よめる文庫

一握の砂

石川啄木(いしかわたくぼく)・1967年

原文出典: 青空文庫

AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-28)

原文: 函館なる郁雨宮崎大四郎君
函館の郁雨、宮崎大四郎君
原文: 同国の友文学士花明金田一京助君
同郷の友、文学士 花明、金田一京助君
原文: この集を両君に捧ぐ。
この歌集をお二人に捧げる。
原文: 予はすでに予のすべてを両君の前に示しつくしたるものの如し。
私はすでに、私のすべてをお二人の前に示しつくしてしまったようだ。
原文: 従つて両君はここに歌はれたる歌の一一につきて最も多く知るの人なるを信ずればなり。
だから、ここに詠まれた歌の一首一首について、最もよく知るのはお二人だと信じるからである。
原文: また一本をとりて亡児真一に手向く。
また一冊を取って、亡き子 真一に手向ける。
原文: この集の稿本を書肆の手に渡したるは汝の生れたる朝なりき。
この歌集の原稿を書店の手に渡したのは、お前が生まれた朝だった。
原文: この集の稿料は汝の薬餌となりたり。
この歌集の原稿料は、お前の薬代になった。
原文: 而してこの集の見本刷を予の閲したるは汝の火葬の夜なりき。
そしてこの歌集の見本刷りに私が目を通したのは、お前を火葬した夜だった。
原文: 著者
著者
原文: 明治四十一年夏以後の作一千余首中より五百五十一首を抜きてこの集に収む。
明治四十一年の夏より後に作った千余首の中から、五百五十一首を選んでこの集に収めた。
原文: 集中五章、感興の来由するところ相邇ちかきをたづねて仮にわかてるのみ。
集中の五章は、歌の生まれたきっかけの近いものをたずねて、仮に分けただけのものである。
原文: 「秋風のこころよさに」
「秋風のこころよさに」
原文: は明治四十一年秋の紀念なり。
は、明治四十一年の秋の記念である。
原文: 我を愛する歌
我を愛する歌
原文: 東海とうかいの小島こじまの磯いその白砂しらすなに
東の海の小島の磯の白い砂に
原文: われ泣なきぬれて
私は泣きぬれて
原文: 蟹かにとたはむる
蟹とたわむれる
原文: 頬ほにつたふ
頬をつたう
原文: なみだのごはず
涙をぬぐいもせず
原文: 一握いちあくの砂を示しめしし人を忘れず
一握りの砂を見せてくれた人を忘れない
原文: 大海だいかいにむかひて一人ひとり
大海に向かって一人
原文: 七八日ななやうか
七日八日
原文: 泣きなむとすと家を出いでにき
泣こうとして家を出た
原文: いたく錆さびしピストル出いでぬ
ひどく錆びたピストルが出てきた
原文: 砂山すなやまの
砂山の
原文: 砂を指もて掘ほりてありしに
砂を指で掘っていたら
原文: ひと夜よさに嵐あらし来きたりて築きづきたる
ひと晩のうちに嵐が来て築いた
原文: この砂山は
この砂山は
原文: 何なにの墓はかぞも
何の墓なのだろう
原文: 砂山の砂に腹這はらばひ
砂山の砂に腹ばいになり
原文: 初恋の
初恋の
原文: いたみを遠くおもひ出いづる日
痛みを遠く思い出す日
原文: 砂山の裾すそによこたはる流木りうぼくに
砂山の裾に横たわる流木に
原文: あたり見まはし
あたりを見まわして
原文: 物もの言いひてみる
話しかけてみる
原文: いのちなき砂のかなしさよ
いのちのない砂のかなしさよ
原文: さらさらと
さらさらと
原文: 握にぎれば指のあひだより落つ
握れば指のあいだから落ちる
原文: しっとりと
しっとりと
原文: なみだを吸すへる砂の玉
涙を吸った砂の玉
原文: なみだは重きものにしあるかな
涙は重いものだなあ
原文: 大だいという字を百あまり
大という字を百あまり
原文: 砂に書き
砂に書き
原文: 死ぬことをやめて帰り来きたれり
死ぬのをやめて帰ってきた
原文: 目さまして猶なほ起おき出いでぬ児の癖くせは
目をさましてもまだ起き出さない子の癖は
原文: かなしき癖ぞ
かなしい癖だ
原文: 母よ咎とがむな
母よ、咎めないでくれ
原文: ひと塊くれの土に涎よだれし
ひとかたまりの土によだれをつけて
原文: 泣く母の肖顔にがほつくりぬ
泣く母の似顔をつくった
原文: かなしくもあるか
かなしくもあるものだ
原文: 燈影ほかげなき室しつに我あり
灯りのない部屋に私がいる
原文: 父と母
父と母が
原文: 壁のなかより杖つゑつきて出いづ
壁の中から杖をついて出てくる
原文: たはむれに母を背負せおひて
たわむれに母を背負って
原文: そのあまり軽かろきに泣きて
そのあまりの軽さに泣いて
原文: 三歩あゆまず
三歩も歩けない
原文: 飄然へうぜんと家を出いでては
ふらりと家を出ては
原文: 飄然と帰りし癖よ
ふらりと帰ってきた癖よ
原文: 友はわらへど
友は笑うけれど
原文: ふるさとの父の咳せきする度たびに斯かく
ふるさとの父が咳をするたびに、こんなふうに
原文: 咳の出いづるや
咳が出るのだろうか
原文: 病やめばはかなし
病めば心細い
原文: わが泣くを少女等をとめらきかば
私が泣くのを少女たちが聞いたら
原文: 病犬やまいぬの
病んだ犬が
原文: 月に吠ほゆるに似たりといふらむ
月に吠えるのに似ていると言うだろう
原文: 何処いづくやらむかすかに虫のなくごとき
どこかでかすかに虫が鳴くような
原文: こころ細ぼそさを
心細さを
原文: 今日けふもおぼゆる
今日もおぼえる
原文: いと暗き
ひどく暗い
原文: 穴あなに心を吸すはれゆくごとく思ひて
穴に心を吸われていくように思って
原文: つかれて眠る
疲れて眠る
原文: こころよく
心地よく
原文: 我にはたらく仕事あれ
私が打ちこめる仕事があってほしい
原文: それを仕遂しとげて死なむと思ふ
それをやり遂げて死のうと思う
原文: こみ合あへる電車の隅すみに
混み合う電車の隅に
原文: ちぢこまる
ちぢこまる
原文: ゆふべゆふべの我のいとしさ
夕べ夕べの私のいとしさ
原文: 浅草あさくさの夜よのにぎはひに
浅草の夜のにぎわいに
原文: まぎれ入いり
まぎれ入り
原文: まぎれ出いで来きしさびしき心
まぎれ出てきたさびしい心
原文: 愛犬あいけんの耳斬きりてみぬ
愛犬の耳を切ってみた
原文: あはれこれも
ああ、これも
原文: 物に倦うみたる心にかあらむ
何もかもに飽きた心のせいだろうか
原文: 鏡かがみとり
鏡を取って
原文: 能あたふかぎりのさまざまの顔をしてみぬ
できるかぎりのさまざまな顔をしてみた
原文: 泣き飽あきし時
泣き飽きたとき
原文: なみだなみだ
涙よ、涙
原文: 不思議なるかな
不思議なものだ
原文: それをもて洗あらへば心戯おどけたくなれり
それで洗えば心はふざけたくなる
原文: 呆あきれたる母の言葉に
あきれた母の言葉に
原文: 気がつけば
気がつくと
原文: 茶碗ちやわんを箸はしもて敲たたきてありき
茶碗を箸で叩いていた
原文: 草に臥ねて
草に寝ころんで
原文: おもふことなし
思うことは何もない
原文: わが額ぬかに糞ふんして鳥は空に遊べり
私の額に糞をして鳥は空に遊んでいる
原文: わが髭ひげの
私の髭の
原文: 下向く癖くせがいきどほろし
下を向く癖が腹立たしい
原文: このごろ憎にくき男に似たれば
このごろ憎い男に似てきたので
原文: 森の奥より銃声じうせい聞ゆ
森の奥から銃声が聞こえる
原文: あはれあはれ
ああ、ああ
原文: 自みづから死ぬる音のよろしさ
自分で死ぬ音の心地よさよ
原文: 大木たいぼくの幹みきに耳あて
大木の幹に耳をあて
原文: 小半日こはんにち
半日近く
原文: 堅かたき皮をばむしりてありき
堅い皮をむしっていた
原文: 「さばかりの事に死ぬるや」
「それしきのことで死ぬのか」
原文: 「さばかりの事に生くるや」
「それしきのことで生きるのか」
原文: 止よせ止せ問答
よせ、よせ、問答は
原文: まれにある
まれにおとずれる
原文: この平たひらなる心には
この平らな心には
原文: 時計の鳴るもおもしろく聴きく
時計の鳴る音もおもしろく聞こえる
原文: ふと深き怖れを覚え
ふと深い怖れをおぼえ
原文: ぢっとして
じっとして
原文: やがて静かに臍ほそをまさぐる
やがて静かにへそをまさぐる
原文: 高山たかやまのいただきに登り
高い山の頂に登り
原文: なにがなしに帽子ばうしをふりて
なんとなく帽子をふって
原文: 下くだり来しかな
下りてきたことだ
原文: 何処どこやらに沢山たくさんの人があらそひて
どこかで大勢の人が争って
原文: 鬮くじ引ひくごとし
くじを引いているようだ
原文: われも引きたし
私も引きたい
原文: 怒いかる時
怒るときに
原文: かならずひとつ鉢はちを割わり
かならずひとつ鉢を割り
原文: 九百九十九くひやくくじふく割りて死なまし
九百九十九割って死のうか
原文: いつも逢あふ電車の中の小男こをとこの
いつも会う電車の中の小男の
原文: 稜かどある眼まなこ
角ばった眼が
原文: このごろ気になる
このごろ気になる
原文: 鏡屋かがみやの前に来て
鏡屋の前に来て
原文: ふと驚きぬ
ふと驚いた
原文: 見すぼらしげに歩あゆむものかも
見すぼらしげに歩いているものだ
原文: 何なにとなく汽車に乗りたく思ひしのみ
なんとなく汽車に乗りたいと思っただけ
原文: 汽車を下おりしに
汽車を降りたら
原文: ゆくところなし
行くところがない
原文: 空家あきやに入いり
空き家に入って
原文: 煙草たばこのみたることありき
煙草を吸ったことがある
原文: あはれただ一人居いたきばかりに
ああ、ただ一人でいたいばかりに
原文: 何がなしに
なんとなく
原文: さびしくなれば出でてあるく男となりて
さびしくなると外を歩く男になって
原文: 三月みつきにもなれり
三月にもなった
原文: やはらかに積れる雪に
やわらかく積もった雪に
原文: 熱ほてる頬ほを埋うづむるごとき
火照る頬を埋めるような
原文: 恋してみたし
恋をしてみたい
原文: かなしきは
かなしいのは
原文: 飽あくなき利己りこの一念を
飽くことのない自分本位の一念を
原文: 持てあましたる男にありけり
持てあました男だった
原文: 手も足も
手も足も
原文: 室へやいっぱいに投げ出だして
部屋いっぱいに投げ出して
原文: やがて静かに起きかへるかな
やがて静かに起き直る
原文: 百年ももとせの長き眠りの覚さめしごと
百年の長い眠りから覚めたように
原文: 呿呻あくびしてまし
あくびをしてみようか
原文: 思ふことなしに
思うことなど何もなく
原文: 腕うで拱くみて
腕を組んで
原文: このごろ思ふ
このごろ思う
原文: 大おほいなる敵てき目の前に躍をどり出いでよと
大いなる敵よ、目の前に躍り出よと
原文: 手が白く
手が白く
原文: 且かつ大だいなりき
そして大きかった
原文: 非凡ひぼんなる人といはるる男に会ひしに
非凡な人といわれる男に会ったら
原文: こころよく
気持ちよく
原文: 人を讃ほめてみたくなりにけり
人を讃めてみたくなった
原文: 利己りこの心に倦うめるさびしさ
自分本位の心に飽きたさびしさ
原文: 雨降れば
雨が降ると
原文: わが家いへの人誰たれも誰も沈める顔す
わが家の人は誰も彼も沈んだ顔をする
原文: 雨霽はれよかし
雨よ、晴れてくれ
原文: 高きより飛びおりるごとき心もて
高いところから飛びおりるような心で
原文: この一生を
この一生を
原文: 終るすべなきか
終える手立てはないか
原文: この日頃
このごろ
原文: ひそかに胸にやどりたる悔くいあり
ひそかに胸に宿った悔いがある
原文: われを笑はしめざり
私を笑わせてくれない
原文: へつらひを聞けば
へつらいを聞くと
原文: 腹立はらだつわがこころ
腹が立つ私の心
原文: あまりに我を知るがかなしき
あまりに自分を知っているのがかなしい
原文: 知らぬ家いへたたき起して
知らない家を叩き起こして
原文: 遁にげ来くるがおもしろかりし
逃げてくるのがおもしろかった
原文: 昔の恋しさ
あの昔が恋しい
原文: 非凡ひぼんなる人のごとくにふるまへる
非凡な人のようにふるまった
原文: 後のちのさびしさは
あとのさびしさは
原文: 何なににかたぐへむ
何にたとえよう
原文: 大おほいなる彼の身体からだが
彼の大きな身体が
原文: 憎にくかりき
憎かった
原文: その前にゆきて物を言ふ時
その前に行って物を言うとき
原文: 実務には役に立たざるうた人びとと
実務の役には立たない歌よみだと
原文: 我を見る人に
私を見る人に
原文: 金借りにけり
金を借りた
原文: 遠くより笛の音ねきこゆ
遠くから笛の音が聞こえる
原文: うなだれてある故ゆゑやらむ
うなだれているせいだろうか
原文: なみだ流るる
涙が流れる
原文: それもよしこれもよしとてある人の
それもよし、これもよしという人の
原文: その気がるさを
その気軽さが
原文: 欲ほしくなりたり
欲しくなった
原文: 死ぬことを
死ぬことを
原文: 持薬ぢやくをのむがごとくにも我はおもへり
いつもの薬をのむようにも私は思う
原文: 心いためば
心が痛むと
原文: 路傍みちばたに犬ながながと呿呻あくびしぬ
道ばたで犬が長々とあくびをした
原文: われも真似まねしぬ
私も真似をした
原文: うらやましさに
うらやましくて
原文: 真剣になりて竹もて犬を撃うつ
真剣になって竹で犬を打つ
原文: 小児せうにの顔を
子どもの顔を
原文: よしと思へり
いいと思った
原文: ダイナモの
ダイナモの
原文: 重き唸うなりのここちよさよ
重い唸りの心地よさよ
原文: あはれこのごとく物を言はまし
ああ、こんなふうに物を言いたい
原文: 剽軽へうきんの性さがなりし友の死顔の
ひょうきんな性分だった友の死に顔の
原文: 青き疲れが
青い疲れが
原文: いまも目にあり
いまも目にある
原文: 気の変る人に仕つかへて
気の変わりやすい人に仕えて
原文: つくづくと
つくづくと
原文: わが世がいやになりにけるかな
自分の暮らしがいやになったことだ
原文: 龍りようのごとくむなしき空に躍をどり出いでて
龍のようにむなしい空に躍り出て
原文: 消えゆく煙
消えていく煙
原文: 見れば飽あかなく
見ていて飽きない
原文: こころよき疲れなるかな
心地よい疲れだ
原文: 息もつかず
息もつかず
原文: 仕事をしたる後のちのこの疲れ
仕事をしたあとのこの疲れ
原文: 空寝入そらねいり生呿呻なまあくびなど
寝たふりや、なまあくびなど
原文: なぜするや
なぜするのか
原文: 思ふこと人にさとらせぬため
思うことを人に悟らせないため
原文: 箸はし止とめてふっと思ひぬ
箸を止めてふと思った
原文: やうやくに
ようやく
原文: 世のならはしに慣れにけるかな
世のならわしに慣れてしまったな
原文: 朝はやく
朝はやく
原文: 婚期こんきを過ぎし妹の
婚期を過ぎた妹の
原文: 恋文こひぶみめける文ふみを読めりけり
恋文めいた手紙を読んだ
原文: しっとりと
しっとりと
原文: 水を吸すひたる海綿かいめんの
水を吸った海綿の
原文: 重さに似たる心地ここちおぼゆる
重さに似た心地をおぼえる
原文: 死ね死ねと己おのれを怒いかり
死ね死ねと自分を怒り
原文: もだしたる
黙りこんだ
原文: 心の底の暗きむなしさ
心の底の暗いむなしさ
原文: けものめく顔あり口をあけたてす
けものめいた顔があり、口を開け閉めする
原文: とのみ見てゐぬ
とだけ見ていた
原文: 人の語るを
人が語るのを
原文: 親と子と
親と子が
原文: はなればなれの心もて静かに対むかふ
離ればなれの心で静かに向かい合う
原文: 気まづきや何なぞ
この気まずさは何だろう
原文: かの船の
あの船の
原文: かの航海の船客せんかくの一人にてありき
あの航海の船客の一人だった
原文: 死にかねたるは
死にきれなかったのは
原文: 目の前の菓子皿くわしざらなどを
目の前の菓子皿などを
原文: かりかりと噛かみてみたくなりぬ
かりかりと噛んでみたくなった
原文: もどかしきかな
もどかしいものだ
原文: よく笑ふ若き男の
よく笑う若い男が
原文: 死にたらば
死んだなら
原文: すこしはこの世さびしくもなれ
すこしはこの世もさびしくなれ
原文: 何がなしに
なんとなく
原文: 息いききれるまで駆かけ出だしてみたくなりたり
息が切れるまで駆け出してみたくなった
原文: 草原くさはらなどを
草原などを
原文: あたらしき背広など着て
新しい背広など着て
原文: 旅をせむ
旅をしよう
原文: しかく今年ことしも思ひ過ぎたる
そう思っているうちに今年も過ぎた
原文: ことさらに燈火ともしびを消して
わざわざ灯りを消して
原文: まぢまぢと思ひてゐしは
まじまじと思っていたのは
原文: わけもなきこと
たわいもないこと
原文: 浅草の凌雲閣りよううんかくのいただきに
浅草の凌雲閣のてっぺんで
原文: 腕組みし日の
腕を組んだ日の
原文: 長き日記にきかな
長い日記だな
原文: 尋常じんじやうのおどけならむや
ただのふざけだろうか
原文: ナイフ持ち死ぬまねをする
ナイフを持って死ぬまねをする
原文: その顔その顔
あの顔、あの顔
原文: こそこその話がやがて高くなり
ひそひそ話がやがて高くなり
原文: ピストル鳴りて
ピストルが鳴って
原文: 人生終る
人生が終わる
原文: 時ありて
ときには
原文: 子供のやうにたはむれす
子どものようにたわむれる
原文: 恋ある人のなさぬ業わざかな
恋のある人のしないことだな
原文: とかくして家を出いづれば
どうにか家を出れば
原文: 日光のあたたかさあり
日ざしのあたたかさがある
原文: 息ふかく吸ふ
息を深く吸う
原文: つかれたる牛のよだれは
疲れた牛のよだれは
原文: たらたらと
たらたらと
原文: 千万年も尽きざるごとし
千万年も尽きないようだ
原文: 路傍みちばたの切石きりいしの上に
道ばたの切石の上に
原文: 腕拱くみて
腕を組んで
原文: 空を見上ぐる男ありたり
空を見上げる男がいた
原文: 何やらむ
何だろう
原文: 穏おだやかならぬ目付めつきして
穏やかでない目つきをして
原文: 鶴嘴つるはしを打つ群を見てゐる
つるはしを振るう一群を見ている
原文: 心より今日けふは逃げ去れり
心から今日は逃げ去った
原文: 病やまひある獣けもののごとき
病んだ獣のような
原文: 不平逃げ去れり
不平が逃げ去った
原文: おほどかの心来れり
おおらかな心がやってきた
原文: あるくにも
歩くにも
原文: 腹に力のたまるがごとし
腹に力がたまるようだ
原文: ただひとり泣かまほしさに
ただ一人で泣きたくて
原文: 来て寝たる
来て寝た
原文: 宿屋やどやの夜具やぐのこころよさかな
宿屋の夜具の心地よさよ
原文: 友よさは
友よ、そう
原文: 乞食こじきの卑いやしさ厭いとふなかれ
物乞いの卑しさを嫌ってくれるな
原文: 餓うゑたる時は我も爾しかりき
飢えていたときは私もそうだった
原文: 新しきインクのにほひ
新しいインクのにおい
原文: 栓せん抜ぬけば
栓を抜くと
原文: 餓ゑたる腹に沁しむがかなしも
飢えた腹に沁みるのがかなしい
原文: かなしきは
かなしいのは
原文: 喉のどのかわきをこらへつつ
喉のかわきをこらえながら
原文: 夜寒よざむの夜具にちぢこまる時
夜寒の夜具にちぢこまるとき
原文: 一度でも我に頭を下げさせし
一度でも私に頭を下げさせた
原文: 人みな死ねと
人はみな死ねと
原文: いのりてしこと
祈ったことがある
原文: 我に似し友の二人ふたりよ
私に似た二人の友よ
原文: 一人は死に
一人は死に
原文: 一人は牢らうを出いでて今病やむ
一人は牢を出て今は病んでいる
原文: あまりある才を抱いだきて
あり余る才を抱えながら
原文: 妻のため
妻のために
原文: おもひわづらふ友をかなしむ
思い悩む友をかなしむ
原文: 打明けて語りて
打ち明けて語って
原文: 何か損そんをせしごとく思ひて
何か損をしたように思って
原文: 友とわかれぬ
友と別れた
原文: どんよりと
どんよりと
原文: くもれる空を見てゐしに
曇った空を見ていたら
原文: 人を殺したくなりにけるかな
人を殺したくなったことだ
原文: 人並ひとなみの才さいに過ぎざる
人並みの才にすぎない
原文: わが友の
わが友の
原文: 深き不平もあはれなるかな
深い不平もあわれだな
原文: 誰たれが見てもとりどころなき男来て
誰が見ても取り柄のない男が来て
原文: 威張ゐばりて帰りぬ
威張って帰った
原文: かなしくもあるか
かなしくもあるものだ
原文: はたらけど
働いても
原文: はたらけど猶なほわが生活くらし楽にならざり
働いてもなお暮らしは楽にならない
原文: ぢっと手を見る
じっと手を見る
原文: 何もかも行末ゆくすゑの事みゆるごとき
何もかも行く末のことが見えるような
原文: このかなしみは
このかなしみは
原文: 拭ぬぐひあへずも
ぬぐいきれない
原文: とある日に
ある日に
原文: 酒をのみたくてならぬごとく
酒がのみたくてならないように
原文: 今日けふわれ切せちに金かねを欲ほりせり
今日の私は切に金が欲しかった
原文: 水晶すゐしやうの玉をよろこびもてあそぶ
水晶の玉をよろこんでもてあそぶ
原文: わがこの心
この私の心は
原文: 何なにの心ぞ
何の心だろう
原文: 事もなく
何事もなく
原文: 且かつこころよく肥こえてゆく
しかも心地よく肥えていく
原文: わがこのごろの物足らぬかな
このごろの自分が物足りない
原文: 大いなる水晶の玉を
大きな水晶の玉を
原文: ひとつ欲ほし
ひとつ欲しい
原文: それにむかひて物を思はむ
それに向かって物を思おう
原文: うぬ惚ぼるる友に
うぬぼれる友に
原文: 合槌あひづちうちてゐぬ
相づちを打っていた
原文: 施与ほどこしをするごとき心に
施しをするような心で
原文: ある朝のかなしき夢のさめぎはに
ある朝のかなしい夢のさめぎわに
原文: 鼻に入いり来きし
鼻に入ってきた
原文: 味噌みそを煮にる香かよ
味噌を煮るにおいよ
原文: こつこつと空地あきちに石をきざむ音
こつこつと空き地で石を刻む音
原文: 耳につき来きぬ
耳について離れない
原文: 家いへに入いるまで
家に入るまで
原文: 何がなしに
なんとなく
原文: 頭あたまのなかに崖がけありて
頭の中に崖があって
原文: 日毎ひごとに土のくづるるごとし
日ごとに土が崩れていくようだ
原文: 遠方ゑんぱうに電話の鈴りんの鳴るごとく
遠くで電話のベルが鳴るように
原文: 今日けふも耳鳴る
今日も耳が鳴る
原文: かなしき日かな
かなしい日だな
原文: 垢あかじみし袷あはせの襟えりよ
垢じみた袷の襟よ
原文: かなしくも
かなしくも
原文: ふるさとの胡桃くるみ焼やくるにほひす
ふるさとの胡桃を焼くにおいがする
原文: 死にたくてならぬ時あり
死にたくてならないときがある
原文: はばかりに人目を避さけて
便所で人目を避けて
原文: 怖こはき顔する
こわい顔をする
原文: 一隊の兵を見送りて
一隊の兵を見送って
原文: かなしかり
かなしかった
原文: 何なにぞ彼等のうれひ無なげなる
なぜ彼らはあんなに憂いがないのか
原文: 邦人くにびとの顔たへがたく卑いやしげに
同胞の顔がたえがたく卑しく
原文: 目にうつる日なり
目にうつる日だ
原文: 家にこもらむ
家にこもろう
原文: この次の休日やすみに一日寝てみむと
次の休みには一日寝てみようと
原文: 思ひすごしぬ
思いながら過ごしてきた
原文: 三年みとせこのかた
この三年ずっと
原文: 或る時のわれのこころを
あるときの自分の心を
原文: 焼きたての
焼きたての
原文: 麺麭ぱんに似たりと思ひけるかな
パンに似ていると思ったことだ
原文: たんたらたらたんたらたらと
たんたらたら たんたらたらと
原文: 雨滴あまだれが
雨だれが
原文: 痛むあたまにひびくかなしさ
痛む頭にひびくかなしさ
原文: ある日のこと
ある日のこと
原文: 室へやの障子しやうじをはりかへぬ
部屋の障子を張り替えた
原文: その日はそれにて心なごみき
その日はそれで心がなごんだ
原文: かうしては居をられずと思ひ
こうしてはいられないと思い
原文: 立ちにしが
立ち上がったが
原文: 戸外おもてに馬の嘶いななきしまで
外で馬がいななくまで
原文: 気ぬけして廊下らうかに立ちぬ
気がぬけて廊下に立った
原文: あららかに扉ドアを推おせしに
荒々しく扉を押したのに
原文: すぐ開あきしかば
すぐ開いてしまったので
原文: ぢっとして
じっとして
原文: 黒はた赤のインク吸ひ
黒や赤のインクを吸って
原文: 堅くかわける海綿かいめんを見る
堅く乾いた海綿を見る
原文: 誰たれが見ても
誰が見ても
原文: われをなつかしくなるごとき
私をなつかしく思うような
原文: 長き手紙を書きたき夕ゆふべ
長い手紙を書きたい夕暮れ
原文: うすみどり
うすみどりの
原文: 飲めば身体からだが水のごと透すきとほるてふ
飲めば体が水のように透きとおるという
原文: 薬はなきか
薬はないか
原文: いつも睨にらむラムプに飽あきて
いつも睨むランプに飽きて
原文: 三日みかばかり
三日ばかり
原文: 蝋燭らふそくの火にしたしめるかな
蝋燭の火に親しんだことだ
原文: 人間のつかはぬ言葉
人間の使わない言葉を
原文: ひょっとして
ひょっとして
原文: われのみ知れるごとく思ふ日
自分だけが知っているように思う日
原文: あたらしき心もとめて
新しい心を求めて
原文: 名も知らぬ
名も知らない
原文: 街など今日けふもさまよひて来きぬ
街を今日もさまよってきた
原文: 友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
友がみな自分よりえらく見える日よ
原文: 花を買ひ来きて
花を買ってきて
原文: 妻つまとしたしむ
妻とむつまじく過ごす
原文: 何なにすれば
どうして
原文: 此処ここに我ありや
ここに私はいるのか
原文: 時にかく打驚うちおどろきて室へやを眺むる
ときにこう驚いて部屋を眺める
原文: 人ありて電車のなかに唾つばを吐はく
ある人が電車の中で唾を吐く
原文: それにも
それにも
原文: 心いたまむとしき
心が痛みそうだった
原文: 夜明けまであそびてくらす場所が欲ほし
夜明けまで遊んで過ごせる場所が欲しい
原文: 家いへをおもへば
家を思うと
原文: こころ冷つめたし
心が冷たい
原文: 人みなが家いへを持つてふかなしみよ
人がみな家を持つというかなしみよ
原文: 墓に入いるごとく
墓に入るように
原文: かへりて眠る
帰って眠る
原文: 何かひとつ不思議を示し
何かひとつ不思議を見せて
原文: 人みなのおどろくひまに
みんなが驚いているすきに
原文: 消えむと思ふ
消えてしまおうと思う
原文: 人といふ人のこころに
人という人の心に
原文: 一人づつ囚人しうじんがゐて
一人ずつ囚人がいて
原文: うめくかなしさ
うめいているかなしさ
原文: 叱しかられて
叱られて
原文: わっと泣き出だす子供心
わっと泣き出す子ども心
原文: その心にもなりてみたきかな
その心にもなってみたいものだ
原文: 盗むてふことさへ悪あしと思ひえぬ
盗むことさえ悪いと思えない
原文: 心はかなし
心はかなしい
原文: かくれ家がもなし
隠れる家もない
原文: 放はなたれし女のごときかなしみを
捨てられた女のようなかなしみを
原文: よわき男の
弱い男が
原文: 感かんずる日なり
感じる日だ
原文: 庭石にはいしに
庭石に
原文: はたと時計をなげうてる
はたと時計を投げつけた
原文: 昔のわれの怒いかりいとしも
昔の自分の怒りがいとしい
原文: 顔あかめ怒いかりしことが
顔を赤くして怒ったことが
原文: あくる日は
翌日には
原文: さほどにもなきをさびしがるかな
それほどでもないのをさびしがる
原文: いらだてる心よ汝なれはかなしかり
いらだつ心よ、おまえはかなしい
原文: いざいざ
さあさあ
原文: すこし呿呻あくびなどせむ
少しあくびでもしよう
原文: 女あり
女がいる
原文: わがいひつけに背そむかじと心を砕くだく
私の言いつけに背くまいと心を砕く
原文: 見ればかなしも
見ればかなしい
原文: ふがひなき
ふがいない
原文: わが日ひの本もとの女等をんならを
わが日本の女たちを
原文: 秋雨あきさめの夜よにののしりしかな
秋雨の夜にののしったことだ
原文: 男とうまれ男と交まじり
男に生まれ男と交わって
原文: 負けてをり
負けている
原文: かるがゆゑにや秋が身に沁しむ
だからだろうか秋が身に沁みる
原文: わが抱いだく思想はすべて
私の抱く思想はすべて
原文: 金かねなきに因いんするごとし
金がないことから来ているようだ
原文: 秋の風吹く
秋の風が吹く
原文: くだらない小説を書きてよろこべる
くだらない小説を書いてよろこんでいる
原文: 男憐あはれなり
男があわれだ
原文: 初秋はつあきの風
初秋の風
原文: 秋の風
秋の風
原文: 今日けふよりは彼かのふやけたる男に
今日からはあのふやけた男とは
原文: 口を利きかじと思ふ
口をきくまいと思う
原文: はても見えぬ
果ても見えない
原文: 真直ますぐの街をあゆむごとき
まっすぐな街を歩くような
原文: こころを今日は持ちえたるかな
心を今日は持てたことだ
原文: 何事も思ふことなく
何ひとつ思うこともなく
原文: いそがしく
いそがしく
原文: 暮らせし一日ひとひを忘れじと思ふ
暮らした一日を忘れまいと思う
原文: 何事も金金かねかねとわらひ
何事も金だ金だと笑い
原文: すこし経へて
少し経つと
原文: またも俄にはかに不平つのり来く
またも急に不平がつのってくる
原文: 誰たそ我われに
誰か私を
原文: ピストルにても撃うてよかし
ピストルででも撃ってくれ
原文: 伊藤のごとく死にて見せなむ
伊藤のように死んでみせよう
原文: やとばかり
やあ、とばかりに
原文: 桂かつら首相に手とられし夢みて覚さめぬ
桂首相に手を取られる夢を見て目が覚めた
原文: 秋の夜の二時
秋の夜の二時
原文: 煙
煙
原文: 一
一
原文: 病やまひのごと
病のように
原文: 思郷しきやうのこころ湧わく日なり
故郷を思う心が湧く日だ
原文: 目にあをぞらの煙けむりかなしも
目に映る青空の煙がかなしい
原文: 己おのが名をほのかに呼びて
自分の名をかすかに呼んで
原文: 涙せし
涙した
原文: 十四じふしの春にかへる術すべなし
十四の春に帰る手立てはない
原文: 青空に消えゆく煙
青空に消えていく煙
原文: さびしくも消えゆく煙
さびしくも消えていく煙
原文: われにし似るか
私に似ているのか
原文: かの旅の汽車の車掌しやしやうが
あの旅の汽車の車掌が
原文: ゆくりなくも
思いがけず
原文: 我が中学の友なりしかな
私の中学の友だった
原文: ほとばしる喞筒ポンプの水の
ほとばしるポンプの水の
原文: 心地ここちよさよ
心地よさよ
原文: しばしは若きこころもて見る
しばらくは若い心で見る
原文: 師も友も知らで責せめにき
師も友も知らずに責めた
原文: 謎なぞに似る
謎に似た
原文: わが学業のおこたりの因もと
私が学業を怠ったわけを
原文: 教室の窓より遁にげて
教室の窓から逃げて
原文: ただ一人
ただ一人
原文: かの城址しろあとに寝に行きしかな
あの城跡に寝に行ったものだ
原文: 不来方こずかたのお城の草に寝ころびて
不来方のお城の草に寝ころんで
原文: 空に吸はれし
空に吸われた
原文: 十五じふごの心
十五の心
原文: かなしみといはばいふべき
かなしみと言うなら言ってもいい
原文: 物の味あぢ
物の味を
原文: 我の嘗なめしはあまりに早かり
私が知ったのはあまりに早かった
原文: 晴れし空仰あふげばいつも
晴れた空を仰ぐといつも
原文: 口笛を吹きたくなりて
口笛を吹きたくなって
原文: 吹きてあそびき
吹いて遊んだ
原文: 夜寝ても口笛吹きぬ
夜寝てからも口笛を吹いた
原文: 口笛は
口笛は
原文: 十五の我の歌にしありけり
十五の私の歌だった
原文: よく叱しかる師ありき
よく叱る先生がいた
原文: 髯ひげの似たるより山羊やぎと名づけて
髯が似ているので山羊と名づけて
原文: 口真似もしき
口真似もした
原文: われと共ともに
私と一緒に
原文: 小鳥に石を投げて遊ぶ
小鳥に石を投げて遊ぶ
原文: 後備大尉こうびたいゐの子もありしかな
後備大尉の子もいたな
原文: 城址しろあとの
城跡の
原文: 石に腰掛こしかけ
石に腰かけ
原文: 禁制の木この実みをひとり味あぢはひしこと
禁じられた木の実をひとり味わったこと
原文: その後のちに我を捨てし友も
その後に私を捨てた友も
原文: あの頃は共に書読ふみよみ
あのころは共に本を読み
原文: ともに遊びき
共に遊んだ
原文: 学校の図書庫としよぐらの裏の秋の草
学校の書庫の裏の秋の草
原文: 黄きなる花咲きし
黄色い花が咲いていた
原文: 今も名知らず
今も名を知らない
原文: 花散れば
花が散ると
原文: 先まづ人さきに白の服ふく着きて家いへ出いづる
誰より先に白い服を着て家を出る
原文: 我にてありしか
あれは私だったな
原文: 今は亡き姉の恋人のおとうとと
今は亡き姉の恋人の弟と
原文: なかよくせしを
仲よくしていたのを
原文: かなしと思ふ
かなしいと思う
原文: 夏休み果はててそのまま
夏休みが終わってそのまま
原文: かへり来こぬ
帰ってこない
原文: 若き英語の教師もありき
若い英語の先生もいた
原文: ストライキ思ひ出いでても
ストライキを思い出しても
原文: 今は早はや吾が血躍をどらず
今はもう血が躍らない
原文: ひそかに淋さびし
ひそかにさびしい
原文: 盛岡もりをかの中学校の
盛岡の中学校の
原文: 露台バルコンの
バルコニーの
原文: 欄干てすりに最一度もいちど我を倚よらしめ
手すりに、もう一度私を寄りかからせてくれ
原文: 神有りと言ひ張る友を
神はいると言い張る友を
原文: 説ときふせし
説きふせた
原文: かの路傍みちばたの栗くりの樹きの下もと
あの道ばたの栗の木の下
原文: 西風に
西風に
原文: 内丸大路うちまるおほぢの桜の葉
内丸大路の桜の葉が
原文: かさこそ散るを踏ふみてあそびき
かさこそ散るのを踏んで遊んだ
原文: そのかみの愛読の書しよよ
昔の愛読の書よ
原文: 大方おほかたは
その大半は
原文: 今は流行はやらずなりにけるかな
今は流行らなくなってしまったな
原文: 石ひとつ
石がひとつ
原文: 坂をくだるがごとくにも
坂をころがり下るように
原文: 我けふの日に到り着きたる
私は今日の日にたどり着いた
原文: 愁うれひある少年せうねんの眼に羨うらやみき
憂いのある少年の眼でうらやんだ
原文: 小鳥の飛ぶを
小鳥の飛ぶのを
原文: 飛びてうたふを
飛んでうたうのを
原文: 解剖ふわけせし
解剖した
原文: 蚯蚓みみずのいのちもかなしかり
みみずのいのちもかなしかった
原文: かの校庭の木柵もくさくの下もと
あの校庭の木の柵の下
原文: かぎりなき知識の慾よくに燃ゆる眼を
かぎりない知識欲に燃える眼を
原文: 姉は傷いたみき
姉は心を痛めた
原文: 人恋ふるかと
人に恋しているのかと
原文: 蘇峯そほうの書しよを我に薦すすめし友早く
蘇峯の本を私に薦めた友は早くに
原文: 校かうを退しりぞきぬ
学校をやめた
原文: まづしさのため
貧しさのために
原文: おどけたる手つきをかしと
おどけた手つきがおかしいと
原文: 我のみはいつも笑ひき
私だけはいつも笑った
原文: 博学の師を
博学な先生を
原文: 自しが才さいに身をあやまちし人のこと
自分の才で身をあやまった人のことを
原文: かたりきかせし
語り聞かせてくれた
原文: 師もありしかな
先生もいたな
原文: そのかみの学校一のなまけ者
昔の学校一のなまけ者が
原文: 今は真面目まじめに
今は真面目に
原文: はたらきて居をり
はたらいている
原文: 田舎ゐなかめく旅の姿を
田舎びた旅の姿を
原文: 三日みかばかり都に曝さらし
三日ばかり都にさらして
原文: かへる友かな
帰る友だな
原文: 茨島ばらじまの松の並木の街道を
茨島の松並木の街道を
原文: われと行きし少女をとめ
私と行った少女は
原文: 才さいをたのみき
おのれの才を頼みにしていた
原文: 眼を病みて黒き眼鏡めがねをかけし頃
眼を病んで黒い眼鏡をかけたころ
原文: その頃よ
あのころだ
原文: 一人泣くをおぼえし
一人で泣くことを覚えたのは
原文: わがこころ
私の心は
原文: けふもひそかに泣かむとす
今日もひそかに泣こうとする
原文: 友みな己おのが道をあゆめり
友はみな自分の道を歩いていった
原文: 先さきんじて恋のあまさと
人より先に恋の甘さと
原文: かなしさを知りし我なり
かなしさを知った私だ
原文: 先んじて老おゆ
人より先に老いる
原文: 興きよう来きたれば
興が乗ると
原文: 友なみだ垂たれ手を揮ふりて
友は涙を流し手をふって
原文: 酔漢ゑひどれのごとくなりて語りき
酔っぱらいのようになって語った
原文: 人ごみの中をわけ来くる
人ごみの中を分けて来る
原文: わが友の
わが友の
原文: むかしながらの太ふとき杖つゑかな
昔ながらの太い杖だな
原文: 見よげなる年賀の文ふみを書く人と
見栄えのいい年賀状を書く人だと
原文: おもひ過ぎにき
思い過ごしてきた
原文: 三年みとせばかりは
三年ばかりは
原文: 夢さめてふっと悲しむ
夢からさめてふと悲しむ
原文: わが眠り
私の眠りは
原文: 昔のごとく安からぬかな
昔のように安らかでないな
原文: そのむかし秀才しうさいの名の高かりし
昔は秀才の名が高かった
原文: 友牢らうにあり
友が牢にいる
原文: 秋のかぜ吹く
秋の風が吹く
原文: 近眼ちかめにて
近眼で
原文: おどけし歌をよみ出いでし
おどけた歌をよんだ
原文: 茂雄しげをの恋もかなしかりしか
茂雄の恋もかなしかったのか
原文: わが妻のむかしの願ひ
妻の昔の願いは
原文: 音楽のことにかかりき
音楽のことにあった
原文: 今はうたはず
今はうたわない
原文: 友はみな或日あるひ四方しはうに散り行ゆきぬ
友はみなある日四方に散っていった
原文: その後のち八年やとせ
それから八年
原文: 名な挙あげしもなし
名を挙げた者もいない
原文: わが恋を
私の恋を
原文: はじめて友にうち明けし夜よるのことなど
はじめて友に打ち明けた夜のことなど
原文: 思ひ出いづる日
思い出す日
原文: 糸切れし紙鳶たこのごとくに
糸の切れた凧のように
原文: 若き日の心かろくも
若い日の心は軽々と
原文: とびさりしかな
飛び去ってしまったな
原文: 二
二
原文: ふるさとの訛なまりなつかし
ふるさとの訛りがなつかしい
原文: 停車場ていしやばの人ごみの中に
停車場の人ごみの中に
原文: そを聴ききにゆく
それを聴きに行く
原文: やまひある獣けもののごとき
病んだ獣のような
原文: わがこころ
私の心も
原文: ふるさとのこと聞けばおとなし
ふるさとのことを聞けばおとなしい
原文: ふと思ふ
ふと思う
原文: ふるさとにゐて日毎ひごと聴ききし雀すずめの鳴くを
ふるさとで毎日聴いた雀の鳴く声を
原文: 三年みとせ聴かざり
三年聴いていない
原文: 亡なくなれる師がその昔
亡くなった先生が昔
原文: たまひたる
くださった
原文: 地理の本など取りいでて見る
地理の本など取り出して見る
原文: その昔
あの昔
原文: 小学校の柾屋根まさやねに我が投げし鞠まり
小学校の柾屋根に私が投げた鞠は
原文: いかにかなりけむ
どうなっただろう
原文: ふるさとの
ふるさとの
原文: かの路傍みちばたのすて石よ
あの道ばたの捨て石よ
原文: 今年も草に埋うづもれしらむ
今年も草に埋もれているだろう
原文: わかれをれば妹いもといとしも
離れていれば妹がいとしい
原文: 赤き緒をの
赤い鼻緒の
原文: 下駄げたなど欲ほしとわめく子なりし
下駄が欲しいとわめく子だった
原文: 二日ふつか前に山の絵ゑ見しが
二日前に山の絵を見たが
原文: 今朝けさになりて
今朝になって
原文: にはかに恋しふるさとの山
にわかに恋しいふるさとの山
原文: 飴売あめうりのチャルメラ聴きけば
飴売りのチャルメラを聴くと
原文: うしなひし
なくした
原文: をさなき心ひろへるごとし
幼い心を拾えたようだ
原文: このごろは
このごろは
原文: 母も時時ときどきふるさとのことを言ひ出いづ
母も時々ふるさとのことを言い出す
原文: 秋に入いれるなり
秋になったのだ
原文: それとなく
それとなく
原文: 郷里くにのことなど語り出いでて
故郷のことなど語り出して
原文: 秋の夜よに焼く餅もちのにほひかな
秋の夜に焼く餅のにおいよ
原文: かにかくに渋民村しぶたみむらは恋しかり
なにかにつけて渋民村が恋しい
原文: おもひでの山
思い出の山
原文: おもひでの川
思い出の川
原文: 田も畑はたも売りて酒のみ
田も畑も売って酒をのみ
原文: ほろびゆくふるさと人びとに
滅びていくふるさとの人に
原文: 心寄する日
心を寄せる日
原文: あはれかの我の教へし
ああ、私が教えた
原文: 子等こらもまた
あの子らもまた
原文: やがてふるさとを棄すてて出いづるらむ
やがてふるさとを捨てて出ていくのだろう
原文: ふるさとを出いで来きし子等の
ふるさとを出てきた者どうしが
原文: 相会あいあひて
めぐり会って
原文: よろこぶにまさるかなしみはなし
よろこぶことにまさるかなしみはない
原文: 石をもて追はるるごとく
石を投げて追われるように
原文: ふるさとを出いでしかなしみ
ふるさとを出たかなしみは
原文: 消ゆる時なし
消えるときがない
原文: やはらかに柳あをめる
やわらかに柳が青む
原文: 北上きたかみの岸辺きしべ目に見ゆ
北上の岸辺が目に見える
原文: 泣けとごとくに
泣けというように
原文: ふるさとの
ふるさとの
原文: 村医そんいの妻のつつましき櫛巻くしまきなども
村医者の妻のつつましい櫛巻きなども
原文: なつかしきかな
なつかしいものだ
原文: かの村の登記所とうきしよに来て
あの村の登記所に来て
原文: 肺はい病やみて
肺を病んで
原文: 間もなく死にし男もありき
間もなく死んだ男もいた
原文: 小学の首席を我と争あらそひし
小学校の首席を私と争った
原文: 友のいとなむ
友がいとなむ
原文: 木賃宿きちんやどかな
木賃宿だな
原文: 千代治等ちよぢらも長ちやうじて恋し
千代治たちも大きくなって恋をし
原文: 子を挙あげぬ
子をもうけた
原文: わが旅にしてなせしごとくに
私が旅先でそうしたように
原文: ある年の盆ぼんの祭に
ある年の盆の祭りに
原文: 衣きぬ貸かさむ踊れと言ひし
着物を貸すから踊れと言った
原文: 女を思ふ
あの女を思う
原文: うすのろの兄と
のろまな兄と
原文: 不具かたはの父もてる三太さんたはかなし
体の不自由な父を持つ三太はかなしい
原文: 夜よるも書ふみ読よむ
夜も本を読む
原文: 我と共に
私と一緒に
原文: 栗毛くりげの仔馬こうま走らせし
栗毛の仔馬を走らせた
原文: 母の無き子の盗癖ぬすみぐせかな
母のない子の盗み癖だな
原文: 大形おほがたの被布ひふの模様の赤き花
大きな柄の被布の模様の赤い花
原文: 今も目に見ゆ
今も目に見える
原文: 六歳むつの日の恋
六つの日の恋
原文: その名さへ忘られし頃
その名さえ忘れられたころ
原文: 飄然へうぜんとふるさとに来て
ふらりとふるさとに来て
原文: 咳せきせし男
咳をしていた男
原文: 意地悪いぢわるの大工だいくの子などもかなしかり
意地悪な大工の子などもかなしい
原文: 戦いくさに出いでしが
戦に出たが
原文: 生きてかへらず
生きて帰らなかった
原文: 肺を病む
肺を病む
原文: 極道地主ごくだうぢぬしの総領そうりやうの
道楽者の地主の跡取りの
原文: よめとりの日の春の雷らいかな
嫁取りの日の春の雷だな
原文: 宗次郎そうじろに
宗次郎に
原文: おかねが泣きて口説くどき居をり
おかねが泣いて口説いている
原文: 大根だいこんの花白きゆふぐれ
大根の花の白い夕暮れ
原文: 小心せうしんの役場の書記の
気の小さい役場の書記が
原文: 気の狂ふれし噂うはさに立てる
気が触れたと噂に立った
原文: ふるさとの秋
ふるさとの秋
原文: わが従兄いとこ
私の従兄は
原文: 野山の猟かりに飽あきし後のち
野山の猟に飽きたあと
原文: 酒のみ家いへ売り病やみて死にしかな
酒をのみ家を売り病んで死んだ
原文: 我ゆきて手をとれば
私が行って手を取ると
原文: 泣きてしづまりき
泣いてしずまった
原文: 酔ゑひて荒あばれしそのかみの友
酔って荒れた、あの昔の友
原文: 酒のめば
酒をのむと
原文: 刀かたなをぬきて妻を逐おふ教師けうしもありき
刀を抜いて妻を追う教師もいた
原文: 村を遂おはれき
村を追われた
原文: 年ごとに肺病はいびやうやみの殖ふえてゆく
年ごとに肺を病む者の増えていく
原文: 村に迎へし
村に迎えた
原文: 若き医者かな
若い医者だな
原文: ほたる狩がり
ほたる狩り
原文: 川にゆかむといふ我を
川に行こうという私を
原文: 山路やまぢにさそふ人にてありき
山道に誘う人だった
原文: 馬鈴薯ばれいしよのうす紫の花に降ふる
じゃがいものうす紫の花に降る
原文: 雨を思へり
雨を思った
原文: 都みやこの雨に
都の雨に
原文: あはれ我がノスタルジヤは
ああ、私のノスタルジアは
原文: 金きんのごと
金のように
原文: 心に照れり清くしみらに
心に照っている、清く絶え間なく
原文: 友として遊ぶものなき
友として遊ぶ者もない
原文: 性悪しやうわるの巡査の子等こらも
性根の悪い巡査の子らも
原文: あはれなりけり
あわれだった
原文: 閑古鳥かんこどり
かっこう鳥が
原文: 鳴く日となれば起おこるてふ
鳴く日になると起こるという
原文: 友のやまひのいかになりけむ
友の病はどうなっただろう
原文: わが思ふこと
私の思うことは
原文: おほかたは正ただしかり
おおかた正しい
原文: ふるさとのたより着つける朝あしたは
ふるさとの便りが届いた朝は
原文: 今日聞けば
今日聞けば
原文: かの幸さちうすきやもめ人びと
あの幸うすい後家さんが
原文: きたなき恋に身を入いるるてふ
汚れた恋に身を入れているという
原文: わがために
私のために
原文: なやめる魂たまをしづめよと
悩める魂をしずめよと
原文: 讃美歌うたふ人ありしかな
讃美歌をうたう人がいたな
原文: あはれかの男のごときたましひよ
ああ、あの男のような魂よ
原文: 今は何処いづこに
今はどこで
原文: 何を思ふや
何を思っているのか
原文: わが庭の白き躑躅つつじを
わが庭の白いつつじを
原文: 薄月うすづきの夜よに
薄月の夜に
原文: 折をりゆきしことな忘れそ
折っていったことを忘れるな
原文: わが村に
わが村に
原文: 初めてイエス・クリストの道を説ときたる
はじめてイエス・キリストの道を説いた
原文: 若き女かな
若い女だな
原文: 霧ふかき好摩かうまの原はらの
霧の深い好摩の原の
原文: 停車場の
停車場の
原文: 朝の虫こそすずろなりけれ
朝の虫の声こそ心にしみる
原文: 汽車の窓
汽車の窓
原文: はるかに北にふるさとの山見え来くれば
はるか北にふるさとの山が見えてくると
原文: 襟えりを正ただすも
思わず襟を正す
原文: ふるさとの土をわが踏めば
ふるさとの土を踏むと
原文: 何がなしに足軽かろくなり
なんとなく足が軽くなり
原文: 心重おもれり
心は重くなった
原文: ふるさとに入いりて先まづ心傷いたむかな
ふるさとに入ってまず心が痛む
原文: 道広くなり
道は広くなり
原文: 橋もあたらし
橋も新しい
原文: 見もしらぬ女教師をんなけうしが
見も知らぬ女の先生が
原文: そのかみの
あの昔の
原文: わが学舎まなびやの窓に立てるかな
私の学び舎の窓に立っている
原文: かの家いへのかの窓にこそ
あの家のあの窓でこそ
原文: 春の夜よを
春の夜を
原文: 秀子ひでことともに蛙かはづ聴ききけれ
秀子とともに蛙の声を聴いたのだ
原文: そのかみの神童しんどうの名の
あの昔の神童という名の
原文: かなしさよ
かなしさよ
原文: ふるさとに来て泣くはそのこと
ふるさとに来て泣くのはそのこと
原文: ふるさとの停車場路ていしやばみちの
ふるさとの停車場への道の
原文: 川ばたの
川ばたの
原文: 胡桃くるみの下に小石拾ひろへり
胡桃の木の下で小石を拾った
原文: ふるさとの山に向ひて
ふるさとの山に向かって
原文: 言ふことなし
言うことはない
原文: ふるさとの山はありがたきかな
ふるさとの山はありがたいものだ
原文: 秋風のこころよさに
秋風のこころよさに
原文: ふるさとの空遠とほみかも
ふるさとの空が遠いからか
原文: 高たかき屋やにひとりのぼりて
高い建物にひとりのぼって
原文: 愁うれひて下くだる
憂いを抱いて下りる
原文: 皎かうとして玉をあざむく小人せうじんも
白く輝いて玉と見まがう小人物も
原文: 秋あき来くといふに
秋が来たというので
原文: 物を思へり
物を思っている
原文: かなしきは
かなしいのは
原文: 秋風ぞかし
秋風だ
原文: 稀まれにのみ湧わきし涙の繁しじに流るる
たまにしか湧かなかった涙がしきりに流れる
原文: 青に透すく
青く透きとおる
原文: かなしみの玉に枕まくらして
かなしみの玉を枕にして
原文: 松のひびきを夜もすがら聴きく
松の鳴る音を夜どおし聴く
原文: 神寂さびし七山ななやまの杉
神さびた七山の杉を
原文: 火のごとく染めて日入いりぬ
火のように染めて日が沈んだ
原文: 静かなるかな
静かなことだ
原文: そを読めば
それを読めば
原文: 愁うれひ知るといふ書ふみ焚たける
憂いを知るという書を焼いた
原文: いにしへ人びとの心よろしも
昔の人の心がいい
原文: ものなべてうらはかなげに
何もかもがはかなげに
原文: 暮れゆきぬ
暮れていった
原文: とりあつめたる悲しみの日は
悲しみをかき集めたような日は
原文: 水潦みづたまり
水たまりが
原文: 暮れゆく空とくれなゐの紐ひもを浮べぬ
暮れていく空と紅の紐を浮かべた
原文: 秋雨あきさめの後のち
秋雨のあと
原文: 秋立つは水にかも似る
秋が立つのは水に似ている
原文: 洗あらはれて
洗われて
原文: 思ひことごと新しくなる
思いがことごとく新しくなる
原文: 愁うれひ来て
憂いを抱いて
原文: 丘にのぼれば
丘にのぼると
原文: 名も知らぬ鳥啄ついばめり赤き茨ばらの実み
名も知らぬ鳥がついばんでいる、赤い茨の実を
原文: 秋の辻つじ
秋の辻
原文: 四よすぢの路みちの三すぢへと吹きゆく風の
四すじの道の三すじへと吹いていく風の
原文: あと見えずかも
そのあとは見えない
原文: 秋の声まづいち早く耳に入いる
秋の声がまっさきに耳に入る
原文: かかる性さが持つ
そんな性分を持つ
原文: かなしむべかり
かなしむべきことだ
原文: 目になれし山にはあれど
見なれた山ではあるが
原文: 秋来くれば
秋が来ると
原文: 神や住まむとかしこみて見る
神でも住むのかと畏れて見る
原文: わが為なさむこと世に尽つきて
私のなすべきことが世に尽きて
原文: 長き日を
長い一日を
原文: かくしもあはれ物を思ふか
こんなにも物を思うのか
原文: さらさらと雨落ち来きたり
さらさらと雨が落ちてきて
原文: 庭の面もの濡ぬれゆくを見て
庭の面が濡れていくのを見て
原文: 涙わすれぬ
涙を忘れた
原文: ふるさとの寺の御廊みらうに
ふるさとの寺の廊下で
原文: 踏ふみにける
踏んでしまった
原文: 小櫛をぐしの蝶てふを夢にみしかな
小櫛の蝶を夢に見た
原文: こころみに
試しに
原文: いとけなき日の我となり
幼い日の自分になって
原文: 物言ひてみむ人あれと思ふ
話しかけてみたい人がいればと思う
原文: はたはたと黍きびの葉鳴れる
はたはたと黍の葉が鳴る
原文: ふるさとの軒端のきばなつかし
ふるさとの軒端がなつかしい
原文: 秋風吹けば
秋風が吹くと
原文: 摩すれあへる肩のひまより
ふれあう肩のすきまから
原文: はつかにも見きといふさへ
ほんの少し見たということまで
原文: 日記にきに残れり
日記に残っている
原文: 風流男みやびをは今も昔も
風流な男は今も昔も
原文: 泡雪あわゆきの
淡雪のような
原文: 玉手たまでさし捲まく夜よにし老おゆらし
白い腕を枕にする夜に老いていくらしい
原文: かりそめに忘れても見まし
ふと忘れてもみたい
原文: 石だたみ
石だたみが
原文: 春生おふる草に埋うもるるがごと
春に生える草に埋もれるように
原文: その昔揺籃ゆりかごに寝て
あの昔ゆりかごに寝て
原文: あまたたび夢にみし人か
幾度も夢に見た人だろうか
原文: 切せちになつかし
切になつかしい
原文: 神無月かみなづき
神無月
原文: 岩手いはての山の
岩手の山の
原文: 初雪の眉まゆにせまりし朝を思ひぬ
初雪が眉に迫った朝を思った
原文: ひでり雨さらさら落ちて
日照り雨がさらさら落ちて
原文: 前栽せんざいの
庭先の
原文: 萩はぎのすこしく乱みだれたるかな
萩が少し乱れたことだ
原文: 秋の空廓寥くわくれうとして影もなし
秋の空はがらんとして影もない
原文: あまりにさびし
あまりにさびしい
原文: 烏からすなど飛べ
烏でも飛べ
原文: 雨後うごの月
雨あがりの月
原文: ほどよく濡ぬれし屋根瓦やねがはらの
ほどよく濡れた屋根瓦の
原文: そのところどころ光るかなしさ
ところどころ光るかなしさ
原文: われ饑うゑてある日に
私が飢えているある日に
原文: 細き尾を掉ふりて
細い尾をふって
原文: 饑ゑて我を見る犬の面つらよし
飢えて私を見る犬の顔がいい
原文: いつしかに
いつのまにか
原文: 泣くといふこと忘れたる
泣くということを忘れた
原文: 我泣かしむる人のあらじか
私を泣かせてくれる人はいないか
原文: 汪然わうぜんとして
涙があふれて
原文: ああ酒のかなしみぞ我に来きたれる
ああ、酒のかなしみが私に来た
原文: 立ちて舞まひなむ
立って舞おう
原文: 蛼いとど鳴なく
こおろぎが鳴く
原文: そのかたはらの石に踞きよし
そのかたわらの石にうずくまり
原文: 泣き笑ひしてひとり物言ふ
泣き笑いしてひとり物を言う
原文: 力なく病やみし頃ころより
力なく病んだころから
原文: 口すこし開あきて眠ねむるが
口を少し開けて眠るのが
原文: 癖くせとなりにき
癖になった
原文: 人ひとり得うるに過ぎざる事をもて
人ひとりを得るだけのことを
原文: 大願たいぐわんとせし
大願としていた
原文: 若きあやまち
若い日のあやまち
原文: 物怨ゑずる
すねてみせる
原文: そのやはらかき上目うはめをば
そのやわらかな上目づかいを
原文: 愛めづとことさらつれなくせむや
いとしいからと、わざと冷たくできるものか
原文: かくばかり熱あつき涙は
これほど熱い涙は
原文: 初恋の日にもありきと
初恋の日にもあったと
原文: 泣く日またなし
泣く日はもうない
原文: 長く長く忘れし友に
長く長く忘れていた友に
原文: 会ふごとき
会うような
原文: よろこびをもて水の音聴きく
よろこびで水の音を聴く
原文: 秋の夜の
秋の夜の
原文: 鋼鉄はがねの色の大空に
鋼の色の大空に
原文: 火を噴はく山もあれなど思ふ
火を噴く山でもあればなどと思う
原文: 岩手山いはてやま
岩手山
原文: 秋はふもとの三方さんぱうの
秋はふもとの三方の
原文: 野に満つる虫を何なにと聴くらむ
野に満ちる虫の声を何と聴いているだろう
原文: 父のごと秋はいかめし
父のように秋はいかめしい
原文: 母のごと秋はなつかし
母のように秋はなつかしい
原文: 家いへ持たぬ児こに
家を持たない子には
原文: 秋来くれば
秋が来ると
原文: 恋こふる心のいとまなさよ
恋しく思う心のせわしなさよ
原文: 夜よもい寝ねがてに雁かり多く聴く
夜も寝つけずに雁の声を多く聴く
原文: 長月ながつきも半なかばになりぬ
長月も半ばになった
原文: いつまでか
いつまで
原文: かくも幼く打出うちいでずあらむ
こんなに幼く、言い出せずにいるのだろう
原文: 思ふてふこと言はぬ人の
思っているとは言わない人が
原文: おくり来きし
送ってきた
原文: 忘れな草ぐさもいちじろかりし
忘れな草もはっきりと目立っていた
原文: 秋の雨に逆反さかぞりやすき弓ゆみのごと
秋の雨に反り返りやすい弓のように
原文: このごろ
このごろ
原文: 君のしたしまぬかな
君は私に親しんでくれないな
原文: 松の風夜昼よひるひびきぬ
松の風が夜も昼もひびいた
原文: 人訪とはぬ山の祠ほこらの
人の訪れない山の祠の
原文: 石馬いしうまの耳に
石馬の耳に
原文: ほのかなる朽木くちきの香かをり
ほのかな朽木の香り
原文: そがなかの蕈たけの香りに
そのなかの茸の香りに
原文: 秋やや深し
秋がやや深い
原文: 時雨しぐれ降るごとき音して
時雨が降るような音をたてて
原文: 木伝こづたひぬ
木を伝っていった
原文: 人によく似し森の猿さるども
人によく似た森の猿ども
原文: 森の奥
森の奥
原文: 遠きひびきす
遠いひびきがする
原文: 木きのうろに臼うすひく侏儒しゆじゆの国にかも来きし
木のうろで臼をひく小人の国にでも来たのか
原文: 世のはじめ
世のはじめ
原文: まづ森ありて
まず森があって
原文: 半神はんしんの人そが中に火や守りけむ
半ば神である人がそのなかで火を守っていたのか
原文: はてもなく砂うちつづく
はてもなく砂がつづく
原文: 戈壁ゴビの野に住みたまふ神は
ゴビの野に住む神は
原文: 秋の神かも
秋の神だろうか
原文: あめつちに
天地に
原文: わが悲しみと月光げつくわうと
私の悲しみと月の光と
原文: あまねき秋の夜よとなれりけり
あまねく満ちる秋の夜になった
原文: うらがなしき
もの悲しい
原文: 夜よるの物の音ね洩もれ来くるを
夜の物音がもれてくるのを
原文: 拾ひろふがごとくさまよひ行ゆきぬ
拾うようにさまよい歩いた
原文: 旅の子の
旅の子が
原文: ふるさとに来きて眠るがに
ふるさとに来て眠るように
原文: げに静かにも冬の来きしかな
まことに静かに冬が来たことだ
原文: 忘れがたき人人
忘れがたき人人
原文: 一
一
原文: 潮しほかをる北の浜辺はまべの
潮の香る北の浜辺の
原文: 砂山のかの浜薔薇はまなすよ
砂山のあのはまなすよ
原文: 今年も咲けるや
今年も咲いているか
原文: たのみつる年の若さを数かぞへみて
頼みにしていた年の若さを数えてみて
原文: 指を見つめて
指を見つめて
原文: 旅がいやになりき
旅がいやになった
原文: 三度みたびほど
三度ほど
原文: 汽車の窓よりながめたる町の名なども
汽車の窓からながめた町の名なども
原文: したしかりけり
親しく思える
原文: 函館はこだての床屋とこやの弟子でしを
函館の床屋の弟子を
原文: おもひ出いでぬ
思い出した
原文: 耳剃そらせるがこころよかりし
耳を剃らせるのが心地よかった
原文: わがあとを追ひ来きて
私のあとを追ってきて
原文: 知れる人もなき
知る人もない
原文: 辺土へんどに住みし母と妻かな
辺鄙な土地に住んだ母と妻だな
原文: 船に酔ゑひてやさしくなれる
船に酔ってやさしくなった
原文: いもうとの眼め見ゆ
妹の眼が見える
原文: 津軽つがるの海を思へば
津軽の海を思うと
原文: 目を閉とぢて
目を閉じて
原文: 傷心しやうしんの句を誦ずしてゐし
傷心の句を口ずさんでいた
原文: 友の手紙のおどけ悲しも
友の手紙のおどけが悲しい
原文: をさなき時
幼いころ
原文: 橋の欄干らんかんに糞くそ塗ぬりし
橋の欄干に糞を塗った
原文: 話も友はかなしみてしき
話も友はかなしんで聞いた
原文: おそらくは生涯しやうがい妻をむかへじと
おそらく生涯妻は迎えまいと
原文: わらひし友よ
笑った友よ
原文: 今もめとらず
今も妻を持たない
原文: あはれかの
ああ、あの
原文: 眼鏡めがねの縁ふちをさびしげに光らせてゐし
眼鏡の縁をさびしげに光らせていた
原文: 女教師よ
女の先生よ
原文: 友われに飯めしを与へき
友は私に飯を与えてくれた
原文: その友に背そむきし我の
その友に背いた私の
原文: 性さがのかなしさ
性分のかなしさ
原文: 函館はこだての青柳町あをやぎちやうこそかなしけれ
函館の青柳町こそかなしい
原文: 友の恋歌こひうた
友の恋の歌
原文: 矢ぐるまの花
矢車の花
原文: ふるさとの
ふるさとの
原文: 麦のかをりを懐なつかしむ
麦の香りをなつかしむ
原文: 女の眉まゆにこころひかれき
女の眉に心ひかれた
原文: あたらしき洋書の紙の
新しい洋書の紙の
原文: 香かをかぎて
香りをかいで
原文: 一途いちづに金かねを欲ほしと思ひしが
ひたすら金が欲しいと思ったものだ
原文: しらなみの寄せて騒さわげる
白波が寄せて騒ぐ
原文: 函館の大森浜おほもりはまに
函館の大森浜で
原文: 思ひしことども
思ったことの数々
原文: 朝な朝な
朝ごとに
原文: 支那しなの俗歌ぞくかをうたひ出いづる
中国の俗謡をうたい出す
原文: まくら時計を愛めでしかなしみ
枕時計をいとおしんだかなしみ
原文: 漂泊へうはくの愁うれひを叙じよして成ならざりし
漂泊の憂いを書こうとして書けなかった
原文: 草稿さうかうの字の
草稿の字の
原文: 読みがたさかな
読みにくさよ
原文: いくたびか死なむとしては
幾度も死のうとしては
原文: 死なざりし
死ななかった
原文: わが来こしかたのをかしく悲し
わが来し方がおかしくも悲しい
原文: 函館の臥牛ぐわぎうの山やまの半腹はんぷくの
函館の臥牛山の中腹の
原文: 碑ひの漢詩からうたも
碑の漢詩も
原文: なかば忘れぬ
半ば忘れてしまった
原文: むやむやと
もごもごと
原文: 口の中うちにてたふとげの事を呟つぶやく
口の中でありがたそうなことをつぶやく
原文: 乞食こじきもありき
物乞いもいた
原文: とるに足らぬ男と思へと言ふごとく
取るに足らぬ男と思えと言うように
原文: 山に入いりにき
山に入っていった
原文: 神のごとき友
神のような友
原文: 巻煙草まきたばこ口にくはへて
巻煙草を口にくわえて
原文: 浪なみあらき
波の荒い
原文: 磯いその夜霧に立ちし女よ
磯の夜霧に立っていた女よ
原文: 演習のひまにわざわざ
演習の合間にわざわざ
原文: 汽車に乗りて
汽車に乗って
原文: 訪とひ来きし友とのめる酒かな
訪ねてきた友とのむ酒だな
原文: 大川おほかはの水の面おもてを見るごとに
大川の水面を見るたびに
原文: 郁雨いくうよ
郁雨よ
原文: 君のなやみを思ふ
君のなやみを思う
原文: 智慧ちゑとその深き慈悲じひとを
智慧とその深い慈悲とを
原文: もちあぐみ
もてあまして
原文: 為なすこともなく友は遊べり
することもなく友は遊んでいる
原文: こころざし得えぬ人人の
志を遂げられない人たちが
原文: あつまりて酒のむ場所が
集まって酒をのむ場所が
原文: 我が家なりしかな
わが家だったな
原文: かなしめば高く笑ひき
かなしむと高く笑った
原文: 酒をもて
酒で
原文: 悶もんを解げすといふ年上の友
悶えを解くという年上の友
原文: 若くして
若くして
原文: 数人すにんの父となりし友
数人の子の父となった友は
原文: 子なきがごとく酔ゑへばうたひき
子がないように酔えばうたった
原文: さりげなき高き笑ひが
さりげない高い笑いが
原文: 酒とともに
酒とともに
原文: 我が腸はらわたに沁しみにけらしな
私のはらわたに沁みたらしい
原文: 呿呻あくび噛かみ
あくびをかみ殺し
原文: 夜汽車の窓に別れたる
夜汽車の窓で別れた
原文: 別れが今は物足ものたらぬかな
その別れが今は物足りないな
原文: 雨に濡れし夜汽車の窓に
雨に濡れた夜汽車の窓に
原文: 映うつりたる
映った
原文: 山間やまあひの町のともしびの色
山あいの町のともしびの色
原文: 雨つよく降る夜の汽車の
雨の強く降る夜の汽車の
原文: たえまなく雫しづく流るる
たえまなく雫の流れる
原文: 窓硝子まどガラスかな
窓ガラスだな
原文: 真夜中の
真夜中の
原文: 倶知安駅くちあんえきに下おりゆきし
倶知安駅で降りていった
原文: 女の鬢びんの古き痍きずあと
女の鬢の古い傷あと
原文: 札幌さつぽろに
札幌に
原文: かの秋われの持てゆきし
あの秋、私が持っていった
原文: しかして今も持てるかなしみ
そして今も持っているかなしみ
原文: アカシヤの街樾なみきにポプラに
アカシヤの並木にポプラに
原文: 秋の風
秋の風が
原文: 吹くがかなしと日記にきに残れり
吹くのがかなしいと日記に残っている
原文: しんとして幅広き街まちの
しんとして幅の広い街の
原文: 秋の夜の
秋の夜の
原文: 玉蜀黍たうもろこしの焼くるにほひよ
とうもろこしの焼けるにおいよ
原文: わが宿の姉と妹いもとのいさかひに
宿の姉と妹のいさかいに
原文: 初夜しよや過ぎゆきし
宵が過ぎていった
原文: 札幌の雨
札幌の雨
原文: 石狩いしかりの美国びくにといへる停車場の
石狩の美国という停車場の
原文: 柵さくに乾ほしてありし
柵に干してあった
原文: 赤き布片きれかな
赤い布きれだな
原文: かなしきは小樽をたるの町よ
かなしいのは小樽の町よ
原文: 歌ふことなき人人の
歌うことのない人たちの
原文: 声の荒さよ
声の荒さよ
原文: 泣くがごと首ふるはせて
泣くように首をふるわせて
原文: 手の相さうを見せよといひし
手相を見せよと言った
原文: 易者えきしやもありき
易者もいた
原文: いささかの銭ぜに借かりてゆきし
わずかな銭を借りていった
原文: わが友の
わが友の
原文: 後姿うしろすがたの肩かたの雪かな
後ろ姿の肩の雪だな
原文: 世わたりの拙つたなきことを
世渡りの下手なことを
原文: ひそかにも
ひそかに
原文: 誇ほこりとしたる我にやはあらぬ
誇りとしていた私ではないか
原文: 汝なが痩やせしからだはすべて
おまえの痩せた体はすべて
原文: 謀叛気むほんぎのかたまりなりと
謀反気のかたまりだと
原文: いはれてしこと
言われたことがある
原文: かの年のかの新聞の
あの年のあの新聞の
原文: 初雪の記事を書きしは
初雪の記事を書いたのは
原文: 我なりしかな
私だったな
原文: 椅子いすをもて我を撃うたむと身構みがまへし
椅子で私を打とうと身構えた
原文: かの友の酔ゑひも
あの友の酔いも
原文: 今は醒さめつらむ
今はさめただろう
原文: 負けたるも我にてありき
負けたのも私だった
原文: あらそひの因もとも我なりしと
争いのもとも私だったと
原文: 今は思へり
今は思う
原文: 殴なぐらむといふに
殴るぞと言うのに
原文: 殴れとつめよせし
殴れとつめ寄った
原文: 昔の我のいとほしきかな
昔の自分がいとしいな
原文: 汝なれ三度みたび
おまえは三度
原文: この咽喉のどに剣けんを擬ぎしたりと
この喉に剣を突きつけたと
原文: 彼かれ告別こくべつの辞じに言へりけり
彼は別れの言葉に言った
原文: あらそひて
争って
原文: いたく憎にくみて別れたる
ひどく憎んで別れた
原文: 友をなつかしく思ふ日も来きぬ
友をなつかしく思う日も来た
原文: あはれかの眉まゆの秀ひいでし少年よ
ああ、あの眉の秀でた少年よ
原文: 弟と呼べば
弟と呼ぶと
原文: はつかに笑ゑみしが
かすかに笑ったが
原文: わが妻に着物縫ぬはせし友ありし
妻に着物を縫わせた友がいた
原文: 冬早く来くる
冬の早く来る
原文: 植民地かな
植民地だな
原文: 平手ひらてもて
手のひらで
原文: 吹雪ふぶきにぬれし顔を拭ふく
吹雪に濡れた顔をぬぐう
原文: 友共産を主義とせりけり
友は共産を主義としていた
原文: 酒のめば鬼おにのごとくに青かりし
酒をのむと鬼のように青ざめた
原文: 大いなる顔よ
大きな顔よ
原文: かなしき顔よ
かなしい顔よ
原文: 樺太からふとに入いりて
樺太に渡って
原文: 新しき宗教を創はじめむといふ
新しい宗教を興そうという
原文: 友なりしかな
友だったな
原文: 治をさまれる世の事無ことなさに
おさまった世の何事もなさに
原文: 飽あきたりといひし頃こそ
飽きたと言っていたころこそ
原文: かなしかりけれ
かなしかった
原文: 共同の薬屋開き
共同の薬屋を開いて
原文: 儲まうけむといふ友なりき
儲けようという友だった
原文: 詐欺さぎせしといふ
詐欺をしたという
原文: あをじろき頬ほほに涙を光らせて
青白い頬に涙を光らせて
原文: 死をば語りき
死を語った
原文: 若き商人あきびと
若い商人
原文: 子を負おひて
子を背負って
原文: 雪の吹き入いる停車場に
雪の吹き込む停車場で
原文: われ見送りし妻の眉まゆかな
私を見送った妻の眉だな
原文: 敵として憎みし友と
敵として憎んだ友と
原文: やや長く手をば握にぎりき
やや長く手を握った
原文: わかれといふに
別れだというので
原文: ゆるぎ出いづる汽車の窓より
動き出す汽車の窓から
原文: 人ひと先さきに顔を引きしも
人より先に顔を引っこめたのも
原文: 負まけざらむため
負けまいがため
原文: みぞれ降る
みぞれの降る
原文: 石狩いしかりの野の汽車に読みし
石狩の野の汽車で読んだ
原文: ツルゲエネフの物語かな
ツルゲーネフの物語だな
原文: わが去れる後のちの噂うはさを
自分が去ったあとの噂を
原文: おもひやる旅出たびではかなし
思いやる旅立ちはかなしい
原文: 死ににゆくごと
死にに行くように
原文: わかれ来きてふと瞬またたけば
別れてきてふと瞬くと
原文: ゆくりなく
思いがけず
原文: つめたきものの頬をつたへり
つめたいものが頬をつたった
原文: 忘れ来きし煙草たばこを思ふ
忘れてきた煙草を思う
原文: ゆけどゆけど
行けども行けども
原文: 山なほ遠き雪の野の汽車
山はなお遠い雪の野の汽車
原文: うす紅あかく雪に流れて
うす紅く雪に流れて
原文: 入日影いりひかげ
入り日の光が
原文: 曠野あらのの汽車の窓を照てらせり
荒野の汽車の窓を照らした
原文: 腹すこし痛いたみ出いでしを
腹が少し痛み出したのを
原文: しのびつつ
こらえながら
原文: 長路ちやうろの汽車にのむ煙草たばこかな
長旅の汽車でのむ煙草だな
原文: 乗合のりあひの砲兵士官はうへいしくわんの
乗り合わせた砲兵士官の
原文: 剣の鞘さや
剣の鞘が
原文: がちゃりと鳴るに思ひやぶれき
がちゃりと鳴って物思いが破れた
原文: 名のみ知りて縁えんもゆかりもなき土地の
名前だけ知って縁もゆかりもない土地の
原文: 宿屋やどや安けし
宿屋は気安い
原文: 我が家いへのごと
わが家のように
原文: 伴つれなりしかの代議士の
道連れだったあの代議士の
原文: 口あける青き寐顔ねがほを
口を開けた青い寝顔を
原文: かなしと思ひき
かなしいと思った
原文: 今夜こそ思ふ存分ぞんぶん泣いてみむと
今夜こそ思う存分泣いてみようと
原文: 泊とまりし宿屋の
泊まった宿屋の
原文: 茶のぬるさかな
茶のぬるさよ
原文: 水蒸気
水蒸気が
原文: 列車の窓に花のごと凍いてしを染そむる
列車の窓に花のように凍りついたのを染める
原文: あかつきの色
あかつきの色
原文: ごおと鳴る凩こがらしのあと
ごおと鳴る木枯らしのあと
原文: 乾かわきたる雪舞ひ立ちて
乾いた雪が舞い立って
原文: 林を包つつめり
林を包んだ
原文: 空知川そらちがは雪に埋うもれて
空知川は雪に埋もれて
原文: 鳥も見えず
鳥も見えず
原文: 岸辺きしべの林に人ひとりゐき
岸辺の林に人がひとりいた
原文: 寂莫せきばくを敵とし友とし
寂しさを敵とし友として
原文: 雪のなかに
雪のなかで
原文: 長き一生を送る人もあり
長い一生を送る人もある
原文: いたく汽車に疲れて猶なほも
ひどく汽車に疲れて、それでもなお
原文: きれぎれに思ふは
切れ切れに思うのは
原文: 我のいとしさなりき
自分のいとしさだった
原文: うたふごと駅の名呼びし
うたうように駅の名を呼んだ
原文: 柔和にうわなる
柔和な
原文: 若き駅夫えきふの眼をも忘れず
若い駅員の眼も忘れない
原文: 雪のなか
雪のなか
原文: 処処しよしよに屋根見えて
ところどころに屋根が見えて
原文: 煙突えんとつの煙けむりうすくも空にまよへり
煙突の煙がうすく空にまよっている
原文: 遠くより
遠くから
原文: 笛ふえながながとひびかせて
汽笛を長々とひびかせて
原文: 汽車今とある森林に入いる
汽車は今ある森林に入る
原文: 何事も思ふことなく
何ひとつ思うこともなく
原文: 日一日ひいちにち
一日じゅう
原文: 汽車のひびきに心まかせぬ
汽車のひびきに心をまかせた
原文: さいはての駅に下おり立ち
最果ての駅に降り立ち
原文: 雪あかり
雪あかりの
原文: さびしき町にあゆみ入いりにき
さびしい町に歩み入った
原文: しらしらと氷かがやき
しらしらと氷が輝き
原文: 千鳥なく
千鳥が鳴く
原文: 釧路くしろの海の冬の月かな
釧路の海の冬の月だな
原文: こほりたるインクの罎びんを
凍ったインクの瓶を
原文: 火に翳かざし
火にかざし
原文: 涙ながれぬともしびの下もと
涙が流れた灯りの下
原文: 顔とこゑ
顔と声
原文: それのみ昔に変らざる友にも会ひき
それだけが昔と変わらない友にも会った
原文: 国の果はてにて
国の果てで
原文: あはれかの国のはてにて
ああ、あの国の果てで
原文: 酒のみき
酒をのんだ
原文: かなしみの滓をりを啜すするごとくに
かなしみの澱をすするように
原文: 酒のめば悲しみ一時に湧わき来くるを
酒をのめば悲しみが一時に湧いてくるが
原文: 寐ねて夢みぬを
寝て夢を見ないのを
原文: うれしとはせし
うれしいとした
原文: 出だしぬけの女の笑ひ
だしぬけの女の笑いが
原文: 身に沁しみき
身に沁みた
原文: 厨くりやに酒の凍こほる真夜中
台所で酒の凍る真夜中
原文: わが酔ゑひに心いためて
私の酔いに心を痛めて
原文: うたはざる女ありしが
うたわない女がいたが
原文: いかになれるや
どうしているだろう
原文: 小奴こやつこといひし女の
小奴といった女の
原文: やはらかき
やわらかい
原文: 耳朶みみたぼなども忘れがたかり
耳たぶなども忘れがたい
原文: よりそひて
寄りそって
原文: 深夜しんやの雪の中に立つ
深夜の雪の中に立つ
原文: 女の右手めてのあたたかさかな
女の右手のあたたかさよ
原文: 死にたくはないかと言へば
死にたくはないかと言うと
原文: これ見よと
これを見よと
原文: 咽喉のんどの痍きずを見せし女かな
喉の傷を見せた女だな
原文: 芸事げいごとも顔も
芸事も顔も
原文: かれより優すぐれたる
彼女より優れた
原文: 女あしざまに我を言へりとか
女が私を悪しざまに言ったとか
原文: 舞まへといへば立ちて舞ひにき
舞えと言えば立って舞った
原文: おのづから
ひとりでに
原文: 悪酒あくしゆの酔ゑひにたふるるまでも
悪い酒の酔いに倒れるまでも
原文: 死ぬばかり我が酔ゑふをまちて
死ぬほど私が酔うのを待って
原文: いろいろの
いろいろの
原文: かなしきことを囁ささやきし人
かなしいことをささやいた人
原文: いかにせしと言へば
どうしたのかと言うと
原文: あをじろき酔ゑひざめの
青白い酔いざめの
原文: 面おもてに強しひて笑ゑみをつくりき
顔に無理に笑みをつくった
原文: かなしきは
かなしいのは
原文: かの白玉しらたまのごとくなる腕に残せし
あの白玉のような腕に残した
原文: キスの痕あとかな
口づけの痕だな
原文: 酔ゑひてわがうつむく時も
酔ってうつむくときも
原文: 水ほしと眼めひらく時も
水が欲しいと目を開くときも
原文: 呼びし名なりけり
呼んだ名前だった
原文: 火をしたふ虫のごとくに
火を慕う虫のように
原文: ともしびの明るき家いへに
灯りの明るい家に
原文: かよひ慣なれにき
通いなれた
原文: きしきしと寒さに踏めば板いた軋きしむ
寒さのなか踏めばきしきしと板が鳴る
原文: かへりの廊下の
帰りの廊下の
原文: 不意のくちづけ
不意の口づけ
原文: その膝ひざに枕まくらしつつも
その膝を枕にしながらも
原文: 我がこころ
私の心が
原文: 思ひしはみな我のことなり
思っていたのはみな自分のことだ
原文: さらさらと氷の屑くづが
さらさらと氷のかけらが
原文: 波に鳴る
波に鳴る
原文: 磯の月夜のゆきかへりかな
磯の月夜の行き帰りだな
原文: 死にしとかこのごろ聞きぬ
死んだとかこのごろ聞いた
原文: 恋がたき
恋敵は
原文: 才さいあまりある男なりしが
才の有り余る男だったが
原文: 十年ととせまへに作りしといふ漢詩からうたを
十年前に作ったという漢詩を
原文: 酔ゑへば唱となへき
酔えば口ずさんだ
原文: 旅に老おいし友
旅に老いた友
原文: 吸ふごとに
吸うたびに
原文: 鼻がぴたりと凍こほりつく
鼻がぴたりと凍りつく
原文: 寒き空気を吸ひたくなりぬ
そんな寒い空気を吸いたくなった
原文: 波もなき二月の湾わんに
波もない二月の湾に
原文: 白塗しろぬりの
白塗りの
原文: 外国船が低く浮かべり
外国船が低く浮かんでいる
原文: 三味線さみせんの絃いとのきれしを
三味線の絃が切れたのを
原文: 火事のごと騒ぐ子ありき
火事のように騒ぐ子がいた
原文: 大雪の夜よに
大雪の夜に
原文: 神のごと
神のように
原文: 遠く姿をあらはせる
遠く姿をあらわした
原文: 阿寒あかんの山の雪のあけぼの
阿寒の山の雪のあけぼの
原文: 郷里くににゐて
故郷にいたころ
原文: 身投げせしことありといふ
身投げをしたことがあるという
原文: 女の三味さみにうたへるゆふべ
女の三味線でうたった夕べ
原文: 葡萄色えびいろの
えび色の
原文: 古き手帳にのこりたる
古い手帳に残っている
原文: かの会合あひびきの時と処ところかな
あの逢い引きの時と場所だな
原文: よごれたる足袋たび穿はく時の
汚れた足袋をはくときの
原文: 気味きみわるき思ひに似たる
気味の悪い思いに似た
原文: 思出おもひでもあり
思い出もある
原文: わが室へやに女泣きしを
私の部屋で女が泣いたのを
原文: 小説のなかの事かと
小説のなかの出来事かと
原文: おもひ出いづる日
思い出す日
原文: 浪淘沙らうたうさ
浪淘沙を
原文: ながくも声をふるはせて
長く声をふるわせて
原文: うたふがごとき旅なりしかな
うたうような旅だったな
原文: 二
二
原文: いつなりけむ
いつのことだったか
原文: 夢にふと聴ききてうれしかりし
夢にふと聴いてうれしかった
原文: その声もあはれ長く聴かざり
その声も、ああ、長く聴いていない
原文: 頬ほの寒き
頬の寒い
原文: 流離りうりの旅の人として
流浪の旅の人として
原文: 路みち問とふほどのこと言ひしのみ
道をたずねるほどのことを言っただけ
原文: さりげなく言ひし言葉は
さりげなく言った言葉は
原文: さりげなく君も聴きつらむ
さりげなく君も聴いただろう
原文: それだけのこと
それだけのこと
原文: ひややかに清き大理石なめいしに
ひややかに清らかな大理石に
原文: 春の日の静かに照るは
春の日が静かに照るのは
原文: かかる思ひならむ
こんな思いだろうか
原文: 世の中の明るさのみを吸ふごとき
世の中の明るさばかりを吸うような
原文: 黒き瞳ひとみの
黒い瞳が
原文: 今も目にあり
今も目にある
原文: かの時に言ひそびれたる
あのとき言いそびれた
原文: 大切の言葉は今も
大切な言葉は今も
原文: 胸にのこれど
胸に残っているが
原文: 真白ましろなるラムプの笠かさの
真白なランプの笠の
原文: 瑕きずのごと
傷のように
原文: 流離の記憶消しがたきかな
流浪の記憶は消しがたいな
原文: 函館はこだてのかの焼跡やけあとを去りし夜よの
函館のあの焼け跡を去った夜の
原文: こころ残りを
心残りを
原文: 今も残しつ
今も残している
原文: 人がいふ
人が言う
原文: 鬢びんのほつれのめでたさを
鬢のほつれの美しさを
原文: 物書く時の君に見たりし
物を書くときの君に見た
原文: 馬鈴薯ばれいしよの花咲く頃と
じゃがいもの花の咲くころに
原文: なれりけり
なった
原文: 君もこの花を好きたまふらむ
君もこの花を好んでいるだろうか
原文: 山の子の
山の子が
原文: 山を思ふがごとくにも
山を思うように
原文: かなしき時は君を思へり
かなしいときは君を思う
原文: 忘れをれば
忘れていると
原文: ひょっとした事が思ひ出の種たねにまたなる
ふとしたことがまた思い出の種になる
原文: 忘れかねつも
忘れきれないな
原文: 病やむと聞き
病むと聞き
原文: 癒いえしと聞きて
癒えたと聞いて
原文: 四百里しひやくりのこなたに我はうつつなかりし
四百里のこちら側で私は上の空だった
原文: 君に似し姿を街まちに見る時の
君に似た姿を街で見るときの
原文: こころ躍をどりを
胸の高鳴りを
原文: あはれと思へ
あわれと思え
原文: かの声を最一度もいちど聴きかば
あの声をもう一度聴いたら
原文: すっきりと
すっきりと
原文: 胸や霽はれむと今朝けさも思へる
胸が晴れるだろうと今朝も思う
原文: いそがしき生活くらしのなかの
いそがしい暮らしのなかの
原文: 時折ときおりのこの物おもひ
時おりのこの物思いは
原文: 誰たれのためぞも
誰のためだろう
原文: しみじみと
しみじみと
原文: 物うち語る友もあれ
語り合う友がいてほしい
原文: 君のことなど語り出いでなむ
君のことなど語り出そう
原文: 死ぬまでに一度会はむと
死ぬまでに一度会おうと
原文: 言ひやらば
言ってやったら
原文: 君もかすかにうなづくらむか
君もかすかにうなずくだろうか
原文: 時として
時として
原文: 君を思へば
君を思うと
原文: 安かりし心にはかに騒ぐかなしさ
安らかだった心が急に騒ぐかなしさ
原文: わかれ来きて年としを重ねて
別れて年を重ねて
原文: 年としごとに恋しくなれる
年ごとに恋しくなる
原文: 君にしあるかな
君であることよ
原文: 石狩いしかりの都みやこの外の
石狩の都のはずれの
原文: 君が家
君の家
原文: 林檎りんごの花の散りてやあらむ
林檎の花はもう散っただろうか
原文: 長き文ふみ
長い手紙が
原文: 三年みとせのうちに三度みたび来きぬ
三年のうちに三度来た
原文: 我の書きしは四度よたびにかあらむ
私が書いたのは四度だろうか
原文: 手套を脱ぐ時
手套を脱ぐ時
原文: 手套てぶくろを脱ぬぐ手ふと休やむ
手袋を脱ぐ手がふと止まる
原文: 何やらむ
何だろう
原文: こころかすめし思ひ出のあり
心をかすめた思い出がある
原文: いつしかに
いつのまにか
原文: 情じやうをいつはること知りぬ
情をいつわることを覚えた
原文: 髭ひげを立てしもその頃なりけむ
髭を生やしたのもそのころだろう
原文: 朝の湯の
朝の湯の
原文: 湯槽ゆぶねのふちにうなじ載のせ
湯船のふちにうなじを載せ
原文: ゆるく息いきする物思ひかな
ゆるく息をする物思いだな
原文: 夏来くれば
夏が来ると
原文: うがひ薬の
うがい薬が
原文: 病やまひある歯に沁しむ朝のうれしかりけり
悪い歯に沁みる朝がうれしかった
原文: つくづくと手をながめつつ
つくづくと手をながめながら
原文: おもひ出いでぬ
思い出した
原文: キスが上手じやうずの女なりしが
口づけの上手な女だったが
原文: さびしきは
さびしいのは
原文: 色にしたしまぬ目のゆゑと
色になじまない目のせいだと
原文: 赤き花など買はせけるかな
赤い花など買わせたことだな
原文: 新しき本を買ひ来て読む夜半よはの
新しい本を買ってきて読む夜ふけの
原文: そのたのしさも
その楽しさも
原文: 長くわすれぬ
長く忘れない
原文: 旅たび七日なのか
旅七日
原文: かへり来きぬれば
帰ってくると
原文: わが窓の赤きインクの染しみもなつかし
私の窓の赤いインクの染みもなつかしい
原文: 古文書こもんじよのなかに見いでし
古文書のなかに見つけた
原文: よごれたる
汚れた
原文: 吸取紙すひとりがみをなつかしむかな
吸い取り紙をなつかしむな
原文: 手にためし雪の融とくるが
手にためた雪の融けるのが
原文: ここちよく
心地よく
原文: わが寐飽ねあきたる心には沁しむ
寝飽きた心には沁みる
原文: 薄れゆく障子しやうじの日影ひかげ
薄れていく障子の日ざし
原文: そを見つつ
それを見ながら
原文: こころいつしか暗くなりゆく
心はいつしか暗くなっていく
原文: ひやひやと
ひやひやと
原文: 夜は薬の香かのにほふ
夜は薬の香りがにおう
原文: 医者が住みたるあとの家いへかな
医者が住んでいたあとの家だな
原文: 窓硝子まどガラス
窓ガラス
原文: 塵ちりと雨とに曇くもりたる窓硝子にも
塵と雨とに曇った窓ガラスにも
原文: かなしみはあり
かなしみはある
原文: 六年むとせほど日毎日毎ひごとひごとにかぶりたる
六年ほど毎日毎日かぶった
原文: 古き帽子も
古い帽子も
原文: 棄すてられぬかな
捨てられないな
原文: こころよく
心地よく
原文: 春のねむりをむさぼれる
春の眠りをむさぼる
原文: 目にやはらかき庭の草かな
目にやわらかい庭の草だな
原文: 赤煉瓦あかれんぐわ遠くつづける高塀たかべいの
赤煉瓦の遠くつづく高い塀が
原文: むらさきに見えて
紫に見えて
原文: 春の日ながし
春の日は長い
原文: 春の雪
春の雪が
原文: 銀座の裏の三階の煉瓦造づくりに
銀座の裏の三階の煉瓦造りに
原文: やはらかに降る
やわらかく降る
原文: よごれたる煉瓦の壁に
汚れた煉瓦の壁に
原文: 降りて融とけ降りては融くる
降りては融け、降りては融ける
原文: 春の雪かな
春の雪だな
原文: 目を病やめる
目を病んだ
原文: 若き女の倚よりかかる
若い女が寄りかかる
原文: 窓にしめやかに春の雨降る
窓にしめやかに春の雨が降る
原文: あたらしき木のかをりなど
新しい木の香りなどが
原文: ただよへる
ただよう
原文: 新開町しんかいまちの春の静けさ
新開町の春の静けさ
原文: 春の街まち
春の街
原文: 見よげに書ける女名をんななの
見栄えよく書かれた女の名の
原文: 門札かどふだなどを読みありくかな
表札などを読み歩くな
原文: そことなく
どこということもなく
原文: 蜜柑みかんの皮の焼くるごときにほひ残りて
みかんの皮の焼けるようなにおいが残って
原文: 夕ゆふべとなりぬ
夕方になった
原文: にぎはしき若き女の集会あつまりの
にぎやかな若い女の集まりの
原文: こゑ聴きき倦うみて
声を聴き飽きて
原文: さびしくなりたり
さびしくなった
原文: 何処どこやらに
どこかで
原文: 若き女の死ぬごとき悩なやましさあり
若い女が死ぬような悩ましさがある
原文: 春の霙みぞれ降る
春のみぞれが降る
原文: コニャックの酔ゑひのあとなる
コニャックの酔いのあとの
原文: やはらかき
やわらかい
原文: このかなしみのすずろなるかな
このかなしみのそぞろなことよ
原文: 白き皿さら
白い皿を
原文: 拭ふきては棚たなに重かさねゐる
拭いては棚に重ねている
原文: 酒場の隅すみのかなしき女
酒場の隅のかなしい女
原文: 乾きたる冬の大路おほぢの
乾いた冬の大通りの
原文: 何処いづくやらむ
どこかに
原文: 石炭酸せきたんさんのにほひひそめり
石炭酸のにおいがひそんでいる
原文: 赤赤あかあかと入日いりひうつれる
赤々と夕日の映る
原文: 河ばたの酒場の窓の
川ばたの酒場の窓の
原文: 白き顔かな
白い顔だな
原文: 新しきサラドの皿さらの
新しいサラダの皿の
原文: 酢すのかをり
酢の香りが
原文: こころに沁しみてかなしき夕ゆふべ
心に沁みてかなしい夕暮れ
原文: 空色そらいろの罎びんより
空色の瓶から
原文: 山羊やぎの乳をつぐ
山羊の乳をつぐ
原文: 手のふるひなどいとしかりけり
手のふるえなどがいとしい
原文: すがた見の
姿見が
原文: 息いきのくもりに消されたる
息の曇りに消された
原文: 酔ゑひうるみの眸まみのかなしさ
酔いにうるんだ瞳のかなしさ
原文: ひとしきり静かになれる
ひとしきり静かになった
原文: ゆふぐれの
夕暮れの
原文: 厨くりやにのこるハムのにほひかな
台所に残るハムのにおいだな
原文: ひややかに罎びんのならべる棚たなの前
ひややかに瓶の並ぶ棚の前
原文: 歯はせせる女を
楊枝で歯をせせる女を
原文: かなしとも見き
かなしいとも見た
原文: やや長きキスを交かはして別れ来きし
やや長い口づけを交わして別れてきた
原文: 深夜の街の
深夜の街の
原文: 遠き火事かな
遠い火事だな
原文: 病院の窓のゆふべの
病院の窓の夕暮れの
原文: ほの白じろき顔にありたる
ほの白い顔にあった
原文: 淡あはき見覚みおぼえ
淡い見覚え
原文: 何時いつなりしか
いつのことだったか
原文: かの大川おほかはの遊船いうせんに
あの大川の遊覧船で
原文: 舞まひし女をおもひ出でにけり
舞った女を思い出した
原文: 用もなき文ふみなど長く書きさして
用もない手紙などを長く書きさして
原文: ふと人こひし
ふと人が恋しくなり
原文: 街に出でてゆく
街に出てゆく
原文: しめらへる煙草たばこを吸へば
湿った煙草を吸うと
原文: おほよその
おおよそ
原文: わが思ふことも軽かろくしめれり
私の思うことも軽く湿るのだった
原文: するどくも
鋭くも
原文: 夏の来きたるを感じつつ
夏が来たのを感じながら
原文: 雨後うごの小庭こにはの土の香かを嗅かぐ
雨上がりの小庭の土のにおいを嗅ぐ
原文: すずしげに飾かざり立てたる
涼しげに飾り立てられた
原文: 硝子屋ガラスやの前にながめし
ガラス屋の前で眺めた
原文: 夏の夜の月
夏の夜の月
原文: 君来るといふに夙とく起き
君が来るというので早く起き
原文: 白シャツの
白シャツの
原文: 袖そでのよごれを気にする日かな
袖の汚れを気にする日だな
原文: おちつかぬ我が弟の
落ち着かない我が弟の
原文: このごろの
このごろの
原文: 眼のうるみなどかなしかりけり
目の潤みなどが悲しかった
原文: どこやらに杭くひ打つ音し
どこかで杭を打つ音がして
原文: 大桶おほをけをころがす音し
大きな桶を転がす音がして
原文: 雪ふりいでぬ
雪が降り出した
原文: 人気ひとけなき夜よの事務室に
人気のない夜の事務室に
原文: けたたましく
けたたましく
原文: 電話の鈴りんの鳴りて止みたり
電話の鈴が鳴って止んだ
原文: 目さまして
目を覚まして
原文: ややありて耳に入いり来きたる
しばらくして耳に入ってきた
原文: 真夜中すぎの話声かな
真夜中すぎの話し声だな
原文: 見てをれば時計とまれり
見ていると時計が止まった
原文: 吸はるるごと
吸われるように
原文: 心はまたもさびしさに行ゆく
心はまたもさびしさへと向かう
原文: 朝朝あさあさの
朝ごとの
原文: うがひの料しろの水薬すゐやくの
うがい用の水薬の
原文: 罎びんがつめたき秋となりにけり
瓶が冷たい秋になった
原文: 夷なだらかに麦の青める
なだらかに麦が青む
原文: 丘の根の
丘のふもとの
原文: 小径こみちに赤き小櫛をぐしひろへり
小道で赤い小櫛を拾った
原文: 裏山の杉生すぎふのなかに
裏山の杉林のなかに
原文: 斑まだらなる日影ひかげ這はひ入いる
まだらな日差しが差し込む
原文: 秋のひるすぎ
秋の昼過ぎ
原文: 港町
港町
原文: とろろと鳴きて輪を描く鳶とびを圧あつせる
とろろと鳴いて輪を描く鳶をおさえつける
原文: 潮しほぐもりかな
潮曇りだな
原文: 小春日こはるびの曇硝子くもりガラスにうつりたる
小春日の曇りガラスに映った
原文: 鳥影とりかげを見て
鳥の影を見て
原文: すずろに思ふ
なんとなく思う
原文: ひとならび泳げるごとき
並んで泳ぐような
原文: 家家いへいへの高低たかひくの軒のきに
家々の高い低いの軒に
原文: 冬の日の舞ふ
冬の日が舞う
原文: 京橋の滝山町たきやまちやうの
京橋の滝山町の
原文: 新聞社
新聞社
原文: 灯ひともる頃のいそがしさかな
灯がともる頃の忙しさだな
原文: よく怒いかる人にてありしわが父の
よく怒る人だった我が父が
原文: 日ごろ怒いからず
近頃は怒らず
原文: 怒れと思ふ
怒れと思う
原文: あさ風が電車のなかに吹き入いれし
朝風が電車のなかに吹き入れた
原文: 柳やなぎのひと葉
柳のひと葉を
原文: 手にとりて見る
手にとって見る
原文: ゆゑもなく海が見たくて
わけもなく海が見たくて
原文: 海に来ぬ
海に来た
原文: こころ傷いたみてたへがたき日に
心が痛んで耐えがたい日に
原文: たひらなる海につかれて
平らな海に疲れて
原文: そむけたる
そむけた
原文: 目をかきみだす赤き帯おびかな
目をかき乱す赤い帯だな
原文: 今日逢あひし町の女の
今日出会った町の女たちの
原文: どれもどれも
どれもどれも
原文: 恋にやぶれて帰るごとき日
恋にやぶれて帰るような日
原文: 汽車の旅
汽車の旅
原文: とある野中のなかの停車場の
とある野中の停車場の
原文: 夏草の香かのなつかしかりき
夏草の香りが懐かしかった
原文: 朝まだき
朝まだき
原文: やっと間まに合あひし初秋はつあきの旅出たびでの汽車の
やっと間に合った初秋の旅立ちの汽車の
原文: 堅かたき麺麭ぱんかな
堅いパンだな
原文: かの旅の夜汽車の窓に
あの旅の夜汽車の窓に
原文: おもひたる
思っていた
原文: 我がゆくすゑのかなしかりしかな
我が行く末が悲しかったな
原文: ふと見れば
ふと見ると
原文: とある林の停車場の時計とまれり
とある林の停車場の時計が止まっていた
原文: 雨の夜よの汽車
雨の夜の汽車
原文: わかれ来きて
別れてきて
原文: 燈火あかり小暗をぐらき夜の汽車の窓に弄もてあそぶ
灯の薄暗い夜の汽車の窓でもてあそぶ
原文: 青き林檎りんごよ
青いりんごよ
原文: いつも来くる
いつも来る
原文: この酒肆さかみせのかなしさよ
この酒場の悲しさよ
原文: ゆふ日赤赤あかあかと酒に射さし入いる
夕日が赤々と酒に射し込む
原文: 白き蓮沼はすぬまに咲くごとく
白い蓮沼に咲くように
原文: かなしみが
かなしみが
原文: 酔ゑひのあひだにはっきりと浮く
酔いの間にはっきりと浮かぶ
原文: 壁かべごしに
壁越しに
原文: 若き女の泣くをきく
若い女の泣くのを聞く
原文: 旅の宿屋の秋の蚊帳かやかな
旅の宿の秋の蚊帳だな
原文: 取りいでし去年こぞの袷あはせの
取り出した去年の袷の
原文: なつかしきにほひ身に沁しむ
懐かしいにおいが身に沁みる
原文: 初秋はつあきの朝
初秋の朝
原文: 気にしたる左の膝ひざの痛みなど
気にしていた左の膝の痛みなども
原文: いつか癒なほりて
いつのまにか治って
原文: 秋の風吹く
秋の風が吹く
原文: 売り売りて
売りに売って
原文: 手垢てあかきたなきドイツ語の辞書のみ残る
手垢で汚れたドイツ語の辞書だけが残る
原文: 夏の末かな
夏の終わりだな
原文: ゆゑもなく憎にくみし友と
わけもなく憎んでいた友と
原文: いつしかに親しくなりて
いつのまにか親しくなって
原文: 秋の暮れゆく
秋が暮れてゆく
原文: 赤紙あかがみの表紙手擦てずれし
赤い紙の表紙が擦り切れた
原文: 国禁こくきんの
発禁の
原文: 書ふみを行李かうりの底にさがす日
本を行李の底に探す日
原文: 売ることを差し止とめられし
売ることを差し止められた
原文: 本の著者に
本の著者に
原文: 路みちにて会へる秋の朝かな
道で出会った秋の朝だな
原文: 今日よりは
今日からは
原文: 我も酒など呷あふらむと思へる日より
私も酒などをあおろうと思った日から
原文: 秋の風吹く
秋の風が吹く
原文: 大海だいかいの
大海の
原文: その片隅かたすみにつらなれる島島しまじまの上に
その片隅に連なる島々の上に
原文: 秋の風吹く
秋の風が吹く
原文: うるみたる目と
潤んだ目と
原文: 目の下の黒子ほくろのみ
目の下のほくろだけが
原文: いつも目につく友の妻かな
いつも目につく友の妻だな
原文: いつ見ても
いつ見ても
原文: 毛糸の玉をころがして
毛糸の玉を転がして
原文: 韈くつしたを編あむ女なりしが
靴下を編む女だったが
原文: 葡萄色えびいろの
えび色の
原文: 長椅子ながいすの上に眠りたる猫ほの白じろき
長椅子の上で眠る猫がほの白い
原文: 秋のゆふぐれ
秋の夕暮れ
原文: ほそぼそと
細々と
原文: 其処そこら此処ここらに虫の鳴く
そこらここらに虫が鳴く
原文: 昼の野に来て読む手紙かな
昼の野に来て読む手紙だな
原文: 夜よるおそく戸を繰くりをれば
夜遅く戸を開けていると
原文: 白きもの庭を走れり
白いものが庭を走った
原文: 犬にやあらむ
犬だろうか
原文: 夜の二時の窓の硝子ガラスを
夜二時の窓のガラスを
原文: うす紅あかく
薄紅く
原文: 染めて音なき火事の色かな
染めて音のない火事の色だな
原文: あはれなる恋かなと
あわれな恋だなと
原文: ひとり呟つぶやきて
ひとりつぶやいて
原文: 夜半よはの火桶ひをけに炭すみ添そへにけり
夜中の火鉢に炭を足した
原文: 真白ましろなるラムプの笠かさに
真っ白なランプの笠に
原文: 手をあてて
手をあてて
原文: 寒き夜にする物思ひかな
寒い夜にする物思いだな
原文: 水のごと
水のように
原文: 身体からだをひたすかなしみに
体をひたすかなしみに
原文: 葱ねぎの香かなどのまじれる夕ゆふべ
ねぎの香りなどが混じる夕方
原文: 時ありて
時おり
原文: 猫のまねなどして笑ふ
猫のまねなどをして笑う
原文: 三十路みそぢの友のひとり住ずみかな
三十代の友のひとり暮らしだな
原文: 気弱きよわなる斥候せきこうのごとく
気弱な斥候のように
原文: おそれつつ
恐れながら
原文: 深夜の街を一人散歩す
深夜の街をひとり散歩する
原文: 皮膚ひふがみな耳にてありき
皮膚がすべて耳になっていた
原文: しんとして眠れる街まちの
しんとして眠る街の
原文: 重き靴音
重い靴音
原文: 夜よるおそく停車場に入いり
夜遅く停車場に入り
原文: 立ち坐すわり
立ったり座ったりして
原文: やがて出いでゆきぬ帽ばうなき男
やがて出ていった帽子のない男
原文: 気がつけば
気がつくと
原文: しっとりと夜霧下おりて居をり
しっとりと夜霧が下りていた
原文: ながくも街をさまよへるかな
長くも街をさまよったものだな
原文: 若もしあらば煙草たばこ恵めぐめと
もしあれば煙草をくれと
原文: 寄りて来くる
近寄ってくる
原文: あとなし人びとと深夜に語る
身寄りのない人と深夜に語る
原文: 曠野あらのより帰るごとくに
荒野から帰るように
原文: 帰り来きぬ
帰ってきた
原文: 東京の夜よをひとりあゆみて
東京の夜をひとり歩いて
原文: 銀行の窓の下なる
銀行の窓の下の
原文: 舗石しきいしの霜しもにこぼれし
敷石の霜にこぼれた
原文: 青インクかな
青インクだな
原文: ちょんちょんと
ちょんちょんと
原文: とある小藪こやぶに頬白ほほじろの遊ぶを眺む
とある小藪でホオジロが遊ぶのを眺める
原文: 雪の野やの路みち
雪の野の道
原文: 十月の朝の空気に
十月の朝の空気のなかで
原文: あたらしく
新しく
原文: 息吸すひそめし赤坊あかんぼのあり
息を吸いはじめた赤ん坊がいる
原文: 十月の産病院の
十月の産院の
原文: しめりたる
湿った
原文: 長き廊下のゆきかへりかな
長い廊下を行き来することだな
原文: むらさきの袖そで垂たれて
紫の袖を垂れて
原文: 空を見上げゐる支那しな人ありき
空を見上げている中国人がいた
原文: 公園の午後
公園の午後
原文: 孩児をさなごの手ざはりのごとき
幼子の手ざわりのような
原文: 思ひあり
思いがある
原文: 公園に来てひとり歩あゆめば
公園に来てひとり歩けば
原文: ひさしぶりに公園に来て
久しぶりに公園に来て
原文: 友に会ひ
友に会い
原文: 堅かたく手握り口疾くちどに語る
固く手を握り、早口に語る
原文: 公園の木この間まに
公園の木々の間に
原文: 小鳥あそべるを
小鳥が遊ぶのを
原文: ながめてしばし憩いこひけるかな
眺めてしばらく休んだものだな
原文: 晴れし日の公園に来て
晴れた日の公園に来て
原文: あゆみつつ
歩きながら
原文: わがこのごろの衰おとろへを知る
私はこのごろの衰えを知る
原文: 思出のかのキスかとも
思い出のあのキスかとも
原文: おどろきぬ
驚いた
原文: プラタヌの葉の散りて触ふれしを
プラタナスの葉が散って触れたのを
原文: 公園の隅すみのベンチに
公園の隅のベンチに
原文: 二度ばかり見かけし男
二度ほど見かけた男を
原文: このごろ見えず
このごろ見かけない
原文: 公園のかなしみよ
公園のかなしみよ
原文: 君の嫁とつぎてより
君が嫁いでから
原文: すでに七月ななつき来きしこともなし
もう七か月も来たことがない
原文: 公園のとある木蔭こかげの捨椅子すていすに
公園のとある木陰の捨てられた椅子に
原文: 思ひあまりて
思いあまって
原文: 身をば寄せたる
身を寄せた
原文: 忘られぬ顔なりしかな
忘れられない顔だったな
原文: 今日街まちに
今日、街で
原文: 捕吏ほりにひかれて笑ゑめる男は
捕り手に引かれながら笑っていた男は
原文: マチ擦すれば
マッチを擦ると
原文: 二尺ばかりの明るさの
二尺ほどの明るさの
原文: 中をよぎれる白き蛾がのあり
その中を横切る白い蛾がいた
原文: 目をとぢて
目を閉じて
原文: 口笛かすかに吹きてみぬ
口笛をかすかに吹いてみた
原文: 寐ねられぬ夜の窓にもたれて
眠れない夜、窓にもたれて
原文: わが友は
わが友は
原文: 今日も母なき子を負ひて
今日も母のない子を背負って
原文: かの城址しろあとにさまよへるかな
あの城跡をさまよっているのだろうか
原文: 夜よるおそく
夜遅く
原文: つとめ先よりかへり来きて
勤め先から帰ってきて
原文: 今死にしてふ児こを抱だけるかな
たった今死んだという子を抱いたのだった
原文: 二三ふたみこゑ
二声三声
原文: いまはのきはに微かすかにも泣きしといふに
今わの際にかすかにも泣いたというのに
原文: なみだ誘さそはる
涙を誘われる
原文: 真白ましろなる大根の根の肥こゆる頃
真っ白な大根の根が肥える頃
原文: うまれて
生まれて
原文: やがて死にし児このあり
やがて死んだ子がいる
原文: おそ秋の空気を
晩秋の空気を
原文: 三尺四方さんじやくしはうばかり
三尺四方ほど
原文: 吸ひてわが児の死にゆきしかな
吸ってわが子は死んでいったのだった
原文: 死にし児の
死んだ子の
原文: 胸に注射の針を刺す
胸に注射の針を刺す
原文: 医者の手もとにあつまる心
医者の手元に集まる心は
原文: 底知れぬ謎なぞに対むかひてあるごとし
底知れぬ謎に向かっているかのようだ
原文: 死児しじのひたひに
死んだ子の額に
原文: またも手をやる
またも手をやる
原文: かなしみのつよくいたらぬ
悲しみがまだ強くまでは至らない
原文: さびしさよ
そのさびしさよ
原文: わが児のからだ冷ひえてゆけども
わが子の体は冷えてゆくけれども
原文: かなしくも
かなしくも
原文: 夜よ明あくるまでは残りゐぬ
夜が明けるまでは残っていた
原文: 息いききれし児の肌はだのぬくもり
息の絶えた子の肌のぬくもりが