夢十夜 現代語訳
夏目漱石(なつめそうせき)・1988年
AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-28)
第一夜
原文を見る
第一夜
こんな夢を見た。
原文を見る
こんな夢を見た。
腕組みをして枕元に座っていると、仰向けに寝た女が、静かな声でもう死にますと言う。
原文を見る
腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。
女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。
原文を見る
女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。
真っ白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色はもちろん赤い。
原文を見る
真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。
とても死にそうには見えない。
原文を見る
とうてい死にそうには見えない。
しかし女は静かな声で、もう死にますとはっきり言った。
原文を見る
しかし女は静かな声で、もう死にますと判然云った。
自分も確かにこれは死ぬなと思った。
原文を見る
自分も確にこれは死ぬなと思った。
そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにして聞いてみた。
原文を見る
そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにして聞いて見た。
死にますとも、と言いながら、女はぱっちりと目を開けた。
原文を見る
死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開けた。
大きな潤いのある目で、長いまつげに包まれた中は、ただ一面に真っ黒だった。
原文を見る
大きな潤のある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。
その真っ黒な瞳の奥に、自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。
原文を見る
その真黒な眸の奥に、自分の姿が鮮に浮かんでいる。
自分は透き通るほど深く見えるこの黒目のつやを眺めて、これでも死ぬのかと思った。
原文を見る
自分は透き徹るほど深く見えるこの黒眼の色沢を眺めて、これでも死ぬのかと思った。
それで、ねんごろに枕のそばへ口を近づけて、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまた聞き返した。
原文を見る
それで、ねんごろに枕の傍へ口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまた聞き返した。
すると女は黒い目を眠そうに見開いたまま、やはり静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわと言った。
原文を見る
すると女は黒い眼を眠そうに睜たまま、やっぱり静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわと云った。
じゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞くと、見えるかいって、ほら、そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑ってみせた。
原文を見る
じゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞くと、見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せた。
自分は黙って、顔を枕から離した。
原文を見る
自分は黙って、顔を枕から離した。
腕組みをしながら、どうしても死ぬのかなと思った。
原文を見る
腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思った。
しばらくして、女がまたこう言った。
原文を見る
しばらくして、女がまたこう云った。
「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星のかけらを墓標に置いて下さい。そうして墓のそばで待っていて下さい。また会いに来ますから」
原文を見る
「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片を墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢いに来ますから」
自分は、いつ会いに来るかねと聞いた。
原文を見る
自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。
「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」
原文を見る
「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」
自分は黙ってうなずいた。
原文を見る
自分は黙って首肯いた。
女は静かな調子を一段張り上げて、
原文を見る
女は静かな調子を一段張り上げて、
「百年待っていて下さい」
原文を見る
「百年待っていて下さい」
と思い切った声で言った。
原文を見る
と思い切った声で云った。
「百年、私の墓のそばに座って待っていて下さい。きっと会いに来ますから」
原文を見る
「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
自分はただ待っていると答えた。
原文を見る
自分はただ待っていると答えた。
すると、黒い瞳のなかに鮮やかに見えた自分の姿が、ぼうっと崩れて来た。
原文を見る
すると、黒い眸のなかに鮮に見えた自分の姿が、ぼうっと崩れて来た。
静かな水が動いて映る影を乱したように、流れ出したと思ったら、女の目がぱちりと閉じた。
原文を見る
静かな水が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、女の眼がぱちりと閉じた。
長いまつげの間から涙が頬へ垂れた。――
原文を見る
長い睫の間から涙が頬へ垂れた。――
もう死んでいた。
原文を見る
もう死んでいた。
自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘った。
原文を見る
自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘った。
真珠貝は大きな滑らかな、縁の鋭い貝だった。
原文を見る
真珠貝は大きな滑かな縁の鋭どい貝であった。
土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした。
原文を見る
土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした。
湿った土のにおいもした。
原文を見る
湿った土の匂もした。
穴はしばらくして掘れた。
原文を見る
穴はしばらくして掘れた。
女をその中に入れた。
原文を見る
女をその中に入れた。
そうして柔らかい土を、上からそっとかけた。
原文を見る
そうして柔らかい土を、上からそっと掛けた。
かけるたびに真珠貝の裏に月の光が差した。
原文を見る
掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が差した。
それから星のかけらの落ちたのを拾って来て、かるく土の上へ乗せた。
原文を見る
それから星の破片の落ちたのを拾って来て、かろく土の上へ乗せた。
星のかけらは丸かった。
原文を見る
星の破片は丸かった。
長い間大空を落ちている間に、角が取れて滑らかになったんだろうと思った。
原文を見る
長い間大空を落ちている間に、角が取れて滑かになったんだろうと思った。
抱き上げて土の上へ置くうちに、自分の胸と手が少し暖かくなった。
原文を見る
抱き上げて土の上へ置くうちに、自分の胸と手が少し暖くなった。
自分は苔の上に座った。
原文を見る
自分は苔の上に坐った。
これから百年の間こうして待っているんだなと考えながら、腕組みをして、丸い墓石を眺めていた。
原文を見る
これから百年の間こうして待っているんだなと考えながら、腕組をして、丸い墓石を眺めていた。
そのうちに、女の言った通り日が東から出た。
原文を見る
そのうちに、女の云った通り日が東から出た。
大きな赤い日だった。
原文を見る
大きな赤い日であった。
それがまた女の言った通り、やがて西へ落ちた。
原文を見る
それがまた女の云った通り、やがて西へ落ちた。
赤いままでのっそりと落ちて行った。
原文を見る
赤いまんまでのっと落ちて行った。
一つと自分は数えた。
原文を見る
一つと自分は勘定した。
しばらくするとまた真紅の太陽がのそりと上って来た。
原文を見る
しばらくするとまた唐紅の天道がのそりと上って来た。
そうして黙って沈んでしまった。
原文を見る
そうして黙って沈んでしまった。
二つとまた数えた。
原文を見る
二つとまた勘定した。
自分はこういう風に一つ二つと数えて行くうちに、赤い日をいくつ見たか分からない。
原文を見る
自分はこう云う風に一つ二つと勘定して行くうちに、赤い日をいくつ見たか分らない。
数えても、数えても、数えつくせないほど赤い日が頭の上を通り越して行った。
原文を見る
勘定しても、勘定しても、しつくせないほど赤い日が頭の上を通り越して行った。
それでも百年がまだ来ない。
原文を見る
それでも百年がまだ来ない。
しまいには、苔の生えた丸い石を眺めて、自分は女にだまされたのではなかろうかと思い出した。
原文を見る
しまいには、苔の生えた丸い石を眺めて、自分は女に欺されたのではなかろうかと思い出した。
すると石の下から斜めに自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。
原文を見る
すると石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。
見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て止まった。
原文を見る
見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。
と思うと、すらりと揺れる茎の頂に、心持ち首を傾けていた細長い一輪のつぼみが、ふっくらと花びらを開いた。
原文を見る
と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。
真っ白な百合が鼻の先で骨にこたえるほど匂った。
原文を見る
真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。
そこへはるか上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。
原文を見る
そこへ遥の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。
自分は首を前へ出して冷たい露のしたたる、白い花びらに口づけした。
原文を見る
自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。
自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、明け方の星がたった一つ瞬いていた。
原文を見る
自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
「百年はもう来ていたんだな」
原文を見る
「百年はもう来ていたんだな」
とこの時初めて気がついた。
原文を見る
とこの時始めて気がついた。
第二夜
原文を見る
第二夜
こんな夢を見た。
原文を見る
こんな夢を見た。
和尚の部屋を下がって、廊下伝いに自分の部屋へ帰ると行灯がぼんやり点っている。
原文を見る
和尚の室を退がって、廊下伝いに自分の部屋へ帰ると行灯がぼんやり点っている。
片膝を座布団の上に突いて、灯心を掻き立てたとき、花のような燃えかすがぱたりと朱塗りの台に落ちた。
原文を見る
片膝を座蒲団の上に突いて、灯心を掻き立てたとき、花のような丁子がぱたりと朱塗の台に落ちた。
同時に部屋がぱっと明るくなった。
原文を見る
同時に部屋がぱっと明かるくなった。
襖の絵は蕪村の筆である。
原文を見る
襖の画は蕪村の筆である。
黒い柳を濃く薄く、遠く近くと描いて、寒そうな漁師が笠を傾けて土手の上を通る。
原文を見る
黒い柳を濃く薄く、遠近とかいて、寒むそうな漁夫が笠を傾けて土手の上を通る。
床の間には海中文殊の軸が掛かっている。
原文を見る
床には海中文殊の軸が懸っている。
焚き残した線香が暗い方でまだ匂っている。
原文を見る
焚き残した線香が暗い方でいまだに臭っている。
広い寺だからしんと静まり返って、人の気配がない。
原文を見る
広い寺だから森閑として、人気がない。
黒い天井に差す丸行灯の丸い影が、仰向いたとたんに生きているように見えた。
原文を見る
黒い天井に差す丸行灯の丸い影が、仰向く途端に生きてるように見えた。
立て膝をしたまま、左の手で座布団をめくって、右を差し込んでみると、思った所に、ちゃんとあった。
原文を見る
立膝をしたまま、左の手で座蒲団を捲って、右を差し込んで見ると、思った所に、ちゃんとあった。
あれば安心だから、布団をもとのように直して、その上にどっかり座った。
原文を見る
あれば安心だから、蒲団をもとのごとく直して、その上にどっかり坐った。
お前は侍である。
原文を見る
お前は侍である。
侍なら悟れないはずはなかろうと和尚が言った。
原文を見る
侍なら悟れぬはずはなかろうと和尚が云った。
そういつまでも悟れないところをみると、お前は侍ではあるまいと言った。
原文を見る
そういつまでも悟れぬところをもって見ると、御前は侍ではあるまいと言った。
人間の屑じゃと言った。
原文を見る
人間の屑じゃと言った。
ははあ怒ったなと言って笑った。
原文を見る
ははあ怒ったなと云って笑った。
悔しければ悟った証拠を持って来いと言ってぷいと向こうをむいた。
原文を見る
口惜しければ悟った証拠を持って来いと云ってぷいと向をむいた。
けしからん。
原文を見る
怪しからん。
隣の広間の床に据えてある置時計が次の時を打つまでには、きっと悟ってみせる。
原文を見る
隣の広間の床に据えてある置時計が次の刻を打つまでには、きっと悟って見せる。
悟った上で、今夜また和尚の部屋へ入る。
原文を見る
悟った上で、今夜また入室する。
そうして和尚の首と悟りとを引き替えにしてやる。
原文を見る
そうして和尚の首と悟りと引替にしてやる。
悟らなければ、和尚の命が取れない。
原文を見る
悟らなければ、和尚の命が取れない。
どうしても悟らなければならない。
原文を見る
どうしても悟らなければならない。
自分は侍である。
原文を見る
自分は侍である。
もし悟れなければ自刃する。
原文を見る
もし悟れなければ自刃する。
侍が辱められて、生きているわけには行かない。
原文を見る
侍が辱しめられて、生きている訳には行かない。
きれいに死んでしまう。
原文を見る
綺麗に死んでしまう。
こう考えた時、自分の手はまた思わず布団の下へ入った。
原文を見る
こう考えた時、自分の手はまた思わず布団の下へ這入った。
そうして朱塗りの鞘の短刀を引きずり出した。
原文を見る
そうして朱鞘の短刀を引き摺り出した。
ぐっと柄を握って、赤い鞘を向こうへ払ったら、冷たい刃が一度に暗い部屋で光った。
原文を見る
ぐっと束を握って、赤い鞘を向へ払ったら、冷たい刃が一度に暗い部屋で光った。
すごいものが手元から、すうすうと逃げて行くように思われる。
原文を見る
凄いものが手元から、すうすうと逃げて行くように思われる。
そうして、ことごとく切っ先へ集まって、殺気を一点に込めている。
原文を見る
そうして、ことごとく切先へ集まって、殺気を一点に籠めている。
自分はこの鋭い刃が、無念にも針の頭のように縮められて、九寸五分の先へ来てやむをえず尖っているのを見て、たちまちぐさりとやりたくなった。
原文を見る
自分はこの鋭い刃が、無念にも針の頭のように縮められて、九寸五分の先へ来てやむをえず尖ってるのを見て、たちまちぐさりとやりたくなった。
体の血が右の手首の方へ流れて来て、握っている柄がにちゃにちゃする。
原文を見る
身体の血が右の手首の方へ流れて来て、握っている束がにちゃにちゃする。
唇が震えた。
原文を見る
唇が顫えた。
短刀を鞘へ収めて右脇へ引きつけておいて、それから足を組んで座禅に入った。――
原文を見る
短刀を鞘へ収めて右脇へ引きつけておいて、それから全伽を組んだ。――
趙州は無と言った。
原文を見る
趙州曰く無と。
無とは何だ。
原文を見る
無とは何だ。
糞坊主めと歯ぎしりをした。
原文を見る
糞坊主めとはがみをした。
奥歯を強く噛み締めたので、鼻から熱い息が荒く出る。
原文を見る
奥歯を強く咬み締めたので、鼻から熱い息が荒く出る。
こめかみがつって痛い。
原文を見る
こめかみが釣って痛い。
目は普通の倍も大きく開けてやった。
原文を見る
眼は普通の倍も大きく開けてやった。
掛け軸が見える。
原文を見る
懸物が見える。
行灯が見える。
原文を見る
行灯が見える。
畳が見える。
原文を見る
畳が見える。
和尚のやかん頭がありありと見える。
原文を見る
和尚の薬缶頭がありありと見える。
大きな口を開いてあざ笑った声まで聞こえる。
原文を見る
鰐口を開いて嘲笑った声まで聞える。
けしからん坊主だ。
原文を見る
怪しからん坊主だ。
どうしてもあのやかんを首にしなくてはならん。
原文を見る
どうしてもあの薬缶を首にしなくてはならん。
悟ってやる。
原文を見る
悟ってやる。
無だ、無だと舌の根で念じた。
原文を見る
無だ、無だと舌の根で念じた。
無だと言うのにやっぱり線香の匂いがした。
原文を見る
無だと云うのにやっぱり線香の香がした。
何だ線香のくせに。
原文を見る
何だ線香のくせに。
自分はいきなり拳を固めて自分の頭をいやというほど殴った。
原文を見る
自分はいきなり拳骨を固めて自分の頭をいやと云うほど擲った。
そうして奥歯をぎりぎりと噛んだ。
原文を見る
そうして奥歯をぎりぎりと噛んだ。
両脇から汗が出る。
原文を見る
両腋から汗が出る。
背中が棒のようになった。
原文を見る
背中が棒のようになった。
膝の継ぎ目が急に痛くなった。
原文を見る
膝の接目が急に痛くなった。
膝が折れたってどうということはないと思った。
原文を見る
膝が折れたってどうあるものかと思った。
けれども痛い。
原文を見る
けれども痛い。
苦しい。
原文を見る
苦しい。
無はなかなか出て来ない。
原文を見る
無はなかなか出て来ない。
出て来ると思うとすぐ痛くなる。
原文を見る
出て来ると思うとすぐ痛くなる。
腹が立つ。
原文を見る
腹が立つ。
無念になる。
原文を見る
無念になる。
ひどく悔しくなる。
原文を見る
非常に口惜しくなる。
涙がほろほろ出る。
原文を見る
涙がほろほろ出る。
いっそのこと身を大岩の上にぶつけて、骨も肉もめちゃめちゃに砕いてしまいたくなる。
原文を見る
ひと思に身を巨巌の上にぶつけて、骨も肉もめちゃめちゃに砕いてしまいたくなる。
それでも我慢してじっと座っていた。
原文を見る
それでも我慢してじっと坐っていた。
耐えがたいほど切ないものを胸に詰め込んで我慢していた。
原文を見る
堪えがたいほど切ないものを胸に盛れて忍んでいた。
その切ないものが体中の筋肉を下から持ち上げて、毛穴から外へ吹き出よう吹き出ようと焦るけれども、どこも一面にふさがって、まるで出口がないような、残酷極まりない状態だった。
原文を見る
その切ないものが身体中の筋肉を下から持上げて、毛穴から外へ吹き出よう吹き出ようと焦るけれども、どこも一面に塞がって、まるで出口がないような残刻極まる状態であった。
そのうちに頭が変になった。
原文を見る
そのうちに頭が変になった。
行灯も蕪村の絵も、畳も、違い棚も、有って無いような、無くて有るように見えた。
原文を見る
行灯も蕪村の画も、畳も、違棚も有って無いような、無くって有るように見えた。
かといって無はちっとも目の前に現れて来ない。
原文を見る
と云って無はちっとも現前しない。
ただいい加減に座っていただけのようである。
原文を見る
ただ好加減に坐っていたようである。
そこへ突然、隣の座敷の時計がチーンと鳴り始めた。
原文を見る
ところへ忽然隣座敷の時計がチーンと鳴り始めた。
はっと思った。
原文を見る
はっと思った。
右の手をすぐ短刀にかけた。
原文を見る
右の手をすぐ短刀にかけた。
時計が二つ目をチーンと打った。
原文を見る
時計が二つ目をチーンと打った。
第三夜
原文を見る
第三夜
こんな夢を見た。
原文を見る
こんな夢を見た。
六つになる子供を背負っている。
原文を見る
六つになる子供を負ってる。
確かに自分の子である。
原文を見る
たしかに自分の子である。
ただ不思議なことにはいつの間にか目が見えなくなって、青々と剃った坊主頭になっている。
原文を見る
ただ不思議な事にはいつの間にか眼が潰れて、青坊主になっている。
自分がお前の目はいつ見えなくなったのかいと聞くと、なに昔からさと答えた。
原文を見る
自分が御前の眼はいつ潰れたのかいと聞くと、なに昔からさと答えた。
声は子供の声に違いないが、言葉つきはまるで大人である。
原文を見る
声は子供の声に相違ないが、言葉つきはまるで大人である。
しかも対等だ。
原文を見る
しかも対等だ。
左右は青々とした田んぼである。
原文を見る
左右は青田である。
道は細い。
原文を見る
路は細い。
鷺の影が時々闇に差す。
原文を見る
鷺の影が時々闇に差す。
「田んぼへかかったね」
原文を見る
「田圃へかかったね」
と背中で言った。
原文を見る
と背中で云った。
「どうして分かる」
原文を見る
「どうして解る」
と顔を後ろへ振り向けるようにして聞いたら、
原文を見る
と顔を後ろへ振り向けるようにして聞いたら、
「だって鷺が鳴くじゃないか」
原文を見る
「だって鷺が鳴くじゃないか」
と答えた。
原文を見る
と答えた。
すると鷺が本当に二声ほど鳴いた。
原文を見る
すると鷺がはたして二声ほど鳴いた。
自分は我が子ながら少し怖くなった。
原文を見る
自分は我子ながら少し怖くなった。
こんなものを背負っていては、この先どうなるか分からない。
原文を見る
こんなものを背負っていては、この先どうなるか分らない。
どこか捨ててしまう所はなかろうかと向こうを見ると闇の中に大きな森が見えた。
原文を見る
どこか打遣ゃる所はなかろうかと向うを見ると闇の中に大きな森が見えた。
あそこならばと考え出したとたんに、背中で、
原文を見る
あすこならばと考え出す途端に、背中で、
「ふふん」
原文を見る
「ふふん」
という声がした。
原文を見る
と云う声がした。
「何を笑うんだ」
原文を見る
「何を笑うんだ」
子供は返事をしなかった。
原文を見る
子供は返事をしなかった。
ただ
原文を見る
ただ
「お父さん、重いかい」
原文を見る
「御父さん、重いかい」
と聞いた。
原文を見る
と聞いた。
「重かあない」
原文を見る
「重かあない」
と答えると
原文を見る
と答えると
「今に重くなるよ」
原文を見る
「今に重くなるよ」
と言った。
原文を見る
と云った。
自分は黙って森を目印に歩いて行った。
原文を見る
自分は黙って森を目標にあるいて行った。
田んぼの中の道が不規則にうねってなかなか思うように抜けられない。
原文を見る
田の中の路が不規則にうねってなかなか思うように出られない。
しばらくすると二股になった。
原文を見る
しばらくすると二股になった。
自分は股の根もとに立って、ちょっと休んだ。
原文を見る
自分は股の根に立って、ちょっと休んだ。
「石が立ってるはずだがな」
原文を見る
「石が立ってるはずだがな」
と小僧が言った。
原文を見る
と小僧が云った。
なるほど八寸角の石が腰ほどの高さに立っている。
原文を見る
なるほど八寸角の石が腰ほどの高さに立っている。
表には左 日ヶ窪、右 堀田原とある。
原文を見る
表には左り日ヶ窪、右堀田原とある。
闇なのに赤い字がはっきり見えた。
原文を見る
闇だのに赤い字が明かに見えた。
赤い字はイモリの腹のような色だった。
原文を見る
赤い字は井守の腹のような色であった。
「左がいいだろう」
原文を見る
「左が好いだろう」
と小僧が命令した。
原文を見る
と小僧が命令した。
左を見るとさっきの森が闇の影を、高い空から自分たちの頭の上へ投げかけていた。
原文を見る
左を見るとさっきの森が闇の影を、高い空から自分らの頭の上へ抛げかけていた。
自分はちょっとためらった。
原文を見る
自分はちょっと躊躇した。
「遠慮しないでもいい」
原文を見る
「遠慮しないでもいい」
と小僧がまた言った。
原文を見る
と小僧がまた云った。
自分は仕方なしに森の方へ歩き出した。
原文を見る
自分は仕方なしに森の方へ歩き出した。
腹の中では、目が見えないくせによく何でも知ってるなと考えながら一筋道を森へ近づいてくると、背中で、「どうも目が見えないのは不自由でいけないね」
原文を見る
腹の中では、よく盲目のくせに何でも知ってるなと考えながら一筋道を森へ近づいてくると、背中で、「どうも盲目は不自由でいけないね」
と言った。
原文を見る
と云った。
「だから背負ってやるからいいじゃないか」
原文を見る
「だから負ってやるからいいじゃないか」
「背負ってもらってすまないが、どうも人に馬鹿にされていけない。親にまで馬鹿にされるからいけない」
原文を見る
「負ぶって貰ってすまないが、どうも人に馬鹿にされていけない。親にまで馬鹿にされるからいけない」
何だか嫌になった。
原文を見る
何だか厭になった。
早く森へ行って捨ててしまおうと思って急いだ。
原文を見る
早く森へ行って捨ててしまおうと思って急いだ。
「もう少し行くと分かる。――ちょうどこんな晩だったな」
原文を見る
「もう少し行くと解る。――ちょうどこんな晩だったな」
と背中で独り言のように言っている。
原文を見る
と背中で独言のように云っている。
「何が」
原文を見る
「何が」
と切羽詰まった声を出して聞いた。
原文を見る
と際どい声を出して聞いた。
「何がって、知ってるじゃないか」
原文を見る
「何がって、知ってるじゃないか」
と子供はあざけるように答えた。
原文を見る
と子供は嘲けるように答えた。
すると何だか知っているような気がし出した。
原文を見る
すると何だか知ってるような気がし出した。
けれどもはっきりとは分からない。
原文を見る
けれども判然とは分らない。
ただこんな晩だったように思える。
原文を見る
ただこんな晩であったように思える。
そうしてもう少し行けば分かるように思える。
原文を見る
そうしてもう少し行けば分るように思える。
分かっては大変だから、分からないうちに早く捨ててしまって、安心しなくてはならないように思える。
原文を見る
分っては大変だから、分らないうちに早く捨ててしまって、安心しなくってはならないように思える。
自分はますます足を早めた。
原文を見る
自分はますます足を早めた。
雨はさっきから降っている。
原文を見る
雨はさっきから降っている。
道はだんだん暗くなる。
原文を見る
路はだんだん暗くなる。
ほとんど夢中である。
原文を見る
ほとんど夢中である。
ただ背中に小さい小僧がくっついていて、その小僧が自分の過去、現在、未来をことごとく照らして、寸分の事実も漏らさない鏡のように光っている。
原文を見る
ただ背中に小さい小僧がくっついていて、その小僧が自分の過去、現在、未来をことごとく照して、寸分の事実も洩らさない鏡のように光っている。
しかもそれが自分の子である。
原文を見る
しかもそれが自分の子である。
そうして目が見えない。
原文を見る
そうして盲目である。
自分はたまらなくなった。
原文を見る
自分はたまらなくなった。
「ここだ、ここだ。ちょうどその杉の根の所だ」
原文を見る
「ここだ、ここだ。ちょうどその杉の根の処だ」
雨の中で小僧の声ははっきり聞こえた。
原文を見る
雨の中で小僧の声は判然聞えた。
自分は思わず立ち止まった。
原文を見る
自分は覚えず留った。
いつしか森の中へ入っていた。
原文を見る
いつしか森の中へ這入っていた。
一間ほど先にある黒いものは確かに小僧の言う通り杉の木と見えた。
原文を見る
一間ばかり先にある黒いものはたしかに小僧の云う通り杉の木と見えた。
「お父さん、その杉の根の所だったね」
原文を見る
「御父さん、その杉の根の処だったね」
「うん、そうだ」
原文を見る
「うん、そうだ」
と思わず答えてしまった。
原文を見る
と思わず答えてしまった。
「文化五年の辰年だろう」
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「文化五年辰年だろう」
なるほど文化五年の辰年らしく思われた。
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なるほど文化五年辰年らしく思われた。
「お前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」
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「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」
自分はこの言葉を聞くやいなや、今から百年前、文化五年の辰年のこんな闇の晩に、この杉の根もとで、目の見えない一人を殺したという自覚が、突然として頭の中に起こった。
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自分はこの言葉を聞くや否や、今から百年前文化五年の辰年のこんな闇の晩に、この杉の根で、一人の盲目を殺したと云う自覚が、忽然として頭の中に起った。
おれは人殺しだったんだなと初めて気がついたとたんに、背中の子が急に石地蔵のように重くなった。
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おれは人殺であったんだなと始めて気がついた途端に、背中の子が急に石地蔵のように重くなった。
第四夜
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第四夜
広い土間の真ん中に涼み台のようなものを据えて、その周りに小さな腰掛けが並べてある。
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広い土間の真中に涼み台のようなものを据えて、その周囲に小さい床几が並べてある。
台は黒光りに光っている。
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台は黒光りに光っている。
片隅には四角な膳を前に置いてお爺さんが一人で酒を飲んでいる。
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片隅には四角な膳を前に置いて爺さんが一人で酒を飲んでいる。
肴は煮しめらしい。
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肴は煮しめらしい。
お爺さんは酒のせいでかなり赤くなっている。
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爺さんは酒の加減でなかなか赤くなっている。
その上顔中つやつやして皺というほどのものはどこにも見当たらない。
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その上顔中つやつやして皺と云うほどのものはどこにも見当らない。
ただ白いひげをありったけ生やしているから年寄りだということだけは分かる。
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ただ白い髯をありたけ生やしているから年寄と云う事だけはわかる。
自分は子供ながら、このお爺さんの年はいくつなんだろうと思った。
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自分は子供ながら、この爺さんの年はいくつなんだろうと思った。
そこへ裏の掛け樋から手桶に水を汲んで来たおかみさんが、前掛けで手を拭きながら、
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ところへ裏の筧から手桶に水を汲んで来た神さんが、前垂で手を拭きながら、
「お爺さんはいくつかね」
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「御爺さんはいくつかね」
と聞いた。
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と聞いた。
お爺さんは頬張った煮しめを飲み込んで、
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爺さんは頬張った煮〆を呑み込んで、
「いくつか忘れたよ」
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「いくつか忘れたよ」
と澄ましていた。
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と澄ましていた。
おかみさんは拭いた手を、細い帯の間に挟んで横からお爺さんの顔を見て立っていた。
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神さんは拭いた手を、細い帯の間に挟んで横から爺さんの顔を見て立っていた。
お爺さんは茶碗のような大きなもので酒をぐいと飲んで、そうして、ふうと長い息を白いひげの間から吹き出した。
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爺さんは茶碗のような大きなもので酒をぐいと飲んで、そうして、ふうと長い息を白い髯の間から吹き出した。
するとおかみさんが、
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すると神さんが、
「お爺さんの家はどこかね」
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「御爺さんの家はどこかね」
と聞いた。
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と聞いた。
お爺さんは長い息を途中で切って、
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爺さんは長い息を途中で切って、
「へその奥だよ」
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「臍の奥だよ」
と言った。
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と云った。
おかみさんは手を細い帯の間に突っ込んだまま、
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神さんは手を細い帯の間に突込んだまま、
「どこへ行くかね」
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「どこへ行くかね」
とまた聞いた。
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とまた聞いた。
するとお爺さんが、また茶碗のような大きなもので熱い酒をぐいと飲んで前のような息をふうと吹いて、
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すると爺さんが、また茶碗のような大きなもので熱い酒をぐいと飲んで前のような息をふうと吹いて、
「あっちへ行くよ」
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「あっちへ行くよ」
と言った。
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と云った。
「真っ直ぐかい」
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「真直かい」
とおかみさんが聞いた時、ふうと吹いた息が、障子を通り越して柳の下を抜けて、河原の方へ真っ直ぐに行った。
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と神さんが聞いた時、ふうと吹いた息が、障子を通り越して柳の下を抜けて、河原の方へ真直に行った。
お爺さんが表へ出た。
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爺さんが表へ出た。
自分も後から出た。
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自分も後から出た。
お爺さんの腰に小さい瓢箪がぶら下がっている。
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爺さんの腰に小さい瓢箪がぶら下がっている。
肩から四角な箱を脇の下へ吊るしている。
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肩から四角な箱を腋の下へ釣るしている。
浅葱色の股引をはいて、浅葱色の袖なしを着ている。
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浅黄の股引を穿いて、浅黄の袖無しを着ている。
足袋だけが黄色い。
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足袋だけが黄色い。
何だか皮で作った足袋のように見えた。
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何だか皮で作った足袋のように見えた。
お爺さんが真っ直ぐに柳の下まで来た。
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爺さんが真直に柳の下まで来た。
柳の下に子供が三、四人いた。
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柳の下に子供が三四人いた。
お爺さんは笑いながら腰から浅葱色の手拭いを出した。
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爺さんは笑いながら腰から浅黄の手拭を出した。
それをこよりのように細長くよった。
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それを肝心綯のように細長く綯った。
そうして地面の真ん中に置いた。
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そうして地面の真中に置いた。
それから手拭いの周りに、大きな丸い輪を描いた。
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それから手拭の周囲に、大きな丸い輪を描いた。
しまいに肩にかけた箱の中から真鍮でこしらえた飴屋の笛を出した。
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しまいに肩にかけた箱の中から真鍮で製らえた飴屋の笛を出した。
「今にその手拭いが蛇になるから、見ておろう。見ておろう」
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「今にその手拭が蛇になるから、見ておろう。見ておろう」
と繰り返して言った。
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と繰返して云った。
子供は一生懸命に手拭いを見ていた。
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子供は一生懸命に手拭を見ていた。
自分も見ていた。
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自分も見ていた。
「見ておろう、見ておろう、いいか」
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「見ておろう、見ておろう、好いか」
と言いながらお爺さんが笛を吹いて、輪の上をぐるぐる回り出した。
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と云いながら爺さんが笛を吹いて、輪の上をぐるぐる廻り出した。
自分は手拭いばかり見ていた。
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自分は手拭ばかり見ていた。
けれども手拭いはいっこうに動かなかった。
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けれども手拭はいっこう動かなかった。
お爺さんは笛をぴいぴい吹いた。
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爺さんは笛をぴいぴい吹いた。
そうして輪の上を何度も回った。
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そうして輪の上を何遍も廻った。
草鞋でつま先立ちするように、抜き足をするように、手拭いに遠慮をするように、回った。
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草鞋を爪立てるように、抜足をするように、手拭に遠慮をするように、廻った。
怖そうにも見えた。
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怖そうにも見えた。
面白そうでもあった。
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面白そうにもあった。
やがてお爺さんは笛をぴたりとやめた。
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やがて爺さんは笛をぴたりとやめた。
そうして、肩に掛けた箱の口を開けて、手拭いの首を、ちょいとつまんで、ぽっと放り込んだ。
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そうして、肩に掛けた箱の口を開けて、手拭の首を、ちょいと撮んで、ぽっと放り込んだ。
「こうしておくと、箱の中で蛇になる。今に見せてやる。今に見せてやる」
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「こうしておくと、箱の中で蛇になる。今に見せてやる。今に見せてやる」
と言いながら、お爺さんが真っ直ぐに歩き出した。
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と云いながら、爺さんが真直に歩き出した。
柳の下を抜けて、細い道を真っ直ぐに下りて行った。
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柳の下を抜けて、細い路を真直に下りて行った。
自分は蛇が見たいから、細い道をどこまでもついて行った。
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自分は蛇が見たいから、細い道をどこまでも追いて行った。
お爺さんは時々「今になる」
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爺さんは時々「今になる」
と言ったり、「蛇になる」
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と云ったり、「蛇になる」
と言ったりして歩いて行く。
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と云ったりして歩いて行く。
しまいには、
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しまいには、
「今になる、蛇になる、
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「今になる、蛇になる、
きっとなる、笛が鳴る、」
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きっとなる、笛が鳴る、」
と歌いながら、とうとう川の岸へ出た。
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と唄いながら、とうとう河の岸へ出た。
橋も舟もないから、ここで休んで箱の中の蛇を見せるだろうと思っていると、お爺さんはざぶざぶ川の中へ入り出した。
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橋も舟もないから、ここで休んで箱の中の蛇を見せるだろうと思っていると、爺さんはざぶざぶ河の中へ這入り出した。
初めは膝くらいの深さだったが、だんだん腰から、胸の方まで水に浸かって見えなくなる。
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始めは膝くらいの深さであったが、だんだん腰から、胸の方まで水に浸って見えなくなる。
それでもお爺さんは
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それでも爺さんは
「深くなる、夜になる、
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「深くなる、夜になる、
真っ直ぐになる」
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真直になる」
と歌いながら、どこまでも真っ直ぐに歩いて行った。
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と唄いながら、どこまでも真直に歩いて行った。
そうしてひげも顔も頭も頭巾もまるで見えなくなってしまった。
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そうして髯も顔も頭も頭巾もまるで見えなくなってしまった。
自分はお爺さんが向こう岸へ上がった時に、蛇を見せるだろうと思って、葦の鳴る所に立って、たった一人でいつまでも待っていた。
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自分は爺さんが向岸へ上がった時に、蛇を見せるだろうと思って、蘆の鳴る所に立って、たった一人いつまでも待っていた。
けれどもお爺さんは、とうとう上がって来なかった。
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けれども爺さんは、とうとう上がって来なかった。
第五夜
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第五夜
こんな夢を見た。
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こんな夢を見た。
何でもよほど古いことで、神代に近い昔と思われるが、自分が戦をして運悪く負けたために、生け捕りになって、敵の大将の前に引き据えられた。
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何でもよほど古い事で、神代に近い昔と思われるが、自分が軍をして運悪く敗北たために、生擒になって、敵の大将の前に引き据えられた。
その頃の人はみんな背が高かった。
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その頃の人はみんな背が高かった。
そうして、みんな長いひげを生やしていた。
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そうして、みんな長い髯を生やしていた。
革の帯を締めて、それへ棒のような剣を吊るしていた。
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革の帯を締めて、それへ棒のような剣を釣るしていた。
弓は藤づるの太いのをそのまま用いたように見えた。
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弓は藤蔓の太いのをそのまま用いたように見えた。
漆も塗ってなければ磨きもかけてない。
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漆も塗ってなければ磨きもかけてない。
きわめて素朴なものだった。
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極めて素樸なものであった。
敵の大将は、弓の真ん中を右の手で握って、その弓を草の上へ突いて、酒甕を伏せたようなものの上に腰をかけていた。
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敵の大将は、弓の真中を右の手で握って、その弓を草の上へ突いて、酒甕を伏せたようなものの上に腰をかけていた。
その顔を見ると、鼻の上で、左右の眉が太くつながっている。
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その顔を見ると、鼻の上で、左右の眉が太く接続っている。
その頃かみそりというものはもちろんなかった。
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その頃髪剃と云うものは無論なかった。
自分は捕虜だから、腰をかけるわけに行かない。
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自分は虜だから、腰をかける訳に行かない。
草の上にあぐらをかいていた。
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草の上に胡坐をかいていた。
足には大きな藁沓をはいていた。
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足には大きな藁沓を穿いていた。
この時代の藁沓は深いものだった。
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この時代の藁沓は深いものであった。
立つと膝頭まで来た。
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立つと膝頭まで来た。
その端の所は藁を少し編み残して、房のように下げて、歩くとばらばら動くようにして、飾りとしていた。
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その端の所は藁を少し編残して、房のように下げて、歩くとばらばら動くようにして、飾りとしていた。
大将はかがり火で自分の顔を見て、死ぬか生きるかと聞いた。
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大将は篝火で自分の顔を見て、死ぬか生きるかと聞いた。
これはその頃の習慣で、捕虜には誰でも一応はこう聞いたものである。
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これはその頃の習慣で、捕虜にはだれでも一応はこう聞いたものである。
生きると答えると降参した意味で、死ぬと言うと屈服しないということになる。
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生きると答えると降参した意味で、死ぬと云うと屈服しないと云う事になる。
自分は一言、死ぬと答えた。
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自分は一言死ぬと答えた。
大将は草の上に突いていた弓を向こうへ投げて、腰に吊るした棒のような剣をするりと抜きかけた。
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大将は草の上に突いていた弓を向うへ抛げて、腰に釣るした棒のような剣をするりと抜きかけた。
それへ風になびいたかがり火が横から吹きつけた。
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それへ風に靡いた篝火が横から吹きつけた。
自分は右の手を楓のように開いて、手のひらを大将の方へ向けて、目の上へ差し上げた。
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自分は右の手を楓のように開いて、掌を大将の方へ向けて、眼の上へ差し上げた。
待てという合図である。
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待てと云う相図である。
大将は太い剣をかちゃりと鞘に収めた。
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大将は太い剣をかちゃりと鞘に収めた。
その頃でも恋はあった。
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その頃でも恋はあった。
自分は死ぬ前に一目思う女に会いたいと言った。
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自分は死ぬ前に一目思う女に逢いたいと云った。
大将は夜が明けて鶏が鳴くまでなら待つと言った。
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大将は夜が開けて鶏が鳴くまでなら待つと云った。
鶏が鳴くまでに女をここへ呼ばなければならない。
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鶏が鳴くまでに女をここへ呼ばなければならない。
鶏が鳴いても女が来なければ、自分は会わずに殺されてしまう。
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鶏が鳴いても女が来なければ、自分は逢わずに殺されてしまう。
大将は腰をかけたまま、かがり火を眺めている。
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大将は腰をかけたまま、篝火を眺めている。
自分は大きな藁沓を組み合わせたまま、草の上で女を待っている。
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自分は大きな藁沓を組み合わしたまま、草の上で女を待っている。
夜はだんだん更ける。
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夜はだんだん更ける。
時々かがり火が崩れる音がする。
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時々篝火が崩れる音がする。
崩れるたびにうろたえたように炎が大将になだれかかる。
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崩れるたびに狼狽えたように焔が大将になだれかかる。
真っ黒な眉の下で、大将の目がぴかぴかと光っている。
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真黒な眉の下で、大将の眼がぴかぴかと光っている。
すると誰かが来て、新しい枝をたくさん火の中へ投げ込んで行く。
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すると誰やら来て、新しい枝をたくさん火の中へ抛げ込んで行く。
しばらくすると、火がぱちぱちと鳴る。
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しばらくすると、火がぱちぱちと鳴る。
暗闇を弾き返すような勇ましい音だった。
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暗闇を弾き返すような勇ましい音であった。
この時女は、裏の楢の木につないである、白い馬を引き出した。
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この時女は、裏の楢の木に繋いである、白い馬を引き出した。
たてがみを三度撫でて高い背にひらりと飛び乗った。
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鬣を三度撫でて高い背にひらりと飛び乗った。
鞍もない鐙もない裸馬だった。
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鞍もない鐙もない裸馬であった。
長く白い足で、太い腹を蹴ると、馬は一散に駆け出した。
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長く白い足で、太腹を蹴ると、馬はいっさんに駆け出した。
誰かがかがり火を継ぎ足したので、遠くの空が薄明るく見える。
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誰かが篝りを継ぎ足したので、遠くの空が薄明るく見える。
馬はこの明るいものを目がけて闇の中を飛んで来る。
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馬はこの明るいものを目懸けて闇の中を飛んで来る。
鼻から火の柱のような息を二本出して飛んで来る。
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鼻から火の柱のような息を二本出して飛んで来る。
それでも女は細い足でしきりなしに馬の腹を蹴っている。
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それでも女は細い足でしきりなしに馬の腹を蹴っている。
馬は蹄の音が宙で鳴るほど早く飛んで来る。
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馬は蹄の音が宙で鳴るほど早く飛んで来る。
女の髪は吹き流しのように闇の中に尾を引いた。
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女の髪は吹流しのように闇の中に尾を曳いた。
それでもまだかがり火のある所まで来られない。
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それでもまだ篝のある所まで来られない。
すると真っ暗な道のそばで、突然こけこっこうという鶏の声がした。
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すると真闇な道の傍で、たちまちこけこっこうという鶏の声がした。
女は身をのけぞらせて、両手に握った手綱をうんと引いた。
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女は身を空様に、両手に握った手綱をうんと控えた。
馬は前足の蹄を堅い岩の上にはっしと刻み込んだ。
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馬は前足の蹄を堅い岩の上に発矢と刻み込んだ。
こけこっこうと鶏がまた一声鳴いた。
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こけこっこうと鶏がまた一声鳴いた。
女はあっと言って、締めた手綱を一度に緩めた。
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女はあっと云って、緊めた手綱を一度に緩めた。
馬は両膝を折る。
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馬は諸膝を折る。
乗った人と共にまともに前へのめった。
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乗った人と共に真向へ前へのめった。
岩の下は深い淵だった。
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岩の下は深い淵であった。
蹄の跡は今でも岩の上に残っている。
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蹄の跡はいまだに岩の上に残っている。
鶏の鳴く真似をしたものは天探女である。
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鶏の鳴く真似をしたものは天探女である。
この蹄の跡が岩に刻みつけられている間、天探女は自分の敵である。
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この蹄の痕の岩に刻みつけられている間、天探女は自分の敵である。
第六夜
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第六夜
運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいるという評判だから、散歩がてら行ってみると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに勝手な批評をやっていた。
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運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。
山門の前五、六間の所には、大きな赤松があって、その幹が斜めに山門の屋根瓦を隠して、遠い青空まで伸びている。
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山門の前五六間の所には、大きな赤松があって、その幹が斜めに山門の甍を隠して、遠い青空まで伸びている。
松の緑と朱塗りの門が互いに映り合って見事に見える。
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松の緑と朱塗の門が互いに照り合ってみごとに見える。
その上松の位置がいい。
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その上松の位地が好い。
門の左の端を目障りにならないように、斜めに切って行って、上になるほど幅を広く屋根まで突き出しているのが何となく古風である。
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門の左の端を眼障にならないように、斜に切って行って、上になるほど幅を広く屋根まで突出しているのが何となく古風である。
鎌倉時代とも思われる。
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鎌倉時代とも思われる。
ところが見ているものは、みんな自分と同じく、明治の人間である。
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ところが見ているものは、みんな自分と同じく、明治の人間である。
その中でも人力車夫が一番多い。
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その中でも車夫が一番多い。
客待ちをして退屈だから立っているに違いない。
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辻待をして退屈だから立っているに相違ない。
「大きなもんだなあ」
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「大きなもんだなあ」
と言っている。
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と云っている。
「人間をこしらえるよりもよっぽど骨が折れるだろう」
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「人間を拵えるよりもよっぽど骨が折れるだろう」
とも言っている。
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とも云っている。
そうかと思うと、「へえ仁王だね。今でも仁王を彫るのかね。へえそうかね。私はまた仁王はみんな古いのばかりかと思ってた」
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そうかと思うと、「へえ仁王だね。今でも仁王を彫るのかね。へえそうかね。私ゃまた仁王はみんな古いのばかりかと思ってた」
と言った男がある。
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と云った男がある。
「どうも強そうですね。何だって言いますぜ。昔から誰が強いって、仁王ほど強い人はいないって言いますぜ。何でも日本武尊よりも強いんだって言うからね」
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「どうも強そうですね。なんだってえますぜ。昔から誰が強いって、仁王ほど強い人あ無いって云いますぜ。何でも日本武尊よりも強いんだってえからね」
と話しかけた男もある。
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と話しかけた男もある。
この男は着物の裾を尻からげにして、帽子をかぶらずにいた。
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この男は尻を端折って、帽子を被らずにいた。
よほど教養のない男と見える。
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よほど無教育な男と見える。
運慶は見物人の評判にはまるでおかまいなしにのみと槌を動かしている。
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運慶は見物人の評判には委細頓着なく鑿と槌を動かしている。
いっこうに振り向きもしない。
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いっこう振り向きもしない。
高い所に乗って、仁王の顔のあたりをしきりに彫り抜いて行く。
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高い所に乗って、仁王の顔の辺をしきりに彫り抜いて行く。
運慶は頭に小さい烏帽子のようなものを乗せて、素襖だか何だか分からない大きな袖を背中でくくっている。
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運慶は頭に小さい烏帽子のようなものを乗せて、素袍だか何だかわからない大きな袖を背中で括っている。
その様子がいかにも古くさい。
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その様子がいかにも古くさい。
わいわい言っている見物人とはまるで釣り合いが取れないようである。
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わいわい云ってる見物人とはまるで釣り合が取れないようである。
自分はどうして今時分まで運慶が生きているのかなと思った。
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自分はどうして今時分まで運慶が生きているのかなと思った。
どうも不思議なことがあるものだと考えながら、やはり立って見ていた。
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どうも不思議な事があるものだと考えながら、やはり立って見ていた。
しかし運慶の方では不思議とも奇妙ともまったく感じていない様子で一生懸命に彫っている。
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しかし運慶の方では不思議とも奇体ともとんと感じ得ない様子で一生懸命に彫っている。
仰向いてこの態度を眺めていた一人の若い男が、自分の方を振り向いて、
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仰向いてこの態度を眺めていた一人の若い男が、自分の方を振り向いて、
「さすがは運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と我とあるのみという態度だ。あっぱれだ」
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「さすがは運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と我れとあるのみと云う態度だ。天晴れだ」
と言って褒め出した。
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と云って賞め出した。
自分はこの言葉を面白いと思った。
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自分はこの言葉を面白いと思った。
それでちょっと若い男の方を見ると、若い男は、すかさず、
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それでちょっと若い男の方を見ると、若い男は、すかさず、
「あののみと槌の使い方を見たまえ。まったく自在な境地に達している」
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「あの鑿と槌の使い方を見たまえ。大自在の妙境に達している」
と言った。
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と云った。
運慶は今太い眉を一寸の高さに横へ彫り抜いて、のみの歯を縦に返すやいなや斜めに、上から槌を打ち下ろした。
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運慶は今太い眉を一寸の高さに横へ彫り抜いて、鑿の歯を竪に返すや否や斜すに、上から槌を打ち下した。
堅い木をひと刻みに削って、厚い木くずが槌の音に応じて飛んだと思ったら、小鼻のおっ開いた怒り鼻の側面がたちまち浮き上がって来た。
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堅い木を一と刻みに削って、厚い木屑が槌の声に応じて飛んだと思ったら、小鼻のおっ開いた怒り鼻の側面がたちまち浮き上がって来た。
その刃の入れ方がいかにも無遠慮だった。
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その刀の入れ方がいかにも無遠慮であった。
そうして少しも迷いをはさんでいないように見えた。
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そうして少しも疑念を挾んでおらんように見えた。
「よくああ無造作にのみを使って、思うような眉や鼻ができるものだな」
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「よくああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻ができるものだな」
と自分はあんまり感心したから独り言のように言った。
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と自分はあんまり感心したから独言のように言った。
するとさっきの若い男が、
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するとさっきの若い男が、
「なに、あれは眉や鼻をのみで作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、のみと槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだから決して間違うはずはない」
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「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」
と言った。
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と云った。
自分はこの時初めて彫刻とはそんなものかと思い出した。
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自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。
本当にそうなら誰にでもできることだと思い出した。
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はたしてそうなら誰にでもできる事だと思い出した。
それで急に自分も仁王が彫ってみたくなったから見物をやめてさっそく家へ帰った。
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それで急に自分も仁王が彫ってみたくなったから見物をやめてさっそく家へ帰った。
道具箱からのみと金槌を持ち出して、裏へ出てみると、この間の嵐で倒れた樫を、薪にするつもりで、木挽きに挽かせた手頃なやつが、たくさん積んであった。
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道具箱から鑿と金槌を持ち出して、裏へ出て見ると、せんだっての暴風で倒れた樫を、薪にするつもりで、木挽に挽かせた手頃な奴が、たくさん積んであった。
自分は一番大きいのを選んで、勢いよく彫り始めてみたが、不幸にして、仁王は見当たらなかった。
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自分は一番大きいのを選んで、勢いよく彫り始めて見たが、不幸にして、仁王は見当らなかった。
その次のにも運悪く掘り当てることができなかった。
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その次のにも運悪く掘り当てる事ができなかった。
三番目のにも仁王はいなかった。
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三番目のにも仁王はいなかった。
自分は積んである薪を片っ端から彫ってみたが、どれもこれも仁王を隠しているのはなかった。
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自分は積んである薪を片っ端から彫って見たが、どれもこれも仁王を蔵しているのはなかった。
ついに明治の木にはとうてい仁王は埋まっていないものだと悟った。
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ついに明治の木にはとうてい仁王は埋っていないものだと悟った。
それで運慶が今日まで生きている理由もだいたい分かった。
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それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。
第七夜
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第七夜
何でも大きな船に乗っている。
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何でも大きな船に乗っている。
この船が毎日毎夜少しの絶え間もなく黒い煙を吐いて波を切って進んで行く。
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この船が毎日毎夜すこしの絶間なく黒い煙を吐いて浪を切って進んで行く。
すさまじい音である。
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凄じい音である。
けれどもどこへ行くんだか分からない。
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けれどもどこへ行くんだか分らない。
ただ波の底から焼け火箸のような太陽が出る。
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ただ波の底から焼火箸のような太陽が出る。
それが高い帆柱の真上まで来てしばらくかかっているかと思うと、いつの間にか大きな船を追い越して、先へ行ってしまう。
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それが高い帆柱の真上まで来てしばらく挂っているかと思うと、いつの間にか大きな船を追い越して、先へ行ってしまう。
そうして、しまいには焼け火箸のようにじゅっといってまた波の底に沈んで行く。
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そうして、しまいには焼火箸のようにじゅっといってまた波の底に沈んで行く。
そのたびに青い波が遠くの向こうで、蘇芳の色に沸き返る。
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そのたんびに蒼い波が遠くの向うで、蘇枋の色に沸き返る。
すると船はすさまじい音を立ててその跡を追いかけて行く。
原文を見る
すると船は凄じい音を立ててその跡を追かけて行く。
けれども決して追いつかない。
原文を見る
けれども決して追つかない。
ある時自分は、船の男をつかまえて聞いてみた。
原文を見る
ある時自分は、船の男を捕まえて聞いて見た。
「この船は西へ行くんですか」
原文を見る
「この船は西へ行くんですか」
船の男は怪訝な顔をして、しばらく自分を見ていたが、やがて、
原文を見る
船の男は怪訝な顔をして、しばらく自分を見ていたが、やがて、
「なぜ」
原文を見る
「なぜ」
と問い返した。
原文を見る
と問い返した。
「落ちて行く日を追いかけるようだから」
原文を見る
「落ちて行く日を追かけるようだから」
船の男はからからと笑った。
原文を見る
船の男はからからと笑った。
そうして向こうの方へ行ってしまった。
原文を見る
そうして向うの方へ行ってしまった。
「西へ行く日の、果ては東か。それは本当か。東に出る日の、故郷は西か。それも本当か。身は波の上。舵枕。流せ流せ」
原文を見る
「西へ行く日の、果は東か。それは本真か。東出る日の、御里は西か。それも本真か。身は波の上。戢枕。流せ流せ」
とはやしている。
原文を見る
と囃している。
船首へ行ってみたら、水夫が大勢寄って、太い帆綱をたぐっていた。
原文を見る
舳へ行って見たら、水夫が大勢寄って、太い帆綱を手繰っていた。
自分は大変心細くなった。
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自分は大変心細くなった。
いつ陸へ上がれることか分からない。
原文を見る
いつ陸へ上がれる事か分らない。
そうしてどこへ行くのだか知れない。
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そうしてどこへ行くのだか知れない。
ただ黒い煙を吐いて波を切って行くことだけは確かである。
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ただ黒い煙を吐いて波を切って行く事だけはたしかである。
その波はすこぶる広いものだった。
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その波はすこぶる広いものであった。
際限もなく青く見える。
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際限もなく蒼く見える。
時には紫にもなった。
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時には紫にもなった。
ただ船の動く周りだけはいつでも真っ白に泡を吹いていた。
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ただ船の動く周囲だけはいつでも真白に泡を吹いていた。
自分は大変心細かった。
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自分は大変心細かった。
こんな船にいるよりいっそ身を投げて死んでしまおうかと思った。
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こんな船にいるよりいっそ身を投げて死んでしまおうかと思った。
乗客はたくさんいた。
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乗合はたくさんいた。
たいていは外国人のようだった。
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たいていは異人のようであった。
しかしいろいろな顔をしていた。
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しかしいろいろな顔をしていた。
空が曇って船が揺れた時、一人の女が手すりに寄りかかって、しきりに泣いていた。
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空が曇って船が揺れた時、一人の女が欄に倚りかかって、しきりに泣いていた。
目を拭くハンカチの色が白く見えた。
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眼を拭く手巾の色が白く見えた。
しかし体には更紗のような洋服を着ていた。
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しかし身体には更紗のような洋服を着ていた。
この女を見た時に、悲しいのは自分ばかりではないのだと気がついた。
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この女を見た時に、悲しいのは自分ばかりではないのだと気がついた。
ある晩甲板の上に出て、一人で星を眺めていたら、一人の外国人が来て、天文学を知っているかと尋ねた。
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ある晩甲板の上に出て、一人で星を眺めていたら、一人の異人が来て、天文学を知ってるかと尋ねた。
自分はつまらないから死のうとさえ思っている。
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自分はつまらないから死のうとさえ思っている。
天文学などを知る必要がない。
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天文学などを知る必要がない。
黙っていた。
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黙っていた。
するとその外国人が金牛宮の頂にある七星の話をして聞かせた。
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するとその異人が金牛宮の頂にある七星の話をして聞かせた。
そうして星も海もみんな神の作ったものだと言った。
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そうして星も海もみんな神の作ったものだと云った。
最後に自分に神を信仰するかと尋ねた。
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最後に自分に神を信仰するかと尋ねた。
自分は空を見て黙っていた。
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自分は空を見て黙っていた。
ある時サロンに入ったら派手な衣装を着た若い女が向こうむきになって、ピアノを弾いていた。
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或時サローンに這入ったら派手な衣裳を着た若い女が向うむきになって、洋琴を弾いていた。
そのそばに背の高い立派な男が立って、歌を歌っている。
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その傍に背の高い立派な男が立って、唱歌を唄っている。
その口が大変大きく見えた。
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その口が大変大きく見えた。
けれども二人は二人以外のことにはまるでかまっていない様子だった。
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けれども二人は二人以外の事にはまるで頓着していない様子であった。
船に乗っていることさえ忘れているようだった。
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船に乗っている事さえ忘れているようであった。
自分はますますつまらなくなった。
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自分はますますつまらなくなった。
とうとう死ぬことに決心した。
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とうとう死ぬ事に決心した。
それである晩、あたりに人のいない頃合いに、思い切って海の中へ飛び込んだ。
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それである晩、あたりに人のいない時分、思い切って海の中へ飛び込んだ。
ところが――自分の足が甲板を離れて、船と縁が切れたその瞬間に、急に命が惜しくなった。
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ところが――自分の足が甲板を離れて、船と縁が切れたその刹那に、急に命が惜しくなった。
心の底からよせばよかったと思った。
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心の底からよせばよかったと思った。
けれども、もう遅い。
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けれども、もう遅い。
自分は嫌でも応でも海の中へ入らなければならない。
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自分は厭でも応でも海の中へ這入らなければならない。
ただ大変高くできていた船と見えて、体は船を離れたけれども、足は容易に水に着かない。
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ただ大変高くできていた船と見えて、身体は船を離れたけれども、足は容易に水に着かない。
しかしつかまえるものがないから、しだいしだいに水に近づいて来る。
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しかし捕まえるものがないから、しだいしだいに水に近づいて来る。
いくら足を縮めても近づいて来る。
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いくら足を縮めても近づいて来る。
水の色は黒かった。
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水の色は黒かった。
そのうち船はいつもの通り黒い煙を吐いて、通り過ぎてしまった。
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そのうち船は例の通り黒い煙を吐いて、通り過ぎてしまった。
自分はどこへ行くんだか分からない船でも、やっぱり乗っている方がよかったと初めて悟りながら、しかもその悟りを生かすことができずに、限りない後悔と恐怖とを抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った。
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自分はどこへ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用する事ができずに、無限の後悔と恐怖とを抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った。
第八夜
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第八夜
床屋の敷居をまたいだら、白い着物を着てかたまっていた三、四人が、一度にいらっしゃいと言った。
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床屋の敷居を跨いだら、白い着物を着てかたまっていた三四人が、一度にいらっしゃいと云った。
真ん中に立って見回すと、四角な部屋である。
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真中に立って見廻すと、四角な部屋である。
窓が二方に開いて、残る二方に鏡が掛かっている。
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窓が二方に開いて、残る二方に鏡が懸っている。
鏡の数を数えたら六つあった。
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鏡の数を勘定したら六つあった。
自分はその一つの前へ来て腰をおろした。
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自分はその一つの前へ来て腰をおろした。
するとお尻がぶくりと言った。
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すると御尻がぶくりと云った。
よほど座り心地がよくできた椅子である。
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よほど坐り心地が好くできた椅子である。
鏡には自分の顔が立派に映った。
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鏡には自分の顔が立派に映った。
顔の後ろには窓が見えた。
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顔の後には窓が見えた。
それから帳場の格子が斜めに見えた。
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それから帳場格子が斜に見えた。
格子の中には人がいなかった。
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格子の中には人がいなかった。
窓の外を通る道行く人の腰から上がよく見えた。
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窓の外を通る往来の人の腰から上がよく見えた。
庄太郎が女を連れて通る。
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庄太郎が女を連れて通る。
庄太郎はいつの間にかパナマ帽を買ってかぶっている。
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庄太郎はいつの間にかパナマの帽子を買って被っている。
女もいつの間にこしらえたものやら。
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女もいつの間に拵らえたものやら。
ちょっと分からない。
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ちょっと解らない。
双方とも得意そうだった。
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双方とも得意のようであった。
よく女の顔を見ようと思ううちに通り過ぎてしまった。
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よく女の顔を見ようと思ううちに通り過ぎてしまった。
豆腐屋がラッパを吹いて通った。
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豆腐屋が喇叭を吹いて通った。
ラッパを口へあてがっているので、ほっぺたが蜂に刺されたように膨れていた。
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喇叭を口へあてがっているんで、頬ぺたが蜂に螫されたように膨れていた。
膨れたまんまで通り越したものだから、気がかりでたまらない。
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膨れたまんまで通り越したものだから、気がかりでたまらない。
一生蜂に刺されているように思う。
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生涯蜂に螫されているように思う。
芸者が出た。
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芸者が出た。
まだ化粧をしていない。
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まだ御化粧をしていない。
島田髷の根が緩んで、何だか頭に締まりがない。
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島田の根が緩んで、何だか頭に締りがない。
顔も寝ぼけている。
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顔も寝ぼけている。
つやが気の毒なほど悪い。
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色沢が気の毒なほど悪い。
それでお辞儀をして、どうも何とかですと言ったが、相手はどうしても鏡の中へ出て来ない。
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それで御辞儀をして、どうも何とかですと云ったが、相手はどうしても鏡の中へ出て来ない。
すると白い着物を着た大きな男が、自分の後ろへ来て、はさみとくしを持って自分の頭を眺め出した。
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すると白い着物を着た大きな男が、自分の後ろへ来て、鋏と櫛を持って自分の頭を眺め出した。
自分は薄いひげをひねって、どうだろう物になるだろうかと尋ねた。
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自分は薄い髭を捩って、どうだろう物になるだろうかと尋ねた。
白い男は、何も言わずに、手に持った琥珀色のくしで軽く自分の頭を叩いた。
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白い男は、何にも云わずに、手に持った琥珀色の櫛で軽く自分の頭を叩いた。
「さあ、頭もだが、どうだろう、物になるだろうか」
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「さあ、頭もだが、どうだろう、物になるだろうか」
と自分は白い男に聞いた。
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と自分は白い男に聞いた。
白い男はやはり何も答えずに、ちゃきちゃきとはさみを鳴らし始めた。
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白い男はやはり何も答えずに、ちゃきちゃきと鋏を鳴らし始めた。
鏡に映る影を一つ残らず見るつもりで目を見開いていたが、はさみの鳴るたびに黒い毛が飛んで来るので、恐ろしくなって、やがて目を閉じた。
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鏡に映る影を一つ残らず見るつもりで眼を睜っていたが、鋏の鳴るたんびに黒い毛が飛んで来るので、恐ろしくなって、やがて眼を閉じた。
すると白い男が、こう言った。
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すると白い男が、こう云った。
「旦那は表の金魚売りをご覧になりましたか」
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「旦那は表の金魚売を御覧なすったか」
自分は見ないと言った。
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自分は見ないと云った。
白い男はそれきりで、しきりにはさみを鳴らしていた。
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白い男はそれぎりで、しきりと鋏を鳴らしていた。
すると突然大きな声で危ないと言ったものがある。
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すると突然大きな声で危険と云ったものがある。
はっと目を開けると、白い男の袖の下に自転車の輪が見えた。
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はっと眼を開けると、白い男の袖の下に自転車の輪が見えた。
人力車のかじ棒が見えた。
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人力の梶棒が見えた。
と思うと、白い男が両手で自分の頭を押さえてうんと横へ向けた。
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と思うと、白い男が両手で自分の頭を押えてうんと横へ向けた。
自転車と人力車はまるで見えなくなった。
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自転車と人力車はまるで見えなくなった。
はさみの音がちゃきちゃきする。
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鋏の音がちゃきちゃきする。
やがて、白い男は自分の横へ回って、耳の所を刈り始めた。
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やがて、白い男は自分の横へ廻って、耳の所を刈り始めた。
毛が前の方へ飛ばなくなったから、安心して目を開けた。
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毛が前の方へ飛ばなくなったから、安心して眼を開けた。
粟餅や、餅やあ、餅や、という声がすぐ、そこでする。
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粟餅や、餅やあ、餅や、と云う声がすぐ、そこでする。
小さい杵をわざと臼に当てて、拍子を取って餅をついている。
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小さい杵をわざと臼へあてて、拍子を取って餅を搗いている。
粟餅屋は子供の時に見たきりだから、ちょっと様子が見たい。
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粟餅屋は子供の時に見たばかりだから、ちょっと様子が見たい。
けれども粟餅屋は決して鏡の中に出て来ない。
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けれども粟餅屋はけっして鏡の中に出て来ない。
ただ餅をつく音だけする。
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ただ餅を搗く音だけする。
自分はありったけの視力で鏡の角をのぞき込むようにして見た。
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自分はあるたけの視力で鏡の角を覗き込むようにして見た。
すると帳場の格子のうちに、いつの間にか一人の女が座っている。
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すると帳場格子のうちに、いつの間にか一人の女が坐っている。
色の浅黒い眉の濃い大柄な女で、髪を銀杏返しに結って、黒繻子の半襟のかかったひとえの着物で、立て膝のまま、札の勘定をしている。
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色の浅黒い眉毛の濃い大柄な女で、髪を銀杏返しに結って、黒繻子の半襟のかかった素袷で、立膝のまま、札の勘定をしている。
札は十円札らしい。
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札は十円札らしい。
女は長いまつげを伏せて薄い唇を結んで一生懸命に、札の数を読んでいるが、その読み方がいかにも早い。
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女は長い睫を伏せて薄い唇を結んで一生懸命に、札の数を読んでいるが、その読み方がいかにも早い。
しかも札の数はどこまで行っても尽きる様子がない。
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しかも札の数はどこまで行っても尽きる様子がない。
膝の上に乗っているのはたかだか百枚ぐらいだが、その百枚がいつまで数えても百枚である。
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膝の上に乗っているのはたかだか百枚ぐらいだが、その百枚がいつまで勘定しても百枚である。
自分はぼんやりとしてこの女の顔と十円札を見つめていた。
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自分は茫然としてこの女の顔と十円札を見つめていた。
すると耳もとで白い男が大きな声で「洗いましょう」
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すると耳の元で白い男が大きな声で「洗いましょう」
と言った。
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と云った。
ちょうどいい折だから、椅子から立ち上がるやいなや、帳場の格子の方をふり返って見た。
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ちょうどうまい折だから、椅子から立ち上がるや否や、帳場格子の方をふり返って見た。
けれども格子のうちには女も札も何も見えなかった。
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けれども格子のうちには女も札も何にも見えなかった。
代金を払って表へ出ると、入り口の左側に、小判なりの桶が五つばかり並べてあって、その中に赤い金魚や、斑入りの金魚や、痩せた金魚や、太った金魚がたくさん入れてあった。
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代を払って表へ出ると、門口の左側に、小判なりの桶が五つばかり並べてあって、その中に赤い金魚や、斑入の金魚や、痩せた金魚や、肥った金魚がたくさん入れてあった。
そうして金魚売りがその後ろにいた。
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そうして金魚売がその後にいた。
金魚売りは自分の前に並べた金魚を見つめたまま、頬杖を突いて、じっとしている。
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金魚売は自分の前に並べた金魚を見つめたまま、頬杖を突いて、じっとしている。
騒がしい通りの動きにはほとんど心を留めていない。
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騒がしい往来の活動にはほとんど心を留めていない。
自分はしばらく立ってこの金魚売りを眺めていた。
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自分はしばらく立ってこの金魚売を眺めていた。
けれども自分が眺めている間、金魚売りはちっとも動かなかった。
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けれども自分が眺めている間、金魚売はちっとも動かなかった。
第九夜
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第九夜
世の中が何となくざわつき始めた。
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世の中が何となくざわつき始めた。
今にも戦が起こりそうに見える。
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今にも戦争が起りそうに見える。
焼け出された裸馬が、夜昼となく、屋敷の周りを暴れ回ると、それを夜昼となく足軽たちがひしめきながら追いかけているような心持ちがする。
原文を見る
焼け出された裸馬が、夜昼となく、屋敷の周囲を暴れ廻ると、それを夜昼となく足軽共が犇きながら追かけているような心持がする。
それでいて家のうちはしんとして静かである。
原文を見る
それでいて家のうちは森として静かである。
家には若い母と三つになる子供がいる。
原文を見る
家には若い母と三つになる子供がいる。
父はどこかへ行った。
原文を見る
父はどこかへ行った。
父がどこかへ行ったのは、月の出ていない夜中だった。
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父がどこかへ行ったのは、月の出ていない夜中であった。
床の上で草鞋をはいて、黒い頭巾をかぶって、勝手口から出て行った。
原文を見る
床の上で草鞋を穿いて、黒い頭巾を被って、勝手口から出て行った。
その時母の持っていたぼんぼりの灯が暗い闇に細長く差して、生け垣の手前にある古いヒノキを照らした。
原文を見る
その時母の持っていた雪洞の灯が暗い闇に細長く射して、生垣の手前にある古い檜を照らした。
父はそれきり帰って来なかった。
原文を見る
父はそれきり帰って来なかった。
母は毎日三つになる子供に「お父様は」
原文を見る
母は毎日三つになる子供に「御父様は」
と聞いている。
原文を見る
と聞いている。
子供は何とも言わなかった。
原文を見る
子供は何とも云わなかった。
しばらくしてから「あっち」
原文を見る
しばらくしてから「あっち」
と答えるようになった。
原文を見る
と答えるようになった。
母が「いつお帰り」
原文を見る
母が「いつ御帰り」
と聞いてもやはり「あっち」
原文を見る
と聞いてもやはり「あっち」
と答えて笑っていた。
原文を見る
と答えて笑っていた。
その時は母も笑った。
原文を見る
その時は母も笑った。
そうして「今にお帰り」
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そうして「今に御帰り」
という言葉を何度となく繰り返して教えた。
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と云う言葉を何遍となく繰返して教えた。
けれども子供は「今に」
原文を見る
けれども子供は「今に」
だけを覚えただけである。
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だけを覚えたのみである。
時々は「お父様はどこ」
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時々は「御父様はどこ」
と聞かれて「今に」
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と聞かれて「今に」
と答えることもあった。
原文を見る
と答える事もあった。
夜になって、あたりが静まると、母は帯を締め直して、鮫鞘の短刀を帯の間へ差して、子供を細帯で背中へ背負って、そっとくぐり戸から出て行く。
原文を見る
夜になって、四隣が静まると、母は帯を締め直して、鮫鞘の短刀を帯の間へ差して、子供を細帯で背中へ背負って、そっと潜りから出て行く。
母はいつでも草履をはいていた。
原文を見る
母はいつでも草履を穿いていた。
子供はこの草履の音を聞きながら母の背中で寝てしまうこともあった。
原文を見る
子供はこの草履の音を聞きながら母の背中で寝てしまう事もあった。
土塀の続いている屋敷町を西へ下って、だらだら坂を下りきると、大きなイチョウがある。
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土塀の続いている屋敷町を西へ下って、だらだら坂を降り尽くすと、大きな銀杏がある。
このイチョウを目印に右に曲がると、一丁ばかり奥に石の鳥居がある。
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この銀杏を目標に右に切れると、一丁ばかり奥に石の鳥居がある。
片側は田んぼで、片側はクマザサばかりの中を鳥居まで来て、それをくぐり抜けると、暗い杉の木立になる。
原文を見る
片側は田圃で、片側は熊笹ばかりの中を鳥居まで来て、それを潜り抜けると、暗い杉の木立になる。
それから二十間ばかり敷石伝いに突き当たると、古い拝殿の階段の下に出る。
原文を見る
それから二十間ばかり敷石伝いに突き当ると、古い拝殿の階段の下に出る。
ねずみ色に洗い出された賽銭箱の上に、大きな鈴の紐がぶら下がって、昼間見ると、その鈴のそばに八幡宮という額が掛かっている。
原文を見る
鼠色に洗い出された賽銭箱の上に、大きな鈴の紐がぶら下がって昼間見ると、その鈴の傍に八幡宮と云う額が懸っている。
八の字が、鳩が二羽向かい合ったような書体にできているのが面白い。
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八の字が、鳩が二羽向いあったような書体にできているのが面白い。
そのほかにもいろいろの額がある。
原文を見る
そのほかにもいろいろの額がある。
たいていは家中の者が射抜いた金的を、射抜いた者の名前に添えたのが多い。
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たいていは家中のものの射抜いた金的を、射抜いたものの名前に添えたのが多い。
たまには太刀を納めたのもある。
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たまには太刀を納めたのもある。
鳥居をくぐると杉の梢でいつでもフクロウが鳴いている。
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鳥居を潜ると杉の梢でいつでも梟が鳴いている。
そうして、冷や飯草履の音がぴちゃぴちゃする。
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そうして、冷飯草履の音がぴちゃぴちゃする。
それが拝殿の前でやむと、母はまず鈴を鳴らしておいて、すぐにしゃがんで柏手を打つ。
原文を見る
それが拝殿の前でやむと、母はまず鈴を鳴らしておいて、すぐにしゃがんで柏手を打つ。
たいていはこの時フクロウが急に鳴かなくなる。
原文を見る
たいていはこの時梟が急に鳴かなくなる。
それから母は一心不乱に夫の無事を祈る。
原文を見る
それから母は一心不乱に夫の無事を祈る。
母の考えでは、夫が侍であるから、弓矢の神である八幡へ、こうやってやむにやまれぬ願をかけたら、まさか聞き届けられないはずはなかろうと一途に思いつめている。
原文を見る
母の考えでは、夫が侍であるから、弓矢の神の八幡へ、こうやって是非ない願をかけたら、よもや聴かれぬ道理はなかろうと一図に思いつめている。
子供はよくこの鈴の音で目を覚まして、あたりを見ると真っ暗なものだから、急に背中で泣き出すことがある。
原文を見る
子供はよくこの鈴の音で眼を覚まして、四辺を見ると真暗だものだから、急に背中で泣き出す事がある。
その時母は口の中で何か祈りながら、背を振ってあやそうとする。
原文を見る
その時母は口の内で何か祈りながら、背を振ってあやそうとする。
するとうまく泣きやむこともある。
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すると旨く泣きやむ事もある。
またますます激しく泣き立てることもある。
原文を見る
またますます烈しく泣き立てる事もある。
いずれにしても母は容易に立たない。
原文を見る
いずれにしても母は容易に立たない。
一通り夫の身の上を祈ってしまうと、今度は細帯を解いて、背中の子をずり下ろすように、背中から前へ回して、両手に抱きながら拝殿を上って行って、「いい子だから、少しの間、待っておいでよ」
原文を見る
一通り夫の身の上を祈ってしまうと、今度は細帯を解いて、背中の子を摺りおろすように、背中から前へ廻して、両手に抱きながら拝殿を上って行って、「好い子だから、少しの間、待っておいでよ」
と、きっと自分の頬を子供の頬へすりつける。
原文を見る
ときっと自分の頬を子供の頬へ擦りつける。
そうして細帯を長くして、子供を縛っておいて、その片端を拝殿の欄干にくくりつける。
原文を見る
そうして細帯を長くして、子供を縛っておいて、その片端を拝殿の欄干に括りつける。
それから段々を下りて来て二十間の敷石を行ったり来たり、お百度を踏む。
原文を見る
それから段々を下りて来て二十間の敷石を往ったり来たり御百度を踏む。
拝殿にくくりつけられた子は、暗闇の中で、細帯の長さの許す限り、広縁の上を這い回っている。
原文を見る
拝殿に括りつけられた子は、暗闇の中で、細帯の丈のゆるす限り、広縁の上を這い廻っている。
そういう時は母にとって、はなはだ楽な夜である。
原文を見る
そう云う時は母にとって、はなはだ楽な夜である。
けれども縛った子にひいひい泣かれると、母は気が気でない。
原文を見る
けれども縛った子にひいひい泣かれると、母は気が気でない。
お百度の足が非常に早くなる。
原文を見る
御百度の足が非常に早くなる。
大変息が切れる。
原文を見る
大変息が切れる。
仕方のない時は、途中で拝殿へ上がって来て、いろいろすかしておいて、またお百度を踏み直すこともある。
原文を見る
仕方のない時は、中途で拝殿へ上って来て、いろいろすかしておいて、また御百度を踏み直す事もある。
こういう風に、幾晩となく母が気をもんで、夜も寝ずに心配していた父は、とっくの昔に浪士のために殺されていたのである。
原文を見る
こう云う風に、幾晩となく母が気を揉んで、夜の目も寝ずに心配していた父は、とくの昔に浪士のために殺されていたのである。
こんな悲しい話を、夢の中で母から聞いた。
原文を見る
こんな悲い話を、夢の中で母から聞いた。
第十夜
原文を見る
第十夜
庄太郎が女にさらわれてから七日目の晩にふらりと帰って来て、急に熱が出てどっと床についていると言って健さんが知らせに来た。
原文を見る
庄太郎が女に攫われてから七日目の晩にふらりと帰って来て、急に熱が出てどっと、床に就いていると云って健さんが知らせに来た。
庄太郎は町内一の美男子で、きわめて善良な正直者である。
原文を見る
庄太郎は町内一の好男子で、至極善良な正直者である。
ただ一つの道楽がある。
原文を見る
ただ一つの道楽がある。
パナマ帽をかぶって、夕方になると果物屋の店先へ腰をかけて、道行く女の顔を眺めている。
原文を見る
パナマの帽子を被って、夕方になると水菓子屋の店先へ腰をかけて、往来の女の顔を眺めている。
そうしてしきりに感心している。
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そうしてしきりに感心している。
そのほかにはこれというほどの特色もない。
原文を見る
そのほかにはこれと云うほどの特色もない。
あまり女が通らない時は、通りを見ないで果物を見ている。
原文を見る
あまり女が通らない時は、往来を見ないで水菓子を見ている。
果物にはいろいろある。
原文を見る
水菓子にはいろいろある。
水蜜桃や、りんごや、びわや、バナナをきれいに籠に盛って、すぐ手土産に持って行けるように二列に並べてある。
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水蜜桃や、林檎や、枇杷や、バナナを綺麗に籠に盛って、すぐ見舞物に持って行けるように二列に並べてある。
庄太郎はこの籠を見てはきれいだと言っている。
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庄太郎はこの籠を見ては綺麗だと云っている。
商売をするなら果物屋に限ると言っている。
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商売をするなら水菓子屋に限ると云っている。
そのくせ自分はパナマ帽をかぶってぶらぶら遊んでいる。
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そのくせ自分はパナマの帽子を被ってぶらぶら遊んでいる。
この色がいいと言って、夏みかんなどを品評することもある。
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この色がいいと云って、夏蜜柑などを品評する事もある。
けれども、これまで金を出して果物を買ったことがない。
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けれども、かつて銭を出して水菓子を買った事がない。
ただではもちろん食わない。
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ただでは無論食わない。
色ばかり褒めている。
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色ばかり賞めている。
ある夕方一人の女が、不意に店先に立った。
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ある夕方一人の女が、不意に店先に立った。
身分のある人と見えて立派な服装をしている。
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身分のある人と見えて立派な服装をしている。
その着物の色がひどく庄太郎の気に入った。
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その着物の色がひどく庄太郎の気に入った。
その上庄太郎は大変女の顔に感心してしまった。
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その上庄太郎は大変女の顔に感心してしまった。
そこで大事なパナマ帽を取って丁寧に挨拶をしたら、女は籠詰めの一番大きいのを指して、これを下さいと言うので、庄太郎はすぐその籠を取って渡した。
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そこで大事なパナマの帽子を脱って丁寧に挨拶をしたら、女は籠詰の一番大きいのを指して、これを下さいと云うんで、庄太郎はすぐその籠を取って渡した。
すると女はそれをちょっと提げてみて、大変重いことと言った。
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すると女はそれをちょっと提げて見て、大変重い事と云った。
庄太郎はもともと暇人な上に、すこぶる気さくな男だから、ではお宅まで持って参りましょうと言って、女といっしょに果物屋を出た。
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庄太郎は元来閑人の上に、すこぶる気作な男だから、ではお宅まで持って参りましょうと云って、女といっしょに水菓子屋を出た。
それきり帰って来なかった。
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それぎり帰って来なかった。
いくら庄太郎でも、あんまりのんき過ぎる。
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いかな庄太郎でも、あんまり呑気過ぎる。
ただごとじゃなかろうと言って、親類や友達が騒ぎ出していると、七日目の晩になって、ふらりと帰って来た。
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只事じゃ無かろうと云って、親類や友達が騒ぎ出していると、七日目の晩になって、ふらりと帰って来た。
そこで大勢寄ってたかって、庄さんどこへ行っていたんだいと聞くと、庄太郎は電車へ乗って山へ行ったんだと答えた。
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そこで大勢寄ってたかって、庄さんどこへ行っていたんだいと聞くと、庄太郎は電車へ乗って山へ行ったんだと答えた。
何でもよほど長い電車に違いない。
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何でもよほど長い電車に違いない。
庄太郎の言うところによると、電車を下りるとすぐ野原へ出たそうである。
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庄太郎の云うところによると、電車を下りるとすぐと原へ出たそうである。
非常に広い野原で、どこを見回しても青い草ばかり生えていた。
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非常に広い原で、どこを見廻しても青い草ばかり生えていた。
女といっしょに草の上を歩いて行くと、急に絶壁のてっぺんへ出た。
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女といっしょに草の上を歩いて行くと、急に絶壁の天辺へ出た。
その時女が庄太郎に、ここから飛び込んでご覧なさいと言った。
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その時女が庄太郎に、ここから飛び込んで御覧なさいと云った。
底をのぞいてみると、切り立った崖は見えるが底は見えない。
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底を覗いて見ると、切岸は見えるが底は見えない。
庄太郎はまたパナマ帽を脱いで再三辞退した。
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庄太郎はまたパナマの帽子を脱いで再三辞退した。
すると女が、もし思い切って飛び込まなければ、豚に舐められますがようございますかと聞いた。
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すると女が、もし思い切って飛び込まなければ、豚に舐められますが好うござんすかと聞いた。
庄太郎は豚と雲右衛門が大嫌いだった。
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庄太郎は豚と雲右衛門が大嫌だった。
けれども命には代えられないと思って、やっぱり飛び込むのを見合わせていた。
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けれども命には易えられないと思って、やっぱり飛び込むのを見合せていた。
そこへ豚が一匹鼻を鳴らして来た。
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ところへ豚が一匹鼻を鳴らして来た。
庄太郎は仕方なしに、持っていた細いビンロウジュのステッキで、豚の鼻づらを打った。
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庄太郎は仕方なしに、持っていた細い檳榔樹の洋杖で、豚の鼻頭を打った。
豚はぐうと言いながら、ころりとひっくり返って、絶壁の下へ落ちて行った。
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豚はぐうと云いながら、ころりと引っ繰り返って、絶壁の下へ落ちて行った。
庄太郎はほっとひと息ついていると、また一匹の豚が大きな鼻を庄太郎にすりつけに来た。
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庄太郎はほっと一と息接いでいるとまた一匹の豚が大きな鼻を庄太郎に擦りつけに来た。
庄太郎はやむをえずまたステッキを振り上げた。
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庄太郎はやむをえずまた洋杖を振り上げた。
豚はぐうと鳴いてまた真っ逆さまに穴の底へ転げ込んだ。
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豚はぐうと鳴いてまた真逆様に穴の底へ転げ込んだ。
するとまた一匹あらわれた。
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するとまた一匹あらわれた。
この時庄太郎はふと気がついて、向こうを見ると、はるか青草原の尽きるあたりから幾万匹か数え切れない豚が、群れをなして一直線に、この絶壁の上に立っている庄太郎を目がけて鼻を鳴らしてくる。
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この時庄太郎はふと気がついて、向うを見ると、遥の青草原の尽きる辺から幾万匹か数え切れぬ豚が、群をなして一直線に、この絶壁の上に立っている庄太郎を目懸けて鼻を鳴らしてくる。
庄太郎は心から縮み上がった。
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庄太郎は心から恐縮した。
けれども仕方がないから、近寄ってくる豚の鼻づらを、一つ一つ丁寧にビンロウジュのステッキで打っていた。
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けれども仕方がないから、近寄ってくる豚の鼻頭を、一つ一つ丁寧に檳榔樹の洋杖で打っていた。
不思議なことにステッキが鼻へ触りさえすれば豚はころりと谷の底へ落ちて行く。
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不思議な事に洋杖が鼻へ触りさえすれば豚はころりと谷の底へ落ちて行く。
のぞいてみると底の見えない絶壁を、逆さになった豚が行列して落ちて行く。
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覗いて見ると底の見えない絶壁を、逆さになった豚が行列して落ちて行く。
自分がこれほど多くの豚を谷へ落としたかと思うと、庄太郎は我ながら怖くなった。
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自分がこのくらい多くの豚を谷へ落したかと思うと、庄太郎は我ながら怖くなった。
けれども豚は続々とくる。
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けれども豚は続々くる。
黒雲に足が生えて、青草を踏み分けるような勢いで、際限もなく鼻を鳴らしてくる。
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黒雲に足が生えて、青草を踏み分けるような勢いで無尽蔵に鼻を鳴らしてくる。
庄太郎は必死の勇気をふるって、豚の鼻づらを七日六晩叩いた。
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庄太郎は必死の勇をふるって、豚の鼻頭を七日六晩叩いた。
けれども、とうとう精根が尽きて、手がこんにゃくのように弱って、しまいに豚に舐められてしまった。
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けれども、とうとう精根が尽きて、手が蒟蒻のように弱って、しまいに豚に舐められてしまった。
そうして絶壁の上へ倒れた。
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そうして絶壁の上へ倒れた。
健さんは、庄太郎の話をここまでして、だからあんまり女を見るのはよくないよと言った。
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健さんは、庄太郎の話をここまでして、だからあんまり女を見るのは善くないよと云った。
自分ももっともだと思った。
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自分ももっともだと思った。
けれども健さんは庄太郎のパナマ帽がもらいたいと言っていた。
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けれども健さんは庄太郎のパナマの帽子が貰いたいと云っていた。
庄太郎は助かるまい。
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庄太郎は助かるまい。
パナマ帽は健さんのものだろう。
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パナマは健さんのものだろう。