寒山拾得 現代語訳
森鴎外(もりおうがい)・1967年
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唐の貞観のころの話だというから、西洋で言えば七世紀の初め、日本では年号というものがようやく生まれはじめたばかりのころだ。
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唐の貞観のころだというから、西洋は七世紀の初め日本は年号というもののやっと出来かかったときである。
そのころ、閭丘胤という官吏がいたそうだ。
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閭丘胤という官吏がいたそうである。
もっとも、そんな人物は実在しなかったらしいと言う人もいる。
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もっともそんな人はいなかったらしいと言う人もある。
なぜかというと、閭は台州の主簿だったと伝えられているのに、新旧どちらの唐書にも伝記が見当たらないのだ。
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なぜかと言うと、閭は台州の主簿になっていたと言い伝えられているのに、新旧の唐書に伝が見えない。
主簿というのは、刺史や太守と同じ種類の官職だ。
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主簿といえば、刺史とか太守とかいうと同じ官である。
中国全土が道に分かれ、道が州や郡に分かれ、それがさらに県に分かれ、県の下に郷があり、郷の下に里がある。
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支那全国が道に分れ、道が州または郡に分れ、それが県に分れ、県の下に郷があり郷の下に里がある。
州の長官を刺史といい、郡の長官を太守という。
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州には刺史といい、郡には太守という。
そもそも日本では県より小さい単位に郡という名をつけているのはおかしい、と吉田東伍などは不満を唱えていた。
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一体日本で県より小さいものに郡の名をつけているのは不都合だと、吉田東伍さんなんぞは不服を唱えている。
閭が本当に台州の主簿だったとすれば、日本でいう府県知事ほどの官吏ということになる。
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閭がはたして台州の主簿であったとすると日本の府県知事くらいの官吏である。
そうなると、唐書の列伝に載っているはずだ、というわけだ。
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そうしてみると、唐書の列伝に出ているはずだというのである。
しかし閭がいなければ話が成り立たないので、とにかくいたことにしておく。
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しかし閭がいなくては話が成り立たぬから、ともかくもいたことにしておくのである。
さて、閭が台州に着任して三日目のことだった。
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さて閭が台州に着任してから三日目になった。
長安で北中国の土ぼこりをかぶり、濁った水を飲んでいた男が、台州に来て豊かな土を踏み、澄んだ水を飲めるようになったので、ごきげんだった。
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長安で北支那の土埃をかぶって、濁った水を飲んでいた男が台州に来て中央支那の肥えた土を踏み、澄んだ水を飲むことになったので、上機嫌である。
それに、この三日のあいだに大勢の部下が次々に挨拶にやってきた。
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それにこの三日の間に、多人数の下役が来て謁見をする。
それぞれが担当する事務を形式的に報告する。
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受持ち受持ちの事務を形式的に報告する。
そのあわただしさのなかで、地方長官としての威勢の大きさを実感して、意気揚々としていた。
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そのあわただしい中に、地方長官の威勢の大きいことを味わって、意気揚々としているのである。
閭は前日に部下へ言い置いておいて、今朝は早起きして、天台県の国清寺へ向かうことにした。
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閭は前日に下役のものに言っておいて、今朝は早く起きて、天台県の国清寺をさして出かけることにした。
これは長安にいたころから、台州に着いたらすぐに行こうと決めていたことだった。
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これは長安にいたときから、台州に着いたら早速往こうときめていたのである。
なぜ国清寺へ行くのかというと、そこには深い事情がある。
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何の用事があって国清寺へ往くかというと、それには因縁がある。
閭が長安で主簿の任命を受け、いざ任地へ旅立とうとしたとき、折悪しく、こらえきれないほどの頭痛が起きた。
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閭が長安で主簿の任命を受けて、これから任地へ旅立とうとしたとき、あいにくこらえられぬほどの頭痛が起った。
ただのリウマチ性の頭痛だったが、閭はもともと少し神経質な性格だったので、かかりつけの医者に薬をもらっても、なかなか治らなかった。
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単純なレウマチス性の頭痛ではあったが、閭は平生から少し神経質であったので、かかりつけの医者の薬を飲んでもなかなかなおらない。
これでは出発の日を延ばすしかないかと女房と相談していると、そこへ小間使いの女がやってきて、「今しがた門の前に物乞いの坊主がまいりまして、ご主人にお目にかかりたいと申しておりますが、いかがいたしましょう」
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これでは旅立ちの日を延ばさなくてはなるまいかと言って、女房と相談していると、そこへ小女が来て、「只今ご門の前へ乞食坊主がまいりまして、ご主人にお目にかかりたいと申しますがいかがいたしましょう」
と言った。
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と言った。
「ふん、坊主か」
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「ふん、坊主か」
と言って閭はしばらく考えたが、「とにかく会ってみよう、ここへ通しなさい」
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と言って閭はしばらく考えたが、「とにかく逢ってみるから、ここへ通せ」
と言いつけた。
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と言いつけた。
そして女房を奥へ引っ込ませた。
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そして女房を奧へ引っ込ませた。
そもそも閭は科挙の試験に向けて経書を読み、五言の詩を作ることを学んだだけで、仏典を読んだことも老子を研究したこともなかった。
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元来閭は科挙に応ずるために、経書を読んで、五言の詩を作ることを習ったばかりで、仏典を読んだこともなく、老子を研究したこともない。
しかし僧侶や道士というものに対しては、なぜとも言えない尊敬の念を持っていた。
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しかし僧侶や道士というものに対しては、なぜということもなく尊敬の念を持っている。
自分にはわからないものに対する、盲目の尊敬とでも言えばいいか。
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自分の会得せぬものに対する、盲目の尊敬とでも言おうか。
だから坊主と聞いて、会おうと言ったのだ。
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そこで坊主と聞いて逢おうと言ったのである。
まもなくはいってきたのは、背の高い僧だった。
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まもなくはいって来たのは、一人の背の高い僧であった。
垢がついて破れた法衣を着て、伸びた髪を眉の上あたりで切っていた。
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垢つき弊れた法衣を着て、長く伸びた髪を、眉の上で切っている。
目にかかってうっとうしくなるまで、そのままほったらかしにしていたものと見える。
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目にかぶさってうるさくなるまで打ちやっておいたものと見える。
手には鉄の鉢を持っていた。
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手には鉄鉢を持っている。
僧は黙って立っていたので、閭が声をかけた。
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僧は黙って立っているので閭が問うてみた。
「私に会いたいとおっしゃったそうですが、どのようなご用件でしょう」
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「わたしに逢いたいと言われたそうだが、なんのご用かな」
僧は言った。
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僧は言った。
「あなたは台州へいらっしゃることになったそうですね。そのうえ頭痛でお苦しみだと聞きました。それを治してさしあげようと思ってやってまいりました」
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「あなたは台州へおいでなさることにおなりなすったそうでございますね。それに頭痛に悩んでおいでなさると申すことでございます。わたくしはそれを直して進ぜようと思って参りました」
「おっしゃる通りで、その頭痛のために出発を延ばそうかと思っているのですが、どうやって治してくださるつもりですか。何か薬の処方でもご存じですか」
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「いかにも言われる通りで、その頭痛のために出立の日を延ばそうかと思っていますが、どうして直してくれられるつもりか。何か薬方でもご存じか」
「いいえ。肉体を苦しめる病は幻にすぎません。ただこの鉢に清浄な水が一杯あればいい。まじないで治して差し上げます」
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「いや。四大の身を悩ます病は幻でございます。ただ清浄な水がこの受糧器に一ぱいあればよろしい。咒で直して進ぜます」
「はあ、まじないをなさるのですか」
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「はあ咒をなさるのか」
こう言って少し考えたが、「差し支えはないでしょう、一つまじなってください」
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こう言って少し考えたが「仔細あるまい、一つまじなって下さい」
と言った。
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と言った。
閭は医療のことをふだん深く考えていなかったので、どういう治療なら受けてよくてどういうものはいけないという決まった考えがなく、ただそのときどきに自分の判断で決めていた。
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これは医道のことなどは平生深く考えてもおらぬので、どういう治療ならさせる、どういう治療ならさせぬという定見がないから、ただ自分の悟性に依頼して、その折り折りに判断するのであった。
もちろんそういう性格だから、かかりつけの医者もよく選んで決めたわけではなかった。
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もちろんそういう人だから、かかりつけの医者というのもよく人選をしたわけではなかった。
素問や霊枢を読むような腕のいい医者を探して選んだのではなく、近所に住んでいて呼ぶのに便利な医者にかかっていたのだから、ろくな薬を飲ませてもらえなかったのだ。
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素問や霊枢でも読むような医者を捜してきめていたのではなく、近所に住んでいて呼ぶのに面倒のない医者にかかっていたのだから、ろくな薬は飲ませてもらうことが出来なかったのである。
今、物乞いの坊主に頼む気になったのは、なんとなく威厳のある坊主の態度に信頼を感じたことと、水一杯でするまじないなら間違っても危険はあるまいと思ったためだった。
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今乞食坊主に頼む気になったのは、なんとなくえらそうに見える坊主の態度に信を起したのと、水一ぱいでする咒なら間違ったところで危険なこともあるまいと思ったのとのためである。
ちょうど東京で高等官の連中が紅療治や気合術に頼るのと同じことだ。
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ちょうど東京で高等官連中が紅療治や気合術に依頼するのと同じことである。
閭は小間使いを呼んで、汲みたての水を鉢に入れてくるよう命じた。
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閭は小女を呼んで、汲みたての水を鉢に入れて来いと命じた。
水が来た。
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水が来た。
僧はそれを受け取り、胸の前に捧げてじっと閭を見つめた。
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僧はそれを受け取って、胸に捧げて、じっと閭を見つめた。
清浄な水でも汚い水でも、湯でも茶でも構わないのだ。
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清浄な水でもよければ、不潔な水でもいい、湯でも茶でもいいのである。
汚い水でなかったのは、閭にとっては思わぬ幸いだった。
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不潔な水でなかったのは、閭がためには勿怪の幸いであった。
しばらく見つめているうちに、閭は知らず知らず自分の意識を、僧が捧げている水に集中させていた。
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しばらく見つめているうちに、閭は覚えず精神を僧の捧げている水に集注した。
このとき僧は鉄鉢の水を口に含んで、突然ふっと閭の頭に吹きかけた。
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このとき僧は鉄鉢の水を口にふくんで、突然ふっと閭の頭に吹きかけた。
閭はびっくりして、背中に冷や汗が出た。
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閭はびっくりして、背中に冷や汗が出た。
「頭痛は」
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「お頭痛は」
と僧が聞いた。
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と僧が問うた。
「あ。治りました」
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「あ。癒りました」
実際、閭はずっと頭が痛い頭が痛いと気にしていたせいで治らずにいた頭痛を、坊主の水に気を取られた隙に、手放してしまったのだ。
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実際閭はこれまで頭痛がする、頭痛がすると気にしていて、どうしても癒らせずにいた頭痛を、坊主の水に気を取られて、取り逃がしてしまったのである。
僧はしずかに鉢に残った水を床に傾けて捨てた。
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僧はしずかに鉢に残った水を床に傾けた。
そして「それではこれで失礼します」
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そして「そんならこれでお暇をいたします」
と言うやいなや、くるりと閭に背を向けて、戸口の方へ歩き出した。
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と言うや否や、くるりと閭に背中を向けて、戸口の方へ歩き出した。
「まあ、ちょっと」
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「まあ、ちょっと」
と閭が呼び止めた。
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と閭が呼び留めた。
僧は振り返った。
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僧は振り返った。
「何かご用ですか」
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「何かご用で」
「ほんの気持ちばかりのお礼をしたいのですが」
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「寸志のお礼がいたしたいのですが」
「いいえ。私は人々を助け、おごり高ぶる者を戒めるために托鉢はいたしますが、治療代はいただきません」
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「いや。わたくしは群生を福利し、憍慢を折伏するために、乞食はいたしますが、療治代はいただきませぬ」
「なるほど。それでは無理にとは申しません。あなたはどちらのお方か、それだけ聞かせてください」
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「なるほど。それでは強いては申しますまい。あなたはどちらのお方か、それを伺っておきたいのですが」
「これまでいたところですか。それは天台の国清寺で」
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「これまでおったところでございますか。それは天台の国清寺で」
「はあ。天台においでだったのですね。お名前は」
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「はあ。天台におられたのですな。お名は」
「豊干と申します」
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「豊干と申します」
「天台国清寺の豊干とおっしゃる」
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「天台国清寺の豊干とおっしゃる」
閭はしっかり覚えておこうと努めるように、眉をひそめた。
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閭はしっかりおぼえておこうと努力するように、眉をひそめた。
「私もこれから台州へ赴く者として、ことさらご縁を感じます。ついでに伺いたいのですが、台州に会いに行って為になるような、すぐれた人物はおられますか」
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「わたしもこれから台州へ往くものであってみれば、ことさらお懐かしい。ついでだから伺いたいが、台州には逢いに往ってためになるような、えらい人はおられませんかな」
「そうですね。国清寺に拾得という者がおります。実は普賢菩薩の化身でございます。それから寺の西の方に、寒巌という石の洞窟があって、そこに寒山という者がおります。実は文殊菩薩の化身でございます。それではお暇いたします」
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「さようでございます。国清寺に拾得と申すものがおります。実は普賢でございます。それから寺の西の方に、寒巌という石窟があって、そこに寒山と申すものがおります。実は文殊でございます。さようならお暇をいたします」
こう言い終えると、さっと出て行った。
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こう言ってしまって、ついと出て行った。
こういう経緯があるので、閭は天台の国清寺へ向かって出かけるのだ。
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こういう因縁があるので、閭は天台の国清寺をさして出かけるのである。
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そもそも世の中の人が、道とか宗教とかいうものに対してとる態度には三通りある。
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全体世の中の人の、道とか宗教とかいうものに対する態度に三通りある。
自分の仕事に追われて、ただせっせと年月を過ごしている人は、道というものを顧みない。
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自分の職業に気を取られて、ただ営々役々と年月を送っている人は、道というものを顧みない。
これは学者でも同じことだ。
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これは読書人でも同じことである。
もちろん書物を深く読めば、道に行き着かずにはいられないだろう。
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もちろん書を読んで深く考えたら、道に到達せずにはいられまい。
しかしそこまで考えなくても、日々の務めをこなすことはできる。
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しかしそうまで考えないでも、日々の務めだけは弁じて行かれよう。
これはまったく無頓着な人だ。
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これは全く無頓着な人である。
次に、真剣に道を求める人がいる。
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つぎに着意して道を求める人がある。
ひたすら道を求めてすべてを捨てることもあれば、日々の務めを怠らずに、絶えず道を志していることもある。
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専念に道を求めて、万事をなげうつこともあれば、日々の務めは怠らずに、たえず道に志していることもある。
儒学に入っても、道教に入っても、仏法に入っても、キリスト教に入っても同じことだ。
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儒学に入っても、道教に入っても、仏法に入っても基督教に入っても同じことである。
こういう人が深く入り込むと、日々の務めそのものが道になってしまう。
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こういう人が深くはいり込むと日々の務めがすなわち道そのものになってしまう。
まとめて言えば、これらは皆、道を求める人だ。
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つづめて言えばこれは皆道を求める人である。
この無頓着な人と道を求める人の中間に、道というものの存在は客観的に認めていて、それに対してまったく無頓着というわけでもなく、かといって自分から積極的に道を求めるわけでもなく、自分は道から遠い人間だとあきらめ、道に近い特別な人がいると思ってそれを尊敬する人がいる。
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この無頓着な人と、道を求める人との中間に、道というものの存在を客観的に認めていて、それに対して全く無頓着だというわけでもなく、さればと言ってみずから進んで道を求めるでもなく、自分をば道に疎遠な人だと諦念め、別に道に親密な人がいるように思って、それを尊敬する人がある。
尊敬はどの種類の人にもあるが、同じ対象を尊敬する場合だけを比べて言うと、道を求める人なら、遅れた者が進んだ者を尊敬することになり、ここで言う中間の人物なら、自分にはわからない、理解できないものを尊敬することになる。
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尊敬はどの種類の人にもあるが、単に同じ対象を尊敬する場合を顧慮して言ってみると、道を求める人なら遅れているものが進んでいるものを尊敬することになり、ここに言う中間人物なら、自分のわからぬもの、会得することの出来ぬものを尊敬することになる。
そこに盲目の尊敬が生まれる。
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そこに盲目の尊敬が生ずる。
盲目の尊敬では、たまたまその向ける対象が正しかったとしても、何の意味もない。
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盲目の尊敬では、たまたまそれをさし向ける対象が正鵠を得ていても、なんにもならぬのである。
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閭は正装して輿に乗り、台州の官舎を出た。
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閭は衣服を改め輿に乗って、台州の官舍を出た。
従者が数十人いる。
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従者が数十人ある。
時は冬の初めで、霜が少し降りていた。
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時は冬の初めで、霜が少し降っている。
椒江の支流で、始豊渓という川の左岸を回りながら北へ進んで行く。
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椒江の支流で、始豊渓という川の左岸を迂回しつつ北へ進んで行く。
初め曇っていた空がしだいに晴れて、青白い日差しが岸の紅葉を照らしていた。
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初め陰っていた空がようよう晴れて、蒼白い日が岸の紅葉を照している。
道で出会う老いも若きも、皆が輿を避けてひざまずく。
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路で出合う老幼は、皆輿を避けてひざまずく。
輿の中では閭がたいそう気分よくなっていた。
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輿の中では閭がひどくいい心持ちになっている。
地方を治める立場で賢者を礼するというのが、手柄のように感じられて、閭に満足を与えていた。
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牧民の職にいて賢者を礼するというのが、手柄のように思われて、閭に満足を与えるのである。
台州から天台県までは六十里半ほどだ。
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台州から天台県までは六十里半ほどである。
日本の六里半ほどにあたる。
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日本の六里半ほどである。
ゆっくり輿を担がせてきたので、県から役人の出迎えに来たのに会ったとき、もう昼を過ぎていた。
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ゆるゆる輿を舁かせて来たので、県から役人の迎えに出たのに逢ったとき、もう午を過ぎていた。
知県の官舎で休んでご馳走になりながら聞くと、ここから国清寺までは、上り坂の道がさらに六十里ある。
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知県の官舎で休んで、馳走になりつつ聞いてみると、ここから国清寺までは、爪尖上がりの道がまた六十里ある。
着くまでには夜になってしまいそうだ。
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往き着くまでには夜に入りそうである。
そこで閭は知県の官舎に泊まることにした。
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そこで閭は知県の官舎に泊ることにした。
翌朝、知県に見送られて出発した。
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翌朝知県に送られて出た。
今日も昨日と変わらない天気だった。
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きょうもきのうに変らぬ天気である。
そもそも天台山の高さ一万八千丈というのは、いつ誰が測ったにしても、どうせ盛りすぎだろうが、とにかく虎のいる山だ。
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一体天台一万八千丈とは、いつ誰が測量したにしても、所詮高過ぎるようだが、とにかく虎のいる山である。
道はなかなか昨日のようには進まない。
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道はなかなかきのうのようには捗らない。
途中で昼飯を食べて、日が西に傾きかけたころ、国清寺の三門に着いた。
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途中で午飯を食って、日が西に傾きかかったころ、国清寺の三門に着いた。
智者大師が亡くなった後、隋の煬帝が建てたという寺だ。
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智者大師の滅後に、隋の煬帝が立てたという寺である。
寺の側でも主簿のご参詣とあって、おろそかにはしなかった。
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寺でも主簿のご参詣だというので、おろそかにはしない。
道翹という僧が出迎えて、閭を客間に案内した。
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道翹という僧が出迎えて、閭を客間に案内した。
さて、お茶と菓子の接待が済むと、閭が尋ねた。
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さて茶菓の饗応が済むと、閭が問うた。
「こちらに豊干という僧がおられましたか」
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「当寺に豊干という僧がおられましたか」
道翹が答えた。
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道翹が答えた。
「豊干とおっしゃいますか。それは少し前まで、本堂の裏の僧院においでになりましたが、行脚に出られてから帰っていらっしゃいません」
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「豊干とおっしゃいますか。それはさきころまで、本堂の背後の僧院におられましたが、行脚に出られたきり、帰られませぬ」
「こちらではどのようなことをしておられましたか」
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「当寺ではどういうことをしておられましたか」
「そうですね。僧たちが食べる米をついていらっしゃいました」
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「さようでございます。僧どもの食べる米を舂いておられました」
「はあ。それで何かほかの僧と変わったことはなかったのですか」
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「はあ。そして何かほかの僧たちと変ったことはなかったのですか」
「いえ、それがあったのでございます。初めは働き者で親切な同宿だと思っていた豊干さんを、私どもが大切にするようになりました。するとある日ふっといなくなってしまわれました」
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「いえ。それがございましたので、初めただ骨惜しみをしない、親切な同宿だと存じていました豊干さんを、わたくしどもが大切にいたすようになりました。するとある日ふいと出て行ってしまわれました」
「それはどういうことがあったのですか」
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「それはどういうことがあったのですか」
「まったく不思議なことでした。ある日、山から虎に乗って帰ってきたのです。そのまま廊下に入って、虎の背に乗ったまま詩を吟じながら歩かれました。もともと詩を吟ずることが好きな人で、裏の僧院でも、夜になると詩を吟じておられました」
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「全く不思議なことでございました。ある日山から虎に騎って帰って参られたのでございます。そしてそのまま廊下へはいって、虎の背で詩を吟じて歩かれました。一体詩を吟ずることの好きな人で、裏の僧院でも、夜になると詩を吟ぜられました」
「はあ。生きた阿羅漢ですね。その僧院の跡はどうなっていますか」
原文を見る
「はあ。活きた阿羅漢ですな。その僧院の址はどうなっていますか」
「今も空き家になっておりますが、時々夜になると虎が来て吠えています」
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「只今もあき家になっておりますが、折り折り夜になると、虎が参って吼えております」
「それではご苦労ですが、そこへご案内を願えますか」
原文を見る
「そんならご苦労ながら、そこへご案内を願いましょう」
こう言って、閭は席を立った。
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こう言って、閭は座を起った。
道翹はクモの巣を払いながら先に立って、閭を豊干がいた空き家へ連れて行った。
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道翹は蛛の網を払いつつ先に立って、閭を豊干のいたあき家に連れて行った。
日がもう暮れかかっていたので、薄暗い屋内を見回すと、がらんとして何もない。
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日がもう暮れかかったので、薄暗い屋内を見廻すに、がらんとして何一つない。
道翹は身をかがめて、石畳の上の虎の足跡を指さした。
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道翹は身をかがめて石畳の上の虎の足跡を指さした。
ちょうどそのとき山風が窓の外を吹き抜けて、積もっていた庭の落ち葉を巻き上げた。
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たまたま山風が窓の外を吹いて通って、うずたかい庭の落ち葉を捲き上げた。
その音が静寂を破ってざわざわと鳴ると、閭は髪の根を締めつけられるように感じて、全身に鳥肌が立った。
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その音が寂寞を破ってざわざわと鳴ると、閭は髪の毛の根を締めつけられるように感じて、全身の肌に粟を生じた。
閭は急いで空き家を出た。
原文を見る
閭は忙しげにあき家を出た。
そして後からついてくる道翹に言った。
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そしてあとからついて来る道翹に言った。
「拾得という僧はまだこちらにおられますか」
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「拾得という僧はまだ当寺におられますか」
道翹は不思議そうに閭の顔を見た。
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道翹は不審らしく閭の顏を見た。
「よくご存じで。さっきあちらの台所で、寒山という者と火にあたっておりましたから、ご用がおありでしたら呼びましょうか」
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「よくご存じでございます。先刻あちらの厨で、寒山と申すものと火に当っておりましたから、ご用がおありなさるなら、呼び寄せましょうか」
「ほう。寒山も来ておられますか。それは願ってもないことです。ご苦労ついでに台所へご案内を願えますか」
原文を見る
「ははあ。寒山も来ておられますか。それは願ってもないことです。どうぞご苦労ついでに厨にご案内を願いましょう」
「かしこまりました」
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「承知いたしました」
と言って、道翹は本堂に沿って西へ歩いて行く。
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と言って、道翹は本堂について西へ歩いて行く。
閭が後ろから尋ねた。
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閭が背後から問うた。
「拾得さんはいつごろからこちらにおられますか」
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「拾得さんはいつごろから当寺におられますか」
「もうかなり長いことになります。あれは豊干さんが松林の中から拾ってこられた捨て子でございます」
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「もうよほど久しいことでございます。あれは豊干さんが松林の中から拾って帰られた捨て子でございます」
「はあ。こちらでは何をしておられますか」
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「はあ。そして当寺では何をしておられますか」
「拾われてきてから三年ほど経ったとき、食堂で上座の像に香を供えたり、燈明を灯したり、ほかにも供え物をさせていたそうでございます。そのうちある日、上座の像に食事を供えて、自分も向かい合って一緒に食べているところを見つかったそうでございます。賓頭盧尊者の像がどれほど尊いものか知らずにしたことと見えます。今では台所で僧たちの食器を洗わせております」
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「拾われて参ってから三年ほど立ちましたとき、食堂で上座の像に香を上げたり、燈明を上げたり、そのほか供えものをさせたりいたしましたそうでございます。そのうちある日上座の像に食事を供えておいて、自分が向き合って一しょに食べているのを見つけられましたそうでございます。賓頭盧尊者の像がどれだけ尊いものか存ぜずにいたしたことと見えます。唯今では厨で僧どもの食器を洗わせております」
「はあ」
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「はあ」
と言って、閭は二、三歩歩いてから尋ねた。
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と言って、閭は二足三足歩いてから問うた。
「それからさっき寒山とおっしゃいましたが、それはどういう方ですか」
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「それから唯今寒山とおっしゃったが、それはどういう方ですか」
「寒山でございますか。こちらから西の方にある寒巌という石の洞窟に住んでいる者でございます。拾得が食器を洗うとき、残った飯や菜を竹の筒に入れて取っておくと、寒山はそれをもらいにやってくるのでございます」
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「寒山でございますか。これは当寺から西の方の寒巌と申す石窟に住んでおりますものでございます。拾得が食器を滌いますとき、残っている飯や菜を竹の筒に入れて取っておきますと、寒山はそれをもらいに参るのでございます」
「なるほど」
原文を見る
「なるほど」
と言って、閭はついて行く。
原文を見る
と言って、閭はついて行く。
心の中では、そんなことをしている寒山や拾得が文殊・普賢の化身なら、虎に乗った豊干はいったい何者だろうなどと、田舎者が芝居を見てどの役がどの俳優かと首をひねるときのような気持ちになっていた。
原文を見る
心のうちでは、そんなことをしている寒山、拾得が文殊、普賢なら、虎に騎った豊干はなんだろうなどと、田舎者が芝居を見て、どの役がどの俳優かと思い惑うときのような気分になっているのである。
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原文を見る
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「たいへんむさくるしいところで」
原文を見る
「はなはだむさくるしい所で」
と言いながら、道翹は閭を台所の中へ連れ込んだ。
原文を見る
と言いつつ、道翹は閭を厨のうちに連れ込んだ。
ここは湯気が一面に立ち込めていて、急に入ってみると、しっかりものを見定めることもできないくらいだった。
原文を見る
ここは湯気が一ぱい籠もっていて、にわかにはいって見ると、しかと物を見定めることも出来ぬくらいである。
その灰色の霞の中に大きな竈が三つあって、どれにも残った薪が真っ赤に燃えていた。
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その灰色の中に大きい竈が三つあって、どれにも残った薪が真赤に燃えている。
しばらく立ち止まって見ているうちに、石の壁に沿って作りつけた台の上で、大勢の僧が飯や菜や汁を鍋や釜から移しているのが見えてきた。
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しばらく立ち止まって見ているうちに、石の壁に沿うて造りつけてある卓の上で大勢の僧が飯や菜や汁を鍋釜から移しているのが見えて来た。
このとき道翹が奥の方へ向かって、「おい、拾得」
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このとき道翹が奧の方へ向いて、「おい、拾得」
と呼びかけた。
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と呼びかけた。
閭がその視線をたどって、入口から一番遠い竈の前を見ると、そこに二人の僧がうずくまって火にあたっているのが見えた。
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閭がその視線をたどって、入口から一番遠い竈の前を見ると、そこに二人の僧のうずくまって火に当っているのが見えた。
一人は髪が二、三寸伸びた頭を丸出しにして、足に草履をはいていた。
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一人は髪の二三寸伸びた頭を剥き出して、足には草履をはいている。
もう一人は木の皮で編んだ帽子をかぶって、足には木製のはきものをはいていた。
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今一人は木の皮で編んだ帽をかぶって、足には木履をはいている。
どちらも痩せてみすぼらしい小柄な男で、豊干のような大男ではなかった。
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どちらも痩せてみすぼらしい小男で、豊干のような大男ではない。
道翹が呼びかけたとき、頭を丸出しにした方は振り向いてにやりと笑ったが、返事はしなかった。
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道翹が呼びかけたとき、頭を剥き出した方は振り向いてにやりと笑ったが、返事はしなかった。
これが拾得のようだ。
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これが拾得だと見える。
帽子をかぶった方は身動きもしなかった。
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帽をかぶった方は身動きもしない。
これが寒山なのだろう。
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これが寒山なのであろう。
閭はこう見当をつけて二人のそばへ進み寄った。
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閭はこう見当をつけて二人のそばへ進み寄った。
そして袖をかき合わせてうやうやしく礼をして、「朝儀大夫、使持節、台州主簿、上柱国、賜緋魚袋、閭丘胤と申す者でございます」
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そして袖を掻き合わせてうやうやしく礼をして、「朝儀大夫、使持節、台州の主簿、上柱国、賜緋魚袋、閭丘胤と申すものでございます」
と名乗った。
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と名のった。
二人は同時に閭をちらりと見た。
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二人は同時に閭を一目見た。
それから二人で顔を見合わせて、腹の底からこみ上げてくるような笑い声を上げたかと思うと、一緒に立ち上がって台所から駆け出して逃げた。
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それから二人で顏を見合わせて腹の底からこみ上げて来るような笑い声を出したかと思うと、一しょに立ち上がって、厨を駆け出して逃げた。
逃げながら寒山が「豊干がしゃべったな」
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逃げしなに寒山が「豊干がしゃべったな」
と言ったのが聞こえた。
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と言ったのが聞えた。
驚いて後を見送っている閭の周りには、飯や菜や汁を盛っていた僧らがぞろぞろと集まってきた。
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驚いてあとを見送っている閭が周囲には、飯や菜や汁を盛っていた僧らが、ぞろぞろと来てたかった。
道翹は真っ青な顔をして立ちすくんでいた。
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道翹は真蒼な顏をして立ちすくんでいた。
大正五年一月
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大正五年一月