寒山拾得 小学生向け
森鴎外(もりおうがい)・1967年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23)
唐(とう)という国の貞観(じょうがん)という時代のことだといわれている。西洋では七世紀のはじめごろで、日本ではちょうど元号というものができはじめたころの話である。
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唐の貞観のころだというから、西洋は七世紀の初め日本は年号というもののやっと出来かかったときである。
閭丘胤(りょきゅういん)という役人がいたそうだ。
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閭丘胤という官吏がいたそうである。
もっとも、そんな人は本当はいなかったという人もいる。
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もっともそんな人はいなかったらしいと言う人もある。
なぜかというと、閭丘胤は台州(たいしゅう)という土地の主簿(しゅぼ)という役についていたと伝えられているのに、新しいほうの唐の歴史書にも古いほうの歴史書にも、彼のことが書かれていないからだ。
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なぜかと言うと、閭は台州の主簿になっていたと言い伝えられているのに、新旧の唐書に伝が見えない。
主簿というのは、刺史(しし)とか太守(たいしゅ)とか呼ばれる、地方を治める高い役職と同じくらいの役である。
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主簿といえば、刺史とか太守とかいうと同じ官である。
中国全体が「道(どう)」という大きな区画に分かれ、その道がさらに「州」や「郡」に分かれ、それがまた「県」に分かれ、県の下に「郷(ごう)」があり、郷の下に「里(り)」があるという仕組みになっていた。
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支那全国が道に分れ、道が州または郡に分れ、それが県に分れ、県の下に郷があり郷の下に里がある。
州の長は刺史、郡の長は太守と呼ばれた。
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州には刺史といい、郡には太守という。
そもそも日本では、県より小さい区画に「郡(ぐん)」という名前をつけているのはおかしいと、吉田東伍(よしだとうご)さんなどは不満を言っていた。
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一体日本で県より小さいものに郡の名をつけているのは不都合だと、吉田東伍さんなんぞは不服を唱えている。
閭丘胤が本当に台州の主簿だったとすれば、日本でいえば都道府県の知事くらいの役人ということになる。
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閭がはたして台州の主簿であったとすると日本の府県知事くらいの官吏である。
そうであれば、唐の歴史書の列伝(れつでん)という部分に名前が出ているはずだというわけだ。
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そうしてみると、唐書の列伝に出ているはずだというのである。
しかし閭丘胤がいないと話が成り立たないので、ともかくいたことにして話を続ける。
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しかし閭がいなくては話が成り立たぬから、ともかくもいたことにしておくのである。
さて、閭丘胤が台州に着いてから三日目のことだった。
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さて閭が台州に着任してから三日目になった。
長安(ちょうあん)という都で北のほうの土ぼこりをあびて、にごった水を飲んでいた男が、台州に来て豊かな土地を踏み、きれいな水を飲めるようになったので、とても気分がよかった。
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長安で北支那の土埃をかぶって、濁った水を飲んでいた男が台州に来て中央支那の肥えた土を踏み、澄んだ水を飲むことになったので、上機嫌である。
しかもこの三日間、大勢の部下たちが来てあいさつをした。
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それにこの三日の間に、多人数の下役が来て謁見をする。
それぞれの担当の仕事を形式的に報告してきた。
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受持ち受持ちの事務を形式的に報告する。
そのあわただしい中に、地方のトップとしての威張れる気分を味わい、閭丘胤は得意になっていた。
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そのあわただしい中に、地方長官の威勢の大きいことを味わって、意気揚々としているのである。
閭丘胤は前の日に部下に伝えておいて、翌朝は早く起き、天台県(てんたいけん)にある国清寺(こくせいじ)というお寺へ出かけることにした。
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閭は前日に下役のものに言っておいて、今朝は早く起きて、天台県の国清寺をさして出かけることにした。
これは長安にいたころから、台州に着いたらすぐに行こうと決めていたことだった。
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これは長安にいたときから、台州に着いたら早速往こうときめていたのである。
なぜ国清寺に行くのかというと、それには深いわけがある。
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何の用事があって国清寺へ往くかというと、それには因縁がある。
閭丘胤が長安で主簿に任命されて、これから任地へ旅立とうとしたとき、あいにくとてもひどい頭痛が起きた。
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閭が長安で主簿の任命を受けて、これから任地へ旅立とうとしたとき、あいにくこらえられぬほどの頭痛が起った。
ふつうのリウマチ性の頭痛だったが、閭丘胤はもともと少し神経質だったので、かかりつけの医者の薬を飲んでもなかなか治らなかった。
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単純なレウマチス性の頭痛ではあったが、閭は平生から少し神経質であったので、かかりつけの医者の薬を飲んでもなかなかなおらない。
このままでは旅立ちの日を延ばさないといけないかと女房と相談していると、そこへ小間使いの女の子が来て「ただいまお門の前にものごいをしているお坊さんが来まして、ご主人様にお目にかかりたいと申しておりますが、どういたしましょう」
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これでは旅立ちの日を延ばさなくてはなるまいかと言って、女房と相談していると、そこへ小女が来て、「只今ご門の前へ乞食坊主がまいりまして、ご主人にお目にかかりたいと申しますがいかがいたしましょう」
と言った。
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と言った。
「ふん、坊主か」
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「ふん、坊主か」
と言って閭丘胤はしばらく考えたが、「とにかく会ってみるから、ここへ通せ」
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と言って閭はしばらく考えたが、「とにかく逢ってみるから、ここへ通せ」
と言いつけた。
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と言いつけた。
そして女房を奥へ引っ込ませた。
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そして女房を奧へ引っ込ませた。
そもそも閭丘胤は試験(科挙)を受けるために、古い経典を読んだり漢詩を作る練習をしたりしてきただけで、仏教の本を読んだこともなく、道教の老子を研究したこともなかった。
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元来閭は科挙に応ずるために、経書を読んで、五言の詩を作ることを習ったばかりで、仏典を読んだこともなく、老子を研究したこともない。
しかしお坊さんや道士(どうし)というものに対しては、なぜかはわからないけれど尊敬の気持ちを持っていた。
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しかし僧侶や道士というものに対しては、なぜということもなく尊敬の念を持っている。
自分にはわからないものに対する、盲目の尊敬(もうもくのそんけい)とでも言えばいいだろうか。
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自分の会得せぬものに対する、盲目の尊敬とでも言おうか。
そこでお坊さんと聞いて会おうと言ったのである。
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そこで坊主と聞いて逢おうと言ったのである。
まもなく入ってきたのは、背の高い一人の僧だった。
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まもなくはいって来たのは、一人の背の高い僧であった。
あかで汚れてやぶれた法衣(ほうえ・お坊さんの着物)を着て、長く伸びた髪を眉の上で切っていた。
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垢つき弊れた法衣を着て、長く伸びた髪を、眉の上で切っている。
目にかかって邪魔になるまで、ずっとほったらかしにしていたようだった。
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目にかぶさってうるさくなるまで打ちやっておいたものと見える。
手には鉄でできた鉢(はち)を持っていた。
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手には鉄鉢を持っている。
僧は黙って立っているので、閭丘胤が話しかけてみた。
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僧は黙って立っているので閭が問うてみた。
「私に会いたいとおっしゃったそうだが、何のご用ですか」
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「わたしに逢いたいと言われたそうだが、なんのご用かな」
僧は言った。
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僧は言った。
「あなたは台州へいらっしゃることになったそうですね。それに頭痛で苦しんでいらっしゃると聞きました。私はその頭痛を治してさしあげようと思って参りました」
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「あなたは台州へおいでなさることにおなりなすったそうでございますね。それに頭痛に悩んでおいでなさると申すことでございます。わたくしはそれを直して進ぜようと思って参りました」
「おっしゃる通りで、この頭痛のために旅立ちの日を延ばそうかと思っているところです。どうやって治してくれるのか。何か薬の処方でもご存じですか」
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「いかにも言われる通りで、その頭痛のために出立の日を延ばそうかと思っていますが、どうして直してくれられるつもりか。何か薬方でもご存じか」
「いいえ。体を苦しめる病は幻(まぼろし)のようなものです。きれいな水をこの鉢(はち)に一杯入れてくれればよろしい。おまじないで治してさしあげます」
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「いや。四大の身を悩ます病は幻でございます。ただ清浄な水がこの受糧器に一ぱいあればよろしい。咒で直して進ぜます」
「はあ、おまじないをなさるのですか」
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「はあ咒をなさるのか」
こう言ってしばらく考えたが、「かまいません。一つまじなってください」
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こう言って少し考えたが「仔細あるまい、一つまじなって下さい」
と言った。
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と言った。
閭丘胤はふだんから医療のことを深く考えてもいなかったので、どんな治療なら受け入れ、どんな治療なら断るという決まりがなく、ただその場その場で自分の判断に任せていた。
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これは医道のことなどは平生深く考えてもおらぬので、どういう治療ならさせる、どういう治療ならさせぬという定見がないから、ただ自分の悟性に依頼して、その折り折りに判断するのであった。
もちろんそういう人だから、かかりつけの医者もよく選んだわけではなかった。
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もちろんそういう人だから、かかりつけの医者というのもよく人選をしたわけではなかった。
ちゃんとした医学書を読むような立派な医者を探して決めていたのではなく、近所に住んでいて呼びやすいというだけの理由でかかっていたから、まともな薬をもらうことができなかったのだ。
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素問や霊枢でも読むような医者を捜してきめていたのではなく、近所に住んでいて呼ぶのに面倒のない医者にかかっていたのだから、ろくな薬は飲ませてもらうことが出来なかったのである。
今このものごいのお坊さんに頼む気になったのは、なんとなく立派に見えるお坊さんの態度に信頼感がわいたことと、水一杯でするおまじないなら間違っても危険はないだろうと思ったためだった。
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今乞食坊主に頼む気になったのは、なんとなくえらそうに見える坊主の態度に信を起したのと、水一ぱいでする咒なら間違ったところで危険なこともあるまいと思ったのとのためである。
ちょうど東京で位の高い役人が怪しい民間療法や気功術に頼るのと同じようなことだ。
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ちょうど東京で高等官連中が紅療治や気合術に依頼するのと同じことである。
閭丘胤は小間使いの女の子を呼んで、汲みたての水を鉢に入れて持ってくるよう命じた。
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閭は小女を呼んで、汲みたての水を鉢に入れて来いと命じた。
水が届いた。
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水が来た。
僧はそれを受け取って、胸の前に両手で捧げ、じっと閭丘胤を見つめた。
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僧はそれを受け取って、胸に捧げて、じっと閭を見つめた。
清潔な水でも汚れた水でもよく、お湯でもお茶でもかまわなかったのである。
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清浄な水でもよければ、不潔な水でもいい、湯でも茶でもいいのである。
汚れた水でなかったのは、閭丘胤にとっては思いがけない幸いだった。
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不潔な水でなかったのは、閭がためには勿怪の幸いであった。
しばらく見つめているうちに、閭丘胤はいつのまにか僧が捧げている水に心を集中させていた。
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しばらく見つめているうちに、閭は覚えず精神を僧の捧げている水に集注した。
このとき僧は鉄の鉢の水を口に含んで、突然ふっと閭丘胤の頭に吹きかけた。
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このとき僧は鉄鉢の水を口にふくんで、突然ふっと閭の頭に吹きかけた。
閭丘胤はびっくりして、背中に冷や汗が出た。
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閭はびっくりして、背中に冷や汗が出た。
「頭痛は」
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「お頭痛は」
と僧が尋ねた。
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と僧が問うた。
「あ。治りました」
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「あ。癒りました」
実際に閭丘胤は、ずっと頭が痛い頭が痛いと気にして、どうしても治せずにいた頭痛を、お坊さんの水に気をとられているうちに、うっかり忘れてしまっていたのだった。
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実際閭はこれまで頭痛がする、頭痛がすると気にしていて、どうしても癒らせずにいた頭痛を、坊主の水に気を取られて、取り逃がしてしまったのである。
僧はしずかに鉢に残った水を床にこぼした。
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僧はしずかに鉢に残った水を床に傾けた。
そして「ではこれでおいとまいたします」
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そして「そんならこれでお暇をいたします」
と言うや否や、くるりと閭丘胤に背を向けて、戸口の方へ歩き出した。
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と言うや否や、くるりと閭に背中を向けて、戸口の方へ歩き出した。
「まあ、ちょっと」
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「まあ、ちょっと」
と閭丘胤が呼び止めた。
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と閭が呼び留めた。
僧は振り返った。
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僧は振り返った。
「何かご用で」
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「何かご用で」
「少しですがお礼がしたいのですが」
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「寸志のお礼がいたしたいのですが」
「いいえ。私は世の人々の幸せのために、また思い上がった心を打ち砕くために、ものごいをしておりますが、治療代はいただきません」
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「いや。わたくしは群生を福利し、憍慢を折伏するために、乞食はいたしますが、療治代はいただきませぬ」
「なるほど。では無理には申しません。あなたはどちらのお方か、それだけ教えていただけますか」
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「なるほど。それでは強いては申しますまい。あなたはどちらのお方か、それを伺っておきたいのですが」
「これまでいたところでございますか。それは天台の国清寺です」
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「これまでおったところでございますか。それは天台の国清寺で」
「はあ。天台においでだったのですね。お名前は」
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「はあ。天台におられたのですな。お名は」
「豊干(ぶかん)と申します」
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「豊干と申します」
「天台国清寺の豊干とおっしゃる」
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「天台国清寺の豊干とおっしゃる」
閭丘胤はしっかり覚えておこうとするように、眉をひそめた。
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閭はしっかりおぼえておこうと努力するように、眉をひそめた。
「私もこれから台州に行くのであれば、なおさら親しみを感じます。ついでに伺いたいのですが、台州で会いに行く価値のある、立派な人はおられませんか」
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「わたしもこれから台州へ往くものであってみれば、ことさらお懐かしい。ついでだから伺いたいが、台州には逢いに往ってためになるような、えらい人はおられませんかな」
「そうでございますね。国清寺に拾得(じっとく)というものがおります。実は普賢菩薩(ふげんぼさつ)のお化身でございます。それから寺の西の方に寒巌(かんがん)という石の洞穴があって、そこに寒山(かんざん)というものがおります。実は文殊菩薩(もんじゅぼさつ)のお化身でございます。では、おいとまいたします」
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「さようでございます。国清寺に拾得と申すものがおります。実は普賢でございます。それから寺の西の方に、寒巌という石窟があって、そこに寒山と申すものがおります。実は文殊でございます。さようならお暇をいたします」
こう言ってしまうと、すっと出て行った。
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こう言ってしまって、ついと出て行った。
こういうわけがあったので、閭丘胤は天台の国清寺をめざして出かけるのだった。
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こういう因縁があるので、閭は天台の国清寺をさして出かけるのである。
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そもそも世の中の人が、道(どう)とか宗教とかいうものに対してとる態度には三通りある。
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全体世の中の人の、道とか宗教とかいうものに対する態度に三通りある。
自分の仕事に追われて、ただせっせと年月を過ごしている人は、道というものに目を向けない。
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自分の職業に気を取られて、ただ営々役々と年月を送っている人は、道というものを顧みない。
これは本を読む人でも同じだ。
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これは読書人でも同じことである。
もちろん本を読んで深く考えれば、道に行き着かずにはいられないだろう。
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もちろん書を読んで深く考えたら、道に到達せずにはいられまい。
しかしそこまで考えなくても、毎日の仕事はこなしていける。
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しかしそうまで考えないでも、日々の務めだけは弁じて行かれよう。
これは完全に道に無関心な人だ。
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これは全く無頓着な人である。
次に、心を向けて道を求める人がいる。
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つぎに着意して道を求める人がある。
一心に道を求めて何もかも捨てることもあれば、毎日の仕事を怠らずに、絶えず道を目指し続けることもある。
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専念に道を求めて、万事をなげうつこともあれば、日々の務めは怠らずに、たえず道に志していることもある。
儒教に入っても、道教に入っても、仏教に入っても、キリスト教に入っても同じことだ。
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儒学に入っても、道教に入っても、仏法に入っても基督教に入っても同じことである。
こういう人が深く入り込むと、毎日の仕事そのものが道になってしまう。
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こういう人が深くはいり込むと日々の務めがすなわち道そのものになってしまう。
まとめていえば、これらはみんな道を求める人だ。
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つづめて言えばこれは皆道を求める人である。
この無関心な人と道を求める人の中間に、道というものの存在は認めていても、完全に無関心なわけでもなく、かといって自分から進んで道を求めるわけでもなく、自分は道から遠い人間だとあきらめ、別に道に近い人がいると思ってその人を尊敬する、という人がいる。
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この無頓着な人と、道を求める人との中間に、道というものの存在を客観的に認めていて、それに対して全く無頓着だというわけでもなく、さればと言ってみずから進んで道を求めるでもなく、自分をば道に疎遠な人だと諦念め、別に道に親密な人がいるように思って、それを尊敬する人がある。
尊敬という気持ちはどの種類の人にもあるが、同じ対象を尊敬する場合だけを考えてみると、道を求める人の場合は遅れた者が進んだ者を尊敬することになり、この中間の人の場合は自分にはわからないもの、理解できないものを尊敬することになる。
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尊敬はどの種類の人にもあるが、単に同じ対象を尊敬する場合を顧慮して言ってみると、道を求める人なら遅れているものが進んでいるものを尊敬することになり、ここに言う中間人物なら、自分のわからぬもの、会得することの出来ぬものを尊敬することになる。
そこに盲目の尊敬(内容がわからないまま尊敬すること)が生まれる。
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そこに盲目の尊敬が生ずる。
盲目の尊敬では、たまたまその対象が本当にすぐれていたとしても、何の意味もないのだ。
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盲目の尊敬では、たまたまそれをさし向ける対象が正鵠を得ていても、なんにもならぬのである。
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閭丘胤は衣服を改め、輿(こし)という乗り物に乗って台州の役所の建物を出た。
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閭は衣服を改め輿に乗って、台州の官舍を出た。
お供が数十人いた。
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従者が数十人ある。
時は冬のはじめで、霜が少し降りていた。
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時は冬の初めで、霜が少し降っている。
椒江(しょうこう)という川の支流である始豊渓(しほうけい)という川の左側の岸に沿って回り道しながら北へ進んだ。
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椒江の支流で、始豊渓という川の左岸を迂回しつつ北へ進んで行く。
最初は曇っていた空がだんだん晴れて、青白い太陽が岸の紅葉を照らしていた。
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初め陰っていた空がようよう晴れて、蒼白い日が岸の紅葉を照している。
道で出会う老人や子どもたちはみな、輿を避けてひざまずいた。
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路で出合う老幼は、皆輿を避けてひざまずく。
輿の中では閭丘胤がとてもいい気分になっていた。
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輿の中では閭がひどくいい心持ちになっている。
民を治める役職に就いて賢者に礼をするというのが、手柄のように思えて、閭丘胤に満足感を与えていたのだ。
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牧民の職にいて賢者を礼するというのが、手柄のように思われて、閭に満足を与えるのである。
台州から天台県まではおよそ六十里半(ろくじゅうりはん)ある。
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台州から天台県までは六十里半ほどである。
日本の里(り)にすると六里半ほどの距離だ。
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日本の六里半ほどである。
ゆっくり輿をかつがせてきたので、天台県から迎えに出てきた役人と出会ったとき、もう昼を過ぎていた。
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ゆるゆる輿を舁かせて来たので、県から役人の迎えに出たのに逢ったとき、もう午を過ぎていた。
天台県の役所の建物で休んでごちそうになりながら聞いてみると、そこから国清寺までは急な坂道をまたおよそ六十里(ろくじゅうり)進まなければならない。
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知県の官舎で休んで、馳走になりつつ聞いてみると、ここから国清寺までは、爪尖上がりの道がまた六十里ある。
着くまでには夜になってしまいそうだった。
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往き着くまでには夜に入りそうである。
そこで閭丘胤は天台県の役所の建物に泊まることにした。
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そこで閭は知県の官舎に泊ることにした。
翌朝、天台県の長に見送られて出発した。
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翌朝知県に送られて出た。
今日も昨日と変わらない天気だった。
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きょうもきのうに変らぬ天気である。
そもそも天台山(てんだいさん)が一万八千丈(じょう)の高さがあるというのは、いつ誰が測ったにしても高すぎると思うが、ともかく虎がいる山だということだ。
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一体天台一万八千丈とは、いつ誰が測量したにしても、所詮高過ぎるようだが、とにかく虎のいる山である。
道はなかなか昨日のようには進まなかった。
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道はなかなかきのうのようには捗らない。
途中で昼ごはんを食べて、日が西に傾きかけたころ、国清寺の三門(さんもん・お寺の正面の門)に着いた。
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途中で午飯を食って、日が西に傾きかかったころ、国清寺の三門に着いた。
智者大師(ちしゃだいし)が亡くなった後に、隋(ずい)の煬帝(ようだい)が建てたというお寺だった。
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智者大師の滅後に、隋の煬帝が立てたという寺である。
お寺でも主簿が参拝に来たというのでいいかげんにはしなかった。
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寺でも主簿のご参詣だというので、おろそかにはしない。
道翹(どうぎょう)というお坊さんが出迎えて、閭丘胤を客間へ案内した。
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道翹という僧が出迎えて、閭を客間に案内した。
さてお茶とお菓子でもてなされると、閭丘胤が尋ねた。
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さて茶菓の饗応が済むと、閭が問うた。
「このお寺に豊干というお坊さんはおられましたか」
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「当寺に豊干という僧がおられましたか」
道翹が答えた。
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道翹が答えた。
「豊干とおっしゃいますか。それはしばらく前まで、本堂の裏の僧の部屋においでだったのですが、修行の旅に出られてから、お帰りになっていません」
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「豊干とおっしゃいますか。それはさきころまで、本堂の背後の僧院におられましたが、行脚に出られたきり、帰られませぬ」
「このお寺ではどんなことをしておられましたか」
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「当寺ではどういうことをしておられましたか」
「そうですね。お坊さんたちが食べるお米をついていました」
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「さようでございます。僧どもの食べる米を舂いておられました」
「はあ。それ以外に他のお坊さんたちと違うようなことはなかったのですか」
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「はあ。そして何かほかの僧たちと変ったことはなかったのですか」
「いいえ。それがありましたので、最初はただ働き者で親切な仲間だと思っていた豊干さんを、私たちが大切にするようになりました。するとある日突然出て行ってしまわれたのです」
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「いえ。それがございましたので、初めただ骨惜しみをしない、親切な同宿だと存じていました豊干さんを、わたくしどもが大切にいたすようになりました。するとある日ふいと出て行ってしまわれました」
「それはどういうことがあったのですか」
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「それはどういうことがあったのですか」
「まったく不思議なことでございました。ある日、山から虎に乗って帰ってきたのです。そしてそのまま廊下に入り、虎の背中に乗ったまま詩を吟じながら歩きました。そもそも詩を吟ずるのが好きな方で、裏の部屋でも夜になると詩を吟じていらっしゃいました」
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「全く不思議なことでございました。ある日山から虎に騎って帰って参られたのでございます。そしてそのまま廊下へはいって、虎の背で詩を吟じて歩かれました。一体詩を吟ずることの好きな人で、裏の僧院でも、夜になると詩を吟ぜられました」
「はあ。生きている阿羅漢(あらかん・悟りを開いた人)ですな。その部屋の跡はどうなっていますか」
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「はあ。活きた阿羅漢ですな。その僧院の址はどうなっていますか」
「今も空き家になっておりますが、ときどき夜になると虎が来てほえています」
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「只今もあき家になっておりますが、折り折り夜になると、虎が参って吼えております」
「それならばご苦労ですが、そちらへ案内をお願いしましょう」
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「そんならご苦労ながら、そこへご案内を願いましょう」
こう言って閭丘胤は席を立った。
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こう言って、閭は座を起った。
道翹はくもの巣を払いながら先に立って、閭丘胤を豊干が住んでいた空き家へ連れて行った。
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道翹は蛛の網を払いつつ先に立って、閭を豊干のいたあき家に連れて行った。
日がもう暮れかかっていたので、薄暗い部屋の中を見回すと、がらんとして何もない。
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日がもう暮れかかったので、薄暗い屋内を見廻すに、がらんとして何一つない。
道翹は身をかがめて石の床の上に残った虎の足跡を指さした。
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道翹は身をかがめて石畳の上の虎の足跡を指さした。
ちょうどそのとき山風が窓の外を吹き通って、庭に高く積もった落ち葉を巻き上げた。
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たまたま山風が窓の外を吹いて通って、うずたかい庭の落ち葉を捲き上げた。
その音が静寂を破ってざわざわと鳴ると、閭丘胤は髪の毛がぞわっとするように感じて、全身に鳥肌が立った。
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その音が寂寞を破ってざわざわと鳴ると、閭は髪の毛の根を締めつけられるように感じて、全身の肌に粟を生じた。
閭丘胤は急いで空き家を出た。
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閭は忙しげにあき家を出た。
そして後からついてくる道翹に言った。
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そしてあとからついて来る道翹に言った。
「拾得(じっとく)というお坊さんはまだこのお寺においでですか」
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「拾得という僧はまだ当寺におられますか」
道翹は不思議そうに閭丘胤の顔を見た。
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道翹は不審らしく閭の顏を見た。
「よくご存じですね。先ほど向こうの台所で、寒山というものと火にあたっておりましたから、ご用があるなら呼びましょうか」
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「よくご存じでございます。先刻あちらの厨で、寒山と申すものと火に当っておりましたから、ご用がおありなさるなら、呼び寄せましょうか」
「ほう。寒山も来ているのですか。それは願ってもないことです。どうかついでに台所へ案内をお願いしましょう」
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「ははあ。寒山も来ておられますか。それは願ってもないことです。どうぞご苦労ついでに厨にご案内を願いましょう」
「かしこまりました」
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「承知いたしました」
と言って、道翹は本堂に沿って西へ歩いて行った。
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と言って、道翹は本堂について西へ歩いて行く。
閭丘胤が後ろから尋ねた。
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閭が背後から問うた。
「拾得さんはいつごろからこのお寺においでですか」
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「拾得さんはいつごろから当寺におられますか」
「もうずいぶん長いことになります。あれは豊干さんが松林の中から拾ってきた捨て子です」
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「もうよほど久しいことでございます。あれは豊干さんが松林の中から拾って帰られた捨て子でございます」
「はあ。このお寺では何をしていますか」
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「はあ。そして当寺では何をしておられますか」
「拾われてきてから三年ほどたったとき、食堂で上座(じょうざ)の像に香をたいたり明かりをともしたり、その他お供えをさせたりしていたそうです。そのうちある日、上座の像にごはんを供えておいて、自分も向き合って一緒に食べているところを見つかったそうです。賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)の像がどれほど尊いものかわからずやってしまったことと見えます。今では台所でお坊さんたちの食器を洗わせています」
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「拾われて参ってから三年ほど立ちましたとき、食堂で上座の像に香を上げたり、燈明を上げたり、そのほか供えものをさせたりいたしましたそうでございます。そのうちある日上座の像に食事を供えておいて、自分が向き合って一しょに食べているのを見つけられましたそうでございます。賓頭盧尊者の像がどれだけ尊いものか存ぜずにいたしたことと見えます。唯今では厨で僧どもの食器を洗わせております」
「はあ」
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「はあ」
と言って、閭丘胤は二、三歩歩いてから尋ねた。
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と言って、閭は二足三足歩いてから問うた。
「それからさっき寒山とおっしゃいましたが、それはどういう方ですか」
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「それから唯今寒山とおっしゃったが、それはどういう方ですか」
「寒山でございますか。これはこのお寺の西のほうにある寒巌(かんがん)という石の洞穴に住んでいるものです。拾得が食器を洗うとき、残ったごはんやおかずを竹の筒に入れて取っておくと、寒山はそれをもらいに来るのです」
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「寒山でございますか。これは当寺から西の方の寒巌と申す石窟に住んでおりますものでございます。拾得が食器を滌いますとき、残っている飯や菜を竹の筒に入れて取っておきますと、寒山はそれをもらいに参るのでございます」
「なるほど」
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「なるほど」
と言って、閭丘胤はついて行った。
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と言って、閭はついて行く。
心の中では、そんなことをしている寒山と拾得が文殊・普賢の化身なら、虎に乗った豊干はいったい何者なのだろうと、田舎から来た人が芝居を見てどの役がどの俳優なのかとまどうときのような気持ちになっていた。
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心のうちでは、そんなことをしている寒山、拾得が文殊、普賢なら、虎に騎った豊干はなんだろうなどと、田舎者が芝居を見て、どの役がどの俳優かと思い惑うときのような気分になっているのである。
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「たいへん汚いところで」
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「はなはだむさくるしい所で」
と言いながら、道翹は閭丘胤を台所の中へ連れ込んだ。
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と言いつつ、道翹は閭を厨のうちに連れ込んだ。
ここは湯気がいっぱいこもっていて、急に入ってみるとはっきりものを見定めることもできないくらいだった。
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ここは湯気が一ぱい籠もっていて、にわかにはいって見ると、しかと物を見定めることも出来ぬくらいである。
その灰色の中に大きなかまどが三つあって、どれにも残った薪が真っ赤に燃えていた。
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その灰色の中に大きい竈が三つあって、どれにも残った薪が真赤に燃えている。
しばらく立ち止まって見ているうちに、石の壁に沿って造りつけられた台の上で、大勢のお坊さんがごはんやおかずや汁を鍋や釜から移しているのが見えてきた。
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しばらく立ち止まって見ているうちに、石の壁に沿うて造りつけてある卓の上で大勢の僧が飯や菜や汁を鍋釜から移しているのが見えて来た。
このとき道翹が奥の方を向いて「おい、拾得」
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このとき道翹が奧の方へ向いて、「おい、拾得」
と呼びかけた。
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と呼びかけた。
閭丘胤がその視線をたどって、入口から一番遠いかまどの前を見ると、そこに二人のお坊さんがうずくまって火にあたっているのが見えた。
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閭がその視線をたどって、入口から一番遠い竈の前を見ると、そこに二人の僧のうずくまって火に当っているのが見えた。
一人は髪が二、三センチほど伸びた頭をむき出しにして、足には草履(ぞうり)をはいていた。
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一人は髪の二三寸伸びた頭を剥き出して、足には草履をはいている。
もう一人は木の皮で編んだ帽子をかぶって、足には木のサンダル(木履・ぼくり)をはいていた。
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今一人は木の皮で編んだ帽をかぶって、足には木履をはいている。
どちらもやせていてみすぼらしい小柄な男で、豊干のような大きな男ではなかった。
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どちらも痩せてみすぼらしい小男で、豊干のような大男ではない。
道翹が呼びかけたとき、頭をむき出しにした方は振り向いてにやりと笑ったが、返事はしなかった。
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道翹が呼びかけたとき、頭を剥き出した方は振り向いてにやりと笑ったが、返事はしなかった。
これが拾得だと見えた。
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これが拾得だと見える。
帽子をかぶった方は身動きもしなかった。
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帽をかぶった方は身動きもしない。
これが寒山なのだろう。
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これが寒山なのであろう。
閭丘胤はそう見当をつけて、二人のそばへ近づいた。
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閭はこう見当をつけて二人のそばへ進み寄った。
そして袖をかき合わせて丁寧にお辞儀をして、「朝儀大夫(ちょうぎたいふ)、使持節(しじせつ)、台州の主簿、上柱国(じょうちゅうこく)、賜緋魚袋(しひぎょたい)、閭丘胤と申すものでございます」
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そして袖を掻き合わせてうやうやしく礼をして、「朝儀大夫、使持節、台州の主簿、上柱国、賜緋魚袋、閭丘胤と申すものでございます」
と名乗った。
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と名のった。
二人は同時に閭丘胤をちらりと見た。
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二人は同時に閭を一目見た。
それから二人で顔を見合わせて、おなかの底からこみ上げてくるような大きな笑い声を出したかと思うと、一緒に立ち上がって台所を駆け出して逃げた。
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それから二人で顏を見合わせて腹の底からこみ上げて来るような笑い声を出したかと思うと、一しょに立ち上がって、厨を駆け出して逃げた。
逃げながら寒山が「豊干がしゃべったな」
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逃げしなに寒山が「豊干がしゃべったな」
と言ったのが聞こえた。
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と言ったのが聞えた。
驚いて二人の後ろ姿を見送っている閭丘胤の周りには、ごはんやおかずや汁をよそっていたお坊さんたちがぞろぞろと集まってきてたかった。
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驚いてあとを見送っている閭が周囲には、飯や菜や汁を盛っていた僧らが、ぞろぞろと来てたかった。
道翹は真っ青な顔をして立ちすくんでいた。
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道翹は真蒼な顏をして立ちすくんでいた。
大正五年一月
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大正五年一月