土 小学生向け
長塚節(ながつかたかし)・1987年
AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-08-04)
「土」
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「土」
について
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に就て
漱石
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漱石
「土」
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「土」
が「東京朝日」という新聞
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が「東京朝日」
にのったのは、二年前のことです。
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に連載されたのは一昨年の事である。
そして、それをのせる係だったのが、わたしでした。
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さうして其責任者は余であつた。
ところが、こまったことに、わたしは「土」
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所が不幸にも余は「土」
が終わるまえに病気になってしまい、新聞を読むこともできなくなって、そのまま「土」
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の完結を見ないうちに病氣に罹つて、新聞を手にする自由を失つたぎり、又「土」
を書いた人のことを思い出すきっかけがありませんでした。
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の作者を思ひ出す機會を有たなかつた。
はじめは五十回か六十回でおわるはずだった「土」
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當初五六十囘の豫定であつた「土」
は、いつのまにか、とても長いお話になっていました。
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は、同時に意外の長篇として發達してゐた。
とちゅうで話のすじを忘れてしまったわたしは、もう一度、へんなところから読みなおす気になれなくて、そのままほうっておきました。でも心の中では、よくこんなに長く書きつづけられるものだと、作者のねばり強さにおどろいていました。
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途中で話の緒口を忘れた余は、再びそれを取り上げて、矢鱈な區切から改めて讀み出す勇氣を鼓舞しにくかつたので、つい夫限に打ち遣つたやうなものゝ、腹のなかでは私かに作者の根氣と精力に驚ろいてゐた。
「土」
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「土」
は、たしか百五十回か百六十回まで来て、やっと終わりました。
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は何でも百五六十囘に至つて漸く結末に達したのである。
世の中の人も冷たく、わたしもいそがしくて、そのあと長いあいだ「土」
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冷淡な世間と多忙な余は其後久しく「土」
のことを忘れていました。
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の事を忘れてゐた。
ところがあるとき、このあいだ亡くなった池辺さんに会って、たまたま小説の話になりました。すると池辺さんが、どうして「土」
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所がある時此間亡くなつた池邊君に會つて偶然話頭が小説に及んだ折、池邊君は何故「土」
は本にならないのだろうと言って、長塚さんの作品をとてもほめていました。
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は出版にならないのだらうと云つて、大分長塚君の作を褒めてゐた。
池辺さんは、そのころ「朝日」
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池邊君は其當時「朝日」
のいちばん上の記者だったので、「土」
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の主筆だつたので「土」
をはじめから終わりまで読んでいたのです。
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は始から仕舞迄眼を通したのである。
そのうえ池辺さんは、自分は文学がわからないと言いながら、じつはまじめな見る目をもって「土」
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其上池邊君は自分で文學を知らないと云ひながら、其實摯實な批評眼をもつて「土」
をねばり強く最後まで読んだのです。
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を根氣よく讀み通したのである。
わたしは、本があまり売れない時代だから「土」
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余は出版界の不景氣のために「土」
を一さつの本にする時期がまだ来ないのだろう、と答えておきました。
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の單行本が出る時機がまだ來ないのだらうと答へて置いた。
そのとき心の中では、「土」
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其時心のうちでは、隨分「土」
よりずっとつまらないものでも本になる世の中だから、できればいつか本にまとめたほうが作者のためにいいだろうと思いました。でも、わたしは親切ではないので、その日がすぎるとまた「土」
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に比べると詰らないものも公けにされる今日だから、出來るなら何時か書物に纏めて置いたら作者の爲に好からうと思つたが、不親切な余は其日が過ぎると、又「土」
のことをすっかり忘れてしまいました。
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の事を丸で忘れて仕舞つた。
ところが、この春になって長塚さんがとつぜんたずねて来て、やっと本屋さんが「土」
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すると此春になつて長塚君が突然尋ねて來て、漸く本屋が「土」
を本にしてくれることになったから、はじめの文を書いてくれませんか、とたのんできました。
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を引受ける事になつたから、序を書いて呉れまいかといふ依頼である。
わたしはそのとき、自分の小説を毎日一回ずつ書いていたので、「土」
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余は其時自分の小説を毎日一囘づゝ書いてゐたので、「土」
を読みなおす時間がありませんでした。
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を讀み返す暇がなかつた。
しかたなく、自分の仕事が終わるまで待ってくださいと答えました。
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已を得ず自分の仕事が濟む迄待つてくれと答へた。
すると長塚さんは、池辺さんにもはじめの文を書いてほしいから、ついでにしょうかいしてくださいと言うので、わたしはすぐに引きうけました。
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すると長塚君は池邊君の序も欲しいから序でに紹介して貰ひたいと云ふので、余はすぐ承知した。
わたしの名前の書かれたカードをもって、「土」
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余の名刺を持つて「土」
の作者が池辺さんの家のげんかんに立ったのは、池辺さんのお母さんが亡くなってちょうど三十五日目の日でした。長塚さんは立ったままで用事だけをたのんで帰ったそうです。ところが、それから三日して池辺さんもとつぜん亡くなってしまい、池辺さんのはじめの文は、とうとうもらえませんでした。
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の作者が池邊君の玄關に立つたのは、池邊君の母堂が死んで丁度三十五日に相當する日とかで、長塚君はたゞ立ちながら用事丈を頼んで歸つたさうであるが、それから三日して肝心の池邊君も突然亡くなつて仕舞つたから、同君の序はとう/\手に入らなかつたのである。
わたしは「彼岸過迄」
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余は「彼岸過迄」
という自分の作品を書きおえるとすぐ、やくそくどおり「土」
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を片付けるや否や前約を踏んで「土」
の本になるまえの原こうを読みはじめました。
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の校正刷を讀み出した。
思ったよりずっと長くて、半日と丸一日をつかってやっと読みおえました。読んでみると、たいへん手間のかかった作品です。
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思つたよりも長篇なので、前後半日と中一日を丸潰しにして漸く業を卒へて考へて見ると、中々骨の折れた作物である。
わたしはもともと安っぽい人間なので、たいていの人の作品を見るとすぐ感心してしまうくせがあります。この「土」
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余は元來が安價な人間であるから、大抵の人のものを見ると、すぐ感心したがる癖があるが、此「土」
でも、まったくそのとおりでした。
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に於ても全くさうであつた。
まず何より先に、これはとてもわたしには書けないと思いました。
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先づ何よりも先に、是は到底余に書けるものでないと思つた。
つぎに、今の文学の世界で長塚さんのほかにだれが書けるだろうと、あれこれさがしてみました。
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次に今の文壇で長塚君を除いたら誰が書けるだらうと物色して見た。
すると、やはりだれにも書けそうにない、という答えになりました。
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すると矢張誰にも書けさうにないといふ結論に達した。
ただし、だれにも書けないというのは、文章のうまさや、人物を生き生きと動かす生まれつきの力のことを言っているのではありません。
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尤も誰にも書けないと云ふのは、文を遣る技倆の點や、人間を活躍させる天賦の力を指すのではない。
もしそれだけの意味でだれも長塚さんにかなわないと言うなら、それはほかの作家をばかにした言葉になりますし、また長塚さんをもち上げすぎるずるいやり方にも見えて、どちらにしても作者にめいわくをかけるだけです。
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もし夫れ丈の意味で誰も長塚君に及ばないといふなら、一方では他の作家を侮辱した言葉にもなり、又一方では長塚君を擔ぎ過ぎる策略とも取れて、何方にしても作者の迷惑になる計である。
わたしがだれもかなわないと言うのは、この作品に書かれているできごとや自然が、長塚さん以外の人にはまだ調べられていない、という意味なのです。
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余の誰も及ばないといふのは、作物中に書いてある事件なり天然なりが、まだ長塚君以外の人の研究に上つてゐないといふ意味なのである。
「土」
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「土」
に出て来る人たちは、とても貧しいお百姓です。
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の中に出て來る人物は、最も貧しい百姓である。
学問もなければ上品さもなく、ただ土の上に生まれて、土といっしょに育った虫のように、かわいそうなお百姓の生活です。
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教育もなければ品格もなければ、たゞ土の上に生み付けられて、土と共に生長した蛆同樣に憐れな百姓の生活である。
ご先祖のころから茨城県の結城郡に住み、その土地の有力な家として大ぜいの小作人をつかっている長塚さんは、その人たちの、けものに近い、おそろしいほどつかれきった生活のようすを、一から十までまじめにこの「土」
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先祖以來茨城の結城郡に居を移した地方の豪族として、多數の小作人を使用する長塚君は、彼等の獸類に近き、恐るべく困憊を極めた生活状態を、一から十迄誠實に此「土」
の中に書きつくしたのです。
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の中に收め盡したのである。
その人たちの、品のないところ、考えのあさいところ、めいしんを信じるところ、むじゃきなところ、ずるいところ、よくのないところ、よくの深いところ。それは、わたしたち(今の文学の世界の作家みんな)が想ぞうすることさえむずかしいのですが、それを目に見えるようにえがいたのが「土」
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彼等の下卑で、淺薄で、迷信が強くて、無邪氣で、狡猾で、無欲で、強欲で、殆んど余等(今の文壇の作家を悉く含む)の想像にさへ上りがたい所を、あり/\と眼に映るやうに描寫したのが「土」
です。
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である。
そして「土」
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さうして「土」
は、長塚さんのほかにだれも手をつけられない、苦しいお百姓の生活の、いちばんけものに近い部分を、細かくまっすぐに書いたものなので、だれもかなわないと言うのです。
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は長塚君以外に何人も手を著けられ得ない、苦しい百姓生活の、最も獸類に接近した部分を、精細に直叙したものであるから、誰も及ばないと云ふのである。
人の手のとどかない自然についても、同じことを、どんな読者もうなずかずにはいられないほど、作者は鬼怒川ぞいのけしきや、空や、春や、秋や、雪や風を細かく調べています。
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人事を離れた天然に就いても、前同樣の批評を如何な讀者も容易に肯はなければ濟まぬ程、作者は鬼怒川沿岸の景色や、空や、春や、秋や、雪や風を綿密に研究してゐる。
畑のもの、あぜに立つはんの木、かえるの声、鳥の声。かりにもその土地にある自然なら、ほんの小さなところまで、みんなその地方らしさをもって書かれています。
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畠のもの、畔に立つ榛の木、蛙の聲、鳥の音、苟くも彼の郷土に存在する自然なら、一點一畫の微に至る迄悉く其地方の特色を具へて叙述の筆に上つてゐる。
だから、どこにどう出て来ても、かならずそこにしかないものになっています。
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だから何處に何う出て來ても必ず獨特である。
そのどこにもないところを、ふつうの作家が書いた平ぼんな自然のえがき方とくらべて、わたしはだれもかなわないと言うのです。
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其獨特な點を、普通の作家の手に成つた自然の描寫の平凡なのに比べて、余は誰も及ばないといふのである。
わたしは、そのすばらしさに感心しながら、あまりに細かすぎて話のすじをこわしてしまうことがあるのを、ざんねんに思ったほどです。それくらい、長塚さんは自然をよく見る人なのです。
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余は彼の獨特なのに敬服しながら、そのあまりに精細過ぎて、話の筋を往々にして殺して仕舞ふ失敗を歎じた位、彼は精緻な自然の觀察者である。
作品としての「土」
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作としての「土」
は、どちらかというと読むのがつらい作品です。
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は、寧ろ苦しい讀みものである。
けっして、おもしろいから読みなさいとは言いにくいのです。
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決して面白いから讀めとは云ひ惡い。
第一に、出て来る人たちの使う言葉が、わたしたちにはなじみのうすい方言でできています。
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第一に作中の人物の使ふ言葉が余等には餘り縁の遠い方言から成り立つてゐる。
第二に、作品が大きいわりに、また何年ものあいだのことをえがいているわりに、話が横に広がってばかりで、すじがはっきりと深まりながら前に進んでいきません。
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第二に結構が大きい割に、年代が前後數年にわたる割に、周圍に平たく發達したがる話が、筋をくつきりと描いて深くなりつゝ前へ進んで行かない。
だから全体として、読めば読むほどおもしろくなる、という感じを読者にあたえません。
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だから全體として讀者に加速度の興味を與へない。
だから、できごとが次々にからみ合って読者をぐいぐい引っぱっていくというより、その地方の一年の行事をていねいにあっさりと書いていくうちに、作者のつくった人物がとぎれとぎれに動き出す、と言ったほうがぴったりします。
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だから事件が錯綜纏綿して縺れながら讀者をぐい/\引込んで行くよりも、其地方の年中行事を怠りなく丹念に平叙して行くうちに、作者の拵らへた人物が斷續的に活躍すると云つた方が適當になつて來る。
そこに、人を引きつける力がすこし弱くなるおそれがある、という意味でも読みにくいのです。
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其所に聊か人を魅する牽引力を失ふ恐が潛んでゐるといふ意味でも讀みづらい。
でも、これはうわべの意味で読みにくいというだけです。わたしがほんとうに読みにくいと言うのは、出て来る人たちの心や行いが、ただ読者に苦しさと不安をあたえるだけで、人間は幸せなものだという気持ちや、なぐさめをすこしもくれないからです。
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然し是等は單に皮相の意味に於て讀みづらいので、余の所謂讀みづらいといふ本意は、篇中の人物の心なり行なりが、たゞ壓迫と不安と苦痛を讀者に與へる丈で、毫も神の作つてくれた幸福な人間であるといふ刺戟と安慰を與へ得ないからである。
悲しいお話は、たしかにおそろしいものです。
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悲劇は恐しいに違ない。
けれども、ふつうの悲しいお話には、悲しさのほかに何かのごほうびがあるので、読者はなみだを流すことをよろこぶのです。
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けれども普通の悲劇のうちには悲しい以外に何かの償ひがあるので、讀者は涙の犧牲を喜こぶのである。
ところが「土」
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が、「土」
は、なみださえ出ないほどの苦しさです。
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に至つては涙さへ出されない苦しさである。
雨がふらないかわりに、一生晴れることもない天気と同じ苦しさです。
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雨の降らない代りに生涯照りつこない天氣と同じ苦痛である。
ただ土の下へ心がしずんでいくだけで、人の情から見ても、正しさから見ても、この苦しさのおぎないになるものが何もあたえられていません。
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たゞ土の下へ心が沈む丈で、人情から云つても道義心から云つても、殆んど此壓迫の賠償として何物も與へられてゐない。
ただ土をほり下げて、暗い中へ落ちていくだけです。
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たゞ土を掘り下げて暗い中へ落ちて行く丈である。
「土」
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「土」
を読む人は、きっと自分もどろの中を引きずられるような気がするでしょう。
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を讀むものは、屹度自分も泥の中を引き摺られるやうな氣がするだらう。
わたしもそういう気がしました。
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余もさう云ふ感じがした。
どうして長塚さんはこんな読みにくいものを書いたのだろう、とふしぎに思う人もいるかもしれません。
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或者は何故長塚君はこんな讀みづらいものを書いたのだと疑がふかも知れない。
そういう人にわたしはひとことだけ言いたいのです。こういう生活をしている人が、わたしたちと同じ時代に、しかも東京からそう遠くない田舎に住んでいる。この悲しい事実を、一度ぎゅっと胸にだきしめてみたら、これから先のあなたの生き方や、毎日の行いに、何か役に立つのではないでしょうか、と。
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そんな人に對して余はたゞ一言、斯樣な生活をして居る人間が、我々と同時代に、しかも帝都を去る程遠からぬ田舍に住んで居るといふ悲慘な事實を、ひしと一度は胸の底に抱き締めて見たら、公等の是から先の人生觀の上に、又公等の日常の行動の上に、何かの參考として利益を與へはしまいかと聞きたい。
わたしはとくに、楽しいことばかりにあこがれる若い男の人や女の人に、読みにくいのをがまんして、この「土」
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余はとくに歡樂に憧憬する若い男や若い女が、讀み苦しいのを我慢して、此「土」
を読む勇気を出してほしいと思います。
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を讀む勇氣を鼓舞する事を希望するのである。
わたしのむすめが大きくなって、音楽会がどうの、しばいがどうのと言い出すころになったら、わたしはぜひこの「土」
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余の娘が年頃になつて、音樂會がどうだの、帝國座がどうだのと云ひ募る時分になつたら、余は是非此「土」
を読ませたいと思っています。
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を讀ましたいと思つて居る。
むすめはきっといやだと言うでしょう。
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娘は屹度厭だといふに違ない。
もっとおもしろい恋のお話ととりかえてほしいと言うでしょう。
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より多くの興味を感ずる戀愛小説と取り換へて呉れといふに違ない。
けれどもわたしはそのとき、むすめに、おもしろいから読めと言うのではありません。
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けれども余は其時娘に向つて、面白いから讀めといふのではない。
苦しいから読めと言うのだ、と伝えたいと思っています。
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苦しいから讀めといふのだと告げたいと思つて居る。
べんきょうのためだから、世の中を知るためだから、知って自分の心の中に暗くおそろしいかげをうつすためだから、がまんして読みなさい、と言いたいのです。
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參考の爲だから、世間を知る爲だから、知つて己れの人格の上に暗い恐ろしい影を反射させる爲だから我慢して讀めと忠告したいと思つて居る。
何も考えずにぬくぬくと育った若い女の人(男の人でも同じです)が、ものごとの意味を考えたり、神や仏のことを思ったりするようになるのは、みなこの暗いかげの奥から生まれてくるのだと、わたしは強く信じているからです。
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何も考へずに暖かく生長した若い女(男でも同じである)の起す菩提心や宗教心は、皆此暗い影の奧から射して來るのだと余は固く信じて居るからである。
長塚さんの書き方は、どこまでも落ちついています。
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長塚君の書き方は何處迄も沈着である。
出て来る人たちは、みなありのままです。
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其人物は皆有の儘である。
話のすじは、まったく自然です。
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話の筋は全く自然である。
わたしが「土」
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余が「土」
を「朝日」
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を「朝日」
にのせはじめたとき、北のほうのSという人が、わざわざ手紙をくれて、長塚さんが旅行でその人と会ったときの言い合いを知らせてきたことがあります。
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に載せ始めた時、北の方のSといふ人がわざ/″\書を余のもとに寄せて、長塚君が旅行して彼と面會した折の議論を報じた事がある。
長塚さんは、わたしが「朝日」
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長塚君は余の「朝日」
に書いた「満韓ところどころ」
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に書いた「滿韓ところ/″\」
というものをSさんの家で一回読んで、漱石という男は人をばかにしていると言って、たいそうおこったそうです。
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といふものをSの所で一囘讀んで、漱石といふ男は人を馬鹿にして居るといつて大いに憤慨したさうである。
漱石だけでなく、そもそも「朝日」
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漱石に限らず一體「朝日」
新聞の記者の書き方はみんな人をばかにしている、と言ってわるく言ったそうです。
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新聞の記者の書き振りは皆人を馬鹿にして居ると云つて罵つたさうである。
なるほど、まじめでよく練られた、おごそかと言ってもいいような「土」
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成程眞面目に老成した、殆んど嚴肅といふ文字を以て形容して然るべき「土」
を書いた長塚さんなら、そう思うのももっともです。
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を書いた、長塚君としては尤もの事である。
「満韓ところどころ」
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「滿韓所々」
などが長塚さんの気にさわったのも、そのはずだと思います。
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抔が君の氣色を害したのは左もあるべきだと思ふ。
でも、長塚さんから軽い人間だと思われたわたしにも、まじめな「土」
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然し君から輕佻の疑を受けた余にも、眞面目な「土」
を読む目はあるのです。
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を讀む眼はあるのである。
だから、このはじめの文を書いているのです。
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だから此序を書くのである。
長塚さんは、たまたま「満韓ところどころ」
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長塚君はたまたま「滿韓ところ/″\」
の一回を見てわたしの軽さにはらを立てたのでしょう。でも、同じわたしが書いたほかのものをたまたま読んでいたら、反対の気持ちになったかもしれません。
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の一囘を見て余の浮薄を憤つたのだらうが、同じ余の手になつた外のものに偶然眼を觸れたら、或は反對の感を起すかも知れない。
もしわたしが、はじめから終わりまで「満韓ところどころ」
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もし余が徹頭徹尾「滿韓ところ/″\」
の中の長塚さんの気に入らない一回のような調子でいるのなら、とても長塚さんの「土」
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のうちで、長塚君の氣に入らない一囘を以て終始するならば、到底長塚君の「土」
のためにこんなに言葉をつかうことはできないはずだからです。
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の爲に是程言辭を費やす事は出來ない理窟だからである。
長塚さんは不幸にものどの病気にかかり、このあいだまで東京の病院にいましたが、今は体を治しながら旅をしています。
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長塚君は不幸にして喉頭結核にかゝつて、此間迄東京で入院生活をして居たが、今は養生旁旅行の途にある。
さきごろ、まえにしょうかいしておいた福岡大学の久保先生から手紙が来て、長塚さんが診てもらいに来たと書いてあったので、今ごろは九州にいるでしょう。
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先達てかねて紹介して置いた福岡大學の久保博士からの來書に、長塚君が診察を依頼に見えたとあるから、今頃は九州に居るだらう。
わたしは本になる時期におくれずに、病気の長塚さんのために、「土」
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余は出版の時機に後れないで、病中の君の爲に、「土」
についてこれだけのことを言えたのをうれしく思います。
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に就いて是丈の事を云ひ得たのを喜こぶのである。
わたしがむかし「土」
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余がかつて「土」
を「朝日」
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を「朝日」
にのせはじめたとき、ある作家が、わたしたちは「土」
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に載せ出した時、ある文士が、我々は「土」
などを読むぎむはない、と言っていたと、わざわざ知らせてきた人がいました。
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などを讀む義務はないと云つたと、わざ/\余に報知して來たものがあつた。
そのときわたしは、この作家は何のためにつみのない「土」
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其時余は此文士は何の爲に罪もない「土」
の作者をばかにするのだろうと思って、いやな気持ちになりました。
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の作家を侮辱するのだらうと思つて苦々しい不愉快を感じた。
だいたい、読まなければならないぎむのある小説なんて、その小説の原こうを直す人か、国が本を調べる役所の人のほかには、あるはずがありません。
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理窟から云つて、讀まねばならない義務のある小説といふものは、其小説の校正者か、内務省の檢閲官以外にさうあらう筈がない。
わざわざ言わなくても、いやならだまって読まなければそれでいいのです。
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わざ/\斷わらんでも厭なら厭で默つて讀まずに居れば夫迄である。
もしまた、名前の知られていない人が書いたものだから読むぎむはないと言うのなら、その人は名前だけで小説を読み、中身は気にしない、文学のわからない人と同じです。
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もし又名の知れない人の書いたものだから讀む義務はないと云ふなら、其人は唯名前丈で小説を讀む、内容などには頓着しない、門外漢と一般である。
作家なら、同じ仕事をする人に対して、たとえ名前が知られていない人でも、もう少し思いやりと敬う気持ちがあってほしいと思います。
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文士ならば同業の人に對して、たとひ無名氏にせよ、今少しの同情と尊敬があつて然るべきだと思ふ。
わたしは「土」
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余は「土」
の作者が病気なので、なおさらそう言いたいのです。
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の作者が病氣だから、此場合には猶ほ更らさう云ひたいのである。
(明治四十五年五月)
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(明治四十五年五月)
一
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一
強い西風が、目に見えない大きなかたまりをごうっとぶつけては、またごうっとぶつけて、やせた木の林を一日じゅういじめつづけた。
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烈しい西風が目に見えぬ大きな塊をごうつと打ちつけては又ごうつと打ちつけて皆痩こけた落葉木の林を一日苛め通した。
木のえだは、ときどきひゅうひゅうと悲しそうな音を立てて泣いた。
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木の枝は時々ひう/\と悲痛の響を立てゝ泣いた。
みじかい冬の日はもう落ちかけて、黄色い光を出しながらまたたいた。
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短い冬の日はもう落ちかけて黄色な光を放射しつゝ目叩いた。
そして西風は、ぱたりとやんでしまったのかと思うほど静かになった。
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さうして西風はどうかするとぱつたり止んで終つたかと思ふ程靜かになつた。
どろをちぎって投げたような雲が、ばらばらに林の上へじっとくっついていて、空はまだ静かでないことを見せている。
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泥を拗切つて投げたやうな雲が不規則に林の上に凝然とひつゝいて居て空はまだ騷がしいことを示して居る。
それでときどきは、思い出したように木のえだがざわざわと鳴る。
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それで時々は思ひ出したやうに木の枝がざわ/″\と鳴る。
あたりが急に心細くなった。
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世間が俄に心ぼそくなつた。
お品はまた、てんびん棒を下ろした。
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お品は復た天秤を卸した。
お品は竹のみじかいてんびん棒の先へ、木のえだで作った小さなかぎをぶら下げて、それで手おけの取っ手を引っかけていた。
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お品は竹の短い天秤の先へ木の枝で拵へた小さな鍵の手をぶらさげてそれで手桶の柄を引つ懸けて居た。
お品は畑仕事のあいまに、村でとうふを仕入れて、二つか三つの村を売り歩くのがいつものことだった。
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お品は百姓の隙間には村から豆腐を仕入れて出ては二三ヶ村を歩いて來るのが例である。
手おけで持ち出すだけだから、もとでも要らないかわりにもうけも少ない。でも畑仕事だけをしているより、毎日その日のこづかいがもらえるので、もうしばらくそうしていた。
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手桶で持ち出すだけのことだから資本も要ない代には儲も薄いのであるが、それでも百姓ばかりして居るよりも日毎に目に見えた小遣錢が取れるのでもう暫くさうして居た。
手おけ一つ分のとうふなら、いつもの道をぐるりと回れば、かならず売り切れた。
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手桶一提の豆腐ではいつもの處をぐるりと廻れば屹度なくなつた。
帰りにはとうふのかけらで白くなった水をすてて、てんびん棒は軽くなるのである。
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還りには豆腐の壞れで幾らか白くなつた水を棄てゝ天秤は輕くなるのである。
お品はいつでも、日のあるうちに、夜に縄をなうための藁へ水をかけておいたり、落ち葉をかき集めたりして、あちこち手を動かすのをやめなかった。
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お品は何時でも日のあるうちに夜なべに繩に綯ふ藁へ水を掛けて置いたり、落葉を攫つて見たりそこらこゝらと手を動かすことを止めなかつた。
生まれつき丈夫なので、お品は仕事を苦しいと思ったことがなかった。
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天性が丈夫なのでお品は仕事を苦しいと思つたことはなかつた。
それがこの日は自分でもとてもいやだったが、冬至が来るからこんにゃくを仕入れなくてはならないと言って、むりに出たのだった。
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それが此日は自分でも酷く厭であつたが、冬至が來るから蒟蒻の仕入をしなくちや成らないといつて無理に出たのであつた。
冬至になると、にわか商人が次々に出てくるので、急いで一度歩いておかないと、先を取られてしまう。お品はどうしてもじっとしていられなかった。
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冬至といふと俄商人がぞく/\と出來るので急いで一遍歩かないと、其俄商人に先を越されて畢ふのでお品はどうしても凝然としては居られなかつた。
こんにゃくは村にはないので、仕入れるには田んぼをこえたり林をぬけたりして、遠くまで行かなければならない。
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蒟蒻は村には無いので、仕入をするのには田圃を越えたり林を通つたりして遠くへ行かねばならぬ。
それでお品は、そのとちゅうで商売をしようと思って、この日もとうふをかついで出た。
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それでお品は其途中で商をしようと思つて此の日も豆腐を擔いで出た。
あいにく、夜から冷えきった空には強い西風がふいていて、それにさからって行くお品は、自分でも足元がひどくふらつくのを感じた。
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生憎夜から冴え切つて居た空には烈しい西風が立つて、それに逆つて行くお品は自分で酷く足下のふらつくのを感じた。
ぞくぞくと体が冷えた。
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ぞく/\と身體が冷えた。
そして、とうふを出すたびに水へ手を入れるのが、ふるえるほど身にしみた。
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さうして豆腐を出す度に水へ手を刺込むのが慄へるやうに身に染みた。
かさかさにかわいた手が、水につけるたびに赤くなった。
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かさ/\に乾燥いた手が水へつける度に赤くなつた。
あかぎれがぴりぴりといたんだ。
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皹がぴり/\と痛んだ。
なかよしの家々で、お品は落ち葉をひとくべ燃やしてもらっては手をかざして、やっと暖まった。
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懇意なそここゝでお品は落葉を一燻べ焚いて貰つては手を翳して漸と暖まつた。
こんにゃくを仕入れて出たときは、そんなことで手間どって、いつもよりずっとおそくなっていた。
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蒟蒻を仕入れて出た時はそんなこんなで暇をとつて何時になく遲かつた。
お品は林をいくつもすぎて自分の村へ急いだが、つかれもしたし、体がだるいような気がして、何度も道ばたに荷を下ろして休みながら来たのだった。
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お品は林を幾つも過ぎて自分の村へ急いだが、疲れもしたけれど懶いやうな心持がして幾度か路傍へ荷を卸しては休みつゝ來たのである。
お品は手おけの取っ手へわたした竹のてんびん棒へ体をあずけて、どかりとひざを折った。
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お品は手桶の柄へ横たへた竹の天秤へ身を投げ懸けてどかりと膝を折つた。
ぐったりしたお品は、ただでさえ見苦しいかっこうが、いっそうだらしなく乱れた。
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ぐつたり成つたお品はそれでなくても不見目な姿が更に檢束なく亂れた。
西風のなごりが、お品の後ろからふいた。
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西風の餘波がお品の後から吹いた。
そして西風は、後ろで結んだ汚い手ぬぐいのはしをめくって、油の切れたほこりだらけの赤い髪の毛をしごき上げるようにして、あかだらけの首すじをむき出しにさせている。
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さうして西風は後で括つた穢い手拭の端を捲つて、油の切れた埃だらけの赤い髮の毛を扱きあげるやうにして其垢だらけの首筋を剥出にさせて居る。
それといっしょに、林の木々はまだ持ち前のさわぎをやめないで、道ばたのえだがぐるりと取りまいてお品の上からのぞこうとすると、後ろからも後ろからも林のえだが一斉に首を出す。
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夫と共に林の雜木はまだ持前の騷ぎを止めないで、路傍の梢がずつと繞つてお品の上からそれを覗かうとすると、後からも/\林の梢が一齊に首を出す。
そしてしばらくすると、また一斉に後ろへぐっともどって、体を横にゆらしながら、笑ってささやくようにざわざわと鳴る。
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さうして暫くしては又一齊に後へぐつと戻つて身體を横に動搖ながら笑ひ私語くやうにざわ/\と鳴る。
お品は体にいつもとちがうことが起きたのに気づいて、こわくなってきた。
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お品は身體に變態を來したことを意識すると共に恐怖心を懷きはじめた。
三、四日なんともなかったから大丈夫だとは思っても、こうしてじっとしていると遠くへ引きこまれるような気がして、もともとのぼせやすいこともあって、そう思うと耳が鳴るようで、あたりがかえって静かになってしまったように思われた。
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三四日どうもなかつたから大丈夫だとは思つて見ても、恁う凝然として居ると遠くの方へ滅入つて畢ふ樣な心持がして、不斷から幾らか逆上性でもあるのだがさう思ふと耳が鳴るやうで世間が却て靜かに成つて畢つたやうに思はれた。
ふと気がつくと、お品はきびきびとてんびん棒をかついだ。
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不圖氣が付いた時お品ははき/\として天秤を擔いだ。
林がとぎれて、田んぼが見えてきた。
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林が竭きて田圃が見え出した。
田んぼをこえれば村で、自分の家は田んぼのすぐそばである。
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田圃を越せば村で、自分の家は田圃のとりつきである。
青いけむりがすっと上がっている。
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青い煙がすつと騰つて居る。
お品は二人の子どものことを思って、心がおどった。
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お品は二人の子供を思つて心が跳つた。
林のはずれから田んぼへ下りる所は十メートルほどだが、かたむきの急な坂で、雨のたびにそこらの水を集めて田んぼへ落とす口になっているので、自然に土がけずられて深いくぼみができている。
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林の外れから田圃へおりる處は僅かに五六間であるが、勾配の峻しい坂でそれが雨のある度にそこらの水を聚めて田圃へ落す口に成つて居るので自然に土が抉られて深い窪が形られて居る。
お品はてんびん棒をななめに横へ向けて、右の手を前の手おけの取っ手へ、左の手を後ろの手おけの取っ手へかけて、気をつけながら下りた。
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お品は天秤を斜に横へ向けて、右の手を前の手桶の柄へ左の手を後の手桶の柄へ掛けて注意しつゝおりた。
それでも、手おけいっぱいになりそうなこんにゃくの重さが、ふらつく足をかろうじてささえさせた。
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それでも殆んど手桶一杯に成り相な蒟蒻の重量は少しふらつく足を危く保たしめた。
やっと人がすれちがえるだけのせまい田んぼ道を、お品はそろそろと運んで行く。
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やつと人の行き違ふだけの狹い田圃をお品はそろ/\と運んで行く。
お品は白っぽくなるほど古くなった股引に、先のほうだけつぎ足した足袋をはいている。
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お品は白茶けた程古く成つた股引へそれでも先の方だけ繼ぎ足した足袋を穿いて居る。
大きな藁ぞうりは、かためたように霜どけのどろがくっついていて、それがぼたぼたと足の運びをさらにおそくしている。
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大きな藁草履は固めたやうに霜解の泥がくつゝいて、それがぼた/\と足の運びを更に鈍くして居る。
せまく連なっている田を、たてに用水のほりがはしっている。
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狹く連つて居る田を竪に用水の堀がある。
二、三本、わりと大きなはんの木が立っている所に、たった一枚の板の橋がななめにかけてある。
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二三株比較的大きな榛の木の立つて居る處に僅一枚板の橋が斜に架けてある。
お品は橋のたもとでちょっと立ち止まった。
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お品は橋の袂で一寸立ち止つた。
そして、近づいた自分の家を見た。
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さうして近づいた自分の家を見た。
村は高台にあるので、お品の家の後ろはすぐ、ななめに田んぼへずり落ちそうな林である。
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村落は臺地に在るのでお品の家の後は直に斜に田圃へずり落ち相な林である。
ならや雑木のあいだに、みじかい竹がまじっている。
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楢や雜木の間に短い竹が交つて居る。
かなり大きくなったならの木はみな葉が落ちきっているので、その小えだのすきまからへこんだ屋根の棟が見える。
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いゝ加減大きくなつた楢の木は皆葉が落ち盡して居るので、其小枝を透して凹んだ棟が見える。
白い羽のにわとりが五、六羽、がりがりとつめで土をかいてはくちばしでつつき、またがりがりと土をかいては、いっしんに夕方のえさをさがしながら、田んぼから林へ帰りつつある。
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白い羽の鷄が五六羽、がり/\と爪で土を掻つ掃いては嘴でそこを啄いて又がり/\と土を掻つ掃いては餘念もなく夕方の飼料を求めつゝ田圃から林へ還りつゝある。
お品はとても気をつけて、ななめの橋をわたった。
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お品は非常な注意を以て斜な橋を渡つた。
四歩目には、もう田んぼの土に立った。
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四足目にはもう田圃の土に立つた。
そのときは日はとっくにしずんでいて、見わたすかぎり、田からも林からも、あたりはただ黄色っぽく光って、それでもまだ明るかった。
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其時は日は疾に沒して見渡す限り、田から林から世間は只黄褐色に光つてさうしてまだ明るかつた。
お品は田んぼから上がるまえに、てんびん棒を下ろして左へ曲がった。
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お品は田圃からあがる前に天秤を卸して左へ曲つた。
自分の家の林と田とのあいだには、人の足あとだけの細い道がついている。
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自分の家の林と田との間には人の足趾だけの小徑がつけてある。
お品は、その細い道と林とのさかいにあるぐみの木のそばに立った。
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お品は其小徑と林との境界を劃つて居る牛胡頽子の側に立た。
にわとりのつめのあとが、そこの新しい土をかき散らしてあった。
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鷄の爪の趾が其處の新らしい土を掻き散らしてあつた。
お品は土を手で集めて、ぞうりの底でそくそくとならした。
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お品は土を手で聚めて草履の底でそく/\とならした。
お品のすがたが庭に見えたときには、西風は忘れたようにやんでいて、庭先のくりの木にかけた大根のかわいた葉も動かなかった。
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お品の姿が庭に見えた時には西風は忘れたやうに止んで居て、庭先の栗の木にぶつ懸けた大根の乾びた葉も動かなかつた。
白いにわとりはお品の足元へちょろちょろとかけて来て、何かほしそうにけろっと見上げた。
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白い鷄はお品の足もとへちよろ/\と駈けて來て何か欲し相にけろつと見上た。
お品はいつものように、にわとりにかまっていられなかった。
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お品は平常のやうに鷄抔へ構つては居られなかつた。
お品は戸口にてんびん棒を下ろして、とつぜん
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お品は戸口に天秤を卸して突然
「おつう」
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「おつう」
と呼んだ。
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と喚んだ。
「おっかあか」
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「おつかあか」
と、すぐにおつぎの返事が元気よく聞こえた。
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と直におつぎの返辭が威勢よく聞えた。
それと同時に、かまどの火がひらひらと赤くお品の目にうつった。
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それと同時に竈の火がひら/\と赤くお品の目に映つた。
朝から雨戸を開けていないので、中は薄暗くなっている。
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朝から雨戸は開けないので内はうす闇くなつて居る。
外の光を見ていたお品の目には、すぐにはおつぎのすがたも見えなかったのである。
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外の光を見て居たお品の目には直ぐにはおつぎの姿も見えなかつたのである。
戸口からでは、おつぎの体がかまどの火をかくしていた。
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戸口からではおつぎの身體は竈の火を掩うて居た。
返事をするときに体をひねったので、その赤い火が見えたのである。
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返辭すると共に身體を捩つたので其赤い火が見えたのである。
おつぎの背中にいた与吉は、お品の声を聞きつけると
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おつぎの脊に居た與吉はお品の聲を聞きつけると
「まんまんま」
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「まん/\ま」
と両手を出して下りようとする。
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と兩手を出して下りようとする。
お品は、おつぎが帯を解いているあいだに、かべぎわの麦藁の俵のそばへ、こんにゃくの手おけを二つならべた。
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お品はおつぎが帶を解いてる間に壁際の麥藁俵の側へ蒟蒻の手桶を二つ並べた。
与吉はお母さんのふところにだかれて、ろくに出もしないお乳をさがした。
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與吉はお袋の懷に抱かれて碌に出もしない乳房を探つた。
お品はかまどの前へこしをかけた。
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お品は竈の前へ腰を掛けた。
白いにわとりは、はしごのかわりにかけてある荒縄をぐるぐる巻きにした竹のみきへ、それぞれつめを引っかけて、両方の羽を広げて体のつりあいを取りながら、あわてたようにねぐらへ上がった。
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白い鷄は掛梯子の代に掛けてある荒繩でぐる/\捲にした竹の幹へ各自に爪を引つ掛けて兩方の羽を擴げて身體の平均を保ちながら慌てたやうに塒へあがつた。
そして青いけむりの中で、じっとして目を閉じている。
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さうして青い煙の中に凝然として目を閉ぢて居る。
お品は家に帰っていくらか暖まったが、それでも一日冷えたせいか、ぞくぞくするのが止まらなかった。
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お品は家に歸つて幾らか暖まつたがそれでも一日冷えた所爲かぞく/\するのが止まなかつた。
そして、あとで近所でおふろをもらってゆっくり暖まれば、気分もよくなるだろうと思った。
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さうして後に近所で風呂を貰つてゆつくり暖まつたら心持も癒るだらうと思つた。
かまどには小さななべがかかっている。
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竈には小さな鍋が懸つて居る。
しるはふたを浮かすようにして、ぐらぐらとにえている。
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汁は葢を漂はすやうにしてぐら/\と煮立つて居る。
外もいつのまにか、すっかり暗くなった。
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外もいつかとつぷり闇くなつた。
おつぎはかまどの下から火のついたしばを一つ取って、手ランプをつけて上がりがまちの柱へかけた。
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おつぎは竈の下から火のついてる麁朶を一つとつて手ランプを點けて上り框の柱へ懸けた。
お品は、おつぎがひとえに半纏を引っかけたままなのを見た。
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お品はおつぎが單衣へ半纏を引つ掛けた儘であるのを見た。
ふだんならそんなことはないのだが、自分がひどくぞくぞくして気分が悪いので、つい気になって
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平常ならそんなことはないのだが自分が酷くぞく/\として心持が惡いのでつい氣になつて
「おつう、そんなかっこうでお前は寒くないか」
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「おつう、そんな姿で汝や寒かねえか」
と聞いた。
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と聞いた。
それから手ぬぐいの下から見えるおつぎのあどけない顔を、じっと見た。
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それから手拭の下から見えるおつぎのあどけない顏を凝然と見た。
「寒くないよ」
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「寒かあんめえな」
おつぎは何でもないように言った。
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おつぎは事もなげにいつた。
与吉はふところの中で、しきりにほしがっている。
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與吉は懷の中で頻りにせがんで居る。
お品はいつもとちがって何も買って来なかったので、ふと困った。
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お品は平常のやうでなく何も買つて來なかつたので、ふと困つた。
「おつう、そこらに砂糖はなかったっけね」
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「おつう、そこらに砂糖はなかつたつけゝえ」
お品は言った。
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お品はいつた。
おつぎは黙ってぞうりをぬぎ捨てて座敷へかけ上がり、戸だなから小さな古い新聞紙のふくろを見つけ出して、自分の手のひらへ少し砂糖をつまみ出して
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おつぎは默つて草履を脱棄てゝ座敷へ駈けあがつて、戸棚から小さな古い新聞紙の袋を探し出して、自分の手の平へ少し砂糖をつまみ出して
「そらそら」
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「そら/\」
と言いながら、手を出して待っている与吉にやった。
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といひながら、手を出して待つて居る與吉へ遺つた。
おつぎは砂糖のついた自分の手をなめた。
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おつぎは砂糖の附いた自分の手を嘗めた。
与吉は、その砂糖をお母さんのふところへこぼしながら、あぶなっかしくつまんでは口へ入れる。
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與吉は其砂糖をお袋の懷へこぼしながら危な相につまんでは口へ入れる。
砂糖がなくなると、与吉はそのべとついた手をお母さんの口のあたりへ出した。
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砂糖が竭きた時與吉は其べとついた手をお袋の口のあたりへ出した。
お品は与吉の両手をつかまえてなめてやった。
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お品は與吉の兩手を攫へて舐つてやつた。
お品はなべのふたを取って、しばのほのおをかざしながら
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お品は鍋の蓋をとつて麁朶の焔を翳しながら
「これはいもか何だい」
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「こりや芋か何でえ」
と聞いた。
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と聞いた。
「うん、少しいもを足して温めなおしたんだ」
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「うむ、少し芋足して暖め返したんだ」
「ごはんは冷たくないかい」
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「おまんまは冷たかねえけ」
「そのあとで雑炊でも作ろうと思ってたのよ」
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「それから雜炊でも拵えべと思つてたのよ」
お品は熱い物なら体が暖まるだろうと思いながら、自分はひどくだるいので、何でもおつぎにさせていた。
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お品は熱い物なら身體が暖まるだらうと思ひながら、自分は酷く懶いので何でもおつぎにさせて居た。
おつぎは、ねばり気のない、麦の多いぽろぽろのごはんをなべへ入れた。
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おつぎは粘り氣のない麥の勝つたぽろ/\な飯を鍋へ入れた。
お品はしばをひとくべ、つっこんだ。
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お品は麁朶を一燻べ突つ込んだ。
おつぎはなべを下ろして、茶がまをかけた。
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おつぎは鍋を卸して茶釜を懸けた。
ほうっと白くゆげの立つなべの中を、おたまで二、三度かき回して、おつぎはまたふたをした。
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ほうつと白く蒸氣の立つ鍋の中をお玉杓子で二三度掻き立てゝおつぎは又葢をした。
おつぎは戸だなからおぜんを出して、上がりがまちへ置いた。
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おつぎは戸棚から膳を出して上り框へ置いた。
柱にかけた手ランプの光がとどかないので、おつぎは手さぐりでしている。
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柱に點けてある手ランプの光が屆かぬのでおつぎは手探りでして居る。
お品は左手にだいた与吉の口へ、はしの先で少しずつ食べさせながら雑炊を食べた。
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お品は左手に抱いた與吉の口へ箸の先で少しづゝ含ませながら雜炊をたべた。
お品はいもを三つ四つはしにさして、与吉に持たせた。
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お品は芋を三つ四つ箸へ立てゝ與吉へ持たせた。
与吉はいもを口へ持っていって、すぐに熱いと言って泣いた。
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與吉は芋を口へ持つていつて直ぐに熱いというて泣いた。
お品は与吉のほおをふうふうとふいて、それからいもを自分の口でかんでやった。
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お品は與吉の頻をふう/\と吹いてそれから芋を自分の口で噛んでやつた。
お品のごはんは、こうして冷えた。
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お品の茶碗は恁うして冷えた。
おつぎは冷たくなったとき、なべのものと取りかえてやった。
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おつぎは冷たくなつた時鍋のと換てやつた。
お品は、ほしくもない雑炊を三ばいまで食べた。
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お品は欲しくもない雜炊を三杯までたべた。
いくらかおなかの中が暖かくなったのを感じた。
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幾らか腹の中の暖かくなつたのを感じた。
そしてやっと、水っぽさのぬけた茶がまのお湯をくんで飲んだ。
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さうして漸く水離れのした茶釜の湯を汲んで飮んだ。
おつぎは庭先の井戸ばたへ出て、なべへ一ぱい、つるべの水をあけた。
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おつぎは庭先の井戸端へ出て鍋へ一杯釣瓶の水をあけた。
おつぎがもどったとき
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おつぎが戻つた時
「おつう、今夜でなくてもいいよ」
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「おつう、今夜でなくつてもえゝや」
とお品は言った。
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とお品はいつた。
おつぎは黙って俵のそばの手おけに手をかけて
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おつぎは默つて俵の側の手桶へ手を掛けて
「これにも水を入れておかなくちゃならないだろうね」
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「此へも水入て置かなくつちやなんめえな」
「そうすればいいが、大変だろうよ」
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「さうすればえゝが大變だらえゝぞ」
お品が言い終わらないうちに、おつぎは庭へ出た。
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お品がいひ切らぬうちにおつぎは庭へ出た。
すぐに洗ったなべと手おけを持って、暗い庭先からぼんやりと戸口にすがたを見せた。
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直ぐに洗つた鍋と手桶を持つて暗い庭先からぼんやり戸口へ姿を見せた。
しきいへちょっと手おけを置いて、お品と顔を見合わせた。
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閾へ一寸手桶を置いてお品と顏を見合せた。
手おけの水は半分で、両方のこんにゃくに水がかぶった。
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手桶の水は半分で兩方の蒟蒻へ水が乘つた。
お品は三人づれで、東どなりへおふろをもらいに行った。
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お品は三人連で東隣へ風呂を貰ひに行つた。
東どなりというのは大きなやしきで、こんもりとしげった森につつまれている。
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東隣といふのは大きな一構で蔚然たる森に包まれて居る。
外はまっ暗だ。
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外は闇である。
となりの森のすぎが、すみきった空へつき出している。
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隣の森の杉がぞつくりと冴えた空へ突つ込んで居る。
お品の家はむかしから、この森のせいで、日がよほど南へ回ってからでないと庭に光がささなかった。
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お品の家は以前から此の森の爲めに日が餘程南へ廻つてからでなければ庭へ光の射すことはなかつた。
お品の家族は、どこまでも日かげ者であった。
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お品の家族は何處までも日蔭者であつた。
それがあとになって、あちこちに土地をはかるための三角測量台が建てられ、その上に小さな旗がひらひらとひるがえるようになってから、その森が見通しのじゃまになるというので、三、四本だけ切らせられた。
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それが後に成つてから方方に陸地測量部の三角測量臺が建てられて其上に小さな旗がひら/\と閃くやうに成つてから其森が見通しに障るといふので三四本丈伐らせられた。
すぎの大木は西へたおしたので、どしんとそこらをおそろしくゆらして、お品の庭へ横たわった。
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杉の大木は西へ倒したのでづしんとそこらを恐ろしく搖がしてお品の庭へ横たはつた。
えだはくだけて、その先が庭の土をえぐった。
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枝は挫けて其先が庭の土をさくつた。
それでもとなりでは、その木のかたづけをするときにそこらへ散らばった小えだやくずをお品の家にくれたので、思いがけないたきぎができたのと、東がずっと空いたのとで、となりでは自分のうでを切られたようだとおしんだのに、お品の家ではこっそりよろこんだのだった。
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それでも隣では其木の始末をつける時にそこらへ散らばつた小枝や其他の屑物はお品の家へ與へたので思ひ掛けない薪が出來たのと、も一つは幾らでも東が隙いたのとで、隣では自分の腕を斬られたやうだと惜しんだにも拘らずお品の家では竊に悦んだのであつた。
それからというもの、どんなかっこうでも日が朝からさすようになった。
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それからといふものはどんな姿にも日が朝から射すやうになつた。
それでもやはり森はあたりをおしつけていて、夜になるとことにそびえ立って、小さなお品の家は地面へふみつけられたように見えた。
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それでも有繋に森はあたりを威壓して夜になると殊に聳然として小さなお品の家は地べたへ蹂つけられたやうに見えた。
お品は暗やみの中へ消えた。
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お品は闇の中へ消えた。
そして、となりの戸口に現れた。
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さうして隣の戸口に現はれた。
となりのやとわれ人たちは、夜なべの縄をなっていた。
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隣の雇人は夜なべの繩を綯つて居た。
板の間のはしにあぐらをかいて、足でおさえた縄のはしへ藁をつぎ足しつぎ足ししては、ちょりちょりとひたいの上までもみ上げ、右の手をしりへ回してくっと縄を後ろへしごく。
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板の間の端へ胡坐を掻いて足で抑へた繩の端へ藁を繼ぎ足し/\してちより/\と額の上まで揉み擧ては右の手を臀へ廻してくつと繩を後へ扱く。
縄はそのたびに土間へ落ちる。
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繩は其度に土間へ落ちる。
お品は板の間で小さくなっていた。
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お品は板の間に小さくなつて居た。
やがて藁がなくなると、やとわれ人たちはそれぞれ縄を足から手へ引っかけて、すばやく数をかぞえては土間からたぐり上げながら、つながったまま一たばずつにくくった。
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軈て藁が竭きると傭人は各自に其繩を足から手へ引つ掛けて迅速に數を計つては土間から手繰り上げながら、繼がつた儘一房づゝに括つた。
やがて彼らは板の間の藁くずを土間へはき落として、それからかわりばんこにおふろへ入った。
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やがて彼等は板の間の藁屑を土間へ掃きおろしてそれから交代に風呂へ這入つた。
お品はそれを見ながら、黙って待っていた。
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お品はそれを見ながら默つて待つて居た。
お品はここへ来るとこういうえんりょをしなければならないので、少し遠くてもおふろは外へもらいに行くのだったが、その晩はどこもおふろをわかしていなかった。
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お品は此處へ來ると恁ういふ遠慮をしなければならぬので、少しは遠くても風呂は外へ貰ひに行くのであつたが其晩はどこにも風呂が立たなかつた。
お品は二、三けんあちこち歩いてみてから、となりの門をくぐったのだった。
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お品は二三軒そつちこつちと歩いて見てから隣の門を潜つたのであつた。
やとわれ人たちは、大がまの下にぽっぽと火をたいて当たっている。
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傭人は大釜の下にぽつぽと火を焚いてあたつて居る。
おふろから出ても、彼らはゆだったような赤いももを出して火のそばへ寄った。
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風呂から出ても彼等は茹つたやうな赤い腿を出して火の側へ寄つた。
「どうだね、ひとくべ当たったらよかろう。今すぐに空くから」
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「どうだね、一燻べあたつたらようがせう、今直に明くから」
とやとわれ人が言ってくれても、お品はしりから冷えるのをがまんして、じっとしんぼうしていた。
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と傭人がいつてくれてもお品は臀から冷えるのを我慢して凝然と辛棒して居た。
ふところでねむった与吉を起こすまいとしては、足がしびれるので、何度も体をもじもじ動かした。
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懷で眠つた與吉を騷がすまいとしては足の痺れるので幾度か身體をもぢ/\動かした。
やっとおふろが空いたときは、お品は待ち遠しかったので、何も考えずに急いで着物をぬいだ。
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漸く風呂の明いた時はお品は待遠であつたので前後の考もなく急いで衣物をとつた。
与吉は運よくぐったりして、お母さんのふところからはなれるのも気づかないので、おつぎが小さな手でだいた。
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與吉は幸ひにぐつたりと成つてお袋の懷から離れるのも知らないのでおつぎが小さな手で抱いた。
お品はだんだん体が暖まるにつれて、はじめて生き返ったようにうっとりした。
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お品は段々と身體が暖まるに連れて始めて蘇生つたやうに恍惚とした。
いつまでもつかっていたいような気がした。
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いつまでも沈んで居たいやうな心持がした。
与吉が泣きはしないかと気づいたとき、ろくに洗いもしないで出てしまった。
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與吉が泣きはせぬかと心付いた時碌に洗ひもしないで出て畢つた。
それでも顔がつやつやとして、髪の生えぎわが、ふいてもふいても汗ばんだ。
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それでも顏がつや/\として髮の生際が拭つても/\汗ばんだ。
そして、しみじみと気持ちよかった。
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さうしてしみ/″\と快かつた。
お品は着物を引っかけると、すぐに与吉をふところへ入れた。
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お品は衣物を引つ掛けると直ぐと與吉を内懷へ入れた。
お品のあとには下女が入ったので、おつぎはそのあいだ待たねばならなかった。
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お品の後へは下女が這入つたので、おつぎは其間待たねばならなかつた。
おつぎが出たときには、お品の体は冷めかけていた。
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おつぎが出た時はお品の身體は冷め掛けて居た。
お品は、自分があとで入ればよかったと後かいした。
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お品は自分が後ではいればよかつたのにと後悔した。
お品が自分の股引と足袋をおつぎに持たせて帰ったときには、月がそっととなりの森のかたちをはっきりさせて、その森のすきまがことに明るく光っていた。
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お品が自分の股引と足袋とをおつぎに提げさせて歸つた時に月は竊に隣の森の輪郭をはつきりとさせて其森の隙間が殊に明るく光つて居た。
あたりはしみじみと冷えていた。
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世間がしみ/″\と冷えて居た。
お品はうすいあかじみたふとんにくるまると、体がまたぞくぞくして、ひざがしらがこおったようになっていたのに気づいた。
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お品は薄い垢じみた蒲團へくるまると、身體が又ぞく/\として膝かしらが氷つたやうに成つて居たのを知つた。
二
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二
次の朝、お品は、まだ戸のすきまからうす明かりがさしたばかりのころに目がさめた。
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次の朝お品はまだ戸の隙間から薄ら明りの射したばかりに眼が覺めた。
まくらから頭を上げてみたが、頭のしんがしくしくといたむようで、いつになく重かった。
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枕を擡げて見たが頭の心がしく/\と痛むやうでいつになく重かつた。
せまい家の中に、羽ばたくにわとりの声がけたたましく耳の底へひびいた。
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狹い家の内に羽叩く鷄の聲がけたゝましく耳の底へ響いた。
おつぎはまだすやすやとねむっている。
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おつぎはまだすや/\として眠つて居る。
戸のすきまがまぶたを開いたように明るくなったとき、にわとりがまた高く鳴いた。
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戸の隙間が瞼を開いたやうに明るくなつた時鷄が復た甲走つて鳴いた。
お品は、おつぎを今朝はゆっくりさせてやろうと思っていた。
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お品はおつぎを今朝は緩くりさせてやらうと思つて居た。
それでもおつぎは、にわとりがまた鳴いたとき、むっくり起きた。
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それでもおつぎは鷄が又鳴いた時むつくり起きた。
いつもとちがってあまりに静かなので、おどろいたようにあたりを見た。
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いつもと違つて餘りひつそりして居るので驚いたやうにあたりを見た。
そして、お母さんがまだ自分のそばでふとんにくるまっているのを見た。
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さうしてお袋がまだ自分の傍に蒲團へくるまつてるのを見た。
「おつう、急がなくてもいいぞ。おれは今朝は少し具合が悪いから、ゆっくりするからな」
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「おつう、せかねえでもえゝぞ、俺ら今朝少し工合が惡いから緩くりすつかんなよ」
お品は言った。
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お品はいつた。
おつぎはしばらくもじもじしながら帯をしめて、大戸を一枚がらがらと開けて、目をこすりながら庭へ出た。
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おつぎは暫くもぢ/\しながら帶を締て大戸を一枚がら/\と開けて目をこすりながら庭へ出た。
井戸ばたのおけにはいもが少し水にひたしてあって、その水にはガラス板くらいのこおりが張っている。
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井戸端の桶には芋が少しばかり水に浸してあつて、其水には氷がガラス板位に閉ぢて居る。
おつぎは、なべをいつもみがいているといしのかけらで、こおりをたたいてみた。
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おつぎは鍋をいつも磨いて居る砥石の破片で氷を叩いて見た。
おつぎは大戸を開けっぱなしにしていたので、朝の寒さが入ってきたのに気がついて
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おつぎは大戸を開け放して置いたので朝の寒さが侵入したのに氣がついて
「おっかあ、寒くなかったか。おれ知らないでいた」
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「おつかあ、寒かなかつたか、俺ら知らねえで居た」
と言いながら、大戸をがらがらとしめた。
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いひながら大戸をがら/\と閉めた。
暗くなった家の中では、かまどの火だけが元気よく赤く立った。
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闇くなつた家の内には竈の火のみが勢ひよく赤く立つた。
おつぎは
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おつぎは
「ああ冷たい」
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「おゝ冷てえ」
と言いながら、かまどの口からめくれて出るほのおへ手をかざして
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といひながら竈の口から捲れて出る燄へ手を翳して
「今朝はいもの水がこおったんだよ」
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「今朝は芋の水氷つたんだよ」
と、お母さんのほうを向いて言った。
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とお袋の方を向いていつた。
「うん、霜もおりたようだな」
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「うむ、霜も降つたやうだな」
お品は力なく言った。
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お品は力なくいつた。
戸口を後ろにして、お品はかまどの火がべろべろと燃え上がるのを見た。
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戸口を後にしてお品は竈の火のべろ/\と燃え上るのを見た。
「どこでもまっ白だよ」
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「何處でも眞白だよ」
おつぎは竹の火ばしで落ち葉をかき立てながら言った。
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おつぎは竹の火箸で落葉を掻き立てながらいつた。
「夜明けにひどく冷えたっけからな」
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「夜明にひどく冷々したつけかんな」
お品は言って、ちょっと首を上げながら
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お品はいつて一寸首を擡げながら
「おれは今朝は食べたくないからな。お前はかまわないで、できたら食べたほうがいいぞ」
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「俺ら今朝はたべたかねえかんな、汝構あねえで出來たらたべた方がえゝぞ」
お品は言った。
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お品はいつた。
またこおったごはんで雑炊がにられた。
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又氷つた飯で雜炊が煮られた。
「おっかあ、少しでも食べないか」
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「おつかあ、ちつとでもやらねえか」
おつぎは茶わんをお母さんのまくら元へ出した。
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おつぎは茶碗をお袋の枕元へ出した。
雑炊のこげたようなにおいがぷんと鼻をついたとき、お品ははしを取ってみようかと思ってうつぶせになってみたが、すぐに気持ちが悪くなってしまった。
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雜炊の焦げついたやうな臭ひがぷんと鼻を衝いた時お品は箸を執つて見ようかと思つて俯伏しになつて見たが、直に壓になつて畢つた。
お品が動いたので、ふところの与吉は泣き出した。
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お品が動いたので懷の與吉は泣き出した。
お品はうつぶせのままお乳をふくませた。
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お品は俯伏した儘乳房を含ませた。
そしてまた、いものくしを作って持たせた。
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さうして又芋の串を拵へて持たせた。
お品が表の大戸を開けさせたときには、日がきらきらと東どなりの森ごしに庭へさしかけて、きっぱりと日かげを区切って、とけ残った霜が白く見えていた。
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お品が表の大戸を開けさせた時は日がきら/\と東隣の森越しに庭へ射し掛けてきつかりと日蔭を限つて解け殘つた霜が白く見えて居た。
庭先のくりの木のかれ葉からも、えだにかけた大根の葉からも、霜がとけてしずくがまだぽたりぽたりと落ちている。
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庭先の栗の木の枯葉からも、枝へ掛けた大根の葉からも霜が解けて雫がまだぽたり/\と垂れて居る。
庭にしいてある庭ぶたの藁も、ただぐっしょりとしめっている。
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庭へ敷いてある庭葢の藁も只ぐつしりと濕つて居る。
冬になると霜柱が立つので、庭にはみんな藁くずやそばがらがいっぱいにしかれる。
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冬になると霜柱が立つので庭へはみんな藁屑だの蕎麥幹だのが一杯に敷かれる。
それが庭ぶたである。
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それが庭葢である。
霜柱が、庭から先の桑畑で、ぐらりぐらりとたおれつつある。
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霜柱が庭から先の桑畑にぐらり/\と倒れつゝある。
お品はふとんの中でも、ずいぶん暖かくなったのを感じた。
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お品は蒲團の中でも滅切暖かく成つたことを感じた。
ときどきまくらから頭を上げて、戸口から外を見る。
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時々枕を擡げて戸口から外を見る。
そしては、麦藁の俵のそばに置いたこんにゃくの手おけを、どうかすると気づかないうちに見つめている。
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さうしては麥藁俵の側に置いた蒟蒻の手桶をどうかすると無意識に見つめる。
横になっている目からは東どなりの森のえだが変に見えるので、じっと見つめると目がつかれてくるので、またこんにゃくの手おけへ目をうつしたりした。
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横に成つて居る目からは東隣の森の梢が妙に變つて見えるので凝然と見つめては目が疲れるやうに成るので又蒟蒻の手桶へ目を移したりした。
お品は、どうにかして少しでもこんにゃくをへらしておきたいと思った。
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お品はどうかして少しでも蒟蒻を減らして置きたいと思つた。
お品は、そのうち起きられるだろうと考えながら、ときどきうとうとする。
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お品は其内に起きられるだらうと考へつゝ時々うと/\と成る。
「切り干しでも切ろうかな」
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「切干でも切つたもんだかな」
おつぎが庭から大きな声で言ったとき、お品はふとまくらから頭を上げた。
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おつぎが庭から大きな聲でいつた時お品はふと枕を擡げた。
それでおつぎの声は、意味も分からずにかすかに耳に入った。
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それでおつぎの聲は意味も解らずに微かに耳に入つた。
しばらくたってから、お品は庭でおつぎがざあと水をくんでは、また間を置いてざあと水をくんでいるのを聞いた。
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暫くたつてからお品は庭でおつぎがざあと水を汲んでは又間を隔てゝざあと水を汲んで居るのを聞いた。
おつぎは大根を洗った。
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おつぎは大根を洗つた。
おつぎは庭ぶたの上にむしろをしいて、暖かい日ざしをあびながら切り干しを切りはじめた。
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おつぎは庭葢の上に筵を敷いて暖かい日光に浴しながら切干を切りはじめた。
大根を横に幾つかに切って、さらにそれをたてに割って細長くきざむ。
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大根を横に幾つかに切つて、更にそれを竪に割つて短册形に刻む。
おつぎは飯だいにわたしたまな板の上へとんとんとほうちょうを落としては、そのほうちょうで白くきざまれた大根を飯だいの中へしごき落とす。
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おつぎは飯臺へ渡した爼板の上へとん/\と庖丁を落しては其庖丁で白く刻まれた大根を飯臺の中へ扱き落す。
お品は切り干しをきざむ音を聞いたとき、さっきのは大根を洗っていたのだなと思った。
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お品は切干を刻む音を聞いた時先刻のは大根を洗つて居たのだなと思つた。
お品は、この二、三日、もう切り干しも切らなければと自分で言っていたのを思い出して、おつぎがよく気をきかせたと心の中でよろこんだ。
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お品は二三日此來もう切干も切らなければならないと自分が口について云つて居たことを思ひ出して、おつぎが能く機轉を利かしたと心で悦んだ。
ほうちょうの音が雨戸のすぐ外に聞こえる。
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庖丁の音が雨戸の外に近く聞える。
お品が体を半分ふとんからずり出してみたら、手ぬぐいで髪をつつんで少し前かがみになっているおつぎの後ろすがたが見えた。
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お品は身體を半分蒲團からずり出して見たら、手拭で髮を包んで少し前屈みになつて居るおつぎの後姿が見えた。
「大根は分かったのか」
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「大根は分つたのか」
お品は聞いた。
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お品は聞いた。
「分かってるよ」
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「分つてるよ」
おつぎはほうちょうの手を止めて、横を向いて返事した。
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おつぎは庖丁の手を止めて横を向て返辭した。
お品はまたふとんにくるまった。
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お品は又蒲團へくるまつた。
そしてまだ下手なほうちょうの音を聞いた。
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さうしてまだ下手な庖丁の音を聞いた。
お品のふところにいた与吉は、たいくつしてぐずり出した。
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お品の懷に居た與吉は退屈してせがみ出した。
おつぎはそれを聞いて
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おつぎは夫を聞いて
「そうら、姉ちゃんのとこへでも来てみろ」
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「そうら、姊が處へでも來て見ろ」
と言いながら、いそいでぽっとひとくべ落ち葉を燃やし、着物をあぶって与吉に着せた。
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といひながら忙しくぽつと一燻べ落葉を燃して衣物を灸つて與吉へ着せた。
「よきはりこうだから、姉ちゃんのとこにいるんだぞ」
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「よきは利口だから姊が處に居るんだぞ」
お品は言った。
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お品はいつた。
おつぎは自分のむしろの上へだいて行った。
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おつぎは自分の筵の上へ抱いて行つた。
おつぎの手は落ち葉のほこりでよごれていた。
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おつぎの手は落葉の埃で汚れて居た。
また、ほうちょうを持ったとき、大根には指のあとがついた。
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再び庖丁を持つた時大根には指の趾がついた。
おつぎはその手を半纏でふいた。
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おつぎは其手を半纏で拭つた。
与吉はそばできざまれた大根へ手を出す。
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與吉は側で刻まれた大根へ手を出す。
「あぶないよ。さあ、これでも持ってろ」
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「危險よ、さあ此でも持つて居ろ」
おつぎは切りかけの大根をやった。
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おつぎは切り掛けの大根をやつた。
与吉はすぐにそれをかじった。
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與吉は直にそれを噛ぢつた。
「からくてしようがないだろうな、よきは」
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「辛くて仕やうあんめえなよきは」
おつぎは、あまやかすように言った。
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おつぎは甘やかすやうにいつた。
お品にはそれがよく聞こえて、二人が何をしているのかが分かった。
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お品にはそれが能く聞えて二人がどんなことをして居るのかゞ分つた。
お品の耳には、つづいて
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お品の耳には續いて
「ぺっとしたか。そら、そっちへ行っちゃった」
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「ぽうんとしたか、そらそつちへ行つちやつた」
という声がしたかと思うと
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といふ聲がしたかと思ふと
「今度はぺっとするんじゃないからな」
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「こんだはぽうんとすんぢやねえかんな」
という声や、それからまた
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といふ聲やそれから又
「それ、持ち出すんじゃない。言うことを聞かないと、これで切ってやるぞ。血が出るぞ。ああ痛い」
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「それ持ち出すんぢやねえ、聽かねえと此で切つてやんぞ、赤まんまが出るぞおゝ痛え」
などと、おつぎが言うのが聞こえた。
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抔とおつぎのいふのが聞えた。
そのたびに、ほうちょうの音が止まる。
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其度に庖丁の音が止む。
お品には、与吉がいたずらをしたり、おつぎが痛いと言って指をくわえてみせれば与吉も自分の手を口に当てているのが、目に見えるようである。
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お品には與吉が惡戯をしたり、おつぎが痛いといつて指を啣へて見せれば與吉も自分の手を口へ當て居るのが目に見えるやうである。
お品はおつぎをふだんからきびしくしつけていたので、よその子よりよく働けると思っているけれど、与吉とふざけているのを見ると、まだ子どもなのだということが頭に浮かぶ。
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お品はおつぎを平常から八釜敷して居たので餘所の子よりも割合に動けると思つて居るけれど、與吉と巫山戯たりして居るのを見るとまだ子供だといふことが念頭に浮ぶ。
自分が勘次と知り合ったのは十六の秋である。
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自分が勘次と相知つたのは十六の秋である。
おつぎもこうして大人らしくなるだろうかと、いつになくそんなことを思った。
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おつぎは恁うして大人らしく成るであらうかと何時になくそんなことを思つた。
おつぎは十五だった。
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おつぎは十五であつた。
昼ごはんも、お品はほしくなかった。
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午餐もお品は欲しくなかつた。
自分でも今日は商売に出られないとあきらめた。
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自分でも今日は商に出られないと諦めた。
明日になったらと思っていた。
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明日に成つたらばと思つて居た。
しかしそれは、むだな望みだった。
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然しそれは空頼であつた。
お品は、あいかわらずまくらからはなれられない。
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お品は依然として枕を離れられない。
さすがに不安な気持ちが先に立った。
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有繋に不安の念が先に立つた。
お品は、つい先ごろ出かけて行った勘次のことがしきりに思い出された。こっちであれだけ働いて行ったのに、きっと休みもしないでお金をかせいでいるのだろうと思うと、寒くてもシャツ一まいになって、あとにはそのシャツのすそがぬけ出してよくおへそが出ることや、夜になると骨がみりみりするようだと言っていたことが目の前にあるようで、なんだか会いたくてたまらない気がするのだった。
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お品はつい近頃行つた勘次の事が頻りに思ひ出されて、こつちであれ程働いて行つたのに屹度休みもしないで錢取をして居るのだらうと思ふと、寒くてもシヤツ一つになつて、後には其シヤツの端が拔け出して能く臍が出ることや、夜になると能く骨がみり/\する樣だといつたことが目の前にあるやうで何だか逢ひたくて堪らぬやうな心持がするのであつた。
勘次は利根川をほり広げる工事へ行っていた。
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勘次は利根川の開鑿工事へ行つて居た。
秋のころから土方の人がさそいに来て、ずいぶんうまい話をされたので、この近くの村からも五、六人が応じた。
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秋の頃から土方が勸誘に來て大分甘い噺をされたので此の近村からも五六人募集に應じた。
勘次は工事がどんなものかもよく知らなかったが、一日のかせぎが五十銭以上にもなるというので、それがそのころとしてはとんでもなく高いのにひかれてしまったのである。
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勘次は工事がどんなことかも能く知らなかつたが一日の手間が五十錢以上にもなるといふので、それが其季節としては法外な値段なのに惚れ込んで畢つたのである。
工事の場所は霞ヶ浦に近い低い土地で、こう水がいったん岸の草をしずめると、湖は広がって川と一つになり、ただ白々と水があふれるのを、人の手でつくった堤防がかろうじて湖と川とを分けているあたりである。
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工事の場所は霞ヶ浦に近い低地で、洪水が一旦岸の草を沒すと湖水は擴大して川と一つに只白々と氾濫するのを、人工で築かれた堤防が僅に湖水と川とを區別するあたりである。
勘次は自分の土地とくらべて、はてしなく広いあたりのようすにのまれた。
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勘次は自分の土地と比較して茫々たるあたりの容子に呑まれた。
そして人夫たちに、えらそうにこき使われた。
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さうして工夫等に權柄にこき使はれた。
勘次は、いよいよやとわれて行くことになったとき、とり入れを急いだ。
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勘次は愈傭はれて行くとなつた時收穫を急いだ。
冬至が近づくころには、田はもちろん、畑のいもでも大根でも、それぞれかたづけなくてはならない。
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冬至が近づく頃には田はいふまでもなく畑の芋でも大根でもそれぞれ始末しなくてはならぬ。
勘次は、お品が起きてかまどの火をつけるまでのあいだに、庭ぶたへもみのむしろをほしたり、それから一人でうすをひいたりして、それから大根もほしたり土にうめたりして、暗いうちから暗くなるまで働いた。
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勘次はお品が起きて竈の火を點けるうちには庭葢へ籾の筵を干したりそれから獨りで磨臼を挽いたりして、それから大根も干したり土へ活けたりして闇いから闇いまで働いた。
それでも、もみが少しと畑が少し残ったのを、お品がどうにかすると言ったので出て行ったのである。
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それでも籾が少しと畑が少し殘つたのをお品がどうにかするといつたので出て行つたのである。
工事の場所へは八十キロもあった。
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工事の箇所へは廿里もあつた。
勘次は、行けばすぐにお金になると思ったので、やっと一円ばかりのさいふをふところに入れて出た。
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勘次は行けば直に錢になると思つたので漸く一圓ばかりの財布を懷にした。
べんとうをうんと背負って行ったので、目ざす所に着くまでは、わたし舟のお金のほかには一銭も要らなかった。
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辨當をうんと背負つたので目的地へつくまでは渡錢の外には一錢も要らなかつた。
勘次は夜に着いて、その次の日にはつかれた体で仕事に出た。
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勘次は夜ついて其次の日には疲れた身體で仕事に出た。
彼は半日でもむだにごはんを食べることをおそれた。
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彼は半日でも無駄な飯を喰ふことを恐れた。
しかしその次の日は、はげしい仕事のせいで、「そら手」といって手のすじがいたんだので、二、三日仕事に出られなかった。
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然し其の次の日は過激な勞働から俗にそら手というて手の筋が痛んだので二三日仕事に出られなかつた。
それから六、七日たって、はげしい西風がふいた。
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それから六七日たつて烈しい西風が吹いた。
勘次はうすいふとんにくるまって、昼のうちから冷えていた足が暖まらなかった。
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勘次は薄い蒲團へくるまつて日の中から冷えてた足が暖らなかつた。
うとうとするばかりでぐっすりねむることもできず、ねがえりを打って長い夜をやっと明かした。
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うと/\と熟睡することも出來ないで輾轉して長い夜を漸く明した。
その次の日、彼はこわばったように感じる手を動かして、冷たいシャベルの柄をにぎってどろだらけになっていた。
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其の次の日彼は硬ばつたやうに感ずる手を動かして冷たいシヤブルの柄を執つて泥にくるまつて居た。
そうしている所へ、村の近所の人がひょっこりたずねて来たので、彼はきつねにでもばかされたように、ただおどろいた。
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さうして居る處へ村の近所のものがひよつこり尋ねて來たので彼は狐にでも魅まれたやうに只驚いた。
近所の人は、大ぜいがどろのようになって動いているので、どれがどれとも見分けがつかなくて困ったと言って、勘次に会えたことを何度も言ってよろこんだ。
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近所の者は大勢が只泥のやうになつて動いて居るのでどれがどうとも識別がつかないで困つたといつて、勘次に逢うたことを反覆して只悦んだ。
とちゅうで一晩とまったというようなことを言って、勘次が気ぜわしく聞くまで用件を言わなかった。
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途中へ一晩泊つたといふやうなことをいつて勘次が心忙しく聞く迄は理由をいはなかつた。
勘次はやっと、お品にたのまれて来たのだということを知った。
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勘次は漸くお品に頼まれて來たのだといふことを知つた。
勘次は、お品が病気になったのだと聞いて、もしものことがあったらという不安がぎくりと胸にこたえた。
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勘次はお品が病氣に罹つたのだといふのを聞いて萬一かといふ懸念がぎつくり胸にこたへた。
そして何度も、どんなぐあいだと聞いた。
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さうして反覆してどんな鹽梅だと聞いた。
話のようすではそれほどでもないのかと思ってもみたが、それでも勘次は、口をきくにもつばが喉からぐっとこみ上げてくるようで落ち着かなかった。
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噺の容子ではそれ程でもないのかと思つても見たが、それでも勘次は口を利くにも唾が喉からぐつと突つ返して來るやうで落付かれなかつた。
その日の夜中に、二人は出発した。
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其の日の夜中に彼等は立つた。
勘次は自分も急ぐし、使いの人をつかれた足で歩かせることもできないので、霞ヶ浦を汽船で土浦の町へ出た。
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勘次は自分も急ぐし使を疲れた足で歩かせることも出來ないので霞ヶ浦を汽船で土浦の町へ出た。
夜は汽船の上で明けたが、どうしたのかとちゅうで故しょうが起きたので、土浦へ着いたのは思っていた時間よりずっとおそくなった。
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夜は汽船で明けたがどうしたのか途中で故障が出來たので土浦へ着いたのは豫定の時間よりは遙に後れて居た。
土浦の町で勘次はいわしを一つつみ買って、手ぬぐいでくくってぶら下げた。
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土浦の町で勘次は鰯を一包み買つて手拭で括つてぶらさげた。
土浦から彼は、つかれた足の人を後ろに置いて、自分は力のかぎり歩いた。
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土浦から彼は疲れた足を後に捨てゝ自分は力の限り歩いた。
それでも村へ入ったときにはすれちがう人がぼんやり分かるくらいで、自分の戸口に立ったときには、うす暗い手ランプが柱にかかってくすぶっていた。
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それでも村へはひつた時は行き違ふ人がぼんやり分る位で自分の戸口に立つた時は薄暗い手ランプが柱に懸つて燻ぶつて居た。
勘次は、しんとした家の中に、すぐにふとんにくるまっているお品のすがたを見た。
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勘次はひつそりとした家のなかに直に蒲團へくるまつて居るお品の姿を見た。
それから、お品の足をさすっているおつぎに目をうつした。
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それからお品の足を揣つて居るおつぎに目を移した。
勘次は大戸をがらりと開けてしきいをまたいだとき、何も言わずにただ
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勘次は大戸をがらりと開けて閾を跨いだ時何もいはずに只
「どうしたい」
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「どうしてえ」
と言うのが先だった。
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といふのが先であつた。
お品は勘次の声を聞いて、思わずまくらを動かして
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お品は勘次の聲を聞いて思はず枕を動かして
「勘次さんか」
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「勘次さんか」
と言って、さらに
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といつて更に
「南のおとっつあんとは、行きちがいにでもならなかっただろうかね」
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「南のおとつゝあは行き違にでもならなかつたんべかな」
と言った。
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といつた。
「会ったよ。そんだが、お前はどんなぐあいなんだい」
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「行逢つたよ。そんだがお前どんな鹽梅なんでえ」
「おれはそれほどでもないと思っていたが、三、四日横になったきりでなあ。それでも今日あたりはちっとはいいようだから、この分ならすぐによくなるかとも思ってるのよ」
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「俺らそれ程でねえと思つて居たが三四日横に成つた切でなあ、それでも今日等はちつたあえゝやうだから此分ぢや直に吹つ返すかとも思つてんのよ」
「それならよかった。おれはただ歩いてもよかったが、南の人をまた歩かせちゃ済まないから、いっしょに土浦まで汽船で来たんだが、南の人はくたびれたもんだから、おれが先に出たんだがな。南の人もあの分じゃ、今夜もなかなか着くまいよ。それに汽船がまたおくれちまってな」
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「そんぢやよかつた、俺ら只ぢや歩いてもよかつたが、南こと又歩かせちや濟まねえから同志に土浦まで汽船で乘つ着けたんだが、南は草臥れたもんだから俺ら先へ出たんだがな、南もあの分ぢや今夜もなか/\容易ぢやあんめえよ、それに汽舩が又後れつちやつてな」
勘次は言いながら、わらじをぬいだ。
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勘次はいひながら草鞋をとつた。
手ぬぐいのはしにくくって来たいわしのつつみをかさりとお品のまくら元へ投げて、首にかけていた風呂しきづつみをどさりと置いて、勘次は庭へ出て足を洗った。
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手拭の端へ括つて來た鰯の包みをかさりとお品の枕元へ投げて、首へつけて居た風呂敷包をどさりと置いて勘次は庭へ出て足を洗つた。
勘次はお品のまくら元にすわった。
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勘次はお品の枕元へ座を占めた。
「そんなに悪くなくて、それでもよかった。おれはどうしたかと思ってな」
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「そんなに惡くなくつちやそれでもよかつた、俺らどうしたかと思つてな」
勘次はあらためてまた言った。
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勘次は改めて又いつた。
「お品、ごはんは食べたか」
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「お品おまんまは喰べてか」
勘次はつけ足した。
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勘次はつけ足した。
「さっき、おつうに米のおかゆをたいてもらって、それでもやっとかき込んだところだよ」
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「先刻おつうに米のお粥炊いて貰つてそれでもやつと掻つ込んだところだよ」
「それならどうだ、とちゅうで見つけて来たんだから、一ぴきやってみないか」
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「それぢやどうした、途中で見付けて來たんだから一疋やつて見ねえか」
勘次は手ランプをお品のまくら元へ持って来て、いわしのつつみを開いた。
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勘次は手ランプをお品の枕元へ持つて來て鰯の包を解いた。
いわしは手ランプの光できらきらと青く見えた。
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鰯は手ランプの光できら/\と青く見えた。
「ほんによなあ」
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「ほんによなあ」
お品はうつぶせになって、こう言った。
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お品は俯伏しになつて恁ういつた。
「おつう、そこへ火でもふきつけてみないか」
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「おつう、其處へ火でも吹つたけて見ねえか」
勘次は言った。
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勘次はいつた。
「勘次さん、そりゃ大変だったな。おれはそんなには要らなかったな」
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「勘次さんそら大變だつけな、俺らそんなにや要らなかつたな」
「今だから、いつまでももつよ。そうしてお前も力をつけろな」
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「今だから何時までも保つよ、さうしてお前も力つけろな」
「汽船に乗って来たって、よっぽどお金もかかったんだろうな」
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「汽船に乘つて來たつて餘つ程費用も掛つたんべな」
「そうよ、二人で六十銭ばかりだが、これはおれが出したのよ。南の人に出させるわけにも行かないからな」
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「さうよ、二人で六十錢ばかりだが此は俺出したのよ、南に出させる譯にも行かねえかんな」
「それじゃ、かせいだお金をそれだけむだにしちまったな」
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「それぢや稼えだ錢それだけ立投にしつちやつたな」
「そんでもさいふにはまだあるよ。七日ばかり働いて、それでも二円は残ったからな。そんでまた行くはずで、前借りを少ししてきたんだ。こっちのほうから行ってる連中が保しょうしてくれてな」
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「そんでも財布にやまあだ有るよ、七日ばかり働えてそれでも二兩は殘つたかんな、そんで又行く筈で前借少しして來たんだ、こつちの方から行つてる連中が保證してくれてな」
勘次はほこらしげに言った。
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勘次は誇り顏にいつた。
「おれは今日みたいならいいが、ひどく会いたくなってなあ」
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「俺ら今日見てえだらえゝが、酷く行逢ひたくなつてなあ」
お品はうつぶせたひたいをまくらにつけた。
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お品は俯伏した額を枕につけた。
「どうせここらのかたづけをしないで行ったんだから、一度はとちゅうで帰ってみなくちゃならないのだから、同じことだよ」
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「どうせ此處らの始末もしねえで行つたんだから、一遍は途中で歸つて見なくつちや成らねえのがだから同じ事だよ」
勘次はお品をのぞきこむようにして言った。
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勘次はお品を覗き込やうにしていつた。
「それでも俵にはしておいたな」
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「それでも俵にしちや置いたな」
勘次はかべぎわの麦藁の俵を見て言った。
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勘次は壁際の麥藁俵を見ていつた。
お品はまだうつぶせのままである。
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お品はまだ俯伏した儘である。
「あっちにいるとお金は要らないな。たばこ一服吸うわけじゃなし、十五日目が締め日で、それまでは支はらいなしで、そのあいだは米でもたきぎでもみんな通ちょうで借りておくくらいなんだから、十五日目にならなくちゃさいふもふくらまないが、また百でも出ることはないからな」
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「あつちに居ちや錢は要らねえな、煙草一服吸ふべえぢやなし、十五日目が晦日でそれまでは勘定なしで其間は米でも薪でもみんな通帳で借りて置く位なんだから、十五日目に成らなくつちや財布も膨れねえが、又百でも出つこはねえかんな」
勘次はさらに、出先のことをお品に聞かせた。
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勘次は更に出先のことをお品へ聞かせた。
「米ばかりたいても毎日一しょうずつは要るくらいだから、骨もずいぶんおれるが、出しさえすりゃ二貫と三貫は残せるから、帰るまでにはおれもどうにかなると思ってるのよ。そうすりゃ塩ざけくらいは買うこともできるからな」
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「米ばかり炊えても毎日一升づゝは要る位だから骨も隨分折れんが出せえすりや二貫と三貫は殘せつから、歸るまでにや俺もどうにか成ると思つてんのよ、さうすりや鹽鮭位は買あことも出來らな」
「それならよかった。土方なんて、ろくな人はいないっていうから、どうしたかと思ってな」
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「そんぢやよかつた、土方なんちや碌な奴等は居ねえつていふからどうしたかと思つてな」
お品は首を持ち上げた。
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お品は首を擡げた。
「そんな人たちと付き合った日にはきりがないが、すみのほうで小さくなってりゃ何とも言わないな」
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「そんな奴等と交際した日にや限はねえが、隅の方にちゞまつてりや何ともゆはねえな」
勘次がついているあいだに、おつぎはかれたしばを折って火ばちに火をおこした。
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勘次がついて居る間におつぎは枯粗朶を折て火鉢へ火を起した。
勘次は火ばしをわたして、いわしを三つばかり乗せた。
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勘次は火箸を渡して鰯を三つばかり乘せた。
いわしのあぶらがじりじりとたれて、青いほのおが立った。
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鰯の油がぢり/\と垂れて青い焔が立つた。
いわしのにおいが、うすいけむりといっしょに部屋の中に満ちた。
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鰯の臭が薄い煙と共に室内に滿ちた。
そして、そのにおいがお品の食よくをさそった。
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さうして其臭がお品の食慾を促した。
お品はうつぶせのままで、けむり臭くなったいわしを食べた。
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お品は俯伏したなりで煙臭くなつた鰯を喰べた。
「どうだ、塩からくはあるまい」
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「どうした鹽辛かあ有んめえ」
「さすがにうまいな」
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「有繋佳味えな」
「これでも、ここらの商人は持って来ないぞ」
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「此でもこゝらの商人は持つちや來ねえぞ」
勘次はじっと見ながら言った。
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勘次は一心に見ながらいつた。
お品は二ひきに手をつけてはしを置きながら、ふところでねむっている与吉をのぞいて
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お品は二匹へ手をつけて箸を置きながら懷で眠つて居る與吉を覗いて
「起きていたら大さわぎだろう」
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「起きて居たら大騷ぎだんべ」
と言った。
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といつた。
「もっと食べろな」
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「いまつとたべろな」
勘次は言った。
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勘次はいつた。
「もう十分だよ。おつうにもやってくれよな」
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「澤山だよ、おつうげもやつてくろうな」
「おれもごはんでも食べようかね」
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「俺も飯でも食はうかえ」
勘次は風呂しきづつみからべんとうの残りを出して、冷たいままぶすぶすとかじった。
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勘次は風呂敷包から辨當の殘を出して冷たい儘ぷす/\と噛つた。
「おうい、お茶は冷たくなったっけかな」
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「おうつ、お茶は冷めたくなつたつけかな」
お品は言った。
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お品はいつた。
「要らないぞ。仕事に出りゃ毎日こうだ」
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「要ねえぞ仕事に出りや毎日かうだ」
勘次はうめぼしを少しずつなめてへらした。
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勘次は梅干を少しづゝ嘗め減らした。
べんとうがなくなってから、勘次はいわしをおつぎにはさんでやった。
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辨當が盡きてから勘次は鰯をおつぎへ挾んでやつた。
そして自分でも一口食べた。
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さうして自分でも一口たべた。
「これはうまいことはうまいが、あんまりあぶらっこくて、おれには気持ちが悪くなるようだな」
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「此りや佳味えこたあ佳味えが餘りあまくつて俺がにや胸が惡くなるやうだな」
勘次は冷めたお湯を何ばいもかたむけた。
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勘次は冷めた湯を幾杯か傾けた。
勘次は風呂しきからふくろを出して、お品のまくら元へ置いて
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勘次は風呂敷から袋を出してお品の枕元へ置いて
「米はこれだけ残ったから持って来たんだ。あっちにいればいいが、何日も空けると、たかれちまっても仕方がないからな。そんじゃ、これはおつうにやっておくんだ」
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「米これだけ殘つたから持つて來たんだ、あつちに居ればえゝが幾日でも明けると炊かれつちやつても仕やうねえかんな、そんぢや此りやおつうげやつて置くんだ」
勘次は米の小さなふくろをおつぎにわたした。
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勘次は米の小さな袋をおつぎへ渡した。
「ふくろなんぞ、また何だと思ったよ」
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「袋なんぞ又何だと思つたよ」
お品は軽く言った。
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お品は輕くいつた。
「それでもたきぎは持って来るわけにも行かないから、置いて来ちまった」
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「それでも薪は持つて來る譯にも行かねえから置いて來つちやつた」
勘次は自分をあざ笑うように、目から口へかけて冷たい笑いが動いた。
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勘次は自ら嘲るやうに目から口へ掛けて冷たい笑が動いた。
「お品、足でもさすってやろうじゃないか」
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「お品、足でもさすつてやんべぢやねえか」
勘次はお品のあしもとのほうへ行った。
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勘次はお品の裾の方へ行つた。
「いいよ勘次さん。おれは今日は昼のうちから気分がいいんだから。さっきもおつぎがさすってやろうなんて言うもんだから、少しもやってくれるなって言ったところだよ。この分じゃ二、三日もすぎたら、勘次さんはまた行けるだろうよ」
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「えゝよ勘次さん、俺ら今日は日のうちから心持えゝんだから、先刻もおつうが揣つてやんべなんていふもんだから少しもやつてくろつて云つた處だよ、こんぢや二三日も過ぎたら勘次さんは又行けべえよ」
お品は気持ちよさそうに言った。
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お品は快よげにいつた。
「今夜はひどく気分がいいんだよ。いいよ、本当だよ勘次さん。お前はくたびれただろうな」
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「今夜はひどく心持えゝんだよ、えゝよ本當だよ勘次さん、お前草臥たんべえな」
さらにお品は元気づいて言った。
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更にお品は威勢がついていつた。
夜はふけた。
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夜は深けた。
外の暗やみはこおったかと思うほど、ただしんとしていた。
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外の闇は氷つたかと思ふやうに只しんとした。
こんにゃくの水にも、紙のようなこおりが張った。
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蒟蒻の水にも紙の如き氷が閉ぢた。
三
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三
次の朝、霜は白く庭ぶたの藁におりた。
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次の朝霜は白く庭葢の藁におりた。
切り干しのむしろは三枚ばかりその庭ぶたの上にしいたままで、切り干しにはこおりを粉にしたような霜がついていて、東の森のすきまからさしこむ朝日にきらきらと光った。
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切干の筵は三枚ばかり其庭葢の上に敷いた儘で、切干には氷を粉末にしたやうな霜が凝つて居て、東の森の隙間から射し透す朝日にきら/\と光つた。
白い切り干しは、蒸さずにほしたものだった。
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白い切干は蒸さずに干したのであつた。
切り干しは、雨がふらなければ、ほこりだらけになろうがごみがまじろうが、昼も夜もむしろはしきっぱなしである。
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切干は雨が降らねば埃だらけに成らうが芥が交らうが晝も夜も筵は敷き放しである。
勘次は霜柱の立った細い道を南へ行った。
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勘次は霜柱の立てる小徑を南へ行つた。
昨夜おそくなったことやら何やら話をして、手間取った。
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昨夜遲かつたことやら何やら噺をして暇どつた。
庭先からつづく小さな桑畑の向こうに家が見えるので、ふだんそれを勘次の家でも、ただ「南」とだけ言っている。
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庭先から續く小さな桑畑の向に家が見えるので、平生それを勘次の家でも唯南とのみいつて居る。
彼が「こもつくこ」という道具をかついで帰って来たときには、日なたの霜が少しとけてねばついていた。
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彼が薦つくこを擔いで歸つて來た時は日向の霜が少し解けて粘ついて居た。
お品は、勘次がちょっとのあいだいなくなったので、ひどくさびしかった。
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お品は勘次が一寸の間居なく成つたので酷く寂しかつた。
この朝になってからもお品のようすがいいので、勘次はほっと安心した。
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此の朝になつてからもお品の容態がいゝので勘次はほつと安心した。
そして、ななめに遠くからさす冬の日をあびながら、庭ぶたの上にむしろをしいて俵をあみはじめた。
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さうして斜に遠くから射す冬の日を浴びながら庭葢の上に筵を敷いて俵を編みはじめた。
こもつくこは、両はしに足がついている。
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薦つくこは兩端に足が附いて居る。
ちょうど馬のくらの骨のような、かんたんな道具である。
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丁度荷鞍の骨のやうな簡單な道具である。
その足から足へわたした棒へ藁をひとつかみずつ当てては、八人坊主をあっちへこっちへ打ちちがえながら、縄をしめつつあむのである。
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其足から足へ渡した棒へ藁を一掴みづゝ當てゝは八人坊主をあつちへこつちへ打つ違ひながら繩を締めつゝ編むのである。
八人坊主というのは、その縄を巻いた、いわば小さなおもりである。八つあるので八人坊主と言っている。
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八人坊主といふのは其繩を捲いたいはゞ小さな錘である、八つあるので八人坊主といつて居る。
小作米を入れる藁俵を四、五俵分作らねばならないことが、かせぎに出るときから彼には気がかりだった。
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小作米を入れる藁俵を四五俵分作らねば成らぬことが稼ぎに出る時から彼には心掛りであつた。
よりわけた藁も縄も別に取っておきながら、ただいそがしくてほうり出して出て行ったのである。
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すぐつた藁も繩も別に取つて置きながら只忙しくて放棄つて出て行つたのである。
お品は、毎日しめきっていた表の雨戸を一枚だけ開けさせた。
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お品は毎日閉め切つて居た表の雨戸を一枚だけ開けさせた。
からりとした青い空が見えて、日が自分のいるふとんの近くまでのびてきた。
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からりとした蒼い空が見えて日が自分の居る蒲團に近くまで偃つた。
お品はこれまでは、明るい外を見ようと思うには、あまりに心がふさいでいた。
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お品は此れまでは明るい外を見ようと思ふには餘りに心が鬱して居た。
お品は庭先のくりの木からたれた大根が、茶色にかわいているのを見た。
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お品は庭先の栗の木から垂れた大根が褐色に干て居るのを見た。
おつぎも勘次の横にむしろをしいて、また大根を切っている。
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おつぎも勘次の横へ筵を敷いて又大根を切つて居る。
そのほうちょうのとんとんと鳴るあいまに、いそがしく八人坊主を動かしてはさらさらと藁をしごく音が、かすかにまじって聞こえる。
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其庖丁のとん/\と鳴る間に忙しく八人坊主を動かしてはさらさらと藁を扱く音が微かに交つて聞える。
お品は二人のすがたを前にして、ひどく心強く感じた。
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お品は二人の姿を前にして酷く心強く感じた。
その日は、くりの木にかけた大根が動かないほど、おだやかな日だった。
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其の日は栗の木に懸けた大根の動かぬ程穩かな日であつた。
お品はこの分なら、紙を一まいずつはがすようによくなっていくと信じた。
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お品は此の分で行けば一枚紙を剥がすやうに快よくなることゝ確信した。
勘次は藁俵をあみおえて、そしてはしをしばった小さな藁のたばを丸く開いて、それを足の底にふんで、かかとを中心に手と足とをコンパスのようにしてぐるぐる回りながら、丸い「俵ぼっち」を作った。
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勘次は藁俵を編み了へて、さうして端を縛つた小さな藁の束を丸く開いて、それを足の底に踏んで踵を中心に手と足とを筆規のやうにしてぐる/\と廻りながら丸い俵ぼつちを作つた。
勘次は、お品がどうにかかたづけておいた麦藁の俵を開けて、できあがったばかりの藁俵へ米をはかって入れた。
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勘次はお品がどうにか始末をして置いた麥藁俵を明けて仕上げた計りの藁俵へ米を量り込んだ。
米には赤いつぶもあったが、もみが少しまじっていて、それが目立った。
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米には赤い粒もあつたが籾が少し交つて居てそれが目に立つた。
「もみが少し多かったな」
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「籾が少したかゝつたな」
勘次はふとそう言った。
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勘次はふとさういつた。
「そうだったっけかな。それでもおれは唐箕は強くかけたつもりなんだがなあ。今年は赤もたくさんだが、うすの切れぐあいもどういうもんだか悪いんだよ」
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「さうだつけかな、それでも俺ら唐箕は強く立てた積なんだがなよ、今年は赤も夥多だが磨臼の切れ方もどういふもんだか惡いんだよ」
と、お品は少し体を動かして言いわけするように言った。
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とお品は少し身を動かして分疏するやうにいつた。
「もっとも、これくらいなら旦那も大目に見てくれるだろうから、心配はあるまいがなあ」
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「尤も此位ぢや旦那も大目に見てくれべえから心配はあんめえがなよ」
勘次はすぐにお品の病気に気づいて、こう言った。
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勘次は直にお品の病氣に心付いて恁ういつた。
かべぎわには、藁のじょうずな俵が、きちんとならべかえられた。
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壁際には藁の器用な俵が規則正しく積み換られた。
お品はそれをじっと見た。
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お品はそれを一心に見た。
それもお品の気分をよくする一つだった。
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それもお品を快よくする一つであつた。
勘次は俵のそばの手おけのふたを取って
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勘次は俵の側な手桶の蓋をとつて
「これはこんにゃくだな」
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「此りや蒟蒻だな」
と言った。
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といつた。
「おれはそれを仕入れたっきり、起きられないんだよ」
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「俺らそれ仕入たつきり起られねえんだよ」
お品はまくらを手で動かして言った。
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お品は枕を手で動かしていつた。
勘次はまたふたをした。
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勘次は又葢をした。
静かな空をじりじりと移って行く日がかたむいたかと思うと、一気に落ちはじめた。
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靜かな空をぢり/\と移つて行く日が傾いたかと思ふと一散に落ちはじめた。
冬の日は、もうみじかい頂点に来ているのである。
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冬の日はもう短い頂點に達して居るのである。
勘次はまだ日があるからと言って、くわをかついで麦畑へ出た。
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勘次はまだ日が有るからといつて鍬を擔いで麥畑へ出た。
しかしいくらもたがやさないうちに日は落ちて、急に冷たくなったあたりは暗くなってきた。
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然し幾らも耕さぬうちに日は落ちて俄かに冷たく成つた世間は暗澹として來た。
お品は勘次を出して、ひどくやるせない気持ちになって、雨戸を引かせて暗いほうを向いて目を閉じた。
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お品は勘次を出して酷く遣瀬ないやうな心持になつて、雨戸を引せて闇い方へ向て目を閉ぢた。
冬至は、もうあと二日しかなくなった。
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冬至はもう間が二日しか無くなつた。
朝のうちに勘次はこんにゃくのふたを取ってみて
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朝の内に勘次は蒟蒻の葢をとつて見て
「どうしたもんだかな。おれでもかついで歩こうかな。こうしておいたんじゃ仕方がないからな」
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「どうしたもんだかな、俺でも擔いて歩つてんべかな、恁して置いたんぢや仕やうねえかんな」
とお品に相談してみた。
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お品へ相談して見た。
「そうよなあ。それよりか、おれはどっちかといったら、大根でもつけてもらいたいな。毎日くりの木を見ていて、ほしすぎやしないかと心配してるんだからよ」
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「さうよな、それよりか俺らどつちかつちつたら大根でも漬て貰へてえな、毎日栗の木見て居て干過ぎやしめえかと思つて心配してんだからよ」
お品はうったえるように言って、そしてさらに
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お品は訴へるやうにいつてさうして更に
「自分が丈夫でさえあれば、とっくにやっちまったんだが」
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「自分で丈夫でせえありや疾くにやつちまつたんだが」
と小声で言った。
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と小聲でいつた。
お品はどうも、勘次を外に出すのがいやだった。
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お品はどうも勘次を出すのが厭であつた。
しかし、なんだかそうはっきりとも言えないので、こう言ったのだった。
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然し何だかさう明白地にもいはれないので恁ういつたのであつた。
「勘次さん、塩を見てくれないか。おれは大丈夫あると思ってたっけがなあ。それからこっちのおけのぬかがいいんだよ。そっちのには房州砂がまじってるんだから」
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「勘次さん鹽見てくんねえか、俺ら大丈夫有ると思つてたつけがなよ、それからこつちの桶の糠がえゝんだよ、そつちのがにや房州砂交つてんだから」
お品は言った。
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お品はいつた。
「おうい」
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「おうい」
勘次は言って、
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勘次はいつて、
「房州砂でも何でもかまうまい。どうせぬかを食うんじゃあるまいし。それにこっちのはちっとかたまってら」
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「房州砂でも何でも構あめえ、どうで糠喰ふんぢやあんめえし、それにこつちなちつと凝結つてら」
「勘次さん、そんでも入れるなよ。毒だっていうんだから。おれ、せっかく別にしてたんだから」
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「勘次さんそんでも入えんなよ、毒だつちんだから、俺折角別にしてたんだから」
お品は少し体を起こしかけて言った。
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お品は少し身を起し掛けていつた。
「そうか、そんじゃそうしよう」
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「さうかそんぢやさうすべよ」
それから塩をあらためて見て
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それから鹽を改めて見て
「どうしてこれだけで使い切れるもんかい」
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「どうして此れだけ使へ切れるもんけえ」
と勘次は言った。
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と勘次はいつた。
お品は、勘次がはしごをかけて一つ一つ大根を外すのも、こぬかをむしろへはかるのも、白い塩をこぬかにまぜるのも、うれしそうに見ていた。
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お品は勘次が梯子を掛けて一つ/\に大根を外すのも小糠を筵へ量るのも白い鹽を小糠へ交ぜるのも滿足氣に見て居た。
お品は勘次を外へやるのがいやなので、そうは言わずに、ときどきおつぎに足をさすらせた。
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お品は勘次を外へ遣るのが厭なのでさうはいはずに時々おつぎに足をさすらせた。
そうすると勘次は
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さうすると勘次は
「どうした、いくらか悪いのか」
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「どうした幾らか惡いのか」
と、自分もいっしんにふとんのすそへ手をかける。
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と自分も一心に蒲團の裾へ手を掛ける。
勘次は庭から外へは出られなかった。
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勘次は庭から外へは出られなかつた。
それでも冬至が明日とせまった日に、勘次はこんにゃくを持って出た。
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それでも冬至が明日と迫つた日に勘次は蒟蒻を持つて出た。
お品も、それは止めなかった。
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お品もそれは止めなかつた。
もう何人か歩いたあとなので、思うようには売れなかったが、それでも勘次はお品のことが気になって、まだ残っているこんにゃくをかついで帰って来てしまった。
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もう幾人か歩いた後なので、思ふやうには捌けなかつたがそれでも勘次はお品にひかされて、まだ殘つて居る蒟蒻を擔いで歸つて來て畢つた。
「こんにゃくはお品のものだから、お金はみんなお前にやっておこう」
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「蒟蒻はお品がもんだから、錢はみんなおめえげ遣つて置くべ」
勘次は銅貨をじゃらじゃらとお品のまくら元へあけた。
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勘次は銅貨をぢやら/\とお品の枕元へ明けた。
お品は銅貨を一つ一つかぞえた。
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お品は銅貨を一つ/\勘定した。
そして、もとでを引いてもいくらかあまりが出たので
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さうして資本を引いても幾らかの剩餘があつたので
「勘次さん、思ったよりよかったな。まだあとよっぽどあるだろうか」
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「勘次さん思ひの外だつけな、まあだあと餘程あんべえか」
と言った。
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といつた。
「いくらでもないな。もうこれだけじゃ、また出るほどのこともあるまいよ」
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「幾らでもねえな、はあ此丈ぢや又出る程のこつてもあんめえよ」
勘次は言った。
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勘次はいつた。
お品は自分の手でお金をふとんの下へ入れた。
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お品は自分の手で錢を蒲團の下へ入れた。
その日、お品は勘次を出して情けないような気持ちでいたのだが、思ったよりは商売をして来てくれたので、一日の物足りなさがすっかり取りもどされた。
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其の日お品は勘次を出して情ないやうな心持がして居たのであるが、思つたよりは商をして來て呉れたので一日の不足が全く恢復された。
そして
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さうして
「菜っぱは畑へ置きっぱなしだったろうな」
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「菜は畑へ置きつ放しだつけべな」
と勘次が言ったとき、お品もおどろいたように
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勘次がいつた時お品も驚いたやうに
「ほんにそうだったなあ。まあ、おくれちまったっけなあ。おれは忘れてたっけが、大丈夫だろうかなあ」
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「ほんにさうだつけなまあ、後れつちやつたつけなあ、俺ら忘れてたつけが大丈夫だんべかなあ」
と言った。
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といつた。
「そんじゃおれは、今からでも引けるだけ引こう」
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「そんぢや俺ら今つからでも曳ける丈曳くべ」
勘次はおつぎを連れて出た。
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勘次はおつぎを連れて出た。
冬至になるまで畑の菜っぱをほうっておく者は、村には一人もいなかった。
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冬至になるまで畑の菜を打棄つて置くものは村には一人もないのであつた。
勘次は荷車を借りて、夕方までに二車引いた。
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勘次は荷車を借りて黄昏までに二車挽いた。
青菜の下の葉は、もうすっかり黄色にかれていた。
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青菜の下葉はもうよく/\黄色に枯れて居た。
お品は二人を送り出し、うす暗くなった家でぼんやりしていても、畑のとり入れのことを思うと、さびしい物足りなさは感じなかった。
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お品は二人を出し薄暗くなつた家にぼつさりして居ても畑の收穫を思案して寂しい不足を感じはしなかつた。
夏のいそがしい、そして野菜の少ないときには、おかずといえば塩をかむようなつけ物しかないので、大根でも青菜でもたくさんたくわえておくことが、彼らにはとても大事なことの一つになっているのである。
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夏季の忙しいさうして野菜の缺乏した時には彼等の唯一の副食物が鹽を噛むやうな漬物に限られて居るので、大根でも青菜でも比較的餘計な蓄へをすることが彼等には重大な條件の一つに成つてるのである。
冬至の日も静かだった。
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冬至の日も靜かであつた。
このごろになってから、ここばかりは忘れたかと思うように西風が止んでいる。
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此の頃になつてから此處ばかりは忘れたかと思ふやうに西風が止んで居る。
昼のひとときは、冷たい空気をとおして日が暖かにさしかけた。
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晝の一しきりは冷たい空氣を透して日が暖かに射し掛けた。
お品は朝から気分が晴れ晴れとして、日がのぼるにつれてふとんの上に起き直ってみたが、体が力のないなりに、ふしぎに軽くなったのを感じた。
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お品は朝から心持が晴々して日が昇るに連れて蒲團へ起き直つて見たが、身體が力の無いながらに妙に輕く成つたことを感じた。
自分のふとんのそばまでさしこむ日にさそい出されたように、雨戸のしきいのそばまで出て、与吉をだいてはたおしてみたり、くすぐってみたりしてはしゃがせた。
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自分の蒲團の側まで射し込む日に誘ひ出されたやうに、雨戸の閾際まで出て與吉を抱いては倒して見たり、擽つて見たりして騷がした。
勘次はおつぎを相手に、井戸ばたで青菜のかたづけをしている。
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勘次はおつぎを相手に井戸端で青菜の始末をして居る。
根を切っておけで洗った青菜は、地面へ横たえたはしごの上に、一まい外して持って来た戸板を置いて、その上へ積まれた。
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根を切つて桶で洗つた青菜は、地べたへ横へた梯子の上に一枚外して行つて載せた其戸板へ積まれた。
菜を洗い終わったとき、かれ葉の多いのはみなかまでゆでて、後ろの林のならのみきへ縄をわたして、ほし菜にしてかけた。
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菜が洗ひ畢つた時枯葉の多いやうなのは皆釜で茹でゝ後の林の楢の幹へ繩を渡して干菜に掛けた。
自分たちの昼ごはんのおかずにも、ひとかまゆでた。
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自分等の晝餐の菜にも一釜茹でた。
お品は、少しのあいだ横になっていたばかりに目がおとろえたのか、日がまぶしいのを感じながら、その日の光を体じゅうにあびて、二人のするのを見ていた。
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お品は僅な日數を横に成つて居たばかりに目が衰へたものか日の稍眩いのを感じつゝ其の日の光を全身に浴びながら二人のするのを見て居た。
そして、ゆで菜の一さらが、いくらかのどがかわいていたせいか、とてもおいしく感じた。
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さうして茹菜の一皿が幾らか渇を覺えた所爲か非常に佳味く感じた。
青菜の水が切れたので、勘次はおけへ塩をふっては青菜を足でぎりぎりとふみつけ、また塩をふってはふみつける。
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青菜の水が切れたので勘次は桶へ鹽を振つては青菜を足でぎり/\と蹂みつけて又鹽を振つては蹂みつける。
お品は塩のかげんやら何やら、さっきからしきりに口を出している。
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お品は鹽の加減やら何やら先刻から頻りに口を出して居る。
勘次はお品の言うとおりにしている。
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勘次はお品のいふ通りに運んで居る。
お品は起きていても別につかれもしないので、そっとぞうりをはいて後ろの戸口から出て、ならの木へ張ったほし菜を見た。
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お品は起きて居ても別に疲れもしないのでそつと草履を穿いて後の戸口から出て楢の木へ引つ張つた干菜を見た。
それから林をななめに田のはしへ下りて、また、ぐみの木のそばに立って、そこをそっとふみ固めた。
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それから林を斜に田の端へおりて又牛胡頽子の側に立つて其處をそつと踏み固めた。
それからしばらく、あたりを見て立っていた。
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それから暫く周圍を見て立つて居た。
お品は庭先から呼ぶ勘次の大きな声を聞いた。
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お品は庭先から喚ぶ勘次の大きな聲を聞いた。
竹や木のみきに手をかけながらななめに林を上って、後ろの戸口から家へもどったとき、さらに呼ぶ勘次の声を聞くとともに、てんびん棒をかついだままぼんやり立っている商人のすがたを、庭ぶたの上に見た。
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竹や木の幹に手を掛けながら斜めに林をのぼつて後の戸口から家へもどつた時更に叫んだ勘次の聲を聞くと共に、天秤を擔いだ儘ぼんやり立つて居る商人の姿を庭葢の上に見た。
「お品、たまごがほしいとよ」
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「お品卵欲しいと」
勘次は次のおけの青菜に塩をふりかけながら言った。
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勘次は次の桶の青菜に鹽を振り掛けながらいつた。
「いくらかあったっけな」
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「幾らか有つたつけな」
お品は戸だなの引き出しから、白いからのたまごを二十ばかり出した。
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お品は戸棚の抽斗から白い皮の卵を廿ばかり出した。
「おつう、四、五日見ないでいたっけが、ねぐらにもいくらかあったろう。上がってみないか」
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「おつう、四五日見ねえで居たつけが塒にも幾らか有つたつけべ、あがつて見ねえか」
とおつぎに言いつけた。
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おつぎに吩附けた。
おつぎが米俵へ上って、その上に低くつるした竹かごのねぐらをのぞいたとき、めんどりが一羽けたたましく飛び出して、後ろのならの木の中へ鳴きながら入って行った。
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おつぎは米俵へ登つて其上に低く釣つた竹籃の塒を覗いた時、牝雞が一羽けたゝましく飛び出して後の楢の木の中へ鳴き込んだ。
ほかのにわとりも、ひとしきりいっしょにやかましく鳴いた。
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他の鷄も一しきり共に喧しく鳴いた。
おつぎは手をのばしては、たまごを一つ一つ取ってたもとへ入れた。
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おつぎは手を延ばしては卵を一つ/\に取つて袂へ入れた。
おつぎはたもとをぶらぶらさせて、あぶなっかしく米俵を下りた。
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おつぎは袂をぶら/\させて危相に米俵を降りた。
そこにもたまごは六つばかりあった。
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其處にも卵は六つばかりあつた。
商人は下ろした四角なざるから、しんちゅうのさらとかぎがつるされたはかりを出した。
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商人は卸した四角なぼて笊から眞鍮の皿と鍵が吊された秤を出した。
「そうばはいくらだね」
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「掛は幾らだね」
お品は聞いた。
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お品は聞いた。
「十一半さ。近ごろどうも安くてな」
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「十一半さ、近頃どうも安くつてな」
商人は言いながら浅い目ざるへたまごを入れて、もえぎ色のひもの取っ手を持ってはかりのさおを目の高さにして、そしてふんどうの糸をぎっとおさえたまま、銀色の目もりを読んだ。
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商人はいひながら淺い目笊へ卵を入れて萠黄の紐のたどりを持つて秤の棹を目八分にして、さうして分銅の絲をぎつと抑へた儘銀色の目を數へた。
おもちゃのような小さなそろばんを出して、商人は
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玩具のやうな小さな十露盤を出して商人は
「みんなで四百二十三もんめ二分だからな、それ」
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「皆掛が四百廿三匁二分だからなそれ」
はかりの目もりをお品に見せて、そろばんの玉をはじいた。
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秤の目をお品に見せて十露盤の玉を彈いた。
「入れ物の重さを引くと四百八もんめ二分か。どうした、いくつだ、二十六かな。そうすると一つが」
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「風袋を引くと四百八匁二分か、どうした幾つだ廿六かな、さうすると一つが」
商人が言い終わらないうちに、お品は
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商人のいひ畢らぬうちにお品は
「いくらなんだい、この入れ物は」
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「幾らなんでえ、此の風袋は」
と聞いた。
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と聞いた。
「十五もんめだな」
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「十五匁だな」
「たいがい十もんめじゃないかい」
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「大概十匁ぢやねえけえ」
「そんなら見なさい、それ、十五もんめだろう。おれのは他人のより大きいんだからな」
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「そんだら見さつせえそれ、十五匁だんべ、俺がな他人のがよりや大けえんだかんな」
商人は目ざるをはかりにかけて見せて
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商人は目笊の目を掛けて見せて
「はて、一つ十五もんめ七分ずつだ。つぶは小さいほうだな」
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「はて、一つ十五匁七分づゝだ、粒は小せえ方だな」
商人はゆっくりそろばんの玉をはじいて
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商人はゆつくり十露盤の玉を彈いて
「四十六銭八厘六毛三しゅとなるんだが、これは八厘としてもらってな」
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「四十六錢八厘六毛三朱と成るんだが、此りや八厘として貰つてな」
と、商人はさいふから自分の手へお金をあけた。
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と商人は財布から自分の手へ錢を明けた。
「お品、お前も自分で食ったらよくないかい。いくつでも取っておけな」
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「お品おめえ自分でも喰つたらよかねえけ、幾つでも取つて置けな」
勘次は塩だらけの手を止めて、遠くからどなった。
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勘次は鹽だらけにした手を止めて遠くから呶鳴つた。
「このお金でほかの物を買って食べたほうがいいから、これだけはやることにしようよ。せっかくかぞえたもんだからよ。おれはずいぶんよくなったんだから大丈夫だよ」
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「此の錢で外の物買つて喰つた方がえゝから此れ丈は遣るとすべえよ、折角勘定もしたもんだからよ、俺ら大層よくなつたんだから大丈夫だよ」
お品は言った。
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お品はいつた。
「そんなこと言わないで、いくつでも取っておけよ。治りぎわに気をつけないといけないもんだから」
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「そんなこといはねえで幾つでも取つて置けよ、癒り際が氣を附けねえぢやえかねえもんだから」
勘次はつけ菜の手を放して、のき下へ来た。
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勘次は漬菜の手を放して檐下へ來た。
手も足もゆでたように赤くなっている。
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手も足も茹でたやうに赤くなつて居る。
「それじゃ、ちっとは残そうかな」
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「それぢやちつとも殘したものかな」
お品は小さいのを二つ取った。
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お品は小さなのを二つ取つた。
「そんなのじゃないのを取れな」
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「そんなんぢやねえのとれな」
勘次は大きいのを選んで三つ取った。
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勘次は大きなのを選んで三つとつた。
たまごのからには、手の塩が少しついた。
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卵の皮には手の鹽が少し附いた。
「そんじゃ、それをはかってみよう」
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「そんぢやそれ掛けてんべ」
商人は今度はしんちゅうのさらへたまごを乗せて
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商人は今度は眞鍮の皿へ卵を乘せて
「こっちなんぞじゃ、あとでいくらでもできらあな」
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「こつちなんぞぢや、後幾らでも出來らあな」
と言いながら取っ手を持った。
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といひながらたどりを持つた。
たまごが少し動くと、はかりのさおがぐらぐらと落ち着かない。
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卵が少し動くと秤の棹がぐら/\と落付かない。
「ごまかしちゃいやだぞ」
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「誤魔化しちや厭だぞ」
お品はさびしく笑いながら言った。
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お品は寂しく笑ひながらいつた。
「どうしてお前、このはかりなんざ検査したばかりだもの。一分でもこのとおりはねたりたれたりして、どうしてとんだ話だ」
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「どうしておめえ、此の秤なんざあ檢査したばかりだもの一分でも此の通り跳ねたり垂れたりして、どうして飛んだ噺だ」
商人はふんどうの手をおさえて、また目もりを読んだ。
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商人は分銅の手を抑へて又目を讀んだ。
「五十もんめ一分だな。そうすると一つ十六もんめ七分ずつだ。大きいからな」
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「五十匁一分だな、さうすつと一つ十六匁七分づゝだ、大けえからな」
「塩がくっついてるから、塩の重さもあるぞ」
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「鹽がくつゝいてつから鹽の目方もあんぞ」
勘次はそばから言って笑った。
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勘次は側からいつて笑つた。
商人は平気な顔をしている。
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商人は平然として居る。
「五銭五厘六毛いくらっていうんだ。そうすると、さっきのはいくらの勘定だったっけな」
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「五錢五厘六毛幾らつていふんだ、さうすつと先刻のは幾らの勘定だつけな」
「四十六銭八厘いくらとか言ったっけな」
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「四十六錢八厘幾らとか言たつけな」
お品はすぐに言った。
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お品は直にいつた。
「それじゃ差し引き四十一銭三厘とはんぱか。こっちのおっかさんは自分でも商売してるから、おぼえがいいなあ」
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「それぢや差引四十一錢三厘小端か、こつちのおつかさま自分でも商してつから記憶がえゝやな」
商人はそろばんを持って
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商人は十露盤を持つて
「どうしたい、ぐあいでも悪いようだが、風邪でも引いたんじゃあるまい」
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「どうしたえ、鹽梅でも惡いやうだが風邪でも引いたんぢやあんめえ」
と言った。
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といつた。
「うん、少し悪くて仕方がないのよ」
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「うむ、少し惡くつて仕やうねえのよ」
お品は言って
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お品はいつて
「はんぱはいくらになるんだい」
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「小端は幾らになんでえ」
とさらに聞いた。
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と更に聞いた。
「勘定にはならないなあ、どうも。近ごろは仕方がないよ。文久銭だの青銭だのっていうのが、さっぱり出なくなっちまってな。それからどこへ行ってもこうしておくんだ」
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「勘定にや成んねえなどうも、近頃は仕やうねえよ文久錢だの青錢だのつちうのが薩張出なくなつちやつてな、それから何處へ行つても恁して置くんだ」
商人がざるからマッチを出そうとすると
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商人がぼて笊から燐寸を出さうとすると
「またマッチじゃあるまい」
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「又燐寸ぢやあんめえ」
お品はにっこりした。
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お品は微笑した。
「細かい勘定には近ごろマッチと決めておくんだが、どこの商人もそうのようだな」
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「こまけえ勘定にや近頃燐寸と極めて置くんだが、何處の商人もさうのやうだな」
商人はたまごをざるへ入れながら言いつづけた。
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商人は卵を笊へ入れながらいひ續けた。
「ひどく安くなっちまったな。寒くなればくさりにくいのに、かえって安いっていうんだから、まるで反対になっちまったんだな」
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「酷く安くなつちやつたな、寒く成つちや保存がえゝのに却て安いつちうんだから丸で反對になつちやつたんだな」
勘次は青菜をおけへならべながら言った。
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勘次は青菜を桶へ並べつゝいつた。
「上海のが入ってきたので、ぐっと値が下がっちまってな。あっちじゃどれほど安いもんだかよ。品が少ないときに安くなるっていうんだから、商人ももうからない」
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「上海がへえつちやぐつと値が下つちやつてな、あつちぢやどれ程安いもんだかよ、品が少ねえ時に安くなるつちうんだから商人も儲からねえ」
てんびん棒をかついで、彼はさらに
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天秤を擔いで彼は又更に
「そうばが下がりぎみのときにはうっかりすると損だからな。なんでも百姓をして穀物を積んでおく者が一等だよ。たまご拾いもなあ、赤痢でもはやって来て、看護婦だの巡査だの役場の人だのって連中が、病人の口をひねってでもたくさん食ってくれなくちゃ、商人はだめだよ」
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「相場が下げ氣味の時にやうつかりすつと損物だかんな、なんでも百姓して穀積んで置く者が一等だよ、卵拾ひもなあ、赤痢でも流行つて來てな、看護婦だの巡査だの役場員だのつちう奴等病人の口でもひねつてみつしり喰つてゞも呉んなくつちや商人は駄目だよ」
商人は帰りぎわに
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商人は行き掛けて
「またためておいておくんなせえ」
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「また溜めて置いておくんなせえ」
と、今度は少していねいに言い残して去った。
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今度は少し叮寧にいひ捨てゝ去つた。
お品はお金をふとんの下のきんちゃくへ入れた。
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お品は錢を蒲團の下の巾着へ入れた。
そしてたなから「まるめ箱」を下ろして、三つの白いたまごを入れた。
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さうして籰棚からまるめ箱を卸して三つの白い卵を入れた。
むかしはこの土地でもわたが取れたので、夜なべには女がみな竹のわくで糸をつむいだ。
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以前は此の土地でも綿が採れたので、夜なべには女が皆竹籰で絲を引いた。
わた打ち弓でびんびんとほぐしたわたは、はしのような棒をしんにして、ろうそくくらいの大きさにくるくると丸める。
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綿打弓でびんびんとほかした綿は箸のやうな棒を心にして蝋燭位の大きさにくる/\と丸める。
それが「まるめ」である。
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それがまるめである。
このまるめから、なれない百姓の手が自由に糸を引いた。
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此のまるめから不器用な百姓の手が自在に絲を引いた。
このごろはわたがすっかり取れなくなったので、まるめ箱もすすけたままにまれに残っているだけで、糸くずや布のきれはしが入れてあるくらいにすぎない。
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此の頃では綿がすつかり採れなくなつたので、まるめ箱も煤けた儘稀に保存されて居るのも絲屑や布の切端が入れてある位に過ぎないのである。
お品はそれから、ふくらんだきんちゃくのためにはね上がったふとんのはしを手でおさえた。
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お品はそれから膨れた巾着の爲めに跳ねあげられた蒲團の端を手で抑へた。
それからまた横になった。
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それから又横になつた。
さっきからつかれたような気がしていたが、横になると体がとけるようにぐったりして、かすかに気持ちよかった。
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先刻から疲勞したやうな心持に成つて居たが横になると身體が溶けるやうにぐつたりして微かに快よかつた。
その晩、一年じゅうの体の中のよごれを落とすのだという冬至のこんにゃくを、みなで食べた。
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其の晩一年中の臟腑の砂拂だといふ冬至の蒟蒻を皆で喰べた。
お品は、この分なら明日からでも起きられるように思っていた。
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お品は喰の日は明日からでも起きられるやうに思つて居た。
そして勘次は、仕事のめどがついたので、また利根川へ行けると心の中で決めていた。
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さうして勘次は仕事の埓が明いたので又利根川へ行かれることゝ心に期して居た。
四
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四
お品のようすは、その夜から急に変わった。
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お品の容態は其の夜から激變した。
勘次がやっとねむりに落ちたとき、お品は
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勘次が漸く眠に落ちた時お品は
「口が開けなくなって仕方がないよう」
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「口が開けなく成つて仕やうねえよう」
と情けない声で言った。
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と情ない聲でいつた。
お品はあごがくぎづけにされたようになって、つばを飲むにも喉がせまくなったように感じた。
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お品は顎が釘附にされたやうに成つて、唾を飮むにも喉が狹められたやうに感じた。
それで、自分にもどうすることもできないのにおどろいた。
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それで自分にもどうすることも出來ないのに驚いた。
勘次もびっくりして起きた。
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勘次も吃驚して起きた。
「どうしたんだよ、ずいぶん悪いのか。朝までしっかりしてろよ」
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「どうしたんだよ大層惡いのか、朝までしつかりしてろよ」
と力づけてみたが、自分でもどうしていいのか分からないので、ただはらはらしながら夜を明かした。
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と力をつけて見たが、自分でもどうしていゝのか解らないので只はら/\しながら夜を明した。
勘次はただお品が心配なので、近所の人にたのんで、とりあえず医者へ走ってもらった。
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勘次は只お品が心配になるので、近所の者を頼んで取り敢ず醫者へ走らせた。
そして自分はまくら元にくっついていた。
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さうして自分は枕元へくつゝいて居た。
彼らは、かんたんなことで医者を呼ぶのではなかった。
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彼等は容易なことで醫者を聘ぶのではなかつた。
しかし、そのいちばんこわいお金の問題がその心をおさえるには、勘次はあまりに慌てて、そしておどろいていた。
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然し其最も恐れを懷くべき金錢の問題が其心を抑制するには勘次は餘りに慌てゝ且驚いて居た。
医者は鬼怒川をこえた東にいる。
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醫者は鬼怒川を越えて東に居る。
勘次は、つかれやしないかと言ってはお品の足をさすった。
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勘次は草臥れやしないかといつてはお品の足をさすつた。
それでもお品のだるそうなようすが、彼のおびえた心にびりびりとひびいて、とても昼過ぎまではじっとしていられなくなった。
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それでもお品の大儀相な容子が彼の臆した心にびり/\と響いて、迚も午後までは凝然として居ることが出來なくなつた。
近所の女の人が見に来てくれたのをさいわいに、自分もあとから走って行った。
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近所の女房が見に來て呉れたのを幸ひに自分も後から走つて行つた。
鬼怒川のわたし舟で、さっきの使いの人と行きちがいになった。
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鬼怒川の渡の船で先刻の使ひと行違に成つた。
舟から声をかけ合った。
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船から詞が交換された。
勘次は、医者といっしょに帰るからそう言ってお品を安心させてくれとたのんで、医者の門をたたいた。
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勘次は醫者と一緒に歸るからさういつてお品に安心させて呉れといつて醫者の門を叩いた。
医者は、ちょうどそっちへ行くついでもあったからと、のんびりしている。
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醫者は丁度そつちへ行く序も有つたからと悠長である。
きっと行ってはくれるにしても、そのあとについて行くのでなければ勘次には不安でたまらない。そして彼は、ぼんやりとげんかんにうずくまって待っていることが、せめてもの気やすめだった。
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屹度行つては呉れるにしても其の後に跟いて行くのでなくては勘次には不安で堪らないのである、さうして彼はぽつさりと玄關に踞つて待つて居ることがせめてもの氣安めであつた。
医者は小さな手さげかばんを一つ持って、古いぼうしをちょこんとかぶって出た。
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醫者は小さな手鞄を一つ持つて古い帽子をちよつぽり載いて出た。
かばんは勘次が大事そうに持った。
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手鞄は勘次が大事相に持つた。
医者は特別なことがなければ人力車に乗らないので、いつも高い歯の下駄でみじかい体をぽくぽくと運んで行く。
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醫者は特別の出來事がなければ俥には乘らないので、いつも朴齒の日和下駄で短い體躯をぽく/\と運んで行く。
それで車代だけでもどれだけ助かるか知れないというので、貧しい百姓によく呼ばれているのだった。
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それで車錢だけでも幾ら助かるか知れないといふので貧乏な百姓から能く聘れて居るのであつた。
勘次は道々お品のようすを話して、医者の考えを聞こうとした。
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勘次は途次お品の容態を語つて醫者の判斷を促して見た。
医者は一度見なければ分からないと言って、しつこい勘次に返事しなかった。
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醫者は一應見なければ分らぬといつて五月蠅い勘次に返辭しなかつた。
お品の病んだ体に手をふれると、医者はさすがに首をかしげた。
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お品の病體に手を掛けると醫者は有繋に首を傾けた。
それが破傷風のしるしであることを知って、こわくなった。
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それが破傷風の徴候であることを知つて恐怖心を懷いた。
そして、自分は注射器を持たないからと言って、断ってしまった。
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さうして自分は注射器を持たないからといつて辭退して畢つた。
勘次はまた慌てて、ほかの医者へかけつけた。
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勘次は又慌てゝ他の醫者へ駈けつけた。
その医者はえんぴつで手帳のはしへちょっと書きつけて、それではすぐにこれを薬屋で買って来るのだと言った。
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其の醫者は鉛筆で手帖の端へ一寸書きつけて、それでは直に此を藥舖で買つて來るのだといつた。
それから、自分の家へこれを出せばわたしてくれる者があるからと、これも手帳のはしをやぶった。
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それから自分の家へ此を出せば渡して呉れるものがあるからと此も手帖の端を裂いた。
勘次はまた川をこえて走った。
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勘次は又川を越えて走つた。
薬屋では、びんに入れた薬を二つわたしてくれた。
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藥舖では罎へ入れた藥を二包渡して呉れた。
一びんが七十五銭ずつだと言われて、勘次はふところが急にげっそりとへった気がした。
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一罎が七十五錢づゝだといはれて、勘次は懷が急にげつそりと減つた心持がした。
彼はとんぼ返りに帰って来た。
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彼は蜻蛉返りに歸つて來た。
医者の家からは、注射器をわたしてくれた。
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醫者の家からは注射器を渡してくれた。
ほかの病人を診てから、医者は夕方に来た。
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他の病家を診て醫者は夕刻に來た。
医者はお品のももをしめらせたガーゼでふいて、ぎっと肉をつまみ上げて針をぷつりとさした。
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醫者はお品の大腿部を濕したガーゼで拭つてぎつと肉を抓み上げて針をぷつりと刺した。
しばらくして針をぬいて、指の先で針のあとをおさえて、そこへばんそうこうをはった。
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暫くして針を拔いて指の先で針の趾を抑へて其處へ絆創膏を貼つた。
それがすべて、うす暗い手ランプの光で行われた。
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それが凡て薄闇い手ランプの光で行はれた。
勘次に手ランプを近づけさせて、医者はやっと注射を終えた。
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勘次に手ランプを近づけさせて醫者はやつと注射を畢つた。
次の日の午前に来て、医者はまた注射をして、たいていこれでよかろうと言って帰った。
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翌日の午前に來て醫者は復注射をして大抵此れでよからうといつて去つた。
しかしお品のようすは、あいかわらずよくなるしるしがないばかりか、だんだんだるそうに見えはじめた。
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然しお品の容態は依然として恢復の徴候がないのみでなく次第に大儀相に見えはじめた。
お品はその夕方から、急にけいれんが起こった。
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お品は其の夕刻から俄かに痙攣が起つた。
体がびりびりとふるえながら、手も足も引きしめられるように後ろへそった。
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身體がびり/\と撼ぎながら手も足も引き緊められるやうに後へ反つた。
けいれんはときどき起こった。
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痙攣は時々發作した。
そのたびに、病人は見ていられないほど苦しむ。
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其度毎に病人は見て居られない程苦惱する。
顔が変にゆがんで、口がむりに横へ引っぱられるように見える。
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顏が妙に蹙んで口が無理に横へ引き吊られるやうに見える。
勘次は、たった一人のおつぎを相手に、手の出しようもなかった。
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勘次はたつた一人のおつぎを相手に手の出しやうもなかつた。
そして、空が白みはじめるとすぐに、また医者へかけつけた。
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さうしてしら/\明けといふと直に又醫者へ駈けつけた。
医者は、また薬屋へ行って来いと言った。
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醫者は復藥舖へ行つて來いといつた。
勘次はまた飛んで行った。
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勘次は又飛んで行つた。
しかし、その二号の血清はどこにも品切れだった。
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然し其の二號の血清は何處にも品切であつた。
それは、ある期間をすぎると効かなくなるので、余計な仕入れもしないのだと薬屋では言った。
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それは或期間を經過すれば効力が無くなるので餘計な仕入もしないのだと藥舖ではいつた。
それに、ねだんが高いものだからというのだった。
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それに値段が不廉ものだからといふのであつた。
勘次はそれでも、いくらくらいするものかと思って聞いたら、一びんが三円だと言った。
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勘次はそれでも幾ら位するものかと思つて聞いたら一罎が三圓だといつた。
勘次は、たとえ品物があったところで、自分の今の力ではとても買えなかったかもしれないと、今さらのようにおどろいてふところへ手を入れてみた。
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勘次は例令品物が有つた處で、自分の現在の力では到底それは求められなかつたかも知れぬと今更のやうに喫驚して懷へ手を入れて見た。
医者はさらに勘次を薬屋へ走らせた。
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醫者は更に勘次を藥舖へ走らせた。
勘次は、ただ医者の言うままに息を切らして走り回るあいだが、きっとどうにかしてくれるだろうという望みもあるので、わずかに自分の心をなぐさめられるたった一つの時だった。
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勘次は只醫者のいふが儘に息せき切つて駈けて歩く間が、屹度どうにか防ぎをつけてくれるだらうとの恃もあるので僅に自分の心を慰め得る唯一の機會であつた。
医者は一号の二ばいの量を注射した。
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醫者は一號の倍量を注射した。
しかしそれはむだだった。
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然しそれは徒勞であつた。
病人の発作は、間が短くなった。
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病人の發作は間が短くなつた。
病人はそのたびに、息が苦しくなった。
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病人は其度に呼吸に壓迫を感じた。
近所の人も三、四人、苦しむまくら元にいて、みな悲しみにつつまれた。
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近所の者も三四人で苦惱する枕元に居て皆憂愁に包まれた。
お品はとつぜん
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お品は突然
「野田へは知らせてくれまいか」
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「野田へは知らせてくれめえか」
と聞いた。
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と聞いた。
勘次も近所の人も、卯平へ知らせることも忘れて、ただ苦しむ病人を前にして困っているだけだった。
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勘次も近所の者も卯平へ知らせることも忘れて只苦惱する病人を前に控へて困つて居るのみであつた。
「明日はきっと来るように言ってやったよ」
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「明日は屹度來るやうにいつて遣つたよ」
勘次はお品の耳へ口を当てて言った。
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勘次はお品の耳へ口を當ていつた。
今さらのように近所の人がたのまれて、夜通しでも行くということになった。
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今更のやうに近所の者が頼まれて夜通しにも行くといふことに成つた。
次の日の昼過ぎに、卯平は使いの人といっしょに、のっそりとその大きな体を表の戸口へ運んで来た。
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次の日の午餐過に卯平は使と共にのつそりと其の長大な躯幹を表の戸口に運ばせた。
彼はしきいをまたぐとともに、そのときはもう、ただ痛い痛いと言って泣きうったえている病人の声を聞いた。
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彼は閾を跨ぐと共に、其時はもう只痛い/\というて泣訴して居る病人の聲を聞いた。
「どこが痛いんだ。少しさすらせてみるか」
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「何處が痛いんだ、少しさすらせて見つか」
勘次が聞いても
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勘次が聞いても
「背中が仕方がないんだよ」
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「背中が仕やうがねえんだよ」
と病人は言うだけである。
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と病人はいふのみである。
「お品さん、おとっつあんが来たよ。しっかりしろよ」
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「お品さん、おとつゝあ來たよ、確乎しろよ」
と近所の女の人が言った。
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と近所の女房がいつた。
それを聞いて、お品はしばらく静かになった。
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それを聞いてお品は暫時靜かに成つた。
「品、どうしたい。だるいのか」
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「品どうしたえ、大儀えのか」
口数の少ない卯平は、これだけ言った。
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寡言な卯平は此だけいつた。
「おとっつあん、待ってたよ。おれは仕方がないよ」
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「おとつゝあ待つてたよ、俺ら仕やうねえよ」
お品は情けなさそうに言った。
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お品は情なさ相にいつた。
「うん、困ったなあ」
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「うむ、困つたなあ」
卯平は深いしわをゆがめて言った。
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卯平は深い皺を蹙めていつた。
そして、あとは一言も言わない。
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さうして後は一言もいはない。
お品の病気は、だんだん悪くなっていった。
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お品の病状は段々險惡に陷つた。
医者はモルヒネの注射をして、かろうじてねむった状態にして、その苦しみからのがれさせようとした。
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醫者はモルヒネの注射をして僅に睡眠の状態を保たせて其の苦痛から遁れさせようとした。
それでもしばらくすると病人はまた気がついて、びりびりと体をふるわせて、太い縄でぐっとつるされたかと思うように後ろへそって、そのはげしいけいれんに苦しめられた。
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それでも暫くすると病人は復た意識を恢復して、びり/\と身體を撼はせて、太い繩でぐつと吊されたかと思ふやうに後へ反つて、其劇烈な痙攣に苦しめられた。
「先生さん、わたしはこれでもどうなんでしょうね」
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「先生さん、わたしや此れでもどうしたものでがせうね」
お品はとつぜんに聞いた。
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お品は突然に聞いた。
医者はただ口ひげをひねって黙っていた。
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醫者は只口髭を捻つて默つて居た。
「どうでしょうね、先生さん」
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「どうでせうね先生さん」
勘次も聞いた。
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勘次も聞いた。
「まあ大丈夫だろうって、病人にだけは言っておいたらいいでしょう」
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「まあ大丈夫だらうつて病人へだけはいつて居たらいゝでせう」
医者はささやいた。
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醫者は耳語いた。
「お品、大丈夫だとよ。それからがまんしてしっかりしてろとよ」
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「お品、大丈夫だとよ、夫から我慢して確乎してろとよ」
勘次は病人の耳元でどなった。
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勘次は病人の耳で呶鳴つた。
「そんでも、おれは明日までは、とてももたないと思うよ。本当におれはだるいなあ」
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「そんでも俺ら明日の日まではとつても持たねえと思ふよ。本當に俺ら大儀いゝなあ」
お品は苦しそうに言った。
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お品は切な相にいつた。
歯のあいだからやっともれる声は、悲しいひびきを伝えて、それでも頭ははっきりしていることを見せた。
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齒の間を漸くに洩れる聲は悲しい響を傳へて然かも意識は明瞭であることを示した。
医者はついに、これ以上はないというだけのモルヒネを注射して帰った。
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醫者は遂に極量のモルヒネを注射して去つた。
夜になって、けいれんは絶え間なく起こった。
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夜になつて痙攣は間斷なく發作した。
熱はとても上がった。
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熱度は非常に昂進した。
水の一てきも飲めないのに、乱れた髪の毛を伝って落ちるかと思うほど、汗が玉になってたれた。
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液體の一滴をも攝取することが出來ないにも拘らず、亂れた髮の毛毎に傳ひて落るかと思ふやうに汗が玉をなして垂れた。
ふとんをぬらす汗のにおいが、鼻をついた。
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蒲團を濕す汗の臭が鼻を衝いた。
「勘次さん、ここにいてくれよ」
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「勘次さん此處に居てくろうよ」
お品は苦しい中でも、ひたすら勘次をしたった。
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お品は苦しい内にも只管勘次を慕つた。
「おうよ、ここにいたよ。どこへも行きやしないよ」
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「おうよ、こゝに居たよ、何處へも行やしねえよ」
勘次はそのたびに耳へ口を当てて言った。
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勘次は其度に耳へ口を當ていつた。
「勘次さん」
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「勘次さん」
お品はまた呼んだ。
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お品は又喚んた。
「どうしたよ」
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「怎的したよ」
勘次が言ったのはお品に伝わらなかったのか
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勘次のいつたのはお品に通じなかつたのか
「おとっつあん、おれはとてもなあ」
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「おとつゝあ、俺らとつてもなあ」
とお品は少し間を置いて、そして勘次の手を取った。
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とお品は少時間を措いて、さうして勘次の手を執つた。
「おつう、お前はなあ、よきもなあ」
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「おつう汝はなあ、よきもなあ」
と言って、また発作の苦しみにおそわれた。
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といつて又發作の苦惱に陷つた。
「勘次さん、おれが死んだらなあ、かんおけへ入れてくれよ……」
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「勘次さん、俺死んだらなあ、棺桶へ入れてくろうよ……」
勘次が聞こうとすると、しばらく間を置いて
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勘次は聞かうとすると暫く間を隔てて
「後ろの田のあぜになあ、ぐみの木のとこでなあ」
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「後の田の畔になあ、牛胡頽子のとこでなあ」
お品はとぎれとぎれに言った。
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お品は切れ/″\にいつた。
勘次は、だいたいその意味が分かった。
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勘次は略其の意を了解した。
お品はそれからはげしい発作にさえぎられて、もう言わなかった。
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お品はそれから劇烈な發作に遮ぎられてもういはなかつた。
とつぜん
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突然
「風呂しき、風呂しき」
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「風呂敷、/\」
とわけの分からないうわ言を言って、意識はまったくなくなった。
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と理由の解らぬ囈語をいつて、意識は全く不明に成つた。
ついには、とんでもない力が加わったかと思うほど、お品の足はふとんをけって、体がはげしく動いた。
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遂には異常な力が加はつたかと思ふやうにお品の足は蒲團を蹴て身體が激動した。
まくら元にいた人々はそれぞれに、苦しむお品の足をおさえた。
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枕元に居た人々は各自に苦しむお品の足を抑へた。
こうして人々は、一こく一こく死へと近づいて行くお品の病んだ体をおさえつけた。
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恁うして人々は刻々に死の運命に逼られて行くお品の病體を壓迫した。
お品の発作が止まったときには、そのかすかな息も止まっていた。
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お品の發作が止んだ時は微かな其の呼吸も止つた。
夜はしんとしていた。
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夜は森として居た。
雨戸がかすかに動いて、落ち葉が庭を走るのもさらさらと聞こえた。
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雨戸が微かに動いて落葉の庭を走るのもさら/\と聞かれた。
お品の体は、足のほうから冷たくなった。
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お品の身體は足の方から冷たくなつた。
お品が死んだのだと分かったとき、勘次もおつぎも、みなこらえていた思いが一度にあふれ出した。
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お品が死んだといふことを意識した時に勘次もおつぎもみんな怺へた情が一時に激發した。
そして、えんりょする余ゆうのない彼らは、声を上げて泣いた。
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さうして遠慮をする餘裕を有たない彼等は聲を放つて泣いた。
まくら元の人たちも、みないっしょに泣いた。
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枕元のものは皆共に泣いた。
与吉だけが、死んだお品のそばでぐっすりねむっていた。
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與吉は獨り死んだお品の側に熟睡して居た。
卯平はとりあえず、お品の手を胸で合わせてやった。
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卯平は取り取ずお品の手を胸で合せてやつた。
そして、はたおりの道具の一つである「ひ」をふとんの上に乗せた。
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さうして機の道具の一つである杼を蒲團へ乘せた。
ねこが死んだ人をまたぐと化けると言われていて、ひはねこよけだった。
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猫が死人を越えて渡ると化けるといつて杼は猫の防禦であつた。
ひを乗せておけば、ねこはまたがないと信じられているのである。
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杼を乘せて置けば猫は渡らないと信ぜられて居るのである。
夜はますますふけて、冷えきっていた。
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夜は益深けて冷え切つて居た。
家の中には、ひとかたまりの炭火もたくわえてなかった。
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家の内には一塊の煨も貯へてはなかつた。
まくら元にいた近所の人々は、勘次とおつぎが泣き止むまでは体を動かすこともできないで、じっと冷たい手をふところで暖めていた。
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枕元に居た近所の人々は勘次とおつぎの泣き止むまでは身體を動かすことも出來ないで凝然と冷たい手を懷に暖めて居た。
おつぎはやっとかまどへ落ち葉をくべてお茶をわかした。みなただぼんやりとして、お茶をすすった。
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おつぎは漸く竈へ落葉を燻べて茶を沸した、みんな只ぽつさりとして茶を啜つた。
「勘次も、早く知らせりゃいいのに」
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「勘次もかせえて知らせやがればえゝのに」
卯平がぶすりとつぶやく声は低く、それでもみなの耳の底にひびいた。
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卯平がぶすりと呟く聲は低くしかもみんなの耳の底に響いた。
卯平はその日の明け方に使いが来るまでは、お品の病気をちっとも知らずにいた。
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卯平は其の日の未明に使の來るまではお品の病氣はちつとも知らずに居た。
おどろいて来てみれば、もうこんなありさまである。
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驚いて來て見ればもうこんな始末である。
卯平も泣いた。
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卯平も泣いた。
彼はきせるをかんでは、ただ舌打ちをしてつばを飲んだ。
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彼は煙管を噛んでは只舌皷を打つて唾を嚥んだ。
勘次はただ泣いていた。
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勘次は只泣いて居た。
彼はお品が病気になってから、どれほど心をくだいて動き回ったか知れない。
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彼はお品の發病からどれ程苦心して其身を勞したか知れぬ。
お品の病気を心配するほかに、彼の心には何もなかった。
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お品の病氣を案ずる外彼の心には何もなかつた。
そのときには、卯平に文句を言われるかもしれないという心配は、少しも頭に浮かばなかったのである。
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其當時には卯平に不平をいはれやうといふやうな懸念は寸毫も頭に起らなかつたのである。
お品の死は、卯平をもひどくがっかりさせた。
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お品の死は卯平をも痛く落膽せしめた。
卯平は七十一の老人だった。
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卯平は七十一の老爺であつた。
おととしの秋から、卯平は野田のしょうゆ蔵に火の番としてやとわれた。
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一昨年の秋から卯平は野田の醤油藏へ火の番に傭はれた。
卯平は、お品が三つのときに、死んだお母さんの所へむこ入りしたのである。
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卯平はお品が三つの時に、死んだお袋の處へ入夫になつたのである。
五つのときから甘えていたので、お品は卯平になついていた。
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五つの時から甘へたのでお品は卯平に懷いて居た。
お母さんが生きているうちは卯平もまだ元気だったが、お母さんが亡くなって卯平のしわが深く刻まれてからは、もともとよくなかった勘次との仲がだんだんはなれて、お品もそれには困った。
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お袋の生きて居るうちは卯平もまだ壯であつたが、お袋が亡くなつて卯平の皺が深く刻まれてからは以前から善くなかつた勘次との間が段々隔つて、お品もそれには困つた。
とうとう、村で仕事のせわをしている人のすすめにしたがって、卯平が言うままに奉公に出したのだった。
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到頭村の紹介業をして居る者の勸めに任て卯平がいふ儘に奉公に出したのであつた。
病人のまくら元にいた近所の人たちは、一ぱいのお茶をすすって、村の親せきへ知らせに出る者もあった。
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病人の枕元に居た近所の者は一杯の茶を啜つて村の姻戚へ知らせに出るものもあつた。
それから葬式のことについて相談をした。
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それから葬式のことに就いて相談をした。
葬式はほんの親せきと近所だけで、明日のうちにすませるということに決めた。
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葬式はほんの姻戚と近所とだけで明日の内に濟すといふことに極めた。
夜が明けると、近所の人々は寺へ行ったり葬式の道具を買いに行ったり、ほかの村の親せきに知らせに行ったりして、家には近所の女の人が二、三人、あいさつを言いに来ていた。
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夜があけると近所の人々は寺へ行つたり無常道具を買ひに行つたり、他村の姻戚への知らせに行つたりして家には近所の女房が二三人義理をいひに來て居た。
親せきといっても、お品のために待たなければならない人はいないので、勘次はおつぎといっしょにむしろをめくって、そこへたらいを置いて、お品のなきがらを清めてやった。
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姻戚といつてもお品の爲めには待たなくては成らぬといふものはないので勘次はおつぎと共に筵を捲つて、其處へ盥を据ゑてお品の死體を淨めて遣つた。
はげしい病気の苦しみのために、その力ないなきがらはげっそりとひどくやせていた。
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劇烈な病苦の爲めに其力ない死體はげつそりと酷い窶れやうをして居た。
卯平はただぼんやりとして、それを見ていた。
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卯平は只ぽつさりとしてそれを見て居た。
なきがらはまた、その汚いふとんへ横たえられた。
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死體は復其の穢い夜具へ横へられた。
たらいのよごれたぬるま湯は、すのこの上から土に流された。
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盥の汚れた微温湯は簀の子の上から土に注がれた。
そして、そのぬれたすのこには、めくったむしろがまたしかれた。
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さうして其の沾れた簀の子には捲くつた筵が又敷かれた。
朝から雨戸は開け放たれて、歩けばぎしぎしと鳴るすのこの上のむしろは、草ぼうきではかれた。
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朝から雨戸は開け放たれて歩けばぎし/\と鳴る簀の子の上の筵は草箒で掃かれた。
そして東どなりから借りて来たござが、五、六枚しかれた。
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さうして東隣から借りて來た蓙が五六枚敷かれた。
それから土地のならわしで、勘次は清めてやったお品のなきがらのあとは、いっさいを近所の人の手に任せた。
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それから土地の習慣で勘次は淨めてやつたお品の死體は一切を近所の手に任せた。
近所の女の人たちは、一反のさらし木綿を半分に切って、それで形ばかりのみじかい経かたびらと、死に顔をかくすずきんと、足につけるものとをぬって、それを着せた。
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近所の女房等は一反の晒木綿を半分切てそれで形ばかりの短い經帷子と死相を隱す頭巾とふんごみとを縫つてそれを着せた。
足につけるものは、ただ三角にして足袋のかわりにつま先へはかせるのだった。
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ふんごみは只三角にして足袋の代に爪先へ穿かせるのであつた。
きゃはんは布のまま、麻で足にくくりつけた。
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脚絆は切の儘麻で足へ括り附けた。
これもその木綿でぬったずだぶくろを首からかけさせて、三途の川のわたし賃だという六文のお金を入れてやった。
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此れも其の木綿で縫つた頭陀袋を首から懸けさせて三途の川の渡錢だといふ六文の錢を入れてやつた。
髪は麻でむすんで、白いくしをさしてやった。
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髮は麻で結んで白櫛を揷して遣つた。
お品のかたくなった体は、曲げて立てひざにして、かんおけへ入れられた。
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お品の硬着した身體は曲げて立膝にして棺桶へ入れられた。
首がふたに当たるので、骨がくじけるまでおさえつけられて、「すくみ」がかけられた。
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首が葢に觸るので骨の挫けるまで抑へつけられてすくみが掛けられた。
すくみというのは、ちぢめたままの形が保たれるように、なきがらの下から荒縄を回しておいて、首すじの所でぎっしりとくくることである。
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すくみといふのは蹙めた儘の形が保たれるやうに死體の下から荒繩を廻して置いて首筋の處でぎつしりと括ることである。
そまつな松の板で作った出来合いのかんおけは、みりみりと鳴った。
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麁末な松板で拵へた出來合の棺桶はみり/\と鳴つた。
こういうむごいあつかいは、どうしても他人の手に任せなければならなかった。
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恁ういふ無残な扱はどうしても他人の手に任せられねばならなかつた。
板のままばらばらになっているかんおけの台は、買って来てから近所の人の手でくぎづけにされた。
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板の儘ばら/\に成つて居る棺臺は買つて來てから近所の手で釘付にされた。
そこには、浅い箱をさかさにしたようなものができた。
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其處には淺い箱の倒にしたものが出來た。
その台の上には、なきがらを入れたかんおけが乗せられた。
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其の棺臺の上には死體を入れた棺桶が載せられた。
勘次はその朝の明け方に、そっと家の後ろのならの木のあいだを田のはしへ下りて、さかいのぐみの木のそばを気をつけて見た。
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勘次は其朝未明にそつと家の後の楢の木の間を田の端へおりて境木の牛胡頽子の傍を注意して見た。
くわか何かで動かした土のあとが目についた。
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唐鍬か何かで動かした土の跡が目に附いた。
勘次は手に持って行った草かりがまで、そくそくと土をつつくようにしてほった。
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勘次は手にして行つた草刈鎌でそく/\と土をつゝくやうにして掘つた。
そして、そのやわらかくなった土を手でさらった。
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さうして其軟かに成つた土を手で浚つた。
ぼろのつつみが出た。
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襤褸の包が出た。
彼はそこに、小さなひとかたまりの肉を見つけたのである。
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彼は其處に小さな一塊肉を發見したのである。
勘次はそれを大事にふところへ入れた。
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勘次はそれを大事に懷へ入れた。
悪いことがばれるのをおそれるようなようすで、彼はあたりを見回した。
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惡事の發覺でも恐れるやうな容子で彼は周圍を見廻した。
彼はさらに古い油紙で包んでしまっておいて、お品のなきがらがかんおけに入れられたとき、そっとお品のふところにだかせた。
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彼は更に古い油紙で包んで片付けて置いて、お品の死體が棺桶に入れられた時彼はそつとお品の懷に抱かせた。
お品のやせきった手が、勘次のするままにそれをしっかりとだきしめて、その骨ばかりのほおが、ぴったりとすりつけられた。
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お品の痩せ切つた手が勘次のする儘にそれを確乎と抱き締めて、其の骨ばかりの頬が、ぴつたりと擦りつけられた。
葬式の日は「赤口」という日だった。
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葬式の日は赤口といふ日であつた。
勘次は近所と親せきのほかには食事も出さなかったが、それでも村の人はみな二銭ずつ持ってお悔やみに来た。
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勘次は近所と姻戚との外には一飯も出さなかつたがそれでも村のものは皆二錢づゝ持つて弔みに來た。
そして、さっさと帰って行った。
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さうしてさつさと歸つて行つた。
遠くはなれた寺からは、住職と小ぼうずとが、色のさめたもえぎ色のはっぴを着たお供を一人連れて、はさみ箱をかつがせて歩いて来た。
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遠く離れた寺からは住職と小坊主とが、褪めた萠黄の法被を着た供一人連れて挾箱を擔がせて歩いて來た。
小ぼうずはすぐにかんおけのふたを取って、白い木綿をめくって、やせたほおへかみそりをちょっと当てた。
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小坊主は直に棺桶の葢をとつて白い木綿を捲くつて窶れた頬へ剃刀を一寸當てた。
この形だけのひげそりがすんでから、ふたはくぎで打ちつけられた。
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此の形式的の顏剃が濟んでから葢は釘で打ち附けられた。
荒縄が十文字にかけられた。
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荒繩が十文字に掛けられた。
さらし木綿の残った半分で、それがぐるぐると巻かれた。
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晒木綿の残つた半反でそれがぐる/\と捲かれた。
おけにはさらに天がいが乗せられた。
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桶には更に天葢が載せられた。
天がいといっても、両はしがわらびのように巻いたせまい松板を二まい十字に合わせただけの、かんたんなものである。
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天葢というても兩端が蕨のやうに捲れた狹い松板を二枚十字に合せたまでのものに過ない簡單なものである。
すすけたかべには、これも古ぼけた赤いまんだらの大きなかけじくが、かざりのようにかけられた。
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煤けた壁には此れも古ぼけた赤い曼荼羅の大幅が飾のやうに掛けられた。
かんおけは、わずかな人数で送られた。
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棺は僅な人で葬られた。
それでも白いちょうちんが二つかかげられた。
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それでも白提灯が二張翳された。
さいた竹を格子の目にあんで、ほどよい大きさになるとぐるりと四方を一つにまとめてくくった花かごも、二つかかげられた。
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裂き竹を格子の目に編んでいゝ加減の大きさに成るとぐるりと四方を一つに纏めて括つた花籠も二つ翳された。
どちらにも青竹の柄がつけられた。
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孰れも青竹の柄が附けられた。
そのかごには、ひげのようにさいた竹を立てて、その竹には赤や黄や青やそのほかの色紙できざんだ花をかざった。
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其の籠へは髭のやうに裂き竹を立てゝ其の裂き竹には赤や黄や青や其の他の色紙で刻んだ花を飾つた。
その花かごはまた、底へ紙をしいて死んだ人の年の数だけ小銭を入れて、それをかかげた人がときどきざらざらとふっては、かごの目からその小銭をふり落とした。
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其の花籠は又底へ紙を敷いて死んだものゝ年齡の數だけ小錢を入れて、それを翳した人が時々ざら/\と振つては籠の目から其の小錢を振り落した。
村の子どもが争ってそれを拾った。
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村の小供が爭つてそれを拾つた。
ちょうちんと花かごは先に立った。
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提灯と花籠は先に立つた。
後ろからは村の念仏の人たちが、赤いどうの太鼓を首にかけて、だらりだらりとゆるいたたき方をしながら、いっせいに声を上げてついて行った。
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後からは村の念佛衆が赤い胴の太皷を首へ懸けてだらりだらりとだらけた叩きやうをしながら一同に聲を擧て跟いて行つた。
かんおけは細い道をさけて、大きな道を行った。
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柩は小徑を避けて大道を行つた。
村の人は自分の門からそれをのぞいた。
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村の者は自分の門からそれを覗いた。
かんおけはすわりが悪いのか、とちゅうで止まらずぐらりぐらりとゆれた。
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棺桶は据りが惡い所爲か途中で止まずぐらり/\と動搖した。
勘次はそれでも羽織とはかまで位はいを持った。
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勘次はそれでも羽織袴で位牌を持つた。
それはみな借りたもので、羽織のひもには紙のこよりがつけてあった。
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それは皆借りたので羽織の紐には紙撚がつけてあつた。
墓のあなは、焼けたような赤土が四方へ高くかき上げられてあった。
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墓の穴は燒けた樣な赤土が四方へ堆く掻き上げられてあつた。
そこには、すきまがないほどあながほられて、たくさんの人がうめられたので、手の骨や足の骨がいつものようにほり出されて、投げ出されてあった。
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其處には從來隙間のない程穴が掘られて、幾多の人が埋められたので手の骨や足の骨がいつものやうに掘り出されて投げられてあつた。
はっぴを着た寺のお供が、かんおけを巻いた半反の白木綿を取ってはさみ箱に入れた。
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法被を着た寺の供が棺桶を卷いた半反の白木綿をとつて挾箱に入た。
やがてかんおけは荒縄で下げて、その赤い土の底におさめられた。
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軈て棺桶は荒繩でさげて其の赤い土の底に踏みつけられた。
そまつなかんおけの台は少し高くなった土の上に置かれて、二つの白いちょうちんと二つの花かごとが、そのそばに立てられた。
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麁末な棺臺は少し堆く成つた土の上に置かれて、二つの白張提灯と二つの花籠とが其傍に立てられた。
お品は生まれてこのかた、土をふまない日はないと言っていいくらいだった。
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お品は生來土を踏まない日はないといつていゝ位であつた。
そしてそれは、こおりつく冬をのぞいてはたいてい、足の底が直に土についていた。
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さうしてそれは凍てる冬の季節を除いては大抵は直接に足の底が土について居た。
お品はこうして冷たいなきがらになってからも、その足の底はかんおけの板一まいをへだてただけで、これからもずっと土とふれ合っているのだった。
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お品は恁して冷たい屍に成つてからも其の足の底は棺桶の板一枚を隔てただけで更に永久に土と相接して居るのであつた。
小さな葬式ながら、かんおけが出たあとは、つむじ風がほこりをふき払ったようにからりとしていた。
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小さな葬式ながら柩が出た後は旋風が埃を吹つ拂つた樣にからりとして居た。
手伝いに来ていた女の人たちは、そうでなくてもごはんを出す客が少なくてひまだったから、すっかり手持ちぶさたになった。
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手傳に來て居た女房等はそれでなくても膳立をする客が少くて暇であつたから滅切手持がなくなつた。
それでも立ったままおわんとはしを持って、口を動かしている人もあった。
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それでも立ちながら椀と箸とを持つて口を動かして居るものもあつた。
料理は決まったとおり、さらもひらわんもつぼわんもつけられた。
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膳部は極つた通り皿も平も壺もつけられた。
それでも切りこんぶとひじきと油あげととうふのほかは、百姓が自分の手で作ったものばかりで料理された。
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それでも切昆布と鹿尾菜と油揚と豆腐との外は百姓の手で作つたものばかりで料理された。
さらには、細かくきざんで塩でもんだ大根と人参のなますが、ちょこんと乗せられた。
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皿には細かく刻んで鹽で揉んだ大根と人參との膾がちよつぽりと乘せられた。
そんな残り物と冷たくなったとうふのしるをつついても、麦のまじらないごはんがこの上ないごちそうなので、女の人たちは、その丈夫で、しかも大きなおなかに入るかぎり、口がこれを食べつづけて止まらないのである。
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さういふ残物と冷たく成つた豆腐汁とをつゝいても麥の交らぬ飯が其の口には此の上もない滋味なので、女房等は其の強健で且擴大された胃の容れる限りは口が之を貪つて止まないのである。
彼女たちは裏戸のかげに集まって、おしゃべりにふけった。
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彼等は裏戸の陰に聚まつて雜談に耽つた。
「どうしたっけまあ、ひどくかんおけがぐらぐらしたんじゃなかったっけかい」
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「どうしたつけまあ、酷く棺桶ぐら/\したんぢやなかつたつけゝえ」
「そのはずだろうな。あとが心配で仕方がないほとけさまは、ああいうふうに動くんだっていうぞ、お前」
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「其筈だんべな、後が心配で仕やうねえ佛はあゝえに動くんだつちぞおめえ」
「勘次さんのことがしたわしくて、あとへ残して行くのがつらいんだろうよ」
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「勘次さんこと欲しくつて後へ残してくのが辛えんだごつさら」
「そんだがよ、あんまりしたわれると、しまいには迎えに来て連れて行かれるとよ」
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「そんだがよ、餘り欲しがられつと遂にや迎に來て連れ行かれつとよ」
「ああいやだ、おれは」
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「おゝ厭だ俺ら」
「連れてってくれと言ったって、お前らのことなんか迎えに来る者もあるまいな」
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「連れてつてくろつちつたつておめえ等こた迎に來るものもあんめえな」
口々に、こんなことがえんりょもなく何度も言われた。
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口々に恁んなことが遠慮もなく反覆された。
話がしばらくとぎれたとき
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間が少時途切れた時
「お品さんもおしい命をなあ」
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「お品さんも可惜命をなあ」
と一人が思い出したように言った。
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と一人が思ひ出したやうにいつた。
「本当だ。他人のやらないことでもありゃしまいし」
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「本當だ他人のやらねえこつてもありやしめえし」
ほかの女の人が相づちを打った。
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他の女房が相槌を打つた。
「風邪を引いたなんてか。今度の風邪は強いから起きられないなんて、しらばっくれてな」
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「風邪引いたなんてか、今度の風邪は強えから起きらんねえなんて、しらばつくれてな」
「死ぬ者が損なんだよ」
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「死ぬ者貧乏なんだよ」
「そんだが、お品さんは自分のばかりじゃないっていうんじゃないかい」
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「そんだがお品さんは自分のがばかりぢやねえつちんぢやねえけ」
「そうだとよ。大きな声じゃ言えないが、五十銭とか八十銭とか取って、他人のもやったんだとよ」
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「さうだとよ、大けえ聲ぢやゆはんねえが、五十錢とか八十錢とか取つて他人のがも行つたんだとよ」
「八十銭ずつも取っちゃお前、女の手じゃたいしたもんだがな。今度は自分で死んじまうなんて、やりきれないこったなあ」
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「八十錢づゝも取つちやおめえ、女の手ぢやたえしたもんだがな、今度自分で死んちまあなんて、行んねえこつたなあ」
「つみを作ったばちじゃないか」
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「罪作つた罰ぢやねえか」
えんりょもなく、話はそれからそれへと移っていく。
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遠慮もなくそれからそれと移のである。
「そんなこと言って、今出て行ったほとけさまのことをお前ら、とりつかれるから見ろよ」
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「そんなことゆつて、今出た佛のことをおめえ等、とつゝかれつから見ろよ」
ほかの一人の女の人が言ったとき、話がしばらくとぎれて静まった。
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他の一人の女房がいつた時噺が暫時途切れて靜まつた。
一人の女の人が、さらの大根を手でつまんで口へ入れた。
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一人の女房が皿の大根を手で撮んで口へ入れた。
「そういう所を他人に見られたらどうするんだい」
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「さうえ處他人に見られたらどうしたもんだえ」
そばから言われて
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側からいはれて
「見てやあしまいな」
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「見てやあしめえな」
と、その女の人は裏戸の口から庭のほうを見た。
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と其女房は裏戸の口から庭の方を見た。
そして
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さうして
「おれみたいなばあさんは、どうせこれから嫁にでも行くあてがあるじゃなし、かまわないことはかまわないがな」
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「俺ら見てえな婆はどうで此れから娶にでも行くあてがあんぢやなし、構あねえこたあ構あねえがな」
と言って笑った。
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といつて笑つた。
みんなでどっと笑い声を上げた。
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一同どつと笑聲を發した。
かんおけを送った人々がばらばらに帰って来るまで、おしゃべりはそれからそれへと止まなかった。
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柩を送つた人々が離れ/″\に歸つて來るまでは雜談がそれからそれと止まなかつた。
ふだん何のなぐさめももらう機会がないのに、それでも聞きたがり、知りたがり、話したがる彼女たちは、三人も集まれば、ふくらんだガスがふくろのやぶれ目から逃げ出すように、ついには前後の分別もなく、その舌を動かすのである。
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平日何等の慰藉を與へらるゝ機會をも有して居ないで、然も聞きたがり、知りたがり、噺たがる彼等は三人とさへ聚れば膨脹した瓦斯が袋の破綻を求めて遁げ去る如く、遂には前後の分別もなく其舌を動かすのである。
たまに引き出しから出したあかのついていない半纏を着て、髪にはどんな形にもくしを入れて、そしてお悔やみをすませるまでは、彼女たちはふだんにないおとなしいようすを保つのである。
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偶抽斗から出した垢の附かぬ半纏を被て、髮にはどんな姿にも櫛を入れて、さうして弔みを濟すまでは彼等は平常にないしほらしい容子を保つのである。
それは、あらたまってなれないあいさつを言わなければならないという気づかいが、少しだけ彼女たちの心をおさえているからである。
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それは改まつて不馴な義理を述べねばならぬといふ懸念が、僅ながら彼等の心を支配して居るからである。
しかし土間へ下りて、たすきをかけて、おぜんやおわんを洗ったりふいたり、手をいそがしく動かすようになれば、彼女たちの心はそれに引かれて、その聞きたがり、知りたがり、話したがる性しつにもどるのである。
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然し土間へおりて、襷が掛けられて、膳や椀を洗つたり拭いたり其手を忙しく動かすやうに成れば、彼等の心はそれに曳かされて其の聞きたがり、知りたがり、噺したがる性情の自然に歸るのである。
たとえ他人にとっては悲しい日でも、その一日だけは自分の暮らしからはなれて何人もの人といっしょに集まれることは、彼女たちにはむしろ楽しい一日でなければならない。
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假令他人の爲には悲しい日でも其の一日だけは自己の生活から離れて若干の人々と一緒に集合することが彼等には寧ろ愉快な一日でなければならぬ。
たえずへっていく体をおぎなうために取る食べ物は、おわん一ぱいでも、みんな自分のつらい働きの一部をけずって手に入れたものである。
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間斷なく消耗して行く肉體の缺損を補給するために攝取する食料は一椀と雖も悉く自己の慘憺たる勞力の一部を割いて居るのである。
しかし他人をとむらう一日は、自分には何の損もなくて、十分におなかいっぱい食べることができる。
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然し他人を悼む一日は其處に自己のためには何等の損失もなくて十分に口腹の慾を滿足せしめることが出來る。
他人の悲しみはどれほど深くても、それは自分の目の前の問題ではない。
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他人の悲哀はどれ程痛切でもそれは自己當面の問題ではない。
こうして、彼女たちの集まる所には、いつも笑い声が絶えないのである。
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如斯にして彼等の聚る處には常に笑聲を絶たないのである。
お品も、こういう仲間の一人だった。
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お品も恁ういふ伴侶の一人であつた。
それが今日は、その笑い声を後にして、冷たい土にかえったのである。
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それが今日は其の笑聲を後にして冷たい土に歸したのである。
五
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五
お品は、自分の手で自分の身をほろぼしたのである。
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お品は自分の手で自分の身を殺したのである。
お品は十九のくれにおつぎを産んでから、その次の年にもまた身ごもった。
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お品は十九の暮におつぎを産んでから其次の年にも亦姙娠した。
そのときは暮らしがぎりぎりまで苦しかったので、そのおなかの子は死んだお母さんの手で、七か月目に流してしまった。
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其の時は彼等は窮迫の極度に達して居たので其の胎兒は死んだお袋の手で七月目に墮胎して畢つた。
それはまだ、秋の暑いころだった。
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それはまだ秋の暑い頃であつた。
丈夫なお品は、四、五日たつと林の中で草かりをしていた。
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強健なお品は四五日經つと林の中で草刈をして居た。
それでもむりをしたために、そのあと大きな病気はなかったが、よくなるまではしばらくぶらぶらしていた。
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それでも無理をした爲に其後大煩ひはなかつたが恢復するまでには暫くぶら/\して居た。
それからというもの、どういうわけかお品は身ごもらなかった。
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それからといふものはどういふものかお品は姙娠しなかつた。
おつぎが十三のとき、与吉が生まれた。
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おつぎが十三の時與吉が生れた。
このときは勘次もお品も、おなかの子を大切にした。
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此の時は勘次もお品も腹の子を大切にした。
女の子が十三というともう役に立つので、与吉を育てながら夫婦は十分に働くことができた。
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女の子が十三といふともう役に立つので、與吉を育てながら夫婦は十分に働くことが出來た。
与吉が三つになったので、おつぎはよそへ奉公に出すことに、夫婦のあいだで決められた。
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與吉が三つに成つたのでおつぎは他へ奉公に出すことに夫婦の間には決定された。
そのころ十五の女の子では、一年分の給金はせいぜい十円くらいのものだった。
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其の頃十五の女の子では一年の給金は精々十圓位のものであつた。
それでも、それだけの収入のほかに食べる人が一人へることが、貧しい家にはとても大きいのである。
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それでもそれ丈の收入の外に食料の減ずることが貧乏な世帶には非常な影響なのである。
それが、いねのほ先がたれるころから、お品は考えこんで首をかしげるようになった。
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それが稻の穗首の垂れる頃からお品は思案の首を傾げるやうになつた。
体のようすが変わったことに気づいたからである。
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身體の容子が變に成つたことを心付いたからである。
十年あまりも身ごもらなかったおなかは、与吉ができてからくせがついたと見えて、また身ごもったのである。
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十年餘も保たなかつた腹は與吉が止つてから癖が附いたものと見えて又姙娠したのである。
お品も勘次も、それには困ってしまった。
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お品も勘次もそれには當惑した。
おつぎを奉公に出してしまえば、二人の子をかかえてお品はこれまでのように働けない。わずかなかせぎでも、それがなくなることは、彼らの暮らしにとって大きな打げきでなければならない。
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おつぎを奉公に出して畢へば、二人の子を抱いてお品は從來のやうに働くことが出來ない、僅な稼でもそれが停止されることは彼等の生活の爲には非常な打撃でなければならぬ。
そのうちにいねを刈ったり、もみをほしたり、いそがしいとり入れの季節が来て、すみきった空の下で夫婦は毎日ほこりをあびていた。
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其の内に稻を刈つたり、籾を干したり忙しい收穫の季節が來て、冴えた空の下に夫婦は毎日埃を浴びて居た。
さすがにつみのような気もするので、夫婦はただ困ってその日をすごしていた。
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有繋に罪なやうな心持もするので夫婦は只困つて其の日を過して居た。
それも、夜になってつかれた体を横にし、ぐっすりねむりに落ちるまでのわずかな時間、二人は決められない考えを言い合うのだった。
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それも夜に成つて疲れた身體を横にし甘睡に陷るまでの少時間彼等は互に決し難い思案を交換するのであつた。
これまでも夫婦のあいだは、どちらが上か分からないほど、勘次には決める力がなかった。
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從來も夫婦の間は孰れが本位であるか分らぬ程勘次には決斷の力が缺乏して居た。
「どうでもお前のおなかだから、好きにしたほうがいいよな」
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「どうでもおめえの腹だから好きにした方がえゝやな」
勘次はこう言うのである。
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勘次は恁ういふのである。
しかしそれは、どうでもいいという投げやりな言い方ではなくて、お品に命令をするには勘次の心はあまりに遠りょしていたのである。
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然しそれは怎的でもいゝといふ云ひ擲りではなくて、凡てがお品に對して命令をするには勘次の心は餘り憚つて居たのである。
「そんでも、おれのほうも困るだろうな」
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「そんでも、俺がにも困んべな」
お品は投げかけるように言うのである。
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お品は投げ掛けるやうにいふのである。
勘次は、お品がこうするつもりだときっぱり言ってしまえば、けっして反対をするのではない。
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勘次はお品が恁うする積だときつぱりいつて畢へば決して反對をするのではない。
かといって、お品が自分の考えだけで決めるには、あまりに大きなことだったのである。
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といつてお品は獨斷で決行するのには餘り大事であつたのである。
そして、それは決まる機会もなくて、夫婦はあいかわらず畑仕事にいそがしかった。
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さうしてそれは決定される機會もなくて夫婦は依然として農事に忙殺されて居た。
そのあいだに空をわたる木がらしが、急に悲しい知らせを運んできた。
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其の間に空を渡る凩が俄に哀しい音信を齎した。
けやきのえだは、どうせもうこれまでだというように、あわただしくその赤くなったかれ葉を地面へ投げつけた。
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欅の梢は、どうでもう此れまでだといふやうに慌しく其の赭く成つた枯葉を地上に投げつけた。
その捨てられた軽い小さな落ち葉は、自分を引き止めてくれるかげをさがしてころころと走っては、ほした藁のあいだでも、もみのむしろでも、どこにでも身をよせた。
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其の棄て去られた輕い小さな落葉は、自分を引き止めて呉れる蔭を求めて轉々と走つては干した藁の間でも籾の筵でも何處でも其の身を託した。
あたりはすべてがただ、さわがしく、そして入り乱れていた。
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周圍は凡てが只騷がしく且つ混雜した。
そのうちに勘次は、秋からさそいのあった川ほり工事へ、人にたのまれて行ったのである。
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其の内に勘次は秋から募集のあつた開鑿工事へ人に任せて行つたのである。
「ただこうしてぐずぐずしていても仕方があるまいな」
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「只かうしてぐづ/\して居ても仕やうあんめえな」
お品はそのときも、勘次に決めてくれとせまってみた。
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お品は其の時も勘次の判斷を促して見た。
「おれもそう言われても困るから、お前の好きにしてくれよ」
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「俺もさうゆはれても困つから、おめえ好きにしてくろうよ」
勘次はただこう言った。
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勘次は只恁ういつた。
勘次が行ってしまってから、お品はその入り乱れた、しかもさびしいあたりのようすの中で、やるせないような気持ちになって、とうとうその決心を実行してしまった。
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勘次が去つてからお品は其混雜した然も寂しい世間に交つて遣瀬のないやうな心持がして到頭罪惡を決行して畢つた。
お品のおなかは四か月だった。
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お品の腹は四月であつた。
そのころのおなかがいちばんあぶないと言われているとおり、お品はそれがもとでたおれたのである。
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其の頃の腹が一番危險だといはれて居る如くお品はそれが原因で斃れたのである。
おなかの子は四か月いっぱいいたので、男か女かがはっきりと分かった。
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胎兒は四月一杯籠つたので兩性が明かに區別されて居た。
小さなまたのあいだには、ごはんつぶほどの出っぱりがあった。
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小さい股の間には飯粒程の突起があつた。
お品はさすがに、おしくてはかない気持ちがした。
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お品は有繋に惜しい果敢ない心持がした。
第一に、人に知られることをおそれた。
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第一に事の發覺を畏れた。
それで、いったんは世間の女がよくするようにゆか下にうめたのを、お品はさらに田のはしのぐみの木のそばに、ぼろにくるんでうめたのである。
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それで一旦は能く世間の女のするやうに床の下に埋めたのをお品は更に田の端の牛胡頽子の側に襤褸へくるんで埋めたのである。
お品は体がよくなるまでじっとしてふとんにくるまっていれば、あるいはよかったかもしれない。
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お品は身體の恢復するまで凝然として蒲團にくるまつて居れば或はよかつたかも知れぬ。
十何年か前にはすべて死んだお母さんがやってくれたのだが、今度は勘次もいないし、お品は暮らしの心配もしなければならなかった。
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十幾年前には一切を死んだお袋が處理してくれたのであつたが、今度は勘次も居ないしでお品は生計の心配もしなくては居られなかつた。
一つには、それを世間にかくそうという気持ちから、知らないふりをするために、むりにでも体を動かしたのだった。
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一つにはそれを世間に隱蔽しようといふ念慮から知らぬ容子を粧ふ爲に強ひても其の身を動かしたのであつた。
しかし、その身をほろぼしたばい菌は、どうやって入りこんだのだろうか。
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然しながら其の身を殺した黴菌がどうして侵入したであつたらうか。
お品は、赤ちゃんをつつむまくをやぶるのに、他人の手を借りなかった。
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お品は卵膜を破る手術に他人を煩はさなかつた。
そして、そのさし入れたほおずきの根が、感じないほどの軽いきずをつけて、そこにばい菌を植えつけたのだろうか。それとも毎日けむりのようにあびていたほこりから来たのだろうか。それをはっきりさせることはできない。
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さうして其揷入した酸漿の根が知覺のないまでに輕微な創傷を粘膜に與へて其處に黴菌を移植したのであつたらうか、それとも毎日煙の如く浴せ掛けた埃から來たのであつたらうか、それを明らめることは不可能でなければならぬ。
しかしどちらにしても、病気のもとは土が運んで来たものにちがいなかった。
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然し孰れにしても病毒は土が齎したのでなければならなかつた。
葬式の次の日は、また近所の人が来た。
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葬式の次の日は又近所の人が來た。
勘次は借りた羽織とはかまを着て、村じゅうへあいさつに回った。
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勘次は其の借りた羽織と袴を着て村中へ義理に廻つた。
土びんに入れた水を持って墓まいりに行って、それからおぜんもおわんもみな返して、近所の人々も帰ったあと、勘次はぽつんとして、古いつくえの上に置かれた白木の位はいを前に、たまらなくさびしくあわれな気持ちになった。
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土瓶へ入れた水を持つて墓參りに行つて、それから膳椀も皆返して近所の人々も歸つた後勘次は㷀然として古い机の上に置かれた白木の位牌に對して堪らなく寂しい哀れつぽい心持になつた。
二、三日のあいだは、片口やすりばちに入れた葬式のときの残り物を食べて、家じゅうがただぼんやりとして暮らした。
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二三日の間は片口や摺鉢に入れた葬式の時の残物を喰べて一家は只ばんやりとして暮した。
雨戸はいつものように閉めたままで、暗かった。
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雨戸はいつものやうに引いた儘で陰氣であつた。
卯平を入れて四人は、おたがいにただ冷たかった。
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卯平を加へて四人はお互が只冷かであつた。
卯平はそのうす暗い家の中で、ただたばこをふかしては、大きなしんちゅうのきせるで火ばちをたたいていた。
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卯平は其の薄暗い家の中に只煙草を吹かしては大きな眞鍮の煙管で火鉢を叩いて居た。
卯平と勘次とは、そのあいだろくに口もきかなかった。
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卯平と勘次とは其の間碌に口も利なかつた。
勘次は、自分の体と自分の心とがばらばらになったような気持ちで、自分で自分をどうすることもできなかった。
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勘次は自分の身體と自分の心とが別々に成つたやうな心持で自分が自分をどうする事も出來なかつた。
それでも小作米のことは、頭からはなれることはなかった。
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それでも小作米のことは其の念頭から沒し去ることはなかつた。
貧しい小作人の常として、彼らはいつもこわさにおそわれている。
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貧乏な小作人の常として彼等は何時でも恐怖心に襲はれて居る。
ことに、地主に気をつかうことは、なみたいていではない。
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殊に其の地主を憚ることは尋常ではない。
そして自分が作ってきた土地は、死んでもかじりついていたいほどおしむのである。
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さうして自分の作り來つた土地は死んでも噛り附いて居たい程それを惜むのである。
彼らが初めてふんだ土の強い引きつける力は、いつまでも彼らを遠くへ放さない。
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彼等の最初に踏んだ土の強大な牽引力は永久に彼等を遠く放たない。
彼らはとうてい、その土に苦しみつづけなければならない運命を持っているのである。
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彼等は到底其の土に苦しみ通さねばならぬ運命を持つて居るのである。
勘次は、お品の葬式がすむとすぐに、新しい俵へ入れた小作米を地主へ運んで行かなければならないと、それが心を苦しめていた。
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勘次はお品の葬式が濟むと直に新しい俵へ入れた小作米を地主へ運んで行かねば成らぬとそれが心を苦しめて居た。
しかしそのときには、その新しい俵の一つは縄のわからぬけて、米はたたいてもいくらも出なかった。
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然し其の時は其の新しい俵の一つは輪に成つた繩から拔けて、米は叩いても幾らも出なかつた。
勘次は次の年には、ほとんど自分一人の手で畑仕事をしなければならない。
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勘次は次の年には殆ど自分一人の手で農事を勵まなくてはならぬ。
いつもの年のようにいそがしい季節に日やといに行くこともできまいし、それにはお母さんに置いていかれた二人の子どももいるし、今から食べ物のよういもしなければならないと思うと、自分のくらしから一俵の米をへらしては、とてもやっていけないと深く考えて、彼はねむれないこともあった。
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例年のやうに忙しい季節に日傭に行くことも出來まいし、それにはお袋に捨てられた二人の子供も有ることだし、今から穀の用意もしなくては成らぬと思ふと自分の身上から一俵の米を減じては到底立ち行けぬことを深く思案して彼は眠らないこともあつた。
しかしほかに方法もないので、彼は地主にたのみこんで、小作米の半分を次の秋まで貸してもらった。
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然し他に方法もないので彼は地主へ哀訴して小作米の半分を次の秋まで貸して貰つた。
地主は東どなりのもとの主人だったので、それも聞き入れてもらえた。
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地主は東隣の舊主人であつたのでそれも承諾された。
彼はさらに、そのわずかな米の一部をけずってお金にかえなければならないほど、ふところが苦しかったのである。
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彼は更に其の僅な米の一部を割いて錢に換へねばならぬ程懷が窮して居たのである。
勘次はそれから、また利根川の工事へ行かなければならないと思っていた。
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勘次はそれから復た利根川の工事へ行かねばならないと思つて居た。
それは彼が、わずかのあいだに見た、行き場のない人たちのおそろしさを思って、たとえどうであってもかしらをだまして、そのわずかな前借りのお金をふみたおすほどの気持ちにはなれなかったからである。
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それは彼が僅の間に見た放浪者の怖ろしさを思つて、假令どうしても其統領を欺いて其の僅少な前借の金を踏み倒す程の料簡が起されなかつたのである。
そのうちに親方からはがきが来た。
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其の内に張元から葉書が來た。
彼はひたすらおそれた。
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彼は只管恐怖した。
しかし二人の子を置いて行くことができないので、どうしていいか分からなかった。
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然し二人の子を見棄てゝ行くことが出來ないので、どうしていゝか判斷もつかなかつた。
そうするうちに、お品の七日目もすぎた。
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さうする内にお品の七日も過ぎた。
彼は苦しみなやんだ。
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彼は煩悶した。
ただ一つ、卯平が野田へ行くのをしばらくのばしてもらって、自分はそのあいだに少しでもこづかいをかせいで来たいと思った。
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唯一つ卯平が野田へ行くのを暫く猶豫して貰つて自分は其の間に少しでも小遣錢を稼いで來たいと思つた。
しかしそれも直接には言い出せないので、例の桑畑一まいをへだてた南の家にたのんだ。
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然しそれも直接には云ひ出せないので、例の桑畑一枚隔てた南へ頼んだ。
ここ数日、彼は卯平がその大きな体を火ばちのそばにすえて、きせるをかんではむっつりとしているのを見ると、なんとなく気おくれして、なるべくその目を見ないように遠ざかっているしかなかった。
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數日來彼は卯平が其の大きな體躯を火鉢の側に据ゑて煙管を噛んではむつゝりとして居るのを見ると、何となく憚つて成るべく其の視線を避けるやうに遠ざかつて居ることを餘儀なくされるのであつた。
勘次とお品は、たがいに好き合った仲だった。
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勘次とお品は相思の間柄であつた。
勘次が東どなりの主人にやとわれたのは十七の冬で、十九のくれにお品のむこになってからも、あいかわらず主人の所につとめていた。
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勘次が東隣の主人に傭はれたのは十七の冬で十九の暮にお品の婿に成つてからも依然として主人の許に勤めて居た。
彼はそのころ、お品の家へはとなり同士だからということでよく出入りした。
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彼は其當時お品の家へは隣づかりといふので能く出入つた。
一つには、女らしくなってきたお品のすがたを見たいせいでもあった。
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一つには形づくつて來たお品の姿を見たい所爲でもあつた。
彼は秋の大豆打ちという日の晩などには、唐箕にかけたり俵に作ったりするあいだに、二しょうや三しょうの大豆をこっそりかくしておいて、お品の家へ持って行った。
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彼は秋の大豆打といふ日の晩などには、唐箕へ掛けたり俵に作つたりする間に二升や三升の大豆は竊に隱して置いてお品の家へ持つて行つた。
そして、いり豆をかじっては、夜ふけまで話をすることもあった。
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さうして豆熬を噛つては夜更まで噺をすることもあつた。
お品の家からは、近所でおふろがわかない日はよく来た。
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お品の家からは近所に風呂の立たぬ時は能く來た。
いそがしい仕事にはやとわれても来た。
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忙しい仕事には傭はれても來た。
そういうあいだに、二人の仲ができたのである。
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さういふ間に彼等の關係が成立つたのである。
それはお品が十六の秋である。
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それはお品が十六の秋である。
それから足かけ三年たった。
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それから足掛三年經つた。
勘次には、主人の家が楽しくてよく働くことができた。
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勘次には主人の家が愉快に能く働くことが出來た。
彼の体はむしろ小がらだが、そのきりっとしまった体つきが、だんだん仕事を上手にした。
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彼の體躯は寧ろ矮小であるが、其きりつと緊つた筋肉が段々仕事を上手にした。
たとえどんなものが二人のあいだをへだてようとしても、二人が近づく機会を見つけたことは、こんもりとしげってさえぎる林のえだをすかして、どこからか日が地面に光を落としているようなものだった。
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假令どんな物が彼等の間を隔てようとしても彼等が相近づく機會を見出したことは鬱蒼として遮つて居る密樹の梢を透してどこからか日が地上に光を投げて居るやうなものであつた。
二人の心は、ただ明るかったのである。
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彼等の心は唯明るかつたのである。
お品は十九の春に身ごもった。
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お品は十九の春に懷胎した。
自分でもそれはしばらく知らずにいた。
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自分でもそれは暫く知らずに居た。
季節がだんだん暖かくなって、仕事にはひとえでなければならないころになったので、女同士の目にはかくしきれなくなった。
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季節が段々ぽかついて、仕事には單衣でなければならぬ頃に成つたので女同士の目は隱しおほせないやうに成つた。
お母さんはお品をまだ子どものように思って、うっかりそれに気づかなかった。
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お袋はお品をまだ子供のやうに思つて迂濶にそれを心付かなかつた。
本当にそうだと分かったときには、お品は間もなく肩で息をするようになった。
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本當にさうだと思つた時はお品は間もなく肩で息するやうに成つた。
そして、体がもうほうっておけない状態になったので、両方の親せきの人たちでごたごたと話し合いが起こった。
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さうして身體がもう棄てゝ置けない場合に成つたので兩方の姻戚の者でごた/\と協議が起つた。
勘次もお品も、そのときたがいに慕い合う心が、にかわのように強かった。
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勘次もお品も其時互に相慕ふ心が鰾膠の如く強かつた。
二人はいたずら者に横から口を出されて慌てたときに、ある夜にげ出してしまった。
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彼等は惡戲者に水をさゝれて慌てた機會に或夜遁げ出して畢つた。
それは、このままでは二人はとてもいっしょになれそうにないから、どうしても一つになろうというのなら、どこかへ二人で身をかくすのだ、と言われたのである。
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それは、此の儘では二人は迚ても添はされぬ容子だからどうしても一つに成らうといふのならば何處へか二人で身を隱すのである。
そして、いよいよとなればおれがどうにでも始末をつけてやるから、なんでもぐずぐずしていちゃだめだと、お品の心をそそのかしたのだった。
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さうして愈となれば俺がどうにでも其處は始末をつけて遣るから、何でも愚圖/\して居ちや駄目だとお品の心を教唆つたのであつた。
お品からいっしんに勘次へせまった。
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お品から一心に勘次へ迫つた。
勘次はそのころから、お品の言いなりになるのだった。
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勘次は其の頃からお品のいふなりに成るのであつた。
二人は遠くへは行けないので、となり村の知り合いの家へころがりこんだ。
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二人は遠くは行けないので、隣村の知合へ身を投じた。
両方の親せきがさわぎ出した。
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兩方の姻戚が騷ぎ出した。
こういう二人へのこんないたずらは、どこでもよくくり返されるのだった。
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恁ういふ同志へのこんな惡戲は何處でも能く反覆されるのであつた。
そして、うまくいったいたずら者は
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さうして成功した惡戲者は
「仕事はなんでも、めんどりのほうを動かさなくちゃうまく行かないよ」
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「仕事は何でも牝鷄でなくつちや甘く行かねえよ」
と言っては、かげで笑うのである。
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といつては陰で笑ふのである。
「みっともないまねをしやがって」
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「外聞曝しやがつて」
と卯平はおこったが、そのおかげで話はかんたんに進んだ。
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と卯平は怒つたがそれが爲に事は容易に運ばれた。
勘次はむこになったのである。
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勘次は婿に成つたのである。
かんたんな式が行われた。
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簡單な式が行はれた。
急になこうどに決められた人が一人で、勘次を連れて行った。
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俄に媒妁人と定められたものが一人で勘次を連れて行つた。
卯平はむっつりとして、それを受け入れた。
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卯平はむつゝりとしてそれを受けた。
ふだん通いなれた家なので、勘次はきまり悪そうにすわった。
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平生行きつけた家なので勘次は極り惡相に坐つた。
お品はふだん着のままたすきをかけて、だるそうな体を動かしていて、勘次のそばへはすわらなかった。
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お品は不斷衣の儘襷掛で大儀相な體躯を動かして居て勘次の側へは坐らなかつた。
なこうどがただお酒を飲んでさわいだだけだった。
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媒妁人が只酒を飮んで騷いだ丈であつた。
お品は間もなく女の子を産んだ。
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お品は間もなく女の子を産んだ。
それがおつぎだった。
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それがおつぎであつた。
季節はくれのおしつまった、いそがしいときだった。
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季節は暮の押し詰つた忙しい時であつた。
お母さんはお品が好いているので、勘次をものたりないむこだとは思っていなかった。
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お袋はお品が好いて居るので、勘次を不足な婿と思つては居なかつた。
勘次はそのくれもまた主人の所ではたらくつもりで前借りした給金を、お品の家へつぎこんだので、お母さんはかえってよろこんでいた。
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勘次は其暮も亦主人へ身を任せる筈で前借した給金を、お品の家へ注ぎ込んだのでお袋は却て悦んで居た。
卯平はただ、勘次が気に入らなかった。
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卯平は唯勘次を蟲が好なかつた。
自分は大きな体でぐいぐいと仕事をしてきたのに、勘次は小さな体でちょこちょこと走り回ったり、言われたことばかりしていて自分で考えるということがまるでなかったりするので、ひどく歯がゆく思っていた。
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自分は其大きな體躯でぐい/\と仕事をしつけたのに勘次が小さな體躯でちよこ/\と駈け歩いたり、ただ吩咐ばかり聞いて居るので自分の機轉といふものが一向なかつたりするので酷く齒痒く思つて居た。
しかし自分もむこ入りした身だし、それに生まれつき口数が少ないので、親せきの話し合いにも彼は
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然し自分は入夫といふ關係もあるしそれに生來の寡言なので姻戚の間の協議にも彼は
「どうでもわしはようございますから、いいように決めておくんなせえ」
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「どうでもわしはようがすからえゝ鹽梅に極めておくんなせえ」
とだけ言うのだった。
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とのみいふのであつた。
勘次は、百姓がいちばんいそがしいそのころの五月に病気になった。
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勘次は百姓の尤も忙しい其の頃の五月に病氣に成つた。
彼は馬のくつわにつけた竹ざおのはしを持って馬をあやつりながら、毎日どろだらけになって田をならしていた。
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彼は轡へ附けた竹竿の端を執つて馬を馭しながら、毎日泥だらけになつて田の代掻をした。
どうかすると、そんな季節に東南の風がふいて、ふるえるほど冷えることがある。
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どうかするとそんな季節に東南風が吹いて慄へる程冷えることがある。
勘次はその冷えがさわったのだろうか、気分が悪いと言って田からもどって来ると、それっきり起き上がれないようになった。
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勘次は其の冷えが障つたのであつたらうか心持が惡いというて田から戻つて來るとそれつ切り枕も上らぬやうになつた。
よく馬の病気に飲ませる赤玉という薬を何つぶか飲んで、彼はふとんにくるまっていた。
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能く馬の病氣に飮ませる赤玉といふ藥を幾粒か嚥んで彼は蒲團へくるまつて居た。
彼はどうにか病気をのりきれるものなら、卯平のそばへは行きたくなかった。
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彼はどうにか病氣の凌ぎがつけば卯平の側へは行きたくなかつた。
それに一つには、がまんして仕事に出ればろくに働けなくても一日分の仕事をしたことになるけれど、まったく休んでしまえばその日の分が給金から引かれてしまうので、彼はそれをおそれた。
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それと一つには我慢して仕事に出れば碌には働けなくても一日の勤めを果したことに成るけれども、丸で休んで畢へば其の日だけの割當勘定が給金から差引かれなければ成らぬので彼はそれを畏れた。
しかし病気は、馬に飲ませる薬の赤玉ではすぐには治らなかった。
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然し病氣は馬に飮ませる藥の赤玉では直には癒らなかつた。
それで彼はお品の世話になるつもりで、次の朝早く、仲間の背中に運ばれた。
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それで彼はお品の厄介に成る積で、次の朝早く朋輩の背に運ばれた。
卯平はしぶりきった顔でむかえた。
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卯平は澁り切つた顏で迎へた。
お品がふとんをしいてやったので、勘次はそこへごろりとうつぶせになって、ひたいを組んだ手にうずめた。
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お品が蒲團を敷いて遣つたので勘次はそれへごろりと俯伏しになつて其の額を交叉した手に埋めた。
家の者はみな田へ出なければならなかった。
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家の者は皆田へ出なければならなかつた。
病人にかまっていることは、仕事がゆるさなかった。
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病人に構つて居ることは仕事が許さなかつた。
お母さんは出るときに表の大戸を閉めながら
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お袋は出る時に表の大戸も閉てながら
「おなかがすいたらここにあるぞ」
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「腹減つたら此處にあんぞ」
と言って、ばたりと飯だいのふたをした。
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といつてばたりと飯臺の蓋をした。
あとで勘次がふとんからずり出して見たら、麦ばかりのぽろぽろしたごはんだった。
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後で勘次は蒲團からずり出して見たら、麥ばかりのぽろ/\した飯であつた。
そのころ、お品の家ではそういう食べ物で命をつないでいたのである。
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其の時分お品の家ではさういふ食料で生命を繋いで居たのである。
勘次は奉公にばかり出ていたので、それほどそまつな物を食べたことはない。
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勘次は奉公にばかり出て居たのでそれ程麁末な物を口にしたことはない。
それで、どうしても手を出す気にならなかった。
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それでどうしても手を出さうといふ心が起らなかつた。
昼ごはんに家の者は田からもどって、そのごはんを食べた。
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午餐に家の者は田から戻つて其の飯を喰べた。
ちっとはどうだとお母さんにすすめられても、勘次はただうつぶせになっていた。
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ちつとはどうだとお袋に勸められても勘次は唯俯伏に成つて居た。
「この野郎、こんないそがしいときにころがりこみやがって、くたばるつもりでもあるだろう」
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「此の野郎こんな忙しい時に轉がり込みやがつてくたばる積でもあんべえ」
と、卯平はふだんになくこんなことを言った。
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と卯平は平生になく恁んなことをいつた。
勘次はあとで一人で泣いた。
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勘次は後で獨り泣いた。
彼はお品がこっそりふとんの下へ入れてくれたせんべいをかじったりして、二、三日ごろごろしていた。
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彼はお品がこつそり蒲團の下へ入て呉れた煎餅を噛つたりして二三日ごろ/\して居た。
そのころは駄菓子屋もめったになかったので、これだけのことがお品にはずいぶんな心づかいだったのである。
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其の頃は駄菓子店も滅多に無かつたので此れ丈のことがお品には餘程の心竭しであつたのである。
勘次はどうも卯平がいやで、こわくて仕方がないので、少し体がよくなりかけると、みなが田へ出たあとでそっとぬけ出して、村の中の親せきの所へ行って板ぐらの二階へかくれてねていた。
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勘次はどうも卯平が厭で且つ怖ろしくつて仕やうがないので少し身體が恢復しかけると皆が田へ出た後でそつと拔けて村の中の姻戚の處へ行つて板藏の二階へ隱れて寢て居た。
夜になったらどうして知ったのか、お品はおつぎを背負って、にわとりを一羽持って来た。
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夜になつたらどうして知つたかお品はおつぎを背負つて鷄を一羽持つて來た。
「勘次さん、悪く思わないでくれよ。おれは悪くするつもりはないが、仕方がないからよ」
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「勘次さん惡く思はねえでくろうよ、俺惡くする積はねえが、仕やうねえからよ」
と、お品はうったえるように言うのだった。
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とお品は訴へるやうにいふのであつた。
お品は毎晩のように来て、板ぐらの戸を内から閉めてとまって行った。
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お品は毎晩のやうに來て板藏のさるを内から卸して泊つて行つた。
それでも勘次は卯平のそばがいやなので、もどらないつもりでほかの村へさまよい出た。
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それでも勘次は卯平の側が厭なので戻らないといふ積で他の村落へ漂泊した。
また土地へ帰って来ると、畑にいても田にいてもお品がせまって来るので、彼は農具を捨てて逃げることさえあった。
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復土地へ歸つて來ると、畑に居ても田に居てもお品が迫つて來るので、彼は農具を棄てゝ遁げることさへあつた。
それがどうしたものか、いつのまにか自分のほうからお品のそばへ行きたくてたまらなくなってしまって、他人からかえってからかわれるようになったのである。
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それが如何したものか何時の間にやら酷く自分からお品の側へ行きたく成つて畢つて、他人から却て揶揄はれるやうに成つたのである。
勘次が奉公の年季をつとめ上げて帰ったとき、卯平とは一つの家でかまどを別にすることになった。
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勘次は奉公の年季を勤めあげて歸つたと成つた時、卯平とは一つ家で竈を別にすることに成つた。
夫婦と赤んぼうの三人ぐらしで、彼らは卯平から、からのついたそばが一斗五しょうと麦が一斗と、あとにも先にもたったこれだけを分けてもらった。
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夫婦と乳呑兒と三人の所帶で彼等は卯平から殼蕎麥が一斗五升と麥が一斗と、後にも先にもたつた此れ丈が分けられた。
正月のうどんも打てなかった。
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正月の饂飩も打てなかつた。
さすがにお母さんは小麦粉をかくしてお品にやった。
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有繋にお袋は小麥粉を隱してお品へ遣つた。
それでも勘次は、こわい卯平と一つのかまどでいるよりも、かえってうれしかった。
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それでも勘次は怖ろしい卯平と一つ竈であるよりも却て本意であつた。
お母さんが死んでから、年老いた卯平は勘次と一つにならなければならなかった。
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お袋が死んでから老いた卯平は勘次と一つに成らなければならなかつた。
そのときにはもう、勘次が家の主だった。
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其時はもう勘次が主であつた。
そして、とっくに自分の住んでいる土地までが自分のものではなかった。
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さうして疾に自分の住んで居る土地までが自分の所有ではなかつた。
それは借金のかたをつけるために人が間に立って、東どなりへとても安いねだんで持たせたのである。
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それは借錢の極りをつける爲に人が立つて東隣へ格外な値で持たせたのである。
それほど彼の家は苦しかった。
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それ程彼の家は窮して居た。
勘次にとって卯平は、こわいというよりも、そのころではむしろいやな老人になっていた。
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勘次には卯平は畏ろしいよりも其時では寧ろ厭な老爺に成つて居た。
二人はめったに口もきかない。
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二人は滅多に口も利かぬ。
それを見ていなければならないお品の苦労は、なみたいていではなかったのである。
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それを見て居なければ成らぬお品の苦心は容易なものではなかつたのである。
勘次にたのまれて南の家のご主人が話をしたとき、卯平は心配したほどでもなく、「子どもらが困るというなら、どうでもするさ。しないでどうするもんか」
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勘次に頼まれて南の亭主が話をした時に卯平はどうしたものかと案じた程でもなく「子奴等が困るといへばどうでも仕ざらによ、仕ねえでどうするもんか」
と、きせるを手に持って、そのくせの舌打ちをしながら言った。
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と煙管を手に持つて其の癖の舌皷を打ちながらいつた。
南の家で心配しながら返事を待っていた勘次は、元気づいて
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南に居て案じながら挨拶を待つて居た勘次は勢ひづいて
「そんじゃ、おとっつあん、おれは行って来るから」
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「そんぢや、おとつゝあ俺行つ來つから」
と言った。
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といつた。
このときばかりは、おだやかなあいさつがかわされた。
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此の時ばかりは穩かな挨拶が交換された。
勘次がいなくなってから、卯平はむっつりした顔にほほえみをうかべては、与吉をだいて泣かれることもあった。
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勘次が居なく成つてから卯平はむつゝりした顏に微笑を浮かべては與吉を抱いて泣かれることもあつた。
与吉は夜に急に泣き出して止まらないことがある。
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與吉は夜俄に泣き出して止まぬことがある。
お品が死ぬまでかけていたふとんの中に、おつぎは与吉をだいてくるまるのだった。
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お品が死ぬまで被て居た蒲團の中におつぎは與吉を抱いてくるまるのであつた。
与吉が夜泣きをするとき、卯平はまくら元のマッチをすってたばこへ火をうつしては、燃えさしを手ランプにつけて
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與吉が夜泣きをする時卯平は枕元の燐寸をすつて煙草へ火を移しては燃えさしを手ランプへ點けて
「おっかあが見えるんだかも知れない。そうら明るくなった。お前は姉ちゃんにだかれてるんだ。こわいことがあるもんか」
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「おつかあが見えんだかも知んねえ、さうら明るく成つた。汝りや姊に抱かさつてんだ。可怖ことあるもんか」
卯平は重い調子で言うのである。
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卯平は重い調子でいふのである。
与吉はかべのどことも分からない所を見ては、火がついたように体をふるわせて泣いて、ひしとおつぎにだきつく。
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與吉は壁の何處ともなく見ては火の附いたやうに身を慄はして泣いて犇とおつぎへ抱きつく。
おつぎは与吉をひざにだいて、泣き止むまでは両手でつつんでいる。
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おつぎは與吉を膝へ抱いて泣き止むまでは兩手で掩うて居る。
それが泣き出したら毎晩のようなので、おつぎは玉ざとうをふとんの下へ入れておいて、泣くときにはなめさせた。
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それが泣き出したら毎夜のやうなのでおつぎは、玉砂糖を蒲團の下へ入れて置いて泣く時には甞めさせた。
それでも泣きがひどくなったときは、口へ入れたさとうをはき出しては、いよいよはげしく泣くのである。
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それでも泣き募つた時は口へ入れた砂糖を吐き出しては愈烈しく泣くのである。
おつぎはいらいらして、らんぼうに与吉をゆさぶることもあった。
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おつぎは焦れて邪險に與吉をゆさぶることもあつた。
それで与吉はついには、さとうを口にしながらすやすやとねむる。
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それで與吉は遂には砂糖を口にしながらすや/\と眠る。
卯平は与吉が静かになるまでは、横になったままおつぎのほうを向いて、うす暗い手ランプにその目を光らせている。
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卯平は與吉が靜かに成るまでは横に成つた儘おつぎの方を向いて薄闇い手ランプに其の目を光らせて居る。
与吉はおつぎにだかれるとき、いつもよくおつぎの胸をさわるのだった。
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與吉はおつぎに抱かれる時いつも能くおつぎの乳房を弄るのであつた。
うるさがってきびしくしかってみても、与吉は甘えて笑っている。
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五月蠅がつて邪險に叱つて見ても與吉は甘えて笑つて居る。
それでも泣くときに、お品がしたようにふところを開けてお乳をふくませてみても、その小さなお乳はけっして吸わなかった。
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それでも泣く時にお品のしたやうに懷を開けて乳房を含ませて見ても其の小さな乳房は間違つても吸はなかつた。
さとうをつけてみても、だませなかった。
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砂糖を附けて見ても欺けなかつた。
おつぎは与吉がおなかをすかせて泣くときには、米を水にひたしておいてすりばちですって、それをくつくつと煮てさとうを入れてなめさせた。
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おつぎは與吉が腹を減らして泣く時には米を水に浸して置いて摺鉢ですつて、それをくつ/\と煮て砂糖を入て嘗めさせた。
与吉はひとはしなめては舌つづみを打って、その小さな白い歯を出して、頭が後ろにつくほど体をそらせて、おつぎの顔をじっと見ては、甘えた声を立てて笑うのである。
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與吉は一箸嘗めては舌鼓を打つて其小さな白い齒を出して、頭を後へひつゝける程身を反らしておつぎの顏を凝然と見ては甘えた聲を立て笑ふのである。
与吉はそれがほしくなると、小さな手ですすけたたなを指した。
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與吉はそれが欲くなれば小さな手で煤けた籰棚を指した。
そこには、彼の好きなさとうの小さなふくろが乗せてあるのだった。
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其處には彼の好む砂糖の小さな袋が載せてあるのであつた。
おつぎは勘次が言いつけて行ったとおり、おけに入れてある米と麦をまぜたのをごはんにたいて、いもと大根のしるを作るほかは、これといった仕事もなかった。
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おつぎは勘次が吩咐けて行つた通り桶へ入れてある米と麥との交ぜたのを飯に炊いて、芋と大根の汁を拵へる外どうといふ仕事もなかつた。
そのあいだには与吉を背負って林の中を歩いて、竹のさおで作ったかぎでかれえだを取っては、しばをたばねるのがつとめだった。
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其の間には與吉を背負つて林の中を歩いて竹の竿で作つた鍵の手で枯枝を採つては麁朶を束ねるのが務であつた。
おつぎは麦藁でたにしのような形にねじれたかごを作って、それを与吉に持たせた。
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おつぎは麥藁で田螺のやうな形に捻れた籠を作つてそれを與吉へ持たせた。
卯平はぶらりと出て行っては、帰りには駄菓子を少したもとに入れて来る。
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卯平はぶらりと出て行つては歸りには駄菓子を少し袂へ入れて來る。
そして卯平は、菓子を持った右の手を左のそで口から出して与吉に見せる。与吉はふらふらとやっと歩いて行っては、ぶつかりそうに卯平につかまってたもとをさぐる。
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さうして卯平は菓子を持つた右の手を左の袖口から出して與吉へ見せる、與吉はふら/\と漸く歩いて行つては、衝き當り相に卯平へ捉つて袂を探す。
すると、菓子を持った手が今度は卯平の左のたもとから出る。
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さうすると菓子を持つた手が更に卯平の左の袂から出る。
与吉はあぶなっかしく卯平の体につかまりながら、左へ回って行く。
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與吉は危な相に卯平の身體を傳ひつゝ左へ廻つて行く。
すると、卯平の手が与吉の頭の上に乗って、菓子が頭へ落とされる。
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さうすると卯平の手が與吉の頭の上に乘つて菓子が頭へ落される。
与吉が頭へ手をやるときに、菓子は足元へぽたりと落ちる。
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與吉が頭へ手をやる時に菓子は足下へぽたりと落ちる。
与吉は慌てて菓子を拾っては、声を立てて笑うのである。
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與吉は慌てゝ菓子を拾つては聲を立てゝ笑ふのである。
菓子は、いつまでもへらないようにさとうで固めた黒い鉄砲玉がよく与えられた。
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菓子は何時までも減らないやうに砂糖で固めた黒い鐵砲玉が能く與へられた。
頭から落ちてころころと鉄砲玉が遠くへころがって行くのを、たおれながら追いかけて行く与吉を見て、卯平のむっつりとした顔がゆるむのである。
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頭から落ちてころ/\と鐵砲玉が遠く轉がつて行くのを、倒れながら逐ひ掛けて行く與吉を見て卯平のむつゝりとした顏が溶けるのである。
与吉はつまずいてたおれても、そのときはけっして泣かない。
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與吉は躓いて倒れても其時は決して泣くことがない。
鉄砲玉は、麦藁のかごへも入れられた。
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鐵砲玉は麥藁の籠へも入れられた。
与吉はそれを大事そうに持ってはときどきのぞきながら、おつぎがごはんのしたくをするあいだ、おとなしくすわっているのだった。
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與吉はそれを大事相に持つては時ゝ《とき/″\》覗きながら、おつぎが炊事の間を大人しくして坐つて居るのであつた。
六
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六
春は空から、そして土から、そっと動きはじめる。
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春は空からさうして土から微に動く。
毎日のように西からほこりをまき上げて来る強い風が、どうかするとぱたりと止んで、空のはしにはふわふわとしたわたのような白い雲が、ほっかり暖かい日ざしをあびようとしてちょっとうかび上がったというように、動きもしないでじっとしていることがある。
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毎日のやうに西から埃を捲いて來る疾風がどうかするとはたと止つて、空際にはふわ/\とした綿のやうな白い雲がほつかりと暖かい日光を浴びようとして僅に立ち騰つたといふやうに、動きもしないで凝然として居ることがある。
水の近くのしめった土が暖かい日ざしを思うぞんぶん吸って、その元気になった土のかすかなしげきを根に感じさせるので、田んぼのはんの木のじみなつぼみは、気づかないうちに少しずつのびて、ひらひらと動きやすくなる。
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水に近い濕つた土が暖かい日光を思ふ一杯に吸うて其勢ひづいた土の微かな刺戟を根に感ぜしめるので、田圃の榛の木の地味な蕾は目に立たぬ間に少しづゝ延びてひら/\と動き易くなる。
そのしげきから、かえるはまだ冬みんしているのに、たまにはあっちでもこっちでもくくくくと鳴き出すことがある。
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其の刺戟から蛙はまだ蟄居の状態に在りながら、稀にはそつちでもこつちでもくゝ/\と鳴き出すことがある。
空からさす日の光はそろそろ熱を増して、土はそれをいくらでも吸って止まない。
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空から射す日の光はそろ/\と熱度を増して、土はそれを幾らでも吸うて止まぬ。
土はすべてをだんだんとしげきして、ほりのあたりにはあしやしばやそのほかの草が、空と映り合ってすっと首をもたげる。
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土は凡てを段々と刺戟して堀の邊には蘆やとだしばや其の他の草が空と相映じてすつきりと其の首を擡げる。
やわらかさに満ちた空気をさらに重くするように、はんの木の花はひらひらと止まず動きながら、すすのような花粉をまき散らしている。
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軟かさに滿たされた空氣を更に鈍くするやうに、榛の木の花はひら/\と止まず動きながら煤のやうな花粉を撒き散らして居る。
かえるは死んだような冬みんからさめて、やわらかな草の上に手をついては、おどろいたようすで空を見上げてみる。
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蛙は假死の状態から離れて軟かな草の上に手を突いては、驚いたやうな容子をして空を仰いで見る。
そして彼らは、慌てたように声を上げて、その長いねむりから生き返ったことを空に向かって知らせる。
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さうして彼等は慌てたやうに聲を放つて其長い睡眠から復活したことを空に向つて告げる。
それで遠くで聞くときは、彼らのさわがしい声はただ空にひびいて気持ちよさそうである。
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それで遠く聞く時は彼等の騷がしい聲は只空にのみ響いて快げである。
彼らはさらに、春が来たことをすべての生き物に向かってせき立てる。
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彼等は更に春の到つたことを一切の生物に向つて促す。
草や木が気づいて、その力をぞんぶんに出すのを見ないうちは、鳴くのを止めまいとつとめる。
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草や木が心づいて其の活力を存分に發揮するのを見ないうちは鳴くことを止めまいと努める。
田んぼのはんの木は、とっくに花を捨てて、自分が先に若葉のすがたになってみせる。
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田圃の榛の木は疾に花を捨てゝ自分が先に嫩葉の姿に成つて見せる。
黄色みをふくんだ若葉が、さわやかで、そして明るい朝日をあびて気持ちよく光りながら、青い空の下で、まだためらっているまわりの林を見る。
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黄色味を含んだ嫩葉が爽かで且つ朗かな朝日を浴びて快い光を保ちながら蒼い空の下に、まだ猶豫うて居る周圍の林を見る。
みさきのような形にのびている水田をかかえて、まわりの林はやっと、それぞれの本来のすがたのままに、白っぽいのや赤っぽいのや、黄色っぽいのや、さまざまにしげって、それが気がついたときには急いで一つの深い緑になるのである。
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岬のやうな形に偃うて居る水田を抱へて周圍の林は漸く其の本性のまに/\勝手に白つぽいのや赤つぽいのや、黄色つぽいのや種々に茂つて、それが氣が付いた時に急いで一つの深い緑に成るのである。
雑木林のあちこちに散らばっている開こん地の麦もすっと首を出して、そら豆の花もかわいらしい黒いひとみを集めて、はずかしそうに葉のあいだからこっそりと四方をのぞく。
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雜木林の其處ら此處らに散在して居る開墾地の麥もすつと首を出して、蠶豆の花も可憐な黒い瞳を聚めて羞かし相に葉の間からこつそりと四方を覗く。
雑木林のあいだには、またすすきのかたい葉が空をさそうとして立つ。
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雜木林の間には又芒の硬直な葉が空を刺さうとして立つ。
その麦やすすきの下にすみかを求めるひばりが、ときどき空をしめて、春がふけたと呼びかける。
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其麥や芒の下に居を求める雲雀が時々空を占めて春が深けたと喚びかける。
すると、自分たちの声だけが空を支配しているはずだと思っているかえるは、そのさえずる声をおし消そうとして、たがいの体を飛びこえ飛びこえ鳴き立てるので、力の弱いひばりはすっと下りて、麦やすすきの根にかくれてしまう。
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さうすると其同族の聲のみが空間を支配して居可き筈だと思つて居る蛙は、其囀る聲を壓し去らうとして互の身體を飛び越え飛び越え鳴き立てるので小勢な雲雀はすつとおりて麥や芒の根に潜んで畢ふ。
そして、かえるの鳴かない昼のあいだにだけ、これを見上げればまぶしくて目も開けられないほど、その身をはるかにきらめく日の光の中にしずめて、その小さなのどがちぎれるまではげしく鳴らそうとするのである。
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さうしては蛙の鳴かぬ日中にのみ、之を仰げば眩ゆさに堪へぬやうに其の身を遙に煌めく日の光の中に沒して其小さな咽の拗切れるまでは劇しく鳴らさうとするのである。
かえるはいよいよますます鳴きほこって、かしの木のような大きな常緑樹の古い葉までも、一度にからりと落とさせなければ止まないとする。
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蛙は愈益鳴き矜つて樫の木のやうな大きな常緑木の古葉をも一時にからりと落させねば止まないとする。
このとき、すべての木や、それから冬のあいだはぐったりと地面についていたすべての雑草が、つま立ちして、ただ空へ空へと暖かな光を求めて止まない。
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此の時凡ての樹木やそれから冬季の間にはぐつたりと地に附いて居た凡ての雜草が爪立して只空へ/\と暖かな光を求めて止まぬ。
土がそれをじっと引き止めて放さない。
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土がそれを凝然と曳きとめて放さない。
それで草も木もみな土にまっすぐ立っている。冬のあいだは土と平行に寝ころんでいるのが好きだった人も、鉄の針が磁石に吸われるように土にまっすぐ立って、それぞれ手に農具を取る。
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それで一切の草木は土と直角の度を保つて居る、冬季の間は土と平行することを好んで居た人も鐵の針が磁石に吸はれる如く土に直立して各自に手に農具を執る。
紺の股引を藁でくくって、みな田をたがやしはじめる。
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紺の股引を藁で括つて皆田を耕し始める。
水がほしいと人が思うとき、かえるはいっせいに、さけるかと思うほどのどのふくろをふくらませて、体をふるわせながら、ことさらに鳴き立てる。
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水が欲しいと人が思ふ時蛙は一齊に裂けるかと思ふ程喉の袋を膨脹させて身を撼がしながら殊更に鳴き立てる。
白いきぬ糸のような雨は、水が田に満ちるまでふって、またふる。
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白い絓絲のやうな雨は水が田に滿つるまでは注いで又注ぐ。
鳴くべきときに鳴くためだけに生まれて来たかえるは、かり株をひっくり返しひっくり返し働いている人々のまわりから足元から近づいて、早くその手を動かせ動かせとせき立てて止まない。
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鳴くべき時に鳴く爲にのみ生れて來た蛙は苅株を引つ返し/\働いて居る人々の周圍から足下から逼つて敏捷に其の手を動かせ/\と促して止まぬ。
かえるがぴたりと声をのむときには、昼の暖かさに人もぐったりとなって、田んぼのみじかい草にごろりと横になる。
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蛙がぴつたりと聲を呑む時には日中の暖かさに人もぐつたりと成つて田圃の短い草にごろりと横に成る。
さらにかえるは、しんと静かな夜になると、自分の声がどれほど遠くまでひびくかをほこるように、力いっぱい鳴く。
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更に蛙はひつそりと靜かな夜になると如何に自分の聲が遠く且遙に響くかを矜るものゝ如く力を極めて鳴く。
雨戸を閉めるとき、かえるの声はぐっと遠くなって、それがぐったりつかれた耳をくすぐって、百姓のみんなを安らかなねむりへとさそうのである。
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雨戸を閉づる時蛙の聲は滅切遠く隔つてそれがぐつたりと疲れた耳を擽つて百姓の凡てを安らかな眠りに誘ふのである。
ぐっすりねむることで、百姓はみな短い時間で体のつかれを回復する。
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熟睡することによつて百姓は皆短い時間に肉體の消耗を恢復する。
彼らが雨戸のすきまからさす夜明けの白い光におどろいてふとんをけって外に出ると、今さらのように耳にせまるかえるの声に目をさまされて、井戸ばたの冷たい水ですっかり朝の元気を取りもどすのである。
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彼等が雨戸の隙間から射す夜明の白い光に驚いて蒲團を蹴つて外に出ると、今更のやうに耳に迫る蛙の聲に其の覺醒を促されて、井戸端の冷たい水に全く朝の元氣を喚び返すのである。
草や木は、遠くまでひびけと鳴くその声にゆられながら、夜のあいだにのびる。
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草木は遠く遙に響けと鳴く其の聲に撼られつゝ夜の間に生長する。
くぬぎやならやそのほかの雑木は、かえるが鳴けば鳴くほど、そしてそれが鳴き止む季節までは、いくらでもしげりつづけようとする。
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櫟や楢や其他の雜木は蛙が鳴けば鳴く程さうしてそれが鳴き止む季節までは幾らでも繁茂することを繼續しようとする。
そこには毛虫やそのほかの情けない害があるにしても、しとしとと何度もえだを打つ雨がふって、空の青さをうつしたかと思うほど力強い深い緑が地面をおおって、さわやかなすずしいかげを作るのである。
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其處には毛蟲や其の他の淺猿しい損害が或は有るにしても、しと/\と屡梢を打つ雨が空の蒼さを移したかと思ふやうに力強い深い緑が地上を掩うて爽かな冷しい陰を作るのである。
鬼怒川の西岸の一部の土地にも、こうして春は来て、そして過ぎて行った。
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鬼怒川の西岸一部の地にも恁うして春は來り且推移した。
心配ごとのある者もない者も、同じように農具を取って、それぞれの持ち場についた。
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憂ひあるものも無いものも等しく耒耟を執つて各其の處に就いた。
勘次もその一人である。
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勘次も其の一人である。
勘次は春のあいだに、お品の四十九日もすませた。
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勘次は春の間にお品の四十九日も過した。
白木の位はいに気持ちばかりのおそなえをしただけで、一銭でも彼はむだづかいをおそれた。
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白木の位牌に心ばかりの手向をしただけで一錢でも彼は冗費を怖れた。
彼がふたたび利根川の工事へ行ったときには、冬がようやくけわしい空を頭の上に見せていた。
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彼が再び利根川の工事へ行つた時は冬は漸く險惡な空を彼等の頭上に表はした。
みぞれや雪や雨が、ときには彼らの仕事をひどくじゃまして、彼らを一日、その寒い部屋に閉じこめた。
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霙や雪や雨が時として彼等の勞働に怖るべき障害を與へて彼等を一日其寒い部屋に閉ぢ込めた。
一日の賃金は、うんとせつやくしても、次の日に仕事に出なければ一銭も自分の手には残らなくなる。
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一日の工賃は非常な節約をしても次の日に仕事に出なければ一錢も自分の手には残らなくなる。
それは、食べ物とたきぎを高いねだんで買わなければならないからである。
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それは食料と薪との不廉な供給を仰がねばならぬからである。
勘次は、お品が病気になってから葬式までに、彼にしては大きすぎるお金がかかった。
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勘次はお品の發病から葬式までには彼にしては過大な費用を要した。
それでも葬式の道具やそのほかの費用は、二銭ずつでも村じゅうが持って来た香典と、お品のふとんの下に入れてあったたくわえとで、どうにかできた。
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それでも葬具や其の他の雜費には二錢づつでも村の凡てが持つて來た香奠と、お品の蒲團の下に入てあつた蓄とでどうにかすることが出來た。
それでも医者へのお礼やそのほかで、彼自身のふところはげっそりとへってしまった。
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それでも醫者への謝儀や其の他で彼自身の懷中はげつそりと減つて畢つた。
そして小作米を売った苦しいふところから、それでも彼は自分がいないあいだの費用に五十銭をあずけて行った。
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さうして小作米を賣つた苦しい懷からそれでも彼は自分の居ない間の手當に五十錢を託して行つた。
それも卯平へ直接ではなくて、南の家にたのんで卯平へわたしてもらった。
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それも卯平へ直接ではなくて南へ頼んで卯平へ渡して貰つた。
勘次が行ってから、そのお金を出されたとき、卯平は
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勘次が行つてから其の錢を出された時卯平は
「そんなにうたがうなら、わしはあずかりますまい」
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「さう疑ぐるならわしは預かりますめえ」
と言ってことわった。
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といつて拒絶した。
「まあ、そんなこと言わないで、せっかくのことに。勘次さんも悪い気持ちでしたんでもないだろうから」
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「まあ其麽ことゆはねえで折角のことに、勘次さんも惡い料簡でしたんでもなかんべえから」
となだめても、とうとう卯平は聞かなかった。
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と宥めても到頭卯平は聽かなかつた。
勘次はどうにかかせいで帰りたいと思っていっしょうけんめいになったが、それはやっと命をつなげただけだった。
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勘次はどうにか稼ぎ出して歸りたいと思つて一生懸命になつたがそれは僅に生命を繋ぎ得たに過ないのであつた。
近所の村から行った者の中には、しのぎきれないで夜にげした者もあった。
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近所の村落から行つたものは凌ぎ切れないで夜遁して畢つたものもあつた。
それでも勘次は、わずかに持って出たさいふのお金をへらさなかったというだけのことでふみとどまった。
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それでも勘次は僅に持つて出た財布の錢を減らさなかつたといふ丈のことに繋ぎ止めた。
「おとっつあん、いてくれたなあ」
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「おとつゝあ居て呉れたなあ」
と、こびるように言って自分の家のしきいをまたいだときには、足の感覚がないほど彼はくたびれていて、夜は暗くなっていた。
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と媚びるやうにいつて自分の家の閾を跨いだ時は足に知覺のない程に彼は草臥れて夜は闇くなつて居た。
さすがに二人の子はよろこんで、与吉は勘次の手にすがった。
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有繋に二人の子は悦んで與吉は勘次の手に縋つた。
卯平がしたように、鉄砲玉が勘次の手から出ると思ったらしかった。
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卯平がしたやうに鐵砲玉が勘次の手から出ることゝ思つたらしかつた。
勘次は苦しいふところから、何も買っては来なかった。
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勘次は苦しい懷から何も買つては來なかつた。
彼はどうしても、むじゃきな子のために小さな菓子の一ふくろも持って来なかったことを、心の中で後かいした。
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彼は什麽にしても無邪氣な子の爲に小さな菓子の一袋も持つて來なかつたことを心に悔いた。
「まんま」
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「まんま」
と言って、小さな与吉は勘次にねだった。
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というて小さな與吉は勘次に求めた。
「そんじゃ、爺さんのさとうでもなめろ」
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「そんぢや爺が砂糖でも嘗めろ」
と、おつぎは与吉をだいてたなのふくろを取った。
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とおつぎは與吉を抱て籰棚の袋をとつた。
口数の少ない卯平は、ちょっと見ただけで、帰ったかとも言わない。
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寡言な卯平は一寸見向いたきりで歸つたかともいはない。
勘次がくたびれたようすをしているのがわざとらしく見えるので、卯平はにがい顔をして、火の消えたきせるをぎっとかみしめては、思い出したように、きせるの先を火ばちへたたきつけた。
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勘次が草臥れた容子をして居るのが態とらしいやうに見えるので卯平は苦い顏をして、火の消えた煙管をぎつと噛みしめては思ひ出したやうに雁首を火鉢へ叩き付けた。
吸いがらがくっついているので、彼は力いっぱいたたきつけた。
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吸穀がひつゝいてるので彼は力一杯に叩きつけた。
勘次には、それが自分への当てつけのように心にひびいた。
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勘次にはそれが當てつけにでもされるやうに心に響いた。
「おつぎ、みんなにでもなめさせろ。そしてお前もなめっちまえ。おとっつあんがかせいで来たから、お前らもこれからよかろう」
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「おつぎみんなでも嘗めさせろ、さうして汝も嘗めつちめえ、おとつゝあ稼えで來たから汝等も此れからよかんべえ」
卯平は言った。
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卯平はいつた。
勘次はやっと帰ったばかりなのにこういうことで、自分の家でもひどく落ち着かない、いたたまれない気持ちがするので、彼は足も洗わずに、近所へあいさつに行くからと言って出て行った。
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勘次は漸く歸つた其の箭先にかういふことで自分の家でも酷く落付かない、こそつぱくて成らない心持がするので彼は足も洗はずに近所へ義理も足すからといつて出て行つた。
「明日だっていいのに」
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「明日だつてえゝのに」
卯平はあとでつぶやいた。
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卯平は後で呟いた。
彼はぶすりぶすりと口はきくのだったが、それでもさっきのようにひねくれたことは、これまで言ったことはなかった。
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彼はぶすり/\と口は利くのであつたがそれでも先刻からのやうにひねくれ曲つたことは此れまではいつたことはなかつた。
彼は死んだお品のことを思って、二人の子があわれになって、勘次のいないあいだ面倒を見る気になった。
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彼は死んだお品のことを思つて二人の子が憐れになつて勘次の居ない間の面倒を見る氣に成つた。
彼はわずかな菓子のふくろで小さな与吉になつかれてみると、さすがに憎い気持ちも起こらなかった。
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彼は僅な菓子の袋から小さな與吉に慕はれて見ると有繋に憎い心持も起らなかつた。
そのあいだ、彼は何も物足りないとは思っていなかった。
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其の間彼は何にも不足に思つては居なかつた。
それが勘次が帰ってみると、生まれつき好きでない勘次のほうへ、たちまち二人の子はなびいてしまった。
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それを勘次が歸つて見ると性來好きでない勘次へ忽ちに二人の子は靡いて畢つた。
彼はこれまでの心づかいを勘次に取られたようで、ふっといやな気持ちを起こしたのである。
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彼は此までの心竭しを勘次に奪はれたやうで、ふつと不快な感じを起したのである。
それも、どんな形にでも勘次があいさつをすればまだよかったが、勘次は妙に気おくれして、それが喉まで出てもおさえつけられたようで、声に出すことができなかったのである。
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それもどんな姿にも勘次が義理を述ればそれでもまだよかつたが、勘次は妙に身がひけてそれが喉まで出ても抑へつけられたやうで聲に發することが出來なかつたのである。
ふところのさびしい勘次が、そうして気おくれするのが、卯平にはかえってよそよそしくされるように感じられた。
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懷のさむしい勘次はさうして身がひけるのを卯平には却て餘所/\しくされるやうな感じを與へた。
勘次は卯平にも子どもにも済まないような気がしたので、近所へあいさつに行くと言って出て、菓子を一ふくろふところに入れて来た。
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勘次は卯平にも子供にも濟ぬやうな氣がしたので近所へ義理を足すというて出て菓子の一袋を懷へ入れて來た。
そのとき、与吉はもうねむっていた。
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其の時與吉はもう眠つて居た。
卯平は、変なことをすると思って見ていた。
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卯平は變なことをすると思つて見て居た。
そしてまたさらに、自分がひどくのけ者にされているように思った。
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さうして又更に自分が酷く隔てられるやうに思つた。
彼は五十銭のお金のことを思い出して、いまいましくなった。
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彼は五十錢の錢のことを思ひ出して忌々敷なつた。
「勘次ら、ふところはいいだろう」
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「勘次等懷はよかつぺ」
卯平はぶつりと聞いた。
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卯平はぶつゝりと聞いた。
「おとっつあん、おれはいい所なもんじゃない。やっとのことで逃げるようにして来たんだ。あんな所へなんざ、けっして行くもんじゃない。とてもだめなことだ。おれもこりちまったよ」
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「おとつゝあ、俺らえゝ所なもんぢやねえ、やつとのことで逃げるやうにして來たんだ、あんな所へなんざあ決して行くもんぢやねえ、とつても駄目なこつた、俺も懲りつちやつたよ」
勘次は慌てて言った。
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勘次は慌てゝいつた。
彼は会う人ごとに必ず、よかろうよかろうと言われるのを、とてもおそれていた。
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彼は逢ふ人毎に必ずよからう/\といはれるのを非常に怖れて居た。
「うん、そうかなあ」
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「うむ、さうかなあ」
卯平は気のないように言った。
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卯平は氣のないやうにいつた。
「どうせおれはよけい者だ。いなくたっていいや。いくらもうけたって、かまいやしない」
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「どうで俺ら餘計者だ、居やしねえからえゝや、幾ら持てたつて構やしねえ」
彼はさらに独り言を言った。
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彼は更に獨語いた。
勘次は青くなった。
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勘次は蒼くなつた。
卯平は、勘次がきっとお金をかくしているのだと思ったのである。
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卯平は勘次が屹度錢を隱して居るのだと思つたのである。
彼はそんなこんながいやでたまらないので、次の日、野田へ発ってしまった。
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彼はそんなこんなが不快に堪へないので次の日野田へ立つて畢つた。
野田で卯平の役目といえば、夜になって大きな蔵のあいだを拍子木をたたいて歩くだけで、老人の体にもそれは特につらいことではなかった。
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野田で卯平の役目といへば夜になつて大きな藏々の間を拍子木叩いて歩く丈で老人の體にもそれは格別の辛抱ではなかつた。
昼は昼寝がゆるされているので、その時間をつかって、器用な彼には内職のこづかいかせぎも少しはできた。
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晝は午睡が許されてあるので其の時間を割いて器用な彼には内職の小遣取も少しは出來た。
好きなたばこやコップ酒に不自由することはなかった。
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好きな煙草とコツプ酒に渇することはなかつた。
暑いときにはさっぱりしたゆかたを引っかけていることもできた。
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暑い時にはさつぱりした浴衣を引つ掛けて居ることも出來た。
そこは彼には住みにくい所でもなかった。
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其處は彼には住み辛い處でもなかつた。
ただ、こごえるほど寒い冬の夜などには、前からの持病である疝気で、どうかすると腰がきりきりと痛むこともあったが、そのときだけは、勘次と仲が悪くなければお品のそばで「おとっつあん」と呼ばれていたい気持ちもするのだった。
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只凍ての酷い冬の夜などには以前からの持病である疝氣でどうかすると腰がきや/\と痛むこともあつたが、其の時丈は勘次とまづくなければお品の側でおとつゝあといはれて居たい心持もするのであつた。
生まれつき自分の子を持ったことのない彼は、お品一人がたよりだった。
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生來子を持つたことのない彼はお品一人が手頼であつた。
お品に死なれて、彼はまったく一人ぼっちになった。
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お品に死なれて彼は全く孤立した。
そして年を取ってからは、どうしても勘次の手にたよらなければならないことになってしまったのである。
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さうして老後は到底勘次の手に託さねばならぬことに成つて畢つたのである。
それでも見苦しくてみすぼらしい勘次は、あいかわらず彼には気に入らなかった。
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それでも不見目な貧相な勘次は依然として彼には蟲が好かなかつた。
彼は野田へ行けばわりと不自由のない暮らしができるので、お前らの世話にならなくてもおれはまだやって行かれると、こうして悲しみにつつまれた心の一方には、老人のひがみとぐちとが起こったのだった。
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彼は野田へ行けば比較的に不自由のない生活がして行かれるので汝等が厄介には成らねえでも俺はまだ立て行かれると、恁うして哀愁に掩はれた心の一方には老人の僻みと愚癡とが起つたのであつた。
卯平は心の中でなみだをのんだ。
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卯平は心に涙を呑んだ。
勘次はしょんぼりしていた。
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勘次は悄然として居た。
与吉が泣くたびに、彼は困った。
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與吉が泣く度に彼は困つた。
そして毎日お品のことを思い出しては、てんびん棒で手おけをかついだすがたが庭にも戸口にも、ときには座敷にも見えることがあった。
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さうして毎日お品のことを思ひ出しては、天秤で手桶を擔いだ姿が庭にも戸口にも時としては座敷にも見えることがあつた。
そばにいるような気がして、思わずふり返ることもあるのだった。
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側に居るやうな氣がして思はず顧みることもあるのであつた。
彼はお品を思い出すと与吉をだいては、「なあ、おっかあはいないんだぞ。おっかあのお乳はほしがってもだめなんだぞ」
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彼はお品を思ひ出すと與吉を抱いては「なあ、おつかあは居ねえんだぞ、おつかあが乳房欲しがんねえんだぞ」
と、いつも言って聞かせた。
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と始終いつて聞かせた。
お品がいないとわざわざ言うのは、一つには彼自身が諦めるためでもあったのである。
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お品が居ないと殊更にいふのはそれは一つには彼自身の斷念の爲でもあつたのである。
お品はとうふをかついでいるときは、よくビールの空きびんを手おけにくくって行った。
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お品は豆腐を擔いで居る時は能く麥酒の明罎を手桶へ括つて行つた。
それで帰りの手おけが軽くなったときには、勘次の好きなお酒がこぼこぼとびんの中で鳴っていた。
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それで歸りの手桶が輕くなつた時は勘次の好きな酒がこぼ/\と罎の中で鳴つて居た。
お品は酒屋へとうふを置いては、その代金の分だけお酒を入れてもらうので、とうふのもうけの分だけ安くお酒を買って、勘次をよろこばせるのだった。
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お品は酒店へ豆腐を置いては其錢だけ酒を入れて貰ふので豆腐の儲けだけ廉い酒を買つて勘次を悦ばせるのであつた。
それはお品が死んだ年だけのことである。
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それはお品の死ぬ年のことだけである。
お品が、やっと商売をおぼえたと言っていたのは、まだその夏のころからである。
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お品は漸く商を覺えたといつて居たのはまだ其の夏の頃からである。
初めはきまりが悪くて、他人の家のしきいをまたぐのをためらっていた。
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初めは極りが惡くて他人の閾を跨ぐのを逡巡して居た。
それくらいだから変に赤い顔もして、よけいに無愛想にも見えたのだが、あとにはそれなりに季節のあいさつも言えるようになったと、お品はよく勘次に話したのである。
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其の位だから變な赤い顏もして餘計に不愛想にも見えるのであつたが、後には相應に時候の挨拶もいへるやうに成つたとお品は能く勘次へ語つたのである。
勘次は思い出にたえられなくなっては、お品の墓で泣いた。
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勘次は追憶に堪へなくなつてはお品の墓塋に泣いた。
彼は、紙が雨にとけてだらりとくずれた白いちょうちんを、うらめしそうに見るのだった。
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彼は紙が雨に溶けてだらりとこけた白張提灯を恨めし相に見るのであつた。
勘次はうなだれた首を上げて、三人が食べていくために日やといに出た。
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勘次は悄れた首を擡げて三人の口を糊するために日傭に出た。
彼はよく、となりの主人に使ってもらった。
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彼は能く隣の主人に使つて貰つた。
米は決まって彼がつかされた。
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米は屹度彼が搗かせられた。
じょうずな彼は、へらさないで、しかも白くついた。
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上手な彼は減らさないでさうして白く搗いた。
彼はときには、主人がうっかりしているあいだに蔵からよけいな米をはかり出して、そっとかくしておいて、夜に自分の家へ持って来ることがあった。
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彼は時としては主人のうつかりして居る間に藏から餘計な米を量り出して、そつと隱して置いて夜自分の家に持つて來ることがあつた。
それもわずか二しょうか三しょうにすぎない。
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それも僅か二升か三升に過ぎない。
それくらいでは、主人に気づかれることはなかった。
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其の位では主人の注意を惹くには足らなかつた。
そして、その米が苦しい彼の台所をしばらくうるおすのである。
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さうして其の米は窮迫した彼の厨を少時濕すのである。
あるとき、彼はまた主人の米をそっとぬすんで、股引に入れて目につかないようにたきぎを積んだあいだへおしこんでおいた。
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或る時彼れは復た主人の米をそつと掠めて股引へ入れて目につかぬやうに薪の積んだ間へ押し込んで置いた。
やとわれ人がそれを見つけて、こっそり主人のおかみさんに知らせた。
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傭人がそれを發見して竊に主人の内儀さんに告げた。
おかみさんは、わずかなことだからほうっておいてやれと言ったが、しかしやとわれ人は、一つにはいたずらから米をあけて、そのかわりにいっぱい土を入れておいた。
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内儀さんは僅かなことだから棄てゝ置いて遣れといつたが然し傭人は一つには惡戯から米を明けて其の代に一杯に土を入れて置いた。
勘次はばれたことをおそれ、はずかしくなって、次の日には来なかった。
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勘次は發覺したことを怖れ且つ恥ぢて次の日には來なかつた。
それから何日かのあいだは、主人の家にすがたを見せなかった。
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それから數日間は主人の家に姿を見せなかつた。
おかみさんはやとわれ人のいたずらを聞いて、むしろあわれになって、こちらからまた仕事を言いつけてやった。
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内儀さんは傭人の惡戯を聞いて寧ろ憐になつて又こちらから仕事を吩咐けてやつた。
さらにふくろへ米とひきわり麦をまぜたのを入れて、それから、これはやとわれ人にもたいてやれないのだから、お前がよければ持って行って、秋にでもなったらもち粟を少しでも返せと、二、三斗入ったうるち粟の俵といっしょにやった。
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更に袋へ米と挽割麥とを交ぜたのを入れて、それから此れは傭人にも炊いてやれないのだからお前がよければ持つて行つて秋にでもなつたら糯粟の少しも返せと二三斗入つた粳粟の俵とを一つに遣つた。
勘次は主人のためにいっしょうけんめい働いた。
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勘次は主人の爲に一所懸命働いた。
その前からも、彼はただとなりの主人に見捨てられないようにと、心の中で思っているのだった。
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其の以前からも彼は只隣の主人から見棄てられないやうと心には思つて居るのであつた。
しかし、あまりにはげしく働くことは、やとわれ人の仲間にはきらわれた。
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然し非常な勞働は傭人の仲間には忌まれた。
それは、やとわれ人も彼にならって、自分もその力をおしめなくなるからである。
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それは傭人も彼に倣つて自分も其の勞力を偸むことが出來ないからである。
そうするうちに、世の中はまた春がめぐって、雨がいそがしく田畑へ水を送った。
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さうする内に世間は復春が移つて雨が忙しく田畑へ水を供給した。
勘次は自分の家の後ろの田へ出て、かり株をひっくり返してはたがやした。
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勘次は自分の後の田へ出て刈株を引つ返しては耕した。
おつぎも万能ぐわを持って、勘次の後についた。
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おつぎも萬能を持つて勘次の後に跟いた。
勘次は、お品の手がへった分はおつぎを使って、どうにかこれまで作ってきた土地はやりくりしようと思った。
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勘次はお品の手が減つた丈はおつぎを使つてどうにか從來作つた土地は始末をつけようと思つた。
ことに田はすぐ後ろなので、どうしても手放すまいとした。
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殊に田は直後なので什麽にしても手放すまいとした。
いったん地主へ返してしまったら、また自分がほしくなってもかんたんには手に入らないのをおそれたからである。
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一且地主へ還して畢つたら再び自分が欲しくなつても容易に手に入れることが出來ないのを怖れたからである。
今におつぎを一人前に仕込んでみせると、勘次は心の中で思っている。
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今におつぎを一人前に仕込んで見ると勘次は心に思つて居る。
勘次は万能ぐわをぶつりと打ちこんでは、ぐっと大きな土のかたまりを起こす。
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勘次は萬能をぶつりと打ち込んではぐつと大きな土の塊を引返す。
おつぎはやっと小さなかたまりを起こす。
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おつぎは漸く小さな塊を起す。
勘次の手は速く動いて、ずんずんと先へ進む。
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勘次の手は速かに運動してずん/\と先へ進む。
おつぎはだんだんおくれて、小さなかたまりを浅く起こしながら進んで行く。
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おつぎは段々後れて小さな塊を淺く起して進んで行く。
すると
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さうすると
「そんなにこわがってびくびくやるんじゃない。こうするんだ」
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「そんなに可怖びつくりやんぢやねえかうすんだ」
勘次はもどかしそうに、おつぎの万能ぐわを取って打ちこんで見せる。
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勘次は遲緩し相におつぎの萬能をとつて打ち込んで見せる。
「そんでも、おとっつあん、おれにはそういうふうにはできないんだもの」
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「そんでもおとつゝあ、俺がにやさういにや出來ねえんだもの」
「そんな気持ちだからお前らはだめだ。本気でやってみるつもりでやってみろ」
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「そんな料簡だから汝等駄目だ、本當にやつて見る積でやつて見ろ」
おつぎは勘次におくれながら、手の力のかぎり働いた。
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おつぎは勘次に後れつゝ手の力の及ぶ限り働いた。
与吉は田んぼのほりのあたりにむしろをしいて、そこに置いてある。
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與吉は田圃の堀の邊に筵を敷いて其處に置いてある。
「じっとしていろ、動くんじゃないぞ。動くとぽかんとほりの中へ落っこちるからな。そうら、かえるがぽかんと落っこちた。動くなあ、ここに棒があった。そうら、これでも持ってろ。泣くんじゃないぞ。姉ちゃんはこの田の中にいるんだからな。泣くとおとっつあんにあっぷって怒られるからな」
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「えんとして居ろ、動くんぢやねえぞ動くとぽかあんと堀の中さ落こちつかんな、そうら蛙ぽかあんと落こつた。動くなあ、此處に棒あつた、そうら此でも持つてろ、泣くんぢやねえぞ、姉は此の田ン中に居んだかんな、泣くとおとつゝあにあつぷつて怒られつかんな」
おつぎはほおをすりつけて、よく言い聞かせた。
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おつぎは頬を擦りつけて能くいひ含めた。
与吉は土だらけのみじかい棒で、岸の土をたたいている。
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與吉は土だらけの短い棒で岸の土を叩いて居る。
そしてときどき後ろを向いては姉のすがたを見て、安心して棒でぴたぴたとたたいている。
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さうして時々後を向いては姉の姿を見て安心して棒でぴた/\と叩いて居る。
棒の先が水を打つので、与吉はよろこんだ。
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棒の先が水を打つので與吉は悦んだ。
それもしばらくのうちにあきた。
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それも少時の間に飽いた。
おつぎは、与吉がまた見たときには、田の向こうのはしに行っていた。
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おつぎは與吉がまた見た時には田の向の端に行つて居た。
「姉ちゃんよう」
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「姉よう」
と与吉は呼んだ。
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と與吉は喚んだ。
おつぎは返事しなかった。
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おつぎは返辭しなかつた。
与吉はまた呼んだ。
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與吉は又喚んだ。
そして泣き出した。
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さうして泣き出した。
おつぎが立って行こうとすると
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おつぎは立つて行かうとすると
「かまわないで置け。たがやしてあっちへ行ってからにしろ」
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「構あねえで置け、耕つてあつちへ行つてからにしろ」
勘次はせっかちにきびしく、おつぎを止めた。
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勘次は性急に嚴しくおつぎを止めた。
おつぎは仕方なく、泣くのもかまわずにたがやした。
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おつぎは仕方なく泣くのも構はずに耕した。
勘次は先へ先へとたがやして、ほりのそばまで来た。
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勘次は先へ/\と耕して堀の側まで來た。
「泣くな。今、姉ちゃんが後から来らあ」
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「泣くな、今姉が後から來らあ」
勘次はこう言って、与吉をちらっと見ただけで、いっしんにその手を動かしている。
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勘次はかういつて、與吉に一瞥を與へたのみで一心に其の手を動かして居る。
与吉は、おつぎがやっと近づいたとき、ひとしきりまた泣いた。
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與吉はおつぎが漸く近づいた時一しきり又泣いた。
「よきはどうしたんだ」
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「よきはどうしたんだ」
おつぎは岸へ上がって、どろだらけの足で草の上にひざをついた。
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おつぎは岸へ上つて泥だらけの足で草の上に膝を突た。
与吉は笑いまじりに泣いて、両手を出してだかれようとする。
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與吉は笑交りに泣いて兩手を出して抱かれようとする。
「姉ちゃんはどろだらけで仕方があるまいな。よごれてもいいのか、よきは」
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「姉は泥だらけで仕やうあんめえな、汚れてもえゝのかよきは」
と言いながら、おつぎは与吉をだいた。
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いひながらおつぎは與吉を抱いた。
「どうした、かえるはいないか。この棒でばたばたとたたいてやれ。そうしたら痛いようって、かえるが泣くだろうな。泣くなかえるだよう、よきは泣かないようってなあ」
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「どうした、蛙奴居ねえか、此の棒でばた/″\と叩いてやれ、さうしたら痛えようつて蛙奴が泣くべえな、泣くな蛙だよう、よきは泣かねえようつてなあ」
おつぎは与吉をだいたまま、勘次のほうを見て
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おつぎは與吉を抱いた儘勘次の方を見て
「おとっつあん、あっちへ行っちゃった。姉ちゃんも行かなくちゃならない。おとっつあんに怒られるからな。またじっとしていろ」
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「おとつゝあ、あつちへ行つちやつた、姉も行かなくつちやなんねえ、おとつゝあに怒られつかんな、又えんとして居ろ」
おつぎはそっと与吉をむしろへ下ろした。
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おつぎはそつと與吉を筵へ卸した。
「早くやれ、何してるんだ。いいかげんにしろ」
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「かせえてやれ、何してんだ、えゝ加減にしろ」
勘次は後ろを向いてどなった。
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勘次は後を向いて呶鳴つた。
「それ見ろな、怒られるから。そら、ここにいいものがあった」
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「それ見ろな怒られつから、そら此處にえゝものが有つた」
おつぎは田んぼにあるははこぐさの花をむしって、むしろへ乗せてやった。
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おつぎは田圃にある鼠麹草の花を挘つて筵へ載て遣つた。
そしてまた、あぶなっかしくそうっと田へ下りた。
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さうして又危いやうにそうつと田へおりた。
与吉はただ、ははこぐさの花をいじっていた。
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與吉は只鼠麹草の花を弄つて居た。
ほりは雨のあとの水を集めて、さらさらと岸をひたして行く。
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堀は雨の後の水を聚めてさら/\と岸を浸して行く。
青くしげってかたむいている川やなぎのえだが一本水につき、流れ去る力に軽くゆらされている。
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青く茂つて傾いて居る川楊の枝が一つ水について、流れ去る力に輕く動かされて居る。
水はわずかにふれているそのえだのために、下流へ向かって放しゃ線のような形をえがいている。
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水は僅に觸れて居る其枝の爲に下流へ放射線状を描いて居る。
あしのようで、それでいてとても細いかわいらしい草が、びりびりとふるわされながら岸の水に立っている。
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蘆のやうで然も極めて細い可憐なとだしばがびり/\と撼がされながら岸の水に立つて居る。
おたまじゃくしが水の勢いにこらえられないようにしては、急に水にひたされて銀のように光っている岸の草の中にかくれようとする。
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お玉杓子が水の勢ひに怺へられぬやうにしては、俄に水に浸されて銀のやうに光つて居る岸の草の中に隱れやうとする。
そしてはまた、すべての小さいものがそうであるように、じっとしていられなくて、かわいらしい尾をひらひらと動かしながら、力に余る水の勢いにぐっと流されながら泳いでいる。
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さうしては又凡ての幼いものゝ特有で凝然として居られなくて可憐な尾をひら/\と動かしながら、力に餘る水の勢にぐつと持ち去られつゝ泳いで居る。
与吉はははこぐさの花を水へ投げた。
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與吉は鼠麹草の花を水へ投げた。
花が上流に向いて落ちると、ぐるりと下流へ向きを変えられて、ずんずんと運ばれて行く。
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花が上流に向いて落ちると、ぐるりと下流へ押し向けられてずんずんと運ばれて行く。
岸の草の中にいたかえるは、ひょうきんにその花へ飛びついて、それからぐっと後ろの足で水をかいて向こうの岸へ着いて、ふわりとうかんだまま大きな目を見開いてこちらを見る。
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岸の草の中に居た蛙は剽輕に其花へ飛び付いて、それからぐつと後の足で水を掻いて向の岸へ着いてふわりと浮いた儘大きな目を睜つてこちらを見る。
ははこぐさの花をみな投げてしまって、与吉はまたおつぎを呼んだ。
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鼠麹草の花が皆投げ竭されて與吉は又おつぎを喚んだ。
「おうい」
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「おうい」
と、おつぎのやさしい声が遠くから答えた。
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とおつぎの情を含んだ聲が遠くからいつた。
おつぎの返事を聞いては、与吉は口ぐせのように「姉ちゃんよう」と呼ぶ。
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おつぎの返辭を聞いては與吉は口癖のやうに姉よと喚ぶ。
そのたびごとに、おつぎはいそがしい手を動かしながら、それに答えるのである。
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其度毎におつぎは忙しい手を動かしながらそれに應ずるのである。
お昼にはまだ間があるうちに、昼ごはんのしたくを急いで、おつぎは田んぼからお茶をわかしに上がる。
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正午にはまだ間があるうちに午餐の支度を急いでおつぎは田圃から茶を沸しにのぼる。
与吉はよろこんで、おつぎの背中にかじりついた。
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與吉は悦んでおつぎの背に噛りついた。
勘次はあとで一人たがやした。
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勘次は後で獨り耕した。
青いけむりがならの木のあたりから立って、やがて
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青い煙が楢の木から立つて軈て
「わいたぞう」
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「沸いたぞう」
と、おつぎの声で呼ばれるまで、勘次はいそがしいその手を止めなかった。
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とおつぎの聲で喚ばれるまでは勘次は忙しい其の手を止めなかつた。
昼ごはんのあとから、おつぎはぬい針へ糸を通してさおにつけて、与吉に持たせた。
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午餐過からおつぎは縫針へ絲を透して竿へ附けて與吉に持たせた。
与吉はほかの子どもがするように、その針を上げてみてはまた水へ投げて、おとなしくしている。
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與吉は外の子供のするやうに其の針を擧げて見ては又水へ投げて大人しくして居る。
しばらく時間がたつと、また「姉ちゃんよう」と呼ぶ。
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暫く時間が經つと又姉ようと喚ぶ。
おつぎがほりの近くまでたがやして来たとき見ると、与吉のさおは糸が取れていた。
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おつぎは堀の近くへ耕して來た時に見ると與吉の竿は絲がとれて居た。
おつぎは岸へ上がった。
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おつぎは岸へ上つた。
「どうしたんだい、よきは」
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「どうしたんでえ、よきは」
おつぎが見ると、針が向こうの岸から出た低い川やなぎのえだにからんで、糸のはしが水について下流へ向いている。
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おつぎは見ると針が向の岸から出た低い川楊の枝に纏つて絲の端が水について下流へ向いて居る。
おつぎは二百メートルばかり上流の板の橋をわたって行って、やっとのことでえだを曲げてその針を取った。
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おつぎは二町ばかり上流の板橋を渡つて行つて、漸くのことで枝を曲げて其針をとつた。
そしてまた、与吉の棒へつけてやった。
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さうして又與吉の棒へ附けてやつた。
「もう引っかけるんじゃないぞ、大変だからな」
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「はあ引つ懸けんぢやねえぞ大變だかんな」
おつぎはとても軽くしかって、また田へ下りた。
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おつぎは極めて輕く叱つて又田へおりた。
勘次はまたどなった。
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勘次は又呶鳴つた。
「そんでも、よきは糸を切っちまったんだもの」
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「そんでもよきは絲切つちまつたんだもの」
おつぎはおそるおそる、小さな声で言った。
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おつぎは危ぶむやうにして控へ目に聲を立てゝいつた。
おつぎは黙って、その手を動かしている。
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おつぎは默つて其の手を動かして居る。
与吉は返事がなくても、なつかしそうに「姉ちゃんよう」と何度も呼びかけた。
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與吉は返辭がなくても懷かし相に姉ようと數次喚び掛けた。
おつぎのすがたが遠くなると、むしろに口がつくほどかがんで、声のかぎり呼んだ。
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おつぎの姿が遠くなれば筵へ口のつく程屈んで聲を限りに喚んだ。
その晩、勘次は二人を連れて近所へおふろをもらいに行った。
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其の晩勘次は二人を連れて近所へ風呂を貰ひに行つた。
おつぎはそこに集まった近所の女の人に自分の手を見せて
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おつぎは其處へ聚つた近所の女房に自分の手を見せて
「おれ、こんなに豆ができちまったんだよ」
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「俺らこんなに肉刺出つちやつたんだよ」
とつぶやいた。
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と呟いた。
「ほんによな、痛いだろうな、そりゃ。そんでも、おっかあがいないから働かなくちゃならないな」
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「ほんによな、痛かつぺえなそりや、そんでもおつかあが居ねえから働かなくつちやなんねえな」
女の人はなぐさめるように言った。
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女房は慰めるやうにいつた。
「おっかあのないのはいやだな」
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「おつかあのねえものは厭だな」
おつぎは言って、勘次を見るとすぐに首を下げた。
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おつぎはいつて勘次を見ると直に首を俛た。
勘次はそばで、じっとそれを聞いていた。
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勘次は側で凝然とそれを聞いて居た。
「おつうらだって、今にいいこともあるだろうな。そんだが、おっかあがなくちゃ、着物がほしくても、こればかりは仕方がないのよな」
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「おつう等だつて今に善えこともあらな、そんだがおつかゞ無くつちや衣物欲しくつても此ばかりは仕やうがねえのよな」
女の人は言った。
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女房はいつた。
勘次は、そんなことは言わずにいてくれればいいのにと思いながら、むずかしい顔をして黙っていた。
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勘次は其麽ことは云はずに居て呉れゝばいゝのにと思ひながら六か敷い顏をして默つて居た。
「この豆はひどくならないだろうか」
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「此の肉刺はとがめめえか」
おつぎは手のひらのあちこちにできた豆を見て、心配そうに言った。
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おつぎは手の平の處々に出た肉刺を見て心配相にいつた。
「なんでひどくなるもんか」
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「何でとがめるもんか」
勘次は、おさえていた何かが急に出たように、すぐに打ち消した。
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勘次は抑制した或物が激發したやうに直に打消した。
勘次は家にもどると、飯だいの底にくっついているごはんから米つぶばかりを拾い出して、それをたばこの吸いがらと練り合わせた。
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勘次は家に戻ると飯臺の底にくつゝいて居る飯の中から米粒ばかり拾ひ出してそれを煙草の吸殼と煉合せた。
そして、針の先でおつぎの、おふろから出たばかりでやわらかくなった手の豆をついて汁を出して、そこへそれをはってやった。
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さうして針の先でおつぎの湯から出たばかりで軟かく成つた手の肉刺をついて汁液を出して其處へそれを貼つて遣つた。
「しくしくするな」
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「しく/\すんな」
おつぎははった所を見て言った。
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おつぎは貼つた箇所を見ていつた。
「汁を出したばかりのときはちっと痛いとも。そのかわりすぐ治るから」
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「液汁出したばかりにやちつた痛えとも、その代すぐ癒つから」
勘次はおつぎをじっと見て、それからもういびきをかいている与吉を見た。
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勘次はおつぎを凝然と見てそれからもう鼾をかいて居る與吉を見た。
「豆なんぞできたら、できたっておとっつあんに言うもんだ。他人になんぞ見せたりするもんじゃない。お前らは何も知らないから仕方がない。田をたがやし始めのころには、おとっつあんらみたいな手だってこういうふうに出るんだ、見ろ。それ、痛いのをがまんしがまんしやりさえすりゃ、かたくなっちまうんだ」
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「肉刺なんぞ出たらば出たつておとつゝあげいふもんだ、他人のげなんぞ見せたりなにつかするもんぢやねえ、汝等なんにも知らねえから仕やうねえ、田耕え始まりにやおとつゝあ等見てえな手だつてかうえに出んだか見ろ。それ痛えの我慢しい/\行りせえすりや固まつちあんだ」
勘次は自分の手をおつぎに見せた。
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勘次は自分の手をおつぎへ示した。
「おっかあがいなくなって困るな。お前ばかりじゃないんだから」
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「おつかゞ無くなつて困んな汝ばかしぢやねえんだから」
勘次はしばらく間を置いて、ぽつんと言った。
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勘次は暫く間を置てぽつさりとしていつた。
「暮らしのためだから、お前もがまんするもんだ。見ろ、お前らどころじゃない。武州のほうへなんぞやられて、泣き通してる者さえあらあ」
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「身上の爲だから汝も我慢するもんだ、見ろ汝等處ぢやねえ、武州の方へなんぞ遣られて泣き拔いてるものせえあら」
と、彼はまたやっとのことで言った。
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と彼は又辛うじていつた。
おとなしく黙っていたおつぎは
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大人しく默つて居たおつぎは
「武州っていうのはどっちのほうだろう」
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「武州ツちやどつちの方だんべ」
と、むしろあどけなく聞いた。
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寧ろあどけなく聞いた。
「あっちのほうよ。お前の足じゃ一日じゃ歩けない所だ」
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「あつちの方よ、汝が足ぢや一日にや歩けねえ處だ」
勘次は雨戸のほうを向いて、西南をさした。
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勘次は雨戸の方を向いて西南を示した。
「遠いんだな。そこへ行ったらどうするんだろう」
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「遠いんだな、其處へ行つたらどうすんだんべ」
「はたおりをする者もあれば、百姓をする者もあるのよ」
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「機織するものもあれば百姓するものもあんのよ」
「はたおりを教われるならよかろうな」
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「機教れぢやよかんべな」
「なんでいいことがあるもんか。家へなんざめったに来られやしないんだぞ。それで朝から晩までみっしり使われて、それどころじゃない、病気になったって、よっぽどでなくちゃはがきもよこさせやしない」
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「何でえゝことあるもんか、家へなんざあ滅多に來られやしねえんだぞ、そんで朝から晩迄みつしら使あれて、それ處ぢやねえ病氣に成つたつて餘程でなくつちや葉書もよこさせやしねえ」
「そんじゃ、そういう所へ行っちゃひどいな。逃げて来ることもできないんだろうか」
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「そんぢや、さうえ處へ行つちやひでえな、逃げて來ることも出來ねえんだんべか」
「すぐつかまえられちまうから、そんなに逃げられるかい」
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「直ぐ捉めえられつちあからそんなに遁げられつかえ」
「巡査につかまるんだろうか」
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「巡査に捉まんだんべか」
「そんなもんか。巡査でなくたって、逃げ出せばすぐつかまえるように人が見張ってるのよ。なあ、そうでもなくちゃ、遠くの者ばかりたのんでおくんだもの、仕方があるもんか」
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「さうなもんか、巡査でなくつたつて遁げ出せば直ぐ捉めえるやうに人が番してんのよ、なあ、そんでもなくつちや遠くの者ばかり頼んで置くんだもの仕やうあるもんか」
「そんでも、いやだって言ったらどうするんだろう」
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「そんでも厭だつちつたらどうすんだんべ」
「いやだなんて言ったっくらい、ひどいとも。立てかえたお金を返さなくちゃならないから」
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「厭だなんていつた位ひでえとも立金しなくつちやなんねえから」
「どういうふうにするんだろう、それは」
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「どういにすんだんべそら」
「それはなあ、いくらつとめたって、とちゅうでいやだからなんて出ちまえば、借りただけの給金はみんな取り返されるのよ。なあ、それから泣く泣くでもいなくちゃならないのよ」
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「そらなあ、幾ら勤めたつて途中で厭だからなんて出つちめえば、借りた丈の給金はみんな取つくる返えされんのよ、なあ、それから泣き/\も居なくつちやなんねえのよ」
「そんじゃ、おれはそういう所へ行かなくてよかったっけな」
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「そんぢや俺らさうえ處へ行かねえでよかつたつけな」
おつぎはいっしんに言った。
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おつぎは熱心にいつた。
「そんだから、お前のことはやりゃしない。お前を奉公にやれば、そのお金でおれの借金もなくなるし、よきのことだって軽業師の所へでも出しちまえば、それこそ楽になっちまうんだが、おっかあがいなくてつらいって後で泣かれるのがいやだから、おれは土をかじってもそんな気は起こさないんだ」
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「そんだから汝等こた遣りやしねえ。汝こと奉公にやれば其の錢で俺ら借金も無くなるし、よきことだつて輕業師げでも出しつちめえばそれこそ樂になつちあんだが、おつかゞ無くつちや辛えつて後で泣かれんの厭だから俺ら土噛つてもそんな料簡は出さねんだ」
「おとっつあん、奉公すれば借金がなくなるんだろうか」
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「おとつゝあ、奉公すれば借金なくなんだんべか」
「おっかあさえいれば、お前も奉公に出して、おとっつあんもいいお金を手にするんだが、おっかあがいなくなって、おとっつあんだって困ってるんだ。それからお前だって、奉公に行ったつもりでしんぼうするもんだ。なあ、おれはお前らにみじめな思いをさせたくはないんだから」
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「おつかせえ居れば汝ことも奉公に出して、おとつゝあ等もえゝ錢捉めえんだが、おつかゞ無くなつておとつゝあだつて困つてんだ、それから汝だつて奉公に行つた積で辛抱するもんだ、なあ、俺ら汝等げみじめ見せてえこたあ有りやしねんだから」
勘次はしみじみとくり返した。
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勘次はしみ/″\と反覆した。
勘次は、おつぎに体に合わない仕事をさせていることを知っている。
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勘次はおつぎに身體不相應な仕事をさせて居ることを知つて居る。
それで自分が朝は必ず先に起きて、かまどの下に火をつける。
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それで自分が朝は屹度先へ起きて竈の下へ火を點ける。
そのとき、つかれた少女はまだぐったりとして、正体もなくまくらからころがっている。
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其の時疲れた少女はまだぐつたりと正體もなく枕からこけて居る。
白いゆげがかまのふたから勢いよくもれて、やがて火が引かれてから、おつぎは起こされる。
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白い蒸氣が釜の蓋から勢ひよく洩れてやがて火が引かれてからおつぎは起される。
帯をしめたまま横になったおつぎは、なかなか開かない目をこすって井戸ばたへ行く。
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帯を締た儘横になつたおつぎは容易に開かない目をこすつて井戸端へ行く。
ぼうぼうとほどけた髪へくしを入れて、冷たい水へ手を入れたとき、おつぎはやっと生き返ったようになる。
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蓬々と解けた髮へ櫛を入れて冷たい水へ手を入れた時おつぎは漸く蘇生つたやうになる。
それでも目はまだ赤くて、動きもふらふらとだるそうである。
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それでも目はまだ赤くて態度がふら/\と懶相である。
「さあ、ごはんができたぞ」
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「さあ、飯出來たぞ」
勘次はかまから茶わんへごはんをうつす。
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勘次は釜から茶碗へ飯を移す。
そして自分で農具を取っておつぎに持たせて、それからさっさと連れ出すのである。
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さうして自分で農具を執つておつぎへ持たせてそれからさつさと連れ出すのである。
もみだねがぽっちりと水をつき上げて芽を出すと、やっと強くなった日ざしに、緑の深くなった若葉がぐったりとする。
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籾種がぽつちりと水を突き上げて萌え出すと漸く強くなつた日光に緑深くなつた嫩葉がぐつたりとする。
やわらかな風がすずしくふいて、松の花粉がほこりのようにしめった土をおおって、小麦のほにもびっしりとかびのような花がついた。
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軟かな風が凉しく吹いて松の花粉が埃のやうに濕つた土を掩うて、小麥の穗にもびつしりと黴のやうな花が附いた。
百姓はみな、自分の手足が足りないと思うほどいそがしくなる。
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百姓は皆自分の手足に不足を感ずる程忙しくなる。
勘次はひたすら、ただ仕事がおくれるのをおそれた。
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勘次は一意只仕事の手後れになるのを怖れた。
くたびれてもつかれても、彼は毎日夜明け前に起きて、夜までその手足を動かして止まない。
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草臥れても疲れても彼は毎日未明に起きて夜まで其の手足を動かして止まぬ。
おつぎもその後についてゆき、くたびれた体を引きずられた。
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おつぎも其の後に跟いて草臥れた身體を引きずられた。
晩ごはんのしたくに与吉を背負って先に帰るのが、おつぎにはせめてもの休みだった。
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晩餐の支度に與吉を負うて先へ歸るのがおつぎにはせめてもの骨休めであつた。
勘次は麦のあいだへ大豆をまいた。
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勘次は麥の間へ大豆を蒔いた。
うねの間へ浅くみぞのようなくぼみを作って、そこへぽろぽろと種を落として行く。
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畦間へ淺く堀のやうな凹みを拵へてそこへぽろ/\と種を落して行く。
勘次はぐいぐいとうねの間をほって行く。
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勘次はぐい/\と畦間を掘つて行く。
後からおつぎが種を落とした。
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後からおつぎが種を落した。
おつぎのまだ小さな体は、麦のそろった白いほから、かぶった手ぬぐいと肩だけが出ている。
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おつぎのまだ短い身體は麥の出揃つた白い穗から僅に其の被つた手拭と肩とが表はれて居る。
与吉は道のそばのこもの上で、おとなしくしている。
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與吉は道の側の薦の上に大人しくして居る。
おつぎの白い手ぬぐいがだんだん麦のほにかくれると、与吉は「姉ちゃんよう」と呼ぶ。
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おつぎの白い手拭が段々麥の穗に隱れると與吉は姉ようと喚ぶ。
おつぎは「おうい」と返事をする。
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おつぎはおういと返辭をする。
おつぎの声が聞こえると、与吉はじっとしている。
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おつぎの聲が聞えると與吉は凝然として居る。
勘次はうねの間を作り終えて、それから自分もいそがしく大豆を落としはじめた。
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勘次は畦間を作りあげてそれから自分も忙しく大豆を落し初めた。
勘次は、のろのろしたおつぎの手元を見て、そのうねをひょいとのぞいた。
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勘次は間懶つこいおつぎの手もとを見て其の畝をひよつと覗いた。
種と種の間かくがそろっていなくて、四つぶも五つぶも一つになって落ちている所があった。
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種と種との間隔が不平均で四粒も五粒も一つに落ちてる處があつた。
「このざまはどうしたんだ。こんなことで暮らしができるか」
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「此のざまはどうしたんだ、こんなこつて生計が出來つか」
とどなりながら、彼はとつぜんおつぎをなぐった。
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と呶鳴りながら彼は突然おつぎを擲つた。
おつぎは麦のくきといっしょにたおれた。
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おつぎは麥の幹と共に倒れた。
おつぎはたおれたまま、しくしくと泣いた。
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おつぎは倒れた儘しく/\と泣いた。
「たいがい分かりそうなもんじゃないか。こんなざまじゃ種ばかり要って仕方がありゃしない」
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「大概解り相なもんぢやねえか、こんなざまぢや種ばかし要つて仕やうありやしねえ」
勘次は後をつぶやいた。
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勘次は後を呟いた。
となりの畑で、これも大豆をまいていた百姓がかけて来た。
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隣の畑に此も大豆を蒔いて居た百姓は駈けて來た。
「勘次さん、どうしたもんだいまあ、そんならんぼうなことして」
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「勘次さんどうしたもんだいまあ、其麽荒つぺえことして」
と勘次をおさえた。
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と勘次を抑へた。
「おつぎ、泣かないでさあ起きて仕事しろ。おとっつあんにはおれがあやまってやるからなあ。与吉が泣いてら。さあ行って見なさい」
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「おつぎ泣かねえでさあ起きて仕事しろ、おとつゝあげは俺謝罪つてやつかんなあ、與吉が泣てら、さあ行つて見さつせ」
百姓はさらにおつぎをなだめた。
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百姓は更におつぎを賺した。
与吉はおつぎのすがたが見えないので、しきりに呼んだ。
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與吉はおつぎの姿が見えないので頻りに喚んだ。
それでもおつぎの声は聞こえないので、火がついたように泣き出したのである。
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それでもおつぎの聲は聞えないので火の點いたやうに泣き出したのである。
おつぎはすすり泣きしながら、与吉をだいた。
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おつぎは啜り泣きしながら與吉を抱いた。
「お母さんもいないのに、お前いいかげんにしろよ。かわいそうじゃないか。そんなことして、お前いくつだと思うんだ。そんなに自分の思いどおりにできるもんじゃない。ほとけさまのばちも当たるだろうじゃないか」
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「お袋もねえのにおめえいゝ加減にしろよ、可哀想ぢやねえか、そんなことしておめえ幾つだと思ふんだ、さう自分の氣のやうに出來るもんぢやねえ、佛の障にも成んべぢやねえか」
となりの畑の百姓は言った。
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隣畑の百姓はいつた。
勘次は黙ってしまって、何とも言わなかった。
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勘次は默つて畢つて何ともいはなかつた。
与吉はおつぎにだかれたので、おつぎの目がまだぬれているうちに泣き止んだ。
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與吉はおつぎに抱かれたので、おつぎの目がまだ濕うて居るうちに泣き止だ。
勘次はその日の夕方、おつぎが晩ごはんのしたくに立ったとき、自分もいっしょに家へもどった。
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勘次は其の日の夕方おつぎが晩餐の支度に立つた時自分も一つに家へ戻つた。
彼はひざで四つんばいに歩きながら座敷へ上がって、さいふをふところへねじこんでふいと出た。
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彼は膝がしらで四つ偃に歩きながら座敷へあがつて財布を懷へ捩ぢ込んでふいと出た。
彼は風呂しきづつみを持って帰った。
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彼は風呂敷包を持つて歸つた。
彼が戸口に立ったときには、家の中はまっ暗で、しばらくは物の見分けもつかなかった。
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彼が戸口に立つた時は家の内は眞闇で一寸は物の見分もつかなかつた。
くたびれきった体で、彼はその夜も二人を連れて、自分のものではないそのしげった小さな桑畑をこえて、南の家のおふろへ行った。
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草臥れ切つた身體で彼は其夜も二人を連れて、自分の所有ではない其茂つた小さな桑畑を越えて南の風呂へ行つた。
そこにはいつものように、おふろをもらいに女の人たちが集まっていた。
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其處にはいつものやうに風呂を貰ひに女房等が聚つて居た。
「よくなあ、おつうはよきの面倒を見るな。女の子はこうだからいいのさな、すぐ役に立つからな」
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「能くなあ、おつうはよきこと面倒見んな、女の子は斯うだからいゝのさな、直ぐ役に立つかんな」
女の人の一人が言った。
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女房の一人がいつた。
「おつぎはどうしたんだい、今夜はひどく元気がないな」
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「おつぎはどうしたんでえ、今夜ひどく威勢惡いな」
ほかの女の人が言った。
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他の女房がいつた。
「さっき、おれにぶんなぐられたからでもあるだろう」
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「先刻俺に打つとばされたかんでもあんべえ」
勘次は苦笑いしながら言った。
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勘次は苦笑しながらいつた。
「なんでだろうな、まあ。お前、そんなにしないで面倒を見てやりなさいよ。これがお前、女の子でもなくて見なさい、こんな小さいのをかかえて仕方があるもんじゃないな」
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「何でだつぺなまあ、おめえそんなに仕ねえで面倒見てやらつせえよ、此れがおめえ女つ子でもなくつて見さつせえ、こんな小えの抱えて仕やうあるもんぢやねえな」
「そうだともよ。これはおつうでもなくちゃ育たなかったかも知れないぞ。それこそひどい目にあわなくちゃならないや。なあ、おつう」
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「さうだともよ、こらおつうでも無くつちや育たなかつたかも知んねえぞ、それこそ因果見なくつちやなんねえや、なあおつう」
女の人たちは言った。
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女房等はいつた。
「おれの所、ちっともこれははなれないんだよ。仕方がないようだよ、本当に」
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「俺がとこちつともこら離んねえんだよ仕やうねえやうだよ本當に」
おつぎは、もうだんだん重くなってきた与吉をひざに乗せて言った。
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おつぎはもう段々手に餘つて來た與吉を膝にしていつた。
「今じゃ、まるっきりおっかあのような気がしてるんだな、きっと」
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「今ぢや、まるつきしおつかのやうな氣がしてんだな、屹度」
女の人たちはまた与吉を見て言った。
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女房らはまた與吉を見ていつた。
勘次はそばで、ただ目をぱちぱちさせた。
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勘次は側で只目を屡叩いた。
家へもどってから、勘次は
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家へ戻つてから勘次は
「おつう、手ランプを持って来てみな。お前に見せるものがあるんだから」
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「おつう、手ランプ持つて來て見せえ、汝げ見せるものあんだから」
おつぎは出るときにふき消したブリキの手ランプをつけたが、まだ動きがしゃきっとしなかった。
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おつぎは出る時に吹消たブリキの手ランプを點けて、まだ容子がはき/\としなかつた。
勘次はさっきの風呂しきづつみを解いた。
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勘次は先刻の風呂敷包を解いた。
小さくたたんだ弁慶じまのひとえが出た。
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小さく疊んだ辨慶縞の單衣が出た。
「お前にこれをやろうと思って持って来たんだ。これでもなよ、おっかあが自分の糸で織ったんだぞ。今じゃ糸なんぞつむぐ者はいないが、おっかあらは毎晩のようにつむいだもんだ。こんも、ようく染まってるから丈夫だぞ。おっかあはいくらも着ないでしまったから、まだまるっきり新しいようだ、見ろ。どうした、手ランプをもっとこっちへ出してみなまあ」
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「汝げ此遣んべと思つて持つて來たんだ。此んでもなよ、おつかゞ地絲で織つたんだぞ、今ぢや絲なんぞ引くものなあねえが、おつか等毎晩のやうに引いたもんだ、紺もなあ能うく染まつてつから丈夫だぞ、おつかは幾らも引つ掛ねえつちやつたから、まあだまるつきり新しいやうだ見ろ、どうした手ランプまつとこつちへ出して見せえまあ」
勘次はひとえを少し開いて、鼻へ当ててにおいをかいでみた。
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勘次は單衣を少し開いて鼻へ當て臭を嗅いで見た。
「ちっとはかび臭くなったようだが、そんでもこれくらいなら一日ほせばにおいは取れるから」
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「ちつたあ黴臭くなつたやうだが、そんでも此位ぢや一日干せば臭えな直つから」
勘次は言いわけでもするように言った。
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勘次は分疏でもするやうにいつた。
おつぎは左手に持ちかえた手ランプをかざして、ひとえをいじっては、おふろ上がりのつやつやした顔にほほえみをうかべた。
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おつぎは左手に持ち換た手ランプを翳して單衣を弄つては浴後のつやゝかな顏に微笑を含んだ。
勘次はおつぎの顔ばかり見ていた。
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勘次はおつぎの顏ばかり見て居た。
そして、その機げんがよくなりかけたのを見て
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さうして其の機嫌が恢復しかけたのを見て
「どうした、それでもお前は気に入ったか。おっかあの物はみんなお前のもんだからな。おれは、お前らのだとなりゃいくら困ったって、もうけっして質になんざ置かないから、大事にしてお前がようくしまっておけ」
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「どうした、それでも汝りや氣につたか、おつかゞ物はみんな汝がもんだかんな、俺ら汝ツ等がだとなりや幾ら困つたつて、はあ決して質になんざ置かねえから、大事にして汝能うく藏つて置いたえ」
と、彼は満足そうに見えた。
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と彼は滿足らしく見えた。
おつぎは手ランプを置いて、勘次がしたように鼻へ当ててにおいをかいでみたり、左の手だけをそでへ通してみたりした。
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おつぎは手ランプを置いて勘次がしたやうに鼻へ當てゝ臭を嗅いで見たり、左の手だけを袖へ透して見たりした。
「おれには、これじゃ引きずるようじゃあるまいか」
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「俺がにや此んぢや引きじるやうぢやあんめえか」
おつぎはそれから、手でつるしてみたりした。
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おつぎはそれから手で釣るして見たりした。
「しまっておいて、おれはもっと大きくなってから着ようかな」
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「藏つて置いて、俺らいまつと大く成つてから着べかな」
「どうでもお前のもんだから、お前の好きにしろな」
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「どうでも汝がもんだから汝が好きにしろな」
勘次は、おつぎの手が動くのにつれて目を動かした。
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勘次はおつぎの手が動くに從つて目を移した。
手ランプからぼうっと立つすすが、ほどけた髪へなびきかかるのも知らずに、おつぎはあっちこっちへひとえをいじっていた。
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手ランプのぼうと立つ油煙がほぐれた髮へ靡き掛るのも知らずにおつぎはそつちこつちへ單衣を弄つて居た。
「お前、うっかりして、そうれ燃えっちまうぞ」
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「汝うつかりして、そうれ燃えつちまあぞ」
勘次はすすがまたかたむいたとき、慌てておつぎの髪へ手を当てて言った。
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勘次は油煙が復た傾いた時慌てゝおつぎの髮へ手を當てゝいつた。
七
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七
勘次の田畑は、おそい秋のとり入れがみじめなものだった。
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勘次の田畑は晩秋の收穫がみじめなものであつた。
それは天気が悪いのでもなく、また土地が悪いのでもない。
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それは氣候が惡いのでもなく、又土地が惡いのでもない。
たがやす時期をのがしていることと、肥料が少ないこととで、いくらあせっても、とても満足な結果が出せないのである。
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耕耘の時期を逸して居るのと、肥料の缺乏とで幾ら焦慮つても到底滿足な結果が得られないのである。
貧しい百姓はいつも土にくっついて食べ物を得ることばかりに苦心しているのに、その作物が俵になれば、もう大部分は彼らのものではない。
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貧乏な百姓はいつでも土にくつゝいて食料を獲ることにばかり腐心して居るにも拘はらず、其の作物が俵になれば既に大部分は彼等の所有ではない。
自分のものでいられるのは、作物が根をもって田や畑の土に立っているあいだだけである。
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其の所有であり得るのは作物が根を以て田や畑の土に立つて居る間のみである。
小作料をはらってしまえば、もう手をつけたみじかい冬をしのぐだけのことが、ややもすればやっとなのである。
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小作料を拂つて畢へば既に手をつけられた短い冬季を凌ぐ丈けのことがともすれば漸くのことである。
彼らは自分の田畑がいそがしいときにも、その日の食べ物を手に入れるために、わりと収入のいい日やといに行く。
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彼等は自分で田畑が忙しい時にも其の日に追れる食料を求る爲に比較的收入のいゝ日傭に行く。
百姓といえば、どんなに物を知らなくても、作物を作る季節を知らないことはない。
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百姓といへば什麽に愚昧でも凡ての作物を耕作する季節を知らないことはない。
村のはしからはしまでみな同じ仕事にかかりきっているのだから、その季節をたとえ自分が忘れたとしても、まったく忘れきることはできないのである。
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村落の端から端まで皆同一の仕事に屈託して居るのだから其の季節を假令自分が忘れたとしても全く忘れ去ることの出來るものではない。
しかし、もう季節だと分かっていても、その日その日の食べ物を求めるために力をさかなければならないのと、肥料の工面がつかなかったりするのとで、作物の育ちから言えば三日を争うようなときでも、思いながら手が出ないのである。
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然しもう季節だと知つて見ても其の日/\の食料を求める爲めに勞力を割くのと、肥料の工夫がつかなかつたりするのとで作物の生育からいへば三日を爭ふやうな時でも思ひながら手が出ないのである。
むかしのように、自然の肥料を手に入れることが、今ではできなくなってしまった。
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以前のやうに天然の肥料を獲ることが今では出來なくなつて畢つた。
どこの林でも、落ち葉をかくことや青草を刈ることが、みなお金にゆとりのある者の手に移ってしまった。
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何處の林でも落葉を掻くことや青草を刈ることが皆錢に餘裕のあるものゝ手に歸して畢つた。
それとともに、林は閉ざされたようなすがたになっている。
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それと共に林は封鎖されたやうな姿に成つて居る。
冬ごとに熊手のつめのとどくかぎりかいて行くので、草もそれにつれて短くなって、腰までうまるような所はめったにない。
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冬毎に熊手の爪の及ぶ限り掻いて行くので、草も隨つて短くなつて腰を沒するやうな處は滅多にない。
その草もさらに土から刈って行くので、次第に土がやせて行く。
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其の草も更に土から刈つて行くので次第に土が痩せて行く。
だから何も持たずには、どこへ行ってもぬすまないかぎり、思うぞんぶんやわらかな草を刈ることはできない。
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だから空手では何處へ行つても竊取せざる限は存分に軟かな草を刈ることは出來ない。
貧しい百姓は、落ち葉でも青草でも、他人の熊手やかまが入ったあとに求める。
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貧乏な百姓は落葉でも青草でも、他人の熊手や鎌を入れ去つた後に求める。
そして、やせて行く土をさらに骨までかじるようなことをしているのである。
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さうして瘠せて行く土を更に骨まで噛むやうなことをして居るのである。
世の中一般には、落ち葉や青草が足りなくなるとともに、便利ないろいろな人工の肥料が売られる。
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一般には落葉や青草の缺乏を感ずると共に便利な各種の人造肥料が供給される。
しかしそれも、やはりお金にいくらでもゆとりのある人にだけ便利なので、貧しい百姓には、牛や馬が止め木にさえぎられたような形でしかない。
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然しそれも依然として金錢に幾らでも餘裕のある人にのみ便利なのであつて、貧乏な百姓には牛や馬が馬塞棒で遮られたやうな形でなければならぬ。
そうかといって、それらの肥料なしには、とても決められた小作料をはらえるだけの収穫は取れないので、みじめな工面が彼らの心を行き来する。
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さうかといつて其れ等の肥料なしには到底一般に定められてある小作料を支拂ふ丈の收穫は得られないので慘憺たる工夫が彼等の心を往來する。
そしてまた、食べ物を得るために力をほかへ回すことで、作物のうねの間をたがやすことも雑草を取ることも、すべてがおくれてしまう。
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さうして又食料を求める爲に勞力を他に割くことによつて、作物の畦間を耕すことも雜草を除くことも一切が手後れに成る。
季節が暑くなれば、雨がふって三日も見ないうちに、雑草はおどろくほど早くのびる。
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季節が暑くなれば雨があつて三日も見ないうちには雜草は驚くべき迅速な發育を遂げる。
それが作物の育ちをひどくじゃまする。
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それが著しく作物の勢力を阻害する。
その分だけ収穫がへらなければならないはずである。
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それだけ收穫の減少を來さねばならぬ筈である。
つまり、よく働く彼らは、実る前にすでに、青々とした作物の力をけずって食べているのである。
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要するに勤勉な彼等は成熟の以前に於て既に青々たる作物の活力を殺いで食つて居るのである。
とり入れの季節がすっかり終わると、彼らは草木がかれ落ちるとともに、しおれてしまわなければならない。
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收穫の季節が全く終りを告げると彼等は草木の凋落と共に萎靡して畢はねばならぬ。
草木がねむりに入る、少なくとも五、六十日のあいだは、彼らはたまに冬起こしといって麦のうねの間をたがやすことや、林の中で落ち葉やたきぎを集めることがあるだけである。
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草木の眠りに落ち去る少くとも五六十日の間は、彼等は稀に冬懇というて麥の畦間を耕すことや林の間に落葉や薪を求めることがあるに過ぎぬ。
自分の食べ物に見合うだけのお金をかせぐことが、その期間の仕事では見つからないのである。
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自分の食料に換る丈の錢を獲ることが其の期間の仕事に於ては見出されないのである。
へびやかえるやそのほかの虫たちが死んだようにねむっているあいだに、彼らは目の前にせまっているこれからの苦しみを引きよせるために、過ぎた苦しみの記ねんであるその少ない米や麦を、日ごとに食べへらして行くのである。
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蛇や蛙や其の他の蟲類が假死の状態に在る間に彼等は目前に逼つて居る未來の苦しみを招く爲に、過去の苦しかつた記念である其の缺乏した米や麥を日毎に消耗して行くのである。
彼らは手に内職を持っていない。
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彼等は手に内職を持つて居らぬ。
自分で使うためだけなら、むしろもぞうりももっこもわらじもそのほかの物も藁で作ることを知っているけれど、たいていは刈るのがおくれた藁では、りっぱな物はできないのである。
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自分の使用すべき爲にのみは筵も草履も畚も草鞋も其の他のものも藁で作ることを知つて居れども、大抵は刈り後れになつた藁では立派な製作は得られないのである。
それなのに、彼らは肥料が足りないと言いながら、その藁くずや粟のからやそのほかの物が庭に散らばっていても、なかなかそれをかたづけようとしない。
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それであるのに彼等は肥料の缺乏を訴へつゝ其の藁屑や粟幹や其の他のものが庭に散らばつて居ても容易にそれを始末しようとしない。
人に注意されても、それでもあらためようとしない。
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他人の注意を受けてもそれでも改めることをしない。
彼らは苦しいときに苦しむこと以外に、何も知らないのである。
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彼等は苦しい時に苦しむことより外に何にも知ることがないのである。
勘次も彼らの仲間である。
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勘次も彼等の仲間である。
しかし、彼はきびしい暮らしにおされて、少しのあいだも自分を休ませるゆとりを持たなかった。
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然しながら彼は境遇の異常な刺戟から寸時も其の身を安住せしむる餘裕を有たなかつた。
彼もほかの貧しい百姓がするように、冬の季節になればたきぎを取ってかべに積んでおくことをした。
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彼も他の貧乏な百姓のするやうに冬の季節になれば薪を採つて壁に積んで置くことをした。
彼は最近になって、となりの主人が林をよくするために雑木林をいったん開こんして畑にするということになったので、その一部を引き受けた。
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彼は近來に成つてから隣の主人が林を改良する爲に雜木林を一旦開墾して畑にするといふことに成つたので其の一部を擔當した。
彼は小さな体である。
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彼は小さな身體である。
しかし彼は、重いくわをふりかざして、ひとくわごとにぶつりと土を取っては、後ろへそっと投げながら進む。
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然し彼は重量ある唐鍬を振り翳して一鍬毎にぶつりと土をとつては後へそつと投げつゝ進む。
彼はその開こんの仕事が上手で、しかも好きである。
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彼は其開墾の仕事が上手で且つ好きである。
そのきりっとしまった体は小さくても、それが全体のつりあいを保っていて、くわを取るときには彼とくわとはまるで一つである。
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其のきりつと緊つた身體は小さいにしてもそれが各部の平均を保つて唐鍬を執るときには彼と唐鍬とは唯一體である。
くわの広い刃先が木の根に切りこむときには、彼の体もいっしょにぐさりとその根を切って通るかと思うようである。
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唐鍬の廣い刄先が木の根に切り込む時には彼の身體も一つにぐざりと其の根を切つて透るかと思ふやうである。
土を切り起こすのが上手なのは、彼の生まれつきである。
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土を切り起すことの上手なのは彼の天性である。
それで彼は、遠く利根川の工事へも行ったのだった。
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それで彼は遠く利根川の工事へも行つたのであつた。
彼は自分のうでをたよりにしている。
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彼は自分の伎倆を恃んで居る。
彼は前からも、少しずつ開こんの仕事をした。
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彼は以前からも少しづつ開墾の仕事をした。
その賃金しだいで、その土地を深くも浅くも、早くもおそくも仕上げることを知っていた。
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其の賃錢によつて其の土地を深くも淺くも速くも遲くも仕上げることを知つて居た。
竹林を開こんしたとき、彼は根がつながったままの一つぼの広さを、たった四つのかたまりにほり起こしたことがある。
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竹林を開墾した時彼は根の閉ぢた儘一坪の大きさを只四つの塊に掘り起したことがある。
それでも、そのころまではそういう仕事がいくらもなかったので、その賃金は、仕事を始めるときにすり減ったくわの刃先を打ち直させるかじ屋の手間ちんと、はげしい仕事のために食べる食料をのぞいては、いくらも残らなかったのである。
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それでも其の頃まではさういふ仕事が幾らも無かつたので、其の賃錢は仕事を始める時其の研ぎ減らした唐鍬の刄先を打たせる鍛冶の手間と、異常な勞働の爲に費す其の食料を除いては幾らもなかつたのである。
彼は主人の開こん地が、春いっぱいの仕事に十分な広さであることをよろこんだ。
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彼は主人の開墾地が春一杯の仕事には十分であることを悦んだ。
お金のほかに、彼は米と麦をもらうことにした。
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錢の外に彼は米と麥との報酬を受けることにした。
おつぎには特に仕事はなかったが、彼はおつぎを一人では家に置かなかった。
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おつぎは別に仕事といつてはなかつたが彼はおつぎを一人では家に置かなかつた。
与吉を連れて、おつぎは開こん地へ行っていた。
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與吉を連れておつぎは開墾地へ行つて居た。
勘次がそのきたえた力をふるっているあいだに、おつぎはそこらの林から細いえだを取って、小さなしばのたばを作っている。
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勘次が其の鍛錬した筋力を奮つて居る間におつぎはそこらの林から雀枝を採つて小さな麁朶を作つて居る。
小さなえだは、この土地では「雀えだ」と言われている。
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小さな枝は土地では雀枝といはれて居る。
かれた雀えだを取ることは、どこの林でも持ち主がやかましく言わなかった。
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枯た雀枝を採ることは何處の林でも持主が八釜敷いはなかつた。
勘次は雨でもふらなければ、毎日必ずくわをかついで出た。
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勘次は雨でも降らねば毎日必ず唐鍬を擔いで出た。
ある日、彼は木の株へくわを強く打ちこんで、ぐっとこじ上げようとしたとき、きたえのいい刃と白がしの柄は強かったのでどうもなかったが、鉄のくさびで柄の先をしめた、そのくわの四角なあなの所が急にゆるんだ。
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或日彼は木の株へ唐鍬を強く打込んでぐつとこじ扛げようとした時鍛へのいゝ刃と白橿の柄とは強かつたのでどうもなかつたが、鐵の楔で柄の先を締めた其の唐鍬の四角な穴の處が俄に緩んだ。
そこは「ひつ」と言われている。
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其處はひつといはれて居る。
ひつに大きなひびが入ったのである。
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ひつに大きな罅が入つたのである。
柄がやがて、がたがたと動いた。
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柄がやがてがた/\に動いた。
「ええ、べらぼう。一日の手間をかじ屋につぎこまなくちゃならない」
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「えゝ、箆棒、一日の手間鍛冶屋へ打つ込んちあなくつちやなんねえ」
彼はつぶやいた。
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彼は呟いた。
次の朝、彼は夜明け前にかじ屋へ走った。
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次の朝彼は未明に鍛冶へ走つた。
「わしは行って来ますから、この子らのことを見ていておくんなせえ」
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「わし行つて來あんすから、此等こと見てゝおくんなせえ」
おつぎと与吉とを南の家の女の人にたのんだ。
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おつぎと與吉とを南の女房へ頼んだ。
「ほかへは行くんじゃないぞ。いいか、よきは泣かさないようにしてるんだぞ」
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「他へは行くんぢやねえぞ、えゝか、よきは泣かさねえやうにしてんだぞ」
彼はおつぎにも言って出た。
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彼はおつぎへもいつて出た。
おつぎは、そんな注意を人前でされることが、もうはずかしくていやな気持ちがするようになっていた。
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おつぎは其麽注意を人前でされることがもう耻かしく厭な心持がするやうに成て居た。
勘次は鬼怒川のわたしをこえて土手を伝って、柄のないくわを持って行った。
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勘次は鬼怒川の渡を越えて土手を傳ひて、柄のない唐鍬を持つて行つた。
かじ屋はそのとき仕事がたまっていたが、それでもこういう仕事になくてはならない道具というと、どこでもそういうもので、すぐに作ってくれた。
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鍛冶は其の時仕事が支へて居たが、それでも恁ういふ職業に缺くべからざる道具といふと何處でもさういふ例の速に拵へてくれた。
「ずいぶんらんぼうなことをしたと見えるっけな。おれも近ごろになって、これくらいなくわをめったに打ったことはないよ」
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「隨分荒えことしたと見えつけな、俺らも近頃になつて此の位えな唐鍬滅多打つたこたあねえよ、」
かじ屋はその赤く熱したくわをしばらくつちでたたいて、それから地面にすえたおけの、どろをといたような水へじゅうとひたして、さらにまた小さなつちでちんちんとたたいて
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鍛冶は赤く熱した其の唐鍬を暫く槌で叩いて、それから土中へ据ゑた桶の泥を溶いたやうな水へぢうと浸して、更に又小さな槌でちん/\と叩いて
「今度こそ大丈夫だ。前にはどうしてひびなんぞ入ったっけかい」
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「こんだこさ大丈夫だ、先にやどうして罅なんぞいつたけかよ」
かじ屋は汗のひたいを勘次に向けて
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鍛冶は汗の額を勘次に向けて
「柄がへし折れないうちは動きっこないから」
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「柄が折つちよれねえうちは動きつこねえから」
と言って、また
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といつて又
「体のわりにしちゃ、けたはずれだな」
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「身體の割にしちや圖無えな」
と、かじ屋はほほえんだ。
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と鍛冶は微笑した。
鉄のにおいのするくわを提げて、勘次はまた土手を走った。
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鐵の臭のする唐鍬を提げて勘次は復土手を走つた。
その日も西風が、かれ木の林から麦畑から、そして鬼怒川をわたってふいた。
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其の日も西風が枯木の林から麥畑からさうして鬼怒川を渡つて吹いた。
鬼怒川の水は白い波が立って、遠くからはそれがあわ立ったはだのように、ただこそばゆく見えた。
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鬼怒川の水は白い波が立つて、遠くからはそれが粟を生じた肌のやうに只こそばゆく見えた。
西風は川にふき落ちるとき、西岸のしのをざわざわとゆらす。
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西風は川に吹き落ちる時西岸の篠をざわ/\と撼がす。
さらに東岸の土手を伝ってふき上げるとき、土手のみじかいかれ芝の葉を一まいずつはげしくなびかせた。
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更に東岸の土手を傳うて吹き上げる時、土手の短い枯芝の葉を一葉づゝ烈しく靡けた。
そのかれ芝のあいだに、どうしたものか気まぐれなたんぽぽの黄色い頭がぽつぽつと見える。
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其の枯芝の間にどうしたものか氣まぐれな蒲公英の黄色な頭がぽつ/\と見える。
どうかすると土手は静かで暖かなことがあるので、つい、だまされて、たんぽぽがまだ遠い春をじれったそうに首を出してみては、また寒くなったのにおどろいて縮こまったようなすがたである。
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どうかすると土手は靜かで暖かなことがあるので、遂騙されて蒲公英がまだ遠い春を遲緩しげに首を出して見ては、また寒く成つたのに驚いて蹙まつたやうな姿である。
勘次はくわを持って、また自分の力を取りもどせたように、それからまた一日仕事を休めば体じゅうがみりみりして、なんだか分からないがその仕事にせかされてならないような気がした。
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勘次は唐鍬を持つて復た自分の活力を恢復し得たやうに、それから又一日仕事を怠れば身内がみり/\して何だか知らぬが其の仕事に催促されて成らぬやうな心持がした。
鬼怒川の水は減って、こちらの土手からつづく大きな中州が、その流れを西岸のしのの下までせばめている。
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鬼怒川の水は落ちて此方の土手から連つて居る大きな洲が其の流れを西岸の篠の下まで蹙めて居る。
広く、そして遠くまでつづく中州には、ただ西風がかわいた砂をさらさらとはくようにしてふいている。
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廣く且遠い洲には只西風が僅に乾いた砂をさら/\と掃くやうにして吹いて居る。
それで、白くかわいた中州はただからりときれいに見える。
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それで白く乾燥した洲は只からりと清潔に見える。
そういう中に、どうしたものかこれも気まぐれな人が、遠くからは砂から生えたように見えて、ちらほらと散らばって少しずつ動いている。
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さういふ間にどうしたものか此れも氣まぐれな人が、遠くは其の砂から生えたやうに見えてちらほらと散らばつて少しづゝ動いて居る。
勘次は土手から下りて見た。
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勘次は土手からおりて見た。
動いている人々は、万能ぐわでその砂をほっているのだった。
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動いて居る人々は萬能で其の砂を掘つて居るのであつた。
西風がかわかしてはさらさらとはいていても、中州にはまだいくらか波のあとがついている。
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西風が乾かしてはさらさらと掃いて居ても洲には猶幾らか波の趾がついて居る。
その砂の中からは、みじかい木のかけらが出る。
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其砂の中からは短い木片が出る。
十センチから二十センチくらい、まれには三十センチくらいのものもほり起こされる。
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二三寸から五六寸位な稀には一尺位なものも掘り起される。
みな、すり減ったような木のかけらばかりである。
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皆研ぎ減したやうな木片のみである。
人々は冷たくなった手を口へ当てて、白い暖かい息をふきかけながら、いっしんに先へ先へとほり起こしながら行く。
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人々は冷たく成つた手を口へ當てゝ白い暖かい息を吹つ掛けながら一心に先へ先へと掘り起しつゝ行く。
「どうするんだね」
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「どうするんだね」
勘次は一人のそばへ立って聞いた。
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勘次は一人の側へ立つて聞いた。
ひょいと顔を上げたのは、おばあさんだった。
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ひよつと首を擡げたのは婆さんであつた。
おばあさんは腰をのばして、強い西風によろける足をふみしめて
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婆さんは腰をのして強い西風によろける足を踏しめて
「これをほしておいて燃やすのさ」
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「此れ干して置いて燃すのさ」
と、よごれた白髪と手ぬぐいをふかれながら、目をしかめて言った。
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と穢い白髮と手拭とを吹かれながら目を蹙めていつた。
「どうしても、こうなっちゃべろべろ燃えて、あっけないだろうね」
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「どうしても斯う成つちやべろ/\燃えて飽氣なかんべえね」
勘次は聞いた。
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勘次は聞いた。
「赤い灰になってな、火も弱いのさ。そんでも、しばを買うよりはいいからな。松のしばだといったって、こっちのほうへ来ちゃ、生で三十五たばだの何だのって、小さいくせにな。おれのようなばあさんでも十たばくらいは背負えるんだもの。近ごろじゃ燃す物がいちばん不自由で仕方がないのさな」
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「赤え灰に成つてな、火も弱えのさ、そんでも麁朶買あよりやえゝかんな、松麁朶だちつたつてこつちの方へ來ちや生で卅五把だの何だのつて、ちつちえ癖にな、俺らやうな婆でも十把位は背負へんだもの、近頃ぢや燃す物が一番不自由で仕やうねえのさな」
おばあさんは言った。
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婆さんはいつた。
「松のしばで三十五たばならそうばはそうでもないが、商人がたばね直すんだから小さくもなるはずだな」
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「松麁朶で卅五把ぢや相場はさうでもねえが、商人がまるき直すんだから小さくもなる筈だな」
勘次は首をかしげて言った。
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勘次は首を傾けていつた。
「そうなんだろうよなあ。そりゃそうと、お前さんはどこだね」
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「さうだごつさらよなあ、そりやさうとおめえさん何處だね」
万能ぐわをつえにして、おばあさんは言った。
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萬能を杖にして婆さんはいつた。
「おれは川向こうさ」
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「俺ら川向さ」
「そんじゃ、燃す木はある所だね」
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「そんぢや燃す木は有つ處だね」
おばあさんはさらに勘次のくわを見て
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婆さんは更に勘次の唐鍬を見て
「たいしたくわだが、よっぽどするんだろうな」
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「たいした唐鍬だが餘つ程すんだつぺな」
「そうさ、今打たせちゃ三十もんめの物はきっとするな」
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「さうさ今打たせちや三十掛は屹度だな」
「三十もんめっていくらするんだろう。目方もしっかりあるだろうな」
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「三十掛ツちや幾らするごつさら、目方もしつかり掛んべな」
「一貫目もないがな」
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「一貫目もねえがな」
勘次は自まんらしく、おばあさんにくわを持たせた。
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勘次は自慢らしく婆さんへ唐鍬を持たせた。
「おおいや、おれには持ち上がらないようだ。お前さん自分で使うのかいまあ。何だろうよ、こんな道具は」
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「おういや、俺らがにや引つたゝねえやうだ、おめえさん自分で使あのけまあ、何したごつさらよ此んな道具なあ」
「毎日木の根っこを起こしてたんだが、くわのひつがいたんじまったから、直しに来たところさ」
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「毎日木根つ子起してたんだが、唐鍬のひつ痛つちやつたから直し來た處さ」
「そんじゃ、お前さんは燃す物には不自由なしでいいな」
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「そんぢやおめえさん燃す物にや不自由なしでえゝな」
おばあさんはうらやましそうに言った。
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婆さんは羨まし相にいつた。
そして、小さな木のかけらを入れるために持って来た麻のよごれたふくろを、草かりかごから出した。
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さうして小さな木片を入る爲に持て來た麻の穢い袋を草刈籠から出した。
わずかに鬼怒川の水をへだてて、西は林がつづいている。
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僅に鬼怒川の水を隔てゝ西は林が連つて居る。
村も田も畑も、その林につつまれている。
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村落も田も畑も其の林に包まれて居る。
東はただ低い水田と畑で、村がそのあいだにぽつぽつとある。
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東は只低い水田と畑とで村落が其の間に點在して居る。
そこには、家をかこんでわずかな木立があるばかりである。
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其處に家を圍んで僅かな木立が有るばかりである。
だから、たきぎが足りなくて豆のからや藁のような物もみな燃やす物としてしまってあることは、勘次もよく知っていた。
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隨つて薪の缺乏から豆幹や藁のやうなものも皆燃料として保存されて居ることは勘次も能く知つて居た。
しかし、そのたきぎが足りないために、こういう砂の中にこう水が運んできた木のかけらがうまっているのを知って、これを集めているのだということは、彼は初めて見て初めて知った。
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然し其の薪の缺乏から自然にかういふ砂の中に洪水が齎した木片の埋まつて居るのを知つて之を求めて居るのだといふことは彼は始めて見て始めて知つた。
彼はめったに川をこえて出ることはなかったのである。
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彼は滅多に川を越えて出ることはなかつたのである。
勘次の家のかべぎわには、たきぎがいっぱいに積まれてある。
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勘次は自分の壁際には薪が一杯に積まれてある。
そのうえ開こんの仕事をしているので、なんといってもたきぎはだんだん増えて行くばかりである。
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其上に開墾の仕事に携はつて何といつても薪は段々殖えて行くばかりである。
さらに、その開こんにいちばん大事な道具が、今は直って自分の手に提げられている。
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更に其の開墾に第一の要件である道具が今は完全して自分の手に提げられてある。
彼は、こんな苦労をしてまでわずかな木のかけらを集めている人々の前で、ほこらしさを感じた。
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彼は恁ういふ辛苦をしてまでも些少な木片を求めて居る人々の前に矜を感じた。
彼は自分の暮らしがどんなものかは思わなかった。
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彼は自分の境遇が什麽であるかは思はなかつた。
またこういう人々のあわれさも、思いやるひまがなかった。
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又恁ういふ人々の憐れなことも想ひやる暇がなかつた。
そして彼は、自分のうでまえがゆかいになった。
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さうして彼は自分の技倆が愉快になつた。
彼はふたたび土手から見下ろした。
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彼は再び土手から見おろした。
万能ぐわを持っているのはみな女で、十三、四の子もまじっているのだった。
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萬能を持つて居るのは皆女で十三四の子も交つて居るのであつた。
人々のほり起こしたあとは、畑の土をみみずが持ち上げたような形に、しめった砂がうねうねとつづいているのが彼の目にうつった。
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人々の掘り起した趾は畑の土を蚯蚓が擡げたやうな形に、濕つた砂のうね/\と連つて居るのが彼の目に映つた。
彼は家に帰るとすぐ、くわの柄をつけた。
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彼は家に歸ると共に唐鍬の柄を付た。
なたのみねで鉄のくさびを打ちこんで、そして柄を持って動かしてみた。
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鉈の刀背で鐵の楔を打ち込んでさうして柄を執つて動かして見た。
次の朝から、もう勘次のすがたは林に見られた。
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次の朝からもう勘次の姿は林に見出された。
主人からもらった穀物は、彼の家族を暖めた。
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主人から與へられた穀物は彼の一家を暖めた。
彼は近ごろにない心のゆとりを感じた。
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彼は近來にない心の餘裕を感じた。
しかし、そんなわずかな、彼にとって運のいいことでも、いくらか他人のねたみをまねいた。
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然しさういふ僅な彼に幸ひした事柄でも幾らか他人の嫉妬を招いた。
ほかの百姓にも、もがいている者はいくらもいる。
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他の百姓にも悶躁いて居る者は幾らもある。
そういう仲間のあいだでは、わずか五円のお金でも、それがふところに入ったとなればすぐに人の目に立つ。
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さういふ伴侶の間には僅に五圓の金錢でもそれは懷に入つたとなれば直に世間の目に立つ。
彼らはいくらかでも自分のためになることを見つけようとするほかに、目をするどくしてまわりに気をくばっているのである。
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彼等は幾らづゝでも自分の爲になることを見出さうといふことの外に、目を峙てゝ周圍に注意して居るのである。
彼らは、他人が自分と同じかそれ以上に苦しんでいると思っているあいだは、たがいに苦しんでいることに一種の安心を感じるのである。
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彼等は他人が自分と同等以下に苦んで居ると思つて居る間は相互に苦んで居ることに一種の安心を感ずるのである。
しかし、その一人でもふところのいいのが目につけば、自分だけ後ろに置いていかれたような、ひどく切ない変な気持ちになって、そこにねたみの心が起こるのである。
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然し其の一人でも懷のいゝのが目につけば自分は後へ捨てられたやうな酷く切ないやうな妙な心持になつて、そこに嫉妬の念が起るのである。
だから彼らは、他人のしくじりを見ると、そのひがんだ心の中にこっそりと痛快さを感じずにはいられないのである。
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それだから彼等は他の蹉跌を見ると其僻んだ心の中に竊に痛快を感ぜざるを得ないのである。
勘次の家には、たきぎが山のように積まれてある。
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勘次の家には薪が山のやうに積まれてある。
それが彼らの仲間の目を引いた。
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それが彼等の伴侶の注目を惹いた。
それとなく、何度も彼の主人に告げ口された。
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それとはなしに數次彼の主人に告げられた。
開こん地で木を燃やした、その灰まで家へ運んだということまで、主人の耳に入った。
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開墾地で木を焚いた其灰をも家に運んだといふことまで主人の耳に入つた。
勘次は開こんの手間ちんをわりと多くもらうかわりに、くぬぎの根は一つも持ち帰らないやくそくだった。
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勘次は開墾の手間賃を比較的餘計に與へられる代りには櫟の根は一つも運ばない筈であつた。
彼らの仲間は、そういうことも知っていた。
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彼等の伴侶はさういふことをも知つて居た。
昼ごはんの後や、手が冷たくなったときなどに、彼はそこらの木を集めて燃やす。
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晝餐の後や手の冷たく成つた時などには彼はそこらの木を聚めて燃やす。
木の根がくすぶって、いつも青いけむりが少しずつ立っている。
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木の根が燻ぶつていつでも青い煙が少しづゝ立つて居る。
彼はそのけむりからだんだん遠ざかりながら、くわを打ちこんでいる。
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彼は其煙に段々遠ざかりつゝ唐鍬を打ち込んで居る。
毎日、火は別の所でたかれた。
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毎日火は別な處で焚かれた。
彼は必ずその灰をかき払ってから帰ったのである。
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彼は屹度其の灰を掻つ掃いで去つたのである。
しかしかべぎわに積んだ木の根は、そこに正しくない物がまじっているにしても、大部分は彼のはげしい苦労から手に入れたものである。
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然し壁際に積んだ木の根はそこには不正なものが交つて居るにしても、大部分は彼の非常な勞苦から獲たものである。
彼は林の持ち主にたのんでほったのである。
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彼は林の持主に請うて掘つたのである。
それでも、あまりに人のうわさがうるさいので、主人はただいくらかでもこれからのいましめにしようと思った。
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それでも餘りに人の口が八釜敷ので主人は只幾分でも將來の警めをしようと思つた。
その前から勘次は、秋になればほしてある稲をぬすむとかいうかげ口をたたかれて、巡査の手帳にものっているのだというようなことが言われていたのだった。
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其の以前から勘次は秋になれば掛稻を盜むとかいふ蔭口を利かれて巡査の手帖にも載つて居るのだといふやうなことがいはれて居たのであつた。
主人はそれでも、こっそり人を使って、木の根を運んだかどうかを聞かせてみた。
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主人はそれでも竊に人を以て木の根を運んだかどうかといふことを聞かせて見た。
彼が気づいてあやまるなら、それで済ませてやろうと思ったからである。
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彼が心づいて謝罪するならばそれなりにして遣らうと思つたからである。
彼には主人の心を知るすべはなかった。
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彼は主人の心を知る由はなかつた。
「どこでも見たほうがようがす。わしはけっして運んだ覚えなんざないから」
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「何處でも見た方がようがす、わしは決して運んだ覺えなんざねえから」
彼はおそろしいけんまくできっぱりことわった。
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彼は恐ろしい權幕できつぱり斷つた。
主人は村の駐在所の巡査に耳打ちをした。
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主人は村の駐在所の巡査へ耳打ちをした。
巡査はある日、ぶらっと勘次の家へ行った。
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巡査は或日ぶらつと勘次の家へ行つた。
その日は朝から雨なので、勘次は仕事にも出られず、火ばちへ少しずつ木の根をくべて当たっていた。
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其の日は朝から雨なので勘次は仕事にも出られず、火鉢へ少しづゝ木の根を燻べてあたつて居た。
「雨で困ったな。勘次はだいぶがんばってるそうだな」
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「雨で困つたな、勘次は大分勉強する相だな」
巡査は腰の刀のさやをつかんで言った。
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巡査は帶劍の鞘を掴んでいつた。
「へえ」
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「へえ」
勘次は急にひざをすわり直した。
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勘次は急に膝を立て直した。
表の戸口へひょっこり現れた巡査の、外とうのずきんを深くかぶった顔が、勘次にはただおそろしく見えた。
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表の戸口へひよつこり現れた巡査の、外套の頭巾を深く被つて居る顏が勘次には只恐ろしく見えた。
そして、その声がとげをふくんでひびいた。
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さうして其の聲が刺を含んで響いた。
巡査はぶらりと家の横手へ行って、かべぎわの木の根を見た。
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巡査はぶらりと家の横手へ行つて壁際の木の根を見た。
勘次は巡査の後についていった。
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勘次は巡査の後から跟いて行つた。
「だいぶあるな。これはまた、わしが来るまで動かしちゃならないからな」
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「大分有るな、此れは又わしの來るまで動かしちやならないからな」
巡査は言った。
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巡査はいつた。
勘次は青くなった。
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勘次は蒼くなつた。
「これらはわしがゆるしをもらってほったんでがすから、どことどこって、あなまでちゃんと分かってるんでがすから」
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「此らわしが貰つて掘つたんでがすから何處と何處つて穴つ子までちやんと分つてんでがすから」
彼は慌てて言った。
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彼は慌てゝいつた。
「そんなことはどうでもいいんだ。動かすなと言ったら動かさなけりゃいいんだ」
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「そんなことはどうでもいゝんだ、動かすなといつたら動かさなけりやいゝんだ」
巡査は息できりのように少しぬれた口ひげをひねりながら
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巡査は呼吸で霧のやうに少し霑れた口髭を撚りながら
「くぬぎの根がだいぶあるようだな」
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「櫟の根が大分あるやうだな」
と言い残して去った。
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といひ棄てゝ去つた。
勘次は雨に打たれながら、ぼうっとして庭に立っている。
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勘次は雨に打たれつゝ喪心したやうに庭に立つて居る。
戸口のかげにかくれて聞いていたおつぎは、巡査が去った後、やっとすがたを現した。
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戸口の蔭に隱れて聞いて居たおつぎは巡査の去つた後漸く姿を表はした。
「おとっつあん」
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「おとつゝあ」
と小声で呼んだ。
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と小聲で喚んだ。
「そんだから、おれは持って来るなって言ったのに」
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「そんだから俺ら持つて來んなつてゆつたのに」
さらに小声でおつぎは言った。
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更に小聲でおつぎはいつた。
「おとっつあん、どうしたもんだろうな」
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「おとつゝあ、どうしたもんだべな」
おつぎは聞いた。
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おつぎは聞いた。
「おれは旦那に見放されちゃ、とても助からないだろう」
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「俺ら旦那に見放されちや、迚も助かれめえ」
勘次はやっとこれだけ言った。
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勘次は漸く此れだけいつた。
「おとっつあん、それじゃ旦那にあやまったらどうだろう」
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「おとつゝあ、それぢや旦那げ謝罪つたらどうしたもんだんべ」
「そんなこと言ったって、聞いてくれるか分かるもんか」
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「そんなことゆつたつて、聽くか聽かねえか分るもんか」
「南のおとっつあんにでもたのんでみたらどうだろう」
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「南のおとつゝあげでも頼んで見たらどうしたもんだんべ」
「お前らがたのまなくたっていいから」
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「汝等頼まなくつたつてえゝから」
「そんじゃ、おとっつあん、くぬぎの根っこさえなけりゃいいんだろうか」
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「そんぢやおとつゝあ、櫟の根つ子せえなけりやえゝんだんべか」
「そんだって、お前、駐在所に見られちまったもの、仕方があるもんか」
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「そんだつて汝は駐在所に見られつちやつたもの仕やうあるもんか」
勘次はそれでも、ほかに考えもないので、仕方なしに桑畑をこえて南の家へおわびをたのみに行った。
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勘次はそれでも他に分別もないので仕方なしに桑畑を越て南へ詑を頼みに行つた。
彼は古いすげがさをちょっと頭にかざして、首を縮めて行った。
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彼は古い菅笠を一寸頭へ翳して首を蹙めて行つた。
主人の返事は、とにかく明日のことにするからと言っただけだという返事である。
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主人の挨拶は兎に角明日のことにするからといつた丈だといふ返辭である。
勘次はげっそりとして家へ帰ると、ふとんをかぶってしまった。
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勘次はげつそりとして家へ歸ると蒲團を被つて畢つた。
おつぎは自分も毎日行っていたので、開こん地から運んだくぬぎの根はみな知っている。
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おつぎは自分も毎日行つて居たので開墾地から運んだ櫟の根は皆知つて居る。
おつぎは、そのくぬぎの根を一人でこっそり引き出した。
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おつぎは其の櫟の根を獨りで竊に引き出した。
そして夕暮れに、おつぎはそれを草かりかごへ入れて、後ろの竹やぶの中の古い井戸へ投げ落とした。
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さうして黄昏時におつぎはそれを草刈籠へ入れて後の竹藪の中の古井戸へ投げ落した。
古い井戸は暗く、そして深い。
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古井戸は暗くして且深い。
おつぎは冷たい雨にぬれて、少しちぢれた髪が乱れてくったりとほおについて、足にはくちた竹の葉がくっついている。
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おつぎは冷たい雨に沾れてさうして少し縮れた髮が亂れてくつたりと頬に附いて足には朽ちた竹の葉がくつゝいて居る。
「おとっつあん」
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「おとつゝあ」
おつぎは勘次を呼び起こした。
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おつぎは勘次を喚び起した。
「おれはくぬぎの根っこを捨てたぞ」
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「俺ら櫟根つ子うつちやつたぞ」
おつぎはさらに声を殺して言った。
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おつぎは更に聲を殺していつた。
勘次はひょっこり起きて、何も言わずにおつぎの顔をじっと見つめた。
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勘次はひよつこり起きて何もいはずにおつぎの顏を凝然と見つめた。
暗い家の中に、やっと手ランプがともされた。
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暗い家の中には漸く手ランプが點された。
勘次もおつぎも、ただその目が光って見えた。
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勘次もおつぎも唯其の目が光つて見えた。
次の日、巡査はとなりのやとわれ人を連れて来てかべぎわの木の根を調べさせたが、くぬぎの根は思ったより少なかった。
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次の日巡査は隣の傭人を連れて來て壁際の木の根を檢べさせたが櫟の根は案外に少かつた。
それでも、おつぎの手では捨てきれなかったのである。
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それでもおつぎの手では棄て切れなかつたのである。
「これはくぬぎがもっとあったはずじゃないか。勘次はどうかしやしないか」
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「此りや櫟がもつと有つた筈ぢやないか勘次はどうかしやしないか」
巡査はこう言ってあたりを見たが、勘次の小さな家のどこにもそれは見つからなかった。
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巡査は恁ういつてあたりを見たが勘次の小さな建物の何處にもそれは發見されなかつた。
そうは言っても実さい、巡査の目にはくぬぎとほかの雑木とをはっきり見分けることはできなかったのである。
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さういつても實際に巡査の目には櫟と他の雜木とを明瞭に識別し得なかつたのである。
「勘次、それじゃこれを持ってついて来るんだ」
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「勘次、それぢや此れを持つて跟いて來るんだ」
巡査は言った。
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巡査はいつた。
勘次はふるえた。
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勘次は顫へた。
「草かりかごでも何でもいい、これを入れて後からついて来い」
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「草刈籠でも何でもいゝ、此れを入れて後から跟いて」
「へえ、どこまで持って行くんでしょう」
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「へえ、何處まで持つて行くんでがせう」
勘次はためらっている。
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勘次は逡巡して居る。
「どこまででもいいんだ」
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「何處までゝもいゝんだ」
巡査はどなって、ぴしゃりと手の甲で勘次のほおをたたいた。
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巡査は呶鳴つてぴしやりと横手で勘次の頬を叩いた。
勘次は草かりかごを背負って、巡査の後についてゆき、主人の家の裏庭へ連れて行かれた。
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勘次は草刈籠を脊負つて巡査の後に跟いて主人の家の裏庭へ導かれた。
巡査が縁側の座ぶとんに腰をかけたとき、勘次はかごを背負ったまま首をうなだれて立った。
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巡査が縁側の坐蒲團へ腰を掛けた時勘次は籠を脊負つた儘首を俛れて立つた。
それはあまりに見えすいた仕組みなので、さすがに分別のある主人は出て来なかった。
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それは餘りに見え透いた仕事なので有繋に分別盛の主人は出なかつた。
おかみさんが出た。
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内儀さんが出た。
勘次はますますしおれた。
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勘次は益萎れた。
「勘次、お前まあそれを置いて、ここへかけてみたらどうだね」
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「勘次、お前まあそれを置いて此處へ掛けて見たらどうだね」
おかみさんは言った。
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内儀さんはいつた。
勘次はそれでも、ただ立っている。
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勘次はそれでも只立つて居る。
「品物はこれだけだったんでしょうか」
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「品物は此だけなんでしたらうか」
おかみさんは巡査に聞いた。
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内儀さんは巡査に聞いた。
「これくらいのものらしいようでしたな。思ったより少なかったんですな」
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「此の位のものらしいやうでしたな、案外少かつたんですな」
巡査は手帳をめくりながら言った。
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巡査は手帖を反覆しながらいつた。
「そうでございますか」
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「さうでございますか」
おかみさんは巡査に会しゃくして、そして
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内儀さんは巡査に會釋してさうして
「どうしたね勘次、こうして連れて来られてもいい気持ちはすまいね」
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「どうしたね勘次、恁うして連れて來られてもいゝ心持はすまいね」
と言った。
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といつた。
藁ぞうりをはいた勘次のつま先に、なみだがぽつりと落ちた。
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藁草履を穿いた勘次の爪先に涙がぽつりと落ちた。
「こんなことでお前、世間がさわがしくて仕方がないのでね、私の所でも本当に困ってしまうんだよ」
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「こんなことでお前世間が騷がしくて仕やうがないのでね、私の處でも本當に困つて畢ふんだよ」
おかみさんは巡査をちょっと見て、そして
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内儀さんは巡査を一寸見てさうして
「これからきっとやらないなら、今日の所だけは大目に見ていただいて、警察へ連れて行かれないようにお願いしてみてあげるがね、どうしたもんだね」
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「此れから屹度やらないなら今日の處だけは大目に見て戴いて警察へ連れて行かれないやうに伺つて見てあげるがね、どうしたもんだね」
と勘次に言った。
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と勘次へいつた。
「どうかもう、けっしてやりませんから、へえ、おかみさん、どうぞ」
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「何卒はあ、決してやりませんから、へえお内儀さんどうぞ」
勘次は草かりかごを背負って前かがみになった体を、何度も何度も下げて言った。
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勘次は草刈籠を脊負うて前屈になつた身體を幾度か屈めていつた。
なみだがまたぼろぼろと着物のすそからはねて、ぽつぽつと庭の土に点をつけた。
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涙が又ぼろ/\と衣の裾から跳ねてほつ/\と庭の土に點じた。
「いかがなもんでございましょうね、これは」
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「如何なもんでござんせうね此れは」
おかみさんはほほえみをふくんで、巡査に向かって言った。
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内儀さんは微笑を含んで巡査に向つていつた。
「そうですなあ」
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「さうですなあ」
巡査は首をかしげて言って、さらに腰の刀のさやをひざに取って
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巡査は首を傾けていつて更に帶劍の鞘を膝へとつて
「どうだ勘次、これからつつしめるか。この次にこんなことがあったら、かれえだ一本でもゆるさないからな。今日はまあこれで帰れ。そのくぬぎの根はここへ置いて行くんだぞ」
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「どうだ勘次、以來愼めるか、此の次にこんなことが有つたら枯枝一つでも赦さないからな、今日はまあ此れで歸れ、其の櫟の根は此處へ置いて行くんだぞ」
勘次は草かりかごを下ろそうとした。
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勘次は草刈籠を卸さうとした。
「そんなものをこの庭へ置けというんじゃないんだ。置く所は知ってるんだろう。分からない奴だな。それ、うっかりしないで足元を気をつけるんだ」
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「そんなもの此の庭へ置けといふんぢやないんだ、置く處は知つてるんだろう、解らない奴だな、それうつかりしないで足下を氣をつけるんだ」
巡査はしかった。
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巡査は叱つた。
勘次はそっと土をふんで庭を出た。
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勘次はそつと土を踏んで庭を出た。
門の外には、おつぎが与吉を連れてすすり泣いている。
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門の外にはおつぎが與吉を連れて歔欷して居る。
与吉はおつぎが泣くのを見て、自分も声を上げる。
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與吉はおつぎの泣くのを見て自分も聲を放つ。
おつぎは声がもれないように、たもとでそれをおおっている。
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おつぎは聲の洩れぬやうに袂でそれを掩うて居る。
「よき、泣かないで帰れ」
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「よき泣かねえで歸えれ」
勘次は与吉の手を取った。
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勘次は與吉の手を執つた。
三人は黙って歩いた。
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三人は默つて歩いた。
やとわれ人たちは笑って、勘次のようすを見ていた。
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傭人等は笑つて勘次の容子を見て居た。
「おとっつあん、どうだったっけ」
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「おとつゝあ、どうしたつけ」
おつぎは家に帰るとすぐ聞いた。
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おつぎは家に歸ると共に聞いた。
「そんでもまあ大丈夫になった。くぬぎの根っこがなくて助かった」
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「そんでもまあ大丈夫になつた、櫟根つ子なくつて助かつた」
勘次はげっそりと力なく言った。
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勘次はげつそりと力なくいつた。
「おれは昨日は重たくてひどかったっけぞ。そのせいか今日は肩が痛いや」
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「俺ら昨日は重たくつて酷かつたつけぞ、其の所爲か今日は肩痛えや」
おつぎはうれしそうに言った。
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おつぎは悦ばしげにいつた。
「おれがここでいなくなっちゃ、お前らも大変だったな」
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「俺こゝで居なくなつちや汝等も大變だつけな」
勘次はしばらく間を置いて、ぽつりと言った。
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勘次は間を暫く措いてぽさ/\としていつた。
このことがあってからも、勘次のすがたはすぐにくわを持って林の中に見られた。
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此の事があつてからも勘次の姿は直に唐鍬持つて林の中に見出された。
五、六日たって、勘次は針立てと針箱を買って来た。
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五六日經つて勘次は針立と針箱とを買つて來た。
「おつう、お前もこれからおはりのけいこに行けるからな。そら、これを持って行くんだ。おっかあが持ってた古いのなんざ、はずかしくていやだなんて言うから、これでもおとっつあんはひどい高いお金で買って来たんだぞ。それから、いいの悪いのってふくれたりするんじゃないぞ、なあ」
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「おつう、汝も此れからお針にいけつかんな、そら此れ持つて行ぐんだ、おつかゞ持つてた古いのなんざあ外聞惡くつて厭だなんていふから、此んでもおとつゝあ等酷え錢で買つて來たんだぞ、それから善えだの惡いだのつて膨れたり何つかすんぢやねえぞ、なあ」
勘次はまた
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勘次は又
「よき、お前はおとっつあんのそばにいるんだぞ。いいか、姉ちゃんはこれからお前の着物を作るのでおはりに行くんだからな。言うことを聞かないとひどいぞ」
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「よき汝はおとつゝあが側に居るんだぞ、えゝか、姊は此から汝が衣物拵えんでお針に行くんだかんな、聽かねえと酷えぞ」
と、与吉をだいてよく言い聞かせた。
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と與吉を抱いて能くいひ含めた。
おつぎはそれから、村の中へ近所のむすめといっしょに通った。
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おつぎはそれから村内へ近所の娘と共に通つた。
おつぎは与吉の小さなひとえをぬい上げたとき、その風呂しきづつみをかかえて、いそいそと帰って来た。
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おつぎは與吉の小さな單衣を仕上げた時其の風呂敷包を抱へていそ/\と歸つて來た。
おつぎは針を持つようになってから、きびきびとして、急に大人びて来たように見えた。
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おつぎは針持つやうに成つてからはき/\として俄にませて來たやうに見えた。
おつぎはもう十六である。
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おつぎはもう十六である。
苦労の中にいるだけに、去年からくらべればどれほど大人らしくなって勘次の助けになったか知れない。
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辛苦の間に在る丈に去年からでは何れ程大人びて勘次の助に成るか知れない。
ことに秋のころからは、ずいぶん気もきくようになって、死んだお品に似て来たと他人には言われるのだが、毎日いっしょにいる自分にも、そう言えば体つきまでどうやらそう見えて来たと、勘次も心の中で思った。
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殊に秋の頃に成つてからは滅切機轉も利くやうになつて、死んだお品に似て來たと他人にはいはれるのであるが、毎日一つに居る自分にもさういへば身體の恰好までどうやらさう見えて來たと勘次も心で思つた。
おつぎは今が遊びたいさかりだが、勘次からは一日でもたった一人にされたことがない。
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おつぎは今が遊びたい盛りに這入つたのであるが、勘次からは一日でも唯一人で放されたことがない。
村の休みの日には近所の女の人に連れられて出てみることもあるが、必ず与吉がくっついているのと、自分は炊事をかかせないのとで、昼ごはんでも晩ごはんでもほかの人より早く帰って来なければならない。
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村の休日には近所の女房に連れられて出て見ることもあるが、屹度與吉がくつゝいて居るのと、自分は炊事の間を缺かすことが出來ないのとで晝餐でも晩餐でも他人より早く歸つて來なければならない。
「おれはいっそ、お祭りなんざないほうがいい。そうでさえなけりゃ、出たいと思わないから」
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「俺らいつそもの日なんざ無え方がえゝ、さうでせえなけりや出てえた思はねえから」
おつぎはつくづくつぶやくことがあった。
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おつぎは熟呟くことがあつた。
「どうにかおれだってするから」
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「どうにか俺らだつて成つから」
おつぎのつぶやくのを聞いて、勘次はさすがに心が切なくなる。
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おつぎの呟くのを聞いて勘次は有繋に心が切なくなる。
それで言いようがなくて、こうぶすりと言ってしまうのだった。
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それで云ひやうが無くては恁うぶすりと云つて畢ふのであつた。
与吉は四つになった。
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與吉は四つに成つた。
いたずらもおぼえてきて、その分おつぎの手はいらなくなった。
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惡戯も知つて來てそれ丈おつぎの手は省かれた。
それでも与吉の着物は、おつぎの手ではぬえないので、近所の女の人にたのんではどうにかしてもらった。
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それでも與吉の衣物はおつぎの手には始末が出來ないので、近所の女房へ頼んではどうにかして貰つた。
お品が生きていれば、そんな心配はまだ十六のおつぎがすることではない。
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お品が生きて居ればそんな心配はまだ十六のおつぎがするのではない。
おつぎはさらに、自分の着物に困った。
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おつぎは更に自分の衣物に困つた。
短くなるばかりでなく、ほころびにさえおつぎは困るのである。
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短くなるばかりではなく綻びにさへおつぎは當惑するのである。
「おはりができなくちゃ仕方がないなあ」
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「お針出來なくつちや仕樣ねえなあ」
おつぎはいつでもためいきをつくのだった。
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おつぎは何時でも嘆息するのであつた。
「おはりにでも何でも、やれるときにはやるから。奉公にでも行ってみろ、いくつになったってろくなことができるもんか。十六くらいじゃ貧乏人はまだ行けないったって、仕方があるもんか。そうお前みたいに、しらみがわいたようにしょっちゅう言うもんじゃない」
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「お針にでも何でも遣れる時にや遣つから、奉公にでも行つて見ろ、幾つに成つたつて碌なこと出來るもんか、十六位ぢや貧乏人はまあだ行けねえたつて仕やうがあるもんか、さう汝見てえに痩虱たかつたやうにしつきりなし云ふもんぢやねえ」
「おとっつあんは、そんだって奉公にでも行ってる者には、家でこしらえてやるんだろうな」
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「おとつゝあはそんだつて奉公にでも行つてるものげは家で拵えてやんだんべな」
「そんだって何だって、やれるときでなくちゃやれないから」
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「そんだつてなんだつて遣れつ時でなくつちや遣れねえから」
十六ではまだ針を持たなくてもいいというのは、むりのないことである。
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十六ではまだ針を持たなくつてもいゝといふのはそれは無理ではない。
しかし勘次の家では、おつぎがまるで針を知らないことは不便だった。
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然し勘次の家でおつぎの一向針を知らぬことは不便であつた。
勘次もそれを知らないわけではないが、今のところ自分にはそのゆとりがないので、おつぎがそう言うたびに彼の心はたえられず苦しくなって、わざときつく言ってしまうのだった。
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勘次もそれを知らないのではないが、今の處自分には其の餘裕がないのでおつぎがさういふ度に彼の心は堪へず苦しむので態と邪慳にいつて畢ふのであつた。
その冬になってからも、おつぎは十六だというまにすぐ十七になってしまうとつぶやいたのだった。
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其の冬になつてからもおつぎは十六だといふ内に直十七になつて畢ふと呟いたのであつた。
「春にでもなったらやれるかも知れないから」
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「春にでもなつたらやれつかも知んねえから」
と、勘次はそのたびに言っていた。
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と勘次は其の度にいつて居た。
おつぎは、とても当てにはならないと心の中であきらめていたのだった。
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おつぎは到底當にはならぬと心に斷念めて居たのであつた。
それだけに、おつぎのよろこびは深かった。
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それだけおつぎの滿足は深かつた。
ある晩、どうして思い出したのか、おつぎはふいと言った。
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或晩どうして記憶を復活させたかおつぎはふいといつた。
「井戸へ落としたくぬぎの根っこは、はしごをかけても取れないだろうか」
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「井戸へ落した櫟根つ子は梯子掛けても取れめえか」
「なぜそんなことを言うんだ」
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「何故そんなこといふんだ」
勘次はおどろいて目を見開いた。
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勘次は驚いて目を睜つた。
「そんでも、おしいもんだからよ」
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「そんでも可惜もんだからよ」
「お前が自分ではしごをかけて入るのか」
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「汝自分で梯子掛けて這入んのか」
「おれはこわいからいやだがな」
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「俺ら可怖から厭だがな」
「そんなこと言うもんじゃない。また引っぱられたらどうする。そのときはお前でも行くのか」
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「そんなこといふもんぢやねえ、又拘引れたらどうする、そん時は汝でも行くのか」
勘次はこう言って苦笑いした。
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勘次は恁ういつて苦笑した。
その晩はそれっきり、二人のあいだに話はなかった。
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其晩は其れつ切り二人の間に噺はなかつた。
八
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八
与吉が五つの春になった。
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與吉が五つの春に成つた。
ずんずんと育って行く彼の体は、おつぎの手には重すぎる。
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ずん/\と生長して行く彼の身體はおつぎの手に重量が過ぎて居る。
しがみついていたたけのこの皮が自然にそのくきからはなれるように、与吉はだんだんおつぎの手からはなれるようになった。
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しがみ附いて居た筍の皮が自然に其の幹から離れるやうに、與吉は段々おつぎの手から除かれるやうに成つた。
それでも、たけのこの皮が竹のくきにまとわりついて横たわっているように、与吉がおつぎを慕う気持ちに変わりはなかった。
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それでも筍の皮が竹の幹に纏つては横たはつて居るやうに、與吉がおつぎを懷しがることに變りはなかつた。
与吉は近所の子どもとよく田んぼへ出た。
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與吉は近所の子供と能く田圃へ出た。
暖かい日には、彼はひとえに着がえて、たもとを後ろでぎっとしばったり、すそをぐるっとまくったりしてもらうあいだも待ち遠しくて、はねている。
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暖かい日には彼は單衣に換て、袂を後でぎつと縛つたり尻をぐるつと端折つたりして貰ふ間も待遠で跳ねて居る。
「ほりのそばへは行くんじゃないぞ。着物をよごすと聞かないぞ」
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「堀の側へは行ぐんぢやねえぞ、衣物汚すと聽かねえぞ」
おつぎが言うのを耳にも入れないで、小さなざるを手にして走って行く。
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おつぎがいふのを耳へも入れないで小笊を手にして走つて行く。
田んぼのはんの木は、しおれた花が落ちて、若葉にはまだ少し間があるので、手持ちぶさたそうに立っている季節である。
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田圃の榛の木はだらけた花が落ちて嫩葉にはまだ少し暇があるので手持なさ相に立つて居る季節である。
田はわずかにしめり気があって、足の底に暖かみを感じる。
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田は僅に濕ひを含んで足の底に暖味を感ずる。
たがやす人は、まだ下りて来ない。
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耕す人はまだ下り立たぬ。
白っぽくかわいたかり株のあいだには、気をつけて見ればところどころにとても小さなあながある。
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白つぽく乾いた刈株の間には注意して見れば處々に極めて小さな穴がある。
子どもたちは、そのあなをさがして歩くのである。
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子供等は其の穴を探して歩くのである。
彼らは小さな手をねばる土に差しこんでは、両手に力をこめて引っくり返す。
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彼等は小さな手を粘る土に揷込んでは兩手の力を籠めて引つ返す。
そこにはどじょうがちょろちょろとはね返りながら、その身をあわただしく動かしている。
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其處には鰌がちよろ/\と跳返りつゝ其身を慌しく動かして居る。
すると彼らは、みな声を立ててさわぎながら、その小さなどろだらけの手でつかまえようとしては逃げられながら、やっとのことでざるへ入れる。
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さうすると彼等は孰も聲を立てゝ騷ぎながら、其の小さな泥だらけの手で捉へようとしては遁げられつゝ漸くのことで笊へ入れる。
どじょうは、そのこそばゆいざるの中でしばらく身を動かしては落ち着く。
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鰌は其のこそつぱい笊の中で暫く其の身を動かしては落付く。
ほかのどじょうがまた入れられるとき、さっきのどじょうがいっしょにさわいでは落ち着く。
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他の鰌が又入れられる時先刻の鰌が一つに騷いでは落付く。
彼らはこうして、その小さなあなをさがして田から田へ移って歩く。
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彼等は斯うして其小さな穴を求めて田から田へ移つて歩く。
この土地では、それを「目ぼり」と言っている。
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土地ではそれを目掘りというて居る。
与吉には、いくらどろだらけになってもどじょうは取れなかった。
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與吉には幾ら泥になつても鰌は捕れなかつた。
仲間の大きな子は、それでも一ぴきずつくらいは与吉のざるにも入れてやるのだった。
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仲間の大きな子はそれでも一匹位づつ與吉の笊にも入れて遣るのであつた。
それで彼は、おくれながらもほかの子どもについて行かずにはいられなかったのである。
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それで彼は後れながらも他の子供に跟いて歩かずには居られなかつたのである。
ほりには、動かない水が空をうつしてたまっている所がある。
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堀には動かない水が空を映して湛へて居る處がある。
そうかと思えば、水は一てきもなくて、どろの上をすじのように流れた砂のあとが、ちらちらと春の日をわずかに反しゃしている所がある。
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さうかと思へば或は水は一滴もなくて泥の上を筋のやうに流れた砂の趾がちら/\と春の日を僅に反射して居る處がある。
子どもたちはまばらなかれあしのあたりから下りて、そこでも目ぼりをためす。
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子供等は疎らな枯蘆の邊からおりて其處にも目掘りを試みる。
大きな子どもは大事なざるをそっと持って下りる。
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大きな子供は大事な笊をそつと持ておりる。
小さな子どもはほりへ下りながら、ざるをかたむけてどじょうをこぼすことがある。
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小さな子供は堀へおりながら笊を傾けて鰌を滾すことがある。
大きな子どもは「それっ」と言って、いたずらにそれをつかまえようとする。
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大きな子供はそれつといつて惡戯に其を捕うとする。
子どもたちは順々にみな、それをまねしようとする。
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子供等は順次に皆それに傚はうとする。
すると小さな子どもは、ただ火がついたように泣く。
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さうすると小さな小供は唯火の點いたやうに泣く。
それと同時にどじょうが小さな子どものざるに返されて、子どもはそのどじょうをのぞくとともに、その泣く声がぴたりと止まってしまうのである。
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それと同時に鰌が小さな子供の笊に返されて子供は其鰌を覗くと共に其の泣く聲がはたと止つて畢ふのである。
ほりのねばついたどろは、うっかりすると小さな足を吸いつけて放さない。
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堀の粘ついた泥はうつかりすると小さな足を吸ひ附けて放さない。
すると、みんなが逃げるように岸へ上がって、指を出してその先を曲げながらはやし立てる。
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さうするとみんなが遁げるやうに岸へ上つて指を出して其の先を屈曲させながら騷ぐ。
小さな子どもはざるを手にしたまま、目に手も当てずに声を上げて泣く。
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小さな子供は笊を手にした儘目には手も當ずに聲を放つて泣く。
与吉はこうして、よく泣かされた。
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與吉は恁うして能く泣かされた。
彼には少しも親や兄の力がかぶさっていない。
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彼には寸毫も父兄の力が被つて居ない。
聞き分けのない子どものあいだにも、家族の力はとても大きくはたらいている。
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頑是ない子供の間にも家族の力は非常な勢ひを示して居る。
その家族がみんなから見下される目で見られているように、子どものあいだでもまた、小さい与吉は見下されていた。
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其家族が一般から輕侮の眼を以て見られて居るやうに、子供の間にも亦小さい與吉は侮られて居た。
それでも与吉は、帰りには小さなざるの底にどじょうがあるのでよろこんでいた。
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それでも與吉は歸りには小笊の底に鰌があるので悦んで居た。
泣いたそのときはしおれても、彼はすぐに機げんが直って、そのわずかなえもののざるをほこっておつぎのそばに来るときは、いつもの甘えた与吉である。
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泣いた當座は萎れても彼は直に機嫌が出て、其僅な獲物の笊を誇つておつぎの側に來る時は何時もの甘えた與吉である。
彼はどこへでもべたりとすわるので、しりを丸出しにまくってやっても、着物はどろだらけにした。
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彼は何處へでもべたりと坐るので臀を丸出しに褰げてやつても衣物は泥だらけにした。
それでしかられても、どろのかわいたそのしりをたたかれても、おつぎにされるのは彼にはちっともこわくなかった。
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それで叱られても泥の乾いた其臀を叩かれても、おつぎにされるのは彼にはちつとも怖ろしくなかつた。
彼は小言は耳にも入れないで、「姉ちゃんよう、見ろよう」
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彼は小言は耳へも入れないで「姊よう見ろよう」
と小さなざるをかたむけては、ちょこちょことはねるようにして小きざみに足を動かしながら、おつぎがほめてくれるのを待って止まない。
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と小笊を枉げてはちよこ/\と跳ねるやうにして小刻みに足を動かしながらおつぎの譽める詞を促して止まない。
彼はあまりによろこんでさわいで、ひょっとするとあぶない手つきでどじょうを庭へ落とすことがある。
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彼は餘りに悦んで騷いでひよつとすると危い手もとで鰌を庭へ落す事がある。
どじょうはかわいた庭の土にまみれて、苦しそうに動く。
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鰌は乾いた庭の土にまぶれて苦しさうに動く。
与吉がおさえようとするとき、にわとりがひょいと来てくちばしでつついて、かけて行ってしまう。
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與吉が抑へようとする時鷄がひよつと來て嘴で啄いて駈けて行つて畢ふ。
ほかのにわとりがそれを追いかける。
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他の鷄がそれを追ひ掛ける。
与吉はそうすると、またひとしきり泣くのである。
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與吉はさうすると又一しきり泣くのである。
「お前があんまりうっかりしてるからだわ」
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「汝あんまりうつかりしてつかんだわ」
おつぎは笑いながら、立っている与吉の頭をだいて、それから手水だらいへ水をくんで、どじょうを入れてやる。
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おつぎは笑ひながら、立つてる與吉の頭を抱いてそれから手水盥へ水を汲んで鰌を入れて遣る。
与吉は水へ手を入れては、どじょうがさわぐのを見てすぐに声を立てて笑う。
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與吉は水へ手を入れては鰌の騷ぐのを見て直に聲を立てて笑ふ。
おつぎはそうしておいて、どろだらけの手足を洗ってやる。
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おつぎはさうして置いて泥だらけの手足を洗つてやる。
与吉はときどきどじょうを持って来た。
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與吉は時々鰌を持つて來た。
おつぎは着物がどろになるのをしかりながら、それでも元気よく田んぼへ出してやった。
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おつぎは衣物の泥になるのを叱りながらそれでも威勢よく田圃へ出してやつた。
そのたびに、ほかの子どもたちの後ろから
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其の度に他の子供等の後から
「泣かさないで、よきのことも連れて行ってくれよな」
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「泣かさねえでよきことも連れでつてくろうな」
というおつぎの声が追いかけるのだった。
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といふおつぎの聲が追ひ掛けるのであつた。
わずかなどじょうは味噌しるへ入れて、はしで骨をしごいて与吉にやった。
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僅な鰌は味噌汁へ入れて箸で骨を扱いて與吉へやつた。
自分では骨と頭をしばらく口にふくんで、それから捨てた。
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自分では骨と頭とを暫く口へ含んでそれから捨てた。
田がそろそろとたがやされるようになった。
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田がそろ/\と耕されるやうに成た。
子どもたちはまた、一つ一つのかたまりにたがやされた田をわたって、そのかたまりの上をすべりながらこえながら、とても小さなくわいのような、ゑぐの根を取った。
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子供等は又一つ/\の塊に耕された田を渡つて、其塊の上を辷りながら越えながら、極めて小さい慈姑のやうなゑぐの根をとつた。
それはこの土地ではなまって、「ゑご」と呼ばれている。
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それは土地では訛つてゑごと喚ばれて居る。
そこらの田にはゑぐが多いので、秋のころになると、しげった稲のかげに小さな白い花がさく。
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そこらの田にはゑぐが多いので秋の頃に成ると茂つた稻の陰に小さな白い花が咲く。
与吉もほかの子どもがするように、小さなざるを持って出た。
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與吉も他の子供のするやうに小笊を持て出た。
どじょうとちがって、これは彼の手にもわずかずつは取ることができた。
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鰌とは違つて此れは彼の手にも僅づゝは採ることが出來た。
少しずつ取っては、毎日のようにためた。
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少しづゝ採ては毎日のやうに蓄へた。
おつぎはお茶をわかすたびに、それを灰の中へ投げこんで焼いてやる。
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おつぎは茶を沸す度にそれを灰の中へ投げ込んで燒いてやる。
火をいじるのがあぶないので、与吉は一人でかまどに手をつけることは禁じられている。
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火を弄ることが危いので與吉は獨りで竈へ手をつけることは禁ぜられて居る。
灰の中へ入れたばかりで、与吉は
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灰の中へ入れたばかりで與吉は
「ようよう」
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「よう/\」
と言っておつぎにせがむ。
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といつておつぎに迫る。
与吉は焼けるまでの時間が待ちきれないのである。
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與吉は燒ける間が遲緩しいのである。
「そんなに早く焼けないだろうな。そんじゃ姉ちゃんは知らないぞ」
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「そんなに燒けめえな、そんぢや姊は構あねえぞ」
と、おつぎはゑぐをかき出してやる。
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とおつぎはゑぐを掻き出して遣る。
与吉は口へ入れても、まだがりがりで、しかもにがいのではき出してしまう。
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與吉は口へ入れてもまだがり/\で且苦いので吐き出して畢ふ。
「そうら見ろ、大きな口をきいて言うことを聞かないから」
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「そうら見ろ、大けえ姿していふこと聽かねえから」
おつぎは怒ったようすをして見せる。
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おつぎは怒つたやうな容子をして見せる。
「姉ちゃんよ、よう」
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「姊よ、よう」
と、与吉はまたねだる。
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と與吉は又強請む。
そのときにはもう、皮にしわの寄った焼けたゑぐが与吉の手に乗せられる。
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其の時はもう皮に皴が寄つて燒けたゑぐが與吉の手に載せられる。
「お前、熱いぞ」
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「汝熱えぞ」
とおつぎが言えば、与吉は手を引いて、ゑぐは土間へ落ちる。
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とおつぎがいへば與吉は手を引いてゑぐは土間へ落ちる。
それをまた手に乗せてやると、与吉はおつぎがするようにふうふうと灰をふく。
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それを又手に載せてやると與吉はおつぎがするやうにふう/\と灰を吹く。
与吉はもっともっととおつぎにせがんで、勘次にどなられてはやめるのである。
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與吉は後も後もとおつぎにせがんで、勘次に呶鳴られては止めるのである。
ためたゑぐが小さなざるにいっぱいになったとき、おつぎはざるを手に持って
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蓄へられたゑぐが小笊に一杯に成つた時おつぎは小笊を手に持つて
「よきにこれを煮てやろうか。さとうでも入れたらうまいだろうな」
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「よきげ此煮てやつぺか、砂糖でも入たら佳味かつぺな」
と、独り言のように言った。
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獨語のやうにいつた。
「煮てくれようよう」
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「煮てくろうよう」
与吉はそれを聞いてまたせがんで、おつぎへ飛びついて、かぶっている手ぬぐいを引っぱった。
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與吉はそれを聞いて又せがんでおつぎへ飛びついて、被つて居る手拭を引つ張つた。
おつぎは
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おつぎは
「ああ痛いまあ」
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「おゝ痛えまあ」
と顔をしかめて、引かれるままに首をかたむけて言った。
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と顏を蹙めて引かれる儘に首を傾けていつた。
乱れた髪の三本四本が、手ぬぐいといっしょに強く引かれたのである。
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亂れた髮の三筋四筋が手拭と共に強く引かれたのである。
「そんなものは塩ででもゆでてやれ」
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「其麽もの鹽でゞも茹てやれ」
勘次は急にどなった。
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勘次は俄に呶鳴つた。
「さとうだなんて、黙ってれば知らないでいるもの。泣かれたらどうするんだ。さとうだのしょうゆだのって、そんなことしたっくらい、なんぼ損だか知れやしない。おとっつあんはそんなお金なんざ一銭だって持ってないから、塩だってかんたんなもんじゃないや。そんなよけいなものは何の役にも立つもんじゃない」
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「砂糖だなんて、默つてれば知らねえでるもの、泣かれたらどうすんだ、砂糖だの醤油だのつてそんなことしたつ位なんぼ損だか知れやしねえ、おとつゝあ等そんな錢なんざ一錢だつて持つてねえから、鹽だつて容易なもんぢやねえや、そんな餘計なもの何になるもんぢやねえ」
勘次はくり返してしかった。
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勘次は反覆して叱つた。
与吉はおつぎのかげへ回ってだきついた。
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與吉はおつぎの陰へ廻つて抱きついた。
「どうしたもんだろうなまあ。すぐに怒るんだから」
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「どうしたもんだんべまあ、ぢつき怒んだから」
おつぎは小言を聞いてつぶやいた。
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おつぎは小言を聞いて呟いた。
「そんだって、おとっつあんはそんな余ゆうはないんだから」
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「そんだつて、おとつゝあ等そんな處ぢやねえから」
勘次はがっかりして声を落として言った。
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勘次はがつかり聲を落していつた。
そして黙りこんだ。
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さうして沈默した。
おつぎも、お品が死んでから苦しい暮らしの中で二度目の春をむかえた。
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おつぎもお品が死んでから苦しい生活の間に二たび春を迎へた。
おつぎはやむを得ず、暮らしのつらさにたえる力を早く身につけた。
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おつぎは餘儀なくされつゝ生活の壓迫に對する抵抗力を促進した。
よその女の子のようなのんびりした春は知らないで、おつぎは体つきも大きく変わった。
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餘所の女の子のやうに長閑な春は知られないでおつぎは生理上にも著るしい變化を遂げた。
お品が死んだとき、おつぎはまだ落ち葉をくべるといっては、竹の火ばしの先をすぐに燃やしてしまうほど下手な子だった。
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お品が死んだ時はおつぎはまだ落葉を燻べるとては竹の火箸の先を直ぐに燃やして畢ふ程下手な子であつた。
それが横にもたてにも大きくなって、はだもつやつやと見えて、髪も長くなった。
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それが横にも竪にも大きくなつて、肌膚もつやゝかに見えて髮も長くなつた。
おつぎの家の後ろの、がけのようになった所からは、村の人がよく黄色いねん土を取った。
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おつぎの家の後の崖のやうに成つた處からは村のものが能く黄色な粘土を採つた。
髪がべたつくようになると、おつぎはそのねん土をこすりつけて、はだぬぎになったまま黄色く染まった頭を井戸のそばで洗うのである。
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髮が黏るやうになるとおつぎは其の粘土をこすりつけて、肌ぬぎになつた儘黄色く染まつた頭を井戸の側で洗ふのである。
そして、そのふさふさとした髪は、二度とかす所を三度とかすようになった。
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さうして其のふつさりとした髮は二度梳く處は三度梳くやうに成つた。
おつぎはまた、髪へつけるごまの油を元結でしばった小さなびんに入れて、大事にしまっておくのである。
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おつぎは又髮へつける胡麻の油を元結で縛つた小さな罎へ入れて大事に藏つて置くのである。
短いあいだではあるが、針を持つようになってからは赤いたすきもぬった。
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短い期間ではあるが針持つやうになつてからは赤い襷も絎けた。
半纏もせんたくした。
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半纏も洗濯した。
どうにか自分の手でぬい上げた、丈の合う着物を着て、おつぎは急に大人びたようになった。
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どうにか自分の手で仕上げた身丈に足りる衣物を着ておつぎは俄に大人びたやうに成つた。
田や畑に出るときには、まだのりのぬけない半纏へ赤いたすきを肩からかけて、勘次の後についてゆく。
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田や畑に出る時にはまだ糊のぬけない半纏へ赤い襷を肩から掛けて勘次の後に跟いて行く。
おつぎは仕事にかかるときには、その半纏はぬいで木のえだへかける。
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おつぎは仕事にかゝる時には其の半纏はとつて木の枝へ懸ける。
おつぎのすがたは、やっと村の人の目を引くようになった。
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おつぎの姿は漸く村の注目に値した。
春の野をかざって黄色い布をかけたような菜の花も、春らしい雨がちらちらとふって、霜にやられたような葉がめっきり青くなって来たころには、その開いた葉の真ん中にほんのわずかな出っぱりを見つける。
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春の野を飾つて黄色な布を掩うたやうな菜の花も、春らしい雨がちら/\と降つて霜に燒けたやうな葉が滅切と青みを加へて來た頃は其開いた葉の心部には只僅な突起を見出す。
しかしそこには、つぼみがはっきりと形になっているのである。
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然しそこには蕾が明かに形を成して居るのである。
空からは暖かい日ざしがまねいて、土からは長い手がずんずんとさし上げてはさらに長くさし上げるので、そのはでな花が麦や小麦のほにもうもれることなく、広い野をしめるのである。
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空からは暖かい日光が招いて土からは長い手がずん/\とさし扛げては更に長くさし扛げるので其の派手な花が麥や小麥の穗にも沒却されることなく廣い野を占めるのである。
おつぎも、その真ん中に見えるつぼみだった。
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おつぎも其の心部に見える蕾であつた。
しかしそのつぼみは、さし上げてもらえないばかりか、おさえつける手の強い力が加えられている。
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然し其蕾はさし扛げられないのみではなく壓へる手の強い力が加へられてある。
勘次は少しのあいだも、おつぎを自分のそばから放すまいとしている。
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勘次は寸時もおつぎを自分の側から放すまいとして居る。
だから、空の日ざしがまねくように女の心をさそうはずの村の若者とのあいだには、おつぎは何のつながりも生まれなかった。
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隨つて空の日光が招くやうに女の心を促すべき村の青年との間にはおつぎは何の關係も繋がれなかつた。
おつぎが十七という年だと聞いて、みな今さらのようにそのすがたに目を向けたのである。
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おつぎが十七といふ年齡を聞いて孰れも今更のやうに其の注意を惹起したのである。
冬の季節にほこりをまき上げて来る西風は、まずどこよりもおつぎの家の雨戸を、今日も来たぞとたたく。
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冬の季節に埃を捲いて來る西風は先づ何處よりもおつぎの家の雨戸を今日も來たぞと叩く。
それは村の西のはしにあるからである。
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それは村の西端に在るからである。
場所がそういう追いやられたような形になっている上に、暮らしのようすから自然に、ある程度までは人の注意からもれて、日かげにいるのと同じようなところがあったのである。
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位置がさういふ逐ひやられたやうな形に成つて居る上に、生活の状態から自然に或程度までは注意の目から逸れて日陰に居ると等しいものがあつたのである。
勘次の見張りの手は、つぼみの成長を止める冷たい空気であり、そしてこれをのぞこうとする者をふせぐ固いかきねである。
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勘次の監督の手は蕾の成長を止める冷かな空氣で、さうして之を覗ふものを防遏する堅固な牆壁である。
しかし春の季節を地上の草木が知ったとき、どれほど白く霜がおりても草木の力は動いて止まないように、おつぎの心は外から加える見張りの手で奪い去ることはできない。
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然し春の季節を地上の草木が知つた時、どれ程白く霜が結んでも草木の活力は動いて止まぬ如く、おつぎの心は外部から加へる監督の手を以て奪ひ去ることは出來ない。
おつぎは勘次の後についてゆき、畑へ行き来するとちゅうで、こんの仕事着に身を固めた村の若者に会うときには、さすがに心が引かれた。
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おつぎは勘次の後へ跟いて畑へ往來する途上で紺の仕事衣に身を堅めた村の青年に逢ふ時には有繋に心は惹かされた。
肩にしたくわの柄へ、おつぎは両手をかけている。
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肩にした鍬の柄へおつぎは兩手を掛けて居る。
そのにぎった手にほおをもたせるようにして、おつぎはいくらか首をかたむけながら、手ぬぐいの下から黒いひとみで若者を見るのだった。
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其握つた手に頬を持たせるやうにして、おつぎは幾らか首を傾けつゝ手拭の下から黒い瞳で青年を見るのであつた。
勘次は、後からついて来るおつぎのようすまでは知ることができなかった。
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勘次は後から跟いて來るおつぎの態度まで知ることは出來なかつた。
おつぎは何度もそうして村の若者を見た。
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おつぎは數次さうして村の青年を見た。
しかし一言も交わす機会は持てなかった。
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然し一語も交換する機會を有たなかつた。
おつぎはどうということもなく、むしろほとんど無意識にすれちがう若者を見るのだったが、手ぬぐいの下に光る暖かい二つのひとみに気持ちがこもっていることは、若者たちの目にもなんとなく感じ取られた。
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おつぎはどうといふこともなく寧ろ殆ど無意識に行き交ふ青年を見るのであつたが、手拭の下に光る暖かい二つの瞳には情を含んで居ることが青年等の目にも微妙に感應した。
こうして、おつぎもいつのまにか人のうわさにのぼったのである。
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恁うしておつぎもいつか口の端に上つたのである。
それでも、若者がおつぎとふれ合えるのは、勘次の見張りの下で、真昼の道で一目見てすれちがう、その一しゅんだけだった。
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それでも到底青年がおつぎと相接するのは勘次の監督の下に白晝往來で一瞥して行き違ふ其瞬間に限られて居た。
だから、ふつうのむすめとちがって、おつぎの心には男に対するおそれの幕をむりに引きはらわれる機会が、これまで一度も与えられなかった。
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それ故一般の子女のやうではなくおつぎの心にも男に對する恐怖の幕を無理に引拂はれる機會が嘗て一度も與へられなかつた。
おつぎは道を行くときには、手ぬぐいのかぶり方にも気をつかう、ふつうの女である。
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おつぎは往來を行くとては手拭の被りやうにも心を配る只の女である。
それが家に帰れば、すぐに苦しい暮らしの人にならなければならない。
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それが家に歸れば直に苦しい所帶の人に成らねばならぬ。
そこでおつぎの心は、別人のようにきりっと引きしめられるのだった。
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そこにおつぎの心は別人の如く異常に引き緊められるのであつた。
またさわやかな初夏が来て、百姓はいそがしくなった。
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復爽かな初夏が來て百姓は忙しくなつた。
おつぎは、死んだお品が織ったのだという弁慶じまのひとえを着て出るようになった。
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おつぎは死んだお品が地機に掛けたのだといふ辨慶縞の單衣を着て出るやうに成つた。
針を持つようになったとき、おつぎはこれも自分の手でぬい上げたのだった。
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針を持つやうに成つた時おつぎは此も自分の手で仕上たのであつた。
それはそばで見ていてはあぶなっかしい手つきで、何度か針の運び方をまちがえてほどいたこともあったが、ついには体にぴったり合うようになっていた。
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夫は傍で見て居ては危な相な手もとで幾度か針の運びやうを間違つて解いたこともあつたが、遂には身體にしつくり合ふやうに成つて居た。
死んだお品は、おつぎが生まれてすぐにかまどを別にして、みすぼらしい暮らしをしたので、当時は晴れ着だったそのひとえを着てみる機会もなく、しまったままになっていたのである。
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死んだお品はおつぎが生れたばかりに直に竈を別にして、不見目な生計をしたので當時は晴の衣物であつた其の單衣に身を包んで見る機會もなく空しく藏つた儘になつて居たのである。
それに、そのころは紺が七日もたたなければ使えないような藍がめで染められたので、今のふつうの布のように、水で落ちないかと思えば日にあせるというのではなく、勘次が言ったようにせんたくしてもかえって色がさえるようなもので、それに生地もしっかりと丈夫だった。
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それに其の頃は紺が七日からも經たねば沸ないやうな藍瓶で染られたので、今の普通の反物のやうな水で落ちないかと思へば日に褪めるといふのではなく、勘次がいつたやうに洗濯しても却て冴えるやうなので、それに地質もしつかりと丈夫なものであつた。
おつぎが洗いざらしのあわせを捨てて、弁慶じまのひとえで出るようになってからは、ひときわ人の目を引いた。
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おつぎが洗ひ曝しの袷を棄てゝ辨慶縞の單衣で出るやうに成つてからは一際人の注目を惹いた。
例の赤いたすきが後ろで交差して、そでを短くしごき上げる。
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例の赤い襷が後で交叉して袖を短く扱あげる。
そのしごき上げられた肩は、着物のしわで少し張って、体をしっかりと見せる。
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其扱きあげられた肩は衣物の皴で少し張つて身體を確乎とさせて見せる。
出たうでには、こんの手甲がつけられている。
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現れた腕には紺の手刺が穿たれてある。
やっと暑い日ざしをきらって、おつぎは白いすげがさをかぶった。
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漸く暑い日を厭うておつぎは白い菅笠を戴いた。
白いすげがさは雨にさらされればそれで破れてしまうので、夏のはじめには必ずどこでも新しいのに取りかえられるのである。
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白い菅笠は雨に曝されゝばそれで破れて畢ふので、夏のはじめには屹度何處でも新しいのに換られるのである。
おつぎは勘次に連れられて、麦のうねの間をたがやした。
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おつぎは勘次に引かれて麥の畦間を耕した。
くわを入れるのがおくれた麦は、ほが白く出ている。
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鍬を入れるのが手後れになつた麥は穗が白く出て居る。
ときどき立って、くわについた土を足の底でしごき落とすおつぎのすがたが、さやさやとかすかな音を立てて動く白いほの上に見える。
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時々立つて鍬に附いた土を足の底で扱きおろすおつぎの姿がさや/\と微かな響を立てゝ動く白い穗の上に見える。
よそをちょっと見るたびに、大きなすげがさがぐるりと動く。
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餘所を一寸見る度に大きな菅笠がぐるりと動く。
すげがさは日をよけるだけでなく、女にとってはおしゃれなかざりでもある。
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菅笠は日を避けるのみではなく女の爲には風情ある飾である。
髪には白い手ぬぐいをかぶって、かさの竹の骨がその髪をおさえるところには、小さなわりと厚いふとんが置かれている。
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髮には白い手拭を被つて笠の竹骨が其の髮を抑へる時に其處には小さな比較的厚い蒲團が置かれてある。
そういうすきまをあけて、すげがさは前かがみに高くのせられるのである。
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さういふ間隔を保つて菅笠は前屈みに高く据ゑられるのである。
女たちはみな、わずかな休みのあいだにも汗をふくにはかさを取って地面に置く。
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女等は皆少時の休憩時間にも汗を拭ふには笠をとつて地上に置く。
一つにはひもがよごれるのをきらって、必ずさかさにして裏を見せるのである。
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一つには紐の汚れるのを厭うて屹度倒にして裏を見せるのである。
そして、厚いかさぶとんの赤い布が丸く、白いかさの真ん中で黒いひもとつり合いを保つのである。
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さうして厚い笠蒲團の赤い切が丸く白い笠の中央に黒い絎紐と調和を保つのである。
おつぎのかさぶとんは、赤や黄や青の小さな布を集めてぬったのだった。
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おつぎの笠蒲團は赤や黄や青の小さな切を聚めて縫つたのであつた。
しかし、おつぎの帯だけは古かった。
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然しおつぎの帶だけは古かつた。
よその女の子はたいてい、きれいな赤い帯をしめて、ぐるりとまくり上げた着物のすそは帯の結び目の下へ入れて、ひたすら後ろすがたを気にするのである。
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餘所の女の子は大抵は綺麗な赤い帶を締めて、ぐるりと褰げた衣物の裾は帶の結び目の下へ入れて只管に後姿を氣にするのである。
いっぱいに青くしげった桑畑などに、白い大きなすげがさと赤い帯の後ろすがたが、ことに空から差す強い日ざしを反しゃして、その赤い帯が燃えるように見えたり、すげがさがさらに大きく白く光ったりするときには、さすがに人の目を引かずにいられない。
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一杯に青く茂つた桑畑抔に白い大きな菅笠と赤い帶との後姿が、殊には空から投げる強い日光に反映して其の赤い帶が燃えるやうに見えたり、菅笠が更に大きく白く光つたりする時には有繋に人の目を惹かねばならぬ。
彼女たちのすがたはこうして遠くから見るものだが、しかし近づいたときでも、はね上がったかさの後ろには、両ほおへたれて、そして黒いひもでしめられた手ぬぐいのすきまから少し乱れた髪がのぞいていて、そこにも一種のおもむきが見られる。
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彼等の姿は斯くして遠く隔てゝ見るべきものであるが然しながら其の近づいた時でも、跳ねあげられた笠の後には兩頬へ垂れてさうして其の黒い絎紐で締められた手拭の隙間から少し亂れた髮が覗いて居て其處にも一種の風情が發見されねばならぬ。
雨をふくんだ雲がときどきさえぎるとはいえ、暑い日ざしの下で黄色く熟した麦が刈られたとき、畑はからりとなって、さかいに植えられている卯木のびっしりついた白い花が、あちらこちらに目立って、急に広々としたのを感じるとともに、さえぎるものがなくなった分だけ、目に入る女のすがたが増えるのである。
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雨を含んだ雲が時々遮るとはいへ、暑い日のもとに黄熟した麥が刈られた時畑はからりと成つて境木に植られてある卯木のびつしりと附いた白い花が其處にも此處にも目に立つて、俄に濶々としたことを感ずると共に支へるものが無くなる丈目に入る女の姿が殖えるのである。
彼女たちはわずかな休みにも、必ず刈りたおした麦をしりにしいて、その白い卯木の下で少しでも日をよける。
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彼等は少時の休憩にも必ず刈り倒した麥を臀に敷いて其の白い卯木の下に僅でも日を避ける。
どう見ても彼女たちの白いすげがさと赤い帯は、広い野をかざる大きな花でなければならない。
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到底彼等の白い菅笠と赤い帶とは廣い野を飾る大輪の花でなければならぬ。
その一つが、おつぎには欠けていた。
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其の一つの要件がおつぎには缺けて居た。
暑い季節は百姓のみんなを、そのせまい住まいから遠く野へさそって、たがいにその若々しくつやつやしたすがたにあこがれさせるのに、そしてとげの生えた野茨さえ白い花のころもをかざって、気持ちよくぴったりとだき合ってはたがいにうなずきながら、つきない思いをささやいているのに、おつぎは若者とのあいだに一言を交わすことさえ、その権利をおさえられていた。
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暑い氣候は百姓の凡てを其狹苦い住居から遠く野に誘うて、相互に其青春のつやゝかな俤に憧憬しめるのに、さうして刺の生えた野茨さへ白い衣を飾つて快よいひた/\と抱き合ては互に首肯きながら竭きない思を私語いて居るのに、おつぎは嘗て青年との間に一語を交へることさへ其權能を抑へられて居た。
どちらにしても、おつぎの心にはさすがにかすかな物足りなさがあったのである。
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孰れにしてもおつぎの心には有繋に微かな不足を感ずるのであつた。
勘次は洗いざらしのじゅばんをふんどし一つのはだかに引っかけて、船頭がかぶるようないぐさのあみがさに麻のひもをつけている。
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勘次は洗ひ曝しの襦袢を褌一つの裸へ引つ掛て、船頭が被るやうな藺草の編笠へ麻の紐を附けて居る。
勘次に教えられて、おつぎは仕事がとても上手になった。
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勘次に導かれておつぎは仕事が著るしく上手になつた。
おつぎが畑へ行き来するときは、村の女の人たちはよく言った。
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おつぎが畑へ往來する時は村の女房等は能くいつた。
「何とまあ、おっかさんに似て来たことかな。歩き方までそっくりだ」
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「何ちう、おつかさまに似て來たこつたかな、歩きつきまでそつくりだ」
「そばかすがぽちぽちしてる所までなあ」
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「雀斑がぽち/\してつ處までなあ」
お品には、目と鼻のあたりにそばかすが少しあったのである。
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お品には目と鼻のあたりに雀斑が少しあつたのである。
おつぎにもそれがそのままで、にっこりするときにはそれがかえって、かわいらしさを引き立てた。
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おつぎにも其れがその儘で嫣然とする時にはそれが却て科をつくらせた。
「勘次さん、あっという間だな。まだこの間だと思ってたのにな。嫁にやってもいいくらいじゃないかい。お品さんもお前、これくらいのときじゃなかったっけかい」
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「勘次さん譯のねえもんだな、まあだ此間だと思つてたのにな、嫁にやつてもえゝ位ぢやねえけえ、お品さんもおめえ此位の時ぢやなかつたつけかよ」
女の人たちはまた、からかい半分にこういうことも言った。
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女房等は又揶揄半分に恁ういふこともいつた。
おつぎは、勘次がそう言われるときにはいつも赤い顔をして、よそを向いてしまうのである。
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おつぎは勘次がさういはれる時何時も赤い顏をして餘所を向いて畢ふのである。
勘次はお品のことを言われるたびに、おつぎの体をそう思ってつくづく見るたびに、お品の思い出が呼び返されて、一種のたえがたい気持ちを感じずにいられない。
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勘次はお品のことをいはれる度に、おつぎの身體をさう思つては熟々と見る度に、お品の記憶が喚返されて一種の堪へ難い刺戟を感ぜざるを得ない。
それと同時に、女房がほしいという切ない思いがわくのである。
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それと同時に女房が欲しいといふ切ない念慮を湧かすのである。
えんりょのない女の人たちにお品の話をされるのは、ただ悲しみをさそうだけなのだが、また一方には話をしてみてほしいような気持ちもしてならないことがあった。
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遠慮の無い女房等にお品の噺をされるのは徒らに哀愁を催すに過ぎないのであるが、又一方には噺をして見て貰ひたいやうな心持もしてならぬことがあつた。
「勘次さん、どうしたい、いい塩梅のがあるんだが、後ぞえを持ってもよくないかい」
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「勘次さんどうしたい、えゝ鹽梅のが有んだが後持つてもよかねえかえ」
と、彼に女房を世話しようという人は、お品が死んでから間もなくいくらもいた。
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と彼に女房を周旋しようといふ者はお品が死んでから間もなく幾らもあつた。
勘次はただお品だけをこいしがっていたのだが、だんだん日がたって不自由を感じるとともに、耳をそばだててそういう話を聞くようになった。
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勘次は只お品にのみ焦れて居たのであるが、段々日數が經つて不自由を感ずると共に耳を聳てゝさういふ噺を聞くやうに成つた。
しかし、そんな話をして聞かせる人たちは、勘次のひどい貧しさと、二人の子がいることとで、とても後ぞえは居つけないという見通しが先に立って、心の底から世話をしようというのではない。
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然し其麽噺をして聞かせる人々は勘次の酷い貧乏なのと、二人の子が有るのとで到底後妻は居つかれないといふ見越が先に立つて、心底から周旋を仕ようといふのではない。
ただ、ひまをおしがる勘次が、どこへでもくわやかまを捨てて話に乗ってくるので、つい、いたずらにじらしてみるのである。
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唯暇を惜しがる勘次が何處へでも鍬や鎌を棄てゝ釣込まれるので遂惡戯にじらして見るのである。
ことに、おつぎが大きくなればなるほど、その働きが目立てば目立つほど、後ぞえには居づらい所だと人は思った。
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殊におつぎが大きくなればなる程、其の働きが目に立てば立つ程後妻には居憎い處だと人は思つた。
貧しい家へ後ぞえにでもなろうという人には、実さいろくな人はいないというのが、みんなの見方だった。
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貧乏世帶へ後妻にでもならうといふものには實際碌な者は無いといふのが一般の斷案であつた。
他人はただ、彼の心をいらだたせた。
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他人は只彼の心を苛立たせた。
そして彼のふつうでないようすが、かえっていたずら好きの心を刺げきするだけだった。
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さうして彼の尋常外れた態度が、却て惡戯好きの心を挑發するのみであつた。
「ままよう、ままようでえ、ままあな、ら、ぬう」
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「まゝよう、まゝようでえ、まゝあな、ら、ぬう」
勘次が小声で歌って行くのが、どうかすると人の耳にもひびくようになった。
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勘次は小聲で唄うて行くのがどうかすると人の耳にも響くやうに成つた。
そのころは勘次の庭のくりのえだも、そこにわいて残こくに葉を食いあらす栗毛虫のような毒々しい花がやっと白くなって、どこの村でもふさふさとした青葉のえだから、くりの木がわりと多いことを示して、その白い花が目についた。
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其の頃は勘次の庭の栗の梢も、それへ繁殖して残酷に葉を喰ひ荒す栗毛蟲のやうな毒々しい花が漸く白く成つて、何處の村落にもふつさりとした青葉の梢から栗の木が比較的に多いことを示して其の白い花が目についた。
村をうめているえだから、ふわふわとゆげが立ち上るような形に、くりの花はいっぱいである。
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村落を埋めて居る梢からふわ/\と蒸氣が立ち騰らうといふ形に栗の花は一杯である。
空はふらないながらに低い雲がわだかまって、ときどき、目にあざやかで、しかも黒ずんだ青葉の上に、かっと黄色い明るい光を投げる。
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空は降らないながらに低い雲が蟠つて、時々目に鮮かで且黒ずんだ青葉の上にかつと黄色な明るい光を投げる。
どこということなくじめじめして、頭をおさえつけるように重苦しい感じがする。
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何處となく濕つぽく頭を抑へるやうに重苦しい感じがする。
みんなが畑へ出はらった村の中には、まれにそういう青葉のあいだにこいのぼりがばさばさとひるがえってはぐたりとなって、それが朝から長い日を一日、そしてその家族が、日はしずんでもいつになくまだ明るいうちにおふろを浴びて、女までさいた菖蒲を髪に巻いて、いそがしい日と日の合間にそれでも晴れ着すがたになる、端午の日が来るのをだるそうに待っている。
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悉く畑へ走つた村落の内には稀にさういふ青葉の間に鯉幟がばさ/\と飜つてはぐたりと成つて、それが朝から永い日を一日、さうして其の家族が日は沒したにしても何時になくまだ明るい内に浴みをして女までが裂いた菖蒲を髮に卷いて、忙しい日と日の間をそれでも晴衣の姿になる端午の日の來るのを懶げに待つて居る。
そういう青葉の村から村へ、女のあめ屋が太鼓をたたいて歩いた。
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さういふ青葉の村落から村落を女の飴屋が太皷を叩いて歩いた。
空き家ばかりの村を、雨がふらなければ女ははしからはしへと歌って歩く。
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明屋ばかりの村落を雨が降らねば女は端から端と唄うて歩く。
勘次が歌ったのは、その女の歌である。
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勘次が唄うたのは其の女の唄である。
女は声を高く歌っては、また声を低くしてその文句をくり返す。
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女は聲を高く唄うては又聲を低くして其の句を反覆する。
その歌うところは、毎日ただこの一句だけだった。
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其の唄ふ處は毎日唯此の一句に限られて居た。
女は年かさで、一人の子を背負っている。
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女は年増で一人の子を負うて居る。
鬼怒川を行き来する高瀬舟の船頭がかぶるあみがさをかぶって、洗いざらしのひとえを、すそは左のはしを取って帯へはさんだだけで、あめは箱に入れて肩からかけてある。
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鬼怒川を徃復する高瀬船の船頭が被る編笠を戴いて、洗ひ曝しの單衣を裾は左の小褄をとつて帶へ挾んだ丈で、飴は箱へ入れて肩から掛けてある。
暗い日は、かさのあみ目をとおして女の顔に細い強い線をえがく。
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暮い日は笠の編目を透して女の顏に細い強い線を描く。
女の顔はやつれていた。
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女の顏は窶れて居た。
子はたいていねむっていた。
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子は概ね眠つて居た。
耳元で鳴る太鼓のやかましい音と、お母さんの歌う声とが、いつのまにかねむりにさそったのかもしれない。
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耳もとで鳴る太皷の喧しい音とお袋の唄ふ聲とがいつとはなしに誘つたのであつたかも知れぬ。
首はむしろさかさまにたれて、ひたいがいつも暑い日に照らされて汗ばんでいた。
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首は寧ろ倒に垂れて額がいつでも暑い日に照られて汗ばんで居た。
百姓はみな、このみすぼらしい女を気にとめなかった。
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百姓は皆此の見窄しい女を顧みなかつた。
村から村へ野をわたるとき、女のすがたには人目を引くようなところが一つもなかった。
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村落から村落へ野を渡る時女の姿は人目を惹くべき要點が一つも備はつて居なかつた。
しかしいつのまにか、人が遠くから見るようになった。
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然しいつの間にか人が遠くより見るやうに成つた。
すれちがう女の人たちは、ひたいを照らされてねむっている子を見て、いたわしいと思うのだった。
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行き違ふ女房等は額に照られて眠つて居る子を見て痛々敷と思ふのであつた。
女は歌わなくても太鼓の音が村の子を遠くからさそうのに、気の乗らない歌い方をして、ただその一句をくり返すのである。
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女は唄はなくても太皷の音が村落の子を遠くから誘ふのに氣の乘らぬ唄ひやうをして只其の一句を反覆のである。
女は背中の子がねむっているのをよろこんで、その子がどんなかっこうでいるかは気づかない。
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女は背中の子が眠つて居るのを悦んで其の子が什麽姿であるかは心付かない。
ただ小さな銅貨を持って走って来る村の子を待ちながら、さそいながら歩くのである。
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只小さな銅貨を持つて走つて來る村落の子を待ちつゝ誘ひつゝ歩くのである。
女がどこから来てどこへ行くのかということも、いそがしく田畑で働いている百姓のあいだには知られなかった。
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女は何處から出てどう行くといふことも忙しく只田畑に勞働して居る百姓の間には知られなかつた。
毎日そうして歩いていた女が、知りたがり聞きたがる女の人たちのあいだで、それぞれ口うるさくかげのうわさをされてから間もなく、ある日村はずれの青葉の中へ太鼓の音と歌の声とが遠くかすかに消え去ったきり、やがてつゆがひどく、しかも毒々しいそのくりの花がくさるまではとふり出したので、その汚らしくやつれたすがたは二度と見られなかった。
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毎日さうして歩いて居た女が知りたがり聞きたがる女房等の間に、各自に口喧しい陰占を逞しくされると間もなく、或日村外れの青葉の中へ太皷の音と唄の聲とが遠く微かに沒し去つた切り、軈て梅雨が夥しく且つ毒々しい其の栗の花の腐るまではと降り出したので其の女の穢げな窶れた姿は再び見られなかつた。
勘次は耳の底にひびいたその句を、一人で感心したように歌っては行くのである。
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勘次は耳の底に響いた其の句を獨り感に堪へたやうに唄うては行くのである。
彼は自分の声が高いと思ったとき、他人に聞かれるのをはずかしがるように、急にあたりを見ることがあった。
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彼は自分の聲が高いと思つた時他人に聞かれることを恥づるやうに突然あたりを見ることがあつた。
曲がり角でひょいと会うとき、それが口の軽い女の人であれば、二、三歩行き過ぎてから
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曲り角でひよつと逢ふ時それが口輕な女房であれば二三歩行り過しては
「どうしたい、勘次さん、あの女にほれたんじゃあるまい。もっとも年ごろはちょうどいいから、連れ子の一人くらいはがまんもできらあな。そんだが、あれっきり来なくなっちまって困ったな」
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「どうしたえ、勘次さん彼女げ焦れたんぢやあんめえ、尤も年頃は持つゝけだから連つ子の一人位は我慢も出來らあな、そんだがあれつ切り來なくなつちやつて困つたな」
とえんりょもなくからかっては、少しはなれるとわざと声を立ててその句を歌ったりする。
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と遠慮もなく揶揄うては、少し隔たると態と聲を立てゝ其の句を唄つたりする。
すると勘次は、家に帰るまで一句も歌わない。
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さうすると勘次は家に歸るまで一句も唄はない。
しかし彼は、しばらくそれを歌うのをやめなかった。
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然し彼は暫くそれを唄ふことを止めなかつた。
彼はただ、女房がほしいほしいとばかり思った。
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彼は只女房が欲い/\とのみ思つた。
九
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九
勘次はあいかわらず、苦しい暮らしから一歩ものがれることができないでいる。
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勘次は依然として苦しい生活の外に一歩も遁れ去ることが出來ないで居る。
お品が死んだときに、わけを話して借りた小作米のとどこおりも、まだ一つぶも返していない。
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お品が死んだ時理由をいうて借りた小作米の滯りもまだ一粒も返してない。
暑さのきびしい日が井戸の水まで減らしていりつけるころには、それまでに何度か勘次の穀物のおけは空になるのである。
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大暑の日が井戸の水まで減らして炒りつける頃はそれまでに幾度か勘次の穀桶は空に成るのである。
彼はふつうの百姓がすることはしなければならないので、ことにおかずとして必要なので、なすや南瓜やきゅうりや、そういう物も一とおりは作った。
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彼は一般の百姓がすることは仕なくては成らないので、殊には副食物として必要なので茄子や南瓜や胡瓜やさういふ物も一通りは作つた。
彼は村はずれのくぬぎ林のそばにいたので、自分の家の近くにはそういう物を作る畑が一まいもなかった。
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彼は村外れの櫟林の側に居たので自分の家の近くにはさういふ物を作る畑が一枚もなかつた。
それでもきゅうりだけはかきねの内側へ一列に植えて、後ろの林にまじった短い竹を切って支柱に立てた。
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それでも胡瓜だけは垣根の内側へ一列に植ゑて後の林に交つた短い竹を伐つて手に立てた。
竹の立っている林は彼のものではないけれど、彼はこうして必要なたびごとに、あえてかくしもしないぬすみをするのである。
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竹の立つてる林は彼の所有ではないけれど、彼は恁うして必要の度毎に強ひては隱さない盜みを敢てするのである。
南瓜も庭のすみへ、粟のからでかこったべんじょのそばへ植えた。
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南瓜も庭の隅へ粟幹で圍うた厠の側へ植ゑた。
それから庭のくりの木にもからませた。
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それから庭の栗の木へも絡ませた。
なすだけは遠い畑の、麦のうねの間へ植えた。
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茄子だけは遠い畑の麥の畦間へ植ゑた。
彼はさつまいものほかには、とてもそういう苗を自分で育てることができないので、また立派な苗を買いに行くゆとりもないので、ようすから見れば近くの村ではあるが、どことも分からないてんびん商人からそれを買った。
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彼は甘藷の外には到底さういふ凡ての苗を仕立てることが出來ないので、又立派な苗を買ひに行く丈の餘裕もないので、容子から見れば近村ではあるが何處とも確乎とは知れない天秤商人からそれを求めた。
てんびん商人の持って来るのは、たいてい売れ残りばかりである。
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天秤商人の持つて來るのは大抵屑ばかりである。
それでも勘次は安いのをよろこんだ。
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それでも勘次は廉いのを悦んだ。
彼はそのわずかなお金を何度もかぞえてわたした。
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彼は其の僅な錢を幾度か勘定して渡した。
麦が刈られて、そのたばが両はしを切りそいだ竹の棒に通されて畑の外へかつぎ出されたとき、あとには陸稲や大豆がひょろひょろと青ばんだ畑に、勘次のなすは短いうねが五うねばかりになって立っていた。
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麥が刈られて其の束が兩端を切つ殺いだ竹の棒へ透して畑の外へ擔ぎ出された時、趾には陸稻や大豆がひよろ/\と青ばんだ畑に勘次の茄子は短い畝が五畝ばかりになつて立つて居た。
下の葉は黄色くなっていたが、それでも麦がしばらく日をおおったので、みな根づいて育ちかけていた。
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下葉は黄色くなつて居たがそれでも麥が暫く日を掩うたので皆根づいて生長しかけて居た。
やせさせないまでも、肥やして行くことをしない畑の土に、なすはしなびて、ところどころに一つずつ花をつけていた。
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假令痩せさせないまでも肥して行くことをしない畑の土に茄子は干稻びてそれで處々に一つ宛花を持つて居た。
勘次は朝のまだすずしい、葉にしめり気のあるあいだに、かまどの灰を持って行ってその葉にかけてやるだけの手間はかけたのである。
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勘次は朝のまだ凉しい、葉に濕りのある間に竈の灰を持つて行つて其の葉に掛けて遣る丈の手數は竭したのである。
それで、いくらでも元気に動き回るうりはむしはふせげた。
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それで幾らでも活溌に運動する瓜葉蟲は防がれた。
それは羽が赤いので、この土地では「赤ばえ」と言っている。
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それは羽が赤いので赤蠅と土地ではいつて居る。
木の灰では、あぶらむしがわくのはどうにもならなかった。
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木の灰では油蟲の湧くのはどうも出來なかつた。
それからまた、ねきり虫がむごく、かたいくきを根元からぷつりとかみたおして、植えた数がへっているのに、彼は遠い畑へ出て、土にかくれているそのにくらしい害虫をさがし出して、その丈夫な体をひしゃげさせてやるだけのゆとりを、体にも心にも持っていない。
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それから又根切蟲が残酷に堅い莖を根もとからぷきりと噛み倒して植た數の減るにも拘らず、彼は遠く畑に出て土に潜伏して居る其憎むべき害蟲を探し出して其丈夫な體をひしぎ潰して遣る丈の餘裕を身體にも心にも持つて居ない。
かきねのきゅうりは、季節の南風がふいて、朝のもやがしっとりとかわいた庭の土をしめらせて下りると、何をひがんでか葉のかげに下がる実が、しぼんだ花の取れないうちにしりが曲がって、たちまち蔓も葉もがらがらにかれてしまったのだった。
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垣根の胡瓜は季節の南が吹いて、朝の靄がしつとりと乾いた庭の土を濕しておりると何を僻んでか葉の陰に下る瓜が、萎んだ花のとれぬうちに尻が曲つて忽ちに蔓も葉もがら/\に枯て畢つたのであつた。
ただ南瓜だけは、その特ちょうである大きな葉をずんずんと広げて、蔓の先がたちまちべんじょの低いのきからたれた。
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只南瓜だけは其の特有の大きな葉をずん/\と擴げて蔓の先が忽ちに厠の低い廂から垂れた。
ことにくりの木にからんだのは、真昼の、忘れるほど長いあいだ、雨戸は閉じたままで、たとえあぶらぜみがいりつけるようにそこらの木ごとにしがみついて声のかぎり鳴いたとしても、すべてが暑さにつかれたようで、むしろとても静かな庭をのぞきながら、葉のかげで、だんだんに日に焼けながら太りながら、しりのへそをむき出してどっしりとえだからたれ下がった。
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殊に栗の木に絡んだのは白晝の忘れる程長い間雨戸は閉ぢた儘で、假令油蝉が炒りつけるやうに其處らの木毎にしがみ附いて聲を限りに鳴いたにした處で、凡てが暑さに疲れたやうで寧ろ極めて閑寂な庭を覗いては、葉の陰ながら段々に日に燒けつゝ太りつゝ臀の臍を剥き出してどつしりと枝から垂れ下つた。
それがわずかに庭に元気をつけている。
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それが僅に庭に威勢をつけて居る。
どこもそうではあるが、ことに勘次の手で作られた野菜は、みなその実りがおくれた。
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一般にさうではあるが殊に勘次の手に作られた蔬菜は凡て其の成熟が後れた。
それで、その野菜がほうちょうにかかるまでは、口にざらつくほし菜や切り干しや、それも足りなくなれば、これでも彼らのはかないたくわえの心をいちばんよく表した菜や大根の塩からいつけ物のおけにだけ、おかずを求めるのである。
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それで其の蔬菜が庖丁にかゝる間は口にこそつぱい干菜や切干やそれも缺乏を告げれば、此れでも彼等の果敢ない貯蓄心を最も發揮した菜や大根の鹽辛い漬物の桶にのみ其の副食物を求めるのである。
彼らは働いてはらがへったと感じるときには、ちっとも動けないほど、急につかれを感じることさえある。
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彼等は勞働から來る空腹を意識する時は一寸も動くことの出來ない程俄に疲勞を感ずることさへある。
どんなそまつな物でも、彼らの口には問題ではない。
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什麽麁末な物でも彼等の口には問題ではない。
彼らは味わうのではなくて、つまりのどのあなをうめるのである。
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彼等は味ふのではなくて要するに咽喉の孔を埋めるのである。
冷たい水を注いで、そのぽろぽろな麦ごはんをかき込むとき、彼らの一人もかみしめる者はない。
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冷水を注いで其のぼろ/\な麥飯を掻き込む時彼等の一人でも咀嚼するものはない。
彼らはただ、たくさん飲み下すことで力を取りもどし、満足するのである。
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彼等は只多量に嚥下することによつて其の精力を恢復し滿足するのである。
牛や馬でも、地上にやわらかな草がしげる季節が来れば、自然にほし草や藁をきらうようになる。
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牛や馬でも地上に軟かな草の繁茂する季節が來れば自然に乾草や藁を厭ふやうになる。
それが、貧しい暮らしの人々だけは、こうしてがまんすることをよぎなくされているのである。
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それが貧しい生活の人人のみは恁うして甘んじて居ることを餘儀なくされつゝあるのである。
しかし、みな汗をかくとともにかわいた口に、さわやかな野菜の味をほしがらない者はない。
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然し孰れも發汗に伴うて渇した口に爽かな蔬菜の味を欲しないものはない。
貧しさになやんで、そして野菜の足りないのを感じている者は、勘次だけではない。
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貧苦に惱んでさうして其の蔬菜の缺乏を感じて居るものは勘次のみではない。
そういう仲間の、ことに女は、人目の少ない夕暮れの細い道でつやつやした青物を見ると、つい、ちょっとした出来心からそれをちぎって前かけにかくして来ることがある。
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さういふ伴侶の殊に女は人目の少い黄昏の小徑につやゝかな青物を見ると遂した料簡からそれを拗切つて前垂に隱して來ることがある。
畑の作り主が、その損だけでなくおしむ心からかげで激しく怒ろうとも、それを考えるひまはない。
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畑の作主が其損失以外にそれを惜む心から蔭で勢ひ激しく怒らうともそれは顧みる暇を有たない。
勘次のやせたなす畑も、そうしておそわれた。
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勘次の痩せた茄子畑もさうして襲はれた。
そのくきをいためても平気なちぎり方を見て、失望と怒りとを自然に感じずにはいられなかった。
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其の莖を痛めても構はぬ拗切りやうを見て失望と憤懣の情とを自然に經驗せざるを得なかつた。
しかしながら彼は、つくづくいまいましいその気持ちを知りつくしていながら、自分もまた他人のすきをつくことをあえてするのだった。
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然しながら彼はつく/″\と忌々敷い其心持に熟して居ながら自分も亦他の虚に乘ずることを敢てするのであつた。
一つには、どうせ他人にもぬすられるのだからという投げやりな理くつが、心の中にできあがるのである。
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一つにはどうで他人にも盜られるのだからといふ自暴自棄の理窟が心のうちに捏造されるのである。
一つには、心のとがめをよそにして、そしてまたそれがどこまでも見つからないものであるならば、他人の物をぬすむことは、食べたい気持ちを満たすにはかんたんで、しかも手軽な方法でなければならないはずである。
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一つには良心の苛責を餘所にしてさうして又それが何處までも發見せられないものであるならば他人の物を盜ることは口腹の慾を滿足せしむるには容易で且輕便な手段でなければならぬ筈である。
こういうわけで、わりとゆとりのある百姓よりも貧しい百姓のほうが、十分早く、しかも何度も、その新せんな野菜を味わうのである。
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恁ういふ理由で比較的餘裕のある百姓よりも貧乏な百姓は十分早く然かも數次其の新鮮な蔬菜を味ふのである。
たまたま市場から遠くて、馬の背で運ぶ者は、その実りを早めたつやつやした物がいくらあっても、自分の口には入れない。
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偶市場に遠く馬の脊で運ぶ者は其の成熟の期を早めたつやゝかな數が幾ら有つても自分の口には入れない。
少しずつでも、ほかの必要な物を買うためにお金にかえようとするのである。
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少しづゝでも他の必要品を求める爲に錢に換へようとするのである。
季節が来なければたくさんの収穫は望めないので、彼らが食べ物として畑に手をつけるのは、すべてが十分に育った後でなければならない。
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季節が熟さねば收穫の多量を望むことが出來ないので、彼等が食料として畑へ手をつけるのは凡てが存分の生育を遂げた後でなければならぬ。
そこが、たがいにぬすむ者につけこまれる機会である。
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其處が相互に盜むものをして乘ぜしめる機會である。
与吉は、よく貧しい仲間の子がうまそうに青物をかじっているのを見て、おつぎにねだることがあった。
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與吉は能く貧乏な伴侶の子が佳味相に青物を噛つて居るのを見ておつぎに強請むことがあつた。
勘次の家では、どうかすると朝になって大きな南瓜が土間にころがっていることがある。
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勘次の家ではどうかすると朝に成つて大きな南瓜が土間に轉がつて居ることがある。
それでいて庭の南瓜は一つもへっていない。
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それで庭の南瓜は一つも減つて居ない。
「これはどうしたんだい、おとっつあん」
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「こらどうしたんでえおとつゝあ」
与吉はよろこんで、あぶなっかしくだいては聞く。
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與吉は悦んで危な相に抱いては聞く。
「いじるんじゃない」
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「弄んぢやねえ」
勘次はただおそろしい目をして、しかるようにおさえる。
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勘次は只恐ろしい目をして叱るやうに抑へる。
勘次は、まだはだが白く、うすく赤みをおびた人形の手足のようなさつまいもをごはんにたきこむことがあった。
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勘次はまだ肌の白く且薄赤味を帶びた人形の手足のやうな甘藷を飯へ炊き込むことがあつた。
「うまいな」
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「佳味えな」
とおつぎが言ったとき
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とおつぎがいつた時
「〆粕で作るからよ」
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「〆粕で作つからよ」
勘次は言った。
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勘次はいつた。
「旦那の所じゃ、〆粕ばかり使うんだろうか」
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「旦那ぢや、〆粕許り使あんだつぺか」
おつぎは自分の知らない高い肥料のことについて聞いた。
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おつぎは自分の知らぬ不廉な肥料のことに就いて聞いた。
勘次は気がついて
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勘次は氣がついて
「さつまいもを食ったなんて言うんじゃないぞ」
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「甘藷喰たなんていふんぢやねえぞ」
と与吉に言い聞かせた。
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與吉を警めた。
勘次は、彼の大豆畑の近くにとなりの主人のさつまいも畑と、それからそのとちゅうに南瓜畑があったので、ほかの畑の物よりも自然にそれをぬすんだ。
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勘次は彼の大豆畑の近くに隣の主人の甘藷畑とそれから其の途中に南瓜畑があつたので、他の畑のものよりも自然にそれを盜つた。
少しずつぬすんだ。
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少しづつ盜つた。
南瓜は昼のうちに見ておいて、夜になるとそっと蔓を引いてありかをさがすのである。
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南瓜は晝間見て置いて夜になるとそつと蔓を曳いて所在を探すのである。
さつまいもは、土をかき払ってさがしほりするのは気が急きすぎるので、ぐっと引き抜く。
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甘藷は土を掻つ掃いて探し掘りにするのは心が忙し過ぎるのでぐつと引き拔く。
彼は昼間さつまいも畑のそばを通っては、自分のあらしたあとを見て心の中でひどいとは思うのだが、それをうめておくには気がとがめた。
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彼は日中甘藷畑の側を過ぎては自分の荒した趾を見て心に酷いとは思ふのであるがそれを埋て置くには心が咎めた。
こういう仲間は、「千菜あらし」という名で呼ばれた。
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恁ういふ伴侶は千菜荒しといふ名稱の下に喚ばれた。
与吉は一人で村を遊んで歩いた。
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與吉は獨で村を遊んで歩いた。
秋がふけて、さつまいもが蒸されるようになった。
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秋が深けて甘藷が蒸されるやうに成つた。
与吉はよくそういう所へ行っては、ほしそうな顔をして黙って見ているので、どこでも熱いさつまいもをもらえるのだった。
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與吉は能くさういふ處へ行つては欲し相な顏をして默つて見て居るので何處でも熱い甘藷が與へられるのであつた。
あるとき、彼は
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或時彼は
「おれは家でさつまいもを食ったなんて言わないんだ」
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「俺らあ家で甘藷くつたなんてゆはねえんだ」
と、さつまいもを手に持っておずおずと言った。
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甘藷を手に持つて怖づ/\いつた。
彼はただ、うれしかったのである。
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彼は只嬉しかつたのである。
「なぜ言わないんだ」
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「何故ゆはねえんだ」
くれた人は聞いた。
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與へた人は聞いた。
「なぜでもだ」
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「何故でもだ」
「そんじゃいい、そのさつまいもは取り返しちまうから」
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「そんぢやえゝ、其甘藷取つ返しつちまあから」
とおどかされて
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と驚かされて
「そんでも、おれの家のおとっつあんが、さつまいもを食ったなんて言うんじゃないぞって言ったんだ」
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「そんでも俺家のおとつゝあ甘藷喰つたなんてゆふんぢやねえぞつて云つたんだ」
与吉はこびるようなようすで言った。
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與吉は媚びるやうな容子でいつた。
「よきらの家のさつまいもはうまいか」
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「よきら家の甘藷うめえか」
「旦那のはうまいって言ったんだ」
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「旦那のがはうめえつて云つたんだ」
「おとっつあんが言ったのか、姉ちゃんが言ったのか」
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「おとつゝあ云たのか姊云たのか」
「姉ちゃんじゃない、おとっつあんだ」
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「姊ぢやねえ、おとつゝあだ」
「おとっつあんは家でさつまいもを食って、旦那のはうまいって言ったのか」
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「おとつゝあは家で甘藷くつて旦那のがうめえつちつたのか」
「そうなんだわ」
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「さうなんだわ」
何も知らない与吉は、さそい出されるままに言ってしまった。
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無心な與吉は誘ひ出されるまゝにいつて畢つた。
しかし、たがいに畑をあらしては、やせた骨身をかじり合っているような彼らのあいだに、こんなことがなければ、わざわざ勘次ばかりが目をつけられることはなかったのである。
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然し相互に畑を荒しては、痩せた骨身を噛り合うて居るやうな彼等の間にこんなことが無ければ殊更に勘次ばかりが注目されるのではなかつたのである。
一〇
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一〇
秋も、朝は冷たくなった。
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秋も朝は冷かに成つた。
稲のほは、北風がふけば南へ向いたり、南風がふけば北へ向いたりして、その重たそうな首を止まず動かしては、さらさらとさびしく笑いはじめた。
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稻の穗は北が吹けば南へ向いたり、南が吹けば北へ向いたりして其の重相な首を止まず動かしてはさら/\と寂しく笑ひはじめた。
強い秋の雨が、一晩ざあざあとふった。
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強い秋の雨が一夜ざあ/\と降つた。
次の日には、空は少しのちりも残さないというようにすごいほど晴れて、山もめっきり近くなっていた。
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次の日には空は些の微粒物も止めないといつたやうに凄い程晴れて、山も滅切り近く成つて居た。
しっとりと落ち着いた空気をとおして、日ざしが妙にはだにもみこむように暖かで、しかも暑かった。
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しつとりと落付いた空氣を透して、日光が妙に肌膚へ揉み込むやうに暖かで且つ暑かつた。
春のような日にだまされて、ひばりは、そっけない三角形の種がふくらみながら、まだいっぱいに白いそば畑や、それから陸稲の畑の上でさえずった。
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春のやうな日に騙されて雲雀は、そつけない三稜形の種が膨れつゝまだ一杯に白い蕎麥畑やそれから陸稻畑の上に囀つた。
それでも、いくらか羽の動きがにぶくなっているのか、春のようではなく低くさまよって、しわがれたのどを鳴らしている。
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それでも幾らか羽の運動が鈍く成つて居るのか春のやうではなく低く徘徊うて皺嗄れた喉を鳴らして居る。
まわりの高台からは、土びんのふたを取ってつるべをごっとかたむけたように、雨水がいっぱいに田に集まって、稲のほ先が少しつかった。
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周圍の臺地からは土瓶の蓋をとつて釣瓶をごつと傾けたやうに雨水が一杯に田に聚つて稻の穗首が少し浸つた。
田んぼもほりも一つになった水は、土びんの口からはき出すように、少しずつ低い田へと落ちる。
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田圃も堀も一つに成つた水は土瓶の口から吐き出すやうに徐に低い田へと落る。
村の子どもたちは「三平ぴいつくぴいつく」
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村落の子供等は「三平ぴいつく/\」
とひばりの鳴き声をまねしながら、小さなざるを持ったり、たも網を持ったりして、じゃぶじゃぶと気持ちのいい田んぼの水をわたって歩いた。
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と雲雀の鳴聲を眞似しながら、小笊を持つたり叉手を持つたりしてぢやぶ/\と快よい田圃の水を渉つて歩いた。
そこにはまた、これも春のような日にだまされて、とっくに鳴かなくなっていたかえるがふわりとうかんでは、こそばゆい稲のほにつかまりながら、げらげらと鳴いた。
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其處には又此れも春のやうな日に騙されて、疾から鳴かなく成つて居た蛙がふわりと浮いてはこそつぱい稻の穗に捉りながらげら/\と鳴いた。
いっぱいにふさがっている稲のほの下を、そろそろとはいながら水が低くなったとき、秋の日は落ちかけた。
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一杯に塞がつて居る稻の穗の下をそろ/\と偃ひながら水が低く成つた時秋の日は落ち掛けた。
そして、いつでも鳴きたくなる機会があれば鳴くのだと言って待っているそのかえるも、しんとした。
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さうして什麽時でも其の本能を衝動る機會があれば鳴くのだといつて待つて居る其の蛙もひつそりとした。
大雨の後の畑へは、百姓はたいてい遠りょして出なかった。
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大雨の後の畑へは百姓は大抵控へ目にして出なかつた。
勘次は夕暮れ近くなってから、一人で草かりかごを背負って出た。
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勘次は黄昏近くなつてから獨で草刈籠を背負つて出た。
彼はいつもの道へは出ないで、後ろの田んぼから林へ、それから遠回りして畑へ出た。
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彼は何時もの道へは出ないで後の田圃から林へ、それから遠く迂廻して畑地へ出た。
日はまだほんのり明るかったので、勘次はあっちこっちと空の草かりかごを背負ったまま歩いた。
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日はまだほんのりと明るかつたので勘次はそつちこつちと空な草刈籠を背負つた儘歩いた。
彼はそれでも心のとがめから、あみがさでその顔をかくした。
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彼は其れでも良心の苛責に對して編笠で其の顏を隔てた。
日がすっかりくれたとき、彼は道ばたへ草かりかごを下ろした。
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日がとつぷりと暮れた時彼は道端へ草刈籠を卸した。
そこには、畑のまわりに一うねずつ作ったとうもろこしが丈高くつっ立っている。
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其處には畑の周圍に一畝づつに作つた蜀黍が丈高く突つ立つて居る。
草かりかごがすっと地面にころがるとき、とうもろこしの大きな葉にふれてがさりと鳴った。
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草刈籠がすつと地上にこける時蜀黍の大な葉へ觸れてがさりと鳴つた。
さらにその葉は、どこにも感じない小さな風にゆれて、自分だけがこわがったようにさわいでいる。
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更に其葉は何處にも感じない微風に動搖して自分のみが怖たやうに騷いで居る。
ほは、何をさわぐのかとふしぎがるように、少し伏し目に見下ろしている。
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穗は何を騷ぐのかと訝るやうに少し俯目に見おろして居る。
勘次は菜切りぼうちょうを取り出して、その高いとうもろこしのくきをぐっと曲げては、ほの首に近い所をななめに切った。
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勘次は菜切庖丁を取出して、其高い蜀黍の幹をぐつと曲ては穗首に近く斜に伐つた。
ほは勘次の手に残って、くきは急にはね返った。
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穗は勘次の手に止つて幹は急に跳ね返つた。
そしてふるえた。
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さうして戰慄した。
勘次は重くなった草かりかごを背負って、今度は野の道を一気に自分の家へ帰った。
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勘次は重く成つた草刈籠を背負つて今度は野らの道を一散に自分の家へ歸つた。
次の朝、勘次はのき先に横に竹をわたして、ゆっさりとするそのほをしばって、たがいちがいにかけた。
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次の朝勘次は軒端へ横に竹を渡して、ゆつさりとする其の穗を縛つて打つ違ひに掛けた。
南へ低くなった日が、それをのぞくようにさしかけた。
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南へ低くなつた日が其れを覗くやうに射し掛けた。
その日は、みな申し合わせたように畑へ出た。
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其の日は孰れもいひ合せたやうに畑へ出た。
一日照ったので、畑はたいていぱさぱさにかわいている。
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一日照つたので畑は大抵ぱさ/\に乾いて居る。
とうもろこしのほを切りに出た村の一人は、自分の畑がざっくりとあらされているのを見つけておどろいた。
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蜀黍の穗を伐りに出た村の一人は自分の畑がぞつくりと荒されて居るのを發見して驚いた。
彼は畑へ来たなり、ほは一本も切らないでそのまま駐在所へかけつけた。
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彼は畑へ來たなり穗は一本も伐らないで其の儘駐在所へ驅けつけた。
巡査はそれでも、すぐに制服を着て被害者といっしょに現場へ来て見て、切られたほの数をあらためて手帳に書き止めた。
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巡査はそれでも直ぐに官服を着て被害者と一緒に現場へ來て見て伐られた穗の數を改めて手帖へ止めた。
被害者が駐在所へかけつけるあいだに、畑の遠くにばらばらに散らばっている百姓たちは、みなそれを知った。
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被害者が駐在所へ驅けつける間に、畑の遠くに離れ/″\に散らばつて居る百姓等は悉く其れを知つた。
被害者が道々大声を出してどなって行ったからである。
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被害者は途次大聲を出して呶鳴つて行つたからである。
何でも昨夜おそく野から帰る者があったというが、それではそれにちがいないだろうということが伝えられた。
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なんでも昨夜遲く野らから歸るものが有つたといふがそれぢや其れに相違ないだらうといふことが傳へられた。
勘次も畑へ出ていて、さわぎになりはじめたのを知った。
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勘次も畑へ出て居て騷ぎに成りはじめたのを知つた。
彼はすぐに飛んで帰って、とうもろこしのほをすっかり外して、そっと近くの林へかくして、むしろを二まいばかりかぶせた。
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彼は直に飛んで歸つて悉く蜀黍の穗を外して、そつと近くの林へ隱して筵を二枚ばかり掩うた。
「くせになるから、みっしりこりさせたほうがいい。おれのほうは畑がうるさくて本当に仕方がない」
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「癖になつから、みつしら懲りらかした方がえゝ、俺方は畑が五月蠅くつて本當に仕やうねえ」
「見せしめに行くときには、こっぴどくやらなくちゃいけないよ」
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「見せしめに行つ時にや、こつぴどく行んなくつちやえかねえよ」
「村の中をよく見さえすりゃすぐに分かるさ。とうもろこしなんぞ、どこへかくせるもんじゃない」
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「村落の内ようく見せえすりや直に分らな、蜀黍なんぞ何處へ隱せるもんぢやねえ」
などと、近い畑の者同士はどなり合った。
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抔と近い畑同士は呶鳴り合つた。
その声は被害者の耳にも入って、むかむかと怒ったその心に勢いをつけた。
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其の聲は被害者の耳にも這入つてむか/\と激した其の心に勢ひを附けた。
「数が分かったら、もう後へ手をつけてもいい」
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「數が分つたらもう後へ手を附けてもえゝ」
巡査は畑を去った。
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巡査は畑を去つた。
「わしも行ってみましょう。自分の畑のは一目見りゃ分かりますから」
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「わしも行つて見あんせう、自分の畑のがは一目見りや分りあんすから」
こう言って、被害者はとうもろこしのほを二、三本持って村へもどった。
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恁ういつて被害者は蜀黍の穗を二三本持つて村落へ戻つた。
巡査はあちこち二、三けん見て歩いて、勘次の庭に立った。
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巡査は其處ら此處らと二三軒見て歩いて勘次の庭へ立つた。
それは、勘次は二、三人の者とともに巡査が目をつけている人物だったからである。
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それは勘次は二三の者と共に巡査の注意人物であつたからである。
しかし彼の貧しい家のどこにも、かくせるすきまは見つからなかった。
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然し彼の貧しい建物の何處にも隱匿される餘地を發見することが出來なかつた。
そのときには、勘次がよそへ運んだ後なのである。
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其の時は勘次が餘所へ運んだ後なのである。
巡査はのきにわたした竹の棒を見て
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巡査は檐に渡した竹の棒を見て
「これはどうするんだい」
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「此りやどうするんだい」
と聞いた。
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と聞いた。
被害者はさっきから雨だれの水で土のくぼんだあたりを見ていたが
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被害者は先刻から雨垂の水で土の窪んだあたりを見て居たが
「はてな」
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「はてな」
と首をかしげて
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と首を傾けて
「とうもろこしのつぶが落ちてありますぞ。そうするとここへかけたのを、またどこかへ持って行っちまったな」
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「蜀黍粒落つてあんすぞ、さうすつと此處へ引つ懸けたの又何處へか持つてつちやつたな」
被害者は言った。
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被害者はいつた。
巡査はうなずいた。
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巡査は首肯いた。
「このつぶでがすから、わしのにちがいありません。あいつらのは、こんなにできっこないんですから。それ、証こには、きっと自分の畑のは一つのほも切っちゃないから見なさい。わしのはこれでも〆粕を入れて作ったんでがすから」
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「此の粒でがすから、わしがに相違ありあんせん、彼等がな此んなに出來つこねえんですから、それ證據にや屹度自分の畑のがな一つ穗でも伐つちやねえから見さつせ、わしが此んでも〆粕入えて作つたんでがすから」
被害者はいっしんに言った。
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被害者は熱心にいつた。
勘次はそのとき、不安なようすでぽつんと自分の庭に立った。
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勘次は其時不安な態度でぽつさりと自分の庭に立つた。
彼はすでに、巡査がのき下に立っているのを見てぞっとした。
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彼は既に巡査の檐下に立つてるのを見て悚然とした。
「勘次、この竹はどうしたんだな」
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「勘次、此の竹はどうしたんだな」
巡査は横目に勘次を見て言った。
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巡査は横目に勘次を見ていつた。
「わし、これは、とうもろこしを切ってかけようと思ったんでがす」
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「わし此らあ、蜀黍伐つて引つ懸けべと思つたんでがす」
「うん、このつぶのこぼれたのはどうしたんだ。とうもろこしなんだろう、これは」
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「うむ、此の粒の零れたのはどうしたんだ、蜀黍なんだらう此れは」
「へえ、なに、わしがひとつかみしごいて来てみたのを、捨てたんでがした」
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「へえ、なに、わしが一攫み引つ扱いて來て見たの打棄つたんでがした」
勘次はこう言って青くなった。
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勘次は恁ういつて蒼く成つた。
巡査はさらに、被害者に勘次の畑を案内させた。
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巡査は更に被害者に勘次の畑を案内させた。
しょんぼりとして後についてくる勘次を、要らないからと巡査はきびしくしかって追いやった。
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悄然として後に跟いて來る勘次を要はないからと巡査は邪慳に叱つて逐ひやつた。
勘次の畑のとうもろこしは、被害者が言ったように、情けないようなみすぼらしいほがさらりと立って、それでもおびえたというように、独特のさわがしい音を立てていた。
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勘次の畑の蜀黍は被害者がいつたやうに、情ないやうな見窄らしい穗がさらりと立つてそれでも其の恐怖心に驅られたといふやうに特有な一種の騷がしい響を立てつゝあつた。
ほは一つも切ってなかった。
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穗は一つも伐つてはなかつた。
「これだから、わしは言ったんでがす。ねえ、それ、このつぶでがすからね」
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「此れだからわし云つたんでがす、ねえそれ、此の粒でがすかんね」
被害者は勢いが出た。
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被害者は威勢が出た。
「稲のたばをかつぐんだって、わしらは口には出さないが、ちゃんと知ってるんでがすから。そう言っちゃ何だが、そんなことするのは、決まったようなもんですからね」
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「稻つ束擔ぐんだつて、わし等口へ出しちや云はねえが、ちやんと知つてんでがすから、さう云つちや何だが其麽ことするもなあ、極つたやうなもんですかんね」
被害者はさらに、手がらでも立てたように言った。
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被害者は更に手柄でもしたやうにいつた。
「もう分かったから、それじゃ自分の仕事をするがいい。後でわしが報告書を作って来てやるから、それへはんこをおせば、それで手続きは済むんだからな」
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「もう解つたから、それぢや自分の仕事をするがいい、後にわしが申報書を拵へて來て遣るから、それへ印形を捺せばそれで手續は濟むんだからな」
巡査はそう言って、そして被害者が
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巡査はさういつてさうして被害者が
「そんじゃ、わしはとうもろこしをかくしておく所を見つけ出しますから。きっとあるに決まってるんだから」
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「そんぢや、わし蜀黍隱して置く處見出あんすから、屹度有んに極つてんだから」
と言う声を後にして、畑の細い道をうねりながら行った。
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といふ聲を後にして畑の小徑をうねりつゝ行つた。
「今度こそは、つかまっちゃ一年くらいはくらうんだろう」
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「今度こさあ、捕縛つちや一杯に引つ喰らあんだんべ」
畑の者同士は痛快に感じながら、口々にこういうことを言った。
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畑同士は痛快に感じつゝ口々に恁ういふことをいつた。
「おつう、おれはとても今度はだめだよ」
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「おつう俺らとつても今度駄目だよ」
勘次は、はかない自分の気持ちを、たった一人の家族であるおつぎに投げかけるように、しおれきって言った。
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勘次は果敢ない自分の心持を唯一の家族であるおつぎの身體へ投げ掛けるやうに萎れ切つていつた。
勘次は心の底からおそれたのである。
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勘次は衷心から恐怖したのである。
それほどならば、なぜ彼はとうもろこしのほを切ることをあえてしたのだろうか。
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其れ程ならば何故彼は蜀黍の穗を伐ることを敢てしたのであつたらうか。
彼はこれまでも、畑の物をぬすんだのは一度や二度ではない。
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彼は此れまでも畑の物を盜つたのは一度や二度ではない。
それはわずかだったが、彼はぬすみたくなったとき、機会さえあればいつでもぬすんでいたのである。
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其れは些少であつたが彼は盜りたくなつた時機會さへあれば何時でも盜りつゝあつたのである。
彼は身をほろぼそうとまで、その弱い心が少しのことにも彼を苦しめるとき、彼をつき動かしてぬすみ心がむかむかと首をもたげていたのである。
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彼は身を殺さうとまで其の薄弱な意思が少しのことにも彼を苦しめる時、彼を衝動つて盜性がむか/\と首を擡げつゝあつたのである。
勘次はもう、仕事をするどころではない。
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勘次はもう仕事をする處ではない。
彼はとても少しのあいだもその家にいられなくなって、となりの主人にすがろうとした。
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彼は到底寸時も其の家に堪へられなく成つて、隣の彼の主人に縋らうとした。
そのしきいをまたぐことが、彼にはどれほどつらかったか知れない。
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其の閾を越すことが彼にはどれ程辛かつたか知れぬ。
主人は留守だった。
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主人は不在であつた。
「おかみさん、わしはまた間ちがいをしまして、どうもこれ、おかみさんの所へは敷居が高くて何でがすが、わしがいなくでもなっちゃ、子どもらは仕方がありませんから、助かれるもんならわしももう……」
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「お内儀さん、わしも又間違しあんしてどうも此れお内儀さん處へは閾が高くつて何でがすが、わし居なくでも成つちや子奴等仕やうがあせんから、助かれるもんならわしもはあ……」
と、彼はぐったり首をうなだれた。
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と彼はぐつたり首を俛れた。
主人のおかみさんは、勘次がとうもろこしを切ったことをもう知っていた。
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主人の内儀さんは勘次が蜀黍を伐つたことはもう知つて居た。
まだくせが直らないかと、一度ははらを立ててもみたりあきれもしたりしたが、しかしどこといってかばってくれる人がないので、こうして来るのだと、目の前にそのしおれたすがたを見ると、さすがにあわれになってしかるどころではなかった。
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まだ癖が止まないかと一度は腹を立ても見たり惘れもしたりしたが、然し何處といつて庇護つてくれるものが無いので恁うして來るのだと、目前に其萎れた姿を見ると有繋に憐に成つて叱る處ではなかつた。
それではどうにか心配してみてやろうと言われて、勘次は顔が生き返ったようになった。
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それではどうか心配して見てやらうといはれて勘次は顏が蘇生つたやうに成つた。
彼は何でも、主人が力をつくしてくれればうまく行くと思っているのである。
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彼は何でも主人が盡力して呉れゝば成就すると思つて居るのである。
それでも自分の家にはいられないので、どうかかくしてくれと、彼は土蔵へ入れてもらった。
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それでも自分の家には居られないので、どうか隱してくれと彼は土藏へ入れて貰つた。
勘次はそこでも不安にたえられないので、そこにしばらく使わずにしまってある大きなおけへ、こっそりともぐっていた。
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勘次は其處でも不安に堪へないので其處に暫く使はずに藏つてある四尺桶へこつそりと潜つて居た。
巡査は昼過ぎに報告書のはんこを取りに来て、勘次の家へ行ってみた。
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巡査は午後に申報書の印を取りに來て勘次の家へ行つて見た。
勘次はどこへ行ったと巡査に聞かれて、おつぎはただ知らないと言った。
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勘次は何處へ行つたと巡査に聞かれておつぎは只知らないといつた。
そして巡査の後ろすがたがかきねを出たとき、こっそり泣いた。
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さうして巡査の後姿が垣根を出た時竊に泣いた。
被害者はとうとうかくした場所を見つけて、巡査を案内した。
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被害者は到頭隱匿した箇處を發見して巡査を導いた。
雑木林のしげったあいだの、もうかたくなった草の中へ、とうもろこしのほはしばったままどさりと置いてあったのである。
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雜木林の繁茂した間の、もう硬く成つた草の中へ蜀黍の穗は縛つた儘どさりと置いてあつたのである。
そこにはもうそっけなくなったおみなえしのくきがけろりと立って、えだまで折られたくりが、低いながらにえだの先のほうにだけはわずかにはじけている。
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其處にはもうそつけなくなつた女郎花の莖がけろりと立つて、枝まで折られた栗が低いながらに梢の方にだけは僅に笑んで居る。
その小さなしばぐりが落ちただけでもおどろいてさわぐだろうと思うほど、か細いこおろぎがあちこちでかすかに鳴いている。
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其の小さな芝栗が偶然落ちてさへ驚いて騷ぐだらうと思ふやうに薄弱な蟋蟀がそつちこつちで微かに鳴いて居る。
ちょっと他人の目にはふれない場所だった。
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一寸他人の目には觸れぬ場所であつた。
ほをおおったそのむしろが、勘次のしわざであることをはっきりと証こ立てていた。
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穗を掩うた其の筵が勘次の所業であることを的確に證據立てゝ居た。
主人のおかみさんは、いちおう被害者に話をつけてみた。
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主人の内儀さんは一應被害者へ噺をつけて見た。
被害者の家族はまじめ者で、みなひどく怒っている。
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被害者の家族は律義者で皆激し切つて居る。
七十ばかりになる被害者のおじいさんが、ことに頑固に言い張った。
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七十ばかりに成る被害者の老人が殊に頑固に主張した。
「泥棒なんぞする奴は、わしは大きらいでがすから。わしらの畑のなすを引きむしったんだって、ちゃんと知っちゃいるんでがすから。いや、まったくでがす。おかみさんの所のさつまいももぬすりましたとも。ぐうずら蔓を引っこ抜いて捨てて、いや本当でがす。わしゃ嘘なんざ言うのはきらいでがすから。それどころじゃありません、おかみさん。夜切って来て、朝っぱらになったらもうかけたにちがいないというんでがすから。なに、わしもむしろをかけた所を見ました。むしろで分かるからだめでがす。いや、まったくひどい野郎でがす、どうも」
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「泥棒なんぞする奴あ、わし大嫌でがすから、わし等畑の茄子引ん挘つたんだつてちやんと知つちや居んでがすから、いや全くでがす、お内儀さん處の甘藷も盜りあんしたとも、ぐうづら蔓引つこ拔いて打棄つて、いや本當でがす、わしや嘘なんざあいふな嫌でがすから、其れ處ぢやがあせんお内儀さん、夜伐つて來て、朝つぱらに成つたらはあ引つ懸けたに相違ねえつちんでがすから、なにわしも筵打つ掛けた處見あんした、筵で分るから駄目でがす、いや全く酷え野郎でがすどうも」
おかみさんは、それは分かっていた。
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内儀さんは其れは豫期して居た。
「そりゃそうさね。この前も私の所で助けてやったのに、それにまたこうなんだから。まあ病気さね、これも。困ったもんだが、しかしあれを懲役にやってみたところで、子どもらが泣くばかりだからね。それにまあ本当を言えば、一つ村にこうしているんだから、相手が困りきっているうちにかんべんしてやったとなると、一生相手は頭が上がらない道理だが、それが一年の罪にでも落としてみると、相手のほうでは帳消しにでもなったようなつもりでいないともかぎらない。そうすると、敵を一人こしらえておくようなものだしね。他人にたたかれたのでは眠れるが、たたいたのでは眠れないとさえ言うんだから、何でも後で悔やまないほうがいいようだが、どうだね」
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「そりやさうさね、此の前も私の處で救つて遣つたのにそれに復たかうなんだから、まあ病氣さね此も、困つたもんだが然しあれを懲役に遣つて見た處で子供等が泣くばかりだからね、それにまあ本當いへば一つ村落に斯うして居るんだから先が困り切つてる内に勘辨して遣つたと成ると一生先は身がひけて居る道理だがそれが一杯の罪にでも落して見ると、先では帳消しにでも成つたやうな積で居まいものでもなし、さうすると敵一人拵へて置くやうなものだしね、他人に叩かれたのでは眠れるが、叩いたのでは眠れないとさへいふんだから、何でも後腹の病めない方が善いやうだがどうだね」
「そんでも、おかみさん、わしゃ卯平がみじめな目にあってるのが、他人のことでもいまいましいんでさ。わしゃ若いころから卯平とは相棒で仕事もしたんでがすが、卯平はもう何でも、あれが女房らを育てたころのことなんぞ思っちゃ、そまつにはできないんでがすからね。それ、おかみさん、卯平はいくつになりますね。わしらだったらなあに、ああいう野郎なんざ、槍ででも何でも突き刺しちまうんでがすがね」
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「そんでもお内儀さん、わしや卯平ことみじめ見せてんのが他人のこつても忌々敷んでさ、わしや血氣の頃から卯平たあ棒組で仕事もしたんでがすが、卯平はあんでもあれが嚊等育つ時分の事なんぞ思つちや疎末にや成んねえんでがすかんね、それお内儀さん卯平は幾つに成りあんすね、わし等だらなあに、あゝた野郎なんざあ槍でゝも何でも突つ刺しつちあんでがすがね」
おじいさんは怒りにたえられないように、にぎった手をひざがしらへ当てて言った。
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老人は憤慨に堪へぬやうに固めた拳を膝がしらへ當てゝいつた。
「もっともさね、そりゃ。それだが、はらの立つときは憎い奴だと思っても、後で悔やむときがないとも言えないしね。少しのことで二代も三代も仲直りができないような例が、いくらも世間にはあるもんだからね」
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「尤もさねそりや、それだが腹の立つ時分は憎い奴だと思つても後悔する時が無いともいひないしね、少しのことで二代も三代も仲直りが出來ないやうな實例が幾らも世間には有るもんだからね」
おかみさんはくり返して言った。
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内儀さんは反覆していつた。
しかしなかなか彼らの心は落ち着かない。
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然し容易に彼等の心は落居ない。
しばらく話はとぎれていた。
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暫く噺は途切て居た。
「遠くのほうへやったなんて言ったっけが、おりせはまた孫ができたそうだね。今度のは男だって、それでもよかったねえ」
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「遠くの方へ遣つたなんていつたつけがおりせは又孫が出來た相だね、今度のは男だつてそれでも善かつたねえ」
おかみさんは、そばにいたおばあさんに向いて、とつぜんこう言いかけた。
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内儀さんは側に居た老母へ向いて突然恁ういひ掛けた。
そしておかみさんは、冷たくなっていた茶わんを手にした。
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さうして内儀さんは冷たく成つて居た茶碗を手にした。
それを見て被害者の女房は土間へかけ下りて、かまどの口に火をつけてふうふうと火ふき竹をふいた。
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其れを見て被害者の女房は土間へ駈けおりて竈の口へ火を點けてふう/\と火吹竹を吹いた。
「はい、そうでござりますよ。おかみさんのお世話になりましたっけが、あれも今じゃずいぶんいい塩梅でございましてね。四人目でやっと、それでも男でがすよ。おかみさんに言われたときにはわしらももうしぶっていたんでがしたが、暮らしもあのときからよくなるしね。きょうだいの中で今じゃ、りせが一番だって言ってるところなのさ。おかみさんがあれなら大丈夫だからって言ってくれましたっけが、むこも心根がよくてね。じいさんばあさんにって、わしらにこういう物をよこしましたよ」
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「はあいさうでござりますよ、お内儀さんの厄介に成りあんしたつけが、あれも今ぢや大層えゝ鹽梅でがしてない、四人目漸とそんでも男でがすよ、お内儀さんに云あれた時にやわし等もはあ澁れえて居たんでがしたが、身上もあん時かんぢやよくなるしね、兄弟中で今ぢやりせが一番だつて云つてつ處なのせ、お内儀さんあれなら大丈夫だからつて云て呉れあんしたつけが婿も心底が善くつてね、爺婆げつて、わし等げ斯うた物遣しあんしたよ」
おばあさんは待ちかまえていたように、小さな風呂しきづつみを解いて、手織りのように見えるそまつな反物を出して、得意そうに見せた。
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老母は待ち構へてゞも居たやうに小風呂敷の包を解いて手織のやうに見える疎末な反物を出して手柄相に見せた。
おかみさんは仕方ないというようすで、反物へ手をかけて
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内儀さんは仕方ないといふ容子で反物へ手を掛けて
「それでも孫だきには行ったかね」
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「それでも孫抱きには行つたかね」
「ほんに、わしゃ今日あたり、おかみさんの所へ行こうと思っていたら、何ということか、こんなさわぎでもう行くこともできないで、わしゃ昨日帰って来たところなのさ、おかみさん」
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「ほんに、わしや今日らお内儀さん處さ行くべと思つて居たら、何ちこつたか恁んな騷ぎではあ行くも出來ねえで、わしや昨日歸つて來た處なのせえ、お内儀さん」
おばあさんはいくらでも勢いづいてしゃべろうとする。
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老母は幾らでも勢ひづいて饒舌らうとする。
熱いお茶がやっと、おかみさんの前に注がれた。
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熱い茶が漸く内儀さんの前に汲まれた。
被害者はおじいさんと座敷のすみで、さっきからこそこそと話をしている。
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被害者は老父と座敷の隅で先刻からこそ/\と噺をして居る。
そしてさらに、おばあさんを呼んだ。
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さうして更に老母を喚んだ。
「うん、そうだともよ」
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「うむ、さうだともよ」
というおばあさんの声がすると、みな座り直して
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といふ老母の聲がすると皆坐に直つて
「それじゃ、おかみさん、さっきのをおかみさんのいいように話してみておくんなせえ」
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「それぢや、お内儀さん、先刻のがなお内儀さんえゝやうに行つて見ておくんなせえ」
被害者は言った。
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被害者はいつた。
「わしゃ頑固者だから、おかみさん、悪く思わないでおくんなせえ」
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「わしや、一剋者だからお内儀さん惡く思はねえでおくんなせえ」
おじいさんも言った。
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老父もいつた。
「どうぞねえ、おかみさん」
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「どうぞねえお内儀さん」
おばあさんも言った。
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老母もいつた。
おかみさんはそれからまたしばらく世間話をして、みなで笑って帰った。
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内儀さんはそれから又暫く雜談をして皆で笑つて歸つた。
はらにあるだけのことを言わせてしまえば、彼らはそれだけ心が晴れて勢いがだんだんおとろえてくるので、そのあいだは機げんも取ってみて、そして決まりきった理くつもくり返して聞かせているうちには、ころりと落ちてしまうという、そのこつをおかみさんはよく知っているのである。
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腹に在るだけのことをいはして畢へば彼等はそれだけ心が晴々として勢が段々鈍つて來るので、其間は機嫌もとつて見て、さうして極り切つた理窟も反覆して聞かせて居るうちにはころりと落ちて畢ふといふ其の呼吸を内儀さんは能く知つて居るのである。
その夜、おつぎはおかみさんに呼ばれてとなりへ泊まった。
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其の夜おつぎは内儀さんに喚ばれて隣へ泊つた。
おかみさんは、おつぎと与吉をただ二人その家に置くのは、かわいそうでできなかったのである。
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内儀さんはおつぎと與吉を只二人其の家に置くには忍びなかつたのである。
夜になってから、勘次は土蔵から出されて、やとわれ人のそばで一晩を明かした。
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夜になつてから勘次は土藏から出されて傭人の側に一夜を明した。
彼は夜明け前にまた土蔵へかくれた。
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彼は未明に復土藏へ隱れた。
おかみさんはやとわれ人に固く口止めをして、外へもれないように苦心をした。
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内儀さんは傭人の口を堅く警めて外へ洩れないやうと苦心をした。
その日も巡査は勘次の家のあたりをうろついたが、それでもその東どなりの門をたたいて調べるまでには行かなかった。
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其の日も巡査は勘次の家のあたりを徘徊したがそれでも其の東隣の門を叩いて穿鑿するまでには至らなかつた。
おかみさんは、どうにかしても助けてやりたいと思い出したら、そこにじゃまが起これば、かえってそれをやぶろうといろいろ工夫をこらしてみるのだった。
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内儀さんは什麽にしても救つて遣りたいと思ひ出したら其處に障害が起れば却てそれを破らうと種々に工夫も凝して見るのであつた。
それで被害者のほうの話も決まったのだから、この上は警察の手心を待つよりほかに道はないのだが、留守だった主人はその日も帰らない。
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それで被害者の方の噺も極つたのだから此の上は警察の手加減に俟つより外に道は無いのであるが、不在であつた主人は其の日も歸らない。
勘次はひたすら、主人の力によってだけ助かるものと信じている。
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勘次は只管に主人の力に倚つてのみ救はれるものと念じて居る。
おかみさんも主人を待ちかねている。
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内儀さんも主人を待ちあぐんで居る。
そしてまた夜が来た。
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さうして復夜が來た。
おかみさんはもう、じっとしていられない。
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内儀さんはもう凝然としては居られない。
それでおつぎを連れて、ちょうちんをつけてこっそり土蔵の二階へ上がった。
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それでおつぎを連れて、提灯を點けて竊に土藏の二階へ昇つた。
「おとっつあん」
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「おとつゝあ」
おつぎは声を殺しながら、力を入れて言った。
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おつぎは聲を殺しながら力を入れていつた。
勘次は返事がない。
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勘次は返辭がない。
おつぎはさらに何度か呼んで、それからおかみさんが呼んだとき、よごれた体をおけの中から出した。
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おつぎは更に幾度か喚んでそれからお内儀さんが喚んだ時汚れた身體を桶の中から現はした。
「旦那がまだ帰らないのでね、警察のほうの話ができないで困っているんだが、どうだねお前、警察へ出てもぬすんでないと言いきれるかね。そうすりゃ私が始末をしてやるがね」
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「旦那がまだ歸らないのでね、警察の方の噺が出來ないで困つて居るんだが、どうだねお前警察へ出ても盜らないといひ切れるかね、さうすりや私が始末をして遣るがね」
おかみさんは言って聞かせた。
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内儀さんはいつて聞かせた。
「へえ」
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「へえ」
勘次はただ首をうなだれている。
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勘次は只首を俛れて居る。
「どうだね」
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「どうだね」
おかみさんはくり返した。
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内儀さんは反覆した。
「わしには、とてもたえられません」
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「わしがにや、とつても持ち切れあんせん」
勘次はしおれてふるえている。
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勘次は萎れて顫へて居る。
「おとっつあんは何て言うんだろうな」
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「おとつゝあは何ちんだんべな」
おつぎは歯がゆそうに言って、もうひと声
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おつぎは齒痒相にいつて一聲更に
「おとっつあん」
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「おとつゝあ」
と力を入れて
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と力を入れて
「ぬすんでないって言えよ、おとっつあん」
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「盜らねえつて云へよ、おとつゝあ」
おつぎはいっしんに勘次を見た。
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おつぎは熱心に勘次を見た。
「そんでもおれは、あそこへ出ちゃ、とても白状しないわけには行かないよ」
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「そんでも俺、あすこへ出ちや、とつても白状しねえ譯にや行かねえよ」
「そんな気持ちでなく、私は自分のを切ったんですと言えば、それでいいように始末してやるんだから」
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「そんな料簡でなく私は自分のが伐つたんですつていへば、そんでいゝやうに始末してやるだから」
おかみさんが力づけてみても、勘次はただ首をうなだれている。
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内儀さんが力を附けて見ても勘次は只首を俛れて居る。
「そう言いさえすりゃいいっていうのになあ、おとっつあんは」
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「さう云へせえすりやえゝつちのになあ、おとつゝあは」
おつぎはがっかりしたように言った。
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おつぎは落膽したやうにいつた。
おかみさんとおつぎは、こうしてぐっすりねむった体を立たせようとするような、むだな力をつくしたのだった。
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内儀さんとおつぎは恁うして熟睡した身體を直立せしめやうと苦心する程の徒な力を盡したのであつた。
やとわれ人もすっかりねむりに落ちたと思うころ、おかみさんとおつぎの黒いすがたが、こっそりと裏の竹やぶに動いた。
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傭人もすつかり眠りに落ちたと思ふ頃内儀さんとおつぎとの黒い姿が竊に裏の竹藪に動いた。
落ちている竹のえだが足の下でぽちぽちと折れて鳴った。
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落ちて居る竹の枝が足の下にぽち/\と折れて鳴つた。
北西のほうのかきねのそばへ来たとき、おかみさんはかきねの土についた所を力まかせにぼりぼりとやぶった。
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乾の方の垣根の側へ來た時に内儀さんは、垣根の土に附いた處を力任せにぼり/\と破つた。
おつぎも両手をかけてやぶった。
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おつぎも兩手を掛けて破つた。
何年も、すきまができれば小さな笹をつぎ足しつぎ足ししていた竹のかきねは、土の所がぼろぼろにくちているので、すぐに大きなあなが開いた。
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幾年となしに隙間を生ずれば小笹を繼ぎ足し/\しつゝあつた竹の垣根は、土の處がどす/\に朽ちて居るので直に大きな穴が明いた。
おつぎはそこからくぐって出た。
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おつぎは其處から潜つて出た。
とつぜんぱたぱたとけたたましい羽音が、すぐ頭の上でさわいだ。
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突然ぱた/\とけたゝましい羽音が直頭の上で騷いだ。
竹のえだに止まっていたはとが、急におどろいて遠くへ逃げたのである。
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竹の梢に泊つて居た鳩が俄に驚いて遠く逃げたのである。
「こわくはないかい」
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「さむしかないかい」
おかみさんはかきねごしに聞いた。
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内儀さんは垣根越しに聞いた。
「大丈夫ですよ、おかみさん」
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「大丈夫ですよ、お内儀さん」
おつぎは少し歩きかけて言った。
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おつぎは少し歩き掛けていつた。
「おや、もうそっちのほうへ行ったのかい。それじゃあそこをたたくんだよ」
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「おやもうそつちの方へ行つたのかい、それぢや彼處を叩くんだよ」
おかみさんは言って別れた。
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内儀さんはいつて分れた。
おつぎはすぐに、自分の家の裏の戸口に立った。
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おつぎは直に自分の裏戸口に立つた。
そっと開けて入ってみると、自分の家ながら、おつぎはひやりとした。
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そつと開けて這入つて見ると、自分の家ながらおつぎはひやりとした。
ねぐらのにわとりは暗い中でじっとしていながら、くくうと細い長い妙な声を出した。
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塒の鷄は闇い中で凝然として居ながらくゝうと細い長い妙な聲を出した。
ねずみが二、三びきがたがたとさわいで、何かにおさえつけられたかと思うように、ちゅうちゅうと苦しげな声を立てて鳴いた。
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鼠が二三匹がた/\と騷いで、何かで壓へつけられたかと思ふやうにちう/\と苦しげな聲を立て鳴いた。
おつぎは手さぐりで、かべぎわの草かりがまを取った。
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おつぎは手探りに壁際の草刈鎌を執つた。
またそっと戸を閉めて出るとき、首すじの髪の毛をこそばゆい手でひとつかみにされるように感じた。
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又そつと戸を閉てゝ出る時頸筋の髮の毛をこそつぱい手で一攫みにされるやうに感じた。
おつぎは外のかべぎわの草かりかごを背負った。
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おつぎは外の壁際の草刈籠を脊負つた。
どうしたはずみだったか、これもかべぎわに立てかけた竹ぼうきがたおれて、柄がかちっと草かりかごを打った。
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どうした機會であつたか此も壁際に立て掛けた竹箒が倒れて柄がかちつと草刈籠を打つた。
おつぎはひょいとふり返った。
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おつぎはひよつと顧みた。
夜はまっ暗である。
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夜は闇である。
すごく冴えた空へざっくりと立ったとなりの森のえだにくっついて、天の川が低く西へかたむきながら流れている。
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凄く冴えた空へぞつくりと立つた隣の森の梢にくつゝいて天の川が低く西へ傾きつゝ流れて居る。
しばらくして、おつぎは自分たちの手で作ったとうもろこしのそばに立った。
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暫くしておつぎは自分等の手で作つた蜀黍の側に立つた。
やせたとうもろこしはねむったかと思うほどしっとりとしていては、やがてざわざわと鳴った。
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痩せた蜀黍は眠つたかと思ふやうにしつとりとして居ては、軈てざわ/\と鳴つた。
おつぎは草かりがまでざくりざくりと、そのほを切った。
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おつぎは草刈鎌でざくり/\と其の穗を伐つた。
そして、ぎっとおしこんで重くなった草かりかごを背負った。
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さうしてぎつと押し込んで重く成つた草刈籠を脊負つた。
そこらの畑には、土が目を開いたようにところどころぽつりぽつりと、秋そばの花が白く見えている。
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其處らの畑には土が眼を開いたやうに處々ぽつり/\と秋蕎麥の花が白く見えて居る。
おつぎは足早に、高台の畑からとうもろこしの葉のざわつく細い道を低い畑へ下りて、やっとのことで鬼怒川の土手へ出た。
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おつぎは足速に臺地の畑から蜀黍の葉のざわつく小徑を低地の畑へおりて漸くのことで鬼怒川の土手へ出た。
おつぎは四つんばいになって、芝につかまりながら登った。
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おつぎは四つ偃に成つて芝に捉りながら登つた。
そのときおつぎの心には、ななめに土手の中ほどへつけられた細い道を見つけるゆとりがなかったのである。
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其の時おつぎの心には斜に土手の中腹へつけられた小徑を見出して居る程の餘裕がなかつたのである。
土手の内側は水ぎわからしのがいっぱいにしげって、夜目にはそれがごっそりと自分をおしつけるように見える。
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土手の内側は水際から篠が一杯に繁茂して夜目にはそれがごつしやりと自分を壓して見える。
しののあいだから水がしらしらと見えて、しのの根を洗って行く水の音がちろちろと耳に近く聞こえる。
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篠の間から水がしら/\と見えて、篠の根を洗つて行く水の響がちろ/\と耳に近く聞える。
おつぎはみぎわへ下りようと思ってしのを分けてみると、そこはがけになっていて、つま先から落ちた小さな土のかたまりがぽちぽちと水に鳴った。
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おつぎは汀へおりようと思つて篠を分けて見ると其處は崖に成つて居て爪先から落ちた小さな土の塊がぽち/\と水に鳴つた。
おつぎはさらにしのを分けて下りようとすると、そこもがけで、目の前にひょっこりと高瀬舟のほ柱が暗やみをついて立っている。
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おつぎは更に篠を分けておりようとすると、其處も崖で目の前にひよつこりと高瀬船の帆柱が闇を衝いて立て居る。
水の近くで、こそこそと人の話し声が聞こえる。
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水に近くこそ/\と人の噺聲が聞える。
夕暮れにやっとそこへつないだ高瀬舟が、そこらで食べ物を買い歩いておそく晩ごはんを済まして、まだねむらずにいたのだろう。
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黄昏に漸く其處へ繋つた高瀬船が、其處らで食料を求め歩いて遲く晩餐を濟してまだ眠らずに居たのであつたらう。
それは高瀬舟の船頭夫婦が、足りても足りなくても自分たちのたった一つの住まいである、そのへさきに作られた箱のようなせまい部屋の中で話している声だった。
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それは高瀬船の船頭夫婦が、足りても足りなくても自分の家族の唯一の住居である其の舳に造られた箱のやうな狹いせえじの中で噺して居る聲であつた。
赤んぼうの泣く声もまじって聞こえた。
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乳呑兒の泣く聲も交つて聞えた。
おつぎは後ろへ下がった。
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おつぎは後へ退去つた。
おつぎはほとんど無意識に、土手を南へ走った。
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おつぎは殆んど無意識に土手を南へ走つた。
ところどころ、だれかが道の芝の葉をしばり合わせておいたので、おつぎは何度もそれにつま先を引っかけてつまずいた。
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處々誰かゞ道芝の葉を縛り合せて置いたので、おつぎは幾度かそれへ爪先を引つ掛けて蹶いた。
土手のしのはだんだんまばらになって、水がいっぱいに見えて来た。
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土手の篠は段々に疎らに成つて水が一杯に見えて來た。
鬼怒川の水は土手よりはるかに低く、暗やみの底にしらしらとうすく光っている。
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鬼怒川の水は土手より遙に低く闇の底にしら/\と薄く光つて居る。
夜の手は向こう岸の松林のかげをその水に落として、川はばはわずか半分に縮められて見える。
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夜の手は對岸の松林の陰翳を其の水に投げて、川幅は僅に半分に蹙められて見える。
こおろぎはそこらじゅうで鳴きしきって、その集まった声は空にまでひびこうとしてはしずみながらしずみながら、それがゆったりと大きな波のように、自然に高くなり低くなりしている。
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蟋蟀は其處らあたり一杯に鳴きしきつて、其の聚つた聲は空にまで響かうとしては沈みつゝ/\、それがゆつたりと大きな波動の如く自然に抑揚を成しつゝある。
おつぎはとうとう、わたし場まで来た。
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おつぎは到頭渡船場まで來た。
おつぎはそれから水ぎわへ下りようとすると、水をわたって静かに、しかも近くに人の声がして、ときどきじゃぶっという音が水に起こる。
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おつぎはそれから水際へおりようとすると水を渡つて靜かに然も近く人の聲がして、時々しやぶつといふ響が水に起る。
ふしぎに思ってためらっていると、とつぜん目の前に、向こう岸の松林のかげから白く光っている水の上へへさきが出て、舟が現れた。
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不審に思つて躊躇して居ると突然目の前に對岸の松林の陰翳から白く光つて居る水の上へ舳が出て船が現はれた。
わたし舟が真夜中に人を乗せたので、じゃぶっという音は、さおが水をかき切るたびに鳴ったのである。
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渡し船が深夜に人を乘せたのでしやぶつといふ響は舟棹が水を掻つ切る度に鳴つたのである。
おつぎはまた土手へもどって、大きな川やなぎのそばに身をかくした。
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おつぎは又土手へ戻つて大きな川柳の傍に身を避けた。
二言三言を交わして、人は去ったようである。
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二三語を交換して人は去つたやうである。
船頭は暗い小屋の戸をがらっと開けて、またがらっと閉じた。
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船頭は闇い小屋の戸をがらつと開けて又がらつと閉ぢた。
おつぎはしばらく待っていて、それからそくそくと舟をつないだあたりへ下りた。
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おつぎは暫く待つて居てそれからそく/\と船を繋いだあたりへ下りた。
おつぎはすぐそばでかさかさと何かが動くのを聞くとともに、ぶうぶうとぶたらしい鳴き声がするのを聞いた。
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おつぎは直ぐ側でかさ/\と何かが動くのを聞くと共に、ゐい/\と豚らしい鳴聲のするのを聞いた。
「行くのかあ」
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「行くのかあ」
と、まだねむらなかった船頭がとつぜん、独特の大声でどなった。
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とまだ眠らなかつた船頭は突然特有の大聲で呶鳴つた。
おつぎはおどろいて、また一気に土手を走った。
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おつぎは驚いて又一散に土手を走つた。
船頭はがらっと戸を開けて、人が走ったような音がはっきりと耳に残ったので、はるか暗い土手をすかして見て、ぶつぶつ言いながら、さらにぶた小屋に近づいてマッチをさっとすってみて、「油断ならない」
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船頭はがらつと戸を開けて、人の走つたやうな響きが明かに耳に感じたので、遙に闇い土手を透して見てぶつ/\いひながら彼は更に豚小屋に近づいて燐寸をさつと擦つて見て「油斷なんねえ」
とつぶやいて、また戸を閉じた。
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と呟いて又戸を閉ぢた。
彼は内職に飼っているぶたが近ごろ子を産んだので、他人にねらわれはしないかと心配していたのである。
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彼は内職に飼つた豚が近頃子を生んだので他人が覘はせぬかと懸念しつゝあつたのである。
おつぎは、どこでもかまわないと土手のしのを分けて、一つ一つとうもろこしのほを力のかぎり水へ投げた。
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おつぎは何處でも構はぬと土手の篠を分けて一つ/\に蜀黍の穗を力の限り水に投じた。
おつぎは空の草かりかごを背負って急いで帰った。
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おつぎは空な草刈籠を脊負つて急いで歸つた。
おつぎがことこととたたいたとき、おかみさんはすぐに戸を開けて
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おつぎがこと/\と叩いた時内儀さんは直に戸を開けて
「どうしたい、ずいぶんおそかったね」
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「どうしたい、大變遲かつたね」
と聞いた。
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と聞いた。
「おかみさん、言うとおりにしましたよ」
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「お内儀さんいふ通にしあんしたよ」
「そのとうもろこしはどこへやったい」
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「其の蜀黍は何處へ遣つたい」
「わたしはどうしていいか知らないから、川へ持って行って捨てました」
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「わたしやどうしてえゝか知んねえから川へ持つて行つて打棄りあんした」
「そうかい、よく行って来たね。まあお上がり」
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「さうかい、能く行つて來たね、まあ上りな」
おかみさんはランプを自分の頭の上に上げて、じっと首を低くしておつぎのようすを見た。
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内儀さんはランプを自分の頭の上に上げて凝然と首を低くしておつぎの容子を見た。
「どうしたんだえ、おつぎはまあ、その着物は」
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「どうしたんだえ、おつぎはまあ、其の衣物は」
「本当にまあ」
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「本當にまあ」
おつぎは初めて気づいたようで
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おつぎは始めて心付いたやうで
「さっき土手へ行くとき、ほりの所へすべったんですが、そのときこんなによごしたんでしょうよ」
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「先刻土手さ行く時、堀つ子ん處へ辷つたんですが、其ん時かうえに汚したんでせうよ」
と、おつぎはどろになった腰のあたりへ手を当てた。
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とおつぎは泥に成つた腰のあたりへ手を當てた。
「おかみさん、わたしはとんだことをしました」
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「お内儀さん、わたしや飛んだことを仕あんした」
おつぎはまた言った。
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おつぎは又いつた。
「どうしたんだえ」
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「どうしたんだえ」
「わたしはかまをどこへやっちまったか、分からなくしちまったんでさ」
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「わたしや、鎌何處へ遣つちやつたか分んなく仕つちやつたんでさ」
「今夜持って行ったのかえ」
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「今夜持つてつたのかえ」
「そうなんでさ。わたしはとうもろこしを捨てるときまであると思ってたら、見えないんでさ。わたしの家のおとっつあんは、道具のことといったらひどく怒るんですから」
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「さうなんでさ、わたしや蜀黍打棄つ時まで有つと思つてたら見えねえんでさ、私等家のおとつつあは道具つちと酷く怒んですから」
「草かりがまの一本や二本、お前どうということはないよ。あっちへ回って足でも洗ってさあ」
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「草刈鎌の一挺や二挺お前どうするもんぢやない、あつちへ廻つて足でも洗つてさあ」
おかみさんの口元には、かすかな笑いがうかんだ。
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内儀さんの口もとには微かな笑ひが浮んだ。
次の日にやっと主人は帰った。
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次の日に漸く主人は歸つた。
巡査に話をしてみたが、そのときはもう被害者からの報告書が分署へ出されていたので、さらに分署長にたのみこんでみた。
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巡査へ噺をして見たが其の時はもう被害者からの申報書が分署へ提出されてあつたので更に分署長へ懇請して見た。
そして、被害者から事実がちがっていたという意味の取り消しを出せば、それでいいということにまで話が進んだ。
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さうして被害者から事實が相違したといふ意味の取消を出せばそれで善いといふことにまで運びがついた。
軽い罪ということで、その筋の手心が加えられたのである。
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微罪といふので其筋の手加減が出來たのである。
おかみさんはまた被害者の家へ行って、それだけの筋道を聞かせたが、どうしても今度はうんと言わない。
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内儀さんは復た被害者の家へ行つて其れ丈の筋道を聞かせたが、どうしても今度はうんといはない。
「どうも、わしらは分署へなんぞ出るのは、なんぼにもいやでがすからね。きっと怒られるんでがすから、もう」
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「どうもわし等分署へなんぞ出んな、なんぼにも厭でがすかんね、屹度怒られんでがすからはあ」
とばかり言うのである。
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とのみいふのである。
「そうだがね、ここまで話がついているんだから、こっちでそれだけのことをしてくれなくちゃ、これまでのことが水のあわなんだからね」
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「さうだがね、此處まで噺がついて居るんだから此方でそれだけのことは仕て呉れなくつちや此れまでのことが水の泡なんだからね」
と道理を聞かせても
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と道理を聞かせても
「ぬすまれた上にこうしてひまをつぶして、おまけに分署へ出て怒られたりするんじゃ、こんなつまらないことはめったにありませんからね。それに書き付けだって、どうしていいんだか分からないし」
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「盜らつた上に恁うして暇潰して、おまけに分署へ出て怒られたり何つかすんぢや、こんな詰んねえこたあ滅多ありあんせんかんね、それに書付だつてどうしてえゝんだか分んねえし」
彼はただ、いかめしく見える警察の人がこわくて、どうしても足が進まないのである。
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彼は只嚴めしく見える警察官が恐ろしくてどうしても足が進まないのである。
「そりゃ書き付けなんぞは、旦那が書いてやるから心配は要らないがね」
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「そりや書付なんぞは、旦那が書いて遣るから心配にや成らないがね」
おかみさんはやっと、近所の人を一人ついて行かせるようにしてやるということにしたので、被害者も思い切って出ることになった。
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内儀さんは漸く近所の者を一人跟いてくやうにして遣るといふことにしたので被害者も思ひ切つて出ることに成つた。
彼らが帰ったときには、反対に元気がよかった。
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彼等が歸つた時は反對に威勢がよかつた。
「どうだったっけね」
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「どうしたつけね」
と聞かれて
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聞かれて
「ひげのこう生えた部長さんだっていうこわい人でがしたがね。ぬすまれたなんてとどけを出しておいて、そして警察へよけいな手間をかけてけしからん奴だなんてどなられたときには、どうしようかと思って。そんじゃ、その書き付けを持って帰りますと言おうかと思いましたっけ。そうしたらしばらく書き付けを見てたっけが、これはだれが書いたと聞くから、わしらのほうの旦那でがすと言ったら、そうか、そんじゃよしよし帰れなんて言うもんだから、ほっと息をつきました。熱が下がったようでさあ、もう。そんだから、わしらはなんぼにもああいう所へ出るのはいやで」
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「髭のかう生えた部長さんだつていふ可怖え人でがしたがね、盜まつたなんて屆けしてゝさうして警察へ餘計な手間掛けて不埓な奴だなんて呶鳴らつた時にやどうすべかと思つて、そんぢや其の書付持つて歸りますべつて云ふべかと思ひあんしたつけ、さうしたら暫く書付見てたつけが此は誰れが書いたつて聞くから、わし等方の旦那でがすつて云つたら、さうかそんぢやよし/\歸れなんていふもんだからほつと息つきあんした、瘧落ちたやうでさあはあ、そんだからわし等なんぼにもあゝい處へは出んな厭で」
彼はしばらく間を置いて
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彼は少時間を措いて
「そんだが、旦那はたいしたもんでがすね。旦那が書いたんだと言ったらなあ」
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「そんだが、旦那はたいしたもんでがすね、旦那書いたんだつて云つたらなあ」
と、彼はさらについて行った近所の人をふり返って言った。
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と彼は更に跟いて行つた近所の者を顧みていつた。
事件はこうして、一見おかしな、しかもいちばんよくあるやり方をたどって終わりになった。
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事件は如此にして一見妙な然も最も普通な方法を踏んで終局が告げられた。
被害者の損害へのつぐないは、わずかとはいいながら、いったん主人の手から出て、それが被害者にわたされた。
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被害者の損害に對する賠償は僅であるとはいひながら一時主人の手から出てそれが被害者に渡された。
「わしもこれからは、けっして他人の物はちり一つでもぬすみませんから、どうぞ」
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「わしも此れからは決して他人の物は塵つ葉一本でも盜りませんからどうぞ」
と、勘次はさすがに泣いた。
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と勘次は有繋に泣いた。
彼はまだ、お品が死んだ年の小作米のとどこおりもはらっていないし、その上、卯平からゆずられた借金の残りもちっとも片づいていないのに、また今度のあやまちからわずかながら新しい借りが増えたのである。
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彼はまだお品が死んだ年の小作米の滯りも拂つてはないし、加之卯平から譲られた借財の残りもちつとも極りがついて無いのに又今度の間違から僅ながら新な負擔が加はつたのである。
彼のけんめいな働きぶりは、前よりもさらに人の目を引いた。
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彼が懸命の勞働は舊に倍して著るしく人の目に立つた。
ある日、主人のおかみさんは、ちょっとした折に勘次に話をした。
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或日主人の内儀さんは偶然とした機會があつて勘次に噺をした。
「あれでなかなか、おつぎにもおどろいたもんだね」
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「あれでなか/\おつぎにも驚いたもんだね」
おかみさんは言った。
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内儀さんはいつた。
「もう、どうかしましたんでしょうか、おかみさん」
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「はあどうか仕あんしたんべか、お内儀さん」
勘次はふしぎそうなようすをして、つらいいやなことでも言い出されるかと心配するように、おずおずと言った。
原文を見る
勘次は怪訝な容子をして且辛い厭なことでもいひ出されるかと案ずるやうに怖づ/\いつた。
「どうしたっていうんじゃないが、この間の晩のことを知ってるかね」
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「どうしたつていふんぢやないが、此の間の晩のことを知つてるかね」
「何でしょうね、おかみさん」
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「何でがせうね、お内儀さん」
「夜中にあのとうもろこしを切らせたことだがね。じつはあのときはね、警察のほうが間に合わなければ、お前にぬすんでないとどこまでも言わせておいて、そして旦那が帰ってからのことと思ったもんだから。それにはお前が白状してしまっても困るし、自分の畑がそっくり残っていてもまずいからね。それも今になっちゃ、何もそんなことしなくてもよかったようなものだが、そのときは私もどうかしてと思ってね。それだが、おつぎのどきょうには私もおどろいたよ」
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「夜中にあの蜀黍伐らせたことだがね、實はあの時はね、警察の方が間に合はなければお前に盜らないと何處までもいはして置いて、さうして旦那が歸つてからのことと思つたもんだから、それにやお前が白状して畢つても困るし、自分の畑がそつくりして居ても不味いからね、それも今に成つちや何もそんなこと仕なくつても善かつたやうなものだが、其の時は私もどうかしてと思つてね、それだがおつぎが度胸のあるのぢや私も喫驚したよ」
おかみさんは言った。
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内儀さんはいつた。
「へえ、わしもおつうに聞きました。かまが一本見えないもんだからどうしたと言ったら、おかみさんが言うから切ったんだなんて。そんでもかまは笹の中にありましたっけや」
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「へえわしもおつうに聞きあんした、鎌一挺見えねえもんだからどうしたつちつたら、お内儀さんいふから伐つたんだなんて、そんでも鎌は笹ん中に有りあんしたつけや」
「そうかい。どんなかまだか、おつぎは心配していたからね」
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「さうかい、どんな鎌だかおつぎは心配して居たからね」
「なあに、もう、へっちまったかまだからおしくはないんですがね」
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「なあにはあ、減つちやつた鎌だから惜しかあねえんですがね」
「おつぎのことは、そんなことではむやみに怒らないようにしなよ。面倒を見てね」
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「おつぎのことはそんなことでは無闇に怒らないやうにしなよ、面倒見てね」
「それから、わしもおかみさん、こうして独りでしんぼうしてるんでがすが、わしの女房も死ぬときには子どもらのことは心配したんでがすからね。それからわしも、おつうが行きたいと言うもんだからおはりにも行かせますしね。たすきなんぞもほしいほしいと言うもんだから、わしらみたいな貧乏人にはよけいなもんではありますが、赤いのを買ってやったんでがす。こういうことをして、おかみさんの所へも小作の借りも持って来ないで済まないんですが、女房のひとえも質に入れてたのを出してやったんでがすがね。畑へなんぞ出るのにはもったいない物なんだが、それ一まいきりだから、わしもかまわないで見てるのさ。そんだがおかみさん、ふしぎとよごしませんからね」
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「それからわしもお内儀さん、恁うして獨で辛抱してんでがすが、わし等嚊も死ぬ時にや子奴等こたあ心配したんでがすかんね、夫からわしもおつうが行きてえつちもんだからお針にも遣りあんすしね、襷なんぞも欲い/\つちもんだからわし等見てえな貧乏人にや餘計なもんぢやありあんすが赤えの買つて遣つたんでがさ、此さうだことしてお内儀さん處へも小作の借も持つて來ねえで濟まねえんですが、嚊が單衣物も質に入えてたの出して遣つたんでがすがね、畑へなんぞ出んのにや餘り過ぎ物なんだが、それ一枚切りだからわしも構あねえで見てんのせ、そんだがお内儀さん奇態に汚しあんせんかんね」
勘次は最後の一言に力を入れて言った。
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勘次は最後の一語に力を入れていつた。
「そうだよ、そうしてやればはげみがちがうからね」
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「さうだよ、さうして遣れば勵みが違ふからね」
おかみさんは言って、また
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内儀さんはいつて又
「おつぎもよく働けるようになったね。それだが、この間のような所を見ると、死んだお品が乗りうつったかと思うようさね」
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「おつぎも能く働けるやうに成つたね、それだが此の間のやうな處を見ると死んだお品が乘り移つたかと思ふやうさね」
「わしももう、あれのことにはおどろいたことがあるんでがすがね」
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「わしもはあ、あれがこたあ魂消てつことあんでがすがね」
「そう言っちゃ何だが、お品もずいぶんお前のことでは気をもんで苦労したこともあるからね」
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「さういつちや何だがお品も隨分お前ぢや意地燒いて苦勞したことも有るからね」
「へえ、わしはもうこわくて仕方がないんですから。わしが出られない所へは女房ばかり出て出てしたんでがすから」
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「へえ、わしやはあ可怖くつて仕やうねえんですから、わし出らんねえ處へは嚊ばかり出え/\仕たんでがすから」
「そうだったねえ」
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「さうだつけねえ」
おかみさんはほほえんで
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内儀さんは微笑して
「おつぎは心持ちまでお母さんのほうだね。お前の姉さんだが、おつたはああいう性しつなのに、同じおなかから出ても違うもんだね」
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「おつぎは心持までお袋の方だね、お前の姊だがおつたはあゝいふ性質なのに一つ腹から出ても違ふもんだね」
「わしの姉はおかみさん、ろくでなしですからね」
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「わし等姊はお内儀さん、碌でなしですかんね」
彼ははずかしくて、そして自分をかばうように、その姉というのを悪く言って、ひがんだような苦笑いをした。
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彼は恥ぢてさうして自分を庇護ふやうに其の姊といふのを卑下して僻んだやうな苦笑を敢てした。
「おつたは今どこにいるね」
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「おつたは今何處に居るね」
「下のほうにいますがね。わしは行き来なしでさ。きょうだいだとは思わないからと、わしがことわったんでがすから。わしの女房が死んだときだって来もしないんですからね。おかみさん、そういう者はありますまいね」
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「下の方に居あんすがね、わしは往來なしでさ、同胞だたあ思はねえからつてわし斷つたんでがすから、わし等嚊死んだ時だつて來もしねえんですかんね、お内儀さんさうえ者あ有りあんすめえね」
「そうだったっけかね」
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「さうだつけかね」
「わしは姉には、とうとう小作に持って行こうと思ってたのを一俵だまし取られたことがあるんですから。自分のを片づければすぐ返すからと持って行って、それっきりなんでさ。わしの女房が生きてるころなもんだから、女房がしつこくさいそくに行き行きしたんだが、なくちゃやれないからと喧嘩をふっかけるっていうんだから、女房もいまいましがっていたが、相手が無茶なんだからだめでさね。それどころじゃない、目の見えなくなった自分の子どものお金さえだまして取るんだから」
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「わしや、姊にや到頭小作に持つてくべと思つてたの一俵ぺてんに掛けられたことあんですから、自分のが始末すれば直返すからつて持つて行つてそれつ切りなんでさ、わし等嚊生きてる頃なもんだから、嚊とろつぴ催促に行き/\したんだが、無くつちや遣らんねえからつて喧嘩吹つ掛るつちんだから嚊も忌々敷がつて居たが先が不法なんだから駄目でさね、それ處ぢやねえ、盲目に成つた自分の餓鬼の錢せえ騙して叩くんだから」
「目が見えないというのはどうしたんだね、それは」
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「盲目といふのはどうしたんだねそれは」
「野田へしょうゆ屋の奉公に行っていて、あまりごはんを食い過ぎたのがもとで目に出たなんて言うんですが、二十くらいで見えなくなっちまったんでさ。そうしたら、それを置いて夜逃げみたいにさ、まるで。自分の村にだっていられなくなったんでがすから」
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「野田へ醤油屋奉公に行つてゝ餘り飯食ひ過ぎたの原因で眼へ出たなんていふんですが、廿位で潰れつちやつたんでさ、さうしたらそれ打棄つて夜遁げ見てえせまるで、自分の村落にだつて居らんなく成つたんでがすから」
「そういうことがねえ、よくできたもんだね。自分の本当の子をねえ、まあ。おつたはひどいということは聞いてはいたがねえ」
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「さういふことがねえ、能く出來たもんだね、自分の本當の子をねえまあ、おつたは酷いといふことは聞いちや居たがねえ」
おかみさんはおどろいたようすで言った。
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内儀さんは驚いた容子でいつた。
「そんだが、おかみさん、その子がふしぎで、麦つきでも米つきでも畑をたがやすのでも、何でも百姓仕事はやるんでさ。うす明かりには見えるんだなんて言うんだが、そんでもふしぎなのさ、どうも。そんで、とても真面目な者だから他人にも面倒を見られて、それくらいだからお金も持ってるんでさ。そうしたらどこで聞いたか来てだまして連れて行ってね。ええ、わしの姉ながら、おかみさん」
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「そんだがお内儀さん其盲目奇態で、麥搗でも米搗でも畑耕でも何でも百姓仕事は行んでさ、薄ら明りにや見えんだなんていふんだがそんでも奇態なのせどうも、そんで極く堅てえもんだから他人にも面倒見られて其の位だから錢も持つてんでさ、さうしたら何處で聞いたか來て騙して連れてつてね、えゝわしら等姊せお内儀さん」
彼は目をつり上げた。
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彼は目を峙てた。
「その子もさすがにお母さんだから、不自由になっては他人の所よりはいいと思ったんでしょうね。そうしたらおかみさん、その子のお金を取っちまったらまた置き去りにして。聞いてみちゃひどい話なのさ、本当に。そのときにはその子もわしの所へ泣きついて来て、わしももう、二十過ぎにもなっていくらなんだってだまされるなんて、その子のこともいまいましいようでがしたが、わしもそのときは女房に死なれたばかりなもんだから、そう冷たくもできないと思って。そんでも一晩泊めて、わしも困ってはいたが、穀物もちっとはやったのさ。わしはおかみさん、女房を死なせてからというものは、こじきにだって手づかみで物を出したことはないんでがすからね。そら、おつうにももう言い聞かせてるんでがすから。わしはおかみさん、それだけは心がけてるんでがすよ」
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「盲目も有繋お袋だから畸形に成つちや他人の處なんぞよりやえゝと思つたんでがせうね、さうしたらお内儀さん盲目が錢叩いつちやつたら又打棄つて、聞いて見ちや酷でえ噺なのせ本當に、そん時にや盲目もわしが處へ泣きついて來て、わしもはあ、二十先にも成つて幾らなんだつて騙さつるなんて盲目ことも忌々敷やうでがしたが、わしも其ん時や嚊に死なれた當座なもんだからさう薄情なことも出來ねえと思つて、そんでも一晩泊めて、わしも困つちや居たが穀もちつたあ遣つたのせ、わしやお内儀さん嚊おつ殺してからつちものは乞食げだつて手攫みで物出したこたあねえんでがすかんね、そらおつうげもはあ斷つて置くんでがすから、わしやお内儀さん其れ丈は心掛てんでがすよ」
勘次は、おかみさんの心の中にあるものを探るような態度で言った。
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勘次は内儀さんの心裡に伏在して居る何物かを求めるやうな態度でいつた。
「そうだともさね。そういう心がけでいさえすりゃ、けっして間違いはないからね」
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「さうだともさね、さういふ心掛で居さへすりや決して間違はないからね」
おかみさんは言って、さらにさっきからの話にいくらか引きこまれているようで
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内儀さんはいつて更に以前からの噺に幾らか釣り込まれて居るやうで
「そりゃそうと、その子はどうしたね」
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「そりやさうと其盲目はどうしたね」
「村にいますさ。どこと言ったって行き場所はないんですから。なあに、独りでさえありゃ、かえってふところはいいんでがすから」
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「村落に居あんさ、何處つちつたつて行き場所はねえんですから、なあに獨りでせえありや却つて懷はえゝんでがすから」
「それはまあ、おつたはそうとしても、それがさ、彦次はどうしたんだね。私もおつたのことはしばらく前に見たっきりだが」
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「それはまあ、おつたはさうとしても、それがさ、彦次はどうしたんだね、私もおつたのことは暫く前に見たつ切だが」
「おかみさん、夫婦そろってでなくちゃやれるもんじゃありませんぞ。おやじだっておかみさん、自分のむすめを女ろうに売って百五十円とか言いましたっけが、その帰りにしゃも喧嘩に引っかかって七十円も取られて来たっていうんでがすから、話にはならないですよ。そっから、わしは姉ら夫婦のことは大きらいなんでさあ」
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「お内儀さん、夫婦揃つてなくつちや行れるもんぢやありあんせんぞ、親爺だつてお内儀さん自分の女つ子女郎に賣つて百五十兩とかだつていひあんしたつけがそれ歸りに軍鷄喧嘩へ引つ掛つて、七十兩も奪られて來たつちんでがすから噺にや成んねえですよ、そつからわしや姊等夫婦のこたあ大嫌なんでさあ」
「本当とは思えないようなことだね」
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「本當とは思へないやうなことだね」
「おかみさん、本当ですともね。わしは嘘なんざおかみさんに言いませんから」
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「お内儀さん本當ですともね、わしあ嘘なんざお内儀げいひあんせんから」
「そりゃ本当にはちがいないだろうがね」
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「そりや本當にや相違ないだらうがね」
「そんだが、おかみさん、そのむすめもすぐ逃げて来ちまいましたね。今じゃ何とか言って、いやならかまわないそうでがすね」
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「そんだがお内儀さん、其女つ子も直遁げて來つちめえあんしたね、今ぢや何とか云つて厭だら構あねえ相でがすね」
「私もそんなことは知らないが、新聞でさわぎはあったようだったね」
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「私もそんなことは知らないが、新聞で騷ぎはあつたやうだつけね」
おかみさんは、どこかそういう話には気が乗らないようで
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内儀さんは何處かさういふ噺には氣が乘ぬやうで
「おつたも見たところじゃ見た目はいいしね」
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「おつたも見た處ぢや體裁がよくてね」
「そうなんでさ。うまいもんだから、わしもとうとう米一俵損させられちまって」
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「さうなんでさ、うまいもんだからわしも到頭米一俵損させられちやつて」
勘次はそれを言うたびに、おしそうなようすが見えるのである。
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勘次はそれをいふ度に惜し相な容子が見えるのである。
「そう言っちゃお前の姉さんのことを悪くばかり言うようだが、しゅうとが鬼怒川へ落ちて死んだなんて大さわぎしたことがあったっけねえ」
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「さういつちやお前の姊のこと惡くばかりいふやうだが、舅が鬼怒川へ落ちて死んだなんて大騷ぎしたことが有つたつけねえ」
「そうでさ。よっぽど前になりますがね。ありゃ鬼怒川へのみを落とすと言って行って、それっきりになっちまったのさ」
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「さうでさ、餘つ程に成りあんすがね、ありや鬼怒川へ蚤叩くつて行つてそれつ切りに成つちやつたのせ」
「彦次は本当の子なんだね」
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「彦次は實子なんだね」
「ええ、しばらく目が不自由で、別に小さく建てて隠居してたんですが、のみがわいたようすなんでがすね。一度なんざ畑のそばで落としたら、そこらを通った人がみんなぞよぞよとはい上がられてひどい目にあったっていうんですから。そんで、そこらで落としちゃ仕方がないからなんて言われたんでしょうね。それから何でも、ござを持って鬼怒川へ行くことにしたんでがすね。鬼怒川まではさすがによっぽどありますさね。足元が本当じゃないから、ずぶりとのめっちまったもんでさ。本当にあっけない話で。それ、おかみさん、わしの姉は、他人がなきがらを見つけて大さわぎして知らせに来たら、すぐもう死んだ人の着物から片づけにかかったっていうんですから」
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「えゝ、暫く目が不自由で別に小さく作つて隱居してたんですが、蚤は居た容子なんでがすね、一度なんざあ畑の側で叩えたら其處ら通つた人みんなぞよ/\偃ひ上られて酷でえ目に逢つたちんですから、そんで其處らで叩えちや仕やうねえからなんて云はれたんでがせうね、それから何でも蓙持つて鬼怒川さ行く積に成つたんでがすね、鬼怒川までは有繋餘つ程ありあんさね、足もとが本當ぢやねえからずんぶらのめつちやつたもんでさ、本當に飽氣ねえ噺で、それお内儀さんわし等姊は他人が死骸見付けて大騷ぎして知らせに來たら、直はあ死人の衣物から始末して掛つたつちんですから」
「自分で取ってしまうつもりなんだね」
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「自分で取つて畢ふ積なんだね」
「きょうだいらに分けてなんざやらないつもりなんでさね」
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「兄弟等げ分けてなんざあ遣んねえ積なんでさね」
「着物だっていくらもないんだろうがね。それにまあ、どうして川へなんて、そんな遠くへござばかり持ってね。行くうちにはわいたのみもみんな飛んでしまうだろうがね。まあそういうのも巡り合わせだね」
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「衣物だつて幾らも無いんだらうがね、それにまあどうして川へなんて其麽遠くへ蓙ばかり持つてね、行くうちにや居た蚤もみんな飛んで了ふだらうがね、まあさういのも運り合せだね」
「もうぼけてたんでがすから。あんまりぼけちゃきらわれますからね」
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「はあ耄碌してたんでがすから、餘まり耄碌しちや厭がられあんすかんね」
「きらわれるって、お前そんなものじゃないよ。しゅうとだもの、むこだのむすめだのというものは、よけいに気をつけなくちゃならないものなんだね」
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「厭がられるつてお前そんなものぢやないよ、舅だもの、婿だの娘だのといふものは餘計氣をつけなくちや成らないものなんだね」
おかみさんはたしなめるように言った。
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内儀さんは窘める樣にいつた。
「そりゃそうですがね、おかみさん」
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「そりやさうですがね、お内儀さん」
勘次はなんだかかくしごとでも見ぬかれたように慌てて言って、そして苦笑いした。
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勘次は何だが隱事でも發かれたやうに慌てゝいつてさうして苦笑した。
「おつたは本当にしゅうとにはよくしなかったそうだな。自分らのほうのあんこにはさとうを入れても、しゅうとのほうへはさとうを入れなかったなんて、しばらく前に聞いたっけが」
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「おつたは本當に舅は善くしなかつた相だな、自分等の方の饀へは砂糖を入れても舅の方へは砂糖を入れなかつたなんて暫く前に聞いたつけが」
おかみさんは独りで低い声で言った。
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内儀さんは獨で低聲にいつた。
「どうでしたかね、それは」
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「どうでがしたかねそれは」
勘次はさっきのようすとは違って、急にかばうような態度で言った。
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勘次は先刻の容子とは違つて、俄に庇護ひでもするやうな態度でいつた。
「そんなにしなくたって、いくらも生きやしない老人のことをな」
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「そんなに仕なくつたつて幾らも生きやしない老人のことをな」
おかみさんはつくづくとまた言った。
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内儀さんは熟と復いつた。
勘次はよけいにしおれた。
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勘次は餘計に萎れた。
「勘次も、お金は自分の手からわかすようにしてしんぼうしてりゃ、つらいことばかりはないから。何でも人間は子ども次第だよ。後で世話にならなくちゃならないんだから、子どもの面倒を見ないのは間違いだよ」
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「勘次も錢は自分の手から湧すやうにして辛抱してりや辛いことばかり無いから、何でも人間は子供次第だよ、後で厄介に成らなくちや成らないんだから子供の面倒は見ないな間違だよ」
おかみさんははげますように、そしてしんみりと言った。
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内儀さんは勵すやうにさうしてしんみりといつた。
しばらく話がとぎれたとき、勘次はとつぜん
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暫く噺が途切れた時勘次は突然
「おかみさん、変なことを聞くようでがすが、帯にする布はどのくらいあったらいいもんでしょうね」
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「お内儀さん變なこと聞くやうでがすが帶にする布片はどの位有つたらえゝもんでがせうね」
と聞いた。
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と聞いた。
「おつぎにでもしめさせるのかい」
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「おつぎにでも締めさせるのかい」
「へえ、今のが古くていやだなんてねだられて、いつでもわしは怒るんでがすが。おかみさんの所へも義理を欠いてばかりいて、そんな余ゆうはないと言って聞かせても、みんな赤いのをしめてるもんだから、ほしくて仕方がないんでさ」
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「へえ、今のが古くつて厭だなんて強請れんで、何時でもわし怒んでがすが、お内儀さん處へも不義理ばかりしてそんな處ぢやねえつて云つて聞かせても、みんな赤えの締めてるもんだから欲しくつて仕やうねえんでさ」
「そうだね、帯はまあ一丈っていうんだが、そこらの子のしめるのはどんなものだかさね」
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「さうだね、帶はまあ一丈つていふんだが、其處らの子の締めるのは什麽ものだかさね」
「わしのおつうは、それ、四尺もあればいいっていうんですがね。それだから、わしはおかみさんにでも聞かなけりゃ分からないと思って」
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「わしらおつうはそれ四尺もあればえゝつちんですがね、それだからわしお内儀さんにでも聞かねえぢや分んねえと思つて」
「そうさ、なるほど。外へ出る所だけあればいいんだから、それには四尺もあったらたくさんだね。こうこっちばかりつければね」
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「さうさ成程、外へ出る處だけ有れば善いんだから、それにや四尺もあつたら澤山だね、斯うこつちばかり附ければね」
おかみさんは自分の帯へ手を当ててみて言った。
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内儀さんは自分の帶へ手を當てゝ見ていつた。
「それおかみさん、両方へつけるんだって、こういうふうにしばって中へたくし込んだはしっこが赤くなくちゃみっともないってね。そんな所はどうでもよかろうと思うんだが、もっともそこは一尺でいいなんて言うんでさ」
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「それお内儀さん、兩方へ附けんだつて恁ういに縛つて中へたぐめた端つ子が赤くなくつちや見つともねえつてね、そんな處どうでもよかんべと思ふんだが、尤も其處は一尺でえゝなんて云んでさ」
「なるほどね。私らは今までそういうことには気がつかなかったが、結び目も仕事するんだからそんなに大きくなくたってかまわないし、四尺五寸もあればまるで新しいように見えるんだね」
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「成程ね、私等今までさういふことにや氣が附かなかつたが、結び目も仕事するんだから其麽に大きくなくつたつて構はないし、四尺五寸もあれば丸で新しいやうに見えるんだね」
「そんで、おかみさん、どのくらいしたもんでしょうね、お金は。たくさん出るんじゃもう仕方がないが」
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「そんでお内儀さん、どの位したもんでがせうね錢は、たんと出んぢやはあ仕やうねえが」
勘次は心配そうに言った。
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勘次は危むやうにいつた。
「いくらもしないね、それだけじゃ」
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「幾らもしないね、其れ丈ぢや」
「そんでも、だいたいまあどのくらいしたもんでしょうね」
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「そんでも大凡まあどの位したもんでがせうね」
勘次はまたくり返してたずねた。
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勘次は又反覆して促した。
「唐ちりめんも近ごろじゃ安くなったから、一尺十二、三銭くらいのものかね。上等で十四、五銭しかしないだろうね」
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「唐縮緬も近頃ぢや廉くなつたから一尺十二三錢位のものかね、上等で十四五錢しかしないだらうね」
「そうでがすか。わしはまた大変お金が出るんだとばかり思ってました」
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「さうでがすか、わしやまた大變出んだとばかし思つてあんした」
「それも反物になってるのを切らせてそうだよ。それからもっと安くもできるのさ。村の店なんぞじゃお金ばかり取って、しらみがもぐりそうなのでね」
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「それも反物に成つてるのを切らしてさうだよ、それからもつと廉くも出來るのさ、村の店なんぞぢや錢ばかりとつて虱が潜り相なのでね」
おかみさんはほほえんだ。
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内儀さんは微笑した。
「そういう短いのは、はぎれで買うにかぎるのさ。いくらにもならないもんだよ。私が近ごろ出るついでもあるから、買って来てやってもいいよ」
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「さういふ短いのは端布片で買ふに限るのさ、幾らにもつかないもんだよ、私が近頃出る序もあるから買つて來て遣つても善いよ」
「そうですか。そんじゃおかみさん、どうかそうしておくんなせえ。おかみさんに見てもらいさえすりゃ大丈夫でがすから。なあに、赤くさえありゃどんなのでもかまわないんでがすがね」
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「さうですか、そんぢやお内儀さんどうかさうしておくんなせえ、お内儀さんに見て貰えせえすりや大丈夫でがすから、なあに赤くせえありや什麽んでも構あねえんでがすがね」
「一日お前が日やといに来さえすりゃそれだけは出てしまうから、ほしいというものならこしらえてやるがいいよ。そりゃほしいはずさ、おつぎも年が明ければ十八になるんだったね」
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「一日お前が日傭に來さへすりやそれ丈は出て畢ふから、欲しいといふものなら拵へて遣るが善いよ、そりや欲しい筈さおつぎも明ければ十八に成るんだつけね」
おかみさんは同情して言った。
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内儀さんは同情していつた。
「わしに怒られるもんだから、かげでぐずぐず言って困るんでさ」
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「わしに怒らつるもんだから蔭でぐず/\云つて困んでさ」
勘次はさらに
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勘次は更に
「そんじゃまあよかった。わしらはそんなことはちっとも分からないから、それでもうおかみさんに聞いてみようと思ってたのさ」
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「そんぢやまあ善かつた、わし等そんなこたあちつとも分んねえから、夫からはあお内儀さんに聞いてんべと思つてたのせ」
と言って、どことなくそわそわとうれしさをおさえられないようすである。
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といつて何處となくそわ/\と悦ばしさを禁じ得ないものゝ如くである。
「女の子はこれでかざりだから、他人にも見られるからね」
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「女の子は此れで飾だから他人にも見られるからね」
おかみさんは親切に言った。
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内儀さんは懇にいつた。
「わしらは自分じゃどんなぼろだってかまわないが、これで女の子にはねえ。わしもこれで、おかみさんに聞くまでには心配しましたよ」
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「わし等自分ぢや什麽襤褸だつて構あねえが此れで女つ子にやねえ、わしもこんでお内儀さんに聞く迄にや心配しあんしたよ」
勘次は、わずかな帯のことが大きな問題の解決でも与えられたように、心の底から元気づいて、おかみさんに感謝した。
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勘次は僅な帶のことが大きな事件の解決でも與へられたやうに心の底から勢ひづいて内儀さんの前に感謝した。
一一
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一一
勘次は、とてもせまい世界の中で生きている。
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勘次は極めて狹い周圍を有して居る。
しかし彼のやせた小さな体は、そのせまい世界とはじき合っているような関係が、自然にできあがっている。
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然し彼の痩せた小さな體躯は、其の狹い周圍と反撥して居るやうな關係が自然に成立つて居る。
彼はけっして他人と争いを起こしたこともなく、むしろとてもおだやかな態度でいる。
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彼は決して他人と爭鬪を惹き起した例もなく、寧ろ極めて平穩な態度を保つて居る。
ただ彼らのような貧しい暮らしの者は、たがいにうたがいとねたみの目をつり上げている。
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唯彼等のやうな貧しい生活の者は相互に猜忌と嫉妬との目を峙てゝ居る。
勘次は人並みはずれた働きで報しゅうを得ようとする一方で、一銭でもかんたんにふところをへらすまいとばかり心がけている。
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勘次は異常な勞働によつて報酬を得ようとする一方に一錢と雖も容易に其の懷を減じまいとのみ心懸けて居る。
彼らのような低い身分のあいだでも、たがいの付き合いを少しでもこわさないようにするには、そこには必ず、いくらかのお金がぎせいにされなければならない。
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彼等のやうな低い階級の間でも相互の交誼を少しでも破らないやうにするのには、其處には必ず其に對して金錢の若干が犧牲に供されねばならぬ。
どうしてもそのぎせいをおしむ者は、他人ににくまれるまでいかなくても、たがいの間はうとくならざるを得ない。
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絶對に其犧牲を惜むものは他の憎惡を買ふに至らないまでも、相互の間は疎略にならねばならぬ。
しかしそんなことは、勘次を苦しめてその卑しい心を引きもどす力を持っていないばかりか、ほとんど何のひびきも彼の心に伝えないのである。
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然し其麽ことは勘次を苦めて其のさもしい心の或物を挽囘させる力を有して居ないのみでなく、殆んど何の響をも彼の心に傳ふるものではない。
彼はただ、その日その日の暮らしが自分の心にいくらかでもゆとりを与えてくれればとばかり、あせっているのである。
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彼は只其の日/\の生活が自分の心に幾らでも餘裕を與へて呉れればとのみ焦慮つて居るのである。
彼の心を満足させるには、たとえば目の前にある低い竹のかきねをこわして、一歩足をその中に入れるだけのことにすぎないのである。
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彼の心を滿足せしめる程度は、譬へば目前に在る低い竹の垣根を破壤して一歩足を其域内に趾つけるだけのことに過ぎないのである。
しかも竹のかきねはくちている。
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然も竹の垣根は朽ちて居る。
くちた低い竹のかきねは、その強い手の力でこわすのはたやすいはずなのに、手の先をふれさせることさえできないでいるのである。
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朽ちた低い竹の垣根は其の強い手の筋力を以て破壤するに何の造作もない筈であるが、手の先端を觸れしめることさへ出來ないで居るのである。
彼は長い時間、氷と雪のあいだを歩いた後、一ぱいの冷たいつるべの水をかけることで、心地よい暖かさを赤くなった足に感じるように、わずかな何かが彼のひがんだ顔のすじをゆるめるのに十分なのに、彼はその冷たい水の一ぱいさえむなしく求めていたのである。
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彼は長い時間氷雪の間を渉つた後、一杯の冷たい釣瓶の水を注ぐことによつて快よい暖氣を其の赤く成つた足に感ずる樣に、僅少な或物が彼の顏面の僻んだ筋を伸るに十分であるのに、彼は其の冷水の一杯をさへ空しく求めつゝあつたのである。
自然にできあがっている身分のちがいを持っている人や、長いあいだ彼の暮らしの中身を知りつくしている人からは、彼は同情の目で見られているけれど、こせこせとした態度と、うたがい深そうな顔つきとは、そこににくむべき物が何もないにしても、とても彼らの仲間みんなととけ合えるものではない。
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自然に形られて居る階級の相違を有して居る者又は長い間彼の生活の内情を知悉して居る者からは彼は同情の眼を以て視られて居るけれども、こせ/\とした其の態度と、狐疑して居るやうな其容貌とは其處に敢て憎惡すべき何物も存在して居ないにしても到底彼等の伴侶の凡てと融和さるべき所以のものではない。
彼は彼らの仲間の中では、何度も言われているとおり、水に落とした菜種油の一てきである。
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彼は彼等の伴侶に在つては、幾度かいひふらされて居る如く水に落した菜種油の一滴である。
水が動くとき、油もそれにつれて動かなければならない。
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水が動く時油は隨つて動かねば成らぬ。
水がかたむくとき、油もまたかたむかなければならない。
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水が傾く時油は亦傾かねば成らぬ。
しかし水が静かになるとき、油はさらにおびえたように一か所に固まる。
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併し水が平靜の度を保つ時油は更に怖れたやうに一所に凝集する。
両方のあいだには何もその性しつを変えさせるはたらきが起こるわけでもなく、それは水が油をのけ者にするのか、油が水をはじくのか、ついにとけ合う機会がないのである。
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兩者の間には何等其の性質を變化せしむべき作用の起るでもなく、其れは水が油を疎外するのか、油が水を反撥するのか遂に溶け合ふ機會が無いのである。
これをかき乱すほかの力が加わらなければ、両方はただ静かである。
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之を攪亂する他の力が加へられねば兩者は唯平靜である。
村の空気が静かであるように、勘次とほかのみんなとのあいだもとても静かで、それでいて交わらないのである。
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村落の空氣が平靜である如く、勘次と他の凡てとの間も極めて平靜でそれで相容ないのである。
勘次はその菜種油のように、くぬぎ林ととなり合いながら村の西のはしにかたよっていて、親子三人がただ固まったような形で落ち着いているのである。
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勘次は其の菜種油のやうに櫟林と相接しつゝ村落の西端に僻在して親子三人が只凝結したやうな状態を保つて落付て居るのである。
たまたま起こった彼のはずかしい行いが、急に村じゅうの耳目をおどろかせても、とにもかくにも一家を切りもりして行かなければならない人たちは、彼らに共通の、聞きたがり知りたがる性しつにかられながらも、むしろじみで移り気な心が、いつまでも一つのことを追うには、年れいがあまりに彼らを冷静なほうへかたむけている。
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偶然に起つた彼の破廉耻な行爲が俄に村落の耳目を聳動しても、兎にも角にも一家を處理して行かねばならぬ凡ての者は、彼等に共通な聞きたがり知りたがる性情に驅られつゝも、寧ろ地味で移氣な心が際限もなく一つを逐ふには年齡が餘に彼等を冷靜な方向に傾かしめて居る。
そうでなくても、その知りたがり聞きたがる心をくすぐることは、細かいこととはいえ次々に彼らの耳に入るので、勘次だけが話題ではなくなるのである。
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それでなくても其の知りたがり聞きたがる性情を刺戟すべきことは些細であるとはいひながら相尋で彼等の耳に聞えるので勘次のみが問題では無くなるのである。
しかしながら、若い衆と呼ばれる青年の一部は、勘次の家から目をはなさない。
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然しながら若い衆と稱する青年の一部は勘次の家に不斷の注目を怠らない。
それは、おつぎのすがたを忘れることができないからである。
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其れはおつぎの姿を忘れ去ることが出來ないからである。
かりにも血のめぐりが彼らの体に止まらないかぎりは、いったん心にうつった女のすがたを、それぞれの胸から消し去ることはできないのである。
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苟且にも血液の循環が彼等の肉體に停止されない限りは、一旦心に映つた女の容姿を各自の胸から消滅させることは不可能でなければならぬ。
しかし彼らは、一方で持っているはずかしさにおさえられて、燃えるような心からこっそりと、はかない目の光をおもに夜に向けて注ぐのである。
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然し彼等は一方に有して居る矛盾した羞耻の念に制せられて燃えるやうな心情から竊に果敢ない目の光を主として夜に向つて注ぐのである。
夜は彼らの世界である。
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夜は彼等の世界である。
うでのいい漁師は、大海の波にまかせて舟のふちから縄につないだつぼをしずめる。
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熟練な漁師は大洋の波に任せて舷から繩に繼いだ壺を沈める。
その縄をたぐって、しずめた赤い素焼きのつぼがふたたび舟のふちに引き上げられるとき、そこにはじっとしてたこが足の吸ばんで内側に吸いついている。
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其の繩を探つて沈めた赤い土燒の壺が再び舷に引きつけられる時、其處には凝然として蛸が足の疣を以て内側に吸ひついて居る。
こうして漁師は、するどい目でえものをのがさない道を、波のあいだで身につけているのである。
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恁うして漁師は烱眼を以て獲物を過たぬ道を波の間に窮めて居るのである。
わずかな村の中で、毎日みんなの目に見なれている女の居場所をねらうことは、たこつぼをしずめるような、あてどのないものではない。
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僅な村落の内で毎日凡ての目に熟して居る女の所在を覘ふことは、蛸壺を沈めるやうな其麽寧ろあてどもないものではない。
木の葉がかげを落としてくれない冬の夜には、ねらって歩く彼らは自分のはずかしさを、頭からどてらでおおっている。
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木の葉が陰翳を落として呉れぬ冬の夜には覘うて歩く彼等は自分の羞耻心を頭から褞袍で被うて居る。
夜の短い季節でも、朝のねむたさがすぐに自分を苦しめるのに、うろうろと歩いてみなければ、くさい古ぼけたかやの中であきらめて体を横たえることができないのである。
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短い夜の頃でも、朝の眠たさが覿面に自分を窘めるにも拘はらずうそ/\と歩いて見ねば臭い古ぼけた蚊帳の中に諦めて其身を横たへることが出來ないのである。
彼らが女の居場所をねらうのは、とてもかんたんなことのようでいて、たこつぼが何のじゃまもなくしずめられるようにはいかず、父母の目が暗い夜にも光を放って、女を彼らから遠ざけようとしている。
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彼等が女の所在を覘ふのは極めて容易なものの樣ではありながら蛸壺が少しの妨げもなく沈められる樣ではなく、父母の目が闇の夜にさへ光を放つて女を彼等から遮斷しようとして居る。
彼らはそれで、目の光のとどく所には自分のすがたを見せないで、目的をとげようと苦心する。
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彼等はそれで目の光の及ぶ範圍内には自分の身を表はさないで目的を遂げようと苦心する。
たとえてみれば、彼らはせまいとはいえ飛びこせないほりをへだてて、しかもしげった野茨や川やなぎに身をかくしながら、女のやわらかい手を取ろうとするのである。
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譬て見れば彼等は狹いとはいひながら跳ては越せぬ堀を隔てゝ、然かも繁茂した野茨や川楊に身を沒しつゝ女の軟かい手を執らうとするのである。
それはとても、ふれ合うことさえできない。
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其れは到底相觸れることさへ不可能である。
じれてほりを飛びこえようとしては、野茨のとげにはだをきずつけたり、どろに着物をよごしたり、にがい失敗の味をなめなければならない。
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焦燥つて堀を飛び越えようとしては野茨の刺に肌膚を傷けたり、泥に衣物を汚したり苦い失敗の味を嘗めねばならぬ。
だから彼らは、目立たないうちにうまいやり方をしようとして、そこに工夫をこらすのである。
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其れ故彼等は隱約の間に巧妙な手段を施さうとして其處に工夫が凝されるのである。
すでに漁師の手に命をにぎられているたこは、力いっぱいつぼの内側に張りつけば、どんなに強い手の力がふくろのようなその頭を持って引こうとも、へびが体の一部をあなに入れたように、ちぎれるまではなれない。
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既に漁師の手に生命を握られて居る蛸は力を極めて壺の内側に緊着すれば什麽強い手の力が袋のやうな其の頭を持つて曳かうとも、蛇が身體の一部を穴に揷入したやうに拗切るまでも離れない。
刃物で突きさしても同じである。
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刄物を以て突つ刺しても同一である。
たこつぼの底には必ず小さなあながあけてある。
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蛸壺の底には必ず小さな穴が穿たれてある。
しりからふっと息をふきかけると、たこはおどろいてするりとつぼから逃げる。
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臀からふつと息を吹つ掛けると蛸は驚いてすると壺から逃げる。
それでもまだだまされないときは、小さなあなから熱い湯をぽっちりとしりに注げば、たこは必ず慌てて漁師の前におどり出る。
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それでも猶旦騙されぬ時は小さな穴から熱湯をぽつちりと臀に注げば蛸は必ず慌てゝ漁師の前に跳り出す。
熱い一てきで、かんたんにたこはだまされるのである。
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熱い一滴によつて容易に蛸は騙されるのである。
たとえ見張りの目からのがれて女に近づいたとしても、女の思いが強ければ、たこつぼのたこがだまされるようにころりと落とす工夫がつくまでは、男はしんぼうと、むしろ危険とをあわせてしのがなければならない。
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假令監視の目から逭れて女に接近したとしても、打ち込んだ女の情が強ければ蛸壺の蛸が騙される樣にころりと落す工夫のつくまでは男は忍耐と寧ろ危險とを併せて凌がねば成らぬ。
そしてわずかにふれ合った男女が心から引き合うとき、たがいにほかのすべてに対しておそれを抱きはじめるのである。
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さうして纔に相接した兩性が心から相曳く時相互に他の凡てに對して恐怖の念を懷きはじめるのである。
空が夕日の消えて行く光を西の底深く閉ざしてしまって、うすい宵が地を低くおおって夜が来たとき、女は井戸ばたで楽しそうに歌いながら、一種のリズムのある手つきで米をとぐ。
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空が夕日の消え行く光を西の底深く鎖して畢つて、薄い宵が地を低く掩うて夜が到つた時女は井戸端で愉快に唄ひながら一種の調子を持つた手の動かし樣をして米を研ぐ。
女はとぎおけと歌の二つの音がまじっているあいだにも、木かげにたたずむ男の気配を感じ取るほど、耳の神経が高ぶっている。
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女は研桶と唄との二つの聲が錯綜しつゝある間にも木陰に佇む男のけはひを悟る程耳の神經が興奮して居る。
それがすずしい夏の夜で、女が男を待つときには、毎日汗でよごれやすい、そしてかざりでもある手ぬぐいのせんたくに手間取るのである。
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其れが凉しい夏の夜で女が男を待つ時には毎日汗に汚れ易いさうして其の飾りでなければ成らぬ手拭の洗濯に暇どるのである。
庭の木かげに身をかくして、しんみりとたがいの胸のうちをくり返すとき、しげったかきやくりの木は彼らのたった一人の味方で、月夜でさえ深いかげが安全に彼らをつつむ。
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庭の木陰に身を避けてしんみりと互の胸を反覆す時繁茂した柹や栗の木は彼等が唯一の味方で月夜でさへ深い陰翳が安全に彼等を包む。
空にさえた月は、放り出してある手水だらいをのぞいては冷ややかに笑っている。
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空に冴えた月は放棄してある手水盥を覗いては冷かに笑うて居る。
彼らがあまりに手間取っていれば、月はこっそりと首をかたむけて、木の葉のあいだからのぞいてみる。
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彼等が餘りに暇どつて居れば月はこつそりと首を傾けて木の葉の間から覗いて見る。
それでもまだ彼らがぐずぐずしていれば、彼らをかくしている木がかきの木であれば、えだからまだ青い実を投げて、そのしゅん間、おどろきやすい彼らがだまされて、仲間のいたずらかとうたがっては慌ててまわりを見るとき、しげった大きな葉がすずしい風にさやさやとほほえむ。
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其れでも猶彼等が屈託して居れば、彼等を庇護して居る木が柹の木であれば梢からまだ青い實を投げて、其の瞬間驚き易い彼等が欺かれて、彼等の伴侶の惡戯であるかを疑うては慌てゝ周圍を見る時、繁茂した大きな葉が凉しい風にさや/\と微笑する。
彼らはこうして、家の中から声を立ててはげしく呼ばれるまでは、おそるおそるも、きりのない話にふけるのである。
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彼等はかうして家の内から聲を立てゝ劇しく呼ばれるまでは怖れ/\も際限のない噺に耽るのである。
彼らがそういう苦心のあいだに、次の日の体のつかれをぎせいにしてまでも、わずかな時間を向かい合っていながら、たがいの顔も見ることができないで、低く殺した声だけで満足するほかに、彼らは林の中に放たれたとき、思い思われるみんながひたすら甘い味をむさぼるのである。
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彼等がさういふ苦辛の間に次の日の身體の疲れを犧牲にしてまでも僅な時間を相對して居ながら互の顏も見ることが出來ないで低く殺した聲にのみ滿足する外に、彼等は林の中に放たれた時想ひ想はぬ凡てが只管に甘い味を貪るのである。
林は彼らの天地である。
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林は彼等の天地である。
落ち葉をかくといって熊手を入れるとき、彼らは連れ立って自由にさまようことが、黙ってゆるされている。
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落葉を掻くとて熊手を入れる時彼等は相伴うて自在に徜徉ふことが默託されてある。
しかし熊手のつめがすばやく木かげの土にあとをつける、その動きさえ、一日一日と日を短く刻んで行くような冬の季節は、あまりに冷たく彼らの心を引きしめている。
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然し熊手の爪が速かに木陰の土に趾つける其の運動さへ一度は一度と短い日を刻んで行く樣な冬の季節は餘りに冷たく彼等の心を引き緊めて居る。
いたる所、畑のとうもろこしが葉のあいだからもさもさと赤い毛をふいて、その大きな葉がざわざわと人の心をさわがせるようになると、男女の群れが長雨の後のしげった林の下草に、とぎすました草かりがまの刃を入れる。
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到る處畑の玉蜀黍が葉の間からもさ/\と赤い毛を吹いて、其の大きな葉がざわ/\と人の心を騷がす樣に成ると、男女の群が霖雨の後の繁茂した林の下草に研ぎすました草刈鎌の刄を入れる。
初めは朝早く馬のえさを一かごぶん刈るだけだけれど、焼けるような日ざしの下で畑もやっと片づいて、村じゅうがみな草刈りに力を入れるようになれば、若い同士がさそい合っては、遠く林の細い道を分けて行く。
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初は朝まだきに馬の秣の一籠を刈るに過ないけれど、燬くやうな日のもとに畑も漸く極がついて村落の凡てが皆草刈に心を注ぐ樣に成れば、若い同志が相誘うては遠く林の小徑を分て行く。
そして自分たちの天地で、その羽をいっぱいに広げる。
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さうして自分の天地に其羽を一杯に擴げる。
どこを見てもただ深い緑に閉ざされた林の中で、彼らは歌う声でたがいの居場所を知ったり知らせたりする。
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何處を見ても只深い緑に鎖された林の中に彼等は唄ふ聲に依つて互の所在を知つたり知らせたりする。
彼らのうちのおとなしい者はそれでも、午前の何時間かをけんめいに働いて、父親の小言を聞かないだけの草をうまやのそばに積んでは、午後の何時間かを自由に使おうとする。
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彼等のしをらしい者はそれでも午前の幾時間を懸命に働いて父なるものゝ小言を聞かぬまでに厩の傍に草を積んでは、午後の幾時間を勝手に費さうとする。
一度でもしめやかに語り合った男女が出会えば、彼らはすべてを忘れて、それでもさすがに人目だけはさけて、細い道から一歩木のあいだに身をかくす。
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一度でもしめやかに語り合うた兩性が邂逅へば彼等は一切を忘れて、それでも有繋に人目をのみは厭うて小徑から一歩木の間に身を避ける。
しげった青草が、そばを行く人にも気づかれないように、かがんだ彼らをいくらでもおおいかくす。
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繁茂した青草が側行く人にも知られぬ樣に屈んだ彼等を幾らでも掩ひ隱す。
彼らは決まった話も持っていないのに、心地よく冷たい土にすわって、ついには手にしたかまの刃先で少しずつ土をほじりながら、女は白い手ぬぐいのはしをかすかに動かしては、うつむきながらほほえみながら、いつまでもそこにじっとしていようとする。
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彼等は極つた何の噺も持つて居ないのに快よく冷たい土に坐つて、遂には手にした鎌の刄先で少しづゝ土をほじくりつゝ女は白い手拭の端を微動させては俯伏しなから微笑しながら際限もなく其處に凝然として居ようとする。
いりつけるようなあぶらぜみの声が彼らの心をゆさぶっては、鼻のつまったようなみんみんぜみの声が、その心をとかそうとする。
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熬りつける樣な油蝉の聲が彼等の心を撼がしては鼻のつまつたやうなみん/\蝉の聲が其の心を溶かさうとする。
やぶ蚊が彼らの日に焼けた赤い足に針をさして、しりがぐみの実のように血を吸ってふくれても、彼らはちくりとされたときに慌ててはたとたたくだけで、蚊が逃げても知らん顔である。
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藪蚊が彼等の日に燒けた赤い足へ針を刺して、臀がたはら胡頽子の樣に血を吸うて膨れても、彼等はちくりと刺戟を與へられた時に慌てゝはたと叩くのみで蚊が逃げようとも知らぬ顏である。
暑い日が、草いきれで汗びっしょりになっている彼らの体に、時こくが過ぎたとえだのあいだから強い光を投げかけてせき立てるまでは、まれにはしびれた足を投げ出して、聞きも聞かせもしなくていい話をくり返してばかりいるのである。
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暑い日が草いきれで汗びつしりに成つて居る彼等の身體に時刻が過ぎたと枝の間から強い光を投掛けて促す迄は、稀には痺れた足を投出して聞きも聞かせもしなくて善い噺を反覆してのみ居るのである。
彼らはこうして時間をむだに使っては、遠く近くひぐらしの声がいっせいにいそがしくそれぞれの耳をさわがせて、大きな薄い布でおおったかと思うようにうすいかげがあたりをつつむと、彼らは慌ててみな家路につく。
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彼等は恁うして時間を空しく費しては遠く近く蜩の聲が一齊に忙しく各自の耳を騷がして、大きな紗で掩うたかと思ふ樣に薄い陰翳が世間を包むと彼等は慌てゝ皆家路に就く。
どうかしてあまりにおくれると、空の草かりかごをさかさに背負って、歩けばざわざわと鳴るように、大きなかごの目へならや雑木のえだをさして、夕暮れの庭に身を運んで、刈り積んだ青草の近くにかごを下ろす。
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どうかして餘りに後れると空な草刈籠を倒に脊負つて、歩けばざわ/\と鳴る樣に、大きな籠の目へ楢や雜木の枝を揷して黄昏の庭に身を運んで刈積んだ青草に近く籠を卸す。
父親は、蚊柱の立つうまやのそばで、ぶるぶるとたてがみをふるわせながら、ぱさりぱさりと尾でしりのあたりをたたいている馬に、えさをやっている。
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父なるものは蚊柱の立てる厩の側でぶる/\と鬣を撼がしながら、ぱさり/\と尾で臀の邊を叩いて居る馬に秣を與へて居る。
母親は、青いけむりに満ちたかまどの前に立ってはすそをからげながら、明かりをつけるゆとりもなく、我が子をぶつぶつ言いながら待っている。
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母なるものは青い烟に滿た竈の前に立つては裾りつゝ、燈火を點ける餘裕もなく我が子をぶつ/\と待つて居る。
こうしていそがしさに、ならや雑木のえだでごまかした手口が見つからないのである。
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恁うして忙しさに楢や雜木の枝で欺いた手段が發見されないのである。
気のとがめる女は、黙って何よりもまず空の手おけを持って井戸ばたへかけて行っては、ざあと水をくんで、それからしるの実でも切れていれば、あわただしくとんとんとほうちょうの音を立てて、少しでも母親の小言からのがれようとする。
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うしろめたい女は默つて何よりも先づ空な手桶を持つて井戸端へ驅けて行つてはざあと水を汲んでそれから汁の身でも切れてなければ慌しくとん/\と庖丁の響を立てゝ、少しづゝでも母なるものゝ小言から遁れようとする。
せまい庭のかきねに、黄色いちょうがいくつも止まってしきりに羽を動かしているように、一つ一つひらりひらりと開いては、夜目にもほっかりとにおっている月見草は、自分たちの夜が来たと、かけ歩いている女に向かってなつかしそうに目を見開くのである。
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狹い庭の垣根に黄色な蝶が幾つも止つて頻りに羽を動かして居るやうに一つ/\にひらり/\と開いては夜目にもほつかりと匂うて居る月見草は自分等の夜が來たと、駈け歩いて居る女に對して懷し相に目を睜るのである。
彼らのある者は、さらに夜ねむりにつく前に、戸口の近くでかやのすそにくるまっては、こっそり雨戸の外に訪ねて来る男を待とうとさえするのである。
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彼等の或者は更に夜の眠りに就く前に戸口に近く蚊帳の裾にくるまつては竊に雨戸の外に訪るゝ男を待たうとさへするのである。
男は雨戸を開けてしのぶとき、月がさえていてもためらわない。
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男は雨戸を開けて忍ぶ時月が冴え居てさへ躊躇せぬ。
彼はそれでも、たたみの上にさしこむ光をきらって、のきの近くにむしろをつるす。
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彼はそれでも疊の上に射し込む光を厭うて廂に近く筵を吊る。
ゆがんだ戸がぎしぎしと鳴るので、それが彼らのすいかやうりの畑をおそうころであれば、道ばたの草むらからくつわむしを取って行って、雨戸のすきまから放つ。
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歪んだ戸がぎし/\と鳴るのにそれが彼等の西瓜や瓜の畑を襲ふ頃であれば道端の草村から轡蟲を捕つて行つて雨戸の隙間から放つ。
くつわむしは暗い中へ放たれれば、すぐに声をそろえて鳴く。
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轡蟲は闇いなかへ放たれゝば、直に聲を揃へて鳴く。
この土地でそれが「がしゃがしゃ」と呼ばれているだけあって、やかましく、ただがしゃがしゃと鳴く。
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土地で其れが一般にがしや/\といふ名稱を與へられて居るだけ喧しく只がしや/\と鳴く。
がしゃがしゃが鳴き出せば、彼らは安心して雨戸をこじるのである。
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がしや/\が鳴き出せば彼等は安んじて雨戸をこじるのである。
それからまた、箱をころがしたような、しきりのしょうじさえない小さな家で、女が男を通そうとして、どうしても父母のまくら元を通らなければならないときは、ふめばぎしぎしと鳴るゆか板に二人の足音がひびくのを気にして、女は暗やみの中で男を背負うのである。
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それから又箱を轉したやうな、隔ての障子さへ無い小さな家で女が男を導くとて、如何しても父母の枕元を過ぎねば成らぬ時は、踏めばぎし/\と鳴る床板に二人の足音を憚つて女は闇に男を脊負ふのである。
そこでは、たとえ重さが加わっても、それはうまくつかれてねむい父母の耳をだますのである。
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其處には假令重量が加へられても、それは巧に疲れて眠い父母の耳を欺くのである。
ふつうのむすめの暮らしはこんなふうで、まれにはひどくしかられることもあって、そのときだけはしおれても、明日にはたちまち元にもどって、その性しつのままに進んでふり返らない。
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一般の子女の境涯は如此にして稀には痛く叱られることもあつて其時のみは萎れても明日は忽ち以前に還つて其性情の儘に進んで顧みぬ。
おつぎは、そんな仲間と一日でもいっしょに放されたことがないのである。
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おつぎは其麽伴侶と一日でも一つに其身を放たれたことがないのである。
勘次がどんなにやかましくおつぎをおさえても、おつぎがそれでおさえられても、勘次は村の若者がおつぎに思いをかけるのを止める力は、少しも持っていない。
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勘次が什麽に八釜敷おつぎを抑へてもおつぎがそれで制せられても、勘次は村の若者がおつぎに想を懸けることに掣肘を加へる些の力をも有して居らぬ。
村の若者みんなが女をねらおうとするときはずいぶん執念深く、それはちょうど、追えばたちまち逃げるにわとりが、どうかしてせまく戸口を開けてある穀物ぐらに好きなえさを見つけて入ろうとするとき、その戸口がせまくて体が入らなければ、いたずらに首をさしこんではもがいてもがいて、そしてほかへ行ってしまうようなものである。
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凡ての村落の若者が女を覘はうとする時は隨分執念く其れは丁度、追へば忽ちに遁げる鷄がどうかして狹く戸口を開いてある穀倉に好む餌料を見出して這入らうとする時に其の狹い戸口が身を入るゝに足りなければ徒らに首を揷し込んでは足掻いて/\さうして他へ行つて畢ふ。
それが一度であきらめればそれまでだけれど、二度三度戸口に立ってもがきはじめれば、去っては来り、去っては来り、首すじの皮がすりむけて戸口にたくさん血のあとをつけても、執念深くえさを求めて止まないような形でなければならない。
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其れが一度で斷念すれば其れ迄であるけれど、二度三度戸口に立つて足掻き始めれば、去つては來り、去つては來り、首筋の皮が擦り剥けて戸口に夥か血の趾を印しても執念く餌料を求めて止まぬやうな形でなければならぬ。
それぞれの心の中で、おつぎをどれほど深く思おうとも、それはそれぞれが持つ権利である。
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各自の心におつぎを何れ程深く思はうともそれは各自が有する權能に屬して居る。
しかしながら、おつぎへ加えようとするその手をとことんふせごうとすることも、勘次が持つ権利である。
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然しながらおつぎへ加へようとする其手を極端に防遏しようとすることも勘次が有する權能である。
たがいにその権利をこえて他人の領分をおかすとき、そこには必ずもめごとが起こるはずである。
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相互に其の權能を越えて他の領域を冒す時其處には必ず葛藤が伴はれる筈でなければ成らぬ。
若者は寄り集まれば、みな不平を語り合って、勝手に勘次をじゃまでうっとうしい者にしていた。
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若者は相聚まれば皆不平の情を語り合うて、勝手に勘次を邪魔なこそつぱい者にして居た。
そのくせ彼らはみな、たがいに自分だけがおつぎを手に入れようとして、とどかない手をのばしているのである。
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其癖彼等は皆互に自分獨りのみがおつぎを獲ようとして及ばぬ手を延ばして居るのである。
万一目的がとげられたことがあったとしても、それはただ一人だけで、そのほかの何人かはむなしく、しかもとても軽い不快とねたみから、口々にその一人に向かっていやみを言って止まないはずである。
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萬一目的が遂げられたことが有つたとしても其れは只一人に限られて居て、爾餘の幾人は空しく然も極めて輕い不快と嫉妬とから口々に其一人に向つて厭味をいうて止まねば成らぬ。
しかしながら、ついにその一人は彼らのあいだに現れなかった。
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然しながら遂に其一人が彼等の間に發見されなかつた。
彼らのうらみがすべて勘次一人に集まった。
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彼等の怨恨が凡て勘次の一身に聚つた。
それでも、あっさりした彼らのうらみは、三人以上が集まって口を開けば必ず笑い声が絶えないほどのものだった。
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それでも淡白な彼等の怨恨は三人以上が聚つて口を開けば必ず笑聲を絶たぬ程のものであつた。
うらみというよりも、じれったさだった。
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怨恨といふよりも焦燥つたさであつた。
おつぎの身には、こうして事件を起こすような機会が与えられなかった。
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おつぎの身體には恁うして事件を惹き起すべき機會が與へられなかつた。
それでも、ただ一人おつぎと手を取って語るところまで近づけた者があった。
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それでも只一人おつぎと手を執つて語ることにまで近づき得たものがあつた。
勘次はどれほど厳しくしても、おつぎがべんじょに通う時間まで、せまい庭の夜の中へ出すことをこばむことはできなかった。
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勘次はどれ程嚴重にしてもおつぎが厠に通ふ時間をさへ狹い庭の夜の中へ放つことを拒むことは出來なかつた。
執念深い一人が、たまたまそういう機会を見つけた。
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執念深い一人が偶然さういふ機會を發見した。
彼は、まだはずかしさとおそれが体じゅうを支配しているおつぎをつかまえて、ただじっと動かさないようにするまでには、何度も手を変えて苦心した。
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彼は、まだ羞恥と恐怖とが全身を支配して居るおつぎを捕へて只凝然と動かさないまでには幾度か手を換て苦心した。
勘次が戸の内から呼んでも、べんじょのそばで返事をするおつぎの声は、初めのうちはうたがいを持たせるまでには行かなかった。
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勘次が戸の内から呼んでも厠の側で返辭をするおつぎの聲は最初の間は疑念を懷かせるまでには至らなかつた。
それでも、二人が心に深くたがいの思いを刻むまで、うたがいの目を見開いている勘次をだましきることはできなかった。
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其れでも彼等が心に深く互の情を刻むまで猜忌の目を睜つて居る勘次を欺きおほせることは出來なかつた。
ある晩、勘次はがらっと戸を開けて出た。
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或晩勘次はがらつと戸を開けて出た。
はげしく開けた戸が、ややくちかけたしきいのみぞを外れそうになって、ぎっしりと固まった。
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劇しく開けた戸が稍朽ち掛けた閾の溝を外れようとしてぎつしりと固着した。
彼はいらいらして戸をたたいてみぞにもどすと、そのまま飛び出した。
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彼は苛立つて戸を叩いて溝に復すと其の儘飛び出した。
彼はすぐ自分の近くに、手ぬぐいをかぶったおつぎのすがたがゆっくり動いて来るのを見た。
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彼は直自分に近く手拭被つたおつぎの姿が徐ろに動いて來るのを見た。
それと同時に、こっそり逃げて行くぞうりの音が勘次の耳にひびいた。
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其と同時に竊に落ち行く草履の音が勘次の耳に響いた。
彼はそれを耳にした瞬間、右の手がかべぎわの木の根にかかって、木の根は彼の力いっぱいに木かげの暗やみへ投げられた。
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彼は其を耳に感ずる瞬間右の手が壁際の木の根に掛つて、木の根は彼の力一杯に木陰の闇に投ぜられた。
木の根はどさりと遠くに落ちて、庭の土をえぐって、勢いあまって何度かでんぐり返った。
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木の根はどさりと遠く落ちて庭の土をさくつて餘勢が幾度かもんどりを打つた。
勘次はつづけて投げた。
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勘次は續いて擲つた。
くせ者はすでに逃げ去ったけれど、彼の不意打ちに慌てて、ふしくれ立ったかきの根につまずいてたおれた。
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曲者は既に遁げ落ちたけれど彼の不意の襲撃に慌てゝ節くれ立つた柹の根に蹶いて倒れた。
彼は次の日、足を引きずらなければ歩けないほど足首の関節に痛みを感じたのだった。
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彼は次の日足を引ずらねば歩けぬ程足首の關節に疼痛を感じたのであつた。
勘次は、ぽつんと立っているおつぎを突きとばすように戸口へ入れて、がらりと戸を閉じてかけ金をかけた。
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勘次はぽつさりと立つて居るおつぎを突きのめす樣に戸口に送つてがらりと戸を閉ぢて掛金を掛けた。
その夜はまだ、それぞれが一つ増えた年の数だけいり豆をかじって鬼を追った夜から、いくらも日がたっていないので、塩いわしの頭とともに戸口にさしたひいらぎの葉も、いっこうにかわいたようすが見えないほどだった。
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其夜はまだ各が一つ加はつた年齡の數程の熬豆を噛つて鬼をやらうた夜から、幾らも隔たらないので、鹽鰮の頭と共に戸口に揷した柊の葉も一向に乾いた容子の見えない程のことであつた。
おつぎは十八といっても、その年になったというだけで、こんな場合をうまくとりつくろうという考えさえ、かりにも持っていないほど、一面ではにごりのないかわいらしい少女だった。
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おつぎは十八というても其の年齡に達したといふばかりで、恁んな場合を巧に繕らふといふ料簡さへ苟且にも持つて居ない程一面に於ては濁のない可憐な少女であつた。
おつぎはしおれて、ただぽつんと立っている。
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おつぎは萎れて只ぽつさりと立つて居る。
勘次の目は、うす暗い手ランプに光った。
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勘次の目は薄闇い手ランプに光つた。
「おつう」
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「おつう」
とひと声どなって、感情がたかぶった勘次は、すぐには次の言葉が出せなかった。
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と一聲呶鳴つて情の激した勘次は咄嗟に次の語が出せなかつた。
「何してやがったんだ」
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「何してけつかつたんだ」
勘次はおつぎをにらみつけた。
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勘次はおつぎを睨みつけた。
おつぎはうつむいて黙っている。
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おつぎは俯向いて默つて居る。
「さあ言ってみろ。嘘を言ったって知ってるぞ、おい」
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「さあ云つて見ろ、嘘云つたつて知つてつゝお」
勘次はなおもはげしく問いつめた。
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勘次は猶も激しく訊ねた。
「お前はいつでも何と言った。おとっつあんにはけっして心配をかけないからと言ったんじゃないか。そんでもお前は心配をかけないのか。かけないというんなら言ってみろ」
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「汝りや何時でも何ちつた、おとつゝあげは決して心配掛けねえからつて云つたんぢやねえか、そんでも汝りや心配掛けねえのか、掛けねえつちんだら云つて見ろ」
彼はいまいましそうに、そして刃で心を突きとおされる苦しさをこらえたかと思うようなようすで、どきどきする胸から声をしぼって言った。
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彼は忌々敷相に且つ刄を以て心部を突き通される苦しさを忍んだかと思ふやうな容子でわく/\する胸から聲を絞つていつた。
彼はしばらく間を置いてはまた、かんでかんでかみしめてもかみ切れない何かに向かうようなじれったさと、待っていた何かを急にうばい去られたような絶望とが入りまじり、もつれ合った投げやりな態度で、おつぎをせめた。
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彼は暫く間を措いては又、噛んで/\噛締めても噛み切れぬ或物に對するやうな焦燥つたさと、期待して居た或物を俄に奪ひ去られた樣な絶望とが混淆し紛糾した自暴自棄の態度を以ておつぎを責めた。
彼のふるまいは、ほとんど発作のようだった。
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彼の擧動は殆ど發作的であつた。
おつぎの声を殺して泣く声は、すきまだらけの戸の外にとぎれとぎれにもれた。
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おつぎの聲を殺して泣く聲は隙間だらけな戸の外に絶え/″\に漏れた。
これまでも、おつぎはたとえ異性を慕う心がやっと育ってきたとはいえ、こっそりその手を取られたときは、後ではむしろ後かいするほどで、はずかしさとおそれと、それから勘次に気がねする気持ちとが、慌ててその手をふりほどかせるのだった。
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從來とてもおつぎは假令異性を慕ふ性情が漸く發達して來たとはいひながら、竊に其手を執られた時は、後では寧ろ悔いるまでも羞恥と恐怖とそれから勘次を憚ることから由つて來る抑制の念とが慌てゝ其の手を振り挘らせるのであつた。
それがだんだん、いやではないさそいの手に乗って、甘い味をわずかに感じるところまで近づいた瞬間、すべてがこわされたのである。
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其れが段々厭でない誘惑の手に乘つて甘い味を僅に感ずる程度まで近づいた刹那一切が破壞し去られたのである。
おつぎは前にもどって、おそれの手に深く身をしずめなければならなくなった。
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おつぎは以前に還つて恐怖の手に深く其の身を沒却せねばならなく成つた。
深い罪をふくんでいないその夜のできごとは、それで済んだ。
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深い罪惡を包藏して居ない其の夜の事件はそれで濟んだ。
勘次はあいかわらず、おつぎにとってはたった一つの大きな木のかげだった。
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勘次は依然おつぎには只一つしか無い大樹の陰であつた。
しかし勘次自身には、どんな物でも、今の彼の心に与えられる満足は、失ったお品を思い出すことから受ける悲しみの十分の一にもとどかない。
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然し勘次自身には如何な種類の物でも現在彼の心に與へ得る滿足の程度は、失うたお品を追憶することから享ける哀愁の十分の一にも及ばない。
彼はもうそれ以上、彼の心の中に残っている何かまでうばい去られることには、たえられないのである。
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彼は最早それ以上彼の心裏に残存して居る或る物をまで奪ひ去られることには堪へないのである。
彼はわずかに三人の家族が、油のように水にはじかれても、のけ者にされても、ただ固まっていることだけで、たとえなぐさめられないまでも、不安を感じずにその日その日を刻んで暮らして行けるのである。
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彼は僅に三人の家族が油の如く水に彈かれても疎外されても只凝結して居ることにのみ、假令慰藉されないまでも不安を感ずることなしに其の日/\と刻んで暮して行くことが出來るのである。
彼は一度でも、おつぎが自分からはなれたのを見つけたり、感じたりしては、一種のねたみを感じずにはいられなかった。
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彼は一度でもおつぎが自分を離れたことを發見し或は意識しては一種の嫉妬を感ぜずには居られなかつた。
彼はそうして、悲しみにさいなまれた。
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彼はさうして悲痛の感に責め訶まれた。
村の若者は、彼にとっては敵である。
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村落の若者は彼の爲には仇敵である。
それと同時に、若者にとっては彼はまむしの毒きばのようなものにちがいない。
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それと同時に若者の爲には彼は蝮蛇の毒牙の如きものでなければ成らぬ。
それでいながら、少しのいげんも力もない彼は、すべての若者から、彼をいらだたせるいたずらでむくいられた。
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其れでありながら些の威嚴も勢力もない彼は凡ての若者から彼を苛立たしめる惡戯を以て報いられた。
青草の中に身をひそめている毒へびに、直接手をふれようとする者は一人もいないけれど、遠くから土くれを投げたり、棒の先でつついたり、むだに怒るきばをふるわせることは、彼らの好んですることだった。
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青草の中に身を沒して居る毒蛇に直接手を觸れようとするものは一人もないけれど、遠くから土塊を擲つたり、棒の先でつゝいたり徒らに怒る牙を振はせることは彼等の好んでする處であつた。
勘次のけずったようにやせた顔が、いつでもひがんで、しかも怒りやすいのを、彼らはあざけりの目で遠くからのぞくのである。
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勘次の削つたやうな痩せた顏が何時でも僻んでさうして怒り易いのを彼等は嘲笑の眼を以て遠くから覗くのである。
彼らは夜、かきねのそばに立って指を口にくわえてぴゅうぴゅうとはげしく鳴らしてみたり、戸口の近くにこっそり下駄の歯のあとをつけておいたり、勘次がねむりに落ちようとするころ、作り声を使っておつぎを呼んだりした。
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彼等は夜垣根の側に立つて指を口に啣へてぴゆう/\と劇しく鳴らして見たり、戸口に近く竊に下駄の齒の趾を附けて置いたり、勘次が眠に落ちようとする頃假聲を使つておつぎを喚んだりした。
勘次はそのたびに心がいらだったけれど、きりでもつかむような、だれのしわざとも分からないいたずらを、どうすることもできなかった。
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勘次は其の度に心が苛立つたけれど、霧でも捉む樣な、誰の所爲とも判明しない惡戯をどうすることも出來なかつた。
しかし、目に見えるえいきょうのないいたずらは、長くはつづかなかった。
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然し表面に現れた影響の無い惡戯は永く持續しなかつた。
春は冬から遠く、そしてまた冬ととなり合っている。
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春は冬に遠くして又冬と相隣して居る。
季節の移り変わりをくり返しながら、月日は容しゃなく過ぎた。
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季節の變化を反覆しつゝ月日は容赦なく推移した。
一二
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一二
冬は低く地をはってしずんだ。
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冬は低く地を偃うて沈んだ。
旧れきのくれが近くなって、結こん式の多く行われる季節が来た。
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舊暦の暮が近く成つて婚姻の多く行はれる季節が來た。
町の建具屋の店先に置かれたたんすや長持ちから、そまつな金具が光るのを見るようになった。
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町の建具師の店先に据ゑられた簟笥や長持から疎末な金具が光るのを見るやうに成つた。
おつぎが通ったおはりの先生の家でも、嫁が決まった。
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おつぎが通うた針の師匠の家でも嫁が極つた。
その当日になると、おはりの子たちはみな、しまっておいた半纏へ赤いたすきをかけて、そこらのそうじやら、いもや大根を洗うことやら、朝から大さわぎをして笑いながら手伝いをした。
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其の當日に成ると針子は孰れも藏つて置いた半纏へ赤い襷を掛けて、其處らの掃除やら、芋や大根を洗ふことやら朝から大騷ぎをして笑ひながら手傳をした。
おつぎも行って、みんなといっしょに働いた。
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おつぎも行つて皆と一緒に働いた。
おつぎは赤い糸のもようの半纏で、もえぎ色のたすきをかけていた。
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おつぎは赤絲大名の半纏で萌黄の襷を掛けて居た。
おはりの子たちは毎年、春がやっと暖かくなって百姓の仕事がいそがしくなると、次の冬まで休みにするといって、一日みんなでくわを持って畑の仕事の手伝いに行く。
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針子等は毎年春が漸く暖かく成つて百姓の仕事が忙しくなると又の冬まで暇をとるとて一日皆で鍬を持つて畑の仕事の手傳に行く。
広くもない畑へ全員が一度にくわを入れるので、めいめいがおたがいのじゃまになりながら、人数の半分はいつもくわの柄をつえにして立っては、遠くへ目をやりながら笑いさざめく。
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廣くもない畑へ残らずが一度に鍬を入れるので各が互に邪魔に成りつゝ人數の半は始終鍬の柄を杖に突いては立つて遠くへ目を配りつゝ笑ひさゞめく。
彼女たちの白い手ぬぐいが集まって、はるか遠くから人の目を引くほかは、先生の家に特に得になることもなく、彼女たち自身だけが一日を楽しく過ごせるのである。
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彼等の白い手拭が聚つて遙に人の目を惹く外師匠の家に格別の利益もなく彼等自分等のみが一日を樂く暮し得るのである。
だから彼女たちは、結こん式の当日にも仕事のわりにはあまりに人数が多すぎるので、一つの仕事に集まっては、のんきなようすでしゃべるのだった。
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其れだから彼等は婚姻の當日にも仕事の割合にしては餘りに多人數に過ぎるので、一つ仕事に集つては屈託ない容子をして饒舌るのであつた。
「どういうお嫁さんだろうな」
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「どうえ嫁樣だんべな」
「きれいな人だろうな」
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「善え女だんべえな」
「早く来ればいいな、おれは見たいな」
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「早く來ればえゝな、俺ら見てえな」
彼女たちはそんなことばかりくり返しながら、ひそひそとささやいた。
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彼等はさういふことをすら口々に反覆しつゝ密々と耳語いた。
「おしろいをつけて来るんだな」
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「白粉附けて來んだな」
いちばん年下の子が言った。
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一番年の少い子がいつた。
「どうしたもんだい、おしろいをつけるんだろうかとまあ」
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「どうしたもんだえ、白粉附けんだんべかとまあ」
年上の子が笑った。
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年嵩が笑つた。
「水おしろいを持って来るんだか知れないぞ」
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「水白粉持つて來んだか知んねえぞ」
「ただの水みたいなおしろいもあるんだって言ったっけぞ」
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「只の水見てえな白粉も有んだつて云つけぞ」
彼女たちはそういうたわいのないせんさくから、それから
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彼等はさういふ罪のない穿鑿からそれから
「おれはお給仕に出なくちゃならないか知れないが、はずかしくていやだな」
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「俺らお給仕に出なくつちや成んねえか知んねえが、耻かしくつて厭だな」
「お嫁さんはもっとはずかしいだろうな」
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「嫁樣まつと耻かしかつぺな」
「そんだが、おれはお嫁さんの着物がどんなのか見たいもんだな」
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「そんだが俺ら嫁樣の衣物どういんだか見てえもんだな」
と、半分は楽しみのような、半分は心配のような、たがいの気持ちを語り合うのだった。
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半分は望むやうな半分は氣遺ふやうな互の心を語るのであつた。
夜になって、板の間のむすめたちが座敷のほうへ呼ばれたころ、勝手口に村の若者が五、六人立った。
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夜に成つて板の間の娘等が座敷の方へ引かれた頃勝手口に村落の若者が五六人立つた。
彼らは結こん式の夜には必ず決まっている、例のうどんをもらいに来たのである。
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彼等は婚姻の夜には屹度極つた例の饂飩を貰ひに來たのである。
昼のうちに用意されたうどんが、彼らに与えられた。
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晝の間に用意された饂飩が彼等に與へられた。
彼らの手には、うどんの大きなざると二升だると、それからしょうゆの入れ物であるビールびんとが提げられた。
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彼等の手には饂飩の大きな笊と二升樽とそれから醤油の容器である麥酒罎とが提げられた。
かきねの外へ出たとき、彼らは作り声を出してどっとはやし立てて、またはやした。
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垣根の外へ出た時彼等は假聲を出してどつと囃し立てゝ又囃した。
彼らは道々もさわぐのをやめないで、とうとう村の念仏堂へ引きあげた。
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彼等は途次も騷ぐことを止めないで到頭村落の念佛寮へ引とつた。
そこには、これもどてらをかぶった彼らの仲間が、いろりへしばをくべて暖まりながら待っていた。
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其處には此も褞袍を被つた彼等の伴侶が圍爐裏へ麁朶を燻べて暖まりながら待つて居た。
念仏の人たちが使っているなべや土びんや茶わんが、ただごたごたと投げ出してあった。
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念佛衆の使つて居る鍋や土瓶や茶碗が只ごた/\と投げ出されてあつた。
台つきの手ランプは、近所から借りて来たのだった。
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臺つきの手ランプは近所から借りて來たのであつた。
しばのほのおが、手ランプに光をそえていた。
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麁朶の焔が手ランプに光を添へて居た。
結こん式の席では、お酒の後には長くつづくようにという縁起をかついで、一つには料理がかんたんなのとで、うどんをふるまうのである。
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婚姻の席上では酒の後には長く繼がる樣といふ縁起を祝うて、一つには膳部の簡單なのとで饂飩を饗すのである。
そばは短く切れるといって、どこでもきらった。
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蕎麥は短く切れるとて何處でも厭うた。
どんな結こん式でも、それを若い衆がもらいに行く。
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どんな婚姻でもそれを若い衆が貰ひに行く。
貧しい家であれば、彼らはいくら少なくても文句を言わない。
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貧乏な所帶であれば彼等は幾ら少量でも不足をいはぬ。
しかし、いくらか財産を持っていると彼らが思っている家でそれをおしめば、彼らは不平を言って止まない。
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然し多少の財産を有して居ると彼等が認めて居る家でそれを惜めば彼等は不平を訴へて止まぬ。
どうかすると、暗い木かげにひそんでいて、お嫁さんの車が近づいたとき、いきなりその車をひっくり返してやれというような、おどしのような言葉さえ吐くことがある。
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どうかすると闇い木陰に潜伏して居て嫁の車が近づいた時突然、其の車を顛覆させてやれといふやうな威嚇的の暴言をすら吐くことがある。
しかしこれまで、そんなことはめったになく、特に問題になるほどのことも起こらなかった。
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然し從來其麽ことは滅多になく、別段に認むべき弊害が伴ふのでもないのであつた。
それでふつう、どの家でも彼らが満足するだけの量を、前もって用意しているのである。
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それで普通どの家でも彼等が滿足を買ひ得る分量を前以て用意して居るのである。
彼らは、そういう夜にどてらをかぶって他人の裏の戸口に立たなければならない理由を、一つも持っていない。
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彼等はさういふ夜に褞袍を被つて他人の裏戸口に立たねば成らぬ必要な條件を一つも有つて居ない。
ただ彼らはみな、藁を打って縄をなうという夜の仕事を捨てて、大手をふっていっしょに集まる機会を求めている。
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只彼等の凡ては藁を打つて繩を綯ふべき夜の務めを捨て公然一所に集合する機會を見出すことを求めて居る。
集まることが、すぐに彼らに楽しみを与えるからである。
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集合することが直に彼等に娯樂を與へるからである。
男女が、しかも他人の手を借りて一つになる結こん式のことを思いうかべることで、彼らの心がなんとなく刺げきされる。
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兩性が然も他人の手を藉りて一つに成る婚姻の事實を聯想することから彼等の心が微妙に刺戟される。
彼らはみな、すでに異性を知り、また知ろうとしている。
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彼等の凡ては悉く異性を知り又知らんとして居る。
彼らは他人の目をぬすむのに多くのじゃまがあり、そのために慕い合う思いがむしろかえって強く、長つづきすることさえありながら、当人である彼らにはうるさいそのじゃまをこっそり取りのぞかなければならないじれったさが止まないのに、まわりのみんなが杯を挙げてくれる、その夜の当人同士を思いうかべるとき、彼らはうすいねたみをわかさずにいられない。
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彼等は他人の目を偸むのには幾多の支障、それは其の爲に相慕ふ念慮が寧ろ却て熾に且つ永續することすら有りながら、當事者たる彼等には五月繩い其の支障をこつそりと拂ひ退けねば成らぬ焦燥つたい感が止まないのに、周圍の凡てが杯を擧げてくれる其の夜の當人同士を念頭に浮べる時彼等は淡い嫉妬を沸かさねば成らぬ。
それで彼らの心には、食ってやれ、飲んでやれ、そうしてやらねば気が済まないという思いが、そろってわき起こるのである。
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それで彼等の心には喰つてやれ、飮んでやれ、さうして遣らねば腹が癒えぬといふ觀念が期せずして一致するのである。
ざるで運んだうどんが、大人数の彼らにとても十分な満足を与えられるものではない。
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笊で運んだ饂飩が多人數の彼等に到底十分の滿足を與へ得るものではない。
しかし彼らは、そんなことは気にしない。
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然し彼等は其麽ことに頓着を持たぬ。
お酒がすすけた土びんで温められた。
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酒が煤けた土瓶で沸かされた。
彼らはめいめい茶わんへ注いで、ぐいと飲んだ。
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彼等は各自に茶碗へ注いでぐいと飮んだ。
そこには温めかげんも何もなかった。
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其處には燗の加減も何も無かつた。
めいめいの喉がそれを求めるのではなくて、一種のならわしが彼らにそうさせるのである。
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各自の喉がそれを要求するのではなくて一種の因襲が彼等にそれを強ひるのである。
彼らはじりじりと喉がこげるように感じても、にがい顔をしかめながら飲んでみる者さえある。
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彼等はじり/\と喉が焦げる樣に感じても苦い顏を蹙めつゝ飮んで見る者さへある。
わりと少ないお酒が、注ぐたびに手にするたびにむしろの上にこぼれても、彼らはおしまない。
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比較的少量な酒が注ぐ度に手にする度に筵の上に滾れても彼等は惜まない。
彼らはそれから、茶わんもはしもべたりとむしろの上へ置いて、ただ水にしょうゆを差しただけのつゆにひたして、さわがしくうどんをすすった。
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彼等はそれから茶碗も箸もべたりと筵の上へ置いて、單純に水へ醤油を注した液汁に浸して騷々敷饂飩を啜つた。
彼らはふだんでもそうなのに、お酒のせいでいくらか興ふんしているので、めいめいの口からさらに聞くにたえない乱ぼうな言葉が出た。
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彼等は平生でもさうであるのに酒の爲に幾分でも興奮して居るので、各自の口から更に聞くに堪へぬ雜言が吐き出された。
行ぎの悪い言葉に慣れきっている彼らは、どうしたらたがいをおどろかせられるかと苦心していたかと思うような下品な一言が、とつぜんだれか一人の口から出ると、ほかの一人がまたそれに答えた。
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不作法な言辭に麻痺して居る彼等はどうしたら相互に感動を與へ得るかと苦心しつゝあつたかと思ふ樣な卑猥な一句が唐突に或一人の口から出ると他の一人が又それに應じた。
彼らのあいだには、よそ者はまじっていない。
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彼等の間には異分子を交へて居らぬ。
彼らはときによっては、おそれてひかえめにして、体が縮んだようになるほど、物におびえるくせがある。
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彼等は時によつては怖れて控目にしつゝ身體が萎縮んだやうに成つて居る程物に臆する習慣がある。
しかしこうして仲間だけが集まれば、ほとんど別人である。
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然し恁うして儕輩のみが聚まれば殆んど別人である。
うどんがなくなって、茶わんが乱ざつに投げ出されたとき、夜がおそいことなど気にしない彼らは、それからしばらく止めどもなくおしゃべりにふけった。
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饂飩が竭きて茶碗が亂雜に投げ出された時夜の遲いことに無頓着な彼等はそれから暫く止めどもなく雜談に耽つた。
彼らはついに、自分の村に正式な式をあげていない夫婦が何組あるかということまで数え出した。
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彼等は遂に自分の村落に野合の夫婦が幾組あるかといふことをさへ數へ出した。
あっちからもこっちからも、それが数えられた。
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そつちからもこつらからも其れが數へられた。
左手の指を二度曲げて二度起こしても、数えきれなかった。
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左手の指が二度曲げて二度起されても盡せなかつた。
もちろん、しまいには連れ合いをなくした人まで指を折って数えられた。
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勿論畢には配偶の缺けたものまで僂指された。
それらの夫婦のあいだに生まれた者も、何人か彼らの中にまじっていた。
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其れ等の夫婦の間に生れた者も幾人か彼等の間に介在して居た。
さすがにその何人かは、自分の父母が呼ばれるので、にがい笑いをかみ殺してひかえている。
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有繋に其の幾人は自分の父母が喚ばれるので苦い笑を噛んで控へて居る。
すると、ほかの者はそれを面白がって、がやがやとはやし立てた。
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さうすると他の者はそれを興あることにがや/\と囃し立てた。
話が少しだれたとき
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噺が少しだれた時
「勘次さんらみたいなのはな、ありゃ数には入らないもんだろうか」
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「勘次さん等見てえなゝ、ありや勘定にやへえんねえもんだんべか」
とどなった者があった。
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と呶鳴つたものがあつた。
このとつぜんの言葉で、しばらく静まっていた彼らは急に元気が出て、手をたたいた。
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此の唐突な發言で暫く靜止して居た彼等は俄に威勢が出て拍手した。
「勘次さんに聞いてみろ」
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「勘次さんに聞いて見ろ」
という声がすみのほうから出た。
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といふ聲が隅の方から出た。
「そんなこと言ったっくらい、ぶんなぐられらあ、ばか臭え」
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「其麽こと云つたつ位、打ん擲らつら篦棒臭え」
打ち消す声が聞こえた。
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打ち消す聲が聞えた。
「そんじゃ、おつぎに聞いてみろ」
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「そんぢや、おつぎに聞いて見ろ」
「足でもへし折られるぞ」
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「足でも打折られんなえ」
「たきぎの棒をふり回されてか」
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「薪雜棒ふられてか」
笑い声が入りまじって、堂の中はいっそうさわがしくなった。
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笑聲が雜然として寮の内は一層騷がしく成つた。
「今日あたりも見ろ、角の店でやけ酒を飲んで怒ってたっけぞ」
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「今日らも見ろ、角の店で自棄酒飮んで怒つてたつけぞ」
一人が自まんらしく、新しい話を持ち出した。
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一人が自慢らしく新な事實を提供した。
「どうしてよ」
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「どうしてよ」
みんなが耳をそばだてた。
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一同が耳を峙てた。
「おつぎをおはりの子らといっしょに手伝いにやったのを知ってるだろうな」
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「おつぎことお針つ子等と一緒に手傳に遣つたの知つてべな」
「知ってらあな、そら」
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「知つてらなそら」
「そんでよ、手伝いにやっていても、もう、日暮れになったら、そわそわしてじっとしちゃいられないんだ。そんでぐずぐず言ってるのが面白いから、おれは聞いてたのさ。ちょうどいい塩梅に、おれはぞうりを買いに行って出くわしてな」
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「そんでよ、手傳に遣つてゝも、はあ、日暮に成つたら、あつかもつかして凝然としちや居らんねえんだ、そんで愚圖/\云つてんの面白えから俺ら聞いてたな、丁度えゝ鹽梅に俺草履買ひに行つて出つかせてな」
「毎日日暮れじゃないかい、徳利を立ててるのは」
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「毎日暮ぢやねえけ徳利おつ立てゝんな」
「そうなんだ。近ごろくわを使って骨が折れるからと言って、仕事が終わっちゃ一合くらい引っかけてすぐ行っちまうんだと言ったっけが、それが今日は早くから来てたんだって言うのさ。店のおとっつあんに聞いたのさ、おれは」
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「さうなんだ、近頃唐鍬使え骨折つからつて仕事畢つちや一合位引つ掛けて直ぐ行つちやあんだつちけが、それ今日は早くから來てたんだつちきや、店のおとつゝあに聞いたな俺ら」
話し手は、自分がまず面白くなったようにまた言った。
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噺手は自分が先づ興に入つた樣に又いつた。
「おれは今日、うまい所を聞いちまったな」
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「俺ら今日うめえ處聞いつちやつたな」
「何て言ったっけ」
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「何だつて云つけ」
「ひどいあまだ、夕飯も何も仕方がありゃしないなんてな、独りでぐずぐず言ってな。そんで与吉のことを何度も迎えにやってな。そうすると、あの与吉の野郎がまた、今すぐにうどんをごちそうしてよこすとう、なんてのたのた帰って来るんだ。そうすると、また、だめだお前は、もう一度行って来い、すぐ来いって言うんだぞ、なんて怒ったみたいになあ。おれはおかしくて仕方がなかったっけぞ」
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「酷でえ阿魔だ、夕飯も何も仕やうありやしねえなんてな、獨りでぐうづ/″\云つてな、そんで與吉こと何遍も迎に遣つてな、さうすつとあの與吉の野郎また、今直に饂飩饗つてよこすとう、なんてのたくり/\歸つて來んだ、さうすつと又駄目だ汝りや復た行つて來う、直に來うつて云ふんだぞなんて怒つた見てえになあ、俺ら可笑しくつて仕樣無かつたつけぞ」
話し手は左右を向きながら言った。
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噺手は左右を向きつゝいつた。
みんなまた手をたたいてはやし立てた。
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皆復た拍子して囃し立てた。
「そんじゃすぐよこしただろう」
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「そんぢや直ぐよこしたつぺ」
「うん、とちゅうで行き会ったんだろう。すぐ来たっけや」
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「うむ、途中で行逢つたんだんべ、直ぐ來たつきや」
「あっちだって、それくらい知ってらあな」
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「あつちだつて其の位知つてらな」
「おつぎは店へ寄ったっけか」
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「おつぎは店へよつたつけか」
二人が一度に言った。
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二人が一度にいつた。
「寄らないや。そうしたら、おつう、なんておとっつあんが呼んだんだ。たいした声してな。そんでもおつうは行っちまうのよ。そうしたらまた、おつう、なんてどなってな、勘定するのにも慌ててお金を落っことしたりして、後からかけて行ったんだ。五合も飲んだだろうって言ったっけな。こわい目つきをしちまってな。そんだが、おつぎは言うことを聞かないぞ、なかなか。つっつっと行っちまってな」
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「寄んねえや、さうしたらおつう、なんておとつゝあ喚ばつたんだ、たいした聲してな、そんでもおつうは行つちまあのよ、さうしたら又、おつうなんて呶鳴つてな、勘定すんのにも慌くつて錢落つことしたり何かして後から駈けてつたんだ、五合も飮んだつぺつちけな、可怖え目つきしつちやつてな、そんだがおつぎは聽かねえぞなか/\、つツ/\と行つちやつてな」
話し手はしばらく口を閉じた。
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噺手は暫時口を鎖した。
「今日は若い衆らが行くと思って、もう、夜まで置けないんだな」
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「今日は若え衆等行くと思つてはあ、夜まで置けねえんだな」
「決まってらあな」
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「極つてらあな」
「そんだって、ばかばかしい。若い衆らだって、そういうことばかりするもんじゃない。つまらない」
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「そんだつて箆棒、若え衆等だつてさうだことばかりするものぢやねえ、詰んねえ」
憤慨してこう言う者も
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憤慨してかういふものも
「みっともないも何にも知らないんだな」
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「外聞惡いも何にも知んねえんだな」
あざけりの意味ではあるが、どことなくしずんで、またこう言う者もあった。
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嘲笑の意味ではあるが何處となく沈んで又斯ういふ者も有つた。
「おつぎはそんだが、髪をてかてか光らせた所らはきれいになっちまったっけぞ」
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「おつぎはそんだが頭髮てか/\光らかせた處ら善く成つちやつたつけぞ」
急に思い出したように、さっきの話し手が言った。
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俄に思ひ出した樣に先刻の噺手がいつた。
「そんで、おとっつあんはよけいに仕方がなくなっちまったんだろう」
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「そんで、おとつゝあ餘計仕やう無くなつちやつたんだんべえ」
しりにくぎをさして台に乗っている手ランプのすすが、あっちへこっちへなびく光の下で、茶わんをはしでたたきながら、またわあっとさわぎ出した。
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臀へ釘を揷して臺に乘つて居る手ランプの油煙がそつちへこつちへ靡く光の下に茶碗を箸で叩きながら又わあつと騷ぎ出した。
勘次は今、開こんの仕事のおかげで、春までには主人の手から三、四十円のお金をもらえるようにまでなった。
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勘次は今開墾の仕事の爲に春までには主人の手から三四十圓の金を與へられる樣にまで成つた。
大部分は借金の古いあなをうめるのに消えても、彼はふところに苦しさを感じない程度にはなった。
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大部分は借財の舊い穴へ埋めても彼は懷に窮屈を感じない程度に進んだ。
一円のお金がいつもさいふにあるなら、彼らは嘆くことはないのである。
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一圓の錢が絶えず財布に在り得るならば彼等は嘆く處は無いのである。
彼はただ、主人をたよってさえいればいいと思っている。
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彼は只主人に倚つて居さへすれば善いと思つて居る。
こういうえんりょのないかげ口をたたかれるまでには、苦しい三、四年を過ごして来たのである。
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恁ういふ遠慮のない蔭口を利かれるまでには苦しい間の三四年を過して來たのである。
彼の暮らしは、ほっかりと夜明けの光を見たのだった。
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彼の生活はほつかりと夜明の光を見たのであつた。
おつぎはこのとき、二十の声を聞いていたのである。
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おつぎは此時廿の聲を聞いて居たのである。
一三
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一三
初秋の風がつるしっぱなしのかやのすそをさらさらとふいて、とっくにとうもろこしがかまどの灰の中でぱりぱりと勢いよく燃える麦藁の火に焼かれて、そのからがあっちにもこっちにも捨てられる。
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初秋の風が吊放しの蚊帳の裾をさら/\と吹いて、疾から玉蜀黍が竈の灰の中でぱり/\と威勢よく燃える麥藁の火に燒かれて、其の殼がそつちにもこつちにも捨てられる。
畑の仕事がしばらく片づいて、百姓の家にはお盆が来た。
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畑の仕事が暫時極りがついて百姓の家には盆が來た。
その日も昼過ぎまで仕事をしていた勘次は、それでもあわただしく庭にほうきを入れて、目立つ草はかまの刃先でかき切った。
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其の日も晝過迄仕事をして居た勘次はそれでも慌しく庭へ箒を入れて目に立つ草は鎌の刄先で掻つ切つた。
戸もしょうじもないすすけきった仏だんは、おつぎを使って仏具やそのほかのそうじをして、さいの目に刻んだなすを盛ったいもの葉と、さびしいみそはぎの短い小さな花たばとを供えた。
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戸も障子もない煤け切つた佛壇はおつぎを使つて佛器や其他の掃除をして、賽の目に刻んだ茄子を盛つた芋の葉と、寂しいみそ萩の短い小さな花束とを供へた。
みそはぎのそばには、茶わんにいっぱいの水がそなえられた。
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みそ萩の側には茶碗へ一杯に水が沒まれた。
夕方近くなってから、三人は雨戸を閉めて、火のついていないちょうちんを持って田んぼをこえて墓地へ行った。
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夕方近く成つてから三人は雨戸を締て、火のない提灯を持つて田圃を越えて墓地へ行つた。
お品の塔婆の前に、それからそこらじゅうの墓石の前に線香を少しずつ供えて、火をつけてほっかりと赤くなったちょうちんを提げてもどった。
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お品の塔婆の前にそれから其處ら一杯の卵塔の前に線香を少しづゝ手向けて、火を點けてほつかりと赤く成つた提灯を提げて戻つた。
あの世から来たほとけさまがその火に宿ったしるしだといって、必ずちょうちんは墓地で火をつけるのである。
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冥途から來た佛が其の火に宿つたしるしだといつて必ず提灯が墓地から點けられるのである。
おつぎは勘次のふところがいくらか暖かくなったので、安物ではあるが、中形のゆかたも作ってもらった。
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おつぎは勘次の懷が幾らか暖かに成つたので、廉物ではあるが中形の浴衣地も拵へて貰つた。
おつぎはもう十九の秋だった。
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おつぎはもう十九の秋であつた。
おつぎはそのゆかたを着て、お品の墓へ行ったのである。
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おつぎは其の浴衣地を着てお品の墓へ行つたのである。
髪は昼のうちに、近所のむすめ同士が汗じみたじゅばん一つのすがたで、たがいに結い合ったのである。
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髮は晝の内に近所の娘同士が汗染みた襦袢一つの姿で互に結ひ合うたのである。
おつぎはゆかたに赤い帯をしめた。
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おつぎは浴衣地へ赤い帶を締めた。
勘次はこんのつつそでのひとえで、日に焼けた足が短いすそから出ていた。
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勘次は紺の筒袖の單衣で日に燒た足が短い裾から出て居た。
おつぎの身なりはそばで見ればそまつでも、ところどころちらりちらりと白いほ先がのぞいて、たいていはまだ冴え冴えとした、ただ一まいの青いたたみをしいたような田んぼのあいだを、くっきりときわ立って目立つのだった。
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おつぎの裝ひは側では疎末であつても、處々ちらり/\と白い穗先が覗いて大抵はまだ冴え/″\として只一枚の青疊を敷いた樣な田圃の間をくつきりと際立つて目に立つのであつた。
三人が田んぼを行き来してからしばらくして、村の中からは、どの家からもちょうちんを持って、田んぼの道を老人と子どもがぞろぞろ通った。
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三人が田甫を往復してから暫く經つて村落の内からは何處の家からも提灯持て田甫の道を老人と子供とがぞろ/″\通つた。
勘次はちょうちんの火を、仏だんの灯明皿へうつした。
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勘次は提灯の火を佛壇の燈明皿へ移した。
すすけきった仏だんの菜種油の明かりは、遠い国からでも光って来るように、ぽっちりとかすかに見えた。
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煤け切つた佛壇の菜種油の明りは遠い國からでも光つて來るやうにぽつちりと微かに見えた。
お母さんのよりもまず、白木のままのお品の位はいに、心のこもった線香のけむりがなびいた。
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お袋のよりも先づ白木の儘のお品の位牌に心からの線香の煙が靡いた。
勘次もおつぎも、みそはぎの小さな花たばの先を茶わんの水にひたして、その水をはらりといもの葉に盛ったなすへふりかけた。
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勘次もおつぎもみそ萩の小さな花束の先を茶碗の水に浸して其の水をはらりと芋の葉へ盛つた茄子へ振り掛けた。
勘次は雨戸をいっぱいに開けた。
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勘次は雨戸を一杯に開けた。
おつぎはゆかたをぬいでじゅばん一つになって、ざるに水を切っておいたもち米をかまどで蒸しはじめた。
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おつぎは浴衣をとつて襦袢一つに成つて、笊に水を切つて置いた糯米を竈で蒸し始めた。
勘次ははだかでうすときねを洗って、のき先に置いた。
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勘次は裸で臼や杵を洗うて檐端に据ゑた。
彼らはそういう仕事があるので、墓へ行くにも人より先に、とても急いだのだったが、それでも米が蒸せるまでには、家の中はうす暗くなっていた。
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彼等はさういふ仕事があるので墓へ行くにも人よりも先立つて非常に急いだのであつたが、それでも米が蒸せるまでには家の内は薄闇く成つて居た。
日がまだ落ちないうちから庭をのぞいていた月が白く、やがてそれがやや黄色みをおびて来て、庭のしげったかきの木やくりの木にほっかりとかげを落とした。
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日のまだ落ちない内から庭を覗いて居た月が白く、軈てそれが稍黄色味を帶びて來て庭の茂つた柿の木や栗の木にほつかりと陰翳を投げた。
おつぎがいそがしくどさりとうすへ落とした蒸し米から、ぼうっと白いゆげが立った。
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おつぎが忙しくどさりと臼へ落したふかしからぼうつと白い蒸氣が立つた。
そのゆげの中で、月が一瞬目をしかめて、すぐつやつやしたすがたになった。
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其の蒸氣の中に月が一瞬間目を蹙めて直につやゝかな姿に成つた。
おつぎは熱い蒸し米をせいろうからしゃくしでうすへしごき落としながら、そばに立っている与吉に少しやった。
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おつぎは熱いふかしを蒸籠から杓子で臼へ扱き落しながら側に立つて居る與吉へ少し遣つた。
ほどよく蒸したその蒸し米を、与吉はうまそうに食べた。
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程よく蒸した其ふかしを與吉は甘相にたべた。
おつぎも指についたのを、前歯でかむようにして口へ入れた。
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おつぎも指に附いたのを前齒で噛むやうにして口へ入れた。
ゆげの立つうすを、勘次はしばらくきねの先でこねた。
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蒸氣の立つ臼を勘次は暫く杵の先で捏ねた。
きねの先がねばってはなれなくなる。
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杵の先が粘つて離れなく成る。
おつぎは米とぎおけへ水をくんで、それにうかべたしゃくしできねの先をしごき落として、うすの中を丸い形に直す。
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おつぎは米研桶へ水を汲んでそれへ浮べた杓子で杵の先を扱落して臼の中を丸い形に直す。
すると勘次は、力いっぱいうすの真ん中を打つ。
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さうすると勘次は力を極めて臼の中央を打つ。
それが何度もくり返された。
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それが幾度も反覆された。
庭の木立のかげが濃くなって、月の光はきらきらとうすから反しゃした。
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庭の木立の陰翳が濃く成つて月の光はきら/\と臼から反射した。
蒸し暑い中にも、すべてが水のような月の光をあびて、すずしい風が土にふれてわたった。
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蒸暑い中にも凡てが水の樣な月の光を浴びて凉しい微風が土に觸れて渡つた。
おつぎはうすから餅をちぎって、みょうがの葉に乗せて一つ一つおぜんへならべた。
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おつぎは臼から餅を拗切つて茗荷の葉に乘せて一つ/\膳へ並べた。
少し丸みの欠けた十三日の月が、白くその一つ一つのみょうがの葉の上に光った。
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少し丸みを缺いた十三日の月が白く其の一つ/\の茗荷の葉の上に光つた。
冷たい水を打ったようなかきの葉がゆらゆらと動いて、後ろの林の竹のえだもさらさらと鳴った。
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冷水を打つた樣な柹の葉がゆら/\と動いて後の林の竹の梢もさら/\と鳴つた。
それでもいそがしいおつぎは、汗を流しながら、まずみょうがの餅を仏だんに供えた。
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それでも忙しいおつぎは汗を流しながら先づ茗荷の餅を佛壇に供へた。
それから別にちぎった餅が、きな粉といっしょに手ランプの下に置かれた。
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それから別に拗切つた餅が豆粉と共に手ランプの下に置かれた。
与吉はすぐに座敷にすわって待った。
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與吉は直に座敷へ坐つて待つた。
晩ごはんが終わると、おどり子をさそう太鼓の音が、やっとしずまりかけた夜の空気をゆらして聞こえはじめた。
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晩餐が畢ると踊子を誘ふ太鼓の音が漸く沈み掛けた夜氣を騷がして聞え始めた。
のきに立った蚊柱がくずれて、やがて座敷をおそった。
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檐に立つた蚊柱が崩れて軈て座敷を襲うた。
勘次は麦藁をひとつかみのき先へ投げて、刈った青草をそれへかけて、マッチの火をつけて、そしておさえつけた。
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勘次は麥藁を一捉み軒端へ投げて、刈つた青草をそれへ打つ掛けて、燐寸の火を點けてさうして抑へつけた。
ぷすぷすとくすぶるけむりが、蚊を遠くへ散らせる。
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ぷす/\と燻る煙が蚊を遠く散亂せしめる。
ぽっとほのおが立って燃え上がれば、水をかけた。
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ぽつと焔が立つて燃えあがれば水を打つた。
彼らは目や鼻にしみる青いけむりの中で、はだかのままじっとしている。
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彼等は目鼻にしみる青い煙の中に裸體の儘凝然として居る。
けむりがよそへそれれば、みであおいで家の中へ向かわせた。
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煙が餘所へ逸れゝば箕で煽つて家の内へ向はせた。
おつぎは台所をかたづけて、それから井戸ばたで、だらだらとたれる汗を水でふいた。
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おつぎは勝手の始末をしてそれから井戸端で、だら/\と垂れる汗を水で拭つた。
手ぬぐいをひたすたびに、小さな手水だらいの水から月がまったくかげを失って、しばらくすると手水だらいのまわりから集まるように、だんだんと月の形がまとまって見えて来る。
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手拭を浸す度に小さな手水盥の水に月が全く其の影を失つて暫くすると手水盥の周圍から聚る樣に段々と月の形が纏まつて見えて來る。
おどり子をさそう太鼓の音が、自分の村のはすぐかきねの外のように、遠い村のはしげった林の向こうに、空にひびいて聞こえる。
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踊子を誘ふ太鼓の音が自分の村落のは直垣根の外の樣に、遠い村落のは繁茂して居る林の彼方に空に響いて聞える。
それが井戸ばたに立っているおつぎの心をさそった。
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それが井戸端に立つて居るおつぎの心を誘導つた。
同い年の子はみなおどりに行くのである。
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同年輩の子は皆踊に行くのである。
おつぎにはいくらかそれがうらやましく、ぼうっとして太鼓に聞きほれていた。
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おつぎには幾分それが羨ましくぼうつとして太鼓に聞き惚れて居た。
やわらかな月の光に、おつぎのはだは白く見えていた。
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軟かな月の光におつぎの肌膚は白く見えて居た。
おつぎは耳にひびく太鼓の音を聞きながら、まだ乱れていない髪を、少し首をかたむけながら両方の親指のまたで代わる代わる、後ろの髪を軽くしごいた。
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おつぎは耳に響く太鼓の音を聞きながら、まだ縺れぬ髮を少し首を傾けつゝ兩方の拇指の股で代り代りに髱を輕く後へ扱いた。
おつぎは汗をふいて、さっぱりとした体へまたゆかたを着た。
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おつぎは汗を拭つてさつぱりとした身體へ復た浴衣を着た。
「おとっつあん、あの太鼓はどこだろう」
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「おとつゝあ、あの太鼓は何處だんべ」
おつぎは帯のはしを気にして、後ろへ手を回しながら聞いた。
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おつぎは帶の端を氣にして後へ手を廻しながら聞いた。
「どれ、あの遠くのがか。分かるもんか、どこだか」
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「どれ、あの遠くのがゝ、分るもんか何處だか」
勘次は、燃えた所だけがっくりへった蚊いぶしの青草に目を注ぎながら、気乗りしないように言った。
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勘次は燃えた處だけがつくりと減つた蚊燻しの青草に目を注ぎながら氣乘のしない樣にいつた。
「おれらのほうへはまだ、よその村から来るころじゃあるまいな」
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「俺ら方へはまあだ、他村から來る頃ぢやあんめえな」
「おとっつあんに分かるもんかよ、そんなこと」
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「おとつゝあ等がにや分るもんかよ、そんなこと」
「そんでも、よその村から来るんだって言ったっけぞ。したくして来るんだって、おれは今日、髪を結ってて聞いたんだぞ」
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「そんでも、他村から來んだつて云つけぞ、支度して來んだつて俺ら今日頭髮結つてゝ聞いたんだぞ」
「そういう者はな、そういう者よ」
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「さうえ者な、さうえ者よ」
「おれは行ってみよう。よきも行ってみろな、姉ちゃんといっしょに」
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「俺ら行つてんべ、よきも行つて見ろなあ、姉と一緒に」
おつぎは独り言を言った。
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おつぎは獨語した。
「お前らのことばかりやれるかい」
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「汝ツ等ことばかし遣れつかえ」
勘次はとつぜんどなった。
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勘次は突然呶鳴つた。
「そんでも、南のおっかさんが、行きたけりゃ連れて行くって言ったんだぞ」
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「そんでも、南のおつかさん行きたけりや連れてくつちつたんだぞ」
「ばかを言え、そんなことされるかい。おどりなんざこの後何日だってあらあ。今夜あたりから行かなくたっていいから。他人に言われるともう、それに乗ってあおられあおられ出たがるんだから」
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「箆棒、そんなことされつかえ、踊なんざあ後幾日だつてあらあ、今夜らつから行かねえつたつてえゝから、他人に云はれつとはあ、其れに乘つてあふり/\出たがんだから」
勘次は頭ごなしにしかりつけた。
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勘次は一概に叱りつけた。
おつぎはしめかけた帯を解いて、そばへ投げ捨てた。
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おつぎは締め掛けた帶を解いて傍へ投げ棄てた。
次の日の晩ごはんには、いつもの年のようにうどんが打たれた。
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次の日の晩餐には例年の如く饂飩が打たれた。
小麦粉を、少し塩を入れた水でこねて、それを玉にして、むしろのあいだへ入れて足でふんで、棒に巻いてはうすくのばして、さらに幾つかにたたんで、そくそくとほうちょうで切った。
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小麥粉を少し鹽を入れた水で捏ねて、それを玉にして、筵の間へ入れて足で蹂んで、棒へ卷いては薄く延ばして、更に幾つかに疊んでそく/\と庖丁で斷つた。
うどんの切れはしはみな、ちょっと一か所をつまんで三角形にして、おぜんにならべて仏だんへ供えた。
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饂飩の切り端は皆一寸一箇所を撮んで三角形に拵へて膳へ並べて佛壇へ供へた。
その切れはしは、その翌朝それぞれが自分の田畑をぐるりと回っては、豆や稲のほやそのほかの作物をほとけさまに供えるのだが、ほとけさまもその朝、野回りに出るのだというので、そのほとけさまのかさに供えるのだというのである。
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其の切り端は其の翌朝各自が自分の田畑をぐるりと廻つては菽や稻の穗や其の他の作物を佛へ供へるのであるが、佛も其の朝野廻りに出るのだといふので其佛の笠に供へるのだといふのである。
おどり子をさそう太鼓の音は、夜を待ちかねて鳴り出した。
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踊子を誘ふ太鼓の音は夜を待ち兼ねて鳴り出した。
勘次はその夜、蚊いぶしのしたくもしないで、こんのひとえへぐるぐると無ぞうさに三尺帯を巻いて、雨戸をがらがらと閉めはじめた。
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勘次は其の夜蚊燻しの支度もしないで紺の單衣へぐる/\と無造作に三尺帶を卷いて、雨戸をがら/\と閉て始めた。
そして
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さうして
「おつう、したくしてみろ。おれが連れて行くから」
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「おつう支度して見ろ、俺連れてんから」
勘次はせっかちに、おつぎをせき立てた。
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勘次は性急におつぎを促し立てた。
大戸のかぎを外からかけて三人が庭に立ったとき、月は雲のかげから遠ざかって、静かにかきの木の上にかかっていた。
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大戸の鍵を外から掛けて三人が庭に立つた時月は雲翳を遠ざかつて靜かに柹の木の上に懸つて居た。
毎年決まったおどりの場所は、村の神社の大きなもみの木かげである。
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毎年極つた踊の場所は村の社の大きな樅の木陰である。
勘次ら三人が行ったときには、おどり子はもうだいぶ集まっていた。
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勘次等三人が行つた時は踊子はもう大分集つて居た。
一歩森に入れば、はげしくたたく太鼓の音が、その急いで遠くへひびき去るのをまわりからさえぎり止めようとして、入りまじってしげっているみきや小えだに打ち当たってもつれているように、森じゅうに鳴りひびいて、上へ上へとおそろしく人々の心をさそった。
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一足森に入れば劇しく叩く太鼓の音が、その急いで遠くへ響き去るのを周圍から遮り止めようとして錯雜して茂つて居る幹や小枝に打當つて紛糾つて居るやうに、森一杯に鳴り響いて上へ/\と恐ろしく人々の心を誘導つた。
男女が入りまじって、太鼓を真ん中に輪をえがいている。
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男女が入り交つて太鼓を中央に輪を描いて居る。
それが決まった間かくを置いては、みんながふくろの口のひもを引いたように輪が縮まって、ぱらりぱらりと手びょうしを取って、また元のように広がる。
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それが一定の間隔を措いては一同が袋の口の紐を引いた樣に輪が蹙まつて、ぱらり/\と手拍子をとつて、復以前のやうに擴がる。
そしては、そのおどりの手をくり返しながら、ゆっくりと太鼓のまわりを回る。
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さうしては其の踊の手を反覆しつゝ徐ろに太鼓の周圍を廻る。
女はそでを長く見せるために手ぬぐいを折って両方のたもとの先へぬいつけて、それからしごき帯をたすきにして結んだ長いはしを、後ろへだらりとたらしている。
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女は袖を長く見せる爲に手拭を折つて兩方の袂の先へ縫つけて、それから扱帶を襷にして結んだ長い端を後へだらりと垂れて居る。
しごき帯は、おどりの手をえがくたびに、たもとといっしょにゆらりゆらりとゆれる。
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扱帶は踊の手を描く度毎に袂と共にゆらり/\と搖れる。
男は少しらんぼうに、女の体にこすりつきながらおどる。
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男は少し亂暴に女の身體にこすりつきながら踊る。
女はうるさいときには一度おどりの手を止めて相手をしかったりたたいたり、それでもそのつつましさを保ってひょうしを合わせながら、大ぜいのあいだにもまれながら、同じ形をくり返しながらおどる。
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女は五月繩い時には一時踊の手を止めて對手を叱つたり叩いたり、然も其特性のつゝましさを保つて拍子を合せ乍ら多勢の間に揉まれつゝ同一線を反覆しつゝ踊る。
次第に人数が増えて、大きな輪の内側にさらに小さな輪がえがかれた。
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漸次に人勢が殖えて大きな輪の内側に更に小な輪が描かれた。
太鼓がなまければ
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太鼓が倦怠れば
「太鼓がいいかげんじゃ、おどりもいいかげんだ」
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「太鼓が疎かぢや踊もおろかだ」
と口々にせき立てせき立て、代わる代わる歌の声を張り上げておどる。
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と口々に促し促し交互に唄の聲を張り揚げて踊る。
太鼓の打ち手はつかれれば、さらに人が代わって、ばちも折れよと鳴らす。
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太鼓の手は疲れゝば更に人が交代して撥も折れよと鳴らす。
おどり子はみな、いっぱいにかざったかさをかぶっている。
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踊子は皆一杯に裝飾した笠を戴いて居る。
かざりといっても、夜目にあざやかなように、まんじゅうやそのほかの物を包む白いへぎ皮をたくさんくくりつけておくのである。
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裝飾といつても夜目に鮮やかな樣に、饅頭や其の他の物を包む白いへぎ皮を夥しく括り附けて置くのである。
それがもみの木かげにとても目立って、体を動かすたびにいっせいにがさがさと鳴りながら、波のように動いて彼らのすがたを引き立てている。
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其れが月光を遮つて居る樅の木陰に著るしく目に立つて、身を動かす度に一齊にがさがさと鳴りながら波の如く動いて彼等の風姿を添へて居る。
彼らが何晩もおどって要らなくなったときには、それが彼らの歩いた道のわきにほこりにまみれながら、いたる所に投げ捨てられて散らばっているのを見るのである。
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彼等が幾夜も踊つて不用に歸した時には、それが彼等の歩いた路の傍に埃に塗れながら到る處に抛棄せられて散亂して居るのを見るのである。
そのおどりのまわりには、やっと村の見物人が集まった。
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其の踊の周圍には漸く村落の見物が聚つた。
こみ合った人々と少しはなれて、村のにわか商人がむしろをしいて、駄菓子やなしやまくわうりやすいかをならべている。
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混雜して群集と少し離れて村落の俄商人が筵を敷いて駄菓子や梨や甜瓜や西瓜を並べて居る。
すすがぼうっと上がるカンテラの光が、そういうすべてをすずしく見せている。
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油煙がぼうつと騰るカンテラの光がさういふ凡てを凉しく見せて居る。
ことに切ったすいかの赤い切れは、小さな店のいちばんのかざりである。
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殊に斷ち割つた西瓜の赤い切は小さな店の第一の飾りである。
おどり子のかわいた喉には、自分たちが立てるほこりがかかるのもかまわず、ひたすらそれをうまく感じるのである。
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踊子の渇した喉には自分等が立てる埃の掛るのも頓着なく只管それを佳味く感ずるのである。
それが少女であれば、少なくとも三、四人がかたまって、かざられた花がさで顔が深くおおわれているのに、それでもなお知られるのをはずかしがって、やっと手のとどく程度にカンテラの光からはなれようとしながら、すいかを一切れずつ買う。
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それが少女であれば少くとも三四人が群れて飾られた花笠深く顏が掩はれて居るのにそれでも猶且知られることを恥らうて漸く手の及ぶ程度にカンテラの光の範圍から遠ざからうとしつゝ西瓜の一片づつを求める。
にわか商人は、カンテラの明かりと木かげのうすい暗やみとのあいだに立った、そのすがたがはっきり見分けられないので、しきりに目をしかめながら、言われるままにむしろのはしに立ってすいかを出してやる。
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俄商人はカンテラの光明と木陰の薄い闇との間に立つた其の姿が明瞭と見極め難いので、頻りに目を蹙めつゝ求められる儘に筵の端に立つて西瓜を出して遣る。
おどり子はそれを手にして、あわただしく木かげにかくれる。
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踊子は其れを手にして慌しく木陰に隱れる。
そこには必ず、めいめいの口から出る笑い声が聞かれるのである。
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其處には必ず各の口から發する笑聲が聞かれるのである。
カンテラの光のためにかえって見えにくくなった商人は、木かげの暗やみから見ればこっけいなほど、絶えず目をしかめながら、外の暗やみをすかしてさわがしい人々を見ている。
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カンテラの光の爲に却て眼界を狹められた商人は木陰の闇から見れば滑稽な程絶えず其の眼を蹙めつゝ外の闇を透して騷がしい群集を見て居る。
勘次は与吉がほしがるままにすいかを一切れ買ってやって、自分は商人のせまいむしろのはしに腰を下ろした。
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勘次は與吉の求める儘に西瓜の一片を與へて自分は商人の狹い筵の端へ腰を卸した。
おつぎはしばらく店のそばに立っていたが、明るい光をきらって、やがてもみの木の下に与吉といっしょに身をよせた。
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おつぎは暫く店の側に立つて居たが、明るい光を厭うて軈て樅の木の下に與吉と共に身を避けた。
勘次は急に目をこらすようにして、木かげの暗やみを見た。
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勘次は俄に眼を聳かすやうにして木陰の闇を見た。
彼はそこにおつぎのゆかたすがたがじっとしているのを見て、むしろからはなれなかった。
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彼は其處におつぎの浴衣姿が凝然として居るのを見て筵から離れることは仕なかつた。
「おつぎさん、よく来たっけな」
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「おつぎさん能く來たつけな」
列をはなれたおどり子が、汗の胸を少し開いて、たもとでしきりにあおぎながら、もみの木のそばに立って言いかけた。
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列を離れた踊子が汗の胸を少し開いて、袂で頻りに煽ぎながら樅の木の側に立つていひ掛けた。
「ああ暑いやまあ、むせ返るようだ」
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「おゝ暑いやまあ、咽つ返る樣だ」
と、たもとのはしで汗をふきながら
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と、袂の端で汗を拭きながら
「おつぎさん、おどらないか」
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「おつぎさん、踊んねえか」
と、ほかの一人が言った。
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と他の一人がいつた。
「おれはいやだよ、おとっつあんがいるから」
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「俺ら厭だよ、おとつゝあ居つから」
おつぎは小声で言った。
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おつぎは小聲でいつた。
さそったおどり子は、目をしかめている勘次のようすを見て、自分がにらまれているように感じたので、ほかへこそこそと身をよけた。
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誘うた踊子は目を蹙めて居る勘次の容子を見て自分が睨みつけられて居る樣に感じたので、他へ孤鼠々々と身を避けた。
女同士の目には、すがたを変えたおどり子がみな一目で分かるのだった。
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女同士の眼には姿を變じた踊子が皆一見して了解されるのであつた。
おどりを見ながら輪のまわりに立っている村の女たちは、手と手をつつき合って勘次のようすを見ては、くすくすとこっそり冷たく笑うのだった。
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踊を見ながら輪の周圍に立つて居る村落の女等は手と手を突き合うて勘次の容子を見てはくすくすと竊に冷笑を浴せ掛けるのであつた。
カンテラの光は、もみの木かげのどこからでもはっきりと勘次のようすを目立たせるように、ぼうぼうとすすを立てながら、まわりの目とうなずき合って、赤い舌をべろべろと出しながらゆらめいた。
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カンテラの光は樅の木陰の何處からでも明瞭と勘次の容子を目に立たせる樣にぼう/\と油煙を立てながら、周圍の眼と首肯き合うて赤い舌をべろべろと吐きつゝゆらめいた
おつぎのすがたが五、六人立った中に見えなくなったとき、勘次は商人のむしろを立って、すっともみの木のそばへ行った。
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おつぎの姿が五六人立つた中に見えなく成つた時勘次は商人の筵を立つてすつと樅の木の側へ行つた。
おつぎは一、二歩場所を変えただけだったので、彼はすぐにおつぎの白いすがたと並んで立った。
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おつぎは一二歩位置を變へた丈であつたので、彼は直におつぎの白い姿と相接して立つた。
女同士は勘次のすがたを見て、少し身をよけた。
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女同士は勘次の姿を見て少し身を避けた。
五、六本そびえ立ったもみの木は、引きしごいたようなえだが寄り合って、さっきから明るい光をきらうおどり子をおおっていっぱいにかげを落としていたのだが、じっとしていた静かな月がいくらか首をかたむけたと思ったら、もみのえだのあいだから少しのぞいて、おどり子が作っている輪のはしをかっと明るくした。
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五六本屹立した樅の木は引つ扱いた樣な梢が相倚つて、先刻から明かるい光を厭ふ踊子を掩うて一杯に陰翳を投げて居たのであるが、凝然とした靜かな月が幾らか首を傾けたと思つたら樅の梢の間から少し覗いて、踊子が形づくつて居る輪の一端をかつと明かるくした。
彼らのかぶっているかざりがその光にふれれば、みな目をさすようにはっきりと白く見え出した。
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彼等の戴いて居る裝飾が其光に觸れゝば悉く目を射るやうにはつきりと白く見え出した。
ほとんどつかれというものを感じないのだろうかとふしぎに思われる彼らは、ますます調子に乗って、少し乱ぼうになりかけた。
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殆んど疲勞といふことを感じないであらうかと怪しまれる彼等は益々興に乘じて少し亂雜に成り掛けた。
白いシャツの上にゆかたを肩までまくって、しりをからげてわらじをはいた何人かが列をはなれたと思ったら、そこらに立って見物している女たちに向かって、津波のようにおそいかかった。
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白いシヤツの上に浴衣を肩まで捲くつて、臀を褰げて草鞋を穿た幾人が列から離れたと思つたら、其處らに立つて見物して居る女等に向つて海嘯の如く襲うた。
女同士はわあとただ笑い声を上げて、めいめい相手を突いたりたたいたりして、乱れながらさわいだ。
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女同士はわあと只笑ひ聲を發して各自に對手を突いたり叩いたりして亂れつゝ騷いだ。
とつぜん一人が、おつぎの髪へひょいと手をかけた。
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突然一人がおつぎの髮へひよつと手を掛けた。
「これはまあ、どうしたもんだ」
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「此らまあ、どうしたもんだ」
おつぎがおどろいて叫んだとき、相手はおつぎのくしをうばって、こみ合った人々の中へ身をしずめた。
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おつぎが驚いて叫んだ時、對手はおつぎの櫛を奪つて混雜した群集の中へ身を沒した。
おつぎは髪をいたずらされたのをいやがって、思わず手を当ててみて、くしがなくなったのを知った。
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おつぎは髮へ惡戯されたことを嫌つて思はず手を當て見て櫛の無くなつたのを知つた。
「他人のくしをまあ」
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「他人の櫛まあ」
おつぎはそれを追おうとして、思わず足をふみ出すと、一歩進んだ勘次の手が、むずとおつぎの首すじをつかまえた。
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おつぎは其れを追はうとして覺えず足を蹂み出すと、一歩運んだ勘次の手がむづとおつぎの首筋を捉へた。
彼は同時に、おつぎの横顔をたたいた。
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彼は同時におつぎの小鬢を横に打つた。
おつぎが慌てて後ろを向こうとするとき、ふたたびはげしくたたいた手がおつぎの鼻に当たった。
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おつぎが慌てゝ後を向かうとする時、復び劇しく打つた手がおつぎの鼻に當つた。
おつぎは両手で鼻をおさえて縮こまった。
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おつぎは兩手で鼻を抑へて縮まつた。
女同士はもみの木かげに身をすくめて、手の出しようもなかった。
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女同士は樅の木陰に身を峙めて手の出し樣もなかつた。
一つには、ふだんからおつぎに対する勘次の態度を知っていて、そこに一種のおそれを感じていたからでもあった。
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一つには平生からおつぎに對する勘次の態度を知つて居て其處に一種の恐怖を感じて居たからでもあつた。
「どうしてお前は、くしなんぞ取られたんだ」
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「どうして汝りや、櫛なんぞ取らつたんだ」
勘次はかわいた喉からしぼり出すような声で問いつめた。
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勘次はからびた喉から絞り出す樣な聲で詰問した。
「こら、こいつ、しらばくれやがって、どうしたんだよ」
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「こうれ、此阿魔奴、しらばくれやがつて、どうしたんだよ」
勘次はかがんだままのおつぎをぐいと突いた。
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勘次は屈んだ儘のおつぎをぐいと突いた。
おつぎはころがりそうになって、やっと土に手をついた。
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おつぎは轉がり相にして漸く土へ手を突いた。
「何するんだな、おとっつあん」
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「何爲んだな、おとつゝあ」
おつぎは慌てて顔をねじ向けて、少し泣き声で、むしろするどく言った。
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おつぎは慌てゝ顏を捩ぢ向けて少し泣き聲で寧ろ鋭くいつた。
「何するんだとう。ずうずうしいやつだ。くしをどうして取られたんだか言ってみろというんだ。これでも分からないのか。言ってみろよ」
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「何爲んだとう、づう/\しい阿魔だ、櫛何故して取らつたんだか云つて見ろつちんだ、此んでも分んねえのか、云つて見ろよ」
勘次はしばらく間を置いて、またかっといまいましくなったように
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勘次は暫く間を措いて、又かつと忌々敷なつたやうに
「言ってみろというのに、言ってみろよ」
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「云つて見ろつちのに、云つて見ろよ」
とくり返して、おつぎをせめた。
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と反覆しておつぎを責めた。
「どうしてと言ったって、おれには分からないよ」
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「どうしてつちつたつて、俺らがにや分んねえよ」
おつぎはうらめしそうに、しかしまわりを気にするように小声で言った。
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おつぎは恨めし相に然しながら周圍に憚る樣にして小聲でいつた。
たもとは顔をおおったままである。
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袂は顏を掩うた儘である。
「分からないとう。何にも知らない者が他人のくしなんぞ取るか」
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「分んねえとう、何にも知らねえ者で他人の櫛なんぞ取つか」
勘次は苦しい息をはくようにして
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勘次は苦しい息を吐くやうにして
「そんならお前は」
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「そんだら汝りや」
と、歯でぎっとかみ殺したような声で言った。
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と齒でぎつと噛み殺した樣な聲でいつた。
しばらくじっと見ていた彼は、おつぎをけった。
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暫時凝然と見て居た彼はおつぎを蹴つた。
おつぎは前へのめった。
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おつぎは前へのめつた。
しかし、おつぎは泣かなかった。
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然しおつぎは泣かなかつた。
「ああ痛いまあ」
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「おゝ痛てえまあ」
人々の中から作り声で言った。
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群集の中から假聲でいつた。
おどりの列はさっきからくずれて、かきねのように勘次とおつぎのまわりに集まったのである。
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踊の列は先刻から崩れて堵の如く勘次とおつぎの周圍に集まつたのである。
おつぎはこの声を聞くとともに、乱れかけた着物の合わせ目を直した。
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おつぎは此聲を聞くと共に亂れ掛けた衣物の合せ目を繕うた。
「くしを取ったのはここにいたよう」
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「櫛とつたな此處に居たよう」
と、これも喉の底からかすれて出るような声が、人々の中から出た。
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と此れも喉の底からかすれて出るやうな聲が群集の中から發せられた。
「持ってたら、やっちまえ」
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「持つてたら、やつちめえ」
「いやだよう、おとっつあんにぶんなぐられるから。おとっつあん、かんべんしてくれよう」
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「厭だよう、おとつゝあに打ん擲られつから、おとつゝあ勘辨してくろよう」
と、すすり泣くような作り声がさらに聞こえた。
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と歔欷くやうな假聲が更に聞えた。
あっけに取られて見ていたみんながどよめいた。
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惘然として見て居た凡てがどよめいた。
「おとっつあん、明かりをつけようかあ」
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「おとつゝあ明り點けべえかあ」
と、人々の後ろからどなるとともに、みんながまたどっと笑った。
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と群集の後から呶鳴ると共に凡てが復たどつと笑つた。
おつぎはむっくり起きて、さっさと歩き出した。
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おつぎはむつくり起きてさつさと行き掛けた。
「お前、どこへ行くんだ。こら」
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「汝何處さ行くんだ。こうれ」
勘次はつかまえようとしたが、おつぎは身をよじってさっさと行く。
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勘次は引つ捉まうとしたがおつぎは身を捩つてさつさと行く。
勘次は慌ててぞうりのつま先をつまずかせながら、おつぎの後についた。
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勘次は慌てゝ草履の爪先が蹶きつゝおつぎの後に跟いた。
「おつう」
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「おつう」
彼は心細そうに呼んだ。
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彼は心もとなげに喚んだ。
与吉はどうしたわけとも分からないので、さっきからただ泣いていた。
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與吉はどうした理由とも分らないので先刻から只泣いて居た。
太鼓が止んで、おどりはまったく乱れてしまった。
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太鼓が止んで踊は全く亂れて畢つた。
そうでなくても彼らは、ひとしきりおどれば田んぼをこえて三々五々と、男は女を連れて、畑の細い道から林を過ぎて、村から村へと太鼓の音をたずねて行くのである。
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それでなくても彼等は一しきり踊れば田圃を越えて三々五々と男は女を伴うて、畑の小徑から林を過ぎて村落から村落へと太鼓の音を尋ねて行くのである。
勘次の後から、彼らはぞろぞろとついて行った。
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勘次の後から彼等はぞろ/\と跟いて行つた。
ある者は足早に追いこしては
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或者は足速に駈け拔けては
「やきもち焼くとて手を焼いて、その手でお釈迦のだんごをこねた」
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「燒餅燒くとて手を燒いてえ、其の手でお釋迦の團子捏ねたあ」
と当てつけに歌って、ずんずん行ってしまう。
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と當てつけに唄うてずん/\行つて畢ふ。
後ろの人々はそれに合わせて、指をくわえてぴゅうぴゅうと鳴らしながら、勘次の心をいらだたせた。
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後の群集はそれに應じて指を啣へてぴう/\と鳴らしながら勘次の心を苛立たせた。
勘次はどれほどそれが怒った心にいまいましくても、それをたしなめてしかってやる手がかりを何も持っていない。
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勘次は何れ程それが激した心に忌々敷くても其れを窘めて叱つて遣る何の手がかりも有つて居らぬ。
三人はただ黙って歩いた。
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三人は只默つて歩いた。
神社の森の外は、白い月夜である。
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社の森の外は白い月夜である。
勘次が村はずれの家に帰ったときには、おどり子はみな自分の行く所へ向かって、三人だけが静かにふけて行く庭にぽつんと立ったのだった。
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勘次が村落外れの家に歸つた時は踊子は皆自分の嚮ふ處に赴いて三人のみが靜に深け行く庭にぽつさりと立つたのであつた。
あちこちの太鼓の音が、面白いのはかえってこれからだというように、しずんだ夜をとおして一直線にひびいて来る。
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各所の太鼓の音が興味は却て此れからだといふ樣に沈んだ夜を透して一直線に響いて來る。
歌の声は遠く近く聞こえる。
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唄の聲は遠く近く聞える。
夜はすっかり、おどる者のものになった。
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夜は全く踊るものゝ領域に歸した。
彼らは、とうもろこしの葉がざわざわと妙に心をさわがせて、花粉のにおいがさらに心の何かをつき動かす畑のあいだを行くとき、おどって歌ってかわいた喉に、そこにうりが作ってあると知れば、こっそりうりやすいかをぬすんで、道ばたの草の中に割った皮を投げ捨てて行くのである。
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彼等は玉蜀黍の葉がざわ/\と妙に心を騷がせて、花粉の臭ひが更に心の或物を衝動る畑の間を行くとては、踊つて唄うて渇した喉に其處に瓜が作つてあるのを知れば竊に瓜や西瓜を盗んで路傍の草の中に打ち割つた皮を投げ棄てゝ行くのである。
彼らのうちのいたずら好きな五、六人が、夜がふけてからそっと勘次の庭に立ってみた。
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彼等の間に惡戯の好きな五六人が夜が深けてからそつと勘次の庭へ立つて見た。
そのときはただ自分たちのかげがやや長く庭の土にうつって、月はすきまだらけの古ぼけた雨戸を、ほのかに白く見せていた。
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其の時は只自分等の陰翳が稍長く庭の土に映じて、月は隙間だらけの古ぼけた雨戸をほのかに白く見せて居た。
まわりは泣き止んだ後のように、あまりにさびしかった。
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周圍は泣き止んだ後のやうに餘りに寂しかつた。
五、六人はただぽつんと帰ってしまった。
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五六人は只ぽつさりと歸つて畢つた。
おつぎは次の朝、くしをさがしに出た。
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おつぎは次の朝櫛を探しに出た。
同じ年ごろの者のあいだでは、だれのいたずらかがその場でみんなに知れわたっていた。
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同じ年輩の間には誰の惡戯であるかが其の場で凡ての耳に知れ渡つて居た。
「くしなんざ持っていないぞ、もう。それよりは、帰ってかきの木のふたまたでも見たほうがいいと」
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「櫛なんざ持つてゐねえぞはあ、それよりやあ、歸つて柹の木のざく股でも見た方がえゝと」
仲間の一人がおつぎに言った。
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朋輩の一人がおつぎへいつた。
おつぎは、自分の庭のかきの木のみきがふたまたになった所に、くしがそっと乗せてあるのを見つけた。
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おつぎは自分の庭の柹木の幹が二股に成つた處に櫛がそつと載せてあるのを發見した。
くしはべっこうに似せたゴムのくしだった。
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櫛は鼈甲模擬のゴムの櫛であつた。
歯が二本ばかり欠けていた。
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齒が二枚ばかり缺けて居た。
おつぎはいたんだ所をじっと見て、すぐに髪へさした。
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おつぎは損所を凝然と見て直に髮へ揷した。
くしのできごとはそれっきりで終わった。
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櫛の事件は其れつ切で畢つた。
勘次は何かにつけては、おつう、おつうとなつかしげに呼んで、一家は人の目に立つほどとても仲がよかった。
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勘次は何かにつけてはおつう/\と懷かしげに喚んで一家は人の目に立つ程極めて睦ましかつた。
しかし、こういうできごとは村じゅうの口を長くふさぐことはできなかった。
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然しかういふ事件は村落の凡ての口を久しく防ぐことは出來なかつた。
ことに女の人たちのあいだでは
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殊に女房等の間には
「勘次さんもどうしたっていうんだろう。おれはこわいようだったぞ」
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「勘次さんもどうしたつちんだんべ、俺ら可怖えやうだつけぞ」
「本当によ、まるで気がふれたようだものなあ」
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「本當によ、丸つきり狂氣のやうだものなあ」
というおどろきの声が、いたる所でくり返された。
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といふ驚異の聲が到る處に反覆された。
「ただごととは思えないよ。勘次さんも、ああいうふうにしなくてもよかろうと思うのになあ」
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「唯たあ思へねえよ、勘次さんもあゝいに仕ねえでもよかんべと思ふのになあ」
なげきの声を上げては、めいめいの心にひそんでいる何かを、口にははっきり言うのをはばかるように、目と目を見合わせてたがいに笑っては、わずかに
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嘆聲を發しては各自の心に伏在して居る或物を口には明白地に云ふことを憚る樣に眼と眼を見合せて互に笑うては僅に
「いやだいやだ」
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「厭だ/\」
という、底に一種の意味をふくんだ一言を投げ捨てて別れるのである。
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といふ底に一種の意味を含んだ一語を投げ棄てゝ別れるのである。
ことに村の若者たちには、少しもえんりょのない想像まじりのかげ口をたくましくさせる、かっこうの材料をあたえたのだった。
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殊には村落の若者の間へは寸毫も遠慮の無い想像に伴ふ陰口を逞しくせしめる好箇の材料を提供したのであつた。
一四
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一四
夏がめぐって来た。
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夏が循環した。
暑い日ざしのしげきが、おどろくほどの活動力を百姓の手足に与える。
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暑い日の刺戟が驚くべき活動力を百姓の手足に與へる。
百姓は馬や荷車を使って、刈りたおした麦をせっせと運ぶ。
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百姓は馬や荷車を駈つて刈り倒した麥をせつせと運ぶ。
長い日はわずかな日数のうちに、目に果てしない畑をからりとさせて、しばらくすると天気は限りない変化の手をいっぱいに広げて、黄色に熟するうめの小えだを苦しめているあぶらむしもほろびてしまうほどの長雨が、あきれるほど降りつづく。
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永い日は僅な日數の内に目に渺々たる畑をからりとさせて、暫くすると天候は極りない變化の手を一杯に擴げて、黄色に熟する梅の小枝を苦めて居る蚜蟲も滅亡して畢ふ程の霖雨が惘れもしないで降り續く。
すると、麦を刈った跡の豆や陸稲が、かわいた口に冷たい水をもらったように元気づいて、四、五日のうちに青い葉で畑の土がすきまなくおおわれる。
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さうすると麥を刈つた跟の菽や陸穗が渇した口へ冷たい水を獲た樣に勢づいて、四五日の内に青い葉を以て畑の土が寸隙もなく掩はれる。
雨は、ふみ固めてある百姓の庭の土にも、たねつけばなやきつねのぼたんの黄色い小さな花をつけさせて、屋根のむねにさえ長い短い草を生えさせる。
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雨は蹂み固めてある百姓の庭の土にも蔊菜や石龍芮の黄色い小粒な花を持たせて、棟にさへ長い短い草を生ぜしめる。
自然の思いは、ひたすら地上のいたる所をやわらかな青い葉でおおいかくそうとばかり力を注いでいるのである。
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自然の意志は只管に地上の到る處に軟かな青い葉を以て掩ひ隱さうとのみ力を注いで居るのである。
その思いにさからってためらっているのは、百姓の手でていねいにこねられた水田だけである。
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其の意志に逆らうて猶豫うて居るのは百姓の手で丁寧に捏ねられた水田のみである。
夏がようやくふけると、自然はその心をあせらせて、長雨で低い田に水を満たさせて、ほりにもしげった草をしずめて岸をこえさせる。
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夏が漸く深けると自然は其の心を焦燥らせて、霖雨が低い田に水を滿たしめて、堀にも茂つた草を沒して岸を越えしめる。
稲で田の空きをうめることが一日でも早ければ、その分だけよけいなむくいをおそい秋の収穫で与えるからと教えて、自然は百姓を体力のかぎり働かせる。
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稻草を以て田の空地を埋めることが一日でも速かなればそれだけ餘計な報酬を晩秋の收穫に於て與へるからと教へて自然は百姓の體力の及ぶ限り活動せしめる。
すると百姓は、田のようにどろどろと道の土もこねて、馬とともにどろにまみれながら、田植えにばかりかかりきる。
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さうすると百姓は田のやうにどろ/\と往來の土をも捏ねて馬と共に泥に塗れながら田植にのみ屈託する。
彼らは雨を藁のみのでよけて、左手に持った苗を少しずつ取っては、後ろへ下がりながら深いどろから股引の足を引きぬき引きぬき、植えて下がる。
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彼等は雨を藁の蓑に避けて左手に持つた苗を少しづつ取つて後退りに深い泥から股引の足を引き拔き引き拔き植ゑ退く。
こうして広々とした水田は、一日どろにつかったままでも楽しそうに歌う声があっちからもこっちからもひびくとともに、だんだんとうすい緑がおおって、いそがしく、そして元気な夏の自然は、先に植えられた田から次第に深い緑を染めて行く。
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恁うして宏濶な水田は、一日泥に浸つた儘でも愉快相に唄ふ聲がそつちからもこつちからも響くと共に、段々に淺い緑が掩うて、多忙で且活溌な夏の自然は先に植ゑられた田から漸次に深い緑を染めて行く。
田がすべて植え終わったときには、あぜにも短い草が生えていて、土の黒い部分がどこにも見えなくなる。
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田が凡て植ゑ畢つた時には畦畔にも短い草が生えて居て土の黒い部分が何處にも見えなく成る。
自然は初めて自分の満足を得たように、からりと気持ちよく空をふいて、暑い日の光を投げかける。
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自然は始めて自己の滿足を得た樣にからりと快よい空を拭うて暑い日の光を投げ掛ける。
青田のあぜにはところどころにかんぞうが開いて、田の草を取るといって、村の少女が赤い帯を暑い日に燃やさない日でも、しぼんでは開いて、朱色の杯のように点々と田畑をいろどるのである。
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青田の畦畔には處々に萱草が開いて、田の草を掻くとては村落の少女が赤い帶を暑い日に燃やさない日でも、萎んでは開いて朱杯の如く點々と耕地を彩るのである。
百姓はいそがしい田植えが終われば、どの家でも秋の収穫を待つ用意がすっかりできたので、めいめいの働きをねぎらうために、それなりのもてなしが行われるのである。
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百姓は忙しい田植が畢れば何處の家でも秋の收穫を待つ準備が全く施されたので、各自の勞を劬ふ爲に相當な饗應が行はれるのである。
それが早苗饗である。
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其が早苗振である。
勘次とおつぎは、南の家の早苗饗の日にやとわれて行っていた。
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勘次とおつぎは南の早苗振の日に傭はれて行つて居た。
勘次の家から南へ行く細い道をはさんだ桑畑は、刈り取ってから草が生えたくらいにえだが立ちはじめていた。
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勘次の家から南へ行く小徑を挾んだ桑畑は刈取つてから草の生えた位に枝が立ち始めて居た。
桑のあいだにはじゃがいもがしげって、花をつけていた。
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桑の間には馬鈴薯が茂つて花を持つて居た。
南の家では少しばかり養蚕をしたので、百姓の仕事がすべておくれてしまったのだった。
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南の家では少しばかり養蠶をしたので百姓の仕事が凡て手後れに成つたのであつた。
村のたいていが田植えを終えかけたので、慌てて大ぜいの手をやとった。
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村落の大抵が田植を畢り掛けたので慌てゝ大勢の手を傭うた。
その日は晴れて気持ちがよかったのと、みんながとてもがんばったのとで、仕事は日の高いうちに済んだ。
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其の日は晴れて心持がよかつたのと、一同が非常な奮發をしたのとで仕事は日の高い内に濟んだ。
南の家の女房は仕事のめどがついたので、おつぎを連れて、その晩のおかずの用意をするために、一足先に田から帰った。
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南の女房は仕事の見極めがついたのでおつぎを連れて、其晩の惣菜の用意をする爲に一足先へ田から歸つた。
女房はいそがしい思いをしながら、麦をいって香煎もふるっておいた。
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女房は忙しい思ひをしながら麥を熬つて香煎も篩つて置いた。
田植えのみんなは、股引をはいたままどろの足をずっとほりの水に立てて、股引の紺色がはっきりするまで、両手でごしごしとしごいた。
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田植の同勢は股引穿いた儘泥の足をずつと堀の水に立てゝ、股引の紺地がはつきりと成るまで兩手でごし/\と扱いた。
とけたどろがけむりのように水をにごらせて、ずんずんと流される。
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溶けた泥が煙の如く水を濁らしてずん/\と流される。
そしてから、その股引をぬいでざぶざぶと洗う者もあった。
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さうしてから其の股引を脱いでざぶ/\と洗ふ者も有つた。
彼らが帰って、家の中は急にがやがやとにぎやかになった。
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彼等が歸つて家の内は急にがや/\と賑かに成つた。
裏の戸口のかきの木の下に置かれたおふろには、牛が舌を出して鼻をなめているようなほのおが、けむりとともにべろべろと立って、くすぶりながら燃えている。
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裏戸口の柹の木の下に据ゑられた風呂には牛が舌を出して鼻を舐めづつて居る樣な焔が煙と共にべろ/\と立つて燻りつゝ燃えて居る。
やとわれて来た女の人の一人がふたを取ってがらがらとかき回して、それからまた火ふき竹でふうふうとふいた。
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傭はれて來た女房等の一人が蓋をとつてがら/\と掻き廻して、それから復た火吹竹でふう/\と吹いた。
ほのおの赤い舌がべろべろと長く立った。
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焔の赤い舌がべろ/\と長く立つた。
ふたたびふたを取ったときには、そうじの足りないふろおけの中には、前の晩のあかがいっぱいにうかんでいた。
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再び蓋をとつた時には掃除の足らぬ風呂桶のなかには前夜の垢が一杯に浮いて居た。
そんなことにはかまわずに、田植えのみんなはずんずんと入った。
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其麽ことには關はずに田植の同勢はずん/\と這入つた。
彼らはほとんど、ただ手ぬぐいでぼちゃぼちゃと体をこすって出た。
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彼等は殆んど只手拭でぼちや/\と身體をこすつて出た。
足のつま先につまったどろを落とすことさえしなかった。
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足の爪先に詰まつた泥を落すことさへ仕なかつた。
「くすぶってるのをそっちへ押し出さなくちゃ仕方がないや」
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「燻つてえのそつちへおん出さなくつちや仕やうねえや」
おふろから出たままふきもしない足に下駄をはいて、はだかのしりを他人に向けて立った一人が、後ろをふり返って言った。
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風呂から出た儘拭ひもせぬ足に下駄を穿いて裸の臀を他人に向けて立つた一人が後を顧みていつた。
「なあにかまわない」
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「なあに管あねえ」
後から目をしかめながら、一人が首すじまでしずんだ。
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後から目を蹙めながら一人が首筋まで沈んだ。
それからふろおけに腰をかけて、ごしごしと洗いながら
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それから風呂桶へ腰を掛けてごし/\と洗ひながら
「こりゃくすぶってる」
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「此りや燻つてえ」
と、またしずんだままごしごしとあかを落としていたが
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と復沈んだ儘ごし/\と垢を落して居たが
「ああいい所だ。よう、おつぎ、ちょっとここまで来てくれないか」
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「あゝ善え處だ、よう、おつぎ、少と此處まで來てくんねえか」
と言った。
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といつた。
彼は百姓のあいだで、馬を引いて売り歩く村の博労だった。
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彼は百姓の間には馬を曳いて歩く村落の博勞であつた。
「どうしたもんだろう。兼さんら自分で入るのに、くすぶってるなら押し出してから入ったらよかろうな。それにどうしたもんだ、みんないるのに、水くみに来た者なんぞ使わなくたっていいだろうな」
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「どうしたもんだんべ、兼さん等自分で這入んのに燻つたけりや、おん出してからへえつたら善かんべなあ、それに怎的したもんだ一同居て、水汲みに來たものなんぞ使あねえたつてよかんべなあ」
おつぎは軽くたしなめるように言って、二つの手おけをそっと置いて、くすぶっているたきぎを出してやった。
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おつぎは輕く窘める樣にいつて二つの手桶をそつと置いて、燻つて居る薪を出して遣つた。
「おつぎにかき出してもらうんでなくちゃいやだというから、おれはかまわないんだな。そうでなけりゃいくらでも出してやるさ、よ」
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「おつぎに掻ん出して貰あんでなくつちや厭だつちから俺ら管あねえんだな、そんでなけりや幾らでも出して遣らざらによ」
そばからすぐに言った。
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側から直にいつた。
「くすぶってるのがなくなったら、ひどく晴れ晴れして、入っているようでなくなった。おれはばかな目にあっちまったよ」
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「燻つてえの無く成つたら酷く晴々してへえつてる樣ぢやなくなつた。俺ら莫迦な目に逢つちやつたえ」
兼博労は、がぶりとおふろの音をさせて立ちながら言った。
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兼博勞はがぶりと風呂の音をさせて立ながらいつた。
「どうしたもんだ、他人を使って小にくらしいこと。そんなこと言うと、押しつけてやるから」
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「どうしたもんだ、他人のこと使つて小憎らしいこと、そんなこと云ふとおつけて遣つから」
おつぎはくすぶったたきぎを、兼博労の近くへ出した。
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おつぎは燻つた薪を兼博勞の近くへ出した。
兼博労は慌てて
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兼博勞は慌てゝ
「あやまった、あやまった」
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「謝罪つた/\」
と、ずっと身を引いた。
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とずつと身を引いた。
おつぎが手おけのそばへもどったら
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おつぎが手桶の側へ戻つたら
「ああ、おつぎ、おつぎ、ちょっと待っててくれよ。おれがいい物を出すから」
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「ああ、おつぎ/\少と待つてゝくろえ、俺れえゝ物出すから」
兼博労は早口に呼びかけた。
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兼博勞は口速に喚び掛けた。
「ああいやなこった、要らないよ」
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「おゝ厭なこつた、要らねえよ」
おつぎは少し身をかがめて手おけの取っ手をつかんで、そのまま体をのばすと、手おけの底が十センチほど地面からはなれた。
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おつぎは少し身を屈めて手桶の柄を攫んで其の儘身を延すと手桶の底が三寸ばかり地を離れた。
「ええ、これを出そうというのに」
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「えゝ、此れ出すべつちのに」
兼博労は後ろから投げた。
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兼博勞は後から投げた。
それはえだからおふろの中へ落ちた、へたのない青いかきだった。
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それは梢から風呂の中へ落ちた蔕のない青い柹であつた。
かきは手おけの水へぽたりと落ちて、水のしぶきが少しおつぎの足にかかった。
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柹は手桶の水へぽたりと落ちて、水のとばちりが少しおつぎの足へ掛つた。
「にくらしいことまあ、いたずらばかりして」
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「憎らしいことまあ、惡戯ばかし仕て」
おつぎはにっこりとして後ろを見た。
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おつぎは嫣然として後を見た。
「後ろを見さえすりゃ、それでいいんだ」
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「後見せえすりやそんでえゝんだ」
と、おふろのそばにいた一人が言った。
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と風呂の側に居た一人がいつた。
「おれはそのそばかすを見さえすりゃ気が済んでるんだよ」
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「俺ら其の雀班見せえすりや氣が濟んでんだよ」
兼博労は後につづけて言った。
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兼博勞は後に跟いていつた。
「どれほどずうずうしいんだろうな、兼さんは。他人のことを本当に」
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「何程すれつからしなんだんべ兼さんは、他人のこと本當に」
と、おつぎは手おけを置いて、水にうかんだ青いかきを兼博労へ投げた。
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とおつぎは手桶を置いて水に泛んだ青い柹を兼博勞へ投げた。
「兼さん、すっかりほれられちまった」
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「兼さんすつかり惚られつちやつた」
と、ふろおけのそばから言った。
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と風呂桶の傍からいつた。
おつぎは顔を赤くして、あわただしく手おけを持って逃げた。
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おつぎは顏を赧くして慌しく手桶を持つて遁げた。
いっぱいにくんだ手おけの水が、少し波立ってこぼれた。
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一杯に汲んだ手桶の水が少し波立つて滾れた。
ふろおけのそばには、四十五十になる百姓もいて、みんなが楽しそうにどよめいた。
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風呂桶の傍では四十五十に成る百姓も居て一同が愉快相にどよめいた。
おつぎが手おけを持ったとき、勘次は裏戸のかきねの入口にひょっこりと出た。
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おつぎが手桶を持つた時勘次は裏戸の垣根口にひよつこりと出た。
彼は着物を着がえに桑畑の細い道をこえて、自分の家へ行っていたのだった。
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彼は衣物を換へに桑畑の小徑を越えて自分の家へ行つたのであつた。
彼はおふろのそばのさわぎをちらと耳にして、それからおつぎの後ろすがたを目にしたので、ふしぎそうなようすをして庭に入って来た。
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彼は風呂の側の騷ぎをちらと耳にしてそれからおつぎの後姿を目にしたので怪訝な容子をして庭にはひつて來た。
みんなは打ち合わせたように黙ってしまった。
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一同は打合せた樣に默して畢つた。
落ちかけた日がしばらく竹やぶをすかしてしめった土にさしかけて、それから井戸をかこんだ井げたにとどいて、暗くしげったくちなしの花をきわ立って白くした。
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落ち掛けた日が少時竹藪を透して濕つた土に射し掛けて、それから井戸を圍んだ井桁に蒞んで陰氣に茂つた山梔子の花を際立つて白くした。
しばらくして、青いけむりの満ちた家の中には、しんも切っていないランプがつるされて、板の間にはみんながぞろっとあぐらをかいて、丸い座ができた。
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暫くして青い煙の滿ちた家の内には心も切らぬランプが釣るされて、板の間には一同ぞろつと胡坐を掻いて丸い坐が形づくられた。
これもやとわれて来た若い女の人たちは、かまどの前に立って、家の女房とおつぎに手を貸していた。
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此も傭はれて來た若い女房等は竈の前に立つて内の女房とおつぎとに手を藉して居た。
徳利が三、四本、おぜんの前に運ばれた。
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徳利が三四本膳の前に運ばれた。
「おかげでどうもはかどりました。どうぞゆっくりやっておくんなせえ」
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「お蔭でどうも捗行きあんした。どうぞゆつくり行つておくんなせえ」
亭主はあらたまってあいさつした。
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亭主は改まつて挨拶した。
「はい」
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「はい」
とみんながおじぎをした。
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と一同が時儀をした。
めいめいのおぜんのすみへ一つずつわたされた茶飲み茶わんへお酒が注がれようとしたとき
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各自の膳の隅へ一つ宛渡された茶呑茶碗へ酒が注がれようとした時
「あれ、待っててくれないか」
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「あれ待つてゝくんねえか」
と、家の女房が慌てて言った。
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と内の女房が慌てゝいつた。
「おとっつあん、かまどの神さまを忘れたっけだろうな」
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「おとつゝあん、お竈樣忘れたつけべな」
女房はかまどからごはんのかまを下ろして、ふきんを手にしたまま言った。
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女房は竈から飯の釜を卸して布巾を手にした儘いつた。
「そうだったな、ほんに」
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「さうだつけな、ほんに」
亭主はいきなり一本の徳利を手にして、土間へ下りた。
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亭主はいきなり一本の徳利を手にして土間へおりた。
かまどの上のすすけた小さな神だなには、田から提げて来た一たばの苗が乗せてあった。
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竈の上の煤けた小さな神棚へは田から提げて來た一把の苗が載せてあつた。
彼はその苗たばへ、徳利から少しお酒を注いだ。
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彼は其苗束へ徳利から少し酒を注いだ。
「お酒はそっちのほうへたくさんかけないでもらいたいな」
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「酒そつちの方へたんと掛けねえで貰れえてえな」
兼博労はけろりとしたようすで冗談を言った。
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兼博勞はけろりとした容子をして戯談をいつた。
「お酒を飲む者は、そんなにおしいもんだろうか」
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「酒飮む者な、さうだに惜しいもんだんべか」
おつぎはこっそり言った。
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おつぎはこつそりいつた。
「そんだって、お酒っていうのは人の口へ入るようにできてるんだから。それ、証こにはおれの口へ入りゃすぐ効くから見ろよ」
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「そんだつて酒つちや人の口さ入える樣に出來てんだから、それ證據にや俺らが口さ入えりやすぐ利くから見ろえ」
兼博労は言った。
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兼博勞はいつた。
亭主はまた、苗たばへ香煎を少しふりかけた。
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亭主は又苗束へ香煎を少し振り掛けた。
それは稲の花に見立てたもので、稲の花がいっぱいに開くようにという縁起だった。
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それは稻の花に模擬つたので、稻の花が一杯に開く樣との縁起であつた。
兼博労はそれを見て、急に土間へ下りて行った。
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兼博勞は其れを見て急に土間へ下りて行つた。
「どれ、お前ら、うどん粉をちょっと持って来てみな。ひとつまみでいいんだ。おおい、持って来いな。おつぎでもいいや、よう」
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「どうれ、おめえ等饂飩粉少と持つて來て見せえ、一ツ爪尻でえゝんだ、おゝえ持つて來うな、おつぎでもえゝや、よう」
と兼博労はせかした。
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と兼博勞は促した。
「どうしたもんだ、大いばりして」
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「どうしたもんだ、大威張して」
おつぎはつぶやきながら、家の女房に聞いて小麦粉をひとつまみ出してやった。
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おつぎは呟きながら内の女房に聞いて小麥粉を一捉み出して遣つた。
「そうら、これをかけて。これがおくてのいねの花だ」
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「さうら此れ掛けて、此れが晩稻の花だ」
兼博労は手にした小麦粉を、すっかりかけてしまった。
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兼博勞は手にした小麥粉を悉く掛けて畢つた。
苗たばは少し白くなった。
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苗束は少し白く成つた。
「どこにもそんなふうにかける者はあるまいな」
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「何處にもさういに掛けるもな有んめえな」
女の人の一人が見ていて言った。
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女房の一人が見て居ていつた。
「おれはおくてのいねを作るんだから。役場の奴らが作っちゃならないなんて言ったって、おれのみたいな、うっかりすると胸のあたりまで入るような深い田の冷える所じゃ、どうしたっておくてでなくちゃ穫れるもんじゃないな。それからおれは、役場で役人が講しゃくするから、深い田じゃこうだと話したら、はっきり悪いとは言わないんだから。それからおれは、こやしをつかんで見ない奴じゃだめだというんだ」
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「俺ら晩稻作んだから、役場の奴等作つちやなんねえなんちつたつて、俺ら見てえな、うつかりすつと乳ツ岸までへえるやうな深ん坊の冷えつ處ぢやどうしたつて晩稻でなくつちや穫れるもんぢやねえな、それから俺れ役場で役人が講釋すつから深ん坊ぢや斯うだつち噺したら、はつきり惡りいたあ云はねえんだから、夫から俺れ糞攫んで見ねえ奴ぢや駄目だつちんだ」
彼は笑いながら独りしゃべった。
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彼は笑ひながら獨り饒舌つた。
「根性がねじれてるからだあ、おくてのいねは作るなというのに」
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「根性捩れてつからだあ、晩稻は作んなつちのに」
女の人の一人がまた言った。
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女房の一人が又いつた。
「おれか。いやどうも、ねじれてるにも何にも」
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「俺れか、いやどうも捩れてんにもなんにも」
兼博労は言って
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兼博勞はいつて
「そうれ見ろよ、いねへ白い花がさいたぞ。白ぼうずの花だ、こりゃ」
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「そうれ見ろえ、稻へ白え花が咲えたぞ、白坊主の花だこりや」
彼は手についた粉をよくはたいた。
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彼は手に附いた粉を能く叩いた。
「いやだよ、白ぼうずっていういねはあるまいな」
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「厭だよ、白坊主ツち稻はあんめえな」
女の人がまた言った。
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女房が又いつた。
「そんでも、おれは勘次さんに聞いたぞ」
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「そんでも俺ら勘次さんに聞いたぞ」
彼は少し首をすくめながら、声を低めて言った。
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彼は少し首をすくめながら聲を低めていつた。
たもとで口をおさえて、女の人たちは笑いをこらえた。
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袂で口を抑へて女房等は笑を殺した。
兼博労はわざと笑いをのんで、また板の間にあぐらをかいた。
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兼博勞は態と笑を嚥んで再び板の間に胡坐を掻いた。
勘次は小さいころから見下されて、よく泣かされた。
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勘次は小さな時分から侮られて能く泣かされた。
彼はおそろしい泣き虫だった。
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彼は恐ろしい泣蟲であつた。
彼はいつのまにか、「かんなべ」というあだ名をつけられた。
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彼は何時の間にか燗鍋といふ綽名を附けられた。
彼は心の中でどれほどそれをいやがったか知れない。
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彼は心に幾ら其れを嫌つたか知れない。
三十をこえて四十になっても、彼は「なべ」というのがひどくいやだった。
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卅越えて四十に成つても彼は鍋といふのが酷く厭であつた。
村ではそれを知らない者はない。
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村落ではそれを知らぬ者はない。
あるとき、いたずら好きな兼博労が、勘次が刈っている稲を、これは何だいと聞いた。
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或時惡戯好な兼博勞が勘次の刈て居る稻を、此は何だえと聞いた。
わざと聞いたのだった。
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態と聞いたのであつた。
それは「なべ割れ」とも、それからのぎが白いので「白のぎ」とも言うのだったが、勘次は
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其れは鍋割れとも、それから芒が白いので白芒とも云ふのであつたが勘次は
「これは白ぼうず」
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「此は白坊主」
とそっけなく言った。
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とそつけなくいつた。
彼は「なべ」というのがいやで、そう言ったのである。
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彼は鍋といふのが厭でさういつたのである。
兼博労は、うまいことをつかまえたように得意になって、村じゅうに言いふらした。
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兼博勞はうまく或物を攫へた樣に得意に成つて村落中へ響かせた。
口の悪い百姓たちは、勘次がおつぎを連れて田へ出ているのを見て
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口の惡い百姓等は勘次がおつぎを連れて田へ出て居るのを見て
「白ぼうずら、夫婦でたがやしてら」
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「白坊主等夫婦して耕つてら」
などと言い放つことさえあるのだった。
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抔と放言することすらあるのであつた。
茶わんには一ぱいずつお酒が注がれた。
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茶碗には一杯づつ酒が注がれた。
みんなはおとなしく茶わんを口に当てた。
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一同はしをらしく茶碗を口に當てた。
「こんな物でよけりゃ、たくさんやっておくんなせえ。まだ後にもありますから」
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「恁んな物でよけりや、夥多やつておくんなせえ、まあだ後にも有りやんすから」
家の女房は、塩で煮たかと思うような白っぽいじゃがいもの大きなさらをおぜんに乗せて、二か所へ置いた。
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内の女房は鹽で煮たかと思ふ樣な白つぽい馬鈴薯の大きな皿を膳へ乘せて二處へ置いた。
たちまち一ぱいを飲み干して、注ぎ合いが始まった。
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忽ち一杯を干して獻酬が始まつた。
注がれる者は茶わんの手を上げて、相手が持つ徳利の口に手をかけて、お酒がこぼれるのをふせいだ。
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注がれるものは茶碗の手を擧げて相手が持てる徳利の口へ手を掛けて酒の滾れるのを防いだ。
お酒が始まってから、みんなが妙にもったいぶってすわり方を直した。
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酒が始まつてから皆が妙に鹿爪らしく居ずまひを改めた。
「さあ、どうかずんずん飲んでおくんなせえね」
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「さあ、何卒ずん/\干しておくんなせえね」
亭主はすすめた。
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亭主は促した。
「はい」
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「はい」
あいさつがまた口々に出た。
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挨拶が又口々に出た。
このごろは高いお酒はなかなか席に出されなくなっていたので、他人が買ったのでもみんな遠りょするようになっていた。
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此の頃では不廉な酒は容易に席上へは運ばれなく成つて居たので隨つて他人の買つたのでも皆控へ目にする樣に成つて居た。
南の家では養蚕の結果がよかったのと、少しばかりあまった桑が思いがけない高値で売れたのとで、一円ばかりのお酒を思い切って買ったのだった。
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南では養蠶の結果が好かつたのと少しばかり餘つた桑が意外な相場で飛んだのとで、一圓ばかりの酒を奮發したのであつた。
その晩の料理に使うしょうゆが要るので、両方をかねて亭主は昼休みの時こくにてんびん棒をかついで鬼怒川をわたった。
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其の晩の料理に使ふ醤油が要るので兩方を兼ねて亭主は晝餐休みの時刻に天秤擔いで鬼怒川を渡つた。
村の店では買わずに直接酒蔵へ行ったので、お酒は白鳥徳利の肩までとどいていた。
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村落の店では買はずに直接酒藏へ行つたので酒は白鳥徳利の肩まで屆いて居た。
めいめいのふだんかわいた口にはお酒はとてもうまく感じるとともに、そのしびれさせる力にたえる力が弱っているので、徳利が一本ずつ空になって次の徳利に手がかかったと思うころ、板の間ではみんなのつつしみが乱れて元気が出た。
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各自の平生渇して居る口には酒は非常に佳味く感ずると共に、其の痲痺する力に對する抵抗力が衰へて居るので徳利が一本づつ倒されて次の徳利に手が掛つたと思ふ頃板の間では一同のたしなみが亂れて威勢が出た。
「お前、そんなに自分の所ばかり置かないで飲めな」
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「おめえ、さういに自分の處えばかし置かねえで干せな」
と、弱い者の所へ杯を集めて、困るのを見ようとさえするようになった。
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と弱い者の處へ杯を聚めて困るのを見ようとさへする樣に成つた。
勘次は独りそばの徳利を引きよせて何ばいもかたむけて、他人より先に横顔のすじがふくらんでいた。
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勘次は獨り側なる徳利を引きつけて幾抔か傾けて他人よりも先に小鬢の筋が膨れて居た。
「おれは、かんなを持たない大工だ。のみ一方というんだから」
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「俺ら、鉋の持たねえ大工だ、鑿一方つちんだから」
と言って、勘次は相手もいないのにわざとらしい笑い方をして、女の人たちのいるほうを見た。
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といつて勘次は相手もないのに態とらしい笑ひやうをして女房等の居る方を見た。
彼はうなだれそうになる首を起こして、何度も見ることをくり返した。
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彼は俛れ相に成る首を起して數々見ることを反覆した。
おつぎは後ろのほうへかくれていた。
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おつぎは後の方へ隱れて居た。
勘次ははしを一本持って、あぶない物にでもさわるようにひらわんのじゃがいもをその先へさしては、いっぱいに口を開いてほおばった。
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勘次は箸を一本持つて危險い物にでも觸るやうに平椀の馬鈴薯を其先へ刺しては一杯に口を開いて頬張つた。
ひらわんにはごぼうとじゃがいもが山盛りにされて、油あげが一まい乗せてある。
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平椀には牛蒡と馬鈴薯とが堆く盛られて油揚が一枚載せてある。
「ばかに大きくなったっけな、このじゃがいもはなあ」
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「箆棒に大かく成つたつけな、此の馬鈴薯はなあ」
一人が言った。
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一人がいつた。
「これでも桑のあいだへ作ったんだが、思ったよりよくできたのさ」
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「此んでも桑の間さ作つたんだが、思ひの外だつけのさ」
亭主は自まんらしく、それでもわざと声を落として言った。
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亭主は自慢らしくそれでも態と聲を落していつた。
「桑のあいだでこんなにできるかな。そりゃそうと、どこへ作ったんだいまあ」
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「桑の間でかう出來つかな、そりやさうと何處さ作つたんでえまあ」
「裏のかきねの外さ。土はかたくて赤っぽいが、はきだめをみっしりほりこんでおいた所だから、それが効いたと見えるのさ。思ったより土地は選ばないもんだよ。こんなもんでも作っちゃ桑には悪かろうが」
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「裏の垣根外さ、土はかたで赤つぽうろくだが、掃溜みつしら掘つ込んで置いた處だから、其れが出たと見えんのさ、思ひの外土地は嫌あねえもんだよ、此んなもんでも作つちや桑にや惡かんべが」
「大丈夫だとも。じゃがいもが大きくなるようじゃ、その肥料は桑も吸うから。いや、桑の根っこが遠くまでのびるんじゃおどろいたもんだから。目もありもしないのに、肥料のほうへ真っ直ぐにずうっと来るからな」
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「大丈夫だとも、馬鈴薯が大かく成る樣ぢや其肥料は桑も吸ふから、いや桑の根つ子の遠くへ踏ん出すんぢや魂消たもんだから、目も有りもしねえのに肥料の方へ眞直にずうつと來つかんな」
「これでどのくらいできるものだと思ったら、一株で一しょうくらいずつも掘れるよ」
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「此れでどの位殖えるものだと思つたら一ツ株で一升位づゝも起せるよ」
亭主が言えば
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亭主がいへば
「うん、そうかな。そうするとわりのいいもんだな」
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「うむ、さうかな、さうすつと割の善えもんだな」
めいめいそう言っていると
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各自にさういつて居ると
「よくごぼうはもたせたっけな」
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「能く牛蒡は保たせたつけな」
と言う者があった。
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といふものがあつた。
「なあに、ふみ固める所へうめさえしておけば大丈夫なものさ。おれの家じゃ田植えまでもつように、庭へうめておくのよ」
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「なあに、踏ん固める處へ活けてせえ置けば大丈夫なものさ、俺ら家や田植迄は有るやうに庭へ埋めて置くのよ」
亭主は自分もわんのごぼうをはさんで言った。
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亭主は自分も椀の牛蒡を挾んでいつた。
「そうだが、おれの家なんぞじゃ、それまでにはなくなっちまうから、一度もそんなふうにうめておいたことはないな」
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「さうだが、俺ら家なんぞぢや、それまでにや無く成つちまあから一度でもさういに活けて置いたことあねえな」
と一人が言えば
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と一人がいへば
「おれなんざ、はらにしまっておくから、ぬすまれっこなしだ」
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「俺らなんざ、腹さ藏つて置くから盜られつこなしだ」
兼博労は口を出した。
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兼博勞は口を出した。
「ごぼうもうっかりして縄でしばってうめちゃ、そこからくさりが入ってひどいもんだな。藁はよっぽどきらいだと見えるのさな」
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「牛蒡もうつかりして繩で縛つて活けちや、其處から腐れがへえつて酷えもんだな、藁は餘つ程嫌えだと見えんのさな」
勘次は横から言った。
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勘次は横合からいつた。
「どうしたかよ」
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「どうしたかよ」
うたがう声が上がった。
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疑ひの聲が發せられた。
「どうしたかなもんじゃない。おれの家でやったことがあるんだもの」
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「どうしたかなもんぢやねえ、俺ら家で行つたこと有んだもの」
彼は相手におされたように声を低めて
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彼は相手に壓せられた樣に聲を低めて
「なあ、おつう、そうだな」
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「なあおつう、さうだな」
と、体を横に向けて言った。
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と身體を横に向けていつた。
板の間と土間とのさかいに立っている柱のかげに、ランプの光から身をかくすようにしてみんなの注ぎ合いを見ていた女の人の手が、急におつぎのしりをつついて
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板の間と土間との界に立つて居る柱の陰にランプの光から身を避けるやうにして一座の獻酬を見て居た女房等の手が俄におつぎの臀をつゝいて
「おつうと、それ、返事するもんだ」
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「おつうとそれ、返辭するもんだ」
と小声で言って、かすかに笑った。
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小聲でいつて微に笑つた。
勘次はふしぎそうなようすをして、柱のかげをじっと見て目をしかめた。
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勘次は怪訝な容子をして柱の陰を凝然と見て目を蹙めた。
「おつぎはいるよ、お前、そんなに見なくても」
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「おつぎは居るよおめえ、さういに見ねえでも」
柱のかげから言って、ささやいた。
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柱の陰からいつて私語いた。
勘次は板の間のはしの近くにいたのだが、おぜんをこえて体をぐっと前へのばしては、徳利を動かして空になったのは女の人たちへわたして、どことなく気をつかうようにそわそわとしている。
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勘次は板の間の端に近く居たのであるが膳を越えて身體をぐつと前へ延ばしては徳利を動かして空に成つたのは女房等へ渡して何處となしに心を配る樣にそわ/\として居る。
「はてな、ふところへ入れたはずだったが」
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「はてな、懷え入えた筈だつけが」
と兼博労はふところからまわりをさがして、そばへ落ちた小さな紙包みを手にして
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と兼博勞は懷から周圍を探して側へ落ちた小さな紙包を手にして
「こら、うまい物を見ろよまあ」
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「こうれ、うめえ物見ろえまあ」
と言って開けてみると、三センチばかりのかまきりがかまを持ち上げて、ちょろちょろと歩き出した。
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といつて開けて見ると一寸ばかりの蟷螂が斧を擡げてちよろちよろと歩き出した。
「へへえ、この畜生め、これでも怒ってらあ」
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「へゝえ、此ん畜生奴こんでも怒つてらあ」
兼博労はちょいとかまきりをつついてみて、独り面白がって笑った。
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兼博勞はちよいと蟷螂をつゝいて見て獨り興がつて笑つた。
「どうしたもんだろう、いい大人が」
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「どうしたもんだんべ大けえ姿して」
と、女の人たちはみな笑った。
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と女房は皆笑つた。
「あれ、おれは知ってら」
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「あれ俺ら知つてら」
おつぎのそばにいた与吉は、兼博労のそばへ行って
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おつぎの傍に居た與吉は兼博勞の側へ行つて
「からすのたまごから出るんだぞ、これは」
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「鴉のきんたまから出んだぞこら」
と言った。
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といつた。
「お前らは知りもしないで」
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「汝ツ等知りもしねえで」
勘次は与吉を甘やかすようにして言った。
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勘次は與吉を甘やかす樣にしていつた。
「そんだって、おれは見た。笹の葉のえだにくっついてた所から出たんだ」
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「そんだつて俺ら見た、笹つ葉の枝にくつゝいてた處から出たんだ」
与吉はかまきりをいじりながら言った。
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與吉は蟷螂を弄りながらいつた。
「勘次さん、だめだよ。学校へやっちゃ半年とは言えないから。下手をすると今の子どもらには、やりこめられちまうから。おとっつあん、これを知ってるかなんて言われたって、困るなあ、どうもなあ」
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「勘次さん駄目だよ、學校へ遣つちや半年たあ云はんねえから、下手んすつと今の子奴等にや遣り込められつちやからおとつゝあ此れ知つてつかなんちあれたつて、困らなどうもなあ」
そばから言ったので、勘次はさすがににっこりとした。
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側からいつたので勘次は有繋に嫣然とした。
白鳥徳利の口が底より低くなったとき、みんなのあいだで馬の話が出た。
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白鳥徳利の口が底よりも低く成つた時一座の間には馬の噺が出た。
馬という奴はあの体で、お酒の二はいも口へ入れてやるとたちまちとろんとして、あばれ馬でも静かになる、博労はむかしはそうして悪い馬を売りつけたものである。
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馬といふ奴はあの身體で酒の二杯も口へ入てやると忽ちにどろんとして駻馬でも靜に成る、博勞は以前はさうして惡い馬を嵌め込んだものである。
今でもそんなことで油断はならない、村が貧しくなったから荷車ばかり増えて馬がへってしまったが、荷車の検査に行ってみておどろいたなどということや、朝鮮の牛がだいぶ入って来たが、犬ころのような体でわりと安いからどうしたものだかなどということが、きりもなくがやがやと大声でどなり合われた。
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現在でもそんなことで油斷は成らぬ、村落が貧乏したから荷車ばかり殖えて馬が減つて畢つたが荷車の檢査に行つて見て驚いた抔といふことや、朝鮮牛が大分輸入されたが狗ころの樣な身體で割合に不廉いからどうしたものだか抔といふことが際限もなくがや/\と大聲で呶鳴り合うた。
「博労なんていう奴らは、泥棒根性がなくちゃできない商売だな。嘘っぱちばかり言って、兼らお前は、おれのことさえだますつもりしやがって」
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「博勞なんちい奴等は泥棒根性無くつちや出來ね商賣だな、嘘らつぽう打んぬいて、兼等汝りや、俺れことせえおつ嵌める積しやがつて」
兼博労の向かい側から冗談らしい調子で言うと
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兼博勞の向側から戯談らしい調子でいふと
「ばかを言え、だますもんじゃない。それ、いやならお金を出せよ、お金。なあ、お金を出さないつもりでいるのが泥棒よりふてぶてしいんだな。西のおとっつあんらはためらってばかりだから、だめで」
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「箆棒、おつ嵌めんなもんぢやねえ、それ厭だら錢出せよ錢、なあ、錢出さねえ積すんのが泥棒より太えんだな、西のおとつゝあ等躊躇逡巡だから、かたで」
「そんだから見ろよ、博労で蔵を建てた奴はありゃしない。ばちが当たってるから」
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「そんだから見ろえ、博勞で藏建てた奴あ有りやしねえ、罰たかつてつから」
「どうした、そんだがこの間の白い馬はよかっただろう。あれと交かんしろな。ああ西のおとっつあん、白じゃ軍に取られないぞ」
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「どうした、そんだが此間の白は善かつたんべ、彼れさ打てな、あゝ西のおとつゝあ、白ぢや徴發はさんねえぞ」
「いいから、それよりか、そんなにけちなことを言わないで、なあ、米一俵で交かんしようじゃないか」
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「えゝから、それよりか、そんなに不廉えこと云はねえで、なあ、米一俵打つべえぢやねえか」
「むだだよ、それじゃ。何でも六銭のござを乗せて引いて来たんだぞ。血統書まであるんだぞ。ああ、その手はないぞ」
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「徒勞だよそんぢや、あんでも六錢の横薦乘つけて曳いて來たんだぞ、血統證まで有んぞ、あゝ、彼の手はねえぞ」
「何だいお前がまた、父馬と母馬だけの血統書だろう。そんなものは何になるもんじゃない。おれが知らないと思って。おれは白河の市で聞いてらあ」
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「何んでえ汝がまた、牡馬と牝馬だけの血統證だんべ、そんなもの何に成るもんぢやねえ、俺れ知らねえと思つて、俺ら白河の市で聞いてらあ」
「博労がうまく話をまとめられないようだな。ようし、そんじゃおれが一つ交かんしてやろう」
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「博勞うまく練れねえ樣だな、ようしそんぢや俺れ一つ打つてやんべ」
二人が冗談まじりにはげしく悪口を言っていると、ふとそばからこう言った。
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二人が戯談交りに劇しく惡口を云つて居るとふと側から凭ういつた。
「そんじゃ、それを飲めな。兼さんもそれ」
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「そんぢや、それ干せな、兼さんもそれ」
彼は二人の茶わんを自分の手で取りかえて、それを両方へわたしてお酒を注いだ。
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彼は二人の茶碗を自分の手で交換させて、それを兩方へ渡して酒を注いだ。
「どうだい、博労がうまく交かんできただろう。どっちもえこひいきなしという所だ」
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「どうだえ、博勞うまく打てたんべ、どつちも依怙贔負なしつち處だ」
相手は得意になって言った。
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相手は得意に成つて云つた。
「こっちのおとっつあん、いくつだったっけな。ちょっと白くなったな」
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「こつちのおとつゝあ、幾つだつけな、少つと白く成つたな」
とつぜん一人がどなった。
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突然一人が呶鳴つた。
「そうよな」
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「さうよな」
亭主は髪に手を当てて言ったとき
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亭主は頭髮に手を當てゝいつた時
「お前、おれの家のおとっつあんもどうしてかひどく白くなったんだが、これで年はそんなに取っちゃいないんだぞ」
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「おめえ、俺ら家のおとつゝあもどうしてか酷く白く成つたんだが、斯んで年齡はさういにとつちや居ねえんだぞ」
そこへ小さな子をだいてすわった家の女房が、ほほえみながら言った。
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其處へ小さな子を抱いて坐つた内の女房が微笑しながらいつた。
「おれと同い年だよ」
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「俺れと同年齡だよ」
独りぼっちになっていた勘次は、横から口をはさんだ。
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獨りぼつちに成つて居た勘次は横から口を挾んだ。
「どうだかよ」
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「どうだかよ」
「なあに、どうだかなもんじゃない」
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「なあに、どうだかなもんぢやねえ」
勘次は口をとがらせて言った。
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勘次は口を角のやうにしていつた。
「本当にそうなんだよ、お前」
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「本當にさうなんだよおめえ」
女房はそばから言った。
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女房は側からいつた。
「そんじゃ勘次さん、お前いくつだい」
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「そんぢや勘次さんおめえ幾つでえ」
相手は乗り気になって聞いた。
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相手は乘地になつて聞いた。
「そうよ、おれはこっちのおとっつあんと同い年だったっけな」
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「さうよ、俺らこつちのおとつゝあと同年齡だつけな」
彼は自分で思いついたのではなくて、どこかで聞いた覚えをそのままくり返して、そして冗談を言ってみた。
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彼は自身の創意ではなくて何處かで聞いた記憶を其の儘反覆してさうして戯談を敢てした。
「ええ、ばかな」
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「えゝ箆棒な」
と相手は言ってしまった。
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と相手はいつて畢つた。
家の女房は両方の髪をつくづくと見て
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内の女房は兩方の頭髮を熟と見て
「そんだが勘次さんは本当に若いな。おれの家のおとっつあんらとは、たいしたちがいだな」
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「そんだが勘次さんは本當に若けえな。俺ら家のおとつゝあ等たあ、たえした違えだな」
と言った。
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といつた。
「勘次さんらはまだ十七だな」
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「勘次さん等まあだ十七だな」
兼博労はすぐ後につづけて言った。
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兼博勞は直に後を跟いていつた。
女の人たちはまた、こっそりたもとで口をおおった。
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女房等は復た竊に袂で口を掩うた。
兼博労がふり返ったとき、女の人たちは割ったたいまつの先をつっこんでは、香煎を口にふくんで苦労してなめていたのだった。
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兼博勞が顧みた時女房等は割つた燭奴の先を突つ掛けては香煎を口へ含んで面倒に嘗めて居たのであつた。
「香煎をなめるときは、笑っちゃいけないと言ったっけぞ、お前ら」
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「香煎嘗めんのにや、笑つちやいかねえつちけぞ、おめえ等」
兼博労は言った。
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兼博勞はいつた。
さっきから笑うくせのついていた女の人たちは、いっぺんにぷっとふき出して、粉がそこらに散った。
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先刻から笑ふ癖のついてた女房等は一時にぷつと吹出して粉が其處らに散つた。
かわいている粉のためにむせて、女の人たちはしきりにせきをした。
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乾燥して居る粉の爲に咽せて女房等は頻りに咳をした。
彼女たちはかけ下りて手おけの水をがぶりと飲んで、やっと胸を落ち着けた。
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彼等は驅けおりて手桶の水をがぶりと飮んで漸く胸を落附けた。
「ああ、ひどい目にあった。粉が鼻のほうへ入って、鼻がつんつんして仕方がありゃしないや。本当に兼さんは人が悪いや。なんぼにくらしいか知れやしない。そこらにたきぎの棒でもあれば、ぶっとばしてやりたいようだ」
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「おゝ、酷え目に逢つた。粉鼻の方さへえつて鼻つん/\して仕やうありやしねえや、本當に兼さんは人が惡りいや、なんぼ憎らしいか知れやしねえ、其處らに薪雜棒でも有れば打つ飛ばして遣りてえ樣だ」
なみだの目をふいて、うらめしそうに女の人たちは言うのだった。
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涙の目を拭つて恨めしげに女房等は云ふのであつた。
「そんだから、おれは笑っちゃいけないと言ったんだな。それを聞かないから」
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「そんだから俺れ、笑つちやえかねえつて云つたんだな、それ聽かねえから」
兼博労はわざと平気な顔で言った。こうしてがみがみ言う声が入りまじったとき
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兼博勞は態と平然として云つた、恁うしてがみ/\いふ聲が錯雜つた時
「博労さんが一つやっつけるかな」
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「博勞さん一つやつゝけつかな」
兼博労がひと声ことに大きくどなったと思ったら、茶わんのお酒を一口にぐっと飲み干して、両手に茶わんを伏せて、板の間にぱかぱかぱかぱかとひづめの音をまねてひょうしを取りながら
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兼博勞は一聲殊に大きく呶鳴つたと思つたら茶碗の酒を一口にぐつと干して兩手に茶碗を伏せて、板の間にぱか/\ぱか/\と蹄に傚うて拍子取つた響を立てながら
「三春から白河のほうへ、これでもござを乗せたのをつないで引いて来る所だからな。よく聞いてみな。この手には行かないぞ」
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「三春から白河の方へこんでも横薦乘つけたの繋いで曳いて來つ處らえゝかんな、能く聞いて見せえ、此の手にや行かねえぞ」
彼はその自まんの後から
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彼は其の自慢の下から
「どうどうどうよ、ほうい、ほいとう」
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「どう/\どうよ、ほうい、ほいとう」
と、馬へのかけ声をもっともらしくやった。
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と馬への掛聲を尤もらしくした。
茶わんのひょうしにつれて、みんなはぴったり静かになった。
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茶碗の拍子に連れて一同はぴつたり靜かに成つた。
「はあええええ」
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「はあえゝえゝえゝ」
と、ぼうっと太い声で歌い出して
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とぼうと太い聲で唄ひ出して
「かれしばあにいいいいええ、はあえ、止まるうえ、ちょうちょうのおおおおえ、はあ、ありゃ気があああああえ、え、はあ知れえぬうよおうう」
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「枯芝あえにいゝゝゝゝえゝ、はあえ、止るうえ、てふ/\のおゝゝゝゝえ、はあ、ありや氣があゝゝゝゝえ、え、はあ知れえゝぬうよおうゝゝ」
と、彼は目をつぶって少し上向きに首をかたむけて、ありったけの声をしぼって、とてもゆっくりと、そして次の句を
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と彼は眼を瞑つて少し上向に首を傾けて一杯の聲を絞つて極めて悠長にさうして句の續きを
「ええそばにええ、なたねえのおおおおえ、ええ花があえ、あああえるううううええ、ほういほい」
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「えゝ傍にえゝ、菜種えのおゝゝゝゝえ、えゝ花があえ、あゝえるうゝゝゝゝえゝ、ほういほい」
と歌い終わったとき、顔がことさらに赤くなって、汗がつりランプに光って見えた。
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と唄ひ畢つた時顏が殊更に赤く成つて汗が吊るしランプに光つて見えた。
彼は手でぐるりとふいた。
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彼は手でぐるりと拭つた。
「ばかにのんびりした歌だな。この夜の短いのに、ねむたくなっちまうな」
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「箆棒に迂遠つけえ唄だな、此の夜の短けえのに眠つたく成つちやあな」
そばから悪口を言った。
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側から惡口を吐いた。
「いいから、西のおとっつあん、耳あかをほじくって聞いてろよ」
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「えゝから西のおとつゝあ、耳糞ほじくつて聞いてろえ」
兼博労は言って
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兼博勞はいつて
「はあええええ、ええ朝のううええ、はあ出掛えにいいいいええ」
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「はあえゝえゝ、えゝ朝のうゝゝえゝえ、はあ出掛えにいゝゝゝゝえ」
と、また歌い出した。
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と又唄ひ出した。
「朝の出がけにどの山見ても、雲のかからぬ山はない」
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「朝の出掛にどの山見ても雲の掛らぬ山はない」
と歌って、茶わんを動かしては
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と唄つて茶碗を動かしては
「ぱかぱかぱかぱかとなあ、こう。二十三坂をこえて引く所だぜ。畜生、あばれるなよ」
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「ぱか/\ぱか/\となあ斯う、廿三坂越えて引く處だぜ、畜生あばさけんなえ」
と、彼はさらに
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と彼は更に
「ひいいん」
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「ひゝいん」
と馬の鳴き声をまねて、それから
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と馬の啼き聲をしてそれから
「二十三坂か。白河のこっちだ。しまいの坂がとんでもなく長くてな」
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「廿三坂か、白河のこつちだ、畢の坂が箆棒に長くつてな」
と言って、また
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といつて又
「はあええええ」
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「はあえゝえゝえゝ」
と、いかにも気が乗ったように
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と左も氣の乘つたらしく
「奥の博労さん、どこで夜が明けた、二十三坂七つ目で」
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「奧の博勞さん何處で夜が明けた、廿三坂七つ目で」
と楽しそうな声で歌った。
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と愉快な聲で唄つた。
「夜引きをするときには、人間もねむたくなりゃ馬もねむたくなってな。石の坂だから畜生らがくたりくたりともう、なんぼにも歩かないな。そのときには、おうい一つどうだねやっつけちまおうというところでなあ。博労らがぞろぞろつながって来るんだから、峰のほうでも谷底のほうでも一度に大変だあ。そうすると馬っこらがひいんなんてあばれて、ぱかぱかぱかぱかと、こう足の運びがちがって来らあな。みなお母さんにばかりくっついてたのを引きはなして来るんだから、足がそろわないな、どうしても。それに坂が急だというと、さかさの旋毛を立てるようだから、畜生はなんぼにも足が出ないな。そいつに合わせて歌うんだから、ゆっくり行かなくちゃならないな」
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「夜引すつ時にや人間も眠つたく成りや馬も眠つたく成つてな、石坂だから畜生等がくたり/\はあ、なんぼにも歩かねえな、そん時にや、おうい一つどうだね遣つゝけちやあと許でなあ、博勞等ぞろ/\繼つて來んだから、峯の方でも谷底の方でも一度に大變だあ、さうすつと駒つ子奴等ひゝんなんてあばさけてぱか/\ぱか/\と斯う運びが違つて來らな、皆おつかげばかし喰つ附いてたの引つ放して來んだから足が不揃ひだなどうしても、それに坂が急だつちと倒旋毛おつ立てる樣だから畜生なんぼにも足が出ねえな、其奴へ合せて唄あんだからゆつくり行んなくつちやなんねえな」
兼博労は帯を解いてはだかになって、着物を後ろへ投げた。
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兼博勞は帶を解いて裸に成つて衣物を後へ投た。
帯は一重で、左の腰骨の所でだらりと結んであった。
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帶は一重で左の腰骨の處でだらりと結んであつた。
両方のはしが赤い布でふちどってある。
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兩方の端が赤い切で縁をとつてある。
あらいたてじまの染め抜きで、それは馬のかざりのはち巻きに使う布だった。
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粗い棒縞の染拔でそれは馬の飾りの鉢卷に用ひる布片であつた。
「ここらの馬だって見ろよ。博労節を門先でやったっくらい、うまやの中で畜生は体をゆさぶって大さわぎだな」
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「此處らの馬だつて見ろえ、博勞節門ツ先でやつたつ位厩ん中で畜生身體ゆさぶつて大騷ぎだな」
彼は独りで酒の席をにぎわした。
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彼は獨りで酒席を賑した。
彼はそうして、土のような汗とほこりでよごれた手ぬぐいで、首すじから体じゅうをふいた。
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彼はさうして土のやうな汗と埃とで染まつた手拭で首筋から身體一杯に拭つた。
それから
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それから
「ああかゆい」
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「おゝ痒い」
と、ぴしゃりと手で蚊をたたいた。
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とぴしやり手で蚊を叩いた。
彼の歌につれて、めいめいがさらに歌った。
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彼の唄に連て各自が更に唄つた。
みなはしで茶わんをたたいてひょうしを合わせた。
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皆箸で茶碗を叩いて拍子を合せた。
そういうさわぎになってから、お酒はへらなかった。
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さういふ騷ぎに成つてから酒は減らなかつた。
勘次は独りで歌うこともなく、絶えず何かをさがすような目で土間のあたりをきょろきょろと見ていたが
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勘次は獨りで唄ふこともなく絶えず何物かを探すやうな目で土間のあたりをきよろ/\と見て居たが
「おつう」
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「おつう」
ととつぜん呼んだ。
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と唐突に喚んだ。
彼は勢いよく呼んでみて、自分でひょうしぬけしたようにしていたが
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彼は勢ひよく喚んで見て自分で拍子拔した樣にして居たが
「これへじゃがいもでもくれないか」
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「此れさ馬鈴薯でもくんねえか」
と、わんをずうっと出した。
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と椀をづうつと出した。
「どうしたもんだ、おとっつあんは。ひらわんのおかわりをする者もあるまいな。じゃがいもは前にいくらでもあるのに」
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「どうしたもんだおとつゝあは、お平の盛換えするもな有んめえな、馬鈴薯は前に幾らでも有んのに」
おつぎはさらにたしなめるように
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おつぎは更に窘めるやうに
「おとっつあんは酔ったって、そんなに取り乱さなけりゃよかろうな」
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「おとつゝあは酩酊つたつてそんなに顛倒なけりやよかつぺなあ」
と独りつぶやいた。
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と獨り呟いた。
「言ってみたのよ」
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「云つて見たのよ」
勘次はわざと笑って、わんをおぜんへ置いた。
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勘次は態と笑つて椀を膳へ置いた。
「おかみさんらもこっちへ来いな、一ぱいやれな」
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「おつか樣等もこつちへ來うな、一杯やれな」
彼はさらに、板の間のすみのほうにいる女の人たちに言った。
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彼は更に板の間の隅の方に居る女房等にいつた。
「ほんに、仲間入りしたらよかろう」
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「ほんに仲間入したらよかつぺ」
家の女房も言った。
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内の女房もいつた。
若い女の人たちは仲間には入らなかった。
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若い女房等は仲間には成らなかつた。
そしてただ笑っていた。
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さうして唯笑つて居た。
歌いさわぐ声にみんなが心をうばわれていると
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唄ひ騷ぐ聲に凡てが心を奪られて居ると
「お前はうめをかじったんだろう。学校の先生に姉ちゃんが言いつけてやるから。おなかが痛くたってがまんしてるもんだ」
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「汝りや梅噛つたんべ、學校の先生げ姊訴けてやつから、腹痛くつたつて我慢してるもんだ」
おつぎはねむい目をこすりながらしくしく泣いている与吉を横にして、背中をたたいてはさすりながら言った。
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おつぎは眠い眼をこすりながらしく/\泣いて居る與吉を横にして背中を叩いては撫りながらいつた。
「どうしたんだ、おなかが痛いのか。毒消しでも飲ませてみるか。おれももう、うめだのすももだのが熟しちゃひやひやするんだよ。出て行くんだから、言ったって聞かないしなあ」
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「どうしたんだあ、腹痛えのか毒消しでも呑ませて見つか、俺らもはあ、梅だの李だの成熟ちやびや/\すんだよ、出て行んだから云つたつて聽かねえしなあ」
家の女房は、すやすやとねむったひざの子の蚊を追いながら言った。
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内の女房はすや/\と眠つた膝の子の蚊を追ひながらいつた。
「お前はうめなんぞかじって。おとっつあんがおなかをえぐり抜いてやるから待ってろ」
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「汝れ梅なんぞ噛じつて、おとつゝあ腹抉り拔いてやつから待つてろ」
勘次は、とっくにもつれていた舌で言った。
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勘次は疾から澁つて居た舌でいつた。
「そんなこと言わなくたって、泣いてるのに何だろうな、おとっつあん」
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「そんなこと云はねえつたつて泣いてんのに何だつぺな、おとつゝあ」
おつぎは勘次をしかった。
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おつぎは勘次を叱つた。
勘次は口をつぐんで、はしの先へじゃがいもをさした。
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勘次は口を嵌んで箸の先へ馬鈴薯を刺した。
与吉はまぶたがゆるんで、いつのまにか軽いいびきをかいた。
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與吉は瞼が弛んでいつか輕い鼾を掻いた。
「さあ、ごはんだよ」
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「さあ、お飯だえ」
歌もさわぎも止んで、みんなの口から急にさいそくが出た。
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唄も騷ぎも止んで一同の口から俄に催促が出た。
女の人たちはみんなで給仕をした。
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女房等は皆で給仕をした。
家の女房は
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内の女房は
「おつぎも体がしっかりして来たなあ。女も二十となっちゃ役に立つなあ」
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「おつぎも身體みつしりして來たなあ、女も廿と成つちや役に立つなあ」
と、おつぎを見て言った。
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とおつぎを見ていつた。
勘次は茶わんから少しごはんつぶをこぼしては、あぶない手つきではしを持ったまま、指の先でつまんで口へ持って行った。
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勘次は茶碗から少し飯粒を零しては危險い手つきで箸を持つた儘指の先で抓んで口へ持つて行つた。
「おとっつあん、そんなにこぼしちゃだめだな」
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「おとつゝあ、さういに零しちや駄目だな」
おつぎは勘次の茶わんへ手をそえた。
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おつぎは勘次の茶碗へ手を添へた。
「勘次さん」
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「勘次さん」
と、家の女房は呼びかけた。
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と内の女房は喚び掛けた。
勘次が目をしかめて見たとき
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勘次が目を蹙めて見た時
「勘次さん、もうおつぎのことは嫁に出してもよくないかい」
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「勘次さん、はあおつぎこたあ出しても善かねえけえ」
女房は言った。
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女房はいつた。
「嫁になんざ出せないよ。今のところ、おれが困るから」
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「嫁になんざ出せねえよ、今ん處俺れ困つから」
勘次はそっけなく言った。
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勘次はそつけなくいつた。
「不自由な所があれば出して、自分でも引っ込むのよ」
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「不自由な處ありや出して、自分でも引つ込むのよ」
兼博労はえんりょなく言った。
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兼博勞は遠慮なくいつた。
「おれはそんな話は聞かない。もらいたけりゃいくらでもあらあ」
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「俺らそんな噺や聽かねえ、貰ひたけりや幾らでも有らあ」
勘次はしりぞけた。
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勘次は斥けた。
「そんだってお前、あちこち声をかけておかないじゃ、すぐ年ばかり取らせちまって仕方がないぞ。おれも一人出したが、お前、かんたんじゃないよ。ああだこうだ言われないうちだぞ、お前」
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「そんだつておめえ、そつちこつち口掛けて置かねえぢや、直年齡ばかしとらせつちやつて仕やうねえぞ、俺らも一人出したがおめえ容易ぢやねえよ、さうだかうだ云はれねえ内だぞおめえ」
女房は言った。
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女房はいつた。
「いいよ、三十まで独りじゃ置かないから。これには今にむこを取るんだから」
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「えゝよ卅まで獨りぢや置かねえから此れげはいまに聟とんだから」
勘次は喧嘩でもするようなようすで、こわばった舌で言った。
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勘次は喧嘩でもする樣な容子で硬ばつた舌でいつた。
女房は黙って、口のあたりに冷ややかな笑いをふくんで、ひざをそっと動かして、ぐっすりねむりこけた自分の子を見た。
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女房は默つて口の邊に冷かな笑を含んで膝をそつと動かしてぐつすり眠りこけた自分の子を見た。
「どうしたい、ままよままよでもやらないか、勘次さん。ままにならぬとおひつを投げりゃ、そこらあたりはごはんだらけだあ。あまりむずかしいことを言うなよ」
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「どうしたえ、儘よ/\でもやんねえか勘次さん。まゝにならぬとお鉢を投げりや其處らあたりは飯だらけだあ、過多に六かしいこと云ふなえ」
兼博労は米のごはんをかき込みながら言った。
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兼博勞は米の飯を掻つ込みながらいつた。
おなかをいっぱいにふくらませたみんなは
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腹を一杯に膨らませた一座は
「どうもごちそうさまでした」
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「どうも御馳走樣でがした」
とあいさつを述べて、土間の下駄をがらがらとかきさがして、がやがやさわぎながら帰りかけた。
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と義理を述べて土間の下駄をがら/\掻き探つてがや/\騷ぎながら歸り掛けた。
「おつう、よきのことを起こせ」
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「おつう、よきこと起せ」
勘次はそう言って、自分もいっしょによろけながら立った。
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勘次はさういつて自分も一つに蹣跚けながら立つた。
おつぎは与吉の体をはげしくゆすったが、ぐっすりねむってしまったので、なかなか目を開かなかった。
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おつぎは與吉の身體を劇しく動かしたが熟睡して畢つたので容易に目を開かなかつた。
与吉はぞうりをはくのにも、おつぎの心をいらだたせた。
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與吉は草履を穿くにもおつぎの心を苛立たせた。
「おつう」
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「おつう」
とはげしく呼ぶ勘次の声が、裏のかきねの外から聞こえた。
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と劇しく喚ぶ勘次の聲が裏の垣根の外から聞えた。
するとまた
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さうすると又
「何してやがるんだ」
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「何してけつかんだ」
と、勘次は裏の戸口からみんなをおどろかしてどなった。
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と勘次は裏戸口から一同を驚かして呶鳴つた。
「勘次さん、与吉のことを起こしてたところなんだよ」
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「勘次さん與吉こと起してた處なんだよ」
家の女房は言いわけをしてやった。
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内の女房は分疏してやつた。
「お前はいつでもそうだ、ぐずぐずしてやがって」
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「汝りや何時でもさうだ、ぐづ/\してやがつて」
勘次はなおも怒って言った。
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勘次は猶も憤つていつた。
「待ってればいいんだな、おとっつあん。洗い物までもしないのに、どうしたもんだ」
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「待つてれば善えんだなおとつゝあ、洗ひまでも仕ねえのにどうしたもんだ」
酒の席の後かたづけを見て、おつぎはつぶやいた。
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酒席の趾を見ておつぎは呟いた。
「かまわないで帰れよ。おとっつあんは酔ってるんだから」
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「管あねえで歸れよ、おとつゝあ酩酊つてんだから」
女房はおつぎの気持ちをくんでやった。
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女房はおつぎの意を汲んでやつた。
後では、乱ざつに散らかした道具をかたづけながら、女の人たちは言った。
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後では亂雜に散らかした道具の始末をしながら女房等はいつた。
「勘次さんの気持ちも分からないな」
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「勘次さんが心持も分んねえな」
「いくら女房のやきもちを焼くものでも、ああいうのはないな」
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「幾ら嚊の嫉妬燒くもんでも、あゝえもなあねえな」
「ああいうのが何かの生まれ変わりだというのでもあるだろうな。こわいようだよ、本当にな」
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「あゝえのが何かの生れ變りつちんでも有んべな、可怖えやうだよ本當にな」
「近ごろそれに、あれじゃないかい。あれほどほしがったのに、後ぞえをもらおうとは言わないんじゃないかい」
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「近頃それに何ぢやねえけえ、あら程欲しがつたのに後妻貰あべえたあ、云はねえんぢやねえけえ」
どの人の心にも、口には出さなくても分かっている何かを、少しずつ表そうとして、さすがにためらうようにして話し合った。
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孰れの心にも口にはいはなくて了解されて居る或物を少しづつ現さうとして有繋に躊躇する樣にして噺合うた。
勘次ら三人が出てかきねの外へ行ったと思うころ、わんをふいていた一人があわただしく立って外へ出た。
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勘次等三人が出て垣根の外へ行つたと思ふ頃、椀を拭いて居た一人が慌だしく立つて外へ出た。
しばらくして帰って来ると、いきなり
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暫くして歸つて來るといきなり
「どうしたものだ、お前は。他人の後なんぞつけて行って。ばちが当たるから見ろよ」
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「どうしたものだおめえは、他人の後なんぞ尾行けて行つて、罪だから見ろよ」
一人が言った。
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一人がいつた。
「そうじゃないよ。あんまりお前、他人のことを、おれだって」
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「さうぢやねえよ、有撃おめえ、他人のこと俺だつて」
と言いわけをした。
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分疏した。
「そんじゃ何をしに行ったんだ」
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「そんぢや何に行つたんだ」
「おしっこがしたくなったからよ」
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「小便垂つたく成つたからよ」
やがておさえきれない笑いが顔にうかんで
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軈て抑へ切れぬ笑ひが顏に浮かんで
「そんだからあんまり飲むなというんだ、なんておつぎに怒られ怒られ行くんだわ」
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「そんだから過多に飮むなつちんだ、なんておつぎに怒られ/\行んけわ」
と言った。
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といつた。
「そうれお前、ばちが当たるよ」
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「そうれおめえ、罪だよ」
えんりょもなく、みんなどっと笑った。
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遠慮もなく皆どつと笑つた。
夜はふけていた。
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夜は深けて居た。
きろきろきろきろと、風船をこすり合わせるようなかえるの声が入りまじって聞こえていた。
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きろ/\きろ/\と風船玉を擦り合せる樣な蛙の聲が錯雜して聞えて居た。
一五
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十五
霜がそっと地面をおおった。
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霜が竊に地を掩うた。
おそい秋のすみきった空気は、地上のすべてをかわかす。
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晩秋の冴えた空氣は地上の凡てを乾燥せしめる。
思うままにえだ葉を広げたうどの実にめじろが集まって鳴くのが楽しそうでもあるが、なんとなくいそがしげで、それもわずかのあいだに、どこでも草木の葉がかたくなったりいたんだりして、すべてがただがさがさと入りまじってしまった。
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思ひの儘に枝葉を擴げた獨活の實へ目白の聚つて鳴くのが愉快らしくもあれど、何となく忙しげであつて、それも少時の間に何處でも草木の葉が硬ばつたり傷ついたりして一切が只がさ/\と混雜して畢つた。
そういう所へ冬はいやでも行きわたらなければならないのだが、それでも暖かい日があったり、冷たい日があったりして、冬はひたすらためらいながら地上にしずもうとした。
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さういふ處へ季節の冬は厭でも行き渡らねばならないのであるがそれでも暖かい日があつたり、冷たい日があつたりして冬は只管躊躇しつゝ地上に沈まうとした。
そして霜を一度はわせてみた。
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さうして霜を一度偃はせて見た。
すべての草木はさらに慌てた。
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凡ての草木は更に慌てた。
じみな常緑樹をのぞいたほかはみな、次の春の用意ができるまでは、すごいすがたになってまでも、じっとしがみついている。
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地味な常磐木を除いた外に皆次の春の用意の出來るまでは凄い姿に成つてまでも凝然としがみついて居る。
冬はまた霜をはわせてみた。
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冬は復た霜を偃はせて見た。
おそろしくきれい好きな霜は、そのみすぼらしい草木の葉を地面にふみにじった。
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恐ろしく潔癖な霜は其の見窄らしい草木の葉を地上に躪りつけた。
人間の手が入ったものは、田でも畑でも、人間の手でいたる所をからりとさせる。
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人間の手を藉りたものは田でも畑でも人間の手を藉りて到處をからりとさせる。
そのとき、畑にはふでの先でかすったように、麦や小麦がほのかに青みを残している。
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其の時畑には刷毛の先でかすつた樣に麥や小麥で仄に青味を保つて居る。
それから冬はまた、百姓に、さびしい外からもっぱら家の中へ力を注がせる。
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それから冬は又百姓をして寂しい外から專ら内に力を致させる。
百姓たちはいそがしく藁で俵をあんで米を入れて、春からの働きのむくいを目の前に積んで楽しむのである。
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百姓等は忙しく藁で俵を編んで米を入れて春以來の報酬を目前に積んで娯ぶのである。
彼らのあいだには、こういうときに、そして冬が本当にまだ彼らの上で泣いてみせないうちに、前後してどの村にも「まち」
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彼等の間には恁ういふ時に、さうして冬が本當にまだ彼等の上に泣いて見せない内に相前後して何處の村落にも「まち」
が来るのである。
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が來るのである。
それは村ごとに建てられている神社のお祭りのことである。
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其れは村落毎に建てられてある社の祭のことである。
貧しい勘次の村でも、むかしからのならわしで、村に合ったやり方でお祭りが行われた。
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貧乏な勘次の村落でも以前からの慣例で村落に相應した方法を以て祭が行はれた。
当日は白いかりぎぬの神主が独りで、氏子の総代というのが四、五人、きまり悪そうなようすで後についてゆき、馬場先を進んで行った。
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當日は白い狩衣の神官が獨で氏子の總代といふのが四五人、極りの惡相な容子で後へ跟て馬場先を進んで行つた。
一人は農具のみを持っている。
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一人は農具の箕を持つて居る。
総代らはそれでも羽織とはかますがただが、一人もちゃんとはかまのひもを結んだ者はいない。
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總代等はそれでも羽織袴の姿であるが一人でも滿足に袴の紐を結んだのはない。
さらにその後から、ふたを取った四斗だるを馬の荷縄にくくって、太い棒でかついでついて行った。
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更に其の後から鏡を拔いた四斗樽を馬の荷繩に括つて太い棒で擔いで跟いた。
四斗だるには、にごったような甘酒がだぶだぶと動いている。
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四斗樽には濁つたやうな甘酒がだぶ/\と動いて居る。
神主の白いはかまには、どろのはねたあとも見えて、ずいぶんよごれていた。
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神官の白い指貫の袴には泥の跳ねた趾も見えて隨分汚れて居た。
神主は、ほこりだらけの板の間へやっとござをしいたせまい拝殿にすわって、さかきの小さなえだをいじって、それから台の供え物を形よくしているあいだに、総代らはみに入れて行ったしめ縄をもみの木からもみの木へ張って、末社のかざりをした。
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神官は埃だらけな板の間へ漸く蓙を敷いた狹い拜殿へ坐つて榊の小さな枝をいぢつて、それから卓の供物を恰好よくして居る間に總代等は箕へ入れて行つた注連繩を樅の木から樅の木へ引つ張つて末社の飾をした。
村の者はだんだんに、それぞれ相応の晴れ着を着て神社の前に集まった。
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村落の者は段々に器量相當な晴衣を着て神社の前に聚つた。
目立つのはやはり女の子で、そまつな手織り木綿でも、メリンスの帯と前かけが彼女たちを十分にかざっている。
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目に立つのは猶且女の子で、疎末な手織木綿であつてもメリンスの帶と前垂とが彼等を十分に粧うて居る。
十くらいの子でも、二十になる者でも、みな前かけをかけている。
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十位の子でもそれから廿に成るものでも皆前垂を掛けて居る。
前かけがなければ、彼女たちのすがたはさびしくなってしまう。
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前垂がなければ彼等の姿は索寞として畢はねば成らぬ。
彼女たちは足に合わない不格好な、しわの寄った白い足袋をはいている。
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彼等は足に合はぬ不恰好な皺の寄つた白い足袋を穿いて居る。
遠い国の山から切り出すのだという、まがい物の重い台にゴム製の表を打った下駄をつっかけている者もある。
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遠國の山から切り出すのだといふ模擬の重い臺へゴム製の表を打つた下駄を突つ掛けて居るものもある。
彼女たちはその年に応じて三人五人とたがいに手を引きながら、かきねのそばや辻の角に立っていては、思い出したときにあちこちと移って歩くのである。
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彼等は其の年齡に應じて三人五人と互に手を曳きながら垣根の側や辻の角に立つて居ては思ひ出した時に其處ら此處らと移つて歩くのである。
彼女たちはただ仲間といっしょに立っていること以外に、「まち」
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彼等は只朋輩と共に立つて居ることより外に「まち」
といっても別に目当てもなければ、楽しみもないのである。
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というても別に目的もなければ娯樂もないのである。
だから彼女たちは、少しでも変わったできごとを見のがすまいとするのである。
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其れで彼等は少しでも異つた出來事を見逃すことを敢てしないのである。
神主は、小さな筑波みかんや駄菓子やするめを少しばかりずつ供えた台の前にすわって、のりとを上げた。
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神官は小さな筑波蜜柑だの駄菓子だの鯣だのを少しばかりづつ供へた卓の前に坐つて祝詞を上げた。
それは大きな厚い紙へ書いたもので、それをさらに紙で包んだのだった。
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其れは大きな厚い紙へ書いたので、それを更に紙へ包んだのであつた。
包み紙は何度もふところへ出し入れしたと見えて、ひどくすれてよごれている。
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包紙は幾度か懷へ出し入れしたと見えて痛く擦れて汚れて居る。
のりとはとても短い文だった。
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祝詞は極めて短文であつた。
神主はそれをとてもゆっくり声を張り上げて読んだが、それでもいくらも時間はかからなかった。
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神官はそれを極めて悠長に聲を張り上げて讀んだがそれでも幾らも時間が要らなかつた。
それが一まいあればどこの神社へ行っても使えるものと見えて、短い文の中に読み上げるべき神社の名は書いてなくて、何郡何村何神社という文字でうめてある。
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それが一枚あれば何處の神社へ行つても役に立てゝ居るものと見えて短い文中に讀上ぐべき神社の名は書いてなくて何郡何村何神社といふ文字で埋めてある。
神主はそこを読むときに、その日の神社の名をただ口先で言うのである。
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神官は其處に讀み至ると當日の神社を只口の先でいふのである。
さすがに彼は、まちがえずに読みきった。
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有繋に彼は間違ふことなしに讀み退けた。
神主が台の横へ席を移して、ちょっとしゃくで指図をすると、氏子の総代らが順々にさかきの小えだの玉ぐしを持って台の前に出て、その玉ぐしをささげてかしわ手を打った。
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神官が卓の横手へ座を換て一寸笏で指圖をすると氏子の總代等が順次に榊の小枝の玉串を持つて卓の前に出て其の玉串を捧げて拍手した。
彼らはただおずおずして、かしわ手も鳴らなかった。
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彼等は只怖づ/\して拍手も鳴らなかつた。
立ちながらはかまのすそをふんでよろけては、おどろいたようすでまわりを見る者もあった。
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立ちながら袴の裾を踏んで蹌踉けては驚いた容子をして周圍を見るのもあつた。
こういう作法も、見物の人はみないかにも熱心なようすで、拝殿にせまって見ていた。
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恁ういふ作法をも見物の凡ては左も熱心らしい態度で拜殿に迫つて見て居た。
おつぎも与吉の手を取って、人々にまじって立っていた。
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おつぎも與吉の手を執つて群集に交つて立つて居た。
勘次もそこにいたのだが、しかし彼はずっと後ろのもみの木かげにぽつんとしていたのだった。
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勘次も其處に在つたのであるが然し彼はずつと後の樅の木陰にぽつさりとして居たのであつた。
かんたんながら一日の式が終わったとき、四斗だるの甘酒がしゃくしでくみ出されて、まわりに立っている人々に配られた。
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簡單乍ら一日の式が畢つた時四斗樽の甘酒が柄杓で汲出して周圍に立つて居る人々に與へられた。
おもに子どもたちが先を争って、その大きな茶わんを取りかえた。
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主として子供等が先を爭うて其大きな茶碗を換へた。
彼らはむしろ自分の家で作ったもののほうがうまいのに、大ぜいといっしょにさわぐのが楽しいので、水ばかりのような甘酒を何ばいもかたむけるのである。
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彼等は寧ろ自分の家で造つたものゝ方が佳味いにも拘らず大勢と共に騷ぐのが愉快なので、水許りのやうな甘酒を幾杯も傾けるのである。
当日より数日前に当番の者が村じゅうを歩いて、二合ずつでも三合ずつでも白米をもらって、夜になれば当番の者たちは集まった白米で晩ごはんを十分にたいて、そのほかはすべて甘酒に仕込む。
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當日からでは數日前に當番の者が村落中を歩いて二合づゝでも三合づゝでも白米を貰つて、夜になれば當番の者等は集つた白米で晩餐の飯を十分に焚いて其他は悉く甘酒に造り込む。
甘酒は時間が短いのとこうじが少ないのとで、熱い湯で仕込むのがふつうである。
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甘酒は時間が短いのと麹が少いのとで熱い湯で造り込むのが例である。
だからたちまち甘くなるけれど、またたちまちすっぱくなって来る。
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それだから忽ちに甘く成るけれども亦忽ちに酸味を帶びて來る。
彼らは当日の前の晩に味見だといって、近所の者たちが寄ってたかって、なべで何ばいもわかしては飲むので、ずいぶんへらしてしまって、それにいっぱい水を足しておくのである。
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彼等は當日の前夜に口見だといつて近隣の者等が寄つてたかつて、鍋で幾杯となく沸しては飮むので夥か減らして畢つて、それへ一杯に水を注して置くのである。
子どもたちにまじって、与吉もたがいの体をかき分けるようにして飲んだ。
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子供等の間に交つて與吉も互の身體を掻き分ける樣にして飮んだ。
村の者が飲んでいる後から、木かげにたたずんでいたこじきがぞろぞろと来て、曲げ物の小ばちを出して求めた。
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村落の者が飮んでる後から木陰に佇んで居た乞食がぞろ/\と來て曲物の小鉢を出して要求した。
「よき、それ、いいかげんにするもんだよ、お前は」
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「よき、それえゝ加減にするもんだよ汝りや」
おつぎは、まだ茶わんを放さない与吉の手を引いた。
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おつぎはまだ茶碗を放さない與吉の手を曳いた。
「待ってろお前ら、そんなにさわり出さないで、汚い」
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「待つてろ汝ツ等、さうだにさはり出ねえで、小穢え」
「こいつら、お前らにやりそこねたことはありゃしない。それにそんなにさわぎやがって。うるさい奴らだ、待ってるもんだ」
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「此奴等、汝ツ等げ呉れはぐつたこた有りやしねえ、それにさうだに騷ぎやがつて、五月繩え奴等だ待つてるもんだ」
「そうれ、お前らへ注いでやるのに、そんな小ばちなんぞおけの上へ突き出させちゃかなわないな。それ、だらだらたれるじゃないか。しゃくしをそっちへ押し出してやるもんだ」
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「そうれお前等注えで遣んのにそんな小鉢なんぞ桶の上さ突出させちや畢へねえな、それだらだら垂ツらあ、柄杓そつちへおん出して行るもんだ」
下駄をはいて立った氏子の総代らが、こじきをしかったり当番に注意したりした。
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下駄を穿いて立つた氏子の總代等が乞食を叱つたり當番に注意したりした。
神主たちが石の鳥居を出て行った後は、しばらくして人も散って、鳥居のわきには大きな文字を書いた白木綿ののぼりが高くつっ立って、ばさばさと鳴っていた。
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神官等が石の華表を出て行つた後は暫くして人も散つて、華表の傍には大きな文字を表はした白木綿の幟旗が高く突つ立つてばさ/\と鳴つて居た。
散らばった人々は、そのくせそこにぽつん、ここにぽつんと固まって立っているのだった。
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散亂した人々は其の癖の其處にぼつゝり此處にぼつゝりと固まつて立つてるのであつた。
しばらくして短い日がかたむいた。
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暫くして短い日が傾いた。
神社の森をつつんで、時雨の雲が東の空いっぱいに広がった。
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社の森を包んで時雨の雲が東の空一杯に擴がつた。
濃いねずみ色の雲はすごい勢いで人にせまって来るようで、しかもくっきりと森をうかび上がらせた。
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濃厚な鼠色の雲は凄く人に迫つて來るやうで、然もくつきりと森を浮かした。
かっと横からさす日の光が、そのすごい雲の色をやや和らげて、ビロードのようななめらかな感じを与えた。
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かつと横に射し掛る日の光が其の凄い雲の色を稍和げて天鵞絨のやうな滑かな感じを與へた。
さらにくすんだ赤いけやきのえだにもふしぎな色を出させて、ことにそのあいだにまじったかえでの大木は、これも冴えないえだに日は全力を注いで、おどろくほど荘厳で、しかもあざやかな光を放たせた。
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更にくすんだ赭い欅の梢にも微妙な色彩を發揮せしめて、殊に其の間に交つた槭の大樹は此も冴えない梢に日は全力を傾注して驚くべき莊嚴で且つ鮮麗な光を放射せしめた。
時雨の雲にうつるかえでのえだは、はっきりとうかび上がっていながら、ビロードの地に深くしみこんでいるようにも見えた。
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時雨の雲に映ずる槭の梢は確然と浮き上つて居ながら天鵞絨の地に深く浸み込んで居る樣にも見えた。
その前に空をささえて立った二本の白い柱は、のぼりだった。
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其の前に空を支へて立つた二條の白い柱は幟旗であつた。
のぼりは止まずばたばたとひるがえった。
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幟旗は止まずばた/\と飜つた。
さらに急にごうっと立った風に、森のえだの葉は散り乱れて、あざやかな光を保ちながら空中にひらめいた。
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更に俄にごつと立つた風に森の梢の葉は散亂して鮮かな光を保ちながら空中に閃いた。
数分の後、あたりはたちまち暗い光につつまれて、時雨がざあっと来た。
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數分時の後世間は忽ちに暗澹たる光に包まれて時雨がざあと來た。
村のどこにも、晴れ着のすがたを見なくなった。
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村落の何處にも晴衣の姿を見なく成つた。
おつぎは与吉を連れて、とっくに帰っていたのだった。
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おつぎは與吉を連れて疾くに歸つて居たのであつた。
夜になって雨がやんだ。
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夜に成つて雨が歇んだ。
村の者はだんだんに、瞽女がとまった小さな店の近くへ集まって、戸口の近くに立った。
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村落の者は段々に瞽女の泊つた小店の近くへ集まつて戸口に近く立つた。
戸はすべて開け放って、しょうじも外してある。
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戸は悉く開放つて障子も外してある。
瞽女はそれぞれ晩ごはんをもらいに出かけた後だった。
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瞽女は各自に晩餐を求めて去つた後であつた。
瞽女は村から村の「まち」
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瞽女は村落から村落の「まち」
をわたって歩いて、毎年とめてもらう宿を決めて、それから村じゅうを一けんずつ歌って歩くあいだに、ところどころで一人分ずつの晩ごはんのごちそうを承知してもらっておく。
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を渡つて歩いて毎年泊めて貰ふ宿に就てそれから村落中を戸毎に唄うて歩く間に、處々で一人分づゝの晩餐の馳走を承諾して貰つて置く。
それで彼女たちは、夜の時こくが来ると、目の見える手引きがだんだんとその家々に配って歩く。
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それで彼等は夜の時刻が來ると、目明の手曳がだんだんと其の家々に配つて歩く。
そしてはまた、手引きがそれを集めて連れ立って帰って来る。
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さうしては復た手曳がそれを集めて打ち連れて歸つて來る。
目の不自由な彼女たちは、やっとのことで自分の行く家に着いても、板の間のはしなどにぽつんとしておぜんの運ばれるのを待っているので、みんなのおなかが満たされてふたたびつえにすがるまでには、面倒な時間がかかるのである。
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目の不自由な彼等は漸くのことで自分の求める家に就いても板の間の端などにぽつさりとして膳の運ばれるのを待つて居るので一同の腹が滿たされて再び杖に縋るまでには面倒な時間を要するのである。
小さな店の座敷には、瞽女の大きな荷物とふくろに入れた三味線が置いてあって、さびしく見えていた。
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小店の座敷には瞽女の大きな荷物と袋へ入れた三味線とが置いてあつて淋しく見えて居た。
ただ一人の巫女が、彼女たち独特の態度でしゃんと正座して、そのいつでも放さない荷物を前に置いて、すわっているのだった。
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只一人の巫女が彼等に特有の態度を保つて正座を張つて、其の何時でも放さない荷物を前へ置いてしやんと坐つて居るのであつた。
表には村の者がだんだん増えて、土間から座敷へ上がる者もあった。
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表には村落の者が漸く殖えて土間から座敷へ上る者もあつた。
彼らはわけもなく、ただ、さわぎはじめた。
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彼等は理由もなしに只騷ぎはじめた。
彼らは沼のあしのように、集まればたがいにただざわざわとさわぐのである。
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彼等は沼邊の葦のやうに集れば互に只ざわ/\と騷ぐのである。
巫女はかなりのおばあさんだったので、おしろいをつけた瞽女たちに向けるようなからかいの言葉は、彼らのあいだからは出なかった。
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巫女はかなりの婆さんであつたので、白粉つけた瞽女等に向つて揶揄ふ樣な言辭は彼等の間には發せられなかつた。
「どうだい、口寄せを一つやってみないかい」
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「どうしたえ、口寄一つやつて見ねえかえ」
大ぜいの中から言い出した者があった。
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大勢の中から切り出したものがあつた。
あしの葉先が小さな風にもなびくように、この一言でみんながぞよぞよとまたさわいだ。
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葦の葉末が微風にも靡けられる樣に此一語の爲に皆ぞよ/\と復騷いだ。
人々の中には、おつぎもまじっていた。
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群集の中にはおつぎも交つて居た。
若い衆らはさっきからそれに目をつけていたが
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若い衆等は先刻からそれに注目して居たが
「どうした、あいつのことを寄せてみようじゃないか」
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「どうした、彼奴等こと寄せてんべぢやねえか」
「おつぎのことを出してみようじゃないか」
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「おつぎこと出してんべぢやねえか」
彼らはひそひそとこっそり申し合わせた。
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彼等はひそ/\と竊に喋し合せた。
「寄せてみようとよ」
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「寄せてんべえと」
人々の後ろのほうからどなった。
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群集の後の方から呶鳴つた。
「そんじゃこっちへ出なさいな」
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「そんぢや此方へ出さつせえな」
店の女房は言った。
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店の女房はいつた。
人々は一気に元気づいて、巫女のひざの近くまでぎっしりと座敷をうめた。
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群集は一時に威勢がついて巫女の膝近くまでぎつしりと座敷を塞いだ。
勘次もおつぎも、座敷で窮くつにすわっていた。
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勘次もおつぎも座敷に窮屈な居ずまひをして居た。
店の女房は、少しはげたぬりぼんに水をいっぱいくんだごはん茶わんを乗せて
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店の女房は少し剥げた塗盆へ水を一杯に汲んだ飯茶碗を載せて
「ちょっとお前ら、どいてくれないか」
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「ちつとおめえ等退つてくんねえか」
と言いながら、人々のあいだを足さぐりで歩いて、巫女のおばあさんの前に置いた。
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といひながら人々の間を足探りに歩いて巫女の婆さんの前へ置いた。
「そんじゃだれだろう、寄せるのは」
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「そんぢや誰だんべ、寄せんな」
女房は立ったままみんなを見回して、にっこりとして言った。
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女房は立つた儘一同を見廻して嫣然としていつた。
それでもしばらくは、みんなが口をつぐんでいた。
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それでも暫くは凡てが口を緘んで居た。
巫女のおばあさんは、箱を包んだ荷物をそのまま自分のひざに引きよせて待っている。
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巫女の婆さんは箱を包んだ荷物を其儘自分の膝へ引きつけて待つて居る。
「おれがやろう、そんじゃ」
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「俺れやんべ、そんぢや」
若い衆の一人がおばあさんの前へ出て
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若い衆の一人が婆さんの前へ出て
「おれは生きてる人の口を寄せてみたいんだが、いくらだろう、一口は」
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「俺ら生口寄せて見てえんだが、幾らだんべ一口は」
「五銭ずつでさ」
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「五錢づゝでさ」
巫女のおばあさんは落ち着いて言った。
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巫女の婆さんは落付いていつた。
「これはただ黙っていていいんだったっけかな」
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「此ら只默つてゝえゝんだつけかな」
と言うと
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といふと
「いいんだよ、それで。自分が思ってた人が出て来るんだから」
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「えゝんだよそんで、自分の思つてたの出て來んだから」
「こよりをこしらえて水をかき回せばいいんだよ」
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「かんぜん撚拵えて水掻ん廻せば、えゝんだよ」
そばから、巫女のおばあさんが言うのも待たずに口を出した。
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側から巫女の婆さんのいふのも待たずに口を出した。
「三度でいいんだったっけかな」
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「三度でえゝんだつけかな」
おばあさんの前にすわった一人は後ろのほうを向いて言って、彼は不器用なこよりをこしらえて、その先を茶わんの水にひたして三度ていねいにかき回して、そのままこよりを水にひたしておいた。
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婆さんの前へ坐つた一人は後の方を向いていつて彼は不器用な紙捻を拵へて其の先を茶碗の水へ浸して三度丁寧に掻き廻して其の儘紙捻を水に浸して置いた。
「見ろよ、近ごろさっぱり来てくれないが、おれのことがいやにでもなったんじゃないかなんて出るから」
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「見ろよ、近頃薩張來てくんねえが、俺れこと厭にでも成つたんぢやねえかなんて出つから」
と、店の女房は冗談を言った。
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と店の女房は戯談を交へた。
巫女はしばらく手を合わせて口の中で何か念じていたが、風呂しき包みのまま箱に両ひじをついて、だんだんに国じゅうの神々の名を呼んで、この場に集めるという意味を、なれた言い方で調子を取って言った。
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巫女は暫く手を合せて口の中で何か念じて居たが風呂敷包の儘箱へ兩肘を突いて段々に諸國の神々の名を喚んで、一座に聚めるといふ意味を熟練したいひ方で調子をとつていつた。
がやがやとさわいでいた家の中も外も、どちらもしんとなった。
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がや/\と騷いで居た家の内外は共にひつそりと成つた。
「よしきりが土用に入ったみたいに、ぴったり静かになっちまったな」
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「行々子土用へ入えつた見てえに、ぴつたりしつちやつたな」
とどなった者があった。
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と呶鳴つたものがあつた。
やっと静まった人々は、しばらくどよめいた。
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漸く靜まつた群集は少時どよめいた。
しかしすぐにまた静まった。
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然し直に復た靜まつた。
「白紙たより水たより、こよりたよりにい……」
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「白紙手頼り水手頼り、紙捻手頼りにい……」
と、巫女のおばあさんの声は、前歯が少し欠けているために区切りがややはっきりしないが、それでもつっかえずにずんずんと言葉を追って行った。
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と巫女の婆さんの聲は前齒が少し缺けて居る爲に句切が稍不明であるがそれでも澁滯することなくずん/\と句を逐うて行つた。
ななめに茶わんの水に立ったこよりが、だんだん水を吸って、うなずいたようにくたりとなった。
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斜に茶碗の水に立つた紙捻がだん/\に水を吸うて點頭いた樣にくたりと成つた。
「どうせよ一つにはなれぬ身を、別れたいとは思えども……」
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「どうせよ一つにや成れぬ身を、別れたいとは思へども……」
とみんなの耳にひびいたとき、「出た、出た」
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と一同の耳に響いた時「出た/\」
と、静まっていた人々の中から声が上がった。
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と靜まつて居た群集の中から聲が發せられた。
巫女のおばあさんはついているひじを少し動かして、乗り気になった。
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巫女の婆さんは突て居る肘を少し動かして乘地に成つた。
「おれが我が身と言ったとて、自由自在になるならば、今日の巫女も要るまいにい……」
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「俺れが我が身というたとて、自由自儘に成るならば、今日の巫女も要るまいにい……」
おばあさんは同じような言葉をくり返した。
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婆さんは同じやうな句を反覆した。
「出たところで、もっとしゃべらせろよ」
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「出た處でまつと饒舌らせろえ」
と、一人がさらにこよりを持って水をかき回した。
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と一人が更に紙捻を持つて水を掻き廻した。
「こよりがくたくたして言うことを聞かないや」
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「かんぜん捻くた/\して云ふこと聽かねえや」
と言いながら、彼は手を止めた。
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いひながら彼は手を止めた。
「おれが心はこうなれど、怒るまいぞえ見捨てまい、たがいに顔も合わせたら、言葉もかけてくださろう……」
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「俺れがよ心はこうなれど、怒るまえぞえ見棄てまえ、互に顏も合せたら、言辭も掛けてくだされよう……」
巫女はときどき調子を張り上げて言った。
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巫女は時々調子を張り上げていつた。
「そうだそうだ、そうでなくちゃおとっつあんが泣くぞ」
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「さうださうだ、そんでなくつちやおとつゝあ泣くぞ」
人々の後ろからどなった。
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群集の後から呶鳴つた。
人々はしばらくまたどよめいたが、一言でも巫女の言うことを聞きのがすまいとして静まった。
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群集は少時復たどよめいたが一句でも巫女のいふことを聞き外すまいとして靜まつた。
巫女のおばあさんのしせいが箱をはなれて元にもどったとき、おさえつけられたようになっていたみんなが、急にがやがやとさわぎ出した。
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巫女の婆さんの姿勢が箱を離れて以前に復した時抑壓されたやうに成つて居た凡てが俄にがや/\と騷ぎ出した。
彼らは絶えず勘次とおつぎに向けて冷たい笑いを浴びせていたのだが、しかしそれを知らない二人は、ただじっとしていた。
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彼等は絶えず勘次とおつぎとに對して冷笑を浴せ拂けてゐるのであつたが、然しそれを知らぬ二人は只凝然として居た。
みんながさわぐ中で、そうしている二人のようすは、わざとらしく見えるほど目立っていた。
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凡てが騷ぐ間に在つてさうして居る二人の容子は態とらしく見えるまで際立つて居た。
巫女の唱えたことだけでは、いたずらな若い衆のねらいも知らない二人には、自分たちのことを言われているとは気づくはずがなかったのである。
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巫女の唱へたことだけでは惡戯な若い衆の意志も知らない二人には自分等がいはれて居ることゝは心づく筈がなかつたのである。
人々の後ろのほうからの急なさわぎが、内側にも伝わった。
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群集の後の方からの俄な騷ぎが内側に及んだ。
晩ごはんを済まして、瞽女が手を引かれて来たところなのである。
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晩餐を濟まして瞽女が手を曳き連れて來た處なのである。
それを若い衆がからかい半分に、道を開けてやろうとしては、開けまいとしてさわいだのだった。
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それを若い衆が揶揄半分に道を開いてやらうとしては遣るまいとして騷いだのであつた。
瞽女があぶなっかしく、やっと座敷へ上がったとき
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瞽女は危險相にして漸く座敷へ上つた時
「目も見えないのに、そんなに押し回すなよ」
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「目も見えねえのにさうだに押廻すなえ」
瞽女の後についてゆき、座敷のはしまで割りこんで来た近所のおじいさんが言った。
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瞽女の後に跟いて座敷の端まで割込んで來た近所の爺さんさんがいつた。
若い衆らはただ
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若い衆等は只
「ほういほうい」
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「ほうい/\」
と作り声ではやした。
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と假聲で囃した。
おじいさんは勘次がそばにいたのを見つけて
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爺さんは勘次が側に居たのを見つけて
「なあ、勘次さん、これで若い者のほうがいいからな」
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「なあ、勘次さん、こんで若えものゝ處がえゝかんな」
と言いかけた。
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といひ掛けた。
外ではふたたびはやし立ててさわいだ。
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外では再び囃し立てゝ騷いだ。
白い手ぬぐいを、まげの後ろが少し見えるようにかぶった瞽女が増えたので、座敷は急に生き生きとなった。
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白い手拭を髷の後が少し現はれた瞽女被りにして居る瞽女が殖えたので座敷は俄に生たやうに成つた。
瞽女は一つに固まって、なるべくランプの明るい光をさけようとしている。
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瞽女は一つに固まつて成るべくランプの明るい光を避けようとして居る。
その態度を心にくく思う若い衆が
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其の態度を心憎く思ふ若い衆が
「おれはその手ぬぐいをかぶってこっちを向いてる姐さんのことを寄せてみたいもんだな」
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「俺ら其の手拭被つてこつち向いてる姐樣こと寄せて見てえもんだな」
と、立ちふさがったかげから瞽女の一人にからかって言った者がある。
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立ち塞がつた陰から瞽女の一人へ揶揄つていつたものがある。
「何とか言うか、寄せてみな」
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「何んちいか寄せて見せえ」
さっきのおじいさんは言った。
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先刻の爺さんはいつた。
彼の顔にはあばたが深くついている。
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彼の顏には痘痕を深く印して居る。
「どうした、寄せてみるのか。そんなら、おれがこよりをこしらえてやろうかい」
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「どうした寄せて見んのか、そんだら俺れかんぜん捻拵えてやつかれえ」
おじいさんがさらに言ったとき、返事がなかった。
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爺さんが更にいつた時返辭がなかつた。
「ええ、情けない奴らだな」
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「えゝ、情ねえ奴等だな」
おじいさんはひねりかけた紙を捨てた。
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爺さんは捻り掛た紙を棄てた。
店先の駄菓子を入れた台を、がたがたと動かす者があった。
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店先の駄菓子を入れた店臺をがた/\と動かす者があつた。
「菓子なんぞまたぬすんじまうなよ。うん、そっちのほうの酒だるの所にも立ってて、飲み口でも引っこ抜かないでもらおうぞ、みんな」
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「菓子なんぞまた盜つちや畢へねえぞ、うむ、そつちの方の酒樽ん處にも立つてゝ飮み口でも引つこ拔かねえで貰あべえぞ、みんな」
と、あばたのおじいさんは独り乗り気になって言うのだった。
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と痘痕の爺さんは獨り乘地に成つていふのであつた。
「そうじゃないんだよ。台が自分で歩き出しはじめたから、おれがおさえたところなんだよ」
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「さうぢやねえんだよ、店臺自分で歩き出し始まつたから俺れ抑めえた處なんだよ」
「いいから、ガラスでもぶちこわさないようにしろよ。こっちのおかみさんに怒られるから」
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「えゝからガラスでもおつ缺かねえやうにしろえ、此方のおつかさまに怒られつから」
「そんでも台は四つの足へ何かはいてら。土なべに片口に皿だ。どれもどれもよく欠けてらあ」
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「そんでも店臺は四つ足へ何か穿いてら、土鍋に片口に皿だ、どれも/\能く打つ缺けてらあ」
「どこらか歩いて来たと見えて、足がほこりだらけだと」
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「何處らか歩いて來たと見えて足埃だらけだと」
二、三人の声で冗談を返した。
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二三人の聲で戯談を返した。
家の中と外のむっとした空気が、ますますざわついた。
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家の内外のむつとした空氣が益ざわついた。
店の台へは、暑いころにはありがおそって来るのをきらって、四つの足へさらやどんぶりをはかせて、いつも水を入れておくのを忘れないのだった。
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店臺へは暑い頃には蟻の襲ふのを厭うて四つの足へ皿や丼の類を穿かせて始終水を湛へて置くことを怠らないのであつた。
「どれ、だれも寄せないなら、おれでも寄せてみようかい」
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「どうれ、誰も寄せねえけりや俺れでも寄せてんべかえ」
後ろのほうから一人進んで来た者があった。
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後の方から一人進んで來たものがあつた。
「ただじゃだめだぞ」
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「只ぢや駄目だぞ」
あばたのおじいさんは、すぐによけいなことを言った。
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痘痕の爺さんは直ぐに要らぬことをいつた。
「そんじゃ困ったなあ。お前、どうした、おばあさんのことを死んだ人の口でも寄せてみないか」
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「そんぢや困つたなあ、おめえどうした婆さまこと死口でも寄せて見ねえか」
「おれはいやだよ。待ってるから早く来てくれなんて言われた日には、縁起でもないから」
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「俺ら厭だよ、待つてつから早く來てくろなんて云はれた日にや縁起でもねえから」
おじいさんはつめで頭をかいた。
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爺さんは爪で頭を掻いた。
「ひどくお前、近ごろぼさぼさしちまってるんだな。ああいうおばあさんでもこいしがってるせいじゃあるまい。髪までぬけたようだな」
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「酷くおめえ近頃ぽさ/\しつちやつてんだな、あゝだ婆でも焦れてる所爲ぢやあんめえ、頭髮まで拔た樣だな」
ひょうきんな相手は、おじいさんの頭に手をかけてゆさゆさと動かした。
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剽輕な相手は爺さんの頭へ手を掛てゆさ/\と動かした。
乗り気になっていたおじいさんは、少し白いまくでおおわれたような目を見開いて、やや口ごもった。
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乘地に成つて居た爺さんは少し白い膜を以て掩はれた樣な眼を睜つて稍辟易した。
「大豆打ちにひっくり返ったみたいに、顔じゅうあなだらけにしてなあ」
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「大豆打にかつ轉がつた見てえに面中穴だらけにしてなあ」
ひょうきんな相手は、ますます悪口をたくましくした。
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剽輕な相手は益惡口を逞しくした。
人々は、ひと声終わるごとに笑いどよめいた。
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群衆は一聲の畢る毎に笑ひどよめいた。
「ばかを言え、そんなやわらかい顔で風のふく所を歩けるもんじゃない」
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「篦棒、さうだ軟けえ面で風吹く處歩けるもんぢやねえ」
おじいさんはむきになって言った。
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爺さんはむきに成つていつた。
「どうした、赤い手ぬぐいをかぶらされただろう」
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「どうした赤え手拭被らせらつたんべえ」
「おれはそんな手ぬぐいなんざ、かぶったことはないよ」
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「俺らさうだ手拭なんざあ被つたこたねえよ」
「そんでも、ほうそうの神さまは赤い手ぬぐいが好きだというそうだな」
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「そんでも疱瘡神は赤え手拭好きだつちげな」
「そんだって、おれはかぶらないよ」
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「そんだつて俺ら被んねえよ」
あばたのおじいさんは、すっかりしおれてしまった。
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痘痕の爺さんはすつかり悄れて畢つた。
人々はみなおなかをかかえた。
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群集は皆腹を抱へた。
「どれ、おれは帰ってごぼうでもこしらえよう。明日、てんびん棒をかついで出るのにさしつかえらあ」
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「どうれ、俺ら歸つて牛蒡でも拵えべえ、明日天秤棒檐いで出る支障にならあ」
ひょうきんな相手は、思い出したように言った。
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剽輕な相手は思ひ出したやうにいつた。
「どうせ、お前らのように紺屋の弟子みたいな手足の者は、ごぼうでもかついで歩くのにはちょうどよかろう」
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「どうせ、おめえ等やうに紺屋の弟子見てえな手足の者な牛蒡でも檐いで歩くのにや丁度よかんべ」
仕返しでもできたようなようすで、おじいさんは言った。
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復讎でも仕得たやうな容子で爺さんはいつた。
「元手の二円二分くらいで、これで子どもらまで四、五人の命をつないで行くのには、赤い手ぬぐいでもかぶってるようなのんきな気持ちじゃいられないからな」
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「資本の二兩二分位でこんで餓鬼奴等までにや四五人も命繋いで行くのにや赤え手拭でも被つてる樣な放心した料簡ぢや居らんねえかんな」
彼はまたおじいさんの頭に手をかけて言って、ついと行ってしまった。
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彼は復た爺さんの頭へ手を掛けていつてついと行つて畢つた。
後では、波が岩に打ちつけるようにしばらくさわいだ。
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後では波が巖に打ちつける樣に暫らく騷いだ。
若い女はみな十分に笑って、またあばたのおじいさんをつくづく見ては思い出して、たもとで口をおおった。
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若い女は皆十分笑つて、又痘痕の爺さんを熟々と見ては思ひ出して袂で口を掩うた。
とうとうきまり悪そうにして、おじいさんも去ってしまった。
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到頭極り惡相にして爺さんも去つて畢つた。
「この箱の中には何が入ってるんだ。人形だって本当かね」
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「此の箱ん中にや何だね入えつてんなあ、人形坊だつて本當かね」
前のほうにいた若い衆が、巫女の荷物に手をかけて言った。
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前の方に居た若い衆が巫女の荷物へ手を掛ていつた。
「なあに、今じゃ幣束だとよ」
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「なあに今ぢや幣束だとよ」
と、ほかの者が言った。
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と他の者がいつた。
「これは見せられないんでさ。これを見られると、どれほど寄せてみても当たらなくなっちまってね。自分がいないあいだに見られても、きっと分かるんでさ」
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「此ら見せらんねえんでさ、此れ見られつと何程寄せて見ても當んなくなつちやつてね、自分で居ねえ間に見らつても屹度知れんでさ」
おばあさんは、風呂しきをめくりかけた若い衆の手をそっと払って言った。
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婆さんは風呂敷を捲り掛た若い衆の手をそつと拂つていつた。
すると
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さうすると
「見せられないよ、それが種だから」
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「見せらんねえよ、其れが種だから」
とどなった者があった。
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呶鳴つたものがあつた。
そんなさわぎをしているあいだに、何度ももじもじと体を動かしていた勘次は、思い切っておばあさんの前へ進んだ。
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さういふ騷ぎをして居る間に幾度かもぢ/\と身體を動かして居た勘次は思ひ切つて婆さんの前へ進んだ。
「わしに一つ寄せてみておくんなせえ。死んだ人の口でがす」
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「わしげ一つ寄せて見ておくんなせえ、死口でがさ」
「そんじゃ、笹の葉を折って来ておくんなせえ」
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「そんぢや笹つ葉折つちよつて來ておくんなせえ」
巫女のおばあさんは言った。
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巫女の婆さんはいつた。
「こっちで折ってやろう」
原文を見る
「此方で折つちよつて遣んべ」
と勘次が立ちかけたとき、後ろのほうでどなった。
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と勘次が立ち掛た時後の方で呶鳴つた。
しばらくして、小さな竹の葉が手から手へわたされて、茶わんの水の中に置かれた。
原文を見る
暫くして小さな竹の葉が手から手へ傳へられて茶碗の水の中に置かれた。
みんなはふたたび静まった。
原文を見る
一同は再び靜まつた。
勘次は竹の葉で茶わんの水を三度かき回して、そっと手を放した。
原文を見る
勘次は竹の葉を以て茶碗の水を三度掻き廻してそつと手を放した。
ランプの光に、竹の葉は水から出た部分は青く、水にしずんだ部分は水銀のように白く光った。
原文を見る
ランプの光に竹の葉は水から出た部分は青く、水に沒した部分は水銀のやうに白く光つた。
巫女のおばあさんは、さっきと同じように箱にひじをついて
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巫女の婆さんは先刻と同じく箱へ肱を突いて
「よく呼び出してくれたぞよう……」
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「能く喚び出してくれたぞよう……」
と、決まったような言葉をくり返しながら、まだ十分に意味をなさないうちに、勘次はきちんとすわったひざへ両手を棒のようについて、ぐったりと頭をうなだれた。
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と極つたやうな句を反覆しつゝまだ十分の意味を成さないのに勘次は整然と坐つた膝へ兩手を棒のやうに突いてぐつたりと頭を俛れた。
おつぎもしおらしくうつむいた。
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おつぎもしをらしく俯向いた。
島田に結ったおつぎの髪が、明るいランプに光った。
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島田に結うたおつぎの頭髮が明かるいランプに光つた。
おつぎは特別に勘次にゆるされて、夜明け前に鬼怒川のわたしをこえて、仲間といっしょに髪結いの所へ行ったのだった。
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おつぎは特に勘次に許されて未明に鬼怒川の渡を越えて朋輩同志と共に髮結の許へ行つたのであつた。
まげには油がよくのっていて、上手にかけた金のかざりが少しざらりとゆれた。
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髷には油が能く乘つて居て上手掛けた金房が少しざらりとして動搖いた。
巫女が次第に言葉を追って行くうちに
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巫女が漸次に句を逐うて行くうちに
「すがたはかくれて出てみれば、何も知るまいと思うだろうが、おれはその身のそばには、日々毎日ついてるぞ。雨は降らねどみになり、かさになりてよ……」
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「姿隱れて出て見れば、何知るまいと思だろが、俺れは其の身の處へは、日日毎日ついてるぞ、雨は降らねど箕に成り、笠に成りてよ……」
と、巫女の声は前歯が少し欠けているのに、一つにはみんながしんとしてせきばらいもしないせいだろうが、とてもはっきりと聞き取れた。
原文を見る
と巫女の聲は前齒の少し缺けたにも拘らず、一つには一同がひつそりとして咳拂をもせぬ故であらうが極めて明瞭に聞きとられた。
「一度ならず、二度三度、ふしぎを起こさせて知らせたに……」
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「一度ならず、二度三度、不思議打たせて知らせたに……」
おばあさんの声がつづいてひびいた。
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婆さんの聲が次で響いた。
勘次もおつぎも、ただじっとしているだけである。
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勘次もおつぎも只凝然として居るのみである。
「おれが元気でいるならば……」
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「俺れが達者で居るならば……」
という言葉が読まれたと思うと、やがて
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といふ句が讀まれたと思ふと軈て
「くれるほどの心なら、ほんに苦労でも大変でも、つぼみの花を散らさずに、どうかさかせてくだされよう……」
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「呉れるよ程の心なら、ほんに苦勞でも大儀でも、蕾の花を散らさずに、どうか咲かせてくだされよう……」
なれた声の調子が、そうでなくても興味を持っているみんなの耳に、しみじみとひびいた。
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熟練した聲の調子が、さうでなくても興味を持つて居る一同の耳にしみじみと響いた。
「からすの鳴かない日はあれど、草葉のかげで……」
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「鴉の鳴かない日はあれど、草葉の陰で……」
おばあさんが自分の声に乗って来たとき、勘次はぼろぼろとなみだをこぼした。
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婆さんが自分の聲に乘つて來た時勘次はぼろ/\と涙を零した。
おつぎもそっとなみだをふいた。
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おつぎもそつと涙を拭つた。
「ほんの仮の場のことなれば、これにておれは帰るぞよう……」
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「ほんの假座のことなれば、此れにて俺れは歸るぞよう……」
それからまた
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それから又
「からすの鳴きがそうでなくもう……」
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「鴉の鳴きがそでなくもう……」
とくり返しながら、巫女のおばあさんの声は軽く引いて、そっとぬいたように止んだ。
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と反覆しつゝ巫女の婆さんの聲は輕く引いてそつと拔いたやうに止んだ。
「おれは済まない」
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「俺れ濟まねえ」
勘次はぽつんと言って、またなみだを横にふいた。
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勘次はぽつさりといつて又涙を横に拭つた。
「本当に出たんだよ。こわいようだな」
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「本當に出たんだよ、可怖えやうだな」
そこにいた若い女の人は、しみじみと言った。
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其處に居た若い女房はしみ/″\といつた。
それからつづいて、ほかの二、三人が身の上や生きている人の口を寄せた。
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それから續いて他の二三人が身の上やら生口やらを寄せた。
そして座敷のすみにいた瞽女が代わって、三味線のふくろをすっとしごき下ろしたとき、巫女は荷物の箱を背負って、自分のとまった宿へ帰って行った。
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さうして座敷の隅に居た瞽女が代つて三味線の袋をすつと扱きおろした時巫女は荷物の箱を脊負つて自分の泊つた宿へ歸つて行つた。
三味線のばちが一度弦にふれると、しんみりとした座敷が急に元気づいて、ランプの光が急に明るくなったようだった。
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三味線の撥が一度絃に觸れるとしんみりとした座敷が急に勢ひづいてランプの光が俄に明るいやうに成つた。
勘次はそれを聞くにたえられないで、彼はその夜にかぎって、自分で与吉の手を引いて自分の家へと、暗やみの中へ身をしずめた。
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勘次はそれを聞くに堪へないで、彼は其の夜に限つて自分で與吉の手を曳いて自分の家へと闇の中へ身を沒した。
若い衆は三人の後ろすがたを見て
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若い衆は三人の後姿を見て
「こおろぎじゃないが、口を鳴らさないじゃいられないな」
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「蛬ぢやねえが、口鳴らさねえぢや居らんねえな」
と言った。
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といつた。
「そんだが、今夜はしみじみ泣いたんじゃないかい。何でもお品さんのことはどれほどおしいか知れないのだからな」
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「そんだが、今夜はしみ/″\泣いたんぢやねえけ、あんでもお品さんこた何程惜しいか知んねえのがだかんな」
「今だってその話をするといくらでもしてるんだからな」
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「今だつて其噺すつと幾らでもしてんだかんな」
「そんだがよ、さっきみたいに泣いてるのに、悪口なんぞ言うのはばちが当たるよなあ」
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「そんだがよ、先刻見てえに泣いてんのに惡口なんぞいふな罪だよなあ」
と、若い女の人たちはそれでもしんみりと言った。
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と若い女房等はそれでもしんみりといつた。
その夜からしばらくのあいだ、勘次は前とはちがって、おつぎを独りで出してやることがあるようになった。
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其の夜から暫くの間勘次は以前とは異つておつぎを獨り放して出すことが有る樣に成つた。
そうかと思っているうちに、村じゅうがまた、勘次のおつぎに対する態度がすっかり元にもどったことを認めずにはいられなくなった。
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さうかと思つて居る内に村落中が復た勘次のおつぎに對する態度の全く以前に還つたことを認めずには居られなくなつた。
村の目は、勢いねたみとうたがい、それから新しく起こったできごとに対するような興味をもって、勘次に注がれることになった。
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村落の目は勢ひ嫉妬と猜忌とそれから新に起つた事件に對するやうな興味とを以て勘次の上に注がれねばならなかつた。
一六
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十六
勘次はほとんど何かあるたびに冷たい目で見られていたのだが、しかしそれがいやな気持ちを彼に与えるよりも、彼のふところにいくらかのゆとりができて来たことが、すべての不満をおぎなってあまりあることだった。
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勘次は殆んど事毎に冷笑の眼を以て見られて居るのであつたが然しそれが厭な感情を彼に與へるよりも、彼は彼の懷に幾分の餘裕を生じて來たことが凡ての不滿を償うて猶餘あることであつた。
お品がまだ生きていたころ、となりの主人のおかみさんに向かって
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お品がまだ生きて居る頃隣の主人の内儀さんに向つて
「おかみさんらは何の心配もなくて、晴れ晴れとしているんでございましょうね」
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「お内儀さん等何にも心配なんざ無くつて晴々として居んでござんせうね」
とお品はつくづく言ったことがある。
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お品はつく/″\といつたことがある。
「なぜそんなことを言うんだい」
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「何故そんなこといふんだい」
おかみさんがふしぎに思って聞いたら
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内儀さんは怪しんで聞いたら
「そんでも、おかみさんらは食べる心配なんざちっともないんだから。わたしはそうだと思ってさ」
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「そんでもお内儀さん等喰べる心配なんざちつともねえんだから、わたしやさうだと思つてせえ」
お品は言った。
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お品はいつた。
おかみさんは、なるほどそういう気持ちでいるのかと、それからいろいろと身分なりの苦労が絶えないことを話して聞かせると
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内儀さんは成程さういふ心持で居るのかと、それから種々と身分相應な苦勞の止まぬことを噺て聞かせると
「そうでございましょうかね、おかみさん。わたしらはまた、明けても暮れても足りない足りないの心配ばかりしてるんだから、そういうことのない人は心配なんてないんだとばかり思ってたんでございますよ。ねえ本当に」
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「さうでござんせうかねお内儀さん、わたし等また明けても暮れても無え足んねえの心配ばかしゝてんだから、さういことねえ人は心配なんちやねえんだとばかし思つてたんでござんすよ、ねえ本當に」
お品は感心したように言ったのだった。
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お品は感に堪へたやうにいつたのであつた。
お品がそれほど苦労した食べ物の問題が、その死後四、五年間のみじめな暮らしから、やっと解決に向かおうとしたのである。
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お品がそれ程苦勞した米穀の問題が其の死後四五年間の惨憺たる境遇から漸く解決が告げられようとしたのである。
彼は毎年冬から、まだ草木の芽の出ない春までのうちに、彼らにしてはおどろくほど大きな四、五十円をかせげるのだった。
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彼は毎年冬からまだ草木の萌え出さぬ春までの内に彼等にしては驚くべき巨額の四五十圓を贏ち得るのであつた。
それは古い借金のあなに消えるにしても、彼は土間のにわとりのねぐらの下に、三人が安心できるだけの食べ物を用意しておけるようになった。
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其れは古い創痍の穴に投ぜられるにしても彼は土間の鷄の塒の下に三人が安心して居るだけの食料を求めて置くことが出來る樣に成つた。
おつぎは二十になり、与吉は学校へ通うようになった。
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おつぎは二十の聲を聞いて與吉は學校へ出る樣に成つた。
彼は絶えず何かをさがすような、しかもかくした心の中の何かを知られまいというような、見苦しい顔つきを村の中でさらす必要が、やっと少なくなって来た。
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彼は絶えず或物を探すやうな然も隱蔽した心裏の或物を知られまいといふやうな、不見目な容貌を村落の内に曝す必要が漸く減じて來た。
彼はだんだんに、仲間に向かって、前のようにこせこせと必要以上に遠りょする態度がなくなった。
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彼は段々彼等の伴侶に向つて以前の如くこせ/\と徒らに遠慮した態度がなくなつた。
彼は村じゅうに向けていたおそれの気持ちを、すっかり東どなりの家族にだけささげてしまった。
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彼は村落の凡てに向つて拂つた恐怖の念を悉く東隣の家族にのみ捧げて畢つた。
そのあいだ、彼と卯平とはただ一度会ったきりである。
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其の間彼と卯平とは只一回逢つたのみである。
卯平は、お品の三年目のお盆にふいと来て、ふいと去ったのである。
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卯平はお品が三年目の盆にふいと來てふいと立つたのである。
卯平は八十に近くなっていながら、おそろしく丈夫な体で、髪は白く、そして少なくなったが、はだにはつやがあった。
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卯平は八十に近く成つて居ながら恐ろしい岩疊な身體が髮は白く且少く成つたが肌膚には潤澤があつた。
卯平は夜は火の番をしても、暑い日には庭の草むしりをしたり、ほかの蔵への使いに行ったり、いくらかいそがしさを感じても、使いに行けば必ずお茶菓子を包んでもらったり、手ぬぐいをもらったり、それから主人からは給料以外のごほうびがあったりするので、少しせつやくすればふところに小銭をためておくこともできたのだが、彼はよくコップ酒を飲んだので、彼のふところにはけっしてゆとりが残らなかった。
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卯平は夜は火の番をしても暑い日には庭の草挘をしたり、他の藏々への使ひに行つたり、幾分の忙しさを感じても、使ひに行けば屹度茶菓子を包まれたり、手拭を貰つたり、それから主人からは給料以外の賞與があつたりするので少し堅固にすれば、懷には小錢を蓄へて置くことも出來るのであつたが彼は能くコツプ酒を傾けたので彼の懷は決して餘裕を存しては居なかつた。
野田はふるさとからわりと近いので、しょうゆ蔵がだんだん大きくなって行くにつれて、やとわれて行く若者が増えて来た。
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野田は郷里からは比較的近いので醤油藏が段々發達して行くに連れて傭はれて行く壯丁が殖えて來た。
ふるさとではやとわれ人の給料が急に上がるほど、どの村からも若者が行った。
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郷里では傭人の給料が暴騰して來た程どの村落からも壯丁が行つた。
それがしきりに入れかわるので、卯平は一度しかふるさとの土をふまなくても、いろいろな変化を耳にした。
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其れが頻りに交代されるので、卯平は一度しか郷里の土を踏まなくても種々の變化を耳にした。
彼はいちばん、おつぎのことが頭にうかぶ。
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彼は一番おつぎのことが念頭に浮ぶ。
十七の秋に見たおつぎのすがたが、お品によく似ていたことを思い出しては、他人のうわさも聞いてみて、ときどきは会ってもみたい気持ちがした。
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十七の秋に見たおつぎの姿がお品に能くも似て居たことを思ひ出しては、他人の噂も聞いて見て時々は逢つても見たい心持がした。
しかしお品が死んだとき、野田へ発つ間ぎわがよくなかったことを彼自身も後かいしていたので、しいていやな勘次にあいさつをして、一時でも肩身のせまい思いをするのをきらって、つい億くうになるのだった。
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然しお品が死んだ時野田への立ち際がよくなかつたことを彼自身の心にも悔ゆる處があつたので強ひて厭な勘次へ挨拶をして一時なりとも肩身を狹くせねばならないのを厭うて遂憶劫に成るのであつた。
年を重ねるにつれて短く感じる月日が、そんなふうに過ぎて、にごって見えることの多い江戸川の水を行き来する通運丸の、牛がほえるような汽笛も身にしみて、冬の寒さがひどくなると、前からのくせで腰に痛みを感じることがあった。
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年齡を積むに從つて短く感ずる月日がさういふ間に循環して、くすんで見えることの多い江戸川の水を往復する通運丸の牛が吼えるやうな汽笛も身に沁みて、冬の寒さが酷くなると以前からの癖で腰に疼痛を感ずることがあつた。
蔵のやとわれ人のためにかかえてある医者に見てもらっても、年のせいの病気だから薬を飲んでみたところで、そう効き目があるわけではないが、それでも飲みたけりゃ飲むがいいと言うだけで、特に親身に言ってくれるのでもない。
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藏の傭人の爲に抱へてある醫者に見て貰つても、老病だから藥を飮んで見た處で、さう效驗が見えるのではないがそれでも、飮みたけりや飮むが善いといふのみで別段身に沁みていつてくれるのでもない。
卯平はいくら飲んでも自分のふところが痛まないのだからと思ってみても、医者の言うとおりどうもすっきりしないので、昼間はなるべくふとんにくるまるようにしていた。
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卯平は幾ら飮んでも自分の懷が痛まないのだからと思つて見ても醫者のいふ通りどうもはき/\としないので晝間は成るべく蒲團にくるまる樣にして居た。
卯平は年末の奉公人の入れかわりの季節になれば、その持病を苦にして、奉公もどうしたものかと悲観することもあるが、がまんをすればしのげるので、つい居すわりになっているうちに、いつでも春の季節にもどって、町の外れに果てしなく植えられた桃の花がいっぱいに赤くなると、その木かげの麦が青く地面をおおって、江戸川の水をさかのぼる高瀬舟の白いほも暖かく見えて、大きな蔵の建物が空になるほどやとわれ人みんなが桃畑で一日を楽しく過ごすようになれば、病気もけろりと忘れるのがふつうだった。
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卯平は年末の出代の季節になれば其の持病を苦にして、奉公もどうしたものかと悲觀することもあるが、我慢をすれば凌げるので遂居据りに成つて居るうちに何時でも春の季節に還つて、郊外に際涯もなく植られた桃の花が一杯に赤くなると其の木陰の麥が青く地を掩うて、江戸川の水を溯る高瀬船の白帆も暖く見えて、大きな藏々の建物が空しく成る程一切の傭人が桃畑に一日の愉快を竭すやうになれば病氣もけそりと忘れるのが例であつた。
きれい好きな彼は、言われるまでもなく、庭にぽっちりでも草が見えればむしらずにはいられない。
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清潔好な彼は命令されるまでもなく、庭にぽつちりでも草が見えれば挘らずには居られない。
せまくても、きちんとしたやとわれ人部屋のまわりの土にほうきの目を入れて、水をまいてみたり、そこらで作る朝顔の苗をもらって、どんな形にでも鉢へ植えてみたりしていると、奉公もつらくは思わないのだった。
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狹苦しいにしてもきちんとした傭人部屋の周圍の土に箒目を入れて水でも打つて見たり、其處らで作る朝顏の苗を貰つてどんな姿にも鉢へ植て見たりして居ると奉公が辛くも思はないのであつた。
それも二、三年のあいだで、ふつうの人間ならもうとても役にも立たない年になっているので、たとえ彼の暮らしが楽をゆるさないためにこうして気持ちの上で健康が保たれているのだとしても、彼の年老いた体は日ごとに、はらがへってつかれた体を回復するために食べるわずかな満足が、そのたびごとに先の見えている彼を引っぱって、その行く先へ導いているのである。
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それも二三年の間で普通の人間ならばもう到底役にも立たぬ年齡に達して居るので、假令彼の境遇が安佚を許さない爲に恁うして精神的に健康が保たれて居るのだとしても、彼の老躯は日毎に空腹から來る疲勞を醫する爲に食料を攝取する僅な滿足が其の度毎に目先の知れてる彼を拉して其の行く可き處に導いて居るのである。
また冬が来たとき、彼は今までの腰の痛みとちがう一種の病気ができたように感じた。
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復た冬が來た時、彼は今までの腰の痛みと違つた一種の疾患を生じたやうに感じた。
医者はあいかわらずリューマチなのだと言って、寒い夜に火の番をして歩くのは絶対に悪いと言うのだった。
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醫者は依然僂痲質斯なのだといつて、寒い夜に火の番をして歩くのは絶對に惡いといふのであつた。
それでも彼は、がまんできるだけつとめた。
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それでも彼は我慢の出來るだけ務めた。
入れかわりの季節が来たとき、彼はまたしきりに迷ったが、どうもそこを去ってしまうのがおしい気持ちもするし、ためらってまた居すわりになった。
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出代の季節が來た時彼はまた頻りに惑うたが、どうも其處を立つて畢ふのが惜しい心持もするし、逡巡して復た居据りになつた。
ふるさとから来た者に聞いて、彼は勘次が次第に暮らし向きがよくなりつつあることを知った。
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郷里から來たものに聞いて彼は勘次が次第に順境に赴きつゝあることを知つた。
彼は心がまたゆれて、もろくなった心がひどくあわれっぽく情けなくなった。
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彼は心が復た動搖して脆く成つた心が酷く哀つぽく情なくなつた。
しかし長いあいだ仲たがいしていた勘次の所へ帰るには、彼は手ぶらではならないということを深く思った。
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然し長い間機嫌を損ね合うた勘次の許へ歸るのには彼は空手ではならぬといふことを深く念とした。
彼はそれからというもの、なるべくコップ酒もひかえてふところを暖めようとした。
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彼は夫からといふもの成るべくコツプ酒も節制して懷を暖めようとした。
これまで彼が遠く奉公に出ていて、いくらでもなぐさめの道を見つけていたのは、わりと暖かなふところをほとんど使い切っていたからである。
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從來彼が遠く奉公に出て居て幾らでも慰藉の途を發見して居たのは割合に暖かな懷を殆んど費しつゝあつたからである。
それで彼は今そう気がついてみても、体を大事にしなくてはならないということが一方にあるので、それが思うようにはいかなかった。
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それで彼は今さう氣がついて見ても身體の養生をしなくてはならぬといふことが一方に有るのでそれが思ふ程にはいかなかつた。
そういう心配も、また春が暖かくなって病気を忘れると、帰ることもそのまま消えてしまうのである。
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さういふ心配が又春も暖かに成つて病氣を忘れると歸ることも其の儘に消滅して畢ふのである。
しかしどうがまんをしてみても、あと何年もつとまらないということを、まわりの人も見ているのである。
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然しどう我慢をして見ても後幾年も勤まらないといふことを周圍の人も見て居るのである。
ことに長いあいだ野田で暮らして、近所の蔵の親方をしているのがふるさとの近くから出た人なので、自然と知り合いだったが、その人が卯平に引退をすすめた。
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殊に永い間野田へ身上を持つて近所の藏の親方をして居るのが郷里の近くから出たので自然知合であつたが、それが卯平に引退を勸めた。
彼はふるさとへ何年ぶりかで行くついでもあるし、幸い勘次のことは村にいるうちに知っていたから、相談をして来てやろうと言った。
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彼は故郷へ幾年目かで行く序もあるし、幸ひ勘次のことは村落に居る内に知つて居たから相談をして來てやらうといつた。
卯平は近ごろめっきりくぼんだ茶色の目をしかめるようにしながら、かすかな笑いをうかべた。
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卯平は近頃滅切窪んだ茶色の眼を蹙めるやうにしながら微かな笑を浮べた。
親方が勘次に話をしたとき
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親方が勘次へ噺をした時
「わしは、なあに、家の者だから面倒を見ないとは言わないね」
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「わしや、なあに、家のもんだから面倒見ねえた云はねえね」
勘次は気の乗らない態度で言った。
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勘次は油の乘らぬ態度でいつた。
「勘次さん、近ごろ暮らし向きがいいという話だが」
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「勘次さん近頃工合がえゝといふ噺だが」
親方も義理でひととおり言うと
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親方も義理一遍のやうにいふと
「暮らし向きがいいということもないが、これでも命がけで働いてるんだから、他人には大きなお金になるようにも見えるだろうが、おれにはこれで爺さんの代の借金がぬけないでいるんだから、それさえなけりゃ泣かないでも済むんだよ。そんだが、それでばかり身動きが取れないな」
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「工合えゝつちこともねえが、此んでも命懸けで働えてんだから、他人のがにや大けえ錢になるやうにも見えべが、俺らにこんで爺樣が代の借金拔けねえで居んだからそれせえなけりや泣かねえでも畢へんだよ、そんだがそれでばかり動き取れねえな」
「そんじゃ、そのときには勘次さんも都合がいいわけだね」
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「そんぢや、其の時にや勘次さんも善い理由だね」
「そりゃそうだが」
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「そりやさうだが」
勘次はどことなく調子を変えて言った。
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勘次は何處となく拍子を變へていつた。
「勘次さんら、それでも穀物はなかなかあるようすだね」
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「勘次さん等それでも穀類はなか/\有る容子だね」
つっこんで聞くと
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突込んで聞くと
「それくらいなくちゃ仕方がないもの。おれはここへ来たばかりのころには、病気のときでもまるでひきわり麦ばかりのごはんなんぞ出されて、おれはずいぶんつらい目にあったんだよ。これでそういうことは忘れられないもんだからな」
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「其の位なくつちや仕やうねえもの、俺ら此處へ來た當座にや病氣ん時でもからつき挽割麥ばかしの飯なんぞおん出されて、俺ら隨分辛え目に逢つたんだよ、こんでさうえこた、忘らんねえもんだかんな」
勘次はとうとう、はっきりしない返事をするばかりだった。
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勘次は到頭要領を得ない返辭をするのみであつた。
蔵の親方は、勘次がどういう気持ちであるかということは、卯平には言わなかった。
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藏の親方は勘次がどういふ料簡であるといふことは卯平へはいはなかつた。
たとえどうであっても勘次の所へ帰らなければならないことに決まっているのだから、それには戸板に乗せて運ぶような病気になるまで奉公させておくよりも、丈夫なうちに休みを取らせて帰してしまえば、あるいは勘次との仲も思ったほど悪くならないだろうと、ほどよいことを卯平に話した。
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假令どうした處で勘次の許へ歸らねばならぬことに極つて居るのだから、それには戸板へ乘せてやる樣な病氣の起るまで奉公させて置くよりも、丈夫なうちに暇を取らせて還して畢へば、或は勘次との間も思つた程のこともないだらうと、程よいことに卯平へ噺した。
卯平はもちろん親方から、家のようすや、おつぎが大人になったことや、近所のことも一つ一つ聞かされた。
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卯平は固より親方から家の容子やおつぎの成人したことや、隣近所のことも逐一聞かされた。
卯平はくぼんだ茶色の目に、暖かな光をたたえた。
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卯平は窪んだ茶色の眼に暖かな光を湛へた。
卯平は短いあいだだったが、気がついてから心がけたので、さいふにはいくらかのたくわえもあった。
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卯平は短い時間であつたが氣がついてから心掛けたので財布には幾らかの蓄へもあつた。
わずかな着物だが、それでもすすけたように色のあせた風呂しきに大きな包みが二つできた。
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僅な衣物であるがそれでも煤けたやうに褪めた風呂敷に大きな包が二つ出來た。
一つの、要らないほうは、運河から鬼怒川へ通う高瀬舟にたのんで、自分の村の河岸へ上げてもらうことにして、彼はたばこの一服も忘れないように身につけた。
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一つの不用の分は運河から鬼怒川へ通ふ高瀬船へ頼んで自分の村落の河岸へ揚げて貰ふことにして、彼は煙草の一服をも忘れない樣に身につけた。
彼は股引にわらじをはいて、その大きな風呂しきを背負って発った。
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彼は股引に草鞋を穿いて其の大風呂敷を脊負つて立つた。
ビールの空きびん二本にいっぱいのしょうゆを、すげ縄でくくって提げた。
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麥酒の明罎二本へ一杯の醤油を莎草繩で括つて提げた。
それから彼はまた、せんべいを一ふくろ買った。
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それから彼は又煎餅を一袋買つた。
しょうゆと米がいいので、うまいせんべいだった。
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醤油と米とが善いので佳味い煎餅であつた。
彼は三つのときに別れて、五つの秋にちょっと見た与吉が、もう八つか九つになっていると、こう数えてみて、おみやげが買いたくなったのである。
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彼は三つの時に別れて五つの秋に一寸見た與吉がもう八つか九つに成つて居ると恁う數へて見て土産が買ひたく成つたのである。
せんべいのふくろは、毎日使っていた手ぬぐいでくくって、荷物のひもにしばりつけた。
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煎餅の袋は毎日使つて居た手拭で括つて荷締めの紐へ縛りつけた。
彼は冬になってまた起こりかけたリューマチをおそれて、とてもゆっくりと歩を運んだ。
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彼は冬になつてまた起りかけた僂痲質斯を恐れて極めてそろ/\と歩を運んだ。
利根川をわたってからは、かれ木の林がさびしくつづきながら彼をのみこんだ。
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利根川を渡つてからは枯木の林は索寞として連續しつゝ彼を呑んだ。
彼はところどころでのっそりと腰を下ろして、好きなたばこをふかした。
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彼は處々へのつそりと腰を卸して好きな煙草をふかした。
荷物を道ばたへ下ろすとき、彼は必ずしばりつけた手ぬぐいの包みに手をかけて、新聞紙のふくろががさがさと鳴るのを聞いて安心した。
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荷物を路傍へ卸す時彼は屹度縛りつけた手拭の包へ手を掛けて新聞紙の袋のがさ/\と鳴るのを聞いて安心した。
かれ木の林は、立ちのぼるたばこのけむりが、根の切れたまますっと急いでえだにからんで消えるのもかくさずに、がらんとしている。
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枯木の林は立ち騰る煙草の煙が根の切れた儘すつと急いで枝に絡んで消散するのも隱さずに空洞として居る。
卯平がじっとしていると、あおじがそっとそっとかわいた落ち葉をふんで彼の近くまで来ては、すいとえだへ飛んだ。
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卯平が凝然として居ると萵雀が忍び/\に乾いた落葉を踏んで彼の近くまで來てはすいと枝へ飛んだ。
彼はまわりにはまったく心を引かれることもなく、たもとのマッチで火をつけてはまたマッチをたもとへ入れて、そしてげっそりと落ちた両ほおの肉が、さらにぴっちりと歯茎に吸いついてしまうまでゆっくりとたばこを吸って、きせるをすっとぬいてからまた歯茎で空気を吸って、けむりといっしょに飲んでしまったかと思うようにごくりとつばを飲んで、それからけむりをはき出すのである。
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彼は周圍には一切心を惹かされることもなく袂の燐寸へ火を點けては又燐寸を袂へ入て、さうしてからげつそりと落ちた兩頬の肉が更にぴつちりと齒齦に吸ついて畢ふまで徐りと煙草を吸うて、煙管をすつと拔いてから又齒齦へ空氣を吸うて煙と一つに飮んで畢つたかと思ふやうにごくりと唾を嚥んで、それから煙を吐き出すのである。
彼はまわりがさびしいとも何とも思わなかった。
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彼は周圍が寂しいとも何とも思はなかつた。
しかし彼自身は、見るからにかわいてあわれげだった。
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然し彼自身は見るから枯燥して憐れげであつた。
彼は少しきりきりと痛む腰をのばして、荷物を背負って立った。
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彼は少しきや/\と痛む腰を延して荷物を脊負つて立つた。
捨てたマッチの燃えさしが道ばたのかれ草に火をつけて、あざ笑うような火がべろべろと広がっても、見向きもしないほど彼はだるそうである。
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捨てた燐寸の燃えさしが道端の枯草に火を點けて愚弄するやうな火がべろ/\と擴がつても、見向かうともせぬ程彼は懶げである。
野田からは四十キロに足りない平地の道を、鬼怒川ぞいの自分の村まで来るのに、冬の短い日は雑木林のえだの上で彼を待たなかった。
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野田からは十里に足らぬ平地の道を鬼怒川に沿うた自分の村落まで來るのに、冬の短い日が雜木林の梢に彼を待たなかつた。
彼が自分の家に着いたときには、しょうゆを提げた手が痛いほど冷えていた。
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彼は自分の家に着いた時は醤油を提げた手が痛い程冷えて居た。
彼はやっとのことで戸口に立った。
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彼は漸のことで戸口に立つた。
勘次を呼ぼうとしてみたら、中はしんとして暗い。
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勘次を喚ばうとして見たら内はひつそりと闇い。
戸口に手を当ててみたら、かぎがかけてあった。
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戸口に手を當てゝ見たら鍵が掛てあつた。
「いたかい」
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「居たかえ」
それでも卯平はどなってみたが、返事がない。
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それでも卯平は呶鳴つて見たが返辭がない。
卯平は口の中でつぶやいて、裏の戸口へ回ってみたら、そこは内からかけ金がかかっている。
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卯平は口の内で呟いて裏戸口へ廻つて見たら其處は内から掛金が掛つて居る。
彼はそれでもきせるを出して、戸のすきまからかけ金をぐっと突いたら、栓がしてなかったのですぐに外れた。
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彼はそれでも煙管を出して戸の隙間から掛金をぐつと突いたら栓を揷てなかつたので直に外れた。
彼は暗いしきいをまたいで、たもとのマッチをすっとつけた。
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彼は闇い閾を跨いで袂の燐寸をすつと點けた。
何年いなくても勝手を知っているので、彼は柱にかけてある手ランプをつけて、とりあえず手足を暖めるために、しばをぽちぽちと折って火ばちにくべた。
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幾年居なくても勝手を知つて居るので彼は柱へ懸てある手ランプを點けて、取り敢ず手足を暖める爲に麁朶をぽち/\と折つて火鉢へ燻べた。
すすけた薬かんを五徳へかけて、それから彼はわらじをぬいだ。
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煤けた藥罐を五徳へ掛てそれから彼は草鞋をとつた。
かわいた道を歩いて来たので、いくらもよごれない足の底を二、三度ずつ手でこすって、座敷へ上がった。
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乾いた道を歩いて來たので幾らも汚れない足の底を二三度づゝ手でこすつて座敷へ上つた。
勘次は南の家のおふろへ行っていた。
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勘次は南の風呂へ行つて居た。
彼は昼はわずかのひまもおしんで働くので、一つにはそれが夜なべの仕事にはげめないほどのつかれを感じさせているのでもあるが、少しふところに余ゆうができてからは、長い夜の休みの時間にはめったに縄をなうこともなく、おふろに行ってはよく話をしながら出がらしのお茶をすすった。
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彼は晝は寸暇をも惜んで勞働をするので一つには其れが夜なべの仕事を勵み得ない程の疲勞を覺えしめて居るのでもあるが、少し懷が窮屈でなくなつてからは長い夜の休憇時間には滅多に繩を綯ふこともなく風呂に行つては能く噺をしながら出殼の茶を啜つた。
その夜、与吉は南の家の女房から、はっかの入った駄菓子を二つばかりもらった。
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其夜與吉は南の女房から薄荷の入つた駄菓子を二つばかり貰つた。
裏のかきねから桑畑をこえて歩きながら、与吉は菓子をなめた。
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裏の垣根から桑畑を越えて歩きながら與吉は菓子を舐つた。
「どれ、おれにもちょっと出してみないか」
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「どれ、俺げもちつと出て見ねえか」
おつぎは与吉の手から少し欠いて、自分の口へ入れた。
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おつぎは與吉の手から少し缺いて自分の口へ入れた。
「姉ちゃんは大きく欠いちゃいやだぞう」
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「姊は大かくおつ缺えちや厭だぞう」
与吉が心配して言うと
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與吉は懸念していふと
「ああはっかだ、これは。口の中がすうすうすらあ。おとっつあんにもやってみろ」
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「おゝ薄荷だこら、口ん中すう/\すら、おとつゝあげも遣つて見ろ」
おつぎがまた菓子に手をかけようとすると
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おつぎは又た菓子へ手を掛けようとすると
「いいから、よきになめさせろ」
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「えゝから、よきげ嘗めさせろ」
勘次はおつぎを止めた。
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勘次はおつぎを制した。
三人は他人の目のない暗い夜の細い道を、こうして自分の庭へもどった。
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三人は他人の目が開いてない闇夜の小徑を恁うして自分の庭へ戻つた。
「どうしたんだろう、おとっつあん」
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「どうしたんだんべ、おとつゝあ」
おつぎは戸のすきまからさす明かりを見て、急に立ち止まって言った。
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おつぎは戸の隙間から射す明りを見て俄に立ち止つていつた。
勘次はすくんだようになって黙った。
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勘次は竦んだやうに成つて默つた。
おつぎは戸のすきまからのぞいて
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おつぎは戸の隙間から覗いて
「爺さんみたいだな、おとっつあん」
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「爺見てえだな、おとつゝあ」
と小声で告げた。
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と小聲で告げた。
それから勘次ものぞいて、かぎを外して入った。
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それから勘次も覗いて、鍵を外して這入つた。
与吉は見知らないおじいさんがいるので、はずかしがっておつぎの後ろへかくれた。
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與吉は見識らぬ爺さんが居るので羞かんでおつぎの後へ隱れた。
「爺さんだ」
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「爺だ」
と、おつぎは叫んで卯平のそばへ寄った。
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とおつぎは叫んで卯平の側へ寄つた。
「爺さんは今日来たのか」
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「爺は今日來たのか」
おつぎのあいさつにつづいて
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おつぎの挨拶に續いて
「おとっつあん、おそかったな」
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「おとつゝあ遲かつたな」
勘次も言った。
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勘次もいつた。
「出るのもそんなに早くはなかったっけが、しばらく歩きなれないせいか、なんぼにも足が出ないで、こんなにおそくなるつもりもなかったっけが」
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「出だすのもそんなに早かなかつたつけが、暫く歩きつけねえ所爲かなんぼにも足が出ねえで、かういに遲くなる積もなかつたつけが」
卯平は重い口で言った。
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卯平は重い口でいつた。
「よっぽど待っていたか、爺さんは」
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「餘つ程待つてゝか爺は」
おつぎは、しばを折り足しながら言った。
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おつぎは麁朶を折り足しながらいつた。
「火をふきつけたばかりよ」
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「火吹つたけたばかりよ」
卯平は、そのくぼんだ茶色の目をしかめるようにして
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卯平は其の窪んだ茶色の眼を蹙めるるやうにして
「おつうも大きくなったな。とちゅうでなんぞ行き会っちゃ分からないな。そんだが、お前はさすがにおれのことは忘れなかったっけな」
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「おつうも大かくなつたな、途中でなんぞ行逢つちや分んねえな、そんだが汝りや有繋俺れこた忘れなかつたつけな」
「忘れまいな、爺さんは」
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「忘れめえな爺は」
おつぎは卯平に対して、こそばゆい一まいの皮が間をへだてているような感じがしていながら、そのくせ甘えたような口ぶりで言って、ちゅうちゅうと鳴り出した薬かんに手をかけた。
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おつぎは卯平に對してこそつぱい一皮が間を隔てゝ居るやうな感じがして居ながら、其の癖の甘えた樣な舌でいつてちう/\と鳴り出した藥罐へ手を掛けた。
卯平は、おつぎのあいさつを今さらのようにしみじみとうれしく感じた。
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卯平はおつぎの挨拶を今更の如くしみ/″\と嬉しく感じた。
卯平は、お品が死んで三年目のお盆に来たとき、不器用なようすの彼がどうして思いついたのか、おつぎへ花かんざしを一つ買って来た。
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卯平はお品が死んで三年目の盆に來た時不器用な容子の彼がどうして思ひついたかおつぎへ花簪を一つ買つて來た。
十七のおつぎが、どれほどそれをよろこんだか知れなかった。
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十七のおつぎがどれ程それを喜んだか知れなかつた。
おつぎはけっしてそれを忘れなかった。
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おつぎは決してそれを忘れなかつた。
「爺さんにお茶を入れよう」
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「爺げお茶入えべえ」
おつぎは立って茶わんを洗った。
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おつぎは立つて茶碗を洗つた。
卯平は濃いきりでふさがれた森の中へふみこむような、一種の不安を感じながら来たのだったが、彼はおつぎのふるまいに心が晴れ晴れとした。
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卯平は濃霧に塞がれた森の中へ踏込むやうな一種の不安を感じつゝ來たのであつたが、彼はおつぎの仕打に心が晴々した。
卯平は、まだ菓子をなめながらかくれるようにしている与吉を見て
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卯平は、まだ菓子を舐りながら隱れるやうにして居る與吉を見て
「おれのことを忘れただろう、これは。大きくなったと思って来たっけが、本当に分からないほど大きくなったな」
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「俺れこと忘れたんべ此ら、大かく成つたと思つて來たつけが本當に分んねえ程大かく成つたな」
口数の少ない卯平が、この夜はいろいろにしゃべった。
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寡言な卯平が此の夜は種々に饒舌つた。
「これでも学校へ行くんだもの」
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「此んでも學校へ行くんだもの」
おつぎはお茶を入れながら言った。
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おつぎは茶を入れながらいつた。
「そうら」
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「さうら」
と、卯平は荷物にしばりつけたせんべいの包みを、与吉へ投げ出してやった。
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と卯平は荷物へ縛りつけた煎餅の包を與吉へ投げ出してやつた。
「おつう、手ぬぐいを解いてみないか。野田でも一番うまいんだから」
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「おつう、手拭解えて見ねえか、野田でも一番うめえんだから」
卯平は言ったが、おつぎの手が手間取るので、自分で手ぬぐいを解いて勘次の前へ出して、彼はさらに一まいを取って与吉にやった。
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卯平はいつたがおつぎの手が暇どれるので自分で手拭を解いて勘次の前へ出して、彼は更に一枚をとつて與吉へ遣つた。
「よき、それをもらうもんだ。爺さんがくれるというのに」
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「よき、それ貰あもんだ。爺呉れるつちのに」
おつぎは茶わんを卯平と勘次の前に置きながら言った。
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おつぎは茶碗を卯平と勘次との前へ据ゑつゝいつた。
「こっちへ上がってもらうもんだ」
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「こつちへ上つて貰あもんだ」
勘次も言った。
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勘次もいつた。
土間に立っていた与吉は、そっとぞうりをぬいで、あぶなっかしく手を出して取った。
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土間に立つて居た與吉はそつと草履を脱いで危險相に手を出して取た。
そしてすぐに、ぬすむようにかじった。
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さうして直ぐに偸むやうに噛んだ。
「遠くのほうのだぞ。お前、うまかろう」
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「遠くの方のがんだぞ、汝うまかんべ」
おつぎは自分も一まいかじりながら言った。
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おつぎは自分も一枚を噛り乍らいつた。
「うまくないや、そんなに」
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「うまかねえやそんなに」
与吉はおつぎのたもとへかくれるようにして言った。
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與吉はおつぎの袂へ隱れるやうにしていつた。
甘みの強い菓子をかんだ口で、しかもしょうゆの味を見分けるまで育った舌を持たない与吉は、卯平が遠くから持って来たと聞かされたほどには感じなかったのである。
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甘味の強い菓子を噛んだ口に、さうして醤油の味を區別するまで發達した舌を持たない與吉は卯平が遠く齎したと聞かせられた程には感じなかつたのである。
「そんなこと言うもんじゃない。そんなら姉ちゃんによこしちまえ」
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「其麽こといふもんぢやねえ、そんだら姊げよこしつちめえ」
おつぎは小さな声で言って、しり目に見た。
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おつぎは小さな聲でいつて尻目に掛けた。
与吉はそう言われながら、手にした分だけはぽりぽりとかじった。
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與吉はさういひ乍ら手にした丈はぽり/\と噛んだ。
かわいた音が、三人の口で鳴った。
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乾燥した響が三人の口に鳴つた。
卯平は何ばいも、ただお茶をすすった。
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卯平は幾杯も只茶を啜つた。
丈夫だといっても、彼は歯がげっそりとぬけて、やわらかい物でなければかめなくなっていた。
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壯健だといつても彼は齒がげつそりと落ちて軟かな物でなければ噛めなくなつて居た。
卯平はまた、おつぎへしょうゆのびんを出して
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卯平は又おつぎへ醤油の罎を出して
「おれが持って来ればなんぼでもわけないんだが、荷物があるもんだから、これっきりしか持っては来られなかった。これでもおれは、蔵じゃこれ以上のはないんだ。炊事はお前がするんだろうから、お前がそっちへしまっておけな」
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「俺れ持つて來ればなんぼでも譯ねえんだが荷物があるもんだから、此れつ切しか持つちや來ねえつちやつた、此んでも俺ら藏ぢや此上はねえんだ、炊事は汝すんだんべから、汝そつちへ藏つて置けな」
「大変だったな、爺さん。荷物があるのになあ。これだけじゃしばらくもつだろうよ」
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「大變だつけな爺、荷物あんのになあ、此れだけぢや暫らくあんべよ」
おつぎはびんを柱のそばへ置いた。
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おつぎは罎を柱の傍へ置いた。
「荷物はそうでもないが、体が利かないでな、どうも」
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「荷物はさうでもねえが、身體利かねえでな、どうも」
卯平はきせるをかんだ。
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卯平は煙管を噛んだ。
「爺さんはどうしただろう。ごはんを食べたんだろうか」
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「爺はどうしたつぺ、お飯たべたんべか」
おつぎは、わざと言いかけるという態度でもなく、勘次に向かって言った。
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おつぎは敢ていひ掛けるといふ態度でもなく勘次に向つていつた。
「おれはどっちでもいいや」
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「おらどつちでもえゝや」
卯平は少しえんりょをまじえて言った。
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卯平は少し遠慮を交へていつた。
「どっちでもいいって、おなかがへっちゃ仕方があるまいな」
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「どつちでもえゝつて腹減つちやしやうあんめえな」
おつぎは茶わんとはしをたなから下ろした。
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おつぎは茶碗と箸とを棚から卸した。
「菜っぱのつけたのはどうしただろう」
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「菜つ葉の漬たなどうしたんべ」
おつぎはふり返って聞いた。
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おつぎは顧みて聞いた。
「おれは要らないや。歯が悪くなっちまってかめないから」
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「俺ら要らねえや、齒悪くなつちやつて噛まんねえから」
「そんじゃ細かくきざんだらどうだろう」
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「そんぢや細かく刻んだらどうしたんべ」
おつぎはとんとんとほうちょうを使った。
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おつぎはとん/\と庖丁を使つた。
「おしるがまあ、ちっとも実なんざないや。よき、お前がみんないもをすくっちまったな」
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「お汁まあ、ちつとも身なんざねえや、よき汝みんな芋すくつちやつたな」
おつぎはなべぶたを取って言った。
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おつぎは鍋葢をとつていつた。
「おしるも何も要らないから、一ぱいかき込もう」
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「お汁も何も要らねえから一杯掻つ込んべ」
卯平はじれったそうに言った。
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卯平は遲緩し相にいつた。
「そんじゃ、このしょうゆをかけてみような」
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「そんぢや此醤油掛けてんべな」
おつぎは卯平の前におぜんを置いて、びんのしょうゆをつけ菜にかけた。
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おつぎは卯平の前に膳を据ゑて罎の醤油を菜漬へ掛けた。
「それ、底のほうへ回ってこぼれらあな」
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「それ、底の方へ廻つて零れらな」
勘次はさっきから、怒ったようなはずかしがったような、なんだか落ち着きの悪い手持ちぶさたな顔をして、かえって自分をじっと見もしない卯平の目からそれるように、よそを見てはまたちらと卯平を見ていたが、このときおつぎの手元に口をはさんだ。
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勘次は先刻から、怒つたやうな羞かんだやうな、何だか落付の惡い手持のない顏をして、却て自分をば凝然と見もせぬ卯平の目から外れるやうに、餘所を見ては又ちらと卯平を見つゝあつたが此時おつぎの手許へ嘴を容れた。
そのとき、しょうゆがごっと出てつけ菜がひたるほどになった。
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其の時醤油がごつと出て菜漬が漂ふばかりに成つた。
「そうれ見ろ」
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「そうれ見ろ」
勘次はそっけなく言った。
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勘次はそつけなくいつた。
おつぎがびんをまた柱のそばへ置くと
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おつぎが罎を再び柱の傍へ置くと、
「まだそこでひっくり返しちゃ大変だぞ。戸だなへでも入れておけ」
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「まだ其處で引つくるけえしちや大變だぞ、戸棚へでも入えて置け」
勘次はまた注意した。
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勘次は復た注意した。
卯平は薬かんの湯を注いで、三ばいを食べた。
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卯平は藥罐の湯を注いで三杯を喫した。
わずかにしょうゆの味だけが、数年来の彼の舌にうまさを失わせなかったが、ひきわり麦の多いあらいごはんは、歯茎ではとてもかみくだけないので、ざらざらしたまま飲み下した。
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僅に醤油の味のみが數年來の彼の舌に好味たるを失はなかつたが、挽割麥の勝つた粗剛い飯は齒齦が到底それを咀嚼し能はぬのでこそつぱい儘に嚥み下した。
おつぎがおぜんを下げようとすると
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おつぎが膳を引かうとすると
「そのしょうゆは捨てないで、大事にしておけ」
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「其の醤油は打棄らねえで大事にして置け」
勘次は小皿の数てきをおしんだ。
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勘次は小皿の數滴を惜んだ。
「そんなこと言わなくたって、捨てる者もあるまいな」
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「其麽こと云はねえつたつて打棄るもなあんめえな」
おつぎは、口出しの多すぎる勘次の注意がいやだと思うよりも、久しぶりに会った卯平のそばで言われるのがきまり悪いので、喉の底でつぶやいた。
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おつぎは干渉に過ぎた勘次の注意が厭だと思ふよりも、偶逢つた卯平の側でいはれるのが極りが惡いので喉の底で呟いた。
「姉ちゃん、もう一まいくれないか」
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「姊今一枚くんねえか」
与吉は流し場で手を動かしているおつぎに、とても小さな声でねだった。
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與吉は流し元に手を動かして居るおつぎへ極めて小さな聲で請求した。
「お前は、さっきうまくないなんて言うもんじゃない。すぐほしくなるくせに」
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「汝りや、そつから佳味かねえなんていふもんぢやねえ、直ぐ欲しくなる癖に」
おつぎはこっそりしかった。
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おつぎはこつそり叱つた。
「そうら、お前に買って来たんだ。ほしけりゃいくらでも持って行け」
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「そうら汝げ買つて來たんだ、欲しけりや幾らでも持つてけ」
卯平は不器用な言い方をしながら、せんべいを取ってやった。
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卯平は不器用ないひ方をしながら煎餅をとつて遣つた。
与吉はそれでも、くぼんだ目をしかめている卯平がまだこわくて、指の先で下くちびるを口の中へ押しこむようにしながら、ひたい越しに卯平を見た。
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與吉はそれでも窪んだ目を蹙めて居る卯平がまだこそつぱくて指の先で下唇を口の中へ押し込むやうにしながら額越しに卯平を見た。
一七
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十七
次の朝、与吉はまだみんなのおぜんが置かれないうちから、学校へ行くといってさわいだ。
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次の朝與吉はまだ皆の膳の据ゑられぬうちから學校へ行くとては騷いだ。
村の生徒たちは、登校が早いことを先生からひと言でもほめられたいので、慌てなくてもいいのに、しるも煮立たないうちからせかすのである。
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村落の生徒等は登校の早いことを教師から只一言でも褒められて見たいので、慌てなくても善いのに汁も煮立たぬうちから強請むのである。
与吉はこれで、毎朝おつぎからうるさがられていた。
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與吉は此れで毎朝おつぎから五月蝿がられて居た。
与吉は風呂しき包みを背負って、おつぎにべんとうを包んでもらいながら
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與吉は風呂敷包を脊負つておつぎに辨當を包んで貰ひながら
「せんべいをくれないか」
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「煎餅くんねえか」
とねだった。
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と要求した。
「まだそんなこと。そんだからお前には見せられないというんだ。爺さんに怒られるから見ろ」
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「まださうだこと、そんだから汝げは見せらんねえつちんだ、爺に怒られつから見ろ」
おつぎはしかってふり返らなかった。
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おつぎは叱つて顧みなかつた。
勘次はそのとき、外のかべぎわに積んだ木の根をぱかりぱかりと割っていた。
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勘次は其の時外の壁際に積んだ木の根をぱかり/\と割つて居た。
卯平は一日歩いたつかれがひどく出たようでもあるし、また自分の村へ帰ったので心がゆったりしたようでもあるし、それにこの数年は火の番のくせで朝はゆっくりしているのがふつうだったので、彼はそのとき、ふとんの中でじっと目を開いておつぎが働いているのを見ていたが
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卯平は一日歩いた草臥が酷く出たやうでもあるし、又自分の村落へ歸つたので心が悠長とした樣でもあるし、それに此の數年來は火の番の癖で朝はゆつくりとして居るのが例であつたので、彼は其の時蒲團の中に凝然と目を開いておつぎの働いて居るのを見て居たが
「ほしいというんなら出してやれ」
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「欲しいつちんだら出して遣れえ」
と彼は言った。
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彼はいつた。
おつぎは戸だなからせんべいを一まい出して、与吉にわたした。
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おつぎは戸棚から煎餅を一枚出して與吉へ渡した。
与吉はすっとうばうようにして取った。
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與吉はすつと奪ふ樣にして取つた。
「しらばくれて」
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「しらばつくれて」
おつぎは、ななめに背負った本の上から与吉をぱたとたたいた。
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おつぎは斜に脊負つた書藉の上から與吉をぱたと叩いた。
与吉は霜が白くおおった庭を、小さな下駄でからからと鳴らしながら、逃げるようにかけて行った。
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與吉は霜の白く掩た庭を小さな下駄でから/\と鳴らしながら遁げるやうに駈けて行つた。
卯平はくぼんだ目をしかめて、一種の暖かな表情を見せて与吉の後ろすがたを見た。
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卯平は窪んだ目を蹙めて一種の暖かな表情を示して與吉の後姿を見た。
勘次は割ったたきぎを草かりかごに入れて、かまどの前に置いて朝ごはんのおぜんに向かって、一ぱいを盛った。
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勘次は割つた薪を草刈籠へ入れて竈の前へ置いて朝餉の膳に向つて、一碗を盛つた。
おつぎは気がついたように
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おつぎは氣がついた樣に
「爺さんのことを起こそうか」
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「爺こと起すべか」
と言って、勘次が返事しないうちに
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といつて勘次が返辭せぬ内に
「爺さん、ごはんができたよ」
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「爺、お飯出來たよ」
と卯平を呼んだ。
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卯平を喚んだ。
「先にやってくれよ」
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「先やつてくろえ」
卯平はそう言って、しばらくしてからふとんを出て井戸ばたへ行った。
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卯平はさういつて暫く經つてから蒲團を出て井戸端へ行つた。
卯平は何年ぶりかで、冷たい水で顔を洗った。
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卯平は幾年目かで冷たい水で顏を洗つた。
彼は近ごろにない早起きをしたので、霜の白い庭に立って、こわばった足のつま先が痛くなるほど冷たいのを感じた。
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彼は近來にない晨起きをしたので、霜の白い庭に立つて硬ばつた足の爪先が痛くなる程冷たいのを感じた。
火ばちのそばにすわってもたばこの火もないので、彼は自分でかまどの下の燃えさしを灰のまま取った。
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火鉢の側へ坐つても煙草の火もないので彼は自分で竈の下の燃えさしを灰の儘とつた。
おつぎは勘次がたばこを吸わないので、ちょっとたばこの火を取ることにまでは気づかなかった。
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おつぎは勘次が煙草を吸はないので一寸煙草の火をとることにまでは心附かなかつた。
野田ではいつもかんかんと固い炭をおこして、湯はいくらでもわいて、夜でも部屋の中から火の気が絶えることはないのである。
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野田では始終かん/\と堅炭を熾して湯は幾らでも沸つて夜でも室内に火氣の去ることはないのである。
卯平はおくれてはしを取ったが、ごはんは暖かいというだけで、大きなかまでたいたようなほどよいやわらかさは保っていないし、しるもその舌にひどくざらついて、しかもまずかった。
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卯平は後れて箸を執つたが、飯は暖かいといふ迄で大釜で炊いた樣に程よい軟かさを保つては居ないし、汁も其の舌に酷くこそつぱく且不味かつた。
彼は味噌には、量を増やすためにしょうゆかすがかき混ぜてあることを知った。
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彼は味噌には分量を増す爲に醤油粕が掻き交ぜてあることを知つた。
勘次はくわを取って立った。
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勘次は鍬を執つて立つた。
彼は毎日くわを持って出ていたのだが、この日はおつぎを連れて麦畑の冬起こしに出るのだった。
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彼は毎日唐鍬を持つて出て居るのであつたが此の日はおつぎを連れて麥畑の冬墾に出るのであつた。
卯平は独り、ぽつんと残された。
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卯平は獨で㷀然と残された。
丈夫な建物にほうきを入れて清潔に暮らして来た彼は、天井もない屋根裏からすすがたれて、そして雨戸を開けていないうす暗い家の中でじっとしていると、妙に心がしずんだ。
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丈夫な建物に箒を入れて清潔に住んで來た彼は天井もない屋根裏から煤が垂れてさうして雨戸を開けてない薄闇い家の内に凝然としては妙に心が滅入つた。
毎日朝から短いじゅばん一つで、熱い湯のおけを右の手で肩にささえてはかけ歩く、元気のいい若者にまじって歌の声を聞いていたのに、一つにはつかれも出たためでもあるが、わずか一日のちがいで、彼は急に年を取ったほどげっそりとやつれたような気持ちになった。
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毎日朝から尻切襦袢一つで熱湯の桶を右の手で肩に支へては駈け歩く威勢の善い壯丁の間に交つて唄の聲を聞て居たのに、一つには草臥も出た爲でもあるが僅一日の隔で彼は俄に年齡をとつた程げつそりと窶れたやうな心持に成つた。
みんなのふとんは、ただかべぎわに、はしをめくったまま押しつけてある。
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皆の夜具は只壁際に端を捲くつた儘で突きつけてある。
卯平はそこをじっと見た。
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卯平は其處を凝然と見た。
箱まくらのくくりは紙で包んでないばかりでなく、生地のしま目も分からないほど汚くあぶらにしみている。
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箱枕の括りは紙で包んでないばかりでなく、切地の縞目も分らぬ程汚なく脂肪に染つて居る。
土間のかべぎわにつるした竹かごのねぐらには、にわとりのふんがいっぱいにたまったと見えて、いやなにおいが鼻をついた。
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土間の壁際に吊つた竹籃の塒には鷄の糞が一杯に溜つたと見えて異臭が鼻を衝いた。
卯平は生まれつききれい好きだったが、百姓の暮らしをして、それにひどい貧しさからどうしても汚い物のあいだで寝起きしなければならないので、彼も野田へ行くまではそれを特に気にはしなかったのだが、たとえ何年でも清潔な暮らしをした彼は、生まれつきをさらに強めて一種のくせを身につけた。
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卯平は天性が清潔好であつたが、百姓の生活をして、それに非常な貧乏から什麽にしても穢ない物の間に起臥せねばならぬので彼も野田へ行くまではそれをも別段苦にはしなかつたのであるが、假令幾年でも清潔な住ひをした彼は天性を助長して一種の習慣を養つた。
彼が家に帰ったのは、お品が死んだときも、それから三年目のお盆のときも、家はがらんと清潔になっていて、それほど汚い感じはしなかった。
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彼が家に歸つたのはお品が死んだ時でも、それから三年目の盆の時でも家は空洞と清潔に成つて居てそれほど汚穢い感じは與へられなかつた。
彼は今、強い暑い日を見上げた目をそらして、急に日かげをさがそうとする者のように、ひどく勝手がちがったのである。
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彼は今熾な暑い日を仰いだ目を放つて俄に物陰を探さうとするものゝやうに酷く勝手が違つたのである。
彼はしばらく好きなたばこにかかりきっていたが、やっと日が暖かくなりかけたので、まれに生き残っているむかしの仲間や近所へのあいさつかたがた、顔を出すつもりで外へ出た。
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彼は暫く好な煙草に屈託して居たが漸く日が暖く成り掛けたので、稀に生存して居る往年の朋輩や近所への義理かた/″\顏を出す積で外へ出た。
勘次とおつぎが昼ごはんに帰って来たとき、卯平はいなかった。
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勘次とおつぎとが晝餐に歸つて來た時に卯平は居なかつた。
彼は夜になって、のっそりと戸口に立った。
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彼は夜に成つてのつそりと戸口に立つた。
勘次が庭へ出ようとして大戸をがらりと開けたとき、卯平とぶつかりそうになった。
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勘次が庭へ出ようとして大戸をがらりと開けた時卯平と衝突り相に成つた。
勘次は足元にずるずると横たわったへびを見つけた瞬間のように、ぞっとして下がった。
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勘次は足もとにずる/\と横はつた蛇を見つけた刹那の如く悚然として退去つた。
卯平は欠けた歯茎できせるを横にかんでは、くちびるをぎっと閉めると、口がすすきで裂いたように見えた。
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卯平は缺けた齒齦で煙管を横に噛んでは脣をぎつと締めると口が芒で裂いた樣に見えた。
年を取ってよけいにのっそりした卯平の体は、それでも以前のがっしりした骨組みがそびえて、そばにいる勘次を異様におさえつけた。
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老衰してから餘計にのつそりした卯平の身體は、それでも以前のがつしりした骨格が聳えて側に居る勘次を異樣に壓した。
卯平は五、六日のあいだ、毎日ただぶらぶらと出ては、夕暮れ近くか、そうでなければ夜になって帰った。
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卯平は五六日の間毎日唯ぶら/\と出ては黄昏近くかそれでなければ夜に成つて歸つた。
勘次は毎日、くわを持って林へ出た。
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勘次は毎日唐鍬持つて林へ出た。
おつぎは半纏を引っかけて、おはりの先生へ通った。
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おつぎは半纏を引掛けて針の師匠へ通つた。
おつぎはもう何年という長いあいだのことではあるが、それでも決まった月日をつづけておはりにはげむゆとりがなく、やっと手についたかと思うととちゅうで切ったり止めたりするので、思うようには上達しなかった。
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おつぎはもう幾年といふ永い間のことではあるが、それでも極つた月日を繼續して針仕事を勵む餘裕がなく漸く手についたかと思ふと途中を切つたり止めたりするので思ふ樣な上達はなかつた。
おつぎはひまをぬすんでは、いっしょうけんめいに針を取った。
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おつぎは暇を偸んでは一生懸命で針を執つた。
卯平がのっそりとしてはしを持つのは、毎朝こせこせといそがしい勘次がわらじをはいて出ようとするときである。
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卯平がのつそりとして箸を持つのは毎朝こせ/\と忙しい勘次が草鞋を穿て出ようとする時である。
おつぎは卯平のために火ばちへ炭火をうめてやったり、おひつをそばへ置いたりするので、いくらか時間がおくれる。
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おつぎは卯平の爲に火鉢へ煨を活けてやつたり、お鉢を側へ供へたりするので幾らか時間が後れる。
すると勘次は、かついだくわをどさりと置いたり、しきいを出たり入ったり、ただもじもじとしていては、口に出せない何かをおさえるようなおそろしいけんまくでおつぎを見る。勘次はそれでも満足しないで、おつぎのすがたが戸口を出るまで庭に立っていることもある。
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さうすると勘次は擔いだ唐鍬をどさりと置いたり、閾を出たり這入つたり、唯忸怩として居ては、口に出せない或物を包むやうな恐ろしい權幕でおつぎを見る、勘次はそれでも慊らないでおつぎの姿が戸口を出るまでは庭に立つて居ることもある。
勘次は毎朝出て行く方角がちがうのに、同時に出て行くのを見なければ気が済まないのだった。
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勘次は毎朝出て行く方面が異つて居るにも拘らず、同時に立つて行くのを見なければ心が濟まないのであつた。
毎朝そうするので
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毎朝さうするので
「おとっつあんは行けな。爺さんのことを見てやらなくちゃなるまいな」
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「おとつゝあは行けな、爺こと見てやんなくつちや成んめえな」
おつぎはこっそり勘次をたしなめて言うことがある。
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おつぎは竊に勘次を窘めていふことがある。
勘次はおそろしいけんまくでじっと立ったまま、おつぎをにらんで、そして卯平をちらと一目見ては、卯平の目を気にするようにして、さっさとくわをかついで出て行く。
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勘次は恐ろしい權幕で凝然と立つた儘おつぎを睨んでさうして卯平をちらと一瞥しては、卯平の目を憚る樣にしてさつさと唐鍬を擔いで出て行く。
卯平は自分のためにおつぎがおそくなるときには
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卯平は自分の爲におつぎが遲く成る時には
「おれは自分でやるから、お前はかまわないで行けよ」
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「俺ら自分でやつから汝りや構あねえで行けよ」
と、おつぎをせき立てた。
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おつぎを促し立てた。
卯平は初めのうちはあちこちへ行っては、自分から求めなくても、しばらく会わなかった間がらで、短い日が落ちるのも知らずに話をしては、百姓なりのそまつなごちそうになるのだったが、だんだんおたがいに珍しくなくなってからは、彼はあまり外へも出ないで、ぽつんとして好きなたばこにばかりかかりきった。
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卯平は當座の内は其處ら此處らへ行つては自分からは求めないでも、暫く遭はなかつた間柄で、短い日の落ちるのも知らずに噺をしては百姓相當な不味い馳走に成るのであつたが、段々互に珍らしくなくなつてからは彼は餘り外へも出ないで㷀然として好きな煙草にのみ屈託した。
彼は昼ごはんというと、ことに冷たいあらいごはんをきらって、はしを取るのがつらいようでもあった。
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彼は晝飯といふと殊に冷たい粗剛い飯を厭うて箸を執るのが辛いやうでもあつた。
それで彼はときどき村の店へ行って、とうふ一丁くらいでおなかをふさいだ。
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其れで彼は時々村落の店へ行つて豆腐の一丁位に腹を塞げた。
皿のとうふをすみからはしでちぎってみては、あまりに冷たいので、腰の痛みを思い出して小さななべを借りて温めた。
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皿の豆腐を隅から箸で拗切つて見ては餘りに冷いので、腰の痛みを思ひ出して小さな鍋を借りて暖めた。
そしてはつい一ぱいのお酒がほしくなって、そこでむっつりと時間をつぶした。
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さうしては遂一杯の酒が欲くなつて其處でむつゝりと時間を潰した。
とうふは彼の歯茎に、いちばん合った食べ物だった。
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豆腐は彼の齒齦に最も適當した食料であつた。
卯平は体が悪くなってからわずかのあいだでも覚ごをしたので、いくらかさいふにたくわえができていた。
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卯平は身體が惡く成つてから僅の間でも覺悟をしたので幾らでも財布には蓄へが出來て居た。
彼はどれほどせつやくしても、ついにじりじりとへって行くだけのさいふにすがって、すすきで裂いたように閉じたその口で、何でもかみ殺しているのだというようすをして、その日その日を刻んで過ごした。
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彼は何程節約しても遂にじり/\と減て行くのみである財布に縋つて、芒で裂いた樣に閉ぢた其の口に何でも噛み殺して居るのだといふ容子をして其日々々と刻んで過した。
彼は一日じっとして、冷たい火ばちの前にあぐらをかいていることもあった。
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彼は一日凝然として冷たい火鉢の前に胡坐を掻いて居ることもあつた
与吉は学校から帰って、しんとした家にただ卯平がむっつりとしているのを見ると、元気よくかけて来たのもしょげて、風呂しき包みの本をばたりと座敷へ投げて、庭へ出てしまう。
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與吉は學校から歸つてひつそりとした家に只卯平がむつゝりとして居るのを見ると威勢よく駈けて來たのも悄げて風呂敷包の書籍をばたりと座敷へ投げて庭へ出て畢ふ。
卯平は
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卯平は
「よき、待ってろ、そら」
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「よき、待つてろ、そら」
と、さいふから苦労して五厘の銅貨を拾い出して投げてやる。
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と財布から面倒に五厘の銅貨を拾ひ出して投てやる。
与吉は戸のかげにいては、もじもじしてなかなか取らないで、それでいてほしそうにむしろの上の銅貨を見る。
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與吉は戸の陰に居ては忸怩して容易に取らないで然も欲し相に筵の上の銅貨を見る。
卯平はそうすると、またのっそりとだるそうに体を戸口まで運んで、与吉の手にわたしてやる。
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卯平はさうすると又のつそりと懶げに身體を戸口まで動かして與吉の手に渡してやる。
与吉は一気にかけて、菓子を買いに行く。
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與吉は一散に駈けて菓子を求めに行く。
卯平のくぼんだ茶色の目が、後で独りしかめたようになるのである。
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卯平の窪んだ茶色の眼が後で獨蹙んだやうに成るのである。
卯平が村の店にだるい体を置いてたばこをふかしている所へ、与吉が行き合わせることがあっても、遠くのほうから卯平を見ていて、近づきもしないが去ろうともしないでいる。
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卯平が村落の店に懶い身體を据ゑて煙草を吹かして居る處へ與吉は行合せることがあつても遠くの方から卯平を見て居て、近づきもしないが去らうともしないで居る。
卯平は必ずガラス戸を開けて、店の台から自分で菓子を取ってやる。
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卯平は屹度ガラス戸を立て店臺から自分で菓子をとつてやる。
それでも与吉は、菓子をかじりながらそばへは寄ろうともしなかった。
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それでも與吉は菓子を噛ぢりながら側へは寄らうともしなかつた。
「与吉らはたいしたもんだな、いつももらって」
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「與吉らたえしたもんだな、始終もらつてな」
店の女房が言うのを聞くのは、与吉よりもむしろ卯平が心に満足を感じるのだった。
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店の女房がいふのを聞くのは與吉よりも寧ろ卯平が心に滿足を感ずるのであつた。
しかし与吉はこうしてだんだん卯平に近づいて、学校から帰ったといっては
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然し與吉は恁うして段々卯平に近づいて學校から歸つたといつては
「爺さん」
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「爺」
と言って戸口に立つようになった。
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といつて戸口に立つやうに成つた。
ついには彼は
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遂には彼は
「爺さん、くれないか」
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「爺くんねえか」
と、上がりがまちに胸をもたせて、ばたばたと下駄で土間をたたきながら、卯平にお金をねだるようになった。
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と上り框に胸を持たせて、ばた/\と下駄で土間を叩きながら卯平に錢を請ふやうに成つた。
それでも彼は、お金とははっきりとは言わない。
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それでも彼は錢とは明白地にはいはない。
「お前は、何をくれというんだい」
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「汝りや、何くろつちんでえ」
むっつりした卯平がわざとこう聞くと
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むつゝりした卯平が態とかう聞くと
「くれないか、買うんだから」
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「呉んねえか、買あんだから」
与吉はまたぼんやりと、しかしいっしんに求める。
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與吉は又ぼんやりと然も熱心に要求する。
その態度を卯平は、ただ心地よく思うのだった。
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其態度を卯平は只快よく思ふのであつた。
与吉がなつくまでには、日数がかかった。
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與吉が懷くまでには日數が經つた。
卯平は勘次との仲は思ったとおり冷たかったが、ちょうど落ち着かない藁くずを足でかき払ってはにわとりがとうとうその巣を作るように、彼はおたがいに気づまりな勘次のそばに、いくらかずつでも身も心も落ち着かせるよりほかなかった。
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卯平は勘次との間は豫期して居た如く冷がではあつたが、丁度落付かない藁屑を足で掻つ拂いては鷄が到頭其の巣を作るやうに、彼は互にこそつぱい勘次の側に幾分づゝでも身も心も落付ねばならなく餘儀なくされた。
そして彼は、自分の決まった家そのものはたとえどうであろうとも、心の一部にはえんりょからはなれたゆとりができて来て、彼はわずか五、六日と思ううちに三十日以上を過ごしてしまったのだった。
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さうして彼は自分の定まつた家其の物は假令どうであらうとも、心の一部には遠慮から離れた餘裕が生じて來て彼は僅に五六日と思ふ内に卅日以上を經過して畢つたのであつた。
そのあいだ、彼はただの一度もやわらかなごはんを気持ちよく飲み下したことがない。働く人がたくさん食べなければならない丈夫な胃は、とてもやわらかい物ではもたないのである。
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其の間彼は只の一度でも軟かな飯を快よく嚥み下したことがない、勞働者の多く貪らねばならぬ強健なる胃は到底軟な物に堪へ得る處ではない。
歯にかたく感じる物でなければ、食事から食事までのあいだをもたせられないほど、たちまちおなかがすいてしまうからである。
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齒に硬く感ずる物でなければ食事から食事までの間を保ち能はぬ程忽ちに空腹を感じて畢ふからである。
だから、どこの家でも、年老いた者と若い者とのあいだには、この点の折り合いがむずかしい。
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隨つて孰れの家庭に在つても老者と壯者との間には此の點の調和が難事である。
しかし卯平は、年老いた身をやっとのことであずけた心の底にわだかまるえんりょと、生まれつきの無口とで、自分から求めることは少しもなかった。
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然し卯平は老衰の身を漸くのことで投げ掛けた心の底に蟠つた遠慮と性來の寡言とで、自分から要求することは寸毫もなかつた。
彼はただおなかをすかせないために、日ごとにまずい口をむりに動かしているのである。
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彼は只空腹を凌ぐ爲に日毎に不味い口を強ひて動かしつゝあるのである。
そまつな食べ物は、小さいころからおつぎの目にも口にもなじんでいるので、そこには何も気がつかなかった。
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疎惡な食料は少時からおつぎの目にも口にも熟して居るので、其處には何の心も附かなかつた。
まずそうなようすではしを取るのは、卯平がいつもそうなので、おつぎの目には特に気づかせるきっかけが一つもなかった。
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不味相な容子をして箸を執るのは卯平が凡ての場合を通じての状態なので、おつぎの目には格別の注意を起さしむべき動機が一つも捉へられなかつた。
こうしておつぎは卯平に向かって、彼がいくらかでもよけいに満足できる程度にまで心をつくすことが、よい気持ちからであっても、むしろ冷たいように見えてしまうのだった。
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恁うしておつぎは卯平に向つて彼が幾分づゝでも餘計に滿足し得る程度にまで心を竭すことが、善意を以てしても寧ろ冷淡であるが如く見えねばならなかつた。
しかし卯平は、けっして心の底からおつぎをにくまなかった。
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然し卯平は決して衷心からおつぎを憎まなかつた。
卯平はときどき外へ出てはとうふを食べて、自分のおぜんのはしを取らないことはあったのだが、それでも勘次は、三人だけが家族だったころよりも穀物のへる量が増えて来たことを、たちまち目に止めた。
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卯平は時々外へ出ては豆腐を喫して自分の膳の箸を執らぬことはあるのであつたが、それでも勘次は三人のみが家族であつた時よりも穀物の減少する量が殖えて來たことを忽ちに目に止めた。
どれほど大きな体でも、卯平は八十に近い年寄りである。
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何れ程大きな身體でも卯平は八十に近い老衰者である。
一日の食べ物がどれほど要るか、それは知れたものである。
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一日の食料がどれ程要るかそれは知れたものである。
それでも勘次は、これまでよりよけいに使わなければならない穀物のことで、その卑しい心がどうしてもさわがずにいられなかった。
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それでも勘次は從來よりも餘計に費やさねばならぬ穀物に就いて彼の淺猿しい心が到底騷がされねばならなかつた。
勘次は卯平のいないときには、それとなく独りぶつぶつとつぶやくことがあった。
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勘次は卯平の居ぬ時にはそれとはなく獨りぶつ/\と呟くことがあつた。
与吉はそれを聞いていた。
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與吉はそれを聞いて居た。
彼は、火ばちの前にじっとしていては座敷へ上がるにわとりをしいしいと追いながら、むっつりとしている卯平に小さな銅貨をもらっては、それを口へ入れたり座敷へ落としたりしながら、卯平にいろいろなことをしゃべって聞かせた。
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彼は、火鉢の前に凝然として居ては座敷へ上る鷄をしい/\と逐ひつつむつゝりとして居る卯平に小さな銅貨を貰つては、それを口へ入れたり座敷へ落したりしながら卯平へ種々なことを饒舌つて聞かせた。
「爺さん」
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「爺」
と呼びかけて、彼はある日こう言った。
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と喚び掛けて彼は或る日斯ういつた。
「爺さんが来てから米がずいぶんへって仕方がないって言ったぞう」
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「爺來てから米しつかり減つてしやうねえつて云つたぞう」
「うん」
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「うむ」
卯平は口にくわえたきせるをゆっくり手に取って
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卯平は口に銜へた煙管を徐ろに手に取つて
「おとっつあんでもあるだろう」
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「おとつゝあでもあんべ」
卯平はげっそりと言った。
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卯平はげつそりといつた。
「おとっつあんが、何度も言ったんだわ」
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「おとつゝあ、何遍も云つたんだわ」
卯平はまたきせるをかんで、手が少しふるえた。
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卯平は又煙管を噛んで手が少し顫へた。
「言うだろうさ」
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「云はざらに」
と卯平は、じっと目をしかめながら、少しこわれたかべの一方をにらんで言った。
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と卯平は凝然と目を蹙めつゝ少し壤れた壁の一方を睨めつゝいつた。
霜どけの庭をかき回していたにわとりが、くるりと指を丸めては足を上げて、おどろいたようにまわりを見て、また足をふみつけふみつけのっそり歩いて、戸口のしきいへしばらく乗って、ずっとのばした首を少しかたむけて卯平を見て、ついと座敷へ上がった。
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霜解の庭を掻き立てゝ居た鷄がくるりと指を捲いては足を擧げて驚いた樣に周圍を見て、又足を踏みつけ/\のつそり歩いて戸口の閾へ暫く乘つてずつと延ばした首を少し傾けて卯平を見てついと座敷へ立つた。
卯平はいきなりきせるをたたきつけた。
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卯平はいきなり煙管を叩きつけた。
にわとりは慌てて座敷のむしろにどろを落として、しきいの外に足を突き出したまましばらくころがっていたが、ついにはよろけよろけ鳴きさわぎながら、遠くへ逃げた。
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鷄は慌てゝ座敷の筵へ泥を落して閾の外に脚を突き出した儘暫く轉がつて居たが、遂には蹌跟け/\鳴き騷ぎつゝ遠く遁た。
白い毛がぬけて、そこらじゅうにたくさん散らばった。
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白い毛が拔けて其處ら中に夥しく散亂した。
きせるはにわとりから、さらに強く戸口のしきいを打って、庭の土に止まった。
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煙管は鷄から更に強く戸口の閾を打つて庭の土に止つた。
「爺さん、取ってやろうか」
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「爺とつてやんべか」
しばらくして、与吉は卯平の顔をのぞくようにして言った。
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暫くして與吉は卯平の顏を覗くやうにしていつた。
「よこせ」
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「よこせ」
卯平はしばらくしてから、むっつりとして舌を鳴らしながら言った。
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卯平は暫く經つてからむつゝりとして舌を鳴らしながらいつた。
「さあ」
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「さあ」
与吉が出したきせるを、卯平はふきもせずに口へくわえた。
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與吉の出した煙管を卯平は拭きもせずに口へ銜へた。
しばらくしてから、卯平はにがい顔をしてじゅりじゅりと、ざらついた口のどろをぴょっとはき出して、それから口を着物でこすった。
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暫くしてから卯平は苦い顏をしてぢより/\とこそつぱい口の泥をぴよつと吐き出してそれから口を衣物でこすつた。
彼はまたたばこを吸おうとして、羅宇にひびが入ったのを知った。
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彼は又煙草を吸ひつけようとしては羅宇に罅が入つたのを知つた。
彼はくたくたになった紙をたもとからさぐり出して、それをつばでぬらして、とても面倒そうにぐるぐるとそのひびを巻いた。
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彼はくた/\に成つた紙を袂から探り出してそれを睡で濡らして極めて面倒にぐる/\と其の罅を捲いた。
卯平はそれからふいと出て、夜まで帰らなかった。
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卯平はそれからふいと出て夜まで歸らなかつた。
勘次はにわとりのぬけ毛を見て、いたちが出たのではないかという心配をして、そこらじゅうをくまなく見た。
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勘次は鷄の拔毛を見て鼬が出たのではないかといふ懸念を懷いて其處ら中を隈なく見た。
にわとりはほかのにわとりがみなねぐらについても帰らなかった。
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鷄は他の鷄が悉く塒に就いても歸らなかつた。
いたちは一羽殺せば必ずまたほかもおそうので、勘次は少なからず心をさわがせたのだった。
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鼬は一羽殺せば必ず復他を襲ふので勘次は少からず其の心を騷がしたのであつた。
「爺さんがぶっとばしたんだわ」
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「爺打つとばしたんだわ」
与吉は勘次に言った。
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與吉は勘次へいつた。
「どうしてだ」
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「どうしてだ」
勘次はおどろいた目を見開いて、慌てて聞いた。
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勘次は驚いた眼を睜つて慌てゝ聞いた。
「座敷へ上がったら、きせるをぶつけたんだ。そんでおれがきせるを取ってやったんだ」
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「座敷へ上つたら煙管打つゝけたんだ。そんで俺れ煙管とつてやつたんだ」
勘次はえさをまいて、にわとりを集めてみた。
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勘次は餌料を撒いて鷄を聚めて見た。
いったんねぐらについたにわとりが、えさを見てはみなかごからばさばさと飛び下りて、こっこっと鳴きながらつめでかき払いかき払い、争ってついばんだ。
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一旦塒に就いた鷄が餌料を見てはみんな籃からばさ/\と飛びおりてこツこツと鳴きながら爪で掻つ拂き/\爭うて啄いた。
勘次はついに、にわとりの数が足りないことを確かめないわけにはいかなかった。
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勘次は遂に鷄の數の不足して居ることを確めざるを得なかつた。
卯平はいつものようにとうふでコップ酒を飲んで来て、晩ごはんをほしがらなかった。
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卯平は例の如く豆腐でコツプ酒を傾けて來て晩餐を欲しなかつた。
彼のしわ深く刻んだほおに、ほんのりと赤みがさしていた。
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彼の皺深く刻んだ頬にほんのりと赤味を帶びて居た。
彼は火ばちの前にあぐらをかいたまま、一言も言わない。
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彼は火鉢の前に胡坐を掻いた儘一言もいはない。
おつぎが甘えた口ぶりで言っても、返事もしなかった。
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おつぎが甘えた舌でいつても返辭もしなかつた。
勘次も卯平のそばを下がって、ただおそろしくひがんだようすをしていた。
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勘次も卯平の側を退去つて只恐ろしく僻んだ容子をして居た。
おつぎもついに言わなかった。
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おつぎも遂にいはなかつた。
与吉はただ、ぐっすりとねむっていた。
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與吉は只ぐつすりと眠つて居た。
こわがってじっと物かげにかくれていたにわとりは、次の朝やっとほかのにわとりの群れにまじって歩いたけれど、いくらかまだ足を引きずっていた。
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驚怖の餘り物陰に凝然と潜伏して居た鷄は次の朝漸く他の鷄の群に交つて歩いたけれど幾らかまだ跛足曳いて居た。
勘次はわざと卯平に見せつけるように、その夜ねぐらについたとき、そのにわとりをかごに伏せて、戸口の庭ぶたの上に三日も四日も置いたのだった。
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勘次は態と卯平へ見せつける樣に其の夜塒に就いた時其の鷄を籠に伏せて、戸口の庭葢の上に三日も四日も置いたのであつた。
卯平は巻きつけた紙にヤニのしみたきせるをじゅうじゅうと鳴らしながら、むずかしい顔がしばらく直らなかった。
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卯平は捲きつけた紙へ煙脂の浸みた煙管をぢう/\と鳴らしながら難かしい顏が暫く解けなかつた。
卯平はきれい好きなので、むっつりとしながら独りでいるときには、草ぼうきで土間ののきの下をはいては、にわとりが足のつめでかき乱した庭ぶたのまわりもはいておいた。
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卯平は清潔好なのでむつゝりとしながら獨で居る時には草箒で土間の軒の下を掃いては鷄が足の爪で掻き亂した庭葢の周圍をも掃きつけて置いた。
彼は座敷の中もそうじをして、毎朝ふとんをきちんとかたづけるように、無口な口からおつぎに言いつけた。
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彼は座敷の内も掃除をして毎朝蒲團を整然と始末する樣に寡言な口からおつぎに吩咐けた。
清潔になることは勘次も悪いこととは思わなかったが、いくらもない家財道具へ少しでも手をかけられるのが、ふところでもさぐられるように、勘次にはなんとなく不安な気持ちが起こるのだった。
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清潔に成ることは勘次も惡いことには思はなかつたが、幾らもない家財道具へ少しでも手を掛けられるのが懷でも探られる樣に勘次には何となく不安の念が起されるのであつた。
勘次の目には、卯平がよく村の店に行くのは、ぜいたくな年寄りだというように、ひがんで見えるところもあった。
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勘次の目には卯平が能く村落の店に行くのは贅澤な老人である樣に僻んで見える廉もあつた。
ただそうしているあいだに旧れきの年末が近づいて、どの家でも小麦やそばの粉をひいた。
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只さうして居る間に舊暦の年末が近づいて何處の家でも小麥や蕎麥の粉を挽いた。
卯平はときどきは、東どなりの門もくぐった。
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卯平は時々は東隣の門をも潜つた。
主人夫婦は、丈夫だといってもやつれた卯平を見るとあわれになって
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主人夫婦は丈夫だといつても窶れた卯平を見ると憐れになつて
「体はどうしたね」
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「身體はどうしたえ」
とよく聞いた。
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と能く聞いた。
「ええ、今の分じゃ、そんなに悪いということもないが」
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「えゝ、今分ぢや、さうだに惡りいつちこともねえが」
と、卯平はいつもはっきりしない言い方をして、それを聞かれることをさすがに心の中でよろこんで、くぼんだ目をしかめるようにした。
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と卯平はいつも煮え切らぬいひ方をして、其れを聞かれることを有繋に心の内に悦んで窪んだ目を蹙める樣にした。
「それでも勘次はよくしてくれるかえ」
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「それでも勘次は能くするかえ」
おかみさんが聞けば
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内儀さんが聞けば
「ありゃもう、以前からああ言うんだから」
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「ありや、はあ、以前つからあゝゆんだから」
卯平はぶすりと言うのである。
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卯平はぶすりといふのである。
「おつぎはどうだね」
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「おつぎはどうだえ」
「ありゃあそれ、勘次とはちがうから。何と言ってもさすがに、赤んぼうのときからのだから」
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「ありやあそれ、勘次たあ違あから、何ちつても有繋赤ん坊ん時つからのがだから」
「粉ひきはたくさんしたようすかえ、それでも」
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「節挽はたんとした容子かえそれでも」
「ええ、おつうのことを連れて行って、南の家でひくのはひいたようだが、おけへ入れたままふたをしたきりしまっておくから、わしはどれくらいあるもんだか見もしないが」
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「えゝ、おつうこと連れてつて、南で挽くなあ挽いたやうだが、桶さ入えた儘で蓋したつ切藏つて置くから、わしやどのつ位あるもんだか見もしねえが」
「勘次はやわらかい物でも少しはこしらえてくれるかね」
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「勘次は軟かい物でも少しは拵えてくれるかね」
「ええ、毎日いっしょに食べちゃいるんだが、なあに、歯さえ丈夫ならあらくたってかまいやしないが」
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「えゝ、毎日同士にたべちや居んだがなあに齒せえ丈夫なら粗剛つたつて管やしねえが」
「それじゃそば粉でも少しやろうかね。そばがきでもこしらえて食べたほうがいいよ。そばに打っちゃ冷えるが、そばがきは暖まるというからね」
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「それぢや蕎麥粉でも少し遣らうかね蕎麥掻でも拵へてたべた方が善いよ、蕎麥に打つちや冷えるが蕎麥掻は暖まるといふからね」
おかみさんは木綿で作ったふくろへそば粉を二しょうばかり入れて
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内儀さんは木綿で作つた袋へ蕎麥粉を二升ばかり入れて
「勘次も苦労してるから、それでも今に暮らしもだんだんよくなるだろうから、そうすりゃ悪くばかりもしないよ。どうもむかしから性が合わないんだからね。まあ年を取ったら仕方がないからがまんしているんだよ。あまりひどけりゃ他人がだまって見ちゃいないから。それだが勘次も、さすがにそれほどでもないんだろうしね」
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「勘次も泣きだから、それでも今に生計もだん/\善くなんだらうから、さうすりや惡くばかりもすまいよ、どうも昔から合性が惡いんだからね、まあ年齡とつたら仕方がないから我慢して居るんだよ、餘り酷けりや他人が共々見ちや居ないから、それだが勘次も有繋それ程でもないんだらうしね」
おかみさんはなぐさめて言った。
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内儀さんは慰めていつた。
卯平はそば粉を大事にして、勘次が開こんに出た後で、薬かんの湯をわかしてはそばがきをこしらえて食べた。
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卯平は蕎麥粉を大事にして、勘次が開墾に出た後で藥罐の湯を沸しては蕎麥掻を拵へてたべた。
そのころは、彼が提げて来た二びんのしょうゆはもうなくなっていた。
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其の頃は彼の提げて來た二罎の醤油はもう無くなつて居た。
彼はそのへって行くのを、特におしいとは思わなかったが、しかし彼は、自分がいるうちはなかなかびんの量がへらないのに、一日よそへ行っていた日はめっきり少なくなっているのを、あるときふと見つけて、少し不快に、そして変に思っていた。
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彼は其の減つて行くのを更に惜いとは思はなかつたが、然し彼は自分が居る内は容易に罎の分量が減らないのに、一日餘處へ行つて居た日は滅切と少くなつて居るのを或時ふと發見して少し不快に且變に思ひつゝあつた。
縄でくくった別のびんの底のほうに、しょうゆが少しあった。
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繩で括つた別の罎の底の方に醤油が少しあつた。
卯平はそれでもそれを見つけて、やっとそばがきの味をおぎなった。
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卯平はそれでも其れを見つけて漸く蕎麥掻の味を補つた。
びんの底に残ったしょうゆはいちばんのしょうゆかすで仕込んだ安物で、塩からい味が舌をさすばかりでなく、にがみさえ加わっている。
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罎の底になつた醤油は一番の醤油粕で造り込んだ安物で、鹽の辛い味が舌を刺戟するばかりでなく、苦味さへ加はつて居る。
彼らはふだんそういうしょうゆでもめったに使わないので、たくさん買うときでも十銭をこえないのである。
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彼等は平生さういふ醤油でも滅多に用ゐないので多量に求める時でも十錢を越えないのである。
むかしの卯平であれば、そういう味がふつうで、しかもうまく感じるはずなのだが、ここ数年うまいしょうゆをおしげもなく使って来た口には、おそろしいまずさを感じずにはいられなかった。
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以前の卯平であればさういふ味が普通で且佳味く感ずる筈なのであるが、數年來佳味い醤油を惜氣もなく使用して來た口には恐ろしい不味さを感ぜずには居られなかつた。
それでもそばがきは、体が暖まるようで気持ちよかった。
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それでも蕎麥掻は身體が暖まる樣で快かつた。
彼は食べた後の茶わんへわいた湯を注いで、はしで茶わんの内側を落として、そのままたなへ置いた。
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彼はたべた後の茶碗へ沸つた湯を注いで箸で茶碗の内側を落して其の儘棚へ置いた。
そしては彼は、毎日の仕事のように外へ出た。
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さうしては彼は毎日の仕事のやうに外へ出た。
勘次は一日の仕事を終えて帰って来ては、目ざとく卯平の茶わんを見てふしぎに思って、おけのふたを取ってみた。
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勘次は一日の仕事を畢へて歸つて來ては目敏く卯平の茶碗を見て不審に思つて桶の蓋をとつて見た。
ついに彼は、卯平のふくろを見つけた。
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遂に彼は卯平の袋を發見した。
「おつう、お前がこのそば粉を出してやったのか」
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「おつう、汝此の蕎麥つ粉出して遣つたのか」
勘次はおつぎに聞いた。
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勘次はおつぎに聞いた。
「おれが出すまいな」
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「俺ら出すめえな」
おつぎは何も分からないようすで言った。
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おつぎは何も解せぬ容子でいつた。
「そばがきなんぞにしたって足しにならない。ろくにありもしない粉だ」
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「蕎麥ツ掻なんぞにしたつて詰りやしねえ、碌に有りもしねえ粉だ」
彼はつぶやいた。
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彼は呟いた。
それから彼はまた
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それから彼は又
「これももう、ありゃしない」
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「此れも、はあ、有りやしねえ」
と、しょうゆのびんをすかして、それからふってみて言った。
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醤油の罎を透して其から振つて見ていつた。
「おとっつあん、それにはないんだぞ」
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「おとつゝあ、それにやねえのがんだぞ」
おつぎは打ち消した。
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おつぎは打ち消した。
「いいから、これっきりじゃ済まないんだから」
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「えゝから、此れつ切ぢやきかねえのがんだから」
勘次はおつぎをどなりつけた。
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勘次はおつぎを呶鳴りつけた。
彼はさらにふくろのそば粉をおけへあけてしまって、なおぶつぶつ言っていた。
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彼は更に袋の蕎麥粉を桶へ明けて畢つて猶ぶつ/\して居た。
手ランプがうす暗くともされたとき、卯平はのっそり帰って来た。
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手ランプが薄闇く點された時卯平はのつそり歸つて來た。
彼はおぜんに向かおうともしないで、火ばちの前にどさりとすわったまま、例のわだかまりのありそうなようすをして、右手の人さし指をかけてぎっとにぎったきせるを横にかんでいた。
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彼は膳に向はうともしないが火鉢の前にどさりと坐つた儘、例の蟠りの有相な容子をしては右手の人さし指を掛けてぎつと握つた煙管を横に噛んで居た。
「おつう、お前、もっとここへ火を取ってくれないか」
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「おつう、汝まつと此處さ火とつてくんねえか」
卯平はそれだけ言って、あいかわらず火もないきせるをかんだ。
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卯平はそれだけいつて依然として火もない煙管を噛んだ。
おつぎはしばを折って、薬かんの下を燃やしてやった。
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おつぎは麁朶を折つて藥罐の下を燃やしてやつた。
薬かんが鳴り出したとき、卯平はだるそうな体をゆっさりと起こして、そこらをしきりにさがしはじめた。
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藥罐が鳴り出した時卯平は懶さ相な身體をゆつさりと起して其處らを頻りに探しはじめた。
「何だい、爺さん」
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「何でえ爺」
おつぎはすぐに聞いた。
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おつぎは直に聞いた。
「うん、ふくろよ」
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「うむ、袋よ」
卯平はとてもかんたんに言った。
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卯平は極めて簡單にいつた。
「これだろう爺さん、そば粉の入ってたのは。おれはどうしたんだか知らないから、おけの中へあけておいたっけや。そんじゃ爺さんのだったっけなあ、そら。どうしてふくろへなんぞ入れてたんだい、爺さんは」
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「此れだんべ爺、蕎麥つ粉へえつてたのな、俺らどうしたんだか知んねえから桶ん中さ明けて置いたつきや、そんぢや爺がんだつけなあそら、どうして袋さなんぞ入えてたんでえ爺は」
おつぎは何でもないように言った。
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おつぎは事もなげにいつた。
「そばがきでもしたらよかろうと、おかみさんが出したっけのよ」
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「蕎麥ツ掻でもしたらよかつぺつてお内儀さん出したつけのよ」
卯平は元の場所にすわって言った。
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卯平は舊の位置に坐つていつた。
「そうかあ。そんじゃ悪かったっけな、爺さん。そんじゃおれが今入れてやるからな」
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「さうかあ、そんぢや惡かつたつけな爺そんぢや俺れ今入えてやつかんなよ」
おつぎは、勘次がねるかべぎわのおけから、さっきのよりずっと多い量をふくろへ入れてやった。
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おつぎは勘次が寢る壁際の桶から先刻のよりは遙かに多量を袋へ入れてやつた。
そしておつぎは、勘次をしり目で見た。
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さうしておつぎは勘次を尻目で見た。
卯平はまたそばがきをこしらえた。
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卯平は復た蕎麥掻を拵へた。
「おれが注いでやろうか、爺さん」
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「俺れ注いでやつべか爺」
火ばちのそばにいた与吉は、薬かんに手をかけた。
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火鉢の側に居た與吉は藥罐へ手を掛けた。
卯平は与吉のするままに任せた。
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卯平は與吉のするが儘に任せた。
卯平はわりとゆったりと、茶わんをはしでかき混ぜた。
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卯平は比較的悠長に茶碗を箸で掻き交ぜた。
「できたかあ」
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「出來たかあ」
与吉は卯平のうでに小さな手をかけて、のぞくようにして言った。
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與吉は卯平の腕へ小さな手を掛けて覗く樣にしていつた。
「よき、何だいお前は、ごはんを食べたばかりで」
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「よき、何でえ汝りや、お飯くつたばかしで」
おつぎは与吉をしかった。
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おつぎは與吉を叱つた。
「お前も食え」
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「汝も喰へ」
卯平はそばがきを分けてやった。
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卯平は蕎麥掻を分けてやつた。
彼はそうして、さらにもう一ぱいを食べて、その茶わんへ湯をくんで飲んだ。
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彼はさうして更に後の一杯を喫して其茶碗へ湯を汲んで飮んだ。
薬かんは軽くなった。
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藥罐は輕くなつた。
勘次は冷たい手を火にもかざさないで、ことさら遠く卯平のそばをはなれて、しかめたひどい顔におそれの色を出して、ただじっと黙っていた。
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勘次は冷たい手を火にも翳さないで殊更に遠く卯平の側を離れて蹙めた酷い顏に恐怖の相を表はして唯凝然と默つて居た。
冷たい三人は、夜の気温がしんしんと下がりつつあるのを感じた。
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冷たい三人は夜の温度のしん/\と降下しつゝあるのを感じた。
一八
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一八
卯平は久しぶりにふるさとで新しい年をむかえた。
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卯平は久振で故郷に歳を迎へた。
彼らの家の門松は、ただ短い松のえだと竹のえだを小さなくいにしばりつけて、かきねの入口に立てただけである。
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彼等の家の門松は只短い松の枝と竹の枝とを小さな杙に縛り付けて垣根の入口に立てたのみである。
神だなには、藁で太く作ったえびの形を横にかざって、そこにも松の短いえだをつけた。
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神棚へは藁で太く綯つた蝦の形を横に飾つて其處にも松の短い枝をつけた。
藁のえびは卯平が作った。
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藁の蝦は卯平が造つた。
彼はむっつりとしながらも、やわらかく藁を打っていっしんに手を動かした。
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彼はむつゝりとしながらも軟かに藁を打つて熱心に手を動かした。
それで年男の役として、かざりつけは勘次にさせた。
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それで歳男の役で飾は勘次にさせた。
すすけきったたなに、新しい藁のえびが生き生きとして見えた。
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煤け切つた棚に新しい藁の蝦が活々として見えた。
三が日は与吉も汚い着物を捨てて、おつぎも近所で髪を結って、炊事のときでもよそ行きの半纏にたすきをかけて働いた。
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三ヶ日は與吉も穢い衣物を棄てゝ、おつぎも近所で髮を結うて炊事の時でも餘所行の半纏に襷を掛けて働いた。
勘次は三が日さえ、まったく楽をしてはいなかった。
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勘次は三ヶ日さへ全然安佚を貪つては居なかつた。
彼はくわをかついで、必ず開こん地へ出たのである。
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彼は唐鍬を擔いで必ず開墾地へ出たのである。
彼は次第にふところのぐあいがよくなりかけたので、今ではその勢いづいたくわのひと打ちひと打ちが自分のたくわえを積んで行くわけなので、彼は余念もなくとても楽しく仕事をするようになったのである。
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彼は次第に懷の工合が善く成り掛けたので、今では其の勢ひづいた唐鍬の一打は一打と自分の蓄へを積んで行く理由なので、彼は餘念もなく極めて愉快に仕事に從つて居るやうに成つたのである。
年の初めというので、さすがに彼の家でもそれなりに餅やうどんやそばが、その日その日のならわしどおりに供えられた。
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歳の首といふので有繋に彼の家でも相當に餅や饂飩や蕎麥が其の日/\の例に依て供へられた。
やわらかな餅が、卯平の歯茎にはいちばん合っていた。
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軟かな餅が卯平の齒齦には一番適當して居た。
ことに陸稲の餅はねばりが弱いので、少し煮ればすぐくたくたにとけようとする。
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殊に陸稻の餅は足が弱いので、少し煮れば直ぐくた/\に溶けようとする。
卯平にはかえってそれがいいので、彼はそうしてくれるおつぎを、どこまでもうれしく思った。
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卯平には却てそれが善いので、彼はさうして呉れるおつぎを何處までも嬉しく思つた。
彼はただ一つでもいいから、いつもしるの中でくつくつと煮てほしかった。
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彼は只一つでも善いから始終汁の中で必ずくつ/\と煮て欲しかつた。
しかしそれはみんなでお祝いするときだけで、それさえ卯平がただ独りゆっくり味わうには、ほうろくに乗せる量があまりに足りなかった。
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然しそれは一同で祝ふ時のみで、それさへ卯平が只獨ゆつくりと味ふには焙烙に乘せる分量が餘りに足らなかつた。
餅は四角にほうちょうを入れると、すぐに勘次は自分のまくら元のおけへしまって、断りなしにはおつぎにさえ出すことをゆるさなかった。
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餅は四角に庖丁を入れると直ぐに勘次は自分の枕元の桶へ藏つて無斷にはおつぎにさへ出すことを許容さないのであつた。
勘次はたとえどんなことがあっても、面と向かって卯平に一言でもつぶやいたことがないばかりか、ひたすら何かをかくそうとするようなおびえたようすを見せていながら、かげではつめのあかほどのことも目に止めては、独りでぶつぶつ言っていた。
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勘次は假令什麽ことがあつても面り卯平に向つて一言でも呟いたことがないのみでなく、只管或物を隱蔽しようとするやうな恐怖の状態を現して居ながら、陰では爪の垢程のことを目に止て獨でぶつ/\として居た。
勘次はただ一度、おつぎが自分の留守に卯平のためにその餅をわずかに焼いてやったことさえ見つけて、おつぎをしかった。
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勘次は只一度おつぎが自分の留守に卯平の爲に其の餅の僅を燒いてやつたのをすら發見しておつぎを叱つた。
「そんだって、おとっつあん、よきがほしいと言うから出して、おれと焼いたんだ。食べたくなっちゃ仕方があるまいな」
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「そんだつておとつゝあは、よき欲しいつちから出して俺れと燒いたんだあ、食へたくなつちやしやうあんめえな」
おつぎは甘えた口ぶりで、言葉はきつく勘次をたしなめた。
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おつぎは甘えた舌で言辭は荒く勘次を窘めた。
勘次はそれ以上、もう一度おつぎをしかることはしなかった。
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勘次は其の以上を越して再びおつぎを叱ることは能くしなかつた。
わずかな餅はそんなことでいくらもへらないのに時間がたって、寒い空気のために陸稲の性質が出て、切り口からたちまちひび割れになって、かたくかわいた。
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僅な餅はさういふことで幾らも減らないのに時間が經つて、寒冷な空氣の爲に陸稻の特色を現して切口から忽ちに罅割れになつて堅く乾燥した。
だんだん焼いてふくれても、外側は歯茎をいためるほどこわばって来た。
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だん/\燒いて膨れても外側は齒齦を痛める程硬ばつて來た。
卯平はその一つさえきちんと飲み下そうとするには、むしろあらいぽろぽろのごはんより大変だった。
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卯平は其の一つさへ滿足に嚥み下さうとするには寧ろ粗剛いぼろ/\な飯よりも容易でなかつた。
そうなってからは、勘次はなくなるまでよく焼いた。
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さうなつてからは勘次は竭きるまで能く燒いた。
卯平はむっつりとして、ひたいに深く刻んだ大きなしわをむずかしそうに動かしては、かたい餅をなめた。
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卯平はむつゝりとして額に深く刻んだ大きな皺を六ヶ敷相に動かしては堅い餅を舐つた。
卯平のおぜんには、冷たくなった餅が必ず残された。
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卯平の膳には冷たく成つた餅が屹度残された。
おなかをすかせて学校から帰って来る与吉が、いつでもそれをかじるのだった。
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腹を減らして學校から歸つて來る與吉が何時でもそれを噛るのであつた。
勘次はまた、そばを打ったことがあった。
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勘次は又蕎麥を打つたことがあつた。
彼はとろろあおいの粉をつなぎにして打った。
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彼は黄蜀葵の粉を繼ぎにして打つた。
彼はまた、おつぎに注意して、よくはゆでさせなかった。
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彼は又おつぎへ注意をして能くは茹でさせなかつた。
手おけの冷たい水でさらしたそばは、すぎばしのように太いのに、とろろあおいの特ちょうであるかたさとつるつるした感じで、わんからおどり出しそうになるのだった。
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手桶の冷たい水で曝した蕎麥は杉箸のやうに太いのに、黄蜀葵の特色の硬さと滑らかさとで椀から跳り出し相に成るのであつた。
とろろあおいはよく畑のまわりに作られて、短いくきには暑い日に大きな黄色い花を開く。
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黄蜀葵は能く畑の周圍に作られて短い莖には暑い日に大きな黄色い花を開く。
その根をかわかして粉にして入れれば、そばの量がめっきり増えるというので、おなかいっぱいになる程度に、ひたすら食べ物が少なくて済むことばかりを望んでいる勘次は、毎年作って必ずそれを使っていた。
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其の根を乾燥して粉にして入れゝば蕎麥の分量が滅切殖えるといふので、滿腹する程度に於ては只管食料の少量なることのみを望んで居る勘次は毎年作つて屹度それを用ひつゝあつた。
卯平の歯茎では、そばがすべってかめなかった。
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卯平の齒齦には蕎麥が辷つて噛めなかつた。
「爺さんにはうまくあるまい。おとっつあんはもっとていねいに打てばいいのに、そそっかしいから」
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「爺がにや佳味かあんめえ、おとつゝあはまつと丁寧に打てばえゝのに疎忽敷から」
おつぎは、どうかするとわんから落ちそうになるそばをすすりながら、卯平の手元を見て言った。
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おつぎはどうかすると椀から落ち相になる蕎麥を啜りながら卯平の手もとを見ていつた。
「どうせおれは、うまくたってそんなにへるほど食うわけじゃなし、かまいやしないが」
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「どうせ俺らあ、佳味えつたつてさうだに減る程でも食ふべぢやなし、管やしねえが」
卯平は皮肉らしい口ぶりで言った。
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卯平は皮肉らしい口調でいつた。
勘次はただ黙って、むしゃむしゃとまずそうにかんだ。
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勘次は只默つてむしや/\と不味相に噛んだ。
こうしているあいだに春のお彼岸が来て、日なたのかきねには耳菜草やそのほかの雑草が勢いよく出はじめて、桑畑のうねの間には冬をこしたなずなが線香のような茎をもたげて、その先にくだけた米に似た花を集めた。
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恁うして居る間に春の彼岸が來て日南の垣根には耳菜草や其他の雜草が勢よく出だして桑畑の畦間には冬を越した薺が線香の樣な薹を擡げて、其の先に粉米に似た花を聚めた。
そっけないすぎの木までが、どこからえだなのかはっきり見分けもつかないような、しかも焼けたかと思うほど赤くなっている葉先に、ざらりとつぼみがついてこっそりさいてしまった。
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そつけない杉の木までが何處から枝であるやら明瞭とは區別もつかぬ樣な然も燒けたかと思ふ程赤く成つて居る葉先にざらりと蕾が附いてこつそりと咲いて畢つた。
さびしい中にも、春らしい空気がすべての物をゆらした。
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淋しい内にも春らしい空氣が凡ての物を撼かした。
日はまだ南を低くわたりながら、暖かい光を投げる。
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日はまだ南を低く渡りながら暖かい光を投げる。
たまたま夜の雨がやんで、ふうわりとやわらかな空が青く割れて、やや昇ったその暖かな日がななめにさしかけると、かれた桑畑から、青い麦畑から、すべてから、しめった布を火にかざしたようにゆげが、見わたすかぎり白くほかほかと立ちのぼって、低く一面に地をおおうことがあった。
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偶夜の雨が歇んでふうわりと軟かな空が蒼く割れて稍昇つた其暖かな日が斜に射し掛けると、枯れた桑畑から、青い麥畑から、凡てから濕つた布を火に翳したやうに凝つた水蒸氣が見渡す限り白くほか/\と立ち騰つて低く一帶に地を掩ふことがあつた。
卯平は村に帰ってから、むかしの仲間にふたたび加わって、念仏衆の一人になった。
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卯平は村落に歸つてから往年の伴侶の間へ再び加つて念佛衆の一人になつた。
家では孫のもりをしたりして、どうしても独りはなれたようになっているめいめいが、のんきに、そして好き勝手なことを言い合ってさわぐので、念仏堂はただ楽しい場所だった。
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家に在つては孫の守をしたりしてどうしても獨離れた樣に成つて居る各自が暢氣にさうして放埓なことを云ひ合うて騷ぐので念佛寮は只愉快な場所であつた。
お彼岸のころは、ことに毎日楽しかった。
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彼岸へ掛けては殊に毎日愉快であつた。
どの家からもそれなりに、ほとけさまへと言って供えるごちそうにあきるほどで、卯平は初めて満足した口をぬぐうことができたのだった。
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何處の家からもそれ相應に佛へというて供へる馳走に飽いて卯平は始めて滿足した口を拭ふことが出來たのであつた。
卯平はだんだん時候が暖かくなるにつれて、体ものんびりとして、心配していた病気の苦しみも少しずつうすらいだ。
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卯平は段々時候が暖かく成るに連れて身體ものんびりとして案じて居た病氣の惱みも少しづつ薄らいだ。
彼は手元のすべてが不自由だらけの暮らしにもどって来たとはいうものの、おとろえた体を自分で毎晩苛めるように引き立てていた奉公づとめのころにくらべて、むしろ反対の気ままな日々が、自然に心にも体にも急な休みを与えたので、彼は自分でも一時はげっそりとおとろえたようにも思われて、だるさにたえられないようになったが、それでもその休みのおかげでいくらかずつ持病の苦しみがへったので、そういうわけを知らない彼は、この分では二、三年はまだ野田にいたほうがましだったと、後かいすることもあった。
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彼は手もとの凡てが不自由だらけな生活に還つて來たとはいふものゝ衰へた身體を自分から毎夜苛める樣に引き立てゝ居る奉公の務めをして居た當時と比べて、寧ろ相反した放縱な日頃が自然に精神にも肉體にも急激な休養を與へたので彼は自分ながら一時はげつそりと衰へた樣にも思はれて、懶さに堪へぬ樣に成つたがそれでも其の休養の爲に幾らづゝでも持病の苦しみを減じたので、さういふ理由を知らない彼は、此の分では二三年はまだ野田に居た方が増しであつたと後悔の念が湧くこともあつた。
季節は、雨にしめった土へまれにかっと暑い日の光が差して、日がしずんだ後の空が丈夫な百姓のはだにさえぞくぞくと空気の冷たさを感じさせて、さらにじめじめときりのような雨がななめに降りかけては、やわらかく首をもたげはじめた麦のほののぎに細かな水の玉を宿して、白いほ先をさらに白くして、あたりがただじめじめしたかと思うと、またかっと日の光がさして、がらんと明るくなって、畑にはだらしなくたおれかけたえんどうの花も、心地よさそうに首をもたげてほほえむ。
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季節は雨に濕つた土へ稀にかつと暑い日の光が投げられて、日歸りの空が強健な百姓の肌膚にさへぞく/\と空氣の冷かさを感ぜしめて、更にじめ/\と霧のやうな雨が斜に降り掛けては軟かに首を擡げはじめた麥の穗の芒に微細な水球を宿して白い穗先を更に白くして世間が只濕つぽく成つたかと思ふと、又かつと日の光が射して、空洞と明るく成つて畑にはしどろに倒れ掛た豌豆の花も心よげに首を擡げて微笑する。
すると、畑をつつむ遠い近い林には、若葉のすきまからわずかな日の光が、またやわらかな、そしてやや深い草の上にぽつりぽつりと明るくのぞきこんで、松の木からはみんみんぜみのような松ぜみの声が、くすぐったいほど人の耳に軽くひびいて、みんなの心をつき動かす。
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さうすると畑を包む遠い近い林には嫩葉の隙間から少い日の光がまた軟かなさうして稍深い草の上にぽつり/\と明るく覗き込で、松の木からはみんみん蝉の樣な松蝉の聲が擽つたい程人の鼓膜に輕く響いて凡ての心を衝動する。
卯平も、ほかの百姓にさそわれたように、ただじっとしてばかりはいられなかった。
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卯平も他の百姓に誘はれたやうに只其身を凝然とさせてのみは居られなかつた。
人一倍いそがしい勘次が、だんだんへって行く俵の中身を気にして、ひどい目つきをしながら戸口を出入りするのを、卯平は見るのがいやで、しかもつらかった。
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他人に倍して忙しい勘次がだん/\に減りつゝある俵の内容を苦にして酷い目をしつゝ戸口を出入するのを卯平は見るのが厭で且辛かつた。
それで彼は、あちこちと他人の仕事をさがして歩いたのだった。
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それで彼は其處ら此處らと他人の仕事を求めて歩いたのであつた。
卯平は見るからに不器用なようすをしていて、おそろしく手先の器用な生まれつきだった。
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卯平は見るから不器用な容子をして居て、恐ろしく手先の業の器用な性來であつた。
それで彼は仕事に出るようになってからは、あちこちにやとわれてよく俵をあんだ。
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それで彼は仕事に出ると成つてからは方々へ傭はれて能く俵を編んだ。
麦俵も、それからたいひを入れて運ぶ肥俵もあんだ。
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麥俵もそれから堆肥を入れて運ぶ肥俵も編んだ。
ゆっくりと、しかし絶え間なく手を動かしては、ときどき好きなたばこを吸って、少し口を開いたままきせるの吸い口をこけたほおに当て、深い考えごとにでもなやんだように、ただじっとしている。
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ゆつくりと然も暇なく手を動かしては時々好な煙草を吸うて少し口を開いた儘煙管の吸口をこけた頬に當て深い考へにでも惱んだ樣に只凝然として居る。
けむりは口から少しずつもれて、鼻を伝ってのぼる。
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煙は口から少しづゝ漏れて鼻を傳ひて騰る。
彼はけむりがのぼるたびにくぼんだ黄色い目をしかめるようにして、気づいたように吸いがらを手のひらにふくのである。
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彼は煙が騰る度に窪んだ黄色な目を蹙めるやうにして、心づいた樣に吸殼を手の平に吹くのである。
彼はこうしてとてもゆっくり手を動かすようでありながら、それでもやとわれた先でその日の食事はしてもらうので、それなりのお金を得ていたのだった。
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彼はかうして極めて悠長に手を動かす樣でありながら、それでも傭はれた先で其の日の扶持はして貰ふので、相應な錢を獲つゝあるのであつた。
卯平は夏になれば、どこでもいそがしい麦こきや陸稲の草取りにやとわれた。
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卯平は夏になれば何處でも忙しい麥扱や陸稻の草取に傭はれた。
彼は自分の村をはなれて、五日も六日もとまっていて帰らないことがある。
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彼は自分の村落を離れて五日も六日も泊つて居て歸らぬことがある。
卯平には、先から先へと歩いていることが、かえって幸いだった。
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卯平には先から先と歩いて居ることが却て幸ひであつた。
彼は鬼怒川の高瀬舟の船頭の着物かと思うような、よくもよくもつぎだらけな、それも自分の手で直して清潔に洗いざらした仕事着をすそ長に着て、手ぬぐいをかぶって、暑い庭で小麦をたたいているのを、あちこちで見ることがある。
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彼は鬼怒川の高瀬船の船頭の衣物かと思ふ樣な能くも/\繼ぎだらけな、それも自分の手で膳つて清潔に洗ひ曝した仕事衣を裾長に着て、手拭を被つて暑い庭に小麥を叩いて居るのを其處此處に見ることがある。
横にころがしたうすを前に置いて、小麦をつかんではほ先をそのうすの腹にたたきつけると、種がぽろぽろと向こうへ落ちる。
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横に轉がした臼を前に据ゑて小麥を攫んでは穗先を其の臼の腹に叩きつけると種がぼろ/\と向へ落ちる。
のっそりとしてゆったりした卯平は、若いころに慣れた仕事のこつで、大きな手が肩から打ち下ろすとき、まだそれなりにはかどるのだった。
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のつそりとして悠長な卯平は壯時に熟して居た仕事の呼吸で大きな手が肩から打ち下す時、まだ相當に捗どるのであつた。
彼はこうしてあちこちにやとわれて歩きながら、きれいな花がさいているのを見ると、種をもらったり根分けをしてもらったりして、庭先のくりの木のそばや井戸ばたの近くに植えた。
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彼は恁うしてぐる/\と傭はれて歩きながら綺麗な花が咲いて居るのを見ると種を貰つたり根分けをして貰つたりして庭先の栗の木の側や井戸端に近く植ゑた。
彼はいそがしい仕事が終わりになったとき、つまり稲刈りから稲こきから、そしてもみすりも済んで、彼の得意な俵あみもなくなって、あたりがげっそりとさびしくしずんだとき、彼は急に勘次と別の住まいがしたくなった。
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彼は忙しい仕事が畢になつた時即ち稻刈から稻扱からさうして籾すりも濟んで彼が得意の俵編みもなくなつて、世間がげつそりと寂しく沈んだ時に彼は急に勘次と別な住まひが仕たくなつた。
彼は少しばかり残してあったたくわえから、虫食いでも何でも柱になる木や粟のからを買って、家の横手へ小さな、二間四方くらいの掘っ立て小屋を建てる計画をした。
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彼は少しばかり餘してあつた蓄へから蝕でも何でも柱になる木やら粟幹やらを求めて、家の横手へ小さな二間四方位な掘立小屋を建てる計畫をした。
彼は寒い西風をきらって、ほとんど勘次の家とくっついて東わきに建てようとした。
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彼は寒い西風を厭うて殆ど勘次の家と相接して東脇へ建ようとした。
勘次はもちろん自分のふところが目に見えてへるのでもなし、それについてはけっしてかげでつぶやくことはなかった。
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勘次は固より自分の懷が目に見えて減るのでもなし、それに就ては決して陰で呟くことはなかつた。
かんたんな工事には大工が少しのみを使っただけで、そのほかは近所の人々が手伝ったので、仕事はただ一日で終わった。
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簡單な普請には大工が少し鑿を使つた丈で其他は近所の人々が手傳つたので仕事は只一日で畢つた。
長くてかさばる粟のからで手うすくふいた屋根は、これも職人の手を借りなかった。
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長い嵩張つた粟幹で手薄く葺いた屋根は此れも職人の手を借らなかつた。
必要な縄は、卯平が丈夫になっておいた。
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必要な繩は卯平が丈夫に綯つて置いた。
それからかべを塗るのには、間を置いて二、三日かかった。
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それから壁を塗るのには間を措いて二三日かゝつた。
勘次もさすがに力をおしまなかった。
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勘次も有繋に勞力を惜まなかつた。
彼は粟のからをふき上げた次の日から、二、三日近所の馬を借りて、田のわきの畑から土を運んだ。
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彼は粟幹が葺き上げられた次ぎの日から二三日近所の馬を借りて田の傍の畑から土を運搬けた。
畑にはそのとき、麦が青く生えていたが、それでも持ち主は、畑がへるだけ田の面積が増えるわけなのと、土の量も特別多くないのとで、切り取ることをことわらなかった。
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畑には其の時麥が青く生えて居たが、それでも持主は畑が減るだけ田の面積が増す理由なのと、土の分量も格別の事でないのとで切り取ることを否まなかつた。
庭へ下ろした土には、ちらりちらりと青い麦のやわらかな葉がまじっていた。
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庭へ卸した土にはちらり/\と青い麥の軟かな葉が交つて居た。
勘次は夕方になって馬を返しながら、一日のえさとして、おつぎに煮させた麦をざるへ入れて、それからきざんだ藁もそえてやった。
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勘次は夕方に成つて馬を返しながら、一日の餌料としておつぎに煮させた麥を笊へ入れて、それから刻んだ藁も添へてやつた。
勘次はそのついでに、よけいな藁を切った。
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勘次は其の序に餘計な藁を切つた。
土は最後の日の夕方に、まわりに土手のような輪をこしらえて、そこに水をかけてはぐちゃぐちゃと足でこねながら、きざんだ藁をまいてはふみこんで、そうして一晩置いた。
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土は畢の日の夕方に周圍に土手のやうな輪を拵へて其處に水を打つてはぐちや/\と足で溲ねながら刻んだ藁を撒いては踏み込んでさうして一晩置いた。
そうしているあいだに卯平は、なたでしのを幾つかに裂いて、柱と柱のあいだへかべの下地に細かな格子目をあんでいた。
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さういふ間に卯平は鉈で篠を幾つかに裂いて柱と柱との間へ壁の下地に細かな格子目を編んで居た。
しのは東どなりの主人にたのんで、真竹にまじったのを後ろの林から切ったのである。
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篠は東隣の主人から請うて苦竹に交つたのを後の林から伐つたのである。
次の日、土はよく水が引いていて、ほどよくこねられた。
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次の日土は能く水を引いて居て程よく溲ねられた。
勘次はおつぎにそのどろをたらいで運ばせておいて、不器用な手つきで塗った。
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勘次はおつぎに其の泥を盥へ運ばせて置いて不器用な手もとで塗つた。
卯平はなおも、しのであみ残した所をこしらえていた。
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卯平は猶も篠で編み残した箇所を拵へて居た。
塗りたてのかべは、せまい小屋の内側をじめじめと、しかも暗くした。
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塗りたての壁は狹苦しい小屋の内側を濕つぽく且闇くした。
かべの土がだんだんかわくのが待ち遠しくて、卯平は毎日ゆかの上のむしろにすわって火をたいた。
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壁の土の段々に乾くのが待遠で卯平は毎日床の上の筵に坐つて火を焚た。
彼は近ごろになってから毎日のように林を歩いては、しばを背負って来て、折ってはたき折ってはたきしていた。
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彼は近頃に成つてから毎日の樣に林を歩いては麁朶を脊負つて來て折つては焚き折つては焚きして居た。
かべを塗るときに格子目から内側へめくれ出たどろの一つ一つが、だんだんに白っぽくかわいて明るくなったとき、勘次はまた内側から塗って、めくれて出た一つ一つを全部かくした。
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壁を塗る時格子目から内側へ捲くれ出た泥の一つ/\がだん/\に白つぽく乾いて明るく成つた時勘次は又内側から塗つて捲れて出た一つ/\を一帶に隱した。
卯平は掘っ立て小屋を建てるとなったら、勘次がこれまでになく調子よく勢いよく仕事をしてくれるのを、なんとなくうれしく思ってみたが、それでも仕事をしながらしみじみ口をきくのでもなければ、毎日おぜんをならべると必ずひがんだような顔をされるので、卯平は一日も早く別になってみたい気持ちから、さらに塗ったかべのためにふたたび暗くなった小屋が明るくなるのが、じれったくてたえられないのだった。
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卯平は掘立小屋を建てるとなつたら勘次が此れ迄になく油が乘つた樣に威勢よく仕事をしてくれるのを何となく嬉しく思つて見たが、夫でも仕事をしながらしみ/″\口を利くのでもなければ、毎日膳を竝べると屹度僻んだやうな顏をされるので、卯平は一日も速く別に成つて見たい心から更に塗つた壁の爲に再び闇くなつた小屋の明るく成るのが遲緩しさに堪へぬのであつた。
卯平はせまいながらもどうにか土間もこしらえて、そこへは自在かぎを一つつるして、つるのある鉄びんをかけたり小なべをかけたりできるようにした。
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卯平は狹いながらにどうにか土間も拵へて其處へは自在鍵を一つ吊して蔓のある鐵瓶を懸たり小鍋を掛けたりすることが出來る樣にした。
彼は勘次からいくらかずつの米や麦を分けてもらって、別居した初めのうちは自分の手で煮たきをした。
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彼は勘次から幾らかづゝの米や麥を分けさせて別居した當座は自分の手で煮焚をした。
それがかえって気楽で、そして少しずつは彼の舌にうまく感じる程度の物を買って来ることができた。
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それが却て氣藥でさうして少しづゝは彼の舌に佳味く感ずる程度の物を求めて來ることが出來た。
しかしそうしていても、寒さがとてもきびしいときは、彼はただせまい小屋の中でしばを少しずつ折ってくべるよりも、わりと広いかまどの前で、横にころがした大きなかごからがさがさと木の葉をかき出して、ぼうぼうとほのおを立てて暖まりたい気持ちがするのだった。
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然しさうして居ても寒さが非常に嚴しい時は彼は只狹苦しい小屋の中に麁朶を少しづつ折り燻べるよりも比較的廣い竈の前で横に轉がした大籠からがさ/\と木の葉を掻き出してぼう/\と焔を立てゝ暖まりたい心持がするのであつた。
それで彼は勘次の留守には、かまどの前でゆったりと木の葉をたいて、顔や手足の皮が焼けたように赤くなるまで当たった。
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それで彼は勘次の留守には竈の前で悠長に木の葉を焚いて顏や手足の皮の燒けた樣に赤くなるまであたつた。
勘次はときどき、持ちこんだしばや木の葉がわけもなくへっていることを知って、いやな気持ちになってはこっそりつぶやきながら、おつぎに当たるのだった。
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勘次は時々持ち込んだ麁朶や木の葉が理由もなく減つて居ることを知つて不快な感を懷いてはこつそりと呟きつゝおつぎに當るのであつた。
卯平はしばらく隠居に落ち着いてからは、一銭ずつでもふところをこしらえなければならないという決心にせかされて、毎日きせるを横にくわえては、ゆったりとではあるが、しかも絶え間なく縄をちよりちよりとなったり、それからわらじを作ったりした。
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卯平は暫く隱居に落付いてからは一錢づゝでも懷を拵らへねばならぬといふ決心から促されて、毎日煙管を横に銜へては悠長ではあるが、然も間斷なく繩をちより/\と綯つたり、それから草鞋を作つたりした。
彼は材料の藁を勘次に求めずに、五銭か十銭くらいずつふところのお金を出して、よく選んだ藁をあちこちで買って、ほ先の所を持っては肩から打ちかけて、がさがさと背負って来るのである。
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彼は原料の藁を勘次に要求せずに五錢か十錢位づゝ懷錢を出して能く選つた藁を其處此處で買つて、穗先の處を持ては肩から打つ掛けてがさ/\と背負つて來るのである。
藁の小さな決まったたばは、一たばはたいてい一銭ずつだった。
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藁の小さな極つた束が一把は大抵一錢づゝであつた。
その一たばの藁が、縄にすれば二たば半くらいで、わらじにすれば五足はできるのだった。
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其の一把の藁が繩にすれば二房半位で、草鞋にすれば五足は仕上るのであつた。
それで彼の一日の仕事は、縄なら二十たばの大きな一たば、わらじなら五足というところなので、一たばの縄が七銭五毛で、一足のわらじが一銭五厘という相場だから、どちらにしても一日いっしんに手を動かせば、彼は六、七銭のもうけを得るのである。
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それで彼の一日の仕事は繩ならば二十房の大束が一把、草鞋ならば五足といふ處なので、一房の繩が七錢五毛で一足の草鞋が一錢五厘といふ相場だからどつちにしても一日熱心に手を動かせば彼は六七錢の儲を獲るのである。
卯平が買うおかずは、一日わずかに二銭もあれば十分なので、彼は毎日藁を使っていれば四、五銭ずつのあまりを得るわけではあるが、品物を売りに出る日を別にしても、気が乗らないと言っては朝からごろりところがっていることもあるので、平均してみると一日がいくらにもならないのだった。
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卯平が求める副食物は一日僅に二錢もあれば十分なので彼は毎日藁を使つて居れば四五錢づつの剰餘を得る理由ではあるが、品物を商ひに出る日を別にしても氣が乘らないといつては朝からごろりと轉がつて居ることもあるので平均して見ると一日が幾らにも成らないのであつた。
しかしそれだけでも、卯平はいつもさいふのお金が出入りするのを心強く思うのだった。
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然し其れ丈でさへ卯平は始終財布の錢の出入するのを心丈夫に思ふのであつた。
勘次はむっつりとした卯平の戸口をのぞいたこともないが、卯平がすぐに来ても来なくても、ごはんのできたときに呼びに行くのはおつぎだった。
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勘次はむつゝりとした卯平の戸口を覗いたこともないが、卯平が直に來ても來なくても飯の出來た時に喚びに行くのはおつぎであつた。
卯平はいっしんに藁仕事をするときは、自分で炊事をするのは時間がひどくおしくもなったり、面倒にもなったり、ただ独りぽつんとしていると情けなくもなったりするので、ふだんはふたたびみんなといっしょにはしを取ることにしたのである。
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卯平は熱心に藁仕事をする時は自分で炊事をするのは時間が酷く惜しくも成つたり、面倒にも成つたり、唯獨のみで㷀然として居ると情なくもなつたりするので、平生は再び一同と一緒に箸を執ることにしたのである。
彼はおつぎがきびきびと一言でも言ってくれるたびに、そのひがもうとする心がどれほど和らげられるか知れないのである。
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彼はおつぎがはき/\と一言でもいうて呉れる毎に其の僻まうとする心がどれ程和げられるか知れないのである。
彼はわらじを作るといって、四本のたて縄にやわらかな藁をうねうねと通しては、その縄のあいだに指を入れてぎっと前へ引きしめる、そのかすかな動きのあいだにも、彼は勘次に対して口にもふるまいにも出せないいまいましさが、心の底にむらむらと首をもたげはじめることもあるのだったが、おつぎの言葉はいつでも、その火を消し止める一ぱいの水なのだった。
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彼は草鞋を作るとて四筋の竪繩に軟かな藁をうね/\と透しては其の繩の間に指を入れてぎつと前へ引き緊める微かな運動の間にも彼は勘次に對して口にも擧動にも出せぬ忌々敷さが心の底に勃々と首を擡げ始めることもあるのであつたが、おつぎの言辭はいつでも其の火を消し止める一杯の水なのであつた。
おつぎは、どうかすると目のあたりにあるそばかすが一種のかわいらしさを引き立てて、甘えたような口のきき方をするのだった。
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おつぎはどうかすると目の邊に在る雀斑が一種の嬌態を作つて甘えたやうな口の利方をするのであつた。
おつぎは勘次のいないときは、めんどりがけたたましく鳴いて出れば、すぐにねぐらをのぞいて暖かいたまごを一つ取って、卯平のむしろへころがしてやることもあった。
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おつぎは勘次の居ない時は牝鷄が消魂しく鳴いて出れば直ぐに塒を覗いて暖かい卵の一つを採つて卯平の筵へ轉がしてやることもあつた。
おつぎは勘次のするどい目をだますには、これだけの深い注意をはらわなければならなかった。
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おつぎは勘次の敏捷な目を欺くには此だけの深い注意を拂はなければならなかつた。
それもまれなことで、数は必ず一つと決まっていた。
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それも稀なことで數は必ず一つに限られて居た。
しかし卯平は、そのわずかな親切に対してくぼんだ茶色の目をしかめるようにして、洗いもしないからの両はしに小さなあなを開けてすするのだった。
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然し卯平は其の僅少な厚意に對して窪んだ茶色の眼を蹙める樣にして、洗ひもせぬ殼の兩端に小さな穴を穿つて啜るのであつた。
彼はおつぎの気持ちをよく分かっているので、その吸いがらはけっして目につく所へは捨てないで、細かく押しもんで、外へ出るついでに他人のかきねの中などへ放り捨てた。
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彼はおつぎの意中を能く解して居るので其の吸殼は決して目につく處へは棄てないで細かに押し揉んで外へ出る序に他人の垣根の中などへ放棄つた。
それからもう一つ、ひがもうとする彼の心をさわやかにするのは与吉だった。
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それからも一つ僻まうとする彼の心を爽かにするのは與吉であつた。
とっくに甘えきっている与吉は、卯平の戸口に立ちふさがってはお金をねだった。
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疾から甘え切つて居る與吉は卯平の戸口に立ち塞がつては錢を請うた。
せまい戸口は、与吉の小さな体でさえ、卯平が藁をいじっている手元をうす暗くした。
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狹い戸口は與吉の小さな身體でさへ卯平の藁をいぢつて居る手もとを薄闇くした。
卯平は藁くずといっしょに投げ出してある胴乱から、五厘の銅貨を出してやるのがふつうだが、与吉は自分でお金を出そうとして、胴乱の大きな金具がなかなか開かないので、怒って投げ出してみたり、卯平にすがったりした。
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卯平は藁屑と一つに投出してある胴亂から五厘の銅貨を出してやるのが例であるが、與吉は自分で錢を出さうとして胴亂の大きな金具が容易に開かないので怒つて投げ出して見たり、卯平へ縋つたりした。
卯平はわざと与吉にたおされて、ころがることもあった。
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卯平は態と與吉に倒されて轉がることもあつた。
勘次は与吉が卯平からお金をもらうことを知ってから、ただでさえめったにくれたことのない彼は、けっして一度も与えることがなかった。
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勘次は與吉が卯平から錢を貰ふことを知つてから只さへ滅多にくれたことのない彼は決して一度も與へることがなかつた。
卯平はそれを知ってさえ、与吉に求められることが、かえって彼にとってはどれほどのなぐさめであるか知れないのだった。
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卯平はそれを知つてさへ與吉に要求されることが却て彼の爲にはどれ程の慰藉であるか知れないのであつた。
卯平はみじめな隠居に移るまでには、野田から持って来た少しばかりのたくわえは、いくらもさいふに残ってはいなかった。
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卯平は悲慘な隱居に移るまでには野田から持つて來た少し許りの蓄へは幾らも財布に残つては居なかつた。
彼は急に思い出したように一日いっしんに仕事にかかりきってみたり、また勘次に対するやけから酒も飲んでみたりした。
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彼は俄に思ひ出した樣に一日熱心に仕事に屈託して見たり、又勘次に對する自棄から酒も飮んで見たりした。
酒といっても知れた量だが、それでも藁一本ずつを刻んで行く仕事のもうけだけにたよる彼のふところを悲しくした。
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酒といつても知れた分量であるが、それでも藁一筋づつを刻んで行く仕事の儲にのみ手頼る彼の懷を悲しくした。
卯平はそんなわずかな仕事でも、彼の体がなんともなくて、また勘次との仲がやわらいでいるなら、彼は好きなコップ酒を一ぱい飲むついでに、お酒をびんに買って勘次にやることさえ、苦にもしなければおしみもしないのだった。
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卯平は其麽果敢ない仕事でも、彼の身體が滯りなく又勘次との間が融和されて居るならば彼は好きなコツプ酒の一杯を傾ける序に、酒を壜に買て勘次に與へることさへ不自由を感じもしなければ、惜しむこともないのであつた。
勘次もつかれた日の夕方には、くわを村の店ののき下に下ろして一ぱい飲んで来るのだが、一度も自分の家に持ち帰ったこともなければ、酒くさい息をはくあいだは卯平に顔を合わせたこともなかった。
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勘次も疲勞した日の夕方には唐鍬を村落の店の軒下へ卸して一杯を傾けて來るのであるが、嘗て自分の家に運んだこともなければ臭い息を吐く間は卯平へ顏を合せたこともなかつた。
卯平は腰の痛みになやまされて、よけいにかさかさとかわいてこわばっている手を動かしにくくなると、彼はひとかけらの炭火もない火ばちをまくら元に置いて、じっとふとんをかぶったままである。
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卯平は腰の疼痛に惱まされて、餘計にかさ/\と乾びて硬ばつて居る手を動かし難くなると彼は一塊の煨もない火鉢を枕元に置いて凝然と蒲團を被つた儘である。
彼はそうでなくても、これまできびきびと口をきいたこともなく、ことに勘次に対してはしわのよった顔をさらにしかめているので、こうしてじっとしていることも、勘次はリューマチがなやませているのだとは知らないで、むしろ年寄りにありがちなだるさからくるねむりをむさぼっているのだろうくらいに見るのだった。
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彼はさうでなくても嘗てはき/\と口を利いたこともなく、殊更勘次に對しては皺びた顏の筋肉を更に蹙めて居るので、恁うして凝然として居ることをも勘次は僂麻質斯が惱まして居るのだとは知らないで、寧ろ老人に通有な倦怠に伴ふ睡眠を貪つて居るのだらう位に見るのであつた。
まくら元の火ばちは、戸口から見ると彼のうすい白髪の頭をかくしていた。
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枕元の火鉢は戸口からでは彼の薄い白髮の頭を掩うて居た。
彼はそうかと思うと、起きていっしんにわらじを作ることがある。
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彼はさうかと思ふと起きて一心に草鞋を作ることがある。
彼の仕事は年を取って面倒なようだが、その生まれつきの器用さは失われなかった。
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彼の仕事は老衰して面倒な樣であるが、其の天性の器用は失はれなかつた。
彼は五足ずつを一つにたばねたわらじと、それから縄が一荷になると、大きな風呂しきで背負って出た。
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彼は五足づつを一つに束ねた草鞋とそれから繩が一荷物に成ると大風呂敷で脊負つて出た。
それはたいてい暖かな日に限られていたのだが、そのときは彼の大きな体はきりりと帯をしめて、股引の上に高くしりをまくって、まだたのもしげにがっしりとして見えるのだった。
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それは大抵暖かな日に限られて居るのであつたが、其時は彼の大きな躯幹はきりゝと帶を締めて、股引の上に高く尻を端折つてまだ頼母しげにがつしりとして見えるのであつた。
卯平はこうして仕事をしてみたりねてみたり、それから自分で小なべで煮炊きをするかと思えば、家族三人といっしょにおぜんに向かったり、そばから見ている勘次には、気の知れないおじいさんだった。
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卯平は斯うして仕事をして見たり寐て見たり、それから自分で小鍋立をするかと思へば家族三人と共に膳へ向つたり、側から見て居る勘次には氣が知れぬ爺さんであつた。
卯平はときどき塩ざけの一切れを古新聞紙のはしに包んで来ては、火ばちに鉄の火ばしをわたして、少しくすぶるしばの火で焼いた。
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卯平は時々鹽鮭の一切を古新聞紙の端へ包んで來ては火鉢へ鐵の火箸を渡して、少し燻る麁朶の火に燒いた。
彼はあぶない手つきで、まちがえて落としては灰にまみれても、口でふうふうとふいて手でばたばたとたたくだけで、洗うこともしなかった。
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彼は危險い手もとで間違つて落しては灰にくるまつても口でふう/\と吹いて手でばた/\と叩くのみで洗ふこともしなかつた。
じりじりと白く火ばしに焼きついた塩が、長く火ばしににおいを残した。
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じり/\と白く火箸へ燒け附いた鹽が長く火箸に臭氣を止めた。
勘次は小屋で卯平が塩ざけを焼くにおいをかいでは、一種のしげきを感じるとともに、卯平をねたむようないやな気持ちが、どうかするとつい起こった。
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勘次は小屋で卯平が鹽鮭を燒く臭を嗅いでは一種の刺戟を感ずると共に卯平を嫉むやうな不快の念がどうかすると遂起つた。
それだが卯平はまた、独りでむっつりとふとんにくるまっているときは、親子三人の話がよく聞こえた。
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それだが卯平は又獨でむつゝりと蒲團にくるまつて居る時は父子三人の噺が能く聞えた。
彼は自分がいっしょにいるときはたがいにへだてがありそうでいて、自分がはなれると急に仲よさそうに笑いさざめくもののように、彼はずっと前から思っていた。
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彼は自分が一緒に居る時は互に隔てが有相で居て、自分が離れると俄に陸まじ相に笑語くものゝ樣に彼は久しい前から思つて居た。
それを聞くと彼は一種のねたみをともなういやな気持ちになって、ふとんを深くかぶってみてもなんとなく耳について、おつぎのちょっと甘えたような声や与吉のえんりょのないむじゃきな声を聞くと、一方ではまた彼らの家族と一つになりたいような気持ちも起こるし、彼はじっと目を閉じているので頭の中がよけいにもつれて、いろいろなようすがはっきりと目の先にちらついて、しみじみと悲しくなってみたりして、なおさらリューマチの痛みがじりじりと自分の体をしめつけてしまうようにも感じられた。
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其を聞くと彼は一種の嫉妬を伴うた厭な心持に成つて、蒲團を深く被つて見ても何となく耳について、おつぎの一寸甘えた樣な聲や與吉の無遠慮な無邪氣な聲を聞くと一方には又彼等の家族と一つに成りたいやうな心持も起るし、彼は凝然と眼を閉ぢて居るので頭の中が餘計に紛糾かつて、種々な状態が明瞭と目先にちらついてしみ/″\と悲しい樣に成つて見たりして猶更に僂麻質斯の疼痛がぢり/\と自分の身體を引緊めて畢ふ樣にも感ぜられた。
彼はそういうとき、おつぎでも与吉でも
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彼はさういふ時おつぎでも與吉でも
「爺さんよう」
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「爺よう」
と呼んでくれれば、ふいとだるい首をもたげて、明るい真昼の光を見ることで、何とも知れないうれしさになみだがいっぱいにあふれることもあるのだった。
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と喚んでくれゝばふいと懶い首を擡げて明るい白晝の光を見ることによつて何とも知れぬ嬉しさに涙が一杯に漲ることもあるのであつた。
おつぎはやかましく勘次に使われて、昼のあいだはわずかのひまもなかった。
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おつぎは八釜敷勘次に使はれて晝の間は寸暇もなかつた。
夜がしんとするころは、おつぎはよく卯平の小屋へ来て、なやんでいる腰をもんでやった。
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夜がひつそりとする頃はおつぎは能く卯平の小屋へ來て惱んで居る腰を揉んでやつた。
おつぎは卯平をいたわるのには、いくら勘次がやかましくても、いちいち断りを言ってからは出なかった。
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おつぎは卯平を勦るには幾ら勘次が八釜敷ても一々斷りをいうては出なかつた。
勘次は、おつぎがしばらくでもいなくなると、たとえ卯平のそばにいると知っていても
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勘次はおつぎが暫時でも居なくなると假令卯平の側に居るとは知つても
「おつう」
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「おつう」
と例のようにはげしくどなってみるのである。
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と例のやうに激しく呶鳴つて見るのである。
「ここにいたよ。そんなに呼ばれなくたっていいから。何だか、おとっつあんは」
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「此處に居たよ、そんなに喚ばらなくつたつてえゝから、何だかおとつゝあは」
おつぎが勘次をしかる声はやわらかで、そしてはっきりと勘次の耳にひびいた。
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おつぎの勘次を叱る聲は軟かでさうして明瞭に勘次の耳に響いた。
勘次は手ランプの光にただ目がひどく光るだけで、一言もなく息をひそめてしまうのである。
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勘次は手ランプの光に只目が酷く光るのみで一言もなく屏息して畢ふのである。
彼はまたしばらくして大戸をがらりと勢いよく開けて出ては、また少しすきまを残して大戸を引いて、ちょうど中へもどったように見せて、ほとんどかべにくっついた卯平の戸口の近くに立ってみるのである。
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彼は又暫くして大戸をがらりと勢ひよく開けて出ては又少し隙間を残して大戸を引いて丁度内へ還つたと見せて、殆んど壁に接した卯平の戸口に近く立つて見るのである。
手ランプもつけない卯平のせまい小屋の空気は、黒くしょんぼりとして死んだようである。
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手ランプも點けぬ卯平の狹い小屋の空氣は黒く悄然として死んだ樣である。
勘次はぬき足でもどっては、できるだけ静かに戸を閉じる。
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勘次は拔き足して戻つては出來るだけ靜に戸を閉ぢる。
とても不満な顔つきをしていても、勘次はおつぎが帰るとすぐに機げんが直って
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非常に不平な相形をして居ても勘次はおつぎが歸ると直に機嫌が直つて
「お前はそんなに夜ふかしするもんじゃない」
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「汝りやそんなに夜更しするもんぢやねえ」
と、いたわるような、たしなめるような調子で言ってみるのである。
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と勦はるやうな窘めるやうな調子ていつて見るのである。
すると
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さうすると、
「明日のさわりにでもなりゃしまいし、かまうこともあるまいな、おとっつあんは」
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「明日の障りにでも成りやしめえし管あこたあんめえな、おとつゝあは」
と言って、おつぎは勘次をおさえつけてしまうのである。
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といつておつぎは勘次を壓しつけて畢ふのである。
卯平は、おつぎが看病に来るときはたいてい
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卯平はおつぎが看病に來る時は大抵
「お前はいいよ」
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「汝りやえゝよ」
と言うのがふつうである。
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といふのが例である。
彼は勘次に遠りょするのではなくて、おつぎがぶつぶつ言われるのを心配するのだった。
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彼は勘次に遠慮をするのではなくて、おつぎがぶつ/\いはれるのを懸念するのであつた。
それでも卯平は、心の中でこっそりおつぎを待っていた。
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それでも卯平は心竊におつぎを待ちつゝあつた。
彼をなやませたリューマチは、病気の性質として彼の頑丈な体から命をうばい去るほど強くはならず、起こったりやわらいだりして、彼が帰ってから二度目の冬も一日一日と短い日を刻んで行った。
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彼が惱まされた僂麻質斯は病氣の性質として彼の頑丈な身體から其の生命を奪ひ去るまでに力を逞しくすることはなく、起つたり和いだりして彼が歸つてから二度目の冬も一日々々と短い日を刻んで行つた。
せまい掘っ立て小屋は、彼が初めに思いこんだほど、彼にとって幸せな所ではなかった。
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狹苦しい掘立小屋は彼が當初に思ひ込んだ程彼の爲に幸な處ではなかつた。
一九
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一九
「ああ暑い暑い、何と暑いことかな」
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「おゝ暑え/\、なんち暑えこつたかな」
おつたは前歯の下駄を引きずって
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おつたは前駒の下駄を引き擦つて
「おやおやまあ、よくこうまあ、どこにも草っ葉一つなくて、見ても晴れ晴れとするようだ」
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「おや/\まあ能く斯うなあ、何處にも草だら一つなくつて、見ても晴々とする樣だ」
と、わざとらしく言って庭に立った。
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と態とらしい樣にいつて庭に立つた。
それから
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さうしてから
「たくさん穫れるだろうな、これじゃ。くきばかりでもたいした出来だな」
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「たんと穫れべえなこんぢや、幹ばかしでもたえした出來だな」
と言って、勘次の近くへ歩いて行った。
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といつて勘次に近く歩を運んだ。
勘次は庭先のくりの木のかげへ二つのうすを横にころがして、おつぎと二人で夏そばを打っていた。
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勘次は庭先の栗の木の陰へ二つの臼を横に轉がしておつぎと二人で夏蕎麥を打つて居た。
夏そばは小麦でも打つように、ひとつかみつかんでは肩から背負うようにしてうすの腹にたたきつけると、三角形の種がまだ少し青い葉といっしょに落ちて、ほとんど真上からさす日をさえぎっているくりの木のかげから遠ざかって、はるか先のほうまでころがって行く。
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夏蕎麥は小麥でも打つ樣に一つ攫んでは肩から背負ふやうにして臼の腹へ叩きつけると三稜形の種子がまだ少し青い葉と共に落ちて殆ど直射する日光を遮つて居る栗の木の陰から遠ざかつて遙に先の方まで轉がつて行く。
小麦とちがってしめっぽい夏そばは、くきがくたくたとして、何度もたたきつけなければなかなか落ちない。
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小麥と違つて濕つぽい夏蕎麥は幹がくた/\として幾度も叩きつけねばなか/\落ちない。
それでも種はふぞろいに熟しているので、まだ青いのはどうしてもしがみついている。
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それでも種子は不規則な成熟をして居るので、まだ青いのはどうしてもしがみ附いて居る。
二人は藁でしばった大きなたばを解いては、ねばった物でも引きはがすようにつかみ取って、いっしんにいそがしくうすの腹にたたきつけた。
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二人は藁で縛つた大きな束を解いては粘つた物でも引き剥す樣に攫み取つて熱心に忙しく臼の腹へ叩きつけた。
庭は卯平がいつも草をむしってそうじしてあるのに、そばを打つ前にいったんていねいにほうきをかけたので、見るからにきれいになっていたのである。
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庭は卯平が始終草を挘つて掃除してあるのに、蕎麥を打つ前に一旦丁寧に箒が渡つたので見るから清潔に成つて居たのである。
勘次は暑いので、こんのじゅばんも腰のあたりへだらりと落として、こげたようなはだをさらけ出している。
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勘次は暑いので紺の襦袢も腰のあたりへだらりとこかして、焦たやうな肌膚をさらけ出して居る。
彼はさらにくりの木のしげった葉のあいだから、針の先で突くようにぽちりぽちりともれてさす光をよけて、いつものようにいぐさのあみがさをかぶって、麻のひもをあごでぎっと結んである。
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彼は更に栗の木の茂つた葉の間から針の先で突くやうにぽちり/\と洩れて射す光を避けて例もの如く藺草の編笠を被つて、麻の紐を顎でぎつと結んである。
毎日必ず汗でぐっしょりとしめるので、その強い繊維の力がもろくなって、秋の冷たい季節までにはどうしてもとちゅうで一度は取りかえなければならないと勘次が自まんしているひもは、ほこりが加わってよごれていた。
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毎日必ず汗でぐつしりと濕るので、其の強靱な纎維の力が脆く成つて、秋の冷たい季節までにはどうしても中途で一度は換へねばならぬと勘次が自慢して居る紐は埃が加はつて汚れて居た。
勘次はおつたのすがたをちらりとかきねの入口に見たとき、いやそうに目をしかめて、知らないふりをしながら、ひたすらそばのくきに力を注いだのだった。
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勘次はおつたの姿をちらりと垣根の入口に見た時不快な目を蹙めて知らぬ容子を粧ひながら只管蕎麥の幹に力を注いだのであつた。
おつたはやや茶色にあせた毛じゅすの洋がさを肩にかけたまま、そこらにこぼれたそばの種をふまないように気をつけながら、勘次の横に立ち止まった。
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おつたは稍褐色に腿めた毛繻子の洋傘を肩に打つ掛けた儘其處らに零れた蕎麥の種子を蹂まぬ樣に注意しつゝ勘次の横手へ立ち止つた。
おつたは何年か前に仕立てたと見える、めったにない大がらの鳴海しぼりのゆかたをかた肌ぬぎにして、左のそで口がだらりとひざの下までたれている。
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おつたは幾年か以前の仕立と見える滅多にない大形の鳴海絞りの浴衣を片肌脱にして左の袖口がだらりと膝の下まで垂れて居る。
すそは片方をまくって、外から帯へはさんだ。
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裾は片隅を端折つて外から帶へ挾んだ。
勘次はどこまでも知らないふりを保つことはできなかった。
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勘次は何處までも知らぬ容子を保つことは出來なかつた。
彼はおつたのわざとらしい声も聞かず、また近くに立ったそのすがたを目に入れないわけには行かなかった。
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彼はおつたの態とらしい聲も聞かず、又近く立つた其の姿を眼に映さない譯には行かなかつた。
彼はそばをつかむのをやめて、おつたのほうを向いた。
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彼は蕎麥を攫むのを止めておつたの方を向いた。
彼はしかめていた顔に、少しきまり悪そうな表情をうかべた。
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彼は蹙めて居た顏に少し極りの惡相な一種の表情を浮べた。
「何だい、姉さんら」
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「何でえ姊等」
勘次は思わずそう言った。
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勘次は無意識にさういつた。
彼の胸のあたりにわき出る汗は、わずかに曲がりながら何本もの流れる道を作っている。
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彼の胸のあたりに湧き出る汗は、僅に曲折をなしつゝ幾筋かの流るゝ途を作つて居る。
そこにはそばのくきから少しずつ立つほこりがついてしめっている。
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其處には蕎麥の幹から知られぬ程づつ立つ埃が付いて濕つて居る。
じりじりと汗のあなからしぼり出る汗が、その流れの道を絶やさないで、そこだけそばのほこりを洗い流している。
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ぢり/\と汗腺から搾れ出る汗が其の趾つけられた流れの途を絶たないで其處だけ蕎麥の埃を洗ひ去つて居る。
彼はおつたの前に、その暑そうな体を向けた。
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彼はおつたの前に其の暑相な身を向けた。
「どうしたということもないがなあ。おれはこっちのほうを通ったもんだから、ちょっと寄ってみたところさ」
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「どうしたつちこともねえがなよ、俺らこつちの方通つたもんだから一寸踏ん掛つて見た處さ」
おつたは何かわけのありそうな口ぶりで軽く言った。
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おつたは何か理由の有相な口吻で輕くいつた。
「おれはしばらくこっちへも来なかったっけが、これはおつぎじゃあるまいか。ずいぶんいいむすめになっちまったなあ。もっともこういう年ごろの子は、ちょっと見ないでいると分からなくなるな、すぐだからな。そのわりにしちゃ、おれみたいなのは年は取らないものさな」
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「俺ら暫くこつちへも來なかつたつけが、此らおつぎぢやあんめえか、大層えゝ娘に成つちやつたなあ、尤もはあ恁うい手合はちつと見ねえでちや分んなく成んな直だかんな、其の割にしちや俺ら見てえなもな年齡はとんねえものさな」
おつたは立ったまま独り言のように、そして少し張り合いがなさそうに、何か話のきっかけでも求めたいというようすで、くりの木のえだからだらりとたれている南瓜のしりを見上げながら言った。
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おつたは立つた儘獨語の樣に、さうして少し張合のない樣に、何か噺の端緒でも求めたいといふ容子で栗の木の梢からだらりと垂てる南瓜の臀を見上げながらいつた。
おつぎはこのとき、すげがさのはしにちょっと手をかけて、おつたに腰をかがめた。
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おつぎは此の時菅笠の端へ一寸手を掛けておつたへ腰を屈めた。
おつぎは白いじゅばんのえりをのぞかせて、ひとえの胸をきちんと合わせて、そしてたすきと手甲で身を固めて、暑いのにもかかわらず、女のたしなみを失わなかった。
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おつぎは白い襦袢の襟を覗かせて、單衣の胸をきちんと合せて、さうして襷と手刺とで身を堅めて、暑いのにも拘らず女の節制を失はなかつた。
おつぎはそばの手を放して、小走りにかけて行った。
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おつぎは蕎麥の手を放して小走りに驅けて行つた。
すげがさを取って、だらりとかぶった手ぬぐいを外したとき、少し乱れた髪がぐっしょりと汗にぬれて、げっそりとやつれたもののように思われた。
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菅笠をとつてだらりと被つた手拭を外した時少し亂れた髮がぐつしやりと汗に濡れてげつそりと衰へたものゝ樣に覺えた。
おつたは開いたままの洋がさをくりの木のそばへ仰向けに置いて、黙って井戸ばたへ行って、手水だらいに一ぱいの水をくんだ。
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おつたは開いた儘の洋傘を栗の木の側へ仰向に置いて默つて井戸端へ行つて手水盥に一杯の水を汲んだ。
「冷たくて本当に晴れ晴れといい水じゃないか。おれのほうの井戸みたいにしゃくしでくみ出すようなんじゃ、ぼかぼかぬるくて」
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「冷たくつて本當に晴々とえゝ水ぢやねえか、俺ら方の井戸見てえに柄杓で汲み出すやうなんぢや、ぼか/\ぬるまつたくつて」
おつたはまた独り言を言った。
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おつたは復た獨語をいつた。
勘次はそばをはなれたおつたをほうっておいて、しかも気の乗らないようにまたそばをうすに打ちつけはじめた。
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勘次は側を去つたおつたを棄てゝ、然も氣の乘らぬ樣に又蕎麥を臼へ打ちつけ始めた。
おつたは汗のしみた手ぬぐいをしきりにごしごしともみ出して、首すじのあたりから全体に何度もふいて、手水だらいの水を取りかえた。
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おつたは汗沁みた手拭を頻りにごし/\と揉み出して首筋のあたりから一帶に幾度となく拭つて手水盥の水を換へた。
しばらくして、家ののきからは青いけむりがはって、だんだんうすいけむりが後から後から暑い日に消えて行った。
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暫くして家の廂からは青い煙が偃つてだん/\に薄い煙が後から/\と暑い日に消散した。
「おとっつあん、お茶がわいたぞ」
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「おとつゝあ、お茶沸いたぞ」
おつぎは戸口へ出て、小声で勘次に告げた。
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おつぎは戸口へ出て小聲で勘次へ告げた。
「うん」
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「うむ」
勘次は喉の底で言って
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勘次は喉の底でいつて
「姉さん、お茶がわいたとう」
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「姊、お茶沸いたとう」
彼はまたぶすりと言って、そばの手を止めなかった。
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彼は又ぶすりといつて蕎麥の手を止めなかつた。
「お茶をお上がりなさいね」
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「お茶おあがんなせえね」
おつぎは勘次の後につづいて、少し声を高くして言った。
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おつぎは勘次の尾に跟いて少し聲高にいつた。
おつたはぎりっとしぼった手ぬぐいを開いて、ばたばたとはたいた。
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おつたはぎりつと絞つた手拭を開いてばた/\と叩いた。
井戸ばたにぼさぼさとしげりながら、昼の暑さにぐったりと葉のしおれているほうせんかの、やっとついている花が手ぬぐいのはしにふれて、ぽろっと落ちた。
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井戸端にぼつさりと茂りながら日中の暑さにぐつたりと葉が萎れて居る鳳仙花の、やつと縋つて居る花が手拭の端に觸れてぼろつと落ちた。
そばには背の高いひまわりが、むしろどぎついほどいっぱいに開いて、まわりにほこっている。
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側には長大な向日葵が寧ろ毒々しい程一杯に開いて周圍に誇つて居る。
おいらん草の花がもさもさとしげったまま、ひまわりのそばに列をなしている。
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草夾竹桃の花がもさ/\と茂つた儘向日葵の側に列をなして居る
「よくまあこんなに作ったっけな。おれももう、好きは好きだが、自分じゃあっちだこっちだで作れないもんだ。これをまあ、朝っぱらのすずしいうちに見たら、どれほどいいことかよ」
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「能くまあかういに作つたつけな、俺らもはあ、好きは好きだが自分ぢやそつちだこつちだで作れねえもんだ、此れまあ朝つぱら凉しい内に見たらどら程えゝこつたかよ」
おつたはしめった手ぬぐいを幾つかに折って手ににぎったまま、くりの木のそばに置いた洋がさをすぼめて、ゆっくりと家へ入った。
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おつたは濕つた手拭を幾つかに折つて手に攫んだ儘、栗の木の側に置いた洋傘を窄めてゆつくりと家へ這入つた。
おつぎはお茶をわかす火のために汗がさらにわいたのを手ぬぐいでふいて、それから乱れた髪にくしを入れて、さらにていねいに手ぬぐいをかぶって、そうしておつたを呼んだのだった。
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おつぎは茶を沸す火の爲に汗が更に湧いたのを手拭でふいて、それから亂れた髮に櫛を入て更に丁寧に手拭を被つてさうしておつたを喚んだのであつた。
おつたはどこか落ち着かないようすで、洋がさも外のかべぎわに立てかけてしきいをまたいだ。
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おつたは何處か落付かぬ容子で洋傘も外の壁際に立て掛て閾を跨いだ。
「お暑うございますね、どうも」
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「お暑うござんすねどうも」
おつぎはたすきを取ってあいさつしながら、おつたにお茶をすすめた。
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おつぎは襷をとつて時儀を述べながらおつたへ茶を侑めた。
三人はしばらく黙っていた。
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三人は暫く沈默して居た。
東どなりの庭からは、大ぜいがそろってからさおで麦を打つひびきが、森をとおして、それからどろりどろりと地面をゆらして聞こえた。
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東隣の庭からは大勢が揃つて連枷で麥を打つて居る響が、森を透して夫からどろり/\と地を搖つて聞えた。
自分たちが立てるひびきにさそわれてさわぐ、彼らの決まったはやし声が「ほういほうい」
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自分等が立てる響に誘はれて騷ぐ彼等の極つた囃の聲が「ほうい/\」
と一人の口から、そしてだんだんめいめいの口からいっせいにほとばしって、楽しそうに聞こえた。
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と一人の口からさうして段々と各自の口から一齊に迸つて愉快相に聞えた。
三人の耳も同じようにさそわれたように、一種の調子を持ったとなりの庭のひびきに耳をかたむけながら、黙ったままの時間をつづけた。
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三人の耳は同じく誘はれた樣に一種の調子を持つた隣の庭の響に耳を傾けつゝ沈默の時間を繼續した。
おつたは茶柱の立った茶わんの中を見て、それからちょっとにっこりしてみたり、庭のほうを見たりしていた。
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おつたは茶柱の立つた茶碗の中を見てそれから一寸嫣然として見たり、庭の方を見たりして居た。
おつたが庭を見ると、勘次は何年も会わなかった姉のようすを、さすがにしみじみと見るのだった。
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おつたが庭を見ると勘次は幾年も遭はなかつた姊の容子を有繋にしみ/″\と見るのであつた。
おつたは五十をいくつもこえている。
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おつたは五十を幾つも越えて居る。
小がらな、少しくりくりと丸みのある顔は、年ほどには見えないにしても、やっと深いしわが刻んでいるのに、髪はおそろしくつやつやとしている。
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小柄な少しくり/\と丸みを持つた顏は、年齡程には見えないにしても漸く深い皺が刻んで居るのに、髮は恐ろしくつや/\として居る。
おつたは髪を染めていた。
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おつたは髮を染めて居た。
しかし薬の力は、はだをとおしてその下にまでは行きとどかなかった。
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然し藥の力は肌膚を透して其の下にまで及ぼすことは出來なかつた。
髪は染めてからしばらくたったと見えて、はだについたわずかな部分が、髪ぜんぶをそっくり持ち上げたように、ほのかに白く見えていた。
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髮は染めてから暫く經つたと見えて一帶に肌膚についた僅の部分が髮の凡てをそつくり突き扛げた樣に仄かに白く見えて居た。
勘次はただ音を立てながら、なかなか冷めない熱い茶わんをすすった。
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勘次は只響を立てながら容易に冷めぬ熱い茶碗を啜つた。
おつぎも、何年か会わないおばの人なつっこいような、わけの分からないようなようすをぬすみ見た。
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おつぎも幾年か逢はぬ伯母の人なづこい樣で理由の分らぬ樣な容子を偸み視た。
「夏そばでも穫れるのは、こういうぐあいじゃつぶも大きいようだな」
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「夏蕎麥でもとれんなかうい鹽梅ぢや粒も大え樣だな」
おつたは庭を見たまま、また真っ先に目に入るそばについて言った。
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おつたは庭を見た儘復た第一に目に觸れる蕎麥に就ていつた。
こちらを向いている二つのうすの腹が、まだ先のやわらかな夏そばのくきでうす青く染まっているのが見えている。
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此方へ向いて居る二つの臼の腹が、まだ先の軟かな夏蕎麥の莖で薄青く染まつたのが見えて居る。
「ばかに降ってばかりいたせいか、くきばかりのびちまって。そんだが穫れないほうでもあるまいが、夏そばが穫れるようじゃ世の中はよくないというから、こんなものはどうでもいいようなもんだが」
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「馬鹿に降つてばかし居た所爲か幹ばかし延びつちやつて、そんだがとれねえ方でもあんめえが、夏蕎麥とれる樣ぢや世柄よくねえつちから、恁んなもなどうでもえゝやうなもんだが」
勘次の言い方はぎこちなかった。
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勘次のいひ方はこそつぱかつた。
庭のあぶらぜみが、暑くなれば暑くなるほどひどくじりじりといりつけるだけで、しんとした村のはしで、久しぶりに会った姉と弟はこうして、ただよそよそしく向かい合った。
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庭の油蝉が暑くなれば暑くなる程酷くぢり/\と熬りつけるのみで、閑寂な村落の端に偶遭うた姊弟はかうして只餘所々々しく相對した。
「本当に、おれはさっきからそう思ってるんだが、りっぱな花じゃないかな」
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「本當に俺ら先刻からさう思つてんだが立派な花ぢやねえかな」
おつたは庭先の草花に、また話をつづけた。
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おつたは庭先の草花に復た噺を繼いだ。
「うん、そんだが、ろくにありもしない肥料ばかり使われて」
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「うむ、そんだが碌に有りもしねえ肥料ばかし使あれて」
「お前が植えたんじゃないのか」
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「おめえ植ゑたんぢやねえのか」
「なあに、爺さんがあっちこっちから持って来て植えたのよ。去年はそんでも、そこらへとうもろこしくらい作れたっけが、これ、じゃまだとも言えないしなあ」
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「なあに爺樣そつちこつちから持つて來て植ゑたてたのよ、去年はそんでも其處らへ玉蜀黍位作れたつけが、此れ、邪魔だとも云はんねえしなあ」
「おれはしばらく来ないから知らなかったっけが、そんでも野田から引っこんでか」
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「俺ら暫く來ねえから知らなかつたつけが、そんでも野田から引つこんでか」
「うん、もう二年になるよ」
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「うむ、はあ二年に成らえ」
「よっぽどの年だろうが、丈夫かい、それでも」
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「餘つ程の年齡だつぺが丈夫けえそんでも」
「丈夫なことは、おどろくほど丈夫だが、何でも自分が好きなら働くようすで、そこらをほっつき歩いちゃこづかいくらいは取ってるんだな、ぐあいしだいが」
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「丈夫なこたあ、魂消る程丈夫だが何でも自分の好きなら働く容子で、其處らほうつき歩いちや小遣錢位はとつてんだな鹽梅しきが」
「そんじゃいそがしいときにはちっとは手伝ってもらえてよかろうな」
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「そんぢや忙しい時にやちつたあ手傳つて貰へてよかんべな」
「何だ、一つ手伝うなんてありゃしまいし。それからもう、こっちもたのみもしないが」
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「なんだら一つ手傳あなんちや有りやしめえし、それからはあ、此方も頼んもしねえが」
「もっともそう言えば、若いころでもおれが知ってからは、仕事は上手でやるとなればみっしりやるようだったっけが、好きじゃないようすだったっけのさな」
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「尤もさういへば壯の頃でも俺らあ知つてからは仕事は上手で行ると出しちやみつしら行る樣だつけが、好きぢやねえ鹽梅だつけのさな」
「それどころじゃないや。おれといっしょにいるのさえいやなんだろうが、別々になっちまったな。つまらない、よけいなお金なんぞ使って。おれだって大変な手間をかけたな。なあに、おれは爺さんさえちっとその気でいてくれさえすりゃ、いくらでも面倒を見るというんだが、どういうつもりなんだか、おれには分からないが」
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「其れ處ぢやねえや、俺らと一緒に居んのせえ厭なんだんべが、別々に成つちやつたな、つまんねえ、餘計な錢なんぞ遣つて、俺らだつて大えこと手間打つこんだな、なあに俺ら爺樣せえちつと其積で行つて呉れせえすりや、幾らでも面倒見るつちつてんだが、如何いふ料簡のもんだか俺らがにや分んねえが」
「そんじゃ、このそばの小屋じゃあるまい。おれはさっき見たときは、肥料小屋だとばかり思ってたな。本当に、こういう所へもの好きな話よな。何でも世の中を渡るならだれでも同じこと、跡取りの気分を悪くしないようにやらなくちゃかなわないよ。そんだが、それも性分でなあ、他人からじゃ仕方がないものよ」
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「そんぢや、此の側な小屋ぢやあんめえ、俺ら先刻見た時や肥料小屋だとばかし思つてたな、本當にかうだ處へ醉狂な噺よな、なんでも世を渡しちや誰でも同じこと相續人の氣味惡くしねえ樣にやんなくつちや畢へねえよ、そんだがそれも性分でなあ、他からぢやしやうねえものよ」
「おれだって、これで一人増えちゃ増えただけ、麦や米の心配からしなくちゃならないんだから、そのつもりでいてくれなくちゃ。これで気分としてはあんまり面白くないからな。毎日にがむしをかみつぶしたような顔ばかりされたんじゃ、いやになっちまうぞ、本当に」
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「俺らだつてこんで一人殖えちや殖えた丈に麥米の心配からして掛んなくつちやなんねえんだから、其の積で居てくんなくつちや、此んで心持ぢや餘り面白かねえかんな、毎日苦蟲喰つ潰したやうな面つきばかしされたんぢや厭んなつちまあぞ、本當に」
「そりゃそうにも何にもよ。他人でさえ、これでやわらかい言葉でもかけられると、後じゃほしくなるような物でも出す気にもなるもんだからなあ」
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「そりやさうにも何にもよ、他人でせえこんで軟けえ言辭でも掛けられつと、後ぢや欲しく成るやうな物でも出す料簡にもなるもんだかんなあ」
おつたはこう言いながら、さっきからにわとりのねぐらの下にある二つの俵に目を注いでいた。
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おつたは斯ういひながら先刻から雞の塒の下に在る二俵の俵へ目を注いで居た。
「そんだがお前も、たいした働きだと見えるな。こんなに俵までちゃんとして。たいがいの百姓じゃお前、こうはいかないぞ。おれはお世辞を言うわけじゃないが」
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「そんだがおめえもたえした働きだと見えんな、かうえに俵までちやんとして、大概な百姓ぢやおめえ此手にや行かねえぞ、俺ら世辭いふわけぢやねえが」
勘次はやっと話に引きこまれたように、このときほほえみをもらして
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勘次は漸く噺に吊り込まれた樣に此の時微笑を洩らして
「おれも今になってからじゃこれ、話するようなもんだが、ひとしきりは泣いたからな、本当に。これでもこれくらいにするにはやっとこさだぞ」
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「俺らも今んなつてからぢやこれ、噺するやうなもんだが一しきりや泣いたかんな本當に、こんでも此の位にすんにやゝつとこせえだぞ」
と言った。
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といつた。
「おつぎも働けそうだな、きびきびとして。さっきおれがそばを打ってるのを見ていても、気持ちがいいようだったっけよ。仕事は何でも身なりのいいもんでなくちゃなあ。これもお前が仕込んだせいだろうが」
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「おつぎも働け相だな、きり/\としてなあ、先刻俺ら蕎麥打つてんの見てゝも心持えゝ樣だつけよ、仕事はなんでも身拵えのえゝもんでなくつちやなあ、此れもおめえが仕込の所爲だんべが」
おつたはそう言って、また
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おつたはさういつて又
「そりゃそうと、おっかさんにそっくりだなあ」
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「そりやさうとおつかさまに其儘だなあ」
と、そばにいたおつぎに目を移した。
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と側に居たおつぎに目を移した。
おつぎはそれを聞くとともに、身をよけるように手おけを持って庭へ出た。
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おつぎはそれを聞くと共に身を避ける樣に手桶を持つて庭へ出た。
「おれもこれで、女房に死なれたばかりのころには、これも役に立たないから泣き通したよ」
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「俺らもこんで嚊に死なれた當座にや此れも役に立たねえから泣きぬいたよ」
勘次は急にしんみりとして言った。
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勘次は俄にしんみりとしていつた。
おつたはお品のことが勘次の口から出たとき、かすかに苦笑いして
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おつたはお品のことが勘次の口から出た時微かに苦笑して
「ほんに、おれはあのときには来られなかったっけが、遠くのほうへ行ってたもんだから。お前にはもう、悪く思われるだろうとは思ってたのよ」
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「ほんに、俺ら彼ん時にや來ねえつちやつたつけが、遠くの方へ行つてたもんだから、おめえにやはあ惡く思はれべえたあ思つてたのよ」
おつたはやっとのことで、しかも表向きは何でもないように言ってしまった。
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おつたは漸くのことで然も表面は事もなげにいつて畢つた。
「おれはさっきから見てるんだが、道具はよく大事にすると見えて、かまなんぞでも光ってることな。それによく、こう三日月みたいな形に減らせたもんだな。とぎ方もよっぽど気をつけなくちゃ、こうはできないな。道具もこうすりゃいつまでも使えて安いものさな」
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「俺ら先刻から見てんだが道具は能く大事にすつと見えて鎌なんぞでも光つてつことなあ、それに能くかう三日月姿に減らせたもんだな、研ぎ方も餘つ程氣をつけなくつちやかうは出來ねえな、道具も斯うすりや何時までゝも使へて廉えものさな」
おつたは少し慌てたように、しかもなるべく落ち着こうとしながら話をそらした。
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おつたは少し慌てた樣に然も成るべく落附かうと勉めつゝ噺を外した。
「くわもたいしたもんじゃないかな」
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「唐鍬もたえしたもんぢやねえかな」
おつたはわざとくわのそばに立った。
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おつたは態と唐鍬の側に立つた。
「うん、そんでもおれのみたいなのは、めったに持ってる者もないからな」
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「うむ、そんでも俺らが見てえなゝ、滅多持つてるもなねえかんな」
「どうするんだい、こんな大きいの。持ち上げるだけでも大変なようじゃないかい」
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「どうすんでえこんな大えの、引つ立てるばかしでも大變なやうぢやねえけ」
「そんだって姉さん、これを見ろな」
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「そんだつて姊は此れ見ろな」
勘次は手のひらをおつたの前に出した。
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勘次は掌をおつたの前へ出した。
百姓にしてはわりと小さな手は、はれたかと思うほどぽつりとふくれて、どれほどかしの柄をつかんでも、けっして豆ができるはずの手でないことをはっきりと見せている。
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百姓にしては比較的小さな手は腫れたかと思ふ程ぽつりと膨れて、どれ程樫の柄を攫んでも決して肉刺を生ずべき手でないことを明かに示して居る。
「これだから、知らない者は、おれが手をかざしてると、どうしたんだいなんて聞くから、おれはこんなにはれちまって痛くて仕方がないんだなんて、そうっと出して見せると、なるほどこりゃ痛かろうなんておどろくらあな。くわなんざお金を出しさえすりゃいくらでもあるが、この手のひらはないぞ。二年三年くわを持ったんじゃ、こうはならないからな。おれのはくわの柄へすっかりくっついちまったんだから。これで毎年四、五反歩くらいは開こんするんだから」
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「此んだから知らねえもな俺れ手懷してつと、如何したんでえなんて聞くから俺らかういに腫つちやつて痛くつてしやうねえんだなんて、そろうつと出して見せつと、成る程こりや痛かんべえなんて魂消らあな、唐鍬なんざ錢出しせえすりや幾らでも有んが、此の手つ平はねえぞ、二年三年唐鍬持つたんぢや恁うは成んねえかんな、俺らがな唐鍬の柄さすつかりくつゝいちやつたんだから、こんで毎年四五反歩位は打開墾すんだから」
勘次はしかめた顔のすじがゆるんだようになって、おつたの前でほこった。
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勘次は蹙めた顏の筋がゆるんだ樣になつておつたの前に誇つた。
「旦那の山林を開こんしちゃうまいのよ。場所によっちゃ陸稲も作れるし。おれはこれでも三、四反歩ずつは作ってるんだが、今年はいいぐあいの降りだから大丈夫だとは思ってるのよ。どういうもんだか、以前は陸稲というともう、穫れないようなもんだったっけがな」
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「旦那の山林開墾しちやうめえのよ、場所によつちや陸稻も作れるし、俺らこんでも三四反歩づつは作つてんだが、今年はえゝ鹽梅な降りだから大丈夫だたあ思つてんのよ、どうえもんだか以前は陸稻つちとはあ、とれねえ樣なもんだつけがな」
「そんなに作っちゃ、たいしたもんじゃないかな」
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「其麽に作つちや大層なもんぢやねえかな」
おつたはおどろいたように言った。
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おつたは驚いたやうにいつた。
「陸稲も土地が新しいうちはできるもんだわ。ほの出たわりには量は取れないが、そんでも開こんしたばかりには草は出ないから手間が要らないしな。それに肥料というのはなんぼもしないんだから。もっとも三年も作っちゃそうはいかないが、そのときは元の山林になるんだから、こわいことも何にもないのよ」
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「陸稻も地が珍らしい内は出來るもんだわ、穗の出た割にや分は拔けねえが、そんでも開墾したばかしにや草は出ねえから手間が要らねえしな、それに肥料つちやなんぼもしねえんだから、尤も三年も作つちや其の手にや行かねえが、其ん時や以前の山林になんだから可怖えこともなんにもねえのよ」
「よっぽど穫れるだろうな、三、四反歩も作っちゃなあ」
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「餘つ程とれべえな、三四反歩も作つちやなあ」
「これでほの出るころに雨でもいいぐあいなら、一反で四俵なんざどうしても穫れると思ってるのよ」
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「こんで穗の出際に雨でもえゝ鹽梅なら、反で四俵なんざどうしてもとれべと思つてんのよ」
「陸稲とも言えないもんだな。以前とちがって今の時代じゃそうだから、これで場所によっちゃ、百姓にもたいした運不運があるのよなあ。おれのほうみたいにこう水で持って行かれてばかりいる所もあるのに、山林の中で米が穫れるなんて」
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「陸稻とも云はんねえもんだな、以前と違つて今の時世ぢやさうだからこんで場所によつちや、百姓にもたえした起き轉びがあるのよなあ、俺ら方見てえに洪水で持つてかれてばかし居つ處も有んのに山林んなかで米とれるなんて」
「そうよ、ここらはこう水の心配はそんなにしないでもいい所だからな」
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「さうよ、此處らは洪水の心配はさうだにしねえでもえゝ處だかんな」
勘次は、これまで二人の仲がどうであったにしても、たまたま会ったおつたに向かってだんだん話しているうちには、同じお母さんから生まれたきょうだいのつながりが、彼の卑しい心の底を開いて、それをかくすにはあまりに彼を無防備にさせたのだった。
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勘次は從來其の間がどうであつたにしても偶然逢つたおつたに對してだん/\噺して居るうちには同じ乳房に縋つた骨肉の關係が彼の淺猿しい心の底を披瀝いてそれを陰蔽するのには餘りに彼を放心とさせたのであつた。
「おつう、あのらっきょうでも出してみな。土用前に取ってすぐつけたんだから、もうよかろう」
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「おつう、彼の薤でも出して見せえ、土用前に採つて直ぐ漬たんだから、はあよかんべえ」
勘次は気持ちよくおつぎに言いつけた。
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勘次は快よくおつぎに命じた。
おつぎは古いしょうゆだるから白づけのらっきょうを片口に出して、おつたのそばへすすめた。
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おつぎは古い醤油樽から白漬の薤を片口へ出しておつたの側へ侑めた。
勘次は一つつまんでかりかりとかじった。
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勘次は一つ撮んでかり/\と噛つた。
少し丸みのあるほおに絶えずほほえみをうかべて、勘次の言うことを聞いていたおつたは、何かさらに言おうとしてちょっとためらっているようすが見えた。
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少し丸みがかつた頬に絶ず微笑を含んで勘次のいふことを聞いて居たおつたは何か更にいはうとして一寸躊躇しつゝある容子が見えた。
勘次もおつぎも、それは知らなかった。
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勘次もおつぎもそれは知らなかつた。
おつたは、いっぱいに注いである茶わんへまたお茶を注ごうとして、急にやめた。
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おつたは一杯に注いである茶碗へ又茶を注がうとして俄に止めた。
おつたは茶わんをぐっと飲み干した。
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おつたは茶碗をぐつと嚥み干した。
「これできょうだいのいい話を聞くのは悪くないもんだよ。さすがに自分ばかりよくて、ほかのきょうだいには構わないというものもないからな」
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「こんで同胞のえゝ噺聞くな惡かねえもんだよ、有繋自分ばかしよくつて他の同胞にや管あねえつちいものもねえかんな」
と言って、庭のべんじょへ立って、それからまた上がりがまちに腰を下ろした。
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といつて庭の便所へ立つてそれから再び上り框に腰を卸した。
「おれはお前にちっと相談に乗ってもらいたいと思うことがあって来たんだったがなあ」
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「俺らおめえにちつと相談に乘つて貰えてえと思ふこと有つて來たんだつけがなよ」
おつたはわざとあらたまったようすでなく言いかけた。
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おつたは態と改まつた容子でなくいひ掛けた。
「何だろう」
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「何だんべ」
勘次はふっといつもの自分にもどろうとして、例の不安そうな目を見開いておつたを見た。
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勘次はふつと彼の平生に還らうとして例の不安らしい目を睜つておつたを見た。
「なあに、たいしたことじゃないが、目の見えない息子に嫁を世話されるもんだから、どうしたもんだろうかと思ってよ」
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「なあにたえしたこつちやねえが、盲目の野郎げ嫁世話されるもんだからどうしたもんだんべかと思つてよ」
「姉さんがもらいたけりゃ、他人には構うことはあるまいな」
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「姊貰へたけりや他人にや管あこたあ有んめえな」
勘次は、おつたがゆっくり言うのが終わらないうちに、そっけなく言った。
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勘次はおつたがゆつくりといふのが畢らぬのにそつけなくいつた。
「そう言っちまえばそうだがなあ。そんだって、きょうだいに一言の話もないなんて後で文句を言われても、黙ってちゃお前、口が開けまいな。そんだから、おれはお前に耳打ちしておこうと思ったんだな」
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「さう云つちめえばさうだがなよ、そんだつて同胞に一噺もねえなんて後で文句云はれても、默つてちやおめえ口が開けめえな、そんだから俺らおめえげ耳打して置くべと思つたんだな」
「おれは何も文句を言う筋合いはないな」
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「俺ら何も不服いふ席はねえな」
勘次は少し安心したらしく、こう軽く言ってのけた。
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勘次は少し安心したらしく、恁う輕くいひ退けた。
「そんならいいがなあ。あれももう二十七になるんだから、おれもこれでまあ心配はしてたんだが、自分でもそれ、足りない足りないの心配が絶えないもんだから、思ってはいても手が出ないのよ。自分の子どものことを、お前、まったくどうなってもかまわないとは思えないよ、これで」
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「そんだらえゝがなよ、彼れもはあ廿七に成んだから俺らもこんでまあ心配はしてたんだが、自分でもそれ無え足んねえの心配が絶えねえもんだから、思つちや居ても手が出ねえのよ、自分の餓鬼のことおめえ全然どうなつても管あねえたあ思へねえよこんで」
勘次は足の先で土間の土をこすりながら、黙っておつたの言うのを聞いた。
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勘次は足の先で土間の土を擦りながら默つておつたのいふのを聞いた。
「あれもそれ、とちゅうで目が見えなくなったんだから、それまでに働いて体はできてるし、お前も知ってるとおり、あれでいて仕事もできるしするもんだから、ありがたいことに、体が不自由でも嫁を世話しようという人もあるようなわけさなあ。何でも人間は働き次第だよ。お前だって、働くというのでばかり他人にはよく言われてるじゃないかい。そんで、おれもその女は見たが、女はそれ、器量は悪いがな。そんだって目が見えないんだもの、顔立ちを見るわけじゃなし、心根さえよけりゃいいと思って」
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「彼もそれ中途で盲目に成つたんだから、それまでに働いて身體は成熟てるしおめえも知つてる通りあんで居て仕事も出來るしするもんだから、難有えことに不具でも嫁世話すべつちいものもあるやうな譯さなあ、何でも人間は働き次第だよ、おめえだつて働くんでばかり他人にや好く云はれてべえぢやねえけえ、そんで俺れも其の女は見たが、女はそれ惡りいがな、そんだつて盲目だもの目鼻立見べえぢやなし、心底せえよけりやえゝと思つてな」
おつたはしきりに、勘次の心の底からの賛成を得ようとした。
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おつたは頻りに勘次の衷心からの同意を得ようとした。
「そりゃよかろうな、そんじゃ」
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「そりやよかんべなそんぢや」
勘次はただかんたんにそう言った。
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勘次は只簡單にさういつた。
「そんで嫁を持たせるにしても、せっかくこっちにいて働いてるんだから、おれは自分の所へは連れて行くわけには行かないと思ってな。何と言ってもそれ、知ってる所でなくちゃ、目が見えないから面倒を見てくれるという人もあるまいしなあ。それからおれは、そこのところも心配していたんだが、ちょうどこの村にいいぐあいに貸してもいいという家があるというもんだから、ついでだと思って見て来たが、ここからじゃあっちのほうの、それ、知ってるだろう、しきって貸すというんだから、おれはそこへ入れたいと思って。おそるおそる聞いてみたんだが、借りるのには保証人がなくちゃだめだというから、近くではあるし、お前に保証に立ってもらいたいと思ってな」
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「そんで娵持たせるにしても折角こつちに居て働いてんだから俺ら自分の處へは連れて行く譯にや行かねえと思つてな何ちつてもそれ、知てつ處でなくつちや盲目だから面倒見てくれるつち人もあんめえしなあ、それから俺ら其處んとこも心配して居たんだが、丁度此村落にえゝ鹽梅貸してもえゝつち家有るつちもんだから、序だと思つて見て來たが、此處からぢやあつちの方のそれ知つてべえ仕切つて貸すつちんだから、俺ら其處さ入れてえと思つて、おそこそ聞いて見たんだが借りんのにや保證人無くつちや駄目だつちから、近くぢやあるしおめえに保證に立つて貰えてえと思つてな」
「いやだよ、おれはそんなこと」
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「厭だよ俺らそんなこと」
勘次は慌てたように言った。
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勘次は慌てたやうにいつた。
「そんじゃ仕方がないな。どうしてだろうな、また。せっかくあれの身も落ち着くんだから、そうしてくれればいいんだがな」
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「そんぢや仕やうねえな、どうしてだんべなまた、折角彼が身も堅まんだからさうして呉れゝばえゝんだがな」
おつたはがっかりして投げやりな態度で言った。
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おつたはがつかり投げ掛けた態度でいつた。
「ばかを言え、家賃でもとどこおった日には、おれが弁償しなくちゃなるまいし。それこそおれの暮らしなんざつぶれても間に合いやしない。いやにも何にも」
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「箆棒、家賃でも滯つた日にや、俺れ辨償はなくつちや成りやすめえし、それこさあ俺らが身上なんざ潰れても間にやえやしねえ、厭だにもなんにも」
「そんなこと言ったってお前、あれだって独りでいるんじゃなし、持つ物を持って働くのに、三十銭や五十銭の家賃がはらえないこともあるまいな。それも何なら、お前、一月でも二月でもようすを見て、そのとき見こみがなけりゃ手を引いてもかまいやしないな」
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「そんなこと云つたつておめえ、彼だつて獨でゝも居んぢやなし持つもの持つて働くのに三十錢や五十錢の家賃の拂へねえことも有んめえな、それも何ならおめえ一月でも二月でも見試して、そん時見込なけりや身拔しても管えやしねえな」
「そんでもいやだよ。おれはそういう話じゃ聞きたくもない」
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「そんでも厭だよ、俺らさうい噺ぢや聞きたくもねえ」
勘次はそっけなく言って、すいと庭へ立って、また夏そばに手をかけた。
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勘次は素氣なくいつてすいと庭へ立つて復た夏蕎麥へ手を掛けた。
「ひどくいそがしいこったな」
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「酷く忙しいこつたな」
おつたは口を引きしめて、勘次の後ろすがたを見た。
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おつたは口を引き締めて勘次の後姿を見た。
「いそがしいとも。田の草もまだ取っちゃいないんだ。土用になってからだって、いくらも照りやしまいし。降ってばかりいるから見ろ、あれ、となりの旦那らだって今ごろ麦を打ってるさわぎだあ。百姓はこのころの季節によけいなひまなんざないから」
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「忙しいとも田の草もまあだ掻きやしねえんだ、土用になつてからだつて幾らも照りやしめえし、降つてばかし居つから見ろうあれ、隣の旦那等だつて今頃麥打つてる騷ぎだあ、百姓は此の頃の時節に餘計な暇なんざねえから」
勘次はつぶやくように言った。
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勘次は呟くやうにいつた。
となりの庭では、さっきよりさらに勢いがついたように、からさおのひびきがはやし声とともに、森をもれて聞こえた。
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隣の庭では先刻よりも更に勢がついた樣に連枷の響が囃の聲を伴ひつゝ森を洩れて聞えた。
「うん、たいしたあいさつだな。おれはまた、姉と弟というのはそんなもんじゃあるまいと思ってたんだったな」
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「うむ、たえした挨拶だな、俺らまた姊弟つちやさうえもんぢやあんめえと思つてたんだつけな」
おつたは少しむっとしたようすを見せた。
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おつたは少し勃然とした容子を見せた。
「姉さんらの言うことを聞いたっくらい、どんなことをされるか分からないから」
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「姊等が云ふこと聽いたつ位どんなことされつか分んねえから」
勘次はやけになってそばのくきを打ちつけ打ちつけしながら言った。
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勘次は自棄に蕎麥の幹を打ちつけ/\しつゝいつた。
彼はそうして、一目もおつたを見なかった。
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彼は而して一目もおつたを見なかつた。
「どんなことをするって、おれは泥棒はしないぞ、勘次」
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「什麽ことするつて俺ら泥棒はしねえぞ、勘次」
その切れた目じりに一種のすごみを見せておつたが立ったとき、卯平はのっそりと戸口に大きな体を運んで来た。
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其の切れた目尻に一種の凄味を持つておつたが立つた時、卯平はのつそりと戸口に大きな躯幹を運ばせた。
卯平はおつたを見て、いつものようにくぼんだ茶色の目をしかめるようにした。
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卯平はおつたを見て例の如く窪んだ茶色の目を蹙める樣にした。
「おや、こっちのおとっつあん、しばらくでしたねどうも。ご機げんよろしゅうございますね」
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「おやこつちのおとつゝあん、暫くでがしたねどうも、御機嫌よろしがすね」
おつたは、そらぞらしいほど打って変わった調子で言った。
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おつたはそら/″\しい程打つて變つた調子でいつた。
「まあこっちへでも来なさいね」
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「まあこつちへでも來さつせえね」
卯平は隠居へおつたを案内した。
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卯平は隱居へおつたを導いた。
「おれは今、外から帰って来たばかりだが、何でしょうね」
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「俺らいま外から歸つて來たばかしだが、何でがすね」
卯平はぶすりと聞いた。
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卯平はぶすりと聞いた。
「ほんにもう、他人には聞かせたくもないこったがねえ。わしもそれ、目の見えない息子が一人いるんだが、これが三十近くにもなるものをねえ。ただほうっておけないから嫁を取らせようと思って、いいぐあいの話がそれ、来たもんだから、勘次にも一言話そうと思って来たところなのさ。わしもこれで、義理を欠くのはいやだからね」
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「ほんにはあ、他人にや聞かせたくもねえこつたがねえ、わしもそれ盲目の野郎が一人あんだが、これ三十近くにもなるものをねえ、只打棄つても置けねえから嫁とらせべと思つて、えゝ鹽梅のがそれ口掛つたもんだから勘次げも一噺すべと思つて來た處なのさ、わしもこんで義理は缺くの厭だかんね」
「そうしたら、この村にいいぐあいの家があるもんだから、借りて暮らしを持たせようと思って、保証に立ってくれと言ったところが、たいしたあいさつなのさ。三十銭か五十銭の家賃をねえ。かわいそうだろうじゃないかねえ、体の不自由なおいのことをねえ。保証に立ったくらいで暮らしがつぶれるというあいさつなのさ。ねえこれ、年を取っちゃこっちのおとっつあん、先も短いのに、心根のいいものでなくちゃ、万一のときが心配だからねえ。後の者の世話になりたいというのは、みな同じだろうじゃないか。ねえ、こっちのおとっつあん、そうでしょう。そんでそれ、嫁というのが心根のいい女だというんだから、わしもほしいのさ、本当の話がねえ。そう言っちゃ欲張りのようだが、同じものならやわらかい言葉でもかけてくれる嫁でなくちゃねえ。そうじゃあるまいかね」
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「さうしたら此の村落にえゝ鹽梅の家あるもんだから借りて身上持たせべと思つて保證に立つてくろつちつた處がたえした挨拶なのさ、三十錢か五十錢の家賃をねえ、不便だんべぢやねえかねえ不具の甥つ子のことをねえ、保證に立つた位身上潰れるつち挨拶なのさ、ねえこれ、年齡とつちやこつちのおとつゝあん先も短けえのに心底のえゝものでなくつちや、萬一の時が心配だからねえ、後の者の厄介に成りてえつちな皆おんなじだんべぢやねえか、ねえこつちのおとつゝあんさうでがせう、そんでそれ娵つちのが心底のえゝ女だつちんだからわしも欲しいのさ本當の噺がねえ、さう云つちや我慾の樣だがおんなじもんなら軟けえ言辭でも掛けてくれる嫁でなくつちやねえ、さうぢやあんめえかね」
おつたはせまい戸口に立ったまま、洋がさの先で土にあなを開けながら、勘次のほうをじろっと見ながらいきり立って言った。
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おつたは狹い戸口に立つた儘洋傘の先で土へ穴を穿ちながら勘次の方をぢろつと見つゝいきり立つていつた。
「そりゃもう、そうだが」
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「そりや、はあ、さうだが」
ただこれだけ言って、無口な卯平は自分の思いどおりだというように、ずっとくぼんだ目をしかめて、手からはきせるを放さなかった。
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只此だけいつて寡言な卯平は自分の意を得たといふ樣に始終窪んだ目を蹙めて手からは煙管を放さなかつた。
勘次は庭からぬすむように見ては、卯平がおつたに味方して勢いをつけているように思った。
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勘次は庭から偸むやうに視ては卯平がおつたへ威勢をつけて居るやうに思つた。
彼は解いて打って、さらに藁でくくったそばのたばを、どさりと遠くへ投げつけた。
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彼は解いて打つて更に藁で括つた蕎麥の束をどさりと遠くへ擲つた。
葉がさらにぐったりとしおれたほうせんかのえだが、すかりと裂けて先が地面についた。
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葉が更にぐつたりと萎れた鳳仙花の枝がすかりと裂て先が地についた。
「姉さんら、たいしたことを言ったって、年寄りの面倒を見たとは言えまい」
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「姊等、大層なこと云つたつて、老人の面倒見たゝ云へめえ」
勘次はぶつぶつと独り言を言った。
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勘次はぶつ/\と獨語した。
おつたの耳にも、かすかにそれが聞こえた。
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おつたの耳にも微かにそれが聞えた。
おつたはきっとにらんだ。
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おつたは屹と見た。
「おとっつあん、黙ってるもんだ」
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「おとつゝあ默つてるもんだ」
おつぎは軽く勘次を止めて
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おつぎは輕く勘次を制して
「お昼だぞ、もう」
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「お晝餐だぞはあ」
と、おつぎはさらに勘次に注意した。
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とおつぎは更に勘次へ注意した。
「そんじゃ、こっちのおとっつあん、おさわがせしました。わしは帰りましょうもう。少しでもいちゃじゃまでしょうから。こっちのおとっつあんも、じゃまにならないほうがようございますよねえ」
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「そんぢやこつちのおとつゝあん、お八釜敷がした、わしや歸りませうはあ、一刻も居ちや邪魔でがせうから、こつちのおとつゝあんも邪魔に成んねえ方がようがすよねえ」
おつたは洋がさを開いて
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おつたは洋傘を開いて
「よそから見ても分かりましょうねえ。たとえどうでも俵まで持っていて、弁償と言ってみたところで三十銭か五十銭のことだろうじゃないかね。できるもできないもあるもんじゃない」
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「岡目でも知れまさあねえ、假令どうでも俵まで持つてられて、辨償つて見た處で三十錢か五十錢のことだんべぢやねえか、出來るも出來ねえもあるもんぢやねえ」
と、おつたはいまいましさに口を止めなかった。
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とおつたは忌々敷さに其の口を止めなかつた。
「お昼はどうでしょうね」
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「お晝餐はどうでがすね」
おつぎはそれでも、おずおずとおつたに言った。
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おつぎはそれでも怖づ/\おつたへいつた。
「おれはもう要らないともね」
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「俺ら、はあ要らねえともね」
おつたはそばの種がいっぱいに散らかった庭を、えんりょもなく一直線に下駄のあとをつけて歩いた。
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おつたは蕎麥の種子の一杯に散らけた庭を遠慮もなく一直線に不駄の跡をつけた。
「勘次ら、親子仲よくてよかろう。世間の評判もりっぱだあ。身内の者は、おかげで肩身が広くていいや」
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「勘次等、親子仲よくつてよかんべ、世間の聞えも立派だあ、親身のもなあ、お蔭で肩身が廣くつてえゝや」
おつたは庭の出口からちょっとふり返って言った。
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おつたは庭の出口から一寸顧みていつた。
そしてさっさと行ってしまった。
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さうしてさつさと行つて畢つた。
となりの庭の麦打ちの人たちは、静かになったこちらの庭をあざけるようにさわいでは、またさわぐのが聞こえた。
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隣の庭の麥打の連中は、靜かになつたこちらの庭を嘲るやうに騷いでは又騷ぐのが聞えた。
勘次はただ力をこめてそばのくきを打って、ついに一言も口に出さなかった。
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勘次は只力を極めて蕎麥の幹を打つて遂に一言も吐かなかつた。
おつぎは、かきねの上にうかんだおつたの洋がさが見えなくなるまで、しばらくぽつねんと庭に立った。
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おつぎは垣根の上に浮んだおつたの洋傘が見えなくなるまで暫くぽつさりとして庭に立た。
卯平はきせるをかんだまま、じっとして黙っていた。
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卯平は煙管を噛んだ儘凝然として默つて居た。
卯平はしばらくして、ほうせんかの折れたのを見つけて井戸ばたへ立った。
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卯平は暫くして鳳仙花の折れたのを見つけて井戸端へ立つた。
彼はいきなりそばのくきのたばを大きな足でけった。
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彼はいきなり蕎麥幹の束を大きな足で蹴つた。
彼はさらに短い竹の棒を持って行って、きっと力をこめて地面に突きとおした。
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彼は更に短い竹の棒を持つて行つてきつと力を極めて地に突き透した。
たれたほうせんかのえだは、竹のつえにしばりつけようとして手をふれたら、ぽろりとくきからはなれてしまった。
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垂れた鳳仙花の枝は竹の杖に縛りつけようとして手を觸れたらぽろりと莖から離れて畢つた。
卯平はいまいましそうに投げ捨てた。
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卯平は忌々敷相に打棄つた。
卯平がのっそりと大きな体を立てたそばに、ひまわりはみな日に背を向けて、堂々と立っている。
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卯平がのつそりと大きな躯幹を立てた傍に向日葵は悉く日に背いて昂然として立つて居る。
ひまわりは、つぼみがとてもふくらんで黄色になってから卯平が植えたのだった。
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向日葵は蕾が非常に膨れて黄色に成つてから卯平が植ゑたのであつた。
そのときにはもうつぼみはどうしても日の言うことを聞いて動かないので、暑い、そしてかわきのはげしい日がそれをにくんで、かたい下葉をがさがさにからした。
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其の時はもう蕾はどうしても日のいふこと聽いて動かないので、暑いさうして乾燥の烈しい日がそれを憎んで硬い下葉をがさ/\に枯らした。
それでも強いくきはすっと立って、たいがいはがっかりと暑さに打たれている草木のあいだで、ほこったように見えた。
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それでも強い莖はすつと立つて、大抵はがつかりと暑さに打たれて居る草木の間に誇つたやうに見えた。
そのいっぱいに開いた皿のような花が、庭先からいつでも冷たい三人をあざけるもののように見えるのだった。
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其の一杯に開いた皿の樣な花が庭先からいつでも冷かな三人を嘲るものゝやうに見えるのであつた。
竹の棒はぎっと突きとおしたまま、いつまでもむなしくほうせんかのそばに立っていた。
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竹の棒はぎつと突き透した儘いつまでも空しく鳳仙花の傍に立つて居た。
二〇
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二〇
秋だ。
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秋だ。
どのえだも、しげる力が限界に達して、そこにおとろえのかげがかすかにうかんだ。
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孰れの梢も繁茂する力が其の極度に達して其處に凋落の俤が微かに浮んだ。
毎日すみきった空をじりじりときしませながら、強い熱を放っていた日も、あまりに長い昼の時間にあきようとして、空から、そして地上のすべてがやっと調子を変えはじめた。
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毎日透徹した空をぢり/\と軋りながら高熱を放射しつゝあつた日も餘りに長い晝の時間に倦まうとして、空からさうして地上の凡てが漸く變調を呈した。
心もとなげな雲がむらむらと南からかけて来て、そのたびごとににわか雨をざあとななめに降らせる。
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心もとなげな雲が簇々と南から駈け走つて、其度毎に驟雨をざあと斜に注ぐ。
雨は畑のかわいた土にまみれて、やがてしぶきを作物の下葉にはねかけて、さらににごった水が白いあわを乗せながら低いほうへ流れ去った。
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雨は畑の乾いた土にまぶれて、軈て飛沫を作物の下葉に蹴つて、更に濁水が白い泡を乘せつゝ低きを求めて去つた。
それもわずかに桑の木へからんだ昼顔の花にいっぱいの量を注いでは、慌てて走り去って、からりと熱した空がふかれることもあるのだが、にわか雨は後から後からかけて来るので、夜明けの白まないうちから麦をついて庭いっぱいにむしろをほした百姓を、どうかするとうるさく苛めた。
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それも僅に桑の木へ絡んだ晝顏の花に一杯の量を注いでは慌てゝ疾驅しつゝからりと熱した空が拭はれることも有るのであるが、驟雨は後から後からと驅つて來るので曉の白まぬうちから麥を搗いて庭一杯に筵を干た百姓をどうかすると五月蠅く苛めた。
この土地で言う「降っかけ」は、一日で止まなければ、三日とか五日とか、必ずおくすうの日で終わった。
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土地でいふ其の降つ掛けは一日で止まねば三日とか五日とか必ず奇數の日で畢つた。
降っかけが来てから、うり畑はすべて蔓も葉も急にがらがらにかれて、みじめになってしまった。
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降つ掛けが來てから瓜畑は悉く蔓も葉も俄にがら/\に枯れて悲慘に成つて畢つた。
とてもそっと、しかもさわがしそうに動く雲が、高く低く反対の方向に交差しているのを見るとともに、かわきかけた草木の葉がふれ合い打ち合っては、だんだんやぶれながら、ざわざわと悲しげな音を立てて鳴った。
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極めてそつと然も騷がし相に動く雲が高く低く反對の方向に交叉しつゝあるのを見ると共に、枯燥しかけた草木の葉が相觸れ相打つてはだん/\と破れつゝざわ/\と悲しげな響を立てゝ鳴つた。
すごいほどすみきった夜の空は、いそがしげな雲が月をのんですぐに後ろへはき出しはき出し走った。
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凄い程冴えた夜の空は忙しげな雲が月を呑んで直に後へ吐き出し/\走つた。
月は反対に逃げながら走った。
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月は反對に遁げつゝ走つた。
秋風だ。
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秋風だ。
くぬぎもならも雑木もすべてが乱れて、葉の裏もはだもかくすすきまなく、ざあっとふかれてただ、さわいだ。
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櫟や楢や雜木や凡てが節制を失つて悉く裏葉も肌膚も隱す隙がなくざあつと吹かれて只騷いだ。
夜はさびしさに、すべてのえだがたがいにささやきながら、よけいにさわいだ。
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夜は寂しさに凡ての梢が相耳語きつゝ餘計に騷いだ。
まだ暑い空気を冷たくしながら、大雨がさらに何日か草木の葉を苛めては、降って降って、また降った。
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まだ暑い空氣を冷たくしつゝ豪雨が更に幾日か草木の葉を苛めては降つて/\又降つた。
いつもの年のような季節のこう水が、むごく川ぞいをなめた。
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例年の如き季節の洪水が残酷に河川の沿岸を舐つた。
こう水が去った後は、ちょうどはげしい心のつかれから急に老いこんだ者のように、半分死んだような草木はみな白髪に変わって、その力ない葉先を秋風にふきなびかされた。
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洪水の去つた後は、丁度過激な精神の疲勞から俄に老衰した者の如く、半死の状態を呈した草木は皆白髮に變じて其の力ない葉先を秋風に吹き靡かされた。
鬼怒川の土手にしげったしのの根にまとわりついている短いつゆ草も、葉からくきからどろにまみれていながら、なお命を保ちつつ、日ごとにあわれげな花をつけた。
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鬼怒川の土手に繁茂した篠の根に纏はつて居る短い鴨跖草も葉から莖から泥に塗れて居ながら尚生命を保ちつゝ日毎に憐れげな花をつけた。
こおろぎが気がめいるように、そのかげで鳴いた。
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蛼が滅入る樣に其の蔭に鳴いた。
空をはるかに飛んだむくどりの群れが幾つかに分かれて、地面近くをさわいでは、えだを求めてぎいぎいと鳴きながら落ち着かなかった。
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空を遙に飛んだ椋鳥の群が幾つかに分れて、地上に低く騷いでは梢を求めてぎい/\と鳴きつゝ落付かなかつた。
いたる所、荒れたやぶのはしや土手のやせたしののえだに乗りかかって、これをかめば歯が欠けると言われている毒な仙人草が、その手をいくらでものばして思い切りからみついた蔓が白い花をいっぱいにつけて、そして生き生きとしたものは自分だけだとほこるように、秋風にふかれながら白い布のようにふわふわと動いた。
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到る處荒れた藪の端や土手の瘠せた篠の梢に乘り掛つて、之を噛めば齒がこぼれるといはれて居る毒な仙人草が其の手を幾らでも延して思ひ切つて蟠つた蔓が白い花を一杯につけて、さうして活々としたものは自分のみであることを誇るものゝ如く、秋風に吹かれつゝ白い布の樣にふは/\と動いた。
勘次の村は高台なのと、鬼怒川の土手がしのの密生した根の力でわずかながらくずれる土を引き止めたので、損害が軽く済んだ。
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勘次の村落は臺地であるのと鬼怒川の土手が篠の密生した根の力を以て僅ながら崩壤する土を引き止めたので損害が輕く濟んだ。
それでも何日か降りつづいた雨が水をためて、低い畑はしばらくかわくことがなかった。
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それでも幾日か降り續いた雨が水を蓄へて低い畑は暫く乾くことがなかつた。
田もその水のためにつかった所が少なくなかった。
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田も其の水の爲に浸つた箇所が少くなかつた。
勘次は昼となく夜となく田畑を歩いて、ひたすら心をなやましたが、やっと自分の田畑の作物がわずかな損害で済んだことを確かめたときには、彼はひどい被害の出た土地のようすを聞いて、自分がむしろ運がよかったことをこっそりよろこんだ。
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勘次は日となく夜となく田畑を歩いて只管心を惱ましたが、漸く自分の田畑の作物が僅な損害に畢つたことを慥めた時は彼は激甚な被害地の状况を傳聞して自分の寧ろ幸であつたことを竊に悦んだ。
彼が大豆を引いて庭に運んだころは、まだ暑い日が落ち着いて、いがの割れはじめたくりの木のえだから庭をじりじりと照らしていた。
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彼が大豆を引いて庭に運んだ頃はまだ暑い日が落付いて毬の割れ始めた栗の木の梢から庭をぢり/\と照して居た。
根が何日もぐっしょり水につかっていた大豆は、黄色みの強い茶色のさやもくきも、どろでよごれたように黒ずんでいた。
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根が幾日もぐつしりと水に浸つてた大豆は黄色味の勝つた褐色の莢も幹も泥で汚れた樣に黒ずんで居た。
大豆を引いたのは、それでもめずらしい晴れの日だったので、「いい返し」
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大豆を引いたのはそれでも稀な晴天であつたので「いひ返し」
に来るはずになっていた南の家の女房にたのんだ。
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に來る筈に成つて居た南の女房を頼んだ。
彼らはたがいの都合で手間を交かんするのだが、彼らはそれを「いいどり」
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彼等は相互の便宜上手間の交換をするのであるが、彼等はそれを「いひどり」
と言っている。
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というて居る。
それで、その借りた手間を返すのが「いい返し」である。
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それで其の借りた手間を返すのがいひがへしである。
大豆は庭に運ぶとともに、ひとつかみにしては根を上にして先を丸く開いて、たがいのくきが支柱になるようにして、庭いっぱいに立ててほした。
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大豆は庭に運ぶと共に一攫みにしては根を上にして先を丸く開いて互の幹が支柱に成るやうにして庭一杯に立てゝ干した。
たばこを一服吸うだけの時間に、熟しきった大豆はやっとぱちぱちと軽い心地よい音を立てながら、はじけはじめた。
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煙草を一服吸ふだけの時間に、成熟しきつた大豆は漸くぱち/\と輕い快い響を立てつゝ爆ぜ始めた。
大豆はすべて庭の土にたおされた。
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大豆は悉く庭の土に倒された。
三人はからさおを取って、はしからだんだんとくきを打った。
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三人は連枷を執つて端からだん/\と幹を打つた。
おつぎと南の家の女房はならんで、勘次に向かって交互に打ち下ろすからさおが、どさりどさりと庭の土を打つと、こわばった大豆のくきはしゃりしゃりとかわいた軽い音をまじえて、くすんだ汚いさやが白く割れて、うす青いつやつやした豆のつぶが勢いよくはね出して、みんなくきの下にもぐりこんでしまう。
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おつぎと南の女房とは相竝んで勘次に對して交互に打ち卸す連枷がどさり/\と庭の土を打つと硬ばつた大豆の幹はしやりゝ/\と乾燥した輕い響を交へてくすんだ穢い莢が白く割れて薄青いつやゝかな豆の粒が威勢よく跳ね出してみんな幹の下に潜り込んで畢ふ。
三人が一度大豆のくきをふんでわたったら、くきがぐっと落ち着いた。
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三人が一遍大豆の幹を踏んで渡つたら幹がぐつと落付いた。
おつぎは昼ごはんのしたくのお茶をわかした。
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おつぎは晝餐の支度の茶を沸した。
三人は食事の後の口を鳴らしながら戸口に出て、それからくりの木のかげにしばらくうずくまったまま休んでいた。
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三人は食事の後の口を鳴らしながら戸口に出てそれから栗の木の陰に暫く蹲まつた儘憩うて居た。
「おやおやまあ、こっちのほうはいいこったなあ、大豆でもこんなに穫れて」
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「おや/\まあ、こつちの方はえゝこつたなあ、大豆でもかうだにとれて」
おつたは小がらな体をわりと大またに運んで、妙な足びょうしを取りながら入って来た。
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おつたは小柄な身體を割合に大股に運んで妙な足拍手を取りつゝ這入つて來た。
勘次はちらと見て、くりの木のみきを後ろにしたままうつむいてしまった。
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勘次はちらと見て栗の木の幹を後にした儘俯向いて畢つた。
おつたはさらに気にしないような態度で、ずっと戸口へ行って、ななめに肩へかけた風呂しき包みを下ろした。
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おつたは更に介意ないやうな態度でずつと戸口へ行つて、斜に肩へ掛けた風呂敷包をおろした。
「ああ重たかった」
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「おゝ重たかつた」
と、少し汗ばんだひたいを手ぬぐいでふきながら、洋がさを仰向けに戸口へ置いて、洋がさの中へその風呂しき包みを置いた。
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と少し汗ばんだ額を手拭でふきながら洋傘を仰向に戸口へ置いて、洋傘の中へ其の風呂敷包を置いた。
南の家の女房はおつたを見て立った。
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南の女房はおつたを見て立つた。
「おやまあ、しばらくでしたね」
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「おやまあ、暫らくでがしたね」
と、おつたは先にお世辞を言った。
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とおつたは、先に世辭をいうた。
「そう言えばまあ、あっちのほうはひどいこう水だという話だったっけが、どうでございましたね」
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「さういへばまあ、あつちの方は酷え洪水だつち噺だつけがどうでござんしたね」
女房は手ぬぐいを取って言った。
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女房は手拭をとつていつた。
「話の外でさどうも。あれこれもう、三十日近くにもなるだろうが、まだかたづけで、どっちから手をつけていいか分からないんでさどうも。わしらのほうみたいにこう水ばかり出たんじゃ、いるのもいやになっちまうようなのさ、本当に。そう言っても、こっちのほうはようございますね」
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「噺の外でがさどうも、彼此れはあ、小卅日にも成んべが、まあだかたでどつちから手つけてえゝか分んねえんでがさどうもはあ、わし等方見てえに洪水ばかし出たんぢや、居んのも厭んなつちまあやうなのせ本當に、さう云つてもこつちの方はようがすね」
おつたは相手を見つけて力を得たように言った。
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おつたは相手を見つけて力を得たやうにいつた。
「これでもまさか。この村だって随分かぶった所もあるんだから、まったく何ともないということもないがねえ」
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「此んでもまさか、此の村落だつて隨分かぶつた處も有んだから全然なんともねえつちこともねえがねえ」
南の家の女房は声を低くして言った。
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南の女房は聲を低くしていつた。
「そんでも、ここらじゃ住む所には困らないんだから、何と言ってもあきらめはようございますね。わしらのほうなんぞじゃ、土手へむしろのかこいをしてやっとこさしのいだ者がなんぼあったかさ。土手にいても、雨さえなけりゃいいが、降られちゃひどいという話でしたよ。そんでもまあ、わしらは家にいられるのはいられたんだからまあ、それでもようございましたのさ。そんでもゆかの上へ四斗だるをこうさかさまにして置いて、その上へ板をわたしてやっとまあ暮らし通しましたがね、煮たきするのもやっとこさで。となり近所はあったって行ったり来たりするんじゃなし、どれほど心細いか分からないもんですよ。もっともこれ、死ぬ者さえあるんだから、こうしていられるのはありがたいようなもんではあるが。そんでも四斗だるの太いたがの所へもぐったときは、夜、横になってみたって、すぐ耳のそばでさらさらっとこう水が動いてるんだから、うっかりねむったらそっくり持って行かれるかどうだか分からないと思ってね、ぽつりとももう言えないでいたのさ。
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「そんでも此處らぢや居る處にや支障ねえんだからなんちつても諦めはようがさね、わし等方なんぞぢや、土手へ筵圍ひしてやつとこせ凌いだものなんぼ有つたかせ、土手に居ても雨せえなけりやえゝが、降られちや酷えつち噺でがしたよ、そんでもまあわし等、家に居られんな居られたんだからまあ同じにもようがしたのせ、そんでも床の上へ四斗樽かう倒にして置えてね、其上へ板渡してやつとまあ居通しあんしたがね、煮燒すんのもやつとこせで、隣近所は有つたつて往つたり來たりすんぢやなし、何程心細えか分んねえもんですよ、尤もこれ、死ぬ者せえあんだから斯うして居られんな難有え樣なもんぢやあるが、そんでも四斗樽の太え箍ん處むぐつた時や、夜横に成つて見たつて直耳の側でさら/\つとかう水が動いてんだから、放心眠つたらそつくり持つてかれつかどうだか分んねえと思つてね、ぼつちりともはあ云はんねえで居たのせえ、
それから板のはしの所からそうっと手を出してみると、宵の口にはそうでもないのが、ひやっと手の先がすぐ水にふれたときにはぞっとするようでしたよ。それからもう、舟はまくら元へつないでたんだが、本当にまくら元なのさ。みんなで固まって、せまいといったって窮くつだって、やっといるだけなんだから、天井へは頭を打ちつけそうで、命でも何でも縮められるような思いでさ。そんでもまあ、とうとう逃げもしないでいられたんだから、家でも持って行かれた人からじゃ運がいいのさ。まあ昼間は何と言ってもあちこち見えていいが、夜がなんぼにも薄気味悪くてねえ」
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それから板の端ん處からそろつと手出して見つと宵の口にやさうでもねえのがひやつと手の先が直ぐ水へ觸つた時にや悚然とする樣でがしたよ、それからはあ船は枕元へ繋いでたんだが、本當に枕元なのせえ、みんなして凝つて狹えつたつて窮屈だつてやつと居る丈なんだから、天井へは頭打つゝかり相で生命でも何でも蹙めらつる樣なおもひでさ、そんでもまあ到頭遁げもしねえで居らつたんだから、家でも持つてかれたものからぢや運がえゝのせえ、まあ晝間はなんちつても方々見えてえゝが、夜がなんぼにも小凄くつてねえ」
おつたは、自分のこわかった経験を聞いてくれるのをよろこぶように語りつづけるのだった。
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おつたは自分の怖ろしかつた經驗を聞いてくれるのを悦ぶやうに語り續けるのであつた。
「そんでまあ、それもいいが、かえるだのへびだのが来てね。かえるは何だが、へびがなんぼにもいやで、もう棒で引っかけて遠くのほうへ放り投げてみても、しつこいというのか、またぞよぞよ泳いで来て。それも夜がねえ、万一のことがあっちゃと思うもんだから明かりを点けてたんだが、そのせいかよけいに来るようで。うす暗い明かりだから、すぐそばへ来てからでなくちゃ分からないし、首をもたげてるのを見ちゃ、本当にいやでねえ」
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「そんでまあ、それもえゝが蛙だの蛇だのが來てね、蛙はなんだが蛇がなんぼにも厭ではあ、棒で引つ掛けて遠くの方へ打ん投げて見ても、執念深えつちのか又ぞよ/\泳いで來て、それも夜がねえ萬一のことが有つちやと思ふもんだから明り點けてたんだが其の所爲か餘計に來る樣で、薄つ闇え明りだからぢつき側へ來てからでなくつちや分んねえし、首擡げてんの見ちや本當に厭でねえ」
おつたは、いくら言ってもつきないそのころのことをありありと思いうかべさせようとするようすで言った。
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おつたは幾らいつても竭きない當時を髣髴せしめようとする容子でいつた。
くりの木のかげにいた勘次は、だんだんいくらかずつでもこう水の話に興味を感じて来たし、それから、たとえどうであっても訪ねて来た姉にあいさつもしないのは他人の手前がゆるさないので、やっと立って
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栗の木の陰に居た勘次はだん/\と幾らづゝでも洪水の噺に興味を感じても來たし、それから假令どうでも尋ねて來た姊に挨拶もせぬのは他人の手前が許容さないので漸く立つて
「姉さんらも随分ひどい目にあったんだな」
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「姊等も隨分ひでえ目に遭たんだな」
彼は言いながら、家の中へおつたを案内した。
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彼はいひながら家の内へおつたを導いた。
大豆のほこりをきらって雨戸は閉め切ってあったので、大戸をいっぱいに開けても、中は少し暗く、しかも暑かった。
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大豆の埃を厭うて雨戸は閉め切つてあつたので、大戸を一杯に開けても内は少し闇く且暑かつた。
おつぎは先ごろのように、すぐにかまどをたいてしゃくしで二、三ばいの水を茶がまへ入れた。
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おつぎは先頃の樣に直に竈を焚いて柄杓で二三杯の水を茶釜へ注した。
「何と言っても、こんなに豆が穫れるなんて、お前らのほうはいいのよなあ。おれのほうじゃ土手の近くで手のある者はな、田のあぜ豆を引っこ抜いて土手の中ほどへほしてはみたようだが、まだ何と言ってもさやが本当にふくらまないんだから、ほんの豆の形をしたというくらいなもんだろうな。そりゃそうと、この豆はいい豆だな。甘そうでなあ」
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「なんちつても、かうえ豆とれるなんておめえ等方はえゝのよなあ、俺ら方ぢや土手の近くで手の有るもなあ、田の畦豆引つこ拔えて土手の中ツ腹へ干しちや見た樣だが、まあだなんちつても莢が本當に膨れねえんだから、ほんの豆の形したつち位なもんだべな、そりやさうと此の豆はえゝ豆だな、甘相でなあ」
おつたはしきいをまたいで、手元の豆を少しつかんでみて言った。
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おつたは閾を跨いで手先の豆を少し攫んで見ていつた。
それからおつたは、洋がさといっしょに置いたさっきの風呂しき包みを持ちこんで、そしてまた腰を下ろした。
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それからおつたは洋傘と一つに置いた先刻の風呂敷包を持ち込んでさうして又臀を据ゑた。
「水の中にいちゃ、仕事するにも仕事はなしさなあ。それからみんな棒の先へかぎをつけて魚つりをしたのよ。庭でいくらでもふなが釣れるというんだから、知らない者が見ちゃ、ひどく困ってない人たちだと思うくらいなもんだろうのさ」
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「水ん中に居ちや仕事するにも仕事はなしさなあ、それからみんな棒の先へ鈎くつゝけて魚釣りしたのよ、庭で幾らでも鮒釣れるつちんだから知らねえものが見ちや酷く困んねえ奴等だと思ふ位なもんだんべのさ」
おつたは一ぱいのお茶をすすって喉をうるおした。
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おつたは一杯の茶を啜つて喉を濕した。
おつぎも南の家の女房も、目をすえて黙って聞いていた。
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おつぎも南の女房も眼を据ゑて默つて聞いて居た。
勘次はむずかしい顔をしていながらも、いっしんに聞いた。
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勘次は六ヶ敷顏をして居ながらも熱心に聞いた。
「後がひどくてな。縁の下でも何でもどろがいっぱいで、それはまあ掻き出せばいいんだが、ゆか板が白かびになっちまって、これがまだなかなかかわかないから、たたみなんざいつしけるもんだか分からないのさ。そんでまた、田でも畑でもかぶった所は水が引いてからくさってるもんだから、その臭いことがまた話にはならないや。おれは作物ばかり困るんだと思ったら、畑のきりの木でもかしの木でも、今になってからぼろぼろ葉っぱが落っこちちまって、こわいもんだよ」
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「後が酷くつてな、縁の下でも何でも泥が一杯で、そえつあゝ掻ん出せばえゝんだが床板が白つ黴に成つちやつて此れがまだなか/\干ねえから疊なんざ何時敷つ込めるもんだか分んねえのさ、そんでまた田でも畑でも引つ被つた處は水干てから腐つてるもんだから其の臭えことが又噺にやなんねえや、俺ら作物ばかし困んだと思つたら、畑の桐の木でも樫の木でも今ん成つてからぼろ/\葉々が落こつちやつて可怖えもんだよ」
おつたは言いながら風呂しきを解いた。
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おつたはいひながら風呂敷を解いた。
やまと煮と書いた牛肉のかんづめが三つと、菓子でもあるかと思う小さな紙包みの、固めた食塩が四つ五つ出た。
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やまと煮と書いた牛肉の鑵詰が三本と菓子でもあるかと思ふ小さな紙包の堅めた食鹽の四つ五つとが出た。
「これはな、そんでもありがたいことに、水びたしになった家へは役場から一けんごとに配られたんだよ。おれはまた、こっちの家なんぞじゃどんなぐあいだと思って、しばらく外へも出たことがないもんだから出ても見たいし、こういう物を自分だけで開けちまうのも何だと思って持って来てみたのよ。おれは一つ手をつけてみたが、どれほどいい味のもんだか知らないや」
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「此れなあ、そんでも難有えことに、水浸に成つた家さは役場から一軒毎に下げ渡しになつたんだよ、俺らまたこつちの家なんぞぢやどうえ鹽梅だと思つて暫く外へも出たことねえもんだから出ても見てえし、かうえ物自分でばかし口開けつちやあのも何だと思つて持て來て見たのよ、俺ら一つ手つけて見たが何程えゝ味のもんだか知んねえや」
おつたは空になったかなり大きな風呂しきを、幾つかに折った。
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おつたは空になつたかなり大きな風呂敷を幾つかに折つた。
「おおいや、たいしたもんだね。これは塩だろうかまあ。見たいったって見られるもんじゃないよ。こういう物はねえ。よくまあ持って来て、勘次さんら大変だ」
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「おゝえや、たえしたもんだね、此れ鹽だんべけまあ、見てえたつて見らつるもんぢやねえよ、かうえ物あねえ、能くまあ持つて來て勘次さん此ら大變だ」
南の家の女房は食塩の一つを手にして見ながら、うらやましそうに言った。
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南の女房は食鹽の一箇を手にして見ながら羨ましげにいつた。
おつぎもめずらしそうにして、南の家の女房の手をのぞいた。
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おつぎも珍らし相にして南の女房の手を覗いた。
勘次も白い食塩をつめの先で少し取って口へ入れた。
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勘次も白い食鹽を爪の先で少しとつて口へ入た。
「塩からいや、まさか」
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「鹽辛えやまさか」
彼はにっこりとしながら
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彼は嫣然とし乍ら
「おつう、これはしまっておけ、そんじゃ」
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「おつう、此れ藏つて置け、そんぢや」
と言って、さらに
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といつて更に
「姉さんらもひどかろう、畑は」
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「姊等も酷かんべ野らは」
と、彼はおつたの染めていた髪が、まじった白髪をほんのり見せるまでに薬がさめてきたなくなったのを見ながら言った。
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と彼はおつたの染めつゝあつた髮が、交つた白髮をほんのりと見せるまでに藥の褪めて穢なく成つたのを見つゝいつた。
「米でも何でも一つぶも穫れやしないのよ」
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「米でも何でも一粒もとれやしねえのよ」
おつたはぽつりと言った。
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おつたはぽさりとした樣にいつた。
「しるの実なんざ、そんでもどうにかできるのか」
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「汁の身なんざそんでも、どうにか出來んのか」
「どうしてよお前。青いものは土手の草ばかりだって言ってるくらいだもの。今日が今日困ってるんだな」
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「どうしてよおめえ、青えもな土手の草ばかしだつて云つてる位だもの、今日が今日困つてんだな」
「そんじゃ、姉さんになすか南瓜でもやろうかなあ」
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「そんぢや、姊げ茄子か南瓜でもやんべかなあ」
勘次は同情の心が少し動いたように言った。
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勘次は同情が小し動いたやうにいつた。
「おや、そんじゃ、おれの家でも葱を少しあげましょう」
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「おやそんぢや俺ら家でも葱の少しもあげあんせう」
南の家の女房は言って、桑畑の細い道を小走りにかけて行った。
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南の女房はいつて桑畑の小徑を小走りに駈けて行つた。
「おとっつあん、それも何だが、そんなに持てやしまいし、米でも少しやったらよかろうな。どうせ少したつと陸稲が刈れるんだもの」
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「おとつゝあ、それもなんだが、さうえに持てやしめえし、米でも少しやつたらよかんべな、どうせ少し經つと陸稻刈れんだもの」
おつぎは口をそえた。
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おつぎは口を添へた。
「うん、そうだなあ」
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「うむさうだなあ」
と、勘次は南京米のふくろへ米を五しょうばかり、もうやせている俵からはかり出した。
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と勘次は南京米の袋へ米を五升ばかり、もう痩せて居る俵から量り出した。
「ひきわり麦もやったらよかろうな」
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「挽割麥もやつたらよかんべな」
おつぎはまた言った。
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おつぎは又いつた。
「これへ混ぜていいかい」
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「此れさ交ぜてえゝけ」
勘次はおつたを見て言った。
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勘次はおつたを顧みていつた。
「うん、いっしょにしてくれ」
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「うむ、一緒にしてくろ」
と、おつたはやわらかに言った。
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とおつたは軟かにいつた。
勘次は二つを半分ずつ混ぜて、それからまた大きな南瓜を三つばかり土間へならべた。
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勘次は二つを等半に交ぜてそれから又大きな南瓜を三つばかり土間へ竝べた。
「そんじゃ大変めいわくをかけて済まないな。そんじゃおれは米ばかり背負って行って、明日でもまた南瓜は取りに来るとしようよ。そんじゃこれ、米は大変だから、おれの風呂しきじゃちっと小さいんだが、大きいのがあれば貸してくれないか」
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「そんぢや大層厄介掛けて濟まねえな、そんぢや俺ら米ばかし脊負つてつて明日でも又南瓜はとりに來るとすべえよ、そんぢや此ら、米大變だから俺れが風呂敷ぢやちつと小つちえんだが大かえの有れば貸してくんねえか」
おつたはおつぎに言いかけた。
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おつたはおつぎへいひ掛けた。
「おれの家にはないが、爺さんがな、あったっけな、おとっつあん」
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「俺ら家にやねえが、爺がな有つたつけな、おとつゝあ」
そう言って、おつぎは小走りに卯平の小屋へ行った。
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さういつておつぎは小走りに卯平の小屋へ行つた。
さっきまで見えなかった卯平が、どこから帰って来たのか、むっつりとして独りできせるをかんでいた。
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先刻まで見えなかつた卯平が何處から歸つて來たかむつゝりとして獨で煙管を噛で居た。
「爺さん、いたんだな。おれ、いなけりゃ黙って借りて行こうと思ったんだったが、明日までおばさんが大きな風呂しきが要るというから、貸してくれないか。米を背負って行くんだから」
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「爺居たんだな、俺居ねえけりや默つて借りてくべと思つたんだつけが、明日まで伯母さん大かえ風呂敷要るつちから貸してくんねえか、米脊負つて行くんだから」
おつぎはとつぜん言った。
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おつぎは突然にいつた。
「うん」
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「うむ」
と、卯平は不器用に風呂しきを出して、そしておつぎの後からおつたのそばへのっそりと来て立った。
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と卯平は不器用に風呂敷を出してさうしておつぎの後からおつたの側へのつそりと來て立つた。
「これはまあ、勘次らにも済まないと言ってるところさ。わしらもこう水でねえ」
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「此れまあ、勘次等にも濟まねえつちつてつ處さ、わし等も洪水でねえ」
おつたは風呂しきで南京米のふくろをきりっと包んだ。
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おつたは風呂敷で南京米の袋をきりつと包んだ。
「そんじゃこの南瓜もおれがもらっていいんだな。ばかに大きい南瓜じゃないかな。明日まで置いてくれな」
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「そんぢや此の南瓜も俺れ貰つてえゝんだな、馬鹿に大けえ南瓜ぢやねえかな、明日まで置いてくろうな」
おつたがずっと笑顔を作っている所へ、南の家の女房が葱を一たば、藁でくるんだのをかかえて来た。
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おつたは始終笑顏を作つて居る處へ南の女房は葱を一束藁でくるんだのを抱へて來た。
「どうも済みませんね、これは」
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「どうも濟みませんねこら」
おつたは勘次を見て
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おつたは勘次を見て
「どうしたもんだ、たいした葱じゃないか。本当に済まないな。そんじゃこれも明日まで取っておいてくれな」
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「どうしたもんだ、たえした葱ぢやねえか、本當に濟まねえな、そんぢや此れも明日までとつて置いてくろうな」
と、さらにまた腰を下ろして一ぱいのお茶をすすった。
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と更に又臀を据ゑて一杯の茶を啜つた。
「おやっ、このくりはもう口を開けてるんだな」
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「おやツ、此の栗は笑んでんだなはあ」
庭先のくりのえだに初めて目をつけたように、おつたは言った。
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庭先の栗の梢に始めて目をつけた樣におつたはいつた。
「この間からなんでさ。ちっとばかりだが、落ちたのがありまさ」
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「此間からなんでさ、ちつとばかしだが落ちたの有りあんさ」
おつぎは小さなざるの底のつぶぐりを出して
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おつぎは小笊の底の粒栗を出して
「あっちになけりゃ持って行ったらようございましょう。大豆も、これ、打った所なら持って行くといいんでしたがね」
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「あつちになけりや持つてつたらようござんせう、大豆もこれ打つた處なら持つてくとえゝんでがしたがね」
おつぎは気持ちよく言った。
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おつぎは快くいつた。
「そうだな、そんじゃもらって行くかな」
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「さうだな、そんぢや貰つて行くかな」
おつたは手ぬぐいの両はしにくりをくくった。
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おつたは手拭の兩端へ栗を括つた。
「こっちのおとっつあん、これはわしが役場からもらったのを持って来てみたんだが、一つ分けてもらったらようございましょう。めったにない味のもんだから」
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「こつちのおとつゝあん、此れわし役場から下つたの持つて來て見たんだが一つ分けて貰つたらようがせう、滅多ねえ味のもんだから」
おつぎがさっきしまうように勘次にせかされても、おつたの手前を気にしてそのままにしておいた牛肉のかんづめの一つを、おつたは卯平にやった。
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おつぎが先刻藏ふことを勘次に促されてもおつたの手前を憚つた樣にして其の儘にして置いた牛肉の鑵詰の一つをおつたは卯平へやつた。
卯平はくぼんだ目をしかめるようにした。
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卯平は窪んだ目を蹙めるやうにした。
勘次は、油断した自分のふところの物をうばわれたほどのおどろきといやな気持ちの目で、卯平とおつたを見た。
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勘次は放心した自分の懷の物を奪はれた程の驚愕と不快との目を以て卯平とおつたとを見た。
おつたは重そうな風呂しき包みをうんと背負って、胸の結び目に両手をかけて、包みのすわりをよくするために二、三度ゆすった。
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おつたは重相な風呂敷包をうんと脊負つて胸の結び目へ兩手を掛けて包の据りを好くする爲に二三度搖つた。
「そんじゃ明日またお目にかかりましょう」
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「そんぢや明日またお目にかゝりあんせう」
おつたはみんなにあいさつして
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おつたは一同へ挨拶して
「これはよかった、本当にまあ」
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「此りやよかつた、本當にまあ」
聞こえよがしに独り言を言いながら、おつたは庭からかきねを出た。
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聞えよがしに獨語しながらおつたは庭から垣根を出た。
勘次は、自分のそばに牛肉のかんづめを手にして立った卯平をあらためてさらにいやな目でじっと見つめながら、彼の心の中にはおしかったという思いが、何ということもなくただふいとわいたのだった。
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勘次は自分の側に牛鑵を手にして立つた卯平を改めて更に不快な目を以て凝視しながら、彼の心の裡には惜しかつたといふ念慮が何といふことはなしに只ふいと湧いたのであつた。
「ふくろは明日持って来てくれなくちゃかなわないぞ」
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「袋は明日持つて來てくんなくつちや畢へねえぞ」
と、勘次はおつたの後から追いかけるようにして言った。
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と勘次はおつたの後から追ひ掛けるやうにしていつた。
おつたはかきねに沿って、後ろの林のそばから田んぼへ出た。
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おつたは垣根に添うて後の林の側から田圃へ出た。
道ばたの竹のえだには、どこまでもはっていっぱいに乗りかからなければ止まないという毒な仙人草が、くっきりと白くほこっている。
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道端の竹の梢には何處までも偃うて一杯に乘り掛らねば止むまいとする毒なせんにん草がくつきりと白く誇つて居る。
小さな体でありながら少しするどいくちばしを持ったばかりに、弱い雀やほおじろの前でだけ強さを見せるもずが、小さな勝利者の声を放って、きいきいときわどくどこかの木のてっぺんで鳴いていた。
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小さな身體でありながら少し鋭い嘴を持つたばかりに、果敢ない雀や頬白の前にのみ威力を逞しくする鵙が小さな勝利者の聲を放つてきい/\と際どく何處かの木の天邊で鳴いて居た。
その夜、勘次の家には、とつぜんみんなをおどろかせた事件が起こった。
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其の夜勘次の家には突然一同を驚愕せしめた事件が起つた。
それは何ごともなく済んで、しかもあまりにこっけいな話だった。
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それは事もなく濟んでさうして餘りに滑稽な分子を交へて居た。
与吉はその日の夕方、紙に包んだ食塩を一つぬすんだ。
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與吉は其の日の夕方、紙へ包んだ食鹽を一つ盜んだ。
彼は、これまで見たことのないきれいな菓子を見つけたと思って心がおどった。
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彼は從來見たことのない綺麗な菓子を發見したと思つて心が躍つた。
それでも彼はその半分を割って、いきなり飲みこんだ。
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それでも彼は其の半分を割つていきなり嚥み下した。
彼は喉がじりじりとこげつくほど、とても苦しんだ。
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彼は喉がぢり/\と焦げつく程非常な苦惱を感じた。
勘次もおつぎも、ただ慌てた。
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勘次もおつぎも只慌てた。
勘次はそのわけを知って
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勘次は其の原因を知つて
「お前はばかだな、本当に。何てばかだろうなあ」
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「汝りや馬鹿だな本當に、何ち馬鹿だんべなあ」
としかってみるだけだった。
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と叱つて見るだけであつた。
勘次があまりしかるので
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勘次が餘りに叱るので
「そんなに怒ったって治るまいな、おとっつあんは」
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「そんなに怒つたつて癒るめえな、おとつゝあは」
と、ついにはおつぎが勘次をしかった。
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と遂にはおつぎが勘次を叱つた。
与吉はただ苦しんで、胸をかきむしるようにしながらころがって泣いた。
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與吉は只苦しんで胸を掻き挘る樣にしつゝ顛がつて泣いた。
卯平はさわぎを聞いて、のっそりと来た。
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卯平は騷ぎを聞いてのつそりと來た。
「水を飲ませてみろ」
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「水飮ませて見ろ」
彼は慌てるということを知らない者のように、一言言った。
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彼は慌てるといふことを知らぬものゝ如く一言いつた。
おつぎはすぐにしゃくしで水をくんだ。
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おつぎは直に柄杓で水を汲んだ。
与吉はいくらでも柄にすがって飲んだ。
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與吉は幾らでも柄に縋つて飮んだ。
「にわとりが納豆を食ったって、死なないうちに水を飲ませりゃ何ともないんだもの。水を飲ませりゃ、そんなにさわぐことはない」
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「雞納豆くつたつて死なねえ内に水飮ませりや何ともねんだもの、水飮ませりやそんなに騷ぐにやあたらねえ」
卯平は言って、自分でもまた飲ませた。
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卯平はいつて自分でも又飮ませた。
与吉のまくら元で、三人は夜通しねむらなかった。
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與吉の枕元に三人は徹宵眠らなかつた。
おそろしくたくさんの水を飲んだ与吉は、ついにすやすやとねむった。
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恐ろしく多量の水を飮んだ與吉は遂にすや/\と眠つた。
そして次の朝、けろりと治ってかけ出したのだった。
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さうして翌朝けそ/\と癒つて驅け出したのであつた。
次の日、おつたはまた来た。
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次の日おつたは復來た。
おつたは、自分が知らないうちに種をまいた昨夜のさわぎを知っているはずがないので、昨日のように元気がよかった。
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おつたは自分が無意識に種を蒔いた昨夜の騷ぎを知つてる筈がないので、昨日の如く威勢がよかつた。
勘次はねぶそくから、さらによけいに不快そうに目をしかめた。
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勘次は睡眠の不足から更に餘計に不快の目を蹙めた。
自分の風呂しきへ、のきの下にならべてある三つの南瓜を包もうとして、おつたは
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自分の風呂敷へ軒の下に竝べてある三つの南瓜を包まうとしておつたは
「おれの南瓜はこれだったっけかな」
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「俺れが南瓜は此れだつけかな」
と、ふしぎそうに言った。
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と不審相にいつた。
「それだろうな」
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「それだんべな」
勘次はやっとこれだけ言った。
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勘次は漸くこれだけいつた。
卑しい彼は、おつたにやった南瓜を取りかえておいたのだった。
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淺猿しい彼はおつたへやつた南瓜を換へて置いたのであつた。
「どうだったっけ、昨日の豆は。そんでもたくさん穫れたようだったっけが」
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「どうしたつけ、昨日の豆はそんでもたんと收穫れた割合だつけが」
おつたがなぞをかけるように言っても、勘次はいっこうにはきはき言わなかった。
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おつたが謎のやうにいつても勘次は更にはき/\といはなかつた。
おつたも不快なようすをしながら、南瓜と葱を背負って、特に口をきくでもなく、ただ卯平と二言三言言って、もうどうでもいいという態度で出て行った。
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おつたも不快な容子をしながら南瓜と葱とを脊負つて別に口を利くでもなく、只卯平と二言三言いつてもうどうでも好いといふ態度で出て行つた。
勘次はつくづくと、中ほどがひどくやせてくびれた俵を見た。
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勘次はつく/″\と中間の痛く痩せて括れた俵を見た。
お金や物によって満足を自分の暖かいふところに感じたとき、みんなはこれを失うまいとするこわさから絶えず心をさわがせているように、はてしない自然のふところからめぐみが百姓の手に必ず一度与えられる秋の季節になれば、そのめぐみを持った田や畑のほ先が、これをねたむ一部の自然の力に対して、いつもふるえながら、そして泣いた。
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財貨によつて物質的の滿足を自分の暖かな懷に感じた時凡ては此れを失ふまいとする恐怖から絶えず其心を騷がせつゝあるやうに、無盡藏な自然の懷から財貨が百姓の手に必ず一度與へられる秋の季節に成れば、其の財貨を保つた田や畑の穗先が之を嫉む一部の自然現象に對して常に戰慄しつゝ且泣いた。
二百十日から二十日のあいだの暴風は心配したほどのことはなく、ただ秋の空はむずかしそうに低くなって、棒のような雲へけむりのような雲がぽつりぽつりとまとわっている日がつづいて、二、三日昼から夜にかけて、ぼかぼかと暖かい空っ風が思い切りふいた。
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二百十日から廿日の間に渡つての暴風は懸念した程のことはなく、只秋の空は六かし相に低く成つて棒のやうな雲へ煙の樣な雲がぽつり/\と纏つて居る日が續いて二三日晝から夜へ掛けてぼか/\と暖かい空つ風が思ひ切り吹いた。
小松やくぬぎの林にまじって、ふれれば人のはだに血を見せるほどのかたい意地の悪い葉を持ったすすきまでが、そうしなければ目にも立たないのに、わざわざうす赤いやわらかなほ先を高くさし上げて、人一倍にさわいだ。
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小松や櫟の林に交つて、之に觸れゝば人の肌膚に血を見せる程の硬い意地の惡い葉を持つた芒までが、さうしなければ目にも立たないのに態々と薄赤い軟かな穗先を高くさし扛げて、他一倍に騷いだ。
しばらくして、秋はまぶしいほどすみきった空を見せた。
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暫くして秋は眩い程冴えた空を見せた。
畑には、昼がよけいに明るいほど黄茶色に熟した陸稲がいっぱいにうなずいた。
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畑には晝が餘計に明るい程黄褐色に成熟した陸稻が一杯に首肯いた。
そばは、さわやかで細く強い秋雨がしとしとと洗って、秋風がそれをかわかした。
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蕎麥は爽かで且つ細く強い秋雨がしと/\と洗つて秋風がそれを乾かした。
洗ってはほしほし、何度もそれがくり返されて、だんだんうす青く、そして暗い夜さえ明るくするほど真っ白にさらされた。
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洗つては乾し/\屡それが反覆されてだん/\に薄青く、さうして闇の夜をさへ明くする程純白に曝された。
高台の畑は黄色と白がまじって、土地のままになだらかに起伏して、鬼怒川の土手に近く向こうへ低くかたむいている。
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臺地の畑は黄白相交つて地勢の儘になだらかに起伏して鬼怒川の土手に近く向方へ低くこけて居る。
そういう畑のまわりに立っている蜀黍は、強いくきがすっくりとほをささえて、それがまばらなかきねのようにつらなって、畑から畑をつないでは何十回も折れ曲がりながら、だんだん短くなって、これも鬼怒川の土手に近く尽きる。
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さういふ畑の周圍に立て居る蜀黍は強い莖がすつくりと穗を支て、それが疎らな垣根のやうに連つて畑から畑を繼いでは幾十度の屈折をなしつゝ段々に短くなつて此れも鬼怒川の土手に近く竭きる。
土手のしのの高さに見える蜀黍は、南風を受けて、さし上げた手のような形になっては先から先へと動いて、その手がさかのぼる白いほを静かに上流へ押し進めている。
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土手の篠の高さに見える蜀黍は南風を受けて、さし扛げた手の如き形をなしては先から先へと動いて、其の手が溯る白帆を靜かに上流へ押し進めて居る。
そしてはまた、そのまばらなかきねは、長い短いによって遠くの林のえだや、すみきった山々の頂をなでている。
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さうしては又其の疎らな垣根は長い短いによつて遠くの林の梢や冴えた山々の頂を撫でゝ居る。
さわやかな秋は、こうしてからりと開けた。
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爽かな秋は斯くしてからりと展開した。
しかし勘次が作った陸稲は、こういう畑ではなく、えだの荒れた雑木林のあいだだけだった。
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然し勘次の作つた陸稻はかういふ畑ではなく、梢の荒んだ雜木林の間のみであつた。
彼の開こん地へは、まわりにかくれる場所があるせいか、村のどこにも急に声を聞かなくなった雀が、群れをなして日ごとにおそった。
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彼の開墾地へは周圍に隱れる場所が有る所爲か、村落の何處にも俄に其聲を聞かなくなつた雀が群をなして日毎に襲うた。
彼はそれでも根気よく、白いガス糸をたてよこに畑の上に張って、ひらひらと燭奴をつるしておどしてみた。
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彼はそれでも根よく白い瓦斯絲を縱横に畑の上に引つ張つてひら/\と燭奴を吊つて威して見た。
それでもずるい雀のために、もみがまだ固まらないで甘いしるのような状態のうちから、小さなくちばしでかんで、たくさんもみがらがこぼされた。
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それでも狡獪な雀の爲に籾のまだ堅まらないで甘い液汁の如き状態をなして居る内から小さな嘴で噛んで夥かに籾殼が滾された。
彼は空っ風がさわったとは思っていても、長いくきを刈りたおしたときはそれでもいっしんで、しかも楽しかったが、しかしかわかして米にしたときには、彼は夏のころの予想と大きくちがうことを確かめてがっかりせざるを得なかった。
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彼は空つ風が障つたとは思つて居ても、長い幹を刈り倒した時はそれでも熱心で且愉快であつたが、然し乾燥して米にした時には彼は夏の頃の豫想と非常な相違であることを確めて落膽せざるを得なかつた。
彼の卑しい心が、わずかな米や麦を姉のおつたにだまし取られたかと思い出しては、しばらくのあいだ、いまいましさにたえられなかった。
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彼の淺猿しい心が僅な米や麥を姊なるものゝおつたに騙して取られたかと思ひ出しては暫くの間忌々敷さに堪へなかつた。
彼は勢い何かに当たり散らそうとするのに、おつぎと与吉に対してはあまりに深い愛じょうを持っていた。
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彼は勢ひ何かに當り散らさうとするのにおつぎと與吉とに對しては餘りに深い親しみを有つて居た。
こうして彼の卯平に対するにくしみが、彼の心にきりであなをあけて、さらにくぎではっきりと打ちつけられたのだった。
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斯うして彼の卯平に對する憎惡の念が彼の心へ錐を穿つて更に釘を以て確然と打ちつけられたのであつた。
二一
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二一
勘次が走って鬼怒川の岸に立ったときは、きりがいっぱいに降りて、水は彼の足元から二、三間先が見えるだけだった。
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勘次が走つて鬼怒川の岸に立つた時は霧が一杯に降りて、水は彼の足許から二三間先が見えるのみであつた。
岸には舟がつないでなかった。
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岸には船が繋いでなかつた。
彼はあせって、いつものように大声を出して、向こう岸へ行ったはずの舟を呼んだ。
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彼は焦慮つて例するやうに大聲出して對岸へ行つた筈の船を喚んだ。
「おうい」
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「おうえ」
と答える声が、水をわたって強く、しかも近く聞こえた。
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と應ずる聲が水を渉つて強く然かも近く聞えた。
勘次はその声におされて黙った。
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勘次は其の聲に壓せられて默つた。
すぐにへさきがうすくきりの中から見えた。
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直ぐに舳が薄く霧の中から見えた。
勘次は、ほとんどむせるようなきりにつつまれて舟に立った。
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勘次は殆んど咽ぶやうな霧に包まれて船に立つた。
ところどころさらさらとかすかな音を伝えて、舟の底がつかえそうになる。
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處々さら/\と微かに響を傳ひて船の底が支へられようとする。
初秋のこう水以来、川の真ん中には大きな中州ができたので、舟はそのまわりをはって、遠く曲がって行かねばならない。
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初秋の洪水以來河の中央には大きな洲が堆積されたので、船は其の周圍を偃うて遠く彎曲を描かねば成らぬ。
勘次は目をおおわれたようで心細いきりの中で、そんなことでずいぶんのびた水路をたどっていながら、ゆったりとにぶいさおの立て方をするのに心をあせらせて
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勘次は目を掩はれたやうで心細い霧の中に、其麽ことで著しく延長された水路を辿つて居ながら、悠然として鈍い棹の立てやうをするのに心を焦慮らせて
「どうしたろう、入っちゃこせまいか」
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「どうしたんべ、入つちや越せめえか」
船頭のほうを向いて彼は言った。
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船頭の方を向いて彼はいつた。
「ぶくぶくやりたけりゃ入ったほうがいいや」
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「ぶく/\やりたけりや入つた方がえゝや」
船頭はそっけなく言って、ゆっくりとさおを立てる。
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船頭はそつけなくいつて徐ろに棹を立てる。
舟の底がふれて、立っている体がぐらりと後ろへたおれそうになった。
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船底が觸つて立つて居る身體がぐらりと後へ倒れ相に成つた。
勘次は、船頭がわざと自分を突きとばしたもののように感じて、ひどく頼りない気持ちがした。
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勘次は船頭が態と自分を突きのめしたものゝやうに感じて酷く手頼ない心持がした。
彼はじっとかがんで、船頭の思うままに任せた。
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彼は凝然と屈んで船頭の操る儘に任せた。
真ん中の大きな中州からつづく浅せにつかえて、舟はいつもの所へは着けられなくなっている。
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中央の大きな洲から續く淺瀬に支へられて船は例の處へは着けられなく成つて居る。
たった一人の乗客である勘次は、船頭の勝手な所へ下ろされたように思った。
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只一人の乘客である勘次は船頭の勝手な處へおろされたやうに思つた。
川やなぎがやせて、赤い実をかくしたくこのえだがぽつねんとたれて、大きなたでの葉が黄色くなっている岸へ、舟はがさりとへさきを突っこんだのである。
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河楊が痩せて、赤い實を隱した枸杞の枝がぽつさりと垂れて、大きな蓼の葉が黄色くなつて居る岸へ船はがさりと舳を突つ込んだのである。
それでもそこには、もう何度か舟がつけられたと見えて、足あとらしいのが階だんのように形づくられてある。
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それでも其處にはもう幾度か船がつけられたと見えて足趾らしいのが階段のやうに形づけられてある。
勘次は川やなぎのえだに手をかけて、他人の足あとをふんだ。
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勘次は河楊の枝に手を掛けて他人の足趾を踏んだ。
えだや葉がざらざらと彼のござにふれて鳴った。
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枝や葉がざら/\と彼の蓙に觸れて鳴つた。
彼は三歩目に岸に立った。
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彼は三足目に岸に立つた。
岸は畑で、こう水が運んで来た灰に似たどろがいっぱいにかわいて、大きなひび割れができている。
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岸は畑で、洪水が齎した灰に似てる泥が一杯に乾いて大きな龜裂を生じて居る。
まわりの蜀黍がほを切られたまま、少し遠くはぼんやりとして、これもきりの中にしょんぼりと立っている。
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周圍の蜀黍が穗を伐られた儘、少し遠くはぼんやりとして此れも霧の中に悄然と立つて居る。
勘次がふり返ったとき、彼を置いて行った舟はしずんだきりにへだてられて見えなかった。
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勘次が顧つた時、彼を打棄つた船は沈んだ霧に隔てられて見えなかつた。
彼は蜀黍のくきに沿って、足あとをたどって、はるか先の土手の道へ出た。
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彼は蜀黍の幹に添うて足趾に從つて遙に土手の往來へ出た。
きりがいっぺんに晴れた。
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霧が一遍に晴れた。
彼は何かにだまされた後のように、がらんとしたまわりをぐるりと見回さないわけにはいかなかった。
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彼は何かに騙された後のやうに空洞とした周圍をぐるりと見廻さない譯にはいかなかつた。
彼は川ぞいのこう水の後の変わりように、おどろきの目を見開いた。
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彼は沿岸の洪水後の變化に驚愕の目を睜つた。
たまたま、彼は、急に透きとおった空気の中からかけて来て目のおくにひっついたもののように、ぽっちりと一つ目についたものがある。
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偶然彼は俄に透明に成つた空氣の中から驅つて來て網膜の底にひつゝいたものゝやうにぽつちりと一つ目についたものがある。
それは遠い上流につながれている小さな舟だった。
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それは遠い上流に繋つて居る小さな船であつた。
そこには何本かの竹ざおが立てられてあるのも、同時に彼の目に入った。
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其處には數本の竹竿が立てられてあるのも同時に彼の目に入つた。
彼はすぐに、それがさけ取りの舟であることを知った。
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彼は直ぐにそれが鮭捕船であることを知つた。
漁師はさけが真夜中に網にかかるのを待ちながら、たとえ何晩も何もかからなくても、少しもねむることなく、またえものがするどく水を切って進んで来るのを彼らのすばやい目が暗い夜でも必ず見のがすことなく、近づいた一しゅん、彼らは水の中におどって、すばやく網でえものを巻くのである。
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漁夫は鮭が深夜に網に懸るのを待ちつゝ、假令連夜に渡つてそれが空しからうともぽつちりとさへ眠ることなく、又獲物が鋭く水を切つて進んで來るのを彼等の敏捷な目が闇夜にも必ず逸することなく、接近した一刹那彼等は水中に躍つて機敏に網を以て獲物を卷くのである。
彼らは夜が明けると、銀のように光っているえものが一ぴきでも舟にあれば、それを青竹の葉に包んで元気よくかついで出る。
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彼等は夜が明けると銀の如く光つて居る獲物が一尾でも船に在ればそれを青竹の葉に包んで威勢よく擔いで出る。
そうでなければ、かしこいさけがよどみにかくれて動かない真昼のあいだだけ、ぐったりつかれた体にわずかなねむりをぬすむだけなので、朝の明るく白い水にさえ、じっと目をはなさないのである。
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さもなければ怜悧な鮭が澱みに隱れて動かぬ白晝の間のみぐつたりと疲れた身體に僅に一睡を偸むに過ぎないので、朝の明るく白い水にさへ凝然と其の目を放たないのである。
どちらにしても、小さな舟は今、冷たい朝の静けさを保っているのである。
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孰れにしても小さな船は今冷たい朝の靜けさを保て居るのである。
ただはるか遠くの村の木立のえだからのぼるごはんのけむりが、すみきった冷たい空に吸いこまれているだけで、その小さな舟が真ん中にあって、勘次の目には一つも動く物が見えなかった。
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只遙に隔つた村落の木立の梢から騰る炊煙が冴えた冷たい空に吸ひこまれて居るのみで、其の小さな船が中心點をなして勘次の目には一つも動く物を見なかつた。
彼はしばらくまたじっとして、上流の小舟を見ていた。
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彼は暫く又凝然として上流の小船を見て居た。
彼は気がついたとき、土手を一気に北へ急いだ。
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彼は氣がついた時土手を一散に北へ急いだ。
土手はやがて水田に沿って、うねうねと遠くまでつづいている。
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土手は軈て水田に添うてうね/\と遠く走つて居る。
土手の道はばがせまくなった。
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土手の道幅が狹くなつた。
それは、刈られてぐっしょりしめっている稲が、土手の芝の上いっぱいにほしてあったからである。
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それは刈られてぐつしやりと濕つて居る稻が土手の芝の上一杯に干されてあつたからである。
稲は、ぽつぽつと群がっている野茨の株をのぞいて、すっかり広げられてある。
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稻はぼつ/\と簇つて居る野茨の株を除いて悉く擴げられてある。
野茨の葉はもう落ちてしまって、小さなえだの先には赤いつやつやした実が一つずつかざされている。
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野茨の葉はもう落ちて畢つて、小さな枝の先には赤いつやゝかな實が一つづゝ翳されて居る。
草刈りのかまをのがれて、しっかりとその株の根にすがった嫁菜の花が、とげの立ったえだに寄りかかりながら、しっとりと朝のしめり気をおびている。
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草刈の鎌を遁れて確乎と其株の根に縋つた嫁菜の花が刺立つた枝に倚り掛りながらしつとりと朝の濕ひを帶て居る。
ぬれた稲のにおいが勘次の鼻をついた。
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濡れた稻の臭が勘次の鼻を衝いた。
いなごがぱらぱらと足音につれて、稲をわたって逃げた。
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螽がぱら/\と足の響に連れて稻を渉つて遁た。
彼はそのほした稲のほ先をつかんで、もみを何つぶか手にしごいてみた。
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彼は其干された稻の穗先を攫んで籾の幾粒かを手に扱いて見た。
彼はさらにそのもみを歯でかんでみた。
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彼は更に其籾粒を齒で噛んで見た。
彼はそれからまた一気に走った。
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彼は夫から又一散に走つた。
彼は少しのあいだに、ひどく手間取ったように感じた。
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彼は少しの間に酷く暇どつたやうに感じた。
足にはきゃはんとわらじをはいて、背にはござを背負っている。
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足には脚絆と草鞋とを穿て背には蓙を負うて居る。
ござは絶えず彼の後ろでがさがさと鳴って、その耳をさわがせた。
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蓙は終えず彼の背後にがさ/\と鳴つて其の耳を騷がした。
彼はついに土手から折れて、東へ東へと走った。
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彼は遂に土手から折れて東へ/\と走つた。
村がぽつりぽつりと木立を作っているほかは、一面にただつづいている水田をつらぬいて、道ははるかに遠く、くっついたような高台の林を見ながら一直線である。
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村落がぽつり/\と木立を形つて居る外には一帶に只連續して居る水田を貫いて道は遙に遠く、ひつゝいたやうな臺地の林を望んで一直線である。
彼はむかしそこを歩いたことはあった。
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彼は嘗て其處を歩いたことはあつた。
しかし彼が知っているのは、いくつも曲がりくねっていたころである。
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然し彼の知つてるのは幾屈曲をなして居た當時である。
彼はいつのまにかとてもきちんと整理された田畑に、おどろきの目を見開いた。
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彼は何時の間にか極端に人工的の整理を施された耕地に驚愕の目を睜つた。
彼はみぞがきれいにならんでいるのに見とれてしまった。
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彼は溝渠の井然として居るのに見惚れて畢つた。
日はやっと朝をはなれて、空に居すわった。
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日は漸く朝を離れて空に居据つた。
すべての物が明るい光をそえた。
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凡ての物が明るい光を添へた。
しかしながら、まわりのどこにも生き生きした緑はまったく目に映らなかった。
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然しながら周圍の何處にも活々した緑は絶えて目に映らなかつた。
まだいくらも刈られていない田は、黄茶色の明るい光を反しゃして、ところどころの畑に作る桑も、霜にあうまではとえだの小さなやわらかな葉が四、五まいうるおいを持っているだけである。
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まだ幾らも刈られてない田は、黄褐色の明るい光を反射して、處々の畑に仕る桑も、霜に逢ふまではと梢の小さな軟かな葉の四五枚が潤ひを有つて居るのみである。
ぽつぽつと群がった村の木立は、どれもみな赤茶けたくすんだ葉でおおわれている。
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ぽつ/\と簇つた村落の木立の孰れも悉く赭いくすんだ葉を以て掩はれて居る。
そして低くならんだ木立とのあいだに、はっきりと強い線をえがいて、空はにくいほどすみきっている。
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さうして低く相接して居る木立との間に截然と強い線を描いて空は憎い程冴て居る。
そうだ。
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さうだ。
すべての植物が持っている緑の色は、すっかり空が持っているのだ。
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凡ての植物が有つて居る緑素は悉皆空が持つて居るのだ。
春になると空はそれを雨にとかしてまいてやるのだ。
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春になると空はそれを雨に溶解して撒いてやるのだ。
だからしめったえだはどれでも青くいろどられなければならないはずである。
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それだから濕うた枝はどれでも青く彩られねばならぬ筈である。
だから、何度百姓の手がたがやしても、その土をかわかしてぬらさない工夫をしないかぎりは、思わぬ所にぽつりぽつりと草の葉が青く出て、雨が降れば降るほど、どこでもいっぱいにその草の葉が濃くなって行かねばならないはずである。
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それだから幾度百姓の手が耕さうとも其の土を乾燥して濡らさぬ工夫を立ない限りは、思はぬ處にぽつり/\と草の葉が青く出て、雨が降れば降る程何處でも一杯に其の草の葉が濃く成つて行かねばならぬ筈である。
それをおそい秋の空がすっかり持ち去るので、めっきりすみきる反対に、草木はすべてがかわいたりくすんだりしてしまうにちがいないのである。
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それを晩秋の空が悉皆持ち去るので滅切と冴える反對に草木は凡てが乾燥したりくすんだりして畢ふのに相違ないのである。
明るい日はすっかり昼になった。
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明るい日は全く晝に成つた。
ところどころの島のような畑のふちから田へはいかかっている料理菊の黄色い花が、とりわけいちばん強く日の光を反しゃして、近いよりは遠いほど気持ちよくあざやかに見えている。
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處々の島のやうな畑の縁から田へ偃ひ掛つて居る料理菊の黄な花が就中一番強く日光を反射して近いよりは遠い程快よく鮮かに見えて居る。
勘次はずっと手ぬぐいで巻いた右手のひじをかかえるようにして、うつむいて歩いた。
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勘次は始終手拭を以て捲いた右手の肘を抱へるやうにして伏目に歩いた。
道に沿ったせまいほりの浅い水に、彼の目が向いた。
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道に添うて狹い堀の淺い水に彼の目が放たれた。
がらがらに荒れた狼把草やゑぐが、ぽつぽつと水につかっている。
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がら/\に荒んだ狼把草やゑぐがぽつ/\と水に浸つて居る。
青い空は浅い水の底から、はるかに深く遠く光った。
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蒼い空は淺い水の底から遙かに深く遠く光つた。
そして、どこからか迷い出て落ち着く場所を見つけられずに困っているような白い雲がうつって、勘次が走れば走るほど先へ先へと移った。
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さうして何處からか迷ひ出して落付く場所を見出し兼ねて困つて居るやうな白い雲が映つて、勘次が走れば走る程先へ/\と移つた。
勘次はそれをじっと見つめて行くと、なんだか頭がぐらぐらするように感じられた。
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勘次はそれを凝視めて行くと何だか頭腦がぐら/\するやうに感ぜられた。
彼は昨夜はねむらなかった。
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彼は昨夜は眠らなかつた。
彼の、自分独りでかみ殺していなければならないいまいましさが、頭をしげきした。
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彼の自分獨で噛み殺して居ねばならぬ忌々敷さが頭腦を刺戟した。
彼はひたすら、ひじのきずを実さいよりも何倍も重く他人に見せたいという、一種の分からない気持ちを持っていた。
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彼は只管肘の瘡痍の實際よりも幾倍遙に重く他人には見せたい一種の解らぬ心持を有つて居た。
わずかなひまもおしんだ彼の心は、これまでになく、自分の損を考えるゆとりを持たないほど乱れ、にごっていた。
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寸暇をも惜んだ彼の心は從來になく、自分の損失を顧みる餘裕を有たぬ程惑亂し溷濁して居た。
真昼の日は横のほおに暑いほどさしかけたが、まわりはあいかわらず冷たかった。
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白晝の日は横頬に暑い程に射し掛けたが周圍は依然冷たかつた。
ほりの浅い水には、これも冷たそうにじっと身をしずめたかえるが、黙って彼を見ていた。
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堀の淺い水には此れも冷たげに凝然と身を沈めた蛙が默つて彼を見て居た。
遠い田んぼを、彼は前後にただ一人の通行人だった。
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遠い田圃を彼は前後に只一人の行人であつた。
はるかにぽつりぽつりと見える稲刈りの百姓は、独りぼっちの彼の目からかくれようとするように、みなずっと低く身をかがめている。
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遙にぽつり/\と見える稻刈の百姓は㷀然とした彼の目から隱れようとする樣に悉皆ずつと低く身を屈めて居る。
明るい光に満ちた田んぼを、その乱れにごった心をかかえてさびしく歩数を重ねて行く彼は、ガラスのうつわの水を日にかざして見つけた一つぶのちりだった。
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明るい光に滿ちた田圃を其の惑亂し溷濁した心を懷いて寂しく歩數を積んで行く彼は、玻璃器の水を日に翳して發見した一點の塵芥であつた。
勘次は田んぼが尽きたとき、村を過ぎて高台へ出た。
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勘次は田圃が竭きた時村落を過ぎて臺地へ出た。
村のかきねには稲をかけている人々がいた。
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村落の垣根には稻を掛けて居る人々があつた。
道行く人を見たがるくせのある彼らは、みないそがしげな勘次を見た。
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道行く人を見たがる癖の彼等は皆忙しげな勘次を見た。
勘次は他人が自分を見ることに気づいたとき、ひじをまたていねいにかかえた。
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勘次は他人が自分を見ることを知つた時肘を復た叮嚀に抱いた。
高台には林のあいだに、暗い感じの畑が開こんされてあった。
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臺地には林の間に陰氣な畑が開墾されてあつた。
彼は開こん地の土のようすと作物を、とても注意して見た。
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彼は開墾地の土質と作物とを非常な注意で見た。
また村があって、広い畑が開けた。
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又村落があつて廣い畑が展開した。
畑は陸稲を刈ったままの所がいくらもあった。
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畑は陸稻を刈つた儘の處が幾らもあつた。
彼は陸稲の刈り株をていねいにわらじの先でふんでみた。
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彼は陸稻の刈株を叮嚀に草鞋の先で蹂んで見た。
百姓がちらほらと動いて、麦をまくための土がきれいにたがやされつつある。
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百姓がちらほらと動いて麥を蒔くべき土が清潔に耕されつゝある。
畑の黒い土は、彼らのうでを見せてていねいにたがやされれば、日がまだそれをかわかさないうちは、ただきれいで気持ちのいい感じを見る人の心に与えるのである。
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畑の黒い土は彼等の技巧を發揮して叮嚀に耕されゝば日がまだそれを乾さない内は只清潔で快よい感じを見る人の心に與へるのである。
そういう村をつつんで、そこにも雑木林が一面に赤茶けている。
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さういふ村落を包んで其處にも雜木林が一帶に赭くなつて居る。
ほかより先に燃えるように赤くなった白膠木の葉が、黒い土と遠くで映り合っている。
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他に先立つて際どく燃えるやうになつた白膠木の葉が黒い土と遠く相映じて居る。
勘次は、自分の麦をまくべき畑の用意がまだ十分でないことを思った。
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勘次は自分の麥を蒔くべき畑の用意がまだ十分でないことを思つた。
彼は前の年、寒さが急におそったとき、種をまく日がわずか二日おくれた麦が、思いのほか収穫がへった苦い経験を忘れられなかった。
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彼は前年寒さが急に襲うた時、種蒔く日が僅に二日の相違で後れた麥の意外に收穫の減少した苦い經驗を忘れ去ることが出來なかつた。
彼は目安として教わったその日を外さずに、麦はまかなければならないものと決めているのである。
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彼は標準として教へられた其の日を外すことなく麥は蒔かねばならぬものと覺悟をして居るのである。
それとともに、一日でもこうして時間をむだにする自分のきずについて、彼は深く悲しんだ。
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それと共に一日でも斯うして時間を空費する自分の瘡痍に就いて彼は深く悲しんだ。
しかしそれでいながら、彼は悲しみから来るいらだちが、ただそのきずをだれにも実さい以上に重く見せたい、見られたいというはかない思いをわかせること以外に、何も生まなかった。
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然しそれで居ながら彼は悲痛から來る憤懣の情が、只其瘡痍を何人にも實際以上に重く見せもし見られもしたい果敢ない念慮を湧かしむることより外に何物をも有たなかつた。
彼はほとんど絶対に、同情となぐさめとにうえていたのである。
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彼は殆んど絶對に同情と慰藉とに渇して居たのである。
畑の黒い土には、ぽつぽつと大根の葉がしげっている。
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畑の黒い土にはぽつ/\と大根の葉が繁つて居る。
まわりですみきった青い物は、大根の葉だけである。
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周圍に冴えた青い物は大根の葉のみである。
大根の葉は、いったん地上の緑をうばって透きとおった空が、その濃い緑をしずめて地上に置いた結しょうにちがいない。
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大根の葉は、一旦地上の緑を奪うて透徹した空が其の濃厚な緑を沈澱させて地上に置いた結晶體でなければならぬ。
おそい秋の気配は、ひたすらしずもうとばかりしている。
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晩秋の氣は只管に沈まうとのみして居る。
実をつけ終わったすべての作物のほ先は、すっかりもううなだれている。
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生殖作用を畢つた凡ての作物の穗先は悉皆もう俛首れて居る。
虫の声も地面にしみこもうとしている。
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蟲の聲も地に沁み入らうとして居る。
ただ一つさわやかな緑を与えられた大根の葉も、いくら育っても強く引きしめるおそい秋の気を受けて、地面にひっつくようにしてやっとななめに広がるだけで、少しでも高く立ちのぼることをゆるされていない。
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獨り爽かな緑を與へられた大根の葉も、幾ら成長しても強く引き締める晩秋の氣を受けて地にひつゝくやうにして漸と斜に廣がるのみで、毫でも高く立ち昇ることを許容されて居らぬ。
こうして畑の土は、ただ冷たくこおるのを待っているのである。
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恁うして畑の土は只冷たく凍るのを待つて居るのである。
勘次はやっと整骨医の門にたどり着いた。
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勘次は漸く整骨醫の門に達した。
整骨医の家は、竹のかきねに珊瑚樹の大木がおおいかぶさって、暗く見えていた。
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整骨醫の家はがら竹の垣根に珊瑚樹の大木が掩ひかぶさつて陰氣に見えて居た。
戸板を三角形に合わせてかごのようにこしらえたものが、かきねの内に置いてあった。
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戸板を三角形に合せて駕籠のやうに拵へたのが垣根の内に置かれてあつた。
だれか重いけが人が運ばれたのだと勘次はすぐに気づいて、そしてなんだかぞっとした。
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誰か重い怪我人が運ばれたのだと勘次は直ぐに悟つてさうして何だか悚然とした。
彼は大げさな自分の身なりをはずかしがって、ためらいながら案内をたのんだ。
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彼は業々しい自分の扮裝に恥ぢて躊躇しつゝ案内を請うた。
ぽつねんとしてげんかんで待っているのは、みなけが人ばかりである。
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ぽつさりとして玄關に待つて居るのは悉皆怪我人ばかりである。
首から白い布をつって、これも白くほうたいした手をささえている人もあった。
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首から白い布片を吊つて此れも白く繃帶した手を持たせたものもあつた。
そこに青い顔をしてぐったり横になっている人もあった。
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其處に蒼い顏をしてぐつたりと横はつて居るものもあつた。
勘次はけが人の後ろにかくれるようにして自分の番になるのを待ちながら、まわりがなんとなく薬くさくてこわいような感じにとらわれた。
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勘次は怪我人の後に隱れるやうにして自分の番になるのを待ちながら周邊が何となく藥臭くて恐ろしいやうな感じに囚はれた。
医者は一人の痛む所をやわらかくもんでやっていたが、勘次をちらと見た。
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醫者は一人の患部を軟かに柔んでやつて居たが勘次をちらと見た。
勘次はなんだかにらまれたように感じた。
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勘次は何だか睨まれたやうに感じた。
医者はまな板のような板の上に黄茶色の粉薬を少し出して、白いのりと練り合わせて、びんのお酒のようなえきでそれをゆるめて、それから長いはさみで白い紙をきざんで、しんちゅうのへらでその薬を紙にぬりつけて、痛む所にはってやった。
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醫者は爼板のやうな板の上に黄褐色な粉藥を少し出して、白い糊と煉り合せて、罎の酒のやうな液體でそれを緩めてそれから長い鋏で白紙を刻んで、眞鍮の箆で其藥を紙へ塗抹つて患部へ貼つてやつた。
けが人たちは、ただじっとして医者のなれた手元を見つめた。
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怪我人等は只凝然として醫者の熟練した手もとを凝視した。
勘次は他人の後ろからつま立ちをした。
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勘次は他人の後から爪立をした。
二、三人小さな治りょうが済んで、十二、三の男の子が仕事着のままの二十四、五の百姓に背負われて、医者の前に置かれた。
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二三人小さな療治が濟んで十二三の男の子が仕事衣の儘な二十四五の百姓に負はれて醫者の前に据ゑられた。
医者は縁側の明るい所へ座ぶとんをしいて出た。
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醫者は縁側の明るみへ座蒲團を敷いて出た。
けが人は医者の前へ出ると、こわさにおそわれたように急にむせび泣いた。
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怪我人は醫者の前へ出ると恐怖に襲はれたやうに俄に鳴咽した。
医者は横にふくれた大きな体で、ゆったりとあぐらをかいたまま、けが人の左の手をまくって見た。
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醫者は横に膨れた大な身體でゆつたりと胡坐をかいた儘怪我人の左の手を捲つて見た。
けが人の二のうでが折れて、ぶらりとたれていた。
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怪我人の上膊が挫折してぶらりと垂れて居た。
医者はけが人の痛む所に手をふれてみて
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醫者は怪我人の患部に手を觸れて見て
「お前、そっちを持って」
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「お前そつち持つて」
と、かんたんにあごで百姓に指図した。
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と簡單に顎で百姓へ指圖した。
百姓はおずおずけが人の後ろへ回って、青い顔をしてだいた。
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百姓は怖づ/\怪我人の後へ廻つて蒼い顏をして抱いた。
「いいか、ぎっとだいてるんだぞ」
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「えゝか、ぎつと抱いてるんだぞ」
医者は足をけが人のおなかに当てて、両手で折れた手を持って引こうとした。
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醫者は足を怪我人の腹部に當てゝ兩手に挫折した手を持つて曳かうとした。
けが人はこわさに、わっと声を上げて泣いた。
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怪我人は恐ろしさにわつと聲を放つて泣いた。
医者は手を止めた。
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醫者は手を止めた。
「お前は兄さんだな。そんじゃいい、むだだ」
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「お前兄貴だな、そんぢやえゝ、徒勞だ」
と、だいた手を放させた。
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と抱いた手を放たしめた。
百姓は身内へのいたわりから、泣きさけぶ子をぎっと力をこめて引かせられない。
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百姓は骨肉の勦りが泣き號ぶ子をぎつと力を籠めて曳かせない。
そんな思い切ったやり方に加わることはできなかったのである。
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そんな思ひきつた手段に加はることは出來ないのであつた。
百姓は泣けば泣くほど手をゆるめた。
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百姓は泣けば泣く程手を緩めた。
医者はそれでむだだと言った。
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醫者はそれで徒勞だといつた。
百姓はただ青い顔をして、ぼうっとしているだけだった。
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百姓は只蒼い顏をしてぼつとして居るのみであつた。
医者はさらに家の者に言いつけて、近所の若い人を呼びにやった。
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醫者は更に家族に命じて近所の壯者を喚びにやつた。
「木から落ちたな」
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「木から落つたな」
医者は百姓に聞いた。
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醫者は百姓に聞いた。
「ええ、わしはもう、どうしていいもんだか分からないから、畑をたがやしてたまま着物も着ないで、こうして背負って来たんだが」
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「えゝ、わしやはあ、どうしてえゝもんだか分んねえから畑耕つてた儘衣物も着ねえで斯うして負つて來たんだが」
と百姓は言って、それから
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と百姓はいつて、それから
「わしはかきの木へ登るのを見てたんだったが、落ちたからかけて行って見たら、目を引きつけちまって。そんでもしばらくたったら泣き出したんで、わしがだき起こして手にさわったら、痛い痛いと言うから、まくって見たら、こうぶらんとなったっきりで、わしももう、おどろいちまって」
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「わし柹の木さ登んな見てたんだつけが、落つたから驅けてつて見たら、目引つゝけつちやつて、そんでも暫く經つたら泣き出したんでわし抱き起して手へ觸つたら、痛てえ/\つちから捲つて見たら、斯うぶらんと成つたつ切でわしもはあ、魂消つちやつて」
百姓はひたすら慌てて言った。
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百姓は只管に慌てゝいつた。
「本当に、ここへ来ていちゃ、毎日のように木から落ちたというけが人が来るんだよまあ。しいの木から落ちたの、くりの木から落ちたのって。子どものけがはたいがいそうなんだから、男の子を持っちゃ心配さね。そんだがこれ、けがというのは思いがけないものだから、わしらも下駄をはきながらひょいっところんだだけで手首が折れたんだなんて」
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「本當に此處へ來て居ちや毎日のやうに木から落つたつち怪我人が來んだよまあ、椎の木から落つたの栗の木から落つたのつて、子供の怪我は大概さうなんだから、男つ子持つちや心配さねえ、そんだがこれ、怪我つちや過だから、わし等も下駄穿きながらひよえつと轉がつた丈で手つ首折れたんだなんて」
と、そばにいたおばあさんが言った。
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と側に居た婆さんがいつた。
「うちのも毎日のようにかきの木へ登ってて、木登りは上手なんだから。それも雨でも降ったばかりならつるつるして足がかからないもんだが、雨は降らないし、そんなことはないはずなんだが、つかまってたえだの所へびがいたとかって、慌てて下りようと思ったというんだから。いつでももう、えだなんざがさがさやって、てっぺんのほうでどなったりなんかしてたんだったが、かさっというのがひどく変な音だと思って見るうちには、落ちるのは早いもんで。困ったことができたのさ」
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「わし等がも毎日のやうに柹の木さ登つてゝ木登りは上手なんだから、それも雨でも降つたばかしならつる/\して足引つ掛んねえもんだが雨は降んねえし、そんなこたねえ筈なんだが、攫つてた枝ん處に蛇居たとかつて慌くつておりべと思つたつちんだから、いつでもはあ枝なんざがさがさやつて天邊の方で呶鳴つたりなにつかしてたんだつけが、かさあつちのが酷く變な音だと思つて見る内にや落んな早えゝもんで、困つたこと出來たのせ」
百姓は調子に乗って言いつづけた。
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百姓は乘地になつていひ續けた。
勘次はこわそうな目を見開いて耳をかたむけた。
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勘次は恐怖の目を睜つて耳を傾けた。
「かきの木へへびが上がるようじゃ、雨でもまた降らなけりゃいいが。百姓には大事なときなんだからまあ、ちっと晴れをつづけさせたいもんだが」
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「柹の木さ蛇があがるやうぢや雨でもまた降らなけりやえゝが、百姓にや大事な處なんだからまあ、ちつと續けさせてえもんだが」
そばからまた一人のけが人が口をそえた。
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側から又一人の怪我人が口を添へた。
勘次はまたその話を聞きながら、変わりやすい天気を心配した。
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勘次は又其の噺を聞きながら定まりない天候の變化を案じた。
やがて近所の若い人が来て、さっきのようにけが人をだいた。
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軈て近所の壯者が來て以前の如く怪我人を懷いた。
医者はさっきのようにして、けが人のこわがった顔を見ながら、口を閉じてぎっとその手を引いた。
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醫者は先刻のやうにして怪我人の恐怖した顏を見ながら口を締めてぎつと其の手を曳いた。
けが人の手はぼきっとおそろしい音を立てた。
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怪我人の手はぼぎつと恐ろしい音を立た。
けが人はただ泣きさけんだ。
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怪我人は只泣き號んだ。
「よしよし、治っちゃった」
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「よし/\癒つちやつた」
医者は手を放して、太いやわらかそうな指の腹でしばらくもむようにして、それから薬をぬった紙をいっぱいにはって、うすい木の板を当てて、ぐるりとほうたいをした。
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醫者は手を放つて、太い軟らか相な指の腹で暫く揉むやうにしてそれから藥を塗つた紙を一杯に貼つて燭奴のやうな薄い木の板を當てゝぐるりと繃帶を施した。
「どれくらいで治ったもんでございましょうね、先生さん」
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「どのつ位で癒つたもんでござんせうね、先生さん」
百姓は心配そうに聞いた。
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百姓は懸念らしく聞いた。
「そうすぐには治らないな」
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「さう直ぐにや癒らねえな」
医者はそっけなく言った。
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醫者は無愛想にいつた。
百姓はあいかわらず青い顔をしながら、けが人を背負って帰って行った。
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百姓は依然として蒼い顏をしながら怪我人を脊負つて歸つて行つた。
それから二、三人の治りょうが済んで、勘次の番になった。
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それから二三人の療治が濟んで勘次の番に成つた。
「こりゃずいぶん大事にしてあるな」
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「此りや大層大事にしてあるな」
医者は汚い手ぬぐいを取って、勘次のひじを見た。
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醫者は穢い手拭をとつて勘次の肘を見た。
鉄の火ばしで打ったあとが、指のようにほのかにふくれていた。
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鐵の火箸で打つた趾が指の如くほのかに膨れて居た。
「どうしたんだいこれは、夫婦げんかでもしたか」
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「どうしたんだえ此ら、夫婦喧嘩でもしたか」
医者は毎日百姓を相手にしてくだけて付き合うくせがついているので、どっしりと大きな体からこういう冗談も出るのだった。
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醫者は毎日百姓を相手にして碎けて交際ふ習慣がついて居るので、どつしりと大きな身體からかういふ戯談も出るのであつた。
「なあに、わしはもう、女房に死なれてから七、八年にもなるんでございますから」
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「なあにわしやはあ、嚊に死なれてから七八年にもなんでがすから」
勘次は少し苦笑いして言った。
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勘次は少し苦笑していつた。
「そうか、そんじゃだれに打たれたい。まだ若いんだから、そんでもどこかへこしらえたかい」
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「さうか、そんぢや誰に打たれたえ、まあだ壯だからそんでも何處へか拵えたかえ」
軽いきずをあまりに大げさに包んだ勘次のようすを、心の中で笑わずにいられなかった医者は、こうからかいながら口ひげをひねった。
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輕微な瘡痍を餘りに大袈裟に包んだ勘次の容子を心から冷笑することを禁じなかつた醫者はかう揶揄ひながら口髭を捻つた。
「先生さん、冗談を言って。なあに、わしは爺さんに打たれたんでさ」
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「先生さん戯談いつて、なあにわしや爺樣に打たれたんでさ」
勘次はひたすら、医者の前で問いつめられるのからのがれようとするように言った。
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勘次は只管に醫者の前に追求の壓迫から遁れようとするやうにいつた。
医者はそれからはもう黙って薬をはって、形だけのほうたいをした。
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醫者はそれからはもう默つて藥を貼つて形ばかりの繃帶をした。
「先生さん、わしはまだ来なくちゃなりますまいか」
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「先生さん、わしやまあだ來なくつちやなりあんすめえか」
勘次は心配そうな目で聞いた。
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勘次は懸念らしい目を以て聞いた。
「この薬をやるから、自分ではったほうがいい。これで治るから」
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「此の藥をやるから、自分で貼つた方がえゝ、此れで癒るから」
と、医者は一ふくろの薬をくれた。
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と醫者は一袋の藥を與へた。
勘次は一度整骨医の門をくぐってからは、世の中にはこんなにけが人がいるものだろうかと、絶えずおどろきとこわさにおされていたが、珊瑚樹のしげった木かげから竹のかきねを通って道へ出たとき、彼は身も心も急に軽くなったのを感じた。
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勘次は一度整骨醫の門を潜つてからは、世間には這麽に怪我人の數が有るものだらうかと絶えず驚愕と恐怖との念に壓せられて居たが、珊瑚樹の繁茂した木蔭から竹の垣根を往來へ出た時彼は身も心も俄に輕くなつたことを感じた。
彼は小さなけが人から思い出して、これも毎日庭の木をねらっている与吉を心配し出した。
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彼は小さな怪我人から聯想して此れも毎日庭の木を覘つて居る與吉を憂へ出した。
彼は足の力のかぎり帰り道を急いだ。
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彼は脚力の及ぶ限り歸途を急いだ。
彼は行く行く、午前に見てしばらく忘れていた百姓の働きぶりをまた目の前に見せつけられて、かくれていたいらだちがまたむらむらと首をもたげた。
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彼は行く/\午前に見て暫く忘れて居た百姓の活動を再び目前に見せ付られて隱れて居た憤懣の情が復た勃々と首を擡げた。
彼は自分のきずが軽いと医者に言われたときはなんとなく安心したのだが、しかしまた次第に道を歩きながら、いろいろな考えがわくにつれて、失望と不満を心に持ちはじめた。
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彼は自分の瘡痍が輕く醫者から宣告された時は何となく安心されたのであつたが、然し又漸次道程を運びつゝ種々な雜念が湧くに連れて、失望と不滿足を心に懷きはじめた。
彼が家に帰った後、きずを重く見せかけようとするのに、医者の見立てが少しも彼に味方していなかったからである。
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彼は家に歸つた後瘡痍を重く見せ掛けようとするのには醫者の診斷が寸毫も彼に味方して居なかつたからである。
彼が家に帰ったのは、日が西につらなった雑木林の上にかたむこうとしたころだった。
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彼の家に歸つたのは日が西に連つた雜木林の上に傾かうとした頃であつた。
彼はただそのままに、自分のけがとそのできごとをかくしておくのが名残おしい気持ちがした。
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彼は只其儘に自分の怪我と其事實とを掩うて置くのが残り惜い心持がした。
それで彼はその足ですぐに南の家へ行った。
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それで彼は其の足で直に南の家へ行つた。
きゃはんとわらじで身を固めた勘次のようすをふしぎに思った南の家の亭主に、勘次はとつぜんうったえるように言った。
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脚絆と草鞋とで身を堅めた勘次の容子を不審に思つた南の亭主へ勘次は突然訴へるやうにいつた。
「おれは爺さんに鉄の火ばしで打っとばされて、骨つぎへ行って来たところだが、いそがしい所へひどい目にあっちまった」
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「俺ら、爺樣に鐵火箸で打つ飛ばさつて、骨接へ行つて來た處だが、忙し處酷え目に逢つちやつた」
勘次はそれでも口が重くて、思うようには言えなかった。
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勘次はそれでも口が澁つて思ふ樣にいへなかつた。
南の家の亭主は、わざわざ来て話をされては、ほうっておくこともできなかった。
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南の亭主は態々來て噺をされては棄てゝ顧みぬことも出來なかつた。
「どうしたっていうんだいまあ、勘次さん」
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「どうしたつちんでえまあ、勘次さん」
いくらかわざとらしくおどろいたように聞いた。
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幾らか態とらしく驚いたやうに聞いた。
「昨日の日暮れに、おれが畑から帰って来たら、爺さんがにわとりにえさをまいてやってるから見たら、米を混ぜておいた食べる稲のほうをかき出してまいてるじゃないかい。それでおれも、それをやったんじゃかなわないと言ったんだな。にわとりにやるのはそっちに別にしてあるんだから、まいてやるならそっちのにしてくれと言ったのよ。にわとりになんざもったいないな。そうしたらいきなり鉄の火ばしでおれのことを打っとばして、お前はおれに食わせるのさえおしいくらいだから、にわとりにやってさえそんなことを言いやがるんだろうなんて。おれもうっかりしてたもんだから逃げるまもなくて、これ、こんなにけがをしちまったな。今、種まきのいそがしい所へぶつかって、いつまでも治らないようでも仕方がないから、朝のうちに骨つぎへ行ったんだが、遠いのに、それに行ってみるとけが人が来ていて、ちょっとやそっとじゃないもんだから、随分急いだつもりだったっけが、こんなにおそくなっちまって。何と言っても日は短くなったからな。そう言っても、けが人ってあるもんだな」
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「昨日の日暮に俺れ野らから歸つて來たら爺樣雞げ餌料撒えてやつてつから見たら、米交ぜて置いた食稻の方掻ん出して撤いてんぢやねえけ、夫から俺らもそれ遣つたんぢや畢ねつちつたな、雞げやんなそつちに別にして有んだから撒いてやんだらそつちのがにして呉ろつちつたのよ、雞げなんざ勿體ねえな、さうしたらいきなり鐵火箸で俺れこと打つ飛ばして、汝りや俺げ食はせんのせえ惜いつ位だから雞げやつてせえ其麽こと云へやがんだんべなんて、麽ら放心してたもんだから逃げ間にやあねえで、此れかうえに怪我しつちやつたな、今蒔物の忙しい處へ打つ込んで、何處までも癒んねえやうでもしやうねえから朝つ稼ぎに骨接へ行つたんだが、遠いのにそれに行つて見つと怪我人が來て居てちよつくらぢやねえもんだから、隨分急えだ積だつけがこんなに遲くなつちやつて、何ちつても日は短くなつたかんな、さう云つても怪我人ちや有るもんだな、」
勘次はやっとそうして、くわしくことのしだいを打ち明けた。
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勘次は漸くさうして仔細に事の顛末を打ち明けた。
「そんだが、けがは大変なことはないのか」
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「そんだが怪我は大變なこたねえのか」
南の家の亭主は、それも義理だというように聞いた。
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南の亭主はそれも義理だといふやうに聞いた。
「うん」
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「うむ」
と、勘次は言いよどんだ。
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と勘次はいひ淀んだ。
南の家の亭主は、そのわけをさとることができないばかりか、その言いよどんだことをふしぎに思う気も起こさないほど、うっかりと聞いていた。
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南の亭主は其の理由を覺ることは出來ないのみでなく、其のいひ澱んだことを不審に思ふ心さへ起さぬ程放心と聞いて居た。
「そんで爺さんはどうしたっていうんだい」
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「そんで爺樣はどうしたつちんでえ」
南の家の亭主は、それから先を聞いた。
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南の亭主はそれから先を聞いた。
「おれは朝っぱらから出かけちまって、まだ顔も合わせないから、どうするっていうんだか分からないが、どうせ甘い顔つきもしちゃいまいな。これでけがなんぞさせて、いい気持ちじゃあるまいな。そうじゃないかい」
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「俺ら朝つぱら出掛つちやつてまあだ行逢えもしねえから、どうするつちんだか分んねえが、どうせ甘え面付もしちや居らんめえな、此んで怪我なんぞさせてえゝ心持ぢやあんめえな、さうぢやねえけ」
勘次はだんだん勢いがついて言った。
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勘次はだん/\勢ひがついていつた。
「そんじゃ話はどういう形にでもしておかなくちゃ仕方があるまいな。おれがまあ話はしてみるから。どっちがどうのこうのと言ったって仕方がないし、まさかお前、手を出したのは爺さんだと言ったって、親にあやまれということも言えないから、何気ないことにしておさめようじゃないか、なあ」
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「そんぢや噺はどうゆ姿にもして置かなくつちやしやうあんめえな、俺れまあ噺はして見つから、どつちがどうのかうのつちつたつて仕やうねえし、まさかおめえ手越したな爺樣だつちつたつて、親のこと謝罪れつちことも云はんねえから何氣なしのことにして押つゝけべぢやねえか、なあ」
南の家の亭主はそう言って、卯平のせまい戸口に立っていた。
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南の亭主はさういつて卯平の狹い戸口に立つて居た。
「こっちのおとっつあん、わしもこれ、変な話だが、勘次さんにたのまれたような形でまあ来たんだがね。昨日の日暮れとかにそれ、あれこれあったということだったっけが、勘次さんもそんなに悪い気持ちで言ったんでもないようすだし、まあ手をついてあやまらせるの何のということでなく、これはその場かぎりとして仲よくやってもらいたいんだが、どうしたもんだろうね。はらを立たせるのはこれは悪いかも知れないが、親子でいてこれ、ちっとのことで後で考えてみちゃつまらないもんだから。なあ、こっちのおとっつあん」
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「こつちのおとつゝあん、わしも此れ變な噺だが勘次さんに頼まれたやうな形でまあ來たんだがね、昨日の日暮とかにそれ、そつちこつち仕たつちことだつけが、勘次さんもそんなに惡りい心持で云つたんでもねえ鹽梅だし、まあ手ついて謝罪らせんの何だのつちことでなく、此ら其の場限りとして仲善くやつて貰えてえんだがどうしたもんだんべね、腹立たせんなこら惡りいかも知んねえが、親子と成つてゝ此れ、ちつとのことで後で考へて見ちやつまんねえもんだから、なあこつちのおとつゝあん」
仲直りの世話をする人はやわらかに、そしていやとは言えないように打ちとけて話しこんだ。
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仲裁者は軟かにさうして然も厭といはれぬやうに打ち解けて突つ込んだ。
「なあに、おれはどうもこうもないんだが、あの野郎めはもう、何じゃない、おれのことがじゃまなんだから。おれはおれだと思ってるからかまやしないが、おれに食わせる物がおしくて仕方がないんだから。おれが家の物を一つぶでもへらさないように外に行ってりゃいいんだろうが。おれがそれから、おれのことがそんなにいやなら、自分でどこへでも出て行ったほうがいい。いやなら後から来た者が出ろという気なんだから」
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「なあに俺らあどうもかうもねえんだが、彼の野郎奴はあ、何ぢやねえ、俺れこと邪魔なんだから、俺らあ俺れだと思つてつから管やしねえが、俺れげ食はせる物惜しくつて仕やうねえんだから、俺れ家の物一粒でも減らさねえやうに外に行つてりやえゝんだんべが、俺れえそれから、俺れことさうだに厭なんだら自分で何處さでもけつかつた方がえゝ、厭だら後から來た者出ろつち氣なんだから」
卯平はくわえたきせるを少しふるえる手に持って、とぎれとぎれにやっとこれだけ言った。
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卯平は銜へた煙管を少し顫へる手に持つて途切れながら漸く此れだけいつた。
「そりゃ、こっちのおとっつあん、そうだがな。さっきも言うとおりはらも立とうが、親子となってみりゃこれ、いいこともあるもんだからなあ。そう言わないでそれ、わしに任せて承知しなさいね」
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「そりちこつちのおとつゝあんさうだがな、先刻もいふ通り腹も立つべえが親子となつて見りや此れ、えゝことも有るもんだからなあ、さう云はねえでそれ、わしげ任せて不承しさつせえね」
南の家の亭主はただくり返して言った。
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南の亭主は只反覆していつた。
「こういうことはこれ、黙ってりゃとなり近所でも分からないもんだが、勘次らはもうずいぶん長く味噌さえなくしておくんだから、ひとしゃくしもありやしないんだ。去年のくれには味噌をつくというんで、おれが働いたお金で塩まで買ったんだな。おれもかたい物はかめないから、味噌がなくちゃ仕方がないな。おれは若いころから味噌は好きで、味噌がなくちゃなんぼにも体に力がつかなくて困り困りしたんだから。麦こうじは塩まで切ってあるんだから、豆さえ煮ればすぐなのに。それが今になったってつくわけじゃなし、何でもおれが死ねばいいくらいにして待ってるんだろうが。これ、味噌なんざついたからってそうすぐに手をつけられるもんじゃなし、おれは明日にも死ぬかどうだか分かりやしないが、そんでも自分の見てる所でつきさえすりゃ、明日死ぬにしたって気持ちはいいから」
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「斯うだこた此れ、默つてりや隣近所でも分んねえもんだが勘次等えゝ暫く味噌せえ無くして置くんだから、一杓子も有りやしねえんだ。去年の暮にや味噌搗くつちんで俺ら働えた錢で鹽迄買つたんだな、俺れも硬え物な噛めねえから味噌なくつちや仕やうねえな、俺ら壯の頃つから味噌は好きで味噌なくつちやなんぼにも身體に力つかねえで困り/\したんだから、麥麹は鹽まで切つて有んだから豆せえ煮りや直なのに、それ今んなつたつて搗くべぢやなし、なんでも俺れ死ねばえゝ位にして待つてんだんべが、此れ、味噌なんざ搗いたからつてさう直ぐに手つけらつるもんぢやなし、俺ら明日が日にも死ぬかどうだか分りやしねえが、そんでも自分の見てつ處で搗きせえすりや明日死ぬにしたつて心持やえゝから」
卯平は独りつぶやくようにして、それから
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卯平は獨り呟くやうにしてそれから
「あのときつきさえすりゃ、今ごろは食えば食えるのに」
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「あん時搗せえすりや今頃ら食へば食へんのに」
と、彼はそのくせの舌を鳴らした。
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と彼は其癖の舌を鳴らした。
「おれは少しいまいましいから打っとばしてやったに」
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「俺れ小忌々敷から打つ飛ばしてやつたに」
卯平はしばらく置いて、また少し声に力を入れて言った。
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卯平は暫く措いて又少し聲に力を入れていつた。
「そうかね。おれはそんなことは知らなかったっけが。そういうことは、いくら親しい近所だと言ったって、いちいち他人の飯だいまでふたを取っちゃ見られないから、おれも知らないでいたな。そんじゃそりゃまあ、味噌でも何でもそういうわけじゃ、こっちのおとっつあんの好きなようにつかせることにしてな。大豆はそれ、穫れたしするから、やるつもりにさえなれば訳のない話だな。そうして、こっちのおとっつあん、胸をなでなさい。おれは悪いことは言わないから。なあ、こっちのおとっつあん、あっちだこっちだやっちゃ、だれよりも子どもらがかわいそうだから。それに、どうせなら東の旦那らの耳へは入れたくないから、そうしなさいよなあ」
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「さうかね、俺らそんなこた知らなかつたつけが、さうえこた幾ら懇意だ近所だつちつたつて一々他人の飯臺まで蓋とつちや見られねえから俺らも知らねえでたな、そんぢやそらまあ、味噌でも何でもさうえ理由ぢやこつちのおとつゝあん好きなやうに搗かせることにしてな、大豆はそれとつたしすつから行る積にせえなりや譯ねえ噺だな、さうしてこつちのおとつゝあん胸撫でさつせえ、俺れ惡りいこた云はねえから、なあこつちのおとつゝあん、そつちだこつちだやつちや誰よりも子奴等可哀想だから、それに同じもんぢや東の旦那等が耳へは入れたくねえから、さうしさつせえよなあ」
南の家の亭主はそう言って、心の中ではだんだんしりごみするのだった。
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南の亭主はさういつて心では段々に臀ごみするのであつた。
卯平はふたたびきせるを口にして黙りこんだ。
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卯平は再び煙管を口にして沈默した。
南の家の亭主は、勘次を卯平のせまい戸口へ連れて来た。
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南の亭主は勘次を卯平の狹い戸口に導いた。
勘次はふだんなら、自分の心からけっして形だけの仲直りを望まなかったはずである。
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勘次は平常ならば自分の心から決して形式的な和睦を希望しなかつた筈である。
彼はにらみ合っているだけなら、長いあいだ慣れていた。
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彼は反目して居るだけならば久しく馴れて居た。
しかし彼は、これまでなかった卯平の行いに初めておそれを抱いたのだった。
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然し彼は從來嘗てなかつた卯平の行爲に始めて恐怖心を懷いたのであつた。
「そんじゃね、おとっつあん、おたがいにこう根に持たないことにしてね。勘次さん、お前もいそがしくて手をつけないでいたかも知れないが、こうじも塩まで切ってあるというんだから、後は豆を煮るだけのことだし、味噌はつくことにしてな。こういいぐあいにしてくれなさいね。さっきも言うとおり、あっちだこっちだないようにしなくちゃね、こっちのおとっつあん」
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「そんぢやねえおとつゝあん、お互に斯う根に持たねえことにしてね、勘次さんおめえも忙しくつて手つけねえでたかも知んねえが、麹も鹽まで切つて有るつちんだから、後は豆煑るだけのことだし、味噌は搗くことにしてな、斯うえゝ鹽梅にしてくれさつせえね、先刻もいふ通りそつちだこつちだねえやうにしなくちやねえ、こつちのおとつゝあん」
南の家の亭主は二人を見くらべるようにして言った。
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南の亭主は二人を見較べるやうにしていつた。
勘次は卯平の前へ出ては、ただ首をうなだれた。
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勘次は卯平の前へ出ては只首を俛れた。
卯平はじっと横を向いて、勘次をちらりとも見なかった。
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卯平は凝然と横を向いて勘次をちらりとも見なかつた。
彼はこれまでとはようすがいくらかちがっていた。
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彼は從來とは容子が幾分違つて居た。
彼はそのくせの舌を鳴らしていたが
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彼は其の癖の舌を鳴らして居たが
「畜生め」
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「畜生奴」
と、ただ一言言った。
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と只一言いつた。
そしてまたしばらく間を置いて
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さうして又暫く間を措いて
「畜生と言われるのがくやしけりゃ、くやしいと言ってみたほうがいい。元はと言えば、お前が手出しをするのが悪いんだから」
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「畜生つちはれんの口惜しけりや、口惜しいちつて見た方がえゝ、原因はつちへば己奴が手出しすんのが惡りいんだから」
と低く、しかもするどく彼はつぶやいて、すすきで裂いたように口をぎっと閉じてしまった。
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と低く然も鋭く彼は呟いて、芒で裂いたやうに口をぎつと閉ぢて畢つた。
勘次は刈られた草のようにしょんぼりとした。
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勘次は刈られた草の如く悄然とした。
「こっちのおとっつあん、そんじゃ仕方がないよ。さっきもおれがそっちから承知してくれと固く言ったんだったな。そんじゃおれも困るから、そこはおたがいにこう、何も言わないことにしてやってくれなくちゃなあ」
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「こつちのおとつゝあん、そんぢや仕やうねえよ、先刻も俺れそつから不承してくろうつて堅しく云つたんだつけな、そんぢや俺れも困つから其處はお互にかう物は云はねえことにしてやつてくんなくつちやなあ」
と南の家の亭主は、いったん橋わたしをすれば後はどうなろうとも、それはまたそのときだという気持ちから、そこはいいかげんにつくろって逃げるように帰った。
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と南の亭主は一旦橋渡しをすれば後は再びどうならうともそれは又其の時だといふ心から其處は加い加減に繕うて遁るやうに歸つた。
彼はどちらからもたのまれた仲直りの世話人ではなかった。
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彼はどちらからも依頼された仲裁人ではなかつた。
彼らは次第に家族のあいだの、ことに夫婦の争いに深入りして、かえって両方からうらまれるような損な立場になった経験があるので、こわれた茶わんをそっと合わせるだけの手間で、うまく身を引く方法と機会を知っていた。
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彼等は漸次家族の間の殊に夫婦の爭ひに深入して却て雙方から恨まれるやうな損な立場に嵌つた經驗があるので、壞れた茶碗をそつと合せるだけの手數で巧に身を引く方法と機會とを知つて居た。
夕暮れが彼にその機会を与えた。
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黄昏が彼に其の機會を與へた。
勘次は自分の軽いきずを、たとえ表面だけでもいいから思い切って重く見て、そして彼に同情の言葉をおしまない人を求めたが、彼には少しでもそのいきさつを聞いてくれる人は、医者と南の家の亭主のほかにはいなかった。
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勘次は彼の輕微な瘡痍を假令表面だけでも好いから思ひ切つて重く見てさうして彼に同情の言葉を惜まないものを求めたが、彼には些少でも其顛末を聞いてくれべきものは醫者と南の亭主とより外はなかつた。
しかしあまりによくきずそのものを見分けた医者は、彼にそのはかない心をうったえるゆとりを与えずに、彼を頭からおさえつけるようにからかった。
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然し餘りに能く瘡痍其物の性質を識別した醫者は、彼に其果敢ない心を訴へる餘裕を與へずに彼を頭から壓る樣に揶揄うた。
彼はそこで何も得られないで、逃げるように珊瑚樹の木かげを出た。
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彼は其處に何物をも得ないで遁るやうに珊瑚樹の木蔭を出た。
南の家の亭主も、わざわざ彼に同情してなぐさめの言葉をおしまないほど心が動かされなかったばかりか、彼はむしろ仲直りの世話人にならなければならないことにいくらかめいわくを感じた。
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南の亭主も殊更に彼に同情して慰藉の言辭を惜まぬ程其心が動かされなかつたのみでなく、彼は寧ろ仲裁者の地位に立たねば成らぬことに幾分の迷惑を感じた。
勘次はけっして仲直りの世話をたのまなかった。
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勘次は決して仲裁を依頼しなかつた。
彼はただ、自分の調子に乗って話をしてくれることに満足を求めようとしただけだった。
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彼は只自分の調子に乘つて噺をしてくれることに滿足を求めようとしたのみであつた。
しかしそれはすべてむだだった。
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然しそれは悉く徒勞であつた。
勘次ははずかしさとこわさといらだちをわかせたが、それでも気の弱い彼は、それをひがんだ目に表して、会う人ごとに同情してくれと求めているように見えるだけだった。
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勘次は羞恥と恐怖と憤懣との情を沸したが夫でも薄弱な彼は、それを僻んだ目に表現して逢ふ人毎に同情してくれと強ふるが如く見えるのみであつた。
百姓はみな、彼の心を読み取るほどするどい目を持っていなかった。
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百姓の凡ては彼の心を推測する程鋭敏な目を有つて居なかつた。
彼はやけになってわざとほうたいの手をかかえて、数日間ぶらぶらと遊んでいた。
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彼は自棄に態と繃帶の手を抱いて數日間ぶら/\と遊んで居た。
いそがしい麦まきの季節がせまって、百姓はみな畑へ出ているので、昼間は彼の相手になる人がいなかったばかりか、今に働かずにはいられないからと、かげで冷たく笑っているのだった。
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忙しい麥蒔の季節が迫つて百姓は悉く畑へ出て居るので晝間は彼の相手になるものがなかつたのみでなく、今に働かずには居られぬからと陰で冷笑を浴びせて居るのであつた。
この季節をむだに過ごすことが一日でもとても大きな損だという、分かりやすい計算に、彼はとうとう負けて、また一所けんめいに働き出した。
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此の季節を空しく費すことが一日でも非常な損失であるといふ見易い利害の打算から彼は到頭打ち負されて復一所懸命に勞働に從事した。
彼はもう卯平と一言も口をきかなくなった。
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彼はもう卯平と一言も口を利かなくなつた。
無口でむっつりとした卯平は、もちろん勘次を見ようともしなかった。
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寡言なむつゝりとした卯平は固より勘次を顧みようともしなかつた。
おつぎはそれを心に苦しんで見ていたが、それはとても手の届かないことだった。
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おつぎはそれを心に苦しんで見たがそれは到底及ばぬことであつた。
村の中には、卯平とのぶつかり合いがぱっとまた広まった。
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村落の内には卯平との衝突がぱつと又傳播された。
しかしそれは、分別のある大人のあいだでだけ受け止められ、おぼえられた。
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然しそれは分別ある壯年の間にのみ解釋し記憶された。
そのできごとの中身は、勘次のおつぎに対する行いをうたがいとねたみの目で想像するようには、興味を彼らに与えなかった。
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其の事件の内容は勘次のおつぎに對する行爲を猜忌と嫉妬との目を以て臆測を逞しくするやうに興味を彼等に與へなかつた。
だれも自分から二人のあいだに口出ししようとはしない。
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誰も自分から彼等の間に嘴を容れようとはしない。
ずっと前からもつれてきたたがいの気持ちに根ざしたできごとが、どんなに小さなことであろうとも、けっして気持ちよく解決するはずがないことを知っている人々は、いくら物を知らなくても自分から進んでそのむずかしい役を引き受けようとはしないのだった。
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遠い以前から紛糾けて來た互の感情に根ざした事件がどんな些少なことであらうとも、決して快よく解決される筈でないことを知つて居る人々は幾ら愚でも自ら好んで其の難局に當らうとはしないのであつた。
二二
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二二
夜明けの光はまだ行きわたらない。
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拂曉の光はまだ行き渡らぬ。
うすいふとんにくるまっている百姓たちのはだには寒さがしみじみと通って、ねむっていながら、みんなあごをおおうまで無意識にふとんのはしを引いて、もじもじと動くころだった。
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薄い蒲團にくるまつて居る百姓等の肌膚には寒冷の氣がしみ/″\と透つて、睡眠に落ちて居ながら、凡てが顎を掩ふまでは無意識に蒲團の端を引いてもぢ/\と動く頃であつた。
かんかんとこおって鳴るかねの音が、しずんだ村の空気にひびきわたった。
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かん/\と凍つて鳴る鉦の音が沈んだ村落の空氣に響き渡つた。
希望と楽しみにさそわれて待っていた年寄りたちはみな、その左の手に提げてしゅもくでたたいているかねのひびきを、おくれるな急げ急げと耳に聞いた。
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希望と娯樂とに唆かされて待つて居た老人等は悉皆、其の左の手に提げて撞木で叩いて居る鉦の響を後れるな急げ/\と耳に聞いた。
年寄りはどの家からもいっせいに念仏寮を目指して集まった。
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老人は何處の家からも一齊に念佛寮を指して集つた。
彼らはみな、まだぐっすりねむっている家族にはそっとしたくをして、動けないほどどてらを重ねてだらしなくひもをしめて、表の戸を開けるとひやりとする明け方近い外の空気に白い息をふきながら、大きなかたまりがころがって行くようにその体を運んだ。
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彼等は孰れも、まだぐつすりと眠つて居る家族の者には竊と支度をして、動けぬ程褞袍を襲ねて節制なく紐を締めて、表の戸を開けるとひやりとする曉近い外氣に白い息を吹きながら、大きな塊が轉がつて行くやうに其の姿を運んだ。
彼らは外のかべぎわからしばを一たば持って行く者もあった。
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彼等は外の壁際から麁朶の一把を持つて行く者も有つた。
旧れきの二月の半ばになると、いつもの年のように念仏の集まりがあるのである。
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舊暦の二月の半に成ると例年の如く念佛の集りが有るのである。
彼らはそれが太陽への感しゃを意味しているので、お天念仏と言っている。
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彼等はそれが日輪に對する報謝を意味して居るのでお天念佛というて居る。
彼らの口から、そして村じゅうでなまって「おで念仏」
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彼等の口からさうして村落の一般から訛つて「おで念佛」
と呼ばれた。
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と喚ばれた。
先ぶれの光がそれぞれの顔をほの明るくして、日が地平線の上にその形の一部を出そうとする時間を外さずに、彼らはそろって念仏を唱えるはずなので、まだみんなが夜のねむりからさめないうちに、みなことごとく口をすすいで待っていなければならないのである。
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先驅の光が各自の顏を微明るくして日が地平線上に其の輪郭の一端を現はさうとする時間を誤らずに彼等は揃つて念佛を唱へる筈なので、まだ凡てが夜の眠から離れぬ内に皆悉口を嗽いで待つて居ねばならぬのである。
念仏の仲間のうちで、選ばれて法願と呼ばれている二人ばかりのおじいさんが、むずかしくもない世話をあれこれした。
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念佛衆の内には選ばれて法願と喚ばれて居る二人ばかりの爺さんが、難かしくもない萬事の世話をした。
法願はこおりそうな手にかねを提げて、ちらほらと大きなかたまりのようなすがたが動いて来るまでは、力のかぎり辻に立ってかんかんとたたくのである。
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法願は凍り相な手に鉦を提げてちらほらと大な塊のやうな姿が動いて來るまでは力の限り辻に立つてかん/\と叩くのである。
念仏寮の雨戸はがらんと開け放たれて、ことさら身にしみる寒さに、いろりにはしばの火がほのおを立てた。
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念佛寮の雨戸は空洞と開け放たれて、殊更に身に沁む寒さに圍爐裏には麁朶の火が焔を立てた。
つるのあるすすけた鉄びんが自在かぎから低くたれて、ほのおをしりでおさえた。
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蔓のある煤けた鐵瓶が自在鍵から低く垂れて焔を臀で抑へた。
ぐるりとかこんだ年寄りの不格好なすがたを、火ははっきりと見せた。
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ぐるりと圍んだ老人の不恰好な姿を火は明瞭と見せた。
やがて二番どりが遠く近く鳴いて、時間が来た。
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軈て二番雞が遠く近く鳴いて時間が來た。
法願はしきいのそばに太鼓を置いて、その後ろへだんだんとみんながすわって、いっせいに声を合わせた。
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法願は閾の側に太鼓を据ゑて、其の後へ段々と一同が坐つて一齊に聲を合せた。
横に置いた太鼓を、両手に持った二本のばちが両方から交互に打って、のんびりとしたにぶいひびきを立てた。
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横に据ゑた太鼓を兩手に持つた二本の撥が兩方から交互に打つて悠長な鈍い響を立てた。
ばちに合わせるみんなの声は、しなびてやせた喉から出るにごった声だった。
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撥に合せる一同の聲は皺びて痩せた喉から出る濁つた聲であつた。
ばらばらなその声が、波のようにしずんでまた起こった。
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雜然たる其の聲が波の如く沈んで復た起つた。
太鼓のばちは強く打ち軽く打ち、さらに赤くぬったどうをそっと打って、そしてまただらりだらりと強く軽く打つことをくり返した。
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太鼓の撥は強く打ち輕く打ち、更に赤く塗つた胴をそつと打つて、さうして又だらり/\と強く輕く打つことを反覆した。
念仏が終わるまでには、だんだんと遠い近い木立の形がくっきりとして、青いみかんの皮が日に当たった所から少しずつ色づいて行くように、東の空がうすく黄色に染まって、だんだんそれが濃くなって、そして寒さの中にもほっかりと暖かみを持ったように明るくなった。
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念佛が畢るまでには段々と遠い近い木立の輪郭がくつきりとして青い蜜柑の皮が日に當つた部分から少しづゝ彩られて行くやうに東の空が薄く黄色に染つて段々にそれが濃く成つて、さうして寒冷なうちにもほつかりと暖味を持つたやうに明るく成つた。
念仏のにごった声も明るくひびいた。
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念佛の濁つた聲も明るく響いた。
地面をおおった霜がめっきり白く見えて、寮の庭に立てられた天だなのかざりの赤や青の紙がはっきりして来た。
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地上を掩うた霜が滅切と白く見えて寮の庭に立てられた天棚の粧飾の赤や青の紙が明瞭として來た。
真ん中に一本の青竹が立てられて、その先は青と赤と黄を重ねた色紙で包んである。
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中心に一本の青竹が立てられて其の先端は青と赤と黄との襲ねた色紙で包んである。
そのまわりには、これも四本の青竹が立てられて、それには縄が張ってある。
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其の周圍には此れも四本の青竹が立てられてそれには繩が張つてある。
縄にはしめ縄のようにきざんだ、その赤や青や黄の紙がいっぱいにひらひらとつるされてある。
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繩には注連のやうに刻んだ其の赤や青や黄の紙が一杯にひら/\と吊られてある。
彼らは昨日のうちにすべてのかざりをして、にわとりが鳴くのを待ったのである。
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彼等は昨日の内に一切の粧飾をして雞の鳴くのを待つたのである。
その天だなは、むかしはりっぱな木の柱を、ちょうど小さな家の骨組みでも建てたような形に組んだのだった。
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其天棚は以前は立派な木の柱を丁度小さな家の棟上げでもしたやうな形に組まれたのであつた。
今ではそれがなくなったというのは、一度この土地をおそった暴風のために、厚い草ぶきの念仏寮がごしゃりとつぶされた。
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現今ではそれが無く成つたといふのは、一度此の地を襲うた暴風の爲に、厚い草葺の念佛寮はごつしやりと潰された。
そのときはたくさんの家がひどい被害を受けて、村じゅうが自分の暮らしをしのぐのがやっとだったので、ほとんど役に立たない寮を建て直すことを気にかける者はなかった。
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其の時は幾多の民家が猶且非常な慘害を蒙つて、村落の凡ては自分の凌ぎが漸とのことであつたので、殆んど無用である寮の再建を顧みるものはなかつた。
そうしているあいだに、他人の林になたを入れなければたきぎが手に入らない貧しい百姓たちが、こそこそと寮の木材を持ち出した。
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さういふ間に他人の林に鉈を入れねば薪が獲られぬ貧乏な百姓等がこそ/\と寮の木材を引いた。
やっとのことで今の寮が前の何分の一かの大きさに建て直されるまでには、そのたなもむごいのこぎりの歯にかかっていたのである。
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漸とのことで現今の寮が以前の幾分の一の大きさに再建されるまでには其の棚も無残な鋸の齒に掛つて居たのである。
それでも、年寄りたちは念仏が復活したことに十分な感しゃと満足を持った。
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それでも、老人等は念佛の復活したことに十分の感謝と滿足とを有つた。
彼らはそこに、年を取ってからの何よりの楽しみとなぐさめを見つけているのである。
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彼等はそこに老後に於ける無上の娯樂と慰藉とを發見しつゝあるのである。
太鼓がばちとともにぽつりと置かれて、みんなすっかり窮くつないろりのまわりに集まった。
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太鼓が撥と共にぽつさりと置かれて悉皆窮屈な圍爐裏の邊に聚つた。
寮の中も明るくなって、立ちのぼるほのおの光がやや消されて来た。
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寮の内も明るく成つて立ち騰る焔の光が稍消されて來た。
近所の百姓が雨戸を開ける音が、せっかちにがたぴしと聞こえた。
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近所の百姓の雨戸を開ける音が性急にがたぴしと聞えた。
庭へ下りたにわとりが、あくびでもするように体をそらしながら、うっかりしていてまだ鳴き足りなかったというようすで、喉が痛いほど鳴くのが聞こえた。
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庭へおりた雞が欠伸でもするやうに身體を反らしながら、放心して居てまだ鳴き足らなかつたといふ容子をして喉の痛い程鳴くのが聞えた。
どの家にも、青いけむりがのきをはってのぼった。
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何處の家にも青い煙が廂を偃うて騰つた。
年寄りたちはひとまず自分の家に帰った。
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老人等は一先自分の家に歸つた。
卯平も、となりの森のかげがいっぱいにおおっているせまい庭に立ったときには、勘次はおつぎを連れて開こん地へ出た後だった。
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卯平も隣の森の陰翳が一杯に掩うて居る狹い庭に立つた時は、勘次はおつぎを連れて開墾地へ出た後であつた。
卯平は庭に立ったまま、空っぽになって、そして雨戸が閉ざしてある勘次の家をじっと見た。
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卯平は庭に立つた儘、空虚になつてさうして雨戸が閉してある勘次の家を凝然と見た。
家はやつれている。
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家は窶れて居る。
しかしながら、たとえどうであっても話し声が聞こえて青いけむりが立っていれば、わずかでも血がめぐっているもののように生きて見えるのだが、しんと静まって人の気配がなくなったときは、荒れつつあるその建物のどこにも命が保たれているとは見えないほど悲しげだった。
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然しながら假令どうでも噺聲が聞えて青い煙が立つて居れば、僅でも血が循環つて居るものゝやうに活きて見えるのであるが、靜寂と人氣のなくなつた時は頽廢しつゝある其建物の何處にも生命が保たれて居るとは見られぬ程悲しげであつた。
卯平がうす暗い庭の霜に下駄のあとをつけて出てから間もなく、勘次はふとんをけってかまどに火をつけた。
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卯平が薄闇い庭の霜に下駄の趾をつけて出てから間もなく勘次は褥を蹴つて竈に火を點た。
それからおつぎが朝ごはんのおぜんを置くまでには、勘次はきりりと仕事着に着がえて、寒さに少しふるえていた。
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それからおつぎが朝餐の膳を据ゑる迄には勘次はきりゝと仕事衣に換て寒さに少し顫へて居た。
おつぎもはしを取るときは、股引のはしを藁でくくっておいた。
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おつぎも箸を執る時は股引の端を藁で括つて置いた。
勘次は、開こんの土地が年々遠くへ進んで行って、今では例年の広さでは広すぎることに気づいたので、彼は少しの油断もできなくなった。
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勘次は開墾の土地が年々遠くへ進んで行つて、現在では例年の面積では廣過て居たことを心づいたので、彼は少しの油斷も出來なくなつた。
彼は毎日のようにおつぎを連れて、くわで切り起こした土のかたまりを万能ぐわの背でたたいてはくずし、平らにならさせていたのである。
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彼は毎日のやうにおつぎを連て、唐鍬で切り起した土の塊を萬能の背で叩いては解して平坦にならさせつゝあつたのである。
卯平はまず勘次の戸口に近づいた。
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卯平は先づ勘次の戸口に近づいた。
表の大戸にはじょうが下ろしてあった。
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表の大戸には錠がおろしてあつた。
かぎはもちろん勘次の腰をはなれないことを知って、卯平は手もかけてみなかった。
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鍵は固より勘次の腰を離れないことを知つて卯平は手も掛けて見なかつた。
彼はまた裏の戸口へ行ってみたが、かけ金には栓がしてあると見えて動かなかった。
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彼は又裏戸の口へ行つて見たが、掛金には栓を揷したと見えて動かなかつた。
卯平はそれからふところ手をしたまま、そのくせの舌を鳴らしながら、のんびりと自分のせまい戸口に立った。
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卯平はそれから懷手をした儘其の癖の舌を鳴らしながら悠長に自分の狹い戸口に立つた。
中はただ暗く、出るときにはしをめくったふとんも冷たくなっていた。
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内は只陰氣で出る時に端を捲つた夜具も冷たく成つて居た。
彼はやっと火ばちにしばをくすべた。
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彼は漸く火鉢に麁朶を燻た。
彼はそばに重箱と小なべが置いてあるのを見た。
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彼は側に重箱と小鍋とが置かれてあるのを見た。
ふたを取ったら、重箱にはごはんがあった。
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蓋をとつたら重箱には飯があつた。
ふたの裏は少ししめっていた。
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蓋の裏には少し濕ひを持つて居た。
その朝、おつぎは知らずに呼んだのだが、卯平はいなかった。
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其の朝おつぎは知らずに喚んだのであつたが、卯平は居なかつた。
それでおつぎは出るとき、ごはんとしるを卯平の小屋へ置いて行ったのである。
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それでおつぎは出る時飯と汁とを卯平の小屋へ置いて行つたのである。
卯平はともかく、おつぎに呼ばれて毎朝暖かいごはんと熱いしるでおなかを満たしていたのである。
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卯平は兎に角おつぎに喚ばれて毎朝暖かい飯と熱い汁とに腹を拵へつゝあつたのである。
彼はその朝はどてらを着ても、夜がまだ明けないうちからのさわぎなので、体が冷えていた。
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彼は其の朝は褞袍を着ても夜のまだ明けない内からの騷ぎなので身體が冷えて居た。
それで彼は、家に帰ればしるはどうでも、飯だいの中はまだ十分に暖かいだろうという望みを持って、戸が開かないことにまでは思いつかなかった。
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夫で彼は家に歸つたならば汁はどうでも、飯臺の中はまだ十分に暖氣を保つて居るだらうといふ希望を懷いて、戸の開かないことにまでは思ひ至らなかつた。
重箱はもう冷えてしまった。
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重箱はもう冷えて畢つた。
彼は仕方なしに小なべを火ばちにかけた。
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彼は仕方なしに小鍋を火鉢へ掛けた。
彼はかすかに白いゆげがなべから立ちはじめたとき、おたまでかき混ぜて吸ってみたが、それでも冷たかった。
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彼は微かに白い水蒸氣が鍋から立ち始めた時お玉杓子で掻き立てゝ吸つて見たが猶且冷たかつた。
彼はまた火ばちにしばを足して、重箱のごはんをなべへ入れた。
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彼は復た火鉢へ麁朶を足して重箱の飯を鍋へ入れた。
火ばちのわりには大きななべにほおがふれるほどにして、ふうふうと火をふいた。
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火鉢の割合には大きな鍋に頬が觸るばかりにしてふう/\と火を吹いた。
なべがぐずぐずとにごった音を立てているあいだ、彼はしなびた大きな手を火にかざしながら、目をしかめていた。
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鍋のぐず/\と濁つた聲を立てゝ居る間彼は皺びた大きな手を火に翳しながら目を蹙めて居た。
彼はじっと遠くへ自分の心を放したようにぼうっとしていては、また思い出したようにしばをぽちぽちと折ってくべた。
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彼は凝然と遠くへ自分の心を放つたやうにぽうつとして居ては復思ひ出したやうに麁朶をぽち/\と折つて燻べた。
彼は例年になく体のやつれが見えた。
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彼は例年になく身體の窶れが見えた。
かさかさとかわいたはだが、年老いた人に共通のあわれさを見せているばかりでなく、その大きな体は肉が落ちてげっそりと肩がこけた。
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かさ/\と乾燥した肌膚が一般の老衰者に通有な哀れさを見せて居るばかりでなく、其大きな身體は肉が落てげつそりと肩がこけた。
彼は体のやつれを自分でも分かっていた。
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彼は身體の窶れを自分でも知つた。
彼はこの一年のあいだに、持病のリューマチがしつこく骨のどこかをむしばんでいるように感じた。
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彼は此一年の間に持病の僂麻質斯が執念く骨の何處かを蝕みつゝあるやうに感じた。
暑い季節になれば必ず勢いをひそめる持病が、彼を忘れて去ることはなかった。
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暑い季節になれば必ず其の勢ひを潜めた持病が彼を忘れて去らなかつた。
なべの中は少しぷんとこげつくにおいがした。
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鍋の中は少しぷんと焦つく臭がした。
彼はおたまでかき混ぜた。
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彼はお玉杓子で掻き立てた。
なべの底は手を動かすたびに、じりじりと鳴った。
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鍋の底は手を動かす毎にぢり/\と鳴つた。
彼はわずかに、熱い雑炊が喉を通って胃に落ち着くとき、ほかりと感じた。
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彼は僅に熱い雜炊が食道を通過して胃に落ちつく時ほかりと感じた。
そしてはしを置いた後、やっと体に気持ちのいい暖かさが加わったことを知った。
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さうして箸を措いた後漸く身體に快よい暖氣の加はつたことを知つた。
少しの水を注いだ鉄びんがわくのを、彼はまたじっと待った。
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少量の水を注だ鐵瓶の沸くのを彼は復凝然として待つた。
彼はさっきから、どうかすると手元をさぐるようにしてたばこ入れをひざに乗せた。
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彼は先刻からどうかすると手もとを探るやうにして煙草入を膝にした。
たばこ入れは空だった。
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煙草入は虚空であつた。
彼は自分の体力がめっきりおとろえて、仕事をするのに手が利かなくなって、こづかいが足りないと感じたとき、やけになった心から、思い切ってそのかむほど好きなたばこをやめようとした。
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彼は自分の體力が滅切と減て仕事をするのに手が利かなくなつて、小遣錢の不足を感じた時、自棄に成つた心から斷然其噛む程好な煙草を廢さうとした。
彼はみじめな自分を自分で苛めてやるような気持ちを、一方には持った。
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彼は悲慘な自分を自分が苛めてやるやうな心持を一方には有つた。
一方ではまた、物を知らない彼らの仲間がよくするように、彼は持病が治るように仏さまに祈ったのでもあった。
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一方には又無智な彼等の伴侶が能くするやうに彼は持病の平癒を佛に祈つたのでもあつた。
それが明日からという日に、彼はその残ったたばこをほとんど一日吸いつづけた。
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それが明日からといふ日に彼は其残つた煙草を殆ど一日喫ひ續けた。
たばこ入れのふくろをさかさまにして、つま先でぱたぱたとはじいて、少しの粉さえ残さなかった。
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煙草入の叺を倒にして爪先でぱた/\と彈いて少しの粉でさへ餘さなかつた。
その後、手についたくせが何かにつけてきせるをつかませるので、やめたことを彼は心の中で後かいすることもあった。
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其後手についた癖が何かにつけては煙管を掴ませるので、止めたことを彼は心に悔いることもあつた。
しかし彼はまたすぐに、仏さまへのちかいをやぶることをとてもおそれた。
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然し彼は又直に佛に對しての誓約を破ることに非常な恐怖を懷いた。
彼はどうしてもあきらめなければならない心の苦しさをまぎらすために、ふきの葉や桑の葉をほしてきせるの火皿につめてみたが、どれもたばこのようにしっとりしたうるおいが火の勢いをおさえる力はなくて、一度吸えばすぐ灰になって、ヤニでふさがりかけたきせるの穴を通してけむりが口に満ちるときは、つんとしたいやなしげきを鼻に感じるのだった。
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彼はどうしても斷念せねばならぬ心の苦しみを紛らす爲に蕗の葉や桑の葉を干して煙管の火皿につめて見たが、どれでも煙草のやうにしつとりとした一種の潤ひが火の足を引止めるやうな力はなくて一度吸へば直に灰になつて、煙脂で塞がらうとして居る羅宇の空隙を透して煙が口に滿ちる時はつんとした厭な刺戟を鼻に感ずるのであつた。
ぶどうの葉を他人にすすめられてみたが、これもとても彼の好みをごまかすことはできなかった。
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葡萄の葉を他人に勸められて見たが、此れも到底彼の嗜好を欺くことは出來なかつた。
彼はきせるを手にすることが欲を忘れられる方法でないことを知って、彼はちょうど他人へのいらだちから、当てつけに自分のかわいい子をひどくたたく人のように、きせるの管をふみつぶした。
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彼は煙管を手にすることが慾念を忘れ得る方法でないことを知つて、彼は丁度他人に對する或憤懣の情から當てつけに自分の愛兒を夥かに打ち据ゑる者のやうに羅宇を踏み潰した。
しかしそれをだれも見てはいなかった。
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然しそれを誰も見ては居なかつた。
それでも彼は、空っぽのたばこ入れを手放すのがしのびない気持ちがした。
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それでも彼は空虚な煙草入を放すに忍びない心持がした。
彼はわずかなこづかいを入れて、いつも腰につけた。
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彼は僅な小遣錢を入れて始終腰につけた。
これも空っぽになってくたくたと力のない革のつつには、つぶれたままのきせるをさしていた。
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此れも空虚に成つてはくた/\として力のない革の筒には潰れた儘の煙管を揷して居た。
彼はしばらくそうしていたが、どうかすると忘れて、くせのついた手先が要らないたばこ入れをさぐらせるのだった。
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彼は暫くさうして居たがどうかしては忘れて癖づけられた手先が不用な煙草入を探らせるのであつた。
日はやっと庭の霜をとかしてさしかけた。
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日は漸く庭の霜を溶して射し掛けた。
彼は不快な朝に目をしかめて、またぽつねんと念仏寮へやつれた体を運んだ。
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彼は不快な朝を目に蹙めた復たぽつさりと念佛寮へ窶れた身を運んだ。
彼は田んぼのそばへ下りて細い道を行った。
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彼は田圃の側へおりて小徑を行つた。
道すじにはところどころ、はなればなれの家のすきまに小さな麦畑があった。
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道筋には處々離れ離れな家の隙間に小さな麥畑があつた。
麦畑のうねは、たいてい東西に作られていた。
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麥畑の畝は大抵東西に形づけられてあつた。
遠くから南へ回ろうとしている日は、思いのほか暖かい光で一面の霜をとかしたので、どこでも水をまいたようにしめっていた。
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遠くから南へ廻らうとして居る日は思ひの外に暖かい光で一帶に霜を溶かしたので、何處でも水を打つたやうな濕ひを持つて居た。
しかしうすい日の光は、畑のうねが作っている長い小山の頂上をこえて、いくらもその力を届かせなかった。
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然し薄い日の光は畑の畝が形づくつて居る長い小山の頂點を越えて幾らも其の力を及ぼさなかつた。
どのうねでも、そのかげはあいかわらず白かった。
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どの畝でも其陰は依然として白かつた。
卯平は田んぼに沿って北側の道を歩いたので、彼の目にはみな夜明けのような白い冷たい霜でおおわれている畑ばかりが映った。
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卯平は田圃に從いて北側の道を歩いたので彼の目には悉く夜明の如き白い冷たい霜を以て掩はれて居る畑のみが映つた。
昼過ぎから村のどの家からも、風呂しき包みの飯つぎや重箱が寮へ運ばれた。
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午後から村落のどの家からも風呂敷包の飯つぎや重箱が寮へ運ばれた。
年寄りたちはみなそれを、ほこりだらけの仏だんの前に供えた。
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老人等は皆夫を埃だらけな佛壇の前に供へた。
汚い風呂しき包みが小山のように積まれたとき、念仏の太鼓がまた鳴った。
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穢い風呂敷包が小山の如く積まれた時念佛の太鼓が復鳴つた。
それから庭に集まった子どもたちの前に、その飯つぎや重箱の供え物が分け与えられた。
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それから庭に聚つた子供等の前に其の飯つぎや重箱の供物が分與された。
念仏の人たちはそれからさらにお酒を飲んで、それぞれ重箱や飯つぎをはしでつついて、近ごろにないほど食べたい気持ちを満たした。
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念佛衆はそれから更に酒を飮んで各自に重箱や飯つぎを箸でつゝいて近頃にない口腹の慾を充たしめた。
卯平だけは杯を手にしなかった。
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獨卯平は杯を手にしなかつた。
彼はほかの年寄りより先に、自分の家の重箱を持ってぽさぽさと帰った。
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彼は他の老人に先立つて自分の家の重箱を持つてぽさ/\と歸つた。
たいていの家では米のひし餅を出すのがならわしだが、勘次にはそんなひまがないので、おつぎはわずかに小豆ごはんをたいて重箱を持って行ったのだった。
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大抵の家では米の菱餅を出すのが常例であるが勘次にはさういふ暇がないのでおつぎは僅に小豆飯を炊て重箱を持て行つたのであつた。
年寄りみんながほとんど気がふれたようにさわぐ二日のその一日が、卯平には不快で、そして意味なく過ぎた。
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凡ての老人が殆ど狂するばかりに騷ぐ二日の其一日が卯平には不快でさうして無意味に費された。
彼は夜になってから
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彼は夜になつてから
「爺さん、今朝のごはんは冷たくなったっけろう。おれが忘れて呼びに行ったのがよ。そうしたら爺さんはとっくにいなかったんだもの。そんでもさっきはがやがや大ぜいいるようだったっけが、あっちじゃ甘い物があって、爺さんらはおかわりしたんだろうなあ」
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「爺、今朝のお飯冷たく成つたつけべ俺ら忘れて喚ばりに行つたのがよ、さうしたら爺は疾に居ねえのがんだもの、そんでも先刻はがや/\一杯居るやうだつけがあつちぢや甘え物あつて爺等とつ返しとつたんべなあ」
と、おつぎが少し甘えたように言ったことを、彼はさすがににくいとは思わずに聞いた。
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とおつぎが少し甘えたやうにいつたことを彼は有繋に憎いと思つては聞かなかつた。
二三
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二三
念仏は次の日も同じようにくり返された。
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念佛は次の日も同一に反覆された。
昼過ぎになって、村のどの家からもまた風呂しき包みが運ばれた。
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午後になつて村落のどの家からも復た風呂敷包が運ばれた。
子どもたちは学校から帰って、風呂しき包みを背負ったのも、赤んぼうを帯でくくったのも、たいてい寮の庭へ集まった。
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子供等は學校から歸つて風呂數包を脊負つたのも、乳呑兒を帶で括つたのも大抵は寮の庭へ集つた。
「さあ、そんじゃまた、みんな上がれ」
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「さあそんぢや又、みんな上れ」
とおばあさんたちが言うと、しきいのそばにせまって待っていた子どもたちは争って席を取った。
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と婆さん等がいふと閾際に迫つて待つて居た子供等は爭うて席をとつた。
彼らは今日もせまい寮の中にぎっしりとひざをすぼめてすわった。
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彼等は今日も狹い寮の内側にぎつしりと膝を窄めて坐つた。
四、五人のおばあさんたちは、仏だんの前に積まれてあった風呂しき包みを解きながら、ひそひそとささやいた。
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四五人の婆さん等は佛壇の前に積まれてあつた風呂敷包を解きながらひそ/″\と耳語いた。
「これは何だと思ったら、すしだよ」
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「此りや何だと思つたら、鮨だよ」
と一人のおばあさんが言えば
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と一人の婆さんがいへば
「そんじゃ、そっちへ別にしておけよ、お前」
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「そんぢや、そつちへ別にして置けよおめえ」
「そんじゃ、こっちのも別にしておこうよ、なあ」
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「そんぢやこつちのがも別にして置くべよ、なあ」
おばあさんたちはずいぶん慌てたように手早く、三つ四つの風呂しき包みをそっと仏だんへかくした。
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婆さん等は頗る慌てたやうに手もと忙しく三つ四つの風呂敷包をそつと佛壇へ隱した。
そうしているうちに、ほかのおばあさんたちは
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さうして居る内に他の婆さん等は
「みんな、おとなしくしなくちゃ、くれないぞ」
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「みんな、おとなしく仕なくつちや、呉んねえぞ」
「そんなに洟をたらしてる子にはやらないことにしようよ」
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「さうだに洟垂らしてるものげはやんねえことにすべえ」
と口々にからかった。
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口々に揶揄つた。
子どもたちはいっせいに洟をすすって、そして着物で横にふいた。
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子供等は一齊に洟を啜つてさうして衣物で横に拭つた。
白い紙が一まいずつ、子どもたちの前に広げられた。
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白い紙が一枚づつ子供等の前に擴げられた。
「子どもらのことを言って、手で洟をかんだ手じゃ引かないでくれよ。お前らももったいないから」
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「子奴等こと云つて、手洟なんぞかんだ手ぢや引かねえで呉ろえ、おめえ等も勿體ねえから」
おばあさんたちが飯つぎを左の手にかかえて立ったとき、こういろりのそばからどなった。
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婆さん等が飯つぎを左の手に抱へて立つた時、かう圍爐裏の側から呶鳴つた。
彼は小がらなおじいさんで、ちょっとおばあさんたちを見てほほえみながら言ったのである。
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彼は小柄な爺さんで一寸婆さん等を顧みて微笑しながらいつたのである。
彼は首に二重にした数珠を巻いていた。
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彼は喉へ二重にした珠數を卷いて居た。
彼の声はおそろしく大きかった。
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彼の聲は恐ろしく大きかつた。
おばあさんたちは
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婆さん等は
「はいはい、そんじゃ手でも洗いましょうよ」
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「はい/\、そんぢや手でも洗ひますべよ」
と言ったり
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といつたり
「おれはお前、手で洟はかまないよ」
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「俺らおめえ、手洟はかまねえよ」
と言ったり、がらがらとさわぎながら、笑いささやきながら、ぬれた手を前かけでふいてまた飯つぎをかかえた。
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といつたりがら/\と騷ぎながら、笑ひ私語きつゝ、濡れた手を前掛で拭いて再び飯つぎを抱へた。
おばあさんたちははしの先で少しずつ、飯つぎの物をつまんでその広げられた紙に置きながら、はしからぐるりと回って行く。
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婆さん等は箸の先で少しづつ、飯つぎの物を突つ掛けて其の擴げられた紙へ置きつゝ、端からぐるりと廻つて行く。
紙は子どもたちの数のほかにもしいてあった。
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紙は子供等の數の外にも敷かれてあつた。
それは、空になった飯つぎを返すときにその中へ入れてやるためだった。
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それは空虚になつた飯つぎを返す時に其の中へ入れてやる爲であつた。
飯つぎには、たいてい菱餅と小豆ごはんが入れられてあった。
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飯つぎには大抵菱餅と小豆飯とが入れられてあつた。
小豆ごはんはどれもこれも米がよくついてないのでくすんで、そして腹の裂けた小豆が粉をふいて、よけいにねばり気のないぼろぼろのごはんになっていた。
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小豆飯はどれも/\米が能く搗けてないのでくすんでさうして腹の裂けた小豆が粉を吐いて餘計に粘氣のないぼろ/\な飯になつて居た。
それでも飯つぎがちがうごとに、小豆ごはんの赤さがいくらかずつちがっていた。
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それでも飯つぎの異る毎に小豆飯の赤さが幾らかづつ變つて居た。
子どもたちは、ちがう小豆ごはんが一はし一はしと増えて行くのがうれしくて、外へころがったのは慌てて手で取って紙へ乗せた。
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子供等は變つた小豆飯が一箸々々と殖えて行くのが嬉しくて、外へ轉がつたのは慌てゝ手でとつて紙へ載せた。
小豆ごはんは昨日とちがったことはなかったが、菱餅は昨日のように米のではなくて、どれも粟ばかりだった。
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小豆飯は昨日に異つたことはなかつたが、菱餅は昨日のやうに米のではなくてどれでも粟ばかりであつた。
子どもたちは大小ちがう粟の菱餅が、一つはまた一つと紙の上に量を増して積まれるのを楽しそうに見て、自分の紙から、両どなりの紙から、遠くのほうから、それから一つ一つかがんではしを動かしているおばあさんたちのいそがしい手元に目をうばわれるのだった。
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子供等は大小異つた粟の菱餅が一つは一つと紙の上に分量を増して積まれるのを樂しげにして、自分の紙から兩方の隣の紙から遠くの方から、それから一つ/\に屈んで箸を動かして居る婆さん等の忙しい手もとに目を奪られるのであつた。
おばあさんたちはそわそわしながら、せまいのでたがいにぶつかってはさわぎながら、自分の家にいるときのような落ち着きが少しも保たれていなかった。
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婆さん等はそは/\としつゝ狹いので互に衝突つては騷ぎながら、自分の家に居る時のやうな節制が少しも保たれて居なかつた。
「さあ、お前らこれっきりだ」
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「さあ、汝つ等此れつきりだ」
おばあさんたちが空になった最後の飯つぎの底をたたいて腰をのばしたとき、子どもたちはあぶなっかしい手でやっと紙を包んで、がたがたと先を争って立った。
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婆さん等が空虚になつた最後の飯つぎの底を叩いて腰を伸ばした時、子供等は危な相な手で漸く紙を包んで、がた/\と先を爭うて立つた。
下駄を遠くへはね飛ばされたり、ころんだり、紙包みの餅を落としたりして泣く声が入りまじった。
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下駄を遠くへ跳ね飛ばされたり、轉つたり、紙包の餅を落したりして泣く聲が相交つた。
彼らは庭へ下りてから、ゆっくりとその紙を開いて小豆ごはんを手でつまんで食べた。
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彼等は庭へおりてから徐ろに其の紙を開いて小豆飯を手で抓んで喫べた。
紙にくっついた小豆ごはんを、彼らは歯でかじるようにして取った。
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紙にくつゝいた小豆飯を彼等は齒で噛るやうにしてとつた。
やぶれた紙を捨てて、菱餅をふところへ入れる子もあった。
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破れた紙を棄てゝ菱餅を懷へ入れるものもあつた。
庭にはあっちにもこっちにも、捨てられた紙が白く乱れて散らばっていた。
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庭にはそつちにもこつちにも棄てられた紙が白く亂れて散らばつて居た。
年寄りたちはいろりに絶えずたきぎをくべながら、お酒を温めはじめた。
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老人等は圍爐裏に絶えず薪を燻べながら酒を沸し始めた。
村のどの家からか、今日も念仏の人たちへと言って供えられた二升だるをいろりのそばへ引きよせて、しりのすすけた土びんへごぼごぼと注いで自在かぎにかけた。
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村落のどの家からか今日も念佛衆へというて供へられた二升樽を圍爐裏の側へ引きつけて、臀の煤けた土瓶へごぼ/\と注いで自在鍵へ掛けた。
外があまりに寒いからというので、念仏が済んでからだれかが雨戸を二、三まい引いたので、寮の中はうす暗くなっていた。
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外が餘りに寒いからといふので念佛が濟んでから誰かゞ雨戸を二三枚引いたので寮の内は薄闇くなつて居た。
仏だんの前には、おばあさんが三、四人でひそひそと頭を寄せ合っている。
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佛壇の前には婆さんが三四人でひそ/″\と額を鳩めて居る。
「このばあさんら、そっちのほうでぬすみ食いしてないで、うまい物があったらこっちへ持って来い」
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「此の婆奴等、そつちの方で偸嘴してねえで、佳味え物有つたら此方へ持つて來う」
さっきの、首に数珠を巻いた小がらなおじいさんがどなった。
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先刻の首へ珠數を卷いた小柄な爺さんが呶鳴つた。
「ぬすんだというわけじゃないが、ふたを取って見たところなんだよ」
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「盜んだつち譯ぢやねえが、蓋とつて見た處なんだよ」
そう言っておばあさんたちは、風呂しきの四すみをつかんでいろりのそばへ持って来た。
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さういつて婆さん等は風呂敷の四隅を掴んで圍爐裏の側へ持つて來た。
飯つぎには、かんぴょうを帯にしたいなりずしが少し白い腹を見せて、そっくり積まれてあった。
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飯つぎには干瓢を帶にした稻荷鮨が少し白い腹を見せてそつくりと積まれてあつた。
すしは少しへっていた。
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鮨は少し減つて居た。
「独りでせしめちゃかなわないからね」
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「獨でせしめちやえかねえから」
おじいさんは冗談らしく言った。
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爺さんは戲談らしくいつた。
「独りじゃあるまいな。こうやって三人も四人もいたんだものなあ」
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「獨ぢやあんめえな、かうやつて三人も四人も居たんだものなあ」
「そうだとも。これくらいおれらにくれたって、本当にすりゃいいんだよ。なあ、おれらなんざ、供えられたお酒だってそんなに飲むわけじゃなし」
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「さうだとも、此の位俺らげよこしたつて本當にすりやえゝんだよ、なあ、俺らなんざ上つた酒だつてさうだに飮むべぢやなし」
おばあさんたちは言い返すように言った。
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婆さん等は抗辯するやうにいつた。
みんなが一つ一つとすしをつまんだ。
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悉皆が一つ/\と鮨を撮んだ。
「そりゃそうと、お酒はどうしたい」
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「そりやさうと、酒どうしたえ」
小がらなおじいさんは、ひょいと自在かぎのまま土びんを手元へ引きよせて、底に手を当ててみた。
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小柄な爺さんはひよつと自在鍵の儘土瓶を手もとへ引つけて、底へ手を當てゝ見た。
「うっかりしてて、これは煮立っちまうところだったっけ」
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「放心してゝ此ら煑立ツちやあ處だつけ」
と急いで土びんを外して
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と急いで土瓶を外して
「おれはそんなにすしなんざ自分じゃ一つでもほしくないんだから。そんな物でおなかをふくらませたっくらい、お酒がからっきりうまくなくなっちまうから」
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「俺らさうだ鮨なんざ自分ぢや一つでも欲しかねえんだから、さうだ物で滿腹くしたつ位酒からツき甘くなくしつちやあから、」
おじいさんは土びんをたたみの上に置いて言った。
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爺さんは土瓶を疊の上へ置いていつた。
みんながずらりと座を作った。
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悉皆がずらりと座を作つた。
茶飲み茶わんが一つ一つ置かれて、どこからか供えられたいもやごぼうや人参やそのほかの野菜の煮しめが、重箱のまま置かれた。
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茶呑茶碗が一つ/\に置かれて、何處からか供へられた芋や牛蒡や人參や其の他の野菜の煮〆が重箱の儘置かれた。
そこにはおぜんも台も何もなかった。
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其處には膳も臺も何もなかつた。
土びんのお酒が徳利へうつされて、土びんはまた自在かぎにつるされた。
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土瓶の酒が徳利へ移されて土瓶は再び自在鍵へ吊された。
二度目のお酒が茶わんへ注がれたとき
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二度目の酒が茶碗へ注がれた時
「これはだめだ、こげ臭くなっちまった。お酒を温めるのにはかなわない、どうも気をつけなくちゃ。お酒とお茶はちっとでもにおいが移るんだから」
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「此ら駄目だ、焦臭くしツちやつた、酒沸すのにや畢へねえどうも氣をつけなくつちや、酒と茶はちつとでも臭味移らさんだから」
小がらなおじいさんは茶わんを口に当てて、いかにも腹を立ててこらえられないというように言った。
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小柄な爺さんは茶碗を口へ當てゝ左も憤慨に堪へぬものゝやうにいつた。
「なあに、土びんだって二度目のを少しにしないで、さっきのよりよけいなくらい注ぎさえすりゃ大丈夫なんだが。それ、そうでないとまわりがそれ、こげるから」
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「なあに、土瓶だつて二度目のが少しに仕ねえで、先刻のがより餘計なツ位注ぎせえすりや大丈夫なんだが、それさうでねえと周圍がそれ焦びつから」
と、そばからすぐに口が出た。
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と側から直ぐに口が出た。
「そんじゃ、今度はたくさん入れような。おれはろくに飲みもしないで怒られちゃつまらないな」
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「そんぢや、今度澤山入えびやな、俺ら碌に飮んもしねえで、怒られちやつまんねえな」
土びんを手にしたおばあさんは笑いながら言った。
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土瓶を手にした婆さんは笑ひながらいつた。
「本当にすりゃ、一回ごとに土びんの中を水ですすがなくちゃだめなんだがな」
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「本當にすりや、一遍毎に土瓶の中水でゆすがなくつちや駄目なんだがな」
「そっちから、もう、鉄びんの中へ徳利を押しこめばいいんだな。そうすりゃどうもこうもないんだな」
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「そつから、はあ、鐵瓶の中さ徳利おしこめばえゝんだな、さうすりやどうだもかうだもねえんだな」
「せっかくうまいお酒を台なしにして、おしいもんだな。これはこれで、よっぽどいいお酒だぞ」
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「折角甘え酒臺なしにして可惜物だな、此らこんで餘程えゝ酒だぞ」
などという声がざわざわと聞こえた。
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抔といふ聲が雜然として聞えた。
「鉄びんじゃ徳利が一本ずつしか入らないから、面倒くさかろうと思ってよ」
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「鐵瓶ぢや徳利一本づつしかへえんねえから面倒臭かんべと思つてよ」
とおばあさんは言いながら、いったんわいた鉄びんをかけた。
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と婆さんはいひながら、一旦沸つた鐵瓶を懸けた。
たるが空になって、飲む人たちはみな酔ってがやがやとただ、さわいだ。
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樽が空虚になつて悉皆飮む者は銘酊つてがや/\と只騷いだ。
卯平はいろりのそばをはなれずに、むっつりとして杯を取らないおばあさんたちと火に当たりながら、きせるを持たない手持ちぶさたに、しばの先を折ってそのくせの舌を鳴らしながら、歯茎をつついていた。
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卯平は圍爐裏の側を離れずにむつゝりとして杯をとらぬ婆さん等と火にあたりながら、煙管を持たぬ所在なさに麁朶の先を折つて其癖の舌を鳴らしつゝ齒齦をつゝいて居た。
彼はみんながさわいでいるあいだに、自分のおなかに足りるだけのすしやおかずをはしにはさんで、杯には手をふれようとしなかった。
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彼は悉皆が騷いで居る間に自分の腹に足りるだけの鮨や惚菜やらを箸に挾んで杯へは手を觸れようとしなかつた。
年寄りたちは自分がさわぐほうにばかり心をうばわれて、卯平のことはそっちのけにしたままだった。
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老人等は自分の騷ぐ方にばかり心を奪はれて卯平のことはそつちのけにした儘であつた。
卯平はそれでも、いろいろな百姓料理の塩からい重箱にはしをつけて、近ごろになく気持ちよかった。
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卯平はそれでも種々な百姓料理の鹽辛い重箱へ箸をつけて近頃になく快よかつた。
彼はおなかがいっぱいになるまでには、欠けた歯茎でかんで飲みこんで、さらに次のはしが口まで来る、そのゆっくりした手の動きが待ち遠しくて、口の中から自然にうすい水のようなつばがわいて出るのをおさえられないほどだった。
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彼は腹に一杯になる迄には、缺けた齒齦で噛んで嚥下して、更に次の箸が口まで來る其の悠長な手の運動が待遠で口腔の粘膜からは自然に薄い水のやうな唾液の湧いて出るのを抑へることが出來ない程であつた。
元気になった年寄りたちは、赤いどうの太鼓を首すじから胸へつって、だらりだらりとたたいて先に立つと、足元も手元も乱れたみんなが後から後からと、ことにおばあさんたちはさわぎながらついて出る。
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威勢よく成つた老人等は赤い胴の太鼓を首筋から胸へ吊つて、だらり/\と叩いて先に立つと足もと手もと節制なくなつた凡てが後から/\と、殊に婆さん等は騷ぎながら跟て出る。
のき先から青竹のたなに沿ってしいてあるむしろをわたって、ゆっくりと回る。
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軒端から青竹の棚に添うて敷いてある筵を渡つて徐に廻る。
彼らはそれを「お山回り」というのである。
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彼等はそれをお山廻りといふのである。
たがいによろけながら、おどりとも何ともつかないひょうきんな手足の動かし方をして、ためておいた一年じゅうの笑いを一度にはき出したかと思うほどの声を上げて、止めどもなくどよめいた。
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相互に踉蹌けながら踊とも何ともつかぬ剽輕な手足の動かしやうをして、蓄へて置いた一年中の笑を一時に吐き出したかと思ふ程の聲を放つて止めどもなくどよめいた。
ついには列が乱れて、たがいにぶつかっては足をふんだりふまれたりして、一人がたおれれば後から後からと折り重なって、ひとしきり同じ所に止まってはがやがやとさわいだ。
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遂には列が亂れて互に衝突しては足を踏んだり踏まれたりして、一人が倒れゝば後から/\と折重つて一しきり同じ處に止まつてはがや/\と騷いだ。
彼らはほとんど冷えきろうとしている体のどこかに、失われようとしてぽっちりとおもかげを残していた若さの血の一てきが急にわいて、彼らの全体を動かしたかと思うように、かわきつつある彼らの顔にはどれもはなやかな赤みがさしている。
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彼等は殆ど冷却しようとしつゝある肉體の孰れの部分かに失はれんとしてほつちりと其俤を止めて居た青春の血液の一滴が俄に沸いて彼等の全體を支配し且活動せしめたかと思ふやうに、枯燥しつゝある彼等の顏にはどれでも華やかな紅を潮して居る。
彼らはまったく落ち着きを失っている。
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彼等は全く節制を失つて居る。
彼らはふだん家族の中にいて、その年老いた身がどうしても自然に若い者からのけ者にされながら、それぞれ気づかないうちにもふさぎこんでだるい月日を過ごしているとき、いつもの年の決まりである念仏の日は、そういうすべてを解き放つ自由な場である。
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彼等は平生家族に交つて、其老衰の身がどうしても自然に壯者の間に疎外されつゝ、各自は寧ろ無意識でありながら然も鬱屈して懶い月日を過しつゝある時に、例年の定めである念佛の日はさういふ凡てを放つ自由境である。
彼らはそこに少しの遠りょも持っていない。
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彼等は其處に些の遠慮をも有つて居らぬ。
彼らは冬のあいだを長い夜のねむりにあきながら、寒さに苛められていた苦しさを、もう空のどこかに勢いをひそめてためらっているはずの春より先に、一度に取り返そうとする者のように、さわいでさわいでまた、さわぐのである。
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彼等は冬季の間を長い夜の眠りに飽きつゝ寒さに苛められて居た苦しさを、もう空の何處にか其の勢ひを潜めて躊躇して居る筈の春に先立つて一度に取返さうとするものゝ如く騷いで/\又騷ぐのである。
お酒がそこに火をつけた。
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酒が其處に火を點じた。
庭の四本の青竹に張った縄の、赤や青や黄のきざんだかざりがひらひらと動きながら、年寄りたちと一つになってささやくように見えた。
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庭の四本の青竹に長つた繩の赤や青や黄の刻んだ注連がひら/\と動きながら老人等と一つに私語くやうに見えた。
日は明るい庭へいっぱいに暖かな光を投げた。
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日は陽氣な庭へ一杯に暖かな光を投た。
庭には子どもたちや村の人がぞろりと立って、このさわぎを笑って見ていた。
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庭には子供等や村落の者がぞろつと立て此騷ぎを笑つて見て居た。
そのあたりには、むずかしそうなものは一つも見られなかった。
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其邊には難かし相なものは一つも見られなかつた。
彼らをつつんだやわらかな空気が、春のしるしにちがいなかった。
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彼等を包んだ軟かな空氣が春の徴候でなければならなかつた。
しかしながら、卯平だけはその群れに加わらなかった。
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然しながら卯平は只獨り其群に加はらなかつた。
年寄りたちの勢いがごうっと庭に移ったとき、寮の中はそのさわぎ声がいっぱいにおそって来て、やかましいのにさびしかった。
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老人等の勢ひがごつと庭に移つた時寮の内は其の騷ぎの聲が一杯に襲ひ來て喧しいにも拘らず寂しかつた。
いろりの火も灰が白くおおって、めっきりおとろえた。
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圍爐裏の火も灰が白く掩うて滅切と衰へた。
卯平はじっとうでを組んだまま目をしかめて、燃え尽きたたきぎさえ突き出そうとしなかった。
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卯平は凝然と腕を拱いた儘眼を蹙めて燃え退いた薪をすら突き出さうとしなかつた。
彼には、庭の乱れたさわぎ声が耳を占めるよりも、遠くはるかな暗やみに何かをさがそうとしているように、ただぼんやりとしているのだった。
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彼には庭の節制のない騷ぎの聲が其の耳を支配するよりも遠く且遙な闇に何物をか搜さうとしつゝあるやうに只惘然として居るのであつた。
与吉は紙包みの小豆ごはんを食べつくして、しばらく庭のさわぎを見ていたが、寮の中に独りぽつねんとしている卯平を見つけて、いろりの近くまで来た。
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與吉は紙包みの小豆飯を盡して暫らく庭の騷ぎを見て居たが寮の内に㷀然として居る卯平を見出して圍爐裏に近く迫つた。
「爺さん、くれないか」
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「爺くんねえか」
と彼は、またいつものように卯平に甘えた。
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と彼は又何時ものやうに卯平に甘えた。
卯平はその声を聞いても、しばらくかがんだままでいた。
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卯平は其聲を聞いても暫く蹙んだ儘で居た。
立春の日を過ぎてから、かえって夕暮れのはかないうすい光の空にふき落ちるはずの西風が、何を怒ってかふいてふいてふきまくって、夜にわたっても何日も止まないほどのめずらしいことになって、鬼怒川の浅せがこおりに閉ざされて、やがてこおりのかたまりが流れたといううわさが立ったことがあった。
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立春の日を過ぎてから、却て黄昏の果敢ない薄い光の空に吹き落ちる筈の西風が何を憤つてか吹いて/\吹き捲つて、夜に渡つても幾日か止まぬ程な稀有な現象に伴うて、鬼怒川の淺瀬が氷に閉されて、軈て氷の塊が流れたといふ噂が立つたことがあつた。
卯平はそれとともに、そのかわいたはだがよけいに荒れて、寒さが骨まで通ったかと思うと、急に手の自由を失って来たように感じた。
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卯平はそれと共に其の乾燥した肌膚が餘計に荒れて寒冷の氣が骨に徹したかと思ふと俄に手の自由を失つて來たやうに自覺した。
彼は縄をなうにもわらじを作るにも、何か固まったかたまりがすべての筋肉のはたらきをじゃましているようで、あちこちにうずく痛みさえ感じるのだった。
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彼は繩を綯ふにも草鞋を作るにも、其が或凝塊が凡ての筋肉の作用を阻害して居るやうで各部に疼痛をさへ感ずるのであつた。
器用な彼の手先が、彼自身の物ではなくなった。
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器用な彼の手先が彼自身の物ではなくなつた。
彼は与吉がせまい戸口に立つたびに、心からむかえる前の卯平ではなくなっていた。
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彼は與吉が狹い戸口に立つ毎に心から迎へる以前の卯平ではなくなつて居た。
それでも彼は与吉をかわいがっていた。
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それでも彼は與吉を愛して居た。
「明日にしろ」
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「明日にしろ」
と彼はかんたんにことわって、そしてそれっきり言わないことがあるようになった。
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と彼は簡單に拒絶してさうしてそれつきりいはないことが有るやうになつた。
与吉が何度もそう言われてしょんぼりしているのを、卯平は見つめてよけいに目をしかめるのだった。
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與吉は屡さういはれて悄然として居るのを、卯平は凝視めて餘計に目を蹙めつゝあるのであつた。
そういうことが何度か何日かくり返された後、卯平は与吉に一銭の銅貨を与えた。
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さういふことが幾度か幾日か反覆された後卯平は與吉へ一錢の銅貨を與へた。
これまでの倍になっているのと、ほとんどまたことわられるのではないかという心配を持っている与吉は、いつでもそれにとても満足を表した。
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從來に倍して居るのと殆ど復拒絶されるのではないかといふ懸念を懷きつゝある與吉は何時でも其に非常な滿足を表はした。
そのようすを見る卯平は、勢い心が動かされた。
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其容子を見る卯平は勢ひ心が動かされた。
自分が年老いた者だと知ったとき、あきらめのつかないみんなは、ややもすればたがいに残りの命がいくらもないはかなさを語り合って、それが冗談を言って笑いさざめくときにさえ絶えずくり返されて、それぞれ痛いほど感じる程度のちがいはあるにしても、死の問題に苦しめられているのは事実である。
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自分の老衰者であることを知つた時諦めのない凡ては、動もすれば互に餘命の幾何もない果敢なさを語り合うて、それが戲談いうて笑語く時にさへ絶えず反覆されて、各自が痛切に感ずる程度の相違はあるにしても、死の問題に苦しめられて居るのは事實である。
卯平の心にも、同じく死の思いが止まず行き来した。
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卯平の心にも同じく死の觀念が止まず往來した。
彼はその手先の自由を失ったとき、やけになった心から彼の風呂しき包みを解いた。
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彼は其手先の自由を失うた時自棄の心から彼の風呂敷包を解いた。
野田にいたころ、主人や、主人の用で出かけた先からもらった何本かの手ぬぐいをつぎ合わせてこしらえたゆかたを出した。
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野田に居た頃主人や又は主人の用での出先から貰つた幾筋の手拭を繼ぎ合せて拵へた浴衣を出した。
きれい好きな彼には、はでな手ぬぐいのもようが当時のほこりの一つだった。
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清潔好な彼には派手な手拭の模樣が當時矜の一つであつた。
彼はもう、自分の心を苛めてやるような気持ちで、目ぼしい物を次々に質に入れた。
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彼はもう自分の心を苛めてやるやうな心持で目欲しい物を漸次に質入した。
彼は目の前で、こおりが張っては毎日暖かい日の光にとかされるのを見ていた。
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彼は眼前に氷が閉ぢては毎日暖い日の光に溶解されるのを見て居た。
彼にはそれが、ただそういうできごととしてだけ目に映った。
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彼にはそれが只さういふ現象としてのみ眼に映つた。
彼は、自由を失ったその手先が、暖かい春の日が重なって次第によくなるだろうという、かすかな望みさえ持たないほど、身も心もひがんで、そして苦しんだ。
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彼は自由を失うた其手先が暖い春の日が積つて漸次に和らげられるであらうといふ微かな希望をさへ起さぬ程身も心も僻んでさうして苦しんだ。
彼が風呂しき包みから得ていたお金はわずかなものだったが、それはときとして、彼のこわばった舌に合う食べ物を買うほかに、一部分は与吉の小さな手に落とされるのだった。
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彼の風呂敷包から獲つゝあつた金錢は些少のものであつたが、それは時として彼の硬ばつた舌に適した食料の或物を求める外に一部分は與吉の小さな手に落されるのであつた。
はかないたばこ入れのふくろの中を、心配するように彼は何度ものぞいた。
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果敢ない煙草入の叺の中を懸念するやうに彼は數次覗いた。
暗いせまい小屋の中でのぞくふくろの底は暗かった。
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陰鬱な狹い小屋の中で覗く叺の底は闇かつた。
わずかにまじった小さな白い銀貨が、見るたびに彼の心にいくらかの光を与えた。
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僅かに交つた小さな白い銀貨が見る度に彼の心に幾らかの光を與へた。
彼がどんなにおしんでも、ふくろの中がへって行くのを止めることはできない。
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彼が什麽に惜んでも叺の中の減つて行くのを防ぐことは出來ない。
しかも無口な彼は、むだに自分独りでかみしめて、絶えずただやつれながらしずんだ気持ちをつづけた。
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然も寡言な彼は徒らに自分獨が噛みしめて、絶えず只憔悴しつゝ沈鬱の状態を持續した。
彼はその気持ちのまま、念仏寮のいろりにどっかりとだるい体をすえていた。
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彼は其状態を保つて念佛寮の圍爐裏にどつかと懶い身體を据ゑて居た。
庭のさわぎは止んで、強い風がおそったように寮の中はまたざわざわとして、卯平をつつんだしずんだ空気をかき乱した。
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庭の騷ぎは止んで疾風の襲うた如く寮の内は復雜然として卯平を圍んだ沈鬱な空氣を攪亂した。
やがて年寄りたちがたがいのふところのお金を出し合った二升だるが運ばれて、お酒がまた温められた。
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軈て老人等が互の懷錢を出し合うた二升樽が運ばれて酒が又沸された。
お酒の席はいろりの近くに作られた。
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酒の座は圍爐裏に近く形られた。
そのときまだ与吉は帰らなかった。
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其の時まだ與吉は去らなかつた。
卯平は黙って五厘の銅貨を投げた。
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卯平は默つて五厘の銅貨を投げた。
そばにいた一人の年寄りがそれを拾おうとして見せると、与吉は両方の手をかけて、それから体でおおった。
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側に居た一人の老人がそれを拾はうとして見せると與吉は兩方の手を掛てそれから身を以て俺うた。
彼はそれを固くにぎって
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彼はそれを堅く掴んで
「爺さん、もう一つくれないか」
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「爺、いま一つくんねえか」
と、さらにねだった。
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と更に強請んだ。
彼は五厘の銅貨を大事にした。
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彼は五厘の銅貨を大事にした。
しかし彼はしばらく一銭の銅貨に慣れていたので、心にわずかな物足りなさを感じたのだった。
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然し彼は暫く一錢の銅貨に訓れて居たので心に僅な不足を感じたのであつた。
卯平は口を閉ざしている。
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卯平は口を緘んで居る。
「お前は、そんなことを言うんじゃない。さっきあんなにもらって、まだ要るもんか。もっとほしいなんて言えば、おれがおなかをかき裂いて小豆ごはんをかき出してやるから。お前は口ばかり動かしてるから見ろ、それ、口のはしがただれてらあ」
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「汝りや、さうだこと云ふんぢやねえ、先刻あゝだに何か貰つて要るもんか、まつと欲しいなんちへば俺れ腹掻裂えて小豆飯掻出してやつから、汝りや口ばかし動かしてつから見ろうそれ、鴉に灸据ゑらツてら」
と、さっきの首に数珠を巻いたおじいさんががみがみと言った。
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と先刻の首へ數珠を卷いた爺さんががみ/\といつた。
与吉ははずかしそうにして、五厘の銅貨でくちびるをこすりながら立っていた。
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與吉は羞んだやうにして五厘の銅貨で脣をこすりながら立つて居た。
彼の口の両はしには、「からすのきゅう」と言われているできものができて、どろでもつけたようになっていた。
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彼の口の兩端には鴉の灸といはれて居る瘡が出來て泥でもくつゝけたやうになつて居た。
「お前はお金がほしけりゃ、おとっつあんにもらえ」
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「汝りや錢欲しけりやおとつゝあに貰へ」
おじいさんはまたどなった。
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爺さんは又呶鳴つた。
「そんだってだめだあ、おとっつあんらはくれやしまいし」
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「そんだつて駄目だあ、おとつゝあ等呉れやしめえし」
与吉はやっと言った。
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與吉は漸といつた。
「おとっつあんは耳が遠いから聞こえないんだ。おとっつあん、くれと、おれみたいにどなってみろ。そうでなけりゃ耳を引っぱってやれ」
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「おとつゝあ聾だから聞えねんだ、おとつゝあ呉ろうつと俺れ見てえに呶鳴つて見ろ、そんでなけれ耳引張てやれ」
「そんだっていやだあ、おれは。おとっつあんに打っとばされるから」
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「そんだつて厭だあ俺ら、おとつゝあに打つ飛ばされつから」
「いいから行けもう。お前らみたいな子どもらがごやごや来ちゃ、うるさくて仕方がないから」
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「えゝから行けはあ、汝等見てえな餓鬼奴等ごや/\來ちや五月蠅くつて仕やうねえから」
与吉はすごすごと立った。
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與吉は悄々と立つた。
「そうら」
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「さうら」
と、卯平は後から五厘の銅貨を庭へ投げてやった。
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と卯平は後から五厘の銅貨を庭へ投げてやつた。
そうしているあいだに、二度目のお酒にあずからないおばあさんたちは、表の雨戸をさらに二、三まい引いて、よけいにうす暗くなった仏だんの前に固まった。
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さうして居る間に二度目の酒に與らぬ婆さん等は表の雨戸を更に二三枚引て餘計に薄闇く成つた佛壇の前に凝集つた。
いつのまにか念仏の仲間以外の村の女の人も加わって、十人ばかりになった。
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何時の間にか念佛衆以外の村落の女房も加はつて十人ばかりに成つた。
彼女たちは外からの人目を雨戸でさけて、たった一つの楽しみとされている「宝引き」をしようというのだった。
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彼等は外からの人目を雨戸に避けて其の唯一の娯樂とされてある寶引をしようといふのであつた。
たたみには八本のこん色の宝引きの糸がざらりと投げ出された。
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疊には八本の紺の寶引絲がざらりと投げ出された。
彼女たちはそれを糸と呼んでいるけれど、はたを織って切りはなした最後の糸のはしを、縄のようになった綱である。
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彼等はそれを絲と喚んで居るけれども、機を織つて切り放した最後の絲の端を繩のやうに綯つた綱である。
おばあさんたちは丸い座を作って、めいめいの前に二銭ずつのお金を置いた。
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婆さん等は圓い座を作つて銘々の前へ二錢づつの錢を置いた。
親になった一人が八本の綱の元をつかんで、一度ぎっと指へからめてばらりと投げ出すと、みんなが一つずつつかんで、これもそのはしを指へぎりっとからめて一度に引くと、七本の綱がむなしくすっとたおれる。
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親に成つた一人が八本の綱の本を掴んで一度ぎつと指へ絡んでばらりと投げ出すと、悉皆が一つづゝ掴んで此れも其の端を指へぎりつと絡んで一度に引くと七本の綱が空しくすつとこける。
ただ一本の綱のしりには、彼女たちの言う「どっぺ」
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只一本の綱の臀には彼等のいふ「どツぺ」
がついていて、それがどさりとたたみを打って一人の手元へ引かれる。
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が附いて居てそれがどさりと疊を打つて一人の手もとへ引かれる。
どっぺは、一厘銭を三寸ばかりの厚さにあなへ通してぎっとくくったおもりである。
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どつぺは一厘錢を三寸ばかりの厚さに穴を透してぎつと括つた錘である。
一厘銭は、真ちゅうの地色がぴかぴかと光るまですられていた。
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一厘錢は黄銅の地色がぴか/\と光るまで摩擦されてあつた。
どっぺを引いた人がさらに親になって、一度ごとにどっぺは外してほかの綱につける。
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どつぺを引いたのが更に親になつて一度毎にどつぺは解いて他の綱へつける。
するとおばあさんたちは考えながら、しかもすばやく綱の一つをつまんでは放したり、またつまんだり、とてもいそがしそうに手を動かす。
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さうすると婆さん等は思案しつゝ然も速かに綱の一つを抓んでは放したり又抓んだり極めて忙しげに其の手を動かす。
彼女たちはちょうどくじを引くように、きっと一つは当たるはずのどっぺを、みんなが当てずっぽうにつかんで引くのである。
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彼等は丁度䰗を引くやうに屹度一つは當る筈のどつぺを悉皆が心あてに掴んで引くのである。
一度ごとに、がっかりした顔とうれしそうな顔が、みんなのあいだを次々に移って行く。
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一度毎に失望と滿足とが悉皆の顏にそれからそれと移つて行く。
綱をぎっとたばねて引かせる手元や、一つずつ考えながら、しかもつかんだら勢いよくすいと引く手元は、彼女たちのこわばった手でありながら、なれていて、そしてすばやく動く。
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綱をぎつと束ねて引かせる手もとや、一つづゝに思案しながら然も掴んだら威勢よくすいと引く手もとは彼等が硬ばつた手でありながら熟練してさうして敏捷に運動する。
綱のまわりからみんなが作っている輪が縮まるようにして、一つつかんではまたその輪が広がるようにしながら引くようすは、大ぜいで一つのひもをなっているような形にも見えた。
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綱の周圍から悉皆の形づくつて居る輪が縮まるやうにして、一つ掴んでは又其の輪が擴がるやうにしつゝ引く容子は大勢が一つの紐を打つて居るやうな形にも見えた。
彼女たちはいそがしく手を動かしながら、声を殺してひそひそと、しかも力を入れて笑いささやいた。
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彼等は忙しく手を動かして居ると共に聲を殺してひそ/\と然かも力を入れて笑語いた。
彼女たちは外に聞こえるのを気にしないなら、面白さに乗じて大いにさわぐはずである。
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彼等は戸外の聞えを憚らぬならば興味に乘じて放膽に騷ぐ筈でなければならぬ。
それぞれの前にあるお金は、どっぺを引き当てた人の手に一つずつ引き取られて、だれの前にもまったくなくなったとき、また新しく置かれるのである。
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各自の前に在る錢はどつぺを引き當てた者の手に一つづゝ引き去られて誰の前にも全くなくなつた時又更に置かれるのである。
彼女たちはそれに夢中になって、まったくほかを忘れている。
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彼等はそれに熱中して全く他を忘れて居る。
宝引きにもお酒にも加わらない年寄りたちは、たなのまわりを回ってからは帰った人もあって、寮にはいくらか人数もへっていたが、いろりのあたりは酔いが回って、宝引きの仲間に行かないおばあさんたちは、お酒の好きな、どれも元気のいい人ばかりだった。
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寶引にも酒にも加はらぬ老人等は棚の周圍を廻つてからは歸つたものも有つて寮には幾らか人數も減つて居たが、圍爐裏の邊は醉が加はつて寶引の群に行かぬ婆さん等は酒の好きな孰れも威勢のいゝものばかりであつた。
「なあお前、これでおれも若いときには面白かったんだよなあ」
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「なあおめえ、こんで俺らも若けえ時にや面白えのがんだよなあ」
と、おじいさんの肩にもたれかかる人もあった。
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と爺さんの肩へ靠れ掛るものもあつた。
「ばかを言え、むかしのことなんぞ、みっともない。おれなんざこれで随分無鉄砲なことはしたが、これで女には迷わなかったっけから」
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「篦棒、以前のことなんぞ、外聞惡りい、俺らなんざこんで隨分無鐵砲なこたあしたが、こんで女にや煎れねえつちやつたから」
と、首に数珠を巻いたおじいさんがそばでそれを見ていてどなった。
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と首に珠數を卷いた爺さんが側でそれを見て居て呶鳴つた。
「お前、怒らなくてもいいやな。お酒の席じゃそれくらいのことは仕方があるまいな」
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「おめえ、怒んなくつてもえゝやな、酒の座敷ぢや其つ位なこた仕方あんめえな」
としかられたおばあさんは、右の手を上から左の手のひらへ打ちつけて、大声を立てて笑いながら
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と叱られた婆さんは右の手を上から左の手の平へ打ちつけて、大聲を立てゝ笑ひながら
「どうしたんだいまあ、一ぱいやりなさいね」
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「どうしたんでえまあ一杯やらつせえね」
と、おばあさんはさらに卯平へ茶わんを突きつけた。
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と婆さんは更に卯平へ茶碗を突きつけた。
卯平は一ぱいも口にふくまないのに、さっきからただじっとして、さわぎを聞くでもなく聞かないでもないようすで、あぐらをかいていた。
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卯平は一杯をも口へ銜まぬのに先刻から只凝然として、騷ぎを聞くでもなく聞かぬでもない容子をして胡坐をかいて居た。
二度目のお酒がいくらかおなかに多すぎた年寄りたちは、もう卯平を見のがしてはおかなかったのである。
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二度目の酒は幾らか腹に餘計であつた老人等はもう卯平を見遁しては置かなかつたのである。
「おれはしばらくやらないから」
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「俺ら暫くやんねえから」
卯平はそっけなく言って、そのくせの舌を鳴らした。
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卯平はそつけなくいつて其の癖の舌を鳴らした。
「なんでまた飲まないんだ。そんなにしんねりむっつりしてないで、ちっとは元気を出してみるもんだ。そうれ」
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「何でまた飮まねえんだ、さうだにしんねりむつゝりしてねえで、ちつた威勢つけて見るもんだ、そうれ」
と、さっきからのおじいさんは茶わんを突きつけた。
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と先刻からの爺さんは茶碗を突きつけた。
卯平はまた舌を鳴らして、つばをぐっと飲んだ。
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卯平は復た舌を鳴らして、唾をぐつと嚥んだ。
「おれはもう、しばらくやらないから。たばこは体の具合が悪いからやめたんだから何だが、お酒はこれ、お金はかせげないし、ちっとでも飲めばまた飲みたくなるから、やめちまったな。お酒ももう、むかしとちがって一ぱいいくらというんだから、お金を食うようで」
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「俺らはあ、暫くやんねえから、煙草は身體の工合惡りいから斷つたんだから何だが、酒は此れ錢は稼げねえし、ちつとでも飮めば又飮みたくなつから廢めつちやつたな、酒もはあ以前た違つて一杯幾らつちんだから錢くんのむやうで」
彼はぶすりとして、しかも力のない声を投げかけるように言った。
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彼はぶすりとして然も力のない聲を投げ掛けるやうにしていつた。
「そんなことを言わないで、そら来たとこう手を突き出すもんだ。じれったくて仕方がない、これらがな」
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「さうだこと云あねえで、そら來たつとかう手つんだすもんだ、倦怠くつて仕やうねえ此等がな」
さっきのおじいさんは、また一ぱいをぐっと飲み干してどなった。
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先刻の爺さんは又一杯をぐつと干して呶鳴つた。
「そうだよ、飲みなさいよお前。めでたいお酒だから。元気をつければお前、体の具合だってちっとくらいなら治っちまうよ」
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「さうだよ、飮まつせえよおめえ、めでゝえ酒だから、威勢つければおめえ身體の工合だつてちつと位なら癒つちやあよ」
おばあさんたちはまたすすめた。
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婆さん等は又侑めた。
「この人も勘次どんにはよくしてもらえないんだってさ。困ったもんさな。そんだってお前、そんなものは仕方がないから、そんなにくよくよしないほうがいいよ」
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「此の人も勘次どんにや善くさんねえごつさら、困つたもんさな、そんだつておめえさうえもな仕やうねえから、さうえにくよくよしねえ方がえゝよ」
ほかのおばあさんも言った。
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他の婆さんもいつた。
「体の具合が悪いなんて、そんな気持ちだから卯平らは仕方がない。これらはリューマチだなんて。リューマチなんて病気はおなかの虫から出るんだから、なあに訳はないんだよ。へびでこうしごき下ろすんだ。いいか、おれがこすってやるから。いや本当だよ、おれのなんざあ」
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「身體の工合惡りいなんて、さうだ料簡だから卯平等仕やうねえ、此等ようまづだなんて、ようまづなんち病氣は腹の蟲から出んだから、なあに譯あねえだよ、蛇でかう扱きおろすんだ、えゝか、俺れこすつてやつから、いや本當だよ俺らがなんざあ」
小がらなおじいさんは、すごい勢いで言った。
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小柄な爺さんは非常な勢ひでいつた。
首の数珠は、彼の声が喉をふくらませるので、そのたびごとに少しずつ動いた。
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首の珠數は彼の聲が喉を膨脹させるので其度毎に少しづゝ動いた。
「おれはへびはきらいだから」
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「俺ら蛇は嫌えだから」
卯平は苦しそうに言った。
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卯平は苦し相にいつた。
「へびがきらいだと。そんな大きな体をして、だらしないことを言うない。おれなんざへびでも毛虫でもこわいなんてことはないんだから。こう、いいか、こうだぞ」
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「蛇嫌えだと、さうだ大え姿してあばさけたこといふなえ、俺らなんざ蛇でも毛蟲でも可怖えなんちやねえだから、かうえゝか、斯うだぞ」
と言いながらおじいさんは後ろ向きに立って、十分に酔った足を大またにふんで、はだをぬいだ両方の手をぎっとにぎって、手ぬぐいで背中をこするような形をして見せた。
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といひながら爺さんは後向に立つて、十分に酩酊つた足を大股に踏んで、肌を脱いだ兩方の手をぎつと握つて、手拭で背中を擦るやうな形をして見せた。
「おれはリューマチじゃ八、九年もなやんだんだが、へびでこすればいいというから、これはうまいことを聞いたと思ってな。大きなあおだいしょうがぶらんとかきの木からぶら下がったから、竹ざおでかき落とそうと思ったら、おれの家のばあさんらがかまうなと言ったっけが、いいからお前らは黙って見てろ、なんて。それからおれがぐうっと頭をつかまえて、こうおれの背中をこすったな。大きなあおだいしょうだから、畜生、縮んで曲がったときは引っかかってなかなか動かないんだ。それからうんと引きのばしちゃこすったな。そうしたら、こうかたまりがごりごりとくずれるのが分かったっけな。そうしたらなあにけろりよ」
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「俺らようまづぢや八九年も惱んだんだが、蛇でこすればえゝつちから、此ら甘えこと聞たと思つてな、大え青大將ぶらんと柹の木からぶらさがつたから竹竿で掻き落すべと思つたら、俺ら家の婆奴等構あななんて云つけが、えゝから汝等默つて見てろ、なんてそれから俺ぐうつと頭ふん掴めえて、斯う俺れ背中こすつたな、大え青大將だから畜生縮つて屈曲した時や引つ掛つて仲々動かねえだ、それからうゝんと引き伸しちやこすつたな、さうしたら斯う塊ごりつ/\とこけんの知れたつけな、さうしたらなあにけろりよ」
彼はみんなに向けた背中へ手を回して
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彼は一同へ向けた背中へ手を廻して
「この辺の所にかたまりがあったのだが、それっきりどこかへ行っちまったな。それからおれはもう、リューマチなんざ訳はないと言ってるんだ」
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「此處らんとこに塊有たのがだが、それつきり何處さか行つちやつたな、それから俺れはあ、ようまづなんざ譯あねえつちつてんだ」
彼の手先が背骨の近くにふれた。
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彼の手先が脊椎に近く觸れた。
「おおいやまあ、大きなおきゅうのあとじゃないかい」
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「おゝえやまあ、大え灸の痕ぢやねえけえ」
と、一人のおばあさんがおどろいて言った。
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と一人の婆さんが驚いていつた。
「おれのはこれで三百本を一度に火をつけたんだから。おれはむちゃなことが大好きなのだから。いや本当だよ。おれはこれでおなかに悪い病気がついたときだって、とうとうねなかったっけからな。今じゃ教わってるから、子どもらまで赤い病だなんて知ってるが、おれが若いころは何でも疫病とおぼえてたのだから。なあ卯平、これらもそのときやったから知ってらな。おれは一日に十六度べんじょへ行ったのが一等だったっけが。なあに、病気なんぞには負けられるもんかというんだから。そのときには村じゅうずっともう、みんなごろごろしてて、おればかり薬箱を持って医者の送りむかえをしたな。となり近所一けんごと役には立たないんだから。いや本当だよ。おれは十五日下痢して治ったが、おれは強かったからな。いや強いとも、まったく。なあにってんで、おれは毎日お酒をぴんぴん飲んだな。お酒を飲んじゃ悪いなんて、医者なんてのはだめだな、ずっと。檳榔樹とか何とかだなんてちっとばかりずつ、けずった薬なんぞじれったくて仕方がないから、当薬を煎じ出して、毎日おれは片口で五はいずつも飲んだな。五合くらい入っただろうが、おれは息をつかずだ。なあに、息をついちゃにがくて仕方がないんだよ」
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「俺らがな此んで三百挺一遍に火點けたんだから、俺らがむしやらなこと大好のがんだから、いや本當だよ、俺ら恁んで腹疫病くつゝいた時だつて到頭寢ねえつちやつたかんな、今ぢや教つてつから餓鬼奴等まで赤れえ病だなんて知つてんが、俺ら壯の頃あ何でも疫病と覺えてたのがんだから、なあ卯平、此ツ等もそん時やつたから知つてらな、俺ら一日に十六度手水場へ行つたの一等だつけが、なあに病氣なんぞにや負けらツるもんかつちんだから、其ん時にや村落中かたではあ、みんなごろ/\してんで俺ればかり藥箱持つて醫者の送迎えしたな、隣近所一軒毎役にや立たねえだから、いや本當だよ、俺ら十五日下痢つて癒つたが俺ら強かつたかんな、いや強えとも全く、なあにツちんで俺れ毎日酒ぴん飮んだな、酒飮んぢや惡いなんて醫者なんちや駄目だなかたで、檳榔樹とか何とかだなんてちつとばかしづゝ、削つた藥なんぞ倦怠くつて仕やうねえから、當藥煎じ出して氣日俺れ片口で五杯づゝも飮んだな、五合位へえつけべが、俺ら呼吸つかずだ、なあに呼吸ついちや苦くつて仕やうねえだよ」
と、彼は汚い手ぬぐいで顔の汗を一度ふいた。
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と彼は穢い手拭で顏の汗を一度ふいた。
彼は七十をこえても、髪はまだいくらも白くなかった。
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彼は七十を越えても髮はまだ幾らも白くなかつた。
彼は石のかたまりを投げ出したようなかたい体に力を入れて、独り元気づいた。
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彼は石の塊を投げ出したやうな堅い身體に力を入れて獨り威勢づいた。
「おれはそれから、五百もんめくらいのしゃもの雑種を一羽しめて、一度に食っちまったな。そうしたら熱が出た」
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「俺らそれから五百匁位な軍鷄雜種一羽引つ縊つて一遍に食つちまつたな、さうしたら熱出た」
彼は急に声を低くしたが、さらに元にもどって
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彼は俄に聲を低くしたが、更に以前に還つて
「熱は出たが、それでおれはぐっと体に力をつけちまったな。そのせいだな、十五日で治ったな。そんだからおれはすぐに麦の八斗はずんずんつけたな。おれはこれで体つきはちっちゃいが強かったな。おれのは生まれつき強いのだから。いや本当だよ。卯平らも仕事じゃ強かったが、そりゃ強いとも。そんだがこれらは根性がだめだから、病気がついて大変で仕方がないなんて。それからおれが、しっかりしろと言えば、どうも下痢しちゃ力がぬけて仕方がない、うんうんなんてうなって。そんだがあのときには女房はかわいそうなことをしたな。世間の奴らが、卯平は女房にたたられるだろうなんて言うから、心配するなっておれが言ったんだな。そんだがこれらは根性がないから。おれは心配するのは大きらいだ。それ、心配しないで一ぱい引っかけろというんだ」
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「熱は出たがそれで俺れぐつと身體にや力つけつちやつたな、其の所爲だな十五日で癒つたな、そんだから俺ら直ぐに麥の八斗はずん/\搗けたな、俺らこんで體格はちつちえが強かつたな、俺らがな無垢に強えのがだから、いや本當だよ、卯平等も仕事ぢや強かつたが、そりや強えとも、そんだが此ら根性やくざだから、疫病くつゝいて太儀くつて仕やうねえなんて、それから俺れ、確乎しろツちへばどうも下痢つちや力拔けて仕やうねえ、うん/\なんて唸つて、そんだがあん時にや嚊は可哀相なことしたな世間の奴等卯平は嚊に崇れべえなんちから心配すんなつて俺れ云つたんだな、そんだが此ら根性ねえから、俺ら心配するもな大嫌だ、それ、心配しねえで一杯引つ掛けろつちんだ」
おじいさんはいくらでも調子に乗ってまくし立てた。
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爺さんは幾らでも乘地になつてまくしかけた。
「そうだよお前、お酒の席でむっつりしてる者があるもんじゃない」
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「さうだよおめえ、酒の座敷でむつゝりしてるもな有るもんぢやねえ」
「ばあさんの手だってお前、お酒じゃ酔うから、やってみなさいよ」
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「婆さまの手だつておめえ酒ぢや酩酊あからやつて見さつせえよ」
おばあさんたちはそばから代わる代わる杯をすすめた。
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婆さん等は側から交互に杯を侑めた。
彼女たちは情けなさそうな卯平をなぐさめようとするよりも、独りむっつりしている彼を仲間に引きこもうというのと、変わっている彼のようすをからかってもみたいからだった。
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彼等は情なげな卯平を慰めようとするよりも、獨むつゝりとして居る彼を伴侶に引つ込まうといふのと、變つて居る彼の容子に對して揶揄つても見たいからとであつた。
「おれはお金を出しもしないで、他人のお酒なんぞ」
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「俺ら錢出しもしねえで、他人の酒なんぞ」
卯平は口がねばって舌がこわばったように言った。
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卯平は口が粘つて舌が硬ばつたやうにいつた。
「お前がかまうもんじゃないな、そんなこと」
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「おめえ管あもんぢやねえな、其麽こと」
おばあさんたちはまた言った。
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婆さん等は又いつた。
「お酒代が足りなけりゃ、こっちのほうにたまったお金があるよ、お前ら」
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「酒代足んなけりや、こつちの方に寺錢出來てるよおめえ等」
宝引きの仲間がこちらを見て言った。
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寶引の仲間がこちらを顧みていつた。
「要らないとも、そんなお金なんざ。おれはばくちなんざ何でもきらいだから」
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「要らねえともそんな錢なんざ、俺ら博奕なんざ何でも嫌えだから」
小がらなおじいさんはすぐにどなった。
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小柄な爺さんは直に呶鳴つた。
「おれはもう、お金もありもしないで」
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「俺らはあ錢も有りもしねえで」
卯平は他人のさわぎに引きこまれようとするよりも、自分の心の中のあるものをやっとのことではき出そうとするようにつぶやいた。
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卯平は他人の騷ぎに釣り込まれようとするよりも、自分の心裏の或物を漸とのこと吐き出さうとするやうに呟いた。
「またそんなことだから仕方がない。勘次らはふところ具合がいいというんだから、要るなら何でも、よこせとこう言うんだ。かまわないからうばい取ってやれ。おれだったらそうだ。いや本当だとも。むこなんぞにいばられてるなんてことがあるもんか。卯平らは根性が弱いから仕方がない」
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「又さうだこつたから仕やうねえ、勘次等懷工合えゝつちんだから、要らば何でも、汝れよこせつと斯ういふんだ。管あねえから奪取つてやれ、俺らだらさうだ、いや本當だとも、聟なんぞに威張られてるなんちこと有るもんか、卯平等根性薄弱だから仕やうねえ」
小がらなおじいさんは、髪をいっぱいに汗でぬらした。
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小柄な爺さんは髮を一杯に汗で濕した。
「いばられるわけじゃないが、おれはおれでやろうと思ってるんだから」
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「威張らツる理由ぢやねえが、俺ら俺れでやんべと思つてんだから」
卯平は自分をかばうように言った。
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卯平は自分を庇護するやうにいつた。
「むこなんぞ、承知するもんじゃない。あんな泥棒野郎、おれはきらいだ。畑でも田でも油断ならないから」
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「聟なんぞ、承知するもんぢやねえ、あゝだ泥棒野郎、俺ら嫌えだ、畑でも田でも油斷なんねえから」
「そんだが、今じゃふところがちっとはいいせいか、ぬすむのはぬすまないよ」
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「そんだが、今ぢや懷ちつたえゝ所爲か盜るな盜んねえよ」
「なあにおれは、蜀黍を切ったときにはかんべんするまいと思ったんだったが、おかみさんに来られたからがまんしたんだ。おれが卯平だったら槍で突きさしてやるんだ。いや、おれには本当にやれるとも。おれは家族の奴らになんざ、ぐずぐずは言わせないんだ。おれの家じゃ元日には暗いうちに起きて、みのを着て、いろりばたでいもを焼いて食う縁起なんだが、おれの家の奴らが、みっともないからいやだなんて言いやがるから、おれが、何だとうお前ら、いやだと言うんならいやだってもう一度言ってみろ、おれの目の黒いうちはそうはいかないぞというんだから。いや本当に、おれは聞かないんだから」
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「なあに俺れ、蜀黍伐つた時にや勘辨しめえと思つたんだつけがお内儀さんに來らツたから我慢したんだ、俺れ卯平だら槍で突つ刺してやんだ、いや俺れにや本當に行られつとも、俺ら家族の奴等げなんざぐづ/\は云あせねえだ、俺ら家ぢや元日にや闇えに起きて、蓑着て、圍爐裏端で芋燒えてくふ縁起なんだが、俺ら家の奴等外聞惡いから厭だなんて吐かしやがつから、俺れ、何だとう汝ツ等、厭だつちんだら厭だつて今一遍云つて見ろ、俺れ目玉の黒え内やさうはえがねえぞつちんだから、いや本當に俺ら聽かねえだから」
彼は髪がよけいにしめって、みんなの耳の底までひびくほどどなって見せた。
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彼は髮が餘計に濕ひを増して悉皆の耳の底に徹る程呶鳴つて見せた。
「お前みたいにそうは行かないよ、ほかの人は」
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「おめえ見てえにさうは行かねえよ、他人は」
卯平はぽつりと言った。
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卯平はぽさりといつた。
「本当にお前みたいな人はいないよ。若いときから毎晩酔っちゃ、夜中でも明け方でもかまわない、馬を引いて帰っちゃ戸の割れるほどたたいて、そして馬の足を洗う湯がわいてないって言っちゃ、家族を追い出してなあ。百姓はお前、夜中まで起きて待ってはいられないな。そんだがお前も、跡取りがよくできて仕合わせだよなあ」
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「本當におめえ見てえなもなねえよ、若けえ時から毎晩酩酊つちや後夜が鷄でも構あねえ馬曳て歸つちや戸の割れる程叩いて、さうしちや馬の裾湯沸えてねえつて云つちや家族の者こと追ひ出してなあ、百姓はおめえ夜中まで眠んねえで待つちや居らんねえな、そんだがおめえも相續人善く出來て仕合だよなあ」
そばにいてさっきから聞いていたおばあさんの一人が言った。
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側に居て先刻から聞いて居た婆さんの一人がいつた。
その身なりは、ほかの年寄りたちとはちがっていた。
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其の服裝は他の老人等とは異つて居た。
「おれには追い出されるとも。これでおれは力は強かったからな。仕事じゃ卯平も強かったが、こんな大きな体をして、相撲じゃおれにはずっと負けっぱなしだ。おれはあっという間に投げつけちまうんだから。ああ、おれはうでばかりじゃない。それくらいだから歯も強いんだよ。おれは麦打ちのとき、唐箕を立ててて半夏桃をもらったのを、ひょいと口へ入れたっきり、種までがりがりかんじまったな。ふしぎだよ、そんだが桃をかじってると鼻の中へほこりが入らないからな。おれの歯じゃだれでもおどろくんだから。真ちゅうのきせるなんざ、くわえてぎりぎりっとこう手のひらでぶん回すと、ぽろっとかみ切れちまうのだから。そんだから今でも、こうれ、このとおりだ」
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「俺れにや打ち出されつとも、此んで俺ら力は強かつたかんな、仕事ぢや卯平も強かつたが、かうだ大え體格して相撲ぢや俺れにやかたでぺた/\だ。俺らやあつち内にや打ん投げつちやあだから、あゝ、俺ら腕ばかしぢやねえ、そらつ位だから齒も強えだよ、俺ら麥打ん時唐箕立てゝちや半夏桃貰つたの、ひよえつと口さ入えたつきり、核までがり/\噛つちやつたな、奇態だよそんだが桃噛つてつと鼻ん中さ埃へえんねえかんな、俺れが齒ぢや誰れでも魂消んだから眞鍮の煙管なんざ、銜えてぎり/\つとかう手ツ平でぶん廻すとぽろうつと噛み切れちやあのがんだから、そんだから今でも、かうれ、此の通りだ」
おじいさんはぎりぎりと歯をかみ合わせて見せた。
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爺さんはぎり/\と齒を噛み合せて見せた。
「おれはそれから、喧嘩じゃ負けたことはないんだよ。野郎、何だというときには、はりたおすか、ひっくり返すかだな。ごろりところがった所をつま先とかかとを持って、こうぐるぐる引き回すと、どうだ、大きな野郎でも起きられないんだよ。もうおかしくて仕方がないな。いいか、こう、こうやるんだよ。ああ、おれは本当に強いのだよ。それ、卯平らはだめだな。後ろのほうにばかりかくれててからっきり」
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「俺らそれから、喧嘩ぢや負けたこたねえだよ、野郎何だつち内にや打つ張るか、掻つ轉すかだな、ごろり轉がつた處爪先と踵持つてかうぐる/\引ん廻すとどうだ大え野郎でも起きらんねえだよ、から笑止しくつて仕やうねえな、えゝか、斯う、かうやんだよ、あゝ、俺ら本當に強えのがんだよ、それ卯平等駄目だな後の方にばかし隱れてゝからつき」
と、おじいさんは少し後ろに下がって、両手で喧嘩の相手を苛めるようなようすをして見せた。
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と爺さんは少し座を退つて兩手を以て喧嘩の相手を苛めるやうな容子をして見せた。
「そんだがおれは旦那に言われてから、家族の奴らのことも怒らないもう。おれはうまい所を見られちまったな。いや、言われちゃもったいのうございます。本当にもったいないんだよ、おばあさん」
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「そんだが俺れ旦那に云あれてから、家族の奴等ことも怒んねえはあ、俺れうめえ處見られつちやつたな、いや云あれちや勿體ながす、本當に勿體ねえだよ、お婆さん」
おじいさんは首をうなだれて、めっきり静かになって言った。
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爺さんは首を俛て滅切靜かになつていつた。
そして彼は茶わんのお酒をだらだらとこぼしながら、一口に飲んだ。
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さうして彼は茶碗の酒をだら/\と零しながらに一口に嚥んだ。
このとき、外から女の人が一人いそいで来た。
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此の時外から女房が一人忙しく來た。
女の人は仏だんの前へ行って
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女房は佛壇の前へ行つて
「駐在所が来たよ」
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「駐在所來たよ」
みんなの中へ首を突き入れるようにして、そっと言った。
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悉皆の中へ首を突き入れるやうにして竊と語つた。
みんなはしきりに勝ち負けにばかり心をうばわれていた。
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悉皆は頻りに輸臝にのみ心を奪はれて居た。
彼女たちの顔はにこにことしたり、またはしばらくどっぺをつかまない人は、むずかしい顔で目をしかめたり、口をむぐむぐ動かしたりして、自分ではまったくそれに気づいていなかった。
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彼等の顏はにこ/\としたり又は暫くどつぺを掴まぬものは難かしくなつた目を蹙めたり口をむぐ/\と動かしたりして自分は一向それを知らないのであつた。
彼女たちそれぞれが持っているいろいろなかくれた性しつが、うす暗い部屋の中でこっそりと思い切って表れていた。
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彼等の各自が持つて居る種々な隱れた性情が薄闇い室の内にこつそりと思ひ切つて表現されて居た。
女の人の言葉は、みんなの顔をただおどろきの表情でおおわせた。
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女房の言辭は悉皆の顏を唯驚愕の表情を以て掩はしめた。
一度に女の人を見た彼女たちには、そのときまでささやき合っていたおもかげがちっともなかった。
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一度に女房を見た彼等には其の時まで私語き合うた俤がちつともなかつた。
彼女たちは慌てて宝引きの糸もふところへかくして、知らないふりをしていろりのそばへ集まった。
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彼等は慌てゝ寶引絲も懷へ隱して知らぬ容子を粧うて圍爐裏の側へ集つた。
「こっちのほうはひどく元気がいいから、おれらも仲間入りさせてもらいたいもんだ」
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「こつちの方酷く威勢えゝから俺らも仲間入させてもらえてもんだ」
宝引きのおばあさんたちは言った。
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寶引の婆さん等はいつた。
「このばあさんらは、寄ればさわればばくちなんぞする気にばかりなって」
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「此の婆等寄れば觸れば博奕なんぞする氣にばかし成つて」
おじいさんはあいかわらず悪口を止めなかった。
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爺さんは依然として惡口を止めなかつた。
「こんなばあさんらだって、そんなにじゃま者にしないでくれよ。これでおれの家じゃまだおれがいなくちゃ真っ暗だよお前、嫁があのありさまだもの」
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「かうだ婆等だつてさうだに荷厄介にしねえでくろよ、こんで俺ら家ぢやまあだ俺れなくつちや闇だよおめえ、嫁があの仕掛だもの」
おばあさんはさらに
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婆さんは更に
「おれの仲間もたまったお金で後を買うから、独りでむっつりしてないで一つやりなさいね」
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「俺らあ仲間も寺錢で後買あから、獨でむつゝりしてねえで一つやらつせえね」
と、卯平に杯をすすめた。
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と卯平へ杯を侑めた。
みんなの元気が次第に卯平の心を引き立てて、とうとう彼の大きな手に茶わんを取らせた。
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一同の威勢が漸次に卯平の心を惹き立てゝ到頭彼の大きな手に茶碗を執らせた。
おばあさんたちのたもとがふれて、軽くなっていた徳利がたおされた。
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婆さん等の袂が觸れて輕く成つてた徳利が倒された。
おばあさんたちは慌てて手ぬぐいでふこうとした。
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婆さん等は慌てゝ手拭でふかうとした。
小がらなおじいさんはとつぜんたたみへ口をつけて、すうすうと息もつかずにお酒をすすって、それから強いせきをして、ざらざらになった口のほこりを手ぬぐいでこすった。
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小柄な爺さんは突然疊へ口をつけてすう/\と呼吸もつかずに酒を啜つてそれから強い咳をして、ざら/\に成つた口の埃を手拭でこすつた。
「ばあさんらがもったいないことをするから仕方がない。いやもったいないとも、米の油だからこれで。それ、証こにはお酒を飲んだ次の日じゃ、顔を洗うときつるつるするところがふしぎだな。何でも人間は油がふき出すようなら体は大丈夫だから。卯平、そうれ一ぱい飲め」
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「婆等勿體ねえことすつから仕やうねえ、いや勿體ねえとも米の油だからこんで、それ證據にや酒飮んだ明日ぢや面洗あ時つる/\すつ處奇態だな、何でも人間は油吹き出すやうだら身體は大丈夫だから、卯平そうれ一杯飮め」
おじいさんは、また口を手ぬぐいでこすりながら言った。
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爺さんは又口を手拭でこすりつゝいつた。
「ひどい奴だからあんな野郎は。けだものと同じだから」
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「畜生だからあゝだ野郎は、畜生とおんなじだから」
おじいさんは、小さな頭のしめりをまたすっと手ぬぐいでふいた。
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爺さんは小さな頭の濕ひを又すつと手拭でふいた。
「そんなにお前、けだものだなんて。ようすも見もしないで」
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「其麽におめえ、畜生だなんて、手もとも見もしねえで」
と、さっきの身なりのいいおばあさんがたしなめるように言った。
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と先刻の服裝の好い婆さんが窘めるやうにいつた。
「いやっ、おばあさん、ようすを見ないったって、そうに決まってるんだから。いや本当だよ。おれは嘘を言うのはきらいだから。そんだがあの女もずうずうしい女だ。この間なんざ、おっかさんのことは思い出さないかと言ったら、思い出さないなんて言いやがって」
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「いやツ、お婆さん、手もと見ねえつたつてさうに極つてんだから、いや本當だよ。俺ら嘘いふな嫌えだから、そんだがあの阿魔もづう/\しい阿魔だ、此間なんざおつかこた思ひ出さねえかつちつたら、思ひ出さねえなんて吐かしやがつて」
おじいさんはまた調子に乗った。
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爺さんは又乘地に成つた。
「ありゃあそれ、おれには分かるんだよ。随分つらい目にあったから、お母さんのことを思わないことはないが、みんなでからかいからかいしたから、それでそんなことを言うようになったんだな。さすがにあれだって困ってはいるんだから。何と言ったって、あれに罪はないよ」
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「ありやあそれ、俺れがにやえゝんだよ、隨分辛え目に逢つたから、お袋こと思あねえこたねえが、悉皆揶揄え/\したからそんでさうだこといふやうん成つたんだな、有繋あれだつて困つちや居んだから、何ちつたつてあれにや罪あねえよ」
最後の一言をすっと低く言って、彼はやっと茶わんの底を飲み干した。
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最後の一句をすつと低くいつて彼は漸く茶碗の底を干した。
「勘次もつらかったろうが、おれもお品に死なれたときには泣いたよ。あれのことは三つのときから育てたんだから」
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「勘次も辛かつたんべが、俺らも品に死なつた時にや泣えたよ、あれこた三つの時ツから育ツたんだから」
卯平はまた情けなさそうな舌が、もうこわばってしまった。
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卯平は又情なげな舌がもう硬ばつて畢つた。
「ほんにお前も、お品さんに死なれたのが不運だったっけのさな。そんだがお前、長生きしただけいいんだよ」
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「ほんにおめえもお品さんに死ならつたのが不運だつけのさな、そんだがおめえ長命したゞけええんだよ」
おばあさんたちは口々になぐさめながら言った。
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婆さん等は口々に慰めつゝいつた。
「手足も利かなくなっちまって、お金は取れずもう。野田でこしらえたひとえもなくしちまったな。どうせこれ、来年の夏まで生きていられるかどうだか分かりやしまいし、かまわないな」
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「手足も利かなくなつちやつて錢はとれずはあ、野田で拵えた單衣物もなくしつちやつたな、どうせ此れ、來年の夏まで生きてられつか何うだか分りやすめえし、管あねえな」
卯平は口の中で独りつぶやくように、ぶすりと言った。
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卯平は口獨りで呟やくやうにぶすりといつた。
彼はほとんど、その舌が味を感じないのだろうと思うほど、ただ茶わんのお酒をかたむけるばかりだった。
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彼は殆んど其の舌が味を感ぜぬであらうと思ふやうに只茶碗の酒を傾けるのみであつた。
「そんだがむすめも年ごろが来てるのに、嫁にやるとかむこを取るとかしないじゃかわいそうだよなあ」
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「そんだが娘も年頃來てんのに遣るとかとるとかしねえぢや可哀相だよなあ」
おばあさんたちの口は、それからそれと尽きなかった。
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婆さん等の口はそれからそれと竭きなかつた。
お酒に勢いをつけられたおばあさんたちは、何かをせんさくしなければ気が済まないのだった。
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酒に勢ひつけられた婆さん等は何かの穿鑿をせねば氣が濟まないのであつた。
「どうするこったか、自分の子どもでもありやしまいし、おれには分からないな」
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「どうするこつたか自分の子供でもありやすめえし、俺らがにや分んねえな」
卯平は、どこまでもそっけない言い方である。
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卯平は何處までも乾たいひやうである。
「そんだがよ、話してやるといいんだな。出すと決まりゃ、いくらでも話は来らあな」
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「そんだがよ、噺してやつとえゝんだな、出すと極りや幾らでも口は有らな」
「むだだよお前、だれが言うことだって聞きやしないんだから」
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「徒勞だよおめえ、誰がいふことだつて聽く苦勞はねえんだから」
おばあさんたちはたがいに勝手なことを、がやがやと話しつづけた。
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婆さん等は互に勝手なことをがや/\と語り續けた。
「そんじゃとなりの旦那にでもよく話してもらったら、聞くかも知れないぞ。それよりほかはないぞ、お前」
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「そんぢや隣の旦那にでもようく噺してもらつたら聽くかも知んねえぞ、それより外あねえぞおめえ」
おばあさんの一人が卯平に向かって言った。
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婆さんの一人が卯平に向つていつた。
「そうすりゃもう、おたがいにいいぐあいできずもつかないんだから。おれもそうは思ってはいるんだが、これ、言うのもおかしなもんで」
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「さうすりやはあ、お互にえゝ鹽梅で疵もつかねえんだから、俺れもさうは思つちや居んだが、此れ、いふのもをかしなもんで」
卯平のほおにはやや赤みがさして、彼はおばあさんに言われたことがうれしそうに見えるのだった。
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卯平の頬には稍紅を潮して彼は婆さんにいはれたことが嬉し相に見えるのであつた。
「なあに、そうもこうもあるもんか。いいから、そんな奴らは打っとばしてやれ」
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「なあに、さうだもかうだも有るもんか、えゝから、さうだ奴等打つ飛ばしてやれ」
しばらく黙っていたさっきのおじいさんは、小がらな体を固めてまたどなった。
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暫く默つて居た先刻の爺さんは小柄な身體を堅めて又呶鳴つた。
「うん、なあに、おれもそれから去年の秋は火ばしで打っとばしてやったな」
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「うむ、なあに俺れもそれから去年の秋は火箸で打つ飛ばしてやつたな」
卯平はこう言って、彼にしてはとても元気を取りもどしていた。
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卯平は斯ういつて彼にしては著るしく元氣を恢復して居た。
「そうだとも。お金でも何でもくれなけりゃ、よこせと言えばいいんだ。お金がないなんて言えば、米でも麦でもうばい取ってやれ」
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「さうだとも、錢でも何でも呉んなけりや、よこせつちばえゝんだ、錢ねえなんちへば米でも麥でも奪取つてやれ」
おじいさんはまわりへつばを飛ばした。
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爺さんは周圍へ唾を飛ばした。
「それでもおれは、打っとばしてから、質流れだなんて味噌を一たる買ったな。ふすまの味噌でうまくはないが、今じゃそんでもしるは吸えることは吸えるのよ」
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「それでも俺れ打つ飛ばしてから質の流れだなんち味噌一樽買つたな、麩味噌で佳味かねえが今ぢやそんでもお汁は吸へるこた吸へんのよ」
卯平は、自分の手がらでも語るような言い方だった。
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卯平は自分の手柄でも語るやうないひ方であつた。
「食い物をおしがるなんて、けちにもほどがあるじゃないか。本当にばち当たりだから。おれだったら生かしちゃおかない。いや、まったくだよ。親に食わせるのがおしいなんて野郎は、突きさしたって言い分が立つとも。おれだったらりっぱに立てて見せらあな。卯平、しっかりしろ。おれだったら勘次らくらいのは、またうんという目にあわせらあな。いや本当に、おれにかかっちゃひどいからな、これで」
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「食料措しがるなんち業つくばりもねえもんぢやねえか、本當に罰つたかりだから、俺らだら生かしちや置かねえ、いや全くだよ、親のげ食あせんの惜いなんち野郎は突つ刺したつて申し開き立つとも、俺らだら立派に立てゝ見せらな、卯平確乎しろ、俺らだら勘次等位なゝ又うんち目に逢あせらな、いや本當に俺れに掛つちや酷えかんなこんで」
おじいさんははげしく、そして例の自まんを言いつづけた。
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爺さんは激しくさうして例の自慢をいひ續けた。
「そんなことを言ったってお前、むかしから他人を切ったこともないくせに」
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「さうだこと云つたつておめえ、以前から他人のこと切つたこともねえ癖に」
そばから身なりのいいおばあさんがけなして言った。
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側から服裝の好い婆さんが貶していつた。
「そんだが、この年になって懲役に行くのはいやよ、おれも」
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「そんだが、此の年齡になつて懲役に行ぐな厭よ俺れも」
おじいさんはずっと下げた頭を手でおさえて笑いころげた。
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爺さんはずつと垂れた頭を手で抑へて笑ひこけた。
おばあさんたちもどっと笑った。
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婆さん等もどつと哄笑いた。
「勘次らは、そのときからおれとは口も利かないや」
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「勘次等、そん時から俺れた口も利かねえや」
卯平は他人にかまわずこう言って、その舌を鳴らしてつばを飲んだ。
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卯平は他人には頓着なしにかういつて其の舌を鳴らして唾を嚥んだ。
「口を利かない。そんなら口を両方へ裂いてやれ。さあ利くか利かないかと、こうだ」
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「口利かねえ、そんだら口兩方へふん裂えてやれ、さあ利くか利かねえかと斯うだ」
小がらなおじいさんは自分の口を両手の指でぐっと広げて言った。いろりのあたりは、しばらくさわぎが止まなかった。
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小柄な爺さんは自分の口を兩手の指でぐつと擴げていつた、圍爐裏の邊は暫く騷ぎが止まなかつた。
卯平の心も、たとえ一時でもまわりのしげきからいくらか力をもらって、ある元気を取りもどしたのだった。
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卯平の心も假令一時的でも周圍の刺戟から幾分の力を添られて或勢ひを恢復したのであつた。
「しっかりしろえ、いいから」
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「確乎しろえ、えゝから」
小がらなおじいさんは、別れるときまたどなった。
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小柄な爺さんは別れる時復呶鳴つた。
卯平の足元は、やや力づいて見えていた。
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卯平の足もとは稍力づいて見えて居た。
卯平は念仏寮から帰って来たとき、どかりと火ばちの前にすわった。
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卯平は念佛寮から歸つて來た時どかりと火鉢の前に坐つた。
彼は元気づけられていた。
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彼は勢ひづけられて居た。
勘次はいつものように遠ざかった。
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勘次は例の如く遠ざかつた。
「おつう、米とひきわり麦を出せ」
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「おつう、米と挽割麥出せ」
卯平はすわるなり、とつぜんこう言った。
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卯平は座に就くと突然かういつた。
「たくさん出せ」
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「夥多出せ」
間を置いてまた言った。
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間を措いて又いつた。
「何するんだい、爺さんは」
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「何すんでえ、爺は」
おつぎはそれを軽く受けて、こう言った。
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おつぎはそれを輕く受て斯ういつた。
卯平は目をしかめた。
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卯平は目を蹙めた。
彼は暗い夜にずんずん歩いた足が、急にくぼみをふんでがくりと調子がくるったようなようすだった。
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彼は闇夜にずんずんと運んだ足が急に窪みを踏んでがくりと調子が狂つたやうな容子であつた。
「明日、要るなら出してやろうな。爺さんらはどうせ夜なんぞ要りやしまいしなあ」
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「明日、要れば出してやんびやな、爺等どうせ夜なんぞ要りやすめえしなあ」
おつぎはまた、なだめるように言った。
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おつぎは又賺すやうにいつた。
卯平はもう、くり返して言わなかった。
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卯平はもう反覆していはなかつた。
彼はただそのくせの舌を鳴らして、ごくりとつばを飲むだけだった。
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彼は只其癖の舌を鳴らしてごくりと唾を嚥むのみであつた。
次の朝になってお酒の気がすっかり体からぬけたら、彼はふだんの卯平だった。
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次の朝に成つて酒氣が悉く彼の身體から發散し盡したら彼は平生の卯平であつた。
二四
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二四
卯平はけっして悪い人ではなかった。
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卯平は決して惡人ではなかつた。
彼は生まれつきいかつく大きな体だったけれど、そのしかめたような目にはいつもどこかやわらかな光があるようで、思い切ってしなければならないことに出あっても、二度や三度はためらうのが、どちらかと言えば彼のくせの一つだった。
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彼は性來嚴疊で大きな身體であつたけれど、其の蹙めたやうな目には不斷に何處か軟かな光を有つて居るやうで、思ひ切つてせねば成らぬ事件に出逢うても二度や三度は逡巡するのがどうかといへば彼の癖の一つであつた。
ぶすりとしてそっけないようすでも、表に出ているより暖かくて、女の人に弱いところさえあるのだった。
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ぶすりと膠ない容子でも表面に現れたよりも暖かで、女に脆い處さへあるのであつた。
彼が働きざかりのころに他人の目についたのは、自分の仕事にはあまり力を入れないように見えることだった。
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彼が盛年の頃に他人の目についたのは、自分自身の仕事には餘り精を出さないやうに見えることであつた。
たいていのことではまるでさわがない彼のようすが、外からはそう見えたのである。
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大概のことでは一向に騷がぬやうな彼の容子が外からではさうらしくも見えるのであつた。
もう一つは、身なりをけっしてくずさないことだった。
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も一つは服裝を決して崩さぬことであつた。
彼は他人にやとわれていながら、草刈りにでも出るときは、手ぬぐいとこんのひとえと三尺帯を風呂しきに包んで馬の荷ぐらにくくった。
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彼は他人に傭はれて居ながら、草刈にでも出る時は手拭と紺の單衣と三尺帶とを風呂敷に包んで馬の荷鞍に括つた。
そのころは、草といってはすっかり刈りたおして、しばでもしばるように真ん中をたばねて馬に積むのだった。
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其頃は草というては悉皆薙倒して麁朶でも縛るやうに中央を束ねて馬に積むのであつた。
雑木林のあいだに馬をつないだままで、彼は着物を着がえて当てもなくぶらつくのが好きだった。
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雜木林の間に馬を繋いだ儘で彼は衣物を改めてあてどもなくぶらつくのが好きであつた。
それでも彼の丈夫できたえられたうでは、決められた一人分の仕事をこなすのは、日がやや西にかたむいてからでも、それほど大変なことではなかった。
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それでも彼の強健な鍛練された腕は定められた一人分の仕事を果すのは日が稍傾いてからでも強ち難事ではないのであつた。
この二つのほかには、特にこれといって人の記おくに残ることはなかった。
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此の二つの外には別段此れというて數へる程他人の記憶にも残つて居なかつた。
それでも彼の大きな体と生まれつきの器用さは、主人にわりと多い給料をおしませなかった。
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それでも彼の大きな躰躯と性來の器用とは主人をして比較的餘計な給料を惜ませなかつた。
彼はその奉公で得た給料を自分のために使って、そのころとしては人があやしむような年ごろの、三十近くまで独り身の暮らしをつづけた。
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彼は其の奉公して獲た給料を自分の身に費して其の頃では餘所目には疑はれる年頃の卅近くまで獨身の生活を繼續した。
そのあいだに彼は悪い病気にかかった。
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其間に彼は黴毒を病んだ。
一時はぶらぶらとだるそうな青い顔もしていたが、病気はしばらくして忘れたように、その丈夫な体のどこかにひそんでしまった。
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一時はぶら/\と懶相な蒼い顏もして居たが、病氣は暫くして忘れたやうに其の強健な身體の何處にか潜伏して畢つた。
彼はもちろんそれを、治ったものと思っていた。
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彼は勿論それを癒つたことゝ思つて居た。
そのうちに彼は嫁をもらって、小さな所帯を持って働くことになった。
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其の内に彼は娶をとつて小さな世帶を持つて稼ぐことになつた。
嫁は間もなく身ごもったが、赤ちゃんは死んで、そしてくさって出た。
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娶は間もなく懷姙したが胎兒は死んでさうして腐敗して出た。
自分も他人も、病気のせいの子だと言った。
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自分も他人も瘡ツ子だといつた。
二、三人生まれたが、どれも育たなかった。
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二三人生れたがどれも發育しなかつた。
それでも幼い子が死ぬのは病気のせいだというだけで、その毒のおそろしさを知るはずもなく、だからおそれるはずもなかった。
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それでも幼兒の死ぬのは瘡ツ子だからといふのみで病毒の慘害を知る筈もなく隨つて怖れる筈もなかつた。
お品のお母さんはとても貧しいやもめで、足が立つか立たないかのお品をふところにして、みじめな暮らしをしていた。
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お品の母は非常な貧乏な寡婦で、足が立つか立たぬのお品を懷にして悲慘な生活をして居た。
それを卯平は心からあわれみの気持ちで見ていた。
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それを卯平は心から哀憐の情を以て見て居た。
お品のお母さんは百姓としては特に力もなかったから、やもめとしてやって行くにはとても大変なはずなだけ、体のどこかにやわらかなようすがあって、きれい好きな卯平の心を引いた。
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お品の母は百姓としては格別の働きを有たなかつたから、寡婦として獨立して行くには非常な困難でなければ成らぬだけ身體の何處にか軟かな容子があつて、清潔好な卯平の心を惹いた。
どこか人なつっこいところがあって、ひたすら他人の同情をほしがっていたお品のお母さんの、何かを求めるような態度が、やがて二人を近づけた。
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何處か人懷こい處があつて只管に他人の同情に渇して居たお品の母の何物をか求めるやうな態度が漸く二人を近づけた。
そのころ彼の女房は、長いあいだ病気になやまされていた。
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其の頃彼の女房は長い間病氣に惱まされて居た。
病気はついによくならなかった。
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病氣は遂に恢復しなかつた。
女房はある年また身ごもって、生まれる月が近くなったら、どうしたものか数日のうちにおなかがふくれて、一晩のうちにもそれがずんずんと目に見えた。
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女房は或年復た姙娠して臨月が近くなつたら、どうしたものか數日の中に腹部が膨脹して一夜の内にもそれがずん/\と目に見える。
女房は横になることもその苦しさにたえられないで、積んだふとんに寄りかかって、やっと苦しい息をついていた。
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女房は横臥することも其の苦痛に堪へないで、積んだ蒲團に倚り掛つて僅に切ない呼吸をついて居た。
赤ちゃんをうかべた水がよけいにたまったのである。
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胎兒を泛かしめた水が餘計に溜つたのである。
そのころは医者の手でさえ、それをどうすることもできなかった。
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其の頃は醫者の手でさへそれをどうすることも出來なかつた。
その上、彼は医者を呼ぶのが億くうで、大事な命ということを考えることさえ、心にゆとりがなかった。
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加之彼は醫者を聘ぶことが億劫で、大事な生命といふことを考へることさへ心に暇を持たなかつた。
運よく、赤ちゃんを包むまくをふくらませたえきが、自分から逃げ道を求めてそのまくをやぶった。
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僥倖にも卵膜を膨脹させた液體が自分から逃げ去る途を求めて其の包圍を破つた。
何しょうものえきがほとばしって、おどろいて横になっていた体をふとんの上にうかそうとした。
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數升の液體が迸つて、驚いて横へた身を蒲團の上に浮かさうとした。
それとともに、いる場所を失った赤ちゃんは、自然に母の体をはなれて出なければならなかった。
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それと共に安住の場所を失うた胎兒は自然に母體を離れて出ねばならなかつた。
赤ちゃんはもちろん死んでいて、手を先に出した。
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胎兒は勿論死んでさうして手を出した。
そのとき、女房はとてもつかれきっていたが、がまんをするからと言ったばかりに、卯平はぐっと力を入れて引き出した。
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其の時女房は非常に疲憊して居たが、我慢をするからといつたばかりに卯平はぐつと力を入れて引き出した。
彼の悪気のない手がこんなにむごく使われたのは、夫婦のあいだでは少しでも他人の手を借りることに、お金のこわさを感じさせられたからだった。
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彼の惡意を有たぬ手が斯の如く残酷に働かされたのは、夫婦の間には僅でも他人の手を藉ることに金錢上の恐怖を懷かしめられたからであつた。
女房はそれでも死ななかった。
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女房はそれでも死なゝかつた。
しかし、ほとんど想像もできなかった痛みが体じゅうにしみわたった。
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然し殆んど想像されなかつた疼痛が滿身に沁み渡つた。
やがてひどい熱が出た。
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軈て非常な發熱が伴つた。
それからというもの、三年もねたままで、季節が暖かくなればたまにはふとんからずり出して、やっとつえにすがっては、やわらかな春の日ざしさえまぶしがっていた。
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それからといふものは三年も臥つた儘で季節が暖かに成れば稀には蒲團からずり出して僅に杖に縋つては軟かな春の日をさへ刺戟に堪へぬやうに眩しがつて居た。
お品のお母さんとのことが、よけいな告げ口から女房の耳に入った。
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お品の母との關係が餘計な告口から女房の耳に入つた。
そのころ暑さに向かっていたせいもあったが、女房はそれを気にしはじめてから、がっかりとやつれたように見えた。
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其の頃暑さに向いて居た所爲でもあつたが女房はそれを苦にし始めてからがつかりと窶れたやうに見えた。
女房が死んだとき、卯平はまくら元にいなかった。
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女房が死んだ時は卯平は枕元に居なかつた。
村には赤痢がはやった。
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村落には赤痢が發生した。
予防の知しきも何もない彼らは、たがいに葬式に呼び合って少しの心配もなく飲み食いをしたので、病気はすごい勢いで広まったのだった。
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豫防の注意も何もない彼等は互に葬儀に喚び合うて少しの懸念もなしに飮食をしたので病氣は非常な勢ひで蔓延したのであつた。
卯平も病人の一人で、そしてお品の家でなやんでいた。
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卯平も患者の一人でさうしてお品の家に惱んで居た。
お品のお母さんの親切な看病で、彼は助かった。
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お品の母の懇切な介抱から彼は救はれた。
彼はどうしても、死にかけた女房のそばへ病んだ体を運ぶことができなかった。
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彼はどうしても瀕死の女房の傍に病躯を運ぶことが出來なかつた。
そのやつれた目がうれえるのを、彼は見るにたえられなかったからである。
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其の窶れた目の憂へるのを彼は見るに忍びなかつたからである。
彼のそういう気持ちは、長い月日の病気の苦しみにさいなまれてひがんだ女房の心に伝わるはずがなかった。
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彼のさういふ意志は長い月日の病苦に嘖まれて僻んだ女房の心に通ずる理由がなかつた。
そして女房は、はげしい神経痛をうったえながら死んだ。
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さうして女房は激烈な神經痛を訴へつゝ死んだ。
卯平はさすがに泣いた。
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卯平は有繋に泣いた。
葬式は親せきと近所で行ったが、卯平もやっとつえにすがって行った。
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葬式は姻戚と近所とで營んだが、卯平も漸と杖に縋つて行つた。
その秋のお盆には、赤痢のさわぎもおさまって、新しいほとけさまの数が増えていた。
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其の秋の盆には赤痢の騷ぎも沈んで新しい佛の數が殖えて居た。
墓地には、ほり上げた赤い土の小さなつかが、いくつもそまつなかんおけの台を乗せていた。
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墓地には掘り上げた赤い土の小さな塚が幾つも疎末な棺臺を載せて居た。
たいていは赤痢にかかってやっと体に力がついたばかりの人々が、いつもの年のように草かりがまを持って、六日の日の夕方に「墓なぎ」といって出た。
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大抵は赤痢に罹つて漸く身體に力がついたばかりの人々が例年の如く草刈鎌を持つて六日の日の夕刻に墓薙というて出た。
墓のあたりは、生えるにまかせた草が刈り払われて、見るからにきれいになった。
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墓の邊は生るに任せた草が刈拂はれて見るから清潔に成つた。
真ん中に青竹の線香立てがくいのように立てられて、石ひの前には一つずつ、青竹のすのこのような小さなたなが作られた。
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中央に青竹の線香立が杙のやうに立てられて、石碑の前には一つづゝ青竹の簀の子のやうな小さな棚が作られた。
卯平も墓なぎの仲間に加わった。
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卯平も墓薙の群に加はつた。
彼のまだ力ない手に持ったかまの刃先が、女房のかんおけの台の下をのぞいてからりとわたったとき、彼はぞっとして手を引いた。
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彼のまだ力ない手に持つた鎌の刄先が女房の棺臺の下を覗いてからりと渡つた時彼は悚然として手を引いた。
へびが体の後ろ半分を彼の足元に出して、白い腹を見せた。
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蛇が身體の後半を彼の足もとに現して白い腹を見せた。
かまの刃先がへびを切ったのである。
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鎌の刄先が蛇を切つたのである。
へびはしばらくじっとしていて、とてもゆっくりとかんおけの台の下へかくれた。
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蛇は暫く凝然として居て極めて徐ろに棺臺の下に隱れた。
卯平の顔は、夕暮れの光に青かった。
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卯平の顏は黄昏の光に蒼かつた。
彼はそれから、外へ出ることもめったになくなった。
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彼はそれから他出することも稀になつた。
よくなりかけた病後のつかれが、夜はねばるような汗を出させた。
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恢復しかけた病後の疲勞が夜は粘るやうな汗を分泌させた。
それから八日目に、村の人がほとけさまをむかえにちょうちんを持って行ったときには、刈り払われた草が、暑いといっても秋らしくなった日に、実をつけるのを急ごうとして、すっくと首をもたげていた。
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それから八日目に村落の者が佛を迎へに提灯持つて行つた時は刈り拂はれた草が暑いといつても秋らしくなつた日に其の生殖作用を急がうとして聳然と首を擡げて居た。
村の人々は好き心にかられて、おずおずとかんおけの台をそっと上げてみた。
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村落の人々は好奇心に驅られて怖づ/\も棺臺をそつと揚げて見た。
へびはあいかわらず、だらりと横たわったままだった。
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蛇は依然としてだらりと横たはつた儘であつた。
人々は見開いた目を見合わせた。
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人々は睜つた目を見合せた。
村の人が去った後には、小さな青竹の線香立てから、そこらの石ひの前から、じりじりと身を焼いて行く火に苦しんでもだえるように、けむりはうねりながら立ちのぼって、さびしい夕暮れの光の中をさまよった。
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村落の者が去つた後には小さな青竹の線香立からそこらの石碑の前からぢり/\と身を燒いて行く火に苦んで悶えるやうに煙はうねりながら立ち騰つて寂寥たる黄昏の光の中に彷徨うた。
それからまた四日目に、ほとけさまを送って村の人は夕暮れの墓地に集まった。
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それから又四日目に佛を送つて村落の者は黄昏の墓地に落ち合うた。
へびはそれでも、かんおけの台のかげをはなれなかった。
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蛇は猶且棺臺の陰を去らなかつた。
へびは自由にはうには、あまりにきずが大きかった。
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蛇は自由に匍匐ふには餘りに瘡痍が大きかつた。
反り返ったくちびるのようにふくれた肉は、ほこりにまみれて黒く変わっていた。
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反り返つた唇のやうに膨れた肉は埃に塗れて黒く變じて居た。
かんおけの台のすきまから人がこれをのぞけば、こわがって少しずつのたくるのだった。
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棺臺を透かして人が之を覗へば恐怖を懷いて少しづゝのたくるのであつた。
女房が出たのだと言って、村の人はへらず口をたたいた。
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女房が出たのだといつて村落の者は減らず口を叩いた。
しばらくして、お品のお母さんの耳にもへびのうわさが伝わった。
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暫くしてお品の母の耳へも蛇の噂が傳はつた。
それからというもの、お品のお母さんは一晩でも卯平を自分の家から放さない。
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それからといふものお品の母は一夜でも卯平を自分の家から放さない。
三つになっていたお品が卯平を慕って、しっかりとその家に引きとめたのは、それから間もないことである。
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三つに成つて居たお品が卯平を慕うて確乎と其の家に引き留めたのはそれから間もないことである。
へびの話は、いつのまにか消えてなくなった。
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蛇の噺は何時の間にか消滅した。
それは、みんながたがいに思い出をくり返して面白がるほど、彼らをにくんではいなかったからである。
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それは悉皆が互に心に記憶を反覆して快よしとする程彼等を憎んでは居なかつたからである。
その後、長い年月がたってお品のお母さんが死んだとき、むかしの話を見たり聞いたりしていた人のあいだでだけ、わずかに思い出が呼び返された。
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其後長い歳月を經てお品の母が死んだ時以前の噺を見たり聞いたりして居た者の間にのみ僅に記憶が喚び返された。
お品のお母さんは、腰に病気を持っていた。
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お品の母は腰に病氣を持つて居た。
卯平は、自分の手でつくった罪というものは、ほとんど見られなかった。
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卯平は自分の手から作つた罪といふものは殆んど見られなかつた。
ただ彼は、働きざかりのころはほかのやとわれ人たちといっしょに、よくねこを殺して食べていた。
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唯彼は盛年の頃は他の傭人等と共に能く猫を殺して喫べてた。
もっともそのころは、ねこでも犬でも飼い主をはなれてにわとりをねらうのがうろついていた。
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尤も其頃は猫でも犬でも飼主を離れて雞を狙ふのが彷徨いた。
彼らはわなをかけてそれを待った。
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彼等は罠を掛けてそれを待つた。
しかし、たいていの家ではにわとりさえ家の中で煮るのをゆるさないので、後ろの庭へ竹で三本の足を作って、それになべのつるをかけたほどだったから、ねこを殺すことがおそろしい悪いことのように見られたのだった。
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然し大抵の家々では雞でさへ家の内では煮るのを許容さないので、後の庭へ竹で三本の脚を作つてそれへ鍋蔓を掛けた程であつたから、猫を殺すことが恐ろしい罪惡のやうに見られたのであつた。
ねこは塩からい塩ざけを与えれば腰が利かなくなる病気になると言われているので、卯平が腰をなやんでいるのを、まれにはねこのたたりだと冗談に言う人もあった。
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猫は辛い鹽鮭を與へれば腰が利かない病氣に罹ると一般にいはれて居るので卯平が腰を惱んで居るのを稀には猫の祟だと戯談にいふものもあつた。
それでも、そういううわさは広がらなかった。
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それでもさういふ噂は擴がらなかつた。
彼はにくしみもねたみも、村のだれからも買わなかった。
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彼は憎惡と嫉妬とを村落の誰からも買はなかつた。
にくしみもねたみもない、そこにわざと悪いうわさを作るほど、百姓は意地が悪くなかった。
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憎惡も嫉妬もない其處に故意と惡評を生み出す程百姓は邪心を有つて居なかつた。
村の西のはしにはなれて住んでいる彼には、興味を持って見させるところが一つもなかった。
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村落の西端に僻在して居る彼には興味を以て見させる一つの條件も具へて居なかつた。
ただむっつりとして、他人にうったえることも求めることもない彼は、まったく村とのつながりがなかった。
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只むつゝりとして他人に訴へることも求めることもない彼は一切村落との交渉がなかつた。
彼一人のいるいないは、少しも村にとって重みがなかった。
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彼の一身の有無は少しも村落の爲には輕重する處がなかつた。
二五
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二五
初冬のえだをあわただしくわたって、それからしばらくさわいだまま、その後はぱたりと忘れていて、まれに思い出したようにかれ木のえだを泣かせた西風が、雑木林のえだに白くつらなっている西の遠い山々の向こうに横たわっていたのが、急に、自分が力をふるうはずの冬が自分を置いて行ってしまったのに気づいて、ふくだけふかなければ気の済まないその性しつを出して、毎日その独特の力で軽い土を空にまき上げた。
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初冬の梢に慌しく渡つてそれから暫く騷いだ儘其の後は礑と忘れて居て稀に思ひ出したやうに枯木の枝を泣かせた西風が、雜木林の梢に白く連つて居る西の遠い山々の彼方に横臥て居たのが俄に自分の威力を逞しくすべき冬の季節が自分を棄てゝ去つたのに氣がついて、吹くだけ吹かねば止められない其の特性を發揮して毎日其の特有な力が輕鬆な土を空に捲いた。
その日も、夜明けから空があまりにからりとして、やわらかな光を持たなかった。
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其の日も拂曉から空が餘りにからりとして鈍い軟かな光を有たなかつた。
毎日ふきまくる強い風が、その遠い西の山の氷や雪をふくんで、細かく地面をおおってまき散らしたかと思うように、霜が白く固まっていた。
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毎日吹き捲くる疾風が其の遠い西山の氷雪を含んで微細に地上を掩うて撒布したかと思ふやうに霜が白く凝つて居た。
勘次はいつものように、おつぎを連れて開こん地へ出た。
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勘次は平生の如くおつぎを連れて開墾地へ出た。
おつぎは半纏を後ろへふわりとかけたまま手も通さないで、肩には襷をななめにかけて、万能ぐわをかついでいた。
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おつぎは半纏を後へふはりと掛けた儘手も通さないで、肩へは襷を斜に掛けて萬能を擔いで居た。
白い手ぬぐいと、手ぬぐいの外に少しのぞいたおくれ毛が、歩くたびにふらふらと動くのも、しみじみと冷たそうだった。
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白い手拭とそれから手拭の外に少し覗いた後れ毛の歩く度にふら/\と動くのもしみ/″\と冷た相であつた。
草や木や地面の霜にまばたきしながら、横に、そしてななめにさす日に、遠い西の山々の雪がひとしきり光った。
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草木及び地上の霜に瞬きしながら横にさうして斜に射し掛ける日に遠い西の山々の雪が一頻光つた。
すべてが茶色っぽい光につつまれた。
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凡てを通じて褐色の光で包まれた。
その遠くつらなった山々の頂には、ぽつりぽつりと大小の群れ雲が固まったままかき乱されて、しばらく動かなかった。
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其の遠く連つた山々の頂巓にはぽつり/\と大小の簇雲が凝つた儘に掻き亂されて暫く動かなかつた。
ついにはそれが一つになって山々のありかを見えなくして、そのはしがすすのように空へ向かって消えて行くように見えはじめた。
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遂にはそれが一つに成つて山々の所在を暗まして、其の末端が油煙の如く空に向つて消散しつゝあるやうに見え始めた。
そこには毎日必ずやかましい足音で人の耳をさわがせる、あの巨人の群れが、その目にはみじめな地上のすべてを苛めてつま先でけとばそうとして、山々の向こうから出発したのだ。
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其處には毎日必ず喧嚚な跫音が人の鼓膜を騷がしつゝある其の巨人の群集が、其の目からは悲慘な地上の凡てを苛めて爪先に蹴飛ばさうとして、山々の彼方から出立したのだ。
そのおどろくほど速い足が空を一直線に、そしてわずかなじゃま物にすぎないえだのすべてを押しつけ押しつけ、林をこえて走って来るのは、今もうすぐである。
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其の驚くべき迅速な脚が空間を一直線に、さうして僅な障害物であるべき梢の凡てを壓しつけ壓しつけ林を越えて疾驅して來るのは今もう直である。
竹を切ってたばねたようにすきまなく群がっている、そのつま先にけられては、こわがりにこわがった草木はみな声を上げて泣くのである。
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竹を伐つて束ねたやうに寸隙もなく簇がつて居る其の爪先に蹴られては怖えに怖えた草木は皆聲を放つて泣くのである。
そして、もう泣かなければならない時間がせまっている。
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さうしてもう泣かねば成らぬ時間が迫つて居る。
勘次が霜の白い自分の庭から道へ出ると、不格好なくぬぎの林が、彼の行く方向に沿ってつらなっている。
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勘次は霜白い自分の庭を往來へ出ると無器用な櫟の林が彼の行くべき方に從つて道に沿うて連つて居る。
彼の、やぶれて、毎日打ちつける強い風にかたむけられた笹のかきねには、せまい道をこえてくぬぎの落ち葉が、熊手でかいたように集まって、つらなっている。
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彼の破れて、毎日打ちつける疾風の爲めに傾むけられた笹の垣根には、狹い往來を越えて櫟の落葉が熊手で掻いたやうに聚つて且つ連つて居る。
およそくぬぎの木ほど丈夫な木は、ほかにあるまい。
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凡そ櫟の木程頑健な木は他に有るまい。
かわいた冬がれの草や落ち葉にたばこの吸いがらがまちがって火をつけて、それがさかんに林を焼き払っても、しぶの強い、表面がわさびおろしのようなくぬぎの皮は、黒いやけどをみきいっぱいに残しても、ほかの針葉樹のようにはならず、春の雨が何度もやわらかにしめらせれば、ついにはざらざらした皮のどこからか白っぽい芽をふいて、あらくかたい厚い皮のかこいからのがれてさわやかに息をしはじめたのをよろこぶように、ずんずんとのびて、ついには切っても切っても、なおずんずんと太くなってみきがさらに作られるほど、強い生きる力を取りもどすのである。
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乾燥した冬枯の草や落葉に煙草の吸殼が誤つて火を點じて、それが熾に林を燒き拂うても澁の強い、表面が山葵おろしのやうな櫟の皮は、黒い火傷を幹一杯に止めても、他の針葉樹に見るやうではなく、春の雨が數次軟かに濕せば遂にはこそつぱい皮の何處からか白つぽい芽を吹いて、粗剛な厚い皮の圍みから遁れて爽快な呼吸を仕始めたことを悦ぶやうにずん/\と伸長して、遂には伐つても/\、猶且ずん/\と骨立つて幹が更に形づくられる程旺盛な活力を恢復するのである。
彼らはそういう性しつを持っていながら、分からないほどおくびょうである。
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彼等はさういふ特性を有つて居ながら了解し難い程臆病である。
黄色い光が気持ちよくあざやかに満ちているおそい秋の、水のようなうすい霜がこっそり降りる前から、その葉はみなくるくるとまわりが巻きはじめて、ほかの雑木は葉をからりと落として、そのえだよりずっと低くたれている西の空の明るい入り日を通して見せるようにまばらになるのに、しっかりとしがみついてはなれない。
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黄色な光が快よく鮮かに滿ちて居る晩秋の水のやうな淡い霜が竊におりる以前から其の葉は悉くくる/\と其の周圍が捲れ始めて、他の雜木は其の葉をからりと落して其の梢よりも遙に低く垂れて居る西の空の明るい入日を透して見せるやうに疎に成るのに、確乎としがみついて離れない。
彼らはやっと木らしい形になるとともに、のこぎりの歯がむごくわたって、少しの余ゆうも与えられないのである。
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彼等は漸く樹相を形づくると共に鋸の齒が残酷に渡つて少しでも餘裕を與へられないのである。
それで彼らのあいだには、自然にただこわがる性しつだけが育ったのかも知れない。
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それで彼等の間には自然に只恐怖する性質のみが助長されたのであるかも知れない。
だから、すでにたきぎに切られる時期をすぎて、大木の形になって、どんぐりがその浅い皿に乗せられるようになれば、かれ葉はいさぎよく散りしいて、からりとさわやかに木の形を見せるのである。
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それだから既に薪に伐るべき時期を過して、大木の相を具へて團栗が其の淺い皿に載せられるやうに成れば、枯葉は潔く散り敷いてからりと爽かに樹相を見せるのである。
ちょうどそれは、子孫を残すことと自分を守ることの必要をまったく忘れさせられた梨のつぎ木が、大きなとげをみきにもえだにも持たなくなったように、こわさが彼らを去ったのである。
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丁度それは子孫の繁殖と自己の防禦との必要を全く忘れさせられた梨の接木が、大きな刺を幹にも枝にも持たなく成つたやうに、恐怖が彼等を去つたのである。
しかしながら、林のくぬぎはいくら遠くまで根をのばして早く育とうとしても、冷たい秋が冬を地上へみちびくのである。
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然しながら林の櫟は幾ら遠く根を伸して迅速な生長を遂げようとしても、冷かな秋が冬を地上に導くのである。
彼らはその冬の季節に命を保って行くには、すべてのはたらきを止めて引きしめなければならない。
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彼等は其の冬の季節に於て生命を保つて行くのには凡ての機能を停止して引き緊らねば成らぬ。
そうでなければ、彼らは氷や雪のためにかれ死ななければならない。
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それでなければ彼等は氷雪の爲に枯死せねばならぬ。
その季節に、彼らの最後の運命であるたきぎや炭に切られるのに、いちばん合った作りに変わることをよぎなくされるのである。
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其季節に彼等の最後の運命である薪や炭に伐られるやうに一番適當した組織に變化することを餘儀なくされるのである。
彼らはそれから、その大切な呼吸の道具だったかれ葉を、一まいでもえだから放すまいとし、またはなれまいとしている。
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彼等はそれから其の貴重な呼吸器であつた枯葉を一枚でも枝から放すまいとし又離れまいとして居る。
育つはたらきが止まるとともに、くっつく力を失うはずの葉のじくが、しっかりと保たれている。
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生育の機能が停止されると共に粘着力を失ふべき筈の葉柄が確乎と保たれてある。
そこでかわいたかれ葉は、少しのことにも寄り合ってさやさやと、たがいにこわさをささやくのである。
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そこで乾燥した枯葉は少しのことにさへ相倚つてさや/\と互に恐怖を耳語くのである。
しかし、木が吸って得た物の一部を地面と空気に返させようとして、すべての葉をえだからうばって、いたる所を広々と、そしてすっきりさせるのを好む冬の目には、くぬぎのかれ葉は入りくんで、にごって見えなければならない。
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然し樹木が吸收して獲た物質の一部を地及び空氣に還元せしめようとして凡ての葉を梢から奪つて、到る處空濶で且簡單にすることを好む冬の目には、櫟の枯葉は錯雜し、溷濁して見えねばならぬ。
それで、巨人を乗せた西風がそのつま先でそれをけとばそうとしても、おそろしくしつこいかれ葉は泣いて、そしてその力を保とうとする。
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それで巨人を載せた西風が其爪先にそれを蹴飛ばさうとしても、恐ろしく執念深い枯葉は泣いてさうして其の力を保たうとする。
たまたま力が足りずにふき散らされたのは、そういうときにとても都合よく巻いてあるので、どんなかげでも身をよせる場所を求めてころころところがって行っては、自分の仲間が一つに寄り合いだき合って、小さな風にさえ絶えず音を立ててふるえているのである。
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偶力が足りないで吹き散らされたのは、さういふ時に非常に便利なやうに捲いてあるので、どんな陰でも其の身を託する場所を求めてころ/\と轉がつて行つては、自分の伴侶が一つに相倚り相抱いて微風にさへ絶えず響を立てゝ戰慄しつゝあるのである。
勘次はこういうくぬぎの木を植えて林を作るための土地を開こんするのに、もう何年ものあいだやとわれて、その力をつくした。
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勘次は斯ういふ櫟の木を植ゑて林を造るべき土地の開墾をする爲にもう幾年といふ間雇はれて其の力を竭した。
彼はやっと林らしくなって来たくぬぎ林に沿って、田んぼをこえて走った。
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彼は漸く林相を形づくつて來た櫟林に沿うて田圃を越えて走つた。
田んぼのしぎが何におどろいたかきいと鳴いて、刈り株をかすめるようにして慌てて飛んで行った。
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田圃の鴫が何に驚いたかきゝと鳴いて、刈株を掠めるやうにして慌てゝ飛で行た。
そして後は、白く閉ざしたこおりがときどきぴりぴりと鳴ってしゃりしゃりとこわれるだけで、ただ静かだった。
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さうして後は白く閉した氷が時々ぴり/\と鳴てしやり/\と壞れるのみで只靜かであつた。
田んぼをとおして林のあいだから見えるその遠い山々の雲は、ややうすくなって空をにごらせていた。
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田圃を透して林の間から見える其遠い山々の雲は稍薄くなつて空を濁して居た。
やがて雑木林のえだ先が少し動いたと思ったら、ごうっというひびきが勘次の耳に鳴った。
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軈て雜木林の枝頭が少し動いたと思つたらごうつといふ響が勘次の耳に鳴つた。
巨人の足がせまったのである。
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巨人の脚が逼つたのである。
彼はむっと、思わず息がつまった。
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彼はむつと思はず呼吸が切迫した。
毎日ふきわたる西風は、かわきつつあるすべての物をさらにかわかさなければ止まない。
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毎日吹き渡る西風は乾燥しつゝある凡ての物を更に乾燥させねば止まない。
雨がまれにしんみり降っても、西風は朝から一日、青い常緑樹の葉さえどろの中へねじ切ってまき散らすほどふき募れば、それだけで土はもうほとんどかわいてしまうのである。
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雨が稀にしんみりと降つても西風は朝から一日青い常緑木の葉をも泥の中へ拗切つて撒布らす程吹き募れば、それだけで土はもう殆んど乾かされるのである。
土が保つべき水分がそれほど蒸発しても、その風がふきわたるあいだは、西風はけっして空に一てきの雨さえ降らせない。
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土が保有すべき水分がそれ程蒸發し盡しても其の吹き渡る間は西風は決して空に一滴の雨さへ催させぬ。
それでもさすがに深く水をたくわえている土は、あかのような表面だけをかき払って行く強い風にはかんたんに力を失わないで、夜がふければいくらでも空気中の水分を細かく結しょうにして、いっぱいに白く引きつける。
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それでも有繋に深く水を藏して居る土は垢の如き表皮のみを掻き拂つて行く疾風の爲には容易に其の力を失はないで、夜が更ければ幾らでも空氣中に保たれた水分を微細に結晶させて一杯に白く引きつける。
土が夜通しそういうはたらきをしたばかりに、日は夜明けの空から横に、そしてななめにその霜をとかして、西風はすぐにそれをかわかして、むごく表面の土のほこりを空へふきまくる。
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土が徹宵さういふ作用を營んだばかりに、日は拂曉の空から横にさうして斜に其の霜を解かして、西風は直にそれを乾かして残酷に表土の埃を空中に吹き捲くる。
その力がはげしいほど夜明けの霜が白く、それが白いほど、乱れて飛ぶからすのような群れ雲を遠い西の山の頂につれて、強い風はかけるのである。
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其の力が烈しい程拂曉の霜が白く、其れが白い程亂れて飛ぶ鴉の如き簇雲を遠い西山の頂巓に伴うて疾風は驅るのである。
両方がつかれきって勢いを使い果たす季節の変わり目を見るまでは、その争いは止むことがない。
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兩方が疲憊して勢を消耗する季節の變化を見るまでは其の爭ひは止むことがない。
その日も、ほこりが空をこがして立った。
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其の日も埃が天を焦して立つた。
そのほこりは黄茶色で、きりのように地上のすべてをおおい、そして包んだ。
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其の埃は黄褐色で霧の如く地上の凡てを掩ひ且つ包んだ。
雑木林はいっせいにななめにかたむこうとして、えだは曲線をえがいた。
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雜木林は一齊に斜に傾かうとして梢は彎曲を描いた。
木々はみなたがいに泣いてささやきながら、いくらか日の明るさもさえぎっているその濃いきりからのがれようとするように、絶え間なくさわいだ。
原文を見る
樹木は皆互に泣いて囁きながら、幾らか日の明るさをも妨げて居る其の濃霧から遁れようとするやうに間斷なく騷いだ。
きりはみじめなすべての物をたがいに知らせまいとしてふき立ちふき立ち、数十間のきょりでは、その物の形さえはっきり見せない。
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霧は悲慘な凡ての物を互に知らせまいとして吹き立ち/\數十間の距離に於ては其の物體の形状をも明かに示さない。
雑木林の木々は、開こん地のまわりでも入り乱れた。
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雜木林の樹木は開墾地の周圍にも混亂した。
しかし勘次が目を向けているのは、足のつま先二、三尺の、今くわで切り取ってはるか後ろへ引いて、そっと捨てたあとの一点である。
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然し勘次が目を放つて居るのは足の爪先二三尺の、今唐鍬を以て伐去つて遙に後へ引いてそつと棄てた趾の一點である。
ほこりは、土がいくらでもしめっている彼の足元からは立たなかった。
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埃は土に幾らでも濕ひを持つた彼の足もとからは立たなかつた。
おつぎは、勘次が起こしたかたまりを一つ一つ万能ぐわの背でたたいて、さらりとくずして平らにならしている。
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おつぎは勘次が起した塊を一つ/\に萬能の脊で叩いてさらりと解して平にならして居る。
軽い土から固まったかたまりは、くずせばすぐにふき払われた。
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輕鬆な土から凝集つて居た塊は解せば直に吹き拂はれた。
おつぎは、正面からほこりを受けるので、遠くからふきつける土や砂がほおを走って不快だった。
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おつぎは當面に埃を受けるのには遠く吹きつける土砂が頬を走つて不快であつた。
手ぬぐいのはしをまくって、あびるほこりのために髪の毛が荒れるのをひどくきらった。
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手拭の端を捲くつて沿びせる埃の爲に髮の毛の荒れるのを酷く嫌つた。
それでも、その手元はいいかげんではなかった。
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それでも其手もとは疎略ではなかつた。
勘次は矢立のようなかたい体をのばし曲げして、一歩一歩と進んだ。
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勘次は矢立の如き硬直な身體を伸長し屈曲させて一歩/\と運んだ。
彼はまわりで数えきれない木々が泣いてささやくのを、耳に入れなかった。
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彼は周圍に無數な樹木の泣いて囁くのを耳に入れなかつた。
その上、彼は自分の耳が鳴るのさえ気づかないほど、けんめいにくわを打った。
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加之彼は自分の耳朶に鳴るさへ心づかぬ程懸命に唐鍬を打つた。
彼は体じゅうに汗をかいていた。
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彼は滿身に汗して居た。
卯平は、ひまをおしがる勘次がくわを取って出たとき、朝ごはんの後の口をうるさく鳴らしながら、火ばちの前にどっかりとすわっていた。
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卯平は暇を惜しがる勘次が唐鍬を執て出た時朝餉の後の口を五月蠅く鳴らしながら火鉢の前にどつかりと坐つて居た。
やぶれた草ぶきの家をゆさぶって、西風がごうっと打ちつけて来たときには、火ばちのうずみ火はまだ白く灰の皮をかぶって暖かかった。
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破れた草葺の家をゆさぶつて西風がごうつと打ちつけて來た時には火鉢の煨はまだ白く灰の皮を被つて暖かゝつた。
天井もない屋根裏から、すすがかすかにさらさらと散って、ときどきぽつりと固まったまま落ちた。
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天井もない屋根裏から煤が微かにさら/\と散つて、時々ぽつりと凝集つた儘に落ちた。
高い木がさえぎって立って、そのえだに青い空を見せている庭にさえ、強い風のおどろくほど手回しのいい手がふくろの口を解いてさかさまにしたように、ほこりが満ちてさらさらとしずんだ。
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喬木が遮り立つて其の梢に蒼い空を見せて居る庭へすら疾風の驚くべき周到な手が袋の口を解いて倒にしたやうに埃が滿ちてさら/\と沈んだ。
一日そうして止めどもなくかけて行く巨人のつま先には、この平らな田や畑や山林のあいだにはさまっている村々の草ぶきの家は、すべて落ち葉を持ち上げて出たきのこのような、小さくてみじめな物にちがいなかった。
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一日さうして止め處もなく駈つて行く巨人の爪先には此の平坦な田や畑や山林の間に介在して居る各村落の茅屋は悉く落葉を擡げて出た茸のやうな小さな悲慘な物でなければならなかつた。
それぞれの真上を中心にして空にこをえがいた、そのふちの外の横に、それからななめに見える広く遠い空は、黄茶色のきりのようなほこりのために、ただほのおに焼かれたようである。
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各自の直上を中心點にして空に弧を描いた其の輪郭外の横にそれから斜に見える廣く且つ遠い空は黄褐色な霧の如き埃の爲に只熖に燒かれたやうである。
卯平は自分の小屋に体を縮めた。
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卯平は自分の小屋に身を窄めた。
しばらく彼の火ばちから立って、せまいかべからかべにぶつかってさまよい出たうすいけむりが、強い風のためにすぐにごうっとけ散らされてしまった。
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暫く彼の火鉢から立つて、狹い壁から壁に衡突つて彷徨ひ出た薄い煙が疾風の爲に直ぐにごうつと蹴散らされて畢つた。
せまい小屋の中は、それからまたしずんだ。
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狹い小屋の内はそれから復た沈んだ。
卯平は少し開いた戸口から、その小さくしかめた目で外を見た。
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卯平は少し開いた戸口から其の小さく蹙めた目で外を見た。
せまい庭の先に、こよりを植えたような桑畑のかわききった軽い土が、黄茶色のきりの中へふき上がって行くのが見える。
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狹い庭の先に紙捻を植ゑたやうな桑畑の乾燥しきつた輕鬆な土が黄褐色な霧の中へ吹つ立つて行くのが見える。
そして南の家は、とてもぼんやりとその形が現れて、また見えなくなった。
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さうして南の家は極めてぼんやりとして其の形態が現はれて又隱れた。
くりの木のそばに木のえだをくいに打ってこしらえたかぎの手に引っかけたはねつるべが、ごうっとふくたびにぐらりぐらりと動いて、つるべが外れそうになっては外れまいとして、争ってさわいでいる。
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栗の木の側に木の枝を杙に打つて拵へた鍵の手へ引つ掛けた桔槹が、ごうつと吹く毎にぐらり/\と動いて釣瓶が外れ相にしては外れまいとして爭うて騷いで居る。
卯平は、彼のぼんやりした心がそこにつながれたように、つるべを見つめた。
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卯平は彼ぼんやりした心が其處へ繋がれたやうに釣瓶を凝視した。
彼はしばらくしてから庭に立った。
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彼は暫くしてから庭に立つた。
彼はそのくせの舌を鳴らしながら、つるべに手をかけた。
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彼は其癖の舌を鳴らしながら釣瓶へ手を掛けた。
つるべの底には、わずかに残った水にほこりがひたされてしずんでいた。
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釣瓶の底には僅に保たれた水に埃が浸されて沈んで居た。
外側は青いこけのままかわいていた。
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外側は青い苔の儘に乾燥して居た。
彼はかぎの手のくいを両手に持って、その大きな体の重さをかけて、上から押さえてみた。
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彼は鍵の手の杙を兩手に持つて其大きな身體の重量を加へて竪に壓へて見た。
小さなくいは、毎日水でやわらかくなっている土へ、ぐっと深く入った。
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小さな杙は毎日水の爲に軟かにされて居る土へぐつと深くはひつた。
かぎの手は深くつるべの内側に入っていたので、さっきよりしっかりとつるべを引き止めた。
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鍵の手は深く釣瓶の内側を覗いて居たので先刻よりも確乎と釣瓶を引き止めた。
彼はそれからせまい戸口をぴたりと閉めて、かわいた手足を汚いふとんに包んで、ごろりと横になった。
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彼はそれから狹い戸口をぴたりと閉して枯燥した手足を穢い蒲團に包んでごろりと横に成つた。
昼ごはんに勘次がもどって、また口の中のあらいごはんつぶをかみながら走って行った後へ、与吉は鼻おのゆるんだ下駄をからからと引きずって、学校から帰って来た。
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午餐に勘次が戻つて、復口中の粗剛い飯粒を噛みながら走つた後へ與吉は鼻緒の緩んだ下駄をから/\と引きずつて學校から歸つて來た。
足袋もはかない足の甲が、さめの皮のようにばりばりとあかぎれだらけになっている。
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足袋も穿かぬ足の甲が鮫の皮のやうにばり/\と皹だらけに成つて居る。
彼はまだ冷めきらない茶がまの湯をくんで、しきりにごはんをかき込んだ。
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彼はまだ冷め切らぬ茶釜の湯を汲んで頻りに飯を掻込んだ。
赤くしめった二本のすじを伝って冷たくたれた洟を、彼はすすりながら、はしを持ちかえてしるわんの塩からいほし納豆をつまんで口へ入れたり、茶わんの中へまいたりして、何ばいものごはんを盛った。
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粘膜のやうに赤く濕ひを持つた二つの道筋を傳ひて冷たく垂れた洟を彼は啜りながら、箸を横に持ち換へて汁椀の鹽辛い干納豆を抓んで口へ入れたり茶碗の中へ撒いたりして幾杯かの飯を盛つた。
ごはんつぶは茶わんから彼の胸を伝って、土間へぼろぼろと落ちた。
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飯粒は茶碗から彼の胸を傳ひて土間へぼろ/\と落ちた。
彼は土間に立ったままで食べていた。
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彼は土間に立つた儘喫べて居た。
彼はごはんつぶが少し底に残った茶わんをおぜんの上にころがして、ばたりと飯だいのふたをした。
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彼は飯粒の少し底に残つた茶碗を膳の上に轉がしてばたりと飯臺の蓋をした。
卯平は横になったままで、おつぎが呼んだときに来なかった。
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卯平は横臥した儘でおつぎが喚んだ時に來なかつた。
おつぎがもう一度声をかけて開こん地へ出てからも、彼はしばらくだるい体をふとんから起こさなかった。
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おつぎが再び聲を掛けて開墾地へ出てからも彼は暫く懶い身體を蒲團から起さなかつた。
彼がふと思い出したようにせまい戸口を開けて、明るい外のほこりに目をしかめて出て行ったとき、与吉はあわただしく飯だいのふたをしたところだった。
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彼がふと思ひ出したやうに狹い戸口を開けて明るい外の埃に目を蹙めて出て行つた時與吉は慌しく飯臺の蓋をした處であつた。
「お前は、今日はどうしてそんなに早いんだい」
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「汝りや、今日はどうしてさうえに早えんでえ」
卯平は太い低い声で聞いた。
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卯平は太い低い聲で聞いた。
「ああ」
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「あゝ」
と、与吉はくちびるをそらして洟をすすりながら
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と與吉は脣を反らして洟を啜りながら
「先生がそんでも、明日は日曜だからこれっきりで帰ってもいいと言ったんだ」
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「先生そんでも、明日は日曜だから此れつ切で歸つてもえゝつちつたんだ」
「昼ごはんは食ったか」
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「午餐くつたか」
卯平はのっそりと飯だいのそばに近づいた。
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卯平はのつそりと飯臺の側に近づいた。
「お前は、爺さんが、おぜんへこんなにこぼして」
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「汝りや、爺が膳さかうだに滾して」
と、彼はさっきより低い声で
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と彼は先刻よりも低い聲で
「おとっつあんに見られたら怒られるから」
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「おとつゝあに見らつたら怒られつから」
こう言って、また
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斯ういつて又
「お前らのおとっつあんは怒りんぼうだから」
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「汝ツ等おとつゝあは怒りつ坊だから」
と、しずんでつぶやくように言った。
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と沈んで呟くやうにいつた。
彼はおぜんの上に散っているごはんつぶを一つ一つつまんで、それからほし納豆も、一つ一つしるわんの中へ入れた。
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彼は膳の上に散つて居る飯粒を一つ/\に撮んで、それから干納豆は此れも一つ/\に汁椀の中へ入れた。
しるわんは手に取って、わんの腹を左の手に軽く打ちつけるようにして、納豆を平らにした。
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汁椀は手に取つて、椀の腹を左の手に輕く打ちつけるやうにして納豆を平にした。
おつぎは昼ごはんの後で開こん地へ出るとき、おかずのほし納豆をしるわんへ入れて、彼のためにおぜんを置いて行ったのである。
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おつぎは午餐から開墾地へ出る時、菜にする干納豆を汁椀へ入て彼の爲に膳を据ゑて行つたのである。
与吉はえんりょもなく、そのおぜんに向かったのである。
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與吉は遠慮もなく其の膳に向つたのである。
卯平は飯だいのふたを開けて見たが、暖かみがないので彼はためらった。
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卯平は飯臺の蓋を開けて見たが暖味がないので彼は躊躇した。
茶がまのふたを取ってみたが、ふたの裏からはだらだらとしずくがたれて、わずかにゆげが立った。
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茶釜の蓋をとつて見たが、蓋の裏からはだら/\と滴りが垂れて僅かに水蒸氣が立つた。
茶がまは冷めていたのである。
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茶釜は冷めて居たのである。
それほどおなかがすいていない彼は、はしを取るのがいやになった。
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それ程に空腹を感ぜぬ彼は箸を執るのが厭になつた。
彼は体がとても冷えていることに気づいた。
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彼は身體が非常に冷えて居ることを知つた。
それに右の手が肩のあたりでこわばったようで、動かし方によってはきゃきゃと痛みを感じた。
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それに右の手が肩のあたりで硬ばつたやうで動かしやうによつてはきや/\と疼痛を覺えた。
彼は病気がそこに集まったのではないかと思った。
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彼は病氣が其處に聚つたのではないかと思つた。
それがねているあいだの体の置き方で一時おかしくなったのかどうか分からないのに、彼はただ病気のせいだと決めてしまった。
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それが睡眠中の身體の置きやうで一時の變調を來したのだかどうだか分らないにも拘はらず、彼は唯病氣故だと極めて畢つた。
決めたというより、彼のはかないひがんだ心には、そう考えるよりほかなかったのである。
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極めたといふよりも彼の果敢ない僻んだ心にはさう判斷するより外何もなかつたのである。
彼の心は、ひたすら自分をみじめなほうへ考えていれば、それで済んでいたのである。
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彼の心は只管自分を悲慘な方面に解釋して居ればそれで濟んで居るのであつた。
彼のやつれた体から、その手がひどく自由を失ったように感じられた。
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彼の窶れた身體から其の手が酷く自由を失つたやうに感ぜられた。
手は軽くしびれたようになっていた。
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手は輕く痺れたやうになつて居た。
彼は冷えた体に暖かさを求めて、茶がまをかけたかまどの前にだるい体をすえてうずくまった。
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彼は冷えた身體に暖氣を欲して、茶釜を掛けた竈の前に懶い身體を据ゑて蹲裾つた。
彼はさらに、熱いお茶が一ぱい飲みたかったのである。
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彼は更らに熱い茶の一杯が飮みたかつたのである。
彼はかまどの底にしっとりと落ち着いた灰に近づいて、手をかざしてみた。
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彼は竈の底にしつとりと落ちついた灰に接近して手を翳して見た。
まだやわらかく白い灰は、かすかに暖かかった。
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まだ軟かに白い灰は微に暖かゝつた。
彼はそれから大きなかごの落ち葉をつかみ出して、茶がまの下に突っこんだ。
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彼はそれから大籠の落葉を攫み出して茶釜の下に突込んだ。
与吉もそばから小さな手でつかんで投げた。
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與吉も側から小さな手で攫んで投げた。
卯平の足元には、灰をおおって落ち葉が散らばった。
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卯平の足もとには灰を掩うて落葉が散亂した。
落ち葉は卯平の着物にもついた。
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落葉は卯平の衣物にも止つた。
卯平は竹の火ばしの先で落ち葉を少しどけるようにして灰をかき立ててみても、火はもうぽっちりともなかったのである。
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卯平は竹の火箸の光で落葉を少し透すやうにして灰を掻き立てゝ見ても火はもうぽつちりともなかつたのである。
彼はそれからマッチをさがしてみたが、どこにも見つからなかった。
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彼はそれから燐寸を深して見たが何處にも見出されなかつた。
彼は自分のマッチを取りに、せまい戸口へ与吉をやろうとした。
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彼は自分の燐寸を探しに狹い戸口へ與吉をやらうとした。
与吉は甘えてことわった。
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與吉は甘えて否んだ。
彼はどうしても、だるい体を運ばなければならなかった。
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彼はどうしても懶い身體を運ばねばならなかつた。
卯平の手元は、よほどくるっていた。
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卯平の手もとは餘程狂つて居た。
彼はすっとマッチをすったが、その火は手が落ち葉にとどくまでには、かすかなけむりを立てて消えた。
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彼はすつと燐寸を擦つたが其の火は手が落葉に達するまでには微かな煙を立てゝ消えた。
マッチはそうして五、六本捨てられた。
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燐寸はさうして五六本棄てられた。
与吉はその不自由な手からマッチをうばうようにして、火をつけてみた。
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與吉は其の不自由な手から燐寸を奪ふやうにして火を點けて見た。
卯平は与吉のするままにして、丸太のはしを切りはなした腰かけに体をすえて、そのやつれたやわらかな目をしかめていた。
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卯平は與吉のする儘にして、丸太の端を切り放した腰掛に身體を据ゑて其の窶れた軟かな目を蹙めて居た。
慌てた与吉の手は、その軸の先からむだに毛のようなけむりを立てるばかりだった。
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慌てた與吉の手は其の軸木の先から徒らに毛のやうな煙を立てるのみであつた。
彼はじれて、卯平の足元の灰へマッチの箱を投げた。
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彼は焦躁れて卯平の足もとの灰へ燐寸の箱を投げた。
箱はからりと鳴った。
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箱はからりと鳴つた。
箱の底は、もう見えていたのである。
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箱の底はもう見えて居たのである。
卯平は目をしかめたままマッチを取って、またすっとすって、ゆっくりと軸をさかさまにして、その白い軸を包んで燃え上がろうとする小さな火を、かわいた大きな手で包んで、大事そうにのぞいた。
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卯平は目を蹙めた儘燐寸をとつて復すつと擦つて、ゆつくりと軸木を倒にして其の白い軸木を包んで燃え昇らうとする小さな火を枯燥した大きな手で包んで、大事相に覗いた。
それがまた二、三度くり返された。
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それが復二三度反覆された。
手の内側がぼんやりとして、それからだんだん明るくなって、火はやっと保たれた。
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手の内側がぼんやりとしてそれから段々に明るく成つて火は漸く保たれた。
茶がまの底にふれるほど突っこまれた落ち葉には、こうして火がつけられた。
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茶釜の底に觸れるばかりに突込まれた落葉には斯うして火が點けられた。
落ち葉には灰のきわから、その外側を伝って火がべろべろとわたった。
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落葉には灰際から其の外側を傳ひて火がべろ/\と渡つた。
卯平は不自由な手の火ばしで、落ち葉をすかした。
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卯平は不自由な手の火箸で落葉を透した。
火はすばやくその命を取りもどした。
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火は迅速に其の生命を恢復した。
彼らのためにふだんほとんど半分以上をむだに使われているほのおが、かまどの口からめくれて立った。
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彼等の爲に平生殆んど半以上を無駄に使はれて居る焔が竈の口から捲れて立つた。
しかしそのよけいにもれて出るほのおが、彼の自由を失ってこおろうとしている手を暖めた。
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然し其の餘計に洩れて出る焔が彼の自由を失うて凍らうとして居る手を暖めた。
彼は横にころがした大きなかごからかさかさとかき出しては、燃えやすい落ち葉を絶え間なく足した。
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彼は横に轉がした大籠からかさ/\と掻き出しては燃え易い落葉を間斷なく足した。
与吉は卯平のそばから、ななめに手を出していた。
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與吉は卯平の側から斜に手を出して居た。
卯平は与吉の小さな足の甲へ、そっと手をふれてみた。
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卯平は與吉の小さな足の甲へそつと手を觸れて見た。
手も足も、どちらもざらざらとこそばゆかった。
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手も足も孰もざら/\とこそつぱかつた。
与吉はななめに体を置くのが少し窮くつだったのと、小言を言われなければただいたずらをしてみたいのとで、そばのかまどの口へ別に自分で落ち葉の火をつけた。
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與吉は斜に身を置くのが少し窮屈であつたのと、叱言がなければ唯惡戲をして見たいのとで側な竈の口へ別に自分で落葉の火を點けた。
針金のような火をちらりとつけた落ち葉が、一まい一まいけむりとともに軽くのぼった。
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針金のやうな火をちらりと持つた落葉の一ひら/\が煙と共に輕く騰つた。
落ち葉はすぐに白い灰に変わって、さらにいくつかに分かれて、与吉の髪から卯平の白髪に散った。
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落葉は直ぐに白い灰に化つて更に幾つかに分れて與吉の頭髮から卯平の白髮に散つた。
けむりの中には、その白い灰が後から後から立ってはまた落ちた。
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煙の中には其の白い灰が後から/\と立て落ちた。
与吉はいつも、仲間といっしょに道ばたのかれ芝に火をつけて、それが黒いあとを残してめろめろと燃え広がるのを見るのが、楽しくてならなかった。
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與吉はいつも彼等の伴侶と共に路傍の枯芝に火を點じて、それが黒い趾を残してめろめろと燃え擴がるのを見るのが愉快でならなかつた。
彼はまた、火が野茨の株に燃え移って、そこにしげったちがやを焼いてほのおが一本の柱になると、よろこびとおどろきの入りまじった声を上げて痛快にさけびながら、ついにはそこにこわさが加われば、棒でたたいたり土くれを投げつけたり、または自分たちの着物をぬいでばさりばさりとたたいたりして、その火を消そうと力めるのだった。
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彼は又火が野茨の株に燃え移つて、其處に茂つた茅萱を燒いて焔が一條の柱を立てると、喜悦と驚愕との錯雜した聲を放つて痛快に叫びながら、遂には其處に恐怖が加はれば棒で叩いたり土塊を擲つたり、又は自分等の衣物をとつてぱさり/\と叩いたりして其火を消すことに力めるのであつた。
すばやく、そして気持ちよく変わっていく火が、彼らのいたずら好きな心をどれほどさそったか知れない。
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迅速で且壯快な變化を目前に見せる火が彼等の惡戲好な心をどれ程誘導つたか知れない。
彼は落ち葉をつかんではかまどの口へ投げて、ぼうぼうと燃え上がるほのおに手をかざした。
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彼は落葉を攫んでは竈の口に投じてぼうぼうと燃えあがる焔に手を翳した。
茶がまがちゅうちゅうと少し音を立てて鳴り出したとき、卯平はかわいたように感じていた喉をうるおそうとして、だるいしりを少し上げて、おぜんの上の茶わんへ手をのばした。
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茶釜がちう/\と少し響を立てゝ鳴り出した時卯平は乾びたやうに感じて居た喉を濕さうとして懶い臀を少し起して膳の上の茶碗へ手を伸した。
自由の利かない手が、指先で持った茶わんをころりと落とさせた。
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自由を缺いて居た手が、爪先で持つた茶碗をころりと落させた。
茶わんの底に冷たくなっていた少しの水が、土間へぽっちりと落ちてはねた。
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茶碗の底に冷たく成つて居た少しの水が土間へぽつちりと落ちてはねた。
ごはんつぶもいっしょに散らばった。
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飯粒が共に散らばつた。
彼はまたゆっくりと茶わんを取って、よごれた所を手でこすって、さらに茶がまの熱い湯を注いで、足元の灰へかたむけた。
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彼は又悠長に茶碗をとつて汚れた部分を手でこすつて、更に茶釜の熱湯を注いで足もとの灰へ傾けた。
ふたを取ったので、ほうほうと勢いよく立っているゆげが、ちらちらと白く立って落ちる灰を吸った。
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蓋をとつたのでほう/\と威勢よく立つて居る水蒸氣がちら/\と白く立つて落ちる灰を吸うた。
彼はやっとしゃくしの手を放して、また茶がまのふたをしたとき、急にぼうっと立ったほのおの音を聞いた。
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彼は漸くにして柄杓の手を放つて再び茶釜の蓋をした時俄にぼうつと立つた焔の聲を聞いた。
彼が思わず後ろを見たとき、与吉のおどろいた泣き声が耳を打った。
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彼が思はず後を見た時與吉の驚愕から發せられた泣き聲が耳を打つた。
さかんな火の柱が、すぐ近くで目をふさいで立っていた。
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熾な火の柱が近く目を掩うて立つて居た。
彼はまたすぐに、はげしい熱を顔いっぱいに感じた。
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彼は又直に激しい熱度を顏一杯に感じた。
火は、どうしたはずみか、横にころがした大きなかごの落ち葉に移っていたのである。
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火はどうした機會か横に轉がした大籠の落葉に移つて居たのである。
与吉は初め、野原のいたずらでやるやり方でその火をたたいて消そうとし、またかき出そうとした。
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與吉は初め野外の惡戲に用ゐた手段を以て其の火を叩いて消さうとし又掻き出さうとした。
かわいた落ち葉はすばやく火をさそって彼の横のほおをなめて、彼は思わず声を上げたのである。
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乾燥した落葉は迅速に火を誘導して彼の横頬を舐つて、彼は思はず聲を放つたのである。
卯平は慌ててまた茶わんを落とした。
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卯平は慌てて再び茶碗を落した。
彼はとつぜん、与吉をそばへかきのけた。
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彼は突然與吉を傍に掻き退けた。
彼はそうして無意識に、火になった落ち葉をかき出そうとしたが、自由を失った手のにぶい動きは、その火を消すのに何の役にも立たなかった。
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彼はさうして無意識に火に成つた落葉を掻き出さうとして、自由を失うた手の鈍い運動が其の火を消すに何の功果もなかつた。
彼はほのおのまま、軽い落ち葉のかごを庭へ投げればよかったのである。
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彼は焔の儘に輕い落葉の籠を庭へ投げればよかつたのである。
強い風は必ずその落ち葉を散らして、火は遠くまで燃えながら走るにしても、切れ切れの落ち葉は広い所ですっかりあとかたもなく、消えてしまわなければならないはずだった。
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疾風は必ず其の落葉を散亂せしめて、火は遠く燃えながら走るにしても、片々たる落葉は廣い區域に悉く其の俤をも止めないで消滅して畢はねば成らぬのであつた。
しかしながら、慌てた卯平の手には、こんなかんたんで、しかもいちばんいい方法を取るひまがなかった。
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然しながら慌てた卯平の手は此の如き簡單で且最良である方法を執る暇がなかつた。
火はまた怒って、彼のほおをなめ、彼の手を焼いた。
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火は復怒つて彼の頬を舐り彼の手を燒いた。
彼の目はくらんだ。
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彼の目は昏んだ。
一気に燃え立った落ち葉の火は、それが長くつづかなくても、年老いた卯平の心をうばうには十分すぎた。
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一時に激した落葉の火はそれが久しく持續されなくても老衰した卯平の心を奪ふには餘りあつた。
卯平の目がふたたび見えるようになったときには、火はもう天井のはりに積んだ藁たばの、乱れてのぞいているほ先を伝ってのぼった。
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卯平の視力が再び恢復した時には火は既に天井の梁に積んだ藁束の、亂れて覗いて居る穗先を傳ひて昇つた。
火はかわいた藁たばのまわりをなめて、さらにそのほのおがうす暗い家の中からのがれようとして、屋根裏をはった。
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火は乾燥した藁束の周圍を舐つて、更に其焔が薄闇い家の内から遁れようとして屋根裏を偃うた。
それがすばやい火の力の、一しゅんのはたらきだった。
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それが迅速な火の力の瞬間の活動であつた。
なめた火はさらにこれをかんで、ずたずたにくずれた藁たばはその火を持ったまま、もう勢いのおさまった落ち葉の上にばらばらと乱れ落ちて、そこでまた火の勢いがよみがえった。
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舐つた火は更に此れを噛んでずた/\に崩壞した藁束は其の火を保つた儘既に其の勢ひを沈めた落葉の上にばら/\と亂れ落て其處に復た火勢が恢復された。
ぼんやりして我を忘れていた卯平は、藁の火をあびた。
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惘然として自失して居た卯平は藁の火を浴びた。
彼が慌てて戸口へ逃げ出したとき、火はもう赤い天井を作っていた。
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彼は慌てゝ戸口へ遁げ出した時火は既に赤い天井を造つて居た。
けむりは四方からのきを伝って、むくむくと走っていた。
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煙は四方から檐を傳ひてむく/\と奔つて居た。
へびの舌のようにべろべろと、ほのおがはき出された。
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蛇の舌の如くべろ/\と焔が吐き出された。
ふき募っている強い風は、すぐにその赤い舌をふきねじ切ろうとした。
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吹き募つて居る疾風は直ぐに其赤い舌を吹き拗切らうとした。
後から後から勢いを増してはき出すけむりやほのおは、ほのように押しなびかされた。
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後から/\と勢力を加へて吐き出す煙や焔は穗の如く壓し靡かされた。
火はまたたく間に、ところどころ落ちくぼんだやつれた屋根をすっかり包んでしまった。
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火は瞬間に處々落ち窪んで窶れた屋根を全く包んで畢つた。
卯平は数分前には思いもしなかったこの大変なできごとに気づいたとき、ほとんど気を失って庭にたおれた。
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卯平は數分時の前に豫期しなかつた此の變事を意識した時殆んど喪心して庭に倒れた。
土のかたまりのように動かない彼の体からは、あわれにかすかなけむりが立って、地面をはって消えた。
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土塊の如く動かぬ彼の身體からは憐に微かな煙が立つて地を偃うて消えた。
藁の火をあびたとき、その火がぼろぼろの彼の着物をこがしたのである。
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藁の火を沿びた時其の火が襤褸な彼の衣物を焦したのである。
しかしその火は、おきゅうのようなあとをぽつぽつと残しただけで、着物の芯まで深くはこがさなかった。
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然し其の火は灸の如き跡をぽつ/\と止めたのみで衣物の心部は深く噛まなかつた。
ほこりは彼をこえて走った。
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埃は彼を越えて走つた。
与吉はやけどの痛みをうったえて、独り悲しく泣いた。
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與吉は火傷の疼痛を訴へて獨悲しく泣いた。
強い風はその力をさえぎって包んだほのおをかきのけようとして、その余った力が屋根のふき草をふきまくった。
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疾風は其の威力を遮つて包んだ焔を掻き退けようとして其餘力が屋根の葺草を吹き捲つた。
火はすぐにそのすきまにかみついて、ますますそこで力を強くした。
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火は直に其の空隙に噛み入つて益其處に力を逞しくした。
そそり立って空へかけ上がろうとするほのおを横に押しつけ押しつけ、強い風はついにかたまりのような火の粉をつかんで投げた。
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聳然と空に奔騰しようとする焔を横に壓しつけ/\疾風は遂に塊の如き火の子を攫んで投げた。
そのつぶては、ゆらりゆらりとだけ動いている東どなりの森の木がふわりと受け止めてさえぎった。
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其の礫はゆらり/\とのみ動いて居る東隣の森の木がふはりと受けて遮斷した。
ただ一か所、三角測量台の見通しのじゃまになるといって切り払われたすきまが、それを通した。
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只一部、三角測量臺の見通しに障る爲に切り拂はれた空隙がそれを導いた。
火の粉は、東どなりの主人の屋根のすみにどさりと落ちた。
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火の子は東隣の主人の屋根の一角にどさりと止つた。
勘次の家を包んだ火は、屋根裏のすす竹を一度にはぜさせて、鉄ぽうのような音を立てた。
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勘次の家を包んだ火は屋根裏の煤竹を一時に爆破させて小銃の如き響を立てた。
その音は近所の人たちをおどろかせた。
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其の響は近所の耳を驚かした。
その人たちがかけつけたときには、屋根のむねはどさりと落ちて、強い風にも負けず空中はるかにほのおを上げた。
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其の人々が驅けつけた時は棟はどさりと落ちて、疾風の力を凌いで空中遙に焔を揚げた。
そのときにはもう、東どなりの主人の家を火がべろべろとなめはじめていたのである。
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其の時は既に東隣の主人の家を火がべろ/\と甞めつゝあつたのである。
村の人が万能ぐわやとび口を持って集まったときには、火はすさまじい勢いになっていた。
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村落の者が萬能や鳶口を持つて集まつた時は火は凄まじい勢ひを持つて居た。
それでも大きな建物を焼きつくすには時間がかかった。
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それでも大きな建物を燒盡するには時間を要した。
そのあいだに村の人は手当たりしだいに家財道具を持って、安全な場所へ移した。
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其の間に村落の者は手當り次第に家財を持つて其れを安全の地位に移した。
その点では、真昼の作業は早く、そしてやりやすかった。
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其の點に於て白晝の動作は敏活で且つ容易であつた。
家財道具が門の外に運ばれたとき、火の勢いはもうすべての物が近づくのをゆるさなかった。
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家財道具が門の外に運ばれた時火勢は既に凡ての物の近づくことを許容さなかつた。
家をかこんで、東にもすぎの高い木が立っていた。
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家を圍んで東にも杉の喬木が立つて居た。
森のえだの上にはるかに立ちのぼろうとして、次第に勢いを増すほのおを、強い風はぐるりとかこんだ高い木のえだからごうっと押しつけ押しつけふき下ろした。
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森の梢の上に遙に立ち騰らうとして次第に其の勢ひを加へる焔を、疾風はぐるりと包んだ喬木の梢からごうつと壓しつけ壓しつけ吹き落ちた。
ほのおはななめに、そしてかたむきながら、人々の耳には風の音を消して、ごうごうと鳴りつづいた。
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焔は斜にさうして傾きつゝ、群集の耳には疾風の響を奪つて轟々と鳴り續いた。
ふき下ろす風にさからって力を強くしようとするほのおは、深く木材の芯までしっかりとつめを引っかけた。
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吹き落す疾風に抵抗して其の力を逞しくしようとする焔は深く木材の心部にまで確乎と爪を引つ掛けた。
そしてそのほのおは、近くにそびえたすぎのえだから小えだへかけてつめ先で引っかいた。
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さうして其の焔は近く聳えた杉の梢から枝へ掛けて爪先で引つ掻いた。
そのたびにすぎは針葉樹らしく、やにの多い葉がばりばりとすさまじく鳴って焼けた。
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其の度に杉は針葉樹の特色を現して樹脂多い葉がばり/\と凄じく鳴つて燒けた。
屋根裏の竹がはぜた。
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屋根裏の竹が爆破した。
消火に来た人たちは、ほとんど皮膚を焼かれるような熱さをおそれて、だんだん遠ざかった。
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消防の群集は殆んど皮膚を燒かれるやうな熱さを怖れて段々遠ざかつた。
小さなポンプは、そのさかんなほのおの前でただ一本の細く短い曲がった白い線をえがくだけで、何の効き目も見えなかった。
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小さな喞筒は其熾な焔の前に只一條の細い短い彎曲した白い線を描くのみで何の功果も見えなかつた。
ほかの村の人々が聞き伝えて田んぼや林をこえて、そのあいだにそれぞれ体力を使いながらかけつけるまでには、大きなむねが熱い火を四方にあおって落ちた。
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他の村落の人々が聞き傳へて田圃や林を越えて、其の間に各自の體力を消耗しつゝ驅けつけるまでには大きな棟は熱火を四方に煽つて落ちた。
強い風がこれを押しつけて、まわりの高い木のえだがほかとへだてて、真昼の明るさがその光をうばおうとしているので、空に立って見えるのは遠いようで、近いようで、一種のすさまじさをふくんだけむりである。
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疾風の力が此れを壓しつけて、周圍の喬木の梢が他と隔てゝ白晝の力が其の光を奪はうとして居るので、空に立つて見えるのは遠いやうで且つ近いやうで一種の凄慘な氣を含んだ煙である。
それでも高い木のえだの上に、火はおさえつけられて苦しんでいるようにまれに立ちのぼっては、また押しつけられた。
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それでも喬木の梢の上に火は壓迫に苦んで居るやうに稀に立ち騰つては又壓つけられた。
役に立たないポンプへ人々は水をくむのに、近所のあらゆる井戸はみなつるべが底にとどかなくなった。
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徒勞である喞筒へ群集は水を汲むのに近所の有ゆる井戸は皆釣瓶が屆かなくなつた。
人々はただごうごうと、乱れた音の中でさわぎに満ちていた。
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群集は唯囂々として混亂した響の中に騷擾を極めた。
火の力はこうして、まわりの村までも一つに吸いよせた。
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火の力は此の如くにして周圍の村落をも一つに吸收した。
しかしながら、その人たちは勘次の庭をかえりみようとはしなかった。
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然しながら、其の群集は勘次の庭を顧みようとはしなかつた。
黄茶色のきりで四方をふさがれながら、ひたすらくわを打っていた勘次は、田んぼをわたって林をこえて遠くへ行っていた。
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黄褐色の霧を以て四圍を塞がれつゝ只管に其の唐鍬を打つて居た勘次は田圃を渡つて林を越えて遠く行つて居た。
彼はこの大変なできごとを知るすべがなかった。
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彼は此の凶事を知る理由がなかつた。
開こん地に近い細い道を走って行く人のあわただしいようすを見て、彼は初めてその火を知った。
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開墾地に近い小徑を走つて行く人の慌しい容子を見咎めて彼は始めて其火を知つた。
それが東どなりの主人の家で起きたことを聞かされて、彼はおつぎをせかして立った。
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それが東隣の主人の家に起つたことを聞かされて彼はおつぎを促して立つた。
彼は走り出そうとして、そのしっかり立っていた場所から一歩ふみ出したとき、じゃりっとつま先に当たってさいふが落ちた。
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彼は疾驅しようとして、其の確乎と身を据ゑた位置から一歩を踏み出した時、じやりつと其爪先を打つて財布が落ちた。
彼がふり返ったとき、さいふは二、三歩後ろに見つかった。
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彼が顧みた時財布は二三歩後に發見された。
彼はかんたんな三尺帯を解いて、ぎりっとそこに大きなかたまりのような結び目を作って、そのさいふを包んだ。
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彼は簡單な三尺帶を解いて、ぎりつと其處に大きな塊のやうな結び目を作つて其の財布を包んだ。
彼はほとんど足の力のかぎり走った。
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彼は殆ど其の脚力の及ぶ限り走つた。
彼はおつぎが後についてこないことを気にするひまもなかった。
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彼はおつぎが後に續かぬことを顧慮する暇もなかつた。
彼は主人のことを思ったのである。
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彼は其の主人を懷つたのである。
勘次は後ろの田んぼへ出たとき、きりのようなほこりをへだてて主人の家の森から上がるさかんなけむりを見て、今さらのようにおそろしくなった。
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勘次は後の田圃へ出た時霧の如き埃を隔てゝ主人の家の森から騰る熾な煙を見て今更の如く恐怖した。
彼はまたふと、自分の後ろの林に少し見えていた自分の家のむねが見えないのに、心をさわがせた。
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彼は又ふと自分の後の林に少し見えて居た自分の家の棟が見えないのに其心を騷がせた。
少しも力をゆるめない強い風は、雑木にまじった竹のえだを低く、さらに低くふきなびかせているけれど、むねはどうしても見えなかった。
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毫も其の力を落さぬ疾風は雜木に交つた竹の梢を低くさうして更に低く吹靡けて居れど棟はどうしても見えなかつた。
彼はまたけむりが糸のように、しかもすさまじく自分の林のあたりから立っては押しつけられるのを見た。
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彼は又煙が絲の如く然も凄じく自分の林の邊から立ては壓しつけられるのを見た。
彼が自分の庭に立ったときには、古いすすだらけのそまつな家は焼きつくされて、太い木材がわずかにほのおをはいて立っている。
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彼が自分の庭に立つた時は、古い煤だらけの疎末な建築は燒盡して主要の木材が僅に焔を吐いて立つて居る。
火はまだしつこく木材の芯をかんでいる。
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火は尚ほ執念く木材の心部を噛んで居る。
何でもふき払わなければ止まないという強い風は、赤いうずみ火を包む白い灰を、少しの間も置かずにふきまくった。
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何物をも吹き拂はねば止むまいとする疾風は、赤い煨を包む白い灰を寸時の猶豫をも與へないで吹き捲つた。
芯をかまれつつある木材は、赤い歯を食いしばったような数えきれないひび割れが、火とけむりをはいていた。
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心部を噛まれつゝある木材は赤い齒を喰ひしばつたやうな無數の罅が火と煙とを吐いて居た。
勘次はほとんどぼんやりとして、この急な変わりようを見た。
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勘次は殆んど惘然として此の急激な變化を見た。
彼は足元がよろけるほど、強い風に突かれた。
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彼は足もとが踉蹌る程疾風の手に突かれた。
彼は庭に立って泣いている与吉を見た。
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彼は庭に立つて泣いて居る與吉を見た。
与吉の横のほおについたやけどが、彼の乱れた心をさわがせた。
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與吉の横頬に印した火傷が彼の惑亂した心を騷がせた。
勘次はまた、そのそばに目を閉じて後ろ向きになっている卯平を見た。
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勘次は又其の側に目を瞑つて後向に成つて居る卯平を見た。
卯平は、いつのまにかだれがそうしたのか、むしろの上に横たえられていた。
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卯平は何時の間に誰がさうしたのか筵の上に横たへられてあつた。
彼は少ない白髪を焼かれたやけどのあたりを、手でおおっていた。
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彼は少い白髮を薙ぎ拂つて燒いた火傷のあたりを手で掩うて居た。
「お前はどうしたんだ」
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「汝りやどうしたんだ」
勘次はいそいで聞いた。
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勘次は忙しく聞いた。
「木の葉へ火がくっついたんだ」
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「木の葉へ火くつゝえたんだ」
与吉はむせびながら言った。
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與吉は咽び入りながらいつた。
「お前がいたずらしたんじゃないか」
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「汝でも惡戲したんぢやねえか」
勘次はもどかしそうにはげしく問いつめた。
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勘次は遲緩しげに烈しく追求した。
「おれは爺さんと火に当たってたんだ。そうしたらくっついたんだ」
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「俺ら爺と火あたつてたんだ、さうしたらくつゝかつたんだ」
そう言って、与吉は急に声を上げて泣いた。
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さういつて與吉は俄に聲を放つて泣いた。
彼は何のためにそんなに悲しくなったのか、まだ幼い彼自身にも分からなかった。
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彼は何の爲にさう悲しくなつたのか寧ろ頑是ない彼自身には分らなかつた。
彼はただなみだがこみ上げて、止めどもなく悲しく、しみじみと泣きつづけた。
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彼は只涙がこみあげて止め處もなく悲しくさうしてしみ/″\と泣き續けた。
勘次はそれを聞いた瞬間、肩のくわをころがしてぶつりと土を打った。
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勘次はそれを聞いた瞬間肩の唐鍬を轉がしてぶつりと土を打つた。
くわの刃先は、卯平の頭の近くのむしろのはしをかすめて、深く土に立った。
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唐鍬の刄先は卯平の頭に近く筵の一端を掠つて深く土に立つた。
彼はそれから、焼きつくされていっぱいのうずみ火になった自分の家の近くへかけ寄った。
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彼はそれから燒盡して一杯の煨になつた自分の家に近く駈け寄つた。
彼は火のおそろしい熱さを感じて、しばらくためらって立った。
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彼は火の恐ろしい熱度を感じて少時躊躇して立つた。
後ろの林の、ややうなだれた竹の外側がぐるりと焼かれて色が変わっていたのが、彼の目に映った。
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後の林の稍俛首れた竹の外側がぐるりと燒かれて變色して居たのが彼の目に映じた。
それとともに彼は、となりの森の中で人々がごうごうとさわぐのを耳にして、自分が今何のために走って来たのかに気づいた。
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それと共に彼は隣の森の中の群集の囂々と騷ぐのを耳にして自分が今何の爲に疾走して來たかを心づいた。
しかし彼はもう、その人たちにまじって主人の災難を助けに行く気は起こらなかった。
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然し彼はもう其の群集の間に交つて主人の災厄に赴く心は起らなかつた。
彼はその人たちの声を聞いて、自分では気づかないおさえつけを感じた。
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彼は其の群集の聲を聞いて、自ら意識しない壓迫を感じた。
彼はひどく、自分のあわれでみじめなすがたに泣きたくなった。
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彼は酷く自分の哀つぽい悲慘な姿を泣きたくなつた。
彼は走った後のひどいつかれを感じた。
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彼は疾走した後の異常な疲勞を感じた。
彼は自分の焼けあとをかき回そうとしたが、とび口も万能ぐわもみなその火の中に包まれてしまっていた。
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彼は自分の燒趾を掻き立てようとするのに鳶口も萬能も皆其火の中に包まれて畢つて居た。
彼は素手だった。
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彼は空手であつた。
くわを取って、彼はまた熱い火のそばに立った。
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唐鍬を執つて彼は再び熱い火の側に立つた。
熱さにたえられない火のそばを、彼は飛びのいてまた立った。
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熱さに堪へぬ火の側を彼は飛び退つて又立つた。
彼はその刃先がにぶくなるのを考えるひまもなくくわで、まだ立っている木材を引っかけてたおそうとした。
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彼は其の刃先の鈍く成るのを思ふ暇もなく唐鍬で、また立つて居る木材を引つ掛けて倒さうとした。
おつぎはおくれて、やっとかきねの入口に立った。
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おつぎは後れて漸く垣根の入口に立つた。
おつぎはもう、自分の家がないことを知った。
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おつぎはもう自分の家が無いことを知つた。
貧しい暮らしの中から数年かけてやっとたくわえた何まいかの着物が、もう一きれも残っていないことを知って、心の中で悲しんだ。
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貧窮な生活の間から數年來漸く蓄へた衣類の數點が既に其の一片をも止めないことを知つてさうして心に悲しんだ。
汗がびっしりと髪の生えぎわをぬらして、つかれきった体を、おつぎはしばらくぼんやりと庭に立てた。
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汗がびつしりと髮の生際を浸して疲憊した身體をおつぎは少時惘然と庭に立てた。
おつぎはそれからまた、泣いている与吉と、なきがらのように横たわっている卯平を見た。
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おつぎはそれから又泣いて居る與吉と死骸の如く横はつて居る卯平とを見た。
おつぎは万能ぐわを置いて、与吉のやけどした頭をそっとだいた。
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おつぎは萬能を置いて與吉の火傷した頭部をそつと抱いた。
与吉はまたなみだがこみ上げて、むせびながらしみじみと悲しげに泣いた。
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與吉は復涙がこみあげて咽びながらしみ/″\と悲しげに泣いた。
その声は、聞く人をただ泣きたくさせた。
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其の聲は聞くものを只泣きたくさせた。
つかれたおつぎの目には、ふっとなみだがうかんだ。
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疲れたおつぎの目にはふつと涙が泛んだ。
おつぎはまた、手でおさえた卯平の頭にうたがいの目を向けて、二人の悲しいしるしに思い当たった。
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おつぎは又手で抑へた卯平の頭部に疑ひの目を注いで、二人の悲しむべき記念におもひ至つた。
おつぎは、そのわけを問いつめて聞こうとはしなかった。
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おつぎは其の原因を追求して聞かうとはしなかつた。
おつぎはしみじみと与吉を心の中でいたわって、さらに「爺さん」
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おつぎはしみ/″\と與吉を心に勦つて更に、「爺」
と、卯平のむしろに近づいてそっとひざをついた。
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と卯平の蓆に近づいてそつと膝をついた。
ふだんのおつぎは、勘次とのあいだをつなごうとする苦心からの甘えた言葉が、卯平の心にとどくのだった。
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平生のおつぎは勘次との間を繋がうとする苦心からの甘えた言辭が卯平の心に投ずるのであつた。
今、おつぎの心の中には何の計算もなかった。
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現在おつぎの心裏には何の理窟もなかつた。
ただしみじみと悲しい、いたわしい心からの言葉が、自然にその口から出るのだった。
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只しみ/″\と悲しい痛はしい心からの言辭が自然に其の口から出るのであつた。
おつぎは、まだ燃えている火を忘れたように卯平をこえてのぞいた。
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おつぎは未だ燃えてる火を忘れたやうに卯平を越えて覗いた。
卯平はおつぎの声が耳に入ったので、後ろを向こうとしてわずかに目を開いた。
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卯平はおつぎの聲が耳に入つたので後を向かうとして僅に目を開いた。
地面をかすめて走っているほこりが彼のほおを打って、彼の横たえた体をこえた。
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地を掠つて走りつゝある埃が彼の頬を打つて彼の横たへた身體を越えた。
彼はすぐに元のように目を閉じた。
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彼は直に以前の如く目を閉ぢた。
「爺さんもやけどしたのか」
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「爺も火傷したのか」
おつぎは静かに言って、卯平の手をそっとどけて、左の横のほおについたやけどを見た。
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おつぎは靜にいつて卯平の手をそつと退けて左の横頬に印した火傷を見た。
「痛いか。そんでもたいしたこともないから、心配するなよ」
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「痛てえか、そんでもたえしたこともねえから心配すんなよ」
おつぎは、火に焼かれた汚い卯平の白髪へ、そっと手を当てた。
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おつぎは火に薙ぎ拂はれた穢い卯平の白髮へそつと手を當た。
卯平はおつぎのするままに任せて、少し口を動かすようだったが、またごうっとふきつける風にじゃまされた。
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卯平はおつぎのする儘に任せて少し口を動かすやうであつたが、又ごつと吹きつける疾風に妨げられた。
おつぎはとなりの庭のさわぎを聞いた。
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おつぎは隣の庭の騷擾を聞いた。
しかもそのいろいろなさけびがまじって聞こえる声が、自分の心の芯から何かを引っつかんで行くようで、自然にそれへ耳をすますと、なんだかやるせないようなはかなさを感じてなみだが落ちた。
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然も其種々な叫びの錯雜して聞える聲が自分の心部から或物を引つ攫んで行くやうで、自然にそれへ耳を澄すと何だか遣る瀬のないやうな果敢なさを感じて涙が落ちた。
なみだは卯平の白髪にしたたった。
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涙は卯平の白髮に滴つた。
おつぎが気づいたとき、勘次はむだに、そして発作のように汗を流して動いているのが見えた。
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おつぎが心づいた時勘次は徒らにさうして發作的に汗を垂らして動いて居るのを見た。
おつぎの心もはっと、まだ燃えている火に向いた。
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おつぎの心も屹として未だ燃えつゝある火に移つた。
おつぎは急に自分の万能ぐわを取って、勘次の手ににぎらせた。
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おつぎは俄に自分の萬能を執つて勘次の手に攫ませた。
勘次は初めて気づいて、熱くなったくわを冷やそうとして井戸ばたへ走った。
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勘次は始めて心づいて、熱した唐鍬を冷さうとして井戸端へ走つた。
かぎの手をはなれたつるべは、高く空中にうかんでゆっくりと大きく動いていた。
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鍵の手を離れた釣瓶は高く空中に浮んでゆつくりと大きく動いて居た。
彼は流しのはしにずぶりとくわを投げこんで、また万能ぐわを取った。
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彼は流し尻にずぶりと唐鍬を投じて又萬能を執つた。
一日ふいた強い風がぱたりと力を落としたら、日が西の空の土手のような雲のはしの近くにすわって、次第にしずみながらまたたいた。
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一日吹いた疾風が礑と其の力を落したら、日が西の空の土手のやうな雲の端に近く据つて漸次に沒却しつゝ瞬いた。
その一しゅん、強い光が横から東の森の高い木をさびた橙色に染めて、さらにその光はすきまを遠くまでずっと手をのばした。
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其の一瞬時強烈な光が横に東の森の喬木を錆た橙色に染めて、更に其の光は隙間を遠くずつと手を伸した。
冷たく、そしてうす暗くなるにつれて、焼けあとの火がまわりを明るくした。
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冷たく且薄闇く成るに從つて燒趾の火が周圍を明るくした。
となりの火はほんのりと空をぼかした。
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隣の火はほんのりと空をぼかした。
となりの庭には、自分の村からほかの村から、手おけや飯だいに入れたおにぎりがたくさん運ばれた。
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隣の庭には自分の村落から他の村落から手桶や飯臺へ入れた握り飯が數多く運ばれた。
消火に力をつくした人々は、白いおにぎりをむさぼった。
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消防に力を竭した群集は白い握飯を貪つた。
人々はさらに、ころ合いを見てはぐらぐらと柱を突きたおそうとした。
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群集は更に時分を見計らつてはぐら/\と柱を突き倒さうとした。
丈夫な柱は、まだ火の勢いがあたりを遠ざけて、しっかりと立っていた。
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丈夫な柱はまだ火勢があたりを遠ざけて確乎と立つて居た。
ほかの村の人々は、次第に帰って行った。
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他の村落の人々は漸次に歸り去つた。
自分の村の人々は、交代で残ってさかんな火の番をした。
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自村の人々は交代に残つて熾な火の番をした。
帰る人々がそのついでに勘次の庭へあいさつに立ち寄っただけで、南の家からざるに入れたおにぎりが来ただけだった。
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歸り行く人々が其の序に勘次の庭に挨拶に立つたのみで、南の家から笊へ入れた握飯が來た丈であつた。
彼はそれでも、そのおかげでおなかをすかさずに済んだ。
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彼はそれでも其の爲に空腹を遁れた。
となりの主人からは、しばらくしてその集まったおにぎりの手おけを二つ三つ持たせてよこした。
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隣の主人からは暫くして其の集つた握り飯の手桶を二つ三つ持たせてよこした。
夜になってから、近所の人の手で卯平は念仏寮へ運ばれた。
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夜に成つてから近所の者の手で卯平は念佛寮へ運ばれた。
勘次は卯平を乗せた荷車を引いた。
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勘次は卯平を乘せた荷車を曳いた。
彼はそれからとなりの主人へあいさつに出たが、自分の喉の底で何か言って逃げるように帰った。
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彼はそれから隣の主人へ挨拶に出たが、自分の喉の底で物をいうて逃げるやうに歸つた。
彼はその夜は、三人でこおった空の下、焼けあとの火の気をたよりに明かした。
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彼は其の夜は三人が凍つた空を戴いて燒趾の火氣を手頼りに明かした。
卯平を横たえたむしろは、だれも取りには来なかった。
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卯平を横へた筵は誰も取りには來なかつた。
むしろは三人にすわる場所を与えた。
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筵は三人に席を與へた。
勘次は火事のわけについて、与吉からはっきりしたことを聞き出せなかった。
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勘次は失火に就いて與吉から要領を得なかつた。
しかしながら、彼の悲しみと怒りにたえられない心がせめようとするのを、与吉の泣いて止まないやけどがおさえつけた。
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然しながら彼の悲憤に堪へぬ心が嘖まうとするには與吉の泣いて止まぬ火傷がそれを抑へつけた。
勘次はつかれた。
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勘次は疲れた。
二六
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二六
夜がふけるにつれて、霜は三人のまわりにぴったりくっついて固まろうとしながら、火の力さえおさえつけた。
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夜が深けるに隨つて霜は三人の周圍に密接して凝らうとしつゝ火の力をすら壓しつけた。
彼らは冷めて行く火に、だんだんとむしろを近づけた。
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彼等は冷めて行く火に段々と筵を近づけた。
勘次もおつぎも、うすい仕事着にしんしんとこおる霜の冷たさと、じりじりとこがすような火の熱さを同時に感じた。
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勘次もおつぎも薄い仕事衣にしん/\と凍る霜の冷たさと、ぢり/\と焦すやうな火の熱さとを同時に感じた。
与吉はやけどに、夜の冷たさがしみた。
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與吉は火傷へ夜の冷たさが沁みた。
そうかといって火に当たろうとすれば、なおさらやけどの痛みが増すだけだった。
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さうかといつて火に當らうとするのには猶且火傷の疼痛を加へるだけであつた。
彼は思い出したように泣いては、また泣いた。
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彼は思出したやうに泣いては又泣いた。
ついには泣きつかれて、しくしくとただ声をのんだ。
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遂には泣き疲れてしく/\と只聲を呑んだ。
それがかえって、勘次とおつぎの心をかき乱した。
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それが却て勘次とおつぎの心を掻き亂した。
つかれた二人はうとうととしながら、とうとうねむることができなかった。
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疲れた二人はうと/\としながら到頭眠ることが出來なかつた。
焼けあとに横たわったはりや柱から、まだかすかなけむりを上げながら、次の日は明けた。
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燒趾に横はつた梁や柱からまだ微かな煙を立てつゝ次の日は明けた。
勘次はおつぎを相手に、灰をかき集めるのに一日を使った。
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勘次はおつぎを相手に灰燼を掻き集めることに一日を費した。
手おけの冷たいおにぎりが、たよりない三人のおなかを満たした。
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手桶の冷たい握飯が手頼ない三人の口を糊した。
勘次は炭のようになったやせた柱やはりを、かきねのそばに積んだ。
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勘次は炭のやうに成つた痩せた柱や梁を垣根の側に積んだ。
彼はその新しい手おけへ水をくんで、まだ火のありそうなはりや柱にばしゃりとその水をかけた。
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彼は其の新しい手桶へ水を汲んでまだ火の有り相な梁や柱へばしやりと其の水を掛けた。
彼は灰をかき集めて、ところどころ円すいの形の小山を作った。
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彼は灰を掻き集めて處々圓錘形の小山を作つた。
彼は灰の中からなべやかまや鉄びんやそのほかの道具を、だんだんと万能ぐわの先でかき出した。
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彼は灰燼の中から鍋や釜や鐵瓶や其の他の器物をだん/\と萬能の先から掻き出した。
鉄の道具は形を保っていても、まるで何年も使わずに捨ててあった物のように変わっていた。
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鐵製の器物は其の形を保つて居ても悉皆幾年も使はずに捨てあつたものゝやうに變つて居た。
彼はそれをそっと大事にそばへ集めた。
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彼はそれをそつと大事に傍へ聚めた。
茶わんや皿や、すべての焼き物は熱い火で割れてしまって、一つも使える物はなかった。
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茶碗や皿や凡ての陶磁器は熱火に割ねて畢つて一つでも役に立つものはなかつた。
勘次が赤く焼けた土をわらじの底でだんだんかき払おうとしたとき、黒くこげたような何かがわらじの先にかかった。
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勘次は赤く燒けた土を草鞋の底で段々に掻つ拂かうとした時、黒く焦げたやうな或物が草鞋の先に掛つた。
焼けて色の変わった銅貨が少し固まったようになったのが、足にふれてぞろりとはなれた。
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燒けて變色した銅貨の少し凝つたやうになつたのが足に觸れてぞろりと離れた。
彼はまわりをひょいと見た。
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彼は周圍にひよつと目を放つた。
彼の目に入るのは、これもいっしんに灰のかたづけをしているおつぎのほかにはなかった。
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彼の目に入るものは此も一心に灰の始末をして居るおつぎの外にはなかつた。
彼は銅貨をそっと竹の林のそばへ持って行った。
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彼は銅貨を竊と竹の林の側へ持つて行つた。
彼はぎりっとしばった三尺帯を解いて、さいふをくくった結び目に歯をかけて、やっとそのさいふを取り出した。
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彼はぎりつと縛つた三尺帶を解いて、財布を括つた結び目に齒を掛けて漸く其財布を取り出した。
焼けた銅貨を彼はさいふへ投げこんで、またぎりっと腰へくくった。
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燒けた銅貨を彼は財布へ投げ込んで復たぎりつと腰へ括つた。
彼はそうしてまた、きょろきょろとまわりを見た。
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彼はさうして再びきよろ/\と周圍を見た。
勘次はいくつかの小山にした灰へ、藁や粟のくきでしっかりとふたをした。
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勘次は幾つかの小山を形づくつた灰へ藁や粟幹でしつかと蓋をした。
彼はそれを田や畑へ持ち出すつもりなので、雨に打たせない工夫である。
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彼はそれを田や畑へ持ち出さうとしたので、雨に打たせぬ工夫である。
その藁や粟のくきは、近所の人からもらった。
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其の藁や粟幹は近所の手から與へられた。
彼は住む家を失った二日目に、初めて近所づきあいのありがたさを知った。
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彼は住居を失つた第二日目に始めて近隣の交誼を知つた。
南の家の女房は、古い薬かんと茶わんを持って来てくれた。
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南の女房は古い藥鑵と茶碗とを持つて來てくれた。
勘次はふだん何とも思わなかったこれらの道具に、しみじみと便利さを感じた。
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勘次は平生何とも思はなかつた此れ等の器物にしみ/″\と便利を感じた。
彼は薬かんのまだ熱い湯を茶わんに注いで、彼らが体を落ち着けるたった一まいのむしろのはしで休んだ。
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彼は藥鑵のまだ熱い湯を茶碗に注いで彼等の身を落ちつける唯一枚の筵の端に憩うた。
急にがらんとした焼けあとを区切って立っている後ろの林の竹は、外側がぐるりとかれて、こげたえだが青いえだをおおって、みきは火の近かった所は油をふいて、きらきらとなめらかに変わっていた。
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俄に空洞とした燒趾を限つて立つて居る後の林の竹は外側がぐるりと枯れて、焦げた枝が青い枝を掩うて幹は火の近かつた部分は油を吹いてきら/\と滑かに變つて居た。
東どなりの主人の庭には、この日も村の人が大ぜい集まって、大きな焼けあとのかたづけにおわれていた。
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東隣の主人の庭には此の日も村落の者が大勢集まつて大きな燒趾の始末に忙殺された。
それで、その人たちは勘次の庭に手を貸そうとはしなかった。
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それで其人々は勘次の庭に手を藉さうとはしなかつた。
彼らはとなりの主人に対して、ふだんの恩に報いようとするよりも、これから先のことをおそれている。
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彼等は隣の主人に對して平素に報いようとするよりも將來を怖れて居る。
彼らはみな同じように、静かに落ち着いた真昼の庭に立つことが、その家族の目につきやすいことを知っているのである。
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彼等は皆齊しく靜かに落ついた白晝の庭に立ことが其の家族の目に觸れ易いことを知つて居るのである。
勘次はつかれた体を、その日も余念なく働かせた。
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勘次は疲れた身體を其の日も餘念なく使役した。
その夜は、三人が空の下せまいむしろで明かすには、少しでも体を暖める火はもう消えていたのである。
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其の夜は三人が空を戴いて狹い筵に明すのには、僅でも其身體を暖める火は消滅して居たのである。
三人はその夜、南の家に連れて行かれた。
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三人は其夜南の家に導かれた。
勘次もおつぎも、汗と灰とほこりでよごれた体をおふろで洗い落とした。
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勘次もおつぎも汗と灰と埃とに汚れた身體を風呂に洗ひ落した。
気持ちよかったそのおふろが、気づまりな他人の家でも彼らをぐっすりねむらせて、二日間のつかれを忘れさせようとした。
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快よかつた其風呂が氣盡しな他人の家に彼等をぐつすりと熟睡させて二日間の疲勞を忘れさせようとした。
与吉の横のほおは、皮膚がわずかに水ぶくれになってふくれていた。
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與吉の横頬は皮膚が僅に水疱を生じて膨れて居た。
彼はその日は機げんが悪かった。
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彼は其の日の機嫌が惡かつた。
南の家の女房は、その水ぶくれに髪へつけるごまの油をぬってやった。
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南の女房は其の水疱に頭髮へつける胡麻の油を塗つてやつた。
勘次は焼けたくいを地面に立てて、彼にとっていちばん必要な仮の住まいを作った。
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勘次は燒木杙を地に建てゝ彼に第一の要件たる假の住居を造つた。
近所から集めた粟のくきのわずかな材料が、屋根をふく草だった。
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近所から聚めた粟幹の僅少な材料が葺草であつた。
それはやっと雨がもるかもらないかというだけの、うすいふき方だった。
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それは漸と雨の洩るか洩らないだけの薄い葺方であつた。
もちろんかべを塗るひまはない。
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固より壁を塗る暇はない。
あちこちの林のあいだに刈り残された萱やしのを刈って来て、少ない藁とまぜて、かきねでも作るようにそれを内と外から裂いた竹をあてて、ぎっとしめた。
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そこらこゝらの林の間に刈り残された萱や篠を刈つて來て、乏しい藁と交ぜて垣根でも結ふやうにそれを内外から裂いた竹を當てゝぎつと締めた。
彼は南の家から借りたのこぎりで、大小の焼けたくいを切った。
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彼は南の家から借りた鋸で大小の燒木杙を挽切つた。
ついに彼は後ろから焼けた竹を切って来て、すのこのように横にならべて低いゆかを作った。
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遂に彼は後から燒けた竹を伐つて來て簀の子のやうに横へて低い床を造つた。
竹を切ったなたも、彼の持ち物ではなかった。
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竹を伐つた鉈も彼の所有ではなかつた。
彼の、熱い火に焼かれて独りで冷めたなたもかまも、すべての刃物はもう役に立たなかった。
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彼の熱火に燒かれて獨で冷めた鉈も鎌も凡ての刄物はもう役には立たなかつた。
彼の手に無事に残ったのは、彼が自分の手のようにたよりにしているくわだけである。
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彼の手に完全に保たれたものは彼が自分の手を恃んで居る唐鍬のみである。
彼はこのかべもない小屋を作るために、二日ばかりのあいだは少しもほかを気にするひまがないほど、心がいそがしかった。
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彼は此の壁もない小屋を造る爲に二日ばかりの間は毫も他を顧みる暇がなかつた程心が忙しかつた。
彼のみじめなせまい小屋には、薬かんと茶わんと、それから火事の夕方にとなりの主人がくれた新しい手おけだけで、夜にねるのに一まいのふとんもなかった。
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彼の悲慘な狹い小屋には藥鑵と茶碗とそれから火事の夕方に隣の主人がよこした新しい手桶とのみで、夜の身を横へるのに一枚の蒲團もなかつた。
といしでみがかなければ使えないなべやかまは、彼のさらにせまい土間で、むだに場所をふさいでいた。
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砥石を掛けて磨かねば使用に堪へぬ鍋や釜は彼の更に狹い土間に徒らに場所を塞げて居た。
その土間にはまだかんたんないろりさえなくて、彼は火をたくのに三本足の竹を立てて、それに薬かんをかけた。
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其の土間にはまだ簡單な圍爐裏さへなくて、彼は火を焚くのに三本脚の竹を立てゝそれへ藥鑵を掛けた。
おつぎは、ただ勘次の仕事を手伝っていた。
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おつぎは只勘次の仕事を幇けて居た。
しかしそのあいだにも、念仏寮へ運ばれた卯平を忘れてはいなかった。
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然し其の間にも念佛寮へ運ばれた卯平を忘れては居なかつた。
おつぎは火事の次の日に、勘次には黙って念仏寮をのぞいてみた。
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おつぎは火事の次の日に勘次へは默つて念佛寮を覗いて見た。
おつぎは卯平に目に見える形で心づかいをする方法を、何も見つけられなかった。
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おつぎは卯平へ目に見えた心盡をするのに何の方法も見出し得なかつた。
おつぎのふところには一銭もないのである。
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おつぎの懷には一錢もないのである。
おつぎは手おけの底のこおったおにぎりを、焼けあとの炭に火を起こしてきつね色に焼いて、それを二つ三つ前かけにくるんで行ってみた。
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おつぎは手桶の底の凍つた握飯を燒趾の炭に火を起して狐色に燒いてそれを二つ三つ前垂にくるんで行つて見た。
おつぎはこっそりとのぞくようにして見た。
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おつぎはこつそりと覗くやうにして見た。
卯平は、だれがそうしてくれたのか、ただ一人でふとんにゆっくりとくるまっていた。
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卯平は誰がさうしてくれたか唯一人で蒲團にゆつくりとくるまつて居た。
まくら元には小さななべとおぜんが置かれて、おぜんには茶わんが伏せてある。
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枕元には小さな鍋と膳とが置かれて、膳には茶碗が伏せてある。
しるわんも、小皿をかぶせて伏せてある。
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汁椀は此れも小皿を掩うて伏せてある。
卯平はやつれた青い顔をこちらへ向けていた。
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卯平は窶れた蒼い顏をこちらへ向けて居た。
彼はねむっていた。
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彼は眠つて居た。
おつぎは、すやすやと聞こえる息にじっと耳をすませた。
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おつぎはすや/\と聞える呼吸に凝然と耳を澄した。
おつぎはそれから、まくら元のなべのふたを取ってみた。
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おつぎはそれから枕元の鍋蓋をとつて見た。
なべの底には、白いどろりとした米のおかゆがあった。
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鍋の底には白いどろりとした米の粥があつた。
しるわんを取ってみたら、小皿にはひしおが少し乗せてあった。
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汁椀をとつて見たら小皿には醤が少し乘せてあつた。
卯平は冷めた白がゆに、まだ一口もはしをつけたようすがない。
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卯平は冷めた白粥へまだ一口も箸をつけた容子がない。
おつぎは焼いたおにぎりを一つまくら元にそっと置いて、逃げるように帰って来た。
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おつぎは燒いた握飯を一つ枕元にそつと置いて遁げるやうに歸つて來た。
年寄りのするどい目が、とうとう開かなかった。
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老人の敏い目が到頭開かなかつた。
卯平はつかれた心が静まって、やっとぐっすりねむったところだったのである。
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卯平は疲れた心が靜まつて漸く熟睡した處なのであつた。
掘っ立て小屋ができてから、勘次はそれでも近所でなべやかまやそのほかの道具を少しはもらったり借りたりして使った。
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掘立小屋が出來てから勘次はそれでも近所で鍋や釜や其の他の日用品を少しは貰つたり借りたりして使つた。
おつぎはそのあいだ、いっしんに焼けたなべやかまをといしでこすった。
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おつぎは其の間一心に燒けた鍋釜を砥石でこすつた。
竹のゆかにしくむしろが三、四まい、これも近所で古いのを一まいくらいずつくれた。
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竹の床へ數く筵が三四枚、此も近所で古いのを一枚位づつ呉れた。
そうしてからやっと、ふとんが運ばれた。
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さうしてから漸く蒲團が運ばれた。
それは彼がぎっしりと腰にくくったさいふの力だった。
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それは彼がぎつしりと腰に括つた財布の力であつた。
米や麦や味噌が、それでどうにか買えた。
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米や麥や味噌がそれでどうにか工夫が出來た。
彼はこうして、命をつなぐ方法がやっと立った。
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彼は斯うして命を繼ぐ方法が漸と立つた。
二、三日たって、与吉のやけどは水ぶくれがやぶれて、死んだ皮膚の下が少しただれかけた。
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二三日過ぎて與吉の火傷は水疱が破れて死んだ皮膚の下が少し糜爛し掛けた。
勘次は心から、やっとそのきずをいたわった。
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勘次は心から漸く其の瘡痍を勦つた。
彼はふだんになく、それをほうっておけば一生あとが残るのではないかという心配さえ持った。
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彼は平生になくそれを放任つて置けば生涯の畸形に成りはしないかといふ憂をすら懷いた。
そして彼は鬼怒川をこえて、医者の所へ与吉を連れて走った。
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さうして彼は鬼怒川を越えて醫者の許に與吉を連れて走つた。
医者はほほえみをうかべたまま、白いどろりとした薬を焼き物の板の上で練って、それをこってりとガーゼにぬって、やけどをおおってべたりとはって、ぐるぐると白いほうたいをした。
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醫者は微笑を含んだ儘白いどろりとした藥を陶製の板の上で練つて、それをこつてりとガーゼに塗つて、火傷を掩うてべたりと貼てぐる/\と白い繃帶を施した。
手のやけどは横のほおのような痛みもきずもなかったが、医者はそこにもざっとほうたいをした。
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手先の火傷は横頬のやうな疼痛も瘡痍もなかつたが醫者は其處にもざつと繃帶をした。
与吉は目ばかり出して、大げさなすがたになって帰って来た。
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與吉は目ばかり出して大袈裟な姿に成つて歸つて來た。
与吉はほうたいをしてから、痛みも取れた。
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與吉は繃帶をしてから疼痛もとれた。
ほうたいはまた、直接ほかの物とこすれるのをふせいで、彼が気持ちよく村の中を歩き回れるようにした。
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繃帶は又直接他の物との摩擦を防いで、彼に快よく村落の内を彷徨はせた。
ほうたいがかわいていれば五、六日はそのままでいいが、しるがしみ出すようなら明日にでもすぐ来るようにと医者は言ったのだが、しるは運よくぽっちり点をつけただけで、特に広がりもしなかった。
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繃帶が乾いて居れば五六日は棄てゝ置いても好いが、液汁が浸み出すやうならば明日にも直に來るやうにと醫者はいつたのであるが、液汁は幸ひにぱつちりと點を打つたのみで別段擴がりもしなかつた。
おつぎは焼けあとのかたづけのいそがしいあいだにも、ときどき卯平を見に行った。
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おつぎは燒趾の始末の忙しい間にも時々卯平を見た。
しかし卯平をなぐさめるのに一銭のたくわえもないおつぎは、やはり何の方法も見つけられなかったのである。
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然し卯平を慰めるに一錢の蓄へもないおつぎは猶且何の方法も手段も見出し得なかつたのである。
おつぎは、勘次がやっと手に入れたわずかな米をそっと前かけにかくして持って行った。
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おつぎは勘次が漸くにして求めた僅な米を竊と前垂に隱して持つて行つた。
米にはひきわり麦がまじっている。
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米には挽割麥が交つて居る。
おつぎはけっして卯平を満足させられるとは思わなかったが、彼が食べてみようと言えば、おかゆにでもたいてやろうと思ったのである。
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おつぎは決して卯平を滿足させ得ることとは思はなかつたが、彼が喫べて見ようといへば粥にでも炊いてやらうと思つたのである。
しかし、おつぎがはずかしがりながら、それでも仕方なくかくして持って行った米は必要なかった。
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然しおつぎが恥ぢつゝそれでも餘儀なく隱して持つて行つた米の必要はなかつた。
念仏の仲間が代わる代わる少しずつの食べ物を持って来てくれるのを、卯平はきっと残していた。
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念佛の伴侶が交互に少しづゝの食料を持つて來てくれるのを卯平は屹度餘して居た。
「爺さん、そんでもちっとはよくなったようだが、痛くはないかい」
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「爺、そんでもちつた鹽梅よくなつたやうだが、痛かねえけえ」
おつぎは毎度のようにくり返して聞いた。
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おつぎは毎度のやうに反覆して聞いた。
言葉はやわらかで、そしてうるんでいた。
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言辭は軟かでさうして潤んで居た。
卯平のやけどにも、油がぬられてあった。
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卯平の火傷へも油が塗られてあつた。
水ぶくれがいつのまにかやぶれてただれた所を、油は見るからにいやらしく、そして汚くしていた。
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水疱はいつか破れて糜爛した患部を、油は見るから厭はしく且つ穢くして居た。
死んだ細ぼうの下からあざやかに赤く見えはじめた新しい肉は、外からのしげきに少しもたえる力を持たない細ぼうの集まりである。
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死んだ細胞の下から鮮かに赤く見え始めた肉芽は外部の刺戟に對して少しの抵抗力も持つて居ない細胞の集りである。
朝夕の冷たささえ、その敏感な神経をしげきした。
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朝夕の冷たさすら其の過敏な神經を刺戟した。
卯平はいつでも、右の横のほおを上にしているほかなかった。
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卯平は何時でも右の横頬を上にして居る外はなかつた。
「そんなに長くかからなくても治るだろうなあ」
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「さうだにかゝんなくつても癒んべなあ」
おつぎは、油が汚くしたやけどをじっと見ていると自然に目がしかめられて、むしろ自分のきずの様子でも聞くように、卯平のまくらへ口をつけて言った。
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おつぎは、油が穢くした火傷を凝然と見て居ると自然に目が蹙められて、寧ろ自分の瘡痍の經過でも聞くやうに卯平の枕へ口をつけていつた。
「うん」
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「うむ」
という卯平の低くひびく声は、けっしてその言葉のようなかんたんな意味のものではなかった。
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と卯平の低く響く聲が決して其の言辭のやうな簡單な意味のものではなかつた。
「そんでもどうにか家もこしらえたから、爺さんのことも連れて行くよなあ」
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「そんでもどうにか家も拵えたから、爺ことも連れてくべよなあ」
おつぎの声は次第にうるんで低くなった。
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おつぎの聲は漸次に潤んで低くなつた。
卯平はそれでも、おつぎの声を聞くと目を閉じたまま、ほとんどはっきりとは見えないほどのかすかな笑いがうかぶのだった。
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卯平はそれでもおつぎの聲を聞くと目を瞑つた儘、殆ど明瞭とは見られぬやうな微かな笑ひが泛ぶのであつた。
「どういうのを建てた」
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「どうえの建てゝえ」
卯平はさすがに聞きたかった。
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卯平は有繋に聞きたかつた。
「どういうのって爺さんは、焼けた柱を立てただけよ。そんだからかべも塗らないのよ」
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「どうえのつて爺は、燒けた柱掘立てたのよ、そんだから壁も塗んねえのよ」
「そんじゃ、藁か萱でふさいだんでもあろう」
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「そんぢや、藁か萱でおツ塞えたんでもあんびや」
「うん、そうだあ。そんだからさわるとがさがさするんだよ」
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「うむ、さうだあ、そんだから觸つとがさ/\すんだよ」
こう言って、おつぎの声は少しはっきりして来た。
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斯ういつておつぎの聲は少し明瞭として來た。
おつぎははずかしそうなようすをした。
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おつぎは羞を含んだ容子を作つた。
卯平はみじめな焼け小屋を思うと、自分が与吉といっしょにしくじったことが自分を苦しめて、ひどくつらかった。
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卯平は悲慘な燒小屋を思ふと、自分が與吉と共に失錯つたことが自分を苦めて酷く辛かつた。
彼は急に目をしかめた。
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彼は俄に目を蹙めた。
「痛いのか」
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「痛えのか」
おつぎは目ざとくそれを見て、心配そうに言った。
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おつぎは目敏くそれを見て心もとなげにいつた。
おつぎはやつれてしずんだ卯平のそばにいると、つい自分もしずんでしまって、ただじっとすくんだようになっているよりほかなかった。
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おつぎは窶れて沈んだ卯平の側に居ると、遂自分も沈んで畢つて只凝然と悚んだやうに成つて居るより外はなかつた。
それでも、おつぎは長い時間をそうしてむだに使うことはゆるされなかった。
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それでもおつぎは長い時間をさうして空しく費すことは許容されなかつた。
「また来るからな」
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「又來つかんな」
と、おつぎがしずんだ声で言って出て行くと、その後で卯平の目じりからなみだが少しもれて、その小さな玉がしばらくやつれたしわに引っかかって、そしてほろりとまくらに落ちるのだった。
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とおつぎは沈んだ聲でいつて出て行くのを、後で卯平の眥からは涙が少し洩れて、其の小さな玉が暫く窶れた皺に引掛つてさうしてほろりと枕に落ちるのであつた。
勘次は一度も念仏寮をたずねなかった。
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勘次は一度も念佛寮を顧みなかつた。
五、六日たって、与吉はまた医者へ連れて行かれた。
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五六日過ぎて與吉は復た醫者へ連れられた。
医者は汚くなったほうたいを解いて、どろりとした白い薬をまた焼き物の板で練ってはった。
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醫者は穢く成つた繃帶を解いてどろりとした白い藥を復た陶製の板で練つて貼つた。
この前より濃くしてはったから、もうこれで遠い道のりをわざわざ来なくても、これをときどきはってやれば自然にかわいてしまうだろうと、その白い薬と、それからガーゼをふくろに入れてくれた。
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先頃のよりも濃くして貼つたからもう此れで遠い道程を態々來なくても此れを時々貼つてやれば自然に乾いて畢ふだらうと、其の白い藥とそれからガーゼとを袋へ入れてくれた。
与吉は急に元気づいた。
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與吉は俄に勢ひづいた。
彼はときどき、卯平のそばへも行った。
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彼は時々卯平の側へも行つた。
卯平は横になった目に与吉のほうたいを見て、心を痛めた。
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卯平は横臥した目に與吉の繃帶を見て其の心を痛めた。
ある日与吉が行ったとき、この前の念仏のときに卯平にお酒をすすめた小がらなおじいさんが、まくら元にいた。
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或日與吉が行つた時、先頃念佛の時に卯平へ酒を侑めた小柄な爺さんが枕元に居た。
「お前、そんなに気を落とすなよ。これくらいのやけどなんぞどうということはない。おれが治してやるから。どうした、あのときからじゃ痛くはあるまい。あのまじないで火をしずめさえすりゃふしぎだから」
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「おめえ、さうだに力落すなよ、此らつ位な火傷なんぞどうするもんぢやねえ、俺れ癒してやつから、どうした彼ん時からぢや痛かあんめえ、彼の禁厭で火しめしせえすりや奇態だから」
そう言っておじいさんは、仏だんのすみに置いた灯明皿を出して、その油をやけどにぬった。
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さういつて爺さんは佛壇の隅に置いた燈明皿を出して其の油を火傷へ塗つた。
卯平はそのするままに任せて動かなかった。
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卯平は其の爲る儘に任せて動かなかつた。
「気を落としちゃだめだから。おれなんざこんな所じゃない。こっちのうで、馬にかまれたときには、自分で見ちゃいられないって言われたっけが。そんでもおれは自分で手ぬぐいのはしをこう歯でくわえて、ぎいっとしばって、そしておれは馬を引いて来たな。汗は豆つぶくらいのがぼろぼろたれたっけが、そんでもとうとうがまんしちまった。何でも気を落としさえしなけりゃ、治るのはすぐだから。年を取っちゃ治りが遅いの何のって、そんなことはないから」
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「力落しちや駄目だから、俺らなんざこんな處ぢやねえ、こつちな腕、馬に咬つた時にや、自分で見ちやえかねえつて云はつたつけが、そんでも俺れ自分で手拭の端斯う齒で咥えてぎいゝつと縛つて、さうして俺ら馬曳いて來たな、汗は豆粒位なのぼろ/\垂れつけがそんでも到頭我慢しつちやつた、何でも力落しせえしなけりや癒んな直だから、年寄つちや癒りが面倒だの何だのつてそんなこたあねえから」
おじいさんはひたすら卯平の元気を引き立てようとした。
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爺さんは只管卯平の元氣を引立てようとした。
「おれはそんだが、そんなけがをしても馬はにくくはないのよ。馬がおびえるくせがあって、ひひんとさわいだ所へ、おれが手を横へ出しておさえたもんだから、畜生、見境もなくかんだんだからなあ」
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「俺らそんだが、さうえ怪我しても馬は憎かねえのよ、馬に煎れんのが癖でひゝんと騷いだ處俺れ手横さ出して抑えたもんだから畜生見界もなく噛ツたんだからなあ」
と、彼はお酒を飲んではいなかったので声は低かったが、それでも次第に勢いを増していた。
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と彼は酒を飮んでは居なかつたので聲は低かつたが、それでも漸々に勢ひを加へて居た。
「おれは白い薬をはったんだぞ」
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「俺ら白え藥貼つたんだぞ」
与吉はさっきから油をぬった卯平のきずに目を向けていて、こうとつぜんに言った。
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與吉は先刻から油を塗つた卯平の瘡痍に目を注いで居てかう突然にいつた。
「なあに、そんな物なんざはらなくたって、お前らのよりこっちのほうが早く治るから」
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「なあに、さうだ物なんざ貼んねえツたつて汝ツ等がよりやこつちの方が早く癒つから」
小がらなおじいさんは、しばらく手元に置いた油の皿をまた仏だんのすみへしまった。
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小柄な爺さんは暫く手もとへ置いた油の皿を再び佛壇の隅へ藏つた。
「そんでも、おれのことはもう、来なくても治るからいいと言って薬をくれたんだぞ」
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「そんでも俺れこたはあ、來なくつても癒つからえゝつて藥よこしたんだぞ」
与吉は少しはなれて、おずおずと言った。
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與吉は少し間を隔てゝ怖づ/\いつた。
「治るもんかい、お前らが」
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「癒るもんかえ、汝等が」
小がらなおじいさんはからかうようにどなった。
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小柄な爺さんは揶揄ふやうにして呶鳴つた。
「治らあい。そんだって痛くはない、おれらは」
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「癒らあえ、そんだつて痛かねえ俺ツ等」
与吉はおどろいたように言った。
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與吉は驚いたやうにいつた。
「その白い薬というのをくれたのか」
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「其の白え藥だツちのよこしたのか」
卯平はかすかな声で聞いた。
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卯平は微かな聲で聞いた。
「そうなんだわ」
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「さうなんだわ」
「お前は、それ、姉ちゃんにでもはってもらうのか」
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「汝りや、それ姊にでも貼つてもらあのか」
「おれははらない」
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「俺ら貼んねえ」
「そんじゃ薬はどうしたんだい、お前は」
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「そんぢや藥はどうしたんでえ、汝りやあ」
「おとっつあんが持ってるんだから、おれは知らない」
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「おとつゝあ持つてんだから俺ら知んねえ」
与吉は上がりがまちに胸をもたせて、下駄のつま先で土間の土をたたきながら、卯平とこうして何か言葉を交わしたとき
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與吉は上り框に胸を持たせて下駄の爪先で土間の土を叩きながら卯平と斯うして數語を交換した時
「いいから、そんな薬のことなんぞ気にするない。これで治るから」
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「えゝからそんな藥なんぞのこと構えたてんなえ、此れで癒つから」
と、小がらなおじいさんがそばから打ち消した。
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と小柄な爺さんは傍から打ち消した。
「こじき野郎め。お前らの父親は見やがれ、お前のことは医者へ連れて行くお金を持ちやがって、ここへは一度でも来やがらない奴だから、見ろ。それくらいだからばちが当たって丸焼けになっちまうんだ」
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「乞食野郎奴、汝ツ等が親爺は見やがれ、汝こた醫者さ連れてく錢持つてけつかつて、此處さは一度でも來やがんねえ畜生だから、見ろう。其のツ位だから罰當つて丸燒に成つちやあんだ」
と、おじいさんはさらに独りで怒った調子で言った。
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と爺さんは更に獨憤つた語勢を以ていつた。
「おとっつあんは、爺さんに焼かれたって言ってるんだあ」
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「おとつゝあは爺に燒かつたツちツてんだあ」
与吉は勢いにおされてはずかしそうにしながら、やっと言った。
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與吉は勢ひに壓せられて羞むやうにしながら漸といつた。
「お前らの父親めが言ったのか」
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「汝等親爺奴云つたのか」
おじいさんはさらに
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爺さんは更に
「お前は何と言った、それで」
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「汝りや何ちつたそんで」
とどなった。
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と呶鳴つた。
与吉はしょげて、しばらく黙った。
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與吉は悄れて暫く沈默した。
「おれは火に当たってたら木の葉にくっついたんだって言ったんだあ」
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「俺ら火あたつてたら木の葉さくつゝえたんだつて云つたんだあ」
「そう言われても仕方がないよ」
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「さう云はつても仕方ねえよ」
与吉が言い終わらないうちに、卯平が言葉をはさんだ。
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與吉のいひ畢らぬ内に卯平は言辭を挾んだ。
「ばかを言え、燃やしたくて燃やす者があるもんか」
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「箆棒、つん燃したくつて、つん燃すもの有るもんか」
おじいさんは少し興ふんして
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爺さんは少し激して
「まちがいだもの、後で何と言ったって仕方があるもんじゃない」
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「過失だもの後で何ちつたつて仕やうあるもんぢやねえ」
と、独りで力んだ。
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と獨で力んだ。
「そんでも気の毒で来られまいって言ったあ」
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「そんでも氣の毒で來らんめえつて云つたあ」
与吉はぽつりと言った。
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與吉はぽさりといつた。
やや大きくなった彼は、どなるおじいさんの前でこわがったが、また、おさえつけられることにかすかな反発を持っていた。
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稍大きく成つた彼は呶鳴る爺さんの前に恐怖を懷いたが又壓へられることに微かな反抗力を持つて居た。
「爺さんのことを来られまいって言ったのか。姉ちゃんも言ったのかあ」
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「爺こと來らんめえつて云つたのか、姊も云つたのかあ」
「姉ちゃんは言わない。姉ちゃんが爺さんの所へ行くというと、おとっつあんが怒るんだ。そうしたら姉ちゃんが怒られたんだあ」
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「姊は云はねえ、姊爺が處さ行ぐつちとおとつゝあ怒んだ、さうしたら姊に怒らつたんだあ」
与吉は、自分の心に少しのへだてもない卯平の前で、知っていることを自まんするように言った。
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與吉は自分の心に少しの隔てをも有して居らぬ卯平の前に知つてることを矜るやうにいつた。
「お前のことは怒らないのか」
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「汝こた怒んねえのか」
小がらなおじいさんは、与吉のかくさない言葉に少し力んだ勢いがぬけたようになって、こう言った。
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小柄な爺さんは與吉の隱さぬ言辭に少し力んだ勢ひが拔けたやうになつて斯ういつた。
「おれのことは怒らない。おれは怒られたっくらい逃げちまうから」
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「俺れこた怒んねえ、俺ら怒つたつ位遁げつちやあから」
与吉の言うのを聞いて、おじいさんの怒りはやわらいだ。
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與吉のいふのを聞いて爺さんの憤りは和げられた。
卯平は青い顔をして、じっと閉じた目をしかめて聞いていた。
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卯平は蒼い顏をして凝然と瞑つた目を蹙めて聞いて居た。
いろりには、しばの一本もくべてなかった。
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圍爐裏には麁朶の一枝も燻べてなかつた。
三人はしばらくぽつねんとした。
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三人は暫くぽさりとした。
「爺さん、くれないか」
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「爺くんねえか」
与吉はおそるおそる言った。
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與吉は危むやうにいつた。
「お前は何がほしいというんだ」
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「汝りや何欲しいつちんだ」
小がらなおじいさんは、底力のある声を低くして言った。
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小柄な爺さんは底力の有る聲を低くしていつた。
「おれは一銭もないから」
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「俺ら一錢もねえから」
と、卯平はこそばゆい何かが喉につかえたように、ごくりとつばを飲んだ。
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と卯平はこそつぱい或物が喉へ支へたやうにごつくりと唾を嚥んだ。
彼の目のしわが、よけいにぎっとしまった。
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彼の目の皺が餘計にぎつと緊つた。
「おれはまだ、ちっとはあったんだったが、たばこ入れといっしょに焼けちまったから」
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「俺らまあだ、ちつた有つたんだつけが、煙草入と同志に燒えつちやつたから」
彼はぽつりと投げ出すように言った。
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彼はぽさりと投げ出していつた。
「たばこ入れは焼けたって、お金だったら灰をかき払えばあるはずだ。ほかにぬすむ者もあるまいし」
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「煙草入は燒けたつて錢だら灰掻掃けば有る筈だ、外に盜る奴ざ有りやすめえし」
小がらなおじいさんの目は光った。
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小柄な爺さんの目は光つた。
「なあに分からないよ。おつうらが毎日来ていてもその話はないんだから。おれはどうせ治るか何だか分かりやしまいし、要らないな」
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「なあに分んねえよ、おつう等毎日來てゝも其の噺やねえんだから、俺らどうせ癒つか何だか分りやすめえし、要らねえな」
「なあに、おれが聞いてみなくちゃならない。出すも出さないもあるもんか」
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「なあに、俺れ聞いて見なくつちやなんねえ、出すも出さねえも有るもんか」
小がらなおじいさんはつぶやいて
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小柄な爺さんは呟いて
「行けもう。お前は大きな体をして、くれの何のって」
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「行けはあ、汝りや大けえ姿して、呉ろうの何だのつて」
と、与吉をどなりつけた。
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と與吉を呶鳴りつけた。
与吉はすごすごと出て行った。
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與吉は悄々と出て行つた。
卯平は少し目を開いて、与吉の後ろすがたを見た。
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卯平は少し目を開いて與吉の後姿を見た。
なみだが止めどもなく出た。
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涙が止めどもなく出た。
彼はそれをふこうともしなかった。
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彼はそれを拭はうともしなかつた。
二七
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二七
その夜、気温がとても下がった。
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其の夜温度が著るしく下降した。
季節はお彼岸もすぎて四月に入っているのだが、寒さは地面にくっついたようにはなれなかった。
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季節は彼岸も過ぎて四月に入つて居るのであるが、寒さは地に凝りついたやうに離れなかつた。
夜中に卯平はのっそりと起きて、いろりにしばをくべた。
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夜半に卯平はのつそりと起きて圍爐裏に麁朶を燻べた。
ちろちろと鉄びんのしりから燃え上がる火は、まわりの暗やみにつつまれながら、やつれた卯平の顔にほの明るい光をそえた。
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ちろちろと鐵瓶の尻から燃えのぼる火は周圍の闇に包まれながら窶れた卯平の顏にほの明るい光を添へた。
彼は勢いのないほのおの前で目を閉じたまま、ただしずんだ気持ちのままでいた。
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彼は勢ひない焔の前に目を瞑つた儘只沈鬱の状態を保つた。
彼はほとんど動かないようにして、そのままにすればすっと深くしずんでしまうように冷めて行く火へ、ぽちりぽちりとしばを足していた。
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彼は殆んど動かぬやうにして棄てゝ置けばすつと深く沈んで畢つたやうに冷めて行く火へぽちり/\と麁朶を足して居た。
彼はしばらく我を忘れたようにしていて、しばの火がまわりの暗やみにおさえつけられそうになりながらわずかに勢いを保ったとき、彼はすっと立ち上がった。
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彼は暫く自失したやうにして居て麁朶の火が周圍の闇に壓しつけられようとして僅に其の勢ひを保つた時彼はすつと立ち上つた。
彼のただれた横のほおは、もう消えようとしている火のうす明かりにぼんやりとした。
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彼の糜爛した横頬はもう火の氓びようとして居る薄明りにぼんやりとした。
火はげっそりと落ちて、彼のすがたが消え入りそうになった。
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火はげつそりと落ちて彼の姿が消え入らうとした。
彼は戸を開けて、よろけながら出た。
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彼は戸を開けて踉蹌けながら出た。
寒い風が冷たい刃をあびせた。
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寒い風が冷たい刄を浴びせた。
卯平はぞっとした。
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卯平は悚然とした。
勘次ら三人は、その夜も固まってうすいふとんにくるまった。
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勘次等三人は其の夜も凝集つて薄い蒲團にくるまつた。
勘次は足にとても冷たさを感じて、うとうとしていたねむりからさめた。
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勘次は足に非常な冷たさを感じて、うと/\として居た眠から醒めた。
手足をのばせばくくりつけた萱やしのの葉にふれて、かさかさと鳴るほどせまい部屋を、寒さはたばねた松葉の先でつつくように、夜通しそのすきまをねらって止まなかった。
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手足を伸せば括りつけた萱や篠の葉に觸れてかさ/\と鳴る程狹い室内を、寒さは束ねた松葉の先でつゝくやうに徹宵其隙間を狙つて止まなかつた。
勘次は目がさえてしまった。
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勘次は目が冴えて畢つた。
彼は北にまくらを向けていた。
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彼は北に枕して居た。
後ろの林が急にさわいでは、また静まって、そしてざわざわと鳴った。
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後の林が性急に騷いでは又靜まつてさうしてざわ/\と鳴つた。
北風が立ったのだ。
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北風が立つたのだ。
低い粟のくきの屋根から、そのくくりつけた萱やしのの葉には、さえた耳にやっと聞き取れるような、さらさらとかすかに何かを打ちつけるような音が止まない。
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低い粟幹の屋根から其括りつけた萱や篠の葉には冴えた耳に漸と聞とれるやうなさら/\と微かに何かを打ちつけるやうな響が止まない。
次第にその音が消えて、すきまを求めて入りこむ寒さがひどくなった。
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漸次に其の響を消滅して、隙間を求めて侵入する寒さの度が加はつた。
どこかでこおった土にひびくようなにわとりの声が高く聞こえると、夜はのきのすきまから明るくなった。
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何處かで凍てた土へ響くやうな雞の聲が疳走つて聞えると夜は檐の隙間から明るくなつた。
勘次はおつぎを起こした。
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勘次はおつぎを起した。
彼は夜が明ければ、ふとんの中で固くなっているより火に当たったほうがずっとよかった。
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彼は夜が明ければ蒲團に堅くなつて居るよりも火にあたつた方が遙によかつた。
彼は明けるのを待ち遠しく思っていた。
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彼は明けるのを待遠にして居た。
おつぎは外へ出ようとした。
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おつぎは外へ出ようとした。
外は思いがけず、積もりかけた雪が白かった。
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外は意外に積り掛けた雪が白かつた。
さらに積もりつつある大つぶの雪が、北からななめに空をかき乱して飛んでいる。
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更に積りつゝある大粒な雪が北から斜に空間を掻亂して飛んで居る。
おつぎはしばらく立ちすくんだ。
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おつぎは少時立ち悚んだ。
大つぶの雪を投げながらふき下ろす北風が、ごうっと寒さをあおった。
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大粒な雪を投げつゝ吹き落ちる北風がごつと寒さを煽つた。
勘次はせまい土間にかき集めてあった落ち葉やしばに火をつけた。
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勘次は狹い土間に掻き集めてあつた落葉や麁朶に火を點けた。
けむりは低いのきをはって、ぐるぐると空が回るように見えながら、飛び散るいそがしい雪のために逃げ道をふさがれたように、低くさまよって行く。
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烟は低い檐を偃つて、ぐる/\と空間が廻轉するやうに見えつゝ飛び散る忙しい雪の爲に遁げ行く道を妨げられたやうに低く彷徨うて行く。
おつぎは外に置いた手おけを取った。
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おつぎは外側に置いた手桶を執つた。
北風のふきつける雪は、一つの手おけを半分白くしていた。
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北風の吹きつける雪は一つの手桶を半分白くして居た。
おつぎが低いのきの下を一歩ふみ出したら、北風は待っていたというように、その乱れた髪の毛をふきまくって、大つぶの雪が争って首すじへ群がり落ちて、またたく間に消えた。
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おつぎは低い檐の下を一歩踏み出したら、北風は待つて居たといふやうに、其の亂れた髮の毛を吹き捲つて、大粒な雪が爭つて首筋へ群り落て瞬間に消えた。
そしてまた、着物の上に軽くやわらかに止まった。
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さうして又衣物の上に輕く軟かに止つた。
おつぎは、つるべの竹ざおが北から打ちつける雪のために、たてに一本の白い線をえがきつつあるのを見た。
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おつぎは釣瓶の竹竿が北から打つける雪の爲に竪に一條の白い線を描きつゝあるのを見た。
ちらちらと目をくらますような雪の中に、木々はみな真っ白な柱を立て、つるべのふちは白い丸い輪をえがいている。
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ちら/\と目を昏すやうな雪の中に樹木は悉皆純白な柱を立て、釣瓶の縁は白い丸い輪を描いて居る。
おつぎが竹ざおに手をかけると、軽いやわらかな雪はさらりとくずれて落ちた。
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おつぎは竹竿へ手を掛けると輕い軟かな雪はさらりと轉けて落ちた。
おつぎが一ぱいくんでひょいとふり返ったとき、後ろの竹の林が強い北風に首すじを押しつけられては、雪をつかんでぱあっと投げつけられながら、力のかぎり争おうとして苦しんでいるのを見た。
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おつぎは一杯を汲んでひよつと顧つた時後の竹の林が強い北風に首筋を壓しつけては雪を攫んでぱあつと投げつけられながら力の限は爭はうとして苦悶いて居るのを見た。
おつぎは見るなとふきつける北風を正面から受けて、息がむっとつまるように感じて、ふと横を向いた。
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おつぎは見るなと吹きつける北風を當面に受けて呼吸がむつとつまるやうに感じてふと横手を向いた。
少しはなれたかきの木の下に、おつぎは吸いよせられたようにおどろきの目を見開いた。
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少し離れた柹の木の下におつぎは吸ひつけられたやうに疑ひの目を睜つた。
おつぎはつるべを放して、少しかきの木の下へ近づいた。
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おつぎは釣瓶を放して少し柹の木の下に近づいた。
「おとっつあん」
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「おとつゝあ」
と、おつぎは底のねばるぞうりを捨てて、はげしく呼んでかけこんだ。
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とおつぎは底の粘る草履を捨てゝ激しく呼んで驅け込んだ。
「大変だよ、おとっつあん」
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「大變だよ、おとつゝあ」
と、今度は少し声を殺すようにして勘次をせかした。
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と今度は少し聲を殺すやうにして勘次を促した。
勘次はふしぎそうなするどい目でおつぎを見た。
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勘次は怪訝な鋭い目を以ておつぎを見た。
「よう、おとっつあん」
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「よう、おとつゝあ」
おつぎのふだんとちがうあわてぶりが、勘次を庭へ走らせた。
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おつぎの節制を失つた慌しさが勘次を庭に走らせた。
勘次はふるえた。
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勘次は戰慄した。
かきの木の下には、冷たい卯平が横たわっていたのである。
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柹の木の下には冷たい卯平が横たはつて居たのである。
その大きな体は少しかきの木にもたれかかりながら、胸から足へまだらに雪をあびていた。
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其大きな體躯は少し柹の木に倚り掛りながら、胸から脚部へ斑に雪を浴びて居た。
荒縄が彼の手をはなれて、横に体をこえていた。
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荒繩が彼の手を轉けて横に體躯を超えて居た。
「爺さん」
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「爺」
と、おつぎはその耳に口を当ててどなった。
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とおつぎは其の耳に口を當てゝ呶鳴つた。
冷たい卯平は、ぐったりとうなだれたままである。
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冷たい卯平はぐつたりと俛首れた儘である。
少しかたむいた彼の横のほおのただれたやけどが、勘次をぞっとさせた。
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少し傾げた彼の横頬に糜爛した火傷が勘次を悚然とさせた。
勘次は夜に荷車で運んだ後、卯平を見るのは初めてだった
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勘次は夜荷車で運んだ後卯平を見るのは始めてゞあつた
「おとっつあんは、どうしたっていうんだろうな」
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「おとつゝあは、どうしたつちんだんべな」
おつぎは勘次をしかって、卯平の体を起こしながら、白くかかった雪を手で払った。
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おつぎは勘次を叱つて、卯平の身體を起しながら白く掛つた雪を手で拂つた。
勘次はおずおずと手を貸した。
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勘次は怖づ/\手を藉した。
卯平の力ない体は、やっと二人の手で運ばれた。
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卯平の力ない身體は漸く二人の手で運ばれた。
勘次はすのこの上のむしろに横たえて、気を失ったようにぼんやりと立った。
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勘次は簀の子の上の筵に横へて、喪心したやうに惘然として立つた。
彼はまた、卯平のただれたやけどを見た。
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彼は復た卯平の糜爛した火傷を見た。
彼は何を思ったか、いそいで雪をけ立てて、桑畑のあいだを通って南の家へ走った。
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彼は何を思つたか忙しく雪を蹴立てゝ、桑畑の間を過ぎて南の家に走つた。
いったん開けてまたそっと閉めた表の戸口から、とつぜん
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一旦開けて又そつと閉した表の戸口から突然に
「起きてないか」
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「起きめえか」
と、彼ははげしくどなった。
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と彼は激しく呶鳴つた。
彼はどてらを着てかまどの前で火をたいている女房を見た。
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彼は褞袍を着て竈の前に火を焚いて居る女房を見た。
「何だい」
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「何でえ」
と、亭主のおどろいて言う声が近くで聞こえた。
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と亭主の驚いていふ聲が近く聞えた。
勘次もおどろいて、上がりがまちのふとんから首を上げた亭主を見た。
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勘次も驚いて上り框の蒲團から首を擡げた亭主を見た。
「大変なことができたよ、おれの家の」
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「大變なこと出來たよ、俺ら家の」
と、勘次はこそばゆい喉からやっとそれだけを出した。
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と勘次はこそつぱい喉から漸くそれだけを吐き出した。
「来てくれないか」
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「來てくんねえか」
と、彼はかんたんにそう言って、思い出したようにまた雪をけって走った。
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と彼は簡單にさういつて、思ひ出したやうに又雪を蹴つて走つた。
慌てた彼は、しきいもまたがなかった。
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慌てた彼は閾も跨なかつた。
南の家の亭主は、勘次のようすを見てただごとでないと知った。
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南の家の亭主は勘次の容子を見て尋常でないことを知つた。
しかしながら彼は、まるでよく分からないできごとへ行くのに、すぐわいてくる多少の心配のせいで、ふきまくる雪にさからってみのもかさも持たずに走って行くほど慌てはしなかった。
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然しながら彼は極めて不判明な事件に赴くには、直に起る多少の懸念が吹き捲る雪に逆つて、蓑も笠も持たずに走つて行く程慌てさせる譯には行かなかつた。
彼は土間にころがった下駄をさがした。
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彼は土間に轉がつた下駄を探した。
すごい勢いで積もろうとする雪は、庭から庭をつなぐ桑畑のあいだで下駄の運びをおそくした。
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非常な勢ひで積らうとする雪は、庭から庭を繼ぐ桑畑の間に下駄の運びを鈍くした。
彼が勘次の小屋をのぞいたときは、低くせまい入口を自分の体がふさいで、中をうす暗くした。
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彼が勘次の小屋を覗いた時は低く且狹い入口を自分の身體が塞いで内を薄闇くした。
外の白い雪を見た彼の目が、しばらくくらんだ。
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外の白い雪を見た彼の目が暫く昏んだ。
彼はただ、勘次が与吉をしかる声を耳のそばで聞いた。
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彼は只勘次が與吉を叱る聲を耳の傍で聞いた。
勘次が帰ったとき、卯平は横たえたままだった。
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勘次が歸つた時卯平は横へた儘であつた。
浅くかかっていた雪がとけて、卯平のどてらが少しぬれていた。
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淺く掛つて居た雪が溶けて卯平の褞袍が少し濡れて居た。
彼はまた、ただれたやけどを見るとともに、卯平のふところへ手を入れているおつぎを見た。
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彼は復た糜爛した火傷を見ると共に、卯平の懷へ手を入れて居るおつぎを見た。
「おとっつあん、暖かいんだよ」
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「おとつゝあ、暖えんだよ」
おつぎは言って、また
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おつぎはいつて又
「息をしてるんだよ」
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「呼吸つえてんだよ」
だれかに聞かれるのを気にする者のように、低く声を殺して言った。
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他を憚るものゝやうに低く聲を殺していつた。
勘次は元気づいた。
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勘次は勢ひづいた。
彼はとつぜん、与吉を起こした。
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彼は突然與吉を起した。
ふとんをまくって与吉のうでを引いた。
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蒲團を捲つて與吉の腕を引いた。
与吉はいつにないきびしいあつかいにおどろいて、まだねむい目を見開いた。
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與吉は例にない苛酷な扱ひに驚いてまだ眠い目を睜つた。
「急いで、それ、着物」
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「急えて、それ、衣物」
と、勘次はただおろおろしている与吉をしかりつけた。
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と勘次は只おろ/\して居る與吉を叱りつけた。
「そんじゃまあよかった。何にしてもふとんへねかせたほうがいいな。暖まりさえすりゃ、だんだんよくなるだろうから」
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「そんぢやまあよかつた。何しても蒲團へ寢かせた方がえゝな、暖まりせえすりや段々よくなつぺから」
南の家の亭主は、数分前から二人を心の底から慌てさせたできごとのかんたんな説明を聞いたとき、言った。
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南の亭主は數分時の前から二人を衷心より狼狽せしめた事件の簡單な説明を聞いた時いつた。
「着物がぬれたようだな。ぬがせたらよかろう。それにひどくよごれちまったな」
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「衣物濡れたやうだな、脱せたらよかつぺ、それに酷く汚れつちやつたな」
亭主は言って、まくったふとんに手を当ててみた。
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亭主はいつて捲つた蒲團へ手を當て見た。
「これは暖かくていいぐあいだ。冷やしちゃいけない」
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「此ら暖くつてえゝ鹽梅だ、冷させちやえかねえ」
彼はかけぶとんをとっぷりとかけた。
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彼は掛蒲團をとつぷり蓋した。
「そうだな、着物はかわかすあいだは仕方がないな。そんじゃどてらでもおれの家から持って来るといいな。このふとんだけじゃ暖まれまい、これは」
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「さうだな衣物は焙る間仕やうねえなそんぢや褞袍でも俺ら家から持つて來つとえゝな、此の蒲團だけぢや暖まれめえこら」
彼は少しえらそうな態度で言った。
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彼は少し權威を有つた態度でいつた。
せまい小屋のたき火は消えていた。
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狹い小屋の焚火は消えて居た。
ふしぎそうにして遠ざかっていた与吉が、落ち葉を足してしばらくくすぶらせた。
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怪訝な容子をして遠ざかつて居た與吉が落葉を足して暫く燻ぶらした。
「お前はまた、それ、おつうを見てやれ」
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「汝また、それ、おつう見てやれ」
勘次は与吉に注意の言葉を残して、かけ出して行った。
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勘次は與吉に注意の言葉を殘して驅け出して行つた。
「ふとんも持てるなら持って来たほうがいいな」
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「蒲團も持てらば持つて來た方がえゝな」
南の家の亭主の声は、だんだん大つぶになって飛んでいる雪の乱れの中へ消えて行く勘次の後を追いかけた。
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南の亭主の聲は段々に大粒に成つて飛んで居る雪の亂れの中に消え行く勘次の後から追ひ掛けた。
勘次は二人が加わって元気づけられた手をすばやく動かして、まだ暖まっているふとんへそっと卯平を横たえた。
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勘次は二人を加へて勢ひづけられた手を敏活に動かして、まだ暖まつて居る蒲團へそつと卯平を横へた。
卯平の冷たい体には、落ち葉の火でおつぎが暖めたどてらと、それからもう一まいのふとんがかけられた。
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卯平の冷たい身體には、落葉の火でおつぎが焙つた褞袍と夫から餘計な蒲團とが蔽はれた。
卯平のかすかな息が、だんだんもどって来る。
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卯平の微かな呼吸が段々と恢復して來る。
勘次はどんどんと落ち葉やしばをたいた。
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勘次はどん/\と落葉や麁朶を焚いた。
彼はそのとき、雪の林で燃やす物をさがすのが大変だと気にするひまさえなかったのである。
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彼は其の時雪の林に燃料を探すことの困難なことを顧慮する遑さへ有たなかつたのである。
昼過ぎになって、この例年にない雪も止んだ。
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午後になつて此の例年にない雪も歇んだ。
空が、いかにもがっかりしたようにぼんやりした。
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空が左もがつかりしたやうにぼんやりした。
おつぎのさわいだ心も静まって、また水をくみに出たとき、つるべの底は重くなって、おさえたかぎの手から外れそうになっていた。
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おつぎが騷いだ心も靜まつて又水を汲みに出た時、釣瓶の底は重く成つて抑へた鍵の手から外れようとして居た。
後ろの竹の林はべったりとうなだれた。
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後の竹の林はべつたりと俛首れた。
冬のようにさらさらといさぎよく落ちる雪ではなくて、しめった雪は竹のえだをぎっとつかんで放すまいとしている。
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冬のやうにさら/\と潔い落やうはしないで、濕ひを持つた雪は竹の梢をぎつと攫んで放すまいとして居る。
竹は苦しい息をするように、小さなえだが一つずつぴらりぴらりと動いて、そのおもみからのがれようと力めている。
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竹は苦しい呼吸をするやうに小さな枝が一つづゝぴらり/\と動いて其の壓迫から遁れようと力めつゝある。
北から見れば白い柱だった木のみきも、みな元のすがたにもどろうとして、ずんずんと雪をころがした。
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北から見れば白い柱であつた樹木の幹も悉皆以前の姿に成らうとしてずん/\と雪を轉がした。
庭から先の桑畑は、ただいっぱいに白い。
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庭から先の桑畑は唯一杯に白い。
地面から数寸の深さに、雪は積もっていた。
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地上數寸の深さに雪は積つて居た。
桑畑のはしのほうに、くきののびた菜種の少し黄色くふくらんだつぼみが、すっくとその雪からのび上がっている。
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桑畑の端の方に薹に立つた菜種の少し黄色く膨れた蕾は聳然と其雪から伸び上つて居る。
そこらにはかれたよもぎも、ぽつりぽつりと白いしきぶとんから体を出した。
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其處らには枯れた蓬もぽつり/\と白い褥に上體を擡げた。
ほおじろか何かが、菜種の花やかれよもぎのかげの浅い雪に短い足を立ててみたいのか、桑のえだをしなやかにけって元気よく飛び下りた。
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頬白か何かゞ菜種の花や枯蓬の陰の淺い雪に短い臑を立てゝ見たいのか桑の枝をしなやかに蹴つて活溌に飛びおりた。
そしてまたえだへもどった。
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さうして又枝に移つた。
後ろの田んぼでは、水はけの悪い田は降っているうちから雪がとけていたので、あぜがことさら白い線をえがいて目立った。
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後の田圃では、水こけの惡い田には降つてる内から雪は溶けつゝあつたので、畦畔が殊更に白い線を描いて目に立た。
そこにもほりのあたりの、赤い実のさびた野茨のえだにたてになったり横になったりして、ずんずん消えて行く雪をよろこぶように、ほおじろがちょんちょんとわたった。
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其處にも堀の邊の赤い實の錆びた野茨の枝に堅に成つたり横に成つたりして、ずん/\と消え行く雪を悦ぶやうに頬白がちよん/\と渡つた。
夕方には、田んぼの白い線もとぎれとぎれになった。
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夕方には田圃の白い線も途切れ/\に成つた。
どのえだも白い物を残さないで、つかれたようにぬれていた。
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何處の梢も白い物を止めないで疲れたやうに濡て居た。
雪はすっかり土に落ち着いてしまった。
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雪は悉く土に落ついて畢つた。
その落ち着いた雪を持ち上げて、どの屋根も白い大きなかたまりのように見えた。
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其落ついた雪を突き扛げて何處の屋根でも白い大きな塊のやうに見えた。
かれ木のあいだでは、ことさらそれがはっきりと目立った。
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枯木の間には殊更それが明瞭と目に立つた。
夕暮れのけむりが青く割れた空へ吸われて、静かな一日は暮れた。
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黄昏の煙が蒼く割れた空へ吸はれて靜かな日は暮れた。
卯平はすやすやと息を取りもどしたままで、口はきかない。
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卯平はすや/\と呼吸を恢復した儘で口は利かない。
ぴしゃぴしゃとしぶきのどろをけりながら、粟のくきののきからも雪のとけて落ちる勢いのいい雨だれが止まないで、夜になった。
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ぴしや/\と飛沫の泥を蹴りつゝ粟幹の檐からも雪の解けて滴る勢ひのいゝ雨垂が止まないで夜に成つた。
その夜、南の家の女房はふとんを二まい肩にかけて持って来た。
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其の夜南の女房は蒲團を二枚肩に掛けて持つて來た。
一つには義理があるというので、卯平のようすを見に来たのである。
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一つには義理が濟まぬといふので卯平の容子を見に來たのである。
それは二度目だった。
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其れは二度目であつた。
手ランプもない暗い小屋の中でしばらく話して女房が去った後、与吉は卯平の足元へもぐらせた。
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手ランプもない闇い小屋の内に暫く語つて女房が去つた後、與吉は卯平の裾へ潜らせた。
おつぎはその一まいのふとんをかけて、卯平にそって体を横たえた。
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おつぎは其の一枚の蒲團を掛けて卯平に添うて身を横たへた。
勘次は土間へむしろをしいて、もう一まいのふとんをかぶって、くるくると体を丸めた。
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勘次は土間へ筵を敷いて他の一枚の蒲團を被つてくる/\と身を屈めた。
彼は足をのばしたまま体を起こして、一度暗いゆかの上を見た。
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彼は足を伸ばした儘上體を擡げて一度闇い床の上を見た。
ぴしゃぴしゃと落ちるしずくが、しばらく彼の耳の底を打った。
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ぴしや/\と落ちる涓滴が暫く彼の耳の底を打つた。
次の日は、朝からきらきらと照った。
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次の日は朝からきら/\と照つた。
暖かい日ざしは、勘次の土間まではった。
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暖かい日光は勘次の土間まで偃つた。
地面はすべて、やわらかな熱で蒸された。
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地上は凡て軟かな熱度を以て蒸された。
物かげで一晩残っていた雪が、慌ててとけた。
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物陰に一夜保つてゆつくりした雪が慌てゝ溶けた。
土がしっとりとして落ち着いた。
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土がしつとりとして落ちつけられた。
卯平は目を開いた。
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卯平は目を開いた。
彼はふしぎそうにあたりを見た。
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彼は不審相にあたりを見た。
しつこく土にくっついていた冬が、蒸されるような暖かさにいたたまれなくなって慌てて逃げ去った後へ、一度に来た春の光の中で、彼は気がついた。
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執念く土にひつゝいて居た冬が、蒸されるやうな暖かさに居たゝまらなく成つて倉皇と遁げ去つた後へ一遍に來た春の光の中に彼は意識を恢復した。
彼は寒さが骨までしみたその夜のことをはっきり思いうかべて考えるには、天気の変わり方があまりに急だった。
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彼は寒さが骨に徹する其の夜のことを明瞭に頭に泛べて判斷するのには氣候の變化が餘りに急激であつた。
彼はそのあいだ、何時間も気を失っていた。
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彼は其の間人事不省の幾時間を經過した。
彼は与吉の何気ない告げ口から、ひどく悲しくはかなくなって、後で独り泣いた。
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彼は與吉の無意識な告口から酷く悲しく果敢なくなつて後で獨で泣いた。
怒りを燃やすには、彼はあまりにつかれていた。
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憤怒の情を燃すのには彼は餘に彼れて居た。
しかし自分でもそのとき、自分の身に大変なことが起こるとは少しも思っていなかった。
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然し自分でも其の時、自分の身に變事の起らうとすることは毫も豫期して居なかつた。
彼はいろりのそばで、夜のむしろ冷たい火に当たりながら、ふと気が変わって、ついと庭へ出た。
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彼は圍爐裏の側で、夜の寧ろ冷い火にあたりながらふと氣が變つてついと庭へ出た。
彼は何かが足にまとわりついたのに気づいた。
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彼は何かゞ足に纏つたのを知つた。
手に取ってみたら、それは荒縄だった。
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手に取つて見たらそれは荒繩であつた。
彼はそれからどうしたのか、はっきり思いうかべてみようとするには、頭があまりにぼんやりつかれていた。
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彼はそれからどうしたのか明瞭に描いて見ようとするには頭腦が餘りにぼんやりと疲れて居た。
彼は勘次の庭に立った。
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彼は勘次の庭に立つた。
彼は荒縄が手にあったことに気づいたとき、かきの木の低いえだにそれを引っかけようとして投げた。
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彼は荒繩が手に在つたことを心づいた時、柹の木の低い枝にそれを引掛けようとして投げた。
彼の不自由な手は、暗い夜にその目的をとげさせなかった。
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彼の不自由な手は暗夜に其の目的を遂げさせなかつた。
彼は何度投げてもむだだった。
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彼は幾度投げても徒勞であつた。
身を切るような北風が田んぼをわたって、それをさえぎろうとする後ろの林をごうっとおさえてはふき下ろして、彼の手の動きをまったくにぶくしてしまった。
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身を切るやうな北風が田圃を渡つて、それを隔てようとする後の林をごうつと壓へては吹き落ちて、彼の手の運動を全く鈍くして畢つた。
やがて後ろの林のえだから、ななめに雪がふき下ろして来た。
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軈て後の林の梢から斜に雪が吹きおろして來た。
卯平はしばらくためらって、かきの木の根につかれた体をよせた。
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卯平は少時躊躇して柹の木の根に其の疲れた身を倚せた。
しばらくして彼は、雪が冷たく自分のふところでとけて、いやな感じで流れるのに気づいた。
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暫くして彼は雪が冷たく自分の懷に溶て不愉快に流れるのを知つた。
彼はそれから体が固まるように思いながら、まばらな白髪がとかされるのも、かすかに感じた。
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彼はそれから身體が固まるやうに思ひながら、疎い白髮の梳られるのをも、微に感覺を有した。
にわとりの声が耳に遠く聞こえて消えて行くのを知った。
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雞の聲が耳に遠く聞えて消滅するのを知つた。
彼はついにうとうとしてしまった。
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彼は遂にうと/\と成つて畢つた。
さらに数十分そのまま忘れられていたら、彼はそのとき自分がのぞんだように、冷たいなきがらから生き返らなかったかも知れなかった。
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更に數十分間其の儘に忘られて居たならば彼は其の時自分が欲したやうに冷たい骸から蘇生らなかつたかも知れなかつた。
勘次のさえた目が、すきまからさす白い雪の光にだまされて、おつぎを水くみに出した。
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勘次の冴えた目が隙間から射す白い雪の光に欺かれておつぎを水汲みに出した。
そうして卯平は助かったのである。
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さうして卯平は救はれたのである。
「爺さん、どうした。気分は悪くないか、もう」
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「爺どうした、心持惡かねえか、はあ」
と、おつぎは卯平があたりを見たとき、耳に口を当てて言った。
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とおつぎは卯平が周圍を見た時耳へ口を當てゝいつた。
「動かないでろ、爺さん。食べたい物でもないか」
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「動かねえでろ爺、喰べてえ物でもねえか」
おつぎはまたやわらかに言った。
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おつぎは復た軟かにいつた。
卯平はただうなずいた。
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卯平は只點頭いた。
「おとっつあん、そんでもちっとはしっかりしたか」
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「おとつゝあ、そんでもちつた確乎してか」
勘次はそのあとにつづけて聞いた。
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勘次は其の尾に跟いて聞いた。
ほっと息をついたようなようすは、勘次の心の底からのよろこびだった。
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ほつと息をついたやうな容子は勘次の衷心からの悦びであつた。
「おとっつあん、やけどは痛いかいまだ」
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「おとつゝあ、火傷は痛えけまあだ」
勘次はすぐに次の言葉をつづけた。
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勘次は直に後の言辭を續けた。
「まくらはつけられないな」
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「枕はおつゝけらんねえな」
卯平はやわらかな目をしかめるようにした。
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卯平は軟かな目を蹙めるやうにした。
勘次はふいとかけ出して、しばらくして帰って来たときには、手に白いさらし木綿と、古新聞紙のきれはしに包んだ物を持っていた。
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勘次はふいと駈け出して暫く經つて歸つて來た時には手に白い曝木綿の古新聞紙の切端に包んだのを持つて居た。
彼はそれを四つに裂いて、医者がしたように白い練り薬をももの上でガーゼにぬって、卯平の横のほおにはって、さらし木綿でぐるぐると巻いた。
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彼はそれを四つに裂いて、醫者がしたやうに白い練藥を腿の上でガーゼへ塗つて、卯平の横頬へ貼つた曝木綿でぐる/\と卷いた。
彼は与吉にさえ白い薬をおしんで、医者からもらったまましまっておいたのだった。
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彼は與吉にさへ白い藥を惜しんで醫者から貰つた儘藏つて置いたのであつた。
卯平はじっとして、勘次のするままに任せた。
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卯平は凝然として勘次の爲る儘に任せた。
不器用な、少し動けばくずれそうなほうたいだったが、それでも勘次の目には心強かった。
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不器用な少し動けば轉け相な繃帶であつたが夫でも勘次の目には心丈夫であつた。
彼は自分をこわがらせたきずが白い気持ちのいい布でおおいかくされたのと、自分のすべきことをやりとげたように感じられたのとで、心が急に軽くすがすがしくなった。
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彼は自分の恐怖を誘うた瘡痍が白い快よい布を以て掩ひ隱されたのと、自分の爲べき仕事を果し得たやうに感ぜられるのとで心が俄に輕くすが/\しくなつた。
卯平も、どうなることかはっきりとは分からないながら、心の中ではよろこんだ。
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卯平もどうなることか確とは分らぬながら心の内では悦んだ。
勘次はまた、どこかへ出かけた。
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勘次は又何處へか出た。
彼はただ心がそわそわとして、なかなか落ち着かなかった。
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彼は只心がそは/\として容易くは落つかなかつた。
やわらかな春の光は、やさしい目をまばたきしながら、彼のせまい小屋を細やかに萱やしののすきまからのぞいて、卯平の足元にもはった。
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軟かな春の光は情を含んだ目を瞬きしながら彼の狹い小屋をこまやかに萱や篠の隙間から覗いて卯平の裾にも偃つた。
卯平はしばらく目を閉じたままでいたが、またぱっちりと目を開いた。
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卯平は暫く目を瞑つた儘で居たが復たぱつちりと目を開いた。
そばにはおつぎがすわっていた。
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側にはおつぎが坐つて居た。
「おつう」
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「おつう」
と、卯平は低い声で呼んだ。
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と卯平は低い聲で喚んだ。
「何だい」
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「何でえ」
おつぎはまた耳に口を当てた。
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おつぎは又耳へ口を當てた。
卯平は右の手を出してふとんの上へのばして
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卯平は右の手を出して蒲團の上へ伸して
「熱ぼったいから一まい取ってくれないか」
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「熱ぼつてえから一枚とつてくんねえか」
力ない、すがるような声で言った。
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力ない縋るやうな聲でいつた。
「本当に暖かくなったんだよなあ。お日さままでひどくまぶしくなったようなんだよ」
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「本當に暖く成つたんだよなあ日輪まで酷く眩ぽくなつたやうなんだよ」
おつぎは例の少し甘えるような口ぶりで、一まいのかけぶとんを取った。
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おつぎは例の少し甘えるやうな口吻で一枚の掛蒲團をとつた。
「このふとんは板っきれみたいなんだよなあ。これを取ったほうが爺さんは軽くなってよかろうな、ほんに。そう言っても、暖かくなるというのはいいもんだよ。おれは昨日らみたいじゃどうしようと思ったっけ」
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「此の蒲團は板ツ端見てえなんだよなあ、此れとつた方が爺は輕く成つてよかつぺなほんに、さう云つても暖くなるつちやえゝもんだよ、俺ら作日等見てえぢやどうすべと思つたつきや」
おつぎはかけぶとんを四つにたたんで、卯平の足元へ置いた。
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おつぎは掛蒲團を四つにして卯平の裾へ置いた。
「お彼岸をすぎてこんなことというのは、おれがおぼえてからだってめったにないこったから、これから暖かくなるばかりだな。麦も一日ごとに元気になるな」
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「彼岸過ぎて斯うだことつちや俺ら覺えてからだつで滅多にやねえこつたから此れから暖く成るばかしだな、麥も一日毎に腰引つ立たな」
卯平はやや気持ちよさそうに言った。
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卯平は稍快よげにいつた。
「おれの家の麦は今のところじゃ村でも悪くないんだぞ。おれはそんだが、前のころは畑をたがやすのはいやだったっけな、本当に。おとっつあんには、深くたがやせ、深くたがやさないじゃ肥料をしたって役に立たないからなんて怒られてなあ」
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「俺ら家の麥は今ん處ぢや村落でも惡かねえんだぞ、俺らそんだが先の頃ら畑耕あな厭だつけな本當に、おとつゝあにや深く耕へ、深く耕あねえぢや肥料したつて役にや立たねえからなんて怒られてなあ」
「うん、畑は深くなくちゃ穫れないものよ、それは。おれは若いころには、この間のように浅くたがやすもんだとは思わなかったのだから。今じゃもう、みんな利口になってるから、おれには分からないが」
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「うむ、畑や深くなくつちや收穫んねえものよそら、俺らあ壯の頃にや此間のやうに淺く耕あもんだた思あねえのがんだから、現在ぢやはあ、悉皆利口んなつてつから俺らがにや分んねえが」
「深くたがやしちゃ、さかさの旋毛を立てるみたいで、やりなれないとなんぼ大変かよなあ。そんだがおれは今じゃ、お前のほうがおれより深いくらいだなんて、おとっつあんには言われるのよ」
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「深く耕つちや逆旋毛立てる見てえで行りつけねえぢやなんぼ大儀えかよなあ、そんだが俺ら今ぢや、汝の方が俺れより深えつ位だなんておとつゝあにや云はれんのよ」
「大変にもよ、それは。そんでもお前はよくやるな。むかしは女に三年作らせちゃ畑はだめになると言ったくらいだ」
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「大儀えにもよそら、そんでも汝りや能くやんな、以前は女に三年作らせちや畑は出來なくなるつちつた位だ」
「そのころから、おれはいくらもたがやさないんだよ、このごろは。そんでもそんなに大変とは思わなくなったがな、おれも」
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「そつから俺ら幾らも耕えねえんだよ此の頃らそんでもさうだに大儀えた思はなくなつたがな俺らも」
おつぎが言うのを卯平はまたやわらかに目をしかめるようにして聞きながら、軽くなったかけぶとんを足の先で足元のほうへよせて、少し身動きをした。
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おつぎがいふのを卯平は又軟かに目を蹙めるやうにして聞きながら、輕く成つた掛蒲團を足の先で裾の方へこかして少し身動きをした。
おつぎはそのときちらと出した卯平の手を、初めて気がついたように
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おつぎは其の時ちらと出した卯平の手を始めて氣がついたやうに
「爺さんは手も痛くしてるんだったな。そんじゃさっき、薬をはってもらうとこだったっけな」
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「爺は手も痛くしてんだつけな、そんぢや先刻藥貼つて貰あとこだつけな」
おつぎは卯平の手先を手に取って見た。
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おつぎは卯平の手先を手にして見た。
「こっちはそれほどはひどくないや、そんでもなあ」
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「こつちはそれ程だひどかねえやそんでもなあ」
おつぎは安心したように、そっと手を放した。
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おつぎは安心したやうにそつと手を放した。
勘次はいそがしそうなようすで帰った。
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勘次は忙しげな容子をして歸つた。
彼はふとんを二、三まいたたんだまま、帯で背負って来た。
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彼は蒲團を二三枚疊んだ儘帶で脊負つて來た。
「どうだい、おとっつあん、昨夜はそんでも寒くはなかったっけかい」
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「どうしてえおとつゝあ、昨夜はそんでも寒かなかつたつけゝえ」
彼は荷物を卯平の足元のほうへ下ろして、胸で結んだ帯を解きながら言った。
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彼は荷物を卯平の裾の方へ卸して胸で結んだ帶を解きながらいつた。
「熱ぼったいって、今ふとんを一まい取ったところなんだよ」
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「熱ぼつてえつて今蒲團一枚とつた處なんだよ」
おつぎは横から言った。
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おつぎは横合からいつた。
「うん、そうだ。このふとんは返さなくちゃならないから」
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「うむ、さうだ、此の蒲團は返さなくつちやなんねえから」
勘次は独り言を言って
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勘次は獨語して
「どうした、おとっつあん、薬をはってちっとはよくないかい」
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「どうしたおとつゝあ、藥貼つてちつたよかねえけ」
彼はまた白いさらし木綿を見て言った。
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彼は復白い曝木綿を見ていつた。
「うん、そうだ、まくらがつけられるようになったからいいことはいいに」
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「うむ、枕おつゝかるやうに成つたからえゝこたえゝに」
卯平の言うのを聞いて、勘次はいくらかほこらしげにまた白い木綿を見た。
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卯平のいふのを聞て勘次は幾らか矜を以て又白い木綿を見た。
「おとっつあん、食べたい物でもないかい。おれは明日、川向こうへ行って来ようと思うんだ」
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「おとつゝあ、喫べてえ物でもねえけえ、俺ら明日川向さ行つて來べと思ふんだ」
勘次はまだいくらか心にわだかまりがあるというより、気まずさが取れきらないようで、しかも努めて機げんを取るようなようすだった。
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勘次はまだ幾らか心に蟠りがあるといふよりも、こそつぱい處が取れ切らないやうで然も力めて機嫌をとるやうな容子であつた。
「うん」
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「うむ」
と卯平は言って、つばをぐっと飲んだ。
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と卯平はいつて唾をぐつと嚥んだ。
「特にもう、食べたいという物もないが」
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「格別はあ、喫べてえつち物もねえが」
彼の目にはまたあらためて、やわらかな光が宿った。
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彼の目には又改めて軟かな光を有つた。
「そんじゃおとっつあん、水あめでも買って来てやったらよかろうな。与吉にかくしておけば何でもあるまいな」
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「そんぢやおとつゝあ水飴でも買つて來てやつたらよかつぺな、與吉げ隱して置けば何でも有んめえな」
おつぎはさらに卯平を見て
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おつぎは更に卯平を顧みて
「なあ爺さん、そのほうがよかろう」
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「なあ爺、其の方がよかつぺ」
と言いかけた。
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といひ掛けた。
卯平は、そのしかめるような目でかすかにうなずいた。
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卯平は其の蹙めるやうな目で微かに點頭いた。
「おとっつあん、どうせ茶づけの茶わんも要るから、茶わんを買って、それへ水あめを入れて縄でしばって来よう。そうするといいや」
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「おとつゝあ、どうせ茶漬茶碗も要つから茶碗買つてそれさ水飴入えて繩で縛つて來う、さうすつとえゝや」
「そうでも何でもしようよな」
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「さうでも何でもすびやな」
「それに、明日行ったらまた薬をもらって来よう。爺さんの手にもはってやらなくちゃ仕方がないぞ」
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「それに、明日行つたら又藥貰つて來う、爺が手さも貼つてやんなくつちや仕やうねえぞ」
「おれは言われないでも、薬は気がついてたのよ」
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「俺ら云はんねえでも藥は氣ついてたのよ」
勘次は、おつぎの言うのをすぐに受けて聞いた。
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勘次はおつぎのいふのを迎へて聞いた。
彼の三尺帯には、そのときもぎっとくくったかたまりがあった。
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彼の三尺帶には其の時もぎつと括つた塊があつた。
そのさいふのわずかなたくわえが、この数日間にどれほど彼を助けたか知れなかった。
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其財布の僅な蓄へは此數日間にどれ程彼を救つたか知れなかつた。
彼はまだいくらか日用品を買う力を持っていた。
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彼はまだ幾らかの日用品を求める餘力を有して居た。
彼は開こんの賃金を手にできればという望みが、十分にあった。
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彼は開墾の賃錢を手にすることが出來ればといふ望みが十分にあつた。
ただ彼は今、その一部でもくれと言うことが、自分の火が焼いたその主人の家に対して、とても口にする勇気が出せなかったのである。
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只彼は目下其の幾部分でも要求することが、自分の火が燒いた其の主人の家に對して迚も口にするだけの勇氣が起されなかつたのである。
二八
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二八
勘次は昼過ぎになって、また外に出た。
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勘次は午餐過になつて復た外に出た。
もつれた心をかかえて、彼は少しうなだれながら歩いた。
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紛糾かつた心を持つて彼は少し俛首れつつ歩いた。
暖かな光は、畑の土をところどころさらりとかわかしはじめた。
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暖かな光は畑の土の處々さらりと乾かし始めた。
ことさらがっかりしたようにしおれたくぬぎのかれ葉も、からからになった。
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殊更がつかりしたやうにしをたれた櫟の枯葉もからからに成つた。
すべての木は元気づいていた。
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凡ての樹木は勢づいて居た。
村のところどころには、まだ少し舌を出しかけたような白いこぶしが、急にぽっと開いて、青い空にほかほかとうかんで、竹のえだを抜け出していた。
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村落の處々にはまだ少し舌を出し掛けたやうな白い辛夷が、俄にぽつと開いて蒼い空にほか/\と泛んで竹の梢を拔け出して居た。
ただあおじは冬も春も分からないように、暖かい日なたから暗い竹の林を求めて低い小えだをわたって、下手な鳴き方をして、それでもまた日なたへ出て土をぴょんぴょんとはねた。
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只蒿雀は冬も春も辨へぬやうに、暖かい日南から隱氣な竹の林を求めて低い小枝を渡つて下手な鳴きやうをして、さうして猶且日南へ出て土をぴよん/\と跳ねた。
すべての心は、暖かな光の中にとけてしまわなければならなかった。
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凡ての心は暖かな光の中に融けて畢はねばならなかつた。
勘次はあいかわらずうなだれたまま、ついにとなりの主人の門をくぐった。
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勘次は依然として俛首れた儘遂に隣の主人の門を潜つた。
焼けあとは土台を残して、きれいにかき払われてあった。
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燒趾は礎を止めて清潔に掻き拂はれてあつた。
真ん中の大きかった建物を失って、庭は高い木にかこまれている。
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中央の大きかつた建物を失つて庭は喬木に圍まれて居る。
赤茶けて焼けたすぎの木をひかえて、からりとした庭は、赤土のがけの底にしずんだように見える。
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赭く燒けた杉の木を控へてからりとした庭は、赤土の斷崖の底に沈んだやうに見える。
青い空を区切って立った高い木のえだが、さらに高く感じられた。
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蒼い空を限つて立つた喬木の梢が更に高く感ぜられた。
勘次はおそろしい、ふつうでない感じにおされた。
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勘次は怕ろしい異常な感じに壓せられた。
となりの主人の家族は、長屋門の一部にたたみをしいて仮の住まいを作っていた。
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隣の主人の家族は長屋門の一部に疊を敷いて假の住居を形づくつて居た。
主人夫婦は、勘次の目からはさすがに、災難の後の乱れたようすが少しも見えなかった。
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主人夫婦は勘次の目からは有繋に災厄の後の亂れた容子が少しも發見されなかつた。
主人夫婦の曇らない顔が、ひたすらこわがっていた勘次の首を上げさせた。
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主人夫婦の曇らぬ顏が只管恐怖に囚へられた勘次の首を擡げしめた。
ことにおかみさんのむかえて聞く態度が、彼が言いたかったことをやっと少し打ち明けさせた。
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殊に内儀さんの迎へて聞く態度が、彼のいひたかつた幾部分を漸くに打ち明けしめた。
「お内儀さん、これは運の悪い者は仕方がありませんね」
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「お内儀さん、こら運の惡い者な仕やうありあんせんね」
彼はあわれっぽく声をかけた。
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彼は憐れに聲を投げ掛けた。
彼の災難の後に、しみじみとこういう話を聞いてくれる人は、おかみさんのほかにはまだいなかったのである。
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彼の災厄の後にしみ/″\と斯ういふことを聞いてくれる者は内儀さんの外にはまだなかつたのである。
「そんだがこれ、お内儀さんらの家から見た日にはつめのあかだから、わしらなんざつらいも悲しいもない話なんだが」
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「そんだが此れお内儀さん等家からなんぞ見た日にや爪の垢だからわし等なんざ辛えも悲しいもねえ噺なんだが」
彼は自分の不運をうったえるのに、自分一人のことよりほかは何も心に浮かんでいなかった。
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彼は自分の不運を訴へるのに、自分一身のことより外は何物も其の心に往來しては居なかつた。
彼はふと、自分の火が焼いたことを思ったとき、ひどく自分のことばかり言ってしまったのが、済まないような気がしてならなかった。
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彼はふと自分の火が燒いたことを思つた時、酷く自分のことのみをいつて畢つたのが濟まないやうな心持がしてならなかつた。
「まあおしいと言えば紙一まいでも何だが、これ、家はすぐにも建てれば建つんだが、木がおしいことをしたって言ってるのさ。それだが、これもそんなことを言ったって仕方がないがね」
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「まあ惜しいといへば紙一枚でも何だが、これ、家は直ぐにも建てれば建つんだが、樹が惜しいことをしたつて云つてるのさ、それだが此れもそんなことを云つたつて仕方がないがね」
おかみさんは、そびえてはいるがとてもかれ死ぬ運命の高い木を数本、縁側の近くから見上げて言った。
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内儀さんは聳然と立ては居るが到底枯死すべき運命を持つて居る喬木の數本を端近に見上ていつた。
遠く落ちかけた日が、はっきりとそのえだに光った。
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遠く落ち掛けた日が劃然と其の梢に光つた。
勘次の顔は青くなって、ぐったりと頭を下げた。
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勘次の顏は蒼くなつてぐつたりと頭を垂れた。
彼はしばらく黙っていた。
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彼は暫く沈默を保つた。
「どうしたね。私も気のつかないことをしていたが、お前も丸焼けで仕方があるまいが、少しはお金でも持って行くかね」
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「どうしたね、私も氣のつかないことをして居たが、お前も丸燒で仕やうあるまいが少しは錢でも持つて行くかね」
おかみさんは、勘次の心を見ぬいたように言った。
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内儀さんは勘次の心を推察したやうにいつた。
「へえ」
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「へえ」
勘次の首はさらにうなだれた。
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勘次の首は更に俛れた。
彼の目はうるんだ。
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彼の目は潤んだ。
「わしももう、そうならどれだけ助かるか知れませんが、お内儀さんの所へそう言って来るわけにも行かないで」
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「わしもはあ、そんならなんぼ助るかも知れあんせんが、お内儀さん處ささう云つて來る譯にも行がねえで」
と、勘次は乱れた髪に手を当てて、こびるようなようすで言った。
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と勘次は亂れた頭髮へ手を當てゝ媚びるやうな容子をしていつた。
「それだが、お前にやるくらいならどうにかなるから、心配しなくてもいいよ」
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「それだがお前にやる位ならどうにか成るから心配しなくつても好いよ」
「わしもこれ、ばちが当たったんでしょう。そう思うよりほかありませんから」
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「わしも此れ、罰當つたんでがせう、さう思ふより外有りあんせんから」
勘次はしばらく間を置いて
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勘次は暫く間を措いて
「わしも女房につらい思いをさせて、つみを作ったのが悪いんでしょう」
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「わしも嚊こと因果見せて罪作つたの惡りいんでがせう」
彼の声はしずんだ。
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彼の聲は沈んだ。
「お内儀さん、わしはどんな形にか家も建てなくちゃならないから、そのときは家族のことも決めようと思ってるんですが、お内儀さん、またわしのことを面倒見ておくんなさい。わしの所の子もそのうち大きくなって来るから、学校もあとちっとにして、百姓をみっしり仕込もうと思ってるんでございますがね」
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「お内儀さん、わしどんな形にか家も建てなくつちやなんねえから、そん時や家族の極りもつけべと思つてんですが、お内儀さん又わしこと面倒見ておくんなせえ、わし等野郎も其内はあ大く成つて來つから學校もあとちつとにして百姓みつしら仕込むべと思つてんでがすがね」
「そうかえ」
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「さうかえ」
おかみさんはなぐさめるように言った。
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内儀さんは慰めるやうにいつた。
「お内儀さん、親不孝だなんてのは、親が警察へでもうったえて出なけりゃ、巡査だけじゃどうすることもできないもんでございましょうかね」
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「お内儀さん親不孝だなんちな、親が警察へでも願つて出なけりや巡査ばかしぢやどうすることも出來ねえもんでござんせうかね」
勘次はさっきからの話のあいだも、なんだか後ろから何かにおそわれるようなようすが止まなかったが、ついにこう言った。
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勘次は先刻からの噺の内にも何だか後から物に襲はれるやうな容子が止まなかつたが遂に斯ういつた。
「そうさね。巡査だって、むやみにどうかするということもないんだろうと思うようだがね」
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「さうさね、巡査だつて無闇にどうかするといふこともないんだらうと思ふやうだがね」
おかみさんは意外そうな顔で言った。
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内儀さんは意外な面持でいつた。
「これからもう、わしも爺さんのことを面倒見ようと思うんでございますがね。今からでもお内儀さん、間に合わないことはありますまいね」
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「此れからはあ、わしも爺樣こと面倒見べと思ふんでがすがね、今ツからでもお内儀さん間合ねえこたありあんすめえね」
「そうだよ。年寄りなんていうものはちょっとしたことで変わるんだから、まあ心配させないようにしたほうがいいよ。そう言っちゃ何だが、あといくらも生きるんじゃなしねえ」
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「さうだよ、老人なんていふものは少しの加減なんだから、まあ心配させないやうにした方が好いよ、さういつちや何だが後幾らも生きるんぢやなしねえ」
「へえ、そうでございますよ。昨日らから、ちっとやわらかい言葉をかけるとよろこんでるんですから。それからわしは、子どもにもらって来たやけどの薬もはってやったんでさ。薬が足りなくなっちまったから、お医者さまへ行って来ようと思ったっけが、今日は昼過ぎでいないだろうと思うから明日にしようと思って止めたのさ。明日行ったら水あめでも買って来てやれなんて、おつうも言うもんでございますからね」
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「へえさうでがすよ、昨日等ツからちつと柔え言辭掛けつとうるしがつて居んですから、それからわし野郎げ貰つて來た火傷の藥も貼つてやつたんでさ、藥足んなく成つちやつたから醫者樣さ行つて來べと思つたつけが、今日は午後で居めえと思ふから明日にすべと思つて止めたのせ、明日行つたら水飴でも買つて來てやれなんておつうも云ふもんでがすからね」
「やけどしたなんて聞いたっけが、それでも家へ連れて来てかね」
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「火傷したなんて聞いたつけがそれでも家へ連れて來てかね」
「へえ」
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「へえ」
勘次は、その明け方のことをどうしてかおかみさんがまだ知らないらしいのでほっと息をついたが、また自分ではずかしくなって、かんたんにあいまいにこう言った。
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勘次は其の佛曉のことをどうしてか内儀さんがまだ知らぬらしいのでほつと息をついたが又自分から恥ぢて、簡單に瞹昧に斯ういつた。
「お内儀さん、こうちっとでもよくないお金が入っちゃ、この先はどうしてもいいことはありますまいね」
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「お内儀さん、こうちつとでもよくねえ錢へえつちや末始終はどうしてもえゝこたありあんすめえね」
勘次はさらにまた、ひどく心配そうなようすでとつぜん聞いた。
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勘次は更にまた酷く懸念らしい容子をして突然に聞いた。
「そうさねえ」
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「さうさねえ」
おかみさんは、勘次の気持ちがはっきり分からないので、気の乗らないように言った。
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内儀さんは勘次の心持が明瞭とは分らないので氣の乘らぬやうにいつた。
「そんだがお内儀さん、そういうお金は自分のために使いさえしなけりゃ、どうしてもちがいましょうね」
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「そんだがお内儀さんさうえ錢は自分のげ役に立てせえしなけりやどうしても違えあんすべえね」
勘次はおかみさんに分かっても分からなくても、そんなことを考えるゆとりがなかった。
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勘次は内儀さんに分つても分らなくても、そんなことを考へる餘裕がなかつた。
彼はただ自分の心配だけを、底からふたから全部あけてしまわなければたえられなかったのである。
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彼は只自分の心配だけを底から蓋から打ち傾けて畢はねば堪へられなかつたのである。
「そうだが、それもどういうお金だか分からないが、そりゃ使っちゃいけないんだろうさね」
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「さうだが、それもどういふ筋の錢だか分らないがそりや使つちやいかないんだらうさね」
「そんじゃお内儀さん、他人がなくしたお金なんぞ見つけても知らないふりをして、後で返すのはぬすんだみたいで変なときは、何かで落とした分だけの物でもやれば、それでもちがいましょうね」
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「そんぢやお内儀さん他人の錢なくしたのなんぞ發見けても知らねえ容子なんぞして、後で遣んな盜つた見てえで變な時や、何でかで落ことした丈の物でもやればそれでも違えあんすべね」
勘次は少し、自分の言っていることの中身を打ち明けるように言った。
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勘次は少し自分のいふことの内容を打ち明けるやうにいつた。
「黙っていればそれっきりなんだが」
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「默つて居ればそれつ切なんだが」
彼は独り喉の底で言った。
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彼は獨喉の底でいつた。
「そりゃそんなことしないで、見つけた物なら、そのまま返すのが本当だよ」
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「そりやそんなことしないで發見けた物なら其儘返すのが本當だよ」
おかみさんは声は低かったが、きっぱりと言った。
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内儀さんは聲は低かつたがきつぱりいつた。
勘次のまよった心の底には、それがびりっと強くひびいた。
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勘次の惑うた心の底にはそれがびりゝと強く響いた。
「そんじゃお内儀さん、それを返して、またそのほかにも何とかしたら、ばちが当たるようなこともありますまいな」
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「そんぢやお内儀さんそれ返して又其の外にも何とかしたら冥利の惡りいやうなことも有りあんすめえな」
彼は情けなさそうな目でおかみさんをちらりと見て言った。
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彼は情なげな目で内儀さんをちらりと見ていつた。
「そんなことはしなくたって、何もよさそうなもんだね」
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「そんなこた仕なくつたつて何もよかりさうなもんだね」
おかみさんは、勘次のあまりに心配そうなようすに、とっくから気づいたことがあった。
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内儀さんは勘次の餘りに懸念らしい容子に疾から心づいたことがあつた。
おかみさんは、しばらく聞かなかった彼のぬすみぐせに思い当たった。
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内儀さんは暫く聞かなかつた彼の盜癖に思ひ至つた。
しかし彼が自分からひどく後かいしているらしいのを心の中で確かめて、しいて問いつめようという気にもなれなかった。
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然し彼が自分から甚だしく悔いつゝあるらしいのを心に確めて強ひては追求しようといふ念慮も起し得なかつた。
勘次はただ、かわいそうに見えた。
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勘次は只不便に見えた。
おかみさんはふと思い出して、少しばかりの銀貨を勘次のそばへならべて
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内儀さんはふと思ひ出して少しばかりの銀貨を勘次の側へ竝べて
「そりゃそうと、お前も家族のことを決めるつもりだっていうんだが、まあどうするつもりなんだね」
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「そりやさうと、お前も家族の極りをつける積だつていふんだが、まあどうする積なんだね」
と静かに聞いた。
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と靜に聞いた。
「そうでございますね」
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「さうでござんすね」
勘次はぐったりとうなだれて、言葉のおしまいが聞き取れないほどだった。
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勘次はぐつたりと俛首れて言辭の尻が聞きとれぬ程であつた。
深いうれいが、顔のしわに強く刻まれた。
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深い憂が顏面の皺に強く刻んだ。
「わしもこれ……」
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「わしも此れ……」
と彼はかすかに言っただけで、黙りつづけた。
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と彼は微かにいつたのみで沈默を續けた。
彼はおかみさんの前で、どうしても言わなければならないことに、心が乱れた。
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彼は内儀さんの前にどうしても述なければならないことに其心が惑亂した。
彼はぼうっとして、目がくらみそうになった。
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彼はぽうつとして目が昏まうとした。
遠くから呼ぶようで、しかも近い声で彼が我に返ったとき
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遠く喚ぶやうで然も近い聲の爲に彼が我に返つた時
「それじゃお前、まあこのお金をしまったらどうだね」
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「それぢやお前、まあ此錢を藏つたらどうだね」
と、おかみさんがすすめたのだった。
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と内儀さんが促したのであつた。
心の底から困っているような彼に向かって、おかみさんはもう問いつめる気になれなかった。
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衷心から困つたやうな彼に向つて内儀さんはもう追求する力を有なかつた。
「まことにどうも、お内儀さん」
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「誠にどうもお内儀さん」
彼はさいふを帯から解いて出したとき、ひどくへってしまったように感じて、そのさいふを外からちょっと見て首をかしげた。
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彼は財布を帶から解いて出した時酷く減つて畢つたやうに感じて、其の財布を外から一寸見て首を傾けた。
彼はまたさいふの底のお金をつかみ出してみた。
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彼は又財布の底の錢を攫み出して見た。
焼けあとの灰から出て青銅のように変わった銅貨は、ぽつぽつと焼けた皮を残して、あざやかな地はだが見えていた。
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燒趾の灰から出て青銅のやうに變つた銅貨はぽつ/\と燒けた皮を殘して鮮かな地質が剥けて居た。
彼はそれを目に近づけて、しばらくじっと見入った。
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彼はそれを目に近づけて暫く凝然と見入つた。
彼は気づいたとき、急におそれたようにおかみさんをふり返って、じゃらりとそのお金をさいふの底へ落とした。
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彼は心づいた時俄に怖れたやうに内儀さんを顧つてじやらりと其の錢を財布の底へ落した。
(おわり)
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(完)