夢十夜 小学生向け
夏目漱石(なつめそうせき)・1988年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-28)
第一夜
原文を見る
第一夜
こんな夢を見た。
原文を見る
こんな夢を見た。
腕組みをして枕もとに座っていると、あおむけに寝ていた女の人が、静かな声で「もうすぐ死にます」と言った。
原文を見る
腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。
女の人は長い髪をまくらに敷いて、輪郭のやわらかい瓜実顔(うりざねがお・やさしい卵形の顔)を、その中に横たえていた。
原文を見る
女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。
真っ白なほおの底に、あたたかい血の色がちょうどよく差していて、くちびるの色はもちろん赤かった。
原文を見る
真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。
とても死にそうには見えなかった。
原文を見る
とうてい死にそうには見えない。
しかし女の人は静かな声で、「もうすぐ死にます」とはっきり言った。
原文を見る
しかし女は静かな声で、もう死にますと判然云った。
自分も、これはたしかに死ぬのだな、と思った。
原文を見る
自分も確にこれは死ぬなと思った。
そこで、「そうかい、もう死ぬのかい」と、上からのぞきこむようにして聞いてみた。
原文を見る
そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにして聞いて見た。
「死にますとも」と言いながら、女の人はぱっちりと目を開けた。
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死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開けた。
大きなうるおいのある目で、長いまつげに包まれた中は、ただ一面まっ黒だった。
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大きな潤のある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。
そのまっ黒なひとみの奥に、自分のすがたがくっきりと映っていた。
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その真黒な眸の奥に、自分の姿が鮮に浮かんでいる。
自分はすき通るほど深く見えるその黒目のつやをながめて、これでも死ぬのか、と思った。
原文を見る
自分は透き徹るほど深く見えるこの黒眼の色沢を眺めて、これでも死ぬのかと思った。
それで、ていねいにまくらのそばへ口を近づけて、「死ぬんじゃないだろうね、大丈夫だろうね」と、また聞き返した。
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それで、ねんごろに枕の傍へ口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまた聞き返した。
すると女の人は黒い目を眠そうに見開いたまま、やはり静かな声で、「でも、死ぬんですもの、しかたがないわ」と言った。
原文を見る
すると女は黒い眼を眠そうに睜たまま、やっぱり静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわと云った。
「じゃあ、私の顔が見えるかい」と一生けんめいに聞くと、「見えるかいって、ほら、そこに、うつっているじゃありませんか」と、にこりと笑ってみせた。
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じゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞くと、見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せた。
自分はだまって、顔をまくらから離した。
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自分は黙って、顔を枕から離した。
腕組みをしながら、どうしても死ぬのかな、と思った。
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腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思った。
しばらくして、女の人がまたこう言った。
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しばらくして、女がまたこう云った。
「死んだら、うめてください。大きな真珠貝(しんじゅがい)で穴を掘って。それから、天から落ちてくる星のかけらを墓じるしに置いてください。そして、お墓のそばで待っていてください。また会いに来ますから」
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「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片を墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢いに来ますから」
自分は、「いつ会いに来るのかい」と聞いた。
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自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。
「日が出るでしょう。それから日がしずむでしょう。それからまた出るでしょう、そしてまたしずむでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちていくうちに――あなたは、待っていられますか」
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「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」
自分はだまってうなずいた。
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自分は黙って首肯いた。
女の人は静かな調子を少し張り上げて、
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女は静かな調子を一段張り上げて、
「百年待っていてください」
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「百年待っていて下さい」
と、思いきった声で言った。
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と思い切った声で云った。
「百年、私のお墓のそばに座って待っていてください。きっと会いに来ますから」
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「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
自分はただ、待っていると答えた。
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自分はただ待っていると答えた。
すると、黒いひとみの中にくっきりと見えていた自分のすがたが、ぼんやりとくずれてきた。
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すると、黒い眸のなかに鮮に見えた自分の姿が、ぼうっと崩れて来た。
静かな水が動いて、映る影を乱したように、すがたが流れ出したと思ったら、女の人の目がぱちりと閉じた。
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静かな水が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、女の眼がぱちりと閉じた。
長いまつげの間から、なみだがほおへ垂れた。――
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長い睫の間から涙が頬へ垂れた。――
もう死んでいた。
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もう死んでいた。
自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘った。
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自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘った。
真珠貝は、大きくてなめらかな、ふちの鋭い貝だった。
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真珠貝は大きな滑かな縁の鋭どい貝であった。
土をすくうたびに、貝のうらに月の光が差してきらきら光った。
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土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした。
しめった土のにおいもした。
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湿った土の匂もした。
穴はしばらくして掘れた。
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穴はしばらくして掘れた。
女の人をその中に入れた。
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女をその中に入れた。
そして、やわらかい土を、上からそっとかけた。
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そうして柔らかい土を、上からそっと掛けた。
かけるたびに、真珠貝のうらに月の光が差した。
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掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が差した。
それから星のかけらの落ちたものを拾ってきて、そっと土の上にのせた。
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それから星の破片の落ちたのを拾って来て、かろく土の上へ乗せた。
星のかけらは丸かった。
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星の破片は丸かった。
長い間、大空を落ちてくる間に、角が取れてなめらかになったんだろう、と思った。
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長い間大空を落ちている間に、角が取れて滑かになったんだろうと思った。
だき上げて土の上に置くうちに、自分の胸と手が少しあたたかくなった。
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抱き上げて土の上へ置くうちに、自分の胸と手が少し暖くなった。
自分はこけの上に座った。
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自分は苔の上に坐った。
これから百年の間、こうして待っているんだな、と考えながら、腕組みをして、丸い墓石をながめていた。
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これから百年の間こうして待っているんだなと考えながら、腕組をして、丸い墓石を眺めていた。
そのうちに、女の人が言った通り、日が東から出た。
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そのうちに、女の云った通り日が東から出た。
大きな赤い太陽だった。
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大きな赤い日であった。
それがまた、女の人が言った通り、やがて西へ落ちた。
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それがまた女の云った通り、やがて西へ落ちた。
赤いまま、のっそりと落ちていった。
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赤いまんまでのっと落ちて行った。
「一つ」と自分は数えた。
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一つと自分は勘定した。
しばらくすると、また真っ赤な太陽がのそりとのぼってきた。
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しばらくするとまた唐紅の天道がのそりと上って来た。
そうしてだまって沈んでしまった。
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そうして黙って沈んでしまった。
「二つ」とまた数えた。
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二つとまた勘定した。
自分はこんなふうに一つ二つと数えていくうちに、赤い太陽をいくつ見たか分からなくなった。
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自分はこう云う風に一つ二つと勘定して行くうちに、赤い日をいくつ見たか分らない。
数えても、数えても、数えきれないほど、赤い太陽が頭の上を通りすぎていった。
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勘定しても、勘定しても、しつくせないほど赤い日が頭の上を通り越して行った。
それでも百年がまだ来ない。
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それでも百年がまだ来ない。
しまいには、こけの生えた丸い石をながめて、自分は女の人にだまされたのではないか、と思い出した。
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しまいには、苔の生えた丸い石を眺めて、自分は女に欺されたのではなかろうかと思い出した。
すると、石の下からななめに自分の方へ向かって、青いくきが伸びてきた。
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すると石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。
見る間に長くなって、ちょうど自分の胸のあたりまで来て止まった。
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見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。
と思うと、すらりとゆれるくきの先で、少し首をかたむけていた細長いつぼみが一つ、ふっくらと花びらを開いた。
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と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。
真っ白なゆりの花が、鼻の先で、体の芯まで感じるほど強くにおった。
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真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。
そこへ、はるか上から、ぽたりと露が落ちてきたので、花は自分の重さでふらふらとゆれた。
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そこへ遥の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。
自分は首を前に出して、冷たい露のしたたる白い花びらに、そっと口づけをした。
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自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。
自分がゆりから顔をはなしたとたん、思わず遠い空を見たら、明け方の星がたった一つ、またたいていた。
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自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
「百年は、もう来ていたんだな」
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「百年はもう来ていたんだな」
と、この時はじめて気がついた。
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とこの時始めて気がついた。
第二夜
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第二夜
こんな夢を見た。
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こんな夢を見た。
和尚(おしょう・お寺のえらいお坊さん)さんの部屋を出て、廊下を通って自分の部屋へ帰ると、あんどんがぼんやりともっていた。
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和尚の室を退がって、廊下伝いに自分の部屋へ帰ると行灯がぼんやり点っている。
座ぶとんの上に片ひざをついて、あんどんの芯をかき立てると、花のような形のもえさしが、ぱたりと朱塗りの台に落ちた。
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片膝を座蒲団の上に突いて、灯心を掻き立てたとき、花のような丁子がぱたりと朱塗の台に落ちた。
同時に、部屋がぱっと明るくなった。
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同時に部屋がぱっと明かるくなった。
ふすまの絵は、蕪村(ぶそん)という人がかいたものだ。
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襖の画は蕪村の筆である。
黒い柳を、こく、うすく、遠くや近くにかいて、寒そうな漁師が、笠をかたむけて土手の上を通っている。
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黒い柳を濃く薄く、遠近とかいて、寒むそうな漁夫が笠を傾けて土手の上を通る。
とこの間には、海中文殊(かいちゅうもんじゅ・海の中にいる文殊菩薩をえがいた掛け軸)がかかっている。
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床には海中文殊の軸が懸っている。
たきのこったお線香が、暗い方で、まだにおっている。
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焚き残した線香が暗い方でいまだに臭っている。
広いお寺だから、しんとして、人の気配がない。
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広い寺だから森閑として、人気がない。
黒い天井にさす丸あんどんの丸いかげが、あおむいたとたんに、生きているように見えた。
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黒い天井に差す丸行灯の丸い影が、仰向く途端に生きてるように見えた。
立てひざをしたまま、左手で座ぶとんをめくって、右手をさし込んでみると、思っていた場所に、ちゃんとあった。
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立膝をしたまま、左の手で座蒲団を捲って、右を差し込んで見ると、思った所に、ちゃんとあった。
あれば安心なので、ふとんをもとのように直して、その上にどっかりと座った。
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あれば安心だから、蒲団をもとのごとく直して、その上にどっかり坐った。
お前は侍だ。
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お前は侍である。
侍なら悟り(さとり・仏教で、物事の本当のすがたがわかるようになること)が開けないはずはない、と和尚さんが言った。
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侍なら悟れぬはずはなかろうと和尚が云った。
そんなにいつまでも悟れないところを見ると、お前は侍ではないだろう、と言った。
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そういつまでも悟れぬところをもって見ると、御前は侍ではあるまいと言った。
人間のくずだ、と言った。
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人間の屑じゃと言った。
ははあ、怒ったな、と言って笑った。
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ははあ怒ったなと云って笑った。
くやしければ、悟った証拠を持ってこい、と言って、ぷいと向こうを向いた。
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口惜しければ悟った証拠を持って来いと云ってぷいと向をむいた。
けしからん。
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怪しからん。
隣の広間のとこに置いてある置き時計が、次の時こくを打つまでには、きっと悟ってみせる。
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隣の広間の床に据えてある置時計が次の刻を打つまでには、きっと悟って見せる。
悟った上で、今夜また和尚さんの部屋に入る。
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悟った上で、今夜また入室する。
そうして、和尚さんの首と悟りとを引きかえにしてやる。
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そうして和尚の首と悟りと引替にしてやる。
悟らなければ、和尚さんの命は取れない。
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悟らなければ、和尚の命が取れない。
どうしても悟らなければならない。
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どうしても悟らなければならない。
自分は侍だ。
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自分は侍である。
もし悟れなければ、自分で自分の命を絶つ(自刃・じじん)。
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もし悟れなければ自刃する。
侍が恥をかかされて、生きているわけにはいかない。
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侍が辱しめられて、生きている訳には行かない。
きれいに死んでしまう。
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綺麗に死んでしまう。
こう考えたとき、自分の手はまた、思わずふとんの下へ入った。
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こう考えた時、自分の手はまた思わず布団の下へ這入った。
そうして、赤い鞘(さや・刀を入れるふくろ)の短刀を引きずり出した。
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そうして朱鞘の短刀を引き摺り出した。
ぐっと柄(つか・刀の持つところ)をにぎって、赤い鞘を向こうへ払うと、冷たい刃が、一度に暗い部屋で光った。
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ぐっと束を握って、赤い鞘を向へ払ったら、冷たい刃が一度に暗い部屋で光った。
すごいものが、手もとから、すうすうと逃げていくように思われる。
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凄いものが手元から、すうすうと逃げて行くように思われる。
そうして、すべてが切っ先(きっさき・刀の先)に集まって、殺気(さっき・人を殺そうとするような気配)を一点にこめている。
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そうして、ことごとく切先へ集まって、殺気を一点に籠めている。
自分は、この鋭い刃が、無念にも針の先のように縮められて、九寸五分(くすんごぶ・むかしの長さの単位で、およそ29センチメートル)の先まで来て、しかたなくとがっているのを見て、たちまちぐさりとやりたくなった。
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自分はこの鋭い刃が、無念にも針の頭のように縮められて、九寸五分の先へ来てやむをえず尖ってるのを見て、たちまちぐさりとやりたくなった。
体の血が右の手首の方へ流れてきて、にぎっている柄がにちゃにちゃする。
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身体の血が右の手首の方へ流れて来て、握っている束がにちゃにちゃする。
くちびるがふるえた。
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唇が顫えた。
短刀をさやに収めて右わきへ引きつけておいて、それから足を組んで座禅(ざぜん)に入った。――
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短刀を鞘へ収めて右脇へ引きつけておいて、それから全伽を組んだ。――
趙州(じょうしゅう・むかしの中国の、有名な禅(ぜん)のお坊さん)は「無」と言った。
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趙州曰く無と。
無とは何だ。
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無とは何だ。
くそ坊主め、と歯ぎしりをした。
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糞坊主めとはがみをした。
おく歯を強くかみしめたので、鼻から熱い息が荒く出る。
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奥歯を強く咬み締めたので、鼻から熱い息が荒く出る。
こめかみがつって痛い。
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こめかみが釣って痛い。
目は、いつもの倍も大きく開けてやった。
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眼は普通の倍も大きく開けてやった。
掛け軸が見える。
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懸物が見える。
あんどんが見える。
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行灯が見える。
たたみが見える。
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畳が見える。
和尚さんのやかんのような頭が、はっきりと見える。
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和尚の薬缶頭がありありと見える。
大きな口を開けて、あざ笑った声まで聞こえる。
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鰐口を開いて嘲笑った声まで聞える。
けしからん坊主だ。
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怪しからん坊主だ。
どうしても、あのやかん頭を、首にしなくてはならない。
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どうしてもあの薬缶を首にしなくてはならん。
悟ってやる。
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悟ってやる。
無だ、無だ、と舌の根で念じた。
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無だ、無だと舌の根で念じた。
「無」だと言うのに、やっぱりお線香のにおいがした。
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無だと云うのにやっぱり線香の香がした。
何だ、お線香のくせに。
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何だ線香のくせに。
自分はいきなりこぶしをかためて、自分の頭を、いやというほどなぐった。
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自分はいきなり拳骨を固めて自分の頭をいやと云うほど擲った。
そうして、おく歯をぎりぎりとかんだ。
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そうして奥歯をぎりぎりと噛んだ。
両わきから、あせが出る。
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両腋から汗が出る。
背中がぼうのようにこわばった。
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背中が棒のようになった。
ひざのつぎ目が、急に痛くなった。
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膝の接目が急に痛くなった。
ひざが折れたって、どうということはない、と思った。
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膝が折れたってどうあるものかと思った。
けれども痛い。
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けれども痛い。
苦しい。
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苦しい。
「無」は、なかなか出てこない。
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無はなかなか出て来ない。
出てくると思うと、すぐ痛くなる。
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出て来ると思うとすぐ痛くなる。
腹が立つ。
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腹が立つ。
無念になる。
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無念になる。
ひどくくやしくなる。
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非常に口惜しくなる。
なみだがほろほろ出る。
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涙がほろほろ出る。
いっそのこと、体を大きな岩にぶつけて、骨も肉もめちゃめちゃにくだいてしまいたくなる。
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ひと思に身を巨巌の上にぶつけて、骨も肉もめちゃめちゃに砕いてしまいたくなる。
それでも、がまんしてじっと座っていた。
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それでも我慢してじっと坐っていた。
たえがたいほど切ないものを、胸につめこんでがまんしていた。
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堪えがたいほど切ないものを胸に盛れて忍んでいた。
その切ないものが、体じゅうの筋肉を下から持ち上げて、毛穴から外へふき出そう、ふき出そうとあせるけれども、どこも一面にふさがっていて、まるで出口がないような、むごたらしいありさまだった。
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その切ないものが身体中の筋肉を下から持上げて、毛穴から外へ吹き出よう吹き出ようと焦るけれども、どこも一面に塞がって、まるで出口がないような残刻極まる状態であった。
そのうちに、頭が変になった。
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そのうちに頭が変になった。
あんどんも、蕪村の絵も、たたみも、ちがい棚(だな・段になった飾りだな)も、あるのにないような、ないのにあるように見えた。
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行灯も蕪村の画も、畳も、違棚も有って無いような、無くって有るように見えた。
と言っても、「無」はちっとも、目の前に現れてこない。
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と云って無はちっとも現前しない。
ただ、いいかげんに座っていただけのようである。
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ただ好加減に坐っていたようである。
そこへ、とつぜん、となりの座敷の時計が「チーン」と鳴り始めた。
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ところへ忽然隣座敷の時計がチーンと鳴り始めた。
はっとした。
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はっと思った。
右手をすぐ短刀にかけた。
原文を見る
右の手をすぐ短刀にかけた。
時計が二つ目を「チーン」と打った。
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時計が二つ目をチーンと打った。
第三夜
原文を見る
第三夜
こんな夢を見た。
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こんな夢を見た。
六つになる子どもを、せおっている。
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六つになる子供を負ってる。
たしかに自分の子だ。
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たしかに自分の子である。
ただ、不思議なことに、いつのまにか目が見えなくなっていて、青々とそった坊主頭になっている。
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ただ不思議な事にはいつの間にか眼が潰れて、青坊主になっている。
自分が「お前の目は、いつ見えなくなったんだい」と聞くと、「なに、昔からさ」と答えた。
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自分が御前の眼はいつ潰れたのかいと聞くと、なに昔からさと答えた。
声は子どもの声にちがいないが、話し方はまるで大人だ。
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声は子供の声に相違ないが、言葉つきはまるで大人である。
しかも、対等だ。
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しかも対等だ。
左右は、青々とした田んぼだ。
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左右は青田である。
道は細い。
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路は細い。
さぎのかげが、時々、やみの中にさす。
原文を見る
鷺の影が時々闇に差す。
「田んぼへかかったね」
原文を見る
「田圃へかかったね」
と、背中で言った。
原文を見る
と背中で云った。
「どうして分かるの」
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「どうして解る」
と、顔を後ろへふり向けるようにして聞くと、
原文を見る
と顔を後ろへ振り向けるようにして聞いたら、
「だって、さぎが鳴くじゃないか」
原文を見る
「だって鷺が鳴くじゃないか」
と答えた。
原文を見る
と答えた。
すると、さぎが本当に二声ほど鳴いた。
原文を見る
すると鷺がはたして二声ほど鳴いた。
自分は、自分の子どもなのに、少しこわくなった。
原文を見る
自分は我子ながら少し怖くなった。
こんなものを背負っていては、この先どうなるか分からない。
原文を見る
こんなものを背負っていては、この先どうなるか分らない。
どこか、捨ててしまうところはないだろうか、と向こうを見ると、やみの中に大きな森が見えた。
原文を見る
どこか打遣ゃる所はなかろうかと向うを見ると闇の中に大きな森が見えた。
あそこならば、と考えたとたんに、背中で、
原文を見る
あすこならばと考え出す途端に、背中で、
「ふふん」
原文を見る
「ふふん」
という声がした。
原文を見る
と云う声がした。
「何を笑うんだ」
原文を見る
「何を笑うんだ」
子どもは返事をしなかった。
原文を見る
子供は返事をしなかった。
ただ
原文を見る
ただ
「お父さん、重いかい」
原文を見る
「御父さん、重いかい」
と聞いた。
原文を見る
と聞いた。
「重かあない」
原文を見る
「重かあない」
と答えると、
原文を見る
と答えると
「今に重くなるよ」
原文を見る
「今に重くなるよ」
と言った。
原文を見る
と云った。
自分はだまって、森を目印に歩いていった。
原文を見る
自分は黙って森を目標にあるいて行った。
田んぼの中の道が不規則にうねっていて、なかなか思うように抜けられない。
原文を見る
田の中の路が不規則にうねってなかなか思うように出られない。
しばらくすると、道が二またになった。
原文を見る
しばらくすると二股になった。
自分は、道の分かれ目に立って、ちょっと休んだ。
原文を見る
自分は股の根に立って、ちょっと休んだ。
「石が立っているはずだがな」
原文を見る
「石が立ってるはずだがな」
と、子どもが言った。
原文を見る
と小僧が云った。
なるほど、八寸角(はっすんかく・一辺がおよそ24センチの四角い形)の石が、腰ほどの高さに立っている。
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なるほど八寸角の石が腰ほどの高さに立っている。
表には「左 日ヶ窪、右 堀田原」とある。
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表には左り日ヶ窪、右堀田原とある。
やみなのに、赤い字がはっきりと見えた。
原文を見る
闇だのに赤い字が明かに見えた。
赤い字は、イモリのおなかのような色だった。
原文を見る
赤い字は井守の腹のような色であった。
「左がいいだろう」
原文を見る
「左が好いだろう」
と、子どもが命令した。
原文を見る
と小僧が命令した。
左を見ると、さっきの森が、やみのかげを、高い空から自分たちの頭の上へ投げかけていた。
原文を見る
左を見るとさっきの森が闇の影を、高い空から自分らの頭の上へ抛げかけていた。
自分はちょっとためらった。
原文を見る
自分はちょっと躊躇した。
「遠慮しないでもいい」
原文を見る
「遠慮しないでもいい」
と、子どもがまた言った。
原文を見る
と小僧がまた云った。
自分は仕方なしに、森の方へ歩き出した。
原文を見る
自分は仕方なしに森の方へ歩き出した。
心の中では、「目が見えないくせに、よく何でも知っているな」と考えながら、一本道を森へ近づいていくと、背中で、「どうも、目が見えないのは不自由でいけないね」
原文を見る
腹の中では、よく盲目のくせに何でも知ってるなと考えながら一筋道を森へ近づいてくると、背中で、「どうも盲目は不自由でいけないね」
と言った。
原文を見る
と云った。
「だから、負ぶってやるからいいじゃないか」
原文を見る
「だから負ってやるからいいじゃないか」
「負ぶってもらってすまないけど、どうも人にばかにされて困る。親にまでばかにされるから、こまるんだ」
原文を見る
「負ぶって貰ってすまないが、どうも人に馬鹿にされていけない。親にまで馬鹿にされるからいけない」
何だか、いやになった。
原文を見る
何だか厭になった。
早く森へ行って捨ててしまおう、と思って急いだ。
原文を見る
早く森へ行って捨ててしまおうと思って急いだ。
「もう少し行くと分かる。――ちょうど、こんな晩だったな」
原文を見る
「もう少し行くと解る。――ちょうどこんな晩だったな」
と、背中でひとり言のように言っている。
原文を見る
と背中で独言のように云っている。
「何が」
原文を見る
「何が」
と、せっぱつまった声を出して聞いた。
原文を見る
と際どい声を出して聞いた。
「何がって、知ってるじゃないか」
原文を見る
「何がって、知ってるじゃないか」
と、子どもはあざけるように答えた。
原文を見る
と子供は嘲けるように答えた。
すると、何だか知っているような気がしてきた。
原文を見る
すると何だか知ってるような気がし出した。
けれども、はっきりとは分からない。
原文を見る
けれども判然とは分らない。
ただ、こんな晩だったように思える。
原文を見る
ただこんな晩であったように思える。
そうして、もう少し行けば分かるように思える。
原文を見る
そうしてもう少し行けば分るように思える。
分かってしまっては大変だから、分からないうちに早く捨ててしまって、安心しなくてはならないように思える。
原文を見る
分っては大変だから、分らないうちに早く捨ててしまって、安心しなくってはならないように思える。
自分は、ますます足を早めた。
原文を見る
自分はますます足を早めた。
雨は、さっきから降っている。
原文を見る
雨はさっきから降っている。
道は、だんだん暗くなる。
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路はだんだん暗くなる。
ほとんど夢中だった。
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ほとんど夢中である。
ただ、背中に小さな子どもがくっついていて、その子どもが自分の過去、現在、未来をすべて照らして、わずかな事実も見のがさない鏡のように光っている。
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ただ背中に小さい小僧がくっついていて、その小僧が自分の過去、現在、未来をことごとく照して、寸分の事実も洩らさない鏡のように光っている。
しかも、それが自分の子だ。
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しかもそれが自分の子である。
そうして、目が見えない。
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そうして盲目である。
自分は、たまらなくなった。
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自分はたまらなくなった。
「ここだ、ここだ。ちょうど、その杉の根もとのところだ」
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「ここだ、ここだ。ちょうどその杉の根の処だ」
雨の中で、子どもの声ははっきり聞こえた。
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雨の中で小僧の声は判然聞えた。
自分は、思わず立ち止まった。
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自分は覚えず留った。
いつのまにか、森の中へ入っていた。
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いつしか森の中へ這入っていた。
一間(いっけん・約1.8メートル)ほど先にある黒いものは、たしかに子どもの言う通り、杉の木と見えた。
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一間ばかり先にある黒いものはたしかに小僧の云う通り杉の木と見えた。
「お父さん、その杉の根もとのところだったね」
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「御父さん、その杉の根の処だったね」
「うん、そうだ」
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「うん、そうだ」
と、思わず答えてしまった。
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と思わず答えてしまった。
「文化五年(ぶんかごねん・今から約200年前の江戸時代)の、辰年だろう」
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「文化五年辰年だろう」
なるほど、文化五年の辰年らしく思われた。
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なるほど文化五年辰年らしく思われた。
「お前が、おれを殺したのは、今からちょうど百年前だね」
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「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」
自分はこの言葉を聞くやいなや、今から百年前、文化五年の辰年の、こんなやみの晩に、この杉の根もとで、目の見えない人を一人殺したという自覚が、とつぜん頭の中に起こった。
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自分はこの言葉を聞くや否や、今から百年前文化五年の辰年のこんな闇の晩に、この杉の根で、一人の盲目を殺したと云う自覚が、忽然として頭の中に起った。
おれは人殺しだったんだな、とはじめて気がついたとたん、背中の子が、急に石地蔵(いしじぞう)のように重くなった。
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おれは人殺であったんだなと始めて気がついた途端に、背中の子が急に石地蔵のように重くなった。
第四夜
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第四夜
広い土間の真ん中に、涼み台(すずみだい)のようなものが置かれていて、その周りに小さな腰かけが並べてある。
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広い土間の真中に涼み台のようなものを据えて、その周囲に小さい床几が並べてある。
台は、黒くつやつやと光っている。
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台は黒光りに光っている。
片すみでは、四角なお膳(ぜん)を前に置いて、おじいさんが一人で酒を飲んでいる。
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片隅には四角な膳を前に置いて爺さんが一人で酒を飲んでいる。
おつまみは、煮しめ(にしめ・野菜などをじっくり煮た料理)らしい。
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肴は煮しめらしい。
おじいさんは、お酒のせいでかなり赤くなっている。
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爺さんは酒の加減でなかなか赤くなっている。
そのうえ、顔じゅうがつやつやしていて、しわというものがどこにも見あたらない。
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その上顔中つやつやして皺と云うほどのものはどこにも見当らない。
ただ、白いひげをありったけ生やしているから、年寄りだということだけは分かる。
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ただ白い髯をありたけ生やしているから年寄と云う事だけはわかる。
自分は子どもながら、このおじいさんの年はいくつなんだろう、と思った。
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自分は子供ながら、この爺さんの年はいくつなんだろうと思った。
そこへ、裏の掛け樋(かけひ・竹などで水を流すとい)から手おけに水をくんできた、おかみさんが、前かけで手をふきながら、
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ところへ裏の筧から手桶に水を汲んで来た神さんが、前垂で手を拭きながら、
「おじいさんはいくつかね」
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「御爺さんはいくつかね」
と聞いた。
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と聞いた。
おじいさんは頬張った煮しめを飲みこんで、
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爺さんは頬張った煮〆を呑み込んで、
「いくつか忘れたよ」
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「いくつか忘れたよ」
と、すましていた。
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と澄ましていた。
おかみさんは、ふいた手を細い帯の間にはさんで、横からおじいさんの顔を見て立っていた。
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神さんは拭いた手を、細い帯の間に挟んで横から爺さんの顔を見て立っていた。
おじいさんは茶わんのような大きなもので酒をぐいと飲んで、そうして、ふうと長い息を白いひげの間からふき出した。
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爺さんは茶碗のような大きなもので酒をぐいと飲んで、そうして、ふうと長い息を白い髯の間から吹き出した。
すると、おかみさんが、
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すると神さんが、
「おじいさんの家は、どこかね」
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「御爺さんの家はどこかね」
と聞いた。
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と聞いた。
おじいさんは、長い息を途中で切って、
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爺さんは長い息を途中で切って、
「へその奥だよ」
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「臍の奥だよ」
と言った。
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と云った。
おかみさんは、手を細い帯の間に突っこんだまま、
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神さんは手を細い帯の間に突込んだまま、
「どこへ行くかね」
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「どこへ行くかね」
と、また聞いた。
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とまた聞いた。
すると、おじいさんがまた茶わんのような大きなもので熱い酒をぐいと飲んで、前のような息をふうと吹いて、
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すると爺さんが、また茶碗のような大きなもので熱い酒をぐいと飲んで前のような息をふうと吹いて、
「あっちへ行くよ」
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「あっちへ行くよ」
と言った。
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と云った。
「まっすぐかい」
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「真直かい」
と、おかみさんが聞いたとき、ふうと吹いた息が、しょうじを通りこして柳の下をぬけて、河原の方へまっすぐに行った。
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と神さんが聞いた時、ふうと吹いた息が、障子を通り越して柳の下を抜けて、河原の方へ真直に行った。
おじいさんが表へ出た。
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爺さんが表へ出た。
自分も後から出た。
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自分も後から出た。
おじいさんの腰に、小さいひょうたんがぶら下がっている。
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爺さんの腰に小さい瓢箪がぶら下がっている。
肩から四角な箱を、わきの下につるしている。
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肩から四角な箱を腋の下へ釣るしている。
浅葱色(あさぎいろ・うすい青緑色)の股引(ももひき・足にぴったりしたズボンのようなもの)をはいて、浅葱色のそでなしを着ている。
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浅黄の股引を穿いて、浅黄の袖無しを着ている。
たびだけが黄色い。
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足袋だけが黄色い。
何だか、皮で作ったたびのように見えた。
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何だか皮で作った足袋のように見えた。
おじいさんが、まっすぐに柳の下まで来た。
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爺さんが真直に柳の下まで来た。
柳の下に、子どもが三、四人いた。
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柳の下に子供が三四人いた。
おじいさんは笑いながら、腰から浅葱色の手ぬぐいを出した。
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爺さんは笑いながら腰から浅黄の手拭を出した。
それを、こより(紙をよってひも状にしたもの)のように細長くよった。
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それを肝心綯のように細長く綯った。
そうして、地面の真ん中に置いた。
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そうして地面の真中に置いた。
それから、手ぬぐいの周りに、大きな丸い輪を描いた。
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それから手拭の周囲に、大きな丸い輪を描いた。
しまいに、肩にかけた箱の中から、真鍮(しんちゅう・金色をした金ぞく)で作った、あめ屋の笛を出した。
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しまいに肩にかけた箱の中から真鍮で製らえた飴屋の笛を出した。
「今に、その手ぬぐいがへびになるから、見ておろう。見ておろう」
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「今にその手拭が蛇になるから、見ておろう。見ておろう」
と、くり返して言った。
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と繰返して云った。
子どもは、一生けんめいに手ぬぐいを見ていた。
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子供は一生懸命に手拭を見ていた。
自分も見ていた。
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自分も見ていた。
「見ておろう、見ておろう、いいか」
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「見ておろう、見ておろう、好いか」
と言いながら、おじいさんが笛を吹いて、輪の上をぐるぐる回り出した。
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と云いながら爺さんが笛を吹いて、輪の上をぐるぐる廻り出した。
自分は手ぬぐいばかり見ていた。
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自分は手拭ばかり見ていた。
けれども、手ぬぐいはいっこうに動かなかった。
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けれども手拭はいっこう動かなかった。
おじいさんは、笛をぴいぴい吹いた。
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爺さんは笛をぴいぴい吹いた。
そうして、輪の上を何度も回った。
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そうして輪の上を何遍も廻った。
わらじ(わらで作ったはきもの)でつま先立ちするように、ぬき足をするように、手ぬぐいに遠慮をするように、回った。
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草鞋を爪立てるように、抜足をするように、手拭に遠慮をするように、廻った。
こわそうにも見えた。
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怖そうにも見えた。
おもしろそうでもあった。
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面白そうにもあった。
やがて、おじいさんは笛をぴたりとやめた。
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やがて爺さんは笛をぴたりとやめた。
そうして、肩にかけた箱の口を開けて、手ぬぐいの首を、ちょいとつまんで、ぽっと放りこんだ。
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そうして、肩に掛けた箱の口を開けて、手拭の首を、ちょいと撮んで、ぽっと放り込んだ。
「こうしておくと、箱の中でへびになる。今に見せてやる。今に見せてやる」
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「こうしておくと、箱の中で蛇になる。今に見せてやる。今に見せてやる」
と言いながら、おじいさんがまっすぐに歩き出した。
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と云いながら、爺さんが真直に歩き出した。
柳の下をぬけて、細い道をまっすぐに下りていった。
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柳の下を抜けて、細い路を真直に下りて行った。
自分はへびが見たいから、細い道をどこまでもついていった。
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自分は蛇が見たいから、細い道をどこまでも追いて行った。
おじいさんは、時々「今になる」
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爺さんは時々「今になる」
と言ったり、「へびになる」
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と云ったり、「蛇になる」
と言ったりして歩いていく。
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と云ったりして歩いて行く。
しまいには、
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しまいには、
「今になる、へびになる、
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「今になる、蛇になる、
きっとなる、笛が鳴る、」
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きっとなる、笛が鳴る、」
と歌いながら、とうとう川の岸へ出た。
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と唄いながら、とうとう河の岸へ出た。
橋も舟もないから、ここで休んで箱の中のへびを見せるだろうと思っていると、おじいさんはざぶざぶ川の中へ入っていった。
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橋も舟もないから、ここで休んで箱の中の蛇を見せるだろうと思っていると、爺さんはざぶざぶ河の中へ這入り出した。
はじめはひざくらいの深さだったが、だんだん腰から、胸の方まで水につかって見えなくなる。
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始めは膝くらいの深さであったが、だんだん腰から、胸の方まで水に浸って見えなくなる。
それでも、おじいさんは
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それでも爺さんは
「深くなる、夜になる、
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「深くなる、夜になる、
まっすぐになる」
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真直になる」
と歌いながら、どこまでもまっすぐに歩いていった。
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と唄いながら、どこまでも真直に歩いて行った。
そうして、ひげも顔も頭もずきんも、まるで見えなくなってしまった。
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そうして髯も顔も頭も頭巾もまるで見えなくなってしまった。
自分は、おじいさんが向こう岸へ上がったときに、へびを見せるだろうと思って、あしの鳴るところに立って、たった一人でいつまでも待っていた。
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自分は爺さんが向岸へ上がった時に、蛇を見せるだろうと思って、蘆の鳴る所に立って、たった一人いつまでも待っていた。
けれども、おじいさんは、とうとう上がってこなかった。
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けれども爺さんは、とうとう上がって来なかった。
第五夜
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第五夜
こんな夢を見た。
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こんな夢を見た。
何でも、よほど古いことで、神代(かみよ・神々がいたという大昔の時代)に近い昔と思われるが、自分が戦をして、運悪く負けたために、生けどりになって、敵の大将の前に引きすえられた。
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何でもよほど古い事で、神代に近い昔と思われるが、自分が軍をして運悪く敗北たために、生擒になって、敵の大将の前に引き据えられた。
そのころの人は、みんな背が高かった。
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その頃の人はみんな背が高かった。
そうして、みんな長いひげを生やしていた。
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そうして、みんな長い髯を生やしていた。
革の帯をしめて、それへ棒のような剣をつるしていた。
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革の帯を締めて、それへ棒のような剣を釣るしていた。
弓は、藤(ふじ)のつるの太いものを、そのまま使ったように見えた。
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弓は藤蔓の太いのをそのまま用いたように見えた。
うるしもぬっていなければ、みがきもかけていない。
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漆も塗ってなければ磨きもかけてない。
とても素朴(そぼく・かざりけのない、質素なようす)なものだった。
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極めて素樸なものであった。
敵の大将は、弓の真ん中を右手でにぎって、その弓を草の上に突き、酒がめ(さかがめ・お酒を入れる大きなつぼ)をふせたようなものの上に、腰をかけていた。
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敵の大将は、弓の真中を右の手で握って、その弓を草の上へ突いて、酒甕を伏せたようなものの上に腰をかけていた。
その顔を見ると、鼻の上で、左右のまゆ毛が太くつながっている。
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その顔を見ると、鼻の上で、左右の眉が太く接続っている。
そのころ、かみそりというものは、もちろんなかった。
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その頃髪剃と云うものは無論なかった。
自分はとりこだから、腰をかけるわけにはいかない。
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自分は虜だから、腰をかける訳に行かない。
草の上に、あぐらをかいていた。
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草の上に胡坐をかいていた。
足には大きな藁沓(わらぐつ・わらであんだ、深いくつ)をはいていた。
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足には大きな藁沓を穿いていた。
この時代の藁沓は、深いものだった。
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この時代の藁沓は深いものであった。
立つと、ひざがしらまで来た。
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立つと膝頭まで来た。
そのはしの所は、わらを少しあみ残して、ふさのように下げて、歩くとばらばら動くようにして、かざりにしていた。
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その端の所は藁を少し編残して、房のように下げて、歩くとばらばら動くようにして、飾りとしていた。
大将は、かがり火(夜に燃やす、明かり用の火)で自分の顔を見て、死ぬか生きるか、と聞いた。
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大将は篝火で自分の顔を見て、死ぬか生きるかと聞いた。
これは、そのころのならわしで、とりこには、だれでも一応こう聞いたものである。
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これはその頃の習慣で、捕虜にはだれでも一応はこう聞いたものである。
生きると答えれば、こうさんした、という意味で、死ぬと言えば、屈服(くっぷく・相手に従うこと)しない、ということになる。
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生きると答えると降参した意味で、死ぬと云うと屈服しないと云う事になる。
自分は一言、死ぬ、と答えた。
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自分は一言死ぬと答えた。
大将は、草の上に突いていた弓を向こうへ投げて、腰につるした棒のような剣を、するりとぬきかけた。
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大将は草の上に突いていた弓を向うへ抛げて、腰に釣るした棒のような剣をするりと抜きかけた。
それへ、風になびいたかがり火が、横から吹きつけた。
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それへ風に靡いた篝火が横から吹きつけた。
自分は右手をかえでの葉のように開いて、手のひらを大将の方へ向けて、目の上へさし上げた。
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自分は右の手を楓のように開いて、掌を大将の方へ向けて、眼の上へ差し上げた。
待て、という合図である。
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待てと云う相図である。
大将は、太い剣をかちゃりと、さやに収めた。
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大将は太い剣をかちゃりと鞘に収めた。
そのころでも、恋はあった。
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その頃でも恋はあった。
自分は、死ぬ前に一目、思う女に会いたいと言った。
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自分は死ぬ前に一目思う女に逢いたいと云った。
大将は、夜が明けてにわとりが鳴くまでなら待つ、と言った。
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大将は夜が開けて鶏が鳴くまでなら待つと云った。
にわとりが鳴くまでに、女をここへ呼ばなければならない。
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鶏が鳴くまでに女をここへ呼ばなければならない。
にわとりが鳴いても女が来なければ、自分は会わずに殺されてしまう。
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鶏が鳴いても女が来なければ、自分は逢わずに殺されてしまう。
大将は腰をかけたまま、かがり火をながめている。
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大将は腰をかけたまま、篝火を眺めている。
自分は大きな藁沓を組み合わせたまま、草の上で女を待っている。
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自分は大きな藁沓を組み合わしたまま、草の上で女を待っている。
夜は、だんだんふけていく。
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夜はだんだん更ける。
時々、かがり火がくずれる音がする。
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時々篝火が崩れる音がする。
くずれるたびに、あわてたように炎が大将にゆらりとせまる。
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崩れるたびに狼狽えたように焔が大将になだれかかる。
真っ黒なまゆ毛の下で、大将の目がぴかぴかと光っている。
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真黒な眉の下で、大将の眼がぴかぴかと光っている。
すると、だれかが来て、新しい枝をたくさん、火の中へ投げこんでいく。
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すると誰やら来て、新しい枝をたくさん火の中へ抛げ込んで行く。
しばらくすると、火がぱちぱちと鳴る。
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しばらくすると、火がぱちぱちと鳴る。
暗やみをはねかえすような、勇ましい音だった。
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暗闇を弾き返すような勇ましい音であった。
このとき女は、裏のならの木につないである、白い馬を引き出した。
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この時女は、裏の楢の木に繋いである、白い馬を引き出した。
たてがみを三度なでて、高い背にひらりと飛び乗った。
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鬣を三度撫でて高い背にひらりと飛び乗った。
鞍(くら・馬の背にのせて、またがるための道具)もあぶみ(馬に乗るとき足をかけるところ)もない、裸馬だった。
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鞍もない鐙もない裸馬であった。
長く白い足で、太い腹をけると、馬はいっさんに駆け出した。
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長く白い足で、太腹を蹴ると、馬はいっさんに駆け出した。
だれかが、かがり火をつぎ足したので、遠くの空がうす明るく見える。
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誰かが篝りを継ぎ足したので、遠くの空が薄明るく見える。
馬は、この明るいものをめがけて、やみの中を飛んでくる。
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馬はこの明るいものを目懸けて闇の中を飛んで来る。
鼻から、火の柱のような息を二本出して、飛んでくる。
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鼻から火の柱のような息を二本出して飛んで来る。
それでも女は、細い足でしきりなく馬の腹をけっている。
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それでも女は細い足でしきりなしに馬の腹を蹴っている。
馬は、ひづめの音が宙で鳴るほど早く飛んでくる。
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馬は蹄の音が宙で鳴るほど早く飛んで来る。
女の髪は、吹き流しのように、やみの中に尾を引いた。
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女の髪は吹流しのように闇の中に尾を曳いた。
それでもまだ、かがり火のある所まで来られない。
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それでもまだ篝のある所まで来られない。
すると、真っ暗な道のそばで、とつぜん「こけこっこう」というにわとりの声がした。
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すると真闇な道の傍で、たちまちこけこっこうという鶏の声がした。
女は身をのけぞらせて、両手ににぎった手綱(たづな・馬をあやつるひも)をうんと引いた。
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女は身を空様に、両手に握った手綱をうんと控えた。
馬は前足のひづめを、かたい岩の上にはっしとふみ込んだ。
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馬は前足の蹄を堅い岩の上に発矢と刻み込んだ。
「こけこっこう」と、にわとりがまた一声鳴いた。
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こけこっこうと鶏がまた一声鳴いた。
女は「あっ」と言って、しめた手綱を一度にゆるめた。
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女はあっと云って、緊めた手綱を一度に緩めた。
馬は両ひざを折る。
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馬は諸膝を折る。
乗った人といっしょに、まともに前へつんのめった。
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乗った人と共に真向へ前へのめった。
岩の下は、深いふちだった。
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岩の下は深い淵であった。
ひづめのあとは、今でも岩の上に残っている。
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蹄の跡はいまだに岩の上に残っている。
にわとりの鳴きまねをしたのは、天探女(あまのじゃく・わざと人にさからう神様)である。
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鶏の鳴く真似をしたものは天探女である。
このひづめのあとが岩に刻みつけられている間、天探女は自分の敵である。
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この蹄の痕の岩に刻みつけられている間、天探女は自分の敵である。
第六夜
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第六夜
運慶(うんけい)という有名な仏師(ぶっし・仏像をほる人)が、護国寺(ごこくじ)の山門で仁王(におう・お寺の門を守る、力強い像)をほっているという評判だから、散歩がてら行ってみると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに勝手なことを言い合っていた。
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運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。
山門の前、五、六間(けん・1間はおよそ1.8メートル)の所には、大きな赤松があって、その幹がななめに山門の屋根がわらをかくして、遠い青空まで伸びている。
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山門の前五六間の所には、大きな赤松があって、その幹が斜めに山門の甍を隠して、遠い青空まで伸びている。
松の緑と朱塗りの門が、たがいに映り合って、みごとに見える。
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松の緑と朱塗の門が互いに照り合ってみごとに見える。
そのうえ、松の位置がいい。
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その上松の位地が好い。
門の左のはしを、目ざわりにならないようにななめに切っていって、上になるほど幅を広く屋根まで突き出しているのが、何となく古めかしい。
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門の左の端を眼障にならないように、斜に切って行って、上になるほど幅を広く屋根まで突出しているのが何となく古風である。
鎌倉時代とも思われる。
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鎌倉時代とも思われる。
ところが、見ている人は、みんな自分と同じ、明治の人間である。
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ところが見ているものは、みんな自分と同じく、明治の人間である。
その中でも、人力車(じんりきしゃ・人が引っぱる乗り物)を引く人が一番多い。
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その中でも車夫が一番多い。
客待ちをして退屈だから、立っているにちがいない。
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辻待をして退屈だから立っているに相違ない。
「大きなもんだなあ」
原文を見る
「大きなもんだなあ」
と言っている。
原文を見る
と云っている。
「人間をこしらえるより、よっぽど骨が折れるだろう」
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「人間を拵えるよりもよっぽど骨が折れるだろう」
とも言っている。
原文を見る
とも云っている。
そうかと思うと、「へえ、仁王だね。今でも仁王をほるのかね。へえ、そうかね。わたしは、仁王ってみんな昔のものばかりかと思ってた」
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そうかと思うと、「へえ仁王だね。今でも仁王を彫るのかね。へえそうかね。私ゃまた仁王はみんな古いのばかりかと思ってた」
と言った男がいる。
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と云った男がある。
「どうも強そうですね。何だって言いますぜ。昔から、だれが強いって、仁王ほど強い人はいないって言いますぜ。何でも、日本武尊(やまとたけるのみこと・昔の物語に出てくる強い皇子)よりも強いんだって言うからね」
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「どうも強そうですね。なんだってえますぜ。昔から誰が強いって、仁王ほど強い人あ無いって云いますぜ。何でも日本武尊よりも強いんだってえからね」
と話しかけた男もいる。
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と話しかけた男もある。
この男は、着物のすそをたくし上げて、帽子をかぶらずにいた。
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この男は尻を端折って、帽子を被らずにいた。
よほど、教養のない男に見える。
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よほど無教育な男と見える。
運慶は、見物人の評判にはまるでおかまいなしに、のみとつちを動かしている。
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運慶は見物人の評判には委細頓着なく鑿と槌を動かしている。
まったく、ふり向きもしない。
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いっこう振り向きもしない。
高い所に乗って、仁王の顔のあたりを、しきりにほり抜いていく。
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高い所に乗って、仁王の顔の辺をしきりに彫り抜いて行く。
運慶は、頭に小さいえぼし(えぼし・むかしの人がかぶった、細長い帽子)のようなものをのせて、何という服か自分にもよく分からない、大きなそでの着物を背中でくくっている。
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運慶は頭に小さい烏帽子のようなものを乗せて、素袍だか何だかわからない大きな袖を背中で括っている。
その様子が、いかにも古くさい。
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その様子がいかにも古くさい。
わいわい言っている見物人とは、まるでつり合いが取れていないようである。
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わいわい云ってる見物人とはまるで釣り合が取れないようである。
自分は、どうして今ごろまで運慶が生きているのかな、と思った。
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自分はどうして今時分まで運慶が生きているのかなと思った。
どうも不思議なことがあるものだ、と考えながら、やはり立って見ていた。
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どうも不思議な事があるものだと考えながら、やはり立って見ていた。
しかし、運慶の方では、不思議とも変だとも、まったく感じていない様子で、一生けんめいにほっている。
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しかし運慶の方では不思議とも奇体ともとんと感じ得ない様子で一生懸命に彫っている。
上を向いて、この様子をながめていた一人の若い男が、自分の方をふり向いて、
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仰向いてこの態度を眺めていた一人の若い男が、自分の方を振り向いて、
「さすがは運慶だな。目に、われわれなど入っていない。天下の英雄は、ただ仁王と自分だけがある、という態度だ。あっぱれだ」
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「さすがは運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と我れとあるのみと云う態度だ。天晴れだ」
と言って、ほめ出した。
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と云って賞め出した。
自分は、この言葉をおもしろいと思った。
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自分はこの言葉を面白いと思った。
それで、ちょっと若い男の方を見ると、若い男は、すかさず、
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それでちょっと若い男の方を見ると、若い男は、すかさず、
「あの、のみとつちの使い方を見たまえ。まったく自由自在な境地に達している」
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「あの鑿と槌の使い方を見たまえ。大自在の妙境に達している」
と言った。
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と云った。
運慶は今、太いまゆ毛を一寸(いっすん・約3センチ)の高さに横へほり抜いて、のみの歯をたてに返すやいなや、ななめに、上からつちを打ちおろした。
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運慶は今太い眉を一寸の高さに横へ彫り抜いて、鑿の歯を竪に返すや否や斜すに、上から槌を打ち下した。
かたい木をひと刻みにけずって、厚い木くずがつちの音に合わせて飛んだと思ったら、小鼻の大きく開いた、怒った鼻の側面が、たちまち浮き上がってきた。
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堅い木を一と刻みに削って、厚い木屑が槌の声に応じて飛んだと思ったら、小鼻のおっ開いた怒り鼻の側面がたちまち浮き上がって来た。
その刃の入れ方が、いかにも思い切りがよかった。
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その刀の入れ方がいかにも無遠慮であった。
そうして、少しもまよいをはさんでいないように見えた。
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そうして少しも疑念を挾んでおらんように見えた。
「よくあんなに、無造作にのみを使って、思うようなまゆや鼻ができるものだな」
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「よくああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻ができるものだな」
と、自分はあまりに感心したので、ひとり言のように言った。
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と自分はあんまり感心したから独言のように言った。
すると、さっきの若い男が、
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するとさっきの若い男が、
「なに、あれはまゆや鼻をのみで作るんじゃない。あの通りのまゆや鼻が木の中にうまっているのを、のみとつちの力で掘り出すだけだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだから、けっして間違えるはずはない」
原文を見る
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」
と言った。
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と云った。
自分はこのとき、はじめて、彫刻とはそういうものか、と思った。
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自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。
本当にそうなら、だれにでもできることだ、と思った。
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はたしてそうなら誰にでもできる事だと思い出した。
それで急に、自分も仁王をほってみたくなったから、見物をやめて、さっそく家へ帰った。
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それで急に自分も仁王が彫ってみたくなったから見物をやめてさっそく家へ帰った。
道具箱からのみと金づちを持ち出して、裏へ出てみると、この間のあらしでたおれたかしの木を、まきにするつもりで、木挽き(こびき・のこぎりで木を切る仕事の人)に切らせた手ごろなものが、たくさん積んであった。
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道具箱から鑿と金槌を持ち出して、裏へ出て見ると、せんだっての暴風で倒れた樫を、薪にするつもりで、木挽に挽かせた手頃な奴が、たくさん積んであった。
自分は、一番大きいのを選んで、いきおいよくほり始めてみたが、運悪く、仁王は見当たらなかった。
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自分は一番大きいのを選んで、勢いよく彫り始めて見たが、不幸にして、仁王は見当らなかった。
その次のにも、運悪く、掘り当てることができなかった。
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その次のにも運悪く掘り当てる事ができなかった。
三番目のにも、仁王はいなかった。
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三番目のにも仁王はいなかった。
自分は、積んであるまきをかたっぱしからほってみたが、どれもこれも仁王をかくしているものはなかった。
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自分は積んである薪を片っ端から彫って見たが、どれもこれも仁王を蔵しているのはなかった。
ついに、明治の木にはとうてい仁王はうまっていないものだ、とさとった。
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ついに明治の木にはとうてい仁王は埋っていないものだと悟った。
それで、運慶が今日まで生きている理由も、だいたい分かった。
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それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。
第七夜
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第七夜
何でも、大きな船に乗っている。
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何でも大きな船に乗っている。
この船が、毎日毎夜、少しの絶え間もなく黒いけむりをはいて、波を切って進んでいく。
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この船が毎日毎夜すこしの絶間なく黒い煙を吐いて浪を切って進んで行く。
すさまじい音である。
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凄じい音である。
けれども、どこへ行くんだか分からない。
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けれどもどこへ行くんだか分らない。
ただ、波の底から、焼け火箸(やけひばし・真っ赤に焼けた、鉄の火ばし)のような太陽が出る。
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ただ波の底から焼火箸のような太陽が出る。
それが、高い帆柱の真上まで来て、しばらくとどまっているかと思うと、いつのまにか大きな船を追い越して、先へ行ってしまう。
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それが高い帆柱の真上まで来てしばらく挂っているかと思うと、いつの間にか大きな船を追い越して、先へ行ってしまう。
そうして、しまいには、焼け火箸のように「じゅっ」といって、また波の底にしずんでいく。
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そうして、しまいには焼火箸のようにじゅっといってまた波の底に沈んで行く。
そのたびに、青い波が遠くの向こうで、蘇芳(すおう・赤みがかった紫色)にわき返る。
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そのたんびに蒼い波が遠くの向うで、蘇枋の色に沸き返る。
すると、船はすさまじい音を立てて、そのあとを追いかけていく。
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すると船は凄じい音を立ててその跡を追かけて行く。
けれども、けっして追いつかない。
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けれども決して追つかない。
あるとき、自分は船の男をつかまえて、聞いてみた。
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ある時自分は、船の男を捕まえて聞いて見た。
「この船は、西へ行くんですか」
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「この船は西へ行くんですか」
船の男は、いぶかしそうな顔をして、しばらく自分を見ていたが、やがて、
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船の男は怪訝な顔をして、しばらく自分を見ていたが、やがて、
「なぜ」
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「なぜ」
と、聞き返した。
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と問い返した。
「落ちていく太陽を、追いかけるようだから」
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「落ちて行く日を追かけるようだから」
船の男は、からからと笑った。
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船の男はからからと笑った。
そうして、向こうの方へ行ってしまった。
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そうして向うの方へ行ってしまった。
「西へ行く太陽の、行き着く先は東か。それは本当か。東に出る太陽の、ふるさとは西か。それも本当か。体は波の上、舵枕(かじまくら・かじを枕にして波にゆられてねむること)。流れて行け、流れて行け」
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「西へ行く日の、果は東か。それは本真か。東出る日の、御里は西か。それも本真か。身は波の上。戢枕。流せ流せ」
と、はやしている。
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と囃している。
船の先の方へ行ってみたら、水夫(すいふ・船で働く人)が大勢集まって、太いつなを引っぱっていた。
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舳へ行って見たら、水夫が大勢寄って、太い帆綱を手繰っていた。
自分は、たいへん心細くなった。
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自分は大変心細くなった。
いつ陸へ上がれるのか分からない。
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いつ陸へ上がれる事か分らない。
そうして、どこへ行くのだかも分からない。
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そうしてどこへ行くのだか知れない。
ただ、黒いけむりをはいて、波を切っていくことだけはたしかだった。
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ただ黒い煙を吐いて波を切って行く事だけはたしかである。
その波は、とても広いものだった。
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その波はすこぶる広いものであった。
果てもなく青く見える。
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際限もなく蒼く見える。
時には、紫にもなった。
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時には紫にもなった。
ただ、船の動く周りだけは、いつでも真っ白にあわを立てていた。
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ただ船の動く周囲だけはいつでも真白に泡を吹いていた。
自分は、たいへん心細かった。
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自分は大変心細かった。
こんな船にいるより、いっそ体を投げて死んでしまおうかと思った。
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こんな船にいるよりいっそ身を投げて死んでしまおうかと思った。
乗っている人はたくさんいた。
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乗合はたくさんいた。
たいていは外国人のようだった。
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たいていは異人のようであった。
しかし、いろいろな顔をしていた。
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しかしいろいろな顔をしていた。
空が曇って船がゆれたとき、一人の女の人が手すりに寄りかかって、しきりに泣いていた。
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空が曇って船が揺れた時、一人の女が欄に倚りかかって、しきりに泣いていた。
目をふくハンカチの色が、白く見えた。
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眼を拭く手巾の色が白く見えた。
しかし、体には更紗(さらさ・色とりどりの模様のある布)のような洋服を着ていた。
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しかし身体には更紗のような洋服を着ていた。
この女の人を見たとき、悲しいのは自分だけではないのだ、と気がついた。
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この女を見た時に、悲しいのは自分ばかりではないのだと気がついた。
ある晩、甲板(かんぱん・船の上の、屋根のない広い場所)の上に出て、一人で星をながめていたら、一人の外国人が来て、天文学を知っているか、とたずねた。
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ある晩甲板の上に出て、一人で星を眺めていたら、一人の異人が来て、天文学を知ってるかと尋ねた。
自分はつまらないから、死のうとさえ思っている。
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自分はつまらないから死のうとさえ思っている。
天文学など、知る必要がない。
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天文学などを知る必要がない。
だまっていた。
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黙っていた。
すると、その外国人が、金牛宮(きんぎゅうきゅう・おうし座のこと)の上にある七つの星の話を聞かせてくれた。
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するとその異人が金牛宮の頂にある七星の話をして聞かせた。
そうして、星も海も、みんな神様が作ったものだ、と言った。
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そうして星も海もみんな神の作ったものだと云った。
最後に、自分に神様を信じるか、とたずねた。
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最後に自分に神を信仰するかと尋ねた。
自分は、空を見てだまっていた。
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自分は空を見て黙っていた。
あるとき、サロンに入ったら、はでな服を着た若い女の人が、向こうを向いてピアノをひいていた。
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或時サローンに這入ったら派手な衣裳を着た若い女が向うむきになって、洋琴を弾いていた。
そのそばに、背の高い立派な男の人が立って、歌を歌っている。
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その傍に背の高い立派な男が立って、唱歌を唄っている。
その口が、とても大きく見えた。
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その口が大変大きく見えた。
けれども、二人は、二人以外のことにはまるで気にかけていない様子だった。
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けれども二人は二人以外の事にはまるで頓着していない様子であった。
船に乗っていることさえ、忘れているようだった。
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船に乗っている事さえ忘れているようであった。
自分は、ますますつまらなくなった。
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自分はますますつまらなくなった。
とうとう、死ぬことに決心した。
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とうとう死ぬ事に決心した。
それである晩、あたりに人のいないころあいに、思い切って海の中へ飛びこんだ。
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それである晩、あたりに人のいない時分、思い切って海の中へ飛び込んだ。
ところが――自分の足が甲板をはなれて、船と縁が切れたそのしゅん間に、急に命が惜しくなった。
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ところが――自分の足が甲板を離れて、船と縁が切れたその刹那に、急に命が惜しくなった。
心の底から、やめればよかったと思った。
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心の底からよせばよかったと思った。
けれども、もう遅い。
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けれども、もう遅い。
自分は、いやでもおうでも、海の中へ入らなければならない。
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自分は厭でも応でも海の中へ這入らなければならない。
ただ、とても高くできていた船と見えて、体は船をはなれたけれども、足はなかなか水につかない。
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ただ大変高くできていた船と見えて、身体は船を離れたけれども、足は容易に水に着かない。
しかし、つかまるものがないから、しだいしだいに水に近づいてくる。
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しかし捕まえるものがないから、しだいしだいに水に近づいて来る。
いくら足を縮めても、近づいてくる。
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いくら足を縮めても近づいて来る。
水の色は黒かった。
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水の色は黒かった。
そのうち船は、いつものように黒いけむりをはいて、通りすぎてしまった。
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そのうち船は例の通り黒い煙を吐いて、通り過ぎてしまった。
自分は、どこへ行くんだか分からない船でも、やっぱり乗っている方がよかったと、はじめてさとりながら、しかもそのさとりを生かすことができずに、限りない後悔とおそろしさをいだいて、黒い波の方へ静かに落ちていった。
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自分はどこへ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用する事ができずに、無限の後悔と恐怖とを抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った。
第八夜
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第八夜
床屋の敷居をまたいだら、白い着物を着てかたまっていた三、四人が、一度に「いらっしゃい」と言った。
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床屋の敷居を跨いだら、白い着物を着てかたまっていた三四人が、一度にいらっしゃいと云った。
真ん中に立って見回すと、四角な部屋である。
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真中に立って見廻すと、四角な部屋である。
窓が二方に開いていて、残る二方に鏡がかかっている。
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窓が二方に開いて、残る二方に鏡が懸っている。
鏡の数を数えたら、六つあった。
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鏡の数を勘定したら六つあった。
自分は、その一つの前へ来て、腰をおろした。
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自分はその一つの前へ来て腰をおろした。
すると、おしりが「ぶくり」と言った。
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すると御尻がぶくりと云った。
よほど座り心地がよくできたいすである。
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よほど坐り心地が好くできた椅子である。
鏡には、自分の顔がはっきりと映った。
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鏡には自分の顔が立派に映った。
顔の後ろには、窓が見えた。
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顔の後には窓が見えた。
それから、帳場格子(ちょうばごうし・お金をあつかう場所を囲む、木のさく)がななめに見えた。
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それから帳場格子が斜に見えた。
格子の中には、人がいなかった。
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格子の中には人がいなかった。
窓の外を通る道ゆく人の、腰から上がよく見えた。
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窓の外を通る往来の人の腰から上がよく見えた。
庄太郎が、女の人を連れて通る。
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庄太郎が女を連れて通る。
庄太郎は、いつの間にかパナマ帽を買ってかぶっている。
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庄太郎はいつの間にかパナマの帽子を買って被っている。
女の人も、いつの間にこしらえたものやら。
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女もいつの間に拵らえたものやら。
ちょっと分からない。
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ちょっと解らない。
二人とも、得意そうだった。
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双方とも得意のようであった。
よく女の人の顔を見ようと思ううちに、通りすぎてしまった。
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よく女の顔を見ようと思ううちに通り過ぎてしまった。
豆腐屋が、ラッパを吹いて通った。
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豆腐屋が喇叭を吹いて通った。
ラッパを口にあてているので、ほっぺたが、はちに刺されたようにふくれていた。
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喇叭を口へあてがっているんで、頬ぺたが蜂に螫されたように膨れていた。
ふくれたまま通りすぎていったものだから、気になってたまらない。
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膨れたまんまで通り越したものだから、気がかりでたまらない。
一生、はちに刺されているように思う。
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生涯蜂に螫されているように思う。
芸者さんが出てきた。
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芸者が出た。
まだ、お化粧をしていない。
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まだ御化粧をしていない。
島田(しまだ・むかしの女の人の、日本風の髪型)の根もとがゆるんで、何だか頭にしまりがない。
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島田の根が緩んで、何だか頭に締りがない。
顔も、寝ぼけている。
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顔も寝ぼけている。
つやが、気の毒なほど悪い。
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色沢が気の毒なほど悪い。
それで、おじぎをして、「どうも、何とかです」と言ったが、相手はどうしても鏡の中へ出てこない。
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それで御辞儀をして、どうも何とかですと云ったが、相手はどうしても鏡の中へ出て来ない。
すると、白い着物を着た大きな男が、自分の後ろへ来て、はさみとくしを持って、自分の頭をながめ出した。
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すると白い着物を着た大きな男が、自分の後ろへ来て、鋏と櫛を持って自分の頭を眺め出した。
自分はうすいひげをひねって、「どうだろう、ものになるだろうか」とたずねた。
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自分は薄い髭を捩って、どうだろう物になるだろうかと尋ねた。
白い男は、何も言わずに、手に持った琥珀色(こはくいろ・すきとおった、黄色っぽい茶色)のくしで、軽く自分の頭をたたいた。
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白い男は、何にも云わずに、手に持った琥珀色の櫛で軽く自分の頭を叩いた。
「さあ、頭もだが、どうだろう、ものになるだろうか」
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「さあ、頭もだが、どうだろう、物になるだろうか」
と、自分は白い男に聞いた。
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と自分は白い男に聞いた。
白い男は、やはり何も答えずに、ちゃきちゃきとはさみを鳴らし始めた。
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白い男はやはり何も答えずに、ちゃきちゃきと鋏を鳴らし始めた。
鏡に映る姿を一つ残らず見るつもりで目を見開いていたが、はさみが鳴るたびに黒い毛が飛んでくるので、こわくなって、やがて目を閉じた。
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鏡に映る影を一つ残らず見るつもりで眼を睜っていたが、鋏の鳴るたんびに黒い毛が飛んで来るので、恐ろしくなって、やがて眼を閉じた。
すると、白い男が、こう言った。
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すると白い男が、こう云った。
「旦那は、表の金魚売りをご覧になりましたか」
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「旦那は表の金魚売を御覧なすったか」
自分は、見ないと言った。
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自分は見ないと云った。
白い男はそれきりで、しきりにはさみを鳴らしていた。
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白い男はそれぎりで、しきりと鋏を鳴らしていた。
すると、とつぜん大きな声で「あぶない」と言ったものがある。
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すると突然大きな声で危険と云ったものがある。
はっと目を開けると、白い男のそでの下に、自転車の輪が見えた。
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はっと眼を開けると、白い男の袖の下に自転車の輪が見えた。
人力車のかじ棒が見えた。
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人力の梶棒が見えた。
と思うと、白い男が両手で自分の頭を押さえて、うんと横へ向けた。
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と思うと、白い男が両手で自分の頭を押えてうんと横へ向けた。
自転車と人力車は、まるで見えなくなった。
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自転車と人力車はまるで見えなくなった。
はさみの音が、ちゃきちゃきする。
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鋏の音がちゃきちゃきする。
やがて、白い男は自分の横へ回って、耳の所を刈り始めた。
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やがて、白い男は自分の横へ廻って、耳の所を刈り始めた。
毛が前の方へ飛ばなくなったから、安心して目を開けた。
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毛が前の方へ飛ばなくなったから、安心して眼を開けた。
「粟餅(あわもち・あわという穀物で作ったおもち)や、餅やあ、餅や」という声が、すぐそこでする。
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粟餅や、餅やあ、餅や、と云う声がすぐ、そこでする。
小さい杵(きね)を、わざと臼(うす・おもちをつく道具)に当てて、拍子を取って、餅をついている。
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小さい杵をわざと臼へあてて、拍子を取って餅を搗いている。
粟餅屋は、子どものときに見たきりだから、ちょっと様子が見たい。
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粟餅屋は子供の時に見たばかりだから、ちょっと様子が見たい。
けれども、粟餅屋はけっして鏡の中に出てこない。
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けれども粟餅屋はけっして鏡の中に出て来ない。
ただ、餅をつく音だけがする。
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ただ餅を搗く音だけする。
自分は、ありったけの視力で、鏡のすみをのぞきこむようにして見た。
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自分はあるたけの視力で鏡の角を覗き込むようにして見た。
すると、帳場格子のうちに、いつの間にか一人の女の人が座っている。
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すると帳場格子のうちに、いつの間にか一人の女が坐っている。
色の浅黒い、まゆの濃い、大柄な女の人で、髪を銀杏返し(いちょうがえし・むかしの女の人の髪型の一つ)に結い、黒繻子(くろじゅす・黒くてつやのある絹の布)の半襟(はんえり・着物のえりにつける、かざりの布)のかかったひとえの着物で、立てひざのまま、お札の勘定をしている。
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色の浅黒い眉毛の濃い大柄な女で、髪を銀杏返しに結って、黒繻子の半襟のかかった素袷で、立膝のまま、札の勘定をしている。
お札は、十円札らしい。
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札は十円札らしい。
女の人は、長いまつげをふせて、うすいくちびるを結んで、一生けんめいにお札の数を読んでいるが、その読み方が、いかにも早い。
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女は長い睫を伏せて薄い唇を結んで一生懸命に、札の数を読んでいるが、その読み方がいかにも早い。
しかも、お札の数は、どこまでいっても尽きる様子がない。
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しかも札の数はどこまで行っても尽きる様子がない。
ひざの上に乗っているのは、たかだか百枚ぐらいだが、その百枚が、いつまで数えても百枚である。
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膝の上に乗っているのはたかだか百枚ぐらいだが、その百枚がいつまで勘定しても百枚である。
自分は、ぼんやりとして、この女の人の顔と十円札を見つめていた。
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自分は茫然としてこの女の顔と十円札を見つめていた。
すると、耳もとで、白い男が大きな声で「洗いましょう」
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すると耳の元で白い男が大きな声で「洗いましょう」
と言った。
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と云った。
ちょうどいいときだったから、いすから立ち上がるとすぐに、帳場格子の方をふり返って見た。
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ちょうどうまい折だから、椅子から立ち上がるや否や、帳場格子の方をふり返って見た。
けれども、格子の中には、女の人もお札も何も見えなかった。
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けれども格子のうちには女も札も何にも見えなかった。
代金をはらって表へ出ると、入り口の左側に、小判なり(こばんなり・むかしのお金「小判」のような、たまご形)のおけが五つほど並べてあって、その中に赤い金魚や、まだら模様の金魚や、やせた金魚や、太った金魚がたくさん入れてあった。
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代を払って表へ出ると、門口の左側に、小判なりの桶が五つばかり並べてあって、その中に赤い金魚や、斑入の金魚や、痩せた金魚や、肥った金魚がたくさん入れてあった。
そうして、金魚売りがその後ろにいた。
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そうして金魚売がその後にいた。
金魚売りは、自分の前に並べた金魚を見つめたまま、ほおづえをついて、じっとしている。
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金魚売は自分の前に並べた金魚を見つめたまま、頬杖を突いて、じっとしている。
騒がしい通りの様子には、ほとんど気を留めていない。
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騒がしい往来の活動にはほとんど心を留めていない。
自分は、しばらく立って、この金魚売りをながめていた。
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自分はしばらく立ってこの金魚売を眺めていた。
けれども、自分がながめている間、金魚売りは、ちっとも動かなかった。
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けれども自分が眺めている間、金魚売はちっとも動かなかった。
第九夜
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第九夜
世の中が、何となくざわつき始めた。
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世の中が何となくざわつき始めた。
今にも戦(いくさ)が起こりそうに見える。
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今にも戦争が起りそうに見える。
焼け出された裸馬が、夜も昼も、屋敷の周りを暴れ回ると、それを夜も昼も足軽(あしがる・むかしの、身分の低い兵士)たちがひしめきながら追いかけているような気持ちがする。
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焼け出された裸馬が、夜昼となく、屋敷の周囲を暴れ廻ると、それを夜昼となく足軽共が犇きながら追かけているような心持がする。
それでいて、家の中はしんとして静かである。
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それでいて家のうちは森として静かである。
家には、若い母と、三つになる子どもがいる。
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家には若い母と三つになる子供がいる。
父は、どこかへ行った。
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父はどこかへ行った。
父がどこかへ行ったのは、月の出ていない夜中だった。
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父がどこかへ行ったのは、月の出ていない夜中であった。
とこの上で草鞋をはいて、黒いずきんをかぶって、勝手口から出て行った。
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床の上で草鞋を穿いて、黒い頭巾を被って、勝手口から出て行った。
そのとき、母の持っていたぼんぼり(紙をはった、持ち歩く明かり)の火が、暗いやみに細長くさして、生け垣の手前にある古いヒノキを照らした。
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その時母の持っていた雪洞の灯が暗い闇に細長く射して、生垣の手前にある古い檜を照らした。
父は、それきり帰って来なかった。
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父はそれきり帰って来なかった。
母は毎日、三つになる子どもに「お父様は」
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母は毎日三つになる子供に「御父様は」
と聞いている。
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と聞いている。
子どもは、何とも言わなかった。
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子供は何とも云わなかった。
しばらくしてから「あっち」
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しばらくしてから「あっち」
と答えるようになった。
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と答えるようになった。
母が「いつお帰り」
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母が「いつ御帰り」
と聞いても、やはり「あっち」
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と聞いてもやはり「あっち」
と答えて笑っていた。
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と答えて笑っていた。
そのときは、母も笑った。
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その時は母も笑った。
そうして、「今にお帰り」
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そうして「今に御帰り」
という言葉を、何度も何度もくり返して教えた。
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と云う言葉を何遍となく繰返して教えた。
けれども、子どもは「今に」
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けれども子供は「今に」
だけを覚えただけである。
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だけを覚えたのみである。
時々は「お父様はどこ」
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時々は「御父様はどこ」
と聞かれて、「今に」
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と聞かれて「今に」
と答えることもあった。
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と答える事もあった。
夜になって、あたりが静まると、母は帯をしめ直して、鮫鞘(さめざや・さめの皮をはった、刀のさや)の短刀を帯の間にさし、子どもを細い帯で背中に背負って、そっとくぐり戸(大きな門についた、小さなとびら)から出て行く。
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夜になって、四隣が静まると、母は帯を締め直して、鮫鞘の短刀を帯の間へ差して、子供を細帯で背中へ背負って、そっと潜りから出て行く。
母は、いつでも草履をはいていた。
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母はいつでも草履を穿いていた。
子どもは、この草履の音を聞きながら、母の背中で寝てしまうこともあった。
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子供はこの草履の音を聞きながら母の背中で寝てしまう事もあった。
土塀(つちべい・土で作ったへい)が続いている屋敷町を西へ下って、だらだら坂を下りきると、大きなイチョウの木がある。
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土塀の続いている屋敷町を西へ下って、だらだら坂を降り尽くすと、大きな銀杏がある。
このイチョウを目印に右へ曲がると、一丁(いっちょう・約109メートル)ほど奥に石の鳥居がある。
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この銀杏を目標に右に切れると、一丁ばかり奥に石の鳥居がある。
片側は田んぼで、片側はクマザサばかりの中を鳥居まで来て、それをくぐりぬけると、暗い杉の木立になる。
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片側は田圃で、片側は熊笹ばかりの中を鳥居まで来て、それを潜り抜けると、暗い杉の木立になる。
それから二十間ほど敷石づたいに突き当たると、古い拝殿の階段の下に出る。
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それから二十間ばかり敷石伝いに突き当ると、古い拝殿の階段の下に出る。
ねずみ色に洗い出された賽銭箱(さいせんばこ・お参りのときにお金を入れる箱)の上に、大きな鈴のひもがぶら下がっていて、昼間見ると、その鈴のそばに「八幡宮(はちまんぐう)」という額がかかっている。
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鼠色に洗い出された賽銭箱の上に、大きな鈴の紐がぶら下がって昼間見ると、その鈴の傍に八幡宮と云う額が懸っている。
「八」の字が、はとが二羽向かい合ったような字の形になっているのがおもしろい。
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八の字が、鳩が二羽向いあったような書体にできているのが面白い。
そのほかにも、いろいろな額がある。
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そのほかにもいろいろの額がある。
たいていは、家来の者が射ぬいた金的(きんてき・弓を射る的の真ん中にある、金色の的)を、射ぬいた者の名前とともにかかげたものが多い。
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たいていは家中のものの射抜いた金的を、射抜いたものの名前に添えたのが多い。
たまには、太刀を納めたものもある。
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たまには太刀を納めたのもある。
鳥居をくぐると、杉のこずえで、いつもふくろうが鳴いている。
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鳥居を潜ると杉の梢でいつでも梟が鳴いている。
そうして、冷飯草履(ひやめしぞうり・そまつなわらのぞうり)の音が、ぴちゃぴちゃする。
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そうして、冷飯草履の音がぴちゃぴちゃする。
それが拝殿の前でやむと、母はまず鈴を鳴らしておいて、すぐにしゃがんで柏手(かしわで・神社でお参りするときに手を打つこと)を打つ。
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それが拝殿の前でやむと、母はまず鈴を鳴らしておいて、すぐにしゃがんで柏手を打つ。
たいていは、このときふくろうが急に鳴かなくなる。
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たいていはこの時梟が急に鳴かなくなる。
それから、母は一心不乱に、夫の無事を祈る。
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それから母は一心不乱に夫の無事を祈る。
母の考えでは、夫が侍だから、弓矢の神である八幡へ、こうしてどうしようもない願いをかけたら、まさか聞き入れられないはずはないだろう、と一途に思いつめている。
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母の考えでは、夫が侍であるから、弓矢の神の八幡へ、こうやって是非ない願をかけたら、よもや聴かれぬ道理はなかろうと一図に思いつめている。
子どもは、よくこの鈴の音で目をさまし、あたりを見ると真っ暗なものだから、急に背中で泣き出すことがある。
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子供はよくこの鈴の音で眼を覚まして、四辺を見ると真暗だものだから、急に背中で泣き出す事がある。
そのとき、母は口の中で何か祈りながら、背中をゆらしてあやそうとする。
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その時母は口の内で何か祈りながら、背を振ってあやそうとする。
すると、うまく泣きやむこともある。
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すると旨く泣きやむ事もある。
また、ますます激しく泣きたてることもある。
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またますます烈しく泣き立てる事もある。
どちらにしても、母はなかなか立たない。
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いずれにしても母は容易に立たない。
ひと通り夫の身の上を祈り終えると、今度は細帯をといて、背中の子をずり下ろすように、背中から前へ回して、両手にだきながら拝殿に上っていき、「いい子だから、少しの間、待っておいでよ」
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一通り夫の身の上を祈ってしまうと、今度は細帯を解いて、背中の子を摺りおろすように、背中から前へ廻して、両手に抱きながら拝殿を上って行って、「好い子だから、少しの間、待っておいでよ」
と、きっと自分のほおを子どものほおにすりつける。
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ときっと自分の頬を子供の頬へ擦りつける。
そうして、細帯を長くして子どもをしばっておき、その片方のはしを、拝殿の欄干(らんかん・てすり)にくくりつける。
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そうして細帯を長くして、子供を縛っておいて、その片端を拝殿の欄干に括りつける。
それから、階段を下りてきて、二十間の敷石を行ったり来たり、お百度(おひゃくど・同じ道を100回往復して祈る、神社のならわし)を踏む。
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それから段々を下りて来て二十間の敷石を往ったり来たり御百度を踏む。
拝殿にくくりつけられた子は、暗やみの中で、細帯の長さのゆるすかぎり、縁側の上をはい回っている。
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拝殿に括りつけられた子は、暗闇の中で、細帯の丈のゆるす限り、広縁の上を這い廻っている。
そういうときは、母にとって、たいそう楽な夜である。
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そう云う時は母にとって、はなはだ楽な夜である。
けれども、しばった子にひいひい泣かれると、母は気が気でない。
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けれども縛った子にひいひい泣かれると、母は気が気でない。
お百度の足が、非常に早くなる。
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御百度の足が非常に早くなる。
たいへん息が切れる。
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大変息が切れる。
しかたのないときは、途中で拝殿に上がってきて、いろいろあやしておいて、またお百度をふみ直すこともある。
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仕方のない時は、中途で拝殿へ上って来て、いろいろすかしておいて、また御百度を踏み直す事もある。
こんなふうに、幾晩も母が気をもんで、夜も寝ずに心配していた父は、とっくの昔に浪士(ろうし・主人を持たない侍)に殺されていたのである。
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こう云う風に、幾晩となく母が気を揉んで、夜の目も寝ずに心配していた父は、とくの昔に浪士のために殺されていたのである。
こんな悲しい話を、夢の中で母から聞いた。
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こんな悲い話を、夢の中で母から聞いた。
第十夜
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第十夜
庄太郎が女の人にさらわれてから七日目の晩に、ふらりと帰ってきて、急に熱が出てどっと床についている、と言って、健さんが知らせに来た。
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庄太郎が女に攫われてから七日目の晩にふらりと帰って来て、急に熱が出てどっと、床に就いていると云って健さんが知らせに来た。
庄太郎は、町内一の美男子で、とても善良な正直者である。
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庄太郎は町内一の好男子で、至極善良な正直者である。
ただ一つの道楽がある。
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ただ一つの道楽がある。
パナマ帽をかぶって、夕方になると果物屋の店先に腰をかけて、道ゆく女の人の顔をながめている。
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パナマの帽子を被って、夕方になると水菓子屋の店先へ腰をかけて、往来の女の顔を眺めている。
そうして、しきりに感心している。
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そうしてしきりに感心している。
そのほかには、これといった特色もない。
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そのほかにはこれと云うほどの特色もない。
あまり女の人が通らないときは、通りを見ないで果物を見ている。
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あまり女が通らない時は、往来を見ないで水菓子を見ている。
果物には、いろいろある。
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水菓子にはいろいろある。
水蜜桃(すいみつとう・みずみずしいもも)や、りんごや、びわや、バナナを、きれいにかごに盛って、すぐお土産に持っていけるように、二列に並べてある。
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水蜜桃や、林檎や、枇杷や、バナナを綺麗に籠に盛って、すぐ見舞物に持って行けるように二列に並べてある。
庄太郎は、このかごを見ては「きれいだ」と言っている。
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庄太郎はこの籠を見ては綺麗だと云っている。
商売をするなら果物屋にかぎる、と言っている。
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商売をするなら水菓子屋に限ると云っている。
そのくせ、自分はパナマ帽をかぶって、ぶらぶら遊んでいる。
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そのくせ自分はパナマの帽子を被ってぶらぶら遊んでいる。
「この色がいい」と言って、夏みかんなどを品評することもある。
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この色がいいと云って、夏蜜柑などを品評する事もある。
けれども、これまでお金を出して果物を買ったことがない。
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けれども、かつて銭を出して水菓子を買った事がない。
ただでは、もちろん食べない。
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ただでは無論食わない。
色ばかり、ほめている。
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色ばかり賞めている。
ある夕方、一人の女の人が、不意に店先に立った。
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ある夕方一人の女が、不意に店先に立った。
身分のある人と見えて、立派な服装をしている。
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身分のある人と見えて立派な服装をしている。
その着物の色が、ひどく庄太郎の気に入った。
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その着物の色がひどく庄太郎の気に入った。
そのうえ、庄太郎はとても女の人の顔に感心してしまった。
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その上庄太郎は大変女の顔に感心してしまった。
そこで、大事なパナマ帽をとって、ていねいにあいさつをしたら、女の人は、かご詰めの一番大きいのを指して、「これをください」と言うので、庄太郎はすぐそのかごを取って渡した。
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そこで大事なパナマの帽子を脱って丁寧に挨拶をしたら、女は籠詰の一番大きいのを指して、これを下さいと云うんで、庄太郎はすぐその籠を取って渡した。
すると、女の人はそれをちょっと持ち上げて、「たいへん重いこと」と言った。
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すると女はそれをちょっと提げて見て、大変重い事と云った。
庄太郎は、もともとひまな上に、とても気さくな男だから、「では、お宅まで持ってまいりましょう」と言って、女の人といっしょに果物屋を出た。
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庄太郎は元来閑人の上に、すこぶる気作な男だから、ではお宅まで持って参りましょうと云って、女といっしょに水菓子屋を出た。
それきり、帰って来なかった。
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それぎり帰って来なかった。
いくら庄太郎でも、あんまりのんきすぎる。
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いかな庄太郎でも、あんまり呑気過ぎる。
ただごとではなかろう、と言って、親類や友達が騒ぎ出していると、七日目の晩になって、ふらりと帰って来た。
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只事じゃ無かろうと云って、親類や友達が騒ぎ出していると、七日目の晩になって、ふらりと帰って来た。
そこで大勢集まって、「庄さん、どこへ行っていたんだい」と聞くと、庄太郎は、電車に乗って山へ行ったんだ、と答えた。
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そこで大勢寄ってたかって、庄さんどこへ行っていたんだいと聞くと、庄太郎は電車へ乗って山へ行ったんだと答えた。
何でも、よほど長い電車にちがいない。
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何でもよほど長い電車に違いない。
庄太郎の言うところによると、電車を下りるとすぐ、野原に出たそうである。
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庄太郎の云うところによると、電車を下りるとすぐと原へ出たそうである。
非常に広い野原で、どこを見回しても、青い草ばかり生えていた。
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非常に広い原で、どこを見廻しても青い草ばかり生えていた。
女の人といっしょに草の上を歩いていくと、急に絶壁のてっぺんに出た。
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女といっしょに草の上を歩いて行くと、急に絶壁の天辺へ出た。
そのとき、女の人が庄太郎に、「ここから飛びこんでごらんなさい」と言った。
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その時女が庄太郎に、ここから飛び込んで御覧なさいと云った。
底をのぞいてみると、切り立ったがけは見えるが、底は見えない。
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底を覗いて見ると、切岸は見えるが底は見えない。
庄太郎は、またパナマ帽をぬいで、何度も何度もことわった。
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庄太郎はまたパナマの帽子を脱いで再三辞退した。
すると、女の人が、「もし思い切って飛びこまなければ、豚になめられますが、よろしいですか」と聞いた。
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すると女が、もし思い切って飛び込まなければ、豚に舐められますが好うござんすかと聞いた。
庄太郎は、豚と雲右衛門(くもえもん・むかしの有名な浪曲師の名前)が大嫌いだった。
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庄太郎は豚と雲右衛門が大嫌だった。
けれども、命には代えられないと思って、やっぱり飛びこむのをためらっていた。
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けれども命には易えられないと思って、やっぱり飛び込むのを見合せていた。
そこへ、豚が一匹、鼻を鳴らしてやって来た。
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ところへ豚が一匹鼻を鳴らして来た。
庄太郎は、しかたなしに、持っていた細い檳榔樹(びんろうじゅ・南の島に生える、やしの木の一種)のステッキで、豚の鼻づらを打った。
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庄太郎は仕方なしに、持っていた細い檳榔樹の洋杖で、豚の鼻頭を打った。
豚は「ぐう」と言いながら、ころりとひっくり返って、絶壁の下へ落ちていった。
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豚はぐうと云いながら、ころりと引っ繰り返って、絶壁の下へ落ちて行った。
庄太郎がほっとひと息ついていると、また一匹の豚が、大きな鼻を庄太郎にすりつけに来た。
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庄太郎はほっと一と息接いでいるとまた一匹の豚が大きな鼻を庄太郎に擦りつけに来た。
庄太郎は、やむをえずまたステッキをふり上げた。
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庄太郎はやむをえずまた洋杖を振り上げた。
豚は「ぐう」と鳴いて、また真っ逆さまに、穴の底へ転げこんだ。
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豚はぐうと鳴いてまた真逆様に穴の底へ転げ込んだ。
すると、また一匹あらわれた。
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するとまた一匹あらわれた。
このとき、庄太郎はふと気がついて、向こうを見ると、はるか青草原の尽きるあたりから、幾万匹とも数えきれない豚が、群れをなして一直線に、この絶壁の上に立っている庄太郎をめがけて、鼻を鳴らしてやって来る。
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この時庄太郎はふと気がついて、向うを見ると、遥の青草原の尽きる辺から幾万匹か数え切れぬ豚が、群をなして一直線に、この絶壁の上に立っている庄太郎を目懸けて鼻を鳴らしてくる。
庄太郎は、心から縮み上がった。
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庄太郎は心から恐縮した。
けれども、しかたがないから、近寄ってくる豚の鼻づらを、一つ一つていねいに、檳榔樹のステッキで打っていた。
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けれども仕方がないから、近寄ってくる豚の鼻頭を、一つ一つ丁寧に檳榔樹の洋杖で打っていた。
不思議なことに、ステッキが鼻にさわりさえすれば、豚はころりと谷の底へ落ちていく。
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不思議な事に洋杖が鼻へ触りさえすれば豚はころりと谷の底へ落ちて行く。
のぞいてみると、底の見えない絶壁を、逆さになった豚が行列して落ちていく。
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覗いて見ると底の見えない絶壁を、逆さになった豚が行列して落ちて行く。
自分が、これほど多くの豚を谷へ落としたのかと思うと、庄太郎は自分でもこわくなった。
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自分がこのくらい多くの豚を谷へ落したかと思うと、庄太郎は我ながら怖くなった。
けれども、豚はつぎつぎとやって来る。
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けれども豚は続々くる。
黒雲に足が生えて、青草をふみ分けるような勢いで、いくらでも鼻を鳴らしてやって来る。
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黒雲に足が生えて、青草を踏み分けるような勢いで無尽蔵に鼻を鳴らしてくる。
庄太郎は、必死の勇気をふるって、豚の鼻づらを七日六晩たたいた。
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庄太郎は必死の勇をふるって、豚の鼻頭を七日六晩叩いた。
けれども、とうとう力が尽きて、手がこんにゃくのように弱ってしまい、しまいに豚になめられてしまった。
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けれども、とうとう精根が尽きて、手が蒟蒻のように弱って、しまいに豚に舐められてしまった。
そうして、絶壁の上にたおれた。
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そうして絶壁の上へ倒れた。
健さんは、庄太郎の話をここまでして、「だから、あんまり女の人を見るのはよくないよ」と言った。
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健さんは、庄太郎の話をここまでして、だからあんまり女を見るのは善くないよと云った。
自分も、もっともだと思った。
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自分ももっともだと思った。
けれども、健さんは、庄太郎のパナマ帽がもらいたい、と言っていた。
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けれども健さんは庄太郎のパナマの帽子が貰いたいと云っていた。
庄太郎は、助からないだろう。
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庄太郎は助かるまい。
パナマ帽は、健さんのものだろう。
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パナマは健さんのものだろう。