母から来た三十円を枕元へ置いて寝た。

原文を見る

三四郎は母から来た三十円を枕元まくらもとへ置いて寝た。

この三十円も運命のふり回しが生んだものである。

原文を見る

この三十円も運命の翻弄が生んだものである。

この三十円がこれから先どんな働きをするか、まるでわからない。

原文を見る

この三十円がこれからさきどんな働きをするか、まるでわからない。

自分はこれを美禰子に返しに行く。

原文を見る

自分はこれを美禰子に返しに行く。

美禰子がこれを受け取る時に、また風が一つ吹くに決まっている。

原文を見る

美禰子がこれを受け取る時に、また一煽ひとあおり来るにきまっている。

三四郎は、なるべく大きく来ればいいと思った。

原文を見る

三四郎はなるべく大きく来ればいいと思った。

三四郎はそのまま寝ついた。

原文を見る

三四郎はそれなり寝ついた。

運命も与次郎も手の出しようのないくらい、すこやかな眠りに入った。

原文を見る

運命も与次郎も手を下しようのないくらいすこやかな眠りに入った。

すると火事を知らせる鐘の音で目がさめた。

原文を見る

すると半鐘の音で目がさめた。

どこかで人の声がする。

原文を見る

どこかで人声がする。

東京の火事はこれで二度目である。

原文を見る

東京の火事はこれで二へん目である。

三四郎は寝巻きの上へ羽織を引っかけて窓を開けた。

原文を見る

三四郎は寝巻の上へ羽織を引っかけて、窓をあけた。

風はだいぶおさまっている。

原文を見る

風はだいぶ落ちている。

向こうの二階建てが、風の鳴る中にまっ黒に見える。

原文を見る

向こうの二階屋が風の鳴る中に、まっ黒に見える。

家が黒いほど、家の後ろの空は赤かった。

原文を見る

家が黒いほど、家のうしろの空は赤かった。

三四郎は寒いのを我慢して、しばらくこの赤いものを見つめていた。

原文を見る

三四郎は寒いのを我慢して、しばらくこの赤いものを見つめていた。

その時、三四郎の頭には運命がありありと赤く映った。

原文を見る

その時三四郎の頭には運命がありありと赤く映った。

三四郎はまた暖かい布団の中にもぐりこんだ。

原文を見る

三四郎はまた暖かい蒲団ふとんの中にもぐり込んだ。

そうして、赤い運命の中で走り回る多くの人の身の上を忘れた。

原文を見る

そうして、赤い運命の中で狂い回る多くの人の身の上を忘れた。

夜が明ければ、いつもの人である。

原文を見る

夜が明ければ常の人である。

制服をつけて、ノートを持って学校へ出た。

原文を見る

制服をつけて、ノートを持って、学校へ出た。

ただ、三十円をふところに入れることだけは忘れなかった。

原文を見る

ただ三十円をふところにすることだけは忘れなかった。

あいにく時間割の都合が悪い。

原文を見る

あいにく時間割のつごうが悪い。

三時までぎっしり詰まっている。

原文を見る

三時までぎっしり詰まっている。

三時過ぎに行けば、よし子も学校から帰って来ているだろう。

原文を見る

三時過ぎに行けば、よし子も学校から帰って来ているだろう。

ことによれば、里見恭助という兄も家にいるかもしれない。

原文を見る

ことによれば里見恭助という兄も在宅うちかもしれない。

人がいては、お金を返すのがまったくだめのような気がする。

原文を見る

人がいては、金を返すのが、まったくだめのような気がする。

また与次郎が話しかけた。

原文を見る

また与次郎が話しかけた。

「昨夜はお説教を聞いたか」

原文を見る

「ゆうべはお談義を聞いたか」

「なに、お説教というほどでもない」

原文を見る

「なにお談義というほどでもない」

「そうだろう、野々宮さんは、あれでわけのわかった人だからな」

原文を見る

「そうだろう、野々宮さんは、あれで理由わけのわかった人だからな」

と言って、どこかへ行ってしまった。

原文を見る

と言ってどこかへ行ってしまった。

二時間後の講義の時にまた出会った。

原文を見る

二時間後の講義の時にまた出会った。

「広田先生のことは大丈夫うまくいきそうだ」

原文を見る

「広田先生のことは大丈夫うまくいきそうだ」

と言う。

原文を見る

と言う。

どこまで話が進んだか聞いてみると、

原文を見る

どこまで事が運んだか聞いてみると、

「いや、心配しないでもいい。いずれゆっくり話す。先生が、君がしばらく来ないと言って聞いていたぜ。時々行くがいい。先生は一人暮らしだからな。我々がなぐさめてやらんといかん。今度何か買って来い」

原文を見る

「いや心配しないでもいい。いずれゆっくり話す。先生が君がしばらく来ないと言って、聞いていたぜ。時々行くがいい。先生は一人ものだからな。我々が慰めてやらんと、いかん。今度何か買って来い」

と言い放って、そのまま消えてしまった。

原文を見る

と言いっぱなして、それなり消えてしまった。

すると、次の時間にまたどこからか現れた。

原文を見る

すると、次の時間にまたどこからか現われた。

今度は何と思ったか、講義の最中に突然、

原文を見る

今度はなんと思ったか、講義の最中に、突然、

「金受け取ったりや」

原文を見る

「金受け取ったりや」

と、電報のようなものを白い紙へ書いて出した。

原文を見る

と電報のようなものを白紙しらかみへ書いて出した。

三四郎は返事を書こうと思って先生の方を見ると、先生がちゃんとこちらを見ている。

原文を見る

三四郎は返事を書こうと思って、教師の方を見ると、教師がちゃんとこっちを見ている。

白い紙を丸めて足の下へ投げた。

原文を見る

白紙を丸めて足の下へなげた。

講義が終わるのを待って、はじめて返事をした。

原文を見る

講義が終るのを待って、はじめて返事をした。

「お金は受け取った、ここにある」

原文を見る

「金は受け取った、ここにある」

「そうか、それはよかった。返すつもりか」

原文を見る

「そうかそれはよかった。返すつもりか」

「もちろん返すさ」

原文を見る

「むろん返すさ」

「それがよかろう。早く返すがいい」

原文を見る

「それがよかろう。はやく返すがいい」

「今日返そうと思う」

原文を見る

「きょう返そうと思う」

「うん、昼過ぎおそくならいるかもしれない」

原文を見る

「うん昼過ぎおそくならいるかもしれない」

「どこかへ行くのか」

原文を見る

「どこかへ行くのか」

「行くとも、毎日毎日絵に描かれに行く。もうよほどできたろう」

原文を見る

「行くとも、毎日毎日絵にかかれに行く。もうよっぽどできたろう」

「原口さんの所か」

原文を見る

「原口さんの所か」

「うん」

原文を見る

「うん」

三四郎は与次郎から原口さんの住所を聞き取った。

原文を見る

三四郎は与次郎から原口さんの宿所を聞きとった。

一〇

原文を見る

一〇

広田先生が病気だというから、三四郎が見舞いに来た。

原文を見る

広田先生が病気だというから、三四郎が見舞いに来た。

門を入ると、玄関に靴が一足そろえてある。

原文を見る

門をはいると、玄関にくつが一足そろえてある。

お医者さんかもしれないと思った。

原文を見る

医者かもしれないと思った。

いつものとおり台所口へ回ると、だれもいない。

原文を見る

いつものとおり勝手口へ回るとだれもいない。

のそのそ上がりこんで茶の間へ来ると、座敷で話し声がする。

原文を見る

のそのそ上がり込んで茶の間へ来ると、座敷で話し声がする。

三四郎はしばらく立っていた。

原文を見る

三四郎はしばらくたたずんでいた。

手にかなり大きな風呂敷包みを提げている。

原文を見る

手にかなり大きな風呂敷包ふろしきづつみをさげている。

中には、たる柿がいっぱい入っている。

原文を見る

中には樽柿たるがきがいっぱいはいっている。

今度来る時は何か買ってこいと与次郎に言われたから、追分の通りで買って来た。

原文を見る

今度来る時は、何か買ってこいと、与次郎の注意があったから、追分の通りで買って来た。

すると座敷の中で、突然どたりばたりという音がした。

原文を見る

すると座敷のうちで、突然どたりばたりという音がした。

だれかが組み合いを始めたらしい。

原文を見る

だれか組打ちを始めたらしい。

三四郎はきっとけんかだと思いこんだ。

原文を見る

三四郎は必定ひつじょう喧嘩けんかと思い込んだ。

風呂敷包みを提げたまま、仕切りのふすまをさっと三十センチばかり開けて、じっとのぞきこんだ。

原文を見る

風呂敷包みをさげたまま、仕切りの唐紙からかみを鋭どく一尺ばかりあけてきっとのぞきこんだ。

広田先生が、茶色のはかまをはいた大きな男に組みしかれている。

原文を見る

広田先生が茶のはかまをはいた大きな男に組み敷かれている。

先生はうつぶせの顔をやっと畳から上げて三四郎を見たが、にやりと笑いながら、

原文を見る

先生は俯伏うつぶしの顔をきわどく畳から上げて、三四郎を見たが、にやりと笑いながら、

「やあ、おいで」

原文を見る

「やあ、おいで」

と言った。

原文を見る

と言った。

上の男はちょっと振り返っただけである。

原文を見る

上の男はちょっと振り返ったままである。

「先生、失礼ですが、起きてごらんなさい」

原文を見る

「先生、失礼ですが、起きてごらんなさい」

と言う。

原文を見る

と言う。

なんでも先生の手を逆に取って、ひじの関節を表からひざ頭で押さえているらしい。

原文を見る

なんでも先生の手を逆に取って、ひじ関節つがいを表から、膝頭ひざがしらで押さえているらしい。

先生は下から、とうてい起きられないと答えた。

原文を見る

先生は下から、とうてい起きられないむねを答えた。

上の男はそれで手を離して、ひざを立てて、はかまのひだを正しく整え、姿勢を直した。

原文を見る

上の男は、それで、手を離して、膝を立てて、袴のひだを正しく、いずまいを直した。

見れば立派な男である。

原文を見る

見ればりっぱな男である。

先生もすぐ起き直った。

原文を見る

先生もすぐ起き直った。

「なるほど」

原文を見る

「なるほど」

と言っている。

原文を見る

と言っている。

「あのやり方でいくと、無理に逆らったら腕を折る恐れがあるから、危ないです」

原文を見る

「あの流でいくと、むりに逆らったら、腕を折る恐れがあるから、危険です」

三四郎はこのやりとりで、はじめて、この二人が今何をしていたかを悟った。

原文を見る

三四郎はこの問答で、はじめて、この両人の今何をしていたかを悟った。

「御病気だそうですが、もうよろしいんですか」

原文を見る

「御病気だそうですが、もうよろしいんですか」

「ええ、もうよろしい」

原文を見る

「ええ、もうよろしい」

三四郎は風呂敷包みを解いて、中にあるものを二人の間に広げた。

原文を見る

三四郎は風呂敷包みを解いて、中にあるものを、二人の間に広げた。

「柿を買って来ました」

原文を見る

「柿を買って来ました」

広田先生は書斎へ行って、ナイフを取って来る。

原文を見る

広田先生は書斎へ行って、ナイフを取って来る。

三四郎は台所から包丁を持って来た。

原文を見る

三四郎は台所から包丁ほうちょうを持って来た。

三人で柿を食べ出した。

原文を見る

三人で柿を食いだした。

食べながら、先生と知らない男はしきりに地方の中学の話を始めた。

原文を見る

食いながら、先生と知らぬ男はしきりに地方の中学の話を始めた。

暮らしの苦しいこと、もめごとのこと、一つ所に長くいられないこと、教科のほかに柔術の先生をしたこと、ある先生は下駄の台を買って、鼻緒は古いのをつけ替えて、使えるだけ使うくらいにしていること、今度やめた以上は簡単に働き口が見つかりそうもないこと、しかたなく、それまで妻をふるさとへ預けたこと――なかなか終わりそうもない。

原文を見る

生活難の事、紛擾ふんじょうの事、一つ所に長くとまっていられぬ事、学科以外に柔術の教師をした事、ある教師は、下駄げたの台を買って、鼻緒はなおは古いのを、すげかえて、用いられるだけ用いるぐらいにしている事、今度辞職した以上は、容易に口が見つかりそうもない事、やむをえず、それまで妻を国元へ預けた事――なかなか尽きそうもない。

三四郎は柿の種を吐き出しながら、この男の顔を見ていて情けなくなった。

原文を見る

三四郎は柿のたねを吐き出しながら、この男の顔を見ていて、情けなくなった。

今の自分とこの男とを比べてみると、まるで別の世界の人のような気がする。

原文を見る

今の自分と、この男と比較してみると、まるで人種が違うような気がする。

この男の言葉の中には、もう一度学生の暮らしがしてみたい。

原文を見る

この男の言葉のうちには、もう一ぺん学生生活がしてみたい。

学生の暮らしほど気楽なものはない、という言葉が何度も繰り返された。

原文を見る

学生生活ほど気楽なものはないという文句が何度も繰り返された。

三四郎はこの言葉を聞くたびに、自分の学生の時間もわずか二、三年の間なのかしらんと、ぼんやり考えはじめた。

原文を見る

三四郎はこの文句を聞くたびに、自分の寿命もわずか二、三年のあいだなのかしらんと、ぼんやり考えはじめた。

与次郎とそばなどを食べる時のように、気が晴れない。

原文を見る

与次郎と蕎麦そばなどを食う時のように、気がさえない。

広田先生はまた立って書斎に入った。

原文を見る

広田先生はまた立って書斎に入った。

帰った時は、手に一冊の本を持っていた。

原文を見る

帰った時は、手に一巻の書物を持っていた。

表紙が赤黒くて、切り口がほこりで汚れたものである。

原文を見る

表紙が赤黒くって、切り口のほこりでよごれたものである。

「これがこの間話したハイドリオタフィア。退屈なら見ていたまえ」

原文を見る

「これがこのあいだ話したハイドリオタフヒア。退屈なら見ていたまえ」

三四郎はお礼を述べて本を受け取った。

原文を見る

三四郎は礼を述べて書物を受け取った。

「忘れることは、けしの花を散らすようにしきりである。人の記念が永遠に値するかどうかは、問うまでもない」

原文を見る

寂寞じゃくまく罌粟花けしを散らすやしきりなり。人の記念に対しては、永劫えいごうに価するといなとを問うことなし」

という言葉が目についた。

原文を見る

という句が目についた。

先生は安心して柔術の学士と話を続ける。――

原文を見る

先生は安心して柔術の学士と談話をつづける。――

中学の先生などの暮らしぶりを聞いてみると、みな気の毒なものばかりのようだが、本当に気の毒と思うのは本人だけである。

原文を見る

中学教師などの生活状態を聞いてみると、みな気の毒なものばかりのようだが、真に気の毒と思うのは当人だけである。

なぜかというと、今の人は事実を好むが、事実に伴う気持ちのほうは切り捨てる習慣である。

原文を見る

なぜというと、現代人は事実を好むが、事実に伴なう情操は切り捨てる習慣である。

切り捨てなければならないほど世間がせわしないのだからしかたがない。

原文を見る

切り捨てなければならないほど世間が切迫しているのだからしかたがない。

その証拠には新聞を見るとわかる。

原文を見る

その証拠には新聞を見るとわかる。

新聞の社会の記事は十のうち九まで悲しい話である。

原文を見る

新聞の社会記事は十の九まで悲劇である。

けれども我々は、この悲しい話を悲しい話として味わう余裕がない。

原文を見る

けれども我々はこの悲劇を悲劇として味わう余裕がない。

ただ事実の知らせとして読むだけである。

原文を見る

ただ事実の報道として読むだけである。

自分の取る新聞などは、死人何十人と題して、一日に思いがけない死に方をした人の年齢、住所、死んだわけを小さな活字で一行ずつ書くことがある。

原文を見る

自分の取る新聞などは、死人何十人と題して、一日に変死した人間の年齢、戸籍、死因を六号活字で一行ずつに書くことがある。

短くはっきりのきわみである。

原文を見る

簡潔明瞭の極である。

また泥棒早見という欄があって、どこへどんな泥棒が入ったか、ひと目でわかるように泥棒がまとめてある。

原文を見る

また泥棒早見どろぼうはやみという欄があって、どこへどんな泥棒がはいったか、一目にわかるように泥棒がかたまっている。

これもとても便利である。

原文を見る

これも至極便利である。

すべてがこの調子と思わなくてはいけない。

原文を見る

すべてが、この調子と思わなくっちゃいけない。

仕事をやめることもそのとおり。

原文を見る

辞職もそのとおり。

本人には悲しい出来事かもしれないが、他人にはそれほど強い感じを与えないと覚悟しなければなるまい。

原文を見る

当人には悲劇に近いでき事かもしれないが、他人にはそれほど痛切な感じを与えないと覚悟しなければなるまい。

そのつもりで動いたらよかろう。

原文を見る

そのつもりで運動したらよかろう。

「だって、先生くらい余裕があるなら、少しは強く感じてもよさそうなものだが」

原文を見る

「だって先生くらい余裕があるなら、少しは痛切に感じてもよさそうなものだが」

と柔術の男がまじめな顔をして言った。

原文を見る

と柔術の男がまじめな顔をして言った。

この時は広田先生も三四郎も、そう言った本人も一度に笑った。

原文を見る

この時は広田先生も三四郎も、そう言った当人も一度に笑った。

この男がなかなか帰りそうもないので、三四郎は本を借りて台所から表へ出た。

原文を見る

この男がなかなか帰りそうもないので三四郎は、書物を借りて、勝手から表へ出た。

「くずれない墓に眠り、語り伝えられることに生き、知られた名として残り、そうでなければ移り変わる世の流れに任せて、後の世に残ろうと思うのは、昔から人の願いである。この願いがかなう時、人は天国にある。けれども本当の信仰の教えから見れば、この願いもこの満足も、無いに等しいはかないものである。生きるとは、ふたたび自分に帰るという意味であって、ふたたび自分に帰るとは、願いでもなく望みでもなく、気高い信じる人が見たありのままの事実であるから、聖人イノセントの墓地に横たわるのも、エジプトの砂の中にうまるのと変わりはない。永遠に変わらない我が身を思って喜べば、二メートルほどのせまさもハドリアヌスの大きな墓と変わるところはない。なるようになるとだけ覚悟せよ」

原文を見る

ちざる墓に眠り、伝わる事に生き、知らるる名に残り、しからずば滄桑そうそうの変に任せて、のちの世に存せんと思う事、昔より人の願いなり。この願いのかなえるとき、人は天国にあり。されどもまことなる信仰の教法よりみれば、この願いもこの満足も無きがごとくにはかなきものなり。生きるとは、ふたたびの我に帰るの意にして、再の我に帰るとは、願いにもあらず、望みにもあらず、気高き信者の見たるあからさまなる事実なれば、聖徒イノセントの墓地に横たわるは、なおエジプトの砂中にうずまるがごとし。常住の我身を観じ喜べば、六尺の狭きもアドリエーナスの大廟たいびょうと異なる所あらず。成るがままに成るとのみ覚悟せよ」

これはハイドリオタフィアの最後の一節である。

原文を見る

これはハイドリオタフヒアの末節である。

三四郎はぶらぶら白山の方へ歩きながら、通りの中でこの一節を読んだ。

原文を見る

三四郎はぶらぶら白山はくさんの方へ歩きながら、往来の中で、この一節を読んだ。

広田先生から聞くところによると、この作者は有名な名文家で、この一編は名文家の書いたもののうちの名文であるそうだ。

原文を見る

広田先生から聞くところによると、この著者は有名な名文家で、この一編は名文家の書いたうちの名文であるそうだ。

広田先生はその話をした時に笑いながら、もっともこれは私の考えじゃないよと断った。

原文を見る

広田先生はその話をした時に、笑いながら、もっともこれは私の説じゃないよと断わられた。

なるほど三四郎にも、どこが名文だかよくわからない。

原文を見る

なるほど三四郎にもどこが名文だかよくわからない。

ただ区切りが悪くて、字づかいが変わっていて、言葉の運び方が重苦しくて、まるで古いお寺を見るような気持ちがしただけである。

原文を見る

ただ句切りが悪くって、字づかいが異様で、言葉ことばの運び方が重苦しくって、まるで古いお寺を見るような心持ちがしただけである。

この一節だけ読むのにも、道のりにすると三、四百メートルもかかった。

原文を見る

この一節だけ読むにも道程みちのりにすると、三、四町もかかった。

しかも、はっきりとはしない。

原文を見る

しかもはっきりとはしない。

得たものは、古びた静かな味わいである。

原文を見る

ちえたところは物びている。

奈良の大仏の鐘をついて、その名残の響きが東京にいる自分の耳にかすかに届いたのと同じことである。

原文を見る

奈良ならの大仏の鐘をついて、そのなごりの響が、東京にいる自分の耳にかすかに届いたと同じことである。

三四郎はこの一節の意味よりも、その意味の上にはいかかる気持ちの影をうれしがった。

原文を見る

三四郎はこの一節のもたらす意味よりも、その意味の上にいかかる情緒の影をうれしがった。

三四郎は本気で生き死にの問題を考えたことのない男である。

原文を見る

三四郎は切実に生死の問題を考えたことのない男である。

考えるには、若い血があまりに暖かすぎる。

原文を見る

考えるには、青春の血が、あまりに暖かすぎる。

目の前には、まゆを焦がすほど大きな火が燃えている。

原文を見る

目の前にはまゆを焦がすほどな大きな火が燃えている。

その感じが、本当の自分である。

原文を見る

その感じが、真の自分である。

三四郎はこれから曙町の原口の所へ行く。

原文を見る

三四郎はこれから曙町あけぼのちょうの原口の所へ行く。

子供の葬式が来た。

原文を見る

子供の葬式が来た。

羽織を着た男がたった二人ついている。

原文を見る

羽織を着た男がたった二人ついている。

小さいひつぎはまっ白な布で巻いてある。

原文を見る

小さい棺はまっ白な布で巻いてある。

そのそばにきれいな風車を結びつけた。

原文を見る

そのそばにきれいな風車かざぐるまいつけた。

車がしきりに回る。

原文を見る

車がしきりに回る。

車の羽が五色に塗ってある。

原文を見る

車の羽弁はね五色ごしきに塗ってある。

それが一つの色になって回る。

原文を見る

それが一色いっしきになって回る。

白いひつぎはきれいな風車を絶え間なく動かして、三四郎の横を通り越した。

原文を見る

白い棺はきれいな風車を絶え間なく動かして、三四郎の横を通り越した。

三四郎は美しい葬いだと思った。

原文を見る

三四郎は美しい弔いだと思った。

三四郎は人の文章と、人の葬式をよそから見た。

原文を見る

三四郎は人の文章と、人の葬式をよそから見た。

もしだれかが来て、ついでに美禰子をよそから見ろと言ったら、三四郎は驚いたに違いない。

原文を見る

もしだれか来て、ついでに美禰子をよそから見ろと注意したら、三四郎は驚いたに違いない。

三四郎は美禰子をよそから見ることができないような目になっている。

原文を見る

三四郎は美禰子をよそから見ることができないような目になっている。

第一、よそもよそでないも、そんな区別はまるで考えていない。

原文を見る

第一よそもよそでないもそんな区別はまるで意識していない。

ただ事実として、人の死に対しては美しい穏やかな味わいがあるとともに、生きている美禰子に対しては、美しい楽しさの底に一種の苦しさがある。

原文を見る

ただ事実として、ひとの死に対しては、美しい穏やかな味わいがあるとともに、生きている美禰子に対しては、美しい享楽きょうらくの底に、一種の苦悶くもんがある。

三四郎はこの苦しさを払おうとして、まっすぐに進んで行く。

原文を見る

三四郎はこの苦悶を払おうとして、まっすぐに進んで行く。

進んで行けば苦しさが取れるように思う。

原文を見る

進んで行けば苦悶がとれるように思う。

苦しさを取るために一足わきへどくことは夢にも考えられない。

原文を見る

苦悶をとるために一足わきへのくことは夢にも案じえない。

これを考えられない三四郎は、現に遠くから、ほろびの集まりを文字の上に眺めて、若くして死ぬ哀れさを一メートルの外に感じたのである。

原文を見る

これを案じえない三四郎は、現に遠くから、寂滅じゃくめつを文字の上にながめて、夭折ようせつの哀れを、三尺の外に感じたのである。

しかも、悲しいはずのところを気持ちよく眺めて、美しく感じたのである。

原文を見る

しかも、悲しいはずのところを、快くながめて、美しく感じたのである。

曙町へ曲がると大きな松がある。

原文を見る

曙町へ曲がると大きな松がある。

この松を目印に来いと教わった。

原文を見る

この松を目標めじるしに来いと教わった。

松の下へ来ると、家が違っている。

原文を見る

松の下へ来ると、家が違っている。

向こうを見ると、また松がある。

原文を見る

向こうを見るとまた松がある。

その先にも松がある。

原文を見る

その先にも松がある。

松がたくさんある。

原文を見る

松がたくさんある。

三四郎はいい所だと思った。

原文を見る

三四郎は好い所だと思った。

多くの松を通り越して左へ折れると、生け垣にきれいな門がある。

原文を見る

多くの松を通り越して左へ折れると、生垣いけがきにきれいな門がある。

はたして原口という表札が出ていた。

原文を見る

はたして原口という標札が出ていた。

その表札は、木目の細かい黒っぽい板に、緑の油で名前を派手に書いたものである。

原文を見る

その標札は木理もくめの込んだ黒っぽい板に、緑の油で名前を派手はでに書いたものである。

字だか模様だかわからないくらい凝っている。

原文を見る

字だか模様だかわからないくらい凝っている。

門から玄関まではからりとして何もない。

原文を見る

門から玄関まではからりとしてなんにもない。

左右に芝が植えてある。

原文を見る

左右に芝が植えてある。

玄関には美禰子の下駄がそろえてあった。

原文を見る

玄関には美禰子の下駄げたがそろえてあった。

鼻緒の二本が右左で色が違う。

原文を見る

鼻緒の二本が右左みぎひだりで色が違う。

それでよく覚えている。

原文を見る

それでよく覚えている。

今仕事中だが、よければ上がれと言う女の子の取り次ぎについて、絵をかく部屋へ入った。

原文を見る

今仕事中だが、よければ上がれと言う小女こおんなの取次ぎについて、画室へはいった。

広い部屋である。

原文を見る

広い部屋へやである。

細長く南北にのびた床の上は、画家らしく散らかっている。

原文を見る

細長く南北みなみきたにのびた床の上は、画家らしく、取り乱れている。

まず一部分にはじゅうたんが敷いてある。

原文を見る

まず一部分には絨毯じゅうたんが敷いてある。

それが部屋の大きさに比べるとまるで釣り合いが取れないから、敷物として敷いたというよりは、色のいい、上品な模様の織物として放り出したように見える。

原文を見る

それが部屋の大きさに比べると、まるで釣り合いが取れないから、敷物として敷いたというよりは、色のいい、模様の雅な織物としてほうり出したように見える。

離れて向こうに置いた大きな虎の皮もそのとおり、すわるために用意した場所とは受け取れない。

原文を見る

離れて向こうに置いた大きなとらの皮もそのとおり、すわるための、設けの座とは受け取れない。

じゅうたんとは合わない場所に、ななめに尾を長く引いている。

原文を見る

絨毯とは不調和な位置にすじかいに尾を長くひいている。

砂を練り固めたような大きなかめがある。

原文を見る

砂を練り固めたような大きなかめがある。

その中から矢が二本出ている。

原文を見る

その中から矢が二本出ている。

ねずみ色の羽根と羽根の間が金ぱくで強く光る。

原文を見る

鼠色ねずみいろの羽根と羽根の間が金箔きんぱくで強く光る。

そのそばに、よろいもあった。

原文を見る

そのそばによろいもあった。

三四郎は卯の花おどしというのだろうと思った。

原文を見る

三四郎は花縅はなおどしというのだろうと思った。

向こう側の隅に、ぱっと目を引くものがある。

原文を見る

向こう側のすみにぱっと目を射るものがある。

紫のすそ模様の小袖に、金糸のししゅうが見える。

原文を見る

紫の裾模様の小袖こそで金糸きんし刺繍ぬいが見える。

そでからそでへ幕の綱を通して、虫干しの時のようにつるした。

原文を見る

袖から袖へ幔幕まんまくつなを通して、虫干の時のように釣るした。

そでは丸くて短い。

原文を見る

袖は丸くて短かい。

これが元禄のころのものかと三四郎も気がついた。

原文を見る

これが元禄げんろくかと三四郎も気がついた。

そのほかには絵がたくさんある。

原文を見る

そのほかには絵がたくさんある。

壁にかけたのばかりでも、大小合わせるとよほどになる。

原文を見る

壁にかけたのばかりでも大小合わせるとよほどになる。

わくをつけない下絵というようなものは、重ねて巻いた端が巻きくずれて、切り口をだらしなくさらしている。

原文を見る

額縁がくぶちをつけない下絵というようなものは、重ねて巻いたはしが、巻きくずれて、小口こぐちをしだらなくあらわした。

描かれている人の絵は、この色が目を乱す中にある。

原文を見る

描かれつつある人の肖像は、この彩色いろどりの目を乱す間にある。

描かれている人は、突き当たりの正面にうちわをかざして立った。

原文を見る

描かれつつある人は、突き当りの正面に団扇うちわをかざして立った。

描く男は丸い背をぐるりと返して、絵の具の板を持ったまま三四郎に向かった。

原文を見る

描く男は丸い背をぐるりと返して、パレットを持ったまま、三四郎に向かった。

口に太いパイプをくわえている。

原文を見る

口に太いパイプをくわえている。

「やって来たね」

原文を見る

「やって来たね」

と言ってパイプを口から取り、小さい丸テーブルの上に置いた。

原文を見る

と言ってパイプを口から取って、小さい丸テーブルの上に置いた。

マッチと灰皿が載っている。

原文を見る

マッチと灰皿はいざらがのっている。

椅子もある。

原文を見る

椅子いすもある。

「かけたまえ。――あれだ」

原文を見る

「かけたまえ。――あれだ」

と言って、描きかけたカンバスの方を見た。

原文を見る

と言って、かきかけた画布カンバスの方を見た。

長さは二メートル近くもある。

原文を見る

長さは六尺もある。

三四郎はただ、

原文を見る

三四郎はただ、

「なるほど大きなものですな」

原文を見る

「なるほど大きなものですな」

と言った。

原文を見る

と言った。

原口さんは耳にも入らない様子で、

原文を見る

原口さんは、耳にも留めないふうで、

「うん、なかなか」

原文を見る

「うん、なかなか」

とひとりごとのように、髪の毛と後ろの景色の境の所を塗りはじめた。

原文を見る

とひとりごとのように、髪の毛と、背景の境の所を塗りはじめた。

三四郎はこの時ようやく美禰子の方を見た。

原文を見る

三四郎はこの時ようやく美禰子の方を見た。

すると、美禰子のかざしたうちわの陰で白い歯がかすかに光った。

原文を見る

すると女のかざした団扇の陰で、白い歯がかすかに光った。

それから二、三分はまったく静かになった。

原文を見る

それから二、三分はまったく静かになった。

部屋は暖炉で暖めてある。

原文を見る

部屋は暖炉だんろで暖めてある。

今日は外でも、そう寒くはない。

原文を見る

きょうは外面そとでも、そう寒くはない。

風はぱたりとやんだ。

原文を見る

風は死に尽した。

枯れた木が音もなく冬の日に包まれて立っている。

原文を見る

枯れた木が音なく冬の日に包まれて立っている。

三四郎は絵の部屋へ通された時、かすみの中へ入ったような気がした。

原文を見る

三四郎は画室へ導かれた時、かすみの中へはいったような気がした。

丸テーブルにひじをもたせて、この、夜にもまさる静かさの中に、心おきなく気持ちをひたらせた。

原文を見る

丸テーブルにひじを持たして、この静かさの夜にまさる境に、はばかりなき精神こころをおぼれしめた。

この静かさの中に美禰子がいる。

原文を見る

この静かさのうちに、美禰子がいる。

美禰子の姿がだんだんできあがりつつある。

原文を見る

美禰子の影が次第にでき上がりつつある。

太った画家の絵筆だけが動く。

原文を見る

ふとった画工の画筆ブラッシだけが動く。

それも目に動くだけで、耳には静かである。

原文を見る

それも目に動くだけで、耳には静かである。

太った画家も動くことがある。

原文を見る

肥った画工も動くことがある。

しかし足音はしない。

原文を見る

しかし足音はしない。

静かなものに閉じこめられた美禰子はまったく動かない。

原文を見る

静かなものに封じ込められた美禰子はまったく動かない。

うちわをかざして立った姿そのものが、すでに絵である。

原文を見る

団扇をかざして立った姿そのままがすでに絵である。

三四郎から見ると、原口さんは美禰子を写しているのではない。

原文を見る

三四郎から見ると、原口さんは、美禰子を写しているのではない。

不思議に奥行きのある絵から、力を尽くしてその奥行きだけを落として、ふつうの絵に美禰子を描き直しているのである。

原文を見る

不可思議に奥行きのある絵から、精出して、その奥行きだけを落として、普通の絵に美禰子を描き直しているのである。

それなのに、絵の中の美禰子はこの静かさの中で、だんだん本物の美禰子に近づいてくる。

原文を見る

にもかかわらず第二の美禰子は、この静かさのうちに、次第と第一に近づいてくる。

三四郎には、この二人の美禰子の間に、時計の音に触れない静かな長い時間が入っているように思われた。

原文を見る

三四郎には、この二人の美禰子の間に、時計の音に触れない、静かな長い時間が含まれているように思われた。

その時間が画家の気づかないほど穏やかにたつにつれて、絵の中の美禰子がようやく追いついてくる。

原文を見る

その時間が画家の意識にさえ上らないほどおとなしくたつにしたがって、第二の美禰子がようやく追いついてくる。

もう少しで両方がぴたりと出会って一つになるというところで、時の流れが急に向きを変えて永遠の中に流れこんでしまう。

原文を見る

もう少しで双方そうほうがぴたりと出合って一つに収まるというところで、時の流れが急に向きを換えて永久の中に注いでしまう。

原口さんの絵筆は、それより先には進めない。

原文を見る

原口さんの画筆ブラッシはそれより先には進めない。

三四郎はそこまでついて行って気がつき、ふと美禰子を見た。

原文を見る

三四郎はそこまでついて行って、気がついて、ふと美禰子を見た。

美禰子は相変わらず動かずにいる。

原文を見る

美禰子は依然として動かずにいる。

三四郎の頭は、この静かな空気の中で知らず知らず動いていた。

原文を見る

三四郎の頭はこの静かな空気のうちで覚えず動いていた。

酔ったような気持ちである。

原文を見る

酔った心持ちである。

すると突然、原口さんが笑い出した。

原文を見る

すると突然原口さんが笑いだした。

「また苦しくなったようですね」

原文を見る

「また苦しくなったようですね」

美禰子は何も言わずに、すぐ姿勢をくずして、そばに置いた楽な椅子へ落ちるようにとんと腰を下ろした。

原文を見る

女はなんにも言わずに、すぐ姿勢をくずして、そばに置いた安楽椅子へ落ちるようにとんと腰をおろした。

その時、白い歯がまた光った。

原文を見る

その時白い歯がまた光った。

そうして、動く時のそでとともに三四郎を見た。

原文を見る

そうして動く時の袖とともに三四郎を見た。

その目は流れ星のように三四郎のまゆの間を通り越していった。

原文を見る

その目は流星のように三四郎の眉間みけんを通り越していった。

原口さんは丸テーブルのそばまで来て、三四郎に、

原文を見る

原口さんは丸テーブルのそばまで来て、三四郎に、

「どうです」

原文を見る

「どうです」

と言いながら、マッチをすってさっきのパイプに火をつけ、また口にくわえた。

原文を見る

と言いながら、マッチをすってさっきのパイプに火をつけて、再び口にくわえた。

大きな木の吸い口を指で押さえて、二吹きばかり濃い煙をひげの中から出したが、やがてまた丸い背中を向けて絵に近づいた。

原文を見る

大きな木の雁首がんくびを指でおさえて、二吹きばかり濃い煙を髭の中から出したが、やがてまた丸い背中を向けて絵に近づいた。

好きな所を自由に塗っている。

原文を見る

かってなところを自由に塗っている。

絵はもちろん仕上がっていないものだろう。

原文を見る

絵はむろん仕上がっていないものだろう。

けれども、どこもかしこもまんべんなく絵の具が塗ってあるから、絵にくわしくない三四郎が見るとなかなか立派である。

原文を見る

けれどもどこもかしこもまんべんなく絵の具が塗ってあるから、素人しろうとの三四郎が見ると、なかなかりっぱである。

うまいかまずいか、もちろんわからない。

原文を見る

うまいかまずいかむろんわからない。

わざの善し悪しを言えない三四郎には、ただ、わざがもたらす感じだけがある。

原文を見る

技巧の批評のできない三四郎には、ただ技巧のもたらす感じだけがある。

それさえ、慣れていないからとても的をはずしているらしい。

原文を見る

それすら、経験がないから、すこぶる正鵠せいこうを失しているらしい。

芸術の力にまるで気づかない人間ではないと自分で示すだけでも、三四郎は風流な人である。

原文を見る

芸術の影響に全然無頓着な人間でないとみずからを証拠立てるだけでも三四郎は風流人である。

三四郎が見ると、この絵は全体としてぱっと明るい。

原文を見る

三四郎が見ると、この絵はいったいにぱっとしている。

なんだか一面に粉がふいて、つやのない日ざしに当たったように思われる。

原文を見る

なんだかいちめんにが吹いて、光沢つやのない日光にあたったように思われる。

影の所でも黒くはない。

原文を見る

影の所でも黒くはない。

むしろ薄い紫がさしている。

原文を見る

むしろ薄い紫が射している。

三四郎はこの絵を見て、なんとなく軽やかな感じがした。

原文を見る

三四郎はこの絵を見て、なんとなく軽快な感じがした。

浮いた調子は、細長い舟に乗ったような気持ちがある。

原文を見る

浮いた調子は猪牙船ちょきぶねに乗った心持ちがある。

それでも、どこか落ち着いている。

原文を見る

それでもどこかおちついている。

危なっかしくない。

原文を見る

けんのんでない。

苦いところ、渋いところ、どぎついところはもちろんない。

原文を見る

にがったところ、渋ったところ、毒々しいところはむろんない。

三四郎は原口さんらしい絵だと思った。

原文を見る

三四郎は原口さんらしい絵だと思った。

すると原口さんは、気軽に絵筆を使いながらこんなことを言う。

原文を見る

すると原口さんは無造作むぞうさに画筆を使いながら、こんなことを言う。

「小川さん、おもしろい話がある。ぼくの知った男にね、奥さんがいやになって別れたいと言い出した人がある。ところが奥さんが承知をしないで、私は縁あってこの家へ嫁いだものですから、たとえあなたがおいやでも、私はけっして出てまいりません」

原文を見る

「小川さんおもしろい話がある。ぼくの知った男にね、細君がいやになって離縁を請求した者がある。ところが細君が承知をしないで、私は縁あって、このうちへかたづいたものですから、たといあなたがおいやでも私はけっして出てまいりません」

原口さんはそこでちょっと絵を離れて、絵筆の仕上がりを眺めていたが、今度は美禰子に向かって、

原文を見る

原口さんはそこでちょっと絵を離れて、画筆の結果をながめていたが、今度は、美禰子に向かって、

「里見さん。あなたがひとえを着てくれないものだから、着物が描きにくくて困る。まるでいいかげんにやるんだから、少し思い切りすぎますね」

原文を見る

「里見さん。あなたが単衣ひとえものを着てくれないものだから、着物がかきにくくって困る。まるでいいかげんにやるんだから、少し大胆だいたんすぎますね」

「お気の毒さま」

原文を見る

「お気の毒さま」

と美禰子が言った。

原文を見る

と美禰子が言った。

原口さんは返事もせずに、また絵へ近寄った。

原文を見る

原口さんは返事もせずにまた画面へ近寄った。

「それでね、奥さんが出て行きそうにないものだから、友人が奥さんに向かってこう言ったんだとさ。出るのがいやなら出ないでもいい。いつまでも家にいるがいい。その代わり、おれのほうが出るから。――里見さん、ちょっと立ってみてください。うちわはどうでもいい。ただ立てば。そう。ありがとう。――奥さんが、私が家にいても、あなたが出ておしまいになれば後が困るじゃありませんかと言うと、なに、かまわないさ、お前は勝手に婿でも取ったらよかろうと答えたんだって」

原文を見る

「それでね、細君のおしりが離縁するにはあまり重くあったものだから、友人が細君に向かって、こう言ったんだとさ。出るのがいやなら、出ないでもいい。いつまでも家にいるがいい。その代りおれのほうが出るから。――里見さんちょっと立ってみてください。団扇はどうでもいい。ただ立てば。そう。ありがとう。――細君が、私が家におっても、あなたが出ておしまいになれば、後が困るじゃありませんかと言うと、なにかまわないさ、お前はかってに入夫でもしたらよかろうと答えたんだって」

「それから、どうなりました」

原文を見る

「それから、どうなりました」

と三四郎が聞いた。

原文を見る

と三四郎が聞いた。

原口さんは、話すほどのこともないと思ったものか、まだ続けた。

原文を見る

原口さんは、語るに足りないと思ったものか、まだあとをつけた。

「どうもならないのさ。だから結婚は考えものだよ。いっしょになるのも別れるのも、どちらも自由にならない。広田先生を見たまえ、野々宮さんを見たまえ、里見恭助君を見たまえ、ついでにぼくを見たまえ。みんな結婚をしていない。女の人が力を持つと、こういう独身の人がたくさんできてくる。だから世の中の決まりとしては、独身の人ができない程度に女の人が力を持たなくちゃだめだね」

原文を見る

「どうもならないのさ。だから結婚は考え物だよ。離合集散、ともに自由にならない。広田先生を見たまえ、野々宮さんを見たまえ、里見恭助君を見たまえ、ついでにぼくを見たまえ。みんな結婚をしていない。女が偉くなると、こういう独身ものがたくさんできてくる。だから社会の原則は、独身ものが、できえない程度内において、女が偉くならなくっちゃだめだね」

「でも兄は近々結婚いたしますよ」

原文を見る

「でも兄は近々きんきん結婚いたしますよ」

「おや、そうですか。すると、あなたはどうなります」

原文を見る

「おや、そうですか。するとあなたはどうなります」

「存じません」

原文を見る

「存じません」

三四郎は美禰子を見た。

原文を見る

三四郎は美禰子を見た。

美禰子も三四郎を見て笑った。

原文を見る

美禰子も三四郎を見て笑った。

原口さんだけは絵に向いている。

原文を見る

原口さんだけは絵に向いている。

「存じません。存じません――じゃ」

原文を見る

「存じません。存じません――じゃ」

と絵筆を動かした。

原文を見る

画筆ブラッシを動かした。

三四郎はこの機会を使って、丸テーブルのそばを離れて美禰子のそばへ近寄った。

原文を見る

三四郎はこの機会を利用して、丸テーブルの側を離れて、美禰子の傍へ近寄った。

美禰子は椅子の背に、油気のない頭を無造作にもたせて、疲れた人の、身なりに気を配らない投げやりな姿である。

原文を見る

美禰子は椅子の背に、油気あぶらけのない頭を、無造作に持たせて、疲れた人の、身繕いに心なきなげやりの姿である。

あからさまに、じゅばんのえりからのどが出ている。

原文を見る

あからさまに襦袢じゅばんえりから咽喉首のどくびが出ている。

椅子には、ぬぎ捨てた羽織をかけた。

原文を見る

椅子には脱ぎ捨てた羽織をかけた。

ひさし髪の上にきれいな裏地が見える。

原文を見る

廂髪ひさしがみの上にきれいな裏が見える。

三四郎はふところに三十円入れている。

原文を見る

三四郎は懐に三十円入れている。

この三十円が、二人の間にある説明しにくいものを表している。――

原文を見る

この三十円が二人の間にある、説明しにくいものを代表している。――

と三四郎は信じた。

原文を見る

と三四郎は信じた。

返そうと思って返さなかったのも、これがためである。

原文を見る

返そうと思って、返さなかったのもこれがためである。

思い切って今返そうとするのも、これがためである。

原文を見る

思いきって、今返そうとするのもこれがためである。

返すと用がなくなって遠ざかるか、用がなくなってもいっそう近づいて来るか、――ふつうの人から見ると、三四郎は少し縁起をかつぐところがある。

原文を見る

返すと用がなくなって、遠ざかるか、用がなくなっても、いっそう近づいて来るか、――普通の人から見ると、三四郎は少し迷信家の調子を帯びている。

「里見さん」

原文を見る

「里見さん」

と言った。

原文を見る

と言った。

「なに」

原文を見る

「なに」

と答えた。

原文を見る

と答えた。

あおむいて下から三四郎を見た。

原文を見る

仰向いて下から三四郎を見た。

顔はもとのまま落ち着けている。

原文を見る

顔をもとのごとくにおちつけている。

目だけは動いた。

原文を見る

目だけは動いた。

それも三四郎の真正面で穏やかに止まった。

原文を見る

それも三四郎の真正面で穏やかにとまった。

三四郎は美禰子を少し疲れていると見た。

原文を見る

三四郎は女を多少疲れていると判じた。

「ちょうどついでだから、ここで返しましょう」

原文を見る

「ちょうどついでだから、ここで返しましょう」

と言いながら、ボタンを一つはずして着物のふところへ手を入れた。

原文を見る

と言いながら、ボタンを一つはずして、内懐うちぶところへ手を入れた。

美禰子はまた、

原文を見る

女はまた、

「なに」

原文を見る

「なに」

と繰り返した。

原文を見る

と繰り返した。

もとのとおり、力のない調子である。

原文を見る

もとのとおり、刺激のない調子である。

ふところへ手を入れながら、三四郎はどうしようと考えた。

原文を見る

内懐へ手を入れながら、三四郎はどうしようと考えた。

やがて思い切った。

原文を見る

やがて思いきった。

「この間のお金です」

原文を見る

「このあいだの金です」

「今くださってもしかたがないわ」

原文を見る

「今くだすってもしかたがないわ」

美禰子は下から見上げたままである。

原文を見る

女は下から見上げたままである。

手も出さない。

原文を見る

手も出さない。

体も動かさない。

原文を見る

からだも動かさない。

顔ももとの所に落ち着けている。

原文を見る

顔も元のところにおちつけている。

三四郎は、美禰子の返事さえよくは理解できなかった。

原文を見る

男は女の返事さえよくはしかねた。

その時、

原文を見る

その時、

「もう少しだから、どうです」

原文を見る

「もう少しだから、どうです」

と言う声が後ろで聞こえた。

原文を見る

と言う声がうしろで聞こえた。

見ると、原口さんがこちらを向いて立っている。

原文を見る

見ると、原口さんがこっちを向いて立っている。

絵筆を指の間にはさんだまま、三角に刈りこんだひげの先を引っ張って笑った。

原文を見る

画筆ブラッシを指のまたにはさんだまま、三角に刈り込んだひげの先を引っ張って笑った。

美禰子は両手を椅子のひじかけにかけて、腰を下ろしたまま頭と背をまっすぐに伸ばした。

原文を見る

美禰子は両手を椅子の肘にかけて、腰をおろしたなり、頭と背をまっすぐにのばした。

三四郎は小さな声で、

原文を見る

三四郎は小さな声で、

「まだよほどかかりますか」

原文を見る

「まだよほどかかりますか」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

「もう一時間ばかり」

原文を見る

「もう一時間ばかり」

と美禰子も小さな声で答えた。

原文を見る

と美禰子も小さな声で答えた。

三四郎はまた丸テーブルに帰った。

原文を見る

三四郎はまた丸テーブルに帰った。

美禰子はもう、描かれる姿勢を取った。

原文を見る

女はもう描かるべき姿勢を取った。

原口さんはまたパイプに火をつけた。

原文を見る

原口さんはまたパイプをつけた。

絵筆はまた動き出す。

原文を見る

画筆はまた動きだす。

背を向けながら、原口さんがこう言った。

原文を見る

背を向けながら、原口さんがこう言った。

「小川さん。里見さんの目を見てごらん」

原文を見る

「小川さん。里見さんの目を見てごらん」

三四郎は言われたとおりにした。

原文を見る

三四郎は言われたとおりにした。

美禰子は突然ひたいからうちわを離して、静かな姿勢をくずした。

原文を見る

美禰子は突然額から団扇を放して、静かな姿勢を崩した。

横を向いてガラス越しに庭を眺めている。

原文を見る

横を向いてガラス越しに庭をながめている。

「いけない。横を向いてしまっちゃいけない。今描き出したばかりだのに」

原文を見る

「いけない。横を向いてしまっちゃ、いけない。今かきだしたばかりだのに」

「なぜ余計なことをおっしゃる」

原文を見る

「なぜよけいな事をおっしゃる」

と美禰子はもとの正面にもどった。

原文を見る

と女は正面に帰った。

原口さんは言いわけをする。

原文を見る

原口さんは弁解をする。

「ひやかしたんじゃない。小川さんに話すことがあったんです」

原文を見る

「ひやかしたんじゃない。小川さんに話す事があったんです」

「何を」

原文を見る

「何を」

「これから話すから、まあ、もとのとおりの姿勢にもどってください。そう。もう少しひじを前へ出して。それで小川さん、ぼくの描いた目が実物の表情どおりできているかね」

原文を見る

「これから話すから、まあ元のとおりの姿勢に復してください。そう。もう少し肱を前へ出して。それで小川さん、ぼくの描いた目が、実物の表情どおりできているかね」

「どうもよくわからんですが。いったい、こうやって毎日毎日描いているのに、描かれる人の目の表情がいつも変わらずにいるものでしょうか」

原文を見る

「どうもよくわからんですが。いったいこうやって、毎日毎日描いているのに、描かれる人の目の表情がいつも変らずにいるものでしょうか」

「それは変わるだろう。本人が変わるばかりじゃない、画家のほうの気分も毎日変わるんだから、本当を言えば絵が何枚でもできあがらなくちゃならないわけだが、そうはいかない。また、たった一枚でかなりまとまったものができるから不思議だ。なぜかと言って見たまえ……」

原文を見る

「それは変るだろう。本人が変るばかりじゃない、画工えかきのほうの気分も毎日変るんだから、本当を言うと、肖像画が何枚でもできあがらなくっちゃならないわけだが、そうはいかない。またたった一枚でかなりまとまったものができるから不思議だ。なぜといって見たまえ……」

原口さんは、この間ずっと筆を使っている。

原文を見る

原口さんはこのあいだしじゅう筆を使っている。

美禰子の方も見ている。

原文を見る

美禰子の方も見ている。

三四郎は原口さんの体じゅうの働きが一度に動くのを目の前で見て恐れ入った。

原文を見る

三四郎は原口さんの諸機関が一度に働くのを目撃して恐れ入った。

「こうやって毎日描いていると、毎日の分が積もり積もって、しばらくするうちに、描いている絵に決まった気分ができてくる。だから、たとえほかの気分で外から帰って来ても、絵の部屋へ入って絵に向かいさえすれば、じきに決まった気分になれる。つまり絵の中の気分がこちらへ移るのだね。里見さんだって同じことだ。そのままに放っておけば、いろいろの刺激でいろいろの表情になるに決まっているんだが、それが実際、絵の上へたいした影響を与えないのは、ああいう姿勢や、こういう散らかった鼓だとか、よろいだとか、虎の皮だとかいう周りのものが、自然に決まった表情を引き出すようになってきて、その慣れがだんだんほかの表情を押さえつけるほど強くなるから、まあ、たいていなら、この目つきをこのままで仕上げていけばいいんだね。それに表情といったって……」

原文を見る

「こうやって毎日描いていると、毎日の量が積もり積もって、しばらくするうちに、描いている絵に一定の気分ができてくる。だから、たといほかの気分で戸外そとから帰って来ても、画室へはいって、絵に向かいさえすれば、じきに一種一定の気分になれる。つまり絵の中の気分が、こっちへ乗り移るのだね。里見さんだって同じ事だ。しぜんのままにほうっておけばいろいろの刺激でいろいろの表情になるにきまっているんだが、それがじっさい絵のうえへ大した影響を及ぼさないのは、ああいう姿勢や、こういう乱雑なつづみだとか、よろいだとか、とらの皮だとかいう周囲まわりのものが、しぜんに一種一定の表情を引き起こすようになってきて、その習慣が次第にほかの表情を圧迫するほど強くなるから、まあたいていなら、この目つきをこのままで仕上げていけばいいんだね。それに表情といったって……」

原口さんは突然黙った。

原文を見る

原口さんは突然黙った。

どこかむずかしいところへ来たと見える。

原文を見る

どこかむずかしいところへきたとみえる。

二足ばかり後ろへ下がって、美禰子と絵をしきりに見比べている。

原文を見る

二足ふたあしばかり立ちのいて、美禰子と絵をしきりに見比べている。

「里見さん、どうかしましたか」

原文を見る

「里見さん、どうかしましたか」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

「いいえ」

原文を見る

「いいえ」

この答えは美禰子の口から出たとは思えなかった。

原文を見る

この答は美禰子の口から出たとは思えなかった。

美禰子はそれほど静かに姿勢をくずさずにいる。

原文を見る

美禰子はそれほど静かに姿勢をくずさずにいる。

「それに表情といったって」

原文を見る

「それに表情といったって」

と原口さんがまた始めた。

原文を見る

と原口さんがまた始めた。

「画家はね、心を描くんじゃない。心が外へ店を出しているところを描くんだから、店さえ手落ちなく見れば、中身は自然とわかるものと、まあ、そうしておくんだね。店でうかがえない中身は、画家の受け持ちの外だとあきらめるべきものだよ。だから我々は体ばかり描いている。どんな体を描いたって、心がこもらなければ死んだ肉だから、絵として通らないだけだ。そこで、この里見さんの目もね。里見さんの心を写すつもりで描いているんじゃない。ただ目として描いている。この目が気に入ったから描いている。この目の形だの、二重まぶたの影だの、瞳の深さだの、なんでもぼくに見えるところだけを残らず描いてゆく。すると、たまたまその結果として、一つの表情が出てくる。もし出てこなければ、ぼくの色の出し方が悪かったか、形の取り方が間違っていたか、どちらかになる。現に、あの色あの形そのものが一つの表情なんだからしかたがない」

原文を見る

「画工はね、心を描くんじゃない。心が外へ見世みせを出しているところを描くんだから、見世さえ手落ちなく観察すれば、身代はおのずからわかるものと、まあ、そうしておくんだね。見世でうかがえない身代は画工の担任区域以外とあきらめべきものだよ。だから我々は肉ばかり描いている。どんな肉を描いたって、霊がこもらなければ、死肉だから、絵として通用しないだけだ。そこでこの里見さんの目もね。里見さんの心を写すつもりで描いているんじゃない。ただ目として描いている。この目が気に入ったから描いている。この目の恰好かっこうだの、二重瞼ふたえまぶたの影だの、ひとみの深さだの、なんでもぼくに見えるところだけを残りなく描いてゆく。すると偶然の結果として、一種の表情が出てくる。もし出てこなければ、ぼくの色の出しぐあいが悪かったか、恰好の取り方がまちがっていたか、どっちかになる。現にあの色あの形そのものが一種の表情なんだからしかたがない」

原口さんは、この時また二足ばかり後ろへ下がって、美禰子と絵とを見比べた。

原文を見る

原口さんは、この時また二足ばかりあとへさがって、美禰子と絵とを見比べた。

「どうも、今日はどうかしているね。疲れたんでしょう。疲れたら、もうやめましょう。――疲れましたか」

原文を見る

「どうも、きょうはどうかしているね。疲れたんでしょう。疲れたら、もうよしましょう。――疲れましたか」

「いいえ」

原文を見る

「いいえ」

原口さんはまた絵へ近寄った。

原文を見る

原口さんはまた絵へ近寄った。

「それで、ぼくがなぜ里見さんの目を選んだかというとね。まあ話すから聞きたまえ。西洋画の女の人の顔を見ると、だれが描いた美人でも、きっと大きな目をしている。おかしいくらい大きな目ばかりだ。ところが日本では観音様をはじめとして、お多福、能の面、いちばん目立つのは浮世絵に出てくる美人、どれも細い。みんな象に似ている。なぜ東と西で美しさの見方がこれほど違うかと思うと、ちょっと不思議だろう。ところが、じつは何でもない。西洋には目の大きい人ばかりいるから、大きい目の中で美しさが選ばれる。日本は鯨のような細い目ばかりだから――ピエール・ロチという人は、日本人の目はあれでどうやって開けるだろうなんて、からかっている。――そら、そういうお国がらだから、どうしたって、もとが少ない大きな目についての美しさの見方が育ちようがない。そこで、選ぶ自由のきく細い目の中で理想ができてしまったのが、歌麿になったり祐信になったりして大事にされている。しかし、いくら日本らしくても西洋画では、ああ細いのは目の見えない人を描いたようでみっともなくていけない。といって、ラファエロの聖母のようなのはまるでいないし、いたところで日本人とは言えないから、そこで里見さんにお願いすることになったのさ。里見さん、もう少しですよ」

原文を見る

「それで、ぼくがなぜ里見さんの目を選んだかというとね。まあ話すから聞きたまえ。西洋画の女の顔を見ると、だれのかいた美人でも、きっと大きな目をしている。おかしいくらい大きな目ばかりだ。ところが日本では観音様をはじめとして、お多福たふく、能の面、もっとも著しいのは浮世絵うきよえにあらわれた美人、ことごとく細い。みんな象に似ている。なぜ東西で美の標準がこれほど違うかと思うと、ちょっと不思議だろう。ところがじつはなんでもない。西洋には目の大きいやつばかりいるから、大きい目のうちで、美的淘汰とうたが行なわれる。日本は鯨の系統ばかりだから――ピエルロチーという男は、日本人の目は、あれでどうしてあけるだろうなんてひやかしている。――そら、そういう国柄くにがらだから、どうしたって材料の少ない大きな目に対する審美眼が発達しようがない。そこで選択の自由のきく細い目のうちで、理想ができてしまったのが、歌麿うたまろになったり、祐信すけのぶになったりして珍重がられている。しかしいくら日本的でも、西洋画には、ああ細いのは盲目めくらをかいたようでみっともなくっていけない。といって、ラファエルの聖母マドンナのようなのは、てんでありゃしないし、あったところが日本人とは言われないから、そこで里見さんを煩わすことになったのさ。里見さんもう少しですよ」

答えはなかった。

原文を見る

答はなかった。

美禰子はじっとしている。

原文を見る

美禰子はじっとしている。

三四郎はこの画家の話を、とてもおもしろく感じた。

原文を見る

三四郎はこの画家の話をはなはだおもしろく感じた。

とくに話だけ聞きに来たのなら、なお何倍もおもしろかったろうにと思った。

原文を見る

とくに話だけ聞きに来たのならばなお幾倍の興味を添えたろうにと思った。

三四郎の気持ちの向く先は、今、原口さんの話の上にもない、原口さんの絵の上にもない。

原文を見る

三四郎の注意の焦点は、今、原口さんの話のうえにもない、原口さんの絵のうえにもない。

もちろん向こうに立っている美禰子に集まっている。

原文を見る

むろん向こうに立っている美禰子に集まっている。

三四郎は画家の話に耳を傾けながら、目だけはついに美禰子を離れなかった。

原文を見る

三四郎は画家の話に耳を傾けながら、目だけはついに美禰子を離れなかった。

彼の目に映った美禰子の姿勢は、自然の移り変わりをもっとも美しい一瞬に捕らえて動けなくしたようである。

原文を見る

彼の目に映じた女の姿勢は、自然の経過を、もっとも美しい刹那せつなに、捕虜とりこにして動けなくしたようである。

変わらないところに、長いなぐさめがある。

原文を見る

変らないところに、長い慰謝がある。

ところが原口さんが突然首をひねって、美禰子にどうかしましたかと聞いた。

原文を見る

しかるに原口さんが突然首をひねって、女にどうかしましたかと聞いた。

その時、三四郎は少し恐ろしくなったくらいである。

原文を見る

その時三四郎は、少し恐ろしくなったくらいである。

移りやすい美しさを、移さずに留めておく手だてがもう尽きたと、画家から言われたように聞こえたからである。

原文を見る

移りやすい美しさを、移さずにすえておく手段が、もう尽きたと画家から注意されたように聞こえたからである。

なるほど、そう思って見ると、どうかしているらしくもある。

原文を見る

なるほどそう思って見ると、どうかしているらしくもある。

顔色つやがよくない。

原文を見る

色光沢いろつやがよくない。

目じりに、耐えがたいけだるさが見える。

原文を見る

目尻めじりにたえがたいものうさが見える。

三四郎は、この生きた絵から受ける安らぎを失った。

原文を見る

三四郎はこの活人画から受ける安慰の念を失った。

同時に、もしや自分がこの変わりようのもとではなかろうかと考えついた。

原文を見る

同時にもしや自分がこの変化の原因ではなかろうかと考えついた。

たちまち強い、自分ひとりに向けられた刺激が三四郎の心をおそってきた。

原文を見る

たちまち強烈な個性的の刺激が三四郎の心をおそってきた。

移りゆく美しさをはかなむという、だれもが持つ気持ちはまるで影をひそめてしまった。――

原文を見る

移り行く美をはかなむという共通性の情緒じょうしょはまるで影をひそめてしまった。――

自分はそれほどの力をこの人の上に持っている。――

原文を見る

自分はそれほどの影響をこの女のうえに有しておる。――

三四郎はこの気づきのもとに、自分のすべてを感じた。

原文を見る

三四郎はこの自覚のもとにいっさいの己を意識した。

けれども、その力が自分にとってよいことか悪いことかは、まだ決まらない問題である。

原文を見る

けれどもその影響が自分にとって、利益か不利益かは未決の問題である。

その時、原口さんがとうとう筆を置いて、

原文を見る

その時原口さんが、とうとう筆をおいて、

「もうよそう。今日はどうしてもだめだ」

原文を見る

「もうよそう。きょうはどうしてもだめだ」

と言い出した。

原文を見る

と言いだした。

美禰子は持っていたうちわを、立ちながら床の上に落とした。

原文を見る

美禰子は持っていた団扇うちわを、立ちながら床の上に落とした。

椅子にかけた羽織を取って着ながら、こちらへ寄って来た。

原文を見る

椅子にかけた羽織を取って着ながら、こちらへ寄って来た。

「今日は疲れていますね」

原文を見る

「きょうは疲れていますね」

「私?」

原文を見る

「私?」

と、羽織のそで丈をそろえてひもを結んだ。

原文を見る

と羽織のゆきをそろえて、ひもを結んだ。

「いや、じつはぼくも疲れた。また明日、天気のいい時にやりましょう。まあお茶でも飲んでゆっくりなさい」

原文を見る

「いやじつはぼくも疲れた。またあした天気のいい時にやりましょう。まあお茶でも飲んでゆっくりなさい」

夕暮れにはまだ間があった。

原文を見る

夕暮れには、まだがあった。

けれども美禰子は、少し用があるから帰るという。

原文を見る

けれども美禰子は少し用があるから帰るという。

三四郎も引き止められたが、わざと断って、美禰子といっしょに表へ出た。

原文を見る

三四郎も留められたが、わざと断って、美禰子といっしょに表へ出た。

日本の世の中のありさまでは、こういう機会を思うままに作ることは三四郎にとって難しい。

原文を見る

日本の社会状態で、こういう機会を、随意に造ることは、三四郎にとって困難である。

三四郎はなるべく、この機会を長く引き延ばして生かそうとした。

原文を見る

三四郎はなるべくこの機会を長く引き延ばして利用しようと試みた。

それで、わりあいに人の通らない、静かな曙町をひと回り散歩しようじゃないかと美禰子をさそってみた。

原文を見る

それで比較的人の通らない、閑静な曙町を一回ひとまわり散歩しようじゃないかと女をいざなってみた。

ところが相手は案外にも応じなかった。

原文を見る

ところが相手は案外にも応じなかった。

まっすぐに生け垣の間を横切って大通りへ出た。

原文を見る

一直線に生垣いけがきの間を横切って、大通りへ出た。

三四郎は並んで歩きながら、

原文を見る

三四郎は、並んで歩きながら、

「原口さんもそう言っていたが、本当にどうかしたんですか」

原文を見る

「原口さんもそう言っていたが、本当にどうかしたんですか」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

「私?」

原文を見る

「私?」

と美禰子がまた言った。

原文を見る

と美禰子がまた言った。

原口さんに答えたのと同じことである。

原文を見る

原口さんに答えたと同じことである。

三四郎が美禰子を知ってから、美禰子は一度も長い言葉を使ったことがない。

原文を見る

三四郎が美禰子を知ってから、美禰子はかつて、長い言葉を使ったことがない。

たいていの受け答えは一言か二言で済ましている。

原文を見る

たいていの応対は一句か二句で済ましている。

しかも、とても短いものにすぎない。

原文を見る

しかもはなはだ簡単なものにすぎない。

それでいて、三四郎の耳には一種の深い響きを与える。

原文を見る

それでいて、三四郎の耳には一種の深い響を与える。

ほとんど、ほかの人からは聞くことのできない色が出る。

原文を見る

ほとんど他の人からは、聞きうることのできない色が出る。

三四郎はそれに感心した。

原文を見る

三四郎はそれに敬服した。

それを不思議がった。

原文を見る

それを不思議がった。

「私?」

原文を見る

「私?」

と言った時、美禰子は顔を半分ほど三四郎の方へ向けた。

原文を見る

と言った時、女は顔を半分ほど三四郎の方へ向けた。

そうして、二重まぶたの切れ目から三四郎を見た。

原文を見る

そうして二重瞼の切れ目から男を見た。

その目にはかすみがかかっているように思われた。

原文を見る

その目にはかさがかかっているように思われた。

いつになく感じが生ぬるく伝わってきた。

原文を見る

いつになく感じがなまぬるくきた。

頬の色も少し青い。

原文を見る

頬の色も少し青い。

「顔色が少し悪いようです」

原文を見る

「色が少し悪いようです」

「そうですか」

原文を見る

「そうですか」

二人は五、六歩黙って歩いた。

原文を見る

二人は五、六歩無言で歩いた。

三四郎はどうにかして、二人の間にかかった薄い幕のようなものを破りたくなった。

原文を見る

三四郎はどうともして、二人のあいだにかかった薄い幕のようなものを裂き破りたくなった。

しかし、何と言ったら破れるか、まるで思いつかなかった。

原文を見る

しかしなんといったら破れるか、まるで分別が出なかった。

小説などにある甘い言葉は使いたくない。

原文を見る

小説などにある甘い言葉は使いたくない。

好みから言っても、世間での若い男女の習わしとしても、使いたくない。

原文を見る

趣味のうえからいっても、社交上若い男女なんにょの習慣としても、使いたくない。

三四郎は、実際にはできないことを望んでいる。

原文を見る

三四郎は事実上不可能の事を望んでいる。

望んでいるばかりではない。

原文を見る

望んでいるばかりではない。

歩きながら考えている。

原文を見る

歩きながら工夫している。

やがて、美禰子のほうから口をききだした。

原文を見る

やがて、女のほうから口をききだした。

「今日、何か原口さんに御用がおありだったの」

原文を見る

「きょう何か原口さんに御用がおありだったの」

「いいえ、用事はなかったです」

原文を見る

「いいえ、用事はなかったです」

「じゃ、ただ遊びにいらしったの」

原文を見る

「じゃ、ただ遊びにいらしったの」

「いいえ、遊びに行ったんじゃありません」

原文を見る

「いいえ、遊びに行ったんじゃありません」

「じゃ、何でいらしったの」

原文を見る

「じゃ、なんでいらしったの」

三四郎はこの瞬間を捕らえた。

原文を見る

三四郎はこの瞬間を捕えた。

「あなたに会いに行ったんです」

原文を見る

「あなたに会いに行ったんです」

三四郎はこれで、言えるだけのことをすべて言ったつもりである。

原文を見る

三四郎はこれで言えるだけの事をことごとく言ったつもりである。

すると美禰子は、少しも動じない、しかも、いつものように三四郎を酔わせる調子で、

原文を見る

すると、女はすこしも刺激に感じない、しかも、いつものごとく男を酔わせる調子で、

「お金は、あそこではいただけないのよ」

原文を見る

「お金は、あすこじゃいただけないのよ」

と言った。

原文を見る

と言った。

三四郎はがっかりした。

原文を見る

三四郎はがっかりした。

二人はまた黙って十メートルほど来た。

原文を見る

二人はまた無言で五、六間来た。

三四郎は突然口を開いた。

原文を見る

三四郎は突然口を開いた。

「本当はお金を返しに行ったのじゃありません」

原文を見る

「本当は金を返しに行ったのじゃありません」

美禰子はしばらく返事をしなかった。

原文を見る

美禰子はしばらく返事をしなかった。

やがて、静かに言った。

原文を見る

やがて、静かに言った。

「お金は私もいりません。持っていらっしゃい」

原文を見る

「お金は私もいりません。持っていらっしゃい」

三四郎は耐えられなくなった。

原文を見る

三四郎は堪えられなくなった。

急に、

原文を見る

急に、

「ただ、あなたに会いたいから行ったのです」

原文を見る

「ただ、あなたに会いたいから行ったのです」

と言って、横から美禰子の顔をのぞきこんだ。

原文を見る

と言って、横に女の顔をのぞきこんだ。

美禰子は三四郎を見なかった。

原文を見る

女は三四郎を見なかった。

その時、三四郎の耳に、美禰子の口からもれたかすかなため息が聞こえた。

原文を見る

その時三四郎の耳に、女の口をもれたかすかなため息が聞こえた。

「お金は……」

原文を見る

「お金は……」

「お金なんぞ……」

原文を見る

「金なんぞ……」

二人の会話は両方とも意味をなさないで、途中で切れた。

原文を見る

二人の会話は双方とも意味をなさないで、途中で切れた。

そのまま、また五十メートルほど来た。

原文を見る

それなりで、また小半町ほど来た。

今度は美禰子から話しかけた。

原文を見る

今度は女から話しかけた。

「原口さんの絵を御覧になって、どうお思いになって」

原文を見る

「原口さんの絵を御覧になって、どうお思いなすって」

答え方がいろいろあるので、三四郎は返事をせずに少しの間歩いた。

原文を見る

答え方がいろいろあるので、三四郎は返事をせずに少しのあいだ歩いた。

「あんまりできるのが早いのでお驚きになりゃしなくって」

原文を見る

「あんまりでき方が早いのでお驚きなさりゃしなくって」

「ええ」

原文を見る

「ええ」

と言ったが、じつははじめて気がついた。

原文を見る

と言ったが、じつははじめて気がついた。

考えると、原口が広田先生の所へ来て美禰子の絵を描く考えをもらしてから、まだ一か月ぐらいにしかならない。

原文を見る

考えると、原口が広田先生の所へ来て、美禰子の肖像をかく意志をもらしてから、まだ一か月ぐらいにしかならない。

展覧会で直接に美禰子に頼んでいたのは、それより後のことである。

原文を見る

展覧会で直接に美禰子に依頼していたのは、それよりのちのことである。

三四郎は絵のことにくわしくないから、あんな大きな絵がどのくらいの速さで仕上げられるものか、ほとんど見当もつかなかったが、美禰子から言われてみると、あまり早くできすぎているように思われる。

原文を見る

三四郎は絵の道に暗いから、あんな大きな額が、どのくらいな速度で仕上げられるものか、ほとんど想像のほかにあったが、美禰子から注意されてみると、あまり早くできすぎているように思われる。

「いつから取りかかったんです」

原文を見る

「いつから取りかかったんです」

「本当に取りかかったのはついこの間ですけれども、その前から少しずつ描いていただいていたんです」

原文を見る

「本当に取りかかったのは、ついこのあいだですけれども、そのまえから少しずつ描いていただいていたんです」

「その前って、いつごろからですか」

原文を見る

「そのまえって、いつごろからですか」

「あの服装でわかるでしょう」

原文を見る

「あの服装なりでわかるでしょう」

三四郎はだしぬけに、はじめて池の周りで美禰子に会った暑い日を思い出した。

原文を見る

三四郎は突然として、はじめて池の周囲で美禰子に会った暑い昔を思い出した。

「そら、あなた、しいの木の下にしゃがんでいらしったじゃありませんか」

原文を見る

「そら、あなた、しいの木の下にしゃがんでいらしったじゃありませんか」

「あなたはうちわをかざして、高い所に立っていた」

原文を見る

「あなたは団扇をかざして、高い所に立っていた」

「あの絵のとおりでしょう」

原文を見る

「あの絵のとおりでしょう」

「ええ。あのとおりです」

原文を見る

「ええ。あのとおりです」

二人は顔を見合わせた。

原文を見る

二人は顔を見合わした。

もう少しで白山の坂の上へ出る。

原文を見る

もう少しで白山はくさんの坂の上へ出る。

向こうから人力車が駆けて来た。

原文を見る

向こうから車がかけて来た。

黒い帽子をかぶって、金ぶちの眼鏡をかけて、遠くから見ても顔色つやのいい男が乗っている。

原文を見る

黒い帽子をかぶって、金縁の眼鏡めがねを掛けて、遠くから見ても色光沢つやのいい男が乗っている。

この車が三四郎の目に入った時から、車の上の若い紳士は美禰子の方を見つめているらしく思われた。

原文を見る

この車が三四郎の目にはいった時から、車の上の若い紳士は美禰子の方を見つめているらしく思われた。

四、五メートル先へ来ると、車を急に止めた。

原文を見る

二、三間先へ来ると、車を急にとめた。

ひざかけを器用にはねのけて、足のせ台から飛び降りたところを見ると、背のすらりと高い、細い顔立ちの立派な人であった。

原文を見る

前掛けを器用にはねのけて、蹴込けこみから飛び降りたところを見ると、背のすらりと高い細面ほそおもてのりっぱな人であった。

髪をきれいに整えている。

原文を見る

髪をきれいにすっている。

それでいて、まったく男らしい。

原文を見る

それでいて、まったく男らしい。

「今まで待っていたけれども、あんまりおそいから迎えに来た」

原文を見る

「今まで待っていたけれども、あんまりおそいから迎えに来た」

と美禰子の真ん前に立った。

原文を見る

と美禰子のまん前に立った。

見下ろして笑っている。

原文を見る

見おろして笑っている。

「そう、ありがとう」

原文を見る

「そう、ありがとう」

と美禰子も笑って男の顔を見返したが、その目をすぐ三四郎の方へ向けた。

原文を見る

と美禰子も笑って、男の顔を見返したが、その目をすぐ三四郎の方へ向けた。

「どなた」

原文を見る

「どなた」

と男が聞いた。

原文を見る

と男が聞いた。

「大学の小川さん」

原文を見る

「大学の小川さん」

と美禰子が答えた。

原文を見る

と美禰子が答えた。

男は軽く帽子を取って、向こうからあいさつをした。

原文を見る

男は軽く帽子を取って、向こうから挨拶あいさつをした。

「早く行こう。お兄さんも待っている」

原文を見る

「はやく行こう。にいさんも待っている」

いい具合に、三四郎は追分へ曲がる横町の角に立っていた。

原文を見る

いいぐあいに三四郎は追分へ曲がるべき横町の角に立っていた。

お金はとうとう返さずに別れた。

原文を見る

金はとうとう返さずに別れた。

一一

原文を見る

一一

このごろ与次郎が学校で文芸協会の切符を売って回っている。

原文を見る

このごろ与次郎が学校で文芸協会の切符を売って回っている。

二、三日かかって、知っている人へはほぼ売りつけた様子である。

原文を見る

二、三日かかって、知った者へはほぼ売りつけた様子である。

与次郎はそれから、知らない人をつかまえることにした。

原文を見る

与次郎はそれから知らない者をつかまえることにした。

たいていは廊下でつかまえる。

原文を見る

たいていは廊下でつかまえる。

すると、なかなか放さない。

原文を見る

するとなかなか放さない。

どうにかこうにか買わせてしまう。

原文を見る

どうかこうか、買わせてしまう。

時には話の最中にベルが鳴って、取り逃がすこともある。

原文を見る

時には談判中にベルが鳴って取り逃すこともある。

与次郎はこれを、時の運がないと言っている。

原文を見る

与次郎はこれを時利あらずと号している。

時には相手が笑っていて、いつまでも話が進まないことがある。

原文を見る

時には相手が笑っていて、いつまでも要領を得ないことがある。

与次郎はこれを、人の運がないと言っている。

原文を見る

与次郎はこれを人利あらずと号している。

ある時、便所から出て来た教授をつかまえた。

原文を見る

ある時便所から出て来た教授をつかまえた。

その教授はハンカチで手をふきながら、今ちょっとと言ったまま、急いで図書館へ入ってしまった。

原文を見る

その教授はハンケチで手をふきながら、今ちょっとと言ったまま急いで図書館へはいってしまった。

それきり、けっして出て来ない。

原文を見る

それぎりけっして出て来ない。

与次郎はこれを――何とも言わなかった。

原文を見る

与次郎はこれを――なんとも号しなかった。

後ろすがたを見送って、あれはおなかの病気に違いないと三四郎に教えてくれた。

原文を見る

後影うしろかげを見送って、あれは腸カタルに違いないと三四郎に教えてくれた。

与次郎に切符を売るのを何枚頼まれたのかと聞くと、何枚でも売れるだけ頼まれたのだと言う。

原文を見る

与次郎に切符の販売方はんばいかたを何枚頼まれたのかと聞くと、何枚でも売れるだけ頼まれたのだと言う。

あまり売れすぎて演芸場に入りきれない心配はないかと聞くと、少しはあると言う。

原文を見る

あまり売れすぎて演芸場にはいりきれない恐れはないかと聞くと、少しはあると言う。

それでは売ったあとで困るだろうと念を押すと、なに大丈夫だ、中には義理で買う人もあるし、都合があって来ないのもあるし、それからおなかの病気も少しはできるだろうと言ってすましている。

原文を見る

それでは売ったあとで困るだろうと念をおすと、なに大丈夫だいじょうぶだ、なかには義理で買う者もあるし、事故で来ないのもあるし、それから腸カタルも少しはできるだろうと言って、すましている。

与次郎が切符を売るところを見ていると、引き換えにお金を渡す人からはもちろんすぐに受け取るが、そうでない学生にはただ切符だけ渡している。

原文を見る

与次郎が切符を売るところを見ていると、引きかえに金を渡す者からはむろん即座に受け取るが、そうでない学生にはただ切符だけ渡している。

気の小さい三四郎が見ると、心配になるくらい渡して歩く。

原文を見る

気の小さい三四郎が見ると、心配になるくらい渡して歩く。

あとから思うとおりお金が集まるかと聞いてみると、もちろん集まらないという答えだ。

原文を見る

あとから思うとおりお金が寄るかと聞いてみると、むろん寄らないという答だ。

きちんと少しだけ売るよりも、だらしなくたくさん売るほうが全体としては得だから、こうすると言っている。

原文を見る

几帳面きちょうめんにわずか売るよりも、だらしなくたくさん売るほうが、大体のうえにおいて利益だからこうすると言っている。

与次郎はこれを、タイムズ社が日本で百科事典を売った方法にたとえている。

原文を見る

与次郎はこれをタイムス社が日本で百科全書を売った方法に比較している。

たとえだけは立派に聞こえたが、三四郎はなんだか心配に思った。

原文を見る

比較だけはりっぱに聞こえたが、三四郎はなんだか心もとなく思った。

そこで一応与次郎に注意した時、与次郎の返事はおもしろかった。

原文を見る

そこで一応与次郎に注意した時に、与次郎の返事はおもしろかった。

「相手は東京帝国大学の学生だよ」

原文を見る

「相手は東京帝国大学学生だよ」

「いくら学生だって、君のようにお金にはのんきなのが多いだろう」

原文を見る

「いくら学生だって、君のように金にかけるとのん気なのが多いだろう」

「なに、悪気なく払わないのは、文芸協会のほうでもうるさくは言わないはずだ。どうせいくら切符が売れたって、結局は協会の借金になることは明らかだから」

原文を見る

「なに善意に払わないのは、文芸協会のほうでもやかましくは言わないはずだ。どうせいくら切符が売れたって、とどのつまりは協会の借金になることは明らかだから」

三四郎は念のため、それは君の考えか協会の考えかと問いただしてみた。

原文を見る

三四郎は念のため、それは君の意見か、協会の意見かとただしてみた。

与次郎は、もちろんぼくの考えであって協会の考えであると、都合のいいことを答えた。

原文を見る

与次郎は、むろんぼくの意見であって、協会の意見であるとつごうのいいことを答えた。

与次郎の話を聞くと、今度の演芸会を見ない人はまるでばかのような気がする。

原文を見る

与次郎の説を聞くと、今度は演芸会を見ない者は、まるでばかのような気がする。

ばかのような気がするまで与次郎は説明する。

原文を見る

ばかのような気がするまで与次郎は講釈をする。

それが切符を売るためだか、本当に演芸会を信じているためだか、あるいは、ただ自分の勢いをつけて、あわせて相手の勢いをつけ、ついでに演芸会の勢いをつけて、世間の空気をできるだけにぎやかにするためだか、そこのところがちょっとはっきり分けられないものだから、相手はばかのような気がするのに、あまり与次郎に動かされない。

原文を見る

それが切符を売るためだか、じっさい演芸会を信仰しているためだか、あるいはただ自分の景気をつけて、かねて相手の景気をつけ、次いでは演芸会の景気をつけて、世上一般の空気をできるだけにぎやかにするためだか、そこのところがちょっと明晰めいせきに区別が立たないものだから、相手はばかのような気がするにもかかわらず、あまり与次郎の感化をこうむらない。

与次郎は第一に、会員の練習に力を入れている話をする。

原文を見る

与次郎は第一に会員の練習に骨を折っている話をする。

話どおりに聞いていると、会員の多くは練習のしすぎで、当日の前に役に立たなくなりそうだ。

原文を見る

話どおりに聞いていると、会員の多数は、練習の結果として、当日ぜんに役に立たなくなりそうだ。

それから背景の話をする。

原文を見る

それから背景の話をする。

その背景がたいしたもので、東京にいる見こみのある若い画家をことごとく集めて、みんなに力いっぱいの腕をふるわせたようなことになる。

原文を見る

その背景が大したもので、東京にいる有為の青年画家をことごとく引き上げて、ことごとく応分の技倆ぎりょうを振るわしたようなことになる。

次に衣装の話をする。

原文を見る

次に服装の話をする。

その衣装が頭から足の先まで、昔の決まりどおりにできあがっている。

原文を見る

その服装が頭から足の先まで故実ずくめにでき上がっている。

次に台本の話をする。

原文を見る

次に脚本の話をする。

それがみんな新作で、みんなおもしろい。

原文を見る

それが、みんな新作で、みんなおもしろい。

そのほかいくらでもある。

原文を見る

そのほかいくらでもある。

与次郎は広田先生と原口さんに招待券を送ったと言っている。

原文を見る

与次郎は広田先生と原口さんに招待券を送ったと言っている。

野々宮兄妹と里見兄妹には上等の切符を買わせたと言っている。

原文を見る

野々宮兄妹きょうだいと里見兄妹には上等の切符を買わせたと言っている。

何もかも都合よくいっていると言っている。

原文を見る

万事が好都合だと言っている。

三四郎は与次郎のために演芸会万歳を唱えた。

原文を見る

三四郎は与次郎のために演芸会万歳を唱えた。

万歳を唱える晩、与次郎が三四郎の下宿へ来た。

原文を見る

万歳を唱える晩、与次郎が三四郎の下宿へ来た。

昼間とはうって変わっている。

原文を見る

昼間とはうって変っている。

堅くなって火鉢のそばにすわり、寒い寒いと言う。

原文を見る

堅くなって火鉢ひばちのそばへすわって寒い寒いと言う。

その顔が、ただ寒いのではないらしい。

原文を見る

その顔がただ寒いのではないらしい。

はじめは火鉢へ乗りかかるように手をかざしていたが、やがてふところ手になった。

原文を見る

はじめは火鉢へ乗りかかるように手をかざしていたが、やがて懐手ふところでになった。

三四郎は与次郎の顔を明るくするために、机の上のランプを端から端へ移した。

原文を見る

三四郎は与次郎の顔を陽気にするために、机の上のランプをはじから端へ移した。

ところが与次郎はあごをがっくり落として、大きな坊主頭だけを黒く明かりに照らしている。

原文を見る

ところが与次郎はあごをがっくり落して、大きな坊主頭だけを黒くに照らしている。

いっこうに元気がない。

原文を見る

いっこうさえない。

どうかしたかと聞いた時に、首を上げてランプを見た。

原文を見る

どうかしたかと聞いた時に、首をあげてランプを見た。

「この家ではまだ電気を引かないのか」

原文を見る

「このうちではまだ電気を引かないのか」

と、顔つきにはまるで関係のないことを聞いた。

原文を見る

と顔つきにはまったく縁のないことを聞いた。

「まだ引かない。そのうち電気にするつもりだそうだ。ランプは暗くていかんね」

原文を見る

「まだ引かない。そのうち電気にするつもりだそうだ。ランプは暗くていかんね」

と答えていると、急にランプのことは忘れたと見えて、

原文を見る

と答えていると、急に、ランプのことは忘れたとみえて、

「おい、小川、たいへんなことができてしまった」

原文を見る

「おい、小川、たいへんな事ができてしまった」

と言い出した。

原文を見る

と言いだした。

一応わけを聞いてみる。

原文を見る

一応理由わけを聞いてみる。

与次郎はふところからしわだらけの新聞を出した。

原文を見る

与次郎はふところからしわだらけの新聞を出した。

二枚重なっている。

原文を見る

二枚重なっている。

その一枚をはがして新しく畳み直し、ここを読んでみろと差し出した。

原文を見る

その一枚をはがして、新しくたたみ直して、ここを読んでみろと差しつけた。

読むところを指の先で押さえている。

原文を見る

読むところを指の頭で押えている。

三四郎は目をランプのそばへ寄せた。

原文を見る

三四郎は目をランプのそばへ寄せた。

見出しに大学の純文科とある。

原文を見る

見出しに大学の純文科とある。

大学の外国文学科は今まで西洋人の受け持ちで、担当の人はすべての授業を外国人の先生に頼っていたが、時代の進みと多くの学生の願いに動かされて、今度いよいよ日本人の講義も必ず受ける科目として認めることになった。

原文を見る

大学の外国文学科は従来西洋人の担当で、当事者はいっさいの授業を外国教師に依頼していたが、時勢の進歩と多数学生の希望に促されて、今度いよいよ本邦人の講義も必須ひっす課目として認めるに至った。

そこで、この間じゅうから、ふさわしい人を選んでいたが、ようやくある人に決まって、近々発表になるそうだ。

原文を見る

そこでこのあいだじゅうから適当の人物を人選中であったが、ようやく某氏に決定して、近々きんきん発表になるそうだ。

その人は近ごろ外国留学を命じられたことのある優れた人だから、とてもふさわしいだろうという中身である。

原文を見る

某氏は近き過去において、海外留学の命を受けたことのある秀才だから至極適任だろうという内容である。

「広田先生じゃなかったんだな」

原文を見る

「広田先生じゃなかったんだな」

と三四郎が与次郎を振り返った。

原文を見る

と三四郎が与次郎を顧みた。

与次郎はやっぱり新聞の上を見ている。

原文を見る

与次郎はやっぱり新聞の上を見ている。

「これはたしかなのか」

原文を見る

「これはたしかなのか」

と三四郎がまた聞いた。

原文を見る

と三四郎がまた聞いた。

「どうも」

原文を見る

「どうも」

と首を曲げたが、「たいてい大丈夫だろうと思っていたんだがな。やりそこなった。もっとも、この男がだいぶ動いているという話は聞いたこともあるが」

原文を見る

と首を曲げたが、「たいてい大丈夫だろうと思っていたんだがな。やりそくなった。もっともこの男がだいぶ運動をしているという話は聞いたこともあるが」

と言う。

原文を見る

と言う。

「しかし、これだけじゃまだ噂じゃないか。いよいよ発表になってみなければわからないのだから」

原文を見る

「しかしこれだけじゃ、まだ風説じゃないか。いよいよ発表になってみなければわからないのだから」

「いや、それだけならもちろんかまわない。先生の関わったことじゃないから、しかし」

原文を見る

「いや、それだけならむろんかまわない。先生の関係したことじゃないから、しかし」

と言って、また残りの新聞を畳み直し、見出しを指の先で押さえて三四郎の目の下へ出した。

原文を見る

と言って、また残りの新聞を畳み直して、標題みだしを指の頭で押えて、三四郎の目の下へ出した。

今度の新聞にも、ほぼ同じことが載っている。

原文を見る

今度の新聞にもほぼ同様の事が載っている。

そこだけはとくに新しい感じもしないが、そのあとへ来て三四郎は驚かされた。

原文を見る

そこだけはべつだんに新しい印象を起こしようもないが、そのあとへ来て、三四郎は驚かされた。

広田先生が、たいへん不誠実な人のように書いてある。

原文を見る

広田先生がたいへんな不徳義漢のように書いてある。

十年間語学の先生をして、世間にはまるで名の知られない平凡な人のくせに、大学で日本人の外国文学の先生を入れると聞くやいなや、急にこそこそ動き出して、自分をほめる話を学生の間に広めた。

原文を見る

十年間語学の教師をして、世間にはようとして聞こえない凡材のくせに、大学で本邦人の外国文学講師を入れると聞くやいなや、急にこそこそ運動を始めて、自分の評判記を学生間に流布るふした。

それだけでなく、その弟子に「偉大なる暗闇」

原文を見る

のみならずその門下生をして「偉大なる暗闇くらやみ

などという論文を小さな雑誌に書かせた。

原文を見る

などという論文を小雑誌こざっしに草せしめた。

この論文は零余子という、本名でない名で出たが、じつは広田の家に出入りする文科大学生、小川三四郎という人が書いたものであることまでわかっている。

原文を見る

この論文は零余子れいよしなる匿名のもとにあらわれたが、じつは広田の家に出入する文科大学生小川三四郎なるものの筆であることまでわかっている。

と、とうとう三四郎の名前が出て来た。

原文を見る

と、とうとう三四郎の名前が出て来た。

三四郎は妙な顔をして与次郎を見た。

原文を見る

三四郎は妙な顔をして与次郎を見た。

与次郎は前から三四郎の顔を見ている。

原文を見る

与次郎はまえから三四郎の顔を見ている。

二人ともしばらく黙っていた。

原文を見る

二人ふたりともしばらく黙っていた。

やがて三四郎が、

原文を見る

やがて、三四郎が、

「困るなあ」

原文を見る

「困るなあ」

と言った。

原文を見る

と言った。

少し与次郎をうらんでいる。

原文を見る

少し与次郎を恨んでいる。

与次郎は、そこはあまり気にしていない。

原文を見る

与次郎は、そこはあまりかまっていない。

「君、これをどう思う」

原文を見る

「君、これをどう思う」

と言う。

原文を見る

と言う。

「どう思うとは」

原文を見る

「どう思うとは」

「送られてきた投書をそのまま出したに違いない。けっして新聞社のほうで調べたものじゃない。文芸時評の小さな活字の投書に、こんなのがいくらでも来る。あの小さな活字はほとんど悪いことのかたまりだ。よくよく調べてみるとうそが多い。見えすいたうそをついているのもある。なぜそんな愚かなことをやるかというとね、君。みんな損か得かが理由になっているらしい。それでぼくが小さな活字の欄を受け持っている時には、たちのよくないのはたいていくずかごへ放りこんだ。この記事もまったくそれだね。反対する動きの結果だ」

原文を見る

「投書をそのまま出したに違いない。けっして社のほうで調べたものじゃない。文芸時評の六号活字の投書にこんなのが、いくらでも来る。六号活字はほとんど罪悪のかたまりだ。よくよく探ってみるとうそが多い。目に見えた嘘をついているのもある。なぜそんな愚な事をやるかというとね、君。みんな利害問題が動機になっているらしい。それでぼくが六号活字を受持っている時には、性質たちのよくないのは、たいてい屑籠くずかごへ放り込んだ。この記事もまったくそれだね。反対運動の結果だ」

「なぜ君の名が出ないで、ぼくの名が出たものだろうな」

原文を見る

「なぜ、君の名が出ないで、ぼくの名が出たものだろうな」

与次郎は「そうさ」

原文を見る

与次郎は「そうさ」

と言っている。

原文を見る

と言っている。

しばらくしてから、

原文を見る

しばらくしてから、

「やっぱり、なんだろう。君は本科生でぼくは選科生だからだろう」

原文を見る

「やっぱり、なんだろう。君は本科生でぼくは選科生だからだろう」

と説明した。

原文を見る

と説明した。

けれども三四郎には、これが説明にも何にもならなかった。

原文を見る

けれども三四郎には、これが説明にもなんにもならなかった。

三四郎は相変わらずめいわくである。

原文を見る

三四郎は依然として迷惑である。

「そもそもぼくが零余子なんて、けちな名を使わずに、堂々と佐々木与次郎と書いておけばよかった。実際あの論文は、佐々木与次郎以外に書ける者は一人もないんだからなあ」

原文を見る

「ぜんたいぼくが零余子なんてけちな号を使わずに、堂々と佐々木与次郎と署名しておけばよかった。じっさいあの論文は佐々木与次郎以外に書ける者は一人もないんだからなあ」

与次郎はまじめである。

原文を見る

与次郎はまじめである。

三四郎に「偉大なる暗闇」

原文を見る

三四郎に「偉大なる暗闇」

を書いた手がらを取られて、かえってめいわくしているのかもしれない。

原文を見る

の著作権を奪われて、かえって迷惑しているのかもしれない。

三四郎はばかばかしくなった。

原文を見る

三四郎はばかばかしくなった。

「君、先生に話したか」

原文を見る

「君、先生に話したか」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

「さあ、そこだ。偉大なる暗闇の作者なんか、君だってぼくだって、どちらだってかまわないが、こと先生の人がらに関わってくる以上は話さずにはいられない。ああいう先生だから、いっこう知りません、何か間違いでしょう、偉大なる暗闇という論文は雑誌に出ましたが名前は出ていません、先生をうやまう人が書いたものですから御安心なさい、くらいに言っておけば、そうかで、すぐ済んでしまうわけだが、この際そうはいかん。どうしたってぼくが責任をはっきりさせなくちゃ。うまくいって知らん顔をしているのは気持ちがいいが、しくじって黙っているのはいやでたまらない。第一、自分が始めておいて、ああいう善良な人をめいわくな目にあわせて、それで平気に見ていられるものじゃない。正しいか正しくないかなんてむずかしい問題は別として、ただ気の毒で、かわいそうでいけない」

原文を見る

「さあ、そこだ。偉大なる暗闇の作者なんか、君だって、ぼくだって、どちらだってかまわないが、こと先生の人格に関係してくる以上は、話さずにはいられない。ああいう先生だから、いっこう知りません、何か間違いでしょう、偉大なる暗闇という論文は雑誌に出ましたが、匿名です、先生の崇拝者が書いたものですから御安心なさいくらいに言っておけば、そうかで、すぐ済んでしまうわけだが、このさいそうはいかん。どうしたってぼくが責任を明らかにしなくっちゃ。事がうまくいって、知らん顔をしているのは、心持ちがいいが、やりそくなって黙っているのは不愉快でたまらない。第一自分が事を起こしておいて、ああいう善良な人を迷惑な状態に陥らして、それで平気に見物がしておられるものじゃない。正邪曲直なんてむずかしい問題は別として、ただ気の毒で、いたわしくっていけない」

三四郎ははじめて与次郎を感心な男だと思った。

原文を見る

三四郎ははじめて与次郎を感心な男だと思った。

「先生は新聞を読んだんだろうか」

原文を見る

「先生は新聞を読んだんだろうか」

「家へ来る新聞にはない。だからぼくも知らなかった。しかし先生は学校へ行っていろいろな新聞を見るからね。たとえ先生が見なくても、だれかが話すだろう」

原文を見る

「家へ来る新聞にゃない。だからぼくも知らなかった。しかし先生は学校へ行っていろいろな新聞を見るからね。よし先生が見なくってもだれか話すだろう」

「すると、もう知ってるな」

原文を見る

「すると、もう知ってるな」

「もちろん知ってるだろう」

原文を見る

「むろん知ってるだろう」

「君には何とも言わないか」

原文を見る

「君にはなんとも言わないか」

「言わない。もっとも、ろくに話をする暇もないんだから言わないはずだが。この間から演芸会のことでずっと走り回っているものだから――ああ、演芸会ももういやになった。やめてしまおうかしらん。おしろいをつけて芝居なんかやったって、何がおもしろいものか」

原文を見る

「言わない。もっともろくに話をする暇もないんだから、言わないはずだが。このあいだから演芸会の事でしじゅう奔走しているものだから――ああ演芸会も、もういやになった。やめてしまおうかしらん。おしろいをつけて、芝居しばいなんかやったって、何がおもしろいものか」

「先生に話したら、君、しかられるだろう」

原文を見る

「先生に話したら、君、しかられるだろう」

「しかられるだろう。しかられるのはしかたがないが、いかにも気の毒でね。余計なことをしてめいわくをかけてるんだから。――先生は楽しみのない人でね。酒は飲まず、たばこは」

原文を見る

「しかられるだろう。しかられるのはしかたがないが、いかにも気の毒でね。よけいな事をして迷惑をかけてるんだから。――先生は道楽のない人でね。酒は飲まず、煙草は」

と言いかけて、途中でやめてしまった。

原文を見る

と言いかけたが途中でやめてしまった。

先生が哲学を鼻から煙にして吹き出す量は、月に積もるとたいへんなものである。

原文を見る

先生の哲学を鼻から煙にして吹き出す量は月に積もると、莫大ばくだいなものである。

「たばこだけはかなり吸うが、そのほかに何にもないぜ。釣りをするじゃなし、碁を打つじゃなし、家庭の楽しみがあるじゃなし。あれがいちばんいけない。子供でもいるといいんだけれども。じつにあっさりしすぎているからなあ」

原文を見る

「煙草だけはかなりのむが、そのほかになんにもないぜ。釣りをするじゃなし、を打つじゃなし、家庭の楽しみがあるじゃなし。あれがいちばんいけない。子供でもあるといいんだけれども。じつに枯淡だからなあ」

与次郎はそれで腕組みをした。

原文を見る

与次郎はそれで腕組をした。

「たまになぐさめようと思って少し走り回ると、こんなことになるし。君も先生の所へ行ってやれ」

原文を見る

「たまに、慰めようと思って、少し奔走すると、こんなことになるし。君も先生の所へ行ってやれ」

「行ってやるどころじゃない。ぼくにも少し責任があるから、あやまってくる」

原文を見る

「行ってやるどころじゃない。ぼくにも多少責任があるから、あやまってくる」

「君はあやまる必要はない」

原文を見る

「君はあやまる必要はない」

「じゃ、わけを説明してくる」

原文を見る

「じゃ弁解してくる」

与次郎はそれで帰った。

原文を見る

与次郎はそれで帰った。

三四郎は布団に入ってから、たびたび寝返りを打った。

原文を見る

三四郎は床にはいってからたびたび寝返りを打った。

ふるさとにいるほうが寝やすい気持ちがする。

原文を見る

国にいるほうが寝やすい心持ちがする。

うその記事――広田先生――美禰子――美禰子を迎えに来て連れていった立派な男――いろいろの刺激がある。

原文を見る

偽りの記事――広田先生――美禰子――美禰子を迎えに来て連れていったりっぱな男――いろいろの刺激がある。

夜中からぐっすり寝た。

原文を見る

夜中よなかからぐっすり寝た。

いつものように起きるのが、ひどくつらかった。

原文を見る

いつものように起きるのが、ひどくつらかった。

顔を洗う所で、同じ文科の学生に会った。

原文を見る

顔を洗う所で、同じ文科の学生に会った。

顔だけは互いに見知っている。

原文を見る

顔だけは互いに見知り合いである。

失敬というあいさつのうちに、この男は例の記事を読んでいるらしいと感じた。

原文を見る

失敬という挨拶あいさつのうちに、この男は例の記事を読んでいるらしく推した。

しかし相手はもちろん、その話を避けた。

原文を見る

しかし先方ではむろん話頭を避けた。

三四郎も言いわけをしようとしなかった。

原文を見る

三四郎も弁解を試みなかった。

暖かい汁の香りをかいでいる時に、また、ふるさとの母からの手紙を受け取った。

原文を見る

暖かいしるをかいでいる時に、また故里ふるさとの母からの書信に接した。

また例のように長そうだ。

原文を見る

また例のごとく、長かりそうだ。

洋服を着替えるのが面倒だから、着たままの上へはかまをはいて、ふところへ手紙を入れて出る。

原文を見る

洋服を着換えるのがめんどうだから、着たままの上へはかまをはいて、懐へ手紙を入れて、出る。

外は薄い霜で光った。

原文を見る

戸外そとは薄い霜で光った。

通りへ出ると、ほとんど学生ばかり歩いている。

原文を見る

通りへ出ると、ほとんど学生ばかり歩いている。

それがみな同じ方向へ行く。

原文を見る

それが、みな同じ方向へ行く。

みんな急いで行く。

原文を見る

ことごとく急いで行く。

寒い通りは若い男の元気でいっぱいになる。

原文を見る

寒い往来は若い男の活気でいっぱいになる。

その中に、霜降りの外とうを着た広田先生の長い影が見えた。

原文を見る

そのなかに霜降しもふりの外套がいとうを着た広田先生の長い影が見えた。

この青年の列に紛れこんだ先生は、歩き方からしてすでに時代がずれている。

原文を見る

この青年の隊伍たいごに紛れ込んだ先生は、歩調においてすでに時代錯誤アナクロニズムである。

左右前後と比べると、とてものろく見える。

原文を見る

左右前後に比較するとすこぶる緩漫に見える。

先生の影は校門の中に隠れた。

原文を見る

先生の影は校門のうちに隠れた。

門の中に大きな松がある。

原文を見る

門内に大きな松がある。

巨大なかさのように枝を広げて玄関をふさいでいる。

原文を見る

巨大のからかさのように枝を広げて玄関をふさいでいる。

三四郎の足が門の前まで来た時は、先生の影がすでに消えて、正面に見えるものは松と、松の上にある時計台ばかりであった。

原文を見る

三四郎の足が門前まで来た時は、先生の影がすでに消えて、正面に見えるものは、松と、松の上にある時計台ばかりであった。

この時計台の時計はいつも狂っている。

原文を見る

この時計台の時計は常に狂っている。

あるいは止まっている。

原文を見る

もしくは留まっている。

門の中をちょっとのぞきこんだ三四郎は、口の中で「ハイドリオタフィア」

原文を見る

門内をちょっとのぞきこんだ三四郎は、口の中で「ハイドリオタフヒア」

という言葉を二度繰り返した。

原文を見る

という字を二度繰り返した。

この言葉は三四郎の覚えた外国語のうちで、もっとも長い、またもっともむずかしい言葉の一つであった。

原文を見る

この字は三四郎の覚えた外国語のうちで、もっとも長い、またもっともむずかしい言葉の一つであった。

意味はまだわからない。

原文を見る

意味はまだわからない。

広田先生に聞いてみるつもりでいる。

原文を見る

広田先生に聞いてみるつもりでいる。

前に与次郎にたずねたら、おそらくダーターファブラのなかまだろうと言っていた。

原文を見る

かつて与次郎に尋ねたら、おそらくダーターファブラのたぐいだろうと言っていた。

けれども三四郎から見ると、二つの間にはたいへんな違いがある。

原文を見る

けれども三四郎からみると二つのあいだにはたいへんな違いがある。

ダーターファブラは、おどりたくなるような感じのものと思える。

原文を見る

ダーターファブラはおどるべき性質のものと思える。

ハイドリオタフィアは覚えるのにさえ時間がいる。

原文を見る

ハイドリオタフヒアは覚えるのにさえ暇がいる。

二度繰り返すと、歩き方が自然とのろくなる。

原文を見る

二へん繰り返すと歩調がおのずから緩漫になる。

広田先生が使うために昔の人が作っておいたような音がする。

原文を見る

広田先生の使うために古人が作っておいたようなおんがする。

学校へ行ったら、「偉大なる暗闇」

原文を見る

学校へ行ったら、「偉大なる暗闇」

の作者として、みんなの注意を一身に集めている感じがした。

原文を見る

の作者として、衆人の注意を一身に集めている気色がした。

外へ出ようとしたが、外は案外寒いから廊下にいた。

原文を見る

戸外そとへ出ようとしたが、戸外は存外寒いから廊下にいた。

そうして、講義の合間にふところから母の手紙を出して読んだ。

原文を見る

そうして講義のあいだに懐から母の手紙を出して読んだ。

この冬休みには帰って来いと、まるで熊本にいたころと同じような言いつけがある。

原文を見る

この冬休みには帰って来いと、まるで熊本にいた当時と同様な命令がある。

じつは熊本にいたころ、こんなことがあった。

原文を見る

じつは熊本にいた時分にこんなことがあった。

学校が休みになるかどうかというころに、帰れという電報が来た。

原文を見る

学校が休みになるか、ならないのに、帰れという電報が掛かった。

母の病気に違いないと思いこんで、驚いて飛んで帰ると、母のほうではこちらに変わりがなくて、まあ結構だったと言わんばかりに喜んでいる。

原文を見る

母の病気に違いないと思い込んで、驚いて飛んで帰ると、母のほうではこっちに変がなくって、まあ結構だったといわぬばかりに喜んでいる。

わけを聞くと、いつまで待っていても帰らないから、お稲荷様にうかがいを立てたら、こりゃもう熊本を発っているというお告げであったので、途中でどうかしはしないだろうかと、とても心配していたのだと言う。

原文を見る

訳を聞くと、いつまで待っていても帰らないから、お稲荷様いなりさまへ伺いを立てたら、こりゃ、もう熊本をたっているという御託宣であったので、途中でどうかしはせぬだろうかと非常に心配していたのだと言う。

三四郎はその時のことを思い出して、今度もまたうかがいを立てられることかと思った。

原文を見る

三四郎はその当時を思いだして、今度もまた伺いを立てられることかと思った。

しかし手紙にはお稲荷様のことは書いてない。

原文を見る

しかし手紙にはお稲荷様のことは書いてない。

ただ、三輪田のお光さんも待っていると、書きそえのようなものがついている。

原文を見る

ただ三輪田のお光さんも待っていると割注わりちゅうみたようなものがついている。

お光さんは豊津の女学校をやめて家へ帰ったそうだ。

原文を見る

お光さんは豊津とよつの女学校をやめて、家へ帰ったそうだ。

また、お光さんに縫ってもらった綿入れが小包で来るそうだ。

原文を見る

またお光さんに縫ってもらった綿入れが小包で来るそうだ。

大工の角三が山でかけごとをして九十八円取られたそうだ。――

原文を見る

大工だいく角三かくぞうが山で賭博ばくちを打って九十八円取られたそうだ。――

そのいきさつが詳しく書いてある。

原文を見る

そのてんまつが詳しく書いてある。

面倒だからいいかげんに読んだ。

原文を見る

めんどうだからいいかげんに読んだ。

なんでも、山を買いたいという男が三人連れで入りこんで来たのを、角三が案内をして山を回って歩いている間に取られてしまったのだそうだ。

原文を見る

なんでも山を買いたいという男が三人づれで入り込んで来たのを、角三が案内をして、山を回って歩いているあいだに取られてしまったのだそうだ。

角三は家へ帰って、おかみさんに、いつのまに取られたかわからないと言いわけした。

原文を見る

角三はうちへ帰って、女房にいつのまに取られたかわからないと弁解した。

すると、おかみさんが、それじゃお前さん眠り薬でもかがされたんだろうと言ったら、角三が、うん、そう言えばなんだかかいだようだと答えたそうだ。

原文を見る

すると、女房がそれじゃお前さん眠り薬でもかがされたんだろうと言ったら、角三が、うんそういえばなんだかかいだようだと答えたそうだ。

けれども村の人はみんな、かけごとをして巻き上げられたと噂している。

原文を見る

けれども村の者はみんな賭博をして巻き上げられたと評判している。

田舎でもこうだから、東京にいるお前などは本当によく気をつけなくてはいけない、という戒めがついている。

原文を見る

いなかでもこうだから、東京にいるお前なぞは、本当によく気をつけなくてはいけないという訓誡くんかいがついている。

長い手紙を巻き終えていると、与次郎がそばへ来て、「やあ、女の人の手紙だな」

原文を見る

長い手紙を巻き収めていると、与次郎がそばへ来て、「やあ女の手紙だな」

と言った。

原文を見る

と言った。

昨夜よりは、冗談を言うだけ元気がいい。

原文を見る

ゆうべよりは冗談をいうだけ元気がいい。

三四郎は、

原文を見る

三四郎は、

「なに、母からだ」

原文を見る

「なに母からだ」

と、少しつまらなそうに答えて、封筒ごとふところへ入れた。

原文を見る

と、少しつまらなそうに答えて、封筒ごと懐へ入れた。

「里見のお嬢さんからじゃないのか」

原文を見る

「里見のお嬢さんからじゃないのか」

「いいや」

原文を見る

「いいや」

「君、里見のお嬢さんのことを聞いたか」

原文を見る

「君、里見のお嬢さんのことを聞いたか」

「何を」

原文を見る

「何を」

と問い返しているところへ、一人の学生が与次郎に、演芸会の切符がほしいという人が下で待っていると教えに来てくれた。

原文を見る

と問い返しているところへ、一人の学生が、与次郎に、演芸会の切符をほしいという人が階下したに待っていると教えに来てくれた。

与次郎はすぐ降りて行った。

原文を見る

与次郎はすぐ降りて行った。

与次郎はそのまま消えてなくなった。

原文を見る

与次郎はそれなり消えてなくなった。

いくらつかまえようと思っても出て来ない。

原文を見る

いくらつらまえようと思っても出て来ない。

三四郎はしかたなく、まじめに講義を書き取っていた。

原文を見る

三四郎はやむをえず精出して講義を筆記していた。

講義が済んでから、昨夜の約束どおり広田先生の家へ寄る。

原文を見る

講義が済んでから、ゆうべの約束どおり広田先生の家へ寄る。

相変わらず静かである。

原文を見る

相変らず静かである。

先生は茶の間で長くなって寝ていた。

原文を見る

先生は茶の間に長くなって寝ていた。

おばあさんに、どうかなさったのかと聞くと、そうじゃないのでしょう、昨夜あまりおそくなったので眠いと言って、さっきお帰りになるとすぐ横におなりなさったのだと言う。

原文を見る

ばあさんに、どうかなすったのかと聞くと、そうじゃないのでしょう、ゆうべあまりおそくなったので、眠いと言って、さっきお帰りになると、すぐに横におなりなすったのだと言う。

長い体の上に小さな夜着が掛けてある。

原文を見る

長いからだの上に小夜着こよぎが掛けてある。

三四郎は小さな声で、またおばあさんに、どうしてそうおそくなったのかと聞いた。

原文を見る

三四郎は小さな声で、またばあさんに、どうして、そうおそくなったのかと聞いた。

なに、いつでもおそいのだが、昨夜のは勉強じゃなくて、佐々木さんと長くお話をしておいでだったという答えである。

原文を見る

なにいつでもおそいのだが、ゆうべのは勉強じゃなくって、佐々木さんと久しくお話をしておいでだったという答である。

勉強が佐々木に代わっただけだから昼寝をする理由にはならないが、与次郎が昨夜先生に例の話をしたことだけは、これではっきりした。

原文を見る

勉強が佐々木に代ったから、昼寝をする説明にはならないが、与次郎が、ゆうべ先生に例の話をした事だけはこれで明瞭になった。

ついでに、与次郎がどうしかられたかを聞いておきたいのだが、それはおばあさんが知るはずがないし、肝心の与次郎は学校で取り逃がしてしまったからしかたがない。

原文を見る

ついでに与次郎が、どうしかられたかを聞いておきたいのだが、それはばあさんが知ろうはずがないし、肝心かんじんの与次郎は学校で取り逃してしまったからしかたがない。

今日の元気のいいところをみると、たいしたことにはならずに済んだのだろう。

原文を見る

きょうの元気のいいところをみると、大した事件にはならずに済んだのだろう。

もっとも、与次郎の心の動きはとうてい三四郎にはわからないのだから、実際どんなことがあったか思いえがけない。

原文を見る

もっとも与次郎の心理現象はとうてい三四郎にはわからないのだから、じっさいどんなことがあったか想像はできない。

三四郎は長火鉢の前にすわった。

原文を見る

三四郎は長火鉢ながひばちの前へすわった。

鉄びんがちんちん鳴っている。

原文を見る

鉄瓶てつびんがちんちん鳴っている。

おばあさんは遠慮をして女中部屋へ引き取った。

原文を見る

ばあさんは遠慮をして下女部屋べやへ引き取った。

三四郎はあぐらをかいて、鉄びんに手をかざして先生の起きるのを待っている。

原文を見る

三四郎はあぐらをかいて、鉄瓶に手をかざして、先生の起きるのを待っている。

先生はぐっすり眠っている。

原文を見る

先生は熟睡している。

三四郎は静かでいい気持ちになった。

原文を見る

三四郎は静かでいい心持ちになった。

つめで鉄びんをたたいてみた。

原文を見る

つめで鉄瓶をたたいてみた。

熱い湯を茶わんについで、ふうふう吹いて飲んだ。

原文を見る

熱い湯を茶碗ちゃわんについでふうふう吹いて飲んだ。

先生は向こうを向いて寝ている。

原文を見る

先生は向こうをむいて寝ている。

二、三日前に頭を刈ったと見えて、髪がとても短い。

原文を見る

二、三日まえに頭を刈ったとみえて、髪がはなはだ短かい。

ひげの端が濃く出ている。

原文を見る

髭のはじが濃く出ている。

鼻も向こうを向いている。

原文を見る

鼻も向こうを向いている。

鼻の穴がすうすう言う。

原文を見る

鼻の穴がすうすう言う。

ぐっすり眠っている。

原文を見る

安眠だ。

三四郎は返そうと思って持って来たハイドリオタフィアを出して読みはじめた。

原文を見る

三四郎は返そうと思って、持って来たハイドリオタフヒアを出して読みはじめた。

ぽつぽつ拾い読みをする。

原文を見る

ぽつぽつ拾い読みをする。

なかなかわからない。

原文を見る

なかなかわからない。

墓の中に花を投げることが書いてある。

原文を見る

墓の中に花を投げることが書いてある。

ローマ人はばらを affect すると書いてある。

原文を見る

ローマ人は薔薇ばらaffectアッフェクト すると書いてある。

何の意味だかよく知らないが、おおかた好むとでも訳するんだろうと思った。

原文を見る

なんの意味だかよく知らないが、おおかた好むとでも訳するんだろうと思った。

ギリシア人は Amaranth を使うと書いてある。

原文を見る

ギリシア人は Amaranthアマランス を用いると書いてある。

これもはっきりしない。

原文を見る

これも明瞭でない。

しかし花の名には違いない。

原文を見る

しかし花の名には違いない。

それから少し先へ行くと、まるでわからなくなった。

原文を見る

それから少しさきへ行くと、まるでわからなくなった。

ページから目を離して先生を見た。

原文を見る

ページから目を離して先生を見た。

まだ寝ている。

原文を見る

まだ寝ている。

なんで、こんなむずかしい本を自分に貸したものだろうと思った。

原文を見る

なんでこんなむずかしい書物を自分に貸したものだろうと思った。

それから、このむずかしい本が、なぜわからないながらも自分の興味を引くのだろうと思った。

原文を見る

それから、このむずかしい書物が、なぜわからないながらも、自分の興味をひくのだろうと思った。

最後に、広田先生はつまるところハイドリオタフィアだと思った。

原文を見る

最後に広田先生は必竟ひっきょうハイドリオタフヒアだと思った。

すると、広田先生がむくりと起きた。

原文を見る

そうすると、広田先生がむくりと起きた。

首だけ持ち上げて三四郎を見た。

原文を見る

首だけ持ち上げて、三四郎を見た。

「いつ来たの」

原文を見る

「いつ来たの」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

三四郎は、もっと寝ておいでなさいと勧めた。

原文を見る

三四郎はもっと寝ておいでなさいと勧めた。

実際、退屈ではなかったのである。

原文を見る

じっさい退屈ではなかったのである。

先生は、

原文を見る

先生は、

「いや、起きる」

原文を見る

「いや起きる」

と言って起きた。

原文を見る

と言って起きた。

それから、いつものように哲学の煙を吹きはじめた。

原文を見る

それから例のごとく哲学の煙を吹きはじめた。

煙が静かさの中で、棒になって出る。

原文を見る

煙が沈黙のあいだに、棒になって出る。

「ありがとう。本を返します」

原文を見る

「ありがとう。書物を返します」

「ああ。――読んだの」

原文を見る

「ああ。――読んだの」

「読んだけれども、よくわからんです。第一、題名がわからんです」

原文を見る

「読んだけれどもよくわからんです。第一標題がわからんです」

「ハイドリオタフィア」

原文を見る

「ハイドリオタフヒア」

「何のことですか」

原文を見る

「なんのことですか」

「何のことか、ぼくにもわからない。とにかくギリシア語らしいね」

原文を見る

「なんのことかぼくにもわからない。とにかくギリシア語らしいね」

三四郎はその先をたずねる勇気が抜けてしまった。

原文を見る

三四郎はあとを尋ねる勇気が抜けてしまった。

先生はあくびを一つした。

原文を見る

先生はあくびを一つした。

「ああ眠かった。いい気持ちに寝た。おもしろい夢を見てね」

原文を見る

「ああ眠かった。いい心持ちに寝た。おもしろい夢を見てね」

先生は女の人の夢だと言っている。

原文を見る

先生は女の夢だと言っている。

それを話すのかと思ったら、風呂に行かないかと言い出した。

原文を見る

それを話すのかと思ったら、湯に行かないかと言いだした。

二人は手ぬぐいを提げて出かけた。

原文を見る

二人は手ぬぐいをさげて出かけた。

風呂から上がって、二人が板の間に置いてある器械の上に乗って背を測ってみた。

原文を見る

湯から上がって、二人が板の間にすえてある器械の上に乗って、身長たけを測ってみた。

広田先生は百七十センチほどある。

原文を見る

広田先生は五尺六寸ある。

三四郎は百六十五センチほどしかない。

原文を見る

三四郎は四寸五分しかない。

「まだ伸びるかもしれない」

原文を見る

「まだのびるかもしれない」

と広田先生が三四郎に言った。

原文を見る

と広田先生が三四郎に言った。

「もうだめです。三年前からこのとおりです」

原文を見る

「もうだめです。三年来このとおりです」

と三四郎が答えた。

原文を見る

と三四郎が答えた。

「そうかな」

原文を見る

「そうかな」

と先生が言った。

原文を見る

と先生が言った。

自分をよほど子供のように思っているのだと三四郎は考えた。

原文を見る

自分をよっぽど子供のように考えているのだと三四郎は思った。

家へ帰った時、先生が、用がなければ話していってもかまわないと、書斎の戸を開けて自分が先に入った。

原文を見る

家へ帰った時、先生が、用がなければ話していってもかまわないと、書斎の戸をあけて、自分がさきへはいった。

三四郎はとにかく、例の用事を片づけなければならないから続いて入った。

原文を見る

三四郎はとにかく、例の用事を片づける義務があるから、続いてはいった。

「佐々木はまだ帰らないようですな」

原文を見る

「佐々木は、まだ帰らないようですな」

「今日はおそくなるとか言って断っていた。この間から演芸会のことでだいぶ走り回っているようだが、世話好きなんだか、駆け回ることが好きなんだか、いっこうにわからない男だ」

原文を見る

「きょうはおそくなるとか言って断わっていた。このあいだから演芸会のことでだいぶん奔走しているようだが、世話好きなんだか、駆け回ることが好きなんだか、いっこう要領を得ない男だ」

「親切なんですよ」

原文を見る

「親切なんですよ」

「目的だけは親切なところも少しあるんだが、なにしろ頭のできがはなはだ親切でないものだから、ろくなことはしでかさない。ちょっと見ると、うまくやっている。むしろうまくやりすぎている。けれども終わりのほうへ行くと、何のためにうまくやってきたのだか、まるでめちゃくちゃになってしまう。いくら言っても直さないから放っておく。あれはいたずらをしに世の中へ生まれて来た男だね」

原文を見る

「目的だけは親切なところも少しあるんだが、なにしろ、頭のできがはなはだ不親切なものだから、ろくなことはしでかさない。ちょっと見ると、要領を得ている。むしろ得すぎている。けれども終局へゆくと、なんのために要領を得てきたのだか、まるでめちゃくちゃになってしまう。いくら言っても直さないからほうっておく。あれは悪戯いたずらをしに世の中へ生まれて来た男だね」

三四郎は、何かかばいようがありそうなものだと思ったが、現に結果の悪い例があるんだからしようがない。

原文を見る

三四郎はなんとか弁護の道がありそうなものだと思ったが、現に結果の悪い実例があるんだから、しようがない。

話を変えた。

原文を見る

話を転じた。

「あの新聞の記事を御覧でしたか」

原文を見る

「あの新聞の記事を御覧でしたか」

「ええ、見た」

原文を見る

「ええ、見た」

「新聞に出るまでは、ちっとも御存じなかったのですか」

原文を見る

「新聞に出るまではちっとも御存じなかったのですか」

「いいえ」

原文を見る

「いいえ」

「お驚きになったでしょう」

原文を見る

「お驚きなすったでしょう」

「驚くって――それはまったく驚かないこともない。けれども世の中のことはみんなあんなものだと思ってるから、若い人ほど正直に驚きはしない」

原文を見る

「驚くって――それはまったく驚かないこともない。けれども世の中の事はみんな、あんなものだと思ってるから、若い人ほど正直に驚きはしない」

「御迷惑でしょう」

原文を見る

「御迷惑でしょう」

「めいわくでないこともない。けれども、ぼくくらい世の中に長く住んだ年配の人間なら、あの記事を見てすぐ本当だと思いこむ人ばかりでもないから、やっぱり若い人ほど正直にめいわくとは感じない。与次郎は新聞社に知った人があるから、その人に頼んで本当のことを書いてもらうの、あの投書の出どころを捜してこらしめるの、自分の雑誌で十分に言い返しますのと、後始末のつもりでくだらないことをいろいろ言うが、そんな手間をかけるなら、はじめから余計なことを起こさないほうが、どれだけいいかわかりゃしない」

原文を見る

「迷惑でないこともない。けれどもぼくくらい世の中に住み古した年配の人間なら、あの記事を見て、すぐ事実だと思い込む人ばかりもないから、やっぱり若い人ほど正直に迷惑とは感じない。与次郎は社員に知った者があるから、その男に頼んで真相を書いてもらうの、あの投書の出所でどころを捜して制裁を加えるの、自分の雑誌で十分反駁はんばくをいたしますのと、善後策の了見でくだらない事をいろいろ言うが、そんな手数てかずをするならば、はじめからよけいな事を起こさないほうが、いくらいいかわかりゃしない」

「まったく先生のためを思ったからです。悪気じゃないです」

原文を見る

「まったく先生のためを思ったからです。悪気じゃないです」

「悪気でやられてたまるものか。第一、ぼくのために動く人がだよ、ぼくの考えも聞かないで勝手なやり方を決めたり勝手な方針を立てたりした日には、はじめからぼくをばかにしているのと同じことじゃないか。いないもの扱いされているほうが、どれだけ面目を保つのに都合がいいかしれやしない」

原文を見る

「悪気でやられてたまるものか。第一ぼくのために運動をするものがさ、ぼくの意向も聞かないで、かってな方法を講じたりかってな方針を立てたひには、最初からぼくの存在を愚弄ぐろうしていると同じことじゃないか。存在を無視されているほうが、どのくらい体面を保つにつごうがいいかしれやしない」

三四郎はしかたなしに黙っていた。

原文を見る

三四郎はしかたなしに黙っていた。

「そうして、偉大なる暗闇なんて、くだらないものを書いて。――新聞には君が書いたとしてあるが、実際は佐々木が書いたんだってね」

原文を見る

「そうして、偉大なる暗闇なんて愚にもつかないものを書いて。――新聞には君が書いたとしてあるが実際は佐々木が書いたんだってね」

「そうです」

原文を見る

「そうです」

「昨夜佐々木が白状した。君こそめいわくだろう。あんなばかな文章は佐々木よりほかに書く者はありゃしない。ぼくも読んでみた。中身もなければ品もない、まるで救世軍の太鼓のようなものだ。読む人のいやな気持ちを引き起こすために書いているとしか思われやしない。はじめから終わりまで、わざとだけでできている。ふつうの考えを持つ者が見れば、どうしても何かねらいがあって書いたものだと見当がつく。あれではぼくが弟子に書かせたと言われるはずだ。あれを読んだ時には、なるほど新聞の記事はもっともだと思った」

原文を見る

「ゆうべ佐々木が自白した。君こそ迷惑だろう。あんなばかな文章は佐々木よりほかに書く者はありゃしない。ぼくも読んでみた。実質もなければ、品位もない、まるで救世軍の太鼓のようなものだ。読者の悪感情を引き起こすために、書いてるとしか思われやしない。徹頭徹尾故意だけで成り立っている。常識のある者が見れば、どうしてもためにするところがあって起稿したものだと判定がつく。あれじゃぼくが門下生に書かしたと言われるはずだ。あれを読んだ時には、なるほど新聞の記事はもっともだと思った」

広田先生はそれで話を切った。

原文を見る

広田先生はそれで話を切った。

鼻から、いつものように煙をはく。

原文を見る

鼻から例によって煙をはく。

与次郎は、この煙の出方で先生の気分をうかがうことができると言っている。

原文を見る

与次郎はこの煙の出方で、先生の気分をうかがうことができると言っている。

濃くまっすぐに勢いよく出る時は哲学の絶頂に達した時で、ゆるくくずれる時は心が穏やかで、ことによると、からかわれる恐れがある。

原文を見る

濃くまっすぐにほとばしる時は、哲学の絶好頂に達したさいで、ゆるくくずれる時は、心気平穏、ことによるとひやかされる恐れがある。

煙が鼻の下をさまよって、ひげに未練があるように見える時は、深く考えこんでいる。

原文を見る

煙が、鼻の下に彽徊ていかいして、ひげに未練があるように見える時は、瞑想めいそうに入る。

あるいは詩のような気持ちになっている。

原文を見る

もしくは詩的感興がある。

もっとも恐ろしいのは、鼻の穴の先の渦である。

原文を見る

もっとも恐るべきは穴の先のうずである。

渦が出ると、たいへんしかられる。

原文を見る

渦が出ると、たいへんにしかられる。

与次郎の言うことだから、三四郎はもちろんあてにはしない。

原文を見る

与次郎の言うことだから、三四郎はむろんあてにはしない。

しかしこの時だから、気をつけて煙の形を眺めていた。

原文を見る

しかしこのさいだから気をつけて煙の形状かたちをながめていた。

すると、与次郎の言ったようなはっきりした煙はちっとも出て来ない。

原文を見る

すると与次郎の言ったような判然たる煙はちっとも出て来ない。

その代わり、出るものはたいていの特徴をみんな持っている。

原文を見る

その代り出るものは、たいていな資格をみんなそなえている。

三四郎がいつまでたっても恐れ入ったように控えているので、先生はまた話しはじめた。

原文を見る

三四郎がいつまでたっても、恐れ入ったように控えているので、先生はまた話しはじめた。

「済んだことは、もうやめよう。佐々木も昨夜すっかりあやまってしまったから、今日あたりはまた晴れ晴れして、いつものように飛んで歩いているだろう。いくら陰で心得違いを責めたって、本人が平気で切符なんぞ売って歩いていてはしかたがない。それよりもっとおもしろい話をしよう」

原文を見る

「済んだ事は、もうやめよう。佐々木も昨夜ことごとくあやまってしまったから、きょうあたりはまた晴々せいせいして例のごとく飛んで歩いているだろう。いくら陰で不心得を責めたって、当人が平気で切符なんぞ売って歩いていてはしかたがない。それよりもっとおもしろい話をしよう」

「ええ」

原文を見る

「ええ」

「ぼくがさっき昼寝をしている時、おもしろい夢を見た。それはね、ぼくが一生にたった一度会った女の人に、突然夢の中でまた会ったという小説じみたお話だが、そのほうが新聞の記事より聞いていても愉快だよ」

原文を見る

「ぼくがさっき昼寝をしている時、おもしろい夢を見た。それはね、ぼくが生涯しょうがいにたった一ぺん会った女に、突然夢の中で再会したという小説じみたお話だが、そのほうが、新聞の記事より聞いていても愉快だよ」

「ええ。どんな人ですか」

原文を見る

「ええ。どんな女ですか」

「十二、三のきれいな女の子だ。顔にほくろがある」

原文を見る

「十二、三のきれいな女だ。顔に黒子ほくろがある」

三四郎は十二、三と聞いて少しがっかりした。

原文を見る

三四郎は十二、三と聞いて少し失望した。

「いつごろお会いになったのですか」

原文を見る

「いつごろお会いになったのですか」

「二十年ばかり前」

原文を見る

「二十年ばかりまえ」

三四郎はまた驚いた。

原文を見る

三四郎はまた驚いた。

「よく、その人だということがわかりましたね」

原文を見る

「よくその女ということがわかりましたね」

「夢だよ。夢だからわかるさ。そうして夢だから不思議でいい。ぼくがなんでも大きな森の中を歩いている。あの色のさめた夏の洋服を着てね、あの古い帽子をかぶって。――そう、その時はなんでも、むずかしいことを考えていた。宇宙のすべての決まりは変わらないが、決まりに従う宇宙のすべてのものは必ず変わる。すると、その決まりは、物の外になくてはならない。――さめてみるとつまらないが、夢の中だからまじめにそんなことを考えて森の下を通って行くと、突然その人に会った。行き会ったのではない。向こうはじっと立っていた。見ると、昔のとおりの顔をしている。昔のとおりの服装をしている。髪も昔の髪である。ほくろももちろんあった。つまり二十年前に見た時と少しも変わらない十二、三の女の子である。ぼくがその人に、あなたは少しも変わらないというと、その人はぼくに、たいへん年をお取りなさったという。次にぼくが、あなたはどうして、そう変わらずにいるのかと聞くと、この顔の年、この服装の月、この髪の日がいちばん好きだから、こうしていると言う。それはいつのことかと聞くと、二十年前、あなたにお目にかかった時だという。それならぼくはなぜこう年を取ったんだろうと自分で不思議がると、その人が、あなたはその時よりも、もっと美しいほうへほうへとお移りなさりたがるからだと教えてくれた。その時ぼくがその人に、あなたは絵だと言うと、その人がぼくに、あなたは詩だと言った」

原文を見る

「夢だよ。夢だからわかるさ。そうして夢だから不思議でいい。ぼくがなんでも大きな森の中を歩いている。あの色のさめた夏の洋服を着てね、あの古い帽子をかぶって。――そうその時はなんでも、むずかしい事を考えていた。すべて宇宙の法則は変らないが、法則に支配されるすべて宇宙のものは必ず変る。するとその法則は、物のほかに存在していなくてはならない。――さめてみるとつまらないが夢の中だからまじめにそんな事を考えて森の下を通って行くと、突然その女に会った。行き会ったのではない。向こうはじっと立っていた。見ると、昔のとおりの顔をしている。昔のとおりの服装なりをしている。髪も昔の髪である。黒子もむろんあった。つまり二十年まえ見た時と少しも変らない十二、三の女である。ぼくがその女に、あなたは少しも変らないというと、その女はぼくにたいへん年をお取りなすったという。次にぼくが、あなたはどうして、そう変らずにいるのかと聞くと、この顔の年、この服装の月、この髪の日がいちばん好きだから、こうしていると言う。それはいつの事かと聞くと、二十年まえ、あなたにお目にかかった時だという。それならぼくはなぜこう年を取ったんだろうと、自分で不思議がると、女が、あなたは、その時よりも、もっと美しいほうへほうへとお移りなさりたがるからだと教えてくれた。その時ぼくが女に、あなたは絵だと言うと、女がぼくに、あなたは詩だと言った」

「それからどうしました」

原文を見る

「それからどうしました」

と三四郎が聞いた。

原文を見る

と三四郎が聞いた。

「それから君が来たのさ」

原文を見る

「それから君が来たのさ」

と言う。

原文を見る

と言う。

「二十年前に会ったというのは夢じゃない、本当のことなんですか」

原文を見る

「二十年まえに会ったというのは夢じゃない、本当の事実なんですか」

「本当のことなんだからおもしろい」

原文を見る

「本当の事実なんだからおもしろい」

「どこでお会いになったんですか」

原文を見る

「どこでお会いになったんですか」

先生の鼻はまた煙を吹き出した。

原文を見る

先生の鼻はまた煙を吹き出した。

その煙を眺めて、しばらく黙っている。

原文を見る

その煙をながめて、当分黙っている。

やがてこう言った。

原文を見る

やがてこう言った。

「憲法が発表されたのは明治二十二年だったね。その時、森文部大臣が殺された。君は覚えていまい。いくつかな君は。そう、それじゃまだ赤ん坊のころだ。ぼくは高等学校の生徒であった。大臣の葬式に出るのだと言って、おおぜい鉄砲をかついで出た。墓地へ行くのだと思ったら、そうではない。体操の先生が竹橋の中へ引っ張って行って、道ばたに並ばせた。我々はそこへ立ったまま、大臣のひつぎを見送ることになった。名目は見送るのだけれども、じつは見物したのも同じだった。その日は寒い日でね、今でも覚えている。動かずに立っていると、靴の下で足が痛む。となりの男がぼくの鼻を見ては、赤い赤いと言った。やがて行列が来た。なんでも長いものだった。寒い目の前を、静かな馬車や人力車が何台となく通る。そのうちに、今話した小さな女の子がいた。今、その時の様子を思い出そうとしても、ぼうっとしてとてもはっきり浮かんで来ない。ただ、あの子だけは覚えている。それも年がたつにつれてだんだん薄らいで来た。今では思い出すこともめったにない。今日夢を見る前まではまるで忘れていた。けれども、その当時は頭の中へ焼きつけられたように熱く残っていた。――妙なものだ」

原文を見る

「憲法発布は明治二十二年だったね。その時森文部大臣が殺された。君は覚えていまい。いくつかな君は。そう、それじゃ、まだ赤ん坊の時分だ。ぼくは高等学校の生徒であった。大臣の葬式に参列するのだと言って、おおぜい鉄砲をかついで出た。墓地へ行くのだと思ったら、そうではない。体操の教師が竹橋内たけばしうちへ引っ張って行って、道ばたへ整列さした。我々はそこへ立ったなり、大臣のひつぎを送ることになった。名は送るのだけれども、じつは見物したのも同然だった。その日は寒い日でね、今でも覚えている。動かずに立っていると、くつの下で足が痛む。隣の男がぼくの鼻を見ては赤い赤いと言った。やがて行列が来た。なんでも長いものだった。寒い目の前を静かな馬車やくるまが何台となく通る。そのうちに今話した小さな娘がいた。今、その時の模様を思い出そうとしても、ぼうとしてとても明瞭に浮かんで来ない。ただこの女だけは覚えている。それも年をたつにしたがってだんだん薄らいで来た、今では思い出すこともめったにない。きょう夢を見るまえまでは、まるで忘れていた、けれどもその当時は頭の中へ焼きつけられたように熱い印象を持っていた。――妙なものだ」

「それから、その人にはまるで会わないんですか」

原文を見る

「それからその女にはまるで会わないんですか」

「まるで会わない」

原文を見る

「まるで会わない」

「じゃ、どこのだれだかまったくわからないんですか」

原文を見る

「じゃ、どこのだれだかまったくわからないんですか」

「もちろんわからない」

原文を見る

「むろんわからない」

「たずねてみなかったですか」

原文を見る

「尋ねてみなかったですか」

「いいや」

原文を見る

「いいや」

「先生はそれで……」

原文を見る

「先生はそれで……」

と言ったが、急につかえた。

原文を見る

と言ったが急につかえた。

「それで?」

原文を見る

「それで?」

「それで結婚をなさらないんですか」

原文を見る

「それで結婚をなさらないんですか」

先生は笑い出した。

原文を見る

先生は笑いだした。

「それほど夢見がちな人間じゃない。ぼくは君よりもはるかに味気なくできている」

原文を見る

「それほど浪漫的ロマンチックな人間じゃない。ぼくは君よりもはるかに散文的にできている」

「しかし、もしその人が来たら、おもらいになったでしょう」

原文を見る

「しかし、もしその女が来たらおもらいになったでしょう」

「そうさね」

原文を見る

「そうさね」

と一度考えたうえで、「もらったろうね」

原文を見る

と一度考えたうえで、「もらったろうね」

と言った。

原文を見る

と言った。

三四郎は気の毒なような顔をしている。

原文を見る

三四郎は気の毒なような顔をしている。

すると先生がまた話し出した。

原文を見る

すると先生がまた話し出した。

「そのために独身にならざるをえなかったというと、ぼくがその人のために体をこわされたのと同じことになる。けれども人間には生まれつき結婚のできない体もあるし、そのほかいろいろ結婚のしにくい事情を持っている人がある」

原文を見る

「そのために独身を余儀なくされたというと、ぼくがその女のために不具にされたと同じ事になる。けれども人間には生まれついて、結婚のできない不具もあるし。そのほかいろいろ結婚のしにくい事情を持っている者がある」

「そんなに結婚をさまたげる事情が世の中にたくさんあるでしょうか」

原文を見る

「そんなに結婚を妨げる事情が世の中にたくさんあるでしょうか」

先生は煙の間から、じっと三四郎を見ていた。

原文を見る

先生は煙の間から、じっと三四郎を見ていた。

「ハムレットは結婚したくなかったんだろう。ハムレットは一人しかいないかもしれないが、あれに似た人はたくさんいる」

原文を見る

「ハムレットは結婚したくなかったんだろう。ハムレットは一人しかいないかもしれないが、あれに似た人はたくさんいる」

「たとえばどんな人です」

原文を見る

「たとえばどんな人です」

「たとえば」

原文を見る

「たとえば」

と言って、先生は黙った。

原文を見る

と言って、先生は黙った。

煙がしきりに出る。

原文を見る

煙がしきりに出る。

「たとえば、ここに一人の男がいる。父は早く死んで、母一人を頼りに育ったとする。その母がまた病気にかかって、いよいよ息を引き取るという時に、自分が死んだら、だれそれの世話になれという。子供が会ったこともない、知りもしない人の名を言う。わけを聞くと、母は何とも答えない。しつこく聞くと、じつは、だれそれがお前の本当のお父さんだとかすかな声で言った。――まあ作り話だが、そういう母を持った子がいるとする。すると、その子が結婚を信じなくなるのはもちろんだろう」

原文を見る

「たとえば、ここに一人の男がいる。父は早く死んで、母一人を頼りに育ったとする。その母がまた病気にかかって、いよいよ息を引き取るという、まぎわに、自分が死んだら誰某だれそれがしの世話になれという。子供が会ったこともない、知りもしない人を指名する。理由わけを聞くと、母がなんとも答えない。しいて聞くとじつは誰某がお前の本当のおとっさんだとかすかな声で言った。――まあ話だが、そういう母を持った子がいるとする。すると、その子が結婚に信仰を置かなくなるのはむろんだろう」

「そんな人はめったにないでしょう」

原文を見る

「そんな人はめったにないでしょう」

「めったにはないだろうが、いることはいる」

原文を見る

「めったには無いだろうが、いることはいる」

「しかし先生のは、そんなのじゃないでしょう」

原文を見る

「しかし先生のは、そんなのじゃないでしょう」

先生はハハハハと笑った。

原文を見る

先生はハハハハと笑った。

「君はたしかお母さんがいたね」

原文を見る

「君はたしかおっかさんがいたね」

「ええ」

原文を見る

「ええ」

「お父さんは」

原文を見る

「おとっさんは」

「死にました」

原文を見る

「死にました」

「ぼくの母は憲法が発表された翌年に死んだ」

原文を見る

「ぼくの母は憲法発布の翌年に死んだ」

一二

原文を見る

一二

演芸会はわりあいに寒い時に開かれた。

原文を見る

演芸会は比較的寒い時に開かれた。

年はようやく暮れに近づいてくる。

原文を見る

年はようやく押し詰まってくる。

人は二十日足らずの先に春をひかえている。

原文を見る

人は二十日はつか足らずの目のさきに春を控えた。

町に生きる人は忙しくなろうとしている。

原文を見る

いちに生きるものは、忙しからんとしている。

年を越すやりくりは貧しい人の頭にのしかかった。

原文を見る

越年おつねんはかりごとは貧者のこうべに落ちた。

演芸会はこの間にあって、のんびりした人と、余裕のある人と、春と暮れの区別を知らない人とをむかえた。

原文を見る

演芸会はこのあいだにあって、すべてののどかなるものと、余裕あるものと、春と暮の差別を知らぬものとを迎えた。

それが、いくらでもいる。

原文を見る

それが、いくらでもいる。

たいていは若い男女である。

原文を見る

たいていは若い男女なんにょである。

一日目に与次郎が三四郎に向かって大成功と叫んだ。

原文を見る

一日目いちじつめに与次郎が、三四郎に向かって大成功と叫んだ。

三四郎は二日目の切符を持っていた。

原文を見る

三四郎は二日目ふつかめの切符を持っていた。

与次郎が広田先生をさそって行けと言う。

原文を見る

与次郎が広田先生を誘って行けと言う。

切符が違うだろうと聞けば、もちろん違うと言う。

原文を見る

切符が違うだろうと聞けば、むろん違うと言う。

しかし一人で放っておくと、けっして行かないから、君が寄って引っ張り出すのだとわけを説明して聞かせた。

原文を見る

しかし一人でほうっておくと、けっして行く気づかいがないから、君が寄って引っ張り出すのだと理由わけを説明して聞かせた。

三四郎は承知した。

原文を見る

三四郎は承知した。

夕方に行ってみると、先生は明るいランプの下で大きな本を広げていた。

原文を見る

夕刻に行ってみると、先生は明るいランプの下に大きな本を広げていた。

「おいでになりませんか」

原文を見る

「おいでになりませんか」

と聞くと、先生は少し笑いながら、黙ったまま首を横に振った。

原文を見る

と聞くと、先生は少し笑いながら、無言のまま首を横に振った。

子供のようなしぐさをする。

原文を見る

子供のような所作をする。

しかし三四郎には、それが学者らしく思われた。

原文を見る

しかし三四郎には、それが学者らしく思われた。

口をきかないところが奥ゆかしく思われたのだろう。

原文を見る

口をきかないところがゆかしく思われたのだろう。

三四郎は中腰になって、ぼんやりしていた。

原文を見る

三四郎は中腰になって、ぼんやりしていた。

先生は断ったのが気の毒になった。

原文を見る

先生は断わったのが気の毒になった。

「君、行くならいっしょに出よう。ぼくも散歩がてら、そこまで行くから」

原文を見る

「君行くなら、いっしょに出よう。ぼくも散歩ながら、そこまで行くから」

先生は黒いマントを着て出た。

原文を見る

先生は黒い回套まわしを着て出た。

ふところ手らしいがわからない。

原文を見る

懐手ふところでらしいがわからない。

空が低くたれている。

原文を見る

空が低くたれている。

星の見えない寒さである。

原文を見る

星の見えない寒さである。

「雨になるかもしれない」

原文を見る

「雨になるかもしれない」

「降ると困るでしょう」

原文を見る

「降ると困るでしょう」

「出入りにね。日本の芝居小屋ははき物を預けるから、天気のいい時ですらたいへん不便だ。それで小屋の中は空気が通わなくて、たばこが煙って、頭が痛くなって、――よく、みんなあれで我慢ができるものだ」

原文を見る

出入ではいりにね。日本の芝居小屋しばいごや下足げそくがあるから、天気のいい時ですらたいへんな不便だ。それで小屋の中は、空気が通わなくって、煙草が煙って、頭痛がして、――よく、みんな、あれで我慢ができるものだ」

「ですけれども、まさか外でやるわけにもいかないからでしょう」

原文を見る

「ですけれども、まさか戸外こがいでやるわけにもいかないからでしょう」

「お神楽はいつでも外でやっている。寒い時でも外でやる」

原文を見る

「お神楽かぐらはいつでも外でやっている。寒い時でも外でやる」

三四郎は、こりゃ言い合いにならないと思って、答えるのをやめてしまった。

原文を見る

三四郎は、こりゃ議論にならないと思って、答を見合わせてしまった。

「ぼくは外がいい。暑くも寒くもない、きれいな空の下で、美しい空気を吸って、美しい芝居が見たい。透き通る空気のような、まじり気のない、すっきりした芝居ができそうなものだ」

原文を見る

「ぼくは戸外がいい。暑くも寒くもない、きれいな空の下で、美しい空気を呼吸して、美しい芝居が見たい。透明な空気のような、純粋で簡単な芝居ができそうなものだ」

「先生の御覧になった夢でも芝居にしたら、そんなものができるでしょう」

原文を見る

「先生の御覧になった夢でも、芝居にしたらそんなものができるでしょう」

「君、ギリシアの芝居を知っているか」

原文を見る

「君ギリシアの芝居を知っているか」

「よく知りません。たしか外でやったんですね」

原文を見る

「よく知りません。たしか戸外でやったんですね」

「外。まっ昼間。さぞいい気持ちだったろうと思う。席は自然の石だ。堂々としている。与次郎のような人は、そういう所へ連れて行って少し見せてやるといい」

原文を見る

「戸外。まっ昼間。さぞいい心持ちだったろうと思う。席は天然の石だ。堂々としている。与次郎のようなものは、そういう所へ連れて行って、少し見せてやるといい」

また与次郎の悪口が出た。

原文を見る

また与次郎の悪口わるくちが出た。

その与次郎は今ごろ、きゅうくつな会場の中で一生けんめいに走り回り、あれこれ世話をして大得意なのだからおもしろい。

原文を見る

その与次郎は今ごろ窮屈な会場のなかで、一生懸命に、奔走しかつ斡旋あっせんして大得意なのだからおもしろい。

もし先生を連れて行かなかったら、先生はやっぱり来ない。

原文を見る

もし先生を連れて行かなかろうものなら、先生はたして来ない。

たまにはこういう所へ来て見るのが先生のためにはどれだけいいかわからないのに、いくらぼくが言っても聞かない。

原文を見る

たまにはこういう所へ来て見るのが、先生のためにはどのくらいいいかわからないのだのに、いくらぼくが言っても聞かない。

困ったものだなあ。

原文を見る

困ったものだなあ。

と、ため息をつくに決まっているから、なおおもしろい。

原文を見る

と嘆息するにきまっているからなおおもしろい。

先生はそれから、ギリシアの劇場の造りを詳しく話してくれた。

原文を見る

先生はそれからギリシアの劇場の構造を詳しく話してくれた。

三四郎はこの時先生から、テアトロン、オルケストラ、スケーネ、プロスケニオンなどという言葉の説明を聞いた。

原文を見る

三四郎はこの時先生から、〔Theatronテアトロン, Orche^straオルケストラ, Ske^ne^《スケーネ》, Proske^nionプロスケニオン〕 などという字の講釈を聞いた。

何とかいうドイツ人の説によると、アテネの劇場は一万七千人が入る席があったということも聞いた。

原文を見る

なんとかいうドイツ人の説によるとアテンの劇場は一万七千人をいれる席があったということも聞いた。

それは小さいほうである。

原文を見る

それは小さいほうである。

もっとも大きいのは五万人を入れたということも聞いた。

原文を見る

もっとも大きいのは、五万人をいれたということも聞いた。

入場券は象牙と鉛と二通りあって、どちらもメダルのような形で、表に模様が打ち出してあったり彫りがしてあるということも聞いた。

原文を見る

入場券は象牙ぞうげと鉛と二通りあって、いずれも賞牌メダルみたような恰好かっこうで、表に模様が打ち出してあったり、彫刻が施してあるということも聞いた。

先生はその入場券のねだんまで知っていた。

原文を見る

先生はその入場券の価まで知っていた。

一日だけの小さな芝居は十二銭で、三日続きの大きな芝居は三十五銭だと言った。

原文を見る

一日だけの小芝居は十二銭で、三日続きの大芝居は三十五銭だと言った。

三四郎がへえ、へえと感心しているうちに、演芸会場の前へ出た。

原文を見る

三四郎がへえ、へえと感心しているうちに、演芸会場の前へ出た。

さかんに電灯がついている。

原文を見る

さかんに電燈がついている。

入る人は続々集まって来る。

原文を見る

入場者は続々寄って来る。

与次郎の言った以上のにぎわいである。

原文を見る

与次郎の言ったよりも以上の景気である。

「どうです、せっかくだからお入りになりませんか」

原文を見る

「どうです、せっかくだからおはいりになりませんか」

「いや、入らない」

原文を見る

「いやはいらない」

先生はまた暗い方へ向いて行った。

原文を見る

先生はまた暗い方へ向いて行った。

三四郎はしばらく先生の後ろすがたを見送っていたが、あとから車で乗りつける人が、はき物の札を受け取る手間も惜しそうに急いで入って行くのを見て、自分も足早に入場した。

原文を見る

三四郎は、しばらく先生の後影を見送っていたが、あとから、車で乗りつける人が、下足札を受け取る手間も惜しそうに、急いではいって行くのを見て、自分も足早に入場した。

前へ押されたのと同じことである。

原文を見る

前へ押されたと同じことである。

入口に四、五人、用のない人が立っている。

原文を見る

入口に四、五人用のない人が立っている。

そのうちの、はかまをつけた男が入場券を受け取った。

原文を見る

そのうちのはかまを着けた男が入場券を受け取った。

その男の肩の上から中をのぞいて見ると、急に広くなっている。

原文を見る

その男の肩の上から場内をのぞいて見ると、中は急に広くなっている。

そのうえ、とても明るい。

原文を見る

かつはなはだ明るい。

三四郎はまゆに手をかざさんばかりにして、案内された席についた。

原文を見る

三四郎はまゆに手を加えないばかりにして、導かれた席に着いた。

せまい所に割りこみながら四方を見回すと、人の持って来た色で目がちらちらする。

原文を見る

狭い所に割り込みながら、四方を見回すと、人間の持って来た色で目がちらちらする。

自分の目を動かすからばかりではない。

原文を見る

自分の目を動かすからばかりではない。

数えきれない人についた色が、広い場所で絶えずめいめいに、しかも勝手に動くからである。

原文を見る

無数の人間に付着した色が、広い空間で、たえずめいめいに、かつかってに、動くからである。

舞台ではもう始まっている。

原文を見る

舞台ではもう始まっている。

出てくる人が、みんな冠をかぶって沓(くつ)をはいていた。

原文を見る

出てくる人物が、みんなかんむりをかむって、くつをはいていた。

そこへ長いこし(人を乗せて運ぶ台)をかついで来た。

原文を見る

そこへ長い輿こしをかついで来た。

それを舞台のまん中で止めた人がある。

原文を見る

それを舞台のまん中でとめた者がある。

こしを下ろすと、中からまた一人現れた。

原文を見る

輿をおろすと、中からまた一人あらわれた。

その男が刀を抜いて、こしを突き返した相手と斬り合いを始めた。――

原文を見る

その男が刀を抜いて、輿を突き返したのと斬り合いを始めた。――

三四郎には何のことかまるでわからない。

原文を見る

三四郎にはなんのことかまるでわからない。

もっとも与次郎からあらすじを聞いたことはある。

原文を見る

もっとも与次郎から梗概こうがいを聞いたことはある。

けれども、いいかげんに聞いていた。

原文を見る

けれどもいいかげんに聞いていた。

見ればわかるだろうと考えて、うん、なるほどと言っていた。

原文を見る

見ればわかるだろうと考えて、うんなるほどと言っていた。

ところが、見ても少しもその意味がつかめない。

原文を見る

ところが見ればごうもその意を得ない。

三四郎の覚えには、ただ入鹿(いるか)の大臣という名前が残っている。

原文を見る

三四郎の記憶にはただ入鹿いるか大臣おとどという名前が残っている。

三四郎は、どれが入鹿だろうかと考えた。

原文を見る

三四郎はどれが入鹿だろうかと考えた。

それはとうてい見当がつかない。

原文を見る

それはとうてい見込みがつかない。

そこで舞台全体を入鹿のつもりで眺めていた。

原文を見る

そこで舞台全体を入鹿のつもりでながめていた。

すると冠でも、沓でも、筒そでの衣装でも、使う言葉でも、なんとなく入鹿くさくなってきた。

原文を見る

すると冠でも、沓でも、筒袖つつそで衣服きものでも、使う言葉でも、なんとなく入鹿臭くなってきた。

実を言うと、三四郎にははっきりした入鹿の心当たりがない。

原文を見る

実をいうと三四郎には確然たる入鹿の観念がない。

日本の歴史を習ったのがあまりに遠い昔であるから、古い入鹿のこともつい忘れてしまった。

原文を見る

日本歴史を習ったのが、あまりに遠い過去であるから、古い入鹿の事もつい忘れてしまった。

推古天皇の時のようでもある。

原文を見る

推古天皇すいこてんのうの時のようでもある。

欽明天皇の時代でも差し支えない気がする。

原文を見る

欽明天皇きんめいてんのう御代みよでもさしつかえない気がする。

応神天皇や聖武天皇ではけっしてないと思う。

原文を見る

応神天皇おうじんてんのう聖武天皇しょうむてんのうではけっしてないと思う。

三四郎はただ、入鹿らしい気分を持っているだけである。

原文を見る

三四郎はただ入鹿じみた心持ちを持っているだけである。

芝居を見るにはそれでたくさんだと考えて、中国ふうの衣装や背景を眺めていた。

原文を見る

芝居を見るにはそれでたくさんだと考えて、からめいた装束しょうぞくや背景をながめていた。

しかし筋はちっともわからなかった。

原文を見る

しかし筋はちっともわからなかった。

そのうち幕になった。

原文を見る

そのうち幕になった。

幕になる少し前に、となりの男が、そのまた、となりの男に、出ている人の声が六畳の部屋で親子が向かい合って話しているようだ。

原文を見る

幕になる少しまえに、隣の男が、そのまた隣の男に、登場人物の声が、六畳敷で、親子差向かいの談話のようだ。

まるで練習が足りないと責めていた。

原文を見る

まるで訓練がないと非難していた。

そちら側のとなりの男は、出ている人の腰が定まらない。

原文を見る

そっち隣の男は登場人物の腰が据わらない。

どれもひょろひょろしていると言っていた。

原文を見る

ことごとくひょろひょろしていると訴えていた。

二人は出ている人の本当の名をみんな覚えている。

原文を見る

二人は登場人物の本名ほんみょうをみんなそらんじている。

三四郎は耳を傾けて二人の話を聞いていた。

原文を見る

三四郎は耳を傾けて二人の談話を聞いていた。

二人とも立派な服装をしている。

原文を見る

二人ともりっぱな服装なりをしている。

おおかた有名な人だろうと思った。

原文を見る

おおかた有名な人だろうと思った。

けれども、もし与次郎にこの話を聞かせたら、さぞ反対するだろうと思った。

原文を見る

けれどももし与次郎にこの談話を聞かせたらさだめし反対するだろうと思った。

その時、後ろの方でうまい、うまい、なかなかうまいと大きな声を出した人がある。

原文を見る

その時うしろの方でうまいうまいなかなかうまいと大きな声を出した者がある。

となりの男は二人とも後ろを振り返った。

原文を見る

隣の男は二人ともうしろを振り返った。

それきり話をやめてしまった。

原文を見る

それぎり話をやめてしまった。

そこで幕が下りた。

原文を見る

そこで幕がおりた。

あそこ、ここに席を立つ人がある。

原文を見る

あすこ、ここに席を立つ者がある。

花道から出口にかけて、人の影がとてもせわしない。

原文を見る

花道はなみちから出口へかけて、人の影がすこぶる忙しい。

三四郎は中腰になって、四方をぐるりと見回した。

原文を見る

三四郎は中腰になって、四方をぐるりと見回した。

来ているはずの人はどこにも見えない。

原文を見る

来ているはずの人はどこにも見えない。

本当を言うと、劇の間にもできるだけ気をつけていた。

原文を見る

本当をいうと演芸中にもできるだけは気をつけていた。

それでわからないから、幕になったらと、そっとあてにしていたのである。

原文を見る

それで知れないから、幕になったらばと内々心あてにしていたのである。

三四郎は少しがっかりした。

原文を見る

三四郎は少し失望した。

しかたなく目を正面にもどした。

原文を見る

やむをえず目を正面に帰した。

となりの人たちはよほど顔の広い人と見えて、左右を見回して、あそこにはだれがいる。

原文を見る

隣の連中れんじゅうはよほど世間が広い男たちとみえて、左右を顧みて、あすこにはだれがいる。

ここにはだれがいると、しきりに名の知れた人の名を口にする。

原文を見る

ここにはだれがいるとしきりに知名の人の名を口にする。

中には離れながら、互いにあいさつをしたのも一、二人ある。

原文を見る

なかには離れながら、互いに挨拶あいさつをしたのも、一、二人ある。

三四郎はおかげで、この名の知れた人の奥さんを少し覚えた。

原文を見る

三四郎はおかげでこれら知名な人の細君を少し覚えた。

その中には結婚したばかりの人もあった。

原文を見る

そのなかには新婚したばかりの者もあった。

これはとなりの一人にも珍しかったと見えて、その男はわざわざ眼鏡をふき直して、なるほどなるほどと言って見ていた。

原文を見る

これは隣の一人にも珍しかったとみえて、その男はわざわざ眼鏡めがねをふき直して、なるほどなるほどと言って見ていた。

すると、幕の下りた舞台の前を、向こうの端からこちらへ向けて、小走りに与次郎が駆けて来た。

原文を見る

すると、幕のおりた舞台の前を、向こうのはじからこっちへ向けて、小走りに与次郎がかけて来た。

三分の二ほどの所で止まった。

原文を見る

三分の二ほどの所で留まった。

少し前かがみになって、一階の席の中をのぞきこみながら何か話している。

原文を見る

少し及び腰になって、土間の中をのぞき込みながら、何か話している。

三四郎は、それを目印にねらいをつけた。――

原文を見る

三四郎はそれを見当にねらいをつけた。――

舞台の端に立った与次郎から一直線に、四、五メートル離れて美禰子の横顔が見えた。

原文を見る

舞台の端に立った与次郎から一直線に、二、三間隔てて美禰子の横顔が見えた。

そのそばにいる男は背中を三四郎に向けている。

原文を見る

そのそばにいる男は背中を三四郎に向けている。

三四郎は心の中で、この男が何かの拍子にどうかしてこちらを向いてくれればいいと願っていた。

原文を見る

三四郎は心のうちに、この男が何かの拍子に、どうかしてこっちを向いてくれればいいと念じていた。

うまい具合に、その男は立った。

原文を見る

うまいぐあいにその男は立った。

すわりくたびれたと見えて、席の仕切りに腰をかけて中を見回しはじめた。

原文を見る

すわりくたびれたとみえて、ますの仕切りに腰をかけて、場内を見回しはじめた。

その時、三四郎ははっきりと野々宮さんの広いひたいと大きな目を見分けることができた。

原文を見る

その時三四郎は明らかに野々宮さんの広い額と大きな目を認めることができた。

野々宮さんが立つとともに、美禰子の後ろにいたよし子の姿も見えた。

原文を見る

野々宮さんが立つとともに、美禰子のうしろにいたよし子の姿も見えた。

三四郎はこの三人のほかに、まだ連れがいるかいないかを確かめようとした。

原文を見る

三四郎はこの三人のほかに、まだつれがいるかいないかを確かめようとした。

けれども遠くから見ると、ただ人がぎっしり詰まっているだけで、連れといえば一階全体が連れに見えるまでだから、しかたがない。

原文を見る

けれども遠くから見ると、ただ人がぎっしり詰まっているだけで、連といえば土間全体が連とみえるまでだからしかたがない。

美禰子と与次郎の間では、時々話が交わされているらしい。

原文を見る

美禰子と与次郎のあいだには、時々談話が交換されつつあるらしい。

野々宮さんも時々口を出すと思われる。

原文を見る

野々宮さんもおりおり口を出すと思われる。

すると突然、原口さんが幕の間から出て来た。

原文を見る

すると突然原口さんが幕の間から出て来た。

与次郎と並んで、しきりに一階の中をのぞきこむ。

原文を見る

与次郎と並んでしきりに土間の中をのぞきこむ。

口はもちろん動かしているのだろう。

原文を見る

口はむろん動かしているのだろう。

野々宮さんは合図のように首を縦に振った。

原文を見る

野々宮さんは合い図のような首を縦に振った。

その時、原口さんは後ろから手のひらで与次郎の背中をたたいた。

原文を見る

その時原口さんはうしろから、平手ひらてで、与次郎の背中をたたいた。

与次郎はくるりとひっくり返って、幕のすそをくぐってどこかへ消えてしまった。

原文を見る

与次郎はくるりと引っ繰り返って、幕のすそをもぐってどこかへ消えうせた。

原口さんは舞台を降りて、人と人との間を通って野々宮さんのそばまで来た。

原文を見る

原口さんは、舞台を降りて、人と人との間を伝わって、野々宮さんのそばまで来た。

野々宮さんは腰を上げて原口さんを通した。

原文を見る

野々宮さんは、腰を立てて原口さんを通した。

原口さんはぽかりと人の中へ飛びこんだ。

原文を見る

原口さんはぽかりと人の中へ飛び込んだ。

美禰子とよし子のいるあたりで見えなくなった。

原文を見る

美禰子とよし子のいるあたりで見えなくなった。

この人たちの一つ一つの動きを、劇以上に興味を持って見ていた三四郎は、この時急に原口流のふるまいがうらやましくなった。

原文を見る

この連中の一挙一動を演芸以上の興味をもって注意していた三四郎は、この時急に原口流の所作がうらやましくなった。

ああいう便利な方法で人のそばへ寄ることができようとは、少しも思いつかなかった。

原文を見る

ああいう便利な方法で人のそばへ寄ることができようとは毫も思いつかなかった。

自分も一つまねてみようかしらと思った。

原文を見る

自分もひとつまねてみようかしらと思った。

しかし、まねると気づいた時点ですでにやる勇気がくじけたうえに、もう入る席はいくら詰めてもむずかしかろうという遠慮が加わって、三四郎の腰は相変わらずもとの席を離れられなかった。

原文を見る

しかしまねるという自覚が、すでに実行の勇気をくじいたうえに、もうはいる席は、いくら詰めても、むずかしかろうという遠慮が手伝って、三四郎のしりは依然として、もとの席を去りえなかった。

そのうち幕が開いて、ハムレットが始まった。

原文を見る

そのうち幕があいて、ハムレットが始まった。

三四郎は広田先生の家で、西洋の何とかいう名の知れた役者が演じたハムレットの写真を見たことがある。

原文を見る

三四郎は広田先生のうちで西洋のなんとかいう名優のふんしたハムレットの写真を見たことがある。

今三四郎の目の前に現れたハムレットは、これとほぼ同じ服装をしている。

原文を見る

今三四郎の目の前にあらわれたハムレットは、これとほぼ同様の服装をしている。

服装ばかりではない。

原文を見る

服装ばかりではない。

顔まで似ている。

原文を見る

顔まで似ている。

両方ともまゆをひそめている。

原文を見る

両方とも八の字を寄せている。

このハムレットは動きがまったく軽やかで、気持ちがいい。

原文を見る

このハムレットは動作がまったく軽快で、心持ちがいい。

舞台の上を大いに動いて、また大いに動かせる。

原文を見る

舞台の上を大いに動いて、また大いに動かせる。

能のような入鹿とは、たいへん感じが違っている。

原文を見る

能掛のうがかりの入鹿とはたいへん趣を異にしている。

とくに、ある時、ある場面で、舞台のまん中に立って手を広げてみたり、空をにらんでみたりする時は、見ている人の目の中にほかのものはまったく入る余地がないくらい強い刺激を与える。

原文を見る

ことに、ある時、ある場合に、舞台のまん中に立って、手を広げてみたり、空をにらんでみたりするときは、観客の眼中にほかのものはいっさい入り込む余地のないくらい強烈な刺激を与える。

その代わり、せりふは日本語である。

原文を見る

その代り台詞せりふは日本語である。

西洋の言葉を日本語に訳した日本語である。

原文を見る

西洋語を日本語に訳した日本語である。

口調には上げ下げがある。

原文を見る

口調には抑揚がある。

リズムもある。

原文を見る

節奏もある。

あるところは口が回りすぎると思われるくらい、なめらかに出る。

原文を見る

あるところは能弁すぎると思われるくらい流暢りゅうちょうに出る。

文章も立派である。

原文を見る

文章もりっぱである。

それでいて、気が乗らない。

原文を見る

それでいて、気が乗らない。

三四郎は、ハムレットがもう少し日本人らしいことを言ってくれればいいと思った。

原文を見る

三四郎はハムレットがもう少し日本人じみたことを言ってくれればいいと思った。

お母さん、それではお父さんにすまないじゃありませんかと言いそうなところで、急にアポロなどを持ち出して、のんきにやってしまう。

原文を見る

おっかさん、それじゃおとっさんにすまないじゃありませんかと言いそうなところで、急にアポロなどを引合いに出して、のん気にやってしまう。

それでいて、顔つきは親子とも泣き出しそうである。

原文を見る

それでいて顔つきは親子とも泣きだしそうである。

しかし三四郎は、この、ちぐはぐさをただぼんやり感じただけである。

原文を見る

しかし三四郎はこの矛盾をただ朧気おぼろげに感じたのみである。

けっしてつまらないと言い切るほどの勇気は出なかった。

原文を見る

けっしてつまらないと思いきるほどの勇気は出なかった。

だから、ハムレットに飽きた時は美禰子の方を見ていた。

原文を見る

したがって、ハムレットに飽きた時は、美禰子の方を見ていた。

美禰子が人の影に隠れて見えなくなる時は、ハムレットを見ていた。

原文を見る

美禰子が人の影に隠れて見えなくなる時は、ハムレットを見ていた。

ハムレットがオフィーリアに向かって、尼寺へ行け、尼寺へ行けと言うところへ来た時、三四郎はふと広田先生のことを考え出した。

原文を見る

ハムレットがオフェリヤに向かって、尼寺へ行け尼寺へ行けと言うところへきた時、三四郎はふと広田先生のことを考え出した。

広田先生は言った。――

原文を見る

広田先生は言った。――

ハムレットのような人に結婚ができるか。――

原文を見る

ハムレットのようなものに結婚ができるか。――

なるほど本で読むとそうらしい。

原文を見る

なるほど本で読むとそうらしい。

けれども芝居では結婚してもよさそうである。

原文を見る

けれども、芝居では結婚してもよさそうである。

よく考えてみると、尼寺へ行けという言い方が悪いのだろう。

原文を見る

よく思案してみると、尼寺へ行けとの言い方が悪いのだろう。

その証拠には、尼寺へ行けと言われたオフィーリアがちっとも気の毒にならない。

原文を見る

その証拠には尼寺へ行けと言われたオフェリヤがちっとも気の毒にならない。

幕がまた下りた。

原文を見る

幕がまたおりた。

美禰子とよし子が席を立った。

原文を見る

美禰子とよし子が席を立った。

三四郎も続いて立った。

原文を見る

三四郎もつづいて立った。

廊下まで来てみると、二人は廊下の中ほどで男と話をしている。

原文を見る

廊下まで来てみると、二人は廊下の中ほどで、男と話をしている。

男は廊下から出入りのできる左側の席の戸口に、半分体を出した。

原文を見る

男は廊下からはいりのできる左側の席の戸口に半分からだを出した。

男の横顔を見た時、三四郎はあとへ引き返した。

原文を見る

男の横顔を見た時、三四郎はあとへ引き返した。

席へもどらずに、はき物を取って表へ出た。

原文を見る

席へ返らずに下足を取って表へ出た。

もともと暗い夜である。

原文を見る

本来は暗いである。

人の力で明るくした所を通り越すと、雨が落ちているように思う。

原文を見る

人の力で明るくした所を通り越すと、雨が落ちているように思う。

風が枝を鳴らす。

原文を見る

風が枝を鳴らす。

三四郎は急いで下宿に帰った。

原文を見る

三四郎は急いで下宿に帰った。

夜中から降り出した。

原文を見る

夜半よなかから降りだした。

三四郎は布団の中で雨の音を聞きながら、尼寺へ行けという言葉を柱にして、その周りをぐるぐる歩き回るように考え続けた。

原文を見る

三四郎はとこの中で、雨の音を聞きながら、尼寺へ行けという一句を柱にして、その周囲まわりにぐるぐる彽徊ていかいした。

広田先生も起きているかもしれない。

原文を見る

広田先生も起きているかもしれない。

先生はどんな柱を抱いているだろう。

原文を見る

先生はどんな柱を抱いているだろう。

与次郎は偉大なる暗闇の中に、正体もなくうもれているに違いない。……

原文を見る

与次郎は偉大なる暗闇の中に正体なく埋まっているに違いない。……

翌日は少し熱がある。

原文を見る

あくる日は少し熱がする。

頭が重いから寝ていた。

原文を見る

頭が重いから寝ていた。

昼ごはんは布団の上に起き直って食べた。

原文を見る

昼飯は床の上に起き直って食った。

また一眠りすると、今度は汗が出た。

原文を見る

また一寝入りすると今度は汗が出た。

気がぼんやりする。

原文を見る

気がうとくなる。

そこへ元気よく与次郎が入って来た。

原文を見る

そこへ威勢よく与次郎がはいって来た。

昨夜も見えず、今朝も講義に出ないようだからどうしたかと思って来たと言う。

原文を見る

ゆうべも見えず、けさも講義に出ないようだからどうしたかと思って尋ねたと言う。

三四郎はお礼を述べた。

原文を見る

三四郎は礼を述べた。

「なに、昨夜は行ったんだ。行ったんだ。君が舞台の上に出てきて、美禰子さんと遠くで話をしていたのも、ちゃんと知っている」

原文を見る

「なに、ゆうべは行ったんだ。行ったんだ。君が舞台の上に出てきて、美禰子さんと、遠くで話をしていたのも、ちゃんと知っている」

三四郎は少し酔ったような気持ちである。

原文を見る

三四郎は少し酔ったような心持ちである。

口をききだすと、つるつると出る。

原文を見る

口をききだすと、つるつると出る。

与次郎は手を出して、三四郎のひたいを押さえた。

原文を見る

与次郎は手を出して、三四郎の額をおさえた。

「だいぶ熱がある。薬を飲まなくちゃいけない。風邪を引いたんだ」

原文を見る

「だいぶ熱がある。薬を飲まなくっちゃいけない。風邪かぜを引いたんだ」

「演芸場があまり暑すぎて、明るすぎて、そうして外へ出ると急に寒すぎて、暗すぎるからだ。あれはよくない」

原文を見る

「演芸場があまり暑すぎて、明るすぎて、そうして外へ出ると、急に寒すぎて、暗すぎるからだ。あれはよくない」

「いけないったって、しかたがないじゃないか」

原文を見る

「いけないたって、しかたがないじゃないか」

「しかたがないったって、いけない」

原文を見る

「しかたがないったって、いけない」

三四郎の言葉はだんだん短くなる。与次郎がいいかげんに相手をしているうちに、すうすう寝てしまった。

原文を見る

三四郎の言葉はだんだん短くなる、与次郎がいいかげんにあしらっているうちに、すうすう寝てしまった。

一時間ほどしてまた目を開けた。

原文を見る

一時間ほどしてまた目をあけた。

与次郎を見て、

原文を見る

与次郎を見て、

「君、そこにいるのか」

原文を見る

「君、そこにいるのか」

と言う。

原文を見る

と言う。

今度はいつもの三四郎のようである。

原文を見る

今度は平生の三四郎のようである。

気分はどうかと聞くと、頭が重いと答えただけである。

原文を見る

気分はどうかと聞くと、頭が重いと答えただけである。

「風邪だろう」

原文を見る

「風邪だろう」

「風邪だろう」

原文を見る

「風邪だろう」

両方で同じことを言った。

原文を見る

両方で同じ事を言った。

しばらくしてから、三四郎が与次郎に聞いた。

原文を見る

しばらくしてから、三四郎が与次郎に聞いた。

「君、この間、美禰子さんのことを知ってるかとぼくにたずねたね」

原文を見る

「君、このあいだ美禰子さんの事を知ってるかとぼくに尋ねたね」

「美禰子さんのことを? どこで?」

原文を見る

「美禰子さんの事を? どこで?」

「学校で」

原文を見る

「学校で」

「学校で? いつ」

原文を見る

「学校で? いつ」

与次郎はまだ思い出せない様子である。

原文を見る

与次郎はまだ思い出せない様子である。

三四郎はしかたなく、その前後の様子を詳しく説明した。

原文を見る

三四郎はやむをえずその前後の当時を詳しく説明した。

与次郎は、

原文を見る

与次郎は、

「なるほど、そんなことがあったかもしれない」

原文を見る

「なるほどそんな事があったかもしれない」

と言っている。

原文を見る

と言っている。

三四郎はずいぶんいいかげんだと思った。

原文を見る

三四郎はずいぶん無責任だと思った。

与次郎も少し気の毒になって、思い出そうとした。

原文を見る

与次郎も少し気の毒になって、考え出そうとした。

やがてこう言った。

原文を見る

やがてこう言った。

「じゃ、あれじゃないか。美禰子さんが嫁に行くという話じゃないか」

原文を見る

「じゃ、なんじゃないか。美禰子さんが嫁に行くという話じゃないか」

「決まったのか」

原文を見る

「きまったのか」

「決まったように聞いたが、よくわからない」

原文を見る

「きまったように聞いたが、よくわからない」

「野々宮さんの所か」

原文を見る

「野々宮さんの所か」

「いや、野々宮さんじゃない」

原文を見る

「いや、野々宮さんじゃない」

「じゃ……」

原文を見る

「じゃ……」

と言いかけてやめた。

原文を見る

と言いかけてやめた。

「君、知ってるのか」

原文を見る

「君、知ってるのか」

「知らない」

原文を見る

「知らない」

と言い切った。

原文を見る

と言い切った。

すると与次郎が少し前へ乗り出してきた。

原文を見る

すると与次郎が少し前へ乗り出してきた。

「どうもよくわからない。不思議なことがあるんだが。もう少したたないと、どうなるんだか見当がつかない」

原文を見る

「どうもよくわからない。不思議な事があるんだが。もう少したたないと、どうなるんだか見当がつかない」

三四郎は、その不思議なことをすぐ話せばいいと思うのに、与次郎は平気なもので、一人でのみこんで一人で不思議がっている。

原文を見る

三四郎は、その不思議な事を、すぐ話せばいいと思うのに、与次郎は平気なもので、一人でのみこんで、一人で不思議がっている。

三四郎はしばらく我慢していたが、とうとうじれったくなって、与次郎に、美禰子についてのすべてを隠さずに話してくれと頼んだ。

原文を見る

三四郎はしばらく我慢していたが、とうとうれったくなって、与次郎に、美禰子に関するすべての事実を隠さずに話してくれと請求した。

与次郎は笑い出した。

原文を見る

与次郎は笑いだした。

そうして、なぐさめのためか何だか、とんだところへ話を持っていってしまった。

原文を見る

そうして慰謝のためかなんだか、とんだところへ話頭を持っていってしまった。

「ばかだなあ、あんな人を思って。思ったってしかたがないよ。第一、君と同じ年ぐらいじゃないか。同じ年ぐらいの男にほれるのは昔のことだ。八百屋お七の時代の恋だ」

原文を見る

「ばかだなあ、あんな女を思って。思ったってしかたがないよ。第一、君と同年おないどしぐらいじゃないか。同年ぐらいの男にほれるのは昔の事だ。八百屋やおやしち時代の恋だ」

三四郎は黙っていた。

原文を見る

三四郎は黙っていた。

けれども与次郎の言う意味はよくわからなかった。

原文を見る

けれども与次郎の意味はよくわからなかった。

「なぜかというと。二十前後の同じ年の男女を二人並べてみろ。女の人のほうが何もかも上手だあね。男はばかにされるばかりだ。女の人だって、自分が見下す男の所へ嫁に行く気は出ないやね。もっとも、自分が世界でいちばん偉いと思ってる人は別だ。見下す所へ行かなければ、独身で暮らすよりほかに方法はないんだから。よく金持ちの娘さんか何かにそんなのがあるじゃないか、望んで嫁に来ておきながら夫を見下しているのが。美禰子さんはそれよりずっと偉い。その代わり、夫として尊敬のできない人の所へは、はじめから行く気はないんだから、相手になる人はその気でいなくちゃいけない。そういう点で、君だのぼくだのは、あの人の夫になる資格はないんだよ」

原文を見る

「なぜというに。二十はたち前後の同じ年の男女なんにょを二人並べてみろ。女のほうが万事上手うわてだあね。男は馬鹿にされるばかりだ。女だって、自分の軽蔑けいべつする男の所へ嫁へ行く気は出ないやね。もっとも自分が世界でいちばん偉いと思ってる女は例外だ。軽蔑する所へ行かなければ独身で暮らすよりほかに方法はないんだから。よく金持ちの娘や何かにそんなのがあるじゃないか、望んで嫁に来ておきながら、亭主を軽蔑しているのが。美禰子さんはそれよりずっと偉い。その代り、夫として尊敬のできない人の所へははじめから行く気はないんだから、相手になるものはその気でいなくっちゃいけない。そういう点で君だのぼくだのは、あの女の夫になる資格はないんだよ」

三四郎はとうとう与次郎といっしょにされてしまった。

原文を見る

三四郎はとうとう与次郎といっしょにされてしまった。

しかし相変わらず黙っていた。

原文を見る

しかし依然として黙っていた。

「そりゃ君だってぼくだって、あの人よりはるかに偉いさ。お互いにこれでも、なあ。けれども、もう五、六年たたなくちゃ、その偉さがあの人の目に映ってこない。しかも、あの人は五、六年じっとしている心配はない。だから、君があの人と結婚することは、まるで縁がない」

原文を見る

「そりゃ君だって、ぼくだって、あの女よりはるかに偉いさ。お互いにこれでも、なあ。けれども、もう五、六年たたなくっちゃ、その偉さ加減がかの女の目に映ってこない。しかして、かの女は五、六年じっとしている気づかいはない。したがって、君があの女と結婚する事は風馬牛ふうばぎゅうだ」

与次郎は風馬牛(ふうばぎゅう。まるで関係がないこと)という言葉を妙なところへ使った。

原文を見る

与次郎は風馬牛という熟字を妙なところへ使った。

そうして一人で笑っている。

原文を見る

そうして一人で笑っている。

「なに、もう五、六年もすると、あれよりずっと上等なのが現れて来るよ。日本では今、女の人のほうが余っているんだから。風邪なんか引いて熱を出したって始まらない。――なに、世の中は広いから心配するには及ばない。じつはぼくにもいろいろあるんだが、ぼくのほうであんまりうるさいから、用事で長崎へ出張すると言ってね」

原文を見る

「なに、もう五、六年もすると、あれより、ずっと上等なのが、あらわれて来るよ。日本にほんじゃ今女のほうが余っているんだから。風邪なんか引いて熱を出したってはじまらない。――なに世の中は広いから、心配するがものはない。じつはぼくにもいろいろあるんだが、ぼくのほうであんまりうるさいから、御用で長崎へ出張すると言ってね」

「なんだ、それは」

原文を見る

「なんだ、それは」

「なんだって、ぼくの関わった女の人さ」

原文を見る

「なんだって、ぼくの関係した女さ」

三四郎は驚いた。

原文を見る

三四郎は驚いた。

「なに、女の人だって、君なんぞが今まで近寄ったことのない種類の人だよ。それをね、長崎へ細菌の検査に出張するから当分だめだって断っちまった。ところが、その人がりんごを持って駅まで送りに行くと言い出したんで、ぼくは弱ったね」

原文を見る

「なに、女だって、君なんぞのかつて近寄ったことのない種類の女だよ。それをね、長崎へ黴菌ばいきんの試験に出張するから当分だめだって断わっちまった。ところがその女が林檎りんごを持って停車場ステーションまで送りに行くと言いだしたんで、ぼくは弱ったね」

三四郎はますます驚いた。

原文を見る

三四郎はますます驚いた。

驚きながら聞いた。

原文を見る

驚きながら聞いた。

「それで、どうした」

原文を見る

「それで、どうした」

「どうしたか知らない。りんごを持って駅で待っていたんだろう」

原文を見る

「どうしたか知らない。林檎を持って、停車場に待っていたんだろう」

「ひどい男だ。よく、そんな悪いことができるね」

原文を見る

「ひどい男だ。よく、そんな悪い事ができるね」

「悪いことで、かわいそうなことだとは知ってるけれども、しかたがない。はじめから少しずつ、そこまで運命に持っていかれるんだから。じつは、とっくの昔からぼくが医科の学生になっていたんだからなあ」

原文を見る

「悪い事で、かあいそうな事だとは知ってるけれども、しかたがない。はじめから次第次第に、そこまで運命に持っていかれるんだから。じつはとうのさきからぼくが医科の学生になっていたんだからなあ」

「なんで、そんな余計なうそをつくんだ」

原文を見る

「なんで、そんなよけいなうそをつくんだ」

「そりゃ、またそれぞれのわけのあることなのさ。それで、その人が病気の時に診てくれと頼まれて困ったこともある」

原文を見る

「そりゃ、またそれぞれの事情のあることなのさ。それで、女が病気の時に、診断を頼まれて困ったこともある」

三四郎はおかしくなった。

原文を見る

三四郎はおかしくなった。

「その時は舌を見て、胸をたたいて、いいかげんにごまかしたが、その次に、病院へ行って見てもらいたいがいいかと聞かれたのには困った」

原文を見る

「その時は舌を見て、胸をたたいて、いいかげんにごまかしたが、その次に病院へ行って、見てもらいたいがいいかと聞かれたには閉口した」

三四郎はとうとう笑い出した。

原文を見る

三四郎はとうとう笑いだした。

与次郎は、

原文を見る

与次郎は、

「そういうこともたくさんあるから、まあ安心するがよかろう」

原文を見る

「そういうこともたくさんあるから、まあ安心するがよかろう」

と言った。

原文を見る

と言った。

何のことだかわからない。

原文を見る

なんの事だかわからない。

しかし愉快になった。

原文を見る

しかし愉快になった。

与次郎はその時はじめて、美禰子についての不思議を説明した。

原文を見る

与次郎はその時はじめて、美禰子に関する不思議を説明した。

与次郎の言うところによると、よし子にも結婚の話がある。

原文を見る

与次郎の言うところによると、よし子にも結婚の話がある。

それから美禰子にもある。

原文を見る

それから美禰子にもある。

それだけならばいいが、よし子の行く所と美禰子の行く所が同じ人らしい。

原文を見る

それだけならばいいが、よし子の行く所と、美禰子の行く所が、同じ人らしい。

だから不思議なのだそうだ。

原文を見る

だから不思議なのだそうだ。

三四郎も少しばかにされたような気がした。

原文を見る

三四郎も少しばかにされたような気がした。

しかし、よし子の結婚だけはたしかである。

原文を見る

しかしよし子の結婚だけはたしかである。

現に自分がその話をそばで聞いていた。

原文を見る

現に自分がその話をそばで聞いていた。

ことによると、その話を美禰子のと取り違えたのかもしれない。

原文を見る

ことによるとその話を美禰子のと取り違えたのかもしれない。

けれども美禰子の結婚も、まったくうそではないらしい。

原文を見る

けれども美禰子の結婚も、まったく嘘ではないらしい。

三四郎ははっきりしたところが知りたくなった。

原文を見る

三四郎ははっきりしたところが知りたくなった。

ついでだから、与次郎に教えてくれと頼んだ。

原文を見る

ついでだから、与次郎に教えてくれと頼んだ。

与次郎はわけなく承知した。

原文を見る

与次郎はわけなく承知した。

よし子を見舞いに来るようにしてやるから、じかに聞いてみろという。

原文を見る

よし子を見舞いに来るようにしてやるから、じかに聞いてみろという。

うまいことを考えた。

原文を見る

うまい事を考えた。

「だから、薬を飲んで待っていなくてはいけない」

原文を見る

「だから、薬を飲んで、待っていなくってはいけない」

「病気が直っても、寝て待っている」

原文を見る

「病気が直っても、寝て待っている」

二人は笑って別れた。

原文を見る

二人は笑って別れた。

帰りがけに与次郎が、近所のお医者さんに来てもらう手続きをした。

原文を見る

帰りがけに与次郎が、近所の医者に来てもらう手続きをした。

晩になって、お医者さんが来た。

原文を見る

晩になって、医者が来た。

三四郎は自分でお医者さんを呼んだ覚えがないんだから、はじめは少しうろたえた。

原文を見る

三四郎は自分で医者を迎えた覚えがないんだから、はじめは少し狼狽ろうばいした。

そのうち脈を取られたので、ようやく気がついた。

原文を見る

そのうち脈を取られたのでようやく気がついた。

年の若い、ていねいな人である。

原文を見る

年の若い丁寧な男である。

三四郎は代わりのお医者さんと見た。

原文を見る

三四郎は代診と鑑定した。

五分の後、病気の名はインフルエンザと決まった。

原文を見る

五分ののち病症はインフルエンザときまった。

今夜は薬を飲んで、なるべく風に当たらないようにしろという注意である。

原文を見る

今夜頓服とんぷくを飲んで、なるべく風にあたらないようにしろという注意である。

翌日目がさめると、頭がだいぶ軽くなっている。

原文を見る

翌日目がさめると、頭がだいぶ軽くなっている。

寝ていれば、ほとんどふだんに近い。

原文を見る

寝ていれば、ほとんど常体に近い。

ただ枕を離れるとふらふらする。

原文を見る

ただ枕を離れると、ふらふらする。

女中が来て、だいぶ部屋の中が熱くさいと言った。

原文を見る

下女が来て、だいぶ部屋の中が熱臭いと言った。

三四郎はごはんも食べずに、あおむけに天井を眺めていた。

原文を見る

三四郎は飯も食わずに、仰向けに天井をながめていた。

時々うとうと眠くなる。

原文を見る

時々うとうと眠くなる。

たしかに熱と疲れとにとらえられたありさまである。

原文を見る

明らかに熱と疲れとにとらわれたありさまである。

三四郎はとらえられたまま逆らわずに、寝たりさめたりする間に、自然に従う一種の心地よさを感じた。

原文を見る

三四郎は、とらわれたまま、逆らわずに、寝たりさめたりするあいだに、自然に従う一種の快感を得た。

病気が軽いからだと思った。

原文を見る

病症が軽いからだと思った。

四時間、五時間とたつうちに、そろそろ退屈を感じ出した。

原文を見る

四時間、五時間とたつうちに、そろそろ退屈を感じだした。

しきりに寝返りを打つ。

原文を見る

しきりに寝返りを打つ。

外はいい天気である。

原文を見る

外はいい天気である。

障子に当たる日が、だんだん影を移してゆく。

原文を見る

障子にあたる日が、次第に影を移してゆく。

すずめが鳴く。

原文を見る

すずめが鳴く。

三四郎は、今日も与次郎が遊びに来てくれればいいと思った。

原文を見る

三四郎はきょうも与次郎が遊びに来てくれればいいと思った。

そこへ女中が障子を開けて、女のお客様だと言う。

原文を見る

ところへ下女が障子をあけて、女のお客様だと言う。

よし子がそう早く来ようとは思ってもみなかった。

原文を見る

よし子が、そう早く来ようとは待ち設けなかった。

与次郎だけに素早い動きをした。

原文を見る

与次郎だけに敏捷びんしょうな働きをした。

寝たまま、開け放しの入口に目をつけていると、やがて背の高い姿が敷居の上に現れた。

原文を見る

寝たまま、あけ放しの入口に目をつけていると、やがて高い姿が敷居の上へ現われた。

今日は紫のはかまをはいている。

原文を見る

きょうは紫のはかまをはいている。

足は両方とも廊下にある。

原文を見る

足は両方とも廊下にある。

ちょっと入るのをためらった様子が見える。

原文を見る

ちょっとはいるのを躊躇ちゅうちょした様子が見える。

三四郎は肩を布団から上げて、「いらっしゃい」

原文を見る

三四郎は肩を床から上げて、「いらっしゃい」

と言った。

原文を見る

と言った。

よし子は障子を閉めて、枕元にすわった。

原文を見る

よし子は障子をたてて、枕元まくらもとへすわった。

六畳の部屋が散らかっているうえに、今朝は掃除をしないから、なおせまくるしい。

原文を見る

六畳の座敷が、取り乱してあるうえに、けさは掃除そうじをしないから、なお狭苦しい。

よし子は三四郎に、

原文を見る

女は、三四郎に、

「寝ていらっしゃい」

原文を見る

「寝ていらっしゃい」

と言った。

原文を見る

と言った。

三四郎はまた頭を枕につけた。

原文を見る

三四郎はまた頭を枕へつけた。

自分だけは落ち着いている。

原文を見る

自分だけは穏やかである。

「臭くはないですか」

原文を見る

「臭くはないですか」

と聞いた。

原文を見る

と聞いた。

「ええ、少し」

原文を見る

「ええ、少し」

と言ったが、べつに臭そうな顔もしなかった。

原文を見る

と言ったが、べつだん臭い顔もしなかった。

「熱がおありなの。何なんでしょう、御病気は。お医者はいらしって」

原文を見る

「熱がおありなの。なんなんでしょう、御病気は。お医者はいらしって」

「お医者は昨夜来ました。インフルエンザだそうです」

原文を見る

「医者はゆうべ来ました。インフルエンザだそうです」

「今朝早く佐々木さんがおいでになって、小川が病気だから見舞いに行ってやってください。何の病気だかわからないが、なんでも軽くはないようだっておっしゃるものだから、私も美禰子さんもびっくりしたの」

原文を見る

「けさ早く佐々木さんがおいでになって、小川が病気だから見舞いに行ってやってください。何病だかわからないが、なんでも軽くはないようだっておっしゃるものだから、私も美禰子さんもびっくりしたの」

与次郎がまた少し大げさに言った。

原文を見る

与次郎がまた少しほらを吹いた。

悪く言えば、よし子をおびき出したようなものである。

原文を見る

悪く言えば、よし子を釣り出したようなものである。

三四郎は人がいいから、気の毒でならない。

原文を見る

三四郎は人がいいから、気の毒でならない。

「どうもありがとう」

原文を見る

「どうもありがとう」

と言って寝ている。

原文を見る

と言って寝ている。

よし子は風呂敷包みの中から、みかんのかごを出した。

原文を見る

よし子は風呂敷包ふろしきづつみの中から、蜜柑みかんかごを出した。

「美禰子さんに言われたから買ってきました」

原文を見る

「美禰子さんの御注意があったから買ってきました」

と正直なことを言う。

原文を見る

と正直な事を言う。

どちらのお見舞いだかわからない。

原文を見る

どっちのお見舞みやげだかわからない。

三四郎はよし子にお礼を述べておいた。

原文を見る

三四郎はよし子に対して礼を述べておいた。

「美禰子さんも来るはずですが、このごろ少し忙しいものですから――どうぞよろしくって……」

原文を見る

「美禰子さんもあがるはずですが、このごろ少し忙しいものですから――どうぞよろしくって……」

「何かとくべつ忙しいことができたのですか」

原文を見る

「何か特別に忙しいことができたのですか」

「ええ。できたの」

原文を見る

「ええ。できたの」

と言った。

原文を見る

と言った。

大きな黒い目が、枕についた三四郎の顔の上に注がれている。

原文を見る

大きな黒い目が、枕についた三四郎の顔の上に落ちている。

三四郎は下から、よし子の青白いひたいを見上げた。

原文を見る

三四郎は下から、よし子の青白い額を見上げた。

はじめてこの人に病院で会った日のことを思い出した。

原文を見る

はじめてこの女に病院で会った昔を思い出した。

今でもけだるそうに見える。

原文を見る

今でもものうげに見える。

同時に明るい。

原文を見る

同時に快活である。

頼りになるはずのすべてのなぐさめを、三四郎の枕の上にもたらしてきた。

原文を見る

頼りになるべきすべての慰謝を三四郎の枕の上にもたらしてきた。

「みかんをむいてあげましょうか」

原文を見る

「蜜柑をむいてあげましょうか」

よし子は青い葉の間から果物を取り出した。

原文を見る

女は青い葉の間から、果物くだものを取り出した。

のどのかわいた人は、香りのあふれる甘い汁をたっぷり飲んだ。

原文を見る

かわいた人は、にほとばしる甘い露を、したたかに飲んだ。

「おいしいでしょう。美禰子さんのお見舞いよ」

原文を見る

「おいしいでしょう。美禰子さんのお見舞みやげよ」

「もうたくさん」

原文を見る

「もうたくさん」

よし子はたもとから白いハンカチを出して手をふいた。

原文を見る

女はたもとから白いハンケチを出して手をふいた。

「野々宮さん、あなたの結婚のお話はどうなりました」

原文を見る

「野々宮さん、あなたの御縁談はどうなりました」

「あれきりです」

原文を見る

「あれぎりです」

「美禰子さんにも結婚の話があるそうじゃありませんか」

原文を見る

「美禰子さんにも縁談の口があるそうじゃありませんか」

「ええ、もうまとまりました」

原文を見る

「ええ、もうまとまりました」

「だれですか、相手は」

原文を見る

「だれですか、さきは」

「私をもらうと言ったかたなの。ほほほ、おかしいでしょう。美禰子さんのお兄さんのお友だちよ。私、近いうちにまた兄といっしょに家を持ちますの。美禰子さんが行ってしまうと、もうお世話になっているわけにいかないから」

原文を見る

「私をもらうと言ったかたなの。ほほほおかしいでしょう。美禰子さんのおあにいさんのお友だちよ。私近いうちにまた兄といっしょに家を持ちますの。美禰子さんが行ってしまうと、もうご厄介やっかいになってるわけにゆかないから」

「あなたはお嫁には行かないんですか」

原文を見る

「あなたはお嫁には行かないんですか」

「行きたい所がありさえすれば行きますわ」

原文を見る

「行きたい所がありさえすれば行きますわ」

よし子はこう言い捨てて、気持ちよく笑った。

原文を見る

女はこう言い捨てて心持ちよく笑った。

まだ行きたい所がないに決まっている。

原文を見る

まだ行きたい所がないにきまっている。

三四郎はその日から四日ほど布団を離れなかった。

原文を見る

三四郎はその日から四日よっかほど床を離れなかった。

五日目に、こわごわながら風呂に入って鏡を見た。

原文を見る

五日目いつかめにこわごわながら湯にはいって、鏡を見た。

死人のような顔つきである。

原文を見る

亡者もうじゃの相がある。

思い切って床屋へ行った。

原文を見る

思い切って床屋へ行った。

その翌日は日曜である。

原文を見る

そのあくる日は日曜である。

朝ごはんの後、シャツを重ねて外とうを着て、寒くないようにして美禰子の家へ行った。

原文を見る

朝飯後、シャツを重ねて、外套がいとうを着て、寒くないようにして美禰子の家へ行った。

玄関によし子が立って、今くつ脱ぎへ降りようとしている。

原文を見る

玄関によし子が立って、今沓脱くつぬぎへ降りようとしている。

今、兄の所へ行くところだと言う。

原文を見る

今兄の所へ行くところだと言う。

美禰子はいない。

原文を見る

美禰子はいない。

三四郎はいっしょに表へ出た。

原文を見る

三四郎はいっしょに表へ出た。

「もうすっかりいいんですか」

原文を見る

「もうすっかりいいんですか」

「ありがとう。もう直りました。――里見さんはどこへ行ったんですか」

原文を見る

「ありがとう。もう直りました。――里見さんはどこへ行ったんですか」

「お兄さん?」

原文を見る

「にいさん?」

「いいえ、美禰子さんです」

原文を見る

「いいえ、美禰子さんです」

「美禰子さんは教会」

原文を見る

「美禰子さんは会堂チャーチ

美禰子が教会へ行くことは、はじめて聞いた。

原文を見る

美禰子の会堂へ行くことは、はじめて聞いた。

どこの教会か教えてもらって、三四郎はよし子に別れた。

原文を見る

どこの会堂か教えてもらって、三四郎はよし子に別れた。

横町を三つほど曲がると、すぐ前へ出た。

原文を見る

横町を三つほど曲がると、すぐ前へ出た。

三四郎はまったくキリスト教に縁のない男である。

原文を見る

三四郎はまったく耶蘇教やそきょうに縁のない男である。

教会の中はのぞいて見たこともない。

原文を見る

会堂の中はのぞいて見たこともない。

前に立って建物を眺めた。

原文を見る

前へ立って、建物をながめた。

説教の知らせを読んだ。

原文を見る

説教の掲示を読んだ。

鉄の柵の所を行ったり来たりした。

原文を見る

鉄柵てっさくの所を行ったり来たりした。

ある時は寄りかかってみた。

原文を見る

ある時は寄りかかってみた。

三四郎はともかく、美禰子の出てくるのを待つつもりである。

原文を見る

三四郎はともかくもして、美禰子の出てくるのを待つつもりである。

やがて歌の声が聞こえた。

原文を見る

やがて唱歌の声が聞こえた。

賛美歌というものだろうと考えた。

原文を見る

賛美歌さんびかというものだろうと考えた。

閉め切った高い窓の中の出来事である。

原文を見る

締め切った高い窓のうちのでき事である。

音の大きさから考えると、よほどの人数らしい。

原文を見る

音量から察するとよほどの人数らしい。

美禰子の声も、その中にある。

原文を見る

美禰子の声もそのうちにある。

三四郎は耳を傾けた。

原文を見る

三四郎は耳を傾けた。

歌はやんだ。

原文を見る

歌はやんだ。

風が吹く。

原文を見る

風が吹く。

三四郎は外とうのえりを立てた。

原文を見る

三四郎は外套のえりを立てた。

空に美禰子の好きな雲が出た。

原文を見る

空に美禰子の好きな雲が出た。

前に美禰子といっしょに秋の空を見たこともあった。

原文を見る

かつて美禰子といっしょに秋の空を見たこともあった。

所は広田先生の二階であった。

原文を見る

所は広田先生の二階であった。

田端の小川のふちにすわったこともあった。

原文を見る

田端たばたの小川のふちにすわったこともあった。

その時も一人ではなかった。

原文を見る

その時も一人ではなかった。

迷える子。

原文を見る

迷羊ストレイ・シープ

迷える子。

原文を見る

迷羊ストレイ・シープ

雲が羊の形をしている。

原文を見る

雲が羊の形をしている。

突然、教会の戸が開いた。

原文を見る

忽然こつぜんとして会堂の戸が開いた。

中から人が出る。

原文を見る

中から人が出る。

人は天国から、この世へ帰る。

原文を見る

人は天国から浮世うきよへ帰る。

美禰子は終わりから四番目であった。

原文を見る

美禰子は終りから四番目であった。

縞のあずまコートを着て、うつむいて、上り口の階段を降りて来た。

原文を見る

しま吾妻あずまコートを着て、うつ向いて、上り口の階段を降りて来た。

寒いと見えて、肩をすぼめて両手を前で重ねて、できるだけ外の世界との関わりを少なくしている。

原文を見る

寒いとみえて、肩をすぼめて、両手を前で重ねて、できるだけ外界との交渉を少なくしている。

美禰子は、このいっさい高ぶらない様子を門ぎわまで保った。

原文を見る

美禰子はこのすべてにあがらざる態度を門ぎわまで持続した。

その時、通りのせわしさにはじめて気がついたように顔を上げた。

原文を見る

その時、往来の忙しさに、はじめて気がついたように顔を上げた。

三四郎のぬいだ帽子の影が、美禰子の目に映った。

原文を見る

三四郎の脱いだ帽子の影が、女の目に映った。

二人は説教の知らせのある所で、互いに近寄った。

原文を見る

二人は説教の掲示のある所で、互いに近寄った。

「どうなすって」

原文を見る

「どうなすって」

「今お宅までちょっと出たところです」

原文を見る

「今お宅までちょっと出たところです」

「そう、じゃいらっしゃい」

原文を見る

「そう、じゃいらっしゃい」

美禰子は半ば向きを変えかけた。

原文を見る

女はなかば歩をめぐらしかけた。

相変わらず低い下駄をはいている。

原文を見る

相変らず低い下駄げたをはいている。

三四郎はわざと教会の垣に身を寄せた。

原文を見る

男はわざと会堂のかきに身を寄せた。

「ここでお目にかかれば、それでよい。さっきから、あなたの出て来るのを待っていた」

原文を見る

「ここでお目にかかればそれでよい。さっきから、あなたの出て来るのを待っていた」

「お入りになればよいのに。寒かったでしょう」

原文を見る

「おはいりになればよいのに。寒かったでしょう」

「寒かった」

原文を見る

「寒かった」

「お風邪はもうよいの。大事になさらないと、ぶり返しますよ。まだ顔色がよくないようね」

原文を見る

「お風邪はもうよいの。大事になさらないと、ぶり返しますよ。まだ顔色がよくないようね」

三四郎は返事をせずに、外とうのポケットから紙に包んだものを出した。

原文を見る

男は返事をしずに、外套の隠袋かくしから半紙に包んだものを出した。

「お借りしたお金です。長々ありがとう。返そう返そうと思って、ついおそくなった」

原文を見る

「拝借した金です。ながながありがとう。返そう返そうと思って、ついおそくなった」

美禰子はちょっと三四郎の顔を見たが、そのまま逆らわずに紙包みを受け取った。

原文を見る

美禰子はちょっと三四郎の顔を見たが、そのまま逆らわずに、紙包みを受け取った。

しかし手に持ったまま、しまわずに眺めている。

原文を見る

しかし手に持ったなり、しまわずにながめている。

三四郎もそれを眺めている。

原文を見る

三四郎もそれをながめている。

言葉が少しの間切れた。

原文を見る

言葉が少しのあいだ切れた。

やがて美禰子が言った。

原文を見る

やがて、美禰子が言った。

「あなた、御不自由じゃなくって」

原文を見る

「あなた、御不自由じゃなくって」

「いいえ、この間からそのつもりで、ふるさとから取り寄せておいたのだから、どうか取ってください」

原文を見る

「いいえ、このあいだからそのつもりで国から取り寄せておいたのだから、どうか取ってください」

「そう。じゃいただいておきましょう」

原文を見る

「そう。じゃいただいておきましょう」

美禰子は紙包みをふところへ入れた。

原文を見る

女は紙包みを懐へ入れた。

その手をあずまコートから出した時、白いハンカチを持っていた。

原文を見る

その手を吾妻コートから出した時、白いハンケチを持っていた。

鼻の所へ当てて、三四郎を見ている。

原文を見る

鼻のところへあてて、三四郎を見ている。

ハンカチをかぐ様子でもある。

原文を見る

ハンケチをかぐ様子でもある。

やがて、その手を不意に伸ばした。

原文を見る

やがて、その手を不意に延ばした。

ハンカチが三四郎の顔の前へ来た。

原文を見る

ハンケチが三四郎の顔の前へ来た。

強い香りがぷんとする。

原文を見る

鋭いかおりがぷんとする。

「ヘリオトロープ」

原文を見る

「ヘリオトロープ」

と美禰子が静かに言った。

原文を見る

と女が静かに言った。

三四郎は思わず顔をあとへ引いた。

原文を見る

三四郎は思わず顔をあとへ引いた。

ヘリオトロープのびん。

原文を見る

ヘリオトロープのびん

四丁目の夕暮れ。

原文を見る

四丁目の夕暮。

迷える子。

原文を見る

迷羊ストレイ・シープ

迷える子。

原文を見る

迷羊ストレイ・シープ

空には高い日がはっきりとかかる。

原文を見る

空には高い日が明らかにかかる。

「結婚なさるそうですね」

原文を見る

「結婚なさるそうですね」

美禰子は白いハンカチをたもとへ落とした。

原文を見る

美禰子は白いハンケチをたもとへ落とした。

「御存じなの」

原文を見る

「御存じなの」

と言いながら、二重まぶたを細めて三四郎の顔を見た。

原文を見る

と言いながら、二重瞼ふたえまぶたを細目にして、男の顔を見た。

三四郎を遠くに置いて、かえって遠くにいるのを気にしすぎた目つきである。

原文を見る

三四郎を遠くに置いて、かえって遠くにいるのを気づかいすぎた目つきである。

そのくせ、まゆだけははっきり落ち着いている。

原文を見る

そのくせまゆだけははっきりおちついている。

三四郎の舌が上あごへひっついてしまった。

原文を見る

三四郎の舌が上顎うわあごへひっついてしまった。

美禰子はしばらく三四郎を眺めた後、聞き取れないほどのため息をかすかにもらした。

原文を見る

女はややしばらく三四郎をながめたのち、聞きかねるほどのため息をかすかにもらした。

やがて細い手を濃いまゆの上に当てて言った。

原文を見る

やがて細い手を濃い眉の上に加えて言った。

「われは、わが過ちを知る。わが罪は、いつもわが前にある」

原文を見る

「我はわがとがを知る。わが罪は常にわが前にあり」

聞き取れないくらいの声であった。

原文を見る

聞き取れないくらいな声であった。

それを三四郎ははっきり聞き取った。

原文を見る

それを三四郎は明らかに聞き取った。

三四郎と美禰子は、こうして別れた。

原文を見る

三四郎と美禰子はかようにして別れた。

下宿へ帰ったら、母からの電報が来ていた。

原文を見る

下宿へ帰ったら母からの電報が来ていた。

開けて見ると、いつ発つとある。

原文を見る

あけて見ると、いつ立つとある。

一三

原文を見る

一三

原口さんの絵はできあがった。

原文を見る

原口さんの絵はでき上がった。

丹青会はこれを一つの部屋の正面にかけた。

原文を見る

丹青会はこれを一室の正面にかけた。

そうして、その前に長い腰掛けを置いた。

原文を見る

そうしてその前に長い腰掛けを置いた。

休むためでもある。

原文を見る

休むためでもある。

絵を見るためでもある。

原文を見る

絵を見るためでもある。

休み、そして味わうためでもある。

原文を見る

休みかつ味わうためでもある。

丹青会はこうして、この大きな絵の前をゆっくり行き来する多くの人に、便利をはかった。

原文を見る

丹青会はこうして、この大作に彽徊ていかいする多くの観覧者に便利を与えた。

とくべつなあつかいである。

原文を見る

特別の待遇である。

絵がとくべつな出来だからという。

原文を見る

絵が特別のできだからという。

あるいは、人の目を引く題だからとも言う。

原文を見る

あるいは人の目をひく題だからともいう。

少しの人は、あの人を描いたからだと言った。

原文を見る

少数のものは、あの女を描いたからだといった。

会員の一、二人は、まったく大きいからだと言いわけした。

原文を見る

会員の一、二はまったく大きいからだと弁解した。

大きいには違いない。

原文を見る

大きいには違いない。

幅十五センチを越える金のわくをつけて見ると、見違えるように大きくなった。

原文を見る

幅五寸に余る金の縁をつけて見ると、見違えるように大きくなった。

原口さんは始まる前の日、下見のためちょっと来た。

原文を見る

原口さんは開会の前日検分のためちょっと来た。

腰掛けに腰を下ろして、長い間パイプをくわえて眺めていた。

原文を見る

腰掛けに腰をおろして、久しいあいだパイプをくわえてながめていた。

やがて、ぬっと立って中をひと回りていねいに回った。

原文を見る

やがて、ぬっと立って、場内を一巡丁寧に回った。

それから、またもとの腰掛けへ帰って、二本目のパイプをゆっくり吸った。

原文を見る

それからまたもとの腰掛けへ帰って、第二のパイプをゆっくり吹かした。

「森の女」

原文を見る

「森の女」

の前には、始まった日から人がいっぱい集まった。

原文を見る

の前には開会の当日から人がいっぱいたかった。

せっかくの腰掛けは、じゃまなだけのものになった。

原文を見る

せっかくの腰掛けは無用の長物となった。

ただ疲れた人が、絵を見ないために休んでいた。

原文を見る

ただ疲れた者が、絵を見ないために休んでいた。

それでも休みながら「森の女」

原文を見る

それでも休みながら「森の女」

について語っている人がある。

原文を見る

の評をしていた者がある。

美禰子は夫に連れられて二日目に来た。

原文を見る

美禰子は夫に連られて二日目に来た。

原口さんが案内をした。

原文を見る

原口さんが案内をした。

「森の女」

原文を見る

「森の女」

の前へ出た時、原口さんは「どうです」

原文を見る

の前へ出た時、原口さんは「どうです」

と二人を見た。

原文を見る

二人ふたりを見た。

夫は「結構です」

原文を見る

夫は「結構です」

と言って、眼鏡の奥からじっと目をこらした。

原文を見る

と言って、眼鏡めがねの奥からじっとひとみを凝らした。

「このうちわをかざして立った姿がいい。さすが専門の人は違いますね。よくここに気がついたものだ。光が顔へ当たる具合がうまい。陰と日なたの切り替わりがくっきりして――顔だけでも、とてもおもしろい変わり方がある」

原文を見る

「この団扇うちわをかざして立った姿勢がいい。さすが専門家は違いますね。よくここに気がついたものだ。光線が顔へあたるぐあいがうまい。陰と日向ひなたの段落がかっきりして――顔だけでも非常におもしろい変化がある」

「いや、みな御本人のお好みだから。ぼくの手がらじゃない」

原文を見る

「いや皆御当人のお好みだから。ぼくの手柄てがらじゃない」

「おかげさまで」

原文を見る

「おかげさまで」

と美禰子がお礼を述べた。

原文を見る

と美禰子が礼を述べた。

「私も、おかげさまで」

原文を見る

「私も、おかげさまで」

と今度は原口さんがお礼を述べた。

原文を見る

と今度は原口さんが礼を述べた。

夫は妻の手がらだと聞いて、いかにもうれしそうである。

原文を見る

夫は細君の手柄だと聞いてさもうれしそうである。

三人のうちでいちばんていねいにお礼を述べたのは夫である。

原文を見る

三人のうちでいちばん鄭重ていちょうな礼を述べたのは夫である。

始まって最初の土曜の昼過ぎには、おおぜいいっしょに来た。――

原文を見る

開会後第一の土曜の昼過ぎにはおおぜいいっしょに来た。――

広田先生と野々宮さんと与次郎と三四郎と。

原文を見る

広田先生と野々宮さんと与次郎と三四郎と。

四人はよそをあと回しにして、まず「森の女」

原文を見る

四人よったりはよそをあと回しにして、第一に「森の女」

の部屋に入った。

原文を見る

部屋へやにはいった。

与次郎が「あれだ、あれだ」

原文を見る

与次郎が「あれだ、あれだ」

と言う。

原文を見る

と言う。

人がたくさん集まっている。

原文を見る

人がたくさんたかっている。

三四郎は入口でちょっとためらった。

原文を見る

三四郎は入口でちょっと躊躇ちゅうちょした。

野々宮さんは平気な顔で入った。

原文を見る

野々宮さんは超然としてはいった。

おおぜいの後ろからのぞきこんだだけで、三四郎は下がった。

原文を見る

おおぜいのうしろから、のぞきこんだだけで、三四郎は退いた。

腰掛けによってみんなを待っていた。

原文を見る

腰掛けによってみんなを待ち合わしていた。

「すてきに大きなものを描いたな」

原文を見る

「すてきに大きなもの描いたな」

と与次郎が言った。

原文を見る

と与次郎が言った。

「佐々木に買ってもらうつもりだそうだ」

原文を見る

「佐々木に買ってもらうつもりだそうだ」

と広田先生が言った。

原文を見る

と広田先生が言った。

「ぼくより」

原文を見る

「ぼくより」

と言いかけて見ると、三四郎はむずかしい顔をして腰掛けにもたれている。

原文を見る

と言いかけて、見ると、三四郎はむずかしい顔をして腰掛けにもたれている。

与次郎は黙ってしまった。

原文を見る

与次郎は黙ってしまった。

「色の出し方がなかなかしゃれていますね。むしろ粋(いき)な絵だ」

原文を見る

「色の出し方がなかなか洒落しゃれていますね。むしろ意気な絵だ」

と野々宮さんが言った。

原文を見る

と野々宮さんが評した。

「少し気がききすぎているくらいだ。これでは、鼓の音のようにぽんぽんする絵は描けないと白状するはずだ」

原文を見る

「少し気がききすぎているくらいだ。これじゃつづみのようにぽんぽんする絵はかけないと自白するはずだ」

と広田先生が言った。

原文を見る

と広田先生が評した。

「なんです、ぽんぽんする絵というのは」

原文を見る

「なんですぽんぽんする絵というのは」

「鼓の音のように、のんびりしていておもしろい絵のことさ」

原文を見る

「鼓の音のように間が抜けていて、おもしろい絵の事さ」

二人は笑った。

原文を見る

二人は笑った。

二人はわざのことばかり話す。

原文を見る

二人は技巧の評ばかりする。

与次郎が言い返した。

原文を見る

与次郎が異を立てた。

「里見さんを描いては、だれが描いたって、のんびりしたようには描けませんよ」

原文を見る

「里見さんを描いちゃ、だれが描いたって、間が抜けてるようには描けませんよ」

野々宮さんは目録へ印をつけるために、ポケットへ手を入れて鉛筆を捜した。

原文を見る

野々宮さんは目録へ記号しるしをつけるために、隠袋かくしへ手を入れて鉛筆を捜した。

鉛筆がなくて、一枚の印刷したはがきが出てきた。

原文を見る

鉛筆がなくって、一枚の活版刷りのはがきが出てきた。

見ると、美禰子の結婚のお披露目の招待状であった。

原文を見る

見ると、美禰子の結婚披露ひろうの招待状であった。

お披露目はとっくに済んだ。

原文を見る

披露はとうに済んだ。

野々宮さんは広田先生といっしょにフロックコートで出た。

原文を見る

野々宮さんは広田先生といっしょにフロックコートで出席した。

三四郎は東京へ帰った日に、この招待状を下宿の机の上に見た。

原文を見る

三四郎は帰京の当日この招待状を下宿の机の上に見た。

日はすでに過ぎていた。

原文を見る

時期はすでに過ぎていた。

野々宮さんは招待状を引きちぎって床の上に捨てた。

原文を見る

野々宮さんは、招待状を引き千切って床の上に捨てた。

やがて先生とともに、ほかの絵を見て回りはじめる。

原文を見る

やがて先生とともにほかの絵の評に取りかかる。

与次郎だけが三四郎のそばへ来た。

原文を見る

与次郎だけが三四郎のそばへ来た。

「どうだ、森の女は」

原文を見る

「どうだ森の女は」

「森の女という題が悪い」

原文を見る

「森の女という題が悪い」

「じゃ、何とすればよいんだ」

原文を見る

「じゃ、なんとすればよいんだ」

三四郎は何とも答えなかった。

原文を見る

三四郎はなんとも答えなかった。

ただ口の中で、迷える子、迷える子と繰り返した。

原文を見る

ただ口の中で迷羊ストレイ・シープ迷羊ストレイ・シープと繰り返した。