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土 小学生向け

長塚節(ながつかたかし)・1987年

AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-08-04)

「土」

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「土」

について

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に就て

漱石

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漱石

「土」

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「土」

が「東京朝日」という新聞

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が「東京朝日」

にのったのは、二年前のことです。

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に連載されたのは一昨年の事である。

そして、それをのせる係だったのが、わたしでした。

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さうして其責任者は余であつた。

ところが、こまったことに、わたしは「土」

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所が不幸にも余は「土」

が終わるまえに病気になってしまい、新聞を読むこともできなくなって、そのまま「土」

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の完結を見ないうちに病氣に罹つて、新聞を手にする自由を失つたぎり、又「土」

を書いた人のことを思い出すきっかけがありませんでした。

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の作者を思ひ出す機會を有たなかつた。

はじめは五十回か六十回でおわるはずだった「土」

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當初五六十囘の豫定であつた「土」

は、いつのまにか、とても長いお話になっていました。

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は、同時に意外の長篇として發達してゐた。

とちゅうで話のすじを忘れてしまったわたしは、もう一度、へんなところから読みなおす気になれなくて、そのままほうっておきました。でも心の中では、よくこんなに長く書きつづけられるものだと、作者のねばり強さにおどろいていました。

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途中で話の緒口を忘れた余は、再びそれを取り上げて、矢鱈な區切から改めて讀み出す勇氣を鼓舞しにくかつたので、つい夫限ぎりに打ち遣やつたやうなものゝ、腹のなかでは私かに作者の根氣と精力に驚ろいてゐた。

「土」

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「土」

は、たしか百五十回か百六十回まで来て、やっと終わりました。

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は何でも百五六十囘に至つて漸く結末に達したのである。

世の中の人も冷たく、わたしもいそがしくて、そのあと長いあいだ「土」

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冷淡な世間と多忙な余は其後久しく「土」

のことを忘れていました。

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の事を忘れてゐた。

ところがあるとき、このあいだ亡くなった池辺さんに会って、たまたま小説の話になりました。すると池辺さんが、どうして「土」

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所がある時此間亡くなつた池邊君に會つて偶然話頭が小説に及んだ折、池邊君は何故「土」

は本にならないのだろうと言って、長塚さんの作品をとてもほめていました。

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は出版にならないのだらうと云つて、大分長塚君の作を褒めてゐた。

池辺さんは、そのころ「朝日」

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池邊君は其當時「朝日」

のいちばん上の記者だったので、「土」

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の主筆だつたので「土」

をはじめから終わりまで読んでいたのです。

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は始から仕舞迄眼を通したのである。

そのうえ池辺さんは、自分は文学がわからないと言いながら、じつはまじめな見る目をもって「土」

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其上池邊君は自分で文學を知らないと云ひながら、其實摯實な批評眼をもつて「土」

をねばり強く最後まで読んだのです。

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を根氣よく讀み通したのである。

わたしは、本があまり売れない時代だから「土」

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余は出版界の不景氣のために「土」

を一さつの本にする時期がまだ来ないのだろう、と答えておきました。

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の單行本が出る時機がまだ來ないのだらうと答へて置いた。

そのとき心の中では、「土」

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其時心のうちでは、隨分「土」

よりずっとつまらないものでも本になる世の中だから、できればいつか本にまとめたほうが作者のためにいいだろうと思いました。でも、わたしは親切ではないので、その日がすぎるとまた「土」

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に比べると詰らないものも公けにされる今日だから、出來るなら何時か書物に纏めて置いたら作者の爲に好からうと思つたが、不親切な余は其日が過ぎると、又「土」

のことをすっかり忘れてしまいました。

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の事を丸で忘れて仕舞つた。

ところが、この春になって長塚さんがとつぜんたずねて来て、やっと本屋さんが「土」

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すると此春になつて長塚君が突然尋ねて來て、漸く本屋が「土」

を本にしてくれることになったから、はじめの文を書いてくれませんか、とたのんできました。

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を引受ける事になつたから、序を書いて呉れまいかといふ依頼である。

わたしはそのとき、自分の小説を毎日一回ずつ書いていたので、「土」

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余は其時自分の小説を毎日一囘づゝ書いてゐたので、「土」

を読みなおす時間がありませんでした。

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を讀み返す暇がなかつた。

しかたなく、自分の仕事が終わるまで待ってくださいと答えました。

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已を得ず自分の仕事が濟む迄待つてくれと答へた。

すると長塚さんは、池辺さんにもはじめの文を書いてほしいから、ついでにしょうかいしてくださいと言うので、わたしはすぐに引きうけました。

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すると長塚君は池邊君の序も欲しいから序でに紹介して貰ひたいと云ふので、余はすぐ承知した。

わたしの名前の書かれたカードをもって、「土」

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余の名刺を持つて「土」

の作者が池辺さんの家のげんかんに立ったのは、池辺さんのお母さんが亡くなってちょうど三十五日目の日でした。長塚さんは立ったままで用事だけをたのんで帰ったそうです。ところが、それから三日して池辺さんもとつぜん亡くなってしまい、池辺さんのはじめの文は、とうとうもらえませんでした。

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の作者が池邊君の玄關に立つたのは、池邊君の母堂が死んで丁度三十五日に相當する日とかで、長塚君はたゞ立ちながら用事丈を頼んで歸つたさうであるが、それから三日して肝心の池邊君も突然亡くなつて仕舞つたから、同君の序はとう/\手に入らなかつたのである。

わたしは「彼岸過迄」

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余は「彼岸過迄」

という自分の作品を書きおえるとすぐ、やくそくどおり「土」

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を片付けるや否や前約を踏んで「土」

の本になるまえの原こうを読みはじめました。

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の校正刷を讀み出した。

思ったよりずっと長くて、半日と丸一日をつかってやっと読みおえました。読んでみると、たいへん手間のかかった作品です。

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思つたよりも長篇なので、前後半日と中一日を丸潰しにして漸く業を卒へて考へて見ると、中々骨の折れた作物である。

わたしはもともと安っぽい人間なので、たいていの人の作品を見るとすぐ感心してしまうくせがあります。この「土」

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余は元來が安價な人間であるから、大抵の人のものを見ると、すぐ感心したがる癖があるが、此「土」

でも、まったくそのとおりでした。

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に於ても全くさうであつた。

まず何より先に、これはとてもわたしには書けないと思いました。

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先づ何よりも先に、是は到底余に書けるものでないと思つた。

つぎに、今の文学の世界で長塚さんのほかにだれが書けるだろうと、あれこれさがしてみました。

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次に今の文壇で長塚君を除いたら誰が書けるだらうと物色して見た。

すると、やはりだれにも書けそうにない、という答えになりました。

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すると矢張誰にも書けさうにないといふ結論に達した。

ただし、だれにも書けないというのは、文章のうまさや、人物を生き生きと動かす生まれつきの力のことを言っているのではありません。

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尤も誰にも書けないと云ふのは、文を遣る技倆の點や、人間を活躍させる天賦の力を指すのではない。

もしそれだけの意味でだれも長塚さんにかなわないと言うなら、それはほかの作家をばかにした言葉になりますし、また長塚さんをもち上げすぎるずるいやり方にも見えて、どちらにしても作者にめいわくをかけるだけです。

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もし夫れ丈の意味で誰も長塚君に及ばないといふなら、一方では他の作家を侮辱した言葉にもなり、又一方では長塚君を擔ぎ過ぎる策略とも取れて、何方にしても作者の迷惑になる計である。

わたしがだれもかなわないと言うのは、この作品に書かれているできごとや自然が、長塚さん以外の人にはまだ調べられていない、という意味なのです。

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余の誰も及ばないといふのは、作物中に書いてある事件なり天然なりが、まだ長塚君以外の人の研究に上つてゐないといふ意味なのである。

「土」

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「土」

に出て来る人たちは、とても貧しいお百姓です。

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の中に出て來る人物は、最も貧しい百姓である。

学問もなければ上品さもなく、ただ土の上に生まれて、土といっしょに育った虫のように、かわいそうなお百姓の生活です。

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教育もなければ品格もなければ、たゞ土の上に生み付けられて、土と共に生長した蛆同樣に憐れな百姓の生活である。

ご先祖のころから茨城県の結城郡に住み、その土地の有力な家として大ぜいの小作人をつかっている長塚さんは、その人たちの、けものに近い、おそろしいほどつかれきった生活のようすを、一から十までまじめにこの「土」

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先祖以來茨城の結城郡に居を移した地方の豪族として、多數の小作人を使用する長塚君は、彼等の獸類に近き、恐るべく困憊を極めた生活状態を、一から十迄誠實に此「土」

の中に書きつくしたのです。

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の中に收め盡したのである。

その人たちの、品のないところ、考えのあさいところ、めいしんを信じるところ、むじゃきなところ、ずるいところ、よくのないところ、よくの深いところ。それは、わたしたち(今の文学の世界の作家みんな)が想ぞうすることさえむずかしいのですが、それを目に見えるようにえがいたのが「土」

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彼等の下卑で、淺薄で、迷信が強くて、無邪氣で、狡猾で、無欲で、強欲で、殆んど余等(今の文壇の作家を悉く含む)の想像にさへ上りがたい所を、あり/\と眼に映るやうに描寫したのが「土」

です。

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である。

そして「土」

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さうして「土」

は、長塚さんのほかにだれも手をつけられない、苦しいお百姓の生活の、いちばんけものに近い部分を、細かくまっすぐに書いたものなので、だれもかなわないと言うのです。

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は長塚君以外に何人も手を著けられ得ない、苦しい百姓生活の、最も獸類に接近した部分を、精細に直叙したものであるから、誰も及ばないと云ふのである。

人の手のとどかない自然についても、同じことを、どんな読者もうなずかずにはいられないほど、作者は鬼怒川ぞいのけしきや、空や、春や、秋や、雪や風を細かく調べています。

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人事を離れた天然に就いても、前同樣の批評を如何な讀者も容易に肯はなければ濟まぬ程、作者は鬼怒川沿岸の景色や、空や、春や、秋や、雪や風を綿密に研究してゐる。

畑のもの、あぜに立つはんの木、かえるの声、鳥の声。かりにもその土地にある自然なら、ほんの小さなところまで、みんなその地方らしさをもって書かれています。

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畠のもの、畔に立つ榛の木、蛙の聲、鳥の音、苟くも彼の郷土に存在する自然なら、一點一畫の微に至る迄悉く其地方の特色を具へて叙述の筆に上つてゐる。

だから、どこにどう出て来ても、かならずそこにしかないものになっています。

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だから何處に何う出て來ても必ず獨特ユニークである。

そのどこにもないところを、ふつうの作家が書いた平ぼんな自然のえがき方とくらべて、わたしはだれもかなわないと言うのです。

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其獨特ユニークな點を、普通の作家の手に成つた自然の描寫の平凡なのに比べて、余は誰も及ばないといふのである。

わたしは、そのすばらしさに感心しながら、あまりに細かすぎて話のすじをこわしてしまうことがあるのを、ざんねんに思ったほどです。それくらい、長塚さんは自然をよく見る人なのです。

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余は彼の獨特ユニークなのに敬服しながら、そのあまりに精細過ぎて、話の筋を往々にして殺して仕舞ふ失敗を歎じた位、彼は精緻な自然の觀察者である。

作品としての「土」

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作としての「土」

は、どちらかというと読むのがつらい作品です。

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は、寧ろ苦しい讀みものである。

けっして、おもしろいから読みなさいとは言いにくいのです。

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決して面白いから讀めとは云ひ惡い。

第一に、出て来る人たちの使う言葉が、わたしたちにはなじみのうすい方言でできています。

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第一に作中の人物の使ふ言葉が余等には餘り縁の遠い方言から成り立つてゐる。

第二に、作品が大きいわりに、また何年ものあいだのことをえがいているわりに、話が横に広がってばかりで、すじがはっきりと深まりながら前に進んでいきません。

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第二に結構が大きい割に、年代が前後數年にわたる割に、周圍に平たく發達したがる話が、筋をくつきりと描いて深くなりつゝ前へ進んで行かない。

だから全体として、読めば読むほどおもしろくなる、という感じを読者にあたえません。

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だから全體として讀者に加速度アクセレレーシヨンの興味を與へない。

だから、できごとが次々にからみ合って読者をぐいぐい引っぱっていくというより、その地方の一年の行事をていねいにあっさりと書いていくうちに、作者のつくった人物がとぎれとぎれに動き出す、と言ったほうがぴったりします。

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だから事件が錯綜纏綿して縺れながら讀者をぐい/\引込んで行くよりも、其地方の年中行事を怠りなく丹念に平叙して行くうちに、作者の拵らへた人物が斷續的に活躍すると云つた方が適當になつて來る。

そこに、人を引きつける力がすこし弱くなるおそれがある、という意味でも読みにくいのです。

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其所に聊か人を魅する牽引力を失ふ恐が潛んでゐるといふ意味でも讀みづらい。

でも、これはうわべの意味で読みにくいというだけです。わたしがほんとうに読みにくいと言うのは、出て来る人たちの心や行いが、ただ読者に苦しさと不安をあたえるだけで、人間は幸せなものだという気持ちや、なぐさめをすこしもくれないからです。

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然し是等は單に皮相の意味に於て讀みづらいので、余の所謂讀みづらいといふ本意は、篇中の人物の心なり行なりが、たゞ壓迫と不安と苦痛を讀者に與へる丈で、毫も神の作つてくれた幸福な人間であるといふ刺戟と安慰を與へ得ないからである。

悲しいお話は、たしかにおそろしいものです。

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悲劇は恐しいに違ない。

けれども、ふつうの悲しいお話には、悲しさのほかに何かのごほうびがあるので、読者はなみだを流すことをよろこぶのです。

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けれども普通の悲劇のうちには悲しい以外に何かの償ひがあるので、讀者は涙の犧牲を喜こぶのである。

ところが「土」

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が、「土」

は、なみださえ出ないほどの苦しさです。

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に至つては涙さへ出されない苦しさである。

雨がふらないかわりに、一生晴れることもない天気と同じ苦しさです。

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雨の降らない代りに生涯照りつこない天氣と同じ苦痛である。

ただ土の下へ心がしずんでいくだけで、人の情から見ても、正しさから見ても、この苦しさのおぎないになるものが何もあたえられていません。

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たゞ土の下したへ心が沈む丈で、人情から云つても道義心から云つても、殆んど此壓迫の賠償として何物も與へられてゐない。

ただ土をほり下げて、暗い中へ落ちていくだけです。

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たゞ土を掘り下げて暗い中へ落ちて行く丈である。

「土」

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「土」

を読む人は、きっと自分もどろの中を引きずられるような気がするでしょう。

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を讀むものは、屹度自分も泥の中を引き摺られるやうな氣がするだらう。

わたしもそういう気がしました。

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余もさう云ふ感じがした。

どうして長塚さんはこんな読みにくいものを書いたのだろう、とふしぎに思う人もいるかもしれません。

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或者は何故長塚君はこんな讀みづらいものを書いたのだと疑がふかも知れない。

そういう人にわたしはひとことだけ言いたいのです。こういう生活をしている人が、わたしたちと同じ時代に、しかも東京からそう遠くない田舎に住んでいる。この悲しい事実を、一度ぎゅっと胸にだきしめてみたら、これから先のあなたの生き方や、毎日の行いに、何か役に立つのではないでしょうか、と。

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そんな人に對して余はたゞ一言、斯樣な生活をして居る人間が、我々と同時代に、しかも帝都を去る程遠からぬ田舍に住んで居るといふ悲慘な事實を、ひしと一度は胸の底に抱き締めて見たら、公等の是から先の人生觀の上に、又公等の日常の行動の上に、何かの參考として利益を與へはしまいかと聞きたい。

わたしはとくに、楽しいことばかりにあこがれる若い男の人や女の人に、読みにくいのをがまんして、この「土」

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余はとくに歡樂に憧憬する若い男や若い女が、讀み苦しいのを我慢して、此「土」

を読む勇気を出してほしいと思います。

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を讀む勇氣を鼓舞する事を希望するのである。

わたしのむすめが大きくなって、音楽会がどうの、しばいがどうのと言い出すころになったら、わたしはぜひこの「土」

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余の娘が年頃になつて、音樂會がどうだの、帝國座がどうだのと云ひ募る時分になつたら、余は是非此「土」

を読ませたいと思っています。

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を讀ましたいと思つて居る。

むすめはきっといやだと言うでしょう。

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娘は屹度厭だといふに違ない。

もっとおもしろい恋のお話ととりかえてほしいと言うでしょう。

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より多くの興味を感ずる戀愛小説と取り換へて呉れといふに違ない。

けれどもわたしはそのとき、むすめに、おもしろいから読めと言うのではありません。

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けれども余は其時娘に向つて、面白いから讀めといふのではない。

苦しいから読めと言うのだ、と伝えたいと思っています。

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苦しいから讀めといふのだと告げたいと思つて居る。

べんきょうのためだから、世の中を知るためだから、知って自分の心の中に暗くおそろしいかげをうつすためだから、がまんして読みなさい、と言いたいのです。

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參考の爲だから、世間を知る爲だから、知つて己れの人格の上に暗い恐ろしい影を反射させる爲だから我慢して讀めと忠告したいと思つて居る。

何も考えずにぬくぬくと育った若い女の人(男の人でも同じです)が、ものごとの意味を考えたり、神や仏のことを思ったりするようになるのは、みなこの暗いかげの奥から生まれてくるのだと、わたしは強く信じているからです。

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何も考へずに暖かく生長した若い女(男でも同じである)の起す菩提心や宗教心は、皆此暗い影の奧から射さして來るのだと余は固く信じて居るからである。

長塚さんの書き方は、どこまでも落ちついています。

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長塚君の書き方は何處迄も沈着である。

出て来る人たちは、みなありのままです。

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其人物は皆有の儘である。

話のすじは、まったく自然です。

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話の筋は全く自然である。

わたしが「土」

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余が「土」

を「朝日」

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を「朝日」

にのせはじめたとき、北のほうのSという人が、わざわざ手紙をくれて、長塚さんが旅行でその人と会ったときの言い合いを知らせてきたことがあります。

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に載せ始めた時、北の方のSといふ人がわざ/″\書を余のもとに寄せて、長塚君が旅行して彼と面會した折の議論を報じた事がある。

長塚さんは、わたしが「朝日」

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長塚君は余の「朝日」

に書いた「満韓ところどころ」

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に書いた「滿韓ところ/″\」

というものをSさんの家で一回読んで、漱石という男は人をばかにしていると言って、たいそうおこったそうです。

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といふものをSの所で一囘讀んで、漱石といふ男は人を馬鹿にして居るといつて大いに憤慨したさうである。

漱石だけでなく、そもそも「朝日」

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漱石に限らず一體「朝日」

新聞の記者の書き方はみんな人をばかにしている、と言ってわるく言ったそうです。

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新聞の記者の書き振りは皆人を馬鹿にして居ると云つて罵つたさうである。

なるほど、まじめでよく練られた、おごそかと言ってもいいような「土」

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成程眞面目に老成した、殆んど嚴肅といふ文字を以て形容して然るべき「土」

を書いた長塚さんなら、そう思うのももっともです。

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を書いた、長塚君としては尤もの事である。

「満韓ところどころ」

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「滿韓所々ところ/″\」

などが長塚さんの気にさわったのも、そのはずだと思います。

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抔が君の氣色を害したのは左もあるべきだと思ふ。

でも、長塚さんから軽い人間だと思われたわたしにも、まじめな「土」

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然し君から輕佻の疑を受けた余にも、眞面目な「土」

を読む目はあるのです。

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を讀む眼はあるのである。

だから、このはじめの文を書いているのです。

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だから此序を書くのである。

長塚さんは、たまたま「満韓ところどころ」

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長塚君はたまたま「滿韓ところ/″\」

の一回を見てわたしの軽さにはらを立てたのでしょう。でも、同じわたしが書いたほかのものをたまたま読んでいたら、反対の気持ちになったかもしれません。

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の一囘を見て余の浮薄を憤つたのだらうが、同じ余の手になつた外のものに偶然眼を觸れたら、或は反對の感を起すかも知れない。

もしわたしが、はじめから終わりまで「満韓ところどころ」

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もし余が徹頭徹尾「滿韓ところ/″\」

の中の長塚さんの気に入らない一回のような調子でいるのなら、とても長塚さんの「土」

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のうちで、長塚君の氣に入らない一囘を以て終始するならば、到底長塚君の「土」

のためにこんなに言葉をつかうことはできないはずだからです。

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の爲に是程言辭を費やす事は出來ない理窟だからである。

長塚さんは不幸にものどの病気にかかり、このあいだまで東京の病院にいましたが、今は体を治しながら旅をしています。

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長塚君は不幸にして喉頭結核にかゝつて、此間迄東京で入院生活をして居たが、今は養生旁旅行の途にある。

さきごろ、まえにしょうかいしておいた福岡大学の久保先生から手紙が来て、長塚さんが診てもらいに来たと書いてあったので、今ごろは九州にいるでしょう。

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先達てかねて紹介して置いた福岡大學の久保博士からの來書に、長塚君が診察を依頼に見えたとあるから、今頃は九州に居るだらう。

わたしは本になる時期におくれずに、病気の長塚さんのために、「土」

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余は出版の時機に後れないで、病中の君の爲に、「土」

についてこれだけのことを言えたのをうれしく思います。

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に就いて是丈の事を云ひ得たのを喜こぶのである。

わたしがむかし「土」

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余がかつて「土」

を「朝日」

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を「朝日」

にのせはじめたとき、ある作家が、わたしたちは「土」

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に載せ出した時、ある文士が、我々は「土」

などを読むぎむはない、と言っていたと、わざわざ知らせてきた人がいました。

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などを讀む義務はないと云つたと、わざ/\余に報知して來たものがあつた。

そのときわたしは、この作家は何のためにつみのない「土」

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其時余は此文士は何の爲に罪もない「土」

の作者をばかにするのだろうと思って、いやな気持ちになりました。

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の作家を侮辱するのだらうと思つて苦々しい不愉快を感じた。

だいたい、読まなければならないぎむのある小説なんて、その小説の原こうを直す人か、国が本を調べる役所の人のほかには、あるはずがありません。

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理窟から云つて、讀まねばならない義務のある小説といふものは、其小説の校正者か、内務省の檢閲官以外にさうあらう筈がない。

わざわざ言わなくても、いやならだまって読まなければそれでいいのです。

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わざ/\斷わらんでも厭なら厭で默つて讀まずに居れば夫迄である。

もしまた、名前の知られていない人が書いたものだから読むぎむはないと言うのなら、その人は名前だけで小説を読み、中身は気にしない、文学のわからない人と同じです。

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もし又名の知れない人の書いたものだから讀む義務はないと云ふなら、其人は唯名前丈で小説を讀む、内容などには頓着しない、門外漢と一般である。

作家なら、同じ仕事をする人に対して、たとえ名前が知られていない人でも、もう少し思いやりと敬う気持ちがあってほしいと思います。

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文士ならば同業の人に對して、たとひ無名氏にせよ、今少しの同情と尊敬があつて然るべきだと思ふ。

わたしは「土」

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余は「土」

の作者が病気なので、なおさらそう言いたいのです。

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の作者が病氣だから、此場合には猶ほ更らさう云ひたいのである。

(明治四十五年五月)

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(明治四十五年五月)

一

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一

強い西風が、目に見えない大きなかたまりをごうっとぶつけては、またごうっとぶつけて、やせた木の林を一日じゅういじめつづけた。

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烈はげしい西風にしかぜが目めに見みえぬ大おほきな塊かたまりをごうつと打うちつけては又またごうつと打うちつけて皆みな痩やせこけた落葉木らくえふぼくの林はやしを一日にち苛いぢめ通とほした。

木のえだは、ときどきひゅうひゅうと悲しそうな音を立てて泣いた。

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木きの枝えだは時々とき/″\ひう/\と悲痛ひつうの響ひゞきを立たてゝ泣ないた。

みじかい冬の日はもう落ちかけて、黄色い光を出しながらまたたいた。

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短みじかい冬ふゆの日ひはもう落おちかけて黄色きいろな光ひかりを放射はうしやしつゝ目叩またゝいた。

そして西風は、ぱたりとやんでしまったのかと思うほど静かになった。

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さうして西風にしかぜはどうかするとぱつたり止やんで終しまつたかと思おもふ程ほど靜しづかになつた。

どろをちぎって投げたような雲が、ばらばらに林の上へじっとくっついていて、空はまだ静かでないことを見せている。

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泥どろを拗切ちぎつて投なげたやうな雲くもが不規則ふきそくに林はやしの上うへに凝然ぢつとひつゝいて居ゐて空そらはまだ騷さわがしいことを示しめして居ゐる。

それでときどきは、思い出したように木のえだがざわざわと鳴る。

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それで時々とき/″\は思おもひ出だしたやうに木きの枝えだがざわ/″\と鳴なる。

あたりが急に心細くなった。

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世間せけんが俄にはかに心こゝろぼそくなつた。

お品はまた、てんびん棒を下ろした。

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お品しなは復また天秤てんびんを卸おろした。

お品は竹のみじかいてんびん棒の先へ、木のえだで作った小さなかぎをぶら下げて、それで手おけの取っ手を引っかけていた。

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お品しなは竹たけの短みじかい天秤てんびんの先さきへ木きの枝えだで拵こしらへた小ちひさな鍵かぎの手てをぶらさげてそれで手桶てをけの柄えを引ひつ懸かけて居ゐた。

お品は畑仕事のあいまに、村でとうふを仕入れて、二つか三つの村を売り歩くのがいつものことだった。

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お品しなは百姓ひやくしやうの隙間すきまには村むらから豆腐とうふを仕入しいれて出でては二三ヶ村そんを歩あるいて來くるのが例れいである。

手おけで持ち出すだけだから、もとでも要らないかわりにもうけも少ない。でも畑仕事だけをしているより、毎日その日のこづかいがもらえるので、もうしばらくそうしていた。

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手桶てをけで持もち出だすだけのことだから資本もとでも要いらない代かはりには儲まうけも薄うすいのであるが、それでも百姓ひやくしやうばかりして居ゐるよりも日毎ひごとに目めに見みえた小遣錢こづかひせんが取とれるのでもう暫しばらくさうして居ゐた。

手おけ一つ分のとうふなら、いつもの道をぐるりと回れば、かならず売り切れた。

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手桶てをけ一提ひとさげの豆腐とうふではいつもの處ところをぐるりと廻まはれば屹度きつとなくなつた。

帰りにはとうふのかけらで白くなった水をすてて、てんびん棒は軽くなるのである。

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還かへりには豆腐とうふの壞こはれで幾いくらか白しろくなつた水みづを棄すてゝ天秤てんびんは輕かるくなるのである。

お品はいつでも、日のあるうちに、夜に縄をなうための藁へ水をかけておいたり、落ち葉をかき集めたりして、あちこち手を動かすのをやめなかった。

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お品しなは何時いつでも日ひのあるうちに夜よなべに繩なはに綯なふ藁わらへ水みずを掛かけて置おいたり、落葉おちばを攫さらつて見みたりそこらこゝらと手てを動うごかすことを止やめなかつた。

生まれつき丈夫なので、お品は仕事を苦しいと思ったことがなかった。

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天性ねが丈夫ぢやうぶなのでお品しなは仕事しごとを苦くるしいと思おもつたことはなかつた。

それがこの日は自分でもとてもいやだったが、冬至が来るからこんにゃくを仕入れなくてはならないと言って、むりに出たのだった。

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それが此この日ひは自分じぶんでも酷ひどく厭いやであつたが、冬至とうじが來くるから蒟蒻こんにやくの仕入しいれをしなくちや成ならないといつて無理むりに出でたのであつた。

冬至になると、にわか商人が次々に出てくるので、急いで一度歩いておかないと、先を取られてしまう。お品はどうしてもじっとしていられなかった。

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冬至とうじといふと俄商人にはかあきうどがぞく/\と出來できるので急いそいで一遍ぺん歩あるかないと、其その俄商人にはかあきうどに先せんを越こされて畢しまふのでお品しなはどうしても凝然ぢつとしては居ゐられなかつた。

こんにゃくは村にはないので、仕入れるには田んぼをこえたり林をぬけたりして、遠くまで行かなければならない。

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蒟蒻こんにやくは村むらには無ないので、仕入しいれをするのには田圃たんぼを越こえたり林はやしを通とほつたりして遠とほくへ行ゆかねばならぬ。

それでお品は、そのとちゅうで商売をしようと思って、この日もとうふをかついで出た。

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それでお品しなは其その途中とちうで商あきなひをしようと思おもつて此この日ひも豆腐とうふを擔かついで出でた。

あいにく、夜から冷えきった空には強い西風がふいていて、それにさからって行くお品は、自分でも足元がひどくふらつくのを感じた。

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生憎あいにく夜よるから冴さえ切きつて居ゐた空そらには烈はげしい西風にしかぜが立たつて、それに逆さからつて行ゆくお品しなは自分じぶんで酷ひどく足下あしもとのふらつくのを感かんじた。

ぞくぞくと体が冷えた。

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ぞく/\と身體からだが冷ひえた。

そして、とうふを出すたびに水へ手を入れるのが、ふるえるほど身にしみた。

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さうして豆腐とうふを出だす度たびに水みづへ手てを刺込さしこむのが慄ふるへるやうに身みに染しみた。

かさかさにかわいた手が、水につけるたびに赤くなった。

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かさ/\に乾燥かわいた手てが水みづへつける度たびに赤あかくなつた。

あかぎれがぴりぴりといたんだ。

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皹ひゞがぴり/\と痛いたんだ。

なかよしの家々で、お品は落ち葉をひとくべ燃やしてもらっては手をかざして、やっと暖まった。

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懇意こんいなそここゝでお品しなは落葉おちばを一燻ひとくべ焚たいて貰もらつては手てを翳かざして漸やつと暖あたゝまつた。

こんにゃくを仕入れて出たときは、そんなことで手間どって、いつもよりずっとおそくなっていた。

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蒟蒻こんにやくを仕入しいれて出でた時ときはそんなこんなで暇ひまをとつて何時いつになく遲おそかつた。

お品は林をいくつもすぎて自分の村へ急いだが、つかれもしたし、体がだるいような気がして、何度も道ばたに荷を下ろして休みながら来たのだった。

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お品しなは林はやしを幾いくつも過すぎて自分じぶんの村むらへ急いそいだが、疲つかれもしたけれど懶ものういやうな心持こゝろもちがして幾度いくたびか路傍みちばたへ荷にを卸おろしては休やすみつゝ來きたのである。

お品は手おけの取っ手へわたした竹のてんびん棒へ体をあずけて、どかりとひざを折った。

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お品しなは手桶てをけの柄えへ横よこたへた竹たけの天秤てんびんへ身みを投なげ懸かけてどかりと膝ひざを折をつた。

ぐったりしたお品は、ただでさえ見苦しいかっこうが、いっそうだらしなく乱れた。

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ぐつたり成なつたお品しなはそれでなくても不見目みじめな姿すがたが更さらに檢束しどけなく亂みだれた。

西風のなごりが、お品の後ろからふいた。

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西風にしかぜの餘波なごりがお品しなの後うしろから吹ふいた。

そして西風は、後ろで結んだ汚い手ぬぐいのはしをめくって、油の切れたほこりだらけの赤い髪の毛をしごき上げるようにして、あかだらけの首すじをむき出しにさせている。

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さうして西風にしかぜは後うしろで括くゝつた穢きたない手拭てぬぐひの端はしを捲まくつて、油あぶらの切きれた埃ほこりだらけの赤あかい髮かみの毛けを扱こきあげるやうにして其その垢あかだらけの首筋くびすぢを剥出むきだしにさせて居ゐる。

それといっしょに、林の木々はまだ持ち前のさわぎをやめないで、道ばたのえだがぐるりと取りまいてお品の上からのぞこうとすると、後ろからも後ろからも林のえだが一斉に首を出す。

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夫それと共ともに林はやしの雜木ざふきはまだ持前もちまへの騷さわぎを止やめないで、路傍みちばたの梢こずゑがずつと繞しなつてお品しなの上うへからそれを覗のぞかうとすると、後うしろからも/\林はやしの梢こずゑが一齊せいに首くびを出だす。

そしてしばらくすると、また一斉に後ろへぐっともどって、体を横にゆらしながら、笑ってささやくようにざわざわと鳴る。

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さうして暫しばらくしては又また一齊せいに後うしろへぐつと戻もどつて身體からだを横よこに動搖ゆさぶりながら笑わらひ私語さゞめくやうにざわ/\と鳴なる。

お品は体にいつもとちがうことが起きたのに気づいて、こわくなってきた。

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お品しなは身體からだに變態へんたいを來きたしたことを意識いしきすると共ともに恐怖心きようふしんを懷いだきはじめた。

三、四日なんともなかったから大丈夫だとは思っても、こうしてじっとしていると遠くへ引きこまれるような気がして、もともとのぼせやすいこともあって、そう思うと耳が鳴るようで、あたりがかえって静かになってしまったように思われた。

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三四日かどうもなかつたから大丈夫だいぢやうぶだとは思おもつて見みても、恁かう凝然ぢつとして居ゐると遠とほくの方ほうへ滅入めいつて畢しまふ樣やうな心持こゝろもちがして、不斷ふだんから幾いくらか逆上性のぼせしやうでもあるのだがさう思おもふと耳みゝが鳴なるやうで世間せけんが却かへつて靜しづかに成なつて畢しまつたやうに思おもはれた。

ふと気がつくと、お品はきびきびとてんびん棒をかついだ。

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不圖ふと氣きが付ついた時ときお品しなははき/\として天秤てんびんを擔かついだ。

林がとぎれて、田んぼが見えてきた。

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林はやしが竭つきて田圃たんぼが見みえ出だした。

田んぼをこえれば村で、自分の家は田んぼのすぐそばである。

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田圃たんぼを越こせば村むらで、自分じふんの家いへは田圃たんぼのとりつきである。

青いけむりがすっと上がっている。

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青あをい煙けぶりがすつと騰のぼつて居ゐる。

お品は二人の子どものことを思って、心がおどった。

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お品しなは二人ふたりの子供こどもを思おもつて心こゝろが跳をどつた。

林のはずれから田んぼへ下りる所は十メートルほどだが、かたむきの急な坂で、雨のたびにそこらの水を集めて田んぼへ落とす口になっているので、自然に土がけずられて深いくぼみができている。

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林はやしの外はづれから田圃たんぼへおりる處ところは僅わづかに五六間けんであるが、勾配こうばいの峻けはしい坂さかでそれが雨あめのある度たびにそこらの水みづを聚あつめて田圃たんぼへ落おとす口くちに成なつて居ゐるので自然しぜんに土つちが抉ゑぐられて深ふかい窪くぼみが形かたちづくられて居ゐる。

お品はてんびん棒をななめに横へ向けて、右の手を前の手おけの取っ手へ、左の手を後ろの手おけの取っ手へかけて、気をつけながら下りた。

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お品しなは天秤てんびんを斜なゝめに横よこへ向むけて、右みぎの手てを前まへの手桶てをけの柄えへ左ひだりの手てを後うしろの手桶てをけの柄えへ掛かけて注意ちういしつゝおりた。

それでも、手おけいっぱいになりそうなこんにゃくの重さが、ふらつく足をかろうじてささえさせた。

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それでも殆ほとんど手桶てをけ一杯ぱいに成なり相さうな蒟蒻こんにやくの重量おもみは少すこしふらつく足あしを危あやうく保たもたしめた。

やっと人がすれちがえるだけのせまい田んぼ道を、お品はそろそろと運んで行く。

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やつと人ひとの行ゆき違ちがふだけの狹せまい田圃たんぼをお品しなはそろ/\と運はこんで行ゆく。

お品は白っぽくなるほど古くなった股引に、先のほうだけつぎ足した足袋をはいている。

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お品しなは白茶しらちやけた程ほど古ふるく成なつた股引もゝひきへそれでも先さきの方ほうだけ繼つぎ足たした足袋たびを穿はいて居ゐる。

大きな藁ぞうりは、かためたように霜どけのどろがくっついていて、それがぼたぼたと足の運びをさらにおそくしている。

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大おほきな藁草履わらざうりは固かためたやうに霜解しもどけの泥どろがくつゝいて、それがぼた/\と足あしの運はこびを更さらに鈍にぶくして居ゐる。

せまく連なっている田を、たてに用水のほりがはしっている。

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狹せまく連つらなつて居ゐる田たを竪たてに用水ようすゐの堀ほりがある。

二、三本、わりと大きなはんの木が立っている所に、たった一枚の板の橋がななめにかけてある。

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二三株にさんかぶ比較的ひかくてき大おほきな榛はんの木きの立たつて居ゐる處ところに僅わづか一枚いちまい板いたの橋はしが斜なゝめに架かけてある。

お品は橋のたもとでちょっと立ち止まった。

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お品しなは橋はしの袂たもとで一寸ちよつと立たち止どまつた。

そして、近づいた自分の家を見た。

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さうして近ちかづいた自分じぶんの家いへを見みた。

村は高台にあるので、お品の家の後ろはすぐ、ななめに田んぼへずり落ちそうな林である。

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村落むらは臺地だいちに在あるのでお品しなの家いへの後うしろは直すぐに斜なゝめに田圃たんぼへずり落おち相さうな林はやしである。

ならや雑木のあいだに、みじかい竹がまじっている。

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楢ならや雜木ざふきの間あひだに短みじかい竹たけが交まじつて居ゐる。

かなり大きくなったならの木はみな葉が落ちきっているので、その小えだのすきまからへこんだ屋根の棟が見える。

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いゝ加減かげん大おほきくなつた楢ならの木きは皆みな葉はが落おち盡つくして居ゐるので、其その小枝こえだを透とほして凹くぼんだ棟やのむねが見みえる。

白い羽のにわとりが五、六羽、がりがりとつめで土をかいてはくちばしでつつき、またがりがりと土をかいては、いっしんに夕方のえさをさがしながら、田んぼから林へ帰りつつある。

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白しろい羽はねの鷄にはとりが五六羽ぱ、がり/\と爪つめで土つちを掻かつ掃ぱいては嘴くちばしでそこを啄つゝいて又またがり/\と土つちを掻かつ掃ぱいては餘念よねんもなく夕方ゆふがたの飼料ゑさを求もとめつゝ田圃たんぼから林はやしへ還かへりつゝある。

お品はとても気をつけて、ななめの橋をわたった。

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お品しなは非常ひじやうな注意ちういを以もつて斜なゝめな橋はしを渡わたつた。

四歩目には、もう田んぼの土に立った。

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四足目よあしめにはもう田圃たんぼの土つちに立たつた。

そのときは日はとっくにしずんでいて、見わたすかぎり、田からも林からも、あたりはただ黄色っぽく光って、それでもまだ明るかった。

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其その時ときは日ひは疾とうに沒ぼつして見渡みわたす限かぎり、田たから林はやしから世間せけんは只たゞ黄褐色くわうかつしよくに光ひかつてさうしてまだ明あかるかつた。

お品は田んぼから上がるまえに、てんびん棒を下ろして左へ曲がった。

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お品しなは田圃たんぼからあがる前まへに天秤てんびんを卸おろして左ひだりへ曲まがつた。

自分の家の林と田とのあいだには、人の足あとだけの細い道がついている。

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自分じぶんの家いへの林はやしと田たとの間あひだには人ひとの足趾あしあとだけの小徑こみちがつけてある。

お品は、その細い道と林とのさかいにあるぐみの木のそばに立った。

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お品しなは其その小徑こみちと林はやしとの境界さかひを劃しきつて居ゐる牛胡頽子うしぐみの側そばに立たつた。

にわとりのつめのあとが、そこの新しい土をかき散らしてあった。

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鷄にはとりの爪つめの趾あとが其處そこの新あたらしい土つちを掻かき散ちらしてあつた。

お品は土を手で集めて、ぞうりの底でそくそくとならした。

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お品しなは土つちを手てで聚あつめて草履ざうりの底そこでそく/\とならした。

お品のすがたが庭に見えたときには、西風は忘れたようにやんでいて、庭先のくりの木にかけた大根のかわいた葉も動かなかった。

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お品しなの姿すがたが庭にはに見みえた時ときには西風にしかぜは忘わすれたやうに止やんで居ゐて、庭先にはさきの栗くりの木きにぶつ懸かけた大根だいこの乾からびた葉はも動うごかなかつた。

白いにわとりはお品の足元へちょろちょろとかけて来て、何かほしそうにけろっと見上げた。

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白しろい鷄にはとりはお品しなの足あしもとへちよろ/\と駈かけて來きて何なにか欲ほし相さうにけろつと見上みあげた。

お品はいつものように、にわとりにかまっていられなかった。

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お品しなは平常いつものやうに鷄にはとり抔などへ構かまつては居ゐられなかつた。

お品は戸口にてんびん棒を下ろして、とつぜん

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お品しなは戸口とぐちに天秤てんびんを卸おろして突然いきなり

「おつう」

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「おつう」

と呼んだ。

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と喚よんだ。

「おっかあか」

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「おつかあか」

と、すぐにおつぎの返事が元気よく聞こえた。

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と直すぐにおつぎの返辭へんじが威勢ゐせいよく聞きこえた。

それと同時に、かまどの火がひらひらと赤くお品の目にうつった。

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それと同時どうじに竈かまどの火ひがひら/\と赤あかくお品しなの目めに映うつつた。

朝から雨戸を開けていないので、中は薄暗くなっている。

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朝あさから雨戸あまどは開あけないので内うちはうす闇くらくなつて居ゐる。

外の光を見ていたお品の目には、すぐにはおつぎのすがたも見えなかったのである。

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外そとの光ひかりを見みて居ゐたお品しなの目めには直すぐにはおつぎの姿すがたも見みえなかつたのである。

戸口からでは、おつぎの体がかまどの火をかくしていた。

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戸口とぐちからではおつぎの身體からだは竈かまどの火ひを掩おほうて居ゐた。

返事をするときに体をひねったので、その赤い火が見えたのである。

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返辭へんじすると共ともに身體からだを捩ねぢつたので其その赤あかい火ひが見みえたのである。

おつぎの背中にいた与吉は、お品の声を聞きつけると

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おつぎの脊せに居ゐた與吉よきちはお品しなの聲こゑを聞ききつけると

「まんまんま」

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「まん/\ま」

と両手を出して下りようとする。

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と兩手りやうてを出だして下おりようとする。

お品は、おつぎが帯を解いているあいだに、かべぎわの麦藁の俵のそばへ、こんにゃくの手おけを二つならべた。

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お品しなはおつぎが帶おびを解といてる間あひだに壁際かべぎはの麥藁俵むぎわらだはらの側そばへ蒟蒻こんにやくの手桶てをけを二つ並ならべた。

与吉はお母さんのふところにだかれて、ろくに出もしないお乳をさがした。

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與吉よきちはお袋ふくろの懷ふところに抱だかれて碌ろくに出でもしない乳房ちぶさを探さぐつた。

お品はかまどの前へこしをかけた。

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お品しなは竈かまどの前まへへ腰こしを掛かけた。

白いにわとりは、はしごのかわりにかけてある荒縄をぐるぐる巻きにした竹のみきへ、それぞれつめを引っかけて、両方の羽を広げて体のつりあいを取りながら、あわてたようにねぐらへ上がった。

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白しろい鷄にはとりは掛梯子かけばしごの代かはりに掛かけてある荒繩あらなはでぐる/\捲まきにした竹たけの幹みきへ各自てんでに爪つめを引ひつ掛かけて兩方りやうはうの羽はねを擴ひろげて身體からだの平均へいきんを保たもちながら慌あわてたやうに塒とやへあがつた。

そして青いけむりの中で、じっとして目を閉じている。

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さうして青あをい煙けむりの中なかに凝然ぢつとして目めを閉とぢて居ゐる。

お品は家に帰っていくらか暖まったが、それでも一日冷えたせいか、ぞくぞくするのが止まらなかった。

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お品しなは家いへに歸かへつて幾いくらか暖あたゝまつたがそれでも一日にち冷ひえた所爲せいかぞく/\するのが止やまなかつた。

そして、あとで近所でおふろをもらってゆっくり暖まれば、気分もよくなるだろうと思った。

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さうして後のちに近所きんじよで風呂ふろを貰もらつてゆつくり暖あつたまつたら心持こゝろもちも癒なほるだらうと思おもつた。

かまどには小さななべがかかっている。

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竈かまどには小ちひさな鍋なべが懸かゝつて居ゐる。

しるはふたを浮かすようにして、ぐらぐらとにえている。

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汁しるは葢ふたを漂たゞよはすやうにしてぐら/\と煮立にたつて居ゐる。

外もいつのまにか、すっかり暗くなった。

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外そともいつかとつぷり闇くらくなつた。

おつぎはかまどの下から火のついたしばを一つ取って、手ランプをつけて上がりがまちの柱へかけた。

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おつぎは竈かまどの下したから火ひのついてる麁朶そだを一ひとつとつて手てランプを點つけて上あがり框がまちの柱はしらへ懸かけた。

お品は、おつぎがひとえに半纏を引っかけたままなのを見た。

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お品しなはおつぎが單衣ひとへへ半纏はんてんを引ひつ掛かけた儘まゝであるのを見みた。

ふだんならそんなことはないのだが、自分がひどくぞくぞくして気分が悪いので、つい気になって

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平常いつもならそんなことはないのだが自分じぶんが酷ひどくぞく/\として心持こゝろもちが惡わるいのでつい氣きになつて

「おつう、そんなかっこうでお前は寒くないか」

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「おつう、そんな姿なりで汝わりや寒さむかねえか」

と聞いた。

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と聞きいた。

それから手ぬぐいの下から見えるおつぎのあどけない顔を、じっと見た。

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それから手拭てぬぐひの下したから見みえるおつぎのあどけない顏かほを凝然ぢつと見みた。

「寒くないよ」

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「寒さむかあんめえな」

おつぎは何でもないように言った。

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おつぎは事こともなげにいつた。

与吉はふところの中で、しきりにほしがっている。

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與吉よきちは懷ふところの中なかで頻しきりにせがんで居ゐる。

お品はいつもとちがって何も買って来なかったので、ふと困った。

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お品しなは平常いつものやうでなく何なにも買かつて來こなかつたので、ふと困こまつた。

「おつう、そこらに砂糖はなかったっけね」

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「おつう、そこらに砂糖さたうはなかつたつけゝえ」

お品は言った。

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お品しなはいつた。

おつぎは黙ってぞうりをぬぎ捨てて座敷へかけ上がり、戸だなから小さな古い新聞紙のふくろを見つけ出して、自分の手のひらへ少し砂糖をつまみ出して

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おつぎは默だまつて草履ざうりを脱棄ぬぎすてゝ座敷ざしきへ駈かけあがつて、戸棚とだなから小ちひさな古ふるい新聞紙しんぶんしの袋ふくろを探さがし出だして、自分じぶんの手ての平ひらへ少すこし砂糖さたうをつまみ出だして

「そらそら」

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「そら/\」

と言いながら、手を出して待っている与吉にやった。

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といひながら、手てを出だして待まつて居ゐる與吉よきちへ遺やつた。

おつぎは砂糖のついた自分の手をなめた。

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おつぎは砂糖さたうの附ついた自分じぶんの手てを嘗なめた。

与吉は、その砂糖をお母さんのふところへこぼしながら、あぶなっかしくつまんでは口へ入れる。

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與吉よきちは其その砂糖さたうをお袋ふくろの懷ふところへこぼしながら危あぶな相さうにつまんでは口くちへ入いれる。

砂糖がなくなると、与吉はそのべとついた手をお母さんの口のあたりへ出した。

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砂糖さたうが竭つきた時とき與吉よきちは其そのべとついた手てをお袋ふくろの口くちのあたりへ出だした。

お品は与吉の両手をつかまえてなめてやった。

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お品しなは與吉よきちの兩手りやうてを攫つかまへて舐ねぶつてやつた。

お品はなべのふたを取って、しばのほのおをかざしながら

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お品しなは鍋なべの蓋ふたをとつて麁朶そだの焔ほのほを翳かざしながら

「これはいもか何だい」

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「こりや芋いもか何なんでえ」

と聞いた。

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と聞きいた。

「うん、少しいもを足して温めなおしたんだ」

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「うむ、少すこし芋いも足たして暖あつため返けえしたんだ」

「ごはんは冷たくないかい」

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「おまんまは冷つめたかねえけ」

「そのあとで雑炊でも作ろうと思ってたのよ」

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「それから雜炊おぢやでも拵こせえべと思おもつてたのよ」

お品は熱い物なら体が暖まるだろうと思いながら、自分はひどくだるいので、何でもおつぎにさせていた。

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お品しなは熱あつい物ものなら身體からだが暖あたゝまるだらうと思おもひながら、自分じぶんは酷ひどく懶ものういので何なんでもおつぎにさせて居ゐた。

おつぎは、ねばり気のない、麦の多いぽろぽろのごはんをなべへ入れた。

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おつぎは粘ねばり氣けのない麥むぎの勝かつたぽろ/\な飯めしを鍋なべへ入いれた。

お品はしばをひとくべ、つっこんだ。

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お品しなは麁朶そだを一燻いとくべ突つつ込んだ。

おつぎはなべを下ろして、茶がまをかけた。

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おつぎは鍋なべを卸おろして茶釜ちやがまを懸かけた。

ほうっと白くゆげの立つなべの中を、おたまで二、三度かき回して、おつぎはまたふたをした。

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ほうつと白しろく蒸氣ゆげの立たつ鍋なべの中なかをお玉杓子たまじやくしで二三度ど掻かき立たてゝおつぎは又また葢ふたをした。

おつぎは戸だなからおぜんを出して、上がりがまちへ置いた。

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おつぎは戸棚とだなから膳ぜんを出だして上あがり框がまちへ置おいた。

柱にかけた手ランプの光がとどかないので、おつぎは手さぐりでしている。

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柱はしらに點つけてある手てランプの光ひかりが屆とゞかぬのでおつぎは手探てさぐりでして居ゐる。

お品は左手にだいた与吉の口へ、はしの先で少しずつ食べさせながら雑炊を食べた。

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お品しなは左手ひだりてに抱だいた與吉よきちの口くちへ箸はしの先さきで少すこしづゝ含ふくませながら雜炊ざふすゐをたべた。

お品はいもを三つ四つはしにさして、与吉に持たせた。

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お品しなは芋いもを三つ四つ箸はしへ立たてゝ與吉よきちへ持もたせた。

与吉はいもを口へ持っていって、すぐに熱いと言って泣いた。

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與吉よきちは芋いもを口くちへ持もつていつて直すぐに熱あついというて泣ないた。

お品は与吉のほおをふうふうとふいて、それからいもを自分の口でかんでやった。

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お品しなは與吉よきちの頻ほゝをふう/\と吹ふいてそれから芋いもを自分じぶんの口くちで噛かんでやつた。

お品のごはんは、こうして冷えた。

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お品しなの茶碗ちやわんは恁かうして冷ひえた。

おつぎは冷たくなったとき、なべのものと取りかえてやった。

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おつぎは冷つめたくなつた時とき鍋なべのと換かへてやつた。

お品は、ほしくもない雑炊を三ばいまで食べた。

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お品しなは欲ほしくもない雜炊ざふすゐを三杯ばいまでたべた。

いくらかおなかの中が暖かくなったのを感じた。

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幾いくらか腹はらの中なかの暖あたゝかくなつたのを感かんじた。

そしてやっと、水っぽさのぬけた茶がまのお湯をくんで飲んだ。

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さうして漸やうやく水離みづばなれのした茶釜ちやがまの湯ゆを汲くんで飮のんだ。

おつぎは庭先の井戸ばたへ出て、なべへ一ぱい、つるべの水をあけた。

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おつぎは庭先にはさきの井戸端ゐどばたへ出でて鍋なべへ一杯ぱい釣瓶つるべの水みづをあけた。

おつぎがもどったとき

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おつぎが戻もどつた時とき

「おつう、今夜でなくてもいいよ」

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「おつう、今夜こんやでなくつてもえゝや」

とお品は言った。

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とお品しなはいつた。

おつぎは黙って俵のそばの手おけに手をかけて

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おつぎは默だまつて俵たわらの側そばの手桶てをけへ手てを掛かけて

「これにも水を入れておかなくちゃならないだろうね」

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「此これへも水みづ入せえて置おかなくつちやなんめえな」

「そうすればいいが、大変だろうよ」

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「さうすればえゝが大變たえへんだらえゝぞ」

お品が言い終わらないうちに、おつぎは庭へ出た。

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お品しながいひ切きらぬうちにおつぎは庭にはへ出でた。

すぐに洗ったなべと手おけを持って、暗い庭先からぼんやりと戸口にすがたを見せた。

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直すぐに洗あらつた鍋なべと手桶てをけを持もつて暗くらい庭先にはさきからぼんやり戸口とぐちへ姿すがたを見みせた。

しきいへちょっと手おけを置いて、お品と顔を見合わせた。

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閾しきゐへ一寸ちよつと手桶てをけを置おいてお品しなと顏かほを見合みあはせた。

手おけの水は半分で、両方のこんにゃくに水がかぶった。

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手桶てをけの水みづは半分はんぶんで兩方りやうはうの蒟蒻こんにやくへ水みづが乘のつた。

お品は三人づれで、東どなりへおふろをもらいに行った。

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お品しなは三人連にんづれで東隣ひがしどなりへ風呂ふろを貰もらひに行いつた。

東どなりというのは大きなやしきで、こんもりとしげった森につつまれている。

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東隣ひがしどなりといふのは大おほきな一構ひとかまへで蔚然うつぜんたる森もりに包つゝまれて居ゐる。

外はまっ暗だ。

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外そとは闇やみである。

となりの森のすぎが、すみきった空へつき出している。

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隣となりの森もりの杉すぎがぞつくりと冴さえた空そらへ突つつ込こんで居ゐる。

お品の家はむかしから、この森のせいで、日がよほど南へ回ってからでないと庭に光がささなかった。

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お品しなの家いへは以前いぜんから此この森もりの爲ために日ひが餘程よほど南みなみへ廻まはつてからでなければ庭にはへ光ひかりの射さすことはなかつた。

お品の家族は、どこまでも日かげ者であった。

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お品しなの家族かぞくは何處どこまでも日蔭者ひかげものであつた。

それがあとになって、あちこちに土地をはかるための三角測量台が建てられ、その上に小さな旗がひらひらとひるがえるようになってから、その森が見通しのじゃまになるというので、三、四本だけ切らせられた。

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それが後のちに成なつてから方方はう/″\に陸地測量部りくちそくりやうぶの三角測量臺かくそくりやうだいが建たてられて其その上うへに小ちひさな旗はたがひら/\と閃ひらめくやうに成なつてから其その森もりが見通みとほしに障さはるといふので三四本ほん丈だけ伐きらせられた。

すぎの大木は西へたおしたので、どしんとそこらをおそろしくゆらして、お品の庭へ横たわった。

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杉すぎの大木たいぼくは西にしへ倒たふしたのでづしんとそこらを恐おそろしく搖ゆるがしてお品しなの庭にはへ横よこたはつた。

えだはくだけて、その先が庭の土をえぐった。

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枝えだは挫くぢけて其その先さきが庭にはの土つちをさくつた。

それでもとなりでは、その木のかたづけをするときにそこらへ散らばった小えだやくずをお品の家にくれたので、思いがけないたきぎができたのと、東がずっと空いたのとで、となりでは自分のうでを切られたようだとおしんだのに、お品の家ではこっそりよろこんだのだった。

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それでも隣となりでは其その木きの始末しまつをつける時ときにそこらへ散ちらばつた小枝こえだや其その他たの屑物くづものはお品しなの家いへへ與あたへたので思おもひ掛がけない薪たきゞが出來できたのと、も一ひとつは幾いくらでも東ひがしが隙すいたのとで、隣となりでは自分じぶんの腕うでを斬きられたやうだと惜をしんだにも拘かゝはらずお品しなの家いへでは竊ひそかに悦よろこんだのであつた。

それからというもの、どんなかっこうでも日が朝からさすようになった。

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それからといふものはどんな姿なりにも日ひが朝あさから射さすやうになつた。

それでもやはり森はあたりをおしつけていて、夜になるとことにそびえ立って、小さなお品の家は地面へふみつけられたように見えた。

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それでも有繋さすがに森もりはあたりを威壓ゐあつして夜よるになると殊ことに聳然すつくりとして小ちひさなお品しなの家いへは地ぢべたへ蹂ふみつけられたやうに見みえた。

お品は暗やみの中へ消えた。

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お品しなは闇やみの中なかへ消きえた。

そして、となりの戸口に現れた。

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さうして隣となりの戸口とぐちに現あらはれた。

となりのやとわれ人たちは、夜なべの縄をなっていた。

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隣となりの雇人やとひにんは夜よなべの繩なはを綯なつて居ゐた。

板の間のはしにあぐらをかいて、足でおさえた縄のはしへ藁をつぎ足しつぎ足ししては、ちょりちょりとひたいの上までもみ上げ、右の手をしりへ回してくっと縄を後ろへしごく。

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板いたの間まの端はしへ胡坐あぐらを掻かいて足あしで抑おさへた繩なはの端はしへ藁わらを繼つぎ足たし/\してちより/\と額ひたひの上うへまで揉もみ擧あげては右みぎの手てを臀しりへ廻まはしてくつと繩なはを後うしろへ扱こく。

縄はそのたびに土間へ落ちる。

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繩なはは其その度たびに土間どまへ落おちる。

お品は板の間で小さくなっていた。

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お品しなは板いたの間まに小ちひさくなつて居ゐた。

やがて藁がなくなると、やとわれ人たちはそれぞれ縄を足から手へ引っかけて、すばやく数をかぞえては土間からたぐり上げながら、つながったまま一たばずつにくくった。

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軈やがて藁わらが竭つきると傭人やとひにんは各自てんでに其その繩なはを足あしから手てへ引ひつ掛かけて迅速じんそくに數かずを計はかつては土間どまから手繰たぐり上あげながら、繼つながつた儘まゝ一房ばうづゝに括くゝつた。

やがて彼らは板の間の藁くずを土間へはき落として、それからかわりばんこにおふろへ入った。

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やがて彼等かれらは板いたの間まの藁屑わらくづを土間どまへ掃はきおろしてそれから交代かうたいに風呂ふろへ這入はひつた。

お品はそれを見ながら、黙って待っていた。

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お品しなはそれを見みながら默だまつて待まつて居ゐた。

お品はここへ来るとこういうえんりょをしなければならないので、少し遠くてもおふろは外へもらいに行くのだったが、その晩はどこもおふろをわかしていなかった。

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お品しなは此處こゝへ來くると恁かういふ遠慮ゑんりよをしなければならぬので、少すこしは遠とほくても風呂ふろは外ほかへ貰もらひに行ゆくのであつたが其その晩ばんはどこにも風呂ふろが立たたなかつた。

お品は二、三けんあちこち歩いてみてから、となりの門をくぐったのだった。

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お品しなは二三軒けんそつちこつちと歩あるいて見みてから隣となりの門もんを潜くゞつたのであつた。

やとわれ人たちは、大がまの下にぽっぽと火をたいて当たっている。

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傭人やとひにんは大釜おほがまの下したにぽつぽと火ひを焚たいてあたつて居ゐる。

おふろから出ても、彼らはゆだったような赤いももを出して火のそばへ寄った。

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風呂ふろから出でても彼等かれらは茹ゆだつたやうな赤あかい腿もゝを出だして火ひの側そばへ寄よつた。

「どうだね、ひとくべ当たったらよかろう。今すぐに空くから」

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「どうだね、一燻ひとくべあたつたらようがせう、今いま直すぐに明あくから」

とやとわれ人が言ってくれても、お品はしりから冷えるのをがまんして、じっとしんぼうしていた。

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と傭人やとひにんがいつてくれてもお品しなは臀しりから冷ひえるのを我慢がまんして凝然ぢつと辛棒しんぼうして居ゐた。

ふところでねむった与吉を起こすまいとしては、足がしびれるので、何度も体をもじもじ動かした。

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懷ふところで眠ねむつた與吉よきちを騷さわがすまいとしては足あしの痺しびれるので幾度いくどか身體からだをもぢ/\動うごかした。

やっとおふろが空いたときは、お品は待ち遠しかったので、何も考えずに急いで着物をぬいだ。

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漸やうやく風呂ふろの明あいた時ときはお品しなは待遠まちどほであつたので前後ぜんごの考かんがへもなく急いそいで衣物きものをとつた。

与吉は運よくぐったりして、お母さんのふところからはなれるのも気づかないので、おつぎが小さな手でだいた。

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與吉よきちは幸さいはひにぐつたりと成なつてお袋ふくろの懷ふところから離はなれるのも知しらないのでおつぎが小ちひさな手てで抱だいた。

お品はだんだん体が暖まるにつれて、はじめて生き返ったようにうっとりした。

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お品しなは段々だん/\と身體からだが暖あたゝまるに連つれて始はじめて蘇生いきかへつたやうに恍惚うつとりとした。

いつまでもつかっていたいような気がした。

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いつまでも沈しづんで居ゐたいやうな心持こゝろもちがした。

与吉が泣きはしないかと気づいたとき、ろくに洗いもしないで出てしまった。

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與吉よきちが泣なきはせぬかと心付こゝろづいた時とき碌ろくに洗あらひもしないで出でて畢しまつた。

それでも顔がつやつやとして、髪の生えぎわが、ふいてもふいても汗ばんだ。

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それでも顏かほがつや/\として髮かみの生際はえぎはが拭ぬぐつても/\汗あせばんだ。

そして、しみじみと気持ちよかった。

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さうしてしみ/″\と快こゝろよかつた。

お品は着物を引っかけると、すぐに与吉をふところへ入れた。

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お品しなは衣物きものを引ひつ掛かけると直すぐと與吉よきちを内懷うちふところへ入いれた。

お品のあとには下女が入ったので、おつぎはそのあいだ待たねばならなかった。

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お品しなの後あとへは下女げぢよが這入はひつたので、おつぎは其その間あひだ待またねばならなかつた。

おつぎが出たときには、お品の体は冷めかけていた。

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おつぎが出でた時ときはお品しなの身體からだは冷さめ掛かけて居ゐた。

お品は、自分があとで入ればよかったと後かいした。

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お品しなは自分じぶんが後あとではいればよかつたのにと後悔こうくわいした。

お品が自分の股引と足袋をおつぎに持たせて帰ったときには、月がそっととなりの森のかたちをはっきりさせて、その森のすきまがことに明るく光っていた。

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お品しなが自分じぶんの股引もゝひきと足袋たびとをおつぎに提さげさせて歸かへつた時ときに月つきは竊ひそかに隣となりの森もりの輪郭りんくわくをはつきりとさせて其その森もりの隙間すきまが殊ことに明あかるく光ひかつて居ゐた。

あたりはしみじみと冷えていた。

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世間せけんがしみ/″\と冷ひえて居ゐた。

お品はうすいあかじみたふとんにくるまると、体がまたぞくぞくして、ひざがしらがこおったようになっていたのに気づいた。

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お品しなは薄うすい垢あかじみた蒲團ふとんへくるまると、身體からだが又またぞく/\として膝ひざかしらが氷こほつたやうに成なつて居ゐたのを知しつた。

二

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二

次の朝、お品は、まだ戸のすきまからうす明かりがさしたばかりのころに目がさめた。

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次つぎの朝あさお品しなはまだ戸との隙間すきまから薄うすら明あかりの射さしたばかりに眼めが覺さめた。

まくらから頭を上げてみたが、頭のしんがしくしくといたむようで、いつになく重かった。

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枕まくらを擡もたげて見みたが頭あたまの心しんがしく/\と痛いたむやうでいつになく重おもかつた。

せまい家の中に、羽ばたくにわとりの声がけたたましく耳の底へひびいた。

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狹せばい家いへの内うちに羽叩はばたく鷄にはとりの聲こゑがけたゝましく耳みゝの底そこへ響ひゞいた。

おつぎはまだすやすやとねむっている。

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おつぎはまだすや/\として眠ねむつて居ゐる。

戸のすきまがまぶたを開いたように明るくなったとき、にわとりがまた高く鳴いた。

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戸との隙間すきまが瞼まぶたを開ひらいたやうに明あかるくなつた時とき鷄にはとりが復また甲走かんばしつて鳴ないた。

お品は、おつぎを今朝はゆっくりさせてやろうと思っていた。

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お品しなはおつぎを今朝けさは緩ゆつくりさせてやらうと思おもつて居ゐた。

それでもおつぎは、にわとりがまた鳴いたとき、むっくり起きた。

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それでもおつぎは鷄にはとりが又また鳴ないた時ときむつくり起おきた。

いつもとちがってあまりに静かなので、おどろいたようにあたりを見た。

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いつもと違ちがつて餘あまりひつそりして居ゐるので驚おどろいたやうにあたりを見みた。

そして、お母さんがまだ自分のそばでふとんにくるまっているのを見た。

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さうしてお袋ふくろがまだ自分じぶんの傍そばに蒲團ふとんへくるまつてるのを見みた。

「おつう、急がなくてもいいぞ。おれは今朝は少し具合が悪いから、ゆっくりするからな」

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「おつう、せかねえでもえゝぞ、俺おら今朝けさ少すこし工合ぐえゝが惡わりいから緩ゆつくりすつかんなよ」

お品は言った。

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お品しなはいつた。

おつぎはしばらくもじもじしながら帯をしめて、大戸を一枚がらがらと開けて、目をこすりながら庭へ出た。

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おつぎは暫しばらくもぢ/\しながら帶おびを締しめて大戸おほどを一枚まいがら/\と開あけて目めをこすりながら庭にはへ出でた。

井戸ばたのおけにはいもが少し水にひたしてあって、その水にはガラス板くらいのこおりが張っている。

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井戸端ゐどばたの桶をけには芋いもが少すこしばかり水みづに浸ひたしてあつて、其その水みづには氷こほりがガラス板いた位ぐらゐに閉とぢて居ゐる。

おつぎは、なべをいつもみがいているといしのかけらで、こおりをたたいてみた。

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おつぎは鍋なべをいつも磨みがいて居ゐる砥石といしの破片かけで氷こほりを叩たゝいて見みた。

おつぎは大戸を開けっぱなしにしていたので、朝の寒さが入ってきたのに気がついて

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おつぎは大戸おほどを開あけ放はなして置おいたので朝あさの寒さむさが侵入しんにふしたのに氣きがついて

「おっかあ、寒くなかったか。おれ知らないでいた」

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「おつかあ、寒さむかなかつたか、俺おら知しらねえで居ゐた」

と言いながら、大戸をがらがらとしめた。

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いひながら大戸おほどをがら/\と閉しめた。

暗くなった家の中では、かまどの火だけが元気よく赤く立った。

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闇くらくなつた家いへの内うちには竈かまどの火ひのみが勢いきほひよく赤あかく立つた。

おつぎは

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おつぎは

「ああ冷たい」

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「おゝ冷つめてえ」

と言いながら、かまどの口からめくれて出るほのおへ手をかざして

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といひながら竈かまどの口くちから捲まくれて出でる燄ほのほへ手てを翳かざして

「今朝はいもの水がこおったんだよ」

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「今朝けさは芋いもの水みづ氷こほつたんだよ」

と、お母さんのほうを向いて言った。

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とお袋ふくろの方はうを向むいていつた。

「うん、霜もおりたようだな」

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「うむ、霜しもも降ふつたやうだな」

お品は力なく言った。

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お品しなは力ちからなくいつた。

戸口を後ろにして、お品はかまどの火がべろべろと燃え上がるのを見た。

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戸口とぐちを後うしろにしてお品しなは竈かまどの火ひのべろ/\と燃もえ上あがるのを見みた。

「どこでもまっ白だよ」

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「何處どこでも眞白まつしろだよ」

おつぎは竹の火ばしで落ち葉をかき立てながら言った。

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おつぎは竹たけの火箸ひばしで落葉おちばを掻かき立たてながらいつた。

「夜明けにひどく冷えたっけからな」

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「夜明よあけにひどく冷々ひや/\したつけかんな」

お品は言って、ちょっと首を上げながら

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お品しなはいつて一寸ちよつと首くびを擡もたげながら

「おれは今朝は食べたくないからな。お前はかまわないで、できたら食べたほうがいいぞ」

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「俺おら今朝けさはたべたかねえかんな、汝われ構かまあねえで出來できたらたべた方はうがえゝぞ」

お品は言った。

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お品しなはいつた。

またこおったごはんで雑炊がにられた。

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又また氷こほつた飯めしで雜炊ざふすゐが煮にられた。

「おっかあ、少しでも食べないか」

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「おつかあ、ちつとでもやらねえか」

おつぎは茶わんをお母さんのまくら元へ出した。

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おつぎは茶碗ちやわんをお袋ふくろの枕元まくらもとへ出だした。

雑炊のこげたようなにおいがぷんと鼻をついたとき、お品ははしを取ってみようかと思ってうつぶせになってみたが、すぐに気持ちが悪くなってしまった。

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雜炊ざふすゐの焦こげついたやうな臭にほひがぷんと鼻はなを衝ついた時ときお品しなは箸はしを執とつて見みようかと思おもつて俯伏うつぶしになつて見みたが、直すぐに壓いやになつて畢しまつた。

お品が動いたので、ふところの与吉は泣き出した。

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お品しなが動うごいたので懷ふところの與吉よきちは泣なき出だした。

お品はうつぶせのままお乳をふくませた。

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お品しなは俯伏うつぶした儘まゝ乳房ちぶさを含ふくませた。

そしてまた、いものくしを作って持たせた。

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さうして又また芋いもの串くしを拵こしらへて持もたせた。

お品が表の大戸を開けさせたときには、日がきらきらと東どなりの森ごしに庭へさしかけて、きっぱりと日かげを区切って、とけ残った霜が白く見えていた。

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お品しなが表おもての大戸おほどを開あけさせた時ときは日ひがきら/\と東隣ひがしどなりの森もり越ごしに庭にはへ射さし掛かけてきつかりと日蔭ひかげを限かぎつて解とけ殘のこつた霜しもが白しろく見みえて居ゐた。

庭先のくりの木のかれ葉からも、えだにかけた大根の葉からも、霜がとけてしずくがまだぽたりぽたりと落ちている。

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庭先にはさきの栗くりの木きの枯葉かれはからも、枝えだへ掛かけた大根だいこの葉はからも霜しもが解とけて雫しづくがまだぽたり/\と垂たれて居ゐる。

庭にしいてある庭ぶたの藁も、ただぐっしょりとしめっている。

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庭にはへ敷しいてある庭葢にはぶたの藁わらも只たゞぐつしりと濕しめつて居ゐる。

冬になると霜柱が立つので、庭にはみんな藁くずやそばがらがいっぱいにしかれる。

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冬ふゆになると霜柱しもばしらが立たつので庭にはへはみんな藁屑わらくづだの蕎麥幹そばがらだのが一杯ぱいに敷しかれる。

それが庭ぶたである。

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それが庭葢にはぶたである。

霜柱が、庭から先の桑畑で、ぐらりぐらりとたおれつつある。

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霜柱しもばしらが庭にはから先さきの桑畑くはばたけにぐらり/\と倒たふれつゝある。

お品はふとんの中でも、ずいぶん暖かくなったのを感じた。

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お品しなは蒲團ふとんの中なかでも滅切めつきり暖あたゝかく成なつたことを感かんじた。

ときどきまくらから頭を上げて、戸口から外を見る。

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時々とき/″\枕まくらを擡もたげて戸口とぐちから外そとを見みる。

そしては、麦藁の俵のそばに置いたこんにゃくの手おけを、どうかすると気づかないうちに見つめている。

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さうしては麥藁俵むぎわらだはらの側そばに置おいた蒟蒻こんにやくの手桶てをけをどうかすると無意識むいしきに見みつめる。

横になっている目からは東どなりの森のえだが変に見えるので、じっと見つめると目がつかれてくるので、またこんにゃくの手おけへ目をうつしたりした。

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横よこに成なつて居ゐる目めからは東隣ひがしどなりの森もりの梢こずゑが妙めうに變かはつて見みえるので凝然ぢつと見みつめては目めが疲つかれるやうに成なるので又また蒟蒻こんにやくの手桶てをけへ目めを移うつしたりした。

お品は、どうにかして少しでもこんにゃくをへらしておきたいと思った。

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お品しなはどうかして少すこしでも蒟蒻こんにやくを減へらして置おきたいと思おもつた。

お品は、そのうち起きられるだろうと考えながら、ときどきうとうとする。

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お品しなは其その内うちに起おきられるだらうと考かんがへつゝ時々とき/″\うと/\と成なる。

「切り干しでも切ろうかな」

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「切干きりぼしでも切きつたもんだかな」

おつぎが庭から大きな声で言ったとき、お品はふとまくらから頭を上げた。

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おつぎが庭にはから大おほきな聲こゑでいつた時ときお品しなはふと枕まくらを擡もたげた。

それでおつぎの声は、意味も分からずにかすかに耳に入った。

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それでおつぎの聲こゑは意味いみも解わからずに微かすかに耳みゝに入いつた。

しばらくたってから、お品は庭でおつぎがざあと水をくんでは、また間を置いてざあと水をくんでいるのを聞いた。

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暫しばらくたつてからお品しなは庭にはでおつぎがざあと水みづを汲くんでは又また間あひだを隔へだてゝざあと水みづを汲くんで居ゐるのを聞きいた。

おつぎは大根を洗った。

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おつぎは大根だいこを洗あらつた。

おつぎは庭ぶたの上にむしろをしいて、暖かい日ざしをあびながら切り干しを切りはじめた。

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おつぎは庭葢にはぶたの上うへに筵むしろを敷しいて暖あたゝかい日光につくわうに浴よくしながら切干きりぼしを切きりはじめた。

大根を横に幾つかに切って、さらにそれをたてに割って細長くきざむ。

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大根だいこを横よこに幾いくつかに切きつて、更さらにそれを竪たてに割わつて短册形たんざくがたに刻きざむ。

おつぎは飯だいにわたしたまな板の上へとんとんとほうちょうを落としては、そのほうちょうで白くきざまれた大根を飯だいの中へしごき落とす。

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おつぎは飯臺はんだいへ渡わたした爼板まないたの上うへへとん/\と庖丁はうちやうを落おとしては其その庖丁はうちやうで白しろく刻きざまれた大根だいこを飯臺はんだいの中なかへ扱こき落おとす。

お品は切り干しをきざむ音を聞いたとき、さっきのは大根を洗っていたのだなと思った。

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お品しなは切干きりぼしを刻きざむ音おとを聞きいた時とき先刻さつきのは大根だいこを洗あらつて居ゐたのだなと思おもつた。

お品は、この二、三日、もう切り干しも切らなければと自分で言っていたのを思い出して、おつぎがよく気をきかせたと心の中でよろこんだ。

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お品しなは二三日にち此この來かたもう切干きりぼしも切きらなければならないと自分じぶんが口くちについて云いつて居ゐたことを思おもひ出だして、おつぎが能よく機轉きてんを利きかしたと心こゝろで悦よろこんだ。

ほうちょうの音が雨戸のすぐ外に聞こえる。

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庖丁はうちやうの音おとが雨戸あまどの外そとに近ちかく聞きこえる。

お品が体を半分ふとんからずり出してみたら、手ぬぐいで髪をつつんで少し前かがみになっているおつぎの後ろすがたが見えた。

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お品しなは身體からだを半分はんぶん蒲團ふとんからずり出だして見みたら、手拭てぬぐひで髮かみを包つゝんで少すこし前屈まへかゞみになつて居ゐるおつぎの後姿うしろすがたが見みえた。

「大根は分かったのか」

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「大根だいこは分わかつたのか」

お品は聞いた。

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お品しなは聞きいた。

「分かってるよ」

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「分わかつてるよ」

おつぎはほうちょうの手を止めて、横を向いて返事した。

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おつぎは庖丁はうちやうの手てを止とゞめて横よこを向むいて返辭へんじした。

お品はまたふとんにくるまった。

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お品しなは又また蒲團ふとんへくるまつた。

そしてまだ下手なほうちょうの音を聞いた。

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さうしてまだ下手へたな庖丁はうちやうの音おとを聞きいた。

お品のふところにいた与吉は、たいくつしてぐずり出した。

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お品しなの懷ふところに居ゐた與吉よきちは退屈たいくつしてせがみ出だした。

おつぎはそれを聞いて

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おつぎは夫それを聞きいて

「そうら、姉ちゃんのとこへでも来てみろ」

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「そうら、姊ねえが處とこへでも來きて見みろ」

と言いながら、いそいでぽっとひとくべ落ち葉を燃やし、着物をあぶって与吉に着せた。

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といひながら忙せはしくぽつと一燻ひとくべ落葉おちばを燃もやして衣物きものを灸あぶつて與吉よきちへ着きせた。

「よきはりこうだから、姉ちゃんのとこにいるんだぞ」

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「よきは利口りこうだから姊ねえが處とこに居ゐるんだぞ」

お品は言った。

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お品しなはいつた。

おつぎは自分のむしろの上へだいて行った。

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おつぎは自分じぶんの筵むしろの上うへへ抱だいて行いつた。

おつぎの手は落ち葉のほこりでよごれていた。

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おつぎの手ては落葉おちばの埃ほこりで汚よごれて居ゐた。

また、ほうちょうを持ったとき、大根には指のあとがついた。

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再ふたゝび庖丁はうちやうを持もつた時とき大根だいこには指ゆびの趾あとがついた。

おつぎはその手を半纏でふいた。

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おつぎは其その手てを半纏はんてんで拭ぬぐつた。

与吉はそばできざまれた大根へ手を出す。

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與吉よきちは側そばで刻きざまれた大根だいこへ手てを出だす。

「あぶないよ。さあ、これでも持ってろ」

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「危險あぶねえよ、さあ此これでも持もつて居ゐろ」

おつぎは切りかけの大根をやった。

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おつぎは切きり掛かけの大根だいこをやつた。

与吉はすぐにそれをかじった。

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與吉よきちは直すぐにそれを噛かぢつた。

「からくてしようがないだろうな、よきは」

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「辛からくて仕しやうあんめえなよきは」

おつぎは、あまやかすように言った。

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おつぎは甘あまやかすやうにいつた。

お品にはそれがよく聞こえて、二人が何をしているのかが分かった。

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お品しなにはそれが能よく聞きこえて二人ふたりがどんなことをして居ゐるのかゞ分わかつた。

お品の耳には、つづいて

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お品しなの耳みゝには續つゞいて

「ぺっとしたか。そら、そっちへ行っちゃった」

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「ぽうんとしたか、そらそつちへ行いつちやつた」

という声がしたかと思うと

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といふ聲こゑがしたかと思おもふと

「今度はぺっとするんじゃないからな」

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「こんだはぽうんとすんぢやねえかんな」

という声や、それからまた

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といふ聲こゑやそれから又また

「それ、持ち出すんじゃない。言うことを聞かないと、これで切ってやるぞ。血が出るぞ。ああ痛い」

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「それ持もち出だすんぢやねえ、聽きかねえと此これで切きつてやんぞ、赤あかまんまが出でるぞおゝ痛いてえ」

などと、おつぎが言うのが聞こえた。

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抔などとおつぎのいふのが聞きこえた。

そのたびに、ほうちょうの音が止まる。

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其その度たびに庖丁はうちやうの音おとが止やむ。

お品には、与吉がいたずらをしたり、おつぎが痛いと言って指をくわえてみせれば与吉も自分の手を口に当てているのが、目に見えるようである。

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お品しなには與吉よきちが惡戯いたづらをしたり、おつぎが痛いたいといつて指ゆびを啣くはへて見みせれば與吉よきちも自分じぶんの手てを口くちへ當あてて居ゐるのが目めに見みえるやうである。

お品はおつぎをふだんからきびしくしつけていたので、よその子よりよく働けると思っているけれど、与吉とふざけているのを見ると、まだ子どもなのだということが頭に浮かぶ。

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お品しなはおつぎを平常ふだんから八釜敷やかましくして居ゐたので餘所よその子こよりも割合わりあひに動うごけると思おもつて居ゐるけれど、與吉よきちと巫山戯ふざけたりして居ゐるのを見みるとまだ子供こどもだといふことが念頭ねんとうに浮うかぶ。

自分が勘次と知り合ったのは十六の秋である。

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自分じぶんが勘次かんじと相あひ知しつたのは十六の秋あきである。

おつぎもこうして大人らしくなるだろうかと、いつになくそんなことを思った。

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おつぎは恁かうして大人おとならしく成なるであらうかと何時いつになくそんなことを思おもつた。

おつぎは十五だった。

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おつぎは十五であつた。

昼ごはんも、お品はほしくなかった。

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午餐ひるもお品しなは欲ほしくなかつた。

自分でも今日は商売に出られないとあきらめた。

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自分じぶんでも今日けふは商あきなひに出でられないと諦あきらめた。

明日になったらと思っていた。

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明日あすに成なつたらばと思おもつて居ゐた。

しかしそれは、むだな望みだった。

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然しかしそれは空頼そらだのみであつた。

お品は、あいかわらずまくらからはなれられない。

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お品しなは依然いぜんとして枕まくらを離はなれられない。

さすがに不安な気持ちが先に立った。

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有繋さすがに不安ふあんの念ねんが先さきに立たつた。

お品は、つい先ごろ出かけて行った勘次のことがしきりに思い出された。こっちであれだけ働いて行ったのに、きっと休みもしないでお金をかせいでいるのだろうと思うと、寒くてもシャツ一まいになって、あとにはそのシャツのすそがぬけ出してよくおへそが出ることや、夜になると骨がみりみりするようだと言っていたことが目の前にあるようで、なんだか会いたくてたまらない気がするのだった。

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お品しなはつい近頃ちかごろ行いつた勘次かんじの事ことが頻しきりに思おもひ出だされて、こつちであれ程ほど働はたらいて行いつたのに屹度きつと休やすみもしないで錢取ぜにとりをして居ゐるのだらうと思おもふと、寒さむくてもシヤツ一ひとつになつて、後のちには其そのシヤツの端はしが拔ぬけ出だして能よく臍へそが出でることや、夜よるになると能よく骨ほねがみり/\する樣やうだといつたことが目めの前まへにあるやうで何なんだか逢あひたくて堪たまらぬやうな心持こゝろもちがするのであつた。

勘次は利根川をほり広げる工事へ行っていた。

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勘次かんじは利根川とねがはの開鑿工事かいさくこうじへ行いつて居ゐた。

秋のころから土方の人がさそいに来て、ずいぶんうまい話をされたので、この近くの村からも五、六人が応じた。

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秋あきの頃ころから土方どかたが勸誘くわんいうに來きて大分だいぶ甘うまい噺はなしをされたので此この近村きんそんからも五六人にん募集ぼしふに應おうじた。

勘次は工事がどんなものかもよく知らなかったが、一日のかせぎが五十銭以上にもなるというので、それがそのころとしてはとんでもなく高いのにひかれてしまったのである。

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勘次かんじは工事こうじがどんなことかも能よく知しらなかつたが一日にちの手間てまが五十錢せん以上いじやうにもなるといふので、それが其その季節きせつとしては法外はふぐわいな値段ねだんなのに惚ほれ込こんで畢しまつたのである。

工事の場所は霞ヶ浦に近い低い土地で、こう水がいったん岸の草をしずめると、湖は広がって川と一つになり、ただ白々と水があふれるのを、人の手でつくった堤防がかろうじて湖と川とを分けているあたりである。

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工事こうじの場所ばしよは霞かすみヶ浦うらに近ちかい低地ていちで、洪水こうずゐが一旦たん岸きしの草くさを沒ぼつすと湖水こすゐは擴大くわくだいして川かはと一ひとつに只たゞ白々しら/″\と氾濫はんらんするのを、人工じんこうで築きづかれた堤防ていばうが僅わづかに湖水こすゐと川かはとを區別くべつするあたりである。

勘次は自分の土地とくらべて、はてしなく広いあたりのようすにのまれた。

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勘次かんじは自分じぶんの土地とちと比較ひかくして茫々ばう/\たるあたりの容子ようすに呑のまれた。

そして人夫たちに、えらそうにこき使われた。

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さうして工夫等こうふらに權柄けんぺいにこき使つかはれた。

勘次は、いよいよやとわれて行くことになったとき、とり入れを急いだ。

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勘次かんじは愈いよ/\傭やとはれて行ゆくとなつた時とき收穫とりいれを急いそいだ。

冬至が近づくころには、田はもちろん、畑のいもでも大根でも、それぞれかたづけなくてはならない。

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冬至とうじが近ちかづく頃ころには田たはいふまでもなく畑はたけの芋いもでも大根だいこでもそれぞれ始末しまつしなくてはならぬ。

勘次は、お品が起きてかまどの火をつけるまでのあいだに、庭ぶたへもみのむしろをほしたり、それから一人でうすをひいたりして、それから大根もほしたり土にうめたりして、暗いうちから暗くなるまで働いた。

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勘次かんじはお品しなが起おきて竈かまどの火ひを點つけるうちには庭葢にはぶたへ籾もみの筵むしろを干ほしたりそれから獨ひとりで磨臼すりうすを挽ひいたりして、それから大根だいこも干ほしたり土つちへ活いけたりして闇くらいから闇くらいまで働はたらいた。

それでも、もみが少しと畑が少し残ったのを、お品がどうにかすると言ったので出て行ったのである。

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それでも籾もみが少すこしと畑はたけが少すこし殘のこつたのをお品しながどうにかするといつたので出でて行いつたのである。

工事の場所へは八十キロもあった。

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工事こうじの箇所かしよへは廿里りもあつた。

勘次は、行けばすぐにお金になると思ったので、やっと一円ばかりのさいふをふところに入れて出た。

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勘次かんじは行ゆけば直すぐに錢ぜにになると思おもつたので漸やうやく一圓ゑんばかりの財布さいふを懷ふところにした。

べんとうをうんと背負って行ったので、目ざす所に着くまでは、わたし舟のお金のほかには一銭も要らなかった。

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辨當べんたうをうんと背負しよつたので目的地もくてきちへつくまでは渡錢わたしせんの外ほかには一錢せんも要いらなかつた。

勘次は夜に着いて、その次の日にはつかれた体で仕事に出た。

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勘次かんじは夜よるついて其その次つぎの日ひには疲つかれた身體からだで仕事しごとに出でた。

彼は半日でもむだにごはんを食べることをおそれた。

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彼かれは半日はんにちでも無駄むだな飯めしを喰くふことを恐おそれた。

しかしその次の日は、はげしい仕事のせいで、「そら手」といって手のすじがいたんだので、二、三日仕事に出られなかった。

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然しかし其その次つぎの日ひは過激くわげきな勞働らうどうから俗ぞくにそら手というて手ての筋すぢが痛いたんだので二三日にち仕事しごとに出でられなかつた。

それから六、七日たって、はげしい西風がふいた。

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それから六七日にちたつて烈はげしい西風にしかぜが吹ふいた。

勘次はうすいふとんにくるまって、昼のうちから冷えていた足が暖まらなかった。

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勘次かんじは薄うすい蒲團ふとんへくるまつて日ひの中うちから冷ひえてた足あしが暖あたゝまらなかつた。

うとうとするばかりでぐっすりねむることもできず、ねがえりを打って長い夜をやっと明かした。

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うと/\と熟睡じゆくすゐすることも出來できないで輾轉ごろ/\して長ながい夜よを漸やうやく明あかした。

その次の日、彼はこわばったように感じる手を動かして、冷たいシャベルの柄をにぎってどろだらけになっていた。

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其その次つぎの日ひ彼かれは硬こはばつたやうに感かんずる手てを動うごかして冷つめたいシヤブルの柄えを執とつて泥どろにくるまつて居ゐた。

そうしている所へ、村の近所の人がひょっこりたずねて来たので、彼はきつねにでもばかされたように、ただおどろいた。

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さうして居ゐる處ところへ村むらの近所きんじよのものがひよつこり尋たづねて來きたので彼かれは狐きつねにでも魅つままれたやうに只たゞ驚おどろいた。

近所の人は、大ぜいがどろのようになって動いているので、どれがどれとも見分けがつかなくて困ったと言って、勘次に会えたことを何度も言ってよろこんだ。

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近所きんじよの者ものは大勢おほぜいが只たゞ泥どろのやうになつて動うごいて居ゐるのでどれがどうとも識別みわけがつかないで困こまつたといつて、勘次かんじに逢あうたことを反覆くりかへして只たゞ悦よろこんだ。

とちゅうで一晩とまったというようなことを言って、勘次が気ぜわしく聞くまで用件を言わなかった。

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途中とちゆうへ一晩ひとばん泊とまつたといふやうなことをいつて勘次かんじが心こゝろ忙せはしく聞きく迄までは理由わけをいはなかつた。

勘次はやっと、お品にたのまれて来たのだということを知った。

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勘次かんじは漸やうやくお品しなに頼たのまれて來きたのだといふことを知しつた。

勘次は、お品が病気になったのだと聞いて、もしものことがあったらという不安がぎくりと胸にこたえた。

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勘次かんじはお品しなが病氣びやうきに罹かゝつたのだといふのを聞きいて萬一もしかといふ懸念けねんがぎつくり胸むねにこたへた。

そして何度も、どんなぐあいだと聞いた。

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さうして反覆くりかへしてどんな鹽梅あんばいだと聞きいた。

話のようすではそれほどでもないのかと思ってもみたが、それでも勘次は、口をきくにもつばが喉からぐっとこみ上げてくるようで落ち着かなかった。

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噺はなしの容子ようすではそれ程ほどでもないのかと思おもつても見みたが、それでも勘次かんじは口くちを利きくにも唾つばが喉のどからぐつと突つつ返かへして來くるやうで落付おちつかれなかつた。

その日の夜中に、二人は出発した。

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其その日ひの夜中よなかに彼等かれらは立たつた。

勘次は自分も急ぐし、使いの人をつかれた足で歩かせることもできないので、霞ヶ浦を汽船で土浦の町へ出た。

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勘次かんじは自分じぶんも急いそぐし使つかひを疲つかれた足あしで歩あるかせることも出來できないので霞かすみヶ浦うらを汽船きせんで土浦つちうらの町まちへ出でた。

夜は汽船の上で明けたが、どうしたのかとちゅうで故しょうが起きたので、土浦へ着いたのは思っていた時間よりずっとおそくなった。

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夜よるは汽船きせんで明あけたがどうしたのか途中とちうで故障こしやうが出來できたので土浦つちうらへ着ついたのは豫定よていの時間じかんよりは遙はろかに後おくれて居ゐた。

土浦の町で勘次はいわしを一つつみ買って、手ぬぐいでくくってぶら下げた。

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土浦つちうらの町まちで勘次かんじは鰯いわしを一包ひとつゝみ買かつて手拭てねぐひで括くゝつてぶらさげた。

土浦から彼は、つかれた足の人を後ろに置いて、自分は力のかぎり歩いた。

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土浦つちうらから彼かれは疲つかれた足あしを後あとに捨すてゝ自分じぶんは力ちからの限かぎり歩あるいた。

それでも村へ入ったときにはすれちがう人がぼんやり分かるくらいで、自分の戸口に立ったときには、うす暗い手ランプが柱にかかってくすぶっていた。

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それでも村ならへはひつた時ときは行ゆき違ちがふ人ひとがぼんやり分わかる位くらゐで自分じぶんの戸口とぐちに立たつた時ときは薄暗うすくらい手てランプが柱はしらに懸かゝつて燻くすぶつて居ゐた。

勘次は、しんとした家の中に、すぐにふとんにくるまっているお品のすがたを見た。

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勘次かんじはひつそりとした家いへのなかに直すぐに蒲團ふとんへくるまつて居ゐるお品しなの姿すがたを見みた。

それから、お品の足をさすっているおつぎに目をうつした。

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それからお品しなの足あしを揣さすつて居ゐるおつぎに目めを移うつした。

勘次は大戸をがらりと開けてしきいをまたいだとき、何も言わずにただ

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勘次かんじは大戸おほどをがらりと開あけて閾しきゐを跨またいだ時とき何なにもいはずに只たゞ

「どうしたい」

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「どうしてえ」

と言うのが先だった。

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といふのが先さきであつた。

お品は勘次の声を聞いて、思わずまくらを動かして

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お品しなは勘次かんじの聲こゑを聞きいて思おもはず枕まくらを動うごかして

「勘次さんか」

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「勘次かんじさんか」

と言って、さらに

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といつて更さらに

「南のおとっつあんとは、行きちがいにでもならなかっただろうかね」

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「南みなみのおとつゝあは行ゆき違ちげえにでもならなかつたんべかな」

と言った。

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といつた。

「会ったよ。そんだが、お前はどんなぐあいなんだい」

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「行逢いきやつたよ。そんだがお前めえどんな鹽梅あんべえなんでえ」

「おれはそれほどでもないと思っていたが、三、四日横になったきりでなあ。それでも今日あたりはちっとはいいようだから、この分ならすぐによくなるかとも思ってるのよ」

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「俺おらそれ程ほどでねえと思おもつて居ゐたが三四日さんよつか横よこに成なつた切きりでなあ、それでも今日等けふらはちつたあえゝやうだから此この分ぶんぢや直すぐに吹ふつ返けえすかとも思おもつてんのよ」

「それならよかった。おれはただ歩いてもよかったが、南の人をまた歩かせちゃ済まないから、いっしょに土浦まで汽船で来たんだが、南の人はくたびれたもんだから、おれが先に出たんだがな。南の人もあの分じゃ、今夜もなかなか着くまいよ。それに汽船がまたおくれちまってな」

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「そんぢやよかつた、俺おら只たゞぢや歩あるいてもよかつたが、南みなみこと又また歩あるかせちや濟すまねえから同志どうしに土浦つちうらまで汽船じようきで乘のつ着つけたんだが、南みなみは草臥くたびれたもんだから俺おら先さきへ出でたんだがな、南みなみもあの分ぶんぢや今夜こんやもなか/\容易よういぢやあんめえよ、それに汽舩じようきが又また後おくれつちやつてな」

勘次は言いながら、わらじをぬいだ。

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勘次かんじはいひながら草鞋わらじをとつた。

手ぬぐいのはしにくくって来たいわしのつつみをかさりとお品のまくら元へ投げて、首にかけていた風呂しきづつみをどさりと置いて、勘次は庭へ出て足を洗った。

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手拭てぬぐひの端はしへ括くゝつて來きた鰯いわしの包つゝみをかさりとお品しなの枕元まくらもとへ投なげて、首くびへつけて居ゐた風呂敷ふろしき包をどさりと置おいて勘次かんじは庭にはへ出でて足あしを洗あらつた。

勘次はお品のまくら元にすわった。

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勘次かんじはお品しなの枕元まくらもとへ座ざを占しめた。

「そんなに悪くなくて、それでもよかった。おれはどうしたかと思ってな」

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「そんなに惡わるくなくつちやそれでもよかつた、俺おらどうしたかと思おもつてな」

勘次はあらためてまた言った。

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勘次かんじは改あらためて又またいつた。

「お品、ごはんは食べたか」

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「お品しなおまんまは喰たべてか」

勘次はつけ足した。

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勘次かんじはつけ足たした。

「さっき、おつうに米のおかゆをたいてもらって、それでもやっとかき込んだところだよ」

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「先刻さつきおつうに米こめのお粥けえ炊たいて貰もらつてそれでもやつと掻かつ込こんだところだよ」

「それならどうだ、とちゅうで見つけて来たんだから、一ぴきやってみないか」

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「それぢやどうした、途中とちゆうで見付みつけて來きたんだから一疋ぴきやつて見みねえか」

勘次は手ランプをお品のまくら元へ持って来て、いわしのつつみを開いた。

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勘次かんじは手てランプをお品しなの枕元まくらもとへ持もつて來きて鰯いわしの包つゝみを解といた。

いわしは手ランプの光できらきらと青く見えた。

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鰯いわしは手てランプの光ひかりできら/\と青あをく見みえた。

「ほんによなあ」

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「ほんによなあ」

お品はうつぶせになって、こう言った。

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お品しなは俯伏うつぶしになつて恁かういつた。

「おつう、そこへ火でもふきつけてみないか」

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「おつう、其處そこへ火ひでも吹ふつたけて見みねえか」

勘次は言った。

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勘次かんじはいつた。

「勘次さん、そりゃ大変だったな。おれはそんなには要らなかったな」

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「勘次かんじさんそら大變たいへんだつけな、俺おらそんなにや要えらなかつたな」

「今だから、いつまでももつよ。そうしてお前も力をつけろな」

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「今いまだから何時いつまでも保もつよ、さうしてお前めえも力ちからつけろな」

「汽船に乗って来たって、よっぽどお金もかかったんだろうな」

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「汽船じようきに乘のつて來きたつて餘よつ程ぽど費用かゝりも掛かゝつたんべな」

「そうよ、二人で六十銭ばかりだが、これはおれが出したのよ。南の人に出させるわけにも行かないからな」

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「さうよ、二人ふたりで六十錢せんばかりだが此これは俺おれ出だしたのよ、南みなみに出ださせる譯わけにも行えかねえかんな」

「それじゃ、かせいだお金をそれだけむだにしちまったな」

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「それぢや稼かせえだ錢ぜねそれだけ立投たてなげにしつちやつたな」

「そんでもさいふにはまだあるよ。七日ばかり働いて、それでも二円は残ったからな。そんでまた行くはずで、前借りを少ししてきたんだ。こっちのほうから行ってる連中が保しょうしてくれてな」

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「そんでも財布せえふにやまあだ有あるよ、七日なぬかばかり働はたらえてそれでも二兩りやうは殘のこつたかんな、そんで又また行いく筈はずで前借さきがり少すこしして來きたんだ、こつちの方はうから行いつてる連中れんぢうが保證ほしようしてくれてな」

勘次はほこらしげに言った。

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勘次かんじは誇ほこり顏がほにいつた。

「おれは今日みたいならいいが、ひどく会いたくなってなあ」

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「俺おら今日けふ見みてえだらえゝが、酷ひどく行逢いきやひたくなつてなあ」

お品はうつぶせたひたいをまくらにつけた。

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お品しなは俯伏うつぶした額ひたひを枕まくらにつけた。

「どうせここらのかたづけをしないで行ったんだから、一度はとちゅうで帰ってみなくちゃならないのだから、同じことだよ」

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「どうせ此處ここらの始末しまつもしねえで行いつたんだから、一遍いつぺんは途中とちうで歸けえつて見みなくつちや成ならねえのがだから同おなじ事ことだよ」

勘次はお品をのぞきこむようにして言った。

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勘次かんじはお品しなを覗のぞき込こむやうにしていつた。

「それでも俵にはしておいたな」

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「それでも俵たはらにしちや置おいたな」

勘次はかべぎわの麦藁の俵を見て言った。

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勘次かんじは壁際かべぎはの麥藁俵むぎわらだはらを見みていつた。

お品はまだうつぶせのままである。

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お品しなはまだ俯伏うつぶした儘まゝである。

「あっちにいるとお金は要らないな。たばこ一服吸うわけじゃなし、十五日目が締め日で、それまでは支はらいなしで、そのあいだは米でもたきぎでもみんな通ちょうで借りておくくらいなんだから、十五日目にならなくちゃさいふもふくらまないが、また百でも出ることはないからな」

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「あつちに居ゐちや錢ぜには要えらねえな、煙草たばこ一服ぷく吸すふべえぢやなし、十五日目にちめが晦日みそかでそれまでは勘定かんぢやうなしで其その間あひだは米こめでも薪まきでもみんな通帳かよひで借かりて置おく位くれえなんだから、十五日目にちめに成ならなくつちや財布せえふも膨ふくれねえが、又また百ひやくでも出でつこはねえかんな」

勘次はさらに、出先のことをお品に聞かせた。

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勘次かんじは更さらに出先でさきのことをお品しなへ聞きかせた。

「米ばかりたいても毎日一しょうずつは要るくらいだから、骨もずいぶんおれるが、出しさえすりゃ二貫と三貫は残せるから、帰るまでにはおれもどうにかなると思ってるのよ。そうすりゃ塩ざけくらいは買うこともできるからな」

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「米こめばかり炊たえても毎日まいにち一升しようづゝは要える位くれえだから骨ほねも隨分ずゐぶん折をれんが出でせえすりや二貫くわんと三貫ぐわんは殘のこせつから、歸けえるまでにや俺おれもどうにか成なると思おもつてんのよ、さうすりや鹽鮭しほびき位ぐれえは買かあことも出來できらな」

「それならよかった。土方なんて、ろくな人はいないっていうから、どうしたかと思ってな」

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「そんぢやよかつた、土方どかたなんちや碌ろくな奴等やつらは居えねえつていふからどうしたかと思おもつてな」

お品は首を持ち上げた。

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お品しなは首くびを擡もたげた。

「そんな人たちと付き合った日にはきりがないが、すみのほうで小さくなってりゃ何とも言わないな」

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「そんな奴等やつらと交際つきえゝした日ひにや限かぎりはねえが、隅すみの方はうにちゞまつてりや何なんともゆはねえな」

勘次がついているあいだに、おつぎはかれたしばを折って火ばちに火をおこした。

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勘次かんじがついて居ゐる間あひだにおつぎは枯粗朶かれそだを折をつて火鉢ひばちへ火ひを起おこした。

勘次は火ばしをわたして、いわしを三つばかり乗せた。

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勘次かんじは火箸ひばしを渡わたして鰯いわしを三みつばかり乘のせた。

いわしのあぶらがじりじりとたれて、青いほのおが立った。

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鰯いわしの油あぶらがぢり/\と垂たれて青あをい焔ほのほが立たつた。

いわしのにおいが、うすいけむりといっしょに部屋の中に満ちた。

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鰯いわしの臭にほひが薄うすい煙けむりと共ともに室内しつないに滿みちた。

そして、そのにおいがお品の食よくをさそった。

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さうして其その臭にほひがお品しなの食慾しよくよくを促うながした。

お品はうつぶせのままで、けむり臭くなったいわしを食べた。

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お品しなは俯伏うつぶしたなりで煙臭けぶりくさくなつた鰯いわしを喰たべた。

「どうだ、塩からくはあるまい」

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「どうした鹽辛しよつぱかあ有あんめえ」

「さすがにうまいな」

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「有繋まさか佳味うめえな」

「これでも、ここらの商人は持って来ないぞ」

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「此これでもこゝらの商人あきんどは持もつちや來きねえぞ」

勘次はじっと見ながら言った。

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勘次かんじは一心いつしんに見みながらいつた。

お品は二ひきに手をつけてはしを置きながら、ふところでねむっている与吉をのぞいて

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お品しなは二匹にひきへ手てをつけて箸はしを置おきながら懷ふところで眠ねむつて居ゐる與吉よきちを覗のぞいて

「起きていたら大さわぎだろう」

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「起おきて居ゐたら大騷おほさわぎだんべ」

と言った。

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といつた。

「もっと食べろな」

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「いまつとたべろな」

勘次は言った。

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勘次かんじはいつた。

「もう十分だよ。おつうにもやってくれよな」

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「澤山たくさんだよ、おつうげもやつてくろうな」

「おれもごはんでも食べようかね」

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「俺おれも飯めしでも食くはうかえ」

勘次は風呂しきづつみからべんとうの残りを出して、冷たいままぶすぶすとかじった。

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勘次かんじは風呂敷包ふろしきづゝみから辨當べんたうの殘のこりを出だして冷つめたい儘まゝぷす/\と噛かぢつた。

「おうい、お茶は冷たくなったっけかな」

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「おうつ、お茶ちやは冷つめたくなつたつけかな」

お品は言った。

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お品しなはいつた。

「要らないぞ。仕事に出りゃ毎日こうだ」

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「要えらねえぞ仕事しごとに出でりや毎日まえんちかうだ」

勘次はうめぼしを少しずつなめてへらした。

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勘次かんじは梅干うめぼしを少すこしづゝ嘗なめ減へらした。

べんとうがなくなってから、勘次はいわしをおつぎにはさんでやった。

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辨當べんたうが盡つきてから勘次かんじは鰯いわしをおつぎへ挾はさんでやつた。

そして自分でも一口食べた。

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さうして自分じぶんでも一口くちたべた。

「これはうまいことはうまいが、あんまりあぶらっこくて、おれには気持ちが悪くなるようだな」

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「此こりや佳味うめえこたあ佳味うめえが餘あんまりあまくつて俺おらがにや胸むねが惡わるくなるやうだな」

勘次は冷めたお湯を何ばいもかたむけた。

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勘次かんじは冷さめた湯ゆを幾杯いくはいか傾かたぶけた。

勘次は風呂しきからふくろを出して、お品のまくら元へ置いて

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勘次かんじは風呂敷ふろしきから袋ふくろを出だしてお品しなの枕元まくらもとへ置おいて

「米はこれだけ残ったから持って来たんだ。あっちにいればいいが、何日も空けると、たかれちまっても仕方がないからな。そんじゃ、これはおつうにやっておくんだ」

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「米こめこれだけ殘のこつたから持もつて來きたんだ、あつちに居ゐればえゝが幾日いつかでも明あけると炊たかれつちやつても仕しやうねえかんな、そんぢや此こりやおつうげやつて置おくんだ」

勘次は米の小さなふくろをおつぎにわたした。

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勘次かんじは米こめの小ちひさな袋ふくろをおつぎへ渡わたした。

「ふくろなんぞ、また何だと思ったよ」

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「袋ふくろなんぞ又また何なんだと思おもつたよ」

お品は軽く言った。

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お品しなは輕かるくいつた。

「それでもたきぎは持って来るわけにも行かないから、置いて来ちまった」

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「それでも薪まきは持もつて來くる譯わけにも行いかねえから置おいて來きつちやつた」

勘次は自分をあざ笑うように、目から口へかけて冷たい笑いが動いた。

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勘次かんじは自みづから嘲あざけるやうに目めから口くちへ掛かけて冷つめたい笑わらひが動うごいた。

「お品、足でもさすってやろうじゃないか」

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「お品しな、足あしでもさすつてやんべぢやねえか」

勘次はお品のあしもとのほうへ行った。

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勘次かんじはお品しなの裾すその方はうへ行いつた。

「いいよ勘次さん。おれは今日は昼のうちから気分がいいんだから。さっきもおつぎがさすってやろうなんて言うもんだから、少しもやってくれるなって言ったところだよ。この分じゃ二、三日もすぎたら、勘次さんはまた行けるだろうよ」

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「えゝよ勘次かんじさん、俺おら今日けふは日ひのうちから心持こゝろもちえゝんだから、先刻さつきもおつうが揣さすつてやんべなんていふもんだから少しもやつてくろつて云ゆつた處ところだよ、こんぢや二三日にさんちも過すぎたら勘次かんじさんは又また行いけべえよ」

お品は気持ちよさそうに言った。

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お品しなは快こゝろよげにいつた。

「今夜はひどく気分がいいんだよ。いいよ、本当だよ勘次さん。お前はくたびれただろうな」

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「今夜こんやはひどく心持こゝろもちえゝんだよ、えゝよ本當ほんたうだよ勘次かんじさん、お前めえ草臥くたびれたんべえな」

さらにお品は元気づいて言った。

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更さらにお品しなは威勢ゐせいがついていつた。

夜はふけた。

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夜よは深ふけた。

外の暗やみはこおったかと思うほど、ただしんとしていた。

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外そとの闇やみは氷こほつたかと思おもふやうに只たゞしんとした。

こんにゃくの水にも、紙のようなこおりが張った。

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蒟蒻こんにやくの水みづにも紙かみの如ごとき氷こほりが閉とぢた。

三

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三

次の朝、霜は白く庭ぶたの藁におりた。

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次つぎの朝あさ霜しもは白しろく庭葢にはぶたの藁わらにおりた。

切り干しのむしろは三枚ばかりその庭ぶたの上にしいたままで、切り干しにはこおりを粉にしたような霜がついていて、東の森のすきまからさしこむ朝日にきらきらと光った。

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切干きりぼしの筵むしろは三枚さんまいばかり其その庭葢にはぶたの上うへに敷しいた儘まゝで、切干きりぼしには氷こほりを粉末ふんまつにしたやうな霜しもが凝こつて居ゐて、東ひがしの森もりの隙間すきまから射さし透とほす朝日あさひにきら/\と光ひかつた。

白い切り干しは、蒸さずにほしたものだった。

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白しろい切干きりぼしは蒸むさずに干ほしたのであつた。

切り干しは、雨がふらなければ、ほこりだらけになろうがごみがまじろうが、昼も夜もむしろはしきっぱなしである。

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切干きりぼしは雨あめが降ふらねば埃ほこりだらけに成ならうが芥ごみが交まじらうが晝ひるも夜よるも筵むしろは敷しき放はなしである。

勘次は霜柱の立った細い道を南へ行った。

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勘次かんじは霜柱しもばしらの立たつてる小徑こみちを南みなみへ行いつた。

昨夜おそくなったことやら何やら話をして、手間取った。

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昨夜ゆうべ遲おそかつたことやら何なにやら噺はなしをして暇ひまどつた。

庭先からつづく小さな桑畑の向こうに家が見えるので、ふだんそれを勘次の家でも、ただ「南」とだけ言っている。

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庭先にはさきから續つゞく小ちひさな桑畑くはばたけの向むかふに家いへが見みえるので、平生へいぜいそれを勘次かんじの家いへでも唯たゞ南みなみとのみいつて居ゐる。

彼が「こもつくこ」という道具をかついで帰って来たときには、日なたの霜が少しとけてねばついていた。

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彼かれが薦こもつくこを擔かついで歸かへつて來きた時ときは日向ひなたの霜しもが少すこし解とけて粘ねばついて居ゐた。

お品は、勘次がちょっとのあいだいなくなったので、ひどくさびしかった。

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お品しなは勘次かんじが一寸ちよつとの間ま居ゐなく成なつたので酷ひどく寂さびしかつた。

この朝になってからもお品のようすがいいので、勘次はほっと安心した。

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此この朝あさになつてからもお品しなの容態ようだいがいゝので勘次かんじはほつと安心あんしんした。

そして、ななめに遠くからさす冬の日をあびながら、庭ぶたの上にむしろをしいて俵をあみはじめた。

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さうして斜なゝめに遠とほくから射さす冬ふゆの日ひを浴あびながら庭葢にはぶたの上うへに筵むしろを敷しいて俵たはらを編あみはじめた。

こもつくこは、両はしに足がついている。

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薦こもつくこは兩端りやうたんに足あしが附ついて居いる。

ちょうど馬のくらの骨のような、かんたんな道具である。

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丁度ちやうど荷鞍にぐらの骨ほねのやうな簡單かんたんな道具だうぐである。

その足から足へわたした棒へ藁をひとつかみずつ当てては、八人坊主をあっちへこっちへ打ちちがえながら、縄をしめつつあむのである。

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其その足あしから足あしへ渡わたした棒ぼうへ藁わらを一掴ひとつかみづゝ當あてゝは八人坊主はちにんばうずをあつちへこつちへ打ぶつ違ちがひながら繩なはを締しめつゝ編あむのである。

八人坊主というのは、その縄を巻いた、いわば小さなおもりである。八つあるので八人坊主と言っている。

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八人坊主はちにんばうずといふのは其その繩なはを捲まいたいはゞ小ちひさな錘おもりである、八やつつあるので八人坊主はちにんばうずといつて居ゐる。

小作米を入れる藁俵を四、五俵分作らねばならないことが、かせぎに出るときから彼には気がかりだった。

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小作米こさくまいを入いれる藁俵わらだはらを四五俵分へうぶん作つくらねば成ならぬことが稼かせぎに出でる時ときから彼かれには心掛こころがかりであつた。

よりわけた藁も縄も別に取っておきながら、ただいそがしくてほうり出して出て行ったのである。

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すぐつた藁わらも繩なはも別べつに取とつて置おきながら只たゞ忙せはしくて放棄うつちやつて出でて行いつたのである。

お品は、毎日しめきっていた表の雨戸を一枚だけ開けさせた。

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お品しなは毎日まいにち閉しめ切きつて居ゐた表おもての雨戸あまどを一枚まいだけ開あけさせた。

からりとした青い空が見えて、日が自分のいるふとんの近くまでのびてきた。

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からりとした蒼あをい空そらが見みえて日ひが自分じぶんの居ゐる蒲團ふとんに近ちかくまで偃はつた。

お品はこれまでは、明るい外を見ようと思うには、あまりに心がふさいでいた。

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お品しなは此これまでは明あかるい外そとを見みようと思おもふには餘あまりに心こゝろが鬱うつして居ゐた。

お品は庭先のくりの木からたれた大根が、茶色にかわいているのを見た。

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お品しなは庭先にはさきの栗くりの木きから垂たれた大根だいこが褐色かつしよくに干ひて居ゐるのを見みた。

おつぎも勘次の横にむしろをしいて、また大根を切っている。

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おつぎも勘次かんじの横よこへ筵むしろを敷しいて又また大根だいこを切きつて居ゐる。

そのほうちょうのとんとんと鳴るあいまに、いそがしく八人坊主を動かしてはさらさらと藁をしごく音が、かすかにまじって聞こえる。

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其その庖丁はうちやうのとん/\と鳴なる間あひだに忙せはしく八人坊主はちにんばうずを動うごかしてはさらさらと藁わらを扱しごく音おとが微かすかに交まじつて聞きこえる。

お品は二人のすがたを前にして、ひどく心強く感じた。

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お品しなは二人ふたりの姿すがたを前まへにして酷ひどく心強こゝろづよく感かんじた。

その日は、くりの木にかけた大根が動かないほど、おだやかな日だった。

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其その日ひは栗くりの木きに懸かけた大根だいこの動うごかぬ程ほど穩おだやかな日ひであつた。

お品はこの分なら、紙を一まいずつはがすようによくなっていくと信じた。

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お品しなは此この分ぶんで行ゆけば一枚紙いちまいがみを剥はがすやうに快こゝろよくなることゝ確信かくしんした。

勘次は藁俵をあみおえて、そしてはしをしばった小さな藁のたばを丸く開いて、それを足の底にふんで、かかとを中心に手と足とをコンパスのようにしてぐるぐる回りながら、丸い「俵ぼっち」を作った。

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勘次かんじは藁俵わらだはらを編あみ了をへて、さうして端はしを縛しばつた小ちひさな藁わらの束たばを丸まるく開ひらいて、それを足あしの底そこに踏ふんで踵かゝとを中心ちうしんに手てと足あしとを筆規ぶんまはしのやうにしてぐる/\と廻まはりながら丸まるい俵たはらぼつちを作つくつた。

勘次は、お品がどうにかかたづけておいた麦藁の俵を開けて、できあがったばかりの藁俵へ米をはかって入れた。

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勘次かんじはお品しながどうにか始末しまつをして置おいた麥藁俵むぎわらだはらを明あけて仕上しあげた計ばかりの藁俵わらだはらへ米こめを量はかり込こんだ。

米には赤いつぶもあったが、もみが少しまじっていて、それが目立った。

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米こめには赤あかい粒つぶもあつたが籾あらが少すこし交まじつて居ゐてそれが目めに立たつた。

「もみが少し多かったな」

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「籾あらが少すこしたかゝつたな」

勘次はふとそう言った。

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勘次かんじはふとさういつた。

「そうだったっけかな。それでもおれは唐箕は強くかけたつもりなんだがなあ。今年は赤もたくさんだが、うすの切れぐあいもどういうもんだか悪いんだよ」

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「さうだつけかな、それでも俺おら唐箕たうみは強つよく立たてた積つもりなんだがなよ、今年ことしは赤あかも夥多しつかりだが磨臼するすの切きれ方かたもどういふもんだか惡わりいんだよ」

と、お品は少し体を動かして言いわけするように言った。

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とお品しなは少すこし身みを動うごかして分疏いひわけするやうにいつた。

「もっとも、これくらいなら旦那も大目に見てくれるだろうから、心配はあるまいがなあ」

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「尤もつとも此この位くれえぢや旦那だんなも大目おほめに見みてくれべえから心配しんぺえはあんめえがなよ」

勘次はすぐにお品の病気に気づいて、こう言った。

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勘次かんじは直すぐにお品しなの病氣びやうきに心付こゝろづいて恁かういつた。

かべぎわには、藁のじょうずな俵が、きちんとならべかえられた。

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壁際かべぎはには藁わらの器用きような俵たはらが規則正きそくたゞしく積つみ換かへられた。

お品はそれをじっと見た。

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お品しなはそれを一心しんに見みた。

それもお品の気分をよくする一つだった。

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それもお品しなを快こゝろよくする一ひとつであつた。

勘次は俵のそばの手おけのふたを取って

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勘次かんじは俵たはらの側そばな手桶てをけの蓋ふたをとつて

「これはこんにゃくだな」

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「此こりや蒟蒻こんにやくだな」

と言った。

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といつた。

「おれはそれを仕入れたっきり、起きられないんだよ」

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「俺おらそれ仕入しいれたつきり起おきられねえんだよ」

お品はまくらを手で動かして言った。

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お品しなは枕まくらを手てで動うごかしていつた。

勘次はまたふたをした。

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勘次かんじは又また葢ふたをした。

静かな空をじりじりと移って行く日がかたむいたかと思うと、一気に落ちはじめた。

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靜しづかな空そらをぢり/\と移うつつて行ゆく日ひが傾かたぶいたかと思おもふと一散さんに落おちはじめた。

冬の日は、もうみじかい頂点に来ているのである。

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冬ふゆの日ひはもう短みじかい頂點ちやうてんに達たつして居ゐるのである。

勘次はまだ日があるからと言って、くわをかついで麦畑へ出た。

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勘次かんじはまだ日ひが有あるからといつて鍬くはを擔かついで麥畑むぎばたけへ出でた。

しかしいくらもたがやさないうちに日は落ちて、急に冷たくなったあたりは暗くなってきた。

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然しかし幾いくらも耕たがやさぬうちに日ひは落おちて俄にはかに冷つめたく成なつた世間せけんは暗澹あんたんとして來きた。

お品は勘次を出して、ひどくやるせない気持ちになって、雨戸を引かせて暗いほうを向いて目を閉じた。

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お品しなは勘次かんじを出だして酷ひどく遣瀬やるせないやうな心持こゝろもちになつて、雨戸あまどを引ひかせて闇くらい方はうへ向むいて目めを閉とぢた。

冬至は、もうあと二日しかなくなった。

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冬至とうじはもう間あひだが二日しか無なくなつた。

朝のうちに勘次はこんにゃくのふたを取ってみて

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朝あさの内うちに勘次かんじは蒟蒻こんにやくの葢ふたをとつて見みて

「どうしたもんだかな。おれでもかついで歩こうかな。こうしておいたんじゃ仕方がないからな」

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「どうしたもんだかな、俺おれでも擔かついて歩あるつてんべかな、恁かうして置おいたんぢや仕しやうねえかんな」

とお品に相談してみた。

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お品しなへ相談さうだんして見みた。

「そうよなあ。それよりか、おれはどっちかといったら、大根でもつけてもらいたいな。毎日くりの木を見ていて、ほしすぎやしないかと心配してるんだからよ」

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「さうよな、それよりか俺おらどつちかつちつたら大根だいこでも漬つけて貰もれへてえな、毎日まいんち栗くりの木き見みて居ゐて干過ほしすぎやしめえかと思おもつて心配しんぺえしてんだからよ」

お品はうったえるように言って、そしてさらに

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お品しなは訴うつたへるやうにいつてさうして更さらに

「自分が丈夫でさえあれば、とっくにやっちまったんだが」

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「自分じぶんで丈夫ぢやうぶでせえありや疾とつくにやつちまつたんだが」

と小声で言った。

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と小聲こごゑでいつた。

お品はどうも、勘次を外に出すのがいやだった。

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お品しなはどうも勘次かんじを出だすのが厭いやであつた。

しかし、なんだかそうはっきりとも言えないので、こう言ったのだった。

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然しかし何なんだかさう明白地あからさまにもいはれないので恁かういつたのであつた。

「勘次さん、塩を見てくれないか。おれは大丈夫あると思ってたっけがなあ。それからこっちのおけのぬかがいいんだよ。そっちのには房州砂がまじってるんだから」

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「勘次かんじさん鹽しほ見みてくんねえか、俺おら大丈夫だえぢよぶ有あると思おもつてたつけがなよ、それからこつちの桶をけの糠ぬかがえゝんだよ、そつちのがにや房州砂ばうしうずな交まじつてんだから」

お品は言った。

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お品しなはいつた。

「おうい」

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「おうい」

勘次は言って、

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勘次かんじはいつて、

「房州砂でも何でもかまうまい。どうせぬかを食うんじゃあるまいし。それにこっちのはちっとかたまってら」

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「房州砂ばうしうずなでも何なんでも構かまあめえ、どうで糠ぬか喰くふんぢやあんめえし、それにこつちなちつと凝結こごつてら」

「勘次さん、そんでも入れるなよ。毒だっていうんだから。おれ、せっかく別にしてたんだから」

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「勘次かんじさんそんでも入せえんなよ、毒どくだつちんだから、俺おれ折角せつかく別べつにしてたんだから」

お品は少し体を起こしかけて言った。

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お品しなは少すこし身みを起おこし掛かけていつた。

「そうか、そんじゃそうしよう」

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「さうかそんぢやさうすべよ」

それから塩をあらためて見て

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それから鹽しほを改あらためて見みて

「どうしてこれだけで使い切れるもんかい」

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「どうして此これだけ使つかへ切きれるもんけえ」

と勘次は言った。

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と勘次かんじはいつた。

お品は、勘次がはしごをかけて一つ一つ大根を外すのも、こぬかをむしろへはかるのも、白い塩をこぬかにまぜるのも、うれしそうに見ていた。

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お品しなは勘次かんじが梯子はしごを掛かけて一ひとつ/\に大根だいこを外はずすのも小糠こぬかを筵むしろへ量はかるのも白しろい鹽しほを小糠こぬかへ交まぜるのも滿足氣まんぞくげに見みて居ゐた。

お品は勘次を外へやるのがいやなので、そうは言わずに、ときどきおつぎに足をさすらせた。

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お品しなは勘次かんじを外ほかへ遣やるのが厭いやなのでさうはいはずに時々とき/″\おつぎに足あしをさすらせた。

そうすると勘次は

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さうすると勘次かんじは

「どうした、いくらか悪いのか」

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「どうした幾いくらか惡わるいのか」

と、自分もいっしんにふとんのすそへ手をかける。

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と自分じぶんも一心しんに蒲團ふとんの裾すそへ手てを掛かける。

勘次は庭から外へは出られなかった。

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勘次かんじは庭にはから外そとへは出でられなかつた。

それでも冬至が明日とせまった日に、勘次はこんにゃくを持って出た。

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それでも冬至とうじが明日あすと迫せまつた日ひに勘次かんじは蒟蒻こんにやくを持もつて出でた。

お品も、それは止めなかった。

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お品しなもそれは止とめなかつた。

もう何人か歩いたあとなので、思うようには売れなかったが、それでも勘次はお品のことが気になって、まだ残っているこんにゃくをかついで帰って来てしまった。

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もう幾人いくにんか歩あるいた後あとなので、思おもふやうには捌はけなかつたがそれでも勘次かんじはお品しなにひかされて、まだ殘のこつて居ゐる蒟蒻こんにやくを擔かついで歸かへつて來きて畢しまつた。

「こんにゃくはお品のものだから、お金はみんなお前にやっておこう」

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「蒟蒻こんにやくはお品しながもんだから、錢ぜにはみんなおめえげ遣やつて置おくべ」

勘次は銅貨をじゃらじゃらとお品のまくら元へあけた。

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勘次かんじは銅貨どうくわをぢやら/\とお品しなの枕元まくらもとへ明あけた。

お品は銅貨を一つ一つかぞえた。

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お品しなは銅貨どうくわを一つ/\勘定かんぢやうした。

そして、もとでを引いてもいくらかあまりが出たので

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さうして資本もとでを引ひいても幾いくらかの剩餘あまりがあつたので

「勘次さん、思ったよりよかったな。まだあとよっぽどあるだろうか」

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「勘次かんじさん思おもひの外ほかだつけな、まあだあと餘程よつぽどあんべえか」

と言った。

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といつた。

「いくらでもないな。もうこれだけじゃ、また出るほどのこともあるまいよ」

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「幾いくらでもねえな、はあ此丈これだけぢや又また出でる程ほどのこつてもあんめえよ」

勘次は言った。

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勘次かんじはいつた。

お品は自分の手でお金をふとんの下へ入れた。

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お品しなは自分じぶんの手てで錢ぜにを蒲團ふとんの下したへ入いれた。

その日、お品は勘次を出して情けないような気持ちでいたのだが、思ったよりは商売をして来てくれたので、一日の物足りなさがすっかり取りもどされた。

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其その日ひお品しなは勘次かんじを出だして情なさけないやうな心持こゝろもちがして居ゐたのであるが、思おもつたよりは商あきなひをして來きて呉くれたので一日にちの不足ふそくが全まつたく恢復くわいふくされた。

そして

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さうして

「菜っぱは畑へ置きっぱなしだったろうな」

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「菜なは畑はたけへ置おきつ放ぱなしだつけべな」

と勘次が言ったとき、お品もおどろいたように

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勘次かんじがいつた時ときお品しなも驚おどろいたやうに

「ほんにそうだったなあ。まあ、おくれちまったっけなあ。おれは忘れてたっけが、大丈夫だろうかなあ」

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「ほんにさうだつけなまあ、後おくれつちやつたつけなあ、俺おら忘わすれてたつけが大丈夫だえぢよぶだんべかなあ」

と言った。

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といつた。

「そんじゃおれは、今からでも引けるだけ引こう」

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「そんぢや俺おら今いまつからでも曳ひける丈だけ曳ひくべ」

勘次はおつぎを連れて出た。

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勘次かんじはおつぎを連つれて出でた。

冬至になるまで畑の菜っぱをほうっておく者は、村には一人もいなかった。

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冬至とうじになるまで畑はたけの菜なを打棄うつちやつて置おくものは村むらには一人ひとりもないのであつた。

勘次は荷車を借りて、夕方までに二車引いた。

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勘次かんじは荷車にぐるまを借かりて黄昏ひくれまでに二車くるま挽ひいた。

青菜の下の葉は、もうすっかり黄色にかれていた。

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青菜あをなの下葉したばはもうよく/\黄色きいろに枯かれて居ゐた。

お品は二人を送り出し、うす暗くなった家でぼんやりしていても、畑のとり入れのことを思うと、さびしい物足りなさは感じなかった。

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お品しなは二人ふたりを出だし薄暗うすぐらくなつた家いへにぼつさりして居ゐても畑はたけの收穫しうくわくを思案しあんして寂さびしい不足ふそくを感かんじはしなかつた。

夏のいそがしい、そして野菜の少ないときには、おかずといえば塩をかむようなつけ物しかないので、大根でも青菜でもたくさんたくわえておくことが、彼らにはとても大事なことの一つになっているのである。

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夏季かきの忙いそがしいさうして野菜やさいの缺乏けつばふした時ときには彼等かれらの唯一ゆゐいつの副食物ふくしよくぶつが鹽しほを噛かむやうな漬物つけものに限かぎられて居ゐるので、大根だいこでも青菜あをなでも比較的ひかくてき餘計よけいな蓄たくはへをすることが彼等かれらには重大ぢゆうだいな條件でうけんの一ひとつに成なつてるのである。

冬至の日も静かだった。

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冬至とうじの日ひも靜しづかであつた。

このごろになってから、ここばかりは忘れたかと思うように西風が止んでいる。

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此この頃ごろになつてから此處ここばかりは忘わすれたかと思おもふやうに西風にしかぜが止やんで居ゐる。

昼のひとときは、冷たい空気をとおして日が暖かにさしかけた。

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晝ひるの一ひとしきりは冷つめたい空氣くうきを透とほして日ひが暖あたゝかに射さし掛かけた。

お品は朝から気分が晴れ晴れとして、日がのぼるにつれてふとんの上に起き直ってみたが、体が力のないなりに、ふしぎに軽くなったのを感じた。

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お品しなは朝あさから心持こゝろもちが晴々はれ/″\して日ひが昇のぼるに連つれて蒲團ふとんへ起おき直なほつて見みたが、身體からだが力ちからの無ないながらに妙めうに輕かるく成なつたことを感かんじた。

自分のふとんのそばまでさしこむ日にさそい出されたように、雨戸のしきいのそばまで出て、与吉をだいてはたおしてみたり、くすぐってみたりしてはしゃがせた。

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自分じぶんの蒲團ふとんの側そばまで射さし込こむ日ひに誘さそひ出だされたやうに、雨戸あまどの閾際しきゐぎはまで出でて與吉よきちを抱だいては倒たふして見みたり、擽くすぐつて見みたりして騷さわがした。

勘次はおつぎを相手に、井戸ばたで青菜のかたづけをしている。

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勘次かんじはおつぎを相手あひてに井戸端ゐどばたで青菜あをなの始末しまつをして居ゐる。

根を切っておけで洗った青菜は、地面へ横たえたはしごの上に、一まい外して持って来た戸板を置いて、その上へ積まれた。

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根ねを切きつて桶をけで洗あらつた青菜あをなは、地ちべたへ横よこたへた梯子はしごの上うへに一枚まい外はづして行いつて載のせた其その戸板といたへ積つまれた。

菜を洗い終わったとき、かれ葉の多いのはみなかまでゆでて、後ろの林のならのみきへ縄をわたして、ほし菜にしてかけた。

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菜なが洗あらひ畢をはつた時とき枯葉かれはの多おほいやうなのは皆みな釜かまで茹ゆでゝ後うしろの林はやしの楢ならの幹みきへ繩なはを渡わたして干菜ほしなに掛かけた。

自分たちの昼ごはんのおかずにも、ひとかまゆでた。

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自分等じぶんらの晝餐ひるの菜さいにも一釜ひとかま茹ゆでた。

お品は、少しのあいだ横になっていたばかりに目がおとろえたのか、日がまぶしいのを感じながら、その日の光を体じゅうにあびて、二人のするのを見ていた。

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お品しなは僅わづかな日數ひかずを横よこに成なつて居ゐたばかりに目めが衰おとろへたものか日ひの稍やゝ眩まぶしいのを感かんじつゝ其その日ひの光ひかりを全身ぜんしんに浴あびながら二人ふたりのするのを見みて居ゐた。

そして、ゆで菜の一さらが、いくらかのどがかわいていたせいか、とてもおいしく感じた。

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さうして茹菜ゆでなの一皿ひとさらが幾いくらか渇かつを覺おぼえた所爲せゐか非常ひじやうに佳味うまく感かんじた。

青菜の水が切れたので、勘次はおけへ塩をふっては青菜を足でぎりぎりとふみつけ、また塩をふってはふみつける。

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青菜あをなの水みずが切きれたので勘次かんじは桶をけへ鹽しほを振ふつては青菜あをなを足あしでぎり/\と蹂ふみつけて又また鹽しほを振ふつては蹂ふみつける。

お品は塩のかげんやら何やら、さっきからしきりに口を出している。

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お品しなは鹽しほの加減かげんやら何なにやら先刻さつきから頻しきりに口くちを出だして居ゐる。

勘次はお品の言うとおりにしている。

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勘次かんじはお品しなのいふ通とほりに運はこんで居ゐる。

お品は起きていても別につかれもしないので、そっとぞうりをはいて後ろの戸口から出て、ならの木へ張ったほし菜を見た。

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お品しなは起おきて居ゐても別べつに疲つかれもしないのでそつと草履ざうりを穿はいて後うしろの戸口とぐちから出でて楢ならの木きへ引ひつ張ぱつた干菜ほしなを見みた。

それから林をななめに田のはしへ下りて、また、ぐみの木のそばに立って、そこをそっとふみ固めた。

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それから林はやしを斜なゝめに田たの端はたへおりて又また牛胡頽子うしぐみの側そばに立たつて其處そこをそつと踏ふみ固かためた。

それからしばらく、あたりを見て立っていた。

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それから暫しばらく周圍あたりを見みて立たつて居ゐた。

お品は庭先から呼ぶ勘次の大きな声を聞いた。

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お品しなは庭先にはさきから喚よぶ勘次かんじの大おほきな聲こゑを聞きいた。

竹や木のみきに手をかけながらななめに林を上って、後ろの戸口から家へもどったとき、さらに呼ぶ勘次の声を聞くとともに、てんびん棒をかついだままぼんやり立っている商人のすがたを、庭ぶたの上に見た。

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竹たけや木きの幹みきに手てを掛かけながら斜なゝめに林はやしをのぼつて後うしろの戸口とぐちから家うちへもどつた時とき更さらに叫さけんだ勘次かんじの聲こゑを聞きくと共ともに、天秤てんびんを擔かついだ儘まゝぼんやり立たつて居ゐる商人あきんどの姿すがたを庭葢にはぶたの上うへに見みた。

「お品、たまごがほしいとよ」

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「お品しな卵たまご欲ほしいと」

勘次は次のおけの青菜に塩をふりかけながら言った。

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勘次かんじは次つぎの桶をけの青菜あをなに鹽しほを振ふり掛かけながらいつた。

「いくらかあったっけな」

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「幾いくらか有あつたつけな」

お品は戸だなの引き出しから、白いからのたまごを二十ばかり出した。

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お品しなは戸棚とだなの抽斗ひきだしから白しろい皮かはの卵たまごを廿ばかり出だした。

「おつう、四、五日見ないでいたっけが、ねぐらにもいくらかあったろう。上がってみないか」

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「おつう、四五日見みねえで居ゐたつけが塒とやにも幾いくらか有あつたつけべ、あがつて見みねえか」

とおつぎに言いつけた。

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おつぎに吩附いひつけた。

おつぎが米俵へ上って、その上に低くつるした竹かごのねぐらをのぞいたとき、めんどりが一羽けたたましく飛び出して、後ろのならの木の中へ鳴きながら入って行った。

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おつぎは米俵こめだはらへ登のぼつて其その上うへに低ひくく釣つつた竹籃たけかごの塒とやを覗のぞいた時とき、牝雞めんどりが一羽はけたゝましく飛とび出だして後うしろの楢ならの木きの中なかへ鳴なき込こんだ。

ほかのにわとりも、ひとしきりいっしょにやかましく鳴いた。

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他たの鷄にはとりも一しきり共ともに喧やかましく鳴ないた。

おつぎは手をのばしては、たまごを一つ一つ取ってたもとへ入れた。

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おつぎは手てを延のばしては卵たまごを一つ/\に取とつて袂たもとへ入いれた。

おつぎはたもとをぶらぶらさせて、あぶなっかしく米俵を下りた。

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おつぎは袂たもとをぶら/\させて危相あぶなさうに米俵こめだはらを降おりた。

そこにもたまごは六つばかりあった。

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其處そこにも卵たまごは六つばかりあつた。

商人は下ろした四角なざるから、しんちゅうのさらとかぎがつるされたはかりを出した。

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商人あきんどは卸おろした四角かくなぼて笊ざるから眞鍮しんちうの皿さらと鍵かぎが吊つるされた秤はかりを出だした。

「そうばはいくらだね」

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「掛かけは幾いくらだね」

お品は聞いた。

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お品しなは聞きいた。

「十一半さ。近ごろどうも安くてな」

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「十一半はんさ、近頃ちかごろどうも安やすくつてな」

商人は言いながら浅い目ざるへたまごを入れて、もえぎ色のひもの取っ手を持ってはかりのさおを目の高さにして、そしてふんどうの糸をぎっとおさえたまま、銀色の目もりを読んだ。

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商人あきんどはいひながら淺あさい目笊めざるへ卵たまごを入いれて萠黄もえぎの紐ひものたどりを持もつて秤はかりの棹さをを目め八分ぶにして、さうして分銅ふんどうの絲いとをぎつと抑おさへた儘まゝ銀色ぎんいろの目めを數かぞへた。

おもちゃのような小さなそろばんを出して、商人は

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玩具おもちやのやうな小ちひさな十露盤そろばんを出だして商人あきんどは

「みんなで四百二十三もんめ二分だからな、それ」

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「皆掛みながけが四百廿三匁もんめ二分ぶだからなそれ」

はかりの目もりをお品に見せて、そろばんの玉をはじいた。

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秤はかりの目めをお品しなに見みせて十露盤そろばんの玉たまを彈はじいた。

「入れ物の重さを引くと四百八もんめ二分か。どうした、いくつだ、二十六かな。そうすると一つが」

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「風袋ふうたいを引ひくと四百八匁もんめ二分ぶか、どうした幾いくつだ廿六かな、さうすると一ひとつが」

商人が言い終わらないうちに、お品は

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商人あきんどのいひ畢をはらぬうちにお品しなは

「いくらなんだい、この入れ物は」

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「幾いくらなんでえ、此この風袋ふうたいは」

と聞いた。

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と聞きいた。

「十五もんめだな」

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「十五匁もんめだな」

「たいがい十もんめじゃないかい」

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「大概てえげえ十匁もんめぢやねえけえ」

「そんなら見なさい、それ、十五もんめだろう。おれのは他人のより大きいんだからな」

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「そんだら見みさつせえそれ、十五匁もんめだんべ、俺おらがな他人たにんのがよりや大えけえんだかんな」

商人は目ざるをはかりにかけて見せて

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商人あきんどは目笊めざるの目めを掛かけて見みせて

「はて、一つ十五もんめ七分ずつだ。つぶは小さいほうだな」

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「はて、一つ十五匁もんめ七分ぶづゝだ、粒つぶは小ちひせえ方はうだな」

商人はゆっくりそろばんの玉をはじいて

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商人あきんどはゆつくり十露盤そろばんの玉たまを彈はじいて

「四十六銭八厘六毛三しゅとなるんだが、これは八厘としてもらってな」

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「四十六錢せん八厘りん六毛まう三朱しゆと成なるんだが、此こりや八厘りんとして貰もらつてな」

と、商人はさいふから自分の手へお金をあけた。

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と商人あきんどは財布さいふから自分じぶんの手てへ錢ぜにを明あけた。

「お品、お前も自分で食ったらよくないかい。いくつでも取っておけな」

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「お品しなおめえ自分じぶんでも喰くつたらよかねえけ、幾いくつでも取とつて置おけな」

勘次は塩だらけの手を止めて、遠くからどなった。

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勘次かんじは鹽しほだらけにした手てを止とめて遠とほくから呶鳴どなつた。

「このお金でほかの物を買って食べたほうがいいから、これだけはやることにしようよ。せっかくかぞえたもんだからよ。おれはずいぶんよくなったんだから大丈夫だよ」

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「此この錢ぜにで外ほかの物もの買かつて喰くつた方はうがえゝから此これ丈だけは遣やるとすべえよ、折角せつかく勘定かんぢやうもしたもんだからよ、俺おら大層たえそよくなつたんだから大丈夫だえぢよぶだよ」

お品は言った。

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お品しなはいつた。

「そんなこと言わないで、いくつでも取っておけよ。治りぎわに気をつけないといけないもんだから」

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「そんなこといはねえで幾いくつでも取とつて置おけよ、癒なほり際ぎはが氣きを附つけねえぢやえかねえもんだから」

勘次はつけ菜の手を放して、のき下へ来た。

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勘次かんじは漬菜つけなの手てを放はなして檐下のきしたへ來きた。

手も足もゆでたように赤くなっている。

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手ても足あしも茹ゆでたやうに赤あかくなつて居ゐる。

「それじゃ、ちっとは残そうかな」

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「それぢやちつとも殘のこしたものかな」

お品は小さいのを二つ取った。

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お品しなは小ちひさなのを二つ取とつた。

「そんなのじゃないのを取れな」

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「そんなんぢやねえのとれな」

勘次は大きいのを選んで三つ取った。

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勘次かんじは大おほきなのを選えらんで三つとつた。

たまごのからには、手の塩が少しついた。

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卵たまごの皮かはには手ての鹽しほが少すこし附ついた。

「そんじゃ、それをはかってみよう」

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「そんぢやそれ掛かけてんべ」

商人は今度はしんちゅうのさらへたまごを乗せて

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商人あきんどは今度こんどは眞鍮しんちうの皿さらへ卵たまごを乘のせて

「こっちなんぞじゃ、あとでいくらでもできらあな」

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「こつちなんぞぢや、後あと幾いくらでも出來できらあな」

と言いながら取っ手を持った。

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といひながらたどりを持もつた。

たまごが少し動くと、はかりのさおがぐらぐらと落ち着かない。

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卵たまごが少すこし動うごくと秤はかりの棹さをがぐら/\と落付おちつかない。

「ごまかしちゃいやだぞ」

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「誤魔化ごまくわしちや厭やだぞ」

お品はさびしく笑いながら言った。

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お品しなは寂さびしく笑わらひながらいつた。

「どうしてお前、このはかりなんざ検査したばかりだもの。一分でもこのとおりはねたりたれたりして、どうしてとんだ話だ」

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「どうしておめえ、此この秤はかりなんざあ檢査けんさしたばかりだもの一分ぶでも此この通とほり跳はねたり垂たれたりして、どうして飛とんだ噺はなしだ」

商人はふんどうの手をおさえて、また目もりを読んだ。

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商人あきんどは分銅ふんどうの手てを抑おさへて又また目めを讀よんだ。

「五十もんめ一分だな。そうすると一つ十六もんめ七分ずつだ。大きいからな」

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「五十匁もんめ一分ぶだな、さうすつと一ひとつ十六匁もんめ七分ぶづゝだ、大えけえからな」

「塩がくっついてるから、塩の重さもあるぞ」

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「鹽しほがくつゝいてつから鹽しほの目方めかたもあんぞ」

勘次はそばから言って笑った。

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勘次かんじは側そばからいつて笑わらつた。

商人は平気な顔をしている。

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商人あきんどは平然へいぜんとして居ゐる。

「五銭五厘六毛いくらっていうんだ。そうすると、さっきのはいくらの勘定だったっけな」

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「五錢せん五厘りん六毛まう幾いくらつていふんだ、さうすつと先刻さつきのは幾いくらの勘定かんぢやうだつけな」

「四十六銭八厘いくらとか言ったっけな」

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「四十六錢せん八厘りん幾いくらとか言いつたつけな」

お品はすぐに言った。

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お品しなは直すぐにいつた。

「それじゃ差し引き四十一銭三厘とはんぱか。こっちのおっかさんは自分でも商売してるから、おぼえがいいなあ」

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「それぢや差引さしひき四十一錢せん三厘りん小端こばしか、こつちのおつかさま自分じぶんでも商あきねえしてつから記憶おべえがえゝやな」

商人はそろばんを持って

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商人あきんどは十露盤そろばんを持もつて

「どうしたい、ぐあいでも悪いようだが、風邪でも引いたんじゃあるまい」

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「どうしたえ、鹽梅あんべえでも惡わりいやうだが風邪かぜでも引ひいたんぢやあんめえ」

と言った。

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といつた。

「うん、少し悪くて仕方がないのよ」

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「うむ、少すこし惡わるくつて仕しやうねえのよ」

お品は言って

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お品しなはいつて

「はんぱはいくらになるんだい」

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「小端こばしは幾いくらになんでえ」

とさらに聞いた。

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と更さらに聞きいた。

「勘定にはならないなあ、どうも。近ごろは仕方がないよ。文久銭だの青銭だのっていうのが、さっぱり出なくなっちまってな。それからどこへ行ってもこうしておくんだ」

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「勘定かんぢやうにや成なんねえなどうも、近頃ちかごろは仕しやうねえよ文久錢ぶんきうせんだの青錢あをせんだのつちうのが薩張さつぱり出でなくなつちやつてな、それから何處どこへ行いつても恁かうして置おくんだ」

商人がざるからマッチを出そうとすると

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商人あきんどがぼて笊ざるから燐寸マツチを出ださうとすると

「またマッチじゃあるまい」

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「又また燐寸マツチぢやあんめえ」

お品はにっこりした。

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お品しなは微笑びせうした。

「細かい勘定には近ごろマッチと決めておくんだが、どこの商人もそうのようだな」

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「こまけえ勘定かんぢやうにや近頃ちかごろ燐寸マツチと極きめて置おくんだが、何處どこの商人あきんどもさうのやうだな」

商人はたまごをざるへ入れながら言いつづけた。

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商人あきんどは卵たまごを笊ざるへ入いれながらいひ續つゞけた。

「ひどく安くなっちまったな。寒くなればくさりにくいのに、かえって安いっていうんだから、まるで反対になっちまったんだな」

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「酷ひどく安やすくなつちやつたな、寒さむく成なつちや保存もちがえゝのに却けえつて安やすいつちうんだから丸まるで反對あべこべになつちやつたんだな」

勘次は青菜をおけへならべながら言った。

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勘次かんじは青菜あをなを桶をけへ並ならべつゝいつた。

「上海のが入ってきたので、ぐっと値が下がっちまってな。あっちじゃどれほど安いもんだかよ。品が少ないときに安くなるっていうんだから、商人ももうからない」

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「上海シヤンハイがへえつちやぐつと値ねが下さがつちやつてな、あつちぢやどれ程ほど安やすいもんだかよ、品しなが少すくねえ時ときに安やすくなるつちうんだから商人あきんども儲まうからねえ」

てんびん棒をかついで、彼はさらに

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天秤てんびんを擔かついで彼かれは又また更さらに

「そうばが下がりぎみのときにはうっかりすると損だからな。なんでも百姓をして穀物を積んでおく者が一等だよ。たまご拾いもなあ、赤痢でもはやって来て、看護婦だの巡査だの役場の人だのって連中が、病人の口をひねってでもたくさん食ってくれなくちゃ、商人はだめだよ」

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「相場さうばが下さげ氣味ぎみの時ときにやうつかりすつと損物そんものだかんな、なんでも百姓ひやくしやうして穀こく積つんで置おく者ものが一等とうだよ、卵拾たまごひろひもなあ、赤痢せきりでも流行はやつて來きてな、看護婦かんごふだの巡査じゆんさだの役場員やくばゐんだのつちう奴等やつら病人びやうにんの口くちでもひねつてみつしり喰くつてゞも呉くんなくつちや商人あきんどは駄目だめだよ」

商人は帰りぎわに

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商人あきんどは行ゆき掛かけて

「またためておいておくんなせえ」

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「また溜ためて置おいておくんなせえ」

と、今度は少していねいに言い残して去った。

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今度こんどは少すこし叮寧ていねいにいひ捨すてゝ去さつた。

お品はお金をふとんの下のきんちゃくへ入れた。

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お品しなは錢ぜにを蒲團ふとんの下したの巾着きんちやくへ入いれた。

そしてたなから「まるめ箱」を下ろして、三つの白いたまごを入れた。

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さうして籰棚わくだなからまるめ箱を卸おろして三つの白しろい卵たまごを入いれた。

むかしはこの土地でもわたが取れたので、夜なべには女がみな竹のわくで糸をつむいだ。

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以前いぜんは此この土地とちでも綿わたが採とれたので、夜よなべには女をんなが皆みな竹籰たかわくで絲いとを引ひいた。

わた打ち弓でびんびんとほぐしたわたは、はしのような棒をしんにして、ろうそくくらいの大きさにくるくると丸める。

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綿打弓わたうちゆみでびんびんとほかした綿わたは箸はしのやうな棒ぼうを心しんにして蝋燭らふそく位ぐらゐの大おほきさにくる/\と丸まるめる。

それが「まるめ」である。

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それがまるめである。

このまるめから、なれない百姓の手が自由に糸を引いた。

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此このまるめから不器用ぶきような百姓ひやくしやうの手てが自在じざいに絲いとを引ひいた。

このごろはわたがすっかり取れなくなったので、まるめ箱もすすけたままにまれに残っているだけで、糸くずや布のきれはしが入れてあるくらいにすぎない。

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此この頃ごろでは綿わたがすつかり採とれなくなつたので、まるめ箱ばこも煤すゝけた儘まゝ稀まれに保存ほぞんされて居ゐるのも絲屑いとくづや布ぬのの切端きれはしが入いれてある位くらゐに過すぎないのである。

お品はそれから、ふくらんだきんちゃくのためにはね上がったふとんのはしを手でおさえた。

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お品しなはそれから膨ふくれた巾着きんちやくの爲ために跳はねあげられた蒲團ふとんの端はしを手てで抑おさへた。

それからまた横になった。

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それから又また横よこになつた。

さっきからつかれたような気がしていたが、横になると体がとけるようにぐったりして、かすかに気持ちよかった。

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先刻さつきから疲勞ひらうしたやうな心持こゝろもちに成なつて居ゐたが横よこになると身體からだが溶とけるやうにぐつたりして微かすかに快こゝろよかつた。

その晩、一年じゅうの体の中のよごれを落とすのだという冬至のこんにゃくを、みなで食べた。

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其その晩ばん一年中ねんぢうの臟腑ざうふの砂拂すなはらひだといふ冬至とうじの蒟蒻こんにやくを皆みんなで喰たべた。

お品は、この分なら明日からでも起きられるように思っていた。

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お品しなは喰その日ひは明日あすからでも起おきられるやうに思おもつて居ゐた。

そして勘次は、仕事のめどがついたので、また利根川へ行けると心の中で決めていた。

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さうして勘次かんじは仕事しごとの埓らちが明あいたので又また利根川とねがはへ行ゆかれることゝ心こゝろに期きして居ゐた。

四

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四

お品のようすは、その夜から急に変わった。

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お品しなの容態ようだいは其その夜よから激變げきへんした。

勘次がやっとねむりに落ちたとき、お品は

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勘次かんじが漸やうやく眠ねむりに落おちた時ときお品しなは

「口が開けなくなって仕方がないよう」

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「口くちが開あけなく成なつて仕しやうねえよう」

と情けない声で言った。

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と情なさけない聲こゑでいつた。

お品はあごがくぎづけにされたようになって、つばを飲むにも喉がせまくなったように感じた。

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お品しなは顎あごが釘附くきづけにされたやうに成なつて、唾つばを飮のむにも喉のどが狹せばめられたやうに感かんじた。

それで、自分にもどうすることもできないのにおどろいた。

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それで自分じぶんにもどうすることも出來できないのに驚おどろいた。

勘次もびっくりして起きた。

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勘次かんじも吃驚びつくりして起おきた。

「どうしたんだよ、ずいぶん悪いのか。朝までしっかりしてろよ」

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「どうしたんだよ大層たえそ惡わりいのか、朝あさまでしつかりしてろよ」

と力づけてみたが、自分でもどうしていいのか分からないので、ただはらはらしながら夜を明かした。

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と力ちからをつけて見みたが、自分じぶんでもどうしていゝのか解わからないので只たゞはら/\しながら夜よを明あかした。

勘次はただお品が心配なので、近所の人にたのんで、とりあえず医者へ走ってもらった。

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勘次かんじは只たゞお品しなが心配しんぱいになるので、近所きんじよの者ものを頼たのんで取とり敢あへず醫者いしやへ走はしらせた。

そして自分はまくら元にくっついていた。

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さうして自分じぶんは枕元まくらもとへくつゝいて居ゐた。

彼らは、かんたんなことで医者を呼ぶのではなかった。

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彼等かれらは容易よういなことで醫者いしやを聘よぶのではなかつた。

しかし、そのいちばんこわいお金の問題がその心をおさえるには、勘次はあまりに慌てて、そしておどろいていた。

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然しかし其その最もつとも恐おそれを懷いだくべき金錢きんせんの問題もんだいが其その心こゝろを抑制よくせいするには勘次かんじは餘あまりに慌あわてゝ且かつ驚おどろいて居ゐた。

医者は鬼怒川をこえた東にいる。

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醫者いしやは鬼怒川きぬがはを越こえて東ひがしに居ゐる。

勘次は、つかれやしないかと言ってはお品の足をさすった。

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勘次かんじは草臥くたぶれやしないかといつてはお品しなの足あしをさすつた。

それでもお品のだるそうなようすが、彼のおびえた心にびりびりとひびいて、とても昼過ぎまではじっとしていられなくなった。

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それでもお品しなの大儀相たいぎさうな容子ようすが彼かれの臆おくした心こゝろにびり/\と響ひゞいて、迚とても午後ごゞまでは凝然ぢつとして居ゐることが出來できなくなつた。

近所の女の人が見に来てくれたのをさいわいに、自分もあとから走って行った。

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近所きんじよの女房にようばうが見みに來きて呉くれたのを幸さいはひに自分じぶんも後あとから走はしつて行いつた。

鬼怒川のわたし舟で、さっきの使いの人と行きちがいになった。

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鬼怒川きぬがはの渡わたしの船ふねで先刻さつきの使つかひと行違ゆきちがひに成なつた。

舟から声をかけ合った。

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船ふねから詞ことばが交換かうくわんされた。

勘次は、医者といっしょに帰るからそう言ってお品を安心させてくれとたのんで、医者の門をたたいた。

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勘次かんじは醫者いしやと一緒しよに歸かへるからさういつてお品しなに安心あんしんさせて呉くれといつて醫者いしやの門もんを叩たゝいた。

医者は、ちょうどそっちへ行くついでもあったからと、のんびりしている。

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醫者いしやは丁度ちやうどそつちへ行ゆく序ついでも有あつたからと悠長いうちやうである。

きっと行ってはくれるにしても、そのあとについて行くのでなければ勘次には不安でたまらない。そして彼は、ぼんやりとげんかんにうずくまって待っていることが、せめてもの気やすめだった。

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屹度きつと行いつては呉くれるにしても其その後あとに跟ついて行ゆくのでなくては勘次かんじには不安ふあんで堪たまらないのである、さうして彼かれはぽつさりと玄關げんくわんに踞うづくまつて待まつて居ゐることがせめてもの氣安きやすめであつた。

医者は小さな手さげかばんを一つ持って、古いぼうしをちょこんとかぶって出た。

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醫者いしやは小ちひさな手鞄てかばんを一つ持もつて古ふるい帽子ばうしをちよつぽり載いたゞいて出でた。

かばんは勘次が大事そうに持った。

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手鞄てかばんは勘次かんじが大事相だいじさうに持もつた。

医者は特別なことがなければ人力車に乗らないので、いつも高い歯の下駄でみじかい体をぽくぽくと運んで行く。

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醫者いしやは特別とくべつの出來事できごとがなければ俥くるまには乘のらないので、いつも朴齒ほうばの日和下駄ひよりげたで短みじかい體躯からだをぽく/\と運はこんで行ゆく。

それで車代だけでもどれだけ助かるか知れないというので、貧しい百姓によく呼ばれているのだった。

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それで車錢くるませんだけでも幾いくら助たすかるか知しれないといふので貧乏びんばふな百姓ひやくしやうから能よく聘よばれて居ゐるのであつた。

勘次は道々お品のようすを話して、医者の考えを聞こうとした。

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勘次かんじは途次みち/\お品しなの容態ようだいを語かたつて醫者いしやの判斷はんだんを促うながして見みた。

医者は一度見なければ分からないと言って、しつこい勘次に返事しなかった。

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醫者いしやは一應おう見みなければ分わからぬといつて五月蠅うるさい勘次かんじに返辭へんじしなかつた。

お品の病んだ体に手をふれると、医者はさすがに首をかしげた。

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お品しなの病體びやうたいに手てを掛かけると醫者いしやは有繋さすがに首くびを傾かたぶけた。

それが破傷風のしるしであることを知って、こわくなった。

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それが破傷風はしやうふうの徴候てうこうであることを知しつて恐怖心きようふしんを懷いだいた。

そして、自分は注射器を持たないからと言って、断ってしまった。

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さうして自分じぶんは注射器ちうしやきを持もたないからといつて辭退じたいして畢しまつた。

勘次はまた慌てて、ほかの医者へかけつけた。

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勘次かんじは又また慌あわてゝ他たの醫者いしやへ駈かけつけた。

その医者はえんぴつで手帳のはしへちょっと書きつけて、それではすぐにこれを薬屋で買って来るのだと言った。

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其その醫者いしやは鉛筆えんぴつで手帖ててふの端はしへ一寸ちよつと書かきつけて、それでは直すぐに此これを藥舖くすりやで買かつて來くるのだといつた。

それから、自分の家へこれを出せばわたしてくれる者があるからと、これも手帳のはしをやぶった。

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それから自分じぶんの家うちへ此これを出だせば渡わたして呉くれるものがあるからと此これも手帖ててふの端はしを裂さいた。

勘次はまた川をこえて走った。

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勘次かんじは又また川かはを越こえて走はしつた。

薬屋では、びんに入れた薬を二つわたしてくれた。

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藥舖くすりやでは罎びんへ入いれた藥くすりを二包ふたつゝみ渡わたして呉くれた。

一びんが七十五銭ずつだと言われて、勘次はふところが急にげっそりとへった気がした。

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一罎ひとびんが七十五錢せんづゝだといはれて、勘次かんじは懷ふところが急きふにげつそりと減へつた心持こゝろもちがした。

彼はとんぼ返りに帰って来た。

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彼かれは蜻蛉返とんぼがへりに歸かへつて來きた。

医者の家からは、注射器をわたしてくれた。

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醫者いしやの家うちからは注射器ちうしやきを渡わたしてくれた。

ほかの病人を診てから、医者は夕方に来た。

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他ほかの病家びやうかを診みて醫者いしやは夕刻ゆふこくに來きた。

医者はお品のももをしめらせたガーゼでふいて、ぎっと肉をつまみ上げて針をぷつりとさした。

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醫者いしやはお品しなの大腿部だいたいぶを濕しめしたガーゼで拭ぬぐつてぎつと肉にくを抓つまみ上あげて針はりをぷつりと刺さした。

しばらくして針をぬいて、指の先で針のあとをおさえて、そこへばんそうこうをはった。

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暫しばらくして針はりを拔ぬいて指ゆびの先さきで針はりの趾あとを抑おさへて其處そこへ絆創膏ばんさうかうを貼はつた。

それがすべて、うす暗い手ランプの光で行われた。

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それが凡すべて薄闇うすくらい手てランプの光ひかりで行おこなはれた。

勘次に手ランプを近づけさせて、医者はやっと注射を終えた。

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勘次かんじに手てランプを近ちかづけさせて醫者いしやはやつと注射ちうしやを畢をはつた。

次の日の午前に来て、医者はまた注射をして、たいていこれでよかろうと言って帰った。

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翌日よくじつの午前ごぜんに來きて醫者いしやは復また注射ちうしやをして大抵たいてい此これでよからうといつて去さつた。

しかしお品のようすは、あいかわらずよくなるしるしがないばかりか、だんだんだるそうに見えはじめた。

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然しかしお品しなの容態ようだいは依然いぜんとして恢復くわいふくの徴候ちようこうがないのみでなく次第しだいに大儀相たいぎさうに見みえはじめた。

お品はその夕方から、急にけいれんが起こった。

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お品しなは其その夕刻ゆふこくから俄にはかに痙攣けいれんが起おこつた。

体がびりびりとふるえながら、手も足も引きしめられるように後ろへそった。

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身體からだがびり/\と撼ゆるぎながら手ても足あしも引ひき緊しめられるやうに後うしろへ反そつた。

けいれんはときどき起こった。

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痙攣けいれんは時々ときどき發作ほつさした。

そのたびに、病人は見ていられないほど苦しむ。

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其その度たび毎ごとに病人びやうにんは見みて居ゐられない程ほど苦惱くなうする。

顔が変にゆがんで、口がむりに横へ引っぱられるように見える。

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顏かほが妙めうに蹙しがんで口くちが無理むりに横よこへ引ひき吊つられるやうに見みえる。

勘次は、たった一人のおつぎを相手に、手の出しようもなかった。

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勘次かんじはたつた一人ひとりのおつぎを相手あひてに手ての出だしやうもなかつた。

そして、空が白みはじめるとすぐに、また医者へかけつけた。

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さうしてしら/\明あけといふと直すぐに又また醫者いしやへ駈かけつけた。

医者は、また薬屋へ行って来いと言った。

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醫者いしやは復また藥舖くすりやへ行いつて來こいといつた。

勘次はまた飛んで行った。

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勘次かんじは又また飛とんで行いつた。

しかし、その二号の血清はどこにも品切れだった。

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然しかし其その二號がうの血清けつせいは何處どこにも品切しなぎれであつた。

それは、ある期間をすぎると効かなくなるので、余計な仕入れもしないのだと薬屋では言った。

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それは或ある期間きかんを經過けいくわすれば効力かうりよくが無なくなるので餘計よけいな仕入しいれもしないのだと藥舖くすりやではいつた。

それに、ねだんが高いものだからというのだった。

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それに値段ねだんが不廉たかいものだからといふのであつた。

勘次はそれでも、いくらくらいするものかと思って聞いたら、一びんが三円だと言った。

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勘次かんじはそれでも幾いくら位ぐらゐするものかと思おもつて聞きいたら一罎ひとびんが三圓ゑんだといつた。

勘次は、たとえ品物があったところで、自分の今の力ではとても買えなかったかもしれないと、今さらのようにおどろいてふところへ手を入れてみた。

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勘次かんじは例令たとひ品物しなものが有あつた處ところで、自分じぶんの現在いまの力ちからでは到底たうていそれは求もとめられなかつたかも知しれぬと今更いまさらのやうに喫驚びつくりして懷ふところへ手てを入いれて見みた。

医者はさらに勘次を薬屋へ走らせた。

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醫者いしやは更さらに勘次かんじを藥舖くすりやへ走はしらせた。

勘次は、ただ医者の言うままに息を切らして走り回るあいだが、きっとどうにかしてくれるだろうという望みもあるので、わずかに自分の心をなぐさめられるたった一つの時だった。

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勘次かんじは只たゞ醫者いしやのいふが儘まゝに息いきせき切きつて駈かけて歩あるく間あひだが、屹度きつとどうにか防ふせぎをつけてくれるだらうとの恃たのみもあるので僅わづかに自分じぶんの心こゝろを慰なぐさめ得うる唯ゆゐ一の機會きくわいであつた。

医者は一号の二ばいの量を注射した。

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醫者いしやは一號がうの倍量ばいりやうを注射ちうしやした。

しかしそれはむだだった。

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然しかしそれは徒勞とらうであつた。

病人の発作は、間が短くなった。

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病人びやうにんの發作ほつさは間あひだが短みじかくなつた。

病人はそのたびに、息が苦しくなった。

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病人びやうにんは其その度たびに呼吸こきふに壓迫あつぱくを感かんじた。

近所の人も三、四人、苦しむまくら元にいて、みな悲しみにつつまれた。

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近所きんじよの者ものも三四人にんで苦惱くなうする枕元まくらもとに居ゐて皆みな憂愁いうしうに包つゝまれた。

お品はとつぜん

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お品しなは突然とつぜん

「野田へは知らせてくれまいか」

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「野田のだへは知しらせてくれめえか」

と聞いた。

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と聞きいた。

勘次も近所の人も、卯平へ知らせることも忘れて、ただ苦しむ病人を前にして困っているだけだった。

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勘次かんじも近所きんじよの者ものも卯平うへいへ知しらせることも忘わすれて只たゞ苦惱くなうする病人びやうにんを前まへに控ひかへて困こまつて居ゐるのみであつた。

「明日はきっと来るように言ってやったよ」

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「明日あしたは屹度きつと來くるやうにいつて遣やつたよ」

勘次はお品の耳へ口を当てて言った。

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勘次かんじはお品しなの耳みゝへ口くちを當あてていつた。

今さらのように近所の人がたのまれて、夜通しでも行くということになった。

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今更いまさらのやうに近所きんじよの者ものが頼たのまれて夜通よどほしにも行ゆくといふことに成なつた。

次の日の昼過ぎに、卯平は使いの人といっしょに、のっそりとその大きな体を表の戸口へ運んで来た。

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次つぎの日ひの午餐過ひるすぎに卯平うへいは使つかひと共ともにのつそりと其その長大ちやうだいな躯幹からだを表おもての戸口とぐちに運はこばせた。

彼はしきいをまたぐとともに、そのときはもう、ただ痛い痛いと言って泣きうったえている病人の声を聞いた。

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彼かれは閾しきゐを跨またぐと共ともに、其その時ときはもう只たゞ痛いたい/\というて泣訴きふそして居ゐる病人びやうにんの聲こゑを聞きいた。

「どこが痛いんだ。少しさすらせてみるか」

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「何處どこが痛いたいんだ、少すこしさすらせて見みつか」

勘次が聞いても

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勘次かんじが聞きいても

「背中が仕方がないんだよ」

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「背中せなかが仕しやうがねえんだよ」

と病人は言うだけである。

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と病人びやうにんはいふのみである。

「お品さん、おとっつあんが来たよ。しっかりしろよ」

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「お品しなさん、おとつゝあ來きたよ、確乎しつかりしろよ」

と近所の女の人が言った。

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と近所きんじよの女房にようばうがいつた。

それを聞いて、お品はしばらく静かになった。

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それを聞きいてお品しなは暫時しばし靜しづかに成なつた。

「品、どうしたい。だるいのか」

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「品しなどうしたえ、大儀こはえのか」

口数の少ない卯平は、これだけ言った。

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寡言むくちな卯平うへいは此これだけいつた。

「おとっつあん、待ってたよ。おれは仕方がないよ」

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「おとつゝあ待まつてたよ、俺おら仕しやうねえよ」

お品は情けなさそうに言った。

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お品しなは情なさけなさ相さうにいつた。

「うん、困ったなあ」

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「うむ、困こまつたなあ」

卯平は深いしわをゆがめて言った。

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卯平うへいは深ふかい皺しわを蹙しがめていつた。

そして、あとは一言も言わない。

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さうして後あとは一言ごんもいはない。

お品の病気は、だんだん悪くなっていった。

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お品しなの病状びやうじやうは段々だん/\險惡けんあくに陷おちいつた。

医者はモルヒネの注射をして、かろうじてねむった状態にして、その苦しみからのがれさせようとした。

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醫者いしやはモルヒネの注射ちうしやをして僅わづかに睡眠すゐみんの状態じやうたいを保たもたせて其その苦痛くつうから遁のがれさせようとした。

それでもしばらくすると病人はまた気がついて、びりびりと体をふるわせて、太い縄でぐっとつるされたかと思うように後ろへそって、そのはげしいけいれんに苦しめられた。

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それでも暫しばらくすると病人びやうにんは復また意識いしきを恢復くわいふくして、びり/\と身體からだを撼ふるはせて、太ふとい繩なはでぐつと吊つるされたかと思おもふやうに後うしろへ反そりかへつて、其その劇烈げきれつな痙攣けいれんに苦くるしめられた。

「先生さん、わたしはこれでもどうなんでしょうね」

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「先生せんせいさん、わたしや此これでもどうしたものでがせうね」

お品はとつぜんに聞いた。

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お品しなは突然とつぜんに聞きいた。

医者はただ口ひげをひねって黙っていた。

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醫者いしやは只たゞ口髭くちひげを捻ひねつて默だまつて居ゐた。

「どうでしょうね、先生さん」

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「どうでせうね先生せんせいさん」

勘次も聞いた。

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勘次かんじも聞きいた。

「まあ大丈夫だろうって、病人にだけは言っておいたらいいでしょう」

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「まあ大丈夫だいぢやうぶだらうつて病人びやうにんへだけはいつて居ゐたらいゝでせう」

医者はささやいた。

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醫者いしやは耳語さゝやいた。

「お品、大丈夫だとよ。それからがまんしてしっかりしてろとよ」

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「お品しな、大丈夫だいぢやうぶだとよ、夫それから我慢がまんして確乎しつかりしてろとよ」

勘次は病人の耳元でどなった。

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勘次かんじは病人びやうにんの耳みゝで呶鳴どなつた。

「そんでも、おれは明日までは、とてももたないと思うよ。本当におれはだるいなあ」

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「そんでも俺おら明日あすの日ひまではとつても持もたねえと思おもふよ。本當ほんたうに俺おら大儀こはいゝなあ」

お品は苦しそうに言った。

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お品しなは切せつな相さうにいつた。

歯のあいだからやっともれる声は、悲しいひびきを伝えて、それでも頭ははっきりしていることを見せた。

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齒はの間あひだを漸やうやくに洩もれる聲こゑは悲かなしい響ひゞきを傳つたへて然しかも意識いしきは明瞭めいれうであることを示しめした。

医者はついに、これ以上はないというだけのモルヒネを注射して帰った。

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醫者いしやは遂つひに極量きよくりやうのモルヒネを注射ちうしやして去さつた。

夜になって、けいれんは絶え間なく起こった。

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夜よになつて痙攣けいれんは間斷かんだんなく發作ほつさした。

熱はとても上がった。

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熱度ねつどは非常ひじやうに昂進かうしんした。

水の一てきも飲めないのに、乱れた髪の毛を伝って落ちるかと思うほど、汗が玉になってたれた。

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液體えきたいの一滴てきをも攝取せつしゆすることが出來できないにも拘かゝはらず、亂みだれた髮かみの毛け毎ごとに傳つたひて落おちるかと思おもふやうに汗あせが玉たまをなして垂たれた。

ふとんをぬらす汗のにおいが、鼻をついた。

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蒲團ふとんを濕ぬらす汗あせの臭くさみが鼻はなを衝ついた。

「勘次さん、ここにいてくれよ」

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「勘次かんじさん此處ここに居ゐてくろうよ」

お品は苦しい中でも、ひたすら勘次をしたった。

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お品しなは苦くるしい内うちにも只管ひたすら勘次かんじを慕したつた。

「おうよ、ここにいたよ。どこへも行きやしないよ」

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「おうよ、こゝに居ゐたよ、何處どこへも行ゆきやしねえよ」

勘次はそのたびに耳へ口を当てて言った。

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勘次かんじは其その度たびに耳みゝへ口くちを當あてていつた。

「勘次さん」

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「勘次かんじさん」

お品はまた呼んだ。

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お品しなは又また喚よんた。

「どうしたよ」

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「怎的どうしたよ」

勘次が言ったのはお品に伝わらなかったのか

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勘次かんじのいつたのはお品しなに通つうじなかつたのか

「おとっつあん、おれはとてもなあ」

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「おとつゝあ、俺おらとつてもなあ」

とお品は少し間を置いて、そして勘次の手を取った。

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とお品しなは少時しばし間あひだを措おいて、さうして勘次かんじの手てを執とつた。

「おつう、お前はなあ、よきもなあ」

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「おつう汝われはなあ、よきもなあ」

と言って、また発作の苦しみにおそわれた。

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といつて又また發作ほつさの苦惱くなうに陷おちいつた。

「勘次さん、おれが死んだらなあ、かんおけへ入れてくれよ……」

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「勘次かんじさん、俺おら死しんだらなあ、棺桶くわんをけへ入いれてくろうよ……」

勘次が聞こうとすると、しばらく間を置いて

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勘次かんじは聞きかうとすると暫しばらく間あひだを隔へだてて

「後ろの田のあぜになあ、ぐみの木のとこでなあ」

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「後うしろの田たの畔くろになあ、牛胡頽子うしぐみのとこでなあ」

お品はとぎれとぎれに言った。

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お品しなは切きれ/″\にいつた。

勘次は、だいたいその意味が分かった。

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勘次かんじは略ほゞ其その意いを了解れうかいした。

お品はそれからはげしい発作にさえぎられて、もう言わなかった。

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お品しなはそれから劇烈げきれつな發作ほつさに遮さへぎられてもういはなかつた。

とつぜん

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突然とつぜん

「風呂しき、風呂しき」

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「風呂敷ふろしき、/\」

とわけの分からないうわ言を言って、意識はまったくなくなった。

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と理由わけの解わからぬ囈語うはごとをいつて、意識いしきは全まつたく不明ふめいに成なつた。

ついには、とんでもない力が加わったかと思うほど、お品の足はふとんをけって、体がはげしく動いた。

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遂つひには異常いじやうな力ちからが加くははつたかと思おもふやうにお品しなの足あしは蒲團ふとんを蹴けつて身體からだが激動げきどうした。

まくら元にいた人々はそれぞれに、苦しむお品の足をおさえた。

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枕元まくらもとに居ゐた人々ひと/″\は各自てんでに苦くるしむお品しなの足あしを抑おさへた。

こうして人々は、一こく一こく死へと近づいて行くお品の病んだ体をおさえつけた。

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恁かうして人々ひと/″\は刻々こく/\に死しの運命うんめいに逼せまられて行ゆくお品しなの病體びやうたいを壓迫あつぱくした。

お品の発作が止まったときには、そのかすかな息も止まっていた。

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お品しなの發作ほつさが止やんだ時ときは微かすかな其その呼吸こきふも止とまつた。

夜はしんとしていた。

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夜よは森しんとして居ゐた。

雨戸がかすかに動いて、落ち葉が庭を走るのもさらさらと聞こえた。

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雨戸あまどが微かすかに動うごいて落葉おちばの庭にはを走はしるのもさら/\と聞きかれた。

お品の体は、足のほうから冷たくなった。

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お品しなの身體からだは足あしの方はうから冷つめたくなつた。

お品が死んだのだと分かったとき、勘次もおつぎも、みなこらえていた思いが一度にあふれ出した。

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お品しなが死しんだといふことを意識いしきした時ときに勘次かんじもおつぎもみんな怺こらへた情じやうが一時じに激發げきはつした。

そして、えんりょする余ゆうのない彼らは、声を上げて泣いた。

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さうして遠慮ゑんりよをする餘裕よゆうを有もたない彼等かれらは聲こゑを放はなつて泣ないた。

まくら元の人たちも、みないっしょに泣いた。

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枕元まくらもとのものは皆みな共ともに泣ないた。

与吉だけが、死んだお品のそばでぐっすりねむっていた。

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與吉よきちは獨ひとり死しんだお品しなの側そばに熟睡じゆくすゐして居ゐた。

卯平はとりあえず、お品の手を胸で合わせてやった。

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卯平うへいは取とり取あへずお品しなの手てを胸むねで合あはせてやつた。

そして、はたおりの道具の一つである「ひ」をふとんの上に乗せた。

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さうして機はたの道具だうぐの一ひとつである杼ひを蒲團ふとんへ乘のせた。

ねこが死んだ人をまたぐと化けると言われていて、ひはねこよけだった。

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猫ねこが死人しにんを越こえて渡わたると化ばけるといつて杼ひは猫ねこの防禦ばうぎよであつた。

ひを乗せておけば、ねこはまたがないと信じられているのである。

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杼ひを乘のせて置おけば猫ねこは渡わたらないと信しんぜられて居ゐるのである。

夜はますますふけて、冷えきっていた。

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夜よは益ます/\深ふけて冷ひえ切きつて居ゐた。

家の中には、ひとかたまりの炭火もたくわえてなかった。

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家いへの内うちには一塊くわいの煨おきも貯たくはへてはなかつた。

まくら元にいた近所の人々は、勘次とおつぎが泣き止むまでは体を動かすこともできないで、じっと冷たい手をふところで暖めていた。

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枕元まくらもとに居ゐた近所きんじよの人々ひと/″\は勘次かんじとおつぎの泣なき止やむまでは身體からだを動うごかすことも出來できないで凝然ぢつと冷つめたい手てを懷ふところに暖あたゝめて居ゐた。

おつぎはやっとかまどへ落ち葉をくべてお茶をわかした。みなただぼんやりとして、お茶をすすった。

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おつぎは漸やうやく竈かまどへ落葉おちばを燻くべて茶ちやを沸わかした、みんな只たゞぽつさりとして茶ちやを啜すゝつた。

「勘次も、早く知らせりゃいいのに」

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「勘次かんじもかせえて知しらせやがればえゝのに」

卯平がぶすりとつぶやく声は低く、それでもみなの耳の底にひびいた。

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卯平うへいがぶすりと呟つぶやく聲こゑは低ひくくしかもみんなの耳みゝの底そこに響ひゞいた。

卯平はその日の明け方に使いが来るまでは、お品の病気をちっとも知らずにいた。

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卯平うへいは其その日ひの未明みめいに使つかひの來くるまではお品しなの病氣びやうきはちつとも知しらずに居ゐた。

おどろいて来てみれば、もうこんなありさまである。

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驚おどろいて來きて見みればもうこんな始末しまつである。

卯平も泣いた。

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卯平うへいも泣ないた。

彼はきせるをかんでは、ただ舌打ちをしてつばを飲んだ。

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彼かれは煙管きせるを噛かんでは只たゞ舌皷したつゞみを打うつて唾つばを嚥のんだ。

勘次はただ泣いていた。

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勘次かんじは只たゞ泣ないて居ゐた。

彼はお品が病気になってから、どれほど心をくだいて動き回ったか知れない。

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彼かれはお品しなの發病はつびやうからどれ程ほど苦心くしんして其その身みを勞らうしたか知しれぬ。

お品の病気を心配するほかに、彼の心には何もなかった。

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お品しなの病氣びやうきを案あんずる外ほか彼かれの心こゝろには何なにもなかつた。

そのときには、卯平に文句を言われるかもしれないという心配は、少しも頭に浮かばなかったのである。

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其その當時たうじには卯平うへいに不平ふへいをいはれやうといふやうな懸念けねんは寸毫すこしも頭あたまに起おこらなかつたのである。

お品の死は、卯平をもひどくがっかりさせた。

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お品しなの死しは卯平うへいをも痛いたく落膽らくたんせしめた。

卯平は七十一の老人だった。

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卯平うへいは七十一の老爺おやぢであつた。

おととしの秋から、卯平は野田のしょうゆ蔵に火の番としてやとわれた。

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一昨年をととしの秋あきから卯平うへいは野田のだの醤油藏しやうゆぐらへ火ひの番ばんに傭やとはれた。

卯平は、お品が三つのときに、死んだお母さんの所へむこ入りしたのである。

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卯平うへいはお品しなが三つの時ときに、死しんだお袋ふくろの處ところへ入夫にふふになつたのである。

五つのときから甘えていたので、お品は卯平になついていた。

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五つの時ときから甘あまへたのでお品しなは卯平うへいに懷なづいて居ゐた。

お母さんが生きているうちは卯平もまだ元気だったが、お母さんが亡くなって卯平のしわが深く刻まれてからは、もともとよくなかった勘次との仲がだんだんはなれて、お品もそれには困った。

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お袋ふくろの生いきて居ゐるうちは卯平うへいもまだ壯さかりであつたが、お袋ふくろが亡なくなつて卯平うへいの皺しわが深ふかく刻きざまれてからは以前いぜんから善よくなかつた勘次かんじとの間あひだが段々だん/\隔へだつて、お品しなもそれには困こまつた。

とうとう、村で仕事のせわをしている人のすすめにしたがって、卯平が言うままに奉公に出したのだった。

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到頭たうとう村むらの紹介業せうかいげふをして居ゐる者ものの勸すゝめに任まかせて卯平うへいがいふ儘まゝに奉公ほうこうに出だしたのであつた。

病人のまくら元にいた近所の人たちは、一ぱいのお茶をすすって、村の親せきへ知らせに出る者もあった。

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病人びやうにんの枕元まくらもとに居ゐた近所きんじよの者ものは一杯ぱいの茶ちやを啜すゝつて村むらの姻戚みよりへ知しらせに出でるものもあつた。

それから葬式のことについて相談をした。

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それから葬式さうしきのことに就ついて相談さうだんをした。

葬式はほんの親せきと近所だけで、明日のうちにすませるということに決めた。

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葬式さうしきはほんの姻戚みよりと近所きんじよとだけで明日あすの内うちに濟すますといふことに極きめた。

夜が明けると、近所の人々は寺へ行ったり葬式の道具を買いに行ったり、ほかの村の親せきに知らせに行ったりして、家には近所の女の人が二、三人、あいさつを言いに来ていた。

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夜よがあけると近所きんじよの人々ひとびとは寺てらへ行いつたり無常道具むじやうだうぐを買かひに行いつたり、他村たそんの姻戚みよりへの知しらせに行いつたりして家いへには近所きんじよの女房にようばうが二三人にん義理ぎりをいひに來きて居ゐた。

親せきといっても、お品のために待たなければならない人はいないので、勘次はおつぎといっしょにむしろをめくって、そこへたらいを置いて、お品のなきがらを清めてやった。

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姻戚みよりといつてもお品しなの爲ためには待またなくては成ならぬといふものはないので勘次かんじはおつぎと共ともに筵むしろを捲まくつて、其處そこへ盥たらひを据すゑてお品しなの死體したいを淨きよめて遣やつた。

はげしい病気の苦しみのために、その力ないなきがらはげっそりとひどくやせていた。

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劇烈げきれつな病苦びやうくの爲ために其その力ちからない死體したいはげつそりと酷ひどい窶やつれやうをして居ゐた。

卯平はただぼんやりとして、それを見ていた。

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卯平うへいは只たゞぽつさりとしてそれを見みて居ゐた。

なきがらはまた、その汚いふとんへ横たえられた。

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死體したいは復また其その穢きたない夜具やぐへ横よこたへられた。

たらいのよごれたぬるま湯は、すのこの上から土に流された。

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盥たらひの汚けがれた微温湯ぬるまゆは簀すの子この上うへから土つちに注そゝがれた。

そして、そのぬれたすのこには、めくったむしろがまたしかれた。

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さうして其その沾ぬれた簀すの子こには捲まくつた筵むしろが又また敷しかれた。

朝から雨戸は開け放たれて、歩けばぎしぎしと鳴るすのこの上のむしろは、草ぼうきではかれた。

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朝あさから雨戸あまどは開あけ放はなたれて歩あるけばぎし/\と鳴なる簀すの子この上うへの筵むしろは草箒くさばうきで掃はかれた。

そして東どなりから借りて来たござが、五、六枚しかれた。

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さうして東隣ひがしどなりから借かりて來きた蓙ござが五六枚まい敷しかれた。

それから土地のならわしで、勘次は清めてやったお品のなきがらのあとは、いっさいを近所の人の手に任せた。

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それから土地とちの習慣しふくわんで勘次かんじは淨きよめてやつたお品しなの死體したいは一切さいを近所きんじよの手てに任まかせた。

近所の女の人たちは、一反のさらし木綿を半分に切って、それで形ばかりのみじかい経かたびらと、死に顔をかくすずきんと、足につけるものとをぬって、それを着せた。

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近所きんじよの女房等にようばうらは一反たんの晒木綿さらしもめんを半分はんぶん切きつてそれで形かたばかりの短みじかい經帷子きやうかたびらと死相しさうを隱かくす頭巾づきんとふんごみとを縫ぬつてそれを着きせた。

足につけるものは、ただ三角にして足袋のかわりにつま先へはかせるのだった。

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ふんごみは只たゞ三角かくにして足袋たびの代かはりに爪先つまさきへ穿はかせるのであつた。

きゃはんは布のまま、麻で足にくくりつけた。

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脚絆きやはんは切きれの儘まゝ麻あさで足あしへ括くゝり附つけた。

これもその木綿でぬったずだぶくろを首からかけさせて、三途の川のわたし賃だという六文のお金を入れてやった。

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此これも其その木綿もめんで縫ぬつた頭陀袋づだぶくろを首くびから懸かけさせて三途づの川かはの渡錢わたしせんだといふ六文もんの錢ぜにを入いれてやつた。

髪は麻でむすんで、白いくしをさしてやった。

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髮かみは麻あさで結むすんで白櫛しろぐしを揷さして遣やつた。

お品のかたくなった体は、曲げて立てひざにして、かんおけへ入れられた。

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お品しなの硬着かうちやくした身體からだは曲まげて立膝たてひざにして棺桶くわんをけへ入いれられた。

首がふたに当たるので、骨がくじけるまでおさえつけられて、「すくみ」がかけられた。

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首くびが葢ふたに觸さはるので骨ほねの挫くぢけるまで抑おさへつけられてすくみが掛かけられた。

すくみというのは、ちぢめたままの形が保たれるように、なきがらの下から荒縄を回しておいて、首すじの所でぎっしりとくくることである。

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すくみといふのは蹙ちゞめた儘まゝの形かたちが保たもたれるやうに死體したいの下したから荒繩あらなはを廻まはして置おいて首筋くびすぢの處ところでぎつしりと括くゝることである。

そまつな松の板で作った出来合いのかんおけは、みりみりと鳴った。

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麁末そまつな松板まついたで拵こしらへた出來合できあひの棺桶くわんをけはみり/\と鳴なつた。

こういうむごいあつかいは、どうしても他人の手に任せなければならなかった。

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恁かういふ無残むざんな扱あつかひはどうしても他人たにんの手てに任まかせられねばならなかつた。

板のままばらばらになっているかんおけの台は、買って来てから近所の人の手でくぎづけにされた。

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板いたの儘まゝばら/\に成なつて居ゐる棺臺くわんだいは買かつて來きてから近所きんじよの手てで釘付くぎづけにされた。

そこには、浅い箱をさかさにしたようなものができた。

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其處そこには淺あさい箱はこの倒さかさにしたものが出來できた。

その台の上には、なきがらを入れたかんおけが乗せられた。

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其その棺臺くわんだいの上うへには死體したいを入いれた棺桶くわんをけが載のせられた。

勘次はその朝の明け方に、そっと家の後ろのならの木のあいだを田のはしへ下りて、さかいのぐみの木のそばを気をつけて見た。

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勘次かんじは其その朝あさ未明みめいにそつと家いへの後うしろの楢ならの木きの間あひだを田たの端はしへおりて境木さかひぎの牛胡頽子うしぐみの傍そばを注意ちういして見みた。

くわか何かで動かした土のあとが目についた。

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唐鍬たうぐはか何なにかで動うごかした土つちの跡あとが目めに附ついた。

勘次は手に持って行った草かりがまで、そくそくと土をつつくようにしてほった。

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勘次かんじは手てにして行いつた草刈鎌くさかりがまでそく/\と土つちをつゝくやうにして掘ほつた。

そして、そのやわらかくなった土を手でさらった。

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さうして其その軟やはらかに成なつた土つちを手てで浚さらつた。

ぼろのつつみが出た。

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襤褸ぼろの包つゝみが出でた。

彼はそこに、小さなひとかたまりの肉を見つけたのである。

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彼かれは其處そこに小ちひさな一塊肉くわいにくを發見はつけんしたのである。

勘次はそれを大事にふところへ入れた。

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勘次かんじはそれを大事だいじに懷ふところへ入いれた。

悪いことがばれるのをおそれるようなようすで、彼はあたりを見回した。

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惡事あくじの發覺はつかくでも恐おそれるやうな容子ようすで彼かれは周圍あたりを見廻みまはした。

彼はさらに古い油紙で包んでしまっておいて、お品のなきがらがかんおけに入れられたとき、そっとお品のふところにだかせた。

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彼かれは更さらに古ふるい油紙あぶらがみで包つゝんで片付かたづけて置おいて、お品しなの死體したいが棺桶くわんをけに入いれられた時とき彼かれはそつとお品しなの懷ふところに抱いだかせた。

お品のやせきった手が、勘次のするままにそれをしっかりとだきしめて、その骨ばかりのほおが、ぴったりとすりつけられた。

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お品しなの痩やせ切きつた手てが勘次かんじのする儘まゝにそれを確乎しつかと抱だき締しめて、其その骨ほねばかりの頬ほゝが、ぴつたりと擦すりつけられた。

葬式の日は「赤口」という日だった。

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葬式さうしきの日ひは赤口しやくこうといふ日ひであつた。

勘次は近所と親せきのほかには食事も出さなかったが、それでも村の人はみな二銭ずつ持ってお悔やみに来た。

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勘次かんじは近所きんじよと姻戚みよりとの外ほかには一飯ぱんも出ださなかつたがそれでも村むらのものは皆みな二錢せんづゝ持もつて弔くやみに來きた。

そして、さっさと帰って行った。

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さうしてさつさと歸かへつて行いつた。

遠くはなれた寺からは、住職と小ぼうずとが、色のさめたもえぎ色のはっぴを着たお供を一人連れて、はさみ箱をかつがせて歩いて来た。

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遠とほく離はなれた寺てらからは住職ぢうしよくと小坊主こばうずとが、褪さめた萠黄もえぎの法被はつぴを着きた供とも一人ひとり連つれて挾箱はさみばこを擔かつがせて歩あるいて來きた。

小ぼうずはすぐにかんおけのふたを取って、白い木綿をめくって、やせたほおへかみそりをちょっと当てた。

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小坊主こばうずは直すぐに棺桶くわんをけの葢ふたをとつて白しろい木綿もめんを捲まくつて窶やつれた頬ほゝへ剃刀かみそりを一寸ちよつと當あてた。

この形だけのひげそりがすんでから、ふたはくぎで打ちつけられた。

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此この形式的けいしきてきの顏剃かほそりが濟すんでから葢ふたは釘くぎで打うち附つけられた。

荒縄が十文字にかけられた。

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荒繩あらなはが十文字もんじに掛かけられた。

さらし木綿の残った半分で、それがぐるぐると巻かれた。

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晒木綿さらしもめんの残のこつた半反はんだんでそれがぐる/\と捲まかれた。

おけにはさらに天がいが乗せられた。

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桶をけには更さらに天葢てんがいが載のせられた。

天がいといっても、両はしがわらびのように巻いたせまい松板を二まい十字に合わせただけの、かんたんなものである。

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天葢てんがいというても兩端りやうたんが蕨わらびのやうに捲まかれた狹せまい松板まついたを二枚まい十字じに合あはせたまでのものに過すぎない簡單かんたんなものである。

すすけたかべには、これも古ぼけた赤いまんだらの大きなかけじくが、かざりのようにかけられた。

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煤すゝけた壁かべには此これも古ふるぼけた赤あかい曼荼羅まんだらの大幅おほふくが飾かざりのやうに掛かけられた。

かんおけは、わずかな人数で送られた。

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棺くわんは僅わづかな人ひとで葬はうむられた。

それでも白いちょうちんが二つかかげられた。

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それでも白提灯しろぢやうちんが二張ふたはり翳かざされた。

さいた竹を格子の目にあんで、ほどよい大きさになるとぐるりと四方を一つにまとめてくくった花かごも、二つかかげられた。

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裂さき竹だけを格子かうしの目めに編あんでいゝ加減かげんの大おほきさに成なるとぐるりと四方はうを一つに纏まとめて括くゝつた花籠はなかごも二つ翳かざされた。

どちらにも青竹の柄がつけられた。

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孰どれも青竹あをだけの柄えが附つけられた。

そのかごには、ひげのようにさいた竹を立てて、その竹には赤や黄や青やそのほかの色紙できざんだ花をかざった。

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其その籠かごへは髭ひげのやうに裂さき竹だけを立たてゝ其その裂さき竹だけには赤あかや黄きや青あをや其その他たの色紙いろがみで刻きざんだ花はなを飾かざつた。

その花かごはまた、底へ紙をしいて死んだ人の年の数だけ小銭を入れて、それをかかげた人がときどきざらざらとふっては、かごの目からその小銭をふり落とした。

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其その花籠はなかごは又また底そこへ紙かみを敷しいて死しんだものゝ年齡としの數かずだけ小錢こぜにを入いれて、それを翳かざした人ひとが時々ときどきざら/\と振ふつては籠かごの目めから其その小錢こぜにを振ふり落おとした。

村の子どもが争ってそれを拾った。

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村むらの小供こどもが爭あらそつてそれを拾ひろつた。

ちょうちんと花かごは先に立った。

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提灯ちやうちんと花籠はなかごは先さきに立たつた。

後ろからは村の念仏の人たちが、赤いどうの太鼓を首にかけて、だらりだらりとゆるいたたき方をしながら、いっせいに声を上げてついて行った。

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後あとからは村むらの念佛衆ねんぶつしうが赤あかい胴どうの太皷たいこを首くびへ懸かけてだらりだらりとだらけた叩たゝきやうをしながら一同どうに聲こゑを擧あげて跟ついて行いつた。

かんおけは細い道をさけて、大きな道を行った。

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柩ひつぎは小徑こみちを避さけて大道わうらいを行いつた。

村の人は自分の門からそれをのぞいた。

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村むらの者ものは自分じぶんの門かどからそれを覗のぞいた。

かんおけはすわりが悪いのか、とちゅうで止まらずぐらりぐらりとゆれた。

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棺桶くわんをけは据すわりが惡わるい所爲せゐか途中とちうで止やまずぐらり/\と動搖どうえうした。

勘次はそれでも羽織とはかまで位はいを持った。

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勘次かんじはそれでも羽織はおり袴はかまで位牌ゐはいを持もつた。

それはみな借りたもので、羽織のひもには紙のこよりがつけてあった。

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それは皆みな借かりたので羽織はおりの紐ひもには紙撚こよりがつけてあつた。

墓のあなは、焼けたような赤土が四方へ高くかき上げられてあった。

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墓はかの穴あなは燒やけた樣やうな赤土あかつちが四方はうへ堆うづたかく掻かき上あげられてあつた。

そこには、すきまがないほどあながほられて、たくさんの人がうめられたので、手の骨や足の骨がいつものようにほり出されて、投げ出されてあった。

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其處そこには從來これまで隙間すきまのない程ほど穴あなが掘ほられて、幾多いくたの人ひとが埋うづめられたので手ての骨ほねや足あしの骨ほねがいつものやうに掘ほり出だされて投なげられてあつた。

はっぴを着た寺のお供が、かんおけを巻いた半反の白木綿を取ってはさみ箱に入れた。

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法被はつぴを着きた寺てらの供ともが棺桶くわんをけを卷まいた半反はんだんの白木綿しろもめんをとつて挾箱はさんばこに入いれた。

やがてかんおけは荒縄で下げて、その赤い土の底におさめられた。

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軈やがて棺桶くわんをけは荒繩あらなはでさげて其その赤あかい土つちの底そこに踏ふみつけられた。

そまつなかんおけの台は少し高くなった土の上に置かれて、二つの白いちょうちんと二つの花かごとが、そのそばに立てられた。

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麁末そまつな棺臺くわんだいは少すこし堆うづたかく成なつた土つちの上うへに置おかれて、二ふたつの白張提灯しらはりちやうちんと二ふたつの花籠はなかごとが其その傍そばに立たてられた。

お品は生まれてこのかた、土をふまない日はないと言っていいくらいだった。

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お品しなは生來せいらい土つちを踏ふまない日ひはないといつていゝ位ぐらゐであつた。

そしてそれは、こおりつく冬をのぞいてはたいてい、足の底が直に土についていた。

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さうしてそれは凍いてる冬ふゆの季節きせつを除のぞいては大抵たいていは直接ちよくせつに足あしの底そこが土つちについて居ゐた。

お品はこうして冷たいなきがらになってからも、その足の底はかんおけの板一まいをへだてただけで、これからもずっと土とふれ合っているのだった。

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お品しなは恁かうして冷つめたい屍かばねに成なつてからも其その足あしの底そこは棺桶くわんをけの板いた一枚まいを隔へだてただけで更さらに永久えいきうに土つちと相あひ接せつして居ゐるのであつた。

小さな葬式ながら、かんおけが出たあとは、つむじ風がほこりをふき払ったようにからりとしていた。

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小ちひさな葬式さうしきながら柩ひつぎが出でた後あとは旋風つむじかぜが埃ほこりを吹ふつ拂ぱらつた樣やうにからりとして居ゐた。

手伝いに来ていた女の人たちは、そうでなくてもごはんを出す客が少なくてひまだったから、すっかり手持ちぶさたになった。

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手傳てつだひに來きて居ゐた女房等にようばうらはそれでなくても膳立ぜんだてをする客きやくが少すくなくて暇ひまであつたから滅切めつきり手持てもちがなくなつた。

それでも立ったままおわんとはしを持って、口を動かしている人もあった。

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それでも立たちながら椀わんと箸はしとを持もつて口くちを動うごかして居ゐるものもあつた。

料理は決まったとおり、さらもひらわんもつぼわんもつけられた。

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膳部ぜんぶは極きまつた通とほり皿さらも平ひらも壺つぼもつけられた。

それでも切りこんぶとひじきと油あげととうふのほかは、百姓が自分の手で作ったものばかりで料理された。

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それでも切昆布きりこぶと鹿尾菜ひじきと油揚あぶらげと豆腐とうふとの外ほかは百姓ひやくしやうの手てで作つくつたものばかりで料理れうりされた。

さらには、細かくきざんで塩でもんだ大根と人参のなますが、ちょこんと乗せられた。

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皿さらには細こまかく刻きざんで鹽しほで揉もんだ大根だいこと人參にんじんとの膾なますがちよつぽりと乘のせられた。

そんな残り物と冷たくなったとうふのしるをつついても、麦のまじらないごはんがこの上ないごちそうなので、女の人たちは、その丈夫で、しかも大きなおなかに入るかぎり、口がこれを食べつづけて止まらないのである。

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さういふ残物のこりものと冷つめたく成なつた豆腐汁とうふじるとをつゝいても麥むぎの交まじらぬ飯めしが其その口くちには此この上うへもない滋味じみなので、女房等にようばうらは其その強健きやうけんで且かつ擴大くわくだいされた胃ゐの容いれる限かぎりは口くちが之これを貪むさぼつて止やまないのである。

彼女たちは裏戸のかげに集まって、おしゃべりにふけった。

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彼等かれらは裏戸うらどの陰かげに聚あつまつて雜談ざつだんに耽ふけつた。

「どうしたっけまあ、ひどくかんおけがぐらぐらしたんじゃなかったっけかい」

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「どうしたつけまあ、酷ひどく棺桶くわんをけぐら/\したんぢやなかつたつけゝえ」

「そのはずだろうな。あとが心配で仕方がないほとけさまは、ああいうふうに動くんだっていうぞ、お前」

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「其その筈はずだんべな、後あとが心配しんぺえで仕しやうねえ佛ほとけはあゝえに動いごくんだつちぞおめえ」

「勘次さんのことがしたわしくて、あとへ残して行くのがつらいんだろうよ」

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「勘次かんじさんこと欲ほしくつて後あとへ残のこしてくのが辛つれえんだごつさら」

「そんだがよ、あんまりしたわれると、しまいには迎えに来て連れて行かれるとよ」

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「そんだがよ、餘あんまり欲ほしがられつと遂しめえにや迎むけえに來きて連つれ行ゆかれつとよ」

「ああいやだ、おれは」

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「おゝ厭やだ俺おら」

「連れてってくれと言ったって、お前らのことなんか迎えに来る者もあるまいな」

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「連つれてつてくろつちつたつておめえ等らこた迎むけえに來くるものもあんめえな」

口々に、こんなことがえんりょもなく何度も言われた。

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口々くちぐちに恁こんなことが遠慮ゑんりよもなく反覆くりかへされた。

話がしばらくとぎれたとき

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間あひだが少時しばし途切とぎれた時とき

「お品さんもおしい命をなあ」

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「お品しなさんも可惜あつたら命いのちをなあ」

と一人が思い出したように言った。

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と一人ひとりが思おもひ出だしたやうにいつた。

「本当だ。他人のやらないことでもありゃしまいし」

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「本當ほんたうだ他人ひとのやらねえこつてもありやしめえし」

ほかの女の人が相づちを打った。

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他たの女房にようばうが相槌あひづちを打うつた。

「風邪を引いたなんてか。今度の風邪は強いから起きられないなんて、しらばっくれてな」

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「風邪かぜ引ひいたなんてか、今度こんだの風邪かぜは強つええから起おきらんねえなんて、しらばつくれてな」

「死ぬ者が損なんだよ」

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「死しぬ者もの貧乏びんばふなんだよ」

「そんだが、お品さんは自分のばかりじゃないっていうんじゃないかい」

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「そんだがお品しなさんは自分じぶんのがばかりぢやねえつちんぢやねえけ」

「そうだとよ。大きな声じゃ言えないが、五十銭とか八十銭とか取って、他人のもやったんだとよ」

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「さうだとよ、大えけえ聲こゑぢやゆはんねえが、五十錢ごくわんとか八十錢はちくわんとか取とつて他人ひとのがも行やつたんだとよ」

「八十銭ずつも取っちゃお前、女の手じゃたいしたもんだがな。今度は自分で死んじまうなんて、やりきれないこったなあ」

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「八十錢はちくわんづゝも取とつちやおめえ、女をんなの手てぢやたえしたもんだがな、今度こんだ自分じぶんで死しんちまあなんて、行やんねえこつたなあ」

「つみを作ったばちじゃないか」

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「罪つみ作つくつた罰ばつぢやねえか」

えんりょもなく、話はそれからそれへと移っていく。

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遠慮ゑんりよもなくそれからそれと移うつるのである。

「そんなこと言って、今出て行ったほとけさまのことをお前ら、とりつかれるから見ろよ」

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「そんなことゆつて、今いま出でた佛ほとけのことをおめえ等ら、とつゝかれつから見みろよ」

ほかの一人の女の人が言ったとき、話がしばらくとぎれて静まった。

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他たの一人ひとりの女房にようばうがいつた時とき噺はなしが暫時しばらく途切とぎれて靜しづまつた。

一人の女の人が、さらの大根を手でつまんで口へ入れた。

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一人ひとりの女房にようばうが皿さらの大根だいこを手てで撮つまんで口くちへ入いれた。

「そういう所を他人に見られたらどうするんだい」

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「さうえ處とこ他人ひとに見みられたらどうしたもんだえ」

そばから言われて

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側そばからいはれて

「見てやあしまいな」

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「見みてやあしめえな」

と、その女の人は裏戸の口から庭のほうを見た。

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と其その女房にようばうは裏戸うらどの口くちから庭にはの方はうを見みた。

そして

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さうして

「おれみたいなばあさんは、どうせこれから嫁にでも行くあてがあるじゃなし、かまわないことはかまわないがな」

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「俺おら見みてえな婆ばゞあはどうで此これから娶よめにでも行いくあてがあんぢやなし、構かまあねえこたあ構かまあねえがな」

と言って笑った。

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といつて笑わらつた。

みんなでどっと笑い声を上げた。

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一同みんなどつと笑聲わらひごゑを發はつした。

かんおけを送った人々がばらばらに帰って来るまで、おしゃべりはそれからそれへと止まなかった。

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柩ひつぎを送おくつた人々ひとびとが離れ/″\に歸かへつて來くるまでは雜談ざつだんがそれからそれと止やまなかつた。

ふだん何のなぐさめももらう機会がないのに、それでも聞きたがり、知りたがり、話したがる彼女たちは、三人も集まれば、ふくらんだガスがふくろのやぶれ目から逃げ出すように、ついには前後の分別もなく、その舌を動かすのである。

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平日へいじつ何等なんらの慰藉ゐしやを與あたへらるゝ機會きくわいをも有いうして居ゐないで、然しかも聞ききたがり、知しりたがり、噺はなしたがる彼等かれらは三人にんとさへ聚あつまれば膨脹ばうちやうした瓦斯ガスが袋ふくろの破綻はたんを求もとめて遁にげ去さる如ごとく、遂つひには前後ぜんごの分別ふんべつもなく其その舌したを動うごかすのである。

たまに引き出しから出したあかのついていない半纏を着て、髪にはどんな形にもくしを入れて、そしてお悔やみをすませるまでは、彼女たちはふだんにないおとなしいようすを保つのである。

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偶たま/\抽斗ひきだしから出だした垢あかの附つかぬ半纏はんてんを被きて、髮かみにはどんな姿なりにも櫛くしを入いれて、さうして弔くやみを濟すますまでは彼等かれらは平常いつもにないしほらしい容子ようすを保たもつのである。

それは、あらたまってなれないあいさつを言わなければならないという気づかいが、少しだけ彼女たちの心をおさえているからである。

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それは改あらたまつて不馴ふなれな義理ぎりを述のべねばならぬといふ懸念けねんが、僅わづかながら彼等かれらの心こゝろを支配しはいして居ゐるからである。

しかし土間へ下りて、たすきをかけて、おぜんやおわんを洗ったりふいたり、手をいそがしく動かすようになれば、彼女たちの心はそれに引かれて、その聞きたがり、知りたがり、話したがる性しつにもどるのである。

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然しかし土間どまへおりて、襷たすきが掛かけられて、膳ぜんや椀わんを洗あらつたり拭ふいたり其その手てを忙いそがしく動うごかすやうに成なれば、彼等かれらの心こゝろはそれに曳ひかされて其その聞ききたがり、知しりたがり、噺はなしたがる性情せいじやうの自然しぜんに歸かへるのである。

たとえ他人にとっては悲しい日でも、その一日だけは自分の暮らしからはなれて何人もの人といっしょに集まれることは、彼女たちにはむしろ楽しい一日でなければならない。

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假令たとひ他人たにんの爲ためには悲かなしい日ひでも其その一日じつだけは自己じこの生活せいくわつから離はなれて若干じやくかんの人々ひとびとと一緒しよに集合しふがふすることが彼等かれらには寧むしろ愉快ゆくわいな一日にちでなければならぬ。

たえずへっていく体をおぎなうために取る食べ物は、おわん一ぱいでも、みんな自分のつらい働きの一部をけずって手に入れたものである。

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間斷かんだんなく消耗せうまうして行ゆく肉體にくたいの缺損けつそんを補給ほきふするために攝取せつしゆする食料しよくれうは一椀わんと雖いへども悉こと/″\く自己じこの慘憺さんたんたる勞力らうりよくの一部ぶを割さいて居ゐるのである。

しかし他人をとむらう一日は、自分には何の損もなくて、十分におなかいっぱい食べることができる。

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然しかし他人たにんを悼いたむ一日にちは其處そこに自己じこのためには何等なんらの損失そんしつもなくて十分ぶんに口腹こうふくの慾よくを滿足まんぞくせしめることが出來できる。

他人の悲しみはどれほど深くても、それは自分の目の前の問題ではない。

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他人たにんの悲哀ひあいはどれ程ほど痛切つうせつでもそれは自己じこ當面たうめんの問題もんだいではない。

こうして、彼女たちの集まる所には、いつも笑い声が絶えないのである。

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如斯かくのごとくにして彼等かれらの聚あつまる處ところには常つねに笑聲せうせいを絶たたないのである。

お品も、こういう仲間の一人だった。

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お品しなも恁かういふ伴侶なかまの一人ひとりであつた。

それが今日は、その笑い声を後にして、冷たい土にかえったのである。

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それが今日けふは其その笑聲せうせいを後あとにして冷つめたい土つちに歸きしたのである。

五

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五

お品は、自分の手で自分の身をほろぼしたのである。

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お品しなは自分じぶんの手てで自分じぶんの身みを殺ころしたのである。

お品は十九のくれにおつぎを産んでから、その次の年にもまた身ごもった。

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お品しなは十九の暮くれにおつぎを産うんでから其その次つぎの年としにも亦また姙娠にんしんした。

そのときは暮らしがぎりぎりまで苦しかったので、そのおなかの子は死んだお母さんの手で、七か月目に流してしまった。

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其その時ときは彼等かれらは窮迫きうはくの極度きよくどに達たつして居ゐたので其その胎兒たいじは死しんだお袋ふくろの手てで七月目めに墮胎だたいして畢しまつた。

それはまだ、秋の暑いころだった。

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それはまだ秋あきの暑あつい頃ころであつた。

丈夫なお品は、四、五日たつと林の中で草かりをしていた。

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強健きやうけんなお品しなは四五日にち經たつと林はやしの中なかで草刈くさかりをして居ゐた。

それでもむりをしたために、そのあと大きな病気はなかったが、よくなるまではしばらくぶらぶらしていた。

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それでも無理むりをした爲ために其その後ご大煩おほわづらひはなかつたが恢復くわいふくするまでには暫しばらくぶら/\して居ゐた。

それからというもの、どういうわけかお品は身ごもらなかった。

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それからといふものはどういふものかお品しなは姙娠にんしんしなかつた。

おつぎが十三のとき、与吉が生まれた。

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おつぎが十三の時とき與吉よきちが生うまれた。

このときは勘次もお品も、おなかの子を大切にした。

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此この時ときは勘次かんじもお品しなも腹はらの子こを大切たいせつにした。

女の子が十三というともう役に立つので、与吉を育てながら夫婦は十分に働くことができた。

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女をんなの子こが十三といふともう役やくに立たつので、與吉よきちを育そだてながら夫婦ふうふは十分ぶんに働はたらくことが出來できた。

与吉が三つになったので、おつぎはよそへ奉公に出すことに、夫婦のあいだで決められた。

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與吉よきちが三つに成なつたのでおつぎは他よそへ奉公ほうこうに出だすことに夫婦ふうふの間あひだには決定けつていされた。

そのころ十五の女の子では、一年分の給金はせいぜい十円くらいのものだった。

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其その頃ころ十五の女をんなの子こでは一年ねんの給金きふきんは精々せい/″\十圓ゑん位ぐらゐのものであつた。

それでも、それだけの収入のほかに食べる人が一人へることが、貧しい家にはとても大きいのである。

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それでもそれ丈だけの收入しうにふの外ほかに食料しよくれうの減げんずることが貧乏びんばふな世帶しよたいには非常ひじやうな影響えいきやうなのである。

それが、いねのほ先がたれるころから、お品は考えこんで首をかしげるようになった。

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それが稻いねの穗首ほくびの垂たれる頃ころからお品しなは思案しあんの首くびを傾かしげるやうになつた。

体のようすが変わったことに気づいたからである。

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身體からだの容子ようすが變へんに成なつたことを心付こゝろづいたからである。

十年あまりも身ごもらなかったおなかは、与吉ができてからくせがついたと見えて、また身ごもったのである。

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十年ねん餘あまりも保もたなかつた腹はらは與吉よきちが止とまつてから癖くせが附ついたものと見みえて又また姙娠にんしんしたのである。

お品も勘次も、それには困ってしまった。

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お品しなも勘次かんじもそれには當惑たうわくした。

おつぎを奉公に出してしまえば、二人の子をかかえてお品はこれまでのように働けない。わずかなかせぎでも、それがなくなることは、彼らの暮らしにとって大きな打げきでなければならない。

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おつぎを奉公ほうこうに出だして畢しまへば、二人ふたりの子こを抱だいてお品しなは從來これまでのやうに働はたらくことが出來できない、僅わづかな稼かせぎでもそれが停止ていしされることは彼等かれらの生活せいくわつの爲ためには非常ひじやうな打撃だげきでなければならぬ。

そのうちにいねを刈ったり、もみをほしたり、いそがしいとり入れの季節が来て、すみきった空の下で夫婦は毎日ほこりをあびていた。

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其その内うちに稻いねを刈かつたり、籾もみを干ほしたり忙いそがしい收穫しうくわくの季節きせつが來きて、冴さえた空そらの下したに夫婦ふうふは毎日まいにち埃ほこりを浴あびて居ゐた。

さすがにつみのような気もするので、夫婦はただ困ってその日をすごしていた。

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有繋さすがに罪つみなやうな心持こゝろもちもするので夫婦ふうふは只たゞ困こまつて其その日ひを過すごして居ゐた。

それも、夜になってつかれた体を横にし、ぐっすりねむりに落ちるまでのわずかな時間、二人は決められない考えを言い合うのだった。

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それも夜よるに成なつて疲つかれた身體からだを横よこにし甘睡かんすゐに陷おちいるまでの少時間せうじかん彼等かれらは互たがひに決けつし難がたい思案しあんを交換かうくわんするのであつた。

これまでも夫婦のあいだは、どちらが上か分からないほど、勘次には決める力がなかった。

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從來これまでも夫婦ふうふの間あひだは孰いづれが本位ほんゐであるか分わからぬ程ほど勘次かんじには決斷けつだんの力ちからが缺乏けつばふして居ゐた。

「どうでもお前のおなかだから、好きにしたほうがいいよな」

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「どうでもおめえの腹はらだから好すきにした方はうがえゝやな」

勘次はこう言うのである。

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勘次かんじは恁かういふのである。

しかしそれは、どうでもいいという投げやりな言い方ではなくて、お品に命令をするには勘次の心はあまりに遠りょしていたのである。

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然しかしそれは怎的どうでもいゝといふ云いひ擲なぐりではなくて、凡すべてがお品しなに對たいして命令めいれいをするには勘次かんじの心こゝろは餘あまり憚はばかつて居ゐたのである。

「そんでも、おれのほうも困るだろうな」

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「そんでも、俺おれがにも困こまんべな」

お品は投げかけるように言うのである。

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お品しなは投なげ掛かけるやうにいふのである。

勘次は、お品がこうするつもりだときっぱり言ってしまえば、けっして反対をするのではない。

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勘次かんじはお品しなが恁かうする積つもりだときつぱりいつて畢しまへば決けつして反對はんたいをするのではない。

かといって、お品が自分の考えだけで決めるには、あまりに大きなことだったのである。

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といつてお品しなは獨斷どくだんで決行けつかうするのには餘あまり大事だいじであつたのである。

そして、それは決まる機会もなくて、夫婦はあいかわらず畑仕事にいそがしかった。

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さうしてそれは決定けつていされる機會きくわいもなくて夫婦ふうふは依然いぜんとして農事のうじに忙殺ばうさつされて居ゐた。

そのあいだに空をわたる木がらしが、急に悲しい知らせを運んできた。

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其その間あひだに空そらを渡わたる凩こがらしが俄にはかに哀かなしい音信おどづれを齎もたらした。

けやきのえだは、どうせもうこれまでだというように、あわただしくその赤くなったかれ葉を地面へ投げつけた。

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欅けやきの梢こずゑは、どうでもう此これまでだといふやうに慌あわたゞしく其その赭あかく成なつた枯葉かれはを地上ちじやうに投なげつけた。

その捨てられた軽い小さな落ち葉は、自分を引き止めてくれるかげをさがしてころころと走っては、ほした藁のあいだでも、もみのむしろでも、どこにでも身をよせた。

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其その棄すて去さられた輕かろい小ちひさな落葉おちばは、自分じぶんを引ひき止とめて呉くれる蔭かげを求もとめて轉々ころ/\と走はしつては干ほした藁わらの間あひだでも籾もみの筵むしろでも何處どこでも其その身みを託たくした。

あたりはすべてがただ、さわがしく、そして入り乱れていた。

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周圍あたりは凡すべてが只たゞ騷さわがしく且かつ混雜こんざつした。

そのうちに勘次は、秋からさそいのあった川ほり工事へ、人にたのまれて行ったのである。

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其その内うちに勘次かんじは秋あきから募集ぼしふのあつた開鑿工事かいさくこうじへ人ひとに任まかせて行いつたのである。

「ただこうしてぐずぐずしていても仕方があるまいな」

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「只たゞかうしてぐづ/\して居ゐても仕しやうあんめえな」

お品はそのときも、勘次に決めてくれとせまってみた。

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お品しなは其その時ときも勘次かんじの判斷はんだんを促うながして見みた。

「おれもそう言われても困るから、お前の好きにしてくれよ」

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「俺おれもさうゆはれても困こまつから、おめえ好すきにしてくろうよ」

勘次はただこう言った。

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勘次かんじは只たゞ恁かういつた。

勘次が行ってしまってから、お品はその入り乱れた、しかもさびしいあたりのようすの中で、やるせないような気持ちになって、とうとうその決心を実行してしまった。

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勘次かんじが去さつてからお品しなは其その混雜こんざつした然しかも寂さびしい世間せけんに交まじつて遣瀬やるせのないやうな心持こゝろもちがして到頭たうとう罪惡ざいあくを決行けつかうして畢しまつた。

お品のおなかは四か月だった。

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お品しなの腹はらは四月つきであつた。

そのころのおなかがいちばんあぶないと言われているとおり、お品はそれがもとでたおれたのである。

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其その頃ころの腹はらが一番ばん危險きけんだといはれて居ゐる如ごとくお品しなはそれが原因もとで斃たふれたのである。

おなかの子は四か月いっぱいいたので、男か女かがはっきりと分かった。

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胎兒たいじは四月つき一杯ぱい籠こもつたので兩性りやうせいが明あきらかに區別くべつされて居ゐた。

小さなまたのあいだには、ごはんつぶほどの出っぱりがあった。

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小ちひさい股またの間あひだには飯粒程めしつぶほどの突起とつきがあつた。

お品はさすがに、おしくてはかない気持ちがした。

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お品しなは有繋さすがに惜をしい果敢はかない心持こゝろもちがした。

第一に、人に知られることをおそれた。

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第だい一に事ことの發覺はつかくを畏おそれた。

それで、いったんは世間の女がよくするようにゆか下にうめたのを、お品はさらに田のはしのぐみの木のそばに、ぼろにくるんでうめたのである。

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それで一旦たんは能よく世間せけんの女をんなのするやうに床ゆかの下したに埋うづめたのをお品しなは更さらに田たの端はたの牛胡頽子うしぐみの側そばに襤褸ぼろへくるんで埋うづめたのである。

お品は体がよくなるまでじっとしてふとんにくるまっていれば、あるいはよかったかもしれない。

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お品しなは身體からだの恢復くわいふくするまで凝然ぢつとして蒲團ふとんにくるまつて居ゐれば或あるひはよかつたかも知しれぬ。

十何年か前にはすべて死んだお母さんがやってくれたのだが、今度は勘次もいないし、お品は暮らしの心配もしなければならなかった。

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十幾年前いくねんまへには一切さいを死しんだお袋ふくろが處理しよりしてくれたのであつたが、今度こんどは勘次かんじも居ゐないしでお品しなは生計くらしの心配しんぱいもしなくては居ゐられなかつた。

一つには、それを世間にかくそうという気持ちから、知らないふりをするために、むりにでも体を動かしたのだった。

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一ひとつにはそれを世間せけんに隱蔽いんぺいしようといふ念慮ねんりよから知しらぬ容子ようすを粧よそほふ爲ために強しひても其その身みを動うごかしたのであつた。

しかし、その身をほろぼしたばい菌は、どうやって入りこんだのだろうか。

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然しかしながら其その身みを殺ころした黴菌ばいきんがどうして侵入しんにふしたであつたらうか。

お品は、赤ちゃんをつつむまくをやぶるのに、他人の手を借りなかった。

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お品しなは卵膜らんまくを破やぶる手術しゆじゆつに他人たにんを煩わずらはさなかつた。

そして、そのさし入れたほおずきの根が、感じないほどの軽いきずをつけて、そこにばい菌を植えつけたのだろうか。それとも毎日けむりのようにあびていたほこりから来たのだろうか。それをはっきりさせることはできない。

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さうして其その揷入さうにふした酸漿ほゝづきの根ねが知覺ちかくのないまでに輕微けいびな創傷さうしやうを粘膜ねんまくに與あたへて其處そこに黴菌ばいきんを移植いしよくしたのであつたらうか、それとも毎日まいにち煙けぶりの如ごとく浴あびせ掛かけた埃ほこりから來きたのであつたらうか、それを明あきらめることは不可能ふかのうでなければならぬ。

しかしどちらにしても、病気のもとは土が運んで来たものにちがいなかった。

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然しかし孰いづれにしても病毒びやうどくは土つちが齎もたらしたのでなければならなかつた。

葬式の次の日は、また近所の人が来た。

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葬式さうしきの次つぎの日ひは又また近所きんじよの人ひとが來きた。

勘次は借りた羽織とはかまを着て、村じゅうへあいさつに回った。

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勘次かんじは其その借かりた羽織はおりと袴はかまを着きて村中むらぢうへ義理ぎりに廻まはつた。

土びんに入れた水を持って墓まいりに行って、それからおぜんもおわんもみな返して、近所の人々も帰ったあと、勘次はぽつんとして、古いつくえの上に置かれた白木の位はいを前に、たまらなくさびしくあわれな気持ちになった。

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土瓶どびんへ入いれた水みづを持もつて墓參はかまゐりに行いつて、それから膳椀ぜんわんも皆みな返かへして近所きんじよの人々ひと/″\も歸かへつた後のち勘次かんじは㷀然けいぜんとして古ふるい机つくゑの上うへに置おかれた白木しらきの位牌ゐはいに對たいして堪たまらなく寂さびしい哀あはれつぽい心持こゝろもちになつた。

二、三日のあいだは、片口やすりばちに入れた葬式のときの残り物を食べて、家じゅうがただぼんやりとして暮らした。

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二三日にちの間あひだは片口かたくちや摺鉢すりばちに入いれた葬式さうしきの時ときの残物ざんぶつを喰たべて一家かは只たゞばんやりとして暮くらした。

雨戸はいつものように閉めたままで、暗かった。

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雨戸あまどはいつものやうに引ひいた儘まゝで陰氣いんきであつた。

卯平を入れて四人は、おたがいにただ冷たかった。

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卯平うへいを加くはへて四人にんはお互たがひが只たゞ冷ひやゝかであつた。

卯平はそのうす暗い家の中で、ただたばこをふかしては、大きなしんちゅうのきせるで火ばちをたたいていた。

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卯平うへいは其その薄暗うすぐらい家うちの中なかに只たゞ煙草たばこを吹ふかしては大おほきな眞鍮しんちうの煙管きせるで火鉢ひばちを叩たゝいて居ゐた。

卯平と勘次とは、そのあいだろくに口もきかなかった。

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卯平うへいと勘次かんじとは其その間あひだ碌ろくに口くちも利きかなかつた。

勘次は、自分の体と自分の心とがばらばらになったような気持ちで、自分で自分をどうすることもできなかった。

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勘次かんじは自分じぶんの身體からだと自分じぶんの心こゝろとが別々べつ/\に成なつたやうな心持こゝろもちで自分じぶんが自分じぶんをどうする事ことも出來できなかつた。

それでも小作米のことは、頭からはなれることはなかった。

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それでも小作米こさくまいのことは其その念頭ねんとうから沒ぼつし去さることはなかつた。

貧しい小作人の常として、彼らはいつもこわさにおそわれている。

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貧乏びんばふな小作人こさくにんの常つねとして彼等かれらは何時いつでも恐怖心きようふしんに襲おそはれて居ゐる。

ことに、地主に気をつかうことは、なみたいていではない。

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殊ことに其その地主ぢぬしを憚はゞかることは尋常じんじやうではない。

そして自分が作ってきた土地は、死んでもかじりついていたいほどおしむのである。

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さうして自分じぶんの作つくり來きたつた土地とちは死しんでも噛かぢり附ついて居ゐたい程ほどそれを惜をしむのである。

彼らが初めてふんだ土の強い引きつける力は、いつまでも彼らを遠くへ放さない。

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彼等かれらの最初さいしよに踏ふんだ土つちの強大きやうだいな牽引力けんいんりよくは永久えいきうに彼等かれらを遠とほく放はなたない。

彼らはとうてい、その土に苦しみつづけなければならない運命を持っているのである。

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彼等かれらは到底たうてい其その土つちに苦くるしみ通とほさねばならぬ運命うんめいを持もつて居ゐるのである。

勘次は、お品の葬式がすむとすぐに、新しい俵へ入れた小作米を地主へ運んで行かなければならないと、それが心を苦しめていた。

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勘次かんじはお品しなの葬式さうしきが濟すむと直すぐに新あたらしい俵たはらへ入いれた小作米こさくまいを地主ぢぬしへ運はこんで行ゆかねば成ならぬとそれが心こゝろを苦くるしめて居ゐた。

しかしそのときには、その新しい俵の一つは縄のわからぬけて、米はたたいてもいくらも出なかった。

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然しかし其その時ときは其その新あたらしい俵たはらの一つは輪わに成なつた繩なはから拔ぬけて、米こめは叩たゝいても幾いくらも出でなかつた。

勘次は次の年には、ほとんど自分一人の手で畑仕事をしなければならない。

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勘次かんじは次つぎの年としには殆ほとんど自分じぶん一人ひとりの手てで農事のうじを勵はげまなくてはならぬ。

いつもの年のようにいそがしい季節に日やといに行くこともできまいし、それにはお母さんに置いていかれた二人の子どももいるし、今から食べ物のよういもしなければならないと思うと、自分のくらしから一俵の米をへらしては、とてもやっていけないと深く考えて、彼はねむれないこともあった。

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例年れいねんのやうに忙いそがしい季節きせつに日傭ひように行ゆくことも出來できまいし、それにはお袋ふくろに捨すてられた二人ふたりの子供こどもも有あることだし、今いまから穀こくの用意よういもしなくては成ならぬと思おもふと自分じぶんの身上しんしやうから一俵ぺうの米こめを減げんじては到底たうてい立たち行ゆけぬことを深ふかく思案しあんして彼かれは眠ねむらないこともあつた。

しかしほかに方法もないので、彼は地主にたのみこんで、小作米の半分を次の秋まで貸してもらった。

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然しかし他たに方法はうはふもないので彼かれは地主ぢぬしへ哀訴あいそして小作米こさくまいの半分はんぶんを次つぎの秋あきまで貸かして貰もらつた。

地主は東どなりのもとの主人だったので、それも聞き入れてもらえた。

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地主ぢぬしは東隣ひがしどなりの舊主人きうしゆじんであつたのでそれも承諾しようだくされた。

彼はさらに、そのわずかな米の一部をけずってお金にかえなければならないほど、ふところが苦しかったのである。

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彼かれは更さらに其その僅わづかな米こめの一部ぶを割さいて錢ぜにに換かへねばならぬ程ほど懷ふところが窮きうして居ゐたのである。

勘次はそれから、また利根川の工事へ行かなければならないと思っていた。

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勘次かんじはそれから復また利根川とねがはの工事こうじへ行ゆかねばならないと思おもつて居ゐた。

それは彼が、わずかのあいだに見た、行き場のない人たちのおそろしさを思って、たとえどうであってもかしらをだまして、そのわずかな前借りのお金をふみたおすほどの気持ちにはなれなかったからである。

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それは彼かれが僅わづかの間あひだに見みた放浪者はうらうしやの怖おそろしさを思おもつて、假令たとひどうしても其その統領とうりやうを欺あざむいて其その僅少きんせうな前借ぜんしやくの金かねを踏ふみ倒たふす程ほどの料簡れうけんが起おこされなかつたのである。

そのうちに親方からはがきが来た。

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其その内うちに張元ちやうもとから葉書はがきが來きた。

彼はひたすらおそれた。

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彼かれは只管ひたすら恐怖きようふした。

しかし二人の子を置いて行くことができないので、どうしていいか分からなかった。

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然しかし二人ふたりの子こを見棄みすてゝ行ゆくことが出來できないので、どうしていゝか判斷はんだんもつかなかつた。

そうするうちに、お品の七日目もすぎた。

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さうする内うちにお品しなの七日も過すぎた。

彼は苦しみなやんだ。

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彼かれは煩悶はんもんした。

ただ一つ、卯平が野田へ行くのをしばらくのばしてもらって、自分はそのあいだに少しでもこづかいをかせいで来たいと思った。

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唯たゞ一つ卯平うへいが野田のだへ行ゆくのを暫しばらく猶豫いうよして貰もらつて自分じぶんは其その間あひだに少すこしでも小遣錢こづかひせんを稼かせいで來きたいと思おもつた。

しかしそれも直接には言い出せないので、例の桑畑一まいをへだてた南の家にたのんだ。

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然しかしそれも直接ちよくせつには云いひ出だせないので、例れいの桑畑くはばたけ一枚まい隔へだてた南みなみへ頼たのんだ。

ここ数日、彼は卯平がその大きな体を火ばちのそばにすえて、きせるをかんではむっつりとしているのを見ると、なんとなく気おくれして、なるべくその目を見ないように遠ざかっているしかなかった。

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數日來すうじつらい彼かれは卯平うへいが其その大おほきな體躯からだを火鉢ひばちの側そばに据すゑて煙管きせるを噛かんではむつゝりとして居ゐるのを見みると、何なんとなく憚はゞかつて成なるべく其その視線しせんを避さけるやうに遠とほざかつて居ゐることを餘儀よぎなくされるのであつた。

勘次とお品は、たがいに好き合った仲だった。

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勘次かんじとお品しなは相思さうしの間柄あひだがらであつた。

勘次が東どなりの主人にやとわれたのは十七の冬で、十九のくれにお品のむこになってからも、あいかわらず主人の所につとめていた。

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勘次かんじが東隣ひがしどなりの主人しゆじんに傭やとはれたのは十七の冬ふゆで十九の暮くれにお品しなの婿むこに成なつてからも依然いぜんとして主人しゆじんの許もとに勤つとめて居ゐた。

彼はそのころ、お品の家へはとなり同士だからということでよく出入りした。

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彼かれは其その當時たうじお品しなの家うちへは隣となりづかりといふので能よく出入でいつた。

一つには、女らしくなってきたお品のすがたを見たいせいでもあった。

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一ひとつには形かたちづくつて來きたお品しなの姿すがたを見みたい所爲せゐでもあつた。

彼は秋の大豆打ちという日の晩などには、唐箕にかけたり俵に作ったりするあいだに、二しょうや三しょうの大豆をこっそりかくしておいて、お品の家へ持って行った。

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彼かれは秋あきの大豆打だいづうちといふ日ひの晩ばんなどには、唐箕たうみへ掛かけたり俵たはらに作つくつたりする間あひだに二升しようや三升じようの大豆だいづは竊ひそかに隱かくして置おいてお品しなの家うちへ持もつて行いつた。

そして、いり豆をかじっては、夜ふけまで話をすることもあった。

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さうして豆熬まめいりを噛かじつては夜更よふけまで噺はなしをすることもあつた。

お品の家からは、近所でおふろがわかない日はよく来た。

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お品しなの家うちからは近所きんじよに風呂ふろの立たたぬ時ときは能よく來きた。

いそがしい仕事にはやとわれても来た。

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忙いそがしい仕事しごとには傭やとはれても來きた。

そういうあいだに、二人の仲ができたのである。

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さういふ間あひだに彼等かれらの關係くわんけいが成立なりたつたのである。

それはお品が十六の秋である。

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それはお品しなが十六の秋あきである。

それから足かけ三年たった。

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それから足掛あしかけ三年ねん經たつた。

勘次には、主人の家が楽しくてよく働くことができた。

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勘次かんじには主人しゆじんの家うちが愉快ゆくわいに能よく働はたらくことが出來できた。

彼の体はむしろ小がらだが、そのきりっとしまった体つきが、だんだん仕事を上手にした。

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彼かれの體躯からだは寧むしろ矮小こつぶであるが、其そのきりつと緊しまつた筋肉きんにくが段々だん/″\仕事しごとを上手じやうずにした。

たとえどんなものが二人のあいだをへだてようとしても、二人が近づく機会を見つけたことは、こんもりとしげってさえぎる林のえだをすかして、どこからか日が地面に光を落としているようなものだった。

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假令たとひどんな物ものが彼等かれらの間あひだを隔へだてようとしても彼等かれらが相あひ近ちかづく機會きくわいを見出みいだしたことは鬱蒼うつさうとして遮さへぎつて居ゐる密樹みつじゆの梢こずゑを透とほしてどこからか日ひが地上ちじやうに光ひかりを投なげて居ゐるやうなものであつた。

二人の心は、ただ明るかったのである。

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彼等かれらの心こゝろは唯たゞ明あかるかつたのである。

お品は十九の春に身ごもった。

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お品しなは十九の春はるに懷胎くわいたいした。

自分でもそれはしばらく知らずにいた。

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自分じぶんでもそれは暫しばらく知しらずに居ゐた。

季節がだんだん暖かくなって、仕事にはひとえでなければならないころになったので、女同士の目にはかくしきれなくなった。

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季節きせつが段々だん/\ぽかついて、仕事しごとには單衣ひとへものでなければならぬ頃ころに成なつたので女同士をんなどうしの目めは隱かくしおほせないやうに成なつた。

お母さんはお品をまだ子どものように思って、うっかりそれに気づかなかった。

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お袋ふくろはお品しなをまだ子供こどものやうに思おもつて迂濶うくわつにそれを心付こゝろづかなかつた。

本当にそうだと分かったときには、お品は間もなく肩で息をするようになった。

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本當ほんたうにさうだと思おもつた時ときはお品しなは間まもなく肩かたで息いきするやうに成なつた。

そして、体がもうほうっておけない状態になったので、両方の親せきの人たちでごたごたと話し合いが起こった。

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さうして身體からだがもう棄すてゝ置おけない場合ばあひに成なつたので兩方りやうはうの姻戚みよりの者ものでごた/\と協議けふぎが起おこつた。

勘次もお品も、そのときたがいに慕い合う心が、にかわのように強かった。

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勘次かんじもお品しなも其その時とき互たがひに相あひ慕したふ心こゝろが鰾膠にべの如ごとく強つよかつた。

二人はいたずら者に横から口を出されて慌てたときに、ある夜にげ出してしまった。

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彼等かれらは惡戲者いたづらものに水みづをさゝれて慌あわてた機會はづみに或ある夜よ遁にげ出だして畢しまつた。

それは、このままでは二人はとてもいっしょになれそうにないから、どうしても一つになろうというのなら、どこかへ二人で身をかくすのだ、と言われたのである。

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それは、此この儘まゝでは二人ふたりは迚とても添そはされぬ容子ようすだからどうしても一ひとつに成ならうといふのならば何處どこへか二人ふたりで身みを隱かくすのである。

そして、いよいよとなればおれがどうにでも始末をつけてやるから、なんでもぐずぐずしていちゃだめだと、お品の心をそそのかしたのだった。

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さうして愈いよ/\となれば俺おれがどうにでも其處そこは始末しまつをつけて遣やるから、何なんでも愚圖ぐづ/\して居ゐちや駄目だめだとお品しなの心こゝろを教唆そゝつたのであつた。

お品からいっしんに勘次へせまった。

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お品しなから一心しんに勘次かんじへ迫せまつた。

勘次はそのころから、お品の言いなりになるのだった。

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勘次かんじは其その頃ころからお品しなのいふなりに成なるのであつた。

二人は遠くへは行けないので、となり村の知り合いの家へころがりこんだ。

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二人ふたりは遠とほくは行ゆけないので、隣村となりむらの知合しりあひへ身みを投とうじた。

両方の親せきがさわぎ出した。

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兩方りやうはうの姻戚みよりが騷さわぎ出だした。

こういう二人へのこんないたずらは、どこでもよくくり返されるのだった。

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恁かういふ同志どうしへのこんな惡戲いたづらは何處どこでも能よく反覆くりかへされるのであつた。

そして、うまくいったいたずら者は

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さうして成功せいこうした惡戲者いたづらものは

「仕事はなんでも、めんどりのほうを動かさなくちゃうまく行かないよ」

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「仕事しごとは何なんでも牝鷄めんどりでなくつちや甘うまく行いかねえよ」

と言っては、かげで笑うのである。

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といつては陰かげで笑わらふのである。

「みっともないまねをしやがって」

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「外聞げえぶん曝さらしやがつて」

と卯平はおこったが、そのおかげで話はかんたんに進んだ。

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と卯平うへいは怒おこつたがそれが爲ために事ことは容易よういに運はこばれた。

勘次はむこになったのである。

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勘次かんじは婿むこに成なつたのである。

かんたんな式が行われた。

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簡單かんたんな式しきが行おこなはれた。

急になこうどに決められた人が一人で、勘次を連れて行った。

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俄にはかに媒妁人ばいしやくにんと定さだめられたものが一人ひとりで勘次かんじを連つれて行いつた。

卯平はむっつりとして、それを受け入れた。

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卯平うへいはむつゝりとしてそれを受うけた。

ふだん通いなれた家なので、勘次はきまり悪そうにすわった。

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平生へいぜい行ゆきつけた家うちなので勘次かんじは極きまり惡相わるさうに坐すわつた。

お品はふだん着のままたすきをかけて、だるそうな体を動かしていて、勘次のそばへはすわらなかった。

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お品しなは不斷衣ふだんぎの儘まゝ襷掛たすきがけで大儀相たいぎさうな體躯からだを動うごかして居ゐて勘次かんじの側そばへは坐すわらなかつた。

なこうどがただお酒を飲んでさわいだだけだった。

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媒妁人ばいしやくにんが只たゞ酒さけを飮のんで騷さわいだ丈だけであつた。

お品は間もなく女の子を産んだ。

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お品しなは間まもなく女をんなの子こを産うんだ。

それがおつぎだった。

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それがおつぎであつた。

季節はくれのおしつまった、いそがしいときだった。

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季節きせつは暮くれの押おし詰つまつた忙いそがしい時ときであつた。

お母さんはお品が好いているので、勘次をものたりないむこだとは思っていなかった。

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お袋ふくろはお品しなが好すいて居ゐるので、勘次かんじを不足ふそくな婿むこと思おもつては居ゐなかつた。

勘次はそのくれもまた主人の所ではたらくつもりで前借りした給金を、お品の家へつぎこんだので、お母さんはかえってよろこんでいた。

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勘次かんじは其その暮くれも亦また主人しゆじんへ身みを任まかせる筈はずで前借ぜんしやくした給金きふきんを、お品しなの家うちへ注つぎ込こんだのでお袋ふくろは却かへつて悦よろこんで居ゐた。

卯平はただ、勘次が気に入らなかった。

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卯平うへいは唯たゞ勘次かんじを蟲むしが好すかなかつた。

自分は大きな体でぐいぐいと仕事をしてきたのに、勘次は小さな体でちょこちょこと走り回ったり、言われたことばかりしていて自分で考えるということがまるでなかったりするので、ひどく歯がゆく思っていた。

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自分じぶんは其その大おほきな體躯からだでぐい/\と仕事しごとをしつけたのに勘次かんじが小ちひさな體躯からだでちよこ/\と駈かけ歩あるいたり、ただ吩咐いひつけばかり聞きいて居ゐるので自分じぶんの機轉きてんといふものが一向かうなかつたりするので酷ひどく齒痒はがゆく思おもつて居ゐた。

しかし自分もむこ入りした身だし、それに生まれつき口数が少ないので、親せきの話し合いにも彼は

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然しかし自分じぶんは入夫にふふといふ關係くわんけいもあるしそれに生來せいらいの寡言むくちなので姻戚みよりの間あひだの協議けふぎにも彼かれは

「どうでもわしはようございますから、いいように決めておくんなせえ」

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「どうでもわしはようがすからえゝ鹽梅あんべいに極きめておくんなせえ」

とだけ言うのだった。

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とのみいふのであつた。

勘次は、百姓がいちばんいそがしいそのころの五月に病気になった。

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勘次かんじは百姓ひやくしやうの尤もつとも忙せはしい其その頃ころの五月ぐわつに病氣びやうきに成なつた。

彼は馬のくつわにつけた竹ざおのはしを持って馬をあやつりながら、毎日どろだらけになって田をならしていた。

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彼かれは轡くつわへ附つけた竹竿たけざをの端はしを執とつて馬うまを馭ぎよしながら、毎日まいにち泥どろだらけになつて田たの代掻しろかきをした。

どうかすると、そんな季節に東南の風がふいて、ふるえるほど冷えることがある。

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どうかするとそんな季節きせつに東南風いなさが吹ふいて慄ふるへる程ほど冷ひえることがある。

勘次はその冷えがさわったのだろうか、気分が悪いと言って田からもどって来ると、それっきり起き上がれないようになった。

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勘次かんじは其その冷ひえが障さはつたのであつたらうか心持こゝろもちが惡わるいというて田たから戻もどつて來くるとそれつ切きり枕まくらも上あがらぬやうになつた。

よく馬の病気に飲ませる赤玉という薬を何つぶか飲んで、彼はふとんにくるまっていた。

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能よく馬うまの病氣びやうきに飮のませる赤玉あかだまといふ藥くすりを幾粒いくつぶか嚥のんで彼かれは蒲團ふとんへくるまつて居ゐた。

彼はどうにか病気をのりきれるものなら、卯平のそばへは行きたくなかった。

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彼かれはどうにか病氣びやうきの凌しのぎがつけば卯平うへいの側そばへは行ゆきたくなかつた。

それに一つには、がまんして仕事に出ればろくに働けなくても一日分の仕事をしたことになるけれど、まったく休んでしまえばその日の分が給金から引かれてしまうので、彼はそれをおそれた。

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それと一ひとつには我慢がまんして仕事しごとに出でれば碌ろくには働はたらけなくても一日にちの勤つとめを果はたしたことに成なるけれども、丸まるで休やすんで畢しまへば其その日ひだけの割當勘定わりあてかんぢやうが給金きふきんから差引さしひかれなければ成ならぬので彼かれはそれを畏おそれた。

しかし病気は、馬に飲ませる薬の赤玉ではすぐには治らなかった。

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然しかし病氣びやうきは馬うまに飮のませる藥くすりの赤玉あかだまでは直すぐには癒なほらなかつた。

それで彼はお品の世話になるつもりで、次の朝早く、仲間の背中に運ばれた。

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それで彼かれはお品しなの厄介やくかいに成なる積つもりで、次つぎの朝あさ早はやく朋輩ほうばいの背せに運はこばれた。

卯平はしぶりきった顔でむかえた。

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卯平うへいは澁しぶり切きつた顏かほで迎むかへた。

お品がふとんをしいてやったので、勘次はそこへごろりとうつぶせになって、ひたいを組んだ手にうずめた。

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お品しなが蒲團ふとんを敷しいて遣やつたので勘次かんじはそれへごろりと俯伏うつぶしになつて其その額ひたひを交叉かうさした手てに埋うづめた。

家の者はみな田へ出なければならなかった。

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家うちの者ものは皆みな田たへ出でなければならなかつた。

病人にかまっていることは、仕事がゆるさなかった。

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病人びやうにんに構かまつて居ゐることは仕事しごとが許ゆるさなかつた。

お母さんは出るときに表の大戸を閉めながら

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お袋ふくろは出でる時ときに表おもての大戸おほども閉たてながら

「おなかがすいたらここにあるぞ」

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「腹はら減へつたら此處こゝにあんぞ」

と言って、ばたりと飯だいのふたをした。

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といつてばたりと飯臺はんだいの蓋ふたをした。

あとで勘次がふとんからずり出して見たら、麦ばかりのぽろぽろしたごはんだった。

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後あとで勘次かんじは蒲團ふとんからずり出だして見みたら、麥むぎばかりのぽろ/\した飯めしであつた。

そのころ、お品の家ではそういう食べ物で命をつないでいたのである。

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其その時分じぶんお品しなの家うちではさういふ食料しよくれうで生命いのちを繋つないで居ゐたのである。

勘次は奉公にばかり出ていたので、それほどそまつな物を食べたことはない。

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勘次かんじは奉公ほうこうにばかり出でて居ゐたのでそれ程ほど麁末そまつな物ものを口くちにしたことはない。

それで、どうしても手を出す気にならなかった。

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それでどうしても手てを出ださうといふ心こゝろが起おこらなかつた。

昼ごはんに家の者は田からもどって、そのごはんを食べた。

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午餐ひるに家うちの者ものは田たから戻もどつて其その飯めしを喰たべた。

ちっとはどうだとお母さんにすすめられても、勘次はただうつぶせになっていた。

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ちつとはどうだとお袋ふくろに勸すゝめられても勘次かんじは唯たゞ俯伏うつぶしに成なつて居ゐた。

「この野郎、こんないそがしいときにころがりこみやがって、くたばるつもりでもあるだろう」

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「此この野郎やらうこんな忙せはしい時ときに轉ころがり込こみやがつてくたばる積つもりでもあんべえ」

と、卯平はふだんになくこんなことを言った。

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と卯平うへいは平生へいぜいになく恁こんなことをいつた。

勘次はあとで一人で泣いた。

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勘次かんじは後あとで獨ひとり泣ないた。

彼はお品がこっそりふとんの下へ入れてくれたせんべいをかじったりして、二、三日ごろごろしていた。

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彼かれはお品しながこつそり蒲團ふとんの下したへ入いれて呉くれた煎餅せんべいを噛かぢつたりして二三日にちごろ/\して居ゐた。

そのころは駄菓子屋もめったになかったので、これだけのことがお品にはずいぶんな心づかいだったのである。

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其その頃ころは駄菓子店だぐわしみせも滅多めつたに無なかつたので此これ丈だけのことがお品しなには餘程よほどの心竭こゝろづくしであつたのである。

勘次はどうも卯平がいやで、こわくて仕方がないので、少し体がよくなりかけると、みなが田へ出たあとでそっとぬけ出して、村の中の親せきの所へ行って板ぐらの二階へかくれてねていた。

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勘次かんじはどうも卯平うへいが厭いやで且かつ怖おそろしくつて仕しやうがないので少すこし身體からだが恢復くわいふくしかけると皆みんなが田たへ出でた後あとでそつと拔ぬけて村むらの中うちの姻戚みよりの處ところへ行いつて板藏いたぐらの二階かいへ隱かくれて寢ねて居ゐた。

夜になったらどうして知ったのか、お品はおつぎを背負って、にわとりを一羽持って来た。

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夜よになつたらどうして知しつたかお品しなはおつぎを背負せおつて鷄にはとりを一羽は持もつて來きた。

「勘次さん、悪く思わないでくれよ。おれは悪くするつもりはないが、仕方がないからよ」

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「勘次かんじさん惡わるく思おもはねえでくろうよ、俺おら惡わるくする積つもりはねえが、仕しやうねえからよ」

と、お品はうったえるように言うのだった。

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とお品しなは訴うつたへるやうにいふのであつた。

お品は毎晩のように来て、板ぐらの戸を内から閉めてとまって行った。

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お品しなは毎晩まいばんのやうに來きて板藏いたぐらのさるを内うちから卸おろして泊とまつて行いつた。

それでも勘次は卯平のそばがいやなので、もどらないつもりでほかの村へさまよい出た。

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それでも勘次かんじは卯平うへいの側そばが厭いやなので戻もどらないといふ積つもりで他たの村落むらへ漂泊へうはくした。

また土地へ帰って来ると、畑にいても田にいてもお品がせまって来るので、彼は農具を捨てて逃げることさえあった。

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復また土地とちへ歸かへつて來くると、畑はたけに居ゐても田たに居ゐてもお品しなが迫せまつて來くるので、彼かれは農具のうぐを棄すてゝ遁にげることさへあつた。

それがどうしたものか、いつのまにか自分のほうからお品のそばへ行きたくてたまらなくなってしまって、他人からかえってからかわれるようになったのである。

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それが如何どうしたものか何時いつの間まにやら酷ひどく自分じぶんからお品しなの側そばへ行ゆきたく成なつて畢しまつて、他人たにんから却かへつて揶揄からかはれるやうに成たつたのである。

勘次が奉公の年季をつとめ上げて帰ったとき、卯平とは一つの家でかまどを別にすることになった。

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勘次かんじは奉公ほうこうの年季ねんきを勤つとめあげて歸かへつたと成なつた時とき、卯平うへいとは一ひとつ家うちで竈かまどを別べつにすることに成なつた。

夫婦と赤んぼうの三人ぐらしで、彼らは卯平から、からのついたそばが一斗五しょうと麦が一斗と、あとにも先にもたったこれだけを分けてもらった。

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夫婦ふうふと乳呑兒ちのみごと三人にんの所帶しよたいで彼等かれらは卯平うへいから殼蕎麥からそばが一斗と五升しようと麥むぎが一斗とと、後あとにも先さきにもたつた此これ丈だけが分わけられた。

正月のうどんも打てなかった。

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正月しやうぐわつの饂飩うどんも打うてなかつた。

さすがにお母さんは小麦粉をかくしてお品にやった。

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有繋さすがにお袋ふくろは小麥粉こむぎこを隱かくしてお品しなへ遣やつた。

それでも勘次は、こわい卯平と一つのかまどでいるよりも、かえってうれしかった。

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それでも勘次かんじは怖おそろしい卯平うへいと一ひとつ竈かまどであるよりも却かへつて本意ほんいであつた。

お母さんが死んでから、年老いた卯平は勘次と一つにならなければならなかった。

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お袋ふくろが死しんでから老おいた卯平うへいは勘次かんじと一ひとつに成ならなければならなかつた。

そのときにはもう、勘次が家の主だった。

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其その時ときはもう勘次かんじが主あるじであつた。

そして、とっくに自分の住んでいる土地までが自分のものではなかった。

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さうして疾とうに自分じぶんの住すんで居ゐる土地とちまでが自分じぶんの所有ものではなかつた。

それは借金のかたをつけるために人が間に立って、東どなりへとても安いねだんで持たせたのである。

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それは借錢しやくせんの極きまりをつける爲ために人ひとが立たつて東隣ひがしどなりへ格外かくぐわいな値ねで持もたせたのである。

それほど彼の家は苦しかった。

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それ程ほど彼かれの家いへは窮きうして居ゐた。

勘次にとって卯平は、こわいというよりも、そのころではむしろいやな老人になっていた。

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勘次かんじには卯平うへいは畏おそろしいよりも其その時ときでは寧むしろ厭いやな老爺おやぢに成なつて居ゐた。

二人はめったに口もきかない。

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二人ふたりは滅多めつたに口くちも利きかぬ。

それを見ていなければならないお品の苦労は、なみたいていではなかったのである。

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それを見みて居ゐなければ成ならぬお品しなの苦心くしんは容易よういなものではなかつたのである。

勘次にたのまれて南の家のご主人が話をしたとき、卯平は心配したほどでもなく、「子どもらが困るというなら、どうでもするさ。しないでどうするもんか」

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勘次かんじに頼たのまれて南みなみの亭主ていしゆが話はなしをした時ときに卯平うへいはどうしたものかと案あんじた程ほどでもなく「子奴等こめらが困こまるといへばどうでも仕しざらによ、仕しねえでどうするもんか」

と、きせるを手に持って、そのくせの舌打ちをしながら言った。

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と煙管きせるを手てに持もつて其その癖くせの舌皷したつゞみを打うちながらいつた。

南の家で心配しながら返事を待っていた勘次は、元気づいて

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南みなみに居ゐて案あんじながら挨拶あいさつを待まつて居ゐた勘次かんじは勢いきほひづいて

「そんじゃ、おとっつあん、おれは行って来るから」

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「そんぢや、おとつゝあ俺おれ行いつ來くつから」

と言った。

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といつた。

このときばかりは、おだやかなあいさつがかわされた。

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此この時ときばかりは穩おだやかな挨拶あいさつが交換かうくわんされた。

勘次がいなくなってから、卯平はむっつりした顔にほほえみをうかべては、与吉をだいて泣かれることもあった。

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勘次かんじが居ゐなく成なつてから卯平うへいはむつゝりした顏かほに微笑びせうを浮うかべては與吉よきちを抱だいて泣なかれることもあつた。

与吉は夜に急に泣き出して止まらないことがある。

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與吉よきちは夜よる俄にはかに泣なき出だして止やまぬことがある。

お品が死ぬまでかけていたふとんの中に、おつぎは与吉をだいてくるまるのだった。

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お品しなが死しぬまで被きて居ゐた蒲團ふとんの中なかにおつぎは與吉よきちを抱だいてくるまるのであつた。

与吉が夜泣きをするとき、卯平はまくら元のマッチをすってたばこへ火をうつしては、燃えさしを手ランプにつけて

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與吉よきちが夜泣よなきをする時とき卯平うへいは枕元まくらもとの燐寸マツチをすつて煙草たばこへ火ひを移うつしては燃もえさしを手てランプへ點つけて

「おっかあが見えるんだかも知れない。そうら明るくなった。お前は姉ちゃんにだかれてるんだ。こわいことがあるもんか」

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「おつかあが見めえんだかも知しんねえ、さうら明あかるく成なつた。汝わりや姊ねえに抱だかさつてんだ。可怖おつかねえことあるもんか」

卯平は重い調子で言うのである。

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卯平うへいは重おもい調子てうしでいふのである。

与吉はかべのどことも分からない所を見ては、火がついたように体をふるわせて泣いて、ひしとおつぎにだきつく。

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與吉よきちは壁かべの何處どこともなく見みては火ひの附ついたやうに身みを慄ふるはして泣ないて犇ひしとおつぎへ抱だきつく。

おつぎは与吉をひざにだいて、泣き止むまでは両手でつつんでいる。

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おつぎは與吉よきちを膝ひざへ抱だいて泣なき止やむまでは兩手りやうてで掩おほうて居ゐる。

それが泣き出したら毎晩のようなので、おつぎは玉ざとうをふとんの下へ入れておいて、泣くときにはなめさせた。

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それが泣なき出だしたら毎夜まいよのやうなのでおつぎは、玉砂糖たまざたうを蒲團ふとんの下したへ入いれて置おいて泣なく時ときには甞なめさせた。

それでも泣きがひどくなったときは、口へ入れたさとうをはき出しては、いよいよはげしく泣くのである。

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それでも泣なき募つのつた時ときは口くちへ入いれた砂糖さたうを吐はき出だしては愈いよ/\烈はげしく泣なくのである。

おつぎはいらいらして、らんぼうに与吉をゆさぶることもあった。

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おつぎは焦ぢれて邪險じやけんに與吉よきちをゆさぶることもあつた。

それで与吉はついには、さとうを口にしながらすやすやとねむる。

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それで與吉よきちは遂しまひには砂糖さたうを口くちにしながらすや/\と眠ねむる。

卯平は与吉が静かになるまでは、横になったままおつぎのほうを向いて、うす暗い手ランプにその目を光らせている。

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卯平うへいは與吉よきちが靜しづかに成なるまでは横よこに成なつた儘まゝおつぎの方はうを向むいて薄闇うすぐらい手てランプに其その目めを光ひからせて居ゐる。

与吉はおつぎにだかれるとき、いつもよくおつぎの胸をさわるのだった。

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與吉よきちはおつぎに抱だかれる時ときいつも能よくおつぎの乳房ちぶさを弄いぢるのであつた。

うるさがってきびしくしかってみても、与吉は甘えて笑っている。

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五月蠅うるさがつて邪險じやけんに叱しかつて見みても與吉よきちは甘あまえて笑わらつて居ゐる。

それでも泣くときに、お品がしたようにふところを開けてお乳をふくませてみても、その小さなお乳はけっして吸わなかった。

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それでも泣なく時ときにお品しなのしたやうに懷ふところを開あけて乳房ちぶさを含ふくませて見みても其その小ちひさな乳房ちぶさは間違まちがつても吸すはなかつた。

さとうをつけてみても、だませなかった。

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砂糖さたうを附つけて見みても欺あざむけなかつた。

おつぎは与吉がおなかをすかせて泣くときには、米を水にひたしておいてすりばちですって、それをくつくつと煮てさとうを入れてなめさせた。

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おつぎは與吉よきちが腹はらを減へらして泣なく時ときには米こめを水みづに浸ひたして置おいて摺鉢すりばちですつて、それをくつ/\と煮にて砂糖さたうを入いれて嘗なめさせた。

与吉はひとはしなめては舌つづみを打って、その小さな白い歯を出して、頭が後ろにつくほど体をそらせて、おつぎの顔をじっと見ては、甘えた声を立てて笑うのである。

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與吉よきちは一箸ひとはし嘗なめては舌鼓したつゞみを打うつて其その小ちひさな白しろい齒はを出だして、頭あたまを後うしろへひつゝける程ほど身みを反そらしておつぎの顏かほを凝然ぢつと見みては甘あまえた聲こゑを立たてて笑わらふのである。

与吉はそれがほしくなると、小さな手ですすけたたなを指した。

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與吉よきちはそれが欲ほしくなれば小ちひさな手てで煤すゝけた籰棚わくだなを指さした。

そこには、彼の好きなさとうの小さなふくろが乗せてあるのだった。

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其處そこには彼かれの好このむ砂糖さたうの小ちひさな袋ふくろが載のせてあるのであつた。

おつぎは勘次が言いつけて行ったとおり、おけに入れてある米と麦をまぜたのをごはんにたいて、いもと大根のしるを作るほかは、これといった仕事もなかった。

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おつぎは勘次かんじが吩咐いひつけて行いつた通とほり桶をけへ入いれてある米こめと麥むぎとの交まぜたのを飯めしに炊たいて、芋いもと大根だいこの汁しるを拵こしらへる外ほかどうといふ仕事しごともなかつた。

そのあいだには与吉を背負って林の中を歩いて、竹のさおで作ったかぎでかれえだを取っては、しばをたばねるのがつとめだった。

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其その間あひだには與吉よきちを背負せおつて林はやしの中なかを歩あるいて竹たけの竿さをで作つくつた鍵かぎの手てで枯枝かれえだを採とつては麁朶そだを束たばねるのが務つとめであつた。

おつぎは麦藁でたにしのような形にねじれたかごを作って、それを与吉に持たせた。

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おつぎは麥藁むぎわらで田螺たにしのやうな形かたちに捻よぢれた籠かごを作つくつてそれを與吉よきちへ持もたせた。

卯平はぶらりと出て行っては、帰りには駄菓子を少したもとに入れて来る。

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卯平うへいはぶらりと出でて行いつては歸かへりには駄菓子だぐわしを少すこし袂たもとへ入いれて來くる。

そして卯平は、菓子を持った右の手を左のそで口から出して与吉に見せる。与吉はふらふらとやっと歩いて行っては、ぶつかりそうに卯平につかまってたもとをさぐる。

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さうして卯平うへいは菓子くわしを持もつた右みぎの手てを左ひだりの袖口そでくちから出だして與吉よきちへ見みせる、與吉よきちはふら/\と漸やうやく歩あるいて行いつては、衝つき當あたり相さうに卯平うへいへ捉つかまつて袂たもとを探さがす。

すると、菓子を持った手が今度は卯平の左のたもとから出る。

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さうすると菓子くわしを持もつた手てが更さらに卯平うへいの左ひだりの袂たもとから出でる。

与吉はあぶなっかしく卯平の体につかまりながら、左へ回って行く。

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與吉よきちは危あぶな相さうに卯平うへいの身體からだを傳つたひつゝ左ひだりへ廻まはつて行ゆく。

すると、卯平の手が与吉の頭の上に乗って、菓子が頭へ落とされる。

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さうすると卯平うへいの手てが與吉よきちの頭あたまの上うへに乘のつて菓子くわしが頭あたまへ落おとされる。

与吉が頭へ手をやるときに、菓子は足元へぽたりと落ちる。

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與吉よきちが頭あたまへ手てをやる時ときに菓子くわしは足下あしもとへぽたりと落おちる。

与吉は慌てて菓子を拾っては、声を立てて笑うのである。

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與吉よきちは慌あわてゝ菓子くわしを拾ひろつては聲こゑを立たてゝ笑わらふのである。

菓子は、いつまでもへらないようにさとうで固めた黒い鉄砲玉がよく与えられた。

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菓子くわしは何時いつまでも減へらないやうに砂糖さたうで固かためた黒くろい鐵砲玉てつぱうだまが能よく與あたへられた。

頭から落ちてころころと鉄砲玉が遠くへころがって行くのを、たおれながら追いかけて行く与吉を見て、卯平のむっつりとした顔がゆるむのである。

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頭あたまから落おちてころ/\と鐵砲玉てつぱうだまが遠とほく轉ころがつて行ゆくのを、倒たふれながら逐おひ掛かけて行いく與吉よきちを見みて卯平うへいのむつゝりとした顏かほが溶とけるのである。

与吉はつまずいてたおれても、そのときはけっして泣かない。

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與吉よきちは躓つまづいて倒たふれても其その時ときは決けつして泣なくことがない。

鉄砲玉は、麦藁のかごへも入れられた。

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鐵砲玉てつぱうだまは麥藁むぎわらの籠かごへも入いれられた。

与吉はそれを大事そうに持ってはときどきのぞきながら、おつぎがごはんのしたくをするあいだ、おとなしくすわっているのだった。

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與吉よきちはそれを大事相だいじさうに持もつては時ゝ《とき/″\》覗のぞきながら、おつぎが炊事すゐじの間あひだを大人おとなしくして坐すわつて居ゐるのであつた。

六

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六

春は空から、そして土から、そっと動きはじめる。

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春はるは空そらからさうして土つちから微かすかに動うごく。

毎日のように西からほこりをまき上げて来る強い風が、どうかするとぱたりと止んで、空のはしにはふわふわとしたわたのような白い雲が、ほっかり暖かい日ざしをあびようとしてちょっとうかび上がったというように、動きもしないでじっとしていることがある。

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毎日まいにちのやうに西にしから埃ほこりを捲まいて來くる疾風しつぷうがどうかするとはたと止とまつて、空際くうさいにはふわ/\とした綿わたのやうな白しろい雲くもがほつかりと暖あたゝかい日光につくわうを浴あびようとして僅わづかに立たち騰のぼつたといふやうに、動うごきもしないで凝然ぢつとして居ゐることがある。

水の近くのしめった土が暖かい日ざしを思うぞんぶん吸って、その元気になった土のかすかなしげきを根に感じさせるので、田んぼのはんの木のじみなつぼみは、気づかないうちに少しずつのびて、ひらひらと動きやすくなる。

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水みづに近ちかい濕しめつた土つちが暖あたゝかい日光につくわうを思おもふ一杯ぱいに吸すうて其その勢いきほひづいた土つちの微かすかな刺戟しげきを根ねに感かんぜしめるので、田圃たんぼの榛はんの木きの地味ぢみな蕾つぼみは目めに立たたぬ間まに少すこしづゝ延のびてひら/\と動うごき易やすくなる。

そのしげきから、かえるはまだ冬みんしているのに、たまにはあっちでもこっちでもくくくくと鳴き出すことがある。

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其その刺戟しげきから蛙かへるはまだ蟄居ちつきよの状態じやうたいに在ありながら、稀まれにはそつちでもこつちでもくゝ/\と鳴なき出だすことがある。

空からさす日の光はそろそろ熱を増して、土はそれをいくらでも吸って止まない。

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空そらから射さす日ひの光ひかりはそろ/\と熱度ねつどを増まして、土つちはそれを幾いくらでも吸すうて止やまぬ。

土はすべてをだんだんとしげきして、ほりのあたりにはあしやしばやそのほかの草が、空と映り合ってすっと首をもたげる。

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土つちは凡すべてを段々だん/\と刺戟しげきして堀ほりの邊ほとりには蘆あしやとだしばや其その他たの草くさが空そらと相あひ映えいじてすつきりと其その首くびを擡もたげる。

やわらかさに満ちた空気をさらに重くするように、はんの木の花はひらひらと止まず動きながら、すすのような花粉をまき散らしている。

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軟やはらかさに滿みたされた空氣くうきを更さらに鈍にぶくするやうに、榛はんの木きの花はなはひら/\と止やまず動うごきながら煤すゝのやうな花粉くわふんを撒まき散ちらして居ゐる。

かえるは死んだような冬みんからさめて、やわらかな草の上に手をついては、おどろいたようすで空を見上げてみる。

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蛙かへるは假死かしの状態じやうたいから離はなれて軟やはらかな草くさの上うへに手てを突ついては、驚おどろいたやうな容子ようすをして空そらを仰あふいで見みる。

そして彼らは、慌てたように声を上げて、その長いねむりから生き返ったことを空に向かって知らせる。

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さうして彼等かれらは慌あわてたやうに聲こゑを放はなつて其その長ながい睡眠すゐみんから復活ふくくわつしたことを空そらに向むかつて告つげる。

それで遠くで聞くときは、彼らのさわがしい声はただ空にひびいて気持ちよさそうである。

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それで遠とほく聞きく時ときは彼等かれらの騷さわがしい聲こゑは只たゞ空そらにのみ響ひゞいて快こゝろよげである。

彼らはさらに、春が来たことをすべての生き物に向かってせき立てる。

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彼等かれらは更さらに春はるの到いたつたことを一切さいの生物せいぶつに向むかつて促うながす。

草や木が気づいて、その力をぞんぶんに出すのを見ないうちは、鳴くのを止めまいとつとめる。

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草くさや木きが心こゝろづいて其その活力くわつりよくを存分ぞんぶんに發揮はつきするのを見みないうちは鳴なくことを止やめまいと努つとめる。

田んぼのはんの木は、とっくに花を捨てて、自分が先に若葉のすがたになってみせる。

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田圃たんぼの榛はんの木きは疾とうに花はなを捨すてゝ自分じぶんが先さきに嫩葉わかばの姿すがたに成なつて見みせる。

黄色みをふくんだ若葉が、さわやかで、そして明るい朝日をあびて気持ちよく光りながら、青い空の下で、まだためらっているまわりの林を見る。

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黄色味きいろみを含ふくんだ嫩葉わかばが爽さわやかで且かつ朗ほがらかな朝日あさひを浴あびて快こゝろよい光ひかりを保たもちながら蒼あをい空そらの下したに、まだ猶豫たゆたうて居ゐる周圍しうゐの林はやしを見みる。

みさきのような形にのびている水田をかかえて、まわりの林はやっと、それぞれの本来のすがたのままに、白っぽいのや赤っぽいのや、黄色っぽいのや、さまざまにしげって、それが気がついたときには急いで一つの深い緑になるのである。

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岬みさきのやうな形かたちに偃はうて居ゐる水田すゐでんを抱かゝへて周圍しうゐの林はやしは漸やうやく其その本性ほんしやうのまに/\勝手かつてに白しろつぽいのや赤あかつぽいのや、黄色きいろつぽいのや種々いろ/\に茂しげつて、それが氣きが付ついた時ときに急いそいで一ひとつの深ふかい緑みどりに成なるのである。

雑木林のあちこちに散らばっている開こん地の麦もすっと首を出して、そら豆の花もかわいらしい黒いひとみを集めて、はずかしそうに葉のあいだからこっそりと四方をのぞく。

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雜木林ざふきばやしの其處そこら此處こゝらに散在さんざいして居ゐる開墾地かいこんちの麥むぎもすつと首くびを出だして、蠶豆そらまめの花はなも可憐かれんな黒くろい瞳ひとみを聚あつめて羞はづかし相さうに葉はの間あいだからこつそりと四方はうを覗のぞく。

雑木林のあいだには、またすすきのかたい葉が空をさそうとして立つ。

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雜木林ざふきばやしの間あひだには又また芒すゝきの硬直かうちよくな葉はが空そらを刺ささうとして立たつ。

その麦やすすきの下にすみかを求めるひばりが、ときどき空をしめて、春がふけたと呼びかける。

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其その麥むぎや芒すゝきの下したに居きよを求もとめる雲雀ひばりが時々とき/″\空そらを占しめて春はるが深ふけたと喚よびかける。

すると、自分たちの声だけが空を支配しているはずだと思っているかえるは、そのさえずる声をおし消そうとして、たがいの体を飛びこえ飛びこえ鳴き立てるので、力の弱いひばりはすっと下りて、麦やすすきの根にかくれてしまう。

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さうすると其その同族どうぞくの聲こゑのみが空間くうかんを支配しはいして居可ゐべき筈はずだと思おもつて居ゐる蛙かへるは、其その囀さへづる聲こゑを壓あつし去さらうとして互たがひの身體からだを飛とび越こえ飛び越え鳴なき立たてるので小勢こぜいな雲雀ひばりはすつとおりて麥むぎや芒すゝきの根ねに潜ひそんで畢しまふ。

そして、かえるの鳴かない昼のあいだにだけ、これを見上げればまぶしくて目も開けられないほど、その身をはるかにきらめく日の光の中にしずめて、その小さなのどがちぎれるまではげしく鳴らそうとするのである。

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さうしては蛙かへるの鳴なかぬ日中につちうにのみ、之これを仰あふげば眩まばゆさに堪たへぬやうに其その身みを遙はるかに煌きらめく日ひの光ひかりの中なかに沒ぼつして其その小ちひさな咽のどの拗切ちぎれるまでは劇はげしく鳴ならさうとするのである。

かえるはいよいよますます鳴きほこって、かしの木のような大きな常緑樹の古い葉までも、一度にからりと落とさせなければ止まないとする。

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蛙かへるは愈いよ/\益ます/\鳴なき矜ほこつて樫かしの木きのやうな大おほきな常緑木ときはぎの古葉ふるはをも一時じにからりと落おとさせねば止やまないとする。

このとき、すべての木や、それから冬のあいだはぐったりと地面についていたすべての雑草が、つま立ちして、ただ空へ空へと暖かな光を求めて止まない。

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此この時とき凡すべての樹木じゆもくやそれから冬季とうきの間あひだにはぐつたりと地ちに附ついて居ゐた凡すべての雜草ざつさうが爪立つまだてして只たゞ空そらへ/\と暖あたゝかな光ひかりを求もとめて止やまぬ。

土がそれをじっと引き止めて放さない。

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土つちがそれを凝然ぢつと曳ひきとめて放はなさない。

それで草も木もみな土にまっすぐ立っている。冬のあいだは土と平行に寝ころんでいるのが好きだった人も、鉄の針が磁石に吸われるように土にまっすぐ立って、それぞれ手に農具を取る。

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それで一切さいの草木さうもくは土つちと直角ちよくかくの度どを保たもつて居ゐる、冬季とうきの間あひだは土つちと平行へいかうすることを好このんで居ゐた人ひとも鐵てつの針はりが磁石じしやくに吸すはれる如ごとく土つちに直立ちよくりつして各自てんでに手てに農具のうぐを執とる。

紺の股引を藁でくくって、みな田をたがやしはじめる。

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紺こんの股引ももひきを藁わらで括くゝつて皆みな田たを耕たがやし始はじめる。

水がほしいと人が思うとき、かえるはいっせいに、さけるかと思うほどのどのふくろをふくらませて、体をふるわせながら、ことさらに鳴き立てる。

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水みづが欲ほしいと人ひとが思おもふ時とき蛙かへるは一齊せいに裂さけるかと思おもふ程ほど喉のどの袋ふくろを膨脹ばうちやうさせて身みを撼ゆるがしながら殊更ことさらに鳴なき立たてる。

白いきぬ糸のような雨は、水が田に満ちるまでふって、またふる。

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白しろい絓絲すがいとのやうな雨あめは水みづが田たに滿みつるまでは注そゝいで又また注そゝぐ。

鳴くべきときに鳴くためだけに生まれて来たかえるは、かり株をひっくり返しひっくり返し働いている人々のまわりから足元から近づいて、早くその手を動かせ動かせとせき立てて止まない。

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鳴なくべき時ときに鳴なく爲ためにのみ生うまれて來きた蛙かへるは苅株かりかぶを引ひつ返かへし/\働はたらいて居ゐる人々ひと/″\の周圍しうゐから足下あしもとから逼せまつて敏捷びんせうに其その手てを動うごかせ/\と促うながして止やまぬ。

かえるがぴたりと声をのむときには、昼の暖かさに人もぐったりとなって、田んぼのみじかい草にごろりと横になる。

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蛙かへるがぴつたりと聲こゑを呑のむ時ときには日中につちうの暖あたゝかさに人ひともぐつたりと成なつて田圃たんぼの短みじかい草くさにごろりと横よこに成なる。

さらにかえるは、しんと静かな夜になると、自分の声がどれほど遠くまでひびくかをほこるように、力いっぱい鳴く。

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更さらに蛙かへるはひつそりと靜しづかな夜よるになると如何いかに自分じぶんの聲こゑが遠とほく且かつ遙はるかに響ひゞくかを矜ほこるものゝ如ごとく力ちからを極きはめて鳴なく。

雨戸を閉めるとき、かえるの声はぐっと遠くなって、それがぐったりつかれた耳をくすぐって、百姓のみんなを安らかなねむりへとさそうのである。

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雨戸あまどを閉とづる時とき蛙かへるの聲こゑは滅切めつきり遠とほく隔へだつてそれがぐつたりと疲つかれた耳みゝを擽くすぐつて百姓ひやくしやうの凡すべてを安やすらかな眠ねむりに誘いざなふのである。

ぐっすりねむることで、百姓はみな短い時間で体のつかれを回復する。

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熟睡じゆくすゐすることによつて百姓ひやくしやうは皆みな短みじかい時間じかんに肉體にくたいの消耗せうまうを恢復くわいふくする。

彼らが雨戸のすきまからさす夜明けの白い光におどろいてふとんをけって外に出ると、今さらのように耳にせまるかえるの声に目をさまされて、井戸ばたの冷たい水ですっかり朝の元気を取りもどすのである。

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彼等かれらが雨戸あまどの隙間すきまから射さす夜明よあけの白しろい光ひかりに驚おどろいて蒲團ふとんを蹴けつて外そとに出でると、今更いまさらのやうに耳みゝに迫せまる蛙かへるの聲こゑに其その覺醒かくせいを促うながされて、井戸端ゐどばたの冷つめたい水みづに全まつたく朝あさの元氣げんきを喚よび返かへすのである。

草や木は、遠くまでひびけと鳴くその声にゆられながら、夜のあいだにのびる。

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草木くさきは遠とほく遙はるかに響ひゞけと鳴なく其その聲こゑに撼ゆすられつゝ夜よるの間あひだに生長せいちやうする。

くぬぎやならやそのほかの雑木は、かえるが鳴けば鳴くほど、そしてそれが鳴き止む季節までは、いくらでもしげりつづけようとする。

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櫟くぬぎや楢ならや其その他たの雜木ざふきは蛙かへるが鳴なけば鳴なく程ほどさうしてそれが鳴なき止やむ季節きせつまでは幾いくらでも繁茂はんもすることを繼續けいぞくしようとする。

そこには毛虫やそのほかの情けない害があるにしても、しとしとと何度もえだを打つ雨がふって、空の青さをうつしたかと思うほど力強い深い緑が地面をおおって、さわやかなすずしいかげを作るのである。

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其處そこには毛蟲けむしや其その他たの淺猿あさましい損害そんがいが或あるひは有あるにしても、しと/\と屡しば/\梢こずゑを打うつ雨あめが空そらの蒼あをさを移うつしたかと思おもふやうに力強ちからづよい深ふかいい緑みどりが地上ちじやうを掩おほうて爽さわやかな冷すゞしい陰かげを作つくるのである。

鬼怒川の西岸の一部の土地にも、こうして春は来て、そして過ぎて行った。

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鬼怒川きぬがはの西岸せいがん一部ぶの地ちにも恁かうして春はるは來きたり且かつ推移すゐいした。

心配ごとのある者もない者も、同じように農具を取って、それぞれの持ち場についた。

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憂うれひあるものも無ないものも等ひとしく耒耟らいしを執とつて各おの/\其その處ところに就ついた。

勘次もその一人である。

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勘次かんじも其その一人ひとりである。

勘次は春のあいだに、お品の四十九日もすませた。

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勘次かんじは春はるの間あひだにお品しなの四十九日にちも過すごした。

白木の位はいに気持ちばかりのおそなえをしただけで、一銭でも彼はむだづかいをおそれた。

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白木しらきの位牌ゐはいに心こゝろばかりの手向たむけをしただけで一錢せんでも彼かれは冗費じようひを怖おそれた。

彼がふたたび利根川の工事へ行ったときには、冬がようやくけわしい空を頭の上に見せていた。

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彼かれが再ふたゝび利根川とねがはの工事こうじへ行いつた時ときは冬ふゆは漸やうやく險惡けんあくな空そらを彼等かれらの頭上づじやうに表あらはした。

みぞれや雪や雨が、ときには彼らの仕事をひどくじゃまして、彼らを一日、その寒い部屋に閉じこめた。

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霙みぞれや雪ゆきや雨あめが時ときとして彼等かれらの勞働らうどうに怖おそるべき障害しやうがいを與あたへて彼等かれらを一日にち其その寒さむい部屋へやに閉とぢ込こめた。

一日の賃金は、うんとせつやくしても、次の日に仕事に出なければ一銭も自分の手には残らなくなる。

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一日にちの工賃こうちんは非常ひじやうな節約せつやくをしても次つぎの日ひに仕事しごとに出でなければ一錢せんも自分じぶんの手てには残のこらなくなる。

それは、食べ物とたきぎを高いねだんで買わなければならないからである。

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それは食料しよくれうと薪まきとの不廉ふれんな供給きようきふを仰あふがねばならぬからである。

勘次は、お品が病気になってから葬式までに、彼にしては大きすぎるお金がかかった。

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勘次かんじはお品しなの發病はつびやうから葬式さうしきまでには彼かれにしては過大くわだいな費用ひようを要えうした。

それでも葬式の道具やそのほかの費用は、二銭ずつでも村じゅうが持って来た香典と、お品のふとんの下に入れてあったたくわえとで、どうにかできた。

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それでも葬具さうぐや其その他たの雜費ざつぴには二錢せんづつでも村むらの凡すべてが持もつて來きた香奠かうでんと、お品しなの蒲團ふとんの下したに入いれてあつた蓄たくはへとでどうにかすることが出來できた。

それでも医者へのお礼やそのほかで、彼自身のふところはげっそりとへってしまった。

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それでも醫者いしやへの謝儀しやぎや其その他たで彼自身かれじしんの懷中ふところはげつそりと減へつて畢しまつた。

そして小作米を売った苦しいふところから、それでも彼は自分がいないあいだの費用に五十銭をあずけて行った。

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さうして小作米こさくまいを賣うつた苦くるしい懷ふところからそれでも彼かれは自分じぶんの居ゐない間あひだの手當てあてに五十錢せんを託たくして行いつた。

それも卯平へ直接ではなくて、南の家にたのんで卯平へわたしてもらった。

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それも卯平うへいへ直接ちよくせつではなくて南みなみへ頼たのんで卯平うへいへ渡わたして貰もらつた。

勘次が行ってから、そのお金を出されたとき、卯平は

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勘次かんじが行いつてから其その錢ぜにを出だされた時とき卯平うへいは

「そんなにうたがうなら、わしはあずかりますまい」

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「さう疑うたぐるならわしは預あづかりますめえ」

と言ってことわった。

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といつて拒絶きよぜつした。

「まあ、そんなこと言わないで、せっかくのことに。勘次さんも悪い気持ちでしたんでもないだろうから」

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「まあ其麽そんなことゆはねえで折角せつかくのことに、勘次かんじさんも惡わるい料簡れうけんでしたんでもなかんべえから」

となだめても、とうとう卯平は聞かなかった。

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と宥なだめても到頭たうとう卯平うへいは聽きかなかつた。

勘次はどうにかかせいで帰りたいと思っていっしょうけんめいになったが、それはやっと命をつなげただけだった。

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勘次かんじはどうにか稼かせぎ出だして歸かへりたいと思おもつて一生懸命しやうけんめいになつたがそれは僅わづかに生命せいめいを繋つなぎ得えたに過すぎないのであつた。

近所の村から行った者の中には、しのぎきれないで夜にげした者もあった。

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近所きんじよの村落むらから行いつたものは凌しのぎ切きれないで夜遁よにげして畢しまつたものもあつた。

それでも勘次は、わずかに持って出たさいふのお金をへらさなかったというだけのことでふみとどまった。

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それでも勘次かんじは僅わづかに持もつて出でた財布さいふの錢ぜにを減へらさなかつたといふ丈だけのことに繋つなぎ止とめた。

「おとっつあん、いてくれたなあ」

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「おとつゝあ居ゐて呉くれたなあ」

と、こびるように言って自分の家のしきいをまたいだときには、足の感覚がないほど彼はくたびれていて、夜は暗くなっていた。

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と媚こびるやうにいつて自分じぶんの家うちの閾しきゐを跨またいだ時ときは足あしに知覺ちかくのない程ほどに彼かれは草臥くたびれて夜よるは闇くらくなつて居ゐた。

さすがに二人の子はよろこんで、与吉は勘次の手にすがった。

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有繋さすがに二人ふたりの子こは悦よろこんで與吉よきちは勘次かんじの手てに縋すがつた。

卯平がしたように、鉄砲玉が勘次の手から出ると思ったらしかった。

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卯平うへいがしたやうに鐵砲玉てつぽうだまが勘次かんじの手てから出でることゝ思おもつたらしかつた。

勘次は苦しいふところから、何も買っては来なかった。

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勘次かんじは苦くるしい懷ふところから何なにも買かつては來こなかつた。

彼はどうしても、むじゃきな子のために小さな菓子の一ふくろも持って来なかったことを、心の中で後かいした。

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彼かれは什麽どんなにしても無邪氣むじやきな子この爲ために小ちひさな菓子くわしの一袋ひとふくろも持もつて來こなかつたことを心こゝろに悔くいた。

「まんま」

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「まんま」

と言って、小さな与吉は勘次にねだった。

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というて小ちひさな與吉よきちは勘次かんじに求もとめた。

「そんじゃ、爺さんのさとうでもなめろ」

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「そんぢや爺ぢいが砂糖さたうでも嘗なめろ」

と、おつぎは与吉をだいてたなのふくろを取った。

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とおつぎは與吉よきちを抱だいて籰棚わくだなの袋ふくろをとつた。

口数の少ない卯平は、ちょっと見ただけで、帰ったかとも言わない。

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寡言むくちな卯平うへいは一寸ちよつと見向みむいたきりで歸かへつたかともいはない。

勘次がくたびれたようすをしているのがわざとらしく見えるので、卯平はにがい顔をして、火の消えたきせるをぎっとかみしめては、思い出したように、きせるの先を火ばちへたたきつけた。

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勘次かんじが草臥くたびれた容子ようすをして居ゐるのが態わざとらしいやうに見みえるので卯平うへいは苦にがい顏かほをして、火ひの消きえた煙管きせるをぎつと噛かみしめては思おもひ出だしたやうに雁首がんくびを火鉢ひばちへ叩たゝき付つけた。

吸いがらがくっついているので、彼は力いっぱいたたきつけた。

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吸穀すひがらがひつゝいてるので彼かれは力ちから一杯ぱいに叩たゝきつけた。

勘次には、それが自分への当てつけのように心にひびいた。

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勘次かんじにはそれが當あてつけにでもされるやうに心こゝろに響ひゞいた。

「おつぎ、みんなにでもなめさせろ。そしてお前もなめっちまえ。おとっつあんがかせいで来たから、お前らもこれからよかろう」

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「おつぎみんなでも嘗なめさせろ、さうして汝われも嘗なめつちめえ、おとつゝあ稼かせえで來きたから汝等わつらも此これからよかんべえ」

卯平は言った。

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卯平うへいはいつた。

勘次はやっと帰ったばかりなのにこういうことで、自分の家でもひどく落ち着かない、いたたまれない気持ちがするので、彼は足も洗わずに、近所へあいさつに行くからと言って出て行った。

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勘次かんじは漸やうやく歸かへつた其その箭先やさきにかういふことで自分じぶんの家うちでも酷ひどく落付おちつかない、こそつぱくて成ならない心持こゝろもちがするので彼かれは足あしも洗あらはずに近所きんじよへ義理ぎりも足たすからといつて出でて行いつた。

「明日だっていいのに」

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「明日あしただつてえゝのに」

卯平はあとでつぶやいた。

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卯平うへいは後あとで呟つぶやいた。

彼はぶすりぶすりと口はきくのだったが、それでもさっきのようにひねくれたことは、これまで言ったことはなかった。

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彼かれはぶすり/\と口くちは利きくのであつたがそれでも先刻さつきからのやうにひねくれ曲まがつたことは此これまではいつたことはなかつた。

彼は死んだお品のことを思って、二人の子があわれになって、勘次のいないあいだ面倒を見る気になった。

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彼かれは死しんだお品しなのことを思おもつて二人ふたりの子こが憐あはれになつて勘次かんじの居ゐない間あひだの面倒めんだうを見みる氣きに成なつた。

彼はわずかな菓子のふくろで小さな与吉になつかれてみると、さすがに憎い気持ちも起こらなかった。

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彼かれは僅わづかな菓子くわしの袋ふくろから小ちひさな與吉よきちに慕したはれて見みると有繋さすがに憎にくい心持こゝろもちも起おこらなかつた。

そのあいだ、彼は何も物足りないとは思っていなかった。

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其その間あひだ彼かれは何なんにも不足ふそくに思おもつては居ゐなかつた。

それが勘次が帰ってみると、生まれつき好きでない勘次のほうへ、たちまち二人の子はなびいてしまった。

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それを勘次かんじが歸かへつて見みると性來しやうらい好すきでない勘次かんじへ忽たちまちに二人ふたりの子こは靡なびいて畢しまつた。

彼はこれまでの心づかいを勘次に取られたようで、ふっといやな気持ちを起こしたのである。

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彼かれは此これまでの心竭こゝろづくしを勘次かんじに奪うばはれたやうで、ふつと不快ふくわいな感かんじを起おこしたのである。

それも、どんな形にでも勘次があいさつをすればまだよかったが、勘次は妙に気おくれして、それが喉まで出てもおさえつけられたようで、声に出すことができなかったのである。

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それもどんな姿なりにも勘次かんじが義理ぎりを述のべればそれでもまだよかつたが、勘次かんじは妙めうに身みがひけてそれが喉のどまで出でても抑おさへつけられたやうで聲こゑに發はつすることが出來できなかつたのである。

ふところのさびしい勘次が、そうして気おくれするのが、卯平にはかえってよそよそしくされるように感じられた。

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懷ふところのさむしい勘次かんじはさうして身みがひけるのを卯平うへいには却かへつて餘所よそ/\しくされるやうな感かんじを與あたへた。

勘次は卯平にも子どもにも済まないような気がしたので、近所へあいさつに行くと言って出て、菓子を一ふくろふところに入れて来た。

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勘次かんじは卯平うへいにも子供こどもにも濟すまぬやうな氣きがしたので近所きんじよへ義理ぎりを足たすというて出でて菓子くわしの一袋ひとふくろを懷ふところへ入いれて來きた。

そのとき、与吉はもうねむっていた。

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其その時とき與吉よきちはもう眠ねむつて居ゐた。

卯平は、変なことをすると思って見ていた。

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卯平うへいは變へんなことをすると思おもつて見みて居ゐた。

そしてまたさらに、自分がひどくのけ者にされているように思った。

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さうして又また更さらに自分じぶんが酷ひどく隔へだてられるやうに思おもつた。

彼は五十銭のお金のことを思い出して、いまいましくなった。

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彼かれは五十錢せんの錢ぜにのことを思おもひ出だして忌々敷いま/\しくなつた。

「勘次ら、ふところはいいだろう」

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「勘次等かんじら懷ふところはよかつぺ」

卯平はぶつりと聞いた。

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卯平うへいはぶつゝりと聞きいた。

「おとっつあん、おれはいい所なもんじゃない。やっとのことで逃げるようにして来たんだ。あんな所へなんざ、けっして行くもんじゃない。とてもだめなことだ。おれもこりちまったよ」

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「おとつゝあ、俺おらえゝ所ところなもんぢやねえ、やつとのことで逃にげるやうにして來きたんだ、あんな所ところへなんざあ決けつして行いくもんぢやねえ、とつても駄目だめなこつた、俺おらも懲こりつちやつたよ」

勘次は慌てて言った。

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勘次かんじは慌あわてゝいつた。

彼は会う人ごとに必ず、よかろうよかろうと言われるのを、とてもおそれていた。

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彼かれは逢あふ人ひと毎ごとに必かならずよからう/\といはれるのを非常ひじやうに怖おそれて居ゐた。

「うん、そうかなあ」

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「うむ、さうかなあ」

卯平は気のないように言った。

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卯平うへいは氣きのないやうにいつた。

「どうせおれはよけい者だ。いなくたっていいや。いくらもうけたって、かまいやしない」

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「どうで俺おら餘計者よけいものだ、居ゐやしねえからえゝや、幾いくら持もつてたつて構かまやしねえ」

彼はさらに独り言を言った。

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彼かれは更さらに獨語つぶやいた。

勘次は青くなった。

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勘次かんじは蒼あをくなつた。

卯平は、勘次がきっとお金をかくしているのだと思ったのである。

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卯平うへいは勘次かんじが屹度きつと錢ぜにを隱かくして居ゐるのだと思おもつたのである。

彼はそんなこんながいやでたまらないので、次の日、野田へ発ってしまった。

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彼かれはそんなこんなが不快ふくわいに堪たへないので次つぎの日ひ野田のだへ立たつて畢しまつた。

野田で卯平の役目といえば、夜になって大きな蔵のあいだを拍子木をたたいて歩くだけで、老人の体にもそれは特につらいことではなかった。

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野田のだで卯平うへいの役目やくめといへば夜よるになつて大おほきな藏々くら/″\の間あひだを拍子木ひやうしぎ叩たゝいて歩あるく丈だけで老人としよりの體からだにもそれは格別かくべつの辛抱しんぼうではなかつた。

昼は昼寝がゆるされているので、その時間をつかって、器用な彼には内職のこづかいかせぎも少しはできた。

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晝ひるは午睡ひるねが許ゆるされてあるので其その時間じかんを割さいて器用きような彼かれには内職ないしよくの小遣取こづかひどりも少すこしは出來できた。

好きなたばこやコップ酒に不自由することはなかった。

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好すきな煙草たばことコツプ酒ざけに渇かつすることはなかつた。

暑いときにはさっぱりしたゆかたを引っかけていることもできた。

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暑あつい時ときにはさつぱりした浴衣ゆかたを引ひつ掛かけて居ゐることも出來できた。

そこは彼には住みにくい所でもなかった。

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其處そこは彼かれには住すみ辛づらい處ところでもなかつた。

ただ、こごえるほど寒い冬の夜などには、前からの持病である疝気で、どうかすると腰がきりきりと痛むこともあったが、そのときだけは、勘次と仲が悪くなければお品のそばで「おとっつあん」と呼ばれていたい気持ちもするのだった。

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只たゞ凍いての酷ひどい冬ふゆの夜よなどには以前いぜんからの持病ぢびやうである疝氣せんきでどうかすると腰こしがきや/\と痛いたむこともあつたが、其その時とき丈だけは勘次かんじとまづくなければお品しなの側そばでおとつゝあといはれて居ゐたい心持こゝろもちもするのであつた。

生まれつき自分の子を持ったことのない彼は、お品一人がたよりだった。

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生來せいらい子こを持もつたことのない彼かれはお品しな一人ひとりが手頼てたのみであつた。

お品に死なれて、彼はまったく一人ぼっちになった。

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お品しなに死しなれて彼かれは全まつたく孤立こりつした。

そして年を取ってからは、どうしても勘次の手にたよらなければならないことになってしまったのである。

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さうして老後らうごは到底たうてい勘次かんじの手てに託たくさねばならぬことに成なつて畢しまつたのである。

それでも見苦しくてみすぼらしい勘次は、あいかわらず彼には気に入らなかった。

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それでも不見目みじめな貧相ひんさうな勘次かんじは依然いぜんとして彼かれには蟲むしが好すかなかつた。

彼は野田へ行けばわりと不自由のない暮らしができるので、お前らの世話にならなくてもおれはまだやって行かれると、こうして悲しみにつつまれた心の一方には、老人のひがみとぐちとが起こったのだった。

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彼かれは野田のだへ行いけば比較的ひかくてきに不自由ふじいうのない生活せいくわつがして行いかれるので汝等わつらが厄介やくかいには成ならねえでも俺おれはまだ立たつて行いかれると、恁かうして哀愁あいしうに掩おほはれた心こゝろの一方ぱうには老人としよりの僻ひがみと愚癡ぐちとが起おこつたのであつた。

卯平は心の中でなみだをのんだ。

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卯平うへいは心こゝろに涙なみだを呑のんだ。

勘次はしょんぼりしていた。

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勘次かんじは悄然せうぜんとして居ゐた。

与吉が泣くたびに、彼は困った。

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與吉よきちが泣なく度たびに彼かれは困こまつた。

そして毎日お品のことを思い出しては、てんびん棒で手おけをかついだすがたが庭にも戸口にも、ときには座敷にも見えることがあった。

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さうして毎日まいにちお品しなのことを思おもひ出だしては、天秤てんびんで手桶てをけを擔かついだ姿すがたが庭にはにも戸口とぐちにも時ときとしては座敷ざしきにも見みえることがあつた。

そばにいるような気がして、思わずふり返ることもあるのだった。

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側そばに居ゐるやうな氣きがして思おもはず顧かへりみることもあるのであつた。

彼はお品を思い出すと与吉をだいては、「なあ、おっかあはいないんだぞ。おっかあのお乳はほしがってもだめなんだぞ」

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彼かれはお品しなを思おもひ出だすと與吉よきちを抱だいては「なあ、おつかあは居ゐねえんだぞ、おつかあが乳房ちつこ欲ほしがんねえんだぞ」

と、いつも言って聞かせた。

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と始終しじういつて聞きかせた。

お品がいないとわざわざ言うのは、一つには彼自身が諦めるためでもあったのである。

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お品しなが居ゐないと殊更ことさらにいふのはそれは一つには彼自身かれじしんの斷念あきらめの爲ためでもあつたのである。

お品はとうふをかついでいるときは、よくビールの空きびんを手おけにくくって行った。

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お品しなは豆腐とうふを擔かついで居ゐる時ときは能よく麥酒ビールの明罎あきびんを手桶てをけへ括くゝつて行いつた。

それで帰りの手おけが軽くなったときには、勘次の好きなお酒がこぼこぼとびんの中で鳴っていた。

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それで歸かへりの手桶てをけが輕かるくなつた時ときは勘次かんじの好すきな酒さけがこぼ/\と罎びんの中なかで鳴なつて居ゐた。

お品は酒屋へとうふを置いては、その代金の分だけお酒を入れてもらうので、とうふのもうけの分だけ安くお酒を買って、勘次をよろこばせるのだった。

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お品しなは酒店さかだなへ豆腐とうふを置おいては其その錢ぜにだけ酒さけを入いれて貰もらふので豆腐とうふの儲まうけだけ廉やすい酒さけを買かつて勘次かんじを悦よろこばせるのであつた。

それはお品が死んだ年だけのことである。

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それはお品しなの死しぬ年としのことだけである。

お品が、やっと商売をおぼえたと言っていたのは、まだその夏のころからである。

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お品しなは漸やうやく商あきなひを覺おぼえたといつて居ゐたのはまだ其その夏なつの頃ころからである。

初めはきまりが悪くて、他人の家のしきいをまたぐのをためらっていた。

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初はじめは極きまりが惡わるくて他人たにんの閾しきゐを跨またぐのを逡巡もぢ/\して居ゐた。

それくらいだから変に赤い顔もして、よけいに無愛想にも見えたのだが、あとにはそれなりに季節のあいさつも言えるようになったと、お品はよく勘次に話したのである。

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其その位くらゐだから變へんな赤あかい顏かほもして餘計よけいに不愛想ぶあいさうにも見みえるのであつたが、後のちには相應さうおうに時候じこうの挨拶あいさつもいへるやうに成なつたとお品しなは能よく勘次かんじへ語かたつたのである。

勘次は思い出にたえられなくなっては、お品の墓で泣いた。

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勘次かんじは追憶つゐおくに堪たへなくなつてはお品しなの墓塋はかに泣ないた。

彼は、紙が雨にとけてだらりとくずれた白いちょうちんを、うらめしそうに見るのだった。

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彼かれは紙かみが雨あめに溶とけてだらりとこけた白張提灯しらはりちやうちんを恨うらめし相さうに見みるのであつた。

勘次はうなだれた首を上げて、三人が食べていくために日やといに出た。

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勘次かんじは悄しをれた首くびを擡もたげて三人にんの口くちを糊のりするために日傭ひように出でた。

彼はよく、となりの主人に使ってもらった。

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彼かれは能よく隣となりの主人しゆじんに使つかつて貰もらつた。

米は決まって彼がつかされた。

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米こめは屹度きつと彼かれが搗つかせられた。

じょうずな彼は、へらさないで、しかも白くついた。

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上手じやうずな彼かれは減へらさないでさうして白しろく搗ついた。

彼はときには、主人がうっかりしているあいだに蔵からよけいな米をはかり出して、そっとかくしておいて、夜に自分の家へ持って来ることがあった。

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彼かれは時ときとしては主人しゆじんのうつかりして居ゐる間まに藏くらから餘計よけいな米こめを量はかり出だして、そつと隱かくして置おいて夜よる自分じぶんの家いへに持もつて來くることがあつた。

それもわずか二しょうか三しょうにすぎない。

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それも僅わづか二升しようか三升じように過すぎない。

それくらいでは、主人に気づかれることはなかった。

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其その位くらゐでは主人しゆじんの注意ちういを惹ひくには足たらなかつた。

そして、その米が苦しい彼の台所をしばらくうるおすのである。

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さうして其その米こめは窮迫きうはくした彼かれの厨くりやを少時しばし濕うるほすのである。

あるとき、彼はまた主人の米をそっとぬすんで、股引に入れて目につかないようにたきぎを積んだあいだへおしこんでおいた。

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或ある時とき彼かれは復また主人しゆじんの米こめをそつと掠かすめて股引もゝひきへ入いれて目めにつかぬやうに薪たきゞの積つんだ間あひだへ押おし込こんで置おいた。

やとわれ人がそれを見つけて、こっそり主人のおかみさんに知らせた。

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傭人やとひにんがそれを發見はつけんして竊ひそかに主人しゆじんの内儀かみさんに告つげた。

おかみさんは、わずかなことだからほうっておいてやれと言ったが、しかしやとわれ人は、一つにはいたずらから米をあけて、そのかわりにいっぱい土を入れておいた。

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内儀かみさんは僅わづかなことだから棄すてゝ置おいて遣やれといつたが然しかし傭人やとひにんは一つには惡戯いたづらから米こめを明あけて其その代かはりに一杯ぱいに土つちを入いれて置おいた。

勘次はばれたことをおそれ、はずかしくなって、次の日には来なかった。

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勘次かんじは發覺はつかくしたことを怖おそれ且かつ恥はぢて次つぎの日ひには來こなかつた。

それから何日かのあいだは、主人の家にすがたを見せなかった。

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それから數日間すうじつかんは主人しゆじんの家うちに姿すがたを見みせなかつた。

おかみさんはやとわれ人のいたずらを聞いて、むしろあわれになって、こちらからまた仕事を言いつけてやった。

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内儀かみさんは傭人やとひにんの惡戯いたづらを聞きいて寧むしろ憐あはれになつて又またこちらから仕事しごとを吩咐いひつけてやつた。

さらにふくろへ米とひきわり麦をまぜたのを入れて、それから、これはやとわれ人にもたいてやれないのだから、お前がよければ持って行って、秋にでもなったらもち粟を少しでも返せと、二、三斗入ったうるち粟の俵といっしょにやった。

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更さらに袋ふくろへ米こめと挽割麥ひきわりむぎとを交まぜたのを入いれて、それから此これは傭人やとひにんにも炊たいてやれないのだからお前まへがよければ持もつて行いつて秋あきにでもなつたら糯粟もちあはの少すこしも返かへせと二三斗ど入はひつた粳粟うるちあはの俵たわらとを一つに遣やつた。

勘次は主人のためにいっしょうけんめい働いた。

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勘次かんじは主人しゆじんの爲ために一所懸命しよけんめい働はたらいた。

その前からも、彼はただとなりの主人に見捨てられないようにと、心の中で思っているのだった。

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其その以前いぜんからも彼かれは只たゞ隣となりの主人しゆじんから見棄みすてられないやうと心こゝろには思おもつて居ゐるのであつた。

しかし、あまりにはげしく働くことは、やとわれ人の仲間にはきらわれた。

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然しかし非常ひじやうな勞働らうどうは傭人やとひにんの仲間なかまには忌いまれた。

それは、やとわれ人も彼にならって、自分もその力をおしめなくなるからである。

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それは傭人やとひにんも彼かれに倣ならつて自分じぶんも其その勞力らうりよくを偸ぬすむことが出來できないからである。

そうするうちに、世の中はまた春がめぐって、雨がいそがしく田畑へ水を送った。

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さうする内うちに世間せけんは復また春はるが移うつつて雨あめが忙いそがしく田畑たはたへ水みづを供給きようきふした。

勘次は自分の家の後ろの田へ出て、かり株をひっくり返してはたがやした。

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勘次かんじは自分じぶんの後うしろの田たへ出でて刈株かりかぶを引ひつ返かへしては耕たがやした。

おつぎも万能ぐわを持って、勘次の後についた。

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おつぎも萬能まんのうを持もつて勘次かんじの後あとに跟ついた。

勘次は、お品の手がへった分はおつぎを使って、どうにかこれまで作ってきた土地はやりくりしようと思った。

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勘次かんじはお品しなの手てが減へつた丈だけはおつぎを使つかつてどうにか從來これまで作つくつた土地とちは始末しまつをつけようと思おもつた。

ことに田はすぐ後ろなので、どうしても手放すまいとした。

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殊ことに田たは直すぐ後うしろなので什麽どんなにしても手放てばなすまいとした。

いったん地主へ返してしまったら、また自分がほしくなってもかんたんには手に入らないのをおそれたからである。

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一且たん地主ぢぬしへ還かへして畢しまつたら再ふたゝび自分じぶんが欲ほしくなつても容易よういに手てに入いれることが出來できないのを怖おそれたからである。

今におつぎを一人前に仕込んでみせると、勘次は心の中で思っている。

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今いまにおつぎを一人前にんまへに仕込しこんで見みると勘次かんじは心こゝろに思おもつて居ゐる。

勘次は万能ぐわをぶつりと打ちこんでは、ぐっと大きな土のかたまりを起こす。

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勘次かんじは萬能まんのうをぶつりと打うち込こんではぐつと大おほきな土つちの塊かたまりを引返ひきかへす。

おつぎはやっと小さなかたまりを起こす。

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おつぎは漸やうやく小ちひさな塊かたまりを起おこす。

勘次の手は速く動いて、ずんずんと先へ進む。

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勘次かんじの手ては速すみやかに運動うんどうしてずん/\と先さきへ進すゝむ。

おつぎはだんだんおくれて、小さなかたまりを浅く起こしながら進んで行く。

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おつぎは段々だん/\後おくれて小ちひさな塊かたまりを淺あさく起おこして進すゝんで行ゆく。

すると

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さうすると

「そんなにこわがってびくびくやるんじゃない。こうするんだ」

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「そんなに可怖おつかなびつくりやんぢやねえかうすんだ」

勘次はもどかしそうに、おつぎの万能ぐわを取って打ちこんで見せる。

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勘次かんじは遲緩もどかし相さうにおつぎの萬能まんのうをとつて打うち込こんで見みせる。

「そんでも、おとっつあん、おれにはそういうふうにはできないんだもの」

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「そんでもおとつゝあ、俺おらがにやさういにや出來できねえんだもの」

「そんな気持ちだからお前らはだめだ。本気でやってみるつもりでやってみろ」

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「そんな料簡れうけんだから汝等わツら駄目だめだ、本當ほんたうにやつて見みる積つもりでやつて見みろ」

おつぎは勘次におくれながら、手の力のかぎり働いた。

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おつぎは勘次かんじに後おくれつゝ手ての力ちからの及およぶ限かぎり働はたらいた。

与吉は田んぼのほりのあたりにむしろをしいて、そこに置いてある。

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與吉よきちは田圃たんぼの堀ほりの邊ほとりに筵むしろを敷しいて其處そこに置おいてある。

「じっとしていろ、動くんじゃないぞ。動くとぽかんとほりの中へ落っこちるからな。そうら、かえるがぽかんと落っこちた。動くなあ、ここに棒があった。そうら、これでも持ってろ。泣くんじゃないぞ。姉ちゃんはこの田の中にいるんだからな。泣くとおとっつあんにあっぷって怒られるからな」

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「えんとして居ゐろ、動いごくんぢやねえぞ動いごくとぽかあんと堀ほりの中なかさ落おつこちつかんな、そうら蛙けえるぽかあんと落おつこつた。動いごくなあ、此處こゝに棒ぼうあつた、そうら此これでも持もつてろ、泣なくんぢやねえぞ、姉ねえは此この田たン中なかに居ゐんだかんな、泣なくとおとつゝあにあつぷつて怒おこられつかんな」

おつぎはほおをすりつけて、よく言い聞かせた。

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おつぎは頬ほゝを擦すりつけて能よくいひ含ふくめた。

与吉は土だらけのみじかい棒で、岸の土をたたいている。

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與吉よきちは土つちだらけの短みぢかい棒ぼうで岸きしの土つちを叩たゝいて居ゐる。

そしてときどき後ろを向いては姉のすがたを見て、安心して棒でぴたぴたとたたいている。

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さうして時々とき/″\後あとを向むいては姉あねの姿すがたを見みて安心あんしんして棒ぼうでぴた/\と叩たゝいて居ゐる。

棒の先が水を打つので、与吉はよろこんだ。

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棒ぼうの先さきが水みづを打うつので與吉よきちは悦よろこんだ。

それもしばらくのうちにあきた。

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それも少時しばしの間あひだに飽あいた。

おつぎは、与吉がまた見たときには、田の向こうのはしに行っていた。

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おつぎは與吉よきちがまた見みた時ときには田たの向むかふの端はしに行いつて居ゐた。

「姉ちゃんよう」

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「姉ねえよう」

と与吉は呼んだ。

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と與吉よきちは喚よんだ。

おつぎは返事しなかった。

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おつぎは返辭へんじしなかつた。

与吉はまた呼んだ。

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與吉よきちは又また喚よんだ。

そして泣き出した。

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さうして泣なき出だした。

おつぎが立って行こうとすると

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おつぎは立たつて行いかうとすると

「かまわないで置け。たがやしてあっちへ行ってからにしろ」

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「構かまあねえで置おけ、耕うなつてあつちへ行いつてからにしろ」

勘次はせっかちにきびしく、おつぎを止めた。

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勘次かんじは性急せいきふに嚴きびしくおつぎを止とめた。

おつぎは仕方なく、泣くのもかまわずにたがやした。

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おつぎは仕方しかたなく泣なくのも構かまはずに耕たがやした。

勘次は先へ先へとたがやして、ほりのそばまで来た。

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勘次かんじは先さきへ/\と耕たがやして堀ほりの側そばまで來きた。

「泣くな。今、姉ちゃんが後から来らあ」

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「泣なくな、今いま姉ねえが後あとから來くらあ」

勘次はこう言って、与吉をちらっと見ただけで、いっしんにその手を動かしている。

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勘次かんじはかういつて、與吉よきちに一瞥べつを與あたへたのみで一心しんに其その手てを動うごかして居ゐる。

与吉は、おつぎがやっと近づいたとき、ひとしきりまた泣いた。

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與吉よきちはおつぎが漸やうやく近ちかづいた時とき一しきり又また泣ないた。

「よきはどうしたんだ」

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「よきはどうしたんだ」

おつぎは岸へ上がって、どろだらけの足で草の上にひざをついた。

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おつぎは岸きしへ上あがつて泥どろだらけの足あしで草くさの上うへに膝ひざを突ついた。

与吉は笑いまじりに泣いて、両手を出してだかれようとする。

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與吉よきちは笑交わらひまじりに泣ないて兩手りやうてを出だして抱だかれようとする。

「姉ちゃんはどろだらけで仕方があるまいな。よごれてもいいのか、よきは」

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「姉ねえは泥どろだらけで仕しやうあんめえな、汚よごれてもえゝのかよきは」

と言いながら、おつぎは与吉をだいた。

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いひながらおつぎは與吉よきちを抱だいた。

「どうした、かえるはいないか。この棒でばたばたとたたいてやれ。そうしたら痛いようって、かえるが泣くだろうな。泣くなかえるだよう、よきは泣かないようってなあ」

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「どうした、蛙奴けえるめ居ゐねえか、此この棒ぼうでばた/″\と叩はたいてやれ、さうしたら痛いてえようつて蛙奴けえるめが泣なくべえな、泣なくな蛙けえるだよう、よきは泣なかねえようつてなあ」

おつぎは与吉をだいたまま、勘次のほうを見て

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おつぎは與吉よきちを抱だいた儘まゝ勘次かんじの方ほうを見みて

「おとっつあん、あっちへ行っちゃった。姉ちゃんも行かなくちゃならない。おとっつあんに怒られるからな。またじっとしていろ」

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「おとつゝあ、あつちへ行えつちやつた、姉ねえも行えかなくつちやなんねえ、おとつゝあに怒おこられつかんな、又またえんとして居ゐろ」

おつぎはそっと与吉をむしろへ下ろした。

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おつぎはそつと與吉よきちを筵むしろへ卸おろした。

「早くやれ、何してるんだ。いいかげんにしろ」

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「かせえてやれ、何なにしてんだ、えゝ加減かげんにしろ」

勘次は後ろを向いてどなった。

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勘次かんじは後うしろを向むいて呶鳴どなつた。

「それ見ろな、怒られるから。そら、ここにいいものがあった」

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「それ見みろな怒おこられつから、そら此處こゝにえゝものが有あつた」

おつぎは田んぼにあるははこぐさの花をむしって、むしろへ乗せてやった。

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おつぎは田圃たんぼにある鼠麹草はゝこぐさの花はなを挘むしつて筵むしろへ載のせて遣やつた。

そしてまた、あぶなっかしくそうっと田へ下りた。

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さうして又また危あぶないやうにそうつと田たへおりた。

与吉はただ、ははこぐさの花をいじっていた。

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與吉よきちは只たゞ鼠麹草はゝこぐさの花はなを弄いぢつて居ゐた。

ほりは雨のあとの水を集めて、さらさらと岸をひたして行く。

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堀ほりは雨あめの後あとの水みづを聚あつめてさら/\と岸きしを浸ひたして行ゆく。

青くしげってかたむいている川やなぎのえだが一本水につき、流れ去る力に軽くゆらされている。

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青あをく茂しげつて傾かたむいて居ゐる川楊かはやなぎの枝えだが一つ水みづについて、流ながれ去さる力ちからに輕かるく動うごかされて居ゐる。

水はわずかにふれているそのえだのために、下流へ向かって放しゃ線のような形をえがいている。

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水みづは僅わづかに觸ふれて居ゐる其その枝えだの爲ために下流かりうへ放射線状はうしやせんじやうを描ゑがいて居ゐる。

あしのようで、それでいてとても細いかわいらしい草が、びりびりとふるわされながら岸の水に立っている。

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蘆あしのやうで然しかも極きはめて細ほそい可憐かれんなとだしばがびり/\と撼ゆるがされながら岸きしの水みづに立たつて居ゐる。

おたまじゃくしが水の勢いにこらえられないようにしては、急に水にひたされて銀のように光っている岸の草の中にかくれようとする。

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お玉杓子たまじやくしが水みづの勢いきほひに怺こらへられぬやうにしては、俄にはかに水みづに浸ひたされて銀ぎんのやうに光ひかつて居ゐる岸きしの草くさの中なかに隱かくれやうとする。

そしてはまた、すべての小さいものがそうであるように、じっとしていられなくて、かわいらしい尾をひらひらと動かしながら、力に余る水の勢いにぐっと流されながら泳いでいる。

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さうしては又また凡すべての幼をさないものゝ特有もちまへで凝然ぢつとして居をられなくて可憐かれんな尾ををひら/\と動うごかしながら、力ちからに餘あまる水みづの勢いきほひにぐつと持もち去さられつゝ泳およいで居ゐる。

与吉はははこぐさの花を水へ投げた。

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與吉よきちは鼠麹草はゝこぐさの花はなを水みづへ投なげた。

花が上流に向いて落ちると、ぐるりと下流へ向きを変えられて、ずんずんと運ばれて行く。

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花はなが上流じやうりうに向むいて落おちると、ぐるりと下流かりうへ押おし向むけられてずんずんと運はこばれて行ゆく。

岸の草の中にいたかえるは、ひょうきんにその花へ飛びついて、それからぐっと後ろの足で水をかいて向こうの岸へ着いて、ふわりとうかんだまま大きな目を見開いてこちらを見る。

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岸きしの草くさの中なかに居ゐた蛙かはづは剽輕へうきんに其その花はなへ飛とび付ついて、それからぐつと後うしろの足あしで水みづを掻かいて向むかふの岸きしへ着ついてふわりと浮ういた儘まゝ大おほきな目めを睜みはつてこちらを見みる。

ははこぐさの花をみな投げてしまって、与吉はまたおつぎを呼んだ。

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鼠麹草はゝこぐさの花はなが皆みな投なげ竭つくされて與吉よきちは又またおつぎを喚よんだ。

「おうい」

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「おうい」

と、おつぎのやさしい声が遠くから答えた。

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とおつぎの情じやうを含ふくんだ聲こゑが遠とほくからいつた。

おつぎの返事を聞いては、与吉は口ぐせのように「姉ちゃんよう」と呼ぶ。

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おつぎの返辭へんじを聞きいては與吉よきちは口癖くちぐせのやうに姉ねえよと喚よぶ。

そのたびごとに、おつぎはいそがしい手を動かしながら、それに答えるのである。

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其その度たび毎ごとにおつぎは忙いそがしい手てを動うごかしながらそれに應おうずるのである。

お昼にはまだ間があるうちに、昼ごはんのしたくを急いで、おつぎは田んぼからお茶をわかしに上がる。

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正午ひるにはまだ間まがあるうちに午餐ひるの支度したくを急いそいでおつぎは田圃たんぼから茶ちやを沸わかしにのぼる。

与吉はよろこんで、おつぎの背中にかじりついた。

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與吉よきちは悦よろこんでおつぎの背せに噛かぢりついた。

勘次はあとで一人たがやした。

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勘次かんじは後あとで獨ひとり耕たがやした。

青いけむりがならの木のあたりから立って、やがて

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青あをい煙けむりが楢ならの木きから立たつて軈やがて

「わいたぞう」

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「沸わいたぞう」

と、おつぎの声で呼ばれるまで、勘次はいそがしいその手を止めなかった。

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とおつぎの聲こゑで喚よばれるまでは勘次かんじは忙いそがしい其その手てを止とめなかつた。

昼ごはんのあとから、おつぎはぬい針へ糸を通してさおにつけて、与吉に持たせた。

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午餐過ひるすぎからおつぎは縫針ぬひばりへ絲いとを透とほして竿さをへ附つけて與吉よきちに持もたせた。

与吉はほかの子どもがするように、その針を上げてみてはまた水へ投げて、おとなしくしている。

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與吉よきちは外ほかの子供こどものするやうに其その針はりを擧あげて見みては又また水みづへ投なげて大人おとなしくして居ゐる。

しばらく時間がたつと、また「姉ちゃんよう」と呼ぶ。

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暫しばらく時間じかんが經たつと又また姉ねえようと喚よぶ。

おつぎがほりの近くまでたがやして来たとき見ると、与吉のさおは糸が取れていた。

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おつぎは堀ほりの近ちかくへ耕たがやして來きた時ときに見みると與吉よきちの竿さをは絲いとがとれて居ゐた。

おつぎは岸へ上がった。

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おつぎは岸きしへ上あがつた。

「どうしたんだい、よきは」

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「どうしたんでえ、よきは」

おつぎが見ると、針が向こうの岸から出た低い川やなぎのえだにからんで、糸のはしが水について下流へ向いている。

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おつぎは見みると針はりが向むかふの岸きしから出でた低ひくい川楊かはやなぎの枝えだに纏まつはつて絲いとの端はしが水みづについて下流かりうへ向むいて居ゐる。

おつぎは二百メートルばかり上流の板の橋をわたって行って、やっとのことでえだを曲げてその針を取った。

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おつぎは二町ちやうばかり上流じやうりうの板橋いたばしを渡わたつて行いつて、漸やうやくのことで枝えだを曲まげて其その針はりをとつた。

そしてまた、与吉の棒へつけてやった。

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さうして又また與吉よきちの棒ぼうへ附つけてやつた。

「もう引っかけるんじゃないぞ、大変だからな」

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「はあ引ひつ懸かけんぢやねえぞ大變たえへんだかんな」

おつぎはとても軽くしかって、また田へ下りた。

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おつぎは極きはめて輕かるく叱しかつて又また田たへおりた。

勘次はまたどなった。

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勘次かんじは又また呶鳴どなつた。

「そんでも、よきは糸を切っちまったんだもの」

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「そんでもよきは絲いと切きつちまつたんだもの」

おつぎはおそるおそる、小さな声で言った。

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おつぎは危あやぶむやうにして控ひかへ目めに聲こゑを立たてゝいつた。

おつぎは黙って、その手を動かしている。

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おつぎは默だまつて其その手てを動うごかして居ゐる。

与吉は返事がなくても、なつかしそうに「姉ちゃんよう」と何度も呼びかけた。

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與吉よきちは返辭へんじがなくても懷なつかし相さうに姉ねえようと數次しば/\喚よび掛かけた。

おつぎのすがたが遠くなると、むしろに口がつくほどかがんで、声のかぎり呼んだ。

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おつぎの姿すがたが遠とほくなれば筵むしろへ口くちのつく程ほど屈かゞんで聲こゑを限かぎりに喚よんだ。

その晩、勘次は二人を連れて近所へおふろをもらいに行った。

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其その晩ばん勘次かんじは二人ふたりを連つれて近所きんじよへ風呂ふろを貰もらひに行いつた。

おつぎはそこに集まった近所の女の人に自分の手を見せて

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おつぎは其處そこへ聚あつまつた近所きんじよの女房にようばうに自分じぶんの手てを見みせて

「おれ、こんなに豆ができちまったんだよ」

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「俺おらこんなに肉刺まめ出でつちやつたんだよ」

とつぶやいた。

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と呟つぶやいた。

「ほんによな、痛いだろうな、そりゃ。そんでも、おっかあがいないから働かなくちゃならないな」

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「ほんによな、痛いたかつぺえなそりや、そんでもおつかあが居ゐねえから働はたらかなくつちやなんねえな」

女の人はなぐさめるように言った。

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女房にようばうは慰なぐさめるやうにいつた。

「おっかあのないのはいやだな」

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「おつかあのねえものは厭やだな」

おつぎは言って、勘次を見るとすぐに首を下げた。

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おつぎはいつて勘次かんじを見みると直すぐに首くびを俛たれた。

勘次はそばで、じっとそれを聞いていた。

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勘次かんじは側そばで凝然ぢつとそれを聞きいて居ゐた。

「おつうらだって、今にいいこともあるだろうな。そんだが、おっかあがなくちゃ、着物がほしくても、こればかりは仕方がないのよな」

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「おつう等らだつて今いまに善ええこともあらな、そんだがおつかゞ無なくつちや衣物きもの欲ほしくつても此こればかりは仕しやうがねえのよな」

女の人は言った。

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女房にようばうはいつた。

勘次は、そんなことは言わずにいてくれればいいのにと思いながら、むずかしい顔をして黙っていた。

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勘次かんじは其麽そんなことは云いはずに居ゐて呉くれゝばいゝのにと思おもひながら六むづか敷しい顏かほをして默だまつて居ゐた。

「この豆はひどくならないだろうか」

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「此この肉刺まめはとがめめえか」

おつぎは手のひらのあちこちにできた豆を見て、心配そうに言った。

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おつぎは手ての平ひらの處々ところ/″\に出でた肉刺まめを見みて心配相しんぱいさうにいつた。

「なんでひどくなるもんか」

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「何なんでとがめるもんか」

勘次は、おさえていた何かが急に出たように、すぐに打ち消した。

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勘次かんじは抑制よくせいした或ある物ものが激發げきはつしたやうに直すぐに打消うちけした。

勘次は家にもどると、飯だいの底にくっついているごはんから米つぶばかりを拾い出して、それをたばこの吸いがらと練り合わせた。

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勘次かんじは家いへに戻もどると飯臺はんだいの底そこにくつゝいて居ゐる飯めしの中なかから米粒こめつぶばかり拾ひろひ出だしてそれを煙草たばこの吸殼すひがらと煉合ねりあはせた。

そして、針の先でおつぎの、おふろから出たばかりでやわらかくなった手の豆をついて汁を出して、そこへそれをはってやった。

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さうして針はりの先さきでおつぎの湯ゆから出でたばかりで軟やはらかく成なつた手ての肉刺まめをついて汁液みづを出だして其處そこへそれを貼はつて遣やつた。

「しくしくするな」

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「しく/\すんな」

おつぎははった所を見て言った。

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おつぎは貼はつた箇所かしよを見みていつた。

「汁を出したばかりのときはちっと痛いとも。そのかわりすぐ治るから」

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「液汁みづ出だしたばかりにやちつた痛えてえとも、その代けえしすぐ癒なほつから」

勘次はおつぎをじっと見て、それからもういびきをかいている与吉を見た。

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勘次かんじはおつぎを凝然ぢつと見みてそれからもう鼾いびきをかいて居ゐる與吉よきちを見みた。

「豆なんぞできたら、できたっておとっつあんに言うもんだ。他人になんぞ見せたりするもんじゃない。お前らは何も知らないから仕方がない。田をたがやし始めのころには、おとっつあんらみたいな手だってこういうふうに出るんだ、見ろ。それ、痛いのをがまんしがまんしやりさえすりゃ、かたくなっちまうんだ」

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「肉刺まめなんぞ出でたらば出でたつておとつゝあげいふもんだ、他人ひとのげなんぞ見みせたりなにつかするもんぢやねえ、汝等わツらなんにも知しらねえから仕しやうねえ、田耕たうねえ始はじまりにやおとつゝあ等ら見みてえな手てだつてかうえに出でんだか見みろ。それ痛いてえの我慢がまんしい/\行やりせえすりや固かたまつちあんだ」

勘次は自分の手をおつぎに見せた。

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勘次かんじは自分じぶんの手てをおつぎへ示しめした。

「おっかあがいなくなって困るな。お前ばかりじゃないんだから」

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「おつかゞ無なくなつて困こまんな汝わればかしぢやねえんだから」

勘次はしばらく間を置いて、ぽつんと言った。

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勘次かんじは暫しばらく間あひだを置おいてぽつさりとしていつた。

「暮らしのためだから、お前もがまんするもんだ。見ろ、お前らどころじゃない。武州のほうへなんぞやられて、泣き通してる者さえあらあ」

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「身上しんしやうの爲ためだから汝われも我慢がまんするもんだ、見みろ汝等處わツらとこぢやねえ、武州ぶしうの方はうへなんぞ遣やられて泣なき拔ぬいてるものせえあら」

と、彼はまたやっとのことで言った。

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と彼かれは又また辛からうじていつた。

おとなしく黙っていたおつぎは

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大人おとなしく默だまつて居ゐたおつぎは

「武州っていうのはどっちのほうだろう」

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「武州ぶしうツちやどつちの方はうだんべ」

と、むしろあどけなく聞いた。

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寧むしろあどけなく聞きいた。

「あっちのほうよ。お前の足じゃ一日じゃ歩けない所だ」

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「あつちの方はうよ、汝われが足あしぢや一日にや歩あるけねえ處ところだ」

勘次は雨戸のほうを向いて、西南をさした。

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勘次かんじは雨戸あまどの方はうを向むいて西南せいなんを示しめした。

「遠いんだな。そこへ行ったらどうするんだろう」

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「遠とほいんだな、其處そこへ行いつたらどうすんだんべ」

「はたおりをする者もあれば、百姓をする者もあるのよ」

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「機織はたおりするものもあれば百姓ひやくしやうするものもあんのよ」

「はたおりを教われるならよかろうな」

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「機教はたをされぢやよかんべな」

「なんでいいことがあるもんか。家へなんざめったに来られやしないんだぞ。それで朝から晩までみっしり使われて、それどころじゃない、病気になったって、よっぽどでなくちゃはがきもよこさせやしない」

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「何なんでえゝことあるもんか、家うちへなんざあ滅多めつたに來きられやしねえんだぞ、そんで朝あさから晩迄ばんまでみつしら使つかあれて、それ處どこぢやねえ病氣びやうきに成なつたつて餘程よつぽどでなくつちや葉書はがきもよこさせやしねえ」

「そんじゃ、そういう所へ行っちゃひどいな。逃げて来ることもできないんだろうか」

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「そんぢや、さうえ處とこへ行いつちやひでえな、逃にげて來くることも出來できねえんだんべか」

「すぐつかまえられちまうから、そんなに逃げられるかい」

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「直すぐ捉つかめえられつちあからそんなに遁にげられつかえ」

「巡査につかまるんだろうか」

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「巡査じゆんさに捉つかまんだんべか」

「そんなもんか。巡査でなくたって、逃げ出せばすぐつかまえるように人が見張ってるのよ。なあ、そうでもなくちゃ、遠くの者ばかりたのんでおくんだもの、仕方があるもんか」

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「さうなもんか、巡査じゆんさでなくつたつて遁にげ出だせば直すぐ捉つかめえるやうに人ひとが番ばんしてんのよ、なあ、そんでもなくつちや遠とほくの者ものばかり頼たのんで置おくんだもの仕しやうあるもんか」

「そんでも、いやだって言ったらどうするんだろう」

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「そんでも厭やだつちつたらどうすんだんべ」

「いやだなんて言ったっくらい、ひどいとも。立てかえたお金を返さなくちゃならないから」

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「厭やだなんていつた位くれえひでえとも立金たてきんしなくつちやなんねえから」

「どういうふうにするんだろう、それは」

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「どういにすんだんべそら」

「それはなあ、いくらつとめたって、とちゅうでいやだからなんて出ちまえば、借りただけの給金はみんな取り返されるのよ。なあ、それから泣く泣くでもいなくちゃならないのよ」

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「そらなあ、幾いくら勤つとめたつて途中とちうで厭やだからなんて出でつちめえば、借かりた丈だけの給金きふきんはみんな取とつくる返けえされんのよ、なあ、それから泣なき/\も居ゐなくつちやなんねえのよ」

「そんじゃ、おれはそういう所へ行かなくてよかったっけな」

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「そんぢや俺おらさうえ處とこへ行いかねえでよかつたつけな」

おつぎはいっしんに言った。

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おつぎは熱心ねつしんにいつた。

「そんだから、お前のことはやりゃしない。お前を奉公にやれば、そのお金でおれの借金もなくなるし、よきのことだって軽業師の所へでも出しちまえば、それこそ楽になっちまうんだが、おっかあがいなくてつらいって後で泣かれるのがいやだから、おれは土をかじってもそんな気は起こさないんだ」

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「そんだから汝等わツらこた遣やりやしねえ。汝われこと奉公ほうこうにやれば其その錢ぜねで俺おら借金しやくきんも無なくなるし、よきことだつて輕業師かるわざげでも出だしつちめえばそれこそ樂らくになつちあんだが、おつかゞ無なくつちや辛つれえつて後あとで泣なかれんの厭やだから俺おら土ちゝ噛かぢつてもそんな料簡れうけんは出ださねんだ」

「おとっつあん、奉公すれば借金がなくなるんだろうか」

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「おとつゝあ、奉公ほうこうすれば借金しやくきんなくなんだんべか」

「おっかあさえいれば、お前も奉公に出して、おとっつあんもいいお金を手にするんだが、おっかあがいなくなって、おとっつあんだって困ってるんだ。それからお前だって、奉公に行ったつもりでしんぼうするもんだ。なあ、おれはお前らにみじめな思いをさせたくはないんだから」

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「おつかせえ居えれば汝われことも奉公ほうこうに出だして、おとつゝあ等らもえゝ錢ぜね捉つかめえんだが、おつかゞ無なくなつておとつゝあだつて困こまつてんだ、それから汝われだつて奉公ほうこうに行いつた積つもりで辛抱しんばうするもんだ、なあ、俺おら汝等わツらげみじめ見みせてえこたあ有ありやしねんだから」

勘次はしみじみとくり返した。

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勘次かんじはしみ/″\と反覆くりかへした。

勘次は、おつぎに体に合わない仕事をさせていることを知っている。

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勘次かんじはおつぎに身體からだ不相應ふさうおうな仕事しごとをさせて居ゐることを知しつて居ゐる。

それで自分が朝は必ず先に起きて、かまどの下に火をつける。

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それで自分じぶんが朝あさは屹度きつと先さきへ起おきて竈かまどの下したへ火ひを點つける。

そのとき、つかれた少女はまだぐったりとして、正体もなくまくらからころがっている。

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其その時とき疲つかれた少女せうぢよはまだぐつたりと正體しやうたいもなく枕まくらからこけて居ゐる。

白いゆげがかまのふたから勢いよくもれて、やがて火が引かれてから、おつぎは起こされる。

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白しろい蒸氣ゆげが釜かまの蓋ふたから勢いきほひよく洩もれてやがて火ひが引ひかれてからおつぎは起おこされる。

帯をしめたまま横になったおつぎは、なかなか開かない目をこすって井戸ばたへ行く。

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帯おびを締しめた儘まゝ横よこになつたおつぎは容易よういに開あかない目めをこすつて井戸端ゐどばたへ行ゆく。

ぼうぼうとほどけた髪へくしを入れて、冷たい水へ手を入れたとき、おつぎはやっと生き返ったようになる。

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蓬々ぼう/\と解とけた髮かみへ櫛くしを入いれて冷つめたい水みづへ手てを入いれた時ときおつぎは漸やうやく蘇生いきかへつたやうになる。

それでも目はまだ赤くて、動きもふらふらとだるそうである。

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それでも目めはまだ赤あかくて態度たいどがふら/\と懶相だるさうである。

「さあ、ごはんができたぞ」

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「さあ、飯おまんま出來できたぞ」

勘次はかまから茶わんへごはんをうつす。

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勘次かんじは釜かまから茶碗ちやわんへ飯めしを移うつす。

そして自分で農具を取っておつぎに持たせて、それからさっさと連れ出すのである。

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さうして自分じぶんで農具のうぐを執とつておつぎへ持もたせてそれからさつさと連つれ出だすのである。

もみだねがぽっちりと水をつき上げて芽を出すと、やっと強くなった日ざしに、緑の深くなった若葉がぐったりとする。

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籾種もみだねがぽつちりと水みづを突つき上あげて萌もえ出だすと漸やうやく強つよくなつた日光につくわうに緑みどり深ふかくなつた嫩葉わかばがぐつたりとする。

やわらかな風がすずしくふいて、松の花粉がほこりのようにしめった土をおおって、小麦のほにもびっしりとかびのような花がついた。

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軟やはらかな風かぜが凉すゞしく吹ふいて松まつの花粉くわふんが埃ほこりのやうに濕しめつた土つちを掩おほうて、小麥こむぎの穗ほにもびつしりと黴かびのやうな花はなが附ついた。

百姓はみな、自分の手足が足りないと思うほどいそがしくなる。

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百姓ひやくしやうは皆みな自分じぶんの手足てあしに不足ふそくを感かんずる程ほど忙いそがしくなる。

勘次はひたすら、ただ仕事がおくれるのをおそれた。

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勘次かんじは一意い只たゞ仕事しごとの手後ておくれになるのを怖おそれた。

くたびれてもつかれても、彼は毎日夜明け前に起きて、夜までその手足を動かして止まない。

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草臥くたびれても疲つかれても彼かれは毎日まいにち未明みめいに起おきて夜よまで其その手足てあしを動うごかして止やまぬ。

おつぎもその後についてゆき、くたびれた体を引きずられた。

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おつぎも其その後あとに跟ついて草臥くたびれた身體からだを引ひきずられた。

晩ごはんのしたくに与吉を背負って先に帰るのが、おつぎにはせめてもの休みだった。

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晩餐ゆふめしの支度したくに與吉よきちを負おうて先さきへ歸かへるのがおつぎにはせめてもの骨休ほねやすめであつた。

勘次は麦のあいだへ大豆をまいた。

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勘次かんじは麥むぎの間あひだへ大豆だいづを蒔まいた。

うねの間へ浅くみぞのようなくぼみを作って、そこへぽろぽろと種を落として行く。

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畦間うねまへ淺あさく堀ほりのやうな凹くぼみを拵こしらへてそこへぽろ/\と種たねを落おとして行ゆく。

勘次はぐいぐいとうねの間をほって行く。

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勘次かんじはぐい/\と畦間うねまを掘ほつて行ゆく。

後からおつぎが種を落とした。

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後あとからおつぎが種たねを落おとした。

おつぎのまだ小さな体は、麦のそろった白いほから、かぶった手ぬぐいと肩だけが出ている。

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おつぎのまだ短みじかい身體からだは麥むぎの出揃でそろつた白しろい穗ほから僅わづかに其その被かぶつた手拭てぬぐひと肩かたとが表あらはれて居ゐる。

与吉は道のそばのこもの上で、おとなしくしている。

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與吉よきちは道みちの側はたの薦こもの上うへに大人おとなしくして居ゐる。

おつぎの白い手ぬぐいがだんだん麦のほにかくれると、与吉は「姉ちゃんよう」と呼ぶ。

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おつぎの白しろい手拭てぬぐひが段々だん/\麥むぎの穗ほに隱かくれると與吉よきちは姉ねえようと喚よぶ。

おつぎは「おうい」と返事をする。

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おつぎはおういと返辭へんじをする。

おつぎの声が聞こえると、与吉はじっとしている。

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おつぎの聲こゑが聞きこえると與吉よきちは凝然ぢつとして居ゐる。

勘次はうねの間を作り終えて、それから自分もいそがしく大豆を落としはじめた。

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勘次かんじは畦間うねまを作つくりあげてそれから自分じぶんも忙いそがしく大豆だいづを落おとし初はじめた。

勘次は、のろのろしたおつぎの手元を見て、そのうねをひょいとのぞいた。

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勘次かんじは間懶まだるつこいおつぎの手てもとを見みて其その畝うねをひよつと覗のぞいた。

種と種の間かくがそろっていなくて、四つぶも五つぶも一つになって落ちている所があった。

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種たねと種たねとの間隔かんかくが不平均ふへいきんで四粒つぶも五粒つぶも一つに落おちてる處ところがあつた。

「このざまはどうしたんだ。こんなことで暮らしができるか」

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「此このざまはどうしたんだ、こんなこつて生計くらしが出來できつか」

とどなりながら、彼はとつぜんおつぎをなぐった。

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と呶鳴どなりながら彼かれは突然とつぜんおつぎを擲なぐつた。

おつぎは麦のくきといっしょにたおれた。

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おつぎは麥むぎの幹からと共ともに倒たふれた。

おつぎはたおれたまま、しくしくと泣いた。

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おつぎは倒たふれた儘まゝしく/\と泣ないた。

「たいがい分かりそうなもんじゃないか。こんなざまじゃ種ばかり要って仕方がありゃしない」

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「大概てえげえ解わかり相さうなもんぢやねえか、こんなざまぢや種たねばかし要いつて仕しやうありやしねえ」

勘次は後をつぶやいた。

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勘次かんじは後あとを呟つぶやいた。

となりの畑で、これも大豆をまいていた百姓がかけて来た。

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隣となりの畑はたけに此これも大豆だいづを蒔まいて居ゐた百姓ひやくしやうは駈かけて來きた。

「勘次さん、どうしたもんだいまあ、そんならんぼうなことして」

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「勘次かんじさんどうしたもんだいまあ、其麽そんな荒あらつぺえことして」

と勘次をおさえた。

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と勘次かんじを抑おさへた。

「おつぎ、泣かないでさあ起きて仕事しろ。おとっつあんにはおれがあやまってやるからなあ。与吉が泣いてら。さあ行って見なさい」

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「おつぎ泣なかねえでさあ起おきて仕事しごとしろ、おとつゝあげは俺おれ謝罪あやまつてやつかんなあ、與吉よきちが泣ねえてら、さあ行いつて見みさつせ」

百姓はさらにおつぎをなだめた。

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百姓ひやくしやうは更さらにおつぎを賺すかした。

与吉はおつぎのすがたが見えないので、しきりに呼んだ。

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與吉よきちはおつぎの姿すがたが見みえないので頻しきりに喚よんだ。

それでもおつぎの声は聞こえないので、火がついたように泣き出したのである。

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それでもおつぎの聲こゑは聞きこえないので火ひの點ついたやうに泣なき出だしたのである。

おつぎはすすり泣きしながら、与吉をだいた。

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おつぎは啜すゝり泣なきしながら與吉よきちを抱だいた。

「お母さんもいないのに、お前いいかげんにしろよ。かわいそうじゃないか。そんなことして、お前いくつだと思うんだ。そんなに自分の思いどおりにできるもんじゃない。ほとけさまのばちも当たるだろうじゃないか」

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「お袋ふくろもねえのにおめえいゝ加減かげんにしろよ、可哀想かあいさうぢやねえか、そんなことしておめえ幾いくつだと思おもふんだ、さう自分じぶんの氣きのやうに出來できるもんぢやねえ、佛ほとけの障さはりにも成なんべぢやねえか」

となりの畑の百姓は言った。

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隣畑となりばたけの百姓ひやくしやうはいつた。

勘次は黙ってしまって、何とも言わなかった。

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勘次かんじは默だまつて畢しまつて何なんともいはなかつた。

与吉はおつぎにだかれたので、おつぎの目がまだぬれているうちに泣き止んだ。

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與吉よきちはおつぎに抱だかれたので、おつぎの目がまだ濕うるうて居ゐるうちに泣なき止やんだ。

勘次はその日の夕方、おつぎが晩ごはんのしたくに立ったとき、自分もいっしょに家へもどった。

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勘次かんじは其その日ひの夕方ゆふがたおつぎが晩餐ゆふめしの支度したくに立たつた時とき自分じぶんも一ひとつに家うちへ戻もどつた。

彼はひざで四つんばいに歩きながら座敷へ上がって、さいふをふところへねじこんでふいと出た。

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彼かれは膝ひざがしらで四よつ偃ばひに歩あるきながら座敷ざしきへあがつて財布さいふを懷ふところへ捩ねぢ込こんでふいと出でた。

彼は風呂しきづつみを持って帰った。

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彼かれは風呂敷包ふろしきづゝみを持もつて歸かへつた。

彼が戸口に立ったときには、家の中はまっ暗で、しばらくは物の見分けもつかなかった。

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彼かれが戸口とぐちに立たつた時ときは家うちの内なかは眞闇まつくらで一寸ちよつとは物ものの見分みわけもつかなかつた。

くたびれきった体で、彼はその夜も二人を連れて、自分のものではないそのしげった小さな桑畑をこえて、南の家のおふろへ行った。

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草臥くたびれ切きつた身體からだで彼かれは其その夜よも二人ふたりを連つれて、自分じぶんの所有ものではない其その茂しげつた小ちひさな桑畑くはばたけを越こえて南みなみの風呂ふろへ行いつた。

そこにはいつものように、おふろをもらいに女の人たちが集まっていた。

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其處そこにはいつものやうに風呂ふろを貰もらひに女房等にようばうらが聚あつまつて居ゐた。

「よくなあ、おつうはよきの面倒を見るな。女の子はこうだからいいのさな、すぐ役に立つからな」

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「能よくなあ、おつうはよきこと面倒めんだう見みんな、女をんなの子こは斯かうだからいゝのさな、直すぐ役やくに立たつかんな」

女の人の一人が言った。

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女房にようばうの一人ひとりがいつた。

「おつぎはどうしたんだい、今夜はひどく元気がないな」

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「おつぎはどうしたんでえ、今夜こんやひどく威勢ゐせえ惡わりいな」

ほかの女の人が言った。

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他たの女房にようばうがいつた。

「さっき、おれにぶんなぐられたからでもあるだろう」

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「先刻さつき俺おれに打ぶつとばされたかんでもあんべえ」

勘次は苦笑いしながら言った。

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勘次かんじは苦笑くせうしながらいつた。

「なんでだろうな、まあ。お前、そんなにしないで面倒を見てやりなさいよ。これがお前、女の子でもなくて見なさい、こんな小さいのをかかえて仕方があるもんじゃないな」

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「何なんでだつぺなまあ、おめえそんなに仕しねえで面倒めんだう見みてやらつせえよ、此これがおめえ女をんなつ子こでもなくつて見みさつせえ、こんな小ちひせえの抱だけえて仕しやうあるもんぢやねえな」

「そうだともよ。これはおつうでもなくちゃ育たなかったかも知れないぞ。それこそひどい目にあわなくちゃならないや。なあ、おつう」

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「さうだともよ、こらおつうでも無なくつちや育そだたなかつたかも知しんねえぞ、それこそ因果いんぐわ見みなくつちやなんねえや、なあおつう」

女の人たちは言った。

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女房等にようばうらはいつた。

「おれの所、ちっともこれははなれないんだよ。仕方がないようだよ、本当に」

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「俺おらがとこちつともこら離はなんねえんだよ仕しやうねえやうだよ本當ほんたうに」

おつぎは、もうだんだん重くなってきた与吉をひざに乗せて言った。

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おつぎはもう段々だん/\手てに餘あまつて來きた與吉よきちを膝ひざにしていつた。

「今じゃ、まるっきりおっかあのような気がしてるんだな、きっと」

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「今いまぢや、まるつきしおつかのやうな氣きがしてんだな、屹度きつと」

女の人たちはまた与吉を見て言った。

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女房にようばうらはまた與吉よきちを見みていつた。

勘次はそばで、ただ目をぱちぱちさせた。

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勘次かんじは側そばで只たゞ目めを屡叩しばたゝいた。

家へもどってから、勘次は

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家うちへ戻もどつてから勘次かんじは

「おつう、手ランプを持って来てみな。お前に見せるものがあるんだから」

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「おつう、手てランプ持もつて來きて見みせえ、汝われげ見みせるものあんだから」

おつぎは出るときにふき消したブリキの手ランプをつけたが、まだ動きがしゃきっとしなかった。

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おつぎは出でる時ときに吹消ふつけしたブリキの手てランプを點つけて、まだ容子ようすがはき/\としなかつた。

勘次はさっきの風呂しきづつみを解いた。

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勘次かんじは先刻さつきの風呂敷包ふろしきづゝみを解といた。

小さくたたんだ弁慶じまのひとえが出た。

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小ちひさく疊たゝんだ辨慶縞べんけいじまの單衣ひとへが出でた。

「お前にこれをやろうと思って持って来たんだ。これでもなよ、おっかあが自分の糸で織ったんだぞ。今じゃ糸なんぞつむぐ者はいないが、おっかあらは毎晩のようにつむいだもんだ。こんも、ようく染まってるから丈夫だぞ。おっかあはいくらも着ないでしまったから、まだまるっきり新しいようだ、見ろ。どうした、手ランプをもっとこっちへ出してみなまあ」

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「汝われげ此これ遣やんべと思おもつて持もつて來きたんだ。此こんでもなよ、おつかゞ地絲ぢいとで織おつたんだぞ、今いまぢや絲いとなんぞ引ひくものなあねえが、おつか等ら毎晩まいばんのやうに引ひいたもんだ、紺こんもなあ能ようく染そまつてつから丈夫ぢやうぶだぞ、おつかは幾いくらも引ひつ掛かけねえつちやつたから、まあだまるつきり新あたらしいやうだ見みろ、どうした手てランプまつとこつちへ出だして見みせえまあ」

勘次はひとえを少し開いて、鼻へ当ててにおいをかいでみた。

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勘次かんじは單衣ひとへを少すこし開ひらいて鼻はなへ當あてて臭にほひを嗅かいで見みた。

「ちっとはかび臭くなったようだが、そんでもこれくらいなら一日ほせばにおいは取れるから」

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「ちつたあ黴臭かびくさくなつたやうだが、そんでも此この位くれえぢや一日いちんち干ほせば臭くさえな直なほつから」

勘次は言いわけでもするように言った。

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勘次かんじは分疏いひわけでもするやうにいつた。

おつぎは左手に持ちかえた手ランプをかざして、ひとえをいじっては、おふろ上がりのつやつやした顔にほほえみをうかべた。

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おつぎは左手ひだりてに持もち換かへた手てランプを翳かざして單衣ひとへを弄いぢつては浴後よくごのつやゝかな顏かほに微笑びせうを含ふくんだ。

勘次はおつぎの顔ばかり見ていた。

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勘次かんじはおつぎの顏かほばかり見みて居ゐた。

そして、その機げんがよくなりかけたのを見て

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さうして其その機嫌きげんが恢復くわいふくしかけたのを見みて

「どうした、それでもお前は気に入ったか。おっかあの物はみんなお前のもんだからな。おれは、お前らのだとなりゃいくら困ったって、もうけっして質になんざ置かないから、大事にしてお前がようくしまっておけ」

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「どうした、それでも汝わりや氣きにつたか、おつかゞ物ものはみんな汝われがもんだかんな、俺おら汝わツ等らがだとなりや幾いくら困こまつたつて、はあ決けつして質しちになんざ置おかねえから、大事でえじにして汝われ能ようく藏しまつて置おいたえ」

と、彼は満足そうに見えた。

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と彼かれは滿足まんぞくらしく見みえた。

おつぎは手ランプを置いて、勘次がしたように鼻へ当ててにおいをかいでみたり、左の手だけをそでへ通してみたりした。

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おつぎは手てランプを置おいて勘次かんじがしたやうに鼻はなへ當あてゝ臭にほひを嗅かいで見みたり、左ひだりの手てだけを袖そでへ透とほして見みたりした。

「おれには、これじゃ引きずるようじゃあるまいか」

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「俺おらがにや此こんぢや引ひきじるやうぢやあんめえか」

おつぎはそれから、手でつるしてみたりした。

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おつぎはそれから手てで釣つるして見みたりした。

「しまっておいて、おれはもっと大きくなってから着ようかな」

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「藏しまつて置おいて、俺おらいまつと大えかく成なつてから着きべかな」

「どうでもお前のもんだから、お前の好きにしろな」

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「どうでも汝われがもんだから汝われが好すきにしろな」

勘次は、おつぎの手が動くのにつれて目を動かした。

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勘次かんじはおつぎの手てが動うごくに從したがつて目めを移うつした。

手ランプからぼうっと立つすすが、ほどけた髪へなびきかかるのも知らずに、おつぎはあっちこっちへひとえをいじっていた。

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手てランプのぼうと立たつ油煙ゆえんがほぐれた髮かみへ靡なびき掛かゝるのも知しらずにおつぎはそつちこつちへ單衣ひとへを弄いぢつて居ゐた。

「お前、うっかりして、そうれ燃えっちまうぞ」

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「汝われうつかりして、そうれ燃もえつちまあぞ」

勘次はすすがまたかたむいたとき、慌てておつぎの髪へ手を当てて言った。

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勘次かんじは油煙ゆえんが復また傾かたむいた時とき慌あわてゝおつぎの髮かみへ手てを當あてゝいつた。

七

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七

勘次の田畑は、おそい秋のとり入れがみじめなものだった。

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勘次かんじの田畑たはたは晩秋ばんしうの收穫しうくわくがみじめなものであつた。

それは天気が悪いのでもなく、また土地が悪いのでもない。

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それは氣候きこうが惡わるいのでもなく、又また土地とちが惡わるいのでもない。

たがやす時期をのがしていることと、肥料が少ないこととで、いくらあせっても、とても満足な結果が出せないのである。

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耕耘かううんの時期じきを逸いつして居ゐるのと、肥料ひれうの缺乏けつばふとで幾いくら焦慮あせつても到底たうてい滿足まんぞくな結果けつくわが得えられないのである。

貧しい百姓はいつも土にくっついて食べ物を得ることばかりに苦心しているのに、その作物が俵になれば、もう大部分は彼らのものではない。

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貧乏びんばふな百姓ひやくしやうはいつでも土つちにくつゝいて食料しよくれうを獲うることにばかり腐心ふしんして居ゐるにも拘かゝはらず、其その作物さくもつが俵たはらになれば既すでに大部分だいぶぶんは彼等かれらの所有しよいうではない。

自分のものでいられるのは、作物が根をもって田や畑の土に立っているあいだだけである。

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其その所有しよいうであり得うるのは作物さくもつが根ねを以もつて田たや畑はたの土つちに立たつて居ゐる間あひだのみである。

小作料をはらってしまえば、もう手をつけたみじかい冬をしのぐだけのことが、ややもすればやっとなのである。

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小作料こさくれうを拂はらつて畢しまへば既すでに手てをつけられた短みじかい冬季とうきを凌しのぐ丈だけのことがともすれば漸やうやくのことである。

彼らは自分の田畑がいそがしいときにも、その日の食べ物を手に入れるために、わりと収入のいい日やといに行く。

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彼等かれらは自分じぶんで田畑たはたが忙いそがしい時ときにも其その日ひに追おはれる食料しよくれうを求もとめる爲ために比較的ひかくてき收入みいりのいゝ日傭ひように行ゆく。

百姓といえば、どんなに物を知らなくても、作物を作る季節を知らないことはない。

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百姓ひやくしやうといへば什麽どんなに愚昧ぐまいでも凡すべての作物さくもつを耕作かうさくする季節きせつを知しらないことはない。

村のはしからはしまでみな同じ仕事にかかりきっているのだから、その季節をたとえ自分が忘れたとしても、まったく忘れきることはできないのである。

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村落むらの端はしから端はしまで皆みな同どう一の仕事しごとに屈託くつたくして居ゐるのだから其その季節きせつを假令たとひ自分じぶんが忘わすれたとしても全まつたく忘わすれ去さることの出來できるものではない。

しかし、もう季節だと分かっていても、その日その日の食べ物を求めるために力をさかなければならないのと、肥料の工面がつかなかったりするのとで、作物の育ちから言えば三日を争うようなときでも、思いながら手が出ないのである。

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然しかしもう季節きせつだと知しつて見みても其その日ひ/\の食料しよくれうを求もとめる爲ために勞力らうりよくを割さくのと、肥料ひれうの工夫くふうがつかなかつたりするのとで作物さくもつの生育せいいくからいへば三日みつかを爭あらそふやうな時ときでも思おもひながら手てが出でないのである。

むかしのように、自然の肥料を手に入れることが、今ではできなくなってしまった。

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以前いぜんのやうに天然てんねんの肥料ひれうを獲うることが今いまでは出來できなくなつて畢しまつた。

どこの林でも、落ち葉をかくことや青草を刈ることが、みなお金にゆとりのある者の手に移ってしまった。

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何處どこの林はやしでも落葉おちばを掻かくことや青草あをぐさを刈かることが皆みな錢ぜにに餘裕よゆうのあるものゝ手てに歸きして畢しまつた。

それとともに、林は閉ざされたようなすがたになっている。

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それと共ともに林はやしは封鎖ふうさされたやうな姿すがたに成なつて居ゐる。

冬ごとに熊手のつめのとどくかぎりかいて行くので、草もそれにつれて短くなって、腰までうまるような所はめったにない。

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冬ふゆ毎ごとに熊手くまでの爪つめの及およぶ限かぎり掻かいて行ゆくので、草くさも隨したがつて短みじかくなつて腰こしを沒ぼつするやうな處ところは滅多めつたにない。

その草もさらに土から刈って行くので、次第に土がやせて行く。

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其その草くさも更さらに土つちから刈かつて行ゆくので次第しだいに土つちが痩やせて行ゆく。

だから何も持たずには、どこへ行ってもぬすまないかぎり、思うぞんぶんやわらかな草を刈ることはできない。

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だから空手からてでは何處どこへ行いつても竊取せつしゆせざる限かぎりは存分ぞんぶんに軟やはらかな草くさを刈かることは出來できない。

貧しい百姓は、落ち葉でも青草でも、他人の熊手やかまが入ったあとに求める。

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貧乏びんばうな百姓ひやくしやうは落葉おちばでも青草あをぐさでも、他人ひとの熊手くまでや鎌かまを入いれ去さつた後あとに求もとめる。

そして、やせて行く土をさらに骨までかじるようなことをしているのである。

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さうして瘠やせて行ゆく土つちを更さらに骨ほねまで噛かむやうなことをして居ゐるのである。

世の中一般には、落ち葉や青草が足りなくなるとともに、便利ないろいろな人工の肥料が売られる。

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一般ぱんには落葉おちばや青草あをぐさの缺乏けつばふを感かんずると共ともに便利べんりな各種かくしゆの人造肥料じんざうひれうが供給きようきふされる。

しかしそれも、やはりお金にいくらでもゆとりのある人にだけ便利なので、貧しい百姓には、牛や馬が止め木にさえぎられたような形でしかない。

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然しかしそれも依然いぜんとして金錢きんせんに幾いくらでも餘裕よゆうのある人ひとにのみ便利べんりなのであつて、貧乏びんばふな百姓ひやくしやうには牛うしや馬うまが馬塞棒ませぼうで遮さへぎられたやうな形かたちでなければならぬ。

そうかといって、それらの肥料なしには、とても決められた小作料をはらえるだけの収穫は取れないので、みじめな工面が彼らの心を行き来する。

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さうかといつて其それ等らの肥料ひれうなしには到底たうてい一般ぱんに定さだめられてある小作料こさくれうを支拂しはらふ丈だけの收穫しうくわくは得えられないので慘憺さんたんたる工夫くふうが彼等かれらの心こゝろを往來わうらいする。

そしてまた、食べ物を得るために力をほかへ回すことで、作物のうねの間をたがやすことも雑草を取ることも、すべてがおくれてしまう。

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さうして又また食料しよくれうを求もとめる爲ために勞力らうりよくを他たに割さくことによつて、作物さくもつの畦間うねまを耕たがやすことも雜草ざつさうを除のぞくことも一切さいが手後ておくれに成なる。

季節が暑くなれば、雨がふって三日も見ないうちに、雑草はおどろくほど早くのびる。

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季節きせつが暑あつくなれば雨あめがあつて三日かも見みないうちには雜草ざつさうは驚おどろくべき迅速じんそくな發育はついくを遂とげる。

それが作物の育ちをひどくじゃまする。

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それが著いちじるしく作物さくもつの勢力せいりよくを阻害そがいする。

その分だけ収穫がへらなければならないはずである。

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それだけ收穫しうくわくの減少げんせうを來きたさねばならぬ筈はずである。

つまり、よく働く彼らは、実る前にすでに、青々とした作物の力をけずって食べているのである。

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要えうするに勤勉きんべんな彼等かれらは成熟せいじゆくの以前いぜんに於おいて既すでに青々せい/\たる作物さくもつの活力くわつりよくを殺そいで食くつて居ゐるのである。

とり入れの季節がすっかり終わると、彼らは草木がかれ落ちるとともに、しおれてしまわなければならない。

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收穫しうくわくの季節きせつが全まつたく終をはりを告つげると彼等かれらは草木さうもくの凋落てうらくと共ともに萎靡ゐびして畢しまはねばならぬ。

草木がねむりに入る、少なくとも五、六十日のあいだは、彼らはたまに冬起こしといって麦のうねの間をたがやすことや、林の中で落ち葉やたきぎを集めることがあるだけである。

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草木さうもくの眠ねむりに落おち去さる少すくなくとも五六十日にちの間あひだは、彼等かれらは稀まれに冬懇ふゆばりというて麥むぎの畦間うねまを耕たがやすことや林はやしの間あひだに落葉おちばや薪たきゞを求もとめることがあるに過すぎぬ。

自分の食べ物に見合うだけのお金をかせぐことが、その期間の仕事では見つからないのである。

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自分じぶんの食料しよくれうに換かへる丈だけの錢ぜにを獲うることが其その期間きかんの仕事しごとに於おいては見出みいだされないのである。

へびやかえるやそのほかの虫たちが死んだようにねむっているあいだに、彼らは目の前にせまっているこれからの苦しみを引きよせるために、過ぎた苦しみの記ねんであるその少ない米や麦を、日ごとに食べへらして行くのである。

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蛇へびや蛙かへるや其その他たの蟲類むしるゐが假死かしの状態じやうたいに在ある間あひだに彼等かれらは目前もくぜんに逼せまつて居をる未來みらいの苦くるしみを招まねく爲ために、過去くわこの苦くるしかつた記念きねんである其その缺乏けつばふした米こめや麥むぎを日ひ毎ごとに消耗せうまうして行ゆくのである。

彼らは手に内職を持っていない。

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彼等かれらは手てに内職ないしよくを持もつて居をらぬ。

自分で使うためだけなら、むしろもぞうりももっこもわらじもそのほかの物も藁で作ることを知っているけれど、たいていは刈るのがおくれた藁では、りっぱな物はできないのである。

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自分じぶんの使用しようすべき爲ためにのみは筵むしろも草履ざうりも畚もつこも草鞋わらぢも其その他たのものも藁わらで作つくることを知しつて居をれども、大抵たいていは刈かり後おくれになつた藁わらでは立派りつぱな製作せいさくは得えられないのである。

それなのに、彼らは肥料が足りないと言いながら、その藁くずや粟のからやそのほかの物が庭に散らばっていても、なかなかそれをかたづけようとしない。

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それであるのに彼等かれらは肥料ひれうの缺乏けつばふを訴うつたへつゝ其その藁屑わらくづや粟幹あはがらや其その他たのものが庭にはに散ちらばつて居ゐても容易よういにそれを始末しまつしようとしない。

人に注意されても、それでもあらためようとしない。

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他人ひとの注意ちういを受うけてもそれでも改あらためることをしない。

彼らは苦しいときに苦しむこと以外に、何も知らないのである。

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彼等かれらは苦くるしい時ときに苦くるしむことより外ほかに何なんにも知しることがないのである。

勘次も彼らの仲間である。

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勘次かんじも彼等かれらの仲間なかまである。

しかし、彼はきびしい暮らしにおされて、少しのあいだも自分を休ませるゆとりを持たなかった。

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然しかしながら彼かれは境遇きやうぐうの異常いじやうな刺戟しげきから寸時すんじも其その身みを安住あんぢゆうせしむる餘裕よゆうを有もたなかつた。

彼もほかの貧しい百姓がするように、冬の季節になればたきぎを取ってかべに積んでおくことをした。

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彼かれも他たの貧乏びんばふな百姓ひやくしやうのするやうに冬ふゆの季節きせつになれば薪たきゞを採とつて壁かべに積つんで置おくことをした。

彼は最近になって、となりの主人が林をよくするために雑木林をいったん開こんして畑にするということになったので、その一部を引き受けた。

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彼かれは近來きんらいに成なつてから隣となりの主人しゆじんが林はやしを改良かいりやうする爲ために雜木林ざふきばやしを一旦たん開墾かいこんして畑はたけにするといふことに成なつたので其その一部ぶを擔當たんたうした。

彼は小さな体である。

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彼かれは小ちひさな身體からだである。

しかし彼は、重いくわをふりかざして、ひとくわごとにぶつりと土を取っては、後ろへそっと投げながら進む。

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然しかし彼かれは重量ぢうりやうある唐鍬たうぐはを振ふり翳かざして一鍬くは毎ごとにぶつりと土つちをとつては後うしろへそつと投なげつゝ進すゝむ。

彼はその開こんの仕事が上手で、しかも好きである。

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彼かれは其その開墾かいこんの仕事しごとが上手じやうずで且かつ好すきである。

そのきりっとしまった体は小さくても、それが全体のつりあいを保っていて、くわを取るときには彼とくわとはまるで一つである。

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其そのきりつと緊しまつた身體からだは小ちひさいにしてもそれが各部かくぶの平均へいきんを保たもつて唐鍬たうぐはを執とるときには彼かれと唐鍬たうぐはとは唯たゞ一體たいである。

くわの広い刃先が木の根に切りこむときには、彼の体もいっしょにぐさりとその根を切って通るかと思うようである。

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唐鍬たうぐはの廣ひろい刄先はさきが木きの根ねに切きり込こむ時ときには彼かれの身體からだも一ひとつにぐざりと其その根ねを切きつて透とほるかと思おもふやうである。

土を切り起こすのが上手なのは、彼の生まれつきである。

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土つちを切きり起おこすことの上手じやうずなのは彼かれの天性てんせいである。

それで彼は、遠く利根川の工事へも行ったのだった。

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それで彼かれは遠とほく利根川とねがはの工事こうじへも行いつたのであつた。

彼は自分のうでをたよりにしている。

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彼かれは自分じぶんの伎倆うでを恃たのんで居ゐる。

彼は前からも、少しずつ開こんの仕事をした。

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彼かれは以前いぜんからも少すこしづつ開墾かいこんの仕事しごとをした。

その賃金しだいで、その土地を深くも浅くも、早くもおそくも仕上げることを知っていた。

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其その賃錢ちんせんによつて其その土地とちを深ふかくも淺あさくも速はやくも遲おそくも仕上しあげることを知しつて居ゐた。

竹林を開こんしたとき、彼は根がつながったままの一つぼの広さを、たった四つのかたまりにほり起こしたことがある。

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竹林ちくりんを開墾かいこんした時とき彼かれは根ねの閉とぢた儘まゝ一坪つぼの大おほきさを只たゞ四よつの塊かたまりに掘ほり起おこしたことがある。

それでも、そのころまではそういう仕事がいくらもなかったので、その賃金は、仕事を始めるときにすり減ったくわの刃先を打ち直させるかじ屋の手間ちんと、はげしい仕事のために食べる食料をのぞいては、いくらも残らなかったのである。

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それでも其その頃ころまではさういふ仕事しごとが幾いくらも無なかつたので、其その賃錢ちんせんは仕事しごとを始はじめる時とき其その研とぎ減へらした唐鍬たうぐはの刄先はさきを打うたせる鍛冶かぢの手間てまと、異常いじやうな勞働らうどうの爲ために費つひやす其その食料しよくれうを除のぞいては幾いくらもなかつたのである。

彼は主人の開こん地が、春いっぱいの仕事に十分な広さであることをよろこんだ。

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彼かれは主人しゆじんの開墾地かいこんちが春はる一杯ぱいの仕事しごとには十分ぶんであることを悦よろこんだ。

お金のほかに、彼は米と麦をもらうことにした。

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錢ぜにの外ほかに彼かれは米こめと麥むぎとの報酬ほうしうを受うけることにした。

おつぎには特に仕事はなかったが、彼はおつぎを一人では家に置かなかった。

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おつぎは別べつに仕事しごとといつてはなかつたが彼かれはおつぎを一人ひとりでは家うちに置おかなかつた。

与吉を連れて、おつぎは開こん地へ行っていた。

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與吉よきちを連つれておつぎは開墾地かいこんちへ行いつて居ゐた。

勘次がそのきたえた力をふるっているあいだに、おつぎはそこらの林から細いえだを取って、小さなしばのたばを作っている。

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勘次かんじが其その鍛錬たんれんした筋力きんりよくを奮ふるつて居ゐる間まにおつぎはそこらの林はやしから雀枝すゞめえだを採とつて小ちひさな麁朶そだを作つくつて居ゐる。

小さなえだは、この土地では「雀えだ」と言われている。

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小ちひさな枝えだは土地とちでは雀枝すゞめえだといはれて居ゐる。

かれた雀えだを取ることは、どこの林でも持ち主がやかましく言わなかった。

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枯かれた雀枝すゞめえだを採とることは何處どこの林はやしでも持主もちぬしが八釜敷やかましくいはなかつた。

勘次は雨でもふらなければ、毎日必ずくわをかついで出た。

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勘次かんじは雨あめでも降ふらねば毎日まいにち必かならず唐鍬たうぐはを擔かついで出でた。

ある日、彼は木の株へくわを強く打ちこんで、ぐっとこじ上げようとしたとき、きたえのいい刃と白がしの柄は強かったのでどうもなかったが、鉄のくさびで柄の先をしめた、そのくわの四角なあなの所が急にゆるんだ。

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或ある日ひ彼かれは木きの株かぶへ唐鍬たうぐはを強つよく打込うちこんでぐつとこじ扛あげようとした時とき鍛きたへのいゝ刃はと白橿しらかしの柄えとは強つよかつたのでどうもなかつたが、鐵てつの楔くさびで柄えの先さきを締しめた其その唐鍬たうぐはの四角かくな穴あなの處ところが俄にはかに緩ゆるんだ。

そこは「ひつ」と言われている。

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其處そこはひつといはれて居ゐる。

ひつに大きなひびが入ったのである。

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ひつに大おほきな罅ひゞが入いつたのである。

柄がやがて、がたがたと動いた。

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柄えがやがてがた/\に動うごいた。

「ええ、べらぼう。一日の手間をかじ屋につぎこまなくちゃならない」

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「えゝ、箆棒べらぼう、一日いちんちの手間てま鍛冶屋かぢやへ打ぶつ込こんちあなくつちやなんねえ」

彼はつぶやいた。

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彼かれは呟つぶやいた。

次の朝、彼は夜明け前にかじ屋へ走った。

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次つぎの朝あさ彼かれは未明みめいに鍛冶かぢへ走はしつた。

「わしは行って来ますから、この子らのことを見ていておくんなせえ」

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「わし行いつて來きあんすから、此等こつらこと見みてゝおくんなせえ」

おつぎと与吉とを南の家の女の人にたのんだ。

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おつぎと與吉よきちとを南みなみの女房にようばうへ頼たのんだ。

「ほかへは行くんじゃないぞ。いいか、よきは泣かさないようにしてるんだぞ」

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「他ほかへは行いくんぢやねえぞ、えゝか、よきは泣なかさねえやうにしてんだぞ」

彼はおつぎにも言って出た。

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彼かれはおつぎへもいつて出でた。

おつぎは、そんな注意を人前でされることが、もうはずかしくていやな気持ちがするようになっていた。

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おつぎは其麽そんな注意ちういを人前ひとまへでされることがもう耻はづかしく厭いやな心持こゝろもちがするやうに成なつて居ゐた。

勘次は鬼怒川のわたしをこえて土手を伝って、柄のないくわを持って行った。

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勘次かんじは鬼怒川きぬがはの渡わたしを越こえて土手どてを傳つたひて、柄えのない唐鍬たうぐはを持もつて行いつた。

かじ屋はそのとき仕事がたまっていたが、それでもこういう仕事になくてはならない道具というと、どこでもそういうもので、すぐに作ってくれた。

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鍛冶かぢは其その時とき仕事しごとが支つかへて居ゐたが、それでも恁かういふ職業しよくげふに缺かくべからざる道具だうぐといふと何處どこでもさういふ例れいの速すみやかに拵こしらへてくれた。

「ずいぶんらんぼうなことをしたと見えるっけな。おれも近ごろになって、これくらいなくわをめったに打ったことはないよ」

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「隨分ずゐぶん荒あれえことしたと見めえつけな、俺おらも近頃ちかごろになつて此この位くれえな唐鍬たうぐは滅多めつた打ぶつたこたあねえよ、」

かじ屋はその赤く熱したくわをしばらくつちでたたいて、それから地面にすえたおけの、どろをといたような水へじゅうとひたして、さらにまた小さなつちでちんちんとたたいて

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鍛冶かぢは赤あかく熱ねつした其その唐鍬たうぐはを暫しばらく槌つちで叩たゝいて、それから土中どちうへ据すゑた桶をけの泥どろを溶といたやうな水みづへぢうと浸ひたして、更さらに又また小ちひさな槌つちでちん/\と叩たゝいて

「今度こそ大丈夫だ。前にはどうしてひびなんぞ入ったっけかい」

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「こんだこさ大丈夫だいぢようぶだ、先せんにやどうして罅ひゞなんぞいつたけかよ」

かじ屋は汗のひたいを勘次に向けて

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鍛冶かぢは汗あせの額ひたひを勘次かんじに向むけて

「柄がへし折れないうちは動きっこないから」

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「柄えが折をつちよれねえうちは動いごきつこねえから」

と言って、また

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といつて又また

「体のわりにしちゃ、けたはずれだな」

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「身體からだの割わりにしちや圖づ無ねえな」

と、かじ屋はほほえんだ。

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と鍛冶かぢは微笑びせうした。

鉄のにおいのするくわを提げて、勘次はまた土手を走った。

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鐵てつの臭にほひのする唐鍬たうぐはを提さげて勘次かんじは復また土手どてを走はしつた。

その日も西風が、かれ木の林から麦畑から、そして鬼怒川をわたってふいた。

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其その日ひも西風にしかぜが枯木かれきの林はやしから麥畑むぎばたけからさうして鬼怒川きぬがはを渡わたつて吹ふいた。

鬼怒川の水は白い波が立って、遠くからはそれがあわ立ったはだのように、ただこそばゆく見えた。

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鬼怒川きぬがはの水みづは白しろい波なみが立たつて、遠とほくからはそれが粟あはを生しやうじた肌はだへのやうに只たゞこそばゆく見みえた。

西風は川にふき落ちるとき、西岸のしのをざわざわとゆらす。

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西風にしかぜは川かはに吹ふき落おちる時とき西岸せいがんの篠しのをざわ/\と撼ゆるがす。

さらに東岸の土手を伝ってふき上げるとき、土手のみじかいかれ芝の葉を一まいずつはげしくなびかせた。

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更さらに東岸とうがんの土手どてを傳つたうて吹ふき上あげる時とき、土手どての短みじかい枯芝かれしばの葉はを一葉ひとはづゝ烈はげしく靡なびけた。

そのかれ芝のあいだに、どうしたものか気まぐれなたんぽぽの黄色い頭がぽつぽつと見える。

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其その枯芝かれしばの間あひだにどうしたものか氣きまぐれな蒲公英たんぽの黄色きいろな頭あたまがぽつ/\と見みえる。

どうかすると土手は静かで暖かなことがあるので、つい、だまされて、たんぽぽがまだ遠い春をじれったそうに首を出してみては、また寒くなったのにおどろいて縮こまったようなすがたである。

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どうかすると土手どては靜しづかで暖あたゝかなことがあるので、遂つひ騙だまされて蒲公英たんぽがまだ遠とほい春はるを遲緩もどかしげに首くびを出だして見みては、また寒さむく成なつたのに驚おどろいて蹙ちゞまつたやうな姿すがたである。

勘次はくわを持って、また自分の力を取りもどせたように、それからまた一日仕事を休めば体じゅうがみりみりして、なんだか分からないがその仕事にせかされてならないような気がした。

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勘次かんじは唐鍬たうぐはを持もつて復また自分じぶんの活力くわつりよくを恢復くわいふくし得えたやうに、それから又また一日にち仕事しごとを怠おこたれば身内みうちがみり/\して何なんだか知しらぬが其その仕事しごとに催促さいそくされて成ならぬやうな心持こゝろもちがした。

鬼怒川の水は減って、こちらの土手からつづく大きな中州が、その流れを西岸のしのの下までせばめている。

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鬼怒川きぬがはの水みづは落おちて此方こちらの土手どてから連つらなつて居ゐる大おほきな洲すが其その流ながれを西岸せいがんの篠しのの下したまで蹙ちゞめて居ゐる。

広く、そして遠くまでつづく中州には、ただ西風がかわいた砂をさらさらとはくようにしてふいている。

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廣ひろく且かつ遠とほい洲すには只たゞ西風にしかぜが僅わづかに乾かわいた砂すなをさら/\と掃はくやうにして吹ふいて居ゐる。

それで、白くかわいた中州はただからりときれいに見える。

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それで白しろく乾燥かんさうした洲すは只たゞからりと清潔せいけつに見みえる。

そういう中に、どうしたものかこれも気まぐれな人が、遠くからは砂から生えたように見えて、ちらほらと散らばって少しずつ動いている。

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さういふ間あひだにどうしたものか此これも氣きまぐれな人ひとが、遠とほくは其その砂すなから生はえたやうに見みえてちらほらと散ちらばつて少すこしづゝ動うごいて居ゐる。

勘次は土手から下りて見た。

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勘次かんじは土手どてからおりて見みた。

動いている人々は、万能ぐわでその砂をほっているのだった。

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動うごいて居ゐる人々ひと/″\は萬能まんのうで其その砂すなを掘ほつて居ゐるのであつた。

西風がかわかしてはさらさらとはいていても、中州にはまだいくらか波のあとがついている。

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西風にしかぜが乾かわかしてはさらさらと掃はいて居ゐても洲すには猶なほ幾いくらか波なみの趾あとがついて居ゐる。

その砂の中からは、みじかい木のかけらが出る。

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其その砂すなの中なかからは短みじかい木片もくへんが出でる。

十センチから二十センチくらい、まれには三十センチくらいのものもほり起こされる。

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二三寸すんから五六寸すん位ぐらゐな稀まれには一尺しやく位ぐらゐなものも掘ほり起おこされる。

みな、すり減ったような木のかけらばかりである。

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皆みな研とぎ減へらしたやうな木片もくへんのみである。

人々は冷たくなった手を口へ当てて、白い暖かい息をふきかけながら、いっしんに先へ先へとほり起こしながら行く。

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人々ひと/″\は冷つめたく成なつた手てを口くちへ當あてゝ白しろい暖あたゝかい息いきを吹ふつ掛かけながら一心しんに先さきへ先さきへと掘ほり起おこしつゝ行ゆく。

「どうするんだね」

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「どうするんだね」

勘次は一人のそばへ立って聞いた。

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勘次かんじは一人ひとりの側そばへ立たつて聞きいた。

ひょいと顔を上げたのは、おばあさんだった。

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ひよつと首くびを擡もたげたのは婆ばあさんであつた。

おばあさんは腰をのばして、強い西風によろける足をふみしめて

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婆ばあさんは腰こしをのして強つよい西風にしかぜによろける足あしを踏ふみしめて

「これをほしておいて燃やすのさ」

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「此これ干ほして置おいて燃もすのさ」

と、よごれた白髪と手ぬぐいをふかれながら、目をしかめて言った。

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と穢きたない白髮しらがと手拭てぬぐひとを吹ふかれながら目めを蹙しかめていつた。

「どうしても、こうなっちゃべろべろ燃えて、あっけないだろうね」

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「どうしても斯かう成なつちやべろ/\燃もえて飽氣あつけなかんべえね」

勘次は聞いた。

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勘次かんじは聞きいた。

「赤い灰になってな、火も弱いのさ。そんでも、しばを買うよりはいいからな。松のしばだといったって、こっちのほうへ来ちゃ、生で三十五たばだの何だのって、小さいくせにな。おれのようなばあさんでも十たばくらいは背負えるんだもの。近ごろじゃ燃す物がいちばん不自由で仕方がないのさな」

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「赤あけえ灰はひに成なつてな、火ひも弱よえのさ、そんでも麁朶そだ買かあよりやえゝかんな、松麁朶まつそだだちつたつてこつちの方はうへ來きちや生なまで卅五把はだの何なんだのつて、ちつちえ癖くせにな、俺おらやうな婆ばゝあでも十把ぱ位ぐれえは背負しよへんだもの、近頃ちかごろぢや燃もうす物ものが一番ばん不自由ふじようで仕しやうねえのさな」

おばあさんは言った。

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婆ばあさんはいつた。

「松のしばで三十五たばならそうばはそうでもないが、商人がたばね直すんだから小さくもなるはずだな」

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「松麁朶まつそだで卅五把はぢや相場さうばはさうでもねえが、商人あきんどがまるき直なほすんだから小ちひさくもなる筈はずだな」

勘次は首をかしげて言った。

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勘次かんじは首くびを傾かたむけていつた。

「そうなんだろうよなあ。そりゃそうと、お前さんはどこだね」

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「さうだごつさらよなあ、そりやさうとおめえさん何處どこだね」

万能ぐわをつえにして、おばあさんは言った。

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萬能まんのうを杖つゑにして婆ばあさんはいつた。

「おれは川向こうさ」

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「俺おら川向かはむかうさ」

「そんじゃ、燃す木はある所だね」

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「そんぢや燃もうす木きは有あつ處とこだね」

おばあさんはさらに勘次のくわを見て

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婆ばあさんは更さらに勘次かんじの唐鍬たうぐはを見みて

「たいしたくわだが、よっぽどするんだろうな」

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「たいした唐鍬たうぐはだが餘よつ程ぽどすんだつぺな」

「そうさ、今打たせちゃ三十もんめの物はきっとするな」

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「さうさ今いま打ぶたせちや三十掛さんじふがけは屹度きつとだな」

「三十もんめっていくらするんだろう。目方もしっかりあるだろうな」

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「三十掛さんじふがけツちや幾いくらするごつさら、目方めかたもしつかり掛かゝんべな」

「一貫目もないがな」

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「一貫目いつくわんめもねえがな」

勘次は自まんらしく、おばあさんにくわを持たせた。

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勘次かんじは自慢じまんらしく婆ばあさんへ唐鍬たうぐはを持もたせた。

「おおいや、おれには持ち上がらないようだ。お前さん自分で使うのかいまあ。何だろうよ、こんな道具は」

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「おういや、俺おらがにや引ひつたゝねえやうだ、おめえさん自分じぶんで使つかあのけまあ、何なにしたごつさらよ此こんな道具だうぐなあ」

「毎日木の根っこを起こしてたんだが、くわのひつがいたんじまったから、直しに来たところさ」

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「毎日まいんち木根きねつ子こ起おこしてたんだが、唐鍬たうぐはのひつ痛いためつちやつたから直なほし來きた處とこさ」

「そんじゃ、お前さんは燃す物には不自由なしでいいな」

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「そんぢやおめえさん燃もうす物ものにや不自由ふじいうなしでえゝな」

おばあさんはうらやましそうに言った。

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婆ばあさんは羨うらやまし相さうにいつた。

そして、小さな木のかけらを入れるために持って来た麻のよごれたふくろを、草かりかごから出した。

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さうして小ちひさな木片もくへんを入いれる爲ために持もつて來きた麻あさの穢きたない袋ふくろを草刈籠くさかりかごから出だした。

わずかに鬼怒川の水をへだてて、西は林がつづいている。

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僅わづかに鬼怒川きぬがはの水みづを隔へだてゝ西にしは林はやしが連つらなつて居ゐる。

村も田も畑も、その林につつまれている。

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村落むらも田たも畑はたけも其その林はやしに包つゝまれて居ゐる。

東はただ低い水田と畑で、村がそのあいだにぽつぽつとある。

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東ひがしは只たゞ低ひくい水田すゐでんと畑はたけとで村落むらが其その間あひだに點在てんざいして居ゐる。

そこには、家をかこんでわずかな木立があるばかりである。

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其處そこに家いへを圍かこんで僅わづかな木立こだちが有あるばかりである。

だから、たきぎが足りなくて豆のからや藁のような物もみな燃やす物としてしまってあることは、勘次もよく知っていた。

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隨したがつて薪たきゞの缺乏けつばふから豆幹まめがらや藁わらのやうなものも皆みな燃料ねんれうとして保存ほぞんされて居ゐることは勘次かんじも能よく知しつて居ゐた。

しかし、そのたきぎが足りないために、こういう砂の中にこう水が運んできた木のかけらがうまっているのを知って、これを集めているのだということは、彼は初めて見て初めて知った。

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然しかし其その薪たきゞの缺乏けつばふから自然しぜんにかういふ砂すなの中なかに洪水こうずゐが齎もたらした木片もくへんの埋うづまつて居ゐるのを知しつて之これを求もとめて居ゐるのだといふことは彼かれは始はじめて見みて始はじめて知しつた。

彼はめったに川をこえて出ることはなかったのである。

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彼かれは滅多めつたに川かはを越こえて出でることはなかつたのである。

勘次の家のかべぎわには、たきぎがいっぱいに積まれてある。

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勘次かんじは自分じぶんの壁際かべぎはには薪たきゞが一杯ぱいに積つまれてある。

そのうえ開こんの仕事をしているので、なんといってもたきぎはだんだん増えて行くばかりである。

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其その上うへに開墾かいこんの仕事しごとに携たづさはつて何なんといつても薪たきゞは段々だんだん殖ふえて行ゆくばかりである。

さらに、その開こんにいちばん大事な道具が、今は直って自分の手に提げられている。

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更さらに其その開墾かいこんに第だい一の要件えうけんである道具だうぐが今いまは完全くわんぜんして自分じぶんの手てに提さげられてある。

彼は、こんな苦労をしてまでわずかな木のかけらを集めている人々の前で、ほこらしさを感じた。

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彼かれは恁かういふ辛苦しんくをしてまでも些少させうな木片もくへんを求もとめて居ゐる人々ひとびとの前まへに矜ほこりを感かんじた。

彼は自分の暮らしがどんなものかは思わなかった。

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彼かれは自分じぶんの境遇きやうぐうが什麽どんなであるかは思おもはなかつた。

またこういう人々のあわれさも、思いやるひまがなかった。

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又また恁かういふ人々ひとびとの憐あはれなことも想おもひやる暇いとまがなかつた。

そして彼は、自分のうでまえがゆかいになった。

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さうして彼かれは自分じぶんの技倆うでが愉快ゆくわいになつた。

彼はふたたび土手から見下ろした。

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彼かれは再ふたゝび土手どてから見みおろした。

万能ぐわを持っているのはみな女で、十三、四の子もまじっているのだった。

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萬能まんのうを持もつて居ゐるのは皆みな女をんなで十三四の子こも交まじつて居ゐるのであつた。

人々のほり起こしたあとは、畑の土をみみずが持ち上げたような形に、しめった砂がうねうねとつづいているのが彼の目にうつった。

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人々ひと/″\の掘ほり起おこした趾あとは畑はたけの土つちを蚯蚓みゝずが擡もたげたやうな形かたちに、濕しめつた砂すなのうね/\と連つらなつて居ゐるのが彼かれの目めに映うつつた。

彼は家に帰るとすぐ、くわの柄をつけた。

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彼かれは家うちに歸かへると共ともに唐鍬たうぐはの柄えを付つけた。

なたのみねで鉄のくさびを打ちこんで、そして柄を持って動かしてみた。

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鉈なたの刀背みねで鐵てつの楔くさびを打うち込こんでさうして柄えを執とつて動うごかして見みた。

次の朝から、もう勘次のすがたは林に見られた。

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次つぎの朝あさからもう勘次かんじの姿すがたは林はやしに見出みいだされた。

主人からもらった穀物は、彼の家族を暖めた。

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主人しゆじんから與あたへられた穀物こくもつは彼かれの一家かを暖あたゝめた。

彼は近ごろにない心のゆとりを感じた。

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彼かれは近來きんらいにない心こころの餘裕よゆうを感かんじた。

しかし、そんなわずかな、彼にとって運のいいことでも、いくらか他人のねたみをまねいた。

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然しかしさういふ僅わづかな彼かれに幸さいはひした事柄ことがらでも幾いくらか他人たにんの嫉妬しつとを招まねいた。

ほかの百姓にも、もがいている者はいくらもいる。

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他たの百姓ひやくしやうにも悶躁もがいて居ゐる者ものは幾いくらもある。

そういう仲間のあいだでは、わずか五円のお金でも、それがふところに入ったとなればすぐに人の目に立つ。

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さういふ伴侶なかまの間あひだには僅わづかに五圓ゑんの金錢かねでもそれは懷ふところに入はひつたとなれば直すぐに世間せけんの目めに立たつ。

彼らはいくらかでも自分のためになることを見つけようとするほかに、目をするどくしてまわりに気をくばっているのである。

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彼等かれらは幾いくらづゝでも自分じぶんの爲ためになることを見出みいださうといふことの外ほかに、目めを峙そばたてゝ周圍しうゐに注意ちういして居ゐるのである。

彼らは、他人が自分と同じかそれ以上に苦しんでいると思っているあいだは、たがいに苦しんでいることに一種の安心を感じるのである。

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彼等かれらは他人ひとが自分じぶんと同等どうとう以下いかに苦くるしんで居ゐると思おもつて居ゐる間あひだは相互さうごに苦くるしんで居ゐることに一種しゆの安心あんしんを感かんずるのである。

しかし、その一人でもふところのいいのが目につけば、自分だけ後ろに置いていかれたような、ひどく切ない変な気持ちになって、そこにねたみの心が起こるのである。

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然しかし其その一人ひとりでも懷ふところのいゝのが目めにつけば自分じぶんは後あとへ捨すてられたやうな酷ひどく切せつないやうな妙めうな心持こゝろもちになつて、そこに嫉妬しつとの念ねんが起おこるのである。

だから彼らは、他人のしくじりを見ると、そのひがんだ心の中にこっそりと痛快さを感じずにはいられないのである。

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それだから彼等かれらは他たの蹉跌つまづきを見みると其その僻ひがんだ心こゝろの中うちに竊ひそかに痛快つうくわいを感かんぜざるを得えないのである。

勘次の家には、たきぎが山のように積まれてある。

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勘次かんじの家いへには薪たきゞが山やまのやうに積つまれてある。

それが彼らの仲間の目を引いた。

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それが彼等かれらの伴侶なかまの注目ちうもくを惹ひいた。

それとなく、何度も彼の主人に告げ口された。

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それとはなしに數次しばしば彼かれの主人しゆじんに告つげられた。

開こん地で木を燃やした、その灰まで家へ運んだということまで、主人の耳に入った。

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開墾地かいこんちで木きを焚たいた其その灰はひをも家いへに運はこんだといふことまで主人しゆじんの耳みゝに入はひつた。

勘次は開こんの手間ちんをわりと多くもらうかわりに、くぬぎの根は一つも持ち帰らないやくそくだった。

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勘次かんじは開墾かいこんの手間賃てまちんを比較的ひかくてき餘計よけいに與あたへられる代かはりには櫟くぬぎの根ねは一つも運はこばない筈はずであつた。

彼らの仲間は、そういうことも知っていた。

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彼等かれらの伴侶なかまはさういふことをも知しつて居ゐた。

昼ごはんの後や、手が冷たくなったときなどに、彼はそこらの木を集めて燃やす。

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晝餐ひるの後あとや手ての冷つめたく成なつた時ときなどには彼かれはそこらの木きを聚あつめて燃もやす。

木の根がくすぶって、いつも青いけむりが少しずつ立っている。

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木きの根ねが燻くすぶつていつでも青あをい煙けむりが少すこしづゝ立たつて居ゐる。

彼はそのけむりからだんだん遠ざかりながら、くわを打ちこんでいる。

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彼かれは其その煙けむりに段々だんだん遠とほざかりつゝ唐鍬たうぐはを打うち込こんで居ゐる。

毎日、火は別の所でたかれた。

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毎日まいにち火ひは別べつな處ところで焚たかれた。

彼は必ずその灰をかき払ってから帰ったのである。

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彼かれは屹度きつと其その灰はひを掻かつ掃ぱいで去さつたのである。

しかしかべぎわに積んだ木の根は、そこに正しくない物がまじっているにしても、大部分は彼のはげしい苦労から手に入れたものである。

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然しかし壁際かべぎはに積つんだ木きの根ねはそこには不正ふせいなものが交まじつて居ゐるにしても、大部分だいぶぶんは彼かれの非常ひじやうな勞苦らうくから獲えたものである。

彼は林の持ち主にたのんでほったのである。

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彼かれは林はやしの持主もちぬしに請こうて掘ほつたのである。

それでも、あまりに人のうわさがうるさいので、主人はただいくらかでもこれからのいましめにしようと思った。

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それでも餘あまりに人ひとの口くちが八釜敷やかましいので主人しゆじんは只たゞ幾分いくぶんでも將來しやうらいの警いましめをしようと思おもつた。

その前から勘次は、秋になればほしてある稲をぬすむとかいうかげ口をたたかれて、巡査の手帳にものっているのだというようなことが言われていたのだった。

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其その以前いぜんから勘次かんじは秋あきになれば掛稻かけいねを盜ぬすむとかいふ蔭口かげぐちを利きかれて巡査じゆんさの手帖ててふにも載のつて居ゐるのだといふやうなことがいはれて居ゐたのであつた。

主人はそれでも、こっそり人を使って、木の根を運んだかどうかを聞かせてみた。

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主人しゆじんはそれでも竊ひそかに人ひとを以もつて木きの根ねを運はこんだかどうかといふことを聞きかせて見みた。

彼が気づいてあやまるなら、それで済ませてやろうと思ったからである。

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彼かれが心こゝろづいて謝罪しやざいするならばそれなりにして遣やらうと思おもつたからである。

彼には主人の心を知るすべはなかった。

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彼かれは主人しゆじんの心こゝろを知しる由よしはなかつた。

「どこでも見たほうがようがす。わしはけっして運んだ覚えなんざないから」

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「何處どこでも見みた方はうがようがす、わしは決けつして運はこんだ覺おぼえなんざねえから」

彼はおそろしいけんまくできっぱりことわった。

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彼かれは恐おそろしい權幕けんまくできつぱり斷ことわつた。

主人は村の駐在所の巡査に耳打ちをした。

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主人しゆじんは村むらの駐在所ちうざいしよの巡査じゆんさへ耳打みゝうちをした。

巡査はある日、ぶらっと勘次の家へ行った。

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巡査じゆんさは或ある日ひぶらつと勘次かんじの家うちへ行いつた。

その日は朝から雨なので、勘次は仕事にも出られず、火ばちへ少しずつ木の根をくべて当たっていた。

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其その日ひは朝あさから雨あめなので勘次かんじは仕事しごとにも出でられず、火鉢ひばちへ少すこしづゝ木きの根ねを燻くべてあたつて居ゐた。

「雨で困ったな。勘次はだいぶがんばってるそうだな」

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「雨あめで困こまつたな、勘次かんじは大分だいぶ勉強べんきやうする相さうだな」

巡査は腰の刀のさやをつかんで言った。

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巡査じゆんさは帶劍たいけんの鞘さやを掴つかんでいつた。

「へえ」

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「へえ」

勘次は急にひざをすわり直した。

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勘次かんじは急きふに膝ひざを立たて直なほした。

表の戸口へひょっこり現れた巡査の、外とうのずきんを深くかぶった顔が、勘次にはただおそろしく見えた。

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表おもての戸口とぐちへひよつこり現あらはれた巡査じゆんさの、外套ぐわいたうの頭巾づきんを深ふかく被かぶつて居ゐる顏かほが勘次かんじには只たゞ恐おそろしく見みえた。

そして、その声がとげをふくんでひびいた。

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さうして其その聲こゑが刺とげを含ふくんで響ひゞいた。

巡査はぶらりと家の横手へ行って、かべぎわの木の根を見た。

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巡査じゆんさはぶらりと家いへの横手よこてへ行いつて壁際かべぎはの木きの根ねを見みた。

勘次は巡査の後についていった。

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勘次かんじは巡査じゆんさの後あとから跟ついて行いつた。

「だいぶあるな。これはまた、わしが来るまで動かしちゃならないからな」

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「大分だいぶ有あるな、此これは又またわしの來くるまで動うごかしちやならないからな」

巡査は言った。

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巡査じゆんさはいつた。

勘次は青くなった。

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勘次かんじは蒼あをくなつた。

「これらはわしがゆるしをもらってほったんでがすから、どことどこって、あなまでちゃんと分かってるんでがすから」

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「此こらわしが貰もらつて掘ほつたんでがすから何處どこと何處どこつて穴あなつ子こまでちやんと分わかつてんでがすから」

彼は慌てて言った。

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彼かれは慌あわてゝいつた。

「そんなことはどうでもいいんだ。動かすなと言ったら動かさなけりゃいいんだ」

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「そんなことはどうでもいゝんだ、動うごかすなといつたら動うごかさなけりやいゝんだ」

巡査は息できりのように少しぬれた口ひげをひねりながら

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巡査じゆんさは呼吸いきで霧きりのやうに少すこし霑ぬれた口髭くちひげを撚ひねりながら

「くぬぎの根がだいぶあるようだな」

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「櫟くぬぎの根ねが大分だいぶあるやうだな」

と言い残して去った。

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といひ棄すてゝ去さつた。

勘次は雨に打たれながら、ぼうっとして庭に立っている。

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勘次かんじは雨あめに打うたれつゝ喪心さうしんしたやうに庭にはに立たつて居ゐる。

戸口のかげにかくれて聞いていたおつぎは、巡査が去った後、やっとすがたを現した。

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戸口とぐちの蔭かげに隱かくれて聞きいて居ゐたおつぎは巡査じゆんさの去さつた後のち漸やうやく姿すがたを表あらはした。

「おとっつあん」

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「おとつゝあ」

と小声で呼んだ。

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と小聲こごゑで喚よんだ。

「そんだから、おれは持って来るなって言ったのに」

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「そんだから俺おら持もつて來くんなつてゆつたのに」

さらに小声でおつぎは言った。

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更さらに小聲こごゑでおつぎはいつた。

「おとっつあん、どうしたもんだろうな」

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「おとつゝあ、どうしたもんだべな」

おつぎは聞いた。

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おつぎは聞きいた。

「おれは旦那に見放されちゃ、とても助からないだろう」

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「俺おら旦那だんなに見放みはなされちや、迚とつても助たすかれめえ」

勘次はやっとこれだけ言った。

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勘次かんじは漸やうやく此これだけいつた。

「おとっつあん、それじゃ旦那にあやまったらどうだろう」

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「おとつゝあ、それぢや旦那だんなげ謝罪あやまつたらどうしたもんだんべ」

「そんなこと言ったって、聞いてくれるか分かるもんか」

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「そんなことゆつたつて、聽きくか聽きかねえか分わかるもんか」

「南のおとっつあんにでもたのんでみたらどうだろう」

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「南みなみのおとつゝあげでも頼たのんで見みたらどうしたもんだんべ」

「お前らがたのまなくたっていいから」

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「汝等わつら頼たのまなくつたつてえゝから」

「そんじゃ、おとっつあん、くぬぎの根っこさえなけりゃいいんだろうか」

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「そんぢやおとつゝあ、櫟くぬぎの根ねつ子こせえなけりやえゝんだんべか」

「そんだって、お前、駐在所に見られちまったもの、仕方があるもんか」

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「そんだつて汝われは駐在所ちうざいしよに見みられつちやつたもの仕しやうあるもんか」

勘次はそれでも、ほかに考えもないので、仕方なしに桑畑をこえて南の家へおわびをたのみに行った。

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勘次かんじはそれでも他たに分別ふんべつもないので仕方しかたなしに桑畑くはばたけを越こえて南みなみへ詑わびを頼たのみに行いつた。

彼は古いすげがさをちょっと頭にかざして、首を縮めて行った。

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彼かれは古ふるい菅笠すげがさを一寸ちよつと頭あたまへ翳かざして首くびを蹙ちゞめて行いつた。

主人の返事は、とにかく明日のことにするからと言っただけだという返事である。

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主人しゆじんの挨拶あいさつは兎とに角かく明日あすのことにするからといつた丈だけだといふ返辭へんじである。

勘次はげっそりとして家へ帰ると、ふとんをかぶってしまった。

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勘次かんじはげつそりとして家うちへ歸かへると蒲團ふとんを被かぶつて畢しまつた。

おつぎは自分も毎日行っていたので、開こん地から運んだくぬぎの根はみな知っている。

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おつぎは自分じぶんも毎日まいにち行いつて居ゐたので開墾地かいこんちから運はこんだ櫟くぬぎの根ねは皆みな知しつて居ゐる。

おつぎは、そのくぬぎの根を一人でこっそり引き出した。

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おつぎは其その櫟くぬぎの根ねを獨ひとりで竊ひそかに引ひき出だした。

そして夕暮れに、おつぎはそれを草かりかごへ入れて、後ろの竹やぶの中の古い井戸へ投げ落とした。

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さうして黄昏時たそがれどきにおつぎはそれを草刈籠くさかりかごへ入いれて後うしろの竹藪たけやぶの中なかの古井戸ふるゐどへ投なげ落おとした。

古い井戸は暗く、そして深い。

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古井戸ふるゐどは暗くらくして且かつ深ふかい。

おつぎは冷たい雨にぬれて、少しちぢれた髪が乱れてくったりとほおについて、足にはくちた竹の葉がくっついている。

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おつぎは冷つめたい雨あめに沾ぬれてさうして少すこし縮ちゞれた髮かみが亂みだれてくつたりと頬ほゝに附ついて足あしには朽くちた竹たけの葉はがくつゝいて居ゐる。

「おとっつあん」

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「おとつゝあ」

おつぎは勘次を呼び起こした。

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おつぎは勘次かんじを喚よび起おこした。

「おれはくぬぎの根っこを捨てたぞ」

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「俺おら櫟くぬぎ根ねつ子こうつちやつたぞ」

おつぎはさらに声を殺して言った。

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おつぎは更さらに聲こゑを殺ころしていつた。

勘次はひょっこり起きて、何も言わずにおつぎの顔をじっと見つめた。

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勘次かんじはひよつこり起おきて何なにもいはずにおつぎの顏かほを凝然ぢつと見みつめた。

暗い家の中に、やっと手ランプがともされた。

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暗くらい家うちの中なかには漸やうやく手てランプが點ともされた。

勘次もおつぎも、ただその目が光って見えた。

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勘次かんじもおつぎも唯たゞ其その目めが光ひかつて見みえた。

次の日、巡査はとなりのやとわれ人を連れて来てかべぎわの木の根を調べさせたが、くぬぎの根は思ったより少なかった。

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次つぎの日ひ巡査じゆんさは隣となりの傭人やとひにんを連つれて來きて壁際かべぎはの木きの根ねを檢しらべさせたが櫟くぬぎの根ねは案外あんぐわいに少すくなかつた。

それでも、おつぎの手では捨てきれなかったのである。

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それでもおつぎの手てでは棄すて切きれなかつたのである。

「これはくぬぎがもっとあったはずじゃないか。勘次はどうかしやしないか」

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「此こりや櫟くぬぎがもつと有あつた筈はずぢやないか勘次かんじはどうかしやしないか」

巡査はこう言ってあたりを見たが、勘次の小さな家のどこにもそれは見つからなかった。

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巡査じゆんさは恁かういつてあたりを見みたが勘次かんじの小ちひさな建物たてものの何處どこにもそれは發見はつけんされなかつた。

そうは言っても実さい、巡査の目にはくぬぎとほかの雑木とをはっきり見分けることはできなかったのである。

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さういつても實際じつさいに巡査じゆんさの目めには櫟くぬぎと他ほかの雜木ざふきとを明瞭めいれうに識別しきべつし得えなかつたのである。

「勘次、それじゃこれを持ってついて来るんだ」

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「勘次かんじ、それぢや此これを持もつて跟ついて來くるんだ」

巡査は言った。

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巡査じゆんさはいつた。

勘次はふるえた。

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勘次かんじは顫ふるへた。

「草かりかごでも何でもいい、これを入れて後からついて来い」

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「草刈籠くさかりかごでも何なんでもいゝ、此これを入いれて後あとから跟ついて」

「へえ、どこまで持って行くんでしょう」

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「へえ、何處どこまで持もつて行いくんでがせう」

勘次はためらっている。

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勘次かんじは逡巡ぐつ/\して居ゐる。

「どこまででもいいんだ」

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「何處どこまでゝもいゝんだ」

巡査はどなって、ぴしゃりと手の甲で勘次のほおをたたいた。

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巡査じゆんさは呶鳴どなつてぴしやりと横手よこてで勘次かんじの頬ほゝを叩たゝいた。

勘次は草かりかごを背負って、巡査の後についてゆき、主人の家の裏庭へ連れて行かれた。

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勘次かんじは草刈籠くさかりかごを脊負せおつて巡査じゆんさの後あとに跟ついて主人しゆじんの家いへの裏庭うらにはへ導みちびかれた。

巡査が縁側の座ぶとんに腰をかけたとき、勘次はかごを背負ったまま首をうなだれて立った。

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巡査じゆんさが縁側えんがはの坐蒲團ざぶとんへ腰こしを掛かけた時とき勘次かんじは籠かごを脊負せおつた儘まゝ首くびを俛たれて立たつた。

それはあまりに見えすいた仕組みなので、さすがに分別のある主人は出て来なかった。

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それは餘あまりに見みえ透すいた仕事しごとなので有繋さすがに分別盛ふんべつざかりの主人しゆじんは出でなかつた。

おかみさんが出た。

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内儀かみさんが出でた。

勘次はますますしおれた。

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勘次かんじは益ます/\萎しほれた。

「勘次、お前まあそれを置いて、ここへかけてみたらどうだね」

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「勘次かんじ、お前まへまあそれを置おいて此處こゝへ掛かけて見みたらどうだね」

おかみさんは言った。

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内儀かみさんはいつた。

勘次はそれでも、ただ立っている。

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勘次かんじはそれでも只たゞ立たつて居ゐる。

「品物はこれだけだったんでしょうか」

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「品物しなものは此これだけなんでしたらうか」

おかみさんは巡査に聞いた。

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内儀かみさんは巡査じゆんさに聞きいた。

「これくらいのものらしいようでしたな。思ったより少なかったんですな」

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「此この位くらゐのものらしいやうでしたな、案外あんぐわい少すくなかつたんですな」

巡査は手帳をめくりながら言った。

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巡査じゆんさは手帖ててふを反覆くりかへしながらいつた。

「そうでございますか」

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「さうでございますか」

おかみさんは巡査に会しゃくして、そして

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内儀かみさんは巡査じゆんさに會釋ゑしやくしてさうして

「どうしたね勘次、こうして連れて来られてもいい気持ちはすまいね」

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「どうしたね勘次かんじ、恁かうして連つれて來こられてもいゝ心持こゝろもちはすまいね」

と言った。

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といつた。

藁ぞうりをはいた勘次のつま先に、なみだがぽつりと落ちた。

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藁草履わらざうりを穿はいた勘次かんじの爪先つまさきに涙なみだがぽつりと落おちた。

「こんなことでお前、世間がさわがしくて仕方がないのでね、私の所でも本当に困ってしまうんだよ」

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「こんなことでお前まへ世間せけんが騷さわがしくて仕しやうがないのでね、私わたしの處ところでも本當ほんたうに困こまつて畢しまふんだよ」

おかみさんは巡査をちょっと見て、そして

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内儀かみさんは巡査じゆんさを一寸ちよつと見みてさうして

「これからきっとやらないなら、今日の所だけは大目に見ていただいて、警察へ連れて行かれないようにお願いしてみてあげるがね、どうしたもんだね」

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「此これから屹度きつとやらないなら今日けふの處ところだけは大目おほめに見みて戴いたゞいて警察けいさつへ連つれて行ゆかれないやうに伺うかゞつて見みてあげるがね、どうしたもんだね」

と勘次に言った。

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と勘次かんじへいつた。

「どうかもう、けっしてやりませんから、へえ、おかみさん、どうぞ」

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「何卒どうぞはあ、決けつしてやりませんから、へえお内儀かみさんどうぞ」

勘次は草かりかごを背負って前かがみになった体を、何度も何度も下げて言った。

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勘次かんじは草刈籠くさかりかごを脊負せおうて前屈まへかゞみになつた身體からだを幾度いくどか屈かゞめていつた。

なみだがまたぼろぼろと着物のすそからはねて、ぽつぽつと庭の土に点をつけた。

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涙なみだが又またぼろ/\と衣きものの裾すそから跳はねてほつ/\と庭にはの土つちに點てんじた。

「いかがなもんでございましょうね、これは」

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「如何いかゞなもんでござんせうね此これは」

おかみさんはほほえみをふくんで、巡査に向かって言った。

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内儀かみさんは微笑びせうを含ふくんで巡査じゆんさに向むかつていつた。

「そうですなあ」

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「さうですなあ」

巡査は首をかしげて言って、さらに腰の刀のさやをひざに取って

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巡査じゆんさは首くびを傾かたむけていつて更さらに帶劍たいけんの鞘さやを膝ひざへとつて

「どうだ勘次、これからつつしめるか。この次にこんなことがあったら、かれえだ一本でもゆるさないからな。今日はまあこれで帰れ。そのくぬぎの根はここへ置いて行くんだぞ」

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「どうだ勘次かんじ、以來いらい愼つゝしめるか、此この次つぎにこんなことが有あつたら枯枝かれえだ一つでも赦ゆるさないからな、今日けふはまあ此これで歸かへれ、其その櫟くぬぎの根ねは此處こゝへ置おいて行ゆくんだぞ」

勘次は草かりかごを下ろそうとした。

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勘次かんじは草刈籠くさかりかごを卸おろさうとした。

「そんなものをこの庭へ置けというんじゃないんだ。置く所は知ってるんだろう。分からない奴だな。それ、うっかりしないで足元を気をつけるんだ」

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「そんなもの此この庭にはへ置おけといふんぢやないんだ、置おく處ところは知しつてるんだろう、解わからない奴やつだな、それうつかりしないで足下あしもとを氣きをつけるんだ」

巡査はしかった。

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巡査じゆんさは叱しかつた。

勘次はそっと土をふんで庭を出た。

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勘次かんじはそつと土つちを踏ふんで庭にはを出でた。

門の外には、おつぎが与吉を連れてすすり泣いている。

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門もんの外そとにはおつぎが與吉よきちを連つれて歔欷すゝりなきして居ゐる。

与吉はおつぎが泣くのを見て、自分も声を上げる。

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與吉よきちはおつぎの泣なくのを見みて自分じぶんも聲こゑを放はなつ。

おつぎは声がもれないように、たもとでそれをおおっている。

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おつぎは聲こゑの洩もれぬやうに袂たもとでそれを掩おほうて居ゐる。

「よき、泣かないで帰れ」

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「よき泣なかねえで歸けえれ」

勘次は与吉の手を取った。

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勘次かんじは與吉よきちの手てを執とつた。

三人は黙って歩いた。

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三人にんは默だまつて歩あるいた。

やとわれ人たちは笑って、勘次のようすを見ていた。

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傭人等やとひにんらは笑わらつて勘次かんじの容子ようすを見みて居ゐた。

「おとっつあん、どうだったっけ」

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「おとつゝあ、どうしたつけ」

おつぎは家に帰るとすぐ聞いた。

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おつぎは家うちに歸かへると共ともに聞きいた。

「そんでもまあ大丈夫になった。くぬぎの根っこがなくて助かった」

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「そんでもまあ大丈夫だいぢやうぶになつた、櫟くぬぎ根ねつ子こなくつて助たすかつた」

勘次はげっそりと力なく言った。

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勘次かんじはげつそりと力ちからなくいつた。

「おれは昨日は重たくてひどかったっけぞ。そのせいか今日は肩が痛いや」

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「俺おら昨日きにやうは重おもたくつて酷ひどかつたつけぞ、其その所爲せゐか今日けふは肩かた痛いてえや」

おつぎはうれしそうに言った。

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おつぎは悦よろこばしげにいつた。

「おれがここでいなくなっちゃ、お前らも大変だったな」

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「俺おらこゝで居ゐなくなつちや汝等わツらも大變たえへんだつけな」

勘次はしばらく間を置いて、ぽつりと言った。

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勘次かんじは間あひだを暫しばらく措おいてぽさ/\としていつた。

このことがあってからも、勘次のすがたはすぐにくわを持って林の中に見られた。

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此この事ことがあつてからも勘次かんじの姿すがたは直すぐに唐鍬たうぐは持もつて林はやしの中なかに見出みいだされた。

五、六日たって、勘次は針立てと針箱を買って来た。

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五六日にち經たつて勘次かんじは針立はりだてと針箱はりばことを買かつて來きた。

「おつう、お前もこれからおはりのけいこに行けるからな。そら、これを持って行くんだ。おっかあが持ってた古いのなんざ、はずかしくていやだなんて言うから、これでもおとっつあんはひどい高いお金で買って来たんだぞ。それから、いいの悪いのってふくれたりするんじゃないぞ、なあ」

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「おつう、汝われも此これからお針はりにいけつかんな、そら此これ持もつて行えぐんだ、おつかゞ持もつてた古ふるいのなんざあ外聞げえぶん惡わるくつて厭やだなんていふから、此こんでもおとつゝあ等ら酷ひでえ錢ぜねで買かつて來きたんだぞ、それから善ええだの惡わりいだのつて膨ふくれたり何なにつかすんぢやねえぞ、なあ」

勘次はまた

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勘次かんじは又また

「よき、お前はおとっつあんのそばにいるんだぞ。いいか、姉ちゃんはこれからお前の着物を作るのでおはりに行くんだからな。言うことを聞かないとひどいぞ」

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「よき汝われはおとつゝあが側そばに居ゐるんだぞ、えゝか、姊ねえは此これから汝われが衣物きもの拵こせえんでお針はりに行えくんだかんな、聽きかねえと酷ひでえぞ」

と、与吉をだいてよく言い聞かせた。

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と與吉よきちを抱だいて能よくいひ含ふくめた。

おつぎはそれから、村の中へ近所のむすめといっしょに通った。

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おつぎはそれから村内そんないへ近所きんじよの娘むすめと共ともに通かよつた。

おつぎは与吉の小さなひとえをぬい上げたとき、その風呂しきづつみをかかえて、いそいそと帰って来た。

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おつぎは與吉よきちの小ちひさな單衣ひとへものを仕上しあげた時とき其その風呂敷包ふろしきづゝみを抱かゝへていそ/\と歸かへつて來きた。

おつぎは針を持つようになってから、きびきびとして、急に大人びて来たように見えた。

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おつぎは針はり持もつやうに成なつてからはき/\として俄にはかにませて來きたやうに見みえた。

おつぎはもう十六である。

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おつぎはもう十六である。

苦労の中にいるだけに、去年からくらべればどれほど大人らしくなって勘次の助けになったか知れない。

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辛苦しんくの間あひだに在ある丈だけに去年きよねんからでは何どれ程ほど大人おとなびて勘次かんじの助たすけに成なるか知しれない。

ことに秋のころからは、ずいぶん気もきくようになって、死んだお品に似て来たと他人には言われるのだが、毎日いっしょにいる自分にも、そう言えば体つきまでどうやらそう見えて来たと、勘次も心の中で思った。

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殊ことに秋あきの頃ころに成なつてからは滅切めつきり機轉きてんも利きくやうになつて、死しんだお品しなに似にて來きたと他人ひとにはいはれるのであるが、毎日まいにち一ひとつに居ゐる自分じぶんにもさういへば身體からだの恰好かつかうまでどうやらさう見みえて來きたと勘次かんじも心こゝろで思おもつた。

おつぎは今が遊びたいさかりだが、勘次からは一日でもたった一人にされたことがない。

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おつぎは今いまが遊あそびたい盛さかりに這入はひつたのであるが、勘次かんじからは一日いちにちでも唯たゞ一人ひとりで放はなされたことがない。

村の休みの日には近所の女の人に連れられて出てみることもあるが、必ず与吉がくっついているのと、自分は炊事をかかせないのとで、昼ごはんでも晩ごはんでもほかの人より早く帰って来なければならない。

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村むらの休日ものびには近所きんじよの女房にようばうに連つれられて出でて見みることもあるが、屹度きつと與吉よきちがくつゝいて居ゐるのと、自分じぶんは炊事すゐじの間まを缺かかすことが出來できないのとで晝餐ひるでも晩餐ばんでも他人ひとより早はやく歸かへつて來こなければならない。

「おれはいっそ、お祭りなんざないほうがいい。そうでさえなけりゃ、出たいと思わないから」

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「俺おらいつそもの日びなんざ無ねえ方はうがえゝ、さうでせえなけりや出でてえた思おもはねえから」

おつぎはつくづくつぶやくことがあった。

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おつぎは熟つく/″\呟つぶやくことがあつた。

「どうにかおれだってするから」

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「どうにか俺おらだつて成なつから」

おつぎのつぶやくのを聞いて、勘次はさすがに心が切なくなる。

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おつぎの呟つぶやくのを聞きいて勘次かんじは有繋さすがに心こゝろが切せつなくなる。

それで言いようがなくて、こうぶすりと言ってしまうのだった。

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それで云いひやうが無なくては恁かうぶすりと云いつて畢しまふのであつた。

与吉は四つになった。

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與吉よきちは四よつつに成なつた。

いたずらもおぼえてきて、その分おつぎの手はいらなくなった。

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惡戯いたづらも知しつて來きてそれ丈だけおつぎの手ては省はぶかれた。

それでも与吉の着物は、おつぎの手ではぬえないので、近所の女の人にたのんではどうにかしてもらった。

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それでも與吉よきちの衣物きものはおつぎの手てには始末しまつが出來できないので、近所きんじよの女房にようばうへ頼たのんではどうにかして貰もらつた。

お品が生きていれば、そんな心配はまだ十六のおつぎがすることではない。

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お品しなが生いきて居ゐればそんな心配しんぱいはまだ十六のおつぎがするのではない。

おつぎはさらに、自分の着物に困った。

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おつぎは更さらに自分じぶんの衣物きものに困こまつた。

短くなるばかりでなく、ほころびにさえおつぎは困るのである。

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短みじかくなるばかりではなく綻ほころびにさへおつぎは當惑たうわくするのである。

「おはりができなくちゃ仕方がないなあ」

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「お針はり出來できなくつちや仕樣しやうねえなあ」

おつぎはいつでもためいきをつくのだった。

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おつぎは何時いつでも嘆息たんそくするのであつた。

「おはりにでも何でも、やれるときにはやるから。奉公にでも行ってみろ、いくつになったってろくなことができるもんか。十六くらいじゃ貧乏人はまだ行けないったって、仕方があるもんか。そうお前みたいに、しらみがわいたようにしょっちゅう言うもんじゃない」

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「お針はりにでも何なんでも遣やれる時ときにや遣やつから、奉公ほうこうにでも行いつて見みろ、幾いくつに成なつたつて碌ろくなこと出來できるもんか、十六位ぐれえぢや貧乏人びんばふにんはまあだ行いけねえたつて仕しやうがあるもんか、さう汝われ見みてえに痩虱やせじらみたかつたやうにしつきりなし云いふもんぢやねえ」

「おとっつあんは、そんだって奉公にでも行ってる者には、家でこしらえてやるんだろうな」

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「おとつゝあはそんだつて奉公ほうこうにでも行いつてるものげは家うちで拵こせえてやんだんべな」

「そんだって何だって、やれるときでなくちゃやれないから」

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「そんだつてなんだつて遣やれつ時ときでなくつちや遣やれねえから」

十六ではまだ針を持たなくてもいいというのは、むりのないことである。

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十六ではまだ針はりを持もたなくつてもいゝといふのはそれは無理むりではない。

しかし勘次の家では、おつぎがまるで針を知らないことは不便だった。

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然しかし勘次かんじの家いへでおつぎの一向かう針はりを知しらぬことは不便ふべんであつた。

勘次もそれを知らないわけではないが、今のところ自分にはそのゆとりがないので、おつぎがそう言うたびに彼の心はたえられず苦しくなって、わざときつく言ってしまうのだった。

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勘次かんじもそれを知しらないのではないが、今いまの處ところ自分じぶんには其その餘裕よゆうがないのでおつぎがさういふ度たびに彼かれの心こゝろは堪たへず苦くるしむので態わざと邪慳じやけんにいつて畢しまふのであつた。

その冬になってからも、おつぎは十六だというまにすぐ十七になってしまうとつぶやいたのだった。

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其その冬ふゆになつてからもおつぎは十六だといふ内うちに直すぐ十七になつて畢しまふと呟つぶやいたのであつた。

「春にでもなったらやれるかも知れないから」

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「春はるにでもなつたらやれつかも知しんねえから」

と、勘次はそのたびに言っていた。

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と勘次かんじは其その度たびにいつて居ゐた。

おつぎは、とても当てにはならないと心の中であきらめていたのだった。

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おつぎは到底たうてい當あてにはならぬと心こゝろに斷念あきらめて居ゐたのであつた。

それだけに、おつぎのよろこびは深かった。

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それだけおつぎの滿足まんぞくは深ふかかつた。

ある晩、どうして思い出したのか、おつぎはふいと言った。

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或ある晩ばんどうして記憶きおくを復活ふくくわつさせたかおつぎはふいといつた。

「井戸へ落としたくぬぎの根っこは、はしごをかけても取れないだろうか」

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「井戸ゐどへ落おつことした櫟くぬぎ根ねつ子こは梯子はしご掛かけても取とれめえか」

「なぜそんなことを言うんだ」

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「何故なぜそんなこといふんだ」

勘次はおどろいて目を見開いた。

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勘次かんじは驚おどろいて目めを睜みはつた。

「そんでも、おしいもんだからよ」

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「そんでも可惜あつたらもんだからよ」

「お前が自分ではしごをかけて入るのか」

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「汝われ自分じぶんで梯子はしご掛かけて這入へえんのか」

「おれはこわいからいやだがな」

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「俺おら可怖おつかねえから厭やだがな」

「そんなこと言うもんじゃない。また引っぱられたらどうする。そのときはお前でも行くのか」

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「そんなこといふもんぢやねえ、又また拘引つゝてかれたらどうする、そん時ときは汝われでも行えくのか」

勘次はこう言って苦笑いした。

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勘次かんじは恁かういつて苦笑くせうした。

その晩はそれっきり、二人のあいだに話はなかった。

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其その晩ばんは其それつ切きり二人ふたりの間あひだに噺はなしはなかつた。

八

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八

与吉が五つの春になった。

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與吉よきちが五いつつの春はるに成なつた。

ずんずんと育って行く彼の体は、おつぎの手には重すぎる。

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ずん/\と生長せいちやうして行ゆく彼かれの身體からだはおつぎの手てに重量ぢうりやうが過すぎて居ゐる。

しがみついていたたけのこの皮が自然にそのくきからはなれるように、与吉はだんだんおつぎの手からはなれるようになった。

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しがみ附ついて居ゐた筍たけのこの皮かはが自然しぜんに其その幹みきから離はなれるやうに、與吉よきちは段々だん/\おつぎの手てから除のぞかれるやうに成なつた。

それでも、たけのこの皮が竹のくきにまとわりついて横たわっているように、与吉がおつぎを慕う気持ちに変わりはなかった。

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それでも筍たけのこの皮かはが竹たけの幹みきに纏まつはつては横よこたはつて居ゐるやうに、與吉よきちがおつぎを懷なつかしがることに變かはりはなかつた。

与吉は近所の子どもとよく田んぼへ出た。

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與吉よきちは近所きんじよの子供こどもと能よく田圃たんぼへ出でた。

暖かい日には、彼はひとえに着がえて、たもとを後ろでぎっとしばったり、すそをぐるっとまくったりしてもらうあいだも待ち遠しくて、はねている。

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暖あたゝかい日ひには彼かれは單衣ひとへに換かへて、袂たもとを後うしろでぎつと縛しばつたり尻しりをぐるつと端折はしよつたりして貰もらふ間まも待遠まちどほで跳はねて居ゐる。

「ほりのそばへは行くんじゃないぞ。着物をよごすと聞かないぞ」

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「堀ほりの側そばへは行えぐんぢやねえぞ、衣物きもの汚よごすと聽きかねえぞ」

おつぎが言うのを耳にも入れないで、小さなざるを手にして走って行く。

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おつぎがいふのを耳みゝへも入いれないで小笊こざるを手てにして走はしつて行ゆく。

田んぼのはんの木は、しおれた花が落ちて、若葉にはまだ少し間があるので、手持ちぶさたそうに立っている季節である。

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田圃たんぼの榛はんの木きはだらけた花はなが落おちて嫩葉わかばにはまだ少すこし暇ひまがあるので手持てもちなさ相さうに立たつて居ゐる季節きせつである。

田はわずかにしめり気があって、足の底に暖かみを感じる。

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田たは僅わづかに濕うるほひを含ふくんで足あしの底そこに暖味あたゝかみを感かんずる。

たがやす人は、まだ下りて来ない。

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耕たがやす人ひとはまだ下おり立たたぬ。

白っぽくかわいたかり株のあいだには、気をつけて見ればところどころにとても小さなあながある。

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白しろつぽく乾かわいた刈株かりかぶの間あひだには注意ちういして見みれば處々ところ/″\に極きはめて小ちひさな穴あながある。

子どもたちは、そのあなをさがして歩くのである。

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子供等こどもらは其その穴あなを探さがして歩あるくのである。

彼らは小さな手をねばる土に差しこんでは、両手に力をこめて引っくり返す。

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彼等かれらは小ちひさな手てを粘ねばる土つちに揷込さしこんでは兩手りやうての力ちからを籠こめて引ひつ返かへす。

そこにはどじょうがちょろちょろとはね返りながら、その身をあわただしく動かしている。

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其處そこには鰌どぜうがちよろ/\と跳返はねかへりつゝ其その身みを慌あわたゞしく動うごかして居ゐる。

すると彼らは、みな声を立ててさわぎながら、その小さなどろだらけの手でつかまえようとしては逃げられながら、やっとのことでざるへ入れる。

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さうすると彼等かれらは孰いづれも聲こゑを立たてゝ騷さわぎながら、其その小ちひさな泥どろだらけの手てで捉とらへようとしては遁にげられつゝ漸やうやくのことで笊ざるへ入いれる。

どじょうは、そのこそばゆいざるの中でしばらく身を動かしては落ち着く。

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鰌どぜうは其そのこそつぱい笊ざるの中なかで暫しばらく其その身みを動うごかしては落付おちつく。

ほかのどじょうがまた入れられるとき、さっきのどじょうがいっしょにさわいでは落ち着く。

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他たの鰌どぜうが又また入いれられる時とき先刻さつきの鰌どぜうが一つに騷さわいでは落付おちつく。

彼らはこうして、その小さなあなをさがして田から田へ移って歩く。

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彼等かれらは斯かうして其その小ちひさな穴あなを求もとめて田たから田たへ移うつつて歩あるく。

この土地では、それを「目ぼり」と言っている。

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土地とちではそれを目掘めぼりというて居ゐる。

与吉には、いくらどろだらけになってもどじょうは取れなかった。

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與吉よきちには幾いくら泥どろになつても鰌どぜうは捕とれなかつた。

仲間の大きな子は、それでも一ぴきずつくらいは与吉のざるにも入れてやるのだった。

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仲間なかまの大おほきな子こはそれでも一匹ぴき位ぐらゐづつ與吉よきちの笊ざるにも入いれて遣やるのであつた。

それで彼は、おくれながらもほかの子どもについて行かずにはいられなかったのである。

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それで彼かれは後おくれながらも他たの子供こどもに跟ついて歩あるかずには居をられなかつたのである。

ほりには、動かない水が空をうつしてたまっている所がある。

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堀ほりには動うごかない水みづが空そらを映うつして湛たゝへて居ゐる處ところがある。

そうかと思えば、水は一てきもなくて、どろの上をすじのように流れた砂のあとが、ちらちらと春の日をわずかに反しゃしている所がある。

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さうかと思おもへば或あるひは水みづは一滴てきもなくて泥どろの上うへを筋すぢのやうに流ながれた砂すなの趾あとがちら/\と春はるの日ひを僅わづかに反射はんしやして居ゐる處ところがある。

子どもたちはまばらなかれあしのあたりから下りて、そこでも目ぼりをためす。

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子供等こどもらは疎まばらな枯蘆かれあしの邊ほとりからおりて其處そこにも目掘めぼりを試こゝろみる。

大きな子どもは大事なざるをそっと持って下りる。

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大おほきな子供こどもは大事だいじな笊ざるをそつと持もつておりる。

小さな子どもはほりへ下りながら、ざるをかたむけてどじょうをこぼすことがある。

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小ちひさな子供こどもは堀ほりへおりながら笊ざるを傾かたぶけて鰌どぜうを滾こぼすことがある。

大きな子どもは「それっ」と言って、いたずらにそれをつかまえようとする。

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大おほきな子供こどもはそれつといつて惡戯いたづらに其それを捕とらうとする。

子どもたちは順々にみな、それをまねしようとする。

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子供等こどもらは順次じゆんじに皆みなそれに傚ならはうとする。

すると小さな子どもは、ただ火がついたように泣く。

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さうすると小ちひさな小供こどもは唯たゞ火ひの點ついたやうに泣なく。

それと同時にどじょうが小さな子どものざるに返されて、子どもはそのどじょうをのぞくとともに、その泣く声がぴたりと止まってしまうのである。

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それと同時どうじに鰌どぜうが小ちひさな子供こどもの笊ざるに返かへされて子供こどもは其その鰌どぜうを覗のぞくと共ともに其その泣なく聲こゑがはたと止とまつて畢しまふのである。

ほりのねばついたどろは、うっかりすると小さな足を吸いつけて放さない。

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堀ほりの粘ねばついた泥どろはうつかりすると小ちひさな足あしを吸すひ附つけて放はなさない。

すると、みんなが逃げるように岸へ上がって、指を出してその先を曲げながらはやし立てる。

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さうするとみんなが遁にげるやうに岸きしへ上あがつて指ゆびを出だして其その先さきを屈曲くつきよくさせながら騷さわぐ。

小さな子どもはざるを手にしたまま、目に手も当てずに声を上げて泣く。

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小ちひさな子供こどもは笊ざるを手てにした儘まゝ目めには手ても當あてずに聲こゑを放はなつて泣なく。

与吉はこうして、よく泣かされた。

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與吉よきちは恁かうして能よく泣なかされた。

彼には少しも親や兄の力がかぶさっていない。

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彼かれには寸毫すこしも父兄ふけいの力ちからが被かうぶつて居ゐない。

聞き分けのない子どものあいだにも、家族の力はとても大きくはたらいている。

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頑是ぐわんぜない子供こどもの間あひだにも家族かぞくの力ちからは非常ひじやうな勢いきほひを示しめして居ゐる。

その家族がみんなから見下される目で見られているように、子どものあいだでもまた、小さい与吉は見下されていた。

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其その家族かぞくが一般ぱんから輕侮けいぶの眼めを以もつて見みられて居ゐるやうに、子供こどもの間あひだにも亦また小ちひさい與吉よきちは侮あなどられて居ゐた。

それでも与吉は、帰りには小さなざるの底にどじょうがあるのでよろこんでいた。

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それでも與吉よきちは歸かへりには小笊こざるの底そこに鰌どぜうがあるので悦よろこんで居ゐた。

泣いたそのときはしおれても、彼はすぐに機げんが直って、そのわずかなえもののざるをほこっておつぎのそばに来るときは、いつもの甘えた与吉である。

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泣ないた當座たうざは萎しをれても彼かれは直すぐに機嫌きげんが出でて、其その僅わづかな獲物えものの笊ざるを誇ほこつておつぎの側そばに來くる時ときは何時いつもの甘あまえた與吉よきちである。

彼はどこへでもべたりとすわるので、しりを丸出しにまくってやっても、着物はどろだらけにした。

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彼かれは何處どこへでもべたりと坐すわるので臀しりを丸出まるだしに褰かかげてやつても衣物きものは泥どろだらけにした。

それでしかられても、どろのかわいたそのしりをたたかれても、おつぎにされるのは彼にはちっともこわくなかった。

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それで叱しかられても泥どろの乾かわいた其その臀しりを叩たゝかれても、おつぎにされるのは彼かれにはちつとも怖おそろしくなかつた。

彼は小言は耳にも入れないで、「姉ちゃんよう、見ろよう」

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彼かれは小言こごとは耳みゝへも入いれないで「姊ねえよう見みろよう」

と小さなざるをかたむけては、ちょこちょことはねるようにして小きざみに足を動かしながら、おつぎがほめてくれるのを待って止まない。

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と小笊こざるを枉まげてはちよこ/\と跳はねるやうにして小刻こきざみに足あしを動うごかしながらおつぎの譽ほめる詞ことばを促うながして止やまない。

彼はあまりによろこんでさわいで、ひょっとするとあぶない手つきでどじょうを庭へ落とすことがある。

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彼かれは餘あまりに悦よろこんで騷さわいでひよつとすると危あぶない手てもとで鰌どぜうを庭にはへ落おとす事ことがある。

どじょうはかわいた庭の土にまみれて、苦しそうに動く。

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鰌どぜうは乾かわいた庭にはの土つちにまぶれて苦くるしさうに動うごく。

与吉がおさえようとするとき、にわとりがひょいと来てくちばしでつついて、かけて行ってしまう。

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與吉よきちが抑おさへようとする時とき鷄にはとりがひよつと來きて嘴くちばしで啄つゝいて駈かけて行いつて畢しまふ。

ほかのにわとりがそれを追いかける。

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他たの鷄にはとりがそれを追おひ掛かける。

与吉はそうすると、またひとしきり泣くのである。

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與吉よきちはさうすると又また一ひとしきり泣なくのである。

「お前があんまりうっかりしてるからだわ」

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「汝われあんまりうつかりしてつかんだわ」

おつぎは笑いながら、立っている与吉の頭をだいて、それから手水だらいへ水をくんで、どじょうを入れてやる。

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おつぎは笑わらひながら、立たつてる與吉よきちの頭あたまを抱だいてそれから手水盥てうづだらひへ水みづを汲くんで鰌どぜうを入いれて遣やる。

与吉は水へ手を入れては、どじょうがさわぐのを見てすぐに声を立てて笑う。

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與吉よきちは水みづへ手てを入いれては鰌どぜうの騷さわぐのを見みて直すぐに聲こゑを立たてて笑わらふ。

おつぎはそうしておいて、どろだらけの手足を洗ってやる。

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おつぎはさうして置おいて泥どろだらけの手足てあしを洗あらつてやる。

与吉はときどきどじょうを持って来た。

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與吉よきちは時々とき/″\鰌どぜうを持もつて來きた。

おつぎは着物がどろになるのをしかりながら、それでも元気よく田んぼへ出してやった。

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おつぎは衣物きものの泥どろになるのを叱しかりながらそれでも威勢ゐせいよく田圃たんぼへ出だしてやつた。

そのたびに、ほかの子どもたちの後ろから

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其その度たびに他ほかの子供等こどもらの後うしろから

「泣かさないで、よきのことも連れて行ってくれよな」

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「泣なかさねえでよきことも連つれでつてくろうな」

というおつぎの声が追いかけるのだった。

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といふおつぎの聲こゑが追おひ掛かけるのであつた。

わずかなどじょうは味噌しるへ入れて、はしで骨をしごいて与吉にやった。

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僅わづかな鰌どぜうは味噌汁みそしるへ入いれて箸はしで骨ほねを扱しごいて與吉よきちへやつた。

自分では骨と頭をしばらく口にふくんで、それから捨てた。

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自分じぶんでは骨ほねと頭あたまとを暫しばらく口くちへ含ふくんでそれから捨すてた。

田がそろそろとたがやされるようになった。

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田たがそろ/\と耕たがやされるやうに成なつた。

子どもたちはまた、一つ一つのかたまりにたがやされた田をわたって、そのかたまりの上をすべりながらこえながら、とても小さなくわいのような、ゑぐの根を取った。

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子供等こどもらは又また一ひとつ/\の塊かたまりに耕たがやされた田たを渡わたつて、其その塊かたまりの上うへを辷すべりながら越こえながら、極きはめて小ちひさい慈姑くわゐのやうなゑぐの根ねをとつた。

それはこの土地ではなまって、「ゑご」と呼ばれている。

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それは土地とちでは訛なまつてゑごと喚よばれて居ゐる。

そこらの田にはゑぐが多いので、秋のころになると、しげった稲のかげに小さな白い花がさく。

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そこらの田たにはゑぐが多おほいので秋あきの頃ころに成なると茂しげつた稻いねの陰かげに小ちひさな白しろい花はなが咲さく。

与吉もほかの子どもがするように、小さなざるを持って出た。

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與吉よきちも他たの子供こどものするやうに小笊こざるを持もつて出でた。

どじょうとちがって、これは彼の手にもわずかずつは取ることができた。

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鰌どぜうとは違ちがつて此これは彼かれの手てにも僅わづかづゝは採とることが出來できた。

少しずつ取っては、毎日のようにためた。

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少すこしづゝ採とつては毎日まいにちのやうに蓄たくはへた。

おつぎはお茶をわかすたびに、それを灰の中へ投げこんで焼いてやる。

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おつぎは茶ちやを沸わかす度たびにそれを灰はひの中なかへ投なげ込こんで燒やいてやる。

火をいじるのがあぶないので、与吉は一人でかまどに手をつけることは禁じられている。

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火ひを弄いぢることが危あぶないので與吉よきちは獨ひとりで竈かまどへ手てをつけることは禁きんぜられて居ゐる。

灰の中へ入れたばかりで、与吉は

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灰はひの中なかへ入いれたばかりで與吉よきちは

「ようよう」

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「よう/\」

と言っておつぎにせがむ。

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といつておつぎに迫せまる。

与吉は焼けるまでの時間が待ちきれないのである。

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與吉よきちは燒やける間あひだが遲緩もどかしいのである。

「そんなに早く焼けないだろうな。そんじゃ姉ちゃんは知らないぞ」

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「そんなに燒やけめえな、そんぢや姊ねえは構かまあねえぞ」

と、おつぎはゑぐをかき出してやる。

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とおつぎはゑぐを掻かき出だして遣やる。

与吉は口へ入れても、まだがりがりで、しかもにがいのではき出してしまう。

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與吉よきちは口くちへ入いれてもまだがり/\で且かつ苦にがいので吐はき出だして畢しまふ。

「そうら見ろ、大きな口をきいて言うことを聞かないから」

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「そうら見みろ、大えけえ姿なりしていふこと聽きかねえから」

おつぎは怒ったようすをして見せる。

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おつぎは怒おこつたやうな容子ようすをして見みせる。

「姉ちゃんよ、よう」

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「姊ねえよ、よう」

と、与吉はまたねだる。

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と與吉よきちは又また強請せがむ。

そのときにはもう、皮にしわの寄った焼けたゑぐが与吉の手に乗せられる。

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其その時ときはもう皮かはに皴しわが寄よつて燒やけたゑぐが與吉よきちの手てに載のせられる。

「お前、熱いぞ」

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「汝われ熱あつえぞ」

とおつぎが言えば、与吉は手を引いて、ゑぐは土間へ落ちる。

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とおつぎがいへば與吉よきちは手てを引ひいてゑぐは土間どまへ落おちる。

それをまた手に乗せてやると、与吉はおつぎがするようにふうふうと灰をふく。

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それを又また手てに載のせてやると與吉よきちはおつぎがするやうにふう/\と灰はひを吹ふく。

与吉はもっともっととおつぎにせがんで、勘次にどなられてはやめるのである。

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與吉よきちは後あとも後あともとおつぎにせがんで、勘次かんじに呶鳴どなられては止やめるのである。

ためたゑぐが小さなざるにいっぱいになったとき、おつぎはざるを手に持って

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蓄たくはへられたゑぐが小笊こざるに一杯ぱいに成なつた時ときおつぎは小笊こざるを手てに持もつて

「よきにこれを煮てやろうか。さとうでも入れたらうまいだろうな」

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「よきげ此これ煮にてやつぺか、砂糖さたうでも入せえたら佳味うまかつぺな」

と、独り言のように言った。

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獨語ひとりごとのやうにいつた。

「煮てくれようよう」

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「煮にてくろうよう」

与吉はそれを聞いてまたせがんで、おつぎへ飛びついて、かぶっている手ぬぐいを引っぱった。

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與吉よきちはそれを聞きいて又またせがんでおつぎへ飛とびついて、被かぶつて居ゐる手拭てぬぐひを引ひつ張ぱつた。

おつぎは

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おつぎは

「ああ痛いまあ」

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「おゝ痛いてえまあ」

と顔をしかめて、引かれるままに首をかたむけて言った。

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と顏かほを蹙しかめて引ひかれる儘まゝに首くびを傾かたぶけていつた。

乱れた髪の三本四本が、手ぬぐいといっしょに強く引かれたのである。

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亂みだれた髮かみの三筋みすぢ四筋よすぢが手拭てぬぐひと共ともに強つよく引ひかれたのである。

「そんなものは塩ででもゆでてやれ」

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「其麽そんなもの鹽しほでゞも茹ゆでてやれ」

勘次は急にどなった。

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勘次かんじは俄にはかに呶鳴どなつた。

「さとうだなんて、黙ってれば知らないでいるもの。泣かれたらどうするんだ。さとうだのしょうゆだのって、そんなことしたっくらい、なんぼ損だか知れやしない。おとっつあんはそんなお金なんざ一銭だって持ってないから、塩だってかんたんなもんじゃないや。そんなよけいなものは何の役にも立つもんじゃない」

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「砂糖さたうだなんて、默だまつてれば知しらねえでるもの、泣なかれたらどうすんだ、砂糖さたうだの醤油しやうゆだのつてそんなことしたつ位くれえなんぼ損そんだか知しれやしねえ、おとつゝあ等らそんな錢ぜねなんざ一錢ひやくだつて持もつてねえから、鹽しほだつて容易よういなもんぢやねえや、そんな餘計よけいなもの何なんになるもんぢやねえ」

勘次はくり返してしかった。

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勘次かんじは反覆くりかへして叱しかつた。

与吉はおつぎのかげへ回ってだきついた。

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與吉よきちはおつぎの陰かげへ廻まはつて抱だきついた。

「どうしたもんだろうなまあ。すぐに怒るんだから」

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「どうしたもんだんべまあ、ぢつき怒おこんだから」

おつぎは小言を聞いてつぶやいた。

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おつぎは小言こごとを聞きいて呟つぶやいた。

「そんだって、おとっつあんはそんな余ゆうはないんだから」

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「そんだつて、おとつゝあ等らそんな處とこぢやねえから」

勘次はがっかりして声を落として言った。

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勘次かんじはがつかり聲こゑを落おとしていつた。

そして黙りこんだ。

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さうして沈默ちんもくした。

おつぎも、お品が死んでから苦しい暮らしの中で二度目の春をむかえた。

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おつぎもお品しなが死しんでから苦くるしい生活せいくわつの間あひだに二たび春はるを迎むかへた。

おつぎはやむを得ず、暮らしのつらさにたえる力を早く身につけた。

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おつぎは餘儀よぎなくされつゝ生活せいくわつの壓迫あつぱくに對たいする抵抗力ていかうりよくを促進そくしんした。

よその女の子のようなのんびりした春は知らないで、おつぎは体つきも大きく変わった。

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餘所よその女をんなの子このやうに長閑のどかな春はるは知しられないでおつぎは生理上せいりじやうにも著いちじるしい變化へんくわを遂とげた。

お品が死んだとき、おつぎはまだ落ち葉をくべるといっては、竹の火ばしの先をすぐに燃やしてしまうほど下手な子だった。

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お品しなが死しんだ時ときはおつぎはまだ落葉おちばを燻くべるとては竹たけの火箸ひばしの先さきを直すぐに燃もやして畢しまふ程ほど下手へたな子こであつた。

それが横にもたてにも大きくなって、はだもつやつやと見えて、髪も長くなった。

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それが横よこにも竪たてにも大おほきくなつて、肌膚はだもつやゝかに見みえて髮かみも長ながくなつた。

おつぎの家の後ろの、がけのようになった所からは、村の人がよく黄色いねん土を取った。

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おつぎの家いへの後うしろの崖がけのやうに成なつた處ところからは村むらのものが能よく黄色きいろな粘土ねんどを採とつた。

髪がべたつくようになると、おつぎはそのねん土をこすりつけて、はだぬぎになったまま黄色く染まった頭を井戸のそばで洗うのである。

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髮かみが黏ねばるやうになるとおつぎは其その粘土ねんどをこすりつけて、肌はだぬぎになつた儘まゝ黄色きいろく染そまつた頭あたまを井戸ゐどの側そばで洗あらふのである。

そして、そのふさふさとした髪は、二度とかす所を三度とかすようになった。

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さうして其そのふつさりとした髮かみは二度ど梳すく處ところは三度ど梳すくやうに成なつた。

おつぎはまた、髪へつけるごまの油を元結でしばった小さなびんに入れて、大事にしまっておくのである。

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おつぎは又また髮かみへつける胡麻ごまの油あぶらを元結もとゆひで縛しばつた小ちひさな罎びんへ入いれて大事だいじに藏しまつて置おくのである。

短いあいだではあるが、針を持つようになってからは赤いたすきもぬった。

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短みじかい期間きかんではあるが針はり持もつやうになつてからは赤あかい襷たすきも絎くけた。

半纏もせんたくした。

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半纏はんてんも洗濯せんたくした。

どうにか自分の手でぬい上げた、丈の合う着物を着て、おつぎは急に大人びたようになった。

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どうにか自分じぶんの手てで仕上しあげた身丈みたけに足たりる衣物きものを着きておつぎは俄にはかに大人おとなびたやうに成なつた。

田や畑に出るときには、まだのりのぬけない半纏へ赤いたすきを肩からかけて、勘次の後についてゆく。

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田たや畑はたけに出でる時ときにはまだ糊のりのぬけない半纏はんてんへ赤あかい襷たすきを肩かたから掛かけて勘次かんじの後うしろに跟ついて行ゆく。

おつぎは仕事にかかるときには、その半纏はぬいで木のえだへかける。

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おつぎは仕事しごとにかゝる時ときには其その半纏はんてんはとつて木きの枝えだへ懸かける。

おつぎのすがたは、やっと村の人の目を引くようになった。

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おつぎの姿すがたは漸やうやく村むらの注目ちうもくに値あたひした。

春の野をかざって黄色い布をかけたような菜の花も、春らしい雨がちらちらとふって、霜にやられたような葉がめっきり青くなって来たころには、その開いた葉の真ん中にほんのわずかな出っぱりを見つける。

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春はるの野のを飾かざつて黄色きいろな布ぬのを掩おほうたやうな菜なの花はなも、春はるらしい雨あめがちら/\と降ふつて霜しもに燒やけたやうな葉はが滅切めつきりと青あをみを加くはへて來きた頃ころは其その開ひらいた葉はの心部しんぶには只たゞ僅わづかな突起とつきを見出みいだす。

しかしそこには、つぼみがはっきりと形になっているのである。

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然しかしそこには蕾つぼみが明あきらかに形かたちを成なして居ゐるのである。

空からは暖かい日ざしがまねいて、土からは長い手がずんずんとさし上げてはさらに長くさし上げるので、そのはでな花が麦や小麦のほにもうもれることなく、広い野をしめるのである。

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空そらからは暖あたゝかい日光につくわうが招まねいて土つちからは長ながい手てがずん/\とさし扛あげては更さらに長ながくさし扛あげるので其その派手はでな花はなが麥むぎや小麥こむぎの穗ほにも沒却ぼつきやくされることなく廣ひろい野のを占しめるのである。

おつぎも、その真ん中に見えるつぼみだった。

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おつぎも其その心部しんぶに見みえる蕾つぼみであつた。

しかしそのつぼみは、さし上げてもらえないばかりか、おさえつける手の強い力が加えられている。

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然しかし其その蕾つぼみはさし扛あげられないのみではなく壓おさへる手ての強つよい力ちからが加くはへられてある。

勘次は少しのあいだも、おつぎを自分のそばから放すまいとしている。

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勘次かんじは寸時すんじもおつぎを自分じぶんの側そばから放はなすまいとして居ゐる。

だから、空の日ざしがまねくように女の心をさそうはずの村の若者とのあいだには、おつぎは何のつながりも生まれなかった。

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隨したがつて空そらの日光につくわうが招まねくやうに女をんなの心こゝろを促うながすべき村むらの青年せいねんとの間あひだにはおつぎは何なんの關係くわんけいも繋つながれなかつた。

おつぎが十七という年だと聞いて、みな今さらのようにそのすがたに目を向けたのである。

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おつぎが十七といふ年齡としを聞きいて孰いづれも今更いまさらのやうに其その注意ちういを惹起ひきおこしたのである。

冬の季節にほこりをまき上げて来る西風は、まずどこよりもおつぎの家の雨戸を、今日も来たぞとたたく。

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冬ふゆの季節きせつに埃ほこりを捲まいて來くる西風にしかぜは先まづ何處どこよりもおつぎの家いへの雨戸あまどを今日けふも來きたぞと叩たゝく。

それは村の西のはしにあるからである。

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それは村むらの西端せいたんに在あるからである。

場所がそういう追いやられたような形になっている上に、暮らしのようすから自然に、ある程度までは人の注意からもれて、日かげにいるのと同じようなところがあったのである。

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位置ゐちがさういふ逐おひやられたやうな形かたちに成なつて居ゐる上うへに、生活せいくわつの状態じやうたいから自然しぜんに或ある程度ていどまでは注意ちういの目めから逸それて日陰ひかげに居ゐると等ひとしいものがあつたのである。

勘次の見張りの手は、つぼみの成長を止める冷たい空気であり、そしてこれをのぞこうとする者をふせぐ固いかきねである。

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勘次かんじの監督かんとくの手ては蕾つぼみの成長せいちやうを止とゞめる冷ひやゝかな空氣くうきで、さうして之これを覗ねらふものを防遏ばうあつする堅固けんごな牆壁しやうへきである。

しかし春の季節を地上の草木が知ったとき、どれほど白く霜がおりても草木の力は動いて止まないように、おつぎの心は外から加える見張りの手で奪い去ることはできない。

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然しかし春はるの季節きせつを地上ちじやうの草木さうもくが知しつた時、どれ程ほど白しろく霜しもが結むすんでも草木さうもくの活力くわつりよくは動うごいて止やまぬ如ごとく、おつぎの心こゝろは外部ぐわいぶから加くはへる監督かんとくの手てを以もつて奪うばひ去さることは出來できない。

おつぎは勘次の後についてゆき、畑へ行き来するとちゅうで、こんの仕事着に身を固めた村の若者に会うときには、さすがに心が引かれた。

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おつぎは勘次かんじの後あとへ跟ついて畑はたけへ往來わうらいする途上とじやうで紺こんの仕事衣しごとぎに身みを堅かためた村むらの青年せいねんに逢あふ時ときには有繋さすがに心こゝろは惹ひかされた。

肩にしたくわの柄へ、おつぎは両手をかけている。

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肩かたにした鍬くはの柄えへおつぎは兩手りやうてを掛かけて居ゐる。

そのにぎった手にほおをもたせるようにして、おつぎはいくらか首をかたむけながら、手ぬぐいの下から黒いひとみで若者を見るのだった。

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其その握にぎつた手てに頬ほゝを持もたせるやうにして、おつぎは幾いくらか首くびを傾かたむけつゝ手拭てぬぐひの下したから黒くろい瞳ひとみで青年せいねんを見みるのであつた。

勘次は、後からついて来るおつぎのようすまでは知ることができなかった。

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勘次かんじは後あとから跟ついて來くるおつぎの態度たいどまで知しることは出來できなかつた。

おつぎは何度もそうして村の若者を見た。

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おつぎは數次しば/\さうして村むらの青年せいねんを見みた。

しかし一言も交わす機会は持てなかった。

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然しかし一語ごも交換かうくわんする機會きくわいを有もたなかつた。

おつぎはどうということもなく、むしろほとんど無意識にすれちがう若者を見るのだったが、手ぬぐいの下に光る暖かい二つのひとみに気持ちがこもっていることは、若者たちの目にもなんとなく感じ取られた。

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おつぎはどうといふこともなく寧むしろ殆ほとんど無意識むいしきに行ゆき交かふ青年せいねんを見みるのであつたが、手拭てぬぐひの下したに光ひかる暖あたゝかい二ふたつの瞳ひとみには情じやうを含ふくんで居ゐることが青年等せいねんらの目めにも微妙びめうに感應かんおうした。

こうして、おつぎもいつのまにか人のうわさにのぼったのである。

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恁かうしておつぎもいつか口くちの端はに上のばつたのである。

それでも、若者がおつぎとふれ合えるのは、勘次の見張りの下で、真昼の道で一目見てすれちがう、その一しゅんだけだった。

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それでも到底たうてい青年せいねんがおつぎと相あひ接せつするのは勘次かんじの監督かんとくの下もとに白晝はくちう往來わうらいで一瞥べつして行ゆき違ちがふ其その瞬間しゆんかんに限かぎられて居ゐた。

だから、ふつうのむすめとちがって、おつぎの心には男に対するおそれの幕をむりに引きはらわれる機会が、これまで一度も与えられなかった。

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それ故ゆゑ一般ぱんの子女しぢよのやうではなくおつぎの心こゝろにも男をとこに對たいする恐怖きようふの幕まくを無理むりに引拂ひきはらはれる機會きくわいが嘗かつて一度ひとたびも與あたへられなかつた。

おつぎは道を行くときには、手ぬぐいのかぶり方にも気をつかう、ふつうの女である。

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おつぎは往來わうらいを行ゆくとては手拭てぬぐひの被かぶりやうにも心こゝろを配くばる只たゞの女をんなである。

それが家に帰れば、すぐに苦しい暮らしの人にならなければならない。

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それが家いへに歸かへれば直たゞちに苦くるしい所帶しよたいの人ひとに成ならねばならぬ。

そこでおつぎの心は、別人のようにきりっと引きしめられるのだった。

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そこにおつぎの心こゝろは別人べつにんの如ごとく異常いじやうに引ひき緊しめられるのであつた。

またさわやかな初夏が来て、百姓はいそがしくなった。

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復また爽さわやかな初夏しよかが來きて百姓ひやくしやうは忙せはしくなつた。

おつぎは、死んだお品が織ったのだという弁慶じまのひとえを着て出るようになった。

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おつぎは死しんだお品しなが地機ぢばたに掛かけたのだといふ辨慶縞べんけいじまの單衣ひとへを着きて出でるやうに成なつた。

針を持つようになったとき、おつぎはこれも自分の手でぬい上げたのだった。

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針はりを持もつやうに成なつた時ときおつぎは此これも自分じぶんの手てで仕上しあげたのであつた。

それはそばで見ていてはあぶなっかしい手つきで、何度か針の運び方をまちがえてほどいたこともあったが、ついには体にぴったり合うようになっていた。

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夫それは傍そばで見みて居ゐては危あぶな相さうな手てもとで幾度いくたびか針はりの運はこびやうを間違まちがつて解といたこともあつたが、遂しまひには身體からだにしつくり合あふやうに成なつて居ゐた。

死んだお品は、おつぎが生まれてすぐにかまどを別にして、みすぼらしい暮らしをしたので、当時は晴れ着だったそのひとえを着てみる機会もなく、しまったままになっていたのである。

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死しんだお品しなはおつぎが生うまれたばかりに直すぐに竈かまどを別べつにして、不見目みじめな生計くらしをしたので當時たうじは晴はれの衣物きものであつた其その單衣ひとへに身みを包つゝんで見みる機會きくわいもなく空むなしく藏しまつた儘まゝになつて居ゐたのである。

それに、そのころは紺が七日もたたなければ使えないような藍がめで染められたので、今のふつうの布のように、水で落ちないかと思えば日にあせるというのではなく、勘次が言ったようにせんたくしてもかえって色がさえるようなもので、それに生地もしっかりと丈夫だった。

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それに其その頃ころは紺こんが七日なぬかからも經たたねば沸わかないやうな藍瓶あゐがめで染そめられたので、今いまの普通ふつうの反物たんもののやうな水みづで落おちないかと思おもへば日ひに褪さめるといふのではなく、勘次かんじがいつたやうに洗濯せんたくしても却かへつて冴さえるやうなので、それに地質ぢしつもしつかりと丈夫ぢやうぶなものであつた。

おつぎが洗いざらしのあわせを捨てて、弁慶じまのひとえで出るようになってからは、ひときわ人の目を引いた。

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おつぎが洗あらひ曝ざらしの袷あはせを棄すてゝ辨慶縞べんけいじまの單衣ひとへで出でるやうに成なつてからは一際ひときは人ひとの注目ちうもくを惹ひいた。

例の赤いたすきが後ろで交差して、そでを短くしごき上げる。

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例れいの赤あかい襷たすきが後うしろで交叉かうさして袖そでを短みじかく扱こきあげる。

そのしごき上げられた肩は、着物のしわで少し張って、体をしっかりと見せる。

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其その扱こきあげられた肩かたは衣物きものの皴しわで少すこし張はつて身體からだを確乎しつかとさせて見みせる。

出たうでには、こんの手甲がつけられている。

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現あらはれた腕うでには紺こんの手刺てさしが穿うがたれてある。

やっと暑い日ざしをきらって、おつぎは白いすげがさをかぶった。

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漸やうやく暑あつい日ひを厭いとうておつぎは白しろい菅笠すげがさを戴いたゞいた。

白いすげがさは雨にさらされればそれで破れてしまうので、夏のはじめには必ずどこでも新しいのに取りかえられるのである。

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白しろい菅笠すげがさは雨あめに曝さらされゝばそれで破やぶれて畢しまふので、夏なつのはじめには屹度きつと何處どこでも新あたらしいのに換かへられるのである。

おつぎは勘次に連れられて、麦のうねの間をたがやした。

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おつぎは勘次かんじに引ひかれて麥むぎの畦間うねまを耕たがやした。

くわを入れるのがおくれた麦は、ほが白く出ている。

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鍬くはを入いれるのが手後ておくれになつた麥むぎは穗ほが白しろく出でて居ゐる。

ときどき立って、くわについた土を足の底でしごき落とすおつぎのすがたが、さやさやとかすかな音を立てて動く白いほの上に見える。

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時々とき/″\立たつて鍬くはに附ついた土つちを足あしの底そこで扱こきおろすおつぎの姿すがたがさや/\と微かすかな響ひゞきを立たてゝ動うごく白しろい穗ほの上うへに見みえる。

よそをちょっと見るたびに、大きなすげがさがぐるりと動く。

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餘所よそを一寸ちよつと見みる度たびに大おほきな菅笠すげがさがぐるりと動うごく。

すげがさは日をよけるだけでなく、女にとってはおしゃれなかざりでもある。

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菅笠すげがさは日ひを避さけるのみではなく女をんなの爲ためには風情ふぜいある飾かざりである。

髪には白い手ぬぐいをかぶって、かさの竹の骨がその髪をおさえるところには、小さなわりと厚いふとんが置かれている。

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髮かみには白しろい手拭てぬぐひを被かぶつて笠かさの竹骨たけぼねが其その髮かみを抑おさへる時ときに其處そこには小ちひさな比較的ひかくてき厚あつい蒲團ふとんが置おかれてある。

そういうすきまをあけて、すげがさは前かがみに高くのせられるのである。

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さういふ間隔かんかくを保たもつて菅笠すげがさは前屈まへかゞみに高たかく据すゑられるのである。

女たちはみな、わずかな休みのあいだにも汗をふくにはかさを取って地面に置く。

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女等をんならは皆みな少時しばしの休憩時間きうけいじかんにも汗あせを拭ぬぐふには笠かさをとつて地上ちじやうに置おく。

一つにはひもがよごれるのをきらって、必ずさかさにして裏を見せるのである。

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一ひとつには紐ひもの汚よごれるのを厭いとうて屹度きつと倒さかさにして裏うらを見みせるのである。

そして、厚いかさぶとんの赤い布が丸く、白いかさの真ん中で黒いひもとつり合いを保つのである。

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さうして厚あつい笠蒲團かさぶとんの赤あかい切きれが丸まるく白しろい笠かさの中央まんなかに黒くろい絎紐くけひもと調和てうわを保たもつのである。

おつぎのかさぶとんは、赤や黄や青の小さな布を集めてぬったのだった。

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おつぎの笠蒲團かさぶとんは赤あかや黄きや青あをの小ちひさな切きれを聚あつめて縫ぬつたのであつた。

しかし、おつぎの帯だけは古かった。

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然しかしおつぎの帶おびだけは古ふるかつた。

よその女の子はたいてい、きれいな赤い帯をしめて、ぐるりとまくり上げた着物のすそは帯の結び目の下へ入れて、ひたすら後ろすがたを気にするのである。

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餘所よその女をんなの子こは大抵たいていは綺麗きれいな赤あかい帶おびを締しめて、ぐるりと褰からげた衣物きものの裾すそは帶おびの結むすび目めの下したへ入いれて只管ひたすらに後姿うしろすがたを氣きにするのである。

いっぱいに青くしげった桑畑などに、白い大きなすげがさと赤い帯の後ろすがたが、ことに空から差す強い日ざしを反しゃして、その赤い帯が燃えるように見えたり、すげがさがさらに大きく白く光ったりするときには、さすがに人の目を引かずにいられない。

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一杯いつぱいに青あをく茂しげつた桑畑くはばたけ抔などに白しろい大おほきな菅笠すげがさと赤あかい帶おびとの後姿うしろすがたが、殊ことには空そらから投なげる強つよい日光につくわうに反映はんえいして其その赤あかい帶おびが燃もえるやうに見みえたり、菅笠すげがさが更さらに大おほきく白しろく光ひかつたりする時ときには有繋さすがに人ひとの目めを惹ひかねばならぬ。

彼女たちのすがたはこうして遠くから見るものだが、しかし近づいたときでも、はね上がったかさの後ろには、両ほおへたれて、そして黒いひもでしめられた手ぬぐいのすきまから少し乱れた髪がのぞいていて、そこにも一種のおもむきが見られる。

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彼等かれらの姿すがたは斯かくして遠とほく隔へだてゝ見みるべきものであるが然しかしながら其その近ちかづいた時ときでも、跳はねあげられた笠かさの後うしろには兩頬りやうほほへ垂たれてさうして其その黒くろい絎紐くけひもで締しめられた手拭てぬぐひの隙間すきまから少すこし亂みだれた髮かみが覗のぞいて居ゐて其處そこにも一種しゆの風情ふぜいが發見はつけんされねばならぬ。

雨をふくんだ雲がときどきさえぎるとはいえ、暑い日ざしの下で黄色く熟した麦が刈られたとき、畑はからりとなって、さかいに植えられている卯木のびっしりついた白い花が、あちらこちらに目立って、急に広々としたのを感じるとともに、さえぎるものがなくなった分だけ、目に入る女のすがたが増えるのである。

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雨あめを含ふくんだ雲くもが時々とき/″\遮さへぎるとはいへ、暑あつい日ひのもとに黄熟くわうじゆくした麥むぎが刈かられた時とき畑はたけはからりと成なつて境木さかひぎに植うゑられてある卯木うつぎのびつしりと附ついた白しろい花はなが其處そこにも此處こゝにも目めに立たつて、俄にはかに濶々ひろ/″\としたことを感かんずると共ともに支さゝへるものが無なくなる丈だけ目めに入いる女をんなの姿すがたが殖ふえるのである。

彼女たちはわずかな休みにも、必ず刈りたおした麦をしりにしいて、その白い卯木の下で少しでも日をよける。

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彼等かれらは少時しばしの休憩きうけいにも必かならず刈かり倒たふした麥むぎを臀しりに敷しいて其その白しろい卯木うつぎの下したに僅わづかでも日ひを避さける。

どう見ても彼女たちの白いすげがさと赤い帯は、広い野をかざる大きな花でなければならない。

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到底たうてい彼等かれらの白しろい菅笠すげがさと赤あかい帶おびとは廣ひろい野のを飾かざる大輪たいりんの花はなでなければならぬ。

その一つが、おつぎには欠けていた。

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其その一ひとつの要件えうけんがおつぎには缺かけて居ゐた。

暑い季節は百姓のみんなを、そのせまい住まいから遠く野へさそって、たがいにその若々しくつやつやしたすがたにあこがれさせるのに、そしてとげの生えた野茨さえ白い花のころもをかざって、気持ちよくぴったりとだき合ってはたがいにうなずきながら、つきない思いをささやいているのに、おつぎは若者とのあいだに一言を交わすことさえ、その権利をおさえられていた。

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暑あつい氣候きこうは百姓ひやくしやうの凡すべてを其その狹苦せまくるしい住居すまゐから遠とほく野のに誘さそうて、相互さうごに其その青春せいしゆんのつやゝかな俤おもかげに憧憬あこがれしめるのに、さうして刺とげの生はえた野茨のばらさへ白しろい衣ころもを飾かざつて快こゝろよいひた/\と抱だき合あふては互たがひに首肯うなづきながら竭つきない思おもひを私語さゝやいて居ゐるのに、おつぎは嘗かつて青年せいねんとの間あひだに一語ごを交まじへることさへ其その權能けんのうを抑おさへられて居ゐた。

どちらにしても、おつぎの心にはさすがにかすかな物足りなさがあったのである。

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孰いづれにしてもおつぎの心こゝろには有繋さすがに微かすかな不足ふそくを感かんずるのであつた。

勘次は洗いざらしのじゅばんをふんどし一つのはだかに引っかけて、船頭がかぶるようないぐさのあみがさに麻のひもをつけている。

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勘次かんじは洗あらひ曝ざらしの襦袢じゆばんを褌ふんどし一つの裸はだかへ引ひつ掛かけて、船頭せんどうが被かぶるやうな藺草ゐぐさの編笠あみがさへ麻あさの紐ひもを附つけて居ゐる。

勘次に教えられて、おつぎは仕事がとても上手になった。

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勘次かんじに導みちびかれておつぎは仕事しごとが著いちじるしく上手じやうずになつた。

おつぎが畑へ行き来するときは、村の女の人たちはよく言った。

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おつぎが畑はたけへ往來わうらいする時ときは村むらの女房等にようばうらは能よくいつた。

「何とまあ、おっかさんに似て来たことかな。歩き方までそっくりだ」

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「何なんちう、おつかさまに似にて來きたこつたかな、歩あるきつきまでそつくりだ」

「そばかすがぽちぽちしてる所までなあ」

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「雀斑そばかすがぽち/\してつ處とこまでなあ」

お品には、目と鼻のあたりにそばかすが少しあったのである。

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お品しなには目めと鼻はなのあたりに雀斑そばかすが少すこしあつたのである。

おつぎにもそれがそのままで、にっこりするときにはそれがかえって、かわいらしさを引き立てた。

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おつぎにも其それがその儘まゝで嫣然にこりとする時ときにはそれが却かへつて科しなをつくらせた。

「勘次さん、あっという間だな。まだこの間だと思ってたのにな。嫁にやってもいいくらいじゃないかい。お品さんもお前、これくらいのときじゃなかったっけかい」

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「勘次かんじさん譯わけのねえもんだな、まあだ此間こねえだだと思おもつてたのにな、嫁よめにやつてもえゝ位くれえぢやねえけえ、お品しなさんもおめえ此この位くれえの時ときぢやなかつたつけかよ」

女の人たちはまた、からかい半分にこういうことも言った。

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女房等にようばうらは又また揶揄半分からかひはんぶんに恁かういふこともいつた。

おつぎは、勘次がそう言われるときにはいつも赤い顔をして、よそを向いてしまうのである。

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おつぎは勘次かんじがさういはれる時とき何時いつも赤あかい顏かほをして餘所よそを向むいて畢しまふのである。

勘次はお品のことを言われるたびに、おつぎの体をそう思ってつくづく見るたびに、お品の思い出が呼び返されて、一種のたえがたい気持ちを感じずにいられない。

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勘次かんじはお品しなのことをいはれる度たびに、おつぎの身體からだをさう思おもつては熟々つく/″\と見みる度たびに、お品しなの記憶きおくが喚返よびかへされて一種しゆの堪たへ難がたい刺戟しげきを感かんぜざるを得えない。

それと同時に、女房がほしいという切ない思いがわくのである。

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それと同時どうじに女房にようばうが欲ほしいといふ切せつない念慮ねんりよを湧わかすのである。

えんりょのない女の人たちにお品の話をされるのは、ただ悲しみをさそうだけなのだが、また一方には話をしてみてほしいような気持ちもしてならないことがあった。

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遠慮ゑんりよの無ない女房等にようばうらにお品しなの噺はなしをされるのは徒いたづらに哀愁あいしうを催もよほすに過すぎないのであるが、又また一方ぼうには噺はなしをして見みて貰もらひたいやうな心持こゝろもちもしてならぬことがあつた。

「勘次さん、どうしたい、いい塩梅のがあるんだが、後ぞえを持ってもよくないかい」

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「勘次かんじさんどうしたい、えゝ鹽梅あんべえのが有あんだが後あと持もつてもよかねえかえ」

と、彼に女房を世話しようという人は、お品が死んでから間もなくいくらもいた。

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と彼かれに女房にようばうを周旋しうせんしようといふ者ものはお品しなが死しんでから間まもなく幾いくらもあつた。

勘次はただお品だけをこいしがっていたのだが、だんだん日がたって不自由を感じるとともに、耳をそばだててそういう話を聞くようになった。

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勘次かんじは只たゞお品しなにのみ焦こがれて居ゐたのであるが、段々だん/\日數ひかずが經たつて不自由ふじいうを感かんずると共ともに耳みゝを聳そばだてゝさういふ噺はなしを聞きくやうに成なつた。

しかし、そんな話をして聞かせる人たちは、勘次のひどい貧しさと、二人の子がいることとで、とても後ぞえは居つけないという見通しが先に立って、心の底から世話をしようというのではない。

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然しかし其麽そんな噺はなしをして聞きかせる人々ひと/″\は勘次かんじの酷ひどい貧乏びんばふなのと、二人ふたりの子こが有あるのとで到底たうてい後妻ごさいは居ゐつかれないといふ見越みこしが先さきに立たつて、心底しんそこから周旋しうせんを仕しようといふのではない。

ただ、ひまをおしがる勘次が、どこへでもくわやかまを捨てて話に乗ってくるので、つい、いたずらにじらしてみるのである。

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唯たゞ暇ひまを惜をしがる勘次かんじが何處どこへでも鍬くはや鎌かまを棄すてゝ釣込つりこまれるので遂つひ惡戯いたづらにじらして見みるのである。

ことに、おつぎが大きくなればなるほど、その働きが目立てば目立つほど、後ぞえには居づらい所だと人は思った。

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殊ことにおつぎが大おほきくなればなる程ほど、其その働はたらきが目めに立たてば立たつ程ほど後妻ごさいには居憎ゐにくい處ところだと人ひとは思おもつた。

貧しい家へ後ぞえにでもなろうという人には、実さいろくな人はいないというのが、みんなの見方だった。

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貧乏世帶びんばふじよたいへ後妻ごさいにでもならうといふものには實際じつさい碌ろくな者ものは無ないといふのが一般ぱんの斷案だんあんであつた。

他人はただ、彼の心をいらだたせた。

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他人ひとは只たゞ彼かれの心こゝろを苛立いらだたせた。

そして彼のふつうでないようすが、かえっていたずら好きの心を刺げきするだけだった。

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さうして彼かれの尋常外なみはずれた態度たいどが、却かへつて惡戯好いたづらずきの心こゝろを挑發てうはつするのみであつた。

「ままよう、ままようでえ、ままあな、ら、ぬう」

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「まゝよう、まゝようでえ、まゝあな、ら、ぬう」

勘次が小声で歌って行くのが、どうかすると人の耳にもひびくようになった。

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勘次かんじは小聲こごゑで唄うたうて行ゆくのがどうかすると人ひとの耳みゝにも響ひゞくやうに成なつた。

そのころは勘次の庭のくりのえだも、そこにわいて残こくに葉を食いあらす栗毛虫のような毒々しい花がやっと白くなって、どこの村でもふさふさとした青葉のえだから、くりの木がわりと多いことを示して、その白い花が目についた。

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其その頃ころは勘次かんじの庭にはの栗くりの梢こずゑも、それへ繁殖はんしよくして残酷ざんこくに葉はを喰くひ荒あらす栗毛蟲くりけむしのやうな毒々どく/\しい花はなが漸やうやく白しろく成なつて、何處どこの村落むらにもふつさりとした青葉あをばの梢こずゑから栗くりの木きが比較的ひかくてきに多おほいことを示しめして其その白しろい花はなが目めについた。

村をうめているえだから、ふわふわとゆげが立ち上るような形に、くりの花はいっぱいである。

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村落むらを埋うづめて居ゐる梢こずゑからふわ/\と蒸氣ゆげが立たち騰あがらうといふ形かたちに栗くりの花はなは一杯ぱいである。

空はふらないながらに低い雲がわだかまって、ときどき、目にあざやかで、しかも黒ずんだ青葉の上に、かっと黄色い明るい光を投げる。

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空そらは降ふらないながらに低ひくい雲くもが蟠わだかまつて、時々とき/″\目めに鮮あざやかで且かつ黒くろずんだ青葉あをばの上うへにかつと黄色きいろな明あかるい光ひかりを投なげる。

どこということなくじめじめして、頭をおさえつけるように重苦しい感じがする。

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何處どことなく濕しめつぽく頭あたまを抑おさへるやうに重苦おもくるしい感かんじがする。

みんなが畑へ出はらった村の中には、まれにそういう青葉のあいだにこいのぼりがばさばさとひるがえってはぐたりとなって、それが朝から長い日を一日、そしてその家族が、日はしずんでもいつになくまだ明るいうちにおふろを浴びて、女までさいた菖蒲を髪に巻いて、いそがしい日と日の合間にそれでも晴れ着すがたになる、端午の日が来るのをだるそうに待っている。

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悉こと/″\く畑はたへ走はしつた村落むらの内うちには稀まれにさういふ青葉あをばの間あひだに鯉幟こひのぼりがばさ/\と飜ひるがへつてはぐたりと成なつて、それが朝あさから永ながい日ひを一日にち、さうして其その家族かぞくが日ひは沒ぼつしたにしても何時いつになくまだ明あかるい内うちに浴ゆあみをして女をんなまでが裂さいた菖蒲しやうぶを髮かみに卷まいて、忙せはしい日ひと日ひの間あひだをそれでも晴衣はれぎの姿すがたになる端午たんごの日ひの來くるのを懶ものうげに待まつて居ゐる。

そういう青葉の村から村へ、女のあめ屋が太鼓をたたいて歩いた。

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さういふ青葉あをばの村落むらから村落むらを女をんなの飴屋あめやが太皷たいこを叩たゝいて歩あるいた。

空き家ばかりの村を、雨がふらなければ女ははしからはしへと歌って歩く。

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明屋あきやばかりの村落むらを雨あめが降ふらねば女をんなは端はしから端はしと唄うたうて歩あるく。

勘次が歌ったのは、その女の歌である。

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勘次かんじが唄うたうたのは其その女をんなの唄うたである。

女は声を高く歌っては、また声を低くしてその文句をくり返す。

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女をんなは聲こゑを高たかく唄うたうては又また聲こゑを低ひくくして其その句くを反覆はんぷくする。

その歌うところは、毎日ただこの一句だけだった。

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其その唄うたふ處ところは毎日まいにち唯たゞ此この一句くに限かぎられて居ゐた。

女は年かさで、一人の子を背負っている。

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女をんなは年増としまで一人ひとりの子こを負おうて居ゐる。

鬼怒川を行き来する高瀬舟の船頭がかぶるあみがさをかぶって、洗いざらしのひとえを、すそは左のはしを取って帯へはさんだだけで、あめは箱に入れて肩からかけてある。

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鬼怒川きぬがはを徃復わうふくする高瀬船たかせぶねの船頭せんどうが被かぶる編笠あみがさを戴いたゞいて、洗あらひ曝ざらしの單衣ひとへを裾すそは左ひだりの小褄こづまをとつて帶おびへ挾はさんだ丈だけで、飴あめは箱はこへ入いれて肩かたから掛かけてある。

暗い日は、かさのあみ目をとおして女の顔に細い強い線をえがく。

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暮あつい日ひは笠かさの編目あみめを透とほして女をんなの顏かほに細ほそい強つよい線せんを描ゑがく。

女の顔はやつれていた。

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女をんなの顏かほは窶やつれて居ゐた。

子はたいていねむっていた。

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子こは概おほむね眠ねむつて居ゐた。

耳元で鳴る太鼓のやかましい音と、お母さんの歌う声とが、いつのまにかねむりにさそったのかもしれない。

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耳みゝもとで鳴なる太皷たいこの喧やかましい音おととお袋ふくろの唄うたふ聲こゑとがいつとはなしに誘さそつたのであつたかも知しれぬ。

首はむしろさかさまにたれて、ひたいがいつも暑い日に照らされて汗ばんでいた。

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首くびは寧むしろ倒さかさまに垂たれて額ひたひがいつでも暑あつい日ひに照てられて汗あせばんで居ゐた。

百姓はみな、このみすぼらしい女を気にとめなかった。

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百姓ひやくしやうは皆みな此この見窄みすぼらしい女をんなを顧かへりみなかつた。

村から村へ野をわたるとき、女のすがたには人目を引くようなところが一つもなかった。

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村落むらから村落むらへ野のを渡わたる時とき女をんなの姿すがたは人目ひとめを惹ひくべき要點えうてんが一つも備そなはつて居ゐなかつた。

しかしいつのまにか、人が遠くから見るようになった。

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然しかしいつの間まにか人ひとが遠とほくより見みるやうに成なつた。

すれちがう女の人たちは、ひたいを照らされてねむっている子を見て、いたわしいと思うのだった。

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行ゆき違ちがふ女房等にようばうらは額ひたひに照てられて眠ねむつて居ゐる子こを見みて痛々敷いた/\しいと思おもふのであつた。

女は歌わなくても太鼓の音が村の子を遠くからさそうのに、気の乗らない歌い方をして、ただその一句をくり返すのである。

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女をんなは唄うたはなくても太皷たいこの音ねが村落むらの子こを遠とほくから誘さそふのに氣きの乘のらぬ唄うたひやうをして只たゞ其その一句くを反覆くりかへすのである。

女は背中の子がねむっているのをよろこんで、その子がどんなかっこうでいるかは気づかない。

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女をんなは背中せなかの子こが眠ねむつて居ゐるのを悦よろこんで其その子こが什麽どんな姿なりであるかは心付こゝろづかない。

ただ小さな銅貨を持って走って来る村の子を待ちながら、さそいながら歩くのである。

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只たゞ小ちひさな銅貨どうくわを持もつて走はしつて來くる村落むらの子こを待まちつゝ誘さそひつゝ歩あるくのである。

女がどこから来てどこへ行くのかということも、いそがしく田畑で働いている百姓のあいだには知られなかった。

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女をんなは何處どこから出でてどう行ゆくといふことも忙せはしく只たゞ田畑たはたに勞働らうどうして居ゐる百姓ひやくしやうの間あひだには知しられなかつた。

毎日そうして歩いていた女が、知りたがり聞きたがる女の人たちのあいだで、それぞれ口うるさくかげのうわさをされてから間もなく、ある日村はずれの青葉の中へ太鼓の音と歌の声とが遠くかすかに消え去ったきり、やがてつゆがひどく、しかも毒々しいそのくりの花がくさるまではとふり出したので、その汚らしくやつれたすがたは二度と見られなかった。

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毎日まいにちさうして歩あるいて居ゐた女をんなが知しりたがり聞ききたがる女房等にようばうらの間あひだに、各自てんでに口喧くちやかましい陰占かげうらなひを逞たくましくされると間まもなく、或ある日ひ村外むらはずれの青葉あをばの中なかへ太皷たいこの音おとと唄うたの聲こゑとが遠とほく微かすかに沒ぼつし去さつた切きり、軈やがて梅雨つゆが夥おびたゞしく且かつ毒々どく/\しい其その栗くりの花はなの腐くさるまではと降ふり出だしたので其その女をんなの穢きたなげな窶やつれた姿すがたは再ふたゝび見みられなかつた。

勘次は耳の底にひびいたその句を、一人で感心したように歌っては行くのである。

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勘次かんじは耳みゝの底そこに響ひゞいた其その句くを獨ひとり感かんに堪たへたやうに唄うたうては行ゆくのである。

彼は自分の声が高いと思ったとき、他人に聞かれるのをはずかしがるように、急にあたりを見ることがあった。

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彼かれは自分じぶんの聲こゑが高たかいと思おもつた時とき他人ひとに聞きかれることを恥はづるやうに突然とつぜんあたりを見みることがあつた。

曲がり角でひょいと会うとき、それが口の軽い女の人であれば、二、三歩行き過ぎてから

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曲まがり角かどでひよつと逢あふ時ときそれが口輕くちがるな女房にようばうであれば二三歩ぽ行やり過すごしては

「どうしたい、勘次さん、あの女にほれたんじゃあるまい。もっとも年ごろはちょうどいいから、連れ子の一人くらいはがまんもできらあな。そんだが、あれっきり来なくなっちまって困ったな」

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「どうしたえ、勘次かんじさん彼女あれげ焦こがれたんぢやあんめえ、尤もつとも年頃としごろは持もつゝけだから連つれつ子この一人ひとり位ぐれえは我慢がまんも出來できらあな、そんだがあれつ切きり來きなくなつちやつて困こまつたな」

とえんりょもなくからかっては、少しはなれるとわざと声を立ててその句を歌ったりする。

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と遠慮ゑんりよもなく揶揄からかうては、少すこし隔へだたると態わざと聲こゑを立たてゝ其その句くを唄うたつたりする。

すると勘次は、家に帰るまで一句も歌わない。

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さうすると勘次かんじは家うちに歸かへるまで一句くも唄うたはない。

しかし彼は、しばらくそれを歌うのをやめなかった。

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然しかし彼かれは暫しばらくそれを唄うたふことを止やめなかつた。

彼はただ、女房がほしいほしいとばかり思った。

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彼かれは只たゞ女房にようばうが欲ほしい/\とのみ思おもつた。

九

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九

勘次はあいかわらず、苦しい暮らしから一歩ものがれることができないでいる。

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勘次かんじは依然いぜんとして苦くるしい生活せいくわつの外そとに一歩ぽも遁のがれ去さることが出來できないで居ゐる。

お品が死んだときに、わけを話して借りた小作米のとどこおりも、まだ一つぶも返していない。

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お品しなが死しんだ時とき理由わけをいうて借かりた小作米こさくまいの滯とゞこほりもまだ一粒つぶも返かへしてない。

暑さのきびしい日が井戸の水まで減らしていりつけるころには、それまでに何度か勘次の穀物のおけは空になるのである。

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大暑たいしよの日ひが井戸ゐどの水みづまで減へらして炒いりつける頃ころはそれまでに幾度いくたびか勘次かんじの穀桶こくをけは空からに成なるのである。

彼はふつうの百姓がすることはしなければならないので、ことにおかずとして必要なので、なすや南瓜やきゅうりや、そういう物も一とおりは作った。

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彼かれは一般ぱんの百姓ひやくしやうがすることは仕しなくては成ならないので、殊ことには副食物ふくしよくぶつとして必要ひつえうなので茄子なすや南瓜たうなすや胡瓜きうりやさういふ物ものも一通ひととほりは作つくつた。

彼は村はずれのくぬぎ林のそばにいたので、自分の家の近くにはそういう物を作る畑が一まいもなかった。

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彼かれは村外むらはづれの櫟林くぬぎばやしの側そばに居ゐたので自分じぶんの家いへの近ちかくにはさういふ物ものを作つくる畑はたけが一枚まいもなかつた。

それでもきゅうりだけはかきねの内側へ一列に植えて、後ろの林にまじった短い竹を切って支柱に立てた。

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それでも胡瓜きうりだけは垣根かきねの内側うちがはへ一列れつに植うゑて後うしろの林はやしに交まじつた短みじかい竹たけを伐きつて手てに立たてた。

竹の立っている林は彼のものではないけれど、彼はこうして必要なたびごとに、あえてかくしもしないぬすみをするのである。

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竹たけの立たつてる林はやしは彼かれの所有しよいうではないけれど、彼かれは恁かうして必要ひつえうの度たび毎ごとに強しひては隱かくさない盜ぬすみを敢あへてするのである。

南瓜も庭のすみへ、粟のからでかこったべんじょのそばへ植えた。

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南瓜たうなすも庭にはの隅すみへ粟幹あはがらで圍かこうた厠かはやの側そばへ植うゑた。

それから庭のくりの木にもからませた。

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それから庭にはの栗くりの木きへも絡からませた。

なすだけは遠い畑の、麦のうねの間へ植えた。

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茄子なすだけは遠とほい畑はたけの麥むぎの畦間うねまへ植うゑた。

彼はさつまいものほかには、とてもそういう苗を自分で育てることができないので、また立派な苗を買いに行くゆとりもないので、ようすから見れば近くの村ではあるが、どことも分からないてんびん商人からそれを買った。

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彼かれは甘藷さつまいもの外ほかには到底たうていさういふ凡すべての苗なへを仕立したてることが出來できないので、又また立派りつぱな苗なへを買かひに行ゆく丈だけの餘裕よゆうもないので、容子ようすから見みれば近村きんそんではあるが何處どことも確乎しかとは知しれない天秤商人てんびんあきうどからそれを求もとめた。

てんびん商人の持って来るのは、たいてい売れ残りばかりである。

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天秤商人てんびんあきうどの持もつて來くるのは大抵たいてい屑くづばかりである。

それでも勘次は安いのをよろこんだ。

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それでも勘次かんじは廉やすいのを悦よろこんだ。

彼はそのわずかなお金を何度もかぞえてわたした。

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彼かれは其その僅わづかな錢ぜにを幾度いくたびか勘定かんぢやうして渡わたした。

麦が刈られて、そのたばが両はしを切りそいだ竹の棒に通されて畑の外へかつぎ出されたとき、あとには陸稲や大豆がひょろひょろと青ばんだ畑に、勘次のなすは短いうねが五うねばかりになって立っていた。

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麥むぎが刈かられて其その束たばが兩端りやうはしを切きつ殺そいだ竹たけの棒ぼうへ透とほして畑はたけの外そとへ擔かつぎ出だされた時とき、趾あとには陸稻をかぼや大豆だいづがひよろ/\と青あをばんだ畑はたけに勘次かんじの茄子なすは短みじかい畝うねが五畝うねばかりになつて立たつて居ゐた。

下の葉は黄色くなっていたが、それでも麦がしばらく日をおおったので、みな根づいて育ちかけていた。

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下葉したはは黄色きいろくなつて居ゐたがそれでも麥むぎが暫しばらく日ひを掩おほうたので皆みな根ねづいて生長せいちやうしかけて居ゐた。

やせさせないまでも、肥やして行くことをしない畑の土に、なすはしなびて、ところどころに一つずつ花をつけていた。

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假令たとひ痩やせさせないまでも肥こやして行ゆくことをしない畑はたけの土つちに茄子なすは干稻ひねびてそれで處々ところ/″\に一ひとつ宛づゝ花はなを持もつて居ゐた。

勘次は朝のまだすずしい、葉にしめり気のあるあいだに、かまどの灰を持って行ってその葉にかけてやるだけの手間はかけたのである。

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勘次かんじは朝あさのまだ凉すゞしい、葉はに濕しめりのある間あひだに竈かまどの灰はひを持もつて行いつて其その葉はに掛かけて遣やる丈だけの手數てすうは竭つくしたのである。

それで、いくらでも元気に動き回るうりはむしはふせげた。

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それで幾いくらでも活溌くわつぱつに運動うんどうする瓜葉蟲うりはむしは防ふせがれた。

それは羽が赤いので、この土地では「赤ばえ」と言っている。

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それは羽はねが赤あかいので赤蠅あかばへと土地とちではいつて居ゐる。

木の灰では、あぶらむしがわくのはどうにもならなかった。

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木きの灰はひでは油蟲あぶらむしの湧わくのはどうも出來できなかつた。

それからまた、ねきり虫がむごく、かたいくきを根元からぷつりとかみたおして、植えた数がへっているのに、彼は遠い畑へ出て、土にかくれているそのにくらしい害虫をさがし出して、その丈夫な体をひしゃげさせてやるだけのゆとりを、体にも心にも持っていない。

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それから又また根切蟲ねきりむしが残酷ざんこくに堅かたい莖くきを根ねもとからぷきりと噛かみ倒たふして植うゑた數かずの減へるにも拘かゝはらず、彼かれは遠とほく畑はたけに出でて土つちに潜伏せんぷくして居ゐる其その憎にくむべき害蟲がいちうを探さがし出だして其その丈夫ぢやうぶな體からだをひしぎ潰つぶして遣やる丈だけの餘裕よゆうを身體からだにも心こゝろにも持もつて居ゐない。

かきねのきゅうりは、季節の南風がふいて、朝のもやがしっとりとかわいた庭の土をしめらせて下りると、何をひがんでか葉のかげに下がる実が、しぼんだ花の取れないうちにしりが曲がって、たちまち蔓も葉もがらがらにかれてしまったのだった。

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垣根かきねの胡瓜きうりは季節きせつの南みなみが吹ふいて、朝あさの靄もやがしつとりと乾かわいた庭にはの土つちを濕しめしておりると何なにを僻ひがんでか葉はの陰かげに下さがる瓜うりが、萎しぼんだ花はなのとれぬうちに尻しりが曲まがつて忽たちまちに蔓つるも葉はもがら/\に枯かれて畢しまつたのであつた。

ただ南瓜だけは、その特ちょうである大きな葉をずんずんと広げて、蔓の先がたちまちべんじょの低いのきからたれた。

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只たゞ南瓜たうなすだけは其その特有もちまへの大おほきな葉はをずん/\と擴ひろげて蔓つるの先さきが忽たちまちに厠かはやの低ひくい廂ひさしから垂たれた。

ことにくりの木にからんだのは、真昼の、忘れるほど長いあいだ、雨戸は閉じたままで、たとえあぶらぜみがいりつけるようにそこらの木ごとにしがみついて声のかぎり鳴いたとしても、すべてが暑さにつかれたようで、むしろとても静かな庭をのぞきながら、葉のかげで、だんだんに日に焼けながら太りながら、しりのへそをむき出してどっしりとえだからたれ下がった。

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殊ことに栗くりの木きに絡からんだのは白晝ひるまの忘わすれる程ほど長ながい間あひだ雨戸あまどは閉とぢた儘まゝで、假令たとひ油蝉あぶらぜみが炒いりつけるやうに其處そこらの木き毎ごとにしがみ附ついて聲こゑを限かぎりに鳴ないたにした處ところで、凡すべてが暑あつさに疲つかれたやうで寧むしろ極きはめて閑寂かんじやくな庭にはを覗のぞいては、葉はの陰かげながら段々だん/\に日にに燒やけつゝ太ふとりつゝ臀しりの臍へそを剥むき出だしてどつしりと枝えだから垂たれ下さがつた。

それがわずかに庭に元気をつけている。

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それが僅わづかに庭にはに威勢ゐせいをつけて居ゐる。

どこもそうではあるが、ことに勘次の手で作られた野菜は、みなその実りがおくれた。

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一般ぱんにさうではあるが殊ことに勘次かんじの手てに作つくられた蔬菜そさいは凡すべて其その成熟せいじゆくが後おくれた。

それで、その野菜がほうちょうにかかるまでは、口にざらつくほし菜や切り干しや、それも足りなくなれば、これでも彼らのはかないたくわえの心をいちばんよく表した菜や大根の塩からいつけ物のおけにだけ、おかずを求めるのである。

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それで其その蔬菜そさいが庖丁はうちやうにかゝる間あひだは口くちにこそつぱい干菜ほしなや切干きりぼしやそれも缺乏けつばうを告つげれば、此これでも彼等かれらの果敢はかない貯蓄心ちよちくしんを最もつとも發揮はつきした菜なや大根だいこんの鹽辛しほからい漬物つけものの桶をけにのみ其その副食物ふくしよくぶつを求もとめるのである。

彼らは働いてはらがへったと感じるときには、ちっとも動けないほど、急につかれを感じることさえある。

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彼等かれらは勞働らうどうから來くる空腹くうふくを意識いしきする時ときは一寸いつすんも動うごくことの出來できない程ほど俄にはかに疲勞ひらうを感かんずることさへある。

どんなそまつな物でも、彼らの口には問題ではない。

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什麽どんな麁末そまつな物ものでも彼等かれらの口くちには問題もんだいではない。

彼らは味わうのではなくて、つまりのどのあなをうめるのである。

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彼等かれらは味あじはふのではなくて要えうするに咽喉のどの孔あなを埋うづめるのである。

冷たい水を注いで、そのぽろぽろな麦ごはんをかき込むとき、彼らの一人もかみしめる者はない。

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冷水れいすゐを注そゝいで其そのぼろ/\な麥飯むぎめしを掻かき込こむ時とき彼等かれらの一人ひとりでも咀嚼そしやくするものはない。

彼らはただ、たくさん飲み下すことで力を取りもどし、満足するのである。

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彼等かれらは只たゞ多量たりやうに嚥下えんげすることによつて其その精力せいりよくを恢復くわいふくし滿足まんぞくするのである。

牛や馬でも、地上にやわらかな草がしげる季節が来れば、自然にほし草や藁をきらうようになる。

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牛うしや馬うまでも地上ちじやうに軟やはらかな草くさの繁茂はんもする季節きせつが來くれば自然しぜんに乾草ほしぐさや藁わらを厭いとふやうになる。

それが、貧しい暮らしの人々だけは、こうしてがまんすることをよぎなくされているのである。

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それが貧まづしい生活せいくわつの人人ひと/″\のみは恁かうして甘あまんじて居ゐることを餘儀よぎなくされつゝあるのである。

しかし、みな汗をかくとともにかわいた口に、さわやかな野菜の味をほしがらない者はない。

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然しかし孰いづれも發汗はつかんに伴ともなうて渇かつした口くちに爽さわやかな蔬菜そさいの味あぢを欲ほつしないものはない。

貧しさになやんで、そして野菜の足りないのを感じている者は、勘次だけではない。

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貧苦ひんくに惱なやんでさうして其その蔬菜そさいの缺乏けつばふを感かんじて居ゐるものは勘次かんじのみではない。

そういう仲間の、ことに女は、人目の少ない夕暮れの細い道でつやつやした青物を見ると、つい、ちょっとした出来心からそれをちぎって前かけにかくして来ることがある。

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さういふ伴侶なかまの殊ことに女をんなは人目ひとめの少すくない黄昏たそがれの小徑こみちにつやゝかな青物あをものを見みると遂つひした料簡れうけんからそれを拗切ちぎつて前垂まへだれに隱かくして來くることがある。

畑の作り主が、その損だけでなくおしむ心からかげで激しく怒ろうとも、それを考えるひまはない。

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畑はたけの作主さくぬしが其その損失そんしつ以外いぐわいにそれを惜をしむ心こゝろから蔭かげで勢いきほひ激はげしく怒おこらうともそれは顧かへりみる暇いとまを有もたない。

勘次のやせたなす畑も、そうしておそわれた。

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勘次かんじの痩やせた茄子畑なすばたけもさうして襲おそはれた。

そのくきをいためても平気なちぎり方を見て、失望と怒りとを自然に感じずにはいられなかった。

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其その莖くきを痛いためても構かまはぬ拗切ちぎりやうを見みて失望しつばうと憤懣ふんまんの情じやうとを自然しぜんに經驗けいけんせざるを得えなかつた。

しかしながら彼は、つくづくいまいましいその気持ちを知りつくしていながら、自分もまた他人のすきをつくことをあえてするのだった。

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然しかしながら彼かれはつく/″\と忌々敷いま/\しい其その心持こゝろもちに熟じゆくして居ゐながら自分じぶんも亦また他たの虚きよに乘じようずることを敢あへてするのであつた。

一つには、どうせ他人にもぬすられるのだからという投げやりな理くつが、心の中にできあがるのである。

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一ひとつにはどうで他人ひとにも盜とられるのだからといふ自暴自棄やけの理窟りくつが心こゝろのうちに捏造ねつざうされるのである。

一つには、心のとがめをよそにして、そしてまたそれがどこまでも見つからないものであるならば、他人の物をぬすむことは、食べたい気持ちを満たすにはかんたんで、しかも手軽な方法でなければならないはずである。

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一ひとつには良心りやうしんの苛責かしやくを餘所よそにしてさうして又またそれが何處どこまでも發見はつけんせられないものであるならば他人ひとの物ものを盜とることは口腹こうふくの慾よくを滿足まんぞくせしむるには容易よういで且かつ輕便けいべんな手段しゆだんでなければならぬ筈はずである。

こういうわけで、わりとゆとりのある百姓よりも貧しい百姓のほうが、十分早く、しかも何度も、その新せんな野菜を味わうのである。

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恁かういふ理由わけで比較的ひかくてき餘裕よゆうのある百姓ひやくしやうよりも貧乏びんばふな百姓ひやくしやうは十分ぶん早はやく然しかも數次しば/″\其その新鮮しんせんな蔬菜そさいを味あぢあふのである。

たまたま市場から遠くて、馬の背で運ぶ者は、その実りを早めたつやつやした物がいくらあっても、自分の口には入れない。

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偶たま/\市場しぢやうに遠とほく馬うまの脊せで運はこぶ者ものは其その成熟せいじゆくの期きを早はやめたつやゝかな數かずが幾いくら有あつても自分じぶんの口くちには入いれない。

少しずつでも、ほかの必要な物を買うためにお金にかえようとするのである。

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少すこしづゝでも他ほかの必要品ひつえうひんを求もとめる爲ために錢ぜにに換かへようとするのである。

季節が来なければたくさんの収穫は望めないので、彼らが食べ物として畑に手をつけるのは、すべてが十分に育った後でなければならない。

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季節きせつが熟じゆくさねば收穫しうくわくの多量たりやうを望のぞむことが出來できないので、彼等かれらが食料しよくれうとして畑はたけへ手てをつけるのは凡すべてが存分ぞんぶんの生育せいいくを遂とげた後あとでなければならぬ。

そこが、たがいにぬすむ者につけこまれる機会である。

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其處そこが相互さうごに盜ぬすむものをして乘じようぜしめる機會きくわいである。

与吉は、よく貧しい仲間の子がうまそうに青物をかじっているのを見て、おつぎにねだることがあった。

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與吉よきちは能よく貧乏びんばふな伴侶なかまの子こが佳味相うまさうに青物あをものを噛かじつて居ゐるのを見みておつぎに強請せがむことがあつた。

勘次の家では、どうかすると朝になって大きな南瓜が土間にころがっていることがある。

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勘次かんじの家うちではどうかすると朝あさに成なつて大おほきな南瓜たうなすが土間どまに轉ころがつて居ゐることがある。

それでいて庭の南瓜は一つもへっていない。

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それで庭にはの南瓜たうなすは一ひとつも減へつて居ゐない。

「これはどうしたんだい、おとっつあん」

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「こらどうしたんでえおとつゝあ」

与吉はよろこんで、あぶなっかしくだいては聞く。

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與吉よきちは悦よろこんで危あぶな相さうに抱だいては聞きく。

「いじるんじゃない」

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「弄いぢんぢやねえ」

勘次はただおそろしい目をして、しかるようにおさえる。

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勘次かんじは只たゞ恐おそろしい目めをして叱しかるやうに抑おさへる。

勘次は、まだはだが白く、うすく赤みをおびた人形の手足のようなさつまいもをごはんにたきこむことがあった。

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勘次かんじはまだ肌はだの白しろく且かつ薄赤味うすあかみを帶おびた人形にんぎやうの手足てあしのやうな甘藷さつまいもを飯めしへ炊たき込こむことがあつた。

「うまいな」

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「佳味うめえな」

とおつぎが言ったとき

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とおつぎがいつた時とき

「〆粕で作るからよ」

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「〆粕しめかすで作つくつからよ」

勘次は言った。

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勘次かんじはいつた。

「旦那の所じゃ、〆粕ばかり使うんだろうか」

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「旦那だんなぢや、〆粕しめかす許ばかり使つかあんだつぺか」

おつぎは自分の知らない高い肥料のことについて聞いた。

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おつぎは自分じぶんの知しらぬ不廉ふれんな肥料ひれうのことに就ついて聞きいた。

勘次は気がついて

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勘次かんじは氣きがついて

「さつまいもを食ったなんて言うんじゃないぞ」

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「甘藷さつま喰くつたなんていふんぢやねえぞ」

と与吉に言い聞かせた。

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與吉よきちを警いましめた。

勘次は、彼の大豆畑の近くにとなりの主人のさつまいも畑と、それからそのとちゅうに南瓜畑があったので、ほかの畑の物よりも自然にそれをぬすんだ。

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勘次かんじは彼かれの大豆畑だいづばたけの近ちかくに隣となりの主人しゆじんの甘藷畑さつまばたけとそれから其その途中とちうに南瓜畑たうなすばたけがあつたので、他たの畑はたけのものよりも自然しぜんにそれを盜とつた。

少しずつぬすんだ。

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少すこしづつ盜とつた。

南瓜は昼のうちに見ておいて、夜になるとそっと蔓を引いてありかをさがすのである。

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南瓜たうなすは晝間ひるま見みて置おいて夜よるになるとそつと蔓つるを曳ひいて所在ありかを探さがすのである。

さつまいもは、土をかき払ってさがしほりするのは気が急きすぎるので、ぐっと引き抜く。

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甘藷さつまいもは土つちを掻かつ掃ぱいて探さがし掘ぼりにするのは心こゝろが忙せはし過すぎるのでぐつと引ひき拔ぬく。

彼は昼間さつまいも畑のそばを通っては、自分のあらしたあとを見て心の中でひどいとは思うのだが、それをうめておくには気がとがめた。

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彼かれは日中につちう甘藷畑さつまいもばたけの側そばを過すぎては自分じぶんの荒あらした趾あとを見みて心こゝろに酷ひどいとは思おもふのであるがそれを埋うめて置おくには心こゝろが咎とがめた。

こういう仲間は、「千菜あらし」という名で呼ばれた。

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恁かういふ伴侶なかまは千菜荒せんざいあらしといふ名稱めいしようの下もとに喚よばれた。

与吉は一人で村を遊んで歩いた。

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與吉よきちは獨ひとりで村むらを遊あそんで歩あるいた。

秋がふけて、さつまいもが蒸されるようになった。

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秋あきが深ふけて甘藷さつまいもが蒸むされるやうに成なつた。

与吉はよくそういう所へ行っては、ほしそうな顔をして黙って見ているので、どこでも熱いさつまいもをもらえるのだった。

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與吉よきちは能よくさういふ處ところへ行いつては欲ほし相さうな顏かほをして默だまつて見みて居ゐるので何處どこでも熱あつい甘藷さつまいもが與あたへられるのであつた。

あるとき、彼は

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或ある時とき彼かれは

「おれは家でさつまいもを食ったなんて言わないんだ」

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「俺おらあ家うちで甘藷さつまくつたなんてゆはねえんだ」

と、さつまいもを手に持っておずおずと言った。

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甘藷さつまいもを手てに持もつて怖おづ/\いつた。

彼はただ、うれしかったのである。

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彼かれは只たゞ嬉うれしかつたのである。

「なぜ言わないんだ」

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「何故なぜゆはねえんだ」

くれた人は聞いた。

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與あたへた人ひとは聞きいた。

「なぜでもだ」

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「何故なぜでもだ」

「そんじゃいい、そのさつまいもは取り返しちまうから」

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「そんぢやえゝ、其その甘藷さつま取とつ返けえしつちまあから」

とおどかされて

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と驚おどろかされて

「そんでも、おれの家のおとっつあんが、さつまいもを食ったなんて言うんじゃないぞって言ったんだ」

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「そんでも俺家おらぢのおとつゝあ甘藷さつま喰くつたなんてゆふんぢやねえぞつて云ゆつたんだ」

与吉はこびるようなようすで言った。

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與吉よきちは媚こびるやうな容子ようすでいつた。

「よきらの家のさつまいもはうまいか」

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「よきら家への甘藷さつまうめえか」

「旦那のはうまいって言ったんだ」

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「旦那だんなのがはうめえつて云ゆつたんだ」

「おとっつあんが言ったのか、姉ちゃんが言ったのか」

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「おとつゝあ云ゆつたのか姊ねえ云ゆつたのか」

「姉ちゃんじゃない、おとっつあんだ」

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「姊ねえぢやねえ、おとつゝあだ」

「おとっつあんは家でさつまいもを食って、旦那のはうまいって言ったのか」

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「おとつゝあは家うちで甘藷さつまくつて旦那だんなのがうめえつちつたのか」

「そうなんだわ」

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「さうなんだわ」

何も知らない与吉は、さそい出されるままに言ってしまった。

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無心むしんな與吉よきちは誘さそひ出だされるまゝにいつて畢しまつた。

しかし、たがいに畑をあらしては、やせた骨身をかじり合っているような彼らのあいだに、こんなことがなければ、わざわざ勘次ばかりが目をつけられることはなかったのである。

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然しかし相互さうごに畑はたけを荒あらしては、痩やせた骨身ほねみを噛かじり合あうて居ゐるやうな彼等かれらの間あひだにこんなことが無なければ殊更ことさらに勘次かんじばかりが注目ちうもくされるのではなかつたのである。

一〇

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一〇

秋も、朝は冷たくなった。

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秋あきも朝あさは冷ひやゝかに成なつた。

稲のほは、北風がふけば南へ向いたり、南風がふけば北へ向いたりして、その重たそうな首を止まず動かしては、さらさらとさびしく笑いはじめた。

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稻いねの穗ほは北きたが吹ふけば南みなみへ向むいたり、南みなみが吹ふけば北きたへ向むいたりして其その重相おもさうな首くびを止やまず動うごかしてはさら/\と寂さびしく笑わらひはじめた。

強い秋の雨が、一晩ざあざあとふった。

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強つよい秋あきの雨あめが一夜やざあ/\と降ふつた。

次の日には、空は少しのちりも残さないというようにすごいほど晴れて、山もめっきり近くなっていた。

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次つぎの日ひには空そらは些いさゝかの微粒物びりふぶつも止とゞめないといつたやうに凄すごい程ほど晴はれて、山やまも滅切めつきり近ちかく成なつて居ゐた。

しっとりと落ち着いた空気をとおして、日ざしが妙にはだにもみこむように暖かで、しかも暑かった。

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しつとりと落付おちついた空氣くうきを透とほして、日光につくわうが妙めうに肌膚はだへ揉もみ込こむやうに暖あたゝかで且かつ暑あつかつた。

春のような日にだまされて、ひばりは、そっけない三角形の種がふくらみながら、まだいっぱいに白いそば畑や、それから陸稲の畑の上でさえずった。

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春はるのやうな日ひに騙だまされて雲雀ひばりは、そつけない三稜形りようけいの種たねが膨ふくれつゝまだ一杯ぱいに白しろい蕎麥畑そばばたけやそれから陸稻畑をかぼばたけの上うへに囀さへづつた。

それでも、いくらか羽の動きがにぶくなっているのか、春のようではなく低くさまよって、しわがれたのどを鳴らしている。

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それでも幾いくらか羽はねの運動うんどうが鈍にぶく成なつて居ゐるのか春はるのやうではなく低ひくく徘徊さまようて皺嗄しやがれた喉のどを鳴ならして居ゐる。

まわりの高台からは、土びんのふたを取ってつるべをごっとかたむけたように、雨水がいっぱいに田に集まって、稲のほ先が少しつかった。

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周圍しうゐの臺地だいちからは土瓶どびんの蓋ふたをとつて釣瓶つるべをごつと傾かたむけたやうに雨水あまみづが一杯ぱいに田たに聚あつまつて稻いねの穗首ほくびが少すこし浸ひたつた。

田んぼもほりも一つになった水は、土びんの口からはき出すように、少しずつ低い田へと落ちる。

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田圃たんぼも堀ほりも一ひとつに成なつた水みづは土瓶どびんの口くちから吐はき出だすやうに徐おもむろに低ひくい田たへと落おちる。

村の子どもたちは「三平ぴいつくぴいつく」

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村落むらの子供等こどもらは「三平ぺいぴいつく/\」

とひばりの鳴き声をまねしながら、小さなざるを持ったり、たも網を持ったりして、じゃぶじゃぶと気持ちのいい田んぼの水をわたって歩いた。

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と雲雀ひばりの鳴聲なきごゑを眞似まねしながら、小笊こざるを持もつたり叉手さでを持もつたりしてぢやぶ/\と快こゝろよい田圃たんぼの水みづを渉わたつて歩あるいた。

そこにはまた、これも春のような日にだまされて、とっくに鳴かなくなっていたかえるがふわりとうかんでは、こそばゆい稲のほにつかまりながら、げらげらと鳴いた。

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其處そこには又また此これも春はるのやうな日ひに騙だまされて、疾とうから鳴なかなく成なつて居ゐた蛙かへるがふわりと浮ういてはこそつぱい稻いねの穗ほに捉つかまりながらげら/\と鳴ないた。

いっぱいにふさがっている稲のほの下を、そろそろとはいながら水が低くなったとき、秋の日は落ちかけた。

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一杯ぱいに塞ふさがつて居ゐる稻いねの穗ほの下したをそろ/\と偃はひながら水みづが低ひくく成なつた時とき秋あきの日ひは落おち掛かけた。

そして、いつでも鳴きたくなる機会があれば鳴くのだと言って待っているそのかえるも、しんとした。

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さうして什麽どんな時ときでも其その本能ほんのうを衝動そゝる機會きくわいがあれば鳴なくのだといつて待まつて居ゐる其その蛙かへるもひつそりとした。

大雨の後の畑へは、百姓はたいてい遠りょして出なかった。

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大雨おほあめの後あとの畑はたけへは百姓ひやくしやうは大抵たいてい控ひかへ目めにして出でなかつた。

勘次は夕暮れ近くなってから、一人で草かりかごを背負って出た。

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勘次かんじは黄昏たそがれ近ちかくなつてから獨ひとりで草刈籠くさかりかごを背負せおつて出でた。

彼はいつもの道へは出ないで、後ろの田んぼから林へ、それから遠回りして畑へ出た。

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彼かれは何時いつもの道みちへは出でないで後うしろの田圃たんぼから林はやしへ、それから遠とほく迂廻うくわいして畑地はたちへ出でた。

日はまだほんのり明るかったので、勘次はあっちこっちと空の草かりかごを背負ったまま歩いた。

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日ひはまだほんのりと明あかるかつたので勘次かんじはそつちこつちと空からな草刈籠くさかりかごを背負せおつた儘まゝ歩あるいた。

彼はそれでも心のとがめから、あみがさでその顔をかくした。

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彼かれは其それでも良心りやうしんの苛責かしやくに對たいして編笠あみがさで其その顏かほを隔へだてた。

日がすっかりくれたとき、彼は道ばたへ草かりかごを下ろした。

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日ひがとつぷりと暮くれた時とき彼かれは道端みちばたへ草刈籠くさかりかごを卸おろした。

そこには、畑のまわりに一うねずつ作ったとうもろこしが丈高くつっ立っている。

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其處そこには畑はたけの周圍まはりに一畝ひとうねづつに作つくつた蜀黍もろこしが丈たけ高たかく突つつ立たつて居ゐる。

草かりかごがすっと地面にころがるとき、とうもろこしの大きな葉にふれてがさりと鳴った。

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草刈籠くさかりかごがすつと地上ちじやうにこける時とき蜀黍もろこしの大おほきな葉はへ觸ふれてがさりと鳴なつた。

さらにその葉は、どこにも感じない小さな風にゆれて、自分だけがこわがったようにさわいでいる。

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更さらに其その葉はは何處どこにも感かんじない微風びふうに動搖どうえうして自分じぶんのみが怖おぢたやうに騷さわいで居ゐる。

ほは、何をさわぐのかとふしぎがるように、少し伏し目に見下ろしている。

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穗ほは何なにを騷さわぐのかと訝いぶかるやうに少すこし俯目ふしめに見みおろして居ゐる。

勘次は菜切りぼうちょうを取り出して、その高いとうもろこしのくきをぐっと曲げては、ほの首に近い所をななめに切った。

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勘次かんじは菜切庖丁なきりばうちやうを取出とりだして、其その高たかい蜀黍もろこしの幹みきをぐつと曲まげては穗首ほくびに近ちかく斜なゝめに伐きつた。

ほは勘次の手に残って、くきは急にはね返った。

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穗ほは勘次かんじの手てに止とまつて幹みきは急きふに跳はね返かへつた。

そしてふるえた。

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さうして戰慄せんりつした。

勘次は重くなった草かりかごを背負って、今度は野の道を一気に自分の家へ帰った。

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勘次かんじは重おもく成なつた草刈籠くさかりかごを背負せおつて今度こんどは野のらの道みちを一散いつさんに自分じぶんの家うちへ歸かへつた。

次の朝、勘次はのき先に横に竹をわたして、ゆっさりとするそのほをしばって、たがいちがいにかけた。

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次つぎの朝あさ勘次かんじは軒端のきばたへ横よこに竹たけを渡わたして、ゆつさりとする其その穗ほを縛しばつて打ぶつ違ちがひに掛かけた。

南へ低くなった日が、それをのぞくようにさしかけた。

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南みなみへ低ひくくなつた日ひが其それを覗のぞくやうに射さし掛かけた。

その日は、みな申し合わせたように畑へ出た。

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其その日ひは孰いづれもいひ合あはせたやうに畑はたけへ出でた。

一日照ったので、畑はたいていぱさぱさにかわいている。

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一日にち照てつたので畑はたけは大抵たいていぱさ/\に乾かわいて居ゐる。

とうもろこしのほを切りに出た村の一人は、自分の畑がざっくりとあらされているのを見つけておどろいた。

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蜀黍もろこしの穗ほを伐きりに出でた村むらの一人ひとりは自分じぶんの畑はたけがぞつくりと荒あらされて居ゐるのを發見はつけんして驚おどろいた。

彼は畑へ来たなり、ほは一本も切らないでそのまま駐在所へかけつけた。

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彼かれは畑はたけへ來きたなり穗ほは一本ぽんも伐きらないで其その儘まゝ駐在所ちうざいしよへ驅かけつけた。

巡査はそれでも、すぐに制服を着て被害者といっしょに現場へ来て見て、切られたほの数をあらためて手帳に書き止めた。

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巡査じゆんさはそれでも直すぐに官服くわんぷくを着きて被害者ひがいしやと一緒しよに現場げんぢやうへ來きて見みて伐きられた穗ほの數かずを改あらためて手帖ててふへ止とめた。

被害者が駐在所へかけつけるあいだに、畑の遠くにばらばらに散らばっている百姓たちは、みなそれを知った。

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被害者ひがいしやが駐在所ちうざいしよへ驅かけつける間まに、畑はたけの遠とほくに離はなれ/″\に散ちらばつて居ゐる百姓等ひやくしやうらは悉ことごとく其それを知しつた。

被害者が道々大声を出してどなって行ったからである。

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被害者ひがいしやは途次みちみち大聲おほごゑを出だして呶鳴どなつて行いつたからである。

何でも昨夜おそく野から帰る者があったというが、それではそれにちがいないだろうということが伝えられた。

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なんでも昨夜さくや遲おそく野のらから歸かへるものが有あつたといふがそれぢや其それに相違さうゐないだらうといふことが傳つたへられた。

勘次も畑へ出ていて、さわぎになりはじめたのを知った。

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勘次かんじも畑はたけへ出でて居ゐて騷さわぎに成なりはじめたのを知しつた。

彼はすぐに飛んで帰って、とうもろこしのほをすっかり外して、そっと近くの林へかくして、むしろを二まいばかりかぶせた。

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彼かれは直すぐに飛とんで歸かへつて悉ことごとく蜀黍もろこしの穗ほを外はづして、そつと近ちかくの林はやしへ隱かくして筵むしろを二枚まいばかり掩おほうた。

「くせになるから、みっしりこりさせたほうがいい。おれのほうは畑がうるさくて本当に仕方がない」

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「癖くせになつから、みつしら懲こりらかした方はうがえゝ、俺方おらはうは畑はたけが五月蠅うるさくつて本當ほんたうに仕しやうねえ」

「見せしめに行くときには、こっぴどくやらなくちゃいけないよ」

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「見みせしめに行やつ時ときにや、こつぴどく行やんなくつちやえかねえよ」

「村の中をよく見さえすりゃすぐに分かるさ。とうもろこしなんぞ、どこへかくせるもんじゃない」

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「村落むらの内うちようく見みせえすりや直すぐに分わからな、蜀黍もろこしなんぞ何處どこへ隱かくせるもんぢやねえ」

などと、近い畑の者同士はどなり合った。

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抔などと近ちかい畑同士はたけどうしは呶鳴どなり合あつた。

その声は被害者の耳にも入って、むかむかと怒ったその心に勢いをつけた。

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其その聲こゑは被害者ひがいしやの耳みゝにも這入はひつてむか/\と激げきした其その心こゝろに勢いきほひを附つけた。

「数が分かったら、もう後へ手をつけてもいい」

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「數かずが分わかつたらもう後あとへ手てを附つけてもえゝ」

巡査は畑を去った。

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巡査じゆんさは畑はたけを去さつた。

「わしも行ってみましょう。自分の畑のは一目見りゃ分かりますから」

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「わしも行いつて見みあんせう、自分じぶんの畑はたけのがは一目ひとめ見みりや分わかりあんすから」

こう言って、被害者はとうもろこしのほを二、三本持って村へもどった。

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恁かういつて被害者ひがいしやは蜀黍もろこしの穗ほを二三本ぼん持もつて村落むらへ戻もどつた。

巡査はあちこち二、三けん見て歩いて、勘次の庭に立った。

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巡査じゆんさは其處そこら此處ここらと二三軒げん見みて歩あるいて勘次かんじの庭にはへ立たつた。

それは、勘次は二、三人の者とともに巡査が目をつけている人物だったからである。

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それは勘次かんじは二三の者ものと共ともに巡査じゆんさの注意人物ちういじんぶつであつたからである。

しかし彼の貧しい家のどこにも、かくせるすきまは見つからなかった。

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然しかし彼かれの貧まづしい建物たてものの何處どこにも隱匿いんとくされる餘地よちを發見はつけんすることが出來できなかつた。

そのときには、勘次がよそへ運んだ後なのである。

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其その時ときは勘次かんじが餘所よそへ運はこんだ後あとなのである。

巡査はのきにわたした竹の棒を見て

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巡査じゆんさは檐のきに渡わたした竹たけの棒ぼうを見みて

「これはどうするんだい」

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「此こりやどうするんだい」

と聞いた。

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と聞きいた。

被害者はさっきから雨だれの水で土のくぼんだあたりを見ていたが

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被害者ひがいしやは先刻さつきから雨垂あまだれの水みづで土つちの窪くぼんだあたりを見みて居ゐたが

「はてな」

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「はてな」

と首をかしげて

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と首くびを傾かたぶけて

「とうもろこしのつぶが落ちてありますぞ。そうするとここへかけたのを、またどこかへ持って行っちまったな」

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「蜀黍粒もろこしつぶ落おつこつてあんすぞ、さうすつと此處ここへ引ひつ懸かけたの又また何處どこへか持もつてつちやつたな」

被害者は言った。

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被害者ひがいしやはいつた。

巡査はうなずいた。

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巡査じゆんさは首肯うなづいた。

「このつぶでがすから、わしのにちがいありません。あいつらのは、こんなにできっこないんですから。それ、証こには、きっと自分の畑のは一つのほも切っちゃないから見なさい。わしのはこれでも〆粕を入れて作ったんでがすから」

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「此この粒つぶでがすから、わしがに相違さうゐありあんせん、彼等あつらがな此こんなに出來できつこねえんですから、それ證據しようこにや屹度きつと自分じぶんの畑はたけのがな一ひとつ穗ぽでも伐とつちやねえから見みさつせ、わしが此こんでも〆粕しめかす入せえて作つくつたんでがすから」

被害者はいっしんに言った。

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被害者ひがいしやは熱心ねつしんにいつた。

勘次はそのとき、不安なようすでぽつんと自分の庭に立った。

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勘次かんじは其その時とき不安ふあんな態度たいどでぽつさりと自分じぶんの庭にはに立たつた。

彼はすでに、巡査がのき下に立っているのを見てぞっとした。

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彼かれは既すでに巡査じゆんさの檐下のきしたに立たつてるのを見みて悚然ぞつとした。

「勘次、この竹はどうしたんだな」

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「勘次かんじ、此この竹たけはどうしたんだな」

巡査は横目に勘次を見て言った。

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巡査じゆんさは横目よこめに勘次かんじを見みていつた。

「わし、これは、とうもろこしを切ってかけようと思ったんでがす」

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「わし此こらあ、蜀黍もろこし伐きつて引ひつ懸かけべと思おもつたんでがす」

「うん、このつぶのこぼれたのはどうしたんだ。とうもろこしなんだろう、これは」

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「うむ、此この粒つぶの零こぼれたのはどうしたんだ、蜀黍もろこしなんだらう此これは」

「へえ、なに、わしがひとつかみしごいて来てみたのを、捨てたんでがした」

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「へえ、なに、わしが一攫ひとつかみ引ひつ扱こいて來きて見みたの打棄うつちやつたんでがした」

勘次はこう言って青くなった。

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勘次かんじは恁かういつて蒼あをく成なつた。

巡査はさらに、被害者に勘次の畑を案内させた。

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巡査じゆんさは更さらに被害者ひがいしやに勘次かんじの畑はたけを案内あんないさせた。

しょんぼりとして後についてくる勘次を、要らないからと巡査はきびしくしかって追いやった。

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悄然せうぜんとして後あとに跟ついて來くる勘次かんじを要えうはないからと巡査じゆんさは邪慳じやけんに叱しかつて逐おひやつた。

勘次の畑のとうもろこしは、被害者が言ったように、情けないようなみすぼらしいほがさらりと立って、それでもおびえたというように、独特のさわがしい音を立てていた。

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勘次かんじの畑はたけの蜀黍もろこしは被害者ひがいしやがいつたやうに、情なさけないやうな見窄みすぼらしい穗ほがさらりと立たつてそれでも其その恐怖心きようふしんに驅かられたといふやうに特有もちまへな一種しゆの騷さわがしい響ひゞきを立たてつゝあつた。

ほは一つも切ってなかった。

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穗ほは一ひとつも伐きつてはなかつた。

「これだから、わしは言ったんでがす。ねえ、それ、このつぶでがすからね」

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「此これだからわし云いつたんでがす、ねえそれ、此この粒つぶでがすかんね」

被害者は勢いが出た。

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被害者ひがいしやは威勢ゐせいが出でた。

「稲のたばをかつぐんだって、わしらは口には出さないが、ちゃんと知ってるんでがすから。そう言っちゃ何だが、そんなことするのは、決まったようなもんですからね」

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「稻いねつ束たば擔かつぐんだつて、わし等ら口くちへ出だしちや云ゆはねえが、ちやんと知しつてんでがすから、さう云いつちや何なんだが其麽そんなことするもなあ、極きまつたやうなもんですかんね」

被害者はさらに、手がらでも立てたように言った。

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被害者ひがいしやは更さらに手柄てがらでもしたやうにいつた。

「もう分かったから、それじゃ自分の仕事をするがいい。後でわしが報告書を作って来てやるから、それへはんこをおせば、それで手続きは済むんだからな」

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「もう解わかつたから、それぢや自分じぶんの仕事しごとをするがいい、後のちにわしが申報書しんぱうしよを拵こしらへて來きて遣やるから、それへ印形いんぎやうを捺おせばそれで手續てつゞきは濟すむんだからな」

巡査はそう言って、そして被害者が

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巡査じゆんさはさういつてさうして被害者ひがいしやが

「そんじゃ、わしはとうもろこしをかくしておく所を見つけ出しますから。きっとあるに決まってるんだから」

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「そんぢや、わし蜀黍もろこし隱かくして置おく處とこ見出めつけあんすから、屹度きつと有あんに極きまつてんだから」

と言う声を後にして、畑の細い道をうねりながら行った。

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といふ聲こゑを後あとにして畑はたけの小徑こみちをうねりつゝ行いつた。

「今度こそは、つかまっちゃ一年くらいはくらうんだろう」

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「今度こんだこさあ、捕縛つかまつちや一杯いつぺえに引ひつ喰くらあんだんべ」

畑の者同士は痛快に感じながら、口々にこういうことを言った。

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畑同士はたけどうしは痛快つうくわいに感かんじつゝ口々くち/″\に恁かういふことをいつた。

「おつう、おれはとても今度はだめだよ」

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「おつう俺おらとつても今度こんだあ駄目だめだよ」

勘次は、はかない自分の気持ちを、たった一人の家族であるおつぎに投げかけるように、しおれきって言った。

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勘次かんじは果敢はかない自分じぶんの心持こゝろもちを唯ゆゐ一の家族かぞくであるおつぎの身體からだへ投なげ掛かけるやうに萎しをれ切きつていつた。

勘次は心の底からおそれたのである。

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勘次かんじは衷心ちうしんから恐怖きようふしたのである。

それほどならば、なぜ彼はとうもろこしのほを切ることをあえてしたのだろうか。

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其それ程ほどならば何故なぜ彼かれは蜀黍もろこしの穗ほを伐きることを敢あへてしたのであつたらうか。

彼はこれまでも、畑の物をぬすんだのは一度や二度ではない。

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彼かれは此これまでも畑はたけの物ものを盜とつたのは一度どや二度どではない。

それはわずかだったが、彼はぬすみたくなったとき、機会さえあればいつでもぬすんでいたのである。

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其それは些少させうであつたが彼かれは盜とりたくなつた時とき機會きくわいさへあれば何時いつでも盜とりつゝあつたのである。

彼は身をほろぼそうとまで、その弱い心が少しのことにも彼を苦しめるとき、彼をつき動かしてぬすみ心がむかむかと首をもたげていたのである。

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彼かれは身みを殺ころさうとまで其その薄弱はくじやくな意思いしが少すこしのことにも彼かれを苦くるしめる時とき、彼かれを衝動そそつて盜性たうせいがむか/\と首くびを擡もたげつゝあつたのである。

勘次はもう、仕事をするどころではない。

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勘次かんじはもう仕事しごとをする處どころではない。

彼はとても少しのあいだもその家にいられなくなって、となりの主人にすがろうとした。

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彼かれは到底たうてい寸時すんじも其その家いへに堪たへられなく成なつて、隣となりの彼かれの主人しゆじんに縋すがらうとした。

そのしきいをまたぐことが、彼にはどれほどつらかったか知れない。

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其その閾しきゐを越こすことが彼かれにはどれ程ほど辛つらかつたか知しれぬ。

主人は留守だった。

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主人しゆじんは不在ふざいであつた。

「おかみさん、わしはまた間ちがいをしまして、どうもこれ、おかみさんの所へは敷居が高くて何でがすが、わしがいなくでもなっちゃ、子どもらは仕方がありませんから、助かれるもんならわしももう……」

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「お内儀かみさん、わしも又また間違まちがえしあんしてどうも此これお内儀かみさん處とこへは閾しきゐが高たかくつて何なんでがすが、わし居ゐなくでも成なつちや子奴等こめら仕しやうがあせんから、助たすかれるもんならわしもはあ……」

と、彼はぐったり首をうなだれた。

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と彼かれはぐつたり首くびを俛たれた。

主人のおかみさんは、勘次がとうもろこしを切ったことをもう知っていた。

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主人しゆじんの内儀かみさんは勘次かんじが蜀黍もろこしを伐きつたことはもう知しつて居ゐた。

まだくせが直らないかと、一度ははらを立ててもみたりあきれもしたりしたが、しかしどこといってかばってくれる人がないので、こうして来るのだと、目の前にそのしおれたすがたを見ると、さすがにあわれになってしかるどころではなかった。

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まだ癖くせが止やまないかと一度どは腹はらを立たてても見みたり惘あきれもしたりしたが、然しかし何處どこといつて庇護かばつてくれるものが無ないので恁かうして來くるのだと、目前もくぜんに其その萎しをれた姿すがたを見みると有繋さすがに憐あはれに成なつて叱しかる處どころではなかつた。

それではどうにか心配してみてやろうと言われて、勘次は顔が生き返ったようになった。

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それではどうか心配しんぱいして見みてやらうといはれて勘次かんじは顏かほが蘇生いきかへつたやうに成なつた。

彼は何でも、主人が力をつくしてくれればうまく行くと思っているのである。

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彼かれは何なんでも主人しゆじんが盡力じんりよくして呉くれゝば成就じやうじゆすると思おもつて居ゐるのである。

それでも自分の家にはいられないので、どうかかくしてくれと、彼は土蔵へ入れてもらった。

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それでも自分じぶんの家いへには居をられないので、どうか隱かくしてくれと彼かれは土藏どざうへ入いれて貰もらつた。

勘次はそこでも不安にたえられないので、そこにしばらく使わずにしまってある大きなおけへ、こっそりともぐっていた。

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勘次かんじは其處そこでも不安ふあんに堪たへないので其處そこに暫しばらく使つかはずに藏しまつてある四尺桶しやくをけへこつそりと潜もぐつて居ゐた。

巡査は昼過ぎに報告書のはんこを取りに来て、勘次の家へ行ってみた。

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巡査じゆんさは午後ごごに申報書しんぱうしよの印いんを取とりに來きて勘次かんじの家いへへ行いつて見みた。

勘次はどこへ行ったと巡査に聞かれて、おつぎはただ知らないと言った。

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勘次かんじは何處どこへ行いつたと巡査じゆんさに聞きかれておつぎは只たゞ知しらないといつた。

そして巡査の後ろすがたがかきねを出たとき、こっそり泣いた。

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さうして巡査じゆんさの後姿うしろすがたが垣根かきねを出でた時とき竊ひそかに泣ないた。

被害者はとうとうかくした場所を見つけて、巡査を案内した。

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被害者ひがいしやは到頭たう/\隱匿いんとくした箇處かしよを發見はつけんして巡査じゆんさを導みちびいた。

雑木林のしげったあいだの、もうかたくなった草の中へ、とうもろこしのほはしばったままどさりと置いてあったのである。

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雜木林ざふきばやしの繁茂はんもした間あひだの、もう硬こはく成なつた草くさの中なかへ蜀黍もろこしの穗ほは縛しばつた儘まゝどさりと置おいてあつたのである。

そこにはもうそっけなくなったおみなえしのくきがけろりと立って、えだまで折られたくりが、低いながらにえだの先のほうにだけはわずかにはじけている。

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其處そこにはもうそつけなくなつた女郎花をみなへしの莖くきがけろりと立たつて、枝えだまで折をられた栗くりが低ひくいながらに梢こずゑの方はうにだけは僅わづかに笑ゑんで居ゐる。

その小さなしばぐりが落ちただけでもおどろいてさわぐだろうと思うほど、か細いこおろぎがあちこちでかすかに鳴いている。

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其その小ちひさな芝栗しばぐりが偶然ひよつくり落おちてさへ驚おどろいて騷さわぐだらうと思おもふやうに薄弱はくじやくな蟋蟀こほろぎがそつちこつちで微かすかに鳴ないて居ゐる。

ちょっと他人の目にはふれない場所だった。

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一寸ちよつと他人ひとの目めには觸ふれぬ場所ばしよであつた。

ほをおおったそのむしろが、勘次のしわざであることをはっきりと証こ立てていた。

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穗ほを掩おほうた其その筵むしろが勘次かんじの所業しわざであることを的確てきかくに證據立しようこだてゝ居ゐた。

主人のおかみさんは、いちおう被害者に話をつけてみた。

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主人しゆじんの内儀かみさんは一應おう被害者ひがいしやへ噺はなしをつけて見みた。

被害者の家族はまじめ者で、みなひどく怒っている。

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被害者ひがいしやの家族かぞくは律義者りちぎもので皆みな激げきし切きつて居ゐる。

七十ばかりになる被害者のおじいさんが、ことに頑固に言い張った。

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七十ばかりに成なる被害者ひがいしやの老人ぢいさんが殊ことに頑固ぐわんこに主張しゆちやうした。

「泥棒なんぞする奴は、わしは大きらいでがすから。わしらの畑のなすを引きむしったんだって、ちゃんと知っちゃいるんでがすから。いや、まったくでがす。おかみさんの所のさつまいももぬすりましたとも。ぐうずら蔓を引っこ抜いて捨てて、いや本当でがす。わしゃ嘘なんざ言うのはきらいでがすから。それどころじゃありません、おかみさん。夜切って来て、朝っぱらになったらもうかけたにちがいないというんでがすから。なに、わしもむしろをかけた所を見ました。むしろで分かるからだめでがす。いや、まったくひどい野郎でがす、どうも」

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「泥棒どろぼうなんぞする奴やざあ、わし大嫌だえきれえでがすから、わし等ら畑はたけの茄子なす引ひん挘もぎつたんだつてちやんと知しつちや居ゐんでがすから、いや全まつたくでがす、お内儀かみさん處とこの甘藷さつまも盜とりあんしたとも、ぐうづら蔓つる引ひつこ拔ぬいて打棄うつちやつて、いや本當ほんたうでがす、わしや嘘ちくなんざあいふな嫌きれえでがすから、其それ處どこぢやがあせんお内儀かみさん、夜よる伐きつて來きて、朝あさつぱらに成なつたらはあ引ひつ懸かけたに相違さうゐねえつちんでがすから、なにわしも筵むしろ打ぶつ掛かけた處ところ見みあんした、筵むしろで分わかるから駄目だめでがす、いや全まつたく酷ひでえ野郎やらうでがすどうも」

おかみさんは、それは分かっていた。

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内儀かみさんは其それは豫期よきして居ゐた。

「そりゃそうさね。この前も私の所で助けてやったのに、それにまたこうなんだから。まあ病気さね、これも。困ったもんだが、しかしあれを懲役にやってみたところで、子どもらが泣くばかりだからね。それにまあ本当を言えば、一つ村にこうしているんだから、相手が困りきっているうちにかんべんしてやったとなると、一生相手は頭が上がらない道理だが、それが一年の罪にでも落としてみると、相手のほうでは帳消しにでもなったようなつもりでいないともかぎらない。そうすると、敵を一人こしらえておくようなものだしね。他人にたたかれたのでは眠れるが、たたいたのでは眠れないとさえ言うんだから、何でも後で悔やまないほうがいいようだが、どうだね」

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「そりやさうさね、此この前まへも私わたしの處ところで救すくつて遣やつたのにそれに復またかうなんだから、まあ病氣びやうきさね此これも、困こまつたもんだが然しかしあれを懲役ちやうえきに遣やつて見みた處ところで子供等こどもらが泣なくばかりだからね、それにまあ本當ほんたういへば一ひとつ村落むらに斯かうして居ゐるんだから先さきが困こまり切きつてる内うちに勘辨かんべんして遣やつたと成なると一生しやう先さきは身みがひけて居ゐる道理だうりだがそれが一杯ぱいの罪つみにでも落おとして見みると、先さきでは帳消ちやうけしにでも成なつたやうな積つもりで居ゐまいものでもなし、さうすると敵かたき一人ひとり拵こしらへて置おくやうなものだしね、他人ひとに叩たゝかれたのでは眠ねむれるが、叩たゝいたのでは眠ねむれないとさへいふんだから、何なんでも後腹あとばらの病やめない方はうが善いいやうだがどうだね」

「そんでも、おかみさん、わしゃ卯平がみじめな目にあってるのが、他人のことでもいまいましいんでさ。わしゃ若いころから卯平とは相棒で仕事もしたんでがすが、卯平はもう何でも、あれが女房らを育てたころのことなんぞ思っちゃ、そまつにはできないんでがすからね。それ、おかみさん、卯平はいくつになりますね。わしらだったらなあに、ああいう野郎なんざ、槍ででも何でも突き刺しちまうんでがすがね」

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「そんでもお内儀かみさん、わしや卯平うへいことみじめ見みせてんのが他人ひとのこつても忌々敷いめえましいんでさ、わしや血氣けつきの頃ころから卯平うへいたあ棒組ぼうぐみで仕事しごともしたんでがすが、卯平うへいはあんでもあれが嚊等かゝあら育そだつ時分じぶんの事ことなんぞ思おもつちや疎末そまつにや成なんねえんでがすかんね、それお内儀かみさん卯平うへいは幾いくつに成なりあんすね、わし等らだらなあに、あゝた野郎やらうなんざあ槍やりでゝも何なんでも突つつ刺ぷしつちあんでがすがね」

おじいさんは怒りにたえられないように、にぎった手をひざがしらへ当てて言った。

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老人ぢいさんは憤慨ふんがいに堪たへぬやうに固かためた拳こぶしを膝ひざがしらへ當あてゝいつた。

「もっともさね、そりゃ。それだが、はらの立つときは憎い奴だと思っても、後で悔やむときがないとも言えないしね。少しのことで二代も三代も仲直りができないような例が、いくらも世間にはあるもんだからね」

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「尤もつともさねそりや、それだが腹はらの立たつ時分じぶんは憎にくい奴やつだと思おもつても後悔こうくわいする時ときが無ないともいひないしね、少すこしのことで二代だいも三代だいも仲直なかなほりが出來できないやうな實例ためしが幾いくらも世間せけんには有あるもんだからね」

おかみさんはくり返して言った。

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内儀かみさんは反覆くりかへしていつた。

しかしなかなか彼らの心は落ち着かない。

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然しかし容易よういに彼等かれらの心こゝろは落居おちゐない。

しばらく話はとぎれていた。

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暫しばらく噺はなしは途切とぎれて居ゐた。

「遠くのほうへやったなんて言ったっけが、おりせはまた孫ができたそうだね。今度のは男だって、それでもよかったねえ」

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「遠とほくの方はうへ遣やつたなんていつたつけがおりせは又また孫まごが出來できた相さうだね、今度こんどのは男をとこだつてそれでも善よかつたねえ」

おかみさんは、そばにいたおばあさんに向いて、とつぜんこう言いかけた。

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内儀かみさんは側そばに居ゐた老母ばあさんへ向むいて突然とつぜん恁かういひ掛かけた。

そしておかみさんは、冷たくなっていた茶わんを手にした。

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さうして内儀かみさんは冷つめたく成なつて居ゐた茶碗ちやわんを手てにした。

それを見て被害者の女房は土間へかけ下りて、かまどの口に火をつけてふうふうと火ふき竹をふいた。

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其それを見みて被害者ひがいしやの女房にようばうは土間どまへ駈かけおりて竈かまどの口くちへ火ひを點つけてふう/\と火吹竹ひふきだけを吹ふいた。

「はい、そうでござりますよ。おかみさんのお世話になりましたっけが、あれも今じゃずいぶんいい塩梅でございましてね。四人目でやっと、それでも男でがすよ。おかみさんに言われたときにはわしらももうしぶっていたんでがしたが、暮らしもあのときからよくなるしね。きょうだいの中で今じゃ、りせが一番だって言ってるところなのさ。おかみさんがあれなら大丈夫だからって言ってくれましたっけが、むこも心根がよくてね。じいさんばあさんにって、わしらにこういう物をよこしましたよ」

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「はあいさうでござりますよ、お内儀かみさんの厄介やつけえに成なりあんしたつけが、あれも今いまぢや大層たえそうえゝ鹽梅あんべいでがしてない、四人目よつたりめ漸やつとそんでも男をとこでがすよ、お内儀かみさんに云やあれた時ときにやわし等らもはあ澁しびれえて居ゐたんでがしたが、身上しんしやうもあん時ときかんぢやよくなるしね、兄弟中きやうでえぢうで今いまぢやりせが一番ばんだつて云ゆつてつ處とこなのせ、お内儀かみさんあれなら大丈夫でえぢよぶだからつて云ゆつて呉くれあんしたつけが婿むこも心底しんていが善よくつてね、爺婆ぢゝばゝあげつて、わし等らげ斯かうた物もの遣よこしあんしたよ」

おばあさんは待ちかまえていたように、小さな風呂しきづつみを解いて、手織りのように見えるそまつな反物を出して、得意そうに見せた。

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老母ばあさんは待まち構かまへてゞも居ゐたやうに小風呂敷こぶろしきの包つゝみを解といて手織ておりのやうに見みえる疎末そまつな反物たんものを出だして手柄相てがらさうに見みせた。

おかみさんは仕方ないというようすで、反物へ手をかけて

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内儀かみさんは仕方しかたないといふ容子ようすで反物たんものへ手てを掛かけて

「それでも孫だきには行ったかね」

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「それでも孫まご抱だきには行いつたかね」

「ほんに、わしゃ今日あたり、おかみさんの所へ行こうと思っていたら、何ということか、こんなさわぎでもう行くこともできないで、わしゃ昨日帰って来たところなのさ、おかみさん」

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「ほんに、わしや今日けふらお内儀かみさん處とこさ行えくべと思おもつて居ゐたら、何なんちこつたか恁こんな騷さわぎではあ行いくも出來できねえで、わしや昨日きのふ歸けえつて來きた處ところなのせえ、お内儀かみさん」

おばあさんはいくらでも勢いづいてしゃべろうとする。

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老母ばあさんは幾いくらでも勢いきほひづいて饒舌しやべらうとする。

熱いお茶がやっと、おかみさんの前に注がれた。

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熱あつい茶ちやが漸やうやく内儀かみさんの前まへに汲くまれた。

被害者はおじいさんと座敷のすみで、さっきからこそこそと話をしている。

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被害者ひがいしやは老父ぢいさんと座敷ざしきの隅すみで先刻さつきからこそ/\と噺はなしをして居ゐる。

そしてさらに、おばあさんを呼んだ。

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さうして更さらに老母ばあさんを喚よんだ。

「うん、そうだともよ」

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「うむ、さうだともよ」

というおばあさんの声がすると、みな座り直して

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といふ老母ばあさんの聲こゑがすると皆みな坐ざに直なほつて

「それじゃ、おかみさん、さっきのをおかみさんのいいように話してみておくんなせえ」

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「それぢや、お内儀かみさん、先刻さつきのがなお内儀かみさんえゝやうに行やつて見みておくんなせえ」

被害者は言った。

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被害者ひがいしやはいつた。

「わしゃ頑固者だから、おかみさん、悪く思わないでおくんなせえ」

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「わしや、一剋者いつこくものだからお内儀かみさん惡わるく思おもはねえでおくんなせえ」

おじいさんも言った。

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老父ぢいさんもいつた。

「どうぞねえ、おかみさん」

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「どうぞねえお内儀かみさん」

おばあさんも言った。

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老母ばあさんもいつた。

おかみさんはそれからまたしばらく世間話をして、みなで笑って帰った。

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内儀かみさんはそれから又また暫しばらく雜談ざふだんをして皆みんなで笑わらつて歸かへつた。

はらにあるだけのことを言わせてしまえば、彼らはそれだけ心が晴れて勢いがだんだんおとろえてくるので、そのあいだは機げんも取ってみて、そして決まりきった理くつもくり返して聞かせているうちには、ころりと落ちてしまうという、そのこつをおかみさんはよく知っているのである。

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腹はらに在あるだけのことをいはして畢しまへば彼等かれらはそれだけ心こゝろが晴々せいせいとして勢いきほひが段々だん/\鈍にぶつて來くるので、其その間あひだは機嫌きげんもとつて見みて、さうして極きまり切きつた理窟りくつも反覆はんぷくして聞きかせて居ゐるうちにはころりと落おちて畢しまふといふ其その呼吸こきふを内儀かみさんは能よく知しつて居ゐるのである。

その夜、おつぎはおかみさんに呼ばれてとなりへ泊まった。

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其その夜よおつぎは内儀かみさんに喚よばれて隣となりへ泊とまつた。

おかみさんは、おつぎと与吉をただ二人その家に置くのは、かわいそうでできなかったのである。

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内儀かみさんはおつぎと與吉よきちを只たゞ二人ふたり其その家いへに置おくには忍しのびなかつたのである。

夜になってから、勘次は土蔵から出されて、やとわれ人のそばで一晩を明かした。

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夜よになつてから勘次かんじは土藏どざうから出だされて傭人やとひにんの側そばに一夜やを明あかした。

彼は夜明け前にまた土蔵へかくれた。

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彼かれは未明みめいに復また土藏どざうへ隱かくれた。

おかみさんはやとわれ人に固く口止めをして、外へもれないように苦心をした。

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内儀かみさんは傭人やとひにんの口くちを堅かたく警いましめて外そとへ洩もれないやうと苦心くしんをした。

その日も巡査は勘次の家のあたりをうろついたが、それでもその東どなりの門をたたいて調べるまでには行かなかった。

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其その日ひも巡査じゆんさは勘次かんじの家いへのあたりを徘徊はいくわいしたがそれでも其その東隣ひがしどなりの門もんを叩たゝいて穿鑿せんさくするまでには至いたらなかつた。

おかみさんは、どうにかしても助けてやりたいと思い出したら、そこにじゃまが起これば、かえってそれをやぶろうといろいろ工夫をこらしてみるのだった。

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内儀かみさんは什麽どんなにしても救すくつて遣やりたいと思おもひ出だしたら其處そこに障害しやうがいが起おこれば却かへつてそれを破やぶらうと種々しゆじゆに工夫くふうも凝こらして見みるのであつた。

それで被害者のほうの話も決まったのだから、この上は警察の手心を待つよりほかに道はないのだが、留守だった主人はその日も帰らない。

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それで被害者ひがいしやの方はうの噺はなしも極きまつたのだから此この上うへは警察けいさつの手加減てかげんに俟まつより外ほかに道みちは無ないのであるが、不在ふざいであつた主人しゆじんは其その日ひも歸かへらない。

勘次はひたすら、主人の力によってだけ助かるものと信じている。

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勘次かんじは只管ひたすらに主人しゆじんの力ちからに倚よつてのみ救すくはれるものと念ねんじて居ゐる。

おかみさんも主人を待ちかねている。

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内儀かみさんも主人しゆじんを待まちあぐんで居ゐる。

そしてまた夜が来た。

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さうして復また夜よるが來きた。

おかみさんはもう、じっとしていられない。

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内儀かみさんはもう凝然ぢつとしては居ゐられない。

それでおつぎを連れて、ちょうちんをつけてこっそり土蔵の二階へ上がった。

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それでおつぎを連つれて、提灯ちやうちんを點つけて竊ひそかに土藏どざうの二階かいへ昇のぼつた。

「おとっつあん」

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「おとつゝあ」

おつぎは声を殺しながら、力を入れて言った。

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おつぎは聲こゑを殺ころしながら力ちからを入いれていつた。

勘次は返事がない。

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勘次かんじは返辭へんじがない。

おつぎはさらに何度か呼んで、それからおかみさんが呼んだとき、よごれた体をおけの中から出した。

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おつぎは更さらに幾度いくたびか喚よんでそれからお内儀かみさんが喚よんだ時とき汚よごれた身體からだを桶をけの中なかから現あらはした。

「旦那がまだ帰らないのでね、警察のほうの話ができないで困っているんだが、どうだねお前、警察へ出てもぬすんでないと言いきれるかね。そうすりゃ私が始末をしてやるがね」

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「旦那だんながまだ歸かへらないのでね、警察けいさつの方はうの噺はなしが出來できないで困こまつて居ゐるんだが、どうだねお前まへ警察けいさつへ出でても盜とらないといひ切きれるかね、さうすりや私わたしが始末しまつをして遣やるがね」

おかみさんは言って聞かせた。

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内儀かみさんはいつて聞きかせた。

「へえ」

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「へえ」

勘次はただ首をうなだれている。

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勘次かんじは只たゞ首くびを俛たれて居ゐる。

「どうだね」

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「どうだね」

おかみさんはくり返した。

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内儀かみさんは反覆くりかへした。

「わしには、とてもたえられません」

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「わしがにや、とつても持もち切きれあんせん」

勘次はしおれてふるえている。

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勘次かんじは萎しをれて顫ふるへて居ゐる。

「おとっつあんは何て言うんだろうな」

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「おとつゝあは何なんちんだんべな」

おつぎは歯がゆそうに言って、もうひと声

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おつぎは齒痒相はがいさうにいつて一聲せい更さらに

「おとっつあん」

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「おとつゝあ」

と力を入れて

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と力ちからを入いれて

「ぬすんでないって言えよ、おとっつあん」

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「盜とらねえつて云ゆへよ、おとつゝあ」

おつぎはいっしんに勘次を見た。

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おつぎは熱心ねつしんに勘次かんじを見みた。

「そんでもおれは、あそこへ出ちゃ、とても白状しないわけには行かないよ」

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「そんでも俺おら、あすこへ出でちや、とつても白状はくじやうしねえ譯わけにや行ゆかねえよ」

「そんな気持ちでなく、私は自分のを切ったんですと言えば、それでいいように始末してやるんだから」

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「そんな料簡れうけんでなく私わたしは自分じぶんのが伐きつたんですつていへば、そんでいゝやうに始末しまつしてやるだから」

おかみさんが力づけてみても、勘次はただ首をうなだれている。

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内儀かみさんが力ちからを附つけて見みても勘次かんじは只ただ首くびを俛たれて居ゐる。

「そう言いさえすりゃいいっていうのになあ、おとっつあんは」

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「さう云ゆへせえすりやえゝつちのになあ、おとつゝあは」

おつぎはがっかりしたように言った。

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おつぎは落膽がつかりしたやうにいつた。

おかみさんとおつぎは、こうしてぐっすりねむった体を立たせようとするような、むだな力をつくしたのだった。

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内儀かみさんとおつぎは恁かうして熟睡じゆくすゐした身體からだを直立ちよくりつせしめやうと苦心くしんする程ほどの徒むだな力ちからを盡つくしたのであつた。

やとわれ人もすっかりねむりに落ちたと思うころ、おかみさんとおつぎの黒いすがたが、こっそりと裏の竹やぶに動いた。

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傭人やとひにんもすつかり眠ねむりに落おちたと思おもふ頃ころ内儀かみさんとおつぎとの黒くろい姿すがたが竊ひそかに裏うらの竹藪たけやぶに動うごいた。

落ちている竹のえだが足の下でぽちぽちと折れて鳴った。

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落おちて居ゐる竹たけの枝えだが足あしの下したにぽち/\と折をれて鳴なつた。

北西のほうのかきねのそばへ来たとき、おかみさんはかきねの土についた所を力まかせにぼりぼりとやぶった。

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乾いぬゐの方はうの垣根かきねの側そばへ來きた時ときに内儀かみさんは、垣根かきねの土つちに附ついた處ところを力任ちからまかせにぼり/\と破やぶつた。

おつぎも両手をかけてやぶった。

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おつぎも兩手りやうてを掛かけて破やぶつた。

何年も、すきまができれば小さな笹をつぎ足しつぎ足ししていた竹のかきねは、土の所がぼろぼろにくちているので、すぐに大きなあなが開いた。

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幾年いくねんとなしに隙間すきまを生しやうずれば小笹をざさを繼つぎ足たし/\しつゝあつた竹たけの垣根かきねは、土つちの處ところがどす/\に朽くちて居ゐるので直すぐに大おほきな穴あなが明あいた。

おつぎはそこからくぐって出た。

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おつぎは其處そこから潜くぐつて出でた。

とつぜんぱたぱたとけたたましい羽音が、すぐ頭の上でさわいだ。

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突然とつぜんぱた/\とけたゝましい羽音はおとが直すぐ頭あたまの上うへで騷さわいだ。

竹のえだに止まっていたはとが、急におどろいて遠くへ逃げたのである。

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竹たけの梢こずゑに泊とまつて居ゐた鳩はとが俄にはかに驚おどろいて遠とほく逃にげたのである。

「こわくはないかい」

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「さむしかないかい」

おかみさんはかきねごしに聞いた。

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内儀かみさんは垣根越かきねごしに聞きいた。

「大丈夫ですよ、おかみさん」

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「大丈夫だいぢやうぶですよ、お内儀かみさん」

おつぎは少し歩きかけて言った。

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おつぎは少すこし歩あるき掛かけていつた。

「おや、もうそっちのほうへ行ったのかい。それじゃあそこをたたくんだよ」

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「おやもうそつちの方はうへ行いつたのかい、それぢや彼處あすこを叩たゝくんだよ」

おかみさんは言って別れた。

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内儀かみさんはいつて分わかれた。

おつぎはすぐに、自分の家の裏の戸口に立った。

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おつぎは直すぐに自分じぶんの裏戸口うらどぐちに立たつた。

そっと開けて入ってみると、自分の家ながら、おつぎはひやりとした。

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そつと開あけて這入はひつて見みると、自分じぶんの家うちながらおつぎはひやりとした。

ねぐらのにわとりは暗い中でじっとしていながら、くくうと細い長い妙な声を出した。

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塒とやの鷄にはとりは闇くらい中なかで凝然ぢつとして居ゐながらくゝうと細ほそい長ながい妙めうな聲こゑを出だした。

ねずみが二、三びきがたがたとさわいで、何かにおさえつけられたかと思うように、ちゅうちゅうと苦しげな声を立てて鳴いた。

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鼠ねずみが二三匹びきがた/\と騷さわいで、何なにかで壓おさへつけられたかと思おもふやうにちう/\と苦くるしげな聲こゑを立たてて鳴ないた。

おつぎは手さぐりで、かべぎわの草かりがまを取った。

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おつぎは手探てさぐりに壁際かべぎはの草刈鎌くさかりがまを執とつた。

またそっと戸を閉めて出るとき、首すじの髪の毛をこそばゆい手でひとつかみにされるように感じた。

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又またそつと戸とを閉たてゝ出でる時とき頸筋くびすぢの髮かみの毛けをこそつぱい手てで一攫ひとつかみにされるやうに感かんじた。

おつぎは外のかべぎわの草かりかごを背負った。

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おつぎは外そとの壁際かべぎはの草刈籠くさかりかごを脊負せおつた。

どうしたはずみだったか、これもかべぎわに立てかけた竹ぼうきがたおれて、柄がかちっと草かりかごを打った。

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どうした機會はずみであつたか此これも壁際かべぎはに立たて掛かけた竹箒たけばうきが倒たふれて柄えがかちつと草刈籠くさかりかごを打うつた。

おつぎはひょいとふり返った。

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おつぎはひよつと顧かへりみた。

夜はまっ暗である。

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夜よるは闇やみである。

すごく冴えた空へざっくりと立ったとなりの森のえだにくっついて、天の川が低く西へかたむきながら流れている。

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凄すごく冴さえた空そらへぞつくりと立たつた隣となりの森もりの梢こずゑにくつゝいて天あまの川がはが低ひくく西にしへ傾かたぶきつゝ流ながれて居ゐる。

しばらくして、おつぎは自分たちの手で作ったとうもろこしのそばに立った。

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暫しばらくしておつぎは自分等じぶんらの手てで作つくつた蜀黍もろこしの側そばに立たつた。

やせたとうもろこしはねむったかと思うほどしっとりとしていては、やがてざわざわと鳴った。

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痩やせた蜀黍もろこしは眠ねむつたかと思おもふやうにしつとりとして居ゐては、軈やがてざわ/\と鳴なつた。

おつぎは草かりがまでざくりざくりと、そのほを切った。

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おつぎは草刈鎌くさかりがまでざくり/\と其その穗ほを伐きつた。

そして、ぎっとおしこんで重くなった草かりかごを背負った。

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さうしてぎつと押おし込こんで重おもく成なつた草刈籠くさかりかごを脊負せおつた。

そこらの畑には、土が目を開いたようにところどころぽつりぽつりと、秋そばの花が白く見えている。

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其處そこらの畑はたけには土つちが眼めを開ひらいたやうに處々ところ/″\ぽつり/\と秋蕎麥あきそばの花はなが白しろく見みえて居ゐる。

おつぎは足早に、高台の畑からとうもろこしの葉のざわつく細い道を低い畑へ下りて、やっとのことで鬼怒川の土手へ出た。

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おつぎは足速あしばやに臺地だいちの畑はたけから蜀黍もろこしの葉はのざわつく小徑こみちを低地ていちの畑はたけへおりて漸やうやくのことで鬼怒川きぬがはの土手どてへ出でた。

おつぎは四つんばいになって、芝につかまりながら登った。

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おつぎは四よつ偃ばひに成なつて芝しばに捉つかまりながら登のぼつた。

そのときおつぎの心には、ななめに土手の中ほどへつけられた細い道を見つけるゆとりがなかったのである。

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其その時ときおつぎの心こゝろには斜なゝめに土手どての中腹ちうふくへつけられた小徑こみちを見出みいだして居ゐる程ほどの餘裕よゆうがなかつたのである。

土手の内側は水ぎわからしのがいっぱいにしげって、夜目にはそれがごっそりと自分をおしつけるように見える。

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土手どての内側うちがはは水際みづぎはから篠しのが一杯ぱいに繁茂はんもして夜目よめにはそれがごつしやりと自分じぶんを壓あつして見みえる。

しののあいだから水がしらしらと見えて、しのの根を洗って行く水の音がちろちろと耳に近く聞こえる。

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篠しのの間あひだから水みづがしら/\と見みえて、篠しのの根ねを洗あらつて行ゆく水みづの響ひゞきがちろ/\と耳みゝに近ちかく聞きこえる。

おつぎはみぎわへ下りようと思ってしのを分けてみると、そこはがけになっていて、つま先から落ちた小さな土のかたまりがぽちぽちと水に鳴った。

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おつぎは汀みぎはへおりようと思おもつて篠しのを分わけて見みると其處そこは崖がけに成なつて居ゐて爪先つまさきから落おちた小ちひさな土つちの塊かたまりがぽち/\と水みづに鳴なつた。

おつぎはさらにしのを分けて下りようとすると、そこもがけで、目の前にひょっこりと高瀬舟のほ柱が暗やみをついて立っている。

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おつぎは更さらに篠しのを分わけておりようとすると、其處そこも崖がけで目めの前まへにひよつこりと高瀬船たかせぶねの帆柱ほばしらが闇やみを衝ついて立たつて居ゐる。

水の近くで、こそこそと人の話し声が聞こえる。

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水みづに近ちかくこそ/\と人ひとの噺聲はなしごゑが聞きこえる。

夕暮れにやっとそこへつないだ高瀬舟が、そこらで食べ物を買い歩いておそく晩ごはんを済まして、まだねむらずにいたのだろう。

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黄昏たそがれに漸やうやく其處そこへ繋かゝつた高瀬船たかせぶねが、其處そこらで食料しよくれうを求もとめ歩あるいて遲おそく晩餐ばんさんを濟すましてまだ眠ねむらずに居ゐたのであつたらう。

それは高瀬舟の船頭夫婦が、足りても足りなくても自分たちのたった一つの住まいである、そのへさきに作られた箱のようなせまい部屋の中で話している声だった。

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それは高瀬船たかせぶねの船頭夫婦せんどうふうふが、足たりても足たりなくても自分じぶんの家族かぞくの唯一ゆゐいつの住居すまゐである其その舳へさきに造つくられた箱はこのやうな狹せばいせえじの中なかで噺はなして居ゐる聲こゑであつた。

赤んぼうの泣く声もまじって聞こえた。

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乳呑兒ちのみごの泣なく聲こゑも交まじつて聞きこえた。

おつぎは後ろへ下がった。

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おつぎは後あとへ退去すさつた。

おつぎはほとんど無意識に、土手を南へ走った。

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おつぎは殆ほとんど無意識むいしきに土手どてを南みなみへ走はしつた。

ところどころ、だれかが道の芝の葉をしばり合わせておいたので、おつぎは何度もそれにつま先を引っかけてつまずいた。

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處々ところ/″\誰だれかゞ道芝みちしばの葉はを縛しばり合あはせて置おいたので、おつぎは幾度いくたびかそれへ爪先つまさきを引ひつ掛かけて蹶つまづいた。

土手のしのはだんだんまばらになって、水がいっぱいに見えて来た。

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土手どての篠しのは段々だん/\に疎まばらに成なつて水みづが一杯ぱいに見みえて來きた。

鬼怒川の水は土手よりはるかに低く、暗やみの底にしらしらとうすく光っている。

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鬼怒川きぬがはの水みづは土手どてより遙はるかに低ひくく闇やみの底そこにしら/\と薄うすく光ひかつて居ゐる。

夜の手は向こう岸の松林のかげをその水に落として、川はばはわずか半分に縮められて見える。

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夜よるの手ては對岸たいがんの松林まつばやしの陰翳かげを其その水みづに投なげて、川幅かわはゞは僅わづかに半分はんぶんに蹙せばめられて見みえる。

こおろぎはそこらじゅうで鳴きしきって、その集まった声は空にまでひびこうとしてはしずみながらしずみながら、それがゆったりと大きな波のように、自然に高くなり低くなりしている。

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蟋蟀こほろぎは其處そこらあたり一杯ぱいに鳴なきしきつて、其その聚あつまつた聲こゑは空そらにまで響ひゞかうとしては沈しづみつゝ/\、それがゆつたりと大おほきな波動はどうの如ごとく自然しぜんに抑揚よくやうを成なしつゝある。

おつぎはとうとう、わたし場まで来た。

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おつぎは到頭たうとう渡船場とせんばまで來きた。

おつぎはそれから水ぎわへ下りようとすると、水をわたって静かに、しかも近くに人の声がして、ときどきじゃぶっという音が水に起こる。

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おつぎはそれから水際みづぎはへおりようとすると水みづを渡わたつて靜しづかに然しかも近ちかく人ひとの聲こゑがして、時々ときどきしやぶつといふ響ひゞきが水みづに起おこる。

ふしぎに思ってためらっていると、とつぜん目の前に、向こう岸の松林のかげから白く光っている水の上へへさきが出て、舟が現れた。

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不審ふしんに思おもつて躊躇ちうちよして居ゐると突然とつぜん目めの前まへに對岸たいがんの松林まつばやしの陰翳かげから白しろく光ひかつて居ゐる水みづの上うへへ舳へさきが出でて船ふねが現あらはれた。

わたし舟が真夜中に人を乗せたので、じゃぶっという音は、さおが水をかき切るたびに鳴ったのである。

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渡わたし船ぶねが深夜しんやに人ひとを乘のせたのでしやぶつといふ響ひゞきは舟棹ふなさをが水みづを掻かつ切きる度たびに鳴なつたのである。

おつぎはまた土手へもどって、大きな川やなぎのそばに身をかくした。

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おつぎは又また土手どてへ戻もどつて大おほきな川柳かはやなぎの傍そばに身みを避さけた。

二言三言を交わして、人は去ったようである。

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二三語ごを交換かうくわんして人ひとは去さつたやうである。

船頭は暗い小屋の戸をがらっと開けて、またがらっと閉じた。

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船頭せんどうは闇くらい小屋こやの戸とをがらつと開あけて又またがらつと閉とぢた。

おつぎはしばらく待っていて、それからそくそくと舟をつないだあたりへ下りた。

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おつぎは暫しばらく待まつて居ゐてそれからそく/\と船ふねを繋つないだあたりへ下おりた。

おつぎはすぐそばでかさかさと何かが動くのを聞くとともに、ぶうぶうとぶたらしい鳴き声がするのを聞いた。

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おつぎは直すぐ側そばでかさ/\と何なにかが動うごくのを聞きくと共ともに、ゐい/\と豚ぶたらしい鳴聲なきごゑのするのを聞きいた。

「行くのかあ」

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「行えくのかあ」

と、まだねむらなかった船頭がとつぜん、独特の大声でどなった。

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とまだ眠ねむらなかつた船頭せんどうは突然とつぜん特有もちまへの大聲おほごゑで呶鳴どなつた。

おつぎはおどろいて、また一気に土手を走った。

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おつぎは驚おどろいて又また一散さんに土手どてを走はしつた。

船頭はがらっと戸を開けて、人が走ったような音がはっきりと耳に残ったので、はるか暗い土手をすかして見て、ぶつぶつ言いながら、さらにぶた小屋に近づいてマッチをさっとすってみて、「油断ならない」

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船頭せんどうはがらつと戸とを開あけて、人ひとの走はしつたやうな響ひゞきが明あきらかに耳みゝに感かんじたので、遙はるかに闇くらい土手どてを透すかして見みてぶつ/\いひながら彼かれは更さらに豚小屋ぶたごやに近ちかづいて燐寸マツチをさつと擦すつて見みて「油斷ゆだんなんねえ」

とつぶやいて、また戸を閉じた。

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と呟つぶやいて又また戸とを閉とぢた。

彼は内職に飼っているぶたが近ごろ子を産んだので、他人にねらわれはしないかと心配していたのである。

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彼かれは内職ないしよくに飼かつた豚ぶたが近頃ちかごろ子こを生うんだので他人たにんが覘ねらひはせぬかと懸念けねんしつゝあつたのである。

おつぎは、どこでもかまわないと土手のしのを分けて、一つ一つとうもろこしのほを力のかぎり水へ投げた。

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おつぎは何處どこでも構かまはぬと土手どての篠しのを分わけて一ひとつ/\に蜀黍もろこしの穗ほを力ちからの限かぎり水みづに投とうじた。

おつぎは空の草かりかごを背負って急いで帰った。

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おつぎは空からな草刈籠くさかりかごを脊負せおつて急いそいで歸かへつた。

おつぎがことこととたたいたとき、おかみさんはすぐに戸を開けて

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おつぎがこと/\と叩たゝいた時とき内儀かみさんは直すぐに戸とを開あけて

「どうしたい、ずいぶんおそかったね」

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「どうしたい、大變たいへん遲おそかつたね」

と聞いた。

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と聞きいた。

「おかみさん、言うとおりにしましたよ」

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「お内儀かみさんいふ通とほりにしあんしたよ」

「そのとうもろこしはどこへやったい」

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「其その蜀黍もろこしは何處どこへ遣やつたい」

「わたしはどうしていいか知らないから、川へ持って行って捨てました」

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「わたしやどうしてえゝか知しんねえから川かはへ持もつて行いつて打棄うつちやりあんした」

「そうかい、よく行って来たね。まあお上がり」

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「さうかい、能よく行やつて來きたね、まあ上あがりな」

おかみさんはランプを自分の頭の上に上げて、じっと首を低くしておつぎのようすを見た。

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内儀かみさんはランプを自分じぶんの頭あたまの上うへに上あげて凝然ぢつと首くびを低ひくくしておつぎの容子ようすを見みた。

「どうしたんだえ、おつぎはまあ、その着物は」

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「どうしたんだえ、おつぎはまあ、其その衣物きものは」

「本当にまあ」

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「本當ほんたうにまあ」

おつぎは初めて気づいたようで

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おつぎは始はじめて心付こゝろづいたやうで

「さっき土手へ行くとき、ほりの所へすべったんですが、そのときこんなによごしたんでしょうよ」

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「先刻さつき土手どてさ行えく時とき、堀ほりつ子こん處とこへ辷すべつたんですが、其そん時ときかうえに汚よごしたんでせうよ」

と、おつぎはどろになった腰のあたりへ手を当てた。

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とおつぎは泥どろに成なつた腰こしのあたりへ手てを當あてた。

「おかみさん、わたしはとんだことをしました」

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「お内儀かみさん、わたしや飛とんだことを仕しあんした」

おつぎはまた言った。

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おつぎは又またいつた。

「どうしたんだえ」

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「どうしたんだえ」

「わたしはかまをどこへやっちまったか、分からなくしちまったんでさ」

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「わたしや、鎌かま何處どこへ遣やつちやつたか分わかんなく仕しつちやつたんでさ」

「今夜持って行ったのかえ」

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「今夜こんや持もつてつたのかえ」

「そうなんでさ。わたしはとうもろこしを捨てるときまであると思ってたら、見えないんでさ。わたしの家のおとっつあんは、道具のことといったらひどく怒るんですから」

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「さうなんでさ、わたしや蜀黍もろこし打棄うつちやつ時ときまで有あつと思おもつてたら見めえねえんでさ、私等家わたしらぢのおとつつあは道具だうぐつちと酷ひどく怒おこんですから」

「草かりがまの一本や二本、お前どうということはないよ。あっちへ回って足でも洗ってさあ」

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「草刈鎌くさかりがまの一挺ちやうや二挺ちやうお前まへどうするもんぢやない、あつちへ廻まはつて足あしでも洗あらつてさあ」

おかみさんの口元には、かすかな笑いがうかんだ。

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内儀かみさんの口くちもとには微かすかな笑わらひが浮うかんだ。

次の日にやっと主人は帰った。

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次つぎの日ひに漸やうやく主人しゆじんは歸かへつた。

巡査に話をしてみたが、そのときはもう被害者からの報告書が分署へ出されていたので、さらに分署長にたのみこんでみた。

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巡査じゆんさへ噺はなしをして見みたが其その時ときはもう被害者ひがいしやからの申報書しんぱうしよが分署ぶんしよへ提出ていしゆつされてあつたので更さらに分署長ぶんしよちやうへ懇請こんせいして見みた。

そして、被害者から事実がちがっていたという意味の取り消しを出せば、それでいいということにまで話が進んだ。

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さうして被害者ひがいしやから事實じじつが相違さうゐしたといふ意味いみの取消とりけしを出だせばそれで善いいといふことにまで運はこびがついた。

軽い罪ということで、その筋の手心が加えられたのである。

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微罪びざいといふので其その筋すぢの手加減てかげんが出來できたのである。

おかみさんはまた被害者の家へ行って、それだけの筋道を聞かせたが、どうしても今度はうんと言わない。

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内儀かみさんは復また被害者ひがいしやの家うちへ行いつて其それ丈だけの筋道すぢみちを聞きかせたが、どうしても今度こんどはうんといはない。

「どうも、わしらは分署へなんぞ出るのは、なんぼにもいやでがすからね。きっと怒られるんでがすから、もう」

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「どうもわし等ら分署ぶんしよへなんぞ出でんな、なんぼにも厭やでがすかんね、屹度きつと怒おこられんでがすからはあ」

とばかり言うのである。

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とのみいふのである。

「そうだがね、ここまで話がついているんだから、こっちでそれだけのことをしてくれなくちゃ、これまでのことが水のあわなんだからね」

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「さうだがね、此處ここまで噺はなしがついて居ゐるんだから此方こつちでそれだけのことは仕して呉くれなくつちや此これまでのことが水みづの泡あわなんだからね」

と道理を聞かせても

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と道理だうりを聞きかせても

「ぬすまれた上にこうしてひまをつぶして、おまけに分署へ出て怒られたりするんじゃ、こんなつまらないことはめったにありませんからね。それに書き付けだって、どうしていいんだか分からないし」

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「盜とらつた上うへに恁かうして暇ひま潰つぶして、おまけに分署ぶんしよへ出でて怒おこられたり何なにつかすんぢや、こんな詰つまんねえこたあ滅多めつたありあんせんかんね、それに書付かきつけだつてどうしてえゝんだか分わかんねえし」

彼はただ、いかめしく見える警察の人がこわくて、どうしても足が進まないのである。

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彼かれは只たゞ嚴いかめしく見みえる警察官けいさつくわんが恐おそろしくてどうしても足あしが進すゝまないのである。

「そりゃ書き付けなんぞは、旦那が書いてやるから心配は要らないがね」

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「そりや書付かきつけなんぞは、旦那だんなが書かいて遣やるから心配しんぱいにや成ならないがね」

おかみさんはやっと、近所の人を一人ついて行かせるようにしてやるということにしたので、被害者も思い切って出ることになった。

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内儀かみさんは漸やうやく近所きんじよの者ものを一人ひとり跟ついてくやうにして遣やるといふことにしたので被害者ひがいしやも思おもひ切きつて出でることに成なつた。

彼らが帰ったときには、反対に元気がよかった。

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彼等かれらが歸かへつた時ときは反對あべこべに威勢ゐせいがよかつた。

「どうだったっけね」

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「どうしたつけね」

と聞かれて

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聞きかれて

「ひげのこう生えた部長さんだっていうこわい人でがしたがね。ぬすまれたなんてとどけを出しておいて、そして警察へよけいな手間をかけてけしからん奴だなんてどなられたときには、どうしようかと思って。そんじゃ、その書き付けを持って帰りますと言おうかと思いましたっけ。そうしたらしばらく書き付けを見てたっけが、これはだれが書いたと聞くから、わしらのほうの旦那でがすと言ったら、そうか、そんじゃよしよし帰れなんて言うもんだから、ほっと息をつきました。熱が下がったようでさあ、もう。そんだから、わしらはなんぼにもああいう所へ出るのはいやで」

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「髭ひげのかう生はえた部長ぶちやうさんだつていふ可怖おつかねえ人ひとでがしたがね、盜ぬすまつたなんて屆とゞけしてゝさうして警察けいさつへ餘計よけいな手間てま掛かけて不埓ふらちな奴やつだなんて呶鳴どならつた時ときにやどうすべかと思おもつて、そんぢや其その書付かきつけ持もつて歸けえりますべつて云いふべかと思おもひあんしたつけ、さうしたら暫しばらく書付かきつけ見みてたつけが此これは誰たれが書かいたつて聞きくから、わし等ら方はうの旦那だんなでがすつて云ゆつたら、さうかそんぢやよし/\歸けえれなんていふもんだからほつと息いきつきあんした、瘧おこり落おちたやうでさあはあ、そんだからわし等らなんぼにもあゝい處ところへは出でんな厭やで」

彼はしばらく間を置いて

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彼かれは少時しばし間あひだを措おいて

「そんだが、旦那はたいしたもんでがすね。旦那が書いたんだと言ったらなあ」

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「そんだが、旦那だんなはたいしたもんでがすね、旦那だんな書かいたんだつて云ゆつたらなあ」

と、彼はさらについて行った近所の人をふり返って言った。

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と彼かれは更さらに跟ついて行いつた近所きんじよの者ものを顧かへりみていつた。

事件はこうして、一見おかしな、しかもいちばんよくあるやり方をたどって終わりになった。

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事件じけんは如此かくのごとくにして一見けん妙めうな然しかも最もつとも普通ふつうな方法はうはふを踏ふんで終局しうきよくが告つげられた。

被害者の損害へのつぐないは、わずかとはいいながら、いったん主人の手から出て、それが被害者にわたされた。

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被害者ひがいしやの損害そんがいに對たいする賠償ばいしやうは僅わづかであるとはいひながら一時じ主人しゆじんの手てから出でてそれが被害者ひがいしやに渡わたされた。

「わしもこれからは、けっして他人の物はちり一つでもぬすみませんから、どうぞ」

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「わしも此これからは決けつして他人たにんの物ものは塵ちりつ葉ぱ一本ぽんでも盜とりませんからどうぞ」

と、勘次はさすがに泣いた。

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と勘次かんじは有繋さすがに泣ないた。

彼はまだ、お品が死んだ年の小作米のとどこおりもはらっていないし、その上、卯平からゆずられた借金の残りもちっとも片づいていないのに、また今度のあやまちからわずかながら新しい借りが増えたのである。

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彼かれはまだお品しなが死しんだ年としの小作米こさくまいの滯とゞこほりも拂はらつてはないし、加之それのみでなく卯平うへいから譲ゆづられた借財しやくざいの残のこりもちつとも極きまりがついて無ないのに又また今度こんどの間違まちがひから僅わづかながら新あらたな負擔ふたんが加くははつたのである。

彼のけんめいな働きぶりは、前よりもさらに人の目を引いた。

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彼かれが懸命けんめいの勞働らうどうは舊きうに倍ばいして著いちじるしく人ひとの目めに立たつた。

ある日、主人のおかみさんは、ちょっとした折に勘次に話をした。

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或ある日ひ主人しゆじんの内儀かみさんは偶然ひよつとした機會はづみがあつて勘次かんじに噺はなしをした。

「あれでなかなか、おつぎにもおどろいたもんだね」

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「あれでなか/\おつぎにも驚おどろいたもんだね」

おかみさんは言った。

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内儀かみさんはいつた。

「もう、どうかしましたんでしょうか、おかみさん」

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「はあどうか仕しあんしたんべか、お内儀かみさん」

勘次はふしぎそうなようすをして、つらいいやなことでも言い出されるかと心配するように、おずおずと言った。

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勘次かんじは怪訝けげんな容子ようすをして且かつ辛つらい厭いやなことでもいひ出だされるかと案あんずるやうに怖おづ/\いつた。

「どうしたっていうんじゃないが、この間の晩のことを知ってるかね」

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「どうしたつていふんぢやないが、此この間あひだの晩ばんのことを知しつてるかね」

「何でしょうね、おかみさん」

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「何なんでがせうね、お内儀かみさん」

「夜中にあのとうもろこしを切らせたことだがね。じつはあのときはね、警察のほうが間に合わなければ、お前にぬすんでないとどこまでも言わせておいて、そして旦那が帰ってからのことと思ったもんだから。それにはお前が白状してしまっても困るし、自分の畑がそっくり残っていてもまずいからね。それも今になっちゃ、何もそんなことしなくてもよかったようなものだが、そのときは私もどうかしてと思ってね。それだが、おつぎのどきょうには私もおどろいたよ」

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「夜中よなかにあの蜀黍もろこし伐きらせたことだがね、實じつはあの時ときはね、警察けいさつの方はうが間まに合あはなければお前まへに盜とらないと何處どこまでもいはして置おいて、さうして旦那だんなが歸かへつてからのことと思おもつたもんだから、それにやお前まへが白状はくじようして畢しまつても困こまるし、自分じぶんの畑はたけがそつくりして居ゐても不味まづいからね、それも今いまに成なつちや何なにもそんなこと仕しなくつても善よかつたやうなものだが、其その時ときは私わたしもどうかしてと思おもつてね、それだがおつぎが度胸どきようのあるのぢや私わたしも喫驚びつくりしたよ」

おかみさんは言った。

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内儀かみさんはいつた。

「へえ、わしもおつうに聞きました。かまが一本見えないもんだからどうしたと言ったら、おかみさんが言うから切ったんだなんて。そんでもかまは笹の中にありましたっけや」

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「へえわしもおつうに聞ききあんした、鎌かま一挺ちやう見めえねえもんだからどうしたつちつたら、お内儀かみさんいふから伐きつたんだなんて、そんでも鎌かまは笹さゝん中なかに有ありあんしたつけや」

「そうかい。どんなかまだか、おつぎは心配していたからね」

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「さうかい、どんな鎌かまだかおつぎは心配しんぱいして居ゐたからね」

「なあに、もう、へっちまったかまだからおしくはないんですがね」

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「なあにはあ、減へつちやつた鎌かまだから惜をしかあねえんですがね」

「おつぎのことは、そんなことではむやみに怒らないようにしなよ。面倒を見てね」

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「おつぎのことはそんなことでは無闇むやみに怒おこらないやうにしなよ、面倒めんだう見みてね」

「それから、わしもおかみさん、こうして独りでしんぼうしてるんでがすが、わしの女房も死ぬときには子どもらのことは心配したんでがすからね。それからわしも、おつうが行きたいと言うもんだからおはりにも行かせますしね。たすきなんぞもほしいほしいと言うもんだから、わしらみたいな貧乏人にはよけいなもんではありますが、赤いのを買ってやったんでがす。こういうことをして、おかみさんの所へも小作の借りも持って来ないで済まないんですが、女房のひとえも質に入れてたのを出してやったんでがすがね。畑へなんぞ出るのにはもったいない物なんだが、それ一まいきりだから、わしもかまわないで見てるのさ。そんだがおかみさん、ふしぎとよごしませんからね」

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「それからわしもお内儀かみさん、恁かうして獨ひとりで辛抱しんばうしてんでがすが、わし等ら嚊かゝあも死しぬ時ときにや子奴等こめらこたあ心配しんぺえしたんでがすかんね、夫それからわしもおつうが行いきてえつちもんだからお針はりにも遣やりあんすしね、襷たすきなんぞも欲ほしい/\つちもんだからわし等ら見みてえな貧乏人びんばふにんにや餘計よけいなもんぢやありあんすが赤あけえの買かつて遣やつたんでがさ、此これさうだことしてお内儀かみさん處とこへも小作こさくの借さがりも持もつて來きねえで濟すまねえんですが、嚊かゝあが單衣物ひてえものも質しちに入せえてたの出だして遣やつたんでがすがね、畑はたけへなんぞ出でんのにや餘あんまり過すぎ物ものなんだが、それ一枚めえ切きりだからわしも構かまあねえで見みてんのせ、そんだがお内儀かみさん奇態きたえに汚よごしあんせんかんね」

勘次は最後の一言に力を入れて言った。

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勘次かんじは最後さいごの一語ごに力ちからを入いれていつた。

「そうだよ、そうしてやればはげみがちがうからね」

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「さうだよ、さうして遣やれば勵はげみが違ちがふからね」

おかみさんは言って、また

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内儀かみさんはいつて又また

「おつぎもよく働けるようになったね。それだが、この間のような所を見ると、死んだお品が乗りうつったかと思うようさね」

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「おつぎも能よく働はたらけるやうに成なつたね、それだが此この間あひだのやうな處ところを見みると死しんだお品しなが乘のり移うつつたかと思おもふやうさね」

「わしももう、あれのことにはおどろいたことがあるんでがすがね」

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「わしもはあ、あれがこたあ魂消たまげてつことあんでがすがね」

「そう言っちゃ何だが、お品もずいぶんお前のことでは気をもんで苦労したこともあるからね」

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「さういつちや何なんだがお品しなも隨分ずゐぶんお前まへぢや意地いぢ燒やいて苦勞くらうしたことも有あるからね」

「へえ、わしはもうこわくて仕方がないんですから。わしが出られない所へは女房ばかり出て出てしたんでがすから」

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「へえ、わしやはあ可怖おつかなくつて仕しやうねえんですから、わし出でらんねえ處ところへは嚊かゝあばかり出でえ/\仕したんでがすから」

「そうだったねえ」

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「さうだつけねえ」

おかみさんはほほえんで

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内儀かみさんは微笑びせうして

「おつぎは心持ちまでお母さんのほうだね。お前の姉さんだが、おつたはああいう性しつなのに、同じおなかから出ても違うもんだね」

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「おつぎは心持こゝろもちまでお袋ふくろの方はうだね、お前まへの姊あねだがおつたはあゝいふ性質たちなのに一つ腹はらから出でても違ちがふもんだね」

「わしの姉はおかみさん、ろくでなしですからね」

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「わし等ら姊あねはお内儀かみさん、碌ろくでなしですかんね」

彼ははずかしくて、そして自分をかばうように、その姉というのを悪く言って、ひがんだような苦笑いをした。

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彼かれは恥はぢてさうして自分じぶんを庇護かばふやうに其その姊あねといふのを卑下くさして僻ひがんだやうな苦笑くせうを敢あへてした。

「おつたは今どこにいるね」

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「おつたは今いま何處どこに居ゐるね」

「下のほうにいますがね。わしは行き来なしでさ。きょうだいだとは思わないからと、わしがことわったんでがすから。わしの女房が死んだときだって来もしないんですからね。おかみさん、そういう者はありますまいね」

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「下しもの方ほうに居ゐあんすがね、わしは往來いきゝなしでさ、同胞きやうでえだたあ思おもはねえからつてわし斷ことわつたんでがすから、わし等ら嚊かゝあ死しんだ時ときだつて來きもしねえんですかんね、お内儀かみさんさうえ者もなあ有ありあんすめえね」

「そうだったっけかね」

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「さうだつけかね」

「わしは姉には、とうとう小作に持って行こうと思ってたのを一俵だまし取られたことがあるんですから。自分のを片づければすぐ返すからと持って行って、それっきりなんでさ。わしの女房が生きてるころなもんだから、女房がしつこくさいそくに行き行きしたんだが、なくちゃやれないからと喧嘩をふっかけるっていうんだから、女房もいまいましがっていたが、相手が無茶なんだからだめでさね。それどころじゃない、目の見えなくなった自分の子どものお金さえだまして取るんだから」

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「わしや、姊あねにや到頭たうとう小作こさくに持もつてくべと思おもつてたの一俵ぺうぺてんに掛かけられたことあんですから、自分じぶんのが始末しまつすれば直すぐ返けえすからつて持もつて行いつてそれつ切きりなんでさ、わし等ら嚊かゝあ生いきてる頃ころなもんだから、嚊かゝあとろつぴ催促せえそくに行いき/\したんだが、無なくつちや遣やらんねえからつて喧嘩けんくわ吹ふつ掛かけるつちんだから嚊かゝあも忌々敷えめえがしがつて居ゐたが先さきが不法ふはふなんだから駄目だめでさね、それ處どこぢやねえ、盲目めくらに成なつた自分じぶんの餓鬼がきの錢ぜにせえ騙だまして叩はたくんだから」

「目が見えないというのはどうしたんだね、それは」

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「盲目めくらといふのはどうしたんだねそれは」

「野田へしょうゆ屋の奉公に行っていて、あまりごはんを食い過ぎたのがもとで目に出たなんて言うんですが、二十くらいで見えなくなっちまったんでさ。そうしたら、それを置いて夜逃げみたいにさ、まるで。自分の村にだっていられなくなったんでがすから」

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「野田のだへ醤油屋奉公しやうゆやばうこうに行いつてゝ餘あんまり飯めし食くひ過すぎたの原因もとで眼めへ出でたなんていふんですが、廿位はたちぐれえで潰つぶれつちやつたんでさ、さうしたらそれ打棄うつちやつて夜遁よにげ見みてえせまるで、自分じぶんの村落むらにだつて居ゐらんなく成なつたんでがすから」

「そういうことがねえ、よくできたもんだね。自分の本当の子をねえ、まあ。おつたはひどいということは聞いてはいたがねえ」

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「さういふことがねえ、能よく出來できたもんだね、自分じぶんの本當ほんたうの子こをねえまあ、おつたは酷ひどいといふことは聞きいちや居ゐたがねえ」

おかみさんはおどろいたようすで言った。

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内儀かみさんは驚おどろいた容子ようすでいつた。

「そんだが、おかみさん、その子がふしぎで、麦つきでも米つきでも畑をたがやすのでも、何でも百姓仕事はやるんでさ。うす明かりには見えるんだなんて言うんだが、そんでもふしぎなのさ、どうも。そんで、とても真面目な者だから他人にも面倒を見られて、それくらいだからお金も持ってるんでさ。そうしたらどこで聞いたか来てだまして連れて行ってね。ええ、わしの姉ながら、おかみさん」

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「そんだがお内儀かみさん其その盲目めぐら奇態きたえで、麥搗むぎつきでも米搗こめつきでも畑耕はたけうねえでも何なんでも百姓仕事ひやくしやうしごとは行やんでさ、薄うすら明あかりにや見めえんだなんていふんだがそんでも奇態きたえなのせどうも、そんで極ごく堅かてえもんだから他人ひとにも面倒めんどう見みられて其その位くれえだから錢ぜにも持もつてんでさ、さうしたら何處どこで聞きいたか來きて騙だまして連つれてつてね、えゝわしら等ら姊あねせお内儀かみさん」

彼は目をつり上げた。

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彼かれは目めを峙そばだてた。

「その子もさすがにお母さんだから、不自由になっては他人の所よりはいいと思ったんでしょうね。そうしたらおかみさん、その子のお金を取っちまったらまた置き去りにして。聞いてみちゃひどい話なのさ、本当に。そのときにはその子もわしの所へ泣きついて来て、わしももう、二十過ぎにもなっていくらなんだってだまされるなんて、その子のこともいまいましいようでがしたが、わしもそのときは女房に死なれたばかりなもんだから、そう冷たくもできないと思って。そんでも一晩泊めて、わしも困ってはいたが、穀物もちっとはやったのさ。わしはおかみさん、女房を死なせてからというものは、こじきにだって手づかみで物を出したことはないんでがすからね。そら、おつうにももう言い聞かせてるんでがすから。わしはおかみさん、それだけは心がけてるんでがすよ」

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「盲目めくらも有繋まさかお袋ふくろだから畸形かたわに成なつちや他人ひとの處とこなんぞよりやえゝと思おもつたんでがせうね、さうしたらお内儀かみさん盲目めくらが錢ぜに叩はたいつちやつたら又また打棄うつちやつて、聞きいて見みちや酷ひでえ噺はなしなのせ本當ほんたうに、そん時ときにや盲目めくらもわしが處とこへ泣なきついて來きて、わしもはあ、二十先はたちさきにも成なつて幾いくらなんだつて騙だまさつるなんて盲目めくらことも忌々敷えめえましいやうでがしたが、わしも其そん時ときや嚊かゝあに死しなれた當座たうざなもんだからさう薄情はくじやうなことも出來できねえと思おもつて、そんでも一晩ばん泊とめて、わしも困こまつちや居ゐたが穀こくもちつたあ遣やつたのせ、わしやお内儀かみさん嚊かゝあおつ殺ころしてからつちものは乞食こじきげだつて手攫てづかみで物もの出だしたこたあねえんでがすかんね、そらおつうげもはあ斷ことわつて置おくんでがすから、わしやお内儀かみさん其それ丈だけは心掛こゝろがけてんでがすよ」

勘次は、おかみさんの心の中にあるものを探るような態度で言った。

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勘次かんじは内儀かみさんの心裡こゝろに伏在ふくざいして居ゐる何物なにものかを求もとめるやうな態度たいどでいつた。

「そうだともさね。そういう心がけでいさえすりゃ、けっして間違いはないからね」

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「さうだともさね、さういふ心掛こゝろがけで居ゐさへすりや決けつして間違まちがひはないからね」

おかみさんは言って、さらにさっきからの話にいくらか引きこまれているようで

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内儀かみさんはいつて更さらに以前いぜんからの噺はなしに幾いくらか釣つり込こまれて居ゐるやうで

「そりゃそうと、その子はどうしたね」

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「そりやさうと其その盲目めくらはどうしたね」

「村にいますさ。どこと言ったって行き場所はないんですから。なあに、独りでさえありゃ、かえってふところはいいんでがすから」

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「村落むらに居ゐあんさ、何處どこつちつたつて行ゆき場所ばしよはねえんですから、なあに獨ひとりでせえありや却けえつて懷ふところはえゝんでがすから」

「それはまあ、おつたはそうとしても、それがさ、彦次はどうしたんだね。私もおつたのことはしばらく前に見たっきりだが」

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「それはまあ、おつたはさうとしても、それがさ、彦次ひこじはどうしたんだね、私わたしもおつたのことは暫しばらく前まへに見みたつ切きりだが」

「おかみさん、夫婦そろってでなくちゃやれるもんじゃありませんぞ。おやじだっておかみさん、自分のむすめを女ろうに売って百五十円とか言いましたっけが、その帰りにしゃも喧嘩に引っかかって七十円も取られて来たっていうんでがすから、話にはならないですよ。そっから、わしは姉ら夫婦のことは大きらいなんでさあ」

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「お内儀かみさん、夫婦ふうふ揃そろつてなくつちや行やれるもんぢやありあんせんぞ、親爺おやぢだつてお内儀かみさん自分じぶんの女あまつ子こ女郎ぢよらうに賣うつて百五十兩りやうとかだつていひあんしたつけがそれ歸けえりに軍鷄喧嘩しやもげんくわへ引ひつ掛かゝつて、七十兩りやうも奪とられて來きたつちんでがすから噺はなしにや成なんねえですよ、そつからわしや姊等夫婦あねらふうふのこたあ大嫌だえきれえなんでさあ」

「本当とは思えないようなことだね」

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「本當ほんたうとは思おもへないやうなことだね」

「おかみさん、本当ですともね。わしは嘘なんざおかみさんに言いませんから」

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「お内儀かみさん本當ほんたうですともね、わしあ嘘ちくなんざお内儀かみげいひあんせんから」

「そりゃ本当にはちがいないだろうがね」

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「そりや本當ほんたうにや相違さうゐないだらうがね」

「そんだが、おかみさん、そのむすめもすぐ逃げて来ちまいましたね。今じゃ何とか言って、いやならかまわないそうでがすね」

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「そんだがお内儀かみさん、其その女あまつ子こも直すぐ遁にげて來きつちめえあんしたね、今いまぢや何なんとか云いつて厭やだら構かまあねえ相さうでがすね」

「私もそんなことは知らないが、新聞でさわぎはあったようだったね」

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「私わたしもそんなことは知しらないが、新聞しんぶんで騷さわぎはあつたやうだつけね」

おかみさんは、どこかそういう話には気が乗らないようで

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内儀かみさんは何處どこかさういふ噺はなしには氣きが乘のらぬやうで

「おつたも見たところじゃ見た目はいいしね」

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「おつたも見みた處ところぢや體裁ていさいがよくてね」

「そうなんでさ。うまいもんだから、わしもとうとう米一俵損させられちまって」

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「さうなんでさ、うまいもんだからわしも到頭たうとう米こめ一俵ぺう損そんさせられちやつて」

勘次はそれを言うたびに、おしそうなようすが見えるのである。

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勘次かんじはそれをいふ度たびに惜をし相さうな容子ようすが見みえるのである。

「そう言っちゃお前の姉さんのことを悪くばかり言うようだが、しゅうとが鬼怒川へ落ちて死んだなんて大さわぎしたことがあったっけねえ」

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「さういつちやお前まへの姊あねのこと惡わるくばかりいふやうだが、舅しうとが鬼怒川きぬがはへ落おちて死しんだなんて大騷おほさわぎしたことが有あつたつけねえ」

「そうでさ。よっぽど前になりますがね。ありゃ鬼怒川へのみを落とすと言って行って、それっきりになっちまったのさ」

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「さうでさ、餘よつ程ぽどに成なりあんすがね、ありや鬼怒川きぬがはへ蚤のみ叩はたくつて行いつてそれつ切きりに成なつちやつたのせ」

「彦次は本当の子なんだね」

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「彦次ひこじは實子じつしなんだね」

「ええ、しばらく目が不自由で、別に小さく建てて隠居してたんですが、のみがわいたようすなんでがすね。一度なんざ畑のそばで落としたら、そこらを通った人がみんなぞよぞよとはい上がられてひどい目にあったっていうんですから。そんで、そこらで落としちゃ仕方がないからなんて言われたんでしょうね。それから何でも、ござを持って鬼怒川へ行くことにしたんでがすね。鬼怒川まではさすがによっぽどありますさね。足元が本当じゃないから、ずぶりとのめっちまったもんでさ。本当にあっけない話で。それ、おかみさん、わしの姉は、他人がなきがらを見つけて大さわぎして知らせに来たら、すぐもう死んだ人の着物から片づけにかかったっていうんですから」

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「えゝ、暫しばらく目めが不自由ふじいうで別べつに小ちひさく作つくつて隱居いんきよしてたんですが、蚤のみは居ゐた容子ようすなんでがすね、一度どなんざあ畑はたけの側そばで叩たてえたら其處そこら通とほつた人ひとみんなぞよ/\偃はひ上あがられて酷ひでえ目めに逢あつたちんですから、そんで其處そこらで叩たてえちや仕しやうねえからなんて云いはれたんでがせうね、それから何なんでも蓙ござ持もつて鬼怒川きぬがはさ行ゆく積つもりに成なつたんでがすね、鬼怒川きぬがはまでは有繋まさが餘よつ程ぽどありあんさね、足あしもとが本當ほんたうぢやねえからずんぶらのめつちやつたもんでさ、本當ほんたうに飽氣あつけねえ噺はなしで、それお内儀かみさんわし等ら姊あねは他人ひとが死骸しげえ見付めつけて大騷おほさわぎして知しらせに來きたら、直すぐはあ死人しにんの衣物きものから始末しまつして掛かゝつたつちんですから」

「自分で取ってしまうつもりなんだね」

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「自分じぶんで取とつて畢しまふ積つもりなんだね」

「きょうだいらに分けてなんざやらないつもりなんでさね」

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「兄弟等きやうでえらげ分わけてなんざあ遣やんねえ積つむりなんでさね」

「着物だっていくらもないんだろうがね。それにまあ、どうして川へなんて、そんな遠くへござばかり持ってね。行くうちにはわいたのみもみんな飛んでしまうだろうがね。まあそういうのも巡り合わせだね」

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「衣物きものだつて幾いくらも無ないんだらうがね、それにまあどうして川かはへなんて其麽そんな遠とほくへ蓙ござばかり持もつてね、行ゆくうちにや居ゐた蚤のみもみんな飛とんで了しまふだらうがね、まあさういのも運めぐり合あはせだね」

「もうぼけてたんでがすから。あんまりぼけちゃきらわれますからね」

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「はあ耄碌まうろくしてたんでがすから、餘あんまり耄碌まうろくしちや厭やがられあんすかんね」

「きらわれるって、お前そんなものじゃないよ。しゅうとだもの、むこだのむすめだのというものは、よけいに気をつけなくちゃならないものなんだね」

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「厭いやがられるつてお前まへそんなものぢやないよ、舅しうとだもの、婿むこだの娘むすめだのといふものは餘計よけい氣きをつけなくちや成ならないものなんだね」

おかみさんはたしなめるように言った。

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内儀かみさんは窘たしなめる樣やうにいつた。

「そりゃそうですがね、おかみさん」

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「そりやさうですがね、お内儀かみさん」

勘次はなんだかかくしごとでも見ぬかれたように慌てて言って、そして苦笑いした。

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勘次かんじは何なんだが隱事いんじでも發あばかれたやうに慌あわてゝいつてさうして苦笑くせうした。

「おつたは本当にしゅうとにはよくしなかったそうだな。自分らのほうのあんこにはさとうを入れても、しゅうとのほうへはさとうを入れなかったなんて、しばらく前に聞いたっけが」

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「おつたは本當ほんたうに舅しうとは善よくしなかつた相さうだな、自分等じぶんらの方はうの饀あんへは砂糖さたうを入いれても舅しうとの方はうへは砂糖さたうを入いれなかつたなんて暫しばらく前まへに聞きいたつけが」

おかみさんは独りで低い声で言った。

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内儀かみさんは獨ひとりで低聲こごゑにいつた。

「どうでしたかね、それは」

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「どうでがしたかねそれは」

勘次はさっきのようすとは違って、急にかばうような態度で言った。

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勘次かんじは先刻さつきの容子ようすとは違ちがつて、俄にはかに庇護かばひでもするやうな態度たいどでいつた。

「そんなにしなくたって、いくらも生きやしない老人のことをな」

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「そんなに仕しなくつたつて幾いくらも生いきやしない老人としよりのことをな」

おかみさんはつくづくとまた言った。

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内儀かみさんは熟つくづくと復またいつた。

勘次はよけいにしおれた。

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勘次かんじは餘計よけいに萎しをれた。

「勘次も、お金は自分の手からわかすようにしてしんぼうしてりゃ、つらいことばかりはないから。何でも人間は子ども次第だよ。後で世話にならなくちゃならないんだから、子どもの面倒を見ないのは間違いだよ」

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「勘次かんじも錢ぜには自分じぶんの手てから湧わかすやうにして辛抱しんばうしてりや辛つらいことばかり無ないから、何なんでも人間にんげんは子供次第こどもしだいだよ、後あとで厄介やくかいに成ならなくちや成ならないんだから子供こどもの面倒めんだうは見みないな間違まちがひだよ」

おかみさんははげますように、そしてしんみりと言った。

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内儀かみさんは勵はげますやうにさうしてしんみりといつた。

しばらく話がとぎれたとき、勘次はとつぜん

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暫しばらく噺はなしが途切とぎれた時とき勘次かんじは突然とつぜん

「おかみさん、変なことを聞くようでがすが、帯にする布はどのくらいあったらいいもんでしょうね」

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「お内儀かみさん變へんなこと聞きくやうでがすが帶おびにする布片きれはどの位くれえ有あつたらえゝもんでがせうね」

と聞いた。

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と聞きいた。

「おつぎにでもしめさせるのかい」

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「おつぎにでも締しめさせるのかい」

「へえ、今のが古くていやだなんてねだられて、いつでもわしは怒るんでがすが。おかみさんの所へも義理を欠いてばかりいて、そんな余ゆうはないと言って聞かせても、みんな赤いのをしめてるもんだから、ほしくて仕方がないんでさ」

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「へえ、今いまのが古ふるくつて厭やだなんて強請ねだれんで、何時いつでもわし怒おこるんでがすが、お内儀かみさん處とこへも不義理ふぎりばかりしてそんな處ところぢやねえつて云ゆつて聞きかせても、みんな赤あけえの締しめてるもんだから欲ほしくつて仕しやうねえんでさ」

「そうだね、帯はまあ一丈っていうんだが、そこらの子のしめるのはどんなものだかさね」

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「さうだね、帶おびはまあ一丈ぢやうつていふんだが、其處そこらの子この締しめるのは什麽どんなものだかさね」

「わしのおつうは、それ、四尺もあればいいっていうんですがね。それだから、わしはおかみさんにでも聞かなけりゃ分からないと思って」

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「わしらおつうはそれ四尺しやくもあればえゝつちんですがね、それだからわしお内儀かみさんにでも聞きかねえぢや分わかんねえと思おもつて」

「そうさ、なるほど。外へ出る所だけあればいいんだから、それには四尺もあったらたくさんだね。こうこっちばかりつければね」

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「さうさ成程なるほど、外そとへ出でる處ところだけ有あれば善いいんだから、それにや四尺しやくもあつたら澤山たくさんだね、斯かうこつちばかり附つければね」

おかみさんは自分の帯へ手を当ててみて言った。

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内儀かみさんは自分じぶんの帶おびへ手てを當あてゝ見みていつた。

「それおかみさん、両方へつけるんだって、こういうふうにしばって中へたくし込んだはしっこが赤くなくちゃみっともないってね。そんな所はどうでもよかろうと思うんだが、もっともそこは一尺でいいなんて言うんでさ」

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「それお内儀かみさん、兩方りやうはうへ附つけんだつて恁かういに縛しばつて中なかへたぐめた端はじつ子こが赤あかくなくつちや見みつともねえつてね、そんな處ところどうでもよかんべと思おもふんだが、尤もつとも其處そこは一尺しやくでえゝなんて云いふんでさ」

「なるほどね。私らは今までそういうことには気がつかなかったが、結び目も仕事するんだからそんなに大きくなくたってかまわないし、四尺五寸もあればまるで新しいように見えるんだね」

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「成程なるほどね、私等わたしら今いままでさういふことにや氣きが附つかなかつたが、結むすび目めも仕事しごとするんだから其麽そんなに大おほきくなくつたつて構かまはないし、四尺しやく五寸すんもあれば丸まるで新あたらしいやうに見みえるんだね」

「そんで、おかみさん、どのくらいしたもんでしょうね、お金は。たくさん出るんじゃもう仕方がないが」

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「そんでお内儀かみさん、どの位くれえしたもんでがせうね錢ぜには、たんと出でんぢやはあ仕しやうねえが」

勘次は心配そうに言った。

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勘次かんじは危あやぶむやうにいつた。

「いくらもしないね、それだけじゃ」

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「幾いくらもしないね、其それ丈だけぢや」

「そんでも、だいたいまあどのくらいしたもんでしょうね」

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「そんでも大凡おほよそまあどの位くれえしたもんでがせうね」

勘次はまたくり返してたずねた。

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勘次かんじは又また反覆くりかへして促うながした。

「唐ちりめんも近ごろじゃ安くなったから、一尺十二、三銭くらいのものかね。上等で十四、五銭しかしないだろうね」

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「唐縮緬たうちりめんも近頃ちかごろぢや廉やすくなつたから一尺しやく十二三錢位せんぐらゐのものかね、上等じやうとうで十四五錢せんしかしないだらうね」

「そうでがすか。わしはまた大変お金が出るんだとばかり思ってました」

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「さうでがすか、わしやまた大變たいへん出でんだとばかし思おもつてあんした」

「それも反物になってるのを切らせてそうだよ。それからもっと安くもできるのさ。村の店なんぞじゃお金ばかり取って、しらみがもぐりそうなのでね」

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「それも反物たんものに成なつてるのを切きらしてさうだよ、それからもつと廉やすくも出來できるのさ、村むらの店みせなんぞぢや錢ぜにばかりとつて虱しらみが潜もぐり相さうなのでね」

おかみさんはほほえんだ。

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内儀かみさんは微笑びせうした。

「そういう短いのは、はぎれで買うにかぎるのさ。いくらにもならないもんだよ。私が近ごろ出るついでもあるから、買って来てやってもいいよ」

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「さういふ短みじかいのは端布片はしぎれで買かふに限かぎるのさ、幾いくらにもつかないもんだよ、私わたしが近頃ちかごろ出でる序ついでもあるから買かつて來きて遣やつても善いいよ」

「そうですか。そんじゃおかみさん、どうかそうしておくんなせえ。おかみさんに見てもらいさえすりゃ大丈夫でがすから。なあに、赤くさえありゃどんなのでもかまわないんでがすがね」

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「さうですか、そんぢやお内儀かみさんどうかさうしておくんなせえ、お内儀かみさんに見みて貰もれえせえすりや大丈夫だえぢようぶでがすから、なあに赤あかくせえありや什麽どんなんでも構かまあねえんでがすがね」

「一日お前が日やといに来さえすりゃそれだけは出てしまうから、ほしいというものならこしらえてやるがいいよ。そりゃほしいはずさ、おつぎも年が明ければ十八になるんだったね」

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「一日にちお前まへが日傭ひように來きさへすりやそれ丈だけは出でて畢しまふから、欲ほしいといふものなら拵こしらへて遣やるが善いいよ、そりや欲ほしい筈はずさおつぎも明あければ十八に成なるんだつけね」

おかみさんは同情して言った。

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内儀かみさんは同情どうじやうしていつた。

「わしに怒られるもんだから、かげでぐずぐず言って困るんでさ」

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「わしに怒おこらつるもんだから蔭かげでぐず/\云ゆつて困こまんでさ」

勘次はさらに

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勘次かんじは更さらに

「そんじゃまあよかった。わしらはそんなことはちっとも分からないから、それでもうおかみさんに聞いてみようと思ってたのさ」

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「そんぢやまあ善よかつた、わし等らそんなこたあちつとも分わかんねえから、夫それからはあお内儀かみさんに聞きいてんべと思おもつてたのせ」

と言って、どことなくそわそわとうれしさをおさえられないようすである。

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といつて何處どことなくそわ/\と悦よろこばしさを禁きんじ得えないものゝ如ごとくである。

「女の子はこれでかざりだから、他人にも見られるからね」

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「女をんなの子こは此これで飾かざりだから他人ひとにも見みられるからね」

おかみさんは親切に言った。

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内儀かみさんは懇ねんごろにいつた。

「わしらは自分じゃどんなぼろだってかまわないが、これで女の子にはねえ。わしもこれで、おかみさんに聞くまでには心配しましたよ」

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「わし等ら自分じぶんぢや什麽どんな襤褸ぼろだつて構かまあねえが此これで女あまつ子こにやねえ、わしもこんでお内儀かみさんに聞きく迄までにや心配しんぺえしあんしたよ」

勘次は、わずかな帯のことが大きな問題の解決でも与えられたように、心の底から元気づいて、おかみさんに感謝した。

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勘次かんじは僅わづかな帶おびのことが大おほきな事件じけんの解決かいけつでも與あたへられたやうに心こゝろの底そこから勢いきほひづいて内儀かみさんの前まへに感謝かんしやした。

一一

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一一

勘次は、とてもせまい世界の中で生きている。

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勘次かんじは極きはめて狹せまい周圍しうゐを有いうして居ゐる。

しかし彼のやせた小さな体は、そのせまい世界とはじき合っているような関係が、自然にできあがっている。

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然しかし彼かれの痩やせた小ちひさな體躯からだは、其その狹せまい周圍しうゐと反撥はんぱつして居ゐるやうな關係くわんけいが自然しぜんに成立なりたつて居ゐる。

彼はけっして他人と争いを起こしたこともなく、むしろとてもおだやかな態度でいる。

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彼かれは決けつして他人たにんと爭鬪さうとうを惹ひき起おこした例ためしもなく、寧むしろ極きはめて平穩へいをんな態度たいどを保たもつて居ゐる。

ただ彼らのような貧しい暮らしの者は、たがいにうたがいとねたみの目をつり上げている。

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唯たゞ彼等かれらのやうな貧まづしい生活せいくわつの者ものは相互さうごに猜忌さいぎと嫉妬しつととの目めを峙そばだてゝ居ゐる。

勘次は人並みはずれた働きで報しゅうを得ようとする一方で、一銭でもかんたんにふところをへらすまいとばかり心がけている。

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勘次かんじは異常いじやうな勞働らうどうによつて報酬はうしうを得えようとする一方ぱうに一錢せんと雖いへども容易よういに其その懷ふところを減げんじまいとのみ心懸こゝろがけて居ゐる。

彼らのような低い身分のあいだでも、たがいの付き合いを少しでもこわさないようにするには、そこには必ず、いくらかのお金がぎせいにされなければならない。

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彼等かれらのやうな低ひくい階級かいきふの間あひだでも相互さうごの交誼かうぎを少すこしでも破やぶらないやうにするのには、其處そこには必かならず其それに對たいして金錢きんせんの若干じやくかんが犧牲ぎせいに供きようされねばならぬ。

どうしてもそのぎせいをおしむ者は、他人ににくまれるまでいかなくても、たがいの間はうとくならざるを得ない。

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絶對ぜつたいに其その犧牲ぎせいを惜をしむものは他たの憎惡ぞうをを買かふに至いたらないまでも、相互さうごの間あひだは疎略そりやくにならねばならぬ。

しかしそんなことは、勘次を苦しめてその卑しい心を引きもどす力を持っていないばかりか、ほとんど何のひびきも彼の心に伝えないのである。

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然しかし其麽そんなことは勘次かんじを苦くるしめて其そのさもしい心こゝろの或ある物ものを挽囘ばんくわいさせる力ちからを有いうして居ゐないのみでなく、殆ほとんど何なんの響ひゞきをも彼かれの心こゝろに傳つたふるものではない。

彼はただ、その日その日の暮らしが自分の心にいくらかでもゆとりを与えてくれればとばかり、あせっているのである。

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彼かれは只たゞ其その日ひ/\の生活せいくわつが自分じぶんの心こゝろに幾いくらでも餘裕よゆうを與あたへて呉くれればとのみ焦慮あせつて居ゐるのである。

彼の心を満足させるには、たとえば目の前にある低い竹のかきねをこわして、一歩足をその中に入れるだけのことにすぎないのである。

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彼かれの心こゝろを滿足まんぞくせしめる程度ていどは、譬たとへば目前もくぜんに在ある低ひくい竹たけの垣根かきねを破壤はくわいして一歩ぽ足あしを其その域内ゐきないに趾あとつけるだけのことに過すぎないのである。

しかも竹のかきねはくちている。

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然しかも竹たけの垣根かきねは朽くちて居ゐる。

くちた低い竹のかきねは、その強い手の力でこわすのはたやすいはずなのに、手の先をふれさせることさえできないでいるのである。

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朽くちた低ひくい竹たけの垣根かきねは其その強つよい手ての筋力きんりよくを以もつて破壤はくわいするに何なんの造作ざうさもない筈はずであるが、手ての先端せんたんを觸ふれしめることさへ出來できないで居ゐるのである。

彼は長い時間、氷と雪のあいだを歩いた後、一ぱいの冷たいつるべの水をかけることで、心地よい暖かさを赤くなった足に感じるように、わずかな何かが彼のひがんだ顔のすじをゆるめるのに十分なのに、彼はその冷たい水の一ぱいさえむなしく求めていたのである。

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彼かれは長ながい時間じかん氷雪ひようせつの間あひだを渉わたつた後のち、一杯ぱいの冷つめたい釣瓶つるべの水みづを注そゝぐことによつて快こゝよよい暖氣だんきを其その赤あかく成なつた足あしに感かんずる樣やうに、僅少きんせうな或ある物ものが彼かれの顏面がんめんの僻ひがんだ筋すぢを伸のべるに十分ぶんであるのに、彼かれは其その冷水れいすゐの一杯ぱいをさへ空むなしく求もとめつゝあつたのである。

自然にできあがっている身分のちがいを持っている人や、長いあいだ彼の暮らしの中身を知りつくしている人からは、彼は同情の目で見られているけれど、こせこせとした態度と、うたがい深そうな顔つきとは、そこににくむべき物が何もないにしても、とても彼らの仲間みんなととけ合えるものではない。

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自然しぜんに形かたちづくられて居ゐる階級かいきふの相違さうゐを有いうして居ゐる者もの又または長ながい間あひだ彼かれの生活せいくわつの内情ないじやうを知悉ちしつして居ゐる者ものからは彼かれは同情どうじやうの眼まなこを以もつて視みられて居ゐるけれども、こせ/\とした其その態度たいどと、狐疑こぎして居ゐるやうな其その容貌ようばうとは其處そこに敢あへて憎惡ぞうをすべき何物なにものも存在そんざいして居ゐないにしても到底たうてい彼等かれらの伴侶なかまの凡すべてと融和ゆうわさるべき所以ゆゑんのものではない。

彼は彼らの仲間の中では、何度も言われているとおり、水に落とした菜種油の一てきである。

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彼かれは彼等かれらの伴侶なかまに在あつては、幾度いくたびかいひふらされて居ゐる如ごとく水みづに落おとした菜種油なたねあぶらの一滴てきである。

水が動くとき、油もそれにつれて動かなければならない。

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水みづが動うごく時とき油あぶらは隨したがつて動うごかねば成ならぬ。

水がかたむくとき、油もまたかたむかなければならない。

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水みづが傾かたむく時とき油あぶらは亦また傾かたむかねば成ならぬ。

しかし水が静かになるとき、油はさらにおびえたように一か所に固まる。

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併しかし水みづが平靜へいせいの度どを保たもつ時とき油あぶらは更さらに怖おそれたやうに一所しよに凝集ぎようしふする。

両方のあいだには何もその性しつを変えさせるはたらきが起こるわけでもなく、それは水が油をのけ者にするのか、油が水をはじくのか、ついにとけ合う機会がないのである。

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兩者りやうしやの間あひだには何等なんら其その性質せいしつを變化へんくわせしむべき作用さようの起おこるでもなく、其それは水みづが油あぶらを疎外そぐわいするのか、油あぶらが水みづを反撥はんぱつするのか遂つひに溶とけ合あふ機會きくわいが無ないのである。

これをかき乱すほかの力が加わらなければ、両方はただ静かである。

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之これを攪亂かうらんする他たの力ちからが加くはへられねば兩者りやうしやは唯たゞ平靜へいせいである。

村の空気が静かであるように、勘次とほかのみんなとのあいだもとても静かで、それでいて交わらないのである。

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村落むらの空氣くうきが平靜へいせいである如ごとく、勘次かんじと他たの凡すべてとの間あひだも極きはめて平靜へいせいでそれで相あひ容いれないのである。

勘次はその菜種油のように、くぬぎ林ととなり合いながら村の西のはしにかたよっていて、親子三人がただ固まったような形で落ち着いているのである。

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勘次かんじは其その菜種油なたねあぶらのやうに櫟林くぬぎばやしと相あひ接せつしつゝ村落むらの西端せいたんに僻在へきざいして親子おやこ三人にんが只たゞ凝結ぎようけつしたやうな状態じやうたいを保たもつて落付おちついて居ゐるのである。

たまたま起こった彼のはずかしい行いが、急に村じゅうの耳目をおどろかせても、とにもかくにも一家を切りもりして行かなければならない人たちは、彼らに共通の、聞きたがり知りたがる性しつにかられながらも、むしろじみで移り気な心が、いつまでも一つのことを追うには、年れいがあまりに彼らを冷静なほうへかたむけている。

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偶然ぐうぜんに起おこつた彼かれの破廉耻はれんちな行爲かうゐが俄にはかに村落むらの耳目じもくを聳動しようどうしても、兎とにも角かくにも一家かを處理しよりして行ゆかねばならぬ凡すべての者ものは、彼等かれらに共通きようつうな聞ききたがり知しりたがる性情せいじやうに驅かられつゝも、寧むしろ地味ぢみで移氣うつりぎな心こゝろが際限さいげんもなく一ひとつを逐おふには年齡ねんれいが餘あまりに彼等かれらを冷靜れいせいな方向はうかうに傾かたむかしめて居ゐる。

そうでなくても、その知りたがり聞きたがる心をくすぐることは、細かいこととはいえ次々に彼らの耳に入るので、勘次だけが話題ではなくなるのである。

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それでなくても其その知しりたがり聞ききたがる性情せいじやうを刺戟しげきすべきことは些細ささいであるとはいひながら相あひ尋ついで彼等かれらの耳みゝに聞きこえるので勘次かんじのみが問題もんだいでは無なくなるのである。

しかしながら、若い衆と呼ばれる青年の一部は、勘次の家から目をはなさない。

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然しかしながら若わかい衆しゆと稱しようする青年せいねんの一部ぶは勘次かんじの家いへに不斷ふだんの注目ちうもくを怠おこたらない。

それは、おつぎのすがたを忘れることができないからである。

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其それはおつぎの姿すがたを忘わすれ去さることが出來できないからである。

かりにも血のめぐりが彼らの体に止まらないかぎりは、いったん心にうつった女のすがたを、それぞれの胸から消し去ることはできないのである。

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苟且かりそめにも血液けつえきの循環じゆんくわんが彼等かれらの肉體にくたいに停止ていしされない限かぎりは、一旦たん心こゝろに映うつつた女をんなの容姿かたちを各自かくじの胸むねから消滅せうめつさせることは不可能ふかのうでなければならぬ。

しかし彼らは、一方で持っているはずかしさにおさえられて、燃えるような心からこっそりと、はかない目の光をおもに夜に向けて注ぐのである。

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然しかし彼等かれらは一方ぱうに有いうして居ゐる矛盾むじゆんした羞耻しうちの念ねんに制せいせられて燃もえるやうな心情しんじやうから竊ひそかに果敢はかない目めの光ひかりを主しゆとして夜よに向むかつて注そゝぐのである。

夜は彼らの世界である。

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夜よは彼等かれらの世界せかいである。

うでのいい漁師は、大海の波にまかせて舟のふちから縄につないだつぼをしずめる。

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熟練じゆくれんな漁師れふしは大洋たいやうの波なみに任まかせて舷こべりから繩なはに繼ついだ壺つぼを沈しづめる。

その縄をたぐって、しずめた赤い素焼きのつぼがふたたび舟のふちに引き上げられるとき、そこにはじっとしてたこが足の吸ばんで内側に吸いついている。

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其その繩なはを探さぐつて沈しづめた赤あかい土燒どやきの壺つぼが再ふたゝび舷こべりに引ひきつけられる時とき、其處そこには凝然ぢつとして蛸たこが足あしの疣いぼを以もつて内側うちがはに吸すひついて居ゐる。

こうして漁師は、するどい目でえものをのがさない道を、波のあいだで身につけているのである。

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恁かうして漁師れふしは烱眼けいがんを以もつて獲物えものを過あやまたぬ道みちを波なみの間あひだに窮きはめて居ゐるのである。

わずかな村の中で、毎日みんなの目に見なれている女の居場所をねらうことは、たこつぼをしずめるような、あてどのないものではない。

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僅わづかな村落むらの内うちで毎日まいにち凡すべての目めに熟じゆくして居ゐる女をんなの所在ありかを覘ねらふことは、蛸壺たこつぼを沈しづめるやうな其麽そんな寧むしろあてどもないものではない。

木の葉がかげを落としてくれない冬の夜には、ねらって歩く彼らは自分のはずかしさを、頭からどてらでおおっている。

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木この葉はが陰翳かげを落おとして呉くれぬ冬ふゆの夜よには覘ねらうて歩あるく彼等かれらは自分じぶんの羞耻心しうちしんを頭あたまから褞袍どてらで被おほうて居ゐる。

夜の短い季節でも、朝のねむたさがすぐに自分を苦しめるのに、うろうろと歩いてみなければ、くさい古ぼけたかやの中であきらめて体を横たえることができないのである。

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短みじかい夜よの頃ころでも、朝あさの眠ねむたさが覿面てきめんに自分じぶんを窘たしなめるにも拘かゝはらずうそ/\と歩あるいて見みねば臭くさい古ふるぼけた蚊帳かやの中なかに諦あきらめて其その身みを横よこたへることが出來できないのである。

彼らが女の居場所をねらうのは、とてもかんたんなことのようでいて、たこつぼが何のじゃまもなくしずめられるようにはいかず、父母の目が暗い夜にも光を放って、女を彼らから遠ざけようとしている。

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彼等かれらが女をんなの所在ありかを覘ねらふのは極きはめて容易よういなものの樣やうではありながら蛸壺たこつぼが少すこしの妨さまたげもなく沈しづめられる樣やうではなく、父母ふぼの目めが闇やみの夜よにさへ光ひかりを放はなつて女をんなを彼等かれらから遮斷しやだんしようとして居ゐる。

彼らはそれで、目の光のとどく所には自分のすがたを見せないで、目的をとげようと苦心する。

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彼等かれらはそれで目めの光ひかりの及およぶ範圍内はんゐないには自分じぶんの身みを表あらはさないで目的もくてきを遂とげようと苦心くしんする。

たとえてみれば、彼らはせまいとはいえ飛びこせないほりをへだてて、しかもしげった野茨や川やなぎに身をかくしながら、女のやわらかい手を取ろうとするのである。

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譬たとへて見みれば彼等かれらは狹せばいとはいひながら跳はねては越こせぬ堀ほりを隔へだてゝ、然しかも繁茂はんもした野茨のばらや川楊かはやなぎに身みを沒ぼつしつゝ女をんなの軟やはらかい手てを執とらうとするのである。

それはとても、ふれ合うことさえできない。

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其それは到底たうてい相あひ觸ふれることさへ不可能ふかのうである。

じれてほりを飛びこえようとしては、野茨のとげにはだをきずつけたり、どろに着物をよごしたり、にがい失敗の味をなめなければならない。

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焦燥あせつて堀ほりを飛とび越こえようとしては野茨のばらの刺とげに肌膚はだを傷きずつけたり、泥どろに衣物きものを汚よごしたり苦にがい失敗しつぱいの味あぢを嘗なめねばならぬ。

だから彼らは、目立たないうちにうまいやり方をしようとして、そこに工夫をこらすのである。

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其それ故ゆゑ彼等かれらは隱約いんやくの間あひだに巧妙かうめうな手段しゆだんを施ほどこさうとして其處そこに工夫くふうが凝こらされるのである。

すでに漁師の手に命をにぎられているたこは、力いっぱいつぼの内側に張りつけば、どんなに強い手の力がふくろのようなその頭を持って引こうとも、へびが体の一部をあなに入れたように、ちぎれるまではなれない。

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既すでに漁師れふしの手てに生命せいめいを握にぎられて居ゐる蛸たこは力ちからを極きはめて壺つぼの内側うちがはに緊着きんちやくすれば什麽どんな強つよい手ての力ちからが袋ふくろのやうな其その頭あたまを持もつて曳ひかうとも、蛇へびが身體からだの一部ぶを穴あなに揷入さうにうしたやうに拗切ちぎれるまでも離はなれない。

刃物で突きさしても同じである。

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刄物はものを以もつて突つつ刺つあしても同どう一である。

たこつぼの底には必ず小さなあながあけてある。

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蛸壺たこつぼの底そこには必かならず小ちひさな穴あなが穿うがたれてある。

しりからふっと息をふきかけると、たこはおどろいてするりとつぼから逃げる。

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臀しりからふつと息いきを吹ふつ掛かけると蛸たこは驚おどろいてすると壺つぼから逃にげる。

それでもまだだまされないときは、小さなあなから熱い湯をぽっちりとしりに注げば、たこは必ず慌てて漁師の前におどり出る。

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それでも猶旦やつぱり騙だまされぬ時ときは小ちひさな穴あなから熱湯ねつたうをぽつちりと臀しりに注そゝげば蛸たこは必かならず慌あわてゝ漁師れふしの前まへに跳をどり出だす。

熱い一てきで、かんたんにたこはだまされるのである。

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熱あつい一滴てきによつて容易よういに蛸たこは騙だまされるのである。

たとえ見張りの目からのがれて女に近づいたとしても、女の思いが強ければ、たこつぼのたこがだまされるようにころりと落とす工夫がつくまでは、男はしんぼうと、むしろ危険とをあわせてしのがなければならない。

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假令たとひ監視かんしの目めから逭のがれて女をんなに接近せつきんしたとしても、打うち込こんだ女をんなの情じやうが強こはければ蛸壺たこつぼの蛸たこが騙だまされる樣やうにころりと落おとす工夫くふうのつくまでは男をとこは忍耐にんたいと寧むしろ危險きけんとを併あわせて凌しのがねば成ならぬ。

そしてわずかにふれ合った男女が心から引き合うとき、たがいにほかのすべてに対しておそれを抱きはじめるのである。

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さうして纔わづかに相あひ接せつした兩性りやうせいが心こゝろから相あひ曳ひく時とき相あひ互たがひに他たの凡すべてに對たいして恐怖きようふの念ねんを懷いだきはじめるのである。

空が夕日の消えて行く光を西の底深く閉ざしてしまって、うすい宵が地を低くおおって夜が来たとき、女は井戸ばたで楽しそうに歌いながら、一種のリズムのある手つきで米をとぐ。

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空そらが夕日ゆふひの消きえ行ゆく光ひかりを西にしの底そこ深ふかく鎖とざして畢しまつて、薄うすい宵よひが地ちを低ひくく掩おほうて夜よが到いたつた時とき女をんなは井戸端ゐどばたで愉快ゆくわいに唄うたひながら一種しゆの調子てうしを持もつた手ての動うごかし樣やうをして米こめを研とぐ。

女はとぎおけと歌の二つの音がまじっているあいだにも、木かげにたたずむ男の気配を感じ取るほど、耳の神経が高ぶっている。

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女をんなは研桶とぎをけと唄うたとの二つの聲こゑが錯綜さくそうしつゝある間あひだにも木陰こかげに佇たゝずむ男をとこのけはひを悟さとる程ほど耳みゝの神經しんけいが興奮こうふんして居ゐる。

それがすずしい夏の夜で、女が男を待つときには、毎日汗でよごれやすい、そしてかざりでもある手ぬぐいのせんたくに手間取るのである。

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其それが凉すゞしい夏なつの夜よで女をんなが男をとこを待まつ時ときには毎日まいにち汗あせに汚よごれ易やすいさうして其その飾かざりでなければ成ならぬ手拭てぬぐひの洗濯せんたくに暇ひまどるのである。

庭の木かげに身をかくして、しんみりとたがいの胸のうちをくり返すとき、しげったかきやくりの木は彼らのたった一人の味方で、月夜でさえ深いかげが安全に彼らをつつむ。

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庭にはの木陰こかげに身みを避さけてしんみりと互たがひの胸むねを反覆くりかへす時とき繁茂はんもした柹かきや栗くりの木きは彼等かれらが唯ゆゐ一の味方みかたで月夜つきよでさへ深ふかい陰翳かげが安全あんぜんに彼等かれらを包つゝむ。

空にさえた月は、放り出してある手水だらいをのぞいては冷ややかに笑っている。

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空そらに冴さえた月つきは放棄はうきしてある手水盥てうづだらひを覗のぞいては冷ひやゝかに笑わらうて居ゐる。

彼らがあまりに手間取っていれば、月はこっそりと首をかたむけて、木の葉のあいだからのぞいてみる。

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彼等かれらが餘あまりに暇ひまどつて居ゐれば月つきはこつそりと首くびを傾かたむけて木この葉はの間あひだから覗のぞいて見みる。

それでもまだ彼らがぐずぐずしていれば、彼らをかくしている木がかきの木であれば、えだからまだ青い実を投げて、そのしゅん間、おどろきやすい彼らがだまされて、仲間のいたずらかとうたがっては慌ててまわりを見るとき、しげった大きな葉がすずしい風にさやさやとほほえむ。

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其それでも猶なほ彼等かれらが屈託くつたくして居をれば、彼等かれらを庇護ひごして居ゐる木きが柹かきの木きであれば梢こずゑからまだ青あをい實みを投なげて、其その瞬間しゆんかん驚おどろき易やすい彼等かれらが欺あざむかれて、彼等かれらの伴侶なかまの惡戯あくぎであるかを疑うたがうては慌あわてゝ周圍しうゐを見みる時とき、繁茂はんもした大おほきな葉はが凉すゞしい風かぜにさや/\と微笑びせうする。

彼らはこうして、家の中から声を立ててはげしく呼ばれるまでは、おそるおそるも、きりのない話にふけるのである。

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彼等かれらはかうして家いへの内うちから聲こゑを立たてゝ劇はげしく呼よばれるまでは怖おそれ/\も際限さいげんのない噺はなしに耽ふけるのである。

彼らがそういう苦心のあいだに、次の日の体のつかれをぎせいにしてまでも、わずかな時間を向かい合っていながら、たがいの顔も見ることができないで、低く殺した声だけで満足するほかに、彼らは林の中に放たれたとき、思い思われるみんながひたすら甘い味をむさぼるのである。

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彼等かれらがさういふ苦辛くしんの間あひだに次つぎの日ひの身體からだの疲つかれを犧牲ぎせいにしてまでも僅わづかな時間じかんを相あひ對たいして居ゐながら互たがひの顏かほも見みることが出來できないで低ひくく殺ころした聲こゑにのみ滿足まんぞくする外ほかに、彼等かれらは林はやしの中なかに放はなたれた時とき想おもひ想おもはぬ凡すべてが只管ひたすらに甘あまい味あぢを貪むさぼるのである。

林は彼らの天地である。

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林はやしは彼等かれらの天地てんちである。

落ち葉をかくといって熊手を入れるとき、彼らは連れ立って自由にさまようことが、黙ってゆるされている。

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落葉おちばを掻かくとて熊手くまでを入いれる時とき彼等かれらは相あひ伴ともなうて自在じざいに徜徉さまよふことが默託もくきよされてある。

しかし熊手のつめがすばやく木かげの土にあとをつける、その動きさえ、一日一日と日を短く刻んで行くような冬の季節は、あまりに冷たく彼らの心を引きしめている。

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然しかし熊手くまでの爪つめが速すみやかに木陰こかげの土つちに趾あとつける其その運動うんどうさへ一度どは一度どと短みじかい日ひを刻きざんで行ゆく樣やうな冬ふゆの季節きせつは餘あまりに冷つめたく彼等かれらの心こゝろを引ひき緊しめて居ゐる。

いたる所、畑のとうもろこしが葉のあいだからもさもさと赤い毛をふいて、その大きな葉がざわざわと人の心をさわがせるようになると、男女の群れが長雨の後のしげった林の下草に、とぎすました草かりがまの刃を入れる。

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到いたる處ところ畑はたけの玉蜀黍たうもろこしが葉はの間あひだからもさ/\と赤あかい毛けを吹ふいて、其その大おほきな葉はがざわ/\と人ひとの心こゝろを騷さわがす樣やうに成なると、男女なんによの群むれが霖雨りんうの後あとの繁茂はんもした林はやしの下草したぐさに研とぎすました草刈鎌くさかりがまの刄はを入いれる。

初めは朝早く馬のえさを一かごぶん刈るだけだけれど、焼けるような日ざしの下で畑もやっと片づいて、村じゅうがみな草刈りに力を入れるようになれば、若い同士がさそい合っては、遠く林の細い道を分けて行く。

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初はじめは朝あさまだきに馬うまの秣まぐさの一籠かごを刈かるに過すぎないけれど、燬やくやうな日ひのもとに畑はたも漸やうやく極きまりがついて村落むらの凡すべてが皆みな草刈くさかりに心こゝろを注そゝぐ樣やうに成なれば、若わかい同志どうしが相あひ誘さそうては遠とほく林はやしの小徑こみちを分わけて行ゆく。

そして自分たちの天地で、その羽をいっぱいに広げる。

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さうして自分じぶんの天地てんちに其その羽はねを一杯ぱいに擴ひろげる。

どこを見てもただ深い緑に閉ざされた林の中で、彼らは歌う声でたがいの居場所を知ったり知らせたりする。

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何處どこを見みても只たゞ深ふかい緑みどりに鎖とざされた林はやしの中なかに彼等かれらは唄うたふ聲こゑに依よつて互たがひの所在ありかを知しつたり知しらせたりする。

彼らのうちのおとなしい者はそれでも、午前の何時間かをけんめいに働いて、父親の小言を聞かないだけの草をうまやのそばに積んでは、午後の何時間かを自由に使おうとする。

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彼等かれらのしをらしい者ものはそれでも午前ごぜんの幾時間いくじかんを懸命けんめいに働はたらいて父ちゝなるものゝ小言こごとを聞きかぬまでに厩うまやの傍そばに草くさを積つんでは、午後ごごの幾時間いくじかんを勝手かつてに費つひやさうとする。

一度でもしめやかに語り合った男女が出会えば、彼らはすべてを忘れて、それでもさすがに人目だけはさけて、細い道から一歩木のあいだに身をかくす。

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一度どでもしめやかに語かたり合あうた兩性りやうせいが邂逅であへば彼等かれらは一切さいを忘わすれて、それでも有繋さすがに人目ひとめをのみは厭いとうて小徑こみちから一歩ぽ木きの間あひだに身みを避さける。

しげった青草が、そばを行く人にも気づかれないように、かがんだ彼らをいくらでもおおいかくす。

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繁茂はんもした青草あをぐさが側そば行ゆく人ひとにも知しられぬ樣やうに屈かゞんだ彼等かれらを幾いくらでも掩おほひ隱かくす。

彼らは決まった話も持っていないのに、心地よく冷たい土にすわって、ついには手にしたかまの刃先で少しずつ土をほじりながら、女は白い手ぬぐいのはしをかすかに動かしては、うつむきながらほほえみながら、いつまでもそこにじっとしていようとする。

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彼等かれらは極きまつた何なんの噺はなしも持もつて居ゐないのに快こゝろよく冷つめたい土つちに坐すわつて、遂つひには手てにした鎌かまの刄先はさきで少すこしづゝ土つちをほじくりつゝ女をんなは白しろい手拭てぬぐひの端はしを微動びどうさせては俯伏つゝぷしなから微笑びせうしながら際限さいげんもなく其處そこに凝然ぢつとして居ゐようとする。

いりつけるようなあぶらぜみの声が彼らの心をゆさぶっては、鼻のつまったようなみんみんぜみの声が、その心をとかそうとする。

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熬いりつける樣やうな油蝉あぶらぜみの聲こゑが彼等かれらの心こゝろを撼ゆるがしては鼻はなのつまつたやうなみん/\蝉ぜみの聲こゑが其その心こゝろを溶とろかさうとする。

やぶ蚊が彼らの日に焼けた赤い足に針をさして、しりがぐみの実のように血を吸ってふくれても、彼らはちくりとされたときに慌ててはたとたたくだけで、蚊が逃げても知らん顔である。

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藪蚊やぶかが彼等かれらの日ひに燒やけた赤あかい足あしへ針はりを刺さして、臀しりがたはら胡頽子ぐみの樣やうに血ちを吸すうて膨ふくれても、彼等かれらはちくりと刺戟しげきを與あたへられた時ときに慌あわてゝはたと叩たゝくのみで蚊かが逃にげようとも知しらぬ顏かほである。

暑い日が、草いきれで汗びっしょりになっている彼らの体に、時こくが過ぎたとえだのあいだから強い光を投げかけてせき立てるまでは、まれにはしびれた足を投げ出して、聞きも聞かせもしなくていい話をくり返してばかりいるのである。

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暑あつい日ひが草くさいきれで汗あせびつしりに成なつて居ゐる彼等かれらの身體からだに時刻じこくが過すぎたと枝えだの間あひだから強つよい光ひかりを投掛なげかけて促うながす迄までは、稀まれには痺しびれた足あしを投出なげだして聞ききも聞きかせもしなくて善いい噺はなしを反覆はんぷくしてのみ居ゐるのである。

彼らはこうして時間をむだに使っては、遠く近くひぐらしの声がいっせいにいそがしくそれぞれの耳をさわがせて、大きな薄い布でおおったかと思うようにうすいかげがあたりをつつむと、彼らは慌ててみな家路につく。

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彼等かれらは恁かうして時間じかんを空むなしく費つひやしては遠とほく近ちかく蜩ひぐらしの聲こゑが一齊せいに忙いそがしく各自かくじの耳みゝを騷さわがして、大おほきな紗しやで掩おほうたかと思おもふ樣やうに薄うすい陰翳かげが世間せけんを包つゝむと彼等かれらは慌あわてゝ皆みな家路いへぢに就つく。

どうかしてあまりにおくれると、空の草かりかごをさかさに背負って、歩けばざわざわと鳴るように、大きなかごの目へならや雑木のえだをさして、夕暮れの庭に身を運んで、刈り積んだ青草の近くにかごを下ろす。

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どうかして餘あまりに後おくれると空からな草刈籠くさかりかごを倒さかしまに脊負せおつて、歩あるけばざわ/\と鳴なる樣やうに、大おほきな籠かごの目めへ楢ならや雜木ざふきの枝えだを揷さして黄昏たそがれの庭にはに身みを運はこんで刈積かりつんだ青草あをくさに近ちかく籠かごを卸おろす。

父親は、蚊柱の立つうまやのそばで、ぶるぶるとたてがみをふるわせながら、ぱさりぱさりと尾でしりのあたりをたたいている馬に、えさをやっている。

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父ちゝなるものは蚊柱かばしらの立たつてる厩うまやの側そばでぶる/\と鬣たてがみを撼ゆるがしながら、ぱさり/\と尾をで臀しりの邊あたりを叩たゝいて居ゐる馬うまに秣まぐさを與あたへて居ゐる。

母親は、青いけむりに満ちたかまどの前に立ってはすそをからげながら、明かりをつけるゆとりもなく、我が子をぶつぶつ言いながら待っている。

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母はゝなるものは青あをい烟けぶりに滿みちた竈かまどの前まへに立たつては裾うづくまりつゝ、燈火ともしびを點つける餘裕よゆうもなく我わが子こをぶつ/\と待まつて居ゐる。

こうしていそがしさに、ならや雑木のえだでごまかした手口が見つからないのである。

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恁かうして忙いそがしさに楢ならや雜木ざふきの枝えだで欺あざむいた手段しゆだんが發見はつけんされないのである。

気のとがめる女は、黙って何よりもまず空の手おけを持って井戸ばたへかけて行っては、ざあと水をくんで、それからしるの実でも切れていれば、あわただしくとんとんとほうちょうの音を立てて、少しでも母親の小言からのがれようとする。

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うしろめたい女をんなは默だまつて何なによりも先まづ空からな手桶てをけを持もつて井戸端ゐどばたへ驅かけて行いつてはざあと水みづを汲くんでそれから汁しるの身みでも切きれてなければ慌あわたゞしくとん/\と庖丁はうちやうの響ひゞきを立たてゝ、少すこしづゝでも母はゝなるものゝ小言こごとから遁のがれようとする。

せまい庭のかきねに、黄色いちょうがいくつも止まってしきりに羽を動かしているように、一つ一つひらりひらりと開いては、夜目にもほっかりとにおっている月見草は、自分たちの夜が来たと、かけ歩いている女に向かってなつかしそうに目を見開くのである。

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狹せまい庭にはの垣根かきねに黄色きいろな蝶てふが幾いくつも止とまつて頻しきりに羽はねを動うごかして居ゐるやうに一つ/\にひらり/\と開ひらいては夜目よめにもほつかりと匂にほうて居ゐる月見草つきみさうは自分等じぶんらの夜よるが來きたと、駈かけ歩あるいて居ゐる女をんなに對たいして懷なつかし相さうに目めを睜みはるのである。

彼らのある者は、さらに夜ねむりにつく前に、戸口の近くでかやのすそにくるまっては、こっそり雨戸の外に訪ねて来る男を待とうとさえするのである。

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彼等かれらの或ある者ものは更さらに夜よるの眠ねむりに就つく前まへに戸口とぐちに近ちかく蚊帳かやの裾すそにくるまつては竊ひそかに雨戸あまどの外そとに訪おとづるゝ男をとこを待またうとさへするのである。

男は雨戸を開けてしのぶとき、月がさえていてもためらわない。

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男をとこは雨戸あまどを開あけて忍しのぶ時とき月つきが冴さえ居ゐてさへ躊躇ちうちよせぬ。

彼はそれでも、たたみの上にさしこむ光をきらって、のきの近くにむしろをつるす。

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彼かれはそれでも疊た々みの上うへに射さし込こむ光ひかりを厭いとうて廂ひさしに近ちかく筵むしろを吊つる。

ゆがんだ戸がぎしぎしと鳴るので、それが彼らのすいかやうりの畑をおそうころであれば、道ばたの草むらからくつわむしを取って行って、雨戸のすきまから放つ。

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歪ゆがんだ戸とがぎし/\と鳴なるのにそれが彼等かれらの西瓜すゐくわや瓜うりの畑はたけを襲おそふ頃ころであれば道端みちばたの草村くさむらから轡蟲くつわむしを捕とつて行いつて雨戸あまどの隙間すきまから放はなつ。

くつわむしは暗い中へ放たれれば、すぐに声をそろえて鳴く。

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轡蟲くつわむしは闇くらいなかへ放はなたれゝば、直たゞちに聲こゑを揃そろへて鳴なく。

この土地でそれが「がしゃがしゃ」と呼ばれているだけあって、やかましく、ただがしゃがしゃと鳴く。

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土地とちで其それが一般ぱんにがしや/\といふ名稱めいしようを與あたへられて居ゐるだけ喧やかましく只たゞがしや/\と鳴なく。

がしゃがしゃが鳴き出せば、彼らは安心して雨戸をこじるのである。

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がしや/\が鳴なき出だせば彼等かれらは安やすんじて雨戸あまどをこじるのである。

それからまた、箱をころがしたような、しきりのしょうじさえない小さな家で、女が男を通そうとして、どうしても父母のまくら元を通らなければならないときは、ふめばぎしぎしと鳴るゆか板に二人の足音がひびくのを気にして、女は暗やみの中で男を背負うのである。

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それから又また箱はこを轉ころがしたやうな、隔へだての障子しやうじさへ無ない小ちひさな家いへで女をんなが男をとこを導みちびくとて、如何どうしても父母ちゝはゝの枕元まくらもとを過すぎねば成ならぬ時ときは、踏ふめばぎし/\と鳴なる床板ゆかいたに二人ふたりの足音あしおとを憚はゞかつて女をんなは闇やみに男をとこを脊負せおふのである。

そこでは、たとえ重さが加わっても、それはうまくつかれてねむい父母の耳をだますのである。

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其處そこには假令たとへ重量ぢゆうりやうが加くはへられても、それは巧たくみに疲つかれて眠ねむい父母ちゝはゝの耳みゝを欺あざむくのである。

ふつうのむすめの暮らしはこんなふうで、まれにはひどくしかられることもあって、そのときだけはしおれても、明日にはたちまち元にもどって、その性しつのままに進んでふり返らない。

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一般ぱんの子女しぢよの境涯きやうがいは如此かくのごとくにして稀まれには痛いたく叱しかられることもあつて其その時ときのみは萎しをれても明日あすは忽たちまち以前いぜんに還かへつて其その性情せいじやうの儘まゝに進すゝんで顧かへりみぬ。

おつぎは、そんな仲間と一日でもいっしょに放されたことがないのである。

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おつぎは其麽そんな伴侶なかまと一日にちでも一つに其その身みを放はなたれたことがないのである。

勘次がどんなにやかましくおつぎをおさえても、おつぎがそれでおさえられても、勘次は村の若者がおつぎに思いをかけるのを止める力は、少しも持っていない。

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勘次かんじが什麽どんなに八釜敷やかましくおつぎを抑おさへてもおつぎがそれで制せいせられても、勘次かんじは村むらの若者わかものがおつぎに想おもひを懸かけることに掣肘せいちうを加くはへる些さの力ちからをも有いうして居をらぬ。

村の若者みんなが女をねらおうとするときはずいぶん執念深く、それはちょうど、追えばたちまち逃げるにわとりが、どうかしてせまく戸口を開けてある穀物ぐらに好きなえさを見つけて入ろうとするとき、その戸口がせまくて体が入らなければ、いたずらに首をさしこんではもがいてもがいて、そしてほかへ行ってしまうようなものである。

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凡すべての村落むらの若者わかものが女をんなを覘ねらはうとする時ときは隨分ずゐぶん執念しふねく其それは丁度ちやうど、追おへば忽たちまちに遁にげる鷄とりがどうかして狹せまく戸口とぐちを開ひらいてある穀倉こくぐらに好このむ餌料ゑさを見出みいだして這入はひらうとする時ときに其その狹せまい戸口とぐちが身みを入いるゝに足たりなければ徒いたづらに首くびを揷さし込こんでは足掻あがいて/\さうして他ほかへ行いつて畢しまふ。

それが一度であきらめればそれまでだけれど、二度三度戸口に立ってもがきはじめれば、去っては来り、去っては来り、首すじの皮がすりむけて戸口にたくさん血のあとをつけても、執念深くえさを求めて止まないような形でなければならない。

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其それが一度どで斷念だんねんすれば其それ迄までであるけれど、二度ふたたび三度みたび戸口とぐちに立たつて足掻あがき始はじめれば、去さつては來きたり、去さつては來きたり、首筋くびすぢの皮かはが擦すり剥むけて戸口とぐちに夥したゝか血ちの趾あとを印いんしても執念しふねく餌料ゑさを求もとめて止やまぬやうな形かたちでなければならぬ。

それぞれの心の中で、おつぎをどれほど深く思おうとも、それはそれぞれが持つ権利である。

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各自かくじの心こゝろにおつぎを何どれ程ほど深ふかく思おもはうともそれは各自かくじが有いうする權能けんのうに屬ぞくして居ゐる。

しかしながら、おつぎへ加えようとするその手をとことんふせごうとすることも、勘次が持つ権利である。

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然しかしながらおつぎへ加くはへようとする其その手てを極端きよくたんに防遏ばうあつしようとすることも勘次かんじが有いうする權能けんのうである。

たがいにその権利をこえて他人の領分をおかすとき、そこには必ずもめごとが起こるはずである。

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相互さうごに其その權能けんのうを越こえて他たの領域りやうゐきを冒をかす時とき其處そこには必かならず葛藤かつとうが伴ともなはれる筈はずでなければ成ならぬ。

若者は寄り集まれば、みな不平を語り合って、勝手に勘次をじゃまでうっとうしい者にしていた。

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若者わかものは相あひ聚あつまれば皆みな不平ふへいの情じやうを語かたり合あうて、勝手かつてに勘次かんじを邪魔じやまなこそつぱい者ものにして居ゐた。

そのくせ彼らはみな、たがいに自分だけがおつぎを手に入れようとして、とどかない手をのばしているのである。

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其その癖くせ彼等かれらは皆みな互たがひに自分じぶん獨ひとりのみがおつぎを獲えようとして及およばぬ手てを延のばして居をるのである。

万一目的がとげられたことがあったとしても、それはただ一人だけで、そのほかの何人かはむなしく、しかもとても軽い不快とねたみから、口々にその一人に向かっていやみを言って止まないはずである。

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萬まん一目的もくてきが遂とげられたことが有あつたとしても其それは只たゞ一人にんに限かぎられて居ゐて、爾餘じよの幾人いくにんは空むなしく然しかも極きはめて輕かるい不快ふくわいと嫉妬しつととから口々くちぐちに其その一人にんに向むかつて厭味いやみをいうて止やまねば成ならぬ。

しかしながら、ついにその一人は彼らのあいだに現れなかった。

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然しかしながら遂つひに其その一人にんが彼等かれらの間あひだに發見はつけんされなかつた。

彼らのうらみがすべて勘次一人に集まった。

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彼等かれらの怨恨うらみが凡すべて勘次かんじの一身しんに聚あつまつた。

それでも、あっさりした彼らのうらみは、三人以上が集まって口を開けば必ず笑い声が絶えないほどのものだった。

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それでも淡白たんぱくな彼等かれらの怨恨うらみは三人にん以上いじやうが聚あつまつて口くちを開ひらけば必かならず笑聲せうせいを絶たたぬ程ほどのものであつた。

うらみというよりも、じれったさだった。

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怨恨うらみといふよりも焦燥じれつたさであつた。

おつぎの身には、こうして事件を起こすような機会が与えられなかった。

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おつぎの身體からだには恁かうして事件じけんを惹ひき起おこすべき機會きくわいが與あたへられなかつた。

それでも、ただ一人おつぎと手を取って語るところまで近づけた者があった。

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それでも只たつた一人ひとりおつぎと手てを執とつて語かたることにまで近ちかづき得えたものがあつた。

勘次はどれほど厳しくしても、おつぎがべんじょに通う時間まで、せまい庭の夜の中へ出すことをこばむことはできなかった。

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勘次かんじはどれ程ほど嚴重げんぢうにしてもおつぎが厠かはやに通かよふ時間じかんをさへ狹せまい庭にはの夜よの中なかへ放はなつことを拒こばむことは出來できなかつた。

執念深い一人が、たまたまそういう機会を見つけた。

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執念深しふねんぶかい一人にんが偶然ぐうぜんさういふ機會きくわいを發見はつけんした。

彼は、まだはずかしさとおそれが体じゅうを支配しているおつぎをつかまえて、ただじっと動かさないようにするまでには、何度も手を変えて苦心した。

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彼かれは、まだ羞恥はぢと恐怖おそれとが全身ぜんしんを支配しはいして居ゐるおつぎを捕とらへて只たゞ凝然ぢつと動うごかさないまでには幾度いくたびか手てを換かへて苦心くしんした。

勘次が戸の内から呼んでも、べんじょのそばで返事をするおつぎの声は、初めのうちはうたがいを持たせるまでには行かなかった。

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勘次かんじが戸との内うちから呼よんでも厠かはやの側そばで返辭へんじをするおつぎの聲こゑは最初さいしよの間あひだは疑念ぎねんを懷いだかせるまでには至いたらなかつた。

それでも、二人が心に深くたがいの思いを刻むまで、うたがいの目を見開いている勘次をだましきることはできなかった。

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其それでも彼等かれらが心こゝろに深ふかく互たがひの情じやうを刻きざむまで猜忌さいぎの目めを睜みはつて居ゐる勘次かんじを欺あざむきおほせることは出來できなかつた。

ある晩、勘次はがらっと戸を開けて出た。

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或ある晩ばん勘次かんじはがらつと戸とを開あけて出でた。

はげしく開けた戸が、ややくちかけたしきいのみぞを外れそうになって、ぎっしりと固まった。

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劇はげしく開あけた戸とが稍やゝ朽くち掛かけた閾しきゐの溝みぞを外はづれようとしてぎつしりと固着こちやくした。

彼はいらいらして戸をたたいてみぞにもどすと、そのまま飛び出した。

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彼かれは苛立いらだつて戸とを叩たゝいて溝みぞに復ふくすと其その儘まゝ飛とび出だした。

彼はすぐ自分の近くに、手ぬぐいをかぶったおつぎのすがたがゆっくり動いて来るのを見た。

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彼かれは直すぐ自分じぶんに近ちかく手拭てぬぐひ被かぶつたおつぎの姿すがたが徐おもむろに動うごいて來くるのを見みた。

それと同時に、こっそり逃げて行くぞうりの音が勘次の耳にひびいた。

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其それと同時どうじに竊ひそかに落おち行ゆく草履ざうりの音おとが勘次かんじの耳みゝに響ひゞいた。

彼はそれを耳にした瞬間、右の手がかべぎわの木の根にかかって、木の根は彼の力いっぱいに木かげの暗やみへ投げられた。

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彼かれは其それを耳みゝに感かんずる瞬間しゆんかん右みぎの手てが壁際かべぎはの木きの根ねに掛かゝつて、木きの根ねは彼かれの力ちから一杯ぱいに木陰こかげの闇やみに投とうぜられた。

木の根はどさりと遠くに落ちて、庭の土をえぐって、勢いあまって何度かでんぐり返った。

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木きの根ねはどさりと遠とほく落おちて庭にはの土つちをさくつて餘勢よせいが幾度いくどかもんどりを打うつた。

勘次はつづけて投げた。

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勘次かんじは續つゞいて擲なげうつた。

くせ者はすでに逃げ去ったけれど、彼の不意打ちに慌てて、ふしくれ立ったかきの根につまずいてたおれた。

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曲者くせものは既すでに遁にげ落おちたけれど彼かれの不意ふいの襲撃しふげきに慌あわてゝ節ふしくれ立だつた柹かきの根ねに蹶つまづいて倒たふれた。

彼は次の日、足を引きずらなければ歩けないほど足首の関節に痛みを感じたのだった。

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彼かれは次つきの日ひ足あしを引ひきずらねば歩あるけぬ程ほど足首あしくびの關節くわんせつに疼痛とうつうを感かんじたのであつた。

勘次は、ぽつんと立っているおつぎを突きとばすように戸口へ入れて、がらりと戸を閉じてかけ金をかけた。

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勘次かんじはぽつさりと立たつて居ゐるおつぎを突つきのめす樣やうに戸口とぐちに送おくつてがらりと戸とを閉とぢて掛金かけがねを掛かけた。

その夜はまだ、それぞれが一つ増えた年の数だけいり豆をかじって鬼を追った夜から、いくらも日がたっていないので、塩いわしの頭とともに戸口にさしたひいらぎの葉も、いっこうにかわいたようすが見えないほどだった。

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其その夜よはまだ各おの/\が一つ加くははつた年齡ねんれいの數かず程ほどの熬豆いりまめを噛かじつて鬼おにをやらうた夜よから、幾いくらも隔へだたらないので、鹽鰮しほいわしの頭あたまと共ともに戸口とぐちに揷さした柊ひゝらぎの葉はも一向いつかうに乾かわいた容子やうすの見みえない程ほどのことであつた。

おつぎは十八といっても、その年になったというだけで、こんな場合をうまくとりつくろうという考えさえ、かりにも持っていないほど、一面ではにごりのないかわいらしい少女だった。

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おつぎは十八じふはちというても其その年齡としに達たつしたといふばかりで、恁こんな場合ばあひを巧たくみに繕つくらふといふ料簡れうけんさへ苟且かりそめにも持もつて居ゐない程ほど一面めんに於おいては濁にごりのない可憐かれんな少女せうぢよであつた。

おつぎはしおれて、ただぽつんと立っている。

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おつぎは萎しをれて只たゞぽつさりと立たつて居ゐる。

勘次の目は、うす暗い手ランプに光った。

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勘次かんじの目めは薄闇うすくらい手てランプに光ひかつた。

「おつう」

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「おつう」

とひと声どなって、感情がたかぶった勘次は、すぐには次の言葉が出せなかった。

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と一聲せい呶鳴どなつて情じやうの激げきした勘次かんじは咄嗟とつさに次つぎの語ことばが出だせなかつた。

「何してやがったんだ」

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「何なにしてけつかつたんだ」

勘次はおつぎをにらみつけた。

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勘次かんじはおつぎを睨にらみつけた。

おつぎはうつむいて黙っている。

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おつぎは俯向うつむいて默だまつて居ゐる。

「さあ言ってみろ。嘘を言ったって知ってるぞ、おい」

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「さあ云ゆつて見みろ、嘘ちく云ゆつたつて知しつてつゝお」

勘次はなおもはげしく問いつめた。

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勘次かんじは猶なほも激はげしく訊たずねた。

「お前はいつでも何と言った。おとっつあんにはけっして心配をかけないからと言ったんじゃないか。そんでもお前は心配をかけないのか。かけないというんなら言ってみろ」

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「汝わりや何時いつでも何なんちつた、おとつゝあげは決けつして心配しんぺえ掛かけねえからつて云ゆつたんぢやねえか、そんでも汝わりや心配しんぺえ掛かけねえのか、掛かけねえつちんだら云ゆつて見みろ」

彼はいまいましそうに、そして刃で心を突きとおされる苦しさをこらえたかと思うようなようすで、どきどきする胸から声をしぼって言った。

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彼かれは忌々敷相いま/\しさうに且かつ刄やいばを以もつて心部むねを突つき通とほされる苦くるしさを忍しのんだかと思おもふやうな容子ようすでわく/\する胸むねから聲こゑを絞しぼつていつた。

彼はしばらく間を置いてはまた、かんでかんでかみしめてもかみ切れない何かに向かうようなじれったさと、待っていた何かを急にうばい去られたような絶望とが入りまじり、もつれ合った投げやりな態度で、おつぎをせめた。

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彼かれは暫しばらく間あひだを措おいては又また、噛かんで/\噛締かみしめても噛かみ切きれぬ或ある物ものに對たいするやうな焦燥じれつたさと、期待きたいして居ゐた或ある物ものを俄にはかに奪うばひ去さられた樣やうな絶望ぜつばうとが混淆こんかうし紛糾ふんきうした自暴自棄やけの態度たいどを以もつておつぎを責せめた。

彼のふるまいは、ほとんど発作のようだった。

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彼かれの擧動きよどうは殆ほとんど發作的ほつさてきであつた。

おつぎの声を殺して泣く声は、すきまだらけの戸の外にとぎれとぎれにもれた。

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おつぎの聲こゑを殺ころして泣なく聲こゑは隙間すきまだらけな戸との外そとに絶たえ/″\に漏もれた。

これまでも、おつぎはたとえ異性を慕う心がやっと育ってきたとはいえ、こっそりその手を取られたときは、後ではむしろ後かいするほどで、はずかしさとおそれと、それから勘次に気がねする気持ちとが、慌ててその手をふりほどかせるのだった。

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從來これまでとてもおつぎは假令たとひ異性いせいを慕したふ性情せいじやうが漸やうやく發達はつたつして來きたとはいひながら、竊ひそかに其その手てを執とられた時ときは、後あとでは寧むしろ悔くいるまでも羞恥はぢと恐怖おそれとそれから勘次かんじを憚はゞかることから由よつて來きたる抑制よくせいの念ねんとが慌あわてゝ其その手てを振ふり挘もきらせるのであつた。

それがだんだん、いやではないさそいの手に乗って、甘い味をわずかに感じるところまで近づいた瞬間、すべてがこわされたのである。

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其それが段々だん/\厭いやでない誘惑いうわくの手てに乘のつて甘あまい味あぢを僅わづかに感かんずる程度ていどまで近ちかづいた刹那せつな一切さいが破壞はくわいし去さられたのである。

おつぎは前にもどって、おそれの手に深く身をしずめなければならなくなった。

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おつぎは以前いぜんに還かへつて恐怖きようふの手てに深ふかく其その身みを沒却ぼつきやくせねばならなく成なつた。

深い罪をふくんでいないその夜のできごとは、それで済んだ。

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深ふかい罪惡ざいあくを包藏はうざうして居ゐない其その夜よの事件じけんはそれで濟すんだ。

勘次はあいかわらず、おつぎにとってはたった一つの大きな木のかげだった。

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勘次かんじは依然やつぱりおつぎには只たゞ一ひとつしか無ない大樹たいじゆの陰かげであつた。

しかし勘次自身には、どんな物でも、今の彼の心に与えられる満足は、失ったお品を思い出すことから受ける悲しみの十分の一にもとどかない。

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然しかし勘次かんじ自身じしんには如何どんな種類しゆるゐの物ものでも現在げんざい彼かれの心こゝろに與あたへ得うる滿足まんぞくの程度ていどは、失うしなうたお品しなを追憶つゐおくすることから享うける哀愁あいしうの十分ぶんの一にも及およばない。

彼はもうそれ以上、彼の心の中に残っている何かまでうばい去られることには、たえられないのである。

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彼かれは最早もはやそれ以上いじやう彼かれの心裏しんりに残存ざんぞんして居ゐる或ある物ものをまで奪うばひ去さられることには堪たへないのである。

彼はわずかに三人の家族が、油のように水にはじかれても、のけ者にされても、ただ固まっていることだけで、たとえなぐさめられないまでも、不安を感じずにその日その日を刻んで暮らして行けるのである。

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彼かれは僅わづかに三人にんの家族かぞくが油あぶらの如ごとく水みづに彈はじかれても疎外そぐわいされても只たゞ凝結ぎようけつして居ゐることにのみ、假令たとひ慰藉ゐしやされないまでも不安ふあんを感かんずることなしに其その日ひ/\と刻きざんで暮くらして行ゆくことが出來できるのである。

彼は一度でも、おつぎが自分からはなれたのを見つけたり、感じたりしては、一種のねたみを感じずにはいられなかった。

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彼かれは一度どでもおつぎが自分じぶんを離はなれたことを發見はつけんし或あるひは意識いしきしては一種しゆの嫉妬しつとを感かんぜずには居をられなかつた。

彼はそうして、悲しみにさいなまれた。

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彼かれはさうして悲痛ひつうの感かんに責せめ訶さいなまれた。

村の若者は、彼にとっては敵である。

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村落むらの若者わかものは彼かれの爲ためには仇敵きうてきである。

それと同時に、若者にとっては彼はまむしの毒きばのようなものにちがいない。

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それと同時どうじに若者わかものの爲ためには彼かれは蝮蛇まむしの毒牙どくがの如ごときものでなければ成ならぬ。

それでいながら、少しのいげんも力もない彼は、すべての若者から、彼をいらだたせるいたずらでむくいられた。

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其それでありながら些さの威嚴ゐげんも勢力せいりよくもない彼かれは凡すべての若者わかものから彼かれを苛立いらだたしめる惡戯いたづらを以もつて報むくいられた。

青草の中に身をひそめている毒へびに、直接手をふれようとする者は一人もいないけれど、遠くから土くれを投げたり、棒の先でつついたり、むだに怒るきばをふるわせることは、彼らの好んですることだった。

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青草あをくさの中なかに身みを沒ぼつして居ゐる毒蛇どくじやに直接ちよくせつ手てを觸ふれようとするものは一人にんもないけれど、遠とほくから土塊どくわいを擲ほつたり、棒ぼうの先さきでつゝいたり徒いたづらに怒おこる牙きばを振ふるはせることは彼等かれらの好このんでする處ところであつた。

勘次のけずったようにやせた顔が、いつでもひがんで、しかも怒りやすいのを、彼らはあざけりの目で遠くからのぞくのである。

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勘次かんじの削けづつたやうな痩やせた顏かほが何時いつでも僻ひがんでさうして怒おこり易やすいのを彼等かれらは嘲笑てうせうの眼まなこを以もつて遠とほくから覗のぞくのである。

彼らは夜、かきねのそばに立って指を口にくわえてぴゅうぴゅうとはげしく鳴らしてみたり、戸口の近くにこっそり下駄の歯のあとをつけておいたり、勘次がねむりに落ちようとするころ、作り声を使っておつぎを呼んだりした。

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彼等かれらは夜よる垣根かきねの側そばに立たつて指ゆびを口くちに啣くはへてぴゆう/\と劇はげしく鳴ならして見みたり、戸口とぐちに近ちかく竊ひそかに下駄げたの齒はの趾あとを附つけて置おいたり、勘次かんじが眠ねむりに落おちようとする頃ころ假聲こはいろを使つかつておつぎを喚よんだりした。

勘次はそのたびに心がいらだったけれど、きりでもつかむような、だれのしわざとも分からないいたずらを、どうすることもできなかった。

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勘次かんじは其その度たびに心こゝろが苛立いらだつたけれど、霧きりでも捉つかむ樣やうな、誰たれの所爲しよゐとも判明はんめいしない惡戯いたづらをどうすることも出來できなかつた。

しかし、目に見えるえいきょうのないいたずらは、長くはつづかなかった。

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然しかし表面へうめんに現あらはれた影響えいきやうの無ない惡戯いたづらは永ながく持續ぢぞくしなかつた。

春は冬から遠く、そしてまた冬ととなり合っている。

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春はるは冬ふゆに遠とほくして又また冬ふゆと相あひ隣となりして居ゐる。

季節の移り変わりをくり返しながら、月日は容しゃなく過ぎた。

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季節きせつの變化へんくわを反覆くりかへしつゝ月日つきひは容赦ようしやなく推移すゐいした。

一二

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一二

冬は低く地をはってしずんだ。

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冬ふゆは低ひくく地ちを偃はうて沈しづんだ。

旧れきのくれが近くなって、結こん式の多く行われる季節が来た。

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舊暦きうれきの暮くれが近ちかく成なつて婚姻こんいんの多おほく行おこなはれる季節きせつが來きた。

町の建具屋の店先に置かれたたんすや長持ちから、そまつな金具が光るのを見るようになった。

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町まちの建具師たてぐしの店先みせさきに据すゑられた簟笥たんすや長持ながもちから疎末そまつな金具かなぐが光ひかるのを見みるやうに成なつた。

おつぎが通ったおはりの先生の家でも、嫁が決まった。

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おつぎが通かようた針はりの師匠ししやうの家うちでも嫁よめが極きまつた。

その当日になると、おはりの子たちはみな、しまっておいた半纏へ赤いたすきをかけて、そこらのそうじやら、いもや大根を洗うことやら、朝から大さわぎをして笑いながら手伝いをした。

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其その當日たうじつに成なると針子はりこは孰いづれも藏しまつて置おいた半纏はんてんへ赤あかい襷たすきを掛かけて、其處そこらの掃除さうぢやら、芋いもや大根だいこんを洗あらふことやら朝あさから大騷おほさわぎをして笑わらひながら手傳てつだひをした。

おつぎも行って、みんなといっしょに働いた。

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おつぎも行いつて皆みんなと一緒しよに働はたらいた。

おつぎは赤い糸のもようの半纏で、もえぎ色のたすきをかけていた。

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おつぎは赤絲大名あかいとだいみやうの半纏はんてんで萌黄もえぎの襷たすきを掛かけて居ゐた。

おはりの子たちは毎年、春がやっと暖かくなって百姓の仕事がいそがしくなると、次の冬まで休みにするといって、一日みんなでくわを持って畑の仕事の手伝いに行く。

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針子等はりこらは毎年まいねん春はるが漸やうやく暖あたゝかく成なつて百姓ひやくしやうの仕事しごとが忙いそがしくなると又またの冬ふゆまで暇ひまをとるとて一日にち皆みんなで鍬くはを持もつて畑はたけの仕事しごとの手傳てつだひに行ゆく。

広くもない畑へ全員が一度にくわを入れるので、めいめいがおたがいのじゃまになりながら、人数の半分はいつもくわの柄をつえにして立っては、遠くへ目をやりながら笑いさざめく。

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廣ひろくもない畑はたけへ残のこらずが一度どに鍬くはを入いれるので各おの/\が互たがひに邪魔じやまに成なりつゝ人數にんずの半なかばは始終しじう鍬くはの柄えを杖つゑに突ついては立たつて遠とほくへ目めを配くばりつゝ笑わらひさゞめく。

彼女たちの白い手ぬぐいが集まって、はるか遠くから人の目を引くほかは、先生の家に特に得になることもなく、彼女たち自身だけが一日を楽しく過ごせるのである。

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彼等かれらの白しろい手拭てぬぐひが聚あつまつて遙はるかに人ひとの目めを惹ひく外ほか師匠ししやうの家うちに格別かくべつの利益りえきもなく彼等かれら自分等じぶんらのみが一日にちを樂たのしく暮くらし得うるのである。

だから彼女たちは、結こん式の当日にも仕事のわりにはあまりに人数が多すぎるので、一つの仕事に集まっては、のんきなようすでしゃべるのだった。

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其それだから彼等かれらは婚姻こんいんの當日たうじつにも仕事しごとの割合わりあひにしては餘あまりに多人數たにんずに過すぎるので、一ひとつ仕事しごとに集あつまつては屈託くつたくない容子ようすをして饒舌しやべるのであつた。

「どういうお嫁さんだろうな」

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「どうえ嫁樣よめさまだんべな」

「きれいな人だろうな」

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「善ええ女をんなだんべえな」

「早く来ればいいな、おれは見たいな」

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「早はやく來くればえゝな、俺おら見みてえな」

彼女たちはそんなことばかりくり返しながら、ひそひそとささやいた。

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彼等かれらはさういふことをすら口々くち/″\に反覆くりかへしつゝ密々ひそ/\と耳語さゝやいた。

「おしろいをつけて来るんだな」

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「白粉おしろい附つけて來くんだな」

いちばん年下の子が言った。

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一番ばん年としの少すくない子こがいつた。

「どうしたもんだい、おしろいをつけるんだろうかとまあ」

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「どうしたもんだえ、白粉おしろい附つけんだんべかとまあ」

年上の子が笑った。

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年嵩としかさが笑わらつた。

「水おしろいを持って来るんだか知れないぞ」

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「水白粉みづおしろい持もつて來くんだか知しんねえぞ」

「ただの水みたいなおしろいもあるんだって言ったっけぞ」

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「只たゞの水みづ見みてえな白粉おしろいも有あんだつて云ゆつけぞ」

彼女たちはそういうたわいのないせんさくから、それから

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彼等かれらはさういふ罪つみのない穿鑿せんさくからそれから

「おれはお給仕に出なくちゃならないか知れないが、はずかしくていやだな」

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「俺おらお給仕きふじに出でなくつちや成なんねえか知しんねえが、耻はづかしくつて厭やだな」

「お嫁さんはもっとはずかしいだろうな」

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「嫁樣よめさままつと耻はづかしかつぺな」

「そんだが、おれはお嫁さんの着物がどんなのか見たいもんだな」

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「そんだが俺おら嫁樣よめさまの衣物きものどういんだか見みてえもんだな」

と、半分は楽しみのような、半分は心配のような、たがいの気持ちを語り合うのだった。

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半分はんぶんは望のぞむやうな半分はんぶんは氣遺きづかふやうな互たがひの心こゝろを語かたるのであつた。

夜になって、板の間のむすめたちが座敷のほうへ呼ばれたころ、勝手口に村の若者が五、六人立った。

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夜よに成なつて板いたの間まの娘等むすめらが座敷ざしきの方はうへ引ひかれた頃ころ勝手口かつてぐちに村落むらの若者わかものが五六人にん立たつた。

彼らは結こん式の夜には必ず決まっている、例のうどんをもらいに来たのである。

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彼等かれらは婚姻こんいんの夜よには屹度きつと極きまつた例ためしの饂飩うどんを貰もらひに來きたのである。

昼のうちに用意されたうどんが、彼らに与えられた。

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晝ひるの間あひだに用意よういされた饂飩うどんが彼等かれらに與あたへられた。

彼らの手には、うどんの大きなざると二升だると、それからしょうゆの入れ物であるビールびんとが提げられた。

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彼等かれらの手てには饂飩うどんの大おほきな笊ざると二升樽しようだるとそれから醤油しやうゆの容器いれものである麥酒罎ビールびんとが提さげられた。

かきねの外へ出たとき、彼らは作り声を出してどっとはやし立てて、またはやした。

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垣根かきねの外そとへ出でた時とき彼等かれらは假聲こわいろを出だしてどつと囃はやし立たてゝ又また囃はやした。

彼らは道々もさわぐのをやめないで、とうとう村の念仏堂へ引きあげた。

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彼等かれらは途次みちみちも騷さわぐことを止やめないで到頭たうとう村落むらの念佛寮ねんぶつれうへ引ひきとつた。

そこには、これもどてらをかぶった彼らの仲間が、いろりへしばをくべて暖まりながら待っていた。

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其處そこには此これも褞袍どてらを被はおつた彼等かれらの伴侶なかまが圍爐裏ゐろりへ麁朶そだを燻くべて暖あたゝまりながら待まつて居ゐた。

念仏の人たちが使っているなべや土びんや茶わんが、ただごたごたと投げ出してあった。

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念佛衆ねんぶつしゆうの使つかつて居ゐる鍋なべや土瓶どびんや茶碗ちやわんが只たゞごた/\と投なげ出だされてあつた。

台つきの手ランプは、近所から借りて来たのだった。

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臺だいつきの手てランプは近所きんじよから借かりて來きたのであつた。

しばのほのおが、手ランプに光をそえていた。

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麁朶そだの焔ほのほが手てランプに光ひかりを添そへて居ゐた。

結こん式の席では、お酒の後には長くつづくようにという縁起をかついで、一つには料理がかんたんなのとで、うどんをふるまうのである。

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婚姻こんいんの席上せきじやうでは酒さけの後あとには長ながく繼つながる樣やうといふ縁起えんぎを祝いはうて、一ひとつには膳部ぜんぶの簡單かんたんなのとで饂飩うどんを饗もてなすのである。

そばは短く切れるといって、どこでもきらった。

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蕎麥そばは短みじかく切きれるとて何處どこでも厭いとうた。

どんな結こん式でも、それを若い衆がもらいに行く。

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どんな婚姻こんいんでもそれを若わかい衆しゆが貰もらひに行ゆく。

貧しい家であれば、彼らはいくら少なくても文句を言わない。

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貧乏びんばふな所帶しよたいであれば彼等かれらは幾いくら少量せうりやうでも不足ふそくをいはぬ。

しかし、いくらか財産を持っていると彼らが思っている家でそれをおしめば、彼らは不平を言って止まない。

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然しかし多少たせうの財産ざいさんを有いうして居ゐると彼等かれらが認みとめて居ゐる家うちでそれを惜をしめば彼等かれらは不平ふへいを訴うつたへて止やまぬ。

どうかすると、暗い木かげにひそんでいて、お嫁さんの車が近づいたとき、いきなりその車をひっくり返してやれというような、おどしのような言葉さえ吐くことがある。

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どうかすると闇くらい木陰こかげに潜伏せんぷくして居ゐて嫁よめの車くるまが近ちかづいた時とき突然とつぜん、其その車くるまを顛覆てんぷくさせてやれといふやうな威嚇的ゐかくてきの暴言ばうげんをすら吐はくことがある。

しかしこれまで、そんなことはめったになく、特に問題になるほどのことも起こらなかった。

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然しかし從來じゆうらい其麽そんなことは滅多めつたになく、別段べつだんに認みとむべき弊害へいがいが伴ともなふのでもないのであつた。

それでふつう、どの家でも彼らが満足するだけの量を、前もって用意しているのである。

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それで普通ふつうどの家うちでも彼等かれらが滿足まんぞくを買かひ得うる分量ぶんりやうを前以まへもつて用意よういして居ゐるのである。

彼らは、そういう夜にどてらをかぶって他人の裏の戸口に立たなければならない理由を、一つも持っていない。

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彼等かれらはさういふ夜よに褞袍どてらを被かぶつて他人たにんの裏戸口うらどぐちに立たたねば成ならぬ必要ひつえうな條件でうけんを一ひとつも有もつて居ゐない。

ただ彼らはみな、藁を打って縄をなうという夜の仕事を捨てて、大手をふっていっしょに集まる機会を求めている。

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只たゞ彼等かれらの凡すべては藁わらを打うつて繩なはを綯なふべき夜よるの務つとめを捨すてて公然こうぜん一所しよに集合しふがふする機會きくわいを見出みいだすことを求もとめて居ゐる。

集まることが、すぐに彼らに楽しみを与えるからである。

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集合しふがふすることが直たゞちに彼等かれらに娯樂ごらくを與あたへるからである。

男女が、しかも他人の手を借りて一つになる結こん式のことを思いうかべることで、彼らの心がなんとなく刺げきされる。

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兩性りやうせいが然しかも他人たにんの手てを藉かりて一ひとつに成なる婚姻こんいんの事實じじつを聯想れんさうすることから彼等かれらの心こゝろが微妙びめうに刺戟しげきされる。

彼らはみな、すでに異性を知り、また知ろうとしている。

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彼等かれらの凡すべては悉ことごとく異性いせいを知しり又また知しらんとして居ゐる。

彼らは他人の目をぬすむのに多くのじゃまがあり、そのために慕い合う思いがむしろかえって強く、長つづきすることさえありながら、当人である彼らにはうるさいそのじゃまをこっそり取りのぞかなければならないじれったさが止まないのに、まわりのみんなが杯を挙げてくれる、その夜の当人同士を思いうかべるとき、彼らはうすいねたみをわかさずにいられない。

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彼等かれらは他人たにんの目めを偸ぬすむのには幾多いくたの支障さはり、それは其その爲ために相あひ慕したふ念慮ねんりよが寧むしろ却かへつて熾さかんに且かつ永續えいぞくすることすら有ありながら、當事者たうじしやたる彼等かれらには五月繩うるさい其その支障さはりをこつそりと拂はらひ退のけねば成ならぬ焦燥じれつたい感かんが止やまないのに、周圍しうゐの凡すべてが杯さかづきを擧あげてくれる其その夜よの當人同士たうにんどうしを念頭ねんとうに浮うかべる時とき彼等かれらは淡あはい嫉妬しつとを沸わかさねば成ならぬ。

それで彼らの心には、食ってやれ、飲んでやれ、そうしてやらねば気が済まないという思いが、そろってわき起こるのである。

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それで彼等かれらの心こゝろには喰くつてやれ、飮のんでやれ、さうして遣やらねば腹はらが癒いえぬといふ觀念くわんねんが期きせずして一致いつちするのである。

ざるで運んだうどんが、大人数の彼らにとても十分な満足を与えられるものではない。

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笊ざるで運はこんだ饂飩うどんが多人數たにんずうの彼等かれらに到底たうてい十分ぶんの滿足まんぞくを與あたへ得うるものではない。

しかし彼らは、そんなことは気にしない。

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然しかし彼等かれらは其麽そんなことに頓着とんぢやくを持もたぬ。

お酒がすすけた土びんで温められた。

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酒さけが煤すゝけた土瓶どびんで沸わかされた。

彼らはめいめい茶わんへ注いで、ぐいと飲んだ。

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彼等かれらは各自かくじに茶碗ちやわんへ注ついでぐいと飮のんだ。

そこには温めかげんも何もなかった。

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其處そこには燗かんの加減かげんも何なにも無なかつた。

めいめいの喉がそれを求めるのではなくて、一種のならわしが彼らにそうさせるのである。

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各自かくじの喉のどがそれを要求えうきうするのではなくて一種しゆの因襲いんしふが彼等かれらにそれを強しひるのである。

彼らはじりじりと喉がこげるように感じても、にがい顔をしかめながら飲んでみる者さえある。

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彼等かれらはじり/\と喉のどが焦こげる樣やうに感かんじても苦にがい顏かほを蹙しかめつゝ飮のんで見みる者ものさへある。

わりと少ないお酒が、注ぐたびに手にするたびにむしろの上にこぼれても、彼らはおしまない。

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比較的ひかくてき少量せうりやうな酒さけが注つぐ度たびに手てにする度たびに筵むしろの上うへに滾こぼれても彼等かれらは惜をしまない。

彼らはそれから、茶わんもはしもべたりとむしろの上へ置いて、ただ水にしょうゆを差しただけのつゆにひたして、さわがしくうどんをすすった。

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彼等かれらはそれから茶碗ちやわんも箸はしもべたりと筵むしろの上うへへ置おいて、單純たんじゆんに水みづへ醤油しようゆを注さした液汁したぢに浸ひたして騷々敷さう/″\しく饂飩うどんを啜すゝつた。

彼らはふだんでもそうなのに、お酒のせいでいくらか興ふんしているので、めいめいの口からさらに聞くにたえない乱ぼうな言葉が出た。

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彼等かれらは平生へいぜいでもさうであるのに酒さけの爲ために幾分いくぶんでも興奮こうふんして居ゐるので、各自かくじの口くちから更さらに聞きくに堪たへぬ雜言ざふごんが吐はき出だされた。

行ぎの悪い言葉に慣れきっている彼らは、どうしたらたがいをおどろかせられるかと苦心していたかと思うような下品な一言が、とつぜんだれか一人の口から出ると、ほかの一人がまたそれに答えた。

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不作法ぶさはふな言辭げんじに麻痺まひして居ゐる彼等かれらはどうしたら相互さうごに感動かんどうを與あたへ得うるかと苦心くしんしつゝあつたかと思おもふ樣やうな卑猥ひわいな一句くが唐突だしぬけに或ある一人にんの口くちから出でると他たの一人にんが又またそれに應おうじた。

彼らのあいだには、よそ者はまじっていない。

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彼等かれらの間あひだには異分子いぶんしを交まじへて居をらぬ。

彼らはときによっては、おそれてひかえめにして、体が縮んだようになるほど、物におびえるくせがある。

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彼等かれらは時ときによつては怖おそれて控目ひかへめにしつゝ身體からだが萎縮すくんだやうに成なつて居ゐる程ほど物ものに臆おくする習慣しふくわんがある。

しかしこうして仲間だけが集まれば、ほとんど別人である。

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然しかし恁かうして儕輩さいはいのみが聚あつまれば殆ほとんど別人べつじんである。

うどんがなくなって、茶わんが乱ざつに投げ出されたとき、夜がおそいことなど気にしない彼らは、それからしばらく止めどもなくおしゃべりにふけった。

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饂飩うどんが竭つきて茶碗ちやわんが亂雜らんざつに投なげ出だされた時とき夜よるの遲おそいことに無頓着むとんぢやくな彼等かれらはそれから暫しばらく止とめどもなく雜談ざつだんに耽ふけつた。

彼らはついに、自分の村に正式な式をあげていない夫婦が何組あるかということまで数え出した。

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彼等かれらは遂つひに自分じぶんの村落むらに野合やがふの夫婦ふうふが幾組いくくみあるかといふことをさへ數かぞへ出だした。

あっちからもこっちからも、それが数えられた。

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そつちからもこつらからも其それが數かぞへられた。

左手の指を二度曲げて二度起こしても、数えきれなかった。

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左手さしゆの指ゆびが二度ど曲まげて二度ど起おこされても盡つくせなかつた。

もちろん、しまいには連れ合いをなくした人まで指を折って数えられた。

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勿論もちろん畢しまひには配偶はいぐうの缺かけたものまで僂指るしされた。

それらの夫婦のあいだに生まれた者も、何人か彼らの中にまじっていた。

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其それ等らの夫婦ふうふの間あひだに生うまれた者ものも幾人いくにんか彼等かれらの間あひだに介在かいざいして居ゐた。

さすがにその何人かは、自分の父母が呼ばれるので、にがい笑いをかみ殺してひかえている。

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有繋さすがに其その幾人いくにんは自分じぶんの父母ふぼが喚よばれるので苦にがい笑わらひを噛かんで控ひかへて居ゐる。

すると、ほかの者はそれを面白がって、がやがやとはやし立てた。

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さうすると他たの者ものはそれを興きようあることにがや/\と囃はやし立たてた。

話が少しだれたとき

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噺はなしが少すこしだれた時とき

「勘次さんらみたいなのはな、ありゃ数には入らないもんだろうか」

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「勘次かんじさん等ら見みてえなゝ、ありや勘定かんぢやうにやへえんねえもんだんべか」

とどなった者があった。

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と呶鳴どなつたものがあつた。

このとつぜんの言葉で、しばらく静まっていた彼らは急に元気が出て、手をたたいた。

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此この唐突たうとつな發言はつげんで暫しばらく靜止せいしして居ゐた彼等かれらは俄にはかに威勢ゐせいが出でて拍手はくしゆした。

「勘次さんに聞いてみろ」

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「勘次かんじさんに聞きいて見みろ」

という声がすみのほうから出た。

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といふ聲こゑが隅すみの方はうから出でた。

「そんなこと言ったっくらい、ぶんなぐられらあ、ばか臭え」

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「其麽そんなこと云ゆつたつ位くれえ、打ぶん擲なぐらつら篦棒臭べらぼうくせえ」

打ち消す声が聞こえた。

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打うち消けす聲こゑが聞きこえた。

「そんじゃ、おつぎに聞いてみろ」

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「そんぢや、おつぎに聞きいて見みろ」

「足でもへし折られるぞ」

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「足あしでも打折ぶつちよられんなえ」

「たきぎの棒をふり回されてか」

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「薪雜棒まきざつぽうふられてか」

笑い声が入りまじって、堂の中はいっそうさわがしくなった。

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笑聲せうせいが雜然ざつぜんとして寮れうの内うちは一層そう騷さわがしく成なつた。

「今日あたりも見ろ、角の店でやけ酒を飲んで怒ってたっけぞ」

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「今日けふらも見みろ、角かどの店みせで自棄酒やけざけ飮のんで怒おこつてたつけぞ」

一人が自まんらしく、新しい話を持ち出した。

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一人ひとりが自慢じまんらしく新あらたな事實じじつを提供ていきようした。

「どうしてよ」

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「どうしてよ」

みんなが耳をそばだてた。

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一同どうが耳みゝを峙そばだてた。

「おつぎをおはりの子らといっしょに手伝いにやったのを知ってるだろうな」

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「おつぎことお針はりつ子等こらと一緒しよに手傳てづでえに遣やつたの知しつてべな」

「知ってらあな、そら」

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「知しつてらなそら」

「そんでよ、手伝いにやっていても、もう、日暮れになったら、そわそわしてじっとしちゃいられないんだ。そんでぐずぐず言ってるのが面白いから、おれは聞いてたのさ。ちょうどいい塩梅に、おれはぞうりを買いに行って出くわしてな」

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「そんでよ、手傳てづでえに遣やつてゝも、はあ、日暮ひぐれに成なつたら、あつかもつかして凝然ぢつとしちや居ゐらんねえんだ、そんで愚圖ぐづ/\云ゆつてんの面白おもしれえから俺おら聞きいてたな、丁度ちやうどえゝ鹽梅あんべえに俺おれ草履ざうり買かひに行いつて出でつかせてな」

「毎日日暮れじゃないかい、徳利を立ててるのは」

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「毎日暮まいひぐれぢやねえけ徳利とつくりおつ立たてゝんな」

「そうなんだ。近ごろくわを使って骨が折れるからと言って、仕事が終わっちゃ一合くらい引っかけてすぐ行っちまうんだと言ったっけが、それが今日は早くから来てたんだって言うのさ。店のおとっつあんに聞いたのさ、おれは」

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「さうなんだ、近頃ちかごろ唐鍬たうぐは使つけえ骨ほね折おれつからつて仕事しごと畢しまつちや一合がふ位ぐれえ引ひつ掛かけて直すぐ行いつちやあんだつちけが、それ今日けふは早はやくから來きてたんだつちきや、店みせのおとつゝあに聞きいたな俺おら」

話し手は、自分がまず面白くなったようにまた言った。

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噺手はなしては自分じぶんが先まづ興きように入いつた樣やうに又またいつた。

「おれは今日、うまい所を聞いちまったな」

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「俺おら今日けふうめえ處とこ聞きいつちやつたな」

「何て言ったっけ」

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「何なんだつて云ゆつけ」

「ひどいあまだ、夕飯も何も仕方がありゃしないなんてな、独りでぐずぐず言ってな。そんで与吉のことを何度も迎えにやってな。そうすると、あの与吉の野郎がまた、今すぐにうどんをごちそうしてよこすとう、なんてのたのた帰って来るんだ。そうすると、また、だめだお前は、もう一度行って来い、すぐ来いって言うんだぞ、なんて怒ったみたいになあ。おれはおかしくて仕方がなかったっけぞ」

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「酷ひでえ阿魔あまだ、夕飯ゆふめしも何なにも仕しやうありやしねえなんてな、獨ひとりでぐうづ/″\云ゆつてな、そんで與吉よきちこと何遍なんべんも迎むけえに遣やつてな、さうすつとあの與吉よきちの野郎やらうまた、今いま直すぐに饂飩うどん饗ふるまつてよこすとう、なんてのたくり/\歸けえつて來くんだ、さうすつと又また駄目だめだ汝わりや復また行いつて來こう、直すぐに來こうつて云ゆふんだぞなんて怒おこつた見みてえになあ、俺おら可笑をかしくつて仕樣しやう無なかつたつけぞ」

話し手は左右を向きながら言った。

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噺手はなしては左右さいうを向むきつゝいつた。

みんなまた手をたたいてはやし立てた。

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皆みな復また拍子ひやうしして囃はやし立たてた。

「そんじゃすぐよこしただろう」

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「そんぢや直すぐよこしたつぺ」

「うん、とちゅうで行き会ったんだろう。すぐ来たっけや」

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「うむ、途中とちうで行逢いきやつたんだんべ、直すぐ來きたつきや」

「あっちだって、それくらい知ってらあな」

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「あつちだつて其その位くれえ知しつてらな」

「おつぎは店へ寄ったっけか」

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「おつぎは店みせへよつたつけか」

二人が一度に言った。

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二人ふたりが一度どにいつた。

「寄らないや。そうしたら、おつう、なんておとっつあんが呼んだんだ。たいした声してな。そんでもおつうは行っちまうのよ。そうしたらまた、おつう、なんてどなってな、勘定するのにも慌ててお金を落っことしたりして、後からかけて行ったんだ。五合も飲んだだろうって言ったっけな。こわい目つきをしちまってな。そんだが、おつぎは言うことを聞かないぞ、なかなか。つっつっと行っちまってな」

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「寄よんねえや、さうしたらおつう、なんておとつゝあ喚よばつたんだ、たいした聲こゑしてな、そんでもおつうは行いつちまあのよ、さうしたら又また、おつうなんて呶鳴どなつてな、勘定かんぢやうすんのにも慌あわくつて錢ぜに落おつことしたり何なんかして後あとから駈かけてつたんだ、五合がふも飮のんだつぺつちけな、可怖おつかねえ目めつきしつちやつてな、そんだがおつぎは聽きかねえぞなか/\、つツ/\と行いつちやつてな」

話し手はしばらく口を閉じた。

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噺手はなしては暫時しばし口くちを鎖とざした。

「今日は若い衆らが行くと思って、もう、夜まで置けないんだな」

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「今日けふは若わけえ衆等しら行いくと思おもつてはあ、夜よるまで置おけねえんだな」

「決まってらあな」

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「極きまつてらあな」

「そんだって、ばかばかしい。若い衆らだって、そういうことばかりするもんじゃない。つまらない」

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「そんだつて箆棒べらぼう、若わけえ衆等しらだつてさうだことばかりするものぢやねえ、詰つまんねえ」

憤慨してこう言う者も

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憤慨ふんがいしてかういふものも

「みっともないも何にも知らないんだな」

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「外聞げえぶん惡わりいも何なんにも知しんねえんだな」

あざけりの意味ではあるが、どことなくしずんで、またこう言う者もあった。

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嘲笑てうせうの意味いみではあるが何處どことなく沈しづんで又また斯かういふ者ものも有あつた。

「おつぎはそんだが、髪をてかてか光らせた所らはきれいになっちまったっけぞ」

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「おつぎはそんだが頭髮あたまてか/\光ひからかせた處とこら善よく成なつちやつたつけぞ」

急に思い出したように、さっきの話し手が言った。

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俄にはかに思おもひ出だした樣やうに先刻せんこくの噺手はなしてがいつた。

「そんで、おとっつあんはよけいに仕方がなくなっちまったんだろう」

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「そんで、おとつゝあ餘計よけい仕しやう無なくなつちやつたんだんべえ」

しりにくぎをさして台に乗っている手ランプのすすが、あっちへこっちへなびく光の下で、茶わんをはしでたたきながら、またわあっとさわぎ出した。

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臀しりへ釘くぎを揷さして臺だいに乘のつて居ゐる手てランプの油煙ゆえんがそつちへこつちへ靡なびく光ひかりの下もとに茶碗ちやわんを箸はしで叩たゝきながら又またわあつと騷さわぎ出だした。

勘次は今、開こんの仕事のおかげで、春までには主人の手から三、四十円のお金をもらえるようにまでなった。

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勘次かんじは今いま開墾かいこんの仕事しごとの爲ために春はるまでには主人しゆじんの手てから三四十圓ゑんの金かねを與あたへられる樣やうにまで成なつた。

大部分は借金の古いあなをうめるのに消えても、彼はふところに苦しさを感じない程度にはなった。

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大部分だいぶぶんは借財しやくざいの舊ふるい穴あなへ埋うめても彼かれは懷ふところに窮屈きうくつを感かんじない程度ていどに進すゝんだ。

一円のお金がいつもさいふにあるなら、彼らは嘆くことはないのである。

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一圓ゑんの錢ぜにが絶たえず財布さいふに在あり得うるならば彼等かれらは嘆なげく處ところは無ないのである。

彼はただ、主人をたよってさえいればいいと思っている。

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彼かれは只たゞ主人しゆじんに倚よつて居ゐさへすれば善よいと思おもつて居ゐる。

こういうえんりょのないかげ口をたたかれるまでには、苦しい三、四年を過ごして来たのである。

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恁かういふ遠慮ゑんりよのない蔭口かげぐちを利きかれるまでには苦くるしい間あひだの三四年ねんを過すごして來きたのである。

彼の暮らしは、ほっかりと夜明けの光を見たのだった。

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彼かれの生活せいくわつはほつかりと夜明よあけの光ひかりを見みたのであつた。

おつぎはこのとき、二十の声を聞いていたのである。

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おつぎは此この時とき廿はたちの聲こゑを聞きいて居ゐたのである。

一三

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一三

初秋の風がつるしっぱなしのかやのすそをさらさらとふいて、とっくにとうもろこしがかまどの灰の中でぱりぱりと勢いよく燃える麦藁の火に焼かれて、そのからがあっちにもこっちにも捨てられる。

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初秋しよしうの風かぜが吊放つりはなしの蚊帳かやの裾すそをさら/\と吹ふいて、疾とうから玉蜀黍たうもろこしが竈かまどの灰はひの中なかでぱり/\と威勢ゐせいよく燃もえる麥藁むぎわらの火ひに燒やかれて、其その殼からがそつちにもこつちにも捨すてられる。

畑の仕事がしばらく片づいて、百姓の家にはお盆が来た。

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畑はたけの仕事しごとが暫時ざんじ極きまりがついて百姓ひやくしやうの家いへには盆ぼんが來きた。

その日も昼過ぎまで仕事をしていた勘次は、それでもあわただしく庭にほうきを入れて、目立つ草はかまの刃先でかき切った。

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其その日ひも晝過迄ひるすぎまで仕事しごとをして居ゐた勘次かんじはそれでも慌あわたゞしく庭にはへ箒はうきを入いれて目めに立たつ草くさは鎌かまの刄先はさきで掻かつ切きつた。

戸もしょうじもないすすけきった仏だんは、おつぎを使って仏具やそのほかのそうじをして、さいの目に刻んだなすを盛ったいもの葉と、さびしいみそはぎの短い小さな花たばとを供えた。

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戸とも障子しやうじもない煤すゝけ切きつた佛壇ぶつだんはおつぎを使つかつて佛器ぶつきや其その他たの掃除さうぢをして、賽さいの目めに刻きざんだ茄子なすを盛もつた芋いもの葉はと、寂さびしいみそ萩はぎの短みじかい小ちひさな花束はなたばとを供そなへた。

みそはぎのそばには、茶わんにいっぱいの水がそなえられた。

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みそ萩はぎの側そばには茶碗ちやわんへ一杯ぱいに水みづが沒くまれた。

夕方近くなってから、三人は雨戸を閉めて、火のついていないちょうちんを持って田んぼをこえて墓地へ行った。

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夕方ゆふがた近ちかく成なつてから三人にんは雨戸あまどを締しめて、火ひのない提灯ちやうちんを持もつて田圃たんぼを越こえて墓地ぼちへ行いつた。

お品の塔婆の前に、それからそこらじゅうの墓石の前に線香を少しずつ供えて、火をつけてほっかりと赤くなったちょうちんを提げてもどった。

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お品しなの塔婆たふばの前まへにそれから其處そこら一杯ぱいの卵塔らんたふの前まへに線香せんかうを少すこしづゝ手向たむけて、火ひを點つけてほつかりと赤あかく成なつた提灯ちやうちんを提さげて戻もどつた。

あの世から来たほとけさまがその火に宿ったしるしだといって、必ずちょうちんは墓地で火をつけるのである。

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冥途めいどから來きた佛ほとけが其その火ひに宿やどつたしるしだといつて必かならず提灯ちやうちんが墓地ぼちから點つけられるのである。

おつぎは勘次のふところがいくらか暖かくなったので、安物ではあるが、中形のゆかたも作ってもらった。

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おつぎは勘次かんじの懷ふところが幾いくらか暖あたゝかに成なつたので、廉物やすものではあるが中形ちうがたの浴衣地ゆかたぢも拵こしらへて貰もらつた。

おつぎはもう十九の秋だった。

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おつぎはもう十九の秋あきであつた。

おつぎはそのゆかたを着て、お品の墓へ行ったのである。

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おつぎは其その浴衣地ゆかたぢを着きてお品しなの墓はかへ行いつたのである。

髪は昼のうちに、近所のむすめ同士が汗じみたじゅばん一つのすがたで、たがいに結い合ったのである。

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髮かみは晝ひるの内うちに近所きんじよの娘同士むすめどうしが汗染あせじみた襦袢じゆばん一ひとつの姿すがたで互たがひに結ゆひ合あうたのである。

おつぎはゆかたに赤い帯をしめた。

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おつぎは浴衣地ゆかたぢへ赤あかい帶おびを締しめた。

勘次はこんのつつそでのひとえで、日に焼けた足が短いすそから出ていた。

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勘次かんじは紺こんの筒袖つゝそでの單衣ひとへで日ひに燒やけた足あしが短みじかい裾すそから出でて居ゐた。

おつぎの身なりはそばで見ればそまつでも、ところどころちらりちらりと白いほ先がのぞいて、たいていはまだ冴え冴えとした、ただ一まいの青いたたみをしいたような田んぼのあいだを、くっきりときわ立って目立つのだった。

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おつぎの裝よそほひは側そばでは疎末そまつであつても、處々ところ/″\ちらり/\と白しろい穗先ほさきが覗のぞいて大抵たいていはまだ冴さえ/″\として只たゞ一枚まいの青疊あをだゝみを敷しいた樣やうな田圃たんぼの間あひだをくつきりと際立きはだつて目めに立たつのであつた。

三人が田んぼを行き来してからしばらくして、村の中からは、どの家からもちょうちんを持って、田んぼの道を老人と子どもがぞろぞろ通った。

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三人にんが田甫たんぼを往復わうふくしてから暫しばらく經たつて村落むらの内うちからは何處どこの家いへからも提灯ちやうちん持もつて田甫たんぼの道みちを老人としよりと子供こどもとがぞろ/″\通とほつた。

勘次はちょうちんの火を、仏だんの灯明皿へうつした。

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勘次かんじは提灯ちやうちんの火ひを佛壇ぶつだんの燈明皿とうみやうざらへ移うつした。

すすけきった仏だんの菜種油の明かりは、遠い国からでも光って来るように、ぽっちりとかすかに見えた。

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煤すゝけ切きつた佛壇ぶつだんの菜種油なたねあぶらの明あかりは遠とほい國くにからでも光ひかつて來くるやうにぽつちりと微かすかに見みえた。

お母さんのよりもまず、白木のままのお品の位はいに、心のこもった線香のけむりがなびいた。

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お袋ふくろのよりも先まづ白木しらきの儘まゝのお品しなの位牌ゐはいに心こゝろからの線香せんかうの煙けぶりが靡なびいた。

勘次もおつぎも、みそはぎの小さな花たばの先を茶わんの水にひたして、その水をはらりといもの葉に盛ったなすへふりかけた。

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勘次かんじもおつぎもみそ萩はぎの小ちひさな花束はなたばの先さきを茶碗ちやわんの水みづに浸ひたして其その水みづをはらりと芋いもの葉はへ盛もつた茄子なすへ振ふり掛かけけた。

勘次は雨戸をいっぱいに開けた。

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勘次かんじは雨戸あまどを一杯ぱいに開あけた。

おつぎはゆかたをぬいでじゅばん一つになって、ざるに水を切っておいたもち米をかまどで蒸しはじめた。

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おつぎは浴衣ゆかたをとつて襦袢じゆばん一ひとつに成なつて、笊ざるに水みづを切きつて置おいた糯米もちごめを竈かまどで蒸むし始はじめた。

勘次ははだかでうすときねを洗って、のき先に置いた。

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勘次かんじは裸はだかで臼うすや杵きねを洗あらうて檐端のきばに据すゑた。

彼らはそういう仕事があるので、墓へ行くにも人より先に、とても急いだのだったが、それでも米が蒸せるまでには、家の中はうす暗くなっていた。

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彼等かれらはさういふ仕事しごとがあるので墓はかへ行ゆくにも人ひとよりも先立さきだつて非常ひじやうに急いそいだのであつたが、それでも米こめが蒸むせるまでには家いへの内うちは薄闇うすくらく成なつて居ゐた。

日がまだ落ちないうちから庭をのぞいていた月が白く、やがてそれがやや黄色みをおびて来て、庭のしげったかきの木やくりの木にほっかりとかげを落とした。

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日ひのまだ落おちない内うちから庭にはを覗のぞいて居ゐた月つきが白しろく、軈やがてそれが稍やゝ黄色味きいろみを帶おびて來きて庭にはの茂しげつた柿かきの木きや栗くりの木きにほつかりと陰翳かげを投なげた。

おつぎがいそがしくどさりとうすへ落とした蒸し米から、ぼうっと白いゆげが立った。

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おつぎが忙いそがしくどさりと臼うすへ落おとしたふかしからぼうつと白しろい蒸氣ゆげが立たつた。

そのゆげの中で、月が一瞬目をしかめて、すぐつやつやしたすがたになった。

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其その蒸氣ゆげの中なかに月つきが一瞬間しゆんかん目めを蹙しかめて直すぐにつやゝかな姿すがたに成なつた。

おつぎは熱い蒸し米をせいろうからしゃくしでうすへしごき落としながら、そばに立っている与吉に少しやった。

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おつぎは熱あついふかしを蒸籠せいろうから杓子しやくしで臼うすへ扱こき落おとしながら側そばに立たつて居ゐる與吉よきちへ少すこし遣やつた。

ほどよく蒸したその蒸し米を、与吉はうまそうに食べた。

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程ほどよく蒸むした其そのふかしを與吉よきちは甘相うまさうにたべた。

おつぎも指についたのを、前歯でかむようにして口へ入れた。

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おつぎも指ゆびに附ついたのを前齒まへばで噛かむやうにして口くちへ入いれた。

ゆげの立つうすを、勘次はしばらくきねの先でこねた。

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蒸氣ゆげの立たつ臼うすを勘次かんじは暫しばらく杵きねの先さきで捏こねた。

きねの先がねばってはなれなくなる。

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杵きねの先さきが粘ねばつて離はなれなく成なる。

おつぎは米とぎおけへ水をくんで、それにうかべたしゃくしできねの先をしごき落として、うすの中を丸い形に直す。

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おつぎは米研桶こめとぎをけへ水みづを汲くんでそれへ浮うかべた杓子しやくしで杵きねの先さきを扱落こきおとして臼うすの中なかを丸まるい形かたちに直なほす。

すると勘次は、力いっぱいうすの真ん中を打つ。

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さうすると勘次かんじは力ちからを極きはめて臼うすの中央ちうあうを打うつ。

それが何度もくり返された。

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それが幾度いくども反覆はんぷくされた。

庭の木立のかげが濃くなって、月の光はきらきらとうすから反しゃした。

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庭にはの木立こだちの陰翳かげが濃こく成なつて月つきの光ひかりはきら/\と臼うすから反射はんしやした。

蒸し暑い中にも、すべてが水のような月の光をあびて、すずしい風が土にふれてわたった。

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蒸暑むしあつい中うちにも凡すべてが水みづの樣やうな月つきの光ひかりを浴あびて凉すゞしい微風びふうが土つちに觸ふれて渡わたつた。

おつぎはうすから餅をちぎって、みょうがの葉に乗せて一つ一つおぜんへならべた。

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おつぎは臼うすから餅もちを拗切ねぢきつて茗荷めうがの葉はに乘のせて一ひとつ/\膳ぜんへ並ならべた。

少し丸みの欠けた十三日の月が、白くその一つ一つのみょうがの葉の上に光った。

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少すこし丸まるみを缺かいた十三日にちの月つきが白しろく其その一つ/\の茗荷めうがの葉はの上うへに光ひかつた。

冷たい水を打ったようなかきの葉がゆらゆらと動いて、後ろの林の竹のえだもさらさらと鳴った。

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冷水れいすゐを打うつた樣やうな柹かきの葉はがゆら/\と動うごいて後うしろの林はやしの竹たけの梢こずゑもさら/\と鳴なつた。

それでもいそがしいおつぎは、汗を流しながら、まずみょうがの餅を仏だんに供えた。

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それでも忙いそがしいおつぎは汗あせを流ながしながら先まづ茗荷めうがの餅もちを佛壇ぶつだんに供そなへた。

それから別にちぎった餅が、きな粉といっしょに手ランプの下に置かれた。

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それから別べつに拗切ねぢきつた餅もちが豆粉きなこと共ともに手てランプの下もとに置おかれた。

与吉はすぐに座敷にすわって待った。

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與吉よきちは直すぐに座敷ざしきへ坐すわつて待まつた。

晩ごはんが終わると、おどり子をさそう太鼓の音が、やっとしずまりかけた夜の空気をゆらして聞こえはじめた。

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晩餐ばんさんが畢をはると踊子をどりこを誘さそふ太鼓たいこの音おとが漸やうやく沈しづみ掛かけた夜氣やきを騷さわがして聞きこえ始はじめた。

のきに立った蚊柱がくずれて、やがて座敷をおそった。

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檐のきに立たつた蚊柱かばしらが崩くづれて軈やがて座敷ざしきを襲おそうた。

勘次は麦藁をひとつかみのき先へ投げて、刈った青草をそれへかけて、マッチの火をつけて、そしておさえつけた。

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勘次かんじは麥藁むぎわらを一捉ひとつかみ軒端のきばへ投なげて、刈かつた青草あをぐさをそれへ打ぶつ掛かけて、燐寸マツチの火ひを點つけてさうして抑おさへつけた。

ぷすぷすとくすぶるけむりが、蚊を遠くへ散らせる。

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ぷす/\と燻いぶる煙けぶりが蚊かを遠とほく散亂さんらんせしめる。

ぽっとほのおが立って燃え上がれば、水をかけた。

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ぽつと焔ほのほが立たつて燃もえあがれば水みづを打うつた。

彼らは目や鼻にしみる青いけむりの中で、はだかのままじっとしている。

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彼等かれらは目鼻めはなにしみる青あをい煙けぶりの中なかに裸體はだかの儘まゝ凝然ぢつとして居ゐる。

けむりがよそへそれれば、みであおいで家の中へ向かわせた。

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煙けぶりが餘所よそへ逸それゝば箕みで煽あふつて家いへの内うちへ向むかはせた。

おつぎは台所をかたづけて、それから井戸ばたで、だらだらとたれる汗を水でふいた。

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おつぎは勝手かつての始末しまつをしてそれから井戸端ゐどばたで、だら/\と垂たれる汗あせを水みづで拭ぬぐつた。

手ぬぐいをひたすたびに、小さな手水だらいの水から月がまったくかげを失って、しばらくすると手水だらいのまわりから集まるように、だんだんと月の形がまとまって見えて来る。

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手拭てぬぐひを浸ひたす度たびに小ちひさな手水盥てうずだらひの水みづに月つきが全まつたく其その影かげを失うしなつて暫しばらくすると手水盥てうずだらひの周圍しうゐから聚あつまる樣やうに段々だん/\と月つきの形かたちが纏まとまつて見みえて來くる。

おどり子をさそう太鼓の音が、自分の村のはすぐかきねの外のように、遠い村のはしげった林の向こうに、空にひびいて聞こえる。

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踊子をどりこを誘さそふ太鼓たいこの音おとが自分じぶんの村落むらのは直すぐ垣根かきねの外そとの樣やうに、遠とほい村落むらのは繁茂はんもして居ゐる林はやしの彼方あなたに空そらに響ひゞいて聞きこえる。

それが井戸ばたに立っているおつぎの心をさそった。

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それが井戸端ゐどばたに立たつて居ゐるおつぎの心こゝろを誘導そゝつた。

同い年の子はみなおどりに行くのである。

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同年輩どうねんぱいの子こは皆みな踊をどりに行ゆくのである。

おつぎにはいくらかそれがうらやましく、ぼうっとして太鼓に聞きほれていた。

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おつぎには幾分いくぶんそれが羨うらやましくぼうつとして太鼓たいこに聞きき惚ほれて居ゐた。

やわらかな月の光に、おつぎのはだは白く見えていた。

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軟やはらかな月つきの光ひかりにおつぎの肌膚はだは白しろく見みえて居ゐた。

おつぎは耳にひびく太鼓の音を聞きながら、まだ乱れていない髪を、少し首をかたむけながら両方の親指のまたで代わる代わる、後ろの髪を軽くしごいた。

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おつぎは耳みゝに響ひゞく太鼓たいこの音おとを聞ききながら、まだ縺ほつれぬ髮かみを少すこし首くびを傾かたむけつゝ兩方りやうはうの拇指おやゆびの股またで代かはり代がはりに髱たぼを輕かるく後うしろへ扱こいた。

おつぎは汗をふいて、さっぱりとした体へまたゆかたを着た。

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おつぎは汗あせを拭ぬぐつてさつぱりとした身體からだへ復また浴衣ゆかたを着きた。

「おとっつあん、あの太鼓はどこだろう」

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「おとつゝあ、あの太鼓たいこは何處どこだんべ」

おつぎは帯のはしを気にして、後ろへ手を回しながら聞いた。

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おつぎは帶おびの端はしを氣きにして後うしろへ手てを廻まはしながら聞きいた。

「どれ、あの遠くのがか。分かるもんか、どこだか」

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「どれ、あの遠とほくのがゝ、分わかるもんか何處どこだか」

勘次は、燃えた所だけがっくりへった蚊いぶしの青草に目を注ぎながら、気乗りしないように言った。

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勘次かんじは燃もえた處ところだけがつくりと減へつた蚊燻かいぶしの青草あをくさに目めを注そゝぎながら氣乘きのりのしない樣やうにいつた。

「おれらのほうへはまだ、よその村から来るころじゃあるまいな」

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「俺おら方はうへはまあだ、他村ほかむらから來くる頃ころぢやあんめえな」

「おとっつあんに分かるもんかよ、そんなこと」

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「おとつゝあ等らがにや分わかるもんかよ、そんなこと」

「そんでも、よその村から来るんだって言ったっけぞ。したくして来るんだって、おれは今日、髪を結ってて聞いたんだぞ」

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「そんでも、他村ほかむらから來くんだつて云ゆつけぞ、支度したくして來くんだつて俺おら今日けふ頭髮あたま結ゆつてゝ聞きいたんだぞ」

「そういう者はな、そういう者よ」

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「さうえ者もな、さうえ者ものよ」

「おれは行ってみよう。よきも行ってみろな、姉ちゃんといっしょに」

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「俺おら行いつてんべ、よきも行いつて見みろなあ、姉ねえと一緒しよに」

おつぎは独り言を言った。

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おつぎは獨語ひとりごとした。

「お前らのことばかりやれるかい」

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「汝わツ等らことばかし遣やれつかえ」

勘次はとつぜんどなった。

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勘次かんじは突然とつぜん呶鳴どなつた。

「そんでも、南のおっかさんが、行きたけりゃ連れて行くって言ったんだぞ」

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「そんでも、南みなみのおつかさん行ゆきたけりや連つれてくつちつたんだぞ」

「ばかを言え、そんなことされるかい。おどりなんざこの後何日だってあらあ。今夜あたりから行かなくたっていいから。他人に言われるともう、それに乗ってあおられあおられ出たがるんだから」

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「箆棒べらぼう、そんなことされつかえ、踊をどりなんざあ後あと幾日いくかだつてあらあ、今夜こんやらつから行えかねえつたつてえゝから、他人ひとに云ゆはれつとはあ、其それに乘のつてあふり/\出てたがんだから」

勘次は頭ごなしにしかりつけた。

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勘次かんじは一概がいに叱しかりつけた。

おつぎはしめかけた帯を解いて、そばへ投げ捨てた。

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おつぎは締しめ掛かけた帶おびを解といて傍そばへ投なげ棄すてた。

次の日の晩ごはんには、いつもの年のようにうどんが打たれた。

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次つぎの日ひの晩餐ばんさんには例年れいねんの如ごとく饂飩うどんが打うたれた。

小麦粉を、少し塩を入れた水でこねて、それを玉にして、むしろのあいだへ入れて足でふんで、棒に巻いてはうすくのばして、さらに幾つかにたたんで、そくそくとほうちょうで切った。

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小麥粉こむぎこを少すこし鹽しほを入いれた水みづで捏こねて、それを玉たまにして、筵むしろの間あひだへ入いれて足あしで蹂ふんで、棒ぼうへ卷まいては薄うすく延のばして、更さらに幾いくつかに疊たゝんでそく/\と庖丁はうちやうで斷たつた。

うどんの切れはしはみな、ちょっと一か所をつまんで三角形にして、おぜんにならべて仏だんへ供えた。

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饂飩うどんの切きり端はしは皆みな一寸ちよつと一箇所かしよを撮つまんで三角形かくけいに拵こしらへて膳ぜんへ並ならべて佛壇ぶつだんへ供そなへた。

その切れはしは、その翌朝それぞれが自分の田畑をぐるりと回っては、豆や稲のほやそのほかの作物をほとけさまに供えるのだが、ほとけさまもその朝、野回りに出るのだというので、そのほとけさまのかさに供えるのだというのである。

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其その切きり端はしは其その翌朝よくあさ各自かくじが自分じぶんの田畑たはたをぐるりと廻まはつては菽まめや稻いねの穗ほや其その他たの作物さくもつを佛ほとけへ供そなへるのであるが、佛ほとけも其その朝あさ野廻のまはりに出でるのだといふので其その佛ほとけの笠かさに供そなへるのだといふのである。

おどり子をさそう太鼓の音は、夜を待ちかねて鳴り出した。

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踊子をどりこを誘さそふ太鼓たいこの音おとは夜よを待まち兼かねて鳴なり出だした。

勘次はその夜、蚊いぶしのしたくもしないで、こんのひとえへぐるぐると無ぞうさに三尺帯を巻いて、雨戸をがらがらと閉めはじめた。

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勘次かんじは其その夜よ蚊燻かいぶしの支度したくもしないで紺こんの單衣ひとへへぐる/\と無造作むざうさに三尺帶じやくおびを卷まいて、雨戸あまどをがら/\と閉たて始はじめた。

そして

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さうして

「おつう、したくしてみろ。おれが連れて行くから」

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「おつう支度したくして見みろ、俺おれ連つれてんから」

勘次はせっかちに、おつぎをせき立てた。

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勘次かんじは性急せいきふにおつぎを促うながし立たてた。

大戸のかぎを外からかけて三人が庭に立ったとき、月は雲のかげから遠ざかって、静かにかきの木の上にかかっていた。

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大戸おほどの鍵かぎを外そとから掛かけて三人にんが庭にはに立たつた時とき月つきは雲翳うんえいを遠とほざかつて靜しづかに柹かきの木きの上うへに懸かゝつて居ゐた。

毎年決まったおどりの場所は、村の神社の大きなもみの木かげである。

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毎年まいねん極きまつた踊をどりの場所ばしよは村むらの社やしろの大おほきな樅もみの木陰こかげである。

勘次ら三人が行ったときには、おどり子はもうだいぶ集まっていた。

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勘次等かんじら三人にんが行いつた時ときは踊子をどりこはもう大分だいぶ集あつまつて居ゐた。

一歩森に入れば、はげしくたたく太鼓の音が、その急いで遠くへひびき去るのをまわりからさえぎり止めようとして、入りまじってしげっているみきや小えだに打ち当たってもつれているように、森じゅうに鳴りひびいて、上へ上へとおそろしく人々の心をさそった。

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一足ひとあし森もりに入はひれば劇はげしく叩たゝく太鼓たいこの音おとが、その急いそいで遠とほくへ響ひゞき去さるのを周圍しうゐから遮さへぎり止とめようとして錯雜さくざつして茂しげつて居ゐる幹みきや小枝こえだに打當ぶツつかつて紛糾こぐらかつて居ゐるやうに、森もり一杯いつぱいに鳴なり響ひゞいて上うへへ/\と恐おそろしく人々ひと/″\の心こゝろを誘導そゝつた。

男女が入りまじって、太鼓を真ん中に輪をえがいている。

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男女なんによが入いり交まじつて太鼓たいこを中央ちうあうに輪わを描ゑがいて居ゐる。

それが決まった間かくを置いては、みんながふくろの口のひもを引いたように輪が縮まって、ぱらりぱらりと手びょうしを取って、また元のように広がる。

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それが一定ていの間隔かんかくを措おいては一同どうが袋ふくろの口くちの紐ひもを引ひいた樣やうに輪わが蹙しぼまつて、ぱらり/\と手拍子てびやうしをとつて、復また以前いぜんのやうに擴ひろがる。

そしては、そのおどりの手をくり返しながら、ゆっくりと太鼓のまわりを回る。

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さうしては其その踊をどりの手てを反覆はんぷくしつゝ徐おもむろに太鼓たいこの周圍しうゐを廻めぐる。

女はそでを長く見せるために手ぬぐいを折って両方のたもとの先へぬいつけて、それからしごき帯をたすきにして結んだ長いはしを、後ろへだらりとたらしている。

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女をんなは袖そでを長ながく見みせる爲ために手拭てぬぐひを折をつて兩方りやうはうの袂たもとの先さきへ縫ぬひつけて、それから扱帶しごきを襷たすきにして結むすんだ長ながい端はしを後うしろへだらりと垂たれて居ゐる。

しごき帯は、おどりの手をえがくたびに、たもとといっしょにゆらりゆらりとゆれる。

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扱帶しごきは踊をどりの手てを描ゑがく度たび毎ごとに袂たもとと共ともにゆらり/\と搖ゆれる。

男は少しらんぼうに、女の体にこすりつきながらおどる。

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男をとこは少すこし亂暴らんばうに女をんなの身體からだにこすりつきながら踊をどる。

女はうるさいときには一度おどりの手を止めて相手をしかったりたたいたり、それでもそのつつましさを保ってひょうしを合わせながら、大ぜいのあいだにもまれながら、同じ形をくり返しながらおどる。

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女をんなは五月繩うるさい時ときには一時ちよつと踊をどりの手てを止やめて對手あひてを叱しかつたり叩たゝいたり、然しかも其その特性とくせいのつゝましさを保たもつて拍子ひやうしを合あはせ乍ながら多勢おほぜいの間あひだに揉もまれつゝ同どう一線せんを反覆はんぷくしつゝ踊をどる。

次第に人数が増えて、大きな輪の内側にさらに小さな輪がえがかれた。

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漸次ぜんじに人勢にんずが殖ふえて大おほきな輪わの内側うちがはに更さらに小ちひさな輪わが描ゑがかれた。

太鼓がなまければ

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太鼓たいこが倦怠だれれば

「太鼓がいいかげんじゃ、おどりもいいかげんだ」

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「太鼓たいこが疎おろかぢや踊をどりもおろかだ」

と口々にせき立てせき立て、代わる代わる歌の声を張り上げておどる。

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と口々くち/″\に促うながし促うながし交互たがひに唄うたの聲こゑを張はり揚あげて踊をどる。

太鼓の打ち手はつかれれば、さらに人が代わって、ばちも折れよと鳴らす。

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太鼓たいこの手ては疲つかれゝば更さらに人ひとが交代かうたいして撥ばちも折をれよと鳴ならす。

おどり子はみな、いっぱいにかざったかさをかぶっている。

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踊子をどりこは皆みな一杯ぱいに裝飾さうしよくした笠かさを戴いたゞいて居ゐる。

かざりといっても、夜目にあざやかなように、まんじゅうやそのほかの物を包む白いへぎ皮をたくさんくくりつけておくのである。

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裝飾さうしよくといつても夜目よめに鮮あざやかな樣やうに、饅頭まんぢうや其その他たの物ものを包つゝむ白しろいへぎ皮かはを夥おびたゞしく括くゝり附つけて置おくのである。

それがもみの木かげにとても目立って、体を動かすたびにいっせいにがさがさと鳴りながら、波のように動いて彼らのすがたを引き立てている。

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其それが月光げつくわうを遮さへぎつて居ゐる樅もみの木陰こかげに著いちじるしく目めに立たつて、身みを動うごかす度たびに一齊せいにがさがさと鳴なりながら波なみの如ごとく動うごいて彼等かれらの風姿ふうしを添そへて居ゐる。

彼らが何晩もおどって要らなくなったときには、それが彼らの歩いた道のわきにほこりにまみれながら、いたる所に投げ捨てられて散らばっているのを見るのである。

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彼等かれらが幾夜いくよも踊をどつて不用ふように歸きした時ときには、それが彼等かれらの歩あるいた路みちの傍はたに埃ほこりに塗まみれながら到いたる處ところに抛棄はうきせられて散亂さんらんして居ゐるのを見みるのである。

そのおどりのまわりには、やっと村の見物人が集まった。

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其その踊をどりの周圍しうゐには漸やうやく村落むらの見物けんぶつが聚あつまつた。

こみ合った人々と少しはなれて、村のにわか商人がむしろをしいて、駄菓子やなしやまくわうりやすいかをならべている。

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混雜こんざつして群集ぐんしふと少すこし離はなれて村落むらの俄商人にはかあきんどが筵むしろを敷しいて駄菓子だぐわしや梨なしや甜瓜まくはうりや西瓜すゐくわを並ならべて居ゐる。

すすがぼうっと上がるカンテラの光が、そういうすべてをすずしく見せている。

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油煙ゆえんがぼうつと騰あがるカンテラの光ひかりがさういふ凡すべてを凉すゞしく見みせて居ゐる。

ことに切ったすいかの赤い切れは、小さな店のいちばんのかざりである。

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殊ことに斷たち割わつた西瓜すゐくわの赤あかい切きれは小ちひさな店みせの第だい一の飾かざりである。

おどり子のかわいた喉には、自分たちが立てるほこりがかかるのもかまわず、ひたすらそれをうまく感じるのである。

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踊子をどりこの渇かつした喉のどには自分等じぶんらが立たてる埃ほこりの掛かゝるのも頓着とんちやくなく只管ひたすらそれを佳味うまく感かんずるのである。

それが少女であれば、少なくとも三、四人がかたまって、かざられた花がさで顔が深くおおわれているのに、それでもなお知られるのをはずかしがって、やっと手のとどく程度にカンテラの光からはなれようとしながら、すいかを一切れずつ買う。

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それが少女せうぢよであれば少すくなくとも三四人にんが群むれて飾かざられた花笠はながさ深ふかく顏かほが掩おほはれて居ゐるのにそれでも猶且やつぱり知しられることを恥はぢらうて漸やうやく手ての及およぶ程度ていどにカンテラの光ひかりの範圍はんゐから遠とほざからうとしつゝ西瓜すゐくわの一片きれづつを求もとめる。

にわか商人は、カンテラの明かりと木かげのうすい暗やみとのあいだに立った、そのすがたがはっきり見分けられないので、しきりに目をしかめながら、言われるままにむしろのはしに立ってすいかを出してやる。

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俄商人にはかあきんどはカンテラの光明くわうみやうと木陰こかげの薄うすい闇やみとの間あひだに立たつた其その姿すがたが明瞭はつきりと見極みきはめ難がたいので、頻しきりに目めを蹙しかめつゝ求もとめられる儘まゝに筵むしろの端はしに立たつて西瓜すゐくわを出だして遣やる。

おどり子はそれを手にして、あわただしく木かげにかくれる。

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踊子をどりこは其それを手てにして慌あわたゞしく木陰こかげに隱かくれる。

そこには必ず、めいめいの口から出る笑い声が聞かれるのである。

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其處そこには必かならず各おの/\の口くちから發はつする笑聲わらひごゑが聞きかれるのである。

カンテラの光のためにかえって見えにくくなった商人は、木かげの暗やみから見ればこっけいなほど、絶えず目をしかめながら、外の暗やみをすかしてさわがしい人々を見ている。

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カンテラの光ひかりの爲ために却かへつて眼界がんかいを狹せばめられた商人あきんどは木陰こかげの闇やみから見みれば滑稽こつけいな程ほど絶たえず其その眼めを蹙しかめつゝ外そとの闇やみを透すかして騷さわがしい群集ぐんしふを見みて居ゐる。

勘次は与吉がほしがるままにすいかを一切れ買ってやって、自分は商人のせまいむしろのはしに腰を下ろした。

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勘次かんじは與吉よきちの求もとめる儘まゝに西瓜すゐくわの一片きれを與あたへて自分じぶんは商人あきんどの狹せまい筵むしろの端はしへ腰こしを卸おろした。

おつぎはしばらく店のそばに立っていたが、明るい光をきらって、やがてもみの木の下に与吉といっしょに身をよせた。

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おつぎは暫しばらく店みせの側そばに立たつて居ゐたが、明あかるい光ひかりを厭いとうて軈やがて樅もみの木きの下したに與吉よきちと共ともに身みを避さけた。

勘次は急に目をこらすようにして、木かげの暗やみを見た。

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勘次かんじは俄にはかに眼めを聳そびやかすやうにして木陰こかげの闇やみを見みた。

彼はそこにおつぎのゆかたすがたがじっとしているのを見て、むしろからはなれなかった。

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彼かれは其處そこにおつぎの浴衣姿ゆかたすがたが凝然じつとして居ゐるのを見みて筵むしろから離はなれることは仕しなかつた。

「おつぎさん、よく来たっけな」

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「おつぎさん能よく來きたつけな」

列をはなれたおどり子が、汗の胸を少し開いて、たもとでしきりにあおぎながら、もみの木のそばに立って言いかけた。

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列れつを離はなれた踊子をどりこが汗あせの胸むねを少すこし開ひらいて、袂たもとで頻しきりに煽あふぎながら樅もみの木きの側そばに立たつていひ掛かけた。

「ああ暑いやまあ、むせ返るようだ」

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「おゝ暑あついやまあ、咽むせつ返けえる樣やうだ」

と、たもとのはしで汗をふきながら

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と、袂たもとの端はしで汗あせを拭ふきながら

「おつぎさん、おどらないか」

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「おつぎさん、踊をどんねえか」

と、ほかの一人が言った。

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と他ほかの一人ひとりがいつた。

「おれはいやだよ、おとっつあんがいるから」

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「俺おら厭やだよ、おとつゝあ居えつから」

おつぎは小声で言った。

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おつぎは小聲こごゑでいつた。

さそったおどり子は、目をしかめている勘次のようすを見て、自分がにらまれているように感じたので、ほかへこそこそと身をよけた。

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誘さそうた踊子をどりこは目めを蹙しかめて居ゐる勘次かんじの容子ようすを見みて自分じぶんが睨にらみつけられて居ゐる樣やうに感かんじたので、他たへ孤鼠々々こそ/\と身みを避さけた。

女同士の目には、すがたを変えたおどり子がみな一目で分かるのだった。

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女同士をんなどうしの眼めには姿すがたを變へんじた踊子をどりこが皆みな一見けんして了解れうかいされるのであつた。

おどりを見ながら輪のまわりに立っている村の女たちは、手と手をつつき合って勘次のようすを見ては、くすくすとこっそり冷たく笑うのだった。

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踊をどりを見みながら輪わの周圍しうゐに立たつて居ゐる村落むらの女等をんならは手てと手てを突つゝき合あうて勘次かんじの容子ようすを見みてはくすくすと竊ひそかに冷笑れいせうを浴あびせ掛かけるのであつた。

カンテラの光は、もみの木かげのどこからでもはっきりと勘次のようすを目立たせるように、ぼうぼうとすすを立てながら、まわりの目とうなずき合って、赤い舌をべろべろと出しながらゆらめいた。

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カンテラの光ひかりは樅もみの木陰こかげの何處いづこからでも明瞭はつきりと勘次かんじの容子ようすを目めに立たたせる樣やうにぼう/\と油煙ゆえんを立たてながら、周圍しうゐの眼まなこと首肯うなづき合あうて赤あかい舌したをべろべろと吐はきつゝゆらめいた

おつぎのすがたが五、六人立った中に見えなくなったとき、勘次は商人のむしろを立って、すっともみの木のそばへ行った。

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おつぎの姿すがたが五六人にん立たつた中なかに見みえなく成なつた時とき勘次かんじは商人あきんどの筵むしろを立たつてすつと樅もみの木きの側そばへ行いつた。

おつぎは一、二歩場所を変えただけだったので、彼はすぐにおつぎの白いすがたと並んで立った。

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おつぎは一二歩ほ位置ゐちを變かへた丈だけであつたので、彼かれは直すぐにおつぎの白しろい姿すがたと相あひ接せつして立たつた。

女同士は勘次のすがたを見て、少し身をよけた。

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女同士をんなどうしは勘次かんじの姿すがたを見みて少すこし身みを避さけた。

五、六本そびえ立ったもみの木は、引きしごいたようなえだが寄り合って、さっきから明るい光をきらうおどり子をおおっていっぱいにかげを落としていたのだが、じっとしていた静かな月がいくらか首をかたむけたと思ったら、もみのえだのあいだから少しのぞいて、おどり子が作っている輪のはしをかっと明るくした。

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五六本ぽん屹立きつりつした樅もみの木きは引ひつ扱こいた樣やうな梢こずゑが相あひ倚よつて、先刻さつきから明あかるい光ひかりを厭いとふ踊子をどりこを掩おほうて一杯ぱいに陰翳かげを投なげて居ゐたのであるが、凝然ぢつとした靜しづかな月つきが幾いくらか首くびを傾かたむけたと思おもつたら樅もみの梢こずゑの間あひだから少すこし覗のぞいて、踊子をどりこが形かたちづくつて居ゐる輪わの一端たんをかつと明あかるくした。

彼らのかぶっているかざりがその光にふれれば、みな目をさすようにはっきりと白く見え出した。

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彼等かれらの戴いたゞいて居ゐる裝飾さうしよくが其その光ひかりに觸ふれゝば悉ことごとく目めを射いるやうにはつきりと白しろく見みえ出だした。

ほとんどつかれというものを感じないのだろうかとふしぎに思われる彼らは、ますます調子に乗って、少し乱ぼうになりかけた。

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殆ほとんど疲勞ひらうといふことを感かんじないであらうかと怪あやしまれる彼等かれらは益々ます/\興きように乘じようじて少すこし亂雜らんざつに成なり掛かけた。

白いシャツの上にゆかたを肩までまくって、しりをからげてわらじをはいた何人かが列をはなれたと思ったら、そこらに立って見物している女たちに向かって、津波のようにおそいかかった。

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白しろいシヤツの上うへに浴衣ゆかたを肩かたまで捲まくつて、臀しりを褰からげて草鞋わらぢを穿はいた幾人いくにんが列れつから離はなれたと思おもつたら、其處そこらに立たつて見物けんぶつして居ゐる女等をんならに向むかつて海嘯つなみの如ごとく襲おそうた。

女同士はわあとただ笑い声を上げて、めいめい相手を突いたりたたいたりして、乱れながらさわいだ。

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女同士をんなどうしはわあと只たゞ笑わらひ聲ごゑを發はつして各自てんでに對手あひてを突ついたり叩たゝいたりして亂みだれつゝ騷さわいだ。

とつぜん一人が、おつぎの髪へひょいと手をかけた。

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突然とつぜん一人ひとりがおつぎの髮かみへひよつと手てを掛かけた。

「これはまあ、どうしたもんだ」

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「此こらまあ、どうしたもんだ」

おつぎがおどろいて叫んだとき、相手はおつぎのくしをうばって、こみ合った人々の中へ身をしずめた。

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おつぎが驚おどろいて叫さけんだ時とき、對手あひてはおつぎの櫛くしを奪うばつて混雜こんざつした群集ぐんしふの中なかへ身みを沒ぼつした。

おつぎは髪をいたずらされたのをいやがって、思わず手を当ててみて、くしがなくなったのを知った。

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おつぎは髮かみへ惡戯いたづらされたことを嫌きらつて思おもはず手てを當あてて見みて櫛くしの無なくなつたのを知しつた。

「他人のくしをまあ」

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「他人ひとの櫛くしまあ」

おつぎはそれを追おうとして、思わず足をふみ出すと、一歩進んだ勘次の手が、むずとおつぎの首すじをつかまえた。

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おつぎは其それを追おはうとして覺おぼえず足あしを蹂ふみ出だすと、一歩ぽ運はこんだ勘次かんじの手てがむづとおつぎの首筋くびすぢを捉とらへた。

彼は同時に、おつぎの横顔をたたいた。

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彼かれは同時どうじにおつぎの小鬢こびんを横よこに打うつた。

おつぎが慌てて後ろを向こうとするとき、ふたたびはげしくたたいた手がおつぎの鼻に当たった。

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おつぎが慌あわてゝ後うしろを向むかうとする時とき、復ふたゝび劇はげしく打うつた手てがおつぎの鼻はなに當あたつた。

おつぎは両手で鼻をおさえて縮こまった。

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おつぎは兩手りやうてで鼻はなを抑おさへて縮ちゞまつた。

女同士はもみの木かげに身をすくめて、手の出しようもなかった。

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女同士をんなどうしは樅もみの木陰こかげに身みを峙そばめて手ての出だし樣やうもなかつた。

一つには、ふだんからおつぎに対する勘次の態度を知っていて、そこに一種のおそれを感じていたからでもあった。

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一ひとつには平生ふだんからおつぎに對たいする勘次かんじの態度たいどを知しつて居ゐて其處そこに一種しゆの恐怖きようふを感かんじて居ゐたからでもあつた。

「どうしてお前は、くしなんぞ取られたんだ」

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「どうして汝わりや、櫛くしなんぞ取とらつたんだ」

勘次はかわいた喉からしぼり出すような声で問いつめた。

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勘次かんじはからびた喉のどから絞しぼり出だす樣やうな聲こゑで詰問きつもんした。

「こら、こいつ、しらばくれやがって、どうしたんだよ」

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「こうれ、此この阿魔奴あまめ、しらばくれやがつて、どうしたんだよ」

勘次はかがんだままのおつぎをぐいと突いた。

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勘次かんじは屈かゞんだ儘まゝのおつぎをぐいと突ついた。

おつぎはころがりそうになって、やっと土に手をついた。

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おつぎは轉ころがり相さうにして漸やうやく土つちへ手てを突ついた。

「何するんだな、おとっつあん」

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「何なに爲すんだな、おとつゝあ」

おつぎは慌てて顔をねじ向けて、少し泣き声で、むしろするどく言った。

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おつぎは慌あわてゝ顏かほを捩ねぢ向むけて少すこし泣なき聲ごゑで寧むしろ鋭するどくいつた。

「何するんだとう。ずうずうしいやつだ。くしをどうして取られたんだか言ってみろというんだ。これでも分からないのか。言ってみろよ」

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「何なに爲すんだとう、づう/\しい阿魔あまだ、櫛くし何故どうして取とらつたんだか云ゆつて見みろつちんだ、此こんでも分わかんねえのか、云ゆつて見みろよ」

勘次はしばらく間を置いて、またかっといまいましくなったように

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勘次かんじは暫しばらく間あひだを措おいて、又またかつと忌々敷いま/\しくなつたやうに

「言ってみろというのに、言ってみろよ」

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「云ゆつて見みろつちのに、云ゆつて見みろよ」

とくり返して、おつぎをせめた。

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と反覆くりかへしておつぎを責せめた。

「どうしてと言ったって、おれには分からないよ」

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「どうしてつちつたつて、俺おらがにや分わかんねえよ」

おつぎはうらめしそうに、しかしまわりを気にするように小声で言った。

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おつぎは恨うらめし相さうに然しかしながら周圍しうゐに憚はゞかる樣やうにして小聲こごゑでいつた。

たもとは顔をおおったままである。

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袂たもとは顏かほを掩おほうた儘まゝである。

「分からないとう。何にも知らない者が他人のくしなんぞ取るか」

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「分わかんねえとう、何なんにも知しらねえ者もので他人ひとの櫛くしなんぞ取とつか」

勘次は苦しい息をはくようにして

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勘次かんじは苦くるしい息いきを吐つくやうにして

「そんならお前は」

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「そんだら汝わりや」

と、歯でぎっとかみ殺したような声で言った。

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と齒はでぎつと噛かみ殺ころした樣やうな聲こゑでいつた。

しばらくじっと見ていた彼は、おつぎをけった。

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暫時しばらく凝然ぢつと見みて居ゐた彼かれはおつぎを蹴けつた。

おつぎは前へのめった。

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おつぎは前まへへのめつた。

しかし、おつぎは泣かなかった。

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然しかしおつぎは泣なかなかつた。

「ああ痛いまあ」

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「おゝ痛いてえまあ」

人々の中から作り声で言った。

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群集ぐんしふの中なかから假聲こわいろでいつた。

おどりの列はさっきからくずれて、かきねのように勘次とおつぎのまわりに集まったのである。

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踊をどりの列れつは先刻さつきから崩くづれて堵との如ごとく勘次かんじとおつぎの周圍まはりに集あつまつたのである。

おつぎはこの声を聞くとともに、乱れかけた着物の合わせ目を直した。

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おつぎは此この聲こゑを聞きくと共ともに亂みだれ掛かけた衣物きものの合あはせ目めを繕つくろうた。

「くしを取ったのはここにいたよう」

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「櫛くしとつたな此處ここに居ゐたよう」

と、これも喉の底からかすれて出るような声が、人々の中から出た。

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と此これも喉のどの底そこからかすれて出でるやうな聲こゑが群集ぐんしふの中なかから發はつせられた。

「持ってたら、やっちまえ」

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「持もつてたら、やつちめえ」

「いやだよう、おとっつあんにぶんなぐられるから。おとっつあん、かんべんしてくれよう」

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「厭やだよう、おとつゝあに打ぶん擲なぐられつから、おとつゝあ勘辨かんべんしてくろよう」

と、すすり泣くような作り声がさらに聞こえた。

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と歔欷すゝりなくやうな假聲こわいろが更さらに聞きこえた。

あっけに取られて見ていたみんながどよめいた。

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惘然ばうぜんとして見みて居ゐた凡すべてがどよめいた。

「おとっつあん、明かりをつけようかあ」

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「おとつゝあ明あかり點つけべえかあ」

と、人々の後ろからどなるとともに、みんながまたどっと笑った。

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と群集ぐんしふの後あとから呶鳴どなると共ともに凡すべてが復またどつと笑わらつた。

おつぎはむっくり起きて、さっさと歩き出した。

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おつぎはむつくり起おきてさつさと行ゆき掛かけた。

「お前、どこへ行くんだ。こら」

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「汝われ何處どこさ行えくんだ。こうれ」

勘次はつかまえようとしたが、おつぎは身をよじってさっさと行く。

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勘次かんじは引ひつ捉つかまうとしたがおつぎは身みを捩ねぢつてさつさと行ゆく。

勘次は慌ててぞうりのつま先をつまずかせながら、おつぎの後についた。

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勘次かんじは慌あわてゝ草履ざうりの爪先つまさきが蹶つまづきつゝおつぎの後あとに跟ついた。

「おつう」

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「おつう」

彼は心細そうに呼んだ。

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彼かれは心こゝろもとなげに喚よんだ。

与吉はどうしたわけとも分からないので、さっきからただ泣いていた。

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與吉よきちはどうした理由わけとも分わからないので先刻さつきから只たゞ泣ないて居ゐた。

太鼓が止んで、おどりはまったく乱れてしまった。

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太鼓たいこが止やんで踊をどりは全まつたく亂みだれて畢しまつた。

そうでなくても彼らは、ひとしきりおどれば田んぼをこえて三々五々と、男は女を連れて、畑の細い道から林を過ぎて、村から村へと太鼓の音をたずねて行くのである。

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それでなくても彼等かれらは一しきり踊をどれば田圃たんぼを越こえて三々五々さんさんごゝと男をとこは女をんなを伴ともなうて、畑はたの小徑こみちから林はやしを過すぎて村落むらから村落むらへと太鼓たいこの音おとを尋たづねて行ゆくのである。

勘次の後から、彼らはぞろぞろとついて行った。

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勘次かんじの後うしろから彼等かれらはぞろ/\と跟ついて行いつた。

ある者は足早に追いこしては

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或ある者ものは足速あしばやに駈かけ拔ぬけては

「やきもち焼くとて手を焼いて、その手でお釈迦のだんごをこねた」

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「燒餅やきもち燒やくとて手てを燒やいてえ、其その手てでお釋迦しやかの團子だんご捏こねたあ」

と当てつけに歌って、ずんずん行ってしまう。

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と當あてつけに唄うたうてずん/\行いつて畢しまふ。

後ろの人々はそれに合わせて、指をくわえてぴゅうぴゅうと鳴らしながら、勘次の心をいらだたせた。

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後うしろの群集ぐんしふはそれに應おうじて指ゆびを啣くはへてぴう/\と鳴ならしながら勘次かんじの心こゝろを苛立いらだたせた。

勘次はどれほどそれが怒った心にいまいましくても、それをたしなめてしかってやる手がかりを何も持っていない。

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勘次かんじは何どれ程ほどそれが激げきした心こゝろに忌々敷いま/\しくくても其それを窘たしなめて叱しかつて遣やる何なんの手てがかりも有もつて居をらぬ。

三人はただ黙って歩いた。

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三人にんは只たゞ默だまつて歩あるいた。

神社の森の外は、白い月夜である。

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社やしろの森もりの外そとは白しろい月夜つきよである。

勘次が村はずれの家に帰ったときには、おどり子はみな自分の行く所へ向かって、三人だけが静かにふけて行く庭にぽつんと立ったのだった。

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勘次かんじが村落外むらはづれの家いへに歸かへつた時ときは踊子をどりこは皆みな自分じぶんの嚮むかふ處ところに赴おもむいて三人にんのみが靜しづかに深ふけ行ゆく庭にはにぽつさりと立たつたのであつた。

あちこちの太鼓の音が、面白いのはかえってこれからだというように、しずんだ夜をとおして一直線にひびいて来る。

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各所かくしよの太鼓たいこの音おとが興味きようみは却かへつて此これからだといふ樣やうに沈しづんだ夜よを透とほして一直線ちよくせんに響ひゞいて來くる。

歌の声は遠く近く聞こえる。

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唄うたの聲こゑは遠とほく近ちかく聞きこえる。

夜はすっかり、おどる者のものになった。

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夜よるは全まつたく踊をどるものゝ領域りやうゐきに歸きした。

彼らは、とうもろこしの葉がざわざわと妙に心をさわがせて、花粉のにおいがさらに心の何かをつき動かす畑のあいだを行くとき、おどって歌ってかわいた喉に、そこにうりが作ってあると知れば、こっそりうりやすいかをぬすんで、道ばたの草の中に割った皮を投げ捨てて行くのである。

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彼等かれらは玉蜀黍たうもろこしの葉はがざわ/\と妙めうに心こゝろを騷さわがせて、花粉くわふんの臭にほひが更さらに心こゝろの或ある物ものを衝動そゝる畑はたけの間あひだを行ゆくとては、踊をどつて唄うたうて渇かつした喉のどに其處そこに瓜うりが作つくつてあるのを知しれば竊ひそかに瓜うりや西瓜すゐくわを盗ぬすんで路傍みちばたの草くさの中なかに打うち割わつた皮かはを投なげ棄すてゝ行ゆくのである。

彼らのうちのいたずら好きな五、六人が、夜がふけてからそっと勘次の庭に立ってみた。

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彼等かれらの間あひだに惡戯いたづらの好すきな五六人にんが夜よが深ふけてからそつと勘次かんじの庭にはへ立たつて見みた。

そのときはただ自分たちのかげがやや長く庭の土にうつって、月はすきまだらけの古ぼけた雨戸を、ほのかに白く見せていた。

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其その時ときは只たゞ自分等じぶんらの陰翳かげが稍やゝ長ながく庭にはの土つちに映えいじて、月つきは隙間すきまだらけの古ふるぼけた雨戸あまどをほのかに白しろく見みせて居ゐた。

まわりは泣き止んだ後のように、あまりにさびしかった。

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周圍しうゐは泣なき止やんだ後あとのやうに餘あまりに寂さびしかつた。

五、六人はただぽつんと帰ってしまった。

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五六人にんは只たゞぽつさりと歸かへつて畢しまつた。

おつぎは次の朝、くしをさがしに出た。

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おつぎは次つきの朝あさ櫛くしを探さがしに出でた。

同じ年ごろの者のあいだでは、だれのいたずらかがその場でみんなに知れわたっていた。

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同おなじ年輩ねんぱいの間あひだには誰たれの惡戯いたづらであるかが其その場ばで凡すべての耳みゝに知しれ渡わたつて居ゐた。

「くしなんざ持っていないぞ、もう。それよりは、帰ってかきの木のふたまたでも見たほうがいいと」

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「櫛くしなんざ持もつてゐねえぞはあ、それよりやあ、歸けえつて柹かきの木きのざく股またでも見みた方はうがえゝと」

仲間の一人がおつぎに言った。

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朋輩ほうばいの一人ひとりがおつぎへいつた。

おつぎは、自分の庭のかきの木のみきがふたまたになった所に、くしがそっと乗せてあるのを見つけた。

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おつぎは自分じぶんの庭にはの柹木かきのきの幹みきが二股またに成なつた處ところに櫛くしがそつと載のせてあるのを發見はつけんした。

くしはべっこうに似せたゴムのくしだった。

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櫛くしは鼈甲模擬べつかふまがひのゴムの櫛くしであつた。

歯が二本ばかり欠けていた。

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齒はが二枚まいばかり缺かけて居ゐた。

おつぎはいたんだ所をじっと見て、すぐに髪へさした。

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おつぎは損所そんしよを凝然ぢつと見みて直すぐに髮かみへ揷さした。

くしのできごとはそれっきりで終わった。

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櫛くしの事件じけんは其それつ切きりで畢をはつた。

勘次は何かにつけては、おつう、おつうとなつかしげに呼んで、一家は人の目に立つほどとても仲がよかった。

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勘次かんじは何なにかにつけてはおつう/\と懷なつかしげに喚よんで一家かは人ひとの目めに立たつ程ほど極きはめて睦むつましかつた。

しかし、こういうできごとは村じゅうの口を長くふさぐことはできなかった。

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然しかしかういふ事件じけんは村落むらの凡すべての口くちを久ひさしく防ふせぐことは出來できなかつた。

ことに女の人たちのあいだでは

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殊ことに女房等にようばうらの間あひだには

「勘次さんもどうしたっていうんだろう。おれはこわいようだったぞ」

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「勘次かんじさんもどうしたつちんだんべ、俺おら可怖おつかねえやうだつけぞ」

「本当によ、まるで気がふれたようだものなあ」

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「本當ほんたうによ、丸まるつきり狂氣きちげえのやうだものなあ」

というおどろきの声が、いたる所でくり返された。

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といふ驚異きやういの聲こゑが到いたる處ところに反覆はんぷくされた。

「ただごととは思えないよ。勘次さんも、ああいうふうにしなくてもよかろうと思うのになあ」

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「唯たゞたあ思おもへねえよ、勘次かんじさんもあゝいに仕しねえでもよかんべと思おもふのになあ」

なげきの声を上げては、めいめいの心にひそんでいる何かを、口にははっきり言うのをはばかるように、目と目を見合わせてたがいに笑っては、わずかに

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嘆聲たんせいを發はつしては各自かくじの心こゝろに伏在ふくざいして居ゐる或ある物ものを口くちには明白地あからさまに云いふことを憚はゞかる樣やうに眼めと眼めを見合みあはせて互たがひに笑わらうては僅わづかに

「いやだいやだ」

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「厭やだ/\」

という、底に一種の意味をふくんだ一言を投げ捨てて別れるのである。

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といふ底そこに一種しゆの意味いみを含ふくんだ一語ごを投なげ棄すてゝ別わかれるのである。

ことに村の若者たちには、少しもえんりょのない想像まじりのかげ口をたくましくさせる、かっこうの材料をあたえたのだった。

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殊ことには村落むらの若者わかものの間あひだへは寸毫すんがうも遠慮ゑんりよの無ない想像さうざうに伴ともなふ陰口かげぐちを逞たくましくせしめる好箇かうこの材料ざいれうを提供ていきようしたのであつた。

一四

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一四

夏がめぐって来た。

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夏なつが循環じゆんくわんした。

暑い日ざしのしげきが、おどろくほどの活動力を百姓の手足に与える。

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暑あつい日ひの刺戟しげきが驚おどろくべき活動力くわつどうりよくを百姓ひやくしやうの手足てあしに與あたへる。

百姓は馬や荷車を使って、刈りたおした麦をせっせと運ぶ。

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百姓ひやくしやうは馬うまや荷車にぐるまを駈かつて刈かり倒たふした麥むきをせつせと運はこぶ。

長い日はわずかな日数のうちに、目に果てしない畑をからりとさせて、しばらくすると天気は限りない変化の手をいっぱいに広げて、黄色に熟するうめの小えだを苦しめているあぶらむしもほろびてしまうほどの長雨が、あきれるほど降りつづく。

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永ながい日ひは僅わづかな日數ひかずの内うちに目めに渺々べうべうたる畑はたけをからりとさせて、暫しばらくすると天候てんこうは極きはまりない變化へんくわの手てを一杯ぱいに擴ひろげて、黄色きいろに熟じゆくする梅うめの小枝こえだを苦くるしめて居ゐる蚜蟲あぶらむしも滅亡めつばうして畢しまふ程ほどの霖雨りんうが惘あきれもしないで降ふり續つゞく。

すると、麦を刈った跡の豆や陸稲が、かわいた口に冷たい水をもらったように元気づいて、四、五日のうちに青い葉で畑の土がすきまなくおおわれる。

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さうすると麥むきを刈かつた跟あとの菽まめや陸穗をかぼが渇かつした口くちへ冷つめたい水みづを獲えた樣やうに勢いきほひづいて、四五日にちの内うちに青あをい葉はを以もつて畑はたけの土つちが寸隙すんげきもなく掩おほはれる。

雨は、ふみ固めてある百姓の庭の土にも、たねつけばなやきつねのぼたんの黄色い小さな花をつけさせて、屋根のむねにさえ長い短い草を生えさせる。

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雨あめは蹂ふみ固かためてある百姓ひやくしやうの庭にはの土つちにも蔊菜いぬがしらや石龍芮たがらしの黄色きいろい小粒こつぶな花はなを持もたせて、棟やのむねにさへ長ながい短みじかい草くさを生しやうぜしめる。

自然の思いは、ひたすら地上のいたる所をやわらかな青い葉でおおいかくそうとばかり力を注いでいるのである。

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自然しぜんの意志いしは只管ひたすらに地上ちじやうの到いたる處ところに軟やはらかな青あをい葉はを以もつて掩おほひ隱かくさうとのみ力ちからを注そゝいで居ゐるのである。

その思いにさからってためらっているのは、百姓の手でていねいにこねられた水田だけである。

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其その意志いしに逆さからうて猶豫たゆたうて居ゐるのは百姓ひやくしやうの手てで丁寧ていねいに捏こねられた水田すゐでんのみである。

夏がようやくふけると、自然はその心をあせらせて、長雨で低い田に水を満たさせて、ほりにもしげった草をしずめて岸をこえさせる。

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夏なつが漸やうやく深ふけると自然しぜんは其その心こゝろを焦燥あせらせて、霖雨りんうが低ひくい田たに水みづを滿みたしめて、堀ほりにも茂しげつた草くさを沒ぼつして岸きしを越こえしめる。

稲で田の空きをうめることが一日でも早ければ、その分だけよけいなむくいをおそい秋の収穫で与えるからと教えて、自然は百姓を体力のかぎり働かせる。

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稻草いなぐさを以もつて田たの空地くうちを埋うづめることが一日にちでも速すみやかなればそれだけ餘計よけいな報酬はうしうを晩秋ばんしうの收穫しうくわくに於おいて與あたへるからと教をしへて自然しぜんは百姓ひやくしやうの體力たいりよくの及およぶ限かきり活動くわつどうせしめる。

すると百姓は、田のようにどろどろと道の土もこねて、馬とともにどろにまみれながら、田植えにばかりかかりきる。

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さうすると百姓ひやくしやうは田たのやうにどろ/\と往來わうらいの土つちをも捏こねて馬うまと共ともに泥どろに塗まみれながら田植たうゑにのみ屈託くつたくする。

彼らは雨を藁のみのでよけて、左手に持った苗を少しずつ取っては、後ろへ下がりながら深いどろから股引の足を引きぬき引きぬき、植えて下がる。

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彼等かれらは雨あめを藁わらの蓑みのに避さけて左手ひだりてに持もつた苗なへを少すこしづつ取とつて後退あとずさりに深ふかい泥どろから股引もゝひきの足あしを引ひき拔ぬき引ひき拔ぬき植うゑ退のく。

こうして広々とした水田は、一日どろにつかったままでも楽しそうに歌う声があっちからもこっちからもひびくとともに、だんだんとうすい緑がおおって、いそがしく、そして元気な夏の自然は、先に植えられた田から次第に深い緑を染めて行く。

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恁かうして宏濶くわうくわつな水田すゐでんは、一日にち泥どろに浸ひたつた儘まゝでも愉快相ゆくわいさうに唄うたふ聲こゑがそつちからもこつちからも響ひゞくと共ともに、段々だん/\に淺あさい緑みどりが掩おほうて、多忙たばうで且かつ活溌くわつぱつな夏なつの自然しぜんは先さきに植うゑられた田たから漸次ぜんじに深ふかい緑みどりを染そめて行ゆく。

田がすべて植え終わったときには、あぜにも短い草が生えていて、土の黒い部分がどこにも見えなくなる。

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田たが凡すべて植うゑ畢をはつた時ときには畦畔くろにも短みじかい草くさが生はえて居ゐて土つちの黒くろい部分ぶぶんが何處どこにも見みえなく成なる。

自然は初めて自分の満足を得たように、からりと気持ちよく空をふいて、暑い日の光を投げかける。

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自然しぜんは始はじめて自己じこの滿足まんぞくを得えた樣やうにからりと快こゝろよい空そらを拭ぬぐうて暑あつい日ひの光ひかりを投なげ掛かける。

青田のあぜにはところどころにかんぞうが開いて、田の草を取るといって、村の少女が赤い帯を暑い日に燃やさない日でも、しぼんでは開いて、朱色の杯のように点々と田畑をいろどるのである。

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青田あをたの畦畔くろには處々しよ/\に萱草くわんさうが開ひらいて、田たの草くさを掻かくとては村落むらの少女むすめが赤あかい帶おびを暑あつい日ひに燃もやさない日ひでも、萎しぼんでは開ひらいて朱杯しゆはいの如ごとく點々てん/\と耕地かうちを彩いろどるのである。

百姓はいそがしい田植えが終われば、どの家でも秋の収穫を待つ用意がすっかりできたので、めいめいの働きをねぎらうために、それなりのもてなしが行われるのである。

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百姓ひやくしやうは忙いそがしい田植たうゑが畢をはれば何處どこの家いへでも秋あきの收穫しうくわくを待まつ準備じゆんびが全まつたく施ほどこされたので、各自かくじの勞らうを劬ねぎらふ爲ために相當さうたうな饗應もてなしが行おこなはれるのである。

それが早苗饗である。

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其それが早苗振さなぶりである。

勘次とおつぎは、南の家の早苗饗の日にやとわれて行っていた。

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勘次かんじとおつぎは南みなみの早苗振さなぶりの日ひに傭やとはれて行いつて居ゐた。

勘次の家から南へ行く細い道をはさんだ桑畑は、刈り取ってから草が生えたくらいにえだが立ちはじめていた。

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勘次かんじの家いへから南みなみへ行ゆく小徑こみちを挾はさんだ桑畑くはばたけは刈取かりとつてから草くさの生はえた位くらゐに枝えだが立たち始はじめて居ゐた。

桑のあいだにはじゃがいもがしげって、花をつけていた。

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桑くはの間あひだには馬鈴薯じやがいもが茂しげつて花はなを持もつて居ゐた。

南の家では少しばかり養蚕をしたので、百姓の仕事がすべておくれてしまったのだった。

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南みなみの家いへでは少すこしばかり養蠶やうさんをしたので百姓ひやくしやうの仕事しごとが凡すべて手後ておくれに成なつたのであつた。

村のたいていが田植えを終えかけたので、慌てて大ぜいの手をやとった。

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村落むらの大抵たいていが田植たうゑを畢をはり掛かけたので慌あわてゝ大勢おほぜいの手てを傭やとうた。

その日は晴れて気持ちがよかったのと、みんながとてもがんばったのとで、仕事は日の高いうちに済んだ。

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其その日ひは晴はれて心持こゝろもちがよかつたのと、一同どうが非常ひじやうな奮發ふんぱつをしたのとで仕事しごとは日ひの高たかい内うちに濟すんだ。

南の家の女房は仕事のめどがついたので、おつぎを連れて、その晩のおかずの用意をするために、一足先に田から帰った。

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南みなみの女房にようばうは仕事しごとの見極みきはめがついたのでおつぎを連つれて、其その晩ばんの惣菜そうざいの用意よういをする爲ために一足あし先さきへ田たから歸かへつた。

女房はいそがしい思いをしながら、麦をいって香煎もふるっておいた。

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女房にようばうは忙いそがしい思おもひをしながら麥むぎを熬いつて香煎かうせんも篩ふるつて置おいた。

田植えのみんなは、股引をはいたままどろの足をずっとほりの水に立てて、股引の紺色がはっきりするまで、両手でごしごしとしごいた。

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田植たうゑの同勢どうぜいは股引もゝひき穿はいた儘まゝ泥どろの足あしをずつと堀ほりの水みづに立たてゝ、股引もゝひきの紺地こんぢがはつきりと成なるまで兩手りやうてでごし/\と扱しごいた。

とけたどろがけむりのように水をにごらせて、ずんずんと流される。

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溶とけた泥どろが煙けぶりの如ごとく水みづを濁にごらしてずん/\と流ながされる。

そしてから、その股引をぬいでざぶざぶと洗う者もあった。

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さうしてから其その股引もゝひきを脱ぬいでざぶ/\と洗あらふ者ものも有あつた。

彼らが帰って、家の中は急にがやがやとにぎやかになった。

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彼等かれらが歸かへつて家いへの内うちは急きふにがや/\と賑にぎやかに成なつた。

裏の戸口のかきの木の下に置かれたおふろには、牛が舌を出して鼻をなめているようなほのおが、けむりとともにべろべろと立って、くすぶりながら燃えている。

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裏戸口うらとぐちの柹かきの木きの下したに据すゑられた風呂ふろには牛うしが舌したを出だして鼻はなを舐なめづつて居ゐる樣やうな焔ほのほが煙けぶりと共ともにべろ/\と立たつて燻いぶりつゝ燃もえて居ゐる。

やとわれて来た女の人の一人がふたを取ってがらがらとかき回して、それからまた火ふき竹でふうふうとふいた。

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傭やとはれて來きた女房等にようばうらの一人ひとりが蓋ふたをとつてがら/\と掻かき廻まはして、それから復また火吹竹ひふきだけでふう/\と吹ふいた。

ほのおの赤い舌がべろべろと長く立った。

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焔ほのほの赤あかい舌したがべろ/\と長ながく立たつた。

ふたたびふたを取ったときには、そうじの足りないふろおけの中には、前の晩のあかがいっぱいにうかんでいた。

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再ふたゝび蓋ふたをとつた時ときには掃除さうぢの足たらぬ風呂桶ふろをけのなかには前夜ぜんやの垢あかが一杯ぱいに浮ういて居ゐた。

そんなことにはかまわずに、田植えのみんなはずんずんと入った。

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其麽そんなことには關かまはずに田植たうゑの同勢どうぜいはずん/\と這入はひつた。

彼らはほとんど、ただ手ぬぐいでぼちゃぼちゃと体をこすって出た。

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彼等かれらは殆ほとんど只たゞ手拭てぬぐひでぼちや/\と身體からだをこすつて出でた。

足のつま先につまったどろを落とすことさえしなかった。

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足あしの爪先つまさきに詰つまつた泥どろを落おとすことさへ仕しなかつた。

「くすぶってるのをそっちへ押し出さなくちゃ仕方がないや」

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「燻けぶつてえのそつちへおん出ださなくつちや仕しやうねえや」

おふろから出たままふきもしない足に下駄をはいて、はだかのしりを他人に向けて立った一人が、後ろをふり返って言った。

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風呂ふろから出でた儘まゝ拭ぬぐひもせぬ足あしに下駄げたを穿はいて裸はだかの臀しりを他人たにんに向むけて立たつた一人にんが後うしろを顧かへりみていつた。

「なあにかまわない」

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「なあに管かまあねえ」

後から目をしかめながら、一人が首すじまでしずんだ。

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後あとから目めを蹙しかめながら一人ひとりが首筋くびすぢまで沈しづんだ。

それからふろおけに腰をかけて、ごしごしと洗いながら

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それから風呂桶ふろをけへ腰こしを掛かけてごし/\と洗あらひながら

「こりゃくすぶってる」

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「此こりや燻けぶつてえ」

と、またしずんだままごしごしとあかを落としていたが

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と復また沈しづんだ儘まゝごし/\と垢あかを落おとして居ゐたが

「ああいい所だ。よう、おつぎ、ちょっとここまで来てくれないか」

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「あゝ善ええ處とこだ、よう、おつぎ、少ちつと此處ここまで來きてくんねえか」

と言った。

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といつた。

彼は百姓のあいだで、馬を引いて売り歩く村の博労だった。

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彼かれは百姓ひやくしやうの間あひだには馬うまを曳ひいて歩あるく村落むらの博勞ばくらうであつた。

「どうしたもんだろう。兼さんら自分で入るのに、くすぶってるなら押し出してから入ったらよかろうな。それにどうしたもんだ、みんないるのに、水くみに来た者なんぞ使わなくたっていいだろうな」

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「どうしたもんだんべ、兼かねさん等ら自分じぶんで這入へえんのに燻けむつたけりや、おん出だしてからへえつたら善よかんべなあ、それに怎的どうしたもんだ一同みんな居ゐて、水汲みずくみに來きたものなんぞ使つかあねえたつてよかんべなあ」

おつぎは軽くたしなめるように言って、二つの手おけをそっと置いて、くすぶっているたきぎを出してやった。

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おつぎは輕かるく窘たしなめる樣やうにいつて二つの手桶てをけをそつと置おいて、燻いぶつて居ゐる薪たきゞを出だして遣やつた。

「おつぎにかき出してもらうんでなくちゃいやだというから、おれはかまわないんだな。そうでなけりゃいくらでも出してやるさ、よ」

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「おつぎに掻かん出だして貰もらあんでなくつちや厭やだつちから俺おら管かまあねえんだな、そんでなけりや幾いくらでも出だして遣やらざらによ」

そばからすぐに言った。

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側そばから直すぐにいつた。

「くすぶってるのがなくなったら、ひどく晴れ晴れして、入っているようでなくなった。おれはばかな目にあっちまったよ」

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「燻けぶつてえの無なく成なつたら酷ひどく晴々せい/\してへえつてる樣やうぢやなくなつた。俺おら莫迦ばかな目めに逢あつちやつたえ」

兼博労は、がぶりとおふろの音をさせて立ちながら言った。

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兼かね博勞ばくらうはがぶりと風呂ふろの音おとをさせて立たちながらいつた。

「どうしたもんだ、他人を使って小にくらしいこと。そんなこと言うと、押しつけてやるから」

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「どうしたもんだ、他人ひとのこと使つかつて小憎こにくらしいこと、そんなこと云いふとおつけて遣やつから」

おつぎはくすぶったたきぎを、兼博労の近くへ出した。

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おつぎは燻いぶつた薪たきゞを兼かね博勞ばくらうの近ちかくへ出だした。

兼博労は慌てて

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兼かね博勞ばくらうは慌あわてゝ

「あやまった、あやまった」

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「謝罪あやまつた/\」

と、ずっと身を引いた。

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とずつと身みを引ひいた。

おつぎが手おけのそばへもどったら

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おつぎが手桶てをけの側そばへ戻もどつたら

「ああ、おつぎ、おつぎ、ちょっと待っててくれよ。おれがいい物を出すから」

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「ああ、おつぎ/\少ちつと待まつてゝくろえ、俺おれえゝ物もの出だすから」

兼博労は早口に呼びかけた。

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兼かね博勞ばくらうは口速くちばやに喚よび掛かけた。

「ああいやなこった、要らないよ」

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「おゝ厭やなこつた、要えらねえよ」

おつぎは少し身をかがめて手おけの取っ手をつかんで、そのまま体をのばすと、手おけの底が十センチほど地面からはなれた。

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おつぎは少すこし身みを屈かがめて手桶てをけの柄えを攫つかんで其その儘まゝ身みを延のばすと手桶てをけの底そこが三寸ずんばかり地ちを離はなれた。

「ええ、これを出そうというのに」

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「えゝ、此これ出だすべつちのに」

兼博労は後ろから投げた。

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兼かね博勞ばくらうは後あとから投なげた。

それはえだからおふろの中へ落ちた、へたのない青いかきだった。

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それは梢こずゑから風呂ふろの中なかへ落おちた蔕へたのない青あをい柹かきであつた。

かきは手おけの水へぽたりと落ちて、水のしぶきが少しおつぎの足にかかった。

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柹かきは手桶てをけの水みづへぽたりと落おちて、水みづのとばちりが少すこしおつぎの足あしへ掛かゝつた。

「にくらしいことまあ、いたずらばかりして」

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「憎にくらしいことまあ、惡戯いたづらばかし仕して」

おつぎはにっこりとして後ろを見た。

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おつぎは嫣然にこりとして後うしろを見みた。

「後ろを見さえすりゃ、それでいいんだ」

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「後うしろ見みせえすりやそんでえゝんだ」

と、おふろのそばにいた一人が言った。

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と風呂ふろの側そばに居ゐた一人ひとりがいつた。

「おれはそのそばかすを見さえすりゃ気が済んでるんだよ」

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「俺おら其その雀班そばつかす見みせえすりや氣きが濟すんでんだよ」

兼博労は後につづけて言った。

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兼かね博勞ばくらうは後あとに跟ついていつた。

「どれほどずうずうしいんだろうな、兼さんは。他人のことを本当に」

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「何程なんぼすれつからしなんだんべ兼かねさんは、他人ひとのこと本當ほんたうに」

と、おつぎは手おけを置いて、水にうかんだ青いかきを兼博労へ投げた。

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とおつぎは手桶てをけを置おいて水みづに泛うかんだ青あをい柹かきを兼かね博勞ばくらうへ投なげた。

「兼さん、すっかりほれられちまった」

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「兼かねさんすつかり惚ほれられつちやつた」

と、ふろおけのそばから言った。

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と風呂桶ふろをけの傍そばからいつた。

おつぎは顔を赤くして、あわただしく手おけを持って逃げた。

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おつぎは顏かほを赧あかくして慌あわたゞしく手桶てをけを持もつて遁にげた。

いっぱいにくんだ手おけの水が、少し波立ってこぼれた。

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一杯ぱいに汲くんだ手桶てをけの水みづが少すこし波立なみだつて滾こぼれた。

ふろおけのそばには、四十五十になる百姓もいて、みんなが楽しそうにどよめいた。

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風呂桶ふろをけの傍そばでは四十五十に成なる百姓ひやくしやうも居ゐて一同みんなが愉快相ゆくわいさうにどよめいた。

おつぎが手おけを持ったとき、勘次は裏戸のかきねの入口にひょっこりと出た。

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おつぎが手桶てをけを持もつた時とき勘次かんじは裏戸うらどの垣根口かきねぐちにひよつこりと出でた。

彼は着物を着がえに桑畑の細い道をこえて、自分の家へ行っていたのだった。

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彼かれは衣物きものを換かへに桑畑くはばたけの小徑こみちを越こえて自分じぶんの家うちへ行いつたのであつた。

彼はおふろのそばのさわぎをちらと耳にして、それからおつぎの後ろすがたを目にしたので、ふしぎそうなようすをして庭に入って来た。

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彼かれは風呂ふろの側そばの騷さわぎをちらと耳みゝにしてそれからおつぎの後姿うしろすがたを目めにしたので怪訝けげんな容子ようすをして庭にはにはひつて來きた。

みんなは打ち合わせたように黙ってしまった。

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一同どうは打合うちあはせた樣やうに默もくして畢しまつた。

落ちかけた日がしばらく竹やぶをすかしてしめった土にさしかけて、それから井戸をかこんだ井げたにとどいて、暗くしげったくちなしの花をきわ立って白くした。

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落おち掛かけた日ひが少時しばし竹藪たけやぶを透とほして濕しめつた土つちに射さし掛かけて、それから井戸ゐどを圍かこんだ井桁ゐげたに蒞のぞんで陰氣いんきに茂しげつた山梔子くちなしの花はなを際立はきだつて白しろくした。

しばらくして、青いけむりの満ちた家の中には、しんも切っていないランプがつるされて、板の間にはみんながぞろっとあぐらをかいて、丸い座ができた。

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暫しばらくして青あをい煙けむりの滿みちた家いへの内うちには心しんも切きらぬランプが釣つるされて、板いたの間まには一同どうぞろつと胡坐あぐらを掻かいて丸まるい坐ざが形かたちづくられた。

これもやとわれて来た若い女の人たちは、かまどの前に立って、家の女房とおつぎに手を貸していた。

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此これも傭やとはれて來きた若わかい女房等にようばうらは竈かまどの前まへに立たつて内うちの女房にようばうとおつぎとに手てを藉かして居ゐた。

徳利が三、四本、おぜんの前に運ばれた。

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徳利とくりが三四本ほん膳ぜんの前まへに運はこばれた。

「おかげでどうもはかどりました。どうぞゆっくりやっておくんなせえ」

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「お蔭かげでどうも捗はか行ゆきあんした。どうぞゆつくり行やつておくんなせえ」

亭主はあらたまってあいさつした。

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亭主ていしゆは改あらたまつて挨拶あいさつした。

「はい」

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「はい」

とみんながおじぎをした。

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と一同どうが時儀じぎをした。

めいめいのおぜんのすみへ一つずつわたされた茶飲み茶わんへお酒が注がれようとしたとき

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各自かくじの膳ぜんの隅すみへ一つ宛づゝ渡わたされた茶呑茶碗ちやのみぢやわんへ酒さけが注つがれようとした時とき

「あれ、待っててくれないか」

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「あれ待まつてゝくんねえか」

と、家の女房が慌てて言った。

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と内うちの女房にようばうが慌あわてゝいつた。

「おとっつあん、かまどの神さまを忘れたっけだろうな」

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「おとつゝあん、お竈樣かまさま忘わすれたつけべな」

女房はかまどからごはんのかまを下ろして、ふきんを手にしたまま言った。

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女房にようばうは竈かまどから飯めしの釜かまを卸おろして布巾ふきんを手てにした儘まゝいつた。

「そうだったな、ほんに」

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「さうだつけな、ほんに」

亭主はいきなり一本の徳利を手にして、土間へ下りた。

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亭主ていしゆはいきなり一本ぽんの徳利とくりを手てにして土間どまへおりた。

かまどの上のすすけた小さな神だなには、田から提げて来た一たばの苗が乗せてあった。

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竈かまどの上うへの煤すゝけた小ちひさな神棚かみだなへは田たから提さげて來きた一把はの苗なへが載のせてあつた。

彼はその苗たばへ、徳利から少しお酒を注いだ。

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彼かれは其その苗束なへたばへ徳利とくりから少すこし酒さけを注ついだ。

「お酒はそっちのほうへたくさんかけないでもらいたいな」

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「酒さけそつちの方はうへたんと掛かけねえで貰もれえてえな」

兼博労はけろりとしたようすで冗談を言った。

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兼かね博勞ばくらうはけろりとした容子ようすをして戯談じやうだんをいつた。

「お酒を飲む者は、そんなにおしいもんだろうか」

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「酒さけ飮のむ者もな、さうだに惜をしいもんだんべか」

おつぎはこっそり言った。

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おつぎはこつそりいつた。

「そんだって、お酒っていうのは人の口へ入るようにできてるんだから。それ、証こにはおれの口へ入りゃすぐ効くから見ろよ」

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「そんだつて酒さけつちや人ひとの口くちさ入せえる樣やうに出來できてんだから、それ證據しようこにや俺おらが口くちさ入せえりやすぐ利きくから見みろえ」

兼博労は言った。

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兼かね博勞ばくらうはいつた。

亭主はまた、苗たばへ香煎を少しふりかけた。

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亭主ていしゆは又また苗束なへたばへ香煎かうせんを少すこし振ふり掛かけた。

それは稲の花に見立てたもので、稲の花がいっぱいに開くようにという縁起だった。

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それは稻いねの花はなに模擬なぞらつたので、稻いねの花はなが一杯ぱいに開ひらく樣やうとの縁起えんぎであつた。

兼博労はそれを見て、急に土間へ下りて行った。

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兼かね博勞ばくらうは其それを見みて急きふに土間どまへ下おりて行いつた。

「どれ、お前ら、うどん粉をちょっと持って来てみな。ひとつまみでいいんだ。おおい、持って来いな。おつぎでもいいや、よう」

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「どうれ、おめえ等ら饂飩粉うどんこな少ちつと持もつて來きて見みせえ、一ツ爪尻つまじりでえゝんだ、おゝえ持もつて來こうな、おつぎでもえゝや、よう」

と兼博労はせかした。

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と兼かね博勞ばくらうは促うながした。

「どうしたもんだ、大いばりして」

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「どうしたもんだ、大威張おほえばりして」

おつぎはつぶやきながら、家の女房に聞いて小麦粉をひとつまみ出してやった。

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おつぎは呟つぶやきながら内うちの女房にようばうに聞きいて小麥粉こむぎこを一捉つかみ出だして遣やつた。

「そうら、これをかけて。これがおくてのいねの花だ」

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「さうら此これ掛かけて、此これが晩稻おくいねの花はなだ」

兼博労は手にした小麦粉を、すっかりかけてしまった。

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兼かね博勞ばくらうは手てにした小麥粉こむぎこを悉こと/″\く掛かけて畢しまつた。

苗たばは少し白くなった。

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苗束なへたばは少すこし白しろく成なつた。

「どこにもそんなふうにかける者はあるまいな」

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「何處どこにもさういに掛かけるもな有あんめえな」

女の人の一人が見ていて言った。

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女房にようばうの一人ひとりが見みて居ゐていつた。

「おれはおくてのいねを作るんだから。役場の奴らが作っちゃならないなんて言ったって、おれのみたいな、うっかりすると胸のあたりまで入るような深い田の冷える所じゃ、どうしたっておくてでなくちゃ穫れるもんじゃないな。それからおれは、役場で役人が講しゃくするから、深い田じゃこうだと話したら、はっきり悪いとは言わないんだから。それからおれは、こやしをつかんで見ない奴じゃだめだというんだ」

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「俺おら晩稻おくいね作つくんだから、役場やくばの奴等やつら作つくつちやなんねえなんちつたつて、俺おら見みてえな、うつかりすつと乳ちゝツ岸ぎしまでへえるやうな深ふかん坊ばうの冷ひえつ處とこぢやどうしたつて晩稻おくいねでなくつちや穫とれるもんぢやねえな、それから俺おれ役場やくばで役人やくにんが講釋かうしやくすつから深ふかん坊ばうぢや斯かうだつち噺はなししたら、はつきり惡わりいたあ云ゆはねえんだから、夫それから俺おれ糞くそ攫つかんで見みねえ奴やつぢや駄目だめだつちんだ」

彼は笑いながら独りしゃべった。

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彼かれは笑わらひながら獨ひとり饒舌しやべつた。

「根性がねじれてるからだあ、おくてのいねは作るなというのに」

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「根性こんじやう捩ねぢれてつからだあ、晩稻おくいねは作つくんなつちのに」

女の人の一人がまた言った。

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女房にようばうの一人ひとりが又またいつた。

「おれか。いやどうも、ねじれてるにも何にも」

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「俺おれか、いやどうも捩ねぢれてんにもなんにも」

兼博労は言って

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兼かね博勞ばくらうはいつて

「そうれ見ろよ、いねへ白い花がさいたぞ。白ぼうずの花だ、こりゃ」

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「そうれ見みろえ、稻いねへ白しれえ花はなが咲さえたぞ、白坊主しろばうずの花はなだこりや」

彼は手についた粉をよくはたいた。

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彼かれは手てに附ついた粉こを能よく叩たゝいた。

「いやだよ、白ぼうずっていういねはあるまいな」

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「厭やだよ、白坊主しろばうずツち稻いねはあんめえな」

女の人がまた言った。

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女房にようばうが又またいつた。

「そんでも、おれは勘次さんに聞いたぞ」

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「そんでも俺おら勘次かんじさんに聞きいたぞ」

彼は少し首をすくめながら、声を低めて言った。

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彼かれは少すこし首くびをすくめながら聲こゑを低ひくめていつた。

たもとで口をおさえて、女の人たちは笑いをこらえた。

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袂たもとで口くちを抑おさへて女房等にようばうらは笑わらひを殺ころした。

兼博労はわざと笑いをのんで、また板の間にあぐらをかいた。

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兼かね博勞ばくらうは態わざと笑わらひを嚥のんで再ふたゝび板いたの間まに胡坐あぐらを掻かいた。

勘次は小さいころから見下されて、よく泣かされた。

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勘次かんじは小ちひさな時分じぶんから侮あなどられて能よく泣なかされた。

彼はおそろしい泣き虫だった。

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彼かれは恐おそろしい泣蟲なきむしであつた。

彼はいつのまにか、「かんなべ」というあだ名をつけられた。

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彼かれは何時いつの間まにか燗鍋かんなべといふ綽名あだなを附つけられた。

彼は心の中でどれほどそれをいやがったか知れない。

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彼かれは心こゝろに幾いくら其それを嫌きらつたか知しれない。

三十をこえて四十になっても、彼は「なべ」というのがひどくいやだった。

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卅越こえて四十に成なつても彼かれは鍋なべといふのが酷ひどく厭いやであつた。

村ではそれを知らない者はない。

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村落むらではそれを知しらぬ者ものはない。

あるとき、いたずら好きな兼博労が、勘次が刈っている稲を、これは何だいと聞いた。

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或ある時とき惡戯好いたづらずきな兼かね博勞ばくらうが勘次かんじの刈かつて居ゐる稻いねを、此これは何なんだえと聞きいた。

わざと聞いたのだった。

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態わざと聞きいたのであつた。

それは「なべ割れ」とも、それからのぎが白いので「白のぎ」とも言うのだったが、勘次は

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其それは鍋割なべわれとも、それから芒のげが白しろいので白芒しらのげとも云いふのであつたが勘次かんじは

「これは白ぼうず」

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「此これは白坊主しろばうず」

とそっけなく言った。

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とそつけなくいつた。

彼は「なべ」というのがいやで、そう言ったのである。

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彼かれは鍋なべといふのが厭いやでさういつたのである。

兼博労は、うまいことをつかまえたように得意になって、村じゅうに言いふらした。

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兼かね博勞ばくらうはうまく或ある物ものを攫とらへた樣やうに得意とくいに成なつて村落中むらぢゆうへ響ひゞかせた。

口の悪い百姓たちは、勘次がおつぎを連れて田へ出ているのを見て

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口くちの惡わるい百姓等ひやくしやうらは勘次かんじがおつぎを連つれて田たへ出でて居ゐるのを見みて

「白ぼうずら、夫婦でたがやしてら」

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「白坊主等しろばうずら夫婦ふうふして耕うなつてら」

などと言い放つことさえあるのだった。

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抔などと放言はうげんすることすらあるのであつた。

茶わんには一ぱいずつお酒が注がれた。

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茶碗ちやわんには一杯ぱいづつ酒さけが注つがれた。

みんなはおとなしく茶わんを口に当てた。

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一同どうはしをらしく茶碗ちやわんを口くちに當あてた。

「こんな物でよけりゃ、たくさんやっておくんなせえ。まだ後にもありますから」

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「恁こんな物ものでよけりや、夥多みつしらやつておくんなせえ、まあだ後あとにも有ありやんすから」

家の女房は、塩で煮たかと思うような白っぽいじゃがいもの大きなさらをおぜんに乗せて、二か所へ置いた。

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内うちの女房にようばうは鹽しほで煮にたかと思おもふ樣やうな白しろつぽい馬鈴薯じやがたらいもの大おほきな皿さらを膳ぜんへ乘のせて二處ふたとこへ置おいた。

たちまち一ぱいを飲み干して、注ぎ合いが始まった。

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忽たちまち一杯ぱいを干ほして獻酬とりやりが始はじまつた。

注がれる者は茶わんの手を上げて、相手が持つ徳利の口に手をかけて、お酒がこぼれるのをふせいだ。

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注つがれるものは茶碗ちやわんの手てを擧あげて相手あひてが持もつてる徳利とくりの口くちへ手てを掛かけて酒さけの滾こぼれるのを防ふせいだ。

お酒が始まってから、みんなが妙にもったいぶってすわり方を直した。

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酒さけが始はじまつてから皆みなが妙めうに鹿爪しかつめらしく居ゐずまひを改あらためた。

「さあ、どうかずんずん飲んでおくんなせえね」

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「さあ、何卒どうぞずん/\干ほしておくんなせえね」

亭主はすすめた。

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亭主ていしゆは促うながした。

「はい」

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「はい」

あいさつがまた口々に出た。

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挨拶あいさつが又また口々くち/″\に出でた。

このごろは高いお酒はなかなか席に出されなくなっていたので、他人が買ったのでもみんな遠りょするようになっていた。

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此この頃ごろでは不廉ふれんな酒さけは容易よういに席上せきじやうへは運はこばれなく成なつて居ゐたので隨したがつて他人たにんの買かつたのでも皆みな控ひかへ目めにする樣やうに成なつて居ゐた。

南の家では養蚕の結果がよかったのと、少しばかりあまった桑が思いがけない高値で売れたのとで、一円ばかりのお酒を思い切って買ったのだった。

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南みなみでは養蠶やうさんの結果けつくわが好よかつたのと少すこしばかり餘あまつた桑くはが意外いぐわいな相場さうばで飛とんだのとで、一圓ゑんばかりの酒さけを奮發ふんぱつしたのであつた。

その晩の料理に使うしょうゆが要るので、両方をかねて亭主は昼休みの時こくにてんびん棒をかついで鬼怒川をわたった。

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其その晩ばんの料理れうりに使つかふ醤油しやうゆが要いるので兩方りやうはうを兼かねて亭主ていしゆは晝餐休ひるやすみの時刻じこくに天秤てんびん擔かついで鬼怒川きぬがはを渡わたつた。

村の店では買わずに直接酒蔵へ行ったので、お酒は白鳥徳利の肩までとどいていた。

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村落むらの店みせでは買かはずに直接ちよくせつ酒藏さかぐらへ行いつたので酒さけは白鳥徳利はくてうどくりの肩かたまで屆とゞいて居ゐた。

めいめいのふだんかわいた口にはお酒はとてもうまく感じるとともに、そのしびれさせる力にたえる力が弱っているので、徳利が一本ずつ空になって次の徳利に手がかかったと思うころ、板の間ではみんなのつつしみが乱れて元気が出た。

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各自かくじの平生へいぜい渇かつして居ゐる口くちには酒さけは非常ひじやうに佳味うまく感かんずると共ともに、其その痲痺まひする力ちからに對たいする抵抗力ていかうりよくが衰おとろへて居ゐるので徳利とくりが一本ぽんづつ倒たふされて次つきの徳利とくりに手てが掛かゝつたと思おもふ頃ころ板いたの間までは一同どうのたしなみが亂みだれて威勢ゐせいが出でた。

「お前、そんなに自分の所ばかり置かないで飲めな」

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「おめえ、さういに自分じぶんの處とこれえばかし置おかねえで干ほせな」

と、弱い者の所へ杯を集めて、困るのを見ようとさえするようになった。

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と弱よわい者ものの處ところへ杯さかづきを聚あつめて困こまるのを見みようとさへする樣やうに成なつた。

勘次は独りそばの徳利を引きよせて何ばいもかたむけて、他人より先に横顔のすじがふくらんでいた。

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勘次かんじは獨ひとり側そばなる徳利とくりを引ひきつけて幾抔いくはいか傾かたむけて他人ひとよりも先さきに小鬢こびんの筋すぢが膨ふくれて居ゐた。

「おれは、かんなを持たない大工だ。のみ一方というんだから」

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「俺おら、鉋かんなの持もたねえ大工でえくだ、鑿のみ一方ぽうつちんだから」

と言って、勘次は相手もいないのにわざとらしい笑い方をして、女の人たちのいるほうを見た。

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といつて勘次かんじは相手あひてもないのに態わざとらしい笑わらひやうをして女房等にようばうらの居ゐる方はうを見みた。

彼はうなだれそうになる首を起こして、何度も見ることをくり返した。

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彼かれは俛たれ相さうに成なる首くびを起おこして數々しば/\見みることを反覆くりかへした。

おつぎは後ろのほうへかくれていた。

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おつぎは後うしろの方はうへ隱かくれて居ゐた。

勘次ははしを一本持って、あぶない物にでもさわるようにひらわんのじゃがいもをその先へさしては、いっぱいに口を開いてほおばった。

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勘次かんじは箸はしを一本ぽん持もつて危險あぶない物ものにでも觸さはるやうに平椀ひらわんの馬鈴薯じやがたらいもを其その先さきへ刺さしては一杯ぱいに口くちを開あいて頬張ほゝばつた。

ひらわんにはごぼうとじゃがいもが山盛りにされて、油あげが一まい乗せてある。

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平椀ひらわんには牛蒡ごばうと馬鈴薯じやがたらいもとが堆うづたかく盛もられて油揚あぶらあげが一枚まい載のせてある。

「ばかに大きくなったっけな、このじゃがいもはなあ」

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「箆棒べらぼうに大えかく成なつたつけな、此この馬鈴薯じやがいもはなあ」

一人が言った。

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一人ひとりがいつた。

「これでも桑のあいだへ作ったんだが、思ったよりよくできたのさ」

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「此こんでも桑くはの間あひださ作つくつたんだが、思おもひの外ほかだつけのさ」

亭主は自まんらしく、それでもわざと声を落として言った。

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亭主ていしゆは自慢じまんらしくそれでも態わざと聲こゑを落おとしていつた。

「桑のあいだでこんなにできるかな。そりゃそうと、どこへ作ったんだいまあ」

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「桑くはの間あひだでかう出來できつかな、そりやさうと何處どこさ作つくつたんでえまあ」

「裏のかきねの外さ。土はかたくて赤っぽいが、はきだめをみっしりほりこんでおいた所だから、それが効いたと見えるのさ。思ったより土地は選ばないもんだよ。こんなもんでも作っちゃ桑には悪かろうが」

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「裏うらの垣根外くねそとさ、土つちはかたで赤あかつぽうろくだが、掃溜はきだめみつしら掘ほつ込こんで置おいた處ところだから、其それが出でたと見めえんのさ、思おもひの外ほか土地とちは嫌きらあねえもんだよ、此こんなもんでも作つくつちや桑くはにや惡わるかんべが」

「大丈夫だとも。じゃがいもが大きくなるようじゃ、その肥料は桑も吸うから。いや、桑の根っこが遠くまでのびるんじゃおどろいたもんだから。目もありもしないのに、肥料のほうへ真っ直ぐにずうっと来るからな」

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「大丈夫だいぢやうぶだとも、馬鈴薯じやがいもが大えかく成なる樣やうぢや其その肥料こやしは桑くはも吸すふから、いや桑くはの根ねつ子この遠とほくへ踏ふん出だすんぢや魂消たまげたもんだから、目めも有ありもしねえのに肥料こやしの方はうへ眞直まつすぐにずうつと來くつかんな」

「これでどのくらいできるものだと思ったら、一株で一しょうくらいずつも掘れるよ」

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「此これでどの位くれえ殖ふえるものだと思おもつたら一ツ株かぶで一升しよう位ぐれえづゝも起おこせるよ」

亭主が言えば

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亭主ていしゆがいへば

「うん、そうかな。そうするとわりのいいもんだな」

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「うむ、さうかな、さうすつと割わりの善ええもんだな」

めいめいそう言っていると

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各自てんでにさういつて居ゐると

「よくごぼうはもたせたっけな」

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「能よく牛蒡ごぼうは保もたせたつけな」

と言う者があった。

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といふものがあつた。

「なあに、ふみ固める所へうめさえしておけば大丈夫なものさ。おれの家じゃ田植えまでもつように、庭へうめておくのよ」

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「なあに、踏ふん固がためる處ところへ活いけてせえ置おけば大丈夫でえぢやうぶなものさ、俺おら家ぢや田植たうゑ迄までは有あるやうに庭にはへ埋うめて置おくのよ」

亭主は自分もわんのごぼうをはさんで言った。

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亭主ていしゆは自分じぶんも椀わんの牛蒡ごぼうを挾はさんでいつた。

「そうだが、おれの家なんぞじゃ、それまでにはなくなっちまうから、一度もそんなふうにうめておいたことはないな」

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「さうだが、俺おら家ぢなんぞぢや、それまでにや無なく成なつちまあから一度どでもさういに活いけて置おいたことあねえな」

と一人が言えば

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と一人ひとりがいへば

「おれなんざ、はらにしまっておくから、ぬすまれっこなしだ」

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「俺おらなんざ、腹はらさ藏しまつて置おくから盜とられつこなしだ」

兼博労は口を出した。

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兼かね博勞ばくらうは口くちを出だした。

「ごぼうもうっかりして縄でしばってうめちゃ、そこからくさりが入ってひどいもんだな。藁はよっぽどきらいだと見えるのさな」

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「牛蒡ごばうもうつかりして繩なはで縛しばつて活いけちや、其處そこから腐くされがへえつて酷ひでえもんだな、藁わらは餘よつ程ぽど嫌きれえだと見めえんのさな」

勘次は横から言った。

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勘次かんじは横合よこあひからいつた。

「どうしたかよ」

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「どうしたかよ」

うたがう声が上がった。

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疑うたがひの聲こゑが發はつせられた。

「どうしたかなもんじゃない。おれの家でやったことがあるんだもの」

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「どうしたかなもんぢやねえ、俺おら家ぢで行やつたこと有あんだもの」

彼は相手におされたように声を低めて

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彼かれは相手あひてに壓あつせられた樣やうに聲こゑを低ひくめて

「なあ、おつう、そうだな」

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「なあおつう、さうだな」

と、体を横に向けて言った。

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と身體からだを横よこに向むけていつた。

板の間と土間とのさかいに立っている柱のかげに、ランプの光から身をかくすようにしてみんなの注ぎ合いを見ていた女の人の手が、急におつぎのしりをつついて

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板いたの間まと土間どまとの界さかひに立たつて居ゐる柱はしらの陰かげにランプの光ひかりから身みを避さけるやうにして一座ざの獻酬けんしうを見みて居ゐた女房等にようばうらの手てが俄にはかにおつぎの臀しりをつゝいて

「おつうと、それ、返事するもんだ」

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「おつうとそれ、返辭へんじするもんだ」

と小声で言って、かすかに笑った。

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小聲こごゑでいつて微かすかに笑わらつた。

勘次はふしぎそうなようすをして、柱のかげをじっと見て目をしかめた。

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勘次かんじは怪訝けげんな容子ようすをして柱はしらの陰かげを凝然ぢつと見みて目めを蹙しかめた。

「おつぎはいるよ、お前、そんなに見なくても」

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「おつぎは居ゐるよおめえ、さういに見みねえでも」

柱のかげから言って、ささやいた。

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柱はしらの陰かげからいつて私語さゞめいた。

勘次は板の間のはしの近くにいたのだが、おぜんをこえて体をぐっと前へのばしては、徳利を動かして空になったのは女の人たちへわたして、どことなく気をつかうようにそわそわとしている。

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勘次かんじは板いたの間まの端はしに近ちかく居ゐたのであるが膳ぜんを越こえて身體からだをぐつと前まへへ延のばしては徳利とくりを動うごかして空からに成なつたのは女房等にようばうらへ渡わたして何處どことなしに心こゝろを配くばる樣やうにそわ/\として居ゐる。

「はてな、ふところへ入れたはずだったが」

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「はてな、懷ふとこれえ入せえた筈はずだつけが」

と兼博労はふところからまわりをさがして、そばへ落ちた小さな紙包みを手にして

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と兼かね博勞ばくらうは懷ふところから周圍あたりを探さがして側そばへ落おちた小ちひさな紙包かみづゝみを手てにして

「こら、うまい物を見ろよまあ」

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「こうれ、うめえ物もの見みろえまあ」

と言って開けてみると、三センチばかりのかまきりがかまを持ち上げて、ちょろちょろと歩き出した。

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といつて開あけて見みると一寸すんばかりの蟷螂かまきりが斧をのを擡もたげてちよろちよろと歩あるき出だした。

「へへえ、この畜生め、これでも怒ってらあ」

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「へゝえ、此こん畜生奴ちきしよめこんでも怒おこつてらあ」

兼博労はちょいとかまきりをつついてみて、独り面白がって笑った。

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兼かね博勞ばくらうはちよいと蟷螂かまきりをつゝいて見みて獨ひとり興きようがつて笑わらつた。

「どうしたもんだろう、いい大人が」

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「どうしたもんだんべ大えけえ姿なりして」

と、女の人たちはみな笑った。

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と女房にようばうは皆みな笑わらつた。

「あれ、おれは知ってら」

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「あれ俺おら知しつてら」

おつぎのそばにいた与吉は、兼博労のそばへ行って

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おつぎの傍そばに居ゐた與吉よきちは兼かね博勞ばくらうの側そばへ行いつて

「からすのたまごから出るんだぞ、これは」

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「鴉からすのきんたまから出でんだぞこら」

と言った。

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といつた。

「お前らは知りもしないで」

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「汝わツ等ら知しりもしねえで」

勘次は与吉を甘やかすようにして言った。

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勘次かんじは與吉よきちを甘あまやかす樣やうにしていつた。

「そんだって、おれは見た。笹の葉のえだにくっついてた所から出たんだ」

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「そんだつて俺おら見みた、笹さゝつ葉ぱの枝えだにくつゝいてた處ところから出でたんだ」

与吉はかまきりをいじりながら言った。

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與吉よきちは蟷螂かまきりを弄いぢりながらいつた。

「勘次さん、だめだよ。学校へやっちゃ半年とは言えないから。下手をすると今の子どもらには、やりこめられちまうから。おとっつあん、これを知ってるかなんて言われたって、困るなあ、どうもなあ」

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「勘次かんじさん駄目だめだよ、學校がくこへ遣やつちや半年はんとしたあ云ゆはんねえから、下手へたんすつと今いまの子奴等こめらにや遣やり込こめられつちやからおとつゝあ此これ知しつてつかなんちあれたつて、困こまらなどうもなあ」

そばから言ったので、勘次はさすがににっこりとした。

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側そばからいつたので勘次かんじは有繋さすがに嫣然にこりとした。

白鳥徳利の口が底より低くなったとき、みんなのあいだで馬の話が出た。

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白鳥徳利はくてうどくりの口くちが底そこよりも低ひくく成なつた時とき一座ざの間あひだには馬うまの噺はなしが出でた。

馬という奴はあの体で、お酒の二はいも口へ入れてやるとたちまちとろんとして、あばれ馬でも静かになる、博労はむかしはそうして悪い馬を売りつけたものである。

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馬うまといふ奴やつはあの身體からだで酒さけの二杯はいも口くちへ入いれてやると忽たちまちにどろんとして駻馬かんばでも靜しづかに成なる、博勞ばくらうは以前いぜんはさうして惡わるい馬うまを嵌はめ込こんだものである。

今でもそんなことで油断はならない、村が貧しくなったから荷車ばかり増えて馬がへってしまったが、荷車の検査に行ってみておどろいたなどということや、朝鮮の牛がだいぶ入って来たが、犬ころのような体でわりと安いからどうしたものだかなどということが、きりもなくがやがやと大声でどなり合われた。

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現在いまでもそんなことで油斷ゆだんは成ならぬ、村落むらが貧乏びんばふしたから荷車にぐるまばかり殖ふえて馬うまが減へつて畢しまつたが荷車にぐるまの檢査けんさに行いつて見みて驚おどろいた抔などといふことや、朝鮮牛てうせんうしが大分だいぶ輸入ゆにふされたが狗いねころの樣やうな身體からだで割合わりあひに不廉たかいからどうしたものだか抔などといふことが際限さいげんもなくがや/\と大聲おほごゑで呶鳴どなり合あうた。

「博労なんていう奴らは、泥棒根性がなくちゃできない商売だな。嘘っぱちばかり言って、兼らお前は、おれのことさえだますつもりしやがって」

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「博勞ばくらうなんちい奴等やつらは泥棒根性どろぼうこんじやう無なくつちや出來できね商賣しやうべえだな、嘘ちくらつぽう打ぶんぬいて、兼等かねら汝わりや、俺おれことせえおつ嵌ぱめる積つもりしやがつて」

兼博労の向かい側から冗談らしい調子で言うと

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兼かね博勞ばくらうの向側むかうがはから戯談じようだんらしい調子てうしでいふと

「ばかを言え、だますもんじゃない。それ、いやならお金を出せよ、お金。なあ、お金を出さないつもりでいるのが泥棒よりふてぶてしいんだな。西のおとっつあんらはためらってばかりだから、だめで」

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「箆棒べらぼう、おつ嵌ぱめんなもんぢやねえ、それ厭やだら錢ぜに出だせよ錢ぜに、なあ、錢ぜに出ださねえ積つもりすんのが泥棒どろぼうより太ふてえんだな、西にしのおとつゝあ等ら躊躇逡巡しつゝくむつゝくだから、かたで」

「そんだから見ろよ、博労で蔵を建てた奴はありゃしない。ばちが当たってるから」

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「そんだから見みろえ、博勞ばくらうで藏くら建たてた奴やつあ有ありやしねえ、罰ばちたかつてつから」

「どうした、そんだがこの間の白い馬はよかっただろう。あれと交かんしろな。ああ西のおとっつあん、白じゃ軍に取られないぞ」

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「どうした、そんだが此間こねえだの白しろは善よかつたんべ、彼あれさ打ぶてな、あゝ西にしのおとつゝあ、白しろぢや徴發ちようはつはさんねえぞ」

「いいから、それよりか、そんなにけちなことを言わないで、なあ、米一俵で交かんしようじゃないか」

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「えゝから、それよりか、そんなに不廉たけえこと云ゆはねえで、なあ、米こめ一俵ぺう打ぶつべえぢやねえか」

「むだだよ、それじゃ。何でも六銭のござを乗せて引いて来たんだぞ。血統書まであるんだぞ。ああ、その手はないぞ」

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「徒勞だめだよそんぢや、あんでも六錢の横薦よこゞも乘のつけて曳ひいて來きたんだぞ、血統證けつとうしようまで有あんぞ、あゝ、彼あの手てはねえぞ」

「何だいお前がまた、父馬と母馬だけの血統書だろう。そんなものは何になるもんじゃない。おれが知らないと思って。おれは白河の市で聞いてらあ」

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「何なんでえ汝われがまた、牡馬をんまと牝馬めんまだけの血統證けつとうしようだんべ、そんなもの何なんに成なるもんぢやねえ、俺おれ知しらねえと思おもつて、俺おら白河しらかはの市いちで聞きいてらあ」

「博労がうまく話をまとめられないようだな。ようし、そんじゃおれが一つ交かんしてやろう」

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「博勞ばくらううまく練ねれねえ樣やうだな、ようしそんぢや俺おれ一つ打ぶつてやんべ」

二人が冗談まじりにはげしく悪口を言っていると、ふとそばからこう言った。

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二人ふたりが戯談交じやうだんまじりに劇はげしく惡口あくこうを云いつて居ゐるとふと側そばから凭かういつた。

「そんじゃ、それを飲めな。兼さんもそれ」

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「そんぢや、それ干ほせな、兼かねさんもそれ」

彼は二人の茶わんを自分の手で取りかえて、それを両方へわたしてお酒を注いだ。

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彼かれは二人ふたりの茶碗ちやわんを自分じぶんの手てで交換かうくわんさせて、それを兩方りやうはうへ渡わたして酒さけを注ついだ。

「どうだい、博労がうまく交かんできただろう。どっちもえこひいきなしという所だ」

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「どうだえ、博勞ばくらううまく打ぶてたんべ、どつちも依怙贔負えこひいきなしつち處とこだ」

相手は得意になって言った。

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相手あひては得意とくいに成なつて云いつた。

「こっちのおとっつあん、いくつだったっけな。ちょっと白くなったな」

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「こつちのおとつゝあ、幾いくつだつけな、少ちつと白しろく成なつたな」

とつぜん一人がどなった。

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突然とつぜん一人ひとりが呶鳴どなつた。

「そうよな」

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「さうよな」

亭主は髪に手を当てて言ったとき

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亭主ていしゆは頭髮あたまに手てを當あてゝいつた時とき

「お前、おれの家のおとっつあんもどうしてかひどく白くなったんだが、これで年はそんなに取っちゃいないんだぞ」

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「おめえ、俺おら家ぢのおとつゝあもどうしてか酷ひどく白しろく成なつたんだが、斯こんで年齡としはさういにとつちや居ゐねえんだぞ」

そこへ小さな子をだいてすわった家の女房が、ほほえみながら言った。

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其處そこへ小ちひさな子こを抱だいて坐すわつた内うちの女房にようばうが微笑びせうしながらいつた。

「おれと同い年だよ」

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「俺おれと同年齡おねえどしだよ」

独りぼっちになっていた勘次は、横から口をはさんだ。

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獨ひとりぼつちに成なつて居ゐた勘次かんじは横よこから口くちを挾はさんだ。

「どうだかよ」

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「どうだかよ」

「なあに、どうだかなもんじゃない」

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「なあに、どうだかなもんぢやねえ」

勘次は口をとがらせて言った。

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勘次かんじは口くちを角つののやうにしていつた。

「本当にそうなんだよ、お前」

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「本當ほんたうにさうなんだよおめえ」

女房はそばから言った。

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女房にようばうは側そばからいつた。

「そんじゃ勘次さん、お前いくつだい」

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「そんぢや勘次かんじさんおめえ幾いくつでえ」

相手は乗り気になって聞いた。

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相手あひては乘地のりぢになつて聞きいた。

「そうよ、おれはこっちのおとっつあんと同い年だったっけな」

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「さうよ、俺おらこつちのおとつゝあと同年齡おねえどしだつけな」

彼は自分で思いついたのではなくて、どこかで聞いた覚えをそのままくり返して、そして冗談を言ってみた。

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彼かれは自身じしんの創意さういではなくて何處どこかで聞きいた記憶きおくを其その儘まゝ反覆はんぷくしてさうして戯談じやうだんを敢あへてした。

「ええ、ばかな」

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「えゝ箆棒べらぼうな」

と相手は言ってしまった。

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と相手あひてはいつて畢しまつた。

家の女房は両方の髪をつくづくと見て

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内うちの女房にようばうは兩方りやうはうの頭髮あたまを熟つく/″\と見みて

「そんだが勘次さんは本当に若いな。おれの家のおとっつあんらとは、たいしたちがいだな」

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「そんだが勘次かんじさんは本當ほんたうに若わけえな。俺おら家ぢのおとつゝあ等らたあ、たえした違ちげえだな」

と言った。

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といつた。

「勘次さんらはまだ十七だな」

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「勘次かんじさん等らまあだ十七だな」

兼博労はすぐ後につづけて言った。

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兼かね博勞ばくらうは直すぐに後あとを跟ついていつた。

女の人たちはまた、こっそりたもとで口をおおった。

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女房等にようばうらは復また竊ひそかに袂たもとで口くちを掩おほうた。

兼博労がふり返ったとき、女の人たちは割ったたいまつの先をつっこんでは、香煎を口にふくんで苦労してなめていたのだった。

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兼かね博勞ばくらうが顧かへりみた時とき女房等にようばうらは割わつた燭奴つけぎの先さきを突つつ掛かけては香煎かうせんを口くちへ含ふくんで面倒めんだうに嘗なめて居ゐたのであつた。

「香煎をなめるときは、笑っちゃいけないと言ったっけぞ、お前ら」

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「香煎かうせん嘗なめんのにや、笑わらつちやいかねえつちけぞ、おめえ等ら」

兼博労は言った。

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兼かね博勞ばくらうはいつた。

さっきから笑うくせのついていた女の人たちは、いっぺんにぷっとふき出して、粉がそこらに散った。

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先刻さつきから笑わらふ癖くせのついてた女房等にようばうらは一時じにぷつと吹出ふきだして粉こなが其處そこらに散ちつた。

かわいている粉のためにむせて、女の人たちはしきりにせきをした。

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乾燥かんさうして居ゐる粉こなの爲ために咽むせて女房等にようばうらは頻しきりに咳せきをした。

彼女たちはかけ下りて手おけの水をがぶりと飲んで、やっと胸を落ち着けた。

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彼等かれらは驅かけおりて手桶てをけの水みづをがぶりと飮のんで漸やうやく胸むねを落附おちつけた。

「ああ、ひどい目にあった。粉が鼻のほうへ入って、鼻がつんつんして仕方がありゃしないや。本当に兼さんは人が悪いや。なんぼにくらしいか知れやしない。そこらにたきぎの棒でもあれば、ぶっとばしてやりたいようだ」

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「おゝ、酷ひでえ目めに逢あつた。粉鼻こなはなの方はうさへえつて鼻はなつん/\して仕しやうありやしねえや、本當ほんたうに兼かねさんは人ひとが惡わりいや、なんぼ憎にくらしいか知しれやしねえ、其處そこらに薪雜棒まきざつぽうでも有あれば打ぶつ飛とばして遣やりてえ樣やうだ」

なみだの目をふいて、うらめしそうに女の人たちは言うのだった。

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涙なみだの目めを拭ぬぐつて恨うらめしげに女房等にようばうらは云いふのであつた。

「そんだから、おれは笑っちゃいけないと言ったんだな。それを聞かないから」

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「そんだから俺おれ、笑わらつちやえかねえつて云ゆつたんだな、それ聽きかねえから」

兼博労はわざと平気な顔で言った。こうしてがみがみ言う声が入りまじったとき

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兼かね博勞ばくらうは態わざと平然へいぜんとして云いつた、恁かうしてがみ/\いふ聲こゑが錯雜こぐらかつた時とき

「博労さんが一つやっつけるかな」

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「博勞ばくらうさん一つやつゝけつかな」

兼博労がひと声ことに大きくどなったと思ったら、茶わんのお酒を一口にぐっと飲み干して、両手に茶わんを伏せて、板の間にぱかぱかぱかぱかとひづめの音をまねてひょうしを取りながら

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兼かね博勞ばくらうは一聲こゑ殊ことに大おほきく呶鳴どなつたと思おもつたら茶碗ちやわんの酒さけを一口くちにぐつと干ほして兩手りやうてに茶碗ちやわんを伏ふせて、板いたの間まにぱか/\ぱか/\と蹄ひづめに傚ならうて拍子ひやうし取とつた響ひゞきを立たてながら

「三春から白河のほうへ、これでもござを乗せたのをつないで引いて来る所だからな。よく聞いてみな。この手には行かないぞ」

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「三春みはるから白河しらかはの方はうへこんでも横薦よこごも乘のつけたの繋つないで曳ひいて來くつ處とこらえゝかんな、能よく聞きいて見みせえ、此この手てにや行いかねえぞ」

彼はその自まんの後から

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彼かれは其その自慢じまんの下したから

「どうどうどうよ、ほうい、ほいとう」

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「どう/\どうよ、ほうい、ほいとう」

と、馬へのかけ声をもっともらしくやった。

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と馬うまへの掛聲かけごゑを尤もつともらしくした。

茶わんのひょうしにつれて、みんなはぴったり静かになった。

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茶碗ちやわんの拍子ひやうしに連つれて一同どうはぴつたり靜しづかに成なつた。

「はあええええ」

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「はあえゝえゝえゝ」

と、ぼうっと太い声で歌い出して

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とぼうと太ふとい聲こゑで唄うたひ出だして

「かれしばあにいいいいええ、はあえ、止まるうえ、ちょうちょうのおおおおえ、はあ、ありゃ気があああああえ、え、はあ知れえぬうよおうう」

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「枯芝かれしばあえにいゝゝゝゝえゝ、はあえ、止とまるうえ、てふ/\のおゝゝゝゝえ、はあ、ありや氣きがあゝゝゝゝえ、え、はあ知しれえゝぬうよおうゝゝ」

と、彼は目をつぶって少し上向きに首をかたむけて、ありったけの声をしぼって、とてもゆっくりと、そして次の句を

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と彼かれは眼めを瞑つぶつて少すこし上向うはむきに首くびを傾かたむけて一杯ぱいの聲こゑを絞しぼつて極きはめて悠長いうちやうにさうして句くの續つゞきを

「ええそばにええ、なたねえのおおおおえ、ええ花があえ、あああえるううううええ、ほういほい」

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「えゝ傍そばにえゝ、菜種なたねえのおゝゝゝゝえ、えゝ花はながあえ、あゝえるうゝゝゝゝえゝ、ほういほい」

と歌い終わったとき、顔がことさらに赤くなって、汗がつりランプに光って見えた。

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と唄うたひ畢をはつた時とき顏かほが殊更ことさらに赤あかく成なつて汗あせが吊つるしランプに光ひかつて見みえた。

彼は手でぐるりとふいた。

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彼かれは手てでぐるりと拭ぬぐつた。

「ばかにのんびりした歌だな。この夜の短いのに、ねむたくなっちまうな」

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「箆棒べらぼうに迂遠まだるつけえ唄うただな、此この夜よの短みじけえのに眠ねむつたく成なつちやあな」

そばから悪口を言った。

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側そばから惡口あくこうを吐ついた。

「いいから、西のおとっつあん、耳あかをほじくって聞いてろよ」

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「えゝから西にしのおとつゝあ、耳糞みゝくそほじくつて聞きいてろえ」

兼博労は言って

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兼かね博勞ばくらうはいつて

「はあええええ、ええ朝のううええ、はあ出掛えにいいいいええ」

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「はあえゝえゝ、えゝ朝あさのうゝゝえゝえ、はあ出掛でがけえにいゝゝゝゝえ」

と、また歌い出した。

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と又また唄うたひ出だした。

「朝の出がけにどの山見ても、雲のかからぬ山はない」

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「朝あさの出掛でがけにどの山やま見みても雲くもの掛かゝらぬ山やまはない」

と歌って、茶わんを動かしては

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と唄うたつて茶碗ちやわんを動うごかしては

「ぱかぱかぱかぱかとなあ、こう。二十三坂をこえて引く所だぜ。畜生、あばれるなよ」

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「ぱか/\ぱか/\となあ斯かう、廿三坂さか越こえて引ひく處とこだぜ、畜生ちきしやうあばさけんなえ」

と、彼はさらに

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と彼かれは更さらに

「ひいいん」

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「ひゝいん」

と馬の鳴き声をまねて、それから

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と馬うまの啼なき聲ごゑをしてそれから

「二十三坂か。白河のこっちだ。しまいの坂がとんでもなく長くてな」

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「廿三坂さかか、白河しらかはのこつちだ、畢しめえの坂さかが箆棒べらぼうに長ながくつてな」

と言って、また

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といつて又また

「はあええええ」

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「はあえゝえゝえゝ」

と、いかにも気が乗ったように

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と左さも氣きの乘のつたらしく

「奥の博労さん、どこで夜が明けた、二十三坂七つ目で」

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「奧おくの博勞ばくらうさん何處どこで夜よが明あけた、廿三坂さか七つ目めで」

と楽しそうな声で歌った。

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と愉快ゆくわいな聲こゑで唄うたつた。

「夜引きをするときには、人間もねむたくなりゃ馬もねむたくなってな。石の坂だから畜生らがくたりくたりともう、なんぼにも歩かないな。そのときには、おうい一つどうだねやっつけちまおうというところでなあ。博労らがぞろぞろつながって来るんだから、峰のほうでも谷底のほうでも一度に大変だあ。そうすると馬っこらがひいんなんてあばれて、ぱかぱかぱかぱかと、こう足の運びがちがって来らあな。みなお母さんにばかりくっついてたのを引きはなして来るんだから、足がそろわないな、どうしても。それに坂が急だというと、さかさの旋毛を立てるようだから、畜生はなんぼにも足が出ないな。そいつに合わせて歌うんだから、ゆっくり行かなくちゃならないな」

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「夜引よびきすつ時ときにや人間にんげんも眠ねむつたく成なりや馬うまも眠ねむつたく成なつてな、石坂いしざかだから畜生等ちきしやうらがくたり/\はあ、なんぼにも歩あるかねえな、そん時ときにや、おうい一つどうだね遣やつゝけちやあと許ばかりでなあ、博勞等ばくらうらぞろ/\繼つながつて來くんだから、峯みねの方はうでも谷底たにそこの方はうでも一度どに大變たいへんだあ、さうすつと駒こまつ子奴等こめらひゝんなんてあばさけてぱか/\ぱか/\と斯かう運はこびが違ちがつて來くらな、皆みんなおつかげばかし喰くつ附ついてたの引ひつ放ぱなして來くんだから足あしが不揃ふぞろひだなどうしても、それに坂さかが急きふだつちと倒旋毛さかさつむじおつ立たてる樣やうだから畜生ちきしやうなんぼにも足あしが出でねえな、其奴そいつへ合あはせて唄うたあんだからゆつくり行やんなくつちやなんねえな」

兼博労は帯を解いてはだかになって、着物を後ろへ投げた。

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兼かね博勞ばくらうは帶おびを解といて裸はだかに成なつて衣物きものを後うしろへ投なげた。

帯は一重で、左の腰骨の所でだらりと結んであった。

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帶おびは一重ひとへで左ひだりの腰骨こしぼねの處ところでだらりと結むすんであつた。

両方のはしが赤い布でふちどってある。

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兩方りやうはうの端はしが赤あかい切きれで縁ふちをとつてある。

あらいたてじまの染め抜きで、それは馬のかざりのはち巻きに使う布だった。

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粗あらい棒縞ぼうじまの染拔そめぬきでそれは馬うまの飾かざりの鉢卷はちまきに用もちひる布片きれであつた。

「ここらの馬だって見ろよ。博労節を門先でやったっくらい、うまやの中で畜生は体をゆさぶって大さわぎだな」

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「此處ここらの馬うまだつて見みろえ、博勞節ばくらうぶし門かどツ先つあきでやつたつ位くれえ厩まやん中なかで畜生ちきしやう身體からだゆさぶつて大騷おほさわぎだな」

彼は独りで酒の席をにぎわした。

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彼かれは獨ひとりで酒席しゆせきを賑にぎはした。

彼はそうして、土のような汗とほこりでよごれた手ぬぐいで、首すじから体じゅうをふいた。

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彼かれはさうして土つちのやうな汗あせと埃ほこりとで染そまつた手拭てぬぐひで首筋くびすぢから身體からだ一杯ぱいに拭ぬぐつた。

それから

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それから

「ああかゆい」

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「おゝ痒かいい」

と、ぴしゃりと手で蚊をたたいた。

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とぴしやり手てで蚊かを叩たゝいた。

彼の歌につれて、めいめいがさらに歌った。

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彼かれの唄うたに連つれて各自めいめいが更さらに唄うたつた。

みなはしで茶わんをたたいてひょうしを合わせた。

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皆みな箸はしで茶碗ちやわんを叩たゝいて拍子ひやうしを合あはせた。

そういうさわぎになってから、お酒はへらなかった。

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さういふ騷さわぎに成なつてから酒さけは減へらなかつた。

勘次は独りで歌うこともなく、絶えず何かをさがすような目で土間のあたりをきょろきょろと見ていたが

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勘次かんじは獨ひとりで唄うたふこともなく絶たえず何物なにものかを探さがすやうな目めで土間どまのあたりをきよろ/\と見みて居ゐたが

「おつう」

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「おつう」

ととつぜん呼んだ。

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と唐突だしぬけに喚よんだ。

彼は勢いよく呼んでみて、自分でひょうしぬけしたようにしていたが

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彼かれは勢いきほひよく喚よんで見みて自分じぶんで拍子拔ひやうしぬけした樣やうにして居ゐたが

「これへじゃがいもでもくれないか」

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「此これさ馬鈴薯じやがいもでもくんねえか」

と、わんをずうっと出した。

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と椀わんをづうつと出だした。

「どうしたもんだ、おとっつあんは。ひらわんのおかわりをする者もあるまいな。じゃがいもは前にいくらでもあるのに」

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「どうしたもんだおとつゝあは、お平ひらの盛換もりけえするもな有あんめえな、馬鈴薯じやがいもは前めえに幾いくらでも有あんのに」

おつぎはさらにたしなめるように

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おつぎは更さらに窘たしなめるやうに

「おとっつあんは酔ったって、そんなに取り乱さなけりゃよかろうな」

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「おとつゝあは酩酊よつぱらつたつてそんなに顛倒ぐれなけりやよかつぺなあ」

と独りつぶやいた。

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と獨ひとり呟つぶやいた。

「言ってみたのよ」

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「云ゆつて見みたのよ」

勘次はわざと笑って、わんをおぜんへ置いた。

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勘次かんじは態わざと笑わらつて椀わんを膳ぜんへ置おいた。

「おかみさんらもこっちへ来いな、一ぱいやれな」

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「おつか樣等さまらもこつちへ來こうな、一杯いつぺえやれな」

彼はさらに、板の間のすみのほうにいる女の人たちに言った。

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彼かれは更さらに板いたの間まの隅すみの方はうに居ゐる女房等にようばうらにいつた。

「ほんに、仲間入りしたらよかろう」

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「ほんに仲間入なかまいりしたらよかつぺ」

家の女房も言った。

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内うちの女房にようばうもいつた。

若い女の人たちは仲間には入らなかった。

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若わかい女房等にようばうらは仲間なかまには成ならなかつた。

そしてただ笑っていた。

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さうして唯たゞ笑わらつて居ゐた。

歌いさわぐ声にみんなが心をうばわれていると

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唄うたひ騷さわぐ聲こゑに凡すべてが心こゝろを奪とられて居ゐると

「お前はうめをかじったんだろう。学校の先生に姉ちゃんが言いつけてやるから。おなかが痛くたってがまんしてるもんだ」

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「汝わりや梅うめ噛かじつたんべ、學校がつこの先生せんせいげ姊ねえ訴えつけてやつから、腹はら痛いたくつたつて我慢がまんしてるもんだ」

おつぎはねむい目をこすりながらしくしく泣いている与吉を横にして、背中をたたいてはさすりながら言った。

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おつぎは眠ねむい眼めをこすりながらしく/\泣ないて居ゐる與吉よきちを横よこにして背中せなかを叩たゝいては撫いたはりながらいつた。

「どうしたんだ、おなかが痛いのか。毒消しでも飲ませてみるか。おれももう、うめだのすももだのが熟しちゃひやひやするんだよ。出て行くんだから、言ったって聞かないしなあ」

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「どうしたんだあ、腹はら痛いてえのか毒消どくけしでも呑のませて見みつか、俺おらもはあ、梅うめだの李すもんもだの成熟できちやびや/\すんだよ、出でて行やんだから云ゆつたつて聽きかねえしなあ」

家の女房は、すやすやとねむったひざの子の蚊を追いながら言った。

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内うちの女房にようばうはすや/\と眠ねむつた膝ひざの子この蚊かを追おひながらいつた。

「お前はうめなんぞかじって。おとっつあんがおなかをえぐり抜いてやるから待ってろ」

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「汝われ梅うめなんぞ噛かじつて、おとつゝあ腹はら抉ゑぐり拔ぬいてやつから待まつてろ」

勘次は、とっくにもつれていた舌で言った。

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勘次かんじは疾とうから澁しぶつて居ゐた舌したでいつた。

「そんなこと言わなくたって、泣いてるのに何だろうな、おとっつあん」

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「そんなこと云ゆはねえつたつて泣ないてんのに何なんだつぺな、おとつゝあ」

おつぎは勘次をしかった。

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おつぎは勘次かんじを叱しかつた。

勘次は口をつぐんで、はしの先へじゃがいもをさした。

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勘次かんじは口くちを嵌つぐんで箸はしの先さきへ馬鈴薯じやがいもを刺さした。

与吉はまぶたがゆるんで、いつのまにか軽いいびきをかいた。

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與吉よきちは瞼まぶたが弛ゆるんでいつか輕かるい鼾いびきを掻かいた。

「さあ、ごはんだよ」

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「さあ、お飯まんまだえ」

歌もさわぎも止んで、みんなの口から急にさいそくが出た。

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唄うたも騷さわぎも止やんで一同どうの口くちから俄にはかに催促さいそくが出でた。

女の人たちはみんなで給仕をした。

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女房等にようばうらは皆みなで給仕きふじをした。

家の女房は

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内うちの女房にようばうは

「おつぎも体がしっかりして来たなあ。女も二十となっちゃ役に立つなあ」

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「おつぎも身體からだみつしりして來きたなあ、女をんなも廿はたちと成なつちや役やくに立たつなあ」

と、おつぎを見て言った。

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とおつぎを見みていつた。

勘次は茶わんから少しごはんつぶをこぼしては、あぶない手つきではしを持ったまま、指の先でつまんで口へ持って行った。

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勘次かんじは茶碗ちやわんから少すこし飯粒めしつぶを零こぼしては危險あぶない手てつきで箸はしを持もつた儘まゝ指ゆびの先さきで抓つまんで口くちへ持もつて行いつた。

「おとっつあん、そんなにこぼしちゃだめだな」

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「おとつゝあ、さういに零こぼしちや駄目だめだな」

おつぎは勘次の茶わんへ手をそえた。

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おつぎは勘次かんじの茶碗ちやわんへ手てを添そへた。

「勘次さん」

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「勘次かんじさん」

と、家の女房は呼びかけた。

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と内うちの女房にようばうは喚よび掛かけた。

勘次が目をしかめて見たとき

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勘次かんじが目めを蹙しかめて見みた時とき

「勘次さん、もうおつぎのことは嫁に出してもよくないかい」

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「勘次かんじさん、はあおつぎこたあ出だしても善よかねえけえ」

女房は言った。

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女房にようばうはいつた。

「嫁になんざ出せないよ。今のところ、おれが困るから」

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「嫁よめになんざ出だせねえよ、今いまん處ところ俺おれ困こまつから」

勘次はそっけなく言った。

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勘次かんじはそつけなくいつた。

「不自由な所があれば出して、自分でも引っ込むのよ」

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「不自由ふじいうな處ところありや出だして、自分じぶんでも引ひつ込こむのよ」

兼博労はえんりょなく言った。

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兼かね博勞ばくらうは遠慮ゑんりよなくいつた。

「おれはそんな話は聞かない。もらいたけりゃいくらでもあらあ」

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「俺おらそんな噺はなしや聽きかねえ、貰もらひたけりや幾いくらでも有あらあ」

勘次はしりぞけた。

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勘次かんじは斥しりぞけた。

「そんだってお前、あちこち声をかけておかないじゃ、すぐ年ばかり取らせちまって仕方がないぞ。おれも一人出したが、お前、かんたんじゃないよ。ああだこうだ言われないうちだぞ、お前」

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「そんだつておめえ、そつちこつち口くち掛かけて置おかねえぢや、直ぢき年齡としばかしとらせつちやつて仕しやうねえぞ、俺おらも一人ひとり出だしたがおめえ容易よういぢやねえよ、さうだかうだ云ゆはれねえ内うちだぞおめえ」

女房は言った。

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女房にようばうはいつた。

「いいよ、三十まで独りじゃ置かないから。これには今にむこを取るんだから」

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「えゝよ卅まで獨ひとりぢや置おかねえから此これげはいまに聟むことんだから」

勘次は喧嘩でもするようなようすで、こわばった舌で言った。

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勘次かんじは喧嘩けんくわでもする樣やうな容子ようすで硬こはばつた舌したでいつた。

女房は黙って、口のあたりに冷ややかな笑いをふくんで、ひざをそっと動かして、ぐっすりねむりこけた自分の子を見た。

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女房にようばうは默だまつて口くちの邊あたりに冷ひやゝかな笑ゑみを含ふくんで膝ひざをそつと動うごかしてぐつすり眠ねむりこけた自分じぶんの子こを見みた。

「どうしたい、ままよままよでもやらないか、勘次さん。ままにならぬとおひつを投げりゃ、そこらあたりはごはんだらけだあ。あまりむずかしいことを言うなよ」

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「どうしたえ、儘まゝよ/\でもやんねえか勘次かんじさん。まゝにならぬとお鉢はちを投なげりや其處そこらあたりは飯まゝだらけだあ、過多げえに六むづかしいこと云いふなえ」

兼博労は米のごはんをかき込みながら言った。

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兼かね博勞ばくらうは米こめの飯めしを掻かつ込こみながらいつた。

おなかをいっぱいにふくらませたみんなは

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腹はらを一杯ぱいに膨ふくらませた一座ざは

「どうもごちそうさまでした」

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「どうも御馳走樣ごつゝおさまでがした」

とあいさつを述べて、土間の下駄をがらがらとかきさがして、がやがやさわぎながら帰りかけた。

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と義理ぎりを述のべて土間どまの下駄げたをがら/\掻かき探さぐつてがや/\騷さわぎながら歸かへり掛かけた。

「おつう、よきのことを起こせ」

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「おつう、よきこと起おこせ」

勘次はそう言って、自分もいっしょによろけながら立った。

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勘次かんじはさういつて自分じぶんも一ひとつに蹣跚よろけながら立たつた。

おつぎは与吉の体をはげしくゆすったが、ぐっすりねむってしまったので、なかなか目を開かなかった。

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おつぎは與吉よきちの身體からだを劇はげしく動うごかしたが熟睡じゆくすゐして畢しまつたので容易よういに目めを開ひらかなかつた。

与吉はぞうりをはくのにも、おつぎの心をいらだたせた。

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與吉よきちは草履ざうりを穿はくにもおつぎの心こゝろを苛立いらだたせた。

「おつう」

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「おつう」

とはげしく呼ぶ勘次の声が、裏のかきねの外から聞こえた。

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と劇はげしく喚よぶ勘次かんじの聲こゑが裏うらの垣根かきねの外そとから聞きこえた。

するとまた

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さうすると又また

「何してやがるんだ」

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「何なにしてけつかんだ」

と、勘次は裏の戸口からみんなをおどろかしてどなった。

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と勘次かんじは裏戸口うらとぐちから一同どうを驚おどろかして呶鳴どなつた。

「勘次さん、与吉のことを起こしてたところなんだよ」

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「勘次かんじさん與吉よきちこと起おこしてた處とこなんだよ」

家の女房は言いわけをしてやった。

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内うちの女房にようばうは分疏いひわけしてやつた。

「お前はいつでもそうだ、ぐずぐずしてやがって」

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「汝わりや何時いつでもさうだ、ぐづ/\してやがつて」

勘次はなおも怒って言った。

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勘次かんじは猶なほも憤いきどほつていつた。

「待ってればいいんだな、おとっつあん。洗い物までもしないのに、どうしたもんだ」

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「待まつてれば善ええんだなおとつゝあ、洗あらひまでも仕しねえのにどうしたもんだ」

酒の席の後かたづけを見て、おつぎはつぶやいた。

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酒席しゆせきの趾あとを見みておつぎは呟つぶやいた。

「かまわないで帰れよ。おとっつあんは酔ってるんだから」

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「管かまあねえで歸けえれよ、おとつゝあ酩酊よつぱらつてんだから」

女房はおつぎの気持ちをくんでやった。

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女房にようばうはおつぎの意いを汲くんでやつた。

後では、乱ざつに散らかした道具をかたづけながら、女の人たちは言った。

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後あとでは亂雜らんざつに散ちらかした道具だうぐの始末しまつをしながら女房等にようばうらはいつた。

「勘次さんの気持ちも分からないな」

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「勘次かんじさんが心持こゝろもちも分わかんねえな」

「いくら女房のやきもちを焼くものでも、ああいうのはないな」

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「幾いくら嚊かゝあの嫉妬やきもち燒やくもんでも、あゝえもなあねえな」

「ああいうのが何かの生まれ変わりだというのでもあるだろうな。こわいようだよ、本当にな」

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「あゝえのが何なんかの生うまれ變かはりつちんでも有あんべな、可怖おつかねえやうだよ本當ほんたうにな」

「近ごろそれに、あれじゃないかい。あれほどほしがったのに、後ぞえをもらおうとは言わないんじゃないかい」

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「近頃ちかごろそれに何なんぢやねえけえ、あら程ほど欲ほしがつたのに後妻あと貰もらあべえたあ、云ゆはねえんぢやねえけえ」

どの人の心にも、口には出さなくても分かっている何かを、少しずつ表そうとして、さすがにためらうようにして話し合った。

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孰いづれの心こゝろにも口くちにはいはなくて了解れうかいされて居ゐる或ある物ものを少すこしづつ現あらはさうとして有繋さすがに躊躇ちうちよする樣やうにして噺合はなしあうた。

勘次ら三人が出てかきねの外へ行ったと思うころ、わんをふいていた一人があわただしく立って外へ出た。

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勘次等かんじら三人にんが出でて垣根かきねの外そとへ行いつたと思おもふ頃ころ、椀わんを拭ふいて居ゐた一人ひとりが慌あわただしく立たつて外そとへ出でた。

しばらくして帰って来ると、いきなり

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暫しばらくして歸かへつて來くるといきなり

「どうしたものだ、お前は。他人の後なんぞつけて行って。ばちが当たるから見ろよ」

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「どうしたものだおめえは、他人ひとの後あとなんぞ尾行つけて行いつて、罪つみだから見みろよ」

一人が言った。

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一人ひとりがいつた。

「そうじゃないよ。あんまりお前、他人のことを、おれだって」

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「さうぢやねえよ、有撃まさかおめえ、他人ひとのこと俺おれだつて」

と言いわけをした。

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分疏いひわけした。

「そんじゃ何をしに行ったんだ」

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「そんぢや何なんに行いつたんだ」

「おしっこがしたくなったからよ」

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「小便せうべん垂たつたく成なつたからよ」

やがておさえきれない笑いが顔にうかんで

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軈やがて抑おさへ切きれぬ笑わらひが顏かほに浮うかんで

「そんだからあんまり飲むなというんだ、なんておつぎに怒られ怒られ行くんだわ」

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「そんだから過多げえに飮のむなつちんだ、なんておつぎに怒おこられ/\行いんけわ」

と言った。

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といつた。

「そうれお前、ばちが当たるよ」

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「そうれおめえ、罪つみだよ」

えんりょもなく、みんなどっと笑った。

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遠慮ゑんりよもなく皆みなどつと笑わらつた。

夜はふけていた。

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夜よは深ふけて居ゐた。

きろきろきろきろと、風船をこすり合わせるようなかえるの声が入りまじって聞こえていた。

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きろ/\きろ/\と風船玉ふうせんだまを擦こすり合あはせる樣やうな蛙かへるの聲こゑが錯雜さくざつして聞きこえて居ゐた。

一五

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十五

霜がそっと地面をおおった。

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霜しもが竊ひそかに地ちを掩おほうた。

おそい秋のすみきった空気は、地上のすべてをかわかす。

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晩秋ばんしうの冴さえた空氣くうきは地上ちじやうの凡すべてを乾燥かんさうせしめる。

思うままにえだ葉を広げたうどの実にめじろが集まって鳴くのが楽しそうでもあるが、なんとなくいそがしげで、それもわずかのあいだに、どこでも草木の葉がかたくなったりいたんだりして、すべてがただがさがさと入りまじってしまった。

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思おもひの儘まゝに枝葉えだはを擴ひろげた獨活うどの實みへ目白めじろの聚あつまつて鳴なくのが愉快ゆくわいらしくもあれど、何なんとなく忙いそがしげであつて、それも少時しばしの間まに何處どこでも草木さうもくの葉はが硬こはばつたり傷きずついたりして一切さいが只たゞがさ/\と混雜こんざつして畢しまつた。

そういう所へ冬はいやでも行きわたらなければならないのだが、それでも暖かい日があったり、冷たい日があったりして、冬はひたすらためらいながら地上にしずもうとした。

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さういふ處ところへ季節きせつの冬ふゆは厭いやでも行ゆき渡わたらねばならないのであるがそれでも暖あたゝかい日ひがあつたり、冷つめたい日ひがあつたりして冬ふゆは只管ひたすら躊躇ちうちよしつゝ地上ちじやうに沈しづまうとした。

そして霜を一度はわせてみた。

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さうして霜しもを一度ど偃ははせて見みた。

すべての草木はさらに慌てた。

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凡すべての草木さうもくは更さらに慌あわてた。

じみな常緑樹をのぞいたほかはみな、次の春の用意ができるまでは、すごいすがたになってまでも、じっとしがみついている。

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地味ぢみな常磐木ときはぎを除のぞいた外ほかに皆みな次つぎの春はるの用意よういの出來できるまでは凄すごい姿すがたに成なつてまでも凝然ぢつとしがみついて居ゐる。

冬はまた霜をはわせてみた。

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冬ふゆは復また霜しもを偃ははせて見みた。

おそろしくきれい好きな霜は、そのみすぼらしい草木の葉を地面にふみにじった。

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恐おそろしく潔癖けつぺきな霜しもは其その見窄みすぼらしい草木さうもくの葉はを地上ちじやうに躪にじりつけた。

人間の手が入ったものは、田でも畑でも、人間の手でいたる所をからりとさせる。

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人間にんげんの手てを藉かりたものは田たでも畑はたでも人間にんげんの手てを藉かりて到處いたるところをからりとさせる。

そのとき、畑にはふでの先でかすったように、麦や小麦がほのかに青みを残している。

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其その時とき畑はたには刷毛はけの先さきでかすつた樣やうに麥むぎや小麥こむぎで仄ほのかに青味あをみを保たもつて居ゐる。

それから冬はまた、百姓に、さびしい外からもっぱら家の中へ力を注がせる。

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それから冬ふゆは又また百姓ひやくしやうをして寂さびしい外そとから專もつぱら内うちに力ちからを致いたさせる。

百姓たちはいそがしく藁で俵をあんで米を入れて、春からの働きのむくいを目の前に積んで楽しむのである。

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百姓等ひやくしやうらは忙いそがしく藁わらで俵たわらを編あんで米こめを入いれて春はる以來いらいの報酬はうしうを目前もくぜんに積つんで娯よろこぶのである。

彼らのあいだには、こういうときに、そして冬が本当にまだ彼らの上で泣いてみせないうちに、前後してどの村にも「まち」

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彼等かれらの間あひだには恁かういふ時ときに、さうして冬ふゆが本當ほんたうにまだ彼等かれらの上うへに泣ないて見みせない内うちに相あひ前後ぜんごして何處どこの村落むらにも「まち」

が来るのである。

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が來くるのである。

それは村ごとに建てられている神社のお祭りのことである。

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其それは村落毎むらごとに建たてられてある社やしろの祭まつりのことである。

貧しい勘次の村でも、むかしからのならわしで、村に合ったやり方でお祭りが行われた。

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貧乏びんばふな勘次かんじの村落むらでも以前いぜんからの慣例くわんれいで村落むらに相應さうおうした方法はうはふを以もつて祭まつりが行おこなはれた。

当日は白いかりぎぬの神主が独りで、氏子の総代というのが四、五人、きまり悪そうなようすで後についてゆき、馬場先を進んで行った。

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當日たうじつは白しろい狩衣かりぎぬの神官しんくわんが獨ひとりで氏子うぢこの總代そうだいといふのが四五人にん、極きまりの惡相わるさうな容子ようすで後あとへ跟ついて馬場先ばゞさきを進すゝんで行いつた。

一人は農具のみを持っている。

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一人にんは農具のうぐの箕みを持もつて居ゐる。

総代らはそれでも羽織とはかますがただが、一人もちゃんとはかまのひもを結んだ者はいない。

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總代等そうだいらはそれでも羽織袴はおりはかまの姿すがたであるが一人ひとりでも滿足まんぞくに袴はかまの紐ひもを結むすんだのはない。

さらにその後から、ふたを取った四斗だるを馬の荷縄にくくって、太い棒でかついでついて行った。

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更さらに其その後あとから鏡かゞみを拔ぬいた四斗樽とだるを馬うまの荷繩になはに括くゝつて太ふとい棒ぼうで擔かついで跟ついた。

四斗だるには、にごったような甘酒がだぶだぶと動いている。

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四斗樽とだるには濁にごつたやうな甘酒あまざけがだぶ/\と動うごいて居ゐる。

神主の白いはかまには、どろのはねたあとも見えて、ずいぶんよごれていた。

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神官しんくわんの白しろい指貫さしぬきの袴はかまには泥どろの跳はねた趾あとも見みえて隨分ずゐぶん汚よごれて居ゐた。

神主は、ほこりだらけの板の間へやっとござをしいたせまい拝殿にすわって、さかきの小さなえだをいじって、それから台の供え物を形よくしているあいだに、総代らはみに入れて行ったしめ縄をもみの木からもみの木へ張って、末社のかざりをした。

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神官しんくわんは埃ほこりだらけな板いたの間まへ漸やうやく蓙ござを敷しいた狹せまい拜殿はいでんへ坐すわつて榊さかきの小ちひさな枝えだをいぢつて、それから卓しよくの供物くもつを恰好かつかうよくして居ゐる間まに總代等そうだいらは箕みへ入いれて行いつた注連繩しめなはを樅もみの木きから樅もみの木きへ引ひつ張ぱつて末社まつしやの飾かざりをした。

村の者はだんだんに、それぞれ相応の晴れ着を着て神社の前に集まった。

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村落むらの者ものは段々だん/\に器量きりやう相當さうたうな晴衣はれぎを着きて神社じんじやの前まへに聚あつまつた。

目立つのはやはり女の子で、そまつな手織り木綿でも、メリンスの帯と前かけが彼女たちを十分にかざっている。

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目めに立たつのは猶且やつぱり女をんなの子こで、疎末そまつな手織木綿ておりもめんであつてもメリンスの帶おびと前垂まへだれとが彼等かれらを十分ぶんに粧よそほうて居ゐる。

十くらいの子でも、二十になる者でも、みな前かけをかけている。

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十位とをぐらゐの子こでもそれから廿はたちに成なるものでも皆みな前垂まへだれを掛かけて居ゐる。

前かけがなければ、彼女たちのすがたはさびしくなってしまう。

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前垂まへだれがなければ彼等かれらの姿すがたは索寞さくばくとして畢しまはねば成ならぬ。

彼女たちは足に合わない不格好な、しわの寄った白い足袋をはいている。

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彼等かれらは足あしに合あはぬ不恰好ぶかつかうな皺しわの寄よつた白しろい足袋たびを穿はいて居ゐる。

遠い国の山から切り出すのだという、まがい物の重い台にゴム製の表を打った下駄をつっかけている者もある。

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遠國ゑんごくの山やまから切きり出だすのだといふ模擬まがひの重おもい臺だいへゴム製せいの表おもてを打うつた下駄げたを突つつ掛かけて居ゐるものもある。

彼女たちはその年に応じて三人五人とたがいに手を引きながら、かきねのそばや辻の角に立っていては、思い出したときにあちこちと移って歩くのである。

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彼等かれらは其その年齡ねんれいに應おうじて三人にん五人にんと互たがひに手てを曳ひきながら垣根かきねの側そばや辻つじの角かどに立たつて居ゐては思おもひ出だした時ときに其處そこら此處ここらと移うつつて歩あるくのである。

彼女たちはただ仲間といっしょに立っていること以外に、「まち」

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彼等かれらは只たゞ朋輩ほうばいと共ともに立たつて居ゐることより外ほかに「まち」

といっても別に目当てもなければ、楽しみもないのである。

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というても別べつに目的もくてきもなければ娯樂ごらくもないのである。

だから彼女たちは、少しでも変わったできごとを見のがすまいとするのである。

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其それで彼等かれらは少すこしでも異ことなつた出來事できごとを見逃みのがすことを敢あへてしないのである。

神主は、小さな筑波みかんや駄菓子やするめを少しばかりずつ供えた台の前にすわって、のりとを上げた。

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神官しんくわんは小ちひさな筑波蜜柑つくばみかんだの駄菓子だぐわしだの鯣するめだのを少すこしばかりづつ供そなへた卓しよくの前まへに坐すわつて祝詞のつとを上あげた。

それは大きな厚い紙へ書いたもので、それをさらに紙で包んだのだった。

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其それは大おほきな厚あつい紙かみへ書かいたので、それを更さらに紙かみへ包つゝんだのであつた。

包み紙は何度もふところへ出し入れしたと見えて、ひどくすれてよごれている。

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包紙つゝみがみは幾度いくたびか懷ふところへ出だし入いれしたと見みえて痛いたく擦すれて汚よごれて居ゐる。

のりとはとても短い文だった。

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祝詞のつとは極きはめて短文たんぶんであつた。

神主はそれをとてもゆっくり声を張り上げて読んだが、それでもいくらも時間はかからなかった。

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神官しんくわんはそれを極きはめて悠長いうちやうに聲こゑを張はり上あげて讀よんだがそれでも幾いくらも時間じかんが要いらなかつた。

それが一まいあればどこの神社へ行っても使えるものと見えて、短い文の中に読み上げるべき神社の名は書いてなくて、何郡何村何神社という文字でうめてある。

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それが一枚まいあれば何處どこの神社じんじやへ行いつても役やくに立たてゝ居ゐるものと見みえて短みじかい文中ぶんちうに讀上よみあぐべき神社じんじやの名なは書かいてなくて何郡なにごほり何村なにむら何神社なにじんじやといふ文字もじで埋うづめてある。

神主はそこを読むときに、その日の神社の名をただ口先で言うのである。

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神官しんくわんは其處そこに讀よみ至いたると當日たうじつの神社じんじやを只たゞ口くちの先さきでいふのである。

さすがに彼は、まちがえずに読みきった。

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有繋さすがに彼かれは間違まちがふことなしに讀よみ退のけた。

神主が台の横へ席を移して、ちょっとしゃくで指図をすると、氏子の総代らが順々にさかきの小えだの玉ぐしを持って台の前に出て、その玉ぐしをささげてかしわ手を打った。

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神官しんくわんが卓しよくの横手よこてへ座ざを換かへて一寸ちよつと笏しやくで指圖さしづをすると氏子うぢこの總代等そうだいらが順次じゆんじに榊さかきの小枝こえだの玉串たまくしを持もつて卓しよくの前まへに出でて其その玉串たまくしを捧さゝげて拍手はくしゆした。

彼らはただおずおずして、かしわ手も鳴らなかった。

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彼等かれらは只たゞ怖おづ/\して拍手はくしゆも鳴ならなかつた。

立ちながらはかまのすそをふんでよろけては、おどろいたようすでまわりを見る者もあった。

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立たちながら袴はかまの裾すそを踏ふんで蹌踉よろけては驚おどろいた容子ようすをして周圍あたりを見みるのもあつた。

こういう作法も、見物の人はみないかにも熱心なようすで、拝殿にせまって見ていた。

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恁かういふ作法さはふをも見物けんぶつの凡すべては左さも熱心ねつしんらしい態度たいどで拜殿はいでんに迫せまつて見みて居ゐた。

おつぎも与吉の手を取って、人々にまじって立っていた。

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おつぎも與吉よきちの手てを執とつて群集ぐんしふに交まじつて立たつて居ゐた。

勘次もそこにいたのだが、しかし彼はずっと後ろのもみの木かげにぽつんとしていたのだった。

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勘次かんじも其處そこに在あつたのであるが然しかし彼かれはずつと後うしろの樅もみの木陰こかげにぽつさりとして居ゐたのであつた。

かんたんながら一日の式が終わったとき、四斗だるの甘酒がしゃくしでくみ出されて、まわりに立っている人々に配られた。

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簡單かんたん乍ながら一日にちの式しきが畢をはつた時とき四斗樽とだるの甘酒あまざけが柄杓ひしやくで汲出くみだして周圍しうゐに立たつて居ゐる人々ひと/″\に與あたへられた。

おもに子どもたちが先を争って、その大きな茶わんを取りかえた。

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主しゆとして子供等こどもらが先さきを爭あらそうて其その大おほきな茶碗ちやわんを換かへた。

彼らはむしろ自分の家で作ったもののほうがうまいのに、大ぜいといっしょにさわぐのが楽しいので、水ばかりのような甘酒を何ばいもかたむけるのである。

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彼等かれらは寧むしろ自分じぶんの家うちで造つくつたものゝ方はうが佳味うまいにも拘かゝわらず大勢おほぜいと共ともに騷さわぐのが愉快ゆくわいなので、水許みづばかりのやうな甘酒あまざけを幾杯いくはいも傾かたむけるのである。

当日より数日前に当番の者が村じゅうを歩いて、二合ずつでも三合ずつでも白米をもらって、夜になれば当番の者たちは集まった白米で晩ごはんを十分にたいて、そのほかはすべて甘酒に仕込む。

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當日たうじつからでは數日前すうじつぜんに當番たうばんの者ものが村落中むらぢうを歩あるいて二合がふづゝでも三合がふづゝでも白米はくまいを貰もらつて、夜よになれば當番たうばんの者等ものらは集あつまつた白米はくまいで晩餐ばんさんの飯めしを十分ぶんに焚たいて其その他たは悉ことごとく甘酒あまざけに造つくり込こむ。

甘酒は時間が短いのとこうじが少ないのとで、熱い湯で仕込むのがふつうである。

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甘酒あまざけは時間じかんが短みじかいのと麹かうぢが少すくないのとで熱あつい湯ゆで造つくり込こむのが例れいである。

だからたちまち甘くなるけれど、またたちまちすっぱくなって来る。

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それだから忽たちまちに甘あまく成なるけれども亦また忽たちまちに酸味さんみを帶おびて來くる。

彼らは当日の前の晩に味見だといって、近所の者たちが寄ってたかって、なべで何ばいもわかしては飲むので、ずいぶんへらしてしまって、それにいっぱい水を足しておくのである。

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彼等かれらは當日たうじつの前夜ぜんやに口見くちみだといつて近隣きんりんの者等ものらが寄よつてたかつて、鍋なべで幾杯いくはいとなく沸わかしては飮のむので夥したゝか減へらして畢しまつて、それへ一杯ぱいに水みづを注さして置おくのである。

子どもたちにまじって、与吉もたがいの体をかき分けるようにして飲んだ。

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子供等こどもらの間あひだに交まじつて與吉よきちも互たがひの身體からだを掻かき分わける樣やうにして飮のんだ。

村の者が飲んでいる後から、木かげにたたずんでいたこじきがぞろぞろと来て、曲げ物の小ばちを出して求めた。

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村落むらの者ものが飮のんでる後うしろから木陰こかげに佇たゝずんで居ゐた乞食こじきがぞろ/\と來きて曲物まげものの小鉢こばちを出だして要求えうきうした。

「よき、それ、いいかげんにするもんだよ、お前は」

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「よき、それえゝ加減かげんにするもんだよ汝わりや」

おつぎは、まだ茶わんを放さない与吉の手を引いた。

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おつぎはまだ茶碗ちやわんを放はなさない與吉よきちの手てを曳ひいた。

「待ってろお前ら、そんなにさわり出さないで、汚い」

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「待まつてろ汝わツ等ら、さうだにさはり出でねえで、小穢こぎたねえ」

「こいつら、お前らにやりそこねたことはありゃしない。それにそんなにさわぎやがって。うるさい奴らだ、待ってるもんだ」

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「此奴等こねやつら、汝わツ等らげ呉くれはぐつたこた有ありやしねえ、それにさうだに騷さわぎやがつて、五月繩うるせえ奴等やつらだ待まつてるもんだ」

「そうれ、お前らへ注いでやるのに、そんな小ばちなんぞおけの上へ突き出させちゃかなわないな。それ、だらだらたれるじゃないか。しゃくしをそっちへ押し出してやるもんだ」

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「そうれお前等めえら注つえで遣やんのにそんな小鉢こばちなんぞ桶をけの上うへさ突出つんださせちや畢をへねえな、それだらだら垂たツらあ、柄杓ひしやくそつちへおん出だして行やるもんだ」

下駄をはいて立った氏子の総代らが、こじきをしかったり当番に注意したりした。

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下駄げたを穿はいて立たつた氏子うぢこの總代等そうだいらが乞食こじきを叱しかつたり當番たうばんに注意ちういしたりした。

神主たちが石の鳥居を出て行った後は、しばらくして人も散って、鳥居のわきには大きな文字を書いた白木綿ののぼりが高くつっ立って、ばさばさと鳴っていた。

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神官等しんくわんらが石いしの華表とりゐを出でて行いつた後のちは暫しばらくして人ひとも散ちつて、華表とりゐの傍そばには大おほきな文字もじを表あらはした白木綿しろもめんの幟旗のぼりばたが高たかく突つつ立たつてばさ/\と鳴なつて居ゐた。

散らばった人々は、そのくせそこにぽつん、ここにぽつんと固まって立っているのだった。

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散亂さんらんした人々ひと/″\は其その癖くせの其處そこにぼつゝり此處ここにぼつゝりと固かたまつて立たつてるのであつた。

しばらくして短い日がかたむいた。

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暫しばらくして短みじかい日ひが傾かたむいた。

神社の森をつつんで、時雨の雲が東の空いっぱいに広がった。

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社やしろの森もりを包つゝんで時雨しぐれの雲くもが東ひがしの空そら一杯ぱいに擴ひろがつた。

濃いねずみ色の雲はすごい勢いで人にせまって来るようで、しかもくっきりと森をうかび上がらせた。

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濃厚のうこうな鼠色ねずみいろの雲くもは凄すごく人ひとに迫せまつて來くるやうで、然しかもくつきりと森もりを浮うかした。

かっと横からさす日の光が、そのすごい雲の色をやや和らげて、ビロードのようななめらかな感じを与えた。

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かつと横よこに射さし掛かける日ひの光ひかりが其その凄すごい雲くもの色いろを稍やゝ和やはらげて天鵞絨びろうどのやうな滑なめらかな感かんじを與あたへた。

さらにくすんだ赤いけやきのえだにもふしぎな色を出させて、ことにそのあいだにまじったかえでの大木は、これも冴えないえだに日は全力を注いで、おどろくほど荘厳で、しかもあざやかな光を放たせた。

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更さらにくすんだ赭あかい欅けやきの梢こずゑにも微妙びめうな色彩しきさいを發揮はつきせしめて、殊ことに其その間あひだに交まじつた槭もみぢの大樹たいじゆは此これも冴さえない梢こずゑに日ひは全力ぜんりよくを傾注けいちゆうして驚おどろくべき莊嚴さうごんで且かつ鮮麗せんれいな光ひかりを放射はうしやせしめた。

時雨の雲にうつるかえでのえだは、はっきりとうかび上がっていながら、ビロードの地に深くしみこんでいるようにも見えた。

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時雨しぐれの雲くもに映えいずる槭もみぢの梢こずゑは確然かくぜんと浮うき上あがつて居ゐながら天鵞絨びろうどの地ぢに深ふかく浸しみ込こんで居ゐる樣やうにも見みえた。

その前に空をささえて立った二本の白い柱は、のぼりだった。

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其その前まへに空そらを支さゝへて立たつた二條でうの白しろい柱はしらは幟旗のぼりばたであつた。

のぼりは止まずばたばたとひるがえった。

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幟旗のぼりばたは止やまずばた/\と飜ひるがへつた。

さらに急にごうっと立った風に、森のえだの葉は散り乱れて、あざやかな光を保ちながら空中にひらめいた。

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更さらに俄にはかにごつと立たつた風かぜに森もりの梢こずゑの葉はは散亂さんらんして鮮あざやかな光ひかりを保たもちながら空中くうちうに閃ひらめいた。

数分の後、あたりはたちまち暗い光につつまれて、時雨がざあっと来た。

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數分時すうふんじの後のち世間せけんは忽たちまちに暗澹あんたんたる光ひかりに包つゝまれて時雨しぐれがざあと來きた。

村のどこにも、晴れ着のすがたを見なくなった。

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村落むらの何處どこにも晴衣はれぎの姿すがたを見みなく成なつた。

おつぎは与吉を連れて、とっくに帰っていたのだった。

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おつぎは與吉よきちを連つれて疾とつくに歸かへつて居ゐたのであつた。

夜になって雨がやんだ。

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夜よるに成なつて雨あめが歇やんだ。

村の者はだんだんに、瞽女がとまった小さな店の近くへ集まって、戸口の近くに立った。

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村落むらの者ものは段々だん/\に瞽女ごぜの泊とまつた小店こみせの近ちかくへ集あつまつて戸口とぐちに近ちかく立たつた。

戸はすべて開け放って、しょうじも外してある。

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戸とは悉こと/″\く開放あけはなつて障子しやうじも外はづしてある。

瞽女はそれぞれ晩ごはんをもらいに出かけた後だった。

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瞽女ごぜは各自かくじに晩餐ばんさんを求もとめて去さつた後あとであつた。

瞽女は村から村の「まち」

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瞽女ごぜは村落むらから村落むらの「まち」

をわたって歩いて、毎年とめてもらう宿を決めて、それから村じゅうを一けんずつ歌って歩くあいだに、ところどころで一人分ずつの晩ごはんのごちそうを承知してもらっておく。

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を渡わたつて歩あるいて毎年まいねん泊とめて貰もらふ宿やどに就ついてそれから村落中むらぢうを戸毎こごとに唄うたうて歩あるく間あひだに、處々ところ/″\で一人分いちにんぶんづゝの晩餐ばんさんの馳走ちそうを承諾しようだくして貰もらつて置おく。

それで彼女たちは、夜の時こくが来ると、目の見える手引きがだんだんとその家々に配って歩く。

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それで彼等かれらは夜よるの時刻じこくが來くると、目明めあきの手曳てびきがだんだんと其その家々いへ/\に配くばつて歩あるく。

そしてはまた、手引きがそれを集めて連れ立って帰って来る。

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さうしては復また手曳てびきがそれを集あつめて打うち連つれて歸かへつて來くる。

目の不自由な彼女たちは、やっとのことで自分の行く家に着いても、板の間のはしなどにぽつんとしておぜんの運ばれるのを待っているので、みんなのおなかが満たされてふたたびつえにすがるまでには、面倒な時間がかかるのである。

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目めの不自由ふじいうな彼等かれらは漸やうやくのことで自分じぶんの求もとめる家いへに就ついても板いたの間まの端はしなどにぽつさりとして膳ぜんの運はこばれるのを待まつて居ゐるので一同どうの腹はらが滿みたされて再ふたゝび杖つゑに縋すがるまでには面倒めんだうな時間じかんを要えうするのである。

小さな店の座敷には、瞽女の大きな荷物とふくろに入れた三味線が置いてあって、さびしく見えていた。

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小店こみせの座敷ざしきには瞽女ごぜの大おほきな荷物にもつと袋ふくろへ入いれた三味線さみせんとが置おいてあつて淋さびしく見みえて居ゐた。

ただ一人の巫女が、彼女たち独特の態度でしゃんと正座して、そのいつでも放さない荷物を前に置いて、すわっているのだった。

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只たゞ一人ひとりの巫女くちよせが彼等かれらに特有とくいうの態度たいどを保たもつて正座しやうざを張はつて、其その何時いつでも放はなさない荷物にもつを前まへへ置おいてしやんと坐すわつて居ゐるのであつた。

表には村の者がだんだん増えて、土間から座敷へ上がる者もあった。

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表おもてには村落むらの者ものが漸やうやく殖ふえて土間どまから座敷ざしきへ上あがる者ものもあつた。

彼らはわけもなく、ただ、さわぎはじめた。

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彼等かれらは理由わけもなしに只たゞ騷さわぎはじめた。

彼らは沼のあしのように、集まればたがいにただざわざわとさわぐのである。

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彼等かれらは沼邊ぬまべの葦あしのやうに集あつまれば互たがひに只たゞざわ/\と騷さわぐのである。

巫女はかなりのおばあさんだったので、おしろいをつけた瞽女たちに向けるようなからかいの言葉は、彼らのあいだからは出なかった。

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巫女くちよせはかなりの婆ばあさんであつたので、白粉おしろいつけた瞽女等ごぜらに向むかつて揶揄からかふ樣やうな言辭ことばは彼等かれらの間あひだには發はつせられなかつた。

「どうだい、口寄せを一つやってみないかい」

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「どうしたえ、口寄くちよせ一ひとつやつて見みねえかえ」

大ぜいの中から言い出した者があった。

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大勢おほぜいの中うちから切きり出だしたものがあつた。

あしの葉先が小さな風にもなびくように、この一言でみんながぞよぞよとまたさわいだ。

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葦あしの葉末はずゑが微風びふうにも靡なびけられる樣やうに此この一語ごの爲ために皆みなぞよ/\と復また騷さわいだ。

人々の中には、おつぎもまじっていた。

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群集ぐんしふの中うちにはおつぎも交まじつて居ゐた。

若い衆らはさっきからそれに目をつけていたが

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若わかい衆等しゆらは先刻さつきからそれに注目ちうもくして居ゐたが

「どうした、あいつのことを寄せてみようじゃないか」

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「どうした、彼奴等あいつらこと寄よせてんべぢやねえか」

「おつぎのことを出してみようじゃないか」

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「おつぎこと出だしてんべぢやねえか」

彼らはひそひそとこっそり申し合わせた。

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彼等かれらはひそ/\と竊ひそかに喋しめし合あはせた。

「寄せてみようとよ」

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「寄よせてんべえと」

人々の後ろのほうからどなった。

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群集ぐんしふの後うしろの方はうから呶鳴どなつた。

「そんじゃこっちへ出なさいな」

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「そんぢや此方こつちへ出でさつせえな」

店の女房は言った。

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店みせの女房にようばうはいつた。

人々は一気に元気づいて、巫女のひざの近くまでぎっしりと座敷をうめた。

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群集ぐんしふは一時じに威勢ゐせいがついて巫女くちよせの膝ひざ近ちかくまでぎつしりと座敷ざしきを塞ふさいだ。

勘次もおつぎも、座敷で窮くつにすわっていた。

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勘次かんじもおつぎも座敷ざしきに窮屈きうくつな居ゐずまひをして居ゐた。

店の女房は、少しはげたぬりぼんに水をいっぱいくんだごはん茶わんを乗せて

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店みせの女房にようばうは少すこし剥はげた塗盆ぬりぼんへ水みづを一杯ぱいに汲くんだ飯茶碗めしぢやわんを載のせて

「ちょっとお前ら、どいてくれないか」

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「ちつとおめえ等ら退しやつてくんねえか」

と言いながら、人々のあいだを足さぐりで歩いて、巫女のおばあさんの前に置いた。

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といひながら人々ひと/″\の間あひだを足探あしさぐりに歩あるいて巫女くちよせの婆ばあさんの前まへへ置おいた。

「そんじゃだれだろう、寄せるのは」

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「そんぢや誰だれだんべ、寄よせんな」

女房は立ったままみんなを見回して、にっこりとして言った。

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女房にようばうは立たつた儘まゝ一同どうを見廻みまはして嫣然にこりとしていつた。

それでもしばらくは、みんなが口をつぐんでいた。

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それでも暫しばらくは凡すべてが口くちを緘つぐんで居ゐた。

巫女のおばあさんは、箱を包んだ荷物をそのまま自分のひざに引きよせて待っている。

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巫女くせよせの婆ばあさんは箱はこを包つゝんだ荷物にもつを其その儘まゝ自分じぶんの膝ひざへ引ひきつけて待まつて居ゐる。

「おれがやろう、そんじゃ」

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「俺おれやんべ、そんぢや」

若い衆の一人がおばあさんの前へ出て

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若わかい衆しゆの一人ひとりが婆ばあさんの前まへへ出でて

「おれは生きてる人の口を寄せてみたいんだが、いくらだろう、一口は」

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「俺おら生口いきぐち寄よせて見みてえんだが、幾いくらだんべ一口ひとくちは」

「五銭ずつでさ」

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「五錢せんづゝでさ」

巫女のおばあさんは落ち着いて言った。

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巫女くちよせの婆ばあさんは落付おちついていつた。

「これはただ黙っていていいんだったっけかな」

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「此こら只たゞ默だまつてゝえゝんだつけかな」

と言うと

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といふと

「いいんだよ、それで。自分が思ってた人が出て来るんだから」

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「えゝんだよそんで、自分じぶんの思おもつてたの出でて來くんだから」

「こよりをこしらえて水をかき回せばいいんだよ」

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「かんぜん撚より拵こせえて水みづ掻かん廻まあせば、えゝんだよ」

そばから、巫女のおばあさんが言うのも待たずに口を出した。

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側そばから巫女くちよせの婆ばあさんのいふのも待またずに口くちを出だした。

「三度でいいんだったっけかな」

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「三度とでえゝんだつけかな」

おばあさんの前にすわった一人は後ろのほうを向いて言って、彼は不器用なこよりをこしらえて、その先を茶わんの水にひたして三度ていねいにかき回して、そのままこよりを水にひたしておいた。

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婆ばあさんの前まへへ坐すわつた一人ひとりは後うしろの方はうを向むいていつて彼かれは不器用ぶきような紙捻こよりを拵こしらへて其その先さきを茶碗ちやわんの水みづへ浸ひたして三度ど丁寧ていねいに掻かき廻まはして其その儘まゝ紙捻こよりを水みづに浸ひたして置おいた。

「見ろよ、近ごろさっぱり来てくれないが、おれのことがいやにでもなったんじゃないかなんて出るから」

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「見みろよ、近頃ちかごろ薩張さつぱり來きてくんねえが、俺おれこと厭やにでも成なつたんぢやねえかなんて出でつから」

と、店の女房は冗談を言った。

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と店みせの女房にようばうは戯談ぜうだんを交まじへた。

巫女はしばらく手を合わせて口の中で何か念じていたが、風呂しき包みのまま箱に両ひじをついて、だんだんに国じゅうの神々の名を呼んで、この場に集めるという意味を、なれた言い方で調子を取って言った。

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巫女くちよせは暫しばらく手てを合あはせて口くちの中なかで何なにか念ねんじて居ゐたが風呂敷包ふろしきづゝみの儘まゝ箱はこへ兩肘りやうひぢを突ついて段々だん/\に諸國しよこくの神々かみ/″\の名なを喚よんで、一座ざに聚あつめるといふ意味いみを熟練じゆくれんしたいひ方かたで調子てうしをとつていつた。

がやがやとさわいでいた家の中も外も、どちらもしんとなった。

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がや/\と騷さわいで居ゐた家いへの内外ないぐわいは共ともにひつそりと成なつた。

「よしきりが土用に入ったみたいに、ぴったり静かになっちまったな」

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「行々子よしきり土用どようへ入へえつた見みてえに、ぴつたりしつちやつたな」

とどなった者があった。

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と呶鳴どなつたものがあつた。

やっと静まった人々は、しばらくどよめいた。

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漸やうやく靜しづまつた群集ぐんしふは少時しばしどよめいた。

しかしすぐにまた静まった。

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然しかし直すぐに復また靜しづまつた。

「白紙たより水たより、こよりたよりにい……」

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「白紙しらがみ手頼たより水みづ手頼たより、紙捻こより手頼たよりにい……」

と、巫女のおばあさんの声は、前歯が少し欠けているために区切りがややはっきりしないが、それでもつっかえずにずんずんと言葉を追って行った。

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と巫女くちよせの婆ばあさんの聲こゑは前齒まへばが少すこし缺かけて居ゐる爲ために句切くきりが稍やゝ不明ふめいであるがそれでも澁滯じふたいすることなくずん/\と句くを逐おうて行いつた。

ななめに茶わんの水に立ったこよりが、だんだん水を吸って、うなずいたようにくたりとなった。

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斜なゝめに茶碗ちやわんの水みづに立たつた紙捻こよりがだん/\に水みづを吸すうて點頭うなづいた樣やうにくたりと成なつた。

「どうせよ一つにはなれぬ身を、別れたいとは思えども……」

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「どうせよ一つにや成なれぬ身みを、別わかれたいとは思おもへども……」

とみんなの耳にひびいたとき、「出た、出た」

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と一同どうの耳みゝに響ひゞいた時とき「出でた/\」

と、静まっていた人々の中から声が上がった。

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と靜しづまつて居ゐた群集ぐんしふの中なかから聲こゑが發はつせられた。

巫女のおばあさんはついているひじを少し動かして、乗り気になった。

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巫女くちよせの婆ばあさんは突ついて居ゐる肘ひぢを少すこし動うごかして乘地のりぢに成なつた。

「おれが我が身と言ったとて、自由自在になるならば、今日の巫女も要るまいにい……」

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「俺おれが我わが身みというたとて、自由自儘じいうじまゝに成なるならば、今日けふの巫女あづさも要いるまいにい……」

おばあさんは同じような言葉をくり返した。

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婆ばあさんは同おなじやうな句くを反覆くりかへした。

「出たところで、もっとしゃべらせろよ」

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「出でた處ところでまつと饒舌しやべらせろえ」

と、一人がさらにこよりを持って水をかき回した。

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と一人ひとりが更さらに紙捻こよりを持もつて水みづを掻かき廻まはした。

「こよりがくたくたして言うことを聞かないや」

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「かんぜん捻よりくた/\して云いふこと聽きかねえや」

と言いながら、彼は手を止めた。

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いひながら彼かれは手てを止やめた。

「おれが心はこうなれど、怒るまいぞえ見捨てまい、たがいに顔も合わせたら、言葉もかけてくださろう……」

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「俺おれがよ心こゝろはこうなれど、怒おこるまえぞえ見棄みすてまえ、互たがひに顏かほも合あはせたら、言辭ことばも掛かけてくだされよう……」

巫女はときどき調子を張り上げて言った。

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巫女くちよせは時々とき/″\調子てうしを張はり上あげていつた。

「そうだそうだ、そうでなくちゃおとっつあんが泣くぞ」

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「さうださうだ、そんでなくつちやおとつゝあ泣なくぞ」

人々の後ろからどなった。

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群集ぐんしふの後うしろから呶鳴どなつた。

人々はしばらくまたどよめいたが、一言でも巫女の言うことを聞きのがすまいとして静まった。

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群集ぐんしふは少時しばし復またどよめいたが一句くでも巫女くちよせのいふことを聞きき外はづすまいとして靜しづまつた。

巫女のおばあさんのしせいが箱をはなれて元にもどったとき、おさえつけられたようになっていたみんなが、急にがやがやとさわぎ出した。

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巫女くちよせの婆ばあさんの姿勢しせいが箱はこを離はなれて以前いぜんに復ふくした時とき抑壓よくあつされたやうに成なつて居ゐた凡すべてが俄にはかにがや/\と騷さわぎ出だした。

彼らは絶えず勘次とおつぎに向けて冷たい笑いを浴びせていたのだが、しかしそれを知らない二人は、ただじっとしていた。

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彼等かれらは絶たえず勘次かんじとおつぎとに對たいして冷笑れいせうを浴あびせ拂かけてゐるのであつたが、然しかしそれを知しらぬ二人ふたりは只たゞ凝然ぢつとして居ゐた。

みんながさわぐ中で、そうしている二人のようすは、わざとらしく見えるほど目立っていた。

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凡すべてが騷さわぐ間あひだに在あつてさうして居ゐる二人ふたりの容子ようすは態わざとらしく見みえるまで際立きわだつて居ゐた。

巫女の唱えたことだけでは、いたずらな若い衆のねらいも知らない二人には、自分たちのことを言われているとは気づくはずがなかったのである。

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巫女くちよせの唱となへたことだけでは惡戯いたづらな若わかい衆しゆの意志こゝろも知しらない二人ふたりには自分等じぶんらがいはれて居ゐることゝは心こゝろづく筈はずがなかつたのである。

人々の後ろのほうからの急なさわぎが、内側にも伝わった。

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群集ぐんしふの後うしろの方はうからの俄にはかな騷さわぎが内側うちがはに及およんだ。

晩ごはんを済まして、瞽女が手を引かれて来たところなのである。

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晩餐ばんさんを濟すまして瞽女ごぜが手てを曳ひき連つれて來きた處ところなのである。

それを若い衆がからかい半分に、道を開けてやろうとしては、開けまいとしてさわいだのだった。

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それを若わかい衆しゆが揶揄半分からかひはんぶんに道みちを開ひらいてやらうとしては遣やるまいとして騷さわいだのであつた。

瞽女があぶなっかしく、やっと座敷へ上がったとき

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瞽女ごぜは危險相あぶなさうにして漸やうやく座敷ざしきへ上あがつた時とき

「目も見えないのに、そんなに押し回すなよ」

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「目めも見めえねえのにさうだに押廻おしまはすなえ」

瞽女の後についてゆき、座敷のはしまで割りこんで来た近所のおじいさんが言った。

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瞽女ごぜの後あとに跟ついて座敷ざしきの端はしまで割込わりこんで來きた近所きんじよの爺ぢいさんさんがいつた。

若い衆らはただ

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若わかい衆等しゆらは只たゞ

「ほういほうい」

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「ほうい/\」

と作り声ではやした。

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と假聲こわいろで囃はやした。

おじいさんは勘次がそばにいたのを見つけて

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爺ぢいさんは勘次かんじが側そばに居ゐたのを見みつけて

「なあ、勘次さん、これで若い者のほうがいいからな」

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「なあ、勘次かんじさん、こんで若わけえものゝ處ところがえゝかんな」

と言いかけた。

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といひ掛かけた。

外ではふたたびはやし立ててさわいだ。

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外そとでは再ふたゝび囃はやし立たてゝ騷さわいだ。

白い手ぬぐいを、まげの後ろが少し見えるようにかぶった瞽女が増えたので、座敷は急に生き生きとなった。

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白しろい手拭てぬぐひを髷まげの後うしろが少すこし現あらはれた瞽女被ごぜかぶりにして居ゐる瞽女ごぜが殖ふえたので座敷ざしきは俄にはかに生いきたやうに成なつた。

瞽女は一つに固まって、なるべくランプの明るい光をさけようとしている。

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瞽女ごぜは一ひとつに固かたまつて成なるべくランプの明あかるい光ひかりを避さけようとして居ゐる。

その態度を心にくく思う若い衆が

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其その態度たいどを心憎こゝろにくく思おもふ若わかい衆しゆが

「おれはその手ぬぐいをかぶってこっちを向いてる姐さんのことを寄せてみたいもんだな」

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「俺おら其その手拭てぬげ被かぶつてこつち向むいてる姐樣あねさまこと寄よせて見みてえもんだな」

と、立ちふさがったかげから瞽女の一人にからかって言った者がある。

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立たち塞ふさがつた陰かげから瞽女ごぜの一人ひとりへ揶揄からかつていつたものがある。

「何とか言うか、寄せてみな」

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「何なんちいか寄よせて見みせえ」

さっきのおじいさんは言った。

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先刻さつきの爺ぢいさんはいつた。

彼の顔にはあばたが深くついている。

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彼かれの顏かほには痘痕あばたを深ふかく印いんして居ゐる。

「どうした、寄せてみるのか。そんなら、おれがこよりをこしらえてやろうかい」

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「どうした寄よせて見みんのか、そんだら俺おれかんぜん捻より拵こせえてやつかれえ」

おじいさんがさらに言ったとき、返事がなかった。

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爺ぢいさんが更さらにいつた時とき返辭へんじがなかつた。

「ええ、情けない奴らだな」

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「えゝ、情なさけねえ奴等やつらだな」

おじいさんはひねりかけた紙を捨てた。

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爺ぢいさんは捻より掛かけた紙かみを棄すてた。

店先の駄菓子を入れた台を、がたがたと動かす者があった。

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店先みせさきの駄菓子だぐわしを入いれた店臺みせだいをがた/\と動うごかす者ものがあつた。

「菓子なんぞまたぬすんじまうなよ。うん、そっちのほうの酒だるの所にも立ってて、飲み口でも引っこ抜かないでもらおうぞ、みんな」

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「菓子くわしなんぞまた盜とつちや畢をへねえぞ、うむ、そつちの方はうの酒樽さかだるん處とこにも立たつてゝ飮のみ口ぐちでも引ひつこ拔ぬかねえで貰もらあべえぞ、みんな」

と、あばたのおじいさんは独り乗り気になって言うのだった。

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と痘痕あばたの爺ぢいさんは獨ひとり乘地のりぢに成なつていふのであつた。

「そうじゃないんだよ。台が自分で歩き出しはじめたから、おれがおさえたところなんだよ」

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「さうぢやねえんだよ、店臺みせでえ自分じぶんで歩あるき出だし始はじまつたから俺おれ抑つかめえた處とこなんだよ」

「いいから、ガラスでもぶちこわさないようにしろよ。こっちのおかみさんに怒られるから」

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「えゝからガラスでもおつ缺かかねえやうにしろえ、此方こつちのおつかさまに怒おこられつから」

「そんでも台は四つの足へ何かはいてら。土なべに片口に皿だ。どれもどれもよく欠けてらあ」

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「そんでも店臺みせでえは四つ足あしへ何なにか穿はいてら、土鍋どなべに片口かたくちに皿さらだ、どれも/\能よく打ぶつ缺かけてらあ」

「どこらか歩いて来たと見えて、足がほこりだらけだと」

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「何處どこらか歩あるいて來きたと見みえて足あし埃ほこりだらけだと」

二、三人の声で冗談を返した。

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二三人にんの聲こゑで戯談ぜうだんを返かへした。

家の中と外のむっとした空気が、ますますざわついた。

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家いへの内外うちそとのむつとした空氣くうきが益ます/\ざわついた。

店の台へは、暑いころにはありがおそって来るのをきらって、四つの足へさらやどんぶりをはかせて、いつも水を入れておくのを忘れないのだった。

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店臺みせだいへは暑あつい頃ころには蟻ありの襲おそふのを厭いとうて四つの足あしへ皿さらや丼どんぶりの類るゐを穿はかせて始終しじう水みづを湛たゝへて置おくことを怠おこたらないのであつた。

「どれ、だれも寄せないなら、おれでも寄せてみようかい」

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「どうれ、誰だれも寄よせねえけりや俺おれでも寄よせてんべかえ」

後ろのほうから一人進んで来た者があった。

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後うしろの方はうから一人ひとり進すゝんで來きたものがあつた。

「ただじゃだめだぞ」

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「只たゞぢや駄目だめだぞ」

あばたのおじいさんは、すぐによけいなことを言った。

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痘痕あばたの爺ぢいさんは直すぐに要いらぬことをいつた。

「そんじゃ困ったなあ。お前、どうした、おばあさんのことを死んだ人の口でも寄せてみないか」

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「そんぢや困こまつたなあ、おめえどうした婆ばあさまこと死口しにぐちでも寄よせて見みねえか」

「おれはいやだよ。待ってるから早く来てくれなんて言われた日には、縁起でもないから」

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「俺おら厭やだよ、待まつてつから早はやく來きてくろなんて云ゆはれた日ひにや縁起えんぎでもねえから」

おじいさんはつめで頭をかいた。

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爺ぢいさんは爪つめで頭あたまを掻かいた。

「ひどくお前、近ごろぼさぼさしちまってるんだな。ああいうおばあさんでもこいしがってるせいじゃあるまい。髪までぬけたようだな」

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「酷ひどくおめえ近頃ちかごろぽさ/\しつちやつてんだな、あゝだ婆ばゞあでも焦こがれてる所爲せゐぢやあんめえ、頭髮あたままで拔ぬけた樣やうだな」

ひょうきんな相手は、おじいさんの頭に手をかけてゆさゆさと動かした。

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剽輕へうきんな相手あひては爺ぢいさんの頭あたまへ手てを掛かけてゆさ/\と動うごかした。

乗り気になっていたおじいさんは、少し白いまくでおおわれたような目を見開いて、やや口ごもった。

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乘地のりぢに成なつて居ゐた爺ぢいさんは少すこし白しろい膜まくを以もつて掩おほはれた樣やうな眼めを睜みはつて稍やゝ辟易へきえきした。

「大豆打ちにひっくり返ったみたいに、顔じゅうあなだらけにしてなあ」

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「大豆打でえづぶちにかつ轉ころがつた見みてえに面中つらぢう穴めどだらけにしてなあ」

ひょうきんな相手は、ますます悪口をたくましくした。

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剽輕へうきんな相手あひては益ます/\惡口あくこうを逞たくましくした。

人々は、ひと声終わるごとに笑いどよめいた。

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群衆ぐんしふは一聲ひとこゑの畢をはる毎ごとに笑わらひどよめいた。

「ばかを言え、そんなやわらかい顔で風のふく所を歩けるもんじゃない」

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「篦棒べらぼう、さうだ軟やつけえ面つらで風かぜ吹ふく處とこ歩あるけるもんぢやねえ」

おじいさんはむきになって言った。

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爺ぢいさんはむきに成なつていつた。

「どうした、赤い手ぬぐいをかぶらされただろう」

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「どうした赤あけえ手拭てねげ被かぶらせらつたんべえ」

「おれはそんな手ぬぐいなんざ、かぶったことはないよ」

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「俺おらさうだ手拭てねげなんざあ被かぶつたこたねえよ」

「そんでも、ほうそうの神さまは赤い手ぬぐいが好きだというそうだな」

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「そんでも疱瘡神はうそうがみは赤あけえ手拭てねげ好すきだつちげな」

「そんだって、おれはかぶらないよ」

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「そんだつて俺おら被かぶんねえよ」

あばたのおじいさんは、すっかりしおれてしまった。

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痘痕あばたの爺ぢいさんはすつかり悄しをれて畢しまつた。

人々はみなおなかをかかえた。

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群集ぐんしふは皆みな腹はらを抱かゝへた。

「どれ、おれは帰ってごぼうでもこしらえよう。明日、てんびん棒をかついで出るのにさしつかえらあ」

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「どうれ、俺おら歸けえつて牛蒡ごぼうでも拵こせえべえ、明日あした天秤棒てんびんぼう檐かついで出でる支障さはりにならあ」

ひょうきんな相手は、思い出したように言った。

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剽輕へうきんな相手あひては思おもひ出だしたやうにいつた。

「どうせ、お前らのように紺屋の弟子みたいな手足の者は、ごぼうでもかついで歩くのにはちょうどよかろう」

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「どうせ、おめえ等らやうに紺屋こんやの弟子でし見みてえな手足てあしの者もな牛蒡ごばうでも檐かついで歩あるくのにや丁度ちやうどよかんべ」

仕返しでもできたようなようすで、おじいさんは言った。

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復讎ふくしうでも仕得しえたやうな容子ようすで爺ぢいさんはいつた。

「元手の二円二分くらいで、これで子どもらまで四、五人の命をつないで行くのには、赤い手ぬぐいでもかぶってるようなのんきな気持ちじゃいられないからな」

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「資本もとでの二兩りやう二分ぶ位ぐれえでこんで餓鬼奴等がきめらまでにや四五人にんも命いのち繋つないで行いくのにや赤あけえ手拭てねげでも被かぶつてる樣やうな放心うつかりした料簡れうけんぢや居ゐらんねえかんな」

彼はまたおじいさんの頭に手をかけて言って、ついと行ってしまった。

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彼かれは復また爺ぢいさんの頭あたまへ手てを掛かけていつてついと行いつて畢しまつた。

後では、波が岩に打ちつけるようにしばらくさわいだ。

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後あとでは波なみが巖いはに打うちつける樣やうに暫しばらく騷さわいだ。

若い女はみな十分に笑って、またあばたのおじいさんをつくづく見ては思い出して、たもとで口をおおった。

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若わかい女をんなは皆みな十分ぶん笑わらつて、又また痘痕あばたの爺ぢいさんを熟々つく/″\と見みては思おもひ出だして袂たもとで口くちを掩おほうた。

とうとうきまり悪そうにして、おじいさんも去ってしまった。

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到頭たうとう極きまり惡相わるさうにして爺ぢいさんも去さつて畢しまつた。

「この箱の中には何が入ってるんだ。人形だって本当かね」

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「此この箱はこん中なかにや何なんだね入へえつてんなあ、人形坊にんぎやうばうだつて本當ほんたうかね」

前のほうにいた若い衆が、巫女の荷物に手をかけて言った。

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前まへの方はうに居ゐた若わかい衆しゆが巫女くちよせの荷物にもつへ手てを掛かけていつた。

「なあに、今じゃ幣束だとよ」

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「なあに今いまぢや幣束へいそくだとよ」

と、ほかの者が言った。

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と他たの者ものがいつた。

「これは見せられないんでさ。これを見られると、どれほど寄せてみても当たらなくなっちまってね。自分がいないあいだに見られても、きっと分かるんでさ」

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「此こら見みせらんねえんでさ、此これ見みられつと何程なんぼ寄よせて見みても當あたんなくなつちやつてね、自分じぶんで居ゐねえ間まに見みらつても屹度きつと知しれんでさ」

おばあさんは、風呂しきをめくりかけた若い衆の手をそっと払って言った。

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婆ばあさんは風呂敷ふろしきを捲まくり掛かけた若わかい衆しゆの手てをそつと拂はらつていつた。

すると

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さうすると

「見せられないよ、それが種だから」

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「見みせらんねえよ、其それが種たねだから」

とどなった者があった。

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呶鳴どなつたものがあつた。

そんなさわぎをしているあいだに、何度ももじもじと体を動かしていた勘次は、思い切っておばあさんの前へ進んだ。

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さういふ騷さわぎをして居ゐる間まに幾度いくどかもぢ/\と身體からだを動うごかして居ゐた勘次かんじは思おもひ切きつて婆ばあさんの前まへへ進すゝんだ。

「わしに一つ寄せてみておくんなせえ。死んだ人の口でがす」

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「わしげ一つ寄よせて見みておくんなせえ、死口しにぐちでがさ」

「そんじゃ、笹の葉を折って来ておくんなせえ」

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「そんぢや笹さゝつ葉ぱ折をつちよつて來きておくんなせえ」

巫女のおばあさんは言った。

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巫女くちよせの婆ばあさんはいつた。

「こっちで折ってやろう」

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「此方こつちで折をつちよつて遣やんべ」

と勘次が立ちかけたとき、後ろのほうでどなった。

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と勘次かんじが立たち掛かけた時とき後うしろの方はうで呶鳴どなつた。

しばらくして、小さな竹の葉が手から手へわたされて、茶わんの水の中に置かれた。

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暫しばらくして小ちひさな竹たけの葉はが手てから手てへ傳つたへられて茶碗ちやわんの水みづの中なかに置おかれた。

みんなはふたたび静まった。

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一同どうは再ふたゝび靜しづまつた。

勘次は竹の葉で茶わんの水を三度かき回して、そっと手を放した。

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勘次かんじは竹たけの葉はを以もつて茶碗ちやわんの水みづを三度ど掻かき廻まはしてそつと手てを放はなした。

ランプの光に、竹の葉は水から出た部分は青く、水にしずんだ部分は水銀のように白く光った。

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ランプの光ひかりに竹たけの葉はは水みづから出でた部分ぶぶんは青あをく、水みづに沒ぼつした部分ぶぶんは水銀すゐぎんのやうに白しろく光ひかつた。

巫女のおばあさんは、さっきと同じように箱にひじをついて

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巫女くちよせの婆ばあさんは先刻さつきと同おなじく箱はこへ肱ひぢを突ついて

「よく呼び出してくれたぞよう……」

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「能よく喚よび出だしてくれたぞよう……」

と、決まったような言葉をくり返しながら、まだ十分に意味をなさないうちに、勘次はきちんとすわったひざへ両手を棒のようについて、ぐったりと頭をうなだれた。

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と極きまつたやうな句くを反覆くりかへしつゝまだ十分ぶんの意味いみを成なさないのに勘次かんじは整然ちやんと坐すわつた膝ひざへ兩手りやうてを棒ぼうのやうに突ついてぐつたりと頭かしらを俛たれた。

おつぎもしおらしくうつむいた。

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おつぎもしをらしく俯向うつむいた。

島田に結ったおつぎの髪が、明るいランプに光った。

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島田しまだに結ゆうたおつぎの頭髮かみが明あかるいランプに光ひかつた。

おつぎは特別に勘次にゆるされて、夜明け前に鬼怒川のわたしをこえて、仲間といっしょに髪結いの所へ行ったのだった。

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おつぎは特とくに勘次かんじに許ゆるされて未明みめいに鬼怒川きぬがはの渡わたしを越こえて朋輩同志ほうばいどうしと共ともに髮結かみゆひの許もとへ行いつたのであつた。

まげには油がよくのっていて、上手にかけた金のかざりが少しざらりとゆれた。

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髷まげには油あぶらが能よく乘のつて居ゐて上手じやうず掛かけた金房きんぶさが少すこしざらりとして動搖ゆらめいた。

巫女が次第に言葉を追って行くうちに

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巫女くちよせが漸次ぜんじに句くを逐おうて行ゆくうちに

「すがたはかくれて出てみれば、何も知るまいと思うだろうが、おれはその身のそばには、日々毎日ついてるぞ。雨は降らねどみになり、かさになりてよ……」

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「姿すがた隱かくれて出でて見みれば、何なに知しるまいと思おもだろが、俺おれは其その身みの處ところへは、日日ひにち毎日まいにちついてるぞ、雨あめは降ふらねど箕みのに成なり、笠かさに成なりてよ……」

と、巫女の声は前歯が少し欠けているのに、一つにはみんながしんとしてせきばらいもしないせいだろうが、とてもはっきりと聞き取れた。

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と巫女くちよせの聲こゑは前齒まへばの少すこし缺かけたにも拘かゝはらず、一つには一同どうがひつそりとして咳拂せきばらひをもせぬ故せいであらうが極きはめて明瞭めいれうに聞ききとられた。

「一度ならず、二度三度、ふしぎを起こさせて知らせたに……」

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「一度どならず、二度ど三度ど、不思議ふしぎ打ぶたせて知しらせたに……」

おばあさんの声がつづいてひびいた。

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婆ばあさんの聲こゑが次ついで響ひゞいた。

勘次もおつぎも、ただじっとしているだけである。

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勘次かんじもおつぎも只たゞ凝然ぢつとして居ゐるのみである。

「おれが元気でいるならば……」

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「俺おれが達者たつしやで居ゐるならば……」

という言葉が読まれたと思うと、やがて

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といふ句くが讀よまれたと思おもふと軈やがて

「くれるほどの心なら、ほんに苦労でも大変でも、つぼみの花を散らさずに、どうかさかせてくだされよう……」

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「呉くれるよ程ほどの心こゝろなら、ほんに苦勞くろでも大儀たいぎでも、蕾つぼみの花はなを散ちらさずに、どうか咲さかせてくだされよう……」

なれた声の調子が、そうでなくても興味を持っているみんなの耳に、しみじみとひびいた。

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熟練じゆくれんした聲こゑの調子てうしが、さうでなくても興味きようみを持もつて居ゐる一同どうの耳みゝにしみじみと響ひゞいた。

「からすの鳴かない日はあれど、草葉のかげで……」

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「鴉からすの鳴なかない日ひはあれど、草葉くさばの陰かげで……」

おばあさんが自分の声に乗って来たとき、勘次はぼろぼろとなみだをこぼした。

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婆ばあさんが自分じぶんの聲こゑに乘のつて來きた時とき勘次かんじはぼろ/\と涙なみだを零こぼした。

おつぎもそっとなみだをふいた。

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おつぎもそつと涙なみだを拭ぬぐつた。

「ほんの仮の場のことなれば、これにておれは帰るぞよう……」

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「ほんの假座かりざのことなれば、此これにて俺おれは歸かへるぞよう……」

それからまた

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それから又また

「からすの鳴きがそうでなくもう……」

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「鴉からすの鳴なきがそでなくもう……」

とくり返しながら、巫女のおばあさんの声は軽く引いて、そっとぬいたように止んだ。

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と反覆くりかへしつゝ巫女くちよせの婆ばあさんの聲こゑは輕かるく引ひいてそつと拔ぬいたやうに止やんだ。

「おれは済まない」

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「俺おれ濟すまねえ」

勘次はぽつんと言って、またなみだを横にふいた。

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勘次かんじはぽつさりといつて又また涙なみだを横よこに拭ぬぐつた。

「本当に出たんだよ。こわいようだな」

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「本當ほんたうに出でたんだよ、可怖おつかねえやうだな」

そこにいた若い女の人は、しみじみと言った。

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其處そこに居ゐた若わかい女房にようばうはしみ/″\といつた。

それからつづいて、ほかの二、三人が身の上や生きている人の口を寄せた。

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それから續つゞいて他たの二三人にんが身みの上うへやら生口いきぐちやらを寄よせた。

そして座敷のすみにいた瞽女が代わって、三味線のふくろをすっとしごき下ろしたとき、巫女は荷物の箱を背負って、自分のとまった宿へ帰って行った。

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さうして座敷ざしきの隅すみに居ゐた瞽女ごぜが代かはつて三味線さみせんの袋ふくろをすつと扱こきおろした時とき巫女くちよせは荷物にもつの箱はこを脊負しよつて自分じぶんの泊とまつた宿やどへ歸かへつて行いつた。

三味線のばちが一度弦にふれると、しんみりとした座敷が急に元気づいて、ランプの光が急に明るくなったようだった。

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三味線さみせんの撥ばちが一度ど絃いとに觸ふれるとしんみりとした座敷ざしきが急きふに勢いきほひづいてランプの光ひかりが俄にはかに明あかるいやうに成なつた。

勘次はそれを聞くにたえられないで、彼はその夜にかぎって、自分で与吉の手を引いて自分の家へと、暗やみの中へ身をしずめた。

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勘次かんじはそれを聞きくに堪たへないで、彼かれは其その夜よに限かぎつて自分じぶんで與吉よきちの手てを曳ひいて自分じぶんの家うちへと闇やみの中なかへ身みを沒ぼつした。

若い衆は三人の後ろすがたを見て

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若わかい衆しゆうは三人にんの後姿うしろすがたを見みて

「こおろぎじゃないが、口を鳴らさないじゃいられないな」

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「蛬きりぎりすぢやねえが、口くち鳴ならさねえぢや居ゐらんねえな」

と言った。

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といつた。

「そんだが、今夜はしみじみ泣いたんじゃないかい。何でもお品さんのことはどれほどおしいか知れないのだからな」

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「そんだが、今夜こんやはしみ/″\泣ないたんぢやねえけ、あんでもお品しなさんこた何程なんぼ惜をしいか知しんねえのがだかんな」

「今だってその話をするといくらでもしてるんだからな」

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「今いまだつて其その噺はなしすつと幾いくらでもしてんだかんな」

「そんだがよ、さっきみたいに泣いてるのに、悪口なんぞ言うのはばちが当たるよなあ」

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「そんだがよ、先刻さつき見みてえに泣ないてんのに惡口わるくちなんぞいふな罪つみだよなあ」

と、若い女の人たちはそれでもしんみりと言った。

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と若わかい女房等にようばうらはそれでもしんみりといつた。

その夜からしばらくのあいだ、勘次は前とはちがって、おつぎを独りで出してやることがあるようになった。

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其その夜よから暫しばらくの間あひだ勘次かんじは以前いぜんとは異かはつておつぎを獨ひとり放はなして出だすことが有ある樣やうに成なつた。

そうかと思っているうちに、村じゅうがまた、勘次のおつぎに対する態度がすっかり元にもどったことを認めずにはいられなくなった。

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さうかと思おもつて居ゐる内うちに村落中むらぢうが復また勘次かんじのおつぎに對たいする態度たいどの全まつたく以前いぜんに還かへつたことを認みとめずには居ゐられなくなつた。

村の目は、勢いねたみとうたがい、それから新しく起こったできごとに対するような興味をもって、勘次に注がれることになった。

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村落むらの目めは勢いきほひ嫉妬しつとと猜忌さいぎとそれから新あらたに起おこつた事件じけんに對たいするやうな興味きようみとを以もつて勘次かんじの上うへに注そゝがれねばならなかつた。

一六

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十六

勘次はほとんど何かあるたびに冷たい目で見られていたのだが、しかしそれがいやな気持ちを彼に与えるよりも、彼のふところにいくらかのゆとりができて来たことが、すべての不満をおぎなってあまりあることだった。

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勘次かんじは殆ほとんど事毎ことごとに冷笑れいせうの眼まなこを以もつて見みられて居ゐるのであつたが然しかしそれが厭いやな感情かんじやうを彼かれに與あたへるよりも、彼かれは彼かれの懷ふところに幾分いくぶんの餘裕よゆうを生しやうじて來きたことが凡すべての不滿ふまんを償つぐなうて猶なほ餘あまりあることであつた。

お品がまだ生きていたころ、となりの主人のおかみさんに向かって

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お品しながまだ生いきて居ゐる頃ころ隣となりの主人しゆじんの内儀かみさんに向むかつて

「おかみさんらは何の心配もなくて、晴れ晴れとしているんでございましょうね」

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「お内儀かみさん等ら何なんにも心配しんぺえなんざ無なくつて晴々せい/\として居えんでござんせうね」

とお品はつくづく言ったことがある。

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お品しなはつく/″\といつたことがある。

「なぜそんなことを言うんだい」

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「何故なぜそんなこといふんだい」

おかみさんがふしぎに思って聞いたら

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内儀かみさんは怪あやしんで聞きいたら

「そんでも、おかみさんらは食べる心配なんざちっともないんだから。わたしはそうだと思ってさ」

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「そんでもお内儀かみさん等ら喰たべる心配しんぺえなんざちつともねえんだから、わたしやさうだと思おもつてせえ」

お品は言った。

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お品しなはいつた。

おかみさんは、なるほどそういう気持ちでいるのかと、それからいろいろと身分なりの苦労が絶えないことを話して聞かせると

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内儀かみさんは成程なるほどさういふ心持こゝろもちで居ゐるのかと、それから種々いろ/\と身分みぶん相應さうおうな苦勞くらうの止やまぬことを噺はなして聞きかせると

「そうでございましょうかね、おかみさん。わたしらはまた、明けても暮れても足りない足りないの心配ばかりしてるんだから、そういうことのない人は心配なんてないんだとばかり思ってたんでございますよ。ねえ本当に」

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「さうでござんせうかねお内儀かみさん、わたし等らまた明あけても暮くれても無ねえ足たんねえの心配しんぺえばかしゝてんだから、さういことねえ人ひとは心配しんぺえなんちやねえんだとばかし思おもつてたんでござんすよ、ねえ本當ほんたうに」

お品は感心したように言ったのだった。

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お品しなは感かんに堪たへたやうにいつたのであつた。

お品がそれほど苦労した食べ物の問題が、その死後四、五年間のみじめな暮らしから、やっと解決に向かおうとしたのである。

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お品しながそれ程ほど苦勞くらうした米穀べいこくの問題もんだいが其その死後しご四五年間ねんかんの惨憺さんたんたる境遇きやうぐうから漸やうやく解決かいけつが告つげられようとしたのである。

彼は毎年冬から、まだ草木の芽の出ない春までのうちに、彼らにしてはおどろくほど大きな四、五十円をかせげるのだった。

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彼かれは毎年まいねん冬ふゆからまだ草木さうもくの萌もえ出ださぬ春はるまでの内うちに彼等かれらにしては驚おどろくべき巨額きよがくの四五十圓ゑんを贏かち得うるのであつた。

それは古い借金のあなに消えるにしても、彼は土間のにわとりのねぐらの下に、三人が安心できるだけの食べ物を用意しておけるようになった。

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其それは古ふるい創痍さういの穴あなに投とうぜられるにしても彼かれは土間どまの鷄にはとりの塒とやの下したに三人にんが安心あんしんして居ゐるだけの食料しよくれうを求もとめて置おくことが出來できる樣やうに成なつた。

おつぎは二十になり、与吉は学校へ通うようになった。

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おつぎは二十はたちの聲こゑを聞きいて與吉よきちは學校がくかうへ出でる樣やうに成なつた。

彼は絶えず何かをさがすような、しかもかくした心の中の何かを知られまいというような、見苦しい顔つきを村の中でさらす必要が、やっと少なくなって来た。

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彼かれは絶たえず或ある物ものを探さがすやうな然しかも隱蔽いんぺいした心裏しんりの或ある物ものを知しられまいといふやうな、不見目みじめな容貌ようばうを村落むらの内うちに曝さらす必要ひつえうが漸やうやく減げんじて來きた。

彼はだんだんに、仲間に向かって、前のようにこせこせと必要以上に遠りょする態度がなくなった。

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彼かれは段々だん/\彼等かれらの伴侶なかまに向むかつて以前いぜんの如ごとくこせ/\と徒いたづらに遠慮ゑんりよした態度たいどがなくなつた。

彼は村じゅうに向けていたおそれの気持ちを、すっかり東どなりの家族にだけささげてしまった。

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彼かれは村落むらの凡すべてに向むかつて拂はらつた恐怖きようふの念ねんを悉ことごとく東隣ひがしどなりの家族かぞくにのみ捧さゝげて畢しまつた。

そのあいだ、彼と卯平とはただ一度会ったきりである。

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其その間あひだ彼かれと卯平うへいとは只たゞ一回くわい逢あつたのみである。

卯平は、お品の三年目のお盆にふいと来て、ふいと去ったのである。

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卯平うへいはお品しなが三年目ねんめの盆ぼんにふいと來きてふいと立たつたのである。

卯平は八十に近くなっていながら、おそろしく丈夫な体で、髪は白く、そして少なくなったが、はだにはつやがあった。

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卯平うへいは八十に近ちかく成なつて居ゐながら恐おそろしい岩疊がんでふな身體からだが髮かみは白しろく且かつ少すくなく成なつたが肌膚はだには潤澤じゆんたくがあつた。

卯平は夜は火の番をしても、暑い日には庭の草むしりをしたり、ほかの蔵への使いに行ったり、いくらかいそがしさを感じても、使いに行けば必ずお茶菓子を包んでもらったり、手ぬぐいをもらったり、それから主人からは給料以外のごほうびがあったりするので、少しせつやくすればふところに小銭をためておくこともできたのだが、彼はよくコップ酒を飲んだので、彼のふところにはけっしてゆとりが残らなかった。

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卯平うへいは夜よるは火ひの番ばんをしても暑あつい日ひには庭にはの草挘くさむしりをしたり、他たの藏々くら/″\への使つかひに行いつたり、幾分いくぶんの忙いそがしさを感かんじても、使つかひに行ゆけば屹度きつと茶菓子ちやぐわしを包つゝまれたり、手拭てぬぐひを貰もらつたり、それから主人しゆじんからは給料きふれう以外いぐわいの賞與しやうよがあつたりするので少すこし堅固けんごにすれば、懷ふところには小錢こぜにを蓄たくはへて置おくことも出來できるのであつたが彼かれは能よくコツプ酒ざけを傾かたむけたので彼かれの懷ふところは決けつして餘裕よゆうを存そんしては居ゐなかつた。

野田はふるさとからわりと近いので、しょうゆ蔵がだんだん大きくなって行くにつれて、やとわれて行く若者が増えて来た。

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野田のだは郷里きやうりからは比較的ひかくてき近ちかいので醤油藏しやうゆぐらが段々だん/\發達はつたつして行ゆくに連つれて傭やとはれて行ゆく壯丁わかものが殖ふえて來きた。

ふるさとではやとわれ人の給料が急に上がるほど、どの村からも若者が行った。

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郷里きやうりでは傭人やとひにんの給料きふれうが暴騰ばうとうして來きた程ほどどの村落むらからも壯丁わかものが行いつた。

それがしきりに入れかわるので、卯平は一度しかふるさとの土をふまなくても、いろいろな変化を耳にした。

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其それが頻しきりに交代かうたいされるので、卯平うへいは一度どしか郷里きやうりの土つちを踏ふまなくても種々しゆ/″\の變化へんくわを耳みゝにした。

彼はいちばん、おつぎのことが頭にうかぶ。

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彼かれは一番ばんおつぎのことが念頭ねんとうに浮うかぶ。

十七の秋に見たおつぎのすがたが、お品によく似ていたことを思い出しては、他人のうわさも聞いてみて、ときどきは会ってもみたい気持ちがした。

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十七の秋あきに見みたおつぎの姿すがたがお品しなに能よくも似にて居ゐたことを思おもひ出だしては、他人ひとの噂うはさも聞きいて見みて時々とき/″\は逢あつても見みたい心持こゝろもちがした。

しかしお品が死んだとき、野田へ発つ間ぎわがよくなかったことを彼自身も後かいしていたので、しいていやな勘次にあいさつをして、一時でも肩身のせまい思いをするのをきらって、つい億くうになるのだった。

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然しかしお品しなが死しんだ時とき野田のだへの立たち際ぎはがよくなかつたことを彼自身かれじしんの心こゝろにも悔くゆる處ところがあつたので強しひて厭いやな勘次かんじへ挨拶あいさつをして一時いつときなりとも肩身かたみを狹せまくせねばならないのを厭いとうて遂つひ憶劫おくくふに成なるのであつた。

年を重ねるにつれて短く感じる月日が、そんなふうに過ぎて、にごって見えることの多い江戸川の水を行き来する通運丸の、牛がほえるような汽笛も身にしみて、冬の寒さがひどくなると、前からのくせで腰に痛みを感じることがあった。

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年齡としを積つむに從したがつて短みじかく感かんずる月日つきひがさういふ間あひだに循環じゆんくわんして、くすんで見みえることの多おほい江戸川えどがはの水みづを往復わうふくする通運丸つううんまるの牛うしが吼ほえるやうな汽笛きてきも身みに沁しみて、冬ふゆの寒さむさが酷ひどくなると以前いぜんからの癖くせで腰こしに疼痛いたみを感かんずることがあつた。

蔵のやとわれ人のためにかかえてある医者に見てもらっても、年のせいの病気だから薬を飲んでみたところで、そう効き目があるわけではないが、それでも飲みたけりゃ飲むがいいと言うだけで、特に親身に言ってくれるのでもない。

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藏くらの傭人やとひにんの爲ために抱かゝへてある醫者いしやに見みて貰もらつても、老病らうびやうだから藥くすりを飮のんで見みた處ところで、さう效驗きゝめが見みえるのではないがそれでも、飮のみたけりや飮のむが善いいといふのみで別段べつだん身みに沁しみていつてくれるのでもない。

卯平はいくら飲んでも自分のふところが痛まないのだからと思ってみても、医者の言うとおりどうもすっきりしないので、昼間はなるべくふとんにくるまるようにしていた。

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卯平うへいは幾いくら飮のんでも自分じぶんの懷ふところが痛いたまないのだからと思おもつて見みても醫者いしやのいふ通とほりどうもはき/\としないので晝間ひるまは成なるべく蒲團ふとんにくるまる樣やうにして居ゐた。

卯平は年末の奉公人の入れかわりの季節になれば、その持病を苦にして、奉公もどうしたものかと悲観することもあるが、がまんをすればしのげるので、つい居すわりになっているうちに、いつでも春の季節にもどって、町の外れに果てしなく植えられた桃の花がいっぱいに赤くなると、その木かげの麦が青く地面をおおって、江戸川の水をさかのぼる高瀬舟の白いほも暖かく見えて、大きな蔵の建物が空になるほどやとわれ人みんなが桃畑で一日を楽しく過ごすようになれば、病気もけろりと忘れるのがふつうだった。

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卯平うへいは年末ねんまつの出代でがはりの季節きせつになれば其その持病ぢびやうを苦くにして、奉公ほうこうもどうしたものかと悲觀ひくわんすることもあるが、我慢がまんをすれば凌しのげるので遂つひ居据ゐすわりに成なつて居ゐるうちに何時いつでも春はるの季節きせつに還かへつて、郊外かうぐわいに際涯さいがいもなく植うゑられた桃もゝの花はなが一杯ぱいに赤あかくなると其その木陰こかげの麥むぎが青あをく地ちを掩おほうて、江戸川えどがはの水みづを溯さかのぼる高瀬船たかせぶねの白帆しらほも暖あたたかく見みえて、大おほきな藏々くら/″\の建物たてものが空むなしく成なる程ほど一切さいの傭人やとひにんが桃畑もゝばたけに一日にちの愉快ゆくわいを竭つくすやうになれば病氣びやうきもけそりと忘わすれるのが例れいであつた。

きれい好きな彼は、言われるまでもなく、庭にぽっちりでも草が見えればむしらずにはいられない。

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清潔好きれいずきな彼かれは命令めいれいされるまでもなく、庭にはにぽつちりでも草くさが見みえれば挘むしらずには居ゐられない。

せまくても、きちんとしたやとわれ人部屋のまわりの土にほうきの目を入れて、水をまいてみたり、そこらで作る朝顔の苗をもらって、どんな形にでも鉢へ植えてみたりしていると、奉公もつらくは思わないのだった。

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狹苦せまくるしいにしてもきちんとした傭人部屋やとひにんべやの周圍しうゐの土つちに箒目はうきめを入いれて水みづでも打うつて見みたり、其處そこらで作つくる朝顏あさがほの苗なへを貰もらつてどんな姿なりにも鉢はちへ植うゑて見みたりして居ゐると奉公ほうこうが辛つらくも思おもはないのであつた。

それも二、三年のあいだで、ふつうの人間ならもうとても役にも立たない年になっているので、たとえ彼の暮らしが楽をゆるさないためにこうして気持ちの上で健康が保たれているのだとしても、彼の年老いた体は日ごとに、はらがへってつかれた体を回復するために食べるわずかな満足が、そのたびごとに先の見えている彼を引っぱって、その行く先へ導いているのである。

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それも二三年ねんの間あひだで普通ふつうの人間にんげんならばもう到底たうてい役やくにも立たたぬ年齡ねんれいに達たつして居ゐるので、假令たとひ彼かれの境遇きやうぐうが安佚あんいつを許ゆるさない爲ために恁かうして精神的せいしんてきに健康けんかうが保たもたれて居ゐるのだとしても、彼かれの老躯らうくは日毎ひごとに空腹くうふくから來くる疲勞ひらうを醫いする爲ために食料しよくれうを攝取せつしゆする僅わづかな滿足まんぞくが其その度毎たびごとに目先めさきの知しれてる彼かれを拉らつして其その行ゆく可べき處ところに導みちびいて居ゐるのである。

また冬が来たとき、彼は今までの腰の痛みとちがう一種の病気ができたように感じた。

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復また冬ふゆが來きた時とき、彼かれは今いままでの腰こしの痛いたみと違ちがつた一種しゆの疾患しつくわんを生しやうじたやうに感かんじた。

医者はあいかわらずリューマチなのだと言って、寒い夜に火の番をして歩くのは絶対に悪いと言うのだった。

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醫者いしやは依然いぜん僂痲質斯レウマチスなのだといつて、寒さむい夜よに火ひの番ばんをして歩あるくのは絶對ぜつたいに惡わるいといふのであつた。

それでも彼は、がまんできるだけつとめた。

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それでも彼かれは我慢がまんの出來できるだけ務つとめた。

入れかわりの季節が来たとき、彼はまたしきりに迷ったが、どうもそこを去ってしまうのがおしい気持ちもするし、ためらってまた居すわりになった。

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出代でがはりの季節きせつが來きた時とき彼かれはまた頻しきりに惑まどうたが、どうも其處そこを立たつて畢しまふのが惜をしい心持こゝろもちもするし、逡巡しりごみして復また居据ゐすわりになつた。

ふるさとから来た者に聞いて、彼は勘次が次第に暮らし向きがよくなりつつあることを知った。

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郷里きやうりから來きたものに聞きいて彼かれは勘次かんじが次第しだいに順境じゆんきやうに赴おもむきつゝあることを知しつた。

彼は心がまたゆれて、もろくなった心がひどくあわれっぽく情けなくなった。

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彼かれは心こゝろが復また動搖どうえうして脆もろく成なつた心こゝろが酷ひどく哀あはれつぽく情なさけなくなつた。

しかし長いあいだ仲たがいしていた勘次の所へ帰るには、彼は手ぶらではならないということを深く思った。

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然しかし長ながい間あひだ機嫌きげんを損そこね合あうた勘次かんじの許もとへ歸かへるのには彼かれは空手からてではならぬといふことを深ふかく念ねんとした。

彼はそれからというもの、なるべくコップ酒もひかえてふところを暖めようとした。

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彼かれは夫それからといふもの成なるべくコツプ酒ざけも節制せつせいして懷ふところを暖あたゝめようとした。

これまで彼が遠く奉公に出ていて、いくらでもなぐさめの道を見つけていたのは、わりと暖かなふところをほとんど使い切っていたからである。

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從來じうらい彼かれが遠とほく奉公ほうこうに出でて居ゐて幾いくらでも慰藉ゐしやの途みちを發見はつけんして居ゐたのは割合わりあひに暖あたゝかな懷ふところを殆ほとんど費つひやしつゝあつたからである。

それで彼は今そう気がついてみても、体を大事にしなくてはならないということが一方にあるので、それが思うようにはいかなかった。

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それで彼かれは今いまさう氣きがついて見みても身體からだの養生やうじやうをしなくてはならぬといふことが一方ぱうに有あるのでそれが思おもふ程ほどにはいかなかつた。

そういう心配も、また春が暖かくなって病気を忘れると、帰ることもそのまま消えてしまうのである。

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さういふ心配しんぱいが又また春はるも暖あたゝかに成なつて病氣びやうきを忘わすれると歸かへることも其その儘まゝに消滅せうめつして畢しまふのである。

しかしどうがまんをしてみても、あと何年もつとまらないということを、まわりの人も見ているのである。

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然しかしどう我慢がまんをして見みても後あと幾年いくねんも勤つとまらないといふことを周圍しうゐの人ひとも見みて居ゐるのである。

ことに長いあいだ野田で暮らして、近所の蔵の親方をしているのがふるさとの近くから出た人なので、自然と知り合いだったが、その人が卯平に引退をすすめた。

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殊ことに永ながい間あひだ野田のだへ身上しんしやうを持もつて近所きんじよの藏くらの親方おやかたをして居ゐるのが郷里きやうりの近ちかくから出でたので自然しぜん知合しりあひであつたが、それが卯平うへいに引退いんたいを勸すゝめた。

彼はふるさとへ何年ぶりかで行くついでもあるし、幸い勘次のことは村にいるうちに知っていたから、相談をして来てやろうと言った。

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彼かれは故郷こきやうへ幾年目いくねんめかで行ゆく序ついでもあるし、幸さいはひ勘次かんじのことは村落むらに居ゐる内うちに知しつて居ゐたから相談さうだんをして來きてやらうといつた。

卯平は近ごろめっきりくぼんだ茶色の目をしかめるようにしながら、かすかな笑いをうかべた。

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卯平うへいは近頃ちかごろ滅切めつきり窪くぼんだ茶色ちやいろの眼めを蹙しかめるやうにしながら微かすかな笑ゑみを浮うかべた。

親方が勘次に話をしたとき

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親方おやかたが勘次かんじへ噺はなしをした時とき

「わしは、なあに、家の者だから面倒を見ないとは言わないね」

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「わしや、なあに、家うちのもんだから面倒めんだう見みねえた云ゆはねえね」

勘次は気の乗らない態度で言った。

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勘次かんじは油あぶらの乘のらぬ態度たいどでいつた。

「勘次さん、近ごろ暮らし向きがいいという話だが」

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「勘次かんじさん近頃ちかごろ工合ぐあひがえゝといふ噺はなしだが」

親方も義理でひととおり言うと

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親方おやかたも義理ぎり一遍ぺんのやうにいふと

「暮らし向きがいいということもないが、これでも命がけで働いてるんだから、他人には大きなお金になるようにも見えるだろうが、おれにはこれで爺さんの代の借金がぬけないでいるんだから、それさえなけりゃ泣かないでも済むんだよ。そんだが、それでばかり身動きが取れないな」

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「工合ぐあひえゝつちこともねえが、此こんでも命懸いのちがけで働はたれえてんだから、他人ひとのがにや大えけえ錢ぜねになるやうにも見めえべが、俺おらにこんで爺樣ぢさまが代でえの借金しやくきん拔ぬけねえで居えんだからそれせえなけりや泣なかねえでも畢をへんだよ、そんだがそれでばかり動いごき取とれねえな」

「そんじゃ、そのときには勘次さんも都合がいいわけだね」

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「そんぢや、其その時ときにや勘次かんじさんも善いい理由わけだね」

「そりゃそうだが」

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「そりやさうだが」

勘次はどことなく調子を変えて言った。

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勘次かんじは何處どことなく拍子ひやうしを變かへていつた。

「勘次さんら、それでも穀物はなかなかあるようすだね」

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「勘次かんじさん等らそれでも穀類こくるゐはなか/\有ある容子ようすだね」

つっこんで聞くと

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突込つゝこんで聞きくと

「それくらいなくちゃ仕方がないもの。おれはここへ来たばかりのころには、病気のときでもまるでひきわり麦ばかりのごはんなんぞ出されて、おれはずいぶんつらい目にあったんだよ。これでそういうことは忘れられないもんだからな」

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「其その位くれえなくつちや仕しやうねえもの、俺おら此處ここへ來きた當座たうざにや病氣びやうきん時ときでもからつき挽割麥ひきわりばかしの飯めしなんぞおん出だされて、俺おら隨分ずいぶん辛つれえ目めに逢あつたんだよ、こんでさうえこた、忘わすらんねえもんだかんな」

勘次はとうとう、はっきりしない返事をするばかりだった。

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勘次かんじは到頭たうとう要領えうりやうを得えない返辭へんじをするのみであつた。

蔵の親方は、勘次がどういう気持ちであるかということは、卯平には言わなかった。

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藏くらの親方おやかたは勘次かんじがどういふ料簡れうけんであるといふことは卯平うへいへはいはなかつた。

たとえどうであっても勘次の所へ帰らなければならないことに決まっているのだから、それには戸板に乗せて運ぶような病気になるまで奉公させておくよりも、丈夫なうちに休みを取らせて帰してしまえば、あるいは勘次との仲も思ったほど悪くならないだろうと、ほどよいことを卯平に話した。

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假令たとひどうした處ところで勘次かんじの許もとへ歸かへらねばならぬことに極きまつて居ゐるのだから、それには戸板といたへ乘のせてやる樣やうな病氣びやうきの起おこるまで奉公ほうこうさせて置おくよりも、丈夫ぢやうぶなうちに暇ひまを取とらせて還かへして畢しまへば、或あるひは勘次かんじとの間あひだも思おもつた程ほどのこともないだらうと、程ほどよいことに卯平うへいへ噺はなした。

卯平はもちろん親方から、家のようすや、おつぎが大人になったことや、近所のことも一つ一つ聞かされた。

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卯平うへいは固もとより親方おやかたから家うちの容子ようすやおつぎの成人せいじんしたことや、隣近所となりきんじよのことも逐ちく一聞きかされた。

卯平はくぼんだ茶色の目に、暖かな光をたたえた。

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卯平うへいは窪くぼんだ茶色ちやいろの眼めに暖あたゝかな光ひかりを湛たたへた。

卯平は短いあいだだったが、気がついてから心がけたので、さいふにはいくらかのたくわえもあった。

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卯平うへいは短みじかい時間じかんであつたが氣きがついてから心掛こゝろがけたので財布さいふには幾いくらかの蓄たくはへもあつた。

わずかな着物だが、それでもすすけたように色のあせた風呂しきに大きな包みが二つできた。

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僅わづかな衣物きものであるがそれでも煤すゝけたやうに褪さめた風呂敷ふろしきに大おほきな包つゝみが二つ出來できた。

一つの、要らないほうは、運河から鬼怒川へ通う高瀬舟にたのんで、自分の村の河岸へ上げてもらうことにして、彼はたばこの一服も忘れないように身につけた。

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一つの不用ふようの分ぶんは運河うんがから鬼怒川きぬがはへ通かよふ高瀬船たかせぶねへ頼たのんで自分じぶんの村落むらの河岸かしへ揚あげて貰もらふことにして、彼かれは煙草たばこの一服ぷくをも忘わすれない樣やうに身みにつけた。

彼は股引にわらじをはいて、その大きな風呂しきを背負って発った。

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彼かれは股引もゝひきに草鞋わらぢを穿はいて其その大風呂敷おほぶろしきを脊負せおつて立たつた。

ビールの空きびん二本にいっぱいのしょうゆを、すげ縄でくくって提げた。

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麥酒ビールの明罎あきびん二本ほんへ一杯ぱいの醤油しやうゆを莎草繩くゞなはで括くゝつて提さげた。

それから彼はまた、せんべいを一ふくろ買った。

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それから彼かれは又また煎餅せんべいを一袋ふくろ買かつた。

しょうゆと米がいいので、うまいせんべいだった。

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醤油しやうゆと米こめとが善よいので佳味うまい煎餅せんべいであつた。

彼は三つのときに別れて、五つの秋にちょっと見た与吉が、もう八つか九つになっていると、こう数えてみて、おみやげが買いたくなったのである。

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彼かれは三つの時ときに別わかれて五つの秋あきに一寸ちよつと見みた與吉よきちがもう八つか九つに成なつて居ゐると恁かう數かぞへて見みて土産みやげが買かひたく成なつたのである。

せんべいのふくろは、毎日使っていた手ぬぐいでくくって、荷物のひもにしばりつけた。

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煎餅せんべいの袋ふくろは毎日まいにち使つかつて居ゐた手拭てぬぐひで括くゝつて荷締にじめの紐ひもへ縛しばりつけた。

彼は冬になってまた起こりかけたリューマチをおそれて、とてもゆっくりと歩を運んだ。

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彼かれは冬ふゆになつてまた起おこりかけた僂痲質斯レウマチスを恐おそれて極きはめてそろ/\と歩ほを運はこんだ。

利根川をわたってからは、かれ木の林がさびしくつづきながら彼をのみこんだ。

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利根川とねがはを渡わたつてからは枯木かれきの林はやしは索寞さくばくとして連續れんぞくしつゝ彼かれを呑のんだ。

彼はところどころでのっそりと腰を下ろして、好きなたばこをふかした。

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彼かれは處々ところ/″\へのつそりと腰こしを卸おろして好すきな煙草たばこをふかした。

荷物を道ばたへ下ろすとき、彼は必ずしばりつけた手ぬぐいの包みに手をかけて、新聞紙のふくろががさがさと鳴るのを聞いて安心した。

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荷物にもつを路傍みちばたへ卸おろす時とき彼かれは屹度きつと縛しばりつけた手拭てぬぐひの包つゝみへ手てを掛かけて新聞紙しんぶんしの袋ふくろのがさ/\と鳴なるのを聞きいて安心あんしんした。

かれ木の林は、立ちのぼるたばこのけむりが、根の切れたまますっと急いでえだにからんで消えるのもかくさずに、がらんとしている。

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枯木かれきの林はやしは立たち騰のぼる煙草たばこの煙けぶりが根ねの切きれた儘まゝすつと急いそいで枝えだに絡からんで消散せうさんするのも隱かくさずに空洞からりとして居ゐる。

卯平がじっとしていると、あおじがそっとそっとかわいた落ち葉をふんで彼の近くまで来ては、すいとえだへ飛んだ。

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卯平うへいが凝然ぢつとして居ゐると萵雀あをじが忍しのび/\に乾かわいた落葉おちばを踏ふんで彼かれの近ちかくまで來きてはすいと枝えだへ飛とんだ。

彼はまわりにはまったく心を引かれることもなく、たもとのマッチで火をつけてはまたマッチをたもとへ入れて、そしてげっそりと落ちた両ほおの肉が、さらにぴっちりと歯茎に吸いついてしまうまでゆっくりとたばこを吸って、きせるをすっとぬいてからまた歯茎で空気を吸って、けむりといっしょに飲んでしまったかと思うようにごくりとつばを飲んで、それからけむりをはき出すのである。

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彼かれは周圍しうゐには一切さい心こゝろを惹ひかされることもなく袂たもとの燐寸マツチへ火ひを點つけては又また燐寸マツチを袂たもとへ入いれて、さうしてからげつそりと落おちた兩頬りやうほゝの肉にくが更さらにぴつちりと齒齦はぐきに吸すひついて畢しまふまで徐ゆるりと煙草たばこを吸すうて、煙管きせるをすつと拔ぬいてから又また齒齦はぐきへ空氣くうきを吸すうて煙けぶりと一つに飮のんで畢しまつたかと思おもふやうにごくりと唾つばを嚥のんで、それから煙けぶりを吐はき出だすのである。

彼はまわりがさびしいとも何とも思わなかった。

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彼かれは周圍しうゐが寂さびしいとも何なんとも思おもはなかつた。

しかし彼自身は、見るからにかわいてあわれげだった。

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然しかし彼自身かれじしんは見みるから枯燥こさうして憐あはれげであつた。

彼は少しきりきりと痛む腰をのばして、荷物を背負って立った。

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彼かれは少すこしきや/\と痛いたむ腰こしを延のばして荷物にもつを脊負せおつて立たつた。

捨てたマッチの燃えさしが道ばたのかれ草に火をつけて、あざ笑うような火がべろべろと広がっても、見向きもしないほど彼はだるそうである。

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捨すてた燐寸マツチの燃もえさしが道端みちばたの枯草かれくさに火ひを點つけて愚弄ぐろうするやうな火ひがべろ/\と擴ひろがつても、見向みむかうともせぬ程ほど彼かれは懶ものうげである。

野田からは四十キロに足りない平地の道を、鬼怒川ぞいの自分の村まで来るのに、冬の短い日は雑木林のえだの上で彼を待たなかった。

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野田のだからは十里りに足たらぬ平地へいちの道みちを鬼怒川きぬがはに沿そうた自分じぶんの村落むらまで來くるのに、冬ふゆの短みじかい日ひが雜木林ざふきばやしの梢こずゑに彼かれを待またなかつた。

彼が自分の家に着いたときには、しょうゆを提げた手が痛いほど冷えていた。

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彼かれは自分じぶんの家いへに着ついた時ときは醤油しやうゆを提さげた手てが痛いたい程ほど冷ひえて居ゐた。

彼はやっとのことで戸口に立った。

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彼かれは漸やつとのことで戸口とぐちに立たつた。

勘次を呼ぼうとしてみたら、中はしんとして暗い。

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勘次かんじを喚よばうとして見みたら内うちはひつそりと闇くらい。

戸口に手を当ててみたら、かぎがかけてあった。

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戸口とぐちに手てを當あてゝ見みたら鍵かぎが掛かけてあつた。

「いたかい」

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「居ゐたかえ」

それでも卯平はどなってみたが、返事がない。

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それでも卯平うへいは呶鳴どなつて見みたが返辭へんじがない。

卯平は口の中でつぶやいて、裏の戸口へ回ってみたら、そこは内からかけ金がかかっている。

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卯平うへいは口くちの内うちで呟つぶやいて裏戸口うらとぐちへ廻まはつて見みたら其處そこは内うちから掛金かけがねが掛かゝつて居ゐる。

彼はそれでもきせるを出して、戸のすきまからかけ金をぐっと突いたら、栓がしてなかったのですぐに外れた。

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彼かれはそれでも煙管きせるを出だして戸との隙間すきまから掛金かけがねをぐつと突ついたら栓せんを揷さしてなかつたので直すぐに外はづれた。

彼は暗いしきいをまたいで、たもとのマッチをすっとつけた。

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彼かれは闇くらい閾しきゐを跨またいで袂たもとの燐寸マツチをすつと點つけた。

何年いなくても勝手を知っているので、彼は柱にかけてある手ランプをつけて、とりあえず手足を暖めるために、しばをぽちぽちと折って火ばちにくべた。

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幾年いくねん居ゐなくても勝手かつてを知しつて居ゐるので彼かれは柱はしらへ懸かけてある手てランプを點つけて、取とり敢あへず手足てあしを暖あたゝめる爲ために麁朶そだをぽち/\と折をつて火鉢ひばちへ燻くべた。

すすけた薬かんを五徳へかけて、それから彼はわらじをぬいだ。

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煤すゝけた藥罐やくわんを五徳とくへ掛かけてそれから彼かれは草鞋わらぢをとつた。

かわいた道を歩いて来たので、いくらもよごれない足の底を二、三度ずつ手でこすって、座敷へ上がった。

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乾かわいた道みちを歩あるいて來きたので幾いくらも汚よごれない足あしの底そこを二三度どづゝ手てでこすつて座敷ざしきへ上あがつた。

勘次は南の家のおふろへ行っていた。

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勘次かんじは南みなみの風呂ふろへ行いつて居ゐた。

彼は昼はわずかのひまもおしんで働くので、一つにはそれが夜なべの仕事にはげめないほどのつかれを感じさせているのでもあるが、少しふところに余ゆうができてからは、長い夜の休みの時間にはめったに縄をなうこともなく、おふろに行ってはよく話をしながら出がらしのお茶をすすった。

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彼かれは晝ひるは寸暇すんかをも惜をしんで勞働らうどうをするので一つには其それが夜よなべの仕事しごとを勵はげみ得えない程ほどの疲勞ひらうを覺おぼえしめて居ゐるのでもあるが、少すこし懷ふところが窮屈きうくつでなくなつてからは長ながい夜よの休憇時間きうけいじかんには滅多めつたに繩なはを綯なふこともなく風呂ふろに行いつては能よく噺はなしをしながら出殼でがらの茶ちやを啜すゝつた。

その夜、与吉は南の家の女房から、はっかの入った駄菓子を二つばかりもらった。

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其その夜よ與吉よきちは南みなみの女房にようばうから薄荷はくかの入はひつた駄菓子だぐわしを二つばかり貰もらつた。

裏のかきねから桑畑をこえて歩きながら、与吉は菓子をなめた。

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裏うらの垣根かきねから桑畑くはばたけを越こえて歩あるきながら與吉よきちは菓子くわしを舐しやぶつた。

「どれ、おれにもちょっと出してみないか」

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「どれ、俺おれげもちつと出だして見みねえか」

おつぎは与吉の手から少し欠いて、自分の口へ入れた。

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おつぎは與吉よきちの手てから少すこし缺かいて自分じぶんの口くちへ入いれた。

「姉ちゃんは大きく欠いちゃいやだぞう」

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「姊ねえは大えかくおつ缺けえちや厭やだぞう」

与吉が心配して言うと

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與吉よきちは懸念けねんしていふと

「ああはっかだ、これは。口の中がすうすうすらあ。おとっつあんにもやってみろ」

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「おゝ薄荷はくかだこら、口くちん中なかすう/\すら、おとつゝあげも遣やつて見みろ」

おつぎがまた菓子に手をかけようとすると

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おつぎは又また菓子くわしへ手てを掛かけようとすると

「いいから、よきになめさせろ」

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「えゝから、よきげ嘗なめさせろ」

勘次はおつぎを止めた。

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勘次かんじはおつぎを制せいした。

三人は他人の目のない暗い夜の細い道を、こうして自分の庭へもどった。

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三人にんは他人ひとの目めが開あいてない闇夜やみよの小徑こみちを恁かうして自分じぶんの庭にはへ戻もどつた。

「どうしたんだろう、おとっつあん」

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「どうしたんだんべ、おとつゝあ」

おつぎは戸のすきまからさす明かりを見て、急に立ち止まって言った。

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おつぎは戸との隙間すきまから射さす明あかりを見みて俄にはかに立たち止どまつていつた。

勘次はすくんだようになって黙った。

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勘次かんじは竦すくんだやうに成なつて默だまつた。

おつぎは戸のすきまからのぞいて

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おつぎは戸との隙間すきまから覗のぞいて

「爺さんみたいだな、おとっつあん」

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「爺ぢい見みてえだな、おとつゝあ」

と小声で告げた。

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と小聲こごゑで告つげた。

それから勘次ものぞいて、かぎを外して入った。

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それから勘次かんじも覗のぞいて、鍵かぎを外はづして這入はひつた。

与吉は見知らないおじいさんがいるので、はずかしがっておつぎの後ろへかくれた。

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與吉よきちは見識みしらぬ爺ぢいさんが居ゐるので羞はにかんでおつぎの後うしろへ隱かくれた。

「爺さんだ」

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「爺ぢいだ」

と、おつぎは叫んで卯平のそばへ寄った。

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とおつぎは叫さけんで卯平うへいの側そばへ寄よつた。

「爺さんは今日来たのか」

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「爺ぢいは今日けふ來きたのか」

おつぎのあいさつにつづいて

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おつぎの挨拶あいさつに續つゞいて

「おとっつあん、おそかったな」

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「おとつゝあ遲おそかつたな」

勘次も言った。

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勘次かんじもいつた。

「出るのもそんなに早くはなかったっけが、しばらく歩きなれないせいか、なんぼにも足が出ないで、こんなにおそくなるつもりもなかったっけが」

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「出でだすのもそんなに早はやかなかつたつけが、暫しばらく歩あるきつけねえ所爲せゐかなんぼにも足あしが出でねえで、かういに遲おそくなる積つもりもなかつたつけが」

卯平は重い口で言った。

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卯平うへいは重おもい口くちでいつた。

「よっぽど待っていたか、爺さんは」

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「餘よつ程ぽど待まつてゝか爺ぢいは」

おつぎは、しばを折り足しながら言った。

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おつぎは麁朶そだを折をり足たしながらいつた。

「火をふきつけたばかりよ」

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「火ひい吹ふつたけたばかりよ」

卯平は、そのくぼんだ茶色の目をしかめるようにして

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卯平うへいは其その窪くぼんだ茶色ちやいろの眼めを蹙しかめるるやうにして

「おつうも大きくなったな。とちゅうでなんぞ行き会っちゃ分からないな。そんだが、お前はさすがにおれのことは忘れなかったっけな」

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「おつうも大えかくなつたな、途中とちうでなんぞ行逢いきやつちや分わかんねえな、そんだが汝わりや有繋まさか俺おれこた忘わすれなかつたつけな」

「忘れまいな、爺さんは」

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「忘わすれめえな爺ぢいは」

おつぎは卯平に対して、こそばゆい一まいの皮が間をへだてているような感じがしていながら、そのくせ甘えたような口ぶりで言って、ちゅうちゅうと鳴り出した薬かんに手をかけた。

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おつぎは卯平うへいに對たいしてこそつぱい一皮かはが間あひだを隔へだてゝ居ゐるやうな感かんじがして居ゐながら、其その癖くせの甘あまえた樣やうな舌したでいつてちう/\と鳴なり出だした藥罐やくわんへ手てを掛かけた。

卯平は、おつぎのあいさつを今さらのようにしみじみとうれしく感じた。

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卯平うへいはおつぎの挨拶あいさつを今更いまさらの如ごとくしみ/″\と嬉うれしく感かんじた。

卯平は、お品が死んで三年目のお盆に来たとき、不器用なようすの彼がどうして思いついたのか、おつぎへ花かんざしを一つ買って来た。

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卯平うへいはお品しなが死しんで三年目ねんめの盆ぼんに來きた時とき不器用ぶきような容子ようすの彼かれがどうして思おもひついたかおつぎへ花簪はなかんざしを一つ買かつて來きた。

十七のおつぎが、どれほどそれをよろこんだか知れなかった。

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十七のおつぎがどれ程ほどそれを喜よろこんだか知しれなかつた。

おつぎはけっしてそれを忘れなかった。

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おつぎは決けつしてそれを忘わすれなかつた。

「爺さんにお茶を入れよう」

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「爺ぢいげお茶ちや入せえべえ」

おつぎは立って茶わんを洗った。

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おつぎは立たつて茶碗ちやわんを洗あらつた。

卯平は濃いきりでふさがれた森の中へふみこむような、一種の不安を感じながら来たのだったが、彼はおつぎのふるまいに心が晴れ晴れとした。

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卯平うへいは濃霧のうむに塞ふさがれた森もりの中なかへ踏込ふみこむやうな一種しゆの不安ふあんを感かんじつゝ來きたのであつたが、彼かれはおつぎの仕打しうちに心こゝろが晴々せい/\した。

卯平は、まだ菓子をなめながらかくれるようにしている与吉を見て

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卯平うへいは、まだ菓子くわしを舐しやぶりながら隱かくれるやうにして居ゐる與吉よきちを見みて

「おれのことを忘れただろう、これは。大きくなったと思って来たっけが、本当に分からないほど大きくなったな」

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「俺おれこと忘わすれたんべ此こら、大えかく成なつたと思おもつて來きたつけが本當ほんたうに分わかんねえ程ほど大えかく成なつたな」

口数の少ない卯平が、この夜はいろいろにしゃべった。

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寡言むくちな卯平うへいが此この夜よは種々いろ/\に饒舌しやべつた。

「これでも学校へ行くんだもの」

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「此こんでも學校がくかうへ行いくんだもの」

おつぎはお茶を入れながら言った。

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おつぎは茶ちやを入いれながらいつた。

「そうら」

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「さうら」

と、卯平は荷物にしばりつけたせんべいの包みを、与吉へ投げ出してやった。

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と卯平うへいは荷物にもつへ縛しばりつけた煎餅せんべいの包つゝみを與吉よきちへ投なげ出だしてやつた。

「おつう、手ぬぐいを解いてみないか。野田でも一番うまいんだから」

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「おつう、手拭てねげ解とえて見みねえか、野田のだでも一番ばんうめえんだから」

卯平は言ったが、おつぎの手が手間取るので、自分で手ぬぐいを解いて勘次の前へ出して、彼はさらに一まいを取って与吉にやった。

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卯平うへいはいつたがおつぎの手てが暇ひまどれるので自分じぶんで手拭てぬぐひを解といて勘次かんじの前まへへ出だして、彼かれは更さらに一枚まいをとつて與吉よきちへ遣やつた。

「よき、それをもらうもんだ。爺さんがくれるというのに」

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「よき、それ貰もらあもんだ。爺ぢい呉くれるつちのに」

おつぎは茶わんを卯平と勘次の前に置きながら言った。

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おつぎは茶碗ちやわんを卯平うへいと勘次かんじとの前まへへ据すゑつゝいつた。

「こっちへ上がってもらうもんだ」

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「こつちへ上あがつて貰もらあもんだ」

勘次も言った。

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勘次かんじもいつた。

土間に立っていた与吉は、そっとぞうりをぬいで、あぶなっかしく手を出して取った。

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土間どまに立たつて居ゐた與吉よきちはそつと草履ざうりを脱ぬいで危險相あぶなさうに手てを出だして取とつた。

そしてすぐに、ぬすむようにかじった。

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さうして直すぐに偸ぬすむやうに噛かんだ。

「遠くのほうのだぞ。お前、うまかろう」

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「遠とほくの方はうのがんだぞ、汝われうまかんべ」

おつぎは自分も一まいかじりながら言った。

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おつぎは自分じぶんも一枚まいを噛かじり乍ながらいつた。

「うまくないや、そんなに」

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「うまかねえやそんなに」

与吉はおつぎのたもとへかくれるようにして言った。

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與吉よきちはおつぎの袂たもとへ隱かくれるやうにしていつた。

甘みの強い菓子をかんだ口で、しかもしょうゆの味を見分けるまで育った舌を持たない与吉は、卯平が遠くから持って来たと聞かされたほどには感じなかったのである。

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甘味あまみの強つよい菓子くわしを噛かんだ口くちに、さうして醤油しやうゆの味あぢを區別くべつするまで發達はつたつした舌したを持もたない與吉よきちは卯平うへいが遠とほく齎もたらしたと聞きかせられた程ほどには感かんじなかつたのである。

「そんなこと言うもんじゃない。そんなら姉ちゃんによこしちまえ」

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「其麽そんなこといふもんぢやねえ、そんだら姊ねえげよこしつちめえ」

おつぎは小さな声で言って、しり目に見た。

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おつぎは小ちひさな聲こゑでいつて尻目しりめに掛かけた。

与吉はそう言われながら、手にした分だけはぽりぽりとかじった。

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與吉よきちはさういひ乍ながら手てにした丈だけはぽり/\と噛かんだ。

かわいた音が、三人の口で鳴った。

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乾燥かんさうした響ひゞきが三人にんの口くちに鳴なつた。

卯平は何ばいも、ただお茶をすすった。

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卯平うへいは幾杯いくはいも只たゞ茶ちやを啜すゝつた。

丈夫だといっても、彼は歯がげっそりとぬけて、やわらかい物でなければかめなくなっていた。

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壯健たつしやだといつても彼かれは齒はがげつそりと落おちて軟やはらかな物ものでなければ噛かめなくなつて居ゐた。

卯平はまた、おつぎへしょうゆのびんを出して

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卯平うへいは又またおつぎへ醤油しやうゆの罎びんを出だして

「おれが持って来ればなんぼでもわけないんだが、荷物があるもんだから、これっきりしか持っては来られなかった。これでもおれは、蔵じゃこれ以上のはないんだ。炊事はお前がするんだろうから、お前がそっちへしまっておけな」

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「俺おれ持もつて來くればなんぼでも譯わけねえんだが荷物にもつがあるもんだから、此これつ切きりしか持もつちや來きねえつちやつた、此こんでも俺おら藏くらぢや此この上うへはねえんだ、炊事かしきは汝われすんだんべから、汝われそつちへ藏しまつて置おけな」

「大変だったな、爺さん。荷物があるのになあ。これだけじゃしばらくもつだろうよ」

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「大變たえへんだつけな爺ぢい、荷物にもつあんのになあ、此これだけぢや暫しばらくあんべよ」

おつぎはびんを柱のそばへ置いた。

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おつぎは罎びんを柱はしらの傍そばへ置おいた。

「荷物はそうでもないが、体が利かないでな、どうも」

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「荷物にもつはさうでもねえが、身體からだ利きかねえでな、どうも」

卯平はきせるをかんだ。

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卯平うへいは煙管きせるを噛かんだ。

「爺さんはどうしただろう。ごはんを食べたんだろうか」

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「爺ぢいはどうしたつぺ、お飯まんまたべたんべか」

おつぎは、わざと言いかけるという態度でもなく、勘次に向かって言った。

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おつぎは敢あへていひ掛かけるといふ態度たいどでもなく勘次かんじに向むかつていつた。

「おれはどっちでもいいや」

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「おらどつちでもえゝや」

卯平は少しえんりょをまじえて言った。

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卯平うへいは少すこし遠慮ゑんりよを交まじへていつた。

「どっちでもいいって、おなかがへっちゃ仕方があるまいな」

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「どつちでもえゝつて腹はら減へつちやしやうあんめえな」

おつぎは茶わんとはしをたなから下ろした。

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おつぎは茶碗ちやわんと箸はしとを棚たなから卸おろした。

「菜っぱのつけたのはどうしただろう」

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「菜なつ葉ぱの漬つけたなどうしたんべ」

おつぎはふり返って聞いた。

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おつぎは顧かへりみて聞きいた。

「おれは要らないや。歯が悪くなっちまってかめないから」

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「俺おら要いらねえや、齒は悪わるくなつちやつて噛かまんねえから」

「そんじゃ細かくきざんだらどうだろう」

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「そんぢや細こまかく刻きざんだらどうしたんべ」

おつぎはとんとんとほうちょうを使った。

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おつぎはとん/\と庖丁はうちやうを使つかつた。

「おしるがまあ、ちっとも実なんざないや。よき、お前がみんないもをすくっちまったな」

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「お汁つけまあ、ちつとも身みなんざねえや、よき汝われみんな芋いもすくつちやつたな」

おつぎはなべぶたを取って言った。

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おつぎは鍋葢なべぶたをとつていつた。

「おしるも何も要らないから、一ぱいかき込もう」

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「お汁つけも何なにも要いらねえから一杯ぺえ掻かつ込こんべ」

卯平はじれったそうに言った。

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卯平うへいは遲緩もどかし相さうにいつた。

「そんじゃ、このしょうゆをかけてみような」

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「そんぢや此この醤油しやうゆ掛かけてんべな」

おつぎは卯平の前におぜんを置いて、びんのしょうゆをつけ菜にかけた。

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おつぎは卯平うへいの前まへに膳ぜんを据すゑて罎びんの醤油しやうゆを菜漬なづけへ掛かけた。

「それ、底のほうへ回ってこぼれらあな」

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「それ、底そこの方はうへ廻まはつて零こぼれらな」

勘次はさっきから、怒ったようなはずかしがったような、なんだか落ち着きの悪い手持ちぶさたな顔をして、かえって自分をじっと見もしない卯平の目からそれるように、よそを見てはまたちらと卯平を見ていたが、このときおつぎの手元に口をはさんだ。

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勘次かんじは先刻さつきから、怒おこつたやうな羞はにかんだやうな、何なんだか落付おちつきの惡わるい手持てもちのない顏かほをして、却かへつて自分じぶんをば凝然ぢいつと見みもせぬ卯平うへいの目めから外それるやうに、餘所よそを見みては又またちらと卯平うへいを見みつゝあつたが此この時ときおつぎの手許てもとへ嘴くちばしを容いれた。

そのとき、しょうゆがごっと出てつけ菜がひたるほどになった。

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其その時とき醤油しやうゆがごつと出でて菜漬なづけが漂たゞよふばかりに成なつた。

「そうれ見ろ」

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「そうれ見みろ」

勘次はそっけなく言った。

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勘次かんじはそつけなくいつた。

おつぎがびんをまた柱のそばへ置くと

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おつぎが罎びんを再ふたゝび柱はしらの傍そばへ置おくと、

「まだそこでひっくり返しちゃ大変だぞ。戸だなへでも入れておけ」

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「まだ其處そこで引ひつくるけえしちや大變たえへんだぞ、戸棚とだなへでも入せえて置おけ」

勘次はまた注意した。

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勘次かんじは復また注意ちういした。

卯平は薬かんの湯を注いで、三ばいを食べた。

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卯平うへいは藥罐やくわんの湯ゆを注ついで三杯ばいを喫きつした。

わずかにしょうゆの味だけが、数年来の彼の舌にうまさを失わせなかったが、ひきわり麦の多いあらいごはんは、歯茎ではとてもかみくだけないので、ざらざらしたまま飲み下した。

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僅わづかに醤油しやうゆの味あぢのみが數年來すうねんらいの彼かれの舌したに好味かうみたるを失うしなはなかつたが、挽割麥ひきわりむぎの勝かつた粗剛こはい飯めしは齒齦はぐきが到底たうていそれを咀嚼そしやくし能あたはぬのでこそつぱい儘まゝに嚥のみ下くだした。

おつぎがおぜんを下げようとすると

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おつぎが膳ぜんを引ひかうとすると

「そのしょうゆは捨てないで、大事にしておけ」

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「其その醤油しやうゆは打棄うつちやらねえで大事でえじにして置おけ」

勘次は小皿の数てきをおしんだ。

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勘次かんじは小皿こざらの數滴すうてきを惜をしんだ。

「そんなこと言わなくたって、捨てる者もあるまいな」

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「其麽そんなこと云ゆはねえつたつて打棄うつちやるもなあんめえな」

おつぎは、口出しの多すぎる勘次の注意がいやだと思うよりも、久しぶりに会った卯平のそばで言われるのがきまり悪いので、喉の底でつぶやいた。

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おつぎは干渉かんせふに過すぎた勘次かんじの注意ちういが厭いやだと思おもふよりも、偶たま/\逢あつた卯平うへいの側そばでいはれるのが極きまりが惡わるいので喉のどの底そこで呟つぶやいた。

「姉ちゃん、もう一まいくれないか」

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「姊ねえ今いま一枚めえくんねえか」

与吉は流し場で手を動かしているおつぎに、とても小さな声でねだった。

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與吉よきちは流ながし元もとに手てを動うごかして居ゐるおつぎへ極きはめて小ちひさな聲こゑで請求せいきうした。

「お前は、さっきうまくないなんて言うもんじゃない。すぐほしくなるくせに」

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「汝わりや、そつから佳味うまかねえなんていふもんぢやねえ、直すぐ欲ほしくなる癖くせに」

おつぎはこっそりしかった。

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おつぎはこつそり叱しかつた。

「そうら、お前に買って来たんだ。ほしけりゃいくらでも持って行け」

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「そうら汝われげ買かつて來きたんだ、欲ほしけりや幾いくらでも持もつてけ」

卯平は不器用な言い方をしながら、せんべいを取ってやった。

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卯平うへいは不器用ぶきようないひ方かたをしながら煎餅せんべいをとつて遣やつた。

与吉はそれでも、くぼんだ目をしかめている卯平がまだこわくて、指の先で下くちびるを口の中へ押しこむようにしながら、ひたい越しに卯平を見た。

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與吉よきちはそれでも窪くぼんだ目めを蹙しがめて居ゐる卯平うへいがまだこそつぱくて指ゆびの先さきで下唇したくちびるを口くちの中なかへ押おし込こむやうにしながら額越ひたひごしに卯平うへいを見みた。

一七

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十七

次の朝、与吉はまだみんなのおぜんが置かれないうちから、学校へ行くといってさわいだ。

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次つぎの朝あさ與吉よきちはまだ皆みなの膳ぜんの据すゑられぬうちから學校がくかうへ行ゆくとては騷さわいだ。

村の生徒たちは、登校が早いことを先生からひと言でもほめられたいので、慌てなくてもいいのに、しるも煮立たないうちからせかすのである。

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村落むらの生徒等せいとらは登校とうかうの早はやいことを教師けうしから只たゞ一言ごんでも褒ほめられて見みたいので、慌あわてなくても善いいのに汁しるも煮立にたたぬうちから強請せがむのである。

与吉はこれで、毎朝おつぎからうるさがられていた。

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與吉よきちは此これで毎朝まいあさおつぎから五月蝿うるさがられて居ゐた。

与吉は風呂しき包みを背負って、おつぎにべんとうを包んでもらいながら

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與吉よきちは風呂敷包ふろしきづゝみを脊負せおつておつぎに辨當べんたうを包つゝんで貰もらひながら

「せんべいをくれないか」

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「煎餅せんべいくんねえか」

とねだった。

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と要求えいきうした。

「まだそんなこと。そんだからお前には見せられないというんだ。爺さんに怒られるから見ろ」

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「まださうだこと、そんだから汝われげは見みせらんねえつちんだ、爺ぢいに怒おこられつから見みろ」

おつぎはしかってふり返らなかった。

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おつぎは叱しかつて顧かへりみなかつた。

勘次はそのとき、外のかべぎわに積んだ木の根をぱかりぱかりと割っていた。

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勘次かんじは其その時とき外そとの壁際かべぎはに積つんだ木きの根ねをぱかり/\と割わつて居ゐた。

卯平は一日歩いたつかれがひどく出たようでもあるし、また自分の村へ帰ったので心がゆったりしたようでもあるし、それにこの数年は火の番のくせで朝はゆっくりしているのがふつうだったので、彼はそのとき、ふとんの中でじっと目を開いておつぎが働いているのを見ていたが

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卯平うへいは一日にち歩あるいた草臥くたびれが酷ひどく出でたやうでもあるし、又また自分じぶんの村落むらへ歸かへつたので心こゝろが悠長のんびりとした樣やうでもあるし、それに此この數年來すうねんらいは火ひの番ばんの癖くせで朝あさはゆつくりとして居ゐるのが例れいであつたので、彼かれは其その時とき蒲團ふとんの中なかに凝然ぢつと目めを開あいておつぎの働はたらいて居ゐるのを見みて居ゐたが

「ほしいというんなら出してやれ」

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「欲ほしいつちんだら出だして遣やれえ」

と彼は言った。

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彼かれはいつた。

おつぎは戸だなからせんべいを一まい出して、与吉にわたした。

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おつぎは戸棚とだなから煎餅せんべいを一枚まい出だして與吉よきちへ渡わたした。

与吉はすっとうばうようにして取った。

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與吉よきちはすつと奪うばふ樣やうにして取とつた。

「しらばくれて」

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「しらばつくれて」

おつぎは、ななめに背負った本の上から与吉をぱたとたたいた。

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おつぎは斜なゝめに脊負せおつた書藉しよせきの上うへから與吉よきちをぱたと叩たゝいた。

与吉は霜が白くおおった庭を、小さな下駄でからからと鳴らしながら、逃げるようにかけて行った。

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與吉よきちは霜しもの白しろく掩おほうた庭にはを小ちひさな下駄げたでから/\と鳴ならしながら遁にげるやうに駈かけて行いつた。

卯平はくぼんだ目をしかめて、一種の暖かな表情を見せて与吉の後ろすがたを見た。

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卯平うへいは窪くぼんだ目めを蹙しがめて一種しゆの暖あたゝかな表情へうじやうを示しめして與吉よきちの後姿うしろすがたを見みた。

勘次は割ったたきぎを草かりかごに入れて、かまどの前に置いて朝ごはんのおぜんに向かって、一ぱいを盛った。

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勘次かんじは割わつた薪まきを草刈籠くさかりかごへ入いれて竈かまどの前まへへ置おいて朝餉あさげの膳ぜんに向むかつて、一碗わんを盛もつた。

おつぎは気がついたように

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おつぎは氣きがついた樣やうに

「爺さんのことを起こそうか」

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「爺ぢいこと起おこすべか」

と言って、勘次が返事しないうちに

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といつて勘次かんじが返辭へんじせぬ内うちに

「爺さん、ごはんができたよ」

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「爺ぢい、お飯まんま出來できたよ」

と卯平を呼んだ。

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卯平うへいを喚よんだ。

「先にやってくれよ」

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「先さきやつてくろえ」

卯平はそう言って、しばらくしてからふとんを出て井戸ばたへ行った。

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卯平うへいはさういつて暫しばらく經たつてから蒲團ふとんを出でて井戸端ゐどばたへ行いつた。

卯平は何年ぶりかで、冷たい水で顔を洗った。

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卯平うへいは幾年目いくねんめかで冷つめたい水みづで顏かほを洗あらつた。

彼は近ごろにない早起きをしたので、霜の白い庭に立って、こわばった足のつま先が痛くなるほど冷たいのを感じた。

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彼かれは近來きんらいにない晨起はやおきをしたので、霜しもの白しろい庭にはに立たつて硬こはばつた足あしの爪先つまさきが痛いたくなる程ほど冷つめたいのを感かんじた。

火ばちのそばにすわってもたばこの火もないので、彼は自分でかまどの下の燃えさしを灰のまま取った。

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火鉢ひばちの側そばへ坐すわつても煙草たばこの火ひもないので彼かれは自分じぶんで竈かまどの下したの燃もえさしを灰はひの儘まゝとつた。

おつぎは勘次がたばこを吸わないので、ちょっとたばこの火を取ることにまでは気づかなかった。

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おつぎは勘次かんじが煙草たばこを吸すはないので一寸ちよつと煙草たばこの火ひをとることにまでは心附こゝろづかなかつた。

野田ではいつもかんかんと固い炭をおこして、湯はいくらでもわいて、夜でも部屋の中から火の気が絶えることはないのである。

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野田のだでは始終しじうかん/\と堅炭かたずみを熾おこして湯ゆは幾いくらでも沸たぎつて夜よるでも室内しつないに火氣くわきの去さることはないのである。

卯平はおくれてはしを取ったが、ごはんは暖かいというだけで、大きなかまでたいたようなほどよいやわらかさは保っていないし、しるもその舌にひどくざらついて、しかもまずかった。

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卯平うへいは後おくれて箸はしを執とつたが、飯めしは暖あたゝかいといふ迄までで大釜おほがまで炊たいた樣やうに程ほどよい軟やはらかさを保たもつては居ゐないし、汁しるも其その舌したに酷ひどくこそつぱく且かつ不味まづかつた。

彼は味噌には、量を増やすためにしょうゆかすがかき混ぜてあることを知った。

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彼かれは味噌みそには分量ぶんりやうを増ます爲ために醤油粕しやうゆかすが掻かき交まぜてあることを知しつた。

勘次はくわを取って立った。

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勘次かんじは鍬くはを執とつて立たつた。

彼は毎日くわを持って出ていたのだが、この日はおつぎを連れて麦畑の冬起こしに出るのだった。

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彼かれは毎日まいにち唐鍬たうぐはを持もつて出でて居ゐるのであつたが此この日ひはおつぎを連つれて麥畑むぎばたけの冬墾ふゆばりに出でるのであつた。

卯平は独り、ぽつんと残された。

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卯平うへいは獨ひとりで㷀然ぽさりと残のこされた。

丈夫な建物にほうきを入れて清潔に暮らして来た彼は、天井もない屋根裏からすすがたれて、そして雨戸を開けていないうす暗い家の中でじっとしていると、妙に心がしずんだ。

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丈夫ぢやうぶな建物たてものに箒はうきを入いれて清潔せいけつに住すんで來きた彼かれは天井てんじやうもない屋根裏やねうらから煤すゝが垂たれてさうして雨戸あまどを開あけてない薄闇うすくらい家いへの内うちに凝然ぢつとしては妙めうに心こゝろが滅入めいつた。

毎日朝から短いじゅばん一つで、熱い湯のおけを右の手で肩にささえてはかけ歩く、元気のいい若者にまじって歌の声を聞いていたのに、一つにはつかれも出たためでもあるが、わずか一日のちがいで、彼は急に年を取ったほどげっそりとやつれたような気持ちになった。

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毎日まいにち朝あさから尻切襦袢しりきりじゆばん一つで熱湯ねつたうの桶をけを右みぎの手てで肩かたに支さゝへては駈かけ歩あるく威勢ゐせいの善いい壯丁わかものの間あひだに交まじつて唄うたの聲こゑを聞きいて居ゐたのに、一つには草臥くたびれも出でた爲ためでもあるが僅わづか一日にちの隔へだてで彼かれは俄にはかに年齡としをとつた程ほどげつそりと窶やつれたやうな心持こゝろもちに成なつた。

みんなのふとんは、ただかべぎわに、はしをめくったまま押しつけてある。

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皆みなの夜具やぐは只たゞ壁際かべぎはに端はしを捲まくつた儘まゝで突つきつけてある。

卯平はそこをじっと見た。

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卯平うへいは其處そこを凝然ぢつと見みた。

箱まくらのくくりは紙で包んでないばかりでなく、生地のしま目も分からないほど汚くあぶらにしみている。

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箱枕はこまくらの括くゝりは紙かみで包つゝんでないばかりでなく、切地きれぢの縞目しまめも分わからぬ程ほど汚きたなく脂肪あぶらに染そまつて居ゐる。

土間のかべぎわにつるした竹かごのねぐらには、にわとりのふんがいっぱいにたまったと見えて、いやなにおいが鼻をついた。

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土間どまの壁際かべぎはに吊つつた竹籃たけかごの塒とやには鷄にはとりの糞ふんが一杯ぱいに溜たまつたと見みえて異臭いしうが鼻はなを衝ついた。

卯平は生まれつききれい好きだったが、百姓の暮らしをして、それにひどい貧しさからどうしても汚い物のあいだで寝起きしなければならないので、彼も野田へ行くまではそれを特に気にはしなかったのだが、たとえ何年でも清潔な暮らしをした彼は、生まれつきをさらに強めて一種のくせを身につけた。

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卯平うへいは天性ねが清潔好きれいずきであつたが、百姓ひやくしやうの生活せいくわつをして、それに非常ひじやうな貧乏びんばふから什麽どんなにしても穢きたない物ものの間あひだに起臥きぐわせねばならぬので彼かれも野田のだへ行ゆくまではそれをも別段べつだん苦くにはしなかつたのであるが、假令たとひ幾年いくねんでも清潔せいけつな住すまひをした彼かれは天性てんせいを助長じよちやうして一種しゆの習慣しふくわんを養やしなつた。

彼が家に帰ったのは、お品が死んだときも、それから三年目のお盆のときも、家はがらんと清潔になっていて、それほど汚い感じはしなかった。

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彼かれが家いへに歸かへつたのはお品しなが死しんだ時ときでも、それから三年目ねんめの盆ぼんの時ときでも家いへは空洞からりと清潔きれいに成なつて居ゐてそれほど汚穢むさい感かんじは與あたへられなかつた。

彼は今、強い暑い日を見上げた目をそらして、急に日かげをさがそうとする者のように、ひどく勝手がちがったのである。

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彼かれは今いま熾さかんな暑あつい日ひを仰あふいだ目めを放はなつて俄にはかに物陰ものかげを探さがさうとするものゝやうに酷ひどく勝手かつてが違ちがつたのである。

彼はしばらく好きなたばこにかかりきっていたが、やっと日が暖かくなりかけたので、まれに生き残っているむかしの仲間や近所へのあいさつかたがた、顔を出すつもりで外へ出た。

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彼かれは暫しばらく好すきな煙草たばこに屈託くつたくして居ゐたが漸やうやく日ひが暖あたゝかく成なり掛かけたので、稀まれに生存せいぞんして居ゐる往年わうねんの朋輩ほうばいや近所きんじよへの義理ぎりかた/″\顏かほを出だす積つもりで外そとへ出でた。

勘次とおつぎが昼ごはんに帰って来たとき、卯平はいなかった。

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勘次かんじとおつぎとが晝餐ひるに歸かへつて來きた時ときに卯平うへいは居ゐなかつた。

彼は夜になって、のっそりと戸口に立った。

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彼かれは夜よるに成なつてのつそりと戸口とぐちに立たつた。

勘次が庭へ出ようとして大戸をがらりと開けたとき、卯平とぶつかりそうになった。

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勘次かんじが庭にはへ出でようとして大戸おほどをがらりと開あけた時とき卯平うへいと衝突つきあたり相さうに成なつた。

勘次は足元にずるずると横たわったへびを見つけた瞬間のように、ぞっとして下がった。

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勘次かんじは足あしもとにずる/\と横よこたはつた蛇へびを見みつけた刹那せつなの如ごとく悚然ぞつとして退去すさつた。

卯平は欠けた歯茎できせるを横にかんでは、くちびるをぎっと閉めると、口がすすきで裂いたように見えた。

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卯平うへいは缺かけた齒齦はぐきで煙管きせるを横よこに噛かんでは脣くちびるをぎつと締しめると口くちが芒すゝきで裂さいた樣やうに見みえた。

年を取ってよけいにのっそりした卯平の体は、それでも以前のがっしりした骨組みがそびえて、そばにいる勘次を異様におさえつけた。

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老衰らうすゐしてから餘計よけいにのつそりした卯平うへいの身體からだは、それでも以前いぜんのがつしりした骨格ほねぐみが聳そびえて側そばに居ゐる勘次かんじを異樣いやうに壓あつした。

卯平は五、六日のあいだ、毎日ただぶらぶらと出ては、夕暮れ近くか、そうでなければ夜になって帰った。

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卯平うへいは五六日にちの間あひだ毎日まいにち唯たゞぶら/\と出でては黄昏近たそがれちかくかそれでなければ夜よるに成なつて歸かへつた。

勘次は毎日、くわを持って林へ出た。

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勘次かんじは毎日まいにち唐鍬たうぐは持もつて林はやしへ出でた。

おつぎは半纏を引っかけて、おはりの先生へ通った。

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おつぎは半纏はんてんを引掛ひつかけて針はりの師匠しゝやうへ通かよつた。

おつぎはもう何年という長いあいだのことではあるが、それでも決まった月日をつづけておはりにはげむゆとりがなく、やっと手についたかと思うととちゅうで切ったり止めたりするので、思うようには上達しなかった。

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おつぎはもう幾年いくねんといふ永ながい間あひだのことではあるが、それでも極きまつた月日つきひを繼續けいぞくして針仕事はりしごとを勵はげむ餘裕よゆうがなく漸やうやく手てについたかと思おもふと途中とちうを切きつたり止やめたりするので思おもふ樣やうな上達じやうたつはなかつた。

おつぎはひまをぬすんでは、いっしょうけんめいに針を取った。

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おつぎは暇ひまを偸ぬすんでは一生懸命しやうけんめいで針はりを執とつた。

卯平がのっそりとしてはしを持つのは、毎朝こせこせといそがしい勘次がわらじをはいて出ようとするときである。

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卯平うへいがのつそりとして箸はしを持もつのは毎朝まいあさこせ/\と忙いそがしい勘次かんじが草鞋わらぢを穿はいて出でようとする時ときである。

おつぎは卯平のために火ばちへ炭火をうめてやったり、おひつをそばへ置いたりするので、いくらか時間がおくれる。

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おつぎは卯平うへいの爲ために火鉢ひばちへ煨おきを活いけてやつたり、お鉢はちを側そばへ供そなへたりするので幾いくらか時間じかんが後おくれる。

すると勘次は、かついだくわをどさりと置いたり、しきいを出たり入ったり、ただもじもじとしていては、口に出せない何かをおさえるようなおそろしいけんまくでおつぎを見る。勘次はそれでも満足しないで、おつぎのすがたが戸口を出るまで庭に立っていることもある。

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さうすると勘次かんじは擔かついだ唐鍬たうぐはをどさりと置おいたり、閾しきゐを出でたり這入はひつたり、唯たゞ忸怩もぢ/\として居ゐては、口くちに出だせない或ある物ものを包つゝむやうな恐おそろしい權幕けんまくでおつぎを見みる、勘次かんじはそれでも慊あきたらないでおつぎの姿すがたが戸口とぐちを出でるまでは庭にはに立たつて居ゐることもある。

勘次は毎朝出て行く方角がちがうのに、同時に出て行くのを見なければ気が済まないのだった。

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勘次かんじは毎朝まいあさ出でて行ゆく方面はうめんが異ことなつて居ゐるにも拘かゝはらず、同時どうじに立たつて行ゆくのを見みなければ心こゝろが濟すまないのであつた。

毎朝そうするので

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毎朝まいあささうするので

「おとっつあんは行けな。爺さんのことを見てやらなくちゃなるまいな」

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「おとつゝあは行いけな、爺ぢいこと見みてやんなくつちや成なんめえな」

おつぎはこっそり勘次をたしなめて言うことがある。

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おつぎは竊ひそかに勘次かんじを窘たしなめていふことがある。

勘次はおそろしいけんまくでじっと立ったまま、おつぎをにらんで、そして卯平をちらと一目見ては、卯平の目を気にするようにして、さっさとくわをかついで出て行く。

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勘次かんじは恐おそろしい權幕けんまくで凝然ぢつと立たつた儘まゝおつぎを睨にらんでさうして卯平うへいをちらと一瞥べつしては、卯平うへいの目めを憚はゞかる樣やうにしてさつさと唐鍬たうぐはを擔かついで出でて行ゆく。

卯平は自分のためにおつぎがおそくなるときには

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卯平うへいは自分じぶんの爲ためにおつぎが遲おそく成なる時ときには

「おれは自分でやるから、お前はかまわないで行けよ」

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「俺おら自分じぶんでやつから汝わりや構かまあねえで行いけよ」

と、おつぎをせき立てた。

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おつぎを促うながし立たてた。

卯平は初めのうちはあちこちへ行っては、自分から求めなくても、しばらく会わなかった間がらで、短い日が落ちるのも知らずに話をしては、百姓なりのそまつなごちそうになるのだったが、だんだんおたがいに珍しくなくなってからは、彼はあまり外へも出ないで、ぽつんとして好きなたばこにばかりかかりきった。

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卯平うへいは當座たうざの内うちは其處そこら此處ここらへ行いつては自分じぶんからは求もとめないでも、暫しばらく遭あはなかつた間柄あひだがらで、短みじかい日ひの落おちるのも知しらずに噺はなしをしては百姓ひやくしやう相當さうたうな不味まづい馳走ちそうに成なるのであつたが、段々だん/\互たがひに珍めづらしくなくなつてからは彼かれは餘あまり外そとへも出でないで㷀然ぽつさりとして好すきな煙草たばこにのみ屈託くつたくした。

彼は昼ごはんというと、ことに冷たいあらいごはんをきらって、はしを取るのがつらいようでもあった。

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彼かれは晝飯ひるめしといふと殊ことに冷つめたい粗剛こはい飯めしを厭いとうて箸はしを執とるのが辛つらいやうでもあつた。

それで彼はときどき村の店へ行って、とうふ一丁くらいでおなかをふさいだ。

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其それで彼かれは時々とき/″\村落むらの店みせへ行いつて豆腐とうふの一丁位ちやうぐらゐに腹はらを塞ふさげた。

皿のとうふをすみからはしでちぎってみては、あまりに冷たいので、腰の痛みを思い出して小さななべを借りて温めた。

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皿さらの豆腐とうふを隅すみから箸はしで拗切ちぎつて見みては餘あまりに冷つめたいので、腰こしの痛いたみを思おもひ出だして小ちひさな鍋なべを借かりて暖あたゝめた。

そしてはつい一ぱいのお酒がほしくなって、そこでむっつりと時間をつぶした。

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さうしては遂つひ一杯ぱいの酒さけが欲ほしくなつて其處そこでむつゝりと時間じかんを潰つぶした。

とうふは彼の歯茎に、いちばん合った食べ物だった。

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豆腐とうふは彼かれの齒齦はぐきに最もつとも適當てきたうした食料しよくれうであつた。

卯平は体が悪くなってからわずかのあいだでも覚ごをしたので、いくらかさいふにたくわえができていた。

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卯平うへいは身體からだが惡わるく成なつてから僅わづかの間あひだでも覺悟かくごをしたので幾いくらでも財布さいふには蓄たくはへが出來できて居ゐた。

彼はどれほどせつやくしても、ついにじりじりとへって行くだけのさいふにすがって、すすきで裂いたように閉じたその口で、何でもかみ殺しているのだというようすをして、その日その日を刻んで過ごした。

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彼かれは何程なにほど節約せつやくしても遂つひにじり/\と減へつて行ゆくのみである財布さいふに縋すがつて、芒すゝきで裂さいた樣やうに閉とぢた其その口くちに何なんでも噛かみ殺ころして居ゐるのだといふ容子やうすをして其その日ひ々々と刻きざんで過すごした。

彼は一日じっとして、冷たい火ばちの前にあぐらをかいていることもあった。

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彼かれは一日にち凝然ぢつとして冷つめたい火鉢ひばちの前まへに胡坐あぐらを掻かいて居ゐることもあつた

与吉は学校から帰って、しんとした家にただ卯平がむっつりとしているのを見ると、元気よくかけて来たのもしょげて、風呂しき包みの本をばたりと座敷へ投げて、庭へ出てしまう。

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與吉よきちは學校がくかうから歸かへつてひつそりとした家いへに只たゞ卯平うへいがむつゝりとして居ゐるのを見みると威勢ゐせいよく駈かけて來きたのも悄しよげて風呂敷包ふろしきづゝみの書籍しよせきをばたりと座敷ざしきへ投なげて庭にはへ出でて畢しまふ。

卯平は

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卯平うへいは

「よき、待ってろ、そら」

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「よき、待まつてろ、そら」

と、さいふから苦労して五厘の銅貨を拾い出して投げてやる。

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と財布さいふから面倒めんだうに五厘りんの銅貨どうくわを拾ひろひ出だして投なげてやる。

与吉は戸のかげにいては、もじもじしてなかなか取らないで、それでいてほしそうにむしろの上の銅貨を見る。

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與吉よきちは戸との陰かげに居ゐては忸怩もぢ/\して容易よういに取とらないで然しかも欲ほし相さうに筵むしろの上うへの銅貨どうくわを見みる。

卯平はそうすると、またのっそりとだるそうに体を戸口まで運んで、与吉の手にわたしてやる。

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卯平うへいはさうすると又またのつそりと懶ものうげに身體からだを戸口とぐちまで動うごかして與吉よきちの手てに渡わたしてやる。

与吉は一気にかけて、菓子を買いに行く。

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與吉よきちは一散さんに駈かけて菓子くわしを求もとめに行ゆく。

卯平のくぼんだ茶色の目が、後で独りしかめたようになるのである。

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卯平うへいの窪くぼんだ茶色ちやいろの眼めが後あとで獨ひとり蹙しがんだやうに成なるのである。

卯平が村の店にだるい体を置いてたばこをふかしている所へ、与吉が行き合わせることがあっても、遠くのほうから卯平を見ていて、近づきもしないが去ろうともしないでいる。

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卯平うへいが村落むらの店みせに懶ものうい身體からだを据すゑて煙草たばこを吹ふかして居ゐる處ところへ與吉よきちは行合いきあはせることがあつても遠とほくの方はうから卯平うへいを見みて居ゐて、近ちかづきもしないが去さらうともしないで居ゐる。

卯平は必ずガラス戸を開けて、店の台から自分で菓子を取ってやる。

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卯平うへいは屹度きつとガラス戸どを立たてて店臺みせだいから自分じぶんで菓子くわしをとつてやる。

それでも与吉は、菓子をかじりながらそばへは寄ろうともしなかった。

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それでも與吉よきちは菓子くわしを噛かぢりながら側そばへは寄よらうともしなかつた。

「与吉らはたいしたもんだな、いつももらって」

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「與吉よきちらたえしたもんだな、始終とほしてもらつてな」

店の女房が言うのを聞くのは、与吉よりもむしろ卯平が心に満足を感じるのだった。

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店みせの女房にようばうがいふのを聞きくのは與吉よきちよりも寧むしろ卯平うへいが心こゝろに滿足まんぞくを感かんずるのであつた。

しかし与吉はこうしてだんだん卯平に近づいて、学校から帰ったといっては

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然しかし與吉よきちは恁かうして段々だん/\卯平うへいに近ちかづいて學校がくかうから歸かへつたといつては

「爺さん」

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「爺ぢい」

と言って戸口に立つようになった。

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といつて戸口とぐちに立たつやうに成なつた。

ついには彼は

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遂つひには彼かれは

「爺さん、くれないか」

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「爺ぢいくんねえか」

と、上がりがまちに胸をもたせて、ばたばたと下駄で土間をたたきながら、卯平にお金をねだるようになった。

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と上あがり框がまちに胸むねを持もたせて、ばた/\と下駄げたで土間どまを叩たゝきながら卯平うへいに錢ぜにを請こふやうに成なつた。

それでも彼は、お金とははっきりとは言わない。

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それでも彼かれは錢ぜにとは明白地あからさまにはいはない。

「お前は、何をくれというんだい」

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「汝わりや、何なにくろつちんでえ」

むっつりした卯平がわざとこう聞くと

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むつゝりした卯平うへいが態わざとかう聞きくと

「くれないか、買うんだから」

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「呉くんねえか、買かあんだから」

与吉はまたぼんやりと、しかしいっしんに求める。

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與吉よきちは又またぼんやりと然しかも熱心ねつしんに要求えうきうする。

その態度を卯平は、ただ心地よく思うのだった。

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其その態度たいどを卯平うへいは只たゞ快こゝろよく思おもふのであつた。

与吉がなつくまでには、日数がかかった。

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與吉よきちが懷なづくまでには日數ひかずが經たつた。

卯平は勘次との仲は思ったとおり冷たかったが、ちょうど落ち着かない藁くずを足でかき払ってはにわとりがとうとうその巣を作るように、彼はおたがいに気づまりな勘次のそばに、いくらかずつでも身も心も落ち着かせるよりほかなかった。

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卯平うへいは勘次かんじとの間あひだは豫期よきして居ゐた如ごとく冷ひやゝがではあつたが、丁度ちやうど落付おちつかない藁屑わらくづを足あしで掻かつ拂ぱいては鷄にはとりが到頭たうとう其その巣すを作つくるやうに、彼かれは互たがひにこそつぱい勘次かんじの側そばに幾分いくぶんづゝでも身みも心こゝろも落付おちつけねばならなく餘儀よぎなくされた。

そして彼は、自分の決まった家そのものはたとえどうであろうとも、心の一部にはえんりょからはなれたゆとりができて来て、彼はわずか五、六日と思ううちに三十日以上を過ごしてしまったのだった。

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さうして彼かれは自分じぶんの定さだまつた家いへ其その物ものは假令たとひどうであらうとも、心こゝろの一部ぶには遠慮ゑんりよから離はなれた餘裕よゆうが生しやうじて來きて彼かれは僅わづかに五六日にちと思おもふ内うちに卅日にち以上いじやうを經過けいくわして畢しまつたのであつた。

そのあいだ、彼はただの一度もやわらかなごはんを気持ちよく飲み下したことがない。働く人がたくさん食べなければならない丈夫な胃は、とてもやわらかい物ではもたないのである。

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其その間あひだ彼かれは只たゞの一度どでも軟やはらかな飯めしを快こゝろよく嚥のみ下くだしたことがない、勞働者らうどうしやの多おほく貪むさぼらねばならぬ強健きやうけんなる胃ゐは到底たうてい軟やはらかな物ものに堪たへ得うる處ところではない。

歯にかたく感じる物でなければ、食事から食事までのあいだをもたせられないほど、たちまちおなかがすいてしまうからである。

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齒はに硬こはく感かんずる物ものでなければ食事しよくじから食事しよくじまでの間あひだを保たもち能あたはぬ程ほど忽たちまちに空腹くうふくを感かんじて畢しまふからである。

だから、どこの家でも、年老いた者と若い者とのあいだには、この点の折り合いがむずかしい。

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隨したがつて孰いづれの家庭かていに在あつても老者らうしやと壯者さうしやとの間あひだには此この點てんの調和てうわが難事なんじである。

しかし卯平は、年老いた身をやっとのことであずけた心の底にわだかまるえんりょと、生まれつきの無口とで、自分から求めることは少しもなかった。

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然しかし卯平うへいは老衰らうすゐの身みを漸やうやくのことで投なげ掛かけた心こゝろの底そこに蟠わだかまつた遠慮ゑんりよと性來せいらいの寡言むくちとで、自分じぶんから要求えうきうすることは寸毫すんがうもなかつた。

彼はただおなかをすかせないために、日ごとにまずい口をむりに動かしているのである。

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彼かれは只たゞ空腹くうふくを凌しのぐ爲ために日毎ひごとに不味まづい口くちを強しひて動うごかしつゝあるのである。

そまつな食べ物は、小さいころからおつぎの目にも口にもなじんでいるので、そこには何も気がつかなかった。

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疎惡そあくな食料しよくれうは少時せうじからおつぎの目めにも口くちにも熟じゆくして居ゐるので、其處そこには何なんの心こゝろも附つかなかつた。

まずそうなようすではしを取るのは、卯平がいつもそうなので、おつぎの目には特に気づかせるきっかけが一つもなかった。

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不味相まづさうな容子ようすをして箸はしを執とるのは卯平うへいが凡すべての場合ばあひを通つうじての状態じやうたいなので、おつぎの目めには格別かくべつの注意ちういを起おこさしむべき動機どうきが一ひとつも捉とらへられなかつた。

こうしておつぎは卯平に向かって、彼がいくらかでもよけいに満足できる程度にまで心をつくすことが、よい気持ちからであっても、むしろ冷たいように見えてしまうのだった。

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恁かうしておつぎは卯平うへいに向むかつて彼かれが幾分いくぶんづゝでも餘計よけいに滿足まんぞくし得うる程度ていどにまで心こゝろを竭つくすことが、善意ぜんいを以もつてしても寧むしろ冷淡れいたんであるが如ごとく見みえねばならなかつた。

しかし卯平は、けっして心の底からおつぎをにくまなかった。

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然しかし卯平うへいは決けつして衷心ちうしんからおつぎを憎にくまなかつた。

卯平はときどき外へ出てはとうふを食べて、自分のおぜんのはしを取らないことはあったのだが、それでも勘次は、三人だけが家族だったころよりも穀物のへる量が増えて来たことを、たちまち目に止めた。

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卯平うへいは時々とき/″\外そとへ出でては豆腐とうふを喫きつして自分じぶんの膳ぜんの箸はしを執とらぬことはあるのであつたが、それでも勘次かんじは三人にんのみが家族かぞくであつた時ときよりも穀物こくもつの減少げんせうする量りやうが殖ふえて來きたことを忽たちまちに目めに止とめた。

どれほど大きな体でも、卯平は八十に近い年寄りである。

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何どれ程ほど大おほきな身體からだでも卯平うへいは八十に近ちかい老衰者らうすゐしやである。

一日の食べ物がどれほど要るか、それは知れたものである。

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一日いちにちの食料しよくれうがどれ程ほど要いるかそれは知しれたものである。

それでも勘次は、これまでよりよけいに使わなければならない穀物のことで、その卑しい心がどうしてもさわがずにいられなかった。

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それでも勘次かんじは從來これまでよりも餘計よけいに費つひやさねばならぬ穀物こくもつに就ついて彼かれの淺猿さもしい心こゝろが到底たうてい騷さわがされねばならなかつた。

勘次は卯平のいないときには、それとなく独りぶつぶつとつぶやくことがあった。

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勘次かんじは卯平うへいの居ゐぬ時ときにはそれとはなく獨ひとりぶつ/\と呟つぶやくことがあつた。

与吉はそれを聞いていた。

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與吉よきちはそれを聞きいて居ゐた。

彼は、火ばちの前にじっとしていては座敷へ上がるにわとりをしいしいと追いながら、むっつりとしている卯平に小さな銅貨をもらっては、それを口へ入れたり座敷へ落としたりしながら、卯平にいろいろなことをしゃべって聞かせた。

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彼かれは、火鉢ひばちの前まへに凝然ぢつとして居ゐては座敷ざしきへ上あがる鷄にはとりをしい/\と逐おひつつむつゝりとして居ゐる卯平うへいに小ちひさな銅貨どうくわを貰もらつては、それを口くちへ入いれたり座敷ざしきへ落おとしたりしながら卯平うへいへ種々いろ/\なことを饒舌しやべつて聞きかせた。

「爺さん」

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「爺ぢい」

と呼びかけて、彼はある日こう言った。

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と喚よび掛かけて彼かれは或ある日ひ斯かういつた。

「爺さんが来てから米がずいぶんへって仕方がないって言ったぞう」

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「爺ぢい來きてから米こめしつかり減へつてしやうねえつて云ゆつたぞう」

「うん」

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「うむ」

卯平は口にくわえたきせるをゆっくり手に取って

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卯平うへいは口くちに銜くはへた煙管きせるを徐おもむろに手てに取とつて

「おとっつあんでもあるだろう」

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「おとつゝあでもあんべ」

卯平はげっそりと言った。

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卯平うへいはげつそりといつた。

「おとっつあんが、何度も言ったんだわ」

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「おとつゝあ、何遍なんべんも云ゆつたんだわ」

卯平はまたきせるをかんで、手が少しふるえた。

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卯平うへいは又また煙管きせるを噛かんで手てが少すこし顫ふるへた。

「言うだろうさ」

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「云ゆはざらに」

と卯平は、じっと目をしかめながら、少しこわれたかべの一方をにらんで言った。

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と卯平うへいは凝然ぢつと目めを蹙しかめつゝ少すこし壤こはれた壁かべの一方ぱうを睨ねめつゝいつた。

霜どけの庭をかき回していたにわとりが、くるりと指を丸めては足を上げて、おどろいたようにまわりを見て、また足をふみつけふみつけのっそり歩いて、戸口のしきいへしばらく乗って、ずっとのばした首を少しかたむけて卯平を見て、ついと座敷へ上がった。

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霜解しもどけの庭にはを掻かき立たてゝ居ゐた鷄とりがくるりと指ゆびを捲まいては足あしを擧あげて驚おどろいた樣やうに周圍あたりを見みて、又また足あしを踏ふみつけ/\のつそり歩あるいて戸口とぐちの閾しきゐへ暫しばらく乘のつてずつと延のばした首くびを少すこし傾かたむけて卯平うへいを見みてついと座敷ざしきへ立たつた。

卯平はいきなりきせるをたたきつけた。

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卯平うへいはいきなり煙管きせるを叩たゝきつけた。

にわとりは慌てて座敷のむしろにどろを落として、しきいの外に足を突き出したまましばらくころがっていたが、ついにはよろけよろけ鳴きさわぎながら、遠くへ逃げた。

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鷄とりは慌あわてゝ座敷ざしきの筵むしろへ泥どろを落おとして閾しきゐの外そとに脚あしを突つき出だした儘まゝ暫しばらく轉ころがつて居ゐたが、遂つひには蹌跟よろけ/\鳴なき騷さわぎつゝ遠とほく遁にげた。

白い毛がぬけて、そこらじゅうにたくさん散らばった。

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白しろい毛けが拔ぬけて其處そこら中ぢうに夥おびたゞしく散亂さんらんした。

きせるはにわとりから、さらに強く戸口のしきいを打って、庭の土に止まった。

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煙管きせるは鷄とりから更さらに強つよく戸口とぐちの閾しきゐを打うつて庭にはの土つちに止とまつた。

「爺さん、取ってやろうか」

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「爺ぢいとつてやんべか」

しばらくして、与吉は卯平の顔をのぞくようにして言った。

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暫しばらくして與吉よきちは卯平うへいの顏かほを覗のぞくやうにしていつた。

「よこせ」

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「よこせ」

卯平はしばらくしてから、むっつりとして舌を鳴らしながら言った。

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卯平うへいは暫しばらく經たつてからむつゝりとして舌したを鳴ならしながらいつた。

「さあ」

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「さあ」

与吉が出したきせるを、卯平はふきもせずに口へくわえた。

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與吉よきちの出だした煙管きせるを卯平うへいは拭ふきもせずに口くちへ銜くはへた。

しばらくしてから、卯平はにがい顔をしてじゅりじゅりと、ざらついた口のどろをぴょっとはき出して、それから口を着物でこすった。

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暫しばらくしてから卯平うへいは苦にがい顏かほをしてぢより/\とこそつぱい口くちの泥どろをぴよつと吐はき出だしてそれから口くちを衣物きものでこすつた。

彼はまたたばこを吸おうとして、羅宇にひびが入ったのを知った。

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彼かれは又また煙草たばこを吸すひつけようとしては羅宇らうに罅ひゞが入いつたのを知しつた。

彼はくたくたになった紙をたもとからさぐり出して、それをつばでぬらして、とても面倒そうにぐるぐるとそのひびを巻いた。

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彼かれはくた/\に成なつた紙かみを袂たもとから探さぐり出だしてそれを睡つばで濡ぬらして極きはめて面倒めんだうにぐる/\と其その罅ひゞを捲まいた。

卯平はそれからふいと出て、夜まで帰らなかった。

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卯平うへいはそれからふいと出でて夜よるまで歸かへらなかつた。

勘次はにわとりのぬけ毛を見て、いたちが出たのではないかという心配をして、そこらじゅうをくまなく見た。

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勘次かんじは鷄とりの拔毛ぬけげを見みて鼬いたちが出でたのではないかといふ懸念けねんを懷いだいて其處そこら中ぢうを隈くまなく見みた。

にわとりはほかのにわとりがみなねぐらについても帰らなかった。

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鷄とりは他ほかの鷄とりが悉こと/″\く塒とやに就ついても歸かへらなかつた。

いたちは一羽殺せば必ずまたほかもおそうので、勘次は少なからず心をさわがせたのだった。

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鼬いたちは一羽は殺ころせば必かならず復また他ほかを襲おそふので勘次かんじは少すくなからず其その心こゝろを騷さわがしたのであつた。

「爺さんがぶっとばしたんだわ」

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「爺ぢい打ぶつとばしたんだわ」

与吉は勘次に言った。

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與吉よきちは勘次かんじへいつた。

「どうしてだ」

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「どうしてだ」

勘次はおどろいた目を見開いて、慌てて聞いた。

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勘次かんじは驚おどろいた眼めを睜みはつて慌あわてゝ聞きいた。

「座敷へ上がったら、きせるをぶつけたんだ。そんでおれがきせるを取ってやったんだ」

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「座敷ざしきへ上あがつたら煙管きせる打ぶつゝけたんだ。そんで俺おれ煙管きせるとつてやつたんだ」

勘次はえさをまいて、にわとりを集めてみた。

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勘次かんじは餌料ゑさを撒まいて鷄とりを聚あつめて見みた。

いったんねぐらについたにわとりが、えさを見てはみなかごからばさばさと飛び下りて、こっこっと鳴きながらつめでかき払いかき払い、争ってついばんだ。

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一旦たん塒とやに就ついた鷄とりが餌料ゑさを見みてはみんな籃かごからばさ/\と飛とびおりてこツこツと鳴なきながら爪つめで掻かつ拂ぱき/\爭あらそうて啄つゝいた。

勘次はついに、にわとりの数が足りないことを確かめないわけにはいかなかった。

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勘次かんじは遂つひに鷄とりの數かずの不足ふそくして居ゐることを確たしかめざるを得えなかつた。

卯平はいつものようにとうふでコップ酒を飲んで来て、晩ごはんをほしがらなかった。

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卯平うへいは例れいの如ごとく豆腐とうふでコツプ酒ざけを傾かたむけて來きて晩餐ばんさんを欲ほつしなかつた。

彼のしわ深く刻んだほおに、ほんのりと赤みがさしていた。

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彼かれの皺しわ深ふかく刻きざんだ頬ほゝにほんのりと赤味あかみを帶おびて居ゐた。

彼は火ばちの前にあぐらをかいたまま、一言も言わない。

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彼かれは火鉢ひばちの前まへに胡坐あぐらを掻かいた儘まゝ一言ごんもいはない。

おつぎが甘えた口ぶりで言っても、返事もしなかった。

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おつぎが甘あまえた舌したでいつても返辭へんじもしなかつた。

勘次も卯平のそばを下がって、ただおそろしくひがんだようすをしていた。

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勘次かんじも卯平うへいの側そばを退去すさつて只たゞ恐おそろしく僻ひがんだ容子ようすをして居ゐた。

おつぎもついに言わなかった。

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おつぎも遂つひにいはなかつた。

与吉はただ、ぐっすりとねむっていた。

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與吉よきちは只たゞぐつすりと眠ねむつて居ゐた。

こわがってじっと物かげにかくれていたにわとりは、次の朝やっとほかのにわとりの群れにまじって歩いたけれど、いくらかまだ足を引きずっていた。

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驚怖きやうふの餘あまり物陰ものかげに凝然ぢつと潜伏せんぷくして居ゐた鷄とりは次つぎの朝あさ漸やうやく他たの鷄とりの群むれに交まじつて歩あるいたけれど幾いくらかまだ跛足びつこ曳ひいて居ゐた。

勘次はわざと卯平に見せつけるように、その夜ねぐらについたとき、そのにわとりをかごに伏せて、戸口の庭ぶたの上に三日も四日も置いたのだった。

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勘次かんじは態わざと卯平うへいへ見みせつける樣やうに其その夜よ塒とやに就ついた時とき其その鷄とりを籠かごに伏ふせて、戸口とぐちの庭葢にはぶたの上うへに三日かも四日かも置おいたのであつた。

卯平は巻きつけた紙にヤニのしみたきせるをじゅうじゅうと鳴らしながら、むずかしい顔がしばらく直らなかった。

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卯平うへいは捲まきつけた紙かみへ煙脂やにの浸しみた煙管きせるをぢう/\と鳴ならしながら難むづかしい顏かほが暫しばらく解とけなかつた。

卯平はきれい好きなので、むっつりとしながら独りでいるときには、草ぼうきで土間ののきの下をはいては、にわとりが足のつめでかき乱した庭ぶたのまわりもはいておいた。

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卯平うへいは清潔好きれいずきなのでむつゝりとしながら獨ひとりで居ゐる時ときには草箒くさばうきで土間どまの軒のきの下したを掃はいては鷄とりが足あしの爪つめで掻かき亂みだした庭葢にはぶたの周圍あたりをも掃はきつけて置おいた。

彼は座敷の中もそうじをして、毎朝ふとんをきちんとかたづけるように、無口な口からおつぎに言いつけた。

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彼かれは座敷ざしきの内うちも掃除さうぢをして毎朝まいあさ蒲團ふとんを整然ちやんと始末しまつする樣やうに寡言むくちな口くちからおつぎに吩咐いひつけた。

清潔になることは勘次も悪いこととは思わなかったが、いくらもない家財道具へ少しでも手をかけられるのが、ふところでもさぐられるように、勘次にはなんとなく不安な気持ちが起こるのだった。

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清潔きれいに成なることは勘次かんじも惡わるいことには思おもはなかつたが、幾いくらもない家財道具かざいだうぐへ少すこしでも手てを掛かけられるのが懷ふところでも探さぐられる樣やうに勘次かんじには何なんとなく不安ふあんの念ねんが起おこされるのであつた。

勘次の目には、卯平がよく村の店に行くのは、ぜいたくな年寄りだというように、ひがんで見えるところもあった。

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勘次かんじの目めには卯平うへいが能よく村落むらの店みせに行ゆくのは贅澤ぜいたくな老人としよりである樣やうに僻ひがんで見みえる廉かどもあつた。

ただそうしているあいだに旧れきの年末が近づいて、どの家でも小麦やそばの粉をひいた。

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只たゞさうして居ゐる間うちに舊暦きうれきの年末ねんまつが近ちかづいて何處どこの家うちでも小麥こむぎや蕎麥そばの粉こを挽ひいた。

卯平はときどきは、東どなりの門もくぐった。

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卯平うへいは時々とき/″\は東隣ひがしとなりの門もんをも潜くゞつた。

主人夫婦は、丈夫だといってもやつれた卯平を見るとあわれになって

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主人夫婦しゆじんふうふは丈夫ぢやうぶだといつても窶やつれた卯平うへいを見みると憐あはれになつて

「体はどうしたね」

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「身體からだはどうしたえ」

とよく聞いた。

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と能よく聞きいた。

「ええ、今の分じゃ、そんなに悪いということもないが」

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「えゝ、今分いまぶんぢや、さうだに惡わりいつちこともねえが」

と、卯平はいつもはっきりしない言い方をして、それを聞かれることをさすがに心の中でよろこんで、くぼんだ目をしかめるようにした。

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と卯平うへいはいつも煮にえ切きらぬいひ方かたをして、其それを聞きかれることを有繋さすがに心こゝろの内うちに悦よろこんで窪くぼんだ目めを蹙しかめる樣やうにした。

「それでも勘次はよくしてくれるかえ」

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「それでも勘次かんじは能よくするかえ」

おかみさんが聞けば

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内儀かみさんが聞きけば

「ありゃもう、以前からああ言うんだから」

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「ありや、はあ、以前めえかたつからあゝゆんだから」

卯平はぶすりと言うのである。

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卯平うへいはぶすりといふのである。

「おつぎはどうだね」

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「おつぎはどうだえ」

「ありゃあそれ、勘次とはちがうから。何と言ってもさすがに、赤んぼうのときからのだから」

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「ありやあそれ、勘次かんじたあ違ちがあから、何なんちつても有繋まさか赤あかん坊ばうん時ときつからのがだから」

「粉ひきはたくさんしたようすかえ、それでも」

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「節挽せちびきはたんとした容子ようすかえそれでも」

「ええ、おつうのことを連れて行って、南の家でひくのはひいたようだが、おけへ入れたままふたをしたきりしまっておくから、わしはどれくらいあるもんだか見もしないが」

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「えゝ、おつうこと連つれてつて、南みなみで挽ひくなあ挽ひいたやうだが、桶をけさ入せえた儘まゝで蓋ふたしたつ切きり藏しまつて置おくから、わしやどのつ位くれえあるもんだか見みもしねえが」

「勘次はやわらかい物でも少しはこしらえてくれるかね」

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「勘次かんじは軟やはらかい物ものでも少すこしは拵こしらえてくれるかね」

「ええ、毎日いっしょに食べちゃいるんだが、なあに、歯さえ丈夫ならあらくたってかまいやしないが」

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「えゝ、毎日まいんち同士どうしにたべちや居ゐんだがなあに齒はせえ丈夫ぢやうぶなら粗剛こうえつたつて管かまやしねえが」

「それじゃそば粉でも少しやろうかね。そばがきでもこしらえて食べたほうがいいよ。そばに打っちゃ冷えるが、そばがきは暖まるというからね」

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「それぢや蕎麥粉そばこでも少すこし遣やらうかね蕎麥掻そばがきでも拵こしらへてたべた方はうが善いいよ、蕎麥そばに打うつちや冷ひえるが蕎麥掻そばがきは暖あつたまるといふからね」

おかみさんは木綿で作ったふくろへそば粉を二しょうばかり入れて

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内儀かみさんは木綿もめんで作つくつた袋ふくろへ蕎麥粉そばこを二升しやうばかり入いれて

「勘次も苦労してるから、それでも今に暮らしもだんだんよくなるだろうから、そうすりゃ悪くばかりもしないよ。どうもむかしから性が合わないんだからね。まあ年を取ったら仕方がないからがまんしているんだよ。あまりひどけりゃ他人がだまって見ちゃいないから。それだが勘次も、さすがにそれほどでもないんだろうしね」

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「勘次かんじも泣なきだから、それでも今いまに生計くらしもだん/\善よくなんだらうから、さうすりや惡わるくばかりもすまいよ、どうも昔むかしから合性あひしやうが惡わるいんだからね、まあ年齡としとつたら仕方しかたがないから我慢がまんして居ゐるんだよ、餘あんまり酷ひどけりや他人ひとが共々とも/″\見みちや居ゐないから、それだが勘次かんじも有繋まさかそれ程ほどでもないんだらうしね」

おかみさんはなぐさめて言った。

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内儀かみさんは慰なぐさめていつた。

卯平はそば粉を大事にして、勘次が開こんに出た後で、薬かんの湯をわかしてはそばがきをこしらえて食べた。

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卯平うへいは蕎麥粉そばこを大事だいじにして、勘次かんじが開墾かいこんに出でた後あとで藥罐やくわんの湯ゆを沸わかしては蕎麥掻そばがきを拵こしらへてたべた。

そのころは、彼が提げて来た二びんのしょうゆはもうなくなっていた。

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其その頃ころは彼かれの提さげて來きた二罎びんの醤油しやうゆはもう無なくなつて居ゐた。

彼はそのへって行くのを、特におしいとは思わなかったが、しかし彼は、自分がいるうちはなかなかびんの量がへらないのに、一日よそへ行っていた日はめっきり少なくなっているのを、あるときふと見つけて、少し不快に、そして変に思っていた。

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彼かれは其その減へつて行ゆくのを更さらに惜おしいとは思おもはなかつたが、然しかし彼かれは自分じぶんが居ゐる内うちは容易よういに罎びんの分量ぶんりやうが減へらないのに、一日にち餘處よそへ行いつて居ゐた日ひは滅切めつきりと少すくなくなつて居ゐるのを或ある時ときふと發見はつけんして少すこし不快ふくわいに且かつ變へんに思おもひつゝあつた。

縄でくくった別のびんの底のほうに、しょうゆが少しあった。

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繩なはで括くゝつた別べつの罎びんの底そこの方はうに醤油しやうゆが少すこしあつた。

卯平はそれでもそれを見つけて、やっとそばがきの味をおぎなった。

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卯平うへいはそれでも其それを見みつけて漸やうやく蕎麥掻そばがきの味あぢを補おぎなつた。

びんの底に残ったしょうゆはいちばんのしょうゆかすで仕込んだ安物で、塩からい味が舌をさすばかりでなく、にがみさえ加わっている。

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罎びんの底そこになつた醤油しやうゆは一番ばんの醤油粕しやうゆかすで造つくり込こんだ安物やすもので、鹽しほの辛からい味あぢが舌したを刺戟しげきするばかりでなく、苦味にがみさへ加くははつて居ゐる。

彼らはふだんそういうしょうゆでもめったに使わないので、たくさん買うときでも十銭をこえないのである。

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彼等かれらは平生へいぜいさういふ醤油しやうゆでも滅多めつたに用もちゐないので多量たりやうに求もとめる時ときでも十錢せんを越こえないのである。

むかしの卯平であれば、そういう味がふつうで、しかもうまく感じるはずなのだが、ここ数年うまいしょうゆをおしげもなく使って来た口には、おそろしいまずさを感じずにはいられなかった。

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以前いぜんの卯平うへいであればさういふ味あぢが普通ふつうで且かつ佳味うまく感かんずる筈はずなのであるが、數年來すうねんらい佳味うまい醤油しやうゆを惜氣をしげもなく使用しようして來きた口くちには恐おそろしい不味まづさを感かんぜずには居ゐられなかつた。

それでもそばがきは、体が暖まるようで気持ちよかった。

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それでも蕎麥掻そばがきは身體からだが暖あたゝまる樣やうで快こゝろよかつた。

彼は食べた後の茶わんへわいた湯を注いで、はしで茶わんの内側を落として、そのままたなへ置いた。

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彼かれはたべた後あとの茶碗ちやわんへ沸たぎつた湯ゆを注ついで箸はしで茶碗ちやわんの内側うちがはを落おとして其その儘まゝ棚たなへ置おいた。

そしては彼は、毎日の仕事のように外へ出た。

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さうしては彼かれは毎日まいにちの仕事しごとのやうに外そとへ出でた。

勘次は一日の仕事を終えて帰って来ては、目ざとく卯平の茶わんを見てふしぎに思って、おけのふたを取ってみた。

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勘次かんじは一日にちの仕事しごとを畢をへて歸かへつて來きては目敏めざとく卯平うへいの茶碗ちやわんを見みて不審ふしんに思おもつて桶をけの蓋ふたをとつて見みた。

ついに彼は、卯平のふくろを見つけた。

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遂つひに彼かれは卯平うへいの袋ふくろを發見はつけんした。

「おつう、お前がこのそば粉を出してやったのか」

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「おつう、汝われ此この蕎麥そばつ粉こな出だして遣やつたのか」

勘次はおつぎに聞いた。

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勘次かんじはおつぎに聞きいた。

「おれが出すまいな」

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「俺おら出だすめえな」

おつぎは何も分からないようすで言った。

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おつぎは何なにも解かいせぬ容子ようすでいつた。

「そばがきなんぞにしたって足しにならない。ろくにありもしない粉だ」

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「蕎麥そばツ掻かきなんぞにしたつて詰つまりやしねえ、碌ろくに有ありもしねえ粉こなだ」

彼はつぶやいた。

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彼かれは呟つぶやいた。

それから彼はまた

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それから彼かれは又また

「これももう、ありゃしない」

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「此これも、はあ、有ありやしねえ」

と、しょうゆのびんをすかして、それからふってみて言った。

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醤油しやうゆの罎びんを透すかして其それから振ふつて見みていつた。

「おとっつあん、それにはないんだぞ」

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「おとつゝあ、それにやねえのがんだぞ」

おつぎは打ち消した。

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おつぎは打うち消けした。

「いいから、これっきりじゃ済まないんだから」

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「えゝから、此これつ切きりぢやきかねえのがんだから」

勘次はおつぎをどなりつけた。

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勘次かんじはおつぎを呶鳴どなりつけた。

彼はさらにふくろのそば粉をおけへあけてしまって、なおぶつぶつ言っていた。

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彼かれは更さらに袋ふくろの蕎麥粉そばこを桶をけへ明あけて畢しまつて猶なほぶつ/\して居ゐた。

手ランプがうす暗くともされたとき、卯平はのっそり帰って来た。

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手てランプが薄闇うすぐらく點ともされた時とき卯平うへいはのつそり歸かへつて來きた。

彼はおぜんに向かおうともしないで、火ばちの前にどさりとすわったまま、例のわだかまりのありそうなようすをして、右手の人さし指をかけてぎっとにぎったきせるを横にかんでいた。

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彼かれは膳ぜんに向むかはうともしないが火鉢ひばちの前まへにどさりと坐すわつた儘まゝ、例れいの蟠わだかまりの有相ありさうな容子ようすをしては右手うしゆの人ひとさし指ゆびを掛かけてぎつと握にぎつた煙管きせるを横よこに噛かんで居ゐた。

「おつう、お前、もっとここへ火を取ってくれないか」

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「おつう、汝われまつと此處ここさ火ひいとつてくんねえか」

卯平はそれだけ言って、あいかわらず火もないきせるをかんだ。

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卯平うへいはそれだけいつて依然いぜんとして火ひもない煙管きせるを噛かんだ。

おつぎはしばを折って、薬かんの下を燃やしてやった。

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おつぎは麁朶そだを折をつて藥罐やくわんの下したを燃もやしてやつた。

薬かんが鳴り出したとき、卯平はだるそうな体をゆっさりと起こして、そこらをしきりにさがしはじめた。

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藥罐やくわんが鳴なり出だした時とき卯平うへいは懶ものうさ相さうな身體からだをゆつさりと起おこして其處そこらを頻しきりに探さがしはじめた。

「何だい、爺さん」

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「何なんでえ爺ぢい」

おつぎはすぐに聞いた。

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おつぎは直すぐに聞きいた。

「うん、ふくろよ」

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「うむ、袋ふくろよ」

卯平はとてもかんたんに言った。

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卯平うへいは極きはめて簡單かんたんにいつた。

「これだろう爺さん、そば粉の入ってたのは。おれはどうしたんだか知らないから、おけの中へあけておいたっけや。そんじゃ爺さんのだったっけなあ、そら。どうしてふくろへなんぞ入れてたんだい、爺さんは」

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「此これだんべ爺ぢい、蕎麥そばつ粉こなへえつてたのな、俺おらどうしたんだか知しんねえから桶をけん中なかさ明あけて置おいたつきや、そんぢや爺ぢいがんだつけなあそら、どうして袋ふくろさなんぞ入せえてたんでえ爺ぢいは」

おつぎは何でもないように言った。

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おつぎは事こともなげにいつた。

「そばがきでもしたらよかろうと、おかみさんが出したっけのよ」

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「蕎麥そばツ掻かきでもしたらよかつぺつてお内儀かみさん出だしたつけのよ」

卯平は元の場所にすわって言った。

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卯平うへいは舊もとの位置ゐちに坐すわつていつた。

「そうかあ。そんじゃ悪かったっけな、爺さん。そんじゃおれが今入れてやるからな」

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「さうかあ、そんぢや惡わるかつたつけな爺ぢいそんぢや俺おれ今いま入せえてやつかんなよ」

おつぎは、勘次がねるかべぎわのおけから、さっきのよりずっと多い量をふくろへ入れてやった。

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おつぎは勘次かんじが寢ねる壁際かべぎはの桶をけから先刻さつきのよりは遙はるかに多量たりやうを袋ふくろへ入いれてやつた。

そしておつぎは、勘次をしり目で見た。

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さうしておつぎは勘次かんじを尻目しりめで見みた。

卯平はまたそばがきをこしらえた。

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卯平うへいは復また蕎麥掻そばがきを拵こしらへた。

「おれが注いでやろうか、爺さん」

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「俺おれ注ついでやつべか爺ぢい」

火ばちのそばにいた与吉は、薬かんに手をかけた。

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火鉢ひばちの側そばに居ゐた與吉よきちは藥罐やくわんへ手てを掛かけた。

卯平は与吉のするままに任せた。

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卯平うへいは與吉よきちのするが儘まゝに任まかせた。

卯平はわりとゆったりと、茶わんをはしでかき混ぜた。

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卯平うへいは比較的ひかくてき悠長いうちやうに茶碗ちやわんを箸はしで掻かき交まぜた。

「できたかあ」

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「出來できたかあ」

与吉は卯平のうでに小さな手をかけて、のぞくようにして言った。

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與吉よきちは卯平うへいの腕うでへ小ちひさな手てを掛かけて覗のぞく樣やうにしていつた。

「よき、何だいお前は、ごはんを食べたばかりで」

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「よき、何なんでえ汝わりや、お飯まんまくつたばかしで」

おつぎは与吉をしかった。

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おつぎは與吉よきちを叱しかつた。

「お前も食え」

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「汝われも喰くへ」

卯平はそばがきを分けてやった。

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卯平うへいは蕎麥掻そばがきを分わけてやつた。

彼はそうして、さらにもう一ぱいを食べて、その茶わんへ湯をくんで飲んだ。

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彼かれはさうして更さらに後あとの一杯ぱいを喫きつして其その茶碗ちやわんへ湯ゆを汲くんで飮のんだ。

薬かんは軽くなった。

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藥罐やくわんは輕かるくなつた。

勘次は冷たい手を火にもかざさないで、ことさら遠く卯平のそばをはなれて、しかめたひどい顔におそれの色を出して、ただじっと黙っていた。

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勘次かんじは冷つめたい手てを火ひにも翳かざさないで殊更ことさらに遠とほく卯平うへいの側そばを離はなれて蹙しかめた酷ひどい顏かほに恐怖きようふの相さうを表あらはして唯たゞ凝然ぢつと默だまつて居ゐた。

冷たい三人は、夜の気温がしんしんと下がりつつあるのを感じた。

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冷つめたい三人にんは夜よるの温度をんどのしん/\と降下かうかしつゝあるのを感かんじた。

一八

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一八

卯平は久しぶりにふるさとで新しい年をむかえた。

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卯平うへいは久振ひさしぶりで故郷こきやうに歳としを迎むかへた。

彼らの家の門松は、ただ短い松のえだと竹のえだを小さなくいにしばりつけて、かきねの入口に立てただけである。

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彼等かれらの家いへの門松かどまつは只たゞ短みじかい松まつの枝えだと竹たけの枝えだとを小ちひさな杙くひに縛しばり付つけて垣根かきねの入口いりくちに立たてたのみである。

神だなには、藁で太く作ったえびの形を横にかざって、そこにも松の短いえだをつけた。

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神棚かみだなへは藁わらで太ふとく綯なつた蝦えびの形かたちを横よこに飾かざつて其處そこにも松まつの短みじかい枝えだをつけた。

藁のえびは卯平が作った。

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藁わらの蝦えびは卯平うへいが造つくつた。

彼はむっつりとしながらも、やわらかく藁を打っていっしんに手を動かした。

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彼かれはむつゝりとしながらも軟やはらかに藁わらを打うつて熱心ねつしんに手てを動うごかした。

それで年男の役として、かざりつけは勘次にさせた。

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それで歳男としをとこの役やくで飾かざりは勘次かんじにさせた。

すすけきったたなに、新しい藁のえびが生き生きとして見えた。

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煤すゝけ切きつた棚たなに新あたらしい藁わらの蝦えびが活々いき/\として見みえた。

三が日は与吉も汚い着物を捨てて、おつぎも近所で髪を結って、炊事のときでもよそ行きの半纏にたすきをかけて働いた。

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三ヶ日にちは與吉よきちも穢きたない衣物きものを棄すてゝ、おつぎも近所きんじよで髮かみを結ゆうて炊事すゐじの時ときでも餘所行よそゆきの半纏はんてんに襷たすきを掛かけて働はたらいた。

勘次は三が日さえ、まったく楽をしてはいなかった。

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勘次かんじは三ヶ日にちさへ全然まる/\安佚あんいつを貪むさぼつては居ゐなかつた。

彼はくわをかついで、必ず開こん地へ出たのである。

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彼かれは唐鍬たうぐはを擔かついで必かならず開墾地かいこんちへ出でたのである。

彼は次第にふところのぐあいがよくなりかけたので、今ではその勢いづいたくわのひと打ちひと打ちが自分のたくわえを積んで行くわけなので、彼は余念もなくとても楽しく仕事をするようになったのである。

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彼かれは次第しだいに懷ふところの工合ぐあひが善よく成なり掛かけたので、今いまでは其その勢いきほひづいた唐鍬たうぐはの一打うちは一打うちと自分じぶんの蓄たくはへを積つんで行ゆく理由わけなので、彼かれは餘念よねんもなく極きはめて愉快ゆくわいに仕事しごとに從したがつて居ゐるやうに成なつたのである。

年の初めというので、さすがに彼の家でもそれなりに餅やうどんやそばが、その日その日のならわしどおりに供えられた。

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歳としの首はじめといふので有繋さすがに彼かれの家いへでも相當さうたうに餅もちや饂飩うどんや蕎麥そばが其その日ひ/\の例れいに依よつて供そなへられた。

やわらかな餅が、卯平の歯茎にはいちばん合っていた。

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軟やはらかな餅もちが卯平うへいの齒齦はぐきには一番ばん適當てきたうして居ゐた。

ことに陸稲の餅はねばりが弱いので、少し煮ればすぐくたくたにとけようとする。

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殊ことに陸稻をかぼの餅もちは足あしが弱よわいので、少すこし煮にれば直すぐくた/\に溶とけようとする。

卯平にはかえってそれがいいので、彼はそうしてくれるおつぎを、どこまでもうれしく思った。

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卯平うへいには却かへつてそれが善よいので、彼かれはさうして呉くれるおつぎを何處どこまでも嬉うれしく思おもつた。

彼はただ一つでもいいから、いつもしるの中でくつくつと煮てほしかった。

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彼かれは只たゞ一つでも善いいから始終しじゆう汁しるの中なかで必かならずくつ/\と煮にて欲ほしかつた。

しかしそれはみんなでお祝いするときだけで、それさえ卯平がただ独りゆっくり味わうには、ほうろくに乗せる量があまりに足りなかった。

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然しかしそれは一同みんなで祝いはふ時ときのみで、それさへ卯平うへいが只獨ただひとりゆつくりと味あぢはふには焙烙はうろくに乘のせる分量ぶんりやうが餘あまりに足たらなかつた。

餅は四角にほうちょうを入れると、すぐに勘次は自分のまくら元のおけへしまって、断りなしにはおつぎにさえ出すことをゆるさなかった。

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餅もちは四角かくに庖丁はうちやうを入いれると直すぐに勘次かんじは自分じぶんの枕元まくらもとの桶をけへ藏しまつて無斷むだんにはおつぎにさへ出だすことを許容ゆるさないのであつた。

勘次はたとえどんなことがあっても、面と向かって卯平に一言でもつぶやいたことがないばかりか、ひたすら何かをかくそうとするようなおびえたようすを見せていながら、かげではつめのあかほどのことも目に止めては、独りでぶつぶつ言っていた。

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勘次かんじは假令たとひ什麽どんなことがあつても面まのあたり卯平うへいに向むかつて一言ごんでも呟つぶやいたことがないのみでなく、只管ひたすら或ある物ものを隱蔽いんぺいしようとするやうな恐怖きようふの状態じやうたいを現あらはして居ゐながら、陰かげでは爪つめの垢あか程ほどのことを目めに止とめて獨ひとりでぶつ/\として居ゐた。

勘次はただ一度、おつぎが自分の留守に卯平のためにその餅をわずかに焼いてやったことさえ見つけて、おつぎをしかった。

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勘次かんじは只たゞ一度どおつぎが自分じぶんの留守るすに卯平うへいの爲ために其その餅もちの僅わづかを燒やいてやつたのをすら發見はつけんしておつぎを叱しかつた。

「そんだって、おとっつあん、よきがほしいと言うから出して、おれと焼いたんだ。食べたくなっちゃ仕方があるまいな」

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「そんだつておとつゝあは、よき欲ほしいつちから出だして俺おれと燒やいたんだあ、食くへたくなつちやしやうあんめえな」

おつぎは甘えた口ぶりで、言葉はきつく勘次をたしなめた。

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おつぎは甘あまえた舌したで言辭ことばは荒あらく勘次かんじを窘たしなめた。

勘次はそれ以上、もう一度おつぎをしかることはしなかった。

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勘次かんじは其その以上いじやうを越こして再ふたゝびおつぎを叱しかることは能よくしなかつた。

わずかな餅はそんなことでいくらもへらないのに時間がたって、寒い空気のために陸稲の性質が出て、切り口からたちまちひび割れになって、かたくかわいた。

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僅わづかな餅もちはさういふことで幾いくらも減へらないのに時間じかんが經たつて、寒冷かんれいな空氣くうきの爲ために陸稻をかぼの特色とくしよくを現あらはして切口きりくちから忽たちまちに罅割ひゞわれになつて堅かたく乾燥かんそうした。

だんだん焼いてふくれても、外側は歯茎をいためるほどこわばって来た。

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だん/\燒やいて膨ふくれても外側そとがはは齒齦はぐきを痛いためる程ほど硬こはばつて來きた。

卯平はその一つさえきちんと飲み下そうとするには、むしろあらいぽろぽろのごはんより大変だった。

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卯平うへいは其その一つさへ滿足まんぞくに嚥のみ下くださうとするには寧むしろ粗剛こはいぼろ/\な飯めしよりも容易よういでなかつた。

そうなってからは、勘次はなくなるまでよく焼いた。

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さうなつてからは勘次かんじは竭つきるまで能よく燒やいた。

卯平はむっつりとして、ひたいに深く刻んだ大きなしわをむずかしそうに動かしては、かたい餅をなめた。

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卯平うへいはむつゝりとして額ひたひに深ふかく刻きざんだ大おほきな皺しわを六むづヶ敷相しさうに動うごかしては堅かたい餅もちを舐しやぶつた。

卯平のおぜんには、冷たくなった餅が必ず残された。

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卯平うへいの膳ぜんには冷つめたく成なつた餅もちが屹度きつと残のこされた。

おなかをすかせて学校から帰って来る与吉が、いつでもそれをかじるのだった。

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腹はらを減へらして學校がくかうから歸かへつて來くる與吉よきちが何時いつでもそれを噛かじるのであつた。

勘次はまた、そばを打ったことがあった。

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勘次かんじは又また蕎麥そばを打うつたことがあつた。

彼はとろろあおいの粉をつなぎにして打った。

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彼かれは黄蜀葵ねりの粉こを繼つなぎにして打うつた。

彼はまた、おつぎに注意して、よくはゆでさせなかった。

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彼かれは又またおつぎへ注意ちういをして能よくは茹うでさせなかつた。

手おけの冷たい水でさらしたそばは、すぎばしのように太いのに、とろろあおいの特ちょうであるかたさとつるつるした感じで、わんからおどり出しそうになるのだった。

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手桶てをけの冷つめたい水みづで曝さらした蕎麥そばは杉箸すぎはしのやうに太ふといのに、黄蜀葵ねりの特色とくしよくの硬こはさと滑なめらかさとで椀わんから跳をどり出だし相さうに成なるのであつた。

とろろあおいはよく畑のまわりに作られて、短いくきには暑い日に大きな黄色い花を開く。

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黄蜀葵ねりは能よく畑はたけの周圍まはりに作つくられて短みじかい莖くきには暑あつい日ひに大おほきな黄色きいろい花はなを開ひらく。

その根をかわかして粉にして入れれば、そばの量がめっきり増えるというので、おなかいっぱいになる程度に、ひたすら食べ物が少なくて済むことばかりを望んでいる勘次は、毎年作って必ずそれを使っていた。

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其その根ねを乾燥かんさうして粉こにして入いれゝば蕎麥そばの分量かさが滅切めつきり殖ふえるといふので、滿腹まんぷくする程度ていどに於おいては只管ひたすら食料しよくれうの少量せうりやうなることのみを望のぞんで居ゐる勘次かんじは毎年まいねん作つくつて屹度きつとそれを用もちひつゝあつた。

卯平の歯茎では、そばがすべってかめなかった。

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卯平うへいの齒齦はぐきには蕎麥そばが辷すべつて噛かめなかつた。

「爺さんにはうまくあるまい。おとっつあんはもっとていねいに打てばいいのに、そそっかしいから」

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「爺ぢいがにや佳味うまかあんめえ、おとつゝあはまつと丁寧ていねいに打ぶてばえゝのに疎忽敷そゝつかしいから」

おつぎは、どうかするとわんから落ちそうになるそばをすすりながら、卯平の手元を見て言った。

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おつぎはどうかすると椀わんから落おち相さうになる蕎麥そばを啜すゝりながら卯平うへいの手てもとを見みていつた。

「どうせおれは、うまくたってそんなにへるほど食うわけじゃなし、かまいやしないが」

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「どうせ俺おらあ、佳味うめえつたつてさうだに減へる程ほどでも食くふべぢやなし、管かまやしねえが」

卯平は皮肉らしい口ぶりで言った。

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卯平うへいは皮肉ひにくらしい口調くてうでいつた。

勘次はただ黙って、むしゃむしゃとまずそうにかんだ。

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勘次かんじは只たゞ默だまつてむしや/\と不味相まづさうに噛かんだ。

こうしているあいだに春のお彼岸が来て、日なたのかきねには耳菜草やそのほかの雑草が勢いよく出はじめて、桑畑のうねの間には冬をこしたなずなが線香のような茎をもたげて、その先にくだけた米に似た花を集めた。

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恁かうして居ゐる間あひだに春はるの彼岸ひがんが來きて日南ひなたの垣根かきねには耳菜草みゝなぐさや其その他たの雜草ざつさうが勢いきほひよく出でだして桑畑くはばたけの畦間うねまには冬ふゆを越こした薺なづなが線香せんかうの樣やうな薹たうを擡もたげて、其その先さきに粉米こごめに似にた花はなを聚あつめた。

そっけないすぎの木までが、どこからえだなのかはっきり見分けもつかないような、しかも焼けたかと思うほど赤くなっている葉先に、ざらりとつぼみがついてこっそりさいてしまった。

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そつけない杉すぎの木きまでが何處どこから枝えだであるやら明瞭はつきりとは區別くべつもつかぬ樣やうな然しかも燒やけたかと思おもふ程ほど赤あかく成なつて居ゐる葉先はさきにざらりと蕾つぼみが附ついてこつそりと咲さいて畢しまつた。

さびしい中にも、春らしい空気がすべての物をゆらした。

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淋さびしい内うちにも春はるらしい空氣くうきが凡すべての物ものを撼うごかした。

日はまだ南を低くわたりながら、暖かい光を投げる。

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日ひはまだ南みなみを低ひくく渡わたりながら暖あたゝかい光ひかりを投なげる。

たまたま夜の雨がやんで、ふうわりとやわらかな空が青く割れて、やや昇ったその暖かな日がななめにさしかけると、かれた桑畑から、青い麦畑から、すべてから、しめった布を火にかざしたようにゆげが、見わたすかぎり白くほかほかと立ちのぼって、低く一面に地をおおうことがあった。

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偶たまたま夜よるの雨あめが歇やんでふうわりと軟やはらかな空そらが蒼あをく割われて稍やゝ昇のぼつた其その暖あたゝかな日ひが斜なゝめに射さし掛かけると、枯かれた桑畑くはばたけから、青あをい麥畑むぎばたけから、凡すべてから濕しめつた布ぬのを火ひに翳かざしたやうに凝こつた水蒸氣すゐじようきが見渡みわたす限かぎり白しろくほか/\と立たち騰のぼつて低ひくく一帶たいに地ちを掩おほふことがあつた。

卯平は村に帰ってから、むかしの仲間にふたたび加わって、念仏衆の一人になった。

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卯平うへいは村落むらに歸かへつてから往年むかしの伴侶なかまの間あひだへ再ふたゝび加くはゝつて念佛衆ねんぶつしゆうの一人にんになつた。

家では孫のもりをしたりして、どうしても独りはなれたようになっているめいめいが、のんきに、そして好き勝手なことを言い合ってさわぐので、念仏堂はただ楽しい場所だった。

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家いへに在あつては孫まごの守もりをしたりしてどうしても獨ひとり離はなれた樣やうに成なつて居ゐる各自てんでが暢氣のんきにさうして放埓はうらつなことを云いひ合あうて騷さわぐので念佛寮ねんぶつれうは只たゞ愉快ゆくわいな場所ばしよであつた。

お彼岸のころは、ことに毎日楽しかった。

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彼岸ひがんへ掛かけては殊ことに毎日まいにち愉快ゆくわいであつた。

どの家からもそれなりに、ほとけさまへと言って供えるごちそうにあきるほどで、卯平は初めて満足した口をぬぐうことができたのだった。

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何處どこの家うちからもそれ相應さうおうに佛ほとけへというて供そなへる馳走ちさうに飽あいて卯平うへいは始はじめて滿足まんぞくした口くちを拭ぬぐふことが出來できたのであつた。

卯平はだんだん時候が暖かくなるにつれて、体ものんびりとして、心配していた病気の苦しみも少しずつうすらいだ。

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卯平うへいは段々だん/\時候じこうが暖あたゝかく成なるに連つれて身體からだものんびりとして案あんじて居ゐた病氣びやうきの惱なやみも少すこしづつ薄うすらいだ。

彼は手元のすべてが不自由だらけの暮らしにもどって来たとはいうものの、おとろえた体を自分で毎晩苛めるように引き立てていた奉公づとめのころにくらべて、むしろ反対の気ままな日々が、自然に心にも体にも急な休みを与えたので、彼は自分でも一時はげっそりとおとろえたようにも思われて、だるさにたえられないようになったが、それでもその休みのおかげでいくらかずつ持病の苦しみがへったので、そういうわけを知らない彼は、この分では二、三年はまだ野田にいたほうがましだったと、後かいすることもあった。

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彼かれは手てもとの凡すべてが不自由ふじいうだらけな生活せいくわつに還かへつて來きたとはいふものゝ衰おとろへた身體からだを自分じぶんから毎夜まいよ苛いぢめる樣やうに引ひき立たてゝ居ゐる奉公ほうこうの務つとめをして居ゐた當時たうじと比くらべて、寧むしろ相あひ反はんした放縱はうじうな日頃ひごろが自然しぜんに精神せいしんにも肉體にくたいにも急激にはかな休養きうやうを與あたへたので彼かれは自分じぶんながら一時じはげつそりと衰おとろへた樣やうにも思おもはれて、懶ものうさに堪たへぬ樣やうに成なつたがそれでも其その休養きうやうの爲ために幾いくらづゝでも持病ぢびやうの苦くるしみを減げんじたので、さういふ理由わけを知しらない彼かれは、此この分ぶんでは二三年ねんはまだ野田のだに居ゐた方はうが増ましであつたと後悔こうくわいの念ねんが湧わくこともあつた。

季節は、雨にしめった土へまれにかっと暑い日の光が差して、日がしずんだ後の空が丈夫な百姓のはだにさえぞくぞくと空気の冷たさを感じさせて、さらにじめじめときりのような雨がななめに降りかけては、やわらかく首をもたげはじめた麦のほののぎに細かな水の玉を宿して、白いほ先をさらに白くして、あたりがただじめじめしたかと思うと、またかっと日の光がさして、がらんと明るくなって、畑にはだらしなくたおれかけたえんどうの花も、心地よさそうに首をもたげてほほえむ。

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季節きせつは雨あめに濕しめつた土つちへ稀まれにかつと暑あつい日ひの光ひかりが投なげられて、日歸ひがへりの空そらが強健きやうけんな百姓ひやくしやうの肌膚はだにさへぞく/\と空氣くうきの冷ひやゝかさを感かんぜしめて、更さらにじめ/\と霧きりのやうな雨あめが斜なゝめに降ふり掛かけては軟やはらかに首くびを擡もたげはじめた麥むぎの穗ほの芒のげに微細びさいな水球すゐきうを宿やどして白しろい穗先ほさきを更さらに白しろくして世間せけんが只たゞ濕しめつぽく成なつたかと思おもふと、又またかつと日ひの光ひかりが射さして、空洞からりと明あかるく成なつて畑はたけにはしどろに倒たふれ掛かけた豌豆ゑんどうの花はなも心こゝろよげに首くびを擡もたげて微笑びせうする。

すると、畑をつつむ遠い近い林には、若葉のすきまからわずかな日の光が、またやわらかな、そしてやや深い草の上にぽつりぽつりと明るくのぞきこんで、松の木からはみんみんぜみのような松ぜみの声が、くすぐったいほど人の耳に軽くひびいて、みんなの心をつき動かす。

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さうすると畑はたを包つゝむ遠とほい近ちかい林はやしには嫩葉わかばの隙間すきまから少すくない日ひの光ひかりがまた軟やはらかなさうして稍やゝ深ふかい草くさの上うへにぽつり/\と明あかるく覗のぞき込こんで、松まつの木きからはみんみん蝉ぜみの樣やうな松蝉まつぜみの聲こゑが擽くすぐつたい程ほど人ひとの鼓膜こまくに輕かるく響ひゞいて凡すべての心こゝろを衝動しようどうする。

卯平も、ほかの百姓にさそわれたように、ただじっとしてばかりはいられなかった。

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卯平うへいも他たの百姓ひやくしやうに誘さそはれたやうに只たゞ其その身みを凝然ぢつとさせてのみは居をられなかつた。

人一倍いそがしい勘次が、だんだんへって行く俵の中身を気にして、ひどい目つきをしながら戸口を出入りするのを、卯平は見るのがいやで、しかもつらかった。

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他人ひとに倍ばいして忙せはしい勘次かんじがだん/\に減へりつゝある俵たわらの内容ないようを苦くにして酷ひどい目めをしつゝ戸口とぐちを出入でいりするのを卯平うへいは見みるのが厭いやで且かつ辛つらかつた。

それで彼は、あちこちと他人の仕事をさがして歩いたのだった。

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それで彼かれは其處そこら此處ここらと他人たにんの仕事しごとを求もとめて歩あるいたのであつた。

卯平は見るからに不器用なようすをしていて、おそろしく手先の器用な生まれつきだった。

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卯平うへいは見みるから不器用ぶきような容子ようすをして居ゐて、恐おそろしく手先てさきの業わざの器用きような性來たちであつた。

それで彼は仕事に出るようになってからは、あちこちにやとわれてよく俵をあんだ。

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それで彼かれは仕事しごとに出でると成なつてからは方々はう/″\へ傭やとはれて能よく俵たわらを編あんだ。

麦俵も、それからたいひを入れて運ぶ肥俵もあんだ。

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麥俵むぎだわらもそれから堆肥つみごえを入いれて運はこぶ肥俵こやしだわらも編あんだ。

ゆっくりと、しかし絶え間なく手を動かしては、ときどき好きなたばこを吸って、少し口を開いたままきせるの吸い口をこけたほおに当て、深い考えごとにでもなやんだように、ただじっとしている。

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ゆつくりと然しかも暇ひまなく手てを動うごかしては時々とき/″\好すきな煙草たばこを吸すうて少すこし口くちを開あいた儘まゝ煙管きせるの吸口すひくちをこけた頬ほゝに當あてて深ふかい考かんがへにでも惱なやんだ樣やうに只たゞ凝然ぢつとして居ゐる。

けむりは口から少しずつもれて、鼻を伝ってのぼる。

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煙けぶりは口くちから少すこしづゝ漏もれて鼻はなを傳つたひて騰あがる。

彼はけむりがのぼるたびにくぼんだ黄色い目をしかめるようにして、気づいたように吸いがらを手のひらにふくのである。

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彼かれは煙けぶりが騰あがる度たびに窪くぼんだ黄色きいろな目めを蹙しがめるやうにして、心こゝろづいた樣やうに吸殼すひがらを手ての平ひらに吹ふくのである。

彼はこうしてとてもゆっくり手を動かすようでありながら、それでもやとわれた先でその日の食事はしてもらうので、それなりのお金を得ていたのだった。

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彼かれはかうして極きはめて悠長いうちやうに手てを動うごかす樣やうでありながら、それでも傭やとはれた先さきで其その日ひの扶持ふちはして貰もらふので、相應さうおうな錢ぜにを獲えつゝあるのであつた。

卯平は夏になれば、どこでもいそがしい麦こきや陸稲の草取りにやとわれた。

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卯平うへいは夏なつになれば何處どこでも忙いそがしい麥扱むぎこきや陸稻をかぼの草取くさとりに傭やとはれた。

彼は自分の村をはなれて、五日も六日もとまっていて帰らないことがある。

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彼かれは自分じぶんの村落むらを離はなれて五日かも六日かも泊とまつて居ゐて歸かへらぬことがある。

卯平には、先から先へと歩いていることが、かえって幸いだった。

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卯平うへいには先さきから先さきと歩あるいて居ゐることが却かへつて幸さいはひであつた。

彼は鬼怒川の高瀬舟の船頭の着物かと思うような、よくもよくもつぎだらけな、それも自分の手で直して清潔に洗いざらした仕事着をすそ長に着て、手ぬぐいをかぶって、暑い庭で小麦をたたいているのを、あちこちで見ることがある。

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彼かれは鬼怒川きぬがはの高瀬船たかせぶねの船頭せんどうの衣物きものかと思おもふ樣やうな能よくも/\繼つぎだらけな、それも自分じぶんの手てで膳つくろつて清潔きれいに洗あらひ曝ざらした仕事衣しごとぎを裾長すそながに着きて、手拭てぬぐひを被かぶつて暑あつい庭にはに小麥こむぎを叩たゝいて居ゐるのを其處そこ此處ここに見みることがある。

横にころがしたうすを前に置いて、小麦をつかんではほ先をそのうすの腹にたたきつけると、種がぽろぽろと向こうへ落ちる。

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横よこに轉ころがした臼うすを前まへに据すゑて小麥こむぎを攫つかんでは穗先ほさきを其その臼うすの腹はらに叩たゝきつけると種たねがぼろ/\と向むかふへ落おちる。

のっそりとしてゆったりした卯平は、若いころに慣れた仕事のこつで、大きな手が肩から打ち下ろすとき、まだそれなりにはかどるのだった。

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のつそりとして悠長いうちやうな卯平うへいは壯時さうじに熟じゆくして居ゐた仕事しごとの呼吸こきふで大おほきな手てが肩かたから打うち下おろす時とき、まだ相當さうたうに捗はかどるのであつた。

彼はこうしてあちこちにやとわれて歩きながら、きれいな花がさいているのを見ると、種をもらったり根分けをしてもらったりして、庭先のくりの木のそばや井戸ばたの近くに植えた。

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彼かれは恁かうしてぐる/\と傭やとはれて歩あるきながら綺麗きれいな花はなが咲さいて居ゐるのを見みると種たねを貰もらつたり根分ねわけをして貰もらつたりして庭先にはさきの栗くりの木きの側そばや井戸端ゐどばたに近ちかく植うゑた。

彼はいそがしい仕事が終わりになったとき、つまり稲刈りから稲こきから、そしてもみすりも済んで、彼の得意な俵あみもなくなって、あたりがげっそりとさびしくしずんだとき、彼は急に勘次と別の住まいがしたくなった。

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彼かれは忙いそがしい仕事しごとが畢しまひになつた時とき即すなはち稻刈いねかりから稻扱いねこきからさうして籾もみすりも濟すんで彼かれが得意とくいの俵編たわらあみもなくなつて、世間せけんがげつそりと寂さびしく沈しづんだ時ときに彼かれは急きふに勘次かんじと別べつな住すまひが仕したくなつた。

彼は少しばかり残してあったたくわえから、虫食いでも何でも柱になる木や粟のからを買って、家の横手へ小さな、二間四方くらいの掘っ立て小屋を建てる計画をした。

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彼かれは少すこしばかり餘あましてあつた蓄たくはへから蝕むしくひでも何なんでも柱はしらになる木きやら粟幹あはがらやらを求もとめて、家いへの横手よこてへ小ちひさな二間けん四方はう位ぐらゐな掘立小屋ほつたてごやを建たてる計畫けいくわくをした。

彼は寒い西風をきらって、ほとんど勘次の家とくっついて東わきに建てようとした。

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彼かれは寒さむい西風にしかぜを厭いとうて殆ほとんど勘次かんじの家うちと相あひ接せつして東脇ひがしわきへ建たてようとした。

勘次はもちろん自分のふところが目に見えてへるのでもなし、それについてはけっしてかげでつぶやくことはなかった。

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勘次かんじは固もとより自分じぶんの懷ふところが目めに見みえて減へるのでもなし、それに就ついては決けつして陰かげで呟つぶやくことはなかつた。

かんたんな工事には大工が少しのみを使っただけで、そのほかは近所の人々が手伝ったので、仕事はただ一日で終わった。

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簡單かんたんな普請ふしんには大工だいくが少すこし鑿のみを使つかつた丈だけで其その他たは近所きんじよの人々ひと/″\が手傳てつだつたので仕事しごとは只たゞ一日にちで畢をはつた。

長くてかさばる粟のからで手うすくふいた屋根は、これも職人の手を借りなかった。

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長ながい嵩張かさばつた粟幹あはがらで手薄てうすく葺ふいた屋根やねは此これも職人しよくにんの手てを借からなかつた。

必要な縄は、卯平が丈夫になっておいた。

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必要ひつえうな繩なはは卯平うへいが丈夫ぢやうぶに綯なつて置おいた。

それからかべを塗るのには、間を置いて二、三日かかった。

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それから壁かべを塗ぬるのには間あひだを措おいて二三日にちかゝつた。

勘次もさすがに力をおしまなかった。

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勘次かんじも有繋さすがに勞力らうりよくを惜をしまなかつた。

彼は粟のからをふき上げた次の日から、二、三日近所の馬を借りて、田のわきの畑から土を運んだ。

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彼かれは粟幹あはがらが葺ふき上あげられた次つぎの日ひから二三日にち近所きんじよの馬うまを借かりて田たの傍そばの畑はたけから土つちを運搬つけた。

畑にはそのとき、麦が青く生えていたが、それでも持ち主は、畑がへるだけ田の面積が増えるわけなのと、土の量も特別多くないのとで、切り取ることをことわらなかった。

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畑はたけには其その時とき麥むぎが青あをく生はえて居ゐたが、それでも持主もちぬしは畑はたけが減へるだけ田たの面積めんせきが増ます理由わけなのと、土つちの分量ぶんりやうも格別かくべつの事ことでないのとで切きり取とることを否いなまなかつた。

庭へ下ろした土には、ちらりちらりと青い麦のやわらかな葉がまじっていた。

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庭にはへ卸おろした土つちにはちらり/\と青あをい麥むぎの軟やはらかな葉はが交まじつて居ゐた。

勘次は夕方になって馬を返しながら、一日のえさとして、おつぎに煮させた麦をざるへ入れて、それからきざんだ藁もそえてやった。

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勘次かんじは夕方ゆふがたに成なつて馬うまを返かへしながら、一日にちの餌料ゑさとしておつぎに煮にさせた麥むぎを笊ざるへ入いれて、それから刻きざんだ藁わらも添そへてやつた。

勘次はそのついでに、よけいな藁を切った。

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勘次かんじは其その序ついでに餘計よけいな藁わらを切きつた。

土は最後の日の夕方に、まわりに土手のような輪をこしらえて、そこに水をかけてはぐちゃぐちゃと足でこねながら、きざんだ藁をまいてはふみこんで、そうして一晩置いた。

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土つちは畢しまひの日ひの夕方ゆふがたに周圍しうゐに土手どてのやうな輪わを拵こしらへて其處そこに水みづを打うつてはぐちや/\と足あしで溲こねながら刻きざんだ藁わらを撒まいては踏ふみ込こんでさうして一晩ばん置おいた。

そうしているあいだに卯平は、なたでしのを幾つかに裂いて、柱と柱のあいだへかべの下地に細かな格子目をあんでいた。

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さういふ間あひだに卯平うへいは鉈なたで篠しのを幾いくつかに裂さいて柱はしらと柱はしらとの間あひだへ壁かべの下地したぢに細こまかな格子目かうしめを編あんで居ゐた。

しのは東どなりの主人にたのんで、真竹にまじったのを後ろの林から切ったのである。

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篠しのは東隣ひがしどなりの主人しゆじんから請こうて苦竹まだけに交まじつたのを後うしろの林はやしから伐きつたのである。

次の日、土はよく水が引いていて、ほどよくこねられた。

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次つぎの日ひ土つちは能よく水みづを引ひいて居ゐて程ほどよく溲こねられた。

勘次はおつぎにそのどろをたらいで運ばせておいて、不器用な手つきで塗った。

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勘次かんじはおつぎに其その泥どろを盥たらひへ運はこばせて置おいて不器用ぶきような手てもとで塗ぬつた。

卯平はなおも、しのであみ残した所をこしらえていた。

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卯平うへいは猶なほも篠しので編あみ残のこした箇所かしよを拵こしらへて居ゐた。

塗りたてのかべは、せまい小屋の内側をじめじめと、しかも暗くした。

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塗ぬりたての壁かべは狹苦せまくるしい小屋こやの内側うちがはを濕しめつぽく且かつ闇くらくした。

かべの土がだんだんかわくのが待ち遠しくて、卯平は毎日ゆかの上のむしろにすわって火をたいた。

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壁かべの土つちの段々だん/\に乾かわくのが待遠まちどほで卯平うへいは毎日まいにち床ゆかの上うへの筵むしろに坐すわつて火ひを焚たいた。

彼は近ごろになってから毎日のように林を歩いては、しばを背負って来て、折ってはたき折ってはたきしていた。

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彼かれは近頃ちかごろに成なつてから毎日まいにちの樣やうに林はやしを歩あるいては麁朶そだを脊負せおつて來きて折をつては焚たき折をつては焚たきして居ゐた。

かべを塗るときに格子目から内側へめくれ出たどろの一つ一つが、だんだんに白っぽくかわいて明るくなったとき、勘次はまた内側から塗って、めくれて出た一つ一つを全部かくした。

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壁かべを塗ぬる時とき格子目かうしめから内側うちがはへ捲まくれ出でた泥どろの一つ/\がだん/\に白しろつぽく乾かわいて明あかるく成なつた時とき勘次かんじは又また内側うちがはから塗ぬつて捲まくれて出でた一つ/\を一帶たいに隱かくした。

卯平は掘っ立て小屋を建てるとなったら、勘次がこれまでになく調子よく勢いよく仕事をしてくれるのを、なんとなくうれしく思ってみたが、それでも仕事をしながらしみじみ口をきくのでもなければ、毎日おぜんをならべると必ずひがんだような顔をされるので、卯平は一日も早く別になってみたい気持ちから、さらに塗ったかべのためにふたたび暗くなった小屋が明るくなるのが、じれったくてたえられないのだった。

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卯平うへいは掘立小屋ほつたてごやを建たてるとなつたら勘次かんじが此これ迄までになく油あぶらが乘のつた樣やうに威勢ゐせいよく仕事しごとをしてくれるのを何なんとなく嬉うれしく思おもつて見みたが、夫それでも仕事しごとをしながらしみ/″\口くちを利きくのでもなければ、毎日まいにち膳ぜんを竝ならべると屹度きつと僻ひがんだやうな顏かほをされるので、卯平うへいは一日にちも速はやく別べつに成なつて見みたい心こゝろから更さらに塗ぬつた壁かべの爲ために再ふたゝび闇くらくなつた小屋こやの明あかるく成なるのが遲緩もどかしさに堪たへぬのであつた。

卯平はせまいながらもどうにか土間もこしらえて、そこへは自在かぎを一つつるして、つるのある鉄びんをかけたり小なべをかけたりできるようにした。

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卯平うへいは狹せまいながらにどうにか土間どまも拵こしらへて其處そこへは自在鍵じざいかぎを一ひとつ吊つるして蔓つるのある鐵瓶てつびんを懸かけたり小鍋こなべを掛かけたりすることが出來できる樣やうにした。

彼は勘次からいくらかずつの米や麦を分けてもらって、別居した初めのうちは自分の手で煮たきをした。

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彼かれは勘次かんじから幾いくらかづゝの米こめや麥むぎを分わけさせて別居べつきよした當座たうざは自分じぶんの手てで煮焚にたきをした。

それがかえって気楽で、そして少しずつは彼の舌にうまく感じる程度の物を買って来ることができた。

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それが却かへつて氣藥きらくでさうして少すこしづゝは彼かれの舌したに佳味うまく感かんずる程度ていどの物ものを求もとめて來くることが出來できた。

しかしそうしていても、寒さがとてもきびしいときは、彼はただせまい小屋の中でしばを少しずつ折ってくべるよりも、わりと広いかまどの前で、横にころがした大きなかごからがさがさと木の葉をかき出して、ぼうぼうとほのおを立てて暖まりたい気持ちがするのだった。

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然しかしさうして居ゐても寒さむさが非常ひじやうに嚴きびしい時ときは彼かれは只たゞ狹苦せまくるしい小屋こやの中なかに麁朶そだを少すこしづつ折をり燻くべるよりも比較的ひかくてき廣ひろい竈かまどの前まへで横よこに轉ころがした大籠おほかごからがさ/\と木この葉はを掻かき出だしてぼう/\と焔ほのほを立たてゝ暖あたゝまりたい心持こゝろもちがするのであつた。

それで彼は勘次の留守には、かまどの前でゆったりと木の葉をたいて、顔や手足の皮が焼けたように赤くなるまで当たった。

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それで彼かれは勘次かんじの留守るすには竈かまどの前まへで悠長いうちやうに木この葉はを焚たいて顏かほや手足てあしの皮かはの燒やけた樣やうに赤あかくなるまであたつた。

勘次はときどき、持ちこんだしばや木の葉がわけもなくへっていることを知って、いやな気持ちになってはこっそりつぶやきながら、おつぎに当たるのだった。

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勘次かんじは時々とき/″\持もち込こんだ麁朶そだや木この葉はが理由わけもなく減へつて居ゐることを知しつて不快ふくわいな感かんを懷いどいてはこつそりと呟つぶやきつゝおつぎに當あたるのであつた。

卯平はしばらく隠居に落ち着いてからは、一銭ずつでもふところをこしらえなければならないという決心にせかされて、毎日きせるを横にくわえては、ゆったりとではあるが、しかも絶え間なく縄をちよりちよりとなったり、それからわらじを作ったりした。

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卯平うへいは暫しばらく隱居いんきよに落付おちついてからは一錢せんづゝでも懷ふところを拵こしらへねばならぬといふ決心けつしんから促うながされて、毎日まいにち煙管きせるを横よこに銜くはへては悠長いうちやうではあるが、然しかも間斷かんだんなく繩なはをちより/\と綯なつたり、それから草鞋わらぢを作つくつたりした。

彼は材料の藁を勘次に求めずに、五銭か十銭くらいずつふところのお金を出して、よく選んだ藁をあちこちで買って、ほ先の所を持っては肩から打ちかけて、がさがさと背負って来るのである。

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彼かれは原料げんれうの藁わらを勘次かんじに要求えうきうせずに五錢せんか十錢位せんぐらゐづゝ懷錢ふところせんを出だして能よく選すぐつた藁わらを其處そこ此處こゝで買かつて、穗先ほさきの處ところを持もつては肩かたから打ぶつ掛かけてがさ/\と背負せおつて來くるのである。

藁の小さな決まったたばは、一たばはたいてい一銭ずつだった。

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藁わらの小ちひさな極きまつた束たばが一把はは大抵たいてい一錢せんづゝであつた。

その一たばの藁が、縄にすれば二たば半くらいで、わらじにすれば五足はできるのだった。

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其その一把はの藁わらが繩なはにすれば二房半位ばうはんぐらゐで、草鞋わらぢにすれば五足そくは仕上しあがるのであつた。

それで彼の一日の仕事は、縄なら二十たばの大きな一たば、わらじなら五足というところなので、一たばの縄が七銭五毛で、一足のわらじが一銭五厘という相場だから、どちらにしても一日いっしんに手を動かせば、彼は六、七銭のもうけを得るのである。

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それで彼かれの一日にちの仕事しごとは繩なはならば二十房ばうの大束おほたばが一把は、草鞋わらぢならば五足そくといふ處ところなので、一房ばうの繩なはが七錢せん五毛まうで一足そくの草鞋わらぢが一錢せん五厘りんといふ相場さうばだからどつちにしても一日にち熱心ねつしんに手てを動うごかせば彼かれは六七錢せんの儲まうけを獲えるのである。

卯平が買うおかずは、一日わずかに二銭もあれば十分なので、彼は毎日藁を使っていれば四、五銭ずつのあまりを得るわけではあるが、品物を売りに出る日を別にしても、気が乗らないと言っては朝からごろりところがっていることもあるので、平均してみると一日がいくらにもならないのだった。

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卯平うへいが求もとめる副食物ふくしよくもつは一日にち僅わづかに二錢せんもあれば十分ぶんなので彼かれは毎日まいにち藁わらを使つかつて居をれば四五錢せんづつの剰餘じようよを得うる理由わけではあるが、品物しなものを商あきなひに出でる日ひを別べつにしても氣きが乘のらないといつては朝あさからごろりと轉ころがつて居ゐることもあるので平均へいきんして見みると一日にちが幾いくらにも成ならないのであつた。

しかしそれだけでも、卯平はいつもさいふのお金が出入りするのを心強く思うのだった。

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然しかし其それ丈だけでさへ卯平うへいは始終しじう財布さいふの錢ぜにの出入でいりするのを心丈夫こゝろぢやうぶに思おもふのであつた。

勘次はむっつりとした卯平の戸口をのぞいたこともないが、卯平がすぐに来ても来なくても、ごはんのできたときに呼びに行くのはおつぎだった。

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勘次かんじはむつゝりとした卯平うへいの戸口とぐちを覗のぞいたこともないが、卯平うへいが直すぐに來きても來こなくても飯めしの出來できた時ときに喚よびに行ゆくのはおつぎであつた。

卯平はいっしんに藁仕事をするときは、自分で炊事をするのは時間がひどくおしくもなったり、面倒にもなったり、ただ独りぽつんとしていると情けなくもなったりするので、ふだんはふたたびみんなといっしょにはしを取ることにしたのである。

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卯平うへいは熱心ねつしんに藁仕事わらしごとをする時ときは自分じぶんで炊事すゐじをするのは時間じかんが酷ひどく惜をしくも成なつたり、面倒めんだうにも成なつたり、唯たゞ獨ひとりのみで㷀然ぽつさりとして居ゐると情なさけなくもなつたりするので、平生へいぜいは再ふたゝび一同みんなと一緒しよに箸はしを執とることにしたのである。

彼はおつぎがきびきびと一言でも言ってくれるたびに、そのひがもうとする心がどれほど和らげられるか知れないのである。

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彼かれはおつぎがはき/\と一言ひとことでもいうて呉くれる毎ごとに其その僻ひがまうとする心こゝろがどれ程ほど和やはらげられるか知しれないのである。

彼はわらじを作るといって、四本のたて縄にやわらかな藁をうねうねと通しては、その縄のあいだに指を入れてぎっと前へ引きしめる、そのかすかな動きのあいだにも、彼は勘次に対して口にもふるまいにも出せないいまいましさが、心の底にむらむらと首をもたげはじめることもあるのだったが、おつぎの言葉はいつでも、その火を消し止める一ぱいの水なのだった。

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彼かれは草鞋わらぢを作つくるとて四筋すぢの竪繩たてなはに軟やはらかな藁わらをうね/\と透とほしては其その繩なはの間あひだに指ゆびを入いれてぎつと前まへへ引ひき緊しめる微かすかな運動うんどうの間あひだにも彼かれは勘次かんじに對たいして口くちにも擧動きよどうにも出だせぬ忌々敷いま/\しさが心こゝろの底そこに勃々むか/\と首くびを擡もたげ始はじめることもあるのであつたが、おつぎの言辭ことばはいつでも其その火ひを消けし止とめる一杯ぱいの水みづなのであつた。

おつぎは、どうかすると目のあたりにあるそばかすが一種のかわいらしさを引き立てて、甘えたような口のきき方をするのだった。

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おつぎはどうかすると目めの邊へんに在ある雀斑そばかすが一種しゆの嬌態しなを作つくつて甘あまえたやうな口くちの利方きゝかたをするのであつた。

おつぎは勘次のいないときは、めんどりがけたたましく鳴いて出れば、すぐにねぐらをのぞいて暖かいたまごを一つ取って、卯平のむしろへころがしてやることもあった。

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おつぎは勘次かんじの居ゐない時ときは牝鷄めんどりが消魂けたゝましく鳴ないて出でれば直すぐに塒とやを覗のぞいて暖あたゝかい卵たまごの一ひとつを採とつて卯平うへいの筵むしろへ轉ころがしてやることもあつた。

おつぎは勘次のするどい目をだますには、これだけの深い注意をはらわなければならなかった。

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おつぎは勘次かんじの敏捷びんせふな目めを欺あざむくには此これだけの深ふかい注意ちういを拂はらはなければならなかつた。

それもまれなことで、数は必ず一つと決まっていた。

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それも稀まれなことで數かずは必かならず一ひとつに限かぎられて居ゐた。

しかし卯平は、そのわずかな親切に対してくぼんだ茶色の目をしかめるようにして、洗いもしないからの両はしに小さなあなを開けてすするのだった。

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然しかし卯平うへいは其その僅少きんせうな厚意こういに對たいして窪くぼんだ茶色ちやいろの眼めを蹙しがめる樣やうにして、洗あらひもせぬ殼からの兩端りやうはしに小ちひさな穴あなを穿うがつて啜すゝるのであつた。

彼はおつぎの気持ちをよく分かっているので、その吸いがらはけっして目につく所へは捨てないで、細かく押しもんで、外へ出るついでに他人のかきねの中などへ放り捨てた。

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彼かれはおつぎの意中いちうを能よく解かいして居ゐるので其その吸殼すひがらは決けつして目めにつく處ところへは棄すてないで細こまかに押おし揉もんで外そとへ出でる序ついでに他人たにんの垣根かきねの中なかなどへ放棄ほうつた。

それからもう一つ、ひがもうとする彼の心をさわやかにするのは与吉だった。

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それからも一つ僻ひがまうとする彼かれの心こゝろを爽さわやかにするのは與吉よきちであつた。

とっくに甘えきっている与吉は、卯平の戸口に立ちふさがってはお金をねだった。

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疾とうから甘あまえ切きつて居ゐる與吉よきちは卯平うへいの戸口とぐちに立たち塞ふさがつては錢ぜにを請こうた。

せまい戸口は、与吉の小さな体でさえ、卯平が藁をいじっている手元をうす暗くした。

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狹せまい戸口とぐちは與吉よきちの小ちひさな身體からだでさへ卯平うへいの藁わらをいぢつて居ゐる手てもとを薄闇うすぐらくした。

卯平は藁くずといっしょに投げ出してある胴乱から、五厘の銅貨を出してやるのがふつうだが、与吉は自分でお金を出そうとして、胴乱の大きな金具がなかなか開かないので、怒って投げ出してみたり、卯平にすがったりした。

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卯平うへいは藁屑わらくづと一つに投出なげだしてある胴亂どうらんから五厘りんの銅貨どうくわを出だしてやるのが例れいであるが、與吉よきちは自分じぶんで錢ぜにを出ださうとして胴亂どうらんの大おほきな金具かなぐが容易よういに開あかないので怒おこつて投なげ出だして見みたり、卯平うへいへ縋すがつたりした。

卯平はわざと与吉にたおされて、ころがることもあった。

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卯平うへいは態わざと與吉よきちに倒たふされて轉ころがることもあつた。

勘次は与吉が卯平からお金をもらうことを知ってから、ただでさえめったにくれたことのない彼は、けっして一度も与えることがなかった。

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勘次かんじは與吉よきちが卯平うへいから錢ぜにを貰もらふことを知しつてから只たゞさへ滅多めつたにくれたことのない彼かれは決けつして一度ども與あたへることがなかつた。

卯平はそれを知ってさえ、与吉に求められることが、かえって彼にとってはどれほどのなぐさめであるか知れないのだった。

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卯平うへいはそれを知しつてさへ與吉よきちに要求えうきうされることが却かへつて彼かれの爲ためにはどれ程ほどの慰藉ゐしやであるか知しれないのであつた。

卯平はみじめな隠居に移るまでには、野田から持って来た少しばかりのたくわえは、いくらもさいふに残ってはいなかった。

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卯平うへいは悲慘みじめな隱居いんきよに移うつるまでには野田のだから持もつて來きた少すこし許ばかりの蓄たくはへは幾いくらも財布さいふに残のこつては居ゐなかつた。

彼は急に思い出したように一日いっしんに仕事にかかりきってみたり、また勘次に対するやけから酒も飲んでみたりした。

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彼かれは俄にはかに思おもひ出だした樣やうに一日にち熱心ねつしんに仕事しごとに屈託くつたくして見みたり、又また勘次かんじに對たいする自棄やけから酒さけも飮のんで見みたりした。

酒といっても知れた量だが、それでも藁一本ずつを刻んで行く仕事のもうけだけにたよる彼のふところを悲しくした。

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酒さけといつても知しれた分量ぶんりやうであるが、それでも藁わら一筋ひとすぢづつを刻きざんで行ゆく仕事しごとの儲まうけにのみ手頼たよる彼かれの懷ふところを悲かなしくした。

卯平はそんなわずかな仕事でも、彼の体がなんともなくて、また勘次との仲がやわらいでいるなら、彼は好きなコップ酒を一ぱい飲むついでに、お酒をびんに買って勘次にやることさえ、苦にもしなければおしみもしないのだった。

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卯平うへいは其麽そんな果敢はかない仕事しごとでも、彼かれの身體からだが滯とゞこほりなく又また勘次かんじとの間あひだが融和ゆうわされて居ゐるならば彼かれは好すきなコツプ酒ざけの一杯ぱいを傾かたむける序ついでに、酒さけを壜びんに買かつて勘次かんじに與あたへることさへ不自由ふじいうを感かんじもしなければ、惜をしむこともないのであつた。

勘次もつかれた日の夕方には、くわを村の店ののき下に下ろして一ぱい飲んで来るのだが、一度も自分の家に持ち帰ったこともなければ、酒くさい息をはくあいだは卯平に顔を合わせたこともなかった。

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勘次かんじも疲勞ひらうした日ひの夕方ゆふがたには唐鍬たうぐはを村落むらの店みせの軒下のきしたへ卸おろして一杯ぱいを傾かたむけて來くるのであるが、嘗かつて自分じぶんの家うちに運はこんだこともなければ臭くさい息いきを吐はく間あひだは卯平うへいへ顏かほを合あはせたこともなかつた。

卯平は腰の痛みになやまされて、よけいにかさかさとかわいてこわばっている手を動かしにくくなると、彼はひとかけらの炭火もない火ばちをまくら元に置いて、じっとふとんをかぶったままである。

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卯平うへいは腰こしの疼痛いたみに惱なやまされて、餘計よけいにかさ/\と乾からびて硬こはばつて居ゐる手てを動うごかし難がたくなると彼かれは一塊くわいの煨おきもない火鉢ひばちを枕元まくらもとに置おいて凝然ぢつと蒲團ふとんを被かぶつた儘まゝである。

彼はそうでなくても、これまできびきびと口をきいたこともなく、ことに勘次に対してはしわのよった顔をさらにしかめているので、こうしてじっとしていることも、勘次はリューマチがなやませているのだとは知らないで、むしろ年寄りにありがちなだるさからくるねむりをむさぼっているのだろうくらいに見るのだった。

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彼かれはさうでなくても嘗かつてはき/\と口くちを利きいたこともなく、殊更ことさら勘次かんじに對たいしては皺しなびた顏かほの筋肉きんにくを更さらに蹙しがめて居ゐるので、恁かうして凝然ぢつとして居ゐることをも勘次かんじは僂麻質斯レウマチスが惱なやまして居ゐるのだとは知しらないで、寧むしろ老人らうじんに通有つういうな倦怠けんたいに伴ともなふ睡眠すゐみんを貪むさぼつて居ゐるのだらう位ぐらゐに見みるのであつた。

まくら元の火ばちは、戸口から見ると彼のうすい白髪の頭をかくしていた。

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枕元まくらもとの火鉢ひばちは戸口とぐちからでは彼かれの薄うすい白髮しらがの頭あたまを掩おほうて居ゐた。

彼はそうかと思うと、起きていっしんにわらじを作ることがある。

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彼かれはさうかと思おもふと起おきて一心しんに草鞋わらぢを作つくることがある。

彼の仕事は年を取って面倒なようだが、その生まれつきの器用さは失われなかった。

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彼かれの仕事しごとは老衰らうすゐして面倒めんだうな樣やうであるが、其その天性てんせいの器用きようは失うしなはれなかつた。

彼は五足ずつを一つにたばねたわらじと、それから縄が一荷になると、大きな風呂しきで背負って出た。

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彼かれは五足そくづつを一ひとつに束たばねた草鞋わらぢとそれから繩なはが一荷物ひとにもつに成なると大風呂敷おほぶろしきで脊負しよつて出でた。

それはたいてい暖かな日に限られていたのだが、そのときは彼の大きな体はきりりと帯をしめて、股引の上に高くしりをまくって、まだたのもしげにがっしりとして見えるのだった。

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それは大抵たいてい暖あたゝかな日ひに限かぎられて居ゐるのであつたが、其その時ときは彼かれの大おほきな躯幹からだはきりゝと帶おびを締しめて、股引もゝひきの上うへに高たかく尻しりを端折はしよつてまだ頼母たのもしげにがつしりとして見みえるのであつた。

卯平はこうして仕事をしてみたりねてみたり、それから自分で小なべで煮炊きをするかと思えば、家族三人といっしょにおぜんに向かったり、そばから見ている勘次には、気の知れないおじいさんだった。

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卯平うへいは斯かうして仕事しごとをして見みたり寐ねて見みたり、それから自分じぶんで小鍋立こなべだてをするかと思おもへば家族かぞく三人にんと共ともに膳ぜんへ向むかつたり、側そばから見みて居ゐる勘次かんじには氣きが知しれぬ爺ぢいさんであつた。

卯平はときどき塩ざけの一切れを古新聞紙のはしに包んで来ては、火ばちに鉄の火ばしをわたして、少しくすぶるしばの火で焼いた。

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卯平うへいは時々とき/″\鹽鮭しほざけの一切ひときれを古新聞紙ふるしんぶんしの端はしへ包つゝんで來きては火鉢ひばちへ鐵てつの火箸ひばしを渡わたして、少すこし燻いぶる麁朶そだの火ひに燒やいた。

彼はあぶない手つきで、まちがえて落としては灰にまみれても、口でふうふうとふいて手でばたばたとたたくだけで、洗うこともしなかった。

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彼かれは危險あぶない手てもとで間違まちがつて落おとしては灰はひにくるまつても口くちでふう/\と吹ふいて手てでばた/\と叩たゝくのみで洗あらふこともしなかつた。

じりじりと白く火ばしに焼きついた塩が、長く火ばしににおいを残した。

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じり/\と白しろく火箸ひばしへ燒やけ附ついた鹽しほが長ながく火箸ひばしに臭氣しうきを止とめた。

勘次は小屋で卯平が塩ざけを焼くにおいをかいでは、一種のしげきを感じるとともに、卯平をねたむようないやな気持ちが、どうかするとつい起こった。

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勘次かんじは小屋こやで卯平うへいが鹽鮭しほざけを燒やく臭にほひを嗅かいでは一種しゆの刺戟しげきを感かんずると共ともに卯平うへいを嫉にくむやうな不快ふくわいの念ねんがどうかすると遂つひ起おこつた。

それだが卯平はまた、独りでむっつりとふとんにくるまっているときは、親子三人の話がよく聞こえた。

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それだが卯平うへいは又また獨ひとりでむつゝりと蒲團ふとんにくるまつて居ゐる時ときは父子おやこ三人にんの噺はなしが能よく聞きこえた。

彼は自分がいっしょにいるときはたがいにへだてがありそうでいて、自分がはなれると急に仲よさそうに笑いさざめくもののように、彼はずっと前から思っていた。

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彼かれは自分じぶんが一緒しよに居ゐる時ときは互たがひに隔へだてが有相ありさうで居ゐて、自分じぶんが離はなれると俄にはかに陸むつまじ相さうに笑語さゝやくものゝ樣やうに彼かれは久ひさしい前まえから思おもつて居ゐた。

それを聞くと彼は一種のねたみをともなういやな気持ちになって、ふとんを深くかぶってみてもなんとなく耳について、おつぎのちょっと甘えたような声や与吉のえんりょのないむじゃきな声を聞くと、一方ではまた彼らの家族と一つになりたいような気持ちも起こるし、彼はじっと目を閉じているので頭の中がよけいにもつれて、いろいろなようすがはっきりと目の先にちらついて、しみじみと悲しくなってみたりして、なおさらリューマチの痛みがじりじりと自分の体をしめつけてしまうようにも感じられた。

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其それを聞きくと彼かれは一種しゆの嫉妬しつとを伴ともなうた厭いやな心持こゝろもちに成なつて、蒲團ふとんを深ふかく被かぶつて見みても何なんとなく耳みゝについて、おつぎの一寸ちよつと甘あまえた樣やうな聲こゑや與吉よきちの無遠慮ぶゑんりよな無邪氣むじやきな聲こゑを聞きくと一方ぱうには又また彼等かれらの家族かぞくと一つに成なりたいやうな心持こゝろもちも起おこるし、彼かれは凝然ぢつと眼めを閉とぢて居ゐるので頭あたまの中なかが餘計よけいに紛糾こぐらかつて、種々いろ/\な状態じやうたいが明瞭はつきりと目先めさきにちらついてしみ/″\と悲かなしい樣やうに成なつて見みたりして猶更なほさらに僂麻質斯レウマチスの疼痛いたみがぢり/\と自分じぶんの身體からだを引緊ひきしめて畢しまふ樣やうにも感かんぜられた。

彼はそういうとき、おつぎでも与吉でも

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彼かれはさういふ時ときおつぎでも與吉よきちでも

「爺さんよう」

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「爺ぢいよう」

と呼んでくれれば、ふいとだるい首をもたげて、明るい真昼の光を見ることで、何とも知れないうれしさになみだがいっぱいにあふれることもあるのだった。

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と喚よんでくれゝばふいと懶ものうい首くびを擡もたげて明あかるい白晝はくちうの光ひかりを見みることによつて何なんとも知しれぬ嬉うれしさに涙なみだが一杯ぱいに漲みなぎることもあるのであつた。

おつぎはやかましく勘次に使われて、昼のあいだはわずかのひまもなかった。

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おつぎは八釜敷やかましく勘次かんじに使つかはれて晝ひるの間あひだは寸暇すんかもなかつた。

夜がしんとするころは、おつぎはよく卯平の小屋へ来て、なやんでいる腰をもんでやった。

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夜よがひつそりとする頃ころはおつぎは能よく卯平うへいの小屋こやへ來きて惱なやんで居ゐる腰こしを揉もんでやつた。

おつぎは卯平をいたわるのには、いくら勘次がやかましくても、いちいち断りを言ってからは出なかった。

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おつぎは卯平うへいを勦いたはるには幾いくら勘次かんじが八釜敷やかましくても一々斷ことわりをいうては出でなかつた。

勘次は、おつぎがしばらくでもいなくなると、たとえ卯平のそばにいると知っていても

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勘次かんじはおつぎが暫時しばしでも居ゐなくなると假令たとひ卯平うへいの側そばに居ゐるとは知しつても

「おつう」

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「おつう」

と例のようにはげしくどなってみるのである。

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と例いつものやうに激はげしく呶鳴どなつて見みるのである。

「ここにいたよ。そんなに呼ばれなくたっていいから。何だか、おとっつあんは」

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「此處こゝに居ゐたよ、そんなに喚よばらなくつたつてえゝから、何なんだかおとつゝあは」

おつぎが勘次をしかる声はやわらかで、そしてはっきりと勘次の耳にひびいた。

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おつぎの勘次かんじを叱しかる聲こゑは軟やはらかでさうして明瞭めいれうに勘次かんじの耳みゝに響ひびいた。

勘次は手ランプの光にただ目がひどく光るだけで、一言もなく息をひそめてしまうのである。

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勘次かんじは手てランプの光ひかりに只たゞ目めが酷ひどく光ひかるのみで一言ごんもなく屏息へいそくして畢しまふのである。

彼はまたしばらくして大戸をがらりと勢いよく開けて出ては、また少しすきまを残して大戸を引いて、ちょうど中へもどったように見せて、ほとんどかべにくっついた卯平の戸口の近くに立ってみるのである。

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彼かれは又また暫しばらくして大戸おほどをがらりと勢いきほひよく開あけて出でては又また少すこし隙間すきを残のこして大戸おほどを引ひいて丁度ちやうど内うちへ還かへつたと見みせて、殆ほとんど壁かべに接せつした卯平うへいの戸口とぐちに近ちかく立たつて見みるのである。

手ランプもつけない卯平のせまい小屋の空気は、黒くしょんぼりとして死んだようである。

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手てランプも點つけぬ卯平うへいの狹せまい小屋こやの空氣くうきは黒くろく悄然ひつそりとして死しんだ樣やうである。

勘次はぬき足でもどっては、できるだけ静かに戸を閉じる。

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勘次かんじは拔ぬき足あしして戻もどつては出來できるだけ靜しづかに戸とを閉とぢる。

とても不満な顔つきをしていても、勘次はおつぎが帰るとすぐに機げんが直って

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非常ひじやうに不平ふへいな相形さうぎやうをして居ゐても勘次かんじはおつぎが歸かへると直すぐに機嫌きげんが直なほつて

「お前はそんなに夜ふかしするもんじゃない」

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「汝わりやそんなに夜更よふかしするもんぢやねえ」

と、いたわるような、たしなめるような調子で言ってみるのである。

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と勦いたはるやうな窘たしなめるやうな調子てうしていつて見みるのである。

すると

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さうすると、

「明日のさわりにでもなりゃしまいし、かまうこともあるまいな、おとっつあんは」

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「明日あしたの障さはりにでも成なりやしめえし管かまあこたあんめえな、おとつゝあは」

と言って、おつぎは勘次をおさえつけてしまうのである。

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といつておつぎは勘次かんじを壓おしつけて畢しまふのである。

卯平は、おつぎが看病に来るときはたいてい

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卯平うへいはおつぎが看病かんびやうに來くる時ときは大抵たいてい

「お前はいいよ」

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「汝わりやえゝよ」

と言うのがふつうである。

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といふのが例れいである。

彼は勘次に遠りょするのではなくて、おつぎがぶつぶつ言われるのを心配するのだった。

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彼かれは勘次かんじに遠慮ゑんりよをするのではなくて、おつぎがぶつ/\いはれるのを懸念けねんするのであつた。

それでも卯平は、心の中でこっそりおつぎを待っていた。

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それでも卯平うへいは心こゝろ竊ひそかにおつぎを待まちつゝあつた。

彼をなやませたリューマチは、病気の性質として彼の頑丈な体から命をうばい去るほど強くはならず、起こったりやわらいだりして、彼が帰ってから二度目の冬も一日一日と短い日を刻んで行った。

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彼かれが惱なやまされた僂麻質斯レウマチスは病氣びやうきの性質せいしつとして彼かれの頑丈ぐわんぢやうな身體からだから其その生命せいめいを奪うばひ去さるまでに力ちからを逞たくましくすることはなく、起おこつたり和やはらいだりして彼かれが歸かへつてから二度目どめの冬ふゆも一日々々いちにち/\と短みじかい日ひを刻きざんで行いつた。

せまい掘っ立て小屋は、彼が初めに思いこんだほど、彼にとって幸せな所ではなかった。

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狹苦せまくるしい掘立小屋ほつたてごやは彼かれが當初はじめに思おもひ込こんだ程ほど彼かれの爲ために幸さいはひな處ところではなかつた。

一九

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一九

「ああ暑い暑い、何と暑いことかな」

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「おゝ暑あつえ/\、なんち暑あつえこつたかな」

おつたは前歯の下駄を引きずって

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おつたは前駒まへこまの下駄げたを引ひき擦ずつて

「おやおやまあ、よくこうまあ、どこにも草っ葉一つなくて、見ても晴れ晴れとするようだ」

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「おや/\まあ能よく斯かうなあ、何處どこにも草くさだら一ひとつなくつて、見みても晴々せえ/\とする樣やうだ」

と、わざとらしく言って庭に立った。

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と態わざとらしい樣やうにいつて庭にはに立たつた。

それから

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さうしてから

「たくさん穫れるだろうな、これじゃ。くきばかりでもたいした出来だな」

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「たんと穫とれべえなこんぢや、幹からばかしでもたえした出來できだな」

と言って、勘次の近くへ歩いて行った。

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といつて勘次かんじに近ちかく歩ほを運はこんだ。

勘次は庭先のくりの木のかげへ二つのうすを横にころがして、おつぎと二人で夏そばを打っていた。

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勘次かんじは庭先にはさきの栗くりの木きの陰かげへ二ふたつの臼うすを横よこに轉ころがしておつぎと二人ふたりで夏蕎麥なつそばを打うつて居ゐた。

夏そばは小麦でも打つように、ひとつかみつかんでは肩から背負うようにしてうすの腹にたたきつけると、三角形の種がまだ少し青い葉といっしょに落ちて、ほとんど真上からさす日をさえぎっているくりの木のかげから遠ざかって、はるか先のほうまでころがって行く。

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夏蕎麥なつそばは小麥こむぎでも打うつ樣やうに一ひとつ攫つかんでは肩かたから背負せおふやうにして臼うすの腹はらへ叩たゝきつけると三稜形りようけいの種子みがまだ少すこし青あをい葉はと共ともに落おちて殆ほとんど直射ちよくしやする日光につくわうを遮さへぎつて居ゐる栗くりの木きの陰かげから遠とほざかつて遙はるかに先さきの方はうまで轉ころがつて行ゆく。

小麦とちがってしめっぽい夏そばは、くきがくたくたとして、何度もたたきつけなければなかなか落ちない。

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小麥こむぎと違ちがつて濕しめつぽい夏蕎麥なつそばは幹からがくた/\として幾度いくども叩たゝきつけねばなか/\落おちない。

それでも種はふぞろいに熟しているので、まだ青いのはどうしてもしがみついている。

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それでも種子みは不規則ふきそくな成熟せいじゆくをして居ゐるので、まだ青あをいのはどうしてもしがみ附ついて居ゐる。

二人は藁でしばった大きなたばを解いては、ねばった物でも引きはがすようにつかみ取って、いっしんにいそがしくうすの腹にたたきつけた。

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二人ふたりは藁わらで縛くゝつた大おほきな束たばを解といては粘ねばつた物ものでも引ひき剥はがす樣やうに攫つかみ取とつて熱心ねつしんに忙せはしく臼うすの腹はらへ叩たゝきつけた。

庭は卯平がいつも草をむしってそうじしてあるのに、そばを打つ前にいったんていねいにほうきをかけたので、見るからにきれいになっていたのである。

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庭にはは卯平うへいが始終しじゆ草くさを挘むしつて掃除さうぢしてあるのに、蕎麥そばを打うつ前まへに一旦たん丁寧ていねいに箒はうきが渡わたつたので見みるから清潔せいけつに成なつて居ゐたのである。

勘次は暑いので、こんのじゅばんも腰のあたりへだらりと落として、こげたようなはだをさらけ出している。

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勘次かんじは暑あついので紺こんの襦袢じゆばんも腰こしのあたりへだらりとこかして、焦こげたやうな肌膚はだをさらけ出だして居ゐる。

彼はさらにくりの木のしげった葉のあいだから、針の先で突くようにぽちりぽちりともれてさす光をよけて、いつものようにいぐさのあみがさをかぶって、麻のひもをあごでぎっと結んである。

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彼かれは更さらに栗くりの木きの茂しげつた葉はの間あひだから針はりの先さきで突つくやうにぽちり/\と洩もれて射さす光ひかりを避さけて例いつもの如ごとく藺草ゐぐさの編笠あみがさを被かぶつて、麻あさの紐ひもを顎あごでぎつと結むすんである。

毎日必ず汗でぐっしょりとしめるので、その強い繊維の力がもろくなって、秋の冷たい季節までにはどうしてもとちゅうで一度は取りかえなければならないと勘次が自まんしているひもは、ほこりが加わってよごれていた。

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毎日まいにち必かならず汗あせでぐつしりと濕しめるので、其その強靱きやうじんな纎維せんゐの力ちからが脆もろく成なつて、秋あきの冷つめたい季節きせつまでにはどうしても中途ちうとで一度どは換かへねばならぬと勘次かんじが自慢じまんして居ゐる紐ひもは埃ほこりが加くははつて汚よごれて居ゐた。

勘次はおつたのすがたをちらりとかきねの入口に見たとき、いやそうに目をしかめて、知らないふりをしながら、ひたすらそばのくきに力を注いだのだった。

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勘次かんじはおつたの姿すがたをちらりと垣根かきねの入口いりぐちに見みた時とき不快ふくわいな目めを蹙しがめて知しらぬ容子ようすを粧よそほひながら只管ひたすら蕎麥そばの幹からに力ちからを注そゝいだのであつた。

おつたはやや茶色にあせた毛じゅすの洋がさを肩にかけたまま、そこらにこぼれたそばの種をふまないように気をつけながら、勘次の横に立ち止まった。

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おつたは稍やゝ褐色ちやいろに腿さめた毛繻子けじゆすの洋傘かうもりを肩かたに打ぶつ掛かけた儘まゝ其處そこらに零こぼれた蕎麥そばの種子みを蹂ふまぬ樣やうに注意ちういしつゝ勘次かんじの横手よこてへ立たち止どまつた。

おつたは何年か前に仕立てたと見える、めったにない大がらの鳴海しぼりのゆかたをかた肌ぬぎにして、左のそで口がだらりとひざの下までたれている。

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おつたは幾年いくねんか以前まへの仕立したてと見みえる滅多めつたにない大形おほがたの鳴海絞なるみしぼりの浴衣ゆかたを片肌脱かたはだぬぎにして左ひだりの袖口そでぐちがだらりと膝ひざの下したまで垂たれて居ゐる。

すそは片方をまくって、外から帯へはさんだ。

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裾すそは片隅かたすみを端折はしよつて外そとから帶おびへ挾はさんだ。

勘次はどこまでも知らないふりを保つことはできなかった。

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勘次かんじは何處どこまでも知しらぬ容子ようすを保たもつことは出來できなかつた。

彼はおつたのわざとらしい声も聞かず、また近くに立ったそのすがたを目に入れないわけには行かなかった。

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彼かれはおつたの態わざとらしい聲こゑも聞きかず、又また近ちかく立たつた其その姿すがたを眼めに映うつさない譯わけには行ゆかなかつた。

彼はそばをつかむのをやめて、おつたのほうを向いた。

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彼かれは蕎麥そばを攫つかむのを止やめておつたの方はうを向むいた。

彼はしかめていた顔に、少しきまり悪そうな表情をうかべた。

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彼かれは蹙しがめて居ゐた顏かほに少すこし極きまりの惡相わるさうな一種しゆの表情へうじやうを浮うかべた。

「何だい、姉さんら」

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「何なんでえ姊等あねら」

勘次は思わずそう言った。

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勘次かんじは無意識むいしきにさういつた。

彼の胸のあたりにわき出る汗は、わずかに曲がりながら何本もの流れる道を作っている。

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彼かれの胸むねのあたりに湧わき出いづる汗あせは、僅わづかに曲折きよくせつをなしつゝ幾筋いくすぢかの流ながるゝ途みちを作つくつて居ゐる。

そこにはそばのくきから少しずつ立つほこりがついてしめっている。

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其處そこには蕎麥そばの幹からから知しられぬ程ほどづつ立たつ埃ほこりが付ついて濕しめつて居ゐる。

じりじりと汗のあなからしぼり出る汗が、その流れの道を絶やさないで、そこだけそばのほこりを洗い流している。

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ぢり/\と汗腺かんせんから搾しぼれ出いづる汗あせが其その趾あとつけられた流ながれの途みちを絶たたないで其處そこだけ蕎麥そばの埃ほこりを洗あらひ去さつて居ゐる。

彼はおつたの前に、その暑そうな体を向けた。

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彼かれはおつたの前まへに其その暑相あつさうな身みを向むけた。

「どうしたということもないがなあ。おれはこっちのほうを通ったもんだから、ちょっと寄ってみたところさ」

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「どうしたつちこともねえがなよ、俺おらこつちの方はう通とほつたもんだから一寸ちよつくら踏ふん掛がゝつて見みた處ところさ」

おつたは何かわけのありそうな口ぶりで軽く言った。

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おつたは何なにか理由わけの有相ありさうな口吻くちつきで輕かるくいつた。

「おれはしばらくこっちへも来なかったっけが、これはおつぎじゃあるまいか。ずいぶんいいむすめになっちまったなあ。もっともこういう年ごろの子は、ちょっと見ないでいると分からなくなるな、すぐだからな。そのわりにしちゃ、おれみたいなのは年は取らないものさな」

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「俺おら暫しばらくこつちへも來きなかつたつけが、此こらおつぎぢやあんめえか、大層たえそえゝ娘むすめに成なつちやつたなあ、尤もつともはあ恁かうい手合てえはちつと見みねえでちや分わかんなく成なんな直すぐだかんな、其その割わりにしちや俺おら見みてえなもな年齡としはとんねえものさな」

おつたは立ったまま独り言のように、そして少し張り合いがなさそうに、何か話のきっかけでも求めたいというようすで、くりの木のえだからだらりとたれている南瓜のしりを見上げながら言った。

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おつたは立たつた儘まゝ獨語ひとりごとの樣やうに、さうして少すこし張合はりあひのない樣やうに、何なにか噺はなしの端緒いとぐちでも求もとめたいといふ容子ようすで栗くりの木きの梢こずゑからだらりと垂たれてる南瓜たうなすの臀しりを見上みあげながらいつた。

おつぎはこのとき、すげがさのはしにちょっと手をかけて、おつたに腰をかがめた。

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おつぎは此この時とき菅笠すげがさの端はしへ一寸ちよつと手てを掛かけておつたへ腰こしを屈かゞめた。

おつぎは白いじゅばんのえりをのぞかせて、ひとえの胸をきちんと合わせて、そしてたすきと手甲で身を固めて、暑いのにもかかわらず、女のたしなみを失わなかった。

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おつぎは白しろい襦袢じゆばんの襟えりを覗のぞかせて、單衣ひとへの胸むねをきちんと合あはせて、さうして襷たすきと手刺てさしとで身みを堅かためて、暑あついのにも拘かゝはらず女をんなの節制たしなみを失うしなはなかつた。

おつぎはそばの手を放して、小走りにかけて行った。

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おつぎは蕎麥そばの手てを放はなして小走こばしりに驅かけて行いつた。

すげがさを取って、だらりとかぶった手ぬぐいを外したとき、少し乱れた髪がぐっしょりと汗にぬれて、げっそりとやつれたもののように思われた。

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菅笠すげがさをとつてだらりと被かぶつた手拭てぬぐひを外はづした時とき少すこし亂みだれた髮かみがぐつしやりと汗あせに濡ぬれてげつそりと衰おとろへたものゝ樣やうに覺おぼえた。

おつたは開いたままの洋がさをくりの木のそばへ仰向けに置いて、黙って井戸ばたへ行って、手水だらいに一ぱいの水をくんだ。

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おつたは開ひらいた儘まゝの洋傘かうもりを栗くりの木きの側そばへ仰向あふむけに置おいて默だまつて井戸端ゐどばたへ行いつて手水盥てうづだらひに一杯ぱいの水みづを汲くんだ。

「冷たくて本当に晴れ晴れといい水じゃないか。おれのほうの井戸みたいにしゃくしでくみ出すようなんじゃ、ぼかぼかぬるくて」

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「冷つめたくつて本當ほんとに晴々せえ/\とえゝ水みづぢやねえか、俺おら方ほの井戸ゐど見みてえに柄杓ひしやくで汲くみ出だすやうなんぢや、ぼか/\ぬるまつたくつて」

おつたはまた独り言を言った。

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おつたは復また獨語ひとりごとをいつた。

勘次はそばをはなれたおつたをほうっておいて、しかも気の乗らないようにまたそばをうすに打ちつけはじめた。

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勘次かんじは側そばを去さつたおつたを棄すてゝ、然しかも氣きの乘のらぬ樣やうに又また蕎麥そばを臼うすへ打うちつけ始はじめた。

おつたは汗のしみた手ぬぐいをしきりにごしごしともみ出して、首すじのあたりから全体に何度もふいて、手水だらいの水を取りかえた。

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おつたは汗沁あせじみた手拭てぬぐひを頻しきりにごし/\と揉もみ出だして首筋くびすぢのあたりから一帶たいに幾度いくたびとなく拭ぬぐつて手水盥てうづだらひの水みづを換かへた。

しばらくして、家ののきからは青いけむりがはって、だんだんうすいけむりが後から後から暑い日に消えて行った。

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暫しばらくして家うちの廂ひさしからは青あをい煙けぶりが偃たつてだん/\に薄うすい煙けぶりが後あとから/\と暑あつい日ひに消散せうさんした。

「おとっつあん、お茶がわいたぞ」

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「おとつゝあ、お茶ちや沸わいたぞ」

おつぎは戸口へ出て、小声で勘次に告げた。

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おつぎは戸口とぐちへ出でて小聲こごゑで勘次かんじへ告つげた。

「うん」

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「うむ」

勘次は喉の底で言って

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勘次かんじは喉のどの底そこでいつて

「姉さん、お茶がわいたとう」

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「姊あね、お茶ちや沸わいたとう」

彼はまたぶすりと言って、そばの手を止めなかった。

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彼かれは又またぶすりといつて蕎麥そばの手てを止やめなかつた。

「お茶をお上がりなさいね」

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「お茶ちやおあがんなせえね」

おつぎは勘次の後につづいて、少し声を高くして言った。

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おつぎは勘次かんじの尾しりに跟ついて少すこし聲高こわだかにいつた。

おつたはぎりっとしぼった手ぬぐいを開いて、ばたばたとはたいた。

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おつたはぎりつと絞しぼつた手拭てぬぐひを開ひらいてばた/\と叩たゝいた。

井戸ばたにぼさぼさとしげりながら、昼の暑さにぐったりと葉のしおれているほうせんかの、やっとついている花が手ぬぐいのはしにふれて、ぽろっと落ちた。

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井戸端ゐどばたにぼつさりと茂しげりながら日中につちうの暑あつさにぐつたりと葉はが萎しをれて居ゐる鳳仙花ほうせんくわの、やつと縋すがつて居ゐる花はなが手拭てぬぐひの端はしに觸ふれてぼろつと落おちた。

そばには背の高いひまわりが、むしろどぎついほどいっぱいに開いて、まわりにほこっている。

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側そばには長大ちやうだいな向日葵ひまわりが寧むしろ毒々どく/\しい程ほど一杯ぱいに開ひらいて周圍しうゐに誇ほこつて居ゐる。

おいらん草の花がもさもさとしげったまま、ひまわりのそばに列をなしている。

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草夾竹桃くさけふちくたうの花はながもさ/\と茂しげつた儘まま向日葵ひまわりの側そばに列れつをなして居ゐる

「よくまあこんなに作ったっけな。おれももう、好きは好きだが、自分じゃあっちだこっちだで作れないもんだ。これをまあ、朝っぱらのすずしいうちに見たら、どれほどいいことかよ」

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「能よくまあかういに作つくつたつけな、俺おらもはあ、好すきは好すきだが自分じぶんぢやそつちだこつちだで作つくれねえもんだ、此これまあ朝あさつぱら凉すゞしい内うちに見みたらどら程ほどえゝこつたかよ」

おつたはしめった手ぬぐいを幾つかに折って手ににぎったまま、くりの木のそばに置いた洋がさをすぼめて、ゆっくりと家へ入った。

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おつたは濕しめつた手拭てぬぐひを幾いくつかに折をつて手てに攫つかんだ儘まゝ、栗くりの木きの側そばに置おいた洋傘かうもりを窄つぼめてゆつくりと家うちへ這入はひつた。

おつぎはお茶をわかす火のために汗がさらにわいたのを手ぬぐいでふいて、それから乱れた髪にくしを入れて、さらにていねいに手ぬぐいをかぶって、そうしておつたを呼んだのだった。

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おつぎは茶ちやを沸わかす火ひの爲ために汗あせが更さらに湧わいたのを手拭てぬぐひでふいて、それから亂みだれた髮かみに櫛くしを入いれて更さらに丁寧ていねいに手拭てぬぐひを被かぶつてさうしておつたを喚よんだのであつた。

おつたはどこか落ち着かないようすで、洋がさも外のかべぎわに立てかけてしきいをまたいだ。

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おつたは何處どこか落付おちつかぬ容子ようすで洋傘かうもりも外そとの壁際かべぎはに立たて掛かけて閾しきゐを跨またいだ。

「お暑うございますね、どうも」

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「お暑あつうござんすねどうも」

おつぎはたすきを取ってあいさつしながら、おつたにお茶をすすめた。

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おつぎは襷たすきをとつて時儀じぎを述のべながらおつたへ茶ちやを侑すゝめた。

三人はしばらく黙っていた。

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三人にんは暫しばらく沈默ちんもくして居ゐた。

東どなりの庭からは、大ぜいがそろってからさおで麦を打つひびきが、森をとおして、それからどろりどろりと地面をゆらして聞こえた。

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東隣ひがしどなりの庭にはからは大勢おほぜいが揃そろつて連枷ふるぢで麥むぎを打うつて居ゐる響ひゞきが、森もりを透とほして夫それからどろり/\と地ちを搖ゆすつて聞きこえた。

自分たちが立てるひびきにさそわれてさわぐ、彼らの決まったはやし声が「ほういほうい」

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自分等じぶんらが立たてる響ひゞきに誘さそはれて騷さわぐ彼等かれらの極きまつた囃はやしの聲こゑが「ほうい/\」

と一人の口から、そしてだんだんめいめいの口からいっせいにほとばしって、楽しそうに聞こえた。

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と一人ひとりの口くちからさうして段々だん/\と各自めいめいの口くちから一齊せいに迸ほとばしつて愉快相ゆくわいさうに聞きこえた。

三人の耳も同じようにさそわれたように、一種の調子を持ったとなりの庭のひびきに耳をかたむけながら、黙ったままの時間をつづけた。

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三人にんの耳みゝは同おなじく誘さそはれた樣やうに一種しゆの調子てうしを持もつた隣となりの庭にはの響ひゞきに耳みゝを傾かたむけつゝ沈默ちんもくの時間じかんを繼續けいぞくした。

おつたは茶柱の立った茶わんの中を見て、それからちょっとにっこりしてみたり、庭のほうを見たりしていた。

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おつたは茶柱ちやばしらの立たつた茶碗ちやわんの中なかを見みてそれから一寸ちよつと嫣然につこりとして見みたり、庭にはの方はうを見みたりして居ゐた。

おつたが庭を見ると、勘次は何年も会わなかった姉のようすを、さすがにしみじみと見るのだった。

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おつたが庭にはを見みると勘次かんじは幾年いくねんも遭あはなかつた姊あねの容子ようすを有繋さすがにしみ/″\と見みるのであつた。

おつたは五十をいくつもこえている。

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おつたは五十を幾いくつも越こえて居ゐる。

小がらな、少しくりくりと丸みのある顔は、年ほどには見えないにしても、やっと深いしわが刻んでいるのに、髪はおそろしくつやつやとしている。

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小柄こがらな少すこしくり/\と丸まるみを持もつた顏かほは、年齡程としほどには見みえないにしても漸やうやく深ふかい皺しわが刻きざんで居ゐるのに、髮かみは恐おそろしくつや/\として居ゐる。

おつたは髪を染めていた。

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おつたは髮かみを染そめて居ゐた。

しかし薬の力は、はだをとおしてその下にまでは行きとどかなかった。

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然しかし藥くすりの力ちからは肌膚はだを透とほして其その下したにまで及およぼすことは出來できなかつた。

髪は染めてからしばらくたったと見えて、はだについたわずかな部分が、髪ぜんぶをそっくり持ち上げたように、ほのかに白く見えていた。

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髮かみは染そめてから暫しばらく經たつたと見みえて一帶たいに肌膚はだについた僅わづかの部分ぶぶんが髮かみの凡すべてをそつくり突つき扛あげた樣やうに仄ほのかに白しろく見みえて居ゐた。

勘次はただ音を立てながら、なかなか冷めない熱い茶わんをすすった。

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勘次かんじは只たゞ響ひゞきを立たてながら容易よういに冷さめぬ熱あつい茶碗ちやわんを啜すゝつた。

おつぎも、何年か会わないおばの人なつっこいような、わけの分からないようなようすをぬすみ見た。

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おつぎも幾年いくねんか逢あはぬ伯母をばの人ひとなづこい樣やうで理由わけの分わからぬ樣やうな容子ようすを偸ぬすみ視みた。

「夏そばでも穫れるのは、こういうぐあいじゃつぶも大きいようだな」

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「夏蕎麥なつそばでもとれんなかうい鹽梅あんべえぢや粒つぶも大えけえ樣やうだな」

おつたは庭を見たまま、また真っ先に目に入るそばについて言った。

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おつたは庭にはを見みた儘まゝ復また第だい一に目めに觸ふれる蕎麥そばに就ついていつた。

こちらを向いている二つのうすの腹が、まだ先のやわらかな夏そばのくきでうす青く染まっているのが見えている。

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此方こちらへ向むいて居ゐる二ふたつの臼うすの腹はらが、まだ先さきの軟やはらかな夏蕎麥なつそばの莖くきで薄青うすあをく染そまつたのが見みえて居ゐる。

「ばかに降ってばかりいたせいか、くきばかりのびちまって。そんだが穫れないほうでもあるまいが、夏そばが穫れるようじゃ世の中はよくないというから、こんなものはどうでもいいようなもんだが」

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「馬鹿ばかに降ふつてばかし居ゐた所爲せゐか幹からばかし延のびつちやつて、そんだがとれねえ方はうでもあんめえが、夏蕎麥なつそばとれる樣やうぢや世柄よがらよくねえつちから、恁こんなもなどうでもえゝやうなもんだが」

勘次の言い方はぎこちなかった。

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勘次かんじのいひ方かたはこそつぱかつた。

庭のあぶらぜみが、暑くなれば暑くなるほどひどくじりじりといりつけるだけで、しんとした村のはしで、久しぶりに会った姉と弟はこうして、ただよそよそしく向かい合った。

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庭にはの油蝉あぶらぜみが暑あつくなれば暑あつくなる程ほど酷ひどくぢり/\と熬いりつけるのみで、閑寂しづかな村落むらの端はしに偶たま/\遭あうた姊弟きやうだいはかうして只たゞ餘所々々よそ/\しく相對あひたいした。

「本当に、おれはさっきからそう思ってるんだが、りっぱな花じゃないかな」

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「本當ほんとに俺おら先刻さつきからさう思おもつてんだが立派りつぱな花はなぢやねえかな」

おつたは庭先の草花に、また話をつづけた。

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おつたは庭先にはさきの草花くさばなに復また噺はなしを繼ついだ。

「うん、そんだが、ろくにありもしない肥料ばかり使われて」

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「うむ、そんだが碌ろくに有ありもしねえ肥料こやしばかし使つかあれて」

「お前が植えたんじゃないのか」

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「おめえ植うゑたんぢやねえのか」

「なあに、爺さんがあっちこっちから持って来て植えたのよ。去年はそんでも、そこらへとうもろこしくらい作れたっけが、これ、じゃまだとも言えないしなあ」

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「なあに爺樣ぢいさまそつちこつちから持もつて來きて植うゑたてたのよ、去年きよねんはそんでも其處そこらへ玉蜀黍位たうもろこしぐれえ作つくれたつけが、此これ、邪魔じやまだとも云いはんねえしなあ」

「おれはしばらく来ないから知らなかったっけが、そんでも野田から引っこんでか」

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「俺おら暫しばらく來きねえから知しらなかつたつけが、そんでも野田のだから引ひつこんでか」

「うん、もう二年になるよ」

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「うむ、はあ二年ねんに成ならえ」

「よっぽどの年だろうが、丈夫かい、それでも」

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「餘よつ程ぽどの年齡としだつぺが丈夫ぢやうぶけえそんでも」

「丈夫なことは、おどろくほど丈夫だが、何でも自分が好きなら働くようすで、そこらをほっつき歩いちゃこづかいくらいは取ってるんだな、ぐあいしだいが」

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「丈夫ぢやうぶなこたあ、魂消たまげる程ほど丈夫ぢやうぶだが何なんでも自分じぶんの好すきなら働はたらく容子ようすで、其處そこらほうつき歩あるいちや小遣錢位こづけえぜねぐれえはとつてんだな鹽梅あんべえしきが」

「そんじゃいそがしいときにはちっとは手伝ってもらえてよかろうな」

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「そんぢや忙いそがしい時ときにやちつたあ手傳てつだつて貰もらへてよかんべな」

「何だ、一つ手伝うなんてありゃしまいし。それからもう、こっちもたのみもしないが」

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「なんだら一つ手傳てつだあなんちや有ありやしめえし、それからはあ、此方こつちも頼たのんもしねえが」

「もっともそう言えば、若いころでもおれが知ってからは、仕事は上手でやるとなればみっしりやるようだったっけが、好きじゃないようすだったっけのさな」

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「尤もつともさういへば壯さかりの頃ころでも俺おらあ知しつてからは仕事しごとは上手じやうずで行やると出だしちやみつしら行やる樣やうだつけが、好すきぢやねえ鹽梅あんべえだつけのさな」

「それどころじゃないや。おれといっしょにいるのさえいやなんだろうが、別々になっちまったな。つまらない、よけいなお金なんぞ使って。おれだって大変な手間をかけたな。なあに、おれは爺さんさえちっとその気でいてくれさえすりゃ、いくらでも面倒を見るというんだが、どういうつもりなんだか、おれには分からないが」

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「其それ處どこぢやねえや、俺おらと一緒しよに居ゐんのせえ厭やなんだんべが、別々べつ/\に成なつちやつたな、つまんねえ、餘計よけいな錢ぜねなんぞ遣つかつて、俺おらだつて大えけえこと手間てま打ぶつこんだな、なあに俺おら爺樣ぢいさませえちつと其その積つもりで行やつて呉くれせえすりや、幾いくらでも面倒めんだう見みるつちつてんだが、如何どういふ料簡れうけんのもんだか俺おらがにや分わかんねえが」

「そんじゃ、このそばの小屋じゃあるまい。おれはさっき見たときは、肥料小屋だとばかり思ってたな。本当に、こういう所へもの好きな話よな。何でも世の中を渡るならだれでも同じこと、跡取りの気分を悪くしないようにやらなくちゃかなわないよ。そんだが、それも性分でなあ、他人からじゃ仕方がないものよ」

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「そんぢや、此この側そばな小屋こやぢやあんめえ、俺おら先刻さつき見みた時ときや肥料小屋こやしごやだとばかし思おもつてたな、本當ほんとにかうだ處とこへ醉狂すゐきやうな噺はなしよな、なんでも世よを渡わたしちや誰たれでも同おなじこと相續人さうぞくにんの氣味きあぢ惡わるくしねえ樣やうにやんなくつちや畢をへねえよ、そんだがそれも性分しやうぶんでなあ、他ほかからぢやしやうねえものよ」

「おれだって、これで一人増えちゃ増えただけ、麦や米の心配からしなくちゃならないんだから、そのつもりでいてくれなくちゃ。これで気分としてはあんまり面白くないからな。毎日にがむしをかみつぶしたような顔ばかりされたんじゃ、いやになっちまうぞ、本当に」

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「俺おらだつてこんで一人ひとり殖ふえちや殖ふえた丈だけに麥米むぎこめの心配しんぺえからして掛かゝんなくつちやなんねえんだから、其その積つもりで居ゐてくんなくつちや、此こんで心持こゝろもちぢや餘あんまり面白おもしろかねえかんな、毎日まいにち苦蟲にがむし喰くつ潰ちやしたやうな面つらつきばかしされたんぢや厭やんなつちまあぞ、本當ほんたうに」

「そりゃそうにも何にもよ。他人でさえ、これでやわらかい言葉でもかけられると、後じゃほしくなるような物でも出す気にもなるもんだからなあ」

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「そりやさうにも何なんにもよ、他人たにんでせえこんで軟やつけえ言辭ことばでも掛かけられつと、後あとぢや欲ほしく成なるやうな物ものでも出だす料簡れうけんにもなるもんだかんなあ」

おつたはこう言いながら、さっきからにわとりのねぐらの下にある二つの俵に目を注いでいた。

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おつたは斯かういひながら先刻さつきから雞とりの塒とやの下したに在ある二俵へうの俵たわらへ目めを注そゝいで居ゐた。

「そんだがお前も、たいした働きだと見えるな。こんなに俵までちゃんとして。たいがいの百姓じゃお前、こうはいかないぞ。おれはお世辞を言うわけじゃないが」

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「そんだがおめえもたえした働はたらきだと見めえんな、かうえに俵たわらまでちやんとして、大概てえげえな百姓ひやくしやうぢやおめえ此この手てにや行いかねえぞ、俺おら世辭つやいふわけぢやねえが」

勘次はやっと話に引きこまれたように、このときほほえみをもらして

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勘次かんじは漸やうやく噺はなしに吊つり込こまれた樣やうに此この時とき微笑びせうを洩もらして

「おれも今になってからじゃこれ、話するようなもんだが、ひとしきりは泣いたからな、本当に。これでもこれくらいにするにはやっとこさだぞ」

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「俺おらも今いまんなつてからぢやこれ、噺はなしするやうなもんだが一ひとしきりや泣ないたかんな本當ほんたうに、こんでも此この位くらえにすんにやゝつとこせえだぞ」

と言った。

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といつた。

「おつぎも働けそうだな、きびきびとして。さっきおれがそばを打ってるのを見ていても、気持ちがいいようだったっけよ。仕事は何でも身なりのいいもんでなくちゃなあ。これもお前が仕込んだせいだろうが」

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「おつぎも働はたらけ相さうだな、きり/\としてなあ、先刻さつき俺おら蕎麥そば打ぶつてんの見みてゝも心持こゝろもちえゝ樣やうだつけよ、仕事しごとはなんでも身拵みごしれえのえゝもんでなくつちやなあ、此これもおめえが仕込しこみの所爲せゐだんべが」

おつたはそう言って、また

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おつたはさういつて又また

「そりゃそうと、おっかさんにそっくりだなあ」

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「そりやさうとおつかさまに其儘そつくりだなあ」

と、そばにいたおつぎに目を移した。

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と側そばに居ゐたおつぎに目めを移うつした。

おつぎはそれを聞くとともに、身をよけるように手おけを持って庭へ出た。

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おつぎはそれを聞きくと共ともに身みを避さける樣やうに手桶てをけを持もつて庭にはへ出でた。

「おれもこれで、女房に死なれたばかりのころには、これも役に立たないから泣き通したよ」

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「俺おらもこんで嚊かゝあに死しなれた當座たうざにや此これも役やくに立たたねえから泣なきぬいたよ」

勘次は急にしんみりとして言った。

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勘次かんじは俄にはかにしんみりとしていつた。

おつたはお品のことが勘次の口から出たとき、かすかに苦笑いして

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おつたはお品しなのことが勘次かんじの口くちから出でた時とき微かすかに苦笑くせうして

「ほんに、おれはあのときには来られなかったっけが、遠くのほうへ行ってたもんだから。お前にはもう、悪く思われるだろうとは思ってたのよ」

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「ほんに、俺おら彼あん時ときにや來きねえつちやつたつけが、遠とほくの方はうへ行いつてたもんだから、おめえにやはあ惡わるく思おもはれべえたあ思おもつてたのよ」

おつたはやっとのことで、しかも表向きは何でもないように言ってしまった。

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おつたは漸やうやくのことで然しかも表面へうめんは事こともなげにいつて畢しまつた。

「おれはさっきから見てるんだが、道具はよく大事にすると見えて、かまなんぞでも光ってることな。それによく、こう三日月みたいな形に減らせたもんだな。とぎ方もよっぽど気をつけなくちゃ、こうはできないな。道具もこうすりゃいつまでも使えて安いものさな」

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「俺おら先刻さつきから見みてんだが道具だうぐは能よく大事でえじにすつと見みえて鎌かまなんぞでも光ひかつてつことなあ、それに能よくかう三日月姿みかづきなりに減へらせたもんだな、研とぎ方かたも餘よつ程ぽど氣きをつけなくつちやかうは出來できねえな、道具だうぐも斯かうすりや何時いつまでゝも使つかへて廉やすえものさな」

おつたは少し慌てたように、しかもなるべく落ち着こうとしながら話をそらした。

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おつたは少すこし慌あわてた樣やうに然しかも成なるべく落附おちつかうと勉つとめつゝ噺はなしを外そらした。

「くわもたいしたもんじゃないかな」

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「唐鍬たうぐはもたえしたもんぢやねえかな」

おつたはわざとくわのそばに立った。

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おつたは態わざと唐鍬たうぐはの側そばに立たつた。

「うん、そんでもおれのみたいなのは、めったに持ってる者もないからな」

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「うむ、そんでも俺おらが見みてえなゝ、滅多めつた持もつてるもなねえかんな」

「どうするんだい、こんな大きいの。持ち上げるだけでも大変なようじゃないかい」

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「どうすんでえこんな大えけえの、引ひつ立たてるばかしでも大變たえへんなやうぢやねえけ」

「そんだって姉さん、これを見ろな」

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「そんだつて姊あねは此これ見みろな」

勘次は手のひらをおつたの前に出した。

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勘次かんじは掌てのひらをおつたの前まへへ出だした。

百姓にしてはわりと小さな手は、はれたかと思うほどぽつりとふくれて、どれほどかしの柄をつかんでも、けっして豆ができるはずの手でないことをはっきりと見せている。

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百姓ひやくしやうにしては比較的ひかくてき小ちひさな手ては腫はれたかと思おもふ程ほどぽつりと膨ふくれて、どれ程ほど樫かしの柄えを攫つかんでも決けつして肉刺まめを生しやうずべき手てでないことを明あきらかに示しめして居ゐる。

「これだから、知らない者は、おれが手をかざしてると、どうしたんだいなんて聞くから、おれはこんなにはれちまって痛くて仕方がないんだなんて、そうっと出して見せると、なるほどこりゃ痛かろうなんておどろくらあな。くわなんざお金を出しさえすりゃいくらでもあるが、この手のひらはないぞ。二年三年くわを持ったんじゃ、こうはならないからな。おれのはくわの柄へすっかりくっついちまったんだから。これで毎年四、五反歩くらいは開こんするんだから」

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「此こんだから知しらねえもな俺おれ手懷てぶところしてつと、如何どうしたんでえなんて聞きくから俺おらかういに腫はれつちやつて痛いたくつてしやうねえんだなんて、そろうつと出だして見みせつと、成なる程ほどこりや痛いたかんべえなんて魂消たまげらあな、唐鍬たうぐはなんざ錢ぜね出だしせえすりや幾いくらでも有あんが、此この手てつ平ぴらはねえぞ、二年ねん三年ねん唐鍬たうぐは持もつたんぢや恁かうは成なんねえかんな、俺おらがな唐鍬たうぐはの柄えさすつかりくつゝいちやつたんだから、こんで毎年まいとし四五反歩位たんぶりぐれえは打開墾ぶちおこすんだから」

勘次はしかめた顔のすじがゆるんだようになって、おつたの前でほこった。

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勘次かんじは蹙しがめた顏かほの筋すぢがゆるんだ樣やうになつておつたの前まへに誇ほこつた。

「旦那の山林を開こんしちゃうまいのよ。場所によっちゃ陸稲も作れるし。おれはこれでも三、四反歩ずつは作ってるんだが、今年はいいぐあいの降りだから大丈夫だとは思ってるのよ。どういうもんだか、以前は陸稲というともう、穫れないようなもんだったっけがな」

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「旦那だんなの山林開墾やまおこしちやうめえのよ、場所ばしよによつちや陸稻をかぼも作つくれるし、俺おらこんでも三四反歩たんぶりづつは作つくつてんだが、今年ことしはえゝ鹽梅あんべえな降ふりだから大丈夫だえぢよぶだたあ思おもつてんのよ、どうえもんだか以前めえかたは陸稻をかぼつちとはあ、とれねえ樣やうなもんだつけがな」

「そんなに作っちゃ、たいしたもんじゃないかな」

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「其麽そんなに作つくつちや大層たえそなもんぢやねえかな」

おつたはおどろいたように言った。

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おつたは驚おどろいたやうにいつた。

「陸稲も土地が新しいうちはできるもんだわ。ほの出たわりには量は取れないが、そんでも開こんしたばかりには草は出ないから手間が要らないしな。それに肥料というのはなんぼもしないんだから。もっとも三年も作っちゃそうはいかないが、そのときは元の山林になるんだから、こわいことも何にもないのよ」

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「陸稻をかぼも地ぢが珍めづらしい内うちは出來できるもんだわ、穗ほの出でた割わりにや分ぶは拔ぬけねえが、そんでも開墾おこしたばかしにや草くさは出でねえから手間てまが要えらねえしな、それに肥料こやしつちやなんぼもしねえんだから、尤もつとも三年ねんも作つくつちや其その手てにや行いかねえが、其そん時ときや以前もとの山林やまになんだから可怖おつかねえこともなんにもねえのよ」

「よっぽど穫れるだろうな、三、四反歩も作っちゃなあ」

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「餘よつ程ぽどとれべえな、三四反歩たんぶりも作つくつちやなあ」

「これでほの出るころに雨でもいいぐあいなら、一反で四俵なんざどうしても穫れると思ってるのよ」

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「こんで穗ほの出際でぎはに雨あめでもえゝ鹽梅あんべえなら、反たんで四俵へうなんざどうしてもとれべと思おもつてんのよ」

「陸稲とも言えないもんだな。以前とちがって今の時代じゃそうだから、これで場所によっちゃ、百姓にもたいした運不運があるのよなあ。おれのほうみたいにこう水で持って行かれてばかりいる所もあるのに、山林の中で米が穫れるなんて」

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「陸稻をかぼとも云いはんねえもんだな、以前めえかたと違ちがつて今いまの時世ときよぢやさうだからこんで場所ばしよによつちや、百姓ひやくしやうにもたえした起おき轉ころびがあるのよなあ、俺おら方はう見みてえに洪水みづで持もつてかれてばかし居ゐつ處とこも有あんのに山林やまんなかで米こめとれるなんて」

「そうよ、ここらはこう水の心配はそんなにしないでもいい所だからな」

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「さうよ、此處こゝらは洪水みづの心配しんぺえはさうだにしねえでもえゝ處とこだかんな」

勘次は、これまで二人の仲がどうであったにしても、たまたま会ったおつたに向かってだんだん話しているうちには、同じお母さんから生まれたきょうだいのつながりが、彼の卑しい心の底を開いて、それをかくすにはあまりに彼を無防備にさせたのだった。

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勘次かんじは從來これまで其その間あひだがどうであつたにしても偶然ぐうぜん逢あつたおつたに對たいしてだん/\噺はなして居ゐるうちには同おなじ乳房ちぶさに縋すがつた骨肉こつにくの關係くわんけいが彼かれの淺猿さもしい心こゝろの底そこを披瀝ひらいてそれを陰蔽いんぺいするのには餘あまりに彼かれを放心うつかりとさせたのであつた。

「おつう、あのらっきょうでも出してみな。土用前に取ってすぐつけたんだから、もうよかろう」

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「おつう、彼あの薤らつきやうでも出だして見みせえ、土用前どようめえに採とつて直すぐ漬つけたんだから、はあよかんべえ」

勘次は気持ちよくおつぎに言いつけた。

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勘次かんじは快こゝろよくおつぎに命めいじた。

おつぎは古いしょうゆだるから白づけのらっきょうを片口に出して、おつたのそばへすすめた。

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おつぎは古ふるい醤油樽しやうゆだるから白漬しろづけの薤らつきやうを片口かたくちへ出だしておつたの側そばへ侑すゝめた。

勘次は一つつまんでかりかりとかじった。

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勘次かんじは一つ撮つまんでかり/\と噛かじつた。

少し丸みのあるほおに絶えずほほえみをうかべて、勘次の言うことを聞いていたおつたは、何かさらに言おうとしてちょっとためらっているようすが見えた。

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少すこし丸まるみがかつた頬ほゝに絶たえず微笑びせうを含ふくんで勘次かんじのいふことを聞きいて居ゐたおつたは何なにか更さらにいはうとして一寸ちよつと躊躇ちうちよしつゝある容子ようすが見みえた。

勘次もおつぎも、それは知らなかった。

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勘次かんじもおつぎもそれは知しらなかつた。

おつたは、いっぱいに注いである茶わんへまたお茶を注ごうとして、急にやめた。

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おつたは一杯ぱいに注ついである茶碗ちやわんへ又また茶ちやを注つがうとして俄にはかに止やめた。

おつたは茶わんをぐっと飲み干した。

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おつたは茶碗ちやわんをぐつと嚥のみ干ほした。

「これできょうだいのいい話を聞くのは悪くないもんだよ。さすがに自分ばかりよくて、ほかのきょうだいには構わないというものもないからな」

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「こんで同胞きやうでえのえゝ噺はなし聞きくな惡わるかねえもんだよ、有繋まさか自分じぶんばかしよくつて他ほかの同胞きやうでえにや管かまあねえつちいものもねえかんな」

と言って、庭のべんじょへ立って、それからまた上がりがまちに腰を下ろした。

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といつて庭にはの便所べんじよへ立たつてそれから再ふたゝび上あがり框がまちに腰こしを卸おろした。

「おれはお前にちっと相談に乗ってもらいたいと思うことがあって来たんだったがなあ」

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「俺おらおめえにちつと相談さうだんに乘のつて貰もれえてえと思おもふこと有あつて來きたんだつけがなよ」

おつたはわざとあらたまったようすでなく言いかけた。

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おつたは態わざと改あらたまつた容子ようすでなくいひ掛かけた。

「何だろう」

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「何なんだんべ」

勘次はふっといつもの自分にもどろうとして、例の不安そうな目を見開いておつたを見た。

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勘次かんじはふつと彼かれの平生へいぜいに還かへらうとして例いつもの不安ふあんらしい目めを睜みはつておつたを見みた。

「なあに、たいしたことじゃないが、目の見えない息子に嫁を世話されるもんだから、どうしたもんだろうかと思ってよ」

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「なあにたえしたこつちやねえが、盲目めくらの野郎やらうげ嫁よめ世話せわされるもんだからどうしたもんだんべかと思おもつてよ」

「姉さんがもらいたけりゃ、他人には構うことはあるまいな」

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「姊あね貰もらへたけりや他人ひとにや管かまあこたあ有あんめえな」

勘次は、おつたがゆっくり言うのが終わらないうちに、そっけなく言った。

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勘次かんじはおつたがゆつくりといふのが畢をはらぬのにそつけなくいつた。

「そう言っちまえばそうだがなあ。そんだって、きょうだいに一言の話もないなんて後で文句を言われても、黙ってちゃお前、口が開けまいな。そんだから、おれはお前に耳打ちしておこうと思ったんだな」

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「さう云ゆつちめえばさうだがなよ、そんだつて同胞きやうでえに一噺ひとはなしもねえなんて後あとで文句もんく云ゆはれても、默だまつてちやおめえ口くちが開あけめえな、そんだから俺おらおめえげ耳打みゝうちして置おくべと思おもつたんだな」

「おれは何も文句を言う筋合いはないな」

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「俺おら何なにも不服ふふくいふ席せきはねえな」

勘次は少し安心したらしく、こう軽く言ってのけた。

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勘次かんじは少すこし安心あんしんしたらしく、恁かう輕かるくいひ退のけた。

「そんならいいがなあ。あれももう二十七になるんだから、おれもこれでまあ心配はしてたんだが、自分でもそれ、足りない足りないの心配が絶えないもんだから、思ってはいても手が出ないのよ。自分の子どものことを、お前、まったくどうなってもかまわないとは思えないよ、これで」

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「そんだらえゝがなよ、彼あれもはあ廿七に成なるんだから俺おらもこんでまあ心配しんぺえはしてたんだが、自分じぶんでもそれ無ねえ足たんねえの心配しんぺえが絶たえねえもんだから、思おもつちや居ゐても手てが出でねえのよ、自分じぶんの餓鬼がきのことおめえ全然まるつきりどうなつても管かまあねえたあ思おもへねえよこんで」

勘次は足の先で土間の土をこすりながら、黙っておつたの言うのを聞いた。

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勘次かんじは足あしの先さきで土間どまの土つちを擦こすりながら默だまつておつたのいふのを聞きいた。

「あれもそれ、とちゅうで目が見えなくなったんだから、それまでに働いて体はできてるし、お前も知ってるとおり、あれでいて仕事もできるしするもんだから、ありがたいことに、体が不自由でも嫁を世話しようという人もあるようなわけさなあ。何でも人間は働き次第だよ。お前だって、働くというのでばかり他人にはよく言われてるじゃないかい。そんで、おれもその女は見たが、女はそれ、器量は悪いがな。そんだって目が見えないんだもの、顔立ちを見るわけじゃなし、心根さえよけりゃいいと思って」

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「彼あれもそれ中途ちうとで盲目めくらに成なつたんだから、それまでに働はたらいて身體からだは成熟できてるしおめえも知しつてる通とほりあんで居ゐて仕事しごとも出來できるしするもんだから、難有ありがてえことに不具かたわでも嫁よめ世話せわすべつちいものもあるやうな譯わけさなあ、何なんでも人間にんげんは働はたらき次第しでえだよ、おめえだつて働はたらくんでばかり他人ひとにや好よく云ゆはれてべえぢやねえけえ、そんで俺おれも其その女をんなは見みたが、女をんなはそれ惡わりいがな、そんだつて盲目めくらだもの目鼻立めはなだち見みべえぢやなし、心底しんてえせえよけりやえゝと思おもつてな」

おつたはしきりに、勘次の心の底からの賛成を得ようとした。

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おつたは頻しきりに勘次かんじの衷心ちうしんからの同意どういを得えようとした。

「そりゃよかろうな、そんじゃ」

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「そりやよかんべなそんぢや」

勘次はただかんたんにそう言った。

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勘次かんじは只たゞ簡單かんたんにさういつた。

「そんで嫁を持たせるにしても、せっかくこっちにいて働いてるんだから、おれは自分の所へは連れて行くわけには行かないと思ってな。何と言ってもそれ、知ってる所でなくちゃ、目が見えないから面倒を見てくれるという人もあるまいしなあ。それからおれは、そこのところも心配していたんだが、ちょうどこの村にいいぐあいに貸してもいいという家があるというもんだから、ついでだと思って見て来たが、ここからじゃあっちのほうの、それ、知ってるだろう、しきって貸すというんだから、おれはそこへ入れたいと思って。おそるおそる聞いてみたんだが、借りるのには保証人がなくちゃだめだというから、近くではあるし、お前に保証に立ってもらいたいと思ってな」

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「そんで娵よめ持もたせるにしても折角せつかくこつちに居ゐて働はたらいてんだから俺おら自分じぶんの處とこへは連つれて行ゆく譯わけにや行いかねえと思おもつてな何なんちつてもそれ、知しつてつ處とこでなくつちや盲目めくらだから面倒めんだう見みてくれるつち人ひともあんめえしなあ、それから俺おら其處そこんとこも心配しんぺえして居ゐたんだが、丁度ちやうど此この村落むらにえゝ鹽梅あんべえ貸かしてもえゝつち家うち有あるつちもんだから、序ついでだと思おもつて見みて來きたが、此處こゝからぢやあつちの方はうのそれ知しつてべえ仕切しきつて貸かすつちんだから、俺おら其處そこさ入えれてえと思おもつて、おそこそ聞きいて見みたんだが借かりんのにや保證人ほしようにん無なくつちや駄目だめだつちから、近ちかくぢやあるしおめえに保證ほしように立たつて貰もれえてえと思おもつてな」

「いやだよ、おれはそんなこと」

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「厭やだよ俺おらそんなこと」

勘次は慌てたように言った。

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勘次かんじは慌あわてたやうにいつた。

「そんじゃ仕方がないな。どうしてだろうな、また。せっかくあれの身も落ち着くんだから、そうしてくれればいいんだがな」

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「そんぢや仕しやうねえな、どうしてだんべなまた、折角せつかく彼あれが身みも堅かたまんだからさうして呉くれゝばえゝんだがな」

おつたはがっかりして投げやりな態度で言った。

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おつたはがつかり投なげ掛かけた態度たいどでいつた。

「ばかを言え、家賃でもとどこおった日には、おれが弁償しなくちゃなるまいし。それこそおれの暮らしなんざつぶれても間に合いやしない。いやにも何にも」

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「箆棒べらぼう、家賃やちんでも滯とゞこほつた日ひにや、俺おれ辨償まよはなくつちや成なりやすめえし、それこさあ俺おらが身上しんしやうなんざ潰つぶれても間まにやえやしねえ、厭やだにもなんにも」

「そんなこと言ったってお前、あれだって独りでいるんじゃなし、持つ物を持って働くのに、三十銭や五十銭の家賃がはらえないこともあるまいな。それも何なら、お前、一月でも二月でもようすを見て、そのとき見こみがなけりゃ手を引いてもかまいやしないな」

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「そんなこと云ゆつたつておめえ、彼あれだつて獨ひとりでゝも居ゐんぢやなし持もつもの持もつて働はたらくのに三十錢せんや五十錢せんの家賃やちんの拂はらへねえことも有あんめえな、それも何なんならおめえ一月ひとつきでも二月ふたつきでも見試みためして、そん時とき見込みこみなけりや身拔みぬけしても管かまえやしねえな」

「そんでもいやだよ。おれはそういう話じゃ聞きたくもない」

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「そんでも厭やだよ、俺おらさうい噺はなしぢや聞ききたくもねえ」

勘次はそっけなく言って、すいと庭へ立って、また夏そばに手をかけた。

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勘次かんじは素氣すげなくいつてすいと庭にはへ立たつて復また夏蕎麥なつそばへ手てを掛かけた。

「ひどくいそがしいこったな」

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「酷ひどく忙いそがしいこつたな」

おつたは口を引きしめて、勘次の後ろすがたを見た。

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おつたは口くちを引ひき締しめて勘次かんじの後姿うしろすがたを見みた。

「いそがしいとも。田の草もまだ取っちゃいないんだ。土用になってからだって、いくらも照りやしまいし。降ってばかりいるから見ろ、あれ、となりの旦那らだって今ごろ麦を打ってるさわぎだあ。百姓はこのころの季節によけいなひまなんざないから」

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「忙いそがしいとも田たの草くさもまあだ掻かきやしねえんだ、土用どようになつてからだつて幾いくらも照てりやしめえし、降ふつてばかし居ゐつから見みろうあれ、隣となりの旦那等だんなたちだつて今頃いまごろ麥むぎ打ぶつてる騷さわぎだあ、百姓ひやくしやうは此この頃ごろの時節じせつに餘計よけいな暇ひまなんざねえから」

勘次はつぶやくように言った。

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勘次かんじは呟つぶやくやうにいつた。

となりの庭では、さっきよりさらに勢いがついたように、からさおのひびきがはやし声とともに、森をもれて聞こえた。

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隣となりの庭にはでは先刻さつきよりも更さらに勢いきほひがついた樣やうに連枷ふるぢの響ひゞきが囃はやしの聲こゑを伴ともなひつゝ森もりを洩もれて聞きこえた。

「うん、たいしたあいさつだな。おれはまた、姉と弟というのはそんなもんじゃあるまいと思ってたんだったな」

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「うむ、たえした挨拶あいさつだな、俺おらまた姊弟きやうでえつちやさうえもんぢやあんめえと思おもつてたんだつけな」

おつたは少しむっとしたようすを見せた。

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おつたは少すこし勃然むつとした容子ようすを見みせた。

「姉さんらの言うことを聞いたっくらい、どんなことをされるか分からないから」

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「姊等あねらが云いふこと聽きいたつ位くれえどんなことされつか分わかんねえから」

勘次はやけになってそばのくきを打ちつけ打ちつけしながら言った。

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勘次かんじは自棄やけに蕎麥そばの幹からを打うちつけ/\しつゝいつた。

彼はそうして、一目もおつたを見なかった。

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彼かれは而さうして一目ひとめもおつたを見みなかつた。

「どんなことをするって、おれは泥棒はしないぞ、勘次」

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「什麽どんなことするつて俺おら泥棒どろぼうはしねえぞ、勘次かんじ」

その切れた目じりに一種のすごみを見せておつたが立ったとき、卯平はのっそりと戸口に大きな体を運んで来た。

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其その切きれた目尻めじりに一種しゆの凄味すごみを持もつておつたが立たつた時とき、卯平うへいはのつそりと戸口とぐちに大おほきな躯幹からだを運はこばせた。

卯平はおつたを見て、いつものようにくぼんだ茶色の目をしかめるようにした。

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卯平うへいはおつたを見みて例いつもの如ごとく窪くぼんだ茶色ちやいろの目めを蹙しがめる樣やうにした。

「おや、こっちのおとっつあん、しばらくでしたねどうも。ご機げんよろしゅうございますね」

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「おやこつちのおとつゝあん、暫しばらくでがしたねどうも、御機嫌ごきげんよろしがすね」

おつたは、そらぞらしいほど打って変わった調子で言った。

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おつたはそら/″\しい程ほど打うつて變かはつた調子てうしでいつた。

「まあこっちへでも来なさいね」

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「まあこつちへでも來きさつせえね」

卯平は隠居へおつたを案内した。

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卯平うへいは隱居いんきよへおつたを導みちびいた。

「おれは今、外から帰って来たばかりだが、何でしょうね」

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「俺おらいま外ほかから歸けえつて來きたばかしだが、何なんでがすね」

卯平はぶすりと聞いた。

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卯平うへいはぶすりと聞きいた。

「ほんにもう、他人には聞かせたくもないこったがねえ。わしもそれ、目の見えない息子が一人いるんだが、これが三十近くにもなるものをねえ。ただほうっておけないから嫁を取らせようと思って、いいぐあいの話がそれ、来たもんだから、勘次にも一言話そうと思って来たところなのさ。わしもこれで、義理を欠くのはいやだからね」

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「ほんにはあ、他人ひとにや聞きかせたくもねえこつたがねえ、わしもそれ盲目めくらの野郎やらうが一人ひとりあんだが、これ三十近ちかくにもなるものをねえ、只たゞ打棄うつちやつても置おけねえから嫁よめとらせべと思おもつて、えゝ鹽梅あんべえのがそれ口くち掛かゝつたもんだから勘次かんじげも一噺はなしすべと思おもつて來きた處ところなのさ、わしもこんで義理ぎりは缺かくの厭やだかんね」

「そうしたら、この村にいいぐあいの家があるもんだから、借りて暮らしを持たせようと思って、保証に立ってくれと言ったところが、たいしたあいさつなのさ。三十銭か五十銭の家賃をねえ。かわいそうだろうじゃないかねえ、体の不自由なおいのことをねえ。保証に立ったくらいで暮らしがつぶれるというあいさつなのさ。ねえこれ、年を取っちゃこっちのおとっつあん、先も短いのに、心根のいいものでなくちゃ、万一のときが心配だからねえ。後の者の世話になりたいというのは、みな同じだろうじゃないか。ねえ、こっちのおとっつあん、そうでしょう。そんでそれ、嫁というのが心根のいい女だというんだから、わしもほしいのさ、本当の話がねえ。そう言っちゃ欲張りのようだが、同じものならやわらかい言葉でもかけてくれる嫁でなくちゃねえ。そうじゃあるまいかね」

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「さうしたら此この村落むらにえゝ鹽梅あんべえの家うちあるもんだから借かりて身上しんしやう持もたせべと思おもつて保證ほしように立たつてくろつちつた處ところがたえした挨拶あいさつなのさ、三十錢せんか五十錢せんの家賃やちんをねえ、不便ふびんだんべぢやねえかねえ不具かたわの甥おひつ子このことをねえ、保證ほしように立たつた位くれえ身上しんしやう潰つぶれるつち挨拶あいさつなのさ、ねえこれ、年齡としとつちやこつちのおとつゝあん先さきも短みじけえのに心底しんてえのえゝものでなくつちや、萬一まさかの時ときが心配しんぺえだからねえ、後あとの者ものの厄介やくけえに成なりてえつちな皆みんなおんなじだんべぢやねえか、ねえこつちのおとつゝあんさうでがせう、そんでそれ娵よめつちのが心底しんてえのえゝ女をんなだつちんだからわしも欲ほしいのさ本當ほんたうの噺はなしがねえ、さう云ゆつちや我慾がよくの樣やうだがおんなじもんなら軟やつけえ言辭ことばでも掛かけてくれる嫁よめでなくつちやねえ、さうぢやあんめえかね」

おつたはせまい戸口に立ったまま、洋がさの先で土にあなを開けながら、勘次のほうをじろっと見ながらいきり立って言った。

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おつたは狹せまい戸口とぐちに立たつた儘まゝ洋傘かさの先さきで土つちへ穴あなを穿うがちながら勘次かんじの方はうをぢろつと見みつゝいきり立たつていつた。

「そりゃもう、そうだが」

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「そりや、はあ、さうだが」

ただこれだけ言って、無口な卯平は自分の思いどおりだというように、ずっとくぼんだ目をしかめて、手からはきせるを放さなかった。

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只たゞ此これだけいつて寡言むくちな卯平うへいは自分じぶんの意いを得えたといふ樣やうに始終しじう窪くぼんだ目めを蹙しがめて手てからは煙管きせるを放はなさなかつた。

勘次は庭からぬすむように見ては、卯平がおつたに味方して勢いをつけているように思った。

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勘次かんじは庭にはから偸ぬすむやうに視みては卯平うへいがおつたへ威勢ゐせいをつけて居ゐるやうに思おもつた。

彼は解いて打って、さらに藁でくくったそばのたばを、どさりと遠くへ投げつけた。

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彼かれは解といて打うつて更さらに藁わらで括くゝつた蕎麥そばの束たばをどさりと遠とほくへ擲はふつた。

葉がさらにぐったりとしおれたほうせんかのえだが、すかりと裂けて先が地面についた。

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葉はが更さらにぐつたりと萎しをれた鳳仙花ほうせんくわの枝えだがすかりと裂さけて先さきが地ちについた。

「姉さんら、たいしたことを言ったって、年寄りの面倒を見たとは言えまい」

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「姊等あねら、大層たえそなこと云ゆつたつて、老人としよりの面倒めんだう見みたゝ云ゆへめえ」

勘次はぶつぶつと独り言を言った。

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勘次かんじはぶつ/\と獨語どくごした。

おつたの耳にも、かすかにそれが聞こえた。

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おつたの耳みゝにも微かすかにそれが聞きこえた。

おつたはきっとにらんだ。

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おつたは屹きつと見みた。

「おとっつあん、黙ってるもんだ」

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「おとつゝあ默だまつてるもんだ」

おつぎは軽く勘次を止めて

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おつぎは輕かるく勘次かんじを制せいして

「お昼だぞ、もう」

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「お晝餐ひるだぞはあ」

と、おつぎはさらに勘次に注意した。

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とおつぎは更さらに勘次かんじへ注意ちういした。

「そんじゃ、こっちのおとっつあん、おさわがせしました。わしは帰りましょうもう。少しでもいちゃじゃまでしょうから。こっちのおとっつあんも、じゃまにならないほうがようございますよねえ」

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「そんぢやこつちのおとつゝあん、お八釜敷やかましがした、わしや歸けえりませうはあ、一刻こくも居ゐちや邪魔じやまでがせうから、こつちのおとつゝあんも邪魔じやまに成なんねえ方はうがようがすよねえ」

おつたは洋がさを開いて

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おつたは洋傘かさを開ひらいて

「よそから見ても分かりましょうねえ。たとえどうでも俵まで持っていて、弁償と言ってみたところで三十銭か五十銭のことだろうじゃないかね。できるもできないもあるもんじゃない」

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「岡目をかめでも知しれまさあねえ、假令たとひどうでも俵たはらまで持もつてられて、辨償まよつて見みた處ところで三十錢せんか五十錢せんのことだんべぢやねえか、出來できるも出來できねえもあるもんぢやねえ」

と、おつたはいまいましさに口を止めなかった。

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とおつたは忌々敷いま/\しさに其その口くちを止とめなかつた。

「お昼はどうでしょうね」

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「お晝餐ひるはどうでがすね」

おつぎはそれでも、おずおずとおつたに言った。

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おつぎはそれでも怖おづ/\おつたへいつた。

「おれはもう要らないともね」

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「俺おら、はあ要えらねえともね」

おつたはそばの種がいっぱいに散らかった庭を、えんりょもなく一直線に下駄のあとをつけて歩いた。

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おつたは蕎麥そばの種子みの一杯ぱいに散ちらけた庭にはを遠慮ゑんりよもなく一直線ちよくせんに不駄げたの跡あとをつけた。

「勘次ら、親子仲よくてよかろう。世間の評判もりっぱだあ。身内の者は、おかげで肩身が広くていいや」

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「勘次等かんじら、親子おやこ仲なかよくつてよかんべ、世間せけんの聞きこえも立派りつぱだあ、親身しんみのもなあ、お蔭かげで肩身かたみが廣ひろくつてえゝや」

おつたは庭の出口からちょっとふり返って言った。

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おつたは庭にはの出口でぐちから一寸ちよつと顧かへりみていつた。

そしてさっさと行ってしまった。

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さうしてさつさと行いつて畢しまつた。

となりの庭の麦打ちの人たちは、静かになったこちらの庭をあざけるようにさわいでは、またさわぐのが聞こえた。

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隣となりの庭にはの麥打むぎうちの連中れんぢうは、靜しづかになつたこちらの庭にはを嘲あざけるやうに騷さわいでは又また騷さわぐのが聞きこえた。

勘次はただ力をこめてそばのくきを打って、ついに一言も口に出さなかった。

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勘次かんじは只ただ力ちからを極きはめて蕎麥そばの幹からを打うつて遂つひに一言ごんも吐はかなかつた。

おつぎは、かきねの上にうかんだおつたの洋がさが見えなくなるまで、しばらくぽつねんと庭に立った。

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おつぎは垣根かきねの上うへに浮うかんだおつたの洋傘かさが見みえなくなるまで暫しばらくぽつさりとして庭にはに立たつた。

卯平はきせるをかんだまま、じっとして黙っていた。

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卯平うへいは煙管きせるを噛かんだ儘まゝ凝然ぢつとして默だまつて居ゐた。

卯平はしばらくして、ほうせんかの折れたのを見つけて井戸ばたへ立った。

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卯平うへいは暫しばらくして鳳仙花ほうせんくわの折をれたのを見みつけて井戸端ゐどばたへ立たつた。

彼はいきなりそばのくきのたばを大きな足でけった。

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彼かれはいきなり蕎麥幹そばがらの束たばを大おほきな足あしで蹴けつた。

彼はさらに短い竹の棒を持って行って、きっと力をこめて地面に突きとおした。

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彼かれは更さらに短みじかい竹たけの棒ぼうを持もつて行いつてきつと力ちからを極きめて地ちに突つき透とほした。

たれたほうせんかのえだは、竹のつえにしばりつけようとして手をふれたら、ぽろりとくきからはなれてしまった。

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垂たれた鳳仙花ほうせんくわの枝えだは竹たけの杖つゑに縛しばりつけようとして手てを觸ふれたらぽろりと莖くきから離はなれて畢しまつた。

卯平はいまいましそうに投げ捨てた。

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卯平うへいは忌々敷相いまいましさうに打棄うつちやつた。

卯平がのっそりと大きな体を立てたそばに、ひまわりはみな日に背を向けて、堂々と立っている。

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卯平うへいがのつそりと大おほきな躯幹からだを立たてた傍そばに向日葵ひまはりは悉ことごとく日ひに背そむいて昂然かうぜんとして立たつて居ゐる。

ひまわりは、つぼみがとてもふくらんで黄色になってから卯平が植えたのだった。

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向日葵ひまはりは蕾つぼみが非常ひじやうに膨ふくれて黄色きいろに成なつてから卯平うへいが植うゑたのであつた。

そのときにはもうつぼみはどうしても日の言うことを聞いて動かないので、暑い、そしてかわきのはげしい日がそれをにくんで、かたい下葉をがさがさにからした。

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其その時ときはもう蕾つぼみはどうしても日ひのいふこと聽きいて動うがかないので、暑あついさうして乾燥かんさうの烈はげしい日ひがそれを憎にくんで硬こはい下葉したばをがさ/\に枯からした。

それでも強いくきはすっと立って、たいがいはがっかりと暑さに打たれている草木のあいだで、ほこったように見えた。

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それでも強つよい莖くきはすつと立たつて、大抵たいていはがつかりと暑あつさに打うたれて居ゐる草木さうもくの間あひだに誇ほこつたやうに見みえた。

そのいっぱいに開いた皿のような花が、庭先からいつでも冷たい三人をあざけるもののように見えるのだった。

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其その一杯ぱいに開ひらいた皿さらの樣やうな花はなが庭先にはさきからいつでも冷ひやゝかな三人にんを嘲あざけるものゝやうに見みえるのであつた。

竹の棒はぎっと突きとおしたまま、いつまでもむなしくほうせんかのそばに立っていた。

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竹たけの棒ぼうはぎつと突つき透とほした儘まゝいつまでも空むなしく鳳仙花ほうせんくわの傍そばに立たつて居ゐた。

二〇

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二〇

秋だ。

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秋あきだ。

どのえだも、しげる力が限界に達して、そこにおとろえのかげがかすかにうかんだ。

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孰いづれの梢こずゑも繁茂はんもする力ちからが其その極度きよくどに達たつして其處そこに凋落てうらくの俤おもかげが微かすかに浮うかんだ。

毎日すみきった空をじりじりときしませながら、強い熱を放っていた日も、あまりに長い昼の時間にあきようとして、空から、そして地上のすべてがやっと調子を変えはじめた。

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毎日まいにち透徹とうてつした空そらをぢり/\と軋きしりながら高熱かうねつを放射はうしやしつゝあつた日ひも餘あまりに長ながい晝ひるの時間じかんに倦うまうとして、空そらからさうして地上ちじやうの凡すべてが漸やうやく變調へんてうを呈ていした。

心もとなげな雲がむらむらと南からかけて来て、そのたびごとににわか雨をざあとななめに降らせる。

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心こゝろもとなげな雲くもが簇々むら/\と南みなみから駈かけ走はしつて、其その度たび毎ごとに驟雨しううをざあと斜なゝめに注そゝぐ。

雨は畑のかわいた土にまみれて、やがてしぶきを作物の下葉にはねかけて、さらににごった水が白いあわを乗せながら低いほうへ流れ去った。

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雨あめは畑はたの乾かわいた土つちにまぶれて、軈やがて飛沫しぶきを作物さくもつの下葉したばに蹴けつて、更さらに濁水だくすゐが白しろい泡あわを乘のせつゝ低ひくきを求もとめて去さつた。

それもわずかに桑の木へからんだ昼顔の花にいっぱいの量を注いでは、慌てて走り去って、からりと熱した空がふかれることもあるのだが、にわか雨は後から後からかけて来るので、夜明けの白まないうちから麦をついて庭いっぱいにむしろをほした百姓を、どうかするとうるさく苛めた。

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それも僅わづかに桑くはの木きへ絡からんだ晝顏ひるがほの花はなに一杯ぱいの量りやうを注そゝいでは慌あわてゝ疾驅しつくしつゝからりと熱ねつした空そらが拭ぬぐはれることも有あるのであるが、驟雨しううは後あとから後あとからと驅かつて來くるので曉あかつきの白しらまぬうちから麥むぎを搗ついて庭には一杯ぱいに筵むしろを干ほした百姓ひやくしやうをどうかすると五月蠅うるさく苛いぢめた。

この土地で言う「降っかけ」は、一日で止まなければ、三日とか五日とか、必ずおくすうの日で終わった。

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土地とちでいふ其その降ふつ掛かけは一日にちで止やまねば三日かとか五日かとか必かならず奇數きすうの日ひで畢をはつた。

降っかけが来てから、うり畑はすべて蔓も葉も急にがらがらにかれて、みじめになってしまった。

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降ふつ掛かけが來きてから瓜畑うりばたけは悉ことごとく蔓つるも葉はも俄にはかにがら/\に枯かれて悲慘みじめに成なつて畢しまつた。

とてもそっと、しかもさわがしそうに動く雲が、高く低く反対の方向に交差しているのを見るとともに、かわきかけた草木の葉がふれ合い打ち合っては、だんだんやぶれながら、ざわざわと悲しげな音を立てて鳴った。

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極きはめてそつと然しかも騷さわがし相さうに動うごく雲くもが高たかく低ひくく反對はんたいの方向はうかうに交叉かうさしつゝあるのを見みると共ともに、枯燥こさうしかけた草木くさきの葉はが相あひ觸ふれ相あひ打うつてはだん/\と破やぶれつゝざわ/\と悲かなしげな響ひゞきを立たてゝ鳴なつた。

すごいほどすみきった夜の空は、いそがしげな雲が月をのんですぐに後ろへはき出しはき出し走った。

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凄すごい程ほど冴さえた夜よるの空そらは忙いそがしげな雲くもが月つきを呑のんで直すぐに後うしろへ吐はき出だし/\走はしつた。

月は反対に逃げながら走った。

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月つきは反對はんたいに遁にげつゝ走はしつた。

秋風だ。

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秋風あきかぜだ。

くぬぎもならも雑木もすべてが乱れて、葉の裏もはだもかくすすきまなく、ざあっとふかれてただ、さわいだ。

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櫟くぬぎや楢ならや雜木ざふきや凡すべてが節制たしなみを失うしなつて悉ことごとく裏葉うらはも肌膚はだも隱かくす隙すきがなくざあつと吹ふかれて只たゞ騷さわいだ。

夜はさびしさに、すべてのえだがたがいにささやきながら、よけいにさわいだ。

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夜よるは寂さびしさに凡すべての梢こずゑが相あひ耳語さゝやきつゝ餘計よけいに騷さわいだ。

まだ暑い空気を冷たくしながら、大雨がさらに何日か草木の葉を苛めては、降って降って、また降った。

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まだ暑あつい空氣くうきを冷つめたくしつゝ豪雨がううが更さらに幾日いくにちか草木くさきの葉はを苛いぢめては降ふつて/\又また降ふつた。

いつもの年のような季節のこう水が、むごく川ぞいをなめた。

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例年れいねんの如ごとき季節きせつの洪水こうずゐが残酷ざんこくに河川かせんの沿岸えんがんを舐ねぶつた。

こう水が去った後は、ちょうどはげしい心のつかれから急に老いこんだ者のように、半分死んだような草木はみな白髪に変わって、その力ない葉先を秋風にふきなびかされた。

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洪水こうずゐの去さつた後あとは、丁度ちやうど過激くわげきな精神せいしんの疲勞ひらうから俄にはかに老衰らうすゐした者ものの如ごとく、半死はんしの状態じやうたいを呈ていした草木さうもくは皆みな白髮はくはつに變へんじて其その力ちからない葉先はさきを秋風あきかぜに吹ふき靡なびかされた。

鬼怒川の土手にしげったしのの根にまとわりついている短いつゆ草も、葉からくきからどろにまみれていながら、なお命を保ちつつ、日ごとにあわれげな花をつけた。

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鬼怒川きぬがはの土手どてに繁茂はんもした篠しのの根ねに纏まつはつて居ゐる短みじかい鴨跖草つゆぐさも葉はから莖くきから泥どろに塗まみれて居ゐながら尚なほ生命せいめいを保たもちつゝ日毎ひごとに憐あはれげな花はなをつけた。

こおろぎが気がめいるように、そのかげで鳴いた。

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蛼こほろぎが滅入めいる樣やうに其その蔭かげに鳴ないた。

空をはるかに飛んだむくどりの群れが幾つかに分かれて、地面近くをさわいでは、えだを求めてぎいぎいと鳴きながら落ち着かなかった。

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空そらを遙はるかに飛とんだ椋鳥むくどりの群むれが幾いくつかに分わかれて、地上ちじやうに低ひくく騷さわいでは梢こずゑを求もとめてぎい/\と鳴なきつゝ落付おちつかなかつた。

いたる所、荒れたやぶのはしや土手のやせたしののえだに乗りかかって、これをかめば歯が欠けると言われている毒な仙人草が、その手をいくらでものばして思い切りからみついた蔓が白い花をいっぱいにつけて、そして生き生きとしたものは自分だけだとほこるように、秋風にふかれながら白い布のようにふわふわと動いた。

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到いたる處ところ荒あれた藪やぶの端はしや土手どての瘠やせた篠しのの梢こずゑに乘のり掛かゝつて、之これを噛かめば齒はがこぼれるといはれて居ゐる毒どくな仙人草せんにんさうが其その手てを幾いくらでも延のばして思おもひ切きつて蟠わだかまつた蔓つるが白しろい花はなを一杯ぱいにつけて、さうして活々いき/\としたものは自分じぶんのみであることを誇ほこるものゝ如ごとく、秋風あきかぜに吹ふかれつゝ白しろい布ぬのの樣やうにふは/\と動うごいた。

勘次の村は高台なのと、鬼怒川の土手がしのの密生した根の力でわずかながらくずれる土を引き止めたので、損害が軽く済んだ。

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勘次かんじの村落むらは臺地だいちであるのと鬼怒川きぬがはの土手どてが篠しのの密生みつせいした根ねの力ちからを以もつて僅わづかながら崩壤ほうくわいする土つちを引ひき止とめたので損害そんがいが輕かるく濟すんだ。

それでも何日か降りつづいた雨が水をためて、低い畑はしばらくかわくことがなかった。

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それでも幾日いくにちか降ふり續つゞいた雨あめが水みづを蓄たくはへて低ひくい畑はたは暫しばらく乾かわくことがなかつた。

田もその水のためにつかった所が少なくなかった。

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田たも其その水みづの爲ために浸ひたつた箇所かしよが少すくなくなかつた。

勘次は昼となく夜となく田畑を歩いて、ひたすら心をなやましたが、やっと自分の田畑の作物がわずかな損害で済んだことを確かめたときには、彼はひどい被害の出た土地のようすを聞いて、自分がむしろ運がよかったことをこっそりよろこんだ。

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勘次かんじは日ひとなく夜よとなく田畑たはたを歩あるいて只管ひたすら心こゝろを惱なやましたが、漸やうやく自分じぶんの田畑たはたの作物さくもつが僅わづかな損害そんがいに畢をはつたことを慥たしかめた時ときは彼かれは激甚げきじんな被害地ひがいちの状况じやうきやうを傳聞でんぶんして自分じぶんの寧むしろ幸さいはひであつたことを竊ひそかに悦よろこんだ。

彼が大豆を引いて庭に運んだころは、まだ暑い日が落ち着いて、いがの割れはじめたくりの木のえだから庭をじりじりと照らしていた。

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彼かれが大豆だいづを引ひいて庭にはに運はこんだ頃ころはまだ暑あつい日ひが落付おちついて毬いがの割われ始はじめた栗くりの木きの梢こずゑから庭にはをぢり/\と照てらして居ゐた。

根が何日もぐっしょり水につかっていた大豆は、黄色みの強い茶色のさやもくきも、どろでよごれたように黒ずんでいた。

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根ねが幾日いくにちもぐつしりと水みづに浸ひたつてた大豆だいづは黄色味きいろみの勝かつた褐色ちやいろの莢さやも幹からも泥どろで汚よごれた樣やうに黒くろずんで居ゐた。

大豆を引いたのは、それでもめずらしい晴れの日だったので、「いい返し」

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大豆だいづを引ひいたのはそれでも稀まれな晴天せいてんであつたので「いひ返がへし」

に来るはずになっていた南の家の女房にたのんだ。

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に來くる筈はずに成なつて居ゐた南みなみの女房にようばうを頼たのんだ。

彼らはたがいの都合で手間を交かんするのだが、彼らはそれを「いいどり」

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彼等かれらは相互さうごの便宜上べんぎじやう手間てまの交換かうくわんをするのであるが、彼等かれらはそれを「いひどり」

と言っている。

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というて居ゐる。

それで、その借りた手間を返すのが「いい返し」である。

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それで其その借かりた手間てまを返かへすのがいひがへしである。

大豆は庭に運ぶとともに、ひとつかみにしては根を上にして先を丸く開いて、たがいのくきが支柱になるようにして、庭いっぱいに立ててほした。

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大豆だいづは庭にはに運はこぶと共ともに一攫ひとつかみにしては根ねを上うへにして先さきを丸まるく開あいて互たがひの幹みきが支柱しちうに成なるやうにして庭には一杯ぱいに立たてゝ干ほした。

たばこを一服吸うだけの時間に、熟しきった大豆はやっとぱちぱちと軽い心地よい音を立てながら、はじけはじめた。

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煙草たばこを一服ぷく吸すふだけの時間じかんに、成熟せいじゆくしきつた大豆だいづは漸やうやくぱち/\と輕かるい快こゝろよい響ひゞきを立たてつゝ爆はぜ始はじめた。

大豆はすべて庭の土にたおされた。

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大豆だいづは悉ことごとく庭にはの土つちに倒たふされた。

三人はからさおを取って、はしからだんだんとくきを打った。

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三人にんは連枷ふるぢを執とつて端はしからだん/\と幹からを打うつた。

おつぎと南の家の女房はならんで、勘次に向かって交互に打ち下ろすからさおが、どさりどさりと庭の土を打つと、こわばった大豆のくきはしゃりしゃりとかわいた軽い音をまじえて、くすんだ汚いさやが白く割れて、うす青いつやつやした豆のつぶが勢いよくはね出して、みんなくきの下にもぐりこんでしまう。

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おつぎと南みなみの女房にようばうとは相あひ竝ならんで勘次かんじに對たいして交互かうごに打うち卸おろす連枷ふるぢがどさり/\と庭にはの土つちを打うつと硬こはばつた大豆だいづの幹からはしやりゝ/\と乾燥かんさうした輕かるい響ひゞきを交まじへてくすんだ穢きたない莢さやが白しろく割われて薄青うすあをいつやゝかな豆まめの粒つぶが威勢ゐせいよく跳はね出だしてみんな幹からの下したに潜もぐり込こんで畢しまふ。

三人が一度大豆のくきをふんでわたったら、くきがぐっと落ち着いた。

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三人にんが一遍ぺん大豆だいづの幹からを踏ふんで渡わたつたら幹からがぐつと落付おちついた。

おつぎは昼ごはんのしたくのお茶をわかした。

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おつぎは晝餐ひるの支度したくの茶ちやを沸わかした。

三人は食事の後の口を鳴らしながら戸口に出て、それからくりの木のかげにしばらくうずくまったまま休んでいた。

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三人にんは食事しよくじの後あとの口くちを鳴ならしながら戸口とぐちに出でてそれから栗くりの木きの陰かげに暫しばらく蹲うづくまつた儘まゝ憩いこうて居ゐた。

「おやおやまあ、こっちのほうはいいこったなあ、大豆でもこんなに穫れて」

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「おや/\まあ、こつちの方はうはえゝこつたなあ、大豆でえづでもかうだにとれて」

おつたは小がらな体をわりと大またに運んで、妙な足びょうしを取りながら入って来た。

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おつたは小柄こがらな身體からだを割合わりあひに大股おほまたに運はこんで妙めうな足拍手あしびやうしを取とりつゝ這入はひつて來きた。

勘次はちらと見て、くりの木のみきを後ろにしたままうつむいてしまった。

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勘次かんじはちらと見みて栗くりの木きの幹みきを後うしろにした儘まゝ俯向うつむいて畢しまつた。

おつたはさらに気にしないような態度で、ずっと戸口へ行って、ななめに肩へかけた風呂しき包みを下ろした。

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おつたは更さらに介意かいいないやうな態度たいどでずつと戸口とぐちへ行いつて、斜なゝめに肩かたへ掛かけた風呂敷包ふろしきづゝみをおろした。

「ああ重たかった」

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「おゝ重おもたかつた」

と、少し汗ばんだひたいを手ぬぐいでふきながら、洋がさを仰向けに戸口へ置いて、洋がさの中へその風呂しき包みを置いた。

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と少すこし汗あせばんだ額ひたひを手拭てぬぐひでふきながら洋傘かうもりを仰向あふむけに戸口とぐちへ置おいて、洋傘かうもりの中なかへ其その風呂敷包ふろしきづゝみを置おいた。

南の家の女房はおつたを見て立った。

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南みなみの女房にようばうはおつたを見みて立たつた。

「おやまあ、しばらくでしたね」

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「おやまあ、暫しばらくでがしたね」

と、おつたは先にお世辞を言った。

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とおつたは、先さきに世辭せじをいうた。

「そう言えばまあ、あっちのほうはひどいこう水だという話だったっけが、どうでございましたね」

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「さういへばまあ、あつちの方はうは酷ひでえ洪水みづだつち噺はなしだつけがどうでござんしたね」

女房は手ぬぐいを取って言った。

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女房にようばうは手拭てぬぐひをとつていつた。

「話の外でさどうも。あれこれもう、三十日近くにもなるだろうが、まだかたづけで、どっちから手をつけていいか分からないんでさどうも。わしらのほうみたいにこう水ばかり出たんじゃ、いるのもいやになっちまうようなのさ、本当に。そう言っても、こっちのほうはようございますね」

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「噺はなしの外ほかでがさどうも、彼此かれこれはあ、小卅日こさんじいんちにも成なんべが、まあだかたでどつちから手てえつけてえゝか分わかんねえんでがさどうもはあ、わし等ら方はう見みてえに洪水みづばかし出でたんぢや、居ゐんのも厭やんなつちまあやうなのせ本當ほんたうに、さう云ゆつてもこつちの方はうはようがすね」

おつたは相手を見つけて力を得たように言った。

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おつたは相手あひてを見みつけて力ちからを得えたやうにいつた。

「これでもまさか。この村だって随分かぶった所もあるんだから、まったく何ともないということもないがねえ」

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「此こんでもまさか、此この村落むらだつて隨分ずいぶんかぶつた處ところも有あんだから全然まるつきりなんともねえつちこともねえがねえ」

南の家の女房は声を低くして言った。

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南みなみの女房にようばうは聲こゑを低ひくくしていつた。

「そんでも、ここらじゃ住む所には困らないんだから、何と言ってもあきらめはようございますね。わしらのほうなんぞじゃ、土手へむしろのかこいをしてやっとこさしのいだ者がなんぼあったかさ。土手にいても、雨さえなけりゃいいが、降られちゃひどいという話でしたよ。そんでもまあ、わしらは家にいられるのはいられたんだからまあ、それでもようございましたのさ。そんでもゆかの上へ四斗だるをこうさかさまにして置いて、その上へ板をわたしてやっとまあ暮らし通しましたがね、煮たきするのもやっとこさで。となり近所はあったって行ったり来たりするんじゃなし、どれほど心細いか分からないもんですよ。もっともこれ、死ぬ者さえあるんだから、こうしていられるのはありがたいようなもんではあるが。そんでも四斗だるの太いたがの所へもぐったときは、夜、横になってみたって、すぐ耳のそばでさらさらっとこう水が動いてるんだから、うっかりねむったらそっくり持って行かれるかどうだか分からないと思ってね、ぽつりとももう言えないでいたのさ。

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「そんでも此處こゝらぢや居ゐる處とこにや支障さはりねえんだからなんちつても諦あきらめはようがさね、わし等ら方はうなんぞぢや、土手どてへ筵圍むしろがこひしてやつとこせ凌しのいだものなんぼ有あつたかせ、土手どてに居ゐても雨あめせえなけりやえゝが、降ふられちや酷ひでえつち噺はなしでがしたよ、そんでもまあわし等らあ、家うちに居えられんな居えられたんだからまあ同おなじにもようがしたのせ、そんでも床ゆかの上うへへ四斗樽とだるかう倒さかさにして置おえてね、其その上うへへ板いた渡わたしてやつとまあ居通ゐとほしあんしたがね、煮燒にやきすんのもやつとこせで、隣近所となりきんじよは有あつたつて往いつたり來きたりすんぢやなし、何程なんぼ心細こゝろぼせえか分わかんねえもんですよ、尤もつともこれ、死しぬ者ものせえあんだから斯かうして居えられんな難有ありがてえ樣やうなもんぢやあるが、そんでも四斗樽とだるの太ふてえ箍たがん處ところむぐつた時ときや、夜よる横よこに成なつて見みたつて直ぢき耳みゝの側そばでさら/\つとかう水みづが動うごいてんだから、放心うつかり眠ねむつたらそつくり持もつてかれつかどうだか分わかんねえと思おもつてね、ぼつちりともはあ云ゆはんねえで居ゐたのせえ、

それから板のはしの所からそうっと手を出してみると、宵の口にはそうでもないのが、ひやっと手の先がすぐ水にふれたときにはぞっとするようでしたよ。それからもう、舟はまくら元へつないでたんだが、本当にまくら元なのさ。みんなで固まって、せまいといったって窮くつだって、やっといるだけなんだから、天井へは頭を打ちつけそうで、命でも何でも縮められるような思いでさ。そんでもまあ、とうとう逃げもしないでいられたんだから、家でも持って行かれた人からじゃ運がいいのさ。まあ昼間は何と言ってもあちこち見えていいが、夜がなんぼにも薄気味悪くてねえ」

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それから板いたの端はじん處とこからそろつと手てえ出だして見みつと宵よひの口くちにやさうでもねえのがひやつと手ての先さきが直すぐ水みづへ觸さあつた時ときにや悚然ぞつとする樣やうでがしたよ、それからはあ船ふねは枕元まくらもとへ繋つないでたんだが、本當ほんたうに枕元まくらもとなのせえ、みんなして凝こゞつて狹せめえつたつて窮屈きうくつだつてやつと居ゐる丈だけなんだから、天井てんじやうへは頭あたま打ぶつゝかり相さうで生命いのちでも何なんでも蹙ちゞめらつる樣やうなおもひでさ、そんでもまあ到頭たうとう遁にげもしねえで居ゐらつたんだから、家うちでも持もつてかれたものからぢや運うんがえゝのせえ、まあ晝間ひるまはなんちつても方々はう/″\見めえてえゝが、夜よるがなんぼにも小凄こすごくつてねえ」

おつたは、自分のこわかった経験を聞いてくれるのをよろこぶように語りつづけるのだった。

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おつたは自分じぶんの怖おそろしかつた經驗けいけんを聞きいてくれるのを悦よろこぶやうに語かたり續つゞけるのであつた。

「そんでまあ、それもいいが、かえるだのへびだのが来てね。かえるは何だが、へびがなんぼにもいやで、もう棒で引っかけて遠くのほうへ放り投げてみても、しつこいというのか、またぞよぞよ泳いで来て。それも夜がねえ、万一のことがあっちゃと思うもんだから明かりを点けてたんだが、そのせいかよけいに来るようで。うす暗い明かりだから、すぐそばへ来てからでなくちゃ分からないし、首をもたげてるのを見ちゃ、本当にいやでねえ」

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「そんでまあ、それもえゝが蛙けえるだの蛇へびだのが來きてね、蛙けえるはなんだが蛇へびがなんぼにも厭いやではあ、棒ぼうで引ひつ掛かけて遠とほくの方はうへ打ぶん投なげて見みても、執念深しふねんぶけえつちのか又またぞよ/\泳およいで來きて、それも夜よるがねえ萬一もしものことが有あつちやと思おもふもんだから明あかり點つけてたんだが其その所爲せゐか餘計よけいに來くる樣やうで、薄うすつ闇くれえ明あかりだからぢつき側そばへ來きてからでなくつちや分わかんねえし、首くび擡もちやげてんの見みちや本當ほんたうに厭やでねえ」

おつたは、いくら言ってもつきないそのころのことをありありと思いうかべさせようとするようすで言った。

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おつたは幾いくらいつても竭つきない當時たうじを髣髴はうふつせしめようとする容子ようすでいつた。

くりの木のかげにいた勘次は、だんだんいくらかずつでもこう水の話に興味を感じて来たし、それから、たとえどうであっても訪ねて来た姉にあいさつもしないのは他人の手前がゆるさないので、やっと立って

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栗くりの木きの陰かげに居ゐた勘次かんじはだん/\と幾いくらづゝでも洪水こうずゐの噺はなしに興味きようみを感かんじても來きたし、それから假令たとひどうでも尋たづねて來きた姊あねに挨拶あいさつもせぬのは他人たにんの手前てまへが許容ゆるさないので漸やうやく立たつて

「姉さんらも随分ひどい目にあったんだな」

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「姊等あねらも隨分ずゐぶんひでえ目めに遭あつたんだな」

彼は言いながら、家の中へおつたを案内した。

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彼かれはいひながら家いへの内うちへおつたを導みちびいた。

大豆のほこりをきらって雨戸は閉め切ってあったので、大戸をいっぱいに開けても、中は少し暗く、しかも暑かった。

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大豆だいづの埃ほこりを厭いとうて雨戸あまどは閉しめ切きつてあつたので、大戸おほどを一杯ぱいに開あけても内うちは少すこし闇くらく且かつ暑あつかつた。

おつぎは先ごろのように、すぐにかまどをたいてしゃくしで二、三ばいの水を茶がまへ入れた。

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おつぎは先頃さきごろの樣やうに直すぐに竈かまどを焚たいて柄杓ひしやくで二三杯ばいの水みづを茶釜ちやがまへ注さした。

「何と言っても、こんなに豆が穫れるなんて、お前らのほうはいいのよなあ。おれのほうじゃ土手の近くで手のある者はな、田のあぜ豆を引っこ抜いて土手の中ほどへほしてはみたようだが、まだ何と言ってもさやが本当にふくらまないんだから、ほんの豆の形をしたというくらいなもんだろうな。そりゃそうと、この豆はいい豆だな。甘そうでなあ」

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「なんちつても、かうえ豆まめとれるなんておめえ等ら方はうはえゝのよなあ、俺おら方はうぢや土手どての近ちかくで手ての有あるもなあ、田たの畦豆くろまめ引ひつこ拔ぬえて土手どての中ちうツ腹ぱらへ干ほしちや見みた樣やうだが、まあだなんちつても莢さやが本當ほんたうに膨ふくれねえんだから、ほんの豆まめの形かたちしたつち位くれえなもんだべな、そりやさうと此この豆まめはえゝ豆まめだな、甘相うまさうでなあ」

おつたはしきいをまたいで、手元の豆を少しつかんでみて言った。

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おつたは閾しきゐを跨またいで手先てさきの豆まめを少すこし攫つかんで見みていつた。

それからおつたは、洋がさといっしょに置いたさっきの風呂しき包みを持ちこんで、そしてまた腰を下ろした。

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それからおつたは洋傘かさと一つに置おいた先刻さつきの風呂敷包ふろしきづゝみを持もち込こんでさうして又また臀しりを据すゑた。

「水の中にいちゃ、仕事するにも仕事はなしさなあ。それからみんな棒の先へかぎをつけて魚つりをしたのよ。庭でいくらでもふなが釣れるというんだから、知らない者が見ちゃ、ひどく困ってない人たちだと思うくらいなもんだろうのさ」

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「水みづん中なかに居ゐちや仕事しごとするにも仕事しごとはなしさなあ、それからみんな棒ぼうの先さきへ鈎はりくつゝけて魚釣さかなつりしたのよ、庭にはで幾いくらでも鮒ふな釣つれるつちんだから知しらねえものが見みちや酷ひどく困こまんねえ奴等やつらだと思おもふ位くれえなもんだんべのさ」

おつたは一ぱいのお茶をすすって喉をうるおした。

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おつたは一杯ぱいの茶ちやを啜すゝつて喉のどを濕うるほした。

おつぎも南の家の女房も、目をすえて黙って聞いていた。

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おつぎも南みなみの女房にようばうも眼めを据すゑて默だまつて聞きいて居ゐた。

勘次はむずかしい顔をしていながらも、いっしんに聞いた。

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勘次かんじは六むづヶ敷しい顏かほをして居ゐながらも熱心ねつしんに聞きいた。

「後がひどくてな。縁の下でも何でもどろがいっぱいで、それはまあ掻き出せばいいんだが、ゆか板が白かびになっちまって、これがまだなかなかかわかないから、たたみなんざいつしけるもんだか分からないのさ。そんでまた、田でも畑でもかぶった所は水が引いてからくさってるもんだから、その臭いことがまた話にはならないや。おれは作物ばかり困るんだと思ったら、畑のきりの木でもかしの木でも、今になってからぼろぼろ葉っぱが落っこちちまって、こわいもんだよ」

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「後あとが酷ひどくつてな、縁えんの下したでも何なんでも泥えごみが一杯ぺえで、そえつあゝ掻かん出だせばえゝんだが床板ゆかいたが白しらつ黴かびに成なつちやつて此これがまだなか/\干ひねえから疊たゝみなんざ何時いつ敷しつ込こめるもんだか分わかんねえのさ、そんでまた田たでも畑はたけでも引ひつ被かぶつた處とこは水みづ干ひてから腐くさつてるもんだから其その臭くせえことが又また噺はなしにやなんねえや、俺おら作物さくもつばかし困こまんだと思おもつたら、畑はたけの桐きりの木きでも樫かしの木きでも今いまん成なつてからぼろ/\葉々はつぱが落おつこつちやつて可怖おつかねえもんだよ」

おつたは言いながら風呂しきを解いた。

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おつたはいひながら風呂敷ふろしきを解といた。

やまと煮と書いた牛肉のかんづめが三つと、菓子でもあるかと思う小さな紙包みの、固めた食塩が四つ五つ出た。

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やまと煮にと書かいた牛肉ぎうにくの鑵詰くわんづめが三本ぼんと菓子くわしでもあるかと思おもふ小ちひさな紙包かみづゝみの堅かためた食鹽しよくえんの四つ五つとが出でた。

「これはな、そんでもありがたいことに、水びたしになった家へは役場から一けんごとに配られたんだよ。おれはまた、こっちの家なんぞじゃどんなぐあいだと思って、しばらく外へも出たことがないもんだから出ても見たいし、こういう物を自分だけで開けちまうのも何だと思って持って来てみたのよ。おれは一つ手をつけてみたが、どれほどいい味のもんだか知らないや」

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「此これなあ、そんでも難有ありがてえことに、水浸みづびたしに成なつた家いへさは役場やくばから一軒毎えつけんごめらに下さげ渡わたしになつたんだよ、俺おらまたこつちの家うちなんぞぢやどうえ鹽梅あんべえだと思おもつて暫しばらく外ほかへも出でたことねえもんだから出でても見みてえし、かうえ物もの自分じぶんでばかし口くち開あけつちやあのも何なんだと思おもつて持もつて來きて見みたのよ、俺おら一ひとつ手てえつけて見みたが何程なんぼえゝ味あぢのもんだか知しんねえや」

おつたは空になったかなり大きな風呂しきを、幾つかに折った。

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おつたは空からになつたかなり大おほきな風呂敷ふろしきを幾いくつかに折をつた。

「おおいや、たいしたもんだね。これは塩だろうかまあ。見たいったって見られるもんじゃないよ。こういう物はねえ。よくまあ持って来て、勘次さんら大変だ」

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「おゝえや、たえしたもんだね、此これ鹽しほだんべけまあ、見みてえたつて見みらつるもんぢやねえよ、かうえ物ものあねえ、能よくまあ持もつて來きて勘次かんじさん此こら大變たいへんだ」

南の家の女房は食塩の一つを手にして見ながら、うらやましそうに言った。

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南みなみの女房にようばうは食鹽しよくえんの一箇こを手てにして見みながら羨うらやましげにいつた。

おつぎもめずらしそうにして、南の家の女房の手をのぞいた。

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おつぎも珍めづらし相さうにして南みなみの女房にようばうの手てを覗のぞいた。

勘次も白い食塩をつめの先で少し取って口へ入れた。

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勘次かんじも白しろい食鹽しよくえんを爪つめの先さきで少すこしとつて口くちへ入いれた。

「塩からいや、まさか」

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「鹽辛しよつぺえやまさか」

彼はにっこりとしながら

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彼かれは嫣然につこりとし乍ながら

「おつう、これはしまっておけ、そんじゃ」

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「おつう、此これ藏しまつて置おけ、そんぢや」

と言って、さらに

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といつて更さらに

「姉さんらもひどかろう、畑は」

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「姊等あねらも酷ひどかんべ野のらは」

と、彼はおつたの染めていた髪が、まじった白髪をほんのり見せるまでに薬がさめてきたなくなったのを見ながら言った。

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と彼かれはおつたの染そめつゝあつた髮かみが、交まじつた白髮しらがをほんのりと見みせるまでに藥くすりの褪さめて穢きたなく成なつつたのを見みつゝいつた。

「米でも何でも一つぶも穫れやしないのよ」

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「米こめでも何なんでも一粒ひとつぶもとれやしねえのよ」

おつたはぽつりと言った。

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おつたはぽさりとした樣やうにいつた。

「しるの実なんざ、そんでもどうにかできるのか」

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「汁しんの身みなんざそんでも、どうにか出來できんのか」

「どうしてよお前。青いものは土手の草ばかりだって言ってるくらいだもの。今日が今日困ってるんだな」

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「どうしてよおめえ、青あをえもな土手どての草くさばかしだつて云ゆつてる位くれえだもの、今日けふが今日けふ困こまつてんだな」

「そんじゃ、姉さんになすか南瓜でもやろうかなあ」

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「そんぢや、姊あねげ茄子なすか南瓜たうなすでもやんべかなあ」

勘次は同情の心が少し動いたように言った。

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勘次かんじは同情どうじやうが小すこし動うごいたやうにいつた。

「おや、そんじゃ、おれの家でも葱を少しあげましょう」

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「おやそんぢや俺おら家ぢでも葱ねぎの少すこしもあげあんせう」

南の家の女房は言って、桑畑の細い道を小走りにかけて行った。

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南みなみの女房にようばうはいつて桑畑くはばたけの小徑こみちを小走こばしりに駈かけて行いつた。

「おとっつあん、それも何だが、そんなに持てやしまいし、米でも少しやったらよかろうな。どうせ少したつと陸稲が刈れるんだもの」

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「おとつゝあ、それもなんだが、さうえに持もてやしめえし、米こめでも少すこしやつたらよかんべな、どうせ少すこし經たつと陸稻をかぼ刈かれんだもの」

おつぎは口をそえた。

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おつぎは口くちを添そへた。

「うん、そうだなあ」

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「うむさうだなあ」

と、勘次は南京米のふくろへ米を五しょうばかり、もうやせている俵からはかり出した。

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と勘次かんじは南京米ナンキンまいの袋ふくろへ米こめを五升しようばかり、もう痩やせて居ゐる俵たわらから量はかり出だした。

「ひきわり麦もやったらよかろうな」

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「挽割麥ひきわりもやつたらよかんべな」

おつぎはまた言った。

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おつぎは又またいつた。

「これへ混ぜていいかい」

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「此これさ交まぜてえゝけ」

勘次はおつたを見て言った。

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勘次かんじはおつたを顧かへりみていつた。

「うん、いっしょにしてくれ」

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「うむ、一緒しよにしてくろ」

と、おつたはやわらかに言った。

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とおつたは軟やはらかにいつた。

勘次は二つを半分ずつ混ぜて、それからまた大きな南瓜を三つばかり土間へならべた。

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勘次かんじは二ふたつを等半とうはんに交まぜてそれから又また大おほきな南瓜たうなすを三みつばかり土間どまへ竝ならべた。

「そんじゃ大変めいわくをかけて済まないな。そんじゃおれは米ばかり背負って行って、明日でもまた南瓜は取りに来るとしようよ。そんじゃこれ、米は大変だから、おれの風呂しきじゃちっと小さいんだが、大きいのがあれば貸してくれないか」

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「そんぢや大層たえそ厄介やつけえ掛かけて濟すまねえな、そんぢや俺おら米こめばかし脊負しよつてつて明日あしたでも又また南瓜たうなすはとりに來くるとすべえよ、そんぢや此こら、米こめ大變たいへんだから俺おれが風呂敷ふろしきぢやちつと小ちつちえんだが大えかえの有あれば貸かしてくんねえか」

おつたはおつぎに言いかけた。

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おつたはおつぎへいひ掛かけた。

「おれの家にはないが、爺さんがな、あったっけな、おとっつあん」

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「俺おら家ぢにやねえが、爺ぢいがな有あつたつけな、おとつゝあ」

そう言って、おつぎは小走りに卯平の小屋へ行った。

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さういつておつぎは小走こばしりに卯平うへいの小屋こやへ行いつた。

さっきまで見えなかった卯平が、どこから帰って来たのか、むっつりとして独りできせるをかんでいた。

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先刻さつきまで見みえなかつた卯平うへいが何處どこから歸かへつて來きたかむつゝりとして獨ひとりで煙管きせるを噛かんで居ゐた。

「爺さん、いたんだな。おれ、いなけりゃ黙って借りて行こうと思ったんだったが、明日までおばさんが大きな風呂しきが要るというから、貸してくれないか。米を背負って行くんだから」

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「爺ぢい居ゐたんだな、俺おら居ゐねえけりや默だまつて借かりてくべと思おもつたんだつけが、明日あしたまで伯母をばさん大えかえ風呂敷ふろしき要えるつちから貸かしてくんねえか、米こめ脊負しよつて行えくんだから」

おつぎはとつぜん言った。

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おつぎは突然だしぬけにいつた。

「うん」

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「うむ」

と、卯平は不器用に風呂しきを出して、そしておつぎの後からおつたのそばへのっそりと来て立った。

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と卯平うへいは不器用ぶきように風呂敷ふろしきを出だしてさうしておつぎの後うしろからおつたの側そばへのつそりと來きて立たつた。

「これはまあ、勘次らにも済まないと言ってるところさ。わしらもこう水でねえ」

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「此これまあ、勘次等かんじらにも濟すまねえつちつてつ處ところさ、わし等らも洪水みづでねえ」

おつたは風呂しきで南京米のふくろをきりっと包んだ。

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おつたは風呂敷ふろしきで南京米なんきんまいの袋ふくろをきりつと包つゝんだ。

「そんじゃこの南瓜もおれがもらっていいんだな。ばかに大きい南瓜じゃないかな。明日まで置いてくれな」

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「そんぢや此この南瓜たうなすも俺おれ貰もらつてえゝんだな、馬鹿ばかに大えけえ南瓜たうなすぢやねえかな、明日あしたまで置おいてくろうな」

おつたがずっと笑顔を作っている所へ、南の家の女房が葱を一たば、藁でくるんだのをかかえて来た。

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おつたは始終しよつちう笑顏えがほを作つくつて居ゐる處ところへ南みなみの女房にようばうは葱ねぎを一束ひとたば藁わらでくるんだのを抱かゝへて來きた。

「どうも済みませんね、これは」

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「どうも濟すみませんねこら」

おつたは勘次を見て

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おつたは勘次かんじを見みて

「どうしたもんだ、たいした葱じゃないか。本当に済まないな。そんじゃこれも明日まで取っておいてくれな」

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「どうしたもんだ、たえした葱ねぎぢやねえか、本當ほんたうに濟すまねえな、そんぢや此これも明日あしたまでとつて置おいてくろうな」

と、さらにまた腰を下ろして一ぱいのお茶をすすった。

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と更さらに又また臀しりを据すゑて一杯ぱいの茶ちやを啜すゝつた。

「おやっ、このくりはもう口を開けてるんだな」

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「おやツ、此この栗くりは笑ゑんでんだなはあ」

庭先のくりのえだに初めて目をつけたように、おつたは言った。

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庭先にはさきの栗くりの梢こずゑに始はじめて目めをつけた樣やうにおつたはいつた。

「この間からなんでさ。ちっとばかりだが、落ちたのがありまさ」

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「此間こねえだからなんでさ、ちつとばかしだが落おちたの有ありあんさ」

おつぎは小さなざるの底のつぶぐりを出して

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おつぎは小笊こざるの底そこの粒栗つぶぐりを出だして

「あっちになけりゃ持って行ったらようございましょう。大豆も、これ、打った所なら持って行くといいんでしたがね」

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「あつちになけりや持もつてつたらようござんせう、大豆でえづもこれ打ぶつた處ところなら持もつてくとえゝんでがしたがね」

おつぎは気持ちよく言った。

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おつぎは快こゝろよくいつた。

「そうだな、そんじゃもらって行くかな」

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「さうだな、そんぢや貰もらつて行えくかな」

おつたは手ぬぐいの両はしにくりをくくった。

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おつたは手拭てぬぐひの兩端りやうはしへ栗くりを括くゝつた。

「こっちのおとっつあん、これはわしが役場からもらったのを持って来てみたんだが、一つ分けてもらったらようございましょう。めったにない味のもんだから」

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「こつちのおとつゝあん、此これわし役場やくばから下さがつたの持もつて來きて見みたんだが一つ分わけて貰もらつたらようがせう、滅多めつたねえ味あぢのもんだから」

おつぎがさっきしまうように勘次にせかされても、おつたの手前を気にしてそのままにしておいた牛肉のかんづめの一つを、おつたは卯平にやった。

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おつぎが先刻さつき藏しまふことを勘次かんじに促うながされてもおつたの手前てまへを憚はゞかつた樣やうにして其その儘まゝにして置おいた牛肉ぎうにくの鑵詰くわんづめの一つをおつたは卯平うへいへやつた。

卯平はくぼんだ目をしかめるようにした。

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卯平うへいは窪くぼんだ目めを蹙しかめるやうにした。

勘次は、油断した自分のふところの物をうばわれたほどのおどろきといやな気持ちの目で、卯平とおつたを見た。

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勘次かんじは放心うつかりした自分じぶんの懷ふところの物ものを奪うばはれた程ほどの驚愕きやうがくと不快ふくわいとの目めを以もつて卯平うへいとおつたとを見みた。

おつたは重そうな風呂しき包みをうんと背負って、胸の結び目に両手をかけて、包みのすわりをよくするために二、三度ゆすった。

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おつたは重相おもさうな風呂敷包ふろしきづゝみをうんと脊負しよつて胸むねの結むすび目めへ兩手りやうてを掛かけて包つゝみの据すわりを好よくする爲ために二三度ど搖ゆすつた。

「そんじゃ明日またお目にかかりましょう」

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「そんぢや明日あしたまたお目めにかゝりあんせう」

おつたはみんなにあいさつして

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おつたは一同どうへ挨拶あいさつして

「これはよかった、本当にまあ」

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「此こりやよかつた、本當ほんたうにまあ」

聞こえよがしに独り言を言いながら、おつたは庭からかきねを出た。

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聞きこえよがしに獨語どくごしながらおつたは庭にはから垣根かきねを出でた。

勘次は、自分のそばに牛肉のかんづめを手にして立った卯平をあらためてさらにいやな目でじっと見つめながら、彼の心の中にはおしかったという思いが、何ということもなくただふいとわいたのだった。

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勘次かんじは自分じぶんの側そばに牛鑵ぎうくわんを手てにして立たつた卯平うへいを改あらためて更さらに不快ふくわいな目めを以もつて凝視ぎようししながら、彼かれの心こゝろの裡うちには惜をしかつたといふ念慮ねんりよが何なんといふことはなしに只たゞふいと湧わいたのであつた。

「ふくろは明日持って来てくれなくちゃかなわないぞ」

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「袋ふくろは明日あした持もつて來きてくんなくつちや畢をへねえぞ」

と、勘次はおつたの後から追いかけるようにして言った。

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と勘次かんじはおつたの後あとから追おひ掛かけるやうにしていつた。

おつたはかきねに沿って、後ろの林のそばから田んぼへ出た。

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おつたは垣根かきねに添そうて後うしろの林はやしの側そばから田圃たんぼへ出でた。

道ばたの竹のえだには、どこまでもはっていっぱいに乗りかからなければ止まないという毒な仙人草が、くっきりと白くほこっている。

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道端みちばたの竹たけの梢こずゑには何處どこまでも偃はうて一杯ぱいに乘のり掛かゝらねば止やむまいとする毒どくなせんにん草さうがくつきりと白しろく誇ほこつて居ゐる。

小さな体でありながら少しするどいくちばしを持ったばかりに、弱い雀やほおじろの前でだけ強さを見せるもずが、小さな勝利者の声を放って、きいきいときわどくどこかの木のてっぺんで鳴いていた。

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小ちひさな身體からだでありながら少すこし鋭するどい嘴くちばしを持もつたばかりに、果敢はかない雀すゞめや頬白ほゝじろの前まへにのみ威力ゐりよくを逞たくましくする鵙もずが小ちひさな勝利者しようりしやの聲こゑを放はなつてきい/\と際きはどく何處どこかの木きの天邊てつぺんで鳴ないて居ゐた。

その夜、勘次の家には、とつぜんみんなをおどろかせた事件が起こった。

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其その夜よ勘次かんじの家いへには突然とつぜん一同どうを驚愕きやうがくせしめた事件じけんが起おこつた。

それは何ごともなく済んで、しかもあまりにこっけいな話だった。

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それは事こともなく濟すんでさうして餘あまりに滑稽こつけいな分子ぶんしを交まじへて居ゐた。

与吉はその日の夕方、紙に包んだ食塩を一つぬすんだ。

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與吉よきちは其その日ひの夕方ゆふがた、紙かみへ包つゝんだ食鹽しよくえんを一ひとつ盜ぬすんだ。

彼は、これまで見たことのないきれいな菓子を見つけたと思って心がおどった。

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彼かれは從來じうらい見みたことのない綺麗きれいな菓子くわしを發見はつけんしたと思おもつて心こゝろが躍をどつた。

それでも彼はその半分を割って、いきなり飲みこんだ。

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それでも彼かれは其その半分はんぶんを割わつていきなり嚥のみ下くだした。

彼は喉がじりじりとこげつくほど、とても苦しんだ。

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彼かれは喉のどがぢり/\と焦こげつく程ほど非常ひじやうな苦惱くなうを感かんじた。

勘次もおつぎも、ただ慌てた。

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勘次かんじもおつぎも只たゞ慌あわてた。

勘次はそのわけを知って

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勘次かんじは其その原因げんいんを知しつて

「お前はばかだな、本当に。何てばかだろうなあ」

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「汝わりや馬鹿ばかだな本當ほんたうに、何なんち馬鹿ばかだんべなあ」

としかってみるだけだった。

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と叱しかつて見みるだけであつた。

勘次があまりしかるので

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勘次かんじが餘あまりに叱しかるので

「そんなに怒ったって治るまいな、おとっつあんは」

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「そんなに怒おこつたつて癒なほるめえな、おとつゝあは」

と、ついにはおつぎが勘次をしかった。

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と遂つひにはおつぎが勘次かんじを叱しかつた。

与吉はただ苦しんで、胸をかきむしるようにしながらころがって泣いた。

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與吉よきちは只たゞ苦くるしんで胸むねを掻かき挘むしる樣やうにしつゝ顛ころがつて泣ないた。

卯平はさわぎを聞いて、のっそりと来た。

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卯平うへいは騷さわぎを聞きいてのつそりと來きた。

「水を飲ませてみろ」

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「水みづ飮のませて見みろ」

彼は慌てるということを知らない者のように、一言言った。

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彼かれは慌あわてるといふことを知しらぬものゝ如ごとく一言ごんいつた。

おつぎはすぐにしゃくしで水をくんだ。

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おつぎは直すぐに柄杓ひしやくで水みづを汲くんだ。

与吉はいくらでも柄にすがって飲んだ。

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與吉よきちは幾いくらでも柄えに縋すがつて飮のんだ。

「にわとりが納豆を食ったって、死なないうちに水を飲ませりゃ何ともないんだもの。水を飲ませりゃ、そんなにさわぐことはない」

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「雞にはとり納豆なつとうくつたつて死しなねえ内うちに水みづ飮のませりや何なんともねんだもの、水みづ飮のませりやそんなに騷さわぐにやあたらねえ」

卯平は言って、自分でもまた飲ませた。

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卯平うへいはいつて自分じぶんでも又また飮のませた。

与吉のまくら元で、三人は夜通しねむらなかった。

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與吉よきちの枕元まくらもとに三人にんは徹宵よつぴて眠ねむらなかつた。

おそろしくたくさんの水を飲んだ与吉は、ついにすやすやとねむった。

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恐おそろしく多量たりやうの水みづを飮のんだ與吉よきちは遂つひにすや/\と眠ねむつた。

そして次の朝、けろりと治ってかけ出したのだった。

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さうして翌朝よくあさけそ/\と癒なほつて驅かけ出だしたのであつた。

次の日、おつたはまた来た。

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次つぎの日ひおつたは復また來きた。

おつたは、自分が知らないうちに種をまいた昨夜のさわぎを知っているはずがないので、昨日のように元気がよかった。

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おつたは自分じぶんが無意識むいしきに種たねを蒔まいた昨夜さくやの騷さわぎを知しつてる筈はずがないので、昨日きのふの如ごとく威勢ゐせいがよかつた。

勘次はねぶそくから、さらによけいに不快そうに目をしかめた。

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勘次かんじは睡眠すゐみんの不足ふそくから更さらに餘計よけいに不快ふくわいの目めを蹙しかめた。

自分の風呂しきへ、のきの下にならべてある三つの南瓜を包もうとして、おつたは

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自分じぶんの風呂敷ふろしきへ軒のきの下したに竝ならべてある三つの南瓜たうなすを包つゝまうとしておつたは

「おれの南瓜はこれだったっけかな」

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「俺おれが南瓜たうなすは此これだつけかな」

と、ふしぎそうに言った。

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と不審相ふしんさうにいつた。

「それだろうな」

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「それだんべな」

勘次はやっとこれだけ言った。

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勘次かんじは漸やうやくこれだけいつた。

卑しい彼は、おつたにやった南瓜を取りかえておいたのだった。

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淺猿さもしい彼かれはおつたへやつた南瓜たうなすを換かへて置おいたのであつた。

「どうだったっけ、昨日の豆は。そんでもたくさん穫れたようだったっけが」

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「どうしたつけ、昨日きのふの豆まめはそんでもたんと收穫とれた割合わりえゝだつけが」

おつたがなぞをかけるように言っても、勘次はいっこうにはきはき言わなかった。

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おつたが謎なぞのやうにいつても勘次かんじは更さらにはき/\といはなかつた。

おつたも不快なようすをしながら、南瓜と葱を背負って、特に口をきくでもなく、ただ卯平と二言三言言って、もうどうでもいいという態度で出て行った。

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おつたも不快ふくわいな容子ようすをしながら南瓜たうなすと葱ねぎとを脊負しよつて別べつに口くちを利きくでもなく、只たゞ卯平うへいと二言ふたこと三言みこといつてもうどうでも好いいといふ態度たいどで出でて行いつた。

勘次はつくづくと、中ほどがひどくやせてくびれた俵を見た。

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勘次かんじはつく/″\と中間ちうかんの痛いたく痩やせて括くびれた俵たわらを見みた。

お金や物によって満足を自分の暖かいふところに感じたとき、みんなはこれを失うまいとするこわさから絶えず心をさわがせているように、はてしない自然のふところからめぐみが百姓の手に必ず一度与えられる秋の季節になれば、そのめぐみを持った田や畑のほ先が、これをねたむ一部の自然の力に対して、いつもふるえながら、そして泣いた。

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財貨ざいくわによつて物質的ぶつしつてきの滿足まんぞくを自分じぶんの暖あたゝかな懷ふところに感かんじた時とき凡すべては此これを失うしなふまいとする恐怖きようふから絶たえず其その心こゝろを騷さわがせつゝあるやうに、無盡藏むじんざうな自然しぜんの懷ふところから財貨ざいくわが百姓ひやくしやうの手てに必かならず一度ど與あたへられる秋あきの季節きせつに成なれば、其その財貨ざいくわを保たもつた田たや畑はたけの穗先ほさきが之これを嫉ねたむ一部ぶの自然現象しぜんげんしやうに對たいして常つねに戰慄せんりつしつゝ且かつ泣ないた。

二百十日から二十日のあいだの暴風は心配したほどのことはなく、ただ秋の空はむずかしそうに低くなって、棒のような雲へけむりのような雲がぽつりぽつりとまとわっている日がつづいて、二、三日昼から夜にかけて、ぼかぼかと暖かい空っ風が思い切りふいた。

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二百十日かから廿日かの間あひだに渡わたつての暴風ばうふうは懸念けねんした程ほどのことはなく、只たゞ秋あきの空そらは六かし相さうに低ひくく成なつて棒ぼうのやうな雲くもへ煙けぶりの樣やうな雲くもがぽつり/\と纏まつはつて居ゐる日ひが續つゞいて二三日にち晝ひるから夜よるへ掛かけてぼか/\と暖あたゝかい空からつ風かぜが思おもひ切きり吹ふいた。

小松やくぬぎの林にまじって、ふれれば人のはだに血を見せるほどのかたい意地の悪い葉を持ったすすきまでが、そうしなければ目にも立たないのに、わざわざうす赤いやわらかなほ先を高くさし上げて、人一倍にさわいだ。

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小松こまつや櫟くぬぎの林はやしに交まじつて、之これに觸ふれゝば人ひとの肌膚はだへに血ちを見みせる程ほどの硬こはい意地いぢの惡わるい葉はを持もつた芒すゝきまでが、さうしなければ目めにも立たたないのに態々わざ/\と薄赤うすあかい軟やはらかな穗先ほさきを高たかくさし扛あげて、他ひと一倍ばいに騷さわいだ。

しばらくして、秋はまぶしいほどすみきった空を見せた。

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暫しばらくして秋あきは眩まぶしい程ほど冴さえた空そらを見みせた。

畑には、昼がよけいに明るいほど黄茶色に熟した陸稲がいっぱいにうなずいた。

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畑はたけには晝ひるが餘計よけいに明あかるい程ほど黄褐色くわうかつしよくに成熟せいじゆくした陸稻をかぼが一杯ぱいに首肯うなづいた。

そばは、さわやかで細く強い秋雨がしとしとと洗って、秋風がそれをかわかした。

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蕎麥そばは爽さわやかで且かつ細ほそく強つよい秋雨あきさめがしと/\と洗あらつて秋風あきかぜがそれを乾かわかした。

洗ってはほしほし、何度もそれがくり返されて、だんだんうす青く、そして暗い夜さえ明るくするほど真っ白にさらされた。

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洗あらつては乾かわかし/\屡しば/\それが反覆はんぷくされてだん/\に薄青うすあをく、さうして闇やみの夜よをさへ明あかるくする程ほど純白じゆんぱくに曝さらされた。

高台の畑は黄色と白がまじって、土地のままになだらかに起伏して、鬼怒川の土手に近く向こうへ低くかたむいている。

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臺地だいちの畑はたけは黄白くわうはく相あひ交まじつて地勢ちせいの儘まゝになだらかに起伏きふくして鬼怒川きぬがはの土手どてに近ちかく向方むかうへ低ひくくこけて居ゐる。

そういう畑のまわりに立っている蜀黍は、強いくきがすっくりとほをささえて、それがまばらなかきねのようにつらなって、畑から畑をつないでは何十回も折れ曲がりながら、だんだん短くなって、これも鬼怒川の土手に近く尽きる。

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さういふ畑はたけの周圍まはりに立たつて居ゐる蜀黍もろこしは強つよい莖くきがすつくりと穗ほを支さゝへて、それが疎まばらな垣根かきねのやうに連つらなつて畑はたけから畑はたけを繼つないでは幾いく十度どの屈折くつせつをなしつゝ段々だん/\に短みぢかくなつて此これも鬼怒川きぬがはの土手どてに近ちかく竭つきる。

土手のしのの高さに見える蜀黍は、南風を受けて、さし上げた手のような形になっては先から先へと動いて、その手がさかのぼる白いほを静かに上流へ押し進めている。

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土手どての篠しのの高たかさに見みえる蜀黍もろこしは南風なんぷうを受うけて、さし扛あげた手ての如ごとき形かたちをなしては先さきから先さきへと動うごいて、其その手てが溯さかのぼる白帆しらほを靜しづかに上流じやうりうへ押おし進すゝめて居ゐる。

そしてはまた、そのまばらなかきねは、長い短いによって遠くの林のえだや、すみきった山々の頂をなでている。

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さうしては又また其その疎まばらな垣根かきねは長ながい短みじかいによつて遠とほくの林はやしの梢こずゑや冴さえた山々やま/\の頂いたゞきを撫なでゝ居ゐる。

さわやかな秋は、こうしてからりと開けた。

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爽さわやかな秋あきは斯かくしてからりと展開てんかいした。

しかし勘次が作った陸稲は、こういう畑ではなく、えだの荒れた雑木林のあいだだけだった。

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然しかし勘次かんじの作つくつた陸稻をかぼはかういふ畑はたけではなく、梢こずゑの荒すさんだ雜木林ざふきばやしの間あひだのみであつた。

彼の開こん地へは、まわりにかくれる場所があるせいか、村のどこにも急に声を聞かなくなった雀が、群れをなして日ごとにおそった。

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彼かの開墾地かいこんちへは周圍しうゐに隱かくれる場所ばしよが有ある所爲せゐか、村落むらの何處どこにも俄にはかに其その聲こゑを聞きかなくなつた雀すゞめが群ぐんをなして日毎ひごとに襲おそうた。

彼はそれでも根気よく、白いガス糸をたてよこに畑の上に張って、ひらひらと燭奴をつるしておどしてみた。

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彼かれはそれでも根こんよく白しろい瓦斯絲ガスいとを縱横じゆうわうに畑はたけの上うへに引ひつ張ぱつてひら/\と燭奴つけぎを吊つつて威おどして見みた。

それでもずるい雀のために、もみがまだ固まらないで甘いしるのような状態のうちから、小さなくちばしでかんで、たくさんもみがらがこぼされた。

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それでも狡獪かうくわいな雀すゞめの爲ために籾もみのまだ堅かたまらないで甘あまい液汁しるの如ごとき状態じやうたいをなして居ゐる内うちから小ちひさな嘴くちばしで噛かんで夥したゝかに籾殼もみがらが滾こぼされた。

彼は空っ風がさわったとは思っていても、長いくきを刈りたおしたときはそれでもいっしんで、しかも楽しかったが、しかしかわかして米にしたときには、彼は夏のころの予想と大きくちがうことを確かめてがっかりせざるを得なかった。

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彼かれは空からつ風かぜが障さはつたとは思おもつて居ゐても、長ながい幹からを刈かり倒たふした時ときはそれでも熱心ねつしんで且かつ愉快ゆくわいであつたが、然しかし乾燥かんさうして米こめにした時ときには彼かれは夏なつの頃ころの豫想よさうと非常ひじやうな相違さうゐであることを確たしかめて落膽らくたんせざるを得えなかつた。

彼の卑しい心が、わずかな米や麦を姉のおつたにだまし取られたかと思い出しては、しばらくのあいだ、いまいましさにたえられなかった。

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彼かれの淺猿さもしい心こゝろが僅わづかな米こめや麥むぎを姊あねなるものゝおつたに騙だまして取とられたかと思おもひ出だしては暫しばらくの間あひだ忌々敷いま/\しさに堪たへなかつた。

彼は勢い何かに当たり散らそうとするのに、おつぎと与吉に対してはあまりに深い愛じょうを持っていた。

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彼かれは勢いきほひ何なにかに當あたり散ちらさうとするのにおつぎと與吉よきちとに對たいしては餘あまりに深ふかい親したしみを有もつて居ゐた。

こうして彼の卯平に対するにくしみが、彼の心にきりであなをあけて、さらにくぎではっきりと打ちつけられたのだった。

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斯かうして彼かれの卯平うへいに對たいする憎惡ぞうをの念ねんが彼かれの心こゝろへ錐きりを穿うがつて更さらに釘くぎを以もつて確然しつかと打うちつけられたのであつた。

二一

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二一

勘次が走って鬼怒川の岸に立ったときは、きりがいっぱいに降りて、水は彼の足元から二、三間先が見えるだけだった。

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勘次かんじが走はしつて鬼怒川きぬがはの岸きしに立たつた時ときは霧きりが一杯ぱいに降おりて、水みづは彼かれの足許あしもとから二三間げん先さきが見みえるのみであつた。

岸には舟がつないでなかった。

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岸きしには船ふねが繋つないでなかつた。

彼はあせって、いつものように大声を出して、向こう岸へ行ったはずの舟を呼んだ。

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彼かれは焦慮あせつて例いつもするやうに大聲おほごゑ出だして對岸むかうへ行いつた筈はずの船ふねを喚よんだ。

「おうい」

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「おうえ」

と答える声が、水をわたって強く、しかも近く聞こえた。

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と應おうずる聲こゑが水みづを渉わたつて強つよく然しかも近ちかく聞きこえた。

勘次はその声におされて黙った。

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勘次かんじは其その聲こゑに壓あつせられて默だまつた。

すぐにへさきがうすくきりの中から見えた。

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直すぐに舳へさきが薄うすく霧きりの中なかから見みえた。

勘次は、ほとんどむせるようなきりにつつまれて舟に立った。

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勘次かんじは殆ほとんど咽むせぶやうな霧きりに包つゝまれて船ふねに立たつた。

ところどころさらさらとかすかな音を伝えて、舟の底がつかえそうになる。

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處々ところ/″\さら/\と微かすかに響ひゞきを傳つたひて船ふねの底そこが支さゝへられようとする。

初秋のこう水以来、川の真ん中には大きな中州ができたので、舟はそのまわりをはって、遠く曲がって行かねばならない。

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初秋しよしうの洪水こうずゐ以來いらい河かはの中央ちうあうには大おほきな洲すが堆積たいせきされたので、船ふねは其その周圍しうゐを偃はうて遠とほく彎曲わんきよくを描ゑがかねば成ならぬ。

勘次は目をおおわれたようで心細いきりの中で、そんなことでずいぶんのびた水路をたどっていながら、ゆったりとにぶいさおの立て方をするのに心をあせらせて

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勘次かんじは目めを掩おほはれたやうで心細こゝろぼそい霧きりの中なかに、其麽そんなことで著いちじるしく延長えんちやうされた水路すゐろを辿たどつて居ゐながら、悠然ゆつくりとして鈍にぶい棹さをの立たてやうをするのに心こゝろを焦慮あせらせて

「どうしたろう、入っちゃこせまいか」

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「どうしたんべ、入へえつちや越こせめえか」

船頭のほうを向いて彼は言った。

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船頭せんどうの方はうを向むいて彼かれはいつた。

「ぶくぶくやりたけりゃ入ったほうがいいや」

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「ぶく/\やりたけりや入へえつた方はうがえゝや」

船頭はそっけなく言って、ゆっくりとさおを立てる。

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船頭せんどうはそつけなくいつて徐おもむろに棹さをを立たてる。

舟の底がふれて、立っている体がぐらりと後ろへたおれそうになった。

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船底ふなぞこが觸さはつて立たつて居ゐる身體からだがぐらりと後うしろへ倒たふれ相さうに成なつた。

勘次は、船頭がわざと自分を突きとばしたもののように感じて、ひどく頼りない気持ちがした。

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勘次かんじは船頭せんどうが態わざと自分じぶんを突つきのめしたものゝやうに感かんじて酷ひどく手頼たよりない心持こゝろもちがした。

彼はじっとかがんで、船頭の思うままに任せた。

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彼かれは凝然ぢつと屈かゞんで船頭せんどうの操あやつる儘まゝに任まかせた。

真ん中の大きな中州からつづく浅せにつかえて、舟はいつもの所へは着けられなくなっている。

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中央ちうあうの大おほきな洲すから續つゞく淺瀬あさせに支さゝへられて船ふねは例いつもの處ところへは着つけられなく成なつて居ゐる。

たった一人の乗客である勘次は、船頭の勝手な所へ下ろされたように思った。

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只たゞ一人ひとりの乘客じようかくである勘次かんじは船頭せんどうの勝手かつてな處ところへおろされたやうに思おもつた。

川やなぎがやせて、赤い実をかくしたくこのえだがぽつねんとたれて、大きなたでの葉が黄色くなっている岸へ、舟はがさりとへさきを突っこんだのである。

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河楊かはやなぎが痩やせて、赤あかい實みを隱かくした枸杞くこの枝えだがぽつさりと垂たれて、大おほきな蓼たでの葉はが黄色きいろくなつて居ゐる岸きしへ船ふねはがさりと舳へさきを突つつ込こんだのである。

それでもそこには、もう何度か舟がつけられたと見えて、足あとらしいのが階だんのように形づくられてある。

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それでも其處そこにはもう幾度いくたびか船ふねがつけられたと見みえて足趾あしあとらしいのが階段かいだんのやうに形かたちづけられてある。

勘次は川やなぎのえだに手をかけて、他人の足あとをふんだ。

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勘次かんじは河楊かはやなぎの枝えだに手てを掛かけて他人ひとの足趾あしあとを踏ふんだ。

えだや葉がざらざらと彼のござにふれて鳴った。

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枝えだや葉はがざら/\と彼かれの蓙ござに觸ふれて鳴なつた。

彼は三歩目に岸に立った。

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彼かれは三足目みあしめに岸きしに立たつた。

岸は畑で、こう水が運んで来た灰に似たどろがいっぱいにかわいて、大きなひび割れができている。

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岸きしは畑はたけで、洪水こうずゐが齎もたらした灰はひに似にてる泥えごみが一杯ぱいに乾かわいて大おほきな龜裂きれつを生しやうじて居ゐる。

まわりの蜀黍がほを切られたまま、少し遠くはぼんやりとして、これもきりの中にしょんぼりと立っている。

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周圍しうゐの蜀黍もろこしが穗ほを伐きられた儘まゝ、少すこし遠とほくはぼんやりとして此これも霧きりの中なかに悄然ぽつさりと立たつて居ゐる。

勘次がふり返ったとき、彼を置いて行った舟はしずんだきりにへだてられて見えなかった。

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勘次かんじが顧ふりかへつた時とき、彼かれを打棄うつちやつた船ふねは沈しづんだ霧きりに隔へだてられて見みえなかつた。

彼は蜀黍のくきに沿って、足あとをたどって、はるか先の土手の道へ出た。

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彼かれは蜀黍もろこしの幹からに添そうて足趾あしあとに從したがつて遙はるかに土手どての往來わうらいへ出でた。

きりがいっぺんに晴れた。

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霧きりが一遍ぺんに晴はれた。

彼は何かにだまされた後のように、がらんとしたまわりをぐるりと見回さないわけにはいかなかった。

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彼かれは何なにかに騙だまされた後あとのやうに空洞からりとした周圍しうゐをぐるりと見廻みまはさない譯わけにはいかなかつた。

彼は川ぞいのこう水の後の変わりように、おどろきの目を見開いた。

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彼かれは沿岸えんがんの洪水後こうずゐじの變化へんくわに驚愕おどろきの目めを睜みはつた。

たまたま、彼は、急に透きとおった空気の中からかけて来て目のおくにひっついたもののように、ぽっちりと一つ目についたものがある。

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偶然ひよつと彼かれは俄にはかに透明とうめいに成なつた空氣くうきの中なかから驅かけつて來きて網膜まうまくの底そこにひつゝいたものゝやうにぽつちりと一つ目めについたものがある。

それは遠い上流につながれている小さな舟だった。

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それは遠とほい上流じやうりうに繋かゝつて居ゐる小ちひさな船ふねであつた。

そこには何本かの竹ざおが立てられてあるのも、同時に彼の目に入った。

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其處そこには數本すうほんの竹竿たけざをが立たてられてあるのも同時どうじに彼かれの目めに入いつた。

彼はすぐに、それがさけ取りの舟であることを知った。

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彼かれは直すぐにそれが鮭捕船さけとりぶねであることを知しつた。

漁師はさけが真夜中に網にかかるのを待ちながら、たとえ何晩も何もかからなくても、少しもねむることなく、またえものがするどく水を切って進んで来るのを彼らのすばやい目が暗い夜でも必ず見のがすことなく、近づいた一しゅん、彼らは水の中におどって、すばやく網でえものを巻くのである。

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漁夫ぎよふは鮭さけが深夜しんやに網あみに懸かゝるのを待まちつゝ、假令たとひ連夜れんやに渡わたつてそれが空むなしからうともぽつちりとさへ眠ねむることなく、又また獲物えものが鋭するどく水みづを切きつて進すゝんで來くるのを彼等かれらの敏捷びんせふな目めが闇夜あんやにも必かならず逸いつすることなく、接近せつきんした一刹那せつな彼等かれらは水中すゐちうに躍をどつて機敏きびんに網あみを以もつて獲物えものを卷まくのである。

彼らは夜が明けると、銀のように光っているえものが一ぴきでも舟にあれば、それを青竹の葉に包んで元気よくかついで出る。

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彼等かれらは夜よが明あけると銀ぎんの如ごとく光ひかつて居ゐる獲物えものが一尾ぴでも船ふねに在あればそれを青竹あをだけの葉はに包つゝんで威勢ゐせいよく擔かついで出でる。

そうでなければ、かしこいさけがよどみにかくれて動かない真昼のあいだだけ、ぐったりつかれた体にわずかなねむりをぬすむだけなので、朝の明るく白い水にさえ、じっと目をはなさないのである。

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さもなければ怜悧りこうな鮭さけが澱よどみに隱かくれて動うごかぬ白晝ひるの間あひだのみぐつたりと疲つかれた身體からだに僅わづかに一睡すいを偸ぬすむに過すぎないので、朝あさの明あかるく白しろい水みづにさへ凝然ぢつと其その目めを放はなたないのである。

どちらにしても、小さな舟は今、冷たい朝の静けさを保っているのである。

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孰いづれにしても小ちひさな船ふねは今いま冷つめたい朝あさの靜しづけさを保たもつて居ゐるのである。

ただはるか遠くの村の木立のえだからのぼるごはんのけむりが、すみきった冷たい空に吸いこまれているだけで、その小さな舟が真ん中にあって、勘次の目には一つも動く物が見えなかった。

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只たゞ遙はるかに隔へだつた村落むらの木立こだちの梢こずゑから騰のぼる炊煙すゐえんが冴さえた冷つめたい空そらに吸すひこまれて居ゐるのみで、其その小ちひさな船ふねが中心點ちうしんてんをなして勘次かんじの目めには一つも動うごく物ものを見みなかつた。

彼はしばらくまたじっとして、上流の小舟を見ていた。

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彼かれは暫しばらく又また凝然ぢつとして上流じやうりうの小船こぶねを見みて居ゐた。

彼は気がついたとき、土手を一気に北へ急いだ。

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彼かれは氣きがついた時とき土手どてを一散さんに北きたへ急いそいだ。

土手はやがて水田に沿って、うねうねと遠くまでつづいている。

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土手どては軈やがて水田すゐでんに添そうてうね/\と遠とほく走はしつて居ゐる。

土手の道はばがせまくなった。

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土手どての道幅みちはゞが狹せまくなつた。

それは、刈られてぐっしょりしめっている稲が、土手の芝の上いっぱいにほしてあったからである。

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それは刈かられてぐつしやりと濕しめつて居ゐる稻いねが土手どての芝しばの上うへ一杯ぱいに干ほされてあつたからである。

稲は、ぽつぽつと群がっている野茨の株をのぞいて、すっかり広げられてある。

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稻いねはぼつ/\と簇むらがつて居ゐる野茨のばらの株かぶを除のぞいて悉こと/″\く擴ひろげられてある。

野茨の葉はもう落ちてしまって、小さなえだの先には赤いつやつやした実が一つずつかざされている。

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野茨のばらの葉ははもう落おちて畢しまつて、小ちひさな枝えだの先さきには赤あかいつやゝかな實みが一つづゝ翳かざされて居ゐる。

草刈りのかまをのがれて、しっかりとその株の根にすがった嫁菜の花が、とげの立ったえだに寄りかかりながら、しっとりと朝のしめり気をおびている。

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草刈くさかりの鎌かまを遁のがれて確乎しつかと其その株かぶの根ねに縋すがつた嫁菜よめなの花はなが刺立とげだつた枝えだに倚より掛かゝりながらしつとりと朝あさの濕うるほひを帶おびて居ゐる。

ぬれた稲のにおいが勘次の鼻をついた。

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濡ぬれた稻いねの臭にほひが勘次かんじの鼻はなを衝ついた。

いなごがぱらぱらと足音につれて、稲をわたって逃げた。

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螽いなごがぱら/\と足あしの響ひゞきに連つれて稻いねを渉わたつて遁にげた。

彼はそのほした稲のほ先をつかんで、もみを何つぶか手にしごいてみた。

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彼かれは其その干ほされた稻いねの穗先ほさきを攫つかんで籾もみの幾粒いくつぶかを手てに扱しごいて見みた。

彼はさらにそのもみを歯でかんでみた。

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彼かれは更さらに其その籾粒もみつぶを齒はで噛かんで見みた。

彼はそれからまた一気に走った。

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彼かれは夫それから又また一散さんに走はしつた。

彼は少しのあいだに、ひどく手間取ったように感じた。

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彼かれは少すこしの間まに酷ひどく暇ひまどつたやうに感かんじた。

足にはきゃはんとわらじをはいて、背にはござを背負っている。

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足あしには脚絆きやはんと草鞋わらぢとを穿はいて背せには蓙ござを負おうて居ゐる。

ござは絶えず彼の後ろでがさがさと鳴って、その耳をさわがせた。

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蓙ござは終たえず彼かれの背後はいごにがさ/\と鳴なつて其その耳みゝを騷さわがした。

彼はついに土手から折れて、東へ東へと走った。

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彼かれは遂つひに土手どてから折をれて東ひがしへ/\と走はしつた。

村がぽつりぽつりと木立を作っているほかは、一面にただつづいている水田をつらぬいて、道ははるかに遠く、くっついたような高台の林を見ながら一直線である。

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村落むらがぽつり/\と木立こだちを形かたどつて居ゐる外ほかには一帶たいに只たゞ連續れんぞくして居ゐる水田すゐでんを貫つらぬいて道みちは遙はるかに遠とほく、ひつゝいたやうな臺地だいちの林はやしを望のぞんで一直線ちよくせんである。

彼はむかしそこを歩いたことはあった。

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彼かれは嘗かつて其處そこを歩あるいたことはあつた。

しかし彼が知っているのは、いくつも曲がりくねっていたころである。

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然しかし彼かれの知しつてるのは幾屈曲いくくつきよくをなして居ゐた當時たうじである。

彼はいつのまにかとてもきちんと整理された田畑に、おどろきの目を見開いた。

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彼かれは何時いつの間まにか極端きよくたんに人工的じんこうてきの整理せいりを施ほどこされた耕地かうちに驚愕おどろきの目めを睜みはつた。

彼はみぞがきれいにならんでいるのに見とれてしまった。

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彼かれは溝渠こうきよの井然せいぜんとして居ゐるのに見惚みとれて畢しまつた。

日はやっと朝をはなれて、空に居すわった。

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日ひは漸やうやく朝あさを離はなれて空そらに居据ゐすわつた。

すべての物が明るい光をそえた。

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凡すべての物ものが明あかるい光ひかりを添そへた。

しかしながら、まわりのどこにも生き生きした緑はまったく目に映らなかった。

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然しかしながら周圍しうゐの何處いづこにも活々いき/\した緑みどりは絶たえて目めに映うつらなかつた。

まだいくらも刈られていない田は、黄茶色の明るい光を反しゃして、ところどころの畑に作る桑も、霜にあうまではとえだの小さなやわらかな葉が四、五まいうるおいを持っているだけである。

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まだ幾いくらも刈かられてない田たは、黄褐色くわうかつしよくの明あかるい光ひかりを反射はんしやして、處々しよ/\の畑はたけに仕ある桑くはも、霜しもに逢あふまではと梢こずゑの小ちひさな軟やはらかな葉はの四五枚まいが潤うるほひを有もつて居ゐるのみである。

ぽつぽつと群がった村の木立は、どれもみな赤茶けたくすんだ葉でおおわれている。

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ぽつ/\と簇むらがつた村落むらの木立こだちの孰いづれも悉こと/″\く赭あかいくすんだ葉はを以もつて掩おほはれて居ゐる。

そして低くならんだ木立とのあいだに、はっきりと強い線をえがいて、空はにくいほどすみきっている。

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さうして低ひくく相あひ接せつして居ゐる木立こだちとの間あひだに截然くつきりと強つよい線せんを描ゑがいて空そらは憎にくい程ほど冴さえて居ゐる。

そうだ。

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さうだ。

すべての植物が持っている緑の色は、すっかり空が持っているのだ。

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凡すべての植物しよくぶつが有もつて居ゐる緑素りよくそは悉皆みんな空そらが持もつて居ゐるのだ。

春になると空はそれを雨にとかしてまいてやるのだ。

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春はるになると空そらはそれを雨あめに溶解ようかいして撒まいてやるのだ。

だからしめったえだはどれでも青くいろどられなければならないはずである。

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それだから濕うるほうた枝えだはどれでも青あをく彩いろどられねばならぬ筈はずである。

だから、何度百姓の手がたがやしても、その土をかわかしてぬらさない工夫をしないかぎりは、思わぬ所にぽつりぽつりと草の葉が青く出て、雨が降れば降るほど、どこでもいっぱいにその草の葉が濃くなって行かねばならないはずである。

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それだから幾度いくたび百姓ひやくしやうの手てが耕たがやさうとも其その土つちを乾燥かんさうして濡ぬらさぬ工夫くふうを立たてない限かぎりは、思おもはぬ處ところにぽつり/\と草くさの葉はが青あをく出でて、雨あめが降ふれば降ふる程ほど何處どこでも一杯ぱいに其その草くさの葉はが濃こく成なつて行ゆかねばならぬ筈はずである。

それをおそい秋の空がすっかり持ち去るので、めっきりすみきる反対に、草木はすべてがかわいたりくすんだりしてしまうにちがいないのである。

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それを晩秋ばんしうの空そらが悉皆みんな持もち去さるので滅切めつきりと冴さえる反對はんたいに草木くさきは凡すべてが乾燥かんさうしたりくすんだりして畢しまふのに相違さうゐないのである。

明るい日はすっかり昼になった。

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明あかるい日ひは全まつたく晝ひるに成なつた。

ところどころの島のような畑のふちから田へはいかかっている料理菊の黄色い花が、とりわけいちばん強く日の光を反しゃして、近いよりは遠いほど気持ちよくあざやかに見えている。

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處々ところ/″\の島しまのやうな畑はたけの縁へりから田たへ偃はひ掛かゝつて居ゐる料理菊れうりぎくの黄きな花はなが就中なかでも一番ばん強つよく日光につくわうを反射はんしやして近ちかいよりは遠とほい程ほど快こゝろよく鮮あざやかに見みえて居ゐる。

勘次はずっと手ぬぐいで巻いた右手のひじをかかえるようにして、うつむいて歩いた。

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勘次かんじは始終しよつちう手拭てぬぐひを以もつて捲まいた右手めての肘ひぢを抱かゝへるやうにして伏目ふしめに歩あるいた。

道に沿ったせまいほりの浅い水に、彼の目が向いた。

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道みちに添そうて狹せまい堀ほりの淺あさい水みづに彼かれの目めが放はなたれた。

がらがらに荒れた狼把草やゑぐが、ぽつぽつと水につかっている。

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がら/\に荒すさんだ狼把草たうこぎやゑぐがぽつ/\と水みづに浸ひたつて居ゐる。

青い空は浅い水の底から、はるかに深く遠く光った。

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蒼あをい空そらは淺あさい水みづの底そこから遙はるかに深ふかく遠とほく光ひかつた。

そして、どこからか迷い出て落ち着く場所を見つけられずに困っているような白い雲がうつって、勘次が走れば走るほど先へ先へと移った。

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さうして何處どこからか迷まよひ出だして落付おちつく場所ばしよを見出みいだし兼かねて困こまつて居ゐるやうな白しろい雲くもが映うつつて、勘次かんじが走はしれば走はしる程ほど先さきへ/\と移うつつた。

勘次はそれをじっと見つめて行くと、なんだか頭がぐらぐらするように感じられた。

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勘次かんじはそれを凝視みつめて行ゆくと何なんだか頭腦あたまがぐら/\するやうに感かんぜられた。

彼は昨夜はねむらなかった。

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彼かれは昨夜ゆふべは眠ねむらなかつた。

彼の、自分独りでかみ殺していなければならないいまいましさが、頭をしげきした。

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彼かれの自分じぶん獨ひとりで噛かみ殺ころして居ゐねばならぬ忌々敷いま/\しさが頭腦あたまを刺戟しげきした。

彼はひたすら、ひじのきずを実さいよりも何倍も重く他人に見せたいという、一種の分からない気持ちを持っていた。

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彼かれは只管ひたすら肘ひぢの瘡痍きずの實際じつさいよりも幾倍いくばい遙はるかに重おもく他人ひとには見みせたい一種しゆの解わからぬ心持こゝろもちを有もつて居ゐた。

わずかなひまもおしんだ彼の心は、これまでになく、自分の損を考えるゆとりを持たないほど乱れ、にごっていた。

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寸暇すんかをも惜をしんだ彼かれの心こゝろは從來これまでになく、自分じぶんの損失そんしつを顧かへりみる餘裕よゆうを有もたぬ程ほど惑亂わくらんし溷濁こんだくして居ゐた。

真昼の日は横のほおに暑いほどさしかけたが、まわりはあいかわらず冷たかった。

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白晝ひるの日ひは横頬よこほゝに暑あつい程ほどに射さし掛かけたが周圍あたりは依然やつぱり冷つめたかつた。

ほりの浅い水には、これも冷たそうにじっと身をしずめたかえるが、黙って彼を見ていた。

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堀ほりの淺あさい水みづには此これも冷つめたげに凝然ぢつと身みを沈しづめた蛙かへるが默だまつて彼かれを見みて居ゐた。

遠い田んぼを、彼は前後にただ一人の通行人だった。

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遠とほい田圃たんぼを彼かれは前後ぜんごに只たゞ一人ひとりの行人かうじんであつた。

はるかにぽつりぽつりと見える稲刈りの百姓は、独りぼっちの彼の目からかくれようとするように、みなずっと低く身をかがめている。

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遙はるかにぽつり/\と見みえる稻刈いねかりの百姓ひやくしやうは㷀然ぽつさりとした彼かれの目めから隱かくれようとする樣やうに悉皆みんなずつと低ひくく身みを屈かゞめて居ゐる。

明るい光に満ちた田んぼを、その乱れにごった心をかかえてさびしく歩数を重ねて行く彼は、ガラスのうつわの水を日にかざして見つけた一つぶのちりだった。

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明あかるい光ひかりに滿みちた田圃たんぼを其その惑亂わくらんし溷濁こんだくした心こゝろを懷いだいて寂さびしく歩數あゆみを積つんで行ゆく彼かれは、玻璃器はりきの水みづを日ひに翳かざして發見はつけんした一點てんの塵芥ごみであつた。

勘次は田んぼが尽きたとき、村を過ぎて高台へ出た。

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勘次かんじは田圃たんぼが竭つきた時とき村落むらを過すぎて臺地だいちへ出でた。

村のかきねには稲をかけている人々がいた。

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村落むらの垣根かきねには稻いねを掛かけて居ゐる人々ひとびとがあつた。

道行く人を見たがるくせのある彼らは、みないそがしげな勘次を見た。

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道みち行ゆく人ひとを見みたがる癖くせの彼等かれらは皆みな忙いそがしげな勘次かんじを見みた。

勘次は他人が自分を見ることに気づいたとき、ひじをまたていねいにかかえた。

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勘次かんじは他人ひとが自分じぶんを見みることを知しつた時とき肘ひぢを復また叮嚀ていねいに抱だいた。

高台には林のあいだに、暗い感じの畑が開こんされてあった。

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臺地だいちには林はやしの間あひだに陰氣いんきな畑はたけが開墾かいこんされてあつた。

彼は開こん地の土のようすと作物を、とても注意して見た。

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彼かれは開墾地かいこんちの土質どしつと作物さくもつとを非常ひじやうな注意ちういで見みた。

また村があって、広い畑が開けた。

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又また村落むらがあつて廣ひろい畑はたけが展開てんかいした。

畑は陸稲を刈ったままの所がいくらもあった。

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畑はたけは陸稻をかぼを刈かつた儘まゝの處ところが幾いくらもあつた。

彼は陸稲の刈り株をていねいにわらじの先でふんでみた。

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彼かれは陸稻をかぼの刈株かりかぶを叮嚀ていねいに草鞋わらぢの先さきで蹂ふんで見みた。

百姓がちらほらと動いて、麦をまくための土がきれいにたがやされつつある。

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百姓ひやくしやうがちらほらと動うごいて麥むぎを蒔まくべき土つちが清潔せいけつに耕たがやされつゝある。

畑の黒い土は、彼らのうでを見せてていねいにたがやされれば、日がまだそれをかわかさないうちは、ただきれいで気持ちのいい感じを見る人の心に与えるのである。

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畑はたけの黒くろい土つちは彼等かれらの技巧ぎかうを發揮はつきして叮嚀ていねいに耕たがやされゝば日ひがまだそれを乾ほさない内うちは只たゞ清潔せいけつで快こゝろよい感かんじを見みる人ひとの心こゝろに與あたへるのである。

そういう村をつつんで、そこにも雑木林が一面に赤茶けている。

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さういふ村落むらを包つゝんで其處そこにも雜木林ざふきばやしが一帶たいに赭あかくなつて居ゐる。

ほかより先に燃えるように赤くなった白膠木の葉が、黒い土と遠くで映り合っている。

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他たに先立さきだつて際きはどく燃もえるやうになつた白膠木ぬるでの葉はが黒くろい土つちと遠とほく相あひ映えいじて居ゐる。

勘次は、自分の麦をまくべき畑の用意がまだ十分でないことを思った。

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勘次かんじは自分じぶんの麥むぎを蒔まくべき畑はたけの用意よういがまだ十分ぶんでないことを思おもつた。

彼は前の年、寒さが急におそったとき、種をまく日がわずか二日おくれた麦が、思いのほか収穫がへった苦い経験を忘れられなかった。

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彼かれは前年ぜんねん寒さむさが急きふに襲おそうた時とき、種たね蒔まく日ひが僅わづかに二日ふつかの相違さうゐで後おくれた麥むぎの意外いぐわいに收穫しうくわくの減少げんせうした苦にがい經驗けいけんを忘わすれ去さることが出來できなかつた。

彼は目安として教わったその日を外さずに、麦はまかなければならないものと決めているのである。

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彼かれは標準へうじゆんとして教をしへられた其その日ひを外はづすことなく麥むぎは蒔まかねばならぬものと覺悟かくごをして居ゐるのである。

それとともに、一日でもこうして時間をむだにする自分のきずについて、彼は深く悲しんだ。

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それと共ともに一日にちでも斯かうして時間じかんを空費くうひする自分じぶんの瘡痍きずに就ついて彼かれは深ふかく悲かなしんだ。

しかしそれでいながら、彼は悲しみから来るいらだちが、ただそのきずをだれにも実さい以上に重く見せたい、見られたいというはかない思いをわかせること以外に、何も生まなかった。

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然しかしそれで居ゐながら彼かれは悲痛ひつうから來くる憤懣ふんまんの情じやうが、只たゞ其その瘡痍きずを何人なんぴとにも實際じつさい以上いじやうに重おもく見みせもし見みられもしたい果敢はかない念慮ねんりよを湧わかしむることより外ほかに何物なにものをも有もたなかつた。

彼はほとんど絶対に、同情となぐさめとにうえていたのである。

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彼かれは殆ほとんど絶對ぜつたいに同情どうじやうと慰藉ゐしやとに渇かつして居ゐたのである。

畑の黒い土には、ぽつぽつと大根の葉がしげっている。

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畑はたけの黒くろい土つちにはぽつ/\と大根だいこんの葉はが繁しげつて居ゐる。

まわりですみきった青い物は、大根の葉だけである。

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周圍しうゐに冴さえた青あをい物ものは大根だいこんの葉はのみである。

大根の葉は、いったん地上の緑をうばって透きとおった空が、その濃い緑をしずめて地上に置いた結しょうにちがいない。

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大根だいこんの葉はは、一旦たん地上ちじやうの緑みどりを奪うばうて透徹とうてつした空そらが其その濃厚のうこうな緑みどりを沈澱ちんでんさせて地上ちじやうに置おいた結晶體けつしやうたいでなければならぬ。

おそい秋の気配は、ひたすらしずもうとばかりしている。

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晩秋ばんしうの氣きは只管ひたすらに沈しづまうとのみして居ゐる。

実をつけ終わったすべての作物のほ先は、すっかりもううなだれている。

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生殖作用せいしよくさようを畢をはつた凡すべての作物さくもつの穗先ほさきは悉皆みんなもう俛首うなだれて居ゐる。

虫の声も地面にしみこもうとしている。

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蟲むしの聲こゑも地ちに沁しみ入いらうとして居ゐる。

ただ一つさわやかな緑を与えられた大根の葉も、いくら育っても強く引きしめるおそい秋の気を受けて、地面にひっつくようにしてやっとななめに広がるだけで、少しでも高く立ちのぼることをゆるされていない。

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獨ひとり爽さわやかな緑みどりを與あたへられた大根だいこんの葉はも、幾いくら成長せいちやうしても強つよく引ひき締しめる晩秋ばんしうの氣きを受うけて地ちにひつゝくやうにして漸やつと斜なゝめに廣ひろがるのみで、毫すこしでも高たかく立たち昇のぼることを許容ゆるされて居をらぬ。

こうして畑の土は、ただ冷たくこおるのを待っているのである。

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恁かうして畑はたけの土つちは只たゞ冷つめたく凍こほるのを待まつて居ゐるのである。

勘次はやっと整骨医の門にたどり着いた。

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勘次かんじは漸やうやく整骨醫せいこついの門もんに達たつした。

整骨医の家は、竹のかきねに珊瑚樹の大木がおおいかぶさって、暗く見えていた。

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整骨醫せいこついの家いへはがら竹たけの垣根かきねに珊瑚樹さんごじゆの大木たいぼくが掩おほひかぶさつて陰氣いんきに見みえて居ゐた。

戸板を三角形に合わせてかごのようにこしらえたものが、かきねの内に置いてあった。

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戸板といたを三角形かくけいに合あはせて駕籠かごのやうに拵こしらへたのが垣根かきねの内うちに置おかれてあつた。

だれか重いけが人が運ばれたのだと勘次はすぐに気づいて、そしてなんだかぞっとした。

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誰たれか重おもい怪我人けがにんが運はこばれたのだと勘次かんじは直すぐに悟さとつてさうして何なんだか悚然ぞつとした。

彼は大げさな自分の身なりをはずかしがって、ためらいながら案内をたのんだ。

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彼かれは業々げふ/\しい自分じぶんの扮裝いでたちに恥はぢて躊躇ちうちよしつゝ案内あんないを請こうた。

ぽつねんとしてげんかんで待っているのは、みなけが人ばかりである。

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ぽつさりとして玄關げんくわんに待まつて居ゐるのは悉皆みんな怪我人けがにんばかりである。

首から白い布をつって、これも白くほうたいした手をささえている人もあった。

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首くびから白しろい布片きれを吊つつて此これも白しろく繃帶ほうたいした手てを持もたせたものもあつた。

そこに青い顔をしてぐったり横になっている人もあった。

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其處そこに蒼あをい顏かほをしてぐつたりと横よこたはつて居ゐるものもあつた。

勘次はけが人の後ろにかくれるようにして自分の番になるのを待ちながら、まわりがなんとなく薬くさくてこわいような感じにとらわれた。

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勘次かんじは怪我人けがにんの後うしろに隱かくれるやうにして自分じぶんの番ばんになるのを待まちながら周邊あたりが何なんとなく藥臭くすりくさくて恐おそろしいやうな感かんじに囚とらはれた。

医者は一人の痛む所をやわらかくもんでやっていたが、勘次をちらと見た。

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醫者いしやは一人ひとりの患部くわんぶを軟やはらかに柔もんでやつて居ゐたが勘次かんじをちらと見みた。

勘次はなんだかにらまれたように感じた。

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勘次かんじは何なんだか睨にらまれたやうに感かんじた。

医者はまな板のような板の上に黄茶色の粉薬を少し出して、白いのりと練り合わせて、びんのお酒のようなえきでそれをゆるめて、それから長いはさみで白い紙をきざんで、しんちゅうのへらでその薬を紙にぬりつけて、痛む所にはってやった。

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醫者いしやは爼板まないたのやうな板いたの上うへに黄褐色くわうかつしよくな粉藥こぐすりを少すこし出だして、白しろい糊のりと煉ねり合あはせて、罎びんの酒さけのやうな液體えきたいでそれを緩ゆるめてそれから長ながい鋏はさみで白紙はくしを刻きざんで、眞鍮しんちうの箆へらで其その藥くすりを紙かみへ塗抹ぬつて患部くわんぶへ貼はつてやつた。

けが人たちは、ただじっとして医者のなれた手元を見つめた。

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怪我人等けがにんらは只たゞ凝然ぢつとして醫者いしやの熟練じゆくれんした手てもとを凝視ぎようしした。

勘次は他人の後ろからつま立ちをした。

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勘次かんじは他人ひとの後うしろから爪立つまだてをした。

二、三人小さな治りょうが済んで、十二、三の男の子が仕事着のままの二十四、五の百姓に背負われて、医者の前に置かれた。

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二三人にん小ちひさな療治れうぢが濟すんで十二三の男をとこの子こが仕事衣しごとぎの儘まゝな二十四五の百姓ひやくしやうに負おはれて醫者いしやの前まへに据すゑられた。

医者は縁側の明るい所へ座ぶとんをしいて出た。

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醫者いしやは縁側えんがはの明あかるみへ座蒲團ざぶとんを敷しいて出でた。

けが人は医者の前へ出ると、こわさにおそわれたように急にむせび泣いた。

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怪我人けがにんは醫者いしやの前まへへ出でると恐怖きようふに襲おそはれたやうに俄にはかに鳴咽をえつした。

医者は横にふくれた大きな体で、ゆったりとあぐらをかいたまま、けが人の左の手をまくって見た。

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醫者いしやは横よこに膨ふくれた大おほきな身體からだでゆつたりと胡坐あぐらをかいた儘まゝ怪我人けがにんの左ひだりの手てを捲まくつて見みた。

けが人の二のうでが折れて、ぶらりとたれていた。

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怪我人けがにんの上膊じやうはくが挫折ざせつしてぶらりと垂たれて居ゐた。

医者はけが人の痛む所に手をふれてみて

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醫者いしやは怪我人けがにんの患部くわんぶに手てを觸ふれて見みて

「お前、そっちを持って」

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「お前まへそつち持もつて」

と、かんたんにあごで百姓に指図した。

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と簡單かんたんに顎あごで百姓ひやくしやうへ指圖さしづした。

百姓はおずおずけが人の後ろへ回って、青い顔をしてだいた。

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百姓ひやくしやうは怖おづ/\怪我人けがにんの後うしろへ廻まはつて蒼あをい顏かほをして抱だいた。

「いいか、ぎっとだいてるんだぞ」

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「えゝか、ぎつと抱だいてるんだぞ」

医者は足をけが人のおなかに当てて、両手で折れた手を持って引こうとした。

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醫者いしやは足あしを怪我人けがにんの腹部ふくぶに當あてゝ兩手りやうてに挫折ざせつした手てを持もつて曳ひかうとした。

けが人はこわさに、わっと声を上げて泣いた。

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怪我人けがにんは恐おそろしさにわつと聲こゑを放はなつて泣ないた。

医者は手を止めた。

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醫者いしやは手てを止とめた。

「お前は兄さんだな。そんじゃいい、むだだ」

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「お前まへ兄貴あにきだな、そんぢやえゝ、徒勞むだだ」

と、だいた手を放させた。

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と抱だいた手てを放はなたしめた。

百姓は身内へのいたわりから、泣きさけぶ子をぎっと力をこめて引かせられない。

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百姓ひやくしやうは骨肉こつにくの勦いたはりが泣なき號さけぶ子こをぎつと力ちからを籠こめて曳ひかせない。

そんな思い切ったやり方に加わることはできなかったのである。

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そんな思おもひきつた手段しゆだんに加くははることは出來できないのであつた。

百姓は泣けば泣くほど手をゆるめた。

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百姓ひやくしやうは泣なけば泣なく程ほど手てを緩ゆるめた。

医者はそれでむだだと言った。

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醫者いしやはそれで徒勞むだだといつた。

百姓はただ青い顔をして、ぼうっとしているだけだった。

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百姓ひやくしやうは只たゞ蒼あをい顏かほをしてぼつとして居ゐるのみであつた。

医者はさらに家の者に言いつけて、近所の若い人を呼びにやった。

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醫者いしやは更さらに家族かぞくに命めいじて近所きんじよの壯者わかものを喚よびにやつた。

「木から落ちたな」

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「木きから落おつこつたな」

医者は百姓に聞いた。

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醫者いしやは百姓ひやくしやうに聞きいた。

「ええ、わしはもう、どうしていいもんだか分からないから、畑をたがやしてたまま着物も着ないで、こうして背負って来たんだが」

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「えゝ、わしやはあ、どうしてえゝもんだか分わかんねえから畑はたけ耕うなつてた儘まゝ衣物きものも着きねえで斯かうして負おぶつて來きたんだが」

と百姓は言って、それから

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と百姓ひやくしやうはいつて、それから

「わしはかきの木へ登るのを見てたんだったが、落ちたからかけて行って見たら、目を引きつけちまって。そんでもしばらくたったら泣き出したんで、わしがだき起こして手にさわったら、痛い痛いと言うから、まくって見たら、こうぶらんとなったっきりで、わしももう、おどろいちまって」

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「わし柹かきの木きさ登のぼんな見みてたんだつけが、落おつこつたから驅かけてつて見みたら、目めえ引ひつゝけつちやつて、そんでも暫しばらく經たつたら泣なき出だしたんでわし抱だき起おこして手てへ觸さはつたら、痛いてえ/\つちから捲まくつて見みたら、斯かうぶらんと成なつたつ切きりでわしもはあ、魂消たまげつちやつて」

百姓はひたすら慌てて言った。

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百姓ひやくしやうは只管ひたすらに慌あわてゝいつた。

「本当に、ここへ来ていちゃ、毎日のように木から落ちたというけが人が来るんだよまあ。しいの木から落ちたの、くりの木から落ちたのって。子どものけがはたいがいそうなんだから、男の子を持っちゃ心配さね。そんだがこれ、けがというのは思いがけないものだから、わしらも下駄をはきながらひょいっところんだだけで手首が折れたんだなんて」

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「本當ほんたうに此處こゝへ來きて居ゐちや毎日まいんちのやうに木きから落おつこつたつち怪我人けがにんが來くんだよまあ、椎しひの木きから落おつこつたの栗くりの木きから落おつこつたのつて、子供こどもの怪我けがは大概てえげえさうなんだから、男をとこつ子こ持もつちや心配しんぺえさねえ、そんだがこれ、怪我けがつちや過えゝまちだから、わし等らも下駄げた穿はきながらひよえつと轉ころがつた丈だけで手てつ首くび折をつちよれたんだなんて」

と、そばにいたおばあさんが言った。

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と側そばに居ゐた婆ばあさんがいつた。

「うちのも毎日のようにかきの木へ登ってて、木登りは上手なんだから。それも雨でも降ったばかりならつるつるして足がかからないもんだが、雨は降らないし、そんなことはないはずなんだが、つかまってたえだの所へびがいたとかって、慌てて下りようと思ったというんだから。いつでももう、えだなんざがさがさやって、てっぺんのほうでどなったりなんかしてたんだったが、かさっというのがひどく変な音だと思って見るうちには、落ちるのは早いもんで。困ったことができたのさ」

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「わし等らがも毎日まいんちのやうに柹かきの木きさ登のぼつてゝ木登きのぼりは上手じやうずなんだから、それも雨あめでも降ふつたばかしならつる/\して足あし引ひつ掛かゝんねえもんだが雨あめは降ふんねえし、そんなこたねえ筈はずなんだが、攫つかまつてた枝えだん處とこに蛇へび居ゐたとかつて慌あわくつておりべと思おもつたつちんだから、いつでもはあ枝えだなんざがさがさやつて天邊てつぺんの方はうで呶鳴どなつたりなにつかしてたんだつけが、かさあつちのが酷ひどく變へんな音おとだと思おもつて見みる内うちにや落おつこちんな早はえゝもんで、困こまつたこと出來できたのせ」

百姓は調子に乗って言いつづけた。

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百姓ひやくしやうは乘地のりぢになつていひ續つゞけた。

勘次はこわそうな目を見開いて耳をかたむけた。

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勘次かんじは恐怖きようふの目めを睜みはつて耳みゝを傾かたむけた。

「かきの木へへびが上がるようじゃ、雨でもまた降らなけりゃいいが。百姓には大事なときなんだからまあ、ちっと晴れをつづけさせたいもんだが」

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「柹かきの木きさ蛇へびがあがるやうぢや雨あめでもまた降ふらなけりやえゝが、百姓ひやくしやうにや大事でえじな處ところなんだからまあ、ちつと續つゞけさせてえもんだが」

そばからまた一人のけが人が口をそえた。

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側そばから又また一人ひとりの怪我人けがにんが口くちを添そへた。

勘次はまたその話を聞きながら、変わりやすい天気を心配した。

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勘次かんじは又また其その噺はなしを聞ききながら定さだまりない天候てんこうの變化へんくわを案あんじた。

やがて近所の若い人が来て、さっきのようにけが人をだいた。

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軈やがて近所きんじよの壯者わかものが來きて以前いぜんの如ごとく怪我人けがにんを懷だいた。

医者はさっきのようにして、けが人のこわがった顔を見ながら、口を閉じてぎっとその手を引いた。

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醫者いしやは先刻さつきのやうにして怪我けが人の恐怖きようふした顏かほを見みながら口くちを締しめてぎつと其その手てを曳ひいた。

けが人の手はぼきっとおそろしい音を立てた。

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怪我人けがにんの手てはぼぎつと恐おそろしい音おとを立たてた。

けが人はただ泣きさけんだ。

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怪我人けがにんは只たゞ泣なき號さけんだ。

「よしよし、治っちゃった」

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「よし/\癒なほつちやつた」

医者は手を放して、太いやわらかそうな指の腹でしばらくもむようにして、それから薬をぬった紙をいっぱいにはって、うすい木の板を当てて、ぐるりとほうたいをした。

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醫者いしやは手てを放はなつて、太ふとい軟やはらか相さうな指ゆびの腹はらで暫しばらく揉もむやうにしてそれから藥くすりを塗ぬつた紙かみを一杯ぱいに貼はつて燭奴つけぎのやうな薄うすい木きの板いたを當あてゝぐるりと繃帶ほうたいを施ほどこした。

「どれくらいで治ったもんでございましょうね、先生さん」

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「どのつ位くれえで癒なほつたもんでござんせうね、先生せんせいさん」

百姓は心配そうに聞いた。

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百姓ひやくしやうは懸念けねんらしく聞きいた。

「そうすぐには治らないな」

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「さう直すぐにや癒なほらねえな」

医者はそっけなく言った。

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醫者いしやは無愛想ぶあいそにいつた。

百姓はあいかわらず青い顔をしながら、けが人を背負って帰って行った。

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百姓ひやくしやうは依然いぜんとして蒼あをい顏かほをしながら怪我人けがにんを脊負しよつて歸かへつて行いつた。

それから二、三人の治りょうが済んで、勘次の番になった。

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それから二三人にんの療治れうぢが濟すんで勘次かんじの番ばんに成なつた。

「こりゃずいぶん大事にしてあるな」

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「此こりや大層たいそう大事だいじにしてあるな」

医者は汚い手ぬぐいを取って、勘次のひじを見た。

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醫者いしやは穢きたない手拭てぬぐひをとつて勘次かんじの肘ひぢを見みた。

鉄の火ばしで打ったあとが、指のようにほのかにふくれていた。

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鐵てつの火箸ひばしで打うつた趾あとが指ゆびの如ごとくほのかに膨ふくれて居ゐた。

「どうしたんだいこれは、夫婦げんかでもしたか」

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「どうしたんだえ此こら、夫婦喧嘩ふうふげんくわでもしたか」

医者は毎日百姓を相手にしてくだけて付き合うくせがついているので、どっしりと大きな体からこういう冗談も出るのだった。

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醫者いしやは毎日まいにち百姓ひやくしやうを相手あひてにして碎くだけて交際つきあふ習慣しふくわんがついて居ゐるので、どつしりと大おほきな身體からだからかういふ戯談じようだんも出でるのであつた。

「なあに、わしはもう、女房に死なれてから七、八年にもなるんでございますから」

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「なあにわしやはあ、嚊かゝあに死しなれてから七八年ねんにもなんでがすから」

勘次は少し苦笑いして言った。

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勘次かんじは少すこし苦笑くせうしていつた。

「そうか、そんじゃだれに打たれたい。まだ若いんだから、そんでもどこかへこしらえたかい」

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「さうか、そんぢや誰だれに打ぶたれたえ、まあだ壯さかりだからそんでも何處どこへか拵こしらえたかえ」

軽いきずをあまりに大げさに包んだ勘次のようすを、心の中で笑わずにいられなかった医者は、こうからかいながら口ひげをひねった。

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輕微けいびな瘡痍きずを餘あまりに大袈裟おほげさに包つゝんだ勘次かんじの容子ようすを心こゝろから冷笑れいせうすることを禁きんじなかつた醫者いしやはかう揶揄からかひながら口髭くちひげを捻ひねつた。

「先生さん、冗談を言って。なあに、わしは爺さんに打たれたんでさ」

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「先生せんせいさん戯談じやうだんいつて、なあにわしや爺樣ぢいさまに打ぶたれたんでさ」

勘次はひたすら、医者の前で問いつめられるのからのがれようとするように言った。

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勘次かんじは只管ひたすらに醫者いしやの前まへに追求つゐきうの壓迫あつぱくから遁のがれようとするやうにいつた。

医者はそれからはもう黙って薬をはって、形だけのほうたいをした。

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醫者いしやはそれからはもう默だまつて藥くすりを貼はつて形かたばかりの繃帶ほうたいをした。

「先生さん、わしはまだ来なくちゃなりますまいか」

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「先生せんせいさん、わしやまあだ來きなくつちやなりあんすめえか」

勘次は心配そうな目で聞いた。

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勘次かんじは懸念けねんらしい目めを以もつて聞きいた。

「この薬をやるから、自分ではったほうがいい。これで治るから」

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「此この藥くすりをやるから、自分じぶんで貼はつた方はうがえゝ、此これで癒なほるから」

と、医者は一ふくろの薬をくれた。

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と醫者いしやは一袋ひとふくろの藥くすりを與あたへた。

勘次は一度整骨医の門をくぐってからは、世の中にはこんなにけが人がいるものだろうかと、絶えずおどろきとこわさにおされていたが、珊瑚樹のしげった木かげから竹のかきねを通って道へ出たとき、彼は身も心も急に軽くなったのを感じた。

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勘次かんじは一度ど整骨醫せいこついの門もんを潜くゞつてからは、世間せけんには這麽こんなに怪我人けがにんの數かずが有あるものだらうかと絶たえず驚愕おどろきと恐怖おそれとの念ねんに壓あつせられて居ゐたが、珊瑚樹さんごじゆの繁茂はんもした木蔭こかげから竹たけの垣根かきねを往來わうらいへ出でた時とき彼かれは身みも心こゝろも俄にはかに輕かるくなつたことを感かんじた。

彼は小さなけが人から思い出して、これも毎日庭の木をねらっている与吉を心配し出した。

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彼かれは小ちひさな怪我人けがにんから聯想れんさうして此これも毎日まいにち庭にはの木きを覘ねらつて居ゐる與吉よきちを憂うれへ出だした。

彼は足の力のかぎり帰り道を急いだ。

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彼かれは脚力きやくりよくの及およぶ限かぎり歸途きとを急いそいだ。

彼は行く行く、午前に見てしばらく忘れていた百姓の働きぶりをまた目の前に見せつけられて、かくれていたいらだちがまたむらむらと首をもたげた。

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彼かれは行ゆく/\午前ごぜんに見みて暫しばらく忘わすれて居ゐた百姓ひやくしやうの活動くわつどうを再ふたゝび目前もくぜんに見みせ付つけられて隱かくれて居ゐた憤懣ふんまんの情じやうが復また勃々むか/\と首くびを擡もたげた。

彼は自分のきずが軽いと医者に言われたときはなんとなく安心したのだが、しかしまた次第に道を歩きながら、いろいろな考えがわくにつれて、失望と不満を心に持ちはじめた。

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彼かれは自分じぶんの瘡痍きずが輕かるく醫者いしやから宣告せんこくされた時ときは何なんとなく安心あんしんされたのであつたが、然しかし又また漸次だんだん道程みちのりを運はこびつゝ種々いろいろな雜念ざふねんが湧わくに連つれて、失望しつばうと不滿足ふまんぞくを心こゝろに懷いだきはじめた。

彼が家に帰った後、きずを重く見せかけようとするのに、医者の見立てが少しも彼に味方していなかったからである。

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彼かれは家いへに歸かへつた後のち瘡痍きずを重おもく見みせ掛かけようとするのには醫者いしやの診斷しんだんが寸毫すんがうも彼かれに味方みかたして居ゐなかつたからである。

彼が家に帰ったのは、日が西につらなった雑木林の上にかたむこうとしたころだった。

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彼かれの家いへに歸かへつたのは日ひが西にしに連つらなつた雜木林ざふきばやしの上うへに傾かたむかうとした頃ころであつた。

彼はただそのままに、自分のけがとそのできごとをかくしておくのが名残おしい気持ちがした。

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彼かれは只たゞ其その儘まゝに自分じぶんの怪我けがと其その事實じじつとを掩おほうて置おくのが残のこり惜をしい心持こゝろもちがした。

それで彼はその足ですぐに南の家へ行った。

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それで彼かれは其その足あしで直すぐに南みなみの家いへへ行いつた。

きゃはんとわらじで身を固めた勘次のようすをふしぎに思った南の家の亭主に、勘次はとつぜんうったえるように言った。

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脚絆きやはんと草鞋わらぢとで身みを堅かためた勘次かんじの容子ようすを不審ふしんに思おもつた南みなみの亭主ていしゆへ勘次かんじは突然とつぜん訴うつたへるやうにいつた。

「おれは爺さんに鉄の火ばしで打っとばされて、骨つぎへ行って来たところだが、いそがしい所へひどい目にあっちまった」

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「俺おら、爺樣ぢいさまに鐵火箸かなひばしで打ぶつ飛とばさつて、骨接ほねつぎへ行いつて來きた處とこだが、忙いそがし處ところ酷ひでえ目めに逢あつちやつた」

勘次はそれでも口が重くて、思うようには言えなかった。

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勘次かんじはそれでも口くちが澁しぶつて思おもふ樣やうにいへなかつた。

南の家の亭主は、わざわざ来て話をされては、ほうっておくこともできなかった。

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南みなみの亭主ていしゆは態々わざ/\來きて噺はなしをされては棄すてゝ顧かへりみぬことも出來できなかつた。

「どうしたっていうんだいまあ、勘次さん」

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「どうしたつちんでえまあ、勘次かんじさん」

いくらかわざとらしくおどろいたように聞いた。

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幾いくらか態わざとらしく驚おどろいたやうに聞きいた。

「昨日の日暮れに、おれが畑から帰って来たら、爺さんがにわとりにえさをまいてやってるから見たら、米を混ぜておいた食べる稲のほうをかき出してまいてるじゃないかい。それでおれも、それをやったんじゃかなわないと言ったんだな。にわとりにやるのはそっちに別にしてあるんだから、まいてやるならそっちのにしてくれと言ったのよ。にわとりになんざもったいないな。そうしたらいきなり鉄の火ばしでおれのことを打っとばして、お前はおれに食わせるのさえおしいくらいだから、にわとりにやってさえそんなことを言いやがるんだろうなんて。おれもうっかりしてたもんだから逃げるまもなくて、これ、こんなにけがをしちまったな。今、種まきのいそがしい所へぶつかって、いつまでも治らないようでも仕方がないから、朝のうちに骨つぎへ行ったんだが、遠いのに、それに行ってみるとけが人が来ていて、ちょっとやそっとじゃないもんだから、随分急いだつもりだったっけが、こんなにおそくなっちまって。何と言っても日は短くなったからな。そう言っても、けが人ってあるもんだな」

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「昨日きのふの日暮ひぐれに俺おれ野のらから歸けえつて來きたら爺樣ぢさま雞にはとりげ餌料ゑさ撒まえてやつてつから見みたら、米こめ交まぜて置おいた食稻けしねの方ほう掻かん出だして撤まいてんぢやねえけ、夫それから俺おらもそれ遣やつたんぢや畢をへねつちつたな、雞にはとりげやんなそつちに別べつにして有あんだから撒まいてやんだらそつちのがにして呉くろつちつたのよ、雞にはとりげなんざ勿體もつていねえな、さうしたらいきなり鐵火箸かなひばしで俺おれこと打ぶつ飛とばして、汝わりや俺おれげ食くはせんのせえ惜をしいつ位くれえだから雞にはとりげやつてせえ其麽そんなこと云ゆへやがんだんべなんて、麽おら放心うつかりしてたもんだから逃にげ間まにやあねえで、此これかうえに怪我けがしつちやつたな、今いま蒔物まきものの忙いそがしい處ところへ打ぶつ込こんで、何處どこまでも癒なほんねえやうでもしやうねえから朝あさつ稼かせぎに骨接ほねつぎへ行えつたんだが、遠とほいのにそれに行えつて見みつと怪我人けがにんが來きて居ゐてちよつくらぢやねえもんだから、隨分ずいぶん急えそえだ積つもりだつけがこんなに遲おそくなつちやつて、何なんちつても日ひは短みじかくなつたかんな、さう云ゆつても怪我人けがにんちや有あるもんだな、」

勘次はやっとそうして、くわしくことのしだいを打ち明けた。

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勘次かんじは漸やうやくさうして仔細しさいに事ことの顛末てんまつを打うち明あけた。

「そんだが、けがは大変なことはないのか」

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「そんだが怪我けがは大變たいへんなこたねえのか」

南の家の亭主は、それも義理だというように聞いた。

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南みなみの亭主ていしゆはそれも義理ぎりだといふやうに聞きいた。

「うん」

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「うむ」

と、勘次は言いよどんだ。

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と勘次かんじはいひ淀よどんだ。

南の家の亭主は、そのわけをさとることができないばかりか、その言いよどんだことをふしぎに思う気も起こさないほど、うっかりと聞いていた。

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南みなみの亭主ていしゆは其その理由わけを覺さとることは出來できないのみでなく、其そのいひ澱よどんだことを不審ふしんに思おもふ心こゝろさへ起おこさぬ程ほど放心うつかりと聞きいて居ゐた。

「そんで爺さんはどうしたっていうんだい」

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「そんで爺樣ぢさまはどうしたつちんでえ」

南の家の亭主は、それから先を聞いた。

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南みなみの亭主ていしゆはそれから先さきを聞きいた。

「おれは朝っぱらから出かけちまって、まだ顔も合わせないから、どうするっていうんだか分からないが、どうせ甘い顔つきもしちゃいまいな。これでけがなんぞさせて、いい気持ちじゃあるまいな。そうじゃないかい」

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「俺おら朝あさつぱら出掛でかけつちやつてまあだ行逢えきやえもしねえから、どうするつちんだか分わかんねえが、どうせ甘うめえ面付つらつきもしちや居えらんめえな、此こんで怪我けがなんぞさせてえゝ心持こゝろもちぢやあんめえな、さうぢやねえけ」

勘次はだんだん勢いがついて言った。

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勘次かんじはだん/\勢いきほひがついていつた。

「そんじゃ話はどういう形にでもしておかなくちゃ仕方があるまいな。おれがまあ話はしてみるから。どっちがどうのこうのと言ったって仕方がないし、まさかお前、手を出したのは爺さんだと言ったって、親にあやまれということも言えないから、何気ないことにしておさめようじゃないか、なあ」

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「そんぢや噺はなしはどうゆ姿なりにもして置おかなくつちやしやうあんめえな、俺おれまあ噺はなしはして見みつから、どつちがどうのかうのつちつたつて仕しやうねえし、まさかおめえ手越てごししたな爺樣ぢさまだつちつたつて、親おやのこと謝罪あやまれつちことも云ゆはんねえから何氣なにげなしのことにして押おつゝけべぢやねえか、なあ」

南の家の亭主はそう言って、卯平のせまい戸口に立っていた。

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南みなみの亭主ていしゆはさういつて卯平うへいの狹せまい戸口とぐちに立たつて居ゐた。

「こっちのおとっつあん、わしもこれ、変な話だが、勘次さんにたのまれたような形でまあ来たんだがね。昨日の日暮れとかにそれ、あれこれあったということだったっけが、勘次さんもそんなに悪い気持ちで言ったんでもないようすだし、まあ手をついてあやまらせるの何のということでなく、これはその場かぎりとして仲よくやってもらいたいんだが、どうしたもんだろうね。はらを立たせるのはこれは悪いかも知れないが、親子でいてこれ、ちっとのことで後で考えてみちゃつまらないもんだから。なあ、こっちのおとっつあん」

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「こつちのおとつゝあん、わしも此これ變へんな噺はなしだが勘次かんじさんに頼たのまれたやうな形かたちでまあ來きたんだがね、昨日きのふの日暮ひくれとかにそれ、そつちこつち仕したつちことだつけが、勘次かんじさんもそんなに惡わりい心持こゝろもちで云ゆつたんでもねえ鹽梅あんべえだし、まあ手てえついて謝罪あやまらせんの何なんだのつちことでなく、此こら其その場ば限かぎりとして仲善なかよくやつて貰もれえてえんだがどうしたもんだんべね、腹はらあ立たたせんなこら惡わりいかも知しんねえが、親子おやこと成なつてゝ此これ、ちつとのことで後あとで考かんげへて見みちやつまんねえもんだから、なあこつちのおとつゝあん」

仲直りの世話をする人はやわらかに、そしていやとは言えないように打ちとけて話しこんだ。

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仲裁者ちうさいしやは軟やはらかにさうして然しかも厭いやといはれぬやうに打うち解とけて突つつ込こんだ。

「なあに、おれはどうもこうもないんだが、あの野郎めはもう、何じゃない、おれのことがじゃまなんだから。おれはおれだと思ってるからかまやしないが、おれに食わせる物がおしくて仕方がないんだから。おれが家の物を一つぶでもへらさないように外に行ってりゃいいんだろうが。おれがそれから、おれのことがそんなにいやなら、自分でどこへでも出て行ったほうがいい。いやなら後から来た者が出ろという気なんだから」

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「なあに俺おらあどうもかうもねえんだが、彼あの野郎奴やらうめはあ、何なんぢやねえ、俺おれこと邪魔じやまなんだから、俺おらあ俺おれだと思おもつてつから管かまやしねえが、俺おれげ食くはせる物もの惜をしくつて仕しやうねえんだから、俺おれ家うちの物もの一粒ひとつぶでも減へらさねえやうに外ほかに行いつてりやえゝんだんべが、俺おれえそれから、俺おれことさうだに厭やなんだら自分じぶんで何處どこさでもけつかつた方はうがえゝ、厭やだら後あとから來きた者もの出でろつち氣きなんだから」

卯平はくわえたきせるを少しふるえる手に持って、とぎれとぎれにやっとこれだけ言った。

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卯平うへいは銜くはへた煙管きせるを少すこし顫ふるへる手てに持もつて途切とぎれながら漸やうやく此これだけいつた。

「そりゃ、こっちのおとっつあん、そうだがな。さっきも言うとおりはらも立とうが、親子となってみりゃこれ、いいこともあるもんだからなあ。そう言わないでそれ、わしに任せて承知しなさいね」

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「そりちこつちのおとつゝあんさうだがな、先刻さつきもいふ通とほり腹はらも立たつべえが親子おやことなつて見みりや此これ、えゝことも有あるもんだからなあ、さう云ゆはねえでそれ、わしげ任まかせて不承ふしようしさつせえね」

南の家の亭主はただくり返して言った。

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南みなみの亭主ていしゆは只たゞ反覆くりかへしていつた。

「こういうことはこれ、黙ってりゃとなり近所でも分からないもんだが、勘次らはもうずいぶん長く味噌さえなくしておくんだから、ひとしゃくしもありやしないんだ。去年のくれには味噌をつくというんで、おれが働いたお金で塩まで買ったんだな。おれもかたい物はかめないから、味噌がなくちゃ仕方がないな。おれは若いころから味噌は好きで、味噌がなくちゃなんぼにも体に力がつかなくて困り困りしたんだから。麦こうじは塩まで切ってあるんだから、豆さえ煮ればすぐなのに。それが今になったってつくわけじゃなし、何でもおれが死ねばいいくらいにして待ってるんだろうが。これ、味噌なんざついたからってそうすぐに手をつけられるもんじゃなし、おれは明日にも死ぬかどうだか分かりやしないが、そんでも自分の見てる所でつきさえすりゃ、明日死ぬにしたって気持ちはいいから」

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「斯かうだこた此これ、默だまつてりや隣近所となりきんじよでも分わかんねえもんだが勘次等かんじらえゝ暫しばらく味噌みそせえ無なくして置おくんだから、一杓子ひとつちやくしも有ありやしねえんだ。去年きよねんの暮くれにや味噌みそ搗つくつちんで俺おら働はたれえた錢ぜねで鹽しほ迄まで買かつたんだな、俺おれも硬こええ物もな噛かめねえから味噌みそなくつちや仕しやうねえな、俺おら壯さかりの頃ころつから味噌みそは好すきで味噌みそなくつちやなんぼにも身體からだに力ちからつかねえで困こまり/\したんだから、麥麹むぎつかうぢは鹽しほまで切きつて有あんだから豆まめせえ煮にりや直ぢきなのに、それ今いまんなつたつて搗つくべぢやなし、なんでも俺おれ死しねばえゝ位ぐれえにして待まつてんだんべが、此これ、味噌みそなんざ搗ついたからつてさう直すぐに手てえつけらつるもんぢやなし、俺おら明日あすが日ひにも死しぬかどうだか分わかりやしねえが、そんでも自分じぶんの見みてつ處ところで搗つきせえすりや明日あした死しぬにしたつて心持こゝろもちやえゝから」

卯平は独りつぶやくようにして、それから

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卯平うへいは獨ひとり呟つぶやくやうにしてそれから

「あのときつきさえすりゃ、今ごろは食えば食えるのに」

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「あん時とき搗つきせえすりや今頃いまごら食くへば食くへんのに」

と、彼はそのくせの舌を鳴らした。

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と彼かれは其その癖くせの舌したを鳴ならした。

「おれは少しいまいましいから打っとばしてやったに」

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「俺おれ小忌々敷こえめえましいから打ぶつ飛とばしてやつたに」

卯平はしばらく置いて、また少し声に力を入れて言った。

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卯平うへいは暫しばらく措おいて又また少すこし聲こゑに力ちからを入いれていつた。

「そうかね。おれはそんなことは知らなかったっけが。そういうことは、いくら親しい近所だと言ったって、いちいち他人の飯だいまでふたを取っちゃ見られないから、おれも知らないでいたな。そんじゃそりゃまあ、味噌でも何でもそういうわけじゃ、こっちのおとっつあんの好きなようにつかせることにしてな。大豆はそれ、穫れたしするから、やるつもりにさえなれば訳のない話だな。そうして、こっちのおとっつあん、胸をなでなさい。おれは悪いことは言わないから。なあ、こっちのおとっつあん、あっちだこっちだやっちゃ、だれよりも子どもらがかわいそうだから。それに、どうせなら東の旦那らの耳へは入れたくないから、そうしなさいよなあ」

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「さうかね、俺おらそんなこた知しらなかつたつけが、さうえこた幾いくら懇意こんいだ近所きんじよだつちつたつて一々いち/\他人ひとの飯臺はんだいまで蓋ふたとつちや見みられねえから俺おらも知しらねえでたな、そんぢやそらまあ、味噌みそでも何なんでもさうえ理由わけぢやこつちのおとつゝあん好すきなやうに搗つかせることにしてな、大豆でえづはそれとつたしすつから行やる積つもりにせえなりや譯わけねえ噺はなしだな、さうしてこつちのおとつゝあん胸むね撫なでさつせえ、俺おれ惡わりいこた云ゆはねえから、なあこつちのおとつゝあん、そつちだこつちだやつちや誰だれよりも子奴等こめら可哀想かあいさうだから、それに同おなじもんぢや東ひがしの旦那等だんならが耳みゝへは入いれたくねえから、さうしさつせえよなあ」

南の家の亭主はそう言って、心の中ではだんだんしりごみするのだった。

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南みなみの亭主ていしゆはさういつて心こゝろでは段々だん/\に臀しりごみするのであつた。

卯平はふたたびきせるを口にして黙りこんだ。

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卯平うへいは再ふたゝび煙管きせるを口くちにして沈默ちんもくした。

南の家の亭主は、勘次を卯平のせまい戸口へ連れて来た。

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南みなみの亭主ていしゆは勘次かんじを卯平うへいの狹せまい戸口とぐちに導みちびいた。

勘次はふだんなら、自分の心からけっして形だけの仲直りを望まなかったはずである。

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勘次かんじは平常いつもならば自分じぶんの心こゝろから決けつして形式的けいしきてきな和睦わぼくを希望きばうしなかつた筈はずである。

彼はにらみ合っているだけなら、長いあいだ慣れていた。

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彼かれは反目はんもくして居ゐるだけならば久ひさしく馴なれて居ゐた。

しかし彼は、これまでなかった卯平の行いに初めておそれを抱いたのだった。

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然しかし彼かれは從來じゆうらい嘗かつてなかつた卯平うへいの行爲かうゐに始はじめて恐怖心きようふしんを懷いだいたのであつた。

「そんじゃね、おとっつあん、おたがいにこう根に持たないことにしてね。勘次さん、お前もいそがしくて手をつけないでいたかも知れないが、こうじも塩まで切ってあるというんだから、後は豆を煮るだけのことだし、味噌はつくことにしてな。こういいぐあいにしてくれなさいね。さっきも言うとおり、あっちだこっちだないようにしなくちゃね、こっちのおとっつあん」

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「そんぢやねえおとつゝあん、お互たげえに斯かう根ねに持もたねえことにしてね、勘次かんじさんおめえも忙いそがしくつて手てえつけねえでたかも知しんねえが、麹かうぢも鹽しほまで切きつて有あるつちんだから、後あとは豆まめ煑にるだけのことだし、味噌みそは搗つくことにしてな、斯かうえゝ鹽梅あんべえにしてくれさつせえね、先刻さつきもいふ通とほりそつちだこつちだねえやうにしなくちやねえ、こつちのおとつゝあん」

南の家の亭主は二人を見くらべるようにして言った。

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南みなみの亭主ていしゆは二人ふたりを見較みくらべるやうにしていつた。

勘次は卯平の前へ出ては、ただ首をうなだれた。

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勘次かんじは卯平うへいの前まへへ出でては只たゞ首くびを俛うなだれた。

卯平はじっと横を向いて、勘次をちらりとも見なかった。

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卯平うへいは凝然ぢつと横よこを向むいて勘次かんじをちらりとも見みなかつた。

彼はこれまでとはようすがいくらかちがっていた。

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彼かれは從來これまでとは容子ようすが幾分いくぶん違ちがつて居ゐた。

彼はそのくせの舌を鳴らしていたが

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彼かれは其その癖くせの舌したを鳴ならして居ゐたが

「畜生め」

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「畜生奴ちきしやうめ」

と、ただ一言言った。

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と只たゞ一言ひとこといつた。

そしてまたしばらく間を置いて

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さうして又また暫しばらく間あひだを措おいて

「畜生と言われるのがくやしけりゃ、くやしいと言ってみたほうがいい。元はと言えば、お前が手出しをするのが悪いんだから」

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「畜生ちきしやうつちはれんの口惜くやしけりや、口惜くやしいちつて見みた方はうがえゝ、原因もとはつちへば己奴うのが手出てだしすんのが惡わりいんだから」

と低く、しかもするどく彼はつぶやいて、すすきで裂いたように口をぎっと閉じてしまった。

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と低ひくく然しかも鋭するどく彼かれは呟つぶやいて、芒すゝきで裂さいたやうに口くちをぎつと閉とぢて畢しまつた。

勘次は刈られた草のようにしょんぼりとした。

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勘次かんじは刈かられた草くさの如ごとく悄然せうぜんとした。

「こっちのおとっつあん、そんじゃ仕方がないよ。さっきもおれがそっちから承知してくれと固く言ったんだったな。そんじゃおれも困るから、そこはおたがいにこう、何も言わないことにしてやってくれなくちゃなあ」

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「こつちのおとつゝあん、そんぢや仕しやうねえよ、先刻さつきも俺おれそつから不承ふしようしてくろうつて堅かたしく云ゆつたんだつけな、そんぢや俺おれも困こまつから其處そこはお互たげえにかう物ものは云ゆはねえことにしてやつてくんなくつちやなあ」

と南の家の亭主は、いったん橋わたしをすれば後はどうなろうとも、それはまたそのときだという気持ちから、そこはいいかげんにつくろって逃げるように帰った。

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と南みなみの亭主ていしゆは一旦たん橋渡はしわたしをすれば後あとは再ふたゝびどうならうともそれは又また其その時ときだといふ心こゝろから其處そこは加いい加減かげんに繕つくろうて遁にげるやうに歸かへつた。

彼はどちらからもたのまれた仲直りの世話人ではなかった。

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彼かれはどちらからも依頼いらいされた仲裁人ちうさいにんではなかつた。

彼らは次第に家族のあいだの、ことに夫婦の争いに深入りして、かえって両方からうらまれるような損な立場になった経験があるので、こわれた茶わんをそっと合わせるだけの手間で、うまく身を引く方法と機会を知っていた。

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彼等かれらは漸次しば/\家族かぞくの間あひだの殊ことに夫婦ふうふの爭あらそひに深入ふかいりして却かへつて雙方さうはうから恨うらまれるやうな損そんな立場たちばに嵌はまつた經驗けいけんがあるので、壞こはれた茶碗ちやわんをそつと合あはせるだけの手數てすうで巧たくみに身みを引ひく方法はうはふと機會きくわいとを知しつて居ゐた。

夕暮れが彼にその機会を与えた。

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黄昏たそがれが彼かれに其その機會きくわいを與あたへた。

勘次は自分の軽いきずを、たとえ表面だけでもいいから思い切って重く見て、そして彼に同情の言葉をおしまない人を求めたが、彼には少しでもそのいきさつを聞いてくれる人は、医者と南の家の亭主のほかにはいなかった。

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勘次かんじは彼かれの輕微けいびな瘡痍きずを假令たとひ表面へうめんだけでも好いいから思おもひ切きつて重おもく見みてさうして彼かれに同情どうじやうの言葉ことばを惜をしまないものを求もとめたが、彼かれには些少すこしでも其その顛末てんまつを聞きいてくれべきものは醫者いしやと南みなみの亭主ていしゆとより外ほかはなかつた。

しかしあまりによくきずそのものを見分けた医者は、彼にそのはかない心をうったえるゆとりを与えずに、彼を頭からおさえつけるようにからかった。

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然しかし餘あまりに能よく瘡痍きず其その物ものの性質せいしつを識別しきべつした醫者いしやは、彼かれに其その果敢はかない心こゝろを訴うつたへる餘裕よゆうを與あたへずに彼かれを頭あたまから壓おさへる樣やうに揶揄からかうた。

彼はそこで何も得られないで、逃げるように珊瑚樹の木かげを出た。

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彼かれは其處そこに何物なにものをも得えないで遁にげるやうに珊瑚樹さんごじゆの木蔭こかげを出でた。

南の家の亭主も、わざわざ彼に同情してなぐさめの言葉をおしまないほど心が動かされなかったばかりか、彼はむしろ仲直りの世話人にならなければならないことにいくらかめいわくを感じた。

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南みなみの亭主ていしゆも殊更ことさらに彼かれに同情どうじやうして慰藉ゐしやの言辭ことばを惜をしまぬ程ほど其その心こゝろが動うごかされなかつたのみでなく、彼かれは寧むしろ仲裁者ちうさいしやの地位ちゐに立たたねば成ならぬことに幾分いくぶんの迷惑めいわくを感かんじた。

勘次はけっして仲直りの世話をたのまなかった。

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勘次かんじは決けつして仲裁ちうさいを依頼いらいしなかつた。

彼はただ、自分の調子に乗って話をしてくれることに満足を求めようとしただけだった。

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彼かれは只たゞ自分じぶんの調子てうしに乘のつて噺はなしをしてくれることに滿足まんぞくを求もとめようとしたのみであつた。

しかしそれはすべてむだだった。

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然しかしそれは悉こと/″\く徒勞むだであつた。

勘次ははずかしさとこわさといらだちをわかせたが、それでも気の弱い彼は、それをひがんだ目に表して、会う人ごとに同情してくれと求めているように見えるだけだった。

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勘次かんじは羞恥しうちと恐怖きようふと憤懣ふんまんとの情じやうを沸わかしたが夫それでも薄弱はくじやくな彼かれは、それを僻ひがんだ目めに表現へうげんして逢あふ人ひと毎ごとに同情どうじやうしてくれと強しふるが如ごとく見みえるのみであつた。

百姓はみな、彼の心を読み取るほどするどい目を持っていなかった。

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百姓ひやくしやうの凡すべては彼かれの心こゝろを推測すゐそくする程ほど鋭敏えいびんな目めを有もつて居ゐなかつた。

彼はやけになってわざとほうたいの手をかかえて、数日間ぶらぶらと遊んでいた。

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彼かれは自棄やけに態わざと繃帶ほうたいの手てを抱だいて數日間すうじつかんぶら/\と遊あそんで居ゐた。

いそがしい麦まきの季節がせまって、百姓はみな畑へ出ているので、昼間は彼の相手になる人がいなかったばかりか、今に働かずにはいられないからと、かげで冷たく笑っているのだった。

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忙いそがしい麥蒔むぎまきの季節きせつが迫せまつて百姓ひやくしやうは悉こと/″\く畑はたけへ出でて居ゐるので晝間ひるまは彼かれの相手あひてになるものがなかつたのみでなく、今いまに働はたらかずには居をられぬからと陰かげで冷笑れいせうを浴あびせて居ゐるのであつた。

この季節をむだに過ごすことが一日でもとても大きな損だという、分かりやすい計算に、彼はとうとう負けて、また一所けんめいに働き出した。

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此この季節きせつを空むねしく費つひやすことが一日にちでも非常ひじやうな損失そんしつであるといふ見易みやすい利害りがいの打算ださんから彼かれは到頭たうとう打うち負まかされて復また一所懸命しよけんめいに勞働らうどうに從事じうじした。

彼はもう卯平と一言も口をきかなくなった。

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彼かれはもう卯平うへいと一言ひとことも口くちを利きかなくなつた。

無口でむっつりとした卯平は、もちろん勘次を見ようともしなかった。

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寡言むくちなむつゝりとした卯平うへいは固もとより勘次かんじを顧かへりみようともしなかつた。

おつぎはそれを心に苦しんで見ていたが、それはとても手の届かないことだった。

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おつぎはそれを心こゝろに苦くるしんで見みたがそれは到底たうてい及およばぬことであつた。

村の中には、卯平とのぶつかり合いがぱっとまた広まった。

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村落むらの内うちには卯平うへいとの衝突しようとつがぱつと又また傳播でんぱされた。

しかしそれは、分別のある大人のあいだでだけ受け止められ、おぼえられた。

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然しかしそれは分別ふんべつある壯年さうねんの間あひだにのみ解釋かいしやくし記憶きおくされた。

そのできごとの中身は、勘次のおつぎに対する行いをうたがいとねたみの目で想像するようには、興味を彼らに与えなかった。

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其その事件じけんの内容ないようは勘次かんじのおつぎに對たいする行爲かうゐを猜忌さいぎと嫉妬しつととの目めを以もつて臆測おくそくを逞たくましくするやうに興味きようみを彼等かれらに與あたへなかつた。

だれも自分から二人のあいだに口出ししようとはしない。

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誰だれも自分じぶんから彼等かれらの間あひだに嘴くちばしを容いれようとはしない。

ずっと前からもつれてきたたがいの気持ちに根ざしたできごとが、どんなに小さなことであろうとも、けっして気持ちよく解決するはずがないことを知っている人々は、いくら物を知らなくても自分から進んでそのむずかしい役を引き受けようとはしないのだった。

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遠とほい以前いぜんから紛糾こゞらけて來きた互たがひの感情かんじやうに根ねざした事件じけんがどんな些少させうなことであらうとも、決けつして快こゝろよく解決かいけつされる筈はずでないことを知しつて居ゐる人々ひとびとは幾いくら愚おろかでも自みづから好このんで其その難局なんきよくに當あたらうとはしないのであつた。

二二

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二二

夜明けの光はまだ行きわたらない。

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拂曉よあけの光ひかりはまだ行ゆき渡わたらぬ。

うすいふとんにくるまっている百姓たちのはだには寒さがしみじみと通って、ねむっていながら、みんなあごをおおうまで無意識にふとんのはしを引いて、もじもじと動くころだった。

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薄うすい蒲團ふとんにくるまつて居ゐる百姓等ひやくしやうらの肌膚はだには寒冷かんれいの氣きがしみ/″\と透とほつて、睡眠ねむりに落おちて居ゐながら、凡すべてが顎あごを掩おほふまでは無意識むいしきに蒲團ふとんの端はしを引ひいてもぢ/\と動うごく頃ころであつた。

かんかんとこおって鳴るかねの音が、しずんだ村の空気にひびきわたった。

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かん/\と凍こほつて鳴なる鉦かねの音ねが沈しづんだ村落むらの空氣くうきに響ひゞき渡わたつた。

希望と楽しみにさそわれて待っていた年寄りたちはみな、その左の手に提げてしゅもくでたたいているかねのひびきを、おくれるな急げ急げと耳に聞いた。

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希望きばうと娯樂ごらくとに唆そゝのかされて待まつて居ゐた老人等としよりらは悉皆みんな、其その左ひだりの手てに提さげて撞木しゆもくで叩たゝいて居ゐる鉦かねの響ひびきを後おくれるな急いそげ/\と耳みゝに聞きいた。

年寄りはどの家からもいっせいに念仏寮を目指して集まった。

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老人としよりは何處どこの家うちからも一齊もいに念佛寮ねんぶつれうを指さして集あつまつた。

彼らはみな、まだぐっすりねむっている家族にはそっとしたくをして、動けないほどどてらを重ねてだらしなくひもをしめて、表の戸を開けるとひやりとする明け方近い外の空気に白い息をふきながら、大きなかたまりがころがって行くようにその体を運んだ。

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彼等かれらは孰いづれも、まだぐつすりと眠ねむつて居ゐる家族かぞくの者ものには竊そつと支度したくをして、動うごけぬ程ほど褞袍どてらを襲かさねて節制だらしなく紐ひもを締しめて、表おもての戸とを開あけるとひやりとする曉あけ近ちかい外氣ぐわいきに白しろい息いきを吹ふきながら、大おほきな塊かたまりが轉ころがつて行ゆくやうに其その姿すがたを運はこんだ。

彼らは外のかべぎわからしばを一たば持って行く者もあった。

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彼等かれらは外そとの壁際かべぎはから麁朶そだの一把はを持もつて行ゆく者ものも有あつた。

旧れきの二月の半ばになると、いつもの年のように念仏の集まりがあるのである。

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舊暦きうれきの二月ぐわつの半なかばに成なると例年れいねんの如ごとく念佛ねんぶつの集あつまりが有あるのである。

彼らはそれが太陽への感しゃを意味しているので、お天念仏と言っている。

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彼等かれらはそれが日輪にちりんに對たいする報謝はうしやを意味いみして居ゐるのでお天念佛てんねんぶつというて居ゐる。

彼らの口から、そして村じゅうでなまって「おで念仏」

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彼等かれらの口くちからさうして村落むらの一般ぱんから訛なまつて「おで念佛ねんぶつ」

と呼ばれた。

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と喚よばれた。

先ぶれの光がそれぞれの顔をほの明るくして、日が地平線の上にその形の一部を出そうとする時間を外さずに、彼らはそろって念仏を唱えるはずなので、まだみんなが夜のねむりからさめないうちに、みなことごとく口をすすいで待っていなければならないのである。

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先驅さきがけの光ひかりが各自てんでの顏かほを微明ほのあかるくして日ひが地平線上ちへいせんじやうに其その輪郭りんくわくの一端たんを現あらはさうとする時間じかんを誤あやまらずに彼等かれらは揃そろつて念佛ねんぶつを唱となへる筈はずなので、まだ凡すべてが夜よの眠ねむりから離はなれぬ内うちに皆悉みんな口くちを嗽すゝいで待まつて居ゐねばならぬのである。

念仏の仲間のうちで、選ばれて法願と呼ばれている二人ばかりのおじいさんが、むずかしくもない世話をあれこれした。

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念佛衆ねんぶつしうの内うちには選えらばれて法願ほふぐわんと喚よばれて居ゐる二人ふたりばかりの爺ぢいさんが、難むづかしくもない萬事ばんじの世話せわをした。

法願はこおりそうな手にかねを提げて、ちらほらと大きなかたまりのようなすがたが動いて来るまでは、力のかぎり辻に立ってかんかんとたたくのである。

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法願ほうぐわんは凍こほり相さうな手てに鉦かねを提さげてちらほらと大おほきな塊かたまりのやうな姿すがたが動うごいて來くるまでは力ちからの限かぎり辻つじに立たつてかん/\と叩たゝくのである。

念仏寮の雨戸はがらんと開け放たれて、ことさら身にしみる寒さに、いろりにはしばの火がほのおを立てた。

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念佛寮ねんぶつれうの雨戸あまどは空洞からりと開あけ放はなたれて、殊更ことさらに身みに沁しむ寒さむさに圍爐裏ゐろりには麁朶そだの火ひが焔ほのほを立たてた。

つるのあるすすけた鉄びんが自在かぎから低くたれて、ほのおをしりでおさえた。

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蔓つるのある煤すゝけた鐵瓶てつびんが自在鍵じざいかぎから低ひくく垂たれて焔ほのほを臀しりで抑おさへた。

ぐるりとかこんだ年寄りの不格好なすがたを、火ははっきりと見せた。

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ぐるりと圍かこんだ老人としよりの不恰好ぶかくかうな姿すがたを火ひは明瞭はつきりと見みせた。

やがて二番どりが遠く近く鳴いて、時間が来た。

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軈やがて二番ばん雞どりが遠とほく近ちかく鳴ないて時間じかんが來きた。

法願はしきいのそばに太鼓を置いて、その後ろへだんだんとみんながすわって、いっせいに声を合わせた。

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法願ほふぐわんは閾しきゐの側そばに太鼓たいこを据すゑて、其その後うしろへ段々だん/\と一同どうが坐すわつて一齊せいに聲こゑを合あはせた。

横に置いた太鼓を、両手に持った二本のばちが両方から交互に打って、のんびりとしたにぶいひびきを立てた。

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横よこに据すゑた太鼓たいこを兩手りやうてに持もつた二本ほんの撥ばちが兩方りやうはうから交互かうごに打うつて悠長いうちやうな鈍にぶい響ひゞきを立たてた。

ばちに合わせるみんなの声は、しなびてやせた喉から出るにごった声だった。

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撥ばちに合あはせる一同どうの聲こゑは皺しなびて痩やせた喉のどから出でる濁にごつた聲こゑであつた。

ばらばらなその声が、波のようにしずんでまた起こった。

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雜然ざつぜんたる其その聲こゑが波なみの如ごとく沈しづんで復また起おこつた。

太鼓のばちは強く打ち軽く打ち、さらに赤くぬったどうをそっと打って、そしてまただらりだらりと強く軽く打つことをくり返した。

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太鼓たいこの撥ばちは強つよく打うち輕かるく打うち、更さらに赤あかく塗ぬつた胴どうをそつと打うつて、さうして又まただらり/\と強つよく輕かるく打うつことを反覆はんぷくした。

念仏が終わるまでには、だんだんと遠い近い木立の形がくっきりとして、青いみかんの皮が日に当たった所から少しずつ色づいて行くように、東の空がうすく黄色に染まって、だんだんそれが濃くなって、そして寒さの中にもほっかりと暖かみを持ったように明るくなった。

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念佛ねんぶつが畢をはるまでには段々だん/\と遠とほい近ちかい木立こだちの輪郭りんくわくがくつきりとして青あをい蜜柑みかんの皮かはが日ひに當あたつた部分ぶぶんから少すこしづゝ彩いろどられて行ゆくやうに東ひがしの空そらが薄うすく黄色きいろに染そまつて段々だん/\にそれが濃こく成なつて、さうして寒冷ひやゝかなうちにもほつかりと暖味あたゝかみを持もつたやうに明あかるく成なつた。

念仏のにごった声も明るくひびいた。

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念佛ねんぶつの濁にごつた聲こゑも明あかるく響ひゞいた。

地面をおおった霜がめっきり白く見えて、寮の庭に立てられた天だなのかざりの赤や青の紙がはっきりして来た。

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地上ちじやうを掩おほうた霜しもが滅切めつきりと白しろく見みえて寮れうの庭にはに立たてられた天棚てんだなの粧飾かざりの赤あかや青あをの紙かみが明瞭はつきりとして來きた。

真ん中に一本の青竹が立てられて、その先は青と赤と黄を重ねた色紙で包んである。

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中心ちうしんに一本ぽんの青竹あをだけが立たてられて其その先端せんたんは青あをと赤あかと黄きとの襲かさねた色紙いろがみで包つゝんである。

そのまわりには、これも四本の青竹が立てられて、それには縄が張ってある。

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其その周圍しうゐには此これも四本ほんの青竹あをだけが立たてられてそれには繩なはが張はつてある。

縄にはしめ縄のようにきざんだ、その赤や青や黄の紙がいっぱいにひらひらとつるされてある。

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繩なはには注連しめのやうに刻きざんだ其その赤あかや青あをや黄きの紙かみが一杯ぱいにひら/\と吊つられてある。

彼らは昨日のうちにすべてのかざりをして、にわとりが鳴くのを待ったのである。

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彼等かれらは昨日きのふの内うちに一切さいの粧飾かざりをして雞にはとりの鳴なくのを待まつたのである。

その天だなは、むかしはりっぱな木の柱を、ちょうど小さな家の骨組みでも建てたような形に組んだのだった。

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其その天棚てんだなは以前もとは立派りつぱな木きの柱はしらを丁度ちやうど小ちひさな家いへの棟上むねあげでもしたやうな形かたちに組くまれたのであつた。

今ではそれがなくなったというのは、一度この土地をおそった暴風のために、厚い草ぶきの念仏寮がごしゃりとつぶされた。

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現今いまではそれが無なく成なつたといふのは、一度ど此この地ちを襲おそうた暴風ばうふうの爲ために、厚あつい草葺くさぶきの念佛寮ねんぶつれうはごつしやりと潰つぶされた。

そのときはたくさんの家がひどい被害を受けて、村じゅうが自分の暮らしをしのぐのがやっとだったので、ほとんど役に立たない寮を建て直すことを気にかける者はなかった。

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其その時ときは幾多いくたの民家みんかが猶且やつぱり非常ひじやうな慘害さんがいを蒙かうむつて、村落むらの凡すべては自分じぶんの凌しのぎが漸やつとのことであつたので、殆ほとんど無用むようである寮れうの再建さいこんを顧かへりみるものはなかつた。

そうしているあいだに、他人の林になたを入れなければたきぎが手に入らない貧しい百姓たちが、こそこそと寮の木材を持ち出した。

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さういふ間あひだに他人たにんの林はやしに鉈なたを入いれねば薪たきゞが獲えられぬ貧乏びんばふな百姓等ひやくしやうらがこそ/\と寮れうの木材もくざいを引ひいた。

やっとのことで今の寮が前の何分の一かの大きさに建て直されるまでには、そのたなもむごいのこぎりの歯にかかっていたのである。

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漸やつとのことで現今いまの寮れうが以前いぜんの幾分いくぶんの一の大おほきさに再建さいこんされるまでには其その棚たなも無残むざんな鋸のこぎりの齒はに掛かゝつて居ゐたのである。

それでも、年寄りたちは念仏が復活したことに十分な感しゃと満足を持った。

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それでも、老人等としよりらは念佛ねんぶつの復活ふくくわつしたことに十分ぶんの感謝かんしやと滿足まんぞくとを有もつた。

彼らはそこに、年を取ってからの何よりの楽しみとなぐさめを見つけているのである。

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彼等かれらはそこに老後らうごに於おける無上むじやうの娯樂ごらくと慰藉ゐしやとを發見はつけんしつゝあるのである。

太鼓がばちとともにぽつりと置かれて、みんなすっかり窮くつないろりのまわりに集まった。

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太鼓たいこが撥ばちと共ともにぽつさりと置おかれて悉皆みんな窮屈きうくつな圍爐裏ゐろりの邊あたりに聚あつまつた。

寮の中も明るくなって、立ちのぼるほのおの光がやや消されて来た。

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寮れうの内うちも明あかるく成なつて立たち騰のぼる焔ほのほの光ひかりが稍やゝ消けされて來きた。

近所の百姓が雨戸を開ける音が、せっかちにがたぴしと聞こえた。

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近所きんじよの百姓ひやくしやうの雨戸あまどを開あける音おとが性急せいきふにがたぴしと聞きこえた。

庭へ下りたにわとりが、あくびでもするように体をそらしながら、うっかりしていてまだ鳴き足りなかったというようすで、喉が痛いほど鳴くのが聞こえた。

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庭にはへおりた雞にはとりが欠伸あくびでもするやうに身體からだを反そらしながら、放心うつかりして居ゐてまだ鳴なき足たらなかつたといふ容子ようすをして喉のどの痛いたい程ほど鳴なくのが聞きこえた。

どの家にも、青いけむりがのきをはってのぼった。

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何處どこの家いへにも青あをい煙けぶりが廂ひさしを偃はうて騰のぼつた。

年寄りたちはひとまず自分の家に帰った。

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老人等としよりらは一先ひとまづ自分じぶんの家いへに歸かへつた。

卯平も、となりの森のかげがいっぱいにおおっているせまい庭に立ったときには、勘次はおつぎを連れて開こん地へ出た後だった。

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卯平うへいも隣となりの森もりの陰翳かげが一杯ぱいに掩おほうて居ゐる狹せまい庭にはに立たつた時ときは、勘次かんじはおつぎを連つれて開墾地かいこんちへ出でた後あとであつた。

卯平は庭に立ったまま、空っぽになって、そして雨戸が閉ざしてある勘次の家をじっと見た。

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卯平うへいは庭にはに立たつた儘まゝ、空虚からになつてさうして雨戸あまどが閉とざしてある勘次かんじの家いへを凝然ぢつと見みた。

家はやつれている。

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家いへは窶やつれて居ゐる。

しかしながら、たとえどうであっても話し声が聞こえて青いけむりが立っていれば、わずかでも血がめぐっているもののように生きて見えるのだが、しんと静まって人の気配がなくなったときは、荒れつつあるその建物のどこにも命が保たれているとは見えないほど悲しげだった。

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然しかしながら假令たとひどうでも噺聲はなしごゑが聞きこえて青あをい煙けぶりが立たつて居ゐれば、僅わづかでも血ちが循環めぐつて居ゐるものゝやうに活いきて見みえるのであるが、靜寂ひつそりと人氣ひとけのなくなつた時ときは頽廢たいはいしつゝある其その建物たてものの何處どこにも生命いのちが保たもたれて居ゐるとは見みられぬ程ほど悲かなしげであつた。

卯平がうす暗い庭の霜に下駄のあとをつけて出てから間もなく、勘次はふとんをけってかまどに火をつけた。

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卯平うへいが薄闇うすぐらい庭にはの霜しもに下駄げたの趾あとをつけて出でてから間まもなく勘次かんじは褥しとねを蹴けつて竈かまどに火ひを點つけた。

それからおつぎが朝ごはんのおぜんを置くまでには、勘次はきりりと仕事着に着がえて、寒さに少しふるえていた。

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それからおつぎが朝餐あさげの膳ぜんを据すゑる迄までには勘次かんじはきりゝと仕事衣しごとぎに換かへて寒さむさに少すこし顫ふるへて居ゐた。

おつぎもはしを取るときは、股引のはしを藁でくくっておいた。

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おつぎも箸はしを執とる時ときは股引もゝひきの端はしを藁わらで括くゝつて置おいた。

勘次は、開こんの土地が年々遠くへ進んで行って、今では例年の広さでは広すぎることに気づいたので、彼は少しの油断もできなくなった。

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勘次かんじは開墾かいこんの土地とちが年々ねんねん遠とほくへ進すゝんで行いつて、現在いまでは例年いつもの面積めんせきでは廣過ひろすぎて居ゐたことを心こゝろづいたので、彼かれは少すこしの油斷ゆだんも出來できなくなつた。

彼は毎日のようにおつぎを連れて、くわで切り起こした土のかたまりを万能ぐわの背でたたいてはくずし、平らにならさせていたのである。

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彼かれは毎日まいにちのやうにおつぎを連つれて、唐鍬たうぐはで切きり起おこした土つちの塊かたまりを萬能まんのうの背せで叩たゝいては解ほぐして平坦たひらにならさせつゝあつたのである。

卯平はまず勘次の戸口に近づいた。

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卯平うへいは先まづ勘次かんじの戸口とぐちに近ちかづいた。

表の大戸にはじょうが下ろしてあった。

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表おもての大戸おほどには錠ぢやうがおろしてあつた。

かぎはもちろん勘次の腰をはなれないことを知って、卯平は手もかけてみなかった。

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鍵かぎは固もとより勘次かんじの腰こしを離はなれないことを知しつて卯平うへいは手ても掛かけて見みなかつた。

彼はまた裏の戸口へ行ってみたが、かけ金には栓がしてあると見えて動かなかった。

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彼かれは又また裏戸うらどの口くちへ行いつて見みたが、掛金かけがねには栓せんを揷さしたと見みえて動うごかなかつた。

卯平はそれからふところ手をしたまま、そのくせの舌を鳴らしながら、のんびりと自分のせまい戸口に立った。

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卯平うへいはそれから懷手ふところでをした儘まゝ其その癖くせの舌したを鳴ならしながら悠長いうちやうに自分じぶんの狹せまい戸口とぐちに立たつた。

中はただ暗く、出るときにはしをめくったふとんも冷たくなっていた。

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内うちは只たゞ陰氣いんきで出でる時ときに端はしを捲まくつた夜具やぐも冷つめたく成なつて居ゐた。

彼はやっと火ばちにしばをくすべた。

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彼かれは漸やうやく火鉢ひばちに麁朶そだを燻くべた。

彼はそばに重箱と小なべが置いてあるのを見た。

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彼かれは側そばに重箱ぢゆうばこと小鍋こなべとが置おかれてあるのを見みた。

ふたを取ったら、重箱にはごはんがあった。

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蓋ふたをとつたら重箱ぢゆうばこには飯めしがあつた。

ふたの裏は少ししめっていた。

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蓋ふたの裏うらには少すこし濕うるほひを持もつて居ゐた。

その朝、おつぎは知らずに呼んだのだが、卯平はいなかった。

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其その朝あさおつぎは知しらずに喚よんだのであつたが、卯平うへいは居ゐなかつた。

それでおつぎは出るとき、ごはんとしるを卯平の小屋へ置いて行ったのである。

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それでおつぎは出でる時とき飯めしと汁しるとを卯平うへいの小屋こやへ置おいて行いつたのである。

卯平はともかく、おつぎに呼ばれて毎朝暖かいごはんと熱いしるでおなかを満たしていたのである。

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卯平うへいは兎とに角かくおつぎに喚よばれて毎朝まいあさ暖あたゝかい飯めしと熱あつい汁しるとに腹はらを拵こしらへつゝあつたのである。

彼はその朝はどてらを着ても、夜がまだ明けないうちからのさわぎなので、体が冷えていた。

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彼かれは其その朝あさは褞袍どてらを着きても夜よのまだ明あけない内うちからの騷さわぎなので身體からだが冷ひえて居ゐた。

それで彼は、家に帰ればしるはどうでも、飯だいの中はまだ十分に暖かいだろうという望みを持って、戸が開かないことにまでは思いつかなかった。

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夫それで彼かれは家うちに歸かへつたならば汁しるはどうでも、飯臺はんだいの中なかはまだ十分ぶんに暖氣だんきを保たもつて居ゐるだらうといふ希望きばうを懷いだいて、戸との開あかないことにまでは思おもひ至いたらなかつた。

重箱はもう冷えてしまった。

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重箱ぢゆうばこはもう冷ひえて畢しまつた。

彼は仕方なしに小なべを火ばちにかけた。

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彼かれは仕方しかたなしに小鍋こなべを火鉢ひばちへ掛かけた。

彼はかすかに白いゆげがなべから立ちはじめたとき、おたまでかき混ぜて吸ってみたが、それでも冷たかった。

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彼かれは微かすかに白しろい水蒸氣ゆげが鍋なべから立たち始はじめた時ときお玉杓子たまじやくしで掻かき立たてゝ吸すつて見みたが猶且やつぱり冷つめたかつた。

彼はまた火ばちにしばを足して、重箱のごはんをなべへ入れた。

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彼かれは復また火鉢ひばちへ麁朶そだを足たして重箱ぢゆうばこの飯めしを鍋なべへ入いれた。

火ばちのわりには大きななべにほおがふれるほどにして、ふうふうと火をふいた。

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火鉢ひばちの割合わりあひには大おほきな鍋なべに頬ほゝが觸さはるばかりにしてふう/\と火ひを吹ふいた。

なべがぐずぐずとにごった音を立てているあいだ、彼はしなびた大きな手を火にかざしながら、目をしかめていた。

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鍋なべのぐず/\と濁にごつた聲こゑを立たてゝ居ゐる間あひだ彼かれは皺しなびた大おほきな手てを火ひに翳かざしながら目めを蹙しかめて居ゐた。

彼はじっと遠くへ自分の心を放したようにぼうっとしていては、また思い出したようにしばをぽちぽちと折ってくべた。

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彼かれは凝然ぢつと遠とほくへ自分じぶんの心こゝろを放はなつたやうにぽうつとして居ゐては復また思おもひ出だしたやうに麁朶そだをぽち/\と折をつて燻くべた。

彼は例年になく体のやつれが見えた。

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彼かれは例年いつになく身體からだの窶やつれが見みえた。

かさかさとかわいたはだが、年老いた人に共通のあわれさを見せているばかりでなく、その大きな体は肉が落ちてげっそりと肩がこけた。

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かさ/\と乾燥かんさうした肌膚はだへが一般ぱんの老衰者らうすゐしやに通有つういうな哀あはれさを見みせて居ゐるばかりでなく、其その大おほきな身體からだは肉にくが落おちてげつそりと肩かたがこけた。

彼は体のやつれを自分でも分かっていた。

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彼かれは身體からだの窶やつれを自分じぶんでも知しつた。

彼はこの一年のあいだに、持病のリューマチがしつこく骨のどこかをむしばんでいるように感じた。

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彼かれは此この一年ねんの間あひだに持病ぢびやうの僂麻質斯レウマチスが執念しふねく骨ほねの何處どこかを蝕はみつゝあるやうに感かんじた。

暑い季節になれば必ず勢いをひそめる持病が、彼を忘れて去ることはなかった。

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暑あつい季節きせつになれば必かならず其その勢いきほひを潜ひそめた持病ぢびやうが彼かれを忘わすれて去さらなかつた。

なべの中は少しぷんとこげつくにおいがした。

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鍋なべの中なかは少すこしぷんと焦こげつく臭にほひがした。

彼はおたまでかき混ぜた。

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彼かれはお玉杓子たまじやくしで掻かき立たてた。

なべの底は手を動かすたびに、じりじりと鳴った。

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鍋なべの底そこは手てを動うごかす毎ごとにぢり/\と鳴なつた。

彼はわずかに、熱い雑炊が喉を通って胃に落ち着くとき、ほかりと感じた。

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彼かれは僅わづかに熱あつい雜炊ざふすゐが食道しよくだうを通過つうくわして胃ゐに落おちつく時ときほかりと感かんじた。

そしてはしを置いた後、やっと体に気持ちのいい暖かさが加わったことを知った。

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さうして箸はしを措をいた後のち漸やうやく身體からだに快こゝろよい暖氣だんきの加くははつたことを知しつた。

少しの水を注いだ鉄びんがわくのを、彼はまたじっと待った。

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少量せうりやうの水みづを注ついだ鐵瓶てつびんの沸わくのを彼かれは復また凝然ぢつとして待まつた。

彼はさっきから、どうかすると手元をさぐるようにしてたばこ入れをひざに乗せた。

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彼かれは先刻さつきからどうかすると手てもとを探さぐるやうにして煙草入たばこいれを膝ひざにした。

たばこ入れは空だった。

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煙草入たばこいれは虚空からであつた。

彼は自分の体力がめっきりおとろえて、仕事をするのに手が利かなくなって、こづかいが足りないと感じたとき、やけになった心から、思い切ってそのかむほど好きなたばこをやめようとした。

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彼かれは自分じぶんの體力たいりよくが滅切めつきりと減へつて仕事しごとをするのに手てが利きかなくなつて、小遣錢こづかひせんの不足ふそくを感かんじた時とき、自棄やけに成なつた心こゝろから斷然だんぜん其その噛かむ程ほど好すきな煙草たばこを廢よさうとした。

彼はみじめな自分を自分で苛めてやるような気持ちを、一方には持った。

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彼かれは悲慘みじめな自分じぶんを自分じぶんが苛いぢめてやるやうな心持こゝろもちを一方ぱうには有もつた。

一方ではまた、物を知らない彼らの仲間がよくするように、彼は持病が治るように仏さまに祈ったのでもあった。

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一方ぱうには又また無智むちな彼等かれらの伴侶なかまが能よくするやうに彼かれは持病ぢびやうの平癒へいゆを佛ほとけに祈いのつたのでもあつた。

それが明日からという日に、彼はその残ったたばこをほとんど一日吸いつづけた。

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それが明日あすからといふ日ひに彼かれは其その残のこつた煙草たばこを殆ほとんど一日にち喫すひ續つゞけた。

たばこ入れのふくろをさかさまにして、つま先でぱたぱたとはじいて、少しの粉さえ残さなかった。

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煙草入たばこいれの叺かますを倒さかさにして爪先つまさきでぱた/\と彈はじいて少すこしの粉こでさへ餘あまさなかつた。

その後、手についたくせが何かにつけてきせるをつかませるので、やめたことを彼は心の中で後かいすることもあった。

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其その後のち手てについた癖くせが何なにかにつけては煙管きせるを掴つかませるので、止やめたことを彼かれは心こゝろに悔くいることもあつた。

しかし彼はまたすぐに、仏さまへのちかいをやぶることをとてもおそれた。

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然しかし彼かれは又また直すぐに佛ほとけに對たいしての誓約せいやくを破やぶることに非常ひじやうな恐怖きようふを懷いだいた。

彼はどうしてもあきらめなければならない心の苦しさをまぎらすために、ふきの葉や桑の葉をほしてきせるの火皿につめてみたが、どれもたばこのようにしっとりしたうるおいが火の勢いをおさえる力はなくて、一度吸えばすぐ灰になって、ヤニでふさがりかけたきせるの穴を通してけむりが口に満ちるときは、つんとしたいやなしげきを鼻に感じるのだった。

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彼かれはどうしても斷念だんねんせねばならぬ心こゝろの苦くるしみを紛まぎらす爲ために蕗ふきの葉はや桑くはの葉はを干ほして煙管きせるの火皿ひざらにつめて見みたが、どれでも煙草たばこのやうにしつとりとした一種しゆの潤うるほひが火ひの足あしを引止ひきとめるやうな力ちからはなくて一度ど吸すへば直すぐに灰はひになつて、煙脂やにで塞ふさがらうとして居ゐる羅宇らうの空隙くうげきを透とほして煙けぶりが口くちに滿みちる時ときはつんとした厭いやな刺戟しげきを鼻はなに感かんずるのであつた。

ぶどうの葉を他人にすすめられてみたが、これもとても彼の好みをごまかすことはできなかった。

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葡萄ぶだうの葉はを他人ひとに勸すゝめられて見みたが、此これも到底たうてい彼かれの嗜好しかうを欺あざむくことは出來できなかつた。

彼はきせるを手にすることが欲を忘れられる方法でないことを知って、彼はちょうど他人へのいらだちから、当てつけに自分のかわいい子をひどくたたく人のように、きせるの管をふみつぶした。

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彼かれは煙管きせるを手てにすることが慾念よくねんを忘わすれ得うる方法はうはふでないことを知しつて、彼かれは丁度ちやうど他人たにんに對たいする或ある憤懣ふんまんの情じやうから當あてつけに自分じぶんの愛兒あいじを夥したゝかに打うち据すゑる者もののやうに羅宇らうを踏ふみ潰つぶした。

しかしそれをだれも見てはいなかった。

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然しかしそれを誰たれも見みては居ゐなかつた。

それでも彼は、空っぽのたばこ入れを手放すのがしのびない気持ちがした。

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それでも彼かれは空虚からな煙草入たばこいれを放はなすに忍しのびない心持こゝろもちがした。

彼はわずかなこづかいを入れて、いつも腰につけた。

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彼かれは僅わづかな小遣錢こづかひせんを入いれて始終しじう腰こしにつけた。

これも空っぽになってくたくたと力のない革のつつには、つぶれたままのきせるをさしていた。

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此これも空虚からに成なつてはくた/\として力ちからのない革かはの筒つゝには潰つぶれた儘まゝの煙管きせるを揷さして居ゐた。

彼はしばらくそうしていたが、どうかすると忘れて、くせのついた手先が要らないたばこ入れをさぐらせるのだった。

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彼かれは暫しばらくさうして居ゐたがどうかしては忘わすれて癖くせづけられた手先てさきが不用ふような煙草入たばこいれを探さぐらせるのであつた。

日はやっと庭の霜をとかしてさしかけた。

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日ひは漸やうやく庭にはの霜しもを溶とかして射さし掛かけた。

彼は不快な朝に目をしかめて、またぽつねんと念仏寮へやつれた体を運んだ。

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彼かれは不快ふくわいな朝あさを目めに蹙しかめた復またぽつさりと念佛寮ねんぶつれうへ窶やつれた身みを運はこんだ。

彼は田んぼのそばへ下りて細い道を行った。

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彼かれは田圃たんぼの側そばへおりて小徑こみちを行いつた。

道すじにはところどころ、はなればなれの家のすきまに小さな麦畑があった。

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道筋みちすぢには處々ところ/″\離はなれ離ばなれな家いへの隙間すきまに小ちひさな麥畑むぎばたけがあつた。

麦畑のうねは、たいてい東西に作られていた。

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麥畑むぎばたけの畝うねは大抵たいてい東西とうざいに形かたちづけられてあつた。

遠くから南へ回ろうとしている日は、思いのほか暖かい光で一面の霜をとかしたので、どこでも水をまいたようにしめっていた。

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遠とほくから南みなみへ廻まはらうとして居ゐる日ひは思おもひの外ほかに暖あたゝかい光ひかりで一帶たいに霜しもを溶とかしたので、何處どこでも水みづを打うつたやうな濕うるほひを持もつて居ゐた。

しかしうすい日の光は、畑のうねが作っている長い小山の頂上をこえて、いくらもその力を届かせなかった。

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然しかし薄うすい日ひの光ひかりは畑はたけの畝うねが形かたちづくつて居ゐる長ながい小山こやまの頂點ちやうてんを越こえて幾いくらも其その力ちからを及およぼさなかつた。

どのうねでも、そのかげはあいかわらず白かった。

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どの畝うねでも其その陰かげは依然いぜんとして白しろかつた。

卯平は田んぼに沿って北側の道を歩いたので、彼の目にはみな夜明けのような白い冷たい霜でおおわれている畑ばかりが映った。

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卯平うへいは田圃たんぼに從ついて北側きたがはの道みちを歩あるいたので彼かれの目めには悉こと/″\く夜明よあけの如ごとき白しろい冷つめたい霜しもを以もつて掩おほはれて居ゐる畑はたけのみが映うつつた。

昼過ぎから村のどの家からも、風呂しき包みの飯つぎや重箱が寮へ運ばれた。

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午後ごごから村落むらのどの家いへからも風呂敷包ふろしきづゝみの飯めしつぎや重箱ぢゆうばこが寮れうへ運はこばれた。

年寄りたちはみなそれを、ほこりだらけの仏だんの前に供えた。

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老人等としよりらは皆みな夫それを埃ほこりだらけな佛壇ぶつだんの前まへに供そなへた。

汚い風呂しき包みが小山のように積まれたとき、念仏の太鼓がまた鳴った。

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穢きたない風呂敷包ふろしきづゝみが小山こやまの如ごとく積つまれた時とき念佛ねんぶつの太鼓たいこが復また鳴なつた。

それから庭に集まった子どもたちの前に、その飯つぎや重箱の供え物が分け与えられた。

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それから庭にはに聚あつまつた子供等こどもらの前まへに其その飯めしつぎや重箱ぢゆうばこの供物くもつが分與ぶんよされた。

念仏の人たちはそれからさらにお酒を飲んで、それぞれ重箱や飯つぎをはしでつついて、近ごろにないほど食べたい気持ちを満たした。

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念佛衆ねんぶつしゆうはそれから更さらに酒さけを飮のんで各自てんでに重箱ぢゆうばこや飯めしつぎを箸はしでつゝいて近頃ちかごろにない口腹こうふくの慾よくを充みたしめた。

卯平だけは杯を手にしなかった。

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獨ひとり卯平うへいは杯さかづきを手てにしなかつた。

彼はほかの年寄りより先に、自分の家の重箱を持ってぽさぽさと帰った。

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彼かれは他たの老人としよりに先立さきだつて自分じぶんの家うちの重箱ぢゆうばこを持もつてぽさ/\と歸かへつた。

たいていの家では米のひし餅を出すのがならわしだが、勘次にはそんなひまがないので、おつぎはわずかに小豆ごはんをたいて重箱を持って行ったのだった。

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大抵たいていの家うちでは米こめの菱餅ひしもちを出だすのが常例じやうれいであるが勘次かんじにはさういふ暇ひまがないのでおつぎは僅わづかに小豆飯あづきめしを炊たいて重箱ぢゆうばこを持もつて行いつたのであつた。

年寄りみんながほとんど気がふれたようにさわぐ二日のその一日が、卯平には不快で、そして意味なく過ぎた。

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凡すべての老人としよりが殆ほとんど狂きやうするばかりに騷さわぐ二日ふつかの其その一日にちが卯平うへいには不快ふくわいでさうして無意味むいみに費つひやされた。

彼は夜になってから

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彼かれは夜よになつてから

「爺さん、今朝のごはんは冷たくなったっけろう。おれが忘れて呼びに行ったのがよ。そうしたら爺さんはとっくにいなかったんだもの。そんでもさっきはがやがや大ぜいいるようだったっけが、あっちじゃ甘い物があって、爺さんらはおかわりしたんだろうなあ」

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「爺ぢい、今朝けさのお飯まんま冷つめたく成なつたつけべ俺おら忘わすれて喚よばりに行えつたのがよ、さうしたら爺ぢいは疾とつくに居えねえのがんだもの、そんでも先刻さつきはがや/\一杯ぺえ居えるやうだつけがあつちぢや甘うめえ物ものあつて爺等ぢいらとつ返けえしとつたんべなあ」

と、おつぎが少し甘えたように言ったことを、彼はさすがににくいとは思わずに聞いた。

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とおつぎが少すこし甘あまえたやうにいつたことを彼かれは有繋さすがに憎にくいと思おもつては聞きかなかつた。

二三

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二三

念仏は次の日も同じようにくり返された。

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念佛ねんぶつは次つぎの日ひも同一どういつに反覆はんぷくされた。

昼過ぎになって、村のどの家からもまた風呂しき包みが運ばれた。

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午後ごごになつて村落むらのどの家いへからも復また風呂敷包ふろしきづゝみが運はこばれた。

子どもたちは学校から帰って、風呂しき包みを背負ったのも、赤んぼうを帯でくくったのも、たいてい寮の庭へ集まった。

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子供等こどもらは學校がくかうから歸かへつて風呂數包ふろしきづゝみを脊負しよつたのも、乳呑兒ちのみごを帶おびで括くゝつたのも大抵たいていは寮れうの庭にはへ集あつまつた。

「さあ、そんじゃまた、みんな上がれ」

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「さあそんぢや又また、みんな上あがれ」

とおばあさんたちが言うと、しきいのそばにせまって待っていた子どもたちは争って席を取った。

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と婆ばあさん等らがいふと閾際しきゐぎはに迫せまつて待まつて居ゐた子供等こどもらは爭あらそうて席せきをとつた。

彼らは今日もせまい寮の中にぎっしりとひざをすぼめてすわった。

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彼等かれらは今日けふも狹せまい寮れうの内側うちがはにぎつしりと膝ひざを窄すぼめて坐すわつた。

四、五人のおばあさんたちは、仏だんの前に積まれてあった風呂しき包みを解きながら、ひそひそとささやいた。

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四五人にんの婆ばあさん等らは佛壇ぶつだんの前まへに積つまれてあつた風呂敷包ふろしきづゝみを解ときながらひそ/″\と耳語さゝやいた。

「これは何だと思ったら、すしだよ」

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「此こりや何なんだと思おもつたら、鮨すしだよ」

と一人のおばあさんが言えば

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と一人ひとりの婆ばあさんがいへば

「そんじゃ、そっちへ別にしておけよ、お前」

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「そんぢや、そつちへ別べつにして置おけよおめえ」

「そんじゃ、こっちのも別にしておこうよ、なあ」

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「そんぢやこつちのがも別べつにして置おくべよ、なあ」

おばあさんたちはずいぶん慌てたように手早く、三つ四つの風呂しき包みをそっと仏だんへかくした。

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婆ばあさん等らは頗すこぶる慌あわてたやうに手てもと忙せはしく三つ四つの風呂敷包ふろしきづゝみをそつと佛壇ぶつだんへ隱かくした。

そうしているうちに、ほかのおばあさんたちは

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さうして居ゐる内うちに他ほかの婆ばあさん等らは

「みんな、おとなしくしなくちゃ、くれないぞ」

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「みんな、おとなしく仕しなくつちや、呉くんねえぞ」

「そんなに洟をたらしてる子にはやらないことにしようよ」

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「さうだに洟はな垂たらしてるものげはやんねえことにすべえ」

と口々にからかった。

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口々くち/″\に揶揄からかつた。

子どもたちはいっせいに洟をすすって、そして着物で横にふいた。

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子供等こどもらは一齊せいに洟はなを啜すゝつてさうして衣物きもので横よこに拭ぬぐつた。

白い紙が一まいずつ、子どもたちの前に広げられた。

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白しろい紙かみが一枚まいづつ子供等こどもらの前まへに擴ひろげられた。

「子どもらのことを言って、手で洟をかんだ手じゃ引かないでくれよ。お前らももったいないから」

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「子奴等こめらこと云ゆつて、手洟てばななんぞかんだ手てぢや引ひかねえで呉くろえ、おめえ等らも勿體もつてえねえから」

おばあさんたちが飯つぎを左の手にかかえて立ったとき、こういろりのそばからどなった。

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婆ばあさん等らが飯めしつぎを左ひだりの手てに抱かゝへて立たつた時とき、かう圍爐裏ゐろりの側そばから呶鳴どなつた。

彼は小がらなおじいさんで、ちょっとおばあさんたちを見てほほえみながら言ったのである。

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彼かれは小柄こがらな爺ぢいさんで一寸ちよつと婆ばあさん等らを顧かへりみて微笑びせうしながらいつたのである。

彼は首に二重にした数珠を巻いていた。

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彼かれは喉のどへ二重ぢゆうにした珠數じゆずを卷まいて居ゐた。

彼の声はおそろしく大きかった。

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彼かれの聲こゑは恐おそろしく大おほきかつた。

おばあさんたちは

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婆ばあさん等らは

「はいはい、そんじゃ手でも洗いましょうよ」

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「はい/\、そんぢや手てでも洗あらひますべよ」

と言ったり

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といつたり

「おれはお前、手で洟はかまないよ」

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「俺おらおめえ、手洟てばなはかまねえよ」

と言ったり、がらがらとさわぎながら、笑いささやきながら、ぬれた手を前かけでふいてまた飯つぎをかかえた。

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といつたりがら/\と騷さわぎながら、笑わらひ私語さゝやきつゝ、濡ぬれた手てを前掛まへかけで拭ふいて再ふたゝび飯めしつぎを抱かゝへた。

おばあさんたちははしの先で少しずつ、飯つぎの物をつまんでその広げられた紙に置きながら、はしからぐるりと回って行く。

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婆ばあさん等らは箸はしの先さきで少すこしづつ、飯めしつぎの物ものを突つつ掛かけて其その擴ひろげられた紙かみへ置おきつゝ、端はしからぐるりと廻まはつて行ゆく。

紙は子どもたちの数のほかにもしいてあった。

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紙かみは子供等こどもらの數かずの外ほかにも敷しかれてあつた。

それは、空になった飯つぎを返すときにその中へ入れてやるためだった。

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それは空虚からになつた飯めしつぎを返かへす時ときに其その中なかへ入いれてやる爲ためであつた。

飯つぎには、たいてい菱餅と小豆ごはんが入れられてあった。

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飯めしつぎには大抵たいてい菱餅ひしもちと小豆飯あづきめしとが入いれられてあつた。

小豆ごはんはどれもこれも米がよくついてないのでくすんで、そして腹の裂けた小豆が粉をふいて、よけいにねばり気のないぼろぼろのごはんになっていた。

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小豆飯あづきめしはどれも/\米こめが能よく搗つけてないのでくすんでさうして腹はらの裂さけた小豆あづきが粉こを吐はいて餘計よけいに粘氣ねばりけのないぼろ/\な飯めしになつて居ゐた。

それでも飯つぎがちがうごとに、小豆ごはんの赤さがいくらかずつちがっていた。

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それでも飯めしつぎの異ことなる毎ごとに小豆飯あづきめしの赤あかさが幾いくらかづつ變かはつて居ゐた。

子どもたちは、ちがう小豆ごはんが一はし一はしと増えて行くのがうれしくて、外へころがったのは慌てて手で取って紙へ乗せた。

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子供等こどもらは變かはつた小豆飯あづきめしが一箸々々ひとはし/\と殖ふえて行ゆくのが嬉うれしくて、外そとへ轉ころがつたのは慌あわてゝ手てでとつて紙かみへ載のせた。

小豆ごはんは昨日とちがったことはなかったが、菱餅は昨日のように米のではなくて、どれも粟ばかりだった。

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小豆飯あづきめしは昨日きのふに異ことなつたことはなかつたが、菱餅ひしもちは昨日きのふのやうに米こめのではなくてどれでも粟あはばかりであつた。

子どもたちは大小ちがう粟の菱餅が、一つはまた一つと紙の上に量を増して積まれるのを楽しそうに見て、自分の紙から、両どなりの紙から、遠くのほうから、それから一つ一つかがんではしを動かしているおばあさんたちのいそがしい手元に目をうばわれるのだった。

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子供等こどもらは大小だいせう異ことなつた粟あはの菱餅ひしもちが一つは一つと紙かみの上うへに分量ぶんりやうを増まして積つまれるのを樂たのしげにして、自分じぶんの紙かみから兩方りやうはうの隣となりの紙かみから遠とほくの方はうから、それから一つ/\に屈かゞんで箸はしを動うごかして居ゐる婆ばあさん等らの忙せはしい手てもとに目めを奪とられるのであつた。

おばあさんたちはそわそわしながら、せまいのでたがいにぶつかってはさわぎながら、自分の家にいるときのような落ち着きが少しも保たれていなかった。

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婆ばあさん等らはそは/\としつゝ狹せまいので互たがひに衝突つきあたつては騷さわぎながら、自分じぶんの家いへに居ゐる時ときのやうな節制たしなみが少すこしも保たもたれて居ゐなかつた。

「さあ、お前らこれっきりだ」

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「さあ、汝わつ等ら此これつきりだ」

おばあさんたちが空になった最後の飯つぎの底をたたいて腰をのばしたとき、子どもたちはあぶなっかしい手でやっと紙を包んで、がたがたと先を争って立った。

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婆ばあさん等らが空虚からになつた最後さいごの飯めしつぎの底そこを叩たゝいて腰こしを伸のばした時とき、子供等こどもらは危あぶな相さうな手てで漸やうやく紙かみを包つゝんで、がた/\と先さきを爭あらそうて立たつた。

下駄を遠くへはね飛ばされたり、ころんだり、紙包みの餅を落としたりして泣く声が入りまじった。

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下駄げたを遠とほくへ跳はね飛とばされたり、轉ころがつたり、紙包かみづゝみの餅もちを落おとしたりして泣なく聲こゑが相あひ交まじつた。

彼らは庭へ下りてから、ゆっくりとその紙を開いて小豆ごはんを手でつまんで食べた。

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彼等かれらは庭にはへおりてから徐おもむろに其その紙かみを開ひらいて小豆飯あづきめしを手てで抓つまんで喫たべた。

紙にくっついた小豆ごはんを、彼らは歯でかじるようにして取った。

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紙かみにくつゝいた小豆飯あづきめしを彼等かれらは齒はで噛かじるやうにしてとつた。

やぶれた紙を捨てて、菱餅をふところへ入れる子もあった。

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破やぶれた紙かみを棄すてゝ菱餅ひしもちを懷ふところへ入いれるものもあつた。

庭にはあっちにもこっちにも、捨てられた紙が白く乱れて散らばっていた。

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庭にはにはそつちにもこつちにも棄すてられた紙かみが白しろく亂みだれて散ちらばつて居ゐた。

年寄りたちはいろりに絶えずたきぎをくべながら、お酒を温めはじめた。

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老人等としよりらは圍爐裏ゐろりに絶たえず薪たきぎを燻くべながら酒さけを沸わかし始はじめた。

村のどの家からか、今日も念仏の人たちへと言って供えられた二升だるをいろりのそばへ引きよせて、しりのすすけた土びんへごぼごぼと注いで自在かぎにかけた。

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村落むらのどの家うちからか今日けふも念佛衆ねんぶつしうへというて供そなへられた二升樽しようだるを圍爐裏ゐろりの側そばへ引ひきつけて、臀しりの煤すゝけた土瓶どびんへごぼ/\と注ついで自在鍵じざいかぎへ掛かけた。

外があまりに寒いからというので、念仏が済んでからだれかが雨戸を二、三まい引いたので、寮の中はうす暗くなっていた。

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外そとが餘あまりに寒さむいからといふので念佛ねんぶつが濟すんでから誰たれかゞ雨戸あまどを二三枚まい引ひいたので寮れうの内うちは薄闇うすぐらくなつて居ゐた。

仏だんの前には、おばあさんが三、四人でひそひそと頭を寄せ合っている。

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佛壇ぶつだんの前まへには婆ばあさんが三四人にんでひそ/″\と額ひたひを鳩あつめて居ゐる。

「このばあさんら、そっちのほうでぬすみ食いしてないで、うまい物があったらこっちへ持って来い」

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「此この婆奴等ばゝあめら、そつちの方はうで偸嘴ぬすみぐひしてねえで、佳味うめえ物もの有あつたら此方こつちへ持もつて來こう」

さっきの、首に数珠を巻いた小がらなおじいさんがどなった。

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先刻さつきの首くびへ珠數じゆずを卷まいた小柄こがらな爺ぢいさんが呶鳴どなつた。

「ぬすんだというわけじゃないが、ふたを取って見たところなんだよ」

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「盜ぬすんだつち譯わけぢやねえが、蓋ふたとつて見みた處ところなんだよ」

そう言っておばあさんたちは、風呂しきの四すみをつかんでいろりのそばへ持って来た。

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さういつて婆ばあさん等らは風呂敷ふろしきの四隅よすみを掴つかんで圍爐裏ゐろりの側そばへ持もつて來きた。

飯つぎには、かんぴょうを帯にしたいなりずしが少し白い腹を見せて、そっくり積まれてあった。

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飯めしつぎには干瓢かんぺうを帶おびにした稻荷鮨いなりずしが少すこし白しろい腹はらを見みせてそつくりと積つまれてあつた。

すしは少しへっていた。

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鮨すしは少すこし減へつて居ゐた。

「独りでせしめちゃかなわないからね」

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「獨ひとりでせしめちやえかねえから」

おじいさんは冗談らしく言った。

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爺ぢいさんは戲談じようだんらしくいつた。

「独りじゃあるまいな。こうやって三人も四人もいたんだものなあ」

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「獨ひとりぢやあんめえな、かうやつて三人にんも四人よつたりも居ゐたんだものなあ」

「そうだとも。これくらいおれらにくれたって、本当にすりゃいいんだよ。なあ、おれらなんざ、供えられたお酒だってそんなに飲むわけじゃなし」

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「さうだとも、此この位くれえ俺おらげよこしたつて本當ほんたうにすりやえゝんだよ、なあ、俺おらなんざ上あがつた酒さけだつてさうだに飮のむべぢやなし」

おばあさんたちは言い返すように言った。

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婆ばあさん等らは抗辯かうべんするやうにいつた。

みんなが一つ一つとすしをつまんだ。

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悉皆みんなが一ひとつ/\と鮨すしを撮つまんだ。

「そりゃそうと、お酒はどうしたい」

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「そりやさうと、酒さけどうしたえ」

小がらなおじいさんは、ひょいと自在かぎのまま土びんを手元へ引きよせて、底に手を当ててみた。

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小柄こがらな爺ぢいさんはひよつと自在鍵じざいかぎの儘まゝ土瓶どびんを手てもとへ引ひきつけて、底そこへ手てを當あてゝ見みた。

「うっかりしてて、これは煮立っちまうところだったっけ」

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「放心うつかりしてゝ此こら煑立にたツちやあ處とこだつけ」

と急いで土びんを外して

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と急いそいで土瓶どびんを外はづして

「おれはそんなにすしなんざ自分じゃ一つでもほしくないんだから。そんな物でおなかをふくらませたっくらい、お酒がからっきりうまくなくなっちまうから」

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「俺おらさうだ鮨すしなんざ自分じぶんぢや一ひとつでも欲ほしかねえんだから、さうだ物もので滿腹はらくちくしたつ位くれえ酒さけからツき甘うまくなくしつちやあから、」

おじいさんは土びんをたたみの上に置いて言った。

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爺ぢいさんは土瓶どびんを疊たゝみの上うへへ置おいていつた。

みんながずらりと座を作った。

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悉皆みんながずらりと座ざを作つくつた。

茶飲み茶わんが一つ一つ置かれて、どこからか供えられたいもやごぼうや人参やそのほかの野菜の煮しめが、重箱のまま置かれた。

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茶呑茶碗ちやのみぢやわんが一ひとつ/\に置おかれて、何處どこからか供そなへられた芋いもや牛蒡ごばうや人參にんじんや其その他たの野菜やさいの煮〆にしめが重箱ぢゆうばこの儘まゝ置おかれた。

そこにはおぜんも台も何もなかった。

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其處そこには膳ぜんも臺だいも何なにもなかつた。

土びんのお酒が徳利へうつされて、土びんはまた自在かぎにつるされた。

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土瓶どびんの酒さけが徳利とくりへ移うつされて土瓶どびんは再ふたゝび自在鍵じざいかぎへ吊つるされた。

二度目のお酒が茶わんへ注がれたとき

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二度目どめの酒さけが茶碗ちやわんへ注つがれた時とき

「これはだめだ、こげ臭くなっちまった。お酒を温めるのにはかなわない、どうも気をつけなくちゃ。お酒とお茶はちっとでもにおいが移るんだから」

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「此こら駄目だめだ、焦臭こげくさくしツちやつた、酒さけ沸わかすのにや畢をへねえどうも氣きをつけなくつちや、酒さけと茶ちやはちつとでも臭味くさみ移うつらさんだから」

小がらなおじいさんは茶わんを口に当てて、いかにも腹を立ててこらえられないというように言った。

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小柄こがらな爺ぢいさんは茶碗ちやわんを口くちへ當あてゝ左さも憤慨ふんがいに堪たへぬものゝやうにいつた。

「なあに、土びんだって二度目のを少しにしないで、さっきのよりよけいなくらい注ぎさえすりゃ大丈夫なんだが。それ、そうでないとまわりがそれ、こげるから」

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「なあに、土瓶どびんだつて二度目どめのが少すこしに仕しねえで、先刻さつきのがより餘計よけいなツ位くれえ注つぎせえすりや大丈夫だいぢようぶなんだが、それさうでねえと周圍まありがそれ焦こびつから」

と、そばからすぐに口が出た。

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と側そばから直すぐに口くちが出でた。

「そんじゃ、今度はたくさん入れような。おれはろくに飲みもしないで怒られちゃつまらないな」

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「そんぢや、今度こんだ澤山しつかり入せえびやな、俺おら碌ろくに飮のんもしねえで、怒おこられちやつまんねえな」

土びんを手にしたおばあさんは笑いながら言った。

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土瓶どびんを手てにした婆ばあさんは笑わらひながらいつた。

「本当にすりゃ、一回ごとに土びんの中を水ですすがなくちゃだめなんだがな」

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「本當ほんたうにすりや、一遍ぺん毎ごとに土瓶どびんの中なか水みづでゆすがなくつちや駄目だめなんだがな」

「そっちから、もう、鉄びんの中へ徳利を押しこめばいいんだな。そうすりゃどうもこうもないんだな」

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「そつから、はあ、鐵瓶てつびんの中なかさ徳利とつくりおしこめばえゝんだな、さうすりやどうだもかうだもねえんだな」

「せっかくうまいお酒を台なしにして、おしいもんだな。これはこれで、よっぽどいいお酒だぞ」

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「折角せつかく甘うめえ酒さけ臺でえなしにして可惜物あつたらもんだな、此こらこんで餘程よつぽどえゝ酒さけだぞ」

などという声がざわざわと聞こえた。

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抔などといふ聲こゑが雜然ざつぜんとして聞きこえた。

「鉄びんじゃ徳利が一本ずつしか入らないから、面倒くさかろうと思ってよ」

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「鐵瓶てつびんぢや徳利とつくり一本ぽんづつしかへえんねえから面倒臭めんだうくさかんべと思おもつてよ」

とおばあさんは言いながら、いったんわいた鉄びんをかけた。

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と婆ばあさんはいひながら、一旦たん沸たぎつた鐵瓶てつびんを懸かけた。

たるが空になって、飲む人たちはみな酔ってがやがやとただ、さわいだ。

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樽たるが空虚からになつて悉皆みんな飮のむ者ものは銘酊よつぱらつてがや/\と只たゞ騷さわいだ。

卯平はいろりのそばをはなれずに、むっつりとして杯を取らないおばあさんたちと火に当たりながら、きせるを持たない手持ちぶさたに、しばの先を折ってそのくせの舌を鳴らしながら、歯茎をつついていた。

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卯平うへいは圍爐裏ゐろりの側そばを離はなれずにむつゝりとして杯さかづきをとらぬ婆ばあさん等らと火ひにあたりながら、煙管きせるを持もたぬ所在しよざいなさに麁朶そだの先さきを折をつて其その癖くせの舌したを鳴ならしつゝ齒齦はぐきをつゝいて居ゐた。

彼はみんながさわいでいるあいだに、自分のおなかに足りるだけのすしやおかずをはしにはさんで、杯には手をふれようとしなかった。

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彼かれは悉皆みんなが騷さわいで居ゐる間まに自分じぶんの腹はらに足たりるだけの鮨すしや惚菜そうざいやらを箸はしに挾はさんで杯さかづきへは手てを觸ふれようとしなかつた。

年寄りたちは自分がさわぐほうにばかり心をうばわれて、卯平のことはそっちのけにしたままだった。

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老人等としよりらは自分じぶんの騷さわぐ方はうにばかり心こゝろを奪うばはれて卯平うへいのことはそつちのけにした儘まゝであつた。

卯平はそれでも、いろいろな百姓料理の塩からい重箱にはしをつけて、近ごろになく気持ちよかった。

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卯平うへいはそれでも種々いろいろな百姓料理ひやくしやうれうりの鹽辛しほからい重箱ぢゆうばこへ箸はしをつけて近頃ちかごろになく快こゝろよかつた。

彼はおなかがいっぱいになるまでには、欠けた歯茎でかんで飲みこんで、さらに次のはしが口まで来る、そのゆっくりした手の動きが待ち遠しくて、口の中から自然にうすい水のようなつばがわいて出るのをおさえられないほどだった。

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彼かれは腹はらに一杯ぱいになる迄までには、缺かけた齒齦はぐきで噛かんで嚥下のみくだして、更さらに次つぎの箸はしが口くちまで來くる其その悠長いうちやうな手ての運動うんどうが待遠まちどほで口腔こうかうの粘膜ねんまくからは自然しぜんに薄うすい水みづのやうな唾液つばの湧わいて出でるのを抑おさへることが出來できない程ほどであつた。

元気になった年寄りたちは、赤いどうの太鼓を首すじから胸へつって、だらりだらりとたたいて先に立つと、足元も手元も乱れたみんなが後から後からと、ことにおばあさんたちはさわぎながらついて出る。

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威勢ゐせいよく成なつた老人等としよりらは赤あかい胴どうの太鼓たいこを首筋くびすぢから胸むねへ吊つつて、だらり/\と叩たゝいて先さきに立たつと足あしもと手てもと節制だらしなくなつた凡すべてが後あとから/\と、殊ことに婆ばあさん等らは騷さわぎながら跟ついて出でる。

のき先から青竹のたなに沿ってしいてあるむしろをわたって、ゆっくりと回る。

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軒端のきばから青竹あをだけの棚たなに添そうて敷しいてある筵むしろを渡わたつて徐おもむろに廻まはる。

彼らはそれを「お山回り」というのである。

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彼等かれらはそれをお山廻やままはりといふのである。

たがいによろけながら、おどりとも何ともつかないひょうきんな手足の動かし方をして、ためておいた一年じゅうの笑いを一度にはき出したかと思うほどの声を上げて、止めどもなくどよめいた。

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相互さうごに踉蹌よろけながら踊をどりとも何なんともつかぬ剽輕へうきんな手足てあしの動うごかしやうをして、蓄たくはへて置おいた一年中ねんぢうの笑わらひを一時じに吐はき出だしたかと思おもふ程ほどの聲こゑを放はなつて止とめどもなくどよめいた。

ついには列が乱れて、たがいにぶつかっては足をふんだりふまれたりして、一人がたおれれば後から後からと折り重なって、ひとしきり同じ所に止まってはがやがやとさわいだ。

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遂つひには列れつが亂みだれて互たがひに衝突しようとつしては足あしを踏ふんだり踏ふまれたりして、一人ひとりが倒たふれゝば後あとから/\と折重をりかさなつて一ひとしきり同おなじ處ところに止とまつてはがや/\と騷さわいだ。

彼らはほとんど冷えきろうとしている体のどこかに、失われようとしてぽっちりとおもかげを残していた若さの血の一てきが急にわいて、彼らの全体を動かしたかと思うように、かわきつつある彼らの顔にはどれもはなやかな赤みがさしている。

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彼等かれらは殆ほとんど冷却れいきやくしようとしつゝある肉體にくたいの孰いづれの部分ぶぶんかに失うしなはれんとしてほつちりと其その俤おもかげを止とめて居ゐた青春せいしゆんの血液けつえきの一滴てきが俄にはかに沸わいて彼等かれらの全體ぜんたいを支配しはいし且かつ活動くわつどうせしめたかと思おもふやうに、枯燥こさうしつゝある彼等かれらの顏かほにはどれでも華はなやかな紅べにを潮さして居ゐる。

彼らはまったく落ち着きを失っている。

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彼等かれらは全まつたく節制たしなみを失うしなつて居をる。

彼らはふだん家族の中にいて、その年老いた身がどうしても自然に若い者からのけ者にされながら、それぞれ気づかないうちにもふさぎこんでだるい月日を過ごしているとき、いつもの年の決まりである念仏の日は、そういうすべてを解き放つ自由な場である。

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彼等かれらは平生へいぜい家族かぞくに交まじつて、其その老衰らうすゐの身みがどうしても自然しぜんに壯者さうしやの間あひだに疎外そぐわいされつゝ、各自かくじは寧むしろ無意識むいしきでありながら然しかも鬱屈うつくつして懶ものうい月日つきひを過すごしつゝある時ときに、例年れいねんの定さだめである念佛ねんぶつの日ひはさういふ凡すべてを放はなつ自由境じいうきやうである。

彼らはそこに少しの遠りょも持っていない。

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彼等かれらは其處そこに些すこしの遠慮ゑんりよをも有もつて居をらぬ。

彼らは冬のあいだを長い夜のねむりにあきながら、寒さに苛められていた苦しさを、もう空のどこかに勢いをひそめてためらっているはずの春より先に、一度に取り返そうとする者のように、さわいでさわいでまた、さわぐのである。

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彼等かれらは冬季とうきの間あひだを長ながい夜よの眠ねむりに飽あきつゝ寒さむさに苛いぢめられて居ゐた苦くるしさを、もう空そらの何處どこにか其その勢いきほひを潜ひそめて躊躇ちうちよして居ゐる筈はずの春はるに先立さきだつて一度どに取返とりかへさうとするものゝ如ごとく騷さわいで/\又また騷さわぐのである。

お酒がそこに火をつけた。

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酒さけが其處そこに火ひを點てんじた。

庭の四本の青竹に張った縄の、赤や青や黄のきざんだかざりがひらひらと動きながら、年寄りたちと一つになってささやくように見えた。

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庭にはの四本ほんの青竹あをだけに長はつた繩なはの赤あかや青あをや黄きの刻きざんだ注連しめがひら/\と動うごきながら老人等としよりらと一ひとつに私語さゝやくやうに見みえた。

日は明るい庭へいっぱいに暖かな光を投げた。

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日ひは陽氣やうきな庭にはへ一杯ぱいに暖あたゝかな光ひかりを投なげた。

庭には子どもたちや村の人がぞろりと立って、このさわぎを笑って見ていた。

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庭にはには子供等こどもらや村落むらの者ものがぞろつと立たつて此この騷さわぎを笑わらつて見みて居ゐた。

そのあたりには、むずかしそうなものは一つも見られなかった。

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其その邊へんには難むづかし相さうなものは一ひとつも見みられなかつた。

彼らをつつんだやわらかな空気が、春のしるしにちがいなかった。

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彼等かれらを包つゝんだ軟やはらかな空氣くうきが春はるの徴候きざしでなければならなかつた。

しかしながら、卯平だけはその群れに加わらなかった。

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然しかしながら卯平うへいは只たゞ獨ひとり其その群むれに加くははらなかつた。

年寄りたちの勢いがごうっと庭に移ったとき、寮の中はそのさわぎ声がいっぱいにおそって来て、やかましいのにさびしかった。

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老人等としよりらの勢いきほひがごつと庭にはに移うつつた時とき寮れうの内うちは其その騷さわぎの聲こゑが一杯ぱいに襲おそひ來きて喧やかましいにも拘かゝはらず寂さびしかつた。

いろりの火も灰が白くおおって、めっきりおとろえた。

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圍爐裏ゐろりの火ひも灰はひが白しろく掩おほうて滅切めつきりと衰おとろへた。

卯平はじっとうでを組んだまま目をしかめて、燃え尽きたたきぎさえ突き出そうとしなかった。

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卯平うへいは凝然ぢつと腕うでを拱こまねいた儘まゝ眼めを蹙しかめて燃もえ退のいた薪まきをすら突つき出ださうとしなかつた。

彼には、庭の乱れたさわぎ声が耳を占めるよりも、遠くはるかな暗やみに何かをさがそうとしているように、ただぼんやりとしているのだった。

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彼かれには庭にはの節制だらしのない騷さわぎの聲こゑが其その耳みゝを支配しはいするよりも遠とほく且かつ遙はるかな闇やみに何物なにものをか搜さがさうとしつゝあるやうに只たゞ惘然ばうぜんとして居ゐるのであつた。

与吉は紙包みの小豆ごはんを食べつくして、しばらく庭のさわぎを見ていたが、寮の中に独りぽつねんとしている卯平を見つけて、いろりの近くまで来た。

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與吉よきちは紙包かみづゝみの小豆飯あづきめしを盡つくして暫しばらく庭にはの騷さわぎを見みて居ゐたが寮れうの内うちに㷀然ぽつさりとして居ゐる卯平うへいを見出みいだして圍爐裏ゐろりに近ちかく迫せまつた。

「爺さん、くれないか」

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「爺ぢいくんねえか」

と彼は、またいつものように卯平に甘えた。

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と彼かれは又また何時いつものやうに卯平うへいに甘あまえた。

卯平はその声を聞いても、しばらくかがんだままでいた。

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卯平うへいは其その聲こゑを聞きいても暫しばらく蹙しがんだ儘まゝで居ゐた。

立春の日を過ぎてから、かえって夕暮れのはかないうすい光の空にふき落ちるはずの西風が、何を怒ってかふいてふいてふきまくって、夜にわたっても何日も止まないほどのめずらしいことになって、鬼怒川の浅せがこおりに閉ざされて、やがてこおりのかたまりが流れたといううわさが立ったことがあった。

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立春りつしゆんの日ひを過すぎてから、却かへつて黄昏たそがれの果敢はかない薄うすい光ひかりの空そらに吹ふき落おちる筈はずの西風にしかぜが何なにを憤いかつてか吹ふいて/\吹ふき捲まくつて、夜よに渡わたつても幾日いくにちか止やまぬ程ほどな稀有けうな現象げんしやうに伴ともなうて、鬼怒川きぬがはの淺瀬あさせが氷こほりに閉とざされて、軈やがて氷こほりの塊かたまりが流ながれたといふ噂うはさが立たつたことがあつた。

卯平はそれとともに、そのかわいたはだがよけいに荒れて、寒さが骨まで通ったかと思うと、急に手の自由を失って来たように感じた。

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卯平うへいはそれと共ともに其その乾燥かんさうした肌膚はだが餘計よけいに荒あれて寒冷かんれいの氣きが骨ほねに徹てつしたかと思おもふと俄にはかに手ての自由じいうを失うしなつて來きたやうに自覺じかくした。

彼は縄をなうにもわらじを作るにも、何か固まったかたまりがすべての筋肉のはたらきをじゃましているようで、あちこちにうずく痛みさえ感じるのだった。

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彼かれは繩なはを綯なふにも草鞋わらぢを作つくるにも、其それが或ある凝塊しこりが凡すべての筋肉きんにくの作用さようを阻害そがいして居ゐるやうで各部かくぶに疼痛とうつうをさへ感かんずるのであつた。

器用な彼の手先が、彼自身の物ではなくなった。

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器用きような彼かれの手先てさきが彼自身かれじしんの物ものではなくなつた。

彼は与吉がせまい戸口に立つたびに、心からむかえる前の卯平ではなくなっていた。

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彼かれは與吉よきちが狹せまい戸口とぐちに立たつ毎ごとに心こゝろから迎むかへる以前いぜんの卯平うへいではなくなつて居ゐた。

それでも彼は与吉をかわいがっていた。

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それでも彼かれは與吉よきちを愛あいして居ゐた。

「明日にしろ」

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「明日あしたにしろ」

と彼はかんたんにことわって、そしてそれっきり言わないことがあるようになった。

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と彼かれは簡單かんたんに拒絶きよぜつしてさうしてそれつきりいはないことが有あるやうになつた。

与吉が何度もそう言われてしょんぼりしているのを、卯平は見つめてよけいに目をしかめるのだった。

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與吉よきちは屡しば/\さういはれて悄然せうぜんとして居ゐるのを、卯平うへいは凝視みつめて餘計よけいに目めを蹙しかめつゝあるのであつた。

そういうことが何度か何日かくり返された後、卯平は与吉に一銭の銅貨を与えた。

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さういふことが幾度いくたびか幾日いくにちか反覆くりかへされた後のち卯平うへいは與吉よきちへ一錢せんの銅貨どうくわを與あたへた。

これまでの倍になっているのと、ほとんどまたことわられるのではないかという心配を持っている与吉は、いつでもそれにとても満足を表した。

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從來これまでに倍ばいして居ゐるのと殆ほとんど復また拒絶きよぜつされるのではないかといふ懸念けねんを懷いだきつゝある與吉よきちは何時いつでも其それに非常ひじやうな滿足まんぞくを表あらはした。

そのようすを見る卯平は、勢い心が動かされた。

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其その容子ようすを見みる卯平うへいは勢いきほひ心こゝろが動うごかされた。

自分が年老いた者だと知ったとき、あきらめのつかないみんなは、ややもすればたがいに残りの命がいくらもないはかなさを語り合って、それが冗談を言って笑いさざめくときにさえ絶えずくり返されて、それぞれ痛いほど感じる程度のちがいはあるにしても、死の問題に苦しめられているのは事実である。

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自分じぶんの老衰者らうすゐしやであることを知しつた時とき諦あきらめのない凡すべては、動ともすれば互たがひに餘命よめいの幾何いくばくもない果敢はかなさを語かたり合あうて、それが戲談じようだんいうて笑語さゞめく時ときにさへ絶たえず反覆くりかへされて、各自かくじが痛切つうせつに感かんずる程度ていどの相違さうゐはあるにしても、死しの問題もんだいに苦くるしめられて居ゐるのは事實じじつである。

卯平の心にも、同じく死の思いが止まず行き来した。

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卯平うへいの心こゝろにも同おなじく死しの觀念くわんねんが止やまず往來わうらいした。

彼はその手先の自由を失ったとき、やけになった心から彼の風呂しき包みを解いた。

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彼かれは其その手先てさきの自由じいうを失うしなうた時とき自棄やけの心こゝろから彼かれの風呂敷包ふろしきづゝみを解といた。

野田にいたころ、主人や、主人の用で出かけた先からもらった何本かの手ぬぐいをつぎ合わせてこしらえたゆかたを出した。

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野田のだに居ゐた頃ころ主人しゆじんや又または主人しゆじんの用ようでの出先でさきから貰もらつた幾筋いくすぢの手拭てぬぐひを繼つぎ合あはせて拵こしらへた浴衣ゆかたを出だした。

きれい好きな彼には、はでな手ぬぐいのもようが当時のほこりの一つだった。

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清潔好きれいずきな彼かれには派手はでな手拭てぬぐひの模樣もやうが當時たうじ矜ほこりの一ひとつであつた。

彼はもう、自分の心を苛めてやるような気持ちで、目ぼしい物を次々に質に入れた。

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彼かれはもう自分じぶんの心こゝろを苛いぢめてやるやうな心持こゝろもちで目欲めぼしい物ものを漸次だん/\に質入しちいれした。

彼は目の前で、こおりが張っては毎日暖かい日の光にとかされるのを見ていた。

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彼かれは眼前がんぜんに氷こほりが閉とぢては毎日まいにち暖あたゝかい日ひの光ひかりに溶解ようかいされるのを見みて居ゐた。

彼にはそれが、ただそういうできごととしてだけ目に映った。

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彼かれにはそれが只たゞさういふ現象げんしやうとしてのみ眼めに映うつつた。

彼は、自由を失ったその手先が、暖かい春の日が重なって次第によくなるだろうという、かすかな望みさえ持たないほど、身も心もひがんで、そして苦しんだ。

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彼かれは自由じいうを失うしなうた其その手先てさきが暖あたゝかい春はるの日ひが積つもつて漸次だん/\に和やはらげられるであらうといふ微かすかな希望のぞみをさへ起おこさぬ程ほど身みも心こゝろも僻ひがんでさうして苦くるしんだ。

彼が風呂しき包みから得ていたお金はわずかなものだったが、それはときとして、彼のこわばった舌に合う食べ物を買うほかに、一部分は与吉の小さな手に落とされるのだった。

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彼かれの風呂敷包ふろしきづゝみから獲えつゝあつた金錢きんせんは些少すこしのものであつたが、それは時ときとして彼かれの硬こはばつた舌したに適てきした食料しよくれうの或ある物ものを求もとめる外ほかに一部分ぶぶんは與吉よきちの小ちひさな手てに落おとされるのであつた。

はかないたばこ入れのふくろの中を、心配するように彼は何度ものぞいた。

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果敢はかない煙草入たばこいれの叺かますの中なかを懸念けねんするやうに彼かれは數次しばしば覗のぞいた。

暗いせまい小屋の中でのぞくふくろの底は暗かった。

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陰鬱いんうつな狹せまい小屋こやの中なかで覗のぞく叺かますの底そこは闇くらかつた。

わずかにまじった小さな白い銀貨が、見るたびに彼の心にいくらかの光を与えた。

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僅わづかに交まじつた小ちひさな白しろい銀貨ぎんくわが見みる度たびに彼かれの心こゝろに幾いくらかの光ひかりを與あたへた。

彼がどんなにおしんでも、ふくろの中がへって行くのを止めることはできない。

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彼かれが什麽どんなに惜をしんでも叺かますの中なかの減へつて行ゆくのを防ふせぐことは出來できない。

しかも無口な彼は、むだに自分独りでかみしめて、絶えずただやつれながらしずんだ気持ちをつづけた。

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然しかも寡言むくちな彼かれは徒いたづらに自分じぶん獨ひとりが噛かみしめて、絶たえず只たゞ憔悴せうすゐしつゝ沈鬱ちんうつの状態じやうたいを持續ぢぞくした。

彼はその気持ちのまま、念仏寮のいろりにどっかりとだるい体をすえていた。

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彼かれは其その状態じやうたいを保たもつて念佛寮ねんぶつれうの圍爐裏ゐろりにどつかと懶ものうい身體からだを据すゑて居ゐた。

庭のさわぎは止んで、強い風がおそったように寮の中はまたざわざわとして、卯平をつつんだしずんだ空気をかき乱した。

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庭にはの騷さわぎは止やんで疾風しつぷうの襲おそうた如ごとく寮れうの内うちは復また雜然ざつぜんとして卯平うへいを圍かこんだ沈鬱ちんうつな空氣くうきを攪亂かくらんした。

やがて年寄りたちがたがいのふところのお金を出し合った二升だるが運ばれて、お酒がまた温められた。

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軈やがて老人等としよりらが互たがひの懷錢ふところせんを出だし合あうた二升樽しやうだるが運はこばれて酒さけが又また沸わかされた。

お酒の席はいろりの近くに作られた。

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酒さけの座ざは圍爐裏ゐろりに近ちかく形かたちづくられた。

そのときまだ与吉は帰らなかった。

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其その時ときまだ與吉よきちは去さらなかつた。

卯平は黙って五厘の銅貨を投げた。

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卯平うへいは默だまつて五厘りんの銅貨どうくわを投なげた。

そばにいた一人の年寄りがそれを拾おうとして見せると、与吉は両方の手をかけて、それから体でおおった。

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側そばに居ゐた一人ひとりの老人としよりがそれを拾ひろはうとして見みせると與吉よきちは兩方りやうはうの手てを掛かけてそれから身みを以もつて俺おほうた。

彼はそれを固くにぎって

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彼かれはそれを堅かたく掴つかんで

「爺さん、もう一つくれないか」

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「爺ぢい、いま一ひとつくんねえか」

と、さらにねだった。

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と更さらに強請せがんだ。

彼は五厘の銅貨を大事にした。

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彼かれは五厘りんの銅貨どうくわを大事だいじにした。

しかし彼はしばらく一銭の銅貨に慣れていたので、心にわずかな物足りなさを感じたのだった。

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然しかし彼かれは暫しばらく一錢せんの銅貨どうくわに訓なれて居ゐたので心こゝろに僅わづかな不足ふそくを感かんじたのであつた。

卯平は口を閉ざしている。

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卯平うへいは口くちを緘つぐんで居ゐる。

「お前は、そんなことを言うんじゃない。さっきあんなにもらって、まだ要るもんか。もっとほしいなんて言えば、おれがおなかをかき裂いて小豆ごはんをかき出してやるから。お前は口ばかり動かしてるから見ろ、それ、口のはしがただれてらあ」

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「汝わりや、さうだこと云いふんぢやねえ、先刻さつきあゝだに何なにつか貰もらつて要いるもんか、まつと欲ほしいなんちへば俺おれ腹はら掻裂かつツえて小豆飯あづきめし掻出かんだしてやつから、汝わりや口くちばかし動いごかしてつから見みろうそれ、鴉からすに灸きう据すゑらツてら」

と、さっきの首に数珠を巻いたおじいさんががみがみと言った。

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と先刻さつきの首くびへ數珠ずゝを卷まいた爺ぢいさんががみ/\といつた。

与吉ははずかしそうにして、五厘の銅貨でくちびるをこすりながら立っていた。

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與吉よきちは羞はにかんだやうにして五厘りんの銅貨どうくわで脣くちびるをこすりながら立たつて居ゐた。

彼の口の両はしには、「からすのきゅう」と言われているできものができて、どろでもつけたようになっていた。

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彼かれの口くちの兩端りやうはしには鴉からすの灸きうといはれて居ゐる瘡かさが出來できて泥どろでもくつゝけたやうになつて居ゐた。

「お前はお金がほしけりゃ、おとっつあんにもらえ」

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「汝わりや錢ぜね欲ほしけりやおとつゝあに貰もらへ」

おじいさんはまたどなった。

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爺ぢいさんは又また呶鳴どなつた。

「そんだってだめだあ、おとっつあんらはくれやしまいし」

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「そんだつて駄目だめだあ、おとつゝあ等ら呉くれやしめえし」

与吉はやっと言った。

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與吉よきちは漸やつといつた。

「おとっつあんは耳が遠いから聞こえないんだ。おとっつあん、くれと、おれみたいにどなってみろ。そうでなけりゃ耳を引っぱってやれ」

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「おとつゝあ聾つんぼだから聞きけえねんだ、おとつゝあ呉くろうつと俺おれ見みてえに呶鳴どなつて見みろ、そんでなけれ耳みゝ引張ひツぱつてやれ」

「そんだっていやだあ、おれは。おとっつあんに打っとばされるから」

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「そんだつて厭やだあ俺おら、おとつゝあに打ぶつ飛とばされつから」

「いいから行けもう。お前らみたいな子どもらがごやごや来ちゃ、うるさくて仕方がないから」

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「えゝから行えけはあ、汝等わつら見みてえな餓鬼奴等がきめらごや/\來きちや五月蠅うるさくつて仕しやうねえから」

与吉はすごすごと立った。

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與吉よきちは悄々しを/\と立たつた。

「そうら」

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「さうら」

と、卯平は後から五厘の銅貨を庭へ投げてやった。

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と卯平うへいは後あとから五厘りんの銅貨どうくわを庭にはへ投なげてやつた。

そうしているあいだに、二度目のお酒にあずからないおばあさんたちは、表の雨戸をさらに二、三まい引いて、よけいにうす暗くなった仏だんの前に固まった。

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さうして居ゐる間まに二度目どめの酒さけに與あづからぬ婆ばあさん等らは表おもての雨戸あまどを更さらに二三枚まい引ひいて餘計よけいに薄闇うすぐらく成なつた佛壇ぶつだんの前まへに凝集こゞつた。

いつのまにか念仏の仲間以外の村の女の人も加わって、十人ばかりになった。

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何時いつの間まにか念佛衆ねんぶつしゆう以外いぐわいの村落むらの女房にようばうも加くははつて十人にんばかりに成なつた。

彼女たちは外からの人目を雨戸でさけて、たった一つの楽しみとされている「宝引き」をしようというのだった。

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彼等かれらは外そとからの人目ひとめを雨戸あまどに避さけて其その唯一ゆゐいつの娯樂ごらくとされてある寶引はうびきをしようといふのであつた。

たたみには八本のこん色の宝引きの糸がざらりと投げ出された。

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疊たゝみには八本ほんの紺こんの寶引絲はうびきいとがざらりと投なげ出だされた。

彼女たちはそれを糸と呼んでいるけれど、はたを織って切りはなした最後の糸のはしを、縄のようになった綱である。

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彼等かれらはそれを絲いとと喚よんで居ゐるけれども、機はたを織おつて切きり放はなした最後さいごの絲いとの端はしを繩なはのやうに綯なつた綱つなである。

おばあさんたちは丸い座を作って、めいめいの前に二銭ずつのお金を置いた。

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婆ばあさん等らは圓まるい座ざを作つくつて銘々めい/\の前まへへ二錢せんづつの錢ぜにを置おいた。

親になった一人が八本の綱の元をつかんで、一度ぎっと指へからめてばらりと投げ出すと、みんなが一つずつつかんで、これもそのはしを指へぎりっとからめて一度に引くと、七本の綱がむなしくすっとたおれる。

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親おやに成なつた一人ひとりが八本ほんの綱つなの本もとを掴つかんで一度どぎつと指ゆびへ絡からんでばらりと投なげ出だすと、悉皆みんなが一ひとつづゝ掴つかんで此これも其その端はしを指ゆびへぎりつと絡からんで一度どに引ひくと七本ほんの綱つなが空むなしくすつとこける。

ただ一本の綱のしりには、彼女たちの言う「どっぺ」

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只たゞ一本ぽんの綱つなの臀しりには彼等かれらのいふ「どツぺ」

がついていて、それがどさりとたたみを打って一人の手元へ引かれる。

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が附ついて居ゐてそれがどさりと疊たゝみを打うつて一人ひとりの手てもとへ引ひかれる。

どっぺは、一厘銭を三寸ばかりの厚さにあなへ通してぎっとくくったおもりである。

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どつぺは一厘錢りんせんを三寸ずんばかりの厚あつさに穴あなを透とほしてぎつと括くゝつた錘おもりである。

一厘銭は、真ちゅうの地色がぴかぴかと光るまですられていた。

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一厘錢りんせんは黄銅くわうどうの地色ぢいろがぴか/\と光ひかるまで摩擦まさつされてあつた。

どっぺを引いた人がさらに親になって、一度ごとにどっぺは外してほかの綱につける。

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どつぺを引ひいたのが更さらに親おやになつて一度ど毎ごとにどつぺは解といて他たの綱つなへつける。

するとおばあさんたちは考えながら、しかもすばやく綱の一つをつまんでは放したり、またつまんだり、とてもいそがしそうに手を動かす。

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さうすると婆ばあさん等らは思案しあんしつゝ然しかも速すみやかに綱つなの一ひとつを抓つまんでは放はなしたり又また抓つまんだり極きはめて忙いそがしげに其その手てを動うごかす。

彼女たちはちょうどくじを引くように、きっと一つは当たるはずのどっぺを、みんなが当てずっぽうにつかんで引くのである。

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彼等かれらは丁度ちやうど䰗くじを引ひくやうに屹度きつと一ひとつは當あたる筈はずのどつぺを悉皆みんなが心こゝろあてに掴つかんで引ひくのである。

一度ごとに、がっかりした顔とうれしそうな顔が、みんなのあいだを次々に移って行く。

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一度ど毎ごとに失望しつばうと滿足まんぞくとが悉皆みんなの顏かほにそれからそれと移うつつて行ゆく。

綱をぎっとたばねて引かせる手元や、一つずつ考えながら、しかもつかんだら勢いよくすいと引く手元は、彼女たちのこわばった手でありながら、なれていて、そしてすばやく動く。

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綱つなをぎつと束つかねて引ひかせる手てもとや、一ひとつづゝに思案しあんしながら然しかも掴つかんだら威勢ゐせいよくすいと引ひく手てもとは彼等かれらが硬こはばつた手てでありながら熟練じゆくれんしてさうして敏捷びんせふに運動うんどうする。

綱のまわりからみんなが作っている輪が縮まるようにして、一つつかんではまたその輪が広がるようにしながら引くようすは、大ぜいで一つのひもをなっているような形にも見えた。

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綱つなの周圍しうゐから悉皆みんなの形かたちづくつて居ゐる輪わが縮ちゞまるやうにして、一ひとつ掴つかんでは又また其その輪わが擴ひろがるやうにしつゝ引ひく容子ようすは大勢おほぜいが一ひとつの紐ひもを打うつて居ゐるやうな形かたちにも見みえた。

彼女たちはいそがしく手を動かしながら、声を殺してひそひそと、しかも力を入れて笑いささやいた。

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彼等かれらは忙いそがしく手てを動うごかして居ゐると共ともに聲こゑを殺ころしてひそ/\と然しかも力ちからを入いれて笑語さゞめいた。

彼女たちは外に聞こえるのを気にしないなら、面白さに乗じて大いにさわぐはずである。

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彼等かれらは戸外こぐわいの聞きこえを憚はばからぬならば興味きようみに乘じようじて放膽はうたんに騷さわぐ筈はずでなければならぬ。

それぞれの前にあるお金は、どっぺを引き当てた人の手に一つずつ引き取られて、だれの前にもまったくなくなったとき、また新しく置かれるのである。

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各自かくじの前まへに在ある錢ぜにはどつぺを引ひき當あてた者ものの手てに一ひとつづゝ引ひき去さられて誰たれの前まへにも全まつたくなくなつた時とき又また更さらに置おかれるのである。

彼女たちはそれに夢中になって、まったくほかを忘れている。

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彼等かれらはそれに熱中ねつちうして全まつたく他たを忘わすれて居ゐる。

宝引きにもお酒にも加わらない年寄りたちは、たなのまわりを回ってからは帰った人もあって、寮にはいくらか人数もへっていたが、いろりのあたりは酔いが回って、宝引きの仲間に行かないおばあさんたちは、お酒の好きな、どれも元気のいい人ばかりだった。

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寶引はうびきにも酒さけにも加くははらぬ老人等としよりらは棚たなの周圍しうゐを廻まはつてからは歸かへつたものも有あつて寮れうには幾いくらか人數にんずも減へつて居ゐたが、圍爐裏ゐろりの邊ほとりは醉ゑひが加くははつて寶引はうびきの群むれに行ゆかぬ婆ばあさん等らは酒さけの好すきな孰どれも威勢ゐせいのいゝものばかりであつた。

「なあお前、これでおれも若いときには面白かったんだよなあ」

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「なあおめえ、こんで俺おらも若わけえ時ときにや面白おもしろえのがんだよなあ」

と、おじいさんの肩にもたれかかる人もあった。

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と爺ぢいさんの肩かたへ靠もたれ掛かゝるものもあつた。

「ばかを言え、むかしのことなんぞ、みっともない。おれなんざこれで随分無鉄砲なことはしたが、これで女には迷わなかったっけから」

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「篦棒べらぼう、以前めえかたのことなんぞ、外聞げえぶん惡わりい、俺おらなんざこんで隨分ずゐぶん無鐵砲がしよきなこたあしたが、こんで女をんなにや煎えれねえつちやつたから」

と、首に数珠を巻いたおじいさんがそばでそれを見ていてどなった。

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と首くびに珠數じゆずを卷まいた爺ぢいさんが側そばでそれを見みて居ゐて呶鳴どなつた。

「お前、怒らなくてもいいやな。お酒の席じゃそれくらいのことは仕方があるまいな」

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「おめえ、怒おこんなくつてもえゝやな、酒さけの座敷ざしきぢや其それつ位くれえなこた仕方しかたあんめえな」

としかられたおばあさんは、右の手を上から左の手のひらへ打ちつけて、大声を立てて笑いながら

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と叱しかられた婆ばあさんは右みぎの手てを上うへから左ひだりの手ての平ひらへ打うちつけて、大聲おほごゑを立たてゝ笑わらひながら

「どうしたんだいまあ、一ぱいやりなさいね」

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「どうしたんでえまあ一杯ぺえやらつせえね」

と、おばあさんはさらに卯平へ茶わんを突きつけた。

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と婆ばあさんは更さらに卯平うへいへ茶碗ちやわんを突つきつけた。

卯平は一ぱいも口にふくまないのに、さっきからただじっとして、さわぎを聞くでもなく聞かないでもないようすで、あぐらをかいていた。

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卯平うへいは一杯ぱいをも口くちへ銜ふくまぬのに先刻さつきから只たゞ凝然ぢつとして、騷さわぎを聞きくでもなく聞きかぬでもない容子ようすをして胡坐あぐらをかいて居ゐた。

二度目のお酒がいくらかおなかに多すぎた年寄りたちは、もう卯平を見のがしてはおかなかったのである。

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二度目どめの酒さけは幾いくらか腹はらに餘計よけいであつた老人等としよりらはもう卯平うへいを見遁みのがしては置おかなかつたのである。

「おれはしばらくやらないから」

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「俺おら暫しばらくやんねえから」

卯平はそっけなく言って、そのくせの舌を鳴らした。

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卯平うへいはそつけなくいつて其その癖くせの舌したを鳴ならした。

「なんでまた飲まないんだ。そんなにしんねりむっつりしてないで、ちっとは元気を出してみるもんだ。そうれ」

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「何なんでまた飮のまねえんだ、さうだにしんねりむつゝりしてねえで、ちつた威勢えせいつけて見みるもんだ、そうれ」

と、さっきからのおじいさんは茶わんを突きつけた。

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と先刻さつきからの爺ぢいさんは茶碗ちやわんを突つきつけた。

卯平はまた舌を鳴らして、つばをぐっと飲んだ。

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卯平うへいは復また舌したを鳴ならして、唾つばをぐつと嚥のんだ。

「おれはもう、しばらくやらないから。たばこは体の具合が悪いからやめたんだから何だが、お酒はこれ、お金はかせげないし、ちっとでも飲めばまた飲みたくなるから、やめちまったな。お酒ももう、むかしとちがって一ぱいいくらというんだから、お金を食うようで」

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「俺おらはあ、暫しばらくやんねえから、煙草たばこは身體からだの工合ぐえゝ惡わりいから斷たつたんだから何なんだが、酒さけは此これ錢ぜねは稼かせげねえし、ちつとでも飮のめば又また飮のみたくなつから廢やめつちやつたな、酒さけもはあ以前めえかたた違ちがつて一杯ぺえ幾いくらつちんだから錢ぜねくんのむやうで」

彼はぶすりとして、しかも力のない声を投げかけるように言った。

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彼かれはぶすりとして然しかも力ちからのない聲こゑを投なげ掛かけるやうにしていつた。

「そんなことを言わないで、そら来たとこう手を突き出すもんだ。じれったくて仕方がない、これらがな」

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「さうだこと云やあねえで、そら來きたつとかう手てえつんだすもんだ、倦怠まだるつこくつて仕しやうねえ此等こツらがな」

さっきのおじいさんは、また一ぱいをぐっと飲み干してどなった。

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先刻さつきの爺ぢいさんは又また一杯ぱいをぐつと干ほして呶鳴どなつた。

「そうだよ、飲みなさいよお前。めでたいお酒だから。元気をつければお前、体の具合だってちっとくらいなら治っちまうよ」

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「さうだよ、飮のまつせえよおめえ、めでゝえ酒さけだから、威勢えせえつければおめえ身體からだの工合ぐえゝだつてちつと位ぐれえなら癒なほつちやあよ」

おばあさんたちはまたすすめた。

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婆ばあさん等らは又また侑すゝめた。

「この人も勘次どんにはよくしてもらえないんだってさ。困ったもんさな。そんだってお前、そんなものは仕方がないから、そんなにくよくよしないほうがいいよ」

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「此この人ひとも勘次かんじどんにや善よくさんねえごつさら、困こまつたもんさな、そんだつておめえさうえもな仕しやうねえから、さうえにくよくよしねえ方はうがえゝよ」

ほかのおばあさんも言った。

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他たの婆ばあさんもいつた。

「体の具合が悪いなんて、そんな気持ちだから卯平らは仕方がない。これらはリューマチだなんて。リューマチなんて病気はおなかの虫から出るんだから、なあに訳はないんだよ。へびでこうしごき下ろすんだ。いいか、おれがこすってやるから。いや本当だよ、おれのなんざあ」

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「身體からだの工合ぐえゝ惡わりいなんて、さうだ料簡れうけんだから卯平等うへいら仕しやうねえ、此等こツらようまづだなんて、ようまづなんち病氣びやうきは腹はらの蟲むしから出でんだから、なあに譯わきあねえだよ、蛇へびでかう扱こきおろすんだ、えゝか、俺おれこすつてやつから、いや本當ほんたうだよ俺おらがなんざあ」

小がらなおじいさんは、すごい勢いで言った。

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小柄こがらな爺ぢいさんは非常ひじやうな勢いきほひでいつた。

首の数珠は、彼の声が喉をふくらませるので、そのたびごとに少しずつ動いた。

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首くびの珠數じゆずは彼かれの聲こゑが喉のどを膨脹ばうちやうさせるので其その度たび毎ごとに少すこしづゝ動うごいた。

「おれはへびはきらいだから」

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「俺おら蛇へびは嫌きれえだから」

卯平は苦しそうに言った。

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卯平うへいは苦くるし相さうにいつた。

「へびがきらいだと。そんな大きな体をして、だらしないことを言うない。おれなんざへびでも毛虫でもこわいなんてことはないんだから。こう、いいか、こうだぞ」

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「蛇へび嫌きれえだと、さうだ大えけえ姿なりしてあばさけたこといふなえ、俺おらなんざ蛇へびでも毛蟲けむしでも可怖おつかねえなんちやねえだから、かうえゝか、斯かうだぞ」

と言いながらおじいさんは後ろ向きに立って、十分に酔った足を大またにふんで、はだをぬいだ両方の手をぎっとにぎって、手ぬぐいで背中をこするような形をして見せた。

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といひながら爺ぢいさんは後向うしろむきに立たつて、十分ぶんに酩酊よつぱらつた足あしを大股おほまたに踏ふんで、肌はだを脱ぬいだ兩方りやうはうの手てをぎつと握にぎつて、手拭てぬぐひで背中せなかを擦こするやうな形かたちをして見みせた。

「おれはリューマチじゃ八、九年もなやんだんだが、へびでこすればいいというから、これはうまいことを聞いたと思ってな。大きなあおだいしょうがぶらんとかきの木からぶら下がったから、竹ざおでかき落とそうと思ったら、おれの家のばあさんらがかまうなと言ったっけが、いいからお前らは黙って見てろ、なんて。それからおれがぐうっと頭をつかまえて、こうおれの背中をこすったな。大きなあおだいしょうだから、畜生、縮んで曲がったときは引っかかってなかなか動かないんだ。それからうんと引きのばしちゃこすったな。そうしたら、こうかたまりがごりごりとくずれるのが分かったっけな。そうしたらなあにけろりよ」

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「俺おらようまづぢや八九年ねんも惱なやんだんだが、蛇へびでこすればえゝつちから、此こら甘うめえこと聞きいたと思おもつてな、大えけえ青大將あをだいしやうぶらんと柹かきの木きからぶらさがつたから竹竿たけざをで掻かき落おとすべと思おもつたら、俺おら家ぢの婆奴等ばゝめら構かまあななんて云ゆつけが、えゝから汝等わツら默だまつて見みてろ、なんてそれから俺おれぐうつと頭あたまふん掴づかめえて、斯かう俺おれ背中せなかこすつたな、大えけえ青大將あをだいしやうだから畜生ちきしやう縮ちゞまつて屈曲えんぢぐんぢした時ときや引ひつ掛かゝつて仲々なかなか動いごかねえだ、それからうゝんと引ひき伸のばしちやこすつたな、さうしたら斯かう塊かたまりごりつ/\とこけんの知しれたつけな、さうしたらなあにけろりよ」

彼はみんなに向けた背中へ手を回して

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彼かれは一同どうへ向むけた背中せなかへ手てを廻まはして

「この辺の所にかたまりがあったのだが、それっきりどこかへ行っちまったな。それからおれはもう、リューマチなんざ訳はないと言ってるんだ」

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「此處こゝらんとこに塊かたまり有あつたのがだが、それつきり何處どこさか行いつちやつたな、それから俺おれはあ、ようまづなんざ譯わきあねえつちつてんだ」

彼の手先が背骨の近くにふれた。

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彼かれの手先てさきが脊椎せきずゐに近ちかく觸ふれた。

「おおいやまあ、大きなおきゅうのあとじゃないかい」

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「おゝえやまあ、大えけえ灸きうの痕あとぢやねえけえ」

と、一人のおばあさんがおどろいて言った。

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と一人ひとりの婆ばあさんが驚おどろいていつた。

「おれのはこれで三百本を一度に火をつけたんだから。おれはむちゃなことが大好きなのだから。いや本当だよ。おれはこれでおなかに悪い病気がついたときだって、とうとうねなかったっけからな。今じゃ教わってるから、子どもらまで赤い病だなんて知ってるが、おれが若いころは何でも疫病とおぼえてたのだから。なあ卯平、これらもそのときやったから知ってらな。おれは一日に十六度べんじょへ行ったのが一等だったっけが。なあに、病気なんぞには負けられるもんかというんだから。そのときには村じゅうずっともう、みんなごろごろしてて、おればかり薬箱を持って医者の送りむかえをしたな。となり近所一けんごと役には立たないんだから。いや本当だよ。おれは十五日下痢して治ったが、おれは強かったからな。いや強いとも、まったく。なあにってんで、おれは毎日お酒をぴんぴん飲んだな。お酒を飲んじゃ悪いなんて、医者なんてのはだめだな、ずっと。檳榔樹とか何とかだなんてちっとばかりずつ、けずった薬なんぞじれったくて仕方がないから、当薬を煎じ出して、毎日おれは片口で五はいずつも飲んだな。五合くらい入っただろうが、おれは息をつかずだ。なあに、息をついちゃにがくて仕方がないんだよ」

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「俺おらがな此こんで三百挺ちやう一遍ぺんに火ひい點つけたんだから、俺おらがむしやらなこと大好だえすきのがんだから、いや本當ほんたうだよ、俺おら恁こんで腹疫病はらやくびやうくつゝいた時ときだつて到頭たうとう寢ねねえつちやつたかんな、今いまぢや教をさつてつから餓鬼奴等がきめらまで赤せきれえ病びやうだなんて知しつてんが、俺おら壯さかりの頃ころあ何なんでも疫病やくびやうと覺おべえてたのがんだから、なあ卯平うへい、此こツ等らもそん時ときやつたから知しつてらな、俺おら一日いちんちに十六度ど手水場てうづばへ行いつたの一等とうだつけが、なあに病氣びやうきなんぞにや負まけらツるもんかつちんだから、其そん時ときにや村落中むらぢうかたではあ、みんなごろ/\してんで俺おればかり藥箱くすりばこ持もつて醫者いしやの送迎おくりむけえしたな、隣近所となりきんじよ一軒毎えつけんごめら役やくにや立たたねえだから、いや本當ほんたうだよ、俺おら十五日んち下痢くだつて癒なほつたが俺おら強つよかつたかんな、いや強つええとも全まつたく、なあにツちんで俺おれ毎日まいんち酒さけぴん飮のんだな、酒さけ飮のんぢや惡わりいなんて醫者いしやなんちや駄目だめだなかたで、檳榔樹びんらうじゆとか何なんとかだなんてちつとばかしづゝ、削けづつた藥くすりなんぞ倦怠まだるつこくつて仕しやうねえから、當藥たうやく煎せんじ出だして氣日まいんち俺おれ片口かたくちで五杯へえづゝも飮のんだな、五合がふ位ぐれえへえつけべが、俺おら呼吸えきつかずだ、なあに呼吸えきついちや苦にがくつて仕しやうねえだよ」

と、彼は汚い手ぬぐいで顔の汗を一度ふいた。

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と彼かれは穢きたない手拭てぬぐひで顏かほの汗あせを一度どふいた。

彼は七十をこえても、髪はまだいくらも白くなかった。

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彼かれは七十を越こえても髮かみはまだ幾いくらも白しろくなかつた。

彼は石のかたまりを投げ出したようなかたい体に力を入れて、独り元気づいた。

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彼かれは石いしの塊かたまりを投なげ出だしたやうな堅かたい身體からだに力ちからを入いれて獨ひとり威勢ゐぜいづいた。

「おれはそれから、五百もんめくらいのしゃもの雑種を一羽しめて、一度に食っちまったな。そうしたら熱が出た」

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「俺おらそれから五百匁ひやくめ位ぐれえな軍鷄雜種しやもおとし一羽ぱ引ひつ縊くゝつて一遍ぺんに食くつちまつたな、さうしたら熱ねつ出でた」

彼は急に声を低くしたが、さらに元にもどって

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彼かれは俄にはかに聲こゑを低ひくくしたが、更さらに以前いぜんに還かへつて

「熱は出たが、それでおれはぐっと体に力をつけちまったな。そのせいだな、十五日で治ったな。そんだからおれはすぐに麦の八斗はずんずんつけたな。おれはこれで体つきはちっちゃいが強かったな。おれのは生まれつき強いのだから。いや本当だよ。卯平らも仕事じゃ強かったが、そりゃ強いとも。そんだがこれらは根性がだめだから、病気がついて大変で仕方がないなんて。それからおれが、しっかりしろと言えば、どうも下痢しちゃ力がぬけて仕方がない、うんうんなんてうなって。そんだがあのときには女房はかわいそうなことをしたな。世間の奴らが、卯平は女房にたたられるだろうなんて言うから、心配するなっておれが言ったんだな。そんだがこれらは根性がないから。おれは心配するのは大きらいだ。それ、心配しないで一ぱい引っかけろというんだ」

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「熱ねつは出でたがそれで俺おれぐつと身體からだにや力ちからつけつちやつたな、其その所爲せゐだな十五日んちで癒なほつたな、そんだから俺おら直すぐに麥むぎの八斗とはずん/\搗つけたな、俺おらこんで體格なりはちつちえが強つをかつたな、俺おらがな無垢むくに強つええのがだから、いや本當ほんたうだよ、卯平等うへいらも仕事しごとぢや強つをかつたが、そりや強つええとも、そんだが此こら根性こんじやうやくざだから、疫病やくびやうくつゝいて太儀こはくつて仕しやうねえなんて、それから俺おれ、確乎しつかりしろツちへばどうも下痢くだつちや力ちから拔ぬけて仕しやうねえ、うん/\なんて唸うなつて、そんだがあん時ときにや嚊かゝあは可哀相かはいさうなことしたな世間せけんの奴等やつら卯平うへいは嚊かゝあに崇とつつかれべえなんちから心配しんぺえすんなつて俺おれ云ゆつたんだな、そんだが此こら根性こんじやうねえから、俺おら心配しんぺえするもな大嫌だえきれえだ、それ、心配しんぺえしねえで一杯ぺえ引ひつ掛かけろつちんだ」

おじいさんはいくらでも調子に乗ってまくし立てた。

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爺ぢいさんは幾いくらでも乘地のりぢになつてまくしかけた。

「そうだよお前、お酒の席でむっつりしてる者があるもんじゃない」

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「さうだよおめえ、酒さけの座敷ざしきでむつゝりしてるもな有あるもんぢやねえ」

「ばあさんの手だってお前、お酒じゃ酔うから、やってみなさいよ」

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「婆ばあさまの手てだつておめえ酒さけぢや酩酊よつぱらあからやつて見みさつせえよ」

おばあさんたちはそばから代わる代わる杯をすすめた。

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婆ばあさん等らは側そばから交互たがひに杯さかづきを侑すゝめた。

彼女たちは情けなさそうな卯平をなぐさめようとするよりも、独りむっつりしている彼を仲間に引きこもうというのと、変わっている彼のようすをからかってもみたいからだった。

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彼等かれらは情なさけなげな卯平うへいを慰なぐさめようとするよりも、獨ひとりむつゝりとして居ゐる彼かれを伴侶なかまに引ひつ込こまうといふのと、變かはつて居ゐる彼かれの容子ようすに對たいして揶揄からかつても見みたいからとであつた。

「おれはお金を出しもしないで、他人のお酒なんぞ」

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「俺おら錢ぜね出だしもしねえで、他人ひとの酒さけなんぞ」

卯平は口がねばって舌がこわばったように言った。

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卯平うへいは口くちが粘ねばつて舌したが硬こはばつたやうにいつた。

「お前がかまうもんじゃないな、そんなこと」

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「おめえ管かまあもんぢやねえな、其麽そんなこと」

おばあさんたちはまた言った。

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婆ばあさん等らは又またいつた。

「お酒代が足りなけりゃ、こっちのほうにたまったお金があるよ、お前ら」

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「酒代さかで足たんなけりや、こつちの方はうに寺錢てらせん出來できてるよおめえ等ら」

宝引きの仲間がこちらを見て言った。

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寶引はうびきの仲間なかまがこちらを顧かへりみていつた。

「要らないとも、そんなお金なんざ。おれはばくちなんざ何でもきらいだから」

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「要えらねえともそんな錢ぜねなんざ、俺おら博奕ばくちなんざ何なんでも嫌きれえだから」

小がらなおじいさんはすぐにどなった。

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小柄こがらな爺ぢいさんは直すぐに呶鳴どなつた。

「おれはもう、お金もありもしないで」

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「俺おらはあ錢ぜねも有ありもしねえで」

卯平は他人のさわぎに引きこまれようとするよりも、自分の心の中のあるものをやっとのことではき出そうとするようにつぶやいた。

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卯平うへいは他人ひとの騷さわぎに釣つり込こまれようとするよりも、自分じぶんの心裏しんりの或ある物ものを漸やつとのこと吐はき出ださうとするやうに呟つぶやいた。

「またそんなことだから仕方がない。勘次らはふところ具合がいいというんだから、要るなら何でも、よこせとこう言うんだ。かまわないからうばい取ってやれ。おれだったらそうだ。いや本当だとも。むこなんぞにいばられてるなんてことがあるもんか。卯平らは根性が弱いから仕方がない」

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「又またさうだこつたから仕しやうねえ、勘次等かんじら懷工合ふところぐえゝえゝつちんだから、要えらば何なんでも、汝われよこせつと斯かういふんだ。管かまあねえから奪取ふんだくつてやれ、俺おらだらさうだ、いや本當ほんたうだとも、聟むこなんぞに威張えばられてるなんちこと有あるもんか、卯平等うへいら根性こんじよう薄弱やくざだから仕しやうねえ」

小がらなおじいさんは、髪をいっぱいに汗でぬらした。

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小柄こがらな爺ぢいさんは髮かみを一杯ぱいに汗あせで濕うるほした。

「いばられるわけじゃないが、おれはおれでやろうと思ってるんだから」

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「威張えばらツる理由わけぢやねえが、俺おら俺おれでやんべと思おもつてんだから」

卯平は自分をかばうように言った。

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卯平うへいは自分じぶんを庇護ひごするやうにいつた。

「むこなんぞ、承知するもんじゃない。あんな泥棒野郎、おれはきらいだ。畑でも田でも油断ならないから」

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「聟むこなんぞ、承知しようちするもんぢやねえ、あゝだ泥棒野郎どろぼうやらう、俺おら嫌きれえだ、畑はたけでも田たでも油斷ゆだんなんねえから」

「そんだが、今じゃふところがちっとはいいせいか、ぬすむのはぬすまないよ」

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「そんだが、今いまぢや懷ふところちつたえゝ所爲せえか盜とるな盜とんねえよ」

「なあにおれは、蜀黍を切ったときにはかんべんするまいと思ったんだったが、おかみさんに来られたからがまんしたんだ。おれが卯平だったら槍で突きさしてやるんだ。いや、おれには本当にやれるとも。おれは家族の奴らになんざ、ぐずぐずは言わせないんだ。おれの家じゃ元日には暗いうちに起きて、みのを着て、いろりばたでいもを焼いて食う縁起なんだが、おれの家の奴らが、みっともないからいやだなんて言いやがるから、おれが、何だとうお前ら、いやだと言うんならいやだってもう一度言ってみろ、おれの目の黒いうちはそうはいかないぞというんだから。いや本当に、おれは聞かないんだから」

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「なあに俺おれ、蜀黍もろこし伐きつた時ときにや勘辨かんべんしめえと思おもつたんだつけがお内儀かみさんに來きらツたから我慢がまんしたんだ、俺おれ卯平うへいだら槍やりで突つつ刺ぶしてやんだ、いや俺おれにや本當ほんたうに行やられつとも、俺おら家族うちの奴等やつらげなんざぐづ/\は云やあせねえだ、俺おら家ぢぢや元日ぐわんじつにや闇くれえに起おきて、蓑みの着きて、圍爐裏端ゐろりばたで芋いも燒やえてくふ縁起えんぎなんだが、俺おら家ぢの奴等やつら外聞げえぶん惡わりいから厭やだなんて吐ぬかしやがつから、俺おれ、何なんだとう汝わツ等ら、厭やだつちんだら厭やだつて今いま一遍ぺん云ゆつて見みろ、俺おれ目玉めだまの黒くれえ内うちやさうはえがねえぞつちんだから、いや本當ほんたうに俺おら聽きかねえだから」

彼は髪がよけいにしめって、みんなの耳の底までひびくほどどなって見せた。

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彼かれは髮かみが餘計よけいに濕うるほひを増まして悉皆みんなの耳みゝの底そこに徹とほる程ほど呶鳴どなつて見みせた。

「お前みたいにそうは行かないよ、ほかの人は」

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「おめえ見みてえにさうは行いかねえよ、他人たにんは」

卯平はぽつりと言った。

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卯平うへいはぽさりといつた。

「本当にお前みたいな人はいないよ。若いときから毎晩酔っちゃ、夜中でも明け方でもかまわない、馬を引いて帰っちゃ戸の割れるほどたたいて、そして馬の足を洗う湯がわいてないって言っちゃ、家族を追い出してなあ。百姓はお前、夜中まで起きて待ってはいられないな。そんだがお前も、跡取りがよくできて仕合わせだよなあ」

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「本當ほんたうにおめえ見みてえなもなねえよ、若わけえ時ときから毎晩まいばん酩酊よつぱらつちや後夜ごやが鷄とりでも構かまあねえ馬うま曳ひいて歸けえつちや戸との割われる程ほど叩たゝいて、さうしちや馬うまの裾湯すそゆ沸わえてねえつて云ゆつちや家族うちの者ものこと追おひ出だしてなあ、百姓ひやくしやうはおめえ夜中よなかまで眠ねむんねえで待まつちや居ゐらんねえな、そんだがおめえも相續人さうぞくにん善よく出來できて仕合しあはせだよなあ」

そばにいてさっきから聞いていたおばあさんの一人が言った。

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側そばに居ゐて先刻さつきから聞きいて居ゐた婆ばあさんの一人ひとりがいつた。

その身なりは、ほかの年寄りたちとはちがっていた。

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其その服裝なりは他たの老人等としよりらとは異ちがつて居ゐた。

「おれには追い出されるとも。これでおれは力は強かったからな。仕事じゃ卯平も強かったが、こんな大きな体をして、相撲じゃおれにはずっと負けっぱなしだ。おれはあっという間に投げつけちまうんだから。ああ、おれはうでばかりじゃない。それくらいだから歯も強いんだよ。おれは麦打ちのとき、唐箕を立ててて半夏桃をもらったのを、ひょいと口へ入れたっきり、種までがりがりかんじまったな。ふしぎだよ、そんだが桃をかじってると鼻の中へほこりが入らないからな。おれの歯じゃだれでもおどろくんだから。真ちゅうのきせるなんざ、くわえてぎりぎりっとこう手のひらでぶん回すと、ぽろっとかみ切れちまうのだから。そんだから今でも、こうれ、このとおりだ」

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「俺おれにや打ぶち出だされつとも、此こんで俺おら力ちからは強つをかつたかんな、仕事しごとぢや卯平うへいも強つをかつたが、かうだ大えけえ體格なりして相撲すまふぢや俺おれにやかたでぺた/\だ。俺おらやあつち内うちにや打ぶん投なげつちやあだから、あゝ、俺おら腕うでばかしぢやねえ、そらつ位くれえだから齒はも強つええだよ、俺おら麥打むぎぶちん時とき唐箕たうみ立たてゝちや半夏桃はんげもゝ貰もらつたの、ひよえつと口くちさ入せえたつきり、核たねまでがり/\噛かぢつちやつたな、奇態きたいだよそんだが桃もゝ噛かぢつてつと鼻はなん中なかさ埃ほこりへえんねえかんな、俺おれが齒はぢや誰たれでも魂消たまげんだから眞鍮しんちうの煙管きせるなんざ、銜くうええてぎり/\つとかう手てツ平ぴらでぶん廻まあすとぽろうつと噛かみ切きれちやあのがんだから、そんだから今いまでも、かうれ、此この通とほりだ」

おじいさんはぎりぎりと歯をかみ合わせて見せた。

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爺ぢいさんはぎり/\と齒はを噛かみ合あはせて見みせた。

「おれはそれから、喧嘩じゃ負けたことはないんだよ。野郎、何だというときには、はりたおすか、ひっくり返すかだな。ごろりところがった所をつま先とかかとを持って、こうぐるぐる引き回すと、どうだ、大きな野郎でも起きられないんだよ。もうおかしくて仕方がないな。いいか、こう、こうやるんだよ。ああ、おれは本当に強いのだよ。それ、卯平らはだめだな。後ろのほうにばかりかくれててからっきり」

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「俺おらそれから、喧嘩けんくわぢや負まけたこたねえだよ、野郎やらう何なんだつち内うちにや打ぶつ張ぱるか、掻かつ轉ころがすかだな、ごろり轉ころがつた處ところ爪先つまさきと踵くびす持もつてかうぐる/\引ひん廻まあすとどうだ大えけえ野郎やらうでも起おきらんねえだよ、から笑止をかしくつて仕しやうねえな、えゝか、斯かう、かうやんだよ、あゝ、俺おら本當ほんたうに強つええのがんだよ、それ卯平等うへいら駄目だめだな後うしろの方はうにばかし隱かくれてゝからつき」

と、おじいさんは少し後ろに下がって、両手で喧嘩の相手を苛めるようなようすをして見せた。

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と爺ぢいさんは少すこし座ざを退さがつて兩手りやうてを以もつて喧嘩けんくわの相手あひてを苛いぢめるやうな容子ようすをして見みせた。

「そんだがおれは旦那に言われてから、家族の奴らのことも怒らないもう。おれはうまい所を見られちまったな。いや、言われちゃもったいのうございます。本当にもったいないんだよ、おばあさん」

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「そんだが俺おれ旦那だんなに云やあれてから、家族うちの奴等やつらことも怒おこんねえはあ、俺おれうめえ處とこ見みられつちやつたな、いや云やあれちや勿體もつてえながす、本當ほんたうに勿體もつてえねえだよ、お婆ばあさん」

おじいさんは首をうなだれて、めっきり静かになって言った。

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爺ぢいさんは首くびを俛たれて滅切めつきり靜しづかになつていつた。

そして彼は茶わんのお酒をだらだらとこぼしながら、一口に飲んだ。

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さうして彼かれは茶碗ちやわんの酒さけをだら/\と零こぼしながらに一口ひとくちに嚥のんだ。

このとき、外から女の人が一人いそいで来た。

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此この時とき外そとから女房にようばうが一人ひとり忙せはしく來きた。

女の人は仏だんの前へ行って

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女房にようばうは佛壇ぶつだんの前まへへ行いつて

「駐在所が来たよ」

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「駐在所ちうざいしよ來きたよ」

みんなの中へ首を突き入れるようにして、そっと言った。

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悉皆みんなの中なかへ首くびを突つき入いれるやうにして竊そつと語かたつた。

みんなはしきりに勝ち負けにばかり心をうばわれていた。

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悉皆みんなは頻しきりに輸臝かちまけにのみ心こゝろを奪うばはれて居ゐた。

彼女たちの顔はにこにことしたり、またはしばらくどっぺをつかまない人は、むずかしい顔で目をしかめたり、口をむぐむぐ動かしたりして、自分ではまったくそれに気づいていなかった。

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彼等かれらの顏かほはにこ/\としたり又または暫しばらくどつぺを掴つかまぬものは難むづかしくなつた目めを蹙しがめたり口くちをむぐ/\と動うごかしたりして自分じぶんは一向かうそれを知しらないのであつた。

彼女たちそれぞれが持っているいろいろなかくれた性しつが、うす暗い部屋の中でこっそりと思い切って表れていた。

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彼等かれらの各自めい/\が持もつて居ゐる種々いろ/\な隱かくれた性情せいじやうが薄闇うすぐらい室しつの内うちにこつそりと思おもひ切きつて表現へうげんされて居ゐた。

女の人の言葉は、みんなの顔をただおどろきの表情でおおわせた。

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女房はようばうの言辭ことばは悉皆みんなの顏かほを唯たゞ驚愕おどろきの表情へうじやうを以もつて掩おほはしめた。

一度に女の人を見た彼女たちには、そのときまでささやき合っていたおもかげがちっともなかった。

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一度どに女房にようばうを見みた彼等かれらには其その時ときまで私語さゞめき合あうた俤おもかげがちつともなかつた。

彼女たちは慌てて宝引きの糸もふところへかくして、知らないふりをしていろりのそばへ集まった。

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彼等かれらは慌あわてゝ寶引絲はうびきいとも懷ふところへ隱かくして知しらぬ容子ようすを粧よそほうて圍爐裏ゐろりの側そばへ集あつまつた。

「こっちのほうはひどく元気がいいから、おれらも仲間入りさせてもらいたいもんだ」

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「こつちの方はう酷ひどく威勢えせいえゝから俺おらも仲間入なかまいりさせてもらえてもんだ」

宝引きのおばあさんたちは言った。

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寶引はうびきの婆ばあさん等らはいつた。

「このばあさんらは、寄ればさわればばくちなんぞする気にばかりなって」

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「此この婆等ばゝあら寄よれば觸さあれば博奕ばくちなんぞする氣きにばかし成なつて」

おじいさんはあいかわらず悪口を止めなかった。

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爺ぢいさんは依然いぜんとして惡口わるくちを止やめなかつた。

「こんなばあさんらだって、そんなにじゃま者にしないでくれよ。これでおれの家じゃまだおれがいなくちゃ真っ暗だよお前、嫁があのありさまだもの」

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「かうだ婆等ばゞあらだつてさうだに荷厄介にやつけえにしねえでくろよ、こんで俺おら家ぢぢやまあだ俺おれなくつちや闇くらやみだよおめえ、嫁よめがあの仕掛しかけだもの」

おばあさんはさらに

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婆ばあさんは更さらに

「おれの仲間もたまったお金で後を買うから、独りでむっつりしてないで一つやりなさいね」

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「俺おらあ仲間なかまも寺錢てらせんで後あと買かあから、獨ひとりでむつゝりしてねえで一ひとつやらつせえね」

と、卯平に杯をすすめた。

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と卯平うへいへ杯さかづきを侑すゝめた。

みんなの元気が次第に卯平の心を引き立てて、とうとう彼の大きな手に茶わんを取らせた。

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一同どうの威勢ゐせいが漸次しだいに卯平うへいの心こゝろを惹ひき立たてゝ到頭たうとう彼かれの大おほきな手てに茶碗ちやわんを執とらせた。

おばあさんたちのたもとがふれて、軽くなっていた徳利がたおされた。

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婆ばあさん等らの袂たもとが觸ふれて輕かるく成なつてた徳利とくりが倒たふされた。

おばあさんたちは慌てて手ぬぐいでふこうとした。

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婆ばあさん等らは慌あわてゝ手拭てぬぐひでふかうとした。

小がらなおじいさんはとつぜんたたみへ口をつけて、すうすうと息もつかずにお酒をすすって、それから強いせきをして、ざらざらになった口のほこりを手ぬぐいでこすった。

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小柄こがらな爺ぢいさんは突然いきなり疊たゝみへ口くちをつけてすう/\と呼吸いきもつかずに酒さけを啜すゝつてそれから強つよい咳せきをして、ざら/\に成なつた口くちの埃ほこりを手拭てぬぐひでこすつた。

「ばあさんらがもったいないことをするから仕方がない。いやもったいないとも、米の油だからこれで。それ、証こにはお酒を飲んだ次の日じゃ、顔を洗うときつるつるするところがふしぎだな。何でも人間は油がふき出すようなら体は大丈夫だから。卯平、そうれ一ぱい飲め」

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「婆等ばゝあら勿體もつてえねえことすつから仕しやうねえ、いや勿體もつてえねえとも米こめの油あぶらだからこんで、それ證據しようこにや酒さけ飮のんだ明日あしたぢや面つら洗あらあ時ときつる/\すつ處とこ奇態きてえだな、何なんでも人間にんげんは油あぶら吹ふき出だすやうだら身體からだは大丈夫だえぢやうぶだから、卯平うへいそうれ一杯ぺえ飮のめ」

おじいさんは、また口を手ぬぐいでこすりながら言った。

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爺ぢいさんは又また口くちを手拭てぬぐひでこすりつゝいつた。

「ひどい奴だからあんな野郎は。けだものと同じだから」

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「畜生ちきしやうだからあゝだ野郎やらうは、畜生ちきしやうとおんなじだから」

おじいさんは、小さな頭のしめりをまたすっと手ぬぐいでふいた。

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爺ぢいさんは小ちひさな頭あたまの濕うるほひを又またすつと手拭てぬぐひでふいた。

「そんなにお前、けだものだなんて。ようすも見もしないで」

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「其麽そんなにおめえ、畜生ちきしやうだなんて、手てもとも見みもしねえで」

と、さっきの身なりのいいおばあさんがたしなめるように言った。

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と先刻さつきの服裝みなりの好いい婆ばあさんが窘たしなめるやうにいつた。

「いやっ、おばあさん、ようすを見ないったって、そうに決まってるんだから。いや本当だよ。おれは嘘を言うのはきらいだから。そんだがあの女もずうずうしい女だ。この間なんざ、おっかさんのことは思い出さないかと言ったら、思い出さないなんて言いやがって」

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「いやツ、お婆ばあさん、手てもと見みねえつたつてさうに極きまつてんだから、いや本當ほんたうだよ。俺おら嘘ちくいふな嫌きれえだから、そんだがあの阿魔あまもづう/\しい阿魔あまだ、此間こねえだなんざおつかこた思おもひ出ださねえかつちつたら、思おもひ出ださねえなんて吐ぬかしやがつて」

おじいさんはまた調子に乗った。

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爺ぢいさんは又また乘地のりぢに成なつた。

「ありゃあそれ、おれには分かるんだよ。随分つらい目にあったから、お母さんのことを思わないことはないが、みんなでからかいからかいしたから、それでそんなことを言うようになったんだな。さすがにあれだって困ってはいるんだから。何と言ったって、あれに罪はないよ」

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「ありやあそれ、俺おれがにやえゝんだよ、隨分ずゐぶん辛つれえ目めに逢あつたから、お袋ふくろこと思まあねえこたねえが、悉皆みんな揶揄からけえ/\したからそんでさうだこといふやうん成なつたんだな、有繋まさかあれだつて困こまつちや居ゐんだから、何なんちつたつてあれにや罪つみやあねえよ」

最後の一言をすっと低く言って、彼はやっと茶わんの底を飲み干した。

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最後さいごの一句くをすつと低ひくくいつて彼かれは漸やうやく茶碗ちやわんの底そこを干ほした。

「勘次もつらかったろうが、おれもお品に死なれたときには泣いたよ。あれのことは三つのときから育てたんだから」

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「勘次かんじも辛つらかつたんべが、俺おらも品しなに死しなつた時ときにや泣ねえたよ、あれこた三みつつの時ときツから育そだツたんだから」

卯平はまた情けなさそうな舌が、もうこわばってしまった。

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卯平うへいは又また情なさけなげな舌したがもう硬こはばつて畢しまつた。

「ほんにお前も、お品さんに死なれたのが不運だったっけのさな。そんだがお前、長生きしただけいいんだよ」

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「ほんにおめえもお品しなさんに死なくならつたのが不運くされだつけのさな、そんだがおめえ長命ながいきしたゞけええんだよ」

おばあさんたちは口々になぐさめながら言った。

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婆ばあさん等らは口々くちぐちに慰なぐさめつゝいつた。

「手足も利かなくなっちまって、お金は取れずもう。野田でこしらえたひとえもなくしちまったな。どうせこれ、来年の夏まで生きていられるかどうだか分かりやしまいし、かまわないな」

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「手足てあしも利きかなくなつちやつて錢ぜねはとれずはあ、野田のだで拵こせえた單衣物ひてえものもなくしつちやつたな、どうせ此これ、來年らいねんの夏なつまで生いきてられつか何どうだか分わかりやすめえし、管かまあねえな」

卯平は口の中で独りつぶやくように、ぶすりと言った。

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卯平うへいは口たゞ獨ひとりで呟つぶやくやうにぶすりといつた。

彼はほとんど、その舌が味を感じないのだろうと思うほど、ただ茶わんのお酒をかたむけるばかりだった。

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彼かれは殆ほとんど其その舌したが味あぢを感かんぜぬであらうと思おもふやうに只たゞ茶碗ちやわんの酒さけを傾かたむけるのみであつた。

「そんだがむすめも年ごろが来てるのに、嫁にやるとかむこを取るとかしないじゃかわいそうだよなあ」

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「そんだが娘むすめも年頃としごろ來きてんのに遣やるとかとるとかしねえぢや可哀相かあいさうだよなあ」

おばあさんたちの口は、それからそれと尽きなかった。

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婆ばあさん等らの口くちはそれからそれと竭つきなかつた。

お酒に勢いをつけられたおばあさんたちは、何かをせんさくしなければ気が済まないのだった。

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酒さけに勢いきほひつけられた婆ばあさん等らは何なにかの穿鑿せんさくをせねば氣きが濟すまないのであつた。

「どうするこったか、自分の子どもでもありやしまいし、おれには分からないな」

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「どうするこつたか自分じぶんの子供こどもでもありやすめえし、俺おらがにや分わかんねえな」

卯平は、どこまでもそっけない言い方である。

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卯平うへいは何處どこまでも乾からびたいひやうである。

「そんだがよ、話してやるといいんだな。出すと決まりゃ、いくらでも話は来らあな」

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「そんだがよ、噺はなしてやつとえゝんだな、出だすと極きまりや幾いくらでも口くちは有あらな」

「むだだよお前、だれが言うことだって聞きやしないんだから」

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「徒勞むだだよおめえ、誰だれがいふことだつて聽きく苦勞くらうはねえんだから」

おばあさんたちはたがいに勝手なことを、がやがやと話しつづけた。

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婆ばあさん等らは互たがひに勝手かつてなことをがや/\と語かたり續つゞけた。

「そんじゃとなりの旦那にでもよく話してもらったら、聞くかも知れないぞ。それよりほかはないぞ、お前」

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「そんぢや隣となりの旦那だんなにでもようく噺はなしてもらつたら聽きくかも知しんねえぞ、それより外ほかあねえぞおめえ」

おばあさんの一人が卯平に向かって言った。

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婆ばあさんの一人ひとりが卯平うへいに向むかつていつた。

「そうすりゃもう、おたがいにいいぐあいできずもつかないんだから。おれもそうは思ってはいるんだが、これ、言うのもおかしなもんで」

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「さうすりやはあ、お互たげえにえゝ鹽梅あんべえで疵きずもつかねえんだから、俺おれもさうは思おもつちや居ゐんだが、此これ、いふのもをかしなもんで」

卯平のほおにはやや赤みがさして、彼はおばあさんに言われたことがうれしそうに見えるのだった。

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卯平うへいの頬ほゝには稍やゝ紅べにを潮さして彼かれは婆ばあさんにいはれたことが嬉うれし相さうに見みえるのであつた。

「なあに、そうもこうもあるもんか。いいから、そんな奴らは打っとばしてやれ」

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「なあに、さうだもかうだも有あるもんか、えゝから、さうだ奴等やつら打ぶつ飛とばしてやれ」

しばらく黙っていたさっきのおじいさんは、小がらな体を固めてまたどなった。

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暫しばらく默だまつて居ゐた先刻さつきの爺ぢいさんは小柄こがらな身體からだを堅かためて又また呶鳴どなつた。

「うん、なあに、おれもそれから去年の秋は火ばしで打っとばしてやったな」

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「うむ、なあに俺おれもそれから去年きよねんの秋あきは火箸ひばしで打ぶつ飛とばしてやつたな」

卯平はこう言って、彼にしてはとても元気を取りもどしていた。

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卯平うへいは斯かういつて彼かれにしては著いちじるしく元氣げんきを恢復くわいふくして居ゐた。

「そうだとも。お金でも何でもくれなけりゃ、よこせと言えばいいんだ。お金がないなんて言えば、米でも麦でもうばい取ってやれ」

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「さうだとも、錢ぜねでも何なんでも呉くんなけりや、よこせつちばえゝんだ、錢ぜねねえなんちへば米こめでも麥むぎでも奪取ふんだくつてやれ」

おじいさんはまわりへつばを飛ばした。

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爺ぢいさんは周圍あたりへ唾つばを飛とばした。

「それでもおれは、打っとばしてから、質流れだなんて味噌を一たる買ったな。ふすまの味噌でうまくはないが、今じゃそんでもしるは吸えることは吸えるのよ」

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「それでも俺おれ打ぶつ飛とばしてから質しちの流ながれだなんち味噌みそ一樽たる買かつたな、麩味噌ふすまみそで佳味うまかねえが今いまぢやそんでもお汁つけは吸すへるこた吸すへんのよ」

卯平は、自分の手がらでも語るような言い方だった。

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卯平うへいは自分じぶんの手柄てがらでも語かたるやうないひ方かたであつた。

「食い物をおしがるなんて、けちにもほどがあるじゃないか。本当にばち当たりだから。おれだったら生かしちゃおかない。いや、まったくだよ。親に食わせるのがおしいなんて野郎は、突きさしたって言い分が立つとも。おれだったらりっぱに立てて見せらあな。卯平、しっかりしろ。おれだったら勘次らくらいのは、またうんという目にあわせらあな。いや本当に、おれにかかっちゃひどいからな、これで」

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「食料くひもの措をしがるなんち業ごふつくばりもねえもんぢやねえか、本當ほんたうに罰ばちつたかりだから、俺おらだら生いかしちや置おかねえ、いや全まつたくだよ、親おやのげ食かあせんの惜をしいなんち野郎やらうは突つつ刺ぷしたつて申まをし開ひらき立たつとも、俺おらだら立派りつぱに立たてゝ見みせらな、卯平うへい確乎しつかりしろ、俺おらだら勘次等かんじら位ぐれえなゝ又またうんち目めに逢ああせらな、いや本當ほんたうに俺おれに掛かゝつちや酷ひでえかんなこんで」

おじいさんははげしく、そして例の自まんを言いつづけた。

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爺ぢいさんは激はげしくさうして例れいの自慢じまんをいひ續つゞけた。

「そんなことを言ったってお前、むかしから他人を切ったこともないくせに」

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「さうだこと云ゆつたつておめえ、以前めえかたから他人ひとのこと切きつたこともねえ癖くせに」

そばから身なりのいいおばあさんがけなして言った。

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側そばから服裝みなりの好いい婆ばあさんが貶くさしていつた。

「そんだが、この年になって懲役に行くのはいやよ、おれも」

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「そんだが、此この年齡としになつて懲役ちようえきに行えぐな厭やよ俺おれも」

おじいさんはずっと下げた頭を手でおさえて笑いころげた。

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爺ぢいさんはずつと垂たれた頭あたまを手てで抑おさへて笑わらひこけた。

おばあさんたちもどっと笑った。

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婆ばあさん等らもどつと哄笑どよめいた。

「勘次らは、そのときからおれとは口も利かないや」

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「勘次等かんじら、そん時ときから俺おれた口くちも利きかねえや」

卯平は他人にかまわずこう言って、その舌を鳴らしてつばを飲んだ。

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卯平うへいは他人ひとには頓着とんぢやくなしにかういつて其その舌したを鳴ならして唾つばを嚥のんだ。

「口を利かない。そんなら口を両方へ裂いてやれ。さあ利くか利かないかと、こうだ」

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「口くち利きかねえ、そんだら口くち兩方りやうはうへふん裂ぜえてやれ、さあ利きくか利きかねえかと斯かうだ」

小がらなおじいさんは自分の口を両手の指でぐっと広げて言った。いろりのあたりは、しばらくさわぎが止まなかった。

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小柄こがらな爺ぢいさんは自分じぶんの口くちを兩手りやうての指ゆびでぐつと擴ひろげていつた、圍爐裏ゐろりの邊あたりは暫しばらく騷さわぎが止やまなかつた。

卯平の心も、たとえ一時でもまわりのしげきからいくらか力をもらって、ある元気を取りもどしたのだった。

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卯平うへいの心こゝろも假令たとひ一時的じてきでも周圍しうゐの刺戟しげきから幾分いくぶんの力ちからを添そへられて或ある勢いきほひを恢復くわいふくしたのであつた。

「しっかりしろえ、いいから」

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「確乎しつかりしろえ、えゝから」

小がらなおじいさんは、別れるときまたどなった。

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小柄こがらな爺ぢいさんは別わかれる時とき復また呶鳴どなつた。

卯平の足元は、やや力づいて見えていた。

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卯平うへいの足あしもとは稍やゝ力ちからづいて見みえて居ゐた。

卯平は念仏寮から帰って来たとき、どかりと火ばちの前にすわった。

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卯平うへいは念佛寮ねんぶつれうから歸かへつて來きた時ときどかりと火鉢ひばちの前まへに坐すわつた。

彼は元気づけられていた。

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彼かれは勢いきほひづけられて居ゐた。

勘次はいつものように遠ざかった。

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勘次かんじは例れいの如ごとく遠とほざかつた。

「おつう、米とひきわり麦を出せ」

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「おつう、米こめと挽割麥ひきわり出だせ」

卯平はすわるなり、とつぜんこう言った。

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卯平うへいは座ざに就つくと突然とつぜんかういつた。

「たくさん出せ」

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「夥多みつしら出だせ」

間を置いてまた言った。

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間あひだを措おいて又またいつた。

「何するんだい、爺さんは」

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「何なにすんでえ、爺ぢいは」

おつぎはそれを軽く受けて、こう言った。

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おつぎはそれを輕かるく受うけて斯かういつた。

卯平は目をしかめた。

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卯平うへいは目めを蹙しがめた。

彼は暗い夜にずんずん歩いた足が、急にくぼみをふんでがくりと調子がくるったようなようすだった。

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彼かれは闇夜あんやにずんずんと運はこんだ足あしが急きふに窪くぼみを踏ふんでがくりと調子てうしが狂くるつたやうな容子ようすであつた。

「明日、要るなら出してやろうな。爺さんらはどうせ夜なんぞ要りやしまいしなあ」

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「明日あした、要えれば出だしてやんびやな、爺等ぢいらどうせ夜よるなんぞ要えりやすめえしなあ」

おつぎはまた、なだめるように言った。

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おつぎは又また賺すかすやうにいつた。

卯平はもう、くり返して言わなかった。

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卯平うへいはもう反覆くりかへしていはなかつた。

彼はただそのくせの舌を鳴らして、ごくりとつばを飲むだけだった。

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彼かれは只たゞ其その癖くせの舌したを鳴ならしてごくりと唾つばを嚥のむのみであつた。

次の朝になってお酒の気がすっかり体からぬけたら、彼はふだんの卯平だった。

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次つぎの朝あさに成なつて酒氣しゆきが悉こと/″\く彼かれの身體からだから發散はつさんし盡つくしたら彼かれは平生へいぜいの卯平うへいであつた。

二四

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二四

卯平はけっして悪い人ではなかった。

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卯平うへいは決けつして惡人あくにんではなかつた。

彼は生まれつきいかつく大きな体だったけれど、そのしかめたような目にはいつもどこかやわらかな光があるようで、思い切ってしなければならないことに出あっても、二度や三度はためらうのが、どちらかと言えば彼のくせの一つだった。

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彼かれは性來せいらい嚴疊がんでふで大おほきな身體からだであつたけれど、其その蹙しかめたやうな目めには不斷ふだんに何處どこか軟やはらかな光ひかりを有もつて居ゐるやうで、思おもひ切きつてせねば成ならぬ事件じけんに出逢であうても二度どや三度どは逡巡しりごみするのがどうかといへば彼かれの癖くせの一つであつた。

ぶすりとしてそっけないようすでも、表に出ているより暖かくて、女の人に弱いところさえあるのだった。

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ぶすりと膠にべない容子ようすでも表面へうめんに現あらはれたよりも暖あたゝかで、女をんなに脆もろい處ところさへあるのであつた。

彼が働きざかりのころに他人の目についたのは、自分の仕事にはあまり力を入れないように見えることだった。

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彼かれが盛年さかりの頃ころに他人たにんの目めについたのは、自分自身じぶんじしんの仕事しごとには餘あまり精せいを出ださないやうに見みえることであつた。

たいていのことではまるでさわがない彼のようすが、外からはそう見えたのである。

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大概たいがいのことでは一向かうに騷さわがぬやうな彼かれの容子ようすが外ほかからではさうらしくも見みえるのであつた。

もう一つは、身なりをけっしてくずさないことだった。

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も一つは服裝ふくさうを決けつして崩くずさぬことであつた。

彼は他人にやとわれていながら、草刈りにでも出るときは、手ぬぐいとこんのひとえと三尺帯を風呂しきに包んで馬の荷ぐらにくくった。

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彼かれは他人たにんに傭やとはれて居ゐながら、草刈くさかりにでも出でる時ときは手拭てぬぐひと紺こんの單衣ひとへものと三尺帶じやくおびとを風呂敷ふろしきに包つゝんで馬うまの荷鞍にぐらに括くゝつた。

そのころは、草といってはすっかり刈りたおして、しばでもしばるように真ん中をたばねて馬に積むのだった。

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其その頃ころは草くさというては悉皆みんな薙倒なぎたふして麁朶そだでも縛しばるやうに中央ちうあうを束つかねて馬うまに積つむのであつた。

雑木林のあいだに馬をつないだままで、彼は着物を着がえて当てもなくぶらつくのが好きだった。

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雜木林ざふきばやしの間あひだに馬うまを繋つないだ儘まゝで彼かれは衣物きものを改あらためてあてどもなくぶらつくのが好すきであつた。

それでも彼の丈夫できたえられたうでは、決められた一人分の仕事をこなすのは、日がやや西にかたむいてからでも、それほど大変なことではなかった。

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それでも彼かれの強健きやうけんな鍛練たんれんされた腕うでは定さだめられた一人分にんぶんの仕事しごとを果はたすのは日ひが稍やゝ傾かたぶいてからでも強あながち難事なんじではないのであつた。

この二つのほかには、特にこれといって人の記おくに残ることはなかった。

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此この二つの外ほかには別段べつだん此これというて數かぞへる程ほど他人たにんの記憶きおくにも残のこつて居ゐなかつた。

それでも彼の大きな体と生まれつきの器用さは、主人にわりと多い給料をおしませなかった。

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それでも彼かれの大おほきな躰躯からだと性來せいらいの器用きようとは主人しゆじんをして比較的ひかくてき餘計よけいな給料きふれうを惜をしませなかつた。

彼はその奉公で得た給料を自分のために使って、そのころとしては人があやしむような年ごろの、三十近くまで独り身の暮らしをつづけた。

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彼かれは其その奉公ほうこうして獲えた給料きふれうを自分じぶんの身みに費つひやして其その頃ころでは餘所目よそめには疑うたがはれる年頃としごろの卅近ぢかくまで獨身どくしんの生活せいくわつを繼續けいぞくした。

そのあいだに彼は悪い病気にかかった。

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其その間あひだに彼かれは黴毒ばいどくを病やんだ。

一時はぶらぶらとだるそうな青い顔もしていたが、病気はしばらくして忘れたように、その丈夫な体のどこかにひそんでしまった。

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一時じはぶら/\と懶相だるさうな蒼あをい顏かほもして居ゐたが、病氣びやうきは暫しばらくして忘わすれたやうに其その強健きやうけんな身體からだの何處どこにか潜伏せんぷくして畢しまつた。

彼はもちろんそれを、治ったものと思っていた。

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彼かれは勿論もちろんそれを癒なほつたことゝ思おもつて居ゐた。

そのうちに彼は嫁をもらって、小さな所帯を持って働くことになった。

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其その内うちに彼かれは娶よめをとつて小ちひさな世帶しよたいを持もつて稼かせぐことになつた。

嫁は間もなく身ごもったが、赤ちゃんは死んで、そしてくさって出た。

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娶よめは間まもなく懷姙くわいにんしたが胎兒たいじは死しんでさうして腐敗ふはいして出でた。

自分も他人も、病気のせいの子だと言った。

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自分じぶんも他人ひとも瘡かさツ子こだといつた。

二、三人生まれたが、どれも育たなかった。

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二三人にん生うまれたがどれも發育はついくしなかつた。

それでも幼い子が死ぬのは病気のせいだというだけで、その毒のおそろしさを知るはずもなく、だからおそれるはずもなかった。

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それでも幼兒えうじの死しぬのは瘡かさツ子こだからといふのみで病毒びやうどくの慘害さんがいを知しる筈はずもなく隨したがつて怖おそれる筈はずもなかつた。

お品のお母さんはとても貧しいやもめで、足が立つか立たないかのお品をふところにして、みじめな暮らしをしていた。

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お品しなの母はゝは非常ひじやうな貧乏びんばふな寡婦ごけで、足あしが立たつか立たたぬのお品しなを懷ふところにして悲慘みじめな生活せいくわつをして居ゐた。

それを卯平は心からあわれみの気持ちで見ていた。

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それを卯平うへいは心こゝろから哀憐あはれみの情じやうを以もつて見みて居ゐた。

お品のお母さんは百姓としては特に力もなかったから、やもめとしてやって行くにはとても大変なはずなだけ、体のどこかにやわらかなようすがあって、きれい好きな卯平の心を引いた。

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お品しなの母はゝは百姓ひやくしやうとしては格別かくべつの働はたらきを有もたなかつたから、寡婦ごけとして獨立どくりつして行ゆくには非常ひじやうな困難こんなんでなければ成ならぬだけ身體からだの何處どこにか軟やはらかな容子ようすがあつて、清潔好きれいずきな卯平うへいの心こゝろを惹ひいた。

どこか人なつっこいところがあって、ひたすら他人の同情をほしがっていたお品のお母さんの、何かを求めるような態度が、やがて二人を近づけた。

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何處どこか人懷ひとなつこい處ところがあつて只管ひたすらに他人たにんの同情どうじやうに渇かつして居ゐたお品しなの母はゝの何物なにものをか求もとめるやうな態度たいどが漸やうやく二人ふたりを近ちかづけた。

そのころ彼の女房は、長いあいだ病気になやまされていた。

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其その頃ころ彼かれの女房にようばうは長ながい間あひだ病氣びやうきに惱なやまされて居ゐた。

病気はついによくならなかった。

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病氣びやうきは遂つひに恢復くわいふくしなかつた。

女房はある年また身ごもって、生まれる月が近くなったら、どうしたものか数日のうちにおなかがふくれて、一晩のうちにもそれがずんずんと目に見えた。

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女房にようばうは或ある年とし復また姙娠にんしんして臨月りんげつが近ちかくなつたら、どうしたものか數日すうじつの中うちに腹部ふくぶが膨脹ばうちやうして一夜やの内うちにもそれがずん/\と目めに見みえる。

女房は横になることもその苦しさにたえられないで、積んだふとんに寄りかかって、やっと苦しい息をついていた。

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女房にようばうは横臥わうぐわすることも其その苦痛くつうに堪たへないで、積つんだ蒲團ふとんに倚より掛かゝつて僅わづかに切せつない呼吸いきをついて居ゐた。

赤ちゃんをうかべた水がよけいにたまったのである。

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胎兒たいじを泛うかしめた水みづが餘計よけいに溜たまつたのである。

そのころは医者の手でさえ、それをどうすることもできなかった。

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其その頃ころは醫者いしやの手てでさへそれをどうすることも出來できなかつた。

その上、彼は医者を呼ぶのが億くうで、大事な命ということを考えることさえ、心にゆとりがなかった。

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加之それのみでなく彼かれは醫者いしやを聘よぶことが億劫おつくふで、大事だいじな生命いのちといふことを考かんがへることさへ心こゝろに暇いとまを持もたなかつた。

運よく、赤ちゃんを包むまくをふくらませたえきが、自分から逃げ道を求めてそのまくをやぶった。

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僥倖げうかうにも卵膜らんまくを膨脹ばうちやうさせた液體みづが自分じぶんから逃にげ去さる途みちを求もとめて其その包圍はうゐを破やぶつた。

何しょうものえきがほとばしって、おどろいて横になっていた体をふとんの上にうかそうとした。

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數升すうしようの液體みづが迸ほとばしつて、驚おどろいて横よこたへた身みを蒲團ふとんの上うへに浮うかさうとした。

それとともに、いる場所を失った赤ちゃんは、自然に母の体をはなれて出なければならなかった。

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それと共ともに安住あんぢうの場所ばしよを失うしなうた胎兒たいじは自然しぜんに母體ぼたいを離はなれて出でねばならなかつた。

赤ちゃんはもちろん死んでいて、手を先に出した。

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胎兒たいじは勿論もちろん死しんでさうして手てを出だした。

そのとき、女房はとてもつかれきっていたが、がまんをするからと言ったばかりに、卯平はぐっと力を入れて引き出した。

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其その時とき女房にようばうは非常ひじやうに疲憊ひはいして居ゐたが、我慢がまんをするからといつたばかりに卯平うへいはぐつと力ちからを入いれて引ひき出だした。

彼の悪気のない手がこんなにむごく使われたのは、夫婦のあいだでは少しでも他人の手を借りることに、お金のこわさを感じさせられたからだった。

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彼かれの惡意あくいを有もたぬ手てが斯かくの如ごとく残酷ざんこくに働はたらかされたのは、夫婦ふうふの間あひだには僅わづかでも他人たにんの手てを藉かることに金錢上きんせんじやうの恐怖おそれを懷いだかしめられたからであつた。

女房はそれでも死ななかった。

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女房にようばうはそれでも死しなゝかつた。

しかし、ほとんど想像もできなかった痛みが体じゅうにしみわたった。

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然しかし殆ほとんど想像さうざうされなかつた疼痛とうつうが滿身まんしんに沁しみ渡わたつた。

やがてひどい熱が出た。

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軈やがて非常ひじやうな發熱はつねつが伴ともなつた。

それからというもの、三年もねたままで、季節が暖かくなればたまにはふとんからずり出して、やっとつえにすがっては、やわらかな春の日ざしさえまぶしがっていた。

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それからといふものは三年ねんも臥ふせつた儘まゝで季節きせつが暖あたゝかに成なれば稀まれには蒲團ふとんからずり出だして僅わづかに杖つゑに縋すがつては軟やはらかな春はるの日ひをさへ刺戟しげきに堪たへぬやうに眩まぶしがつて居ゐた。

お品のお母さんとのことが、よけいな告げ口から女房の耳に入った。

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お品しなの母はゝとの關係くわんけいが餘計よけいな告口つげぐちから女房にようばうの耳みゝに入はひつた。

そのころ暑さに向かっていたせいもあったが、女房はそれを気にしはじめてから、がっかりとやつれたように見えた。

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其その頃ころ暑あつさに向むいて居ゐた所爲せゐでもあつたが女房にようばうはそれを苦くにし始はじめてからがつかりと窶やつれたやうに見みえた。

女房が死んだとき、卯平はまくら元にいなかった。

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女房にようばうが死しんだ時ときは卯平うへいは枕元まくらもとに居ゐなかつた。

村には赤痢がはやった。

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村落むらには赤痢せきりが發生はつせいした。

予防の知しきも何もない彼らは、たがいに葬式に呼び合って少しの心配もなく飲み食いをしたので、病気はすごい勢いで広まったのだった。

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豫防よばうの注意ちういも何なにもない彼等かれらは互たがひに葬儀さうぎに喚よび合あうて少すこしの懸念けねんもなしに飮食いんしよくをしたので病氣びやうきは非常ひじやうな勢いきほひで蔓延まんえんしたのであつた。

卯平も病人の一人で、そしてお品の家でなやんでいた。

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卯平うへいも患者くわんじやの一人にんでさうしてお品しなの家いへに惱なやんで居ゐた。

お品のお母さんの親切な看病で、彼は助かった。

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お品しなの母はゝの懇切こんせつな介抱かいはうから彼かれは救すくはれた。

彼はどうしても、死にかけた女房のそばへ病んだ体を運ぶことができなかった。

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彼かれはどうしても瀕死ひんしの女房にようばうの傍かたはらに病躯びやうくを運はこぶことが出來できなかつた。

そのやつれた目がうれえるのを、彼は見るにたえられなかったからである。

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其その窶やつれた目めの憂うれへるのを彼かれは見みるに忍しのびなかつたからである。

彼のそういう気持ちは、長い月日の病気の苦しみにさいなまれてひがんだ女房の心に伝わるはずがなかった。

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彼かれのさういふ意志いしは長ながい月日つきひの病苦びやうくに嘖さいなまれて僻ひがんだ女房にようばうの心こゝろに通つうずる理由わけがなかつた。

そして女房は、はげしい神経痛をうったえながら死んだ。

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さうして女房にようばうは激烈げきれつな神經痛しんけいつうを訴うつたへつゝ死しんだ。

卯平はさすがに泣いた。

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卯平うへいは有繋さすがに泣ないた。

葬式は親せきと近所で行ったが、卯平もやっとつえにすがって行った。

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葬式さうしきは姻戚みよりと近所きんじよとで營いとなんだが、卯平うへいも漸やつと杖つゑに縋すがつて行いつた。

その秋のお盆には、赤痢のさわぎもおさまって、新しいほとけさまの数が増えていた。

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其その秋あきの盆ぼんには赤痢せきりの騷さわぎも沈しづんで新あたらしい佛ほとけの數かずが殖ふえて居ゐた。

墓地には、ほり上げた赤い土の小さなつかが、いくつもそまつなかんおけの台を乗せていた。

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墓地ぼちには掘ほり上あげた赤あかい土つちの小ちひさな塚つかが幾いくつも疎末そまつな棺臺くわんだいを載のせて居ゐた。

たいていは赤痢にかかってやっと体に力がついたばかりの人々が、いつもの年のように草かりがまを持って、六日の日の夕方に「墓なぎ」といって出た。

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大抵たいていは赤痢せきりに罹かゝつて漸やうやく身體からだに力ちからがついたばかりの人々ひと/″\が例年れいねんの如ごとく草刈鎌くさかりがまを持もつて六日かの日ひの夕刻ゆふこくに墓薙はかなぎというて出でた。

墓のあたりは、生えるにまかせた草が刈り払われて、見るからにきれいになった。

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墓はかの邊ほとりは生はえるに任まかせた草くさが刈拂かりはらはれて見みるから清潔せいけつに成なつた。

真ん中に青竹の線香立てがくいのように立てられて、石ひの前には一つずつ、青竹のすのこのような小さなたなが作られた。

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中央ちうあうに青竹あをだけの線香立せんかうたてが杙くひのやうに立たてられて、石碑せきひの前まへには一ひとつづゝ青竹あをだけの簀すの子このやうな小ちひさな棚たなが作つくられた。

卯平も墓なぎの仲間に加わった。

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卯平うへいも墓薙はかなぎの群むれに加くははつた。

彼のまだ力ない手に持ったかまの刃先が、女房のかんおけの台の下をのぞいてからりとわたったとき、彼はぞっとして手を引いた。

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彼かれのまだ力ちからない手てに持もつた鎌かまの刄先はさきが女房にようばうの棺臺くわんだいの下したを覗のぞいてからりと渡わたつた時とき彼かれは悚然ぞつとして手てを引ひいた。

へびが体の後ろ半分を彼の足元に出して、白い腹を見せた。

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蛇へびが身體からだの後半こうはんを彼かれの足あしもとに現あらはして白しろい腹はらを見みせた。

かまの刃先がへびを切ったのである。

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鎌かまの刄先はさきが蛇へびを切きつたのである。

へびはしばらくじっとしていて、とてもゆっくりとかんおけの台の下へかくれた。

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蛇へびは暫しばらく凝然ぢつとして居ゐて極きはめて徐おもむろに棺臺くわんだいの下したに隱かくれた。

卯平の顔は、夕暮れの光に青かった。

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卯平うへいの顏かほは黄昏たそがれの光ひかりに蒼あをかつた。

彼はそれから、外へ出ることもめったになくなった。

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彼かれはそれから他出たしゆつすることも稀まれになつた。

よくなりかけた病後のつかれが、夜はねばるような汗を出させた。

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恢復くわいふくしかけた病後びやうごの疲勞ひらうが夜よるは粘ねばるやうな汗あせを分泌ぶんぴさせた。

それから八日目に、村の人がほとけさまをむかえにちょうちんを持って行ったときには、刈り払われた草が、暑いといっても秋らしくなった日に、実をつけるのを急ごうとして、すっくと首をもたげていた。

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それから八日目かめに村落むらの者ものが佛ほとけを迎むかへに提灯ちやうちん持もつて行いつた時ときは刈かり拂はらはれた草くさが暑あついといつても秋あきらしくなつた日ひに其その生殖作用せいしよくさようを急いそがうとして聳然すつくりと首くびを擡もたげて居ゐた。

村の人々は好き心にかられて、おずおずとかんおけの台をそっと上げてみた。

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村落むらの人々ひとびとは好奇心かうきしんに驅かられて怖おづ/\も棺臺くわんだいをそつと揚あげて見みた。

へびはあいかわらず、だらりと横たわったままだった。

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蛇へびは依然いぜんとしてだらりと横よこたはつた儘まゝであつた。

人々は見開いた目を見合わせた。

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人々ひとびとは睜みはつた目めを見合みあはせた。

村の人が去った後には、小さな青竹の線香立てから、そこらの石ひの前から、じりじりと身を焼いて行く火に苦しんでもだえるように、けむりはうねりながら立ちのぼって、さびしい夕暮れの光の中をさまよった。

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村落むらの者ものが去さつた後あとには小ちひさな青竹あをだけの線香立せんかうたてからそこらの石碑せきひの前まへからぢり/\と身みを燒やいて行ゆく火ひに苦くるしんで悶もだえるやうに煙けぶりはうねりながら立たち騰のぼつて寂寥せきれうたる黄昏たそがれの光ひかりの中なかに彷徨さまようた。

それからまた四日目に、ほとけさまを送って村の人は夕暮れの墓地に集まった。

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それから又また四日目かめに佛ほとけを送おくつて村落むらの者ものは黄昏たそがれの墓地ぼちに落おち合あうた。

へびはそれでも、かんおけの台のかげをはなれなかった。

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蛇へびは猶且やつぱり棺臺くわんだいの陰かげを去さらなかつた。

へびは自由にはうには、あまりにきずが大きかった。

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蛇へびは自由じいうに匍匐はらばふには餘あまりに瘡痍きずが大おほきかつた。

反り返ったくちびるのようにふくれた肉は、ほこりにまみれて黒く変わっていた。

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反そり返かへつた唇くちびるのやうに膨ふくれた肉にくは埃ほこりに塗まみれて黒くろく變へんじて居ゐた。

かんおけの台のすきまから人がこれをのぞけば、こわがって少しずつのたくるのだった。

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棺臺くわんだいを透すかして人ひとが之これを覗うかゞへば恐怖おそれを懷いだいて少すこしづゝのたくるのであつた。

女房が出たのだと言って、村の人はへらず口をたたいた。

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女房にようばうが出でたのだといつて村落むらの者ものは減へらず口ぐちを叩たゝいた。

しばらくして、お品のお母さんの耳にもへびのうわさが伝わった。

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暫しばらくしてお品しなの母はゝの耳みゝへも蛇へびの噂うはさが傳つたはつた。

それからというもの、お品のお母さんは一晩でも卯平を自分の家から放さない。

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それからといふものお品しなの母はゝは一夜やでも卯平うへいを自分じぶんの家うちから放はなさない。

三つになっていたお品が卯平を慕って、しっかりとその家に引きとめたのは、それから間もないことである。

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三みつつに成なつて居ゐたお品しなが卯平うへいを慕したうて確乎しつかと其その家うちに引ひき留とめたのはそれから間まもないことである。

へびの話は、いつのまにか消えてなくなった。

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蛇へびの噺はなしは何時いつの間まにか消滅せうめつした。

それは、みんながたがいに思い出をくり返して面白がるほど、彼らをにくんではいなかったからである。

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それは悉皆みんなが互たがひに心こゝろに記憶きおくを反覆くりかへして快こゝろよしとする程ほど彼等かれらを憎にくんでは居ゐなかつたからである。

その後、長い年月がたってお品のお母さんが死んだとき、むかしの話を見たり聞いたりしていた人のあいだでだけ、わずかに思い出が呼び返された。

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其その後のち長ながい歳月としつきを經へてお品しなの母はゝが死しんだ時とき以前いぜんの噺はなしを見みたり聞きいたりして居ゐた者ものの間あひだにのみ僅わづかに記憶きおくが喚よび返かへされた。

お品のお母さんは、腰に病気を持っていた。

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お品しなの母はゝは腰こしに病氣びやうきを持もつて居ゐた。

卯平は、自分の手でつくった罪というものは、ほとんど見られなかった。

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卯平うへいは自分じぶんの手てから作つくつた罪つみといふものは殆ほとんど見みられなかつた。

ただ彼は、働きざかりのころはほかのやとわれ人たちといっしょに、よくねこを殺して食べていた。

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唯たゞ彼かれは盛年さかりの頃ころは他たの傭人等やとひにんらと共ともに能よく猫ねこを殺ころして喫たべてた。

もっともそのころは、ねこでも犬でも飼い主をはなれてにわとりをねらうのがうろついていた。

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尤もつとも其その頃ころは猫ねこでも犬いぬでも飼主かひぬしを離はなれて雞にはとりを狙ねらふのが彷徨うろついた。

彼らはわなをかけてそれを待った。

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彼等かれらは罠わなを掛かけてそれを待まつた。

しかし、たいていの家ではにわとりさえ家の中で煮るのをゆるさないので、後ろの庭へ竹で三本の足を作って、それになべのつるをかけたほどだったから、ねこを殺すことがおそろしい悪いことのように見られたのだった。

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然しかし大抵たいていの家々いへ/\では雞にはとりでさへ家いへの内うちでは煮にるのを許容ゆるさないので、後うしろの庭にはへ竹たけで三本ぼんの脚あしを作つくつてそれへ鍋蔓なべつるを掛かけた程ほどであつたから、猫ねこを殺ころすことが恐おそろしい罪惡ざいあくのやうに見みられたのであつた。

ねこは塩からい塩ざけを与えれば腰が利かなくなる病気になると言われているので、卯平が腰をなやんでいるのを、まれにはねこのたたりだと冗談に言う人もあった。

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猫ねこは辛からい鹽鮭しほざけを與あたへれば腰こしが利きかない病氣びやうきに罹かゝると一般ぱんにいはれて居ゐるので卯平うへいが腰こしを惱なやんで居ゐるのを稀まれには猫ねこの祟たゝりだと戯談じようだんにいふものもあつた。

それでも、そういううわさは広がらなかった。

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それでもさういふ噂うはさは擴ひろがらなかつた。

彼はにくしみもねたみも、村のだれからも買わなかった。

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彼かれは憎惡ぞうをと嫉妬しつととを村落むらの誰たれからも買かはなかつた。

にくしみもねたみもない、そこにわざと悪いうわさを作るほど、百姓は意地が悪くなかった。

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憎惡ぞうをも嫉妬しつともない其處そこに故意わざと惡評あくひやうを生うみ出だす程ほど百姓ひやくしやうは邪心じやしんを有もつて居ゐなかつた。

村の西のはしにはなれて住んでいる彼には、興味を持って見させるところが一つもなかった。

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村落むらの西端せいたんに僻在へきざいして居ゐる彼かれには興味きようみを以もつて見みさせる一ひとつの條件でうけんも具そなへて居ゐなかつた。

ただむっつりとして、他人にうったえることも求めることもない彼は、まったく村とのつながりがなかった。

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只たゞむつゝりとして他人たにんに訴うつたへることも求もとめることもない彼かれは一切さい村落むらとの交渉かうせふがなかつた。

彼一人のいるいないは、少しも村にとって重みがなかった。

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彼かれの一身しんの有無うむは少すこしも村落むらの爲ためには輕重けいちようする處ところがなかつた。

二五

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二五

初冬のえだをあわただしくわたって、それからしばらくさわいだまま、その後はぱたりと忘れていて、まれに思い出したようにかれ木のえだを泣かせた西風が、雑木林のえだに白くつらなっている西の遠い山々の向こうに横たわっていたのが、急に、自分が力をふるうはずの冬が自分を置いて行ってしまったのに気づいて、ふくだけふかなければ気の済まないその性しつを出して、毎日その独特の力で軽い土を空にまき上げた。

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初冬しよとうの梢こずゑに慌あわたゞしく渡わたつてそれから暫しばらく騷さわいだ儘まゝ其その後のちは礑はたと忘わすれて居ゐて稀まれに思おもひ出だしたやうに枯木かれきの枝えだを泣なかせた西風にしかぜが、雜木林ざふきばやしの梢こずゑに白しろく連つらなつて居ゐる西にしの遠とほい山々やま/\の彼方かなたに横臥ねて居ゐたのが俄にはかに自分じぶんの威力ゐりよくを逞たくましくすべき冬ふゆの季節きせつが自分じぶんを棄すてゝ去さつたのに氣きがついて、吹ふくだけ吹ふかねば止やめられない其その特性とくせいを發揮はつきして毎日まいにち其その特有もちまへな力ちからが輕鬆けいしような土つちを空そらに捲まいた。

その日も、夜明けから空があまりにからりとして、やわらかな光を持たなかった。

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其その日ひも拂曉あけがたから空そらが餘あまりにからりとして鈍にぶい軟やはらかな光ひかりを有もたなかつた。

毎日ふきまくる強い風が、その遠い西の山の氷や雪をふくんで、細かく地面をおおってまき散らしたかと思うように、霜が白く固まっていた。

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毎日まいにち吹ふき捲まくる疾風しつぷうが其その遠とほい西山せいざんの氷雪ひようせつを含ふくんで微細びさいに地上ちじやうを掩おほうて撒布さんぷしたかと思おもふやうに霜しもが白しろく凝こつて居ゐた。

勘次はいつものように、おつぎを連れて開こん地へ出た。

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勘次かんじは平生いつもの如ごとくおつぎを連つれて開墾地かいこんちへ出でた。

おつぎは半纏を後ろへふわりとかけたまま手も通さないで、肩には襷をななめにかけて、万能ぐわをかついでいた。

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おつぎは半纏はんてんを後うしろへふはりと掛かけた儘まゝ手ても通とほさないで、肩かたへは襷たすきを斜なゝめに掛かけて萬能まんのうを擔かついで居ゐた。

白い手ぬぐいと、手ぬぐいの外に少しのぞいたおくれ毛が、歩くたびにふらふらと動くのも、しみじみと冷たそうだった。

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白しろい手拭てぬぐひとそれから手拭てぬぐひの外そとに少すこし覗のぞいた後おくれ毛げの歩あるく度たびにふら/\と動うごくのもしみ/″\と冷つめた相さうであつた。

草や木や地面の霜にまばたきしながら、横に、そしてななめにさす日に、遠い西の山々の雪がひとしきり光った。

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草木さうもく及および地上ちじやうの霜しもに瞬まばたきしながら横よこにさうして斜なゝめに射さし掛かける日ひに遠とほい西にしの山々やま/\の雪ゆきが一頻ひとしきり光ひかつた。

すべてが茶色っぽい光につつまれた。

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凡すべてを通つうじて褐色かつしよくの光ひかりで包つゝまれた。

その遠くつらなった山々の頂には、ぽつりぽつりと大小の群れ雲が固まったままかき乱されて、しばらく動かなかった。

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其その遠とほく連つらなつた山々やま/\の頂巓いたゞきにはぽつり/\と大小だいせうの簇雲むらくもが凝こつた儘まゝに掻かき亂みだされて暫しばらく動うごかなかつた。

ついにはそれが一つになって山々のありかを見えなくして、そのはしがすすのように空へ向かって消えて行くように見えはじめた。

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遂つひにはそれが一つに成なつて山々やま/\の所在しよざいを暗くらまして、其その末端まつたんが油煙ゆえんの如ごとく空そらに向むかつて消散せうさんしつゝあるやうに見みえ始はじめた。

そこには毎日必ずやかましい足音で人の耳をさわがせる、あの巨人の群れが、その目にはみじめな地上のすべてを苛めてつま先でけとばそうとして、山々の向こうから出発したのだ。

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其處そこには毎日まいにち必かならず喧嚚けんがうな跫音あしおとが人ひとの鼓膜こまくを騷さわがしつゝある其その巨人きよじんの群集ぐんじゆが、其その目めからは悲慘みじめな地上ちじやうの凡すべてを苛いぢめて爪先つまさきに蹴飛けとばさうとして、山々やま/\の彼方かなたから出立しゆつたつしたのだ。

そのおどろくほど速い足が空を一直線に、そしてわずかなじゃま物にすぎないえだのすべてを押しつけ押しつけ、林をこえて走って来るのは、今もうすぐである。

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其その驚おどろくべき迅速じんそくな脚あしが空間くうかんを一直線ちよくせんに、さうして僅わづかな障害物しやうがいぶつであるべき梢こずゑの凡すべてを壓おしつけ壓おしつけ林はやしを越こえて疾驅しつくして來くるのは今いまもう直すぐである。

竹を切ってたばねたようにすきまなく群がっている、そのつま先にけられては、こわがりにこわがった草木はみな声を上げて泣くのである。

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竹たけを伐きつて束つかねたやうに寸隙すんげきもなく簇むらがつて居ゐる其その爪先つまさきに蹴けられては怖おびえに怖おびえた草木さうもくは皆みな聲こゑを放はなつて泣なくのである。

そして、もう泣かなければならない時間がせまっている。

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さうしてもう泣なかねば成ならぬ時間じかんが迫せまつて居ゐる。

勘次が霜の白い自分の庭から道へ出ると、不格好なくぬぎの林が、彼の行く方向に沿ってつらなっている。

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勘次かんじは霜しも白しろい自分じぶんの庭にはを往來わうらいへ出でると無器用ぶきような櫟くぬぎの林はやしが彼かれの行ゆくべき方かたに從したがつて道みちに沿そうて連つらなつて居ゐる。

彼の、やぶれて、毎日打ちつける強い風にかたむけられた笹のかきねには、せまい道をこえてくぬぎの落ち葉が、熊手でかいたように集まって、つらなっている。

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彼かの破やぶれて、毎日まいにち打うちつける疾風しつぷうの爲ために傾かたむけられた笹さゝの垣根かきねには、狹せまい往來わうらいを越こえて櫟くぬぎの落葉おちばが熊手くまでで掻かいたやうに聚あつまつて且かつ連つらなつて居ゐる。

およそくぬぎの木ほど丈夫な木は、ほかにあるまい。

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凡およそ櫟くぬぎの木き程ほど頑健ぐわんけんな木きは他たに有あるまい。

かわいた冬がれの草や落ち葉にたばこの吸いがらがまちがって火をつけて、それがさかんに林を焼き払っても、しぶの強い、表面がわさびおろしのようなくぬぎの皮は、黒いやけどをみきいっぱいに残しても、ほかの針葉樹のようにはならず、春の雨が何度もやわらかにしめらせれば、ついにはざらざらした皮のどこからか白っぽい芽をふいて、あらくかたい厚い皮のかこいからのがれてさわやかに息をしはじめたのをよろこぶように、ずんずんとのびて、ついには切っても切っても、なおずんずんと太くなってみきがさらに作られるほど、強い生きる力を取りもどすのである。

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乾燥かんさうした冬枯ふゆがれの草くさや落葉おちばに煙草たばこの吸殼すひがらが誤あやまつて火ひを點てんじて、それが熾さかんに林はやしを燒やき拂はらうても澁しぶの強つよい、表面へうめんが山葵わさびおろしのやうな櫟くぬぎの皮かはは、黒くろい火傷やけどを幹みき一杯ぱいに止とゞめても、他たの針葉樹しんえふじゆに見みるやうではなく、春はるの雨あめが數次しば/\軟やはらかに濕うるほせば遂つひにはこそつぱい皮かはの何處どこからか白しろつぽい芽めを吹ふいて、粗剛そがうな厚あつい皮かはの圍かこみから遁のがれて爽快さうくわいな呼吸こきふを仕始しはじめたことを悦よろこぶやうにずん/\と伸長しんちやうして、遂つひには伐きつても/\、猶且やつぱりずん/\と骨立ほねだつて幹みきが更さらに形かたちづくられる程ほど旺盛わうせいな活力くわつりよくを恢復くわいふくするのである。

彼らはそういう性しつを持っていながら、分からないほどおくびょうである。

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彼等かれらはさういふ特性とくせいを有もつて居ゐながら了解れうかいし難がたい程ほど臆病おくびやうである。

黄色い光が気持ちよくあざやかに満ちているおそい秋の、水のようなうすい霜がこっそり降りる前から、その葉はみなくるくるとまわりが巻きはじめて、ほかの雑木は葉をからりと落として、そのえだよりずっと低くたれている西の空の明るい入り日を通して見せるようにまばらになるのに、しっかりとしがみついてはなれない。

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黄色きいろな光ひかりが快こゝろよく鮮あざやかに滿みちて居ゐる晩秋ばんしうの水みづのやうな淡あはい霜しもが竊ひそかにおりる以前いぜんから其その葉はは悉こと/″\くくる/\と其その周圍しうゐが捲まくれ始はじめて、他たの雜木ざふきは其その葉はをからりと落おとして其その梢こずゑよりも遙はるかに低ひくく垂たれて居ゐる西にしの空そらの明あかるい入日いりひを透すかして見みせるやうに疎まばらに成なるのに、確乎しつかとしがみついて離はなれない。

彼らはやっと木らしい形になるとともに、のこぎりの歯がむごくわたって、少しの余ゆうも与えられないのである。

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彼等かれらは漸やうやく樹相じゆさうを形かたちづくると共ともに鋸のこぎりの齒はが残酷ざんこくに渡わたつて少すこしでも餘裕よゆうを與あたへられないのである。

それで彼らのあいだには、自然にただこわがる性しつだけが育ったのかも知れない。

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それで彼等かれらの間あひだには自然しぜんに只たゞ恐怖きようふする性質せいしつのみが助長じよちやうされたのであるかも知しれない。

だから、すでにたきぎに切られる時期をすぎて、大木の形になって、どんぐりがその浅い皿に乗せられるようになれば、かれ葉はいさぎよく散りしいて、からりとさわやかに木の形を見せるのである。

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それだから既すでに薪たきぎに伐きるべき時期じきを過すごして、大木たいぼくの相さうを具そなへて團栗どんぐりが其その淺あさい皿さらに載のせられるやうに成なれば、枯葉かれはは潔いさぎよく散ちり敷しいてからりと爽さわやかに樹相じゆさうを見みせるのである。

ちょうどそれは、子孫を残すことと自分を守ることの必要をまったく忘れさせられた梨のつぎ木が、大きなとげをみきにもえだにも持たなくなったように、こわさが彼らを去ったのである。

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丁度ちやうどそれは子孫しそんの繁殖はんしよくと自己じこの防禦ばうぎよとの必要ひつえうを全まつたく忘わすれさせられた梨なしの接木つぎきが、大おほきな刺とげを幹みきにも枝えだにも持もたなく成なつたやうに、恐怖おそれが彼等かれらを去さつたのである。

しかしながら、林のくぬぎはいくら遠くまで根をのばして早く育とうとしても、冷たい秋が冬を地上へみちびくのである。

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然しかしながら林はやしの櫟くぬぎは幾いくら遠とほく根ねを伸のばして迅速じんそくな生長せいちやうを遂とげようとしても、冷ひやゝかな秋あきが冬ふゆを地上ちじやうに導みちびくのである。

彼らはその冬の季節に命を保って行くには、すべてのはたらきを止めて引きしめなければならない。

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彼等かれらは其その冬ふゆの季節きせつに於おいて生命せいめいを保たもつて行ゆくのには凡すべての機能きのうを停止ていしして引ひき緊しまらねば成ならぬ。

そうでなければ、彼らは氷や雪のためにかれ死ななければならない。

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それでなければ彼等かれらは氷雪ひようせつの爲ために枯死こしせねばならぬ。

その季節に、彼らの最後の運命であるたきぎや炭に切られるのに、いちばん合った作りに変わることをよぎなくされるのである。

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其その季節きせつに彼等かれらの最後さいごの運命うんめいである薪まきや炭すみに伐きられるやうに一番ばん適當てきたうした組織そしきに變化へんくわすることを餘儀よぎなくされるのである。

彼らはそれから、その大切な呼吸の道具だったかれ葉を、一まいでもえだから放すまいとし、またはなれまいとしている。

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彼等かれらはそれから其その貴重きちような呼吸器こきふきであつた枯葉かれはを一枚まいでも枝えだから放はなすまいとし又また離はなれまいとして居ゐる。

育つはたらきが止まるとともに、くっつく力を失うはずの葉のじくが、しっかりと保たれている。

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生育せいいくの機能きのうが停止ていしされると共ともに粘着力ねんちやくりよくを失うしなふべき筈はずの葉柄えふへいが確乎しつかりと保たもたれてある。

そこでかわいたかれ葉は、少しのことにも寄り合ってさやさやと、たがいにこわさをささやくのである。

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そこで乾燥かんさうした枯葉かれはは少すこしのことにさへ相あひ倚よつてさや/\と互たがひに恐怖きやうふを耳語さゝやくのである。

しかし、木が吸って得た物の一部を地面と空気に返させようとして、すべての葉をえだからうばって、いたる所を広々と、そしてすっきりさせるのを好む冬の目には、くぬぎのかれ葉は入りくんで、にごって見えなければならない。

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然しかし樹木じゆもくが吸收きふしうして獲えた物質ぶつしつの一部ぶを地つち及および空氣くうきに還元くわんげんせしめようとして凡すべての葉はを梢こずゑから奪うばつて、到いたる處ところ空濶くうくわつで且かつ簡單かんたんにすることを好このむ冬ふゆの目めには、櫟くぬぎの枯葉かれはは錯雜さくざつし、溷濁こんだくして見みえねばならぬ。

それで、巨人を乗せた西風がそのつま先でそれをけとばそうとしても、おそろしくしつこいかれ葉は泣いて、そしてその力を保とうとする。

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それで巨人きよじんを載のせた西風にしかぜが其その爪先つまさきにそれを蹴飛けとばさうとしても、恐おそろしく執念深しふねんぶかい枯葉かれはは泣ないてさうして其その力ちからを保たもたうとする。

たまたま力が足りずにふき散らされたのは、そういうときにとても都合よく巻いてあるので、どんなかげでも身をよせる場所を求めてころころところがって行っては、自分の仲間が一つに寄り合いだき合って、小さな風にさえ絶えず音を立ててふるえているのである。

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偶たまたま力ちからが足たりないで吹ふき散ちらされたのは、さういふ時ときに非常ひじやうに便利べんりなやうに捲まいてあるので、どんな陰かげでも其その身みを託たくする場所ばしよを求もとめてころ/\と轉ころがつて行いつては、自分じぶんの伴侶なかまが一つに相あひ倚より相あひ抱いだいて微風びふうにさへ絶たえず響ひゞきを立たてゝ戰慄せんりつしつゝあるのである。

勘次はこういうくぬぎの木を植えて林を作るための土地を開こんするのに、もう何年ものあいだやとわれて、その力をつくした。

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勘次かんじは斯かういふ櫟くぬぎの木きを植うゑて林はやしを造つくるべき土地とちの開墾かいこんをする爲ためにもう幾年いくねんといふ間あひだ雇やとはれて其その力ちからを竭つくした。

彼はやっと林らしくなって来たくぬぎ林に沿って、田んぼをこえて走った。

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彼かれは漸やうやく林相りんさうを形かたちづくつて來きた櫟林くぬぎばやしに沿そうて田圃たんぼを越こえて走はしつた。

田んぼのしぎが何におどろいたかきいと鳴いて、刈り株をかすめるようにして慌てて飛んで行った。

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田圃たんぼの鴫しぎが何なにに驚おどろいたかきゝと鳴ないて、刈株かりかぶを掠かすめるやうにして慌あわてゝ飛とんで行いつた。

そして後は、白く閉ざしたこおりがときどきぴりぴりと鳴ってしゃりしゃりとこわれるだけで、ただ静かだった。

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さうして後のちは白しろく閉とざした氷こほりが時々ときどきぴり/\と鳴なつてしやり/\と壞こはれるのみで只たゞ靜しづかであつた。

田んぼをとおして林のあいだから見えるその遠い山々の雲は、ややうすくなって空をにごらせていた。

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田圃たんぼを透とほして林はやしの間あひだから見みえる其その遠とほい山々やま/\の雲くもは稍やゝ薄うすくなつて空そらを濁にごして居ゐた。

やがて雑木林のえだ先が少し動いたと思ったら、ごうっというひびきが勘次の耳に鳴った。

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軈やがて雜木林ざふきばやしの枝頭えださきが少すこし動うごいたと思おもつたらごうつといふ響ひゞきが勘次かんじの耳みゝに鳴なつた。

巨人の足がせまったのである。

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巨人きよじんの脚あしが逼せまつたのである。

彼はむっと、思わず息がつまった。

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彼かれはむつと思おもはず呼吸こきふが切迫せつぱくした。

毎日ふきわたる西風は、かわきつつあるすべての物をさらにかわかさなければ止まない。

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毎日まいにち吹ふき渡わたる西風にしかぜは乾燥かんさうしつゝある凡すべての物ものを更さらに乾燥かんさうさせねば止やまない。

雨がまれにしんみり降っても、西風は朝から一日、青い常緑樹の葉さえどろの中へねじ切ってまき散らすほどふき募れば、それだけで土はもうほとんどかわいてしまうのである。

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雨あめが稀まれにしんみりと降ふつても西風にしかぜは朝あさから一日にち青あをい常緑木ときはぎの葉はをも泥どろの中なかへ拗切ちぎつて撒布まきちらす程ほど吹ふき募つのれば、それだけで土つちはもう殆ほとんど乾かわかされるのである。

土が保つべき水分がそれほど蒸発しても、その風がふきわたるあいだは、西風はけっして空に一てきの雨さえ降らせない。

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土つちが保有ほいうすべき水分すゐぶんがそれ程ほど蒸發じようはつし盡つくしても其その吹ふき渡わたる間あひだは西風にしかぜは決けつして空そらに一滴てきの雨あめさへ催もよほさせぬ。

それでもさすがに深く水をたくわえている土は、あかのような表面だけをかき払って行く強い風にはかんたんに力を失わないで、夜がふければいくらでも空気中の水分を細かく結しょうにして、いっぱいに白く引きつける。

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それでも有繋さすがに深ふかく水みづを藏ざうして居ゐる土つちは垢あかの如ごとき表皮へうひのみを掻かき拂はらつて行ゆく疾風しつぷうの爲ためには容易よういに其その力ちからを失うしなはないで、夜よが更ふければ幾いくらでも空氣中くうきちうに保たもたれた水分すゐぶんを微細びさいに結晶けつしやうさせて一杯ぱいに白しろく引ひきつける。

土が夜通しそういうはたらきをしたばかりに、日は夜明けの空から横に、そしてななめにその霜をとかして、西風はすぐにそれをかわかして、むごく表面の土のほこりを空へふきまくる。

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土つちが徹宵よつぴてさういふ作用さようを營いとなんだばかりに、日ひは拂曉あけがたの空そらから横よこにさうして斜なゝめに其その霜しもを解とかして、西風にしかぜは直たゞちにそれを乾かわかして残酷ざんこくに表土へうどの埃ほこりを空中くうちうに吹ふき捲まくる。

その力がはげしいほど夜明けの霜が白く、それが白いほど、乱れて飛ぶからすのような群れ雲を遠い西の山の頂につれて、強い風はかけるのである。

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其その力ちからが烈はげしい程ほど拂曉ふつげうの霜しもが白しろく、其それが白しろい程ほど亂みだれて飛とぶ鴉からすの如ごとき簇雲むらくもを遠とほい西山せいざんの頂巓いたゞきに伴ともなうて疾風しつぷうは驅かけるのである。

両方がつかれきって勢いを使い果たす季節の変わり目を見るまでは、その争いは止むことがない。

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兩方りやうはうが疲憊ひはいして勢いきほひを消耗せうまうする季節きせつの變化へんくわを見みるまでは其その爭あらそひは止やむことがない。

その日も、ほこりが空をこがして立った。

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其その日ひも埃ほこりが天てんを焦こがして立たつた。

そのほこりは黄茶色で、きりのように地上のすべてをおおい、そして包んだ。

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其その埃ほこりは黄褐色くわうかつしよくで霧きりの如ごとく地上ちじやうの凡すべてを掩おほひ且かつ包つゝんだ。

雑木林はいっせいにななめにかたむこうとして、えだは曲線をえがいた。

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雜木林ざふきばやしは一齊せいに斜なゝめに傾かたぶかうとして梢こずゑは彎曲わんきよくを描ゑがいた。

木々はみなたがいに泣いてささやきながら、いくらか日の明るさもさえぎっているその濃いきりからのがれようとするように、絶え間なくさわいだ。

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樹木じゆもくは皆みな互たがひに泣ないて囁さゝやきながら、幾いくらか日ひの明あかるさをも妨さまたげて居ゐる其その濃霧のうむから遁のがれようとするやうに間斷かんだんなく騷さわいだ。

きりはみじめなすべての物をたがいに知らせまいとしてふき立ちふき立ち、数十間のきょりでは、その物の形さえはっきり見せない。

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霧きりは悲慘みじめな凡すべての物ものを互たがひに知しらせまいとして吹ふき立たち/\數すう十間けんの距離きよりに於おいては其その物體ぶつたいの形状けいじやうをも明あきらかに示しめさない。

雑木林の木々は、開こん地のまわりでも入り乱れた。

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雜木林ざふきばやしの樹木じゆもくは開墾地かいこんちの周圍しうゐにも混亂こんらんした。

しかし勘次が目を向けているのは、足のつま先二、三尺の、今くわで切り取ってはるか後ろへ引いて、そっと捨てたあとの一点である。

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然しかし勘次かんじが目めを放はなつて居ゐるのは足あしの爪先つまさき二三尺じやくの、今いま唐鍬たうぐはを以もつて伐去きりさつて遙はるかに後うしろへ引ひいてそつと棄すてた趾あとの一點てんである。

ほこりは、土がいくらでもしめっている彼の足元からは立たなかった。

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埃ほこりは土つちに幾いくらでも濕うるほひを持もつた彼かれの足あしもとからは立たたなかつた。

おつぎは、勘次が起こしたかたまりを一つ一つ万能ぐわの背でたたいて、さらりとくずして平らにならしている。

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おつぎは勘次かんじが起おこした塊かたまりを一つ/\に萬能まんのうの脊せで叩たゝいてさらりと解ほぐして平たひらにならして居ゐる。

軽い土から固まったかたまりは、くずせばすぐにふき払われた。

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輕鬆けいしような土つちから凝集こゞつて居ゐた塊かたまりは解ほぐせば直すぐに吹ふき拂はらはれた。

おつぎは、正面からほこりを受けるので、遠くからふきつける土や砂がほおを走って不快だった。

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おつぎは當面まともに埃ほこりを受うけるのには遠とほく吹ふきつける土砂どしやが頬ほゝを走はしつて不快ふくわいであつた。

手ぬぐいのはしをまくって、あびるほこりのために髪の毛が荒れるのをひどくきらった。

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手拭てぬぐひの端はしを捲まくつて沿あびせる埃ほこりの爲ために髮かみの毛けの荒あれるのを酷ひどく嫌きらつた。

それでも、その手元はいいかげんではなかった。

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それでも其その手てもとは疎略そりやくではなかつた。

勘次は矢立のようなかたい体をのばし曲げして、一歩一歩と進んだ。

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勘次かんじは矢立やたての如ごとき硬直かうちよくな身體からだを伸長しんちやうし屈曲くつきよくさせて一歩ぽ/\と運はこんだ。

彼はまわりで数えきれない木々が泣いてささやくのを、耳に入れなかった。

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彼かれは周圍しうゐに無數むすうな樹木じゆもくの泣ないて囁さゝやくのを耳みゝに入いれなかつた。

その上、彼は自分の耳が鳴るのさえ気づかないほど、けんめいにくわを打った。

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加之それのみでなく彼かれは自分じぶんの耳朶みゝたぶらに鳴なるさへ心こゝろづかぬ程ほど懸命けんめいに唐鍬たうぐはを打うつた。

彼は体じゅうに汗をかいていた。

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彼かれは滿身まんしんに汗あせして居ゐた。

卯平は、ひまをおしがる勘次がくわを取って出たとき、朝ごはんの後の口をうるさく鳴らしながら、火ばちの前にどっかりとすわっていた。

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卯平うへいは暇ひまを惜をしがる勘次かんじが唐鍬たうぐはを執とつて出でた時とき朝餉あさげの後あとの口くちを五月蠅うるさく鳴ならしながら火鉢ひばちの前まへにどつかりと坐すわつて居ゐた。

やぶれた草ぶきの家をゆさぶって、西風がごうっと打ちつけて来たときには、火ばちのうずみ火はまだ白く灰の皮をかぶって暖かかった。

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破やぶれた草葺くさぶきの家いへをゆさぶつて西風にしかぜがごうつと打うちつけて來きた時ときには火鉢ひばちの煨おきはまだ白しろく灰はひの皮かはを被かぶつて暖あたゝかゝつた。

天井もない屋根裏から、すすがかすかにさらさらと散って、ときどきぽつりと固まったまま落ちた。

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天井てんじやうもない屋根裏やねうらから煤すゝが微かすかにさら/\と散ちつて、時々ときどきぽつりと凝集こゞつた儘まゝに落おちた。

高い木がさえぎって立って、そのえだに青い空を見せている庭にさえ、強い風のおどろくほど手回しのいい手がふくろの口を解いてさかさまにしたように、ほこりが満ちてさらさらとしずんだ。

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喬木けうぼくが遮さへぎり立たつて其その梢こずゑに蒼あをい空そらを見みせて居ゐる庭にはへすら疾風しつぷうの驚おどろくべき周到しうたうな手てが袋ふくろの口くちを解といて倒さかさにしたやうに埃ほこりが滿みちてさら/\と沈しづんだ。

一日そうして止めどもなくかけて行く巨人のつま先には、この平らな田や畑や山林のあいだにはさまっている村々の草ぶきの家は、すべて落ち葉を持ち上げて出たきのこのような、小さくてみじめな物にちがいなかった。

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一日にちさうして止とめ處どもなく駈かつて行ゆく巨人きよじんの爪先つまさきには此この平坦へいたんな田たや畑はたや山林さんりんの間あひだに介在かいざいして居ゐる各かく村落そんらくの茅屋あばらやは悉こと/″\く落葉おちばを擡もたげて出でた茸きのこのやうな小ちひさな悲慘みじめな物ものでなければならなかつた。

それぞれの真上を中心にして空にこをえがいた、そのふちの外の横に、それからななめに見える広く遠い空は、黄茶色のきりのようなほこりのために、ただほのおに焼かれたようである。

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各自かくじの直上ちよくじやうを中心點ちうしんてんにして空そらに弧こを描ゑがいた其その輪郭外りんくわくぐわいの横よこにそれから斜なゝめに見みえる廣ひろく且かつ遠とほい空そらは黄褐色くわうかつしよくな霧きりの如ごとき埃ほこりの爲ために只たゞ熖ほのほに燒やかれたやうである。

卯平は自分の小屋に体を縮めた。

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卯平うへいは自分じぶんの小屋こやに身みを窄すぼめた。

しばらく彼の火ばちから立って、せまいかべからかべにぶつかってさまよい出たうすいけむりが、強い風のためにすぐにごうっとけ散らされてしまった。

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暫しばらく彼かの火鉢ひばちから立たつて、狹せまい壁かべから壁かべに衡突ぶつかつて彷徨さまよひ出でた薄うすい煙けぶりが疾風しつぷうの爲ために直すぐにごうつと蹴散けちらされて畢しまつた。

せまい小屋の中は、それからまたしずんだ。

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狹せまい小屋こやの内うちはそれから復また沈しづんだ。

卯平は少し開いた戸口から、その小さくしかめた目で外を見た。

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卯平うへいは少すこし開ひらいた戸口とぐちから其その小ちひさく蹙しがめた目めで外そとを見みた。

せまい庭の先に、こよりを植えたような桑畑のかわききった軽い土が、黄茶色のきりの中へふき上がって行くのが見える。

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狹せまい庭にはの先さきに紙捻こよりを植うゑたやうな桑畑くはばたけの乾燥かんさうしきつた輕鬆けいしような土つちが黄褐色くわうかつしよくな霧きりの中なかへ吹ふつ立たつて行ゆくのが見みえる。

そして南の家は、とてもぼんやりとその形が現れて、また見えなくなった。

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さうして南みなみの家うちは極きはめてぼんやりとして其その形態けいたいが現あらはれて又また隱かくれた。

くりの木のそばに木のえだをくいに打ってこしらえたかぎの手に引っかけたはねつるべが、ごうっとふくたびにぐらりぐらりと動いて、つるべが外れそうになっては外れまいとして、争ってさわいでいる。

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栗くりの木きの側そばに木きの枝えだを杙くひに打うつて拵こしらへた鍵かぎの手てへ引ひつ掛かけた桔槹はねつるべが、ごうつと吹ふく毎ごとにぐらり/\と動うごいて釣瓶つるべが外はづれ相さうにしては外はづれまいとして爭あらそうて騷さわいで居ゐる。

卯平は、彼のぼんやりした心がそこにつながれたように、つるべを見つめた。

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卯平うへいは彼かのぼんやりした心こゝろが其處そこへ繋つながれたやうに釣瓶つるべを凝視ぎようしした。

彼はしばらくしてから庭に立った。

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彼かれは暫しばらくしてから庭にはに立たつた。

彼はそのくせの舌を鳴らしながら、つるべに手をかけた。

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彼かれは其その癖くせの舌したを鳴ならしながら釣瓶つるべへ手てを掛かけた。

つるべの底には、わずかに残った水にほこりがひたされてしずんでいた。

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釣瓶つるべの底そこには僅わづかに保たもたれた水みづに埃ほこりが浸ひたされて沈しづんで居ゐた。

外側は青いこけのままかわいていた。

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外側そとがはは青あをい苔こけの儘まゝに乾燥かんさうして居ゐた。

彼はかぎの手のくいを両手に持って、その大きな体の重さをかけて、上から押さえてみた。

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彼かれは鍵かぎの手ての杙くひを兩手りやうてに持もつて其その大おほきな身體からだの重量ぢうりやうを加くはへて竪たてに壓おさへて見みた。

小さなくいは、毎日水でやわらかくなっている土へ、ぐっと深く入った。

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小ちひさな杙くひは毎日まいにち水みづの爲ために軟やはらかにされて居ゐる土つちへぐつと深ふかくはひつた。

かぎの手は深くつるべの内側に入っていたので、さっきよりしっかりとつるべを引き止めた。

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鍵かぎの手ては深ふかく釣瓶つるべの内側うちがはを覗のぞいて居ゐたので先刻さつきよりも確乎しつかと釣瓶つるべを引ひき止とめた。

彼はそれからせまい戸口をぴたりと閉めて、かわいた手足を汚いふとんに包んで、ごろりと横になった。

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彼かれはそれから狹せまい戸口とぐちをぴたりと閉とざして枯燥こさうした手足てあしを穢きたない蒲團ふとんに包つゝんでごろりと横よこに成なつた。

昼ごはんに勘次がもどって、また口の中のあらいごはんつぶをかみながら走って行った後へ、与吉は鼻おのゆるんだ下駄をからからと引きずって、学校から帰って来た。

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午餐ひるに勘次かんじが戻もどつて、復また口中こうちうの粗剛こはい飯粒めしつぶを噛かみながら走はしつた後あとへ與吉よきちは鼻緒はなをの緩ゆるんだ下駄げたをから/\と引ひきずつて學校がくかうから歸かへつて來きた。

足袋もはかない足の甲が、さめの皮のようにばりばりとあかぎれだらけになっている。

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足袋たびも穿はかぬ足あしの甲かふが鮫さめの皮かはのやうにばり/\と皹ひゞだらけに成なつて居ゐる。

彼はまだ冷めきらない茶がまの湯をくんで、しきりにごはんをかき込んだ。

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彼かれはまだ冷さめ切きらぬ茶釜ちやがまの湯ゆを汲くんで頻しきりに飯めしを掻込かつこんだ。

赤くしめった二本のすじを伝って冷たくたれた洟を、彼はすすりながら、はしを持ちかえてしるわんの塩からいほし納豆をつまんで口へ入れたり、茶わんの中へまいたりして、何ばいものごはんを盛った。

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粘膜ねんまくのやうに赤あかく濕うるほひを持もつた二つの道筋みちすぢを傳つたひて冷つめたく垂たれた洟はなを彼かれは啜すゝりながら、箸はしを横よこに持もち換かへて汁椀しるわんの鹽辛しほからい干納豆ほしなつとうを抓つまんで口くちへ入いれたり茶碗ちやわんの中なかへ撒まいたりして幾杯いくはいかの飯めしを盛もつた。

ごはんつぶは茶わんから彼の胸を伝って、土間へぼろぼろと落ちた。

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飯粒めしつぶは茶碗ちやわんから彼かれの胸むねを傳つたひて土間どまへぼろ/\と落おちた。

彼は土間に立ったままで食べていた。

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彼かれは土間どまに立たつた儘まゝ喫たべて居ゐた。

彼はごはんつぶが少し底に残った茶わんをおぜんの上にころがして、ばたりと飯だいのふたをした。

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彼かれは飯粒めしつぶの少すこし底そこに残のこつた茶碗ちやわんを膳ぜんの上うへに轉ころがしてばたりと飯臺はんだいの蓋ふたをした。

卯平は横になったままで、おつぎが呼んだときに来なかった。

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卯平うへいは横臥わうぐわした儘まゝでおつぎが喚よんだ時ときに來こなかつた。

おつぎがもう一度声をかけて開こん地へ出てからも、彼はしばらくだるい体をふとんから起こさなかった。

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おつぎが再ふたゝび聲こゑを掛かけて開墾地かいこんちへ出でてからも彼かれは暫しばらく懶ものうい身體からだを蒲團ふとんから起おこさなかつた。

彼がふと思い出したようにせまい戸口を開けて、明るい外のほこりに目をしかめて出て行ったとき、与吉はあわただしく飯だいのふたをしたところだった。

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彼かれがふと思おもひ出だしたやうに狹せまい戸口とぐちを開あけて明あかるい外そとの埃ほこりに目めを蹙しがめて出でて行いつた時とき與吉よきちは慌あわたゞしく飯臺はんだいの蓋ふたをした處ところであつた。

「お前は、今日はどうしてそんなに早いんだい」

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「汝わりや、今日けふはどうしてさうえに早はええんでえ」

卯平は太い低い声で聞いた。

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卯平うへいは太ふとい低ひくい聲こゑで聞きいた。

「ああ」

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「あゝ」

と、与吉はくちびるをそらして洟をすすりながら

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と與吉よきちは脣くちびるを反そらして洟はなを啜すゝりながら

「先生がそんでも、明日は日曜だからこれっきりで帰ってもいいと言ったんだ」

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「先生せんせいそんでも、明日あしたは日曜にちえうだから此これつ切きりで歸けえつてもえゝつちつたんだ」

「昼ごはんは食ったか」

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「午餐おまんまくつたか」

卯平はのっそりと飯だいのそばに近づいた。

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卯平うへいはのつそりと飯臺はんだいの側そばに近ちかづいた。

「お前は、爺さんが、おぜんへこんなにこぼして」

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「汝わりや、爺ぢいが膳ぜんさかうだに滾こぼして」

と、彼はさっきより低い声で

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と彼かれは先刻さつきよりも低ひくい聲こゑで

「おとっつあんに見られたら怒られるから」

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「おとつゝあに見みらつたら怒おこられつから」

こう言って、また

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斯かういつて又また

「お前らのおとっつあんは怒りんぼうだから」

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「汝わツ等らおとつゝあは怒おこりつ坊ぽだから」

と、しずんでつぶやくように言った。

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と沈しづんで呟つぶやくやうにいつた。

彼はおぜんの上に散っているごはんつぶを一つ一つつまんで、それからほし納豆も、一つ一つしるわんの中へ入れた。

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彼かれは膳ぜんの上うへに散ちつて居ゐる飯粒めしつぶを一つ/\に撮つまんで、それから干納豆ほしなつとうは此これも一つ/\に汁椀しるわんの中なかへ入いれた。

しるわんは手に取って、わんの腹を左の手に軽く打ちつけるようにして、納豆を平らにした。

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汁椀しるわんは手てに取とつて、椀わんの腹はらを左ひだりの手てに輕かるく打うちつけるやうにして納豆なつとうを平たひらにした。

おつぎは昼ごはんの後で開こん地へ出るとき、おかずのほし納豆をしるわんへ入れて、彼のためにおぜんを置いて行ったのである。

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おつぎは午餐ひるから開墾地かいこんちへ出でる時とき、菜さいにする干納豆ほしなつとうを汁椀しるわんへ入いれて彼かれの爲ために膳ぜんを据すゑて行いつたのである。

与吉はえんりょもなく、そのおぜんに向かったのである。

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與吉よきちは遠慮ゑんりよもなく其その膳ぜんに向むかつたのである。

卯平は飯だいのふたを開けて見たが、暖かみがないので彼はためらった。

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卯平うへいは飯臺はんだいの蓋ふたを開あけて見みたが暖味あたゝかみがないので彼かれは躊躇ちうちよした。

茶がまのふたを取ってみたが、ふたの裏からはだらだらとしずくがたれて、わずかにゆげが立った。

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茶釜ちやがまの蓋ふたをとつて見みたが、蓋ふたの裏うらからはだら/\と滴したゝりが垂たれて僅わづかに水蒸氣ゆげが立たつた。

茶がまは冷めていたのである。

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茶釜ちやがまは冷さめて居ゐたのである。

それほどおなかがすいていない彼は、はしを取るのがいやになった。

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それ程ほどに空腹くうふくを感かんぜぬ彼かれは箸はしを執とるのが厭いやになつた。

彼は体がとても冷えていることに気づいた。

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彼かれは身體からだが非常ひじやうに冷ひえて居ゐることを知しつた。

それに右の手が肩のあたりでこわばったようで、動かし方によってはきゃきゃと痛みを感じた。

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それに右みぎの手てが肩かたのあたりで硬こはばつたやうで動うごかしやうによつてはきや/\と疼痛いたみを覺おぼえた。

彼は病気がそこに集まったのではないかと思った。

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彼かれは病氣びやうきが其處そこに聚あつまつたのではないかと思おもつた。

それがねているあいだの体の置き方で一時おかしくなったのかどうか分からないのに、彼はただ病気のせいだと決めてしまった。

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それが睡眠中すゐみんちうの身體からだの置おきやうで一時じの變調へんてうを來きたしたのだかどうだか分わからないにも拘かゝはらず、彼かれは唯たゞ病氣びやうき故ゆゑだと極きめて畢しまつた。

決めたというより、彼のはかないひがんだ心には、そう考えるよりほかなかったのである。

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極きめたといふよりも彼かれの果敢はかない僻ひがんだ心こゝろにはさう判斷はんだんするより外ほか何なにもなかつたのである。

彼の心は、ひたすら自分をみじめなほうへ考えていれば、それで済んでいたのである。

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彼かれの心こゝろは只管ひたすら自分じぶんを悲慘みじめな方面はうめんに解釋かいしやくして居をればそれで濟すんで居ゐるのであつた。

彼のやつれた体から、その手がひどく自由を失ったように感じられた。

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彼かれの窶やつれた身體からだから其その手てが酷ひどく自由じいうを失うしなつたやうに感かんぜられた。

手は軽くしびれたようになっていた。

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手ては輕かるく痺しびれたやうになつて居ゐた。

彼は冷えた体に暖かさを求めて、茶がまをかけたかまどの前にだるい体をすえてうずくまった。

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彼かれは冷ひえた身體からだに暖氣だんきを欲ほつして、茶釜ちやがまを掛かけた竈かまどの前まへに懶だるい身體からだを据すゑて蹲裾うづくまつた。

彼はさらに、熱いお茶が一ぱい飲みたかったのである。

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彼かれは更さらに熱あつい茶ちやの一杯ぱいが飮のみたかつたのである。

彼はかまどの底にしっとりと落ち着いた灰に近づいて、手をかざしてみた。

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彼かれは竈かまどの底そこにしつとりと落おちついた灰はひに接近せつきんして手てを翳かざして見みた。

まだやわらかく白い灰は、かすかに暖かかった。

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まだ軟やはらかに白しろい灰はひは微かすかに暖あたたかゝつた。

彼はそれから大きなかごの落ち葉をつかみ出して、茶がまの下に突っこんだ。

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彼かれはそれから大籠おほかごの落葉おちばを攫つかみ出だして茶釜ちやがまの下したに突込つゝこんだ。

与吉もそばから小さな手でつかんで投げた。

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與吉よきちも側そばから小ちひさな手てで攫つかんで投なげた。

卯平の足元には、灰をおおって落ち葉が散らばった。

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卯平うへいの足あしもとには灰はひを掩おほうて落葉おちばが散亂さんらんした。

落ち葉は卯平の着物にもついた。

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落葉おちばは卯平うへいの衣物きものにも止とまつた。

卯平は竹の火ばしの先で落ち葉を少しどけるようにして灰をかき立ててみても、火はもうぽっちりともなかったのである。

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卯平うへいは竹たけの火箸ひばしの光さきで落葉おちばを少すこし透すかすやうにして灰はひを掻かき立たてゝ見みても火ひはもうぽつちりともなかつたのである。

彼はそれからマッチをさがしてみたが、どこにも見つからなかった。

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彼かれはそれから燐寸マツチを深さがして見みたが何處どこにも見出みいだされなかつた。

彼は自分のマッチを取りに、せまい戸口へ与吉をやろうとした。

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彼かれは自分じぶんの燐寸マツチを探さがしに狹せまい戸口とぐちへ與吉よきちをやらうとした。

与吉は甘えてことわった。

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與吉よきちは甘あまえて否いなんだ。

彼はどうしても、だるい体を運ばなければならなかった。

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彼かれはどうしても懶だるい身體からだを運はこばねばならなかつた。

卯平の手元は、よほどくるっていた。

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卯平うへいの手てもとは餘程よほど狂くるつて居ゐた。

彼はすっとマッチをすったが、その火は手が落ち葉にとどくまでには、かすかなけむりを立てて消えた。

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彼かれはすつと燐寸マツチを擦すつたが其その火ひは手てが落葉おちばに達たつするまでには微かすかな煙けぶりを立たてゝ消きえた。

マッチはそうして五、六本捨てられた。

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燐寸マツチはさうして五六本ぽん棄すてられた。

与吉はその不自由な手からマッチをうばうようにして、火をつけてみた。

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與吉よきちは其その不自由ふじいうな手てから燐寸マツチを奪うばふやうにして火ひを點つけて見みた。

卯平は与吉のするままにして、丸太のはしを切りはなした腰かけに体をすえて、そのやつれたやわらかな目をしかめていた。

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卯平うへいは與吉よきちのする儘まゝにして、丸太まるたの端はしを切きり放はなした腰掛こしかけに身體からだを据すゑて其その窶やつれた軟やはらかな目めを蹙しかめて居ゐた。

慌てた与吉の手は、その軸の先からむだに毛のようなけむりを立てるばかりだった。

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慌あわてた與吉よきちの手ては其その軸木ぢくぎの先さきから徒いたづらに毛けのやうな煙けぶりを立たてるのみであつた。

彼はじれて、卯平の足元の灰へマッチの箱を投げた。

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彼かれは焦躁じれて卯平うへいの足あしもとの灰はひへ燐寸マツチの箱はこを投なげた。

箱はからりと鳴った。

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箱はこはからりと鳴なつた。

箱の底は、もう見えていたのである。

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箱はこの底そこはもう見みえて居ゐたのである。

卯平は目をしかめたままマッチを取って、またすっとすって、ゆっくりと軸をさかさまにして、その白い軸を包んで燃え上がろうとする小さな火を、かわいた大きな手で包んで、大事そうにのぞいた。

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卯平うへいは目めを蹙しかめた儘まゝ燐寸マツチをとつて復またすつと擦すつて、ゆつくりと軸木ぢくぎを倒さかさにして其その白しろい軸木ぢくぎを包つゝんで燃もえ昇のぼらうとする小ちひさな火ひを枯燥こさうした大おほきな手てで包つゝんで、大事相だいじさうに覗のぞいた。

それがまた二、三度くり返された。

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それが復また二三度ど反覆くりかへされた。

手の内側がぼんやりとして、それからだんだん明るくなって、火はやっと保たれた。

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手ての内側うちがはがぼんやりとしてそれから段々だん/\に明あかるく成なつて火ひは漸やうやく保たもたれた。

茶がまの底にふれるほど突っこまれた落ち葉には、こうして火がつけられた。

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茶釜ちやがまの底そこに觸ふれるばかりに突込つゝこまれた落葉おちばには斯かうして火ひが點つけられた。

落ち葉には灰のきわから、その外側を伝って火がべろべろとわたった。

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落葉おちばには灰際はひぎはから其その外側そとがはを傳つたひて火ひがべろ/\と渡わたつた。

卯平は不自由な手の火ばしで、落ち葉をすかした。

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卯平うへいは不自由ふじいうな手ての火箸ひばしで落葉おちばを透すかした。

火はすばやくその命を取りもどした。

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火ひは迅速じんそくに其その生命せいめいを恢復くわいふくした。

彼らのためにふだんほとんど半分以上をむだに使われているほのおが、かまどの口からめくれて立った。

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彼等かれらの爲ために平生へいぜい殆ほとんど半なかば以上いじやうを無駄むだに使つかはれて居ゐる焔ほのほが竈かまどの口くちから捲まくれて立たつた。

しかしそのよけいにもれて出るほのおが、彼の自由を失ってこおろうとしている手を暖めた。

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然しかし其その餘計よけいに洩もれて出いづる焔ほのほが彼かれの自由じいうを失うしなうて凍こほらうとして居ゐる手てを暖あたゝめた。

彼は横にころがした大きなかごからかさかさとかき出しては、燃えやすい落ち葉を絶え間なく足した。

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彼かれは横よこに轉ころがした大籠おほかごからかさ/\と掻かき出だしては燃もえ易やすい落葉おちばを間斷かんだんなく足たした。

与吉は卯平のそばから、ななめに手を出していた。

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與吉よきちは卯平うへいの側そばから斜なゝめに手てを出だして居ゐた。

卯平は与吉の小さな足の甲へ、そっと手をふれてみた。

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卯平うへいは與吉よきちの小ちひさな足あしの甲かふへそつと手てを觸ふれて見みた。

手も足も、どちらもざらざらとこそばゆかった。

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手ても足あしも孰どつちもざら/\とこそつぱかつた。

与吉はななめに体を置くのが少し窮くつだったのと、小言を言われなければただいたずらをしてみたいのとで、そばのかまどの口へ別に自分で落ち葉の火をつけた。

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與吉よきちは斜なゝめに身みを置おくのが少すこし窮屈きうくつであつたのと、叱言こごとがなければ唯たゞ惡戲いたづらをして見みたいのとで側そばな竈かまどの口くちへ別べつに自分じぶんで落葉おちばの火ひを點つけた。

針金のような火をちらりとつけた落ち葉が、一まい一まいけむりとともに軽くのぼった。

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針金はりがねのやうな火ひをちらりと持もつた落葉おちばの一ひとひら/\が煙けぶりと共ともに輕かるく騰のぼつた。

落ち葉はすぐに白い灰に変わって、さらにいくつかに分かれて、与吉の髪から卯平の白髪に散った。

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落葉おちばは直すぐに白しろい灰はひに化なつて更さらに幾いくつかに分わかれて與吉よきちの頭髮かみから卯平うへいの白髮かみに散ちつた。

けむりの中には、その白い灰が後から後から立ってはまた落ちた。

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煙けぶりの中なかには其その白しろい灰はひが後あとから/\と立たつて落おちた。

与吉はいつも、仲間といっしょに道ばたのかれ芝に火をつけて、それが黒いあとを残してめろめろと燃え広がるのを見るのが、楽しくてならなかった。

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與吉よきちはいつも彼等かれらの伴侶なかまと共ともに路傍みちばたの枯芝かれしばに火ひを點てんじて、それが黒くろい趾あとを残のこしてめろめろと燃もえ擴ひろがるのを見みるのが愉快ゆくわいでならなかつた。

彼はまた、火が野茨の株に燃え移って、そこにしげったちがやを焼いてほのおが一本の柱になると、よろこびとおどろきの入りまじった声を上げて痛快にさけびながら、ついにはそこにこわさが加われば、棒でたたいたり土くれを投げつけたり、または自分たちの着物をぬいでばさりばさりとたたいたりして、その火を消そうと力めるのだった。

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彼かれは又また火ひが野茨のいばらの株かぶに燃もえ移うつつて、其處そこに茂しげつた茅萱ちがやを燒やいて焔ほのほが一條でうの柱はしらを立たてると、喜悦よろこびと驚愕おどろきとの錯雜さくざつした聲こゑを放はなつて痛快つうくわいに叫さけびながら、遂つひには其處そこに恐怖おそれが加くははれば棒ぼうで叩たゝいたり土塊つちくれを擲はふつたり、又または自分等じぶんらの衣物きものをとつてぱさり/\と叩たゝいたりして其その火ひを消けすことに力つとめるのであつた。

すばやく、そして気持ちよく変わっていく火が、彼らのいたずら好きな心をどれほどさそったか知れない。

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迅速じんそくで且かつ壯快さうくわいな變化へんくわを目前もくぜんに見みせる火ひが彼等かれらの惡戲好いたづらずきな心こゝろをどれ程ほど誘導そゝつたか知しれない。

彼は落ち葉をつかんではかまどの口へ投げて、ぼうぼうと燃え上がるほのおに手をかざした。

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彼かれは落葉おちばを攫つかんでは竈かまどの口くちに投とうじてぼうぼうと燃もえあがる焔ほのほに手てを翳かざした。

茶がまがちゅうちゅうと少し音を立てて鳴り出したとき、卯平はかわいたように感じていた喉をうるおそうとして、だるいしりを少し上げて、おぜんの上の茶わんへ手をのばした。

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茶釜ちやがまがちう/\と少すこし響ひゞきを立たてゝ鳴なり出だした時とき卯平うへいは乾ひからびたやうに感かんじて居ゐた喉のどを濕うるほさうとして懶だるい臀しりを少すこし起おこして膳ぜんの上うへの茶碗ちやわんへ手てを伸のばした。

自由の利かない手が、指先で持った茶わんをころりと落とさせた。

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自由じいうを缺かいて居ゐた手てが、爪先つまさきで持もつた茶碗ちやわんをころりと落おとさせた。

茶わんの底に冷たくなっていた少しの水が、土間へぽっちりと落ちてはねた。

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茶碗ちやわんの底そこに冷つめたく成なつて居ゐた少すこしの水みづが土間どまへぽつちりと落おちてはねた。

ごはんつぶもいっしょに散らばった。

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飯粒めしつぶが共ともに散ちらばつた。

彼はまたゆっくりと茶わんを取って、よごれた所を手でこすって、さらに茶がまの熱い湯を注いで、足元の灰へかたむけた。

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彼かれは又また悠長いうちやうに茶碗ちやわんをとつて汚よごれた部分ぶゞんを手てでこすつて、更さらに茶釜ちやがまの熱湯ねつたうを注そゝいで足あしもとの灰はひへ傾まけた。

ふたを取ったので、ほうほうと勢いよく立っているゆげが、ちらちらと白く立って落ちる灰を吸った。

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蓋ふたをとつたのでほう/\と威勢ゐせいよく立たつて居ゐる水蒸氣ゆげがちら/\と白しろく立たつて落おちる灰はひを吸すうた。

彼はやっとしゃくしの手を放して、また茶がまのふたをしたとき、急にぼうっと立ったほのおの音を聞いた。

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彼かれは漸やうやくにして柄杓ひしやくの手てを放はなつて再ふたゝび茶釜ちやがまの蓋ふたをした時とき俄にはかにぼうつと立たつた焔ほのほの聲こゑを聞きいた。

彼が思わず後ろを見たとき、与吉のおどろいた泣き声が耳を打った。

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彼かれが思おもはず後うしろを見みた時とき與吉よきちの驚愕きやうがくから發はつせられた泣なき聲ごゑが耳みゝを打うつた。

さかんな火の柱が、すぐ近くで目をふさいで立っていた。

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熾さかんな火ひの柱はしらが近ちかく目めを掩おほうて立たつて居ゐた。

彼はまたすぐに、はげしい熱を顔いっぱいに感じた。

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彼かれは又また直すぐに激はげしい熱度ねつどを顏かほ一杯ぱいに感かんじた。

火は、どうしたはずみか、横にころがした大きなかごの落ち葉に移っていたのである。

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火ひはどうした機會はずみか横よこに轉ころがした大籠おほかごの落葉おちばに移うつつて居ゐたのである。

与吉は初め、野原のいたずらでやるやり方でその火をたたいて消そうとし、またかき出そうとした。

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與吉よきちは初はじめ野外やぐわいの惡戲あくぎに用もちゐた手段しゆだんを以もつて其その火ひを叩たゝいて消けさうとし又また掻かき出ださうとした。

かわいた落ち葉はすばやく火をさそって彼の横のほおをなめて、彼は思わず声を上げたのである。

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乾燥かんさうした落葉おちばは迅速じんそくに火ひを誘導いうだうして彼かれの横頬よこほゝを舐ねぶつて、彼かれは思おもはず聲こゑを放はなつたのである。

卯平は慌ててまた茶わんを落とした。

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卯平うへいは慌あわてて再ふたゝび茶碗ちやわんを落おとした。

彼はとつぜん、与吉をそばへかきのけた。

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彼かれは突然いきなり與吉よきちを傍かたはらに掻かき退のけた。

彼はそうして無意識に、火になった落ち葉をかき出そうとしたが、自由を失った手のにぶい動きは、その火を消すのに何の役にも立たなかった。

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彼かれはさうして無意識むいしきに火ひに成なつた落葉おちばを掻かき出ださうとして、自由じいうを失うしなうた手ての鈍のろい運動うんどうが其その火ひを消けすに何なんの功果こうくわもなかつた。

彼はほのおのまま、軽い落ち葉のかごを庭へ投げればよかったのである。

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彼かれは焔ほのほの儘まゝに輕かるい落葉おちばの籠かごを庭にはへ投なげればよかつたのである。

強い風は必ずその落ち葉を散らして、火は遠くまで燃えながら走るにしても、切れ切れの落ち葉は広い所ですっかりあとかたもなく、消えてしまわなければならないはずだった。

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疾風しつぷうは必かならず其その落葉おちばを散亂さんらんせしめて、火ひは遠とほく燃もえながら走はしるにしても、片々へんぺんたる落葉おちばは廣ひろい區域くゐきに悉ことごとく其その俤おもかげをも止とゞめないで消滅せうめつして畢しまはねば成ならぬのであつた。

しかしながら、慌てた卯平の手には、こんなかんたんで、しかもいちばんいい方法を取るひまがなかった。

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然しかしながら慌あわてた卯平うへいの手ては此かくの如ごとき簡單かんたんで且かつ最良さいりやうである方法はうはふを執とる暇ひまがなかつた。

火はまた怒って、彼のほおをなめ、彼の手を焼いた。

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火ひは復また怒いかつて彼かれの頬ほゝを舐ねぶり彼かれの手てを燒やいた。

彼の目はくらんだ。

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彼かれの目めは昏くらんだ。

一気に燃え立った落ち葉の火は、それが長くつづかなくても、年老いた卯平の心をうばうには十分すぎた。

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一時じに激げきした落葉おちばの火ひはそれが久ひさしく持續ぢぞくされなくても老衰らうすゐした卯平うへいの心こゝろを奪うばふには餘あまりあつた。

卯平の目がふたたび見えるようになったときには、火はもう天井のはりに積んだ藁たばの、乱れてのぞいているほ先を伝ってのぼった。

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卯平うへいの視力しりよくが再ふたゝび恢復くわいふくした時ときには火ひは既すでに天井てんじやうの梁はりに積つんだ藁束わらたばの、亂みだれて覗のぞいて居ゐる穗先ほさきを傳つたひて昇のぼつた。

火はかわいた藁たばのまわりをなめて、さらにそのほのおがうす暗い家の中からのがれようとして、屋根裏をはった。

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火ひは乾燥かんさうした藁束わらたばの周圍しうゐを舐ねぶつて、更さらに其その焔ほのほが薄闇うすぐらい家いへの内うちから遁のがれようとして屋根裏やねうらを偃はうた。

それがすばやい火の力の、一しゅんのはたらきだった。

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それが迅速じんそくな火ひの力ちからの瞬間しゆんかんの活動くわつどうであつた。

なめた火はさらにこれをかんで、ずたずたにくずれた藁たばはその火を持ったまま、もう勢いのおさまった落ち葉の上にばらばらと乱れ落ちて、そこでまた火の勢いがよみがえった。

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舐ねぶつた火ひは更さらに此これを噛かんでずた/\に崩壞ほうくわいした藁束わらたばは其その火ひを保たもつた儘まゝ既すでに其その勢いきほひを沈しづめた落葉おちばの上うへにばら/\と亂みだれ落おちて其處そこに復また火勢くわせいが恢復くわいふくされた。

ぼんやりして我を忘れていた卯平は、藁の火をあびた。

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惘然ばうぜんとして自失じしつして居ゐた卯平うへいは藁わらの火ひを浴あびた。

彼が慌てて戸口へ逃げ出したとき、火はもう赤い天井を作っていた。

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彼かれは慌あわてゝ戸口とぐちへ遁にげ出だした時とき火ひは既すでに赤あかい天井てんじやうを造つくつて居ゐた。

けむりは四方からのきを伝って、むくむくと走っていた。

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煙けぶりは四方はうから檐のきを傳つたひてむく/\と奔はしつて居ゐた。

へびの舌のようにべろべろと、ほのおがはき出された。

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蛇へびの舌したの如ごとくべろ/\と焔ほのほが吐はき出だされた。

ふき募っている強い風は、すぐにその赤い舌をふきねじ切ろうとした。

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吹ふき募つのつて居ゐる疾風しつぷうは直すぐに其その赤あかい舌したを吹ふき拗切ちぎらうとした。

後から後から勢いを増してはき出すけむりやほのおは、ほのように押しなびかされた。

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後あとから/\と勢力せいりよくを加くはへて吐はき出だす煙けぶりや焔ほのほは穗ほの如ごとく壓おし靡なびかされた。

火はまたたく間に、ところどころ落ちくぼんだやつれた屋根をすっかり包んでしまった。

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火ひは瞬間しゆんかんに處々ところ/″\落おち窪くぼんで窶やつれた屋根やねを全まつたく包つゝんで畢しまつた。

卯平は数分前には思いもしなかったこの大変なできごとに気づいたとき、ほとんど気を失って庭にたおれた。

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卯平うへいは數分時すうふんじの前まへに豫期よきしなかつた此この變事へんじを意識いしきした時とき殆ほとんど喪心さうしんして庭にはに倒たふれた。

土のかたまりのように動かない彼の体からは、あわれにかすかなけむりが立って、地面をはって消えた。

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土塊どくわいの如ごとく動うごかぬ彼かれの身體からだからは憐あはれに微かすかな煙けぶりが立たつて地ちを偃はうて消きえた。

藁の火をあびたとき、その火がぼろぼろの彼の着物をこがしたのである。

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藁わらの火ひを沿あびた時とき其その火ひが襤褸ぼろな彼かれの衣物きものを焦こがしたのである。

しかしその火は、おきゅうのようなあとをぽつぽつと残しただけで、着物の芯まで深くはこがさなかった。

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然しかし其その火ひは灸きうの如ごとき跡あとをぽつ/\と止とゞめたのみで衣物きものの心部しんぶは深ふかく噛かまなかつた。

ほこりは彼をこえて走った。

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埃ほこりは彼かれを越こえて走はしつた。

与吉はやけどの痛みをうったえて、独り悲しく泣いた。

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與吉よきちは火傷やけどの疼痛とうつうを訴うつたへて獨ひとり悲かなしく泣ないた。

強い風はその力をさえぎって包んだほのおをかきのけようとして、その余った力が屋根のふき草をふきまくった。

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疾風しつぷうは其その威力ゐりよくを遮さへぎつて包つゝんだ焔ほのほを掻かき退のけようとして其その餘力よりよくが屋根やねの葺草ふきぐさを吹ふき捲まくつた。

火はすぐにそのすきまにかみついて、ますますそこで力を強くした。

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火ひは直たゞちに其その空隙くうげきに噛かみ入いつて益ます/\其處そこに力ちからを逞たくましくした。

そそり立って空へかけ上がろうとするほのおを横に押しつけ押しつけ、強い風はついにかたまりのような火の粉をつかんで投げた。

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聳然すつくりと空そらに奔騰ほんたうしようとする焔ほのほを横よこに壓おしつけ/\疾風しつぷうは遂つひに塊かたまりの如ごとき火ひの子こを攫つかんで投なげた。

そのつぶては、ゆらりゆらりとだけ動いている東どなりの森の木がふわりと受け止めてさえぎった。

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其その礫つぶてはゆらり/\とのみ動うごいて居ゐる東隣ひがしどなりの森もりの木きがふはりと受うけて遮斷しやだんした。

ただ一か所、三角測量台の見通しのじゃまになるといって切り払われたすきまが、それを通した。

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只たゞ一部ぶ、三角測量臺かくそくりやうだいの見通みとほしに障さはる爲ために切きり拂はらはれた空隙すきがそれを導みちびいた。

火の粉は、東どなりの主人の屋根のすみにどさりと落ちた。

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火ひの子こは東隣ひがしどなりの主人しゆじんの屋根やねの一角かくにどさりと止とまつた。

勘次の家を包んだ火は、屋根裏のすす竹を一度にはぜさせて、鉄ぽうのような音を立てた。

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勘次かんじの家いへを包つゝんだ火ひは屋根裏やねうらの煤竹すゝたけを一時じに爆破ばくはさせて小銃せうじうの如ごとき響ひゞきを立たてた。

その音は近所の人たちをおどろかせた。

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其その響ひゞきは近所きんじよの耳みゝを驚おどろかした。

その人たちがかけつけたときには、屋根のむねはどさりと落ちて、強い風にも負けず空中はるかにほのおを上げた。

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其その人々ひと/″\が驅かけつけた時ときは棟むねはどさりと落おちて、疾風しつぷうの力ちからを凌しのいで空中くうちう遙はるかに焔ほのほを揚あげた。

そのときにはもう、東どなりの主人の家を火がべろべろとなめはじめていたのである。

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其その時ときは既すでに東隣ひがしどなりの主人しゆじんの家いへを火ひがべろ/\と甞なめつゝあつたのである。

村の人が万能ぐわやとび口を持って集まったときには、火はすさまじい勢いになっていた。

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村落むらの者ものが萬能まんのうや鳶口とびぐちを持もつて集あつまつた時ときは火ひは凄すさまじい勢いきほひを持もつて居ゐた。

それでも大きな建物を焼きつくすには時間がかかった。

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それでも大おほきな建物たてものを燒盡せうじんするには時間じかんを要えうした。

そのあいだに村の人は手当たりしだいに家財道具を持って、安全な場所へ移した。

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其その間あひだに村落むらの者ものは手當てあたり次第しだいに家財かざいを持もつて其それを安全あんぜんの地位ちゐに移うつした。

その点では、真昼の作業は早く、そしてやりやすかった。

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其その點てんに於おいて白晝はくちうの動作どうさは敏活びんくわつで且かつ容易よういであつた。

家財道具が門の外に運ばれたとき、火の勢いはもうすべての物が近づくのをゆるさなかった。

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家財道具かざいだうぐが門もんの外そとに運はこばれた時とき火勢くわせいは既すでに凡すべての物ものの近ちかづくことを許容ゆるさなかつた。

家をかこんで、東にもすぎの高い木が立っていた。

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家いへを圍かこんで東ひがしにも杉すぎの喬木けうぼくが立たつて居ゐた。

森のえだの上にはるかに立ちのぼろうとして、次第に勢いを増すほのおを、強い風はぐるりとかこんだ高い木のえだからごうっと押しつけ押しつけふき下ろした。

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森もりの梢こずゑの上うへに遙はるかに立たち騰のぼらうとして次第しだいに其その勢いきほひを加くはへる焔ほのほを、疾風しつぷうはぐるりと包つゝんだ喬木けうぼくの梢こずゑからごうつと壓おしつけ壓おしつけ吹ふき落おちた。

ほのおはななめに、そしてかたむきながら、人々の耳には風の音を消して、ごうごうと鳴りつづいた。

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焔ほのほは斜なゝめにさうして傾かたむきつゝ、群集ぐんしふの耳みゝには疾風しつぷうの響ひゞきを奪うばつて轟々ぐわう/\と鳴なり續つづいた。

ふき下ろす風にさからって力を強くしようとするほのおは、深く木材の芯までしっかりとつめを引っかけた。

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吹ふき落おとす疾風しつぷうに抵抗ていこうして其その力ちからを逞たくましくしようとする焔ほのほは深ふかく木材もくざいの心部しんぶにまで確乎しつかと爪つめを引ひつ掛かけた。

そしてそのほのおは、近くにそびえたすぎのえだから小えだへかけてつめ先で引っかいた。

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さうして其その焔ほのほは近ちかく聳そびえた杉すぎの梢こずゑから枝えだへ掛かけて爪先つまさきで引ひつ掻かいた。

そのたびにすぎは針葉樹らしく、やにの多い葉がばりばりとすさまじく鳴って焼けた。

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其その度たびに杉すぎは針葉樹しんえふじゆの特色とくしよくを現あらはして樹脂やに多おほい葉はがばり/\と凄すさまじく鳴なつて燒やけた。

屋根裏の竹がはぜた。

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屋根裏やねうらの竹たけが爆破ばくはした。

消火に来た人たちは、ほとんど皮膚を焼かれるような熱さをおそれて、だんだん遠ざかった。

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消防せうばうの群集ぐんしふは殆ほとんど皮膚ひふを燒やかれるやうな熱あつさを怖おそれて段々だん/\遠とほざかつた。

小さなポンプは、そのさかんなほのおの前でただ一本の細く短い曲がった白い線をえがくだけで、何の効き目も見えなかった。

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小ちひさな喞筒ポンプは其その熾さかんな焔ほのほの前まへに只ただ一條でうの細ほそい短みじかい彎曲わんきよくした白しろい線せんを描ゑがくのみで何なんの功果こうくわも見みえなかつた。

ほかの村の人々が聞き伝えて田んぼや林をこえて、そのあいだにそれぞれ体力を使いながらかけつけるまでには、大きなむねが熱い火を四方にあおって落ちた。

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他たの村落むらの人々ひと/″\が聞きき傳つたへて田圃たんぼや林はやしを越こえて、其その間あひだに各自かくじの體力たいりよくを消耗せうまうしつゝ驅かけつけるまでには大おほきな棟むねは熱火ねつくわを四方はうに煽あふつて落おちた。

強い風がこれを押しつけて、まわりの高い木のえだがほかとへだてて、真昼の明るさがその光をうばおうとしているので、空に立って見えるのは遠いようで、近いようで、一種のすさまじさをふくんだけむりである。

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疾風しつぷうの力ちからが此これを壓おしつけて、周圍しうゐの喬木けうぼくの梢こずゑが他たと隔へだてゝ白晝はくちうの力ちからが其その光ひかりを奪うばはうとして居ゐるので、空そらに立たつて見みえるのは遠とほいやうで且かつ近ちかいやうで一種しゆの凄慘せいさんな氣きを含ふくんだ煙けぶりである。

それでも高い木のえだの上に、火はおさえつけられて苦しんでいるようにまれに立ちのぼっては、また押しつけられた。

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それでも喬木けうぼくの梢こずゑの上うへに火ひは壓迫あつぱくに苦くるしんで居ゐるやうに稀まれに立たち騰のぼつては又また壓おしつけられた。

役に立たないポンプへ人々は水をくむのに、近所のあらゆる井戸はみなつるべが底にとどかなくなった。

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徒勞むだである喞筒ポンプへ群集ぐんしふは水みづを汲くむのに近所きんじよの有あらゆる井戸ゐどは皆みな釣瓶つるべが屆とゞかなくなつた。

人々はただごうごうと、乱れた音の中でさわぎに満ちていた。

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群集ぐんしふは唯たゞ囂々がう/\として混亂こんらんした響ひゞきの中なかに騷擾さうぜうを極きはめた。

火の力はこうして、まわりの村までも一つに吸いよせた。

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火ひの力ちからは此かくの如ごとくにして周圍しうゐの村落そんらくをも一つに吸收きふしうした。

しかしながら、その人たちは勘次の庭をかえりみようとはしなかった。

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然しかしながら、其その群集ぐんしふは勘次かんじの庭にはを顧かへりみようとはしなかつた。

黄茶色のきりで四方をふさがれながら、ひたすらくわを打っていた勘次は、田んぼをわたって林をこえて遠くへ行っていた。

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黄褐色くわうかつしよくの霧きりを以もつて四圍ゐを塞ふさがれつゝ只管ひたすらに其その唐鍬たうぐはを打うつて居ゐた勘次かんじは田圃たんぼを渡わたつて林はやしを越こえて遠とほく行いつて居ゐた。

彼はこの大変なできごとを知るすべがなかった。

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彼かれは此この凶事きようじを知しる理由わけがなかつた。

開こん地に近い細い道を走って行く人のあわただしいようすを見て、彼は初めてその火を知った。

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開墾地かいこんちに近ちかい小徑こみちを走はしつて行ゆく人ひとの慌あわたゞしい容子ようすを見咎みとがめて彼かれは始はじめて其その火ひを知しつた。

それが東どなりの主人の家で起きたことを聞かされて、彼はおつぎをせかして立った。

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それが東隣ひがしどなりの主人しゆじんの家いへに起おこつたことを聞きかされて彼かれはおつぎを促うながして立たつた。

彼は走り出そうとして、そのしっかり立っていた場所から一歩ふみ出したとき、じゃりっとつま先に当たってさいふが落ちた。

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彼かれは疾驅しつくしようとして、其その確乎しつかと身みを据すゑた位置ゐちから一歩ぽを踏ふみ出だした時とき、じやりつと其その爪先つまさきを打うつて財布さいふが落おちた。

彼がふり返ったとき、さいふは二、三歩後ろに見つかった。

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彼かれが顧かへりみた時とき財布さいふは二三歩ぽ後うしろに發見はつけんされた。

彼はかんたんな三尺帯を解いて、ぎりっとそこに大きなかたまりのような結び目を作って、そのさいふを包んだ。

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彼かれは簡單かんたんな三尺帶じやくおびを解といて、ぎりつと其處そこに大おほきな塊かたまりのやうな結むすび目めを作つくつて其その財布さいふを包つゝんだ。

彼はほとんど足の力のかぎり走った。

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彼かれは殆ほとんど其その脚力きやくりよくの及およぶ限かぎり走はしつた。

彼はおつぎが後についてこないことを気にするひまもなかった。

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彼かれはおつぎが後うしろに續つゞかぬことを顧慮こりよする暇いとまもなかつた。

彼は主人のことを思ったのである。

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彼かれは其その主人しゆじんを懷おもつたのである。

勘次は後ろの田んぼへ出たとき、きりのようなほこりをへだてて主人の家の森から上がるさかんなけむりを見て、今さらのようにおそろしくなった。

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勘次かんじは後うしろの田圃たんぼへ出でた時とき霧きりの如ごとき埃ほこりを隔へだてゝ主人しゆじんの家いへの森もりから騰のぼる熾さかんな煙けぶりを見みて今更いまさらの如ごとく恐怖きようふした。

彼はまたふと、自分の後ろの林に少し見えていた自分の家のむねが見えないのに、心をさわがせた。

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彼かれは又またふと自分じぶんの後うしろの林はやしに少すこし見みえて居ゐた自分じぶんの家いへの棟むねが見みえないのに其その心こゝろを騷さわがせた。

少しも力をゆるめない強い風は、雑木にまじった竹のえだを低く、さらに低くふきなびかせているけれど、むねはどうしても見えなかった。

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毫がうも其その力ちからを落おとさぬ疾風しつぷうは雜木ざふきに交まじつた竹たけの梢こずゑを低ひくくさうして更さらに低ひくく吹靡ふきなびけて居をれど棟むねはどうしても見みえなかつた。

彼はまたけむりが糸のように、しかもすさまじく自分の林のあたりから立っては押しつけられるのを見た。

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彼かれは又また煙けぶりが絲いとの如ごとく然しかも凄すさまじく自分じぶんの林はやしの邊あたりから立たつては壓おしつけられるのを見みた。

彼が自分の庭に立ったときには、古いすすだらけのそまつな家は焼きつくされて、太い木材がわずかにほのおをはいて立っている。

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彼かれが自分じぶんの庭にはに立たつた時ときは、古ふるい煤すゝだらけの疎末そまつな建築けんちくは燒盡やきつくして主要しゆえうの木材もくざいが僅わづかに焔ほのほを吐はいて立たつて居ゐる。

火はまだしつこく木材の芯をかんでいる。

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火ひは尚なほ執念しふねく木材もくざいの心部しんぶを噛かんで居ゐる。

何でもふき払わなければ止まないという強い風は、赤いうずみ火を包む白い灰を、少しの間も置かずにふきまくった。

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何物なにものをも吹ふき拂はらはねば止やむまいとする疾風しつぷうは、赤あかい煨おきを包つゝむ白しろい灰はひを寸時すんじの猶豫いうよをも與あたへないで吹ふき捲まくつた。

芯をかまれつつある木材は、赤い歯を食いしばったような数えきれないひび割れが、火とけむりをはいていた。

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心部しんぶを噛かまれつゝある木材もくざいは赤あかい齒はを喰くひしばつたやうな無數むすうの罅ひゞが火ひと煙けぶりとを吐はいて居ゐた。

勘次はほとんどぼんやりとして、この急な変わりようを見た。

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勘次かんじは殆ほとんど惘然ばうぜんとして此この急激きふげきな變化へんくわを見みた。

彼は足元がよろけるほど、強い風に突かれた。

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彼かれは足あしもとが踉蹌よろける程ほど疾風しつぷうの手てに突つかれた。

彼は庭に立って泣いている与吉を見た。

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彼かれは庭にはに立たつて泣ないて居ゐる與吉よきちを見みた。

与吉の横のほおについたやけどが、彼の乱れた心をさわがせた。

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與吉よきちの横頬よこほゝに印いんした火傷やけどが彼かれの惑亂わくらんした心こゝろを騷さわがせた。

勘次はまた、そのそばに目を閉じて後ろ向きになっている卯平を見た。

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勘次かんじは又また其その側そばに目めを瞑つぶつて後向うしろむきに成なつて居ゐる卯平うへいを見みた。

卯平は、いつのまにかだれがそうしたのか、むしろの上に横たえられていた。

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卯平うへいは何時いつの間まに誰たれがさうしたのか筵むしろの上うへに横よこたへられてあつた。

彼は少ない白髪を焼かれたやけどのあたりを、手でおおっていた。

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彼かれは少すくない白髮しらがを薙なぎ拂はらつて燒やいた火傷やけどのあたりを手てで掩おうて居ゐた。

「お前はどうしたんだ」

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「汝わりやどうしたんだ」

勘次はいそいで聞いた。

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勘次かんじは忙せわしく聞きいた。

「木の葉へ火がくっついたんだ」

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「木きの葉はへ火ひいくつゝえたんだ」

与吉はむせびながら言った。

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與吉よきちは咽むせび入いりながらいつた。

「お前がいたずらしたんじゃないか」

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「汝われでも惡戲いたづらしたんぢやねえか」

勘次はもどかしそうにはげしく問いつめた。

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勘次かんじは遲緩もどかしげに烈はげしく追求つゐきうした。

「おれは爺さんと火に当たってたんだ。そうしたらくっついたんだ」

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「俺おら爺ぢいと火ひいあたつてたんだ、さうしたらくつゝかつたんだ」

そう言って、与吉は急に声を上げて泣いた。

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さういつて與吉よきちは俄にはかに聲こゑを放はなつて泣ないた。

彼は何のためにそんなに悲しくなったのか、まだ幼い彼自身にも分からなかった。

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彼かれは何なんの爲ためにさう悲かなしくなつたのか寧むしろ頑是ぐわんぜない彼自身かれじしんには分わからなかつた。

彼はただなみだがこみ上げて、止めどもなく悲しく、しみじみと泣きつづけた。

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彼かれは只たゞ涙なみだがこみあげて止とめ處どもなく悲かなしくさうしてしみ/″\と泣なき續つゞけた。

勘次はそれを聞いた瞬間、肩のくわをころがしてぶつりと土を打った。

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勘次かんじはそれを聞きいた瞬間しゆんかん肩かたの唐鍬たうぐはを轉ころがしてぶつりと土つちを打うつた。

くわの刃先は、卯平の頭の近くのむしろのはしをかすめて、深く土に立った。

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唐鍬たうぐはの刄先はさきは卯平うへいの頭あたまに近ちかく筵むしろの一端たんを掠かすつて深ふかく土つちに立たつた。

彼はそれから、焼きつくされていっぱいのうずみ火になった自分の家の近くへかけ寄った。

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彼かれはそれから燒盡やきつくして一杯ぱいの煨おきになつた自分じぶんの家うちに近ちかく駈かけ寄よつた。

彼は火のおそろしい熱さを感じて、しばらくためらって立った。

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彼かれは火ひの恐おそろしい熱度ねつどを感かんじて少時しばし躊躇ちうちよして立たつた。

後ろの林の、ややうなだれた竹の外側がぐるりと焼かれて色が変わっていたのが、彼の目に映った。

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後うしろの林はやしの稍やゝ俛首うなだれた竹たけの外側そとがはがぐるりと燒やかれて變色へんしよくして居ゐたのが彼かれの目めに映えいじた。

それとともに彼は、となりの森の中で人々がごうごうとさわぐのを耳にして、自分が今何のために走って来たのかに気づいた。

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それと共ともに彼かれは隣となりの森もりの中なかの群集ぐんしふの囂々がう/\と騷さわぐのを耳みゝにして自分じぶんが今いま何なんの爲ために疾走しつそうして來きたかを心こゝろづいた。

しかし彼はもう、その人たちにまじって主人の災難を助けに行く気は起こらなかった。

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然しかし彼かれはもう其その群集ぐんしふの間あひだに交まじつて主人しゆじんの災厄さいやくに赴おもむく心こゝろは起おこらなかつた。

彼はその人たちの声を聞いて、自分では気づかないおさえつけを感じた。

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彼かれは其その群集ぐんしふの聲こゑを聞きいて、自みづから意識いしきしない壓迫あつぱくを感かんじた。

彼はひどく、自分のあわれでみじめなすがたに泣きたくなった。

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彼かれは酷ひどく自分じぶんの哀あはれつぽい悲慘みじめな姿すがたを泣なきたくなつた。

彼は走った後のひどいつかれを感じた。

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彼かれは疾走しつそうした後あとの異常いじやうな疲勞ひらうを感かんじた。

彼は自分の焼けあとをかき回そうとしたが、とび口も万能ぐわもみなその火の中に包まれてしまっていた。

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彼かれは自分じぶんの燒趾やけあとを掻かき立たてようとするのに鳶口とびぐちも萬能まんのうも皆みな其その火ひの中なかに包つゝまれて畢しまつて居ゐた。

彼は素手だった。

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彼かれは空手からてであつた。

くわを取って、彼はまた熱い火のそばに立った。

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唐鍬たうぐはを執とつて彼かれは再ふたゝび熱あつい火ひの側そばに立たつた。

熱さにたえられない火のそばを、彼は飛びのいてまた立った。

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熱あつさに堪たへぬ火ひの側そばを彼かれは飛とび退すさつて又また立たつた。

彼はその刃先がにぶくなるのを考えるひまもなくくわで、まだ立っている木材を引っかけてたおそうとした。

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彼かれは其その刃先はさきの鈍にぶく成なるのを思おもふ暇いとまもなく唐鍬たうぐはで、また立たつて居ゐる木材もくざいを引ひつ掛かけて倒たふさうとした。

おつぎはおくれて、やっとかきねの入口に立った。

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おつぎは後おくれて漸やうやく垣根かきねの入口いりくちに立たつた。

おつぎはもう、自分の家がないことを知った。

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おつぎはもう自分じぶんの家うちが無ないことを知しつた。

貧しい暮らしの中から数年かけてやっとたくわえた何まいかの着物が、もう一きれも残っていないことを知って、心の中で悲しんだ。

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貧窮ひんきうな生活せいくわつの間あひだから數年來すうねんらい漸やうやく蓄たくはへた衣類いるゐの數點すうてんが既すでに其その一片ぺんをも止とゞめないことを知しつてさうして心こゝろに悲かなしんだ。

汗がびっしりと髪の生えぎわをぬらして、つかれきった体を、おつぎはしばらくぼんやりと庭に立てた。

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汗あせがびつしりと髮かみの生際はえぎはを浸ひたして疲憊ひはいした身體からだをおつぎは少時しばし惘然ぼんやりと庭にはに立たてた。

おつぎはそれからまた、泣いている与吉と、なきがらのように横たわっている卯平を見た。

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おつぎはそれから又また泣ないて居ゐる與吉よきちと死骸しがいの如ごとく横よこたはつて居ゐる卯平うへいとを見みた。

おつぎは万能ぐわを置いて、与吉のやけどした頭をそっとだいた。

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おつぎは萬能まんのうを置おいて與吉よきちの火傷やけどした頭部とうぶをそつと抱いだいた。

与吉はまたなみだがこみ上げて、むせびながらしみじみと悲しげに泣いた。

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與吉よきちは復また涙なみだがこみあげて咽むせびながらしみ/″\と悲かなしげに泣ないた。

その声は、聞く人をただ泣きたくさせた。

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其その聲こゑは聞きくものを只たゞ泣なきたくさせた。

つかれたおつぎの目には、ふっとなみだがうかんだ。

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疲つかれたおつぎの目めにはふつと涙なみだが泛うかんだ。

おつぎはまた、手でおさえた卯平の頭にうたがいの目を向けて、二人の悲しいしるしに思い当たった。

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おつぎは又また手てで抑おさへた卯平うへいの頭部とうぶに疑うたがひの目めを注そゝいで、二人にんの悲かなしむべき記念かたみにおもひ至いたつた。

おつぎは、そのわけを問いつめて聞こうとはしなかった。

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おつぎは其その原因げんいんを追求つゐきうして聞きかうとはしなかつた。

おつぎはしみじみと与吉を心の中でいたわって、さらに「爺さん」

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おつぎはしみ/″\と與吉よきちを心こゝろに勦いたはつて更さらに、「爺ぢい」

と、卯平のむしろに近づいてそっとひざをついた。

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と卯平うへいの蓆むしろに近ちかづいてそつと膝ひざをついた。

ふだんのおつぎは、勘次とのあいだをつなごうとする苦心からの甘えた言葉が、卯平の心にとどくのだった。

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平生いつものおつぎは勘次かんじとの間あひだを繋つながうとする苦心くしんからの甘あまえた言辭ことばが卯平うへいの心こゝろに投とうずるのであつた。

今、おつぎの心の中には何の計算もなかった。

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現在いまおつぎの心裏しんりには何なんの理窟りくつもなかつた。

ただしみじみと悲しい、いたわしい心からの言葉が、自然にその口から出るのだった。

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只たゞしみ/″\と悲かなしい痛いたはしい心こゝろからの言辭ことばが自然しぜんに其その口くちから出でるのであつた。

おつぎは、まだ燃えている火を忘れたように卯平をこえてのぞいた。

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おつぎは未まだ燃もえてる火ひを忘わすれたやうに卯平うへいを越こえて覗のぞいた。

卯平はおつぎの声が耳に入ったので、後ろを向こうとしてわずかに目を開いた。

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卯平うへいはおつぎの聲こゑが耳みゝに入はひつたので後うしろを向むかうとして僅わづかに目めを開あいた。

地面をかすめて走っているほこりが彼のほおを打って、彼の横たえた体をこえた。

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地ちを掠かすつて走はしりつゝある埃ほこりが彼かれの頬ほゝを打うつて彼かれの横よこたへた身體からだを越こえた。

彼はすぐに元のように目を閉じた。

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彼かれは直すぐに以前もとの如ごとく目めを閉とぢた。

「爺さんもやけどしたのか」

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「爺ぢいも火傷やけどしたのか」

おつぎは静かに言って、卯平の手をそっとどけて、左の横のほおについたやけどを見た。

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おつぎは靜しづかにいつて卯平うへいの手てをそつと退のけて左ひだりの横頬よこほゝに印いんした火傷やけどを見みた。

「痛いか。そんでもたいしたこともないから、心配するなよ」

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「痛えてえか、そんでもたえしたこともねえから心配しんぺえすんなよ」

おつぎは、火に焼かれた汚い卯平の白髪へ、そっと手を当てた。

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おつぎは火ひに薙なぎ拂はらはれた穢きたない卯平うへいの白髮しらがへそつと手てを當あてた。

卯平はおつぎのするままに任せて、少し口を動かすようだったが、またごうっとふきつける風にじゃまされた。

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卯平うへいはおつぎのする儘まゝに任まかせて少すこし口くちを動うごかすやうであつたが、又またごつと吹ふきつける疾風しつぷうに妨さまたげられた。

おつぎはとなりの庭のさわぎを聞いた。

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おつぎは隣となりの庭にはの騷擾さうぜうを聞きいた。

しかもそのいろいろなさけびがまじって聞こえる声が、自分の心の芯から何かを引っつかんで行くようで、自然にそれへ耳をすますと、なんだかやるせないようなはかなさを感じてなみだが落ちた。

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然しかも其その種々いろ/\な叫さけびの錯雜さくざつして聞きこえる聲こゑが自分じぶんの心部むねから或ある物ものを引ひつ攫つかんで行ゆくやうで、自然しぜんにそれへ耳みゝを澄すますと何なんだか遣やる瀬せのないやうな果敢はかなさを感かんじて涙なみだが落おちた。

なみだは卯平の白髪にしたたった。

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涙なみだは卯平うへいの白髮しらがに滴したゝつた。

おつぎが気づいたとき、勘次はむだに、そして発作のように汗を流して動いているのが見えた。

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おつぎが心こゝろづいた時とき勘次かんじは徒いたづらにさうして發作的ほつさてきに汗あせを垂たらして動うごいて居ゐるのを見みた。

おつぎの心もはっと、まだ燃えている火に向いた。

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おつぎの心こゝろも屹きつとして未まだ燃もえつゝある火ひに移うつつた。

おつぎは急に自分の万能ぐわを取って、勘次の手ににぎらせた。

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おつぎは俄にはかに自分じぶんの萬能まんのうを執とつて勘次かんじの手てに攫つかませた。

勘次は初めて気づいて、熱くなったくわを冷やそうとして井戸ばたへ走った。

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勘次かんじは始はじめて心こゝろづいて、熱ねつした唐鍬たうぐはを冷ひやさうとして井戸端ゐどばたへ走はしつた。

かぎの手をはなれたつるべは、高く空中にうかんでゆっくりと大きく動いていた。

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鍵かぎの手てを離はなれた釣瓶つるべは高たかく空中くうちうに浮うかんでゆつくりと大おほきく動うごいて居ゐた。

彼は流しのはしにずぶりとくわを投げこんで、また万能ぐわを取った。

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彼かれは流ながし尻じりにずぶりと唐鍬たうぐはを投とうじて又また萬能まんのうを執とつた。

一日ふいた強い風がぱたりと力を落としたら、日が西の空の土手のような雲のはしの近くにすわって、次第にしずみながらまたたいた。

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一日にち吹ふいた疾風しつぷうが礑はたと其その力ちからを落おとしたら、日ひが西にしの空そらの土手どてのやうな雲くもの端はしに近ちかく据すわつて漸次だん/\に沒却ぼつきやくしつゝ瞬またゝいた。

その一しゅん、強い光が横から東の森の高い木をさびた橙色に染めて、さらにその光はすきまを遠くまでずっと手をのばした。

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其その一瞬時しゆんじ強烈きやうれつな光ひかりが横よこに東ひがしの森もりの喬木けうぼくを錆さびた橙色だい/″\いろに染そめて、更さらに其その光ひかりは隙間すきまを遠とほくずつと手てを伸のばした。

冷たく、そしてうす暗くなるにつれて、焼けあとの火がまわりを明るくした。

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冷つめたく且かつ薄闇うすぐらく成なるに從したがつて燒趾やけあとの火ひが周圍しうゐを明あかるくした。

となりの火はほんのりと空をぼかした。

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隣となりの火ひはほんのりと空そらをぼかした。

となりの庭には、自分の村からほかの村から、手おけや飯だいに入れたおにぎりがたくさん運ばれた。

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隣となりの庭にはには自分じぶんの村落むらから他たの村落むらから手桶てをけや飯臺はんだいへ入いれた握にぎり飯めしが數多かずおほく運はこばれた。

消火に力をつくした人々は、白いおにぎりをむさぼった。

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消防せうばうに力ちからを竭つくした群集ぐんしふは白しろい握飯にぎりめしを貪むさぼつた。

人々はさらに、ころ合いを見てはぐらぐらと柱を突きたおそうとした。

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群集ぐんしふは更さらに時分じぶんを見計みはからつてはぐら/\と柱はしらを突つき倒たふさうとした。

丈夫な柱は、まだ火の勢いがあたりを遠ざけて、しっかりと立っていた。

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丈夫ちやうぶな柱はしらはまだ火勢くわせいがあたりを遠とほざけて確乎しつかと立たつて居ゐた。

ほかの村の人々は、次第に帰って行った。

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他たの村落むらの人々ひと/″\は漸次だんだんに歸かへり去さつた。

自分の村の人々は、交代で残ってさかんな火の番をした。

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自村むらの人々ひと/″\は交代かうたいに残のこつて熾さかんな火ひの番ばんをした。

帰る人々がそのついでに勘次の庭へあいさつに立ち寄っただけで、南の家からざるに入れたおにぎりが来ただけだった。

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歸かへり行ゆく人々ひと/″\が其その序ついでに勘次かんじの庭にはに挨拶あいさつに立たつたのみで、南みなみの家いへから笊ざるへ入いれた握飯にぎりめしが來きた丈だけであつた。

彼はそれでも、そのおかげでおなかをすかさずに済んだ。

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彼かれはそれでも其その爲ために空腹くうふくを遁のがれた。

となりの主人からは、しばらくしてその集まったおにぎりの手おけを二つ三つ持たせてよこした。

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隣となりの主人しゆじんからは暫しばらくして其その集あつまつた握にぎり飯めしの手桶てをけを二つ三つ持もたせてよこした。

夜になってから、近所の人の手で卯平は念仏寮へ運ばれた。

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夜よに成なつてから近所きんじよの者ものの手てで卯平うへいは念佛寮ねんぶつれうへ運はこばれた。

勘次は卯平を乗せた荷車を引いた。

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勘次かんじは卯平うへいを乘のせた荷車にぐるまを曳ひいた。

彼はそれからとなりの主人へあいさつに出たが、自分の喉の底で何か言って逃げるように帰った。

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彼かれはそれから隣となりの主人しゆじんへ挨拶あいさつに出でたが、自分じぶんの喉のどの底そこで物ものをいうて逃にげるやうに歸かへつた。

彼はその夜は、三人でこおった空の下、焼けあとの火の気をたよりに明かした。

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彼かれは其その夜よは三人にんが凍こほつた空そらを戴いたゞいて燒趾やけあとの火氣くわきを手頼たよりに明あかした。

卯平を横たえたむしろは、だれも取りには来なかった。

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卯平うへいを横よこたへた筵むしろは誰たれも取とりには來こなかつた。

むしろは三人にすわる場所を与えた。

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筵むしろは三人にんに席せきを與あたへた。

勘次は火事のわけについて、与吉からはっきりしたことを聞き出せなかった。

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勘次かんじは失火しつくわに就ついて與吉よきちから要領えうりやうを得えなかつた。

しかしながら、彼の悲しみと怒りにたえられない心がせめようとするのを、与吉の泣いて止まないやけどがおさえつけた。

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然しかしながら彼かれの悲憤ひふんに堪たへぬ心こゝろが嘖さいなまうとするには與吉よきちの泣ないて止やまぬ火傷やけどがそれを抑おさへつけた。

勘次はつかれた。

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勘次かんじは疲つかれた。

二六

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二六

夜がふけるにつれて、霜は三人のまわりにぴったりくっついて固まろうとしながら、火の力さえおさえつけた。

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夜よが深ふけるに隨したがつて霜しもは三人にんの周圍しうゐに密接みつせつして凝こらうとしつゝ火ひの力ちからをすら壓おしつけた。

彼らは冷めて行く火に、だんだんとむしろを近づけた。

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彼等かれらは冷さめて行ゆく火ひに段々だん/\と筵むしろを近ちかづけた。

勘次もおつぎも、うすい仕事着にしんしんとこおる霜の冷たさと、じりじりとこがすような火の熱さを同時に感じた。

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勘次かんじもおつぎも薄うすい仕事衣しごとぎにしん/\と凍こほる霜しもの冷つめたさと、ぢり/\と焦こがすやうな火ひの熱あつさとを同時どうじに感かんじた。

与吉はやけどに、夜の冷たさがしみた。

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與吉よきちは火傷やけどへ夜よの冷つめたさが沁しみた。

そうかといって火に当たろうとすれば、なおさらやけどの痛みが増すだけだった。

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さうかといつて火ひに當あたらうとするのには猶且やつぱり火傷やけどの疼痛いたみを加くはへるだけであつた。

彼は思い出したように泣いては、また泣いた。

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彼かれは思出おもひだしたやうに泣ないては又また泣ないた。

ついには泣きつかれて、しくしくとただ声をのんだ。

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遂つひには泣なき疲つかれてしく/\と只たゞ聲こゑを呑のんだ。

それがかえって、勘次とおつぎの心をかき乱した。

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それが却かへつて勘次かんじとおつぎの心こゝろを掻かき亂みだした。

つかれた二人はうとうととしながら、とうとうねむることができなかった。

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疲つかれた二人ふたりはうと/\としながら到頭たうとう眠ねむることが出來できなかつた。

焼けあとに横たわったはりや柱から、まだかすかなけむりを上げながら、次の日は明けた。

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燒趾やけあとに横よこたはつた梁はりや柱はしらからまだ微かすかな煙けぶりを立たてつゝ次つぎの日ひは明あけた。

勘次はおつぎを相手に、灰をかき集めるのに一日を使った。

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勘次かんじはおつぎを相手あひてに灰燼くわいじんを掻かき集あつめることに一日にちを費つひやした。

手おけの冷たいおにぎりが、たよりない三人のおなかを満たした。

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手桶てをけの冷つめたい握飯にぎりめしが手頼たよりない三人にんの口くちを糊こした。

勘次は炭のようになったやせた柱やはりを、かきねのそばに積んだ。

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勘次かんじは炭すみのやうに成なつた痩やせた柱はしらや梁はりを垣根かきねの側そばに積つんだ。

彼はその新しい手おけへ水をくんで、まだ火のありそうなはりや柱にばしゃりとその水をかけた。

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彼かれは其その新あたらしい手桶てをけへ水みづを汲くんでまだ火ひの有あり相さうな梁はりや柱はしらへばしやりと其その水みづを掛かけた。

彼は灰をかき集めて、ところどころ円すいの形の小山を作った。

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彼かれは灰はひを掻かき集あつめて處々ところどころ圓錘形ゑんすゐけいの小山こやまを作つくつた。

彼は灰の中からなべやかまや鉄びんやそのほかの道具を、だんだんと万能ぐわの先でかき出した。

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彼かれは灰燼くわいじんの中なかから鍋なべや釜かまや鐵瓶てつびんや其その他たの器物きぶつをだん/\と萬能まんのうの先さきから掻かき出だした。

鉄の道具は形を保っていても、まるで何年も使わずに捨ててあった物のように変わっていた。

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鐵製てつせいの器物きぶつは其その形かたちを保たもつて居ゐても悉皆みんな幾年いくねんも使つかはずに捨すててあつたものゝやうに變かはつて居ゐた。

彼はそれをそっと大事にそばへ集めた。

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彼かれはそれをそつと大事だいじに傍そばへ聚あつめた。

茶わんや皿や、すべての焼き物は熱い火で割れてしまって、一つも使える物はなかった。

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茶碗ちやわんや皿さらや凡すべての陶磁器たうじきは熱火ねつくわに割はねて畢しまつて一つでも役やくに立たつものはなかつた。

勘次が赤く焼けた土をわらじの底でだんだんかき払おうとしたとき、黒くこげたような何かがわらじの先にかかった。

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勘次かんじは赤あかく燒やけた土つちを草鞋わらぢの底そこで段々だん/\に掻かつ拂ばかうとした時とき、黒くろく焦こげたやうな或ある物ものが草鞋わらぢの先さきに掛かゝつた。

焼けて色の変わった銅貨が少し固まったようになったのが、足にふれてぞろりとはなれた。

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燒やけて變色へんしよくした銅貨どうくわの少すこし凝こゞつたやうになつたのが足あしに觸ふれてぞろりと離はなれた。

彼はまわりをひょいと見た。

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彼かれは周圍しうゐにひよつと目めを放はなつた。

彼の目に入るのは、これもいっしんに灰のかたづけをしているおつぎのほかにはなかった。

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彼かれの目めに入いるものは此これも一心しんに灰はひの始末しまつをして居ゐるおつぎの外ほかにはなかつた。

彼は銅貨をそっと竹の林のそばへ持って行った。

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彼かれは銅貨どうくわを竊そつと竹たけの林はやしの側そばへ持もつて行いつた。

彼はぎりっとしばった三尺帯を解いて、さいふをくくった結び目に歯をかけて、やっとそのさいふを取り出した。

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彼かれはぎりつと縛しばつた三尺帶じやくおびを解といて、財布さいふを括くゝつた結むすび目めに齒はを掛かけて漸やうやく其その財布さいふを取とり出だした。

焼けた銅貨を彼はさいふへ投げこんで、またぎりっと腰へくくった。

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燒やけた銅貨どうくわを彼かれは財布さいふへ投なげ込こんで復またぎりつと腰こしへ括くゝつた。

彼はそうしてまた、きょろきょろとまわりを見た。

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彼かれはさうして再ふたゝびきよろ/\と周圍ぐるりを見みた。

勘次はいくつかの小山にした灰へ、藁や粟のくきでしっかりとふたをした。

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勘次かんじは幾いくつかの小山こやまを形かたちづくつた灰はひへ藁わらや粟幹あはがらでしつかと蓋ふたをした。

彼はそれを田や畑へ持ち出すつもりなので、雨に打たせない工夫である。

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彼かれはそれを田たや畑はたへ持もち出ださうとしたので、雨あめに打うたせぬ工夫くふうである。

その藁や粟のくきは、近所の人からもらった。

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其その藁わらや粟幹あはがらは近所きんじよの手てから與あたへられた。

彼は住む家を失った二日目に、初めて近所づきあいのありがたさを知った。

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彼かれは住居すまゐを失うしなつた第だい二日目かめに始はじめて近隣きんりんの交誼かうぎを知しつた。

南の家の女房は、古い薬かんと茶わんを持って来てくれた。

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南みなみの女房にようばうは古ふるい藥鑵やくわんと茶碗ちやわんとを持もつて來きてくれた。

勘次はふだん何とも思わなかったこれらの道具に、しみじみと便利さを感じた。

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勘次かんじは平生へいぜい何なんとも思おもはなかつた此これ等らの器物きぶつにしみ/″\と便利べんりを感かんじた。

彼は薬かんのまだ熱い湯を茶わんに注いで、彼らが体を落ち着けるたった一まいのむしろのはしで休んだ。

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彼かれは藥鑵やくわんのまだ熱あつい湯ゆを茶碗ちやわんに注ついで彼等かれらの身みを落おちつける唯たゞ一枚まいの筵むしろの端はしに憩いこうた。

急にがらんとした焼けあとを区切って立っている後ろの林の竹は、外側がぐるりとかれて、こげたえだが青いえだをおおって、みきは火の近かった所は油をふいて、きらきらとなめらかに変わっていた。

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俄にはかに空洞からりとした燒趾やけあとを限かぎつて立たつて居ゐる後うしろの林はやしの竹たけは外側そとがはがぐるりと枯かれて、焦こげた枝えだが青あをい枝えだを掩おほうて幹みきは火ひの近ちかかつた部分ぶゞんは油あぶらを吹ふいてきら/\と滑なめらかに變かはつて居ゐた。

東どなりの主人の庭には、この日も村の人が大ぜい集まって、大きな焼けあとのかたづけにおわれていた。

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東隣ひがしどなりの主人しゆじんの庭にはには此この日ひも村落むらの者ものが大勢おほぜい集あつまつて大おほきな燒趾やけあとの始末しまつに忙殺ばうさつされた。

それで、その人たちは勘次の庭に手を貸そうとはしなかった。

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それで其その人々ひと/″\は勘次かんじの庭にはに手てを藉かさうとはしなかつた。

彼らはとなりの主人に対して、ふだんの恩に報いようとするよりも、これから先のことをおそれている。

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彼等かれらは隣となりの主人しゆじんに對たいして平素へいそに報むくいようとするよりも將來しやうらいを怖おそれて居ゐる。

彼らはみな同じように、静かに落ち着いた真昼の庭に立つことが、その家族の目につきやすいことを知っているのである。

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彼等かれらは皆みな齊ひとしく靜しづかに落おちついた白晝はくちうの庭にはに立たつことが其その家族かぞくの目めに觸ふれ易やすいことを知しつて居ゐるのである。

勘次はつかれた体を、その日も余念なく働かせた。

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勘次かんじは疲つかれた身體からだを其その日ひも餘念よねんなく使役しえきした。

その夜は、三人が空の下せまいむしろで明かすには、少しでも体を暖める火はもう消えていたのである。

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其その夜よは三人にんが空そらを戴いたゞいて狹せまい筵むしろに明あかすのには、僅わづかでも其その身體からだを暖あたゝめる火ひは消滅せうめつして居ゐたのである。

三人はその夜、南の家に連れて行かれた。

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三人にんは其その夜よ南みなみの家いへに導みちびかれた。

勘次もおつぎも、汗と灰とほこりでよごれた体をおふろで洗い落とした。

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勘次かんじもおつぎも汗あせと灰はひと埃ほこりとに汚よごれた身體からだを風呂ふろに洗あらひ落おとした。

気持ちよかったそのおふろが、気づまりな他人の家でも彼らをぐっすりねむらせて、二日間のつかれを忘れさせようとした。

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快こゝろよかつた其その風呂ふろが氣盡きづくしな他人たにんの家いへに彼等かれらをぐつすりと熟睡じゆくすゐさせて二日間かかんの疲勞ひらうを忘わすれさせようとした。

与吉の横のほおは、皮膚がわずかに水ぶくれになってふくれていた。

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與吉よきちの横頬よこほゝは皮膚ひふが僅わづかに水疱すゐはうを生しやうじて膨ふくれて居ゐた。

彼はその日は機げんが悪かった。

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彼かれは其その日ひの機嫌きげんが惡わるかつた。

南の家の女房は、その水ぶくれに髪へつけるごまの油をぬってやった。

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南みなみの女房にようばうは其その水疱すゐはうに頭髮あたまへつける胡麻ごまの油あぶらを塗ぬつてやつた。

勘次は焼けたくいを地面に立てて、彼にとっていちばん必要な仮の住まいを作った。

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勘次かんじは燒木杙やけぼつくひを地ちに建たてゝ彼かれに第だい一の要件えうけんたる假かりの住居すまゐを造つくつた。

近所から集めた粟のくきのわずかな材料が、屋根をふく草だった。

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近所きんじよから聚あつめた粟幹あはがらの僅少きんせうな材料ざいれうが葺草ふきぐさであつた。

それはやっと雨がもるかもらないかというだけの、うすいふき方だった。

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それは漸やつと雨あめの洩もるか洩もらないだけの薄うすい葺方ふきかたであつた。

もちろんかべを塗るひまはない。

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固もとより壁かべを塗ぬる暇ひまはない。

あちこちの林のあいだに刈り残された萱やしのを刈って来て、少ない藁とまぜて、かきねでも作るようにそれを内と外から裂いた竹をあてて、ぎっとしめた。

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そこらこゝらの林はやしの間あひだに刈かり残のこされた萱かやや篠しのを刈かつて來きて、乏とぼしい藁わらと交まぜて垣根かきねでも結ゆふやうにそれを内外うちそとから裂さいた竹たけを當あてゝぎつと締しめた。

彼は南の家から借りたのこぎりで、大小の焼けたくいを切った。

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彼かれは南みなみの家いへから借かりた鋸のこぎりで大小だいせうの燒木杙やけぼつくひを挽切ひつきつた。

ついに彼は後ろから焼けた竹を切って来て、すのこのように横にならべて低いゆかを作った。

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遂しまひに彼かれは後うしろから燒やけた竹たけを伐きつて來きて簀すの子このやうに横よこたへて低ひくい床ゆかを造つくつた。

竹を切ったなたも、彼の持ち物ではなかった。

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竹たけを伐きつた鉈なたも彼かれの所有ものではなかつた。

彼の、熱い火に焼かれて独りで冷めたなたもかまも、すべての刃物はもう役に立たなかった。

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彼かれの熱火ねつくわに燒やかれて獨ひとりで冷さめた鉈なたも鎌かまも凡すべての刄物はものはもう役やくには立たたなかつた。

彼の手に無事に残ったのは、彼が自分の手のようにたよりにしているくわだけである。

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彼かれの手てに完全くわんぜんに保たもたれたものは彼かれが自分じぶんの手てを恃たのんで居ゐる唐鍬たうぐはのみである。

彼はこのかべもない小屋を作るために、二日ばかりのあいだは少しもほかを気にするひまがないほど、心がいそがしかった。

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彼かれは此この壁かべもない小屋こやを造つくる爲ために二日かばかりの間あひだは毫すこしも他たを顧かへりみる暇いとまがなかつた程ほど心こゝろが忙いそがしかつた。

彼のみじめなせまい小屋には、薬かんと茶わんと、それから火事の夕方にとなりの主人がくれた新しい手おけだけで、夜にねるのに一まいのふとんもなかった。

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彼かれの悲慘みじめな狹せまい小屋こやには藥鑵やくわんと茶碗ちやわんとそれから火事くわじの夕方ゆふがたに隣となりの主人しゆじんがよこした新あたらしい手桶てをけとのみで、夜よるの身みを横よこたへるのに一枚まいの蒲團ふとんもなかつた。

といしでみがかなければ使えないなべやかまは、彼のさらにせまい土間で、むだに場所をふさいでいた。

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砥石といしを掛かけて磨みがかねば使用しように堪たへぬ鍋なべや釜かまは彼かれの更さらに狹せまい土間どまに徒いたづらに場所ばしよを塞ふさげて居ゐた。

その土間にはまだかんたんないろりさえなくて、彼は火をたくのに三本足の竹を立てて、それに薬かんをかけた。

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其その土間どまにはまだ簡單かんたんな圍爐裏ゐろりさへなくて、彼かれは火ひを焚たくのに三本脚ぼんあしの竹たけを立たてゝそれへ藥鑵やくわんを掛かけた。

おつぎは、ただ勘次の仕事を手伝っていた。

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おつぎは只たゞ勘次かんじの仕事しごとを幇たすけて居ゐた。

しかしそのあいだにも、念仏寮へ運ばれた卯平を忘れてはいなかった。

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然しかし其その間あひだにも念佛寮ねんぶつれうへ運はこばれた卯平うへいを忘わすれては居ゐなかつた。

おつぎは火事の次の日に、勘次には黙って念仏寮をのぞいてみた。

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おつぎは火事くわじの次つぎの日ひに勘次かんじへは默だまつて念佛寮ねんぶつれうを覗のぞいて見みた。

おつぎは卯平に目に見える形で心づかいをする方法を、何も見つけられなかった。

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おつぎは卯平うへいへ目めに見みえた心盡こゝろづくしをするのに何なんの方法はうはふも見出みいだし得えなかつた。

おつぎのふところには一銭もないのである。

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おつぎの懷ふところには一錢せんもないのである。

おつぎは手おけの底のこおったおにぎりを、焼けあとの炭に火を起こしてきつね色に焼いて、それを二つ三つ前かけにくるんで行ってみた。

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おつぎは手桶てをけの底そこの凍こほつた握飯にぎりめしを燒趾やけあとの炭すみに火ひを起おこして狐色きつねいろに燒やいてそれを二つ三つ前垂まへだれにくるんで行いつて見みた。

おつぎはこっそりとのぞくようにして見た。

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おつぎはこつそりと覗のぞくやうにして見みた。

卯平は、だれがそうしてくれたのか、ただ一人でふとんにゆっくりとくるまっていた。

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卯平うへいは誰たれがさうしてくれたか唯たゞ一人ひとりで蒲團ふとんにゆつくりとくるまつて居ゐた。

まくら元には小さななべとおぜんが置かれて、おぜんには茶わんが伏せてある。

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枕元まくらもとには小ちひさな鍋なべと膳ぜんとが置おかれて、膳ぜんには茶碗ちやわんが伏ふせてある。

しるわんも、小皿をかぶせて伏せてある。

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汁椀しるわんは此これも小皿こざらを掩おほうて伏ふせてある。

卯平はやつれた青い顔をこちらへ向けていた。

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卯平うへいは窶やつれた蒼あをい顏かほをこちらへ向むけて居ゐた。

彼はねむっていた。

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彼かれは眠ねむつて居ゐた。

おつぎは、すやすやと聞こえる息にじっと耳をすませた。

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おつぎはすや/\と聞きこえる呼吸いきに凝然ぢつと耳みゝを澄すました。

おつぎはそれから、まくら元のなべのふたを取ってみた。

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おつぎはそれから枕元まくらもとの鍋蓋なべぶたをとつて見みた。

なべの底には、白いどろりとした米のおかゆがあった。

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鍋なべの底そこには白しろいどろりとした米こめの粥かゆがあつた。

しるわんを取ってみたら、小皿にはひしおが少し乗せてあった。

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汁椀しるわんをとつて見みたら小皿こざらには醤ひしほが少すこし乘のせてあつた。

卯平は冷めた白がゆに、まだ一口もはしをつけたようすがない。

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卯平うへいは冷さめた白粥しろがゆへまだ一口ひとくちも箸はしをつけた容子ようすがない。

おつぎは焼いたおにぎりを一つまくら元にそっと置いて、逃げるように帰って来た。

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おつぎは燒やいた握飯にぎりめしを一つ枕元まくらもとにそつと置おいて遁にげるやうに歸かへつて來きた。

年寄りのするどい目が、とうとう開かなかった。

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老人としよりの敏さとい目めが到頭たうとう開ひらかなかつた。

卯平はつかれた心が静まって、やっとぐっすりねむったところだったのである。

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卯平うへいは疲つかれた心こゝろが靜しづまつて漸やうやく熟睡じゆくすゐした處ところなのであつた。

掘っ立て小屋ができてから、勘次はそれでも近所でなべやかまやそのほかの道具を少しはもらったり借りたりして使った。

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掘立小屋ほつたてごやが出來できてから勘次かんじはそれでも近所きんじよで鍋なべや釜かまや其その他たの日用品にちようひんを少すこしは貰もらつたり借かりたりして使つかつた。

おつぎはそのあいだ、いっしんに焼けたなべやかまをといしでこすった。

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おつぎは其その間あひだ一心しんに燒やけた鍋釜なべかまを砥石といしでこすつた。

竹のゆかにしくむしろが三、四まい、これも近所で古いのを一まいくらいずつくれた。

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竹たけの床とこへ數しく筵むしろが三四枚まい、此これも近所きんじよで古ふるいのを一枚まい位ぐらゐづつ呉くれた。

そうしてからやっと、ふとんが運ばれた。

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さうしてから漸やうやく蒲團ふとんが運はこばれた。

それは彼がぎっしりと腰にくくったさいふの力だった。

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それは彼かれがぎつしりと腰こしに括くゝつた財布さいふの力ちからであつた。

米や麦や味噌が、それでどうにか買えた。

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米こめや麥むぎや味噌みそがそれでどうにか工夫くふうが出來できた。

彼はこうして、命をつなぐ方法がやっと立った。

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彼かれは斯かうして命いのちを繼つなぐ方法はうはふが漸やつと立たつた。

二、三日たって、与吉のやけどは水ぶくれがやぶれて、死んだ皮膚の下が少しただれかけた。

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二三日にち過すぎて與吉よきちの火傷やけどは水疱すゐはうが破やぶれて死しんだ皮膚ひふの下したが少すこし糜爛びらんし掛かけた。

勘次は心から、やっとそのきずをいたわった。

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勘次かんじは心こゝろから漸やうやく其その瘡痍きずを勦いたはつた。

彼はふだんになく、それをほうっておけば一生あとが残るのではないかという心配さえ持った。

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彼かれは平生いつもになくそれを放任うつちやつて置おけば生涯しやうがいの畸形かたわに成なりはしないかといふ憂うれひをすら懷いだいた。

そして彼は鬼怒川をこえて、医者の所へ与吉を連れて走った。

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さうして彼かれは鬼怒川きぬがはを越こえて醫者いしやの許もとに與吉よきちを連つれて走はしつた。

医者はほほえみをうかべたまま、白いどろりとした薬を焼き物の板の上で練って、それをこってりとガーゼにぬって、やけどをおおってべたりとはって、ぐるぐると白いほうたいをした。

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醫者いしやは微笑びせうを含ふくんだ儘まゝ白しろいどろりとした藥くすりを陶製たうせいの板いたの上うへで練ねつて、それをこつてりとガーゼに塗ぬつて、火傷やけどを掩おほうてべたりと貼はつてぐる/\と白しろい繃帶ほうたいを施ほどこした。

手のやけどは横のほおのような痛みもきずもなかったが、医者はそこにもざっとほうたいをした。

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手先てさきの火傷やけどは横頬よこほゝのやうな疼痛いたみも瘡痍きずもなかつたが醫者いしやは其處そこにもざつと繃帶ほうたいをした。

与吉は目ばかり出して、大げさなすがたになって帰って来た。

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與吉よきちは目めばかり出だして大袈裟おほげさな姿すがたに成なつて歸かへつて來きた。

与吉はほうたいをしてから、痛みも取れた。

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與吉よきちは繃帶ほうたいをしてから疼痛いたみもとれた。

ほうたいはまた、直接ほかの物とこすれるのをふせいで、彼が気持ちよく村の中を歩き回れるようにした。

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繃帶ほうたいは又また直接ちよくせつ他たの物ものとの摩擦まさつを防ふせいで、彼かれに快こゝろよく村落むらの内うちを彷徨さまよはせた。

ほうたいがかわいていれば五、六日はそのままでいいが、しるがしみ出すようなら明日にでもすぐ来るようにと医者は言ったのだが、しるは運よくぽっちり点をつけただけで、特に広がりもしなかった。

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繃帶ほうたいが乾かわいて居をれば五六日にちは棄すてゝ置おいても好いいが、液汁みづが浸しみ出だすやうならば明日あすにも直すぐに來くるやうにと醫者いしやはいつたのであるが、液汁みづは幸さいはひにぱつちりと點てんを打うつたのみで別段べつだん擴ひろがりもしなかつた。

おつぎは焼けあとのかたづけのいそがしいあいだにも、ときどき卯平を見に行った。

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おつぎは燒趾やけあとの始末しまつの忙せはしい間あひだにも時々とき/″\卯平うへいを見みた。

しかし卯平をなぐさめるのに一銭のたくわえもないおつぎは、やはり何の方法も見つけられなかったのである。

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然しかし卯平うへいを慰なぐさめるに一錢せんの蓄たくはへもないおつぎは猶且やつぱり何なんの方法はうはふも手段しゆだんも見出みいだし得えなかつたのである。

おつぎは、勘次がやっと手に入れたわずかな米をそっと前かけにかくして持って行った。

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おつぎは勘次かんじが漸やうやくにして求もとめた僅わづかな米こめを竊そつと前垂まへだれに隱かくして持もつて行いつた。

米にはひきわり麦がまじっている。

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米こめには挽割麥ひきわりが交まじつて居ゐる。

おつぎはけっして卯平を満足させられるとは思わなかったが、彼が食べてみようと言えば、おかゆにでもたいてやろうと思ったのである。

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おつぎは決けつして卯平うへいを滿足まんぞくさせ得うることとは思おもはなかつたが、彼かれが喫たべて見みようといへば粥かゆにでも炊たいてやらうと思おもつたのである。

しかし、おつぎがはずかしがりながら、それでも仕方なくかくして持って行った米は必要なかった。

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然しかしおつぎが恥はぢつゝそれでも餘儀よぎなく隱かくして持もつて行いつた米こめの必要ひつえうはなかつた。

念仏の仲間が代わる代わる少しずつの食べ物を持って来てくれるのを、卯平はきっと残していた。

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念佛ねんぶつの伴侶なかまが交互かはりがはりに少すこしづゝの食料しよくれうを持もつて來きてくれるのを卯平うへいは屹度きつと餘あまして居ゐた。

「爺さん、そんでもちっとはよくなったようだが、痛くはないかい」

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「爺ぢい、そんでもちつた鹽梅あんべえよくなつたやうだが、痛いたかねえけえ」

おつぎは毎度のようにくり返して聞いた。

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おつぎは毎度いつものやうに反覆くりかへして聞きいた。

言葉はやわらかで、そしてうるんでいた。

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言辭ことばは軟やはらかでさうして潤うるんで居ゐた。

卯平のやけどにも、油がぬられてあった。

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卯平うへいの火傷やけどへも油あぶらが塗ぬられてあつた。

水ぶくれがいつのまにかやぶれてただれた所を、油は見るからにいやらしく、そして汚くしていた。

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水疱すゐはうはいつか破やぶれて糜爛びらんした患部くわんぶを、油あぶらは見みるから厭いとはしく且かつ穢きたなくして居ゐた。

死んだ細ぼうの下からあざやかに赤く見えはじめた新しい肉は、外からのしげきに少しもたえる力を持たない細ぼうの集まりである。

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死しんだ細胞さいぼうの下したから鮮あざやかに赤あかく見みえ始はじめた肉芽にくげは外部ぐわいぶの刺戟しげきに對たいして少すこしの抵抗力ていかうりよくも持もつて居ゐない細胞さいぼうの集あつまりである。

朝夕の冷たささえ、その敏感な神経をしげきした。

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朝夕あさゆふの冷つめたさすら其その過敏くわびんな神經しんけいを刺戟しげきした。

卯平はいつでも、右の横のほおを上にしているほかなかった。

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卯平うへいは何時いつでも右みぎの横頬よこほゝを上うへにして居ゐる外ほかはなかつた。

「そんなに長くかからなくても治るだろうなあ」

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「さうだにかゝんなくつても癒なほんべなあ」

おつぎは、油が汚くしたやけどをじっと見ていると自然に目がしかめられて、むしろ自分のきずの様子でも聞くように、卯平のまくらへ口をつけて言った。

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おつぎは、油あぶらが穢きたなくした火傷やけどを凝然ぢつと見みて居ゐると自然しぜんに目めが蹙しがめられて、寧むしろ自分じぶんの瘡痍きずの經過けいくわでも聞きくやうに卯平うへいの枕まくらへ口くちをつけていつた。

「うん」

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「うむ」

という卯平の低くひびく声は、けっしてその言葉のようなかんたんな意味のものではなかった。

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と卯平うへいの低ひくく響ひゞく聲こゑが決けつして其その言辭ことばのやうな簡單かんたんな意味いみのものではなかつた。

「そんでもどうにか家もこしらえたから、爺さんのことも連れて行くよなあ」

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「そんでもどうにか家うちも拵こせえたから、爺ぢいことも連つれてくべよなあ」

おつぎの声は次第にうるんで低くなった。

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おつぎの聲こゑは漸次ぜんじに潤うるんで低ひくくなつた。

卯平はそれでも、おつぎの声を聞くと目を閉じたまま、ほとんどはっきりとは見えないほどのかすかな笑いがうかぶのだった。

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卯平うへいはそれでもおつぎの聲こゑを聞きくと目めを瞑つぶつた儘まゝ、殆ほとんど明瞭はつきりとは見みられぬやうな微かすかな笑わらひが泛うかぶのであつた。

「どういうのを建てた」

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「どうえの建たてゝえ」

卯平はさすがに聞きたかった。

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卯平うへいは有繋さすがに聞ききたかつた。

「どういうのって爺さんは、焼けた柱を立てただけよ。そんだからかべも塗らないのよ」

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「どうえのつて爺ぢいは、燒やけた柱はしら掘立ほつたてたのよ、そんだから壁かべも塗ぬんねえのよ」

「そんじゃ、藁か萱でふさいだんでもあろう」

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「そんぢや、藁わらか萱かやでおツ塞ぷてえたんでもあんびや」

「うん、そうだあ。そんだからさわるとがさがさするんだよ」

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「うむ、さうだあ、そんだから觸さあつとがさ/\すんだよ」

こう言って、おつぎの声は少しはっきりして来た。

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斯かういつておつぎの聲こゑは少すこし明瞭はつきりとして來きた。

おつぎははずかしそうなようすをした。

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おつぎは羞はぢを含ふくんだ容子ようすを作つくつた。

卯平はみじめな焼け小屋を思うと、自分が与吉といっしょにしくじったことが自分を苦しめて、ひどくつらかった。

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卯平うへいは悲慘みじめな燒小屋やけごやを思おもふと、自分じぶんが與吉よきちと共ともに失錯しくじつたことが自分じぶんを苦くるしめて酷ひどく辛つらかつた。

彼は急に目をしかめた。

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彼かれは俄にはかに目めを蹙しかめた。

「痛いのか」

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「痛いてえのか」

おつぎは目ざとくそれを見て、心配そうに言った。

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おつぎは目敏めざとくそれを見みて心こゝろもとなげにいつた。

おつぎはやつれてしずんだ卯平のそばにいると、つい自分もしずんでしまって、ただじっとすくんだようになっているよりほかなかった。

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おつぎは窶やつれて沈しづんだ卯平うへいの側そばに居ゐると、遂つひ自分じぶんも沈しづんで畢しまつて只たゞ凝然ぢつと悚すくんだやうに成なつて居ゐるより外ほかはなかつた。

それでも、おつぎは長い時間をそうしてむだに使うことはゆるされなかった。

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それでもおつぎは長ながい時間じかんをさうして空むなしく費つひやすことは許容ゆるされなかつた。

「また来るからな」

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「又また來くつかんな」

と、おつぎがしずんだ声で言って出て行くと、その後で卯平の目じりからなみだが少しもれて、その小さな玉がしばらくやつれたしわに引っかかって、そしてほろりとまくらに落ちるのだった。

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とおつぎは沈しづんだ聲こゑでいつて出でて行ゆくのを、後あとで卯平うへいの眥めじりからは涙なみだが少すこし洩もれて、其その小ちひさな玉たまが暫しばらく窶やつれた皺しわに引掛ひつかゝつてさうしてほろりと枕まくらに落おちるのであつた。

勘次は一度も念仏寮をたずねなかった。

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勘次かんじは一度ども念佛寮ねんぶつれうを顧かへりみなかつた。

五、六日たって、与吉はまた医者へ連れて行かれた。

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五六日にち過すぎて與吉よきちは復また醫者いしやへ連つれられた。

医者は汚くなったほうたいを解いて、どろりとした白い薬をまた焼き物の板で練ってはった。

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醫者いしやは穢きたなく成なつた繃帶ほうたいを解といてどろりとした白しろい藥くすりを復また陶製たうせいの板いたで練ねつて貼はつた。

この前より濃くしてはったから、もうこれで遠い道のりをわざわざ来なくても、これをときどきはってやれば自然にかわいてしまうだろうと、その白い薬と、それからガーゼをふくろに入れてくれた。

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先頃さきごろのよりも濃こくして貼はつたからもう此これで遠とほい道程みちのりを態々わざ/\來こなくても此これを時々とき/″\貼はつてやれば自然しぜんに乾かわいて畢しまふだらうと、其その白しろい藥くすりとそれからガーゼとを袋ふくろへ入いれてくれた。

与吉は急に元気づいた。

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與吉よきちは俄にはかに勢いきほひづいた。

彼はときどき、卯平のそばへも行った。

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彼かれは時々とき/″\卯平うへいの側そばへも行いつた。

卯平は横になった目に与吉のほうたいを見て、心を痛めた。

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卯平うへいは横臥わうぐわした目めに與吉よきちの繃帶ほうたいを見みて其その心こゝろを痛いためた。

ある日与吉が行ったとき、この前の念仏のときに卯平にお酒をすすめた小がらなおじいさんが、まくら元にいた。

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或ある日ひ與吉よきちが行いつた時とき、先頃さきごろ念佛ねんぶつの時ときに卯平うへいへ酒さけを侑すゝめた小柄こがらな爺ぢいさんが枕元まくらもとに居ゐた。

「お前、そんなに気を落とすなよ。これくらいのやけどなんぞどうということはない。おれが治してやるから。どうした、あのときからじゃ痛くはあるまい。あのまじないで火をしずめさえすりゃふしぎだから」

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「おめえ、さうだに力ちから落おとすなよ、此こらつ位くれえな火傷やけどなんぞどうするもんぢやねえ、俺おれ癒なほしてやつから、どうした彼あん時ときからぢや痛いたかあんめえ、彼あの禁厭まじねえで火ひしめしせえすりや奇態きてえだから」

そう言っておじいさんは、仏だんのすみに置いた灯明皿を出して、その油をやけどにぬった。

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さういつて爺ぢいさんは佛壇ぶつだんの隅すみに置おいた燈明皿とうみやうざらを出だして其その油あぶらを火傷やけどへ塗ぬつた。

卯平はそのするままに任せて動かなかった。

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卯平うへいは其その爲する儘まゝに任まかせて動うごかなかつた。

「気を落としちゃだめだから。おれなんざこんな所じゃない。こっちのうで、馬にかまれたときには、自分で見ちゃいられないって言われたっけが。そんでもおれは自分で手ぬぐいのはしをこう歯でくわえて、ぎいっとしばって、そしておれは馬を引いて来たな。汗は豆つぶくらいのがぼろぼろたれたっけが、そんでもとうとうがまんしちまった。何でも気を落としさえしなけりゃ、治るのはすぐだから。年を取っちゃ治りが遅いの何のって、そんなことはないから」

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「力ちから落おとしちや駄目だめだから、俺おらなんざこんな處ところぢやねえ、こつちな腕うで、馬うまに咬かまつた時ときにや、自分じぶんで見みちやえかねえつて云ゆはつたつけが、そんでも俺おれ自分じぶんで手拭てねげの端はし斯かう齒はで咥くええてぎいゝつと縛しばつて、さうして俺おら馬うま曳ひいて來きたな、汗あせは豆粒まめつぶ位ぐれえなのぼろ/\垂たれつけがそんでも到頭たうとう我慢がまんしつちやつた、何なんでも力ちから落おとしせえしなけりや癒なほんな直すぐだから、年とし寄よつちや癒なほりが面倒めんだうだの何なんだのつてそんなこたあねえから」

おじいさんはひたすら卯平の元気を引き立てようとした。

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爺ぢいさんは只管ひたすら卯平うへいの元氣げんきを引立ひきたてようとした。

「おれはそんだが、そんなけがをしても馬はにくくはないのよ。馬がおびえるくせがあって、ひひんとさわいだ所へ、おれが手を横へ出しておさえたもんだから、畜生、見境もなくかんだんだからなあ」

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「俺おらそんだが、さうえ怪我けがしても馬うまは憎にくかねえのよ、馬うまに煎えれんのが癖くせでひゝんと騷さわいだ處ところ俺おれ手てえ横よこさ出だして抑おさえたもんだから畜生ちきしやう見界みさけえもなく噛かぢツたんだからなあ」

と、彼はお酒を飲んではいなかったので声は低かったが、それでも次第に勢いを増していた。

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と彼かれは酒さけを飮のんでは居ゐなかつたので聲こゑは低ひくかつたが、それでも漸々だん/\に勢いきほひを加くはへて居ゐた。

「おれは白い薬をはったんだぞ」

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「俺おら白しれえ藥くすり貼はつたんだぞ」

与吉はさっきから油をぬった卯平のきずに目を向けていて、こうとつぜんに言った。

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與吉よきちは先刻さつきから油あぶらを塗ぬつた卯平うへいの瘡痍きずに目めを注そゝいで居ゐてかう突然とつぜんにいつた。

「なあに、そんな物なんざはらなくたって、お前らのよりこっちのほうが早く治るから」

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「なあに、さうだ物もんなんざ貼はんねえツたつて汝わツ等らがよりやこつちの方はうが早はやく癒なほつから」

小がらなおじいさんは、しばらく手元に置いた油の皿をまた仏だんのすみへしまった。

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小柄こがらな爺ぢいさんは暫しばらく手てもとへ置おいた油あぶらの皿さらを再ふたゝび佛壇ぶつだんの隅すみへ藏しまつた。

「そんでも、おれのことはもう、来なくても治るからいいと言って薬をくれたんだぞ」

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「そんでも俺おれこたはあ、來きなくつても癒なほつからえゝつて藥くすりよこしたんだぞ」

与吉は少しはなれて、おずおずと言った。

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與吉よきちは少すこし間あひだを隔へだてゝ怖おづ/\いつた。

「治るもんかい、お前らが」

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「癒なほるもんかえ、汝等わツらが」

小がらなおじいさんはからかうようにどなった。

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小柄こがらな爺ぢいさんは揶揄からかふやうにして呶鳴どなつた。

「治らあい。そんだって痛くはない、おれらは」

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「癒なほらあえ、そんだつて痛いたかねえ俺おツ等ら」

与吉はおどろいたように言った。

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與吉よきちは驚おどろいたやうにいつた。

「その白い薬というのをくれたのか」

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「其その白しれえ藥くすりだツちのよこしたのか」

卯平はかすかな声で聞いた。

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卯平うへいは微かすかな聲こゑで聞きいた。

「そうなんだわ」

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「さうなんだわ」

「お前は、それ、姉ちゃんにでもはってもらうのか」

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「汝わりや、それ姊ねえにでも貼はつてもらあのか」

「おれははらない」

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「俺おら貼はんねえ」

「そんじゃ薬はどうしたんだい、お前は」

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「そんぢや藥くすりはどうしたんでえ、汝わりやあ」

「おとっつあんが持ってるんだから、おれは知らない」

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「おとつゝあ持もつてんだから俺おら知しんねえ」

与吉は上がりがまちに胸をもたせて、下駄のつま先で土間の土をたたきながら、卯平とこうして何か言葉を交わしたとき

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與吉よきちは上あがり框がまちに胸むねを持もたせて下駄げたの爪先つまさきで土間どまの土つちを叩たゝきながら卯平うへいと斯かうして數語すうごを交換かうくわんした時とき

「いいから、そんな薬のことなんぞ気にするない。これで治るから」

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「えゝからそんな藥くすりなんぞのこと構かめえたてんなえ、此これで癒なほつから」

と、小がらなおじいさんがそばから打ち消した。

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と小柄こがらな爺ぢいさんは傍そばから打うち消けした。

「こじき野郎め。お前らの父親は見やがれ、お前のことは医者へ連れて行くお金を持ちやがって、ここへは一度でも来やがらない奴だから、見ろ。それくらいだからばちが当たって丸焼けになっちまうんだ」

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「乞食野郎奴こちきやらうめ、汝わツ等らが親爺おやぢは見みやがれ、汝われこた醫者いしやさ連つれてく錢ぜに持もつてけつかつて、此處ここさは一度どでも來きやがんねえ畜生ちきしやうだから、見みろう。其そのツ位くれえだから罰ばち當あたつて丸燒まるやけに成なつちやあんだ」

と、おじいさんはさらに独りで怒った調子で言った。

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と爺ぢいさんは更さらに獨ひとり憤いきどほつた語勢ごせいを以もつていつた。

「おとっつあんは、爺さんに焼かれたって言ってるんだあ」

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「おとつゝあは爺ぢいに燒やかつたツちツてんだあ」

与吉は勢いにおされてはずかしそうにしながら、やっと言った。

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與吉よきちは勢いきほひに壓あつせられて羞はにかむやうにしながら漸やつといつた。

「お前らの父親めが言ったのか」

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「汝等わツら親爺奴おやぢめ云ゆつたのか」

おじいさんはさらに

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爺ぢいさんは更さらに

「お前は何と言った、それで」

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「汝わりや何なんちつたそんで」

とどなった。

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と呶鳴どなつた。

与吉はしょげて、しばらく黙った。

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與吉よきちは悄しをれて暫しばらく沈默ちんもくした。

「おれは火に当たってたら木の葉にくっついたんだって言ったんだあ」

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「俺おら火ひいあたつてたら木きの葉はさくつゝえたんだつて云ゆつたんだあ」

「そう言われても仕方がないよ」

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「さう云ゆはつても仕方しかたねえよ」

与吉が言い終わらないうちに、卯平が言葉をはさんだ。

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與吉よきちのいひ畢をはらぬ内うちに卯平うへいは言辭ことばを挾はさんだ。

「ばかを言え、燃やしたくて燃やす者があるもんか」

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「箆棒べらぼう、つん燃もしたくつて、つん燃もすもの有あるもんか」

おじいさんは少し興ふんして

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爺ぢいさんは少すこし激げきして

「まちがいだもの、後で何と言ったって仕方があるもんじゃない」

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「過失えゝまちだもの後あとで何なんちつたつて仕しやうあるもんぢやねえ」

と、独りで力んだ。

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と獨ひとりで力りきんだ。

「そんでも気の毒で来られまいって言ったあ」

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「そんでも氣きの毒どくで來きらんめえつて云ゆつたあ」

与吉はぽつりと言った。

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與吉よきちはぽさりといつた。

やや大きくなった彼は、どなるおじいさんの前でこわがったが、また、おさえつけられることにかすかな反発を持っていた。

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稍やゝ大おほきく成なつた彼かれは呶鳴どなる爺ぢいさんの前まへに恐怖おそれを懷いだいたが又また壓おさへられることに微かすかな反抗力はんかうりよくを持もつて居ゐた。

「爺さんのことを来られまいって言ったのか。姉ちゃんも言ったのかあ」

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「爺ぢいこと來きらんめえつて云ゆつたのか、姊ねえも云ゆつたのかあ」

「姉ちゃんは言わない。姉ちゃんが爺さんの所へ行くというと、おとっつあんが怒るんだ。そうしたら姉ちゃんが怒られたんだあ」

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「姊ねえは云ゆはねえ、姊ねえ爺ぢいが處とこさ行えぐつちとおとつゝあ怒おこんだ、さうしたら姊ねえに怒おこらつたんだあ」

与吉は、自分の心に少しのへだてもない卯平の前で、知っていることを自まんするように言った。

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與吉よきちは自分じぶんの心こゝろに少すこしの隔へだてをも有いうして居をらぬ卯平うへいの前まへに知しつてることを矜ほこるやうにいつた。

「お前のことは怒らないのか」

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「汝われこた怒おこんねえのか」

小がらなおじいさんは、与吉のかくさない言葉に少し力んだ勢いがぬけたようになって、こう言った。

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小柄こがらな爺ぢいさんは與吉よきちの隱かくさぬ言辭ことばに少すこし力りきんだ勢いきほひが拔ぬけたやうになつて斯かういつた。

「おれのことは怒らない。おれは怒られたっくらい逃げちまうから」

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「俺おれこた怒おこんねえ、俺おら怒おこつたつ位くれえ遁にげつちやあから」

与吉の言うのを聞いて、おじいさんの怒りはやわらいだ。

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與吉よきちのいふのを聞きいて爺ぢいさんの憤いかりは和やはらげられた。

卯平は青い顔をして、じっと閉じた目をしかめて聞いていた。

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卯平うへいは蒼あをい顏かほをして凝然ぢつと瞑つぶつた目めを蹙しがめて聞きいて居ゐた。

いろりには、しばの一本もくべてなかった。

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圍爐裏ゐろりには麁朶そだの一枝えだも燻くべてなかつた。

三人はしばらくぽつねんとした。

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三人にんは暫しばらくぽさりとした。

「爺さん、くれないか」

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「爺ぢいくんねえか」

与吉はおそるおそる言った。

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與吉よきちは危あやぶむやうにいつた。

「お前は何がほしいというんだ」

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「汝わりや何なに欲ほしいつちんだ」

小がらなおじいさんは、底力のある声を低くして言った。

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小柄こがらな爺ぢいさんは底力そこぢからの有ある聲こゑを低ひくくしていつた。

「おれは一銭もないから」

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「俺おら一錢ひやくもねえから」

と、卯平はこそばゆい何かが喉につかえたように、ごくりとつばを飲んだ。

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と卯平うへいはこそつぱい或ある物ものが喉のどへ支つかへたやうにごつくりと唾つばを嚥のんだ。

彼の目のしわが、よけいにぎっとしまった。

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彼かれの目めの皺しわが餘計よけいにぎつと緊しまつた。

「おれはまだ、ちっとはあったんだったが、たばこ入れといっしょに焼けちまったから」

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「俺おらまあだ、ちつた有あつたんだつけが、煙草入たぶこれと同志どうしに燒やえつちやつたから」

彼はぽつりと投げ出すように言った。

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彼かれはぽさりと投なげ出だしていつた。

「たばこ入れは焼けたって、お金だったら灰をかき払えばあるはずだ。ほかにぬすむ者もあるまいし」

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「煙草入たぶこれは燒やけたつて錢ぜねだら灰へえ掻掃かつぱけば有ある筈はずだ、外ほかに盜とる奴やざ有ありやすめえし」

小がらなおじいさんの目は光った。

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小柄こがらな爺ぢいさんの目めは光ひかつた。

「なあに分からないよ。おつうらが毎日来ていてもその話はないんだから。おれはどうせ治るか何だか分かりやしまいし、要らないな」

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「なあに分わかんねえよ、おつう等ら毎日まいんち來きてゝも其その噺はなしやねえんだから、俺おらどうせ癒なほつか何なんだか分わかりやすめえし、要えらねえな」

「なあに、おれが聞いてみなくちゃならない。出すも出さないもあるもんか」

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「なあに、俺おれ聞きいて見みなくつちやなんねえ、出だすも出ださねえも有あるもんか」

小がらなおじいさんはつぶやいて

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小柄こがらな爺ぢいさんは呟つぶやいて

「行けもう。お前は大きな体をして、くれの何のって」

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「行えけはあ、汝わりや大えけえ姿なりして、呉くろうの何なんだのつて」

と、与吉をどなりつけた。

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と與吉よきちを呶鳴どなりつけた。

与吉はすごすごと出て行った。

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與吉よきちは悄々すご/\と出でて行いつた。

卯平は少し目を開いて、与吉の後ろすがたを見た。

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卯平うへいは少すこし目めを開ひらいて與吉よきちの後姿うしろすがたを見みた。

なみだが止めどもなく出た。

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涙なみだが止とめどもなく出でた。

彼はそれをふこうともしなかった。

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彼かれはそれを拭ぬぐはうともしなかつた。

二七

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二七

その夜、気温がとても下がった。

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其その夜よ温度をんどが著いちじるしく下降かかうした。

季節はお彼岸もすぎて四月に入っているのだが、寒さは地面にくっついたようにはなれなかった。

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季節きせつは彼岸ひがんも過すぎて四月ぐわつに入はひつて居ゐるのであるが、寒さむさは地ちに凝こりついたやうに離はなれなかつた。

夜中に卯平はのっそりと起きて、いろりにしばをくべた。

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夜半やはんに卯平うへいはのつそりと起おきて圍爐裏ゐろりに麁朶そだを燻くべた。

ちろちろと鉄びんのしりから燃え上がる火は、まわりの暗やみにつつまれながら、やつれた卯平の顔にほの明るい光をそえた。

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ちろちろと鐵瓶てつびんの尻しりから燃もえのぼる火ひは周圍しうゐの闇やみに包つゝまれながら窶やつれた卯平うへいの顏かほにほの明あかるい光ひかりを添そへた。

彼は勢いのないほのおの前で目を閉じたまま、ただしずんだ気持ちのままでいた。

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彼かれは勢いきほひない焔ほのほの前まへに目めを瞑つぶつた儘まゝ只たゞ沈鬱ちんうつの状態じやうたいを保たもつた。

彼はほとんど動かないようにして、そのままにすればすっと深くしずんでしまうように冷めて行く火へ、ぽちりぽちりとしばを足していた。

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彼かれは殆ほとんど動うごかぬやうにして棄すてゝ置おけばすつと深ふかく沈しづんで畢しまつたやうに冷さめて行ゆく火ひへぽちり/\と麁朶そだを足たして居ゐた。

彼はしばらく我を忘れたようにしていて、しばの火がまわりの暗やみにおさえつけられそうになりながらわずかに勢いを保ったとき、彼はすっと立ち上がった。

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彼かれは暫しばらく自失じしつしたやうにして居ゐて麁朶そだの火ひが周圍しうゐの闇やみに壓おしつけられようとして僅わづかに其その勢いきほひを保たもつた時とき彼かれはすつと立たち上あがつた。

彼のただれた横のほおは、もう消えようとしている火のうす明かりにぼんやりとした。

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彼かれの糜爛びらんした横頬よこほゝはもう火ひの氓ほろびようとして居ゐる薄明うすあかりにぼんやりとした。

火はげっそりと落ちて、彼のすがたが消え入りそうになった。

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火ひはげつそりと落おちて彼かれの姿すがたが消きえ入いらうとした。

彼は戸を開けて、よろけながら出た。

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彼かれは戸とを開あけて踉蹌よろけながら出でた。

寒い風が冷たい刃をあびせた。

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寒さむい風かぜが冷つめたい刄やいばを浴あびせた。

卯平はぞっとした。

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卯平うへいは悚然ぞつとした。

勘次ら三人は、その夜も固まってうすいふとんにくるまった。

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勘次等かんじら三人にんは其その夜よも凝集こごつて薄うすい蒲團ふとんにくるまつた。

勘次は足にとても冷たさを感じて、うとうとしていたねむりからさめた。

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勘次かんじは足あしに非常ひじやうな冷つめたさを感かんじて、うと/\として居ゐた眠ねむりから醒さめた。

手足をのばせばくくりつけた萱やしのの葉にふれて、かさかさと鳴るほどせまい部屋を、寒さはたばねた松葉の先でつつくように、夜通しそのすきまをねらって止まなかった。

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手足てあしを伸のばせば括くゝりつけた萱かやや篠しのの葉はに觸ふれてかさ/\と鳴なる程ほど狹せまい室内しつないを、寒さむさは束たばねた松葉まつばの先さきでつゝくやうに徹宵よつぴて其その隙間すきまを狙ねらつて止やまなかつた。

勘次は目がさえてしまった。

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勘次かんじは目めが冴さえて畢しまつた。

彼は北にまくらを向けていた。

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彼かれは北きたに枕まくらして居ゐた。

後ろの林が急にさわいでは、また静まって、そしてざわざわと鳴った。

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後うしろの林はやしが性急せいきふに騷さわいでは又また靜しづまつてさうしてざわ/\と鳴なつた。

北風が立ったのだ。

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北風きたかぜが立たつたのだ。

低い粟のくきの屋根から、そのくくりつけた萱やしのの葉には、さえた耳にやっと聞き取れるような、さらさらとかすかに何かを打ちつけるような音が止まない。

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低ひくい粟幹あはがらの屋根やねから其その括くゝりつけた萱かやや篠しのの葉はには冴さえた耳みゝに漸やつと聞きゝとれるやうなさら/\と微かすかに何なにかを打うちつけるやうな響ひゞきが止やまない。

次第にその音が消えて、すきまを求めて入りこむ寒さがひどくなった。

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漸次だん/\に其その響ひゞきを消滅せうめつして、隙間すきまを求もとめて侵入しんにふする寒さむさの度どが加くははつた。

どこかでこおった土にひびくようなにわとりの声が高く聞こえると、夜はのきのすきまから明るくなった。

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何處どこかで凍こほつてた土つちへ響ひゞくやうな雞にはとりの聲こゑが疳走かんばしつて聞きこえると夜よるは檐のきの隙間すきまから明あかるくなつた。

勘次はおつぎを起こした。

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勘次かんじはおつぎを起おこした。

彼は夜が明ければ、ふとんの中で固くなっているより火に当たったほうがずっとよかった。

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彼かれは夜よが明あければ蒲團ふとんに堅かたくなつて居ゐるよりも火ひにあたつた方はうが遙はるかによかつた。

彼は明けるのを待ち遠しく思っていた。

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彼かれは明あけるのを待遠まちどほにして居ゐた。

おつぎは外へ出ようとした。

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おつぎは外そとへ出でようとした。

外は思いがけず、積もりかけた雪が白かった。

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外そとは意外いぐわいに積つもり掛かけた雪ゆきが白しろかつた。

さらに積もりつつある大つぶの雪が、北からななめに空をかき乱して飛んでいる。

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更さらに積つもりつゝある大粒おほつぶな雪ゆきが北きたから斜なゝめに空間くうかんを掻亂かきみだして飛とんで居ゐる。

おつぎはしばらく立ちすくんだ。

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おつぎは少時しばし立たち悚すくんだ。

大つぶの雪を投げながらふき下ろす北風が、ごうっと寒さをあおった。

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大粒おほつぶな雪ゆきを投なげつゝ吹ふき落おちる北風きたかぜがごつと寒さむさを煽あふつた。

勘次はせまい土間にかき集めてあった落ち葉やしばに火をつけた。

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勘次かんじは狹せまい土間どまに掻かき集あつめてあつた落葉おちばや麁朶そだに火ひを點つけた。

けむりは低いのきをはって、ぐるぐると空が回るように見えながら、飛び散るいそがしい雪のために逃げ道をふさがれたように、低くさまよって行く。

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烟けぶりは低ひくい檐のきを偃はつて、ぐる/\と空間くうかんが廻轉くわいてんするやうに見みえつゝ飛とび散ちる忙せはしい雪ゆきの爲ために遁にげ行ゆく道みちを妨さまたげられたやうに低ひくく彷徨さまようて行ゆく。

おつぎは外に置いた手おけを取った。

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おつぎは外側そとがはに置おいた手桶てをけを執とつた。

北風のふきつける雪は、一つの手おけを半分白くしていた。

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北風きたかぜの吹ふきつける雪ゆきは一ひとつの手桶てをけを半分はんぶん白しろくして居ゐた。

おつぎが低いのきの下を一歩ふみ出したら、北風は待っていたというように、その乱れた髪の毛をふきまくって、大つぶの雪が争って首すじへ群がり落ちて、またたく間に消えた。

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おつぎは低ひくい檐のきの下したを一歩ぽ踏ふみ出だしたら、北風きたかぜは待まつて居ゐたといふやうに、其その亂みだれた髮かみの毛けを吹ふき捲まくつて、大粒おほつぶな雪ゆきが爭あらそつて首筋くびすぢへ群むらがり落おちて瞬間しゆんかんに消きえた。

そしてまた、着物の上に軽くやわらかに止まった。

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さうして又また衣物きものの上うへに輕かるく軟やはらかに止とまつた。

おつぎは、つるべの竹ざおが北から打ちつける雪のために、たてに一本の白い線をえがきつつあるのを見た。

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おつぎは釣瓶つるべの竹竿たけざをが北きたから打うちつける雪ゆきの爲ために竪たてに一條ひとすぢの白しろい線せんを描ゑがきつゝあるのを見みた。

ちらちらと目をくらますような雪の中に、木々はみな真っ白な柱を立て、つるべのふちは白い丸い輪をえがいている。

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ちら/\と目めを昏くらますやうな雪ゆきの中なかに樹木じゆもくは悉皆みんな純白じゆんぱくな柱はしらを立たてて、釣瓶つるべの縁ふちは白しろい丸まるい輪わを描ゑがいて居ゐる。

おつぎが竹ざおに手をかけると、軽いやわらかな雪はさらりとくずれて落ちた。

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おつぎは竹竿たけざをへ手てを掛かけると輕かるい軟やはらかな雪ゆきはさらりと轉こけて落おちた。

おつぎが一ぱいくんでひょいとふり返ったとき、後ろの竹の林が強い北風に首すじを押しつけられては、雪をつかんでぱあっと投げつけられながら、力のかぎり争おうとして苦しんでいるのを見た。

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おつぎは一杯ぱいを汲くんでひよつと顧ふりかへつた時とき後うしろの竹たけの林はやしが強つよい北風きたかぜに首筋くびすぢを壓おしつけては雪ゆきを攫つかんでぱあつと投なげつけられながら力ちからの限かぎりは爭あらそはうとして苦悶もがいて居ゐるのを見みた。

おつぎは見るなとふきつける北風を正面から受けて、息がむっとつまるように感じて、ふと横を向いた。

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おつぎは見みるなと吹ふきつける北風きたかぜを當面まともに受うけて呼吸いきがむつとつまるやうに感かんじてふと横手よこてを向むいた。

少しはなれたかきの木の下に、おつぎは吸いよせられたようにおどろきの目を見開いた。

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少すこし離はなれた柹かきの木きの下したにおつぎは吸すひつけられたやうに疑うたがひの目めを睜みはつた。

おつぎはつるべを放して、少しかきの木の下へ近づいた。

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おつぎは釣瓶つるべを放はなして少すこし柹かきの木きの下したに近ちかづいた。

「おとっつあん」

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「おとつゝあ」

と、おつぎは底のねばるぞうりを捨てて、はげしく呼んでかけこんだ。

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とおつぎは底そこの粘ねばる草履ざうりを捨すてゝ激はげしく呼よんで驅かけ込こんだ。

「大変だよ、おとっつあん」

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「大變たえへんだよ、おとつゝあ」

と、今度は少し声を殺すようにして勘次をせかした。

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と今度こんどは少すこし聲こゑを殺ころすやうにして勘次かんじを促うながした。

勘次はふしぎそうなするどい目でおつぎを見た。

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勘次かんじは怪訝けげんな鋭するどい目めを以もつておつぎを見みた。

「よう、おとっつあん」

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「よう、おとつゝあ」

おつぎのふだんとちがうあわてぶりが、勘次を庭へ走らせた。

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おつぎの節制たしなみを失うしなつた慌あわたゞしさが勘次かんじを庭にはに走はしらせた。

勘次はふるえた。

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勘次かんじは戰慄せんりつした。

かきの木の下には、冷たい卯平が横たわっていたのである。

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柹かきの木きの下したには冷つめたい卯平うへいが横よこたはつて居ゐたのである。

その大きな体は少しかきの木にもたれかかりながら、胸から足へまだらに雪をあびていた。

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其その大おほきな體躯からだは少すこし柹かきの木きに倚より掛かゝりながら、胸むねから脚部きやくぶへ斑まだらに雪ゆきを浴あびて居ゐた。

荒縄が彼の手をはなれて、横に体をこえていた。

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荒繩あらなはが彼かれの手てを轉こけて横よこに體躯からだを超こえて居ゐた。

「爺さん」

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「爺ぢい」

と、おつぎはその耳に口を当ててどなった。

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とおつぎは其その耳みゝに口くちを當あてゝ呶鳴どなつた。

冷たい卯平は、ぐったりとうなだれたままである。

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冷つめたい卯平うへいはぐつたりと俛首うなだれた儘まゝである。

少しかたむいた彼の横のほおのただれたやけどが、勘次をぞっとさせた。

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少すこし傾かしげた彼かれの横頬よこほゝに糜爛びらんした火傷やけどが勘次かんじを悚然ぞつとさせた。

勘次は夜に荷車で運んだ後、卯平を見るのは初めてだった

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勘次かんじは夜よる荷車にぐるまで運はこんだ後のち卯平うへいを見みるのは始はじめてゞあつた

「おとっつあんは、どうしたっていうんだろうな」

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「おとつゝあは、どうしたつちんだんべな」

おつぎは勘次をしかって、卯平の体を起こしながら、白くかかった雪を手で払った。

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おつぎは勘次かんじを叱しかつて、卯平うへいの身體からだを起おこしながら白しろく掛かゝつた雪ゆきを手てで拂はらつた。

勘次はおずおずと手を貸した。

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勘次かんじは怖おづ/\手てを藉かした。

卯平の力ない体は、やっと二人の手で運ばれた。

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卯平うへいの力ちからない身體からだは漸やうやく二人ふたりの手てで運はこばれた。

勘次はすのこの上のむしろに横たえて、気を失ったようにぼんやりと立った。

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勘次かんじは簀すの子この上うへの筵むしろに横よこたへて、喪心さうしんしたやうに惘然ばうぜんとして立たつた。

彼はまた、卯平のただれたやけどを見た。

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彼かれは復また卯平うへいの糜爛びらんした火傷やけどを見みた。

彼は何を思ったか、いそいで雪をけ立てて、桑畑のあいだを通って南の家へ走った。

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彼かれは何なにを思おもつたか忙いそがしく雪ゆきを蹴立けたてゝ、桑畑くはばたけの間あひだを過すぎて南みなみの家いへに走はしつた。

いったん開けてまたそっと閉めた表の戸口から、とつぜん

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一旦たん開あけて又またそつと閉とざした表おもての戸口とぐちから突然とつぜんに

「起きてないか」

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「起おきめえか」

と、彼ははげしくどなった。

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と彼かれは激はげしく呶鳴どなつた。

彼はどてらを着てかまどの前で火をたいている女房を見た。

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彼かれは褞袍どてらを着きて竈かまどの前まへに火ひを焚たいて居ゐる女房にようばうを見みた。

「何だい」

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「何なんでえ」

と、亭主のおどろいて言う声が近くで聞こえた。

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と亭主ていしゆの驚おどろいていふ聲こゑが近ちかく聞きこえた。

勘次もおどろいて、上がりがまちのふとんから首を上げた亭主を見た。

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勘次かんじも驚おどろいて上あがり框がまちの蒲團ふとんから首くびを擡もたげた亭主ていしゆを見みた。

「大変なことができたよ、おれの家の」

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「大變たえへんなこと出來できたよ、俺おら家ぢの」

と、勘次はこそばゆい喉からやっとそれだけを出した。

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と勘次かんじはこそつぱい喉のどから漸やうやくそれだけを吐はき出だした。

「来てくれないか」

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「來きてくんねえか」

と、彼はかんたんにそう言って、思い出したようにまた雪をけって走った。

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と彼かれは簡單かんたんにさういつて、思おもひ出だしたやうに又また雪ゆきを蹴けつて走はしつた。

慌てた彼は、しきいもまたがなかった。

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慌あわてた彼かれは閾しきゐも跨またがなかつた。

南の家の亭主は、勘次のようすを見てただごとでないと知った。

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南みなみの家いへの亭主ていしゆは勘次かんじの容子ようすを見みて尋常じんじやうでないことを知しつた。

しかしながら彼は、まるでよく分からないできごとへ行くのに、すぐわいてくる多少の心配のせいで、ふきまくる雪にさからってみのもかさも持たずに走って行くほど慌てはしなかった。

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然しかしながら彼かれは極きはめて不判明ふはんめいな事件じけんに赴おもむくには、直たゞちに起おこる多少たせうの懸念けねんが吹ふき捲まくる雪ゆきに逆さからつて、蓑みのも笠かさも持もたずに走はしつて行ゆく程ほど慌あわてさせる譯わけには行ゆかなかつた。

彼は土間にころがった下駄をさがした。

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彼かれは土間どまに轉ころがつた下駄げたを探さがした。

すごい勢いで積もろうとする雪は、庭から庭をつなぐ桑畑のあいだで下駄の運びをおそくした。

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非常ひじやうな勢いきほひで積つもらうとする雪ゆきは、庭にはから庭にはを繼つぐ桑畑くはばたけの間あひだに下駄げたの運はこびを鈍にぶくした。

彼が勘次の小屋をのぞいたときは、低くせまい入口を自分の体がふさいで、中をうす暗くした。

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彼かれが勘次かんじの小屋こやを覗のぞいた時ときは低ひくく且かつ狹せまい入口いりぐちを自分じぶんの身體からだが塞ふさいで内うちを薄闇うすぐらくした。

外の白い雪を見た彼の目が、しばらくくらんだ。

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外そとの白しろい雪ゆきを見みた彼かれの目めが暫しばらく昏くらんだ。

彼はただ、勘次が与吉をしかる声を耳のそばで聞いた。

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彼かれは只たゞ勘次かんじが與吉よきちを叱しかる聲こゑを耳みゝの傍そばで聞きいた。

勘次が帰ったとき、卯平は横たえたままだった。

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勘次かんじが歸かへつた時とき卯平うへいは横よこたへた儘まゝであつた。

浅くかかっていた雪がとけて、卯平のどてらが少しぬれていた。

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淺あさく掛かゝつて居ゐた雪ゆきが溶とけて卯平うへいの褞袍どてらが少すこし濡ぬれて居ゐた。

彼はまた、ただれたやけどを見るとともに、卯平のふところへ手を入れているおつぎを見た。

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彼かれは復また糜爛びらんした火傷やけどを見みると共ともに、卯平うへいの懷ふところへ手てを入いれて居ゐるおつぎを見みた。

「おとっつあん、暖かいんだよ」

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「おとつゝあ、暖ぬくてえんだよ」

おつぎは言って、また

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おつぎはいつて又また

「息をしてるんだよ」

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「呼吸いきつえてんだよ」

だれかに聞かれるのを気にする者のように、低く声を殺して言った。

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他たを憚はゞかるものゝやうに低ひくく聲こゑを殺ころしていつた。

勘次は元気づいた。

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勘次かんじは勢いきほひづいた。

彼はとつぜん、与吉を起こした。

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彼かれは突然とつぜん與吉よきちを起おこした。

ふとんをまくって与吉のうでを引いた。

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蒲團ふとんを捲まくつて與吉よきちの腕うでを引ひいた。

与吉はいつにないきびしいあつかいにおどろいて、まだねむい目を見開いた。

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與吉よきちは例いつもにない苛酷かこくな扱あつかひに驚おどろいてまだ眠ねむい目めを睜みはつた。

「急いで、それ、着物」

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「急かせえて、それ、衣物きもの」

と、勘次はただおろおろしている与吉をしかりつけた。

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と勘次かんじは只たゞおろ/\して居ゐる與吉よきちを叱しかりつけた。

「そんじゃまあよかった。何にしてもふとんへねかせたほうがいいな。暖まりさえすりゃ、だんだんよくなるだろうから」

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「そんぢやまあよかつた。何なにしても蒲團ふとんへ寢ねかせた方はうがえゝな、暖ぬくとまりせえすりや段々だん/\よくなつぺから」

南の家の亭主は、数分前から二人を心の底から慌てさせたできごとのかんたんな説明を聞いたとき、言った。

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南みなみの亭主ていしゆは數分時すうふんじの前まへから二人ふたりを衷心ちうしんより狼狽らうばいせしめた事件じけんの簡單かんたんな説明せつめいを聞きいた時ときいつた。

「着物がぬれたようだな。ぬがせたらよかろう。それにひどくよごれちまったな」

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「衣物きもの濡ぬれたやうだな、脱ぬがせたらよかつぺ、それに酷ひどく汚よごれつちやつたな」

亭主は言って、まくったふとんに手を当ててみた。

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亭主ていしゆはいつて捲まくつた蒲團ふとんへ手てを當あてて見みた。

「これは暖かくていいぐあいだ。冷やしちゃいけない」

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「此こら暖ぬくとくつてえゝ鹽梅あんべえだ、冷ひえさせちやえかねえ」

彼はかけぶとんをとっぷりとかけた。

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彼かれは掛蒲團かけぶとんをとつぷり蓋ふたした。

「そうだな、着物はかわかすあいだは仕方がないな。そんじゃどてらでもおれの家から持って来るといいな。このふとんだけじゃ暖まれまい、これは」

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「さうだな衣物きものは焙あぶる間えゝだ仕しやうねえなそんぢや褞袍どてらでも俺おら家ぢから持もつて來くつとえゝな、此この蒲團ふとんだけぢや暖ぬくとまれめえこら」

彼は少しえらそうな態度で言った。

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彼かれは少すこし權威けんゐを有もつた態度たいどでいつた。

せまい小屋のたき火は消えていた。

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狹せまい小屋こやの焚火たきびは消きえて居ゐた。

ふしぎそうにして遠ざかっていた与吉が、落ち葉を足してしばらくくすぶらせた。

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怪訝けゞんな容子ようすをして遠とほざかつて居ゐた與吉よきちが落葉おちばを足たして暫しばらく燻くすぶらした。

「お前はまた、それ、おつうを見てやれ」

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「汝われまた、それ、おつう見みてやれ」

勘次は与吉に注意の言葉を残して、かけ出して行った。

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勘次かんじは與吉よきちに注意ちういの言葉ことばを殘のこして驅かけ出だして行いつた。

「ふとんも持てるなら持って来たほうがいいな」

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「蒲團ふとんも持もてらば持もつて來きた方はうがえゝな」

南の家の亭主の声は、だんだん大つぶになって飛んでいる雪の乱れの中へ消えて行く勘次の後を追いかけた。

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南みなみの亭主ていしゆの聲こゑは段々だん/\に大粒おほつぶに成なつて飛とんで居ゐる雪ゆきの亂みだれの中なかに消きえ行ゆく勘次かんじの後あとから追おひ掛かけた。

勘次は二人が加わって元気づけられた手をすばやく動かして、まだ暖まっているふとんへそっと卯平を横たえた。

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勘次かんじは二人ふたりを加くはへて勢いきほひづけられた手てを敏活びんくわつに動うごかして、まだ暖あたゝまつて居ゐる蒲團ふとんへそつと卯平うへいを横よこたへた。

卯平の冷たい体には、落ち葉の火でおつぎが暖めたどてらと、それからもう一まいのふとんがかけられた。

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卯平うへいの冷つめたい身體からだには、落葉おちばの火ひでおつぎが焙あぶつた褞袍どてらと夫それから餘計よけいな蒲團ふとんとが蔽おほはれた。

卯平のかすかな息が、だんだんもどって来る。

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卯平うへいの微かすかな呼吸いきが段々だん/\と恢復くわいふくして來くる。

勘次はどんどんと落ち葉やしばをたいた。

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勘次かんじはどん/\と落葉おちばや麁朶そだを焚たいた。

彼はそのとき、雪の林で燃やす物をさがすのが大変だと気にするひまさえなかったのである。

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彼かれは其その時とき雪ゆきの林はやしに燃料ねんれうを探さがすことの困難こんなんなことを顧慮こりよする遑いとまさへ有もたなかつたのである。

昼過ぎになって、この例年にない雪も止んだ。

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午後ごゝになつて此この例年れいねんにない雪ゆきも歇やんだ。

空が、いかにもがっかりしたようにぼんやりした。

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空そらが左さもがつかりしたやうにぼんやりした。

おつぎのさわいだ心も静まって、また水をくみに出たとき、つるべの底は重くなって、おさえたかぎの手から外れそうになっていた。

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おつぎが騷さわいだ心こゝろも靜しづまつて又また水みづを汲くみに出でた時とき、釣瓶つるべの底そこは重おもく成なつて抑おさへた鍵かぎの手てから外はづれようとして居ゐた。

後ろの竹の林はべったりとうなだれた。

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後うしろの竹たけの林はやしはべつたりと俛首うなだれた。

冬のようにさらさらといさぎよく落ちる雪ではなくて、しめった雪は竹のえだをぎっとつかんで放すまいとしている。

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冬ふゆのやうにさら/\と潔いさぎよい落おちやうはしないで、濕うるほひを持もつた雪ゆきは竹たけの梢こずゑをぎつと攫つかんで放はなすまいとして居ゐる。

竹は苦しい息をするように、小さなえだが一つずつぴらりぴらりと動いて、そのおもみからのがれようと力めている。

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竹たけは苦くるしい呼吸いきをするやうに小ちひさな枝えだが一ひとつづゝぴらり/\と動うごいて其その壓迫あつぱくから遁のがれようと力つとめつゝある。

北から見れば白い柱だった木のみきも、みな元のすがたにもどろうとして、ずんずんと雪をころがした。

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北きたから見みれば白しろい柱はしらであつた樹木じゆもくの幹みきも悉皆みんな以前いぜんの姿すがたに成ならうとしてずん/\と雪ゆきを轉ころがした。

庭から先の桑畑は、ただいっぱいに白い。

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庭にはから先さきの桑畑くはばたは唯たゞ一杯ぱいに白しろい。

地面から数寸の深さに、雪は積もっていた。

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地上ちじやう數寸すすんの深ふかさに雪ゆきは積つもつて居ゐた。

桑畑のはしのほうに、くきののびた菜種の少し黄色くふくらんだつぼみが、すっくとその雪からのび上がっている。

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桑畑くはばたの端はしの方はうに薹とうに立たつた菜種なたねの少すこし黄色きいろく膨ふくれた蕾つぼみは聳然すつくりと其その雪ゆきから伸のび上あがつて居ゐる。

そこらにはかれたよもぎも、ぽつりぽつりと白いしきぶとんから体を出した。

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其處そこらには枯かれた蓬よもぎもぽつり/\と白しろい褥しとねに上體じやうたいを擡もたげた。

ほおじろか何かが、菜種の花やかれよもぎのかげの浅い雪に短い足を立ててみたいのか、桑のえだをしなやかにけって元気よく飛び下りた。

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頬白ほゝじろか何なにかゞ菜種なたねの花はなや枯蓬かれよもぎの陰かげの淺あさい雪ゆきに短みじかい臑すねを立たてゝ見みたいのか桑くはの枝えだをしなやかに蹴けつて活溌くわつぱつに飛とびおりた。

そしてまたえだへもどった。

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さうして又また枝えだに移うつつた。

後ろの田んぼでは、水はけの悪い田は降っているうちから雪がとけていたので、あぜがことさら白い線をえがいて目立った。

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後うしろの田圃たんぼでは、水みづこけの惡わるい田たには降ふつてる内うちから雪ゆきは溶とけつゝあつたので、畦畔くろが殊更ことさらに白しろい線せんを描ゑがいて目めに立たつた。

そこにもほりのあたりの、赤い実のさびた野茨のえだにたてになったり横になったりして、ずんずん消えて行く雪をよろこぶように、ほおじろがちょんちょんとわたった。

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其處そこにも堀ほりの邊ほとりの赤あかい實みの錆さびた野茨のばらの枝えだに堅たてに成なつたり横よこに成なつたりして、ずん/\と消きえ行ゆく雪ゆきを悦よろこぶやうに頬白ほゝじろがちよん/\と渡わたつた。

夕方には、田んぼの白い線もとぎれとぎれになった。

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夕方ゆふがたには田圃たんぼの白しろい線せんも途切とぎれ/\に成なつた。

どのえだも白い物を残さないで、つかれたようにぬれていた。

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何處どこの梢こずゑも白しろい物ものを止とゞめないで疲つかれたやうに濡ぬれて居ゐた。

雪はすっかり土に落ち着いてしまった。

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雪ゆきは悉こと/″\く土つちに落おちついて畢しまつた。

その落ち着いた雪を持ち上げて、どの屋根も白い大きなかたまりのように見えた。

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其その落おちついた雪ゆきを突つき扛あげて何處どこの屋根やねでも白しろい大おほきな塊かたまりのやうに見みえた。

かれ木のあいだでは、ことさらそれがはっきりと目立った。

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枯木かれきの間あひだには殊更ことさらそれが明瞭はつきりと目めに立たつた。

夕暮れのけむりが青く割れた空へ吸われて、静かな一日は暮れた。

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黄昏たそがれの煙けぶりが蒼あをく割われた空そらへ吸すはれて靜しづかな日ひは暮くれた。

卯平はすやすやと息を取りもどしたままで、口はきかない。

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卯平うへいはすや/\と呼吸こきふを恢復くわいふくした儘まゝで口くちは利きかない。

ぴしゃぴしゃとしぶきのどろをけりながら、粟のくきののきからも雪のとけて落ちる勢いのいい雨だれが止まないで、夜になった。

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ぴしや/\と飛沫しぶきの泥どろを蹴けりつゝ粟幹あはがらの檐のきからも雪ゆきの解とけて滴したゝる勢いきほひのいゝ雨垂あまだれが止やまないで夜よるに成なつた。

その夜、南の家の女房はふとんを二まい肩にかけて持って来た。

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其その夜よ南みなみの女房にようばうは蒲團ふとんを二枚まい肩かたに掛かけて持もつて來きた。

一つには義理があるというので、卯平のようすを見に来たのである。

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一ひとつには義理ぎりが濟すまぬといふので卯平うへいの容子ようすを見みに來きたのである。

それは二度目だった。

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其それは二度目どめであつた。

手ランプもない暗い小屋の中でしばらく話して女房が去った後、与吉は卯平の足元へもぐらせた。

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手てランプもない闇くらい小屋こやの内うちに暫しばらく語かたつて女房にようばうが去さつた後のち、與吉よきちは卯平うへいの裾すそへ潜もぐらせた。

おつぎはその一まいのふとんをかけて、卯平にそって体を横たえた。

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おつぎは其その一枚まいの蒲團ふとんを掛かけて卯平うへいに添そうて身みを横よこたへた。

勘次は土間へむしろをしいて、もう一まいのふとんをかぶって、くるくると体を丸めた。

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勘次かんじは土間どまへ筵むしろを敷しいて他たの一枚まいの蒲團ふとんを被かぶつてくる/\と身みを屈かゞめた。

彼は足をのばしたまま体を起こして、一度暗いゆかの上を見た。

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彼かれは足あしを伸のばした儘まゝ上體じやうたいを擡もたげて一度ど闇くらい床ゆかの上うへを見みた。

ぴしゃぴしゃと落ちるしずくが、しばらく彼の耳の底を打った。

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ぴしや/\と落おちる涓滴したゝりが暫しばらく彼かれの耳みゝの底そこを打うつた。

次の日は、朝からきらきらと照った。

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次つぎの日ひは朝あさからきら/\と照てつた。

暖かい日ざしは、勘次の土間まではった。

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暖あたゝかい日光につくわうは勘次かんじの土間どままで偃はつた。

地面はすべて、やわらかな熱で蒸された。

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地上ちじやうは凡すべて軟やはらかな熱度ねつどを以もつて蒸むされた。

物かげで一晩残っていた雪が、慌ててとけた。

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物陰ものかげに一夜や保たもつてゆつくりした雪ゆきが慌あわてゝ溶とけた。

土がしっとりとして落ち着いた。

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土つちがしつとりとして落おちつけられた。

卯平は目を開いた。

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卯平うへいは目めを開ひらいた。

彼はふしぎそうにあたりを見た。

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彼かれは不審相ふしんさうにあたりを見みた。

しつこく土にくっついていた冬が、蒸されるような暖かさにいたたまれなくなって慌てて逃げ去った後へ、一度に来た春の光の中で、彼は気がついた。

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執念しふねく土つちにひつゝいて居ゐた冬ふゆが、蒸むされるやうな暖あたゝかさに居ゐたゝまらなく成なつて倉皇そゝくさと遁にげ去さつた後あとへ一遍ぺんに來きた春はるの光ひかりの中なかに彼かれは意識いしきを恢復くわいふくした。

彼は寒さが骨までしみたその夜のことをはっきり思いうかべて考えるには、天気の変わり方があまりに急だった。

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彼かれは寒さむさが骨ほねに徹てつする其その夜よのことを明瞭めいれうに頭あたまに泛うかべて判斷はんだんするのには氣候きこうの變化へんくわが餘あまりに急激きふげきであつた。

彼はそのあいだ、何時間も気を失っていた。

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彼かれは其その間あひだ人事不省じんじふせいの幾時間いくじかんを經過けいくわした。

彼は与吉の何気ない告げ口から、ひどく悲しくはかなくなって、後で独り泣いた。

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彼かれは與吉よきちの無意識むいしきな告口つげぐちから酷ひどく悲かなしく果敢はかなくなつて後あとで獨ひとりで泣ないた。

怒りを燃やすには、彼はあまりにつかれていた。

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憤怒ふんぬの情じやうを燃もやすのには彼かれは餘あまりに彼つかれて居ゐた。

しかし自分でもそのとき、自分の身に大変なことが起こるとは少しも思っていなかった。

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然しかし自分じぶんでも其その時とき、自分じぶんの身みに變事へんじの起おこらうとすることは毫すこしも豫期よきして居ゐなかつた。

彼はいろりのそばで、夜のむしろ冷たい火に当たりながら、ふと気が変わって、ついと庭へ出た。

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彼かれは圍爐裏ゐろりの側そばで、夜よるの寧むしろ冷つめたい火ひにあたりながらふと氣きが變かはつてついと庭にはへ出でた。

彼は何かが足にまとわりついたのに気づいた。

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彼かれは何なにかゞ足あしに纏まつはつたのを知しつた。

手に取ってみたら、それは荒縄だった。

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手てに取とつて見みたらそれは荒繩あらなはであつた。

彼はそれからどうしたのか、はっきり思いうかべてみようとするには、頭があまりにぼんやりつかれていた。

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彼かれはそれからどうしたのか明瞭めいれうに描ゑがいて見みようとするには頭腦づなうが餘あまりにぼんやりと疲つかれて居ゐた。

彼は勘次の庭に立った。

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彼かれは勘次かんじの庭にはに立たつた。

彼は荒縄が手にあったことに気づいたとき、かきの木の低いえだにそれを引っかけようとして投げた。

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彼かれは荒繩あらなはが手てに在あつたことを心こゝろづいた時とき、柹かきの木きの低ひくい枝えだにそれを引掛ひつかけようとして投なげた。

彼の不自由な手は、暗い夜にその目的をとげさせなかった。

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彼かれの不自由ふじいうな手ては暗夜あんやに其その目的もくてきを遂とげさせなかつた。

彼は何度投げてもむだだった。

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彼かれは幾度いくたび投なげても徒勞むだであつた。

身を切るような北風が田んぼをわたって、それをさえぎろうとする後ろの林をごうっとおさえてはふき下ろして、彼の手の動きをまったくにぶくしてしまった。

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身みを切きるやうな北風きたかぜが田圃たんぼを渡わたつて、それを隔へだてようとする後うしろの林はやしをごうつと壓おさへては吹ふき落おちて、彼かれの手ての運動うんどうを全まつたく鈍にぶくして畢しまつた。

やがて後ろの林のえだから、ななめに雪がふき下ろして来た。

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軈やがて後うしろの林はやしの梢こずゑから斜なゝめに雪ゆきが吹ふきおろして來きた。

卯平はしばらくためらって、かきの木の根につかれた体をよせた。

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卯平うへいは少時しばらく躊躇ちうちよして柹かきの木きの根ねに其その疲つかれた身みを倚よせた。

しばらくして彼は、雪が冷たく自分のふところでとけて、いやな感じで流れるのに気づいた。

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暫しばらくして彼かれは雪ゆきが冷つめたく自分じぶんの懷ふところに溶とけて不愉快ふゆくわいに流ながれるのを知しつた。

彼はそれから体が固まるように思いながら、まばらな白髪がとかされるのも、かすかに感じた。

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彼かれはそれから身體からだが固かたまるやうに思おもひながら、疎あらい白髮しらがの梳くしけづられるのをも、微かすかに感覺かんかくを有いうした。

にわとりの声が耳に遠く聞こえて消えて行くのを知った。

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雞にはとりの聲こゑが耳みゝに遠とほく聞きこえて消滅せうめつするのを知しつた。

彼はついにうとうとしてしまった。

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彼かれは遂つひにうと/\と成なつて畢しまつた。

さらに数十分そのまま忘れられていたら、彼はそのとき自分がのぞんだように、冷たいなきがらから生き返らなかったかも知れなかった。

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更さらに數すう十分間ぷんかん其その儘まゝに忘わすられて居ゐたならば彼かれは其その時とき自分じぶんが欲ほつしたやうに冷つめたい骸むくろから蘇生よみがへらなかつたかも知しれなかつた。

勘次のさえた目が、すきまからさす白い雪の光にだまされて、おつぎを水くみに出した。

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勘次かんじの冴さえた目めが隙間すきまから射さす白しろい雪ゆきの光ひかりに欺あざむかれておつぎを水汲みづくみに出だした。

そうして卯平は助かったのである。

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さうして卯平うへいは救すくはれたのである。

「爺さん、どうした。気分は悪くないか、もう」

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「爺ぢいどうした、心持こゝろもち惡わるかねえか、はあ」

と、おつぎは卯平があたりを見たとき、耳に口を当てて言った。

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とおつぎは卯平うへいが周圍あたりを見みた時とき耳みゝへ口くちを當あてゝいつた。

「動かないでろ、爺さん。食べたい物でもないか」

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「動いごかねえでろ爺ぢい、喰たべてえ物ものでもねえか」

おつぎはまたやわらかに言った。

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おつぎは復また軟やはらかにいつた。

卯平はただうなずいた。

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卯平うへいは只たゞ點頭うなづいた。

「おとっつあん、そんでもちっとはしっかりしたか」

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「おとつゝあ、そんでもちつた確乎しつかりしてか」

勘次はそのあとにつづけて聞いた。

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勘次かんじは其その尾をに跟ついて聞きいた。

ほっと息をついたようなようすは、勘次の心の底からのよろこびだった。

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ほつと息いきをついたやうな容子ようすは勘次かんじの衷心ちうしんからの悦よろこびであつた。

「おとっつあん、やけどは痛いかいまだ」

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「おとつゝあ、火傷やけどは痛えてえけまあだ」

勘次はすぐに次の言葉をつづけた。

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勘次かんじは直すぐに後あとの言辭ことばを續つゞけた。

「まくらはつけられないな」

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「枕まくらはおつゝけらんねえな」

卯平はやわらかな目をしかめるようにした。

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卯平うへいは軟やはらかな目めを蹙しがめるやうにした。

勘次はふいとかけ出して、しばらくして帰って来たときには、手に白いさらし木綿と、古新聞紙のきれはしに包んだ物を持っていた。

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勘次かんじはふいと駈かけ出だして暫しばらく經たつて歸かへつて來きた時ときには手てに白しろい曝木綿さらしもめんの古新聞紙ふるしんぶんがみの切端きれはしに包つゝんだのを持もつて居ゐた。

彼はそれを四つに裂いて、医者がしたように白い練り薬をももの上でガーゼにぬって、卯平の横のほおにはって、さらし木綿でぐるぐると巻いた。

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彼かれはそれを四つに裂さいて、醫者いしやがしたやうに白しろい練藥ねりぐすりを腿もゝの上うへでガーゼへ塗ぬつて、卯平うへいの横頬よこほゝへ貼はつた曝木綿さらしもめんでぐる/\と卷まいた。

彼は与吉にさえ白い薬をおしんで、医者からもらったまましまっておいたのだった。

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彼かれは與吉よきちにさへ白しろい藥くすりを惜をしんで醫者いしやから貰もらつた儘まゝ藏しまつて置おいたのであつた。

卯平はじっとして、勘次のするままに任せた。

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卯平うへいは凝然ぢつとして勘次かんじの爲する儘まゝに任まかせた。

不器用な、少し動けばくずれそうなほうたいだったが、それでも勘次の目には心強かった。

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不器用ぶきような少すこし動うごけば轉こけ相さうな繃帶ほうたいであつたが夫それでも勘次かんじの目めには心丈夫こゝろじやうぶであつた。

彼は自分をこわがらせたきずが白い気持ちのいい布でおおいかくされたのと、自分のすべきことをやりとげたように感じられたのとで、心が急に軽くすがすがしくなった。

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彼かれは自分じぶんの恐怖おそれを誘さそうた瘡痍きずが白しろい快こゝろよい布ぬのを以もつて掩おほひ隱かくされたのと、自分じぶんの爲すべき仕事しごとを果はたし得えたやうに感かんぜられるのとで心こゝろが俄にはかに輕かるくすが/\しくなつた。

卯平も、どうなることかはっきりとは分からないながら、心の中ではよろこんだ。

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卯平うへいもどうなることか確しかとは分わからぬながら心こゝろの内うちでは悦よろこんだ。

勘次はまた、どこかへ出かけた。

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勘次かんじは又また何處どこへか出でた。

彼はただ心がそわそわとして、なかなか落ち着かなかった。

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彼かれは只たゞ心こゝろがそは/\として容易たやすくは落おちつかなかつた。

やわらかな春の光は、やさしい目をまばたきしながら、彼のせまい小屋を細やかに萱やしののすきまからのぞいて、卯平の足元にもはった。

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軟やはらかな春はるの光ひかりは情なさけを含ふくんだ目めを瞬またゝきしながら彼かれの狹せまい小屋こやをこまやかに萱かやや篠しのの隙間すきまから覗のぞいて卯平うへいの裾すそにも偃はつた。

卯平はしばらく目を閉じたままでいたが、またぱっちりと目を開いた。

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卯平うへいは暫しばらく目めを瞑つぶつた儘まゝで居ゐたが復またぱつちりと目めを開あいた。

そばにはおつぎがすわっていた。

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側そばにはおつぎが坐すわつて居ゐた。

「おつう」

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「おつう」

と、卯平は低い声で呼んだ。

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と卯平うへいは低ひくい聲こゑで喚よんだ。

「何だい」

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「何なんでえ」

おつぎはまた耳に口を当てた。

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おつぎは又また耳みゝへ口くちを當あてた。

卯平は右の手を出してふとんの上へのばして

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卯平うへいは右みぎの手てを出だして蒲團ふとんの上うへへ伸のばして

「熱ぼったいから一まい取ってくれないか」

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「熱あつぼつてえから一枚めえとつてくんねえか」

力ない、すがるような声で言った。

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力ちからない縋すがるやうな聲こゑでいつた。

「本当に暖かくなったんだよなあ。お日さままでひどくまぶしくなったようなんだよ」

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「本當ほんたうに暖ぬくとく成なつたんだよなあ日輪おてんとさままで酷ひどく眩まちつぽくなつたやうなんだよ」

おつぎは例の少し甘えるような口ぶりで、一まいのかけぶとんを取った。

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おつぎは例れいの少すこし甘あまえるやうな口吻くちつきで一枚まいの掛蒲團かけぶとんをとつた。

「このふとんは板っきれみたいなんだよなあ。これを取ったほうが爺さんは軽くなってよかろうな、ほんに。そう言っても、暖かくなるというのはいいもんだよ。おれは昨日らみたいじゃどうしようと思ったっけ」

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「此この蒲團ふとんは板いたツ端ぱち見みてえなんだよなあ、此これとつた方はうが爺ぢいは輕かるく成なつてよかつぺなほんに、さう云ゆつても暖ぬくとくなるつちやえゝもんだよ、俺おら作日等きのふら見みてえぢやどうすべと思おもつたつきや」

おつぎはかけぶとんを四つにたたんで、卯平の足元へ置いた。

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おつぎは掛蒲團かけぶとんを四よつにして卯平うへいの裾すそへ置おいた。

「お彼岸をすぎてこんなことというのは、おれがおぼえてからだってめったにないこったから、これから暖かくなるばかりだな。麦も一日ごとに元気になるな」

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「彼岸ひがん過すぎて斯かうだことつちや俺おら覺おべえてからだつで滅多めつたにやねえこつたから此これから暖ぬくとく成なるばかしだな、麥むぎも一日毎いちんちごめらに腰こし引ひつ立たたな」

卯平はやや気持ちよさそうに言った。

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卯平うへいは稍やゝ快こゝろよげにいつた。

「おれの家の麦は今のところじゃ村でも悪くないんだぞ。おれはそんだが、前のころは畑をたがやすのはいやだったっけな、本当に。おとっつあんには、深くたがやせ、深くたがやさないじゃ肥料をしたって役に立たないからなんて怒られてなあ」

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「俺おら家ぢの麥むぎは今いまん處ところぢや村落むらでも惡わるかねえんだぞ、俺おらそんだが先せんの頃こら畑はたけ耕うなあな厭やだつけな本當ほんたうに、おとつゝあにや深ふかく耕うなへ、深ふかく耕うなあねえぢや肥料こやししたつて役やくにや立たたねえからなんて怒おこられてなあ」

「うん、畑は深くなくちゃ穫れないものよ、それは。おれは若いころには、この間のように浅くたがやすもんだとは思わなかったのだから。今じゃもう、みんな利口になってるから、おれには分からないが」

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「うむ、畑はたきや深ふかくなくつちや收穫とんねえものよそら、俺おらあ壯さかりの頃ころにや此間こねえだのやうに淺あさく耕うなあもんだた思まあねえのがんだから、現在いまぢやはあ、悉皆みんな利口りこうんなつてつから俺おらがにや分わかんねえが」

「深くたがやしちゃ、さかさの旋毛を立てるみたいで、やりなれないとなんぼ大変かよなあ。そんだがおれは今じゃ、お前のほうがおれより深いくらいだなんて、おとっつあんには言われるのよ」

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「深ふかく耕うなつちや逆旋毛さかさつむじ立たてる見みてえで行やりつけねえぢやなんぼ大儀こええかよなあ、そんだが俺おら今いまぢや、汝われの方はうが俺おれより深ふけえつ位くれえだなんておとつゝあにや云ゆはれんのよ」

「大変にもよ、それは。そんでもお前はよくやるな。むかしは女に三年作らせちゃ畑はだめになると言ったくらいだ」

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「大儀こええにもよそら、そんでも汝わりや能よくやんな、以前めえかたは女をんなに三年ねん作つくらせちや畑はたけは出來できなくなるつちつた位くれえだ」

「そのころから、おれはいくらもたがやさないんだよ、このごろは。そんでもそんなに大変とは思わなくなったがな、おれも」

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「そつから俺おら幾いくらも耕うなえねえんだよ此この頃ごらそんでもさうだに大儀こええた思おもはなくなつたがな俺おらも」

おつぎが言うのを卯平はまたやわらかに目をしかめるようにして聞きながら、軽くなったかけぶとんを足の先で足元のほうへよせて、少し身動きをした。

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おつぎがいふのを卯平うへいは又また軟やはらかに目めを蹙しがめるやうにして聞ききながら、輕かるく成なつた掛蒲團かけぶとんを足あしの先さきで裾すその方はうへこかして少すこし身動みうごきをした。

おつぎはそのときちらと出した卯平の手を、初めて気がついたように

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おつぎは其その時ときちらと出だした卯平うへいの手てを始はじめて氣きがついたやうに

「爺さんは手も痛くしてるんだったな。そんじゃさっき、薬をはってもらうとこだったっけな」

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「爺ぢいは手ても痛えたくしてんだつけな、そんぢや先刻さつき藥くすり貼はつて貰もらあとこだつけな」

おつぎは卯平の手先を手に取って見た。

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おつぎは卯平うへいの手先てさきを手てにして見みた。

「こっちはそれほどはひどくないや、そんでもなあ」

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「こつちはそれ程ほだひどかねえやそんでもなあ」

おつぎは安心したように、そっと手を放した。

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おつぎは安心あんしんしたやうにそつと手てを放はなした。

勘次はいそがしそうなようすで帰った。

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勘次かんじは忙いそがしげな容子ようすをして歸かへつた。

彼はふとんを二、三まいたたんだまま、帯で背負って来た。

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彼かれは蒲團ふとんを二三枚まい疊たゝんだ儘まゝ帶おびで脊負しよつて來きた。

「どうだい、おとっつあん、昨夜はそんでも寒くはなかったっけかい」

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「どうしてえおとつゝあ、昨夜ゆんべはそんでも寒さむかなかつたつけゝえ」

彼は荷物を卯平の足元のほうへ下ろして、胸で結んだ帯を解きながら言った。

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彼かれは荷物にもつを卯平うへいの裾すその方はうへ卸おろして胸むねで結むすんだ帶おびを解ときながらいつた。

「熱ぼったいって、今ふとんを一まい取ったところなんだよ」

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「熱あつぼつてえつて今いま蒲團ふとん一枚めえとつた處ところなんだよ」

おつぎは横から言った。

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おつぎは横合よこあひからいつた。

「うん、そうだ。このふとんは返さなくちゃならないから」

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「うむ、さうだ、此この蒲團ふとんは返けえさなくつちやなんねえから」

勘次は独り言を言って

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勘次かんじは獨語どくごして

「どうした、おとっつあん、薬をはってちっとはよくないかい」

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「どうしたおとつゝあ、藥くすり貼はつてちつたよかねえけ」

彼はまた白いさらし木綿を見て言った。

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彼かれは復また白しろい曝木綿さらしもめんを見みていつた。

「うん、そうだ、まくらがつけられるようになったからいいことはいいに」

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「うむ、枕まくらおつゝかるやうに成なつたからえゝこたえゝに」

卯平の言うのを聞いて、勘次はいくらかほこらしげにまた白い木綿を見た。

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卯平うへいのいふのを聞きいて勘次かんじは幾いくらか矜ほこりを以もつて又また白しろい木綿もめんを見みた。

「おとっつあん、食べたい物でもないかい。おれは明日、川向こうへ行って来ようと思うんだ」

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「おとつゝあ、喫たべてえ物ものでもねえけえ、俺おら明日あした川向かはむかうさ行いつて來くべと思おもふんだ」

勘次はまだいくらか心にわだかまりがあるというより、気まずさが取れきらないようで、しかも努めて機げんを取るようなようすだった。

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勘次かんじはまだ幾いくらか心こゝろに蟠わだかまりがあるといふよりも、こそつぱい處ところが取とれ切きらないやうで然しかも力つとめて機嫌きげんをとるやうな容子ようすであつた。

「うん」

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「うむ」

と卯平は言って、つばをぐっと飲んだ。

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と卯平うへいはいつて唾つばきをぐつと嚥のんだ。

「特にもう、食べたいという物もないが」

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「格別かくべつはあ、喫たべてえつち物ものもねえが」

彼の目にはまたあらためて、やわらかな光が宿った。

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彼かれの目めには又また改あらためて軟やはらかな光ひかりを有もつた。

「そんじゃおとっつあん、水あめでも買って来てやったらよかろうな。与吉にかくしておけば何でもあるまいな」

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「そんぢやおとつゝあ水飴みづあめでも買かつて來きてやつたらよかつぺな、與吉よきげ隱かくして置おけば何なんでも有あんめえな」

おつぎはさらに卯平を見て

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おつぎは更さらに卯平うへいを顧かへりみて

「なあ爺さん、そのほうがよかろう」

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「なあ爺ぢゝ、其その方はうがよかつぺ」

と言いかけた。

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といひ掛かけた。

卯平は、そのしかめるような目でかすかにうなずいた。

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卯平うへいは其その蹙しがめるやうな目めで微かすかに點頭うなづいた。

「おとっつあん、どうせ茶づけの茶わんも要るから、茶わんを買って、それへ水あめを入れて縄でしばって来よう。そうするといいや」

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「おとつゝあ、どうせ茶漬茶碗ちやづけぢやわんも要えつから茶碗ちやわん買かつてそれさ水飴みづあめ入せえて繩なはで縛しばつて來こう、さうすつとえゝや」

「そうでも何でもしようよな」

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「さうでも何なんでもすびやな」

「それに、明日行ったらまた薬をもらって来よう。爺さんの手にもはってやらなくちゃ仕方がないぞ」

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「それに、明日あした行いつたら又また藥くすり貰もらつて來こう、爺ぢいが手てさも貼はつてやんなくつちや仕しやうねえぞ」

「おれは言われないでも、薬は気がついてたのよ」

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「俺おら云ゆはんねえでも藥くすりは氣きいついてたのよ」

勘次は、おつぎの言うのをすぐに受けて聞いた。

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勘次かんじはおつぎのいふのを迎むかへて聞きいた。

彼の三尺帯には、そのときもぎっとくくったかたまりがあった。

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彼かれの三尺帶じやくおびには其その時ときもぎつと括くゝつた塊かたまりがあつた。

そのさいふのわずかなたくわえが、この数日間にどれほど彼を助けたか知れなかった。

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其その財布さいふの僅わづかな蓄たくはへは此この數日間すじつかんにどれ程ほど彼かれを救すくつたか知しれなかつた。

彼はまだいくらか日用品を買う力を持っていた。

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彼かれはまだ幾いくらかの日用品にちようひんを求もとめる餘力よりよくを有いうして居ゐた。

彼は開こんの賃金を手にできればという望みが、十分にあった。

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彼かれは開墾かいこんの賃錢ちんせんを手てにすることが出來できればといふ望のぞみが十分ぶんにあつた。

ただ彼は今、その一部でもくれと言うことが、自分の火が焼いたその主人の家に対して、とても口にする勇気が出せなかったのである。

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只たゞ彼かれは目下いま其その幾部分いくぶぶんでも要求えうきうすることが、自分じぶんの火ひが燒やいた其その主人しゆじんの家うちに對たいして迚とても口くちにするだけの勇氣ゆうきが起おこされなかつたのである。

二八

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二八

勘次は昼過ぎになって、また外に出た。

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勘次かんじは午餐過ひるすぎになつて復また外そとに出でた。

もつれた心をかかえて、彼は少しうなだれながら歩いた。

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紛糾こぐらかつた心こゝろを持もつて彼かれは少すこし俛首うなだれつつ歩あるいた。

暖かな光は、畑の土をところどころさらりとかわかしはじめた。

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暖あたゝかな光ひかりは畑はたけの土つちの處々ところ/″\さらりと乾かわかし始はじめた。

ことさらがっかりしたようにしおれたくぬぎのかれ葉も、からからになった。

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殊更ことさらがつかりしたやうにしをたれた櫟くぬぎの枯葉かれはもからからに成なつた。

すべての木は元気づいていた。

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凡すべての樹木じゆもくは勢いきほひづいて居ゐた。

村のところどころには、まだ少し舌を出しかけたような白いこぶしが、急にぽっと開いて、青い空にほかほかとうかんで、竹のえだを抜け出していた。

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村落むらの處々ところ/″\にはまだ少すこし舌したを出だし掛かけたやうな白しろい辛夷こぶしが、俄にはかにぽつと開ひらいて蒼あをい空そらにほか/\と泛うかんで竹たけの梢こずゑを拔ぬけ出だして居ゐた。

ただあおじは冬も春も分からないように、暖かい日なたから暗い竹の林を求めて低い小えだをわたって、下手な鳴き方をして、それでもまた日なたへ出て土をぴょんぴょんとはねた。

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只たゞ蒿雀あをじは冬ふゆも春はるも辨わきまへぬやうに、暖あたゝかい日南ひなたから隱氣いんきな竹たけの林はやしを求もとめて低ひくい小枝こえだを渡わたつて下手へたな鳴なきやうをして、さうして猶且やつぱり日南ひなたへ出でて土つちをぴよん/\と跳はねた。

すべての心は、暖かな光の中にとけてしまわなければならなかった。

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凡すべての心こゝろは暖あたゝかな光ひかりの中なかに融とけて畢しまはねばならなかつた。

勘次はあいかわらずうなだれたまま、ついにとなりの主人の門をくぐった。

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勘次かんじは依然いぜんとして俛首うなだれた儘まゝ遂つひに隣となりの主人しゆじんの門もんを潜くゞつた。

焼けあとは土台を残して、きれいにかき払われてあった。

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燒趾やけあとは礎いしずゑを止とゞめて清潔きれいに掻かき拂はらはれてあつた。

真ん中の大きかった建物を失って、庭は高い木にかこまれている。

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中央ちうあうの大おほきかつた建物たてものを失うしなつて庭にはは喬木けうぼくに圍かこまれて居ゐる。

赤茶けて焼けたすぎの木をひかえて、からりとした庭は、赤土のがけの底にしずんだように見える。

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赭あかく燒やけた杉すぎの木きを控ひかへてからりとした庭にはは、赤土あかつちの斷崖だんがいの底そこに沈しづんだやうに見みえる。

青い空を区切って立った高い木のえだが、さらに高く感じられた。

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蒼あをい空そらを限かぎつて立たつた喬木けうぼくの梢こずゑが更さらに高たかく感かんぜられた。

勘次はおそろしい、ふつうでない感じにおされた。

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勘次かんじは怕おそろしい異常いじやうな感かんじに壓あつせられた。

となりの主人の家族は、長屋門の一部にたたみをしいて仮の住まいを作っていた。

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隣となりの主人しゆじんの家族かぞくは長屋門ながやもんの一部ぶに疊たゝみを敷しいて假かりの住居すまゐを形かたちづくつて居ゐた。

主人夫婦は、勘次の目からはさすがに、災難の後の乱れたようすが少しも見えなかった。

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主人夫婦しゆじんふうふは勘次かんじの目めからは有繋さすがに災厄さいやくの後あとの亂みだれた容子ようすが少すこしも發見はつけんされなかつた。

主人夫婦の曇らない顔が、ひたすらこわがっていた勘次の首を上げさせた。

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主人夫婦しゆじんふうふの曇くもらぬ顏かほが只管ひたすら恐怖きようふに囚とらへられた勘次かんじの首くびを擡もたげしめた。

ことにおかみさんのむかえて聞く態度が、彼が言いたかったことをやっと少し打ち明けさせた。

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殊ことに内儀かみさんの迎むかへて聞きく態度たいどが、彼かれのいひたかつた幾部分いくぶぶんを漸やうやくに打うち明あけしめた。

「お内儀さん、これは運の悪い者は仕方がありませんね」

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「お内儀かみさん、こら運うんの惡わりい者もな仕しやうありあんせんね」

彼はあわれっぽく声をかけた。

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彼かれは憐あはれに聲こゑを投なげ掛かけた。

彼の災難の後に、しみじみとこういう話を聞いてくれる人は、おかみさんのほかにはまだいなかったのである。

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彼かれの災厄さいやくの後のちにしみ/″\と斯かういふことを聞きいてくれる者ものは内儀かみさんの外ほかにはまだなかつたのである。

「そんだがこれ、お内儀さんらの家から見た日にはつめのあかだから、わしらなんざつらいも悲しいもない話なんだが」

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「そんだが此これお内儀かみさん等らあ家ぢからなんぞ見みた日ひにや爪つめの垢あかだからわし等らなんざ辛つれえも悲かなしいもねえ噺はなしなんだが」

彼は自分の不運をうったえるのに、自分一人のことよりほかは何も心に浮かんでいなかった。

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彼かれは自分じぶんの不運ふうんを訴うつたへるのに、自分じぶん一身しんのことより外ほかは何物なにものも其その心こゝろに往來わうらいしては居ゐなかつた。

彼はふと、自分の火が焼いたことを思ったとき、ひどく自分のことばかり言ってしまったのが、済まないような気がしてならなかった。

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彼かれはふと自分じぶんの火ひが燒やいたことを思おもつた時とき、酷ひどく自分じぶんのことのみをいつて畢しまつたのが濟すまないやうな心持こゝろもちがしてならなかつた。

「まあおしいと言えば紙一まいでも何だが、これ、家はすぐにも建てれば建つんだが、木がおしいことをしたって言ってるのさ。それだが、これもそんなことを言ったって仕方がないがね」

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「まあ惜をしいといへば紙かみ一枚まいでも何なんだが、これ、家うちは直すぐにも建たてれば建たつんだが、樹きが惜をしいことをしたつて云ゆつてるのさ、それだが此これもそんなことを云ゆつたつて仕方しかたがないがね」

おかみさんは、そびえてはいるがとてもかれ死ぬ運命の高い木を数本、縁側の近くから見上げて言った。

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内儀かみさんは聳然すつくりと立たつては居ゐるが到底たうてい枯死こしすべき運命うんめいを持もつて居ゐる喬木けうぼくの數本すうほんを端近はしぢかに見上みあげていつた。

遠く落ちかけた日が、はっきりとそのえだに光った。

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遠とほく落おち掛かけた日ひが劃然かつきりと其その梢こずゑに光ひかつた。

勘次の顔は青くなって、ぐったりと頭を下げた。

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勘次かんじの顏かほは蒼あをくなつてぐつたりと頭あたまを垂たれた。

彼はしばらく黙っていた。

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彼かれは暫しばらく沈默ちんもくを保たもつた。

「どうしたね。私も気のつかないことをしていたが、お前も丸焼けで仕方があるまいが、少しはお金でも持って行くかね」

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「どうしたね、私わたしも氣きのつかないことをして居ゐたが、お前まへも丸燒まるやけで仕しやうあるまいが少すこしは錢ぜにでも持もつて行いくかね」

おかみさんは、勘次の心を見ぬいたように言った。

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内儀かみさんは勘次かんじの心こゝろを推察すゐさつしたやうにいつた。

「へえ」

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「へえ」

勘次の首はさらにうなだれた。

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勘次かんじの首くびは更さらに俛うなだれた。

彼の目はうるんだ。

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彼かれの目めは潤うるんだ。

「わしももう、そうならどれだけ助かるか知れませんが、お内儀さんの所へそう言って来るわけにも行かないで」

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「わしもはあ、そんならなんぼ助たすかるかも知しれあんせんが、お内儀かみさん處とこささう云ゆつて來くる譯わけにも行えがねえで」

と、勘次は乱れた髪に手を当てて、こびるようなようすで言った。

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と勘次かんじは亂みだれた頭髮かみへ手てを當あてゝ媚こびるやうな容子ようすをしていつた。

「それだが、お前にやるくらいならどうにかなるから、心配しなくてもいいよ」

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「それだがお前まへにやる位くらゐならどうにか成なるから心配しんぱいしなくつても好いいよ」

「わしもこれ、ばちが当たったんでしょう。そう思うよりほかありませんから」

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「わしも此これ、罰ばち當あたつたんでがせう、さう思おもふより外ほか有ありあんせんから」

勘次はしばらく間を置いて

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勘次かんじは暫しばらく間あひだを措おいて

「わしも女房につらい思いをさせて、つみを作ったのが悪いんでしょう」

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「わしも嚊かゝあこと因果いんぐわ見みせて罪つみ作つくつたの惡わりいんでがせう」

彼の声はしずんだ。

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彼かれの聲こゑは沈しづんだ。

「お内儀さん、わしはどんな形にか家も建てなくちゃならないから、そのときは家族のことも決めようと思ってるんですが、お内儀さん、またわしのことを面倒見ておくんなさい。わしの所の子もそのうち大きくなって来るから、学校もあとちっとにして、百姓をみっしり仕込もうと思ってるんでございますがね」

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「お内儀かみさん、わしどんな形なりにか家うちも建たてなくつちやなんねえから、そん時ときや家族うちの極きまりもつけべと思おもつてんですが、お内儀かみさん又またわしこと面倒めんだう見みておくんなせえ、わし等ら野郎やらうも其その内うちはあ大えかく成なつて來くつから學校がくかうもあとちつとにして百姓ひやくしやうみつしら仕込しこむべと思おもつてんでがすがね」

「そうかえ」

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「さうかえ」

おかみさんはなぐさめるように言った。

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内儀かみさんは慰なぐさめるやうにいつた。

「お内儀さん、親不孝だなんてのは、親が警察へでもうったえて出なけりゃ、巡査だけじゃどうすることもできないもんでございましょうかね」

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「お内儀かみさん親不孝おやふかうだなんちな、親おやが警察けいさつへでも願ねがつて出でなけりや巡査じゆんさばかしぢやどうすることも出來できねえもんでござんせうかね」

勘次はさっきからの話のあいだも、なんだか後ろから何かにおそわれるようなようすが止まなかったが、ついにこう言った。

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勘次かんじは先刻さつきからの噺はなしの内うちにも何なんだか後うしろから物ものに襲おそはれるやうな容子ようすが止やまなかつたが遂つひに斯かういつた。

「そうさね。巡査だって、むやみにどうかするということもないんだろうと思うようだがね」

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「さうさね、巡査じゆんさだつて無闇むやみにどうかするといふこともないんだらうと思おもふやうだがね」

おかみさんは意外そうな顔で言った。

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内儀かみさんは意外いぐわいな面持おももちでいつた。

「これからもう、わしも爺さんのことを面倒見ようと思うんでございますがね。今からでもお内儀さん、間に合わないことはありますまいね」

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「此これからはあ、わしも爺樣ぢいさまこと面倒めんだう見みべと思おもふんでがすがね、今いまツからでもお内儀かみさん間合まにやあねえこたありあんすめえね」

「そうだよ。年寄りなんていうものはちょっとしたことで変わるんだから、まあ心配させないようにしたほうがいいよ。そう言っちゃ何だが、あといくらも生きるんじゃなしねえ」

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「さうだよ、老人としよりなんていふものは少すこしの加減かげんなんだから、まあ心配しんぱいさせないやうにした方はうが好いいよ、さういつちや何なんだが後あと幾いくらも生いきるんぢやなしねえ」

「へえ、そうでございますよ。昨日らから、ちっとやわらかい言葉をかけるとよろこんでるんですから。それからわしは、子どもにもらって来たやけどの薬もはってやったんでさ。薬が足りなくなっちまったから、お医者さまへ行って来ようと思ったっけが、今日は昼過ぎでいないだろうと思うから明日にしようと思って止めたのさ。明日行ったら水あめでも買って来てやれなんて、おつうも言うもんでございますからね」

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「へえさうでがすよ、昨日等きのふらツからちつと柔やつけえ言辭ことば掛かけつとうるしがつて居ゐんですから、それからわし野郎やらうげ貰もらつて來きた火傷やけどの藥くすりも貼はつてやつたんでさ、藥くすり足たんなく成なつちやつたから醫者樣いしやさまさ行いつて來くべと思おもつたつけが、今日けふは午後ひるすぎで居ゐめえと思おもふから明日あしたにすべと思おもつて止やめたのせ、明日あした行いつたら水飴みづあめでも買かつて來きてやれなんておつうも云いふもんでがすからね」

「やけどしたなんて聞いたっけが、それでも家へ連れて来てかね」

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「火傷やけどしたなんて聞きいたつけがそれでも家うちへ連つれて來きてかね」

「へえ」

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「へえ」

勘次は、その明け方のことをどうしてかおかみさんがまだ知らないらしいのでほっと息をついたが、また自分ではずかしくなって、かんたんにあいまいにこう言った。

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勘次かんじは其その佛曉あけがたのことをどうしてか内儀かみさんがまだ知しらぬらしいのでほつと息いきをついたが又また自分じぶんから恥はぢて、簡單かんたんに瞹昧あいまいに斯かういつた。

「お内儀さん、こうちっとでもよくないお金が入っちゃ、この先はどうしてもいいことはありますまいね」

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「お内儀かみさん、こうちつとでもよくねえ錢ぜにへえつちや末始終すゑしじうはどうしてもえゝこたありあんすめえね」

勘次はさらにまた、ひどく心配そうなようすでとつぜん聞いた。

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勘次かんじは更さらにまた酷ひどく懸念けねんらしい容子ようすをして突然とつぜんに聞きいた。

「そうさねえ」

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「さうさねえ」

おかみさんは、勘次の気持ちがはっきり分からないので、気の乗らないように言った。

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内儀かみさんは勘次かんじの心持こゝろもちが明瞭はつきりとは分わからないので氣きの乘のらぬやうにいつた。

「そんだがお内儀さん、そういうお金は自分のために使いさえしなけりゃ、どうしてもちがいましょうね」

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「そんだがお内儀かみさんさうえ錢ぜには自分じぶんのげ役やくに立たてせえしなけりやどうしても違ちげえあんすべえね」

勘次はおかみさんに分かっても分からなくても、そんなことを考えるゆとりがなかった。

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勘次かんじは内儀かみさんに分わかつても分わからなくても、そんなことを考かんがへる餘裕よゆうがなかつた。

彼はただ自分の心配だけを、底からふたから全部あけてしまわなければたえられなかったのである。

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彼かれは只たゞ自分じぶんの心配しんぱいだけを底そこから蓋ふたから打ぶち傾まけて畢しまはねば堪たへられなかつたのである。

「そうだが、それもどういうお金だか分からないが、そりゃ使っちゃいけないんだろうさね」

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「さうだが、それもどういふ筋すぢの錢ぜにだか分わからないがそりや使つかつちやいかないんだらうさね」

「そんじゃお内儀さん、他人がなくしたお金なんぞ見つけても知らないふりをして、後で返すのはぬすんだみたいで変なときは、何かで落とした分だけの物でもやれば、それでもちがいましょうね」

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「そんぢやお内儀かみさん他人ひとの錢ぜになくしたのなんぞ發見めつけても知しらねえ容子ふりなんぞして、後あとで遣やんな盜とつた見みてえで變をかしな時ときや、何なんでかで落おつことした丈だけの物ものでもやればそれでも違ちげえあんすべね」

勘次は少し、自分の言っていることの中身を打ち明けるように言った。

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勘次かんじは少すこし自分じぶんのいふことの内容ないようを打うち明あけるやうにいつた。

「黙っていればそれっきりなんだが」

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「默だまつて居ゐればそれつ切きりなんだが」

彼は独り喉の底で言った。

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彼かれは獨ひとり喉のどの底そこでいつた。

「そりゃそんなことしないで、見つけた物なら、そのまま返すのが本当だよ」

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「そりやそんなことしないで發見みつけた物ものなら其儘そつくり返かへすのが本當ほんたうだよ」

おかみさんは声は低かったが、きっぱりと言った。

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内儀かみさんは聲こゑは低ひくかつたがきつぱりいつた。

勘次のまよった心の底には、それがびりっと強くひびいた。

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勘次かんじの惑まどうた心こゝろの底そこにはそれがびりゝと強つよく響ひゞいた。

「そんじゃお内儀さん、それを返して、またそのほかにも何とかしたら、ばちが当たるようなこともありますまいな」

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「そんぢやお内儀かみさんそれ返けえして又また其その外ほかにも何なんとかしたら冥利みやうりの惡わりいやうなことも有ありあんすめえな」

彼は情けなさそうな目でおかみさんをちらりと見て言った。

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彼かれは情なさけなげな目めで内儀かみさんをちらりと見みていつた。

「そんなことはしなくたって、何もよさそうなもんだね」

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「そんなこた仕しなくつたつて何なにもよかりさうなもんだね」

おかみさんは、勘次のあまりに心配そうなようすに、とっくから気づいたことがあった。

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内儀かみさんは勘次かんじの餘あまりに懸念けねんらしい容子ようすに疾とうから心こゝろづいたことがあつた。

おかみさんは、しばらく聞かなかった彼のぬすみぐせに思い当たった。

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内儀かみさんは暫しばらく聞きかなかつた彼かれの盜癖たうへきに思おもひ至いたつた。

しかし彼が自分からひどく後かいしているらしいのを心の中で確かめて、しいて問いつめようという気にもなれなかった。

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然しかし彼かれが自分じぶんから甚はなはだしく悔くいつゝあるらしいのを心こゝろに確たしかめて強しひては追求つゐきうしようといふ念慮ねんりよも起おこし得えなかつた。

勘次はただ、かわいそうに見えた。

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勘次かんじは只たゞ不便ふびんに見みえた。

おかみさんはふと思い出して、少しばかりの銀貨を勘次のそばへならべて

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内儀かみさんはふと思おもひ出だして少すこしばかりの銀貨ぎんくわを勘次かんじの側そばへ竝ならべて

「そりゃそうと、お前も家族のことを決めるつもりだっていうんだが、まあどうするつもりなんだね」

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「そりやさうと、お前まへも家族うちの極きまりをつける積つもりだつていふんだが、まあどうする積つもりなんだね」

と静かに聞いた。

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と靜しづかに聞きいた。

「そうでございますね」

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「さうでござんすね」

勘次はぐったりとうなだれて、言葉のおしまいが聞き取れないほどだった。

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勘次かんじはぐつたりと俛首うなだれて言辭ことばの尻しりが聞ききとれぬ程ほどであつた。

深いうれいが、顔のしわに強く刻まれた。

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深ふかい憂うれひが顏面かほの皺しわに強つよく刻きざんだ。

「わしもこれ……」

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「わしも此これ……」

と彼はかすかに言っただけで、黙りつづけた。

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と彼かれは微かすかにいつたのみで沈默ちんもくを續つゞけた。

彼はおかみさんの前で、どうしても言わなければならないことに、心が乱れた。

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彼かれは内儀かみさんの前まへにどうしても述のべなければならないことに其その心こゝろが惑亂わくらんした。

彼はぼうっとして、目がくらみそうになった。

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彼かれはぽうつとして目めが昏くらまうとした。

遠くから呼ぶようで、しかも近い声で彼が我に返ったとき

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遠とほく喚よぶやうで然しかも近ちかい聲こゑの爲ために彼かれが我われに返かへつた時とき

「それじゃお前、まあこのお金をしまったらどうだね」

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「それぢやお前まへ、まあ此この錢ぜにを藏しまつたらどうだね」

と、おかみさんがすすめたのだった。

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と内儀かみさんが促うながしたのであつた。

心の底から困っているような彼に向かって、おかみさんはもう問いつめる気になれなかった。

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衷心ちうしんから困こまつたやうな彼かれに向むかつて内儀かみさんはもう追求つゐきうする力ちからを有もたなかつた。

「まことにどうも、お内儀さん」

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「誠まことにどうもお内儀かみさん」

彼はさいふを帯から解いて出したとき、ひどくへってしまったように感じて、そのさいふを外からちょっと見て首をかしげた。

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彼かれは財布さいふを帶おびから解といて出だした時とき酷ひどく減へつて畢しまつたやうに感かんじて、其その財布さいふを外そとから一寸ちよつと見みて首くびを傾かたぶけた。

彼はまたさいふの底のお金をつかみ出してみた。

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彼かれは又また財布さいふの底そこの錢ぜにを攫つかみ出だして見みた。

焼けあとの灰から出て青銅のように変わった銅貨は、ぽつぽつと焼けた皮を残して、あざやかな地はだが見えていた。

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燒趾やけあとの灰はひから出でて青銅せいどうのやうに變かはつた銅貨どうくわはぽつ/\と燒やけた皮かはを殘のこして鮮あざやかな地質ぢしつが剥むけて居ゐた。

彼はそれを目に近づけて、しばらくじっと見入った。

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彼かれはそれを目めに近ちかづけて暫しばらく凝然ぢつと見入みいつた。

彼は気づいたとき、急におそれたようにおかみさんをふり返って、じゃらりとそのお金をさいふの底へ落とした。

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彼かれは心こゝろづいた時とき俄にはかに怖おそれたやうに内儀かみさんを顧ふりかへつてじやらりと其その錢ぜにを財布さいふの底そこへ落おとした。

(おわり)

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(完)