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小学生向け

長塚節ながつかたかし)・1987

AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-08-04

「土」

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「土」

について

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に就て

漱石

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漱石

「土」

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「土」

が「東京朝日」という新聞

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が「東京朝日」

にのったのは、二年前のことです。

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に連載されたのは一昨年の事である。

そして、それをのせる係だったのが、わたしでした。

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さうして其責任者は余であつた。

ところが、こまったことに、わたしは「土」

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所が不幸にも余は「土」

が終わるまえに病気になってしまい、新聞を読むこともできなくなって、そのまま「土」

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の完結を見ないうちに病氣に罹つて、新聞を手にする自由を失つたぎり、又「土」

を書いた人のことを思い出すきっかけがありませんでした。

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の作者を思ひ出す機會を有たなかつた。

はじめは五十回か六十回でおわるはずだった「土」

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當初五六十囘の豫定であつた「土」

は、いつのまにか、とても長いお話になっていました。

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は、同時に意外の長篇として發達してゐた。

とちゅうで話のすじを忘れてしまったわたしは、もう一度、へんなところから読みなおす気になれなくて、そのままほうっておきました。でも心の中では、よくこんなに長く書きつづけられるものだと、作者のねばり強さにおどろいていました。

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途中で話の緒口を忘れた余は、再びそれを取り上げて、矢鱈な區切から改めて讀み出す勇氣を鼓舞しにくかつたので、つい夫ぎりに打ちつたやうなものゝ、腹のなかでは私かに作者の根氣と精力に驚ろいてゐた。

「土」

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「土」

は、たしか百五十回か百六十回まで来て、やっと終わりました。

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は何でも百五六十囘に至つて漸く結末に達したのである。

世の中の人も冷たく、わたしもいそがしくて、そのあと長いあいだ「土」

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冷淡な世間と多忙な余は其後久しく「土」

のことを忘れていました。

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の事を忘れてゐた。

ところがあるとき、このあいだ亡くなった池辺さんに会って、たまたま小説の話になりました。すると池辺さんが、どうして「土」

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所がある時此間亡くなつた池邊君に會つて偶然話頭が小説に及んだ折、池邊君は何故「土」

は本にならないのだろうと言って、長塚さんの作品をとてもほめていました。

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は出版にならないのだらうと云つて、大分長塚君の作を褒めてゐた。

池辺さんは、そのころ「朝日」

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池邊君は其當時「朝日」

のいちばん上の記者だったので、「土」

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の主筆だつたので「土」

をはじめから終わりまで読んでいたのです。

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は始から仕舞迄眼を通したのである。

そのうえ池辺さんは、自分は文学がわからないと言いながら、じつはまじめな見る目をもって「土」

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其上池邊君は自分で文學を知らないと云ひながら、其實摯實な批評眼をもつて「土」

をねばり強く最後まで読んだのです。

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を根氣よく讀み通したのである。

わたしは、本があまり売れない時代だから「土」

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余は出版界の不景氣のために「土」

を一さつの本にする時期がまだ来ないのだろう、と答えておきました。

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の單行本が出る時機がまだ來ないのだらうと答へて置いた。

そのとき心の中では、「土」

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其時心のうちでは、隨分「土」

よりずっとつまらないものでも本になる世の中だから、できればいつか本にまとめたほうが作者のためにいいだろうと思いました。でも、わたしは親切ではないので、その日がすぎるとまた「土」

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に比べると詰らないものも公けにされる今日だから、出來るなら何時か書物に纏めて置いたら作者の爲に好からうと思つたが、不親切な余は其日が過ぎると、又「土」

のことをすっかり忘れてしまいました。

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の事を丸で忘れて仕舞つた。

ところが、この春になって長塚さんがとつぜんたずねて来て、やっと本屋さんが「土」

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すると此春になつて長塚君が突然尋ねて來て、漸く本屋が「土」

を本にしてくれることになったから、はじめの文を書いてくれませんか、とたのんできました。

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を引受ける事になつたから、序を書いて呉れまいかといふ依頼である。

わたしはそのとき、自分の小説を毎日一回ずつ書いていたので、「土」

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余は其時自分の小説を毎日一囘づゝ書いてゐたので、「土」

を読みなおす時間がありませんでした。

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を讀み返す暇がなかつた。

しかたなく、自分の仕事が終わるまで待ってくださいと答えました。

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已を得ず自分の仕事が濟む迄待つてくれと答へた。

すると長塚さんは、池辺さんにもはじめの文を書いてほしいから、ついでにしょうかいしてくださいと言うので、わたしはすぐに引きうけました。

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すると長塚君は池邊君の序も欲しいから序でに紹介して貰ひたいと云ふので、余はすぐ承知した。

わたしの名前の書かれたカードをもって、「土」

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余の名刺を持つて「土」

の作者が池辺さんの家のげんかんに立ったのは、池辺さんのお母さんが亡くなってちょうど三十五日目の日でした。長塚さんは立ったままで用事だけをたのんで帰ったそうです。ところが、それから三日して池辺さんもとつぜん亡くなってしまい、池辺さんのはじめの文は、とうとうもらえませんでした。

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の作者が池邊君の玄關に立つたのは、池邊君の母堂が死んで丁度三十五日に相當する日とかで、長塚君はたゞ立ちながら用事丈を頼んで歸つたさうであるが、それから三日して肝心の池邊君も突然亡くなつて仕舞つたから、同君の序はとう/\手に入らなかつたのである。

わたしは「彼岸過迄」

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余は「彼岸過迄」

という自分の作品を書きおえるとすぐ、やくそくどおり「土」

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を片付けるや否や前約を踏んで「土」

の本になるまえの原こうを読みはじめました。

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の校正刷を讀み出した。

思ったよりずっと長くて、半日と丸一日をつかってやっと読みおえました。読んでみると、たいへん手間のかかった作品です。

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思つたよりも長篇なので、前後半日と中一日を丸潰しにして漸く業を卒へて考へて見ると、中々骨の折れた作物である。

わたしはもともと安っぽい人間なので、たいていの人の作品を見るとすぐ感心してしまうくせがあります。この「土」

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余は元來が安價な人間であるから、大抵の人のものを見ると、すぐ感心したがる癖があるが、此「土」

でも、まったくそのとおりでした。

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に於ても全くさうであつた。

まず何より先に、これはとてもわたしには書けないと思いました。

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先づ何よりも先に、是は到底余に書けるものでないと思つた。

つぎに、今の文学の世界で長塚さんのほかにだれが書けるだろうと、あれこれさがしてみました。

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次に今の文壇で長塚君を除いたら誰が書けるだらうと物色して見た。

すると、やはりだれにも書けそうにない、という答えになりました。

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すると矢張誰にも書けさうにないといふ結論に達した。

ただし、だれにも書けないというのは、文章のうまさや、人物を生き生きと動かす生まれつきの力のことを言っているのではありません。

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尤も誰にも書けないと云ふのは、文を遣る技倆の點や、人間を活躍させる天賦の力を指すのではない。

もしそれだけの意味でだれも長塚さんにかなわないと言うなら、それはほかの作家をばかにした言葉になりますし、また長塚さんをもち上げすぎるずるいやり方にも見えて、どちらにしても作者にめいわくをかけるだけです。

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もし夫れ丈の意味で誰も長塚君に及ばないといふなら、一方では他の作家を侮辱した言葉にもなり、又一方では長塚君を擔ぎ過ぎる策略とも取れて、何方にしても作者の迷惑になる計である。

わたしがだれもかなわないと言うのは、この作品に書かれているできごとや自然が、長塚さん以外の人にはまだ調べられていない、という意味なのです。

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余の誰も及ばないといふのは、作物中に書いてある事件なり天然なりが、まだ長塚君以外の人の研究に上つてゐないといふ意味なのである。

「土」

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「土」

に出て来る人たちは、とても貧しいお百姓です。

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の中に出て來る人物は、最も貧しい百姓である。

学問もなければ上品さもなく、ただ土の上に生まれて、土といっしょに育った虫のように、かわいそうなお百姓の生活です。

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教育もなければ品格もなければ、たゞ土の上に生み付けられて、土と共に生長した蛆同樣に憐れな百姓の生活である。

ご先祖のころから茨城県の結城郡に住み、その土地の有力な家として大ぜいの小作人をつかっている長塚さんは、その人たちの、けものに近い、おそろしいほどつかれきった生活のようすを、一から十までまじめにこの「土」

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先祖以來茨城の結城郡に居を移した地方の豪族として、多數の小作人を使用する長塚君は、彼等の獸類に近き、恐るべく困憊を極めた生活状態を、一から十迄誠實に此「土」

の中に書きつくしたのです。

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の中に收め盡したのである。

その人たちの、品のないところ、考えのあさいところ、めいしんを信じるところ、むじゃきなところ、ずるいところ、よくのないところ、よくの深いところ。それは、わたしたち(今の文学の世界の作家みんな)が想ぞうすることさえむずかしいのですが、それを目に見えるようにえがいたのが「土」

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彼等の下卑で、淺薄で、迷信が強くて、無邪氣で、狡猾で、無欲で、強欲で、殆んど余等(今の文壇の作家を悉く含む)の想像にさへ上りがたい所を、あり/\と眼に映るやうに描寫したのが「土」

です。

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である。

そして「土」

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さうして「土」

は、長塚さんのほかにだれも手をつけられない、苦しいお百姓の生活の、いちばんけものに近い部分を、細かくまっすぐに書いたものなので、だれもかなわないと言うのです。

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は長塚君以外に何人も手を著けられ得ない、苦しい百姓生活の、最も獸類に接近した部分を、精細に直叙したものであるから、誰も及ばないと云ふのである。

人の手のとどかない自然についても、同じことを、どんな読者もうなずかずにはいられないほど、作者は鬼怒川ぞいのけしきや、空や、春や、秋や、雪や風を細かく調べています。

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人事を離れた天然に就いても、前同樣の批評を如何な讀者も容易に肯はなければ濟まぬ程、作者は鬼怒川沿岸の景色や、空や、春や、秋や、雪や風を綿密に研究してゐる。

畑のもの、あぜに立つはんの木、かえるの声、鳥の声。かりにもその土地にある自然なら、ほんの小さなところまで、みんなその地方らしさをもって書かれています。

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畠のもの、畔に立つ榛の木、蛙の聲、鳥の音、苟くも彼の郷土に存在する自然なら、一點一畫の微に至る迄悉く其地方の特色を具へて叙述の筆に上つてゐる。

だから、どこにどう出て来ても、かならずそこにしかないものになっています。

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だから何處に何う出て來ても必ず獨特ユニークである。

そのどこにもないところを、ふつうの作家が書いた平ぼんな自然のえがき方とくらべて、わたしはだれもかなわないと言うのです。

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獨特ユニークな點を、普通の作家の手に成つた自然の描寫の平凡なのに比べて、余は誰も及ばないといふのである。

わたしは、そのすばらしさに感心しながら、あまりに細かすぎて話のすじをこわしてしまうことがあるのを、ざんねんに思ったほどです。それくらい、長塚さんは自然をよく見る人なのです。

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余は彼の獨特ユニークなのに敬服しながら、そのあまりに精細過ぎて、話の筋を往々にして殺して仕舞ふ失敗を歎じた位、彼は精緻な自然の觀察者である。

作品としての「土」

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作としての「土」

は、どちらかというと読むのがつらい作品です。

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は、寧ろ苦しい讀みものである。

けっして、おもしろいから読みなさいとは言いにくいのです。

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決して面白いから讀めとは云ひ惡い。

第一に、出て来る人たちの使う言葉が、わたしたちにはなじみのうすい方言でできています。

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第一に作中の人物の使ふ言葉が余等には餘り縁の遠い方言から成り立つてゐる。

第二に、作品が大きいわりに、また何年ものあいだのことをえがいているわりに、話が横に広がってばかりで、すじがはっきりと深まりながら前に進んでいきません。

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第二に結構が大きい割に、年代が前後數年にわたる割に、周圍に平たく發達したがる話が、筋をくつきりと描いて深くなりつゝ前へ進んで行かない。

だから全体として、読めば読むほどおもしろくなる、という感じを読者にあたえません。

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だから全體として讀者に加速度アクセレレーシヨンの興味を與へない。

だから、できごとが次々にからみ合って読者をぐいぐい引っぱっていくというより、その地方の一年の行事をていねいにあっさりと書いていくうちに、作者のつくった人物がとぎれとぎれに動き出す、と言ったほうがぴったりします。

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だから事件が錯綜纏綿して縺れながら讀者をぐい/\引込んで行くよりも、其地方の年中行事を怠りなく丹念に平叙して行くうちに、作者の拵らへた人物が斷續的に活躍すると云つた方が適當になつて來る。

そこに、人を引きつける力がすこし弱くなるおそれがある、という意味でも読みにくいのです。

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其所に聊か人を魅する牽引力を失ふ恐が潛んでゐるといふ意味でも讀みづらい。

でも、これはうわべの意味で読みにくいというだけです。わたしがほんとうに読みにくいと言うのは、出て来る人たちの心や行いが、ただ読者に苦しさと不安をあたえるだけで、人間は幸せなものだという気持ちや、なぐさめをすこしもくれないからです。

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然し是等は單に皮相の意味に於て讀みづらいので、余の所謂讀みづらいといふ本意は、篇中の人物の心なり行なりが、たゞ壓迫と不安と苦痛を讀者に與へる丈で、毫も神の作つてくれた幸福な人間であるといふ刺戟と安慰を與へ得ないからである。

悲しいお話は、たしかにおそろしいものです。

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悲劇は恐しいに違ない。

けれども、ふつうの悲しいお話には、悲しさのほかに何かのごほうびがあるので、読者はなみだを流すことをよろこぶのです。

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けれども普通の悲劇のうちには悲しい以外に何かの償ひがあるので、讀者は涙の犧牲を喜こぶのである。

ところが「土」

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が、「土」

は、なみださえ出ないほどの苦しさです。

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に至つては涙さへ出されない苦しさである。

雨がふらないかわりに、一生晴れることもない天気と同じ苦しさです。

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雨の降らない代りに生涯照りつこない天氣と同じ苦痛である。

ただ土の下へ心がしずんでいくだけで、人の情から見ても、正しさから見ても、この苦しさのおぎないになるものが何もあたえられていません。

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たゞ土のしたへ心が沈む丈で、人情から云つても道義心から云つても、殆んど此壓迫の賠償として何物も與へられてゐない。

ただ土をほり下げて、暗い中へ落ちていくだけです。

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たゞ土を掘り下げて暗い中へ落ちて行く丈である。

「土」

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「土」

を読む人は、きっと自分もどろの中を引きずられるような気がするでしょう。

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を讀むものは、屹度自分も泥の中を引き摺られるやうな氣がするだらう。

わたしもそういう気がしました。

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余もさう云ふ感じがした。

どうして長塚さんはこんな読みにくいものを書いたのだろう、とふしぎに思う人もいるかもしれません。

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或者は何故長塚君はこんな讀みづらいものを書いたのだと疑がふかも知れない。

そういう人にわたしはひとことだけ言いたいのです。こういう生活をしている人が、わたしたちと同じ時代に、しかも東京からそう遠くない田舎に住んでいる。この悲しい事実を、一度ぎゅっと胸にだきしめてみたら、これから先のあなたの生き方や、毎日の行いに、何か役に立つのではないでしょうか、と。

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そんな人に對して余はたゞ一言、斯樣な生活をして居る人間が、我々と同時代に、しかも帝都を去る程遠からぬ田舍に住んで居るといふ悲慘な事實を、ひしと一度は胸の底に抱き締めて見たら、公等の是から先の人生觀の上に、又公等の日常の行動の上に、何かの參考として利益を與へはしまいかと聞きたい。

わたしはとくに、楽しいことばかりにあこがれる若い男の人や女の人に、読みにくいのをがまんして、この「土」

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余はとくに歡樂に憧憬する若い男や若い女が、讀み苦しいのを我慢して、此「土」

を読む勇気を出してほしいと思います。

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を讀む勇氣を鼓舞する事を希望するのである。

わたしのむすめが大きくなって、音楽会がどうの、しばいがどうのと言い出すころになったら、わたしはぜひこの「土」

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余の娘が年頃になつて、音樂會がどうだの、帝國座がどうだのと云ひ募る時分になつたら、余は是非此「土」

を読ませたいと思っています。

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を讀ましたいと思つて居る。

むすめはきっといやだと言うでしょう。

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娘は屹度厭だといふに違ない。

もっとおもしろい恋のお話ととりかえてほしいと言うでしょう。

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より多くの興味を感ずる戀愛小説と取り換へて呉れといふに違ない。

けれどもわたしはそのとき、むすめに、おもしろいから読めと言うのではありません。

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けれども余は其時娘に向つて、面白いから讀めといふのではない。

苦しいから読めと言うのだ、と伝えたいと思っています。

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苦しいから讀めといふのだと告げたいと思つて居る。

べんきょうのためだから、世の中を知るためだから、知って自分の心の中に暗くおそろしいかげをうつすためだから、がまんして読みなさい、と言いたいのです。

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參考の爲だから、世間を知る爲だから、知つて己れの人格の上に暗い恐ろしい影を反射させる爲だから我慢して讀めと忠告したいと思つて居る。

何も考えずにぬくぬくと育った若い女の人(男の人でも同じです)が、ものごとの意味を考えたり、神や仏のことを思ったりするようになるのは、みなこの暗いかげの奥から生まれてくるのだと、わたしは強く信じているからです。

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何も考へずに暖かく生長した若い女(男でも同じである)の起す菩提心や宗教心は、皆此暗い影の奧からして來るのだと余は固く信じて居るからである。

長塚さんの書き方は、どこまでも落ちついています。

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長塚君の書き方は何處迄も沈着である。

出て来る人たちは、みなありのままです。

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其人物は皆有の儘である。

話のすじは、まったく自然です。

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話の筋は全く自然である。

わたしが「土」

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余が「土」

を「朝日」

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を「朝日」

にのせはじめたとき、北のほうのSという人が、わざわざ手紙をくれて、長塚さんが旅行でその人と会ったときの言い合いを知らせてきたことがあります。

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に載せ始めた時、北の方のSといふ人がわざ/″\書を余のもとに寄せて、長塚君が旅行して彼と面會した折の議論を報じた事がある。

長塚さんは、わたしが「朝日」

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長塚君は余の「朝日」

に書いた「満韓ところどころ」

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に書いた「滿韓ところ/″\」

というものをSさんの家で一回読んで、漱石という男は人をばかにしていると言って、たいそうおこったそうです。

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といふものをSの所で一囘讀んで、漱石といふ男は人を馬鹿にして居るといつて大いに憤慨したさうである。

漱石だけでなく、そもそも「朝日」

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漱石に限らず一體「朝日」

新聞の記者の書き方はみんな人をばかにしている、と言ってわるく言ったそうです。

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新聞の記者の書き振りは皆人を馬鹿にして居ると云つて罵つたさうである。

なるほど、まじめでよく練られた、おごそかと言ってもいいような「土」

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成程眞面目に老成した、殆んど嚴肅といふ文字を以て形容して然るべき「土」

を書いた長塚さんなら、そう思うのももっともです。

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を書いた、長塚君としては尤もの事である。

「満韓ところどころ」

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「滿韓所々ところ/″\

などが長塚さんの気にさわったのも、そのはずだと思います。

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抔が君の氣色を害したのは左もあるべきだと思ふ。

でも、長塚さんから軽い人間だと思われたわたしにも、まじめな「土」

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然し君から輕佻の疑を受けた余にも、眞面目な「土」

を読む目はあるのです。

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を讀む眼はあるのである。

だから、このはじめの文を書いているのです。

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だから此序を書くのである。

長塚さんは、たまたま「満韓ところどころ」

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長塚君はたまたま「滿韓ところ/″\」

の一回を見てわたしの軽さにはらを立てたのでしょう。でも、同じわたしが書いたほかのものをたまたま読んでいたら、反対の気持ちになったかもしれません。

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の一囘を見て余の浮薄を憤つたのだらうが、同じ余の手になつた外のものに偶然眼を觸れたら、或は反對の感を起すかも知れない。

もしわたしが、はじめから終わりまで「満韓ところどころ」

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もし余が徹頭徹尾「滿韓ところ/″\」

の中の長塚さんの気に入らない一回のような調子でいるのなら、とても長塚さんの「土」

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のうちで、長塚君の氣に入らない一囘を以て終始するならば、到底長塚君の「土」

のためにこんなに言葉をつかうことはできないはずだからです。

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の爲に是程言辭を費やす事は出來ない理窟だからである。

長塚さんは不幸にものどの病気にかかり、このあいだまで東京の病院にいましたが、今は体を治しながら旅をしています。

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長塚君は不幸にして喉頭結核にかゝつて、此間迄東京で入院生活をして居たが、今は養生旁旅行の途にある。

さきごろ、まえにしょうかいしておいた福岡大学の久保先生から手紙が来て、長塚さんが診てもらいに来たと書いてあったので、今ごろは九州にいるでしょう。

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先達てかねて紹介して置いた福岡大學の久保博士からの來書に、長塚君が診察を依頼に見えたとあるから、今頃は九州に居るだらう。

わたしは本になる時期におくれずに、病気の長塚さんのために、「土」

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余は出版の時機に後れないで、病中の君の爲に、「土」

についてこれだけのことを言えたのをうれしく思います。

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に就いて是丈の事を云ひ得たのを喜こぶのである。

わたしがむかし「土」

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余がかつて「土」

を「朝日」

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を「朝日」

にのせはじめたとき、ある作家が、わたしたちは「土」

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に載せ出した時、ある文士が、我々は「土」

などを読むぎむはない、と言っていたと、わざわざ知らせてきた人がいました。

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などを讀む義務はないと云つたと、わざ/\余に報知して來たものがあつた。

そのときわたしは、この作家は何のためにつみのない「土」

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其時余は此文士は何の爲に罪もない「土」

の作者をばかにするのだろうと思って、いやな気持ちになりました。

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の作家を侮辱するのだらうと思つて苦々しい不愉快を感じた。

だいたい、読まなければならないぎむのある小説なんて、その小説の原こうを直す人か、国が本を調べる役所の人のほかには、あるはずがありません。

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理窟から云つて、讀まねばならない義務のある小説といふものは、其小説の校正者か、内務省の檢閲官以外にさうあらう筈がない。

わざわざ言わなくても、いやならだまって読まなければそれでいいのです。

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わざ/\斷わらんでも厭なら厭で默つて讀まずに居れば夫迄である。

もしまた、名前の知られていない人が書いたものだから読むぎむはないと言うのなら、その人は名前だけで小説を読み、中身は気にしない、文学のわからない人と同じです。

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もし又名の知れない人の書いたものだから讀む義務はないと云ふなら、其人は唯名前丈で小説を讀む、内容などには頓着しない、門外漢と一般である。

作家なら、同じ仕事をする人に対して、たとえ名前が知られていない人でも、もう少し思いやりと敬う気持ちがあってほしいと思います。

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文士ならば同業の人に對して、たとひ無名氏にせよ、今少しの同情と尊敬があつて然るべきだと思ふ。

わたしは「土」

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余は「土」

の作者が病気なので、なおさらそう言いたいのです。

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の作者が病氣だから、此場合には猶ほ更らさう云ひたいのである。

(明治四十五年五月)

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(明治四十五年五月)

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強い西風が、目に見えない大きなかたまりをごうっとぶつけては、またごうっとぶつけて、やせた木の林を一日じゅういじめつづけた。

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はげしい西風にしかぜえぬおほきなかたまりをごうつとちつけてはまたごうつとちつけてみなやせこけた落葉木らくえふぼくはやしを一にちいぢとほした。

木のえだは、ときどきひゅうひゅうと悲しそうな音を立てて泣いた。

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えだ時々とき/″\ひう/\と悲痛ひつうひゞきてゝいた。

みじかい冬の日はもう落ちかけて、黄色い光を出しながらまたたいた。

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みじかふゆはもうちかけて黄色きいろひかり放射はうしやしつゝ目叩またゝいた。

そして西風は、ぱたりとやんでしまったのかと思うほど静かになった。

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さうして西風にしかぜはどうかするとぱつたりんでしまつたかとおもほどしづかになつた。

どろをちぎって投げたような雲が、ばらばらに林の上へじっとくっついていて、空はまだ静かでないことを見せている。

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どろ拗切ちぎつてげたやうなくも不規則ふきそくはやしうへ凝然ぢつとひつゝいてそらはまださわがしいことをしめしてる。

それでときどきは、思い出したように木のえだがざわざわと鳴る。

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それで時々とき/″\おもしたやうにえだがざわ/″\とる。

あたりが急に心細くなった。

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世間せけんにはかこゝろぼそくなつた。

お品はまた、てんびん棒を下ろした。

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しな天秤てんびんおろした。

お品は竹のみじかいてんびん棒の先へ、木のえだで作った小さなかぎをぶら下げて、それで手おけの取っ手を引っかけていた。

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しなたけみじか天秤てんびんさきえだこしらへたちひさなかぎをぶらさげてそれで手桶てをけけてた。

お品は畑仕事のあいまに、村でとうふを仕入れて、二つか三つの村を売り歩くのがいつものことだった。

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しな百姓ひやくしやう隙間すきまにはむらから豆腐とうふ仕入しいれてては二三ヶそんあるいてるのがれいである。

手おけで持ち出すだけだから、もとでも要らないかわりにもうけも少ない。でも畑仕事だけをしているより、毎日その日のこづかいがもらえるので、もうしばらくそうしていた。

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手桶てをけすだけのことだから資本もとでいらないかはりにはまうけうすいのであるが、それでも百姓ひやくしやうばかりしてるよりも日毎ひごとえた小遣錢こづかひせんれるのでもうしばらくさうしてた。

手おけ一つ分のとうふなら、いつもの道をぐるりと回れば、かならず売り切れた。

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手桶てをけ一提ひとさげ豆腐とうふではいつものところをぐるりとまはれば屹度きつとなくなつた。

帰りにはとうふのかけらで白くなった水をすてて、てんびん棒は軽くなるのである。

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かへりには豆腐とうふこはれでいくらかしろくなつたみづてゝ天秤てんびんかるくなるのである。

お品はいつでも、日のあるうちに、夜に縄をなうための藁へ水をかけておいたり、落ち葉をかき集めたりして、あちこち手を動かすのをやめなかった。

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しな何時いつでものあるうちになべになはわらみずけていたり、落葉おちばさらつてたりそこらこゝらとうごかすことをめなかつた。

生まれつき丈夫なので、お品は仕事を苦しいと思ったことがなかった。

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天性丈夫ぢやうぶなのでおしな仕事しごとくるしいとおもつたことはなかつた。

それがこの日は自分でもとてもいやだったが、冬至が来るからこんにゃくを仕入れなくてはならないと言って、むりに出たのだった。

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それがこの自分じぶんでもひどいやであつたが、冬至とうじるから蒟蒻こんにやく仕入しいれをしなくちやらないといつて無理むりたのであつた。

冬至になると、にわか商人が次々に出てくるので、急いで一度歩いておかないと、先を取られてしまう。お品はどうしてもじっとしていられなかった。

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冬至とうじといふと俄商人にはかあきうどがぞく/\と出來できるのでいそいで一ぺんあるかないと、その俄商人にはかあきうどせんされてしまふのでおしなはどうしても凝然ぢつとしてはられなかつた。

こんにゃくは村にはないので、仕入れるには田んぼをこえたり林をぬけたりして、遠くまで行かなければならない。

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蒟蒻こんにやくむらにはいので、仕入しいれをするのには田圃たんぼえたりはやしとほつたりしてとほくへかねばならぬ。

それでお品は、そのとちゅうで商売をしようと思って、この日もとうふをかついで出た。

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それでおしなその途中とちうあきなひをしようとおもつて豆腐とうふかついでた。

あいにく、夜から冷えきった空には強い西風がふいていて、それにさからって行くお品は、自分でも足元がひどくふらつくのを感じた。

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生憎あいにくよるからつてそらにははげしい西風にしかぜつて、それにさからつてくおしな自分じぶんひど足下あしもとのふらつくのをかんじた。

ぞくぞくと体が冷えた。

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ぞく/\と身體からだえた。

そして、とうふを出すたびに水へ手を入れるのが、ふるえるほど身にしみた。

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さうして豆腐とうふたびみづ刺込さしこむのがふるへるやうにみた。

かさかさにかわいた手が、水につけるたびに赤くなった。

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かさ/\に乾燥かわいたみづへつけるたびあかくなつた。

あかぎれがぴりぴりといたんだ。

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ひゞがぴり/\といたんだ。

なかよしの家々で、お品は落ち葉をひとくべ燃やしてもらっては手をかざして、やっと暖まった。

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懇意こんいなそここゝでおしな落葉おちば一燻ひとくいてもらつてはかざしてやつあたゝまつた。

こんにゃくを仕入れて出たときは、そんなことで手間どって、いつもよりずっとおそくなっていた。

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蒟蒻こんにやく仕入しいれてときはそんなこんなでひまをとつて何時いつになくおそかつた。

お品は林をいくつもすぎて自分の村へ急いだが、つかれもしたし、体がだるいような気がして、何度も道ばたに荷を下ろして休みながら来たのだった。

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しなはやしいくつもぎて自分じぶんむらいそいだが、つかれもしたけれどものういやうな心持こゝろもちがして幾度いくたび路傍みちばたおろしてはやすみつゝたのである。

お品は手おけの取っ手へわたした竹のてんびん棒へ体をあずけて、どかりとひざを折った。

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しな手桶てをけよこたへたたけ天秤てんびんけてどかりとひざつた。

ぐったりしたお品は、ただでさえ見苦しいかっこうが、いっそうだらしなく乱れた。

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ぐつたりつたおしなはそれでなくても不見目みじめ姿すがたさら檢束しどけなくみだれた。

西風のなごりが、お品の後ろからふいた。

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西風にしかぜ餘波なごりがおしなうしろからいた。

そして西風は、後ろで結んだ汚い手ぬぐいのはしをめくって、油の切れたほこりだらけの赤い髪の毛をしごき上げるようにして、あかだらけの首すじをむき出しにさせている。

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さうして西風にしかぜうしろくゝつたきたな手拭てぬぐひはしまくつて、あぶられたほこりだらけのあかかみきあげるやうにしてそのあかだらけの首筋くびすぢ剥出むきだしにさせてる。

それといっしょに、林の木々はまだ持ち前のさわぎをやめないで、道ばたのえだがぐるりと取りまいてお品の上からのぞこうとすると、後ろからも後ろからも林のえだが一斉に首を出す。

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それともはやし雜木ざふきはまだ持前もちまへさわぎをめないで、路傍みちばたこずゑがずつとしなつておしなうへからそれをのぞかうとすると、うしろからも/\はやしこずゑが一せいくびす。

そしてしばらくすると、また一斉に後ろへぐっともどって、体を横にゆらしながら、笑ってささやくようにざわざわと鳴る。

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さうしてしばらくしてはまたせいうしろへぐつともどつて身體からだよこ動搖ゆさぶりながらわら私語さゞめくやうにざわ/\とる。

お品は体にいつもとちがうことが起きたのに気づいて、こわくなってきた。

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しな身體からだ變態へんたいきたしたことを意識いしきするととも恐怖心きようふしんいだきはじめた。

三、四日なんともなかったから大丈夫だとは思っても、こうしてじっとしていると遠くへ引きこまれるような気がして、もともとのぼせやすいこともあって、そう思うと耳が鳴るようで、あたりがかえって静かになってしまったように思われた。

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三四どうもなかつたから大丈夫だいぢやうぶだとはおもつてても、凝然ぢつとしてるととほくのほう滅入めいつてしまやう心持こゝろもちがして、不斷ふだんからいくらか逆上性のぼせしやうでもあるのだがさうおもふとみゝるやうで世間せけんかへつしづかにつてしまつたやうにおもはれた。

ふと気がつくと、お品はきびきびとてんびん棒をかついだ。

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不圖ふといたときしなははき/\として天秤てんびんかついだ。

林がとぎれて、田んぼが見えてきた。

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はやしきて田圃たんぼした。

田んぼをこえれば村で、自分の家は田んぼのすぐそばである。

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田圃たんぼせばむらで、自分じふんいへ田圃たんぼのとりつきである。

青いけむりがすっと上がっている。

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あをけぶりがすつとのぼつてる。

お品は二人の子どものことを思って、心がおどった。

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しな二人ふたり子供こどもおもつてこゝろをどつた。

林のはずれから田んぼへ下りる所は十メートルほどだが、かたむきの急な坂で、雨のたびにそこらの水を集めて田んぼへ落とす口になっているので、自然に土がけずられて深いくぼみができている。

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はやしはづれから田圃たんぼへおりるところわづかに五六けんであるが、勾配こうばいけはしいさかでそれがあめのあるたびにそこらのみづあつめて田圃たんぼおとくちつてるので自然しぜんつちゑぐられてふかくぼみかたちづくられてる。

お品はてんびん棒をななめに横へ向けて、右の手を前の手おけの取っ手へ、左の手を後ろの手おけの取っ手へかけて、気をつけながら下りた。

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しな天秤てんびんなゝめよこけて、みぎまへ手桶てをけひだりうしろ手桶てをけけて注意ちういしつゝおりた。

それでも、手おけいっぱいになりそうなこんにゃくの重さが、ふらつく足をかろうじてささえさせた。

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それでもほとんど手桶てをけぱいさう蒟蒻こんにやく重量おもみすこしふらつくあしあやうたもたしめた。

やっと人がすれちがえるだけのせまい田んぼ道を、お品はそろそろと運んで行く。

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やつとひとちがふだけのせま田圃たんぼをおしなはそろ/\とはこんでく。

お品は白っぽくなるほど古くなった股引に、先のほうだけつぎ足した足袋をはいている。

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しな白茶しらちやけたほどふるつた股引もゝひきへそれでもさきほうだけした足袋たび穿いてる。

大きな藁ぞうりは、かためたように霜どけのどろがくっついていて、それがぼたぼたと足の運びをさらにおそくしている。

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おほきな藁草履わらざうりかためたやうに霜解しもどけどろがくつゝいて、それがぼた/\とあしはこびをさらにぶくしてる。

せまく連なっている田を、たてに用水のほりがはしっている。

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せまつらなつてたて用水ようすゐほりがある。

二、三本、わりと大きなはんの木が立っている所に、たった一枚の板の橋がななめにかけてある。

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二三株にさんかぶ比較的ひかくてきおほきなはんつてところわづか一枚いちまいいたはしなゝめけてある。

お品は橋のたもとでちょっと立ち止まった。

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しなはしたもと一寸ちよつとどまつた。

そして、近づいた自分の家を見た。

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さうしてちかづいた自分じぶんいへた。

村は高台にあるので、お品の家の後ろはすぐ、ななめに田んぼへずり落ちそうな林である。

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村落むら臺地だいちるのでおしないへうしろすぐなゝめ田圃たんぼへずりさうはやしである。

ならや雑木のあいだに、みじかい竹がまじっている。

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なら雜木ざふきあひだみじかたけまじつてる。

かなり大きくなったならの木はみな葉が落ちきっているので、その小えだのすきまからへこんだ屋根の棟が見える。

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いゝ加減かげんおほきくなつたならみなつくしてるので、その小枝こえだとほしてくぼんだやのむねえる。

白い羽のにわとりが五、六羽、がりがりとつめで土をかいてはくちばしでつつき、またがりがりと土をかいては、いっしんに夕方のえさをさがしながら、田んぼから林へ帰りつつある。

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しろはねにはとりが五六、がり/\とつめつちいてはくちばしでそこをつゝいてまたがり/\とつちいては餘念よねんもなく夕方ゆふがた飼料ゑさもとめつゝ田圃たんぼからはやしかへりつゝある。

お品はとても気をつけて、ななめの橋をわたった。

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しな非常ひじやう注意ちういもつなゝめはしわたつた。

四歩目には、もう田んぼの土に立った。

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四足目よあしめにはもう田圃たんぼつちつた。

そのときは日はとっくにしずんでいて、見わたすかぎり、田からも林からも、あたりはただ黄色っぽく光って、それでもまだ明るかった。

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そのときとうぼつして見渡みわたかぎり、からはやしから世間せけんたゞ黄褐色くわうかつしよくひかつてさうしてまだあかるかつた。

お品は田んぼから上がるまえに、てんびん棒を下ろして左へ曲がった。

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しな田圃たんぼからあがるまへ天秤てんびんおろしてひだりまがつた。

自分の家の林と田とのあいだには、人の足あとだけの細い道がついている。

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自分じぶんいへはやしとのあひだにはひと足趾あしあとだけの小徑こみちがつけてある。

お品は、その細い道と林とのさかいにあるぐみの木のそばに立った。

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しなその小徑こみちはやしとの境界さかひしきつて牛胡頽子うしぐみそばたつた。

にわとりのつめのあとが、そこの新しい土をかき散らしてあった。

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にはとりつめあと其處そこあたらしいつちらしてあつた。

お品は土を手で集めて、ぞうりの底でそくそくとならした。

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しなつちあつめて草履ざうりそこでそく/\とならした。

お品のすがたが庭に見えたときには、西風は忘れたようにやんでいて、庭先のくりの木にかけた大根のかわいた葉も動かなかった。

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しな姿すがたにはえたときには西風にしかぜわすれたやうにんでて、庭先にはさきくりにぶつけた大根だいこからびたうごかなかつた。

白いにわとりはお品の足元へちょろちょろとかけて来て、何かほしそうにけろっと見上げた。

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しろにはとりはおしなあしもとへちよろ/\とけてなにさうにけろつと見上みあげた。

お品はいつものように、にわとりにかまっていられなかった。

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しな平常いつものやうににはとりなどかまつてはられなかつた。

お品は戸口にてんびん棒を下ろして、とつぜん

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しな戸口とぐち天秤てんびんおろして突然いきなり

「おつう」

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「おつう」

と呼んだ。

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んだ。

「おっかあか」

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「おつかあか」

と、すぐにおつぎの返事が元気よく聞こえた。

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すぐにおつぎの返辭へんじ威勢ゐせいよくきこえた。

それと同時に、かまどの火がひらひらと赤くお品の目にうつった。

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それと同時どうじかまどがひら/\とあかくおしなうつつた。

朝から雨戸を開けていないので、中は薄暗くなっている。

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あさから雨戸あまどけないのでうちはうすくらくなつてる。

外の光を見ていたお品の目には、すぐにはおつぎのすがたも見えなかったのである。

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そとひかりたおしなにはぐにはおつぎの姿すがたえなかつたのである。

戸口からでは、おつぎの体がかまどの火をかくしていた。

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戸口とぐちからではおつぎの身體からだかまどおほうてた。

返事をするときに体をひねったので、その赤い火が見えたのである。

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返辭へんじするととも身體からだねぢつたのでそのあかえたのである。

おつぎの背中にいた与吉は、お品の声を聞きつけると

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おつぎの與吉よきちはおしなこゑきつけると

「まんまんま」

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「まん/\ま」

と両手を出して下りようとする。

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兩手りやうてしてりようとする。

お品は、おつぎが帯を解いているあいだに、かべぎわの麦藁の俵のそばへ、こんにゃくの手おけを二つならべた。

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しなはおつぎがおびいてるあひだ壁際かべぎは麥藁俵むぎわらだはらそば蒟蒻こんにやく手桶てをけを二つならべた。

与吉はお母さんのふところにだかれて、ろくに出もしないお乳をさがした。

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與吉よきちはおふくろふところかれてろくもしない乳房ちぶささぐつた。

お品はかまどの前へこしをかけた。

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しなかまどまへこしけた。

白いにわとりは、はしごのかわりにかけてある荒縄をぐるぐる巻きにした竹のみきへ、それぞれつめを引っかけて、両方の羽を広げて体のつりあいを取りながら、あわてたようにねぐらへ上がった。

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しろにはとり掛梯子かけばしごかはりけてある荒繩あらなはでぐる/\まきにしたたけみき各自てんでつめけて兩方りやうはうはねひろげて身體からだ平均へいきんたもちながらあわてたやうにとやへあがつた。

そして青いけむりの中で、じっとして目を閉じている。

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さうしてあをけむりなか凝然ぢつとしてぢてる。

お品は家に帰っていくらか暖まったが、それでも一日冷えたせいか、ぞくぞくするのが止まらなかった。

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しないへかへつていくらかあたゝまつたがそれでも一にちえた所爲せいかぞく/\するのがまなかつた。

そして、あとで近所でおふろをもらってゆっくり暖まれば、気分もよくなるだろうと思った。

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さうしてのち近所きんじよ風呂ふろもらつてゆつくりあつたまつたら心持こゝろもちなほるだらうとおもつた。

かまどには小さななべがかかっている。

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かまどにはちひさななべかゝつてる。

しるはふたを浮かすようにして、ぐらぐらとにえている。

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しるふたたゞよはすやうにしてぐら/\と煮立にたつてる。

外もいつのまにか、すっかり暗くなった。

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そともいつかとつぷりくらくなつた。

おつぎはかまどの下から火のついたしばを一つ取って、手ランプをつけて上がりがまちの柱へかけた。

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おつぎはかまどしたからのついてる麁朶そだひとつとつてランプをけてあががまちはしらけた。

お品は、おつぎがひとえに半纏を引っかけたままなのを見た。

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しなはおつぎが單衣ひとへ半纏はんてんけたまゝであるのをた。

ふだんならそんなことはないのだが、自分がひどくぞくぞくして気分が悪いので、つい気になって

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平常いつもならそんなことはないのだが自分じぶんひどくぞく/\として心持こゝろもちわるいのでついになつて

「おつう、そんなかっこうでお前は寒くないか」

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「おつう、そんな姿なりわりさむかねえか」

と聞いた。

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いた。

それから手ぬぐいの下から見えるおつぎのあどけない顔を、じっと見た。

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それから手拭てぬぐひしたからえるおつぎのあどけないかほ凝然ぢつた。

「寒くないよ」

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さむかあんめえな」

おつぎは何でもないように言った。

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おつぎはこともなげにいつた。

与吉はふところの中で、しきりにほしがっている。

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與吉よきちふところなかしきりにせがんでる。

お品はいつもとちがって何も買って来なかったので、ふと困った。

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しな平常いつものやうでなくなにつてなかつたので、ふとこまつた。

「おつう、そこらに砂糖はなかったっけね」

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「おつう、そこらに砂糖さたうはなかつたつけゝえ」

お品は言った。

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しなはいつた。

おつぎは黙ってぞうりをぬぎ捨てて座敷へかけ上がり、戸だなから小さな古い新聞紙のふくろを見つけ出して、自分の手のひらへ少し砂糖をつまみ出して

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おつぎはだまつて草履ざうり脱棄ぬぎすてゝ座敷ざしきけあがつて、戸棚とだなからちひさなふる新聞紙しんぶんしふくろさがして、自分じぶんひらすこ砂糖さたうをつまみして

「そらそら」

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「そら/\」

と言いながら、手を出して待っている与吉にやった。

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といひながら、してつて與吉よきちつた。

おつぎは砂糖のついた自分の手をなめた。

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おつぎは砂糖さたういた自分じぶんめた。

与吉は、その砂糖をお母さんのふところへこぼしながら、あぶなっかしくつまんでは口へ入れる。

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與吉よきちその砂糖さたうをおふくろふところへこぼしながらあぶさうにつまんではくちれる。

砂糖がなくなると、与吉はそのべとついた手をお母さんの口のあたりへ出した。

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砂糖さたうきたとき與吉よきちそのべとついたをおふくろくちのあたりへした。

お品は与吉の両手をつかまえてなめてやった。

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しな與吉よきち兩手りやうてつかまへてねぶつてやつた。

お品はなべのふたを取って、しばのほのおをかざしながら

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しななべふたをとつて麁朶そだほのほかざしながら

「これはいもか何だい」

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「こりやいもなんでえ」

と聞いた。

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いた。

「うん、少しいもを足して温めなおしたんだ」

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「うむ、すこいもしてあつたけえしたんだ」

「ごはんは冷たくないかい」

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「おまんまはつめたかねえけ」

「そのあとで雑炊でも作ろうと思ってたのよ」

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「それから雜炊おぢやでもこせえべとおもつてたのよ」

お品は熱い物なら体が暖まるだろうと思いながら、自分はひどくだるいので、何でもおつぎにさせていた。

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しなあつものなら身體からだあたゝまるだらうとおもひながら、自分じぶんひどものういのでなんでもおつぎにさせてた。

おつぎは、ねばり気のない、麦の多いぽろぽろのごはんをなべへ入れた。

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おつぎはねばのないむぎつたぽろ/\なめしなべれた。

お品はしばをひとくべ、つっこんだ。

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しな麁朶そだ一燻いとくつ込んだ。

おつぎはなべを下ろして、茶がまをかけた。

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おつぎはなべおろして茶釜ちやがまけた。

ほうっと白くゆげの立つなべの中を、おたまで二、三度かき回して、おつぎはまたふたをした。

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ほうつとしろ蒸氣ゆげなべなかをお玉杓子たまじやくしで二三てゝおつぎはまたふたをした。

おつぎは戸だなからおぜんを出して、上がりがまちへ置いた。

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おつぎは戸棚とだなからぜんしてあががまちいた。

柱にかけた手ランプの光がとどかないので、おつぎは手さぐりでしている。

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はしらけてあるランプのひかりとゞかぬのでおつぎは手探てさぐりでしてる。

お品は左手にだいた与吉の口へ、はしの先で少しずつ食べさせながら雑炊を食べた。

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しな左手ひだりていた與吉よきちくちはしさきすこしづゝふくませながら雜炊ざふすゐをたべた。

お品はいもを三つ四つはしにさして、与吉に持たせた。

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しないもを三つ四つはしてゝ與吉よきちたせた。

与吉はいもを口へ持っていって、すぐに熱いと言って泣いた。

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與吉よきちいもくちつていつてぐにあついというていた。

お品は与吉のほおをふうふうとふいて、それからいもを自分の口でかんでやった。

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しな與吉よきちほゝをふう/\といてそれからいも自分じぶんくちんでやつた。

お品のごはんは、こうして冷えた。

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しな茶碗ちやわんうしてえた。

おつぎは冷たくなったとき、なべのものと取りかえてやった。

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おつぎはつめたくなつたときなべのとかへてやつた。

お品は、ほしくもない雑炊を三ばいまで食べた。

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しなしくもない雜炊ざふすゐを三ばいまでたべた。

いくらかおなかの中が暖かくなったのを感じた。

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いくらかはらなかあたゝかくなつたのをかんじた。

そしてやっと、水っぽさのぬけた茶がまのお湯をくんで飲んだ。

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さうしてやうや水離みづばなれのした茶釜ちやがまんでんだ。

おつぎは庭先の井戸ばたへ出て、なべへ一ぱい、つるべの水をあけた。

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おつぎは庭先にはさき井戸端ゐどばたなべへ一ぱい釣瓶つるべみづをあけた。

おつぎがもどったとき

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おつぎがもどつたとき

「おつう、今夜でなくてもいいよ」

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「おつう、今夜こんやでなくつてもえゝや」

とお品は言った。

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とおしなはいつた。

おつぎは黙って俵のそばの手おけに手をかけて

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おつぎはだまつてたわらそば手桶てをけけて

「これにも水を入れておかなくちゃならないだろうね」

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これへもみづせえかなくつちやなんめえな」

「そうすればいいが、大変だろうよ」

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「さうすればえゝが大變たえへんだらえゝぞ」

お品が言い終わらないうちに、おつぎは庭へ出た。

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しながいひらぬうちにおつぎはにはた。

すぐに洗ったなべと手おけを持って、暗い庭先からぼんやりと戸口にすがたを見せた。

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ぐにあらつたなべ手桶てをけつてくら庭先にはさきからぼんやり戸口とぐち姿すがたせた。

しきいへちょっと手おけを置いて、お品と顔を見合わせた。

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しきゐ一寸ちよつと手桶てをけいておしなかほ見合みあはせた。

手おけの水は半分で、両方のこんにゃくに水がかぶった。

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手桶てをけみづ半分はんぶん兩方りやうはう蒟蒻こんにやくみづつた。

お品は三人づれで、東どなりへおふろをもらいに行った。

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しなは三人連にんづれ東隣ひがしどなり風呂ふろもらひにつた。

東どなりというのは大きなやしきで、こんもりとしげった森につつまれている。

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東隣ひがしどなりといふのはおほきな一構ひとかまへ蔚然うつぜんたるもりつゝまれてる。

外はまっ暗だ。

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そとやみである。

となりの森のすぎが、すみきった空へつき出している。

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となりもりすぎがぞつくりとえたそらんでる。

お品の家はむかしから、この森のせいで、日がよほど南へ回ってからでないと庭に光がささなかった。

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しないへ以前いぜんからもりめに餘程よほどみなみまはつてからでなければにはひかりすことはなかつた。

お品の家族は、どこまでも日かげ者であった。

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しな家族かぞく何處どこまでも日蔭者ひかげものであつた。

それがあとになって、あちこちに土地をはかるための三角測量台が建てられ、その上に小さな旗がひらひらとひるがえるようになってから、その森が見通しのじゃまになるというので、三、四本だけ切らせられた。

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それがのちつてから方方はう/″\陸地測量部りくちそくりやうぶの三角測量臺かくそくりやうだいてられてそのうへちひさなはたがひら/\とひらめくやうにつてからそのもり見通みとほしにさはるといふので三四ほんだけらせられた。

すぎの大木は西へたおしたので、どしんとそこらをおそろしくゆらして、お品の庭へ横たわった。

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すぎ大木たいぼく西にしたふしたのでづしんとそこらをおそろしくゆるがしておしなにはよこたはつた。

えだはくだけて、その先が庭の土をえぐった。

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えだくぢけてそのさきにはつちをさくつた。

それでもとなりでは、その木のかたづけをするときにそこらへ散らばった小えだやくずをお品の家にくれたので、思いがけないたきぎができたのと、東がずっと空いたのとで、となりでは自分のうでを切られたようだとおしんだのに、お品の家ではこっそりよろこんだのだった。

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それでもとなりではその始末しまつをつけるときにそこらへらばつた小枝こえだその屑物くづものはおしないへあたへたのでおもけないたきゞ出來できたのと、もひとつはいくらでもひがしいたのとで、となりでは自分じぶんうでられたやうだとしんだにもかゝはらずおしないへではひそかよろこんだのであつた。

それからというもの、どんなかっこうでも日が朝からさすようになった。

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それからといふものはどんな姿なりにもあさからすやうになつた。

それでもやはり森はあたりをおしつけていて、夜になるとことにそびえ立って、小さなお品の家は地面へふみつけられたように見えた。

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それでも有繋さすがもりはあたりを威壓ゐあつしてよるになるとこと聳然すつくりとしてちひさなおしないへべたへふみつけられたやうにえた。

お品は暗やみの中へ消えた。

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しなやみなかえた。

そして、となりの戸口に現れた。

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さうしてとなり戸口とぐちあらはれた。

となりのやとわれ人たちは、夜なべの縄をなっていた。

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となり雇人やとひにんなべのなはつてた。

板の間のはしにあぐらをかいて、足でおさえた縄のはしへ藁をつぎ足しつぎ足ししては、ちょりちょりとひたいの上までもみ上げ、右の手をしりへ回してくっと縄を後ろへしごく。

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いたはし胡坐あぐらいてあしおさへたなははしわらし/\してちより/\とひたひうへまであげてはみぎしりまはしてくつとなはうしろく。

縄はそのたびに土間へ落ちる。

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なはそのたび土間どまちる。

お品は板の間で小さくなっていた。

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しないたちひさくなつてた。

やがて藁がなくなると、やとわれ人たちはそれぞれ縄を足から手へ引っかけて、すばやく数をかぞえては土間からたぐり上げながら、つながったまま一たばずつにくくった。

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やがわらきると傭人やとひにん各自てんでそのなはあしからけて迅速じんそくかずはかつては土間どまから手繰たぐげながら、つながつたまゝばうづゝにくゝつた。

やがて彼らは板の間の藁くずを土間へはき落として、それからかわりばんこにおふろへ入った。

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やがて彼等かれらいた藁屑わらくづ土間どまきおろしてそれから交代かうたい風呂ふろ這入はひつた。

お品はそれを見ながら、黙って待っていた。

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しなはそれをながらだまつてつてた。

お品はここへ来るとこういうえんりょをしなければならないので、少し遠くてもおふろは外へもらいに行くのだったが、その晩はどこもおふろをわかしていなかった。

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しな此處こゝるとういふ遠慮ゑんりよをしなければならぬので、すこしはとほくても風呂ふろほかもらひにくのであつたがそのばんはどこにも風呂ふろたなかつた。

お品は二、三けんあちこち歩いてみてから、となりの門をくぐったのだった。

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しなは二三けんそつちこつちとあるいててからとなりもんくゞつたのであつた。

やとわれ人たちは、大がまの下にぽっぽと火をたいて当たっている。

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傭人やとひにん大釜おほがましたにぽつぽといてあたつてる。

おふろから出ても、彼らはゆだったような赤いももを出して火のそばへ寄った。

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風呂ふろからても彼等かれらゆだつたやうなあかもゝしてそばつた。

「どうだね、ひとくべ当たったらよかろう。今すぐに空くから」

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「どうだね、一燻ひとくべあたつたらようがせう、いますぐくから」

とやとわれ人が言ってくれても、お品はしりから冷えるのをがまんして、じっとしんぼうしていた。

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傭人やとひにんがいつてくれてもおしなしりからえるのを我慢がまんして凝然ぢつ辛棒しんぼうしてた。

ふところでねむった与吉を起こすまいとしては、足がしびれるので、何度も体をもじもじ動かした。

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ふところねむつた與吉よきちさわがすまいとしてはあししびれるので幾度いくど身體からだをもぢ/\うごかした。

やっとおふろが空いたときは、お品は待ち遠しかったので、何も考えずに急いで着物をぬいだ。

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やうや風呂ふろいたときはおしな待遠まちどほであつたので前後ぜんごかんがへもなくいそいで衣物きものをとつた。

与吉は運よくぐったりして、お母さんのふところからはなれるのも気づかないので、おつぎが小さな手でだいた。

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與吉よきちさいはひにぐつたりとつておふくろふところからはなれるのもらないのでおつぎがちひさないた。

お品はだんだん体が暖まるにつれて、はじめて生き返ったようにうっとりした。

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しな段々だん/\身體からだあたゝまるにれてはじめて蘇生いきかへつたやうに恍惚うつとりとした。

いつまでもつかっていたいような気がした。

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いつまでもしづんでたいやうな心持こゝろもちがした。

与吉が泣きはしないかと気づいたとき、ろくに洗いもしないで出てしまった。

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與吉よきちきはせぬかと心付こゝろづいたときろくあらひもしないでしまつた。

それでも顔がつやつやとして、髪の生えぎわが、ふいてもふいても汗ばんだ。

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それでもかほがつや/\としてかみ生際はえぎはぬぐつても/\あせばんだ。

そして、しみじみと気持ちよかった。

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さうしてしみ/″\とこゝろよかつた。

お品は着物を引っかけると、すぐに与吉をふところへ入れた。

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しな衣物きものけるとぐと與吉よきち内懷うちふところれた。

お品のあとには下女が入ったので、おつぎはそのあいだ待たねばならなかった。

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しなあとへは下女げぢよ這入はひつたので、おつぎはそのあひだたねばならなかつた。

おつぎが出たときには、お品の体は冷めかけていた。

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おつぎがときはおしな身體からだけてた。

お品は、自分があとで入ればよかったと後かいした。

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しな自分じぶんあとではいればよかつたのにと後悔こうくわいした。

お品が自分の股引と足袋をおつぎに持たせて帰ったときには、月がそっととなりの森のかたちをはっきりさせて、その森のすきまがことに明るく光っていた。

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しな自分じぶん股引もゝひき足袋たびとをおつぎにげさせてかへつたときつきひそかとなりもり輪郭りんくわくをはつきりとさせてそのもり隙間すきまことあかるくひかつてた。

あたりはしみじみと冷えていた。

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世間せけんがしみ/″\とえてた。

お品はうすいあかじみたふとんにくるまると、体がまたぞくぞくして、ひざがしらがこおったようになっていたのに気づいた。

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しなうすあかじみた蒲團ふとんへくるまると、身體からだまたぞく/\としてひざかしらがこほつたやうにつてたのをつた。

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次の朝、お品は、まだ戸のすきまからうす明かりがさしたばかりのころに目がさめた。

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つぎあさしなはまだ隙間すきまからうすあかりのしたばかりにめた。

まくらから頭を上げてみたが、頭のしんがしくしくといたむようで、いつになく重かった。

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まくらもたげてたがあたましんがしく/\といたむやうでいつになくおもかつた。

せまい家の中に、羽ばたくにわとりの声がけたたましく耳の底へひびいた。

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せばいへうち羽叩はばたにはとりこゑがけたゝましくみゝそこひゞいた。

おつぎはまだすやすやとねむっている。

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おつぎはまだすや/\としてねむつてる。

戸のすきまがまぶたを開いたように明るくなったとき、にわとりがまた高く鳴いた。

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隙間すきままぶたひらいたやうにあかるくなつたときにはとり甲走かんばしつていた。

お品は、おつぎを今朝はゆっくりさせてやろうと思っていた。

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しなはおつぎを今朝けさゆつくりさせてやらうとおもつてた。

それでもおつぎは、にわとりがまた鳴いたとき、むっくり起きた。

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それでもおつぎはにはとりまたいたときむつくりきた。

いつもとちがってあまりに静かなので、おどろいたようにあたりを見た。

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いつもとちがつてあまりひつそりしてるのでおどろいたやうにあたりをた。

そして、お母さんがまだ自分のそばでふとんにくるまっているのを見た。

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さうしておふくろがまだ自分じぶんそば蒲團ふとんへくるまつてるのをた。

「おつう、急がなくてもいいぞ。おれは今朝は少し具合が悪いから、ゆっくりするからな」

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「おつう、せかねえでもえゝぞ、今朝けさすこ工合ぐえゝわりいからゆつくりすつかんなよ」

お品は言った。

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しなはいつた。

おつぎはしばらくもじもじしながら帯をしめて、大戸を一枚がらがらと開けて、目をこすりながら庭へ出た。

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おつぎはしばらくもぢ/\しながらおびしめ大戸おほどを一まいがら/\とけてをこすりながらにはた。

井戸ばたのおけにはいもが少し水にひたしてあって、その水にはガラス板くらいのこおりが張っている。

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井戸端ゐどばたをけにはいもすこしばかりみづひたしてあつて、そのみづにはこほりがガラスいたぐらゐぢてる。

おつぎは、なべをいつもみがいているといしのかけらで、こおりをたたいてみた。

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おつぎはなべをいつもみがいて砥石といし破片かけこほりたゝいてた。

おつぎは大戸を開けっぱなしにしていたので、朝の寒さが入ってきたのに気がついて

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おつぎは大戸おほどはなしていたのであささむさが侵入しんにふしたのにがついて

「おっかあ、寒くなかったか。おれ知らないでいた」

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「おつかあ、さむかなかつたか、らねえでた」

と言いながら、大戸をがらがらとしめた。

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いひながら大戸おほどをがら/\とめた。

暗くなった家の中では、かまどの火だけが元気よく赤く立った。

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くらくなつたいへうちにはかまどのみがいきほひよくあかく立つた。

おつぎは

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おつぎは

「ああ冷たい」

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「おゝつめてえ」

と言いながら、かまどの口からめくれて出るほのおへ手をかざして

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といひながらかまどくちからまくれてほのほかざして

「今朝はいもの水がこおったんだよ」

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今朝けさいもみづこほつたんだよ」

と、お母さんのほうを向いて言った。

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とおふくろはういていつた。

「うん、霜もおりたようだな」

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「うむ、しもつたやうだな」

お品は力なく言った。

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しなちからなくいつた。

戸口を後ろにして、お品はかまどの火がべろべろと燃え上がるのを見た。

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戸口とぐちうしろにしておしなかまどのべろ/\とあがるのをた。

「どこでもまっ白だよ」

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何處どこでも眞白まつしろだよ」

おつぎは竹の火ばしで落ち葉をかき立てながら言った。

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おつぎはたけ火箸ひばし落葉おちばてながらいつた。

「夜明けにひどく冷えたっけからな」

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夜明よあけにひどく冷々ひや/\したつけかんな」

お品は言って、ちょっと首を上げながら

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しなはいつて一寸ちよつとくびもたげながら

「おれは今朝は食べたくないからな。お前はかまわないで、できたら食べたほうがいいぞ」

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今朝けさはたべたかねえかんな、われかまあねえで出來できたらたべたはうがえゝぞ」

お品は言った。

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しなはいつた。

またこおったごはんで雑炊がにられた。

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またこほつためし雜炊ざふすゐられた。

「おっかあ、少しでも食べないか」

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「おつかあ、ちつとでもやらねえか」

おつぎは茶わんをお母さんのまくら元へ出した。

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おつぎは茶碗ちやわんをおふくろ枕元まくらもとした。

雑炊のこげたようなにおいがぷんと鼻をついたとき、お品ははしを取ってみようかと思ってうつぶせになってみたが、すぐに気持ちが悪くなってしまった。

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雜炊ざふすゐげついたやうなにほひがぷんとはないたときしなはしつてようかとおもつて俯伏うつぶしになつてたが、すぐいやになつてしまつた。

お品が動いたので、ふところの与吉は泣き出した。

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しなうごいたのでふところ與吉よきちした。

お品はうつぶせのままお乳をふくませた。

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しな俯伏うつぶしたまゝ乳房ちぶさふくませた。

そしてまた、いものくしを作って持たせた。

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さうしてまたいもくしこしらへてたせた。

お品が表の大戸を開けさせたときには、日がきらきらと東どなりの森ごしに庭へさしかけて、きっぱりと日かげを区切って、とけ残った霜が白く見えていた。

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しなおもて大戸おほどけさせたときがきら/\と東隣ひがしどなりもりしににはけてきつかりと日蔭ひかげかぎつてのこつたしもしろえてた。

庭先のくりの木のかれ葉からも、えだにかけた大根の葉からも、霜がとけてしずくがまだぽたりぽたりと落ちている。

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庭先にはさきくり枯葉かれはからも、えだけた大根だいこからもしもけてしづくがまだぽたり/\とれてる。

庭にしいてある庭ぶたの藁も、ただぐっしょりとしめっている。

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にはいてある庭葢にはぶたわらたゞぐつしりとしめつてる。

冬になると霜柱が立つので、庭にはみんな藁くずやそばがらがいっぱいにしかれる。

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ふゆになると霜柱しもばしらつのでにはへはみんな藁屑わらくづだの蕎麥幹そばがらだのが一ぱいかれる。

それが庭ぶたである。

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それが庭葢にはぶたである。

霜柱が、庭から先の桑畑で、ぐらりぐらりとたおれつつある。

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霜柱しもばしらにはからさき桑畑くはばたけにぐらり/\とたふれつゝある。

お品はふとんの中でも、ずいぶん暖かくなったのを感じた。

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しな蒲團ふとんなかでも滅切めつきりあたゝかくつたことをかんじた。

ときどきまくらから頭を上げて、戸口から外を見る。

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時々とき/″\まくらもたげて戸口とぐちからそとる。

そしては、麦藁の俵のそばに置いたこんにゃくの手おけを、どうかすると気づかないうちに見つめている。

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さうしては麥藁俵むぎわらだはらそばいた蒟蒻こんにやく手桶てをけをどうかすると無意識むいしきつめる。

横になっている目からは東どなりの森のえだが変に見えるので、じっと見つめると目がつかれてくるので、またこんにゃくの手おけへ目をうつしたりした。

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よこつてからは東隣ひがしどなりもりこずゑめうかはつてえるので凝然ぢつつめてはつかれるやうにるのでまた蒟蒻こんにやく手桶てをけうつしたりした。

お品は、どうにかして少しでもこんにゃくをへらしておきたいと思った。

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しなはどうかしてすこしでも蒟蒻こんにやくらしてきたいとおもつた。

お品は、そのうち起きられるだろうと考えながら、ときどきうとうとする。

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しなそのうちきられるだらうとかんがへつゝ時々とき/″\うと/\とる。

「切り干しでも切ろうかな」

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切干きりぼしでもつたもんだかな」

おつぎが庭から大きな声で言ったとき、お品はふとまくらから頭を上げた。

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おつぎがにはからおほきなこゑでいつたときしなはふとまくらもたげた。

それでおつぎの声は、意味も分からずにかすかに耳に入った。

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それでおつぎのこゑ意味いみわからずにかすかにみゝつた。

しばらくたってから、お品は庭でおつぎがざあと水をくんでは、また間を置いてざあと水をくんでいるのを聞いた。

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しばらくたつてからおしなにはでおつぎがざあとみづんではまたあひだへだてゝざあとみづんでるのをいた。

おつぎは大根を洗った。

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おつぎは大根だいこあらつた。

おつぎは庭ぶたの上にむしろをしいて、暖かい日ざしをあびながら切り干しを切りはじめた。

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おつぎは庭葢にはぶたうへむしろいてあたゝかい日光につくわうよくしながら切干きりぼしりはじめた。

大根を横に幾つかに切って、さらにそれをたてに割って細長くきざむ。

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大根だいこよこいくつかにつて、さらにそれをたてつて短册形たんざくがたきざむ。

おつぎは飯だいにわたしたまな板の上へとんとんとほうちょうを落としては、そのほうちょうで白くきざまれた大根を飯だいの中へしごき落とす。

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おつぎは飯臺はんだいわたした爼板まないたうへへとん/\と庖丁はうちやうおとしてはその庖丁はうちやうしろきざまれた大根だいこ飯臺はんだいなかおとす。

お品は切り干しをきざむ音を聞いたとき、さっきのは大根を洗っていたのだなと思った。

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しな切干きりぼしきざおといたとき先刻さつきのは大根だいこあらつてたのだなとおもつた。

お品は、この二、三日、もう切り干しも切らなければと自分で言っていたのを思い出して、おつぎがよく気をきかせたと心の中でよろこんだ。

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しなは二三にちこのかたもう切干きりぼしらなければならないと自分じぶんくちについてつてたことをおもして、おつぎが機轉きてんかしたとこゝろよろこんだ。

ほうちょうの音が雨戸のすぐ外に聞こえる。

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庖丁はうちやうおと雨戸あまどそとちかきこえる。

お品が体を半分ふとんからずり出してみたら、手ぬぐいで髪をつつんで少し前かがみになっているおつぎの後ろすがたが見えた。

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しな身體からだ半分はんぶん蒲團ふとんからずりしてたら、手拭てぬぐひかみつゝんですこ前屈まへかゞみになつてるおつぎの後姿うしろすがたえた。

「大根は分かったのか」

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大根だいこわかつたのか」

お品は聞いた。

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しないた。

「分かってるよ」

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わかつてるよ」

おつぎはほうちょうの手を止めて、横を向いて返事した。

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おつぎは庖丁はうちやうとゞめてよこむい返辭へんじした。

お品はまたふとんにくるまった。

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しなまた蒲團ふとんへくるまつた。

そしてまだ下手なほうちょうの音を聞いた。

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さうしてまだ下手へた庖丁はうちやうおといた。

お品のふところにいた与吉は、たいくつしてぐずり出した。

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しなふところ與吉よきち退屈たいくつしてせがみした。

おつぎはそれを聞いて

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おつぎはそれいて

「そうら、姉ちゃんのとこへでも来てみろ」

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「そうら、ねえとこへでもろ」

と言いながら、いそいでぽっとひとくべ落ち葉を燃やし、着物をあぶって与吉に着せた。

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といひながらせはしくぽつと一燻ひとく落葉おちばもやして衣物きものあぶつて與吉よきちせた。

「よきはりこうだから、姉ちゃんのとこにいるんだぞ」

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よき利口りこうだからねえとこるんだぞ」

お品は言った。

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しなはいつた。

おつぎは自分のむしろの上へだいて行った。

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おつぎは自分じぶんむしろうへいてつた。

おつぎの手は落ち葉のほこりでよごれていた。

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おつぎの落葉おちばほこりよごれてた。

また、ほうちょうを持ったとき、大根には指のあとがついた。

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ふたゝ庖丁はうちやうつたとき大根だいこにはゆびあとがついた。

おつぎはその手を半纏でふいた。

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おつぎはその半纏はんてんぬぐつた。

与吉はそばできざまれた大根へ手を出す。

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與吉よきちそばきざまれた大根だいこす。

「あぶないよ。さあ、これでも持ってろ」

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危險あぶねえよ、さあこれでもつてろ」

おつぎは切りかけの大根をやった。

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おつぎはけの大根だいこをやつた。

与吉はすぐにそれをかじった。

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與吉よきちすぐにそれをぢつた。

「からくてしようがないだろうな、よきは」

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からくてやうあんめえなよきは」

おつぎは、あまやかすように言った。

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おつぎはあまやかすやうにいつた。

お品にはそれがよく聞こえて、二人が何をしているのかが分かった。

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しなにはそれがきこえて二人ふたりがどんなことをしてるのかゞわかつた。

お品の耳には、つづいて

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しなみゝにはつゞいて

「ぺっとしたか。そら、そっちへ行っちゃった」

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「ぽうんとしたか、そらそつちへつちやつた」

という声がしたかと思うと

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といふこゑがしたかとおもふと

「今度はぺっとするんじゃないからな」

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「こんだはぽうんとすんぢやねえかんな」

という声や、それからまた

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といふこゑやそれからまた

「それ、持ち出すんじゃない。言うことを聞かないと、これで切ってやるぞ。血が出るぞ。ああ痛い」

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「それすんぢやねえ、かねえとこれつてやんぞ、あかまんまがるぞおゝいてえ」

などと、おつぎが言うのが聞こえた。

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などとおつぎのいふのがきこえた。

そのたびに、ほうちょうの音が止まる。

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そのたび庖丁はうちやうおとむ。

お品には、与吉がいたずらをしたり、おつぎが痛いと言って指をくわえてみせれば与吉も自分の手を口に当てているのが、目に見えるようである。

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しなには與吉よきち惡戯いたづらをしたり、おつぎがいたいといつてゆびくはへてせれば與吉よきち自分じぶんくちあてるのがえるやうである。

お品はおつぎをふだんからきびしくしつけていたので、よその子よりよく働けると思っているけれど、与吉とふざけているのを見ると、まだ子どもなのだということが頭に浮かぶ。

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しなはおつぎを平常ふだんから八釜敷やかましくしてたので餘所よそよりも割合わりあひうごけるとおもつてるけれど、與吉よきち巫山戯ふざけたりしてるのをるとまだ子供こどもだといふことが念頭ねんとううかぶ。

自分が勘次と知り合ったのは十六の秋である。

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自分じぶん勘次かんじあひつたのは十六のあきである。

おつぎもこうして大人らしくなるだろうかと、いつになくそんなことを思った。

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おつぎはうして大人おとならしくるであらうかと何時いつになくそんなことをおもつた。

おつぎは十五だった。

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おつぎは十五であつた。

昼ごはんも、お品はほしくなかった。

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午餐ひるもおしなしくなかつた。

自分でも今日は商売に出られないとあきらめた。

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自分じぶんでも今日けふあきなひられないとあきらめた。

明日になったらと思っていた。

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明日あすつたらばとおもつてた。

しかしそれは、むだな望みだった。

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しかしそれは空頼そらだのみであつた。

お品は、あいかわらずまくらからはなれられない。

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しな依然いぜんとしてまくらはなれられない。

さすがに不安な気持ちが先に立った。

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有繋さすが不安ふあんねんさきつた。

お品は、つい先ごろ出かけて行った勘次のことがしきりに思い出された。こっちであれだけ働いて行ったのに、きっと休みもしないでお金をかせいでいるのだろうと思うと、寒くてもシャツ一まいになって、あとにはそのシャツのすそがぬけ出してよくおへそが出ることや、夜になると骨がみりみりするようだと言っていたことが目の前にあるようで、なんだか会いたくてたまらない気がするのだった。

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しなはつい近頃ちかごろつた勘次かんじことしきりにおもされて、こつちであれほどはたらいてつたのに屹度きつとやすみもしないで錢取ぜにとりをしてるのだらうとおもふと、さむくてもシヤツひとつになつて、のちにはそのシヤツのはししてへそることや、よるになるとほねがみり/\するやうだといつたことがまへにあるやうでなんだかひたくてたまらぬやうな心持こゝろもちがするのであつた。

勘次は利根川をほり広げる工事へ行っていた。

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勘次かんじ利根川とねがは開鑿工事かいさくこうじつてた。

秋のころから土方の人がさそいに来て、ずいぶんうまい話をされたので、この近くの村からも五、六人が応じた。

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あきころから土方どかた勸誘くわんいう大分だいぶうまはなしをされたので近村きんそんからも五六にん募集ぼしふおうじた。

勘次は工事がどんなものかもよく知らなかったが、一日のかせぎが五十銭以上にもなるというので、それがそのころとしてはとんでもなく高いのにひかれてしまったのである。

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勘次かんじ工事こうじがどんなことかもらなかつたが一にち手間てまが五十せん以上いじやうにもなるといふので、それがその季節きせつとしては法外はふぐわい値段ねだんなのにんでしまつたのである。

工事の場所は霞ヶ浦に近い低い土地で、こう水がいったん岸の草をしずめると、湖は広がって川と一つになり、ただ白々と水があふれるのを、人の手でつくった堤防がかろうじて湖と川とを分けているあたりである。

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工事こうじ場所ばしよかすみうらちか低地ていちで、洪水こうずゐが一たんきしくさぼつすと湖水こすゐ擴大くわくだいしてかはひとつにたゞ白々しら/″\氾濫はんらんするのを、人工じんこうきづかれた堤防ていばうわづか湖水こすゐかはとを區別くべつするあたりである。

勘次は自分の土地とくらべて、はてしなく広いあたりのようすにのまれた。

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勘次かんじ自分じぶん土地とち比較ひかくして茫々ばう/\たるあたりの容子ようすまれた。

そして人夫たちに、えらそうにこき使われた。

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さうして工夫等こうふら權柄けんぺいにこき使つかはれた。

勘次は、いよいよやとわれて行くことになったとき、とり入れを急いだ。

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勘次かんじいよ/\やとはれてくとなつたとき收穫とりいれいそいだ。

冬至が近づくころには、田はもちろん、畑のいもでも大根でも、それぞれかたづけなくてはならない。

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冬至とうじちかづくころにははいふまでもなくはたけいもでも大根だいこでもそれぞれ始末しまつしなくてはならぬ。

勘次は、お品が起きてかまどの火をつけるまでのあいだに、庭ぶたへもみのむしろをほしたり、それから一人でうすをひいたりして、それから大根もほしたり土にうめたりして、暗いうちから暗くなるまで働いた。

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勘次かんじはおしなきてかまどけるうちには庭葢にはぶたもみむしろしたりそれからひとりで磨臼すりうすいたりして、それから大根だいこしたりつちけたりしてくらいからくらいまではたらいた。

それでも、もみが少しと畑が少し残ったのを、お品がどうにかすると言ったので出て行ったのである。

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それでももみすこしとはたけすこのこつたのをおしながどうにかするといつたのでつたのである。

工事の場所へは八十キロもあった。

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工事こうじ箇所かしよへは廿もあつた。

勘次は、行けばすぐにお金になると思ったので、やっと一円ばかりのさいふをふところに入れて出た。

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勘次かんじけばすぐぜにになるとおもつたのでやうやく一ゑんばかりの財布さいふふところにした。

べんとうをうんと背負って行ったので、目ざす所に着くまでは、わたし舟のお金のほかには一銭も要らなかった。

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辨當べんたうをうんと背負しよつたので目的地もくてきちへつくまでは渡錢わたしせんほかには一せんらなかつた。

勘次は夜に着いて、その次の日にはつかれた体で仕事に出た。

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勘次かんじよるついてそのつぎにはつかれた身體からだ仕事しごとた。

彼は半日でもむだにごはんを食べることをおそれた。

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かれ半日はんにちでも無駄むだめしふことをおそれた。

しかしその次の日は、はげしい仕事のせいで、「そら手」といって手のすじがいたんだので、二、三日仕事に出られなかった。

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しかつぎ過激くわげき勞働らうどうからぞくそら手というてすぢいたんだので二三にち仕事しごとられなかつた。

それから六、七日たって、はげしい西風がふいた。

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それから六七にちたつてはげしい西風にしかぜいた。

勘次はうすいふとんにくるまって、昼のうちから冷えていた足が暖まらなかった。

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勘次かんじうす蒲團ふとんへくるまつてうちからえてたあしあたゝまらなかつた。

うとうとするばかりでぐっすりねむることもできず、ねがえりを打って長い夜をやっと明かした。

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うと/\と熟睡じゆくすゐすることも出來できないで輾轉ごろ/\してながやうやあかした。

その次の日、彼はこわばったように感じる手を動かして、冷たいシャベルの柄をにぎってどろだらけになっていた。

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つぎかれこはばつたやうにかんずるうごかしてつめたいシヤブルのつてどろにくるまつてた。

そうしている所へ、村の近所の人がひょっこりたずねて来たので、彼はきつねにでもばかされたように、ただおどろいた。

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さうしてところむら近所きんじよのものがひよつこりたづねてたのでかれきつねにでもつままれたやうにたゞおどろいた。

近所の人は、大ぜいがどろのようになって動いているので、どれがどれとも見分けがつかなくて困ったと言って、勘次に会えたことを何度も言ってよろこんだ。

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近所きんじよもの大勢おほぜいたゞどろのやうになつてうごいてるのでどれがどうとも識別みわけがつかないでこまつたといつて、勘次かんじうたことを反覆くりかへしてたゞよろこんだ。

とちゅうで一晩とまったというようなことを言って、勘次が気ぜわしく聞くまで用件を言わなかった。

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途中とちゆう一晩ひとばんとまつたといふやうなことをいつて勘次かんじこゝろせはしくまで理由わけをいはなかつた。

勘次はやっと、お品にたのまれて来たのだということを知った。

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勘次かんじやうやくおしなたのまれてたのだといふことをつた。

勘次は、お品が病気になったのだと聞いて、もしものことがあったらという不安がぎくりと胸にこたえた。

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勘次かんじはおしな病氣びやうきかゝつたのだといふのをいて萬一もしかといふ懸念けねんがぎつくりむねにこたへた。

そして何度も、どんなぐあいだと聞いた。

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さうして反覆くりかへしてどんな鹽梅あんばいだといた。

話のようすではそれほどでもないのかと思ってもみたが、それでも勘次は、口をきくにもつばが喉からぐっとこみ上げてくるようで落ち着かなかった。

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はなし容子ようすではそれほどでもないのかとおもつてもたが、それでも勘次かんじくちくにもつばのどからぐつとかへしてるやうで落付おちつかれなかつた。

その日の夜中に、二人は出発した。

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夜中よなか彼等かれらつた。

勘次は自分も急ぐし、使いの人をつかれた足で歩かせることもできないので、霞ヶ浦を汽船で土浦の町へ出た。

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勘次かんじ自分じぶんいそぐし使つかひつかれたあしあるかせることも出來できないのでかすみうら汽船きせん土浦つちうらまちた。

夜は汽船の上で明けたが、どうしたのかとちゅうで故しょうが起きたので、土浦へ着いたのは思っていた時間よりずっとおそくなった。

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よる汽船きせんけたがどうしたのか途中とちう故障こしやう出來できたので土浦つちうらいたのは豫定よてい時間じかんよりははろかおくれてた。

土浦の町で勘次はいわしを一つつみ買って、手ぬぐいでくくってぶら下げた。

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土浦つちうらまち勘次かんじいわし一包ひとつゝつて手拭てねぐひくゝつてぶらさげた。

土浦から彼は、つかれた足の人を後ろに置いて、自分は力のかぎり歩いた。

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土浦つちうらからかれつかれたあしあとてゝ自分じぶんちからかぎあるいた。

それでも村へ入ったときにはすれちがう人がぼんやり分かるくらいで、自分の戸口に立ったときには、うす暗い手ランプが柱にかかってくすぶっていた。

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それでもならへはひつたときちがひとがぼんやりわかくらゐ自分じぶん戸口とぐちつたとき薄暗うすくらランプがはしらかゝつてくすぶつてた。

勘次は、しんとした家の中に、すぐにふとんにくるまっているお品のすがたを見た。

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勘次かんじはひつそりとしたいへのなかにすぐ蒲團ふとんへくるまつてるおしな姿すがたた。

それから、お品の足をさすっているおつぎに目をうつした。

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それからおしなあしさすつてるおつぎにうつした。

勘次は大戸をがらりと開けてしきいをまたいだとき、何も言わずにただ

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勘次かんじ大戸おほどをがらりとけてしきゐまたいだときなにもいはずにたゞ

「どうしたい」

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「どうしてえ」

と言うのが先だった。

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といふのがさきであつた。

お品は勘次の声を聞いて、思わずまくらを動かして

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しな勘次かんじこゑいておもはずまくらうごかして

「勘次さんか」

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勘次かんじさんか」

と言って、さらに

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といつてさら

「南のおとっつあんとは、行きちがいにでもならなかっただろうかね」

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みなみのおとつゝあはちげえにでもならなかつたんべかな」

と言った。

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といつた。

「会ったよ。そんだが、お前はどんなぐあいなんだい」

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行逢いきやつたよ。そんだがおめえどんな鹽梅あんべえなんでえ」

「おれはそれほどでもないと思っていたが、三、四日横になったきりでなあ。それでも今日あたりはちっとはいいようだから、この分ならすぐによくなるかとも思ってるのよ」

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らそれほどでねえとおもつてたが三四日さんよつかよこつたきりでなあ、それでも今日等けふらはちつたあえゝやうだからこのぶんぢやすぐけえすかともおもつてんのよ」

「それならよかった。おれはただ歩いてもよかったが、南の人をまた歩かせちゃ済まないから、いっしょに土浦まで汽船で来たんだが、南の人はくたびれたもんだから、おれが先に出たんだがな。南の人もあの分じゃ、今夜もなかなか着くまいよ。それに汽船がまたおくれちまってな」

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「そんぢやよかつた、たゞぢやあるいてもよかつたが、みなみことまたあるかせちやまねえから同志どうし土浦つちうらまで汽船じようきけたんだが、みなみ草臥くたびれたもんだからさきたんだがな、みなみもあのぶんぢや今夜こんやもなか/\容易よういぢやあんめえよ、それに汽舩じようきまたおくれつちやつてな」

勘次は言いながら、わらじをぬいだ。

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勘次かんじはいひながら草鞋わらじをとつた。

手ぬぐいのはしにくくって来たいわしのつつみをかさりとお品のまくら元へ投げて、首にかけていた風呂しきづつみをどさりと置いて、勘次は庭へ出て足を洗った。

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手拭てぬぐひはしくゝつていわしつゝみをかさりとおしな枕元まくらもとげて、くびへつけて風呂敷ふろしき包をどさりといて勘次かんじにはあしあらつた。

勘次はお品のまくら元にすわった。

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勘次かんじはおしな枕元まくらもとめた。

「そんなに悪くなくて、それでもよかった。おれはどうしたかと思ってな」

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「そんなにわるくなくつちやそれでもよかつた、らどうしたかとおもつてな」

勘次はあらためてまた言った。

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勘次かんじあらためてまたいつた。

「お品、ごはんは食べたか」

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「おしなおまんまはべてか」

勘次はつけ足した。

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勘次かんじはつけした。

「さっき、おつうに米のおかゆをたいてもらって、それでもやっとかき込んだところだよ」

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先刻さつきおつうにこめのおけえいてもらつてそれでもやつとんだところだよ」

「それならどうだ、とちゅうで見つけて来たんだから、一ぴきやってみないか」

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「それぢやどうした、途中とちゆう見付みつけてたんだから一ぴきやつてねえか」

勘次は手ランプをお品のまくら元へ持って来て、いわしのつつみを開いた。

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勘次かんじランプをおしな枕元まくらもとつていわしつゝみいた。

いわしは手ランプの光できらきらと青く見えた。

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いわしランプのひかりできら/\とあをえた。

「ほんによなあ」

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「ほんによなあ」

お品はうつぶせになって、こう言った。

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しな俯伏うつぶしになつてういつた。

「おつう、そこへ火でもふきつけてみないか」

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「おつう、其處そこでもつたけてねえか」

勘次は言った。

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勘次かんじはいつた。

「勘次さん、そりゃ大変だったな。おれはそんなには要らなかったな」

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勘次かんじさんそら大變たいへんだつけな、らそんなにやらなかつたな」

「今だから、いつまでももつよ。そうしてお前も力をつけろな」

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いまだから何時いつまでもつよ、さうしておめえちからつけろな」

「汽船に乗って来たって、よっぽどお金もかかったんだろうな」

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汽船じようきつてたつてぽど費用かゝりかゝつたんべな」

「そうよ、二人で六十銭ばかりだが、これはおれが出したのよ。南の人に出させるわけにも行かないからな」

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「さうよ、二人ふたりで六十せんばかりだがこれおれしたのよ、みなみさせるわけにもかねえかんな」

「それじゃ、かせいだお金をそれだけむだにしちまったな」

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「それぢやかせえだぜねそれだけ立投たてなげにしつちやつたな」

「そんでもさいふにはまだあるよ。七日ばかり働いて、それでも二円は残ったからな。そんでまた行くはずで、前借りを少ししてきたんだ。こっちのほうから行ってる連中が保しょうしてくれてな」

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「そんでも財布せえふにやまあだるよ、七日なぬかばかりはたらえてそれでも二りやうのこつたかんな、そんでまたはず前借さきがりすこししてたんだ、こつちのはうからつてる連中れんぢう保證ほしようしてくれてな」

勘次はほこらしげに言った。

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勘次かんじほこがほにいつた。

「おれは今日みたいならいいが、ひどく会いたくなってなあ」

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今日けふてえだらえゝが、ひど行逢いきやひたくなつてなあ」

お品はうつぶせたひたいをまくらにつけた。

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しな俯伏うつぶしたひたひまくらにつけた。

「どうせここらのかたづけをしないで行ったんだから、一度はとちゅうで帰ってみなくちゃならないのだから、同じことだよ」

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「どうせ此處ここらの始末しまつもしねえでつたんだから、一遍いつぺん途中とちうけえつてなくつちやらねえのがだからおなことだよ」

勘次はお品をのぞきこむようにして言った。

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勘次かんじはおしなのぞこむやうにしていつた。

「それでも俵にはしておいたな」

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「それでもたはらにしちやいたな」

勘次はかべぎわの麦藁の俵を見て言った。

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勘次かんじ壁際かべぎは麥藁俵むぎわらだはらていつた。

お品はまだうつぶせのままである。

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しなはまだ俯伏うつぶしたまゝである。

「あっちにいるとお金は要らないな。たばこ一服吸うわけじゃなし、十五日目が締め日で、それまでは支はらいなしで、そのあいだは米でもたきぎでもみんな通ちょうで借りておくくらいなんだから、十五日目にならなくちゃさいふもふくらまないが、また百でも出ることはないからな」

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「あつちにちやぜにらねえな、煙草たばこぷくふべえぢやなし、十五日目にちめ晦日みそかでそれまでは勘定かんぢやうなしでそのあひだこめでもまきでもみんな通帳かよひりてくれえなんだから、十五日目にちめらなくつちや財布せえふふくれねえが、またひやくでもつこはねえかんな」

勘次はさらに、出先のことをお品に聞かせた。

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勘次かんじさら出先でさきのことをおしなかせた。

「米ばかりたいても毎日一しょうずつは要るくらいだから、骨もずいぶんおれるが、出しさえすりゃ二貫と三貫は残せるから、帰るまでにはおれもどうにかなると思ってるのよ。そうすりゃ塩ざけくらいは買うこともできるからな」

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こめばかりえても毎日まいにちしようづゝはくれえだからほね隨分ずゐぶんれんがせえすりや二くわんと三ぐわんのこせつから、けえるまでにやおれもどうにかるとおもつてんのよ、さうすりや鹽鮭しほびきぐれえあことも出來できらな」

「それならよかった。土方なんて、ろくな人はいないっていうから、どうしたかと思ってな」

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「そんぢやよかつた、土方どかたなんちやろく奴等やつらねえつていふからどうしたかとおもつてな」

お品は首を持ち上げた。

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しなくびもたげた。

「そんな人たちと付き合った日にはきりがないが、すみのほうで小さくなってりゃ何とも言わないな」

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「そんな奴等やつら交際つきえゝしたにやかぎりはねえが、すみはうにちゞまつてりやなんともゆはねえな」

勘次がついているあいだに、おつぎはかれたしばを折って火ばちに火をおこした。

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勘次かんじがついてあひだにおつぎは枯粗朶かれそだをつ火鉢ひばちおこした。

勘次は火ばしをわたして、いわしを三つばかり乗せた。

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勘次かんじ火箸ひばしわたしていわしつばかりせた。

いわしのあぶらがじりじりとたれて、青いほのおが立った。

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いわしあぶらがぢり/\とれてあをほのほつた。

いわしのにおいが、うすいけむりといっしょに部屋の中に満ちた。

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いわしにほひうすけむりとも室内しつない滿ちた。

そして、そのにおいがお品の食よくをさそった。

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さうしてそのにほひがおしな食慾しよくよくうながした。

お品はうつぶせのままで、けむり臭くなったいわしを食べた。

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しな俯伏うつぶしたなりで煙臭けぶりくさくなつたいわしべた。

「どうだ、塩からくはあるまい」

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「どうした鹽辛しよつぱかあんめえ」

「さすがにうまいな」

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有繋まさか佳味うめえな」

「これでも、ここらの商人は持って来ないぞ」

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これでもこゝらの商人あきんどつちやねえぞ」

勘次はじっと見ながら言った。

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勘次かんじ一心いつしんながらいつた。

お品は二ひきに手をつけてはしを置きながら、ふところでねむっている与吉をのぞいて

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しな二匹にひきをつけてはしきながらふところねむつて與吉よきちのぞいて

「起きていたら大さわぎだろう」

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きてたら大騷おほさわぎだんべ」

と言った。

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といつた。

「もっと食べろな」

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「いまつとたべろな」

勘次は言った。

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勘次かんじはいつた。

「もう十分だよ。おつうにもやってくれよな」

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澤山たくさんだよ、おつうげもやつてくろうな」

「おれもごはんでも食べようかね」

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おれめしでもはうかえ」

勘次は風呂しきづつみからべんとうの残りを出して、冷たいままぶすぶすとかじった。

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勘次かんじ風呂敷包ふろしきづゝみから辨當べんたうのこりしてつめたいまゝぷす/\とかぢつた。

「おうい、お茶は冷たくなったっけかな」

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「おうつ、おちやめたくなつたつけかな」

お品は言った。

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しなはいつた。

「要らないぞ。仕事に出りゃ毎日こうだ」

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えらねえぞ仕事しごとりや毎日まえんちかうだ」

勘次はうめぼしを少しずつなめてへらした。

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勘次かんじ梅干うめぼしすこしづゝらした。

べんとうがなくなってから、勘次はいわしをおつぎにはさんでやった。

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辨當べんたうきてから勘次かんじいわしをおつぎへはさんでやつた。

そして自分でも一口食べた。

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さうして自分じぶんでも一くちたべた。

「これはうまいことはうまいが、あんまりあぶらっこくて、おれには気持ちが悪くなるようだな」

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りや佳味うめえこたあ佳味うめえがあんまりあまくつておらがにやむねわるくなるやうだな」

勘次は冷めたお湯を何ばいもかたむけた。

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勘次かんじめた幾杯いくはいかたぶけた。

勘次は風呂しきからふくろを出して、お品のまくら元へ置いて

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勘次かんじ風呂敷ふろしきからふくろしておしな枕元まくらもといて

「米はこれだけ残ったから持って来たんだ。あっちにいればいいが、何日も空けると、たかれちまっても仕方がないからな。そんじゃ、これはおつうにやっておくんだ」

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こめこれだけのこつたからつてたんだ、あつちにればえゝが幾日いつかでもけるとかれつちやつてもやうねえかんな、そんぢやりやおつうげやつてくんだ」

勘次は米の小さなふくろをおつぎにわたした。

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勘次かんじこめちひさなふくろをおつぎへわたした。

「ふくろなんぞ、また何だと思ったよ」

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ふくろなんぞまたなんだとおもつたよ」

お品は軽く言った。

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しなかるくいつた。

「それでもたきぎは持って来るわけにも行かないから、置いて来ちまった」

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「それでもまきつてわけにもかねえからいてつちやつた」

勘次は自分をあざ笑うように、目から口へかけて冷たい笑いが動いた。

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勘次かんじみづかあざけるやうにからくちけてつめたいわらひうごいた。

「お品、足でもさすってやろうじゃないか」

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「おしなあしでもさすつてやんべぢやねえか」

勘次はお品のあしもとのほうへ行った。

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勘次かんじはおしなすそはうつた。

「いいよ勘次さん。おれは今日は昼のうちから気分がいいんだから。さっきもおつぎがさすってやろうなんて言うもんだから、少しもやってくれるなって言ったところだよ。この分じゃ二、三日もすぎたら、勘次さんはまた行けるだろうよ」

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「えゝよ勘次かんじさん、今日けふのうちから心持こゝろもちえゝんだから、先刻さつきもおつうがさすつてやんべなんていふもんだから少しもやつてくろつてつたところだよ、こんぢや二三日にさんちぎたら勘次かんじさんはまたけべえよ」

お品は気持ちよさそうに言った。

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しなこゝろよげにいつた。

「今夜はひどく気分がいいんだよ。いいよ、本当だよ勘次さん。お前はくたびれただろうな」

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今夜こんやはひどく心持こゝろもちえゝんだよ、えゝよ本當ほんたうだよ勘次かんじさん、おめえ草臥くたびれたんべえな」

さらにお品は元気づいて言った。

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さらにおしな威勢ゐせいがついていつた。

夜はふけた。

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けた。

外の暗やみはこおったかと思うほど、ただしんとしていた。

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そとやみこほつたかとおもふやうにたゞしんとした。

こんにゃくの水にも、紙のようなこおりが張った。

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蒟蒻こんにやくみづにもかみごとこほりぢた。

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次の朝、霜は白く庭ぶたの藁におりた。

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つぎあさしもしろ庭葢にはぶたわらにおりた。

切り干しのむしろは三枚ばかりその庭ぶたの上にしいたままで、切り干しにはこおりを粉にしたような霜がついていて、東の森のすきまからさしこむ朝日にきらきらと光った。

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切干きりぼしむしろ三枚さんまいばかりその庭葢にはぶたうへいたまゝで、切干きりぼしにはこほり粉末ふんまつにしたやうなしもつてて、ひがしもり隙間すきまからとほ朝日あさひにきら/\とひかつた。

白い切り干しは、蒸さずにほしたものだった。

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しろ切干きりぼしさずにしたのであつた。

切り干しは、雨がふらなければ、ほこりだらけになろうがごみがまじろうが、昼も夜もむしろはしきっぱなしである。

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切干きりぼしあめらねばほこりだらけにらうがごみまじらうがひるよるむしろはなしである。

勘次は霜柱の立った細い道を南へ行った。

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勘次かんじ霜柱しもばしらたつてる小徑こみちみなみつた。

昨夜おそくなったことやら何やら話をして、手間取った。

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昨夜ゆうべおそかつたことやらなにやらはなしをしてひまどつた。

庭先からつづく小さな桑畑の向こうに家が見えるので、ふだんそれを勘次の家でも、ただ「南」とだけ言っている。

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庭先にはさきからつゞちひさな桑畑くはばたけむかふいへえるので、平生へいぜいそれを勘次かんじいへでもたゞみなみとのみいつてる。

彼が「こもつくこ」という道具をかついで帰って来たときには、日なたの霜が少しとけてねばついていた。

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かれこもつくこをかついでかへつてとき日向ひなたしもすこけてねばついてた。

お品は、勘次がちょっとのあいだいなくなったので、ひどくさびしかった。

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しな勘次かんじ一寸ちよつとなくつたのでひどさびしかつた。

この朝になってからもお品のようすがいいので、勘次はほっと安心した。

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あさになつてからもおしな容態ようだいがいゝので勘次かんじはほつと安心あんしんした。

そして、ななめに遠くからさす冬の日をあびながら、庭ぶたの上にむしろをしいて俵をあみはじめた。

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さうしてなゝめとほくからふゆびながら庭葢にはぶたうへむしろいてたはらみはじめた。

こもつくこは、両はしに足がついている。

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こもつくこは兩端りやうたんあしいてる。

ちょうど馬のくらの骨のような、かんたんな道具である。

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丁度ちやうど荷鞍にぐらほねのやうな簡單かんたん道具だうぐである。

その足から足へわたした棒へ藁をひとつかみずつ当てては、八人坊主をあっちへこっちへ打ちちがえながら、縄をしめつつあむのである。

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そのあしからあしわたしたぼうわら一掴ひとつかみづゝてゝは八人坊主はちにんばうずをあつちへこつちへちがひながらなはめつゝむのである。

八人坊主というのは、その縄を巻いた、いわば小さなおもりである。八つあるので八人坊主と言っている。

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八人坊主はちにんばうずといふのはそのなはいたいはゞちひさなおもりである、やつつあるので八人坊主はちにんばうずといつてる。

小作米を入れる藁俵を四、五俵分作らねばならないことが、かせぎに出るときから彼には気がかりだった。

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小作米こさくまいれる藁俵わらだはらを四五俵分へうぶんつくらねばらぬことがかせぎにときからかれには心掛こころがかりであつた。

よりわけた藁も縄も別に取っておきながら、ただいそがしくてほうり出して出て行ったのである。

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すぐつたわらなはべつつてきながらたゞせはしくて放棄うつちやつてつたのである。

お品は、毎日しめきっていた表の雨戸を一枚だけ開けさせた。

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しな毎日まいにちつておもて雨戸あまどを一まいだけけさせた。

からりとした青い空が見えて、日が自分のいるふとんの近くまでのびてきた。

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からりとしたあをそらえて自分じぶん蒲團ふとんちかくまでつた。

お品はこれまでは、明るい外を見ようと思うには、あまりに心がふさいでいた。

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しなれまではあかるいそとようとおもふにはあまりにこゝろうつしてた。

お品は庭先のくりの木からたれた大根が、茶色にかわいているのを見た。

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しな庭先にはさきくりかられた大根だいこ褐色かつしよくるのをた。

おつぎも勘次の横にむしろをしいて、また大根を切っている。

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おつぎも勘次かんじよこむしろいてまた大根だいこつてる。

そのほうちょうのとんとんと鳴るあいまに、いそがしく八人坊主を動かしてはさらさらと藁をしごく音が、かすかにまじって聞こえる。

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その庖丁はうちやうのとん/\とあひだせはしく八人坊主はちにんばうずうごかしてはさらさらとわらしごおとかすかにまじつてきこえる。

お品は二人のすがたを前にして、ひどく心強く感じた。

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しな二人ふたり姿すがたまへにしてひど心強こゝろづよかんじた。

その日は、くりの木にかけた大根が動かないほど、おだやかな日だった。

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くりけた大根だいこうごかぬほどおだやかなであつた。

お品はこの分なら、紙を一まいずつはがすようによくなっていくと信じた。

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しなぶんけば一枚紙いちまいがみがすやうにこゝろよくなることゝ確信かくしんした。

勘次は藁俵をあみおえて、そしてはしをしばった小さな藁のたばを丸く開いて、それを足の底にふんで、かかとを中心に手と足とをコンパスのようにしてぐるぐる回りながら、丸い「俵ぼっち」を作った。

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勘次かんじ藁俵わらだはらへて、さうしてはししばつたちひさなわらたばまるひらいて、それをあしそこんでかゝと中心ちうしんあしとを筆規ぶんまはしのやうにしてぐる/\とまはりながらまるたはらぼつちをつくつた。

勘次は、お品がどうにかかたづけておいた麦藁の俵を開けて、できあがったばかりの藁俵へ米をはかって入れた。

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勘次かんじはおしながどうにか始末しまつをしていた麥藁俵むぎわらだはらけて仕上しあげたばかりの藁俵わらだはらこめはかんだ。

米には赤いつぶもあったが、もみが少しまじっていて、それが目立った。

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こめにはあかつぶもあつたがあらすこまじつててそれがつた。

「もみが少し多かったな」

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あらすこたかゝつたな

勘次はふとそう言った。

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勘次かんじはふとさういつた。

「そうだったっけかな。それでもおれは唐箕は強くかけたつもりなんだがなあ。今年は赤もたくさんだが、うすの切れぐあいもどういうもんだか悪いんだよ」

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「さうだつけかな、それでも唐箕たうみつよてたつもりなんだがなよ、今年ことしあか夥多しつかりだが磨臼するすかたもどういふもんだかわりいんだよ」

と、お品は少し体を動かして言いわけするように言った。

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とおしなすこうごかして分疏いひわけするやうにいつた。

「もっとも、これくらいなら旦那も大目に見てくれるだろうから、心配はあるまいがなあ」

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もつとこのくれえぢや旦那だんな大目おほめてくれべえから心配しんぺえはあんめえがなよ」

勘次はすぐにお品の病気に気づいて、こう言った。

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勘次かんじすぐにおしな病氣びやうき心付こゝろづいてういつた。

かべぎわには、藁のじょうずな俵が、きちんとならべかえられた。

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壁際かべぎはにはわら器用きようたはら規則正きそくたゞしくかへられた。

お品はそれをじっと見た。

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しなはそれを一しんた。

それもお品の気分をよくする一つだった。

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それもおしなこゝろよくするひとつであつた。

勘次は俵のそばの手おけのふたを取って

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勘次かんじたはらそば手桶てをけふたをとつて

「これはこんにゃくだな」

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りや蒟蒻こんにやくだな」

と言った。

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といつた。

「おれはそれを仕入れたっきり、起きられないんだよ」

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らそれ仕入しいれたつきりおきられねえんだよ」

お品はまくらを手で動かして言った。

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しなまくらうごかしていつた。

勘次はまたふたをした。

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勘次かんじまたふたをした。

静かな空をじりじりと移って行く日がかたむいたかと思うと、一気に落ちはじめた。

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しづかなそらをぢり/\とうつつてかたぶいたかとおもふと一さんちはじめた。

冬の日は、もうみじかい頂点に来ているのである。

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ふゆはもうみじか頂點ちやうてんたつしてるのである。

勘次はまだ日があるからと言って、くわをかついで麦畑へ出た。

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勘次かんじはまだるからといつてくはかついで麥畑むぎばたけた。

しかしいくらもたがやさないうちに日は落ちて、急に冷たくなったあたりは暗くなってきた。

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しかいくらもたがやさぬうちにちてにはかにつめたくつた世間せけん暗澹あんたんとしてた。

お品は勘次を出して、ひどくやるせない気持ちになって、雨戸を引かせて暗いほうを向いて目を閉じた。

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しな勘次かんじしてひど遣瀬やるせないやうな心持こゝろもちになつて、雨戸あまどひかせてくらはうむいぢた。

冬至は、もうあと二日しかなくなった。

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冬至とうじはもうあひだが二日しかくなつた。

朝のうちに勘次はこんにゃくのふたを取ってみて

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あさうち勘次かんじ蒟蒻こんにやくふたをとつて

「どうしたもんだかな。おれでもかついで歩こうかな。こうしておいたんじゃ仕方がないからな」

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「どうしたもんだかな、おれでもかついてあるつてんべかな、かうしていたんぢややうねえかんな」

とお品に相談してみた。

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しな相談さうだんしてた。

「そうよなあ。それよりか、おれはどっちかといったら、大根でもつけてもらいたいな。毎日くりの木を見ていて、ほしすぎやしないかと心配してるんだからよ」

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「さうよな、それよりからどつちかつちつたら大根だいこでもつけもれへてえな、毎日まいんちくり干過ほしすぎやしめえかとおもつて心配しんぺえしてんだからよ」

お品はうったえるように言って、そしてさらに

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しなうつたへるやうにいつてさうしてさら

「自分が丈夫でさえあれば、とっくにやっちまったんだが」

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自分じぶん丈夫ぢやうぶでせえありやとつくにやつちまつたんだが」

と小声で言った。

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小聲こごゑでいつた。

お品はどうも、勘次を外に出すのがいやだった。

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しなはどうも勘次かんじすのがいやであつた。

しかし、なんだかそうはっきりとも言えないので、こう言ったのだった。

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しかなんだかさう明白地あからさまにもいはれないのでういつたのであつた。

「勘次さん、塩を見てくれないか。おれは大丈夫あると思ってたっけがなあ。それからこっちのおけのぬかがいいんだよ。そっちのには房州砂がまじってるんだから」

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勘次かんじさんしほてくんねえか、大丈夫だえぢよぶるとおもつてたつけがなよ、それからこつちのをけぬかがえゝんだよ、そつちのがにや房州砂ばうしうずなまじつてんだから」

お品は言った。

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しなはいつた。

「おうい」

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「おうい」

勘次は言って、

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勘次かんじはいつて、

「房州砂でも何でもかまうまい。どうせぬかを食うんじゃあるまいし。それにこっちのはちっとかたまってら」

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房州砂ばうしうずなでもなんでもかまあめえ、どうでぬかふんぢやあんめえし、それにこつちなちつと凝結こごつてら」

「勘次さん、そんでも入れるなよ。毒だっていうんだから。おれ、せっかく別にしてたんだから」

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勘次かんじさんそんでもえんなよ、どくだつちんだから、おれ折角せつかくべつにしてたんだから」

お品は少し体を起こしかけて言った。

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しなすこおこけていつた。

「そうか、そんじゃそうしよう」

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「さうかそんぢやさうすべよ」

それから塩をあらためて見て

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それからしほあらためて

「どうしてこれだけで使い切れるもんかい」

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「どうしてれだけ使つかれるもんけえ」

と勘次は言った。

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勘次かんじはいつた。

お品は、勘次がはしごをかけて一つ一つ大根を外すのも、こぬかをむしろへはかるのも、白い塩をこぬかにまぜるのも、うれしそうに見ていた。

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しな勘次かんじ梯子はしごけてひとつ/\に大根だいこはずすのも小糠こぬかむしろはかるのもしろしほ小糠こぬかぜるのも滿足氣まんぞくげた。

お品は勘次を外へやるのがいやなので、そうは言わずに、ときどきおつぎに足をさすらせた。

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しな勘次かんじほかるのがいやなのでさうはいはずに時々とき/″\おつぎにあしをさすらせた。

そうすると勘次は

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さうすると勘次かんじ

「どうした、いくらか悪いのか」

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「どうしたいくらかわるいのか」

と、自分もいっしんにふとんのすそへ手をかける。

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自分じぶんも一しん蒲團ふとんすそける。

勘次は庭から外へは出られなかった。

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勘次かんじにはからそとへはられなかつた。

それでも冬至が明日とせまった日に、勘次はこんにゃくを持って出た。

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それでも冬至とうじ明日あすせまつた勘次かんじ蒟蒻こんにやくつてた。

お品も、それは止めなかった。

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しなもそれはめなかつた。

もう何人か歩いたあとなので、思うようには売れなかったが、それでも勘次はお品のことが気になって、まだ残っているこんにゃくをかついで帰って来てしまった。

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もう幾人いくにんあるいたあとなので、おもふやうにはけなかつたがそれでも勘次かんじはおしなにひかされて、まだのこつて蒟蒻こんにやくかついでかへつてしまつた。

「こんにゃくはお品のものだから、お金はみんなお前にやっておこう」

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蒟蒻こんにやくはおしながもんだから、ぜにはみんなおめえげつてくべ」

勘次は銅貨をじゃらじゃらとお品のまくら元へあけた。

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勘次かんじ銅貨どうくわをぢやら/\とおしな枕元まくらもとけた。

お品は銅貨を一つ一つかぞえた。

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しな銅貨どうくわを一つ/\勘定かんぢやうした。

そして、もとでを引いてもいくらかあまりが出たので

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さうして資本もとでいてもいくらかの剩餘あまりがあつたので

「勘次さん、思ったよりよかったな。まだあとよっぽどあるだろうか」

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勘次かんじさんおもひのほかだつけな、まあだあと餘程よつぽどあんべえか」

と言った。

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といつた。

「いくらでもないな。もうこれだけじゃ、また出るほどのこともあるまいよ」

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いくらでもねえな、はあ此丈これだけぢやまたほどのこつてもあんめえよ」

勘次は言った。

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勘次かんじはいつた。

お品は自分の手でお金をふとんの下へ入れた。

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しな自分じぶんぜに蒲團ふとんしたれた。

その日、お品は勘次を出して情けないような気持ちでいたのだが、思ったよりは商売をして来てくれたので、一日の物足りなさがすっかり取りもどされた。

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しな勘次かんじしてなさけないやうな心持こゝろもちがしてたのであるが、おもつたよりはあきなひをしてれたので一にち不足ふそくまつた恢復くわいふくされた。

そして

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さうして

「菜っぱは畑へ置きっぱなしだったろうな」

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はたけきつぱなしだつけべな」

と勘次が言ったとき、お品もおどろいたように

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勘次かんじがいつたときしなおどろいたやうに

「ほんにそうだったなあ。まあ、おくれちまったっけなあ。おれは忘れてたっけが、大丈夫だろうかなあ」

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「ほんにさうだつけなまあ、おくれつちやつたつけなあ、わすれてたつけが大丈夫だえぢよぶだんべかなあ」

と言った。

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といつた。

「そんじゃおれは、今からでも引けるだけ引こう」

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「そんぢやいまつからでもけるだけくべ」

勘次はおつぎを連れて出た。

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勘次かんじはおつぎをれてた。

冬至になるまで畑の菜っぱをほうっておく者は、村には一人もいなかった。

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冬至とうじになるまではたけ打棄うつちやつてくものはむらには一人ひとりもないのであつた。

勘次は荷車を借りて、夕方までに二車引いた。

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勘次かんじ荷車にぐるまりて黄昏ひくれまでに二くるまいた。

青菜の下の葉は、もうすっかり黄色にかれていた。

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青菜あをな下葉したばはもうよく/\黄色きいろれてた。

お品は二人を送り出し、うす暗くなった家でぼんやりしていても、畑のとり入れのことを思うと、さびしい物足りなさは感じなかった。

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しな二人ふたり薄暗うすぐらくなつたいへにぼつさりしててもはたけ收穫しうくわく思案しあんしてさびしい不足ふそくかんじはしなかつた。

夏のいそがしい、そして野菜の少ないときには、おかずといえば塩をかむようなつけ物しかないので、大根でも青菜でもたくさんたくわえておくことが、彼らにはとても大事なことの一つになっているのである。

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夏季かきいそがしいさうして野菜やさい缺乏けつばふしたときには彼等かれら唯一ゆゐいつ副食物ふくしよくぶつしほむやうな漬物つけものかぎられてるので、大根だいこでも青菜あをなでも比較的ひかくてき餘計よけいたくはへをすることが彼等かれらには重大ぢゆうだい條件でうけんひとつにつてるのである。

冬至の日も静かだった。

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冬至とうじしづかであつた。

このごろになってから、ここばかりは忘れたかと思うように西風が止んでいる。

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ごろになつてから此處ここばかりはわすれたかとおもふやうに西風にしかぜんでる。

昼のひとときは、冷たい空気をとおして日が暖かにさしかけた。

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ひるひとしきりはつめたい空氣くうきとほしてあたゝかにけた。

お品は朝から気分が晴れ晴れとして、日がのぼるにつれてふとんの上に起き直ってみたが、体が力のないなりに、ふしぎに軽くなったのを感じた。

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しなあさから心持こゝろもち晴々はれ/″\してのぼるにれて蒲團ふとんなほつてたが、身體からだちからいながらにめうかるつたことをかんじた。

自分のふとんのそばまでさしこむ日にさそい出されたように、雨戸のしきいのそばまで出て、与吉をだいてはたおしてみたり、くすぐってみたりしてはしゃがせた。

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自分じぶん蒲團ふとんそばまでさそされたやうに、雨戸あまど閾際しきゐぎはまで與吉よきちいてはたふしてたり、くすぐつてたりしてさわがした。

勘次はおつぎを相手に、井戸ばたで青菜のかたづけをしている。

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勘次かんじはおつぎを相手あひて井戸端ゐどばた青菜あをな始末しまつをしてる。

根を切っておけで洗った青菜は、地面へ横たえたはしごの上に、一まい外して持って来た戸板を置いて、その上へ積まれた。

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つてをけあらつた青菜あをなは、べたへよこたへた梯子はしごうへに一まいはづしてつてせたその戸板といたまれた。

菜を洗い終わったとき、かれ葉の多いのはみなかまでゆでて、後ろの林のならのみきへ縄をわたして、ほし菜にしてかけた。

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あらをはつたとき枯葉かれはおほいやうなのはみなかまでゝうしろはやしならみきなはわたして干菜ほしなけた。

自分たちの昼ごはんのおかずにも、ひとかまゆでた。

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自分等じぶんら晝餐ひるさいにも一釜ひとかまでた。

お品は、少しのあいだ横になっていたばかりに目がおとろえたのか、日がまぶしいのを感じながら、その日の光を体じゅうにあびて、二人のするのを見ていた。

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しなわづか日數ひかずよこつてたばかりにおとろへたものかやゝまぶしいのをかんじつゝひかり全身ぜんしんびながら二人ふたりのするのをた。

そして、ゆで菜の一さらが、いくらかのどがかわいていたせいか、とてもおいしく感じた。

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さうして茹菜ゆでな一皿ひとさらいくらかかつおぼえた所爲せゐ非常ひじやう佳味うまかんじた。

青菜の水が切れたので、勘次はおけへ塩をふっては青菜を足でぎりぎりとふみつけ、また塩をふってはふみつける。

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青菜あをなみずれたので勘次かんじをけしほつては青菜あをなあしでぎり/\とみつけてまたしほつてはみつける。

お品は塩のかげんやら何やら、さっきからしきりに口を出している。

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しなしほ加減かげんやらなにやら先刻さつきからしきりにくちしてる。

勘次はお品の言うとおりにしている。

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勘次かんじはおしなのいふとほりにはこんでる。

お品は起きていても別につかれもしないので、そっとぞうりをはいて後ろの戸口から出て、ならの木へ張ったほし菜を見た。

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しなきててもべつつかれもしないのでそつと草履ざうり穿いてうしろ戸口とぐちからならつた干菜ほしなた。

それから林をななめに田のはしへ下りて、また、ぐみの木のそばに立って、そこをそっとふみ固めた。

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それからはやしなゝめはたへおりてまた牛胡頽子うしぐみそばつて其處そこをそつとかためた。

それからしばらく、あたりを見て立っていた。

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それからしばら周圍あたりつてた。

お品は庭先から呼ぶ勘次の大きな声を聞いた。

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しな庭先にはさきから勘次かんじおほきなこゑいた。

竹や木のみきに手をかけながらななめに林を上って、後ろの戸口から家へもどったとき、さらに呼ぶ勘次の声を聞くとともに、てんびん棒をかついだままぼんやり立っている商人のすがたを、庭ぶたの上に見た。

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たけみきけながらなゝめにはやしをのぼつてうしろ戸口とぐちからうちへもどつたときさらさけんだ勘次かんじこゑくとともに、天秤てんびんかついだまゝぼんやりつて商人あきんど姿すがた庭葢にはぶたうへた。

「お品、たまごがほしいとよ」

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「おしなたまごしいと」

勘次は次のおけの青菜に塩をふりかけながら言った。

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勘次かんじつぎをけ青菜あをなしほけながらいつた。

「いくらかあったっけな」

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いくらかつたつけな」

お品は戸だなの引き出しから、白いからのたまごを二十ばかり出した。

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しな戸棚とだな抽斗ひきだしからしろかはたまごを廿ばかりした。

「おつう、四、五日見ないでいたっけが、ねぐらにもいくらかあったろう。上がってみないか」

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「おつう、四五日ねえでたつけがとやにもいくらかつたつけべ、あがつてねえか」

とおつぎに言いつけた。

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おつぎに吩附いひつけた。

おつぎが米俵へ上って、その上に低くつるした竹かごのねぐらをのぞいたとき、めんどりが一羽けたたましく飛び出して、後ろのならの木の中へ鳴きながら入って行った。

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おつぎは米俵こめだはらのぼつてそのうへひくつた竹籃たけかごとやのぞいたとき牝雞めんどりが一けたゝましくしてうしろならなかんだ。

ほかのにわとりも、ひとしきりいっしょにやかましく鳴いた。

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にはとりも一しきりともやかましくいた。

おつぎは手をのばしては、たまごを一つ一つ取ってたもとへ入れた。

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おつぎはばしてはたまごを一つ/\につてたもとれた。

おつぎはたもとをぶらぶらさせて、あぶなっかしく米俵を下りた。

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おつぎはたもとをぶら/\させて危相あぶなさう米俵こめだはらりた。

そこにもたまごは六つばかりあった。

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其處そこにもたまごは六つばかりあつた。

商人は下ろした四角なざるから、しんちゅうのさらとかぎがつるされたはかりを出した。

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商人あきんどおろした四かくなぼてざるから眞鍮しんちうさらかぎつるされたはかりした。

「そうばはいくらだね」

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かけいくらだね」

お品は聞いた。

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しないた。

「十一半さ。近ごろどうも安くてな」

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「十一はんさ、近頃ちかごろどうもやすくつてな」

商人は言いながら浅い目ざるへたまごを入れて、もえぎ色のひもの取っ手を持ってはかりのさおを目の高さにして、そしてふんどうの糸をぎっとおさえたまま、銀色の目もりを読んだ。

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商人あきんどはいひながらあさ目笊めざるたまごれて萠黄もえぎひもたどりつてはかりさをにして、さうして分銅ふんどういとをぎつとおさへたまゝ銀色ぎんいろかぞへた。

おもちゃのような小さなそろばんを出して、商人は

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玩具おもちやのやうなちひさな十露盤そろばんして商人あきんど

「みんなで四百二十三もんめ二分だからな、それ」

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皆掛みながけが四百廿三もんめだからなそれ」

はかりの目もりをお品に見せて、そろばんの玉をはじいた。

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はかりをおしなせて十露盤そろばんたまはじいた。

「入れ物の重さを引くと四百八もんめ二分か。どうした、いくつだ、二十六かな。そうすると一つが」

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風袋ふうたいくと四百八もんめか、どうしたいくつだ廿六かな、さうするとひとつが」

商人が言い終わらないうちに、お品は

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商人あきんどのいひをはらぬうちにおしな

「いくらなんだい、この入れ物は」

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いくらなんでえ、風袋ふうたいは」

と聞いた。

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いた。

「十五もんめだな」

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「十五もんめだな」

「たいがい十もんめじゃないかい」

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大概てえげえもんめぢやねえけえ」

「そんなら見なさい、それ、十五もんめだろう。おれのは他人のより大きいんだからな」

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「そんだらさつせえそれ、十五もんめだんべ、おらがな他人たにんのがよりやけえんだかんな」

商人は目ざるをはかりにかけて見せて

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商人あきんど目笊めざるけてせて

「はて、一つ十五もんめ七分ずつだ。つぶは小さいほうだな」

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「はて、一つ十五もんめづゝだ、つぶちひせえはうだな」

商人はゆっくりそろばんの玉をはじいて

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商人あきんどはゆつくり十露盤そろばんたまはじいて

「四十六銭八厘六毛三しゅとなるんだが、これは八厘としてもらってな」

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「四十六せんりんまうしゆるんだが、りや八りんとしてもらつてな」

と、商人はさいふから自分の手へお金をあけた。

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商人あきんど財布さいふから自分じぶんぜにけた。

「お品、お前も自分で食ったらよくないかい。いくつでも取っておけな」

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「おしなおめえ自分じぶんでもつたらよかねえけ、いくつでもつてけな」

勘次は塩だらけの手を止めて、遠くからどなった。

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勘次かんじしほだらけにしためてとほくから呶鳴どなつた。

「このお金でほかの物を買って食べたほうがいいから、これだけはやることにしようよ。せっかくかぞえたもんだからよ。おれはずいぶんよくなったんだから大丈夫だよ」

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ぜにほかものつてつたはうがえゝからだけるとすべえよ、折角せつかく勘定かんぢやうもしたもんだからよ、大層たえそよくなつたんだから大丈夫だえぢよぶだよ」

お品は言った。

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しなはいつた。

「そんなこと言わないで、いくつでも取っておけよ。治りぎわに気をつけないといけないもんだから」

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「そんなこといはねえでいくつでもつてけよ、なほぎはけねえぢやえかねえもんだから」

勘次はつけ菜の手を放して、のき下へ来た。

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勘次かんじ漬菜つけなはなして檐下のきしたた。

手も足もゆでたように赤くなっている。

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あしでたやうにあかくなつてる。

「それじゃ、ちっとは残そうかな」

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「それぢやちつとものこしたものかな」

お品は小さいのを二つ取った。

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しなちひさなのを二つつた。

「そんなのじゃないのを取れな」

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「そんなんぢやねえのとれな」

勘次は大きいのを選んで三つ取った。

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勘次かんじおほきなのをえらんで三つとつた。

たまごのからには、手の塩が少しついた。

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たまごかはにはしほすこいた。

「そんじゃ、それをはかってみよう」

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「そんぢやそれけてんべ」

商人は今度はしんちゅうのさらへたまごを乗せて

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商人あきんど今度こんど眞鍮しんちうさらたまごせて

「こっちなんぞじゃ、あとでいくらでもできらあな」

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「こつちなんぞぢや、あといくらでも出來できらあな」

と言いながら取っ手を持った。

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といひながらたどりつた。

たまごが少し動くと、はかりのさおがぐらぐらと落ち着かない。

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たまごすこうごくとはかりさをがぐら/\と落付おちつかない。

「ごまかしちゃいやだぞ」

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誤魔化ごまくわしちやだぞ」

お品はさびしく笑いながら言った。

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しなさびしくわらひながらいつた。

「どうしてお前、このはかりなんざ検査したばかりだもの。一分でもこのとおりはねたりたれたりして、どうしてとんだ話だ」

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「どうしておめえ、はかりなんざあ檢査けんさしたばかりだもの一でもとほねたりれたりして、どうしてんだはなしだ」

商人はふんどうの手をおさえて、また目もりを読んだ。

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商人あきんど分銅ふんどうおさへてまたんだ。

「五十もんめ一分だな。そうすると一つ十六もんめ七分ずつだ。大きいからな」

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「五十もんめだな、さうすつとひとつ十六もんめづゝだ、けえからな」

「塩がくっついてるから、塩の重さもあるぞ」

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しほがくつゝいてつからしほ目方めかたもあんぞ」

勘次はそばから言って笑った。

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勘次かんじそばからいつてわらつた。

商人は平気な顔をしている。

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商人あきんど平然へいぜんとしてる。

「五銭五厘六毛いくらっていうんだ。そうすると、さっきのはいくらの勘定だったっけな」

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「五せんりんまういくらつていふんだ、さうすつと先刻さつきのはいくらの勘定かんぢやうだつけな」

「四十六銭八厘いくらとか言ったっけな」

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「四十六せんりんいくらとかいつたつけな」

お品はすぐに言った。

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しなすぐにいつた。

「それじゃ差し引き四十一銭三厘とはんぱか。こっちのおっかさんは自分でも商売してるから、おぼえがいいなあ」

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「それぢや差引さしひき四十一せんりん小端こばしか、こつちのおつかさま自分じぶんでもあきねえしてつから記憶おべえがえゝやな」

商人はそろばんを持って

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商人あきんど十露盤そろばんつて

「どうしたい、ぐあいでも悪いようだが、風邪でも引いたんじゃあるまい」

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「どうしたえ、鹽梅あんべえでもわりいやうだが風邪かぜでもいたんぢやあんめえ」

と言った。

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といつた。

「うん、少し悪くて仕方がないのよ」

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「うむ、すこわるくつてやうねえのよ」

お品は言って

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しなはいつて

「はんぱはいくらになるんだい」

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小端こばしいくらになんでえ」

とさらに聞いた。

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さらいた。

「勘定にはならないなあ、どうも。近ごろは仕方がないよ。文久銭だの青銭だのっていうのが、さっぱり出なくなっちまってな。それからどこへ行ってもこうしておくんだ」

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勘定かんぢやうにやんねえなどうも、近頃ちかごろやうねえよ文久錢ぶんきうせんだの青錢あをせんだのつちうのが薩張さつぱりなくなつちやつてな、それから何處どこつてもかうしてくんだ」

商人がざるからマッチを出そうとすると

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商人あきんどがぼてざるから燐寸マツチさうとすると

「またマッチじゃあるまい」

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また燐寸マツチぢやあんめえ」

お品はにっこりした。

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しな微笑びせうした。

「細かい勘定には近ごろマッチと決めておくんだが、どこの商人もそうのようだな」

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「こまけえ勘定かんぢやうにや近頃ちかごろ燐寸マツチめてくんだが、何處どこ商人あきんどもさうのやうだな」

商人はたまごをざるへ入れながら言いつづけた。

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商人あきんどたまござるれながらいひつゞけた。

「ひどく安くなっちまったな。寒くなればくさりにくいのに、かえって安いっていうんだから、まるで反対になっちまったんだな」

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ひどやすくなつちやつたな、さむつちや保存もちがえゝのにけえつやすいつちうんだからまる反對あべこべになつちやつたんだな」

勘次は青菜をおけへならべながら言った。

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勘次かんじ青菜あをなをけならべつゝいつた。

「上海のが入ってきたので、ぐっと値が下がっちまってな。あっちじゃどれほど安いもんだかよ。品が少ないときに安くなるっていうんだから、商人ももうからない」

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上海シヤンハイがへえつちやぐつとさがつちやつてな、あつちぢやどれほどやすいもんだかよ、しなすくねえときやすくなるつちうんだから商人あきんどまうからねえ」

てんびん棒をかついで、彼はさらに

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天秤てんびんかついでかれまたさら

「そうばが下がりぎみのときにはうっかりすると損だからな。なんでも百姓をして穀物を積んでおく者が一等だよ。たまご拾いもなあ、赤痢でもはやって来て、看護婦だの巡査だの役場の人だのって連中が、病人の口をひねってでもたくさん食ってくれなくちゃ、商人はだめだよ」

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相場さうば氣味ぎみときにやうつかりすつと損物そんものだかんな、なんでも百姓ひやくしやうしてこくんでものが一とうだよ、卵拾たまごひろひもなあ、赤痢せきりでも流行はやつててな、看護婦かんごふだの巡査じゆんさだの役場員やくばゐんだのつちう奴等やつら病人びやうにんくちでもひねつてみつしりつてゞもんなくつちや商人あきんど駄目だめだよ」

商人は帰りぎわに

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商人あきんどけて

「またためておいておくんなせえ」

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「まためていておくんなせえ」

と、今度は少していねいに言い残して去った。

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今度こんどすこ叮寧ていねいにいひてゝつた。

お品はお金をふとんの下のきんちゃくへ入れた。

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しなぜに蒲團ふとんした巾着きんちやくれた。

そしてたなから「まるめ箱」を下ろして、三つの白いたまごを入れた。

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さうして籰棚わくだなからまるめ箱をおろして三つのしろたまごれた。

むかしはこの土地でもわたが取れたので、夜なべには女がみな竹のわくで糸をつむいだ。

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以前いぜん土地とちでも綿わたれたので、なべにはをんなみな竹籰たかわくいといた。

わた打ち弓でびんびんとほぐしたわたは、はしのような棒をしんにして、ろうそくくらいの大きさにくるくると丸める。

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綿打弓わたうちゆみでびんびんとほかした綿わたはしのやうなぼうしんにして蝋燭らふそくぐらゐおほきさにくる/\とまるめる。

それが「まるめ」である。

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それがまるめである。

このまるめから、なれない百姓の手が自由に糸を引いた。

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まるめから不器用ぶきよう百姓ひやくしやう自在じざいいといた。

このごろはわたがすっかり取れなくなったので、まるめ箱もすすけたままにまれに残っているだけで、糸くずや布のきれはしが入れてあるくらいにすぎない。

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ごろでは綿わたがすつかりれなくなつたので、まるめばこすゝけたまゝまれ保存ほぞんされてるのも絲屑いとくづぬの切端きれはしれてあるくらゐぎないのである。

お品はそれから、ふくらんだきんちゃくのためにはね上がったふとんのはしを手でおさえた。

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しなはそれからふくれた巾着きんちやくめにねあげられた蒲團ふとんはしおさへた。

それからまた横になった。

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それからまたよこになつた。

さっきからつかれたような気がしていたが、横になると体がとけるようにぐったりして、かすかに気持ちよかった。

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先刻さつきから疲勞ひらうしたやうな心持こゝろもちつてたがよこになると身體からだけるやうにぐつたりしてかすかにこゝろよかつた。

その晩、一年じゅうの体の中のよごれを落とすのだという冬至のこんにゃくを、みなで食べた。

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ばん年中ねんぢう臟腑ざうふ砂拂すなはらひだといふ冬至とうじ蒟蒻こんにやくみんなべた。

お品は、この分なら明日からでも起きられるように思っていた。

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しな明日あすからでもきられるやうにおもつてた。

そして勘次は、仕事のめどがついたので、また利根川へ行けると心の中で決めていた。

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さうして勘次かんじ仕事しごとらちいたのでまた利根川とねがはかれることゝこゝろしてた。

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お品のようすは、その夜から急に変わった。

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しな容態ようだいから激變げきへんした。

勘次がやっとねむりに落ちたとき、お品は

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勘次かんじやうやねむりちたときしな

「口が開けなくなって仕方がないよう」

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くちけなくつてやうねえよう」

と情けない声で言った。

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なさけないこゑでいつた。

お品はあごがくぎづけにされたようになって、つばを飲むにも喉がせまくなったように感じた。

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しなあご釘附くきづけにされたやうにつて、つばむにものどせばめられたやうにかんじた。

それで、自分にもどうすることもできないのにおどろいた。

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それで自分じぶんにもどうすることも出來できないのにおどろいた。

勘次もびっくりして起きた。

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勘次かんじ吃驚びつくりしてきた。

「どうしたんだよ、ずいぶん悪いのか。朝までしっかりしてろよ」

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「どうしたんだよ大層たえそわりいのか、あさまでしつかりしてろよ」

と力づけてみたが、自分でもどうしていいのか分からないので、ただはらはらしながら夜を明かした。

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ちからをつけてたが、自分じぶんでもどうしていゝのかわからないのでたゞはら/\しながらあかした。

勘次はただお品が心配なので、近所の人にたのんで、とりあえず医者へ走ってもらった。

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勘次かんじたゞしな心配しんぱいになるので、近所きんじよものたのんであへ醫者いしやはしらせた。

そして自分はまくら元にくっついていた。

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さうして自分じぶん枕元まくらもとへくつゝいてた。

彼らは、かんたんなことで医者を呼ぶのではなかった。

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彼等かれら容易よういなことで醫者いしやぶのではなかつた。

しかし、そのいちばんこわいお金の問題がその心をおさえるには、勘次はあまりに慌てて、そしておどろいていた。

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しかそのもつとおそれをいだくべき金錢きんせん問題もんだいそのこゝろ抑制よくせいするには勘次かんじあまりにあわてゝかつおどろいてた。

医者は鬼怒川をこえた東にいる。

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醫者いしや鬼怒川きぬがはえてひがしる。

勘次は、つかれやしないかと言ってはお品の足をさすった。

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勘次かんじ草臥くたぶれやしないかといつてはおしなあしをさすつた。

それでもお品のだるそうなようすが、彼のおびえた心にびりびりとひびいて、とても昼過ぎまではじっとしていられなくなった。

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それでもおしな大儀相たいぎさう容子ようすかれおくしたこゝろにびり/\とひゞいて、とて午後ごゞまでは凝然ぢつとしてることが出來できなくなつた。

近所の女の人が見に来てくれたのをさいわいに、自分もあとから走って行った。

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近所きんじよ女房にようばうれたのをさいはひに自分じぶんあとからはしつてつた。

鬼怒川のわたし舟で、さっきの使いの人と行きちがいになった。

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鬼怒川きぬがはわたしふね先刻さつき使つかひと行違ゆきちがひつた。

舟から声をかけ合った。

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ふねからことば交換かうくわんされた。

勘次は、医者といっしょに帰るからそう言ってお品を安心させてくれとたのんで、医者の門をたたいた。

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勘次かんじ醫者いしやと一しよかへるからさういつておしな安心あんしんさせてれといつて醫者いしやもんたゝいた。

医者は、ちょうどそっちへ行くついでもあったからと、のんびりしている。

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醫者いしや丁度ちやうどそつちへついでつたからと悠長いうちやうである。

きっと行ってはくれるにしても、そのあとについて行くのでなければ勘次には不安でたまらない。そして彼は、ぼんやりとげんかんにうずくまって待っていることが、せめてもの気やすめだった。

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屹度きつとつてはれるにしてもあといてくのでなくては勘次かんじには不安ふあんたまらないのである、さうしてかれはぽつさりと玄關げんくわんうづくまつてつてることがせめてもの氣安きやすめであつた。

医者は小さな手さげかばんを一つ持って、古いぼうしをちょこんとかぶって出た。

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醫者いしやちひさな手鞄てかばんを一つつてふる帽子ばうしをちよつぽりいたゞいてた。

かばんは勘次が大事そうに持った。

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手鞄てかばん勘次かんじ大事相だいじさうつた。

医者は特別なことがなければ人力車に乗らないので、いつも高い歯の下駄でみじかい体をぽくぽくと運んで行く。

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醫者いしや特別とくべつ出來事できごとがなければくるまにはらないので、いつも朴齒ほうば日和下駄ひよりげたみじか體躯からだをぽく/\とはこんでく。

それで車代だけでもどれだけ助かるか知れないというので、貧しい百姓によく呼ばれているのだった。

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それで車錢くるませんだけでもいくたすかるかれないといふので貧乏びんばふ百姓ひやくしやうからよばれてるのであつた。

勘次は道々お品のようすを話して、医者の考えを聞こうとした。

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勘次かんじ途次みち/\しな容態ようだいかたつて醫者いしや判斷はんだんうながしてた。

医者は一度見なければ分からないと言って、しつこい勘次に返事しなかった。

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醫者いしやは一おうなければわからぬといつて五月蠅うるさ勘次かんじ返辭へんじしなかつた。

お品の病んだ体に手をふれると、医者はさすがに首をかしげた。

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しな病體びやうたいけると醫者いしや有繋さすがくびかたぶけた。

それが破傷風のしるしであることを知って、こわくなった。

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それが破傷風はしやうふう徴候てうこうであることをつて恐怖心きようふしんいだいた。

そして、自分は注射器を持たないからと言って、断ってしまった。

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さうして自分じぶん注射器ちうしやきたないからといつて辭退じたいしてしまつた。

勘次はまた慌てて、ほかの医者へかけつけた。

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勘次かんじまたあわてゝ醫者いしやけつけた。

その医者はえんぴつで手帳のはしへちょっと書きつけて、それではすぐにこれを薬屋で買って来るのだと言った。

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醫者いしや鉛筆えんぴつ手帖ててふはし一寸ちよつときつけて、それではすぐこれ藥舖くすりやつてるのだといつた。

それから、自分の家へこれを出せばわたしてくれる者があるからと、これも手帳のはしをやぶった。

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それから自分じぶんうちこれせばわたしてれるものがあるからとこれ手帖ててふはしいた。

勘次はまた川をこえて走った。

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勘次かんじまたかはえてはしつた。

薬屋では、びんに入れた薬を二つわたしてくれた。

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藥舖くすりやではびんれたくすり二包ふたつゝみわたしてれた。

一びんが七十五銭ずつだと言われて、勘次はふところが急にげっそりとへった気がした。

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一罎ひとびんが七十五せんづゝだといはれて、勘次かんじふところきふにげつそりとつた心持こゝろもちがした。

彼はとんぼ返りに帰って来た。

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かれ蜻蛉返とんぼがへりにかへつてた。

医者の家からは、注射器をわたしてくれた。

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醫者いしやうちからは注射器ちうしやきわたしてくれた。

ほかの病人を診てから、医者は夕方に来た。

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ほか病家びやうか醫者いしや夕刻ゆふこくた。

医者はお品のももをしめらせたガーゼでふいて、ぎっと肉をつまみ上げて針をぷつりとさした。

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醫者いしやはおしな大腿部だいたいぶしめしたガーゼでぬぐつてぎつとにくつまげてはりをぷつりとした。

しばらくして針をぬいて、指の先で針のあとをおさえて、そこへばんそうこうをはった。

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しばらくしてはりいてゆびさきはりあとおさへて其處そこ絆創膏ばんさうかうつた。

それがすべて、うす暗い手ランプの光で行われた。

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それがすべ薄闇うすくらランプのひかりおこなはれた。

勘次に手ランプを近づけさせて、医者はやっと注射を終えた。

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勘次かんじランプをちかづけさせて醫者いしやはやつと注射ちうしやをはつた。

次の日の午前に来て、医者はまた注射をして、たいていこれでよかろうと言って帰った。

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翌日よくじつ午前ごぜん醫者いしやまた注射ちうしやをして大抵たいていれでよからうといつてつた。

しかしお品のようすは、あいかわらずよくなるしるしがないばかりか、だんだんだるそうに見えはじめた。

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しかしおしな容態ようだい依然いぜんとして恢復くわいふく徴候ちようこうがないのみでなく次第しだい大儀相たいぎさうえはじめた。

お品はその夕方から、急にけいれんが起こった。

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しな夕刻ゆふこくからにはかに痙攣けいれんおこつた。

体がびりびりとふるえながら、手も足も引きしめられるように後ろへそった。

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身體からだがびり/\とゆるぎながらあしめられるやうにうしろつた。

けいれんはときどき起こった。

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痙攣けいれん時々ときどき發作ほつさした。

そのたびに、病人は見ていられないほど苦しむ。

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そのたびごと病人びやうにんられないほど苦惱くなうする。

顔が変にゆがんで、口がむりに横へ引っぱられるように見える。

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かほめうしがんでくち無理むりよこられるやうにえる。

勘次は、たった一人のおつぎを相手に、手の出しようもなかった。

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勘次かんじはたつた一人ひとりのおつぎを相手あひてしやうもなかつた。

そして、空が白みはじめるとすぐに、また医者へかけつけた。

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さうしてしら/\けといふとすぐまた醫者いしやけつけた。

医者は、また薬屋へ行って来いと言った。

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醫者いしやまた藥舖くすりやつていといつた。

勘次はまた飛んで行った。

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勘次かんじまたんでつた。

しかし、その二号の血清はどこにも品切れだった。

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しかの二がう血清けつせい何處どこにも品切しなぎれであつた。

それは、ある期間をすぎると効かなくなるので、余計な仕入れもしないのだと薬屋では言った。

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それはある期間きかん經過けいくわすれば効力かうりよくくなるので餘計よけい仕入しいれもしないのだと藥舖くすりやではいつた。

それに、ねだんが高いものだからというのだった。

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それに値段ねだん不廉たかいものだからといふのであつた。

勘次はそれでも、いくらくらいするものかと思って聞いたら、一びんが三円だと言った。

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勘次かんじはそれでもいくぐらゐするものかとおもつていたら一罎ひとびんが三ゑんだといつた。

勘次は、たとえ品物があったところで、自分の今の力ではとても買えなかったかもしれないと、今さらのようにおどろいてふところへ手を入れてみた。

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勘次かんじ例令たとひ品物しなものつたところで、自分じぶん現在いまちからでは到底たうていそれはもとめられなかつたかもれぬと今更いまさらのやうに喫驚びつくりしてふところれてた。

医者はさらに勘次を薬屋へ走らせた。

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醫者いしやさら勘次かんじ藥舖くすりやはしらせた。

勘次は、ただ医者の言うままに息を切らして走り回るあいだが、きっとどうにかしてくれるだろうという望みもあるので、わずかに自分の心をなぐさめられるたった一つの時だった。

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勘次かんじたゞ醫者いしやのいふがまゝいきせきつてけてあるあひだが、屹度きつとどうにかふせぎをつけてくれるだらうとのたのみもあるのでわづか自分じぶんこゝろなぐさゆゐ一の機會きくわいであつた。

医者は一号の二ばいの量を注射した。

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醫者いしやは一がう倍量ばいりやう注射ちうしやした。

しかしそれはむだだった。

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しかしそれは徒勞とらうであつた。

病人の発作は、間が短くなった。

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病人びやうにん發作ほつさあひだみじかくなつた。

病人はそのたびに、息が苦しくなった。

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病人びやうにんそのたび呼吸こきふ壓迫あつぱくかんじた。

近所の人も三、四人、苦しむまくら元にいて、みな悲しみにつつまれた。

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近所きんじよものも三四にん苦惱くなうする枕元まくらもとみな憂愁いうしうつゝまれた。

お品はとつぜん

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しな突然とつぜん

「野田へは知らせてくれまいか」

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野田のだへはらせてくれめえか」

と聞いた。

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いた。

勘次も近所の人も、卯平へ知らせることも忘れて、ただ苦しむ病人を前にして困っているだけだった。

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勘次かんじ近所きんじよもの卯平うへいらせることもわすれてたゞ苦惱くなうする病人びやうにんまへひかへてこまつてるのみであつた。

「明日はきっと来るように言ってやったよ」

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明日あした屹度きつとるやうにいつてつたよ」

勘次はお品の耳へ口を当てて言った。

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勘次かんじはおしなみゝくちあてていつた。

今さらのように近所の人がたのまれて、夜通しでも行くということになった。

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今更いまさらのやうに近所きんじよものたのまれて夜通よどほしにもくといふことにつた。

次の日の昼過ぎに、卯平は使いの人といっしょに、のっそりとその大きな体を表の戸口へ運んで来た。

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つぎ午餐過ひるすぎ卯平うへい使つかひともにのつそりと長大ちやうだい躯幹からだおもて戸口とぐちはこばせた。

彼はしきいをまたぐとともに、そのときはもう、ただ痛い痛いと言って泣きうったえている病人の声を聞いた。

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かれしきゐまたぐとともに、そのときはもうたゞいたい/\というて泣訴きふそして病人びやうにんこゑいた。

「どこが痛いんだ。少しさすらせてみるか」

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何處どこいたいんだ、すこしさすらせてつか」

勘次が聞いても

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勘次かんじいても

「背中が仕方がないんだよ」

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背中せなかやうがねえんだよ」

と病人は言うだけである。

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病人びやうにんはいふのみである。

「お品さん、おとっつあんが来たよ。しっかりしろよ」

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「おしなさん、おとつゝあたよ、確乎しつかりしろよ」

と近所の女の人が言った。

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近所きんじよ女房にようばうがいつた。

それを聞いて、お品はしばらく静かになった。

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それをいておしな暫時しばししづかにつた。

「品、どうしたい。だるいのか」

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しなどうしたえ、大儀こはえのか」

口数の少ない卯平は、これだけ言った。

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寡言むくち卯平うへいこれだけいつた。

「おとっつあん、待ってたよ。おれは仕方がないよ」

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「おとつゝあつてたよ、やうねえよ」

お品は情けなさそうに言った。

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しななさけなささうにいつた。

「うん、困ったなあ」

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「うむ、こまつたなあ」

卯平は深いしわをゆがめて言った。

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卯平うへいふかしわしがめていつた。

そして、あとは一言も言わない。

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さうしてあとは一ごんもいはない。

お品の病気は、だんだん悪くなっていった。

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しな病状びやうじやう段々だん/\險惡けんあくおちいつた。

医者はモルヒネの注射をして、かろうじてねむった状態にして、その苦しみからのがれさせようとした。

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醫者いしやはモルヒネの注射ちうしやをしてわづか睡眠すゐみん状態じやうたいたもたせて苦痛くつうからのがれさせようとした。

それでもしばらくすると病人はまた気がついて、びりびりと体をふるわせて、太い縄でぐっとつるされたかと思うように後ろへそって、そのはげしいけいれんに苦しめられた。

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それでもしばらくすると病人びやうにん意識いしき恢復くわいふくして、びり/\と身體からだふるはせて、ふとなはでぐつとつるされたかとおもふやうにうしろそりかへつて、その劇烈げきれつ痙攣けいれんくるしめられた。

「先生さん、わたしはこれでもどうなんでしょうね」

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先生せんせいさん、わたしやれでもどうしたものでがせうね」

お品はとつぜんに聞いた。

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しな突然とつぜんいた。

医者はただ口ひげをひねって黙っていた。

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醫者いしやたゞ口髭くちひげひねつてだまつてた。

「どうでしょうね、先生さん」

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「どうでせうね先生せんせいさん」

勘次も聞いた。

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勘次かんじいた。

「まあ大丈夫だろうって、病人にだけは言っておいたらいいでしょう」

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「まあ大丈夫だいぢやうぶだらうつて病人びやうにんへだけはいつてたらいゝでせう」

医者はささやいた。

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醫者いしや耳語さゝやいた。

「お品、大丈夫だとよ。それからがまんしてしっかりしてろとよ」

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「おしな大丈夫だいぢやうぶだとよ、それから我慢がまんして確乎しつかりしてろとよ」

勘次は病人の耳元でどなった。

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勘次かんじ病人びやうにんみゝ呶鳴どなつた。

「そんでも、おれは明日までは、とてももたないと思うよ。本当におれはだるいなあ」

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「そんでも明日あすまではとつてもたねえとおもふよ。本當ほんたう大儀こはいゝなあ」

お品は苦しそうに言った。

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しなせつさうにいつた。

歯のあいだからやっともれる声は、悲しいひびきを伝えて、それでも頭ははっきりしていることを見せた。

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あひだやうやくにれるこゑかなしいひゞきつたへてかも意識いしき明瞭めいれうであることをしめした。

医者はついに、これ以上はないというだけのモルヒネを注射して帰った。

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醫者いしやつひ極量きよくりやうのモルヒネを注射ちうしやしてつた。

夜になって、けいれんは絶え間なく起こった。

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になつて痙攣けいれん間斷かんだんなく發作ほつさした。

熱はとても上がった。

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熱度ねつど非常ひじやう昂進かうしんした。

水の一てきも飲めないのに、乱れた髪の毛を伝って落ちるかと思うほど、汗が玉になってたれた。

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液體えきたいの一てきをも攝取せつしゆすることが出來できないにもかゝはらず、みだれたかみごとつたひておちるかとおもふやうにあせたまをなしてれた。

ふとんをぬらす汗のにおいが、鼻をついた。

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蒲團ふとんぬらあせくさみはないた。

「勘次さん、ここにいてくれよ」

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勘次かんじさん此處ここてくろうよ」

お品は苦しい中でも、ひたすら勘次をしたった。

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しなくるしいうちにも只管ひたすら勘次かんじしたつた。

「おうよ、ここにいたよ。どこへも行きやしないよ」

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「おうよ、こゝにたよ、何處どこへもゆきやしねえよ」

勘次はそのたびに耳へ口を当てて言った。

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勘次かんじそのたびみゝくちあてていつた。

「勘次さん」

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勘次かんじさん」

お品はまた呼んだ。

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しなまたんた。

「どうしたよ」

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怎的どうしたよ」

勘次が言ったのはお品に伝わらなかったのか

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勘次かんじのいつたのはおしなつうじなかつたのか

「おとっつあん、おれはとてもなあ」

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「おとつゝあ、らとつてもなあ」

とお品は少し間を置いて、そして勘次の手を取った。

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とおしな少時しばしあひだいて、さうして勘次かんじつた。

「おつう、お前はなあ、よきもなあ」

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「おつうわれはなあ、よきもなあ」

と言って、また発作の苦しみにおそわれた。

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といつてまた發作ほつさ苦惱くなうおちいつた。

「勘次さん、おれが死んだらなあ、かんおけへ入れてくれよ……」

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勘次かんじさん、おらんだらなあ、棺桶くわんをけれてくろうよ……」

勘次が聞こうとすると、しばらく間を置いて

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勘次かんじかうとするとしばらあひだへだてて

「後ろの田のあぜになあ、ぐみの木のとこでなあ」

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うしろくろになあ、牛胡頽子うしぐみのとこでなあ」

お品はとぎれとぎれに言った。

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しなれ/″\にいつた。

勘次は、だいたいその意味が分かった。

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勘次かんじほゞ了解れうかいした。

お品はそれからはげしい発作にさえぎられて、もう言わなかった。

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しなはそれから劇烈げきれつ發作ほつささへぎられてもういはなかつた。

とつぜん

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突然とつぜん

「風呂しき、風呂しき」

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風呂敷ふろしき、/\」

とわけの分からないうわ言を言って、意識はまったくなくなった。

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理由わけわからぬ囈語うはごとをいつて、意識いしきまつた不明ふめいつた。

ついには、とんでもない力が加わったかと思うほど、お品の足はふとんをけって、体がはげしく動いた。

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つひには異常いじやうちからくははつたかとおもふやうにおしなあし蒲團ふとんけつ身體からだ激動げきどうした。

まくら元にいた人々はそれぞれに、苦しむお品の足をおさえた。

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枕元まくらもと人々ひと/″\各自てんでくるしむおしなあしおさへた。

こうして人々は、一こく一こく死へと近づいて行くお品の病んだ体をおさえつけた。

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うして人々ひと/″\刻々こく/\運命うんめいせまられてくおしな病體びやうたい壓迫あつぱくした。

お品の発作が止まったときには、そのかすかな息も止まっていた。

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しな發作ほつさんだときかすかな呼吸こきふとまつた。

夜はしんとしていた。

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しんとしてた。

雨戸がかすかに動いて、落ち葉が庭を走るのもさらさらと聞こえた。

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雨戸あまどかすかにうごいて落葉おちばにははしるのもさら/\とかれた。

お品の体は、足のほうから冷たくなった。

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しな身體からだあしはうからつめたくなつた。

お品が死んだのだと分かったとき、勘次もおつぎも、みなこらえていた思いが一度にあふれ出した。

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しなんだといふことを意識いしきしたとき勘次かんじもおつぎもみんなこらへたじやうが一激發げきはつした。

そして、えんりょする余ゆうのない彼らは、声を上げて泣いた。

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さうして遠慮ゑんりよをする餘裕よゆうたない彼等かれらこゑはなつていた。

まくら元の人たちも、みないっしょに泣いた。

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枕元まくらもとのものはみなともいた。

与吉だけが、死んだお品のそばでぐっすりねむっていた。

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與吉よきちひとんだおしなそば熟睡じゆくすゐしてた。

卯平はとりあえず、お品の手を胸で合わせてやった。

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卯平うへいあへずおしなむねあはせてやつた。

そして、はたおりの道具の一つである「ひ」をふとんの上に乗せた。

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さうしてはた道具だうぐひとつである蒲團ふとんせた。

ねこが死んだ人をまたぐと化けると言われていて、ひはねこよけだった。

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ねこ死人しにんえてわたるとけるといつてねこ防禦ばうぎよであつた。

ひを乗せておけば、ねこはまたがないと信じられているのである。

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せてけばねこわたらないとしんぜられてるのである。

夜はますますふけて、冷えきっていた。

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ます/\けてつてた。

家の中には、ひとかたまりの炭火もたくわえてなかった。

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いへうちには一くわいおきたくはへてはなかつた。

まくら元にいた近所の人々は、勘次とおつぎが泣き止むまでは体を動かすこともできないで、じっと冷たい手をふところで暖めていた。

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枕元まくらもと近所きんじよ人々ひと/″\勘次かんじとおつぎのむまでは身體からだうごかすことも出來できないで凝然ぢつつめたいふところあたゝめてた。

おつぎはやっとかまどへ落ち葉をくべてお茶をわかした。みなただぼんやりとして、お茶をすすった。

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おつぎはやうやかまど落葉おちばべてちやわかした、みんなたゞぽつさりとしてちやすゝつた。

「勘次も、早く知らせりゃいいのに」

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勘次かんじかせえてらせやがればえゝのに」

卯平がぶすりとつぶやく声は低く、それでもみなの耳の底にひびいた。

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卯平うへいがぶすりとつぶやこゑひくくしかもみんなのみゝそこひゞいた。

卯平はその日の明け方に使いが来るまでは、お品の病気をちっとも知らずにいた。

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卯平うへい未明みめい使つかひるまではおしな病氣びやうきはちつともらずにた。

おどろいて来てみれば、もうこんなありさまである。

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おどろいてればもうこんな始末しまつである。

卯平も泣いた。

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卯平うへいいた。

彼はきせるをかんでは、ただ舌打ちをしてつばを飲んだ。

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かれ煙管きせるんではたゞ舌皷したつゞみつてつばんだ。

勘次はただ泣いていた。

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勘次かんじたゞいてた。

彼はお品が病気になってから、どれほど心をくだいて動き回ったか知れない。

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かれはおしな發病はつびやうからどれほど苦心くしんしてそのらうしたかれぬ。

お品の病気を心配するほかに、彼の心には何もなかった。

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しな病氣びやうきあんずるほかかれこゝろにはなにもなかつた。

そのときには、卯平に文句を言われるかもしれないという心配は、少しも頭に浮かばなかったのである。

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その當時たうじには卯平うへい不平ふへいをいはれやうといふやうな懸念けねん寸毫すこしあたまおこらなかつたのである。

お品の死は、卯平をもひどくがっかりさせた。

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しな卯平うへいをもいた落膽らくたんせしめた。

卯平は七十一の老人だった。

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卯平うへいは七十一の老爺おやぢであつた。

おととしの秋から、卯平は野田のしょうゆ蔵に火の番としてやとわれた。

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一昨年をととしあきから卯平うへい野田のだ醤油藏しやうゆぐらばんやとはれた。

卯平は、お品が三つのときに、死んだお母さんの所へむこ入りしたのである。

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卯平うへいはおしなが三つのときに、んだおふくろところ入夫にふふになつたのである。

五つのときから甘えていたので、お品は卯平になついていた。

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五つのときからあまへたのでおしな卯平うへいなづいてた。

お母さんが生きているうちは卯平もまだ元気だったが、お母さんが亡くなって卯平のしわが深く刻まれてからは、もともとよくなかった勘次との仲がだんだんはなれて、お品もそれには困った。

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ふくろきてるうちは卯平うへいもまださかりであつたが、おふくろくなつて卯平うへいしわふかきざまれてからは以前いぜんからくなかつた勘次かんじとのあひだ段々だん/\へだつて、おしなもそれにはこまつた。

とうとう、村で仕事のせわをしている人のすすめにしたがって、卯平が言うままに奉公に出したのだった。

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到頭たうとうむら紹介業せうかいげふをしてものすゝめにまかせ卯平うへいがいふまゝ奉公ほうこうしたのであつた。

病人のまくら元にいた近所の人たちは、一ぱいのお茶をすすって、村の親せきへ知らせに出る者もあった。

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病人びやうにん枕元まくらもと近所きんじよものは一ぱいちやすゝつてむら姻戚みよりらせにるものもあつた。

それから葬式のことについて相談をした。

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それから葬式さうしきのことにいて相談さうだんをした。

葬式はほんの親せきと近所だけで、明日のうちにすませるということに決めた。

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葬式さうしきはほんの姻戚みより近所きんじよとだけで明日あすうちすますといふことにめた。

夜が明けると、近所の人々は寺へ行ったり葬式の道具を買いに行ったり、ほかの村の親せきに知らせに行ったりして、家には近所の女の人が二、三人、あいさつを言いに来ていた。

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があけると近所きんじよ人々ひとびとてらつたり無常道具むじやうだうぐひにつたり、他村たそん姻戚みよりへのらせにつたりしていへには近所きんじよ女房にようばうが二三にん義理ぎりをいひにた。

親せきといっても、お品のために待たなければならない人はいないので、勘次はおつぎといっしょにむしろをめくって、そこへたらいを置いて、お品のなきがらを清めてやった。

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姻戚みよりといつてもおしなめにはたなくてはらぬといふものはないので勘次かんじはおつぎとともむしろまくつて、其處そこたらひゑておしな死體したいきよめてつた。

はげしい病気の苦しみのために、その力ないなきがらはげっそりとひどくやせていた。

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劇烈げきれつ病苦びやうくめにそのちからない死體したいはげつそりとひどやつれやうをしてた。

卯平はただぼんやりとして、それを見ていた。

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卯平うへいたゞぽつさりとしてそれをた。

なきがらはまた、その汚いふとんへ横たえられた。

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死體したいまたきたな夜具やぐよこたへられた。

たらいのよごれたぬるま湯は、すのこの上から土に流された。

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たらひけがれた微温湯ぬるまゆうへからつちそゝがれた。

そして、そのぬれたすのこには、めくったむしろがまたしかれた。

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さうしてれたにはくつたむしろまたかれた。

朝から雨戸は開け放たれて、歩けばぎしぎしと鳴るすのこの上のむしろは、草ぼうきではかれた。

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あさから雨戸あまどはなたれてあるけばぎし/\とうへむしろ草箒くさばうきかれた。

そして東どなりから借りて来たござが、五、六枚しかれた。

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さうして東隣ひがしどなりからりてござが五六まいかれた。

それから土地のならわしで、勘次は清めてやったお品のなきがらのあとは、いっさいを近所の人の手に任せた。

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それから土地とち習慣しふくわん勘次かんじきよめてやつたおしな死體したいは一さい近所きんじよまかせた。

近所の女の人たちは、一反のさらし木綿を半分に切って、それで形ばかりのみじかい経かたびらと、死に顔をかくすずきんと、足につけるものとをぬって、それを着せた。

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近所きんじよ女房等にようばうらは一たん晒木綿さらしもめん半分はんぶんきつてそれでかたばかりのみじか經帷子きやうかたびら死相しさうかく頭巾づきんとふんごみとをつてそれをせた。

足につけるものは、ただ三角にして足袋のかわりにつま先へはかせるのだった。

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ふんごみはたゞかくにして足袋たびかはり爪先つまさき穿かせるのであつた。

きゃはんは布のまま、麻で足にくくりつけた。

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脚絆きやはんきれまゝあさあしくゝけた。

これもその木綿でぬったずだぶくろを首からかけさせて、三途の川のわたし賃だという六文のお金を入れてやった。

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れも木綿もめんつた頭陀袋づだぶくろくびからけさせて三かは渡錢わたしせんだといふ六もんぜにれてやつた。

髪は麻でむすんで、白いくしをさしてやった。

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かみあさむすんで白櫛しろぐししてつた。

お品のかたくなった体は、曲げて立てひざにして、かんおけへ入れられた。

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しな硬着かうちやくした身體からだげて立膝たてひざにして棺桶くわんをけれられた。

首がふたに当たるので、骨がくじけるまでおさえつけられて、「すくみ」がかけられた。

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くびふたさはるのでほねくぢけるまでおさへつけられてすくみがけられた。

すくみというのは、ちぢめたままの形が保たれるように、なきがらの下から荒縄を回しておいて、首すじの所でぎっしりとくくることである。

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すくみといふのはちゞめたまゝかたちたもたれるやうに死體したいしたから荒繩あらなはまはしていて首筋くびすぢところでぎつしりとくゝることである。

そまつな松の板で作った出来合いのかんおけは、みりみりと鳴った。

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麁末そまつ松板まついたこしらへた出來合できあひ棺桶くわんをけはみり/\とつた。

こういうむごいあつかいは、どうしても他人の手に任せなければならなかった。

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ういふ無残むざんあつかひはどうしても他人たにんまかせられねばならなかつた。

板のままばらばらになっているかんおけの台は、買って来てから近所の人の手でくぎづけにされた。

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いたまゝばら/\につて棺臺くわんだいつててから近所きんじよ釘付くぎづけにされた。

そこには、浅い箱をさかさにしたようなものができた。

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其處そこにはあさはこさかさにしたものが出來できた。

その台の上には、なきがらを入れたかんおけが乗せられた。

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棺臺くわんだいうへには死體したいれた棺桶くわんをけせられた。

勘次はその朝の明け方に、そっと家の後ろのならの木のあいだを田のはしへ下りて、さかいのぐみの木のそばを気をつけて見た。

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勘次かんじそのあさ未明みめいにそつといへうしろならあひだはしへおりて境木さかひぎ牛胡頽子うしぐみそば注意ちういしてた。

くわか何かで動かした土のあとが目についた。

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唐鍬たうぐはなにかでうごかしたつちあといた。

勘次は手に持って行った草かりがまで、そくそくと土をつつくようにしてほった。

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勘次かんじにしてつた草刈鎌くさかりがまでそく/\とつちをつゝくやうにしてつた。

そして、そのやわらかくなった土を手でさらった。

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さうしてそのやはらかにつたつちさらつた。

ぼろのつつみが出た。

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襤褸ぼろつゝみた。

彼はそこに、小さなひとかたまりの肉を見つけたのである。

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かれ其處そこちひさな一塊肉くわいにく發見はつけんしたのである。

勘次はそれを大事にふところへ入れた。

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勘次かんじはそれを大事だいじふところれた。

悪いことがばれるのをおそれるようなようすで、彼はあたりを見回した。

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惡事あくじ發覺はつかくでもおそれるやうな容子ようすかれ周圍あたり見廻みまはした。

彼はさらに古い油紙で包んでしまっておいて、お品のなきがらがかんおけに入れられたとき、そっとお品のふところにだかせた。

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かれさらふる油紙あぶらがみつゝんで片付かたづけていて、おしな死體したい棺桶くわんをけれられたときかれはそつとおしなふところいだかせた。

お品のやせきった手が、勘次のするままにそれをしっかりとだきしめて、その骨ばかりのほおが、ぴったりとすりつけられた。

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しなつた勘次かんじのするまゝにそれを確乎しつかめて、ほねばかりのほゝが、ぴつたりとりつけられた。

葬式の日は「赤口」という日だった。

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葬式さうしき赤口しやくこうといふであつた。

勘次は近所と親せきのほかには食事も出さなかったが、それでも村の人はみな二銭ずつ持ってお悔やみに来た。

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勘次かんじ近所きんじよ姻戚みよりとのほかには一ぱんさなかつたがそれでもむらのものはみなせんづゝつてくやみにた。

そして、さっさと帰って行った。

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さうしてさつさとかへつてつた。

遠くはなれた寺からは、住職と小ぼうずとが、色のさめたもえぎ色のはっぴを着たお供を一人連れて、はさみ箱をかつがせて歩いて来た。

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とほはなれたてらからは住職ぢうしよく小坊主こばうずとが、めた萠黄もえぎ法被はつぴとも一人ひとりれて挾箱はさみばこかつがせてあるいてた。

小ぼうずはすぐにかんおけのふたを取って、白い木綿をめくって、やせたほおへかみそりをちょっと当てた。

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小坊主こばうずすぐ棺桶くわんをけふたをとつてしろ木綿もめんくつてやつれたほゝ剃刀かみそり一寸ちよつとてた。

この形だけのひげそりがすんでから、ふたはくぎで打ちつけられた。

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形式的けいしきてき顏剃かほそりんでからふたくぎけられた。

荒縄が十文字にかけられた。

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荒繩あらなはが十文字もんじけられた。

さらし木綿の残った半分で、それがぐるぐると巻かれた。

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晒木綿さらしもめんのこつた半反はんだんでそれがぐる/\とかれた。

おけにはさらに天がいが乗せられた。

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をけにはさら天葢てんがいせられた。

天がいといっても、両はしがわらびのように巻いたせまい松板を二まい十字に合わせただけの、かんたんなものである。

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天葢てんがいというても兩端りやうたんわらびのやうにまかれたせま松板まついたを二まいあはせたまでのものにすぎない簡單かんたんなものである。

すすけたかべには、これも古ぼけた赤いまんだらの大きなかけじくが、かざりのようにかけられた。

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すゝけたかべにはれもふるぼけたあか曼荼羅まんだら大幅おほふくかざりのやうにけられた。

かんおけは、わずかな人数で送られた。

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くわんわづかひとはうむられた。

それでも白いちょうちんが二つかかげられた。

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それでも白提灯しろぢやうちん二張ふたはりかざされた。

さいた竹を格子の目にあんで、ほどよい大きさになるとぐるりと四方を一つにまとめてくくった花かごも、二つかかげられた。

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だけ格子かうしんでいゝ加減かげんおほきさにるとぐるりと四はうを一つにまとめてくゝつた花籠はなかごも二つかざされた。

どちらにも青竹の柄がつけられた。

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れも青竹あをだけけられた。

そのかごには、ひげのようにさいた竹を立てて、その竹には赤や黄や青やそのほかの色紙できざんだ花をかざった。

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かごへはひげのやうにだけてゝだけにはあかあを色紙いろがみきざんだはなかざつた。

その花かごはまた、底へ紙をしいて死んだ人の年の数だけ小銭を入れて、それをかかげた人がときどきざらざらとふっては、かごの目からその小銭をふり落とした。

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花籠はなかごまたそこかみいてんだものゝ年齡としかずだけ小錢こぜにれて、それをかざしたひと時々ときどきざら/\とつてはかごから小錢こぜにおとした。

村の子どもが争ってそれを拾った。

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むら小供こどもあらそつてそれをひろつた。

ちょうちんと花かごは先に立った。

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提灯ちやうちん花籠はなかごさきつた。

後ろからは村の念仏の人たちが、赤いどうの太鼓を首にかけて、だらりだらりとゆるいたたき方をしながら、いっせいに声を上げてついて行った。

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あとからはむら念佛衆ねんぶつしうあかどう太皷たいこくびけてだらりだらりとだらけたたゝきやうをしながら一どうこゑあげいてつた。

かんおけは細い道をさけて、大きな道を行った。

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ひつぎ小徑こみちけて大道わうらいつた。

村の人は自分の門からそれをのぞいた。

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むらもの自分じぶんかどからそれをのぞいた。

かんおけはすわりが悪いのか、とちゅうで止まらずぐらりぐらりとゆれた。

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棺桶くわんをけすわりがわる所爲せゐ途中とちうまずぐらり/\と動搖どうえうした。

勘次はそれでも羽織とはかまで位はいを持った。

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勘次かんじはそれでも羽織はおりはかま位牌ゐはいつた。

それはみな借りたもので、羽織のひもには紙のこよりがつけてあった。

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それはみなりたので羽織はおりひもには紙撚こよりがつけてあつた。

墓のあなは、焼けたような赤土が四方へ高くかき上げられてあった。

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はかあなけたやう赤土あかつちが四はううづたかげられてあつた。

そこには、すきまがないほどあながほられて、たくさんの人がうめられたので、手の骨や足の骨がいつものようにほり出されて、投げ出されてあった。

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其處そこには從來これまで隙間すきまのないほどあなられて、幾多いくたひとうづめられたのでほねあしほねがいつものやうにされてげられてあつた。

はっぴを着た寺のお供が、かんおけを巻いた半反の白木綿を取ってはさみ箱に入れた。

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法被はつぴてらとも棺桶くわんをけいた半反はんだん白木綿しろもめんをとつて挾箱はさんばこいれた。

やがてかんおけは荒縄で下げて、その赤い土の底におさめられた。

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やが棺桶くわんをけ荒繩あらなはでさげてあかつちそこみつけられた。

そまつなかんおけの台は少し高くなった土の上に置かれて、二つの白いちょうちんと二つの花かごとが、そのそばに立てられた。

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麁末そまつ棺臺くわんだいすこうづたかつたつちうへかれて、ふたつの白張提灯しらはりちやうちんふたつの花籠はなかごとがそのそばてられた。

お品は生まれてこのかた、土をふまない日はないと言っていいくらいだった。

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しな生來せいらいつちまないはないといつていゝぐらゐであつた。

そしてそれは、こおりつく冬をのぞいてはたいてい、足の底が直に土についていた。

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さうしてそれはてるふゆ季節きせつのぞいては大抵たいてい直接ちよくせつあしそこつちについてた。

お品はこうして冷たいなきがらになってからも、その足の底はかんおけの板一まいをへだてただけで、これからもずっと土とふれ合っているのだった。

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しなかうしてつめたいかばねつてからもあしそこ棺桶くわんをけいたまいへだてただけでさら永久えいきうつちあひせつしてるのであつた。

小さな葬式ながら、かんおけが出たあとは、つむじ風がほこりをふき払ったようにからりとしていた。

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ちひさな葬式さうしきながらひつぎあと旋風つむじかぜほこりぱらつたやうにからりとしてた。

手伝いに来ていた女の人たちは、そうでなくてもごはんを出す客が少なくてひまだったから、すっかり手持ちぶさたになった。

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手傳てつだひ女房等にようばうらはそれでなくても膳立ぜんだてをするきやくすくなくてひまであつたから滅切めつきり手持てもちがなくなつた。

それでも立ったままおわんとはしを持って、口を動かしている人もあった。

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それでもちながらわんはしとをつてくちうごかしてるものもあつた。

料理は決まったとおり、さらもひらわんもつぼわんもつけられた。

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膳部ぜんぶきまつたとほさらひらつぼもつけられた。

それでも切りこんぶとひじきと油あげととうふのほかは、百姓が自分の手で作ったものばかりで料理された。

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それでも切昆布きりこぶ鹿尾菜ひじき油揚あぶらげ豆腐とうふとのほか百姓ひやくしやうつくつたものばかりで料理れうりされた。

さらには、細かくきざんで塩でもんだ大根と人参のなますが、ちょこんと乗せられた。

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さらにはこまかくきざんでしほんだ大根だいこ人參にんじんとのなますがちよつぽりとせられた。

そんな残り物と冷たくなったとうふのしるをつついても、麦のまじらないごはんがこの上ないごちそうなので、女の人たちは、その丈夫で、しかも大きなおなかに入るかぎり、口がこれを食べつづけて止まらないのである。

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さういふ残物のこりものつめたくつた豆腐汁とうふじるとをつゝいてもむぎまじらぬめしくちにはうへもない滋味じみなので、女房等にようばうら強健きやうけんかつ擴大くわくだいされたれるかぎりはくちこれむさぼつてまないのである。

彼女たちは裏戸のかげに集まって、おしゃべりにふけった。

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彼等かれら裏戸うらどかげあつまつて雜談ざつだんふけつた。

「どうしたっけまあ、ひどくかんおけがぐらぐらしたんじゃなかったっけかい」

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「どうしたつけまあ、ひど棺桶くわんをけぐら/\したんぢやなかつたつけゝえ」

「そのはずだろうな。あとが心配で仕方がないほとけさまは、ああいうふうに動くんだっていうぞ、お前」

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そのはずだんべな、あと心配しんぺえやうねえほとけはあゝえにいごくんだつちぞおめえ」

「勘次さんのことがしたわしくて、あとへ残して行くのがつらいんだろうよ」

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勘次かんじさんことしくつてあとのこしてくのがつれえんだごつさら」

「そんだがよ、あんまりしたわれると、しまいには迎えに来て連れて行かれるとよ」

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「そんだがよ、あんましがられつとしめえにやむけえかれつとよ」

「ああいやだ、おれは」

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「おゝら」

「連れてってくれと言ったって、お前らのことなんか迎えに来る者もあるまいな」

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れてつてくろつちつたつておめえこたむけえるものもあんめえな」

口々に、こんなことがえんりょもなく何度も言われた。

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口々くちぐちんなことが遠慮ゑんりよもなく反覆くりかへされた。

話がしばらくとぎれたとき

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あひだ少時しばし途切とぎれたとき

「お品さんもおしい命をなあ」

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「おしなさんも可惜あつたらいのちをなあ」

と一人が思い出したように言った。

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一人ひとりおもしたやうにいつた。

「本当だ。他人のやらないことでもありゃしまいし」

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本當ほんたう他人ひとのやらねえこつてもありやしめえし」

ほかの女の人が相づちを打った。

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女房にようばう相槌あひづちつた。

「風邪を引いたなんてか。今度の風邪は強いから起きられないなんて、しらばっくれてな」

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風邪かぜいたなんてか、今度こんだ風邪かぜつええからきらんねえなんて、しらばつくれてな」

「死ぬ者が損なんだよ」

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もの貧乏びんばふなんだよ」

「そんだが、お品さんは自分のばかりじゃないっていうんじゃないかい」

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「そんだがおしなさんは自分じぶんのがばかりぢやねえつちんぢやねえけ」

「そうだとよ。大きな声じゃ言えないが、五十銭とか八十銭とか取って、他人のもやったんだとよ」

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「さうだとよ、けえこゑぢやゆはんねえが、五十錢ごくわんとか八十錢はちくわんとかつて他人ひとのがもつたんだとよ」

「八十銭ずつも取っちゃお前、女の手じゃたいしたもんだがな。今度は自分で死んじまうなんて、やりきれないこったなあ」

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八十錢はちくわんづゝもつちやおめえ、をんなぢやたえしたもんだがな、今度こんだ自分じぶんんちまあなんて、んねえこつたなあ」

「つみを作ったばちじゃないか」

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つみつくつたばつぢやねえか」

えんりょもなく、話はそれからそれへと移っていく。

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遠慮ゑんりよもなくそれからそれとうつるのである。

「そんなこと言って、今出て行ったほとけさまのことをお前ら、とりつかれるから見ろよ」

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「そんなことゆつて、いまほとけのことをおめえ、とつゝかれつからろよ」

ほかの一人の女の人が言ったとき、話がしばらくとぎれて静まった。

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一人ひとり女房にようばうがいつたときはなし暫時しばらく途切とぎれてしづまつた。

一人の女の人が、さらの大根を手でつまんで口へ入れた。

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一人ひとり女房にようばうさら大根だいこつまんでくちれた。

「そういう所を他人に見られたらどうするんだい」

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「さうえとこ他人ひとられたらどうしたもんだえ」

そばから言われて

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そばからいはれて

「見てやあしまいな」

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てやあしめえな」

と、その女の人は裏戸の口から庭のほうを見た。

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その女房にようばう裏戸うらどくちからにははうた。

そして

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さうして

「おれみたいなばあさんは、どうせこれから嫁にでも行くあてがあるじゃなし、かまわないことはかまわないがな」

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てえなばゞあはどうでれからよめにでもくあてがあんぢやなし、かまあねえこたあかまあねえがな」

と言って笑った。

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といつてわらつた。

みんなでどっと笑い声を上げた。

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一同みんなどつと笑聲わらひごゑはつした。

かんおけを送った人々がばらばらに帰って来るまで、おしゃべりはそれからそれへと止まなかった。

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ひつぎおくつた人々ひとびとが離れ/″\にかへつてるまでは雜談ざつだんがそれからそれとまなかつた。

ふだん何のなぐさめももらう機会がないのに、それでも聞きたがり、知りたがり、話したがる彼女たちは、三人も集まれば、ふくらんだガスがふくろのやぶれ目から逃げ出すように、ついには前後の分別もなく、その舌を動かすのである。

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平日へいじつ何等なんら慰藉ゐしやあたへらるゝ機會きくわいをもいうしてないで、しかきたがり、りたがり、はなしたがる彼等かれらは三にんとさへあつまれば膨脹ばうちやうした瓦斯ガスふくろ破綻はたんもとめてごとく、つひには前後ぜんご分別ふんべつもなくそのしたうごかすのである。

たまに引き出しから出したあかのついていない半纏を着て、髪にはどんな形にもくしを入れて、そしてお悔やみをすませるまでは、彼女たちはふだんにないおとなしいようすを保つのである。

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たま/\抽斗ひきだしからしたあかかぬ半纏はんてんて、かみにはどんな姿なりにもくしれて、さうしてくやみをすますまでは彼等かれら平常いつもにないしほらしい容子ようすたもつのである。

それは、あらたまってなれないあいさつを言わなければならないという気づかいが、少しだけ彼女たちの心をおさえているからである。

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それはあらたまつて不馴ふなれ義理ぎりべねばならぬといふ懸念けねんが、わづかながら彼等かれらこゝろ支配しはいしてるからである。

しかし土間へ下りて、たすきをかけて、おぜんやおわんを洗ったりふいたり、手をいそがしく動かすようになれば、彼女たちの心はそれに引かれて、その聞きたがり、知りたがり、話したがる性しつにもどるのである。

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しか土間どまへおりて、たすきけられて、ぜんわんあらつたりいたりそのいそがしくうごかすやうにれば、彼等かれらこゝろはそれにかされてきたがり、りたがり、はなしたがる性情せいじやう自然しぜんかへるのである。

たとえ他人にとっては悲しい日でも、その一日だけは自分の暮らしからはなれて何人もの人といっしょに集まれることは、彼女たちにはむしろ楽しい一日でなければならない。

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假令たとひ他人たにんためにはかなしいでもの一じつだけは自己じこ生活せいくわつからはなれて若干じやくかん人々ひとびとと一しよ集合しふがふすることが彼等かれらにはむし愉快ゆくわいな一にちでなければならぬ。

たえずへっていく体をおぎなうために取る食べ物は、おわん一ぱいでも、みんな自分のつらい働きの一部をけずって手に入れたものである。

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間斷かんだんなく消耗せうまうして肉體にくたい缺損けつそん補給ほきふするために攝取せつしゆする食料しよくれうは一わんいへどこと/″\自己じこ慘憺さんたんたる勞力らうりよくの一いてるのである。

しかし他人をとむらう一日は、自分には何の損もなくて、十分におなかいっぱい食べることができる。

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しか他人たにんいたむ一にち其處そこ自己じこのためには何等なんら損失そんしつもなくて十ぶん口腹こうふくよく滿足まんぞくせしめることが出來できる。

他人の悲しみはどれほど深くても、それは自分の目の前の問題ではない。

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他人たにん悲哀ひあいはどれほど痛切つうせつでもそれは自己じこ當面たうめん問題もんだいではない。

こうして、彼女たちの集まる所には、いつも笑い声が絶えないのである。

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如斯かくのごとくにして彼等かれらあつまところにはつね笑聲せうせいたないのである。

お品も、こういう仲間の一人だった。

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しなういふ伴侶なかま一人ひとりであつた。

それが今日は、その笑い声を後にして、冷たい土にかえったのである。

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それが今日けふ笑聲せうせいあとにしてつめたいつちしたのである。

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お品は、自分の手で自分の身をほろぼしたのである。

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しな自分じぶん自分じぶんころしたのである。

お品は十九のくれにおつぎを産んでから、その次の年にもまた身ごもった。

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しなは十九のくれにおつぎをんでからそのつぎとしにもまた姙娠にんしんした。

そのときは暮らしがぎりぎりまで苦しかったので、そのおなかの子は死んだお母さんの手で、七か月目に流してしまった。

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とき彼等かれら窮迫きうはく極度きよくどたつしてたので胎兒たいじんだおふくろで七月墮胎だたいしてしまつた。

それはまだ、秋の暑いころだった。

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それはまだあきあつころであつた。

丈夫なお品は、四、五日たつと林の中で草かりをしていた。

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強健きやうけんなおしなは四五にちつとはやしなか草刈くさかりをしてた。

それでもむりをしたために、そのあと大きな病気はなかったが、よくなるまではしばらくぶらぶらしていた。

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それでも無理むりをしたためその大煩おほわづらひはなかつたが恢復くわいふくするまでにはしばらくぶら/\してた。

それからというもの、どういうわけかお品は身ごもらなかった。

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それからといふものはどういふものかおしな姙娠にんしんしなかつた。

おつぎが十三のとき、与吉が生まれた。

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おつぎが十三のとき與吉よきちうまれた。

このときは勘次もお品も、おなかの子を大切にした。

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とき勘次かんじもおしなはら大切たいせつにした。

女の子が十三というともう役に立つので、与吉を育てながら夫婦は十分に働くことができた。

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をんなが十三といふともうやくつので、與吉よきちそだてながら夫婦ふうふは十ぶんはたらくことが出來できた。

与吉が三つになったので、おつぎはよそへ奉公に出すことに、夫婦のあいだで決められた。

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與吉よきちが三つにつたのでおつぎはよそ奉公ほうこうすことに夫婦ふうふあひだには決定けつていされた。

そのころ十五の女の子では、一年分の給金はせいぜい十円くらいのものだった。

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ころ十五のをんなでは一ねん給金きふきん精々せい/″\ゑんぐらゐのものであつた。

それでも、それだけの収入のほかに食べる人が一人へることが、貧しい家にはとても大きいのである。

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それでもそれだけ收入しうにふほか食料しよくれうげんずることが貧乏びんばふ世帶しよたいには非常ひじやう影響えいきやうなのである。

それが、いねのほ先がたれるころから、お品は考えこんで首をかしげるようになった。

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それがいね穗首ほくびれるころからおしな思案しあんくびかしげるやうになつた。

体のようすが変わったことに気づいたからである。

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身體からだ容子ようすへんつたことを心付こゝろづいたからである。

十年あまりも身ごもらなかったおなかは、与吉ができてからくせがついたと見えて、また身ごもったのである。

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ねんあまりたなかつたはら與吉よきちとまつてからくせいたものとえてまた姙娠にんしんしたのである。

お品も勘次も、それには困ってしまった。

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しな勘次かんじもそれには當惑たうわくした。

おつぎを奉公に出してしまえば、二人の子をかかえてお品はこれまでのように働けない。わずかなかせぎでも、それがなくなることは、彼らの暮らしにとって大きな打げきでなければならない。

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おつぎを奉公ほうこうしてしまへば、二人ふたりいておしな從來これまでのやうにはたらくことが出來できない、わづかかせぎでもそれが停止ていしされることは彼等かれら生活せいくわつためには非常ひじやう打撃だげきでなければならぬ。

そのうちにいねを刈ったり、もみをほしたり、いそがしいとり入れの季節が来て、すみきった空の下で夫婦は毎日ほこりをあびていた。

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うちいねつたり、もみしたりいそがしい收穫しうくわく季節きせつて、えたそらした夫婦ふうふ毎日まいにちほこりびてた。

さすがにつみのような気もするので、夫婦はただ困ってその日をすごしていた。

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有繋さすがつみなやうな心持こゝろもちもするので夫婦ふうふたゞこまつてすごしてた。

それも、夜になってつかれた体を横にし、ぐっすりねむりに落ちるまでのわずかな時間、二人は決められない考えを言い合うのだった。

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それもよるつてつかれた身體からだよこにし甘睡かんすゐおちいるまでの少時間せうじかん彼等かれらたがひけつがた思案しあん交換かうくわんするのであつた。

これまでも夫婦のあいだは、どちらが上か分からないほど、勘次には決める力がなかった。

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從來これまで夫婦ふうふあひだいづれが本位ほんゐであるかわからぬほど勘次かんじには決斷けつだんちから缺乏けつばふしてた。

「どうでもお前のおなかだから、好きにしたほうがいいよな」

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「どうでもおめえのはらだからきにしたはうがえゝやな」

勘次はこう言うのである。

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勘次かんじういふのである。

しかしそれは、どうでもいいという投げやりな言い方ではなくて、お品に命令をするには勘次の心はあまりに遠りょしていたのである。

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しかしそれは怎的どうでもいゝといふなぐりではなくて、すべてがおしなたいして命令めいれいをするには勘次かんじこゝろあまはばかつてたのである。

「そんでも、おれのほうも困るだろうな」

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「そんでも、おれがにもこまんべな」

お品は投げかけるように言うのである。

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しなけるやうにいふのである。

勘次は、お品がこうするつもりだときっぱり言ってしまえば、けっして反対をするのではない。

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勘次かんじはおしなうするつもりだときつぱりいつてしまへばけつして反對はんたいをするのではない。

かといって、お品が自分の考えだけで決めるには、あまりに大きなことだったのである。

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といつておしな獨斷どくだん決行けつかうするのにはあま大事だいじであつたのである。

そして、それは決まる機会もなくて、夫婦はあいかわらず畑仕事にいそがしかった。

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さうしてそれは決定けつていされる機會きくわいもなくて夫婦ふうふ依然いぜんとして農事のうじ忙殺ばうさつされてた。

そのあいだに空をわたる木がらしが、急に悲しい知らせを運んできた。

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あひだそらわたこがらしにはかかなしい音信おどづれもたらした。

けやきのえだは、どうせもうこれまでだというように、あわただしくその赤くなったかれ葉を地面へ投げつけた。

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けやきこずゑは、どうでもうれまでだといふやうにあわたゞしくあかつた枯葉かれは地上ちじやうげつけた。

その捨てられた軽い小さな落ち葉は、自分を引き止めてくれるかげをさがしてころころと走っては、ほした藁のあいだでも、もみのむしろでも、どこにでも身をよせた。

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られたかろちひさな落葉おちばは、自分じぶんめてれるかげもとめて轉々ころ/\はしつてはしたわらあひだでももみむしろでも何處どこでもたくした。

あたりはすべてがただ、さわがしく、そして入り乱れていた。

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周圍あたりすべてがたゞさわがしく混雜こんざつした。

そのうちに勘次は、秋からさそいのあった川ほり工事へ、人にたのまれて行ったのである。

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うち勘次かんじあきから募集ぼしふのあつた開鑿工事かいさくこうじひとまかせてつたのである。

「ただこうしてぐずぐずしていても仕方があるまいな」

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たゞかうしてぐづ/\しててもやうあんめえな」

お品はそのときも、勘次に決めてくれとせまってみた。

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しなとき勘次かんじ判斷はんだんうながしてた。

「おれもそう言われても困るから、お前の好きにしてくれよ」

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おれもさうゆはれてもこまつから、おめえきにしてくろうよ」

勘次はただこう言った。

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勘次かんじたゞういつた。

勘次が行ってしまってから、お品はその入り乱れた、しかもさびしいあたりのようすの中で、やるせないような気持ちになって、とうとうその決心を実行してしまった。

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勘次かんじつてからおしなその混雜こんざつしたしかさびしい世間せけんまじつて遣瀬やるせのないやうな心持こゝろもちがして到頭たうとう罪惡ざいあく決行けつかうしてしまつた。

お品のおなかは四か月だった。

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しなはらは四つきであつた。

そのころのおなかがいちばんあぶないと言われているとおり、お品はそれがもとでたおれたのである。

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ころはらが一ばん危險きけんだといはれてごとくおしなはそれが原因もとたふれたのである。

おなかの子は四か月いっぱいいたので、男か女かがはっきりと分かった。

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胎兒たいじは四つきぱいこもつたので兩性りやうせいあきらかに區別くべつされてた。

小さなまたのあいだには、ごはんつぶほどの出っぱりがあった。

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ちひさいまたあひだには飯粒程めしつぶほど突起とつきがあつた。

お品はさすがに、おしくてはかない気持ちがした。

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しな有繋さすがしい果敢はかない心持こゝろもちがした。

第一に、人に知られることをおそれた。

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だい一にこと發覺はつかくおそれた。

それで、いったんは世間の女がよくするようにゆか下にうめたのを、お品はさらに田のはしのぐみの木のそばに、ぼろにくるんでうめたのである。

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それで一たん世間せけんをんなのするやうにゆかしたうづめたのをおしなさらはた牛胡頽子うしぐみそば襤褸ぼろへくるんでうづめたのである。

お品は体がよくなるまでじっとしてふとんにくるまっていれば、あるいはよかったかもしれない。

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しな身體からだ恢復くわいふくするまで凝然ぢつとして蒲團ふとんにくるまつてればあるひはよかつたかもれぬ。

十何年か前にはすべて死んだお母さんがやってくれたのだが、今度は勘次もいないし、お品は暮らしの心配もしなければならなかった。

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幾年前いくねんまへには一さいんだおふくろ處理しよりしてくれたのであつたが、今度こんど勘次かんじないしでおしな生計くらし心配しんぱいもしなくてはられなかつた。

一つには、それを世間にかくそうという気持ちから、知らないふりをするために、むりにでも体を動かしたのだった。

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ひとつにはそれを世間せけん隱蔽いんぺいしようといふ念慮ねんりよかららぬ容子ようすよそほためひてもうごかしたのであつた。

しかし、その身をほろぼしたばい菌は、どうやって入りこんだのだろうか。

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しかしながらころした黴菌ばいきんがどうして侵入しんにふしたであつたらうか。

お品は、赤ちゃんをつつむまくをやぶるのに、他人の手を借りなかった。

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しな卵膜らんまくやぶ手術しゆじゆつ他人たにんわずらはさなかつた。

そして、そのさし入れたほおずきの根が、感じないほどの軽いきずをつけて、そこにばい菌を植えつけたのだろうか。それとも毎日けむりのようにあびていたほこりから来たのだろうか。それをはっきりさせることはできない。

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さうしてその揷入さうにふした酸漿ほゝづき知覺ちかくのないまでに輕微けいび創傷さうしやう粘膜ねんまくあたへて其處そこ黴菌ばいきん移植いしよくしたのであつたらうか、それとも毎日まいにちけぶりごとあびけたほこりからたのであつたらうか、それをあきらめることは不可能ふかのうでなければならぬ。

しかしどちらにしても、病気のもとは土が運んで来たものにちがいなかった。

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しかいづれにしても病毒びやうどくつちもたらしたのでなければならなかつた。

葬式の次の日は、また近所の人が来た。

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葬式さうしきつぎまた近所きんじよひとた。

勘次は借りた羽織とはかまを着て、村じゅうへあいさつに回った。

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勘次かんじりた羽織はおりはかま村中むらぢう義理ぎりまはつた。

土びんに入れた水を持って墓まいりに行って、それからおぜんもおわんもみな返して、近所の人々も帰ったあと、勘次はぽつんとして、古いつくえの上に置かれた白木の位はいを前に、たまらなくさびしくあわれな気持ちになった。

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土瓶どびんれたみづつて墓參はかまゐりにつて、それから膳椀ぜんわんみなかへして近所きんじよ人々ひと/″\かへつたのち勘次かんじ㷀然けいぜんとしてふるつくゑうへかれた白木しらき位牌ゐはいたいしてたまらなくさびしいあはれつぽい心持こゝろもちになつた。

二、三日のあいだは、片口やすりばちに入れた葬式のときの残り物を食べて、家じゅうがただぼんやりとして暮らした。

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二三にちあひだ片口かたくち摺鉢すりばちれた葬式さうしきとき残物ざんぶつべて一たゞばんやりとしてくらした。

雨戸はいつものように閉めたままで、暗かった。

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雨戸あまどはいつものやうにいたまゝ陰氣いんきであつた。

卯平を入れて四人は、おたがいにただ冷たかった。

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卯平うへいくはへて四にんはおたがひたゞひやゝかであつた。

卯平はそのうす暗い家の中で、ただたばこをふかしては、大きなしんちゅうのきせるで火ばちをたたいていた。

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卯平うへい薄暗うすぐらうちなかたゞ煙草たばこかしてはおほきな眞鍮しんちう煙管きせる火鉢ひばちたゝいてた。

卯平と勘次とは、そのあいだろくに口もきかなかった。

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卯平うへい勘次かんじとはあひだろくくちきかなかつた。

勘次は、自分の体と自分の心とがばらばらになったような気持ちで、自分で自分をどうすることもできなかった。

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勘次かんじ自分じぶん身體からだ自分じぶんこゝろとが別々べつ/\つたやうな心持こゝろもち自分じぶん自分じぶんをどうすること出來できなかつた。

それでも小作米のことは、頭からはなれることはなかった。

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それでも小作米こさくまいのことは念頭ねんとうからぼつることはなかつた。

貧しい小作人の常として、彼らはいつもこわさにおそわれている。

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貧乏びんばふ小作人こさくにんつねとして彼等かれら何時いつでも恐怖心きようふしんおそはれてる。

ことに、地主に気をつかうことは、なみたいていではない。

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こと地主ぢぬしはゞかることは尋常じんじやうではない。

そして自分が作ってきた土地は、死んでもかじりついていたいほどおしむのである。

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さうして自分じぶんつくきたつた土地とちんでもかぢいてたいほどそれををしむのである。

彼らが初めてふんだ土の強い引きつける力は、いつまでも彼らを遠くへ放さない。

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彼等かれら最初さいしよんだつち強大きやうだい牽引力けんいんりよく永久えいきう彼等かれらとほはなたない。

彼らはとうてい、その土に苦しみつづけなければならない運命を持っているのである。

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彼等かれら到底たうていつちくるしみとほさねばならぬ運命うんめいつてるのである。

勘次は、お品の葬式がすむとすぐに、新しい俵へ入れた小作米を地主へ運んで行かなければならないと、それが心を苦しめていた。

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勘次かんじはおしな葬式さうしきむとすぐあたらしいたはられた小作米こさくまい地主ぢぬしはこんでかねばらぬとそれがこゝろくるしめてた。

しかしそのときには、その新しい俵の一つは縄のわからぬけて、米はたたいてもいくらも出なかった。

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しかときあたらしいたはらの一つはつたなはからけて、こめたゝいてもいくらもなかつた。

勘次は次の年には、ほとんど自分一人の手で畑仕事をしなければならない。

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勘次かんじつぎとしにはほとん自分じぶん一人ひとり農事のうじはげまなくてはならぬ。

いつもの年のようにいそがしい季節に日やといに行くこともできまいし、それにはお母さんに置いていかれた二人の子どももいるし、今から食べ物のよういもしなければならないと思うと、自分のくらしから一俵の米をへらしては、とてもやっていけないと深く考えて、彼はねむれないこともあった。

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例年れいねんのやうにいそがしい季節きせつ日傭ひようくことも出來できまいし、それにはおふくろてられた二人ふたり子供こどもることだし、いまからこく用意よういもしなくてはらぬとおもふと自分じぶん身上しんしやうから一ぺうこめげんじては到底たうていけぬことをふか思案しあんしてかれねむらないこともあつた。

しかしほかに方法もないので、彼は地主にたのみこんで、小作米の半分を次の秋まで貸してもらった。

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しか方法はうはふもないのでかれ地主ぢぬし哀訴あいそして小作米こさくまい半分はんぶんつぎあきまでしてもらつた。

地主は東どなりのもとの主人だったので、それも聞き入れてもらえた。

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地主ぢぬし東隣ひがしどなり舊主人きうしゆじんであつたのでそれも承諾しようだくされた。

彼はさらに、そのわずかな米の一部をけずってお金にかえなければならないほど、ふところが苦しかったのである。

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かれさらわづかこめの一いてぜにへねばならぬほどふところきうしてたのである。

勘次はそれから、また利根川の工事へ行かなければならないと思っていた。

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勘次かんじはそれから利根川とねがは工事こうじかねばならないとおもつてた。

それは彼が、わずかのあいだに見た、行き場のない人たちのおそろしさを思って、たとえどうであってもかしらをだまして、そのわずかな前借りのお金をふみたおすほどの気持ちにはなれなかったからである。

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それはかれわづかあひだ放浪者はうらうしやおそろしさをおもつて、假令たとひどうしてもその統領とうりやうあざむいて僅少きんせう前借ぜんしやくかねたふほど料簡れうけんおこされなかつたのである。

そのうちに親方からはがきが来た。

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うち張元ちやうもとから葉書はがきた。

彼はひたすらおそれた。

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かれ只管ひたすら恐怖きようふした。

しかし二人の子を置いて行くことができないので、どうしていいか分からなかった。

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しか二人ふたり見棄みすてゝくことが出來できないので、どうしていゝか判斷はんだんもつかなかつた。

そうするうちに、お品の七日目もすぎた。

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さうするうちにおしなの七日もぎた。

彼は苦しみなやんだ。

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かれ煩悶はんもんした。

ただ一つ、卯平が野田へ行くのをしばらくのばしてもらって、自分はそのあいだに少しでもこづかいをかせいで来たいと思った。

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たゞ一つ卯平うへい野田のだくのをしばら猶豫いうよしてもらつて自分じぶんあひだすこしでも小遣錢こづかひせんかせいでたいとおもつた。

しかしそれも直接には言い出せないので、例の桑畑一まいをへだてた南の家にたのんだ。

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しかしそれも直接ちよくせつにはせないので、れい桑畑くはばたけまいへだてたみなみたのんだ。

ここ数日、彼は卯平がその大きな体を火ばちのそばにすえて、きせるをかんではむっつりとしているのを見ると、なんとなく気おくれして、なるべくその目を見ないように遠ざかっているしかなかった。

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數日來すうじつらいかれ卯平うへいおほきな體躯からだ火鉢ひばちそばゑて煙管きせるんではむつゝりとしてるのをると、なんとなくはゞかつてるべく視線しせんけるやうにとほざかつてることを餘儀よぎなくされるのであつた。

勘次とお品は、たがいに好き合った仲だった。

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勘次かんじとおしな相思さうし間柄あひだがらであつた。

勘次が東どなりの主人にやとわれたのは十七の冬で、十九のくれにお品のむこになってからも、あいかわらず主人の所につとめていた。

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勘次かんじ東隣ひがしどなり主人しゆじんやとはれたのは十七のふゆで十九のくれにおしな婿むこつてからも依然いぜんとして主人しゆじんもとつとめてた。

彼はそのころ、お品の家へはとなり同士だからということでよく出入りした。

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かれその當時たうじしなうちへはとなりづかりといふので出入でいつた。

一つには、女らしくなってきたお品のすがたを見たいせいでもあった。

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ひとつにはかたちづくつてたおしな姿すがたたい所爲せゐでもあつた。

彼は秋の大豆打ちという日の晩などには、唐箕にかけたり俵に作ったりするあいだに、二しょうや三しょうの大豆をこっそりかくしておいて、お品の家へ持って行った。

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かれあき大豆打だいづうちといふばんなどには、唐箕たうみけたりたはらつくつたりするあひだに二しようや三じよう大豆だいづひそかかくしていておしなうちつてつた。

そして、いり豆をかじっては、夜ふけまで話をすることもあった。

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さうして豆熬まめいりかじつては夜更よふけまではなしをすることもあつた。

お品の家からは、近所でおふろがわかない日はよく来た。

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しなうちからは近所きんじよ風呂ふろたぬときた。

いそがしい仕事にはやとわれても来た。

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いそがしい仕事しごとにはやとはれてもた。

そういうあいだに、二人の仲ができたのである。

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さういふあひだ彼等かれら關係くわんけい成立なりたつたのである。

それはお品が十六の秋である。

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それはおしなが十六のあきである。

それから足かけ三年たった。

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それから足掛あしかけねんつた。

勘次には、主人の家が楽しくてよく働くことができた。

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勘次かんじには主人しゆじんうち愉快ゆくわいはたらくことが出來できた。

彼の体はむしろ小がらだが、そのきりっとしまった体つきが、だんだん仕事を上手にした。

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かれ體躯からだむし矮小こつぶであるが、そのきりつとしまつた筋肉きんにく段々だん/″\仕事しごと上手じやうずにした。

たとえどんなものが二人のあいだをへだてようとしても、二人が近づく機会を見つけたことは、こんもりとしげってさえぎる林のえだをすかして、どこからか日が地面に光を落としているようなものだった。

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假令たとひどんなもの彼等かれらあひだへだてようとしても彼等かれらあひちかづく機會きくわい見出みいだしたことは鬱蒼うつさうとしてさへぎつて密樹みつじゆこずゑとほしてどこからか地上ちじやうひかりげてるやうなものであつた。

二人の心は、ただ明るかったのである。

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彼等かれらこゝろたゞあかるかつたのである。

お品は十九の春に身ごもった。

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しなは十九のはる懷胎くわいたいした。

自分でもそれはしばらく知らずにいた。

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自分じぶんでもそれはしばららずにた。

季節がだんだん暖かくなって、仕事にはひとえでなければならないころになったので、女同士の目にはかくしきれなくなった。

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季節きせつ段々だん/\ぽかついて、仕事しごとには單衣ひとへものでなければならぬころつたので女同士をんなどうしかくしおほせないやうにつた。

お母さんはお品をまだ子どものように思って、うっかりそれに気づかなかった。

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ふくろはおしなをまだ子供こどものやうにおもつて迂濶うくわつにそれを心付こゝろづかなかつた。

本当にそうだと分かったときには、お品は間もなく肩で息をするようになった。

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本當ほんたうにさうだとおもつたときはおしなもなくかたいきするやうにつた。

そして、体がもうほうっておけない状態になったので、両方の親せきの人たちでごたごたと話し合いが起こった。

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さうして身體からだがもうてゝけない場合ばあひつたので兩方りやうはう姻戚みよりものでごた/\と協議けふぎおこつた。

勘次もお品も、そのときたがいに慕い合う心が、にかわのように強かった。

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勘次かんじもおしなそのときたがひあひしたこゝろ鰾膠にべごとつよかつた。

二人はいたずら者に横から口を出されて慌てたときに、ある夜にげ出してしまった。

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彼等かれら惡戲者いたづらものみづをさゝれてあわてた機會はづみあるしてしまつた。

それは、このままでは二人はとてもいっしょになれそうにないから、どうしても一つになろうというのなら、どこかへ二人で身をかくすのだ、と言われたのである。

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それは、まゝでは二人ふたりてもはされぬ容子ようすだからどうしてもひとつにらうといふのならば何處どこへか二人ふたりかくすのである。

そして、いよいよとなればおれがどうにでも始末をつけてやるから、なんでもぐずぐずしていちゃだめだと、お品の心をそそのかしたのだった。

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さうしていよ/\となればおれがどうにでも其處そこ始末しまつをつけてるから、なんでも愚圖ぐづ/\してちや駄目だめだとおしなこゝろ教唆そゝつたのであつた。

お品からいっしんに勘次へせまった。

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しなから一しん勘次かんじせまつた。

勘次はそのころから、お品の言いなりになるのだった。

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勘次かんじころからおしなのいふなりにるのであつた。

二人は遠くへは行けないので、となり村の知り合いの家へころがりこんだ。

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二人ふたりとほくはけないので、隣村となりむら知合しりあひとうじた。

両方の親せきがさわぎ出した。

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兩方りやうはう姻戚みよりさわした。

こういう二人へのこんないたずらは、どこでもよくくり返されるのだった。

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ういふ同志どうしへのこんな惡戲いたづら何處どこでも反覆くりかへされるのであつた。

そして、うまくいったいたずら者は

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さうして成功せいこうした惡戲者いたづらもの

「仕事はなんでも、めんどりのほうを動かさなくちゃうまく行かないよ」

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仕事しごとなんでも牝鷄めんどりでなくつちやうまかねえよ」

と言っては、かげで笑うのである。

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といつてはかげわらふのである。

「みっともないまねをしやがって」

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外聞げえぶんさらしやがつて」

と卯平はおこったが、そのおかげで話はかんたんに進んだ。

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卯平うへいおこつたがそれがためこと容易よういはこばれた。

勘次はむこになったのである。

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勘次かんじ婿むこつたのである。

かんたんな式が行われた。

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簡單かんたんしきおこなはれた。

急になこうどに決められた人が一人で、勘次を連れて行った。

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にはか媒妁人ばいしやくにんさだめられたものが一人ひとり勘次かんじれてつた。

卯平はむっつりとして、それを受け入れた。

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卯平うへいはむつゝりとしてそれをけた。

ふだん通いなれた家なので、勘次はきまり悪そうにすわった。

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平生へいぜいきつけたうちなので勘次かんじきま惡相わるさうすわつた。

お品はふだん着のままたすきをかけて、だるそうな体を動かしていて、勘次のそばへはすわらなかった。

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しな不斷衣ふだんぎまゝ襷掛たすきがけ大儀相たいぎさう體躯からだうごかして勘次かんじそばへはすわらなかつた。

なこうどがただお酒を飲んでさわいだだけだった。

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媒妁人ばいしやくにんたゞさけんでさわいだだけであつた。

お品は間もなく女の子を産んだ。

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しなもなくをんなんだ。

それがおつぎだった。

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それがおつぎであつた。

季節はくれのおしつまった、いそがしいときだった。

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季節きせつくれつまつたいそがしいときであつた。

お母さんはお品が好いているので、勘次をものたりないむこだとは思っていなかった。

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ふくろはおしないてるので、勘次かんじ不足ふそく婿むこおもつてはなかつた。

勘次はそのくれもまた主人の所ではたらくつもりで前借りした給金を、お品の家へつぎこんだので、お母さんはかえってよろこんでいた。

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勘次かんじそのくれまた主人しゆじんまかせるはず前借ぜんしやくした給金きふきんを、おしなうちんだのでおふくろかへつよろこんでた。

卯平はただ、勘次が気に入らなかった。

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卯平うへいたゞ勘次かんじむしすかなかつた。

自分は大きな体でぐいぐいと仕事をしてきたのに、勘次は小さな体でちょこちょこと走り回ったり、言われたことばかりしていて自分で考えるということがまるでなかったりするので、ひどく歯がゆく思っていた。

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自分じぶんそのおほきな體躯からだでぐい/\と仕事しごとをしつけたのに勘次かんじちひさな體躯からだでちよこ/\とあるいたり、ただ吩咐いひつけばかりいてるので自分じぶん機轉きてんといふものが一かうなかつたりするのでひど齒痒はがゆおもつてた。

しかし自分もむこ入りした身だし、それに生まれつき口数が少ないので、親せきの話し合いにも彼は

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しか自分じぶん入夫にふふといふ關係くわんけいもあるしそれに生來せいらい寡言むくちなので姻戚みよりあひだ協議けふぎにもかれ

「どうでもわしはようございますから、いいように決めておくんなせえ」

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「どうでもわしはようがすからえゝ鹽梅あんべいめておくんなせえ」

とだけ言うのだった。

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とのみいふのであつた。

勘次は、百姓がいちばんいそがしいそのころの五月に病気になった。

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勘次かんじ百姓ひやくしやうもつとせはしいころの五ぐわつ病氣びやうきつた。

彼は馬のくつわにつけた竹ざおのはしを持って馬をあやつりながら、毎日どろだらけになって田をならしていた。

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かれくつわけた竹竿たけざをはしつてうまぎよしながら、毎日まいにちどろだらけになつて代掻しろかきをした。

どうかすると、そんな季節に東南の風がふいて、ふるえるほど冷えることがある。

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どうかするとそんな季節きせつ東南風いなさいてふるへるほどえることがある。

勘次はその冷えがさわったのだろうか、気分が悪いと言って田からもどって来ると、それっきり起き上がれないようになった。

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勘次かんじえがさはつたのであつたらうか心持こゝろもちわるいというてからもどつてるとそれつまくらあがらぬやうになつた。

よく馬の病気に飲ませる赤玉という薬を何つぶか飲んで、彼はふとんにくるまっていた。

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うま病氣びやうきませる赤玉あかだまといふくすり幾粒いくつぶんでかれ蒲團ふとんへくるまつてた。

彼はどうにか病気をのりきれるものなら、卯平のそばへは行きたくなかった。

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かれはどうにか病氣びやうきしのぎがつけば卯平うへいそばへはきたくなかつた。

それに一つには、がまんして仕事に出ればろくに働けなくても一日分の仕事をしたことになるけれど、まったく休んでしまえばその日の分が給金から引かれてしまうので、彼はそれをおそれた。

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それとひとつには我慢がまんして仕事しごとればろくにははたらけなくても一にちつとめをはたしたことにるけれども、まるやすんでしまへばだけの割當勘定わりあてかんぢやう給金きふきんから差引さしひかれなければらぬのでかれはそれをおそれた。

しかし病気は、馬に飲ませる薬の赤玉ではすぐには治らなかった。

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しか病氣びやうきうまませるくすり赤玉あかだまではすぐにはなほらなかつた。

それで彼はお品の世話になるつもりで、次の朝早く、仲間の背中に運ばれた。

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それでかれはおしな厄介やくかいつもりで、つぎあさはや朋輩ほうばいはこばれた。

卯平はしぶりきった顔でむかえた。

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卯平うへいしぶつたかほむかへた。

お品がふとんをしいてやったので、勘次はそこへごろりとうつぶせになって、ひたいを組んだ手にうずめた。

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しな蒲團ふとんいてつたので勘次かんじはそれへごろりと俯伏うつぶしになつてひたひ交叉かうさしたうづめた。

家の者はみな田へ出なければならなかった。

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うちものみななければならなかつた。

病人にかまっていることは、仕事がゆるさなかった。

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病人びやうにんかまつてることは仕事しごとゆるさなかつた。

お母さんは出るときに表の大戸を閉めながら

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ふくろときおもて大戸おほどてながら

「おなかがすいたらここにあるぞ」

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はらつたら此處こゝにあんぞ」

と言って、ばたりと飯だいのふたをした。

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といつてばたりと飯臺はんだいふたをした。

あとで勘次がふとんからずり出して見たら、麦ばかりのぽろぽろしたごはんだった。

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あと勘次かんじ蒲團ふとんからずりしてたら、むぎばかりのぽろ/\しためしであつた。

そのころ、お品の家ではそういう食べ物で命をつないでいたのである。

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時分じぶんしなうちではさういふ食料しよくれう生命いのちつないでたのである。

勘次は奉公にばかり出ていたので、それほどそまつな物を食べたことはない。

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勘次かんじ奉公ほうこうにばかりたのでそれほど麁末そまつものくちにしたことはない。

それで、どうしても手を出す気にならなかった。

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それでどうしてもさうといふこゝろおこらなかつた。

昼ごはんに家の者は田からもどって、そのごはんを食べた。

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午餐ひるうちものからもどつてめしべた。

ちっとはどうだとお母さんにすすめられても、勘次はただうつぶせになっていた。

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ちつとはどうだとおふくろすゝめられても勘次かんじたゞ俯伏うつぶしつてた。

「この野郎、こんないそがしいときにころがりこみやがって、くたばるつもりでもあるだろう」

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野郎やらうこんなせはしいときころがりみやがつてくたばるつもりでもあんべえ」

と、卯平はふだんになくこんなことを言った。

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卯平うへい平生へいぜいになくんなことをいつた。

勘次はあとで一人で泣いた。

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勘次かんじあとひといた。

彼はお品がこっそりふとんの下へ入れてくれたせんべいをかじったりして、二、三日ごろごろしていた。

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かれはおしながこつそり蒲團ふとんしたいれれた煎餅せんべいかぢつたりして二三にちごろ/\してた。

そのころは駄菓子屋もめったになかったので、これだけのことがお品にはずいぶんな心づかいだったのである。

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ころ駄菓子店だぐわしみせ滅多めつたかつたのでだけのことがおしなには餘程よほど心竭こゝろづくしであつたのである。

勘次はどうも卯平がいやで、こわくて仕方がないので、少し体がよくなりかけると、みなが田へ出たあとでそっとぬけ出して、村の中の親せきの所へ行って板ぐらの二階へかくれてねていた。

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勘次かんじはどうも卯平うへいいやおそろしくつてやうがないのですこ身體からだ恢復くわいふくしかけるとみんなあとでそつとけてむらうち姻戚みよりところつて板藏いたぐらの二かいかくれてた。

夜になったらどうして知ったのか、お品はおつぎを背負って、にわとりを一羽持って来た。

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になつたらどうしてつたかおしなはおつぎを背負せおつてにはとりを一つてた。

「勘次さん、悪く思わないでくれよ。おれは悪くするつもりはないが、仕方がないからよ」

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勘次かんじさんわるおもはねえでくろうよ、おらわるくするつもりはねえが、やうねえからよ」

と、お品はうったえるように言うのだった。

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とおしなうつたへるやうにいふのであつた。

お品は毎晩のように来て、板ぐらの戸を内から閉めてとまって行った。

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しな毎晩まいばんのやうに板藏いたぐらさるうちからおろしてとまつてつた。

それでも勘次は卯平のそばがいやなので、もどらないつもりでほかの村へさまよい出た。

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それでも勘次かんじ卯平うへいそばいやなのでもどらないといふつもり村落むら漂泊へうはくした。

また土地へ帰って来ると、畑にいても田にいてもお品がせまって来るので、彼は農具を捨てて逃げることさえあった。

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また土地とちかへつてると、はたけてもてもおしなせまつてるので、かれ農具のうぐてゝげることさへあつた。

それがどうしたものか、いつのまにか自分のほうからお品のそばへ行きたくてたまらなくなってしまって、他人からかえってからかわれるようになったのである。

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それが如何どうしたものか何時いつにやらひど自分じぶんからおしなそばきたくつてしまつて、他人たにんからかへつ揶揄からかはれるやうにつたのである。

勘次が奉公の年季をつとめ上げて帰ったとき、卯平とは一つの家でかまどを別にすることになった。

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勘次かんじ奉公ほうこう年季ねんきつとめあげてかへつたとつたとき卯平うへいとはひとうちかまどべつにすることにつた。

夫婦と赤んぼうの三人ぐらしで、彼らは卯平から、からのついたそばが一斗五しょうと麦が一斗と、あとにも先にもたったこれだけを分けてもらった。

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夫婦ふうふ乳呑兒ちのみごと三にん所帶しよたい彼等かれら卯平うへいから殼蕎麥からそばが一しようむぎが一と、あとにもさきにもたつただけけられた。

正月のうどんも打てなかった。

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正月しやうぐわつ饂飩うどんてなかつた。

さすがにお母さんは小麦粉をかくしてお品にやった。

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有繋さすがにおふくろ小麥粉こむぎこかくしておしなつた。

それでも勘次は、こわい卯平と一つのかまどでいるよりも、かえってうれしかった。

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それでも勘次かんじおそろしい卯平うへいひとかまどであるよりもかへつ本意ほんいであつた。

お母さんが死んでから、年老いた卯平は勘次と一つにならなければならなかった。

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ふくろんでからいた卯平うへい勘次かんじひとつにらなければならなかつた。

そのときにはもう、勘次が家の主だった。

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そのときはもう勘次かんじあるじであつた。

そして、とっくに自分の住んでいる土地までが自分のものではなかった。

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さうしてとう自分じぶんんで土地とちまでが自分じぶん所有ものではなかつた。

それは借金のかたをつけるために人が間に立って、東どなりへとても安いねだんで持たせたのである。

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それは借錢しやくせんきまりをつけるためひとつて東隣ひがしどなり格外かくぐわいたせたのである。

それほど彼の家は苦しかった。

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それほどかれいへきうしてた。

勘次にとって卯平は、こわいというよりも、そのころではむしろいやな老人になっていた。

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勘次かんじには卯平うへいおそろしいよりもそのときではむしいや老爺おやぢつてた。

二人はめったに口もきかない。

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二人ふたり滅多めつたくちかぬ。

それを見ていなければならないお品の苦労は、なみたいていではなかったのである。

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それをなければらぬおしな苦心くしん容易よういなものではなかつたのである。

勘次にたのまれて南の家のご主人が話をしたとき、卯平は心配したほどでもなく、「子どもらが困るというなら、どうでもするさ。しないでどうするもんか」

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勘次かんじたのまれてみなみ亭主ていしゆはなしをしたとき卯平うへいはどうしたものかとあんじたほどでもなく「子奴等こめらこまるといへばどうでもざらによ、ねえでどうするもんか」

と、きせるを手に持って、そのくせの舌打ちをしながら言った。

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煙管きせるつてくせ舌皷したつゞみちながらいつた。

南の家で心配しながら返事を待っていた勘次は、元気づいて

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みなみあんじながら挨拶あいさつつて勘次かんじいきほひづいて

「そんじゃ、おとっつあん、おれは行って来るから」

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「そんぢや、おとつゝあおれつから」

と言った。

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といつた。

このときばかりは、おだやかなあいさつがかわされた。

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ときばかりはおだやかな挨拶あいさつ交換かうくわんされた。

勘次がいなくなってから、卯平はむっつりした顔にほほえみをうかべては、与吉をだいて泣かれることもあった。

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勘次かんじなくつてから卯平うへいはむつゝりしたかほ微笑びせうかべては與吉よきちいてかれることもあつた。

与吉は夜に急に泣き出して止まらないことがある。

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與吉よきちよるにはかしてまぬことがある。

お品が死ぬまでかけていたふとんの中に、おつぎは与吉をだいてくるまるのだった。

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しなぬまで蒲團ふとんなかにおつぎは與吉よきちいてくるまるのであつた。

与吉が夜泣きをするとき、卯平はまくら元のマッチをすってたばこへ火をうつしては、燃えさしを手ランプにつけて

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與吉よきち夜泣よなきをするとき卯平うへい枕元まくらもと燐寸マツチをすつて煙草たばこうつしてはえさしをランプへけて

「おっかあが見えるんだかも知れない。そうら明るくなった。お前は姉ちゃんにだかれてるんだ。こわいことがあるもんか」

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「おつかあがえんだかもんねえ、さうらあかるくつた。りやねえかさつてんだ。可怖おつかねえことあるもんか」

卯平は重い調子で言うのである。

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卯平うへいおも調子てうしでいふのである。

与吉はかべのどことも分からない所を見ては、火がついたように体をふるわせて泣いて、ひしとおつぎにだきつく。

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與吉よきちかべ何處どこともなくてはいたやうにふるはしていてひしとおつぎへきつく。

おつぎは与吉をひざにだいて、泣き止むまでは両手でつつんでいる。

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おつぎは與吉よきちひざいてむまでは兩手りやうておほうてる。

それが泣き出したら毎晩のようなので、おつぎは玉ざとうをふとんの下へ入れておいて、泣くときにはなめさせた。

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それがしたら毎夜まいよのやうなのでおつぎは、玉砂糖たまざたう蒲團ふとんしたれていてときにはめさせた。

それでも泣きがひどくなったときは、口へ入れたさとうをはき出しては、いよいよはげしく泣くのである。

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それでもつのつたときくちれた砂糖さたうしてはいよ/\はげしくくのである。

おつぎはいらいらして、らんぼうに与吉をゆさぶることもあった。

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おつぎはれて邪險じやけん與吉よきちをゆさぶることもあつた。

それで与吉はついには、さとうを口にしながらすやすやとねむる。

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それで與吉よきちしまひには砂糖さたうくちにしながらすや/\とねむる。

卯平は与吉が静かになるまでは、横になったままおつぎのほうを向いて、うす暗い手ランプにその目を光らせている。

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卯平うへい與吉よきちしづかにるまではよこつたまゝおつぎのはういて薄闇うすぐらランプにひからせてる。

与吉はおつぎにだかれるとき、いつもよくおつぎの胸をさわるのだった。

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與吉よきちはおつぎにかれるときいつもくおつぎの乳房ちぶさいぢるのであつた。

うるさがってきびしくしかってみても、与吉は甘えて笑っている。

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五月蠅うるさがつて邪險じやけんしかつてても與吉よきちあまえてわらつてる。

それでも泣くときに、お品がしたようにふところを開けてお乳をふくませてみても、その小さなお乳はけっして吸わなかった。

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それでもときにおしなのしたやうにふところけて乳房ちぶさふくませててもちひさな乳房ちぶさ間違まちがつてもはなかつた。

さとうをつけてみても、だませなかった。

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砂糖さたうけててもあざむけなかつた。

おつぎは与吉がおなかをすかせて泣くときには、米を水にひたしておいてすりばちですって、それをくつくつと煮てさとうを入れてなめさせた。

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おつぎは與吉よきちはららしてときにはこめみづひたしていて摺鉢すりばちですつて、それをくつ/\と砂糖さたういれめさせた。

与吉はひとはしなめては舌つづみを打って、その小さな白い歯を出して、頭が後ろにつくほど体をそらせて、おつぎの顔をじっと見ては、甘えた声を立てて笑うのである。

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與吉よきち一箸ひとはしめては舌鼓したつゞみつてそのちひさなしろして、あたまうしろへひつゝけるほどらしておつぎのかほ凝然ぢつてはあまえたこゑたてわらふのである。

与吉はそれがほしくなると、小さな手ですすけたたなを指した。

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與吉よきちはそれがほしくなればちひさなすゝけた籰棚わくだなした。

そこには、彼の好きなさとうの小さなふくろが乗せてあるのだった。

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其處そこにはかれこの砂糖さたうちひさなふくろせてあるのであつた。

おつぎは勘次が言いつけて行ったとおり、おけに入れてある米と麦をまぜたのをごはんにたいて、いもと大根のしるを作るほかは、これといった仕事もなかった。

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おつぎは勘次かんじ吩咐いひつけてつたとほをけれてあるこめむぎとのぜたのをめしいて、いも大根だいこしるこしらへるほかどうといふ仕事しごともなかつた。

そのあいだには与吉を背負って林の中を歩いて、竹のさおで作ったかぎでかれえだを取っては、しばをたばねるのがつとめだった。

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あひだには與吉よきち背負せおつてはやしなかあるいてたけ竿さをつくつたかぎ枯枝かれえだつては麁朶そだたばねるのがつとめであつた。

おつぎは麦藁でたにしのような形にねじれたかごを作って、それを与吉に持たせた。

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おつぎは麥藁むぎわら田螺たにしのやうなかたちよぢれたかごつくつてそれを與吉よきちたせた。

卯平はぶらりと出て行っては、帰りには駄菓子を少したもとに入れて来る。

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卯平うへいはぶらりとつてはかへりには駄菓子だぐわしすこたもとれてる。

そして卯平は、菓子を持った右の手を左のそで口から出して与吉に見せる。与吉はふらふらとやっと歩いて行っては、ぶつかりそうに卯平につかまってたもとをさぐる。

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さうして卯平うへい菓子くわしつたみぎひだり袖口そでくちからして與吉よきちせる、與吉よきちはふら/\とやうやあるいてつては、あたさう卯平うへいつかまつてたもとさがす。

すると、菓子を持った手が今度は卯平の左のたもとから出る。

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さうすると菓子くわしつたさら卯平うへいひだりたもとからる。

与吉はあぶなっかしく卯平の体につかまりながら、左へ回って行く。

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與吉よきちあぶさう卯平うへい身體からだつたひつゝひだりまはつてく。

すると、卯平の手が与吉の頭の上に乗って、菓子が頭へ落とされる。

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さうすると卯平うへい與吉よきちあたまうへつて菓子くわしあたまおとされる。

与吉が頭へ手をやるときに、菓子は足元へぽたりと落ちる。

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與吉よきちあたまをやるとき菓子くわし足下あしもとへぽたりとちる。

与吉は慌てて菓子を拾っては、声を立てて笑うのである。

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與吉よきちあわてゝ菓子くわしひろつてはこゑてゝわらふのである。

菓子は、いつまでもへらないようにさとうで固めた黒い鉄砲玉がよく与えられた。

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菓子くわし何時いつまでもらないやうに砂糖さたうかためたくろ鐵砲玉てつぱうだまあたへられた。

頭から落ちてころころと鉄砲玉が遠くへころがって行くのを、たおれながら追いかけて行く与吉を見て、卯平のむっつりとした顔がゆるむのである。

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あたまからちてころ/\と鐵砲玉てつぱうだまとほころがつてくのを、たふれながらけて與吉よきち卯平うへいのむつゝりとしたかほけるのである。

与吉はつまずいてたおれても、そのときはけっして泣かない。

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與吉よきちつまづいてたふれてもそのときけつしてくことがない。

鉄砲玉は、麦藁のかごへも入れられた。

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鐵砲玉てつぱうだま麥藁むぎわらかごへもれられた。

与吉はそれを大事そうに持ってはときどきのぞきながら、おつぎがごはんのしたくをするあいだ、おとなしくすわっているのだった。

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與吉よきちはそれを大事相だいじさうつては時ゝ《とき/″\》のぞきながら、おつぎが炊事すゐじあひだ大人おとなしくしてすわつてるのであつた。

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春は空から、そして土から、そっと動きはじめる。

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はるそらからさうしてつちからかすかうごく。

毎日のように西からほこりをまき上げて来る強い風が、どうかするとぱたりと止んで、空のはしにはふわふわとしたわたのような白い雲が、ほっかり暖かい日ざしをあびようとしてちょっとうかび上がったというように、動きもしないでじっとしていることがある。

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毎日まいにちのやうに西にしからほこりいて疾風しつぷうがどうかするとはたととまつて、空際くうさいにはふわ/\とした綿わたのやうなしろくもがほつかりとあたゝかい日光につくわうびようとしてわづかのぼつたといふやうに、うごきもしないで凝然ぢつとしてることがある。

水の近くのしめった土が暖かい日ざしを思うぞんぶん吸って、その元気になった土のかすかなしげきを根に感じさせるので、田んぼのはんの木のじみなつぼみは、気づかないうちに少しずつのびて、ひらひらと動きやすくなる。

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みづちかしめつたつちあたゝかい日光につくわうおもふ一ぱいうてそのいきほひづいたつちかすかな刺戟しげきかんぜしめるので、田圃たんぼはん地味ぢみつぼみたぬすこしづゝびてひら/\とうごやすくなる。

そのしげきから、かえるはまだ冬みんしているのに、たまにはあっちでもこっちでもくくくくと鳴き出すことがある。

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刺戟しげきからかへるはまだ蟄居ちつきよ状態じやうたいりながら、まれにはそつちでもこつちでもくゝ/\とすことがある。

空からさす日の光はそろそろ熱を増して、土はそれをいくらでも吸って止まない。

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そらからひかりはそろ/\と熱度ねつどして、つちはそれをいくらでもうてまぬ。

土はすべてをだんだんとしげきして、ほりのあたりにはあしやしばやそのほかの草が、空と映り合ってすっと首をもたげる。

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つちすべてを段々だん/\刺戟しげきしてほりほとりにはあしやとだしばやくさそらあひえいじてすつきりとくびもたげる。

やわらかさに満ちた空気をさらに重くするように、はんの木の花はひらひらと止まず動きながら、すすのような花粉をまき散らしている。

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やはらかさに滿たされた空氣くうきさらにぶくするやうに、はんはなはひら/\とまずうごきながらすゝのやうな花粉くわふんらしてる。

かえるは死んだような冬みんからさめて、やわらかな草の上に手をついては、おどろいたようすで空を見上げてみる。

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かへる假死かし状態じやうたいからはなれてやはらかなくさうへいては、おどろいたやうな容子ようすをしてそらあふいでる。

そして彼らは、慌てたように声を上げて、その長いねむりから生き返ったことを空に向かって知らせる。

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さうして彼等かれらあわてたやうにこゑはなつてそのなが睡眠すゐみんから復活ふくくわつしたことをそらむかつてげる。

それで遠くで聞くときは、彼らのさわがしい声はただ空にひびいて気持ちよさそうである。

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それでとほとき彼等かれらさわがしいこゑたゞそらにのみひゞいてこゝろよげである。

彼らはさらに、春が来たことをすべての生き物に向かってせき立てる。

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彼等かれらさらはるいたつたことを一さい生物せいぶつむかつてうながす。

草や木が気づいて、その力をぞんぶんに出すのを見ないうちは、鳴くのを止めまいとつとめる。

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くさこゝろづいて活力くわつりよく存分ぞんぶん發揮はつきするのをないうちはくことをめまいとつとめる。

田んぼのはんの木は、とっくに花を捨てて、自分が先に若葉のすがたになってみせる。

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田圃たんぼはんとうはなてゝ自分じぶんさき嫩葉わかば姿すがたつてせる。

黄色みをふくんだ若葉が、さわやかで、そして明るい朝日をあびて気持ちよく光りながら、青い空の下で、まだためらっているまわりの林を見る。

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黄色味きいろみふくんだ嫩葉わかばさわやかでほがらかな朝日あさひびてこゝろよひかりたもちながらあをそらしたに、まだ猶豫たゆたうて周圍しうゐはやしる。

みさきのような形にのびている水田をかかえて、まわりの林はやっと、それぞれの本来のすがたのままに、白っぽいのや赤っぽいのや、黄色っぽいのや、さまざまにしげって、それが気がついたときには急いで一つの深い緑になるのである。

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みさきのやうなかたちうて水田すゐでんかゝへて周圍しうゐはやしやうや本性ほんしやうのまに/\勝手かつてしろつぽいのやあかつぽいのや、黄色きいろつぽいのや種々いろ/\しげつて、それがいたときいそいでひとつのふかみどりるのである。

雑木林のあちこちに散らばっている開こん地の麦もすっと首を出して、そら豆の花もかわいらしい黒いひとみを集めて、はずかしそうに葉のあいだからこっそりと四方をのぞく。

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雜木林ざふきばやし其處そこ此處こゝらに散在さんざいして開墾地かいこんちむぎもすつとくびして、蠶豆そらまめはな可憐かれんくろひとみあつめてはづかしさうあいだからこつそりと四はうのぞく。

雑木林のあいだには、またすすきのかたい葉が空をさそうとして立つ。

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雜木林ざふきばやしあひだにはまたすゝき硬直かうちよくそらさうとしてつ。

その麦やすすきの下にすみかを求めるひばりが、ときどき空をしめて、春がふけたと呼びかける。

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そのむぎすゝきしたきよもとめる雲雀ひばり時々とき/″\そらめてはるけたとびかける。

すると、自分たちの声だけが空を支配しているはずだと思っているかえるは、そのさえずる声をおし消そうとして、たがいの体を飛びこえ飛びこえ鳴き立てるので、力の弱いひばりはすっと下りて、麦やすすきの根にかくれてしまう。

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さうするとその同族どうぞくこゑのみが空間くうかん支配しはいして居可ゐべはずだとおもつてかへるは、そのさへづこゑあつらうとしてたがひ身體からだえ飛び越えてるので小勢こぜい雲雀ひばりはすつとおりてむぎすゝきひそんでしまふ。

そして、かえるの鳴かない昼のあいだにだけ、これを見上げればまぶしくて目も開けられないほど、その身をはるかにきらめく日の光の中にしずめて、その小さなのどがちぎれるまではげしく鳴らそうとするのである。

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さうしてはかへるかぬ日中につちうにのみ、これあふげばまばゆさにへぬやうにはるかきらめくひかりなかぼつしてそのちひさなのど拗切ちぎれるまでははげしくらさうとするのである。

かえるはいよいよますます鳴きほこって、かしの木のような大きな常緑樹の古い葉までも、一度にからりと落とさせなければ止まないとする。

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かへるいよ/\ます/\ほこつてかしのやうなおほきな常緑木ときはぎ古葉ふるはをも一にからりとおとさせねばまないとする。

このとき、すべての木や、それから冬のあいだはぐったりと地面についていたすべての雑草が、つま立ちして、ただ空へ空へと暖かな光を求めて止まない。

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ときすべての樹木じゆもくやそれから冬季とうきあひだにはぐつたりといてすべての雜草ざつさう爪立つまだてしてたゞそらへ/\とあたゝかなひかりもとめてまぬ。

土がそれをじっと引き止めて放さない。

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つちがそれを凝然ぢつきとめてはなさない。

それで草も木もみな土にまっすぐ立っている。冬のあいだは土と平行に寝ころんでいるのが好きだった人も、鉄の針が磁石に吸われるように土にまっすぐ立って、それぞれ手に農具を取る。

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それで一さい草木さうもくつち直角ちよくかくたもつてる、冬季とうきあひだつち平行へいかうすることをこのんでひとてつはり磁石じしやくはれるごとつち直立ちよくりつして各自てんで農具のうぐる。

紺の股引を藁でくくって、みな田をたがやしはじめる。

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こん股引ももひきわらくゝつてみなたがやはじめる。

水がほしいと人が思うとき、かえるはいっせいに、さけるかと思うほどのどのふくろをふくらませて、体をふるわせながら、ことさらに鳴き立てる。

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みづしいとひとおもときかへるは一せいけるかとおもほどのどふくろ膨脹ばうちやうさせてゆるがしながら殊更ことさらてる。

白いきぬ糸のような雨は、水が田に満ちるまでふって、またふる。

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しろ絓絲すがいとのやうなあめみづ滿つるまではそゝいでまたそゝぐ。

鳴くべきときに鳴くためだけに生まれて来たかえるは、かり株をひっくり返しひっくり返し働いている人々のまわりから足元から近づいて、早くその手を動かせ動かせとせき立てて止まない。

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くべきときためにのみうまれてかへる苅株かりかぶかへし/\はたらいて人々ひと/″\周圍しうゐから足下あしもとからせまつて敏捷びんせううごかせ/\とうながしてまぬ。

かえるがぴたりと声をのむときには、昼の暖かさに人もぐったりとなって、田んぼのみじかい草にごろりと横になる。

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かへるがぴつたりとこゑときには日中につちうあたゝかさにひともぐつたりとつて田圃たんぼみじかくさにごろりとよこる。

さらにかえるは、しんと静かな夜になると、自分の声がどれほど遠くまでひびくかをほこるように、力いっぱい鳴く。

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さらかへるはひつそりとしづかなよるになると如何いか自分じぶんこゑとほかつはるかひゞくかをほこるものゝごとちからきはめてく。

雨戸を閉めるとき、かえるの声はぐっと遠くなって、それがぐったりつかれた耳をくすぐって、百姓のみんなを安らかなねむりへとさそうのである。

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雨戸あまどづるときかへるこゑ滅切めつきりとほへだつてそれがぐつたりとつかれたみゝくすぐつて百姓ひやくしやうすべてをやすらかなねむりにいざなふのである。

ぐっすりねむることで、百姓はみな短い時間で体のつかれを回復する。

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熟睡じゆくすゐすることによつて百姓ひやくしやうみなみじか時間じかん肉體にくたい消耗せうまう恢復くわいふくする。

彼らが雨戸のすきまからさす夜明けの白い光におどろいてふとんをけって外に出ると、今さらのように耳にせまるかえるの声に目をさまされて、井戸ばたの冷たい水ですっかり朝の元気を取りもどすのである。

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彼等かれら雨戸あまど隙間すきまから夜明よあけしろひかりおどろいて蒲團ふとんつてそとると、今更いまさらのやうにみゝせまかへるこゑ覺醒かくせいうながされて、井戸端ゐどばたつめたいみづまつたあさ元氣げんきかへすのである。

草や木は、遠くまでひびけと鳴くその声にゆられながら、夜のあいだにのびる。

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草木くさきとほはるかひゞけとこゑゆすられつゝよるあひだ生長せいちやうする。

くぬぎやならやそのほかの雑木は、かえるが鳴けば鳴くほど、そしてそれが鳴き止む季節までは、いくらでもしげりつづけようとする。

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くぬぎならその雜木ざふきかへるけばほどさうしてそれが季節きせつまではいくらでも繁茂はんもすることを繼續けいぞくしようとする。

そこには毛虫やそのほかの情けない害があるにしても、しとしとと何度もえだを打つ雨がふって、空の青さをうつしたかと思うほど力強い深い緑が地面をおおって、さわやかなすずしいかげを作るのである。

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其處そこには毛蟲けむし淺猿あさましい損害そんがいあるひるにしても、しと/\としば/\こずゑあめそらあをさをうつしたかとおもふやうに力強ちからづよふかいみどり地上ちじやうおほうてさわやかなすゞしいかげつくるのである。

鬼怒川の西岸の一部の土地にも、こうして春は来て、そして過ぎて行った。

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鬼怒川きぬがは西岸せいがんにもうしてはるきたかつ推移すゐいした。

心配ごとのある者もない者も、同じように農具を取って、それぞれの持ち場についた。

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うれひあるものもいものもひとしく耒耟らいしつておの/\ところいた。

勘次もその一人である。

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勘次かんじ一人ひとりである。

勘次は春のあいだに、お品の四十九日もすませた。

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勘次かんじはるあひだにおしなの四十九にちすごした。

白木の位はいに気持ちばかりのおそなえをしただけで、一銭でも彼はむだづかいをおそれた。

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白木しらき位牌ゐはいこゝろばかりの手向たむけをしただけで一せんでもかれ冗費じようひおそれた。

彼がふたたび利根川の工事へ行ったときには、冬がようやくけわしい空を頭の上に見せていた。

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かれふたゝ利根川とねがは工事こうじつたときふゆやうや險惡けんあくそら彼等かれら頭上づじやうあらはした。

みぞれや雪や雨が、ときには彼らの仕事をひどくじゃまして、彼らを一日、その寒い部屋に閉じこめた。

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みぞれゆきあめときとして彼等かれら勞働らうどうおそるべき障害しやうがいあたへて彼等かれらを一にちそのさむ部屋へやめた。

一日の賃金は、うんとせつやくしても、次の日に仕事に出なければ一銭も自分の手には残らなくなる。

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にち工賃こうちん非常ひじやう節約せつやくをしてもつぎ仕事しごとなければ一せん自分じぶんにはのこらなくなる。

それは、食べ物とたきぎを高いねだんで買わなければならないからである。

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それは食料しよくれうまきとの不廉ふれん供給きようきふあふがねばならぬからである。

勘次は、お品が病気になってから葬式までに、彼にしては大きすぎるお金がかかった。

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勘次かんじはおしな發病はつびやうから葬式さうしきまでにはかれにしては過大くわだい費用ひようえうした。

それでも葬式の道具やそのほかの費用は、二銭ずつでも村じゅうが持って来た香典と、お品のふとんの下に入れてあったたくわえとで、どうにかできた。

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それでも葬具さうぐ雜費ざつぴには二せんづつでもむらすべてがつて香奠かうでんと、おしな蒲團ふとんしたいれてあつたたくはへとでどうにかすることが出來できた。

それでも医者へのお礼やそのほかで、彼自身のふところはげっそりとへってしまった。

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それでも醫者いしやへの謝儀しやぎ彼自身かれじしん懷中ふところはげつそりとつてしまつた。

そして小作米を売った苦しいふところから、それでも彼は自分がいないあいだの費用に五十銭をあずけて行った。

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さうして小作米こさくまいつたくるしいふところからそれでもかれ自分じぶんないあひだ手當てあてに五十せんたくしてつた。

それも卯平へ直接ではなくて、南の家にたのんで卯平へわたしてもらった。

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それも卯平うへい直接ちよくせつではなくてみなみたのんで卯平うへいわたしてもらつた。

勘次が行ってから、そのお金を出されたとき、卯平は

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勘次かんじつてからぜにされたとき卯平うへい

「そんなにうたがうなら、わしはあずかりますまい」

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「さううたぐるならわしはあづかりますめえ」

と言ってことわった。

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といつて拒絶きよぜつした。

「まあ、そんなこと言わないで、せっかくのことに。勘次さんも悪い気持ちでしたんでもないだろうから」

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「まあ其麽そんなことゆはねえで折角せつかくのことに、勘次かんじさんもわる料簡れうけんでしたんでもなかんべえから」

となだめても、とうとう卯平は聞かなかった。

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なだめても到頭たうとう卯平うへいかなかつた。

勘次はどうにかかせいで帰りたいと思っていっしょうけんめいになったが、それはやっと命をつなげただけだった。

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勘次かんじはどうにかかせしてかへりたいとおもつて一生懸命しやうけんめいになつたがそれはわづか生命せいめいつなたにすぎないのであつた。

近所の村から行った者の中には、しのぎきれないで夜にげした者もあった。

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近所きんじよ村落むらからつたものはしのれないで夜遁よにげしてしまつたものもあつた。

それでも勘次は、わずかに持って出たさいふのお金をへらさなかったというだけのことでふみとどまった。

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それでも勘次かんじわづかつて財布さいふぜにらさなかつたといふだけのことにつなめた。

「おとっつあん、いてくれたなあ」

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「おとつゝあれたなあ」

と、こびるように言って自分の家のしきいをまたいだときには、足の感覚がないほど彼はくたびれていて、夜は暗くなっていた。

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びるやうにいつて自分じぶんうちしきゐまたいだときあし知覺ちかくのないほどかれ草臥くたびれてよるくらくなつてた。

さすがに二人の子はよろこんで、与吉は勘次の手にすがった。

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有繋さすが二人ふたりよろこんで與吉よきち勘次かんじすがつた。

卯平がしたように、鉄砲玉が勘次の手から出ると思ったらしかった。

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卯平うへいがしたやうに鐵砲玉てつぽうだま勘次かんじからることゝおもつたらしかつた。

勘次は苦しいふところから、何も買っては来なかった。

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勘次かんじくるしいふところからなにつてはなかつた。

彼はどうしても、むじゃきな子のために小さな菓子の一ふくろも持って来なかったことを、心の中で後かいした。

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かれ什麽どんなにしても無邪氣むじやきためちひさな菓子くわし一袋ひとふくろつてなかつたことをこゝろいた。

「まんま」

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「まんま」

と言って、小さな与吉は勘次にねだった。

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というてちひさな與吉よきち勘次かんじもとめた。

「そんじゃ、爺さんのさとうでもなめろ」

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「そんぢやぢい砂糖さたうでもめろ」

と、おつぎは与吉をだいてたなのふくろを取った。

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とおつぎは與吉よきちだい籰棚わくだなふくろをとつた。

口数の少ない卯平は、ちょっと見ただけで、帰ったかとも言わない。

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寡言むくち卯平うへい一寸ちよつと見向みむいたきりでかへつたかともいはない。

勘次がくたびれたようすをしているのがわざとらしく見えるので、卯平はにがい顔をして、火の消えたきせるをぎっとかみしめては、思い出したように、きせるの先を火ばちへたたきつけた。

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勘次かんじ草臥くたびれた容子ようすをしてるのがわざとらしいやうにえるので卯平うへいにがかほをして、えた煙管きせるをぎつとみしめてはおもしたやうに雁首がんくび火鉢ひばちたゝけた。

吸いがらがくっついているので、彼は力いっぱいたたきつけた。

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吸穀すひがらがひつゝいてるのでかれちからぱいたゝきつけた。

勘次には、それが自分への当てつけのように心にひびいた。

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勘次かんじにはそれがてつけにでもされるやうにこゝろひゞいた。

「おつぎ、みんなにでもなめさせろ。そしてお前もなめっちまえ。おとっつあんがかせいで来たから、お前らもこれからよかろう」

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「おつぎみんなでもめさせろ、さうしてわれめつちめえ、おとつゝあかせえでたから汝等わつられからよかんべえ」

卯平は言った。

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卯平うへいはいつた。

勘次はやっと帰ったばかりなのにこういうことで、自分の家でもひどく落ち着かない、いたたまれない気持ちがするので、彼は足も洗わずに、近所へあいさつに行くからと言って出て行った。

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勘次かんじやうやかへつた箭先やさきにかういふことで自分じぶんうちでもひど落付おちつかない、こそつぱくてらない心持こゝろもちがするのでかれあしあらはずに近所きんじよ義理ぎりすからといつてつた。

「明日だっていいのに」

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明日あしただつてえゝのに」

卯平はあとでつぶやいた。

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卯平うへいあとつぶやいた。

彼はぶすりぶすりと口はきくのだったが、それでもさっきのようにひねくれたことは、これまで言ったことはなかった。

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かれはぶすり/\とくちくのであつたがそれでも先刻さつきからのやうにひねくれまがつたことはれまではいつたことはなかつた。

彼は死んだお品のことを思って、二人の子があわれになって、勘次のいないあいだ面倒を見る気になった。

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かれんだおしなのことをおもつて二人ふたりあはれになつて勘次かんじないあひだ面倒めんだうつた。

彼はわずかな菓子のふくろで小さな与吉になつかれてみると、さすがに憎い気持ちも起こらなかった。

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かれわづか菓子くわしふくろからちひさな與吉よきちしたはれてると有繋さすがにく心持こゝろもちおこらなかつた。

そのあいだ、彼は何も物足りないとは思っていなかった。

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あひだかれなんにも不足ふそくおもつてはなかつた。

それが勘次が帰ってみると、生まれつき好きでない勘次のほうへ、たちまち二人の子はなびいてしまった。

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それを勘次かんじかへつてると性來しやうらいきでない勘次かんじたちまちに二人ふたりなびいてしまつた。

彼はこれまでの心づかいを勘次に取られたようで、ふっといやな気持ちを起こしたのである。

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かれこれまでの心竭こゝろづくしを勘次かんじうばはれたやうで、ふつと不快ふくわいかんじをおこしたのである。

それも、どんな形にでも勘次があいさつをすればまだよかったが、勘次は妙に気おくれして、それが喉まで出てもおさえつけられたようで、声に出すことができなかったのである。

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それもどんな姿なりにも勘次かんじ義理ぎりのべればそれでもまだよかつたが、勘次かんじめうひけてそれがのどまでてもおさへつけられたやうでこゑはつすることが出來できなかつたのである。

ふところのさびしい勘次が、そうして気おくれするのが、卯平にはかえってよそよそしくされるように感じられた。

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ふところのさむしい勘次かんじはさうしてがひけるのを卯平うへいにはかへつ餘所よそ/\しくされるやうなかんじをあたへた。

勘次は卯平にも子どもにも済まないような気がしたので、近所へあいさつに行くと言って出て、菓子を一ふくろふところに入れて来た。

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勘次かんじ卯平うへいにも子供こどもにもすまぬやうながしたので近所きんじよ義理ぎりすというて菓子くわし一袋ひとふくろふところれてた。

そのとき、与吉はもうねむっていた。

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とき與吉よきちはもうねむつてた。

卯平は、変なことをすると思って見ていた。

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卯平うへいへんなことをするとおもつてた。

そしてまたさらに、自分がひどくのけ者にされているように思った。

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さうしてまたさら自分じぶんひどへだてられるやうにおもつた。

彼は五十銭のお金のことを思い出して、いまいましくなった。

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かれは五十せんぜにのことをおもして忌々敷いま/\しくなつた。

「勘次ら、ふところはいいだろう」

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勘次等かんじらふところはよかつぺ」

卯平はぶつりと聞いた。

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卯平うへいはぶつゝりといた。

「おとっつあん、おれはいい所なもんじゃない。やっとのことで逃げるようにして来たんだ。あんな所へなんざ、けっして行くもんじゃない。とてもだめなことだ。おれもこりちまったよ」

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「おとつゝあ、らえゝところなもんぢやねえ、やつとのことでげるやうにしてたんだ、あんなところへなんざあけつしてくもんぢやねえ、とつても駄目だめなこつた、おらりつちやつたよ」

勘次は慌てて言った。

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勘次かんじあわてゝいつた。

彼は会う人ごとに必ず、よかろうよかろうと言われるのを、とてもおそれていた。

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かれひとごとかならずよからう/\といはれるのを非常ひじやうおそれてた。

「うん、そうかなあ」

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「うむ、さうかなあ」

卯平は気のないように言った。

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卯平うへいのないやうにいつた。

「どうせおれはよけい者だ。いなくたっていいや。いくらもうけたって、かまいやしない」

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「どうで餘計者よけいものだ、やしねえからえゝや、いくもつてたつてかまやしねえ」

彼はさらに独り言を言った。

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かれさら獨語つぶやいた。

勘次は青くなった。

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勘次かんじあをくなつた。

卯平は、勘次がきっとお金をかくしているのだと思ったのである。

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卯平うへい勘次かんじ屹度きつとぜにかくしてるのだとおもつたのである。

彼はそんなこんながいやでたまらないので、次の日、野田へ発ってしまった。

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かれはそんなこんなが不快ふくわいへないのでつぎ野田のだつてしまつた。

野田で卯平の役目といえば、夜になって大きな蔵のあいだを拍子木をたたいて歩くだけで、老人の体にもそれは特につらいことではなかった。

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野田のだ卯平うへい役目やくめといへばよるになつておほきな藏々くら/″\あひだ拍子木ひやうしぎたゝいてあるだけ老人としよりからだにもそれは格別かくべつ辛抱しんぼうではなかつた。

昼は昼寝がゆるされているので、その時間をつかって、器用な彼には内職のこづかいかせぎも少しはできた。

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ひる午睡ひるねゆるされてあるので時間じかんいて器用きようかれには内職ないしよく小遣取こづかひどりすこしは出來できた。

好きなたばこやコップ酒に不自由することはなかった。

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きな煙草たばことコツプざけかつすることはなかつた。

暑いときにはさっぱりしたゆかたを引っかけていることもできた。

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あつときにはさつぱりした浴衣ゆかたけてることも出來できた。

そこは彼には住みにくい所でもなかった。

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其處そこかれにはづらところでもなかつた。

ただ、こごえるほど寒い冬の夜などには、前からの持病である疝気で、どうかすると腰がきりきりと痛むこともあったが、そのときだけは、勘次と仲が悪くなければお品のそばで「おとっつあん」と呼ばれていたい気持ちもするのだった。

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たゞてのひどふゆなどには以前いぜんからの持病ぢびやうである疝氣せんきでどうかするとこしがきや/\といたむこともあつたが、ときだけ勘次かんじとまづくなければおしなそばでおとつゝあといはれてたい心持こゝろもちもするのであつた。

生まれつき自分の子を持ったことのない彼は、お品一人がたよりだった。

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生來せいらいつたことのないかれはおしな一人ひとり手頼てたのみであつた。

お品に死なれて、彼はまったく一人ぼっちになった。

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しななれてかれまつた孤立こりつした。

そして年を取ってからは、どうしても勘次の手にたよらなければならないことになってしまったのである。

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さうして老後らうご到底たうてい勘次かんじたくさねばならぬことにつてしまつたのである。

それでも見苦しくてみすぼらしい勘次は、あいかわらず彼には気に入らなかった。

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それでも不見目みじめ貧相ひんさう勘次かんじ依然いぜんとしてかれにはむしかなかつた。

彼は野田へ行けばわりと不自由のない暮らしができるので、お前らの世話にならなくてもおれはまだやって行かれると、こうして悲しみにつつまれた心の一方には、老人のひがみとぐちとが起こったのだった。

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かれ野田のだけば比較的ひかくてき不自由ふじいうのない生活せいくわつがしてかれるので汝等わつら厄介やくかいにはらねえでもおれはまだたつかれると、うして哀愁あいしうおほはれたこゝろの一ぱうには老人としよりひがみと愚癡ぐちとがおこつたのであつた。

卯平は心の中でなみだをのんだ。

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卯平うへいこゝろなみだんだ。

勘次はしょんぼりしていた。

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勘次かんじ悄然せうぜんとしてた。

与吉が泣くたびに、彼は困った。

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與吉よきちたびかれこまつた。

そして毎日お品のことを思い出しては、てんびん棒で手おけをかついだすがたが庭にも戸口にも、ときには座敷にも見えることがあった。

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さうして毎日まいにちしなのことをおもしては、天秤てんびん手桶てをけかついだ姿すがたにはにも戸口とぐちにもときとしては座敷ざしきにもえることがあつた。

そばにいるような気がして、思わずふり返ることもあるのだった。

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そばるやうながしておもはずかへりみることもあるのであつた。

彼はお品を思い出すと与吉をだいては、「なあ、おっかあはいないんだぞ。おっかあのお乳はほしがってもだめなんだぞ」

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かれはおしなおもすと與吉よきちいては「なあ、おつかあはねえんだぞ、おつかあが乳房ちつこしがんねえんだぞ」

と、いつも言って聞かせた。

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始終しじういつてかせた。

お品がいないとわざわざ言うのは、一つには彼自身が諦めるためでもあったのである。

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しなないと殊更ことさらにいふのはそれは一つには彼自身かれじしん斷念あきらめためでもあつたのである。

お品はとうふをかついでいるときは、よくビールの空きびんを手おけにくくって行った。

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しな豆腐とうふかついでとき麥酒ビール明罎あきびん手桶てをけくゝつてつた。

それで帰りの手おけが軽くなったときには、勘次の好きなお酒がこぼこぼとびんの中で鳴っていた。

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それでかへりの手桶てをけかるくなつたとき勘次かんじきなさけがこぼ/\とびんなかつてた。

お品は酒屋へとうふを置いては、その代金の分だけお酒を入れてもらうので、とうふのもうけの分だけ安くお酒を買って、勘次をよろこばせるのだった。

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しな酒店さかだな豆腐とうふいてはそのぜにだけさけれてもらふので豆腐とうふまうけだけやすさけつて勘次かんじよろこばせるのであつた。

それはお品が死んだ年だけのことである。

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それはおしなとしのことだけである。

お品が、やっと商売をおぼえたと言っていたのは、まだその夏のころからである。

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しなやうやあきなひおぼえたといつてたのはまだなつころからである。

初めはきまりが悪くて、他人の家のしきいをまたぐのをためらっていた。

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はじめはきまりがわるくて他人たにんしきゐまたぐのを逡巡もぢ/\してた。

それくらいだから変に赤い顔もして、よけいに無愛想にも見えたのだが、あとにはそれなりに季節のあいさつも言えるようになったと、お品はよく勘次に話したのである。

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くらゐだからへんあかかほもして餘計よけい不愛想ぶあいさうにもえるのであつたが、のちには相應さうおう時候じこう挨拶あいさつもいへるやうにつたとおしな勘次かんじかたつたのである。

勘次は思い出にたえられなくなっては、お品の墓で泣いた。

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勘次かんじ追憶つゐおくへなくなつてはおしな墓塋はかいた。

彼は、紙が雨にとけてだらりとくずれた白いちょうちんを、うらめしそうに見るのだった。

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かれかみあめけてだらりとこけた白張提灯しらはりちやうちんうらめしさうるのであつた。

勘次はうなだれた首を上げて、三人が食べていくために日やといに出た。

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勘次かんじしをれたくびもたげて三にんくちのりするために日傭ひようた。

彼はよく、となりの主人に使ってもらった。

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かれとなり主人しゆじん使つかつてもらつた。

米は決まって彼がつかされた。

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こめ屹度きつとかれかせられた。

じょうずな彼は、へらさないで、しかも白くついた。

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上手じやうずかれらさないでさうしてしろいた。

彼はときには、主人がうっかりしているあいだに蔵からよけいな米をはかり出して、そっとかくしておいて、夜に自分の家へ持って来ることがあった。

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かれときとしては主人しゆじんのうつかりしてくらから餘計よけいこめはかして、そつとかくしていてよる自分じぶんいへつてることがあつた。

それもわずか二しょうか三しょうにすぎない。

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それもわづか二しようか三じようぎない。

それくらいでは、主人に気づかれることはなかった。

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くらゐでは主人しゆじん注意ちういくにはらなかつた。

そして、その米が苦しい彼の台所をしばらくうるおすのである。

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さうしてこめ窮迫きうはくしたかれくりや少時しばしうるほすのである。

あるとき、彼はまた主人の米をそっとぬすんで、股引に入れて目につかないようにたきぎを積んだあいだへおしこんでおいた。

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ときれは主人しゆじんこめをそつとかすめて股引もゝひきれてにつかぬやうにたきゞんだあひだんでいた。

やとわれ人がそれを見つけて、こっそり主人のおかみさんに知らせた。

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傭人やとひにんがそれを發見はつけんしてひそか主人しゆじん内儀かみさんにげた。

おかみさんは、わずかなことだからほうっておいてやれと言ったが、しかしやとわれ人は、一つにはいたずらから米をあけて、そのかわりにいっぱい土を入れておいた。

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内儀かみさんはわづかなことだからてゝいてれといつたがしか傭人やとひにんは一つには惡戯いたづらからこめけてかはりに一ぱいつちれていた。

勘次はばれたことをおそれ、はずかしくなって、次の日には来なかった。

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勘次かんじ發覺はつかくしたことをおそぢてつぎにはなかつた。

それから何日かのあいだは、主人の家にすがたを見せなかった。

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それから數日間すうじつかん主人しゆじんうち姿すがたせなかつた。

おかみさんはやとわれ人のいたずらを聞いて、むしろあわれになって、こちらからまた仕事を言いつけてやった。

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内儀かみさんは傭人やとひにん惡戯いたづらいてむしあはれになつてまたこちらから仕事しごと吩咐いひつけてやつた。

さらにふくろへ米とひきわり麦をまぜたのを入れて、それから、これはやとわれ人にもたいてやれないのだから、お前がよければ持って行って、秋にでもなったらもち粟を少しでも返せと、二、三斗入ったうるち粟の俵といっしょにやった。

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さらふくろこめ挽割麥ひきわりむぎとをぜたのをれて、それかられは傭人やとひにんにもいてやれないのだからおまへがよければつてつてあきにでもなつたら糯粟もちあはすこしもかへせと二三はひつた粳粟うるちあはたわらとを一つにつた。

勘次は主人のためにいっしょうけんめい働いた。

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勘次かんじ主人しゆじんために一所懸命しよけんめいはたらいた。

その前からも、彼はただとなりの主人に見捨てられないようにと、心の中で思っているのだった。

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以前いぜんからもかれたゞとなり主人しゆじんから見棄みすてられないやうとこゝろにはおもつてるのであつた。

しかし、あまりにはげしく働くことは、やとわれ人の仲間にはきらわれた。

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しか非常ひじやう勞働らうどう傭人やとひにん仲間なかまにはまれた。

それは、やとわれ人も彼にならって、自分もその力をおしめなくなるからである。

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それは傭人やとひにんかれならつて自分じぶん勞力らうりよくぬすむことが出來できないからである。

そうするうちに、世の中はまた春がめぐって、雨がいそがしく田畑へ水を送った。

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さうするうち世間せけんまたはるうつつてあめいそがしく田畑たはたみづ供給きようきふした。

勘次は自分の家の後ろの田へ出て、かり株をひっくり返してはたがやした。

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勘次かんじ自分じぶんうしろ刈株かりかぶかへしてはたがやした。

おつぎも万能ぐわを持って、勘次の後についた。

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おつぎも萬能まんのうつて勘次かんじあといた。

勘次は、お品の手がへった分はおつぎを使って、どうにかこれまで作ってきた土地はやりくりしようと思った。

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勘次かんじはおしなつただけはおつぎを使つかつてどうにか從來これまでつくつた土地とち始末しまつをつけようとおもつた。

ことに田はすぐ後ろなので、どうしても手放すまいとした。

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ことすぐうしろなので什麽どんなにしても手放てばなすまいとした。

いったん地主へ返してしまったら、また自分がほしくなってもかんたんには手に入らないのをおそれたからである。

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たん地主ぢぬしかへしてしまつたらふたゝ自分じぶんしくなつても容易よういれることが出來できないのをおそれたからである。

今におつぎを一人前に仕込んでみせると、勘次は心の中で思っている。

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いまにおつぎを一人前にんまへ仕込しこんでると勘次かんじこゝろおもつてる。

勘次は万能ぐわをぶつりと打ちこんでは、ぐっと大きな土のかたまりを起こす。

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勘次かんじ萬能まんのうをぶつりとんではぐつとおほきなつちかたまり引返ひきかへす。

おつぎはやっと小さなかたまりを起こす。

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おつぎはやうやちひさなかたまりおこす。

勘次の手は速く動いて、ずんずんと先へ進む。

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勘次かんじすみやかに運動うんどうしてずん/\とさきすゝむ。

おつぎはだんだんおくれて、小さなかたまりを浅く起こしながら進んで行く。

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おつぎは段々だん/\おくれてちひさなかたまりあさおこしてすゝんでく。

すると

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さうすると

「そんなにこわがってびくびくやるんじゃない。こうするんだ」

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「そんなに可怖おつかなびつくりやんぢやねえかうすんだ」

勘次はもどかしそうに、おつぎの万能ぐわを取って打ちこんで見せる。

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勘次かんじ遲緩もどかさうにおつぎの萬能まんのうをとつてんでせる。

「そんでも、おとっつあん、おれにはそういうふうにはできないんだもの」

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「そんでもおとつゝあ、おらがにやさういにや出來できねえんだもの」

「そんな気持ちだからお前らはだめだ。本気でやってみるつもりでやってみろ」

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「そんな料簡れうけんだから汝等わツら駄目だめだ、本當ほんたうにやつてつもりでやつてろ」

おつぎは勘次におくれながら、手の力のかぎり働いた。

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おつぎは勘次かんじおくれつゝちからおよかぎはたらいた。

与吉は田んぼのほりのあたりにむしろをしいて、そこに置いてある。

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與吉よきち田圃たんぼほりほとりむしろいて其處そこいてある。

「じっとしていろ、動くんじゃないぞ。動くとぽかんとほりの中へ落っこちるからな。そうら、かえるがぽかんと落っこちた。動くなあ、ここに棒があった。そうら、これでも持ってろ。泣くんじゃないぞ。姉ちゃんはこの田の中にいるんだからな。泣くとおとっつあんにあっぷって怒られるからな」

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「えんとしてろ、いごくんぢやねえぞいごくとぽかあんとほりなかおつこちつかんな、そうらけえるぽかあんとおつこつた。いごくなあ、此處こゝぼうあつた、そうらこれでもつてろ、くんぢやねえぞ、ねえなかんだかんな、くとおとつゝあにあつぷつておこられつかんな」

おつぎはほおをすりつけて、よく言い聞かせた。

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おつぎはほゝりつけてくいひふくめた。

与吉は土だらけのみじかい棒で、岸の土をたたいている。

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與吉よきちつちだらけのみぢかぼうきしつちたゝいてる。

そしてときどき後ろを向いては姉のすがたを見て、安心して棒でぴたぴたとたたいている。

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さうして時々とき/″\あといてはあね姿すがた安心あんしんしてぼうでぴた/\とたゝいてる。

棒の先が水を打つので、与吉はよろこんだ。

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ぼうさきみづつので與吉よきちよろこんだ。

それもしばらくのうちにあきた。

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それも少時しばしあひだいた。

おつぎは、与吉がまた見たときには、田の向こうのはしに行っていた。

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おつぎは與吉よきちがまたときにはむかふはしつてた。

「姉ちゃんよう」

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ねえよう」

と与吉は呼んだ。

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與吉よきちんだ。

おつぎは返事しなかった。

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おつぎは返辭へんじしなかつた。

与吉はまた呼んだ。

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與吉よきちまたんだ。

そして泣き出した。

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さうしてした。

おつぎが立って行こうとすると

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おつぎはつてかうとすると

「かまわないで置け。たがやしてあっちへ行ってからにしろ」

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かまあねえでけ、うなつてあつちへつてからにしろ」

勘次はせっかちにきびしく、おつぎを止めた。

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勘次かんじ性急せいきふきびしくおつぎをめた。

おつぎは仕方なく、泣くのもかまわずにたがやした。

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おつぎは仕方しかたなくくのもかまはずにたがやした。

勘次は先へ先へとたがやして、ほりのそばまで来た。

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勘次かんじさきへ/\とたがやしてほりそばまでた。

「泣くな。今、姉ちゃんが後から来らあ」

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くな、いまねえあとかららあ」

勘次はこう言って、与吉をちらっと見ただけで、いっしんにその手を動かしている。

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勘次かんじはかういつて、與吉よきちに一べつあたへたのみで一しんうごかしてる。

与吉は、おつぎがやっと近づいたとき、ひとしきりまた泣いた。

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與吉よきちはおつぎがやうやちかづいたとき一しきりまたいた。

「よきはどうしたんだ」

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よきはどうしたんだ」

おつぎは岸へ上がって、どろだらけの足で草の上にひざをついた。

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おつぎはきしあがつてどろだらけのあしくさうへひざついた。

与吉は笑いまじりに泣いて、両手を出してだかれようとする。

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與吉よきち笑交わらひまじりにいて兩手りやうてしてかれようとする。

「姉ちゃんはどろだらけで仕方があるまいな。よごれてもいいのか、よきは」

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ねえどろだらけでやうあんめえな、よごれてもえゝのかよきは」

と言いながら、おつぎは与吉をだいた。

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いひながらおつぎは與吉よきちいた。

「どうした、かえるはいないか。この棒でばたばたとたたいてやれ。そうしたら痛いようって、かえるが泣くだろうな。泣くなかえるだよう、よきは泣かないようってなあ」

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「どうした、蛙奴けえるめねえか、ぼうでばた/″\とはたいてやれ、さうしたらいてえようつて蛙奴けえるめくべえな、くなけえるだよう、よきかねえようつてなあ」

おつぎは与吉をだいたまま、勘次のほうを見て

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おつぎは與吉よきちいたまゝ勘次かんじほう

「おとっつあん、あっちへ行っちゃった。姉ちゃんも行かなくちゃならない。おとっつあんに怒られるからな。またじっとしていろ」

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「おとつゝあ、あつちへつちやつた、ねえかなくつちやなんねえ、おとつゝあにおこられつかんな、またえんとしてろ」

おつぎはそっと与吉をむしろへ下ろした。

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おつぎはそつと與吉よきちむしろおろした。

「早くやれ、何してるんだ。いいかげんにしろ」

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「かせえてやれ、なにしてんだ、えゝ加減かげんにしろ」

勘次は後ろを向いてどなった。

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勘次かんじうしろいて呶鳴どなつた。

「それ見ろな、怒られるから。そら、ここにいいものがあった」

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「それろなおこられつから、そら此處こゝにえゝものがつた」

おつぎは田んぼにあるははこぐさの花をむしって、むしろへ乗せてやった。

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おつぎは田圃たんぼにある鼠麹草はゝこぐさはなむしつてむしろのせつた。

そしてまた、あぶなっかしくそうっと田へ下りた。

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さうしてまたあぶないやうにそうつとへおりた。

与吉はただ、ははこぐさの花をいじっていた。

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與吉よきちたゞ鼠麹草はゝこぐさはないぢつてた。

ほりは雨のあとの水を集めて、さらさらと岸をひたして行く。

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ほりあめあとみづあつめてさら/\ときしひたしてく。

青くしげってかたむいている川やなぎのえだが一本水につき、流れ去る力に軽くゆらされている。

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あをしげつてかたむいて川楊かはやなぎえだが一つみづについて、ながちからかるうごかされてる。

水はわずかにふれているそのえだのために、下流へ向かって放しゃ線のような形をえがいている。

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みづわづかれてそのえだため下流かりう放射線状はうしやせんじやうゑがいてる。

あしのようで、それでいてとても細いかわいらしい草が、びりびりとふるわされながら岸の水に立っている。

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あしのやうでしかきはめてほそ可憐かれんなとだしばがびり/\とゆるがされながらきしみづつてる。

おたまじゃくしが水の勢いにこらえられないようにしては、急に水にひたされて銀のように光っている岸の草の中にかくれようとする。

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玉杓子たまじやくしみづいきほひにこらへられぬやうにしては、にはかみづひたされてぎんのやうにひかつてきしくさなかかくれやうとする。

そしてはまた、すべての小さいものがそうであるように、じっとしていられなくて、かわいらしい尾をひらひらと動かしながら、力に余る水の勢いにぐっと流されながら泳いでいる。

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さうしてはまたすべてのをさないものゝ特有もちまへ凝然ぢつとしてられなくて可憐かれんをひら/\とうごかしながら、ちからあまみづいきほひにぐつとられつゝおよいでる。

与吉はははこぐさの花を水へ投げた。

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與吉よきち鼠麹草はゝこぐさはなみづげた。

花が上流に向いて落ちると、ぐるりと下流へ向きを変えられて、ずんずんと運ばれて行く。

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はな上流じやうりういてちると、ぐるりと下流かりうけられてずんずんとはこばれてく。

岸の草の中にいたかえるは、ひょうきんにその花へ飛びついて、それからぐっと後ろの足で水をかいて向こうの岸へ着いて、ふわりとうかんだまま大きな目を見開いてこちらを見る。

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きしくさなかかはづ剽輕へうきんそのはないて、それからぐつとうしろあしみづいてむかふきしいてふわりといたまゝおほきなみはつてこちらをる。

ははこぐさの花をみな投げてしまって、与吉はまたおつぎを呼んだ。

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鼠麹草はゝこぐさはなみなつくされて與吉よきちまたおつぎをんだ。

「おうい」

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「おうい」

と、おつぎのやさしい声が遠くから答えた。

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とおつぎのじやうふくんだこゑとほくからいつた。

おつぎの返事を聞いては、与吉は口ぐせのように「姉ちゃんよう」と呼ぶ。

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おつぎの返辭へんじいては與吉よきち口癖くちぐせのやうにねえよとぶ。

そのたびごとに、おつぎはいそがしい手を動かしながら、それに答えるのである。

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そのたびごとにおつぎはいそがしいうごかしながらそれにおうずるのである。

お昼にはまだ間があるうちに、昼ごはんのしたくを急いで、おつぎは田んぼからお茶をわかしに上がる。

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正午ひるにはまだがあるうちに午餐ひる支度したくいそいでおつぎは田圃たんぼからちやわかしにのぼる。

与吉はよろこんで、おつぎの背中にかじりついた。

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與吉よきちよろこんでおつぎのかぢりついた。

勘次はあとで一人たがやした。

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勘次かんじあとひとたがやした。

青いけむりがならの木のあたりから立って、やがて

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あをけむりならからつてやが

「わいたぞう」

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いたぞう」

と、おつぎの声で呼ばれるまで、勘次はいそがしいその手を止めなかった。

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とおつぎのこゑばれるまでは勘次かんじいそがしいめなかつた。

昼ごはんのあとから、おつぎはぬい針へ糸を通してさおにつけて、与吉に持たせた。

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午餐過ひるすぎからおつぎは縫針ぬひばりいととほして竿さをけて與吉よきちたせた。

与吉はほかの子どもがするように、その針を上げてみてはまた水へ投げて、おとなしくしている。

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與吉よきちほか子供こどものするやうにはりげててはまたみづげて大人おとなしくしてる。

しばらく時間がたつと、また「姉ちゃんよう」と呼ぶ。

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しばら時間じかんつとまたねえようとぶ。

おつぎがほりの近くまでたがやして来たとき見ると、与吉のさおは糸が取れていた。

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おつぎはほりちかくへたがやしてときると與吉よきち竿さをいとがとれてた。

おつぎは岸へ上がった。

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おつぎはきしあがつた。

「どうしたんだい、よきは」

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「どうしたんでえ、よきは」

おつぎが見ると、針が向こうの岸から出た低い川やなぎのえだにからんで、糸のはしが水について下流へ向いている。

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おつぎはるとはりむかふきしからひく川楊かはやなぎえだまつはつていとはしみづについて下流かりういてる。

おつぎは二百メートルばかり上流の板の橋をわたって行って、やっとのことでえだを曲げてその針を取った。

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おつぎは二ちやうばかり上流じやうりう板橋いたばしわたつてつて、やうやくのことでえだげてそのはりをとつた。

そしてまた、与吉の棒へつけてやった。

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さうしてまた與吉よきちぼうけてやつた。

「もう引っかけるんじゃないぞ、大変だからな」

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「はあけんぢやねえぞ大變たえへんだかんな」

おつぎはとても軽くしかって、また田へ下りた。

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おつぎはきはめてかるしかつてまたへおりた。

勘次はまたどなった。

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勘次かんじまた呶鳴どなつた。

「そんでも、よきは糸を切っちまったんだもの」

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「そんでもよきいとつちまつたんだもの」

おつぎはおそるおそる、小さな声で言った。

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おつぎはあやぶむやうにしてひかこゑてゝいつた。

おつぎは黙って、その手を動かしている。

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おつぎはだまつてうごかしてる。

与吉は返事がなくても、なつかしそうに「姉ちゃんよう」と何度も呼びかけた。

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與吉よきち返辭へんじがなくてもなつかしさうねえようと數次しば/\けた。

おつぎのすがたが遠くなると、むしろに口がつくほどかがんで、声のかぎり呼んだ。

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おつぎの姿すがたとほくなればむしろくちのつくほどかゞんでこゑかぎりにんだ。

その晩、勘次は二人を連れて近所へおふろをもらいに行った。

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ばん勘次かんじ二人ふたりれて近所きんじよ風呂ふろもらひにつた。

おつぎはそこに集まった近所の女の人に自分の手を見せて

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おつぎは其處そこあつまつた近所きんじよ女房にようばう自分じぶんせて

「おれ、こんなに豆ができちまったんだよ」

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らこんなに肉刺まめつちやつたんだよ」

とつぶやいた。

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つぶやいた。

「ほんによな、痛いだろうな、そりゃ。そんでも、おっかあがいないから働かなくちゃならないな」

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「ほんによな、いたかつぺえなそりや、そんでもおつかあがねえからはたらかなくつちやなんねえな」

女の人はなぐさめるように言った。

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女房にようばうなぐさめるやうにいつた。

「おっかあのないのはいやだな」

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「おつかあのねえものはだな」

おつぎは言って、勘次を見るとすぐに首を下げた。

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おつぎはいつて勘次かんじるとすぐくびたれた。

勘次はそばで、じっとそれを聞いていた。

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勘次かんじそば凝然ぢつとそれをいてた。

「おつうらだって、今にいいこともあるだろうな。そんだが、おっかあがなくちゃ、着物がほしくても、こればかりは仕方がないのよな」

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「おつうだつていまえこともあらな、そんだがおつかゞくつちや衣物きものしくつてもこればかりはやうがねえのよな」

女の人は言った。

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女房にようばうはいつた。

勘次は、そんなことは言わずにいてくれればいいのにと思いながら、むずかしい顔をして黙っていた。

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勘次かんじ其麽そんなことははずにれゝばいゝのにとおもひながらむづかほをしてだまつてた。

「この豆はひどくならないだろうか」

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肉刺まめとがめめえか」

おつぎは手のひらのあちこちにできた豆を見て、心配そうに言った。

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おつぎはひら處々ところ/″\肉刺まめ心配相しんぱいさうにいつた。

「なんでひどくなるもんか」

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なんでとがめるもんか」

勘次は、おさえていた何かが急に出たように、すぐに打ち消した。

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勘次かんじ抑制よくせいしたあるもの激發げきはつしたやうにすぐ打消うちけした。

勘次は家にもどると、飯だいの底にくっついているごはんから米つぶばかりを拾い出して、それをたばこの吸いがらと練り合わせた。

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勘次かんじいへもどると飯臺はんだいそこにくつゝいてめしなかから米粒こめつぶばかりひろしてそれを煙草たばこ吸殼すひがら煉合ねりあはせた。

そして、針の先でおつぎの、おふろから出たばかりでやわらかくなった手の豆をついて汁を出して、そこへそれをはってやった。

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さうしてはりさきでおつぎのからたばかりでやはらかくつた肉刺まめをついて汁液みづして其處そこへそれをつてつた。

「しくしくするな」

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「しく/\すんな」

おつぎははった所を見て言った。

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おつぎはつた箇所かしよていつた。

「汁を出したばかりのときはちっと痛いとも。そのかわりすぐ治るから」

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液汁みづしたばかりにやちつたえてえとも、そのけえしすぐなほつから」

勘次はおつぎをじっと見て、それからもういびきをかいている与吉を見た。

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勘次かんじはおつぎを凝然ぢつてそれからもういびきをかいて與吉よきちた。

「豆なんぞできたら、できたっておとっつあんに言うもんだ。他人になんぞ見せたりするもんじゃない。お前らは何も知らないから仕方がない。田をたがやし始めのころには、おとっつあんらみたいな手だってこういうふうに出るんだ、見ろ。それ、痛いのをがまんしがまんしやりさえすりゃ、かたくなっちまうんだ」

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肉刺まめなんぞたらばたつておとつゝあげいふもんだ、他人ひとのげなんぞせたりなにつかするもんぢやねえ、汝等わツらなんにもらねえからやうねえ、田耕たうねはじまりにやおとつゝあてえなだつてかうえにんだかろ。それいてえの我慢がまんしい/\りせえすりやかたまつちあんだ」

勘次は自分の手をおつぎに見せた。

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勘次かんじ自分じぶんをおつぎへしめした。

「おっかあがいなくなって困るな。お前ばかりじゃないんだから」

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「おつかゞくなつてこまんなわればかしぢやねえんだから」

勘次はしばらく間を置いて、ぽつんと言った。

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勘次かんじしばらあひだおいてぽつさりとしていつた。

「暮らしのためだから、お前もがまんするもんだ。見ろ、お前らどころじゃない。武州のほうへなんぞやられて、泣き通してる者さえあらあ」

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身上しんしやうためだからわれ我慢がまんするもんだ、汝等處わツらとこぢやねえ、武州ぶしうはうへなんぞられていてるものせえあら」

と、彼はまたやっとのことで言った。

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かれまたからうじていつた。

おとなしく黙っていたおつぎは

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大人おとなしくだまつてたおつぎは

「武州っていうのはどっちのほうだろう」

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武州ぶしうツちやどつちのはうだんべ」

と、むしろあどけなく聞いた。

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むしろあどけなくいた。

「あっちのほうよ。お前の足じゃ一日じゃ歩けない所だ」

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「あつちのはうよ、われあしぢや一日にやあるけねえところだ」

勘次は雨戸のほうを向いて、西南をさした。

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勘次かんじ雨戸あまどはういて西南せいなんしめした。

「遠いんだな。そこへ行ったらどうするんだろう」

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とほいんだな、其處そこつたらどうすんだんべ」

「はたおりをする者もあれば、百姓をする者もあるのよ」

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機織はたおりするものもあれば百姓ひやくしやうするものもあんのよ」

「はたおりを教われるならよかろうな」

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機教はたをされぢやよかんべな」

「なんでいいことがあるもんか。家へなんざめったに来られやしないんだぞ。それで朝から晩までみっしり使われて、それどころじゃない、病気になったって、よっぽどでなくちゃはがきもよこさせやしない」

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なんでえゝことあるもんか、うちへなんざあ滅多めつたられやしねえんだぞ、そんであさから晩迄ばんまでみつしら使つかあれて、それどこぢやねえ病氣びやうきつたつて餘程よつぽどでなくつちや葉書はがきもよこさせやしねえ」

「そんじゃ、そういう所へ行っちゃひどいな。逃げて来ることもできないんだろうか」

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「そんぢや、さうえとこつちやひでえな、げてることも出來できねえんだんべか」

「すぐつかまえられちまうから、そんなに逃げられるかい」

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つかめえられつちあからそんなにげられつかえ」

「巡査につかまるんだろうか」

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巡査じゆんさつかまんだんべか」

「そんなもんか。巡査でなくたって、逃げ出せばすぐつかまえるように人が見張ってるのよ。なあ、そうでもなくちゃ、遠くの者ばかりたのんでおくんだもの、仕方があるもんか」

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「さうなもんか、巡査じゆんさでなくつたつてせばつかめえるやうにひとばんしてんのよ、なあ、そんでもなくつちやとほくのものばかりたのんでくんだものやうあるもんか」

「そんでも、いやだって言ったらどうするんだろう」

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「そんでもだつちつたらどうすんだんべ」

「いやだなんて言ったっくらい、ひどいとも。立てかえたお金を返さなくちゃならないから」

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だなんていつたくれえひでえとも立金たてきんしなくつちやなんねえから」

「どういうふうにするんだろう、それは」

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「どういにすんだんべそら」

「それはなあ、いくらつとめたって、とちゅうでいやだからなんて出ちまえば、借りただけの給金はみんな取り返されるのよ。なあ、それから泣く泣くでもいなくちゃならないのよ」

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「そらなあ、いくつとめたつて途中とちうだからなんてつちめえば、りただけ給金きふきんはみんなつくるえされんのよ、なあ、それからき/\もなくつちやなんねえのよ」

「そんじゃ、おれはそういう所へ行かなくてよかったっけな」

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「そんぢやらさうえとこかねえでよかつたつけな」

おつぎはいっしんに言った。

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おつぎは熱心ねつしんにいつた。

「そんだから、お前のことはやりゃしない。お前を奉公にやれば、そのお金でおれの借金もなくなるし、よきのことだって軽業師の所へでも出しちまえば、それこそ楽になっちまうんだが、おっかあがいなくてつらいって後で泣かれるのがいやだから、おれは土をかじってもそんな気は起こさないんだ」

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「そんだから汝等わツらこたりやしねえ。われこと奉公ほうこうにやればぜね借金しやくきんくなるし、よきことだつて輕業師かるわざげでもしつちめえばそれこそらくになつちあんだが、おつかゞくつちやつれえつてあとかれんのだからちゝかぢつてもそんな料簡れうけんさねんだ」

「おとっつあん、奉公すれば借金がなくなるんだろうか」

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「おとつゝあ、奉公ほうこうすれば借金しやくきんなくなんだんべか」

「おっかあさえいれば、お前も奉公に出して、おとっつあんもいいお金を手にするんだが、おっかあがいなくなって、おとっつあんだって困ってるんだ。それからお前だって、奉公に行ったつもりでしんぼうするもんだ。なあ、おれはお前らにみじめな思いをさせたくはないんだから」

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「おつかせえればわれことも奉公ほうこうして、おとつゝあもえゝぜねつかめえんだが、おつかゞくなつておとつゝあだつてこまつてんだ、それからわれだつて奉公ほうこうつたつもり辛抱しんばうするもんだ、なあ、汝等わツらげみじめせてえこたありやしねんだから」

勘次はしみじみとくり返した。

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勘次かんじはしみ/″\と反覆くりかへした。

勘次は、おつぎに体に合わない仕事をさせていることを知っている。

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勘次かんじはおつぎに身體からだ不相應ふさうおう仕事しごとをさせてることをつてる。

それで自分が朝は必ず先に起きて、かまどの下に火をつける。

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それで自分じぶんあさ屹度きつとさききてかまどしたける。

そのとき、つかれた少女はまだぐったりとして、正体もなくまくらからころがっている。

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ときつかれた少女せうぢよはまだぐつたりと正體しやうたいもなくまくらからこけてる。

白いゆげがかまのふたから勢いよくもれて、やがて火が引かれてから、おつぎは起こされる。

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しろ蒸氣ゆげかまふたからいきほひよくれてやがてかれてからおつぎはおこされる。

帯をしめたまま横になったおつぎは、なかなか開かない目をこすって井戸ばたへ行く。

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おびしめまゝよこになつたおつぎは容易よういかないをこすつて井戸端ゐどばたく。

ぼうぼうとほどけた髪へくしを入れて、冷たい水へ手を入れたとき、おつぎはやっと生き返ったようになる。

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蓬々ぼう/\けたかみくしれてつめたいみづれたときおつぎはやうや蘇生いきかへつたやうになる。

それでも目はまだ赤くて、動きもふらふらとだるそうである。

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それでもはまだあかくて態度たいどがふら/\と懶相だるさうである。

「さあ、ごはんができたぞ」

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「さあ、おまんま出來できたぞ」

勘次はかまから茶わんへごはんをうつす。

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勘次かんじかまから茶碗ちやわんめしうつす。

そして自分で農具を取っておつぎに持たせて、それからさっさと連れ出すのである。

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さうして自分じぶん農具のうぐつておつぎへたせてそれからさつさとすのである。

もみだねがぽっちりと水をつき上げて芽を出すと、やっと強くなった日ざしに、緑の深くなった若葉がぐったりとする。

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籾種もみだねがぽつちりとみづげてすとやうやつよくなつた日光につくわうみどりふかくなつた嫩葉わかばがぐつたりとする。

やわらかな風がすずしくふいて、松の花粉がほこりのようにしめった土をおおって、小麦のほにもびっしりとかびのような花がついた。

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やはらかなかぜすゞしくいてまつ花粉くわふんほこりのやうにしめつたつちおほうて、小麥こむぎにもびつしりとかびのやうなはないた。

百姓はみな、自分の手足が足りないと思うほどいそがしくなる。

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百姓ひやくしやうみな自分じぶん手足てあし不足ふそくかんずるほどいそがしくなる。

勘次はひたすら、ただ仕事がおくれるのをおそれた。

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勘次かんじは一たゞ仕事しごと手後ておくれになるのをおそれた。

くたびれてもつかれても、彼は毎日夜明け前に起きて、夜までその手足を動かして止まない。

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草臥くたびれてもつかれてもかれ毎日まいにち未明みめいきてまで手足てあしうごかしてまぬ。

おつぎもその後についてゆき、くたびれた体を引きずられた。

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おつぎもあといて草臥くたびれた身體からだきずられた。

晩ごはんのしたくに与吉を背負って先に帰るのが、おつぎにはせめてもの休みだった。

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晩餐ゆふめし支度したく與吉よきちうてさきかへるのがおつぎにはせめてもの骨休ほねやすめであつた。

勘次は麦のあいだへ大豆をまいた。

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勘次かんじむぎあひだ大豆だいづいた。

うねの間へ浅くみぞのようなくぼみを作って、そこへぽろぽろと種を落として行く。

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畦間うねまあさほりのやうなくぼみをこしらへてそこへぽろ/\とたねおとしてく。

勘次はぐいぐいとうねの間をほって行く。

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勘次かんじはぐい/\と畦間うねまつてく。

後からおつぎが種を落とした。

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あとからおつぎがたねおとした。

おつぎのまだ小さな体は、麦のそろった白いほから、かぶった手ぬぐいと肩だけが出ている。

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おつぎのまだみじか身體からだむぎ出揃でそろつたしろからわづかかぶつた手拭てぬぐひかたとがあらはれてる。

与吉は道のそばのこもの上で、おとなしくしている。

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與吉よきちみちはたこもうへ大人おとなしくしてる。

おつぎの白い手ぬぐいがだんだん麦のほにかくれると、与吉は「姉ちゃんよう」と呼ぶ。

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おつぎのしろ手拭てぬぐひ段々だん/\むぎかくれると與吉よきちねえようとぶ。

おつぎは「おうい」と返事をする。

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おつぎはおういと返辭へんじをする。

おつぎの声が聞こえると、与吉はじっとしている。

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おつぎのこゑきこえると與吉よきち凝然ぢつとしてる。

勘次はうねの間を作り終えて、それから自分もいそがしく大豆を落としはじめた。

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勘次かんじ畦間うねまつくりあげてそれから自分じぶんいそがしく大豆だいづおとはじめた。

勘次は、のろのろしたおつぎの手元を見て、そのうねをひょいとのぞいた。

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勘次かんじ間懶まだるつこいおつぎのもとをうねをひよつとのぞいた。

種と種の間かくがそろっていなくて、四つぶも五つぶも一つになって落ちている所があった。

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たねたねとの間隔かんかく不平均ふへいきんで四つぶも五つぶも一つにちてるところがあつた。

「このざまはどうしたんだ。こんなことで暮らしができるか」

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のざまはどうしたんだ、こんなこつて生計くらし出來できつか」

とどなりながら、彼はとつぜんおつぎをなぐった。

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呶鳴どなりながらかれ突然とつぜんおつぎをなぐつた。

おつぎは麦のくきといっしょにたおれた。

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おつぎはむぎからともたふれた。

おつぎはたおれたまま、しくしくと泣いた。

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おつぎはたふれたまゝしく/\といた。

「たいがい分かりそうなもんじゃないか。こんなざまじゃ種ばかり要って仕方がありゃしない」

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大概てえげえわかさうなもんぢやねえか、こんなざまぢやたねばかしつてやうありやしねえ」

勘次は後をつぶやいた。

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勘次かんじあとつぶやいた。

となりの畑で、これも大豆をまいていた百姓がかけて来た。

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となりはたけこれ大豆だいづいて百姓ひやくしやうけてた。

「勘次さん、どうしたもんだいまあ、そんならんぼうなことして」

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勘次かんじさんどうしたもんだいまあ、其麽そんなあらつぺえことして」

と勘次をおさえた。

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勘次かんじおさへた。

「おつぎ、泣かないでさあ起きて仕事しろ。おとっつあんにはおれがあやまってやるからなあ。与吉が泣いてら。さあ行って見なさい」

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「おつぎかねえでさあきて仕事しごとしろ、おとつゝあげはおれ謝罪あやまつてやつかんなあ、與吉よきちねえてら、さあつてさつせ」

百姓はさらにおつぎをなだめた。

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百姓ひやくしやうさらにおつぎをすかした。

与吉はおつぎのすがたが見えないので、しきりに呼んだ。

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與吉よきちはおつぎの姿すがたえないのでしきりにんだ。

それでもおつぎの声は聞こえないので、火がついたように泣き出したのである。

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それでもおつぎのこゑきこえないのでいたやうにしたのである。

おつぎはすすり泣きしながら、与吉をだいた。

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おつぎはすゝきしながら與吉よきちいた。

「お母さんもいないのに、お前いいかげんにしろよ。かわいそうじゃないか。そんなことして、お前いくつだと思うんだ。そんなに自分の思いどおりにできるもんじゃない。ほとけさまのばちも当たるだろうじゃないか」

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「おふくろもねえのにおめえいゝ加減かげんにしろよ、可哀想かあいさうぢやねえか、そんなことしておめえいくつだとおもふんだ、さう自分じぶんのやうに出來できるもんぢやねえ、ほとけさはりにもんべぢやねえか」

となりの畑の百姓は言った。

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隣畑となりばたけ百姓ひやくしやうはいつた。

勘次は黙ってしまって、何とも言わなかった。

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勘次かんじだまつてしまつてなんともいはなかつた。

与吉はおつぎにだかれたので、おつぎの目がまだぬれているうちに泣き止んだ。

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與吉よきちはおつぎにかれたので、おつぎの目がまだうるうてるうちにやんだ。

勘次はその日の夕方、おつぎが晩ごはんのしたくに立ったとき、自分もいっしょに家へもどった。

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勘次かんじ夕方ゆふがたおつぎが晩餐ゆふめし支度したくつたとき自分じぶんひとつにうちもどつた。

彼はひざで四つんばいに歩きながら座敷へ上がって、さいふをふところへねじこんでふいと出た。

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かれひざがしらでばひあるきながら座敷ざしきへあがつて財布さいふふところんでふいとた。

彼は風呂しきづつみを持って帰った。

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かれ風呂敷包ふろしきづゝみつてかへつた。

彼が戸口に立ったときには、家の中はまっ暗で、しばらくは物の見分けもつかなかった。

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かれ戸口とぐちつたときうちなか眞闇まつくら一寸ちよつともの見分みわけもつかなかつた。

くたびれきった体で、彼はその夜も二人を連れて、自分のものではないそのしげった小さな桑畑をこえて、南の家のおふろへ行った。

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草臥くたびつた身體からだかれその二人ふたりれて、自分じぶん所有ものではないそのしげつたちひさな桑畑くはばたけえてみなみ風呂ふろつた。

そこにはいつものように、おふろをもらいに女の人たちが集まっていた。

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其處そこにはいつものやうに風呂ふろもらひに女房等にようばうらあつまつてた。

「よくなあ、おつうはよきの面倒を見るな。女の子はこうだからいいのさな、すぐ役に立つからな」

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くなあ、おつうはよきこと面倒めんだうんな、をんなうだからいゝのさな、やくつかんな」

女の人の一人が言った。

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女房にようばう一人ひとりがいつた。

「おつぎはどうしたんだい、今夜はひどく元気がないな」

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「おつぎはどうしたんでえ、今夜こんやひどく威勢ゐせえわりいな」

ほかの女の人が言った。

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女房にようばうがいつた。

「さっき、おれにぶんなぐられたからでもあるだろう」

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先刻さつきおれつとばされたかんでもあんべえ」

勘次は苦笑いしながら言った。

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勘次かんじ苦笑くせうしながらいつた。

「なんでだろうな、まあ。お前、そんなにしないで面倒を見てやりなさいよ。これがお前、女の子でもなくて見なさい、こんな小さいのをかかえて仕方があるもんじゃないな」

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なんでだつぺなまあ、おめえそんなにねえで面倒めんだうてやらつせえよ、れがおめえをんなでもなくつてさつせえ、こんなちひせえのだけえてやうあるもんぢやねえな」

「そうだともよ。これはおつうでもなくちゃ育たなかったかも知れないぞ。それこそひどい目にあわなくちゃならないや。なあ、おつう」

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「さうだともよ、こらおつうでもくつちやそだたなかつたかもんねえぞ、それこそ因果いんぐわなくつちやなんねえや、なあおつう」

女の人たちは言った。

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女房等にようばうらはいつた。

「おれの所、ちっともこれははなれないんだよ。仕方がないようだよ、本当に」

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おらがとこちつともこらはなんねえんだよやうねえやうだよ本當ほんたうに」

おつぎは、もうだんだん重くなってきた与吉をひざに乗せて言った。

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おつぎはもう段々だん/\あまつて與吉よきちひざにしていつた。

「今じゃ、まるっきりおっかあのような気がしてるんだな、きっと」

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いまぢや、まるつきしおつかのやうながしてんだな、屹度きつと

女の人たちはまた与吉を見て言った。

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女房にようばうらはまた與吉よきちていつた。

勘次はそばで、ただ目をぱちぱちさせた。

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勘次かんじそばたゞ屡叩しばたゝいた。

家へもどってから、勘次は

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うちもどつてから勘次かんじ

「おつう、手ランプを持って来てみな。お前に見せるものがあるんだから」

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「おつう、ランプつてせえ、われせるものあんだから」

おつぎは出るときにふき消したブリキの手ランプをつけたが、まだ動きがしゃきっとしなかった。

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おつぎはとき吹消ふつけしたブリキのランプをけて、まだ容子ようすがはき/\としなかつた。

勘次はさっきの風呂しきづつみを解いた。

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勘次かんじ先刻さつき風呂敷包ふろしきづゝみいた。

小さくたたんだ弁慶じまのひとえが出た。

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ちひさくたゝんだ辨慶縞べんけいじま單衣ひとへた。

「お前にこれをやろうと思って持って来たんだ。これでもなよ、おっかあが自分の糸で織ったんだぞ。今じゃ糸なんぞつむぐ者はいないが、おっかあらは毎晩のようにつむいだもんだ。こんも、ようく染まってるから丈夫だぞ。おっかあはいくらも着ないでしまったから、まだまるっきり新しいようだ、見ろ。どうした、手ランプをもっとこっちへ出してみなまあ」

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われこれんべとおもつてつてたんだ。んでもなよ、おつかゞ地絲ぢいとつたんだぞ、いまぢやいとなんぞくものなあねえが、おつか毎晩まいばんのやうにいたもんだ、こんもなあうくまつてつから丈夫ぢやうぶだぞ、おつかはいくらもかけねえつちやつたから、まあだまるつきりあたらしいやうだろ、どうしたランプまつとこつちへしてせえまあ」

勘次はひとえを少し開いて、鼻へ当ててにおいをかいでみた。

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勘次かんじ單衣ひとへすこひらいてはなあてにほひいでた。

「ちっとはかび臭くなったようだが、そんでもこれくらいなら一日ほせばにおいは取れるから」

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「ちつたあ黴臭かびくさくなつたやうだが、そんでもこのくれえぢや一日いちんちせばくさえななほつから」

勘次は言いわけでもするように言った。

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勘次かんじ分疏いひわけでもするやうにいつた。

おつぎは左手に持ちかえた手ランプをかざして、ひとえをいじっては、おふろ上がりのつやつやした顔にほほえみをうかべた。

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おつぎは左手ひだりてかへランプをかざして單衣ひとへいぢつては浴後よくごのつやゝかなかほ微笑びせうふくんだ。

勘次はおつぎの顔ばかり見ていた。

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勘次かんじはおつぎのかほばかりた。

そして、その機げんがよくなりかけたのを見て

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さうして機嫌きげん恢復くわいふくしかけたのを

「どうした、それでもお前は気に入ったか。おっかあの物はみんなお前のもんだからな。おれは、お前らのだとなりゃいくら困ったって、もうけっして質になんざ置かないから、大事にしてお前がようくしまっておけ」

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「どうした、それでもりやにつたか、おつかゞものはみんなわれがもんだかんな、がだとなりやいくこまつたつて、はあけつしてしちになんざかねえから、大事でえじにしてわれうくしまつていたえ」

と、彼は満足そうに見えた。

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かれ滿足まんぞくらしくえた。

おつぎは手ランプを置いて、勘次がしたように鼻へ当ててにおいをかいでみたり、左の手だけをそでへ通してみたりした。

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おつぎはランプをいて勘次かんじがしたやうにはなてゝにほひいでたり、ひだりだけをそでとほしてたりした。

「おれには、これじゃ引きずるようじゃあるまいか」

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おらがにやんぢやきじるやうぢやあんめえか」

おつぎはそれから、手でつるしてみたりした。

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おつぎはそれからるしてたりした。

「しまっておいて、おれはもっと大きくなってから着ようかな」

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しまつていて、らいまつとえかつてからべかな」

「どうでもお前のもんだから、お前の好きにしろな」

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「どうでもわれがもんだからわれきにしろな」

勘次は、おつぎの手が動くのにつれて目を動かした。

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勘次かんじはおつぎのうごくにしたがつてうつした。

手ランプからぼうっと立つすすが、ほどけた髪へなびきかかるのも知らずに、おつぎはあっちこっちへひとえをいじっていた。

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ランプのぼうと油煙ゆえんがほぐれたかみなびかゝるのもらずにおつぎはそつちこつちへ單衣ひとへいぢつてた。

「お前、うっかりして、そうれ燃えっちまうぞ」

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われうつかりして、そうれえつちまあぞ」

勘次はすすがまたかたむいたとき、慌てておつぎの髪へ手を当てて言った。

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勘次かんじ油煙ゆえんかたむいたときあわてゝおつぎのかみてゝいつた。

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勘次の田畑は、おそい秋のとり入れがみじめなものだった。

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勘次かんじ田畑たはた晩秋ばんしう收穫しうくわくがみじめなものであつた。

それは天気が悪いのでもなく、また土地が悪いのでもない。

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それは氣候きこうわるいのでもなく、また土地とちわるいのでもない。

たがやす時期をのがしていることと、肥料が少ないこととで、いくらあせっても、とても満足な結果が出せないのである。

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耕耘かううん時期じきいつしてるのと、肥料ひれう缺乏けつばふとでいく焦慮あせつても到底たうてい滿足まんぞく結果けつくわられないのである。

貧しい百姓はいつも土にくっついて食べ物を得ることばかりに苦心しているのに、その作物が俵になれば、もう大部分は彼らのものではない。

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貧乏びんばふ百姓ひやくしやうはいつでもつちにくつゝいて食料しよくれうることにばかり腐心ふしんしてるにもかゝはらず、作物さくもつたはらになればすで大部分だいぶぶん彼等かれら所有しよいうではない。

自分のものでいられるのは、作物が根をもって田や畑の土に立っているあいだだけである。

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所有しよいうでありるのは作物さくもつもつはたつちつてあひだのみである。

小作料をはらってしまえば、もう手をつけたみじかい冬をしのぐだけのことが、ややもすればやっとなのである。

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小作料こさくれうはらつてしまへばすでをつけられたみじか冬季とうきしのけのことがともすればやうやくのことである。

彼らは自分の田畑がいそがしいときにも、その日の食べ物を手に入れるために、わりと収入のいい日やといに行く。

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彼等かれら自分じぶん田畑たはたいそがしいときにもおはれる食料しよくれうもとめため比較的ひかくてき收入みいりのいゝ日傭ひようく。

百姓といえば、どんなに物を知らなくても、作物を作る季節を知らないことはない。

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百姓ひやくしやうといへば什麽どんな愚昧ぐまいでもすべての作物さくもつ耕作かうさくする季節きせつらないことはない。

村のはしからはしまでみな同じ仕事にかかりきっているのだから、その季節をたとえ自分が忘れたとしても、まったく忘れきることはできないのである。

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村落むらはしからはしまでみなどう一の仕事しごと屈託くつたくしてるのだから季節きせつ假令たとひ自分じぶんわすれたとしてもまつたわすることの出來できるものではない。

しかし、もう季節だと分かっていても、その日その日の食べ物を求めるために力をさかなければならないのと、肥料の工面がつかなかったりするのとで、作物の育ちから言えば三日を争うようなときでも、思いながら手が出ないのである。

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しかしもう季節きせつだとつてても/\の食料しよくれうもとめるめに勞力らうりよくくのと、肥料ひれう工夫くふうがつかなかつたりするのとで作物さくもつ生育せいいくからいへば三日みつかあらそふやうなときでもおもひながらないのである。

むかしのように、自然の肥料を手に入れることが、今ではできなくなってしまった。

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以前いぜんのやうに天然てんねん肥料ひれうることがいまでは出來できなくなつてしまつた。

どこの林でも、落ち葉をかくことや青草を刈ることが、みなお金にゆとりのある者の手に移ってしまった。

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何處どこはやしでも落葉おちばくことや青草あをぐさることがみなぜに餘裕よゆうのあるものゝしてしまつた。

それとともに、林は閉ざされたようなすがたになっている。

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それとともはやし封鎖ふうさされたやうな姿すがたつてる。

冬ごとに熊手のつめのとどくかぎりかいて行くので、草もそれにつれて短くなって、腰までうまるような所はめったにない。

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ふゆごと熊手くまでつめおよかぎいてくので、くさしたがつてみじかくなつてこしぼつするやうなところ滅多めつたにない。

その草もさらに土から刈って行くので、次第に土がやせて行く。

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くささらつちからつてくので次第しだいつちせてく。

だから何も持たずには、どこへ行ってもぬすまないかぎり、思うぞんぶんやわらかな草を刈ることはできない。

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だから空手からてでは何處どこつても竊取せつしゆせざるかぎり存分ぞんぶんやはらかなくさることは出來できない。

貧しい百姓は、落ち葉でも青草でも、他人の熊手やかまが入ったあとに求める。

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貧乏びんばう百姓ひやくしやう落葉おちばでも青草あをぐさでも、他人ひと熊手くまでかまつたあともとめる。

そして、やせて行く土をさらに骨までかじるようなことをしているのである。

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さうしてせてつちさらほねまでむやうなことをしてるのである。

世の中一般には、落ち葉や青草が足りなくなるとともに、便利ないろいろな人工の肥料が売られる。

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ぱんには落葉おちば青草あをぐさ缺乏けつばふかんずるととも便利べんり各種かくしゆ人造肥料じんざうひれう供給きようきふされる。

しかしそれも、やはりお金にいくらでもゆとりのある人にだけ便利なので、貧しい百姓には、牛や馬が止め木にさえぎられたような形でしかない。

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しかしそれも依然いぜんとして金錢きんせんいくらでも餘裕よゆうのあるひとにのみ便利べんりなのであつて、貧乏びんばふ百姓ひやくしやうにはうしうま馬塞棒ませぼうさへぎられたやうなかたちでなければならぬ。

そうかといって、それらの肥料なしには、とても決められた小作料をはらえるだけの収穫は取れないので、みじめな工面が彼らの心を行き来する。

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さうかといつて肥料ひれうなしには到底たうていぱんさだめられてある小作料こさくれう支拂しはらだけ收穫しうくわくられないので慘憺さんたんたる工夫くふう彼等かれらこゝろ往來わうらいする。

そしてまた、食べ物を得るために力をほかへ回すことで、作物のうねの間をたがやすことも雑草を取ることも、すべてがおくれてしまう。

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さうしてまた食料しよくれうもとめるため勞力らうりよくくことによつて、作物さくもつ畦間うねまたがやすことも雜草ざつさうのぞくことも一さい手後ておくれにる。

季節が暑くなれば、雨がふって三日も見ないうちに、雑草はおどろくほど早くのびる。

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季節きせつあつくなればあめがあつて三ないうちには雜草ざつさうおどろくべき迅速じんそく發育はついくげる。

それが作物の育ちをひどくじゃまする。

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それがいちじるしく作物さくもつ勢力せいりよく阻害そがいする。

その分だけ収穫がへらなければならないはずである。

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それだけ收穫しうくわく減少げんせうきたさねばならぬはずである。

つまり、よく働く彼らは、実る前にすでに、青々とした作物の力をけずって食べているのである。

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えうするに勤勉きんべん彼等かれら成熟せいじゆく以前いぜんおいすで青々せい/\たる作物さくもつ活力くわつりよくいでつてるのである。

とり入れの季節がすっかり終わると、彼らは草木がかれ落ちるとともに、しおれてしまわなければならない。

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收穫しうくわく季節きせつまつたをはりをげると彼等かれら草木さうもく凋落てうらくとも萎靡ゐびしてしまはねばならぬ。

草木がねむりに入る、少なくとも五、六十日のあいだは、彼らはたまに冬起こしといって麦のうねの間をたがやすことや、林の中で落ち葉やたきぎを集めることがあるだけである。

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草木さうもくねむりにすくなくとも五六十にちあひだは、彼等かれらまれ冬懇ふゆばりというてむぎ畦間うねまたがやすことやはやしあひだ落葉おちばたきゞもとめることがあるにぎぬ。

自分の食べ物に見合うだけのお金をかせぐことが、その期間の仕事では見つからないのである。

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自分じぶん食料しよくれうかへだけぜにることが期間きかん仕事しごとおいては見出みいだされないのである。

へびやかえるやそのほかの虫たちが死んだようにねむっているあいだに、彼らは目の前にせまっているこれからの苦しみを引きよせるために、過ぎた苦しみの記ねんであるその少ない米や麦を、日ごとに食べへらして行くのである。

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へびかへる蟲類むしるゐ假死かし状態じやうたいあひだ彼等かれら目前もくぜんせまつて未來みらいくるしみをまねために、過去くわこくるしかつた記念きねんである缺乏けつばふしたこめむぎごと消耗せうまうしてくのである。

彼らは手に内職を持っていない。

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彼等かれら内職ないしよくつてらぬ。

自分で使うためだけなら、むしろもぞうりももっこもわらじもそのほかの物も藁で作ることを知っているけれど、たいていは刈るのがおくれた藁では、りっぱな物はできないのである。

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自分じぶん使用しようすべきためにのみはむしろ草履ざうりもつこ草鞋わらぢのものもわらつくることをつてれども、大抵たいていおくれになつたわらでは立派りつぱ製作せいさくられないのである。

それなのに、彼らは肥料が足りないと言いながら、その藁くずや粟のからやそのほかの物が庭に散らばっていても、なかなかそれをかたづけようとしない。

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それであるのに彼等かれら肥料ひれう缺乏けつばふうつたへつゝ藁屑わらくづ粟幹あはがらのものがにはらばつてても容易よういにそれを始末しまつしようとしない。

人に注意されても、それでもあらためようとしない。

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他人ひと注意ちういけてもそれでもあらためることをしない。

彼らは苦しいときに苦しむこと以外に、何も知らないのである。

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彼等かれらくるしいときくるしむことよりほかなんにもることがないのである。

勘次も彼らの仲間である。

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勘次かんじ彼等かれら仲間なかまである。

しかし、彼はきびしい暮らしにおされて、少しのあいだも自分を休ませるゆとりを持たなかった。

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しかしながらかれ境遇きやうぐう異常いじやう刺戟しげきから寸時すんじ安住あんぢゆうせしむる餘裕よゆうたなかつた。

彼もほかの貧しい百姓がするように、冬の季節になればたきぎを取ってかべに積んでおくことをした。

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かれ貧乏びんばふ百姓ひやくしやうのするやうにふゆ季節きせつになればたきゞつてかべんでくことをした。

彼は最近になって、となりの主人が林をよくするために雑木林をいったん開こんして畑にするということになったので、その一部を引き受けた。

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かれ近來きんらいつてからとなり主人しゆじんはやし改良かいりやうするため雜木林ざふきばやしを一たん開墾かいこんしてはたけにするといふことにつたのでの一擔當たんたうした。

彼は小さな体である。

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かれちひさな身體からだである。

しかし彼は、重いくわをふりかざして、ひとくわごとにぶつりと土を取っては、後ろへそっと投げながら進む。

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しかかれ重量ぢうりやうある唐鍬たうぐはかざして一くはごとにぶつりとつちをとつてはうしろへそつとげつゝすゝむ。

彼はその開こんの仕事が上手で、しかも好きである。

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かれその開墾かいこん仕事しごと上手じやうずきである。

そのきりっとしまった体は小さくても、それが全体のつりあいを保っていて、くわを取るときには彼とくわとはまるで一つである。

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のきりつとしまつた身體からだちひさいにしてもそれが各部かくぶ平均へいきんたもつて唐鍬たうぐはるときにはかれ唐鍬たうぐはとはたゞたいである。

くわの広い刃先が木の根に切りこむときには、彼の体もいっしょにぐさりとその根を切って通るかと思うようである。

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唐鍬たうぐはひろ刄先はさきときにはかれ身體からだひとつにぐざりとつてとほるかとおもふやうである。

土を切り起こすのが上手なのは、彼の生まれつきである。

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つちおこすことの上手じやうずなのはかれ天性てんせいである。

それで彼は、遠く利根川の工事へも行ったのだった。

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それでかれとほ利根川とねがは工事こうじへもつたのであつた。

彼は自分のうでをたよりにしている。

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かれ自分じぶん伎倆うでたのんでる。

彼は前からも、少しずつ開こんの仕事をした。

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かれ以前いぜんからもすこしづつ開墾かいこん仕事しごとをした。

その賃金しだいで、その土地を深くも浅くも、早くもおそくも仕上げることを知っていた。

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賃錢ちんせんによつて土地とちふかくもあさくもはやくもおそくも仕上しあげることをつてた。

竹林を開こんしたとき、彼は根がつながったままの一つぼの広さを、たった四つのかたまりにほり起こしたことがある。

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竹林ちくりん開墾かいこんしたときかれぢたまゝつぼおほきさをたゞつのかたまりおこしたことがある。

それでも、そのころまではそういう仕事がいくらもなかったので、その賃金は、仕事を始めるときにすり減ったくわの刃先を打ち直させるかじ屋の手間ちんと、はげしい仕事のために食べる食料をのぞいては、いくらも残らなかったのである。

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それでもころまではさういふ仕事しごといくらもかつたので、賃錢ちんせん仕事しごとはじめるときらした唐鍬たうぐは刄先はさきたせる鍛冶かぢ手間てまと、異常いじやう勞働らうどうためつひや食料しよくれうのぞいてはいくらもなかつたのである。

彼は主人の開こん地が、春いっぱいの仕事に十分な広さであることをよろこんだ。

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かれ主人しゆじん開墾地かいこんちはるぱい仕事しごとには十ぶんであることをよろこんだ。

お金のほかに、彼は米と麦をもらうことにした。

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ぜにほかかれこめむぎとの報酬ほうしうけることにした。

おつぎには特に仕事はなかったが、彼はおつぎを一人では家に置かなかった。

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おつぎはべつ仕事しごとといつてはなかつたがかれはおつぎを一人ひとりではうちかなかつた。

与吉を連れて、おつぎは開こん地へ行っていた。

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與吉よきちれておつぎは開墾地かいこんちつてた。

勘次がそのきたえた力をふるっているあいだに、おつぎはそこらの林から細いえだを取って、小さなしばのたばを作っている。

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勘次かんじ鍛錬たんれんした筋力きんりよくふるつてにおつぎはそこらのはやしから雀枝すゞめえだつてちひさな麁朶そだつくつてる。

小さなえだは、この土地では「雀えだ」と言われている。

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ちひさなえだ土地とちでは雀枝すゞめえだといはれてる。

かれた雀えだを取ることは、どこの林でも持ち主がやかましく言わなかった。

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かれ雀枝すゞめえだることは何處どこはやしでも持主もちぬし八釜敷やかましくいはなかつた。

勘次は雨でもふらなければ、毎日必ずくわをかついで出た。

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勘次かんじあめでもらねば毎日まいにちかなら唐鍬たうぐはかついでた。

ある日、彼は木の株へくわを強く打ちこんで、ぐっとこじ上げようとしたとき、きたえのいい刃と白がしの柄は強かったのでどうもなかったが、鉄のくさびで柄の先をしめた、そのくわの四角なあなの所が急にゆるんだ。

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あるかれかぶ唐鍬たうぐはつよ打込うちこんでぐつとこじげようとしたとききたへのいゝ白橿しらかしとはつよかつたのでどうもなかつたが、てつくさびさきめた唐鍬たうぐはの四かくあなところにはかゆるんだ。

そこは「ひつ」と言われている。

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其處そこはひつといはれてる。

ひつに大きなひびが入ったのである。

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ひつにおほきなひゞつたのである。

柄がやがて、がたがたと動いた。

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がやがてがた/\にうごいた。

「ええ、べらぼう。一日の手間をかじ屋につぎこまなくちゃならない」

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「えゝ、箆棒べらぼう一日いちんち手間てま鍛冶屋かぢやんちあなくつちやなんねえ」

彼はつぶやいた。

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かれつぶやいた。

次の朝、彼は夜明け前にかじ屋へ走った。

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つぎあさかれ未明みめい鍛冶かぢはしつた。

「わしは行って来ますから、この子らのことを見ていておくんなせえ」

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「わしつてあんすから、此等こつらことてゝおくんなせえ」

おつぎと与吉とを南の家の女の人にたのんだ。

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おつぎと與吉よきちとをみなみ女房にようばうたのんだ。

「ほかへは行くんじゃないぞ。いいか、よきは泣かさないようにしてるんだぞ」

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ほかへはくんぢやねえぞ、えゝか、よきはかさねえやうにしてんだぞ」

彼はおつぎにも言って出た。

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かれはおつぎへもいつてた。

おつぎは、そんな注意を人前でされることが、もうはずかしくていやな気持ちがするようになっていた。

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おつぎは其麽そんな注意ちうい人前ひとまへでされることがもうはづかしくいや心持こゝろもちがするやうになつた。

勘次は鬼怒川のわたしをこえて土手を伝って、柄のないくわを持って行った。

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勘次かんじ鬼怒川きぬがはわたしえて土手どてつたひて、のない唐鍬たうぐはつてつた。

かじ屋はそのとき仕事がたまっていたが、それでもこういう仕事になくてはならない道具というと、どこでもそういうもので、すぐに作ってくれた。

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鍛冶かぢとき仕事しごとつかへてたが、それでもういふ職業しよくげふくべからざる道具だうぐといふと何處どこでもさういふれいすみやかこしらへてくれた。

「ずいぶんらんぼうなことをしたと見えるっけな。おれも近ごろになって、これくらいなくわをめったに打ったことはないよ」

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隨分ずゐぶんあれえことしたとえつけな、らも近頃ちかごろになつてくれえな唐鍬たうぐは滅多めつたつたこたあねえよ、」

かじ屋はその赤く熱したくわをしばらくつちでたたいて、それから地面にすえたおけの、どろをといたような水へじゅうとひたして、さらにまた小さなつちでちんちんとたたいて

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鍛冶かぢあかねつした唐鍬たうぐはしばらつちたゝいて、それから土中どちうゑたをけどろいたやうなみづへぢうとひたして、さらまたちひさなつちでちん/\とたゝいて

「今度こそ大丈夫だ。前にはどうしてひびなんぞ入ったっけかい」

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「こんだこさ大丈夫だいぢようぶだ、せんにやどうしてひゞなんぞいつたけかよ」

かじ屋は汗のひたいを勘次に向けて

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鍛冶かぢあせひたひ勘次かんじけて

「柄がへし折れないうちは動きっこないから」

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つちよれねえうちはいごきつこねえから」

と言って、また

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といつてまた

「体のわりにしちゃ、けたはずれだな」

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身體からだわりにしちやえな」

と、かじ屋はほほえんだ。

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鍛冶かぢ微笑びせうした。

鉄のにおいのするくわを提げて、勘次はまた土手を走った。

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てつにほひのする唐鍬たうぐはげて勘次かんじまた土手どてはしつた。

その日も西風が、かれ木の林から麦畑から、そして鬼怒川をわたってふいた。

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西風にしかぜ枯木かれきはやしから麥畑むぎばたけからさうして鬼怒川きぬがはわたつていた。

鬼怒川の水は白い波が立って、遠くからはそれがあわ立ったはだのように、ただこそばゆく見えた。

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鬼怒川きぬがはみづしろなみつて、とほくからはそれがあはしやうじたはだへのやうにたゞこそばゆくえた。

西風は川にふき落ちるとき、西岸のしのをざわざわとゆらす。

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西風にしかぜかはちるとき西岸せいがんしのをざわ/\とゆるがす。

さらに東岸の土手を伝ってふき上げるとき、土手のみじかいかれ芝の葉を一まいずつはげしくなびかせた。

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さら東岸とうがん土手どてつたうてげるとき土手どてみじか枯芝かれしば一葉ひとはづゝはげしくなびけた。

そのかれ芝のあいだに、どうしたものか気まぐれなたんぽぽの黄色い頭がぽつぽつと見える。

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枯芝かれしばあひだにどうしたものかまぐれな蒲公英たんぽ黄色きいろあたまがぽつ/\とえる。

どうかすると土手は静かで暖かなことがあるので、つい、だまされて、たんぽぽがまだ遠い春をじれったそうに首を出してみては、また寒くなったのにおどろいて縮こまったようなすがたである。

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どうかすると土手どてしづかであたゝかなことがあるので、つひだまされて蒲公英たんぽがまだとほはる遲緩もどかしげにくびしてては、またさむつたのにおどろいてちゞまつたやうな姿すがたである。

勘次はくわを持って、また自分の力を取りもどせたように、それからまた一日仕事を休めば体じゅうがみりみりして、なんだか分からないがその仕事にせかされてならないような気がした。

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勘次かんじ唐鍬たうぐはつて自分じぶん活力くわつりよく恢復くわいふくたやうに、それからまたにち仕事しごとおこたれば身内みうちがみり/\してなんだからぬが仕事しごと催促さいそくされてらぬやうな心持こゝろもちがした。

鬼怒川の水は減って、こちらの土手からつづく大きな中州が、その流れを西岸のしのの下までせばめている。

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鬼怒川きぬがはみづちて此方こちら土手どてからつらなつておほきなながれを西岸せいがんしのしたまでちゞめてる。

広く、そして遠くまでつづく中州には、ただ西風がかわいた砂をさらさらとはくようにしてふいている。

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ひろかつとほにはたゞ西風にしかぜわづかかわいたすなをさら/\とくやうにしていてる。

それで、白くかわいた中州はただからりときれいに見える。

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それでしろ乾燥かんさうしたたゞからりと清潔せいけつえる。

そういう中に、どうしたものかこれも気まぐれな人が、遠くからは砂から生えたように見えて、ちらほらと散らばって少しずつ動いている。

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さういふあひだにどうしたものかれもまぐれなひとが、とほくはすなからえたやうにえてちらほらとらばつてすこしづゝうごいてる。

勘次は土手から下りて見た。

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勘次かんじ土手どてからおりてた。

動いている人々は、万能ぐわでその砂をほっているのだった。

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うごいて人々ひと/″\萬能まんのうすなつてるのであつた。

西風がかわかしてはさらさらとはいていても、中州にはまだいくらか波のあとがついている。

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西風にしかぜかわかしてはさらさらといててもにはなほいくらかなみあとがついてる。

その砂の中からは、みじかい木のかけらが出る。

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そのすななかからはみじか木片もくへんる。

十センチから二十センチくらい、まれには三十センチくらいのものもほり起こされる。

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二三すんから五六すんぐらゐまれには一しやくぐらゐなものもおこされる。

みな、すり減ったような木のかけらばかりである。

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みなへらしたやうな木片もくへんのみである。

人々は冷たくなった手を口へ当てて、白い暖かい息をふきかけながら、いっしんに先へ先へとほり起こしながら行く。

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人々ひと/″\つめたくつたくちてゝしろあたゝかいいきけながら一しんさきさきへとおこしつゝく。

「どうするんだね」

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「どうするんだね」

勘次は一人のそばへ立って聞いた。

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勘次かんじ一人ひとりそばつていた。

ひょいと顔を上げたのは、おばあさんだった。

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ひよつとくびもたげたのはばあさんであつた。

おばあさんは腰をのばして、強い西風によろける足をふみしめて

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ばあさんはこしをのしてつよ西風にしかぜによろけるあしふみしめて

「これをほしておいて燃やすのさ」

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していてすのさ」

と、よごれた白髪と手ぬぐいをふかれながら、目をしかめて言った。

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きたな白髮しらが手拭てぬぐひとをかれながらしかめていつた。

「どうしても、こうなっちゃべろべろ燃えて、あっけないだろうね」

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「どうしてもつちやべろ/\えて飽氣あつけなかんべえね」

勘次は聞いた。

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勘次かんじいた。

「赤い灰になってな、火も弱いのさ。そんでも、しばを買うよりはいいからな。松のしばだといったって、こっちのほうへ来ちゃ、生で三十五たばだの何だのって、小さいくせにな。おれのようなばあさんでも十たばくらいは背負えるんだもの。近ごろじゃ燃す物がいちばん不自由で仕方がないのさな」

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あけはひつてな、えのさ、そんでも麁朶そだあよりやえゝかんな、松麁朶まつそだだちつたつてこつちのはうちやなまで卅五だのなんだのつて、ちつちえくせにな、らやうなばゝあでも十ぐれえ背負しよへんだもの、近頃ちかごろぢやもうものが一ばん不自由ふじようやうねえのさな」

おばあさんは言った。

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ばあさんはいつた。

「松のしばで三十五たばならそうばはそうでもないが、商人がたばね直すんだから小さくもなるはずだな」

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松麁朶まつそだで卅五ぢや相場さうばはさうでもねえが、商人あきんどがまるきなほすんだからちひさくもなるはずだな」

勘次は首をかしげて言った。

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勘次かんじくびかたむけていつた。

「そうなんだろうよなあ。そりゃそうと、お前さんはどこだね」

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「さうだごつさらよなあ、そりやさうとおめえさん何處どこだね」

万能ぐわをつえにして、おばあさんは言った。

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萬能まんのうつゑにしてばあさんはいつた。

「おれは川向こうさ」

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川向かはむかうさ」

「そんじゃ、燃す木はある所だね」

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「そんぢやもうとこだね」

おばあさんはさらに勘次のくわを見て

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ばあさんはさら勘次かんじ唐鍬たうぐは

「たいしたくわだが、よっぽどするんだろうな」

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「たいした唐鍬たうぐはだがぽどすんだつぺな」

「そうさ、今打たせちゃ三十もんめの物はきっとするな」

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「さうさいまたせちや三十掛さんじふがけ屹度きつとだな」

「三十もんめっていくらするんだろう。目方もしっかりあるだろうな」

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三十掛さんじふがけツちやいくらするごつさら、目方めかたもしつかりかゝんべな」

「一貫目もないがな」

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一貫目いつくわんめもねえがな」

勘次は自まんらしく、おばあさんにくわを持たせた。

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勘次かんじ自慢じまんらしくばあさんへ唐鍬たうぐはたせた。

「おおいや、おれには持ち上がらないようだ。お前さん自分で使うのかいまあ。何だろうよ、こんな道具は」

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「おういや、らがにやつたゝねえやうだ、おめえさん自分じぶん使つかあのけまあ、なにしたごつさらよんな道具だうぐなあ」

「毎日木の根っこを起こしてたんだが、くわのひつがいたんじまったから、直しに来たところさ」

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毎日まいんち木根きねおこしてたんだが、唐鍬たうぐはのひついためつちやつたからなほとこさ」

「そんじゃ、お前さんは燃す物には不自由なしでいいな」

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「そんぢやおめえさんもうものにや不自由ふじいうなしでえゝな」

おばあさんはうらやましそうに言った。

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ばあさんはうらやましさうにいつた。

そして、小さな木のかけらを入れるために持って来た麻のよごれたふくろを、草かりかごから出した。

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さうしてちひさな木片もくへんいれためもつあさきたなふくろ草刈籠くさかりかごからした。

わずかに鬼怒川の水をへだてて、西は林がつづいている。

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わづか鬼怒川きぬがはみづへだてゝ西にしはやしつらなつてる。

村も田も畑も、その林につつまれている。

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村落むらはたけはやしつゝまれてる。

東はただ低い水田と畑で、村がそのあいだにぽつぽつとある。

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ひがしたゞひく水田すゐでんはたけとで村落むらあひだ點在てんざいしてる。

そこには、家をかこんでわずかな木立があるばかりである。

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其處そこいへかこんでわづかな木立こだちるばかりである。

だから、たきぎが足りなくて豆のからや藁のような物もみな燃やす物としてしまってあることは、勘次もよく知っていた。

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したがつてたきゞ缺乏けつばふから豆幹まめがらわらのやうなものもみな燃料ねんれうとして保存ほぞんされてることは勘次かんじつてた。

しかし、そのたきぎが足りないために、こういう砂の中にこう水が運んできた木のかけらがうまっているのを知って、これを集めているのだということは、彼は初めて見て初めて知った。

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しかたきゞ缺乏けつばふから自然しぜんにかういふすななか洪水こうずゐもたらした木片もくへんうづまつてるのをつてこれもとめてるのだといふことはかれはじめてはじめてつた。

彼はめったに川をこえて出ることはなかったのである。

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かれ滅多めつたかはえてることはなかつたのである。

勘次の家のかべぎわには、たきぎがいっぱいに積まれてある。

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勘次かんじ自分じぶん壁際かべぎはにはたきゞが一ぱいまれてある。

そのうえ開こんの仕事をしているので、なんといってもたきぎはだんだん増えて行くばかりである。

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そのうへ開墾かいこん仕事しごとたづさはつてなんといつてもたきゞ段々だんだんえてくばかりである。

さらに、その開こんにいちばん大事な道具が、今は直って自分の手に提げられている。

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さら開墾かいこんだい一の要件えうけんである道具だうぐいま完全くわんぜんして自分じぶんげられてある。

彼は、こんな苦労をしてまでわずかな木のかけらを集めている人々の前で、ほこらしさを感じた。

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かれういふ辛苦しんくをしてまでも些少させう木片もくへんもとめて人々ひとびとまへほこりかんじた。

彼は自分の暮らしがどんなものかは思わなかった。

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かれ自分じぶん境遇きやうぐう什麽どんなであるかはおもはなかつた。

またこういう人々のあわれさも、思いやるひまがなかった。

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またういふ人々ひとびとあはれなこともおもひやるいとまがなかつた。

そして彼は、自分のうでまえがゆかいになった。

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さうしてかれ自分じぶん技倆うで愉快ゆくわいになつた。

彼はふたたび土手から見下ろした。

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かれふたゝ土手どてからおろした。

万能ぐわを持っているのはみな女で、十三、四の子もまじっているのだった。

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萬能まんのうつてるのはみなをんなで十三四のまじつてるのであつた。

人々のほり起こしたあとは、畑の土をみみずが持ち上げたような形に、しめった砂がうねうねとつづいているのが彼の目にうつった。

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人々ひと/″\おこしたあとはたけつち蚯蚓みゝずもたげたやうなかたちに、しめつたすなのうね/\とつらなつてるのがかれうつつた。

彼は家に帰るとすぐ、くわの柄をつけた。

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かれうちかへるととも唐鍬たうぐはつけた。

なたのみねで鉄のくさびを打ちこんで、そして柄を持って動かしてみた。

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なた刀背みねてつくさびんでさうしてつてうごかしてた。

次の朝から、もう勘次のすがたは林に見られた。

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つぎあさからもう勘次かんじ姿すがたはやし見出みいだされた。

主人からもらった穀物は、彼の家族を暖めた。

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主人しゆじんからあたへられた穀物こくもつかれの一あたゝめた。

彼は近ごろにない心のゆとりを感じた。

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かれ近來きんらいにないこころ餘裕よゆうかんじた。

しかし、そんなわずかな、彼にとって運のいいことでも、いくらか他人のねたみをまねいた。

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しかしさういふわづかかれさいはひした事柄ことがらでもいくらか他人たにん嫉妬しつとまねいた。

ほかの百姓にも、もがいている者はいくらもいる。

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百姓ひやくしやうにも悶躁もがいてものいくらもある。

そういう仲間のあいだでは、わずか五円のお金でも、それがふところに入ったとなればすぐに人の目に立つ。

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さういふ伴侶なかまあひだにはわづかに五ゑん金錢かねでもそれはふところはひつたとなればすぐ世間せけんつ。

彼らはいくらかでも自分のためになることを見つけようとするほかに、目をするどくしてまわりに気をくばっているのである。

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彼等かれらいくらづゝでも自分じぶんためになることを見出みいださうといふことのほかに、そばたてゝ周圍しうゐ注意ちういしてるのである。

彼らは、他人が自分と同じかそれ以上に苦しんでいると思っているあいだは、たがいに苦しんでいることに一種の安心を感じるのである。

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彼等かれら他人ひと自分じぶん同等どうとう以下いかくるしんでるとおもつてあひだ相互さうごくるしんでることに一しゆ安心あんしんかんずるのである。

しかし、その一人でもふところのいいのが目につけば、自分だけ後ろに置いていかれたような、ひどく切ない変な気持ちになって、そこにねたみの心が起こるのである。

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しか一人ひとりでもふところのいゝのがにつけば自分じぶんあとてられたやうなひどせつないやうなめう心持こゝろもちになつて、そこに嫉妬しつとねんおこるのである。

だから彼らは、他人のしくじりを見ると、そのひがんだ心の中にこっそりと痛快さを感じずにはいられないのである。

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それだから彼等かれら蹉跌つまづきるとそのひがんだこゝろうちひそか痛快つうくわいかんぜざるをないのである。

勘次の家には、たきぎが山のように積まれてある。

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勘次かんじいへにはたきゞやまのやうにまれてある。

それが彼らの仲間の目を引いた。

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それが彼等かれら伴侶なかま注目ちうもくいた。

それとなく、何度も彼の主人に告げ口された。

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それとはなしに數次しばしばかれ主人しゆじんげられた。

開こん地で木を燃やした、その灰まで家へ運んだということまで、主人の耳に入った。

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開墾地かいこんちいたそのはひをもいへはこんだといふことまで主人しゆじんみゝはひつた。

勘次は開こんの手間ちんをわりと多くもらうかわりに、くぬぎの根は一つも持ち帰らないやくそくだった。

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勘次かんじ開墾かいこん手間賃てまちん比較的ひかくてき餘計よけいあたへられるかはりにはくぬぎは一つもはこばないはずであつた。

彼らの仲間は、そういうことも知っていた。

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彼等かれら伴侶なかまはさういふことをもつてた。

昼ごはんの後や、手が冷たくなったときなどに、彼はそこらの木を集めて燃やす。

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晝餐ひるあとつめたくつたときなどにはかれはそこらのあつめてやす。

木の根がくすぶって、いつも青いけむりが少しずつ立っている。

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くすぶつていつでもあをけむりすこしづゝつてる。

彼はそのけむりからだんだん遠ざかりながら、くわを打ちこんでいる。

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かれそのけむり段々だんだんとほざかりつゝ唐鍬たうぐはんでる。

毎日、火は別の所でたかれた。

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毎日まいにちべつところかれた。

彼は必ずその灰をかき払ってから帰ったのである。

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かれ屹度きつとはひいでつたのである。

しかしかべぎわに積んだ木の根は、そこに正しくない物がまじっているにしても、大部分は彼のはげしい苦労から手に入れたものである。

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しか壁際かべぎはんだはそこには不正ふせいなものがまじつてるにしても、大部分だいぶぶんかれ非常ひじやう勞苦らうくからたものである。

彼は林の持ち主にたのんでほったのである。

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かれはやし持主もちぬしうてつたのである。

それでも、あまりに人のうわさがうるさいので、主人はただいくらかでもこれからのいましめにしようと思った。

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それでもあまりにひとくち八釜敷やかましいので主人しゆじんたゞ幾分いくぶんでも將來しやうらいいましめをしようとおもつた。

その前から勘次は、秋になればほしてある稲をぬすむとかいうかげ口をたたかれて、巡査の手帳にものっているのだというようなことが言われていたのだった。

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以前いぜんから勘次かんじあきになれば掛稻かけいねぬすむとかいふ蔭口かげぐちかれて巡査じゆんさ手帖ててふにもつてるのだといふやうなことがいはれてたのであつた。

主人はそれでも、こっそり人を使って、木の根を運んだかどうかを聞かせてみた。

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主人しゆじんはそれでもひそかひともつはこんだかどうかといふことをかせてた。

彼が気づいてあやまるなら、それで済ませてやろうと思ったからである。

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かれこゝろづいて謝罪しやざいするならばそれなりにしてらうとおもつたからである。

彼には主人の心を知るすべはなかった。

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かれ主人しゆじんこゝろよしはなかつた。

「どこでも見たほうがようがす。わしはけっして運んだ覚えなんざないから」

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何處どこでもはうがようがす、わしはけつしてはこんだおぼえなんざねえから」

彼はおそろしいけんまくできっぱりことわった。

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かれおそろしい權幕けんまくできつぱりことわつた。

主人は村の駐在所の巡査に耳打ちをした。

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主人しゆじんむら駐在所ちうざいしよ巡査じゆんさ耳打みゝうちをした。

巡査はある日、ぶらっと勘次の家へ行った。

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巡査じゆんさあるぶらつと勘次かんじうちつた。

その日は朝から雨なので、勘次は仕事にも出られず、火ばちへ少しずつ木の根をくべて当たっていた。

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あさからあめなので勘次かんじ仕事しごとにもられず、火鉢ひばちすこしづゝべてあたつてた。

「雨で困ったな。勘次はだいぶがんばってるそうだな」

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あめこまつたな、勘次かんじ大分だいぶ勉強べんきやうするさうだな」

巡査は腰の刀のさやをつかんで言った。

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巡査じゆんさ帶劍たいけんさやつかんでいつた。

「へえ」

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「へえ」

勘次は急にひざをすわり直した。

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勘次かんじきふひざなほした。

表の戸口へひょっこり現れた巡査の、外とうのずきんを深くかぶった顔が、勘次にはただおそろしく見えた。

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おもて戸口とぐちへひよつこりあらはれた巡査じゆんさの、外套ぐわいたう頭巾づきんふかかぶつてかほ勘次かんじにはたゞおそろしくえた。

そして、その声がとげをふくんでひびいた。

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さうしてこゑとげふくんでひゞいた。

巡査はぶらりと家の横手へ行って、かべぎわの木の根を見た。

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巡査じゆんさはぶらりといへ横手よこてつて壁際かべぎはた。

勘次は巡査の後についていった。

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勘次かんじ巡査じゆんさあとからいてつた。

「だいぶあるな。これはまた、わしが来るまで動かしちゃならないからな」

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大分だいぶるな、れはまたわしのるまでうごかしちやならないからな」

巡査は言った。

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巡査じゆんさはいつた。

勘次は青くなった。

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勘次かんじあをくなつた。

「これらはわしがゆるしをもらってほったんでがすから、どことどこって、あなまでちゃんと分かってるんでがすから」

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らわしがもらつてつたんでがすから何處どこ何處どこつてあなまでちやんとわかつてんでがすから」

彼は慌てて言った。

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かれあわてゝいつた。

「そんなことはどうでもいいんだ。動かすなと言ったら動かさなけりゃいいんだ」

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「そんなことはどうでもいゝんだ、うごかすなといつたらうごかさなけりやいゝんだ」

巡査は息できりのように少しぬれた口ひげをひねりながら

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巡査じゆんさ呼吸いききりのやうにすこれた口髭くちひげひねりながら

「くぬぎの根がだいぶあるようだな」

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くぬぎ大分だいぶあるやうだな」

と言い残して去った。

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といひてゝつた。

勘次は雨に打たれながら、ぼうっとして庭に立っている。

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勘次かんじあめたれつゝ喪心さうしんしたやうににはつてる。

戸口のかげにかくれて聞いていたおつぎは、巡査が去った後、やっとすがたを現した。

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戸口とぐちかげかくれていてたおつぎは巡査じゆんさつたのちやうや姿すがたあらはした。

「おとっつあん」

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「おとつゝあ」

と小声で呼んだ。

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小聲こごゑんだ。

「そんだから、おれは持って来るなって言ったのに」

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「そんだからつてんなつてゆつたのに」

さらに小声でおつぎは言った。

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さら小聲こごゑでおつぎはいつた。

「おとっつあん、どうしたもんだろうな」

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「おとつゝあ、どうしたもんだべな」

おつぎは聞いた。

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おつぎはいた。

「おれは旦那に見放されちゃ、とても助からないだろう」

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旦那だんな見放みはなされちや、とつてたすかれめえ」

勘次はやっとこれだけ言った。

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勘次かんじやうやれだけいつた。

「おとっつあん、それじゃ旦那にあやまったらどうだろう」

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「おとつゝあ、それぢや旦那だんな謝罪あやまつたらどうしたもんだんべ」

「そんなこと言ったって、聞いてくれるか分かるもんか」

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「そんなことゆつたつて、くかかねえかわかるもんか」

「南のおとっつあんにでもたのんでみたらどうだろう」

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みなみのおとつゝあげでもたのんでたらどうしたもんだんべ」

「お前らがたのまなくたっていいから」

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汝等わつらたのまなくつたつてえゝから」

「そんじゃ、おとっつあん、くぬぎの根っこさえなけりゃいいんだろうか」

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「そんぢやおとつゝあ、くぬぎせえなけりやえゝんだんべか」

「そんだって、お前、駐在所に見られちまったもの、仕方があるもんか」

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「そんだつてわれ駐在所ちうざいしよられつちやつたものやうあるもんか」

勘次はそれでも、ほかに考えもないので、仕方なしに桑畑をこえて南の家へおわびをたのみに行った。

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勘次かんじはそれでも分別ふんべつもないので仕方しかたなしに桑畑くはばたけこえみなみわびたのみにつた。

彼は古いすげがさをちょっと頭にかざして、首を縮めて行った。

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かれふる菅笠すげがさ一寸ちよつとあたまかざしてくびちゞめてつた。

主人の返事は、とにかく明日のことにするからと言っただけだという返事である。

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主人しゆじん挨拶あいさつかく明日あすのことにするからといつただけだといふ返辭へんじである。

勘次はげっそりとして家へ帰ると、ふとんをかぶってしまった。

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勘次かんじはげつそりとしてうちかへると蒲團ふとんかぶつてしまつた。

おつぎは自分も毎日行っていたので、開こん地から運んだくぬぎの根はみな知っている。

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おつぎは自分じぶん毎日まいにちつてたので開墾地かいこんちからはこんだくぬぎみなつてる。

おつぎは、そのくぬぎの根を一人でこっそり引き出した。

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おつぎはくぬぎひとりでひそかした。

そして夕暮れに、おつぎはそれを草かりかごへ入れて、後ろの竹やぶの中の古い井戸へ投げ落とした。

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さうして黄昏時たそがれどきにおつぎはそれを草刈籠くさかりかごれてうしろ竹藪たけやぶなか古井戸ふるゐどおとした。

古い井戸は暗く、そして深い。

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古井戸ふるゐどくらくしてかつふかい。

おつぎは冷たい雨にぬれて、少しちぢれた髪が乱れてくったりとほおについて、足にはくちた竹の葉がくっついている。

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おつぎはつめたいあめれてさうしてすこちゞれたかみみだれてくつたりとほゝいてあしにはちたたけがくつゝいてる。

「おとっつあん」

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「おとつゝあ」

おつぎは勘次を呼び起こした。

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おつぎは勘次かんじおこした。

「おれはくぬぎの根っこを捨てたぞ」

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くぬぎうつちやつたぞ」

おつぎはさらに声を殺して言った。

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おつぎはさらこゑころしていつた。

勘次はひょっこり起きて、何も言わずにおつぎの顔をじっと見つめた。

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勘次かんじはひよつこりきてなにもいはずにおつぎのかほ凝然ぢつつめた。

暗い家の中に、やっと手ランプがともされた。

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くらうちなかにはやうやランプがともされた。

勘次もおつぎも、ただその目が光って見えた。

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勘次かんじもおつぎもたゞひかつてえた。

次の日、巡査はとなりのやとわれ人を連れて来てかべぎわの木の根を調べさせたが、くぬぎの根は思ったより少なかった。

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つぎ巡査じゆんさとなり傭人やとひにんれて壁際かべぎはしらべさせたがくぬぎ案外あんぐわいすくなかつた。

それでも、おつぎの手では捨てきれなかったのである。

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それでもおつぎのではれなかつたのである。

「これはくぬぎがもっとあったはずじゃないか。勘次はどうかしやしないか」

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りやくぬぎがもつとつたはずぢやないか勘次かんじはどうかしやしないか」

巡査はこう言ってあたりを見たが、勘次の小さな家のどこにもそれは見つからなかった。

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巡査じゆんさういつてあたりをたが勘次かんじちひさな建物たてもの何處どこにもそれは發見はつけんされなかつた。

そうは言っても実さい、巡査の目にはくぬぎとほかの雑木とをはっきり見分けることはできなかったのである。

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さういつても實際じつさい巡査じゆんさにはくぬぎほか雜木ざふきとを明瞭めいれう識別しきべつなかつたのである。

「勘次、それじゃこれを持ってついて来るんだ」

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勘次かんじ、それぢやれをつていてるんだ」

巡査は言った。

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巡査じゆんさはいつた。

勘次はふるえた。

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勘次かんじふるへた。

「草かりかごでも何でもいい、これを入れて後からついて来い」

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草刈籠くさかりかごでもなんでもいゝ、れをれてあとからいて」

「へえ、どこまで持って行くんでしょう」

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「へえ、何處どこまでつてくんでがせう」

勘次はためらっている。

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勘次かんじ逡巡ぐつ/\してる。

「どこまででもいいんだ」

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何處どこまでゝもいゝんだ」

巡査はどなって、ぴしゃりと手の甲で勘次のほおをたたいた。

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巡査じゆんさ呶鳴どなつてぴしやりと横手よこて勘次かんじほゝたゝいた。

勘次は草かりかごを背負って、巡査の後についてゆき、主人の家の裏庭へ連れて行かれた。

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勘次かんじ草刈籠くさかりかご脊負せおつて巡査じゆんさあといて主人しゆじんいへ裏庭うらにはみちびかれた。

巡査が縁側の座ぶとんに腰をかけたとき、勘次はかごを背負ったまま首をうなだれて立った。

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巡査じゆんさ縁側えんがは坐蒲團ざぶとんこしけたとき勘次かんじかご脊負せおつたまゝくびれてつた。

それはあまりに見えすいた仕組みなので、さすがに分別のある主人は出て来なかった。

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それはあまりにいた仕事しごとなので有繋さすが分別盛ふんべつざかり主人しゆじんなかつた。

おかみさんが出た。

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内儀かみさんがた。

勘次はますますしおれた。

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勘次かんじます/\しほれた。

「勘次、お前まあそれを置いて、ここへかけてみたらどうだね」

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勘次かんじ、おまへまあそれをいて此處こゝけてたらどうだね」

おかみさんは言った。

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内儀かみさんはいつた。

勘次はそれでも、ただ立っている。

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勘次かんじはそれでもたゞつてる。

「品物はこれだけだったんでしょうか」

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品物しなものこれだけなんでしたらうか」

おかみさんは巡査に聞いた。

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内儀かみさんは巡査じゆんさいた。

「これくらいのものらしいようでしたな。思ったより少なかったんですな」

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くらゐのものらしいやうでしたな、案外あんぐわいすくなかつたんですな」

巡査は手帳をめくりながら言った。

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巡査じゆんさ手帖ててふ反覆くりかへしながらいつた。

「そうでございますか」

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「さうでございますか」

おかみさんは巡査に会しゃくして、そして

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内儀かみさんは巡査じゆんさ會釋ゑしやくしてさうして

「どうしたね勘次、こうして連れて来られてもいい気持ちはすまいね」

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「どうしたね勘次かんじうしてれてられてもいゝ心持こゝろもちはすまいね」

と言った。

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といつた。

藁ぞうりをはいた勘次のつま先に、なみだがぽつりと落ちた。

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藁草履わらざうり穿いた勘次かんじ爪先つまさきなみだがぽつりとちた。

「こんなことでお前、世間がさわがしくて仕方がないのでね、私の所でも本当に困ってしまうんだよ」

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「こんなことでおまへ世間せけんさわがしくてやうがないのでね、わたしところでも本當ほんたうこまつてしまふんだよ」

おかみさんは巡査をちょっと見て、そして

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内儀かみさんは巡査じゆんさ一寸ちよつとてさうして

「これからきっとやらないなら、今日の所だけは大目に見ていただいて、警察へ連れて行かれないようにお願いしてみてあげるがね、どうしたもんだね」

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れから屹度きつとやらないなら今日けふところだけは大目おほめいたゞいて警察けいさつれてかれないやうにうかゞつててあげるがね、どうしたもんだね」

と勘次に言った。

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勘次かんじへいつた。

「どうかもう、けっしてやりませんから、へえ、おかみさん、どうぞ」

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何卒どうぞはあ、けつしてやりませんから、へえお内儀かみさんどうぞ」

勘次は草かりかごを背負って前かがみになった体を、何度も何度も下げて言った。

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勘次かんじ草刈籠くさかりかご脊負せおうて前屈まへかゞみになつた身體からだ幾度いくどかゞめていつた。

なみだがまたぼろぼろと着物のすそからはねて、ぽつぽつと庭の土に点をつけた。

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なみだまたぼろ/\ときものすそからねてほつ/\とにはつちてんじた。

「いかがなもんでございましょうね、これは」

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如何いかゞなもんでござんせうねれは」

おかみさんはほほえみをふくんで、巡査に向かって言った。

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内儀かみさんは微笑びせうふくんで巡査じゆんさむかつていつた。

「そうですなあ」

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「さうですなあ」

巡査は首をかしげて言って、さらに腰の刀のさやをひざに取って

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巡査じゆんさくびかたむけていつてさら帶劍たいけんさやひざへとつて

「どうだ勘次、これからつつしめるか。この次にこんなことがあったら、かれえだ一本でもゆるさないからな。今日はまあこれで帰れ。そのくぬぎの根はここへ置いて行くんだぞ」

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「どうだ勘次かんじ以來いらいつゝしめるか、つぎにこんなことがつたら枯枝かれえだ一つでもゆるさないからな、今日けふはまあれでかへれ、くぬぎ此處こゝいてくんだぞ」

勘次は草かりかごを下ろそうとした。

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勘次かんじ草刈籠くさかりかごおろさうとした。

「そんなものをこの庭へ置けというんじゃないんだ。置く所は知ってるんだろう。分からない奴だな。それ、うっかりしないで足元を気をつけるんだ」

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「そんなものにはけといふんぢやないんだ、ところつてるんだろう、わからないやつだな、それうつかりしないで足下あしもとをつけるんだ」

巡査はしかった。

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巡査じゆんさしかつた。

勘次はそっと土をふんで庭を出た。

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勘次かんじはそつとつちんでにはた。

門の外には、おつぎが与吉を連れてすすり泣いている。

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もんそとにはおつぎが與吉よきちれて歔欷すゝりなきしてる。

与吉はおつぎが泣くのを見て、自分も声を上げる。

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與吉よきちはおつぎのくのを自分じぶんこゑはなつ。

おつぎは声がもれないように、たもとでそれをおおっている。

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おつぎはこゑれぬやうにたもとでそれをおほうてる。

「よき、泣かないで帰れ」

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「よきかねえでえれ」

勘次は与吉の手を取った。

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勘次かんじ與吉よきちつた。

三人は黙って歩いた。

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にんだまつてあるいた。

やとわれ人たちは笑って、勘次のようすを見ていた。

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傭人等やとひにんらわらつて勘次かんじ容子ようすた。

「おとっつあん、どうだったっけ」

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「おとつゝあ、どうしたつけ」

おつぎは家に帰るとすぐ聞いた。

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おつぎはうちかへるとともいた。

「そんでもまあ大丈夫になった。くぬぎの根っこがなくて助かった」

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「そんでもまあ大丈夫だいぢやうぶになつた、くぬぎなくつてたすかつた」

勘次はげっそりと力なく言った。

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勘次かんじはげつそりとちからなくいつた。

「おれは昨日は重たくてひどかったっけぞ。そのせいか今日は肩が痛いや」

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昨日きにやうおもたくつてひどかつたつけぞ、所爲せゐ今日けふかたいてえや」

おつぎはうれしそうに言った。

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おつぎはよろこばしげにいつた。

「おれがここでいなくなっちゃ、お前らも大変だったな」

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おらこゝでなくなつちや汝等わツら大變たえへんだつけな」

勘次はしばらく間を置いて、ぽつりと言った。

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勘次かんじあひだしばらいてぽさ/\としていつた。

このことがあってからも、勘次のすがたはすぐにくわを持って林の中に見られた。

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ことがあつてからも勘次かんじ姿すがたすぐ唐鍬たうぐはつてはやしなか見出みいだされた。

五、六日たって、勘次は針立てと針箱を買って来た。

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五六にちつて勘次かんじ針立はりだて針箱はりばことをつてた。

「おつう、お前もこれからおはりのけいこに行けるからな。そら、これを持って行くんだ。おっかあが持ってた古いのなんざ、はずかしくていやだなんて言うから、これでもおとっつあんはひどい高いお金で買って来たんだぞ。それから、いいの悪いのってふくれたりするんじゃないぞ、なあ」

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「おつう、われれからおはりにいけつかんな、そらつてぐんだ、おつかゞつてたふるいのなんざあ外聞げえぶんわるくつてだなんていふから、んでもおとつゝあひでぜねつてたんだぞ、それからえだのわりいだのつてふくれたりなにつかすんぢやねえぞ、なあ」

勘次はまた

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勘次かんじまた

「よき、お前はおとっつあんのそばにいるんだぞ。いいか、姉ちゃんはこれからお前の着物を作るのでおはりに行くんだからな。言うことを聞かないとひどいぞ」

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「よきわれはおとつゝあがそばるんだぞ、えゝか、ねえこれからわれ衣物きものこせえんでおはりくんだかんな、かねえとひでえぞ」

と、与吉をだいてよく言い聞かせた。

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與吉よきちいてくいひふくめた。

おつぎはそれから、村の中へ近所のむすめといっしょに通った。

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おつぎはそれから村内そんない近所きんじよむすめともかよつた。

おつぎは与吉の小さなひとえをぬい上げたとき、その風呂しきづつみをかかえて、いそいそと帰って来た。

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おつぎは與吉よきちちひさな單衣ひとへもの仕上しあげたとき風呂敷包ふろしきづゝみかゝへていそ/\とかへつてた。

おつぎは針を持つようになってから、きびきびとして、急に大人びて来たように見えた。

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おつぎははりつやうにつてからはき/\としてにはかにませてたやうにえた。

おつぎはもう十六である。

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おつぎはもう十六である。

苦労の中にいるだけに、去年からくらべればどれほど大人らしくなって勘次の助けになったか知れない。

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辛苦しんくあひだだけ去年きよねんからではほど大人おとなびて勘次かんじたすけるかれない。

ことに秋のころからは、ずいぶん気もきくようになって、死んだお品に似て来たと他人には言われるのだが、毎日いっしょにいる自分にも、そう言えば体つきまでどうやらそう見えて来たと、勘次も心の中で思った。

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ことあきころつてからは滅切めつきり機轉きてんくやうになつて、んだおしなたと他人ひとにはいはれるのであるが、毎日まいにちひとつに自分じぶんにもさういへば身體からだ恰好かつかうまでどうやらさうえてたと勘次かんじこゝろおもつた。

おつぎは今が遊びたいさかりだが、勘次からは一日でもたった一人にされたことがない。

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おつぎはいまあそびたいさかりに這入はひつたのであるが、勘次かんじからは一日いちにちでもたゞ一人ひとりはなされたことがない。

村の休みの日には近所の女の人に連れられて出てみることもあるが、必ず与吉がくっついているのと、自分は炊事をかかせないのとで、昼ごはんでも晩ごはんでもほかの人より早く帰って来なければならない。

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むら休日ものびには近所きんじよ女房にようばうれられてることもあるが、屹度きつと與吉よきちがくつゝいてるのと、自分じぶん炊事すゐじかすことが出來できないのとで晝餐ひるでも晩餐ばんでも他人ひとよりはやかへつてなければならない。

「おれはいっそ、お祭りなんざないほうがいい。そうでさえなけりゃ、出たいと思わないから」

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らいつそものなんざはうがえゝ、さうでせえなけりやてえたおもはねえから」

おつぎはつくづくつぶやくことがあった。

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おつぎはつく/″\つぶやくことがあつた。

「どうにかおれだってするから」

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「どうにからだつてつから」

おつぎのつぶやくのを聞いて、勘次はさすがに心が切なくなる。

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おつぎのつぶやくのをいて勘次かんじ有繋さすがこゝろせつなくなる。

それで言いようがなくて、こうぶすりと言ってしまうのだった。

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それでひやうがくてはうぶすりとつてしまふのであつた。

与吉は四つになった。

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與吉よきちよつつにつた。

いたずらもおぼえてきて、その分おつぎの手はいらなくなった。

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惡戯いたづらつててそれだけおつぎのはぶかれた。

それでも与吉の着物は、おつぎの手ではぬえないので、近所の女の人にたのんではどうにかしてもらった。

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それでも與吉よきち衣物きものはおつぎのには始末しまつ出來できないので、近所きんじよ女房にようばうたのんではどうにかしてもらつた。

お品が生きていれば、そんな心配はまだ十六のおつぎがすることではない。

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しなきてればそんな心配しんぱいはまだ十六のおつぎがするのではない。

おつぎはさらに、自分の着物に困った。

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おつぎはさら自分じぶん衣物きものこまつた。

短くなるばかりでなく、ほころびにさえおつぎは困るのである。

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みじかくなるばかりではなくほころびにさへおつぎは當惑たうわくするのである。

「おはりができなくちゃ仕方がないなあ」

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「おはり出來できなくつちや仕樣しやうねえなあ」

おつぎはいつでもためいきをつくのだった。

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おつぎは何時いつでも嘆息たんそくするのであつた。

「おはりにでも何でも、やれるときにはやるから。奉公にでも行ってみろ、いくつになったってろくなことができるもんか。十六くらいじゃ貧乏人はまだ行けないったって、仕方があるもんか。そうお前みたいに、しらみがわいたようにしょっちゅう言うもんじゃない」

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「おはりにでもなんでもれるときにやつから、奉公ほうこうにでもつてろ、いくつにつたつてろくなこと出來できるもんか、十六ぐれえぢや貧乏人びんばふにんはまあだけねえたつてやうがあるもんか、さうわれてえに痩虱やせじらみたかつたやうにしつきりなしふもんぢやねえ」

「おとっつあんは、そんだって奉公にでも行ってる者には、家でこしらえてやるんだろうな」

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「おとつゝあはそんだつて奉公ほうこうにでもつてるものげはうちこせえてやんだんべな」

「そんだって何だって、やれるときでなくちゃやれないから」

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「そんだつてなんだつてれつときでなくつちやれねえから」

十六ではまだ針を持たなくてもいいというのは、むりのないことである。

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十六ではまだはりたなくつてもいゝといふのはそれは無理むりではない。

しかし勘次の家では、おつぎがまるで針を知らないことは不便だった。

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しか勘次かんじいへでおつぎの一かうはりらぬことは不便ふべんであつた。

勘次もそれを知らないわけではないが、今のところ自分にはそのゆとりがないので、おつぎがそう言うたびに彼の心はたえられず苦しくなって、わざときつく言ってしまうのだった。

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勘次かんじもそれをらないのではないが、いまところ自分じぶんには餘裕よゆうがないのでおつぎがさういふたびかれこゝろへずくるしむのでわざ邪慳じやけんにいつてしまふのであつた。

その冬になってからも、おつぎは十六だというまにすぐ十七になってしまうとつぶやいたのだった。

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ふゆになつてからもおつぎは十六だといふうちすぐ十七になつてしまふとつぶやいたのであつた。

「春にでもなったらやれるかも知れないから」

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はるにでもなつたらやれつかもんねえから」

と、勘次はそのたびに言っていた。

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勘次かんじたびにいつてた。

おつぎは、とても当てにはならないと心の中であきらめていたのだった。

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おつぎは到底たうていあてにはならぬとこゝろ斷念あきらめてたのであつた。

それだけに、おつぎのよろこびは深かった。

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それだけおつぎの滿足まんぞくふかかつた。

ある晩、どうして思い出したのか、おつぎはふいと言った。

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あるばんどうして記憶きおく復活ふくくわつさせたかおつぎはふいといつた。

「井戸へ落としたくぬぎの根っこは、はしごをかけても取れないだろうか」

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井戸ゐどおつことしたくぬぎ梯子はしごけてもれめえか」

「なぜそんなことを言うんだ」

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何故なぜそんなこといふんだ」

勘次はおどろいて目を見開いた。

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勘次かんじおどろいてみはつた。

「そんでも、おしいもんだからよ」

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「そんでも可惜あつたらもんだからよ」

「お前が自分ではしごをかけて入るのか」

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われ自分じぶん梯子はしごけて這入へえんのか」

「おれはこわいからいやだがな」

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可怖おつかねえからだがな」

「そんなこと言うもんじゃない。また引っぱられたらどうする。そのときはお前でも行くのか」

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「そんなこといふもんぢやねえ、また拘引つゝてかれたらどうする、そんときわれでもくのか」

勘次はこう言って苦笑いした。

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勘次かんじういつて苦笑くせうした。

その晩はそれっきり、二人のあいだに話はなかった。

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そのばんれつ二人ふたりあひだはなしはなかつた。

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与吉が五つの春になった。

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與吉よきちいつつのはるつた。

ずんずんと育って行く彼の体は、おつぎの手には重すぎる。

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ずん/\と生長せいちやうしてかれ身體からだはおつぎの重量ぢうりやうぎてる。

しがみついていたたけのこの皮が自然にそのくきからはなれるように、与吉はだんだんおつぎの手からはなれるようになった。

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しがみいてたけのこかは自然しぜんみきからはなれるやうに、與吉よきち段々だん/\おつぎのからのぞかれるやうにつた。

それでも、たけのこの皮が竹のくきにまとわりついて横たわっているように、与吉がおつぎを慕う気持ちに変わりはなかった。

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それでもたけのこかはたけみきまつはつてはよこたはつてるやうに、與吉よきちがおつぎをなつかしがることにかはりはなかつた。

与吉は近所の子どもとよく田んぼへ出た。

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與吉よきち近所きんじよ子供こども田圃たんぼた。

暖かい日には、彼はひとえに着がえて、たもとを後ろでぎっとしばったり、すそをぐるっとまくったりしてもらうあいだも待ち遠しくて、はねている。

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あたゝかいにはかれ單衣ひとへかへて、たもとうしろでぎつとしばつたりしりをぐるつと端折はしよつたりしてもら待遠まちどほねてる。

「ほりのそばへは行くんじゃないぞ。着物をよごすと聞かないぞ」

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ほりそばへはぐんぢやねえぞ、衣物きものよごすとかねえぞ」

おつぎが言うのを耳にも入れないで、小さなざるを手にして走って行く。

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おつぎがいふのをみゝへもれないで小笊こざるにしてはしつてく。

田んぼのはんの木は、しおれた花が落ちて、若葉にはまだ少し間があるので、手持ちぶさたそうに立っている季節である。

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田圃たんぼはんはだらけたはなちて嫩葉わかばにはまだすこひまがあるので手持てもちなささうつて季節きせつである。

田はわずかにしめり気があって、足の底に暖かみを感じる。

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わづかうるほひをふくんであしそこ暖味あたゝかみかんずる。

たがやす人は、まだ下りて来ない。

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たがやひとはまだたぬ。

白っぽくかわいたかり株のあいだには、気をつけて見ればところどころにとても小さなあながある。

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しろつぽくかわいた刈株かりかぶあひだには注意ちういしてれば處々ところ/″\きはめてちひさなあながある。

子どもたちは、そのあなをさがして歩くのである。

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子供等こどもらあなさがしてあるくのである。

彼らは小さな手をねばる土に差しこんでは、両手に力をこめて引っくり返す。

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彼等かれらちひさなねばつち揷込さしこんでは兩手りやうてちからめてかへす。

そこにはどじょうがちょろちょろとはね返りながら、その身をあわただしく動かしている。

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其處そこにはどぜうがちよろ/\と跳返はねかへりつゝそのあわたゞしくうごかしてる。

すると彼らは、みな声を立ててさわぎながら、その小さなどろだらけの手でつかまえようとしては逃げられながら、やっとのことでざるへ入れる。

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さうすると彼等かれらいづれこゑてゝさわぎながら、ちひさなどろだらけのとらへようとしてはげられつゝやうやくのことでざるれる。

どじょうは、そのこそばゆいざるの中でしばらく身を動かしては落ち着く。

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どぜうのこそつぱいざるなかしばらうごかしては落付おちつく。

ほかのどじょうがまた入れられるとき、さっきのどじょうがいっしょにさわいでは落ち着く。

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どぜうまたれられるとき先刻さつきどぜうが一つにさわいでは落付おちつく。

彼らはこうして、その小さなあなをさがして田から田へ移って歩く。

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彼等かれらうしてそのちひさなあなもとめてからうつつてあるく。

この土地では、それを「目ぼり」と言っている。

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土地とちではそれを目掘めぼりというてる。

与吉には、いくらどろだらけになってもどじょうは取れなかった。

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與吉よきちにはいくどろになつてもどぜうれなかつた。

仲間の大きな子は、それでも一ぴきずつくらいは与吉のざるにも入れてやるのだった。

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仲間なかまおほきなはそれでも一ぴきぐらゐづつ與吉よきちざるにもれてるのであつた。

それで彼は、おくれながらもほかの子どもについて行かずにはいられなかったのである。

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それでかれおくれながらも子供こどもいてあるかずにはられなかつたのである。

ほりには、動かない水が空をうつしてたまっている所がある。

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ほりにはうごかないみづそらうつしてたゝへてところがある。

そうかと思えば、水は一てきもなくて、どろの上をすじのように流れた砂のあとが、ちらちらと春の日をわずかに反しゃしている所がある。

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さうかとおもへばあるひみづは一てきもなくてどろうへすぢのやうにながれたすなあとがちら/\とはるわづか反射はんしやしてところがある。

子どもたちはまばらなかれあしのあたりから下りて、そこでも目ぼりをためす。

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子供等こどもらまばらな枯蘆かれあしほとりからおりて其處そこにも目掘めぼりをこゝろみる。

大きな子どもは大事なざるをそっと持って下りる。

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おほきな子供こども大事だいじざるをそつともつておりる。

小さな子どもはほりへ下りながら、ざるをかたむけてどじょうをこぼすことがある。

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ちひさな子供こどもほりへおりながらざるかたぶけてどぜうこぼすことがある。

大きな子どもは「それっ」と言って、いたずらにそれをつかまえようとする。

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おほきな子供こどもはそれつといつて惡戯いたづらそれとらうとする。

子どもたちは順々にみな、それをまねしようとする。

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子供等こどもら順次じゆんじみなそれにならはうとする。

すると小さな子どもは、ただ火がついたように泣く。

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さうするとちひさな小供こどもたゞいたやうにく。

それと同時にどじょうが小さな子どものざるに返されて、子どもはそのどじょうをのぞくとともに、その泣く声がぴたりと止まってしまうのである。

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それと同時どうじどぜうちひさな子供こどもざるかへされて子供こどもそのどぜうのぞくとともこゑがはたととまつてしまふのである。

ほりのねばついたどろは、うっかりすると小さな足を吸いつけて放さない。

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ほりねばついたどろはうつかりするとちひさなあしけてはなさない。

すると、みんなが逃げるように岸へ上がって、指を出してその先を曲げながらはやし立てる。

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さうするとみんながげるやうにきしあがつてゆびしてさき屈曲くつきよくさせながらさわぐ。

小さな子どもはざるを手にしたまま、目に手も当てずに声を上げて泣く。

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ちひさな子供こどもざるにしたまゝにはあてずにこゑはなつてく。

与吉はこうして、よく泣かされた。

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與吉よきちうしてかされた。

彼には少しも親や兄の力がかぶさっていない。

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かれには寸毫すこし父兄ふけいちからかうぶつてない。

聞き分けのない子どものあいだにも、家族の力はとても大きくはたらいている。

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頑是ぐわんぜない子供こどもあひだにも家族かぞくちから非常ひじやういきほひをしめしてる。

その家族がみんなから見下される目で見られているように、子どものあいだでもまた、小さい与吉は見下されていた。

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その家族かぞくが一ぱんから輕侮けいぶもつられてるやうに、子供こどもあひだにもまたちひさい與吉よきちあなどられてた。

それでも与吉は、帰りには小さなざるの底にどじょうがあるのでよろこんでいた。

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それでも與吉よきちかへりには小笊こざるそこどぜうがあるのでよろこんでた。

泣いたそのときはしおれても、彼はすぐに機げんが直って、そのわずかなえもののざるをほこっておつぎのそばに来るときは、いつもの甘えた与吉である。

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いた當座たうざしをれてもかれすぐ機嫌きげんて、そのわづか獲物えものざるほこつておつぎのそばとき何時いつものあまえた與吉よきちである。

彼はどこへでもべたりとすわるので、しりを丸出しにまくってやっても、着物はどろだらけにした。

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かれ何處どこへでもべたりとすわるのでしり丸出まるだしにかかげてやつても衣物きものどろだらけにした。

それでしかられても、どろのかわいたそのしりをたたかれても、おつぎにされるのは彼にはちっともこわくなかった。

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それでしかられてもどろかわいたそのしりたゝかれても、おつぎにされるのはかれにはちつともおそろしくなかつた。

彼は小言は耳にも入れないで、「姉ちゃんよう、見ろよう」

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かれ小言こごとみゝへもれないで「ねえようろよう」

と小さなざるをかたむけては、ちょこちょことはねるようにして小きざみに足を動かしながら、おつぎがほめてくれるのを待って止まない。

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小笊こざるげてはちよこ/\とねるやうにして小刻こきざみにあしうごかしながらおつぎのめることばうながしてまない。

彼はあまりによろこんでさわいで、ひょっとするとあぶない手つきでどじょうを庭へ落とすことがある。

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かれあまりによろこんでさわいでひよつとするとあぶなもとでどぜうにはおとことがある。

どじょうはかわいた庭の土にまみれて、苦しそうに動く。

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どぜうかわいたにはつちにまぶれてくるしさうにうごく。

与吉がおさえようとするとき、にわとりがひょいと来てくちばしでつついて、かけて行ってしまう。

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與吉よきちおさへようとするときにはとりがひよつとくちばしつゝいてけてつてしまふ。

ほかのにわとりがそれを追いかける。

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にはとりがそれをける。

与吉はそうすると、またひとしきり泣くのである。

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與吉よきちはさうするとまたひとしきりくのである。

「お前があんまりうっかりしてるからだわ」

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われあんまりうつかりしてつかんだわ」

おつぎは笑いながら、立っている与吉の頭をだいて、それから手水だらいへ水をくんで、どじょうを入れてやる。

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おつぎはわらひながら、つてる與吉よきちあたまいてそれから手水盥てうづだらひみづんでどぜうれてる。

与吉は水へ手を入れては、どじょうがさわぐのを見てすぐに声を立てて笑う。

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與吉よきちみづれてはどぜうさわぐのをすぐこゑててわらふ。

おつぎはそうしておいて、どろだらけの手足を洗ってやる。

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おつぎはさうしていてどろだらけの手足てあしあらつてやる。

与吉はときどきどじょうを持って来た。

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與吉よきち時々とき/″\どぜうつてた。

おつぎは着物がどろになるのをしかりながら、それでも元気よく田んぼへ出してやった。

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おつぎは衣物きものどろになるのをしかりながらそれでも威勢ゐせいよく田圃たんぼしてやつた。

そのたびに、ほかの子どもたちの後ろから

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たびほか子供等こどもらうしろから

「泣かさないで、よきのことも連れて行ってくれよな」

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かさねえでよきこともれでつてくろうな」

というおつぎの声が追いかけるのだった。

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といふおつぎのこゑけるのであつた。

わずかなどじょうは味噌しるへ入れて、はしで骨をしごいて与吉にやった。

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わづかどぜう味噌汁みそしるれてはしほねしごいて與吉よきちへやつた。

自分では骨と頭をしばらく口にふくんで、それから捨てた。

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自分じぶんではほねあたまとをしばらくちふくんでそれからてた。

田がそろそろとたがやされるようになった。

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がそろ/\とたがやされるやうになつた。

子どもたちはまた、一つ一つのかたまりにたがやされた田をわたって、そのかたまりの上をすべりながらこえながら、とても小さなくわいのような、ゑぐの根を取った。

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子供等こどもらまたひとつ/\のかたまりたがやされたわたつて、そのかたまりうへすべりながらえながら、きはめてちひさい慈姑くわゐのやうなゑぐのをとつた。

それはこの土地ではなまって、「ゑご」と呼ばれている。

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それは土地とちではなまつてゑごとばれてる。

そこらの田にはゑぐが多いので、秋のころになると、しげった稲のかげに小さな白い花がさく。

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そこらのにはゑぐがおほいのであきころるとしげつたいねかげちひさなしろはなく。

与吉もほかの子どもがするように、小さなざるを持って出た。

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與吉よきち子供こどものするやうに小笊こざるもつた。

どじょうとちがって、これは彼の手にもわずかずつは取ることができた。

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どぜうとはちがつてれはかれにもわづかづゝはることが出來できた。

少しずつ取っては、毎日のようにためた。

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すこしづゝとつては毎日まいにちのやうにたくはへた。

おつぎはお茶をわかすたびに、それを灰の中へ投げこんで焼いてやる。

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おつぎはちやわかたびにそれをはひなかんでいてやる。

火をいじるのがあぶないので、与吉は一人でかまどに手をつけることは禁じられている。

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いぢることがあぶないので與吉よきちひとりでかまどをつけることはきんぜられてる。

灰の中へ入れたばかりで、与吉は

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はひなかれたばかりで與吉よきち

「ようよう」

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「よう/\」

と言っておつぎにせがむ。

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といつておつぎにせまる。

与吉は焼けるまでの時間が待ちきれないのである。

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與吉よきちけるあひだ遲緩もどかしいのである。

「そんなに早く焼けないだろうな。そんじゃ姉ちゃんは知らないぞ」

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「そんなにけめえな、そんぢやねえかまあねえぞ」

と、おつぎはゑぐをかき出してやる。

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とおつぎはゑぐをしてる。

与吉は口へ入れても、まだがりがりで、しかもにがいのではき出してしまう。

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與吉よきちくちれてもまだがり/\でかつにがいのでしてしまふ。

「そうら見ろ、大きな口をきいて言うことを聞かないから」

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「そうらろ、けえ姿なりしていふことかねえから」

おつぎは怒ったようすをして見せる。

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おつぎはおこつたやうな容子ようすをしてせる。

「姉ちゃんよ、よう」

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ねえよ、よう」

と、与吉はまたねだる。

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與吉よきちまた強請せがむ。

そのときにはもう、皮にしわの寄った焼けたゑぐが与吉の手に乗せられる。

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ときはもうかはしわつてけたゑぐが與吉よきちせられる。

「お前、熱いぞ」

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われあつえぞ」

とおつぎが言えば、与吉は手を引いて、ゑぐは土間へ落ちる。

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とおつぎがいへば與吉よきちいてゑぐは土間どまちる。

それをまた手に乗せてやると、与吉はおつぎがするようにふうふうと灰をふく。

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それをまたせてやると與吉よきちはおつぎがするやうにふう/\とはひく。

与吉はもっともっととおつぎにせがんで、勘次にどなられてはやめるのである。

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與吉よきちあとあともとおつぎにせがんで、勘次かんじ呶鳴どなられてはめるのである。

ためたゑぐが小さなざるにいっぱいになったとき、おつぎはざるを手に持って

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たくはへられたゑぐが小笊こざるに一ぱいつたときおつぎは小笊こざるつて

「よきにこれを煮てやろうか。さとうでも入れたらうまいだろうな」

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「よきげこれてやつぺか、砂糖さたうでもせえたら佳味うまかつぺな」

と、独り言のように言った。

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獨語ひとりごとのやうにいつた。

「煮てくれようよう」

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てくろうよう」

与吉はそれを聞いてまたせがんで、おつぎへ飛びついて、かぶっている手ぬぐいを引っぱった。

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與吉よきちはそれをいてまたせがんでおつぎへびついて、かぶつて手拭てぬぐひつた。

おつぎは

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おつぎは

「ああ痛いまあ」

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「おゝいてえまあ」

と顔をしかめて、引かれるままに首をかたむけて言った。

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かほしかめてかれるまゝくびかたぶけていつた。

乱れた髪の三本四本が、手ぬぐいといっしょに強く引かれたのである。

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みだれたかみ三筋みすぢ四筋よすぢ手拭てぬぐひともつよかれたのである。

「そんなものは塩ででもゆでてやれ」

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其麽そんなものしほでゞもゆでてやれ」

勘次は急にどなった。

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勘次かんじにはか呶鳴どなつた。

「さとうだなんて、黙ってれば知らないでいるもの。泣かれたらどうするんだ。さとうだのしょうゆだのって、そんなことしたっくらい、なんぼ損だか知れやしない。おとっつあんはそんなお金なんざ一銭だって持ってないから、塩だってかんたんなもんじゃないや。そんなよけいなものは何の役にも立つもんじゃない」

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砂糖さたうだなんて、だまつてればらねえでるもの、かれたらどうすんだ、砂糖さたうだの醤油しやうゆだのつてそんなことしたつくれえなんぼそんだかれやしねえ、おとつゝあそんなぜねなんざ一錢ひやくだつてつてねえから、しほだつて容易よういなもんぢやねえや、そんな餘計よけいなものなんになるもんぢやねえ」

勘次はくり返してしかった。

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勘次かんじ反覆くりかへしてしかつた。

与吉はおつぎのかげへ回ってだきついた。

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與吉よきちはおつぎのかげまはつてきついた。

「どうしたもんだろうなまあ。すぐに怒るんだから」

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「どうしたもんだんべまあ、ぢつきおこんだから」

おつぎは小言を聞いてつぶやいた。

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おつぎは小言こごといてつぶやいた。

「そんだって、おとっつあんはそんな余ゆうはないんだから」

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「そんだつて、おとつゝあそんなとこぢやねえから」

勘次はがっかりして声を落として言った。

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勘次かんじはがつかりこゑおとしていつた。

そして黙りこんだ。

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さうして沈默ちんもくした。

おつぎも、お品が死んでから苦しい暮らしの中で二度目の春をむかえた。

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おつぎもおしなんでからくるしい生活せいくわつあひだに二たびはるむかへた。

おつぎはやむを得ず、暮らしのつらさにたえる力を早く身につけた。

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おつぎは餘儀よぎなくされつゝ生活せいくわつ壓迫あつぱくたいする抵抗力ていかうりよく促進そくしんした。

よその女の子のようなのんびりした春は知らないで、おつぎは体つきも大きく変わった。

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餘所よそをんなのやうに長閑のどかはるられないでおつぎは生理上せいりじやうにもいちじるしい變化へんくわげた。

お品が死んだとき、おつぎはまだ落ち葉をくべるといっては、竹の火ばしの先をすぐに燃やしてしまうほど下手な子だった。

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しなんだときはおつぎはまだ落葉おちばべるとてはたけ火箸ひばしさきぐにやしてしまほど下手へたであつた。

それが横にもたてにも大きくなって、はだもつやつやと見えて、髪も長くなった。

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それがよこにもたてにもおほきくなつて、肌膚はだもつやゝかにえてかみながくなつた。

おつぎの家の後ろの、がけのようになった所からは、村の人がよく黄色いねん土を取った。

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おつぎのいへうしろがけのやうにつたところからはむらのものが黄色きいろ粘土ねんどつた。

髪がべたつくようになると、おつぎはそのねん土をこすりつけて、はだぬぎになったまま黄色く染まった頭を井戸のそばで洗うのである。

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かみねばるやうになるとおつぎは粘土ねんどをこすりつけて、はだぬぎになつたまゝ黄色きいろまつたあたま井戸ゐどそばあらふのである。

そして、そのふさふさとした髪は、二度とかす所を三度とかすようになった。

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さうしてのふつさりとしたかみは二ところは三くやうにつた。

おつぎはまた、髪へつけるごまの油を元結でしばった小さなびんに入れて、大事にしまっておくのである。

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おつぎはまたかみへつける胡麻ごまあぶら元結もとゆひしばつたちひさなびんれて大事だいじしまつてくのである。

短いあいだではあるが、針を持つようになってからは赤いたすきもぬった。

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みじか期間きかんではあるがはりつやうになつてからはあかたすきけた。

半纏もせんたくした。

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半纏はんてん洗濯せんたくした。

どうにか自分の手でぬい上げた、丈の合う着物を着て、おつぎは急に大人びたようになった。

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どうにか自分じぶん仕上しあげた身丈みたけりる衣物きものておつぎはにはか大人おとなびたやうにつた。

田や畑に出るときには、まだのりのぬけない半纏へ赤いたすきを肩からかけて、勘次の後についてゆく。

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はたけときにはまだのりのぬけない半纏はんてんあかたすきかたからけて勘次かんじうしろいてく。

おつぎは仕事にかかるときには、その半纏はぬいで木のえだへかける。

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おつぎは仕事しごとにかゝるときには半纏はんてんはとつてえだける。

おつぎのすがたは、やっと村の人の目を引くようになった。

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おつぎの姿すがたやうやむら注目ちうもくあたひした。

春の野をかざって黄色い布をかけたような菜の花も、春らしい雨がちらちらとふって、霜にやられたような葉がめっきり青くなって来たころには、その開いた葉の真ん中にほんのわずかな出っぱりを見つける。

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はるかざつて黄色きいろぬのおほうたやうなはなも、はるらしいあめがちら/\とつてしもけたやうな滅切めつきりあをみをくはへてころそのひらいた心部しんぶにはたゞわづか突起とつき見出みいだす。

しかしそこには、つぼみがはっきりと形になっているのである。

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しかしそこにはつぼみあきらかにかたちしてるのである。

空からは暖かい日ざしがまねいて、土からは長い手がずんずんとさし上げてはさらに長くさし上げるので、そのはでな花が麦や小麦のほにもうもれることなく、広い野をしめるのである。

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そらからはあたゝかい日光につくわうまねいてつちからはなががずん/\とさしげてはさらながくさしげるので派手はではなむぎ小麥こむぎにも沒却ぼつきやくされることなくひろめるのである。

おつぎも、その真ん中に見えるつぼみだった。

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おつぎも心部しんぶえるつぼみであつた。

しかしそのつぼみは、さし上げてもらえないばかりか、おさえつける手の強い力が加えられている。

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しかそのつぼみはさしげられないのみではなくおさへるつよちからくはへられてある。

勘次は少しのあいだも、おつぎを自分のそばから放すまいとしている。

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勘次かんじ寸時すんじもおつぎを自分じぶんそばからはなすまいとしてる。

だから、空の日ざしがまねくように女の心をさそうはずの村の若者とのあいだには、おつぎは何のつながりも生まれなかった。

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したがつてそら日光につくわうまねくやうにをんなこゝろうながすべきむら青年せいねんとのあひだにはおつぎはなん關係くわんけいつながれなかつた。

おつぎが十七という年だと聞いて、みな今さらのようにそのすがたに目を向けたのである。

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おつぎが十七といふ年齡としいていづれも今更いまさらのやうに注意ちうい惹起ひきおこしたのである。

冬の季節にほこりをまき上げて来る西風は、まずどこよりもおつぎの家の雨戸を、今日も来たぞとたたく。

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ふゆ季節きせつほこりいて西風にしかぜ何處どこよりもおつぎのいへ雨戸あまど今日けふたぞとたゝく。

それは村の西のはしにあるからである。

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それはむら西端せいたんるからである。

場所がそういう追いやられたような形になっている上に、暮らしのようすから自然に、ある程度までは人の注意からもれて、日かげにいるのと同じようなところがあったのである。

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位置ゐちがさういふひやられたやうなかたちつてうへに、生活せいくわつ状態じやうたいから自然しぜんある程度ていどまでは注意ちういかられて日陰ひかげるとひとしいものがあつたのである。

勘次の見張りの手は、つぼみの成長を止める冷たい空気であり、そしてこれをのぞこうとする者をふせぐ固いかきねである。

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勘次かんじ監督かんとくつぼみ成長せいちやうとゞめるひやゝかな空氣くうきで、さうしてこれねらふものを防遏ばうあつする堅固けんご牆壁しやうへきである。

しかし春の季節を地上の草木が知ったとき、どれほど白く霜がおりても草木の力は動いて止まないように、おつぎの心は外から加える見張りの手で奪い去ることはできない。

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しかはる季節きせつ地上ちじやう草木さうもくつた時、どれほどしろしもむすんでも草木さうもく活力くわつりよくうごいてまぬごとく、おつぎのこゝろ外部ぐわいぶからくはへる監督かんとくもつうばることは出來できない。

おつぎは勘次の後についてゆき、畑へ行き来するとちゅうで、こんの仕事着に身を固めた村の若者に会うときには、さすがに心が引かれた。

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おつぎは勘次かんじあといてはたけ往來わうらいする途上とじやうこん仕事衣しごとぎかためたむら青年せいねんときには有繋さすがこゝろかされた。

肩にしたくわの柄へ、おつぎは両手をかけている。

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かたにしたくはへおつぎは兩手りやうてけてる。

そのにぎった手にほおをもたせるようにして、おつぎはいくらか首をかたむけながら、手ぬぐいの下から黒いひとみで若者を見るのだった。

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そのにぎつたほゝたせるやうにして、おつぎはいくらかくびかたむけつゝ手拭てぬぐひしたからくろひとみ青年せいねんるのであつた。

勘次は、後からついて来るおつぎのようすまでは知ることができなかった。

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勘次かんじあとからいてるおつぎの態度たいどまでることは出來できなかつた。

おつぎは何度もそうして村の若者を見た。

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おつぎは數次しば/\さうしてむら青年せいねんた。

しかし一言も交わす機会は持てなかった。

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しかし一交換かうくわんする機會きくわいたなかつた。

おつぎはどうということもなく、むしろほとんど無意識にすれちがう若者を見るのだったが、手ぬぐいの下に光る暖かい二つのひとみに気持ちがこもっていることは、若者たちの目にもなんとなく感じ取られた。

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おつぎはどうといふこともなくむしほとん無意識むいしき青年せいねんるのであつたが、手拭てぬぐひしたひかあたゝかいふたつのひとみにはじやうふくんでることが青年等せいねんらにも微妙びめう感應かんおうした。

こうして、おつぎもいつのまにか人のうわさにのぼったのである。

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うしておつぎもいつかくちのばつたのである。

それでも、若者がおつぎとふれ合えるのは、勘次の見張りの下で、真昼の道で一目見てすれちがう、その一しゅんだけだった。

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それでも到底たうてい青年せいねんがおつぎとあひせつするのは勘次かんじ監督かんとくもと白晝はくちう往來わうらいで一べつしてちがその瞬間しゆんかんかぎられてた。

だから、ふつうのむすめとちがって、おつぎの心には男に対するおそれの幕をむりに引きはらわれる機会が、これまで一度も与えられなかった。

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それゆゑぱん子女しぢよのやうではなくおつぎのこゝろにもをとこたいする恐怖きようふまく無理むり引拂ひきはらはれる機會きくわいかつ一度ひとたびあたへられなかつた。

おつぎは道を行くときには、手ぬぐいのかぶり方にも気をつかう、ふつうの女である。

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おつぎは往來わうらいくとては手拭てぬぐひかぶりやうにもこゝろくばたゞをんなである。

それが家に帰れば、すぐに苦しい暮らしの人にならなければならない。

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それがいへかへればたゞちくるしい所帶しよたいひとらねばならぬ。

そこでおつぎの心は、別人のようにきりっと引きしめられるのだった。

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そこにおつぎのこゝろ別人べつにんごと異常いじやうめられるのであつた。

またさわやかな初夏が来て、百姓はいそがしくなった。

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またさわやかな初夏しよか百姓ひやくしやうせはしくなつた。

おつぎは、死んだお品が織ったのだという弁慶じまのひとえを着て出るようになった。

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おつぎはんだおしな地機ぢばたけたのだといふ辨慶縞べんけいじま單衣ひとへるやうにつた。

針を持つようになったとき、おつぎはこれも自分の手でぬい上げたのだった。

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はりつやうにつたときおつぎはこれ自分じぶん仕上しあげたのであつた。

それはそばで見ていてはあぶなっかしい手つきで、何度か針の運び方をまちがえてほどいたこともあったが、ついには体にぴったり合うようになっていた。

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それそばてはあぶさうもとで幾度いくたびはりはこびやうを間違まちがつていたこともあつたが、しまひには身體からだにしつくりふやうにつてた。

死んだお品は、おつぎが生まれてすぐにかまどを別にして、みすぼらしい暮らしをしたので、当時は晴れ着だったそのひとえを着てみる機会もなく、しまったままになっていたのである。

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んだおしなはおつぎがうまれたばかりにすぐかまどべつにして、不見目みじめ生計くらしをしたので當時たうじはれ衣物きものであつた單衣ひとへつゝんで機會きくわいもなくむなしくしまつたまゝになつてたのである。

それに、そのころは紺が七日もたたなければ使えないような藍がめで染められたので、今のふつうの布のように、水で落ちないかと思えば日にあせるというのではなく、勘次が言ったようにせんたくしてもかえって色がさえるようなもので、それに生地もしっかりと丈夫だった。

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それにころこん七日なぬかからもたねばわかないやうな藍瓶あゐがめそめられたので、いま普通ふつう反物たんもののやうなみづちないかとおもへばめるといふのではなく、勘次かんじがいつたやうに洗濯せんたくしてもかへつえるやうなので、それに地質ぢしつもしつかりと丈夫ぢやうぶなものであつた。

おつぎが洗いざらしのあわせを捨てて、弁慶じまのひとえで出るようになってからは、ひときわ人の目を引いた。

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おつぎがあらざらしのあはせてゝ辨慶縞べんけいじま單衣ひとへるやうにつてからは一際ひときはひと注目ちうもくいた。

例の赤いたすきが後ろで交差して、そでを短くしごき上げる。

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れいあかたすきうしろ交叉かうさしてそでみじかこきあげる。

そのしごき上げられた肩は、着物のしわで少し張って、体をしっかりと見せる。

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そのきあげられたかた衣物きものしわすこつて身體からだ確乎しつかとさせてせる。

出たうでには、こんの手甲がつけられている。

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あらはれたうでにはこん手刺てさし穿うがたれてある。

やっと暑い日ざしをきらって、おつぎは白いすげがさをかぶった。

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やうやあついとうておつぎはしろ菅笠すげがさいたゞいた。

白いすげがさは雨にさらされればそれで破れてしまうので、夏のはじめには必ずどこでも新しいのに取りかえられるのである。

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しろ菅笠すげがさあめさらされゝばそれでやぶれてしまふので、なつのはじめには屹度きつと何處どこでもあたらしいのにかへられるのである。

おつぎは勘次に連れられて、麦のうねの間をたがやした。

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おつぎは勘次かんじかれてむぎ畦間うねまたがやした。

くわを入れるのがおくれた麦は、ほが白く出ている。

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くはれるのが手後ておくれになつたむぎしろる。

ときどき立って、くわについた土を足の底でしごき落とすおつぎのすがたが、さやさやとかすかな音を立てて動く白いほの上に見える。

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時々とき/″\つてくはいたつちあしそこきおろすおつぎの姿すがたがさや/\とかすかなひゞきてゝうごしろうへえる。

よそをちょっと見るたびに、大きなすげがさがぐるりと動く。

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餘所よそ一寸ちよつとたびおほきな菅笠すげがさがぐるりとうごく。

すげがさは日をよけるだけでなく、女にとってはおしゃれなかざりでもある。

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菅笠すげがさけるのみではなくをんなためには風情ふぜいあるかざりである。

髪には白い手ぬぐいをかぶって、かさの竹の骨がその髪をおさえるところには、小さなわりと厚いふとんが置かれている。

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かみにはしろ手拭てぬぐひかぶつてかさ竹骨たけぼねかみおさへるとき其處そこにはちひさな比較的ひかくてきあつ蒲團ふとんかれてある。

そういうすきまをあけて、すげがさは前かがみに高くのせられるのである。

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さういふ間隔かんかくたもつて菅笠すげがさ前屈まへかゞみにたかゑられるのである。

女たちはみな、わずかな休みのあいだにも汗をふくにはかさを取って地面に置く。

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女等をんならみな少時しばし休憩時間きうけいじかんにもあせぬぐふにはかさをとつて地上ちじやうく。

一つにはひもがよごれるのをきらって、必ずさかさにして裏を見せるのである。

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ひとつにはひもよごれるのをいとうて屹度きつとさかさにしてうらせるのである。

そして、厚いかさぶとんの赤い布が丸く、白いかさの真ん中で黒いひもとつり合いを保つのである。

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さうしてあつ笠蒲團かさぶとんあかきれまるしろかさ中央まんなかくろ絎紐くけひも調和てうわたもつのである。

おつぎのかさぶとんは、赤や黄や青の小さな布を集めてぬったのだった。

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おつぎの笠蒲團かさぶとんあかあをちひさなきれあつめてつたのであつた。

しかし、おつぎの帯だけは古かった。

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しかしおつぎのおびだけはふるかつた。

よその女の子はたいてい、きれいな赤い帯をしめて、ぐるりとまくり上げた着物のすそは帯の結び目の下へ入れて、ひたすら後ろすがたを気にするのである。

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餘所よそをんな大抵たいてい綺麗きれいあかおびめて、ぐるりとからげた衣物きものすそおびむすしたれて只管ひたすら後姿うしろすがたにするのである。

いっぱいに青くしげった桑畑などに、白い大きなすげがさと赤い帯の後ろすがたが、ことに空から差す強い日ざしを反しゃして、その赤い帯が燃えるように見えたり、すげがさがさらに大きく白く光ったりするときには、さすがに人の目を引かずにいられない。

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一杯いつぱいあをしげつた桑畑くはばたけなどしろおほきな菅笠すげがさあかおびとの後姿うしろすがたが、ことにはそらからげるつよ日光につくわう反映はんえいしてあかおびえるやうにえたり、菅笠すげがささらおほきくしろひかつたりするときには有繋さすがひとかねばならぬ。

彼女たちのすがたはこうして遠くから見るものだが、しかし近づいたときでも、はね上がったかさの後ろには、両ほおへたれて、そして黒いひもでしめられた手ぬぐいのすきまから少し乱れた髪がのぞいていて、そこにも一種のおもむきが見られる。

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彼等かれら姿すがたくしてとほへだてゝるべきものであるがしかしながらちかづいたときでも、ねあげられたかさうしろには兩頬りやうほほれてさうしてくろ絎紐くけひもめられた手拭てぬぐひ隙間すきまからすこみだれたかみのぞいて其處そこにも一しゆ風情ふぜい發見はつけんされねばならぬ。

雨をふくんだ雲がときどきさえぎるとはいえ、暑い日ざしの下で黄色く熟した麦が刈られたとき、畑はからりとなって、さかいに植えられている卯木のびっしりついた白い花が、あちらこちらに目立って、急に広々としたのを感じるとともに、さえぎるものがなくなった分だけ、目に入る女のすがたが増えるのである。

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あめふくんだくも時々とき/″\さへぎるとはいへ、あつのもとに黄熟くわうじゆくしたむぎられたときはたけはからりとつて境木さかひぎうゑられてある卯木うつぎのびつしりといたしろはな其處そこにも此處こゝにもつて、にはか濶々ひろ/″\としたことをかんずるとともさゝへるものがくなるだけをんな姿すがたえるのである。

彼女たちはわずかな休みにも、必ず刈りたおした麦をしりにしいて、その白い卯木の下で少しでも日をよける。

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彼等かれら少時しばし休憩きうけいにもかならたふしたむぎしりいてしろ卯木うつぎしたわづかでもける。

どう見ても彼女たちの白いすげがさと赤い帯は、広い野をかざる大きな花でなければならない。

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到底たうてい彼等かれらしろ菅笠すげがさあかおびとはひろかざ大輪たいりんはなでなければならぬ。

その一つが、おつぎには欠けていた。

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ひとつの要件えうけんがおつぎにはけてた。

暑い季節は百姓のみんなを、そのせまい住まいから遠く野へさそって、たがいにその若々しくつやつやしたすがたにあこがれさせるのに、そしてとげの生えた野茨さえ白い花のころもをかざって、気持ちよくぴったりとだき合ってはたがいにうなずきながら、つきない思いをささやいているのに、おつぎは若者とのあいだに一言を交わすことさえ、その権利をおさえられていた。

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あつ氣候きこう百姓ひやくしやうすべてをその狹苦せまくるし住居すまゐからとほさそうて、相互さうごその青春せいしゆんのつやゝかなおもかげ憧憬あこがれしめるのに、さうしてとげえた野茨のばらさへしろころもかざつてこゝろよいひた/\とあふてはたがひ首肯うなづきながらきないおもひ私語さゝやいてるのに、おつぎはかつ青年せいねんとのあひだに一まじへることさへその權能けんのうおさへられてた。

どちらにしても、おつぎの心にはさすがにかすかな物足りなさがあったのである。

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いづれにしてもおつぎのこゝろには有繋さすがかすかな不足ふそくかんずるのであつた。

勘次は洗いざらしのじゅばんをふんどし一つのはだかに引っかけて、船頭がかぶるようないぐさのあみがさに麻のひもをつけている。

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勘次かんじあらざらしの襦袢じゆばんふんどし一つのはだかかけて、船頭せんどうかぶるやうな藺草ゐぐさ編笠あみがさあさひもけてる。

勘次に教えられて、おつぎは仕事がとても上手になった。

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勘次かんじみちびかれておつぎは仕事しごといちじるしく上手じやうずになつた。

おつぎが畑へ行き来するときは、村の女の人たちはよく言った。

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おつぎがはたけ往來わうらいするときむら女房等にようばうらくいつた。

「何とまあ、おっかさんに似て来たことかな。歩き方までそっくりだ」

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なんちう、おつかさまにたこつたかな、あるきつきまでそつくりだ」

「そばかすがぽちぽちしてる所までなあ」

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雀斑そばかすがぽち/\してつとこまでなあ」

お品には、目と鼻のあたりにそばかすが少しあったのである。

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しなにははなのあたりに雀斑そばかすすこしあつたのである。

おつぎにもそれがそのままで、にっこりするときにはそれがかえって、かわいらしさを引き立てた。

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おつぎにもれがそのまゝ嫣然にこりとするときにはそれがかへつしなをつくらせた。

「勘次さん、あっという間だな。まだこの間だと思ってたのにな。嫁にやってもいいくらいじゃないかい。お品さんもお前、これくらいのときじゃなかったっけかい」

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勘次かんじさんわけのねえもんだな、まあだ此間こねえだだとおもつてたのにな、よめにやつてもえゝくれえぢやねえけえ、おしなさんもおめえこのくれえときぢやなかつたつけかよ」

女の人たちはまた、からかい半分にこういうことも言った。

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女房等にようばうらまた揶揄半分からかひはんぶんういふこともいつた。

おつぎは、勘次がそう言われるときにはいつも赤い顔をして、よそを向いてしまうのである。

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おつぎは勘次かんじがさういはれるとき何時いつあかかほをして餘所よそいてしまふのである。

勘次はお品のことを言われるたびに、おつぎの体をそう思ってつくづく見るたびに、お品の思い出が呼び返されて、一種のたえがたい気持ちを感じずにいられない。

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勘次かんじはおしなのことをいはれるたびに、おつぎの身體からだをさうおもつては熟々つく/″\たびに、おしな記憶きおく喚返よびかへされて一しゆがた刺戟しげきかんぜざるをない。

それと同時に、女房がほしいという切ない思いがわくのである。

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それと同時どうじ女房にようばうしいといふせつない念慮ねんりよかすのである。

えんりょのない女の人たちにお品の話をされるのは、ただ悲しみをさそうだけなのだが、また一方には話をしてみてほしいような気持ちもしてならないことがあった。

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遠慮ゑんりよ女房等にようばうらにおしなはなしをされるのはいたづらに哀愁あいしうもよほすにぎないのであるが、またぼうにははなしをしてもらひたいやうな心持こゝろもちもしてならぬことがあつた。

「勘次さん、どうしたい、いい塩梅のがあるんだが、後ぞえを持ってもよくないかい」

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勘次かんじさんどうしたい、えゝ鹽梅あんべえのがんだがあとつてもよかねえかえ」

と、彼に女房を世話しようという人は、お品が死んでから間もなくいくらもいた。

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かれ女房にようばう周旋しうせんしようといふものはおしなんでからもなくいくらもあつた。

勘次はただお品だけをこいしがっていたのだが、だんだん日がたって不自由を感じるとともに、耳をそばだててそういう話を聞くようになった。

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勘次かんじたゞしなにのみこがれてたのであるが、段々だん/\日數ひかずつて不自由ふじいうかんずるとともみゝそばだてゝさういふはなしくやうにつた。

しかし、そんな話をして聞かせる人たちは、勘次のひどい貧しさと、二人の子がいることとで、とても後ぞえは居つけないという見通しが先に立って、心の底から世話をしようというのではない。

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しか其麽そんなはなしをしてかせる人々ひと/″\勘次かんじひど貧乏びんばふなのと、二人ふたりるのとで到底たうてい後妻ごさいつかれないといふ見越みこしさきつて、心底しんそこから周旋しうせんようといふのではない。

ただ、ひまをおしがる勘次が、どこへでもくわやかまを捨てて話に乗ってくるので、つい、いたずらにじらしてみるのである。

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たゞひましがる勘次かんじ何處どこへでもくはかまてゝ釣込つりこまれるのでつひ惡戯いたづらにじらしてるのである。

ことに、おつぎが大きくなればなるほど、その働きが目立てば目立つほど、後ぞえには居づらい所だと人は思った。

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ことにおつぎがおほきくなればなるほどはたらきがてばほど後妻ごさいには居憎ゐにくところだとひとおもつた。

貧しい家へ後ぞえにでもなろうという人には、実さいろくな人はいないというのが、みんなの見方だった。

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貧乏世帶びんばふじよたい後妻ごさいにでもならうといふものには實際じつさいろくものいといふのが一ぱん斷案だんあんであつた。

他人はただ、彼の心をいらだたせた。

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他人ひとたゞかれこゝろ苛立いらだたせた。

そして彼のふつうでないようすが、かえっていたずら好きの心を刺げきするだけだった。

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さうしてかれ尋常外なみはずれた態度たいどが、かへつ惡戯好いたづらずきのこゝろ挑發てうはつするのみであつた。

「ままよう、ままようでえ、ままあな、ら、ぬう」

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「まゝよう、まゝようでえ、まゝあな、ら、ぬう」

勘次が小声で歌って行くのが、どうかすると人の耳にもひびくようになった。

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勘次かんじ小聲こごゑうたうてくのがどうかするとひとみゝにもひゞくやうにつた。

そのころは勘次の庭のくりのえだも、そこにわいて残こくに葉を食いあらす栗毛虫のような毒々しい花がやっと白くなって、どこの村でもふさふさとした青葉のえだから、くりの木がわりと多いことを示して、その白い花が目についた。

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ころ勘次かんじにはくりこずゑも、それへ繁殖はんしよくして残酷ざんこくあら栗毛蟲くりけむしのやうな毒々どく/\しいはなやうやしろつて、何處どこ村落むらにもふつさりとした青葉あをばこずゑからくり比較的ひかくてきおほいことをしめしてしろはなについた。

村をうめているえだから、ふわふわとゆげが立ち上るような形に、くりの花はいっぱいである。

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村落むらうづめてこずゑからふわ/\と蒸氣ゆげあがらうといふかたちくりはなは一ぱいである。

空はふらないながらに低い雲がわだかまって、ときどき、目にあざやかで、しかも黒ずんだ青葉の上に、かっと黄色い明るい光を投げる。

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そららないながらにひくくもわだかまつて、時々とき/″\あざやかでかつくろずんだ青葉あをばうへにかつと黄色きいろあかるいひかりげる。

どこということなくじめじめして、頭をおさえつけるように重苦しい感じがする。

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何處どことなくしめつぽくあたまおさへるやうに重苦おもくるしいかんじがする。

みんなが畑へ出はらった村の中には、まれにそういう青葉のあいだにこいのぼりがばさばさとひるがえってはぐたりとなって、それが朝から長い日を一日、そしてその家族が、日はしずんでもいつになくまだ明るいうちにおふろを浴びて、女までさいた菖蒲を髪に巻いて、いそがしい日と日の合間にそれでも晴れ着すがたになる、端午の日が来るのをだるそうに待っている。

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こと/″\はたはしつた村落むらうちにはまれにさういふ青葉あをばあひだ鯉幟こひのぼりがばさ/\とひるがへつてはぐたりとつて、それがあさからながを一にち、さうして家族かぞくぼつしたにしても何時いつになくまだあかるいうちゆあみをしてをんなまでがいた菖蒲しやうぶかみいて、せはしいあひだをそれでも晴衣はれぎ姿すがたになる端午たんごるのをものうげにつてる。

そういう青葉の村から村へ、女のあめ屋が太鼓をたたいて歩いた。

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さういふ青葉あをば村落むらから村落むらをんな飴屋あめや太皷たいこたゝいてあるいた。

空き家ばかりの村を、雨がふらなければ女ははしからはしへと歌って歩く。

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明屋あきやばかりの村落むらあめらねばをんなはしからはしうたうてあるく。

勘次が歌ったのは、その女の歌である。

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勘次かんじうたうたのはをんなうたである。

女は声を高く歌っては、また声を低くしてその文句をくり返す。

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をんなこゑたかうたうてはまたこゑひくくして反覆はんぷくする。

その歌うところは、毎日ただこの一句だけだった。

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うたところ毎日まいにちたゞの一かぎられてた。

女は年かさで、一人の子を背負っている。

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をんな年増としま一人ひとりうてる。

鬼怒川を行き来する高瀬舟の船頭がかぶるあみがさをかぶって、洗いざらしのひとえを、すそは左のはしを取って帯へはさんだだけで、あめは箱に入れて肩からかけてある。

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鬼怒川きぬがは徃復わうふくする高瀬船たかせぶね船頭せんどうかぶ編笠あみがさいたゞいて、あらざらしの單衣ひとへすそひだり小褄こづまをとつておびはさんだだけで、あめはこれてかたからけてある。

暗い日は、かさのあみ目をとおして女の顔に細い強い線をえがく。

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あつかさ編目あみめとほしてをんなかほほそつよせんゑがく。

女の顔はやつれていた。

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をんなかほやつれてた。

子はたいていねむっていた。

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おほむねむつてた。

耳元で鳴る太鼓のやかましい音と、お母さんの歌う声とが、いつのまにかねむりにさそったのかもしれない。

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みゝもとで太皷たいこやかましいおととおふくろうたこゑとがいつとはなしにさそつたのであつたかもれぬ。

首はむしろさかさまにたれて、ひたいがいつも暑い日に照らされて汗ばんでいた。

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くびむしさかさまれてひたひがいつでもあつられてあせばんでた。

百姓はみな、このみすぼらしい女を気にとめなかった。

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百姓ひやくしやうみな見窄みすぼらしいをんなかへりみなかつた。

村から村へ野をわたるとき、女のすがたには人目を引くようなところが一つもなかった。

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村落むらから村落むらわたときをんな姿すがた人目ひとめくべき要點えうてんが一つもそなはつてなかつた。

しかしいつのまにか、人が遠くから見るようになった。

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しかしいつのにかひととほくよりるやうにつた。

すれちがう女の人たちは、ひたいを照らされてねむっている子を見て、いたわしいと思うのだった。

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ちが女房等にようばうらひたひられてねむつて痛々敷いた/\しいおもふのであつた。

女は歌わなくても太鼓の音が村の子を遠くからさそうのに、気の乗らない歌い方をして、ただその一句をくり返すのである。

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をんなうたはなくても太皷たいこ村落むらとほくからさそふのにらぬうたひやうをしてたゞの一反覆くりかへすのである。

女は背中の子がねむっているのをよろこんで、その子がどんなかっこうでいるかは気づかない。

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をんな背中せなかねむつてるのをよろこんで什麽どんな姿なりであるかは心付こゝろづかない。

ただ小さな銅貨を持って走って来る村の子を待ちながら、さそいながら歩くのである。

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たゞちひさな銅貨どうくわつてはしつて村落むらちつゝさそひつゝあるくのである。

女がどこから来てどこへ行くのかということも、いそがしく田畑で働いている百姓のあいだには知られなかった。

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をんな何處どこからてどうくといふこともせはしくたゞ田畑たはた勞働らうどうして百姓ひやくしやうあひだにはられなかつた。

毎日そうして歩いていた女が、知りたがり聞きたがる女の人たちのあいだで、それぞれ口うるさくかげのうわさをされてから間もなく、ある日村はずれの青葉の中へ太鼓の音と歌の声とが遠くかすかに消え去ったきり、やがてつゆがひどく、しかも毒々しいそのくりの花がくさるまではとふり出したので、その汚らしくやつれたすがたは二度と見られなかった。

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毎日まいにちさうしてあるいてをんなりたがりきたがる女房等にようばうらあひだに、各自てんで口喧くちやかましい陰占かげうらなひたくましくされるともなく、ある村外むらはずれの青葉あをばなか太皷たいこおとうたこゑとがとほかすかにぼつつたり、やが梅雨つゆおびたゞしく毒々どく/\しいくりはなくさるまではとしたのでをんなきたなげなやつれた姿すがたふたゝられなかつた。

勘次は耳の底にひびいたその句を、一人で感心したように歌っては行くのである。

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勘次かんじみゝそこひゞいたひとかんへたやうにうたうてはくのである。

彼は自分の声が高いと思ったとき、他人に聞かれるのをはずかしがるように、急にあたりを見ることがあった。

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かれ自分じぶんこゑたかいとおもつたとき他人ひとかれることをづるやうに突然とつぜんあたりをることがあつた。

曲がり角でひょいと会うとき、それが口の軽い女の人であれば、二、三歩行き過ぎてから

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まがかどでひよつとときそれが口輕くちがる女房にようばうであれば二三すごしては

「どうしたい、勘次さん、あの女にほれたんじゃあるまい。もっとも年ごろはちょうどいいから、連れ子の一人くらいはがまんもできらあな。そんだが、あれっきり来なくなっちまって困ったな」

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「どうしたえ、勘次かんじさん彼女あれこがれたんぢやあんめえ、もつと年頃としごろつゝけだからつれ一人ひとりぐれえ我慢がまん出來できらあな、そんだがあれつなくなつちやつてこまつたな」

とえんりょもなくからかっては、少しはなれるとわざと声を立ててその句を歌ったりする。

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遠慮ゑんりよもなく揶揄からかうては、すこへだたるとわざこゑてゝうたつたりする。

すると勘次は、家に帰るまで一句も歌わない。

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さうすると勘次かんじうちかへるまで一うたはない。

しかし彼は、しばらくそれを歌うのをやめなかった。

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しかかれしばらくそれをうたふことをめなかつた。

彼はただ、女房がほしいほしいとばかり思った。

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かれたゞ女房にようばうほしい/\とのみおもつた。

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勘次はあいかわらず、苦しい暮らしから一歩ものがれることができないでいる。

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勘次かんじ依然いぜんとしてくるしい生活せいくわつそとに一のがることが出來できないでる。

お品が死んだときに、わけを話して借りた小作米のとどこおりも、まだ一つぶも返していない。

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しなんだとき理由わけをいうてりた小作米こさくまいとゞこほりもまだ一つぶかへしてない。

暑さのきびしい日が井戸の水まで減らしていりつけるころには、それまでに何度か勘次の穀物のおけは空になるのである。

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大暑たいしよ井戸ゐどみづまでらしてりつけるころはそれまでに幾度いくたび勘次かんじ穀桶こくをけからるのである。

彼はふつうの百姓がすることはしなければならないので、ことにおかずとして必要なので、なすや南瓜やきゅうりや、そういう物も一とおりは作った。

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かれは一ぱん百姓ひやくしやうがすることはなくてはらないので、ことには副食物ふくしよくぶつとして必要ひつえうなので茄子なす南瓜たうなす胡瓜きうりやさういふもの一通ひととほりはつくつた。

彼は村はずれのくぬぎ林のそばにいたので、自分の家の近くにはそういう物を作る畑が一まいもなかった。

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かれ村外むらはづれの櫟林くぬぎばやしそばたので自分じぶんいへちかくにはさういふものつくはたけが一まいもなかつた。

それでもきゅうりだけはかきねの内側へ一列に植えて、後ろの林にまじった短い竹を切って支柱に立てた。

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それでも胡瓜きうりだけは垣根かきね内側うちがはへ一れつゑてうしろはやしまじつたみじかたけつててた。

竹の立っている林は彼のものではないけれど、彼はこうして必要なたびごとに、あえてかくしもしないぬすみをするのである。

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たけつてるはやしかれ所有しよいうではないけれど、かれうして必要ひつえうたびごとひてはかくさないぬすみをあへてするのである。

南瓜も庭のすみへ、粟のからでかこったべんじょのそばへ植えた。

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南瓜たうなすにはすみ粟幹あはがらかこうたかはやそばゑた。

それから庭のくりの木にもからませた。

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それからにはくりへもからませた。

なすだけは遠い畑の、麦のうねの間へ植えた。

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茄子なすだけはとほはたけむぎ畦間うねまゑた。

彼はさつまいものほかには、とてもそういう苗を自分で育てることができないので、また立派な苗を買いに行くゆとりもないので、ようすから見れば近くの村ではあるが、どことも分からないてんびん商人からそれを買った。

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かれ甘藷さつまいもほかには到底たうていさういふすべてのなへ仕立したてることが出來できないので、また立派りつぱなへひにだけ餘裕よゆうもないので、容子ようすかられば近村きんそんではあるが何處どことも確乎しかとはれない天秤商人てんびんあきうどからそれをもとめた。

てんびん商人の持って来るのは、たいてい売れ残りばかりである。

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天秤商人てんびんあきうどつてるのは大抵たいていくづばかりである。

それでも勘次は安いのをよろこんだ。

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それでも勘次かんじやすいのをよろこんだ。

彼はそのわずかなお金を何度もかぞえてわたした。

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かれわづかぜに幾度いくたび勘定かんぢやうしてわたした。

麦が刈られて、そのたばが両はしを切りそいだ竹の棒に通されて畑の外へかつぎ出されたとき、あとには陸稲や大豆がひょろひょろと青ばんだ畑に、勘次のなすは短いうねが五うねばかりになって立っていた。

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むぎられてたば兩端りやうはしいだたけぼうとほしてはたけそとかつされたときあとには陸稻をかぼ大豆だいづがひよろ/\とあをばんだはたけ勘次かんじ茄子なすみじかうねが五うねばかりになつてつてた。

下の葉は黄色くなっていたが、それでも麦がしばらく日をおおったので、みな根づいて育ちかけていた。

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下葉したは黄色きいろくなつてたがそれでもむぎしばらおほうたのでみなづいて生長せいちやうしかけてた。

やせさせないまでも、肥やして行くことをしない畑の土に、なすはしなびて、ところどころに一つずつ花をつけていた。

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假令たとひせさせないまでもこやしてくことをしないはたけつち茄子なす干稻ひねびてそれで處々ところ/″\ひとづゝはなつてた。

勘次は朝のまだすずしい、葉にしめり気のあるあいだに、かまどの灰を持って行ってその葉にかけてやるだけの手間はかけたのである。

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勘次かんじあさのまだすゞしい、しめりのあるあひだかまどはひつてつてけてだけ手數てすうつくしたのである。

それで、いくらでも元気に動き回るうりはむしはふせげた。

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それでいくらでも活溌くわつぱつ運動うんどうする瓜葉蟲うりはむしふせがれた。

それは羽が赤いので、この土地では「赤ばえ」と言っている。

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それははねあかいので赤蠅あかばへ土地とちではいつてる。

木の灰では、あぶらむしがわくのはどうにもならなかった。

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はひでは油蟲あぶらむしくのはどうも出來できなかつた。

それからまた、ねきり虫がむごく、かたいくきを根元からぷつりとかみたおして、植えた数がへっているのに、彼は遠い畑へ出て、土にかくれているそのにくらしい害虫をさがし出して、その丈夫な体をひしゃげさせてやるだけのゆとりを、体にも心にも持っていない。

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それからまた根切蟲ねきりむし残酷ざんこくかたくきもとからぷきりとたふしてうゑかずるにもかゝはらず、かれとほはたけつち潜伏せんぷくしてそのにくむべき害蟲がいちうさがしてその丈夫ぢやうぶからだをひしぎつぶしてだけ餘裕よゆう身體からだにもこゝろにもつてない。

かきねのきゅうりは、季節の南風がふいて、朝のもやがしっとりとかわいた庭の土をしめらせて下りると、何をひがんでか葉のかげに下がる実が、しぼんだ花の取れないうちにしりが曲がって、たちまち蔓も葉もがらがらにかれてしまったのだった。

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垣根かきね胡瓜きうり季節きせつみなみいて、あさもやがしつとりとかわいたにはつちしめしておりるとなにひがんでかかげさがうりが、しぼんだはなのとれぬうちにしりまがつてたちまちにつるもがら/\にかれしまつたのであつた。

ただ南瓜だけは、その特ちょうである大きな葉をずんずんと広げて、蔓の先がたちまちべんじょの低いのきからたれた。

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たゞ南瓜たうなすだけは特有もちまへおほきなをずん/\とひろげてつるさきたちまちにかはやひくひさしかられた。

ことにくりの木にからんだのは、真昼の、忘れるほど長いあいだ、雨戸は閉じたままで、たとえあぶらぜみがいりつけるようにそこらの木ごとにしがみついて声のかぎり鳴いたとしても、すべてが暑さにつかれたようで、むしろとても静かな庭をのぞきながら、葉のかげで、だんだんに日に焼けながら太りながら、しりのへそをむき出してどっしりとえだからたれ下がった。

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ことくりからんだのは白晝ひるまわすれるほどながあひだ雨戸あまどぢたまゝで、假令たとひ油蝉あぶらぜみりつけるやうに其處そこらのごとにしがみいてこゑかぎりにいたにしたところで、すべてがあつさにつかれたやうでむしきはめて閑寂かんじやくにはのぞいては、かげながら段々だん/\けつゝふとりつゝしりへそしてどつしりとえだからさがつた。

それがわずかに庭に元気をつけている。

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それがわづかには威勢ゐせいをつけてる。

どこもそうではあるが、ことに勘次の手で作られた野菜は、みなその実りがおくれた。

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ぱんにさうではあるがこと勘次かんじつくられた蔬菜そさいすべ成熟せいじゆくおくれた。

それで、その野菜がほうちょうにかかるまでは、口にざらつくほし菜や切り干しや、それも足りなくなれば、これでも彼らのはかないたくわえの心をいちばんよく表した菜や大根の塩からいつけ物のおけにだけ、おかずを求めるのである。

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それで蔬菜そさい庖丁はうちやうにかゝるあひだくちにこそつぱい干菜ほしな切干きりぼしやそれも缺乏けつばうげれば、れでも彼等かれら果敢はかない貯蓄心ちよちくしんもつと發揮はつきした大根だいこん鹽辛しほから漬物つけものをけにのみ副食物ふくしよくぶつもとめるのである。

彼らは働いてはらがへったと感じるときには、ちっとも動けないほど、急につかれを感じることさえある。

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彼等かれら勞働らうどうから空腹くうふく意識いしきするとき一寸いつすんうごくことの出來できないほどにはか疲勞ひらうかんずることさへある。

どんなそまつな物でも、彼らの口には問題ではない。

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什麽どんな麁末そまつものでも彼等かれらくちには問題もんだいではない。

彼らは味わうのではなくて、つまりのどのあなをうめるのである。

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彼等かれらあじはふのではなくてえうするに咽喉のどあなうづめるのである。

冷たい水を注いで、そのぽろぽろな麦ごはんをかき込むとき、彼らの一人もかみしめる者はない。

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冷水れいすゐそゝいでのぼろ/\な麥飯むぎめしとき彼等かれら一人ひとりでも咀嚼そしやくするものはない。

彼らはただ、たくさん飲み下すことで力を取りもどし、満足するのである。

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彼等かれらたゞ多量たりやう嚥下えんげすることによつて精力せいりよく恢復くわいふく滿足まんぞくするのである。

牛や馬でも、地上にやわらかな草がしげる季節が来れば、自然にほし草や藁をきらうようになる。

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うしうまでも地上ちじやうやはらかなくさ繁茂はんもする季節きせつれば自然しぜん乾草ほしぐさわらいとふやうになる。

それが、貧しい暮らしの人々だけは、こうしてがまんすることをよぎなくされているのである。

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それがまづしい生活せいくわつ人人ひと/″\のみはうしてあまんじてることを餘儀よぎなくされつゝあるのである。

しかし、みな汗をかくとともにかわいた口に、さわやかな野菜の味をほしがらない者はない。

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しかいづれも發汗はつかんともなうてかつしたくちさわやかな蔬菜そさいあぢほつしないものはない。

貧しさになやんで、そして野菜の足りないのを感じている者は、勘次だけではない。

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貧苦ひんくなやんでさうして蔬菜そさい缺乏けつばふかんじてるものは勘次かんじのみではない。

そういう仲間の、ことに女は、人目の少ない夕暮れの細い道でつやつやした青物を見ると、つい、ちょっとした出来心からそれをちぎって前かけにかくして来ることがある。

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さういふ伴侶なかまことをんな人目ひとめすくな黄昏たそがれ小徑こみちにつやゝかな青物あをものるとつひした料簡れうけんからそれを拗切ちぎつて前垂まへだれかくしてることがある。

畑の作り主が、その損だけでなくおしむ心からかげで激しく怒ろうとも、それを考えるひまはない。

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はたけ作主さくぬしその損失そんしつ以外いぐわいにそれををしこゝろからかげいきほはげしくおこらうともそれはかへりみるいとまたない。

勘次のやせたなす畑も、そうしておそわれた。

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勘次かんじせた茄子畑なすばたけもさうしておそはれた。

そのくきをいためても平気なちぎり方を見て、失望と怒りとを自然に感じずにはいられなかった。

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くきいためてもかまはぬ拗切ちぎりやうを失望しつばう憤懣ふんまんじやうとを自然しぜん經驗けいけんせざるをなかつた。

しかしながら彼は、つくづくいまいましいその気持ちを知りつくしていながら、自分もまた他人のすきをつくことをあえてするのだった。

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しかしながらかれはつく/″\と忌々敷いま/\しその心持こゝろもちじゆくしてながら自分じぶんまたきよじようずることをあへてするのであつた。

一つには、どうせ他人にもぬすられるのだからという投げやりな理くつが、心の中にできあがるのである。

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ひとつにはどうで他人ひとにもられるのだからといふ自暴自棄やけ理窟りくつこゝろのうちに捏造ねつざうされるのである。

一つには、心のとがめをよそにして、そしてまたそれがどこまでも見つからないものであるならば、他人の物をぬすむことは、食べたい気持ちを満たすにはかんたんで、しかも手軽な方法でなければならないはずである。

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ひとつには良心りやうしん苛責かしやく餘所よそにしてさうしてまたそれが何處どこまでも發見はつけんせられないものであるならば他人ひとものることは口腹こうふくよく滿足まんぞくせしむるには容易よういかつ輕便けいべん手段しゆだんでなければならぬはずである。

こういうわけで、わりとゆとりのある百姓よりも貧しい百姓のほうが、十分早く、しかも何度も、その新せんな野菜を味わうのである。

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ういふ理由わけ比較的ひかくてき餘裕よゆうのある百姓ひやくしやうよりも貧乏びんばふ百姓ひやくしやうは十ぶんはやかも數次しば/″\新鮮しんせん蔬菜そさいあぢあふのである。

たまたま市場から遠くて、馬の背で運ぶ者は、その実りを早めたつやつやした物がいくらあっても、自分の口には入れない。

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たま/\市場しぢやうとほうまはこもの成熟せいじゆくはやめたつやゝかなかずいくつても自分じぶんくちにはれない。

少しずつでも、ほかの必要な物を買うためにお金にかえようとするのである。

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すこしづゝでもほか必要品ひつえうひんもとめるためぜにへようとするのである。

季節が来なければたくさんの収穫は望めないので、彼らが食べ物として畑に手をつけるのは、すべてが十分に育った後でなければならない。

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季節きせつじゆくさねば收穫しうくわく多量たりやうのぞむことが出來できないので、彼等かれら食料しよくれうとしてはたけをつけるのはすべてが存分ぞんぶん生育せいいくげたあとでなければならぬ。

そこが、たがいにぬすむ者につけこまれる機会である。

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其處そこ相互さうごぬすむものをしてじようぜしめる機會きくわいである。

与吉は、よく貧しい仲間の子がうまそうに青物をかじっているのを見て、おつぎにねだることがあった。

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與吉よきち貧乏びんばふ伴侶なかま佳味相うまさう青物あをものかじつてるのをておつぎに強請せがむことがあつた。

勘次の家では、どうかすると朝になって大きな南瓜が土間にころがっていることがある。

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勘次かんじうちではどうかするとあさつておほきな南瓜たうなす土間どまころがつてることがある。

それでいて庭の南瓜は一つもへっていない。

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それでには南瓜たうなすひとつもつてない。

「これはどうしたんだい、おとっつあん」

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「こらどうしたんでえおとつゝあ」

与吉はよろこんで、あぶなっかしくだいては聞く。

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與吉よきちよろこんであぶさういてはく。

「いじるんじゃない」

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いぢんぢやねえ」

勘次はただおそろしい目をして、しかるようにおさえる。

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勘次かんじたゞおそろしいをしてしかるやうにおさへる。

勘次は、まだはだが白く、うすく赤みをおびた人形の手足のようなさつまいもをごはんにたきこむことがあった。

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勘次かんじはまだはだしろかつ薄赤味うすあかみびた人形にんぎやう手足てあしのやうな甘藷さつまいもめしむことがあつた。

「うまいな」

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佳味うめえな」

とおつぎが言ったとき

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とおつぎがいつたとき

「〆粕で作るからよ」

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〆粕しめかすつくつからよ」

勘次は言った。

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勘次かんじはいつた。

「旦那の所じゃ、〆粕ばかり使うんだろうか」

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旦那だんなぢや、〆粕しめかすばか使つかあんだつぺか」

おつぎは自分の知らない高い肥料のことについて聞いた。

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おつぎは自分じぶんらぬ不廉ふれん肥料ひれうのことにいていた。

勘次は気がついて

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勘次かんじがついて

「さつまいもを食ったなんて言うんじゃないぞ」

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甘藷さつまくつたなんていふんぢやねえぞ」

と与吉に言い聞かせた。

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與吉よきちいましめた。

勘次は、彼の大豆畑の近くにとなりの主人のさつまいも畑と、それからそのとちゅうに南瓜畑があったので、ほかの畑の物よりも自然にそれをぬすんだ。

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勘次かんじかれ大豆畑だいづばたけちかくにとなり主人しゆじん甘藷畑さつまばたけとそれから途中とちう南瓜畑たうなすばたけがあつたので、はたけのものよりも自然しぜんにそれをつた。

少しずつぬすんだ。

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すこしづつつた。

南瓜は昼のうちに見ておいて、夜になるとそっと蔓を引いてありかをさがすのである。

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南瓜たうなす晝間ひるまいてよるになるとそつとつるいて所在ありかさがすのである。

さつまいもは、土をかき払ってさがしほりするのは気が急きすぎるので、ぐっと引き抜く。

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甘藷さつまいもつちいてさがりにするのはこゝろせはぎるのでぐつとく。

彼は昼間さつまいも畑のそばを通っては、自分のあらしたあとを見て心の中でひどいとは思うのだが、それをうめておくには気がとがめた。

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かれ日中につちう甘藷畑さつまいもばたけそばぎては自分じぶんあらしたあとこゝろひどいとはおもふのであるがそれをうめくにはこゝろとがめた。

こういう仲間は、「千菜あらし」という名で呼ばれた。

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ういふ伴侶なかま千菜荒せんざいあらしといふ名稱めいしようもとばれた。

与吉は一人で村を遊んで歩いた。

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與吉よきちひとりむらあそんであるいた。

秋がふけて、さつまいもが蒸されるようになった。

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あきけて甘藷さつまいもされるやうにつた。

与吉はよくそういう所へ行っては、ほしそうな顔をして黙って見ているので、どこでも熱いさつまいもをもらえるのだった。

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與吉よきちくさういふところつてはさうかほをしてだまつてるので何處どこでもあつ甘藷さつまいもあたへられるのであつた。

あるとき、彼は

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あるときかれ

「おれは家でさつまいもを食ったなんて言わないんだ」

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らあうち甘藷さつまくつたなんてゆはねえんだ」

と、さつまいもを手に持っておずおずと言った。

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甘藷さつまいもつてづ/\いつた。

彼はただ、うれしかったのである。

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かれたゞうれしかつたのである。

「なぜ言わないんだ」

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何故なぜゆはねえんだ」

くれた人は聞いた。

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あたへたひといた。

「なぜでもだ」

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何故なぜでもだ」

「そんじゃいい、そのさつまいもは取り返しちまうから」

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「そんぢやえゝ、その甘藷さつまけえしつちまあから」

とおどかされて

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おどろかされて

「そんでも、おれの家のおとっつあんが、さつまいもを食ったなんて言うんじゃないぞって言ったんだ」

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「そんでも俺家おらぢのおとつゝあ甘藷さつまつたなんてゆふんぢやねえぞつてつたんだ」

与吉はこびるようなようすで言った。

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與吉よきちびるやうな容子ようすでいつた。

「よきらの家のさつまいもはうまいか」

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「よきら甘藷さつまうめえか」

「旦那のはうまいって言ったんだ」

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旦那だんなのがはうめえつてつたんだ」

「おとっつあんが言ったのか、姉ちゃんが言ったのか」

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「おとつゝあゆつたのかねえゆつたのか」

「姉ちゃんじゃない、おとっつあんだ」

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ねえぢやねえ、おとつゝあだ」

「おとっつあんは家でさつまいもを食って、旦那のはうまいって言ったのか」

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「おとつゝあはうち甘藷さつまくつて旦那だんなのがうめえつちつたのか」

「そうなんだわ」

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「さうなんだわ」

何も知らない与吉は、さそい出されるままに言ってしまった。

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無心むしん與吉よきちさそされるまゝにいつてしまつた。

しかし、たがいに畑をあらしては、やせた骨身をかじり合っているような彼らのあいだに、こんなことがなければ、わざわざ勘次ばかりが目をつけられることはなかったのである。

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しか相互さうごはたけあらしては、せた骨身ほねみかじうてるやうな彼等かれらあひだにこんなことがければ殊更ことさら勘次かんじばかりが注目ちうもくされるのではなかつたのである。

一〇

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一〇

秋も、朝は冷たくなった。

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あきあさひやゝかにつた。

稲のほは、北風がふけば南へ向いたり、南風がふけば北へ向いたりして、その重たそうな首を止まず動かしては、さらさらとさびしく笑いはじめた。

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いねきたけばみなみいたり、みなみけばきたいたりして重相おもさうくびまずうごかしてはさら/\とさびしくわらひはじめた。

強い秋の雨が、一晩ざあざあとふった。

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つよあきあめが一ざあ/\とつた。

次の日には、空は少しのちりも残さないというようにすごいほど晴れて、山もめっきり近くなっていた。

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つぎにはそらいさゝか微粒物びりふぶつとゞめないといつたやうにすごほどれて、やま滅切めつきちかつてた。

しっとりと落ち着いた空気をとおして、日ざしが妙にはだにもみこむように暖かで、しかも暑かった。

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しつとりと落付おちついた空氣くうきとほして、日光につくわうめう肌膚はだむやうにあたゝかであつかつた。

春のような日にだまされて、ひばりは、そっけない三角形の種がふくらみながら、まだいっぱいに白いそば畑や、それから陸稲の畑の上でさえずった。

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はるのやうなだまされて雲雀ひばりは、そつけない三稜形りようけいたねふくれつゝまだ一ぱいしろ蕎麥畑そばばたけやそれから陸稻畑をかぼばたけうへさへづつた。

それでも、いくらか羽の動きがにぶくなっているのか、春のようではなく低くさまよって、しわがれたのどを鳴らしている。

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それでもいくらかはね運動うんどうにぶつてるのかはるのやうではなくひく徘徊さまようて皺嗄しやがれたのどらしてる。

まわりの高台からは、土びんのふたを取ってつるべをごっとかたむけたように、雨水がいっぱいに田に集まって、稲のほ先が少しつかった。

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周圍しうゐ臺地だいちからは土瓶どびんふたをとつて釣瓶つるべをごつとかたむけたやうに雨水あまみづが一ぱいあつまつていね穗首ほくびすこひたつた。

田んぼもほりも一つになった水は、土びんの口からはき出すように、少しずつ低い田へと落ちる。

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田圃たんぼほりひとつにつたみづ土瓶どびんくちからすやうにおもむろひくへとおちる。

村の子どもたちは「三平ぴいつくぴいつく」

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村落むら子供等こどもらは「三ぺいぴいつく/\」

とひばりの鳴き声をまねしながら、小さなざるを持ったり、たも網を持ったりして、じゃぶじゃぶと気持ちのいい田んぼの水をわたって歩いた。

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雲雀ひばり鳴聲なきごゑ眞似まねしながら、小笊こざるつたり叉手さでつたりしてぢやぶ/\とこゝろよい田圃たんぼみづわたつてあるいた。

そこにはまた、これも春のような日にだまされて、とっくに鳴かなくなっていたかえるがふわりとうかんでは、こそばゆい稲のほにつかまりながら、げらげらと鳴いた。

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其處そこにはまたれもはるのやうなだまされて、とうからかなくつてかへるがふわりといてはこそつぱいいねつかまりながらげら/\といた。

いっぱいにふさがっている稲のほの下を、そろそろとはいながら水が低くなったとき、秋の日は落ちかけた。

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ぱいふさがつていねしたをそろ/\とひながらみづひくつたときあきけた。

そして、いつでも鳴きたくなる機会があれば鳴くのだと言って待っているそのかえるも、しんとした。

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さうして什麽どんなときでも本能ほんのう衝動そゝ機會きくわいがあればくのだといつてつてかへるもひつそりとした。

大雨の後の畑へは、百姓はたいてい遠りょして出なかった。

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大雨おほあめあとはたけへは百姓ひやくしやう大抵たいていひかにしてなかつた。

勘次は夕暮れ近くなってから、一人で草かりかごを背負って出た。

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勘次かんじ黄昏たそがれちかくなつてからひとり草刈籠くさかりかご背負せおつてた。

彼はいつもの道へは出ないで、後ろの田んぼから林へ、それから遠回りして畑へ出た。

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かれ何時いつものみちへはないでうしろ田圃たんぼからはやしへ、それからとほ迂廻うくわいして畑地はたちた。

日はまだほんのり明るかったので、勘次はあっちこっちと空の草かりかごを背負ったまま歩いた。

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はまだほんのりとあかるかつたので勘次かんじはそつちこつちとから草刈籠くさかりかご背負せおつたまゝあるいた。

彼はそれでも心のとがめから、あみがさでその顔をかくした。

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かれれでも良心りやうしん苛責かしやくたいして編笠あみがさかほへだてた。

日がすっかりくれたとき、彼は道ばたへ草かりかごを下ろした。

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がとつぷりとれたときかれ道端みちばた草刈籠くさかりかごおろした。

そこには、畑のまわりに一うねずつ作ったとうもろこしが丈高くつっ立っている。

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其處そこにははたけ周圍まはり一畝ひとうねづつにつくつた蜀黍もろこしたけたかつてる。

草かりかごがすっと地面にころがるとき、とうもろこしの大きな葉にふれてがさりと鳴った。

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草刈籠くさかりかごがすつと地上ちじやうにこけるとき蜀黍もろこしおほきれてがさりとつた。

さらにその葉は、どこにも感じない小さな風にゆれて、自分だけがこわがったようにさわいでいる。

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さらその何處どこにもかんじない微風びふう動搖どうえうして自分じぶんのみがおぢたやうにさわいでる。

ほは、何をさわぐのかとふしぎがるように、少し伏し目に見下ろしている。

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なにさわぐのかといぶかるやうにすこ俯目ふしめおろしてる。

勘次は菜切りぼうちょうを取り出して、その高いとうもろこしのくきをぐっと曲げては、ほの首に近い所をななめに切った。

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勘次かんじ菜切庖丁なきりばうちやう取出とりだして、そのたか蜀黍もろこしみきをぐつとまげては穗首ほくびちかなゝめつた。

ほは勘次の手に残って、くきは急にはね返った。

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勘次かんじとまつてみききふかへつた。

そしてふるえた。

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さうして戰慄せんりつした。

勘次は重くなった草かりかごを背負って、今度は野の道を一気に自分の家へ帰った。

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勘次かんじおもつた草刈籠くさかりかご背負せおつて今度こんどらのみち一散いつさん自分じぶんうちかへつた。

次の朝、勘次はのき先に横に竹をわたして、ゆっさりとするそのほをしばって、たがいちがいにかけた。

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つぎあさ勘次かんじ軒端のきばたよこたけわたして、ゆつさりとするしばつてちがひにけた。

南へ低くなった日が、それをのぞくようにさしかけた。

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みなみひくくなつたれをのぞくやうにけた。

その日は、みな申し合わせたように畑へ出た。

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いづれもいひあはせたやうにはたけた。

一日照ったので、畑はたいていぱさぱさにかわいている。

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にちつたのではたけ大抵たいていぱさ/\にかわいてる。

とうもろこしのほを切りに出た村の一人は、自分の畑がざっくりとあらされているのを見つけておどろいた。

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蜀黍もろこしりにむら一人ひとり自分じぶんはたけがぞつくりとあらされてるのを發見はつけんしておどろいた。

彼は畑へ来たなり、ほは一本も切らないでそのまま駐在所へかけつけた。

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かれはたけたなりは一ぽんらないでまゝ駐在所ちうざいしよけつけた。

巡査はそれでも、すぐに制服を着て被害者といっしょに現場へ来て見て、切られたほの数をあらためて手帳に書き止めた。

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巡査じゆんさはそれでもぐに官服くわんぷく被害者ひがいしやと一しよ現場げんぢやうられたかずあらためて手帖ててふめた。

被害者が駐在所へかけつけるあいだに、畑の遠くにばらばらに散らばっている百姓たちは、みなそれを知った。

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被害者ひがいしや駐在所ちうざいしよけつけるに、はたけとほくにはなれ/″\にらばつて百姓等ひやくしやうらことごとれをつた。

被害者が道々大声を出してどなって行ったからである。

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被害者ひがいしや途次みちみち大聲おほごゑして呶鳴どなつてつたからである。

何でも昨夜おそく野から帰る者があったというが、それではそれにちがいないだろうということが伝えられた。

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なんでも昨夜さくやおそらからかへるものがつたといふがそれぢやれに相違さうゐないだらうといふことがつたへられた。

勘次も畑へ出ていて、さわぎになりはじめたのを知った。

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勘次かんじはたけさわぎにりはじめたのをつた。

彼はすぐに飛んで帰って、とうもろこしのほをすっかり外して、そっと近くの林へかくして、むしろを二まいばかりかぶせた。

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かれすぐんでかへつてことごと蜀黍もろこしはづして、そつとちかくのはやしかくしてむしろを二まいばかりおほうた。

「くせになるから、みっしりこりさせたほうがいい。おれのほうは畑がうるさくて本当に仕方がない」

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くせになつから、みつしらりらかしたはうがえゝ、俺方おらはうはたけ五月蠅うるさくつて本當ほんたうやうねえ」

「見せしめに行くときには、こっぴどくやらなくちゃいけないよ」

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せしめにときにや、こつぴどくんなくつちやえかねえよ」

「村の中をよく見さえすりゃすぐに分かるさ。とうもろこしなんぞ、どこへかくせるもんじゃない」

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村落むらうちようくせえすりやすぐわからな、蜀黍もろこしなんぞ何處どこかくせるもんぢやねえ」

などと、近い畑の者同士はどなり合った。

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などちか畑同士はたけどうし呶鳴どなつた。

その声は被害者の耳にも入って、むかむかと怒ったその心に勢いをつけた。

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こゑ被害者ひがいしやみゝにも這入はひつてむか/\とげきしたこゝろいきほひをけた。

「数が分かったら、もう後へ手をつけてもいい」

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かずわかつたらもうあとけてもえゝ」

巡査は畑を去った。

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巡査じゆんさはたけつた。

「わしも行ってみましょう。自分の畑のは一目見りゃ分かりますから」

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「わしもつてあんせう、自分じぶんはたけのがは一目ひとめりやわかりあんすから」

こう言って、被害者はとうもろこしのほを二、三本持って村へもどった。

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ういつて被害者ひがいしや蜀黍もろこしを二三ぼんつて村落むらもどつた。

巡査はあちこち二、三けん見て歩いて、勘次の庭に立った。

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巡査じゆんさ其處そこ此處ここらと二三げんあるいて勘次かんじにはつた。

それは、勘次は二、三人の者とともに巡査が目をつけている人物だったからである。

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それは勘次かんじは二三のものとも巡査じゆんさ注意人物ちういじんぶつであつたからである。

しかし彼の貧しい家のどこにも、かくせるすきまは見つからなかった。

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しかかれまづしい建物たてもの何處どこにも隱匿いんとくされる餘地よち發見はつけんすることが出來できなかつた。

そのときには、勘次がよそへ運んだ後なのである。

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とき勘次かんじ餘所よそはこんだあとなのである。

巡査はのきにわたした竹の棒を見て

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巡査じゆんさのきわたしたたけぼう

「これはどうするんだい」

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りやどうするんだい」

と聞いた。

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いた。

被害者はさっきから雨だれの水で土のくぼんだあたりを見ていたが

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被害者ひがいしや先刻さつきから雨垂あまだれみづつちくぼんだあたりをたが

「はてな」

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「はてな」

と首をかしげて

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くびかたぶけて

「とうもろこしのつぶが落ちてありますぞ。そうするとここへかけたのを、またどこかへ持って行っちまったな」

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蜀黍粒もろこしつぶおつこつてあんすぞ、さうすつと此處ここけたのまた何處どこへかつてつちやつたな」

被害者は言った。

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被害者ひがいしやはいつた。

巡査はうなずいた。

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巡査じゆんさ首肯うなづいた。

「このつぶでがすから、わしのにちがいありません。あいつらのは、こんなにできっこないんですから。それ、証こには、きっと自分の畑のは一つのほも切っちゃないから見なさい。わしのはこれでも〆粕を入れて作ったんでがすから」

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つぶでがすから、わしがに相違さうゐありあんせん、彼等あつらがなんなに出來できつこねえんですから、それ證據しようこにや屹度きつと自分じぶんはたけのがなひとでもつちやねえからさつせ、わしがんでも〆粕しめかすえてつくつたんでがすから」

被害者はいっしんに言った。

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被害者ひがいしや熱心ねつしんにいつた。

勘次はそのとき、不安なようすでぽつんと自分の庭に立った。

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勘次かんじそのとき不安ふあん態度たいどでぽつさりと自分じぶんにはつた。

彼はすでに、巡査がのき下に立っているのを見てぞっとした。

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かれすで巡査じゆんさ檐下のきしたつてるのを悚然ぞつとした。

「勘次、この竹はどうしたんだな」

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勘次かんじたけはどうしたんだな」

巡査は横目に勘次を見て言った。

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巡査じゆんさ横目よこめ勘次かんじていつた。

「わし、これは、とうもろこしを切ってかけようと思ったんでがす」

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「わしらあ、蜀黍もろこしつてけべとおもつたんでがす」

「うん、このつぶのこぼれたのはどうしたんだ。とうもろこしなんだろう、これは」

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「うむ、つぶこぼれたのはどうしたんだ、蜀黍もろこしなんだらうれは」

「へえ、なに、わしがひとつかみしごいて来てみたのを、捨てたんでがした」

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「へえ、なに、わしが一攫ひとつかいてたの打棄うつちやつたんでがした」

勘次はこう言って青くなった。

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勘次かんじういつてあをつた。

巡査はさらに、被害者に勘次の畑を案内させた。

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巡査じゆんささら被害者ひがいしや勘次かんじはたけ案内あんないさせた。

しょんぼりとして後についてくる勘次を、要らないからと巡査はきびしくしかって追いやった。

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悄然せうぜんとしてあといて勘次かんじえうはないからと巡査じゆんさ邪慳じやけんしかつてひやつた。

勘次の畑のとうもろこしは、被害者が言ったように、情けないようなみすぼらしいほがさらりと立って、それでもおびえたというように、独特のさわがしい音を立てていた。

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勘次かんじはたけ蜀黍もろこし被害者ひがいしやがいつたやうに、なさけないやうな見窄みすぼらしいがさらりとつてそれでも恐怖心きようふしんられたといふやうに特有もちまへな一しゆさわがしいひゞきてつゝあつた。

ほは一つも切ってなかった。

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ひとつもつてはなかつた。

「これだから、わしは言ったんでがす。ねえ、それ、このつぶでがすからね」

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れだからわしつたんでがす、ねえそれ、つぶでがすかんね」

被害者は勢いが出た。

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被害者ひがいしや威勢ゐせいた。

「稲のたばをかつぐんだって、わしらは口には出さないが、ちゃんと知ってるんでがすから。そう言っちゃ何だが、そんなことするのは、決まったようなもんですからね」

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いねたばかつぐんだつて、わしくちしちやはねえが、ちやんとつてんでがすから、さうつちやなんだが其麽そんなことするもなあ、きまつたやうなもんですかんね」

被害者はさらに、手がらでも立てたように言った。

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被害者ひがいしやさら手柄てがらでもしたやうにいつた。

「もう分かったから、それじゃ自分の仕事をするがいい。後でわしが報告書を作って来てやるから、それへはんこをおせば、それで手続きは済むんだからな」

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「もうわかつたから、それぢや自分じぶん仕事しごとをするがいい、のちにわしが申報書しんぱうしよこしらへてるから、それへ印形いんぎやうせばそれで手續てつゞきむんだからな」

巡査はそう言って、そして被害者が

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巡査じゆんさはさういつてさうして被害者ひがいしや

「そんじゃ、わしはとうもろこしをかくしておく所を見つけ出しますから。きっとあるに決まってるんだから」

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「そんぢや、わし蜀黍もろこしかくしてとこ見出めつけあんすから、屹度きつとんにきまつてんだから」

と言う声を後にして、畑の細い道をうねりながら行った。

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といふこゑあとにしてはたけ小徑こみちをうねりつゝつた。

「今度こそは、つかまっちゃ一年くらいはくらうんだろう」

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今度こんだこさあ、捕縛つかまつちや一杯いつぺえらあんだんべ」

畑の者同士は痛快に感じながら、口々にこういうことを言った。

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畑同士はたけどうし痛快つうくわいかんじつゝ口々くち/″\ういふことをいつた。

「おつう、おれはとても今度はだめだよ」

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「おつうらとつても今度こんだあ駄目だめだよ」

勘次は、はかない自分の気持ちを、たった一人の家族であるおつぎに投げかけるように、しおれきって言った。

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勘次かんじ果敢はかない自分じぶん心持こゝろもちゆゐ一の家族かぞくであるおつぎの身體からだけるやうにしをつていつた。

勘次は心の底からおそれたのである。

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勘次かんじ衷心ちうしんから恐怖きようふしたのである。

それほどならば、なぜ彼はとうもろこしのほを切ることをあえてしたのだろうか。

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ほどならば何故なぜかれ蜀黍もろこしることをあへてしたのであつたらうか。

彼はこれまでも、畑の物をぬすんだのは一度や二度ではない。

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かれれまでもはたけものつたのは一や二ではない。

それはわずかだったが、彼はぬすみたくなったとき、機会さえあればいつでもぬすんでいたのである。

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れは些少させうであつたがかれりたくなつたとき機會きくわいさへあれば何時いつでもりつゝあつたのである。

彼は身をほろぼそうとまで、その弱い心が少しのことにも彼を苦しめるとき、彼をつき動かしてぬすみ心がむかむかと首をもたげていたのである。

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かれころさうとまで薄弱はくじやく意思いしすこしのことにもかれくるしめるときかれ衝動そそつて盜性たうせいがむか/\とくびもたげつゝあつたのである。

勘次はもう、仕事をするどころではない。

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勘次かんじはもう仕事しごとをするどころではない。

彼はとても少しのあいだもその家にいられなくなって、となりの主人にすがろうとした。

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かれ到底たうてい寸時すんじいへへられなくつて、となりかれ主人しゆじんすがらうとした。

そのしきいをまたぐことが、彼にはどれほどつらかったか知れない。

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しきゐすことがかれにはどれほどつらかつたかれぬ。

主人は留守だった。

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主人しゆじん不在ふざいであつた。

「おかみさん、わしはまた間ちがいをしまして、どうもこれ、おかみさんの所へは敷居が高くて何でがすが、わしがいなくでもなっちゃ、子どもらは仕方がありませんから、助かれるもんならわしももう……」

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「お内儀かみさん、わしもまた間違まちがえしあんしてどうもれお内儀かみさんとこへはしきゐたかくつてなんでがすが、わしなくでもつちや子奴等こめらやうがあせんから、たすかれるもんならわしもはあ……」

と、彼はぐったり首をうなだれた。

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かれはぐつたりくびれた。

主人のおかみさんは、勘次がとうもろこしを切ったことをもう知っていた。

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主人しゆじん内儀かみさんは勘次かんじ蜀黍もろこしつたことはもうつてた。

まだくせが直らないかと、一度ははらを立ててもみたりあきれもしたりしたが、しかしどこといってかばってくれる人がないので、こうして来るのだと、目の前にそのしおれたすがたを見ると、さすがにあわれになってしかるどころではなかった。

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まだくせまないかと一はらたててもたりあきれもしたりしたが、しか何處どこといつて庇護かばつてくれるものがいのでうしてるのだと、目前もくぜんそのしをれた姿すがたると有繋さすがあはれつてしかどころではなかつた。

それではどうにか心配してみてやろうと言われて、勘次は顔が生き返ったようになった。

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それではどうか心配しんぱいしててやらうといはれて勘次かんじかほ蘇生いきかへつたやうにつた。

彼は何でも、主人が力をつくしてくれればうまく行くと思っているのである。

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かれなんでも主人しゆじん盡力じんりよくしてれゝば成就じやうじゆするとおもつてるのである。

それでも自分の家にはいられないので、どうかかくしてくれと、彼は土蔵へ入れてもらった。

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それでも自分じぶんいへにはられないので、どうかかくしてくれとかれ土藏どざうれてもらつた。

勘次はそこでも不安にたえられないので、そこにしばらく使わずにしまってある大きなおけへ、こっそりともぐっていた。

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勘次かんじ其處そこでも不安ふあんへないので其處そこしばら使つかはずにしまつてある四尺桶しやくをけへこつそりともぐつてた。

巡査は昼過ぎに報告書のはんこを取りに来て、勘次の家へ行ってみた。

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巡査じゆんさ午後ごご申報書しんぱうしよいんりに勘次かんじいへつてた。

勘次はどこへ行ったと巡査に聞かれて、おつぎはただ知らないと言った。

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勘次かんじ何處どこつたと巡査じゆんさかれておつぎはたゞらないといつた。

そして巡査の後ろすがたがかきねを出たとき、こっそり泣いた。

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さうして巡査じゆんさ後姿うしろすがた垣根かきねときひそかいた。

被害者はとうとうかくした場所を見つけて、巡査を案内した。

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被害者ひがいしや到頭たう/\隱匿いんとくした箇處かしよ發見はつけんして巡査じゆんさみちびいた。

雑木林のしげったあいだの、もうかたくなった草の中へ、とうもろこしのほはしばったままどさりと置いてあったのである。

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雜木林ざふきばやし繁茂はんもしたあひだの、もうこはつたくさなか蜀黍もろこししばつたまゝどさりといてあつたのである。

そこにはもうそっけなくなったおみなえしのくきがけろりと立って、えだまで折られたくりが、低いながらにえだの先のほうにだけはわずかにはじけている。

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其處そこにはもうそつけなくなつた女郎花をみなへしくきがけろりとつて、えだまでられたくりひくいながらにこずゑはうにだけはわづかんでる。

その小さなしばぐりが落ちただけでもおどろいてさわぐだろうと思うほど、か細いこおろぎがあちこちでかすかに鳴いている。

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ちひさな芝栗しばぐり偶然ひよつくりちてさへおどろいてさわぐだらうとおもふやうに薄弱はくじやく蟋蟀こほろぎがそつちこつちでかすかにいてる。

ちょっと他人の目にはふれない場所だった。

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一寸ちよつと他人ひとにはれぬ場所ばしよであつた。

ほをおおったそのむしろが、勘次のしわざであることをはっきりと証こ立てていた。

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おほうたむしろ勘次かんじ所業しわざであることを的確てきかく證據立しようこだてゝた。

主人のおかみさんは、いちおう被害者に話をつけてみた。

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主人しゆじん内儀かみさんは一おう被害者ひがいしやはなしをつけてた。

被害者の家族はまじめ者で、みなひどく怒っている。

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被害者ひがいしや家族かぞく律義者りちぎものみなげきつてる。

七十ばかりになる被害者のおじいさんが、ことに頑固に言い張った。

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七十ばかりに被害者ひがいしや老人ぢいさんこと頑固ぐわんこ主張しゆちやうした。

「泥棒なんぞする奴は、わしは大きらいでがすから。わしらの畑のなすを引きむしったんだって、ちゃんと知っちゃいるんでがすから。いや、まったくでがす。おかみさんの所のさつまいももぬすりましたとも。ぐうずら蔓を引っこ抜いて捨てて、いや本当でがす。わしゃ嘘なんざ言うのはきらいでがすから。それどころじゃありません、おかみさん。夜切って来て、朝っぱらになったらもうかけたにちがいないというんでがすから。なに、わしもむしろをかけた所を見ました。むしろで分かるからだめでがす。いや、まったくひどい野郎でがす、どうも」

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泥棒どろぼうなんぞするやざあ、わし大嫌だえきれえでがすから、わしはたけ茄子なすもぎつたんだつてちやんとつちやんでがすから、いやまつたくでがす、お内儀かみさんとこ甘藷さつまりあんしたとも、ぐうづらつるつこいて打棄うつちやつて、いや本當ほんたうでがす、わしやちくなんざあいふなきれえでがすから、どこぢやがあせんお内儀かみさん、よるつてて、あさつぱらにつたらはあけたに相違さうゐねえつちんでがすから、なにわしもむしろけたところあんした、むしろわかるから駄目だめでがす、いやまつたひで野郎やらうでがすどうも」

おかみさんは、それは分かっていた。

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内儀かみさんはれは豫期よきしてた。

「そりゃそうさね。この前も私の所で助けてやったのに、それにまたこうなんだから。まあ病気さね、これも。困ったもんだが、しかしあれを懲役にやってみたところで、子どもらが泣くばかりだからね。それにまあ本当を言えば、一つ村にこうしているんだから、相手が困りきっているうちにかんべんしてやったとなると、一生相手は頭が上がらない道理だが、それが一年の罪にでも落としてみると、相手のほうでは帳消しにでもなったようなつもりでいないともかぎらない。そうすると、敵を一人こしらえておくようなものだしね。他人にたたかれたのでは眠れるが、たたいたのでは眠れないとさえ言うんだから、何でも後で悔やまないほうがいいようだが、どうだね」

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「そりやさうさね、まへわたしところすくつてつたのにそれにたかうなんだから、まあ病氣びやうきさねこれも、こまつたもんだがしかしあれを懲役ちやうえきつてところ子供等こどもらくばかりだからね、それにまあ本當ほんたういへばひと村落むらうしてるんだからさきこまつてるうち勘辨かんべんしてつたとると一しやうさきがひけて道理だうりだがそれが一ぱいつみにでもおとしてると、さきでは帳消ちやうけしにでもつたやうなつもりまいものでもなし、さうするとかたき一人ひとりこしらへてくやうなものだしね、他人ひとたゝかれたのではねむれるが、たゝいたのではねむれないとさへいふんだから、なんでも後腹あとばらめないはういやうだがどうだね」

「そんでも、おかみさん、わしゃ卯平がみじめな目にあってるのが、他人のことでもいまいましいんでさ。わしゃ若いころから卯平とは相棒で仕事もしたんでがすが、卯平はもう何でも、あれが女房らを育てたころのことなんぞ思っちゃ、そまつにはできないんでがすからね。それ、おかみさん、卯平はいくつになりますね。わしらだったらなあに、ああいう野郎なんざ、槍ででも何でも突き刺しちまうんでがすがね」

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「そんでもお内儀かみさん、わしや卯平うへいことみじめせてんのが他人ひとのこつても忌々敷いめえましいんでさ、わしや血氣けつきころから卯平うへいたあ棒組ぼうぐみ仕事しごともしたんでがすが、卯平うへいはあんでもあれが嚊等かゝあらそだ時分じぶんことなんぞおもつちや疎末そまつにやんねえんでがすかんね、それお内儀かみさん卯平うへいいくつにりあんすね、わしだらなあに、あゝた野郎やらうなんざあやりでゝもなんでもしつちあんでがすがね」

おじいさんは怒りにたえられないように、にぎった手をひざがしらへ当てて言った。

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老人ぢいさん憤慨ふんがいへぬやうにかためたこぶしひざがしらへてゝいつた。

「もっともさね、そりゃ。それだが、はらの立つときは憎い奴だと思っても、後で悔やむときがないとも言えないしね。少しのことで二代も三代も仲直りができないような例が、いくらも世間にはあるもんだからね」

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もつともさねそりや、それだがはら時分じぶんにくやつだとおもつても後悔こうくわいするときいともいひないしね、すこしのことで二だいも三だい仲直なかなほりが出來できないやうな實例ためしいくらも世間せけんにはるもんだからね」

おかみさんはくり返して言った。

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内儀かみさんは反覆くりかへしていつた。

しかしなかなか彼らの心は落ち着かない。

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しか容易ようい彼等かれらこゝろ落居おちゐない。

しばらく話はとぎれていた。

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しばらはなし途切とぎれた。

「遠くのほうへやったなんて言ったっけが、おりせはまた孫ができたそうだね。今度のは男だって、それでもよかったねえ」

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とほくのはうつたなんていつたつけがおりせはまたまご出來できさうだね、今度こんどのはをとこだつてそれでもかつたねえ」

おかみさんは、そばにいたおばあさんに向いて、とつぜんこう言いかけた。

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内儀かみさんはそば老母ばあさんいて突然とつぜんういひけた。

そしておかみさんは、冷たくなっていた茶わんを手にした。

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さうして内儀かみさんはつめたくつて茶碗ちやわんにした。

それを見て被害者の女房は土間へかけ下りて、かまどの口に火をつけてふうふうと火ふき竹をふいた。

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れを被害者ひがいしや女房にようばう土間どまけおりてかまどくちけてふう/\と火吹竹ひふきだけいた。

「はい、そうでござりますよ。おかみさんのお世話になりましたっけが、あれも今じゃずいぶんいい塩梅でございましてね。四人目でやっと、それでも男でがすよ。おかみさんに言われたときにはわしらももうしぶっていたんでがしたが、暮らしもあのときからよくなるしね。きょうだいの中で今じゃ、りせが一番だって言ってるところなのさ。おかみさんがあれなら大丈夫だからって言ってくれましたっけが、むこも心根がよくてね。じいさんばあさんにって、わしらにこういう物をよこしましたよ」

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「はあいさうでござりますよ、お内儀かみさんの厄介やつけえりあんしたつけが、あれもいまぢや大層たえそうえゝ鹽梅あんべいでがしてない、四人目よつたりめやつとそんでもをとこでがすよ、お内儀かみさんにあれたときにやわしもはあしびれえてたんでがしたが、身上しんしやうもあんときかんぢやよくなるしね、兄弟中きやうでえぢういまぢやりせが一ばんだつてつてつとこなのせ、お内儀かみさんあれなら大丈夫でえぢよぶだからつてゆつれあんしたつけが婿むこ心底しんていくつてね、爺婆ぢゝばゝあげつて、わしうたものよこしあんしたよ」

おばあさんは待ちかまえていたように、小さな風呂しきづつみを解いて、手織りのように見えるそまつな反物を出して、得意そうに見せた。

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老母ばあさんかまへてゞもたやうに小風呂敷こぶろしきつゝみいて手織ておりのやうにえる疎末そまつ反物たんものして手柄相てがらさうせた。

おかみさんは仕方ないというようすで、反物へ手をかけて

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内儀かみさんは仕方しかたないといふ容子ようす反物たんものけて

「それでも孫だきには行ったかね」

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「それでもまごきにはつたかね」

「ほんに、わしゃ今日あたり、おかみさんの所へ行こうと思っていたら、何ということか、こんなさわぎでもう行くこともできないで、わしゃ昨日帰って来たところなのさ、おかみさん」

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「ほんに、わしや今日けふらお内儀かみさんとこくべとおもつてたら、なんちこつたかんなさわぎではあくも出來できねえで、わしや昨日きのふけえつてところなのせえ、お内儀かみさん」

おばあさんはいくらでも勢いづいてしゃべろうとする。

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老母ばあさんいくらでもいきほひづいて饒舌しやべらうとする。

熱いお茶がやっと、おかみさんの前に注がれた。

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あつちややうや内儀かみさんのまへまれた。

被害者はおじいさんと座敷のすみで、さっきからこそこそと話をしている。

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被害者ひがいしや老父ぢいさん座敷ざしきすみ先刻さつきからこそ/\とはなしをしてる。

そしてさらに、おばあさんを呼んだ。

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さうしてさら老母ばあさんんだ。

「うん、そうだともよ」

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「うむ、さうだともよ」

というおばあさんの声がすると、みな座り直して

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といふ老母ばあさんこゑがするとみななほつて

「それじゃ、おかみさん、さっきのをおかみさんのいいように話してみておくんなせえ」

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「それぢや、お内儀かみさん、先刻さつきのがなお内儀かみさんえゝやうにつてておくんなせえ」

被害者は言った。

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被害者ひがいしやはいつた。

「わしゃ頑固者だから、おかみさん、悪く思わないでおくんなせえ」

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「わしや、一剋者いつこくものだからお内儀かみさんわるおもはねえでおくんなせえ」

おじいさんも言った。

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老父ぢいさんもいつた。

「どうぞねえ、おかみさん」

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「どうぞねえお内儀かみさん」

おばあさんも言った。

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老母ばあさんもいつた。

おかみさんはそれからまたしばらく世間話をして、みなで笑って帰った。

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内儀かみさんはそれからまたしばら雜談ざふだんをしてみんなわらつてかへつた。

はらにあるだけのことを言わせてしまえば、彼らはそれだけ心が晴れて勢いがだんだんおとろえてくるので、そのあいだは機げんも取ってみて、そして決まりきった理くつもくり返して聞かせているうちには、ころりと落ちてしまうという、そのこつをおかみさんはよく知っているのである。

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はらるだけのことをいはしてしまへば彼等かれらはそれだけこゝろ晴々せいせいとしていきほひ段々だん/\にぶつてるので、そのあひだ機嫌きげんもとつてて、さうしてきまつた理窟りくつ反覆はんぷくしてかせてるうちにはころりとちてしまふといふ呼吸こきふ内儀かみさんはつてるのである。

その夜、おつぎはおかみさんに呼ばれてとなりへ泊まった。

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おつぎは内儀かみさんにばれてとなりとまつた。

おかみさんは、おつぎと与吉をただ二人その家に置くのは、かわいそうでできなかったのである。

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内儀かみさんはおつぎと與吉よきちたゞ二人ふたりいへくにはしのびなかつたのである。

夜になってから、勘次は土蔵から出されて、やとわれ人のそばで一晩を明かした。

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になつてから勘次かんじ土藏どざうからされて傭人やとひにんそばに一あかした。

彼は夜明け前にまた土蔵へかくれた。

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かれ未明みめいまた土藏どざうかくれた。

おかみさんはやとわれ人に固く口止めをして、外へもれないように苦心をした。

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内儀かみさんは傭人やとひにんくちかたいましめてそとれないやうと苦心くしんをした。

その日も巡査は勘次の家のあたりをうろついたが、それでもその東どなりの門をたたいて調べるまでには行かなかった。

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巡査じゆんさ勘次かんじいへのあたりを徘徊はいくわいしたがそれでも東隣ひがしどなりもんたゝいて穿鑿せんさくするまでにはいたらなかつた。

おかみさんは、どうにかしても助けてやりたいと思い出したら、そこにじゃまが起これば、かえってそれをやぶろうといろいろ工夫をこらしてみるのだった。

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内儀かみさんは什麽どんなにしてもすくつてりたいとおもしたら其處そこ障害しやうがいおこればかへつてそれをやぶらうと種々しゆじゆ工夫くふうこらしてるのであつた。

それで被害者のほうの話も決まったのだから、この上は警察の手心を待つよりほかに道はないのだが、留守だった主人はその日も帰らない。

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それで被害者ひがいしやはうはなしきまつたのだからうへ警察けいさつ手加減てかげんつよりほかみちいのであるが、不在ふざいであつた主人しゆじんかへらない。

勘次はひたすら、主人の力によってだけ助かるものと信じている。

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勘次かんじ只管ひたすら主人しゆじんちからつてのみすくはれるものとねんじてる。

おかみさんも主人を待ちかねている。

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内儀かみさんも主人しゆじんちあぐんでる。

そしてまた夜が来た。

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さうしてまたよるた。

おかみさんはもう、じっとしていられない。

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内儀かみさんはもう凝然ぢつとしてはられない。

それでおつぎを連れて、ちょうちんをつけてこっそり土蔵の二階へ上がった。

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それでおつぎをれて、提灯ちやうちんけてひそか土藏どざうの二かいのぼつた。

「おとっつあん」

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「おとつゝあ」

おつぎは声を殺しながら、力を入れて言った。

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おつぎはこゑころしながらちかられていつた。

勘次は返事がない。

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勘次かんじ返辭へんじがない。

おつぎはさらに何度か呼んで、それからおかみさんが呼んだとき、よごれた体をおけの中から出した。

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おつぎはさら幾度いくたびんでそれからお内儀かみさんがんだときよごれた身體からだをけなかからあらはした。

「旦那がまだ帰らないのでね、警察のほうの話ができないで困っているんだが、どうだねお前、警察へ出てもぬすんでないと言いきれるかね。そうすりゃ私が始末をしてやるがね」

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旦那だんながまだかへらないのでね、警察けいさつはうはなし出來できないでこまつてるんだが、どうだねおまへ警察けいさつてもらないといひれるかね、さうすりやわたし始末しまつをしてるがね」

おかみさんは言って聞かせた。

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内儀かみさんはいつてかせた。

「へえ」

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「へえ」

勘次はただ首をうなだれている。

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勘次かんじたゞくびれてる。

「どうだね」

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「どうだね」

おかみさんはくり返した。

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内儀かみさんは反覆くりかへした。

「わしには、とてもたえられません」

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「わしがにや、とつてもれあんせん」

勘次はしおれてふるえている。

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勘次かんじしをれてふるへてる。

「おとっつあんは何て言うんだろうな」

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「おとつゝあはなんちんだんべな」

おつぎは歯がゆそうに言って、もうひと声

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おつぎは齒痒相はがいさうにいつて一せいさら

「おとっつあん」

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「おとつゝあ」

と力を入れて

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ちかられて

「ぬすんでないって言えよ、おとっつあん」

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らねえつてへよ、おとつゝあ」

おつぎはいっしんに勘次を見た。

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おつぎは熱心ねつしん勘次かんじた。

「そんでもおれは、あそこへ出ちゃ、とても白状しないわけには行かないよ」

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「そんでもおら、あすこへちや、とつても白状はくじやうしねえわけにやかねえよ」

「そんな気持ちでなく、私は自分のを切ったんですと言えば、それでいいように始末してやるんだから」

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「そんな料簡れうけんでなくわたし自分じぶんのがつたんですつていへば、そんでいゝやうに始末しまつしてやるだから」

おかみさんが力づけてみても、勘次はただ首をうなだれている。

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内儀かみさんがちからけてても勘次かんじただくびれてる。

「そう言いさえすりゃいいっていうのになあ、おとっつあんは」

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「さうへせえすりやえゝつちのになあ、おとつゝあは」

おつぎはがっかりしたように言った。

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おつぎは落膽がつかりしたやうにいつた。

おかみさんとおつぎは、こうしてぐっすりねむった体を立たせようとするような、むだな力をつくしたのだった。

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内儀かみさんとおつぎはうして熟睡じゆくすゐした身體からだ直立ちよくりつせしめやうと苦心くしんするほどむだちからつくしたのであつた。

やとわれ人もすっかりねむりに落ちたと思うころ、おかみさんとおつぎの黒いすがたが、こっそりと裏の竹やぶに動いた。

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傭人やとひにんもすつかりねむりにちたとおもころ内儀かみさんとおつぎとのくろ姿すがたひそかうら竹藪たけやぶうごいた。

落ちている竹のえだが足の下でぽちぽちと折れて鳴った。

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ちてたけえだあししたにぽち/\とれてつた。

北西のほうのかきねのそばへ来たとき、おかみさんはかきねの土についた所を力まかせにぼりぼりとやぶった。

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いぬゐはう垣根かきねそばとき内儀かみさんは、垣根かきねつちいたところ力任ちからまかせにぼり/\とやぶつた。

おつぎも両手をかけてやぶった。

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おつぎも兩手りやうてけてやぶつた。

何年も、すきまができれば小さな笹をつぎ足しつぎ足ししていた竹のかきねは、土の所がぼろぼろにくちているので、すぐに大きなあなが開いた。

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幾年いくねんとなしに隙間すきましやうずれば小笹をざさし/\しつゝあつたたけ垣根かきねは、つちところがどす/\にちてるのですぐおほきなあないた。

おつぎはそこからくぐって出た。

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おつぎは其處そこからくぐつてた。

とつぜんぱたぱたとけたたましい羽音が、すぐ頭の上でさわいだ。

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突然とつぜんぱた/\とけたゝましい羽音はおとすぐあたまうへさわいだ。

竹のえだに止まっていたはとが、急におどろいて遠くへ逃げたのである。

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たけこずゑとまつてはとにはかおどろいてとほげたのである。

「こわくはないかい」

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「さむしかないかい」

おかみさんはかきねごしに聞いた。

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内儀かみさんは垣根越かきねごしにいた。

「大丈夫ですよ、おかみさん」

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大丈夫だいぢやうぶですよ、お内儀かみさん」

おつぎは少し歩きかけて言った。

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おつぎはすこあるけていつた。

「おや、もうそっちのほうへ行ったのかい。それじゃあそこをたたくんだよ」

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「おやもうそつちのはうつたのかい、それぢや彼處あすこたゝくんだよ」

おかみさんは言って別れた。

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内儀かみさんはいつてわかれた。

おつぎはすぐに、自分の家の裏の戸口に立った。

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おつぎはすぐ自分じぶん裏戸口うらどぐちつた。

そっと開けて入ってみると、自分の家ながら、おつぎはひやりとした。

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そつとけて這入はひつてると、自分じぶんうちながらおつぎはひやりとした。

ねぐらのにわとりは暗い中でじっとしていながら、くくうと細い長い妙な声を出した。

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とやにはとりくらなか凝然ぢつとしてながらくゝうとほそながめうこゑした。

ねずみが二、三びきがたがたとさわいで、何かにおさえつけられたかと思うように、ちゅうちゅうと苦しげな声を立てて鳴いた。

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ねずみが二三びきがた/\とさわいで、なにかでおさへつけられたかとおもふやうにちう/\とくるしげなこゑたていた。

おつぎは手さぐりで、かべぎわの草かりがまを取った。

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おつぎは手探てさぐりに壁際かべぎは草刈鎌くさかりがまつた。

またそっと戸を閉めて出るとき、首すじの髪の毛をこそばゆい手でひとつかみにされるように感じた。

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またそつとてゝとき頸筋くびすぢかみをこそつぱい一攫ひとつかみにされるやうにかんじた。

おつぎは外のかべぎわの草かりかごを背負った。

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おつぎはそと壁際かべぎは草刈籠くさかりかご脊負せおつた。

どうしたはずみだったか、これもかべぎわに立てかけた竹ぼうきがたおれて、柄がかちっと草かりかごを打った。

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どうした機會はずみであつたかこれ壁際かべぎはけた竹箒たけばうきたふれてがかちつと草刈籠くさかりかごつた。

おつぎはひょいとふり返った。

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おつぎはひよつとかへりみた。

夜はまっ暗である。

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よるやみである。

すごく冴えた空へざっくりと立ったとなりの森のえだにくっついて、天の川が低く西へかたむきながら流れている。

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すごえたそらへぞつくりとつたとなりもりこずゑにくつゝいてあまがはひく西にしかたぶきつゝながれてる。

しばらくして、おつぎは自分たちの手で作ったとうもろこしのそばに立った。

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しばらくしておつぎは自分等じぶんらつくつた蜀黍もろこしそばつた。

やせたとうもろこしはねむったかと思うほどしっとりとしていては、やがてざわざわと鳴った。

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せた蜀黍もろこしねむつたかとおもふやうにしつとりとしてては、やがてざわ/\とつた。

おつぎは草かりがまでざくりざくりと、そのほを切った。

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おつぎは草刈鎌くさかりがまでざくり/\とつた。

そして、ぎっとおしこんで重くなった草かりかごを背負った。

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さうしてぎつとんでおもつた草刈籠くさかりかご脊負せおつた。

そこらの畑には、土が目を開いたようにところどころぽつりぽつりと、秋そばの花が白く見えている。

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其處そこらのはたけにはつちひらいたやうに處々ところ/″\ぽつり/\と秋蕎麥あきそばはなしろえてる。

おつぎは足早に、高台の畑からとうもろこしの葉のざわつく細い道を低い畑へ下りて、やっとのことで鬼怒川の土手へ出た。

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おつぎは足速あしばや臺地だいちはたけから蜀黍もろこしのざわつく小徑こみち低地ていちはたけへおりてやうやくのことで鬼怒川きぬがは土手どてた。

おつぎは四つんばいになって、芝につかまりながら登った。

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おつぎはばひつてしばつかまりながらのぼつた。

そのときおつぎの心には、ななめに土手の中ほどへつけられた細い道を見つけるゆとりがなかったのである。

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ときおつぎのこゝろにはなゝめ土手どて中腹ちうふくへつけられた小徑こみち見出みいだしてほど餘裕よゆうがなかつたのである。

土手の内側は水ぎわからしのがいっぱいにしげって、夜目にはそれがごっそりと自分をおしつけるように見える。

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土手どて内側うちがは水際みづぎはからしのが一ぱい繁茂はんもして夜目よめにはそれがごつしやりと自分じぶんあつしてえる。

しののあいだから水がしらしらと見えて、しのの根を洗って行く水の音がちろちろと耳に近く聞こえる。

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しのあひだからみづがしら/\とえて、しのあらつてみづひゞきがちろ/\とみゝちかきこえる。

おつぎはみぎわへ下りようと思ってしのを分けてみると、そこはがけになっていて、つま先から落ちた小さな土のかたまりがぽちぽちと水に鳴った。

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おつぎはみぎはへおりようとおもつてしのけてると其處そこがけつて爪先つまさきからちたちひさなつちかたまりがぽち/\とみづつた。

おつぎはさらにしのを分けて下りようとすると、そこもがけで、目の前にひょっこりと高瀬舟のほ柱が暗やみをついて立っている。

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おつぎはさらしのけておりようとすると、其處そこがけまへにひよつこりと高瀬船たかせぶね帆柱ほばしらやみいてたつる。

水の近くで、こそこそと人の話し声が聞こえる。

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みづちかくこそ/\とひと噺聲はなしごゑきこえる。

夕暮れにやっとそこへつないだ高瀬舟が、そこらで食べ物を買い歩いておそく晩ごはんを済まして、まだねむらずにいたのだろう。

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黄昏たそがれやうや其處そこかゝつた高瀬船たかせぶねが、其處そこらで食料しよくれうもとあるいておそ晩餐ばんさんすましてまだねむらずにたのであつたらう。

それは高瀬舟の船頭夫婦が、足りても足りなくても自分たちのたった一つの住まいである、そのへさきに作られた箱のようなせまい部屋の中で話している声だった。

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それは高瀬船たかせぶね船頭夫婦せんどうふうふが、りてもりなくても自分じぶん家族かぞく唯一ゆゐいつ住居すまゐであるへさきつくられたはこのやうなせばいせえじのなかはなしてこゑであつた。

赤んぼうの泣く声もまじって聞こえた。

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乳呑兒ちのみごこゑまじつてきこえた。

おつぎは後ろへ下がった。

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おつぎはあと退去すさつた。

おつぎはほとんど無意識に、土手を南へ走った。

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おつぎはほとんど無意識むいしき土手どてみなみはしつた。

ところどころ、だれかが道の芝の葉をしばり合わせておいたので、おつぎは何度もそれにつま先を引っかけてつまずいた。

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處々ところ/″\だれかゞ道芝みちしばしばあはせていたので、おつぎは幾度いくたびかそれへ爪先つまさきけてつまづいた。

土手のしのはだんだんまばらになって、水がいっぱいに見えて来た。

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土手どてしの段々だん/\まばらにつてみづが一ぱいえてた。

鬼怒川の水は土手よりはるかに低く、暗やみの底にしらしらとうすく光っている。

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鬼怒川きぬがはみづ土手どてよりはるかひくやみそこにしら/\とうすひかつてる。

夜の手は向こう岸の松林のかげをその水に落として、川はばはわずか半分に縮められて見える。

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よる對岸たいがん松林まつばやし陰翳かげみづげて、川幅かわはゞわづか半分はんぶんせばめられてえる。

こおろぎはそこらじゅうで鳴きしきって、その集まった声は空にまでひびこうとしてはしずみながらしずみながら、それがゆったりと大きな波のように、自然に高くなり低くなりしている。

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蟋蟀こほろぎ其處そこらあたり一ぱいきしきつて、あつまつたこゑそらにまでひゞかうとしてはしづみつゝ/\、それがゆつたりとおほきな波動はどうごと自然しぜん抑揚よくやうしつゝある。

おつぎはとうとう、わたし場まで来た。

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おつぎは到頭たうとう渡船場とせんばまでた。

おつぎはそれから水ぎわへ下りようとすると、水をわたって静かに、しかも近くに人の声がして、ときどきじゃぶっという音が水に起こる。

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おつぎはそれから水際みづぎはへおりようとするとみづわたつてしづかにしかちかひとこゑがして、時々ときどきしやぶつといふひゞきみづおこる。

ふしぎに思ってためらっていると、とつぜん目の前に、向こう岸の松林のかげから白く光っている水の上へへさきが出て、舟が現れた。

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不審ふしんおもつて躊躇ちうちよしてると突然とつぜんまへ對岸たいがん松林まつばやし陰翳かげからしろひかつてみづうへへさきふねあらはれた。

わたし舟が真夜中に人を乗せたので、じゃぶっという音は、さおが水をかき切るたびに鳴ったのである。

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わたぶね深夜しんやひとせたのでしやぶつといふひゞき舟棹ふなさをみづたびつたのである。

おつぎはまた土手へもどって、大きな川やなぎのそばに身をかくした。

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おつぎはまた土手どてもどつておほきな川柳かはやなぎそばけた。

二言三言を交わして、人は去ったようである。

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二三交換かうくわんしてひとつたやうである。

船頭は暗い小屋の戸をがらっと開けて、またがらっと閉じた。

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船頭せんどうくら小屋こやをがらつとけてまたがらつとぢた。

おつぎはしばらく待っていて、それからそくそくと舟をつないだあたりへ下りた。

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おつぎはしばらつててそれからそく/\とふねつないだあたりへりた。

おつぎはすぐそばでかさかさと何かが動くのを聞くとともに、ぶうぶうとぶたらしい鳴き声がするのを聞いた。

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おつぎはそばでかさ/\となにかがうごくのをくとともに、ゐい/\とぶたらしい鳴聲なきごゑのするのをいた。

「行くのかあ」

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くのかあ」

と、まだねむらなかった船頭がとつぜん、独特の大声でどなった。

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とまだねむらなかつた船頭せんどう突然とつぜん特有もちまへ大聲おほごゑ呶鳴どなつた。

おつぎはおどろいて、また一気に土手を走った。

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おつぎはおどろいてまたさん土手どてはしつた。

船頭はがらっと戸を開けて、人が走ったような音がはっきりと耳に残ったので、はるか暗い土手をすかして見て、ぶつぶつ言いながら、さらにぶた小屋に近づいてマッチをさっとすってみて、「油断ならない」

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船頭せんどうはがらつとけて、ひとはしつたやうなひゞきがあきらかにみゝかんじたので、はるかくら土手どてすかしててぶつ/\いひながらかれさら豚小屋ぶたごやちかづいて燐寸マツチをさつとつてて「油斷ゆだんなんねえ」

とつぶやいて、また戸を閉じた。

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つぶやいてまたぢた。

彼は内職に飼っているぶたが近ごろ子を産んだので、他人にねらわれはしないかと心配していたのである。

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かれ内職ないしよくつたぶた近頃ちかごろんだので他人たにんねらひはせぬかと懸念けねんしつゝあつたのである。

おつぎは、どこでもかまわないと土手のしのを分けて、一つ一つとうもろこしのほを力のかぎり水へ投げた。

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おつぎは何處どこでもかまはぬと土手どてしのけてひとつ/\に蜀黍もろこしちからかぎみづとうじた。

おつぎは空の草かりかごを背負って急いで帰った。

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おつぎはから草刈籠くさかりかご脊負せおつていそいでかへつた。

おつぎがことこととたたいたとき、おかみさんはすぐに戸を開けて

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おつぎがこと/\とたゝいたとき内儀かみさんはすぐけて

「どうしたい、ずいぶんおそかったね」

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「どうしたい、大變たいへんおそかつたね」

と聞いた。

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いた。

「おかみさん、言うとおりにしましたよ」

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「お内儀かみさんいふとほりにしあんしたよ」

「そのとうもろこしはどこへやったい」

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蜀黍もろこし何處どこつたい」

「わたしはどうしていいか知らないから、川へ持って行って捨てました」

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「わたしやどうしてえゝかんねえからかはつてつて打棄うつちやりあんした」

「そうかい、よく行って来たね。まあお上がり」

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「さうかい、つてたね、まああがりな」

おかみさんはランプを自分の頭の上に上げて、じっと首を低くしておつぎのようすを見た。

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内儀かみさんはランプを自分じぶんあたまうへげて凝然ぢつくびひくくしておつぎの容子ようすた。

「どうしたんだえ、おつぎはまあ、その着物は」

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「どうしたんだえ、おつぎはまあ、衣物きものは」

「本当にまあ」

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本當ほんたうにまあ」

おつぎは初めて気づいたようで

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おつぎははじめて心付こゝろづいたやうで

「さっき土手へ行くとき、ほりの所へすべったんですが、そのときこんなによごしたんでしょうよ」

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先刻さつき土手どてときほりとこすべつたんですが、ときかうえによごしたんでせうよ」

と、おつぎはどろになった腰のあたりへ手を当てた。

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とおつぎはどろつたこしのあたりへてた。

「おかみさん、わたしはとんだことをしました」

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「お内儀かみさん、わたしやんだことをあんした」

おつぎはまた言った。

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おつぎはまたいつた。

「どうしたんだえ」

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「どうしたんだえ」

「わたしはかまをどこへやっちまったか、分からなくしちまったんでさ」

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「わたしや、かま何處どこつちやつたかわかんなくつちやつたんでさ」

「今夜持って行ったのかえ」

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今夜こんやつてつたのかえ」

「そうなんでさ。わたしはとうもろこしを捨てるときまであると思ってたら、見えないんでさ。わたしの家のおとっつあんは、道具のことといったらひどく怒るんですから」

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「さうなんでさ、わたしや蜀黍もろこし打棄うつちやときまでつとおもつてたらえねえんでさ、私等家わたしらぢのおとつつあは道具だうぐつちとひどおこんですから」

「草かりがまの一本や二本、お前どうということはないよ。あっちへ回って足でも洗ってさあ」

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草刈鎌くさかりがまの一ちやうや二ちやうまへどうするもんぢやない、あつちへまはつてあしでもあらつてさあ」

おかみさんの口元には、かすかな笑いがうかんだ。

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内儀かみさんのくちもとにはかすかなわらひがうかんだ。

次の日にやっと主人は帰った。

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つぎやうや主人しゆじんかへつた。

巡査に話をしてみたが、そのときはもう被害者からの報告書が分署へ出されていたので、さらに分署長にたのみこんでみた。

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巡査じゆんさはなしをしてたがときはもう被害者ひがいしやからの申報書しんぱうしよ分署ぶんしよ提出ていしゆつされてあつたのでさら分署長ぶんしよちやう懇請こんせいしてた。

そして、被害者から事実がちがっていたという意味の取り消しを出せば、それでいいということにまで話が進んだ。

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さうして被害者ひがいしやから事實じじつ相違さうゐしたといふ意味いみ取消とりけしせばそれでいといふことにまではこびがついた。

軽い罪ということで、その筋の手心が加えられたのである。

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微罪びざいといふのでそのすぢ手加減てかげん出來できたのである。

おかみさんはまた被害者の家へ行って、それだけの筋道を聞かせたが、どうしても今度はうんと言わない。

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内儀かみさんは被害者ひがいしやうちつてだけ筋道すぢみちかせたが、どうしても今度こんどはうんといはない。

「どうも、わしらは分署へなんぞ出るのは、なんぼにもいやでがすからね。きっと怒られるんでがすから、もう」

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「どうもわし分署ぶんしよへなんぞんな、なんぼにもでがすかんね、屹度きつとおこられんでがすからはあ」

とばかり言うのである。

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とのみいふのである。

「そうだがね、ここまで話がついているんだから、こっちでそれだけのことをしてくれなくちゃ、これまでのことが水のあわなんだからね」

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「さうだがね、此處ここまではなしがついてるんだから此方こつちでそれだけのことはれなくつちやれまでのことがみづあわなんだからね」

と道理を聞かせても

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道理だうりかせても

「ぬすまれた上にこうしてひまをつぶして、おまけに分署へ出て怒られたりするんじゃ、こんなつまらないことはめったにありませんからね。それに書き付けだって、どうしていいんだか分からないし」

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らつたうへうしてひまつぶして、おまけに分署ぶんしよおこられたりなにつかすんぢや、こんなつまんねえこたあ滅多めつたありあんせんかんね、それに書付かきつけだつてどうしてえゝんだかわかんねえし」

彼はただ、いかめしく見える警察の人がこわくて、どうしても足が進まないのである。

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かれたゞいかめしくえる警察官けいさつくわんおそろしくてどうしてもあしすゝまないのである。

「そりゃ書き付けなんぞは、旦那が書いてやるから心配は要らないがね」

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「そりや書付かきつけなんぞは、旦那だんないてるから心配しんぱいにやらないがね」

おかみさんはやっと、近所の人を一人ついて行かせるようにしてやるということにしたので、被害者も思い切って出ることになった。

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内儀かみさんはやうや近所きんじよもの一人ひとりいてくやうにしてるといふことにしたので被害者ひがいしやおもつてることにつた。

彼らが帰ったときには、反対に元気がよかった。

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彼等かれらかへつたとき反對あべこべ威勢ゐせいがよかつた。

「どうだったっけね」

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「どうしたつけね」

と聞かれて

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かれて

「ひげのこう生えた部長さんだっていうこわい人でがしたがね。ぬすまれたなんてとどけを出しておいて、そして警察へよけいな手間をかけてけしからん奴だなんてどなられたときには、どうしようかと思って。そんじゃ、その書き付けを持って帰りますと言おうかと思いましたっけ。そうしたらしばらく書き付けを見てたっけが、これはだれが書いたと聞くから、わしらのほうの旦那でがすと言ったら、そうか、そんじゃよしよし帰れなんて言うもんだから、ほっと息をつきました。熱が下がったようでさあ、もう。そんだから、わしらはなんぼにもああいう所へ出るのはいやで」

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ひげのかうえた部長ぶちやうさんだつていふ可怖おつかねひとでがしたがね、ぬすまつたなんてとゞけしてゝさうして警察けいさつ餘計よけい手間てまけて不埓ふらちやつだなんて呶鳴どならつたときにやどうすべかとおもつて、そんぢや書付かきつけつてけえりますべつてふべかとおもひあんしたつけ、さうしたらしばら書付かきつけてたつけがこれれがいたつてくから、わしはう旦那だんなでがすつてつたら、さうかそんぢやよし/\けえれなんていふもんだからほつといきつきあんした、おこりちたやうでさあはあ、そんだからわしなんぼにもあゝいところへはんなで」

彼はしばらく間を置いて

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かれ少時しばしあひだいて

「そんだが、旦那はたいしたもんでがすね。旦那が書いたんだと言ったらなあ」

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「そんだが、旦那だんなはたいしたもんでがすね、旦那だんないたんだつてつたらなあ」

と、彼はさらについて行った近所の人をふり返って言った。

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かれさらいてつた近所きんじよものかへりみていつた。

事件はこうして、一見おかしな、しかもいちばんよくあるやり方をたどって終わりになった。

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事件じけん如此かくのごとくにして一けんめうしかもつと普通ふつう方法はうはふんで終局しうきよくげられた。

被害者の損害へのつぐないは、わずかとはいいながら、いったん主人の手から出て、それが被害者にわたされた。

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被害者ひがいしや損害そんがいたいする賠償ばいしやうわづかであるとはいひながら一主人しゆじんからてそれが被害者ひがいしやわたされた。

「わしもこれからは、けっして他人の物はちり一つでもぬすみませんから、どうぞ」

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「わしもれからはけつして他人たにんものちりぽんでもりませんからどうぞ」

と、勘次はさすがに泣いた。

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勘次かんじ有繋さすがいた。

彼はまだ、お品が死んだ年の小作米のとどこおりもはらっていないし、その上、卯平からゆずられた借金の残りもちっとも片づいていないのに、また今度のあやまちからわずかながら新しい借りが増えたのである。

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かれはまだおしなんだとし小作米こさくまいとゞこほりもはらつてはないし、加之それのみでなく卯平うへいからゆづられた借財しやくざいのこりもちつともきまりがついていのにまた今度こんど間違まちがひからわづかながらあらた負擔ふたんくははつたのである。

彼のけんめいな働きぶりは、前よりもさらに人の目を引いた。

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かれ懸命けんめい勞働らうどうきうばいしていちじるしくひとつた。

ある日、主人のおかみさんは、ちょっとした折に勘次に話をした。

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ある主人しゆじん内儀かみさんは偶然ひよつとした機會はづみがあつて勘次かんじはなしをした。

「あれでなかなか、おつぎにもおどろいたもんだね」

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「あれでなか/\おつぎにもおどろいたもんだね」

おかみさんは言った。

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内儀かみさんはいつた。

「もう、どうかしましたんでしょうか、おかみさん」

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「はあどうかあんしたんべか、お内儀かみさん」

勘次はふしぎそうなようすをして、つらいいやなことでも言い出されるかと心配するように、おずおずと言った。

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勘次かんじ怪訝けげん容子ようすをしてかつつらいやなことでもいひされるかとあんずるやうにづ/\いつた。

「どうしたっていうんじゃないが、この間の晩のことを知ってるかね」

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「どうしたつていふんぢやないが、あひだばんのことをつてるかね」

「何でしょうね、おかみさん」

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なんでがせうね、お内儀かみさん」

「夜中にあのとうもろこしを切らせたことだがね。じつはあのときはね、警察のほうが間に合わなければ、お前にぬすんでないとどこまでも言わせておいて、そして旦那が帰ってからのことと思ったもんだから。それにはお前が白状してしまっても困るし、自分の畑がそっくり残っていてもまずいからね。それも今になっちゃ、何もそんなことしなくてもよかったようなものだが、そのときは私もどうかしてと思ってね。それだが、おつぎのどきょうには私もおどろいたよ」

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夜中よなかにあの蜀黍もろこしらせたことだがね、じつはあのときはね、警察けいさつはうはなければおまへらないと何處どこまでもいはしていて、さうして旦那だんなかへつてからのこととおもつたもんだから、それにやおまへ白状はくじようしてしまつてもこまるし、自分じぶんはたけがそつくりしてても不味まづいからね、それもいまつちやなにもそんなことなくつてもかつたやうなものだが、ときわたしもどうかしてとおもつてね、それだがおつぎが度胸どきようのあるのぢやわたし喫驚びつくりしたよ」

おかみさんは言った。

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内儀かみさんはいつた。

「へえ、わしもおつうに聞きました。かまが一本見えないもんだからどうしたと言ったら、おかみさんが言うから切ったんだなんて。そんでもかまは笹の中にありましたっけや」

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「へえわしもおつうにきあんした、かまちやうえねえもんだからどうしたつちつたら、お内儀かみさんいふからつたんだなんて、そんでもかまさゝなかりあんしたつけや」

「そうかい。どんなかまだか、おつぎは心配していたからね」

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「さうかい、どんなかまだかおつぎは心配しんぱいしてたからね」

「なあに、もう、へっちまったかまだからおしくはないんですがね」

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「なあにはあ、つちやつたかまだからしかあねえんですがね」

「おつぎのことは、そんなことではむやみに怒らないようにしなよ。面倒を見てね」

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「おつぎのことはそんなことでは無闇むやみおこらないやうにしなよ、面倒めんだうてね」

「それから、わしもおかみさん、こうして独りでしんぼうしてるんでがすが、わしの女房も死ぬときには子どもらのことは心配したんでがすからね。それからわしも、おつうが行きたいと言うもんだからおはりにも行かせますしね。たすきなんぞもほしいほしいと言うもんだから、わしらみたいな貧乏人にはよけいなもんではありますが、赤いのを買ってやったんでがす。こういうことをして、おかみさんの所へも小作の借りも持って来ないで済まないんですが、女房のひとえも質に入れてたのを出してやったんでがすがね。畑へなんぞ出るのにはもったいない物なんだが、それ一まいきりだから、わしもかまわないで見てるのさ。そんだがおかみさん、ふしぎとよごしませんからね」

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「それからわしもお内儀かみさん、うしてひとり辛抱しんばうしてんでがすが、わしかゝあときにや子奴等こめらこたあ心配しんぺえしたんでがすかんね、それからわしもおつうがきてえつちもんだからおはりにもりあんすしね、たすきなんぞもほしい/\つちもんだからわしてえな貧乏人びんばふにんにや餘計よけいなもんぢやありあんすがあけえのつてつたんでがさ、これさうだことしてお内儀かみさんとこへも小作こさくさがりつてねえでまねえんですが、かゝあ單衣物ひてえものしちえてたのしてつたんでがすがね、はたけへなんぞんのにやあんまものなんだが、それ一めえりだからわしもかまあねえでてんのせ、そんだがお内儀かみさん奇態きたえよごしあんせんかんね」

勘次は最後の一言に力を入れて言った。

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勘次かんじ最後さいごの一ちかられていつた。

「そうだよ、そうしてやればはげみがちがうからね」

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「さうだよ、さうしてればはげみがちがふからね」

おかみさんは言って、また

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内儀かみさんはいつてまた

「おつぎもよく働けるようになったね。それだが、この間のような所を見ると、死んだお品が乗りうつったかと思うようさね」

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「おつぎもはたらけるやうにつたね、それだがあひだのやうなところるとんだおしなうつつたかとおもふやうさね」

「わしももう、あれのことにはおどろいたことがあるんでがすがね」

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「わしもはあ、あれがこたあ魂消たまげてつことあんでがすがね」

「そう言っちゃ何だが、お品もずいぶんお前のことでは気をもんで苦労したこともあるからね」

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「さういつちやなんだがおしな隨分ずゐぶんまへぢや意地いぢいて苦勞くらうしたこともるからね」

「へえ、わしはもうこわくて仕方がないんですから。わしが出られない所へは女房ばかり出て出てしたんでがすから」

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「へえ、わしやはあ可怖おつかなくつてやうねえんですから、わしらんねえところへはかゝあばかりえ/\たんでがすから」

「そうだったねえ」

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「さうだつけねえ」

おかみさんはほほえんで

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内儀かみさんは微笑びせうして

「おつぎは心持ちまでお母さんのほうだね。お前の姉さんだが、おつたはああいう性しつなのに、同じおなかから出ても違うもんだね」

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「おつぎは心持こゝろもちまでおふくろはうだね、おまへあねだがおつたはあゝいふ性質たちなのに一つはらからてもちがふもんだね」

「わしの姉はおかみさん、ろくでなしですからね」

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「わしあねはお内儀かみさん、ろくでなしですかんね」

彼ははずかしくて、そして自分をかばうように、その姉というのを悪く言って、ひがんだような苦笑いをした。

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かれぢてさうして自分じぶん庇護かばふやうにあねといふのを卑下くさしてひがんだやうな苦笑くせうあへてした。

「おつたは今どこにいるね」

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「おつたはいま何處どこるね」

「下のほうにいますがね。わしは行き来なしでさ。きょうだいだとは思わないからと、わしがことわったんでがすから。わしの女房が死んだときだって来もしないんですからね。おかみさん、そういう者はありますまいね」

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しもほうあんすがね、わしは往來いきゝなしでさ、同胞きやうでえだたあおもはねえからつてわしことわつたんでがすから、わしかゝあんだときだつてもしねえんですかんね、お内儀かみさんさうえもなりあんすめえね」

「そうだったっけかね」

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「さうだつけかね」

「わしは姉には、とうとう小作に持って行こうと思ってたのを一俵だまし取られたことがあるんですから。自分のを片づければすぐ返すからと持って行って、それっきりなんでさ。わしの女房が生きてるころなもんだから、女房がしつこくさいそくに行き行きしたんだが、なくちゃやれないからと喧嘩をふっかけるっていうんだから、女房もいまいましがっていたが、相手が無茶なんだからだめでさね。それどころじゃない、目の見えなくなった自分の子どものお金さえだまして取るんだから」

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「わしや、あねにや到頭たうとう小作こさくつてくべとおもつてたの一ぺうぺてんにけられたことあんですから、自分じぶんのが始末しまつすればすぐけえすからつてつてつてそれつりなんでさ、わしかゝあきてるころなもんだから、かゝあとろつぴ催促せえそくき/\したんだが、くつちやらんねえからつて喧嘩けんくわかけるつちんだからかゝあ忌々敷えめえがしがつてたがさき不法ふはふなんだから駄目だめでさね、それどこぢやねえ、盲目めくらつた自分じぶん餓鬼がきぜにせえだましてはたくんだから」

「目が見えないというのはどうしたんだね、それは」

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盲目めくらといふのはどうしたんだねそれは」

「野田へしょうゆ屋の奉公に行っていて、あまりごはんを食い過ぎたのがもとで目に出たなんて言うんですが、二十くらいで見えなくなっちまったんでさ。そうしたら、それを置いて夜逃げみたいにさ、まるで。自分の村にだっていられなくなったんでがすから」

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野田のだ醤油屋奉公しやうゆやばうこうつてゝあんまめしぎたの原因もとたなんていふんですが、廿位はたちぐれえつぶれつちやつたんでさ、さうしたらそれ打棄うつちやつて夜遁よにてえせまるで、自分じぶん村落むらにだつてらんなくつたんでがすから」

「そういうことがねえ、よくできたもんだね。自分の本当の子をねえ、まあ。おつたはひどいということは聞いてはいたがねえ」

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「さういふことがねえ、出來できたもんだね、自分じぶん本當ほんたうをねえまあ、おつたはひどいといふことはいちやたがねえ」

おかみさんはおどろいたようすで言った。

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内儀かみさんはおどろいた容子ようすでいつた。

「そんだが、おかみさん、その子がふしぎで、麦つきでも米つきでも畑をたがやすのでも、何でも百姓仕事はやるんでさ。うす明かりには見えるんだなんて言うんだが、そんでもふしぎなのさ、どうも。そんで、とても真面目な者だから他人にも面倒を見られて、それくらいだからお金も持ってるんでさ。そうしたらどこで聞いたか来てだまして連れて行ってね。ええ、わしの姉ながら、おかみさん」

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「そんだがお内儀かみさんその盲目めぐら奇態きたえで、麥搗むぎつきでも米搗こめつきでも畑耕はたけうねえでもなんでも百姓仕事ひやくしやうしごとんでさ、うすあかりにやえんだなんていふんだがそんでも奇態きたえなのせどうも、そんでてえもんだから他人ひとにも面倒めんどうられてくれえだからぜにつてんでさ、さうしたら何處どこいたかだましてれてつてね、えゝわしらあねせお内儀かみさん」

彼は目をつり上げた。

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かれそばだてた。

「その子もさすがにお母さんだから、不自由になっては他人の所よりはいいと思ったんでしょうね。そうしたらおかみさん、その子のお金を取っちまったらまた置き去りにして。聞いてみちゃひどい話なのさ、本当に。そのときにはその子もわしの所へ泣きついて来て、わしももう、二十過ぎにもなっていくらなんだってだまされるなんて、その子のこともいまいましいようでがしたが、わしもそのときは女房に死なれたばかりなもんだから、そう冷たくもできないと思って。そんでも一晩泊めて、わしも困ってはいたが、穀物もちっとはやったのさ。わしはおかみさん、女房を死なせてからというものは、こじきにだって手づかみで物を出したことはないんでがすからね。そら、おつうにももう言い聞かせてるんでがすから。わしはおかみさん、それだけは心がけてるんでがすよ」

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盲目めくら有繋まさかふくろだから畸形かたわつちや他人ひととこなんぞよりやえゝとおもつたんでがせうね、さうしたらお内儀かみさん盲目めくらぜにはたいつちやつたらまた打棄うつちやつて、いてちやでえはなしなのせ本當ほんたうに、そんときにや盲目めくらもわしがとこきついてて、わしもはあ、二十先はたちさきにもつていくらなんだつてだまさつるなんて盲目めくらことも忌々敷えめえましいやうでがしたが、わしもときかゝあなれた當座たうざなもんだからさう薄情はくじやうなことも出來できねえとおもつて、そんでも一ばんめて、わしもこまつちやたがこくもちつたあつたのせ、わしやお内儀かみさんかゝあおつころしてからつちものは乞食こじきげだつて手攫てづかみでものしたこたあねえんでがすかんね、そらおつうげもはあことわつてくんでがすから、わしやお内儀かみさんだけ心掛こゝろがけてんでがすよ」

勘次は、おかみさんの心の中にあるものを探るような態度で言った。

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勘次かんじ内儀かみさんの心裡こゝろ伏在ふくざいして何物なにものかをもとめるやうな態度たいどでいつた。

「そうだともさね。そういう心がけでいさえすりゃ、けっして間違いはないからね」

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「さうだともさね、さういふ心掛こゝろがけさへすりやけつして間違まちがひはないからね」

おかみさんは言って、さらにさっきからの話にいくらか引きこまれているようで

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内儀かみさんはいつてさら以前いぜんからのはなしいくらかまれてるやうで

「そりゃそうと、その子はどうしたね」

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「そりやさうとその盲目めくらはどうしたね」

「村にいますさ。どこと言ったって行き場所はないんですから。なあに、独りでさえありゃ、かえってふところはいいんでがすから」

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村落むらあんさ、何處どこつちつたつて場所ばしよはねえんですから、なあにひとりでせえありやけえつてふところはえゝんでがすから」

「それはまあ、おつたはそうとしても、それがさ、彦次はどうしたんだね。私もおつたのことはしばらく前に見たっきりだが」

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「それはまあ、おつたはさうとしても、それがさ、彦次ひこじはどうしたんだね、わたしもおつたのことはしばらまへたつきりだが」

「おかみさん、夫婦そろってでなくちゃやれるもんじゃありませんぞ。おやじだっておかみさん、自分のむすめを女ろうに売って百五十円とか言いましたっけが、その帰りにしゃも喧嘩に引っかかって七十円も取られて来たっていうんでがすから、話にはならないですよ。そっから、わしは姉ら夫婦のことは大きらいなんでさあ」

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「お内儀かみさん、夫婦ふうふそろつてなくつちやれるもんぢやありあんせんぞ、親爺おやぢだつてお内儀かみさん自分じぶんあま女郎ぢよらうつて百五十りやうとかだつていひあんしたつけがそれけえりに軍鷄喧嘩しやもげんくわかゝつて、七十りやうられてたつちんでがすからはなしにやんねえですよ、そつからわしや姊等夫婦あねらふうふのこたあ大嫌だえきれえなんでさあ」

「本当とは思えないようなことだね」

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本當ほんたうとはおもへないやうなことだね」

「おかみさん、本当ですともね。わしは嘘なんざおかみさんに言いませんから」

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「お内儀かみさん本當ほんたうですともね、わしあちくなんざお内儀かみげいひあんせんから」

「そりゃ本当にはちがいないだろうがね」

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「そりや本當ほんたうにや相違さうゐないだらうがね」

「そんだが、おかみさん、そのむすめもすぐ逃げて来ちまいましたね。今じゃ何とか言って、いやならかまわないそうでがすね」

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「そんだがお内儀かみさん、そのあますぐげてつちめえあんしたね、いまぢやなんとかつてだらかまあねえさうでがすね」

「私もそんなことは知らないが、新聞でさわぎはあったようだったね」

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わたしもそんなことはらないが、新聞しんぶんさわぎはあつたやうだつけね」

おかみさんは、どこかそういう話には気が乗らないようで

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内儀かみさんは何處どこかさういふはなしにはのらぬやうで

「おつたも見たところじゃ見た目はいいしね」

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「おつたもところぢや體裁ていさいがよくてね」

「そうなんでさ。うまいもんだから、わしもとうとう米一俵損させられちまって」

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「さうなんでさ、うまいもんだからわしも到頭たうとうこめぺうそんさせられちやつて」

勘次はそれを言うたびに、おしそうなようすが見えるのである。

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勘次かんじはそれをいふたびさう容子ようすえるのである。

「そう言っちゃお前の姉さんのことを悪くばかり言うようだが、しゅうとが鬼怒川へ落ちて死んだなんて大さわぎしたことがあったっけねえ」

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「さういつちやおまへあねのことわるくばかりいふやうだが、しうと鬼怒川きぬがはちてんだなんて大騷おほさわぎしたことがつたつけねえ」

「そうでさ。よっぽど前になりますがね。ありゃ鬼怒川へのみを落とすと言って行って、それっきりになっちまったのさ」

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「さうでさ、ぽどりあんすがね、ありや鬼怒川きぬがはのみはたくつてつてそれつりにつちやつたのせ」

「彦次は本当の子なんだね」

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彦次ひこじ實子じつしなんだね」

「ええ、しばらく目が不自由で、別に小さく建てて隠居してたんですが、のみがわいたようすなんでがすね。一度なんざ畑のそばで落としたら、そこらを通った人がみんなぞよぞよとはい上がられてひどい目にあったっていうんですから。そんで、そこらで落としちゃ仕方がないからなんて言われたんでしょうね。それから何でも、ござを持って鬼怒川へ行くことにしたんでがすね。鬼怒川まではさすがによっぽどありますさね。足元が本当じゃないから、ずぶりとのめっちまったもんでさ。本当にあっけない話で。それ、おかみさん、わしの姉は、他人がなきがらを見つけて大さわぎして知らせに来たら、すぐもう死んだ人の着物から片づけにかかったっていうんですから」

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「えゝ、しばら不自由ふじいうべつちひさくつくつて隱居いんきよしてたんですが、のみ容子ようすなんでがすね、一なんざあはたけそばたてえたら其處そことほつたひとみんなぞよ/\あがられてでえつたちんですから、そんで其處そこらでたてえちややうねえからなんてはれたんでがせうね、それからなんでもござつて鬼怒川きぬがはつもりつたんでがすね、鬼怒川きぬがはまでは有繋まさがぽどありあんさね、あしもとが本當ほんたうぢやねえからずんぶらのめつちやつたもんでさ、本當ほんたう飽氣あつけねえはなしで、それお内儀かみさんわしあね他人ひと死骸しげえ見付めつけて大騷おほさわぎしてらせにたら、すぐはあ死人しにん衣物きものから始末しまつしてかゝつたつちんですから」

「自分で取ってしまうつもりなんだね」

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自分じぶんつてしまつもりなんだね」

「きょうだいらに分けてなんざやらないつもりなんでさね」

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兄弟等きやうでえらけてなんざあんねえつむりなんでさね」

「着物だっていくらもないんだろうがね。それにまあ、どうして川へなんて、そんな遠くへござばかり持ってね。行くうちにはわいたのみもみんな飛んでしまうだろうがね。まあそういうのも巡り合わせだね」

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衣物きものだつていくらもいんだらうがね、それにまあどうしてかはへなんて其麽そんなとほくへござばかりつてね、くうちにやのみもみんなんでしまふだらうがね、まあさういのもめぐあはせだね」

「もうぼけてたんでがすから。あんまりぼけちゃきらわれますからね」

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「はあ耄碌まうろくしてたんでがすから、あんまり耄碌まうろくしちやがられあんすかんね」

「きらわれるって、お前そんなものじゃないよ。しゅうとだもの、むこだのむすめだのというものは、よけいに気をつけなくちゃならないものなんだね」

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いやがられるつておまへそんなものぢやないよ、しうとだもの、婿むこだのむすめだのといふものは餘計よけいをつけなくちやらないものなんだね」

おかみさんはたしなめるように言った。

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内儀かみさんはたしなめるやうにいつた。

「そりゃそうですがね、おかみさん」

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「そりやさうですがね、お内儀かみさん」

勘次はなんだかかくしごとでも見ぬかれたように慌てて言って、そして苦笑いした。

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勘次かんじなんだが隱事いんじでもあばかれたやうにあわてゝいつてさうして苦笑くせうした。

「おつたは本当にしゅうとにはよくしなかったそうだな。自分らのほうのあんこにはさとうを入れても、しゅうとのほうへはさとうを入れなかったなんて、しばらく前に聞いたっけが」

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「おつたは本當ほんたうしうとくしなかつたさうだな、自分等じぶんらはうあんへは砂糖さたうれてもしうとはうへは砂糖さたうれなかつたなんてしばらまへいたつけが」

おかみさんは独りで低い声で言った。

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内儀かみさんはひとり低聲こごゑにいつた。

「どうでしたかね、それは」

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「どうでがしたかねそれは」

勘次はさっきのようすとは違って、急にかばうような態度で言った。

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勘次かんじ先刻さつき容子ようすとはちがつて、にはか庇護かばひでもするやうな態度たいどでいつた。

「そんなにしなくたって、いくらも生きやしない老人のことをな」

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「そんなになくつたつていくらもきやしない老人としよりのことをな」

おかみさんはつくづくとまた言った。

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内儀かみさんはつくづくまたいつた。

勘次はよけいにしおれた。

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勘次かんじ餘計よけいしをれた。

「勘次も、お金は自分の手からわかすようにしてしんぼうしてりゃ、つらいことばかりはないから。何でも人間は子ども次第だよ。後で世話にならなくちゃならないんだから、子どもの面倒を見ないのは間違いだよ」

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勘次かんじぜに自分じぶんからわかすやうにして辛抱しんばうしてりやつらいことばかりいから、なんでも人間にんげん子供次第こどもしだいだよ、あと厄介やくかいらなくちやらないんだから子供こども面倒めんだうないな間違まちがひだよ」

おかみさんははげますように、そしてしんみりと言った。

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内儀かみさんははげますやうにさうしてしんみりといつた。

しばらく話がとぎれたとき、勘次はとつぜん

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しばらはなし途切とぎれたとき勘次かんじ突然とつぜん

「おかみさん、変なことを聞くようでがすが、帯にする布はどのくらいあったらいいもんでしょうね」

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「お内儀かみさんへんなことくやうでがすがおびにする布片きれはどのくれえつたらえゝもんでがせうね」

と聞いた。

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いた。

「おつぎにでもしめさせるのかい」

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「おつぎにでもめさせるのかい」

「へえ、今のが古くていやだなんてねだられて、いつでもわしは怒るんでがすが。おかみさんの所へも義理を欠いてばかりいて、そんな余ゆうはないと言って聞かせても、みんな赤いのをしめてるもんだから、ほしくて仕方がないんでさ」

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「へえ、いまのがふるくつてだなんて強請ねだれんで、何時いつでもわしおこるんでがすが、お内儀かみさんとこへも不義理ふぎりばかりしてそんなところぢやねえつてつてかせても、みんなあけえのめてるもんだからしくつてやうねえんでさ」

「そうだね、帯はまあ一丈っていうんだが、そこらの子のしめるのはどんなものだかさね」

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「さうだね、おびはまあ一ぢやうつていふんだが、其處そこらのめるのは什麽どんなものだかさね」

「わしのおつうは、それ、四尺もあればいいっていうんですがね。それだから、わしはおかみさんにでも聞かなけりゃ分からないと思って」

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「わしらおつうはそれ四しやくもあればえゝつちんですがね、それだからわしお内儀かみさんにでもかねえぢやわかんねえとおもつて」

「そうさ、なるほど。外へ出る所だけあればいいんだから、それには四尺もあったらたくさんだね。こうこっちばかりつければね」

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「さうさ成程なるほどそとところだければいんだから、それにや四しやくもあつたら澤山たくさんだね、うこつちばかりければね」

おかみさんは自分の帯へ手を当ててみて言った。

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内儀かみさんは自分じぶんおびてゝていつた。

「それおかみさん、両方へつけるんだって、こういうふうにしばって中へたくし込んだはしっこが赤くなくちゃみっともないってね。そんな所はどうでもよかろうと思うんだが、もっともそこは一尺でいいなんて言うんでさ」

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「それお内儀かみさん、兩方りやうはうけんだつてういにしばつてなかへたぐめたはじあかくなくつちやつともねえつてね、そんなところどうでもよかんべとおもふんだが、もつと其處そこは一しやくでえゝなんていふんでさ」

「なるほどね。私らは今までそういうことには気がつかなかったが、結び目も仕事するんだからそんなに大きくなくたってかまわないし、四尺五寸もあればまるで新しいように見えるんだね」

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成程なるほどね、私等わたしらいままでさういふことにやかなかつたが、むす仕事しごとするんだから其麽そんなおほきくなくつたつてかまはないし、四しやくすんもあればまるあたらしいやうにえるんだね」

「そんで、おかみさん、どのくらいしたもんでしょうね、お金は。たくさん出るんじゃもう仕方がないが」

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「そんでお内儀かみさん、どのくれえしたもんでがせうねぜには、たんとんぢやはあやうねえが」

勘次は心配そうに言った。

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勘次かんじあやぶむやうにいつた。

「いくらもしないね、それだけじゃ」

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いくらもしないね、だけぢや」

「そんでも、だいたいまあどのくらいしたもんでしょうね」

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「そんでも大凡おほよそまあどのくれえしたもんでがせうね」

勘次はまたくり返してたずねた。

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勘次かんじまた反覆くりかへしてうながした。

「唐ちりめんも近ごろじゃ安くなったから、一尺十二、三銭くらいのものかね。上等で十四、五銭しかしないだろうね」

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唐縮緬たうちりめん近頃ちかごろぢややすくなつたから一しやく十二三錢位せんぐらゐのものかね、上等じやうとうで十四五せんしかしないだらうね」

「そうでがすか。わしはまた大変お金が出るんだとばかり思ってました」

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「さうでがすか、わしやまた大變たいへんんだとばかしおもつてあんした」

「それも反物になってるのを切らせてそうだよ。それからもっと安くもできるのさ。村の店なんぞじゃお金ばかり取って、しらみがもぐりそうなのでね」

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「それも反物たんものつてるのをらしてさうだよ、それからもつとやすくも出來できるのさ、むらみせなんぞぢやぜにばかりとつてしらみもぐさうなのでね」

おかみさんはほほえんだ。

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内儀かみさんは微笑びせうした。

「そういう短いのは、はぎれで買うにかぎるのさ。いくらにもならないもんだよ。私が近ごろ出るついでもあるから、買って来てやってもいいよ」

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「さういふみじかいのは端布片はしぎれふにかぎるのさ、いくらにもつかないもんだよ、わたし近頃ちかごろついでもあるからつてつてもいよ」

「そうですか。そんじゃおかみさん、どうかそうしておくんなせえ。おかみさんに見てもらいさえすりゃ大丈夫でがすから。なあに、赤くさえありゃどんなのでもかまわないんでがすがね」

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「さうですか、そんぢやお内儀かみさんどうかさうしておくんなせえ、お内儀かみさんにもれえせえすりや大丈夫だえぢようぶでがすから、なあにあかくせえありや什麽どんなんでもかまあねえんでがすがね」

「一日お前が日やといに来さえすりゃそれだけは出てしまうから、ほしいというものならこしらえてやるがいいよ。そりゃほしいはずさ、おつぎも年が明ければ十八になるんだったね」

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「一にちまへ日傭ひようさへすりやそれだけしまふから、しいといふものならこしらへてるがいよ、そりやしいはずさおつぎもければ十八にるんだつけね」

おかみさんは同情して言った。

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内儀かみさんは同情どうじやうしていつた。

「わしに怒られるもんだから、かげでぐずぐず言って困るんでさ」

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「わしにおこらつるもんだからかげでぐず/\つてこまんでさ」

勘次はさらに

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勘次かんじさら

「そんじゃまあよかった。わしらはそんなことはちっとも分からないから、それでもうおかみさんに聞いてみようと思ってたのさ」

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「そんぢやまあかつた、わしそんなこたあちつともわかんねえから、それからはあお内儀かみさんにいてんべとおもつてたのせ」

と言って、どことなくそわそわとうれしさをおさえられないようすである。

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といつて何處どことなくそわ/\とよろこばしさをきんないものゝごとくである。

「女の子はこれでかざりだから、他人にも見られるからね」

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をんなれでかざりだから他人ひとにもられるからね」

おかみさんは親切に言った。

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内儀かみさんはねんごろにいつた。

「わしらは自分じゃどんなぼろだってかまわないが、これで女の子にはねえ。わしもこれで、おかみさんに聞くまでには心配しましたよ」

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「わし自分じぶんぢや什麽どんな襤褸ぼろだつてかまあねえがれであまにやねえ、わしもこんでお内儀かみさんにまでにや心配しんぺえしあんしたよ」

勘次は、わずかな帯のことが大きな問題の解決でも与えられたように、心の底から元気づいて、おかみさんに感謝した。

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勘次かんじわづかおびのことがおほきな事件じけん解決かいけつでもあたへられたやうにこゝろそこからいきほひづいて内儀かみさんのまへ感謝かんしやした。

一一

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一一

勘次は、とてもせまい世界の中で生きている。

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勘次かんじきはめてせま周圍しうゐいうしてる。

しかし彼のやせた小さな体は、そのせまい世界とはじき合っているような関係が、自然にできあがっている。

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しかかれせたちひさな體躯からだは、せま周圍しうゐ反撥はんぱつしてるやうな關係くわんけい自然しぜん成立なりたつてる。

彼はけっして他人と争いを起こしたこともなく、むしろとてもおだやかな態度でいる。

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かれけつして他人たにん爭鬪さうとうおこしたためしもなく、むしきはめて平穩へいをん態度たいどたもつてる。

ただ彼らのような貧しい暮らしの者は、たがいにうたがいとねたみの目をつり上げている。

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たゞ彼等かれらのやうなまづしい生活せいくわつもの相互さうご猜忌さいぎ嫉妬しつととのそばだてゝる。

勘次は人並みはずれた働きで報しゅうを得ようとする一方で、一銭でもかんたんにふところをへらすまいとばかり心がけている。

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勘次かんじ異常いじやう勞働らうどうによつて報酬はうしうようとする一ぱうに一せんいへど容易よういふところげんじまいとのみ心懸こゝろがけてる。

彼らのような低い身分のあいだでも、たがいの付き合いを少しでもこわさないようにするには、そこには必ず、いくらかのお金がぎせいにされなければならない。

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彼等かれらのやうなひく階級かいきふあひだでも相互さうご交誼かうぎすこしでもやぶらないやうにするのには、其處そこにはかならそれたいして金錢きんせん若干じやくかん犧牲ぎせいきようされねばならぬ。

どうしてもそのぎせいをおしむ者は、他人ににくまれるまでいかなくても、たがいの間はうとくならざるを得ない。

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絶對ぜつたいその犧牲ぎせいをしむものは憎惡ぞうをふにいたらないまでも、相互さうごあひだ疎略そりやくにならねばならぬ。

しかしそんなことは、勘次を苦しめてその卑しい心を引きもどす力を持っていないばかりか、ほとんど何のひびきも彼の心に伝えないのである。

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しか其麽そんなことは勘次かんじくるしめてのさもしいこゝろあるもの挽囘ばんくわいさせるちからいうしてないのみでなく、ほとんどなんひゞきをもかれこゝろつたふるものではない。

彼はただ、その日その日の暮らしが自分の心にいくらかでもゆとりを与えてくれればとばかり、あせっているのである。

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かれたゞ/\の生活せいくわつ自分じぶんこゝろいくらでも餘裕よゆうあたへてれればとのみ焦慮あせつてるのである。

彼の心を満足させるには、たとえば目の前にある低い竹のかきねをこわして、一歩足をその中に入れるだけのことにすぎないのである。

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かれこゝろ滿足まんぞくせしめる程度ていどは、たとへば目前もくぜんひくたけ垣根かきね破壤はくわいして一あしその域内ゐきないあとつけるだけのことにぎないのである。

しかも竹のかきねはくちている。

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しかたけ垣根かきねちてる。

くちた低い竹のかきねは、その強い手の力でこわすのはたやすいはずなのに、手の先をふれさせることさえできないでいるのである。

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ちたひくたけ垣根かきねつよ筋力きんりよくもつ破壤はくわいするになん造作ざうさもないはずであるが、先端せんたんれしめることさへ出來できないでるのである。

彼は長い時間、氷と雪のあいだを歩いた後、一ぱいの冷たいつるべの水をかけることで、心地よい暖かさを赤くなった足に感じるように、わずかな何かが彼のひがんだ顔のすじをゆるめるのに十分なのに、彼はその冷たい水の一ぱいさえむなしく求めていたのである。

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かれなが時間じかん氷雪ひようせつあひだわたつたのち、一ぱいつめたい釣瓶つるべみづそゝぐことによつてこゝよよい暖氣だんきあかつたあしかんずるやうに、僅少きんせうあるものかれ顏面がんめんひがんだすぢのべるに十ぶんであるのに、かれ冷水れいすゐの一ぱいをさへむなしくもとめつゝあつたのである。

自然にできあがっている身分のちがいを持っている人や、長いあいだ彼の暮らしの中身を知りつくしている人からは、彼は同情の目で見られているけれど、こせこせとした態度と、うたがい深そうな顔つきとは、そこににくむべき物が何もないにしても、とても彼らの仲間みんなととけ合えるものではない。

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自然しぜんかたちづくられて階級かいきふ相違さうゐいうしてものまたながあひだかれ生活せいくわつ内情ないじやう知悉ちしつしてものからはかれ同情どうじやうまなこもつられてるけれども、こせ/\とした態度たいどと、狐疑こぎしてるやうなその容貌ようばうとは其處そこあへ憎惡ぞうをすべき何物なにもの存在そんざいしてないにしても到底たうてい彼等かれら伴侶なかますべてと融和ゆうわさるべき所以ゆゑんのものではない。

彼は彼らの仲間の中では、何度も言われているとおり、水に落とした菜種油の一てきである。

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かれ彼等かれら伴侶なかまつては、幾度いくたびかいひふらされてごとみづおとした菜種油なたねあぶらの一てきである。

水が動くとき、油もそれにつれて動かなければならない。

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みづうごときあぶらしたがつてうごかねばらぬ。

水がかたむくとき、油もまたかたむかなければならない。

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みづかたむときあぶらまたかたむかねばらぬ。

しかし水が静かになるとき、油はさらにおびえたように一か所に固まる。

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しかみづ平靜へいせいたもときあぶらさらおそれたやうに一しよ凝集ぎようしふする。

両方のあいだには何もその性しつを変えさせるはたらきが起こるわけでもなく、それは水が油をのけ者にするのか、油が水をはじくのか、ついにとけ合う機会がないのである。

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兩者りやうしやあひだには何等なんら性質せいしつ變化へんくわせしむべき作用さようおこるでもなく、れはみづあぶら疎外そぐわいするのか、あぶらみづ反撥はんぱつするのかつひ機會きくわいいのである。

これをかき乱すほかの力が加わらなければ、両方はただ静かである。

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これ攪亂かうらんするちからくはへられねば兩者りやうしやたゞ平靜へいせいである。

村の空気が静かであるように、勘次とほかのみんなとのあいだもとても静かで、それでいて交わらないのである。

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村落むら空氣くうき平靜へいせいであるごとく、勘次かんじすべてとのあひだきはめて平靜へいせいでそれであひいれないのである。

勘次はその菜種油のように、くぬぎ林ととなり合いながら村の西のはしにかたよっていて、親子三人がただ固まったような形で落ち着いているのである。

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勘次かんじ菜種油なたねあぶらのやうに櫟林くぬぎばやしあひせつしつゝ村落むら西端せいたん僻在へきざいして親子おやこにんたゞ凝結ぎようけつしたやうな状態じやうたいたもつて落付おちついるのである。

たまたま起こった彼のはずかしい行いが、急に村じゅうの耳目をおどろかせても、とにもかくにも一家を切りもりして行かなければならない人たちは、彼らに共通の、聞きたがり知りたがる性しつにかられながらも、むしろじみで移り気な心が、いつまでも一つのことを追うには、年れいがあまりに彼らを冷静なほうへかたむけている。

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偶然ぐうぜんおこつたかれ破廉耻はれんち行爲かうゐにはか村落むら耳目じもく聳動しようどうしても、にもかくにも一處理しよりしてかねばならぬすべてのものは、彼等かれら共通きようつうきたがりりたがる性情せいじやうられつゝも、むし地味ぢみ移氣うつりぎこゝろ際限さいげんもなくひとつをふには年齡ねんれいあまり彼等かれら冷靜れいせい方向はうかうかたむかしめてる。

そうでなくても、その知りたがり聞きたがる心をくすぐることは、細かいこととはいえ次々に彼らの耳に入るので、勘次だけが話題ではなくなるのである。

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それでなくてもりたがりきたがる性情せいじやう刺戟しげきすべきことは些細ささいであるとはいひながらあひつい彼等かれらみゝきこえるので勘次かんじのみが問題もんだいではくなるのである。

しかしながら、若い衆と呼ばれる青年の一部は、勘次の家から目をはなさない。

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しかしながらわかしゆしようする青年せいねんの一勘次かんじいへ不斷ふだん注目ちうもくおこたらない。

それは、おつぎのすがたを忘れることができないからである。

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れはおつぎの姿すがたわすることが出來できないからである。

かりにも血のめぐりが彼らの体に止まらないかぎりは、いったん心にうつった女のすがたを、それぞれの胸から消し去ることはできないのである。

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苟且かりそめにも血液けつえき循環じゆんくわん彼等かれら肉體にくたい停止ていしされないかぎりは、一たんこゝろうつつたをんな容姿かたち各自かくじむねから消滅せうめつさせることは不可能ふかのうでなければならぬ。

しかし彼らは、一方で持っているはずかしさにおさえられて、燃えるような心からこっそりと、はかない目の光をおもに夜に向けて注ぐのである。

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しか彼等かれらは一ぱういうして矛盾むじゆんした羞耻しうちねんせいせられてえるやうな心情しんじやうからひそか果敢はかないひかりしゆとしてむかつてそゝぐのである。

夜は彼らの世界である。

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彼等かれら世界せかいである。

うでのいい漁師は、大海の波にまかせて舟のふちから縄につないだつぼをしずめる。

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熟練じゆくれん漁師れふし大洋たいやうなみまかせてこべりからなはいだつぼしづめる。

その縄をたぐって、しずめた赤い素焼きのつぼがふたたび舟のふちに引き上げられるとき、そこにはじっとしてたこが足の吸ばんで内側に吸いついている。

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なはさぐつてしづめたあか土燒どやきつぼふたゝこべりきつけられるとき其處そこには凝然ぢつとしてたこあしいぼもつ内側うちがはひついてる。

こうして漁師は、するどい目でえものをのがさない道を、波のあいだで身につけているのである。

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うして漁師れふし烱眼けいがんもつ獲物えものあやまたぬみちなみあひだきはめてるのである。

わずかな村の中で、毎日みんなの目に見なれている女の居場所をねらうことは、たこつぼをしずめるような、あてどのないものではない。

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わづか村落むらうち毎日まいにちすべてのじゆくしてをんな所在ありかねらふことは、蛸壺たこつぼしづめるやうな其麽そんなむしろあてどもないものではない。

木の葉がかげを落としてくれない冬の夜には、ねらって歩く彼らは自分のはずかしさを、頭からどてらでおおっている。

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陰翳かげとしてれぬふゆにはねらうてある彼等かれら自分じぶん羞耻心しうちしんあたまから褞袍どてらおほうてる。

夜の短い季節でも、朝のねむたさがすぐに自分を苦しめるのに、うろうろと歩いてみなければ、くさい古ぼけたかやの中であきらめて体を横たえることができないのである。

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みじかころでも、あさねむたさが覿面てきめん自分じぶんたしなめるにもかゝはらずうそ/\とあるいてねばくさふるぼけた蚊帳かやなかあきらめてそのよこたへることが出來できないのである。

彼らが女の居場所をねらうのは、とてもかんたんなことのようでいて、たこつぼが何のじゃまもなくしずめられるようにはいかず、父母の目が暗い夜にも光を放って、女を彼らから遠ざけようとしている。

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彼等かれらをんな所在ありかねらふのはきはめて容易よういなもののやうではありながら蛸壺たこつぼすこしのさまたげもなくしづめられるやうではなく、父母ふぼやみにさへひかりはなつてをんな彼等かれらから遮斷しやだんしようとしてる。

彼らはそれで、目の光のとどく所には自分のすがたを見せないで、目的をとげようと苦心する。

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彼等かれらはそれでひかりおよ範圍内はんゐないには自分じぶんあらはさないで目的もくてきげようと苦心くしんする。

たとえてみれば、彼らはせまいとはいえ飛びこせないほりをへだてて、しかもしげった野茨や川やなぎに身をかくしながら、女のやわらかい手を取ろうとするのである。

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たとへれば彼等かれらせばいとはいひながらはねてはせぬほりへだてゝ、かも繁茂はんもした野茨のばら川楊かはやなぎぼつしつゝをんなやはらかいらうとするのである。

それはとても、ふれ合うことさえできない。

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れは到底たうていあひれることさへ不可能ふかのうである。

じれてほりを飛びこえようとしては、野茨のとげにはだをきずつけたり、どろに着物をよごしたり、にがい失敗の味をなめなければならない。

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焦燥あせつてほりえようとしては野茨のばらとげ肌膚はだきずつけたり、どろ衣物きものよごしたりにが失敗しつぱいあぢめねばならぬ。

だから彼らは、目立たないうちにうまいやり方をしようとして、そこに工夫をこらすのである。

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ゆゑ彼等かれら隱約いんやくあひだ巧妙かうめう手段しゆだんほどこさうとして其處そこ工夫くふうこらされるのである。

すでに漁師の手に命をにぎられているたこは、力いっぱいつぼの内側に張りつけば、どんなに強い手の力がふくろのようなその頭を持って引こうとも、へびが体の一部をあなに入れたように、ちぎれるまではなれない。

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すで漁師れふし生命せいめいにぎられてたこちからきはめてつぼ内側うちがは緊着きんちやくすれば什麽どんなつよちからふくろのやうなあたまつてかうとも、へび身體からだの一あな揷入さうにうしたやうに拗切ちぎれるまでもはなれない。

刃物で突きさしても同じである。

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刄物はものもつつあしてもどう一である。

たこつぼの底には必ず小さなあながあけてある。

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蛸壺たこつぼそこにはかならちひさなあな穿うがたれてある。

しりからふっと息をふきかけると、たこはおどろいてするりとつぼから逃げる。

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しりからふつといきけるとたこおどろいてするとつぼからげる。

それでもまだだまされないときは、小さなあなから熱い湯をぽっちりとしりに注げば、たこは必ず慌てて漁師の前におどり出る。

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それでも猶旦やつぱりだまされぬときちひさなあなから熱湯ねつたうをぽつちりとしりそゝげばたこかならあわてゝ漁師れふしまへをどす。

熱い一てきで、かんたんにたこはだまされるのである。

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あつい一てきによつて容易よういたこだまされるのである。

たとえ見張りの目からのがれて女に近づいたとしても、女の思いが強ければ、たこつぼのたこがだまされるようにころりと落とす工夫がつくまでは、男はしんぼうと、むしろ危険とをあわせてしのがなければならない。

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假令たとひ監視かんしからのがれてをんな接近せつきんしたとしても、んだをんなじやうこはければ蛸壺たこつぼたこだまされるやうにころりとおと工夫くふうのつくまではをとこ忍耐にんたいむし危險きけんとをあわせてしのがねばらぬ。

そしてわずかにふれ合った男女が心から引き合うとき、たがいにほかのすべてに対しておそれを抱きはじめるのである。

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さうしてわづかあひせつした兩性りやうせいこゝろからあひときあひたがひすべてにたいして恐怖きようふねんいだきはじめるのである。

空が夕日の消えて行く光を西の底深く閉ざしてしまって、うすい宵が地を低くおおって夜が来たとき、女は井戸ばたで楽しそうに歌いながら、一種のリズムのある手つきで米をとぐ。

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そら夕日ゆふひひかり西にしそこふかとざしてしまつて、うすよひひくおほうていたつたときをんな井戸端ゐどばた愉快ゆくわいうたひながら一しゆ調子てうしつたうごかしやうをしてこめぐ。

女はとぎおけと歌の二つの音がまじっているあいだにも、木かげにたたずむ男の気配を感じ取るほど、耳の神経が高ぶっている。

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をんな研桶とぎをけうたとの二つのこゑ錯綜さくそうしつゝあるあひだにも木陰こかげたゝずをとこのけはひをさとほどみゝ神經しんけい興奮こうふんしてる。

それがすずしい夏の夜で、女が男を待つときには、毎日汗でよごれやすい、そしてかざりでもある手ぬぐいのせんたくに手間取るのである。

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れがすゞしいなつをんなをとこときには毎日まいにちあせよごやすいさうしてかざりでなければらぬ手拭てぬぐひ洗濯せんたくひまどるのである。

庭の木かげに身をかくして、しんみりとたがいの胸のうちをくり返すとき、しげったかきやくりの木は彼らのたった一人の味方で、月夜でさえ深いかげが安全に彼らをつつむ。

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には木陰こかげけてしんみりとたがひむね反覆くりかへとき繁茂はんもしたかきくり彼等かれらゆゐ一の味方みかた月夜つきよでさへふか陰翳かげ安全あんぜん彼等かれらつゝむ。

空にさえた月は、放り出してある手水だらいをのぞいては冷ややかに笑っている。

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そらえたつき放棄はうきしてある手水盥てうづだらひのぞいてはひやゝかにわらうてる。

彼らがあまりに手間取っていれば、月はこっそりと首をかたむけて、木の葉のあいだからのぞいてみる。

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彼等かれらあまりにひまどつてればつきはこつそりとくびかたむけてあひだからのぞいてる。

それでもまだ彼らがぐずぐずしていれば、彼らをかくしている木がかきの木であれば、えだからまだ青い実を投げて、そのしゅん間、おどろきやすい彼らがだまされて、仲間のいたずらかとうたがっては慌ててまわりを見るとき、しげった大きな葉がすずしい風にさやさやとほほえむ。

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れでもなほ彼等かれら屈託くつたくしてれば、彼等かれら庇護ひごしてかきであればこずゑからまだあをげて、瞬間しゆんかんおどろやす彼等かれらあざむかれて、彼等かれら伴侶なかま惡戯あくぎであるかをうたがうてはあわてゝ周圍しうゐとき繁茂はんもしたおほきなすゞしいかぜにさや/\と微笑びせうする。

彼らはこうして、家の中から声を立ててはげしく呼ばれるまでは、おそるおそるも、きりのない話にふけるのである。

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彼等かれらはかうしていへうちからこゑてゝはげしくばれるまではおそれ/\も際限さいげんのないはなしふけるのである。

彼らがそういう苦心のあいだに、次の日の体のつかれをぎせいにしてまでも、わずかな時間を向かい合っていながら、たがいの顔も見ることができないで、低く殺した声だけで満足するほかに、彼らは林の中に放たれたとき、思い思われるみんながひたすら甘い味をむさぼるのである。

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彼等かれらがさういふ苦辛くしんあひだつぎ身體からだつかれを犧牲ぎせいにしてまでもわづか時間じかんあひたいしてながらたがひかほることが出來できないでひくころしたこゑにのみ滿足まんぞくするほかに、彼等かれらはやしなかはなたれたときおもおもはぬすべてが只管ひたすらあまあぢむさぼるのである。

林は彼らの天地である。

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はやし彼等かれら天地てんちである。

落ち葉をかくといって熊手を入れるとき、彼らは連れ立って自由にさまようことが、黙ってゆるされている。

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落葉おちばくとて熊手くまでれるとき彼等かれらあひともなうて自在じざい徜徉さまよふことが默託もくきよされてある。

しかし熊手のつめがすばやく木かげの土にあとをつける、その動きさえ、一日一日と日を短く刻んで行くような冬の季節は、あまりに冷たく彼らの心を引きしめている。

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しか熊手くまでつめすみやかに木陰こかげつちあとつける運動うんどうさへ一は一みじかきざんでやうふゆ季節きせつあまりにつめたく彼等かれらこゝろめてる。

いたる所、畑のとうもろこしが葉のあいだからもさもさと赤い毛をふいて、その大きな葉がざわざわと人の心をさわがせるようになると、男女の群れが長雨の後のしげった林の下草に、とぎすました草かりがまの刃を入れる。

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いたところはたけ玉蜀黍たうもろこしあひだからもさ/\とあかいて、おほきながざわ/\とひとこゝろさわがすやうると、男女なんによむれ霖雨りんうあと繁茂はんもしたはやし下草したぐさぎすました草刈鎌くさかりがまれる。

初めは朝早く馬のえさを一かごぶん刈るだけだけれど、焼けるような日ざしの下で畑もやっと片づいて、村じゅうがみな草刈りに力を入れるようになれば、若い同士がさそい合っては、遠く林の細い道を分けて行く。

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はじめあさまだきにうままぐさの一かごるにすぎないけれど、くやうなのもとにはたやうやきまりがついて村落むらすべてがみな草刈くさかりこゝろそゝやうれば、わか同志どうしあひさそうてはとほはやし小徑こみちわけく。

そして自分たちの天地で、その羽をいっぱいに広げる。

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さうして自分じぶん天地てんちそのはねを一ぱいひろげる。

どこを見てもただ深い緑に閉ざされた林の中で、彼らは歌う声でたがいの居場所を知ったり知らせたりする。

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何處どこてもたゞふかみどりとざされたはやしなか彼等かれらうたこゑつてたがひ所在ありかつたりらせたりする。

彼らのうちのおとなしい者はそれでも、午前の何時間かをけんめいに働いて、父親の小言を聞かないだけの草をうまやのそばに積んでは、午後の何時間かを自由に使おうとする。

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彼等かれらのしをらしいものはそれでも午前ごぜん幾時間いくじかん懸命けんめいはたらいてちゝなるものゝ小言こごとかぬまでにうまやそばくさんでは、午後ごご幾時間いくじかん勝手かつてつひやさうとする。

一度でもしめやかに語り合った男女が出会えば、彼らはすべてを忘れて、それでもさすがに人目だけはさけて、細い道から一歩木のあいだに身をかくす。

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でもしめやかにかたうた兩性りやうせい邂逅であへば彼等かれらは一さいわすれて、それでも有繋さすが人目ひとめをのみはいとうて小徑こみちから一あひだける。

しげった青草が、そばを行く人にも気づかれないように、かがんだ彼らをいくらでもおおいかくす。

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繁茂はんもした青草あをぐさそばひとにもられぬやうかゞんだ彼等かれらいくらでもおほかくす。

彼らは決まった話も持っていないのに、心地よく冷たい土にすわって、ついには手にしたかまの刃先で少しずつ土をほじりながら、女は白い手ぬぐいのはしをかすかに動かしては、うつむきながらほほえみながら、いつまでもそこにじっとしていようとする。

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彼等かれらきまつたなんはなしつてないのにこゝろよくつめたいつちすわつて、つひにはにしたかま刄先はさきすこしづゝつちをほじくりつゝをんなしろ手拭てぬぐひはし微動びどうさせては俯伏つゝぷしなから微笑びせうしながら際限さいげんもなく其處そこ凝然ぢつとしてようとする。

いりつけるようなあぶらぜみの声が彼らの心をゆさぶっては、鼻のつまったようなみんみんぜみの声が、その心をとかそうとする。

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りつけるやう油蝉あぶらぜみこゑ彼等かれらこゝろゆるがしてははなのつまつたやうなみん/\ぜみこゑこゝろとろかさうとする。

やぶ蚊が彼らの日に焼けた赤い足に針をさして、しりがぐみの実のように血を吸ってふくれても、彼らはちくりとされたときに慌ててはたとたたくだけで、蚊が逃げても知らん顔である。

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藪蚊やぶか彼等かれらけたあかあしはりして、しりがたはら胡頽子ぐみやううてふくれても、彼等かれらはちくりと刺戟しげきあたへられたときあわてゝはたとたゝくのみでげようともらぬかほである。

暑い日が、草いきれで汗びっしょりになっている彼らの体に、時こくが過ぎたとえだのあいだから強い光を投げかけてせき立てるまでは、まれにはしびれた足を投げ出して、聞きも聞かせもしなくていい話をくり返してばかりいるのである。

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あつくさいきれであせびつしりにつて彼等かれら身體からだ時刻じこくぎたとえだあひだからつよひかり投掛なげかけてうながまでは、まれにはしびれたあし投出なげだしてきもかせもしなくてはなし反覆はんぷくしてのみるのである。

彼らはこうして時間をむだに使っては、遠く近くひぐらしの声がいっせいにいそがしくそれぞれの耳をさわがせて、大きな薄い布でおおったかと思うようにうすいかげがあたりをつつむと、彼らは慌ててみな家路につく。

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彼等かれらうして時間じかんむなしくつひやしてはとほちかひぐらしこゑが一せいいそがしく各自かくじみゝさわがして、おほきなしやおほうたかとおもやううす陰翳かげ世間せけんつゝむと彼等かれらあわてゝみな家路いへぢく。

どうかしてあまりにおくれると、空の草かりかごをさかさに背負って、歩けばざわざわと鳴るように、大きなかごの目へならや雑木のえだをさして、夕暮れの庭に身を運んで、刈り積んだ青草の近くにかごを下ろす。

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どうかしてあまりにおくれるとから草刈籠くさかりかごさかしま脊負せおつて、あるけばざわ/\とやうに、おほきなかごなら雜木ざふきえだして黄昏たそがれにははこんで刈積かりつんだ青草あをくさちかかごおろす。

父親は、蚊柱の立つうまやのそばで、ぶるぶるとたてがみをふるわせながら、ぱさりぱさりと尾でしりのあたりをたたいている馬に、えさをやっている。

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ちゝなるものは蚊柱かばしらたつてるうまやそばでぶる/\とたてがみゆるがしながら、ぱさり/\としりあたりたゝいてうままぐさあたへてる。

母親は、青いけむりに満ちたかまどの前に立ってはすそをからげながら、明かりをつけるゆとりもなく、我が子をぶつぶつ言いながら待っている。

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はゝなるものはあをけぶり滿みちかまどまへつてはうづくまりつゝ、燈火ともしびける餘裕よゆうもなくをぶつ/\とつてる。

こうしていそがしさに、ならや雑木のえだでごまかした手口が見つからないのである。

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うしていそがしさになら雜木ざふきえだあざむいた手段しゆだん發見はつけんされないのである。

気のとがめる女は、黙って何よりもまず空の手おけを持って井戸ばたへかけて行っては、ざあと水をくんで、それからしるの実でも切れていれば、あわただしくとんとんとほうちょうの音を立てて、少しでも母親の小言からのがれようとする。

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うしろめたいをんなだまつてなによりもから手桶てをけつて井戸端ゐどばたけてつてはざあとみづんでそれからしるでもれてなければあわたゞしくとん/\と庖丁はうちやうひゞきてゝ、すこしづゝでもはゝなるものゝ小言こごとからのがれようとする。

せまい庭のかきねに、黄色いちょうがいくつも止まってしきりに羽を動かしているように、一つ一つひらりひらりと開いては、夜目にもほっかりとにおっている月見草は、自分たちの夜が来たと、かけ歩いている女に向かってなつかしそうに目を見開くのである。

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せまには垣根かきね黄色きいろてふいくつもとまつてしきりにはねうごかしてるやうに一つ/\にひらり/\とひらいては夜目よめにもほつかりとにほうて月見草つきみさう自分等じぶんらよるたと、あるいてをんなたいしてなつかさうみはるのである。

彼らのある者は、さらに夜ねむりにつく前に、戸口の近くでかやのすそにくるまっては、こっそり雨戸の外に訪ねて来る男を待とうとさえするのである。

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彼等かれらあるものさらよるねむりにまへ戸口とぐちちか蚊帳かやすそにくるまつてはひそか雨戸あまどそとおとづるゝをとこたうとさへするのである。

男は雨戸を開けてしのぶとき、月がさえていてもためらわない。

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をとこ雨戸あまどけてしのときつきてさへ躊躇ちうちよせぬ。

彼はそれでも、たたみの上にさしこむ光をきらって、のきの近くにむしろをつるす。

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かれはそれでもた々みうへひかりいとうてひさしちかむしろる。

ゆがんだ戸がぎしぎしと鳴るので、それが彼らのすいかやうりの畑をおそうころであれば、道ばたの草むらからくつわむしを取って行って、雨戸のすきまから放つ。

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ゆがんだがぎし/\とるのにそれが彼等かれら西瓜すゐくわうりはたけおそころであれば道端みちばた草村くさむらから轡蟲くつわむしつてつて雨戸あまど隙間すきまからはなつ。

くつわむしは暗い中へ放たれれば、すぐに声をそろえて鳴く。

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轡蟲くつわむしくらいなかへはなたれゝば、たゞちこゑそろへてく。

この土地でそれが「がしゃがしゃ」と呼ばれているだけあって、やかましく、ただがしゃがしゃと鳴く。

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土地とちれが一ぱんにがしや/\といふ名稱めいしようあたへられてるだけやかましくたゞがしや/\とく。

がしゃがしゃが鳴き出せば、彼らは安心して雨戸をこじるのである。

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がしや/\がせば彼等かれらやすんじて雨戸あまどをこじるのである。

それからまた、箱をころがしたような、しきりのしょうじさえない小さな家で、女が男を通そうとして、どうしても父母のまくら元を通らなければならないときは、ふめばぎしぎしと鳴るゆか板に二人の足音がひびくのを気にして、女は暗やみの中で男を背負うのである。

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それからまたはこころがしたやうな、へだての障子しやうじさへちひさないへをんなをとこみちびくとて、如何どうしても父母ちゝはゝ枕元まくらもとぎねばらぬときは、めばぎし/\と床板ゆかいた二人ふたり足音あしおとはゞかつてをんなやみをとこ脊負せおふのである。

そこでは、たとえ重さが加わっても、それはうまくつかれてねむい父母の耳をだますのである。

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其處そこには假令たとへ重量ぢゆうりやうくはへられても、それはたくみつかれてねむ父母ちゝはゝみゝあざむくのである。

ふつうのむすめの暮らしはこんなふうで、まれにはひどくしかられることもあって、そのときだけはしおれても、明日にはたちまち元にもどって、その性しつのままに進んでふり返らない。

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ぱん子女しぢよ境涯きやうがい如此かくのごとくにしてまれにはいたしかられることもあつてそのときのみはしをれても明日あすたちま以前いぜんかへつてその性情せいじやうまゝすゝんでかへりみぬ。

おつぎは、そんな仲間と一日でもいっしょに放されたことがないのである。

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おつぎは其麽そんな伴侶なかまと一にちでも一つにそのはなたれたことがないのである。

勘次がどんなにやかましくおつぎをおさえても、おつぎがそれでおさえられても、勘次は村の若者がおつぎに思いをかけるのを止める力は、少しも持っていない。

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勘次かんじ什麽どんな八釜敷やかましくおつぎをおさへてもおつぎがそれでせいせられても、勘次かんじむら若者わかものがおつぎにおもひけることに掣肘せいちうくはへるちからをもいうしてらぬ。

村の若者みんなが女をねらおうとするときはずいぶん執念深く、それはちょうど、追えばたちまち逃げるにわとりが、どうかしてせまく戸口を開けてある穀物ぐらに好きなえさを見つけて入ろうとするとき、その戸口がせまくて体が入らなければ、いたずらに首をさしこんではもがいてもがいて、そしてほかへ行ってしまうようなものである。

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すべての村落むら若者わかものをんなねらはうとするとき隨分ずゐぶん執念しふねれは丁度ちやうどへばたちまちにげるとりがどうかしてせま戸口とぐちひらいてある穀倉こくぐらこの餌料ゑさ見出みいだして這入はひらうとするときせま戸口とぐちるゝにりなければいたづらにくびんでは足掻あがいて/\さうしてほかつてしまふ。

それが一度であきらめればそれまでだけれど、二度三度戸口に立ってもがきはじめれば、去っては来り、去っては来り、首すじの皮がすりむけて戸口にたくさん血のあとをつけても、執念深くえさを求めて止まないような形でなければならない。

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れが一斷念だんねんすればまでであるけれど、二度ふたたび三度みたび戸口とぐちつて足掻あがはじめれば、つてはきたり、つてはきたり、首筋くびすぢかはけて戸口とぐちしたゝあといんしても執念しふね餌料ゑさもとめてまぬやうなかたちでなければならぬ。

それぞれの心の中で、おつぎをどれほど深く思おうとも、それはそれぞれが持つ権利である。

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各自かくじこゝろにおつぎをほどふかおもはうともそれは各自かくじいうする權能けんのうぞくしてる。

しかしながら、おつぎへ加えようとするその手をとことんふせごうとすることも、勘次が持つ権利である。

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しかしながらおつぎへくはへようとするその極端きよくたん防遏ばうあつしようとすることも勘次かんじいうする權能けんのうである。

たがいにその権利をこえて他人の領分をおかすとき、そこには必ずもめごとが起こるはずである。

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相互さうご權能けんのうえて領域りやうゐきをかとき其處そこにはかなら葛藤かつとうともなはれるはずでなければらぬ。

若者は寄り集まれば、みな不平を語り合って、勝手に勘次をじゃまでうっとうしい者にしていた。

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若者わかものあひあつまればみな不平ふへいじやうかたうて、勝手かつて勘次かんじ邪魔じやまなこそつぱいものにしてた。

そのくせ彼らはみな、たがいに自分だけがおつぎを手に入れようとして、とどかない手をのばしているのである。

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そのくせ彼等かれらみなたがひ自分じぶんひとりのみがおつぎをようとしておよばぬばしてるのである。

万一目的がとげられたことがあったとしても、それはただ一人だけで、そのほかの何人かはむなしく、しかもとても軽い不快とねたみから、口々にその一人に向かっていやみを言って止まないはずである。

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まん目的もくてきげられたことがつたとしてもれはたゞにんかぎられてて、爾餘じよ幾人いくにんむなしくしかきはめてかる不快ふくわい嫉妬しつととから口々くちぐちそのにんむかつて厭味いやみをいうてまねばらぬ。

しかしながら、ついにその一人は彼らのあいだに現れなかった。

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しかしながらつひそのにん彼等かれらあひだ發見はつけんされなかつた。

彼らのうらみがすべて勘次一人に集まった。

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彼等かれら怨恨うらみすべ勘次かんじの一しんあつまつた。

それでも、あっさりした彼らのうらみは、三人以上が集まって口を開けば必ず笑い声が絶えないほどのものだった。

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それでも淡白たんぱく彼等かれら怨恨うらみは三にん以上いじやうあつまつてくちひらけばかなら笑聲せうせいたぬほどのものであつた。

うらみというよりも、じれったさだった。

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怨恨うらみといふよりも焦燥じれつたさであつた。

おつぎの身には、こうして事件を起こすような機会が与えられなかった。

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おつぎの身體からだにはうして事件じけんおこすべき機會きくわいあたへられなかつた。

それでも、ただ一人おつぎと手を取って語るところまで近づけた者があった。

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それでもたつた一人ひとりおつぎとつてかたることにまでちかづきたものがあつた。

勘次はどれほど厳しくしても、おつぎがべんじょに通う時間まで、せまい庭の夜の中へ出すことをこばむことはできなかった。

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勘次かんじはどれほど嚴重げんぢうにしてもおつぎがかはやかよ時間じかんをさへせまにはなかはなつことをこばむことは出來できなかつた。

執念深い一人が、たまたまそういう機会を見つけた。

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執念深しふねんぶかい一にん偶然ぐうぜんさういふ機會きくわい發見はつけんした。

彼は、まだはずかしさとおそれが体じゅうを支配しているおつぎをつかまえて、ただじっと動かさないようにするまでには、何度も手を変えて苦心した。

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かれは、まだ羞恥はぢ恐怖おそれとが全身ぜんしん支配しはいしてるおつぎをとらへてたゞ凝然ぢつうごかさないまでには幾度いくたびかへ苦心くしんした。

勘次が戸の内から呼んでも、べんじょのそばで返事をするおつぎの声は、初めのうちはうたがいを持たせるまでには行かなかった。

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勘次かんじうちからんでもかはやそば返辭へんじをするおつぎのこゑ最初さいしよあひだ疑念ぎねんいだかせるまでにはいたらなかつた。

それでも、二人が心に深くたがいの思いを刻むまで、うたがいの目を見開いている勘次をだましきることはできなかった。

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れでも彼等かれらこゝろふかたがひじやうきざむまで猜忌さいぎみはつて勘次かんじあざむきおほせることは出來できなかつた。

ある晩、勘次はがらっと戸を開けて出た。

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あるばん勘次かんじはがらつとけてた。

はげしく開けた戸が、ややくちかけたしきいのみぞを外れそうになって、ぎっしりと固まった。

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はげしくけたやゝけたしきゐみぞはづれようとしてぎつしりと固着こちやくした。

彼はいらいらして戸をたたいてみぞにもどすと、そのまま飛び出した。

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かれ苛立いらだつてたゝいてみぞふくすとまゝした。

彼はすぐ自分の近くに、手ぬぐいをかぶったおつぎのすがたがゆっくり動いて来るのを見た。

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かれすぐ自分じぶんちか手拭てぬぐひかぶつたおつぎの姿すがたおもむろにうごいてるのをた。

それと同時に、こっそり逃げて行くぞうりの音が勘次の耳にひびいた。

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それ同時どうじひそか草履ざうりおと勘次かんじみゝひゞいた。

彼はそれを耳にした瞬間、右の手がかべぎわの木の根にかかって、木の根は彼の力いっぱいに木かげの暗やみへ投げられた。

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かれそれみゝかんずる瞬間しゆんかんみぎ壁際かべぎはかゝつて、かれちからぱい木陰こかげやみとうぜられた。

木の根はどさりと遠くに落ちて、庭の土をえぐって、勢いあまって何度かでんぐり返った。

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はどさりととほちてにはつちをさくつて餘勢よせい幾度いくどかもんどりをつた。

勘次はつづけて投げた。

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勘次かんじつゞいてなげうつた。

くせ者はすでに逃げ去ったけれど、彼の不意打ちに慌てて、ふしくれ立ったかきの根につまずいてたおれた。

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曲者くせものすでちたけれどかれ不意ふい襲撃しふげきあわてゝふしくれつたかきつまづいてたふれた。

彼は次の日、足を引きずらなければ歩けないほど足首の関節に痛みを感じたのだった。

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かれつきあしひきずらねばあるけぬほど足首あしくび關節くわんせつ疼痛とうつうかんじたのであつた。

勘次は、ぽつんと立っているおつぎを突きとばすように戸口へ入れて、がらりと戸を閉じてかけ金をかけた。

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勘次かんじはぽつさりとつてるおつぎをきのめすやう戸口とぐちおくつてがらりとぢて掛金かけがねけた。

その夜はまだ、それぞれが一つ増えた年の数だけいり豆をかじって鬼を追った夜から、いくらも日がたっていないので、塩いわしの頭とともに戸口にさしたひいらぎの葉も、いっこうにかわいたようすが見えないほどだった。

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そのはまだおの/\が一つくははつた年齡ねんれいかずほど熬豆いりまめかじつておにをやらうたから、いくらもへだたらないので、鹽鰮しほいわしあたまとも戸口とぐちしたひゝらぎ一向いつかうかわいた容子やうすえないほどのことであつた。

おつぎは十八といっても、その年になったというだけで、こんな場合をうまくとりつくろうという考えさえ、かりにも持っていないほど、一面ではにごりのないかわいらしい少女だった。

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おつぎは十八じふはちというても年齡としたつしたといふばかりで、んな場合ばあひたくみつくらふといふ料簡れうけんさへ苟且かりそめにもつてないほどめんおいてはにごりのない可憐かれん少女せうぢよであつた。

おつぎはしおれて、ただぽつんと立っている。

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おつぎはしをれてたゞぽつさりとつてる。

勘次の目は、うす暗い手ランプに光った。

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勘次かんじ薄闇うすくらランプにひかつた。

「おつう」

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「おつう」

とひと声どなって、感情がたかぶった勘次は、すぐには次の言葉が出せなかった。

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と一せい呶鳴どなつてじやうげきした勘次かんじ咄嗟とつさつぎことばせなかつた。

「何してやがったんだ」

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なにしてけつかつたんだ」

勘次はおつぎをにらみつけた。

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勘次かんじはおつぎをにらみつけた。

おつぎはうつむいて黙っている。

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おつぎは俯向うつむいてだまつてる。

「さあ言ってみろ。嘘を言ったって知ってるぞ、おい」

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「さあつてろ、ちくつたつてつてつゝお」

勘次はなおもはげしく問いつめた。

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勘次かんじなほはげしくたずねた。

「お前はいつでも何と言った。おとっつあんにはけっして心配をかけないからと言ったんじゃないか。そんでもお前は心配をかけないのか。かけないというんなら言ってみろ」

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りや何時いつでもなんちつた、おとつゝあげはけつして心配しんぺえけねえからつてつたんぢやねえか、そんでもりや心配しんぺえけねえのか、けねえつちんだらつてろ」

彼はいまいましそうに、そして刃で心を突きとおされる苦しさをこらえたかと思うようなようすで、どきどきする胸から声をしぼって言った。

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かれ忌々敷相いま/\しさうやいばもつ心部むねとほされるくるしさをしのんだかとおもふやうな容子ようすでわく/\するむねからこゑしぼつていつた。

彼はしばらく間を置いてはまた、かんでかんでかみしめてもかみ切れない何かに向かうようなじれったさと、待っていた何かを急にうばい去られたような絶望とが入りまじり、もつれ合った投げやりな態度で、おつぎをせめた。

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かれしばらあひだいてはまたんで/\噛締かみしめてもれぬあるものたいするやうな焦燥じれつたさと、期待きたいしてあるものにはかうばられたやう絶望ぜつばうとが混淆こんかう紛糾ふんきうした自暴自棄やけ態度たいどもつておつぎをめた。

彼のふるまいは、ほとんど発作のようだった。

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かれ擧動きよどうほとん發作的ほつさてきであつた。

おつぎの声を殺して泣く声は、すきまだらけの戸の外にとぎれとぎれにもれた。

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おつぎのこゑころしてこゑ隙間すきまだらけなそとえ/″\にれた。

これまでも、おつぎはたとえ異性を慕う心がやっと育ってきたとはいえ、こっそりその手を取られたときは、後ではむしろ後かいするほどで、はずかしさとおそれと、それから勘次に気がねする気持ちとが、慌ててその手をふりほどかせるのだった。

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從來これまでとてもおつぎは假令たとひ異性いせいした性情せいじやうやうや發達はつたつしてたとはいひながら、ひそかそのられたときは、あとではむしいるまでも羞恥はぢ恐怖おそれとそれから勘次かんじはゞかることからつてきた抑制よくせいねんとがあわてゝもきらせるのであつた。

それがだんだん、いやではないさそいの手に乗って、甘い味をわずかに感じるところまで近づいた瞬間、すべてがこわされたのである。

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れが段々だん/\いやでない誘惑いうわくつてあまあぢわづかかんずる程度ていどまでちかづいた刹那せつなさい破壞はくわいられたのである。

おつぎは前にもどって、おそれの手に深く身をしずめなければならなくなった。

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おつぎは以前いぜんかへつて恐怖きようふふか沒却ぼつきやくせねばならなくつた。

深い罪をふくんでいないその夜のできごとは、それで済んだ。

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ふか罪惡ざいあく包藏はうざうしてない事件じけんはそれでんだ。

勘次はあいかわらず、おつぎにとってはたった一つの大きな木のかげだった。

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勘次かんじ依然やつぱりおつぎにはたゞひとつしか大樹たいじゆかげであつた。

しかし勘次自身には、どんな物でも、今の彼の心に与えられる満足は、失ったお品を思い出すことから受ける悲しみの十分の一にもとどかない。

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しか勘次かんじ自身じしんには如何どん種類しゆるゐものでも現在げんざいかれこゝろあた滿足まんぞく程度ていどは、うしなうたおしな追憶つゐおくすることからける哀愁あいしうの十ぶんの一にもおよばない。

彼はもうそれ以上、彼の心の中に残っている何かまでうばい去られることには、たえられないのである。

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かれ最早もはやそれ以上いじやうかれ心裏しんり残存ざんぞんしてものをまでうばられることにはへないのである。

彼はわずかに三人の家族が、油のように水にはじかれても、のけ者にされても、ただ固まっていることだけで、たとえなぐさめられないまでも、不安を感じずにその日その日を刻んで暮らして行けるのである。

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かれわづかに三にん家族かぞくあぶらごとみづはじかれても疎外そぐわいされてもたゞ凝結ぎようけつしてることにのみ、假令たとひ慰藉ゐしやされないまでも不安ふあんかんずることなしに/\ときざんでくらしてくことが出來できるのである。

彼は一度でも、おつぎが自分からはなれたのを見つけたり、感じたりしては、一種のねたみを感じずにはいられなかった。

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かれは一でもおつぎが自分じぶんはなれたことを發見はつけんあるひ意識いしきしては一しゆ嫉妬しつとかんぜずにはられなかつた。

彼はそうして、悲しみにさいなまれた。

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かれはさうして悲痛ひつうかんさいなまれた。

村の若者は、彼にとっては敵である。

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村落むら若者わかものかれためには仇敵きうてきである。

それと同時に、若者にとっては彼はまむしの毒きばのようなものにちがいない。

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それと同時どうじ若者わかものためにはかれ蝮蛇まむし毒牙どくがごときものでなければらぬ。

それでいながら、少しのいげんも力もない彼は、すべての若者から、彼をいらだたせるいたずらでむくいられた。

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れでありながら威嚴ゐげん勢力せいりよくもないかれすべての若者わかものからかれ苛立いらだたしめる惡戯いたづらもつむくいられた。

青草の中に身をひそめている毒へびに、直接手をふれようとする者は一人もいないけれど、遠くから土くれを投げたり、棒の先でつついたり、むだに怒るきばをふるわせることは、彼らの好んですることだった。

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青草あをくさなかぼつして毒蛇どくじや直接ちよくせつれようとするものは一にんもないけれど、とほくから土塊どくわいつたり、ぼうさきでつゝいたりいたづらにおこきばふるはせることは彼等かれらこのんでするところであつた。

勘次のけずったようにやせた顔が、いつでもひがんで、しかも怒りやすいのを、彼らはあざけりの目で遠くからのぞくのである。

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勘次かんじけづつたやうなせたかほ何時いつでもひがんでさうしておこやすいのを彼等かれら嘲笑てうせうまなこもつとほくからのぞくのである。

彼らは夜、かきねのそばに立って指を口にくわえてぴゅうぴゅうとはげしく鳴らしてみたり、戸口の近くにこっそり下駄の歯のあとをつけておいたり、勘次がねむりに落ちようとするころ、作り声を使っておつぎを呼んだりした。

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彼等かれらよる垣根かきねそばつてゆびくちくはへてぴゆう/\とはげしくらしてたり、戸口とぐちちかひそか下駄げたあとけていたり、勘次かんじねむりちようとするころ假聲こはいろ使つかつておつぎをんだりした。

勘次はそのたびに心がいらだったけれど、きりでもつかむような、だれのしわざとも分からないいたずらを、どうすることもできなかった。

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勘次かんじたびこゝろ苛立いらだつたけれど、きりでもつかやうな、たれ所爲しよゐとも判明はんめいしない惡戯いたづらをどうすることも出來できなかつた。

しかし、目に見えるえいきょうのないいたずらは、長くはつづかなかった。

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しか表面へうめんあらはれた影響えいきやう惡戯いたづらなが持續ぢぞくしなかつた。

春は冬から遠く、そしてまた冬ととなり合っている。

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はるふゆとほくしてまたふゆあひとなりしてる。

季節の移り変わりをくり返しながら、月日は容しゃなく過ぎた。

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季節きせつ變化へんくわ反覆くりかへしつゝ月日つきひ容赦ようしやなく推移すゐいした。

一二

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一二

冬は低く地をはってしずんだ。

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ふゆひくうてしづんだ。

旧れきのくれが近くなって、結こん式の多く行われる季節が来た。

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舊暦きうれきくれちかつて婚姻こんいんおほおこなはれる季節きせつた。

町の建具屋の店先に置かれたたんすや長持ちから、そまつな金具が光るのを見るようになった。

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まち建具師たてぐし店先みせさきゑられた簟笥たんす長持ながもちから疎末そまつ金具かなぐひかるのをるやうにつた。

おつぎが通ったおはりの先生の家でも、嫁が決まった。

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おつぎがかようたはり師匠ししやううちでもよめきまつた。

その当日になると、おはりの子たちはみな、しまっておいた半纏へ赤いたすきをかけて、そこらのそうじやら、いもや大根を洗うことやら、朝から大さわぎをして笑いながら手伝いをした。

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當日たうじつると針子はりこいづれもしまつていた半纏はんてんあかたすきけて、其處そこらの掃除さうぢやら、いも大根だいこんあらふことやらあさから大騷おほさわぎをしてわらひながら手傳てつだひをした。

おつぎも行って、みんなといっしょに働いた。

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おつぎもつてみんなと一しよはたらいた。

おつぎは赤い糸のもようの半纏で、もえぎ色のたすきをかけていた。

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おつぎは赤絲大名あかいとだいみやう半纏はんてん萌黄もえぎたすきけてた。

おはりの子たちは毎年、春がやっと暖かくなって百姓の仕事がいそがしくなると、次の冬まで休みにするといって、一日みんなでくわを持って畑の仕事の手伝いに行く。

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針子等はりこら毎年まいねんはるやうやあたゝかくつて百姓ひやくしやう仕事しごといそがしくなるとまたふゆまでひまをとるとて一にちみんなくはつてはたけ仕事しごと手傳てつだひく。

広くもない畑へ全員が一度にくわを入れるので、めいめいがおたがいのじゃまになりながら、人数の半分はいつもくわの柄をつえにして立っては、遠くへ目をやりながら笑いさざめく。

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ひろくもないはたけのこらずが一くはれるのでおの/\たがひ邪魔じやまりつゝ人數にんずなかば始終しじうくはつゑいてはつてとほくへくばりつゝわらひさゞめく。

彼女たちの白い手ぬぐいが集まって、はるか遠くから人の目を引くほかは、先生の家に特に得になることもなく、彼女たち自身だけが一日を楽しく過ごせるのである。

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彼等かれらしろ手拭てぬぐひあつまつてはるかひとほか師匠ししやううち格別かくべつ利益りえきもなく彼等かれら自分等じぶんらのみが一にちたのしくらるのである。

だから彼女たちは、結こん式の当日にも仕事のわりにはあまりに人数が多すぎるので、一つの仕事に集まっては、のんきなようすでしゃべるのだった。

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れだから彼等かれら婚姻こんいん當日たうじつにも仕事しごと割合わりあひにしてはあまりに多人數たにんずぎるので、ひと仕事しごとあつまつては屈託くつたくない容子ようすをして饒舌しやべるのであつた。

「どういうお嫁さんだろうな」

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「どうえ嫁樣よめさまだんべな」

「きれいな人だろうな」

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をんなだんべえな」

「早く来ればいいな、おれは見たいな」

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はやればえゝな、てえな」

彼女たちはそんなことばかりくり返しながら、ひそひそとささやいた。

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彼等かれらはさういふことをすら口々くち/″\反覆くりかへしつゝ密々ひそ/\耳語さゝやいた。

「おしろいをつけて来るんだな」

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白粉おしろいけてんだな」

いちばん年下の子が言った。

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ばんとしすくながいつた。

「どうしたもんだい、おしろいをつけるんだろうかとまあ」

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「どうしたもんだえ、白粉おしろいけんだんべかとまあ」

年上の子が笑った。

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年嵩としかさわらつた。

「水おしろいを持って来るんだか知れないぞ」

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水白粉みづおしろいつてんだかんねえぞ」

「ただの水みたいなおしろいもあるんだって言ったっけぞ」

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たゞみづてえな白粉おしろいんだつてつけぞ」

彼女たちはそういうたわいのないせんさくから、それから

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彼等かれらはさういふつみのない穿鑿せんさくからそれから

「おれはお給仕に出なくちゃならないか知れないが、はずかしくていやだな」

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らお給仕きふじなくつちやんねえかんねえが、はづかしくつてだな」

「お嫁さんはもっとはずかしいだろうな」

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嫁樣よめさままつとはづかしかつぺな」

「そんだが、おれはお嫁さんの着物がどんなのか見たいもんだな」

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「そんだが嫁樣よめさま衣物きものどういんだかてえもんだな」

と、半分は楽しみのような、半分は心配のような、たがいの気持ちを語り合うのだった。

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半分はんぶんのぞむやうな半分はんぶん氣遺きづかふやうなたがひこゝろかたるのであつた。

夜になって、板の間のむすめたちが座敷のほうへ呼ばれたころ、勝手口に村の若者が五、六人立った。

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つていた娘等むすめら座敷ざしきはうかれたころ勝手口かつてぐち村落むら若者わかものが五六にんつた。

彼らは結こん式の夜には必ず決まっている、例のうどんをもらいに来たのである。

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彼等かれら婚姻こんいんには屹度きつときまつたためし饂飩うどんもらひにたのである。

昼のうちに用意されたうどんが、彼らに与えられた。

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ひるあひだ用意よういされた饂飩うどん彼等かれらあたへられた。

彼らの手には、うどんの大きなざると二升だると、それからしょうゆの入れ物であるビールびんとが提げられた。

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彼等かれらには饂飩うどんおほきなざると二升樽しようだるとそれから醤油しやうゆ容器いれものである麥酒罎ビールびんとがげられた。

かきねの外へ出たとき、彼らは作り声を出してどっとはやし立てて、またはやした。

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垣根かきねそととき彼等かれら假聲こわいろしてどつとはやてゝまたはやした。

彼らは道々もさわぐのをやめないで、とうとう村の念仏堂へ引きあげた。

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彼等かれら途次みちみちさわぐことをめないで到頭たうとう村落むら念佛寮ねんぶつれうひきとつた。

そこには、これもどてらをかぶった彼らの仲間が、いろりへしばをくべて暖まりながら待っていた。

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其處そこにはこれ褞袍どてらはおつた彼等かれら伴侶なかま圍爐裏ゐろり麁朶そだべてあたゝまりながらつてた。

念仏の人たちが使っているなべや土びんや茶わんが、ただごたごたと投げ出してあった。

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念佛衆ねんぶつしゆう使つかつてなべ土瓶どびん茶碗ちやわんたゞごた/\とされてあつた。

台つきの手ランプは、近所から借りて来たのだった。

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だいつきのランプは近所きんじよからりてたのであつた。

しばのほのおが、手ランプに光をそえていた。

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麁朶そだほのほランプにひかりへてた。

結こん式の席では、お酒の後には長くつづくようにという縁起をかついで、一つには料理がかんたんなのとで、うどんをふるまうのである。

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婚姻こんいん席上せきじやうではさけあとにはながつながるやうといふ縁起えんぎいはうて、ひとつには膳部ぜんぶ簡單かんたんなのとで饂飩うどんもてなすのである。

そばは短く切れるといって、どこでもきらった。

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蕎麥そばみじかれるとて何處どこでもいとうた。

どんな結こん式でも、それを若い衆がもらいに行く。

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どんな婚姻こんいんでもそれをわかしゆもらひにく。

貧しい家であれば、彼らはいくら少なくても文句を言わない。

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貧乏びんばふ所帶しよたいであれば彼等かれらいく少量せうりやうでも不足ふそくをいはぬ。

しかし、いくらか財産を持っていると彼らが思っている家でそれをおしめば、彼らは不平を言って止まない。

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しか多少たせう財産ざいさんいうしてると彼等かれらみとめてうちでそれををしめば彼等かれら不平ふへいうつたへてまぬ。

どうかすると、暗い木かげにひそんでいて、お嫁さんの車が近づいたとき、いきなりその車をひっくり返してやれというような、おどしのような言葉さえ吐くことがある。

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どうかするとくら木陰こかげ潜伏せんぷくしてよめくるまちかづいたとき突然とつぜんくるま顛覆てんぷくさせてやれといふやうな威嚇的ゐかくてき暴言ばうげんをすらくことがある。

しかしこれまで、そんなことはめったになく、特に問題になるほどのことも起こらなかった。

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しか從來じゆうらい其麽そんなことは滅多めつたになく、別段べつだんみとむべき弊害へいがいともなふのでもないのであつた。

それでふつう、どの家でも彼らが満足するだけの量を、前もって用意しているのである。

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それで普通ふつうどのうちでも彼等かれら滿足まんぞく分量ぶんりやう前以まへもつ用意よういしてるのである。

彼らは、そういう夜にどてらをかぶって他人の裏の戸口に立たなければならない理由を、一つも持っていない。

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彼等かれらはさういふ褞袍どてらかぶつて他人たにん裏戸口うらどぐちたねばらぬ必要ひつえう條件でうけんひとつもつてない。

ただ彼らはみな、藁を打って縄をなうという夜の仕事を捨てて、大手をふっていっしょに集まる機会を求めている。

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たゞ彼等かれらすべてはわらつてなはふべきよるつとめをすて公然こうぜんしよ集合しふがふする機會きくわい見出みいだすことをもとめてる。

集まることが、すぐに彼らに楽しみを与えるからである。

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集合しふがふすることがたゞち彼等かれら娯樂ごらくあたへるからである。

男女が、しかも他人の手を借りて一つになる結こん式のことを思いうかべることで、彼らの心がなんとなく刺げきされる。

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兩性りやうせいしか他人たにんりてひとつに婚姻こんいん事實じじつ聯想れんさうすることから彼等かれらこゝろ微妙びめう刺戟しげきされる。

彼らはみな、すでに異性を知り、また知ろうとしている。

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彼等かれらすべてはことごと異性いせいまたらんとしてる。

彼らは他人の目をぬすむのに多くのじゃまがあり、そのために慕い合う思いがむしろかえって強く、長つづきすることさえありながら、当人である彼らにはうるさいそのじゃまをこっそり取りのぞかなければならないじれったさが止まないのに、まわりのみんなが杯を挙げてくれる、その夜の当人同士を思いうかべるとき、彼らはうすいねたみをわかさずにいられない。

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彼等かれら他人たにんぬすむのには幾多いくた支障さはり、それはためあひした念慮ねんりよむしかへつさかん永續えいぞくすることすらりながら、當事者たうじしやたる彼等かれらには五月繩うるさ支障さはりをこつそりとはら退けねばらぬ焦燥じれつたいかんまないのに、周圍しうゐすべてがさかづきげてくれる當人同士たうにんどうし念頭ねんとううかべるとき彼等かれらあは嫉妬しつとかさねばらぬ。

それで彼らの心には、食ってやれ、飲んでやれ、そうしてやらねば気が済まないという思いが、そろってわき起こるのである。

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それで彼等かれらこゝろにはつてやれ、んでやれ、さうしてらねばはらえぬといふ觀念くわんねんせずして一致いつちするのである。

ざるで運んだうどんが、大人数の彼らにとても十分な満足を与えられるものではない。

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ざるはこんだ饂飩うどん多人數たにんずう彼等かれら到底たうていぶん滿足まんぞくあたるものではない。

しかし彼らは、そんなことは気にしない。

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しか彼等かれら其麽そんなことに頓着とんぢやくたぬ。

お酒がすすけた土びんで温められた。

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さけすゝけた土瓶どびんかされた。

彼らはめいめい茶わんへ注いで、ぐいと飲んだ。

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彼等かれら各自かくじ茶碗ちやわんいでぐいとんだ。

そこには温めかげんも何もなかった。

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其處そこにはかん加減かげんなにかつた。

めいめいの喉がそれを求めるのではなくて、一種のならわしが彼らにそうさせるのである。

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各自かくじのどがそれを要求えうきうするのではなくて一しゆ因襲いんしふ彼等かれらにそれをひるのである。

彼らはじりじりと喉がこげるように感じても、にがい顔をしかめながら飲んでみる者さえある。

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彼等かれらはじり/\とのどげるやうかんじてもにがかほしかめつゝんでものさへある。

わりと少ないお酒が、注ぐたびに手にするたびにむしろの上にこぼれても、彼らはおしまない。

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比較的ひかくてき少量せうりやうさけたびにするたびむしろうへこぼれても彼等かれらをしまない。

彼らはそれから、茶わんもはしもべたりとむしろの上へ置いて、ただ水にしょうゆを差しただけのつゆにひたして、さわがしくうどんをすすった。

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彼等かれらはそれから茶碗ちやわんはしもべたりとむしろうへいて、單純たんじゆんみづ醤油しようゆした液汁したぢひたして騷々敷さう/″\しく饂飩うどんすゝつた。

彼らはふだんでもそうなのに、お酒のせいでいくらか興ふんしているので、めいめいの口からさらに聞くにたえない乱ぼうな言葉が出た。

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彼等かれら平生へいぜいでもさうであるのにさけため幾分いくぶんでも興奮こうふんしてるので、各自かくじくちからさらくにへぬ雜言ざふごんされた。

行ぎの悪い言葉に慣れきっている彼らは、どうしたらたがいをおどろかせられるかと苦心していたかと思うような下品な一言が、とつぜんだれか一人の口から出ると、ほかの一人がまたそれに答えた。

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不作法ぶさはふ言辭げんじ麻痺まひして彼等かれらはどうしたら相互さうご感動かんどうあたるかと苦心くしんしつゝあつたかとおもやう卑猥ひわいな一唐突だしぬけあるにんくちからるとの一にんまたそれにおうじた。

彼らのあいだには、よそ者はまじっていない。

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彼等かれらあひだには異分子いぶんしまじへてらぬ。

彼らはときによっては、おそれてひかえめにして、体が縮んだようになるほど、物におびえるくせがある。

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彼等かれらときによつてはおそれて控目ひかへめにしつゝ身體からだ萎縮すくんだやうにつてほどものおくする習慣しふくわんがある。

しかしこうして仲間だけが集まれば、ほとんど別人である。

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しかうして儕輩さいはいのみがあつまればほとんど別人べつじんである。

うどんがなくなって、茶わんが乱ざつに投げ出されたとき、夜がおそいことなど気にしない彼らは、それからしばらく止めどもなくおしゃべりにふけった。

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饂飩うどんきて茶碗ちやわん亂雜らんざつされたときよるおそいことに無頓着むとんぢやく彼等かれらはそれからしばらめどもなく雜談ざつだんふけつた。

彼らはついに、自分の村に正式な式をあげていない夫婦が何組あるかということまで数え出した。

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彼等かれらつひ自分じぶん村落むら野合やがふ夫婦ふうふ幾組いくくみあるかといふことをさへかぞした。

あっちからもこっちからも、それが数えられた。

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そつちからもこつらからもれがかぞへられた。

左手の指を二度曲げて二度起こしても、数えきれなかった。

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左手さしゆゆびが二げて二おこされてもつくせなかつた。

もちろん、しまいには連れ合いをなくした人まで指を折って数えられた。

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勿論もちろんしまひには配偶はいぐうけたものまで僂指るしされた。

それらの夫婦のあいだに生まれた者も、何人か彼らの中にまじっていた。

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夫婦ふうふあひだうまれたもの幾人いくにん彼等かれらあひだ介在かいざいしてた。

さすがにその何人かは、自分の父母が呼ばれるので、にがい笑いをかみ殺してひかえている。

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有繋さすが幾人いくにん自分じぶん父母ふぼばれるのでにがわらひんでひかへてる。

すると、ほかの者はそれを面白がって、がやがやとはやし立てた。

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さうするとものはそれをきようあることにがや/\とはやてた。

話が少しだれたとき

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はなしすこしだれたとき

「勘次さんらみたいなのはな、ありゃ数には入らないもんだろうか」

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勘次かんじさんてえなゝ、ありや勘定かんぢやうにやへえんねえもんだんべか」

とどなった者があった。

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呶鳴どなつたものがあつた。

このとつぜんの言葉で、しばらく静まっていた彼らは急に元気が出て、手をたたいた。

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唐突たうとつ發言はつげんしばら靜止せいしして彼等かれらにはか威勢ゐせい拍手はくしゆした。

「勘次さんに聞いてみろ」

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勘次かんじさんにいてろ」

という声がすみのほうから出た。

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といふこゑすみはうからた。

「そんなこと言ったっくらい、ぶんなぐられらあ、ばか臭え」

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其麽そんなことつたつくれえなぐらつら篦棒臭べらぼうくせえ」

打ち消す声が聞こえた。

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こゑきこえた。

「そんじゃ、おつぎに聞いてみろ」

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「そんぢや、おつぎにいてろ」

「足でもへし折られるぞ」

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あしでも打折ぶつちよられんなえ」

「たきぎの棒をふり回されてか」

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薪雜棒まきざつぽうふられてか」

笑い声が入りまじって、堂の中はいっそうさわがしくなった。

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笑聲せうせい雜然ざつぜんとしてれううちは一そうさわがしくつた。

「今日あたりも見ろ、角の店でやけ酒を飲んで怒ってたっけぞ」

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今日けふらもろ、かどみせ自棄酒やけざけんでおこつてたつけぞ」

一人が自まんらしく、新しい話を持ち出した。

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一人ひとり自慢じまんらしくあらた事實じじつ提供ていきようした。

「どうしてよ」

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「どうしてよ」

みんなが耳をそばだてた。

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どうみゝそばだてた。

「おつぎをおはりの子らといっしょに手伝いにやったのを知ってるだろうな」

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「おつぎことおはり子等こらと一しよ手傳てづでえつたのつてべな」

「知ってらあな、そら」

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つてらなそら」

「そんでよ、手伝いにやっていても、もう、日暮れになったら、そわそわしてじっとしちゃいられないんだ。そんでぐずぐず言ってるのが面白いから、おれは聞いてたのさ。ちょうどいい塩梅に、おれはぞうりを買いに行って出くわしてな」

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「そんでよ、手傳てづでえつてゝも、はあ、日暮ひぐれつたら、あつかもつかして凝然ぢつとしちやらんねえんだ、そんで愚圖ぐづ/\つてんの面白おもしれえからいてたな、丁度ちやうどえゝ鹽梅あんべえおれ草履ざうりひにつてつかせてな」

「毎日日暮れじゃないかい、徳利を立ててるのは」

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毎日暮まいひぐれぢやねえけ徳利とつくりおつてゝんな」

「そうなんだ。近ごろくわを使って骨が折れるからと言って、仕事が終わっちゃ一合くらい引っかけてすぐ行っちまうんだと言ったっけが、それが今日は早くから来てたんだって言うのさ。店のおとっつあんに聞いたのさ、おれは」

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「さうなんだ、近頃ちかごろ唐鍬たうぐは使つけほねおれつからつて仕事しごとしまつちや一がふぐれえけてつちやあんだつちけが、それ今日けふはやくからてたんだつちきや、みせのおとつゝあにいたなら」

話し手は、自分がまず面白くなったようにまた言った。

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噺手はなして自分じぶんきようつたやうまたいつた。

「おれは今日、うまい所を聞いちまったな」

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今日けふうめえとこいつちやつたな」

「何て言ったっけ」

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なんだつてつけ」

「ひどいあまだ、夕飯も何も仕方がありゃしないなんてな、独りでぐずぐず言ってな。そんで与吉のことを何度も迎えにやってな。そうすると、あの与吉の野郎がまた、今すぐにうどんをごちそうしてよこすとう、なんてのたのた帰って来るんだ。そうすると、また、だめだお前は、もう一度行って来い、すぐ来いって言うんだぞ、なんて怒ったみたいになあ。おれはおかしくて仕方がなかったっけぞ」

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でえ阿魔あまだ、夕飯ゆふめしなにやうありやしねえなんてな、ひとりでぐうづ/″\つてな、そんで與吉よきちこと何遍なんべんむけえつてな、さうすつとあの與吉よきち野郎やらうまた、いますぐ饂飩うどんふるまつてよこすとう、なんてのたくり/\けえつてんだ、さうすつとまた駄目だめりやつてう、すぐうつてふんだぞなんておこつたてえになあ、可笑をかしくつて仕樣しやうかつたつけぞ」

話し手は左右を向きながら言った。

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噺手はなして左右さいうきつゝいつた。

みんなまた手をたたいてはやし立てた。

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みな拍子ひやうししてはやてた。

「そんじゃすぐよこしただろう」

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「そんぢやぐよこしたつぺ」

「うん、とちゅうで行き会ったんだろう。すぐ来たっけや」

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「うむ、途中とちう行逢いきやつたんだんべ、たつきや」

「あっちだって、それくらい知ってらあな」

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「あつちだつてくれえつてらな」

「おつぎは店へ寄ったっけか」

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「おつぎはみせへよつたつけか」

二人が一度に言った。

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二人ふたりが一にいつた。

「寄らないや。そうしたら、おつう、なんておとっつあんが呼んだんだ。たいした声してな。そんでもおつうは行っちまうのよ。そうしたらまた、おつう、なんてどなってな、勘定するのにも慌ててお金を落っことしたりして、後からかけて行ったんだ。五合も飲んだだろうって言ったっけな。こわい目つきをしちまってな。そんだが、おつぎは言うことを聞かないぞ、なかなか。つっつっと行っちまってな」

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んねえや、さうしたらおつう、なんておとつゝあばつたんだ、たいしたこゑしてな、そんでもおつうはつちまあのよ、さうしたらまた、おつうなんて呶鳴どなつてな、勘定かんぢやうすんのにもあわくつてぜにつことしたりなんかしてあとからけてつたんだ、五がふんだつぺつちけな、可怖おつかねつきしつちやつてな、そんだがおつぎはかねえぞなか/\、つツ/\とつちやつてな」

話し手はしばらく口を閉じた。

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噺手はなして暫時しばしくちとざした。

「今日は若い衆らが行くと思って、もう、夜まで置けないんだな」

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今日けふわけ衆等しらくとおもつてはあ、よるまでけねえんだな」

「決まってらあな」

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きまつてらあな」

「そんだって、ばかばかしい。若い衆らだって、そういうことばかりするもんじゃない。つまらない」

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「そんだつて箆棒べらぼうわけ衆等しらだつてさうだことばかりするものぢやねえ、つまんねえ」

憤慨してこう言う者も

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憤慨ふんがいしてかういふものも

「みっともないも何にも知らないんだな」

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外聞げえぶんわりいもなんにもんねえんだな」

あざけりの意味ではあるが、どことなくしずんで、またこう言う者もあった。

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嘲笑てうせう意味いみではあるが何處どことなくしづんでまたういふものつた。

「おつぎはそんだが、髪をてかてか光らせた所らはきれいになっちまったっけぞ」

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「おつぎはそんだが頭髮あたまてか/\ひからかせたとこつちやつたつけぞ」

急に思い出したように、さっきの話し手が言った。

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にはかおもしたやう先刻せんこく噺手はなしてがいつた。

「そんで、おとっつあんはよけいに仕方がなくなっちまったんだろう」

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「そんで、おとつゝあ餘計よけいやうくなつちやつたんだんべえ」

しりにくぎをさして台に乗っている手ランプのすすが、あっちへこっちへなびく光の下で、茶わんをはしでたたきながら、またわあっとさわぎ出した。

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しりくぎしてだいつてランプの油煙ゆえんがそつちへこつちへなびひかりもと茶碗ちやわんはしたゝきながらまたわあつとさわした。

勘次は今、開こんの仕事のおかげで、春までには主人の手から三、四十円のお金をもらえるようにまでなった。

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勘次かんじいま開墾かいこん仕事しごとためはるまでには主人しゆじんから三四十ゑんかねあたへられるやうにまでつた。

大部分は借金の古いあなをうめるのに消えても、彼はふところに苦しさを感じない程度にはなった。

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大部分だいぶぶん借財しやくざいふるあなめてもかれふところ窮屈きうくつかんじない程度ていどすゝんだ。

一円のお金がいつもさいふにあるなら、彼らは嘆くことはないのである。

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ゑんぜにえず財布さいふるならば彼等かれらなげところいのである。

彼はただ、主人をたよってさえいればいいと思っている。

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かれたゞ主人しゆじんつてさへすればいとおもつてる。

こういうえんりょのないかげ口をたたかれるまでには、苦しい三、四年を過ごして来たのである。

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ういふ遠慮ゑんりよのない蔭口かげぐちかれるまでにはくるしいあひだの三四ねんすごしてたのである。

彼の暮らしは、ほっかりと夜明けの光を見たのだった。

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かれ生活せいくわつはほつかりと夜明よあけひかりたのであつた。

おつぎはこのとき、二十の声を聞いていたのである。

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おつぎはこのとき廿はたちこゑいてたのである。

一三

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一三

初秋の風がつるしっぱなしのかやのすそをさらさらとふいて、とっくにとうもろこしがかまどの灰の中でぱりぱりと勢いよく燃える麦藁の火に焼かれて、そのからがあっちにもこっちにも捨てられる。

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初秋しよしうかぜ吊放つりはなしの蚊帳かやすそをさら/\といて、とうから玉蜀黍たうもろこしかまどはひなかでぱり/\と威勢ゐせいよくえる麥藁むぎわらかれて、からがそつちにもこつちにもてられる。

畑の仕事がしばらく片づいて、百姓の家にはお盆が来た。

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はたけ仕事しごと暫時ざんじきまりがついて百姓ひやくしやういへにはぼんた。

その日も昼過ぎまで仕事をしていた勘次は、それでもあわただしく庭にほうきを入れて、目立つ草はかまの刃先でかき切った。

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晝過迄ひるすぎまで仕事しごとをして勘次かんじはそれでもあわたゞしくにははうきれてくさかま刄先はさきつた。

戸もしょうじもないすすけきった仏だんは、おつぎを使って仏具やそのほかのそうじをして、さいの目に刻んだなすを盛ったいもの葉と、さびしいみそはぎの短い小さな花たばとを供えた。

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障子しやうじもないすゝつた佛壇ぶつだんはおつぎを使つかつて佛器ぶつきその掃除さうぢをして、さいきざんだ茄子なすつたいもと、さびしいみそはぎみじかちひさな花束はなたばとをそなへた。

みそはぎのそばには、茶わんにいっぱいの水がそなえられた。

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みそはぎそばには茶碗ちやわんへ一ぱいみづまれた。

夕方近くなってから、三人は雨戸を閉めて、火のついていないちょうちんを持って田んぼをこえて墓地へ行った。

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夕方ゆふがたちかつてから三にん雨戸あまどしめて、のない提灯ちやうちんつて田圃たんぼえて墓地ぼちつた。

お品の塔婆の前に、それからそこらじゅうの墓石の前に線香を少しずつ供えて、火をつけてほっかりと赤くなったちょうちんを提げてもどった。

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しな塔婆たふばまへにそれから其處そこら一ぱい卵塔らんたふまへ線香せんかうすこしづゝ手向たむけて、けてほつかりとあかつた提灯ちやうちんげてもどつた。

あの世から来たほとけさまがその火に宿ったしるしだといって、必ずちょうちんは墓地で火をつけるのである。

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冥途めいどからほとけ宿やどつたしるしだといつてかなら提灯ちやうちん墓地ぼちからけられるのである。

おつぎは勘次のふところがいくらか暖かくなったので、安物ではあるが、中形のゆかたも作ってもらった。

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おつぎは勘次かんじふところいくらかあたゝかにつたので、廉物やすものではあるが中形ちうがた浴衣地ゆかたぢこしらへてもらつた。

おつぎはもう十九の秋だった。

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おつぎはもう十九のあきであつた。

おつぎはそのゆかたを着て、お品の墓へ行ったのである。

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おつぎは浴衣地ゆかたぢておしなはかつたのである。

髪は昼のうちに、近所のむすめ同士が汗じみたじゅばん一つのすがたで、たがいに結い合ったのである。

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かみひるうち近所きんじよ娘同士むすめどうし汗染あせじみた襦袢じゆばんひとつの姿すがたたがひうたのである。

おつぎはゆかたに赤い帯をしめた。

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おつぎは浴衣地ゆかたぢあかおびめた。

勘次はこんのつつそでのひとえで、日に焼けた足が短いすそから出ていた。

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勘次かんじこん筒袖つゝそで單衣ひとへやけあしみじかすそからた。

おつぎの身なりはそばで見ればそまつでも、ところどころちらりちらりと白いほ先がのぞいて、たいていはまだ冴え冴えとした、ただ一まいの青いたたみをしいたような田んぼのあいだを、くっきりときわ立って目立つのだった。

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おつぎのよそほひはそばでは疎末そまつであつても、處々ところ/″\ちらり/\としろ穗先ほさきのぞいて大抵たいていはまだえ/″\としてたゞまい青疊あをだゝみいたやう田圃たんぼあひだをくつきりと際立きはだつてつのであつた。

三人が田んぼを行き来してからしばらくして、村の中からは、どの家からもちょうちんを持って、田んぼの道を老人と子どもがぞろぞろ通った。

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にん田甫たんぼ往復わうふくしてからしばらつて村落むらうちからは何處どこいへからも提灯ちやうちんもつ田甫たんぼみち老人としより子供こどもとがぞろ/″\とほつた。

勘次はちょうちんの火を、仏だんの灯明皿へうつした。

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勘次かんじ提灯ちやうちん佛壇ぶつだん燈明皿とうみやうざらうつした。

すすけきった仏だんの菜種油の明かりは、遠い国からでも光って来るように、ぽっちりとかすかに見えた。

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すゝつた佛壇ぶつだん菜種油なたねあぶらあかりはとほくにからでもひかつてるやうにぽつちりとかすかにえた。

お母さんのよりもまず、白木のままのお品の位はいに、心のこもった線香のけむりがなびいた。

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ふくろのよりも白木しらきまゝのおしな位牌ゐはいこゝろからの線香せんかうけぶりなびいた。

勘次もおつぎも、みそはぎの小さな花たばの先を茶わんの水にひたして、その水をはらりといもの葉に盛ったなすへふりかけた。

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勘次かんじもおつぎもみそはぎちひさな花束はなたばさき茶碗ちやわんみづひたしてみづをはらりといもつた茄子なすかけけた。

勘次は雨戸をいっぱいに開けた。

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勘次かんじ雨戸あまどを一ぱいけた。

おつぎはゆかたをぬいでじゅばん一つになって、ざるに水を切っておいたもち米をかまどで蒸しはじめた。

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おつぎは浴衣ゆかたをとつて襦袢じゆばんひとつにつて、ざるみづつていた糯米もちごめかまどはじめた。

勘次ははだかでうすときねを洗って、のき先に置いた。

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勘次かんじはだかうすきねあらうて檐端のきばゑた。

彼らはそういう仕事があるので、墓へ行くにも人より先に、とても急いだのだったが、それでも米が蒸せるまでには、家の中はうす暗くなっていた。

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彼等かれらはさういふ仕事しごとがあるのではかくにもひとよりも先立さきだつて非常ひじやういそいだのであつたが、それでもこめせるまでにはいへうち薄闇うすくらつてた。

日がまだ落ちないうちから庭をのぞいていた月が白く、やがてそれがやや黄色みをおびて来て、庭のしげったかきの木やくりの木にほっかりとかげを落とした。

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のまだちないうちからにはのぞいてつきしろく、やがてそれがやゝ黄色味きいろみびてにはしげつたかきくりにほつかりと陰翳かげげた。

おつぎがいそがしくどさりとうすへ落とした蒸し米から、ぼうっと白いゆげが立った。

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おつぎがいそがしくどさりとうすおとしたふかしからぼうつとしろ蒸氣ゆげつた。

そのゆげの中で、月が一瞬目をしかめて、すぐつやつやしたすがたになった。

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蒸氣ゆげなかつきが一瞬間しゆんかんしかめてすぐにつやゝかな姿すがたつた。

おつぎは熱い蒸し米をせいろうからしゃくしでうすへしごき落としながら、そばに立っている与吉に少しやった。

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おつぎはあつふかし蒸籠せいろうから杓子しやくしうすおとしながらそばつて與吉よきちすこつた。

ほどよく蒸したその蒸し米を、与吉はうまそうに食べた。

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ほどよくしたそのふかし與吉よきち甘相うまさうにたべた。

おつぎも指についたのを、前歯でかむようにして口へ入れた。

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おつぎもゆびいたのを前齒まへばむやうにしてくちれた。

ゆげの立つうすを、勘次はしばらくきねの先でこねた。

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蒸氣ゆげうす勘次かんじしばらきねさきねた。

きねの先がねばってはなれなくなる。

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きねさきねばつてはなれなくる。

おつぎは米とぎおけへ水をくんで、それにうかべたしゃくしできねの先をしごき落として、うすの中を丸い形に直す。

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おつぎは米研桶こめとぎをけみづんでそれへうかべた杓子しやくしきねさき扱落こきおとしてうすなかまるかたちなほす。

すると勘次は、力いっぱいうすの真ん中を打つ。

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さうすると勘次かんじちからきはめてうす中央ちうあうつ。

それが何度もくり返された。

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それが幾度いくど反覆はんぷくされた。

庭の木立のかげが濃くなって、月の光はきらきらとうすから反しゃした。

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には木立こだち陰翳かげつてつきひかりはきら/\とうすから反射はんしやした。

蒸し暑い中にも、すべてが水のような月の光をあびて、すずしい風が土にふれてわたった。

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蒸暑むしあつうちにもすべてがみづやうつきひかりびてすゞしい微風びふうつちれてわたつた。

おつぎはうすから餅をちぎって、みょうがの葉に乗せて一つ一つおぜんへならべた。

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おつぎはうすからもち拗切ねぢきつて茗荷めうがせてひとつ/\ぜんならべた。

少し丸みの欠けた十三日の月が、白くその一つ一つのみょうがの葉の上に光った。

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すこまるみをいた十三にちつきしろの一つ/\の茗荷めうがうへひかつた。

冷たい水を打ったようなかきの葉がゆらゆらと動いて、後ろの林の竹のえだもさらさらと鳴った。

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冷水れいすゐつたやうかきがゆら/\とうごいてうしろはやしたけこずゑもさら/\とつた。

それでもいそがしいおつぎは、汗を流しながら、まずみょうがの餅を仏だんに供えた。

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それでもいそがしいおつぎはあせながしながら茗荷めうがもち佛壇ぶつだんそなへた。

それから別にちぎった餅が、きな粉といっしょに手ランプの下に置かれた。

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それからべつ拗切ねぢきつたもち豆粉きなこともランプのもとかれた。

与吉はすぐに座敷にすわって待った。

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與吉よきちすぐ座敷ざしきすわつてつた。

晩ごはんが終わると、おどり子をさそう太鼓の音が、やっとしずまりかけた夜の空気をゆらして聞こえはじめた。

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晩餐ばんさんをはると踊子をどりこさそ太鼓たいこおとやうやしづけた夜氣やきさわがしてきこはじめた。

のきに立った蚊柱がくずれて、やがて座敷をおそった。

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のきつた蚊柱かばしらくづれてやが座敷ざしきおそうた。

勘次は麦藁をひとつかみのき先へ投げて、刈った青草をそれへかけて、マッチの火をつけて、そしておさえつけた。

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勘次かんじ麥藁むぎわら一捉ひとつか軒端のきばげて、つた青草あをぐさをそれへけて、燐寸マツチけてさうしておさへつけた。

ぷすぷすとくすぶるけむりが、蚊を遠くへ散らせる。

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ぷす/\といぶけぶりとほ散亂さんらんせしめる。

ぽっとほのおが立って燃え上がれば、水をかけた。

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ぽつとほのほつてえあがればみづつた。

彼らは目や鼻にしみる青いけむりの中で、はだかのままじっとしている。

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彼等かれら目鼻めはなにしみるあをけぶりなか裸體はだかまゝ凝然ぢつとしてる。

けむりがよそへそれれば、みであおいで家の中へ向かわせた。

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けぶり餘所よそれゝばあふつていへうちむかはせた。

おつぎは台所をかたづけて、それから井戸ばたで、だらだらとたれる汗を水でふいた。

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おつぎは勝手かつて始末しまつをしてそれから井戸端ゐどばたで、だら/\とれるあせみづぬぐつた。

手ぬぐいをひたすたびに、小さな手水だらいの水から月がまったくかげを失って、しばらくすると手水だらいのまわりから集まるように、だんだんと月の形がまとまって見えて来る。

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手拭てぬぐひひたたびちひさな手水盥てうずだらひみづつきまつたかげうしなつてしばらくすると手水盥てうずだらひ周圍しうゐからあつまやう段々だん/\つきかたちまとまつてえてる。

おどり子をさそう太鼓の音が、自分の村のはすぐかきねの外のように、遠い村のはしげった林の向こうに、空にひびいて聞こえる。

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踊子をどりこさそ太鼓たいこおと自分じぶん村落むらのはすぐ垣根かきねそとやうに、とほ村落むらのは繁茂はんもしてはやし彼方あなたそらひゞいてきこえる。

それが井戸ばたに立っているおつぎの心をさそった。

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それが井戸端ゐどばたつてるおつぎのこゝろ誘導そゝつた。

同い年の子はみなおどりに行くのである。

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同年輩どうねんぱいみなをどりくのである。

おつぎにはいくらかそれがうらやましく、ぼうっとして太鼓に聞きほれていた。

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おつぎには幾分いくぶんそれがうらやましくぼうつとして太鼓たいこれてた。

やわらかな月の光に、おつぎのはだは白く見えていた。

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やはらかなつきひかりにおつぎの肌膚はだしろえてた。

おつぎは耳にひびく太鼓の音を聞きながら、まだ乱れていない髪を、少し首をかたむけながら両方の親指のまたで代わる代わる、後ろの髪を軽くしごいた。

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おつぎはみゝひゞ太鼓たいこおときながら、まだほつれぬかみすこくびかたむけつゝ兩方りやうはう拇指おやゆびまたかはがはりにたぼかるうしろいた。

おつぎは汗をふいて、さっぱりとした体へまたゆかたを着た。

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おつぎはあせぬぐつてさつぱりとした身體からだ浴衣ゆかたた。

「おとっつあん、あの太鼓はどこだろう」

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「おとつゝあ、あの太鼓たいこ何處どこだんべ」

おつぎは帯のはしを気にして、後ろへ手を回しながら聞いた。

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おつぎはおびはしにしてうしろまはしながらいた。

「どれ、あの遠くのがか。分かるもんか、どこだか」

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「どれ、あのとほくのがゝ、わかるもんか何處どこだか」

勘次は、燃えた所だけがっくりへった蚊いぶしの青草に目を注ぎながら、気乗りしないように言った。

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勘次かんじえたところだけがつくりとつた蚊燻かいぶしの青草あをくさそゝぎながら氣乘きのりのしないやうにいつた。

「おれらのほうへはまだ、よその村から来るころじゃあるまいな」

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はうへはまあだ、他村ほかむらからころぢやあんめえな」

「おとっつあんに分かるもんかよ、そんなこと」

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「おとつゝあがにやわかるもんかよ、そんなこと」

「そんでも、よその村から来るんだって言ったっけぞ。したくして来るんだって、おれは今日、髪を結ってて聞いたんだぞ」

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「そんでも、他村ほかむらからんだつてつけぞ、支度したくしてんだつて今日けふ頭髮あたまつてゝいたんだぞ」

「そういう者はな、そういう者よ」

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「さうえな、さうえものよ」

「おれは行ってみよう。よきも行ってみろな、姉ちゃんといっしょに」

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つてんべ、よきもつてろなあ、ねえと一しよに」

おつぎは独り言を言った。

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おつぎは獨語ひとりごとした。

「お前らのことばかりやれるかい」

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ことばかしれつかえ」

勘次はとつぜんどなった。

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勘次かんじ突然とつぜん呶鳴どなつた。

「そんでも、南のおっかさんが、行きたけりゃ連れて行くって言ったんだぞ」

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「そんでも、みなみのおつかさんきたけりやれてくつちつたんだぞ」

「ばかを言え、そんなことされるかい。おどりなんざこの後何日だってあらあ。今夜あたりから行かなくたっていいから。他人に言われるともう、それに乗ってあおられあおられ出たがるんだから」

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箆棒べらぼう、そんなことされつかえ、をどりなんざああと幾日いくかだつてあらあ、今夜こんやらつからかねえつたつてえゝから、他人ひとはれつとはあ、れにつてあふり/\たがんだから」

勘次は頭ごなしにしかりつけた。

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勘次かんじは一がいしかりつけた。

おつぎはしめかけた帯を解いて、そばへ投げ捨てた。

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おつぎはけたおびいてそばてた。

次の日の晩ごはんには、いつもの年のようにうどんが打たれた。

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つぎ晩餐ばんさんには例年れいねんごと饂飩うどんたれた。

小麦粉を、少し塩を入れた水でこねて、それを玉にして、むしろのあいだへ入れて足でふんで、棒に巻いてはうすくのばして、さらに幾つかにたたんで、そくそくとほうちょうで切った。

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小麥粉こむぎこすこしほれたみづねて、それをたまにして、むしろあひだれてあしんで、ぼういてはうすばして、さらいくつかにたゝんでそく/\と庖丁はうちやうつた。

うどんの切れはしはみな、ちょっと一か所をつまんで三角形にして、おぜんにならべて仏だんへ供えた。

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饂飩うどんはしみな一寸ちよつと箇所かしよつまんで三角形かくけいこしらへてぜんならべて佛壇ぶつだんそなへた。

その切れはしは、その翌朝それぞれが自分の田畑をぐるりと回っては、豆や稲のほやそのほかの作物をほとけさまに供えるのだが、ほとけさまもその朝、野回りに出るのだというので、そのほとけさまのかさに供えるのだというのである。

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はし翌朝よくあさ各自かくじ自分じぶん田畑たはたをぐるりとまはつてはまめいね作物さくもつほとけそなへるのであるが、ほとけあさ野廻のまはりにるのだといふのでそのほとけかさそなへるのだといふのである。

おどり子をさそう太鼓の音は、夜を待ちかねて鳴り出した。

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踊子をどりこさそ太鼓たいこおとねてした。

勘次はその夜、蚊いぶしのしたくもしないで、こんのひとえへぐるぐると無ぞうさに三尺帯を巻いて、雨戸をがらがらと閉めはじめた。

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勘次かんじ蚊燻かいぶしの支度したくもしないでこん單衣ひとへへぐる/\と無造作むざうさに三尺帶じやくおびいて、雨戸あまどをがら/\とはじめた。

そして

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さうして

「おつう、したくしてみろ。おれが連れて行くから」

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「おつう支度したくしてろ、おれれてんから」

勘次はせっかちに、おつぎをせき立てた。

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勘次かんじ性急せいきふにおつぎをうながてた。

大戸のかぎを外からかけて三人が庭に立ったとき、月は雲のかげから遠ざかって、静かにかきの木の上にかかっていた。

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大戸おほどかぎそとからけて三にんにはつたときつき雲翳うんえいとほざかつてしづかにかきうへかゝつてた。

毎年決まったおどりの場所は、村の神社の大きなもみの木かげである。

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毎年まいねんきまつたをどり場所ばしよむらやしろおほきなもみ木陰こかげである。

勘次ら三人が行ったときには、おどり子はもうだいぶ集まっていた。

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勘次等かんじらにんつたとき踊子をどりこはもう大分だいぶあつまつてた。

一歩森に入れば、はげしくたたく太鼓の音が、その急いで遠くへひびき去るのをまわりからさえぎり止めようとして、入りまじってしげっているみきや小えだに打ち当たってもつれているように、森じゅうに鳴りひびいて、上へ上へとおそろしく人々の心をさそった。

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一足ひとあしもりはひればはげしくたゝ太鼓たいこおとが、そのいそいでとほくへひゞるのを周圍しうゐからさへぎめようとして錯雜さくざつしてしげつてみき小枝こえだ打當ぶツつかつて紛糾こぐらかつてるやうに、もり一杯いつぱいひゞいてうへへ/\とおそろしく人々ひと/″\こゝろ誘導そゝつた。

男女が入りまじって、太鼓を真ん中に輪をえがいている。

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男女なんによまじつて太鼓たいこ中央ちうあうゑがいてる。

それが決まった間かくを置いては、みんながふくろの口のひもを引いたように輪が縮まって、ぱらりぱらりと手びょうしを取って、また元のように広がる。

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それが一てい間隔かんかくいては一どうふくろくちひもいたやうしぼまつて、ぱらり/\と手拍子てびやうしをとつて、また以前いぜんのやうにひろがる。

そしては、そのおどりの手をくり返しながら、ゆっくりと太鼓のまわりを回る。

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さうしてはをどり反覆はんぷくしつゝおもむろに太鼓たいこ周圍しうゐめぐる。

女はそでを長く見せるために手ぬぐいを折って両方のたもとの先へぬいつけて、それからしごき帯をたすきにして結んだ長いはしを、後ろへだらりとたらしている。

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をんなそでながせるため手拭てぬぐひつて兩方りやうはうたもとさきぬひつけて、それから扱帶しごきたすきにしてむすんだながはしうしろへだらりとれてる。

しごき帯は、おどりの手をえがくたびに、たもとといっしょにゆらりゆらりとゆれる。

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扱帶しごきをどりゑがたびごとたもとともにゆらり/\とれる。

男は少しらんぼうに、女の体にこすりつきながらおどる。

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をとこすこ亂暴らんばうをんな身體からだにこすりつきながらをどる。

女はうるさいときには一度おどりの手を止めて相手をしかったりたたいたり、それでもそのつつましさを保ってひょうしを合わせながら、大ぜいのあいだにもまれながら、同じ形をくり返しながらおどる。

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をんな五月繩うるさときには一時ちよつとをどりめて對手あひてしかつたりたゝいたり、しかその特性とくせいのつゝましさをたもつて拍子ひやうしあはなが多勢おほぜいあひだまれつゝどうせん反覆はんぷくしつゝをどる。

次第に人数が増えて、大きな輪の内側にさらに小さな輪がえがかれた。

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漸次ぜんじ人勢にんずえておほきな内側うちがはさらちひさゑがかれた。

太鼓がなまければ

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太鼓たいこ倦怠だれれば

「太鼓がいいかげんじゃ、おどりもいいかげんだ」

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太鼓たいこおろかぢやをどりもおろかだ」

と口々にせき立てせき立て、代わる代わる歌の声を張り上げておどる。

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口々くち/″\うながうなが交互たがひうたこゑげてをどる。

太鼓の打ち手はつかれれば、さらに人が代わって、ばちも折れよと鳴らす。

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太鼓たいこつかれゝばさらひと交代かうたいしてばちれよとらす。

おどり子はみな、いっぱいにかざったかさをかぶっている。

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踊子をどりこみなぱい裝飾さうしよくしたかさいたゞいてる。

かざりといっても、夜目にあざやかなように、まんじゅうやそのほかの物を包む白いへぎ皮をたくさんくくりつけておくのである。

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裝飾さうしよくといつても夜目よめあざやかなやうに、饅頭まんぢうものつゝしろへぎかはおびたゞしくくゝけてくのである。

それがもみの木かげにとても目立って、体を動かすたびにいっせいにがさがさと鳴りながら、波のように動いて彼らのすがたを引き立てている。

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れが月光げつくわうさへぎつてもみ木陰こかげいちじるしくつて、うごかすたびに一せいにがさがさとりながらなみごとうごいて彼等かれら風姿ふうしへてる。

彼らが何晩もおどって要らなくなったときには、それが彼らの歩いた道のわきにほこりにまみれながら、いたる所に投げ捨てられて散らばっているのを見るのである。

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彼等かれら幾夜いくよをどつて不用ふようしたときには、それが彼等かれらあるいたみちはたほこりまみれながらいたところ抛棄はうきせられて散亂さんらんしてるのをるのである。

そのおどりのまわりには、やっと村の見物人が集まった。

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をどり周圍しうゐにはやうや村落むら見物けんぶつあつまつた。

こみ合った人々と少しはなれて、村のにわか商人がむしろをしいて、駄菓子やなしやまくわうりやすいかをならべている。

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混雜こんざつして群集ぐんしふすこはなれて村落むら俄商人にはかあきんどむしろいて駄菓子だぐわしなし甜瓜まくはうり西瓜すゐくわならべてる。

すすがぼうっと上がるカンテラの光が、そういうすべてをすずしく見せている。

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油煙ゆえんがぼうつとあがるカンテラのひかりがさういふすべてをすゞしくせてる。

ことに切ったすいかの赤い切れは、小さな店のいちばんのかざりである。

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ことつた西瓜すゐくわあかきれちひさなみせだい一のかざりである。

おどり子のかわいた喉には、自分たちが立てるほこりがかかるのもかまわず、ひたすらそれをうまく感じるのである。

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踊子をどりこかつしたのどには自分等じぶんらてるほこりかゝるのも頓着とんちやくなく只管ひたすらそれを佳味うまかんずるのである。

それが少女であれば、少なくとも三、四人がかたまって、かざられた花がさで顔が深くおおわれているのに、それでもなお知られるのをはずかしがって、やっと手のとどく程度にカンテラの光からはなれようとしながら、すいかを一切れずつ買う。

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それが少女せうぢよであればすくなくとも三四にんれてかざられた花笠はながさふかかほおほはれてるのにそれでも猶且やつぱりられることをはぢらうてやうやおよ程度ていどにカンテラのひかり範圍はんゐからとほざからうとしつゝ西瓜すゐくわの一きれづつをもとめる。

にわか商人は、カンテラの明かりと木かげのうすい暗やみとのあいだに立った、そのすがたがはっきり見分けられないので、しきりに目をしかめながら、言われるままにむしろのはしに立ってすいかを出してやる。

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俄商人にはかあきんどはカンテラの光明くわうみやう木陰こかげうすやみとのあひだつた姿すがた明瞭はつきり見極みきはがたいので、しきりにしかめつゝもとめられるまゝむしろはしつて西瓜すゐくわしてる。

おどり子はそれを手にして、あわただしく木かげにかくれる。

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踊子をどりこれをにしてあわたゞしく木陰こかげかくれる。

そこには必ず、めいめいの口から出る笑い声が聞かれるのである。

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其處そこにはかならおの/\くちからはつする笑聲わらひごゑかれるのである。

カンテラの光のためにかえって見えにくくなった商人は、木かげの暗やみから見ればこっけいなほど、絶えず目をしかめながら、外の暗やみをすかしてさわがしい人々を見ている。

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カンテラのひかりためかへつ眼界がんかいせばめられた商人あきんど木陰こかげやみかられば滑稽こつけいほどえずしかめつゝそとやみすかしてさわがしい群集ぐんしふる。

勘次は与吉がほしがるままにすいかを一切れ買ってやって、自分は商人のせまいむしろのはしに腰を下ろした。

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勘次かんじ與吉よきちもとめるまゝ西瓜すゐくわの一きれあたへて自分じぶん商人あきんどせまむしろはしこしおろした。

おつぎはしばらく店のそばに立っていたが、明るい光をきらって、やがてもみの木の下に与吉といっしょに身をよせた。

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おつぎはしばらみせそばつてたが、あかるいひかりいとうてやがもみした與吉よきちともけた。

勘次は急に目をこらすようにして、木かげの暗やみを見た。

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勘次かんじにはかそびやかすやうにして木陰こかげやみた。

彼はそこにおつぎのゆかたすがたがじっとしているのを見て、むしろからはなれなかった。

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かれ其處そこにおつぎの浴衣姿ゆかたすがた凝然じつとしてるのをむしろからはなれることはなかつた。

「おつぎさん、よく来たっけな」

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「おつぎさんたつけな」

列をはなれたおどり子が、汗の胸を少し開いて、たもとでしきりにあおぎながら、もみの木のそばに立って言いかけた。

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れつはなれた踊子をどりこあせむねすこひらいて、たもとしきりにあふぎながらもみそばつていひけた。

「ああ暑いやまあ、むせ返るようだ」

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「おゝあついやまあ、むせけえやうだ」

と、たもとのはしで汗をふきながら

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と、たもとはしあせきながら

「おつぎさん、おどらないか」

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「おつぎさん、をどんねえか」

と、ほかの一人が言った。

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ほか一人ひとりがいつた。

「おれはいやだよ、おとっつあんがいるから」

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だよ、おとつゝあつから」

おつぎは小声で言った。

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おつぎは小聲こごゑでいつた。

さそったおどり子は、目をしかめている勘次のようすを見て、自分がにらまれているように感じたので、ほかへこそこそと身をよけた。

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さそうた踊子をどりこしかめて勘次かんじ容子ようす自分じぶんにらみつけられてやうかんじたので、孤鼠々々こそ/\けた。

女同士の目には、すがたを変えたおどり子がみな一目で分かるのだった。

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女同士をんなどうしには姿すがたへんじた踊子をどりこみなけんして了解れうかいされるのであつた。

おどりを見ながら輪のまわりに立っている村の女たちは、手と手をつつき合って勘次のようすを見ては、くすくすとこっそり冷たく笑うのだった。

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をどりながら周圍しうゐつて村落むら女等をんならつゝうて勘次かんじ容子ようすてはくすくすとひそか冷笑れいせうあびけるのであつた。

カンテラの光は、もみの木かげのどこからでもはっきりと勘次のようすを目立たせるように、ぼうぼうとすすを立てながら、まわりの目とうなずき合って、赤い舌をべろべろと出しながらゆらめいた。

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カンテラのひかりもみ木陰こかげ何處いづこからでも明瞭はつきり勘次かんじ容子ようすたせるやうにぼう/\と油煙ゆえんてながら、周圍しうゐまなこ首肯うなづうてあかしたをべろべろときつゝゆらめいた

おつぎのすがたが五、六人立った中に見えなくなったとき、勘次は商人のむしろを立って、すっともみの木のそばへ行った。

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おつぎの姿すがたが五六にんつたなかえなくつたとき勘次かんじ商人あきんどむしろつてすつともみそばつた。

おつぎは一、二歩場所を変えただけだったので、彼はすぐにおつぎの白いすがたと並んで立った。

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おつぎは一二位置ゐちへただけであつたので、かれすぐにおつぎのしろ姿すがたあひせつしてつた。

女同士は勘次のすがたを見て、少し身をよけた。

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女同士をんなどうし勘次かんじ姿すがたすこけた。

五、六本そびえ立ったもみの木は、引きしごいたようなえだが寄り合って、さっきから明るい光をきらうおどり子をおおっていっぱいにかげを落としていたのだが、じっとしていた静かな月がいくらか首をかたむけたと思ったら、もみのえだのあいだから少しのぞいて、おどり子が作っている輪のはしをかっと明るくした。

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五六ぽん屹立きつりつしたもみいたやうこずゑあひつて、先刻さつきからかるいひかりいと踊子をどりこおほうて一ぱい陰翳かげげてたのであるが、凝然ぢつとしたしづかなつきいくらかくびかたむけたとおもつたらもみこずゑあひだからすこのぞいて、踊子をどりこかたちづくつての一たんをかつとかるくした。

彼らのかぶっているかざりがその光にふれれば、みな目をさすようにはっきりと白く見え出した。

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彼等かれらいたゞいて裝飾さうしよくそのひかりれゝばことごとるやうにはつきりとしろした。

ほとんどつかれというものを感じないのだろうかとふしぎに思われる彼らは、ますます調子に乗って、少し乱ぼうになりかけた。

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ほとんど疲勞ひらうといふことをかんじないであらうかとあやしまれる彼等かれら益々ます/\きようじようじてすこ亂雜らんざつけた。

白いシャツの上にゆかたを肩までまくって、しりをからげてわらじをはいた何人かが列をはなれたと思ったら、そこらに立って見物している女たちに向かって、津波のようにおそいかかった。

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しろいシヤツのうへ浴衣ゆかたかたまでくつて、しりからげて草鞋わらぢ穿はい幾人いくにんれつからはなれたとおもつたら、其處そこらにつて見物けんぶつして女等をんならむかつて海嘯つなみごとおそうた。

女同士はわあとただ笑い声を上げて、めいめい相手を突いたりたたいたりして、乱れながらさわいだ。

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女同士をんなどうしはわあとたゞわらごゑはつして各自てんで對手あひていたりたゝいたりしてみだれつゝさわいだ。

とつぜん一人が、おつぎの髪へひょいと手をかけた。

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突然とつぜん一人ひとりがおつぎのかみへひよつとけた。

「これはまあ、どうしたもんだ」

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らまあ、どうしたもんだ」

おつぎがおどろいて叫んだとき、相手はおつぎのくしをうばって、こみ合った人々の中へ身をしずめた。

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おつぎがおどろいてさけんだとき對手あひてはおつぎのくしうばつて混雜こんざつした群集ぐんしふなかぼつした。

おつぎは髪をいたずらされたのをいやがって、思わず手を当ててみて、くしがなくなったのを知った。

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おつぎはかみ惡戯いたづらされたことをきらつておもはずあてくしくなつたのをつた。

「他人のくしをまあ」

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他人ひとくしまあ」

おつぎはそれを追おうとして、思わず足をふみ出すと、一歩進んだ勘次の手が、むずとおつぎの首すじをつかまえた。

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おつぎはれをはうとしておぼえずあしすと、一はこんだ勘次かんじがむづとおつぎの首筋くびすぢとらへた。

彼は同時に、おつぎの横顔をたたいた。

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かれ同時どうじにおつぎの小鬢こびんよこつた。

おつぎが慌てて後ろを向こうとするとき、ふたたびはげしくたたいた手がおつぎの鼻に当たった。

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おつぎがあわてゝうしろかうとするときふたゝはげしくつたがおつぎのはなあたつた。

おつぎは両手で鼻をおさえて縮こまった。

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おつぎは兩手りやうてはなおさへてちゞまつた。

女同士はもみの木かげに身をすくめて、手の出しようもなかった。

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女同士をんなどうしもみ木陰こかげそばめてやうもなかつた。

一つには、ふだんからおつぎに対する勘次の態度を知っていて、そこに一種のおそれを感じていたからでもあった。

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ひとつには平生ふだんからおつぎにたいする勘次かんじ態度たいどつて其處そこに一しゆ恐怖きようふかんじてたからでもあつた。

「どうしてお前は、くしなんぞ取られたんだ」

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「どうしてりや、くしなんぞらつたんだ」

勘次はかわいた喉からしぼり出すような声で問いつめた。

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勘次かんじはからびたのどからしぼやうこゑ詰問きつもんした。

「こら、こいつ、しらばくれやがって、どうしたんだよ」

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「こうれ、この阿魔奴あまめ、しらばくれやがつて、どうしたんだよ」

勘次はかがんだままのおつぎをぐいと突いた。

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勘次かんじかゞんだまゝのおつぎをぐいといた。

おつぎはころがりそうになって、やっと土に手をついた。

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おつぎはころがりさうにしてやうやつちいた。

「何するんだな、おとっつあん」

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なにんだな、おとつゝあ」

おつぎは慌てて顔をねじ向けて、少し泣き声で、むしろするどく言った。

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おつぎはあわてゝかほけてすこごゑむしするどくいつた。

「何するんだとう。ずうずうしいやつだ。くしをどうして取られたんだか言ってみろというんだ。これでも分からないのか。言ってみろよ」

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なにんだとう、づう/\しい阿魔あまだ、くし何故どうしてらつたんだかつてろつちんだ、んでもわかんねえのか、つてろよ」

勘次はしばらく間を置いて、またかっといまいましくなったように

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勘次かんじしばらあひだいて、またかつと忌々敷いま/\しくなつたやうに

「言ってみろというのに、言ってみろよ」

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つてろつちのに、つてろよ」

とくり返して、おつぎをせめた。

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反覆くりかへしておつぎをめた。

「どうしてと言ったって、おれには分からないよ」

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「どうしてつちつたつて、らがにやわかんねえよ」

おつぎはうらめしそうに、しかしまわりを気にするように小声で言った。

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おつぎはうらめしさうしかしながら周圍しうゐはゞかやうにして小聲こごゑでいつた。

たもとは顔をおおったままである。

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たもとかほおほうたまゝである。

「分からないとう。何にも知らない者が他人のくしなんぞ取るか」

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わかんねえとう、なんにもらねえもの他人ひとくしなんぞつか」

勘次は苦しい息をはくようにして

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勘次かんじくるしいいきくやうにして

「そんならお前は」

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「そんだらりや」

と、歯でぎっとかみ殺したような声で言った。

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でぎつところしたやうこゑでいつた。

しばらくじっと見ていた彼は、おつぎをけった。

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暫時しばらく凝然ぢつかれはおつぎをつた。

おつぎは前へのめった。

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おつぎはまへへのめつた。

しかし、おつぎは泣かなかった。

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しかしおつぎはかなかつた。

「ああ痛いまあ」

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「おゝてえまあ」

人々の中から作り声で言った。

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群集ぐんしふなかから假聲こわいろでいつた。

おどりの列はさっきからくずれて、かきねのように勘次とおつぎのまわりに集まったのである。

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をどりれつ先刻さつきからくづれてごと勘次かんじとおつぎの周圍まはりあつまつたのである。

おつぎはこの声を聞くとともに、乱れかけた着物の合わせ目を直した。

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おつぎはこのこゑくとともみだけた衣物きものあはつくろうた。

「くしを取ったのはここにいたよう」

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くしとつたな此處ここたよう」

と、これも喉の底からかすれて出るような声が、人々の中から出た。

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れものどそこからかすれてるやうなこゑ群集ぐんしふなかからはつせられた。

「持ってたら、やっちまえ」

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つてたら、やつちめえ」

「いやだよう、おとっつあんにぶんなぐられるから。おとっつあん、かんべんしてくれよう」

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だよう、おとつゝあになぐられつから、おとつゝあ勘辨かんべんしてくろよう」

と、すすり泣くような作り声がさらに聞こえた。

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歔欷すゝりなくやうな假聲こわいろさらきこえた。

あっけに取られて見ていたみんながどよめいた。

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惘然ばうぜんとしてすべてがどよめいた。

「おとっつあん、明かりをつけようかあ」

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「おとつゝああかけべえかあ」

と、人々の後ろからどなるとともに、みんながまたどっと笑った。

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群集ぐんしふあとから呶鳴どなるとともすべてがたどつとわらつた。

おつぎはむっくり起きて、さっさと歩き出した。

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おつぎはむつくりきてさつさとけた。

「お前、どこへ行くんだ。こら」

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われ何處どこくんだ。こうれ」

勘次はつかまえようとしたが、おつぎは身をよじってさっさと行く。

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勘次かんじつかまうとしたがおつぎはねぢつてさつさとく。

勘次は慌ててぞうりのつま先をつまずかせながら、おつぎの後についた。

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勘次かんじあわてゝ草履ざうり爪先つまさきつまづきつゝおつぎのあといた。

「おつう」

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「おつう」

彼は心細そうに呼んだ。

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かれこゝろもとなげにんだ。

与吉はどうしたわけとも分からないので、さっきからただ泣いていた。

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與吉よきちはどうした理由わけともわからないので先刻さつきからたゞいてた。

太鼓が止んで、おどりはまったく乱れてしまった。

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太鼓たいこんでをどりまつたみだれてしまつた。

そうでなくても彼らは、ひとしきりおどれば田んぼをこえて三々五々と、男は女を連れて、畑の細い道から林を過ぎて、村から村へと太鼓の音をたずねて行くのである。

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それでなくても彼等かれらは一しきりをどれば田圃たんぼえて三々五々さんさんごゝをとこをんなともなうて、はた小徑こみちからはやしぎて村落むらから村落むらへと太鼓たいこおとたづねてくのである。

勘次の後から、彼らはぞろぞろとついて行った。

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勘次かんじうしろから彼等かれらはぞろ/\といてつた。

ある者は足早に追いこしては

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あるもの足速あしばやけては

「やきもち焼くとて手を焼いて、その手でお釈迦のだんごをこねた」

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燒餅やきもちくとていてえ、でお釋迦しやか團子だんごねたあ」

と当てつけに歌って、ずんずん行ってしまう。

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てつけにうたうてずん/\つてしまふ。

後ろの人々はそれに合わせて、指をくわえてぴゅうぴゅうと鳴らしながら、勘次の心をいらだたせた。

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うしろ群集ぐんしふはそれにおうじてゆびくはへてぴう/\とらしながら勘次かんじこゝろ苛立いらだたせた。

勘次はどれほどそれが怒った心にいまいましくても、それをたしなめてしかってやる手がかりを何も持っていない。

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勘次かんじほどそれがげきしたこゝろ忌々敷いま/\しくくてもれをたしなめてしかつてなんがかりもつてらぬ。

三人はただ黙って歩いた。

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にんたゞだまつてあるいた。

神社の森の外は、白い月夜である。

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やしろもりそとしろ月夜つきよである。

勘次が村はずれの家に帰ったときには、おどり子はみな自分の行く所へ向かって、三人だけが静かにふけて行く庭にぽつんと立ったのだった。

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勘次かんじ村落外むらはづれのいへかへつたとき踊子をどりこみな自分じぶんむかところおもむいて三にんのみがしづかにはにぽつさりとつたのであつた。

あちこちの太鼓の音が、面白いのはかえってこれからだというように、しずんだ夜をとおして一直線にひびいて来る。

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各所かくしよ太鼓たいこおと興味きようみかへつれからだといふやうしづんだとほして一直線ちよくせんひゞいてる。

歌の声は遠く近く聞こえる。

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うたこゑとほちかきこえる。

夜はすっかり、おどる者のものになった。

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よるまつたをどるものゝ領域りやうゐきした。

彼らは、とうもろこしの葉がざわざわと妙に心をさわがせて、花粉のにおいがさらに心の何かをつき動かす畑のあいだを行くとき、おどって歌ってかわいた喉に、そこにうりが作ってあると知れば、こっそりうりやすいかをぬすんで、道ばたの草の中に割った皮を投げ捨てて行くのである。

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彼等かれら玉蜀黍たうもろこしがざわ/\とめうこゝろさわがせて、花粉くわふんにほひがさらこゝろあるもの衝動そゝはたけあひだくとては、をどつてうたうてかつしたのど其處そこうりつくつてあるのをればひそかうり西瓜すゐくわぬすんで路傍みちばたくさなかつたかはてゝくのである。

彼らのうちのいたずら好きな五、六人が、夜がふけてからそっと勘次の庭に立ってみた。

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彼等かれらあひだ惡戯いたづらきな五六にんけてからそつと勘次かんじにはつてた。

そのときはただ自分たちのかげがやや長く庭の土にうつって、月はすきまだらけの古ぼけた雨戸を、ほのかに白く見せていた。

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ときたゞ自分等じぶんら陰翳かげやゝながにはつちえいじて、つき隙間すきまだらけのふるぼけた雨戸あまどをほのかにしろせてた。

まわりは泣き止んだ後のように、あまりにさびしかった。

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周圍しうゐんだあとのやうにあまりにさびしかつた。

五、六人はただぽつんと帰ってしまった。

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五六にんたゞぽつさりとかへつてしまつた。

おつぎは次の朝、くしをさがしに出た。

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おつぎはつきあさくしさがしにた。

同じ年ごろの者のあいだでは、だれのいたずらかがその場でみんなに知れわたっていた。

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おな年輩ねんぱいあひだにはたれ惡戯いたづらであるかがすべてのみゝわたつてた。

「くしなんざ持っていないぞ、もう。それよりは、帰ってかきの木のふたまたでも見たほうがいいと」

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くしなんざつてゐねえぞはあ、それよりやあ、けえつてかきのざくまたでもはうがえゝと」

仲間の一人がおつぎに言った。

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朋輩ほうばい一人ひとりがおつぎへいつた。

おつぎは、自分の庭のかきの木のみきがふたまたになった所に、くしがそっと乗せてあるのを見つけた。

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おつぎは自分じぶんには柹木かきのきみきが二またつたところくしがそつとせてあるのを發見はつけんした。

くしはべっこうに似せたゴムのくしだった。

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くし鼈甲模擬べつかふまがひのゴムのくしであつた。

歯が二本ばかり欠けていた。

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が二まいばかりけてた。

おつぎはいたんだ所をじっと見て、すぐに髪へさした。

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おつぎは損所そんしよ凝然ぢつすぐかみした。

くしのできごとはそれっきりで終わった。

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くし事件じけんれつきりをはつた。

勘次は何かにつけては、おつう、おつうとなつかしげに呼んで、一家は人の目に立つほどとても仲がよかった。

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勘次かんじなにかにつけてはおつう/\となつかしげにんで一ひとほどきはめてむつましかつた。

しかし、こういうできごとは村じゅうの口を長くふさぐことはできなかった。

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しかしかういふ事件じけん村落むらすべてのくちひさしくふせぐことは出來できなかつた。

ことに女の人たちのあいだでは

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こと女房等にようばうらあひだには

「勘次さんもどうしたっていうんだろう。おれはこわいようだったぞ」

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勘次かんじさんもどうしたつちんだんべ、可怖おつかねえやうだつけぞ」

「本当によ、まるで気がふれたようだものなあ」

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本當ほんたうによ、まるつきり狂氣きちげえのやうだものなあ」

というおどろきの声が、いたる所でくり返された。

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といふ驚異きやういこゑいたところ反覆はんぷくされた。

「ただごととは思えないよ。勘次さんも、ああいうふうにしなくてもよかろうと思うのになあ」

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たゞたあおもへねえよ、勘次かんじさんもあゝいにねえでもよかんべとおもふのになあ」

なげきの声を上げては、めいめいの心にひそんでいる何かを、口にははっきり言うのをはばかるように、目と目を見合わせてたがいに笑っては、わずかに

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嘆聲たんせいはつしては各自かくじこゝろ伏在ふくざいしてあるものくちには明白地あからさまふことをはゞかやう見合みあはせてたがひわらうてはわづか

「いやだいやだ」

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だ/\」

という、底に一種の意味をふくんだ一言を投げ捨てて別れるのである。

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といふそこに一しゆ意味いみふくんだ一てゝわかれるのである。

ことに村の若者たちには、少しもえんりょのない想像まじりのかげ口をたくましくさせる、かっこうの材料をあたえたのだった。

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ことには村落むら若者わかものあひだへは寸毫すんがう遠慮ゑんりよ想像さうざうともな陰口かげぐちたくましくせしめる好箇かうこ材料ざいれう提供ていきようしたのであつた。

一四

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一四

夏がめぐって来た。

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なつ循環じゆんくわんした。

暑い日ざしのしげきが、おどろくほどの活動力を百姓の手足に与える。

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あつ刺戟しげきおどろくべき活動力くわつどうりよく百姓ひやくしやう手足てあしあたへる。

百姓は馬や荷車を使って、刈りたおした麦をせっせと運ぶ。

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百姓ひやくしやううま荷車にぐるまつてたふしたむきをせつせとはこぶ。

長い日はわずかな日数のうちに、目に果てしない畑をからりとさせて、しばらくすると天気は限りない変化の手をいっぱいに広げて、黄色に熟するうめの小えだを苦しめているあぶらむしもほろびてしまうほどの長雨が、あきれるほど降りつづく。

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ながわづか日數ひかずうち渺々べうべうたるはたけをからりとさせて、しばらくすると天候てんこうきはまりない變化へんくわを一ぱいひろげて、黄色きいろじゆくするうめ小枝こえだくるしめて蚜蟲あぶらむし滅亡めつばうしてしまほど霖雨りんうあきれもしないでつゞく。

すると、麦を刈った跡の豆や陸稲が、かわいた口に冷たい水をもらったように元気づいて、四、五日のうちに青い葉で畑の土がすきまなくおおわれる。

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さうするとむきつたあとまめ陸穗をかぼかつしたくちつめたいみづやういきほひづいて、四五にちうちあをもつはたけつち寸隙すんげきもなくおほはれる。

雨は、ふみ固めてある百姓の庭の土にも、たねつけばなやきつねのぼたんの黄色い小さな花をつけさせて、屋根のむねにさえ長い短い草を生えさせる。

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あめかためてある百姓ひやくしやうにはつちにも蔊菜いぬがしら石龍芮たがらし黄色きいろ小粒こつぶはなたせて、やのむねにさへながみじかくさしやうぜしめる。

自然の思いは、ひたすら地上のいたる所をやわらかな青い葉でおおいかくそうとばかり力を注いでいるのである。

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自然しぜん意志いし只管ひたすら地上ちじやういたところやはらかなあをもつおほかくさうとのみちからそゝいでるのである。

その思いにさからってためらっているのは、百姓の手でていねいにこねられた水田だけである。

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意志いしさからうて猶豫たゆたうてるのは百姓ひやくしやう丁寧ていねいねられた水田すゐでんのみである。

夏がようやくふけると、自然はその心をあせらせて、長雨で低い田に水を満たさせて、ほりにもしげった草をしずめて岸をこえさせる。

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なつやうやけると自然しぜんこゝろ焦燥あせらせて、霖雨りんうひくみづ滿たしめて、ほりにもしげつたくさぼつしてきしえしめる。

稲で田の空きをうめることが一日でも早ければ、その分だけよけいなむくいをおそい秋の収穫で与えるからと教えて、自然は百姓を体力のかぎり働かせる。

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稻草いなぐさもつ空地くうちうづめることが一にちでもすみやかなればそれだけ餘計よけい報酬はうしう晩秋ばんしう收穫しうくわくおいあたへるからとをしへて自然しぜん百姓ひやくしやう體力たいりよくおよかき活動くわつどうせしめる。

すると百姓は、田のようにどろどろと道の土もこねて、馬とともにどろにまみれながら、田植えにばかりかかりきる。

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さうすると百姓ひやくしやうのやうにどろ/\と往來わうらいつちをもねてうまともどろまみれながら田植たうゑにのみ屈託くつたくする。

彼らは雨を藁のみのでよけて、左手に持った苗を少しずつ取っては、後ろへ下がりながら深いどろから股引の足を引きぬき引きぬき、植えて下がる。

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彼等かれらあめわらみのけて左手ひだりてつたなへすこしづつつて後退あとずさりにふかどろから股引もゝひきあし退く。

こうして広々とした水田は、一日どろにつかったままでも楽しそうに歌う声があっちからもこっちからもひびくとともに、だんだんとうすい緑がおおって、いそがしく、そして元気な夏の自然は、先に植えられた田から次第に深い緑を染めて行く。

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うして宏濶くわうくわつ水田すゐでんは、一にちどろひたつたまゝでも愉快相ゆくわいさううたこゑがそつちからもこつちからもひゞくとともに、段々だん/\あさみどりおほうて、多忙たばうかつ活溌くわつぱつなつ自然しぜんさきゑられたから漸次ぜんじふかみどりめてく。

田がすべて植え終わったときには、あぜにも短い草が生えていて、土の黒い部分がどこにも見えなくなる。

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すべをはつたときには畦畔くろにもみじかくさえてつちくろ部分ぶぶん何處どこにもえなくる。

自然は初めて自分の満足を得たように、からりと気持ちよく空をふいて、暑い日の光を投げかける。

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自然しぜんはじめて自己じこ滿足まんぞくやうにからりとこゝろよいそらぬぐうてあつひかりける。

青田のあぜにはところどころにかんぞうが開いて、田の草を取るといって、村の少女が赤い帯を暑い日に燃やさない日でも、しぼんでは開いて、朱色の杯のように点々と田畑をいろどるのである。

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青田あをた畦畔くろには處々しよ/\萱草くわんさうひらいて、くさくとては村落むら少女むすめあかおびあつやさないでも、しぼんではひらいて朱杯しゆはいごと點々てん/\耕地かうちいろどるのである。

百姓はいそがしい田植えが終われば、どの家でも秋の収穫を待つ用意がすっかりできたので、めいめいの働きをねぎらうために、それなりのもてなしが行われるのである。

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百姓ひやくしやういそがしい田植たうゑをはれば何處どこいへでもあき收穫しうくわく準備じゆんびまつたほどこされたので、各自かくじらうねぎらため相當さうたう饗應もてなしおこなはれるのである。

それが早苗饗である。

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それ早苗振さなぶりである。

勘次とおつぎは、南の家の早苗饗の日にやとわれて行っていた。

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勘次かんじとおつぎはみなみ早苗振さなぶりやとはれてつてた。

勘次の家から南へ行く細い道をはさんだ桑畑は、刈り取ってから草が生えたくらいにえだが立ちはじめていた。

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勘次かんじいへからみなみ小徑こみちはさんだ桑畑くはばたけ刈取かりとつてからくさえたくらゐえだはじめてた。

桑のあいだにはじゃがいもがしげって、花をつけていた。

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くはあひだには馬鈴薯じやがいもしげつてはなつてた。

南の家では少しばかり養蚕をしたので、百姓の仕事がすべておくれてしまったのだった。

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みなみいへではすこしばかり養蠶やうさんをしたので百姓ひやくしやう仕事しごとすべ手後ておくれにつたのであつた。

村のたいていが田植えを終えかけたので、慌てて大ぜいの手をやとった。

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村落むら大抵たいてい田植たうゑをはけたのであわてゝ大勢おほぜいやとうた。

その日は晴れて気持ちがよかったのと、みんながとてもがんばったのとで、仕事は日の高いうちに済んだ。

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れて心持こゝろもちがよかつたのと、一どう非常ひじやう奮發ふんぱつをしたのとで仕事しごとたかうちんだ。

南の家の女房は仕事のめどがついたので、おつぎを連れて、その晩のおかずの用意をするために、一足先に田から帰った。

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みなみ女房にようばう仕事しごと見極みきはめがついたのでおつぎをれて、そのばん惣菜そうざい用意よういをするために一あしさきからかへつた。

女房はいそがしい思いをしながら、麦をいって香煎もふるっておいた。

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女房にようばういそがしいおもひをしながらむぎつて香煎かうせんふるつていた。

田植えのみんなは、股引をはいたままどろの足をずっとほりの水に立てて、股引の紺色がはっきりするまで、両手でごしごしとしごいた。

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田植たうゑ同勢どうぜい股引もゝひき穿いたまゝどろあしをずつとほりみづてゝ、股引もゝひき紺地こんぢがはつきりとるまで兩手りやうてでごし/\としごいた。

とけたどろがけむりのように水をにごらせて、ずんずんと流される。

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けたどろけぶりごとみづにごらしてずん/\とながされる。

そしてから、その股引をぬいでざぶざぶと洗う者もあった。

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さうしてから股引もゝひきいでざぶ/\とあらものつた。

彼らが帰って、家の中は急にがやがやとにぎやかになった。

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彼等かれらかへつていへうちきふにがや/\とにぎやかにつた。

裏の戸口のかきの木の下に置かれたおふろには、牛が舌を出して鼻をなめているようなほのおが、けむりとともにべろべろと立って、くすぶりながら燃えている。

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裏戸口うらとぐちかきしたゑられた風呂ふろにはうししたしてはなめづつてやうほのほけぶりともにべろ/\とつていぶりつゝえてる。

やとわれて来た女の人の一人がふたを取ってがらがらとかき回して、それからまた火ふき竹でふうふうとふいた。

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やとはれて女房等にようばうら一人ひとりふたをとつてがら/\とまはして、それから火吹竹ひふきだけでふう/\といた。

ほのおの赤い舌がべろべろと長く立った。

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ほのほあかしたがべろ/\とながつた。

ふたたびふたを取ったときには、そうじの足りないふろおけの中には、前の晩のあかがいっぱいにうかんでいた。

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ふたゝふたをとつたときには掃除さうぢらぬ風呂桶ふろをけのなかには前夜ぜんやあかが一ぱいいてた。

そんなことにはかまわずに、田植えのみんなはずんずんと入った。

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其麽そんなことにはかまはずに田植たうゑ同勢どうぜいはずん/\と這入はひつた。

彼らはほとんど、ただ手ぬぐいでぼちゃぼちゃと体をこすって出た。

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彼等かれらほとんどたゞ手拭てぬぐひでぼちや/\と身體からだをこすつてた。

足のつま先につまったどろを落とすことさえしなかった。

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あし爪先つまさきまつたどろおとすことさへなかつた。

「くすぶってるのをそっちへ押し出さなくちゃ仕方がないや」

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けぶつてえのそつちへおんさなくつちややうねえや」

おふろから出たままふきもしない足に下駄をはいて、はだかのしりを他人に向けて立った一人が、後ろをふり返って言った。

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風呂ふろからまゝぬぐひもせぬあし下駄げた穿いてはだかしり他人たにんけてつた一にんうしろかへりみていつた。

「なあにかまわない」

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「なあにかまあねえ」

後から目をしかめながら、一人が首すじまでしずんだ。

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あとからしかめながら一人ひとり首筋くびすぢまでしづんだ。

それからふろおけに腰をかけて、ごしごしと洗いながら

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それから風呂桶ふろをけこしけてごし/\とあらひながら

「こりゃくすぶってる」

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りやけぶつてえ」

と、またしずんだままごしごしとあかを落としていたが

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またしづんだまゝごし/\とあかおとしてたが

「ああいい所だ。よう、おつぎ、ちょっとここまで来てくれないか」

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「あゝとこだ、よう、おつぎ、ちつ此處ここまでてくんねえか」

と言った。

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といつた。

彼は百姓のあいだで、馬を引いて売り歩く村の博労だった。

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かれ百姓ひやくしやうあひだにはうまいてある村落むら博勞ばくらうであつた。

「どうしたもんだろう。兼さんら自分で入るのに、くすぶってるなら押し出してから入ったらよかろうな。それにどうしたもんだ、みんないるのに、水くみに来た者なんぞ使わなくたっていいだろうな」

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「どうしたもんだんべ、かねさん自分じぶん這入へえんのにけむつたけりや、おんしてからへえつたらかんべなあ、それに怎的どうしたもんだ一同みんなて、水汲みずくみにたものなんぞ使つかあねえたつてよかんべなあ」

おつぎは軽くたしなめるように言って、二つの手おけをそっと置いて、くすぶっているたきぎを出してやった。

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おつぎはかるたしなめるやうにいつて二つの手桶てをけをそつといて、いぶつてたきゞしてつた。

「おつぎにかき出してもらうんでなくちゃいやだというから、おれはかまわないんだな。そうでなけりゃいくらでも出してやるさ、よ」

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「おつぎにしてもらあんでなくつちやだつちからかまあねえんだな、そんでなけりやいくらでもしてらざらによ」

そばからすぐに言った。

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そばからすぐにいつた。

「くすぶってるのがなくなったら、ひどく晴れ晴れして、入っているようでなくなった。おれはばかな目にあっちまったよ」

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けぶつてえのつたらひど晴々せい/\してへえつてるやうぢやなくなつた。莫迦ばかつちやつたえ」

兼博労は、がぶりとおふろの音をさせて立ちながら言った。

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かね博勞ばくらうはがぶりと風呂ふろおとをさせてたちながらいつた。

「どうしたもんだ、他人を使って小にくらしいこと。そんなこと言うと、押しつけてやるから」

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「どうしたもんだ、他人ひとのこと使つかつて小憎こにくらしいこと、そんなことふとおつけてつから」

おつぎはくすぶったたきぎを、兼博労の近くへ出した。

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おつぎはいぶつたたきゞかね博勞ばくらうちかくへした。

兼博労は慌てて

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かね博勞ばくらうあわてゝ

「あやまった、あやまった」

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謝罪あやまつた/\」

と、ずっと身を引いた。

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とずつといた。

おつぎが手おけのそばへもどったら

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おつぎが手桶てをけそばもどつたら

「ああ、おつぎ、おつぎ、ちょっと待っててくれよ。おれがいい物を出すから」

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「ああ、おつぎ/\ちつつてゝくろえ、れえゝものすから」

兼博労は早口に呼びかけた。

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かね博勞ばくらう口速くちばやけた。

「ああいやなこった、要らないよ」

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「おゝなこつた、らねえよ」

おつぎは少し身をかがめて手おけの取っ手をつかんで、そのまま体をのばすと、手おけの底が十センチほど地面からはなれた。

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おつぎはすこかがめて手桶てをけつかんでまゝのばすと手桶てをけそこが三ずんばかりはなれた。

「ええ、これを出そうというのに」

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「えゝ、すべつちのに」

兼博労は後ろから投げた。

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かね博勞ばくらうあとからげた。

それはえだからおふろの中へ落ちた、へたのない青いかきだった。

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それはこずゑから風呂ふろなかちたへたのないあをかきであつた。

かきは手おけの水へぽたりと落ちて、水のしぶきが少しおつぎの足にかかった。

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かき手桶てをけみづへぽたりとちて、みづのとばちりがすこしおつぎのあしかゝつた。

「にくらしいことまあ、いたずらばかりして」

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にくらしいことまあ、惡戯いたづらばかして」

おつぎはにっこりとして後ろを見た。

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おつぎは嫣然にこりとしてうしろた。

「後ろを見さえすりゃ、それでいいんだ」

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うしろせえすりやそんでえゝんだ」

と、おふろのそばにいた一人が言った。

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風呂ふろそば一人ひとりがいつた。

「おれはそのそばかすを見さえすりゃ気が済んでるんだよ」

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雀班そばつかすせえすりやんでんだよ」

兼博労は後につづけて言った。

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かね博勞ばくらうあといていつた。

「どれほどずうずうしいんだろうな、兼さんは。他人のことを本当に」

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何程なんぼすれつからしなんだんべかねさんは、他人ひとのこと本當ほんたうに」

と、おつぎは手おけを置いて、水にうかんだ青いかきを兼博労へ投げた。

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とおつぎは手桶てをけいてみづうかんだあをかきかね博勞ばくらうげた。

「兼さん、すっかりほれられちまった」

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かねさんすつかりほれられつちやつた」

と、ふろおけのそばから言った。

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風呂桶ふろをけそばからいつた。

おつぎは顔を赤くして、あわただしく手おけを持って逃げた。

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おつぎはかほあかくしてあわたゞしく手桶てをけつてげた。

いっぱいにくんだ手おけの水が、少し波立ってこぼれた。

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ぱいんだ手桶てをけみづすこ波立なみだつてこぼれた。

ふろおけのそばには、四十五十になる百姓もいて、みんなが楽しそうにどよめいた。

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風呂桶ふろをけそばでは四十五十に百姓ひやくしやう一同みんな愉快相ゆくわいさうにどよめいた。

おつぎが手おけを持ったとき、勘次は裏戸のかきねの入口にひょっこりと出た。

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おつぎが手桶てをけつたとき勘次かんじ裏戸うらど垣根口かきねぐちにひよつこりとた。

彼は着物を着がえに桑畑の細い道をこえて、自分の家へ行っていたのだった。

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かれ衣物きものへに桑畑くはばたけ小徑こみちえて自分じぶんうちつたのであつた。

彼はおふろのそばのさわぎをちらと耳にして、それからおつぎの後ろすがたを目にしたので、ふしぎそうなようすをして庭に入って来た。

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かれ風呂ふろそばさわぎをちらとみゝにしてそれからおつぎの後姿うしろすがたにしたので怪訝けげん容子ようすをしてにはにはひつてた。

みんなは打ち合わせたように黙ってしまった。

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どう打合うちあはせたやうもくしてしまつた。

落ちかけた日がしばらく竹やぶをすかしてしめった土にさしかけて、それから井戸をかこんだ井げたにとどいて、暗くしげったくちなしの花をきわ立って白くした。

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けた少時しばし竹藪たけやぶとほしてしめつたつちけて、それから井戸ゐどかこんだ井桁ゐげたのぞんで陰氣いんきしげつた山梔子くちなしはな際立はきだつてしろくした。

しばらくして、青いけむりの満ちた家の中には、しんも切っていないランプがつるされて、板の間にはみんながぞろっとあぐらをかいて、丸い座ができた。

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しばらくしてあをけむり滿ちたいへうちにはしんらぬランプがるされて、いたには一どうぞろつと胡坐あぐらいてまるかたちづくられた。

これもやとわれて来た若い女の人たちは、かまどの前に立って、家の女房とおつぎに手を貸していた。

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これやとはれてわか女房等にようばうらかまどまへつてうち女房にようばうとおつぎとにしてた。

徳利が三、四本、おぜんの前に運ばれた。

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徳利とくりが三四ほんぜんまへはこばれた。

「おかげでどうもはかどりました。どうぞゆっくりやっておくんなせえ」

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「おかげでどうもはかきあんした。どうぞゆつくりつておくんなせえ」

亭主はあらたまってあいさつした。

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亭主ていしゆあらたまつて挨拶あいさつした。

「はい」

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「はい」

とみんながおじぎをした。

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と一どう時儀じぎをした。

めいめいのおぜんのすみへ一つずつわたされた茶飲み茶わんへお酒が注がれようとしたとき

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各自かくじぜんすみへ一つづゝわたされた茶呑茶碗ちやのみぢやわんさけがれようとしたとき

「あれ、待っててくれないか」

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「あれつてゝくんねえか」

と、家の女房が慌てて言った。

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うち女房にようばうあわてゝいつた。

「おとっつあん、かまどの神さまを忘れたっけだろうな」

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「おとつゝあん、お竈樣かまさまわすれたつけべな」

女房はかまどからごはんのかまを下ろして、ふきんを手にしたまま言った。

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女房にようばうかまどからめしかまおろして布巾ふきんにしたまゝいつた。

「そうだったな、ほんに」

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「さうだつけな、ほんに」

亭主はいきなり一本の徳利を手にして、土間へ下りた。

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亭主ていしゆはいきなり一ぽん徳利とくりにして土間どまへおりた。

かまどの上のすすけた小さな神だなには、田から提げて来た一たばの苗が乗せてあった。

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かまどうへすゝけたちひさな神棚かみだなへはからげてた一なへせてあつた。

彼はその苗たばへ、徳利から少しお酒を注いだ。

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かれその苗束なへたば徳利とくりからすこさけいだ。

「お酒はそっちのほうへたくさんかけないでもらいたいな」

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さけそつちのはうへたんとけねえでれえてえな」

兼博労はけろりとしたようすで冗談を言った。

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かね博勞ばくらうはけろりとした容子ようすをして戯談じやうだんをいつた。

「お酒を飲む者は、そんなにおしいもんだろうか」

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さけな、さうだにしいもんだんべか」

おつぎはこっそり言った。

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おつぎはこつそりいつた。

「そんだって、お酒っていうのは人の口へ入るようにできてるんだから。それ、証こにはおれの口へ入りゃすぐ効くから見ろよ」

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「そんだつてさけつちやひとくちえるやう出來できてんだから、それ證據しようこにやらがくちえりやすぐくからろえ」

兼博労は言った。

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かね博勞ばくらうはいつた。

亭主はまた、苗たばへ香煎を少しふりかけた。

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亭主ていしゆまた苗束なへたば香煎かうせんすこけた。

それは稲の花に見立てたもので、稲の花がいっぱいに開くようにという縁起だった。

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それはいねはな模擬なぞらつたので、いねはなが一ぱいひらやうとの縁起えんぎであつた。

兼博労はそれを見て、急に土間へ下りて行った。

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かね博勞ばくらうれをきふ土間どまりてつた。

「どれ、お前ら、うどん粉をちょっと持って来てみな。ひとつまみでいいんだ。おおい、持って来いな。おつぎでもいいや、よう」

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「どうれ、おめえ饂飩粉うどんこなちつつてせえ、一ツ爪尻つまじりでえゝんだ、おゝえつてうな、おつぎでもえゝや、よう」

と兼博労はせかした。

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かね博勞ばくらううながした。

「どうしたもんだ、大いばりして」

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「どうしたもんだ、大威張おほえばりして」

おつぎはつぶやきながら、家の女房に聞いて小麦粉をひとつまみ出してやった。

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おつぎはつぶやきながらうち女房にようばういて小麥粉こむぎこを一つかしてつた。

「そうら、これをかけて。これがおくてのいねの花だ」

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「さうらけて、れが晩稻おくいねはなだ」

兼博労は手にした小麦粉を、すっかりかけてしまった。

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かね博勞ばくらうにした小麥粉こむぎここと/″\けてしまつた。

苗たばは少し白くなった。

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苗束なへたばすこしろつた。

「どこにもそんなふうにかける者はあるまいな」

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何處どこにもさういにけるもなんめえな」

女の人の一人が見ていて言った。

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女房にようばう一人ひとりていつた。

「おれはおくてのいねを作るんだから。役場の奴らが作っちゃならないなんて言ったって、おれのみたいな、うっかりすると胸のあたりまで入るような深い田の冷える所じゃ、どうしたっておくてでなくちゃ穫れるもんじゃないな。それからおれは、役場で役人が講しゃくするから、深い田じゃこうだと話したら、はっきり悪いとは言わないんだから。それからおれは、こやしをつかんで見ない奴じゃだめだというんだ」

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晩稻おくいねつくんだから、役場やくば奴等やつらつくつちやなんねえなんちつたつて、てえな、うつかりすつとちゝぎしまでへえるやうなふかばうえつとこぢやどうしたつて晩稻おくいねでなくつちやれるもんぢやねえな、それから役場やくば役人やくにん講釋かうしやくすつからふかばうぢやうだつちはなししたら、はつきりりいたあはねえんだから、それからくそつかんでねえやつぢや駄目だめだつちんだ」

彼は笑いながら独りしゃべった。

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かれわらひながらひと饒舌しやべつた。

「根性がねじれてるからだあ、おくてのいねは作るなというのに」

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根性こんじやうねぢれてつからだあ、晩稻おくいねつくんなつちのに」

女の人の一人がまた言った。

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女房にようばう一人ひとりまたいつた。

「おれか。いやどうも、ねじれてるにも何にも」

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れか、いやどうもねぢれてんにもなんにも」

兼博労は言って

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かね博勞ばくらうはいつて

「そうれ見ろよ、いねへ白い花がさいたぞ。白ぼうずの花だ、こりゃ」

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「そうれろえ、いねしれはなえたぞ、白坊主しろばうずはなだこりや」

彼は手についた粉をよくはたいた。

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かれいたたゝいた。

「いやだよ、白ぼうずっていういねはあるまいな」

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だよ、白坊主しろばうずツちいねはあんめえな」

女の人がまた言った。

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女房にようばうまたいつた。

「そんでも、おれは勘次さんに聞いたぞ」

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「そんでも勘次かんじさんにいたぞ」

彼は少し首をすくめながら、声を低めて言った。

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かれすこくびをすくめながらこゑひくめていつた。

たもとで口をおさえて、女の人たちは笑いをこらえた。

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たもとくちおさへて女房等にようばうらわらひころした。

兼博労はわざと笑いをのんで、また板の間にあぐらをかいた。

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かね博勞ばくらうわざわらひんでふたゝいた胡坐あぐらいた。

勘次は小さいころから見下されて、よく泣かされた。

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勘次かんじちひさな時分じぶんからあなどられてかされた。

彼はおそろしい泣き虫だった。

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かれおそろしい泣蟲なきむしであつた。

彼はいつのまにか、「かんなべ」というあだ名をつけられた。

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かれ何時いつにか燗鍋かんなべといふ綽名あだなけられた。

彼は心の中でどれほどそれをいやがったか知れない。

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かれこゝろいくれをきらつたかれない。

三十をこえて四十になっても、彼は「なべ」というのがひどくいやだった。

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えて四十につてもかれなべといふのがひどいやであつた。

村ではそれを知らない者はない。

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村落むらではそれをらぬものはない。

あるとき、いたずら好きな兼博労が、勘次が刈っている稲を、これは何だいと聞いた。

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あるとき惡戯好いたづらずきかね博勞ばくらう勘次かんじかついねを、これなんだえといた。

わざと聞いたのだった。

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わざいたのであつた。

それは「なべ割れ」とも、それからのぎが白いので「白のぎ」とも言うのだったが、勘次は

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れは鍋割なべわれとも、それからのげしろいので白芒しらのげともふのであつたが勘次かんじ

「これは白ぼうず」

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これ白坊主しろばうず

とそっけなく言った。

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とそつけなくいつた。

彼は「なべ」というのがいやで、そう言ったのである。

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かれなべといふのがいやでさういつたのである。

兼博労は、うまいことをつかまえたように得意になって、村じゅうに言いふらした。

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かね博勞ばくらうはうまくあるものとらへたやう得意とくいつて村落中むらぢゆうひゞかせた。

口の悪い百姓たちは、勘次がおつぎを連れて田へ出ているのを見て

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くちわる百姓等ひやくしやうら勘次かんじがおつぎをれてるのを

「白ぼうずら、夫婦でたがやしてら」

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白坊主等しろばうずら夫婦ふうふしてうなつてら」

などと言い放つことさえあるのだった。

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など放言はうげんすることすらあるのであつた。

茶わんには一ぱいずつお酒が注がれた。

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茶碗ちやわんには一ぱいづつさけがれた。

みんなはおとなしく茶わんを口に当てた。

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どうはしをらしく茶碗ちやわんくちてた。

「こんな物でよけりゃ、たくさんやっておくんなせえ。まだ後にもありますから」

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んなものでよけりや、夥多みつしらやつておくんなせえ、まあだあとにもりやんすから」

家の女房は、塩で煮たかと思うような白っぽいじゃがいもの大きなさらをおぜんに乗せて、二か所へ置いた。

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うち女房にようばうしほたかとおもやうしろつぽい馬鈴薯じやがたらいもおほきなさらぜんせて二處ふたとこいた。

たちまち一ぱいを飲み干して、注ぎ合いが始まった。

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たちまち一ぱいして獻酬とりやりはじまつた。

注がれる者は茶わんの手を上げて、相手が持つ徳利の口に手をかけて、お酒がこぼれるのをふせいだ。

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がれるものは茶碗ちやわんげて相手あひてもつてる徳利とくりくちけてさけこぼれるのをふせいだ。

お酒が始まってから、みんなが妙にもったいぶってすわり方を直した。

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さけはじまつてからみなめう鹿爪しかつめらしくずまひをあらためた。

「さあ、どうかずんずん飲んでおくんなせえね」

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「さあ、何卒どうぞずん/\しておくんなせえね」

亭主はすすめた。

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亭主ていしゆうながした。

「はい」

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「はい」

あいさつがまた口々に出た。

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挨拶あいさつまた口々くち/″\た。

このごろは高いお酒はなかなか席に出されなくなっていたので、他人が買ったのでもみんな遠りょするようになっていた。

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ごろでは不廉ふれんさけ容易ようい席上せきじやうへははこばれなくつてたのでしたがつて他人たにんつたのでもみなひかにするやうつてた。

南の家では養蚕の結果がよかったのと、少しばかりあまった桑が思いがけない高値で売れたのとで、一円ばかりのお酒を思い切って買ったのだった。

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みなみでは養蠶やうさん結果けつくわかつたのとすこしばかりあまつたくは意外いぐわい相場さうばんだのとで、一ゑんばかりのさけ奮發ふんぱつしたのであつた。

その晩の料理に使うしょうゆが要るので、両方をかねて亭主は昼休みの時こくにてんびん棒をかついで鬼怒川をわたった。

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ばん料理れうり使つか醤油しやうゆるので兩方りやうはうねて亭主ていしゆ晝餐休ひるやすみの時刻じこく天秤てんびんかついで鬼怒川きぬがはわたつた。

村の店では買わずに直接酒蔵へ行ったので、お酒は白鳥徳利の肩までとどいていた。

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村落むらみせでははずに直接ちよくせつ酒藏さかぐらつたのでさけ白鳥徳利はくてうどくりかたまでとゞいてた。

めいめいのふだんかわいた口にはお酒はとてもうまく感じるとともに、そのしびれさせる力にたえる力が弱っているので、徳利が一本ずつ空になって次の徳利に手がかかったと思うころ、板の間ではみんなのつつしみが乱れて元気が出た。

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各自かくじ平生へいぜいかつしてくちにはさけ非常ひじやう佳味うまかんずるとともに、痲痺まひするちからたいする抵抗力ていかうりよくおとろへてるので徳利とくりが一ぽんづつたふされてつき徳利とくりかゝつたとおもころいたでは一どうのたしなみがみだれて威勢ゐせいた。

「お前、そんなに自分の所ばかり置かないで飲めな」

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「おめえ、さういに自分じぶんとこれえばかしかねえでせな」

と、弱い者の所へ杯を集めて、困るのを見ようとさえするようになった。

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よわものところさかづきあつめてこまるのをようとさへするやうつた。

勘次は独りそばの徳利を引きよせて何ばいもかたむけて、他人より先に横顔のすじがふくらんでいた。

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勘次かんじひとそばなる徳利とくりきつけて幾抔いくはいかたむけて他人ひとよりもさき小鬢こびんすぢふくれてた。

「おれは、かんなを持たない大工だ。のみ一方というんだから」

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ら、かんなたねえ大工でえくだ、のみぽうつちんだから」

と言って、勘次は相手もいないのにわざとらしい笑い方をして、女の人たちのいるほうを見た。

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といつて勘次かんじ相手あひてもないのにわざとらしいわらひやうをして女房等にようばうらはうた。

彼はうなだれそうになる首を起こして、何度も見ることをくり返した。

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かれさうくびおこして數々しば/\ることを反覆くりかへした。

おつぎは後ろのほうへかくれていた。

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おつぎはうしろはうかくれてた。

勘次ははしを一本持って、あぶない物にでもさわるようにひらわんのじゃがいもをその先へさしては、いっぱいに口を開いてほおばった。

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勘次かんじはしを一ぽんつて危險あぶなものにでもさはるやうに平椀ひらわん馬鈴薯じやがたらいもそのさきしては一ぱいくちいて頬張ほゝばつた。

ひらわんにはごぼうとじゃがいもが山盛りにされて、油あげが一まい乗せてある。

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平椀ひらわんには牛蒡ごばう馬鈴薯じやがたらいもとがうづたかられて油揚あぶらあげが一まいせてある。

「ばかに大きくなったっけな、このじゃがいもはなあ」

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箆棒べらぼうかくつたつけな、馬鈴薯じやがいもはなあ」

一人が言った。

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一人ひとりがいつた。

「これでも桑のあいだへ作ったんだが、思ったよりよくできたのさ」

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んでもくはあひだつくつたんだが、おもひのほかだつけのさ」

亭主は自まんらしく、それでもわざと声を落として言った。

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亭主ていしゆ自慢じまんらしくそれでもわざこゑおとしていつた。

「桑のあいだでこんなにできるかな。そりゃそうと、どこへ作ったんだいまあ」

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くはあひだでかう出來できつかな、そりやさうと何處どこつくつたんでえまあ」

「裏のかきねの外さ。土はかたくて赤っぽいが、はきだめをみっしりほりこんでおいた所だから、それが効いたと見えるのさ。思ったより土地は選ばないもんだよ。こんなもんでも作っちゃ桑には悪かろうが」

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うら垣根外くねそとさ、つちはかたであかつぽうろくだが、掃溜はきだめみつしらんでいたところだから、れがたとえんのさ、おもひのほか土地とちきらあねえもんだよ、んなもんでもつくつちやくはにやわるかんべが」

「大丈夫だとも。じゃがいもが大きくなるようじゃ、その肥料は桑も吸うから。いや、桑の根っこが遠くまでのびるんじゃおどろいたもんだから。目もありもしないのに、肥料のほうへ真っ直ぐにずうっと来るからな」

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大丈夫だいぢやうぶだとも、馬鈴薯じやがいもかくやうぢやその肥料こやしくはふから、いやくはとほくへすんぢや魂消たまげたもんだから、りもしねえのに肥料こやしはう眞直まつすぐにずうつとつかんな」

「これでどのくらいできるものだと思ったら、一株で一しょうくらいずつも掘れるよ」

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れでどのくれええるものだとおもつたら一ツかぶで一しようぐれえづゝもおこせるよ」

亭主が言えば

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亭主ていしゆがいへば

「うん、そうかな。そうするとわりのいいもんだな」

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「うむ、さうかな、さうすつとわりえもんだな」

めいめいそう言っていると

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各自てんでにさういつてると

「よくごぼうはもたせたっけな」

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牛蒡ごぼうたせたつけな」

と言う者があった。

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といふものがあつた。

「なあに、ふみ固める所へうめさえしておけば大丈夫なものさ。おれの家じゃ田植えまでもつように、庭へうめておくのよ」

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「なあに、がためるところけてせえけば大丈夫でえぢやうぶなものさ、田植たうゑまでるやうににはめてくのよ」

亭主は自分もわんのごぼうをはさんで言った。

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亭主ていしゆ自分じぶんわん牛蒡ごぼうはさんでいつた。

「そうだが、おれの家なんぞじゃ、それまでにはなくなっちまうから、一度もそんなふうにうめておいたことはないな」

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「さうだが、なんぞぢや、それまでにやつちまあから一でもさういにけていたことあねえな」

と一人が言えば

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一人ひとりがいへば

「おれなんざ、はらにしまっておくから、ぬすまれっこなしだ」

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らなんざ、はらしまつてくからられつこなしだ」

兼博労は口を出した。

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かね博勞ばくらうくちした。

「ごぼうもうっかりして縄でしばってうめちゃ、そこからくさりが入ってひどいもんだな。藁はよっぽどきらいだと見えるのさな」

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牛蒡ごばうもうつかりしてなはしばつてけちや、其處そこからくされがへえつてひでえもんだな、わらぽどきれえだとえんのさな」

勘次は横から言った。

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勘次かんじ横合よこあひからいつた。

「どうしたかよ」

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「どうしたかよ」

うたがう声が上がった。

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うたがひのこゑはつせられた。

「どうしたかなもんじゃない。おれの家でやったことがあるんだもの」

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「どうしたかなもんぢやねえ、つたことんだもの」

彼は相手におされたように声を低めて

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かれ相手あひてあつせられたやうこゑひくめて

「なあ、おつう、そうだな」

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「なあおつう、さうだな」

と、体を横に向けて言った。

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身體からだよこけていつた。

板の間と土間とのさかいに立っている柱のかげに、ランプの光から身をかくすようにしてみんなの注ぎ合いを見ていた女の人の手が、急におつぎのしりをつついて

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いた土間どまとのさかひつてはしらかげにランプのひかりからけるやうにして一獻酬けんしう女房等にようばうらにはかにおつぎのしりをつゝいて

「おつうと、それ、返事するもんだ」

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「おつうとそれ、返辭へんじするもんだ」

と小声で言って、かすかに笑った。

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小聲こごゑでいつてかすかわらつた。

勘次はふしぎそうなようすをして、柱のかげをじっと見て目をしかめた。

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勘次かんじ怪訝けげん容子ようすをしてはしらかげ凝然ぢつしかめた。

「おつぎはいるよ、お前、そんなに見なくても」

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「おつぎはるよおめえ、さういにねえでも」

柱のかげから言って、ささやいた。

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はしらかげからいつて私語さゞめいた。

勘次は板の間のはしの近くにいたのだが、おぜんをこえて体をぐっと前へのばしては、徳利を動かして空になったのは女の人たちへわたして、どことなく気をつかうようにそわそわとしている。

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勘次かんじいたはしちかたのであるがぜんえて身體からだをぐつとまへばしては徳利とくりうごかしてからつたのは女房等にようばうらわたして何處どことなしにこゝろくばやうにそわ/\としてる。

「はてな、ふところへ入れたはずだったが」

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「はてな、ふとこれえたはずだつけが」

と兼博労はふところからまわりをさがして、そばへ落ちた小さな紙包みを手にして

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かね博勞ばくらうふところから周圍あたりさがしてそばちたちひさな紙包かみづゝみにして

「こら、うまい物を見ろよまあ」

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「こうれ、うめえものろえまあ」

と言って開けてみると、三センチばかりのかまきりがかまを持ち上げて、ちょろちょろと歩き出した。

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といつてけてると一すんばかりの蟷螂かまきりをのもたげてちよろちよろとあるした。

「へへえ、この畜生め、これでも怒ってらあ」

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「へゝえ、畜生奴ちきしよめこんでもおこつてらあ」

兼博労はちょいとかまきりをつついてみて、独り面白がって笑った。

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かね博勞ばくらうはちよいと蟷螂かまきりをつゝいてひときようがつてわらつた。

「どうしたもんだろう、いい大人が」

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「どうしたもんだんべけえ姿なりして」

と、女の人たちはみな笑った。

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女房にようばうみなわらつた。

「あれ、おれは知ってら」

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「あれつてら」

おつぎのそばにいた与吉は、兼博労のそばへ行って

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おつぎのそば與吉よきちかね博勞ばくらうそばつて

「からすのたまごから出るんだぞ、これは」

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からすのきんたまからんだぞこら」

と言った。

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といつた。

「お前らは知りもしないで」

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りもしねえで」

勘次は与吉を甘やかすようにして言った。

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勘次かんじ與吉よきちあまやかすやうにしていつた。

「そんだって、おれは見た。笹の葉のえだにくっついてた所から出たんだ」

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「そんだつてた、さゝえだにくつゝいてたところからたんだ」

与吉はかまきりをいじりながら言った。

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與吉よきち蟷螂かまきりいぢりながらいつた。

「勘次さん、だめだよ。学校へやっちゃ半年とは言えないから。下手をすると今の子どもらには、やりこめられちまうから。おとっつあん、これを知ってるかなんて言われたって、困るなあ、どうもなあ」

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勘次かんじさん駄目だめだよ、學校がくこつちや半年はんとしたあはんねえから、下手へたんすつといま子奴等こめらにやめられつちやからおとつゝあつてつかなんちあれたつて、こまらなどうもなあ」

そばから言ったので、勘次はさすがににっこりとした。

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そばからいつたので勘次かんじ有繋さすが嫣然にこりとした。

白鳥徳利の口が底より低くなったとき、みんなのあいだで馬の話が出た。

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白鳥徳利はくてうどくりくちそこよりもひくつたときあひだにはうまはなした。

馬という奴はあの体で、お酒の二はいも口へ入れてやるとたちまちとろんとして、あばれ馬でも静かになる、博労はむかしはそうして悪い馬を売りつけたものである。

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うまといふやつはあの身體からださけの二はいくちいれてやるとたちまちにどろんとして駻馬かんばでもしづかる、博勞ばくらう以前いぜんはさうしてわるうまんだものである。

今でもそんなことで油断はならない、村が貧しくなったから荷車ばかり増えて馬がへってしまったが、荷車の検査に行ってみておどろいたなどということや、朝鮮の牛がだいぶ入って来たが、犬ころのような体でわりと安いからどうしたものだかなどということが、きりもなくがやがやと大声でどなり合われた。

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現在いまでもそんなことで油斷ゆだんらぬ、村落むら貧乏びんばふしたから荷車にぐるまばかりえてうまつてしまつたが荷車にぐるま檢査けんさつておどろいたなどといふことや、朝鮮牛てうせんうし大分だいぶ輸入ゆにふされたがいねころのやう身體からだ割合わりあひ不廉たかいからどうしたものだかなどといふことが際限さいげんもなくがや/\と大聲おほごゑ呶鳴どなうた。

「博労なんていう奴らは、泥棒根性がなくちゃできない商売だな。嘘っぱちばかり言って、兼らお前は、おれのことさえだますつもりしやがって」

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博勞ばくらうなんちい奴等やつら泥棒根性どろぼうこんじやうくつちや出來でき商賣しやうべえだな、ちくらつぽうんぬいて、兼等かねらりや、れことせえおつめるつもりしやがつて」

兼博労の向かい側から冗談らしい調子で言うと

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かね博勞ばくらう向側むかうがはから戯談じようだんらしい調子てうしでいふと

「ばかを言え、だますもんじゃない。それ、いやならお金を出せよ、お金。なあ、お金を出さないつもりでいるのが泥棒よりふてぶてしいんだな。西のおとっつあんらはためらってばかりだから、だめで」

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箆棒べらぼう、おつめんなもんぢやねえ、それだらぜにせよぜに、なあ、ぜにさねえつもりすんのが泥棒どろぼうよりふてえんだな、西にしのおとつゝあ躊躇逡巡しつゝくむつゝくだから、かたで」

「そんだから見ろよ、博労で蔵を建てた奴はありゃしない。ばちが当たってるから」

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「そんだからろえ、博勞ばくらうくらてたやつりやしねえ、ばちたかつてつから」

「どうした、そんだがこの間の白い馬はよかっただろう。あれと交かんしろな。ああ西のおとっつあん、白じゃ軍に取られないぞ」

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「どうした、そんだが此間こねえだしろかつたんべ、れさてな、あゝ西にしのおとつゝあ、しろぢや徴發ちようはつはさんねえぞ」

「いいから、それよりか、そんなにけちなことを言わないで、なあ、米一俵で交かんしようじゃないか」

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「えゝから、それよりか、そんなに不廉たけえことはねえで、なあ、こめぺうつべえぢやねえか」

「むだだよ、それじゃ。何でも六銭のござを乗せて引いて来たんだぞ。血統書まであるんだぞ。ああ、その手はないぞ」

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徒勞だめだよそんぢや、あんでも六錢の横薦よこゞもつけていてたんだぞ、血統證けつとうしようまでんぞ、あゝ、はねえぞ」

「何だいお前がまた、父馬と母馬だけの血統書だろう。そんなものは何になるもんじゃない。おれが知らないと思って。おれは白河の市で聞いてらあ」

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んでえわれがまた、牡馬をんま牝馬めんまだけの血統證けつとうしようだんべ、そんなものなんるもんぢやねえ、らねえとおもつて、白河しらかはいちいてらあ」

「博労がうまく話をまとめられないようだな。ようし、そんじゃおれが一つ交かんしてやろう」

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博勞ばくらううまくれねえやうだな、ようしそんぢやれ一つつてやんべ」

二人が冗談まじりにはげしく悪口を言っていると、ふとそばからこう言った。

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二人ふたり戯談交じやうだんまじりにはげしく惡口あくこうつてるとふとそばからういつた。

「そんじゃ、それを飲めな。兼さんもそれ」

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「そんぢや、それせな、かねさんもそれ」

彼は二人の茶わんを自分の手で取りかえて、それを両方へわたしてお酒を注いだ。

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かれ二人ふたり茶碗ちやわん自分じぶん交換かうくわんさせて、それを兩方りやうはうわたしてさけいだ。

「どうだい、博労がうまく交かんできただろう。どっちもえこひいきなしという所だ」

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「どうだえ、博勞ばくらううまくてたんべ、どつちも依怙贔負えこひいきなしつちとこだ」

相手は得意になって言った。

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相手あひて得意とくいつてつた。

「こっちのおとっつあん、いくつだったっけな。ちょっと白くなったな」

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「こつちのおとつゝあ、いくつだつけな、つとしろつたな」

とつぜん一人がどなった。

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突然とつぜん一人ひとり呶鳴どなつた。

「そうよな」

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「さうよな」

亭主は髪に手を当てて言ったとき

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亭主ていしゆ頭髮あたまてゝいつたとき

「お前、おれの家のおとっつあんもどうしてかひどく白くなったんだが、これで年はそんなに取っちゃいないんだぞ」

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「おめえ、のおとつゝあもどうしてかひどしろつたんだが、んで年齡としはさういにとつちやねえんだぞ」

そこへ小さな子をだいてすわった家の女房が、ほほえみながら言った。

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其處そこちひさないてすわつたうち女房にようばう微笑びせうしながらいつた。

「おれと同い年だよ」

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れと同年齡おねえどしだよ」

独りぼっちになっていた勘次は、横から口をはさんだ。

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ひとりぼつちにつて勘次かんじよこからくちはさんだ。

「どうだかよ」

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「どうだかよ」

「なあに、どうだかなもんじゃない」

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「なあに、どうだかなもんぢやねえ」

勘次は口をとがらせて言った。

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勘次かんじくちつののやうにしていつた。

「本当にそうなんだよ、お前」

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本當ほんたうにさうなんだよおめえ」

女房はそばから言った。

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女房にようばうそばからいつた。

「そんじゃ勘次さん、お前いくつだい」

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「そんぢや勘次かんじさんおめえいくつでえ」

相手は乗り気になって聞いた。

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相手あひて乘地のりぢになつていた。

「そうよ、おれはこっちのおとっつあんと同い年だったっけな」

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「さうよ、らこつちのおとつゝあと同年齡おねえどしだつけな」

彼は自分で思いついたのではなくて、どこかで聞いた覚えをそのままくり返して、そして冗談を言ってみた。

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かれ自身じしん創意さういではなくて何處どこかでいた記憶きおくまゝ反覆はんぷくしてさうして戯談じやうだんあへてした。

「ええ、ばかな」

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「えゝ箆棒べらぼうな」

と相手は言ってしまった。

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相手あひてはいつてしまつた。

家の女房は両方の髪をつくづくと見て

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うち女房にようばう兩方りやうはう頭髮あたまつく/″\

「そんだが勘次さんは本当に若いな。おれの家のおとっつあんらとは、たいしたちがいだな」

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「そんだが勘次かんじさんは本當ほんたうけえな。のおとつゝあたあ、たえしたちげえだな」

と言った。

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といつた。

「勘次さんらはまだ十七だな」

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勘次かんじさんまあだ十七だな」

兼博労はすぐ後につづけて言った。

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かね博勞ばくらうすぐあといていつた。

女の人たちはまた、こっそりたもとで口をおおった。

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女房等にようばうらひそかたもとくちおほうた。

兼博労がふり返ったとき、女の人たちは割ったたいまつの先をつっこんでは、香煎を口にふくんで苦労してなめていたのだった。

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かね博勞ばくらうかへりみたとき女房等にようばうらつた燭奴つけぎさきけては香煎かうせんくちふくんで面倒めんだうめてたのであつた。

「香煎をなめるときは、笑っちゃいけないと言ったっけぞ、お前ら」

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香煎かうせんめんのにや、わらつちやいかねえつちけぞ、おめえ

兼博労は言った。

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かね博勞ばくらうはいつた。

さっきから笑うくせのついていた女の人たちは、いっぺんにぷっとふき出して、粉がそこらに散った。

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先刻さつきからわらくせのついてた女房等にようばうらは一にぷつと吹出ふきだしてこな其處そこらにつた。

かわいている粉のためにむせて、女の人たちはしきりにせきをした。

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乾燥かんさうしてこなためせて女房等にようばうらしきりにせきをした。

彼女たちはかけ下りて手おけの水をがぶりと飲んで、やっと胸を落ち着けた。

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彼等かれらけおりて手桶てをけみづをがぶりとんでやうやむね落附おちつけた。

「ああ、ひどい目にあった。粉が鼻のほうへ入って、鼻がつんつんして仕方がありゃしないや。本当に兼さんは人が悪いや。なんぼにくらしいか知れやしない。そこらにたきぎの棒でもあれば、ぶっとばしてやりたいようだ」

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「おゝ、ひでつた。粉鼻こなはなはうさへえつてはなつん/\してやうありやしねえや、本當ほんたうかねさんはひとりいや、なんぼにくらしいかれやしねえ、其處そこらに薪雜棒まきざつぽうでもればばしてりてえやうだ」

なみだの目をふいて、うらめしそうに女の人たちは言うのだった。

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なみだぬぐつてうらめしげに女房等にようばうらふのであつた。

「そんだから、おれは笑っちゃいけないと言ったんだな。それを聞かないから」

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「そんだかられ、わらつちやえかねえつてつたんだな、それかねえから」

兼博労はわざと平気な顔で言った。こうしてがみがみ言う声が入りまじったとき

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かね博勞ばくらうわざ平然へいぜんとしてつた、うしてがみ/\いふこゑ錯雜こぐらかつたとき

「博労さんが一つやっつけるかな」

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博勞ばくらうさん一つやつゝけつかな」

兼博労がひと声ことに大きくどなったと思ったら、茶わんのお酒を一口にぐっと飲み干して、両手に茶わんを伏せて、板の間にぱかぱかぱかぱかとひづめの音をまねてひょうしを取りながら

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かね博勞ばくらうは一こゑことおほきく呶鳴どなつたとおもつたら茶碗ちやわんさけを一くちにぐつとして兩手りやうて茶碗ちやわんせて、いたにぱか/\ぱか/\とひづめならうて拍子ひやうしつたひゞきてながら

「三春から白河のほうへ、これでもござを乗せたのをつないで引いて来る所だからな。よく聞いてみな。この手には行かないぞ」

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三春みはるから白河しらかははうへこんでも横薦よこごもつけたのつないでいてとこらえゝかんな、いてせえ、にやかねえぞ」

彼はその自まんの後から

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かれ自慢じまんしたから

「どうどうどうよ、ほうい、ほいとう」

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「どう/\どうよ、ほうい、ほいとう」

と、馬へのかけ声をもっともらしくやった。

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うまへの掛聲かけごゑもつともらしくした。

茶わんのひょうしにつれて、みんなはぴったり静かになった。

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茶碗ちやわん拍子ひやうしれて一どうはぴつたりしづかにつた。

「はあええええ」

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「はあえゝえゝえゝ」

と、ぼうっと太い声で歌い出して

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とぼうとふとこゑうたして

「かれしばあにいいいいええ、はあえ、止まるうえ、ちょうちょうのおおおおえ、はあ、ありゃ気があああああえ、え、はあ知れえぬうよおうう」

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枯芝かれしばあえにいゝゝゝゝえゝ、はあえ、とまるうえ、てふ/\のおゝゝゝゝえ、はあ、ありやがあゝゝゝゝえ、え、はあれえゝぬうよおうゝゝ」

と、彼は目をつぶって少し上向きに首をかたむけて、ありったけの声をしぼって、とてもゆっくりと、そして次の句を

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かれつぶつてすこ上向うはむきくびかたむけて一ぱいこゑしぼつてきはめて悠長いうちやうにさうしてつゞきを

「ええそばにええ、なたねえのおおおおえ、ええ花があえ、あああえるううううええ、ほういほい」

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「えゝそばにえゝ、菜種なたねえのおゝゝゝゝえ、えゝはながあえ、あゝえるうゝゝゝゝえゝ、ほういほい」

と歌い終わったとき、顔がことさらに赤くなって、汗がつりランプに光って見えた。

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うたをはつたときかほ殊更ことさらあかつてあせるしランプにひかつてえた。

彼は手でぐるりとふいた。

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かれでぐるりとぬぐつた。

「ばかにのんびりした歌だな。この夜の短いのに、ねむたくなっちまうな」

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箆棒べらぼう迂遠まだるつけえうただな、みじけえのにねむつたくつちやあな」

そばから悪口を言った。

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そばから惡口あくこういた。

「いいから、西のおとっつあん、耳あかをほじくって聞いてろよ」

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「えゝから西にしのおとつゝあ、耳糞みゝくそほじくつていてろえ」

兼博労は言って

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かね博勞ばくらうはいつて

「はあええええ、ええ朝のううええ、はあ出掛えにいいいいええ」

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「はあえゝえゝ、えゝあさのうゝゝえゝえ、はあ出掛でがけえにいゝゝゝゝえ」

と、また歌い出した。

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またうたした。

「朝の出がけにどの山見ても、雲のかからぬ山はない」

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あさ出掛でがけにどのやまてもくもかゝらぬやまはない」

と歌って、茶わんを動かしては

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うたつて茶碗ちやわんうごかしては

「ぱかぱかぱかぱかとなあ、こう。二十三坂をこえて引く所だぜ。畜生、あばれるなよ」

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「ぱか/\ぱか/\となあう、廿三さかえてとこだぜ、畜生ちきしやうあばさけんなえ」

と、彼はさらに

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かれさら

「ひいいん」

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「ひゝいん」

と馬の鳴き声をまねて、それから

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うまごゑをしてそれから

「二十三坂か。白河のこっちだ。しまいの坂がとんでもなく長くてな」

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「廿三さかか、白河しらかはのこつちだ、しめえさか箆棒べらぼうながくつてな」

と言って、また

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といつてまた

「はあええええ」

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「はあえゝえゝえゝ」

と、いかにも気が乗ったように

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つたらしく

「奥の博労さん、どこで夜が明けた、二十三坂七つ目で」

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おく博勞ばくらうさん何處どこけた、廿三さか七つで」

と楽しそうな声で歌った。

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愉快ゆくわいこゑうたつた。

「夜引きをするときには、人間もねむたくなりゃ馬もねむたくなってな。石の坂だから畜生らがくたりくたりともう、なんぼにも歩かないな。そのときには、おうい一つどうだねやっつけちまおうというところでなあ。博労らがぞろぞろつながって来るんだから、峰のほうでも谷底のほうでも一度に大変だあ。そうすると馬っこらがひいんなんてあばれて、ぱかぱかぱかぱかと、こう足の運びがちがって来らあな。みなお母さんにばかりくっついてたのを引きはなして来るんだから、足がそろわないな、どうしても。それに坂が急だというと、さかさの旋毛を立てるようだから、畜生はなんぼにも足が出ないな。そいつに合わせて歌うんだから、ゆっくり行かなくちゃならないな」

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夜引よびきすつときにや人間にんげんねむつたくりやうまねむつたくつてな、石坂いしざかだから畜生等ちきしやうらがくたり/\はあ、なんぼにもあるかねえな、そんときにや、おうい一つどうだねつゝけちやあとばかりでなあ、博勞等ばくらうらぞろ/\つながつてんだから、みねはうでも谷底たにそこはうでも一大變たいへんだあ、さうすつとこま子奴等こめらひゝんなんてあばさけてぱか/\ぱか/\とはこびがちがつてらな、みんなおつかげばかしいてたのぱなしてんだからあし不揃ふぞろひだなどうしても、それにさかきふだつちと倒旋毛さかさつむじおつてるやうだから畜生ちきしやうなんぼにもあしねえな、其奴そいつあはせてうたあんだからゆつくりんなくつちやなんねえな」

兼博労は帯を解いてはだかになって、着物を後ろへ投げた。

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かね博勞ばくらうおびいてはだかつて衣物きものうしろなげた。

帯は一重で、左の腰骨の所でだらりと結んであった。

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おび一重ひとへひだり腰骨こしぼねところでだらりとむすんであつた。

両方のはしが赤い布でふちどってある。

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兩方りやうはうはしあかきれふちをとつてある。

あらいたてじまの染め抜きで、それは馬のかざりのはち巻きに使う布だった。

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あら棒縞ぼうじま染拔そめぬきでそれはうまかざりの鉢卷はちまきもちひる布片きれであつた。

「ここらの馬だって見ろよ。博労節を門先でやったっくらい、うまやの中で畜生は体をゆさぶって大さわぎだな」

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此處ここらのうまだつてろえ、博勞節ばくらうぶしかどつあきでやつたつくれえまやなか畜生ちきしやう身體からだゆさぶつて大騷おほさわぎだな」

彼は独りで酒の席をにぎわした。

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かれひとりで酒席しゆせきにぎはした。

彼はそうして、土のような汗とほこりでよごれた手ぬぐいで、首すじから体じゅうをふいた。

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かれはさうしてつちのやうなあせほこりとでまつた手拭てぬぐひ首筋くびすぢから身體からだぱいぬぐつた。

それから

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それから

「ああかゆい」

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「おゝかいい」

と、ぴしゃりと手で蚊をたたいた。

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とぴしやりたゝいた。

彼の歌につれて、めいめいがさらに歌った。

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かれうたつれ各自めいめいさらうたつた。

みなはしで茶わんをたたいてひょうしを合わせた。

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みなはし茶碗ちやわんたゝいて拍子ひやうしあはせた。

そういうさわぎになってから、お酒はへらなかった。

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さういふさわぎにつてからさけらなかつた。

勘次は独りで歌うこともなく、絶えず何かをさがすような目で土間のあたりをきょろきょろと見ていたが

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勘次かんじひとりでうたふこともなくえず何物なにものかをさがすやうな土間どまのあたりをきよろ/\とたが

「おつう」

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「おつう」

ととつぜん呼んだ。

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唐突だしぬけんだ。

彼は勢いよく呼んでみて、自分でひょうしぬけしたようにしていたが

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かれいきほひよくんで自分じぶん拍子拔ひやうしぬけしたやうにしてたが

「これへじゃがいもでもくれないか」

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れさ馬鈴薯じやがいもでもくんねえか」

と、わんをずうっと出した。

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わんをづうつとした。

「どうしたもんだ、おとっつあんは。ひらわんのおかわりをする者もあるまいな。じゃがいもは前にいくらでもあるのに」

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「どうしたもんだおとつゝあは、おひら盛換もりけえするもなんめえな、馬鈴薯じやがいもめえいくらでもんのに」

おつぎはさらにたしなめるように

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おつぎはさらたしなめるやうに

「おとっつあんは酔ったって、そんなに取り乱さなけりゃよかろうな」

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「おとつゝあは酩酊よつぱらつたつてそんなに顛倒ぐれなけりやよかつぺなあ」

と独りつぶやいた。

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ひとつぶやいた。

「言ってみたのよ」

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つてたのよ」

勘次はわざと笑って、わんをおぜんへ置いた。

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勘次かんじわざわらつてわんぜんいた。

「おかみさんらもこっちへ来いな、一ぱいやれな」

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「おつか樣等さまらもこつちへうな、一杯いつぺえやれな」

彼はさらに、板の間のすみのほうにいる女の人たちに言った。

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かれさらいたすみはう女房等にようばうらにいつた。

「ほんに、仲間入りしたらよかろう」

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「ほんに仲間入なかまいりしたらよかつぺ」

家の女房も言った。

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うち女房にようばうもいつた。

若い女の人たちは仲間には入らなかった。

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わか女房等にようばうら仲間なかまにはらなかつた。

そしてただ笑っていた。

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さうしてたゞわらつてた。

歌いさわぐ声にみんなが心をうばわれていると

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うたさわこゑすべてがこゝろられてると

「お前はうめをかじったんだろう。学校の先生に姉ちゃんが言いつけてやるから。おなかが痛くたってがまんしてるもんだ」

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りやうめかじつたんべ、學校がつこ先生せんせいねええつけてやつから、はらいたくつたつて我慢がまんしてるもんだ」

おつぎはねむい目をこすりながらしくしく泣いている与吉を横にして、背中をたたいてはさすりながら言った。

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おつぎはねむをこすりながらしく/\いて與吉よきちよこにして背中せなかたゝいてはいたはりながらいつた。

「どうしたんだ、おなかが痛いのか。毒消しでも飲ませてみるか。おれももう、うめだのすももだのが熟しちゃひやひやするんだよ。出て行くんだから、言ったって聞かないしなあ」

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「どうしたんだあ、はらいてえのか毒消どくけしでもませてつか、らもはあ、うめだのすもんもだの成熟できちやびや/\すんだよ、んだからつたつてかねえしなあ」

家の女房は、すやすやとねむったひざの子の蚊を追いながら言った。

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うち女房にようばうはすや/\とねむつたひざひながらいつた。

「お前はうめなんぞかじって。おとっつあんがおなかをえぐり抜いてやるから待ってろ」

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うめなんぞじつて、おとつゝあはらゑぐいてやつからつてろ」

勘次は、とっくにもつれていた舌で言った。

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勘次かんじとうからしぶつてしたでいつた。

「そんなこと言わなくたって、泣いてるのに何だろうな、おとっつあん」

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「そんなことはねえつたつていてんのになんだつぺな、おとつゝあ」

おつぎは勘次をしかった。

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おつぎは勘次かんじしかつた。

勘次は口をつぐんで、はしの先へじゃがいもをさした。

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勘次かんじくちつぐんではしさき馬鈴薯じやがいもした。

与吉はまぶたがゆるんで、いつのまにか軽いいびきをかいた。

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與吉よきちまぶたゆるんでいつかかるいびきいた。

「さあ、ごはんだよ」

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「さあ、おまんまだえ」

歌もさわぎも止んで、みんなの口から急にさいそくが出た。

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うたさわぎもんで一どうくちからにはか催促さいそくた。

女の人たちはみんなで給仕をした。

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女房等にようばうらみな給仕きふじをした。

家の女房は

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うち女房にようばう

「おつぎも体がしっかりして来たなあ。女も二十となっちゃ役に立つなあ」

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「おつぎも身體からだみつしりしてたなあ、をんな廿はたちつちややくつなあ」

と、おつぎを見て言った。

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とおつぎをていつた。

勘次は茶わんから少しごはんつぶをこぼしては、あぶない手つきではしを持ったまま、指の先でつまんで口へ持って行った。

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勘次かんじ茶碗ちやわんからすこ飯粒めしつぶこぼしては危險あぶなつきではしつたまゝゆびさきつまんでくちつてつた。

「おとっつあん、そんなにこぼしちゃだめだな」

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「おとつゝあ、さういにこぼしちや駄目だめだな」

おつぎは勘次の茶わんへ手をそえた。

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おつぎは勘次かんじ茶碗ちやわんへた。

「勘次さん」

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勘次かんじさん」

と、家の女房は呼びかけた。

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うち女房にようばうけた。

勘次が目をしかめて見たとき

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勘次かんじしかめてとき

「勘次さん、もうおつぎのことは嫁に出してもよくないかい」

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勘次かんじさん、はあおつぎこたあしてもかねえけえ」

女房は言った。

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女房にようばうはいつた。

「嫁になんざ出せないよ。今のところ、おれが困るから」

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よめになんざせねえよ、いまところこまつから」

勘次はそっけなく言った。

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勘次かんじはそつけなくいつた。

「不自由な所があれば出して、自分でも引っ込むのよ」

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不自由ふじいうところありやして、自分じぶんでもむのよ」

兼博労はえんりょなく言った。

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かね博勞ばくらう遠慮ゑんりよなくいつた。

「おれはそんな話は聞かない。もらいたけりゃいくらでもあらあ」

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らそんなはなしかねえ、もらひたけりやいくらでもらあ」

勘次はしりぞけた。

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勘次かんじしりぞけた。

「そんだってお前、あちこち声をかけておかないじゃ、すぐ年ばかり取らせちまって仕方がないぞ。おれも一人出したが、お前、かんたんじゃないよ。ああだこうだ言われないうちだぞ、お前」

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「そんだつておめえ、そつちこつちくちけてかねえぢや、ぢき年齡としばかしとらせつちやつてやうねえぞ、らも一人ひとりしたがおめえ容易よういぢやねえよ、さうだかうだはれねえうちだぞおめえ」

女房は言った。

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女房にようばうはいつた。

「いいよ、三十まで独りじゃ置かないから。これには今にむこを取るんだから」

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「えゝよ卅までひとりぢやかねえかられげはいまにむことんだから」

勘次は喧嘩でもするようなようすで、こわばった舌で言った。

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勘次かんじ喧嘩けんくわでもするやう容子ようすこはばつたしたでいつた。

女房は黙って、口のあたりに冷ややかな笑いをふくんで、ひざをそっと動かして、ぐっすりねむりこけた自分の子を見た。

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女房にようばうだまつてくちあたりひやゝかなゑみふくんでひざをそつとうごかしてぐつすりねむりこけた自分じぶんた。

「どうしたい、ままよままよでもやらないか、勘次さん。ままにならぬとおひつを投げりゃ、そこらあたりはごはんだらけだあ。あまりむずかしいことを言うなよ」

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「どうしたえ、まゝよ/\でもやんねえか勘次かんじさん。まゝにならぬとおはちげりや其處そこらあたりはまゝだらけだあ、過多げえむづかしいことふなえ」

兼博労は米のごはんをかき込みながら言った。

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かね博勞ばくらうこめめしみながらいつた。

おなかをいっぱいにふくらませたみんなは

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はらを一ぱいふくらませた一

「どうもごちそうさまでした」

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「どうも御馳走樣ごつゝおさまでがした」

とあいさつを述べて、土間の下駄をがらがらとかきさがして、がやがやさわぎながら帰りかけた。

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義理ぎりべて土間どま下駄げたをがら/\さぐつてがや/\さわぎながらかへけた。

「おつう、よきのことを起こせ」

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「おつう、よきことおこせ」

勘次はそう言って、自分もいっしょによろけながら立った。

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勘次かんじはさういつて自分じぶんひとつに蹣跚よろけながらつた。

おつぎは与吉の体をはげしくゆすったが、ぐっすりねむってしまったので、なかなか目を開かなかった。

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おつぎは與吉よきち身體からだはげしくうごかしたが熟睡じゆくすゐしてしまつたので容易よういひらかなかつた。

与吉はぞうりをはくのにも、おつぎの心をいらだたせた。

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與吉よきち草履ざうり穿くにもおつぎのこゝろ苛立いらだたせた。

「おつう」

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「おつう」

とはげしく呼ぶ勘次の声が、裏のかきねの外から聞こえた。

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はげしく勘次かんじこゑうら垣根かきねそとからきこえた。

するとまた

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さうするとまた

「何してやがるんだ」

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なにしてけつかんだ」

と、勘次は裏の戸口からみんなをおどろかしてどなった。

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勘次かんじ裏戸口うらとぐちから一どうおどろかして呶鳴どなつた。

「勘次さん、与吉のことを起こしてたところなんだよ」

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勘次かんじさん與吉よきちことおこしてたとこなんだよ」

家の女房は言いわけをしてやった。

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うち女房にようばう分疏いひわけしてやつた。

「お前はいつでもそうだ、ぐずぐずしてやがって」

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りや何時いつでもさうだ、ぐづ/\してやがつて」

勘次はなおも怒って言った。

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勘次かんじなほいきどほつていつた。

「待ってればいいんだな、おとっつあん。洗い物までもしないのに、どうしたもんだ」

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つてればえんだなおとつゝあ、あらひまでもねえのにどうしたもんだ」

酒の席の後かたづけを見て、おつぎはつぶやいた。

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酒席しゆせきあとておつぎはつぶやいた。

「かまわないで帰れよ。おとっつあんは酔ってるんだから」

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かまあねえでけえれよ、おとつゝあ酩酊よつぱらつてんだから」

女房はおつぎの気持ちをくんでやった。

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女房にようばうはおつぎのんでやつた。

後では、乱ざつに散らかした道具をかたづけながら、女の人たちは言った。

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あとでは亂雜らんざつらかした道具だうぐ始末しまつをしながら女房等にようばうらはいつた。

「勘次さんの気持ちも分からないな」

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勘次かんじさんが心持こゝろもちわかんねえな」

「いくら女房のやきもちを焼くものでも、ああいうのはないな」

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いくかゝあ嫉妬やきもちくもんでも、あゝえもなあねえな」

「ああいうのが何かの生まれ変わりだというのでもあるだろうな。こわいようだよ、本当にな」

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「あゝえのがなんかのうまかはりつちんでもんべな、可怖おつかねえやうだよ本當ほんたうにな」

「近ごろそれに、あれじゃないかい。あれほどほしがったのに、後ぞえをもらおうとは言わないんじゃないかい」

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近頃ちかごろそれになんぢやねえけえ、あらほどしがつたのに後妻あともらあべえたあ、はねえんぢやねえけえ」

どの人の心にも、口には出さなくても分かっている何かを、少しずつ表そうとして、さすがにためらうようにして話し合った。

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いづれのこゝろにもくちにはいはなくて了解れうかいされてあるものすこしづつあらはさうとして有繋さすが躊躇ちうちよするやうにして噺合はなしあうた。

勘次ら三人が出てかきねの外へ行ったと思うころ、わんをふいていた一人があわただしく立って外へ出た。

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勘次等かんじらにん垣根かきねそとつたとおもころわんいて一人ひとりあわただしくつてそとた。

しばらくして帰って来ると、いきなり

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しばらくしてかへつてるといきなり

「どうしたものだ、お前は。他人の後なんぞつけて行って。ばちが当たるから見ろよ」

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「どうしたものだおめえは、他人ひとあとなんぞ尾行けてつて、つみだからろよ」

一人が言った。

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一人ひとりがいつた。

「そうじゃないよ。あんまりお前、他人のことを、おれだって」

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「さうぢやねえよ、有撃まさかおめえ、他人ひとのことおれだつて」

と言いわけをした。

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分疏いひわけした。

「そんじゃ何をしに行ったんだ」

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「そんぢやなんつたんだ」

「おしっこがしたくなったからよ」

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小便せうべんつたくつたからよ」

やがておさえきれない笑いが顔にうかんで

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やがおされぬわらひがかほかんで

「そんだからあんまり飲むなというんだ、なんておつぎに怒られ怒られ行くんだわ」

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「そんだから過多げえむなつちんだ、なんておつぎにおこられ/\んけわ」

と言った。

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といつた。

「そうれお前、ばちが当たるよ」

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「そうれおめえ、つみだよ」

えんりょもなく、みんなどっと笑った。

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遠慮ゑんりよもなくみなどつとわらつた。

夜はふけていた。

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けてた。

きろきろきろきろと、風船をこすり合わせるようなかえるの声が入りまじって聞こえていた。

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きろ/\きろ/\と風船玉ふうせんだまこすあはせるやうかへるこゑ錯雜さくざつしてきこえてた。

一五

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十五

霜がそっと地面をおおった。

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しもひそかおほうた。

おそい秋のすみきった空気は、地上のすべてをかわかす。

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晩秋ばんしうえた空氣くうき地上ちじやうすべてを乾燥かんさうせしめる。

思うままにえだ葉を広げたうどの実にめじろが集まって鳴くのが楽しそうでもあるが、なんとなくいそがしげで、それもわずかのあいだに、どこでも草木の葉がかたくなったりいたんだりして、すべてがただがさがさと入りまじってしまった。

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おもひのまゝ枝葉えだはひろげた獨活うど目白めじろあつまつてくのが愉快ゆくわいらしくもあれど、なんとなくいそがしげであつて、それも少時しばし何處どこでも草木さうもくこはばつたりきずついたりして一さいたゞがさ/\と混雜こんざつしてしまつた。

そういう所へ冬はいやでも行きわたらなければならないのだが、それでも暖かい日があったり、冷たい日があったりして、冬はひたすらためらいながら地上にしずもうとした。

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さういふところ季節きせつふゆいやでもわたらねばならないのであるがそれでもあたゝかいがあつたり、つめたいがあつたりしてふゆ只管ひたすら躊躇ちうちよしつゝ地上ちじやうしづまうとした。

そして霜を一度はわせてみた。

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さうしてしもを一はせてた。

すべての草木はさらに慌てた。

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すべての草木さうもくさらあわてた。

じみな常緑樹をのぞいたほかはみな、次の春の用意ができるまでは、すごいすがたになってまでも、じっとしがみついている。

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地味ぢみ常磐木ときはぎのぞいたほかみなつぎはる用意ようい出來できるまではすご姿すがたつてまでも凝然ぢつとしがみついてる。

冬はまた霜をはわせてみた。

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ふゆしもはせてた。

おそろしくきれい好きな霜は、そのみすぼらしい草木の葉を地面にふみにじった。

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おそろしく潔癖けつぺきしも見窄みすぼらしい草木さうもく地上ちじやうにじりつけた。

人間の手が入ったものは、田でも畑でも、人間の手でいたる所をからりとさせる。

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人間にんげんりたものはでもはたでも人間にんげんりて到處いたるところをからりとさせる。

そのとき、畑にはふでの先でかすったように、麦や小麦がほのかに青みを残している。

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ときはたには刷毛はけさきでかすつたやうむぎ小麥こむぎほのか青味あをみたもつてる。

それから冬はまた、百姓に、さびしい外からもっぱら家の中へ力を注がせる。

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それからふゆまた百姓ひやくしやうをしてさびしいそとからもつぱうちちからいたさせる。

百姓たちはいそがしく藁で俵をあんで米を入れて、春からの働きのむくいを目の前に積んで楽しむのである。

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百姓等ひやくしやうらいそがしくわらたわらんでこめれてはる以來いらい報酬はうしう目前もくぜんんでよろこぶのである。

彼らのあいだには、こういうときに、そして冬が本当にまだ彼らの上で泣いてみせないうちに、前後してどの村にも「まち」

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彼等かれらあひだにはういふときに、さうしてふゆ本當ほんたうにまだ彼等かれらうへいてせないうちあひ前後ぜんごして何處どこ村落むらにも「まち」

が来るのである。

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るのである。

それは村ごとに建てられている神社のお祭りのことである。

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れは村落毎むらごとてられてあるやしろまつりのことである。

貧しい勘次の村でも、むかしからのならわしで、村に合ったやり方でお祭りが行われた。

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貧乏びんばふ勘次かんじ村落むらでも以前いぜんからの慣例くわんれい村落むら相應さうおうした方法はうはふもつまつりおこなはれた。

当日は白いかりぎぬの神主が独りで、氏子の総代というのが四、五人、きまり悪そうなようすで後についてゆき、馬場先を進んで行った。

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當日たうじつしろ狩衣かりぎぬ神官しんくわんひとり氏子うぢこ總代そうだいといふのが四五にんきまりの惡相わるさう容子ようすあとつい馬場先ばゞさきすゝんでつた。

一人は農具のみを持っている。

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にん農具のうぐつてる。

総代らはそれでも羽織とはかますがただが、一人もちゃんとはかまのひもを結んだ者はいない。

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總代等そうだいらはそれでも羽織袴はおりはかま姿すがたであるが一人ひとりでも滿足まんぞくはかまひもむすんだのはない。

さらにその後から、ふたを取った四斗だるを馬の荷縄にくくって、太い棒でかついでついて行った。

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さらあとからかゞみいた四斗樽とだるうま荷繩になはくゝつてふとぼうかついでいた。

四斗だるには、にごったような甘酒がだぶだぶと動いている。

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斗樽とだるにはにごつたやうな甘酒あまざけがだぶ/\とうごいてる。

神主の白いはかまには、どろのはねたあとも見えて、ずいぶんよごれていた。

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神官しんくわんしろ指貫さしぬきはかまにはどろねたあとえて隨分ずゐぶんよごれてた。

神主は、ほこりだらけの板の間へやっとござをしいたせまい拝殿にすわって、さかきの小さなえだをいじって、それから台の供え物を形よくしているあいだに、総代らはみに入れて行ったしめ縄をもみの木からもみの木へ張って、末社のかざりをした。

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神官しんくわんほこりだらけないたやうやございたせま拜殿はいでんすわつてさかきちひさなえだをいぢつて、それからしよく供物くもつ恰好かつかうよくして總代等そうだいられてつた注連繩しめなはもみからもみつて末社まつしやかざりをした。

村の者はだんだんに、それぞれ相応の晴れ着を着て神社の前に集まった。

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村落むらもの段々だん/\器量きりやう相當さうたう晴衣はれぎ神社じんじやまへあつまつた。

目立つのはやはり女の子で、そまつな手織り木綿でも、メリンスの帯と前かけが彼女たちを十分にかざっている。

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つのは猶且やつぱりをんなで、疎末そまつ手織木綿ておりもめんであつてもメリンスのおび前垂まへだれとが彼等かれらを十ぶんよそほうてる。

十くらいの子でも、二十になる者でも、みな前かけをかけている。

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十位とをぐらゐでもそれから廿はたちるものでもみな前垂まへだれけてる。

前かけがなければ、彼女たちのすがたはさびしくなってしまう。

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前垂まへだれがなければ彼等かれら姿すがた索寞さくばくとしてしまはねばらぬ。

彼女たちは足に合わない不格好な、しわの寄った白い足袋をはいている。

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彼等かれらあしはぬ不恰好ぶかつかうしわつたしろ足袋たび穿いてる。

遠い国の山から切り出すのだという、まがい物の重い台にゴム製の表を打った下駄をつっかけている者もある。

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遠國ゑんごくやまからすのだといふ模擬まがひおもだいへゴムせいおもてつた下駄げたけてるものもある。

彼女たちはその年に応じて三人五人とたがいに手を引きながら、かきねのそばや辻の角に立っていては、思い出したときにあちこちと移って歩くのである。

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彼等かれら年齡ねんれいおうじて三にんにんたがひきながら垣根かきねそばつじかどつててはおもしたとき其處そこ此處ここらとうつつてあるくのである。

彼女たちはただ仲間といっしょに立っていること以外に、「まち」

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彼等かれらたゞ朋輩ほうばいともつてることよりほかに「まち」

といっても別に目当てもなければ、楽しみもないのである。

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というてもべつ目的もくてきもなければ娯樂ごらくもないのである。

だから彼女たちは、少しでも変わったできごとを見のがすまいとするのである。

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れで彼等かれらすこしでもことなつた出來事できごと見逃みのがすことをあへてしないのである。

神主は、小さな筑波みかんや駄菓子やするめを少しばかりずつ供えた台の前にすわって、のりとを上げた。

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神官しんくわんちひさな筑波蜜柑つくばみかんだの駄菓子だぐわしだのするめだのをすこしばかりづつそなへたしよくまへすわつて祝詞のつとげた。

それは大きな厚い紙へ書いたもので、それをさらに紙で包んだのだった。

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れはおほきなあつかみいたので、それをさらかみつゝんだのであつた。

包み紙は何度もふところへ出し入れしたと見えて、ひどくすれてよごれている。

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包紙つゝみがみ幾度いくたびふところれしたとえていたれてよごれてる。

のりとはとても短い文だった。

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祝詞のつときはめて短文たんぶんであつた。

神主はそれをとてもゆっくり声を張り上げて読んだが、それでもいくらも時間はかからなかった。

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神官しんくわんはそれをきはめて悠長いうちやうこゑげてんだがそれでもいくらも時間じかんらなかつた。

それが一まいあればどこの神社へ行っても使えるものと見えて、短い文の中に読み上げるべき神社の名は書いてなくて、何郡何村何神社という文字でうめてある。

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それが一まいあれば何處どこ神社じんじやつてもやくてゝるものとえてみじか文中ぶんちう讀上よみあぐべき神社じんじやいてなくて何郡なにごほり何村なにむら何神社なにじんじやといふ文字もじうづめてある。

神主はそこを読むときに、その日の神社の名をただ口先で言うのである。

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神官しんくわん其處そこいたると當日たうじつ神社じんじやたゞくちさきでいふのである。

さすがに彼は、まちがえずに読みきった。

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有繋さすがかれ間違まちがふことなしに退けた。

神主が台の横へ席を移して、ちょっとしゃくで指図をすると、氏子の総代らが順々にさかきの小えだの玉ぐしを持って台の前に出て、その玉ぐしをささげてかしわ手を打った。

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神官しんくわんしよく横手よこてかへ一寸ちよつとしやく指圖さしづをすると氏子うぢこ總代等そうだいら順次じゆんじさかき小枝こえだ玉串たまくしつてしよくまへ玉串たまくしさゝげて拍手はくしゆした。

彼らはただおずおずして、かしわ手も鳴らなかった。

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彼等かれらたゞづ/\して拍手はくしゆらなかつた。

立ちながらはかまのすそをふんでよろけては、おどろいたようすでまわりを見る者もあった。

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ちながらはかますそんで蹌踉よろけてはおどろいた容子ようすをして周圍あたりるのもあつた。

こういう作法も、見物の人はみないかにも熱心なようすで、拝殿にせまって見ていた。

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ういふ作法さはふをも見物けんぶつすべては熱心ねつしんらしい態度たいど拜殿はいでんせまつてた。

おつぎも与吉の手を取って、人々にまじって立っていた。

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おつぎも與吉よきちつて群集ぐんしふまじつてつてた。

勘次もそこにいたのだが、しかし彼はずっと後ろのもみの木かげにぽつんとしていたのだった。

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勘次かんじ其處そこつたのであるがしかかれはずつとうしろもみ木陰こかげにぽつさりとしてたのであつた。

かんたんながら一日の式が終わったとき、四斗だるの甘酒がしゃくしでくみ出されて、まわりに立っている人々に配られた。

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簡單かんたんながら一にちしきをはつたとき斗樽とだる甘酒あまざけ柄杓ひしやく汲出くみだして周圍しうゐつて人々ひと/″\あたへられた。

おもに子どもたちが先を争って、その大きな茶わんを取りかえた。

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しゆとして子供等こどもらさきあらそうてそのおほきな茶碗ちやわんへた。

彼らはむしろ自分の家で作ったもののほうがうまいのに、大ぜいといっしょにさわぐのが楽しいので、水ばかりのような甘酒を何ばいもかたむけるのである。

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彼等かれらむし自分じぶんうちつくつたものゝはう佳味うまいにもかゝわらず大勢おほぜいともさわぐのが愉快ゆくわいなので、水許みづばかりのやうな甘酒あまざけ幾杯いくはいかたむけるのである。

当日より数日前に当番の者が村じゅうを歩いて、二合ずつでも三合ずつでも白米をもらって、夜になれば当番の者たちは集まった白米で晩ごはんを十分にたいて、そのほかはすべて甘酒に仕込む。

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當日たうじつからでは數日前すうじつぜん當番たうばんもの村落中むらぢうあるいて二がふづゝでも三がふづゝでも白米はくまいもらつて、になれば當番たうばん者等ものらあつまつた白米はくまい晩餐ばんさんめしを十ぶんいてそのことごと甘酒あまざけつくむ。

甘酒は時間が短いのとこうじが少ないのとで、熱い湯で仕込むのがふつうである。

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甘酒あまざけ時間じかんみじかいのとかうぢすくないのとであつつくむのがれいである。

だからたちまち甘くなるけれど、またたちまちすっぱくなって来る。

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それだからたちまちにあまるけれどもまたたちまちに酸味さんみびてる。

彼らは当日の前の晩に味見だといって、近所の者たちが寄ってたかって、なべで何ばいもわかしては飲むので、ずいぶんへらしてしまって、それにいっぱい水を足しておくのである。

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彼等かれら當日たうじつ前夜ぜんや口見くちみだといつて近隣きんりん者等ものらつてたかつて、なべ幾杯いくはいとなくわかしてはむのでしたゝらしてしまつて、それへ一ぱいみづしてくのである。

子どもたちにまじって、与吉もたがいの体をかき分けるようにして飲んだ。

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子供等こどもらあひだまじつて與吉よきちたがひ身體からだけるやうにしてんだ。

村の者が飲んでいる後から、木かげにたたずんでいたこじきがぞろぞろと来て、曲げ物の小ばちを出して求めた。

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村落むらものんでるうしろから木陰こかげたゝずんで乞食こじきがぞろ/\と曲物まげもの小鉢こばちして要求えうきうした。

「よき、それ、いいかげんにするもんだよ、お前は」

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「よき、それえゝ加減かげんにするもんだよりや」

おつぎは、まだ茶わんを放さない与吉の手を引いた。

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おつぎはまだ茶碗ちやわんはなさない與吉よきちいた。

「待ってろお前ら、そんなにさわり出さないで、汚い」

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つてろ、さうだにさはりねえで、小穢こぎたねえ」

「こいつら、お前らにやりそこねたことはありゃしない。それにそんなにさわぎやがって。うるさい奴らだ、待ってるもんだ」

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此奴等こねやつられはぐつたこたりやしねえ、それにさうだにさわぎやがつて、五月繩うるせ奴等やつらつてるもんだ」

「そうれ、お前らへ注いでやるのに、そんな小ばちなんぞおけの上へ突き出させちゃかなわないな。それ、だらだらたれるじゃないか。しゃくしをそっちへ押し出してやるもんだ」

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「そうれお前等めえらえでんのにそんな小鉢こばちなんぞをけうへ突出つんださせちやへねえな、それだらだらツらあ、柄杓ひしやくそつちへおんしてるもんだ」

下駄をはいて立った氏子の総代らが、こじきをしかったり当番に注意したりした。

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下駄げた穿いてつた氏子うぢこ總代等そうだいら乞食こじきしかつたり當番たうばん注意ちういしたりした。

神主たちが石の鳥居を出て行った後は、しばらくして人も散って、鳥居のわきには大きな文字を書いた白木綿ののぼりが高くつっ立って、ばさばさと鳴っていた。

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神官等しんくわんらいし華表とりゐつたのちしばらくしてひとつて、華表とりゐそばにはおほきな文字もじあらはした白木綿しろもめん幟旗のぼりばたたかつてばさ/\とつてた。

散らばった人々は、そのくせそこにぽつん、ここにぽつんと固まって立っているのだった。

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散亂さんらんした人々ひと/″\くせ其處そこにぼつゝり此處ここにぼつゝりとかたまつてつてるのであつた。

しばらくして短い日がかたむいた。

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しばらくしてみじかかたむいた。

神社の森をつつんで、時雨の雲が東の空いっぱいに広がった。

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やしろもりつゝんで時雨しぐれくもひがしそらぱいひろがつた。

濃いねずみ色の雲はすごい勢いで人にせまって来るようで、しかもくっきりと森をうかび上がらせた。

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濃厚のうこう鼠色ねずみいろくもすごひとせまつてるやうで、しかもくつきりともりかした。

かっと横からさす日の光が、そのすごい雲の色をやや和らげて、ビロードのようななめらかな感じを与えた。

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かつとよこかけひかりすごくもいろやゝやはらげて天鵞絨びろうどのやうななめらかなかんじをあたへた。

さらにくすんだ赤いけやきのえだにもふしぎな色を出させて、ことにそのあいだにまじったかえでの大木は、これも冴えないえだに日は全力を注いで、おどろくほど荘厳で、しかもあざやかな光を放たせた。

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さらにくすんだあかけやきこずゑにも微妙びめう色彩しきさい發揮はつきせしめて、ことあひだまじつたもみぢ大樹たいじゆこれえないこずゑ全力ぜんりよく傾注けいちゆうしておどろくべき莊嚴さうごん鮮麗せんれいひかり放射はうしやせしめた。

時雨の雲にうつるかえでのえだは、はっきりとうかび上がっていながら、ビロードの地に深くしみこんでいるようにも見えた。

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時雨しぐれくもえいずるもみぢこずゑ確然かくぜんあがつてながら天鵞絨びろうどふかんでやうにもえた。

その前に空をささえて立った二本の白い柱は、のぼりだった。

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まへそらさゝへてつた二でうしろはしら幟旗のぼりばたであつた。

のぼりは止まずばたばたとひるがえった。

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幟旗のぼりばたまずばた/\とひるがへつた。

さらに急にごうっと立った風に、森のえだの葉は散り乱れて、あざやかな光を保ちながら空中にひらめいた。

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さらにはかにごつとつたかぜもりこずゑ散亂さんらんしてあざやかなひかりたもちながら空中くうちうひらめいた。

数分の後、あたりはたちまち暗い光につつまれて、時雨がざあっと来た。

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數分時すうふんじのち世間せけんたちまちに暗澹あんたんたるひかりつゝまれて時雨しぐれがざあとた。

村のどこにも、晴れ着のすがたを見なくなった。

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村落むら何處どこにも晴衣はれぎ姿すがたなくつた。

おつぎは与吉を連れて、とっくに帰っていたのだった。

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おつぎは與吉よきちれてとつくにかへつてたのであつた。

夜になって雨がやんだ。

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よるつてあめんだ。

村の者はだんだんに、瞽女がとまった小さな店の近くへ集まって、戸口の近くに立った。

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村落むらもの段々だん/\瞽女ごぜとまつた小店こみせちかくへあつまつて戸口とぐちちかつた。

戸はすべて開け放って、しょうじも外してある。

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こと/″\開放あけはなつて障子しやうじはづしてある。

瞽女はそれぞれ晩ごはんをもらいに出かけた後だった。

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瞽女ごぜ各自かくじ晩餐ばんさんもとめてつたあとであつた。

瞽女は村から村の「まち」

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瞽女ごぜ村落むらから村落むらの「まち」

をわたって歩いて、毎年とめてもらう宿を決めて、それから村じゅうを一けんずつ歌って歩くあいだに、ところどころで一人分ずつの晩ごはんのごちそうを承知してもらっておく。

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わたつてあるいて毎年まいねんめてもら宿やどついてそれから村落中むらぢう戸毎こごとうたうてあるあひだに、處々ところ/″\一人分いちにんぶんづゝの晩餐ばんさん馳走ちそう承諾しようだくしてもらつてく。

それで彼女たちは、夜の時こくが来ると、目の見える手引きがだんだんとその家々に配って歩く。

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それで彼等かれらよる時刻じこくると、目明めあき手曳てびきがだんだんと家々いへ/\くばつてあるく。

そしてはまた、手引きがそれを集めて連れ立って帰って来る。

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さうしては手曳てびきがそれをあつめてれてかへつてる。

目の不自由な彼女たちは、やっとのことで自分の行く家に着いても、板の間のはしなどにぽつんとしておぜんの運ばれるのを待っているので、みんなのおなかが満たされてふたたびつえにすがるまでには、面倒な時間がかかるのである。

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不自由ふじいう彼等かれらやうやくのことで自分じぶんもとめるいへいてもいたはしなどにぽつさりとしてぜんはこばれるのをつてるので一どうはら滿たされてふたゝつゑすがるまでには面倒めんだう時間じかんえうするのである。

小さな店の座敷には、瞽女の大きな荷物とふくろに入れた三味線が置いてあって、さびしく見えていた。

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小店こみせ座敷ざしきには瞽女ごぜおほきな荷物にもつふくろれた三味線さみせんとがいてあつてさびしくえてた。

ただ一人の巫女が、彼女たち独特の態度でしゃんと正座して、そのいつでも放さない荷物を前に置いて、すわっているのだった。

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たゞ一人ひとり巫女くちよせ彼等かれら特有とくいう態度たいどたもつて正座しやうざつて、何時いつでもはなさない荷物にもつまへいてしやんとすわつてるのであつた。

表には村の者がだんだん増えて、土間から座敷へ上がる者もあった。

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おもてには村落むらものやうやえて土間どまから座敷ざしきあがものもあつた。

彼らはわけもなく、ただ、さわぎはじめた。

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彼等かれら理由わけもなしにたゞさわぎはじめた。

彼らは沼のあしのように、集まればたがいにただざわざわとさわぐのである。

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彼等かれら沼邊ぬまべあしのやうにあつまればたがひたゞざわ/\とさわぐのである。

巫女はかなりのおばあさんだったので、おしろいをつけた瞽女たちに向けるようなからかいの言葉は、彼らのあいだからは出なかった。

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巫女くちよせはかなりのばあさんであつたので、白粉おしろいつけた瞽女等ごぜらむかつて揶揄からかやう言辭ことば彼等かれらあひだにははつせられなかつた。

「どうだい、口寄せを一つやってみないかい」

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「どうしたえ、口寄くちよせひとつやつてねえかえ」

大ぜいの中から言い出した者があった。

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大勢おほぜいうちからしたものがあつた。

あしの葉先が小さな風にもなびくように、この一言でみんながぞよぞよとまたさわいだ。

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あし葉末はずゑ微風びふうにもなびけられるやうこのためみなぞよ/\とまたさわいだ。

人々の中には、おつぎもまじっていた。

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群集ぐんしふうちにはおつぎもまじつてた。

若い衆らはさっきからそれに目をつけていたが

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わか衆等しゆら先刻さつきからそれに注目ちうもくしてたが

「どうした、あいつのことを寄せてみようじゃないか」

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「どうした、彼奴等あいつらことせてんべぢやねえか」

「おつぎのことを出してみようじゃないか」

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「おつぎことしてんべぢやねえか」

彼らはひそひそとこっそり申し合わせた。

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彼等かれらはひそ/\とひそかしめあはせた。

「寄せてみようとよ」

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せてんべえと」

人々の後ろのほうからどなった。

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群集ぐんしふうしろはうから呶鳴どなつた。

「そんじゃこっちへ出なさいな」

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「そんぢや此方こつちさつせえな」

店の女房は言った。

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みせ女房にようばうはいつた。

人々は一気に元気づいて、巫女のひざの近くまでぎっしりと座敷をうめた。

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群集ぐんしふは一威勢ゐせいがついて巫女くちよせひざちかくまでぎつしりと座敷ざしきふさいだ。

勘次もおつぎも、座敷で窮くつにすわっていた。

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勘次かんじもおつぎも座敷ざしき窮屈きうくつずまひをしてた。

店の女房は、少しはげたぬりぼんに水をいっぱいくんだごはん茶わんを乗せて

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みせ女房にようばうすこげた塗盆ぬりぼんみづを一ぱいんだ飯茶碗めしぢやわんせて

「ちょっとお前ら、どいてくれないか」

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「ちつとおめえ退しやつてくんねえか」

と言いながら、人々のあいだを足さぐりで歩いて、巫女のおばあさんの前に置いた。

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といひながら人々ひと/″\あひだ足探あしさぐりにあるいて巫女くちよせばあさんのまへいた。

「そんじゃだれだろう、寄せるのは」

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「そんぢやだれだんべ、せんな」

女房は立ったままみんなを見回して、にっこりとして言った。

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女房にようばうつたまゝどう見廻みまはして嫣然にこりとしていつた。

それでもしばらくは、みんなが口をつぐんでいた。

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それでもしばらくはすべてがくちつぐんでた。

巫女のおばあさんは、箱を包んだ荷物をそのまま自分のひざに引きよせて待っている。

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巫女くせよせばあさんははこつゝんだ荷物にもつそのまゝ自分じぶんひざきつけてつてる。

「おれがやろう、そんじゃ」

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れやんべ、そんぢや」

若い衆の一人がおばあさんの前へ出て

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わかしゆ一人ひとりばあさんのまへ

「おれは生きてる人の口を寄せてみたいんだが、いくらだろう、一口は」

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生口いきぐちせててえんだが、いくらだんべ一口ひとくちは」

「五銭ずつでさ」

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「五せんづゝでさ」

巫女のおばあさんは落ち着いて言った。

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巫女くちよせばあさんは落付おちついていつた。

「これはただ黙っていていいんだったっけかな」

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たゞだまつてゝえゝんだつけかな」

と言うと

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といふと

「いいんだよ、それで。自分が思ってた人が出て来るんだから」

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「えゝんだよそんで、自分じぶんおもつてたのんだから」

「こよりをこしらえて水をかき回せばいいんだよ」

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「かんぜんよりこせえてみづまあせば、えゝんだよ」

そばから、巫女のおばあさんが言うのも待たずに口を出した。

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そばから巫女くちよせばあさんのいふのもたずにくちした。

「三度でいいんだったっけかな」

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「三でえゝんだつけかな」

おばあさんの前にすわった一人は後ろのほうを向いて言って、彼は不器用なこよりをこしらえて、その先を茶わんの水にひたして三度ていねいにかき回して、そのままこよりを水にひたしておいた。

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ばあさんのまへすわつた一人ひとりうしろはういていつてかれ不器用ぶきよう紙捻こよりこしらへてさき茶碗ちやわんみづひたして三丁寧ていねいまはしてまゝ紙捻こよりみづひたしていた。

「見ろよ、近ごろさっぱり来てくれないが、おれのことがいやにでもなったんじゃないかなんて出るから」

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ろよ、近頃ちかごろ薩張さつぱりてくんねえが、れことにでもつたんぢやねえかなんてつから」

と、店の女房は冗談を言った。

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みせ女房にようばう戯談ぜうだんまじへた。

巫女はしばらく手を合わせて口の中で何か念じていたが、風呂しき包みのまま箱に両ひじをついて、だんだんに国じゅうの神々の名を呼んで、この場に集めるという意味を、なれた言い方で調子を取って言った。

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巫女くちよせしばらあはせてくちなかなにねんじてたが風呂敷包ふろしきづゝみまゝはこ兩肘りやうひぢいて段々だん/\諸國しよこく神々かみ/″\んで、一あつめるといふ意味いみ熟練じゆくれんしたいひかた調子てうしをとつていつた。

がやがやとさわいでいた家の中も外も、どちらもしんとなった。

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がや/\とさわいでいへ内外ないぐわいともにひつそりとつた。

「よしきりが土用に入ったみたいに、ぴったり静かになっちまったな」

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行々子よしきり土用どようえつたてえに、ぴつたりしつちやつたな」

とどなった者があった。

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呶鳴どなつたものがあつた。

やっと静まった人々は、しばらくどよめいた。

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やうやしづまつた群集ぐんしふ少時しばしどよめいた。

しかしすぐにまた静まった。

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しかすぐしづまつた。

「白紙たより水たより、こよりたよりにい……」

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白紙しらがみ手頼たよみづ手頼たより、紙捻こより手頼たよりにい……」

と、巫女のおばあさんの声は、前歯が少し欠けているために区切りがややはっきりしないが、それでもつっかえずにずんずんと言葉を追って行った。

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巫女くちよせばあさんのこゑ前齒まへばすこけてため句切くきりやゝ不明ふめいであるがそれでも澁滯じふたいすることなくずん/\とうてつた。

ななめに茶わんの水に立ったこよりが、だんだん水を吸って、うなずいたようにくたりとなった。

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なゝめ茶碗ちやわんみづつた紙捻こよりがだん/\にみづうて點頭うなづいたやうにくたりとつた。

「どうせよ一つにはなれぬ身を、別れたいとは思えども……」

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「どうせよ一つにやれぬを、わかれたいとはおもへども……」

とみんなの耳にひびいたとき、「出た、出た」

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と一どうみゝひゞいたときた/\」

と、静まっていた人々の中から声が上がった。

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しづまつて群集ぐんしふなかからこゑはつせられた。

巫女のおばあさんはついているひじを少し動かして、乗り気になった。

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巫女くちよせばあさんはついひぢすこうごかして乘地のりぢつた。

「おれが我が身と言ったとて、自由自在になるならば、今日の巫女も要るまいにい……」

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れがというたとて、自由自儘じいうじまゝるならば、今日けふ巫女あづさるまいにい……」

おばあさんは同じような言葉をくり返した。

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ばあさんはおなじやうな反覆くりかへした。

「出たところで、もっとしゃべらせろよ」

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ところでまつと饒舌しやべらせろえ」

と、一人がさらにこよりを持って水をかき回した。

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一人ひとりさら紙捻こよりつてみづまはした。

「こよりがくたくたして言うことを聞かないや」

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「かんぜんよりくた/\してふことかねえや」

と言いながら、彼は手を止めた。

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いひながらかれめた。

「おれが心はこうなれど、怒るまいぞえ見捨てまい、たがいに顔も合わせたら、言葉もかけてくださろう……」

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れがよこゝろはこうなれど、おこるまえぞえ見棄みすてまえ、たがひかほあはせたら、言辭ことばけてくだされよう……」

巫女はときどき調子を張り上げて言った。

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巫女くちよせ時々とき/″\調子てうしげていつた。

「そうだそうだ、そうでなくちゃおとっつあんが泣くぞ」

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「さうださうだ、そんでなくつちやおとつゝあくぞ」

人々の後ろからどなった。

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群集ぐんしふうしろから呶鳴どなつた。

人々はしばらくまたどよめいたが、一言でも巫女の言うことを聞きのがすまいとして静まった。

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群集ぐんしふ少時しばしたどよめいたが一でも巫女くちよせのいふことをはづすまいとしてしづまつた。

巫女のおばあさんのしせいが箱をはなれて元にもどったとき、おさえつけられたようになっていたみんなが、急にがやがやとさわぎ出した。

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巫女くちよせばあさんの姿勢しせいはこはなれて以前いぜんふくしたとき抑壓よくあつされたやうにつてすべてがにはかにがや/\とさわした。

彼らは絶えず勘次とおつぎに向けて冷たい笑いを浴びせていたのだが、しかしそれを知らない二人は、ただじっとしていた。

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彼等かれらえず勘次かんじとおつぎとにたいして冷笑れいせうあびけてゐるのであつたが、しかしそれをらぬ二人ふたりたゞ凝然ぢつとしてた。

みんながさわぐ中で、そうしている二人のようすは、わざとらしく見えるほど目立っていた。

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すべてがさわあひだつてさうして二人ふたり容子ようすわざとらしくえるまで際立きわだつてた。

巫女の唱えたことだけでは、いたずらな若い衆のねらいも知らない二人には、自分たちのことを言われているとは気づくはずがなかったのである。

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巫女くちよせとなへたことだけでは惡戯いたづらわかしゆ意志こゝろらない二人ふたりには自分等じぶんらがいはれてることゝはこゝろづくはずがなかつたのである。

人々の後ろのほうからの急なさわぎが、内側にも伝わった。

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群集ぐんしふうしろはうからのにはかさわぎが内側うちがはおよんだ。

晩ごはんを済まして、瞽女が手を引かれて来たところなのである。

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晩餐ばんさんまして瞽女ごぜれてところなのである。

それを若い衆がからかい半分に、道を開けてやろうとしては、開けまいとしてさわいだのだった。

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それをわかしゆ揶揄半分からかひはんぶんみちひらいてやらうとしてはるまいとしてさわいだのであつた。

瞽女があぶなっかしく、やっと座敷へ上がったとき

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瞽女ごぜ危險相あぶなさうにしてやうや座敷ざしきあがつたとき

「目も見えないのに、そんなに押し回すなよ」

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えねえのにさうだに押廻おしまはすなえ」

瞽女の後についてゆき、座敷のはしまで割りこんで来た近所のおじいさんが言った。

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瞽女ごぜあといて座敷ざしきはしまで割込わりこんで近所きんじよぢいさんさんがいつた。

若い衆らはただ

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わか衆等しゆらたゞ

「ほういほうい」

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「ほうい/\」

と作り声ではやした。

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假聲こわいろはやした。

おじいさんは勘次がそばにいたのを見つけて

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ぢいさんは勘次かんじそばたのをつけて

「なあ、勘次さん、これで若い者のほうがいいからな」

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「なあ、勘次かんじさん、こんでわけえものゝところがえゝかんな」

と言いかけた。

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といひけた。

外ではふたたびはやし立ててさわいだ。

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そとではふたゝはやてゝさわいだ。

白い手ぬぐいを、まげの後ろが少し見えるようにかぶった瞽女が増えたので、座敷は急に生き生きとなった。

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しろ手拭てぬぐひまげうしろすこあらはれた瞽女被ごぜかぶりにして瞽女ごぜえたので座敷ざしきにはかいきたやうにつた。

瞽女は一つに固まって、なるべくランプの明るい光をさけようとしている。

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瞽女ごぜひとつにかたまつてるべくランプのあかるいひかりけようとしてる。

その態度を心にくく思う若い衆が

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態度たいど心憎こゝろにくおもわかしゆ

「おれはその手ぬぐいをかぶってこっちを向いてる姐さんのことを寄せてみたいもんだな」

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手拭てぬげかぶつてこつちいてる姐樣あねさまことせててえもんだな」

と、立ちふさがったかげから瞽女の一人にからかって言った者がある。

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ふさがつたかげから瞽女ごぜ一人ひとり揶揄からかつていつたものがある。

「何とか言うか、寄せてみな」

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んちいかせてせえ」

さっきのおじいさんは言った。

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先刻さつきぢいさんはいつた。

彼の顔にはあばたが深くついている。

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かれかほには痘痕あばたふかいんしてる。

「どうした、寄せてみるのか。そんなら、おれがこよりをこしらえてやろうかい」

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「どうしたせてんのか、そんだられかんぜんよりこせえてやつかれえ」

おじいさんがさらに言ったとき、返事がなかった。

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ぢいさんがさらにいつたとき返辭へんじがなかつた。

「ええ、情けない奴らだな」

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「えゝ、なさけねえ奴等やつらだな」

おじいさんはひねりかけた紙を捨てた。

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ぢいさんはかけかみてた。

店先の駄菓子を入れた台を、がたがたと動かす者があった。

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店先みせさき駄菓子だぐわしれた店臺みせだいをがた/\とうごかすものがあつた。

「菓子なんぞまたぬすんじまうなよ。うん、そっちのほうの酒だるの所にも立ってて、飲み口でも引っこ抜かないでもらおうぞ、みんな」

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菓子くわしなんぞまたつちやへねえぞ、うむ、そつちのはう酒樽さかだるとこにもつてゝぐちでもつこかねえでもらあべえぞ、みんな」

と、あばたのおじいさんは独り乗り気になって言うのだった。

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痘痕あばたぢいさんはひと乘地のりぢつていふのであつた。

「そうじゃないんだよ。台が自分で歩き出しはじめたから、おれがおさえたところなんだよ」

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「さうぢやねえんだよ、店臺みせでえ自分じぶんあるはじまつたからつかめえたとこなんだよ」

「いいから、ガラスでもぶちこわさないようにしろよ。こっちのおかみさんに怒られるから」

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「えゝからガラスでもおつかねえやうにしろえ、此方こつちのおつかさまにおこられつから」

「そんでも台は四つの足へ何かはいてら。土なべに片口に皿だ。どれもどれもよく欠けてらあ」

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「そんでも店臺みせでえは四つあしなに穿いてら、土鍋どなべ片口かたくちさらだ、どれも/\けてらあ」

「どこらか歩いて来たと見えて、足がほこりだらけだと」

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何處どこらかあるいてたとえてあしほこりだらけだと」

二、三人の声で冗談を返した。

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二三にんこゑ戯談ぜうだんかへした。

家の中と外のむっとした空気が、ますますざわついた。

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いへ内外うちそとのむつとした空氣くうきます/\ざわついた。

店の台へは、暑いころにはありがおそって来るのをきらって、四つの足へさらやどんぶりをはかせて、いつも水を入れておくのを忘れないのだった。

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店臺みせだいへはあつころにはありおそふのをいとうて四つのあしさらどんぶりるゐ穿かせて始終しじうみづたゝへてくことをおこたらないのであつた。

「どれ、だれも寄せないなら、おれでも寄せてみようかい」

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「どうれ、だれせねえけりやれでもせてんべかえ」

後ろのほうから一人進んで来た者があった。

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うしろはうから一人ひとりすゝんでたものがあつた。

「ただじゃだめだぞ」

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たゞぢや駄目だめだぞ」

あばたのおじいさんは、すぐによけいなことを言った。

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痘痕あばたぢいさんはぐにらぬことをいつた。

「そんじゃ困ったなあ。お前、どうした、おばあさんのことを死んだ人の口でも寄せてみないか」

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「そんぢやこまつたなあ、おめえどうしたばあさまこと死口しにぐちでもせてねえか」

「おれはいやだよ。待ってるから早く来てくれなんて言われた日には、縁起でもないから」

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だよ、つてつからはやてくろなんてはれたにや縁起えんぎでもねえから」

おじいさんはつめで頭をかいた。

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ぢいさんはつめあたまいた。

「ひどくお前、近ごろぼさぼさしちまってるんだな。ああいうおばあさんでもこいしがってるせいじゃあるまい。髪までぬけたようだな」

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ひどくおめえ近頃ちかごろぽさ/\しつちやつてんだな、あゝだばゞあでもこがれてる所爲せゐぢやあんめえ、頭髮あたままでぬけやうだな」

ひょうきんな相手は、おじいさんの頭に手をかけてゆさゆさと動かした。

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剽輕へうきん相手あひてぢいさんのあたまかけてゆさ/\とうごかした。

乗り気になっていたおじいさんは、少し白いまくでおおわれたような目を見開いて、やや口ごもった。

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乘地のりぢつてぢいさんはすこしろまくもつおほはれたやうみはつてやゝ辟易へきえきした。

「大豆打ちにひっくり返ったみたいに、顔じゅうあなだらけにしてなあ」

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大豆打でえづぶちにかつころがつたてえに面中つらぢうめどだらけにしてなあ」

ひょうきんな相手は、ますます悪口をたくましくした。

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剽輕へうきん相手あひてます/\惡口あくこうたくましくした。

人々は、ひと声終わるごとに笑いどよめいた。

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群衆ぐんしふ一聲ひとこゑをはごとわらひどよめいた。

「ばかを言え、そんなやわらかい顔で風のふく所を歩けるもんじゃない」

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篦棒べらぼう、さうだやつけえつらかぜとこあるけるもんぢやねえ」

おじいさんはむきになって言った。

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ぢいさんはむきにつていつた。

「どうした、赤い手ぬぐいをかぶらされただろう」

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「どうしたあけ手拭てねげかぶらせらつたんべえ」

「おれはそんな手ぬぐいなんざ、かぶったことはないよ」

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らさうだ手拭てねげなんざあかぶつたこたねえよ」

「そんでも、ほうそうの神さまは赤い手ぬぐいが好きだというそうだな」

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「そんでも疱瘡神はうそうがみあけ手拭てねげきだつちげな」

「そんだって、おれはかぶらないよ」

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「そんだつてかぶんねえよ」

あばたのおじいさんは、すっかりしおれてしまった。

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痘痕あばたぢいさんはすつかりしをれてしまつた。

人々はみなおなかをかかえた。

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群集ぐんしふみなはらかゝへた。

「どれ、おれは帰ってごぼうでもこしらえよう。明日、てんびん棒をかついで出るのにさしつかえらあ」

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「どうれ、けえつて牛蒡ごぼうでもこせえべえ、明日あした天秤棒てんびんぼうかついで支障さはりにならあ」

ひょうきんな相手は、思い出したように言った。

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剽輕へうきん相手あひておもしたやうにいつた。

「どうせ、お前らのように紺屋の弟子みたいな手足の者は、ごぼうでもかついで歩くのにはちょうどよかろう」

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「どうせ、おめえやうに紺屋こんや弟子でしてえな手足てあし牛蒡ごばうでもかついであるくのにや丁度ちやうどよかんべ」

仕返しでもできたようなようすで、おじいさんは言った。

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復讎ふくしうでも仕得しえたやうな容子ようすぢいさんはいつた。

「元手の二円二分くらいで、これで子どもらまで四、五人の命をつないで行くのには、赤い手ぬぐいでもかぶってるようなのんきな気持ちじゃいられないからな」

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資本もとでの二りやうぐれえでこんで餓鬼奴等がきめらまでにや四五にんいのちつないでくのにやあけ手拭てねげでもかぶつてるやう放心うつかりした料簡れうけんぢやらんねえかんな」

彼はまたおじいさんの頭に手をかけて言って、ついと行ってしまった。

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かれぢいさんのあたまけていつてついとつてしまつた。

後では、波が岩に打ちつけるようにしばらくさわいだ。

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あとではなみいはちつけるやうしばらくさわいだ。

若い女はみな十分に笑って、またあばたのおじいさんをつくづく見ては思い出して、たもとで口をおおった。

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わかをんなみなぶんわらつて、また痘痕あばたぢいさんを熟々つく/″\てはおもしてたもとくちおほうた。

とうとうきまり悪そうにして、おじいさんも去ってしまった。

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到頭たうとうきま惡相わるさうにしてぢいさんもつてしまつた。

「この箱の中には何が入ってるんだ。人形だって本当かね」

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はこなかにやなんだねえつてんなあ、人形坊にんぎやうばうだつて本當ほんたうかね」

前のほうにいた若い衆が、巫女の荷物に手をかけて言った。

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まへはうわかしゆ巫女くちよせ荷物にもつかけていつた。

「なあに、今じゃ幣束だとよ」

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「なあにいまぢや幣束へいそくだとよ」

と、ほかの者が言った。

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ものがいつた。

「これは見せられないんでさ。これを見られると、どれほど寄せてみても当たらなくなっちまってね。自分がいないあいだに見られても、きっと分かるんでさ」

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せらんねえんでさ、られつと何程なんぼせててもあたんなくなつちやつてね、自分じぶんねえらつても屹度きつとれんでさ」

おばあさんは、風呂しきをめくりかけた若い衆の手をそっと払って言った。

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ばあさんは風呂敷ふろしきまくかけわかしゆをそつとはらつていつた。

すると

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さうすると

「見せられないよ、それが種だから」

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せらんねえよ、れがたねだから」

とどなった者があった。

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呶鳴どなつたものがあつた。

そんなさわぎをしているあいだに、何度ももじもじと体を動かしていた勘次は、思い切っておばあさんの前へ進んだ。

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さういふさわぎをして幾度いくどかもぢ/\と身體からだうごかして勘次かんじおもつてばあさんのまへすゝんだ。

「わしに一つ寄せてみておくんなせえ。死んだ人の口でがす」

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「わしげ一つせてておくんなせえ、死口しにぐちでがさ」

「そんじゃ、笹の葉を折って来ておくんなせえ」

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「そんぢやさゝつちよつてておくんなせえ」

巫女のおばあさんは言った。

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巫女くちよせばあさんはいつた。

「こっちで折ってやろう」

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此方こつちつちよつてんべ」

と勘次が立ちかけたとき、後ろのほうでどなった。

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勘次かんじかけときうしろはう呶鳴どなつた。

しばらくして、小さな竹の葉が手から手へわたされて、茶わんの水の中に置かれた。

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しばらくしてちひさなたけからつたへられて茶碗ちやわんみづなかかれた。

みんなはふたたび静まった。

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どうふたゝしづまつた。

勘次は竹の葉で茶わんの水を三度かき回して、そっと手を放した。

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勘次かんじたけもつ茶碗ちやわんみづを三まはしてそつとはなした。

ランプの光に、竹の葉は水から出た部分は青く、水にしずんだ部分は水銀のように白く光った。

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ランプのひかりたけみづから部分ぶぶんあをく、みづぼつした部分ぶぶん水銀すゐぎんのやうにしろひかつた。

巫女のおばあさんは、さっきと同じように箱にひじをついて

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巫女くちよせばあさんは先刻さつきおなじくはこひぢいて

「よく呼び出してくれたぞよう……」

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してくれたぞよう……」

と、決まったような言葉をくり返しながら、まだ十分に意味をなさないうちに、勘次はきちんとすわったひざへ両手を棒のようについて、ぐったりと頭をうなだれた。

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きまつたやうな反覆くりかへしつゝまだ十ぶん意味いみさないのに勘次かんじ整然ちやんすわつたひざ兩手りやうてぼうのやうにいてぐつたりとかしられた。

おつぎもしおらしくうつむいた。

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おつぎもしをらしく俯向うつむいた。

島田に結ったおつぎの髪が、明るいランプに光った。

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島田しまだうたおつぎの頭髮かみかるいランプにひかつた。

おつぎは特別に勘次にゆるされて、夜明け前に鬼怒川のわたしをこえて、仲間といっしょに髪結いの所へ行ったのだった。

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おつぎはとく勘次かんじゆるされて未明みめい鬼怒川きぬがはわたしえて朋輩同志ほうばいどうしとも髮結かみゆひもとつたのであつた。

まげには油がよくのっていて、上手にかけた金のかざりが少しざらりとゆれた。

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まげにはあぶらつて上手じやうずけた金房きんぶさすこしざらりとして動搖ゆらめいた。

巫女が次第に言葉を追って行くうちに

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巫女くちよせ漸次ぜんじうてくうちに

「すがたはかくれて出てみれば、何も知るまいと思うだろうが、おれはその身のそばには、日々毎日ついてるぞ。雨は降らねどみになり、かさになりてよ……」

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姿すがたかくれてれば、なにるまいとおもだろが、れはところへは、日日ひにち毎日まいにちついてるぞ、あめらねどみのり、かさりてよ……」

と、巫女の声は前歯が少し欠けているのに、一つにはみんながしんとしてせきばらいもしないせいだろうが、とてもはっきりと聞き取れた。

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巫女くちよせこゑ前齒まへばすこけたにもかゝはらず、一つには一どうがひつそりとして咳拂せきばらひをもせぬせいであらうがきはめて明瞭めいれうきとられた。

「一度ならず、二度三度、ふしぎを起こさせて知らせたに……」

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「一ならず、二不思議ふしぎたせてらせたに……」

おばあさんの声がつづいてひびいた。

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ばあさんのこゑついひゞいた。

勘次もおつぎも、ただじっとしているだけである。

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勘次かんじもおつぎもたゞ凝然ぢつとしてるのみである。

「おれが元気でいるならば……」

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れが達者たつしやるならば……」

という言葉が読まれたと思うと、やがて

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といふまれたとおもふとやが

「くれるほどの心なら、ほんに苦労でも大変でも、つぼみの花を散らさずに、どうかさかせてくだされよう……」

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れるよほどこゝろなら、ほんに苦勞くろでも大儀たいぎでも、つぼみはならさずに、どうかかせてくだされよう……」

なれた声の調子が、そうでなくても興味を持っているみんなの耳に、しみじみとひびいた。

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熟練じゆくれんしたこゑ調子てうしが、さうでなくても興味きようみつてる一どうみゝにしみじみとひゞいた。

「からすの鳴かない日はあれど、草葉のかげで……」

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からすかないはあれど、草葉くさばかげで……」

おばあさんが自分の声に乗って来たとき、勘次はぼろぼろとなみだをこぼした。

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ばあさんが自分じぶんこゑつてとき勘次かんじはぼろ/\となみだこぼした。

おつぎもそっとなみだをふいた。

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おつぎもそつとなみだぬぐつた。

「ほんの仮の場のことなれば、これにておれは帰るぞよう……」

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「ほんの假座かりざのことなれば、れにてれはかへるぞよう……」

それからまた

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それからまた

「からすの鳴きがそうでなくもう……」

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からすきがそでなくもう……」

とくり返しながら、巫女のおばあさんの声は軽く引いて、そっとぬいたように止んだ。

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反覆くりかへしつゝ巫女くちよせばあさんのこゑかるいてそつといたやうにんだ。

「おれは済まない」

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まねえ」

勘次はぽつんと言って、またなみだを横にふいた。

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勘次かんじはぽつさりといつてまたなみだよこぬぐつた。

「本当に出たんだよ。こわいようだな」

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本當ほんたうたんだよ、可怖おつかねえやうだな」

そこにいた若い女の人は、しみじみと言った。

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其處そこわか女房にようばうはしみ/″\といつた。

それからつづいて、ほかの二、三人が身の上や生きている人の口を寄せた。

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それからつゞいての二三にんうへやら生口いきぐちやらをせた。

そして座敷のすみにいた瞽女が代わって、三味線のふくろをすっとしごき下ろしたとき、巫女は荷物の箱を背負って、自分のとまった宿へ帰って行った。

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さうして座敷ざしきすみ瞽女ごぜかはつて三味線さみせんふくろをすつときおろしたとき巫女くちよせ荷物にもつはこ脊負しよつて自分じぶんとまつた宿やどかへつてつた。

三味線のばちが一度弦にふれると、しんみりとした座敷が急に元気づいて、ランプの光が急に明るくなったようだった。

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三味線さみせんばちが一いとれるとしんみりとした座敷ざしききふいきほひづいてランプのひかりにはかあかるいやうにつた。

勘次はそれを聞くにたえられないで、彼はその夜にかぎって、自分で与吉の手を引いて自分の家へと、暗やみの中へ身をしずめた。

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勘次かんじはそれをくにへないで、かれかぎつて自分じぶん與吉よきちいて自分じぶんうちへとやみなかぼつした。

若い衆は三人の後ろすがたを見て

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わかしゆうは三にん後姿うしろすがた

「こおろぎじゃないが、口を鳴らさないじゃいられないな」

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きりぎりすぢやねえが、くちらさねえぢやらんねえな」

と言った。

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といつた。

「そんだが、今夜はしみじみ泣いたんじゃないかい。何でもお品さんのことはどれほどおしいか知れないのだからな」

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「そんだが、今夜こんやはしみ/″\いたんぢやねえけ、あんでもおしなさんこた何程なんぼしいかんねえのがだかんな」

「今だってその話をするといくらでもしてるんだからな」

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いまだつてそのはなしすつといくらでもしてんだかんな」

「そんだがよ、さっきみたいに泣いてるのに、悪口なんぞ言うのはばちが当たるよなあ」

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「そんだがよ、先刻さつきてえにいてんのに惡口わるくちなんぞいふなつみだよなあ」

と、若い女の人たちはそれでもしんみりと言った。

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わか女房等にようばうらはそれでもしんみりといつた。

その夜からしばらくのあいだ、勘次は前とはちがって、おつぎを独りで出してやることがあるようになった。

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からしばらくのあひだ勘次かんじ以前いぜんとはかはつておつぎをひとはなしてすことがやうつた。

そうかと思っているうちに、村じゅうがまた、勘次のおつぎに対する態度がすっかり元にもどったことを認めずにはいられなくなった。

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さうかとおもつてうち村落中むらぢう勘次かんじのおつぎにたいする態度たいどまつた以前いぜんかへつたことをみとめずにはられなくなつた。

村の目は、勢いねたみとうたがい、それから新しく起こったできごとに対するような興味をもって、勘次に注がれることになった。

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村落むらいきほ嫉妬しつと猜忌さいぎとそれからあらたおこつた事件じけんたいするやうな興味きようみとをもつ勘次かんじうへそゝがれねばならなかつた。

一六

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十六

勘次はほとんど何かあるたびに冷たい目で見られていたのだが、しかしそれがいやな気持ちを彼に与えるよりも、彼のふところにいくらかのゆとりができて来たことが、すべての不満をおぎなってあまりあることだった。

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勘次かんじほとんど事毎ことごと冷笑れいせうまなこもつられてるのであつたがしかしそれがいや感情かんじやうかれあたへるよりも、かれかれふところ幾分いくぶん餘裕よゆうしやうじてたことがすべての不滿ふまんつぐなうてなほあまりあることであつた。

お品がまだ生きていたころ、となりの主人のおかみさんに向かって

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しながまだきてころとなり主人しゆじん内儀かみさんにむかつて

「おかみさんらは何の心配もなくて、晴れ晴れとしているんでございましょうね」

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「お内儀かみさんなんにも心配しんぺえなんざくつて晴々せい/\としてんでござんせうね」

とお品はつくづく言ったことがある。

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しなはつく/″\といつたことがある。

「なぜそんなことを言うんだい」

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何故なぜそんなこといふんだい」

おかみさんがふしぎに思って聞いたら

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内儀かみさんはあやしんでいたら

「そんでも、おかみさんらは食べる心配なんざちっともないんだから。わたしはそうだと思ってさ」

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「そんでもお内儀かみさんべる心配しんぺえなんざちつともねえんだから、わたしやさうだとおもつてせえ」

お品は言った。

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しなはいつた。

おかみさんは、なるほどそういう気持ちでいるのかと、それからいろいろと身分なりの苦労が絶えないことを話して聞かせると

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内儀かみさんは成程なるほどさういふ心持こゝろもちるのかと、それから種々いろ/\身分みぶん相應さうおう苦勞くらうまぬことをはなしかせると

「そうでございましょうかね、おかみさん。わたしらはまた、明けても暮れても足りない足りないの心配ばかりしてるんだから、そういうことのない人は心配なんてないんだとばかり思ってたんでございますよ。ねえ本当に」

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「さうでござんせうかねお内儀かみさん、わたしまたけてもれてもんねえの心配しんぺえばかしゝてんだから、さういことねえひと心配しんぺえなんちやねえんだとばかしおもつてたんでござんすよ、ねえ本當ほんたうに」

お品は感心したように言ったのだった。

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しなかんへたやうにいつたのであつた。

お品がそれほど苦労した食べ物の問題が、その死後四、五年間のみじめな暮らしから、やっと解決に向かおうとしたのである。

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しながそれほど苦勞くらうした米穀べいこく問題もんだい死後しご四五年間ねんかん惨憺さんたんたる境遇きやうぐうからやうや解決かいけつげられようとしたのである。

彼は毎年冬から、まだ草木の芽の出ない春までのうちに、彼らにしてはおどろくほど大きな四、五十円をかせげるのだった。

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かれ毎年まいねんふゆからまだ草木さうもくさぬはるまでのうち彼等かれらにしてはおどろくべき巨額きよがくの四五十ゑんるのであつた。

それは古い借金のあなに消えるにしても、彼は土間のにわとりのねぐらの下に、三人が安心できるだけの食べ物を用意しておけるようになった。

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れはふる創痍さういあなとうぜられるにしてもかれ土間どまにはとりとやしたに三にん安心あんしんしてるだけの食料しよくれうもとめてくことが出來できやうつた。

おつぎは二十になり、与吉は学校へ通うようになった。

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おつぎは二十はたちこゑいて與吉よきち學校がくかうやうつた。

彼は絶えず何かをさがすような、しかもかくした心の中の何かを知られまいというような、見苦しい顔つきを村の中でさらす必要が、やっと少なくなって来た。

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かれえずあるものさがすやうなしか隱蔽いんぺいした心裏しんりあるものられまいといふやうな、不見目みじめ容貌ようばう村落むらうちさら必要ひつえうやうやげんじてた。

彼はだんだんに、仲間に向かって、前のようにこせこせと必要以上に遠りょする態度がなくなった。

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かれ段々だん/\彼等かれら伴侶なかまむかつて以前いぜんごとくこせ/\といたづらに遠慮ゑんりよした態度たいどがなくなつた。

彼は村じゅうに向けていたおそれの気持ちを、すっかり東どなりの家族にだけささげてしまった。

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かれ村落むらすべてにむかつてはらつた恐怖きようふねんことごと東隣ひがしどなり家族かぞくにのみさゝげてしまつた。

そのあいだ、彼と卯平とはただ一度会ったきりである。

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あひだかれ卯平うへいとはたゞくわいつたのみである。

卯平は、お品の三年目のお盆にふいと来て、ふいと去ったのである。

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卯平うへいはおしなが三年目ねんめぼんにふいとてふいとつたのである。

卯平は八十に近くなっていながら、おそろしく丈夫な体で、髪は白く、そして少なくなったが、はだにはつやがあった。

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卯平うへいは八十にちかつてながらおそろしい岩疊がんでふ身體からだかみしろかつすくなつたが肌膚はだには潤澤じゆんたくがあつた。

卯平は夜は火の番をしても、暑い日には庭の草むしりをしたり、ほかの蔵への使いに行ったり、いくらかいそがしさを感じても、使いに行けば必ずお茶菓子を包んでもらったり、手ぬぐいをもらったり、それから主人からは給料以外のごほうびがあったりするので、少しせつやくすればふところに小銭をためておくこともできたのだが、彼はよくコップ酒を飲んだので、彼のふところにはけっしてゆとりが残らなかった。

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卯平うへいよるばんをしてもあつにはには草挘くさむしりをしたり、藏々くら/″\への使つかひにつたり、幾分いくぶんいそがしさをかんじても、使つかひにけば屹度きつと茶菓子ちやぐわしつゝまれたり、手拭てぬぐひもらつたり、それから主人しゆじんからは給料きふれう以外いぐわい賞與しやうよがあつたりするのですこ堅固けんごにすれば、ふところには小錢こぜにたくはへてくことも出來できるのであつたがかれくコツプざけかたむけたのでかれふところけつして餘裕よゆうそんしてはなかつた。

野田はふるさとからわりと近いので、しょうゆ蔵がだんだん大きくなって行くにつれて、やとわれて行く若者が増えて来た。

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野田のだ郷里きやうりからは比較的ひかくてきちかいので醤油藏しやうゆぐら段々だん/\發達はつたつしてくにれてやとはれて壯丁わかものえてた。

ふるさとではやとわれ人の給料が急に上がるほど、どの村からも若者が行った。

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郷里きやうりでは傭人やとひにん給料きふれう暴騰ばうとうしてほどどの村落むらからも壯丁わかものつた。

それがしきりに入れかわるので、卯平は一度しかふるさとの土をふまなくても、いろいろな変化を耳にした。

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れがしきりに交代かうたいされるので、卯平うへいは一しか郷里きやうりつちまなくても種々しゆ/″\變化へんくわみゝにした。

彼はいちばん、おつぎのことが頭にうかぶ。

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かれは一ばんおつぎのことが念頭ねんとううかぶ。

十七の秋に見たおつぎのすがたが、お品によく似ていたことを思い出しては、他人のうわさも聞いてみて、ときどきは会ってもみたい気持ちがした。

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十七のあきたおつぎの姿すがたがおしなくもたことをおもしては、他人ひとうはさいて時々とき/″\つてもたい心持こゝろもちがした。

しかしお品が死んだとき、野田へ発つ間ぎわがよくなかったことを彼自身も後かいしていたので、しいていやな勘次にあいさつをして、一時でも肩身のせまい思いをするのをきらって、つい億くうになるのだった。

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しかしおしなんだとき野田のだへのぎはがよくなかつたことを彼自身かれじしんこゝろにもゆるところがあつたのでひていや勘次かんじ挨拶あいさつをして一時いつときなりとも肩身かたみせまくせねばならないのをいとうてつひ憶劫おくくふるのであつた。

年を重ねるにつれて短く感じる月日が、そんなふうに過ぎて、にごって見えることの多い江戸川の水を行き来する通運丸の、牛がほえるような汽笛も身にしみて、冬の寒さがひどくなると、前からのくせで腰に痛みを感じることがあった。

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年齡としむにしたがつてみじかかんずる月日つきひがさういふあひだ循環じゆんくわんして、くすんでえることのおほ江戸川えどがはみづ往復わうふくする通運丸つううんまるうしえるやうな汽笛きてきみて、ふゆさむさがひどくなると以前いぜんからのくせこし疼痛いたみかんずることがあつた。

蔵のやとわれ人のためにかかえてある医者に見てもらっても、年のせいの病気だから薬を飲んでみたところで、そう効き目があるわけではないが、それでも飲みたけりゃ飲むがいいと言うだけで、特に親身に言ってくれるのでもない。

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くら傭人やとひにんためかゝへてある醫者いしやもらつても、老病らうびやうだからくすりんでところで、さう效驗きゝめえるのではないがそれでも、みたけりやむがいといふのみで別段べつだんみていつてくれるのでもない。

卯平はいくら飲んでも自分のふところが痛まないのだからと思ってみても、医者の言うとおりどうもすっきりしないので、昼間はなるべくふとんにくるまるようにしていた。

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卯平うへいいくんでも自分じぶんふところいたまないのだからとおもつてても醫者いしやのいふとほりどうもはき/\としないので晝間ひるまるべく蒲團ふとんにくるまるやうにしてた。

卯平は年末の奉公人の入れかわりの季節になれば、その持病を苦にして、奉公もどうしたものかと悲観することもあるが、がまんをすればしのげるので、つい居すわりになっているうちに、いつでも春の季節にもどって、町の外れに果てしなく植えられた桃の花がいっぱいに赤くなると、その木かげの麦が青く地面をおおって、江戸川の水をさかのぼる高瀬舟の白いほも暖かく見えて、大きな蔵の建物が空になるほどやとわれ人みんなが桃畑で一日を楽しく過ごすようになれば、病気もけろりと忘れるのがふつうだった。

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卯平うへい年末ねんまつ出代でがはり季節きせつになれば持病ぢびやうにして、奉公ほうこうもどうしたものかと悲觀ひくわんすることもあるが、我慢がまんをすればしのげるのでつひ居据ゐすわりにつてるうちに何時いつでもはる季節きせつかへつて、郊外かうぐわい際涯さいがいもなくうゑられたもゝはなが一ぱいあかくなると木陰こかげむぎあをおほうて、江戸川えどがはみづさかのぼ高瀬船たかせぶね白帆しらほあたたかえて、おほきな藏々くら/″\建物たてものむなしくほどさい傭人やとひにん桃畑もゝばたけに一にち愉快ゆくわいつくすやうになれば病氣びやうきもけそりとわすれるのがれいであつた。

きれい好きな彼は、言われるまでもなく、庭にぽっちりでも草が見えればむしらずにはいられない。

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清潔好きれいずきかれ命令めいれいされるまでもなく、にはにぽつちりでもくさえればむしらずにはられない。

せまくても、きちんとしたやとわれ人部屋のまわりの土にほうきの目を入れて、水をまいてみたり、そこらで作る朝顔の苗をもらって、どんな形にでも鉢へ植えてみたりしていると、奉公もつらくは思わないのだった。

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狹苦せまくるしいにしてもきちんとした傭人部屋やとひにんべや周圍しうゐつち箒目はうきめれてみづでもつてたり、其處そこらでつく朝顏あさがほなへもらつてどんな姿なりにもはちうゑたりしてると奉公ほうこうつらくもおもはないのであつた。

それも二、三年のあいだで、ふつうの人間ならもうとても役にも立たない年になっているので、たとえ彼の暮らしが楽をゆるさないためにこうして気持ちの上で健康が保たれているのだとしても、彼の年老いた体は日ごとに、はらがへってつかれた体を回復するために食べるわずかな満足が、そのたびごとに先の見えている彼を引っぱって、その行く先へ導いているのである。

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それも二三ねんあひだ普通ふつう人間にんげんならばもう到底たうていやくにもたぬ年齡ねんれいたつしてるので、假令たとひかれ境遇きやうぐう安佚あんいつゆるさないためうして精神的せいしんてき健康けんかうたもたれてるのだとしても、かれ老躯らうく日毎ひごと空腹くうふくから疲勞ひらうするため食料しよくれう攝取せつしゆするわづか滿足まんぞく度毎たびごと目先めさきれてるかれらつしてところみちびいてるのである。

また冬が来たとき、彼は今までの腰の痛みとちがう一種の病気ができたように感じた。

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ふゆときかれいままでのこしいたみとちがつた一しゆ疾患しつくわんしやうじたやうにかんじた。

医者はあいかわらずリューマチなのだと言って、寒い夜に火の番をして歩くのは絶対に悪いと言うのだった。

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醫者いしや依然いぜん僂痲質斯レウマチスなのだといつて、さむばんをしてあるくのは絶對ぜつたいわるいといふのであつた。

それでも彼は、がまんできるだけつとめた。

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それでもかれ我慢がまん出來できるだけつとめた。

入れかわりの季節が来たとき、彼はまたしきりに迷ったが、どうもそこを去ってしまうのがおしい気持ちもするし、ためらってまた居すわりになった。

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出代でがはり季節きせつときかれはまたしきりにまどうたが、どうも其處そこつてしまふのがしい心持こゝろもちもするし、逡巡しりごみして居据ゐすわりになつた。

ふるさとから来た者に聞いて、彼は勘次が次第に暮らし向きがよくなりつつあることを知った。

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郷里きやうりからたものにいてかれ勘次かんじ次第しだい順境じゆんきやうおもむきつゝあることをつた。

彼は心がまたゆれて、もろくなった心がひどくあわれっぽく情けなくなった。

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かれこゝろ動搖どうえうしてもろつたこゝろひどあはれつぽくなさけなくなつた。

しかし長いあいだ仲たがいしていた勘次の所へ帰るには、彼は手ぶらではならないということを深く思った。

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しかながあひだ機嫌きげんそこうた勘次かんじもとかへるのにはかれ空手からてではならぬといふことをふかねんとした。

彼はそれからというもの、なるべくコップ酒もひかえてふところを暖めようとした。

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かれそれからといふものるべくコツプざけ節制せつせいしてふところあたゝめようとした。

これまで彼が遠く奉公に出ていて、いくらでもなぐさめの道を見つけていたのは、わりと暖かなふところをほとんど使い切っていたからである。

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從來じうらいかれとほ奉公ほうこういくらでも慰藉ゐしやみち發見はつけんしてたのは割合わりあひあたゝかなふところほとんどつひやしつゝあつたからである。

それで彼は今そう気がついてみても、体を大事にしなくてはならないということが一方にあるので、それが思うようにはいかなかった。

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それでかれいまさうがついてても身體からだ養生やうじやうをしなくてはならぬといふことが一ぱうるのでそれがおもほどにはいかなかつた。

そういう心配も、また春が暖かくなって病気を忘れると、帰ることもそのまま消えてしまうのである。

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さういふ心配しんぱいまたはるあたゝかにつて病氣びやうきわすれるとかへることもまゝ消滅せうめつしてしまふのである。

しかしどうがまんをしてみても、あと何年もつとまらないということを、まわりの人も見ているのである。

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しかしどう我慢がまんをしててもあと幾年いくねんつとまらないといふことを周圍しうゐひとるのである。

ことに長いあいだ野田で暮らして、近所の蔵の親方をしているのがふるさとの近くから出た人なので、自然と知り合いだったが、その人が卯平に引退をすすめた。

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ことながあひだ野田のだ身上しんしやうつて近所きんじよくら親方おやかたをしてるのが郷里きやうりちかくからたので自然しぜん知合しりあひであつたが、それが卯平うへい引退いんたいすゝめた。

彼はふるさとへ何年ぶりかで行くついでもあるし、幸い勘次のことは村にいるうちに知っていたから、相談をして来てやろうと言った。

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かれ故郷こきやう幾年目いくねんめかでついでもあるし、さいは勘次かんじのことは村落むらうちつてたから相談さうだんをしててやらうといつた。

卯平は近ごろめっきりくぼんだ茶色の目をしかめるようにしながら、かすかな笑いをうかべた。

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卯平うへい近頃ちかごろ滅切めつきりくぼんだ茶色ちやいろしかめるやうにしながらかすかなゑみうかべた。

親方が勘次に話をしたとき

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親方おやかた勘次かんじはなしをしたとき

「わしは、なあに、家の者だから面倒を見ないとは言わないね」

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「わしや、なあに、うちのもんだから面倒めんだうねえたはねえね」

勘次は気の乗らない態度で言った。

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勘次かんじあぶららぬ態度たいどでいつた。

「勘次さん、近ごろ暮らし向きがいいという話だが」

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勘次かんじさん近頃ちかごろ工合ぐあひがえゝといふはなしだが」

親方も義理でひととおり言うと

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親方おやかた義理ぎりぺんのやうにいふと

「暮らし向きがいいということもないが、これでも命がけで働いてるんだから、他人には大きなお金になるようにも見えるだろうが、おれにはこれで爺さんの代の借金がぬけないでいるんだから、それさえなけりゃ泣かないでも済むんだよ。そんだが、それでばかり身動きが取れないな」

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工合ぐあひえゝつちこともねえが、んでも命懸いのちがけではたれえてんだから、他人ひとのがにやけえぜねになるやうにもえべが、らにこんで爺樣ぢさまでえ借金しやくきんけねえでんだからそれせえなけりやかねえでもへんだよ、そんだがそれでばかりいごれねえな」

「そんじゃ、そのときには勘次さんも都合がいいわけだね」

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「そんぢや、ときにや勘次かんじさんも理由わけだね」

「そりゃそうだが」

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「そりやさうだが」

勘次はどことなく調子を変えて言った。

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勘次かんじ何處どことなく拍子ひやうしへていつた。

「勘次さんら、それでも穀物はなかなかあるようすだね」

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勘次かんじさんそれでも穀類こくるゐはなか/\容子ようすだね」

つっこんで聞くと

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突込つゝこんでくと

「それくらいなくちゃ仕方がないもの。おれはここへ来たばかりのころには、病気のときでもまるでひきわり麦ばかりのごはんなんぞ出されて、おれはずいぶんつらい目にあったんだよ。これでそういうことは忘れられないもんだからな」

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くれえなくつちややうねえもの、此處ここ當座たうざにや病氣びやうきときでもからつき挽割麥ひきわりばかしのめしなんぞおんされて、隨分ずいぶんつれつたんだよ、こんでさうえこた、わすらんねえもんだかんな」

勘次はとうとう、はっきりしない返事をするばかりだった。

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勘次かんじ到頭たうとう要領えうりやうない返辭へんじをするのみであつた。

蔵の親方は、勘次がどういう気持ちであるかということは、卯平には言わなかった。

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くら親方おやかた勘次かんじがどういふ料簡れうけんであるといふことは卯平うへいへはいはなかつた。

たとえどうであっても勘次の所へ帰らなければならないことに決まっているのだから、それには戸板に乗せて運ぶような病気になるまで奉公させておくよりも、丈夫なうちに休みを取らせて帰してしまえば、あるいは勘次との仲も思ったほど悪くならないだろうと、ほどよいことを卯平に話した。

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假令たとひどうしたところ勘次かんじもとかへらねばならぬことにきまつてるのだから、それには戸板といたせてやるやう病氣びやうきおこるまで奉公ほうこうさせてくよりも、丈夫ぢやうぶなうちにひまらせてかへしてしまへば、あるひ勘次かんじとのあひだおもつたほどのこともないだらうと、ほどよいことに卯平うへいはなした。

卯平はもちろん親方から、家のようすや、おつぎが大人になったことや、近所のことも一つ一つ聞かされた。

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卯平うへいもとより親方おやかたからうち容子ようすやおつぎの成人せいじんしたことや、隣近所となりきんじよのこともちくかされた。

卯平はくぼんだ茶色の目に、暖かな光をたたえた。

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卯平うへいくぼんだ茶色ちやいろあたゝかなひかりたたへた。

卯平は短いあいだだったが、気がついてから心がけたので、さいふにはいくらかのたくわえもあった。

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卯平うへいみじか時間じかんであつたががついてから心掛こゝろがけたので財布さいふにはいくらかのたくはへもあつた。

わずかな着物だが、それでもすすけたように色のあせた風呂しきに大きな包みが二つできた。

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わづか衣物きものであるがそれでもすゝけたやうにめた風呂敷ふろしきおほきなつゝみが二つ出來できた。

一つの、要らないほうは、運河から鬼怒川へ通う高瀬舟にたのんで、自分の村の河岸へ上げてもらうことにして、彼はたばこの一服も忘れないように身につけた。

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一つの不用ふようぶん運河うんがから鬼怒川きぬがはかよ高瀬船たかせぶねたのんで自分じぶん村落むら河岸かしげてもらふことにして、かれ煙草たばこの一ぷくをもわすれないやうにつけた。

彼は股引にわらじをはいて、その大きな風呂しきを背負って発った。

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かれ股引もゝひき草鞋わらぢ穿いて大風呂敷おほぶろしき脊負せおつてつた。

ビールの空きびん二本にいっぱいのしょうゆを、すげ縄でくくって提げた。

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麥酒ビール明罎あきびんほんへ一ぱい醤油しやうゆ莎草繩くゞなはくゝつてげた。

それから彼はまた、せんべいを一ふくろ買った。

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それからかれまた煎餅せんべいを一ふくろつた。

しょうゆと米がいいので、うまいせんべいだった。

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醤油しやうゆこめとがいので佳味うま煎餅せんべいであつた。

彼は三つのときに別れて、五つの秋にちょっと見た与吉が、もう八つか九つになっていると、こう数えてみて、おみやげが買いたくなったのである。

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かれは三つのときわかれて五つのあき一寸ちよつと與吉よきちがもう八つか九つにつてるとかぞへて土産みやげひたくつたのである。

せんべいのふくろは、毎日使っていた手ぬぐいでくくって、荷物のひもにしばりつけた。

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煎餅せんべいふくろ毎日まいにち使つかつて手拭てぬぐひくゝつて荷締にじめのひもしばりつけた。

彼は冬になってまた起こりかけたリューマチをおそれて、とてもゆっくりと歩を運んだ。

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かれふゆになつてまたおこりかけた僂痲質斯レウマチスおそれてきはめてそろ/\とはこんだ。

利根川をわたってからは、かれ木の林がさびしくつづきながら彼をのみこんだ。

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利根川とねがはわたつてからは枯木かれきはやし索寞さくばくとして連續れんぞくしつゝかれんだ。

彼はところどころでのっそりと腰を下ろして、好きなたばこをふかした。

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かれ處々ところ/″\へのつそりとこしおろしてきな煙草たばこをふかした。

荷物を道ばたへ下ろすとき、彼は必ずしばりつけた手ぬぐいの包みに手をかけて、新聞紙のふくろががさがさと鳴るのを聞いて安心した。

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荷物にもつ路傍みちばたおろときかれ屹度きつとしばりつけた手拭てぬぐひつゝみけて新聞紙しんぶんしふくろのがさ/\とるのをいて安心あんしんした。

かれ木の林は、立ちのぼるたばこのけむりが、根の切れたまますっと急いでえだにからんで消えるのもかくさずに、がらんとしている。

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枯木かれきはやしのぼ煙草たばこけぶりれたまゝすつといそいでえだからんで消散せうさんするのもかくさずに空洞からりとしてる。

卯平がじっとしていると、あおじがそっとそっとかわいた落ち葉をふんで彼の近くまで来ては、すいとえだへ飛んだ。

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卯平うへい凝然ぢつとしてると萵雀あをじしのび/\にかわいた落葉おちばんでかれちかくまでてはすいとえだんだ。

彼はまわりにはまったく心を引かれることもなく、たもとのマッチで火をつけてはまたマッチをたもとへ入れて、そしてげっそりと落ちた両ほおの肉が、さらにぴっちりと歯茎に吸いついてしまうまでゆっくりとたばこを吸って、きせるをすっとぬいてからまた歯茎で空気を吸って、けむりといっしょに飲んでしまったかと思うようにごくりとつばを飲んで、それからけむりをはき出すのである。

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かれ周圍しうゐには一さいこゝろかされることもなくたもと燐寸マツチけてはまた燐寸マツチたもといれて、さうしてからげつそりとちた兩頬りやうほゝにくさらにぴつちりと齒齦はぐきすひついてしまふまでゆるりと煙草たばこうて、煙管きせるをすつといてからまた齒齦はぐき空氣くうきうてけぶりと一つにんでしまつたかとおもふやうにごくりとつばんで、それからけぶりすのである。

彼はまわりがさびしいとも何とも思わなかった。

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かれ周圍しうゐさびしいともなんともおもはなかつた。

しかし彼自身は、見るからにかわいてあわれげだった。

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しか彼自身かれじしんるから枯燥こさうしてあはれげであつた。

彼は少しきりきりと痛む腰をのばして、荷物を背負って立った。

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かれすこしきや/\といたこしのばして荷物にもつ脊負せおつてつた。

捨てたマッチの燃えさしが道ばたのかれ草に火をつけて、あざ笑うような火がべろべろと広がっても、見向きもしないほど彼はだるそうである。

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てた燐寸マツチえさしが道端みちばた枯草かれくさけて愚弄ぐろうするやうながべろ/\とひろがつても、見向みむかうともせぬほどかれものうげである。

野田からは四十キロに足りない平地の道を、鬼怒川ぞいの自分の村まで来るのに、冬の短い日は雑木林のえだの上で彼を待たなかった。

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野田のだからは十らぬ平地へいちみち鬼怒川きぬがは沿うた自分じぶん村落むらまでるのに、ふゆみじか雜木林ざふきばやしこずゑかれたなかつた。

彼が自分の家に着いたときには、しょうゆを提げた手が痛いほど冷えていた。

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かれ自分じぶんいへいたとき醤油しやうゆげたいたほどえてた。

彼はやっとのことで戸口に立った。

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かれやつとのことで戸口とぐちつた。

勘次を呼ぼうとしてみたら、中はしんとして暗い。

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勘次かんじばうとしてたらうちはひつそりとくらい。

戸口に手を当ててみたら、かぎがかけてあった。

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戸口とぐちてゝたらかぎかけてあつた。

「いたかい」

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たかえ」

それでも卯平はどなってみたが、返事がない。

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それでも卯平うへい呶鳴どなつてたが返辭へんじがない。

卯平は口の中でつぶやいて、裏の戸口へ回ってみたら、そこは内からかけ金がかかっている。

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卯平うへいくちうちつぶやいて裏戸口うらとぐちまはつてたら其處そこうちから掛金かけがねかゝつてる。

彼はそれでもきせるを出して、戸のすきまからかけ金をぐっと突いたら、栓がしてなかったのですぐに外れた。

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かれはそれでも煙管きせるして隙間すきまから掛金かけがねをぐつといたらせんさしてなかつたのですぐはづれた。

彼は暗いしきいをまたいで、たもとのマッチをすっとつけた。

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かれくらしきゐまたいでたもと燐寸マツチをすつとけた。

何年いなくても勝手を知っているので、彼は柱にかけてある手ランプをつけて、とりあえず手足を暖めるために、しばをぽちぽちと折って火ばちにくべた。

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幾年いくねんなくても勝手かつてつてるのでかれはしらかけてあるランプをけて、あへ手足てあしあたゝめるため麁朶そだをぽち/\とつて火鉢ひばちべた。

すすけた薬かんを五徳へかけて、それから彼はわらじをぬいだ。

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すゝけた藥罐やくわんを五とくかけてそれからかれ草鞋わらぢをとつた。

かわいた道を歩いて来たので、いくらもよごれない足の底を二、三度ずつ手でこすって、座敷へ上がった。

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かわいたみちあるいてたのでいくらもよごれないあしそこを二三づゝでこすつて座敷ざしきあがつた。

勘次は南の家のおふろへ行っていた。

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勘次かんじみなみ風呂ふろつてた。

彼は昼はわずかのひまもおしんで働くので、一つにはそれが夜なべの仕事にはげめないほどのつかれを感じさせているのでもあるが、少しふところに余ゆうができてからは、長い夜の休みの時間にはめったに縄をなうこともなく、おふろに行ってはよく話をしながら出がらしのお茶をすすった。

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かれひる寸暇すんかをもをしんで勞働らうどうをするので一つにはれがなべの仕事しごとはげないほど疲勞ひらうおぼえしめてるのでもあるが、すこふところ窮屈きうくつでなくなつてからはなが休憇時間きうけいじかんには滅多めつたなはふこともなく風呂ふろつてははなしをしながら出殼でがらちやすゝつた。

その夜、与吉は南の家の女房から、はっかの入った駄菓子を二つばかりもらった。

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その與吉よきちみなみ女房にようばうから薄荷はくかはひつた駄菓子だぐわしを二つばかりもらつた。

裏のかきねから桑畑をこえて歩きながら、与吉は菓子をなめた。

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うら垣根かきねから桑畑くはばたけえてあるきながら與吉よきち菓子くわししやぶつた。

「どれ、おれにもちょっと出してみないか」

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「どれ、おれげもちつとだしねえか」

おつぎは与吉の手から少し欠いて、自分の口へ入れた。

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おつぎは與吉よきちからすこいて自分じぶんくちれた。

「姉ちゃんは大きく欠いちゃいやだぞう」

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ねえかくおつえちやだぞう」

与吉が心配して言うと

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與吉よきち懸念けねんしていふと

「ああはっかだ、これは。口の中がすうすうすらあ。おとっつあんにもやってみろ」

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「おゝ薄荷はくかだこら、くちなかすう/\すら、おとつゝあげもつてろ」

おつぎがまた菓子に手をかけようとすると

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おつぎは菓子くわしけようとすると

「いいから、よきになめさせろ」

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「えゝから、よきげめさせろ」

勘次はおつぎを止めた。

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勘次かんじはおつぎをせいした。

三人は他人の目のない暗い夜の細い道を、こうして自分の庭へもどった。

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にん他人ひといてない闇夜やみよ小徑こみちうして自分じぶんにはもどつた。

「どうしたんだろう、おとっつあん」

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「どうしたんだんべ、おとつゝあ」

おつぎは戸のすきまからさす明かりを見て、急に立ち止まって言った。

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おつぎは隙間すきまからあかりをにはかどまつていつた。

勘次はすくんだようになって黙った。

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勘次かんじすくんだやうにつてだまつた。

おつぎは戸のすきまからのぞいて

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おつぎは隙間すきまからのぞいて

「爺さんみたいだな、おとっつあん」

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ぢいてえだな、おとつゝあ」

と小声で告げた。

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小聲こごゑげた。

それから勘次ものぞいて、かぎを外して入った。

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それから勘次かんじのぞいて、かぎはづして這入はひつた。

与吉は見知らないおじいさんがいるので、はずかしがっておつぎの後ろへかくれた。

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與吉よきち見識みしらぬぢいさんがるのではにかんでおつぎのうしろかくれた。

「爺さんだ」

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ぢいだ」

と、おつぎは叫んで卯平のそばへ寄った。

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とおつぎはさけんで卯平うへいそばつた。

「爺さんは今日来たのか」

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ぢい今日けふたのか」

おつぎのあいさつにつづいて

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おつぎの挨拶あいさつつゞいて

「おとっつあん、おそかったな」

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「おとつゝあおそかつたな」

勘次も言った。

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勘次かんじもいつた。

「出るのもそんなに早くはなかったっけが、しばらく歩きなれないせいか、なんぼにも足が出ないで、こんなにおそくなるつもりもなかったっけが」

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だすのもそんなにはやかなかつたつけが、しばらあるきつけねえ所爲せゐかなんぼにもあしねえで、かういにおそくなるつもりもなかつたつけが」

卯平は重い口で言った。

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卯平うへいおもくちでいつた。

「よっぽど待っていたか、爺さんは」

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ぽどつてゝかぢいは」

おつぎは、しばを折り足しながら言った。

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おつぎは麁朶そだしながらいつた。

「火をふきつけたばかりよ」

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ひいつたけたばかりよ」

卯平は、そのくぼんだ茶色の目をしかめるようにして

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卯平うへいくぼんだ茶色ちやいろしかめるるやうにして

「おつうも大きくなったな。とちゅうでなんぞ行き会っちゃ分からないな。そんだが、お前はさすがにおれのことは忘れなかったっけな」

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「おつうもかくなつたな、途中とちうでなんぞ行逢いきやつちやわかんねえな、そんだがりや有繋まさかれこたわすれなかつたつけな」

「忘れまいな、爺さんは」

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わすれめえなぢいは」

おつぎは卯平に対して、こそばゆい一まいの皮が間をへだてているような感じがしていながら、そのくせ甘えたような口ぶりで言って、ちゅうちゅうと鳴り出した薬かんに手をかけた。

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おつぎは卯平うへいたいしてこそつぱい一かはあひだへだてゝるやうなかんじがしてながら、くせあまえたやうしたでいつてちう/\とした藥罐やくわんけた。

卯平は、おつぎのあいさつを今さらのようにしみじみとうれしく感じた。

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卯平うへいはおつぎの挨拶あいさつ今更いまさらごとくしみ/″\とうれしくかんじた。

卯平は、お品が死んで三年目のお盆に来たとき、不器用なようすの彼がどうして思いついたのか、おつぎへ花かんざしを一つ買って来た。

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卯平うへいはおしなんで三年目ねんめぼんとき不器用ぶきよう容子ようすかれがどうしておもひついたかおつぎへ花簪はなかんざしを一つつてた。

十七のおつぎが、どれほどそれをよろこんだか知れなかった。

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十七のおつぎがどれほどそれをよろこんだかれなかつた。

おつぎはけっしてそれを忘れなかった。

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おつぎはけつしてそれをわすれなかつた。

「爺さんにお茶を入れよう」

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ぢいげおちやえべえ」

おつぎは立って茶わんを洗った。

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おつぎはつて茶碗ちやわんあらつた。

卯平は濃いきりでふさがれた森の中へふみこむような、一種の不安を感じながら来たのだったが、彼はおつぎのふるまいに心が晴れ晴れとした。

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卯平うへい濃霧のうむふさがれたもりなか踏込ふみこむやうな一しゆ不安ふあんかんじつゝたのであつたが、かれはおつぎの仕打しうちこゝろ晴々せい/\した。

卯平は、まだ菓子をなめながらかくれるようにしている与吉を見て

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卯平うへいは、まだ菓子くわししやぶりながらかくれるやうにして與吉よきち

「おれのことを忘れただろう、これは。大きくなったと思って来たっけが、本当に分からないほど大きくなったな」

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れことわすれたんべら、かくつたとおもつてたつけが本當ほんたうわかんねえほどかくつたな」

口数の少ない卯平が、この夜はいろいろにしゃべった。

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寡言むくち卯平うへい種々いろ/\饒舌しやべつた。

「これでも学校へ行くんだもの」

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んでも學校がくかうくんだもの」

おつぎはお茶を入れながら言った。

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おつぎはちやれながらいつた。

「そうら」

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「さうら」

と、卯平は荷物にしばりつけたせんべいの包みを、与吉へ投げ出してやった。

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卯平うへい荷物にもつしばりつけた煎餅せんべいつゝみ與吉よきちしてやつた。

「おつう、手ぬぐいを解いてみないか。野田でも一番うまいんだから」

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「おつう、手拭てねげえてねえか、野田のだでも一ばんうめえんだから」

卯平は言ったが、おつぎの手が手間取るので、自分で手ぬぐいを解いて勘次の前へ出して、彼はさらに一まいを取って与吉にやった。

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卯平うへいはいつたがおつぎのひまどれるので自分じぶん手拭てぬぐひいて勘次かんじまへして、かれさらに一まいをとつて與吉よきちつた。

「よき、それをもらうもんだ。爺さんがくれるというのに」

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「よき、それもらあもんだ。ぢいれるつちのに」

おつぎは茶わんを卯平と勘次の前に置きながら言った。

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おつぎは茶碗ちやわん卯平うへい勘次かんじとのまへゑつゝいつた。

「こっちへ上がってもらうもんだ」

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「こつちへあがつてもらあもんだ」

勘次も言った。

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勘次かんじもいつた。

土間に立っていた与吉は、そっとぞうりをぬいで、あぶなっかしく手を出して取った。

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土間どまつて與吉よきちはそつと草履ざうりいで危險相あぶなさうしてとつた。

そしてすぐに、ぬすむようにかじった。

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さうしてぐにぬすむやうにんだ。

「遠くのほうのだぞ。お前、うまかろう」

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とほくのはうのがんだぞ、われうまかんべ」

おつぎは自分も一まいかじりながら言った。

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おつぎは自分じぶんも一まいかじながらいつた。

「うまくないや、そんなに」

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「うまかねえやそんなに」

与吉はおつぎのたもとへかくれるようにして言った。

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與吉よきちはおつぎのたもとかくれるやうにしていつた。

甘みの強い菓子をかんだ口で、しかもしょうゆの味を見分けるまで育った舌を持たない与吉は、卯平が遠くから持って来たと聞かされたほどには感じなかったのである。

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甘味あまみつよ菓子くわしんだくちに、さうして醤油しやうゆあぢ區別くべつするまで發達はつたつしたしたたない與吉よきち卯平うへいとほもたらしたとかせられたほどにはかんじなかつたのである。

「そんなこと言うもんじゃない。そんなら姉ちゃんによこしちまえ」

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其麽そんなこといふもんぢやねえ、そんだらねえげよこしつちめえ」

おつぎは小さな声で言って、しり目に見た。

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おつぎはちひさなこゑでいつて尻目しりめけた。

与吉はそう言われながら、手にした分だけはぽりぽりとかじった。

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與吉よきちはさういひながにしただけはぽり/\とんだ。

かわいた音が、三人の口で鳴った。

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乾燥かんさうしたひゞきが三にんくちつた。

卯平は何ばいも、ただお茶をすすった。

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卯平うへい幾杯いくはいたゞちやすゝつた。

丈夫だといっても、彼は歯がげっそりとぬけて、やわらかい物でなければかめなくなっていた。

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壯健たつしやだといつてもかれがげつそりとちてやはらかなものでなければめなくなつてた。

卯平はまた、おつぎへしょうゆのびんを出して

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卯平うへいまたおつぎへ醤油しやうゆびんして

「おれが持って来ればなんぼでもわけないんだが、荷物があるもんだから、これっきりしか持っては来られなかった。これでもおれは、蔵じゃこれ以上のはないんだ。炊事はお前がするんだろうから、お前がそっちへしまっておけな」

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つてればなんぼでもわけねえんだが荷物にもつがあるもんだから、れつきりしかつちやねえつちやつた、んでもくらぢやこのうへはねえんだ、炊事かしきわれすんだんべから、われそつちへしまつてけな」

「大変だったな、爺さん。荷物があるのになあ。これだけじゃしばらくもつだろうよ」

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大變たえへんだつけなぢい荷物にもつあんのになあ、れだけぢやしばらくあんべよ」

おつぎはびんを柱のそばへ置いた。

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おつぎはびんはしらそばいた。

「荷物はそうでもないが、体が利かないでな、どうも」

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荷物にもつはさうでもねえが、身體からだかねえでな、どうも」

卯平はきせるをかんだ。

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卯平うへい煙管きせるんだ。

「爺さんはどうしただろう。ごはんを食べたんだろうか」

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ぢいはどうしたつぺ、おまんまたべたんべか」

おつぎは、わざと言いかけるという態度でもなく、勘次に向かって言った。

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おつぎはあへていひけるといふ態度たいどでもなく勘次かんじむかつていつた。

「おれはどっちでもいいや」

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「おらどつちでもえゝや」

卯平は少しえんりょをまじえて言った。

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卯平うへいすこ遠慮ゑんりよまじへていつた。

「どっちでもいいって、おなかがへっちゃ仕方があるまいな」

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「どつちでもえゝつてはらつちやしやうあんめえな」

おつぎは茶わんとはしをたなから下ろした。

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おつぎは茶碗ちやわんはしとをたなからおろした。

「菜っぱのつけたのはどうしただろう」

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つけたなどうしたんべ」

おつぎはふり返って聞いた。

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おつぎはかへりみていた。

「おれは要らないや。歯が悪くなっちまってかめないから」

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らねえや、わるくなつちやつてまんねえから」

「そんじゃ細かくきざんだらどうだろう」

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「そんぢやこまかくきざんだらどうしたんべ」

おつぎはとんとんとほうちょうを使った。

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おつぎはとん/\と庖丁はうちやう使つかつた。

「おしるがまあ、ちっとも実なんざないや。よき、お前がみんないもをすくっちまったな」

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「おつけまあ、ちつともなんざねえや、よきわれみんないもすくつちやつたな」

おつぎはなべぶたを取って言った。

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おつぎは鍋葢なべぶたをとつていつた。

「おしるも何も要らないから、一ぱいかき込もう」

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「おつけなにらねえから一ぺえんべ」

卯平はじれったそうに言った。

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卯平うへい遲緩もどかさうにいつた。

「そんじゃ、このしょうゆをかけてみような」

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「そんぢやこの醤油しやうゆけてんべな」

おつぎは卯平の前におぜんを置いて、びんのしょうゆをつけ菜にかけた。

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おつぎは卯平うへいまへぜんゑてびん醤油しやうゆ菜漬なづけけた。

「それ、底のほうへ回ってこぼれらあな」

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「それ、そこはうまはつてこぼれらな」

勘次はさっきから、怒ったようなはずかしがったような、なんだか落ち着きの悪い手持ちぶさたな顔をして、かえって自分をじっと見もしない卯平の目からそれるように、よそを見てはまたちらと卯平を見ていたが、このときおつぎの手元に口をはさんだ。

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勘次かんじ先刻さつきから、おこつたやうなはにかんだやうな、なんだか落付おちつきわる手持てもちのないかほをして、かへつ自分じぶんをば凝然ぢいつもせぬ卯平うへいかられるやうに、餘所よそてはまたちらと卯平うへいつゝあつたがこのときおつぎの手許てもとくちばしれた。

そのとき、しょうゆがごっと出てつけ菜がひたるほどになった。

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とき醤油しやうゆがごつと菜漬なづけたゞよふばかりにつた。

「そうれ見ろ」

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「そうれろ」

勘次はそっけなく言った。

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勘次かんじはそつけなくいつた。

おつぎがびんをまた柱のそばへ置くと

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おつぎがびんふたゝはしらそばくと、

「まだそこでひっくり返しちゃ大変だぞ。戸だなへでも入れておけ」

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「まだ其處そこつくるけえしちや大變たえへんだぞ、戸棚とだなへでもえてけ」

勘次はまた注意した。

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勘次かんじ注意ちういした。

卯平は薬かんの湯を注いで、三ばいを食べた。

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卯平うへい藥罐やくわんいで三ばいきつした。

わずかにしょうゆの味だけが、数年来の彼の舌にうまさを失わせなかったが、ひきわり麦の多いあらいごはんは、歯茎ではとてもかみくだけないので、ざらざらしたまま飲み下した。

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わづか醤油しやうゆあぢのみが數年來すうねんらいかれした好味かうみたるをうしなはなかつたが、挽割麥ひきわりむぎつた粗剛こはめし齒齦はぐき到底たうていそれを咀嚼そしやくあたはぬのでこそつぱいまゝくだした。

おつぎがおぜんを下げようとすると

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おつぎがぜんかうとすると

「そのしょうゆは捨てないで、大事にしておけ」

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醤油しやうゆ打棄うつちやらねえで大事でえじにしてけ」

勘次は小皿の数てきをおしんだ。

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勘次かんじ小皿こざら數滴すうてきをしんだ。

「そんなこと言わなくたって、捨てる者もあるまいな」

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其麽そんなことはねえつたつて打棄うつちやるもなあんめえな」

おつぎは、口出しの多すぎる勘次の注意がいやだと思うよりも、久しぶりに会った卯平のそばで言われるのがきまり悪いので、喉の底でつぶやいた。

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おつぎは干渉かんせふぎた勘次かんじ注意ちういいやだとおもふよりも、たま/\つた卯平うへいそばでいはれるのがきまりがわるいのでのどそこつぶやいた。

「姉ちゃん、もう一まいくれないか」

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ねえいまめえくんねえか」

与吉は流し場で手を動かしているおつぎに、とても小さな声でねだった。

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與吉よきちながもとうごかしてるおつぎへきはめてちひさなこゑ請求せいきうした。

「お前は、さっきうまくないなんて言うもんじゃない。すぐほしくなるくせに」

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りや、そつから佳味うまかねえなんていふもんぢやねえ、しくなるくせに」

おつぎはこっそりしかった。

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おつぎはこつそりしかつた。

「そうら、お前に買って来たんだ。ほしけりゃいくらでも持って行け」

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「そうらわれつてたんだ、しけりやいくらでもつてけ」

卯平は不器用な言い方をしながら、せんべいを取ってやった。

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卯平うへい不器用ぶきようないひかたをしながら煎餅せんべいをとつてつた。

与吉はそれでも、くぼんだ目をしかめている卯平がまだこわくて、指の先で下くちびるを口の中へ押しこむようにしながら、ひたい越しに卯平を見た。

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與吉よきちはそれでもくぼんだしがめて卯平うへいがまだこそつぱくてゆびさき下唇したくちびるくちなかむやうにしながら額越ひたひごしに卯平うへいた。

一七

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十七

次の朝、与吉はまだみんなのおぜんが置かれないうちから、学校へ行くといってさわいだ。

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つぎあさ與吉よきちはまだみなぜんゑられぬうちから學校がくかうくとてはさわいだ。

村の生徒たちは、登校が早いことを先生からひと言でもほめられたいので、慌てなくてもいいのに、しるも煮立たないうちからせかすのである。

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村落むら生徒等せいとら登校とうかうはやいことを教師けうしからたゞごんでもめられてたいので、あわてなくてもいのにしる煮立にたたぬうちから強請せがむのである。

与吉はこれで、毎朝おつぎからうるさがられていた。

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與吉よきちれで毎朝まいあさおつぎから五月蝿うるさがられてた。

与吉は風呂しき包みを背負って、おつぎにべんとうを包んでもらいながら

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與吉よきち風呂敷包ふろしきづゝみ脊負せおつておつぎに辨當べんたうつゝんでもらひながら

「せんべいをくれないか」

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煎餅せんべいくんねえか」

とねだった。

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要求えいきうした。

「まだそんなこと。そんだからお前には見せられないというんだ。爺さんに怒られるから見ろ」

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「まださうだこと、そんだからわれげはせらんねえつちんだ、ぢいおこられつからろ」

おつぎはしかってふり返らなかった。

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おつぎはしかつてかへりみなかつた。

勘次はそのとき、外のかべぎわに積んだ木の根をぱかりぱかりと割っていた。

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勘次かんじときそと壁際かべぎはんだをぱかり/\とつてた。

卯平は一日歩いたつかれがひどく出たようでもあるし、また自分の村へ帰ったので心がゆったりしたようでもあるし、それにこの数年は火の番のくせで朝はゆっくりしているのがふつうだったので、彼はそのとき、ふとんの中でじっと目を開いておつぎが働いているのを見ていたが

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卯平うへいは一にちあるいた草臥くたびれひどたやうでもあるし、また自分じぶん村落むらかへつたのでこゝろ悠長のんびりとしたやうでもあるし、それに數年來すうねんらいばんくせあさはゆつくりとしてるのがれいであつたので、かれとき蒲團ふとんなか凝然ぢついておつぎのはたらいてるのをたが

「ほしいというんなら出してやれ」

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しいつちんだらしてれえ」

と彼は言った。

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かれはいつた。

おつぎは戸だなからせんべいを一まい出して、与吉にわたした。

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おつぎは戸棚とだなから煎餅せんべいを一まいして與吉よきちわたした。

与吉はすっとうばうようにして取った。

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與吉よきちはすつとうばやうにしてつた。

「しらばくれて」

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「しらばつくれて」

おつぎは、ななめに背負った本の上から与吉をぱたとたたいた。

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おつぎはなゝめ脊負せおつた書藉しよせきうへから與吉よきちをぱたとたゝいた。

与吉は霜が白くおおった庭を、小さな下駄でからからと鳴らしながら、逃げるようにかけて行った。

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與吉よきちしもしろおほうにはちひさな下駄げたでから/\とらしながらげるやうにけてつた。

卯平はくぼんだ目をしかめて、一種の暖かな表情を見せて与吉の後ろすがたを見た。

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卯平うへいくぼんだしがめて一しゆあたゝかな表情へうじやうしめして與吉よきち後姿うしろすがたた。

勘次は割ったたきぎを草かりかごに入れて、かまどの前に置いて朝ごはんのおぜんに向かって、一ぱいを盛った。

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勘次かんじつたまき草刈籠くさかりかごれてかまどまへいて朝餉あさげぜんむかつて、一わんつた。

おつぎは気がついたように

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おつぎはがついたやう

「爺さんのことを起こそうか」

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ぢいことおこすべか」

と言って、勘次が返事しないうちに

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といつて勘次かんじ返辭へんじせぬうち

「爺さん、ごはんができたよ」

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ぢい、おまんま出來できたよ」

と卯平を呼んだ。

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卯平うへいんだ。

「先にやってくれよ」

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さきやつてくろえ」

卯平はそう言って、しばらくしてからふとんを出て井戸ばたへ行った。

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卯平うへいはさういつてしばらつてから蒲團ふとん井戸端ゐどばたつた。

卯平は何年ぶりかで、冷たい水で顔を洗った。

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卯平うへい幾年目いくねんめかでつめたいみづかほあらつた。

彼は近ごろにない早起きをしたので、霜の白い庭に立って、こわばった足のつま先が痛くなるほど冷たいのを感じた。

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かれ近來きんらいにない晨起はやおきをしたので、しもしろにはつてこはばつたあし爪先つまさきいたくなるほどつめたいのをかんじた。

火ばちのそばにすわってもたばこの火もないので、彼は自分でかまどの下の燃えさしを灰のまま取った。

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火鉢ひばちそばすわつても煙草たばこもないのでかれ自分じぶんかまどしたえさしをはひまゝとつた。

おつぎは勘次がたばこを吸わないので、ちょっとたばこの火を取ることにまでは気づかなかった。

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おつぎは勘次かんじ煙草たばこはないので一寸ちよつと煙草たばこをとることにまでは心附こゝろづかなかつた。

野田ではいつもかんかんと固い炭をおこして、湯はいくらでもわいて、夜でも部屋の中から火の気が絶えることはないのである。

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野田のだでは始終しじうかん/\と堅炭かたずみおこしていくらでもたぎつてよるでも室内しつない火氣くわきることはないのである。

卯平はおくれてはしを取ったが、ごはんは暖かいというだけで、大きなかまでたいたようなほどよいやわらかさは保っていないし、しるもその舌にひどくざらついて、しかもまずかった。

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卯平うへいおくれてはしつたが、めしあたゝかいといふまで大釜おほがまいたやうほどよいやはらかさをたもつてはないし、しるしたひどくこそつぱくかつ不味まづかつた。

彼は味噌には、量を増やすためにしょうゆかすがかき混ぜてあることを知った。

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かれ味噌みそには分量ぶんりやうため醤油粕しやうゆかすぜてあることをつた。

勘次はくわを取って立った。

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勘次かんじくはつてつた。

彼は毎日くわを持って出ていたのだが、この日はおつぎを連れて麦畑の冬起こしに出るのだった。

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かれ毎日まいにち唐鍬たうぐはつてるのであつたがはおつぎをれて麥畑むぎばたけ冬墾ふゆばりるのであつた。

卯平は独り、ぽつんと残された。

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卯平うへいひとり㷀然ぽさりのこされた。

丈夫な建物にほうきを入れて清潔に暮らして来た彼は、天井もない屋根裏からすすがたれて、そして雨戸を開けていないうす暗い家の中でじっとしていると、妙に心がしずんだ。

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丈夫ぢやうぶ建物たてものはうきれて清潔せいけつんでかれ天井てんじやうもない屋根裏やねうらからすゝれてさうして雨戸あまどけてない薄闇うすくらいへうち凝然ぢつとしてはめうこゝろ滅入めいつた。

毎日朝から短いじゅばん一つで、熱い湯のおけを右の手で肩にささえてはかけ歩く、元気のいい若者にまじって歌の声を聞いていたのに、一つにはつかれも出たためでもあるが、わずか一日のちがいで、彼は急に年を取ったほどげっそりとやつれたような気持ちになった。

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毎日まいにちあさから尻切襦袢しりきりじゆばん一つで熱湯ねつたうをけみぎかたさゝへてはある威勢ゐせい壯丁わかものあひだまじつてうたこゑきいたのに、一つには草臥くたびれためでもあるがわづかにちへだてかれにはか年齡としをとつたほどげつそりとやつれたやうな心持こゝろもちつた。

みんなのふとんは、ただかべぎわに、はしをめくったまま押しつけてある。

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みな夜具やぐたゞ壁際かべぎははしくつたまゝきつけてある。

卯平はそこをじっと見た。

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卯平うへい其處そこ凝然ぢつた。

箱まくらのくくりは紙で包んでないばかりでなく、生地のしま目も分からないほど汚くあぶらにしみている。

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箱枕はこまくらくゝりはかみつゝんでないばかりでなく、切地きれぢ縞目しまめわからぬほどきたなく脂肪あぶらそまつてる。

土間のかべぎわにつるした竹かごのねぐらには、にわとりのふんがいっぱいにたまったと見えて、いやなにおいが鼻をついた。

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土間どま壁際かべぎはつた竹籃たけかごとやにはにはとりふんが一ぱいたまつたとえて異臭いしうはないた。

卯平は生まれつききれい好きだったが、百姓の暮らしをして、それにひどい貧しさからどうしても汚い物のあいだで寝起きしなければならないので、彼も野田へ行くまではそれを特に気にはしなかったのだが、たとえ何年でも清潔な暮らしをした彼は、生まれつきをさらに強めて一種のくせを身につけた。

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卯平うへい天性清潔好きれいずきであつたが、百姓ひやくしやう生活せいくわつをして、それに非常ひじやう貧乏びんばふから什麽どんなにしてもきたないものあひだ起臥きぐわせねばならぬのでかれ野田のだくまではそれをも別段べつだんにはしなかつたのであるが、假令たとひ幾年いくねんでも清潔せいけつすまひをしたかれ天性てんせい助長じよちやうして一しゆ習慣しふくわんやしなつた。

彼が家に帰ったのは、お品が死んだときも、それから三年目のお盆のときも、家はがらんと清潔になっていて、それほど汚い感じはしなかった。

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かれいへかへつたのはおしなんだときでも、それから三年目ねんめぼんときでもいへ空洞からり清潔きれいつててそれほど汚穢むさかんじはあたへられなかつた。

彼は今、強い暑い日を見上げた目をそらして、急に日かげをさがそうとする者のように、ひどく勝手がちがったのである。

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かれいまさかんあつあふいだはなつてにはか物陰ものかげさがさうとするものゝやうにひど勝手かつてちがつたのである。

彼はしばらく好きなたばこにかかりきっていたが、やっと日が暖かくなりかけたので、まれに生き残っているむかしの仲間や近所へのあいさつかたがた、顔を出すつもりで外へ出た。

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かれしばらすき煙草たばこ屈託くつたくしてたがやうやあたゝかけたので、まれ生存せいぞんして往年わうねん朋輩ほうばい近所きんじよへの義理ぎりかた/″\かほつもりそとた。

勘次とおつぎが昼ごはんに帰って来たとき、卯平はいなかった。

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勘次かんじとおつぎとが晝餐ひるかへつてとき卯平うへいなかつた。

彼は夜になって、のっそりと戸口に立った。

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かれよるつてのつそりと戸口とぐちつた。

勘次が庭へ出ようとして大戸をがらりと開けたとき、卯平とぶつかりそうになった。

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勘次かんじにはようとして大戸おほどをがらりとけたとき卯平うへい衝突つきあたさうつた。

勘次は足元にずるずると横たわったへびを見つけた瞬間のように、ぞっとして下がった。

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勘次かんじあしもとにずる/\とよこたはつたへびつけた刹那せつなごと悚然ぞつとして退去すさつた。

卯平は欠けた歯茎できせるを横にかんでは、くちびるをぎっと閉めると、口がすすきで裂いたように見えた。

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卯平うへいけた齒齦はぐき煙管きせるよこんではくちびるをぎつとめるとくちすゝきいたやうえた。

年を取ってよけいにのっそりした卯平の体は、それでも以前のがっしりした骨組みがそびえて、そばにいる勘次を異様におさえつけた。

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老衰らうすゐしてから餘計よけいにのつそりした卯平うへい身體からだは、それでも以前いぜんのがつしりした骨格ほねぐみそびえてそば勘次かんじ異樣いやうあつした。

卯平は五、六日のあいだ、毎日ただぶらぶらと出ては、夕暮れ近くか、そうでなければ夜になって帰った。

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卯平うへいは五六にちあひだ毎日まいにちたゞぶら/\とては黄昏近たそがれちかくかそれでなければよるつてかへつた。

勘次は毎日、くわを持って林へ出た。

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勘次かんじ毎日まいにち唐鍬たうぐはつてはやした。

おつぎは半纏を引っかけて、おはりの先生へ通った。

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おつぎは半纏はんてん引掛ひつかけてはり師匠しゝやうかよつた。

おつぎはもう何年という長いあいだのことではあるが、それでも決まった月日をつづけておはりにはげむゆとりがなく、やっと手についたかと思うととちゅうで切ったり止めたりするので、思うようには上達しなかった。

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おつぎはもう幾年いくねんといふながあひだのことではあるが、それでもきまつた月日つきひ繼續けいぞくして針仕事はりしごとはげ餘裕よゆうがなくやうやについたかとおもふと途中とちうつたりめたりするのでおもやう上達じやうたつはなかつた。

おつぎはひまをぬすんでは、いっしょうけんめいに針を取った。

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おつぎはひまぬすんでは一生懸命しやうけんめいはりつた。

卯平がのっそりとしてはしを持つのは、毎朝こせこせといそがしい勘次がわらじをはいて出ようとするときである。

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卯平うへいがのつそりとしてはしつのは毎朝まいあさこせ/\といそがしい勘次かんじ草鞋わらぢ穿はいようとするときである。

おつぎは卯平のために火ばちへ炭火をうめてやったり、おひつをそばへ置いたりするので、いくらか時間がおくれる。

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おつぎは卯平うへいため火鉢ひばちおきけてやつたり、おはちそばそなへたりするのでいくらか時間じかんおくれる。

すると勘次は、かついだくわをどさりと置いたり、しきいを出たり入ったり、ただもじもじとしていては、口に出せない何かをおさえるようなおそろしいけんまくでおつぎを見る。勘次はそれでも満足しないで、おつぎのすがたが戸口を出るまで庭に立っていることもある。

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さうすると勘次かんじかついだ唐鍬たうぐはをどさりといたり、しきゐたり這入はひつたり、たゞ忸怩もぢ/\としてては、くちせないあるものつゝむやうなおそろしい權幕けんまくでおつぎをる、勘次かんじはそれでもあきたらないでおつぎの姿すがた戸口とぐちるまではにはつてることもある。

勘次は毎朝出て行く方角がちがうのに、同時に出て行くのを見なければ気が済まないのだった。

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勘次かんじ毎朝まいあさ方面はうめんことなつてるにもかゝはらず、同時どうじつてくのをなければこゝろまないのであつた。

毎朝そうするので

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毎朝まいあささうするので

「おとっつあんは行けな。爺さんのことを見てやらなくちゃなるまいな」

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「おとつゝあはけな、ぢいことてやんなくつちやんめえな」

おつぎはこっそり勘次をたしなめて言うことがある。

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おつぎはひそか勘次かんじたしなめていふことがある。

勘次はおそろしいけんまくでじっと立ったまま、おつぎをにらんで、そして卯平をちらと一目見ては、卯平の目を気にするようにして、さっさとくわをかついで出て行く。

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勘次かんじおそろしい權幕けんまく凝然ぢつつたまゝおつぎをにらんでさうして卯平うへいをちらと一べつしては、卯平うへいはゞかやうにしてさつさと唐鍬たうぐはかついでく。

卯平は自分のためにおつぎがおそくなるときには

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卯平うへい自分じぶんためにおつぎがおそときには

「おれは自分でやるから、お前はかまわないで行けよ」

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自分じぶんでやつからりやかまあねえでけよ」

と、おつぎをせき立てた。

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おつぎをうながてた。

卯平は初めのうちはあちこちへ行っては、自分から求めなくても、しばらく会わなかった間がらで、短い日が落ちるのも知らずに話をしては、百姓なりのそまつなごちそうになるのだったが、だんだんおたがいに珍しくなくなってからは、彼はあまり外へも出ないで、ぽつんとして好きなたばこにばかりかかりきった。

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卯平うへい當座たうざうち其處そこ此處ここらへつては自分じぶんからはもとめないでも、しばらはなかつた間柄あひだがらで、みじかちるのもらずにはなしをしては百姓ひやくしやう相當さうたう不味まづ馳走ちそうるのであつたが、段々だん/\たがひめづらしくなくなつてからはかれあまそとへもないで㷀然ぽつさりとしてきな煙草たばこにのみ屈託くつたくした。

彼は昼ごはんというと、ことに冷たいあらいごはんをきらって、はしを取るのがつらいようでもあった。

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かれ晝飯ひるめしといふとことつめたい粗剛こはめしいとうてはしるのがつらいやうでもあつた。

それで彼はときどき村の店へ行って、とうふ一丁くらいでおなかをふさいだ。

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れでかれ時々とき/″\村落むらみせつて豆腐とうふの一丁位ちやうぐらゐはらふさげた。

皿のとうふをすみからはしでちぎってみては、あまりに冷たいので、腰の痛みを思い出して小さななべを借りて温めた。

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さら豆腐とうふすみからはし拗切ちぎつててはあまりにつめたいので、こしいたみをおもしてちひさななべりてあたゝめた。

そしてはつい一ぱいのお酒がほしくなって、そこでむっつりと時間をつぶした。

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さうしてはつひぱいさけほしくなつて其處そこでむつゝりと時間じかんつぶした。

とうふは彼の歯茎に、いちばん合った食べ物だった。

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豆腐とうふかれ齒齦はぐきもつと適當てきたうした食料しよくれうであつた。

卯平は体が悪くなってからわずかのあいだでも覚ごをしたので、いくらかさいふにたくわえができていた。

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卯平うへい身體からだわるつてからわづかあひだでも覺悟かくごをしたのでいくらでも財布さいふにはたくはへが出來できた。

彼はどれほどせつやくしても、ついにじりじりとへって行くだけのさいふにすがって、すすきで裂いたように閉じたその口で、何でもかみ殺しているのだというようすをして、その日その日を刻んで過ごした。

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かれ何程なにほど節約せつやくしてもつひにじり/\とへつくのみである財布さいふすがつて、すゝきいたやうぢたくちなんでもころしてるのだといふ容子やうすをしてその々々ときざんですごした。

彼は一日じっとして、冷たい火ばちの前にあぐらをかいていることもあった。

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かれは一にち凝然ぢつとしてつめたい火鉢ひばちまへ胡坐あぐらいてることもあつた

与吉は学校から帰って、しんとした家にただ卯平がむっつりとしているのを見ると、元気よくかけて来たのもしょげて、風呂しき包みの本をばたりと座敷へ投げて、庭へ出てしまう。

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與吉よきち學校がくかうからかへつてひつそりとしたいへたゞ卯平うへいがむつゝりとしてるのをると威勢ゐせいよくけてたのもしよげて風呂敷包ふろしきづゝみ書籍しよせきをばたりと座敷ざしきげてにはしまふ。

卯平は

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卯平うへい

「よき、待ってろ、そら」

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「よき、つてろ、そら」

と、さいふから苦労して五厘の銅貨を拾い出して投げてやる。

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財布さいふから面倒めんだうに五りん銅貨どうくわひろしてなげてやる。

与吉は戸のかげにいては、もじもじしてなかなか取らないで、それでいてほしそうにむしろの上の銅貨を見る。

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與吉よきちかげては忸怩もぢ/\して容易よういらないでしかさうむしろうへ銅貨どうくわる。

卯平はそうすると、またのっそりとだるそうに体を戸口まで運んで、与吉の手にわたしてやる。

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卯平うへいはさうするとまたのつそりとものうげに身體からだ戸口とぐちまでうごかして與吉よきちわたしてやる。

与吉は一気にかけて、菓子を買いに行く。

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與吉よきちは一さんけて菓子くわしもとめにく。

卯平のくぼんだ茶色の目が、後で独りしかめたようになるのである。

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卯平うへいくぼんだ茶色ちやいろあとひとりしがんだやうにるのである。

卯平が村の店にだるい体を置いてたばこをふかしている所へ、与吉が行き合わせることがあっても、遠くのほうから卯平を見ていて、近づきもしないが去ろうともしないでいる。

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卯平うへい村落むらみせものう身體からだゑて煙草たばこかしてところ與吉よきち行合いきあはせることがあつてもとほくのはうから卯平うへいて、ちかづきもしないがらうともしないでる。

卯平は必ずガラス戸を開けて、店の台から自分で菓子を取ってやる。

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卯平うへい屹度きつとガラスたて店臺みせだいから自分じぶん菓子くわしをとつてやる。

それでも与吉は、菓子をかじりながらそばへは寄ろうともしなかった。

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それでも與吉よきち菓子くわしぢりながらそばへはらうともしなかつた。

「与吉らはたいしたもんだな、いつももらって」

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與吉よきちらたえしたもんだな、始終とほしてもらつてな」

店の女房が言うのを聞くのは、与吉よりもむしろ卯平が心に満足を感じるのだった。

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みせ女房にようばうがいふのをくのは與吉よきちよりもむし卯平うへいこゝろ滿足まんぞくかんずるのであつた。

しかし与吉はこうしてだんだん卯平に近づいて、学校から帰ったといっては

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しか與吉よきちうして段々だん/\卯平うへいちかづいて學校がくかうからかへつたといつては

「爺さん」

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ぢい

と言って戸口に立つようになった。

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といつて戸口とぐちつやうにつた。

ついには彼は

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つひにはかれ

「爺さん、くれないか」

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ぢいくんねえか」

と、上がりがまちに胸をもたせて、ばたばたと下駄で土間をたたきながら、卯平にお金をねだるようになった。

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あががまちむねたせて、ばた/\と下駄げた土間どまたゝきながら卯平うへいぜにふやうにつた。

それでも彼は、お金とははっきりとは言わない。

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それでもかれぜにとは明白地あからさまにはいはない。

「お前は、何をくれというんだい」

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りや、なにくろつちんでえ」

むっつりした卯平がわざとこう聞くと

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むつゝりした卯平うへいわざとかうくと

「くれないか、買うんだから」

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んねえか、あんだから」

与吉はまたぼんやりと、しかしいっしんに求める。

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與吉よきちまたぼんやりとしか熱心ねつしん要求えうきうする。

その態度を卯平は、ただ心地よく思うのだった。

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その態度たいど卯平うへいたゞこゝろよくおもふのであつた。

与吉がなつくまでには、日数がかかった。

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與吉よきちなづくまでには日數ひかずつた。

卯平は勘次との仲は思ったとおり冷たかったが、ちょうど落ち着かない藁くずを足でかき払ってはにわとりがとうとうその巣を作るように、彼はおたがいに気づまりな勘次のそばに、いくらかずつでも身も心も落ち着かせるよりほかなかった。

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卯平うへい勘次かんじとのあひだ豫期よきしてごとひやゝがではあつたが、丁度ちやうど落付おちつかない藁屑わらくづあしいてはにはとり到頭たうとうつくるやうに、かれたがひにこそつぱい勘次かんじそば幾分いくぶんづゝでもこゝろ落付おちつけねばならなく餘儀よぎなくされた。

そして彼は、自分の決まった家そのものはたとえどうであろうとも、心の一部にはえんりょからはなれたゆとりができて来て、彼はわずか五、六日と思ううちに三十日以上を過ごしてしまったのだった。

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さうしてかれ自分じぶんさだまつたいへもの假令たとひどうであらうとも、こゝろの一には遠慮ゑんりよからはなれた餘裕よゆうしやうじてかれわづかに五六にちおもうちに卅にち以上いじやう經過けいくわしてしまつたのであつた。

そのあいだ、彼はただの一度もやわらかなごはんを気持ちよく飲み下したことがない。働く人がたくさん食べなければならない丈夫な胃は、とてもやわらかい物ではもたないのである。

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あひだかれたゞの一でもやはらかなめしこゝろよくくだしたことがない、勞働者らうどうしやおほむさぼらねばならぬ強健きやうけんなる到底たうていやはらかものところではない。

歯にかたく感じる物でなければ、食事から食事までのあいだをもたせられないほど、たちまちおなかがすいてしまうからである。

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こはかんずるものでなければ食事しよくじから食事しよくじまでのあひだたもあたはぬほどたちまちに空腹くうふくかんじてしまふからである。

だから、どこの家でも、年老いた者と若い者とのあいだには、この点の折り合いがむずかしい。

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したがつていづれの家庭かていつても老者らうしや壯者さうしやとのあひだにはてん調和てうわ難事なんじである。

しかし卯平は、年老いた身をやっとのことであずけた心の底にわだかまるえんりょと、生まれつきの無口とで、自分から求めることは少しもなかった。

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しか卯平うへい老衰らうすゐやうやくのことでけたこゝろそこわだかまつた遠慮ゑんりよ性來せいらい寡言むくちとで、自分じぶんから要求えうきうすることは寸毫すんがうもなかつた。

彼はただおなかをすかせないために、日ごとにまずい口をむりに動かしているのである。

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かれたゞ空腹くうふくしのため日毎ひごと不味まづくちひてうごかしつゝあるのである。

そまつな食べ物は、小さいころからおつぎの目にも口にもなじんでいるので、そこには何も気がつかなかった。

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疎惡そあく食料しよくれう少時せうじからおつぎのにもくちにもじゆくしてるので、其處そこにはなんこゝろかなかつた。

まずそうなようすではしを取るのは、卯平がいつもそうなので、おつぎの目には特に気づかせるきっかけが一つもなかった。

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不味相まづさう容子ようすをしてはしるのは卯平うへいすべての場合ばあひつうじての状態じやうたいなので、おつぎのには格別かくべつ注意ちういおこさしむべき動機どうきひとつもとらへられなかつた。

こうしておつぎは卯平に向かって、彼がいくらかでもよけいに満足できる程度にまで心をつくすことが、よい気持ちからであっても、むしろ冷たいように見えてしまうのだった。

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うしておつぎは卯平うへいむかつてかれ幾分いくぶんづゝでも餘計よけい滿足まんぞく程度ていどにまでこゝろつくすことが、善意ぜんいもつてしてもむし冷淡れいたんであるがごとえねばならなかつた。

しかし卯平は、けっして心の底からおつぎをにくまなかった。

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しか卯平うへいけつして衷心ちうしんからおつぎをにくまなかつた。

卯平はときどき外へ出てはとうふを食べて、自分のおぜんのはしを取らないことはあったのだが、それでも勘次は、三人だけが家族だったころよりも穀物のへる量が増えて来たことを、たちまち目に止めた。

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卯平うへい時々とき/″\そとては豆腐とうふきつして自分じぶんぜんはしらぬことはあるのであつたが、それでも勘次かんじは三にんのみが家族かぞくであつたときよりも穀物こくもつ減少げんせうするりやうえてたことをたちまちにめた。

どれほど大きな体でも、卯平は八十に近い年寄りである。

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ほどおほきな身體からだでも卯平うへいは八十にちか老衰者らうすゐしやである。

一日の食べ物がどれほど要るか、それは知れたものである。

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一日いちにち食料しよくれうがどれほどるかそれはれたものである。

それでも勘次は、これまでよりよけいに使わなければならない穀物のことで、その卑しい心がどうしてもさわがずにいられなかった。

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それでも勘次かんじ從來これまでよりも餘計よけいつひやさねばならぬ穀物こくもついてかれ淺猿さもしいこゝろ到底たうていさわがされねばならなかつた。

勘次は卯平のいないときには、それとなく独りぶつぶつとつぶやくことがあった。

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勘次かんじ卯平うへいときにはそれとはなくひとりぶつ/\とつぶやくことがあつた。

与吉はそれを聞いていた。

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與吉よきちはそれをいてた。

彼は、火ばちの前にじっとしていては座敷へ上がるにわとりをしいしいと追いながら、むっつりとしている卯平に小さな銅貨をもらっては、それを口へ入れたり座敷へ落としたりしながら、卯平にいろいろなことをしゃべって聞かせた。

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かれは、火鉢ひばちまへ凝然ぢつとしてては座敷ざしきあがにはとりをしい/\とひつつむつゝりとして卯平うへいちひさな銅貨どうくわもらつては、それをくちれたり座敷ざしきおとしたりしながら卯平うへい種々いろ/\なことを饒舌しやべつてかせた。

「爺さん」

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ぢい

と呼びかけて、彼はある日こう言った。

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けてかれういつた。

「爺さんが来てから米がずいぶんへって仕方がないって言ったぞう」

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ぢいてからこめしつかりつてしやうねえつてつたぞう」

「うん」

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「うむ」

卯平は口にくわえたきせるをゆっくり手に取って

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卯平うへいくちくはへた煙管きせるおもむろにつて

「おとっつあんでもあるだろう」

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「おとつゝあでもあんべ」

卯平はげっそりと言った。

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卯平うへいはげつそりといつた。

「おとっつあんが、何度も言ったんだわ」

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「おとつゝあ、何遍なんべんつたんだわ」

卯平はまたきせるをかんで、手が少しふるえた。

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卯平うへいまた煙管きせるんですこふるへた。

「言うだろうさ」

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はざらに」

と卯平は、じっと目をしかめながら、少しこわれたかべの一方をにらんで言った。

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卯平うへい凝然ぢつしかめつゝすここはれたかべの一ぱうめつゝいつた。

霜どけの庭をかき回していたにわとりが、くるりと指を丸めては足を上げて、おどろいたようにまわりを見て、また足をふみつけふみつけのっそり歩いて、戸口のしきいへしばらく乗って、ずっとのばした首を少しかたむけて卯平を見て、ついと座敷へ上がった。

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霜解しもどけにはてゝとりがくるりとゆびいてはあしげておどろいたやう周圍あたりて、またあしみつけ/\のつそりあるいて戸口とぐちしきゐしばらつてずつとばしたくびすこかたむけて卯平うへいてついと座敷ざしきつた。

卯平はいきなりきせるをたたきつけた。

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卯平うへいはいきなり煙管きせるたゝきつけた。

にわとりは慌てて座敷のむしろにどろを落として、しきいの外に足を突き出したまましばらくころがっていたが、ついにはよろけよろけ鳴きさわぎながら、遠くへ逃げた。

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とりあわてゝ座敷ざしきむしろどろおとしてしきゐそとあししたまゝしばらころがつてたが、つひには蹌跟よろけ/\さわぎつゝとほにげた。

白い毛がぬけて、そこらじゅうにたくさん散らばった。

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しろけて其處そこぢうおびたゞしく散亂さんらんした。

きせるはにわとりから、さらに強く戸口のしきいを打って、庭の土に止まった。

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煙管きせるとりからさらつよ戸口とぐちしきゐつてにはつちとまつた。

「爺さん、取ってやろうか」

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ぢいとつてやんべか」

しばらくして、与吉は卯平の顔をのぞくようにして言った。

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しばらくして與吉よきち卯平うへいかほのぞくやうにしていつた。

「よこせ」

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「よこせ」

卯平はしばらくしてから、むっつりとして舌を鳴らしながら言った。

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卯平うへいしばらつてからむつゝりとしてしたらしながらいつた。

「さあ」

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「さあ」

与吉が出したきせるを、卯平はふきもせずに口へくわえた。

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與吉よきちした煙管きせる卯平うへいきもせずにくちくはへた。

しばらくしてから、卯平はにがい顔をしてじゅりじゅりと、ざらついた口のどろをぴょっとはき出して、それから口を着物でこすった。

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しばらくしてから卯平うへいにがかほをしてぢより/\とこそつぱいくちどろをぴよつとしてそれからくち衣物きものでこすつた。

彼はまたたばこを吸おうとして、羅宇にひびが入ったのを知った。

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かれまた煙草たばこひつけようとしては羅宇らうひゞつたのをつた。

彼はくたくたになった紙をたもとからさぐり出して、それをつばでぬらして、とても面倒そうにぐるぐるとそのひびを巻いた。

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かれはくた/\につたかみたもとからさぐしてそれをつばらしてきはめて面倒めんだうにぐる/\とひゞいた。

卯平はそれからふいと出て、夜まで帰らなかった。

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卯平うへいはそれからふいとよるまでかへらなかつた。

勘次はにわとりのぬけ毛を見て、いたちが出たのではないかという心配をして、そこらじゅうをくまなく見た。

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勘次かんじとり拔毛ぬけげいたちたのではないかといふ懸念けねんいだいて其處そこぢうくまなくた。

にわとりはほかのにわとりがみなねぐらについても帰らなかった。

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とりほかとりこと/″\とやいてもかへらなかつた。

いたちは一羽殺せば必ずまたほかもおそうので、勘次は少なからず心をさわがせたのだった。

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いたちは一ころせばかならまたほかおそふので勘次かんじすくなからずこゝろさわがしたのであつた。

「爺さんがぶっとばしたんだわ」

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ぢいつとばしたんだわ」

与吉は勘次に言った。

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與吉よきち勘次かんじへいつた。

「どうしてだ」

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「どうしてだ」

勘次はおどろいた目を見開いて、慌てて聞いた。

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勘次かんじおどろいたみはつてあわてゝいた。

「座敷へ上がったら、きせるをぶつけたんだ。そんでおれがきせるを取ってやったんだ」

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座敷ざしきあがつたら煙管きせるつゝけたんだ。そんで煙管きせるとつてやつたんだ」

勘次はえさをまいて、にわとりを集めてみた。

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勘次かんじ餌料ゑさいてとりあつめてた。

いったんねぐらについたにわとりが、えさを見てはみなかごからばさばさと飛び下りて、こっこっと鳴きながらつめでかき払いかき払い、争ってついばんだ。

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たんとやいたとり餌料ゑさてはみんなかごからばさ/\とびおりてこツこツときながらつめき/\あらそうてつゝいた。

勘次はついに、にわとりの数が足りないことを確かめないわけにはいかなかった。

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勘次かんじつひとりかず不足ふそくしてることをたしかめざるをなかつた。

卯平はいつものようにとうふでコップ酒を飲んで来て、晩ごはんをほしがらなかった。

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卯平うへいれいごと豆腐とうふでコツプざけかたむけて晩餐ばんさんほつしなかつた。

彼のしわ深く刻んだほおに、ほんのりと赤みがさしていた。

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かれしわふかきざんだほゝにほんのりと赤味あかみびてた。

彼は火ばちの前にあぐらをかいたまま、一言も言わない。

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かれ火鉢ひばちまへ胡坐あぐらいたまゝごんもいはない。

おつぎが甘えた口ぶりで言っても、返事もしなかった。

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おつぎがあまえたしたでいつても返辭へんじもしなかつた。

勘次も卯平のそばを下がって、ただおそろしくひがんだようすをしていた。

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勘次かんじ卯平うへいそば退去すさつてたゞおそろしくひがんだ容子ようすをしてた。

おつぎもついに言わなかった。

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おつぎもつひにいはなかつた。

与吉はただ、ぐっすりとねむっていた。

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與吉よきちたゞぐつすりとねむつてた。

こわがってじっと物かげにかくれていたにわとりは、次の朝やっとほかのにわとりの群れにまじって歩いたけれど、いくらかまだ足を引きずっていた。

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驚怖きやうふあま物陰ものかげ凝然ぢつ潜伏せんぷくしてとりつぎあさやうやとりむれまじつてあるいたけれどいくらかまだ跛足びつこいてた。

勘次はわざと卯平に見せつけるように、その夜ねぐらについたとき、そのにわとりをかごに伏せて、戸口の庭ぶたの上に三日も四日も置いたのだった。

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勘次かんじわざ卯平うへいせつけるやうとやいたときとりかごせて、戸口とぐち庭葢にはぶたうへに三も四いたのであつた。

卯平は巻きつけた紙にヤニのしみたきせるをじゅうじゅうと鳴らしながら、むずかしい顔がしばらく直らなかった。

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卯平うへいきつけたかみ煙脂やにみた煙管きせるをぢう/\とらしながらむづかしいかほしばらけなかつた。

卯平はきれい好きなので、むっつりとしながら独りでいるときには、草ぼうきで土間ののきの下をはいては、にわとりが足のつめでかき乱した庭ぶたのまわりもはいておいた。

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卯平うへい清潔好きれいずきなのでむつゝりとしながらひとりときには草箒くさばうき土間どまのきしたいてはとりあしつめみだした庭葢にはぶた周圍あたりをもきつけていた。

彼は座敷の中もそうじをして、毎朝ふとんをきちんとかたづけるように、無口な口からおつぎに言いつけた。

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かれ座敷ざしきうち掃除さうぢをして毎朝まいあさ蒲團ふとん整然ちやん始末しまつするやう寡言むくちくちからおつぎに吩咐いひつけた。

清潔になることは勘次も悪いこととは思わなかったが、いくらもない家財道具へ少しでも手をかけられるのが、ふところでもさぐられるように、勘次にはなんとなく不安な気持ちが起こるのだった。

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清潔きれいることは勘次かんじわるいことにはおもはなかつたが、いくらもない家財道具かざいだうぐすこしでもけられるのがふところでもさぐられるやう勘次かんじにはなんとなく不安ふあんねんおこされるのであつた。

勘次の目には、卯平がよく村の店に行くのは、ぜいたくな年寄りだというように、ひがんで見えるところもあった。

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勘次かんじには卯平うへい村落むらみせくのは贅澤ぜいたく老人としよりであるやうひがんでえるかどもあつた。

ただそうしているあいだに旧れきの年末が近づいて、どの家でも小麦やそばの粉をひいた。

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たゞさうしてうち舊暦きうれき年末ねんまつちかづいて何處どこうちでも小麥こむぎ蕎麥そばいた。

卯平はときどきは、東どなりの門もくぐった。

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卯平うへい時々とき/″\東隣ひがしとなりもんをもくゞつた。

主人夫婦は、丈夫だといってもやつれた卯平を見るとあわれになって

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主人夫婦しゆじんふうふ丈夫ぢやうぶだといつてもやつれた卯平うへいるとあはれになつて

「体はどうしたね」

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身體からだはどうしたえ」

とよく聞いた。

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いた。

「ええ、今の分じゃ、そんなに悪いということもないが」

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「えゝ、今分いまぶんぢや、さうだにりいつちこともねえが」

と、卯平はいつもはっきりしない言い方をして、それを聞かれることをさすがに心の中でよろこんで、くぼんだ目をしかめるようにした。

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卯平うへいはいつもらぬいひかたをして、れをかれることを有繋さすがこゝろうちよろこんでくぼんだしかめるやうにした。

「それでも勘次はよくしてくれるかえ」

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「それでも勘次かんじくするかえ」

おかみさんが聞けば

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内儀かみさんがけば

「ありゃもう、以前からああ言うんだから」

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「ありや、はあ、以前めえかたつからあゝゆんだから」

卯平はぶすりと言うのである。

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卯平うへいはぶすりといふのである。

「おつぎはどうだね」

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「おつぎはどうだえ」

「ありゃあそれ、勘次とはちがうから。何と言ってもさすがに、赤んぼうのときからのだから」

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「ありやあそれ、勘次かんじたあちがあから、なんちつても有繋まさかあかばうときつからのがだから」

「粉ひきはたくさんしたようすかえ、それでも」

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節挽せちびきはたんとした容子ようすかえそれでも」

「ええ、おつうのことを連れて行って、南の家でひくのはひいたようだが、おけへ入れたままふたをしたきりしまっておくから、わしはどれくらいあるもんだか見もしないが」

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「えゝ、おつうことれてつて、みなみくなあいたやうだが、をけえたまゝふたしたつきりしまつてくから、わしやどのつくれえあるもんだかもしねえが」

「勘次はやわらかい物でも少しはこしらえてくれるかね」

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勘次かんじやはらかいものでもすこしはこしらえてくれるかね」

「ええ、毎日いっしょに食べちゃいるんだが、なあに、歯さえ丈夫ならあらくたってかまいやしないが」

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「えゝ、毎日まいんち同士どうしにたべちやんだがなあにせえ丈夫ぢやうぶなら粗剛こうえつたつてかまやしねえが」

「それじゃそば粉でも少しやろうかね。そばがきでもこしらえて食べたほうがいいよ。そばに打っちゃ冷えるが、そばがきは暖まるというからね」

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「それぢや蕎麥粉そばこでもすこらうかね蕎麥掻そばがきでもこしらへてたべたはういよ、蕎麥そばつちやえるが蕎麥掻そばがきあつたまるといふからね」

おかみさんは木綿で作ったふくろへそば粉を二しょうばかり入れて

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内儀かみさんは木綿もめんつくつたふくろ蕎麥粉そばこを二しやうばかりれて

「勘次も苦労してるから、それでも今に暮らしもだんだんよくなるだろうから、そうすりゃ悪くばかりもしないよ。どうもむかしから性が合わないんだからね。まあ年を取ったら仕方がないからがまんしているんだよ。あまりひどけりゃ他人がだまって見ちゃいないから。それだが勘次も、さすがにそれほどでもないんだろうしね」

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勘次かんじきだから、それでもいま生計くらしもだん/\くなんだらうから、さうすりやわるくばかりもすまいよ、どうもむかしから合性あひしやうわるいんだからね、まあ年齡としとつたら仕方しかたがないから我慢がまんしてるんだよ、あんまひどけりや他人ひと共々とも/″\ちやないから、それだが勘次かんじ有繋まさかそれほどでもないんだらうしね」

おかみさんはなぐさめて言った。

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内儀かみさんはなぐさめていつた。

卯平はそば粉を大事にして、勘次が開こんに出た後で、薬かんの湯をわかしてはそばがきをこしらえて食べた。

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卯平うへい蕎麥粉そばこ大事だいじにして、勘次かんじ開墾かいこんあと藥罐やくわんわかしては蕎麥掻そばがきこしらへてたべた。

そのころは、彼が提げて来た二びんのしょうゆはもうなくなっていた。

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ころかれげてた二びん醤油しやうゆはもうくなつてた。

彼はそのへって行くのを、特におしいとは思わなかったが、しかし彼は、自分がいるうちはなかなかびんの量がへらないのに、一日よそへ行っていた日はめっきり少なくなっているのを、あるときふと見つけて、少し不快に、そして変に思っていた。

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かれつてくのをさらおしいとはおもはなかつたが、しかかれ自分じぶんうち容易よういびん分量ぶんりやうらないのに、一にち餘處よそつて滅切めつきりすくなくなつてるのをあるときふと發見はつけんしてすこ不快ふくわいかつへんおもひつゝあつた。

縄でくくった別のびんの底のほうに、しょうゆが少しあった。

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なはくゝつたべつびんそこはう醤油しやうゆすこしあつた。

卯平はそれでもそれを見つけて、やっとそばがきの味をおぎなった。

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卯平うへいはそれでもれをつけてやうや蕎麥掻そばがきあぢおぎなつた。

びんの底に残ったしょうゆはいちばんのしょうゆかすで仕込んだ安物で、塩からい味が舌をさすばかりでなく、にがみさえ加わっている。

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びんそこになつた醤油しやうゆは一ばん醤油粕しやうゆかすつくんだ安物やすもので、しほからあぢした刺戟しげきするばかりでなく、苦味にがみさへくははつてる。

彼らはふだんそういうしょうゆでもめったに使わないので、たくさん買うときでも十銭をこえないのである。

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彼等かれら平生へいぜいさういふ醤油しやうゆでも滅多めつたもちゐないので多量たりやうもとめるときでも十せんえないのである。

むかしの卯平であれば、そういう味がふつうで、しかもうまく感じるはずなのだが、ここ数年うまいしょうゆをおしげもなく使って来た口には、おそろしいまずさを感じずにはいられなかった。

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以前いぜん卯平うへいであればさういふあぢ普通ふつうかつ佳味うまかんずるはずなのであるが、數年來すうねんらい佳味うま醤油しやうゆ惜氣をしげもなく使用しようしてくちにはおそろしい不味まづさをかんぜずにはられなかつた。

それでもそばがきは、体が暖まるようで気持ちよかった。

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それでも蕎麥掻そばがき身體からだあたゝまるやうこゝろよかつた。

彼は食べた後の茶わんへわいた湯を注いで、はしで茶わんの内側を落として、そのままたなへ置いた。

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かれはたべたあと茶碗ちやわんたぎつたいではし茶碗ちやわん内側うちがはおとしてまゝたないた。

そしては彼は、毎日の仕事のように外へ出た。

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さうしてはかれ毎日まいにち仕事しごとのやうにそとた。

勘次は一日の仕事を終えて帰って来ては、目ざとく卯平の茶わんを見てふしぎに思って、おけのふたを取ってみた。

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勘次かんじは一にち仕事しごとへてかへつてては目敏めざと卯平うへい茶碗ちやわん不審ふしんおもつてをけふたをとつてた。

ついに彼は、卯平のふくろを見つけた。

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つひかれ卯平うへいふくろ發見はつけんした。

「おつう、お前がこのそば粉を出してやったのか」

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「おつう、われ蕎麥そばこなしてつたのか」

勘次はおつぎに聞いた。

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勘次かんじはおつぎにいた。

「おれが出すまいな」

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すめえな」

おつぎは何も分からないようすで言った。

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おつぎはなにかいせぬ容子ようすでいつた。

「そばがきなんぞにしたって足しにならない。ろくにありもしない粉だ」

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蕎麥そばかきなんぞにしたつてつまりやしねえ、ろくりもしねえこなだ」

彼はつぶやいた。

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かれつぶやいた。

それから彼はまた

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それからかれまた

「これももう、ありゃしない」

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れも、はあ、りやしねえ」

と、しょうゆのびんをすかして、それからふってみて言った。

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醤油しやうゆびんすかしてそれからつてていつた。

「おとっつあん、それにはないんだぞ」

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「おとつゝあ、それにやねえのがんだぞ」

おつぎは打ち消した。

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おつぎはした。

「いいから、これっきりじゃ済まないんだから」

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「えゝから、れつきりぢやきかねえのがんだから」

勘次はおつぎをどなりつけた。

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勘次かんじはおつぎを呶鳴どなりつけた。

彼はさらにふくろのそば粉をおけへあけてしまって、なおぶつぶつ言っていた。

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かれさらふくろ蕎麥粉そばこをけけてしまつてなほぶつ/\してた。

手ランプがうす暗くともされたとき、卯平はのっそり帰って来た。

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ランプが薄闇うすぐらともされたとき卯平うへいはのつそりかへつてた。

彼はおぜんに向かおうともしないで、火ばちの前にどさりとすわったまま、例のわだかまりのありそうなようすをして、右手の人さし指をかけてぎっとにぎったきせるを横にかんでいた。

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かれぜんむかはうともしないが火鉢ひばちまへにどさりとすわつたまゝれいわだかまりの有相ありさう容子ようすをしては右手うしゆひとさしゆびけてぎつとにぎつた煙管きせるよこんでた。

「おつう、お前、もっとここへ火を取ってくれないか」

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「おつう、われまつと此處ここひいとつてくんねえか」

卯平はそれだけ言って、あいかわらず火もないきせるをかんだ。

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卯平うへいはそれだけいつて依然いぜんとしてもない煙管きせるんだ。

おつぎはしばを折って、薬かんの下を燃やしてやった。

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おつぎは麁朶そだつて藥罐やくわんしたやしてやつた。

薬かんが鳴り出したとき、卯平はだるそうな体をゆっさりと起こして、そこらをしきりにさがしはじめた。

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藥罐やくわんしたとき卯平うへいものうさう身體からだをゆつさりとおこして其處そこらをしきりにさがしはじめた。

「何だい、爺さん」

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なんでえぢい

おつぎはすぐに聞いた。

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おつぎはすぐいた。

「うん、ふくろよ」

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「うむ、ふくろよ」

卯平はとてもかんたんに言った。

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卯平うへいきはめて簡單かんたんにいつた。

「これだろう爺さん、そば粉の入ってたのは。おれはどうしたんだか知らないから、おけの中へあけておいたっけや。そんじゃ爺さんのだったっけなあ、そら。どうしてふくろへなんぞ入れてたんだい、爺さんは」

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れだんべぢい蕎麥そばこなへえつてたのな、らどうしたんだかんねえからをけなかけていたつきや、そんぢやぢいがんだつけなあそら、どうしてふくろさなんぞえてたんでえぢいは」

おつぎは何でもないように言った。

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おつぎはこともなげにいつた。

「そばがきでもしたらよかろうと、おかみさんが出したっけのよ」

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蕎麥そばかきでもしたらよかつぺつてお内儀かみさんしたつけのよ」

卯平は元の場所にすわって言った。

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卯平うへいもと位置ゐちすわつていつた。

「そうかあ。そんじゃ悪かったっけな、爺さん。そんじゃおれが今入れてやるからな」

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「さうかあ、そんぢやわるかつたつけなぢいそんぢやいまえてやつかんなよ」

おつぎは、勘次がねるかべぎわのおけから、さっきのよりずっと多い量をふくろへ入れてやった。

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おつぎは勘次かんじ壁際かべぎはをけから先刻さつきのよりははるかに多量たりやうふくろれてやつた。

そしておつぎは、勘次をしり目で見た。

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さうしておつぎは勘次かんじ尻目しりめた。

卯平はまたそばがきをこしらえた。

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卯平うへい蕎麥掻そばがきこしらへた。

「おれが注いでやろうか、爺さん」

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いでやつべかぢい

火ばちのそばにいた与吉は、薬かんに手をかけた。

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火鉢ひばちそば與吉よきち藥罐やくわんけた。

卯平は与吉のするままに任せた。

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卯平うへい與吉よきちのするがまゝまかせた。

卯平はわりとゆったりと、茶わんをはしでかき混ぜた。

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卯平うへい比較的ひかくてき悠長いうちやう茶碗ちやわんはしぜた。

「できたかあ」

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出來できたかあ」

与吉は卯平のうでに小さな手をかけて、のぞくようにして言った。

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與吉よきち卯平うへいうでちひさなけてのぞやうにしていつた。

「よき、何だいお前は、ごはんを食べたばかりで」

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「よき、なんでえりや、おまんまくつたばかしで」

おつぎは与吉をしかった。

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おつぎは與吉よきちしかつた。

「お前も食え」

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われへ」

卯平はそばがきを分けてやった。

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卯平うへい蕎麥掻そばがきけてやつた。

彼はそうして、さらにもう一ぱいを食べて、その茶わんへ湯をくんで飲んだ。

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かれはさうしてさらあとの一ぱいきつしてその茶碗ちやわんんでんだ。

薬かんは軽くなった。

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藥罐やくわんかるくなつた。

勘次は冷たい手を火にもかざさないで、ことさら遠く卯平のそばをはなれて、しかめたひどい顔におそれの色を出して、ただじっと黙っていた。

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勘次かんじつめたいにもかざさないで殊更ことさらとほ卯平うへいそばはなれてしかめたひどかほ恐怖きようふさうあらはしてたゞ凝然ぢつだまつてた。

冷たい三人は、夜の気温がしんしんと下がりつつあるのを感じた。

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つめたい三にんよる温度をんどのしん/\と降下かうかしつゝあるのをかんじた。

一八

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一八

卯平は久しぶりにふるさとで新しい年をむかえた。

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卯平うへい久振ひさしぶり故郷こきやうとしむかへた。

彼らの家の門松は、ただ短い松のえだと竹のえだを小さなくいにしばりつけて、かきねの入口に立てただけである。

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彼等かれらいへ門松かどまつたゞみじかまつえだたけえだとをちひさなくひしばけて垣根かきね入口いりくちてたのみである。

神だなには、藁で太く作ったえびの形を横にかざって、そこにも松の短いえだをつけた。

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神棚かみだなへはわらふとつたえびかたちよこかざつて其處そこにもまつみじかえだをつけた。

藁のえびは卯平が作った。

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わらえび卯平うへいつくつた。

彼はむっつりとしながらも、やわらかく藁を打っていっしんに手を動かした。

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かれはむつゝりとしながらもやはらかにわらつて熱心ねつしんうごかした。

それで年男の役として、かざりつけは勘次にさせた。

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それで歳男としをとこやくかざり勘次かんじにさせた。

すすけきったたなに、新しい藁のえびが生き生きとして見えた。

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すゝつたたなあたらしいわらえび活々いき/\としてえた。

三が日は与吉も汚い着物を捨てて、おつぎも近所で髪を結って、炊事のときでもよそ行きの半纏にたすきをかけて働いた。

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三ヶにち與吉よきちきたな衣物きものてゝ、おつぎも近所きんじよかみうて炊事すゐじときでも餘所行よそゆき半纏はんてんたすきけてはたらいた。

勘次は三が日さえ、まったく楽をしてはいなかった。

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勘次かんじは三ヶにちさへ全然まる/\安佚あんいつむさぼつてはなかつた。

彼はくわをかついで、必ず開こん地へ出たのである。

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かれ唐鍬たうぐはかついでかなら開墾地かいこんちたのである。

彼は次第にふところのぐあいがよくなりかけたので、今ではその勢いづいたくわのひと打ちひと打ちが自分のたくわえを積んで行くわけなので、彼は余念もなくとても楽しく仕事をするようになったのである。

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かれ次第しだいふところ工合ぐあひけたので、いまではいきほひづいた唐鍬たうぐはの一うちは一うち自分じぶんたくはへをんで理由わけなので、かれ餘念よねんもなくきはめて愉快ゆくわい仕事しごとしたがつてるやうにつたのである。

年の初めというので、さすがに彼の家でもそれなりに餅やうどんやそばが、その日その日のならわしどおりに供えられた。

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としはじめといふので有繋さすがかれいへでも相當さうたうもち饂飩うどん蕎麥そば/\のれいよつそなへられた。

やわらかな餅が、卯平の歯茎にはいちばん合っていた。

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やはらかなもち卯平うへい齒齦はぐきには一ばん適當てきたうしてた。

ことに陸稲の餅はねばりが弱いので、少し煮ればすぐくたくたにとけようとする。

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こと陸稻をかぼもちあしよわいので、すこればぐくた/\にけようとする。

卯平にはかえってそれがいいので、彼はそうしてくれるおつぎを、どこまでもうれしく思った。

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卯平うへいにはかへつてそれがいので、かれはさうしてれるおつぎを何處どこまでもうれしくおもつた。

彼はただ一つでもいいから、いつもしるの中でくつくつと煮てほしかった。

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かれたゞ一つでもいから始終しじゆうしるなかかならずくつ/\としかつた。

しかしそれはみんなでお祝いするときだけで、それさえ卯平がただ独りゆっくり味わうには、ほうろくに乗せる量があまりに足りなかった。

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しかしそれは一同みんないはときのみで、それさへ卯平うへい只獨ただひとりゆつくりとあぢはふには焙烙はうろくせる分量ぶんりやうあまりにらなかつた。

餅は四角にほうちょうを入れると、すぐに勘次は自分のまくら元のおけへしまって、断りなしにはおつぎにさえ出すことをゆるさなかった。

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もちは四かく庖丁はうちやうれるとぐに勘次かんじ自分じぶん枕元まくらもとをけしまつて無斷むだんにはおつぎにさへすことを許容ゆるさないのであつた。

勘次はたとえどんなことがあっても、面と向かって卯平に一言でもつぶやいたことがないばかりか、ひたすら何かをかくそうとするようなおびえたようすを見せていながら、かげではつめのあかほどのことも目に止めては、独りでぶつぶつ言っていた。

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勘次かんじ假令たとひ什麽どんなことがあつてもまのあた卯平うへいむかつて一ごんでもつぶやいたことがないのみでなく、只管ひたすらあるもの隱蔽いんぺいしようとするやうな恐怖きようふ状態じやうたいあらはしてながら、かげではつめあかほどのことをとめひとりでぶつ/\としてた。

勘次はただ一度、おつぎが自分の留守に卯平のためにその餅をわずかに焼いてやったことさえ見つけて、おつぎをしかった。

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勘次かんじたゞおつぎが自分じぶん留守るす卯平うへいためもちわづかいてやつたのをすら發見はつけんしておつぎをしかつた。

「そんだって、おとっつあん、よきがほしいと言うから出して、おれと焼いたんだ。食べたくなっちゃ仕方があるまいな」

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「そんだつておとつゝあは、よきしいつちからしてれといたんだあ、へたくなつちやしやうあんめえな」

おつぎは甘えた口ぶりで、言葉はきつく勘次をたしなめた。

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おつぎはあまえたした言辭ことばあら勘次かんじたしなめた。

勘次はそれ以上、もう一度おつぎをしかることはしなかった。

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勘次かんじ以上いじやうしてふたゝびおつぎをしかることはくしなかつた。

わずかな餅はそんなことでいくらもへらないのに時間がたって、寒い空気のために陸稲の性質が出て、切り口からたちまちひび割れになって、かたくかわいた。

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わづかもちはさういふことでいくらもらないのに時間じかんつて、寒冷かんれい空氣くうきため陸稻をかぼ特色とくしよくあらはして切口きりくちからたちまちに罅割ひゞわれになつてかた乾燥かんそうした。

だんだん焼いてふくれても、外側は歯茎をいためるほどこわばって来た。

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だん/\いてふくれても外側そとがは齒齦はぐきいためるほどこはばつてた。

卯平はその一つさえきちんと飲み下そうとするには、むしろあらいぽろぽろのごはんより大変だった。

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卯平うへいの一つさへ滿足まんぞくくださうとするにはむし粗剛こはいぼろ/\なめしよりも容易よういでなかつた。

そうなってからは、勘次はなくなるまでよく焼いた。

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さうなつてからは勘次かんじきるまでいた。

卯平はむっつりとして、ひたいに深く刻んだ大きなしわをむずかしそうに動かしては、かたい餅をなめた。

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卯平うへいはむつゝりとしてひたひふかきざんだおほきなしわむづ敷相しさううごかしてはかたもちしやぶつた。

卯平のおぜんには、冷たくなった餅が必ず残された。

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卯平うへいぜんにはつめたくつたもち屹度きつとのこされた。

おなかをすかせて学校から帰って来る与吉が、いつでもそれをかじるのだった。

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はららして學校がくかうからかへつて與吉よきち何時いつでもそれをかじるのであつた。

勘次はまた、そばを打ったことがあった。

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勘次かんじまた蕎麥そばつたことがあつた。

彼はとろろあおいの粉をつなぎにして打った。

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かれ黄蜀葵ねりつなぎにしてつた。

彼はまた、おつぎに注意して、よくはゆでさせなかった。

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かれまたおつぎへ注意ちういをしてくはでさせなかつた。

手おけの冷たい水でさらしたそばは、すぎばしのように太いのに、とろろあおいの特ちょうであるかたさとつるつるした感じで、わんからおどり出しそうになるのだった。

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手桶てをけつめたいみづさらした蕎麥そば杉箸すぎはしのやうにふといのに、黄蜀葵ねり特色とくしよくこはさとなめらかさとでわんからをどさうるのであつた。

とろろあおいはよく畑のまわりに作られて、短いくきには暑い日に大きな黄色い花を開く。

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黄蜀葵ねりはたけ周圍まはりつくられてみじかくきにはあつおほきな黄色きいろはなひらく。

その根をかわかして粉にして入れれば、そばの量がめっきり増えるというので、おなかいっぱいになる程度に、ひたすら食べ物が少なくて済むことばかりを望んでいる勘次は、毎年作って必ずそれを使っていた。

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乾燥かんさうしてにしてれゝば蕎麥そば分量かさ滅切めつきりえるといふので、滿腹まんぷくする程度ていどおいては只管ひたすら食料しよくれう少量せうりやうなることのみをのぞんで勘次かんじ毎年まいねんつくつて屹度きつとそれをもちひつゝあつた。

卯平の歯茎では、そばがすべってかめなかった。

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卯平うへい齒齦はぐきには蕎麥そばすべつてめなかつた。

「爺さんにはうまくあるまい。おとっつあんはもっとていねいに打てばいいのに、そそっかしいから」

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ぢいがにや佳味うまかあんめえ、おとつゝあはまつと丁寧ていねいてばえゝのに疎忽敷そゝつかしいから」

おつぎは、どうかするとわんから落ちそうになるそばをすすりながら、卯平の手元を見て言った。

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おつぎはどうかするとわんからさうになる蕎麥そばすゝりながら卯平うへいもとをていつた。

「どうせおれは、うまくたってそんなにへるほど食うわけじゃなし、かまいやしないが」

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「どうせらあ、佳味うめえつたつてさうだにほどでもふべぢやなし、かまやしねえが」

卯平は皮肉らしい口ぶりで言った。

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卯平うへい皮肉ひにくらしい口調くてうでいつた。

勘次はただ黙って、むしゃむしゃとまずそうにかんだ。

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勘次かんじたゞだまつてむしや/\と不味相まづさうんだ。

こうしているあいだに春のお彼岸が来て、日なたのかきねには耳菜草やそのほかの雑草が勢いよく出はじめて、桑畑のうねの間には冬をこしたなずなが線香のような茎をもたげて、その先にくだけた米に似た花を集めた。

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うしてあひだはる彼岸ひがん日南ひなた垣根かきねには耳菜草みゝなぐさその雜草ざつさういきほひよくだして桑畑くはばたけ畦間うねまにはふゆしたなづな線香せんかうやうたうもたげて、さき粉米こごめはなあつめた。

そっけないすぎの木までが、どこからえだなのかはっきり見分けもつかないような、しかも焼けたかと思うほど赤くなっている葉先に、ざらりとつぼみがついてこっそりさいてしまった。

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そつけないすぎまでが何處どこからえだであるやら明瞭はつきりとは區別くべつもつかぬやうしかけたかとおもほどあかつて葉先はさきにざらりとつぼみいてこつそりといてしまつた。

さびしい中にも、春らしい空気がすべての物をゆらした。

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さびしいうちにもはるらしい空氣くうきすべてのものうごかした。

日はまだ南を低くわたりながら、暖かい光を投げる。

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はまだみなみひくわたりながらあたゝかいひかりげる。

たまたま夜の雨がやんで、ふうわりとやわらかな空が青く割れて、やや昇ったその暖かな日がななめにさしかけると、かれた桑畑から、青い麦畑から、すべてから、しめった布を火にかざしたようにゆげが、見わたすかぎり白くほかほかと立ちのぼって、低く一面に地をおおうことがあった。

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たまたまよるあめんでふうわりとやはらかなそらあをれてやゝのぼつたそのあたゝかななゝめけると、れた桑畑くはばたけから、あを麥畑むぎばたけから、すべてからしめつたぬのかざしたやうにつた水蒸氣すゐじようき見渡みわたかぎしろくほか/\とのぼつてひくく一たいおほふことがあつた。

卯平は村に帰ってから、むかしの仲間にふたたび加わって、念仏衆の一人になった。

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卯平うへい村落むらかへつてから往年むかし伴侶なかまあひだふたゝくはゝつて念佛衆ねんぶつしゆうの一にんになつた。

家では孫のもりをしたりして、どうしても独りはなれたようになっているめいめいが、のんきに、そして好き勝手なことを言い合ってさわぐので、念仏堂はただ楽しい場所だった。

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いへつてはまごもりをしたりしてどうしてもひとりはなれたやうつて各自てんで暢氣のんきにさうして放埓はうらつなことをうてさわぐので念佛寮ねんぶつれうたゞ愉快ゆくわい場所ばしよであつた。

お彼岸のころは、ことに毎日楽しかった。

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彼岸ひがんけてはこと毎日まいにち愉快ゆくわいであつた。

どの家からもそれなりに、ほとけさまへと言って供えるごちそうにあきるほどで、卯平は初めて満足した口をぬぐうことができたのだった。

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何處どこうちからもそれ相應さうおうほとけへというてそなへる馳走ちさういて卯平うへいはじめて滿足まんぞくしたくちぬぐふことが出來できたのであつた。

卯平はだんだん時候が暖かくなるにつれて、体ものんびりとして、心配していた病気の苦しみも少しずつうすらいだ。

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卯平うへい段々だん/\時候じこうあたゝかくるにれて身體からだものんびりとしてあんじて病氣びやうきなやみもすこしづつうすらいだ。

彼は手元のすべてが不自由だらけの暮らしにもどって来たとはいうものの、おとろえた体を自分で毎晩苛めるように引き立てていた奉公づとめのころにくらべて、むしろ反対の気ままな日々が、自然に心にも体にも急な休みを与えたので、彼は自分でも一時はげっそりとおとろえたようにも思われて、だるさにたえられないようになったが、それでもその休みのおかげでいくらかずつ持病の苦しみがへったので、そういうわけを知らない彼は、この分では二、三年はまだ野田にいたほうがましだったと、後かいすることもあった。

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かれもとのすべてが不自由ふじいうだらけな生活せいくわつかへつてたとはいふものゝおとろへた身體からだ自分じぶんから毎夜まいよいぢめるやうてゝ奉公ほうこうつとめをして當時たうじくらべて、むしあひはんした放縱はうじう日頃ひごろ自然しぜん精神せいしんにも肉體にくたいにも急激にはか休養きうやうあたへたのでかれ自分じぶんながら一はげつそりとおとろへたやうにもおもはれて、ものうさにへぬやうつたがそれでも休養きうやうためいくらづゝでも持病ぢびやうくるしみをげんじたので、さういふ理由わけらないかれは、ぶんでは二三ねんはまだ野田のだはうしであつたと後悔こうくわいねんくこともあつた。

季節は、雨にしめった土へまれにかっと暑い日の光が差して、日がしずんだ後の空が丈夫な百姓のはだにさえぞくぞくと空気の冷たさを感じさせて、さらにじめじめときりのような雨がななめに降りかけては、やわらかく首をもたげはじめた麦のほののぎに細かな水の玉を宿して、白いほ先をさらに白くして、あたりがただじめじめしたかと思うと、またかっと日の光がさして、がらんと明るくなって、畑にはだらしなくたおれかけたえんどうの花も、心地よさそうに首をもたげてほほえむ。

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季節きせつあめしめつたつちまれにかつとあつひかりげられて、日歸ひがへりのそら強健きやうけん百姓ひやくしやう肌膚はだにさへぞく/\と空氣くうきひやゝかさをかんぜしめて、さらにじめ/\ときりのやうなあめなゝめけてはやはらかにくびもたげはじめたむぎのげ微細びさい水球すゐきう宿やどしてしろ穗先ほさきさらしろくして世間せけんたゞしめつぽくつたかとおもふと、またかつとひかりして、空洞からりあかるくつてはたけにはしどろにたふかけ豌豆ゑんどうはなこゝろよげにくびもたげて微笑びせうする。

すると、畑をつつむ遠い近い林には、若葉のすきまからわずかな日の光が、またやわらかな、そしてやや深い草の上にぽつりぽつりと明るくのぞきこんで、松の木からはみんみんぜみのような松ぜみの声が、くすぐったいほど人の耳に軽くひびいて、みんなの心をつき動かす。

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さうするとはたつゝとほちかはやしには嫩葉わかば隙間すきまからすくなひかりがまたやはらかなさうしてやゝふかくさうへにぽつり/\とあかるくのぞこんで、まつからはみんみんぜみやう松蝉まつぜみこゑくすぐつたいほどひと鼓膜こまくかるひゞいてすべてのこゝろ衝動しようどうする。

卯平も、ほかの百姓にさそわれたように、ただじっとしてばかりはいられなかった。

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卯平うへい百姓ひやくしやうさそはれたやうにたゞその凝然ぢつとさせてのみはられなかつた。

人一倍いそがしい勘次が、だんだんへって行く俵の中身を気にして、ひどい目つきをしながら戸口を出入りするのを、卯平は見るのがいやで、しかもつらかった。

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他人ひとばいしてせはしい勘次かんじがだん/\にりつゝあるたわら内容ないようにしてひどをしつゝ戸口とぐち出入でいりするのを卯平うへいるのがいやかつつらかつた。

それで彼は、あちこちと他人の仕事をさがして歩いたのだった。

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それでかれ其處そこ此處ここらと他人たにん仕事しごともとめてあるいたのであつた。

卯平は見るからに不器用なようすをしていて、おそろしく手先の器用な生まれつきだった。

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卯平うへいるから不器用ぶきよう容子ようすをしてて、おそろしく手先てさきわざ器用きよう性來たちであつた。

それで彼は仕事に出るようになってからは、あちこちにやとわれてよく俵をあんだ。

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それでかれ仕事しごとるとつてからは方々はう/″\やとはれてたわらんだ。

麦俵も、それからたいひを入れて運ぶ肥俵もあんだ。

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麥俵むぎだわらもそれから堆肥つみごえれてはこ肥俵こやしだわらんだ。

ゆっくりと、しかし絶え間なく手を動かしては、ときどき好きなたばこを吸って、少し口を開いたままきせるの吸い口をこけたほおに当て、深い考えごとにでもなやんだように、ただじっとしている。

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ゆつくりとしかひまなくうごかしては時々とき/″\すき煙草たばこうてすこくちいたまゝ煙管きせる吸口すひくちをこけたほゝあてふかかんがへにでもなやんだやうたゞ凝然ぢつとしてる。

けむりは口から少しずつもれて、鼻を伝ってのぼる。

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けぶりくちからすこしづゝれてはなつたひてあがる。

彼はけむりがのぼるたびにくぼんだ黄色い目をしかめるようにして、気づいたように吸いがらを手のひらにふくのである。

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かれけぶりあがたびくぼんだ黄色きいろしがめるやうにして、こゝろづいたやう吸殼すひがらひらくのである。

彼はこうしてとてもゆっくり手を動かすようでありながら、それでもやとわれた先でその日の食事はしてもらうので、それなりのお金を得ていたのだった。

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かれはかうしてきはめて悠長いうちやううごかすやうでありながら、それでもやとはれたさき扶持ふちはしてもらふので、相應さうおうぜにつゝあるのであつた。

卯平は夏になれば、どこでもいそがしい麦こきや陸稲の草取りにやとわれた。

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卯平うへいなつになれば何處どこでもいそがしい麥扱むぎこき陸稻をかぼ草取くさとりやとはれた。

彼は自分の村をはなれて、五日も六日もとまっていて帰らないことがある。

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かれ自分じぶん村落むらはなれて五も六とまつてかへらぬことがある。

卯平には、先から先へと歩いていることが、かえって幸いだった。

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卯平うへいにはさきからさきあるいてることがかへつさいはひであつた。

彼は鬼怒川の高瀬舟の船頭の着物かと思うような、よくもよくもつぎだらけな、それも自分の手で直して清潔に洗いざらした仕事着をすそ長に着て、手ぬぐいをかぶって、暑い庭で小麦をたたいているのを、あちこちで見ることがある。

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かれ鬼怒川きぬがは高瀬船たかせぶね船頭せんどう衣物きものかとおもやうくも/\ぎだらけな、それも自分じぶんつくろつて清潔きれいあらざらした仕事衣しごとぎ裾長すそながて、手拭てぬぐひかぶつてあつには小麥こむぎたゝいてるのを其處そこ此處ここることがある。

横にころがしたうすを前に置いて、小麦をつかんではほ先をそのうすの腹にたたきつけると、種がぽろぽろと向こうへ落ちる。

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よこころがしたうすまへゑて小麥こむぎつかんでは穗先ほさきうすはらたゝきつけるとたねがぼろ/\とむかふちる。

のっそりとしてゆったりした卯平は、若いころに慣れた仕事のこつで、大きな手が肩から打ち下ろすとき、まだそれなりにはかどるのだった。

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のつそりとして悠長いうちやう卯平うへい壯時さうじじゆくして仕事しごと呼吸こきふおほきなかたからおろとき、まだ相當さうたうはかどるのであつた。

彼はこうしてあちこちにやとわれて歩きながら、きれいな花がさいているのを見ると、種をもらったり根分けをしてもらったりして、庭先のくりの木のそばや井戸ばたの近くに植えた。

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かれうしてぐる/\とやとはれてあるきながら綺麗きれいはないてるのをるとたねもらつたり根分ねわけをしてもらつたりして庭先にはさきくりそば井戸端ゐどばたちかゑた。

彼はいそがしい仕事が終わりになったとき、つまり稲刈りから稲こきから、そしてもみすりも済んで、彼の得意な俵あみもなくなって、あたりがげっそりとさびしくしずんだとき、彼は急に勘次と別の住まいがしたくなった。

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かれいそがしい仕事しごとしまひになつたときすなは稻刈いねかりから稻扱いねこきからさうしてもみすりもんでかれ得意とくい俵編たわらあみもなくなつて、世間せけんがげつそりとさびしくしづんだときかれきふ勘次かんじべつまひがたくなつた。

彼は少しばかり残してあったたくわえから、虫食いでも何でも柱になる木や粟のからを買って、家の横手へ小さな、二間四方くらいの掘っ立て小屋を建てる計画をした。

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かれすこしばかりあましてあつたたくはへからむしくひでもなんでもはしらになるやら粟幹あはがらやらをもとめて、いへ横手よこてちひさな二けんはうぐらゐ掘立小屋ほつたてごやてる計畫けいくわくをした。

彼は寒い西風をきらって、ほとんど勘次の家とくっついて東わきに建てようとした。

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かれさむ西風にしかぜいとうてほとん勘次かんじうちあひせつして東脇ひがしわきたてようとした。

勘次はもちろん自分のふところが目に見えてへるのでもなし、それについてはけっしてかげでつぶやくことはなかった。

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勘次かんじもとより自分じぶんふところえてるのでもなし、それについてはけつしてかげつぶやくことはなかつた。

かんたんな工事には大工が少しのみを使っただけで、そのほかは近所の人々が手伝ったので、仕事はただ一日で終わった。

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簡單かんたん普請ふしんには大工だいくすこのみ使つかつただけその近所きんじよ人々ひと/″\手傳てつだつたので仕事しごとたゞにちをはつた。

長くてかさばる粟のからで手うすくふいた屋根は、これも職人の手を借りなかった。

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なが嵩張かさばつた粟幹あはがら手薄てうすいた屋根やねれも職人しよくにんらなかつた。

必要な縄は、卯平が丈夫になっておいた。

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必要ひつえうなは卯平うへい丈夫ぢやうぶつていた。

それからかべを塗るのには、間を置いて二、三日かかった。

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それからかべるのにはあひだいて二三にちかゝつた。

勘次もさすがに力をおしまなかった。

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勘次かんじ有繋さすが勞力らうりよくをしまなかつた。

彼は粟のからをふき上げた次の日から、二、三日近所の馬を借りて、田のわきの畑から土を運んだ。

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かれ粟幹あはがらげられたぎのから二三にち近所きんじようまりてそばはたけからつち運搬けた。

畑にはそのとき、麦が青く生えていたが、それでも持ち主は、畑がへるだけ田の面積が増えるわけなのと、土の量も特別多くないのとで、切り取ることをことわらなかった。

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はたけにはときむぎあをえてたが、それでも持主もちぬしはたけるだけ面積めんせき理由わけなのと、つち分量ぶんりやう格別かくべつことでないのとでることをいなまなかつた。

庭へ下ろした土には、ちらりちらりと青い麦のやわらかな葉がまじっていた。

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にはおろしたつちにはちらり/\とあをむぎやはらかなまじつてた。

勘次は夕方になって馬を返しながら、一日のえさとして、おつぎに煮させた麦をざるへ入れて、それからきざんだ藁もそえてやった。

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勘次かんじ夕方ゆふがたつてうまかへしながら、一にち餌料ゑさとしておつぎにさせたむぎざるれて、それからきざんだわらへてやつた。

勘次はそのついでに、よけいな藁を切った。

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勘次かんじついで餘計よけいわらつた。

土は最後の日の夕方に、まわりに土手のような輪をこしらえて、そこに水をかけてはぐちゃぐちゃと足でこねながら、きざんだ藁をまいてはふみこんで、そうして一晩置いた。

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つちしまひ夕方ゆふがた周圍しうゐ土手どてのやうなこしらへて其處そこみづつてはぐちや/\とあしねながらきざんだわらいてはんでさうして一ばんいた。

そうしているあいだに卯平は、なたでしのを幾つかに裂いて、柱と柱のあいだへかべの下地に細かな格子目をあんでいた。

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さういふあひだ卯平うへいなたしのいくつかにいてはしらはしらとのあひだかべ下地したぢこまかな格子目かうしめんでた。

しのは東どなりの主人にたのんで、真竹にまじったのを後ろの林から切ったのである。

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しの東隣ひがしどなり主人しゆじんからうて苦竹まだけまじつたのをうしろはやしからつたのである。

次の日、土はよく水が引いていて、ほどよくこねられた。

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つぎつちみづいてほどよくねられた。

勘次はおつぎにそのどろをたらいで運ばせておいて、不器用な手つきで塗った。

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勘次かんじはおつぎにどろたらひはこばせていて不器用ぶきようもとでつた。

卯平はなおも、しのであみ残した所をこしらえていた。

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卯平うへいなほしののこした箇所かしよこしらへてた。

塗りたてのかべは、せまい小屋の内側をじめじめと、しかも暗くした。

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りたてのかべ狹苦せまくるしい小屋こや内側うちがはしめつぽくかつくらくした。

かべの土がだんだんかわくのが待ち遠しくて、卯平は毎日ゆかの上のむしろにすわって火をたいた。

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かべつち段々だん/\かわくのが待遠まちどほ卯平うへい毎日まいにちゆかうへむしろすわつてたいた。

彼は近ごろになってから毎日のように林を歩いては、しばを背負って来て、折ってはたき折ってはたきしていた。

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かれ近頃ちかごろつてから毎日まいにちやうはやしあるいては麁朶そだ脊負せおつてつてはつてはきしてた。

かべを塗るときに格子目から内側へめくれ出たどろの一つ一つが、だんだんに白っぽくかわいて明るくなったとき、勘次はまた内側から塗って、めくれて出た一つ一つを全部かくした。

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かべとき格子目かうしめから内側うちがはくれどろの一つ/\がだん/\にしろつぽくかわいてあかるくつたとき勘次かんじまた内側うちがはからつてまくれてた一つ/\を一たいかくした。

卯平は掘っ立て小屋を建てるとなったら、勘次がこれまでになく調子よく勢いよく仕事をしてくれるのを、なんとなくうれしく思ってみたが、それでも仕事をしながらしみじみ口をきくのでもなければ、毎日おぜんをならべると必ずひがんだような顔をされるので、卯平は一日も早く別になってみたい気持ちから、さらに塗ったかべのためにふたたび暗くなった小屋が明るくなるのが、じれったくてたえられないのだった。

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卯平うへい掘立小屋ほつたてごやてるとなつたら勘次かんじまでになくあぶらつたやう威勢ゐせいよく仕事しごとをしてくれるのをなんとなくうれしくおもつてたが、それでも仕事しごとをしながらしみ/″\くちくのでもなければ、毎日まいにちぜんならべると屹度きつとひがんだやうなかほをされるので、卯平うへいは一にちはやべつつてたいこゝろからさらつたかべためふたゝくらくなつた小屋こやあかるくるのが遲緩もどかしさにへぬのであつた。

卯平はせまいながらもどうにか土間もこしらえて、そこへは自在かぎを一つつるして、つるのある鉄びんをかけたり小なべをかけたりできるようにした。

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卯平うへいせまいながらにどうにか土間どまこしらへて其處そこへは自在鍵じざいかぎひとつるしてつるのある鐵瓶てつびんかけたり小鍋こなべけたりすることが出來できやうにした。

彼は勘次からいくらかずつの米や麦を分けてもらって、別居した初めのうちは自分の手で煮たきをした。

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かれ勘次かんじからいくらかづゝのこめむぎけさせて別居べつきよした當座たうざ自分じぶん煮焚にたきをした。

それがかえって気楽で、そして少しずつは彼の舌にうまく感じる程度の物を買って来ることができた。

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それがかへつ氣藥きらくでさうしてすこしづゝはかれした佳味うまかんずる程度ていどものもとめてることが出來できた。

しかしそうしていても、寒さがとてもきびしいときは、彼はただせまい小屋の中でしばを少しずつ折ってくべるよりも、わりと広いかまどの前で、横にころがした大きなかごからがさがさと木の葉をかき出して、ぼうぼうとほのおを立てて暖まりたい気持ちがするのだった。

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しかしさうしててもさむさが非常ひじやうきびしいときかれたゞ狹苦せまくるしい小屋こやなか麁朶そだすこしづつべるよりも比較的ひかくてきひろかまどまへよこころがした大籠おほかごからがさ/\としてぼう/\とほのほてゝあたゝまりたい心持こゝろもちがするのであつた。

それで彼は勘次の留守には、かまどの前でゆったりと木の葉をたいて、顔や手足の皮が焼けたように赤くなるまで当たった。

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それでかれ勘次かんじ留守るすにはかまどまへ悠長いうちやういてかほ手足てあしかはけたやうあかくなるまであたつた。

勘次はときどき、持ちこんだしばや木の葉がわけもなくへっていることを知って、いやな気持ちになってはこっそりつぶやきながら、おつぎに当たるのだった。

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勘次かんじ時々とき/″\んだ麁朶そだ理由わけもなくつてることをつて不快ふくわいかんいどいてはこつそりとつぶやきつゝおつぎにあたるのであつた。

卯平はしばらく隠居に落ち着いてからは、一銭ずつでもふところをこしらえなければならないという決心にせかされて、毎日きせるを横にくわえては、ゆったりとではあるが、しかも絶え間なく縄をちよりちよりとなったり、それからわらじを作ったりした。

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卯平うへいしばら隱居いんきよ落付おちついてからは一せんづゝでもふところこしらへねばならぬといふ決心けつしんからうながされて、毎日まいにち煙管きせるよこくはへては悠長いうちやうではあるが、しか間斷かんだんなくなはをちより/\とつたり、それから草鞋わらぢつくつたりした。

彼は材料の藁を勘次に求めずに、五銭か十銭くらいずつふところのお金を出して、よく選んだ藁をあちこちで買って、ほ先の所を持っては肩から打ちかけて、がさがさと背負って来るのである。

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かれ原料げんれうわら勘次かんじ要求えうきうせずに五せんか十錢位せんぐらゐづゝ懷錢ふところせんしてすぐつたわら其處そこ此處こゝつて、穗先ほさきところもつてはかたからけてがさ/\と背負せおつてるのである。

藁の小さな決まったたばは、一たばはたいてい一銭ずつだった。

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わらちひさなきまつたたばが一大抵たいていせんづゝであつた。

その一たばの藁が、縄にすれば二たば半くらいで、わらじにすれば五足はできるのだった。

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の一わらなはにすれば二房半位ばうはんぐらゐで、草鞋わらぢにすれば五そく仕上しあがるのであつた。

それで彼の一日の仕事は、縄なら二十たばの大きな一たば、わらじなら五足というところなので、一たばの縄が七銭五毛で、一足のわらじが一銭五厘という相場だから、どちらにしても一日いっしんに手を動かせば、彼は六、七銭のもうけを得るのである。

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それでかれの一にち仕事しごとなはならば二十ばう大束おほたばが一草鞋わらぢならば五そくといふところなので、一ばうなはが七せんまうで一そく草鞋わらぢが一せんりんといふ相場さうばだからどつちにしても一にち熱心ねつしんうごかせばかれは六七せんまうけるのである。

卯平が買うおかずは、一日わずかに二銭もあれば十分なので、彼は毎日藁を使っていれば四、五銭ずつのあまりを得るわけではあるが、品物を売りに出る日を別にしても、気が乗らないと言っては朝からごろりところがっていることもあるので、平均してみると一日がいくらにもならないのだった。

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卯平うへいもとめる副食物ふくしよくもつは一にちわづかに二せんもあれば十ぶんなのでかれ毎日まいにちわら使つかつてれば四五せんづつの剰餘じようよ理由わけではあるが、品物しなものあきなひにべつにしてもらないといつてはあさからごろりところがつてることもあるので平均へいきんしてると一にちいくらにもらないのであつた。

しかしそれだけでも、卯平はいつもさいふのお金が出入りするのを心強く思うのだった。

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しかだけでさへ卯平うへい始終しじう財布さいふぜに出入でいりするのを心丈夫こゝろぢやうぶおもふのであつた。

勘次はむっつりとした卯平の戸口をのぞいたこともないが、卯平がすぐに来ても来なくても、ごはんのできたときに呼びに行くのはおつぎだった。

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勘次かんじはむつゝりとした卯平うへい戸口とぐちのぞいたこともないが、卯平うへいすぐてもなくてもめし出來できときびにくのはおつぎであつた。

卯平はいっしんに藁仕事をするときは、自分で炊事をするのは時間がひどくおしくもなったり、面倒にもなったり、ただ独りぽつんとしていると情けなくもなったりするので、ふだんはふたたびみんなといっしょにはしを取ることにしたのである。

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卯平うへい熱心ねつしん藁仕事わらしごとをするとき自分じぶん炊事すゐじをするのは時間じかんひどしくもつたり、面倒めんだうにもつたり、たゞひとりのみで㷀然ぽつさりとしてるとなさけなくもなつたりするので、平生へいぜいふたゝ一同みんなと一しよはしることにしたのである。

彼はおつぎがきびきびと一言でも言ってくれるたびに、そのひがもうとする心がどれほど和らげられるか知れないのである。

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かれはおつぎがはき/\と一言ひとことでもいうてれるごとひがまうとするこゝろがどれほどやはらげられるかれないのである。

彼はわらじを作るといって、四本のたて縄にやわらかな藁をうねうねと通しては、その縄のあいだに指を入れてぎっと前へ引きしめる、そのかすかな動きのあいだにも、彼は勘次に対して口にもふるまいにも出せないいまいましさが、心の底にむらむらと首をもたげはじめることもあるのだったが、おつぎの言葉はいつでも、その火を消し止める一ぱいの水なのだった。

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かれ草鞋わらぢつくるとて四すぢ竪繩たてなはやはらかなわらをうね/\ととほしてはなはあひだゆびれてぎつとまへめるかすかな運動うんどうあひだにもかれ勘次かんじたいしてくちにも擧動きよどうにもせぬ忌々敷いま/\しさがこゝろそこ勃々むか/\くびもたはじめることもあるのであつたが、おつぎの言辭ことばはいつでもめる一ぱいみづなのであつた。

おつぎは、どうかすると目のあたりにあるそばかすが一種のかわいらしさを引き立てて、甘えたような口のきき方をするのだった。

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おつぎはどうかするとへん雀斑そばかすが一しゆ嬌態しなつくつてあまえたやうなくち利方きゝかたをするのであつた。

おつぎは勘次のいないときは、めんどりがけたたましく鳴いて出れば、すぐにねぐらをのぞいて暖かいたまごを一つ取って、卯平のむしろへころがしてやることもあった。

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おつぎは勘次かんじないとき牝鷄めんどり消魂けたゝましくいてればぐにとやのぞいてあたゝかいたまごひとつをつて卯平うへいむしろころがしてやることもあつた。

おつぎは勘次のするどい目をだますには、これだけの深い注意をはらわなければならなかった。

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おつぎは勘次かんじ敏捷びんせふあざむくにはこれだけのふか注意ちういはらはなければならなかつた。

それもまれなことで、数は必ず一つと決まっていた。

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それもまれなことでかずかならひとつにかぎられてた。

しかし卯平は、そのわずかな親切に対してくぼんだ茶色の目をしかめるようにして、洗いもしないからの両はしに小さなあなを開けてすするのだった。

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しか卯平うへい僅少きんせう厚意こういたいしてくぼんだ茶色ちやいろしがめるやうにして、あらひもせぬから兩端りやうはしちひさなあな穿うがつてすゝるのであつた。

彼はおつぎの気持ちをよく分かっているので、その吸いがらはけっして目につく所へは捨てないで、細かく押しもんで、外へ出るついでに他人のかきねの中などへ放り捨てた。

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かれはおつぎの意中いちうかいしてるので吸殼すひがらけつしてにつくところへはてないでこまかにんでそとついで他人たにん垣根かきねなかなどへ放棄ほうつた。

それからもう一つ、ひがもうとする彼の心をさわやかにするのは与吉だった。

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それからも一つひがまうとするかれこゝろさわやかにするのは與吉よきちであつた。

とっくに甘えきっている与吉は、卯平の戸口に立ちふさがってはお金をねだった。

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とうからあまつて與吉よきち卯平うへい戸口とぐちふさがつてはぜにうた。

せまい戸口は、与吉の小さな体でさえ、卯平が藁をいじっている手元をうす暗くした。

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せま戸口とぐち與吉よきちちひさな身體からだでさへ卯平うへいわらをいぢつてもとを薄闇うすぐらくした。

卯平は藁くずといっしょに投げ出してある胴乱から、五厘の銅貨を出してやるのがふつうだが、与吉は自分でお金を出そうとして、胴乱の大きな金具がなかなか開かないので、怒って投げ出してみたり、卯平にすがったりした。

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卯平うへい藁屑わらくづと一つに投出なげだしてある胴亂どうらんから五りん銅貨どうくわしてやるのがれいであるが、與吉よきち自分じぶんぜにさうとして胴亂どうらんおほきな金具かなぐ容易よういかないのでおこつてしてたり、卯平うへいすがつたりした。

卯平はわざと与吉にたおされて、ころがることもあった。

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卯平うへいわざ與吉よきちたふされてころがることもあつた。

勘次は与吉が卯平からお金をもらうことを知ってから、ただでさえめったにくれたことのない彼は、けっして一度も与えることがなかった。

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勘次かんじ與吉よきち卯平うへいからぜにもらふことをつてからたゞさへ滅多めつたにくれたことのないかれけつして一あたへることがなかつた。

卯平はそれを知ってさえ、与吉に求められることが、かえって彼にとってはどれほどのなぐさめであるか知れないのだった。

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卯平うへいはそれをつてさへ與吉よきち要求えうきうされることがかへつかれためにはどれほど慰藉ゐしやであるかれないのであつた。

卯平はみじめな隠居に移るまでには、野田から持って来た少しばかりのたくわえは、いくらもさいふに残ってはいなかった。

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卯平うへい悲慘みじめ隱居いんきようつるまでには野田のだからつてすこばかりのたくはへはいくらも財布さいふのこつてはなかつた。

彼は急に思い出したように一日いっしんに仕事にかかりきってみたり、また勘次に対するやけから酒も飲んでみたりした。

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かれにはかおもしたやうに一にち熱心ねつしん仕事しごと屈託くつたくしてたり、また勘次かんじたいする自棄やけからさけんでたりした。

酒といっても知れた量だが、それでも藁一本ずつを刻んで行く仕事のもうけだけにたよる彼のふところを悲しくした。

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さけといつてもれた分量ぶんりやうであるが、それでもわら一筋ひとすぢづつをきざんで仕事しごとまうけにのみ手頼たよかれふところかなしくした。

卯平はそんなわずかな仕事でも、彼の体がなんともなくて、また勘次との仲がやわらいでいるなら、彼は好きなコップ酒を一ぱい飲むついでに、お酒をびんに買って勘次にやることさえ、苦にもしなければおしみもしないのだった。

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卯平うへい其麽そんな果敢はかない仕事しごとでも、かれ身體からだとゞこほりなくまた勘次かんじとのあひだ融和ゆうわされてるならばかれきなコツプざけの一ぱいかたむけるついでに、さけびんかつ勘次かんじあたへることさへ不自由ふじいうかんじもしなければ、しむこともないのであつた。

勘次もつかれた日の夕方には、くわを村の店ののき下に下ろして一ぱい飲んで来るのだが、一度も自分の家に持ち帰ったこともなければ、酒くさい息をはくあいだは卯平に顔を合わせたこともなかった。

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勘次かんじ疲勞ひらうした夕方ゆふがたには唐鍬たうぐは村落むらみせ軒下のきしたおろして一ぱいかたむけてるのであるが、かつ自分じぶんうちはこんだこともなければくさいきあひだ卯平うへいかほあはせたこともなかつた。

卯平は腰の痛みになやまされて、よけいにかさかさとかわいてこわばっている手を動かしにくくなると、彼はひとかけらの炭火もない火ばちをまくら元に置いて、じっとふとんをかぶったままである。

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卯平うへいこし疼痛いたみなやまされて、餘計よけいにかさ/\とからびてこはばつてうごかしがたくなるとかれは一くわいおきもない火鉢ひばち枕元まくらもといて凝然ぢつ蒲團ふとんかぶつたまゝである。

彼はそうでなくても、これまできびきびと口をきいたこともなく、ことに勘次に対してはしわのよった顔をさらにしかめているので、こうしてじっとしていることも、勘次はリューマチがなやませているのだとは知らないで、むしろ年寄りにありがちなだるさからくるねむりをむさぼっているのだろうくらいに見るのだった。

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かれはさうでなくてもかつてはき/\とくちいたこともなく、殊更ことさら勘次かんじたいしてはしなびたかほ筋肉きんにくさらしがめてるので、うして凝然ぢつとしてることをも勘次かんじ僂麻質斯レウマチスなやましてるのだとはらないで、むし老人らうじん通有つういう倦怠けんたいともな睡眠すゐみんむさぼつてるのだらうぐらゐるのであつた。

まくら元の火ばちは、戸口から見ると彼のうすい白髪の頭をかくしていた。

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枕元まくらもと火鉢ひばち戸口とぐちからではかれうす白髮しらがあたまおほうてた。

彼はそうかと思うと、起きていっしんにわらじを作ることがある。

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かれはさうかとおもふときて一しん草鞋わらぢつくることがある。

彼の仕事は年を取って面倒なようだが、その生まれつきの器用さは失われなかった。

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かれ仕事しごと老衰らうすゐして面倒めんだうやうであるが、天性てんせい器用きよううしなはれなかつた。

彼は五足ずつを一つにたばねたわらじと、それから縄が一荷になると、大きな風呂しきで背負って出た。

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かれは五そくづつをひとつにたばねた草鞋わらぢとそれからなは一荷物ひとにもつると大風呂敷おほぶろしき脊負しよつてた。

それはたいてい暖かな日に限られていたのだが、そのときは彼の大きな体はきりりと帯をしめて、股引の上に高くしりをまくって、まだたのもしげにがっしりとして見えるのだった。

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それは大抵たいていあたゝかなかぎられてるのであつたが、そのときかれおほきな躯幹からだはきりゝとおびめて、股引もゝひきうへたかしり端折はしよつてまだ頼母たのもしげにがつしりとしてえるのであつた。

卯平はこうして仕事をしてみたりねてみたり、それから自分で小なべで煮炊きをするかと思えば、家族三人といっしょにおぜんに向かったり、そばから見ている勘次には、気の知れないおじいさんだった。

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卯平うへいうして仕事しごとをしてたりたり、それから自分じぶん小鍋立こなべだてをするかとおもへば家族かぞくにんともぜんむかつたり、そばから勘次かんじにはれぬぢいさんであつた。

卯平はときどき塩ざけの一切れを古新聞紙のはしに包んで来ては、火ばちに鉄の火ばしをわたして、少しくすぶるしばの火で焼いた。

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卯平うへい時々とき/″\鹽鮭しほざけ一切ひときれ古新聞紙ふるしんぶんしはしつゝんでては火鉢ひばちてつ火箸ひばしわたして、すこいぶ麁朶そだいた。

彼はあぶない手つきで、まちがえて落としては灰にまみれても、口でふうふうとふいて手でばたばたとたたくだけで、洗うこともしなかった。

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かれ危險あぶなもとで間違まちがつておとしてははひにくるまつてもくちでふう/\といてでばた/\とたゝくのみであらふこともしなかつた。

じりじりと白く火ばしに焼きついた塩が、長く火ばしににおいを残した。

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じり/\としろ火箸ひばしいたしほなが火箸ひばし臭氣しうきめた。

勘次は小屋で卯平が塩ざけを焼くにおいをかいでは、一種のしげきを感じるとともに、卯平をねたむようないやな気持ちが、どうかするとつい起こった。

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勘次かんじ小屋こや卯平うへい鹽鮭しほざけにほひいでは一しゆ刺戟しげきかんずるととも卯平うへいにくむやうな不快ふくわいねんがどうかするとつひおこつた。

それだが卯平はまた、独りでむっつりとふとんにくるまっているときは、親子三人の話がよく聞こえた。

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それだが卯平うへいまたひとりでむつゝりと蒲團ふとんにくるまつてとき父子おやこにんはなしきこえた。

彼は自分がいっしょにいるときはたがいにへだてがありそうでいて、自分がはなれると急に仲よさそうに笑いさざめくもののように、彼はずっと前から思っていた。

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かれ自分じぶんが一しよときたがひへだてが有相ありさうて、自分じぶんはなれるとにはかむつまじさう笑語さゝやくものゝやうかれひさしいまえからおもつてた。

それを聞くと彼は一種のねたみをともなういやな気持ちになって、ふとんを深くかぶってみてもなんとなく耳について、おつぎのちょっと甘えたような声や与吉のえんりょのないむじゃきな声を聞くと、一方ではまた彼らの家族と一つになりたいような気持ちも起こるし、彼はじっと目を閉じているので頭の中がよけいにもつれて、いろいろなようすがはっきりと目の先にちらついて、しみじみと悲しくなってみたりして、なおさらリューマチの痛みがじりじりと自分の体をしめつけてしまうようにも感じられた。

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それくとかれは一しゆ嫉妬しつとともなうたいや心持こゝろもちつて、蒲團ふとんふかかぶつててもなんとなくみゝについて、おつぎの一寸ちよつとあまえたやうこゑ與吉よきち無遠慮ぶゑんりよ無邪氣むじやきこゑくと一ぱうにはまた彼等かれら家族かぞくと一つにりたいやうな心持こゝろもちおこるし、かれ凝然ぢつぢてるのであたまなか餘計よけい紛糾こぐらかつて、種々いろ/\状態じやうたい明瞭はつきり目先めさきにちらついてしみ/″\とかなしいやうつてたりして猶更なほさら僂麻質斯レウマチス疼痛いたみがぢり/\と自分じぶん身體からだ引緊ひきしめてしまやうにもかんぜられた。

彼はそういうとき、おつぎでも与吉でも

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かれはさういふときおつぎでも與吉よきちでも

「爺さんよう」

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ぢいよう」

と呼んでくれれば、ふいとだるい首をもたげて、明るい真昼の光を見ることで、何とも知れないうれしさになみだがいっぱいにあふれることもあるのだった。

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んでくれゝばふいとものうくびもたげてあかるい白晝はくちうひかりることによつてなんともれぬうれしさになみだが一ぱいみなぎることもあるのであつた。

おつぎはやかましく勘次に使われて、昼のあいだはわずかのひまもなかった。

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おつぎは八釜敷やかましく勘次かんじ使つかはれてひるあひだ寸暇すんかもなかつた。

夜がしんとするころは、おつぎはよく卯平の小屋へ来て、なやんでいる腰をもんでやった。

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がひつそりとするころはおつぎは卯平うへい小屋こやなやんでこしんでやつた。

おつぎは卯平をいたわるのには、いくら勘次がやかましくても、いちいち断りを言ってからは出なかった。

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おつぎは卯平うへいいたはるにはいく勘次かんじ八釜敷やかましくても一々ことわりをいうてはなかつた。

勘次は、おつぎがしばらくでもいなくなると、たとえ卯平のそばにいると知っていても

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勘次かんじはおつぎが暫時しばしでもなくなると假令たとひ卯平うへいそばるとはつても

「おつう」

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「おつう」

と例のようにはげしくどなってみるのである。

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いつものやうにはげしく呶鳴どなつてるのである。

「ここにいたよ。そんなに呼ばれなくたっていいから。何だか、おとっつあんは」

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此處こゝたよ、そんなにばらなくつたつてえゝから、なんだかおとつゝあは」

おつぎが勘次をしかる声はやわらかで、そしてはっきりと勘次の耳にひびいた。

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おつぎの勘次かんじしかこゑやはらかでさうして明瞭めいれう勘次かんじみゝひびいた。

勘次は手ランプの光にただ目がひどく光るだけで、一言もなく息をひそめてしまうのである。

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勘次かんじランプのひかりたゞひどひかるのみで一ごんもなく屏息へいそくしてしまふのである。

彼はまたしばらくして大戸をがらりと勢いよく開けて出ては、また少しすきまを残して大戸を引いて、ちょうど中へもどったように見せて、ほとんどかべにくっついた卯平の戸口の近くに立ってみるのである。

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かれまたしばらくして大戸おほどをがらりといきほひよくけててはまたすこ隙間すきのこして大戸おほどいて丁度ちやうどうちかへつたとせて、ほとんどかべせつした卯平うへい戸口とぐちちかつてるのである。

手ランプもつけない卯平のせまい小屋の空気は、黒くしょんぼりとして死んだようである。

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ランプもけぬ卯平うへいせま小屋こや空氣くうきくろ悄然ひつそりとしてんだやうである。

勘次はぬき足でもどっては、できるだけ静かに戸を閉じる。

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勘次かんじあししてもどつては出來できるだけしづかぢる。

とても不満な顔つきをしていても、勘次はおつぎが帰るとすぐに機げんが直って

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非常ひじやう不平ふへい相形さうぎやうをしてても勘次かんじはおつぎがかへるとすぐ機嫌きげんなほつて

「お前はそんなに夜ふかしするもんじゃない」

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りやそんなに夜更よふかしするもんぢやねえ」

と、いたわるような、たしなめるような調子で言ってみるのである。

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いたはるやうなたしなめるやうな調子てうしていつてるのである。

すると

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さうすると、

「明日のさわりにでもなりゃしまいし、かまうこともあるまいな、おとっつあんは」

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明日あしたさはりにでもりやしめえしかまあこたあんめえな、おとつゝあは」

と言って、おつぎは勘次をおさえつけてしまうのである。

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といつておつぎは勘次かんじしつけてしまふのである。

卯平は、おつぎが看病に来るときはたいてい

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卯平うへいはおつぎが看病かんびやうとき大抵たいてい

「お前はいいよ」

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りやえゝよ」

と言うのがふつうである。

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といふのがれいである。

彼は勘次に遠りょするのではなくて、おつぎがぶつぶつ言われるのを心配するのだった。

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かれ勘次かんじ遠慮ゑんりよをするのではなくて、おつぎがぶつ/\いはれるのを懸念けねんするのであつた。

それでも卯平は、心の中でこっそりおつぎを待っていた。

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それでも卯平うへいこゝろひそかにおつぎをちつゝあつた。

彼をなやませたリューマチは、病気の性質として彼の頑丈な体から命をうばい去るほど強くはならず、起こったりやわらいだりして、彼が帰ってから二度目の冬も一日一日と短い日を刻んで行った。

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かれなやまされた僂麻質斯レウマチス病氣びやうき性質せいしつとしてかれ頑丈ぐわんぢやう身體からだから生命せいめいうばるまでにちからたくましくすることはなく、おこつたりやはらいだりしてかれかへつてから二度目どめふゆ一日々々いちにち/\みじかきざんでつた。

せまい掘っ立て小屋は、彼が初めに思いこんだほど、彼にとって幸せな所ではなかった。

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狹苦せまくるしい掘立小屋ほつたてごやかれ當初はじめおもんだほどかれためさいはひところではなかつた。

一九

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一九

「ああ暑い暑い、何と暑いことかな」

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「おゝあつえ/\、なんちあつえこつたかな」

おつたは前歯の下駄を引きずって

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おつたは前駒まへこま下駄げたつて

「おやおやまあ、よくこうまあ、どこにも草っ葉一つなくて、見ても晴れ晴れとするようだ」

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「おや/\まあうなあ、何處どこにもくさだらひとつなくつて、ても晴々せえ/\とするやうだ」

と、わざとらしく言って庭に立った。

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わざとらしいやうにいつてにはつた。

それから

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さうしてから

「たくさん穫れるだろうな、これじゃ。くきばかりでもたいした出来だな」

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「たんとれべえなこんぢや、からばかしでもたえした出來できだな」

と言って、勘次の近くへ歩いて行った。

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といつて勘次かんじちかはこんだ。

勘次は庭先のくりの木のかげへ二つのうすを横にころがして、おつぎと二人で夏そばを打っていた。

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勘次かんじ庭先にはさきくりかげふたつのうすよこころがしておつぎと二人ふたり夏蕎麥なつそばつてた。

夏そばは小麦でも打つように、ひとつかみつかんでは肩から背負うようにしてうすの腹にたたきつけると、三角形の種がまだ少し青い葉といっしょに落ちて、ほとんど真上からさす日をさえぎっているくりの木のかげから遠ざかって、はるか先のほうまでころがって行く。

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夏蕎麥なつそば小麥こむぎでもやうひとつかんではかたから背負せおふやうにしてうすはらたゝきつけると三稜形りようけい種子がまだすこあをともちてほとん直射ちよくしやする日光につくわうさへぎつてくりかげからとほざかつてはるかさきはうまでころがつてく。

小麦とちがってしめっぽい夏そばは、くきがくたくたとして、何度もたたきつけなければなかなか落ちない。

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小麥こむぎちがつてしめつぽい夏蕎麥なつそばからがくた/\として幾度いくどたゝきつけねばなか/\ちない。

それでも種はふぞろいに熟しているので、まだ青いのはどうしてもしがみついている。

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それでも種子不規則ふきそく成熟せいじゆくをしてるので、まだあをいのはどうしてもしがみいてる。

二人は藁でしばった大きなたばを解いては、ねばった物でも引きはがすようにつかみ取って、いっしんにいそがしくうすの腹にたたきつけた。

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二人ふたりわらくゝつたおほきなたばいてはねばつたものでもはがやうつかつて熱心ねつしんせはしくうすはらたゝきつけた。

庭は卯平がいつも草をむしってそうじしてあるのに、そばを打つ前にいったんていねいにほうきをかけたので、見るからにきれいになっていたのである。

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には卯平うへい始終しじゆくさむしつて掃除さうぢしてあるのに、蕎麥そばまへに一たん丁寧ていねいはうきわたつたのでるから清潔せいけつつてたのである。

勘次は暑いので、こんのじゅばんも腰のあたりへだらりと落として、こげたようなはだをさらけ出している。

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勘次かんじあついのでこん襦袢じゆばんこしのあたりへだらりとこかして、こげたやうな肌膚はだをさらけしてる。

彼はさらにくりの木のしげった葉のあいだから、針の先で突くようにぽちりぽちりともれてさす光をよけて、いつものようにいぐさのあみがさをかぶって、麻のひもをあごでぎっと結んである。

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かれさらくりしげつたあひだからはりさきくやうにぽちり/\とれてひかりけていつものごと藺草ゐぐさ編笠あみがさかぶつて、あさひもあごでぎつとむすんである。

毎日必ず汗でぐっしょりとしめるので、その強い繊維の力がもろくなって、秋の冷たい季節までにはどうしてもとちゅうで一度は取りかえなければならないと勘次が自まんしているひもは、ほこりが加わってよごれていた。

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毎日まいにちかならあせでぐつしりとしめるので、強靱きやうじん纎維せんゐちからもろつて、あきつめたい季節きせつまでにはどうしても中途ちうとで一へねばならぬと勘次かんじ自慢じまんしてひもほこりくははつてよごれてた。

勘次はおつたのすがたをちらりとかきねの入口に見たとき、いやそうに目をしかめて、知らないふりをしながら、ひたすらそばのくきに力を注いだのだった。

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勘次かんじはおつたの姿すがたをちらりと垣根かきね入口いりぐちとき不快ふくわいしがめてらぬ容子ようすよそほひながら只管ひたすら蕎麥そばからちからそゝいだのであつた。

おつたはやや茶色にあせた毛じゅすの洋がさを肩にかけたまま、そこらにこぼれたそばの種をふまないように気をつけながら、勘次の横に立ち止まった。

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おつたはやゝ褐色ちやいろめた毛繻子けじゆす洋傘かうもりかたけたまゝ其處そこらにこぼれた蕎麥そば種子まぬやう注意ちういしつゝ勘次かんじ横手よこてどまつた。

おつたは何年か前に仕立てたと見える、めったにない大がらの鳴海しぼりのゆかたをかた肌ぬぎにして、左のそで口がだらりとひざの下までたれている。

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おつたは幾年いくねん以前まへ仕立したてえる滅多めつたにない大形おほがた鳴海絞なるみしぼりの浴衣ゆかた片肌脱かたはだぬぎにしてひだり袖口そでぐちがだらりとひざしたまでれてる。

すそは片方をまくって、外から帯へはさんだ。

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すそ片隅かたすみ端折はしよつてそとからおびはさんだ。

勘次はどこまでも知らないふりを保つことはできなかった。

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勘次かんじ何處どこまでもらぬ容子ようすたもつことは出來できなかつた。

彼はおつたのわざとらしい声も聞かず、また近くに立ったそのすがたを目に入れないわけには行かなかった。

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かれはおつたのわざとらしいこゑかず、またちかつた姿すがたうつさないわけにはかなかつた。

彼はそばをつかむのをやめて、おつたのほうを向いた。

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かれ蕎麥そばつかむのをめておつたのはういた。

彼はしかめていた顔に、少しきまり悪そうな表情をうかべた。

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かれしがめてかほすこきまりの惡相わるさうな一しゆ表情へうじやううかべた。

「何だい、姉さんら」

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なんでえ姊等あねら

勘次は思わずそう言った。

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勘次かんじ無意識むいしきにさういつた。

彼の胸のあたりにわき出る汗は、わずかに曲がりながら何本もの流れる道を作っている。

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かれむねのあたりにいづあせは、わづか曲折きよくせつをなしつゝ幾筋いくすぢかのながるゝみちつくつてる。

そこにはそばのくきから少しずつ立つほこりがついてしめっている。

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其處そこには蕎麥そばからからられぬほどづつほこりいてしめつてる。

じりじりと汗のあなからしぼり出る汗が、その流れの道を絶やさないで、そこだけそばのほこりを洗い流している。

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ぢり/\と汗腺かんせんからしぼいづあせあとつけられたながれのみちたないで其處そこだけ蕎麥そばほこりあらつてる。

彼はおつたの前に、その暑そうな体を向けた。

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かれはおつたのまへ暑相あつさうけた。

「どうしたということもないがなあ。おれはこっちのほうを通ったもんだから、ちょっと寄ってみたところさ」

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「どうしたつちこともねえがなよ、らこつちのはうとほつたもんだから一寸ちよつくらがゝつてところさ」

おつたは何かわけのありそうな口ぶりで軽く言った。

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おつたはなに理由わけ有相ありさう口吻くちつきかるくいつた。

「おれはしばらくこっちへも来なかったっけが、これはおつぎじゃあるまいか。ずいぶんいいむすめになっちまったなあ。もっともこういう年ごろの子は、ちょっと見ないでいると分からなくなるな、すぐだからな。そのわりにしちゃ、おれみたいなのは年は取らないものさな」

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しばらくこつちへもなかつたつけが、らおつぎぢやあんめえか、大層たえそえゝむすめつちやつたなあ、もつともはあうい手合てえはちつとねえでちやわかんなくんなすぐだかんな、わりにしちやてえなもな年齡としはとんねえものさな」

おつたは立ったまま独り言のように、そして少し張り合いがなさそうに、何か話のきっかけでも求めたいというようすで、くりの木のえだからだらりとたれている南瓜のしりを見上げながら言った。

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おつたはつたまゝ獨語ひとりごとやうに、さうしてすこ張合はりあひのないやうに、なにはなし端緒いとぐちでももとめたいといふ容子ようすくりこずゑからだらりとたれてる南瓜たうなすしり見上みあげながらいつた。

おつぎはこのとき、すげがさのはしにちょっと手をかけて、おつたに腰をかがめた。

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おつぎはとき菅笠すげがさはし一寸ちよつとけておつたへこしかゞめた。

おつぎは白いじゅばんのえりをのぞかせて、ひとえの胸をきちんと合わせて、そしてたすきと手甲で身を固めて、暑いのにもかかわらず、女のたしなみを失わなかった。

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おつぎはしろ襦袢じゆばんえりのぞかせて、單衣ひとへむねをきちんとあはせて、さうしてたすき手刺てさしとでかためて、あついのにもかゝはらずをんな節制たしなみうしなはなかつた。

おつぎはそばの手を放して、小走りにかけて行った。

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おつぎは蕎麥そばはなして小走こばしりにけてつた。

すげがさを取って、だらりとかぶった手ぬぐいを外したとき、少し乱れた髪がぐっしょりと汗にぬれて、げっそりとやつれたもののように思われた。

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菅笠すげがさをとつてだらりとかぶつた手拭てぬぐひはづしたときすこみだれたかみがぐつしやりとあせれてげつそりとおとろへたものゝやうおぼえた。

おつたは開いたままの洋がさをくりの木のそばへ仰向けに置いて、黙って井戸ばたへ行って、手水だらいに一ぱいの水をくんだ。

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おつたはひらいたまゝ洋傘かうもりくりそば仰向あふむけいてだまつて井戸端ゐどばたつて手水盥てうづだらひに一ぱいみづんだ。

「冷たくて本当に晴れ晴れといい水じゃないか。おれのほうの井戸みたいにしゃくしでくみ出すようなんじゃ、ぼかぼかぬるくて」

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つめたくつて本當ほんと晴々せえ/\とえゝみづぢやねえか、井戸ゐどてえに柄杓ひしやくすやうなんぢや、ぼか/\ぬるまつたくつて」

おつたはまた独り言を言った。

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おつたは獨語ひとりごとをいつた。

勘次はそばをはなれたおつたをほうっておいて、しかも気の乗らないようにまたそばをうすに打ちつけはじめた。

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勘次かんじそばつたおつたをてゝ、しからぬやうまた蕎麥そばうすちつけはじめた。

おつたは汗のしみた手ぬぐいをしきりにごしごしともみ出して、首すじのあたりから全体に何度もふいて、手水だらいの水を取りかえた。

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おつたは汗沁あせじみた手拭てぬぐひしきりにごし/\として首筋くびすぢのあたりから一たい幾度いくたびとなくぬぐつて手水盥てうづだらひみづへた。

しばらくして、家ののきからは青いけむりがはって、だんだんうすいけむりが後から後から暑い日に消えて行った。

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しばらくしてうちひさしからはあをけぶりつてだん/\にうすけぶりあとから/\とあつ消散せうさんした。

「おとっつあん、お茶がわいたぞ」

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「おとつゝあ、おちやいたぞ」

おつぎは戸口へ出て、小声で勘次に告げた。

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おつぎは戸口とぐち小聲こごゑ勘次かんじげた。

「うん」

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「うむ」

勘次は喉の底で言って

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勘次かんじのどそこでいつて

「姉さん、お茶がわいたとう」

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あね、おちやいたとう」

彼はまたぶすりと言って、そばの手を止めなかった。

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かれまたぶすりといつて蕎麥そばめなかつた。

「お茶をお上がりなさいね」

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「おちやおあがんなせえね」

おつぎは勘次の後につづいて、少し声を高くして言った。

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おつぎは勘次かんじしりいてすこ聲高こわだかにいつた。

おつたはぎりっとしぼった手ぬぐいを開いて、ばたばたとはたいた。

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おつたはぎりつとしぼつた手拭てぬぐひひらいてばた/\とたゝいた。

井戸ばたにぼさぼさとしげりながら、昼の暑さにぐったりと葉のしおれているほうせんかの、やっとついている花が手ぬぐいのはしにふれて、ぽろっと落ちた。

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井戸端ゐどばたにぼつさりとしげりながら日中につちうあつさにぐつたりとしをれて鳳仙花ほうせんくわの、やつとすがつてはな手拭てぬぐひはしれてぼろつとちた。

そばには背の高いひまわりが、むしろどぎついほどいっぱいに開いて、まわりにほこっている。

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そばには長大ちやうだい向日葵ひまわりむし毒々どく/\しいほどぱいひらいて周圍しうゐほこつてる。

おいらん草の花がもさもさとしげったまま、ひまわりのそばに列をなしている。

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草夾竹桃くさけふちくたうはながもさ/\としげつたまま向日葵ひまわりそばれつをなして

「よくまあこんなに作ったっけな。おれももう、好きは好きだが、自分じゃあっちだこっちだで作れないもんだ。これをまあ、朝っぱらのすずしいうちに見たら、どれほどいいことかよ」

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くまあかういにつくつたつけな、らもはあ、きはきだが自分じぶんぢやそつちだこつちだでつくれねえもんだ、れまああさつぱらすゞしいうちたらどらほどえゝこつたかよ」

おつたはしめった手ぬぐいを幾つかに折って手ににぎったまま、くりの木のそばに置いた洋がさをすぼめて、ゆっくりと家へ入った。

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おつたはしめつた手拭てぬぐひいくつかにつてつかんだまゝくりそばいた洋傘かうもりつぼめてゆつくりとうち這入はひつた。

おつぎはお茶をわかす火のために汗がさらにわいたのを手ぬぐいでふいて、それから乱れた髪にくしを入れて、さらにていねいに手ぬぐいをかぶって、そうしておつたを呼んだのだった。

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おつぎはちやわかためあせさらいたのを手拭てぬぐひでふいて、それからみだれたかみくしいれさら丁寧ていねい手拭てぬぐひかぶつてさうしておつたをんだのであつた。

おつたはどこか落ち着かないようすで、洋がさも外のかべぎわに立てかけてしきいをまたいだ。

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おつたは何處どこ落付おちつかぬ容子ようす洋傘かうもりそと壁際かべぎはかけしきゐまたいだ。

「お暑うございますね、どうも」

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「おあつうござんすねどうも」

おつぎはたすきを取ってあいさつしながら、おつたにお茶をすすめた。

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おつぎはたすきをとつて時儀じぎべながらおつたへちやすゝめた。

三人はしばらく黙っていた。

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にんしばら沈默ちんもくしてた。

東どなりの庭からは、大ぜいがそろってからさおで麦を打つひびきが、森をとおして、それからどろりどろりと地面をゆらして聞こえた。

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東隣ひがしどなりにはからは大勢おほぜいそろつて連枷ふるぢむぎつてひゞきが、もりとほしてそれからどろり/\とゆすつてきこえた。

自分たちが立てるひびきにさそわれてさわぐ、彼らの決まったはやし声が「ほういほうい」

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自分等じぶんらてるひゞきさそはれてさわ彼等かれらきまつたはやしこゑが「ほうい/\」

と一人の口から、そしてだんだんめいめいの口からいっせいにほとばしって、楽しそうに聞こえた。

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一人ひとりくちからさうして段々だん/\各自めいめいくちから一せいほとばしつて愉快相ゆくわいさうきこえた。

三人の耳も同じようにさそわれたように、一種の調子を持ったとなりの庭のひびきに耳をかたむけながら、黙ったままの時間をつづけた。

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にんみゝおなじくさそはれたやうに一しゆ調子てうしつたとなりにはひゞきみゝかたむけつゝ沈默ちんもく時間じかん繼續けいぞくした。

おつたは茶柱の立った茶わんの中を見て、それからちょっとにっこりしてみたり、庭のほうを見たりしていた。

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おつたは茶柱ちやばしらつた茶碗ちやわんなかてそれから一寸ちよつと嫣然につこりとしてたり、にははうたりしてた。

おつたが庭を見ると、勘次は何年も会わなかった姉のようすを、さすがにしみじみと見るのだった。

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おつたがにはると勘次かんじ幾年いくねんはなかつたあね容子ようす有繋さすがにしみ/″\とるのであつた。

おつたは五十をいくつもこえている。

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おつたは五十をいくつもえてる。

小がらな、少しくりくりと丸みのある顔は、年ほどには見えないにしても、やっと深いしわが刻んでいるのに、髪はおそろしくつやつやとしている。

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小柄こがらすこしくり/\とまるみをつたかほは、年齡程としほどにはえないにしてもやうやふかしわきざんでるのに、かみおそろしくつや/\としてる。

おつたは髪を染めていた。

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おつたはかみめてた。

しかし薬の力は、はだをとおしてその下にまでは行きとどかなかった。

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しかくすりちから肌膚はだとほしてしたにまでおよぼすことは出來できなかつた。

髪は染めてからしばらくたったと見えて、はだについたわずかな部分が、髪ぜんぶをそっくり持ち上げたように、ほのかに白く見えていた。

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かみめてからしばらつたとえて一たい肌膚はだについたわづか部分ぶぶんかみすべてをそつくりげたやうほのかにしろえてた。

勘次はただ音を立てながら、なかなか冷めない熱い茶わんをすすった。

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勘次かんじたゞひゞきてながら容易よういめぬあつ茶碗ちやわんすゝつた。

おつぎも、何年か会わないおばの人なつっこいような、わけの分からないようなようすをぬすみ見た。

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おつぎも幾年いくねんはぬ伯母をばひとなづこいやう理由わけわからぬやう容子ようすぬすた。

「夏そばでも穫れるのは、こういうぐあいじゃつぶも大きいようだな」

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夏蕎麥なつそばでもとれんなかうい鹽梅あんべえぢやつぶえけやうだな」

おつたは庭を見たまま、また真っ先に目に入るそばについて言った。

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おつたはにはまゝだい一にれる蕎麥そばついていつた。

こちらを向いている二つのうすの腹が、まだ先のやわらかな夏そばのくきでうす青く染まっているのが見えている。

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此方こちらいてふたつのうすはらが、まださきやはらかな夏蕎麥なつそばくき薄青うすあをまつたのがえてる。

「ばかに降ってばかりいたせいか、くきばかりのびちまって。そんだが穫れないほうでもあるまいが、夏そばが穫れるようじゃ世の中はよくないというから、こんなものはどうでもいいようなもんだが」

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馬鹿ばかつてばかし所爲せゐからばかしびつちやつて、そんだがとれねえはうでもあんめえが、夏蕎麥なつそばとれるやうぢや世柄よがらよくねえつちから、んなもなどうでもえゝやうなもんだが」

勘次の言い方はぎこちなかった。

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勘次かんじのいひかたはこそつぱかつた。

庭のあぶらぜみが、暑くなれば暑くなるほどひどくじりじりといりつけるだけで、しんとした村のはしで、久しぶりに会った姉と弟はこうして、ただよそよそしく向かい合った。

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には油蝉あぶらぜみあつくなればあつくなるほどひどくぢり/\とりつけるのみで、閑寂しづか村落むらはしたま/\うた姊弟きやうだいはかうしてたゞ餘所々々よそ/\しく相對あひたいした。

「本当に、おれはさっきからそう思ってるんだが、りっぱな花じゃないかな」

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本當ほんと先刻さつきからさうおもつてんだが立派りつぱはなぢやねえかな」

おつたは庭先の草花に、また話をつづけた。

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おつたは庭先にはさき草花くさばなはなしいだ。

「うん、そんだが、ろくにありもしない肥料ばかり使われて」

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「うむ、そんだがろくりもしねえ肥料こやしばかし使つかあれて」

「お前が植えたんじゃないのか」

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「おめえゑたんぢやねえのか」

「なあに、爺さんがあっちこっちから持って来て植えたのよ。去年はそんでも、そこらへとうもろこしくらい作れたっけが、これ、じゃまだとも言えないしなあ」

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「なあに爺樣ぢいさまそつちこつちからつてゑたてたのよ、去年きよねんはそんでも其處そこらへ玉蜀黍位たうもろこしぐれえつくれたつけが、れ、邪魔じやまだともはんねえしなあ」

「おれはしばらく来ないから知らなかったっけが、そんでも野田から引っこんでか」

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しばらねえかららなかつたつけが、そんでも野田のだからつこんでか」

「うん、もう二年になるよ」

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「うむ、はあ二ねんらえ」

「よっぽどの年だろうが、丈夫かい、それでも」

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ぽど年齡としだつぺが丈夫ぢやうぶけえそんでも」

「丈夫なことは、おどろくほど丈夫だが、何でも自分が好きなら働くようすで、そこらをほっつき歩いちゃこづかいくらいは取ってるんだな、ぐあいしだいが」

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丈夫ぢやうぶなこたあ、魂消たまげほど丈夫ぢやうぶだがなんでも自分じぶんきならはたら容子ようすで、其處そこらほうつきあるいちや小遣錢位こづけえぜねぐれえはとつてんだな鹽梅あんべえしきが」

「そんじゃいそがしいときにはちっとは手伝ってもらえてよかろうな」

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「そんぢやいそがしいときにやちつたあ手傳てつだつてもらへてよかんべな」

「何だ、一つ手伝うなんてありゃしまいし。それからもう、こっちもたのみもしないが」

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「なんだら一つ手傳てつだあなんちやりやしめえし、それからはあ、此方こつちたのんもしねえが」

「もっともそう言えば、若いころでもおれが知ってからは、仕事は上手でやるとなればみっしりやるようだったっけが、好きじゃないようすだったっけのさな」

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もつともさういへばさかりころでもらあつてからは仕事しごと上手じやうずるとしちやみつしらやうだつけが、きぢやねえ鹽梅あんべえだつけのさな」

「それどころじゃないや。おれといっしょにいるのさえいやなんだろうが、別々になっちまったな。つまらない、よけいなお金なんぞ使って。おれだって大変な手間をかけたな。なあに、おれは爺さんさえちっとその気でいてくれさえすりゃ、いくらでも面倒を見るというんだが、どういうつもりなんだか、おれには分からないが」

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どこぢやねえや、らと一しよんのせえなんだんべが、別々べつ/\つちやつたな、つまんねえ、餘計よけいぜねなんぞつかつて、らだつてえけえこと手間てまつこんだな、なあに爺樣ぢいさませえちつとそのつもりつてれせえすりや、いくらでも面倒めんだうるつちつてんだが、如何どういふ料簡れうけんのもんだからがにやわかんねえが」

「そんじゃ、このそばの小屋じゃあるまい。おれはさっき見たときは、肥料小屋だとばかり思ってたな。本当に、こういう所へもの好きな話よな。何でも世の中を渡るならだれでも同じこと、跡取りの気分を悪くしないようにやらなくちゃかなわないよ。そんだが、それも性分でなあ、他人からじゃ仕方がないものよ」

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「そんぢや、そば小屋こやぢやあんめえ、先刻さつきとき肥料小屋こやしごやだとばかしおもつてたな、本當ほんとにかうだとこ醉狂すゐきやうはなしよな、なんでもわたしちやたれでもおなじこと相續人さうぞくにん氣味きあぢわるくしねえやうにやんなくつちやへねえよ、そんだがそれも性分しやうぶんでなあ、ほかからぢやしやうねえものよ」

「おれだって、これで一人増えちゃ増えただけ、麦や米の心配からしなくちゃならないんだから、そのつもりでいてくれなくちゃ。これで気分としてはあんまり面白くないからな。毎日にがむしをかみつぶしたような顔ばかりされたんじゃ、いやになっちまうぞ、本当に」

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らだつてこんで一人ひとりえちやえただけ麥米むぎこめ心配しんぺえからしてかゝんなくつちやなんねえんだから、つもりてくんなくつちや、んで心持こゝろもちぢやあんま面白おもしろかねえかんな、毎日まいにち苦蟲にがむしちやしたやうなつらつきばかしされたんぢやんなつちまあぞ、本當ほんたうに」

「そりゃそうにも何にもよ。他人でさえ、これでやわらかい言葉でもかけられると、後じゃほしくなるような物でも出す気にもなるもんだからなあ」

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「そりやさうにもなんにもよ、他人たにんでせえこんでやつけえ言辭ことばでもけられつと、あとぢやしくるやうなものでも料簡れうけんにもなるもんだかんなあ」

おつたはこう言いながら、さっきからにわとりのねぐらの下にある二つの俵に目を注いでいた。

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おつたはういひながら先刻さつきからとりとやしたる二へうたわらそゝいでた。

「そんだがお前も、たいした働きだと見えるな。こんなに俵までちゃんとして。たいがいの百姓じゃお前、こうはいかないぞ。おれはお世辞を言うわけじゃないが」

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「そんだがおめえもたえしたはたらきだとえんな、かうえにたわらまでちやんとして、大概てえげえ百姓ひやくしやうぢやおめえこのにやかねえぞ、世辭つやいふわけぢやねえが」

勘次はやっと話に引きこまれたように、このときほほえみをもらして

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勘次かんじやうやはなしまれたやうとき微笑びせうらして

「おれも今になってからじゃこれ、話するようなもんだが、ひとしきりは泣いたからな、本当に。これでもこれくらいにするにはやっとこさだぞ」

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らもいまんなつてからぢやこれ、はなしするやうなもんだがひとしきりやいたかんな本當ほんたうに、こんでもくらえにすんにやゝつとこせえだぞ」

と言った。

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といつた。

「おつぎも働けそうだな、きびきびとして。さっきおれがそばを打ってるのを見ていても、気持ちがいいようだったっけよ。仕事は何でも身なりのいいもんでなくちゃなあ。これもお前が仕込んだせいだろうが」

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「おつぎもはたらさうだな、きり/\としてなあ、先刻さつき蕎麥そばつてんのてゝも心持こゝろもちえゝやうだつけよ、仕事しごとはなんでも身拵みごしれえのえゝもんでなくつちやなあ、れもおめえが仕込しこみ所爲せゐだんべが」

おつたはそう言って、また

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おつたはさういつてまた

「そりゃそうと、おっかさんにそっくりだなあ」

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「そりやさうとおつかさまに其儘そつくりだなあ」

と、そばにいたおつぎに目を移した。

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そばたおつぎにうつした。

おつぎはそれを聞くとともに、身をよけるように手おけを持って庭へ出た。

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おつぎはそれをくとともけるやう手桶てをけつてにはた。

「おれもこれで、女房に死なれたばかりのころには、これも役に立たないから泣き通したよ」

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らもこんでかゝあなれた當座たうざにやれもやくたねえからきぬいたよ」

勘次は急にしんみりとして言った。

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勘次かんじにはかにしんみりとしていつた。

おつたはお品のことが勘次の口から出たとき、かすかに苦笑いして

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おつたはおしなのことが勘次かんじくちからときかすかに苦笑くせうして

「ほんに、おれはあのときには来られなかったっけが、遠くのほうへ行ってたもんだから。お前にはもう、悪く思われるだろうとは思ってたのよ」

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「ほんに、ときにやねえつちやつたつけが、とほくのはうつてたもんだから、おめえにやはあわるおもはれべえたあおもつてたのよ」

おつたはやっとのことで、しかも表向きは何でもないように言ってしまった。

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おつたはやうやくのことでしか表面へうめんこともなげにいつてしまつた。

「おれはさっきから見てるんだが、道具はよく大事にすると見えて、かまなんぞでも光ってることな。それによく、こう三日月みたいな形に減らせたもんだな。とぎ方もよっぽど気をつけなくちゃ、こうはできないな。道具もこうすりゃいつまでも使えて安いものさな」

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先刻さつきからてんだが道具だうぐ大事でえじにすつとえてかまなんぞでもひかつてつことなあ、それにくかう三日月姿みかづきなりらせたもんだな、かたぽどをつけなくつちやかうは出來できねえな、道具だうぐうすりや何時いつまでゝも使つかへてやすえものさな」

おつたは少し慌てたように、しかもなるべく落ち着こうとしながら話をそらした。

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おつたはすこあわてたやうしかるべく落附おちつかうとつとめつゝはなしそらした。

「くわもたいしたもんじゃないかな」

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唐鍬たうぐはもたえしたもんぢやねえかな」

おつたはわざとくわのそばに立った。

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おつたはわざ唐鍬たうぐはそばつた。

「うん、そんでもおれのみたいなのは、めったに持ってる者もないからな」

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「うむ、そんでもらがてえなゝ、滅多めつたつてるもなねえかんな」

「どうするんだい、こんな大きいの。持ち上げるだけでも大変なようじゃないかい」

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「どうすんでえこんなえけえの、てるばかしでも大變たえへんなやうぢやねえけ」

「そんだって姉さん、これを見ろな」

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「そんだつてあねろな」

勘次は手のひらをおつたの前に出した。

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勘次かんじてのひらをおつたのまへした。

百姓にしてはわりと小さな手は、はれたかと思うほどぽつりとふくれて、どれほどかしの柄をつかんでも、けっして豆ができるはずの手でないことをはっきりと見せている。

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百姓ひやくしやうにしては比較的ひかくてきちひさなれたかとおもほどぽつりとふくれて、どれほどかしつかんでもけつして肉刺まめしやうずべきでないことをあきらかにしめしてる。

「これだから、知らない者は、おれが手をかざしてると、どうしたんだいなんて聞くから、おれはこんなにはれちまって痛くて仕方がないんだなんて、そうっと出して見せると、なるほどこりゃ痛かろうなんておどろくらあな。くわなんざお金を出しさえすりゃいくらでもあるが、この手のひらはないぞ。二年三年くわを持ったんじゃ、こうはならないからな。おれのはくわの柄へすっかりくっついちまったんだから。これで毎年四、五反歩くらいは開こんするんだから」

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んだかららねえもな手懷てぶところしてつと、如何どうしたんでえなんてくかららかういにはれつちやつていたくつてしやうねえんだなんて、そろうつとしてせつと、ほどこりやいたかんべえなんて魂消たまげらあな、唐鍬たうぐはなんざぜねしせえすりやいくらでもんが、ぴらはねえぞ、二ねんねん唐鍬たうぐはつたんぢやうはんねえかんな、らがな唐鍬たうぐはさすつかりくつゝいちやつたんだから、こんで毎年まいとし四五反歩位たんぶりぐれえ打開墾ぶちおこすんだから」

勘次はしかめた顔のすじがゆるんだようになって、おつたの前でほこった。

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勘次かんじしがめたかほすぢがゆるんだやうになつておつたのまへほこつた。

「旦那の山林を開こんしちゃうまいのよ。場所によっちゃ陸稲も作れるし。おれはこれでも三、四反歩ずつは作ってるんだが、今年はいいぐあいの降りだから大丈夫だとは思ってるのよ。どういうもんだか、以前は陸稲というともう、穫れないようなもんだったっけがな」

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旦那だんな山林開墾やまおこしちやうめえのよ、場所ばしよによつちや陸稻をかぼつくれるし、らこんでも三四反歩たんぶりづつはつくつてんだが、今年ことしはえゝ鹽梅あんべえりだから大丈夫だえぢよぶだたあおもつてんのよ、どうえもんだか以前めえかた陸稻をかぼつちとはあ、とれねえやうなもんだつけがな」

「そんなに作っちゃ、たいしたもんじゃないかな」

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其麽そんなつくつちや大層たえそなもんぢやねえかな」

おつたはおどろいたように言った。

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おつたはおどろいたやうにいつた。

「陸稲も土地が新しいうちはできるもんだわ。ほの出たわりには量は取れないが、そんでも開こんしたばかりには草は出ないから手間が要らないしな。それに肥料というのはなんぼもしないんだから。もっとも三年も作っちゃそうはいかないが、そのときは元の山林になるんだから、こわいことも何にもないのよ」

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陸稻をかぼめづらしいうち出來できるもんだわ、わりにやけねえが、そんでも開墾おこしたばかしにやくさねえから手間てまらねえしな、それに肥料こやしつちやなんぼもしねえんだから、もつとも三ねんつくつちやにやかねえが、とき以前もと山林やまになんだから可怖おつかねえこともなんにもねえのよ」

「よっぽど穫れるだろうな、三、四反歩も作っちゃなあ」

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ぽどとれべえな、三四反歩たんぶりつくつちやなあ」

「これでほの出るころに雨でもいいぐあいなら、一反で四俵なんざどうしても穫れると思ってるのよ」

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「こんで出際でぎはあめでもえゝ鹽梅あんべえなら、たんで四へうなんざどうしてもとれべとおもつてんのよ」

「陸稲とも言えないもんだな。以前とちがって今の時代じゃそうだから、これで場所によっちゃ、百姓にもたいした運不運があるのよなあ。おれのほうみたいにこう水で持って行かれてばかりいる所もあるのに、山林の中で米が穫れるなんて」

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陸稻をかぼともはんねえもんだな、以前めえかたちがつていま時世ときよぢやさうだからこんで場所ばしよによつちや、百姓ひやくしやうにもたえしたころびがあるのよなあ、はうてえに洪水みづつてかれてばかしとこんのに山林やまんなかでこめとれるなんて」

「そうよ、ここらはこう水の心配はそんなにしないでもいい所だからな」

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「さうよ、此處こゝらは洪水みづ心配しんぺえはさうだにしねえでもえゝとこだかんな」

勘次は、これまで二人の仲がどうであったにしても、たまたま会ったおつたに向かってだんだん話しているうちには、同じお母さんから生まれたきょうだいのつながりが、彼の卑しい心の底を開いて、それをかくすにはあまりに彼を無防備にさせたのだった。

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勘次かんじ從來これまであひだがどうであつたにしても偶然ぐうぜんつたおつたにたいしてだん/\はなしてるうちにはおな乳房ちぶさすがつた骨肉こつにく關係くわんけいかれ淺猿さもしいこゝろそこ披瀝ひらいてそれを陰蔽いんぺいするのにはあまりにかれ放心うつかりとさせたのであつた。

「おつう、あのらっきょうでも出してみな。土用前に取ってすぐつけたんだから、もうよかろう」

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「おつう、らつきやうでもしてせえ、土用前どようめえつてつけたんだから、はあよかんべえ」

勘次は気持ちよくおつぎに言いつけた。

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勘次かんじこゝろよくおつぎにめいじた。

おつぎは古いしょうゆだるから白づけのらっきょうを片口に出して、おつたのそばへすすめた。

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おつぎはふる醤油樽しやうゆだるから白漬しろづけらつきやう片口かたくちしておつたのそばすゝめた。

勘次は一つつまんでかりかりとかじった。

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勘次かんじは一つつまんでかり/\とかじつた。

少し丸みのあるほおに絶えずほほえみをうかべて、勘次の言うことを聞いていたおつたは、何かさらに言おうとしてちょっとためらっているようすが見えた。

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すこまるみがかつたほゝたえ微笑びせうふくんで勘次かんじのいふことをいてたおつたはなにさらにいはうとして一寸ちよつと躊躇ちうちよしつゝある容子ようすえた。

勘次もおつぎも、それは知らなかった。

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勘次かんじもおつぎもそれはらなかつた。

おつたは、いっぱいに注いである茶わんへまたお茶を注ごうとして、急にやめた。

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おつたは一ぱいいである茶碗ちやわんまたちやがうとしてにはかめた。

おつたは茶わんをぐっと飲み干した。

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おつたは茶碗ちやわんをぐつとした。

「これできょうだいのいい話を聞くのは悪くないもんだよ。さすがに自分ばかりよくて、ほかのきょうだいには構わないというものもないからな」

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「こんで同胞きやうでえのえゝはなしくなわるかねえもんだよ、有繋まさか自分じぶんばかしよくつてほか同胞きやうでえにやかまあねえつちいものもねえかんな」

と言って、庭のべんじょへ立って、それからまた上がりがまちに腰を下ろした。

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といつてには便所べんじよつてそれからふたゝあががまちこしおろした。

「おれはお前にちっと相談に乗ってもらいたいと思うことがあって来たんだったがなあ」

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らおめえにちつと相談さうだんつてもれえてえとおもふことつてたんだつけがなよ」

おつたはわざとあらたまったようすでなく言いかけた。

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おつたはわざあらたまつた容子ようすでなくいひけた。

「何だろう」

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なんだんべ」

勘次はふっといつもの自分にもどろうとして、例の不安そうな目を見開いておつたを見た。

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勘次かんじはふつとかれ平生へいぜいかへらうとしていつも不安ふあんらしいみはつておつたをた。

「なあに、たいしたことじゃないが、目の見えない息子に嫁を世話されるもんだから、どうしたもんだろうかと思ってよ」

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「なあにたえしたこつちやねえが、盲目めくら野郎やらうよめ世話せわされるもんだからどうしたもんだんべかとおもつてよ」

「姉さんがもらいたけりゃ、他人には構うことはあるまいな」

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あねもらへたけりや他人ひとにやかまあこたあんめえな」

勘次は、おつたがゆっくり言うのが終わらないうちに、そっけなく言った。

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勘次かんじはおつたがゆつくりといふのがをはらぬのにそつけなくいつた。

「そう言っちまえばそうだがなあ。そんだって、きょうだいに一言の話もないなんて後で文句を言われても、黙ってちゃお前、口が開けまいな。そんだから、おれはお前に耳打ちしておこうと思ったんだな」

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「さうつちめえばさうだがなよ、そんだつて同胞きやうでえ一噺ひとはなしもねえなんてあと文句もんくはれても、だまつてちやおめえくちけめえな、そんだかららおめえげ耳打みゝうちしてくべとおもつたんだな」

「おれは何も文句を言う筋合いはないな」

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なに不服ふふくいふせきはねえな」

勘次は少し安心したらしく、こう軽く言ってのけた。

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勘次かんじすこ安心あんしんしたらしく、かるくいひ退けた。

「そんならいいがなあ。あれももう二十七になるんだから、おれもこれでまあ心配はしてたんだが、自分でもそれ、足りない足りないの心配が絶えないもんだから、思ってはいても手が出ないのよ。自分の子どものことを、お前、まったくどうなってもかまわないとは思えないよ、これで」

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「そんだらえゝがなよ、れもはあ廿七になるんだかららもこんでまあ心配しんぺえはしてたんだが、自分じぶんでもそれんねえの心配しんぺええねえもんだから、おもつちやてもねえのよ、自分じぶん餓鬼がきのことおめえ全然まるつきりどうなつてもかまあねえたあおもへねえよこんで」

勘次は足の先で土間の土をこすりながら、黙っておつたの言うのを聞いた。

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勘次かんじあしさき土間どまつちこすりながらだまつておつたのいふのをいた。

「あれもそれ、とちゅうで目が見えなくなったんだから、それまでに働いて体はできてるし、お前も知ってるとおり、あれでいて仕事もできるしするもんだから、ありがたいことに、体が不自由でも嫁を世話しようという人もあるようなわけさなあ。何でも人間は働き次第だよ。お前だって、働くというのでばかり他人にはよく言われてるじゃないかい。そんで、おれもその女は見たが、女はそれ、器量は悪いがな。そんだって目が見えないんだもの、顔立ちを見るわけじゃなし、心根さえよけりゃいいと思って」

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あれもそれ中途ちうと盲目めくらつたんだから、それまでにはたらいて身體からだ成熟できてるしおめえもつてるとほりあんで仕事しごと出來できるしするもんだから、難有ありがてえことに不具かたわでもよめ世話せわすべつちいものもあるやうなわけさなあ、なんでも人間にんげんはたら次第しでえだよ、おめえだつてはたらくんでばかり他人ひとにやはれてべえぢやねえけえ、そんでれもをんなたが、をんなはそれりいがな、そんだつて盲目めくらだもの目鼻立めはなだちべえぢやなし、心底しんてえせえよけりやえゝとおもつてな」

おつたはしきりに、勘次の心の底からの賛成を得ようとした。

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おつたはしきりに勘次かんじ衷心ちうしんからの同意どういようとした。

「そりゃよかろうな、そんじゃ」

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「そりやよかんべなそんぢや」

勘次はただかんたんにそう言った。

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勘次かんじたゞ簡單かんたんにさういつた。

「そんで嫁を持たせるにしても、せっかくこっちにいて働いてるんだから、おれは自分の所へは連れて行くわけには行かないと思ってな。何と言ってもそれ、知ってる所でなくちゃ、目が見えないから面倒を見てくれるという人もあるまいしなあ。それからおれは、そこのところも心配していたんだが、ちょうどこの村にいいぐあいに貸してもいいという家があるというもんだから、ついでだと思って見て来たが、ここからじゃあっちのほうの、それ、知ってるだろう、しきって貸すというんだから、おれはそこへ入れたいと思って。おそるおそる聞いてみたんだが、借りるのには保証人がなくちゃだめだというから、近くではあるし、お前に保証に立ってもらいたいと思ってな」

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「そんでよめたせるにしても折角せつかくこつちにはたらいてんだから自分じぶんとこへはれてわけにやかねえとおもつてななんちつてもそれ、しつてつとこでなくつちや盲目めくらだから面倒めんだうてくれるつちひともあんめえしなあ、それから其處そこんとこも心配しんぺえしてたんだが、丁度ちやうどこの村落むらにえゝ鹽梅あんべえしてもえゝつちうちるつちもんだから、ついでだとおもつてたが、此處こゝからぢやあつちのはうのそれつてべえ仕切しきつてすつちんだから、其處そこれてえとおもつて、おそこそいてたんだがりんのにや保證人ほしようにんくつちや駄目だめだつちから、ちかくぢやあるしおめえに保證ほしようつてもれえてえとおもつてな」

「いやだよ、おれはそんなこと」

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だよらそんなこと」

勘次は慌てたように言った。

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勘次かんじあわてたやうにいつた。

「そんじゃ仕方がないな。どうしてだろうな、また。せっかくあれの身も落ち着くんだから、そうしてくれればいいんだがな」

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「そんぢややうねえな、どうしてだんべなまた、折角せつかくあれかたまんだからさうしてれゝばえゝんだがな」

おつたはがっかりして投げやりな態度で言った。

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おつたはがつかりけた態度たいどでいつた。

「ばかを言え、家賃でもとどこおった日には、おれが弁償しなくちゃなるまいし。それこそおれの暮らしなんざつぶれても間に合いやしない。いやにも何にも」

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箆棒べらぼう家賃やちんでもとゞこほつたにや、辨償まよはなくつちやりやすめえし、それこさあらが身上しんしやうなんざつぶれてもにやえやしねえ、だにもなんにも」

「そんなこと言ったってお前、あれだって独りでいるんじゃなし、持つ物を持って働くのに、三十銭や五十銭の家賃がはらえないこともあるまいな。それも何なら、お前、一月でも二月でもようすを見て、そのとき見こみがなけりゃ手を引いてもかまいやしないな」

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「そんなことつたつておめえ、あれだつてひとりでゝもんぢやなしつものつてはたらくのに三十せんや五十せん家賃やちんはらへねえこともんめえな、それもなんならおめえ一月ひとつきでも二月ふたつきでも見試みためして、そんとき見込みこみなけりや身拔みぬけしてもかまえやしねえな」

「そんでもいやだよ。おれはそういう話じゃ聞きたくもない」

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「そんでもだよ、らさういはなしぢやきたくもねえ」

勘次はそっけなく言って、すいと庭へ立って、また夏そばに手をかけた。

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勘次かんじ素氣すげなくいつてすいとにはつて夏蕎麥なつそばけた。

「ひどくいそがしいこったな」

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ひどいそがしいこつたな」

おつたは口を引きしめて、勘次の後ろすがたを見た。

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おつたはくちめて勘次かんじ後姿うしろすがたた。

「いそがしいとも。田の草もまだ取っちゃいないんだ。土用になってからだって、いくらも照りやしまいし。降ってばかりいるから見ろ、あれ、となりの旦那らだって今ごろ麦を打ってるさわぎだあ。百姓はこのころの季節によけいなひまなんざないから」

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いそがしいともくさもまあだきやしねえんだ、土用どようになつてからだつていくらもりやしめえし、つてばかしつからろうあれ、となり旦那等だんなたちだつて今頃いまごろむぎつてるさわぎだあ、百姓ひやくしやうごろ時節じせつ餘計よけいひまなんざねえから」

勘次はつぶやくように言った。

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勘次かんじつぶやくやうにいつた。

となりの庭では、さっきよりさらに勢いがついたように、からさおのひびきがはやし声とともに、森をもれて聞こえた。

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となりにはでは先刻さつきよりもさらいきほひがついたやう連枷ふるぢひゞきはやしこゑともなひつゝもりれてきこえた。

「うん、たいしたあいさつだな。おれはまた、姉と弟というのはそんなもんじゃあるまいと思ってたんだったな」

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「うむ、たえした挨拶あいさつだな、らまた姊弟きやうでえつちやさうえもんぢやあんめえとおもつてたんだつけな」

おつたは少しむっとしたようすを見せた。

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おつたはすこ勃然むつとした容子ようすせた。

「姉さんらの言うことを聞いたっくらい、どんなことをされるか分からないから」

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姊等あねらふこといたつくれえどんなことされつかわかんねえから」

勘次はやけになってそばのくきを打ちつけ打ちつけしながら言った。

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勘次かんじ自棄やけ蕎麥そばからちつけ/\しつゝいつた。

彼はそうして、一目もおつたを見なかった。

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かれさうして一目ひとめもおつたをなかつた。

「どんなことをするって、おれは泥棒はしないぞ、勘次」

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什麽どんなことするつて泥棒どろぼうはしねえぞ、勘次かんじ

その切れた目じりに一種のすごみを見せておつたが立ったとき、卯平はのっそりと戸口に大きな体を運んで来た。

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れた目尻めじりに一しゆ凄味すごみつておつたがつたとき卯平うへいはのつそりと戸口とぐちおほきな躯幹からだはこばせた。

卯平はおつたを見て、いつものようにくぼんだ茶色の目をしかめるようにした。

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卯平うへいはおつたをいつもごとくぼんだ茶色ちやいろしがめるやうにした。

「おや、こっちのおとっつあん、しばらくでしたねどうも。ご機げんよろしゅうございますね」

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「おやこつちのおとつゝあん、しばらくでがしたねどうも、御機嫌ごきげんよろしがすね」

おつたは、そらぞらしいほど打って変わった調子で言った。

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おつたはそら/″\しいほどつてかはつた調子てうしでいつた。

「まあこっちへでも来なさいね」

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「まあこつちへでもさつせえね」

卯平は隠居へおつたを案内した。

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卯平うへい隱居いんきよへおつたをみちびいた。

「おれは今、外から帰って来たばかりだが、何でしょうね」

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らいまほかからけえつてたばかしだが、なんでがすね」

卯平はぶすりと聞いた。

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卯平うへいはぶすりといた。

「ほんにもう、他人には聞かせたくもないこったがねえ。わしもそれ、目の見えない息子が一人いるんだが、これが三十近くにもなるものをねえ。ただほうっておけないから嫁を取らせようと思って、いいぐあいの話がそれ、来たもんだから、勘次にも一言話そうと思って来たところなのさ。わしもこれで、義理を欠くのはいやだからね」

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「ほんにはあ、他人ひとにやかせたくもねえこつたがねえ、わしもそれ盲目めくら野郎やらう一人ひとりあんだが、これ三十ちかくにもなるものをねえ、たゞ打棄うつちやつてもけねえからよめとらせべとおもつて、えゝ鹽梅あんべえのがそれくちかゝつたもんだから勘次かんじげも一はなしすべとおもつてところなのさ、わしもこんで義理ぎりくのだかんね」

「そうしたら、この村にいいぐあいの家があるもんだから、借りて暮らしを持たせようと思って、保証に立ってくれと言ったところが、たいしたあいさつなのさ。三十銭か五十銭の家賃をねえ。かわいそうだろうじゃないかねえ、体の不自由なおいのことをねえ。保証に立ったくらいで暮らしがつぶれるというあいさつなのさ。ねえこれ、年を取っちゃこっちのおとっつあん、先も短いのに、心根のいいものでなくちゃ、万一のときが心配だからねえ。後の者の世話になりたいというのは、みな同じだろうじゃないか。ねえ、こっちのおとっつあん、そうでしょう。そんでそれ、嫁というのが心根のいい女だというんだから、わしもほしいのさ、本当の話がねえ。そう言っちゃ欲張りのようだが、同じものならやわらかい言葉でもかけてくれる嫁でなくちゃねえ。そうじゃあるまいかね」

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「さうしたら村落むらにえゝ鹽梅あんべえうちあるもんだからりて身上しんしやうたせべとおもつて保證ほしようつてくろつちつたところがたえした挨拶あいさつなのさ、三十せんか五十せん家賃やちんをねえ、不便ふびんだんべぢやねえかねえ不具かたわおひのことをねえ、保證ほしようつたくれえ身上しんしやうつぶれるつち挨拶あいさつなのさ、ねえこれ、年齡としとつちやこつちのおとつゝあんさきみじけえのに心底しんてえのえゝものでなくつちや、萬一まさかとき心配しんぺえだからねえ、あともの厄介やくけえりてえつちなみんなおんなじだんべぢやねえか、ねえこつちのおとつゝあんさうでがせう、そんでそれよめつちのが心底しんてえのえゝをんなだつちんだからわしもしいのさ本當ほんたうはなしがねえ、さうつちや我慾がよくやうだがおんなじもんならやつけえ言辭ことばでもけてくれるよめでなくつちやねえ、さうぢやあんめえかね」

おつたはせまい戸口に立ったまま、洋がさの先で土にあなを開けながら、勘次のほうをじろっと見ながらいきり立って言った。

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おつたはせま戸口とぐちつたまゝ洋傘かささきつちあな穿うがちながら勘次かんじはうをぢろつとつゝいきりつていつた。

「そりゃもう、そうだが」

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「そりや、はあ、さうだが」

ただこれだけ言って、無口な卯平は自分の思いどおりだというように、ずっとくぼんだ目をしかめて、手からはきせるを放さなかった。

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たゞこれだけいつて寡言むくち卯平うへい自分じぶんたといふやう始終しじうくぼんだしがめてからは煙管きせるはなさなかつた。

勘次は庭からぬすむように見ては、卯平がおつたに味方して勢いをつけているように思った。

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勘次かんじにはからぬすむやうにては卯平うへいがおつたへ威勢ゐせいをつけてるやうにおもつた。

彼は解いて打って、さらに藁でくくったそばのたばを、どさりと遠くへ投げつけた。

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かれいてつてさらわらくゝつた蕎麥そばたばをどさりととほくへはふつた。

葉がさらにぐったりとしおれたほうせんかのえだが、すかりと裂けて先が地面についた。

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さらにぐつたりとしをれた鳳仙花ほうせんくわえだがすかりとさけさきについた。

「姉さんら、たいしたことを言ったって、年寄りの面倒を見たとは言えまい」

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姊等あねら大層たえそなことつたつて、老人としより面倒めんだうたゝへめえ」

勘次はぶつぶつと独り言を言った。

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勘次かんじはぶつ/\と獨語どくごした。

おつたの耳にも、かすかにそれが聞こえた。

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おつたのみゝにもかすかにそれがきこえた。

おつたはきっとにらんだ。

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おつたはきつた。

「おとっつあん、黙ってるもんだ」

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「おとつゝあだまつてるもんだ」

おつぎは軽く勘次を止めて

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おつぎはかる勘次かんじせいして

「お昼だぞ、もう」

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「お晝餐ひるだぞはあ」

と、おつぎはさらに勘次に注意した。

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とおつぎはさら勘次かんじ注意ちういした。

「そんじゃ、こっちのおとっつあん、おさわがせしました。わしは帰りましょうもう。少しでもいちゃじゃまでしょうから。こっちのおとっつあんも、じゃまにならないほうがようございますよねえ」

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「そんぢやこつちのおとつゝあん、お八釜敷やかましがした、わしやけえりませうはあ、一こくちや邪魔じやまでがせうから、こつちのおとつゝあんも邪魔じやまんねえはうがようがすよねえ」

おつたは洋がさを開いて

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おつたは洋傘かさひらいて

「よそから見ても分かりましょうねえ。たとえどうでも俵まで持っていて、弁償と言ってみたところで三十銭か五十銭のことだろうじゃないかね。できるもできないもあるもんじゃない」

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岡目をかめでもれまさあねえ、假令たとひどうでもたはらまでつてられて、辨償まよつてところで三十せんか五十せんのことだんべぢやねえか、出來できるも出來できねえもあるもんぢやねえ」

と、おつたはいまいましさに口を止めなかった。

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とおつたは忌々敷いま/\しさにくちめなかつた。

「お昼はどうでしょうね」

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「お晝餐ひるはどうでがすね」

おつぎはそれでも、おずおずとおつたに言った。

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おつぎはそれでもづ/\おつたへいつた。

「おれはもう要らないともね」

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ら、はあらねえともね」

おつたはそばの種がいっぱいに散らかった庭を、えんりょもなく一直線に下駄のあとをつけて歩いた。

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おつたは蕎麥そば種子の一ぱいらけたには遠慮ゑんりよもなく一直線ちよくせん不駄げたあとをつけた。

「勘次ら、親子仲よくてよかろう。世間の評判もりっぱだあ。身内の者は、おかげで肩身が広くていいや」

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勘次等かんじら親子おやこなかよくつてよかんべ、世間せけんきこえも立派りつぱだあ、親身しんみのもなあ、おかげ肩身かたみひろくつてえゝや」

おつたは庭の出口からちょっとふり返って言った。

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おつたはには出口でぐちから一寸ちよつとかへりみていつた。

そしてさっさと行ってしまった。

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さうしてさつさとつてしまつた。

となりの庭の麦打ちの人たちは、静かになったこちらの庭をあざけるようにさわいでは、またさわぐのが聞こえた。

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となりには麥打むぎうち連中れんぢうは、しづかになつたこちらのにはあざけるやうにさわいではまたさわぐのがきこえた。

勘次はただ力をこめてそばのくきを打って、ついに一言も口に出さなかった。

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勘次かんじただちからきはめて蕎麥そばからつてつひに一ごんかなかつた。

おつぎは、かきねの上にうかんだおつたの洋がさが見えなくなるまで、しばらくぽつねんと庭に立った。

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おつぎは垣根かきねうへうかんだおつたの洋傘かさえなくなるまでしばらくぽつさりとしてにはたつた。

卯平はきせるをかんだまま、じっとして黙っていた。

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卯平うへい煙管きせるんだまゝ凝然ぢつとしてだまつてた。

卯平はしばらくして、ほうせんかの折れたのを見つけて井戸ばたへ立った。

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卯平うへいしばらくして鳳仙花ほうせんくわれたのをつけて井戸端ゐどばたつた。

彼はいきなりそばのくきのたばを大きな足でけった。

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かれはいきなり蕎麥幹そばがらたばおほきなあしつた。

彼はさらに短い竹の棒を持って行って、きっと力をこめて地面に突きとおした。

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かれさらみじかたけぼうつてつてきつとちからめてとほした。

たれたほうせんかのえだは、竹のつえにしばりつけようとして手をふれたら、ぽろりとくきからはなれてしまった。

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れた鳳仙花ほうせんくわえだたけつゑしばりつけようとしてれたらぽろりとくきからはなれてしまつた。

卯平はいまいましそうに投げ捨てた。

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卯平うへい忌々敷相いまいましさう打棄うつちやつた。

卯平がのっそりと大きな体を立てたそばに、ひまわりはみな日に背を向けて、堂々と立っている。

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卯平うへいがのつそりとおほきな躯幹からだてたそば向日葵ひまはりことごとそむいて昂然かうぜんとしてつてる。

ひまわりは、つぼみがとてもふくらんで黄色になってから卯平が植えたのだった。

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向日葵ひまはりつぼみ非常ひじやうふくれて黄色きいろつてから卯平うへいゑたのであつた。

そのときにはもうつぼみはどうしても日の言うことを聞いて動かないので、暑い、そしてかわきのはげしい日がそれをにくんで、かたい下葉をがさがさにからした。

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ときはもうつぼみはどうしてものいふこといてうがかないので、あついさうして乾燥かんさうはげしいがそれをにくんでこは下葉したばをがさ/\にらした。

それでも強いくきはすっと立って、たいがいはがっかりと暑さに打たれている草木のあいだで、ほこったように見えた。

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それでもつよくきはすつとつて、大抵たいていはがつかりとあつさにたれて草木さうもくあひだほこつたやうにえた。

そのいっぱいに開いた皿のような花が、庭先からいつでも冷たい三人をあざけるもののように見えるのだった。

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の一ぱいひらいたさらやうはな庭先にはさきからいつでもひやゝかな三にんあざけるものゝやうにえるのであつた。

竹の棒はぎっと突きとおしたまま、いつまでもむなしくほうせんかのそばに立っていた。

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たけぼうはぎつととほしたまゝいつまでもむなしく鳳仙花ほうせんくわそばつてた。

二〇

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二〇

秋だ。

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あきだ。

どのえだも、しげる力が限界に達して、そこにおとろえのかげがかすかにうかんだ。

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いづれのこずゑ繁茂はんもするちから極度きよくどたつして其處そこ凋落てうらくおもかげかすかにうかんだ。

毎日すみきった空をじりじりときしませながら、強い熱を放っていた日も、あまりに長い昼の時間にあきようとして、空から、そして地上のすべてがやっと調子を変えはじめた。

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毎日まいにち透徹とうてつしたそらをぢり/\ときしりながら高熱かうねつ放射はうしやしつゝあつたあまりにながひる時間じかんまうとして、そらからさうして地上ちじやうすべてがやうや變調へんてうていした。

心もとなげな雲がむらむらと南からかけて来て、そのたびごとににわか雨をざあとななめに降らせる。

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こゝろもとなげなくも簇々むら/\みなみからはしつて、そのたびごと驟雨しううをざあとなゝめそゝぐ。

雨は畑のかわいた土にまみれて、やがてしぶきを作物の下葉にはねかけて、さらににごった水が白いあわを乗せながら低いほうへ流れ去った。

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あめはたかわいたつちにまぶれて、やが飛沫しぶき作物さくもつ下葉したばつて、さら濁水だくすゐしろあわせつゝひくきをもとめてつた。

それもわずかに桑の木へからんだ昼顔の花にいっぱいの量を注いでは、慌てて走り去って、からりと熱した空がふかれることもあるのだが、にわか雨は後から後からかけて来るので、夜明けの白まないうちから麦をついて庭いっぱいにむしろをほした百姓を、どうかするとうるさく苛めた。

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それもわづかくはからんだ晝顏ひるがほはなに一ぱいりやうそゝいではあわてゝ疾驅しつくしつゝからりとねつしたそらぬぐはれることもるのであるが、驟雨しううあとからあとからとつてるのであかつきしらまぬうちからむぎいてにはぱいむしろほし百姓ひやくしやうをどうかすると五月蠅うるさいぢめた。

この土地で言う「降っかけ」は、一日で止まなければ、三日とか五日とか、必ずおくすうの日で終わった。

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土地とちでいふけは一にちまねば三とか五とかかなら奇數きすうをはつた。

降っかけが来てから、うり畑はすべて蔓も葉も急にがらがらにかれて、みじめになってしまった。

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けがてから瓜畑うりばたけことごとつるにはかにがら/\にれて悲慘みじめつてしまつた。

とてもそっと、しかもさわがしそうに動く雲が、高く低く反対の方向に交差しているのを見るとともに、かわきかけた草木の葉がふれ合い打ち合っては、だんだんやぶれながら、ざわざわと悲しげな音を立てて鳴った。

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きはめてそつとしかさわがしさううごくもたかひく反對はんたい方向はうかう交叉かうさしつゝあるのをるとともに、枯燥こさうしかけた草木くさきあひあひつてはだん/\とやぶれつゝざわ/\とかなしげなひゞきてゝつた。

すごいほどすみきった夜の空は、いそがしげな雲が月をのんですぐに後ろへはき出しはき出し走った。

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すごほどえたよるそらいそがしげなくもつきんですぐうしろし/\はしつた。

月は反対に逃げながら走った。

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つき反對はんたいげつゝはしつた。

秋風だ。

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秋風あきかぜだ。

くぬぎもならも雑木もすべてが乱れて、葉の裏もはだもかくすすきまなく、ざあっとふかれてただ、さわいだ。

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くぬぎなら雜木ざふきすべてが節制たしなみうしなつてことごと裏葉うらは肌膚はだかくすきがなくざあつとかれてたゞさわいだ。

夜はさびしさに、すべてのえだがたがいにささやきながら、よけいにさわいだ。

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よるさびしさにすべてのこずゑあひ耳語さゝやきつゝ餘計よけいさわいだ。

まだ暑い空気を冷たくしながら、大雨がさらに何日か草木の葉を苛めては、降って降って、また降った。

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まだあつ空氣くうきつめたくしつゝ豪雨がううさら幾日いくにち草木くさきいぢめてはつて/\またつた。

いつもの年のような季節のこう水が、むごく川ぞいをなめた。

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例年れいねんごと季節きせつ洪水こうずゐ残酷ざんこく河川かせん沿岸えんがんねぶつた。

こう水が去った後は、ちょうどはげしい心のつかれから急に老いこんだ者のように、半分死んだような草木はみな白髪に変わって、その力ない葉先を秋風にふきなびかされた。

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洪水こうずゐつたあとは、丁度ちやうど過激くわげき精神せいしん疲勞ひらうからにはか老衰らうすゐしたものごとく、半死はんし状態じやうたいていした草木さうもくみな白髮はくはつへんじてちからない葉先はさき秋風あきかぜなびかされた。

鬼怒川の土手にしげったしのの根にまとわりついている短いつゆ草も、葉からくきからどろにまみれていながら、なお命を保ちつつ、日ごとにあわれげな花をつけた。

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鬼怒川きぬがは土手どて繁茂はんもしたしのまつはつてみじか鴨跖草つゆぐさからくきからどろまみれてながらなほ生命せいめいたもちつゝ日毎ひごとあはれげなはなをつけた。

こおろぎが気がめいるように、そのかげで鳴いた。

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こほろぎ滅入めいやうかげいた。

空をはるかに飛んだむくどりの群れが幾つかに分かれて、地面近くをさわいでは、えだを求めてぎいぎいと鳴きながら落ち着かなかった。

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そらはるかんだ椋鳥むくどりむれいくつかにわかれて、地上ちじやうひくさわいではこずゑもとめてぎい/\ときつゝ落付おちつかなかつた。

いたる所、荒れたやぶのはしや土手のやせたしののえだに乗りかかって、これをかめば歯が欠けると言われている毒な仙人草が、その手をいくらでものばして思い切りからみついた蔓が白い花をいっぱいにつけて、そして生き生きとしたものは自分だけだとほこるように、秋風にふかれながら白い布のようにふわふわと動いた。

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いたところれたやぶはし土手どてせたしのこずゑかゝつて、これめばがこぼれるといはれてどく仙人草せんにんさういくらでものばしておもつてわだかまつたつるしろはなを一ぱいにつけて、さうして活々いき/\としたものは自分じぶんのみであることをほこるものゝごとく、秋風あきかぜかれつゝしろぬのやうにふは/\とうごいた。

勘次の村は高台なのと、鬼怒川の土手がしのの密生した根の力でわずかながらくずれる土を引き止めたので、損害が軽く済んだ。

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勘次かんじ村落むら臺地だいちであるのと鬼怒川きぬがは土手どてしの密生みつせいしたちからもつわづかながら崩壤ほうくわいするつちめたので損害そんがいかるんだ。

それでも何日か降りつづいた雨が水をためて、低い畑はしばらくかわくことがなかった。

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それでも幾日いくにちつゞいたあめみづたくはへてひくはたしばらかわくことがなかつた。

田もその水のためにつかった所が少なくなかった。

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みづためひたつた箇所かしよすくなくなかつた。

勘次は昼となく夜となく田畑を歩いて、ひたすら心をなやましたが、やっと自分の田畑の作物がわずかな損害で済んだことを確かめたときには、彼はひどい被害の出た土地のようすを聞いて、自分がむしろ運がよかったことをこっそりよろこんだ。

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勘次かんじとなくとなく田畑たはたあるいて只管ひたすらこゝろなやましたが、やうや自分じぶん田畑たはた作物さくもつわづか損害そんがいをはつたことをたしかめたときかれ激甚げきじん被害地ひがいち状况じやうきやう傳聞でんぶんして自分じぶんむしさいはひであつたことをひそかよろこんだ。

彼が大豆を引いて庭に運んだころは、まだ暑い日が落ち着いて、いがの割れはじめたくりの木のえだから庭をじりじりと照らしていた。

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かれ大豆だいづいてにははこんだころはまだあつ落付おちついていがはじめたくりこずゑからにはをぢり/\とてらしてた。

根が何日もぐっしょり水につかっていた大豆は、黄色みの強い茶色のさやもくきも、どろでよごれたように黒ずんでいた。

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幾日いくにちもぐつしりとみづひたつてた大豆だいづ黄色味きいろみつた褐色ちやいろさやからどろよごれたやうくろずんでた。

大豆を引いたのは、それでもめずらしい晴れの日だったので、「いい返し」

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大豆だいづいたのはそれでもまれ晴天せいてんであつたので「いひがへし」

に来るはずになっていた南の家の女房にたのんだ。

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はずつてみなみ女房にようばうたのんだ。

彼らはたがいの都合で手間を交かんするのだが、彼らはそれを「いいどり」

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彼等かれら相互さうご便宜上べんぎじやう手間てま交換かうくわんをするのであるが、彼等かれらはそれを「いひどり」

と言っている。

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というてる。

それで、その借りた手間を返すのが「いい返し」である。

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それでりた手間てまかへすのがいひがへしである。

大豆は庭に運ぶとともに、ひとつかみにしては根を上にして先を丸く開いて、たがいのくきが支柱になるようにして、庭いっぱいに立ててほした。

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大豆だいづにははこぶととも一攫ひとつかみにしてはうへにしてさきまるいてたがひみき支柱しちうるやうにしてにはぱいてゝした。

たばこを一服吸うだけの時間に、熟しきった大豆はやっとぱちぱちと軽い心地よい音を立てながら、はじけはじめた。

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煙草たばこを一ぷくふだけの時間じかんに、成熟せいじゆくしきつた大豆だいづやうやくぱち/\とかるこゝろよひゞきてつゝはじめた。

大豆はすべて庭の土にたおされた。

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大豆だいづことごとにはつちたふされた。

三人はからさおを取って、はしからだんだんとくきを打った。

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にん連枷ふるぢつてはしからだん/\とからつた。

おつぎと南の家の女房はならんで、勘次に向かって交互に打ち下ろすからさおが、どさりどさりと庭の土を打つと、こわばった大豆のくきはしゃりしゃりとかわいた軽い音をまじえて、くすんだ汚いさやが白く割れて、うす青いつやつやした豆のつぶが勢いよくはね出して、みんなくきの下にもぐりこんでしまう。

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おつぎとみなみ女房にようばうとはあひならんで勘次かんじたいして交互かうごおろ連枷ふるぢがどさり/\とにはつちつとこはばつた大豆だいづからはしやりゝ/\と乾燥かんさうしたかるひゞきまじへてくすんだきたなさやしろれて薄青うすあをいつやゝかなまめつぶ威勢ゐせいよくしてみんなからしたもぐんでしまふ。

三人が一度大豆のくきをふんでわたったら、くきがぐっと落ち着いた。

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にんが一ぺん大豆だいづからんでわたつたらからがぐつと落付おちついた。

おつぎは昼ごはんのしたくのお茶をわかした。

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おつぎは晝餐ひる支度したくちやわかした。

三人は食事の後の口を鳴らしながら戸口に出て、それからくりの木のかげにしばらくうずくまったまま休んでいた。

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にん食事しよくじあとくちらしながら戸口とぐちてそれからくりかげしばらうづくまつたまゝいこうてた。

「おやおやまあ、こっちのほうはいいこったなあ、大豆でもこんなに穫れて」

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「おや/\まあ、こつちのはうはえゝこつたなあ、大豆でえづでもかうだにとれて」

おつたは小がらな体をわりと大またに運んで、妙な足びょうしを取りながら入って来た。

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おつたは小柄こがら身體からだ割合わりあひ大股おほまたはこんでめう足拍手あしびやうしりつゝ這入はひつてた。

勘次はちらと見て、くりの木のみきを後ろにしたままうつむいてしまった。

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勘次かんじはちらとくりみきうしろにしたまゝ俯向うつむいてしまつた。

おつたはさらに気にしないような態度で、ずっと戸口へ行って、ななめに肩へかけた風呂しき包みを下ろした。

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おつたはさら介意かいいないやうな態度たいどでずつと戸口とぐちつて、なゝめかたけた風呂敷包ふろしきづゝみをおろした。

「ああ重たかった」

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「おゝおもたかつた」

と、少し汗ばんだひたいを手ぬぐいでふきながら、洋がさを仰向けに戸口へ置いて、洋がさの中へその風呂しき包みを置いた。

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すこあせばんだひたひ手拭てぬぐひでふきながら洋傘かうもり仰向あふむけ戸口とぐちいて、洋傘かうもりなか風呂敷包ふろしきづゝみいた。

南の家の女房はおつたを見て立った。

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みなみ女房にようばうはおつたをつた。

「おやまあ、しばらくでしたね」

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「おやまあ、しばらくでがしたね」

と、おつたは先にお世辞を言った。

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とおつたは、さき世辭せじをいうた。

「そう言えばまあ、あっちのほうはひどいこう水だという話だったっけが、どうでございましたね」

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「さういへばまあ、あつちのはうひで洪水みづだつちはなしだつけがどうでござんしたね」

女房は手ぬぐいを取って言った。

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女房にようばう手拭てぬぐひをとつていつた。

「話の外でさどうも。あれこれもう、三十日近くにもなるだろうが、まだかたづけで、どっちから手をつけていいか分からないんでさどうも。わしらのほうみたいにこう水ばかり出たんじゃ、いるのもいやになっちまうようなのさ、本当に。そう言っても、こっちのほうはようございますね」

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はなしほかでがさどうも、彼此かれこれはあ、小卅日こさんじいんちにもんべが、まあだかたでどつちからてえつけてえゝかわかんねえんでがさどうもはあ、わしはうてえに洪水みづばかしたんぢや、んのもんなつちまあやうなのせ本當ほんたうに、さうつてもこつちのはうはようがすね」

おつたは相手を見つけて力を得たように言った。

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おつたは相手あひてつけてちからたやうにいつた。

「これでもまさか。この村だって随分かぶった所もあるんだから、まったく何ともないということもないがねえ」

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んでもまさか、村落むらだつて隨分ずいぶんかぶつたところんだから全然まるつきりなんともねえつちこともねえがねえ」

南の家の女房は声を低くして言った。

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みなみ女房にようばうこゑひくくしていつた。

「そんでも、ここらじゃ住む所には困らないんだから、何と言ってもあきらめはようございますね。わしらのほうなんぞじゃ、土手へむしろのかこいをしてやっとこさしのいだ者がなんぼあったかさ。土手にいても、雨さえなけりゃいいが、降られちゃひどいという話でしたよ。そんでもまあ、わしらは家にいられるのはいられたんだからまあ、それでもようございましたのさ。そんでもゆかの上へ四斗だるをこうさかさまにして置いて、その上へ板をわたしてやっとまあ暮らし通しましたがね、煮たきするのもやっとこさで。となり近所はあったって行ったり来たりするんじゃなし、どれほど心細いか分からないもんですよ。もっともこれ、死ぬ者さえあるんだから、こうしていられるのはありがたいようなもんではあるが。そんでも四斗だるの太いたがの所へもぐったときは、夜、横になってみたって、すぐ耳のそばでさらさらっとこう水が動いてるんだから、うっかりねむったらそっくり持って行かれるかどうだか分からないと思ってね、ぽつりとももう言えないでいたのさ。

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「そんでも此處こゝらぢやとこにや支障さはりねえんだからなんちつてもあきらめはようがさね、わしはうなんぞぢや、土手どて筵圍むしろがこひしてやつとこせしのいだものなんぼつたかせ、土手どててもあめせえなけりやえゝが、られちやひでえつちはなしでがしたよ、そんでもまあわしらあうちられんなられたんだからまあおなじにもようがしたのせ、そんでもゆかうへへ四斗樽とだるかうさかさにしてえてね、そのうへいたわたしてやつとまあ居通ゐとほしあんしたがね、煮燒にやきすんのもやつとこせで、隣近所となりきんじよつたつてつたりたりすんぢやなし、何程なんぼ心細こゝろぼせえかわかんねえもんですよ、もつともこれ、ものせえあんだからうしてられんな難有ありがてやうなもんぢやあるが、そんでも四斗樽とだるふてたがところむぐつたときや、よるよこつてたつてぢきみゝそばでさら/\つとかうみづうごいてんだから、放心うつかりねむつたらそつくりつてかれつかどうだかわかんねえとおもつてね、ぼつちりともはあはんねえでたのせえ、

それから板のはしの所からそうっと手を出してみると、宵の口にはそうでもないのが、ひやっと手の先がすぐ水にふれたときにはぞっとするようでしたよ。それからもう、舟はまくら元へつないでたんだが、本当にまくら元なのさ。みんなで固まって、せまいといったって窮くつだって、やっといるだけなんだから、天井へは頭を打ちつけそうで、命でも何でも縮められるような思いでさ。そんでもまあ、とうとう逃げもしないでいられたんだから、家でも持って行かれた人からじゃ運がいいのさ。まあ昼間は何と言ってもあちこち見えていいが、夜がなんぼにも薄気味悪くてねえ」

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それからいたはじとこからそろつとてえしてつとよひくちにやさうでもねえのがひやつとさきみづさあつたときにや悚然ぞつとするやうでがしたよ、それからはあふね枕元まくらもとつないでたんだが、本當ほんたう枕元まくらもとなのせえ、みんなしてこゞつてせめえつたつて窮屈きうくつだつてやつとだけなんだから、天井てんじやうへはあたまつゝかりさう生命いのちでもなんでもちゞめらつるやうなおもひでさ、そんでもまあ到頭たうとうげもしねえでらつたんだから、うちでもつてかれたものからぢやうんがえゝのせえ、まあ晝間ひるまはなんちつても方々はう/″\えてえゝが、よるがなんぼにも小凄こすごくつてねえ」

おつたは、自分のこわかった経験を聞いてくれるのをよろこぶように語りつづけるのだった。

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おつたは自分じぶんおそろしかつた經驗けいけんいてくれるのをよろこぶやうにかたつゞけるのであつた。

「そんでまあ、それもいいが、かえるだのへびだのが来てね。かえるは何だが、へびがなんぼにもいやで、もう棒で引っかけて遠くのほうへ放り投げてみても、しつこいというのか、またぞよぞよ泳いで来て。それも夜がねえ、万一のことがあっちゃと思うもんだから明かりを点けてたんだが、そのせいかよけいに来るようで。うす暗い明かりだから、すぐそばへ来てからでなくちゃ分からないし、首をもたげてるのを見ちゃ、本当にいやでねえ」

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「そんでまあ、それもえゝがけえるだのへびだのがてね、けえるはなんだがへびがなんぼにもいやではあ、ぼうけてとほくのはうげてても、執念深しふねんぶけえつちのかまたぞよ/\およいでて、それもよるがねえ萬一もしものことがつちやとおもふもんだからあかけてたんだが所爲せゐ餘計よけいやうで、うすくれあかりだからぢつきそばてからでなくつちやわかんねえし、くびもちやげてんのちや本當ほんたうでねえ」

おつたは、いくら言ってもつきないそのころのことをありありと思いうかべさせようとするようすで言った。

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おつたはいくらいつてもきない當時たうじ髣髴はうふつせしめようとする容子ようすでいつた。

くりの木のかげにいた勘次は、だんだんいくらかずつでもこう水の話に興味を感じて来たし、それから、たとえどうであっても訪ねて来た姉にあいさつもしないのは他人の手前がゆるさないので、やっと立って

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くりかげ勘次かんじはだん/\といくらづゝでも洪水こうずゐはなし興味きようみかんじてもたし、それから假令たとひどうでもたづねてあね挨拶あいさつもせぬのは他人たにん手前てまへ許容ゆるさないのでやうやつて

「姉さんらも随分ひどい目にあったんだな」

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姊等あねら隨分ずゐぶんひでえあつたんだな」

彼は言いながら、家の中へおつたを案内した。

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かれはいひながらいへうちへおつたをみちびいた。

大豆のほこりをきらって雨戸は閉め切ってあったので、大戸をいっぱいに開けても、中は少し暗く、しかも暑かった。

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大豆だいづほこりいとうて雨戸あまどつてあつたので、大戸おほどを一ぱいけてもうちすこくらかつあつかつた。

おつぎは先ごろのように、すぐにかまどをたいてしゃくしで二、三ばいの水を茶がまへ入れた。

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おつぎは先頃さきごろやうすぐかまどいて柄杓ひしやくで二三ばいみづ茶釜ちやがました。

「何と言っても、こんなに豆が穫れるなんて、お前らのほうはいいのよなあ。おれのほうじゃ土手の近くで手のある者はな、田のあぜ豆を引っこ抜いて土手の中ほどへほしてはみたようだが、まだ何と言ってもさやが本当にふくらまないんだから、ほんの豆の形をしたというくらいなもんだろうな。そりゃそうと、この豆はいい豆だな。甘そうでなあ」

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「なんちつても、かうえまめとれるなんておめえはうはえゝのよなあ、はうぢや土手どてちかくでるもなあ、畦豆くろまめつこえて土手どてちうぱらしちややうだが、まあだなんちつてもさや本當ほんたうふくれねえんだから、ほんのまめかたちしたつちくれえなもんだべな、そりやさうとまめはえゝまめだな、甘相うまさうでなあ」

おつたはしきいをまたいで、手元の豆を少しつかんでみて言った。

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おつたはしきゐまたいで手先てさきまめすこつかんでていつた。

それからおつたは、洋がさといっしょに置いたさっきの風呂しき包みを持ちこんで、そしてまた腰を下ろした。

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それからおつたは洋傘かさと一つにいた先刻さつき風呂敷包ふろしきづゝみんでさうしてまたしりゑた。

「水の中にいちゃ、仕事するにも仕事はなしさなあ。それからみんな棒の先へかぎをつけて魚つりをしたのよ。庭でいくらでもふなが釣れるというんだから、知らない者が見ちゃ、ひどく困ってない人たちだと思うくらいなもんだろうのさ」

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みづなかちや仕事しごとするにも仕事しごとはなしさなあ、それからみんなぼうさきはりくつゝけて魚釣さかなつりしたのよ、にはいくらでもふなれるつちんだかららねえものがちやひどこまんねえ奴等やつらだとおもくれえなもんだんべのさ」

おつたは一ぱいのお茶をすすって喉をうるおした。

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おつたは一ぱいちやすゝつてのどうるほした。

おつぎも南の家の女房も、目をすえて黙って聞いていた。

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おつぎもみなみ女房にようばうゑてだまつていてた。

勘次はむずかしい顔をしていながらも、いっしんに聞いた。

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勘次かんじむづしいかほをしてながらも熱心ねつしんいた。

「後がひどくてな。縁の下でも何でもどろがいっぱいで、それはまあ掻き出せばいいんだが、ゆか板が白かびになっちまって、これがまだなかなかかわかないから、たたみなんざいつしけるもんだか分からないのさ。そんでまた、田でも畑でもかぶった所は水が引いてからくさってるもんだから、その臭いことがまた話にはならないや。おれは作物ばかり困るんだと思ったら、畑のきりの木でもかしの木でも、今になってからぼろぼろ葉っぱが落っこちちまって、こわいもんだよ」

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あとひどくつてな、えんしたでもなんでもえごみが一ぺえで、そえつあゝせばえゝんだが床板ゆかいたしらかびつちやつてれがまだなか/\ねえからたゝみなんざ何時いつめるもんだかわかんねえのさ、そんでまたでもはたけでもかぶつたとこみづてからくさつてるもんだからくせえことがまたはなしにやなんねえや、作物さくもつばかしこまんだとおもつたら、はたけきりでもかしでもいまつてからぼろ/\葉々はつぱおつこつちやつて可怖おつかねえもんだよ」

おつたは言いながら風呂しきを解いた。

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おつたはいひながら風呂敷ふろしきいた。

やまと煮と書いた牛肉のかんづめが三つと、菓子でもあるかと思う小さな紙包みの、固めた食塩が四つ五つ出た。

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やまといた牛肉ぎうにく鑵詰くわんづめが三ぼん菓子くわしでもあるかとおもちひさな紙包かみづゝみかためた食鹽しよくえんの四つ五つとがた。

「これはな、そんでもありがたいことに、水びたしになった家へは役場から一けんごとに配られたんだよ。おれはまた、こっちの家なんぞじゃどんなぐあいだと思って、しばらく外へも出たことがないもんだから出ても見たいし、こういう物を自分だけで開けちまうのも何だと思って持って来てみたのよ。おれは一つ手をつけてみたが、どれほどいい味のもんだか知らないや」

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れなあ、そんでも難有ありがてえことに、水浸みづびたしつたいへさは役場やくばから一軒毎えつけんごめらわたしになつたんだよ、らまたこつちのうちなんぞぢやどうえ鹽梅あんべえだとおもつてしばらほかへもたことねえもんだからてもてえし、かうえもの自分じぶんでばかしくちけつちやあのもなんだとおもつてもつたのよ、ひとてえつけてたが何程なんぼえゝあぢのもんだかんねえや」

おつたは空になったかなり大きな風呂しきを、幾つかに折った。

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おつたはからになつたかなりおほきな風呂敷ふろしきいくつかにつた。

「おおいや、たいしたもんだね。これは塩だろうかまあ。見たいったって見られるもんじゃないよ。こういう物はねえ。よくまあ持って来て、勘次さんら大変だ」

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「おゝえや、たえしたもんだね、しほだんべけまあ、てえたつてらつるもんぢやねえよ、かうえものあねえ、くまあつて勘次かんじさん大變たいへんだ」

南の家の女房は食塩の一つを手にして見ながら、うらやましそうに言った。

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みなみ女房にようばう食鹽しよくえんの一にしてながらうらやましげにいつた。

おつぎもめずらしそうにして、南の家の女房の手をのぞいた。

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おつぎもめづらしさうにしてみなみ女房にようばうのぞいた。

勘次も白い食塩をつめの先で少し取って口へ入れた。

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勘次かんじしろ食鹽しよくえんつめさきすこしとつてくちいれた。

「塩からいや、まさか」

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鹽辛しよつぺえやまさか」

彼はにっこりとしながら

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かれ嫣然につこりとしなが

「おつう、これはしまっておけ、そんじゃ」

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「おつう、しまつてけ、そんぢや」

と言って、さらに

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といつてさら

「姉さんらもひどかろう、畑は」

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姊等あねらひどかんべらは」

と、彼はおつたの染めていた髪が、まじった白髪をほんのり見せるまでに薬がさめてきたなくなったのを見ながら言った。

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かれはおつたのめつゝあつたかみが、まじつた白髮しらがをほんのりとせるまでにくすりめてきたなくなつつたのをつゝいつた。

「米でも何でも一つぶも穫れやしないのよ」

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こめでもなんでも一粒ひとつぶもとれやしねえのよ」

おつたはぽつりと言った。

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おつたはぽさりとしたやうにいつた。

「しるの実なんざ、そんでもどうにかできるのか」

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しんなんざそんでも、どうにか出來できんのか」

「どうしてよお前。青いものは土手の草ばかりだって言ってるくらいだもの。今日が今日困ってるんだな」

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「どうしてよおめえ、あをえもな土手どてくさばかしだつてつてるくれえだもの、今日けふ今日けふこまつてんだな」

「そんじゃ、姉さんになすか南瓜でもやろうかなあ」

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「そんぢや、あね茄子なす南瓜たうなすでもやんべかなあ」

勘次は同情の心が少し動いたように言った。

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勘次かんじ同情どうじやうすこうごいたやうにいつた。

「おや、そんじゃ、おれの家でも葱を少しあげましょう」

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「おやそんぢやでもねぎすこしもあげあんせう」

南の家の女房は言って、桑畑の細い道を小走りにかけて行った。

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みなみ女房にようばうはいつて桑畑くはばたけ小徑こみち小走こばしりにけてつた。

「おとっつあん、それも何だが、そんなに持てやしまいし、米でも少しやったらよかろうな。どうせ少したつと陸稲が刈れるんだもの」

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「おとつゝあ、それもなんだが、さうえにてやしめえし、こめでもすこしやつたらよかんべな、どうせすこつと陸稻をかぼれんだもの」

おつぎは口をそえた。

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おつぎはくちへた。

「うん、そうだなあ」

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「うむさうだなあ」

と、勘次は南京米のふくろへ米を五しょうばかり、もうやせている俵からはかり出した。

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勘次かんじ南京米ナンキンまいふくろこめを五しようばかり、もうせてたわらからはかした。

「ひきわり麦もやったらよかろうな」

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挽割麥ひきわりもやつたらよかんべな」

おつぎはまた言った。

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おつぎはまたいつた。

「これへ混ぜていいかい」

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れさぜてえゝけ」

勘次はおつたを見て言った。

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勘次かんじはおつたをかへりみていつた。

「うん、いっしょにしてくれ」

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「うむ、一しよにしてくろ」

と、おつたはやわらかに言った。

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とおつたはやはらかにいつた。

勘次は二つを半分ずつ混ぜて、それからまた大きな南瓜を三つばかり土間へならべた。

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勘次かんじふたつを等半とうはんぜてそれからまたおほきな南瓜たうなすつばかり土間どまならべた。

「そんじゃ大変めいわくをかけて済まないな。そんじゃおれは米ばかり背負って行って、明日でもまた南瓜は取りに来るとしようよ。そんじゃこれ、米は大変だから、おれの風呂しきじゃちっと小さいんだが、大きいのがあれば貸してくれないか」

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「そんぢや大層たえそ厄介やつけえけてまねえな、そんぢやこめばかし脊負しよつてつて明日あしたでもまた南瓜たうなすはとりにるとすべえよ、そんぢやら、こめ大變たいへんだかられが風呂敷ふろしきぢやちつとつちえんだがかえのればしてくんねえか」

おつたはおつぎに言いかけた。

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おつたはおつぎへいひけた。

「おれの家にはないが、爺さんがな、あったっけな、おとっつあん」

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にやねえが、ぢいがなつたつけな、おとつゝあ」

そう言って、おつぎは小走りに卯平の小屋へ行った。

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さういつておつぎは小走こばしりに卯平うへい小屋こやつた。

さっきまで見えなかった卯平が、どこから帰って来たのか、むっつりとして独りできせるをかんでいた。

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先刻さつきまでえなかつた卯平うへい何處どこからかへつてたかむつゝりとしてひとり煙管きせるかんた。

「爺さん、いたんだな。おれ、いなけりゃ黙って借りて行こうと思ったんだったが、明日までおばさんが大きな風呂しきが要るというから、貸してくれないか。米を背負って行くんだから」

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ぢいたんだな、おらねえけりやだまつてりてくべとおもつたんだつけが、明日あしたまで伯母をばさんかえ風呂敷ふろしきるつちからしてくんねえか、こめ脊負しよつてくんだから」

おつぎはとつぜん言った。

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おつぎは突然だしぬけにいつた。

「うん」

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「うむ」

と、卯平は不器用に風呂しきを出して、そしておつぎの後からおつたのそばへのっそりと来て立った。

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卯平うへい不器用ぶきよう風呂敷ふろしきしてさうしておつぎのうしろからおつたのそばへのつそりとつた。

「これはまあ、勘次らにも済まないと言ってるところさ。わしらもこう水でねえ」

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れまあ、勘次等かんじらにもまねえつちつてつところさ、わし洪水みづでねえ」

おつたは風呂しきで南京米のふくろをきりっと包んだ。

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おつたは風呂敷ふろしき南京米なんきんまいふくろをきりつとつゝんだ。

「そんじゃこの南瓜もおれがもらっていいんだな。ばかに大きい南瓜じゃないかな。明日まで置いてくれな」

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「そんぢや南瓜たうなすもらつてえゝんだな、馬鹿ばかけえ南瓜たうなすぢやねえかな、明日あしたまでいてくろうな」

おつたがずっと笑顔を作っている所へ、南の家の女房が葱を一たば、藁でくるんだのをかかえて来た。

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おつたは始終しよつちう笑顏えがほつくつてところみなみ女房にようばうねぎ一束ひとたばわらでくるんだのをかゝへてた。

「どうも済みませんね、これは」

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「どうもみませんねこら」

おつたは勘次を見て

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おつたは勘次かんじ

「どうしたもんだ、たいした葱じゃないか。本当に済まないな。そんじゃこれも明日まで取っておいてくれな」

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「どうしたもんだ、たえしたねぎぢやねえか、本當ほんたうまねえな、そんぢやれも明日あしたまでとつていてくろうな」

と、さらにまた腰を下ろして一ぱいのお茶をすすった。

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さらまたしりゑて一ぱいちやすゝつた。

「おやっ、このくりはもう口を開けてるんだな」

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「おやツ、くりんでんだなはあ」

庭先のくりのえだに初めて目をつけたように、おつたは言った。

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庭先にはさきくりこずゑはじめてをつけたやうにおつたはいつた。

「この間からなんでさ。ちっとばかりだが、落ちたのがありまさ」

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此間こねえだからなんでさ、ちつとばかしだがちたのりあんさ」

おつぎは小さなざるの底のつぶぐりを出して

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おつぎは小笊こざるそこ粒栗つぶぐりして

「あっちになけりゃ持って行ったらようございましょう。大豆も、これ、打った所なら持って行くといいんでしたがね」

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「あつちになけりやつてつたらようござんせう、大豆でえづもこれつたところならつてくとえゝんでがしたがね」

おつぎは気持ちよく言った。

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おつぎはこゝろよくいつた。

「そうだな、そんじゃもらって行くかな」

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「さうだな、そんぢやもらつてくかな」

おつたは手ぬぐいの両はしにくりをくくった。

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おつたは手拭てぬぐひ兩端りやうはしくりくゝつた。

「こっちのおとっつあん、これはわしが役場からもらったのを持って来てみたんだが、一つ分けてもらったらようございましょう。めったにない味のもんだから」

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「こつちのおとつゝあん、れわし役場やくばからさがつたのつてたんだが一つけてもらつたらようがせう、滅多めつたねえあぢのもんだから」

おつぎがさっきしまうように勘次にせかされても、おつたの手前を気にしてそのままにしておいた牛肉のかんづめの一つを、おつたは卯平にやった。

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おつぎが先刻さつきしまふことを勘次かんじうながされてもおつたの手前てまへはゞかつたやうにしてまゝにしていた牛肉ぎうにく鑵詰くわんづめの一つをおつたは卯平うへいへやつた。

卯平はくぼんだ目をしかめるようにした。

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卯平うへいくぼんだしかめるやうにした。

勘次は、油断した自分のふところの物をうばわれたほどのおどろきといやな気持ちの目で、卯平とおつたを見た。

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勘次かんじ放心うつかりした自分じぶんふところものうばはれたほど驚愕きやうがく不快ふくわいとのもつ卯平うへいとおつたとをた。

おつたは重そうな風呂しき包みをうんと背負って、胸の結び目に両手をかけて、包みのすわりをよくするために二、三度ゆすった。

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おつたは重相おもさう風呂敷包ふろしきづゝみをうんと脊負しよつてむねむす兩手りやうてけてつゝみすわりをくするために二三ゆすつた。

「そんじゃ明日またお目にかかりましょう」

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「そんぢや明日あしたまたおにかゝりあんせう」

おつたはみんなにあいさつして

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おつたは一どう挨拶あいさつして

「これはよかった、本当にまあ」

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りやよかつた、本當ほんたうにまあ」

聞こえよがしに独り言を言いながら、おつたは庭からかきねを出た。

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きこえよがしに獨語どくごしながらおつたはにはから垣根かきねた。

勘次は、自分のそばに牛肉のかんづめを手にして立った卯平をあらためてさらにいやな目でじっと見つめながら、彼の心の中にはおしかったという思いが、何ということもなくただふいとわいたのだった。

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勘次かんじ自分じぶんそば牛鑵ぎうくわんにしてつた卯平うへいあらためてさら不快ふくわいもつ凝視ぎようししながら、かれこゝろうちにはしかつたといふ念慮ねんりよなんといふことはなしにたゞふいといたのであつた。

「ふくろは明日持って来てくれなくちゃかなわないぞ」

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ふくろ明日あしたつててくんなくつちやへねえぞ」

と、勘次はおつたの後から追いかけるようにして言った。

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勘次かんじはおつたのあとからけるやうにしていつた。

おつたはかきねに沿って、後ろの林のそばから田んぼへ出た。

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おつたは垣根かきねうてうしろはやしそばから田圃たんぼた。

道ばたの竹のえだには、どこまでもはっていっぱいに乗りかからなければ止まないという毒な仙人草が、くっきりと白くほこっている。

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道端みちばたたけこずゑには何處どこまでもうて一ぱいかゝらねばむまいとするどくなせんにんさうがくつきりとしろほこつてる。

小さな体でありながら少しするどいくちばしを持ったばかりに、弱い雀やほおじろの前でだけ強さを見せるもずが、小さな勝利者の声を放って、きいきいときわどくどこかの木のてっぺんで鳴いていた。

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ちひさな身體からだでありながらすこするどくちばしつたばかりに、果敢はかないすゞめ頬白ほゝじろまへにのみ威力ゐりよくたくましくするもずちひさな勝利者しようりしやこゑはなつてきい/\ときはどく何處どこかの天邊てつぺんいてた。

その夜、勘次の家には、とつぜんみんなをおどろかせた事件が起こった。

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勘次かんじいへには突然とつぜんどう驚愕きやうがくせしめた事件じけんおこつた。

それは何ごともなく済んで、しかもあまりにこっけいな話だった。

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それはこともなくんでさうしてあまりに滑稽こつけい分子ぶんしまじへてた。

与吉はその日の夕方、紙に包んだ食塩を一つぬすんだ。

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與吉よきち夕方ゆふがたかみつゝんだ食鹽しよくえんひとぬすんだ。

彼は、これまで見たことのないきれいな菓子を見つけたと思って心がおどった。

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かれ從來じうらいたことのない綺麗きれい菓子くわし發見はつけんしたとおもつてこゝろをどつた。

それでも彼はその半分を割って、いきなり飲みこんだ。

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それでもかれ半分はんぶんつていきなりくだした。

彼は喉がじりじりとこげつくほど、とても苦しんだ。

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かれのどがぢり/\とげつくほど非常ひじやう苦惱くなうかんじた。

勘次もおつぎも、ただ慌てた。

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勘次かんじもおつぎもたゞあわてた。

勘次はそのわけを知って

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勘次かんじ原因げんいんつて

「お前はばかだな、本当に。何てばかだろうなあ」

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りや馬鹿ばかだな本當ほんたうに、なん馬鹿ばかだんべなあ」

としかってみるだけだった。

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しかつてるだけであつた。

勘次があまりしかるので

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勘次かんじあまりにしかるので

「そんなに怒ったって治るまいな、おとっつあんは」

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「そんなにおこつたつてなほるめえな、おとつゝあは」

と、ついにはおつぎが勘次をしかった。

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つひにはおつぎが勘次かんじしかつた。

与吉はただ苦しんで、胸をかきむしるようにしながらころがって泣いた。

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與吉よきちたゞくるしんでむねむしやうにしつゝころがつていた。

卯平はさわぎを聞いて、のっそりと来た。

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卯平うへいさわぎをいてのつそりとた。

「水を飲ませてみろ」

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みづませてろ」

彼は慌てるということを知らない者のように、一言言った。

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かれあわてるといふことをらぬものゝごとく一ごんいつた。

おつぎはすぐにしゃくしで水をくんだ。

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おつぎはすぐ柄杓ひしやくみづんだ。

与吉はいくらでも柄にすがって飲んだ。

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與吉よきちいくらでもすがつてんだ。

「にわとりが納豆を食ったって、死なないうちに水を飲ませりゃ何ともないんだもの。水を飲ませりゃ、そんなにさわぐことはない」

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にはとり納豆なつとうくつたつてなねえうちみづませりやなんともねんだもの、みづませりやそんなにさわぐにやあたらねえ」

卯平は言って、自分でもまた飲ませた。

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卯平うへいはいつて自分じぶんでもまたませた。

与吉のまくら元で、三人は夜通しねむらなかった。

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與吉よきち枕元まくらもとに三にん徹宵よつぴてねむらなかつた。

おそろしくたくさんの水を飲んだ与吉は、ついにすやすやとねむった。

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おそろしく多量たりやうみづんだ與吉よきちつひにすや/\とねむつた。

そして次の朝、けろりと治ってかけ出したのだった。

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さうして翌朝よくあさけそ/\となほつてしたのであつた。

次の日、おつたはまた来た。

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つぎおつたはまたた。

おつたは、自分が知らないうちに種をまいた昨夜のさわぎを知っているはずがないので、昨日のように元気がよかった。

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おつたは自分じぶん無意識むいしきたねいた昨夜さくやさわぎをつてるはずがないので、昨日きのふごと威勢ゐせいがよかつた。

勘次はねぶそくから、さらによけいに不快そうに目をしかめた。

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勘次かんじ睡眠すゐみん不足ふそくからさら餘計よけい不快ふくわいしかめた。

自分の風呂しきへ、のきの下にならべてある三つの南瓜を包もうとして、おつたは

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自分じぶん風呂敷ふろしきのきしたならべてある三つの南瓜たうなすつゝまうとしておつたは

「おれの南瓜はこれだったっけかな」

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れが南瓜たうなすれだつけかな」

と、ふしぎそうに言った。

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不審相ふしんさうにいつた。

「それだろうな」

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「それだんべな」

勘次はやっとこれだけ言った。

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勘次かんじやうやくこれだけいつた。

卑しい彼は、おつたにやった南瓜を取りかえておいたのだった。

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淺猿さもしいかれはおつたへやつた南瓜たうなすへていたのであつた。

「どうだったっけ、昨日の豆は。そんでもたくさん穫れたようだったっけが」

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「どうしたつけ、昨日きのふまめはそんでもたんと收穫れた割合わりえゝだつけが」

おつたがなぞをかけるように言っても、勘次はいっこうにはきはき言わなかった。

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おつたがなぞのやうにいつても勘次かんじさらにはき/\といはなかつた。

おつたも不快なようすをしながら、南瓜と葱を背負って、特に口をきくでもなく、ただ卯平と二言三言言って、もうどうでもいいという態度で出て行った。

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おつたも不快ふくわい容子ようすをしながら南瓜たうなすねぎとを脊負しよつてべつくちくでもなく、たゞ卯平うへい二言ふたこと三言みこといつてもうどうでもいといふ態度たいどつた。

勘次はつくづくと、中ほどがひどくやせてくびれた俵を見た。

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勘次かんじはつく/″\と中間ちうかんいたせてくびれたたわらた。

お金や物によって満足を自分の暖かいふところに感じたとき、みんなはこれを失うまいとするこわさから絶えず心をさわがせているように、はてしない自然のふところからめぐみが百姓の手に必ず一度与えられる秋の季節になれば、そのめぐみを持った田や畑のほ先が、これをねたむ一部の自然の力に対して、いつもふるえながら、そして泣いた。

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財貨ざいくわによつて物質的ぶつしつてき滿足まんぞく自分じぶんあたゝかなふところかんじたときすべてはれをうしなふまいとする恐怖きようふからえずそのこゝろさわがせつゝあるやうに、無盡藏むじんざう自然しぜんふところから財貨ざいくわ百姓ひやくしやうかならず一あたへられるあき季節きせつれば、財貨ざいくわたもつたはたけ穗先ほさきこれねたむ一自然現象しぜんげんしやうたいしてつね戰慄せんりつしつゝかついた。

二百十日から二十日のあいだの暴風は心配したほどのことはなく、ただ秋の空はむずかしそうに低くなって、棒のような雲へけむりのような雲がぽつりぽつりとまとわっている日がつづいて、二、三日昼から夜にかけて、ぼかぼかと暖かい空っ風が思い切りふいた。

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二百十から廿あひだわたつての暴風ばうふう懸念けねんしたほどのことはなく、たゞあきそらは六かしさうひくつてぼうのやうなくもけぶりやうくもがぽつり/\とまつはつてつゞいて二三にちひるからよるけてぼか/\とあたゝかいからかぜおもいた。

小松やくぬぎの林にまじって、ふれれば人のはだに血を見せるほどのかたい意地の悪い葉を持ったすすきまでが、そうしなければ目にも立たないのに、わざわざうす赤いやわらかなほ先を高くさし上げて、人一倍にさわいだ。

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小松こまつくぬぎはやしまじつて、これれゝばひと肌膚はだへせるほどこは意地いぢわるつたすゝきまでが、さうしなければにもたないのに態々わざ/\薄赤うすあかやはらかな穗先ほさきたかくさしげて、ひとばいさわいだ。

しばらくして、秋はまぶしいほどすみきった空を見せた。

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しばらくしてあきまぶしほどえたそらせた。

畑には、昼がよけいに明るいほど黄茶色に熟した陸稲がいっぱいにうなずいた。

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はたけにはひる餘計よけいあかるいほど黄褐色くわうかつしよく成熟せいじゆくした陸稻をかぼが一ぱい首肯うなづいた。

そばは、さわやかで細く強い秋雨がしとしとと洗って、秋風がそれをかわかした。

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蕎麥そばさわやかでほそつよ秋雨あきさめがしと/\とあらつて秋風あきかぜがそれをかわかした。

洗ってはほしほし、何度もそれがくり返されて、だんだんうす青く、そして暗い夜さえ明るくするほど真っ白にさらされた。

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あらつてはかわかし/\しば/\それが反覆はんぷくされてだん/\に薄青うすあをく、さうしてやみをさへあかるくするほど純白じゆんぱくさらされた。

高台の畑は黄色と白がまじって、土地のままになだらかに起伏して、鬼怒川の土手に近く向こうへ低くかたむいている。

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臺地だいちはたけ黄白くわうはくあひまじつて地勢ちせいまゝになだらかに起伏きふくして鬼怒川きぬがは土手どてちか向方むかうひくくこけてる。

そういう畑のまわりに立っている蜀黍は、強いくきがすっくりとほをささえて、それがまばらなかきねのようにつらなって、畑から畑をつないでは何十回も折れ曲がりながら、だんだん短くなって、これも鬼怒川の土手に近く尽きる。

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さういふはたけ周圍まはりたつ蜀黍もろこしつよくきがすつくりとさゝへて、それがまばらな垣根かきねのやうにつらなつてはたけからはたけつないではいく屈折くつせつをなしつゝ段々だん/\みぢかくなつてれも鬼怒川きぬがは土手どてちかきる。

土手のしのの高さに見える蜀黍は、南風を受けて、さし上げた手のような形になっては先から先へと動いて、その手がさかのぼる白いほを静かに上流へ押し進めている。

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土手どてしのたかさにえる蜀黍もろこし南風なんぷうけて、さしげたごとかたちをなしてはさきからさきへとうごいて、さかのぼ白帆しらほしづかに上流じやうりうすゝめてる。

そしてはまた、そのまばらなかきねは、長い短いによって遠くの林のえだや、すみきった山々の頂をなでている。

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さうしてはまたまばらな垣根かきねながみじかいによつてとほくのはやしこずゑえた山々やま/\いたゞきでゝる。

さわやかな秋は、こうしてからりと開けた。

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さわやかなあきくしてからりと展開てんかいした。

しかし勘次が作った陸稲は、こういう畑ではなく、えだの荒れた雑木林のあいだだけだった。

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しか勘次かんじつくつた陸稻をかぼはかういふはたけではなく、こずゑすさんだ雜木林ざふきばやしあひだのみであつた。

彼の開こん地へは、まわりにかくれる場所があるせいか、村のどこにも急に声を聞かなくなった雀が、群れをなして日ごとにおそった。

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開墾地かいこんちへは周圍しうゐかくれる場所ばしよ所爲せゐか、村落むら何處どこにもにはかそのこゑかなくなつたすゞめぐんをなして日毎ひごとおそうた。

彼はそれでも根気よく、白いガス糸をたてよこに畑の上に張って、ひらひらと燭奴をつるしておどしてみた。

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かれはそれでもこんよくしろ瓦斯絲ガスいと縱横じゆうわうはたけうへつてひら/\と燭奴つけぎつておどしてた。

それでもずるい雀のために、もみがまだ固まらないで甘いしるのような状態のうちから、小さなくちばしでかんで、たくさんもみがらがこぼされた。

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それでも狡獪かうくわいすゞめためもみのまだかたまらないであま液汁しるごと状態じやうたいをなしてうちからちひさなくちばしんでしたゝかに籾殼もみがらこぼされた。

彼は空っ風がさわったとは思っていても、長いくきを刈りたおしたときはそれでもいっしんで、しかも楽しかったが、しかしかわかして米にしたときには、彼は夏のころの予想と大きくちがうことを確かめてがっかりせざるを得なかった。

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かれからかぜさはつたとはおもつてても、ながからたふしたときはそれでも熱心ねつしんかつ愉快ゆくわいであつたが、しか乾燥かんさうしてこめにしたときにはかれなつころ豫想よさう非常ひじやう相違さうゐであることをたしかめて落膽らくたんせざるをなかつた。

彼の卑しい心が、わずかな米や麦を姉のおつたにだまし取られたかと思い出しては、しばらくのあいだ、いまいましさにたえられなかった。

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かれ淺猿さもしいこゝろわづかこめむぎあねなるものゝおつたにだましてられたかとおもしてはしばらくのあひだ忌々敷いま/\しさにへなかつた。

彼は勢い何かに当たり散らそうとするのに、おつぎと与吉に対してはあまりに深い愛じょうを持っていた。

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かれいきほなにかにあたらさうとするのにおつぎと與吉よきちとにたいしてはあまりにふかしたしみをつてた。

こうして彼の卯平に対するにくしみが、彼の心にきりであなをあけて、さらにくぎではっきりと打ちつけられたのだった。

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うしてかれ卯平うへいたいする憎惡ぞうをねんかれこゝろきり穿うがつてさらくぎもつ確然しつかちつけられたのであつた。

二一

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二一

勘次が走って鬼怒川の岸に立ったときは、きりがいっぱいに降りて、水は彼の足元から二、三間先が見えるだけだった。

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勘次かんじはしつて鬼怒川きぬがはきしつたとききりが一ぱいりて、みづかれ足許あしもとから二三げんさきえるのみであつた。

岸には舟がつないでなかった。

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きしにはふねつないでなかつた。

彼はあせって、いつものように大声を出して、向こう岸へ行ったはずの舟を呼んだ。

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かれ焦慮あせつていつもするやうに大聲おほごゑして對岸むかうつたはずふねんだ。

「おうい」

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「おうえ」

と答える声が、水をわたって強く、しかも近く聞こえた。

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おうずるこゑみづわたつてつよかもちかきこえた。

勘次はその声におされて黙った。

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勘次かんじこゑあつせられてだまつた。

すぐにへさきがうすくきりの中から見えた。

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ぐにへさきうすきりなかからえた。

勘次は、ほとんどむせるようなきりにつつまれて舟に立った。

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勘次かんじほとんどむせぶやうなきりつゝまれてふねつた。

ところどころさらさらとかすかな音を伝えて、舟の底がつかえそうになる。

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處々ところ/″\さら/\とかすかにひゞきつたひてふねそこさゝへられようとする。

初秋のこう水以来、川の真ん中には大きな中州ができたので、舟はそのまわりをはって、遠く曲がって行かねばならない。

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初秋しよしう洪水こうずゐ以來いらいかは中央ちうあうにはおほきな堆積たいせきされたので、ふね周圍しうゐうてとほ彎曲わんきよくゑがかねばらぬ。

勘次は目をおおわれたようで心細いきりの中で、そんなことでずいぶんのびた水路をたどっていながら、ゆったりとにぶいさおの立て方をするのに心をあせらせて

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勘次かんじおほはれたやうで心細こゝろぼそきりなかに、其麽そんなことでいちじるしく延長えんちやうされた水路すゐろ辿たどつてながら、悠然ゆつくりとしてにぶさをてやうをするのにこゝろ焦慮あせらせて

「どうしたろう、入っちゃこせまいか」

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「どうしたんべ、へえつちやせめえか」

船頭のほうを向いて彼は言った。

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船頭せんどうはういてかれはいつた。

「ぶくぶくやりたけりゃ入ったほうがいいや」

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「ぶく/\やりたけりやへえつたはうがえゝや」

船頭はそっけなく言って、ゆっくりとさおを立てる。

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船頭せんどうはそつけなくいつておもむろにさをてる。

舟の底がふれて、立っている体がぐらりと後ろへたおれそうになった。

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船底ふなぞこさはつてつて身體からだがぐらりとうしろたふさうつた。

勘次は、船頭がわざと自分を突きとばしたもののように感じて、ひどく頼りない気持ちがした。

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勘次かんじ船頭せんどうわざ自分じぶんきのめしたものゝやうにかんじてひど手頼たよりない心持こゝろもちがした。

彼はじっとかがんで、船頭の思うままに任せた。

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かれ凝然ぢつかゞんで船頭せんどうあやつまゝまかせた。

真ん中の大きな中州からつづく浅せにつかえて、舟はいつもの所へは着けられなくなっている。

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中央ちうあうおほきなからつゞ淺瀬あさせさゝへられてふねいつもところへはけられなくつてる。

たった一人の乗客である勘次は、船頭の勝手な所へ下ろされたように思った。

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たゞ一人ひとり乘客じようかくである勘次かんじ船頭せんどう勝手かつてところへおろされたやうにおもつた。

川やなぎがやせて、赤い実をかくしたくこのえだがぽつねんとたれて、大きなたでの葉が黄色くなっている岸へ、舟はがさりとへさきを突っこんだのである。

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河楊かはやなぎせて、あかかくした枸杞くこえだがぽつさりとれて、おほきなたで黄色きいろくなつてきしふねはがさりとへさきんだのである。

それでもそこには、もう何度か舟がつけられたと見えて、足あとらしいのが階だんのように形づくられてある。

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それでも其處そこにはもう幾度いくたびふねがつけられたとえて足趾あしあとらしいのが階段かいだんのやうにかたちづけられてある。

勘次は川やなぎのえだに手をかけて、他人の足あとをふんだ。

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勘次かんじ河楊かはやなぎえだけて他人ひと足趾あしあとんだ。

えだや葉がざらざらと彼のござにふれて鳴った。

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えだがざら/\とかれござれてつた。

彼は三歩目に岸に立った。

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かれ三足目みあしめきしつた。

岸は畑で、こう水が運んで来た灰に似たどろがいっぱいにかわいて、大きなひび割れができている。

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きしはたけで、洪水こうずゐもたらしたはひてるえごみが一ぱいかわいておほきな龜裂きれつしやうじてる。

まわりの蜀黍がほを切られたまま、少し遠くはぼんやりとして、これもきりの中にしょんぼりと立っている。

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周圍しうゐ蜀黍もろこしられたまゝすことほくはぼんやりとしてれもきりなか悄然ぽつさりつてる。

勘次がふり返ったとき、彼を置いて行った舟はしずんだきりにへだてられて見えなかった。

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勘次かんじふりかへつたときかれ打棄うつちやつたふねしづんだきりへだてられてえなかつた。

彼は蜀黍のくきに沿って、足あとをたどって、はるか先の土手の道へ出た。

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かれ蜀黍もろこしからうて足趾あしあとしたがつてはるか土手どて往來わうらいた。

きりがいっぺんに晴れた。

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きりが一ぺんれた。

彼は何かにだまされた後のように、がらんとしたまわりをぐるりと見回さないわけにはいかなかった。

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かれなにかにだまされたあとのやうに空洞からりとした周圍しうゐをぐるりと見廻みまはさないわけにはいかなかつた。

彼は川ぞいのこう水の後の変わりように、おどろきの目を見開いた。

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かれ沿岸えんがん洪水後こうずゐじ變化へんくわ驚愕おどろきみはつた。

たまたま、彼は、急に透きとおった空気の中からかけて来て目のおくにひっついたもののように、ぽっちりと一つ目についたものがある。

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偶然ひよつとかれにはか透明とうめいつた空氣くうきなかからかけつて網膜まうまくそこにひつゝいたものゝやうにぽつちりと一つについたものがある。

それは遠い上流につながれている小さな舟だった。

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それはとほ上流じやうりうかゝつてちひさなふねであつた。

そこには何本かの竹ざおが立てられてあるのも、同時に彼の目に入った。

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其處そこには數本すうほん竹竿たけざをてられてあるのも同時どうじかれつた。

彼はすぐに、それがさけ取りの舟であることを知った。

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かれぐにそれが鮭捕船さけとりぶねであることをつた。

漁師はさけが真夜中に網にかかるのを待ちながら、たとえ何晩も何もかからなくても、少しもねむることなく、またえものがするどく水を切って進んで来るのを彼らのすばやい目が暗い夜でも必ず見のがすことなく、近づいた一しゅん、彼らは水の中におどって、すばやく網でえものを巻くのである。

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漁夫ぎよふさけ深夜しんやあみかゝるのをちつゝ、假令たとひ連夜れんやわたつてそれがむなしからうともぽつちりとさへねむることなく、また獲物えものするどみづつてすゝんでるのを彼等かれら敏捷びんせふ闇夜あんやにもかならいつすることなく、接近せつきんした一刹那せつな彼等かれら水中すゐちうをどつて機敏きびんあみもつ獲物えものくのである。

彼らは夜が明けると、銀のように光っているえものが一ぴきでも舟にあれば、それを青竹の葉に包んで元気よくかついで出る。

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彼等かれらけるとぎんごとひかつて獲物えものが一でもふねればそれを青竹あをだけつゝんで威勢ゐせいよくかついでる。

そうでなければ、かしこいさけがよどみにかくれて動かない真昼のあいだだけ、ぐったりつかれた体にわずかなねむりをぬすむだけなので、朝の明るく白い水にさえ、じっと目をはなさないのである。

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さもなければ怜悧りこうさけよどみにかくれてうごかぬ白晝ひるあひだのみぐつたりとつかれた身體からだわづかに一すいぬすむにぎないので、あさあかるくしろみづにさへ凝然ぢつはなたないのである。

どちらにしても、小さな舟は今、冷たい朝の静けさを保っているのである。

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いづれにしてもちひさなふねいまつめたいあさしづけさをたもつるのである。

ただはるか遠くの村の木立のえだからのぼるごはんのけむりが、すみきった冷たい空に吸いこまれているだけで、その小さな舟が真ん中にあって、勘次の目には一つも動く物が見えなかった。

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たゞはるかへだつた村落むら木立こだちこずゑからのぼ炊煙すゐえんえたつめたいそらひこまれてるのみで、ちひさなふね中心點ちうしんてんをなして勘次かんじには一つもうごものなかつた。

彼はしばらくまたじっとして、上流の小舟を見ていた。

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かれしばらまた凝然ぢつとして上流じやうりう小船こぶねた。

彼は気がついたとき、土手を一気に北へ急いだ。

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かれがついたとき土手どてを一さんきたいそいだ。

土手はやがて水田に沿って、うねうねと遠くまでつづいている。

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土手どてやが水田すゐでんうてうね/\ととほはしつてる。

土手の道はばがせまくなった。

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土手どて道幅みちはゞせまくなつた。

それは、刈られてぐっしょりしめっている稲が、土手の芝の上いっぱいにほしてあったからである。

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それはられてぐつしやりとしめつていね土手どてしばうへぱいされてあつたからである。

稲は、ぽつぽつと群がっている野茨の株をのぞいて、すっかり広げられてある。

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いねはぼつ/\とむらがつて野茨のばらかぶのぞいてこと/″\ひろげられてある。

野茨の葉はもう落ちてしまって、小さなえだの先には赤いつやつやした実が一つずつかざされている。

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野茨のばらはもうちてしまつて、ちひさなえださきにはあかいつやゝかなが一つづゝかざされてる。

草刈りのかまをのがれて、しっかりとその株の根にすがった嫁菜の花が、とげの立ったえだに寄りかかりながら、しっとりと朝のしめり気をおびている。

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草刈くさかりかまのがれて確乎しつかそのかぶすがつた嫁菜よめなはな刺立とげだつたえだかゝりながらしつとりとあさうるほひをおびる。

ぬれた稲のにおいが勘次の鼻をついた。

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れたいねにほひ勘次かんじはないた。

いなごがぱらぱらと足音につれて、稲をわたって逃げた。

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いなごがぱら/\とあしひゞきれていねわたつてにげた。

彼はそのほした稲のほ先をつかんで、もみを何つぶか手にしごいてみた。

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かれそのされたいね穗先ほさきつかんでもみ幾粒いくつぶかをしごいてた。

彼はさらにそのもみを歯でかんでみた。

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かれさらその籾粒もみつぶんでた。

彼はそれからまた一気に走った。

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かれそれからまたさんはしつた。

彼は少しのあいだに、ひどく手間取ったように感じた。

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かれすこしのひどひまどつたやうにかんじた。

足にはきゃはんとわらじをはいて、背にはござを背負っている。

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あしには脚絆きやはん草鞋わらぢとを穿はいにはござうてる。

ござは絶えず彼の後ろでがさがさと鳴って、その耳をさわがせた。

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ござえずかれ背後はいごにがさ/\とつてみゝさわがした。

彼はついに土手から折れて、東へ東へと走った。

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かれつひ土手どてかられてひがしへ/\とはしつた。

村がぽつりぽつりと木立を作っているほかは、一面にただつづいている水田をつらぬいて、道ははるかに遠く、くっついたような高台の林を見ながら一直線である。

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村落むらがぽつり/\と木立こだちかたどつてほかには一たいたゞ連續れんぞくして水田すゐでんつらぬいてみちはるかとほく、ひつゝいたやうな臺地だいちはやしのぞんで一直線ちよくせんである。

彼はむかしそこを歩いたことはあった。

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かれかつ其處そこあるいたことはあつた。

しかし彼が知っているのは、いくつも曲がりくねっていたころである。

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しかかれつてるのは幾屈曲いくくつきよくをなして當時たうじである。

彼はいつのまにかとてもきちんと整理された田畑に、おどろきの目を見開いた。

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かれ何時いつにか極端きよくたん人工的じんこうてき整理せいりほどこされた耕地かうち驚愕おどろきみはつた。

彼はみぞがきれいにならんでいるのに見とれてしまった。

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かれ溝渠こうきよ井然せいぜんとしてるのに見惚みとれてしまつた。

日はやっと朝をはなれて、空に居すわった。

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やうやあさはなれてそら居据ゐすわつた。

すべての物が明るい光をそえた。

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すべてのものあかるいひかりへた。

しかしながら、まわりのどこにも生き生きした緑はまったく目に映らなかった。

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しかしながら周圍しうゐ何處いづこにも活々いき/\したみどりえてうつらなかつた。

まだいくらも刈られていない田は、黄茶色の明るい光を反しゃして、ところどころの畑に作る桑も、霜にあうまではとえだの小さなやわらかな葉が四、五まいうるおいを持っているだけである。

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まだいくらもられてないは、黄褐色くわうかつしよくあかるいひかり反射はんしやして、處々しよ/\はたけくはも、しもふまではとこずゑちひさなやはらかなの四五まいうるほひをつてるのみである。

ぽつぽつと群がった村の木立は、どれもみな赤茶けたくすんだ葉でおおわれている。

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ぽつ/\とむらがつた村落むら木立こだちいづれもこと/″\あかいくすんだもつおほはれてる。

そして低くならんだ木立とのあいだに、はっきりと強い線をえがいて、空はにくいほどすみきっている。

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さうしてひくあひせつして木立こだちとのあひだ截然くつきりつよせんゑがいてそらにくほどさえる。

そうだ。

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さうだ。

すべての植物が持っている緑の色は、すっかり空が持っているのだ。

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すべての植物しよくぶつつて緑素りよくそ悉皆みんなそらつてるのだ。

春になると空はそれを雨にとかしてまいてやるのだ。

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はるになるとそらはそれをあめ溶解ようかいしていてやるのだ。

だからしめったえだはどれでも青くいろどられなければならないはずである。

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それだからうるほうたえだはどれでもあをいろどられねばならぬはずである。

だから、何度百姓の手がたがやしても、その土をかわかしてぬらさない工夫をしないかぎりは、思わぬ所にぽつりぽつりと草の葉が青く出て、雨が降れば降るほど、どこでもいっぱいにその草の葉が濃くなって行かねばならないはずである。

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それだから幾度いくたび百姓ひやくしやうたがやさうともつち乾燥かんさうしてらさぬ工夫くふうたてないかぎりは、おもはぬところにぽつり/\とくさあをて、あめればほど何處どこでも一ぱいくさつてかねばならぬはずである。

それをおそい秋の空がすっかり持ち去るので、めっきりすみきる反対に、草木はすべてがかわいたりくすんだりしてしまうにちがいないのである。

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それを晩秋ばんしうそら悉皆みんなるので滅切めつきりえる反對はんたい草木くさきすべてが乾燥かんさうしたりくすんだりしてしまふのに相違さうゐないのである。

明るい日はすっかり昼になった。

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あかるいまつたひるつた。

ところどころの島のような畑のふちから田へはいかかっている料理菊の黄色い花が、とりわけいちばん強く日の光を反しゃして、近いよりは遠いほど気持ちよくあざやかに見えている。

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處々ところ/″\しまのやうなはたけへりからかゝつて料理菊れうりぎくはな就中なかでもばんつよ日光につくわう反射はんしやしてちかいよりはとほほどこゝろよくあざやかにえてる。

勘次はずっと手ぬぐいで巻いた右手のひじをかかえるようにして、うつむいて歩いた。

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勘次かんじ始終しよつちう手拭てぬぐひもついた右手めてひぢかゝへるやうにして伏目ふしめあるいた。

道に沿ったせまいほりの浅い水に、彼の目が向いた。

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みちうてせまほりあさみづかれはなたれた。

がらがらに荒れた狼把草やゑぐが、ぽつぽつと水につかっている。

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がら/\にすさんだ狼把草たうこぎやゑぐがぽつ/\とみづひたつてる。

青い空は浅い水の底から、はるかに深く遠く光った。

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あをそらあさみづそこからはるかにふかとほひかつた。

そして、どこからか迷い出て落ち着く場所を見つけられずに困っているような白い雲がうつって、勘次が走れば走るほど先へ先へと移った。

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さうして何處どこからかまよして落付おちつ場所ばしよ見出みいだねてこまつてるやうなしろくもうつつて、勘次かんじはしればはしほどさきへ/\とうつつた。

勘次はそれをじっと見つめて行くと、なんだか頭がぐらぐらするように感じられた。

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勘次かんじはそれを凝視みつめてくとなんだか頭腦あたまがぐら/\するやうにかんぜられた。

彼は昨夜はねむらなかった。

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かれ昨夜ゆふべねむらなかつた。

彼の、自分独りでかみ殺していなければならないいまいましさが、頭をしげきした。

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かれ自分じぶんひとりころしてねばならぬ忌々敷いま/\しさが頭腦あたま刺戟しげきした。

彼はひたすら、ひじのきずを実さいよりも何倍も重く他人に見せたいという、一種の分からない気持ちを持っていた。

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かれ只管ひたすらひぢ瘡痍きず實際じつさいよりも幾倍いくばいはるかおも他人ひとにはせたい一しゆわからぬ心持こゝろもちつてた。

わずかなひまもおしんだ彼の心は、これまでになく、自分の損を考えるゆとりを持たないほど乱れ、にごっていた。

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寸暇すんかをもをしんだかれこゝろ從來これまでになく、自分じぶん損失そんしつかへりみる餘裕よゆうたぬほど惑亂わくらん溷濁こんだくしてた。

真昼の日は横のほおに暑いほどさしかけたが、まわりはあいかわらず冷たかった。

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白晝ひる横頬よこほゝあつほどけたが周圍あたり依然やつぱりつめたかつた。

ほりの浅い水には、これも冷たそうにじっと身をしずめたかえるが、黙って彼を見ていた。

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ほりあさみづにはれもつめたげに凝然ぢつしづめたかへるだまつてかれた。

遠い田んぼを、彼は前後にただ一人の通行人だった。

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とほ田圃たんぼかれ前後ぜんごたゞ一人ひとり行人かうじんであつた。

はるかにぽつりぽつりと見える稲刈りの百姓は、独りぼっちの彼の目からかくれようとするように、みなずっと低く身をかがめている。

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はるかにぽつり/\とえる稻刈いねかり百姓ひやくしやう㷀然ぽつさりとしたかれからかくれようとするやう悉皆みんなずつとひくかゞめてる。

明るい光に満ちた田んぼを、その乱れにごった心をかかえてさびしく歩数を重ねて行く彼は、ガラスのうつわの水を日にかざして見つけた一つぶのちりだった。

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あかるいひかり滿ちた田圃たんぼ惑亂わくらん溷濁こんだくしたこゝろいだいてさびしく歩數あゆみんでかれは、玻璃器はりきみづかざして發見はつけんした一てん塵芥ごみであつた。

勘次は田んぼが尽きたとき、村を過ぎて高台へ出た。

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勘次かんじ田圃たんぼきたとき村落むらぎて臺地だいちた。

村のかきねには稲をかけている人々がいた。

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村落むら垣根かきねにはいねけて人々ひとびとがあつた。

道行く人を見たがるくせのある彼らは、みないそがしげな勘次を見た。

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みちひとたがるくせ彼等かれらみないそがしげな勘次かんじた。

勘次は他人が自分を見ることに気づいたとき、ひじをまたていねいにかかえた。

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勘次かんじ他人ひと自分じぶんることをつたときひぢ叮嚀ていねいいた。

高台には林のあいだに、暗い感じの畑が開こんされてあった。

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臺地だいちにははやしあひだ陰氣いんきはたけ開墾かいこんされてあつた。

彼は開こん地の土のようすと作物を、とても注意して見た。

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かれ開墾地かいこんち土質どしつ作物さくもつとを非常ひじやう注意ちういた。

また村があって、広い畑が開けた。

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また村落むらがあつてひろはたけ展開てんかいした。

畑は陸稲を刈ったままの所がいくらもあった。

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はたけ陸稻をかぼつたまゝところいくらもあつた。

彼は陸稲の刈り株をていねいにわらじの先でふんでみた。

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かれ陸稻をかぼ刈株かりかぶ叮嚀ていねい草鞋わらぢさきんでた。

百姓がちらほらと動いて、麦をまくための土がきれいにたがやされつつある。

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百姓ひやくしやうがちらほらとうごいてむぎくべきつち清潔せいけつたがやされつゝある。

畑の黒い土は、彼らのうでを見せてていねいにたがやされれば、日がまだそれをかわかさないうちは、ただきれいで気持ちのいい感じを見る人の心に与えるのである。

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はたけくろつち彼等かれら技巧ぎかう發揮はつきして叮嚀ていねいたがやされゝばがまだそれをさないうちたゞ清潔せいけつこゝろよいかんじをひとこゝろあたへるのである。

そういう村をつつんで、そこにも雑木林が一面に赤茶けている。

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さういふ村落むらつゝんで其處そこにも雜木林ざふきばやしが一たいあかくなつてる。

ほかより先に燃えるように赤くなった白膠木の葉が、黒い土と遠くで映り合っている。

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先立さきだつてきはどくえるやうになつた白膠木ぬるでくろつちとほあひえいじてる。

勘次は、自分の麦をまくべき畑の用意がまだ十分でないことを思った。

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勘次かんじ自分じぶんむぎくべきはたけ用意よういがまだ十ぶんでないことをおもつた。

彼は前の年、寒さが急におそったとき、種をまく日がわずか二日おくれた麦が、思いのほか収穫がへった苦い経験を忘れられなかった。

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かれ前年ぜんねんさむさがきふおそうたときたねわづか二日ふつか相違さうゐおくれたむぎ意外いぐわい收穫しうくわく減少げんせうしたにが經驗けいけんわすることが出來できなかつた。

彼は目安として教わったその日を外さずに、麦はまかなければならないものと決めているのである。

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かれ標準へうじゆんとしてをしへられたはづすことなくむぎかねばならぬものと覺悟かくごをしてるのである。

それとともに、一日でもこうして時間をむだにする自分のきずについて、彼は深く悲しんだ。

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それとともに一にちでもうして時間じかん空費くうひする自分じぶん瘡痍きずいてかれふかかなしんだ。

しかしそれでいながら、彼は悲しみから来るいらだちが、ただそのきずをだれにも実さい以上に重く見せたい、見られたいというはかない思いをわかせること以外に、何も生まなかった。

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しかしそれでながらかれ悲痛ひつうから憤懣ふんまんじやうが、たゞその瘡痍きず何人なんぴとにも實際じつさい以上いじやうおもせもしられもしたい果敢はかない念慮ねんりよかしむることよりほか何物なにものをもたなかつた。

彼はほとんど絶対に、同情となぐさめとにうえていたのである。

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かれほとんど絶對ぜつたい同情どうじやう慰藉ゐしやとにかつしてたのである。

畑の黒い土には、ぽつぽつと大根の葉がしげっている。

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はたけくろつちにはぽつ/\と大根だいこんしげつてる。

まわりですみきった青い物は、大根の葉だけである。

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周圍しうゐえたあをもの大根だいこんのみである。

大根の葉は、いったん地上の緑をうばって透きとおった空が、その濃い緑をしずめて地上に置いた結しょうにちがいない。

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大根だいこんは、一たん地上ちじやうみどりうばうて透徹とうてつしたそら濃厚のうこうみどり沈澱ちんでんさせて地上ちじやういた結晶體けつしやうたいでなければならぬ。

おそい秋の気配は、ひたすらしずもうとばかりしている。

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晩秋ばんしう只管ひたすらしづまうとのみしてる。

実をつけ終わったすべての作物のほ先は、すっかりもううなだれている。

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生殖作用せいしよくさようをはつたすべての作物さくもつ穗先ほさき悉皆みんなもう俛首うなだれてる。

虫の声も地面にしみこもうとしている。

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むしこゑらうとしてる。

ただ一つさわやかな緑を与えられた大根の葉も、いくら育っても強く引きしめるおそい秋の気を受けて、地面にひっつくようにしてやっとななめに広がるだけで、少しでも高く立ちのぼることをゆるされていない。

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ひとさわやかなみどりあたへられた大根だいこんも、いく成長せいちやうしてもつよめる晩秋ばんしうけてにひつゝくやうにしてやつなゝめひろがるのみで、すこしでもたかのぼることを許容ゆるされてらぬ。

こうして畑の土は、ただ冷たくこおるのを待っているのである。

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うしてはたけつちたゞつめたくこほるのをつてるのである。

勘次はやっと整骨医の門にたどり着いた。

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勘次かんじやうや整骨醫せいこついもんたつした。

整骨医の家は、竹のかきねに珊瑚樹の大木がおおいかぶさって、暗く見えていた。

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整骨醫せいこついいへはがらたけ垣根かきね珊瑚樹さんごじゆ大木たいぼくおほひかぶさつて陰氣いんきえてた。

戸板を三角形に合わせてかごのようにこしらえたものが、かきねの内に置いてあった。

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戸板といたを三角形かくけいあはせて駕籠かごのやうにこしらへたのが垣根かきねうちかれてあつた。

だれか重いけが人が運ばれたのだと勘次はすぐに気づいて、そしてなんだかぞっとした。

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たれおも怪我人けがにんはこばれたのだと勘次かんじぐにさとつてさうしてなんだか悚然ぞつとした。

彼は大げさな自分の身なりをはずかしがって、ためらいながら案内をたのんだ。

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かれ業々げふ/\しい自分じぶん扮裝いでたちぢて躊躇ちうちよしつゝ案内あんないうた。

ぽつねんとしてげんかんで待っているのは、みなけが人ばかりである。

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ぽつさりとして玄關げんくわんつてるのは悉皆みんな怪我人けがにんばかりである。

首から白い布をつって、これも白くほうたいした手をささえている人もあった。

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くびからしろ布片きれつてれもしろ繃帶ほうたいしたたせたものもあつた。

そこに青い顔をしてぐったり横になっている人もあった。

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其處そこあをかほをしてぐつたりとよこたはつてるものもあつた。

勘次はけが人の後ろにかくれるようにして自分の番になるのを待ちながら、まわりがなんとなく薬くさくてこわいような感じにとらわれた。

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勘次かんじ怪我人けがにんうしろかくれるやうにして自分じぶんばんになるのをちながら周邊あたりなんとなく藥臭くすりくさくておそろしいやうなかんじにとらはれた。

医者は一人の痛む所をやわらかくもんでやっていたが、勘次をちらと見た。

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醫者いしや一人ひとり患部くわんぶやはらかにんでやつてたが勘次かんじをちらとた。

勘次はなんだかにらまれたように感じた。

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勘次かんじなんだかにらまれたやうにかんじた。

医者はまな板のような板の上に黄茶色の粉薬を少し出して、白いのりと練り合わせて、びんのお酒のようなえきでそれをゆるめて、それから長いはさみで白い紙をきざんで、しんちゅうのへらでその薬を紙にぬりつけて、痛む所にはってやった。

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醫者いしや爼板まないたのやうないたうへ黄褐色くわうかつしよく粉藥こぐすりすこして、しろのりあはせて、びんさけのやうな液體えきたいでそれをゆるめてそれからながはさみ白紙はくしきざんで、眞鍮しんちうへらそのくすりかみ塗抹つて患部くわんぶつてやつた。

けが人たちは、ただじっとして医者のなれた手元を見つめた。

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怪我人等けがにんらたゞ凝然ぢつとして醫者いしや熟練じゆくれんしたもとを凝視ぎようしした。

勘次は他人の後ろからつま立ちをした。

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勘次かんじ他人ひとうしろから爪立つまだてをした。

二、三人小さな治りょうが済んで、十二、三の男の子が仕事着のままの二十四、五の百姓に背負われて、医者の前に置かれた。

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二三にんちひさな療治れうぢんで十二三のをとこ仕事衣しごとぎまゝな二十四五の百姓ひやくしやうはれて醫者いしやまへゑられた。

医者は縁側の明るい所へ座ぶとんをしいて出た。

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醫者いしや縁側えんがはあかるみへ座蒲團ざぶとんいてた。

けが人は医者の前へ出ると、こわさにおそわれたように急にむせび泣いた。

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怪我人けがにん醫者いしやまへると恐怖きようふおそはれたやうににはか鳴咽をえつした。

医者は横にふくれた大きな体で、ゆったりとあぐらをかいたまま、けが人の左の手をまくって見た。

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醫者いしやよこふくれたおほき身體からだでゆつたりと胡坐あぐらをかいたまゝ怪我人けがにんひだりまくつてた。

けが人の二のうでが折れて、ぶらりとたれていた。

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怪我人けがにん上膊じやうはく挫折ざせつしてぶらりとれてた。

医者はけが人の痛む所に手をふれてみて

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醫者いしや怪我人けがにん患部くわんぶれて

「お前、そっちを持って」

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「おまへそつちつて」

と、かんたんにあごで百姓に指図した。

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簡單かんたんあご百姓ひやくしやう指圖さしづした。

百姓はおずおずけが人の後ろへ回って、青い顔をしてだいた。

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百姓ひやくしやうづ/\怪我人けがにんうしろまはつてあをかほをしていた。

「いいか、ぎっとだいてるんだぞ」

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「えゝか、ぎつといてるんだぞ」

医者は足をけが人のおなかに当てて、両手で折れた手を持って引こうとした。

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醫者いしやあし怪我人けがにん腹部ふくぶてゝ兩手りやうて挫折ざせつしたつてかうとした。

けが人はこわさに、わっと声を上げて泣いた。

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怪我人けがにんおそろしさにわつとこゑはなつていた。

医者は手を止めた。

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醫者いしやめた。

「お前は兄さんだな。そんじゃいい、むだだ」

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「おまへ兄貴あにきだな、そんぢやえゝ、徒勞むだだ」

と、だいた手を放させた。

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いたはなたしめた。

百姓は身内へのいたわりから、泣きさけぶ子をぎっと力をこめて引かせられない。

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百姓ひやくしやう骨肉こつにくいたはりがさけをぎつとちからめてかせない。

そんな思い切ったやり方に加わることはできなかったのである。

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そんなおもひきつた手段しゆだんくははることは出來できないのであつた。

百姓は泣けば泣くほど手をゆるめた。

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百姓ひやくしやうけばほどゆるめた。

医者はそれでむだだと言った。

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醫者いしやはそれで徒勞むだだといつた。

百姓はただ青い顔をして、ぼうっとしているだけだった。

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百姓ひやくしやうたゞあをかほをしてぼつとしてるのみであつた。

医者はさらに家の者に言いつけて、近所の若い人を呼びにやった。

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醫者いしやさら家族かぞくめいじて近所きんじよ壯者わかものびにやつた。

「木から落ちたな」

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からおつこつたな」

医者は百姓に聞いた。

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醫者いしや百姓ひやくしやういた。

「ええ、わしはもう、どうしていいもんだか分からないから、畑をたがやしてたまま着物も着ないで、こうして背負って来たんだが」

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「えゝ、わしやはあ、どうしてえゝもんだかわかんねえからはたけうなつてたまゝ衣物きものねえでうしておぶつてたんだが」

と百姓は言って、それから

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百姓ひやくしやうはいつて、それから

「わしはかきの木へ登るのを見てたんだったが、落ちたからかけて行って見たら、目を引きつけちまって。そんでもしばらくたったら泣き出したんで、わしがだき起こして手にさわったら、痛い痛いと言うから、まくって見たら、こうぶらんとなったっきりで、わしももう、おどろいちまって」

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「わしかきのぼんなてたんだつけが、おつこつたからけてつてたら、めえつゝけつちやつて、そんでもしばらつたらしたんでわしおこしてさはつたら、てえ/\つちからまくつてたら、うぶらんとつたつきりでわしもはあ、魂消たまげつちやつて」

百姓はひたすら慌てて言った。

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百姓ひやくしやう只管ひたすらあわてゝいつた。

「本当に、ここへ来ていちゃ、毎日のように木から落ちたというけが人が来るんだよまあ。しいの木から落ちたの、くりの木から落ちたのって。子どものけがはたいがいそうなんだから、男の子を持っちゃ心配さね。そんだがこれ、けがというのは思いがけないものだから、わしらも下駄をはきながらひょいっところんだだけで手首が折れたんだなんて」

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本當ほんたう此處こゝちや毎日まいんちのやうにからおつこつたつち怪我人けがにんんだよまあ、しひからおつこつたのくりからおつこつたのつて、子供こども怪我けが大概てえげえさうなんだから、をとこつちや心配しんぺえさねえ、そんだがこれ、怪我けがつちやえゝまちだから、わし下駄げた穿きながらひよえつところがつただけくびをつちよれたんだなんて」

と、そばにいたおばあさんが言った。

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そばばあさんがいつた。

「うちのも毎日のようにかきの木へ登ってて、木登りは上手なんだから。それも雨でも降ったばかりならつるつるして足がかからないもんだが、雨は降らないし、そんなことはないはずなんだが、つかまってたえだの所へびがいたとかって、慌てて下りようと思ったというんだから。いつでももう、えだなんざがさがさやって、てっぺんのほうでどなったりなんかしてたんだったが、かさっというのがひどく変な音だと思って見るうちには、落ちるのは早いもんで。困ったことができたのさ」

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「わしがも毎日まいんちのやうにかきのぼつてゝ木登きのぼりは上手じやうずなんだから、それもあめでもつたばかしならつる/\してあしかゝんねえもんだがあめんねえし、そんなこたねえはずなんだが、つかまつてたえだとこへびたとかつてあわくつておりべとおもつたつちんだから、いつでもはあえだなんざがさがさやつて天邊てつぺんはう呶鳴どなつたりなにつかしてたんだつけが、かさあつちのがひどへんおとだとおもつてうちにやおつこちんなえゝもんで、こまつたこと出來できたのせ」

百姓は調子に乗って言いつづけた。

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百姓ひやくしやう乘地のりぢになつていひつゞけた。

勘次はこわそうな目を見開いて耳をかたむけた。

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勘次かんじ恐怖きようふみはつてみゝかたむけた。

「かきの木へへびが上がるようじゃ、雨でもまた降らなけりゃいいが。百姓には大事なときなんだからまあ、ちっと晴れをつづけさせたいもんだが」

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かきへびがあがるやうぢやあめでもまたらなけりやえゝが、百姓ひやくしやうにや大事でえじところなんだからまあ、ちつとつゞけさせてえもんだが」

そばからまた一人のけが人が口をそえた。

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そばからまた一人ひとり怪我人けがにんくちへた。

勘次はまたその話を聞きながら、変わりやすい天気を心配した。

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勘次かんじまたはなしきながらさだまりない天候てんこう變化へんくわあんじた。

やがて近所の若い人が来て、さっきのようにけが人をだいた。

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やが近所きんじよ壯者わかもの以前いぜんごと怪我人けがにんいた。

医者はさっきのようにして、けが人のこわがった顔を見ながら、口を閉じてぎっとその手を引いた。

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醫者いしや先刻さつきのやうにして怪我けが人の恐怖きようふしたかほながらくちめてぎつといた。

けが人の手はぼきっとおそろしい音を立てた。

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怪我人けがにんはぼぎつとおそろしいおとたてた。

けが人はただ泣きさけんだ。

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怪我人けがにんたゞさけんだ。

「よしよし、治っちゃった」

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「よし/\なほつちやつた」

医者は手を放して、太いやわらかそうな指の腹でしばらくもむようにして、それから薬をぬった紙をいっぱいにはって、うすい木の板を当てて、ぐるりとほうたいをした。

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醫者いしやはなつて、ふとやはらかさうゆびはらしばらむやうにしてそれからくすりつたかみを一ぱいつて燭奴つけぎのやうなうすいたてゝぐるりと繃帶ほうたいほどこした。

「どれくらいで治ったもんでございましょうね、先生さん」

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「どのつくれえなほつたもんでござんせうね、先生せんせいさん」

百姓は心配そうに聞いた。

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百姓ひやくしやう懸念けねんらしくいた。

「そうすぐには治らないな」

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「さうぐにやなほらねえな」

医者はそっけなく言った。

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醫者いしや無愛想ぶあいそにいつた。

百姓はあいかわらず青い顔をしながら、けが人を背負って帰って行った。

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百姓ひやくしやう依然いぜんとしてあをかほをしながら怪我人けがにん脊負しよつてかへつてつた。

それから二、三人の治りょうが済んで、勘次の番になった。

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それから二三にん療治れうぢんで勘次かんじばんつた。

「こりゃずいぶん大事にしてあるな」

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りや大層たいそう大事だいじにしてあるな」

医者は汚い手ぬぐいを取って、勘次のひじを見た。

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醫者いしやきたな手拭てぬぐひをとつて勘次かんじひぢた。

鉄の火ばしで打ったあとが、指のようにほのかにふくれていた。

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てつ火箸ひばしつたあとゆびごとくほのかにふくれてた。

「どうしたんだいこれは、夫婦げんかでもしたか」

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「どうしたんだえら、夫婦喧嘩ふうふげんくわでもしたか」

医者は毎日百姓を相手にしてくだけて付き合うくせがついているので、どっしりと大きな体からこういう冗談も出るのだった。

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醫者いしや毎日まいにち百姓ひやくしやう相手あひてにしてくだけて交際つきあ習慣しふくわんがついてるので、どつしりとおほきな身體からだからかういふ戯談じようだんるのであつた。

「なあに、わしはもう、女房に死なれてから七、八年にもなるんでございますから」

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「なあにわしやはあ、かゝあなれてから七八ねんにもなんでがすから」

勘次は少し苦笑いして言った。

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勘次かんじすこ苦笑くせうしていつた。

「そうか、そんじゃだれに打たれたい。まだ若いんだから、そんでもどこかへこしらえたかい」

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「さうか、そんぢやだれたれたえ、まあださかりだからそんでも何處どこへかこしらえたかえ」

軽いきずをあまりに大げさに包んだ勘次のようすを、心の中で笑わずにいられなかった医者は、こうからかいながら口ひげをひねった。

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輕微けいび瘡痍きずあまりに大袈裟おほげさつゝんだ勘次かんじ容子ようすこゝろから冷笑れいせうすることをきんじなかつた醫者いしやはかう揶揄からかひながら口髭くちひげひねつた。

「先生さん、冗談を言って。なあに、わしは爺さんに打たれたんでさ」

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先生せんせいさん戯談じやうだんいつて、なあにわしや爺樣ぢいさまたれたんでさ」

勘次はひたすら、医者の前で問いつめられるのからのがれようとするように言った。

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勘次かんじ只管ひたすら醫者いしやまへ追求つゐきう壓迫あつぱくからのがれようとするやうにいつた。

医者はそれからはもう黙って薬をはって、形だけのほうたいをした。

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醫者いしやはそれからはもうだまつてくすりつてかたばかりの繃帶ほうたいをした。

「先生さん、わしはまだ来なくちゃなりますまいか」

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先生せんせいさん、わしやまあだなくつちやなりあんすめえか」

勘次は心配そうな目で聞いた。

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勘次かんじ懸念けねんらしいもついた。

「この薬をやるから、自分ではったほうがいい。これで治るから」

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くすりをやるから、自分じぶんつたはうがえゝ、れでなほるから」

と、医者は一ふくろの薬をくれた。

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醫者いしや一袋ひとふくろくすりあたへた。

勘次は一度整骨医の門をくぐってからは、世の中にはこんなにけが人がいるものだろうかと、絶えずおどろきとこわさにおされていたが、珊瑚樹のしげった木かげから竹のかきねを通って道へ出たとき、彼は身も心も急に軽くなったのを感じた。

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勘次かんじは一整骨醫せいこついもんくゞつてからは、世間せけんには這麽こんな怪我人けがにんかずるものだらうかとえず驚愕おどろき恐怖おそれとのねんあつせられてたが、珊瑚樹さんごじゆ繁茂はんもした木蔭こかげからたけ垣根かきね往來わうらいときかれこゝろにはかかるくなつたことをかんじた。

彼は小さなけが人から思い出して、これも毎日庭の木をねらっている与吉を心配し出した。

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かれちひさな怪我人けがにんから聯想れんさうしてれも毎日まいにちにはねらつて與吉よきちうれした。

彼は足の力のかぎり帰り道を急いだ。

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かれ脚力きやくりよくおよかぎ歸途きといそいだ。

彼は行く行く、午前に見てしばらく忘れていた百姓の働きぶりをまた目の前に見せつけられて、かくれていたいらだちがまたむらむらと首をもたげた。

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かれく/\午前ごぜんしばらわすれて百姓ひやくしやう活動くわつどうふたゝ目前もくぜんつけられてかくれて憤懣ふんまんじやう勃々むか/\くびもたげた。

彼は自分のきずが軽いと医者に言われたときはなんとなく安心したのだが、しかしまた次第に道を歩きながら、いろいろな考えがわくにつれて、失望と不満を心に持ちはじめた。

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かれ自分じぶん瘡痍きずかる醫者いしやから宣告せんこくされたときなんとなく安心あんしんされたのであつたが、しかまた漸次だんだん道程みちのりはこびつゝ種々いろいろ雜念ざふねんくにれて、失望しつばう不滿足ふまんぞくこゝろいだきはじめた。

彼が家に帰った後、きずを重く見せかけようとするのに、医者の見立てが少しも彼に味方していなかったからである。

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かれいへかへつたのち瘡痍きずおもけようとするのには醫者いしや診斷しんだん寸毫すんがうかれ味方みかたしてなかつたからである。

彼が家に帰ったのは、日が西につらなった雑木林の上にかたむこうとしたころだった。

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かれいへかへつたのは西にしつらなつた雜木林ざふきばやしうへかたむかうとしたころであつた。

彼はただそのままに、自分のけがとそのできごとをかくしておくのが名残おしい気持ちがした。

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かれたゞそのまゝ自分じぶん怪我けがその事實じじつとをおほうてくのがのこをし心持こゝろもちがした。

それで彼はその足ですぐに南の家へ行った。

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それでかれあしすぐみなみいへつた。

きゃはんとわらじで身を固めた勘次のようすをふしぎに思った南の家の亭主に、勘次はとつぜんうったえるように言った。

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脚絆きやはん草鞋わらぢとでかためた勘次かんじ容子ようす不審ふしんおもつたみなみ亭主ていしゆ勘次かんじ突然とつぜんうつたへるやうにいつた。

「おれは爺さんに鉄の火ばしで打っとばされて、骨つぎへ行って来たところだが、いそがしい所へひどい目にあっちまった」

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ら、爺樣ぢいさま鐵火箸かなひばしばさつて、骨接ほねつぎつてとこだが、いそがところひでつちやつた」

勘次はそれでも口が重くて、思うようには言えなかった。

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勘次かんじはそれでもくちしぶつておもやうにいへなかつた。

南の家の亭主は、わざわざ来て話をされては、ほうっておくこともできなかった。

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みなみ亭主ていしゆ態々わざ/\はなしをされてはてゝかへりみぬことも出來できなかつた。

「どうしたっていうんだいまあ、勘次さん」

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「どうしたつちんでえまあ、勘次かんじさん」

いくらかわざとらしくおどろいたように聞いた。

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いくらかわざとらしくおどろいたやうにいた。

「昨日の日暮れに、おれが畑から帰って来たら、爺さんがにわとりにえさをまいてやってるから見たら、米を混ぜておいた食べる稲のほうをかき出してまいてるじゃないかい。それでおれも、それをやったんじゃかなわないと言ったんだな。にわとりにやるのはそっちに別にしてあるんだから、まいてやるならそっちのにしてくれと言ったのよ。にわとりになんざもったいないな。そうしたらいきなり鉄の火ばしでおれのことを打っとばして、お前はおれに食わせるのさえおしいくらいだから、にわとりにやってさえそんなことを言いやがるんだろうなんて。おれもうっかりしてたもんだから逃げるまもなくて、これ、こんなにけがをしちまったな。今、種まきのいそがしい所へぶつかって、いつまでも治らないようでも仕方がないから、朝のうちに骨つぎへ行ったんだが、遠いのに、それに行ってみるとけが人が来ていて、ちょっとやそっとじゃないもんだから、随分急いだつもりだったっけが、こんなにおそくなっちまって。何と言っても日は短くなったからな。そう言っても、けが人ってあるもんだな」

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昨日きのふ日暮ひぐれらからけえつてたら爺樣ぢさまにはとり餌料ゑさえてやつてつからたら、こめぜていた食稻けしねほうしていてんぢやねえけ、それかららもそれつたんぢやをへねつちつたな、にはとりげやんなそつちにべつにしてんだからいてやんだらそつちのがにしてろつちつたのよ、にはとりげなんざ勿體もつていねえな、さうしたらいきなり鐵火箸かなひばしれことばして、りやおれはせんのせえをしいつくれえだからにはとりげやつてせえ其麽そんなことへやがんだんべなんて、放心うつかりしてたもんだからにやあねえで、れかうえに怪我けがしつちやつたな、いま蒔物まきものいそがしいところんで、何處どこまでもなほんねえやうでもしやうねえからあさかせぎに骨接ほねつぎつたんだが、とほいのにそれにつてつと怪我人けがにんてちよつくらぢやねえもんだから、隨分ずいぶんえそえだつもりだつけがこんなにおそくなつちやつて、なんちつてもみじかくなつたかんな、さうつても怪我人けがにんちやるもんだな、」

勘次はやっとそうして、くわしくことのしだいを打ち明けた。

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勘次かんじやうやくさうして仔細しさいこと顛末てんまつけた。

「そんだが、けがは大変なことはないのか」

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「そんだが怪我けが大變たいへんなこたねえのか」

南の家の亭主は、それも義理だというように聞いた。

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みなみ亭主ていしゆはそれも義理ぎりだといふやうにいた。

「うん」

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「うむ」

と、勘次は言いよどんだ。

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勘次かんじはいひよどんだ。

南の家の亭主は、そのわけをさとることができないばかりか、その言いよどんだことをふしぎに思う気も起こさないほど、うっかりと聞いていた。

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みなみ亭主ていしゆ理由わけさとることは出來できないのみでなく、のいひよどんだことを不審ふしんおもこゝろさへおこさぬほど放心うつかりいてた。

「そんで爺さんはどうしたっていうんだい」

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「そんで爺樣ぢさまはどうしたつちんでえ」

南の家の亭主は、それから先を聞いた。

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みなみ亭主ていしゆはそれからさきいた。

「おれは朝っぱらから出かけちまって、まだ顔も合わせないから、どうするっていうんだか分からないが、どうせ甘い顔つきもしちゃいまいな。これでけがなんぞさせて、いい気持ちじゃあるまいな。そうじゃないかい」

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あさつぱら出掛でかけつちやつてまあだ行逢えきやえもしねえから、どうするつちんだかわかんねえが、どうせうめ面付つらつきもしちやらんめえな、んで怪我けがなんぞさせてえゝ心持こゝろもちぢやあんめえな、さうぢやねえけ」

勘次はだんだん勢いがついて言った。

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勘次かんじはだん/\いきほひがついていつた。

「そんじゃ話はどういう形にでもしておかなくちゃ仕方があるまいな。おれがまあ話はしてみるから。どっちがどうのこうのと言ったって仕方がないし、まさかお前、手を出したのは爺さんだと言ったって、親にあやまれということも言えないから、何気ないことにしておさめようじゃないか、なあ」

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「そんぢやはなしはどうゆ姿なりにもしてかなくつちやしやうあんめえな、れまあはなしはしてつから、どつちがどうのかうのつちつたつてやうねえし、まさかおめえ手越てごししたな爺樣ぢさまだつちつたつて、おやのこと謝罪あやまれつちこともはんねえから何氣なにげなしのことにしてつゝけべぢやねえか、なあ」

南の家の亭主はそう言って、卯平のせまい戸口に立っていた。

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みなみ亭主ていしゆはさういつて卯平うへいせま戸口とぐちつてた。

「こっちのおとっつあん、わしもこれ、変な話だが、勘次さんにたのまれたような形でまあ来たんだがね。昨日の日暮れとかにそれ、あれこれあったということだったっけが、勘次さんもそんなに悪い気持ちで言ったんでもないようすだし、まあ手をついてあやまらせるの何のということでなく、これはその場かぎりとして仲よくやってもらいたいんだが、どうしたもんだろうね。はらを立たせるのはこれは悪いかも知れないが、親子でいてこれ、ちっとのことで後で考えてみちゃつまらないもんだから。なあ、こっちのおとっつあん」

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「こつちのおとつゝあん、わしもへんはなしだが勘次かんじさんにたのまれたやうなかたちでまあたんだがね、昨日きのふ日暮ひくれとかにそれ、そつちこつちたつちことだつけが、勘次かんじさんもそんなにりい心持こゝろもちつたんでもねえ鹽梅あんべえだし、まあてえついて謝罪あやまらせんのなんだのつちことでなく、かぎりとして仲善なかよくやつてもれえてえんだがどうしたもんだんべね、はらあたせんなこらりいかもんねえが、親子おやこつてゝれ、ちつとのことであとかんげへてちやつまんねえもんだから、なあこつちのおとつゝあん」

仲直りの世話をする人はやわらかに、そしていやとは言えないように打ちとけて話しこんだ。

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仲裁者ちうさいしややはらかにさうしてしかいやといはれぬやうにけてんだ。

「なあに、おれはどうもこうもないんだが、あの野郎めはもう、何じゃない、おれのことがじゃまなんだから。おれはおれだと思ってるからかまやしないが、おれに食わせる物がおしくて仕方がないんだから。おれが家の物を一つぶでもへらさないように外に行ってりゃいいんだろうが。おれがそれから、おれのことがそんなにいやなら、自分でどこへでも出て行ったほうがいい。いやなら後から来た者が出ろという気なんだから」

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「なあにらあどうもかうもねえんだが、野郎奴やらうめはあ、なんぢやねえ、れこと邪魔じやまなんだから、らあれだとおもつてつからかまやしねえが、れげはせるものしくつてやうねえんだから、うちもの一粒ひとつぶでもらさねえやうにほかつてりやえゝんだんべが、れえそれから、れことさうだになんだら自分じぶん何處どこさでもけつかつたはうがえゝ、だらあとからものろつちなんだから」

卯平はくわえたきせるを少しふるえる手に持って、とぎれとぎれにやっとこれだけ言った。

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卯平うへいくはへた煙管きせるすこふるへるつて途切とぎれながらやうやれだけいつた。

「そりゃ、こっちのおとっつあん、そうだがな。さっきも言うとおりはらも立とうが、親子となってみりゃこれ、いいこともあるもんだからなあ。そう言わないでそれ、わしに任せて承知しなさいね」

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「そりちこつちのおとつゝあんさうだがな、先刻さつきもいふとほはらつべえが親子おやことなつてりやれ、えゝこともるもんだからなあ、さうはねえでそれ、わしげまかせて不承ふしようしさつせえね」

南の家の亭主はただくり返して言った。

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みなみ亭主ていしゆたゞ反覆くりかへしていつた。

「こういうことはこれ、黙ってりゃとなり近所でも分からないもんだが、勘次らはもうずいぶん長く味噌さえなくしておくんだから、ひとしゃくしもありやしないんだ。去年のくれには味噌をつくというんで、おれが働いたお金で塩まで買ったんだな。おれもかたい物はかめないから、味噌がなくちゃ仕方がないな。おれは若いころから味噌は好きで、味噌がなくちゃなんぼにも体に力がつかなくて困り困りしたんだから。麦こうじは塩まで切ってあるんだから、豆さえ煮ればすぐなのに。それが今になったってつくわけじゃなし、何でもおれが死ねばいいくらいにして待ってるんだろうが。これ、味噌なんざついたからってそうすぐに手をつけられるもんじゃなし、おれは明日にも死ぬかどうだか分かりやしないが、そんでも自分の見てる所でつきさえすりゃ、明日死ぬにしたって気持ちはいいから」

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うだこたれ、だまつてりや隣近所となりきんじよでもわかんねえもんだが勘次等かんじらえゝしばら味噌みそせえくしてくんだから、一杓子ひとつちやくしりやしねえんだ。去年きよねんくれにや味噌みそくつちんではたれえたぜねしほまでつたんだな、れもこえめねえから味噌みそなくつちややうねえな、さかりころつから味噌みそきで味噌みそなくつちやなんぼにも身體からだちからつかねえでこまり/\したんだから、麥麹むぎつかうぢしほまでつてんだからまめせえりやぢきなのに、それいまんなつたつてくべぢやなし、なんでもねばえゝぐれえにしてつてんだんべが、れ、味噌みそなんざいたからつてさうぐにてえつけらつるもんぢやなし、明日あすにもぬかどうだかわかりやしねえが、そんでも自分じぶんてつところきせえすりや明日あしたぬにしたつて心持こゝろもちやえゝから」

卯平は独りつぶやくようにして、それから

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卯平うへいひとつぶやくやうにしてそれから

「あのときつきさえすりゃ、今ごろは食えば食えるのに」

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「あんときつきせえすりや今頃いまごへばへんのに」

と、彼はそのくせの舌を鳴らした。

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かれそのくせしたらした。

「おれは少しいまいましいから打っとばしてやったに」

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小忌々敷こえめえましいからばしてやつたに」

卯平はしばらく置いて、また少し声に力を入れて言った。

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卯平うへいしばらいてまたすここゑちかられていつた。

「そうかね。おれはそんなことは知らなかったっけが。そういうことは、いくら親しい近所だと言ったって、いちいち他人の飯だいまでふたを取っちゃ見られないから、おれも知らないでいたな。そんじゃそりゃまあ、味噌でも何でもそういうわけじゃ、こっちのおとっつあんの好きなようにつかせることにしてな。大豆はそれ、穫れたしするから、やるつもりにさえなれば訳のない話だな。そうして、こっちのおとっつあん、胸をなでなさい。おれは悪いことは言わないから。なあ、こっちのおとっつあん、あっちだこっちだやっちゃ、だれよりも子どもらがかわいそうだから。それに、どうせなら東の旦那らの耳へは入れたくないから、そうしなさいよなあ」

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「さうかね、らそんなこたらなかつたつけが、さうえこたいく懇意こんい近所きんじよだつちつたつて一々いち/\他人ひと飯臺はんだいまでふたとつちやられねえかららもらねえでたな、そんぢやそらまあ、味噌みそでもなんでもさうえ理由わけぢやこつちのおとつゝあんきなやうにかせることにしてな、大豆でえづはそれとつたしすつからつもりにせえなりやわけねえはなしだな、さうしてこつちのおとつゝあんむねでさつせえ、りいこたはねえから、なあこつちのおとつゝあん、そつちだこつちだやつちやだれよりも子奴等こめら可哀想かあいさうだから、それにおなじもんぢやひがし旦那等だんならみゝへはれたくねえから、さうしさつせえよなあ」

南の家の亭主はそう言って、心の中ではだんだんしりごみするのだった。

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みなみ亭主ていしゆはさういつてこゝろでは段々だん/\しりごみするのであつた。

卯平はふたたびきせるを口にして黙りこんだ。

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卯平うへいふたゝ煙管きせるくちにして沈默ちんもくした。

南の家の亭主は、勘次を卯平のせまい戸口へ連れて来た。

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みなみ亭主ていしゆ勘次かんじ卯平うへいせま戸口とぐちみちびいた。

勘次はふだんなら、自分の心からけっして形だけの仲直りを望まなかったはずである。

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勘次かんじ平常いつもならば自分じぶんこゝろからけつして形式的けいしきてき和睦わぼく希望きばうしなかつたはずである。

彼はにらみ合っているだけなら、長いあいだ慣れていた。

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かれ反目はんもくしてるだけならばひさしくれてた。

しかし彼は、これまでなかった卯平の行いに初めておそれを抱いたのだった。

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しかかれ從來じゆうらいかつてなかつた卯平うへい行爲かうゐはじめて恐怖心きようふしんいだいたのであつた。

「そんじゃね、おとっつあん、おたがいにこう根に持たないことにしてね。勘次さん、お前もいそがしくて手をつけないでいたかも知れないが、こうじも塩まで切ってあるというんだから、後は豆を煮るだけのことだし、味噌はつくことにしてな。こういいぐあいにしてくれなさいね。さっきも言うとおり、あっちだこっちだないようにしなくちゃね、こっちのおとっつあん」

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「そんぢやねえおとつゝあん、おたげえたねえことにしてね、勘次かんじさんおめえもいそがしくつててえつけねえでたかもんねえが、かうぢしほまでつてるつちんだから、あとまめるだけのことだし、味噌みそくことにしてな、うえゝ鹽梅あんべえにしてくれさつせえね、先刻さつきもいふとほりそつちだこつちだねえやうにしなくちやねえ、こつちのおとつゝあん」

南の家の亭主は二人を見くらべるようにして言った。

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みなみ亭主ていしゆ二人ふたり見較みくらべるやうにしていつた。

勘次は卯平の前へ出ては、ただ首をうなだれた。

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勘次かんじ卯平うへいまへてはたゞくびうなだれた。

卯平はじっと横を向いて、勘次をちらりとも見なかった。

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卯平うへい凝然ぢつよこいて勘次かんじをちらりともなかつた。

彼はこれまでとはようすがいくらかちがっていた。

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かれ從來これまでとは容子ようす幾分いくぶんちがつてた。

彼はそのくせの舌を鳴らしていたが

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かれくせしたらしてたが

「畜生め」

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畜生奴ちきしやうめ

と、ただ一言言った。

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たゞ一言ひとこといつた。

そしてまたしばらく間を置いて

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さうしてまたしばらあひだいて

「畜生と言われるのがくやしけりゃ、くやしいと言ってみたほうがいい。元はと言えば、お前が手出しをするのが悪いんだから」

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畜生ちきしやうつちはれんの口惜くやしけりや、口惜くやしいちつてはうがえゝ、原因もとはつちへば己奴うの手出てだしすんのがりいんだから」

と低く、しかもするどく彼はつぶやいて、すすきで裂いたように口をぎっと閉じてしまった。

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ひくしかするどかれつぶやいて、すゝきいたやうにくちをぎつとぢてしまつた。

勘次は刈られた草のようにしょんぼりとした。

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勘次かんじられたくさごと悄然せうぜんとした。

「こっちのおとっつあん、そんじゃ仕方がないよ。さっきもおれがそっちから承知してくれと固く言ったんだったな。そんじゃおれも困るから、そこはおたがいにこう、何も言わないことにしてやってくれなくちゃなあ」

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「こつちのおとつゝあん、そんぢややうねえよ、先刻さつきれそつから不承ふしようしてくろうつてかたしくつたんだつけな、そんぢやれもこまつから其處そこはおたげえにかうものはねえことにしてやつてくんなくつちやなあ」

と南の家の亭主は、いったん橋わたしをすれば後はどうなろうとも、それはまたそのときだという気持ちから、そこはいいかげんにつくろって逃げるように帰った。

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みなみ亭主ていしゆは一たん橋渡はしわたしをすればあとふたゝびどうならうともそれはまたときだといふこゝろから其處そこ加減かげんつくろうてにげるやうにかへつた。

彼はどちらからもたのまれた仲直りの世話人ではなかった。

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かれはどちらからも依頼いらいされた仲裁人ちうさいにんではなかつた。

彼らは次第に家族のあいだの、ことに夫婦の争いに深入りして、かえって両方からうらまれるような損な立場になった経験があるので、こわれた茶わんをそっと合わせるだけの手間で、うまく身を引く方法と機会を知っていた。

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彼等かれら漸次しば/\家族かぞくあひだこと夫婦ふうふあらそひに深入ふかいりしてかへつ雙方さうはうからうらまれるやうなそん立場たちばはまつた經驗けいけんがあるので、こはれた茶碗ちやわんをそつとあはせるだけの手數てすうたくみ方法はうはふ機會きくわいとをつてた。

夕暮れが彼にその機会を与えた。

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黄昏たそがれかれ機會きくわいあたへた。

勘次は自分の軽いきずを、たとえ表面だけでもいいから思い切って重く見て、そして彼に同情の言葉をおしまない人を求めたが、彼には少しでもそのいきさつを聞いてくれる人は、医者と南の家の亭主のほかにはいなかった。

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勘次かんじかれ輕微けいび瘡痍きず假令たとひ表面へうめんだけでもいからおもつておもてさうしてかれ同情どうじやう言葉ことばをしまないものをもとめたが、かれには些少すこしでもその顛末てんまついてくれべきものは醫者いしやみなみ亭主ていしゆとよりほかはなかつた。

しかしあまりによくきずそのものを見分けた医者は、彼にそのはかない心をうったえるゆとりを与えずに、彼を頭からおさえつけるようにからかった。

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しかあまりに瘡痍きずそのもの性質せいしつ識別しきべつした醫者いしやは、かれその果敢はかないこゝろうつたへる餘裕よゆうあたへずにかれあたまからおさへやう揶揄からかうた。

彼はそこで何も得られないで、逃げるように珊瑚樹の木かげを出た。

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かれ其處そこ何物なにものをもないでにげるやうに珊瑚樹さんごじゆ木蔭こかげた。

南の家の亭主も、わざわざ彼に同情してなぐさめの言葉をおしまないほど心が動かされなかったばかりか、彼はむしろ仲直りの世話人にならなければならないことにいくらかめいわくを感じた。

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みなみ亭主ていしゆ殊更ことさらかれ同情どうじやうして慰藉ゐしや言辭ことばをしまぬほどそのこゝろうごかされなかつたのみでなく、かれむし仲裁者ちうさいしや地位ちゐたねばらぬことに幾分いくぶん迷惑めいわくかんじた。

勘次はけっして仲直りの世話をたのまなかった。

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勘次かんじけつして仲裁ちうさい依頼いらいしなかつた。

彼はただ、自分の調子に乗って話をしてくれることに満足を求めようとしただけだった。

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かれたゞ自分じぶん調子てうしつてはなしをしてくれることに滿足まんぞくもとめようとしたのみであつた。

しかしそれはすべてむだだった。

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しかしそれはこと/″\徒勞むだであつた。

勘次ははずかしさとこわさといらだちをわかせたが、それでも気の弱い彼は、それをひがんだ目に表して、会う人ごとに同情してくれと求めているように見えるだけだった。

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勘次かんじ羞恥しうち恐怖きようふ憤懣ふんまんとのじやうわかしたがそれでも薄弱はくじやくかれは、それをひがんだ表現へうげんしてひとごと同情どうじやうしてくれとふるがごとえるのみであつた。

百姓はみな、彼の心を読み取るほどするどい目を持っていなかった。

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百姓ひやくしやうすべてはかれこゝろ推測すゐそくするほど鋭敏えいびんつてなかつた。

彼はやけになってわざとほうたいの手をかかえて、数日間ぶらぶらと遊んでいた。

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かれ自棄やけわざ繃帶ほうたいいて數日間すうじつかんぶら/\とあそんでた。

いそがしい麦まきの季節がせまって、百姓はみな畑へ出ているので、昼間は彼の相手になる人がいなかったばかりか、今に働かずにはいられないからと、かげで冷たく笑っているのだった。

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いそがしい麥蒔むぎまき季節きせつせまつて百姓ひやくしやうこと/″\はたけるので晝間ひるまかれ相手あひてになるものがなかつたのみでなく、いまはたらかずにはられぬからとかげ冷笑れいせうびせてるのであつた。

この季節をむだに過ごすことが一日でもとても大きな損だという、分かりやすい計算に、彼はとうとう負けて、また一所けんめいに働き出した。

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季節きせつむねしくつひやすことが一にちでも非常ひじやう損失そんしつであるといふ見易みやす利害りがい打算ださんからかれ到頭たうとうまかされてまた所懸命しよけんめい勞働らうどう從事じうじした。

彼はもう卯平と一言も口をきかなくなった。

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かれはもう卯平うへい一言ひとことくちかなくなつた。

無口でむっつりとした卯平は、もちろん勘次を見ようともしなかった。

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寡言むくちなむつゝりとした卯平うへいもとより勘次かんじかへりみようともしなかつた。

おつぎはそれを心に苦しんで見ていたが、それはとても手の届かないことだった。

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おつぎはそれをこゝろくるしんでたがそれは到底たうていおよばぬことであつた。

村の中には、卯平とのぶつかり合いがぱっとまた広まった。

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村落むらうちには卯平うへいとの衝突しようとつがぱつとまた傳播でんぱされた。

しかしそれは、分別のある大人のあいだでだけ受け止められ、おぼえられた。

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しかしそれは分別ふんべつある壯年さうねんあひだにのみ解釋かいしやく記憶きおくされた。

そのできごとの中身は、勘次のおつぎに対する行いをうたがいとねたみの目で想像するようには、興味を彼らに与えなかった。

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事件じけん内容ないよう勘次かんじのおつぎにたいする行爲かうゐ猜忌さいぎ嫉妬しつととのもつ臆測おくそくたくましくするやうに興味きようみ彼等かれらあたへなかつた。

だれも自分から二人のあいだに口出ししようとはしない。

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だれ自分じぶんから彼等かれらあひだくちばしれようとはしない。

ずっと前からもつれてきたたがいの気持ちに根ざしたできごとが、どんなに小さなことであろうとも、けっして気持ちよく解決するはずがないことを知っている人々は、いくら物を知らなくても自分から進んでそのむずかしい役を引き受けようとはしないのだった。

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とほ以前いぜんから紛糾こゞらけてたがひ感情かんじやうざした事件じけんがどんな些少させうなことであらうとも、けつしてこゝろよく解決かいけつされるはずでないことをつて人々ひとびといくおろかでもみづかこのんで難局なんきよくあたらうとはしないのであつた。

二二

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二二

夜明けの光はまだ行きわたらない。

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拂曉よあけひかりはまだわたらぬ。

うすいふとんにくるまっている百姓たちのはだには寒さがしみじみと通って、ねむっていながら、みんなあごをおおうまで無意識にふとんのはしを引いて、もじもじと動くころだった。

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うす蒲團ふとんにくるまつて百姓等ひやくしやうら肌膚はだには寒冷かんれいがしみ/″\ととほつて、睡眠ねむりちてながら、すべてがあごおほふまでは無意識むいしき蒲團ふとんはしいてもぢ/\とうごころであつた。

かんかんとこおって鳴るかねの音が、しずんだ村の空気にひびきわたった。

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かん/\とこほつてかねしづんだ村落むら空氣くうきひゞわたつた。

希望と楽しみにさそわれて待っていた年寄りたちはみな、その左の手に提げてしゅもくでたたいているかねのひびきを、おくれるな急げ急げと耳に聞いた。

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希望きばう娯樂ごらくとにそゝのかされてつて老人等としよりら悉皆みんなひだりげて撞木しゆもくたゝいてかねひびきおくれるないそげ/\とみゝいた。

年寄りはどの家からもいっせいに念仏寮を目指して集まった。

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老人としより何處どこうちからも一もい念佛寮ねんぶつれうしてあつまつた。

彼らはみな、まだぐっすりねむっている家族にはそっとしたくをして、動けないほどどてらを重ねてだらしなくひもをしめて、表の戸を開けるとひやりとする明け方近い外の空気に白い息をふきながら、大きなかたまりがころがって行くようにその体を運んだ。

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彼等かれらいづれも、まだぐつすりとねむつて家族かぞくものにはそつ支度したくをして、うごけぬほど褞袍どてらかさねて節制だらしなくひもめて、おもてけるとひやりとするあけちか外氣ぐわいきしろいききながら、おほきなかたまりころがつてくやうに姿すがたはこんだ。

彼らは外のかべぎわからしばを一たば持って行く者もあった。

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彼等かれらそと壁際かべぎはから麁朶そだの一つてものつた。

旧れきの二月の半ばになると、いつもの年のように念仏の集まりがあるのである。

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舊暦きうれきの二ぐわつなかばると例年れいねんごと念佛ねんぶつあつまりがるのである。

彼らはそれが太陽への感しゃを意味しているので、お天念仏と言っている。

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彼等かれらはそれが日輪にちりんたいする報謝はうしや意味いみしてるのでお天念佛てんねんぶつというてる。

彼らの口から、そして村じゅうでなまって「おで念仏」

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彼等かれらくちからさうして村落むらの一ぱんからなまつて「おで念佛ねんぶつ

と呼ばれた。

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ばれた。

先ぶれの光がそれぞれの顔をほの明るくして、日が地平線の上にその形の一部を出そうとする時間を外さずに、彼らはそろって念仏を唱えるはずなので、まだみんなが夜のねむりからさめないうちに、みなことごとく口をすすいで待っていなければならないのである。

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先驅さきがけひかり各自てんでかほ微明ほのあかるくして地平線上ちへいせんじやう輪郭りんくわくの一たんあらはさうとする時間じかんあやまらずに彼等かれらそろつて念佛ねんぶつとなへるはずなので、まだすべてがねむりからはなれぬうち皆悉みんなくちすゝいでつてねばならぬのである。

念仏の仲間のうちで、選ばれて法願と呼ばれている二人ばかりのおじいさんが、むずかしくもない世話をあれこれした。

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念佛衆ねんぶつしううちにはえらばれて法願ほふぐわんばれて二人ふたりばかりのぢいさんが、むづかしくもない萬事ばんじ世話せわをした。

法願はこおりそうな手にかねを提げて、ちらほらと大きなかたまりのようなすがたが動いて来るまでは、力のかぎり辻に立ってかんかんとたたくのである。

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法願ほうぐわんこほさうかねげてちらほらとおほきかたまりのやうな姿すがたうごいてるまではちからかぎつじつてかん/\とたゝくのである。

念仏寮の雨戸はがらんと開け放たれて、ことさら身にしみる寒さに、いろりにはしばの火がほのおを立てた。

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念佛寮ねんぶつれう雨戸あまど空洞からりはなたれて、殊更ことさらさむさに圍爐裏ゐろりには麁朶そだほのほてた。

つるのあるすすけた鉄びんが自在かぎから低くたれて、ほのおをしりでおさえた。

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つるのあるすゝけた鐵瓶てつびん自在鍵じざいかぎからひくれてほのほしりおさへた。

ぐるりとかこんだ年寄りの不格好なすがたを、火ははっきりと見せた。

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ぐるりとかこんだ老人としより不恰好ぶかくかう姿すがた明瞭はつきりせた。

やがて二番どりが遠く近く鳴いて、時間が来た。

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やがて二ばんどりとほちかいて時間じかんた。

法願はしきいのそばに太鼓を置いて、その後ろへだんだんとみんながすわって、いっせいに声を合わせた。

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法願ほふぐわんしきゐそば太鼓たいこゑて、うしろ段々だん/\と一どうすわつて一せいこゑあはせた。

横に置いた太鼓を、両手に持った二本のばちが両方から交互に打って、のんびりとしたにぶいひびきを立てた。

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よこゑた太鼓たいこ兩手りやうてつた二ほんばち兩方りやうはうから交互かうごつて悠長いうちやうにぶひゞきてた。

ばちに合わせるみんなの声は、しなびてやせた喉から出るにごった声だった。

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ばちあはせる一どうこゑしなびてせたのどからにごつたこゑであつた。

ばらばらなその声が、波のようにしずんでまた起こった。

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雜然ざつぜんたるこゑなみごとしづんでおこつた。

太鼓のばちは強く打ち軽く打ち、さらに赤くぬったどうをそっと打って、そしてまただらりだらりと強く軽く打つことをくり返した。

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太鼓たいこばちつよかるち、さらあかつたどうをそつとつて、さうしてまただらり/\とつよかるつことを反覆はんぷくした。

念仏が終わるまでには、だんだんと遠い近い木立の形がくっきりとして、青いみかんの皮が日に当たった所から少しずつ色づいて行くように、東の空がうすく黄色に染まって、だんだんそれが濃くなって、そして寒さの中にもほっかりと暖かみを持ったように明るくなった。

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念佛ねんぶつをはるまでには段々だん/\とほちか木立こだち輪郭りんくわくがくつきりとしてあを蜜柑みかんかはあたつた部分ぶぶんからすこしづゝいろどられてくやうにひがしそらうす黄色きいろそまつて段々だん/\にそれがつて、さうして寒冷ひやゝかなうちにもほつかりと暖味あたゝかみつたやうにあかるくつた。

念仏のにごった声も明るくひびいた。

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念佛ねんぶつにごつたこゑあかるくひゞいた。

地面をおおった霜がめっきり白く見えて、寮の庭に立てられた天だなのかざりの赤や青の紙がはっきりして来た。

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地上ちじやうおほうたしも滅切めつきりしろえてれうにはてられた天棚てんだな粧飾かざりあかあをかみ明瞭はつきりとしてた。

真ん中に一本の青竹が立てられて、その先は青と赤と黄を重ねた色紙で包んである。

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中心ちうしんに一ぽん青竹あをだけてられて先端せんたんあをあかとのかさねた色紙いろがみつゝんである。

そのまわりには、これも四本の青竹が立てられて、それには縄が張ってある。

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周圍しうゐにはれも四ほん青竹あをだけてられてそれにはなはつてある。

縄にはしめ縄のようにきざんだ、その赤や青や黄の紙がいっぱいにひらひらとつるされてある。

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なはには注連しめのやうにきざんだあかあをかみが一ぱいにひら/\とられてある。

彼らは昨日のうちにすべてのかざりをして、にわとりが鳴くのを待ったのである。

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彼等かれら昨日きのふうちに一さい粧飾かざりをしてにはとりくのをつたのである。

その天だなは、むかしはりっぱな木の柱を、ちょうど小さな家の骨組みでも建てたような形に組んだのだった。

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その天棚てんだな以前もと立派りつぱはしら丁度ちやうどちひさないへ棟上むねあげでもしたやうなかたちまれたのであつた。

今ではそれがなくなったというのは、一度この土地をおそった暴風のために、厚い草ぶきの念仏寮がごしゃりとつぶされた。

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現今いまではそれがつたといふのは、一おそうた暴風ばうふうために、あつ草葺くさぶき念佛寮ねんぶつれうはごつしやりとつぶされた。

そのときはたくさんの家がひどい被害を受けて、村じゅうが自分の暮らしをしのぐのがやっとだったので、ほとんど役に立たない寮を建て直すことを気にかける者はなかった。

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とき幾多いくた民家みんか猶且やつぱり非常ひじやう慘害さんがいかうむつて、村落むらすべては自分じぶんしのぎがやつとのことであつたので、ほとんど無用むようであるれう再建さいこんかへりみるものはなかつた。

そうしているあいだに、他人の林になたを入れなければたきぎが手に入らない貧しい百姓たちが、こそこそと寮の木材を持ち出した。

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さういふあひだ他人たにんはやしなたれねばたきゞられぬ貧乏びんばふ百姓等ひやくしやうらがこそ/\とれう木材もくざいいた。

やっとのことで今の寮が前の何分の一かの大きさに建て直されるまでには、そのたなもむごいのこぎりの歯にかかっていたのである。

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やつとのことで現今いまれう以前いぜん幾分いくぶんの一のおほきさに再建さいこんされるまでにはたな無残むざんのこぎりかゝつてたのである。

それでも、年寄りたちは念仏が復活したことに十分な感しゃと満足を持った。

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それでも、老人等としよりら念佛ねんぶつ復活ふくくわつしたことに十ぶん感謝かんしや滿足まんぞくとをつた。

彼らはそこに、年を取ってからの何よりの楽しみとなぐさめを見つけているのである。

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彼等かれらはそこに老後らうごける無上むじやう娯樂ごらく慰藉ゐしやとを發見はつけんしつゝあるのである。

太鼓がばちとともにぽつりと置かれて、みんなすっかり窮くつないろりのまわりに集まった。

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太鼓たいこばちともにぽつさりとかれて悉皆みんな窮屈きうくつ圍爐裏ゐろりあたりあつまつた。

寮の中も明るくなって、立ちのぼるほのおの光がやや消されて来た。

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れううちあかるくつてのぼほのほひかりやゝされてた。

近所の百姓が雨戸を開ける音が、せっかちにがたぴしと聞こえた。

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近所きんじよ百姓ひやくしやう雨戸あまどけるおと性急せいきふにがたぴしときこえた。

庭へ下りたにわとりが、あくびでもするように体をそらしながら、うっかりしていてまだ鳴き足りなかったというようすで、喉が痛いほど鳴くのが聞こえた。

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にはへおりたにはとり欠伸あくびでもするやうに身體からだらしながら、放心うつかりしててまだらなかつたといふ容子ようすをしてのどいたほどくのがきこえた。

どの家にも、青いけむりがのきをはってのぼった。

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何處どこいへにもあをけぶりひさしうてのぼつた。

年寄りたちはひとまず自分の家に帰った。

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老人等としよりら一先ひとまづ自分じぶんいへかへつた。

卯平も、となりの森のかげがいっぱいにおおっているせまい庭に立ったときには、勘次はおつぎを連れて開こん地へ出た後だった。

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卯平うへいとなりもり陰翳かげが一ぱいおほうてせまにはつたときは、勘次かんじはおつぎをれて開墾地かいこんちあとであつた。

卯平は庭に立ったまま、空っぽになって、そして雨戸が閉ざしてある勘次の家をじっと見た。

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卯平うへいにはつたまゝ空虚からになつてさうして雨戸あまどとざしてある勘次かんじいへ凝然ぢつた。

家はやつれている。

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いへやつれてる。

しかしながら、たとえどうであっても話し声が聞こえて青いけむりが立っていれば、わずかでも血がめぐっているもののように生きて見えるのだが、しんと静まって人の気配がなくなったときは、荒れつつあるその建物のどこにも命が保たれているとは見えないほど悲しげだった。

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しかしながら假令たとひどうでも噺聲はなしごゑきこえてあをけぶりつてれば、わづかでも循環めぐつてるものゝやうにきてえるのであるが、靜寂ひつそり人氣ひとけのなくなつたとき頽廢たいはいしつゝあるその建物たてもの何處どこにも生命いのちたもたれてるとはられぬほどかなしげであつた。

卯平がうす暗い庭の霜に下駄のあとをつけて出てから間もなく、勘次はふとんをけってかまどに火をつけた。

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卯平うへい薄闇うすぐらにはしも下駄げたあとをつけててからもなく勘次かんじしとねつてかまどつけた。

それからおつぎが朝ごはんのおぜんを置くまでには、勘次はきりりと仕事着に着がえて、寒さに少しふるえていた。

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それからおつぎが朝餐あさげぜんゑるまでには勘次かんじはきりゝと仕事衣しごとぎかへさむさにすこふるへてた。

おつぎもはしを取るときは、股引のはしを藁でくくっておいた。

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おつぎもはしとき股引もゝひきはしわらくゝつていた。

勘次は、開こんの土地が年々遠くへ進んで行って、今では例年の広さでは広すぎることに気づいたので、彼は少しの油断もできなくなった。

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勘次かんじ開墾かいこん土地とち年々ねんねんとほくへすゝんでつて、現在いまでは例年いつも面積めんせきでは廣過ひろすぎたことをこゝろづいたので、かれすこしの油斷ゆだん出來できなくなつた。

彼は毎日のようにおつぎを連れて、くわで切り起こした土のかたまりを万能ぐわの背でたたいてはくずし、平らにならさせていたのである。

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かれ毎日まいにちのやうにおつぎをつれて、唐鍬たうぐはおこしたつちかたまり萬能まんのうたゝいてはほぐして平坦たひらにならさせつゝあつたのである。

卯平はまず勘次の戸口に近づいた。

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卯平うへい勘次かんじ戸口とぐちちかづいた。

表の大戸にはじょうが下ろしてあった。

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おもて大戸おほどにはぢやうがおろしてあつた。

かぎはもちろん勘次の腰をはなれないことを知って、卯平は手もかけてみなかった。

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かぎもとより勘次かんじこしはなれないことをつて卯平うへいけてなかつた。

彼はまた裏の戸口へ行ってみたが、かけ金には栓がしてあると見えて動かなかった。

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かれまた裏戸うらどくちつてたが、掛金かけがねにはせんしたとえてうごかなかつた。

卯平はそれからふところ手をしたまま、そのくせの舌を鳴らしながら、のんびりと自分のせまい戸口に立った。

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卯平うへいはそれから懷手ふところでをしたまゝくせしたらしながら悠長いうちやう自分じぶんせま戸口とぐちつた。

中はただ暗く、出るときにはしをめくったふとんも冷たくなっていた。

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うちたゞ陰氣いんきときはしまくつた夜具やぐつめたくつてた。

彼はやっと火ばちにしばをくすべた。

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かれやうや火鉢ひばち麁朶そだくべた。

彼はそばに重箱と小なべが置いてあるのを見た。

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かれそば重箱ぢゆうばこ小鍋こなべとがかれてあるのをた。

ふたを取ったら、重箱にはごはんがあった。

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ふたをとつたら重箱ぢゆうばこにはめしがあつた。

ふたの裏は少ししめっていた。

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ふたうらにはすこうるほひをつてた。

その朝、おつぎは知らずに呼んだのだが、卯平はいなかった。

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あさおつぎはらずにんだのであつたが、卯平うへいなかつた。

それでおつぎは出るとき、ごはんとしるを卯平の小屋へ置いて行ったのである。

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それでおつぎはときめししるとを卯平うへい小屋こやいてつたのである。

卯平はともかく、おつぎに呼ばれて毎朝暖かいごはんと熱いしるでおなかを満たしていたのである。

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卯平うへいかくおつぎにばれて毎朝まいあさあたゝかいめしあつしるとにはらこしらへつゝあつたのである。

彼はその朝はどてらを着ても、夜がまだ明けないうちからのさわぎなので、体が冷えていた。

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かれあさ褞袍どてらてものまだけないうちからのさわぎなので身體からだえてた。

それで彼は、家に帰ればしるはどうでも、飯だいの中はまだ十分に暖かいだろうという望みを持って、戸が開かないことにまでは思いつかなかった。

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それかれうちかへつたならばしるはどうでも、飯臺はんだいなかはまだ十ぶん暖氣だんきたもつてるだらうといふ希望きばういだいて、かないことにまではおもいたらなかつた。

重箱はもう冷えてしまった。

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重箱ぢゆうばこはもうえてしまつた。

彼は仕方なしに小なべを火ばちにかけた。

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かれ仕方しかたなしに小鍋こなべ火鉢ひばちけた。

彼はかすかに白いゆげがなべから立ちはじめたとき、おたまでかき混ぜて吸ってみたが、それでも冷たかった。

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かれかすかにしろ水蒸氣ゆげなべからはじめたとき玉杓子たまじやくしてゝつてたが猶且やつぱりつめたかつた。

彼はまた火ばちにしばを足して、重箱のごはんをなべへ入れた。

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かれ火鉢ひばち麁朶そだして重箱ぢゆうばこめしなべれた。

火ばちのわりには大きななべにほおがふれるほどにして、ふうふうと火をふいた。

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火鉢ひばち割合わりあひにはおほきななべほゝさはるばかりにしてふう/\といた。

なべがぐずぐずとにごった音を立てているあいだ、彼はしなびた大きな手を火にかざしながら、目をしかめていた。

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なべのぐず/\とにごつたこゑてゝあひだかれしなびたおほきなかざしながらしかめてた。

彼はじっと遠くへ自分の心を放したようにぼうっとしていては、また思い出したようにしばをぽちぽちと折ってくべた。

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かれ凝然ぢつとほくへ自分じぶんこゝろはなつたやうにぽうつとしててはまたおもしたやうに麁朶そだをぽち/\とつてべた。

彼は例年になく体のやつれが見えた。

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かれ例年いつになく身體からだやつれがえた。

かさかさとかわいたはだが、年老いた人に共通のあわれさを見せているばかりでなく、その大きな体は肉が落ちてげっそりと肩がこけた。

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かさ/\と乾燥かんさうした肌膚はだへが一ぱん老衰者らうすゐしや通有つういうあはれさをせてるばかりでなく、そのおほきな身體からだにくおちてげつそりとかたがこけた。

彼は体のやつれを自分でも分かっていた。

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かれ身體からだやつれを自分じぶんでもつた。

彼はこの一年のあいだに、持病のリューマチがしつこく骨のどこかをむしばんでいるように感じた。

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かれこのねんあひだ持病ぢびやう僂麻質斯レウマチス執念しふねほね何處どこかをみつゝあるやうにかんじた。

暑い季節になれば必ず勢いをひそめる持病が、彼を忘れて去ることはなかった。

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あつ季節きせつになればかならいきほひをひそめた持病ぢびやうかれわすれてらなかつた。

なべの中は少しぷんとこげつくにおいがした。

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なべなかすこしぷんとこげつくにほひがした。

彼はおたまでかき混ぜた。

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かれはお玉杓子たまじやくしてた。

なべの底は手を動かすたびに、じりじりと鳴った。

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なべそこうごかすごとにぢり/\とつた。

彼はわずかに、熱い雑炊が喉を通って胃に落ち着くとき、ほかりと感じた。

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かれわづかあつ雜炊ざふすゐ食道しよくだう通過つうくわしてちつくときほかりとかんじた。

そしてはしを置いた後、やっと体に気持ちのいい暖かさが加わったことを知った。

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さうしてはしいたのちやうや身體からだこゝろよい暖氣だんきくははつたことをつた。

少しの水を注いだ鉄びんがわくのを、彼はまたじっと待った。

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少量せうりやうみづつい鐵瓶てつびんくのをかれまた凝然ぢつとしてつた。

彼はさっきから、どうかすると手元をさぐるようにしてたばこ入れをひざに乗せた。

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かれ先刻さつきからどうかするともとをさぐるやうにして煙草入たばこいれひざにした。

たばこ入れは空だった。

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煙草入たばこいれ虚空からであつた。

彼は自分の体力がめっきりおとろえて、仕事をするのに手が利かなくなって、こづかいが足りないと感じたとき、やけになった心から、思い切ってそのかむほど好きなたばこをやめようとした。

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かれ自分じぶん體力たいりよく滅切めつきりへつ仕事しごとをするのにかなくなつて、小遣錢こづかひせん不足ふそくかんじたとき自棄やけつたこゝろから斷然だんぜんそのほどすき煙草たばこさうとした。

彼はみじめな自分を自分で苛めてやるような気持ちを、一方には持った。

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かれ悲慘みじめ自分じぶん自分じぶんいぢめてやるやうな心持こゝろもちを一ぱうにはつた。

一方ではまた、物を知らない彼らの仲間がよくするように、彼は持病が治るように仏さまに祈ったのでもあった。

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ぱうにはまた無智むち彼等かれら伴侶なかまくするやうにかれ持病ぢびやう平癒へいゆほとけいのつたのでもあつた。

それが明日からという日に、彼はその残ったたばこをほとんど一日吸いつづけた。

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それが明日あすからといふかれそののこつた煙草たばこほとんど一にちつゞけた。

たばこ入れのふくろをさかさまにして、つま先でぱたぱたとはじいて、少しの粉さえ残さなかった。

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煙草入たばこいれかますさかさにして爪先つまさきでぱた/\とはじいてすこしのでさへあまさなかつた。

その後、手についたくせが何かにつけてきせるをつかませるので、やめたことを彼は心の中で後かいすることもあった。

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そののちについたくせなにかにつけては煙管きせるつかませるので、めたことをかれこゝろいることもあつた。

しかし彼はまたすぐに、仏さまへのちかいをやぶることをとてもおそれた。

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しかかれまたすぐほとけたいしての誓約せいやくやぶることに非常ひじやう恐怖きようふいだいた。

彼はどうしてもあきらめなければならない心の苦しさをまぎらすために、ふきの葉や桑の葉をほしてきせるの火皿につめてみたが、どれもたばこのようにしっとりしたうるおいが火の勢いをおさえる力はなくて、一度吸えばすぐ灰になって、ヤニでふさがりかけたきせるの穴を通してけむりが口に満ちるときは、つんとしたいやなしげきを鼻に感じるのだった。

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かれはどうしても斷念だんねんせねばならぬこゝろくるしみをまぎらすためふきくはして煙管きせる火皿ひざらにつめてたが、どれでも煙草たばこのやうにしつとりとした一しゆうるほひがあし引止ひきとめるやうなちからはなくて一へばすぐはひになつて、煙脂やにふさがらうとして羅宇らう空隙くうげきとほしてけぶりくち滿ちるときはつんとしたいや刺戟しげきはなかんずるのであつた。

ぶどうの葉を他人にすすめられてみたが、これもとても彼の好みをごまかすことはできなかった。

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葡萄ぶだう他人ひとすゝめられてたが、れも到底たうていかれ嗜好しかうあざむくことは出來できなかつた。

彼はきせるを手にすることが欲を忘れられる方法でないことを知って、彼はちょうど他人へのいらだちから、当てつけに自分のかわいい子をひどくたたく人のように、きせるの管をふみつぶした。

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かれ煙管きせるにすることが慾念よくねんわす方法はうはふでないことをつて、かれ丁度ちやうど他人たにんたいするある憤懣ふんまんじやうからてつけに自分じぶん愛兒あいじしたゝかにゑるもののやうに羅宇らうつぶした。

しかしそれをだれも見てはいなかった。

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しかしそれをたれてはなかつた。

それでも彼は、空っぽのたばこ入れを手放すのがしのびない気持ちがした。

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それでもかれ空虚から煙草入たばこいれはなすにしのびない心持こゝろもちがした。

彼はわずかなこづかいを入れて、いつも腰につけた。

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かれわづか小遣錢こづかひせんれて始終しじうこしにつけた。

これも空っぽになってくたくたと力のない革のつつには、つぶれたままのきせるをさしていた。

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れも空虚からつてはくた/\としてちからのないかはつゝにはつぶれたまゝ煙管きせるしてた。

彼はしばらくそうしていたが、どうかすると忘れて、くせのついた手先が要らないたばこ入れをさぐらせるのだった。

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かれしばらくさうしてたがどうかしてはわすれてくせづけられた手先てさき不用ふよう煙草入たばこいれさぐらせるのであつた。

日はやっと庭の霜をとかしてさしかけた。

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やうやにはしもとかしてけた。

彼は不快な朝に目をしかめて、またぽつねんと念仏寮へやつれた体を運んだ。

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かれ不快ふくわいあさしかめたたぽつさりと念佛寮ねんぶつれうやつれたはこんだ。

彼は田んぼのそばへ下りて細い道を行った。

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かれ田圃たんぼそばへおりて小徑こみちつた。

道すじにはところどころ、はなればなれの家のすきまに小さな麦畑があった。

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道筋みちすぢには處々ところ/″\はなばなれないへ隙間すきまちひさな麥畑むぎばたけがあつた。

麦畑のうねは、たいてい東西に作られていた。

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麥畑むぎばたけうね大抵たいてい東西とうざいかたちづけられてあつた。

遠くから南へ回ろうとしている日は、思いのほか暖かい光で一面の霜をとかしたので、どこでも水をまいたようにしめっていた。

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とほくからみなみまはらうとしておもひのほかあたゝかいひかりで一たいしもかしたので、何處どこでもみづつたやうなうるほひをつてた。

しかしうすい日の光は、畑のうねが作っている長い小山の頂上をこえて、いくらもその力を届かせなかった。

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しかうすひかりはたけうねかたちづくつてなが小山こやま頂點ちやうてんえていくらもちからおよぼさなかつた。

どのうねでも、そのかげはあいかわらず白かった。

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どのうねでもそのかげ依然いぜんとしてしろかつた。

卯平は田んぼに沿って北側の道を歩いたので、彼の目にはみな夜明けのような白い冷たい霜でおおわれている畑ばかりが映った。

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卯平うへい田圃たんぼいて北側きたがはみちあるいたのでかれにはこと/″\夜明よあけごとしろつめたいしももつおほはれてはたけのみがうつつた。

昼過ぎから村のどの家からも、風呂しき包みの飯つぎや重箱が寮へ運ばれた。

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午後ごごから村落むらのどのいへからも風呂敷包ふろしきづゝみめしつぎや重箱ぢゆうばこれうはこばれた。

年寄りたちはみなそれを、ほこりだらけの仏だんの前に供えた。

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老人等としよりらみなそれほこりだらけな佛壇ぶつだんまへそなへた。

汚い風呂しき包みが小山のように積まれたとき、念仏の太鼓がまた鳴った。

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きたな風呂敷包ふろしきづゝみ小山こやまごとまれたとき念佛ねんぶつ太鼓たいこまたつた。

それから庭に集まった子どもたちの前に、その飯つぎや重箱の供え物が分け与えられた。

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それからにはあつまつた子供等こどもらまへめしつぎや重箱ぢゆうばこ供物くもつ分與ぶんよされた。

念仏の人たちはそれからさらにお酒を飲んで、それぞれ重箱や飯つぎをはしでつついて、近ごろにないほど食べたい気持ちを満たした。

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念佛衆ねんぶつしゆうはそれからさらさけんで各自てんで重箱ぢゆうばこめしつぎをはしでつゝいて近頃ちかごろにない口腹こうふくよくたしめた。

卯平だけは杯を手にしなかった。

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ひとり卯平うへいさかづきにしなかつた。

彼はほかの年寄りより先に、自分の家の重箱を持ってぽさぽさと帰った。

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かれ老人としより先立さきだつて自分じぶんうち重箱ぢゆうばこつてぽさ/\とかへつた。

たいていの家では米のひし餅を出すのがならわしだが、勘次にはそんなひまがないので、おつぎはわずかに小豆ごはんをたいて重箱を持って行ったのだった。

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大抵たいていうちではこめ菱餅ひしもちすのが常例じやうれいであるが勘次かんじにはさういふひまがないのでおつぎはわづか小豆飯あづきめしたい重箱ぢゆうばこもつつたのであつた。

年寄りみんながほとんど気がふれたようにさわぐ二日のその一日が、卯平には不快で、そして意味なく過ぎた。

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すべての老人としよりほとんきやうするばかりにさわ二日ふつかそのにち卯平うへいには不快ふくわいでさうして無意味むいみつひやされた。

彼は夜になってから

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かれになつてから

「爺さん、今朝のごはんは冷たくなったっけろう。おれが忘れて呼びに行ったのがよ。そうしたら爺さんはとっくにいなかったんだもの。そんでもさっきはがやがや大ぜいいるようだったっけが、あっちじゃ甘い物があって、爺さんらはおかわりしたんだろうなあ」

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ぢい今朝けさのおまんまつめたくつたつけべわすれてばりにつたのがよ、さうしたらぢいとつくねえのがんだもの、そんでも先刻さつきはがや/\一ぺえるやうだつけがあつちぢやうめものあつて爺等ぢいらとつけえしとつたんべなあ」

と、おつぎが少し甘えたように言ったことを、彼はさすがににくいとは思わずに聞いた。

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とおつぎがすこあまえたやうにいつたことをかれ有繋さすがにくいとおもつてはかなかつた。

二三

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二三

念仏は次の日も同じようにくり返された。

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念佛ねんぶつつぎ同一どういつ反覆はんぷくされた。

昼過ぎになって、村のどの家からもまた風呂しき包みが運ばれた。

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午後ごごになつて村落むらのどのいへからも風呂敷包ふろしきづゝみはこばれた。

子どもたちは学校から帰って、風呂しき包みを背負ったのも、赤んぼうを帯でくくったのも、たいてい寮の庭へ集まった。

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子供等こどもら學校がくかうからかへつて風呂數包ふろしきづゝみ脊負しよつたのも、乳呑兒ちのみごおびくゝつたのも大抵たいていれうにはあつまつた。

「さあ、そんじゃまた、みんな上がれ」

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「さあそんぢやまた、みんなあがれ」

とおばあさんたちが言うと、しきいのそばにせまって待っていた子どもたちは争って席を取った。

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ばあさんがいふと閾際しきゐぎはせまつてつて子供等こどもらあらそうてせきをとつた。

彼らは今日もせまい寮の中にぎっしりとひざをすぼめてすわった。

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彼等かれら今日けふせまれう内側うちがはにぎつしりとひざすぼめてすわつた。

四、五人のおばあさんたちは、仏だんの前に積まれてあった風呂しき包みを解きながら、ひそひそとささやいた。

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四五にんばあさん佛壇ぶつだんまへまれてあつた風呂敷包ふろしきづゝみきながらひそ/″\と耳語さゝやいた。

「これは何だと思ったら、すしだよ」

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りやなんだとおもつたら、すしだよ」

と一人のおばあさんが言えば

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一人ひとりばあさんがいへば

「そんじゃ、そっちへ別にしておけよ、お前」

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「そんぢや、そつちへべつにしてけよおめえ」

「そんじゃ、こっちのも別にしておこうよ、なあ」

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「そんぢやこつちのがもべつにしてくべよ、なあ」

おばあさんたちはずいぶん慌てたように手早く、三つ四つの風呂しき包みをそっと仏だんへかくした。

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ばあさんすこぶあわてたやうにもとせはしく三つ四つの風呂敷包ふろしきづゝみをそつと佛壇ぶつだんかくした。

そうしているうちに、ほかのおばあさんたちは

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さうしてうちほかばあさん

「みんな、おとなしくしなくちゃ、くれないぞ」

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「みんな、おとなしくなくつちや、んねえぞ」

「そんなに洟をたらしてる子にはやらないことにしようよ」

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「さうだにはならしてるものげはやんねえことにすべえ」

と口々にからかった。

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口々くち/″\揶揄からかつた。

子どもたちはいっせいに洟をすすって、そして着物で横にふいた。

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子供等こどもらは一せいはなすゝつてさうして衣物きものよこぬぐつた。

白い紙が一まいずつ、子どもたちの前に広げられた。

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しろかみが一まいづつ子供等こどもらまへひろげられた。

「子どもらのことを言って、手で洟をかんだ手じゃ引かないでくれよ。お前らももったいないから」

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子奴等こめらことつて、手洟てばななんぞかんだぢやかねえでろえ、おめえ勿體もつてえねえから」

おばあさんたちが飯つぎを左の手にかかえて立ったとき、こういろりのそばからどなった。

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ばあさんめしつぎをひだりかゝへてつたとき、かう圍爐裏ゐろりそばから呶鳴どなつた。

彼は小がらなおじいさんで、ちょっとおばあさんたちを見てほほえみながら言ったのである。

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かれ小柄こがらぢいさんで一寸ちよつとばあさんかへりみて微笑びせうしながらいつたのである。

彼は首に二重にした数珠を巻いていた。

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かれのどへ二ぢゆうにした珠數じゆずいてた。

彼の声はおそろしく大きかった。

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かれこゑおそろしくおほきかつた。

おばあさんたちは

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ばあさん

「はいはい、そんじゃ手でも洗いましょうよ」

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「はい/\、そんぢやでもあらひますべよ」

と言ったり

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といつたり

「おれはお前、手で洟はかまないよ」

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らおめえ、手洟てばなはかまねえよ」

と言ったり、がらがらとさわぎながら、笑いささやきながら、ぬれた手を前かけでふいてまた飯つぎをかかえた。

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といつたりがら/\とさわぎながら、わら私語さゝやきつゝ、れた前掛まへかけいてふたゝめしつぎをかゝへた。

おばあさんたちははしの先で少しずつ、飯つぎの物をつまんでその広げられた紙に置きながら、はしからぐるりと回って行く。

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ばあさんはしさきすこしづつ、めしつぎのものけてひろげられたかみきつゝ、はしからぐるりとまはつてく。

紙は子どもたちの数のほかにもしいてあった。

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かみ子供等こどもらかずほかにもかれてあつた。

それは、空になった飯つぎを返すときにその中へ入れてやるためだった。

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それは空虚からになつためしつぎをかへときなかれてやるためであつた。

飯つぎには、たいてい菱餅と小豆ごはんが入れられてあった。

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めしつぎには大抵たいてい菱餅ひしもち小豆飯あづきめしとがれられてあつた。

小豆ごはんはどれもこれも米がよくついてないのでくすんで、そして腹の裂けた小豆が粉をふいて、よけいにねばり気のないぼろぼろのごはんになっていた。

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小豆飯あづきめしはどれも/\こめけてないのでくすんでさうしてはらけた小豆あづきいて餘計よけい粘氣ねばりけのないぼろ/\なめしになつてた。

それでも飯つぎがちがうごとに、小豆ごはんの赤さがいくらかずつちがっていた。

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それでもめしつぎのことなごと小豆飯あづきめしあかさがいくらかづつかはつてた。

子どもたちは、ちがう小豆ごはんが一はし一はしと増えて行くのがうれしくて、外へころがったのは慌てて手で取って紙へ乗せた。

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子供等こどもらかはつた小豆飯あづきめし一箸々々ひとはし/\えてくのがうれしくて、そところがつたのはあわてゝでとつてかみせた。

小豆ごはんは昨日とちがったことはなかったが、菱餅は昨日のように米のではなくて、どれも粟ばかりだった。

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小豆飯あづきめし昨日きのふことなつたことはなかつたが、菱餅ひしもち昨日きのふのやうにこめのではなくてどれでもあはばかりであつた。

子どもたちは大小ちがう粟の菱餅が、一つはまた一つと紙の上に量を増して積まれるのを楽しそうに見て、自分の紙から、両どなりの紙から、遠くのほうから、それから一つ一つかがんではしを動かしているおばあさんたちのいそがしい手元に目をうばわれるのだった。

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子供等こどもら大小だいせうことなつたあは菱餅ひしもちが一つは一つとかみうへ分量ぶんりやうしてまれるのをたのしげにして、自分じぶんかみから兩方りやうはうとなりかみからとほくのはうから、それから一つ/\にかゞんではしうごかしてばあさんせはしいもとにられるのであつた。

おばあさんたちはそわそわしながら、せまいのでたがいにぶつかってはさわぎながら、自分の家にいるときのような落ち着きが少しも保たれていなかった。

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ばあさんはそは/\としつゝせまいのでたがひ衝突つきあたつてはさわぎながら、自分じぶんいへときのやうな節制たしなみすこしもたもたれてなかつた。

「さあ、お前らこれっきりだ」

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「さあ、れつきりだ」

おばあさんたちが空になった最後の飯つぎの底をたたいて腰をのばしたとき、子どもたちはあぶなっかしい手でやっと紙を包んで、がたがたと先を争って立った。

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ばあさん空虚からになつた最後さいごめしつぎのそこたゝいてこしばしたとき子供等こどもらあぶさうやうやかみつゝんで、がた/\とさきあらそうてつた。

下駄を遠くへはね飛ばされたり、ころんだり、紙包みの餅を落としたりして泣く声が入りまじった。

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下駄げたとほくへばされたり、ころがつたり、紙包かみづゝみもちおとしたりしてこゑあひまじつた。

彼らは庭へ下りてから、ゆっくりとその紙を開いて小豆ごはんを手でつまんで食べた。

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彼等かれらにはへおりてからおもむろにかみひらいて小豆飯あづきめしつまんでべた。

紙にくっついた小豆ごはんを、彼らは歯でかじるようにして取った。

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かみにくつゝいた小豆飯あづきめし彼等かれらかじるやうにしてとつた。

やぶれた紙を捨てて、菱餅をふところへ入れる子もあった。

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やぶれたかみてゝ菱餅ひしもちふところれるものもあつた。

庭にはあっちにもこっちにも、捨てられた紙が白く乱れて散らばっていた。

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にはにはそつちにもこつちにもてられたかみしろみだれてらばつてた。

年寄りたちはいろりに絶えずたきぎをくべながら、お酒を温めはじめた。

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老人等としよりら圍爐裏ゐろりえずたきぎべながらさけわかはじめた。

村のどの家からか、今日も念仏の人たちへと言って供えられた二升だるをいろりのそばへ引きよせて、しりのすすけた土びんへごぼごぼと注いで自在かぎにかけた。

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村落むらのどのうちからか今日けふ念佛衆ねんぶつしうへというてそなへられた二升樽しようだる圍爐裏ゐろりそばきつけて、しりすゝけた土瓶どびんへごぼ/\といで自在鍵じざいかぎけた。

外があまりに寒いからというので、念仏が済んでからだれかが雨戸を二、三まい引いたので、寮の中はうす暗くなっていた。

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そとあまりにさむいからといふので念佛ねんぶつんでからたれかゞ雨戸あまどを二三まいいたのでれううち薄闇うすぐらくなつてた。

仏だんの前には、おばあさんが三、四人でひそひそと頭を寄せ合っている。

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佛壇ぶつだんまへにはばあさんが三四にんでひそ/″\とひたひあつめてる。

「このばあさんら、そっちのほうでぬすみ食いしてないで、うまい物があったらこっちへ持って来い」

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婆奴等ばゝあめら、そつちのはう偸嘴ぬすみぐひしてねえで、佳味うめものつたら此方こつちつてう」

さっきの、首に数珠を巻いた小がらなおじいさんがどなった。

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先刻さつきくび珠數じゆずいた小柄こがらぢいさんが呶鳴どなつた。

「ぬすんだというわけじゃないが、ふたを取って見たところなんだよ」

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ぬすんだつちわけぢやねえが、ふたとつてところなんだよ」

そう言っておばあさんたちは、風呂しきの四すみをつかんでいろりのそばへ持って来た。

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さういつてばあさん風呂敷ふろしき四隅よすみつかんで圍爐裏ゐろりそばつてた。

飯つぎには、かんぴょうを帯にしたいなりずしが少し白い腹を見せて、そっくり積まれてあった。

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めしつぎには干瓢かんぺうおびにした稻荷鮨いなりずしすこしろはらせてそつくりとまれてあつた。

すしは少しへっていた。

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すしすこつてた。

「独りでせしめちゃかなわないからね」

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ひとりでせしめちやえかねえから」

おじいさんは冗談らしく言った。

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ぢいさんは戲談じようだんらしくいつた。

「独りじゃあるまいな。こうやって三人も四人もいたんだものなあ」

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ひとりぢやあんめえな、かうやつて三にん四人よつたりたんだものなあ」

「そうだとも。これくらいおれらにくれたって、本当にすりゃいいんだよ。なあ、おれらなんざ、供えられたお酒だってそんなに飲むわけじゃなし」

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「さうだとも、くれえらげよこしたつて本當ほんたうにすりやえゝんだよ、なあ、らなんざあがつたさけだつてさうだにむべぢやなし」

おばあさんたちは言い返すように言った。

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ばあさん抗辯かうべんするやうにいつた。

みんなが一つ一つとすしをつまんだ。

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悉皆みんなひとつ/\とすしつまんだ。

「そりゃそうと、お酒はどうしたい」

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「そりやさうと、さけどうしたえ」

小がらなおじいさんは、ひょいと自在かぎのまま土びんを手元へ引きよせて、底に手を当ててみた。

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小柄こがらぢいさんはひよつと自在鍵じざいかぎまゝ土瓶どびんもとへひきつけて、そこてゝた。

「うっかりしてて、これは煮立っちまうところだったっけ」

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放心うつかりしてゝ煑立にたツちやあとこだつけ」

と急いで土びんを外して

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いそいで土瓶どびんはづして

「おれはそんなにすしなんざ自分じゃ一つでもほしくないんだから。そんな物でおなかをふくらませたっくらい、お酒がからっきりうまくなくなっちまうから」

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らさうだすしなんざ自分じぶんぢやひとつでもしかねえんだから、さうだもの滿腹はらくちくしたつくれえさけからツきうまくなくしつちやあから、」

おじいさんは土びんをたたみの上に置いて言った。

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ぢいさんは土瓶どびんたゝみうへいていつた。

みんながずらりと座を作った。

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悉皆みんながずらりとつくつた。

茶飲み茶わんが一つ一つ置かれて、どこからか供えられたいもやごぼうや人参やそのほかの野菜の煮しめが、重箱のまま置かれた。

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茶呑茶碗ちやのみぢやわんひとつ/\にかれて、何處どこからかそなへられたいも牛蒡ごばう人參にんじん野菜やさい煮〆にしめ重箱ぢゆうばこまゝかれた。

そこにはおぜんも台も何もなかった。

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其處そこにはぜんだいなにもなかつた。

土びんのお酒が徳利へうつされて、土びんはまた自在かぎにつるされた。

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土瓶どびんさけ徳利とくりうつされて土瓶どびんふたゝ自在鍵じざいかぎつるされた。

二度目のお酒が茶わんへ注がれたとき

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度目どめさけ茶碗ちやわんがれたとき

「これはだめだ、こげ臭くなっちまった。お酒を温めるのにはかなわない、どうも気をつけなくちゃ。お酒とお茶はちっとでもにおいが移るんだから」

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駄目だめだ、焦臭こげくさくしツちやつた、さけわかすのにやへねえどうもをつけなくつちや、さけちやはちつとでも臭味くさみうつらさんだから」

小がらなおじいさんは茶わんを口に当てて、いかにも腹を立ててこらえられないというように言った。

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小柄こがらぢいさんは茶碗ちやわんくちてゝ憤慨ふんがいへぬものゝやうにいつた。

「なあに、土びんだって二度目のを少しにしないで、さっきのよりよけいなくらい注ぎさえすりゃ大丈夫なんだが。それ、そうでないとまわりがそれ、こげるから」

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「なあに、土瓶どびんだつて二度目どめのがすこしにねえで、先刻さつきのがより餘計よけいなツくれえぎせえすりや大丈夫だいぢようぶなんだが、それさうでねえと周圍まありがそれびつから」

と、そばからすぐに口が出た。

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そばからぐにくちた。

「そんじゃ、今度はたくさん入れような。おれはろくに飲みもしないで怒られちゃつまらないな」

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「そんぢや、今度こんだ澤山しつかりえびやな、ろくんもしねえで、おこられちやつまんねえな」

土びんを手にしたおばあさんは笑いながら言った。

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土瓶どびんにしたばあさんはわらひながらいつた。

「本当にすりゃ、一回ごとに土びんの中を水ですすがなくちゃだめなんだがな」

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本當ほんたうにすりや、一ぺんごと土瓶どびんなかみづでゆすがなくつちや駄目だめなんだがな」

「そっちから、もう、鉄びんの中へ徳利を押しこめばいいんだな。そうすりゃどうもこうもないんだな」

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「そつから、はあ、鐵瓶てつびんなか徳利とつくりおしこめばえゝんだな、さうすりやどうだもかうだもねえんだな」

「せっかくうまいお酒を台なしにして、おしいもんだな。これはこれで、よっぽどいいお酒だぞ」

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折角せつかくうめさけでえなしにして可惜物あつたらもんだな、らこんで餘程よつぽどえゝさけだぞ」

などという声がざわざわと聞こえた。

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などといふこゑ雜然ざつぜんとしてきこえた。

「鉄びんじゃ徳利が一本ずつしか入らないから、面倒くさかろうと思ってよ」

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鐵瓶てつびんぢや徳利とつくりぽんづつしかへえんねえから面倒臭めんだうくさかんべとおもつてよ」

とおばあさんは言いながら、いったんわいた鉄びんをかけた。

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ばあさんはいひながら、一たんたぎつた鐵瓶てつびんけた。

たるが空になって、飲む人たちはみな酔ってがやがやとただ、さわいだ。

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たる空虚からになつて悉皆みんなもの銘酊よつぱらつてがや/\とたゞさわいだ。

卯平はいろりのそばをはなれずに、むっつりとして杯を取らないおばあさんたちと火に当たりながら、きせるを持たない手持ちぶさたに、しばの先を折ってそのくせの舌を鳴らしながら、歯茎をつついていた。

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卯平うへい圍爐裏ゐろりそばはなれずにむつゝりとしてさかづきをとらぬばあさんにあたりながら、煙管きせるたぬ所在しよざいなさに麁朶そださきつてそのくせしたらしつゝ齒齦はぐきをつゝいてた。

彼はみんながさわいでいるあいだに、自分のおなかに足りるだけのすしやおかずをはしにはさんで、杯には手をふれようとしなかった。

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かれ悉皆みんなさわいで自分じぶんはらりるだけのすし惚菜そうざいやらをはしはさんでさかづきへはれようとしなかつた。

年寄りたちは自分がさわぐほうにばかり心をうばわれて、卯平のことはそっちのけにしたままだった。

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老人等としよりら自分じぶんさわはうにばかりこゝろうばはれて卯平うへいのことはそつちのけにしたまゝであつた。

卯平はそれでも、いろいろな百姓料理の塩からい重箱にはしをつけて、近ごろになく気持ちよかった。

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卯平うへいはそれでも種々いろいろ百姓料理ひやくしやうれうり鹽辛しほから重箱ぢゆうばこはしをつけて近頃ちかごろになくこゝろよかつた。

彼はおなかがいっぱいになるまでには、欠けた歯茎でかんで飲みこんで、さらに次のはしが口まで来る、そのゆっくりした手の動きが待ち遠しくて、口の中から自然にうすい水のようなつばがわいて出るのをおさえられないほどだった。

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かれはらに一ぱいになるまでには、けた齒齦はぐきんで嚥下のみくだして、さらつぎはしくちまで悠長いうちやう運動うんどう待遠まちどほ口腔こうかう粘膜ねんまくからは自然しぜんうすみづのやうな唾液つばいてるのをおさへることが出來できないほどであつた。

元気になった年寄りたちは、赤いどうの太鼓を首すじから胸へつって、だらりだらりとたたいて先に立つと、足元も手元も乱れたみんなが後から後からと、ことにおばあさんたちはさわぎながらついて出る。

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威勢ゐせいよくつた老人等としよりらあかどう太鼓たいこ首筋くびすぢからむねつて、だらり/\とたゝいてさきつとあしもともと節制だらしなくなつたすべてがあとから/\と、ことばあさんさわぎながらついる。

のき先から青竹のたなに沿ってしいてあるむしろをわたって、ゆっくりと回る。

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軒端のきばから青竹あをだけたなうていてあるむしろわたつておもむろまはる。

彼らはそれを「お山回り」というのである。

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彼等かれらはそれをお山廻やままはりといふのである。

たがいによろけながら、おどりとも何ともつかないひょうきんな手足の動かし方をして、ためておいた一年じゅうの笑いを一度にはき出したかと思うほどの声を上げて、止めどもなくどよめいた。

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相互さうご踉蹌よろけながらをどりともなんともつかぬ剽輕へうきん手足てあしうごかしやうをして、たくはへていた一年中ねんぢうわらひを一したかとおもほどこゑはなつてめどもなくどよめいた。

ついには列が乱れて、たがいにぶつかっては足をふんだりふまれたりして、一人がたおれれば後から後からと折り重なって、ひとしきり同じ所に止まってはがやがやとさわいだ。

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つひにはれつみだれてたがひ衝突しようとつしてはあしんだりまれたりして、一人ひとりたふれゝばあとから/\と折重をりかさなつてひとしきりおなところまつてはがや/\とさわいだ。

彼らはほとんど冷えきろうとしている体のどこかに、失われようとしてぽっちりとおもかげを残していた若さの血の一てきが急にわいて、彼らの全体を動かしたかと思うように、かわきつつある彼らの顔にはどれもはなやかな赤みがさしている。

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彼等かれらほとん冷却れいきやくしようとしつゝある肉體にくたいいづれの部分ぶぶんかにうしなはれんとしてほつちりとそのおもかげめて青春せいしゆん血液けつえきの一てきにはかいて彼等かれら全體ぜんたい支配しはいかつ活動くわつどうせしめたかとおもふやうに、枯燥こさうしつゝある彼等かれらかほにはどれでもはなやかなべにしてる。

彼らはまったく落ち着きを失っている。

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彼等かれらまつた節制たしなみうしなつてる。

彼らはふだん家族の中にいて、その年老いた身がどうしても自然に若い者からのけ者にされながら、それぞれ気づかないうちにもふさぎこんでだるい月日を過ごしているとき、いつもの年の決まりである念仏の日は、そういうすべてを解き放つ自由な場である。

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彼等かれら平生へいぜい家族かぞくまじつて、その老衰らうすゐがどうしても自然しぜん壯者さうしやあひだ疎外そぐわいされつゝ、各自かくじむし無意識むいしきでありながらしか鬱屈うつくつしてものう月日つきひすごしつゝあるときに、例年れいねんさだめである念佛ねんぶつはさういふすべてをはな自由境じいうきやうである。

彼らはそこに少しの遠りょも持っていない。

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彼等かれら其處そこすこし遠慮ゑんりよをもつてらぬ。

彼らは冬のあいだを長い夜のねむりにあきながら、寒さに苛められていた苦しさを、もう空のどこかに勢いをひそめてためらっているはずの春より先に、一度に取り返そうとする者のように、さわいでさわいでまた、さわぐのである。

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彼等かれら冬季とうきあひだながねむりにきつゝさむさにいぢめられてくるしさを、もうそら何處どこにかいきほひをひそめて躊躇ちうちよしてはずはる先立さきだつて一取返とりかへさうとするものゝごとさわいで/\またさわぐのである。

お酒がそこに火をつけた。

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さけ其處そこてんじた。

庭の四本の青竹に張った縄の、赤や青や黄のきざんだかざりがひらひらと動きながら、年寄りたちと一つになってささやくように見えた。

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にはの四ほん青竹あをだけつたなはあかあをきざんだ注連しめがひら/\とうごきながら老人等としよりらひとつに私語さゝやくやうにえた。

日は明るい庭へいっぱいに暖かな光を投げた。

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陽氣やうきにはへ一ぱいあたゝかなひかりなげた。

庭には子どもたちや村の人がぞろりと立って、このさわぎを笑って見ていた。

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にはには子供等こどもら村落むらものがぞろつとたつこのさわぎをわらつてた。

そのあたりには、むずかしそうなものは一つも見られなかった。

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そのへんにはむづかしさうなものはひとつもられなかつた。

彼らをつつんだやわらかな空気が、春のしるしにちがいなかった。

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彼等かれらつゝんだやはらかな空氣くうきはる徴候きざしでなければならなかつた。

しかしながら、卯平だけはその群れに加わらなかった。

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しかしながら卯平うへいたゞひとそのむれくははらなかつた。

年寄りたちの勢いがごうっと庭に移ったとき、寮の中はそのさわぎ声がいっぱいにおそって来て、やかましいのにさびしかった。

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老人等としよりらいきほひがごつとにはうつつたときれううちさわぎのこゑが一ぱいおそやかましいにもかゝはらずさびしかつた。

いろりの火も灰が白くおおって、めっきりおとろえた。

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圍爐裏ゐろりはひしろおほうて滅切めつきりおとろへた。

卯平はじっとうでを組んだまま目をしかめて、燃え尽きたたきぎさえ突き出そうとしなかった。

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卯平うへい凝然ぢつうでこまねいたまゝしかめて退いたまきをすらさうとしなかつた。

彼には、庭の乱れたさわぎ声が耳を占めるよりも、遠くはるかな暗やみに何かをさがそうとしているように、ただぼんやりとしているのだった。

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かれにはには節制だらしのないさわぎのこゑみゝ支配しはいするよりもとほかつはるかやみ何物なにものをかさがさうとしつゝあるやうにたゞ惘然ばうぜんとしてるのであつた。

与吉は紙包みの小豆ごはんを食べつくして、しばらく庭のさわぎを見ていたが、寮の中に独りぽつねんとしている卯平を見つけて、いろりの近くまで来た。

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與吉よきち紙包かみづゝみの小豆飯あづきめしつくしてしばらくにはさわぎをたがれううち㷀然ぽつさりとして卯平うへい見出みいだして圍爐裏ゐろりちかせまつた。

「爺さん、くれないか」

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ぢいくんねえか」

と彼は、またいつものように卯平に甘えた。

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かれまた何時いつものやうに卯平うへいあまえた。

卯平はその声を聞いても、しばらくかがんだままでいた。

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卯平うへいそのこゑいてもしばらしがんだまゝた。

立春の日を過ぎてから、かえって夕暮れのはかないうすい光の空にふき落ちるはずの西風が、何を怒ってかふいてふいてふきまくって、夜にわたっても何日も止まないほどのめずらしいことになって、鬼怒川の浅せがこおりに閉ざされて、やがてこおりのかたまりが流れたといううわさが立ったことがあった。

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立春りつしゆんぎてから、かへつ黄昏たそがれ果敢はかないうすひかりそらちるはず西風にしかぜなにいかつてかいて/\まくつて、わたつても幾日いくにちまぬほど稀有けう現象げんしやうともなうて、鬼怒川きぬがは淺瀬あさせこほりとざされて、やがこほりかたまりながれたといふうはさつたことがあつた。

卯平はそれとともに、そのかわいたはだがよけいに荒れて、寒さが骨まで通ったかと思うと、急に手の自由を失って来たように感じた。

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卯平うへいはそれととも乾燥かんさうした肌膚はだ餘計よけいれて寒冷かんれいほねてつしたかとおもふとにはか自由じいううしなつてたやうに自覺じかくした。

彼は縄をなうにもわらじを作るにも、何か固まったかたまりがすべての筋肉のはたらきをじゃましているようで、あちこちにうずく痛みさえ感じるのだった。

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かれなはふにも草鞋わらぢつくるにも、それある凝塊しこりすべての筋肉きんにく作用さよう阻害そがいしてるやうで各部かくぶ疼痛とうつうをさへかんずるのであつた。

器用な彼の手先が、彼自身の物ではなくなった。

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器用きようかれ手先てさき彼自身かれじしんものではなくなつた。

彼は与吉がせまい戸口に立つたびに、心からむかえる前の卯平ではなくなっていた。

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かれ與吉よきちせま戸口とぐちごとこゝろからむかへる以前いぜん卯平うへいではなくなつてた。

それでも彼は与吉をかわいがっていた。

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それでもかれ與吉よきちあいしてた。

「明日にしろ」

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明日あしたにしろ」

と彼はかんたんにことわって、そしてそれっきり言わないことがあるようになった。

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かれ簡單かんたん拒絶きよぜつしてさうしてそれつきりいはないことがるやうになつた。

与吉が何度もそう言われてしょんぼりしているのを、卯平は見つめてよけいに目をしかめるのだった。

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與吉よきちしば/\さういはれて悄然せうぜんとしてるのを、卯平うへい凝視みつめて餘計よけいしかめつゝあるのであつた。

そういうことが何度か何日かくり返された後、卯平は与吉に一銭の銅貨を与えた。

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さういふことが幾度いくたび幾日いくにち反覆くりかへされたのち卯平うへい與吉よきちへ一せん銅貨どうくわあたへた。

これまでの倍になっているのと、ほとんどまたことわられるのではないかという心配を持っている与吉は、いつでもそれにとても満足を表した。

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從來これまでばいしてるのとほとんまた拒絶きよぜつされるのではないかといふ懸念けねんいだきつゝある與吉よきち何時いつでもそれ非常ひじやう滿足まんぞくあらはした。

そのようすを見る卯平は、勢い心が動かされた。

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その容子ようす卯平うへいいきほこゝろうごかされた。

自分が年老いた者だと知ったとき、あきらめのつかないみんなは、ややもすればたがいに残りの命がいくらもないはかなさを語り合って、それが冗談を言って笑いさざめくときにさえ絶えずくり返されて、それぞれ痛いほど感じる程度のちがいはあるにしても、死の問題に苦しめられているのは事実である。

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自分じぶん老衰者らうすゐしやであることをつたときあきらめのないすべては、もすればたがひ餘命よめい幾何いくばくもない果敢はかなさをかたうて、それが戲談じようだんいうて笑語さゞめときにさへえず反覆くりかへされて、各自かくじ痛切つうせつかんずる程度ていど相違さうゐはあるにしても、問題もんだいくるしめられてるのは事實じじつである。

卯平の心にも、同じく死の思いが止まず行き来した。

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卯平うへいこゝろにもおなじく觀念くわんねんまず往來わうらいした。

彼はその手先の自由を失ったとき、やけになった心から彼の風呂しき包みを解いた。

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かれその手先てさき自由じいううしなうたとき自棄やけこゝろからかれ風呂敷包ふろしきづゝみいた。

野田にいたころ、主人や、主人の用で出かけた先からもらった何本かの手ぬぐいをつぎ合わせてこしらえたゆかたを出した。

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野田のだころ主人しゆじんまた主人しゆじんようでの出先でさきからもらつた幾筋いくすぢ手拭てぬぐひあはせてこしらへた浴衣ゆかたした。

きれい好きな彼には、はでな手ぬぐいのもようが当時のほこりの一つだった。

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清潔好きれいずきかれには派手はで手拭てぬぐひ模樣もやう當時たうじほこりひとつであつた。

彼はもう、自分の心を苛めてやるような気持ちで、目ぼしい物を次々に質に入れた。

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かれはもう自分じぶんこゝろいぢめてやるやうな心持こゝろもち目欲めぼしいもの漸次だん/\質入しちいれした。

彼は目の前で、こおりが張っては毎日暖かい日の光にとかされるのを見ていた。

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かれ眼前がんぜんこほりぢては毎日まいにちあたゝかひかり溶解ようかいされるのをた。

彼にはそれが、ただそういうできごととしてだけ目に映った。

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かれにはそれがたゞさういふ現象げんしやうとしてのみうつつた。

彼は、自由を失ったその手先が、暖かい春の日が重なって次第によくなるだろうという、かすかな望みさえ持たないほど、身も心もひがんで、そして苦しんだ。

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かれ自由じいううしなうたその手先てさきあたゝかはるつもつて漸次だん/\やはらげられるであらうといふかすかな希望のぞみをさへおこさぬほどこゝろひがんでさうしてくるしんだ。

彼が風呂しき包みから得ていたお金はわずかなものだったが、それはときとして、彼のこわばった舌に合う食べ物を買うほかに、一部分は与吉の小さな手に落とされるのだった。

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かれ風呂敷包ふろしきづゝみからつゝあつた金錢きんせん些少すこしのものであつたが、それはときとしてかれこはばつたしたてきした食料しよくれうあるものもとめるほかに一部分ぶぶん與吉よきちちひさなおとされるのであつた。

はかないたばこ入れのふくろの中を、心配するように彼は何度ものぞいた。

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果敢はかない煙草入たばこいれかますなか懸念けねんするやうにかれ數次しばしばのぞいた。

暗いせまい小屋の中でのぞくふくろの底は暗かった。

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陰鬱いんうつせま小屋こやなかのぞかますそこくらかつた。

わずかにまじった小さな白い銀貨が、見るたびに彼の心にいくらかの光を与えた。

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わづかにまじつたちひさなしろ銀貨ぎんくわたびかれこゝろいくらかのひかりあたへた。

彼がどんなにおしんでも、ふくろの中がへって行くのを止めることはできない。

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かれ什麽どんなをしんでもかますなかつてくのをふせぐことは出來できない。

しかも無口な彼は、むだに自分独りでかみしめて、絶えずただやつれながらしずんだ気持ちをつづけた。

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しか寡言むくちかれいたづらに自分じぶんひとりみしめて、えずたゞ憔悴せうすゐしつゝ沈鬱ちんうつ状態じやうたい持續ぢぞくした。

彼はその気持ちのまま、念仏寮のいろりにどっかりとだるい体をすえていた。

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かれその状態じやうたいたもつて念佛寮ねんぶつれう圍爐裏ゐろりにどつかとものう身體からだゑてた。

庭のさわぎは止んで、強い風がおそったように寮の中はまたざわざわとして、卯平をつつんだしずんだ空気をかき乱した。

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にはさわぎはんで疾風しつぷうおそうたごとれううちまた雜然ざつぜんとして卯平うへいかこんだ沈鬱ちんうつ空氣くうき攪亂かくらんした。

やがて年寄りたちがたがいのふところのお金を出し合った二升だるが運ばれて、お酒がまた温められた。

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やが老人等としよりらたがひ懷錢ふところせんうた二升樽しやうだるはこばれてさけまたわかされた。

お酒の席はいろりの近くに作られた。

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さけ圍爐裏ゐろりちかかたちづくられた。

そのときまだ与吉は帰らなかった。

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ときまだ與吉よきちらなかつた。

卯平は黙って五厘の銅貨を投げた。

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卯平うへいだまつて五りん銅貨どうくわげた。

そばにいた一人の年寄りがそれを拾おうとして見せると、与吉は両方の手をかけて、それから体でおおった。

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そば一人ひとり老人としよりがそれをひろはうとしてせると與吉よきち兩方りやうはうかけてそれからもつおほうた。

彼はそれを固くにぎって

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かれはそれをかたつかんで

「爺さん、もう一つくれないか」

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ぢい、いまひとつくんねえか」

と、さらにねだった。

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さら強請せがんだ。

彼は五厘の銅貨を大事にした。

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かれは五りん銅貨どうくわ大事だいじにした。

しかし彼はしばらく一銭の銅貨に慣れていたので、心にわずかな物足りなさを感じたのだった。

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しかかれしばらく一せん銅貨どうくわれてたのでこゝろわづか不足ふそくかんじたのであつた。

卯平は口を閉ざしている。

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卯平うへいくちつぐんでる。

「お前は、そんなことを言うんじゃない。さっきあんなにもらって、まだ要るもんか。もっとほしいなんて言えば、おれがおなかをかき裂いて小豆ごはんをかき出してやるから。お前は口ばかり動かしてるから見ろ、それ、口のはしがただれてらあ」

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りや、さうだことふんぢやねえ、先刻さつきあゝだになにつもらつてるもんか、まつとしいなんちへばはら掻裂かつツえて小豆飯あづきめし掻出かんだしてやつから、りやくちばかしいごかしてつからろうそれ、からすきうゑらツてら」

と、さっきの首に数珠を巻いたおじいさんががみがみと言った。

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先刻さつきくび數珠ずゝいたぢいさんががみ/\といつた。

与吉ははずかしそうにして、五厘の銅貨でくちびるをこすりながら立っていた。

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與吉よきちはにかんだやうにして五りん銅貨どうくわくちびるをこすりながらつてた。

彼の口の両はしには、「からすのきゅう」と言われているできものができて、どろでもつけたようになっていた。

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かれくち兩端りやうはしにはからすきうといはれてかさ出來できどろでもくつゝけたやうになつてた。

「お前はお金がほしけりゃ、おとっつあんにもらえ」

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りやぜねしけりやおとつゝあにもらへ」

おじいさんはまたどなった。

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ぢいさんはまた呶鳴どなつた。

「そんだってだめだあ、おとっつあんらはくれやしまいし」

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「そんだつて駄目だめだあ、おとつゝあれやしめえし」

与吉はやっと言った。

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與吉よきちやつといつた。

「おとっつあんは耳が遠いから聞こえないんだ。おとっつあん、くれと、おれみたいにどなってみろ。そうでなけりゃ耳を引っぱってやれ」

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「おとつゝあつんぼだからきけえねんだ、おとつゝあろうつとてえに呶鳴どなつてろ、そんでなけれみゝ引張ひツぱつてやれ」

「そんだっていやだあ、おれは。おとっつあんに打っとばされるから」

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「そんだつてだあら、おとつゝあにばされつから」

「いいから行けもう。お前らみたいな子どもらがごやごや来ちゃ、うるさくて仕方がないから」

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「えゝからけはあ、汝等わつらてえな餓鬼奴等がきめらごや/\ちや五月蠅うるさくつてやうねえから」

与吉はすごすごと立った。

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與吉よきち悄々しを/\つた。

「そうら」

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「さうら」

と、卯平は後から五厘の銅貨を庭へ投げてやった。

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卯平うへいあとから五りん銅貨どうくわにはげてやつた。

そうしているあいだに、二度目のお酒にあずからないおばあさんたちは、表の雨戸をさらに二、三まい引いて、よけいにうす暗くなった仏だんの前に固まった。

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さうしてに二度目どめさけあづからぬばあさんおもて雨戸あまどさらに二三まいひい餘計よけい薄闇うすぐらつた佛壇ぶつだんまへ凝集こゞつた。

いつのまにか念仏の仲間以外の村の女の人も加わって、十人ばかりになった。

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何時いつにか念佛衆ねんぶつしゆう以外いぐわい村落むら女房にようばうくははつて十にんばかりにつた。

彼女たちは外からの人目を雨戸でさけて、たった一つの楽しみとされている「宝引き」をしようというのだった。

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彼等かれらそとからの人目ひとめ雨戸あまどけて唯一ゆゐいつ娯樂ごらくとされてある寶引はうびきをしようといふのであつた。

たたみには八本のこん色の宝引きの糸がざらりと投げ出された。

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たゝみには八ほんこん寶引絲はうびきいとがざらりとされた。

彼女たちはそれを糸と呼んでいるけれど、はたを織って切りはなした最後の糸のはしを、縄のようになった綱である。

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彼等かれらはそれをいとんでるけれども、はたつてはなした最後さいごいとはしなはのやうにつたつなである。

おばあさんたちは丸い座を作って、めいめいの前に二銭ずつのお金を置いた。

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ばあさんまるつくつて銘々めい/\まへへ二せんづつのぜにいた。

親になった一人が八本の綱の元をつかんで、一度ぎっと指へからめてばらりと投げ出すと、みんなが一つずつつかんで、これもそのはしを指へぎりっとからめて一度に引くと、七本の綱がむなしくすっとたおれる。

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おやつた一人ひとりが八ほんつなもとつかんで一ぎつとゆびからんでばらりとすと、悉皆みんなひとつづゝつかんでれもはしゆびへぎりつとからんで一くと七ほんつなむなしくすつとこける。

ただ一本の綱のしりには、彼女たちの言う「どっぺ」

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たゞぽんつなしりには彼等かれらのいふ「どツぺ」

がついていて、それがどさりとたたみを打って一人の手元へ引かれる。

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いててそれがどさりとたゝみつて一人ひとりもとへかれる。

どっぺは、一厘銭を三寸ばかりの厚さにあなへ通してぎっとくくったおもりである。

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どつぺは一厘錢りんせんを三ずんばかりのあつさにあなとほしてぎつとくゝつたおもりである。

一厘銭は、真ちゅうの地色がぴかぴかと光るまですられていた。

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厘錢りんせん黄銅くわうどう地色ぢいろがぴか/\とひかるまで摩擦まさつされてあつた。

どっぺを引いた人がさらに親になって、一度ごとにどっぺは外してほかの綱につける。

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どつぺをいたのがさらおやになつて一ごとにどつぺはいてつなへつける。

するとおばあさんたちは考えながら、しかもすばやく綱の一つをつまんでは放したり、またつまんだり、とてもいそがしそうに手を動かす。

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さうするとばあさん思案しあんしつゝしかすみやかにつなひとつをつまんでははなしたりまたつまんだりきはめていそがしげにうごかす。

彼女たちはちょうどくじを引くように、きっと一つは当たるはずのどっぺを、みんなが当てずっぽうにつかんで引くのである。

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彼等かれら丁度ちやうどくじくやうに屹度きつとひとつはあたはずのどつぺを悉皆みんなこゝろあてにつかんでくのである。

一度ごとに、がっかりした顔とうれしそうな顔が、みんなのあいだを次々に移って行く。

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ごと失望しつばう滿足まんぞくとが悉皆みんなかほにそれからそれとうつつてく。

綱をぎっとたばねて引かせる手元や、一つずつ考えながら、しかもつかんだら勢いよくすいと引く手元は、彼女たちのこわばった手でありながら、なれていて、そしてすばやく動く。

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つなをぎつとつかねてかせるもとや、ひとつづゝに思案しあんしながらしかつかんだら威勢ゐせいよくすいともとは彼等かれらこはばつたでありながら熟練じゆくれんしてさうして敏捷びんせふ運動うんどうする。

綱のまわりからみんなが作っている輪が縮まるようにして、一つつかんではまたその輪が広がるようにしながら引くようすは、大ぜいで一つのひもをなっているような形にも見えた。

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つな周圍しうゐから悉皆みんなかたちづくつてちゞまるやうにして、ひとつかんではまたひろがるやうにしつゝ容子ようす大勢おほぜいひとつのひもつてるやうなかたちにもえた。

彼女たちはいそがしく手を動かしながら、声を殺してひそひそと、しかも力を入れて笑いささやいた。

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彼等かれらいそがしくうごかしてるとともこゑころしてひそ/\とかもちかられて笑語さゞめいた。

彼女たちは外に聞こえるのを気にしないなら、面白さに乗じて大いにさわぐはずである。

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彼等かれら戸外こぐわいきこえをはばからぬならば興味きようみじようじて放膽はうたんさわはずでなければならぬ。

それぞれの前にあるお金は、どっぺを引き当てた人の手に一つずつ引き取られて、だれの前にもまったくなくなったとき、また新しく置かれるのである。

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各自かくじまへぜにはどつぺをてたものひとつづゝられてたれまへにもまつたくなくなつたときまたさらかれるのである。

彼女たちはそれに夢中になって、まったくほかを忘れている。

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彼等かれらはそれに熱中ねつちうしてまつたわすれてる。

宝引きにもお酒にも加わらない年寄りたちは、たなのまわりを回ってからは帰った人もあって、寮にはいくらか人数もへっていたが、いろりのあたりは酔いが回って、宝引きの仲間に行かないおばあさんたちは、お酒の好きな、どれも元気のいい人ばかりだった。

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寶引はうびきにもさけにもくははらぬ老人等としよりらたな周圍しうゐまはつてからはかへつたものもつてれうにはいくらか人數にんずつてたが、圍爐裏ゐろりほとりゑひくははつて寶引はうびきむれかぬばあさんさけきなれも威勢ゐせいのいゝものばかりであつた。

「なあお前、これでおれも若いときには面白かったんだよなあ」

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「なあおめえ、こんでらもけえときにや面白おもしろえのがんだよなあ」

と、おじいさんの肩にもたれかかる人もあった。

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ぢいさんのかたもたかゝるものもあつた。

「ばかを言え、むかしのことなんぞ、みっともない。おれなんざこれで随分無鉄砲なことはしたが、これで女には迷わなかったっけから」

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篦棒べらぼう以前めえかたのことなんぞ、外聞げえぶんりい、らなんざこんで隨分ずゐぶん無鐵砲がしよきなこたあしたが、こんでをんなにやれねえつちやつたから」

と、首に数珠を巻いたおじいさんがそばでそれを見ていてどなった。

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くび珠數じゆずいたぢいさんがそばでそれを呶鳴どなつた。

「お前、怒らなくてもいいやな。お酒の席じゃそれくらいのことは仕方があるまいな」

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「おめえ、おこんなくつてもえゝやな、さけ座敷ざしきぢやそれくれえなこた仕方しかたあんめえな」

としかられたおばあさんは、右の手を上から左の手のひらへ打ちつけて、大声を立てて笑いながら

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しかられたばあさんはみぎうへからひだりひらちつけて、大聲おほごゑてゝわらひながら

「どうしたんだいまあ、一ぱいやりなさいね」

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「どうしたんでえまあ一ぺえやらつせえね」

と、おばあさんはさらに卯平へ茶わんを突きつけた。

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ばあさんはさら卯平うへい茶碗ちやわんきつけた。

卯平は一ぱいも口にふくまないのに、さっきからただじっとして、さわぎを聞くでもなく聞かないでもないようすで、あぐらをかいていた。

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卯平うへいは一ぱいをもくちふくまぬのに先刻さつきからたゞ凝然ぢつとして、さわぎをくでもなくかぬでもない容子ようすをして胡坐あぐらをかいてた。

二度目のお酒がいくらかおなかに多すぎた年寄りたちは、もう卯平を見のがしてはおかなかったのである。

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度目どめさけいくらかはら餘計よけいであつた老人等としよりらはもう卯平うへい見遁みのがしてはかなかつたのである。

「おれはしばらくやらないから」

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しばらくやんねえから」

卯平はそっけなく言って、そのくせの舌を鳴らした。

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卯平うへいはそつけなくいつてくせしたらした。

「なんでまた飲まないんだ。そんなにしんねりむっつりしてないで、ちっとは元気を出してみるもんだ。そうれ」

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なんでまたまねえんだ、さうだにしんねりむつゝりしてねえで、ちつた威勢えせいつけてるもんだ、そうれ」

と、さっきからのおじいさんは茶わんを突きつけた。

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先刻さつきからのぢいさんは茶碗ちやわんきつけた。

卯平はまた舌を鳴らして、つばをぐっと飲んだ。

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卯平うへいしたらして、つばをぐつとんだ。

「おれはもう、しばらくやらないから。たばこは体の具合が悪いからやめたんだから何だが、お酒はこれ、お金はかせげないし、ちっとでも飲めばまた飲みたくなるから、やめちまったな。お酒ももう、むかしとちがって一ぱいいくらというんだから、お金を食うようで」

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らはあ、しばらくやんねえから、煙草たばこ身體からだ工合ぐえゝりいからつたんだからなんだが、さけぜねかせげねえし、ちつとでもめばまたみたくなつからめつちやつたな、さけもはあ以前めえかたちがつて一ぺえいくらつちんだからぜねくんのむやうで」

彼はぶすりとして、しかも力のない声を投げかけるように言った。

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かれはぶすりとしてしかちからのないこゑけるやうにしていつた。

「そんなことを言わないで、そら来たとこう手を突き出すもんだ。じれったくて仕方がない、これらがな」

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「さうだことあねえで、そらたつとかうてえつんだすもんだ、倦怠まだるつこくつてやうねえ此等こツらがな」

さっきのおじいさんは、また一ぱいをぐっと飲み干してどなった。

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先刻さつきぢいさんはまたぱいをぐつとして呶鳴どなつた。

「そうだよ、飲みなさいよお前。めでたいお酒だから。元気をつければお前、体の具合だってちっとくらいなら治っちまうよ」

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「さうだよ、まつせえよおめえ、めでゝえさけだから、威勢えせえつければおめえ身體からだ工合ぐえゝだつてちつとぐれえならなほつちやあよ」

おばあさんたちはまたすすめた。

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ばあさんまたすゝめた。

「この人も勘次どんにはよくしてもらえないんだってさ。困ったもんさな。そんだってお前、そんなものは仕方がないから、そんなにくよくよしないほうがいいよ」

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ひと勘次かんじどんにやくさんねえごつさら、こまつたもんさな、そんだつておめえさうえもなやうねえから、さうえにくよくよしねえはうがえゝよ」

ほかのおばあさんも言った。

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ばあさんもいつた。

「体の具合が悪いなんて、そんな気持ちだから卯平らは仕方がない。これらはリューマチだなんて。リューマチなんて病気はおなかの虫から出るんだから、なあに訳はないんだよ。へびでこうしごき下ろすんだ。いいか、おれがこすってやるから。いや本当だよ、おれのなんざあ」

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身體からだ工合ぐえゝりいなんて、さうだ料簡れうけんだから卯平等うへいらやうねえ、此等こツらようまづだなんて、ようまづなんち病氣びやうきはらむしからんだから、なあにわきあねえだよ、へびでかうきおろすんだ、えゝか、れこすつてやつから、いや本當ほんたうだよらがなんざあ」

小がらなおじいさんは、すごい勢いで言った。

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小柄こがらぢいさんは非常ひじやういきほひでいつた。

首の数珠は、彼の声が喉をふくらませるので、そのたびごとに少しずつ動いた。

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くび珠數じゆずかれこゑのど膨脹ばうちやうさせるのでそのたびごとすこしづゝうごいた。

「おれはへびはきらいだから」

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へびきれえだから」

卯平は苦しそうに言った。

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卯平うへいくるさうにいつた。

「へびがきらいだと。そんな大きな体をして、だらしないことを言うない。おれなんざへびでも毛虫でもこわいなんてことはないんだから。こう、いいか、こうだぞ」

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へびきれえだと、さうだえけ姿なりしてあばさけたこといふなえ、らなんざへびでも毛蟲けむしでも可怖おつかねえなんちやねえだから、かうえゝか、うだぞ」

と言いながらおじいさんは後ろ向きに立って、十分に酔った足を大またにふんで、はだをぬいだ両方の手をぎっとにぎって、手ぬぐいで背中をこするような形をして見せた。

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といひながらぢいさんは後向うしろむきつて、十ぶん酩酊よつぱらつたあし大股おほまたんで、はだいだ兩方りやうはうをぎつとにぎつて、手拭てぬぐひ背中せなかこするやうなかたちをしてせた。

「おれはリューマチじゃ八、九年もなやんだんだが、へびでこすればいいというから、これはうまいことを聞いたと思ってな。大きなあおだいしょうがぶらんとかきの木からぶら下がったから、竹ざおでかき落とそうと思ったら、おれの家のばあさんらがかまうなと言ったっけが、いいからお前らは黙って見てろ、なんて。それからおれがぐうっと頭をつかまえて、こうおれの背中をこすったな。大きなあおだいしょうだから、畜生、縮んで曲がったときは引っかかってなかなか動かないんだ。それからうんと引きのばしちゃこすったな。そうしたら、こうかたまりがごりごりとくずれるのが分かったっけな。そうしたらなあにけろりよ」

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らようまづぢや八九ねんなやんだんだが、へびでこすればえゝつちから、うめえこときいたとおもつてな、えけ青大將あをだいしやうぶらんとかきからぶらさがつたから竹竿たけざをおとすべとおもつたら、婆奴等ばゝめらかまあななんてつけが、えゝから汝等わツらだまつててろ、なんてそれからおれぐうつとあたまふんづかめえて、背中せなかこすつたな、えけ青大將あをだいしやうだから畜生ちきしやうちゞまつて屈曲えんぢぐんぢしたときかゝつて仲々なかなかいごかねえだ、それからうゝんとのばしちやこすつたな、さうしたらかたまりごりつ/\とこけんのれたつけな、さうしたらなあにけろりよ」

彼はみんなに向けた背中へ手を回して

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かれは一どうけた背中せなかまはして

「この辺の所にかたまりがあったのだが、それっきりどこかへ行っちまったな。それからおれはもう、リューマチなんざ訳はないと言ってるんだ」

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此處こゝらんとこにかたまりあつたのがだが、それつきり何處どこさかつちやつたな、それかられはあ、ようまづなんざわきあねえつちつてんだ」

彼の手先が背骨の近くにふれた。

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かれ手先てさき脊椎せきずゐちかれた。

「おおいやまあ、大きなおきゅうのあとじゃないかい」

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「おゝえやまあ、えけきうあとぢやねえけえ」

と、一人のおばあさんがおどろいて言った。

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一人ひとりばあさんがおどろいていつた。

「おれのはこれで三百本を一度に火をつけたんだから。おれはむちゃなことが大好きなのだから。いや本当だよ。おれはこれでおなかに悪い病気がついたときだって、とうとうねなかったっけからな。今じゃ教わってるから、子どもらまで赤い病だなんて知ってるが、おれが若いころは何でも疫病とおぼえてたのだから。なあ卯平、これらもそのときやったから知ってらな。おれは一日に十六度べんじょへ行ったのが一等だったっけが。なあに、病気なんぞには負けられるもんかというんだから。そのときには村じゅうずっともう、みんなごろごろしてて、おればかり薬箱を持って医者の送りむかえをしたな。となり近所一けんごと役には立たないんだから。いや本当だよ。おれは十五日下痢して治ったが、おれは強かったからな。いや強いとも、まったく。なあにってんで、おれは毎日お酒をぴんぴん飲んだな。お酒を飲んじゃ悪いなんて、医者なんてのはだめだな、ずっと。檳榔樹とか何とかだなんてちっとばかりずつ、けずった薬なんぞじれったくて仕方がないから、当薬を煎じ出して、毎日おれは片口で五はいずつも飲んだな。五合くらい入っただろうが、おれは息をつかずだ。なあに、息をついちゃにがくて仕方がないんだよ」

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らがなんで三百ちやうぺんひいけたんだから、らがむしやらなこと大好だえすきのがんだから、いや本當ほんたうだよ、んで腹疫病はらやくびやうくつゝいたときだつて到頭たうとうねえつちやつたかんな、いまぢやをさつてつから餓鬼奴等がきめらまでせきれえびやうだなんてつてんが、さかりころなんでも疫病やくびやうおべえてたのがんだから、なあ卯平うへいもそんときやつたからつてらな、一日いちんちに十六手水場てうづばつたの一とうだつけが、なあに病氣びやうきなんぞにやけらツるもんかつちんだから、ときにや村落中むらぢうかたではあ、みんなごろ/\してんでればかり藥箱くすりばこつて醫者いしや送迎おくりむけえしたな、隣近所となりきんじよ一軒毎えつけんごめらやくにやたねえだから、いや本當ほんたうだよ、ら十五んち下痢くだつてなほつたがつよかつたかんな、いやつええともまつたく、なあにツちんで毎日まいんちさけぴんんだな、さけんぢやわりいなんて醫者いしやなんちや駄目だめだなかたで、檳榔樹びんらうじゆとかなんとかだなんてちつとばかしづゝ、けづつたくすりなんぞ倦怠まだるつこくつてやうねえから、當藥たうやくせんして氣日まいんち片口かたくちで五へえづゝもんだな、五がふぐれえへえつけべが、呼吸えきつかずだ、なあに呼吸えきついちやにがくつてやうねえだよ」

と、彼は汚い手ぬぐいで顔の汗を一度ふいた。

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かれきたな手拭てぬぐひかほあせを一ふいた。

彼は七十をこえても、髪はまだいくらも白くなかった。

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かれは七十をえてもかみはまだいくらもしろくなかつた。

彼は石のかたまりを投げ出したようなかたい体に力を入れて、独り元気づいた。

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かれいしかたまりしたやうなかた身體からだちかられてひと威勢ゐぜいづいた。

「おれはそれから、五百もんめくらいのしゃもの雑種を一羽しめて、一度に食っちまったな。そうしたら熱が出た」

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らそれから五百匁ひやくめぐれえ軍鷄雜種しやもおとしくゝつて一ぺんつちまつたな、さうしたらねつた」

彼は急に声を低くしたが、さらに元にもどって

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かれにはかこゑひくくしたが、さら以前いぜんかへつて

「熱は出たが、それでおれはぐっと体に力をつけちまったな。そのせいだな、十五日で治ったな。そんだからおれはすぐに麦の八斗はずんずんつけたな。おれはこれで体つきはちっちゃいが強かったな。おれのは生まれつき強いのだから。いや本当だよ。卯平らも仕事じゃ強かったが、そりゃ強いとも。そんだがこれらは根性がだめだから、病気がついて大変で仕方がないなんて。それからおれが、しっかりしろと言えば、どうも下痢しちゃ力がぬけて仕方がない、うんうんなんてうなって。そんだがあのときには女房はかわいそうなことをしたな。世間の奴らが、卯平は女房にたたられるだろうなんて言うから、心配するなっておれが言ったんだな。そんだがこれらは根性がないから。おれは心配するのは大きらいだ。それ、心配しないで一ぱい引っかけろというんだ」

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ねつたがそれでれぐつと身體からだにやちからつけつちやつたな、所爲せゐだな十五んちなほつたな、そんだからぐにむぎの八はずん/\けたな、らこんで體格なりはちつちえがつをかつたな、らがな無垢むくつええのがだから、いや本當ほんたうだよ、卯平等うへいら仕事しごとぢやつをかつたが、そりやつええとも、そんだが根性こんじやうやくざだから、疫病やくびやうくつゝいて太儀こはくつてやうねえなんて、それかられ、確乎しつかりしろツちへばどうも下痢くだつちやちからけてやうねえ、うん/\なんてうなつて、そんだがあんときにやかゝあ可哀相かはいさうなことしたな世間せけん奴等やつら卯平うへいかゝあとつつかれべえなんちから心配しんぺえすんなつてつたんだな、そんだが根性こんじやうねえから、心配しんぺえするもな大嫌だえきれえだ、それ、心配しんぺえしねえで一ぺえけろつちんだ」

おじいさんはいくらでも調子に乗ってまくし立てた。

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ぢいさんはいくらでも乘地のりぢになつてまくしかけた。

「そうだよお前、お酒の席でむっつりしてる者があるもんじゃない」

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「さうだよおめえ、さけ座敷ざしきでむつゝりしてるもなるもんぢやねえ」

「ばあさんの手だってお前、お酒じゃ酔うから、やってみなさいよ」

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ばあさまのだつておめえさけぢや酩酊よつぱらあからやつてさつせえよ」

おばあさんたちはそばから代わる代わる杯をすすめた。

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ばあさんそばから交互たがひさかづきすゝめた。

彼女たちは情けなさそうな卯平をなぐさめようとするよりも、独りむっつりしている彼を仲間に引きこもうというのと、変わっている彼のようすをからかってもみたいからだった。

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彼等かれらなさけなげな卯平うへいなぐさめようとするよりも、ひとりむつゝりとしてかれ伴侶なかままうといふのと、かはつてかれ容子ようすたいして揶揄からかつてもたいからとであつた。

「おれはお金を出しもしないで、他人のお酒なんぞ」

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ぜねしもしねえで、他人ひとさけなんぞ」

卯平は口がねばって舌がこわばったように言った。

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卯平うへいくちねばつてしたこはばつたやうにいつた。

「お前がかまうもんじゃないな、そんなこと」

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「おめえかまあもんぢやねえな、其麽そんなこと」

おばあさんたちはまた言った。

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ばあさんまたいつた。

「お酒代が足りなけりゃ、こっちのほうにたまったお金があるよ、お前ら」

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酒代さかでんなけりや、こつちのはう寺錢てらせん出來できてるよおめえ

宝引きの仲間がこちらを見て言った。

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寶引はうびき仲間なかまがこちらをかへりみていつた。

「要らないとも、そんなお金なんざ。おれはばくちなんざ何でもきらいだから」

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らねえともそんなぜねなんざ、博奕ばくちなんざなんでもきれえだから」

小がらなおじいさんはすぐにどなった。

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小柄こがらぢいさんはすぐ呶鳴どなつた。

「おれはもう、お金もありもしないで」

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らはあぜねりもしねえで」

卯平は他人のさわぎに引きこまれようとするよりも、自分の心の中のあるものをやっとのことではき出そうとするようにつぶやいた。

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卯平うへい他人ひとさわぎにまれようとするよりも、自分じぶん心裏しんりあるものやつとのことさうとするやうにつぶやいた。

「またそんなことだから仕方がない。勘次らはふところ具合がいいというんだから、要るなら何でも、よこせとこう言うんだ。かまわないからうばい取ってやれ。おれだったらそうだ。いや本当だとも。むこなんぞにいばられてるなんてことがあるもんか。卯平らは根性が弱いから仕方がない」

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またさうだこつたからやうねえ、勘次等かんじら懷工合ふところぐえゝえゝつちんだから、らばなんでも、れよこせつとういふんだ。かまあねえから奪取ふんだくつてやれ、らだらさうだ、いや本當ほんたうだとも、むこなんぞに威張えばられてるなんちことるもんか、卯平等うへいら根性こんじよう薄弱やくざだからやうねえ」

小がらなおじいさんは、髪をいっぱいに汗でぬらした。

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小柄こがらぢいさんはかみを一ぱいあせうるほした。

「いばられるわけじゃないが、おれはおれでやろうと思ってるんだから」

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威張えばらツる理由わけぢやねえが、れでやんべとおもつてんだから」

卯平は自分をかばうように言った。

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卯平うへい自分じぶん庇護ひごするやうにいつた。

「むこなんぞ、承知するもんじゃない。あんな泥棒野郎、おれはきらいだ。畑でも田でも油断ならないから」

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むこなんぞ、承知しようちするもんぢやねえ、あゝだ泥棒野郎どろぼうやらうきれえだ、はたけでもでも油斷ゆだんなんねえから」

「そんだが、今じゃふところがちっとはいいせいか、ぬすむのはぬすまないよ」

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「そんだが、いまぢやふところちつたえゝ所爲せえるなんねえよ」

「なあにおれは、蜀黍を切ったときにはかんべんするまいと思ったんだったが、おかみさんに来られたからがまんしたんだ。おれが卯平だったら槍で突きさしてやるんだ。いや、おれには本当にやれるとも。おれは家族の奴らになんざ、ぐずぐずは言わせないんだ。おれの家じゃ元日には暗いうちに起きて、みのを着て、いろりばたでいもを焼いて食う縁起なんだが、おれの家の奴らが、みっともないからいやだなんて言いやがるから、おれが、何だとうお前ら、いやだと言うんならいやだってもう一度言ってみろ、おれの目の黒いうちはそうはいかないぞというんだから。いや本当に、おれは聞かないんだから」

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「なあにれ、蜀黍もろこしつたときにや勘辨かんべんしめえとおもつたんだつけがお内儀かみさんにらツたから我慢がまんしたんだ、卯平うへいだらやりしてやんだ、いやれにや本當ほんたうられつとも、家族うち奴等やつらげなんざぐづ/\はあせねえだ、ぢや元日ぐわんじつにやくれえにきて、みのて、圍爐裏端ゐろりばたいもえてくふ縁起えんぎなんだが、奴等やつら外聞げえぶんわりいからだなんてかしやがつから、れ、なんだとうだつちんだらだつていまぺんつてろ、目玉めだまくれうちやさうはえがねえぞつちんだから、いや本當ほんたうかねえだから」

彼は髪がよけいにしめって、みんなの耳の底までひびくほどどなって見せた。

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かれかみ餘計よけいうるほひをして悉皆みんなみゝそことほほど呶鳴どなつてせた。

「お前みたいにそうは行かないよ、ほかの人は」

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「おめえてえにさうはかねえよ、他人たにんは」

卯平はぽつりと言った。

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卯平うへいはぽさりといつた。

「本当にお前みたいな人はいないよ。若いときから毎晩酔っちゃ、夜中でも明け方でもかまわない、馬を引いて帰っちゃ戸の割れるほどたたいて、そして馬の足を洗う湯がわいてないって言っちゃ、家族を追い出してなあ。百姓はお前、夜中まで起きて待ってはいられないな。そんだがお前も、跡取りがよくできて仕合わせだよなあ」

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本當ほんたうにおめえてえなもなねえよ、けえときから毎晩まいばん酩酊よつぱらつちや後夜ごやとりでもかまあねえうまひいけえつちやれるほどたゝいて、さうしちやうま裾湯すそゆえてねえつてつちや家族うちものことしてなあ、百姓ひやくしやうはおめえ夜中よなかまでねむんねえでつちやらんねえな、そんだがおめえも相續人さうぞくにん出來でき仕合しあはせだよなあ」

そばにいてさっきから聞いていたおばあさんの一人が言った。

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そば先刻さつきからいてばあさんの一人ひとりがいつた。

その身なりは、ほかの年寄りたちとはちがっていた。

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服裝なり老人等としよりらとはちがつてた。

「おれには追い出されるとも。これでおれは力は強かったからな。仕事じゃ卯平も強かったが、こんな大きな体をして、相撲じゃおれにはずっと負けっぱなしだ。おれはあっという間に投げつけちまうんだから。ああ、おれはうでばかりじゃない。それくらいだから歯も強いんだよ。おれは麦打ちのとき、唐箕を立ててて半夏桃をもらったのを、ひょいと口へ入れたっきり、種までがりがりかんじまったな。ふしぎだよ、そんだが桃をかじってると鼻の中へほこりが入らないからな。おれの歯じゃだれでもおどろくんだから。真ちゅうのきせるなんざ、くわえてぎりぎりっとこう手のひらでぶん回すと、ぽろっとかみ切れちまうのだから。そんだから今でも、こうれ、このとおりだ」

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れにやされつとも、んでちからつをかつたかんな、仕事しごとぢや卯平うへいつをかつたが、かうだえけ體格なりして相撲すまふぢやれにやかたでぺた/\だ。らやあつちうちにやげつちやあだから、あゝ、うでばかしぢやねえ、そらつくれえだからつええだよ、麥打むぎぶちとき唐箕たうみてゝちや半夏桃はんげもゝもらつたの、ひよえつとくちえたつきり、たねまでがり/\かぢつちやつたな、奇態きたいだよそんだがもゝかぢつてつとはななかほこりへえんねえかんな、れがぢやれでも魂消たまげんだから眞鍮しんちう煙管きせるなんざ、くうええてぎり/\つとかうぴらでぶんまあすとぽろうつとれちやあのがんだから、そんだからいまでも、かうれ、とほりだ」

おじいさんはぎりぎりと歯をかみ合わせて見せた。

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ぢいさんはぎり/\とあはせてせた。

「おれはそれから、喧嘩じゃ負けたことはないんだよ。野郎、何だというときには、はりたおすか、ひっくり返すかだな。ごろりところがった所をつま先とかかとを持って、こうぐるぐる引き回すと、どうだ、大きな野郎でも起きられないんだよ。もうおかしくて仕方がないな。いいか、こう、こうやるんだよ。ああ、おれは本当に強いのだよ。それ、卯平らはだめだな。後ろのほうにばかりかくれててからっきり」

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らそれから、喧嘩けんくわぢやけたこたねえだよ、野郎やらうなんだつちうちにやるか、ころがすかだな、ごろりころがつたところ爪先つまさきくびすつてかうぐる/\まあすとどうだえけ野郎やらうでもきらんねえだよ、から笑止をかしくつてやうねえな、えゝか、う、かうやんだよ、あゝ、本當ほんたうつええのがんだよ、それ卯平等うへいら駄目だめだなうしろはうにばかしかくれてゝからつき」

と、おじいさんは少し後ろに下がって、両手で喧嘩の相手を苛めるようなようすをして見せた。

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ぢいさんはすこ退さがつて兩手りやうてもつ喧嘩けんくわ相手あひていぢめるやうな容子ようすをしてせた。

「そんだがおれは旦那に言われてから、家族の奴らのことも怒らないもう。おれはうまい所を見られちまったな。いや、言われちゃもったいのうございます。本当にもったいないんだよ、おばあさん」

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「そんだが旦那だんなあれてから、家族うち奴等やつらこともおこんねえはあ、れうめえとこられつちやつたな、いやあれちや勿體もつてえながす、本當ほんたう勿體もつてえねえだよ、おばあさん」

おじいさんは首をうなだれて、めっきり静かになって言った。

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ぢいさんはくびたれ滅切めつきりしづかになつていつた。

そして彼は茶わんのお酒をだらだらとこぼしながら、一口に飲んだ。

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さうしてかれ茶碗ちやわんさけをだら/\とこぼしながらに一口ひとくちんだ。

このとき、外から女の人が一人いそいで来た。

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ときそとから女房にようばう一人ひとりせはしくた。

女の人は仏だんの前へ行って

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女房にようばう佛壇ぶつだんまへつて

「駐在所が来たよ」

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駐在所ちうざいしよたよ」

みんなの中へ首を突き入れるようにして、そっと言った。

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悉皆みんななかくびれるやうにしてそつかたつた。

みんなはしきりに勝ち負けにばかり心をうばわれていた。

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悉皆みんなしきりに輸臝かちまけにのみこゝろうばはれてた。

彼女たちの顔はにこにことしたり、またはしばらくどっぺをつかまない人は、むずかしい顔で目をしかめたり、口をむぐむぐ動かしたりして、自分ではまったくそれに気づいていなかった。

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彼等かれらかほはにこ/\としたりまたしばらくどつぺをつかまぬものはむづかしくなつたしがめたりくちをむぐ/\とうごかしたりして自分じぶんは一かうそれをらないのであつた。

彼女たちそれぞれが持っているいろいろなかくれた性しつが、うす暗い部屋の中でこっそりと思い切って表れていた。

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彼等かれら各自めい/\つて種々いろ/\かくれた性情せいじやう薄闇うすぐらしつうちにこつそりとおもつて表現へうげんされてた。

女の人の言葉は、みんなの顔をただおどろきの表情でおおわせた。

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女房はようばう言辭ことば悉皆みんなかほたゞ驚愕おどろき表情へうじやうもつおほはしめた。

一度に女の人を見た彼女たちには、そのときまでささやき合っていたおもかげがちっともなかった。

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女房にようばう彼等かれらにはときまで私語さゞめうたおもかげがちつともなかつた。

彼女たちは慌てて宝引きの糸もふところへかくして、知らないふりをしていろりのそばへ集まった。

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彼等かれらあわてゝ寶引絲はうびきいとふところかくしてらぬ容子ようすよそほうて圍爐裏ゐろりそばあつまつた。

「こっちのほうはひどく元気がいいから、おれらも仲間入りさせてもらいたいもんだ」

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「こつちのはうひど威勢えせいえゝかららも仲間入なかまいりさせてもらえてもんだ」

宝引きのおばあさんたちは言った。

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寶引はうびきばあさんはいつた。

「このばあさんらは、寄ればさわればばくちなんぞする気にばかりなって」

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婆等ばゝあらればさあれば博奕ばくちなんぞするにばかしつて」

おじいさんはあいかわらず悪口を止めなかった。

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ぢいさんは依然いぜんとして惡口わるくちめなかつた。

「こんなばあさんらだって、そんなにじゃま者にしないでくれよ。これでおれの家じゃまだおれがいなくちゃ真っ暗だよお前、嫁があのありさまだもの」

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「かうだ婆等ばゞあらだつてさうだに荷厄介にやつけえにしねえでくろよ、こんでぢやまあだれなくつちやくらやみだよおめえ、よめがあの仕掛しかけだもの」

おばあさんはさらに

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ばあさんはさら

「おれの仲間もたまったお金で後を買うから、独りでむっつりしてないで一つやりなさいね」

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らあ仲間なかま寺錢てらせんあとあから、ひとりでむつゝりしてねえでひとつやらつせえね」

と、卯平に杯をすすめた。

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卯平うへいさかづきすゝめた。

みんなの元気が次第に卯平の心を引き立てて、とうとう彼の大きな手に茶わんを取らせた。

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どう威勢ゐせい漸次しだい卯平うへいこゝろてゝ到頭たうとうかれおほきな茶碗ちやわんらせた。

おばあさんたちのたもとがふれて、軽くなっていた徳利がたおされた。

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ばあさんたもとれてかるつてた徳利とくりたふされた。

おばあさんたちは慌てて手ぬぐいでふこうとした。

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ばあさんあわてゝ手拭てぬぐひでふかうとした。

小がらなおじいさんはとつぜんたたみへ口をつけて、すうすうと息もつかずにお酒をすすって、それから強いせきをして、ざらざらになった口のほこりを手ぬぐいでこすった。

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小柄こがらぢいさんは突然いきなりたゝみくちをつけてすう/\と呼吸いきもつかずにさけすゝつてそれからつよせきをして、ざら/\につたくちほこり手拭てぬぐひでこすつた。

「ばあさんらがもったいないことをするから仕方がない。いやもったいないとも、米の油だからこれで。それ、証こにはお酒を飲んだ次の日じゃ、顔を洗うときつるつるするところがふしぎだな。何でも人間は油がふき出すようなら体は大丈夫だから。卯平、そうれ一ぱい飲め」

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婆等ばゝあら勿體もつてえねえことすつからやうねえ、いや勿體もつてえねえともこめあぶらだからこんで、それ證據しようこにやさけんだ明日あしたぢやつらあらときつる/\すつとこ奇態きてえだな、なんでも人間にんげんあぶらすやうだら身體からだ大丈夫だえぢやうぶだから、卯平うへいそうれ一ぺえめ」

おじいさんは、また口を手ぬぐいでこすりながら言った。

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ぢいさんはまたくち手拭てぬぐひでこすりつゝいつた。

「ひどい奴だからあんな野郎は。けだものと同じだから」

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畜生ちきしやうだからあゝだ野郎やらうは、畜生ちきしやうとおんなじだから」

おじいさんは、小さな頭のしめりをまたすっと手ぬぐいでふいた。

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ぢいさんはちひさなあたまうるほひをまたすつと手拭てぬぐひでふいた。

「そんなにお前、けだものだなんて。ようすも見もしないで」

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其麽そんなにおめえ、畜生ちきしやうだなんて、もとももしねえで」

と、さっきの身なりのいいおばあさんがたしなめるように言った。

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先刻さつき服裝みなりばあさんがたしなめるやうにいつた。

「いやっ、おばあさん、ようすを見ないったって、そうに決まってるんだから。いや本当だよ。おれは嘘を言うのはきらいだから。そんだがあの女もずうずうしい女だ。この間なんざ、おっかさんのことは思い出さないかと言ったら、思い出さないなんて言いやがって」

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「いやツ、おばあさん、もとねえつたつてさうにきまつてんだから、いや本當ほんたうだよ。ちくいふなきれえだから、そんだがあの阿魔あまもづう/\しい阿魔あまだ、此間こねえだなんざおつかこたおもさねえかつちつたら、おもさねえなんてかしやがつて」

おじいさんはまた調子に乗った。

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ぢいさんはまた乘地のりぢつた。

「ありゃあそれ、おれには分かるんだよ。随分つらい目にあったから、お母さんのことを思わないことはないが、みんなでからかいからかいしたから、それでそんなことを言うようになったんだな。さすがにあれだって困ってはいるんだから。何と言ったって、あれに罪はないよ」

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「ありやあそれ、れがにやえゝんだよ、隨分ずゐぶんつれつたから、おふくろことあねえこたねえが、悉皆みんな揶揄からけえ/\したからそんでさうだこといふやうんつたんだな、有繋まさかあれだつてこまつちやんだから、なんちつたつてあれにやつみやあねえよ」

最後の一言をすっと低く言って、彼はやっと茶わんの底を飲み干した。

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最後さいごの一をすつとひくくいつてかれやうや茶碗ちやわんそこした。

「勘次もつらかったろうが、おれもお品に死なれたときには泣いたよ。あれのことは三つのときから育てたんだから」

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勘次かんじつらかつたんべが、らもしななつたときにやえたよ、あれこたみつつのときツからそだツたんだから」

卯平はまた情けなさそうな舌が、もうこわばってしまった。

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卯平うへいまたなさけなげなしたがもうこはばつてしまつた。

「ほんにお前も、お品さんに死なれたのが不運だったっけのさな。そんだがお前、長生きしただけいいんだよ」

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「ほんにおめえもおしなさんになくならつたのが不運くされだつけのさな、そんだがおめえ長命ながいきしたゞけええんだよ」

おばあさんたちは口々になぐさめながら言った。

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ばあさん口々くちぐちなぐさめつゝいつた。

「手足も利かなくなっちまって、お金は取れずもう。野田でこしらえたひとえもなくしちまったな。どうせこれ、来年の夏まで生きていられるかどうだか分かりやしまいし、かまわないな」

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手足てあしかなくなつちやつてぜねはとれずはあ、野田のだこせえた單衣物ひてえものもなくしつちやつたな、どうせれ、來年らいねんなつまできてられつかうだかわかりやすめえし、かまあねえな」

卯平は口の中で独りつぶやくように、ぶすりと言った。

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卯平うへいたゞひとりでつぶやくやうにぶすりといつた。

彼はほとんど、その舌が味を感じないのだろうと思うほど、ただ茶わんのお酒をかたむけるばかりだった。

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かれほとんどしたあぢかんぜぬであらうとおもふやうにたゞ茶碗ちやわんさけかたむけるのみであつた。

「そんだがむすめも年ごろが来てるのに、嫁にやるとかむこを取るとかしないじゃかわいそうだよなあ」

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「そんだがむすめ年頃としごろてんのにるとかとるとかしねえぢや可哀相かあいさうだよなあ」

おばあさんたちの口は、それからそれと尽きなかった。

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ばあさんくちはそれからそれときなかつた。

お酒に勢いをつけられたおばあさんたちは、何かをせんさくしなければ気が済まないのだった。

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さけいきほひつけられたばあさんなにかの穿鑿せんさくをせねばまないのであつた。

「どうするこったか、自分の子どもでもありやしまいし、おれには分からないな」

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「どうするこつたか自分じぶん子供こどもでもありやすめえし、らがにやわかんねえな」

卯平は、どこまでもそっけない言い方である。

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卯平うへい何處どこまでもからびたいひやうである。

「そんだがよ、話してやるといいんだな。出すと決まりゃ、いくらでも話は来らあな」

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「そんだがよ、はなしてやつとえゝんだな、すときまりやいくらでもくちらな」

「むだだよお前、だれが言うことだって聞きやしないんだから」

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徒勞むだだよおめえ、だれがいふことだつて苦勞くらうはねえんだから」

おばあさんたちはたがいに勝手なことを、がやがやと話しつづけた。

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ばあさんたがひ勝手かつてなことをがや/\とかたつゞけた。

「そんじゃとなりの旦那にでもよく話してもらったら、聞くかも知れないぞ。それよりほかはないぞ、お前」

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「そんぢやとなり旦那だんなにでもようくはなしてもらつたらくかもんねえぞ、それよりほかあねえぞおめえ」

おばあさんの一人が卯平に向かって言った。

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ばあさんの一人ひとり卯平うへいむかつていつた。

「そうすりゃもう、おたがいにいいぐあいできずもつかないんだから。おれもそうは思ってはいるんだが、これ、言うのもおかしなもんで」

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「さうすりやはあ、おたげえにえゝ鹽梅あんべえきずもつかねえんだから、れもさうはおもつちやんだが、れ、いふのもをかしなもんで」

卯平のほおにはやや赤みがさして、彼はおばあさんに言われたことがうれしそうに見えるのだった。

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卯平うへいほゝにはやゝべにしてかればあさんにいはれたことがうれさうえるのであつた。

「なあに、そうもこうもあるもんか。いいから、そんな奴らは打っとばしてやれ」

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「なあに、さうだもかうだもるもんか、えゝから、さうだ奴等やつらばしてやれ」

しばらく黙っていたさっきのおじいさんは、小がらな体を固めてまたどなった。

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しばらだまつて先刻さつきぢいさんは小柄こがら身體からだかためてまた呶鳴どなつた。

「うん、なあに、おれもそれから去年の秋は火ばしで打っとばしてやったな」

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「うむ、なあにれもそれから去年きよねんあき火箸ひばしばしてやつたな」

卯平はこう言って、彼にしてはとても元気を取りもどしていた。

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卯平うへいういつてかれにしてはいちじるしく元氣げんき恢復くわいふくしてた。

「そうだとも。お金でも何でもくれなけりゃ、よこせと言えばいいんだ。お金がないなんて言えば、米でも麦でもうばい取ってやれ」

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「さうだとも、ぜねでもなんでもんなけりや、よこせつちばえゝんだ、ぜねねえなんちへばこめでもむぎでも奪取ふんだくつてやれ」

おじいさんはまわりへつばを飛ばした。

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ぢいさんは周圍あたりつばばした。

「それでもおれは、打っとばしてから、質流れだなんて味噌を一たる買ったな。ふすまの味噌でうまくはないが、今じゃそんでもしるは吸えることは吸えるのよ」

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「それでもばしてからしちながれだなんち味噌みそたるつたな、麩味噌ふすまみそ佳味うまかねえがいまぢやそんでもおつけへるこたへんのよ」

卯平は、自分の手がらでも語るような言い方だった。

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卯平うへい自分じぶん手柄てがらでもかたるやうないひかたであつた。

「食い物をおしがるなんて、けちにもほどがあるじゃないか。本当にばち当たりだから。おれだったら生かしちゃおかない。いや、まったくだよ。親に食わせるのがおしいなんて野郎は、突きさしたって言い分が立つとも。おれだったらりっぱに立てて見せらあな。卯平、しっかりしろ。おれだったら勘次らくらいのは、またうんという目にあわせらあな。いや本当に、おれにかかっちゃひどいからな、これで」

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食料くひものしがるなんちごふつくばりもねえもんぢやねえか、本當ほんたうばちつたかりだから、らだらかしちやかねえ、いやまつたくだよ、おやのげあせんのをしいなんち野郎やらうしたつてまをひらつとも、らだら立派りつぱてゝせらな、卯平うへい確乎しつかりしろ、らだら勘次等かんじらぐれえなゝまたうんちあせらな、いや本當ほんたうれにかゝつちやひでえかんなこんで」

おじいさんははげしく、そして例の自まんを言いつづけた。

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ぢいさんははげしくさうしてれい自慢じまんをいひつゞけた。

「そんなことを言ったってお前、むかしから他人を切ったこともないくせに」

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「さうだことつたつておめえ、以前めえかたから他人ひとのことつたこともねえくせに」

そばから身なりのいいおばあさんがけなして言った。

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そばから服裝みなりばあさんがくさしていつた。

「そんだが、この年になって懲役に行くのはいやよ、おれも」

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「そんだが、年齡としになつて懲役ちようえきぐなれも」

おじいさんはずっと下げた頭を手でおさえて笑いころげた。

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ぢいさんはずつとれたあたまおさへてわらひこけた。

おばあさんたちもどっと笑った。

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ばあさんもどつと哄笑どよめいた。

「勘次らは、そのときからおれとは口も利かないや」

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勘次等かんじら、そんときかられたくちかねえや」

卯平は他人にかまわずこう言って、その舌を鳴らしてつばを飲んだ。

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卯平うへい他人ひとには頓着とんぢやくなしにかういつてしたらしてつばんだ。

「口を利かない。そんなら口を両方へ裂いてやれ。さあ利くか利かないかと、こうだ」

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くちかねえ、そんだらくち兩方りやうはうへふんえてやれ、さあくかかねえかとうだ」

小がらなおじいさんは自分の口を両手の指でぐっと広げて言った。いろりのあたりは、しばらくさわぎが止まなかった。

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小柄こがらぢいさんは自分じぶんくち兩手りやうてゆびでぐつとひろげていつた、圍爐裏ゐろりあたりしばらさわぎがまなかつた。

卯平の心も、たとえ一時でもまわりのしげきからいくらか力をもらって、ある元気を取りもどしたのだった。

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卯平うへいこゝろ假令たとひ時的じてきでも周圍しうゐ刺戟しげきから幾分いくぶんちからそへられてあるいきほひを恢復くわいふくしたのであつた。

「しっかりしろえ、いいから」

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確乎しつかりしろえ、えゝから」

小がらなおじいさんは、別れるときまたどなった。

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小柄こがらぢいさんはわかれるときまた呶鳴どなつた。

卯平の足元は、やや力づいて見えていた。

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卯平うへいあしもとはやゝちからづいてえてた。

卯平は念仏寮から帰って来たとき、どかりと火ばちの前にすわった。

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卯平うへい念佛寮ねんぶつれうからかへつてときどかりと火鉢ひばちまへすわつた。

彼は元気づけられていた。

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かれいきほひづけられてた。

勘次はいつものように遠ざかった。

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勘次かんじれいごととほざかつた。

「おつう、米とひきわり麦を出せ」

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「おつう、こめ挽割麥ひきわりせ」

卯平はすわるなり、とつぜんこう言った。

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卯平うへいくと突然とつぜんかういつた。

「たくさん出せ」

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夥多みつしらせ」

間を置いてまた言った。

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あひだいてまたいつた。

「何するんだい、爺さんは」

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なにすんでえ、ぢいは」

おつぎはそれを軽く受けて、こう言った。

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おつぎはそれをかるうけういつた。

卯平は目をしかめた。

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卯平うへいしがめた。

彼は暗い夜にずんずん歩いた足が、急にくぼみをふんでがくりと調子がくるったようなようすだった。

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かれ闇夜あんやにずんずんとはこんだあしきふくぼみをんでがくりと調子てうしくるつたやうな容子ようすであつた。

「明日、要るなら出してやろうな。爺さんらはどうせ夜なんぞ要りやしまいしなあ」

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明日あしたればしてやんびやな、爺等ぢいらどうせよるなんぞりやすめえしなあ」

おつぎはまた、なだめるように言った。

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おつぎはまたすかすやうにいつた。

卯平はもう、くり返して言わなかった。

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卯平うへいはもう反覆くりかへしていはなかつた。

彼はただそのくせの舌を鳴らして、ごくりとつばを飲むだけだった。

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かれたゞそのくせしたらしてごくりとつばむのみであつた。

次の朝になってお酒の気がすっかり体からぬけたら、彼はふだんの卯平だった。

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つぎあさつて酒氣しゆきこと/″\かれ身體からだから發散はつさんつくしたらかれ平生へいぜい卯平うへいであつた。

二四

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二四

卯平はけっして悪い人ではなかった。

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卯平うへいけつして惡人あくにんではなかつた。

彼は生まれつきいかつく大きな体だったけれど、そのしかめたような目にはいつもどこかやわらかな光があるようで、思い切ってしなければならないことに出あっても、二度や三度はためらうのが、どちらかと言えば彼のくせの一つだった。

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かれ性來せいらい嚴疊がんでふおほきな身體からだであつたけれど、しかめたやうなには不斷ふだん何處どこやはらかなひかりつてるやうで、おもつてせねばらぬ事件じけん出逢であうても二や三逡巡しりごみするのがどうかといへばかれくせの一つであつた。

ぶすりとしてそっけないようすでも、表に出ているより暖かくて、女の人に弱いところさえあるのだった。

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ぶすりとにべない容子ようすでも表面へうめんあらはれたよりもあたゝかで、をんなもろところさへあるのであつた。

彼が働きざかりのころに他人の目についたのは、自分の仕事にはあまり力を入れないように見えることだった。

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かれ盛年さかりころ他人たにんについたのは、自分自身じぶんじしん仕事しごとにはあませいさないやうにえることであつた。

たいていのことではまるでさわがない彼のようすが、外からはそう見えたのである。

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大概たいがいのことでは一かうさわがぬやうなかれ容子ようすほかからではさうらしくもえるのであつた。

もう一つは、身なりをけっしてくずさないことだった。

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も一つは服裝ふくさうけつしてくずさぬことであつた。

彼は他人にやとわれていながら、草刈りにでも出るときは、手ぬぐいとこんのひとえと三尺帯を風呂しきに包んで馬の荷ぐらにくくった。

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かれ他人たにんやとはれてながら、草刈くさかりにでもとき手拭てぬぐひこん單衣ひとへものと三尺帶じやくおびとを風呂敷ふろしきつゝんでうま荷鞍にぐらくゝつた。

そのころは、草といってはすっかり刈りたおして、しばでもしばるように真ん中をたばねて馬に積むのだった。

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そのころくさというては悉皆みんな薙倒なぎたふして麁朶そだでもしばるやうに中央ちうあうつかねてうまむのであつた。

雑木林のあいだに馬をつないだままで、彼は着物を着がえて当てもなくぶらつくのが好きだった。

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雜木林ざふきばやしあひだうまつないだまゝかれ衣物きものあらためてあてどもなくぶらつくのがきであつた。

それでも彼の丈夫できたえられたうでは、決められた一人分の仕事をこなすのは、日がやや西にかたむいてからでも、それほど大変なことではなかった。

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それでもかれ強健きやうけん鍛練たんれんされたうでさだめられた一人分にんぶん仕事しごとはたすのはやゝかたぶいてからでもあなが難事なんじではないのであつた。

この二つのほかには、特にこれといって人の記おくに残ることはなかった。

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の二つのほかには別段べつだんれというてかぞへるほど他人たにん記憶きおくにものこつてなかつた。

それでも彼の大きな体と生まれつきの器用さは、主人にわりと多い給料をおしませなかった。

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それでもかれおほきな躰躯からだ性來せいらい器用きようとは主人しゆじんをして比較的ひかくてき餘計よけい給料きふれうをしませなかつた。

彼はその奉公で得た給料を自分のために使って、そのころとしては人があやしむような年ごろの、三十近くまで独り身の暮らしをつづけた。

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かれ奉公ほうこうして給料きふれう自分じぶんつひやしてころでは餘所目よそめにはうたがはれる年頃としごろの卅ぢかくまで獨身どくしん生活せいくわつ繼續けいぞくした。

そのあいだに彼は悪い病気にかかった。

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そのあひだかれ黴毒ばいどくんだ。

一時はぶらぶらとだるそうな青い顔もしていたが、病気はしばらくして忘れたように、その丈夫な体のどこかにひそんでしまった。

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はぶら/\と懶相だるさうあをかほもしてたが、病氣びやうきしばらくしてわすれたやうに強健きやうけん身體からだ何處どこにか潜伏せんぷくしてしまつた。

彼はもちろんそれを、治ったものと思っていた。

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かれ勿論もちろんそれをなほつたことゝおもつてた。

そのうちに彼は嫁をもらって、小さな所帯を持って働くことになった。

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うちかれよめをとつてちひさな世帶しよたいつてかせぐことになつた。

嫁は間もなく身ごもったが、赤ちゃんは死んで、そしてくさって出た。

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よめもなく懷姙くわいにんしたが胎兒たいじんでさうして腐敗ふはいしてた。

自分も他人も、病気のせいの子だと言った。

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自分じぶん他人ひとかさだといつた。

二、三人生まれたが、どれも育たなかった。

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二三にんうまれたがどれも發育はついくしなかつた。

それでも幼い子が死ぬのは病気のせいだというだけで、その毒のおそろしさを知るはずもなく、だからおそれるはずもなかった。

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それでも幼兒えうじぬのはかさだからといふのみで病毒びやうどく慘害さんがいはずもなくしたがつておそれるはずもなかつた。

お品のお母さんはとても貧しいやもめで、足が立つか立たないかのお品をふところにして、みじめな暮らしをしていた。

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しなはゝ非常ひじやう貧乏びんばふ寡婦ごけで、あしつかたぬのおしなふところにして悲慘みじめ生活せいくわつをしてた。

それを卯平は心からあわれみの気持ちで見ていた。

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それを卯平うへいこゝろから哀憐あはれみじやうもつた。

お品のお母さんは百姓としては特に力もなかったから、やもめとしてやって行くにはとても大変なはずなだけ、体のどこかにやわらかなようすがあって、きれい好きな卯平の心を引いた。

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しなはゝ百姓ひやくしやうとしては格別かくべつはたらきをたなかつたから、寡婦ごけとして獨立どくりつしてくには非常ひじやう困難こんなんでなければらぬだけ身體からだ何處どこにかやはらかな容子ようすがあつて、清潔好きれいずき卯平うへいこゝろいた。

どこか人なつっこいところがあって、ひたすら他人の同情をほしがっていたお品のお母さんの、何かを求めるような態度が、やがて二人を近づけた。

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何處どこ人懷ひとなつこいところがあつて只管ひたすら他人たにん同情どうじやうかつしてたおしなはゝ何物なにものをかもとめるやうな態度たいどやうや二人ふたりちかづけた。

そのころ彼の女房は、長いあいだ病気になやまされていた。

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ころかれ女房にようばうながあひだ病氣びやうきなやまされてた。

病気はついによくならなかった。

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病氣びやうきつひ恢復くわいふくしなかつた。

女房はある年また身ごもって、生まれる月が近くなったら、どうしたものか数日のうちにおなかがふくれて、一晩のうちにもそれがずんずんと目に見えた。

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女房にようばうあるとし姙娠にんしんして臨月りんげつちかくなつたら、どうしたものか數日すうじつうち腹部ふくぶ膨脹ばうちやうして一うちにもそれがずん/\とえる。

女房は横になることもその苦しさにたえられないで、積んだふとんに寄りかかって、やっと苦しい息をついていた。

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女房にようばう横臥わうぐわすることも苦痛くつうへないで、んだ蒲團ふとんかゝつてわづかせつない呼吸いきをついてた。

赤ちゃんをうかべた水がよけいにたまったのである。

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胎兒たいじかしめたみづ餘計よけいたまつたのである。

そのころは医者の手でさえ、それをどうすることもできなかった。

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ころ醫者いしやでさへそれをどうすることも出來できなかつた。

その上、彼は医者を呼ぶのが億くうで、大事な命ということを考えることさえ、心にゆとりがなかった。

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加之それのみでなくかれ醫者いしやぶことが億劫おつくふで、大事だいじ生命いのちといふことをかんがへることさへこゝろいとまたなかつた。

運よく、赤ちゃんを包むまくをふくらませたえきが、自分から逃げ道を求めてそのまくをやぶった。

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僥倖げうかうにも卵膜らんまく膨脹ばうちやうさせた液體みづ自分じぶんからみちもとめて包圍はうゐやぶつた。

何しょうものえきがほとばしって、おどろいて横になっていた体をふとんの上にうかそうとした。

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數升すうしよう液體みづほとばしつて、おどろいてよこたへた蒲團ふとんうへかさうとした。

それとともに、いる場所を失った赤ちゃんは、自然に母の体をはなれて出なければならなかった。

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それととも安住あんぢう場所ばしようしなうた胎兒たいじ自然しぜん母體ぼたいはなれてねばならなかつた。

赤ちゃんはもちろん死んでいて、手を先に出した。

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胎兒たいじ勿論もちろんんでさうしてした。

そのとき、女房はとてもつかれきっていたが、がまんをするからと言ったばかりに、卯平はぐっと力を入れて引き出した。

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とき女房にようばう非常ひじやう疲憊ひはいしてたが、我慢がまんをするからといつたばかりに卯平うへいはぐつとちかられてした。

彼の悪気のない手がこんなにむごく使われたのは、夫婦のあいだでは少しでも他人の手を借りることに、お金のこわさを感じさせられたからだった。

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かれ惡意あくいたぬかくごと残酷ざんこくはたらかされたのは、夫婦ふうふあひだにはわづかでも他人たにんることに金錢上きんせんじやう恐怖おそれいだかしめられたからであつた。

女房はそれでも死ななかった。

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女房にようばうはそれでもなゝかつた。

しかし、ほとんど想像もできなかった痛みが体じゅうにしみわたった。

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しかほとんど想像さうざうされなかつた疼痛とうつう滿身まんしんわたつた。

やがてひどい熱が出た。

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やが非常ひじやう發熱はつねつともなつた。

それからというもの、三年もねたままで、季節が暖かくなればたまにはふとんからずり出して、やっとつえにすがっては、やわらかな春の日ざしさえまぶしがっていた。

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それからといふものは三ねんふせつたまゝ季節きせつあたゝかにればまれには蒲團ふとんからずりしてわづかつゑすがつてはやはらかなはるをさへ刺戟しげきへぬやうにまぶしがつてた。

お品のお母さんとのことが、よけいな告げ口から女房の耳に入った。

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しなはゝとの關係くわんけい餘計よけい告口つげぐちから女房にようばうみゝはひつた。

そのころ暑さに向かっていたせいもあったが、女房はそれを気にしはじめてから、がっかりとやつれたように見えた。

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ころあつさにいて所爲せゐでもあつたが女房にようばうはそれをにしはじめてからがつかりとやつれたやうにえた。

女房が死んだとき、卯平はまくら元にいなかった。

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女房にようばうんだとき卯平うへい枕元まくらもとなかつた。

村には赤痢がはやった。

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村落むらには赤痢せきり發生はつせいした。

予防の知しきも何もない彼らは、たがいに葬式に呼び合って少しの心配もなく飲み食いをしたので、病気はすごい勢いで広まったのだった。

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豫防よばう注意ちういなにもない彼等かれらたがひ葬儀さうぎうてすこしの懸念けねんもなしに飮食いんしよくをしたので病氣びやうき非常ひじやういきほひで蔓延まんえんしたのであつた。

卯平も病人の一人で、そしてお品の家でなやんでいた。

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卯平うへい患者くわんじやの一にんでさうしておしないへなやんでた。

お品のお母さんの親切な看病で、彼は助かった。

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しなはゝ懇切こんせつ介抱かいはうからかれすくはれた。

彼はどうしても、死にかけた女房のそばへ病んだ体を運ぶことができなかった。

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かれはどうしても瀕死ひんし女房にようばうかたはら病躯びやうくはこぶことが出來できなかつた。

そのやつれた目がうれえるのを、彼は見るにたえられなかったからである。

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やつれたうれへるのをかれるにしのびなかつたからである。

彼のそういう気持ちは、長い月日の病気の苦しみにさいなまれてひがんだ女房の心に伝わるはずがなかった。

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かれのさういふ意志いしなが月日つきひ病苦びやうくさいなまれてひがんだ女房にようばうこゝろつうずる理由わけがなかつた。

そして女房は、はげしい神経痛をうったえながら死んだ。

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さうして女房にようばう激烈げきれつ神經痛しんけいつううつたへつゝんだ。

卯平はさすがに泣いた。

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卯平うへい有繋さすがいた。

葬式は親せきと近所で行ったが、卯平もやっとつえにすがって行った。

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葬式さうしき姻戚みより近所きんじよとでいとなんだが、卯平うへいやつつゑすがつてつた。

その秋のお盆には、赤痢のさわぎもおさまって、新しいほとけさまの数が増えていた。

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あきぼんには赤痢せきりさわぎもしづんであたらしいほとけかずえてた。

墓地には、ほり上げた赤い土の小さなつかが、いくつもそまつなかんおけの台を乗せていた。

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墓地ぼちにはげたあかつちちひさなつかいくつも疎末そまつ棺臺くわんだいせてた。

たいていは赤痢にかかってやっと体に力がついたばかりの人々が、いつもの年のように草かりがまを持って、六日の日の夕方に「墓なぎ」といって出た。

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大抵たいてい赤痢せきりかゝつてやうや身體からだちからがついたばかりの人々ひと/″\例年れいねんごと草刈鎌くさかりがまつて六夕刻ゆふこく墓薙はかなぎというてた。

墓のあたりは、生えるにまかせた草が刈り払われて、見るからにきれいになった。

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はかほとりはえるにまかせたくさ刈拂かりはらはれてるから清潔せいけつつた。

真ん中に青竹の線香立てがくいのように立てられて、石ひの前には一つずつ、青竹のすのこのような小さなたなが作られた。

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中央ちうあう青竹あをだけ線香立せんかうたてくひのやうにてられて、石碑せきひまへにはひとつづゝ青竹あをだけのやうなちひさなたなつくられた。

卯平も墓なぎの仲間に加わった。

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卯平うへい墓薙はかなぎむれくははつた。

彼のまだ力ない手に持ったかまの刃先が、女房のかんおけの台の下をのぞいてからりとわたったとき、彼はぞっとして手を引いた。

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かれのまだちからないつたかま刄先はさき女房にようばう棺臺くわんだいしたのぞいてからりとわたつたときかれ悚然ぞつとしていた。

へびが体の後ろ半分を彼の足元に出して、白い腹を見せた。

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へび身體からだ後半こうはんかれあしもとにあらはしてしろはらせた。

かまの刃先がへびを切ったのである。

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かま刄先はさきへびつたのである。

へびはしばらくじっとしていて、とてもゆっくりとかんおけの台の下へかくれた。

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へびしばら凝然ぢつとしてきはめておもむろに棺臺くわんだいしたかくれた。

卯平の顔は、夕暮れの光に青かった。

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卯平うへいかほ黄昏たそがれひかりあをかつた。

彼はそれから、外へ出ることもめったになくなった。

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かれはそれから他出たしゆつすることもまれになつた。

よくなりかけた病後のつかれが、夜はねばるような汗を出させた。

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恢復くわいふくしかけた病後びやうご疲勞ひらうよるねばるやうなあせ分泌ぶんぴさせた。

それから八日目に、村の人がほとけさまをむかえにちょうちんを持って行ったときには、刈り払われた草が、暑いといっても秋らしくなった日に、実をつけるのを急ごうとして、すっくと首をもたげていた。

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それから八日目かめ村落むらものほとけむかへに提灯ちやうちんつてつたときはらはれたくさあついといつてもあきらしくなつた生殖作用せいしよくさよういそがうとして聳然すつくりくびもたげてた。

村の人々は好き心にかられて、おずおずとかんおけの台をそっと上げてみた。

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村落むら人々ひとびと好奇心かうきしんられてづ/\も棺臺くわんだいをそつとげてた。

へびはあいかわらず、だらりと横たわったままだった。

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へび依然いぜんとしてだらりとよこたはつたまゝであつた。

人々は見開いた目を見合わせた。

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人々ひとびとみはつた見合みあはせた。

村の人が去った後には、小さな青竹の線香立てから、そこらの石ひの前から、じりじりと身を焼いて行く火に苦しんでもだえるように、けむりはうねりながら立ちのぼって、さびしい夕暮れの光の中をさまよった。

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村落むらものつたあとにはちひさな青竹あをだけ線香立せんかうたてからそこらの石碑せきひまへからぢり/\といてくるしんでもだえるやうにけぶりはうねりながらのぼつて寂寥せきれうたる黄昏たそがれひかりなか彷徨さまようた。

それからまた四日目に、ほとけさまを送って村の人は夕暮れの墓地に集まった。

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それからまた日目かめほとけおくつて村落むらもの黄昏たそがれ墓地ぼちうた。

へびはそれでも、かんおけの台のかげをはなれなかった。

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へび猶且やつぱり棺臺くわんだいかげらなかつた。

へびは自由にはうには、あまりにきずが大きかった。

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へび自由じいう匍匐はらばふにはあまりに瘡痍きずおほきかつた。

反り返ったくちびるのようにふくれた肉は、ほこりにまみれて黒く変わっていた。

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かへつたくちびるのやうにふくれたにくほこりまみれてくろへんじてた。

かんおけの台のすきまから人がこれをのぞけば、こわがって少しずつのたくるのだった。

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棺臺くわんだいかしてひとこれうかゞへば恐怖おそれいだいてすこしづゝのたくるのであつた。

女房が出たのだと言って、村の人はへらず口をたたいた。

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女房にようばうたのだといつて村落むらものらずぐちたゝいた。

しばらくして、お品のお母さんの耳にもへびのうわさが伝わった。

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しばらくしておしなはゝみゝへもへびうはさつたはつた。

それからというもの、お品のお母さんは一晩でも卯平を自分の家から放さない。

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それからといふものおしなはゝは一でも卯平うへい自分じぶんうちからはなさない。

三つになっていたお品が卯平を慕って、しっかりとその家に引きとめたのは、それから間もないことである。

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みつつにつてたおしな卯平うへいしたうて確乎しつかうちめたのはそれからもないことである。

へびの話は、いつのまにか消えてなくなった。

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へびはなし何時いつにか消滅せうめつした。

それは、みんながたがいに思い出をくり返して面白がるほど、彼らをにくんではいなかったからである。

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それは悉皆みんなたがひこゝろ記憶きおく反覆くりかへしてこゝろよしとするほど彼等かれらにくんではなかつたからである。

その後、長い年月がたってお品のお母さんが死んだとき、むかしの話を見たり聞いたりしていた人のあいだでだけ、わずかに思い出が呼び返された。

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そののちなが歳月としつきておしなはゝんだとき以前いぜんはなしたりいたりしてものあひだにのみわづか記憶きおくかへされた。

お品のお母さんは、腰に病気を持っていた。

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しなはゝこし病氣びやうきつてた。

卯平は、自分の手でつくった罪というものは、ほとんど見られなかった。

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卯平うへい自分じぶんからつくつたつみといふものはほとんどられなかつた。

ただ彼は、働きざかりのころはほかのやとわれ人たちといっしょに、よくねこを殺して食べていた。

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たゞかれ盛年さかりころ傭人等やとひにんらともねこころしてべてた。

もっともそのころは、ねこでも犬でも飼い主をはなれてにわとりをねらうのがうろついていた。

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もつとそのころねこでもいぬでも飼主かひぬしはなれてにはとりねらふのが彷徨うろついた。

彼らはわなをかけてそれを待った。

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彼等かれらわなけてそれをつた。

しかし、たいていの家ではにわとりさえ家の中で煮るのをゆるさないので、後ろの庭へ竹で三本の足を作って、それになべのつるをかけたほどだったから、ねこを殺すことがおそろしい悪いことのように見られたのだった。

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しか大抵たいてい家々いへ/\ではにはとりでさへいへうちではるのを許容ゆるさないので、うしろにはたけで三ぼんあしつくつてそれへ鍋蔓なべつるけたほどであつたから、ねこころすことがおそろしい罪惡ざいあくのやうにられたのであつた。

ねこは塩からい塩ざけを与えれば腰が利かなくなる病気になると言われているので、卯平が腰をなやんでいるのを、まれにはねこのたたりだと冗談に言う人もあった。

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ねこから鹽鮭しほざけあたへればこしかない病氣びやうきかゝると一ぱんにいはれてるので卯平うへいこしなやんでるのをまれにはねこたゝりだと戯談じようだんにいふものもあつた。

それでも、そういううわさは広がらなかった。

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それでもさういふうはさひろがらなかつた。

彼はにくしみもねたみも、村のだれからも買わなかった。

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かれ憎惡ぞうを嫉妬しつととを村落むらたれからもはなかつた。

にくしみもねたみもない、そこにわざと悪いうわさを作るほど、百姓は意地が悪くなかった。

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憎惡ぞうを嫉妬しつともない其處そこ故意わざ惡評あくひやうほど百姓ひやくしやう邪心じやしんつてなかつた。

村の西のはしにはなれて住んでいる彼には、興味を持って見させるところが一つもなかった。

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村落むら西端せいたん僻在へきざいしてかれには興味きようみもつさせるひとつの條件でうけんそなへてなかつた。

ただむっつりとして、他人にうったえることも求めることもない彼は、まったく村とのつながりがなかった。

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たゞむつゝりとして他人たにんうつたへることももとめることもないかれは一さい村落むらとの交渉かうせふがなかつた。

彼一人のいるいないは、少しも村にとって重みがなかった。

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かれの一しん有無うむすこしも村落むらためには輕重けいちようするところがなかつた。

二五

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二五

初冬のえだをあわただしくわたって、それからしばらくさわいだまま、その後はぱたりと忘れていて、まれに思い出したようにかれ木のえだを泣かせた西風が、雑木林のえだに白くつらなっている西の遠い山々の向こうに横たわっていたのが、急に、自分が力をふるうはずの冬が自分を置いて行ってしまったのに気づいて、ふくだけふかなければ気の済まないその性しつを出して、毎日その独特の力で軽い土を空にまき上げた。

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初冬しよとうこずゑあわたゞしくわたつてそれからしばらさわいだまゝのちはたわすれてまれおもしたやうに枯木かれきえだかせた西風にしかぜが、雜木林ざふきばやしこずゑしろつらなつて西にしとほ山々やま/\彼方かなた横臥たのがにはか自分じぶん威力ゐりよくたくましくすべきふゆ季節きせつ自分じぶんてゝつたのにがついて、くだけかねばめられない特性とくせい發揮はつきして毎日まいにち特有もちまへちから輕鬆けいしようつちそらいた。

その日も、夜明けから空があまりにからりとして、やわらかな光を持たなかった。

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拂曉あけがたからそらあまりにからりとしてにぶやはらかなひかりたなかつた。

毎日ふきまくる強い風が、その遠い西の山の氷や雪をふくんで、細かく地面をおおってまき散らしたかと思うように、霜が白く固まっていた。

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毎日まいにちくる疾風しつぷうとほ西山せいざん氷雪ひようせつふくんで微細びさい地上ちじやうおほうて撒布さんぷしたかとおもふやうにしもしろつてた。

勘次はいつものように、おつぎを連れて開こん地へ出た。

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勘次かんじ平生いつもごとくおつぎをれて開墾地かいこんちた。

おつぎは半纏を後ろへふわりとかけたまま手も通さないで、肩には襷をななめにかけて、万能ぐわをかついでいた。

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おつぎは半纏はんてんうしろへふはりとけたまゝとほさないで、かたへはたすきなゝめけて萬能まんのうかついでた。

白い手ぬぐいと、手ぬぐいの外に少しのぞいたおくれ毛が、歩くたびにふらふらと動くのも、しみじみと冷たそうだった。

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しろ手拭てぬぐひとそれから手拭てぬぐひそとすこのぞいたおくあるたびにふら/\とうごくのもしみ/″\とつめさうであつた。

草や木や地面の霜にまばたきしながら、横に、そしてななめにさす日に、遠い西の山々の雪がひとしきり光った。

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草木さうもくおよ地上ちじやうしもまばたきしながらよこにさうしてなゝめけるとほ西にし山々やま/\ゆき一頻ひとしきりひかつた。

すべてが茶色っぽい光につつまれた。

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すべてをつうじて褐色かつしよくひかりつゝまれた。

その遠くつらなった山々の頂には、ぽつりぽつりと大小の群れ雲が固まったままかき乱されて、しばらく動かなかった。

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とほつらなつた山々やま/\頂巓いたゞきにはぽつり/\と大小だいせう簇雲むらくもつたまゝみだされてしばらうごかなかつた。

ついにはそれが一つになって山々のありかを見えなくして、そのはしがすすのように空へ向かって消えて行くように見えはじめた。

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つひにはそれが一つにつて山々やま/\所在しよざいくらまして、末端まつたん油煙ゆえんごとそらむかつて消散せうさんしつゝあるやうにはじめた。

そこには毎日必ずやかましい足音で人の耳をさわがせる、あの巨人の群れが、その目にはみじめな地上のすべてを苛めてつま先でけとばそうとして、山々の向こうから出発したのだ。

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其處そこには毎日まいにちかなら喧嚚けんがう跫音あしおとひと鼓膜こまくさわがしつゝある巨人きよじん群集ぐんじゆが、からは悲慘みじめ地上ちじやうすべてをいぢめて爪先つまさき蹴飛けとばさうとして、山々やま/\彼方かなたから出立しゆつたつしたのだ。

そのおどろくほど速い足が空を一直線に、そしてわずかなじゃま物にすぎないえだのすべてを押しつけ押しつけ、林をこえて走って来るのは、今もうすぐである。

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おどろくべき迅速じんそくあし空間くうかんを一直線ちよくせんに、さうしてわづか障害物しやうがいぶつであるべきこずゑすべてをしつけしつけはやしえて疾驅しつくしてるのはいまもうすぐである。

竹を切ってたばねたようにすきまなく群がっている、そのつま先にけられては、こわがりにこわがった草木はみな声を上げて泣くのである。

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たけつてつかねたやうに寸隙すんげきもなくむらがつて爪先つまさきられてはおびえにおびえた草木さうもくみなこゑはなつてくのである。

そして、もう泣かなければならない時間がせまっている。

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さうしてもうかねばらぬ時間じかんせまつてる。

勘次が霜の白い自分の庭から道へ出ると、不格好なくぬぎの林が、彼の行く方向に沿ってつらなっている。

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勘次かんじしもしろ自分じぶんには往來わうらいると無器用ぶきようくぬぎはやしかれくべきかたしたがつてみち沿うてつらなつてる。

彼の、やぶれて、毎日打ちつける強い風にかたむけられた笹のかきねには、せまい道をこえてくぬぎの落ち葉が、熊手でかいたように集まって、つらなっている。

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やぶれて、毎日まいにちちつける疾風しつぷうめにかたむけられたさゝ垣根かきねには、せま往來わうらいえてくぬぎ落葉おちば熊手くまでいたやうにあつまつてつらなつてる。

およそくぬぎの木ほど丈夫な木は、ほかにあるまい。

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およくぬぎほど頑健ぐわんけんるまい。

かわいた冬がれの草や落ち葉にたばこの吸いがらがまちがって火をつけて、それがさかんに林を焼き払っても、しぶの強い、表面がわさびおろしのようなくぬぎの皮は、黒いやけどをみきいっぱいに残しても、ほかの針葉樹のようにはならず、春の雨が何度もやわらかにしめらせれば、ついにはざらざらした皮のどこからか白っぽい芽をふいて、あらくかたい厚い皮のかこいからのがれてさわやかに息をしはじめたのをよろこぶように、ずんずんとのびて、ついには切っても切っても、なおずんずんと太くなってみきがさらに作られるほど、強い生きる力を取りもどすのである。

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乾燥かんさうした冬枯ふゆがれくさ落葉おちば煙草たばこ吸殼すひがらあやまつててんじて、それがさかんはやしはらうてもしぶつよい、表面へうめん山葵わさびおろしのやうなくぬぎかはは、くろ火傷やけどみきぱいとゞめても、針葉樹しんえふじゆるやうではなく、はるあめ數次しば/\やはらかにうるほせばつひにはこそつぱいかは何處どこからかしろつぽいいて、粗剛そがうあつかはかこみからのがれて爽快さうくわい呼吸こきふ仕始しはじめたことをよろこぶやうにずん/\と伸長しんちやうして、つひにはつても/\、猶且やつぱりずん/\と骨立ほねだつてみきさらかたちづくられるほど旺盛わうせい活力くわつりよく恢復くわいふくするのである。

彼らはそういう性しつを持っていながら、分からないほどおくびょうである。

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彼等かれらはさういふ特性とくせいつてながら了解れうかいがたほど臆病おくびやうである。

黄色い光が気持ちよくあざやかに満ちているおそい秋の、水のようなうすい霜がこっそり降りる前から、その葉はみなくるくるとまわりが巻きはじめて、ほかの雑木は葉をからりと落として、そのえだよりずっと低くたれている西の空の明るい入り日を通して見せるようにまばらになるのに、しっかりとしがみついてはなれない。

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黄色きいろひかりこゝろよくあざやかに滿ちて晩秋ばんしうみづのやうなあはしもひそかにおりる以前いぜんからこと/″\くくる/\と周圍しうゐまくはじめて、雜木ざふきをからりとおとしてこずゑよりもはるかひくれて西にしそらあかるい入日いりひすかしてせるやうにまばらるのに、確乎しつかとしがみついてはなれない。

彼らはやっと木らしい形になるとともに、のこぎりの歯がむごくわたって、少しの余ゆうも与えられないのである。

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彼等かれらやうや樹相じゆさうかたちづくるととものこぎり残酷ざんこくわたつてすこしでも餘裕よゆうあたへられないのである。

それで彼らのあいだには、自然にただこわがる性しつだけが育ったのかも知れない。

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それで彼等かれらあひだには自然しぜんたゞ恐怖きようふする性質せいしつのみが助長じよちやうされたのであるかもれない。

だから、すでにたきぎに切られる時期をすぎて、大木の形になって、どんぐりがその浅い皿に乗せられるようになれば、かれ葉はいさぎよく散りしいて、からりとさわやかに木の形を見せるのである。

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それだからすでたきぎるべき時期じきすごして、大木たいぼくさうそなへて團栗どんぐりあささらせられるやうにれば、枯葉かれはいさぎよいてからりとさわやかに樹相じゆさうせるのである。

ちょうどそれは、子孫を残すことと自分を守ることの必要をまったく忘れさせられた梨のつぎ木が、大きなとげをみきにもえだにも持たなくなったように、こわさが彼らを去ったのである。

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丁度ちやうどそれは子孫しそん繁殖はんしよく自己じこ防禦ばうぎよとの必要ひつえうまつたわすれさせられたなし接木つぎきが、おほきなとげみきにもえだにもたなくつたやうに、恐怖おそれ彼等かれらつたのである。

しかしながら、林のくぬぎはいくら遠くまで根をのばして早く育とうとしても、冷たい秋が冬を地上へみちびくのである。

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しかしながらはやしくぬぎいくとほのばして迅速じんそく生長せいちやうげようとしても、ひやゝかなあきふゆ地上ちじやうみちびくのである。

彼らはその冬の季節に命を保って行くには、すべてのはたらきを止めて引きしめなければならない。

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彼等かれらふゆ季節きせつおい生命せいめいたもつてくのにはすべての機能きのう停止ていししてしまらねばらぬ。

そうでなければ、彼らは氷や雪のためにかれ死ななければならない。

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それでなければ彼等かれら氷雪ひようせつため枯死こしせねばならぬ。

その季節に、彼らの最後の運命であるたきぎや炭に切られるのに、いちばん合った作りに変わることをよぎなくされるのである。

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その季節きせつ彼等かれら最後さいご運命うんめいであるまきすみられるやうに一ばん適當てきたうした組織そしき變化へんくわすることを餘儀よぎなくされるのである。

彼らはそれから、その大切な呼吸の道具だったかれ葉を、一まいでもえだから放すまいとし、またはなれまいとしている。

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彼等かれらはそれから貴重きちよう呼吸器こきふきであつた枯葉かれはを一まいでもえだからはなすまいとしまたはなれまいとしてる。

育つはたらきが止まるとともに、くっつく力を失うはずの葉のじくが、しっかりと保たれている。

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生育せいいく機能きのう停止ていしされるととも粘着力ねんちやくりよくうしなふべきはず葉柄えふへい確乎しつかりたもたれてある。

そこでかわいたかれ葉は、少しのことにも寄り合ってさやさやと、たがいにこわさをささやくのである。

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そこで乾燥かんさうした枯葉かれはすこしのことにさへあひつてさや/\とたがひ恐怖きやうふ耳語さゝやくのである。

しかし、木が吸って得た物の一部を地面と空気に返させようとして、すべての葉をえだからうばって、いたる所を広々と、そしてすっきりさせるのを好む冬の目には、くぬぎのかれ葉は入りくんで、にごって見えなければならない。

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しか樹木じゆもく吸收きふしうして物質ぶつしつの一つちおよ空氣くうき還元くわんげんせしめようとしてすべてのこずゑからうばつて、いたところ空濶くうくわつかつ簡單かんたんにすることをこのふゆには、くぬぎ枯葉かれは錯雜さくざつし、溷濁こんだくしてえねばならぬ。

それで、巨人を乗せた西風がそのつま先でそれをけとばそうとしても、おそろしくしつこいかれ葉は泣いて、そしてその力を保とうとする。

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それで巨人きよじんせた西風にしかぜその爪先つまさきにそれを蹴飛けとばさうとしても、おそろしく執念深しふねんぶか枯葉かれはいてさうしてちからたもたうとする。

たまたま力が足りずにふき散らされたのは、そういうときにとても都合よく巻いてあるので、どんなかげでも身をよせる場所を求めてころころところがって行っては、自分の仲間が一つに寄り合いだき合って、小さな風にさえ絶えず音を立ててふるえているのである。

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たまたまちからりないでらされたのは、さういふとき非常ひじやう便利べんりなやうにいてあるので、どんなかげでもたくする場所ばしよもとめてころ/\ところがつてつては、自分じぶん伴侶なかまが一つにあひあひいだいて微風びふうにさへえずひゞきてゝ戰慄せんりつしつゝあるのである。

勘次はこういうくぬぎの木を植えて林を作るための土地を開こんするのに、もう何年ものあいだやとわれて、その力をつくした。

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勘次かんじういふくぬぎゑてはやしつくるべき土地とち開墾かいこんをするためにもう幾年いくねんといふあひだやとはれてちからつくした。

彼はやっと林らしくなって来たくぬぎ林に沿って、田んぼをこえて走った。

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かれやうや林相りんさうかたちづくつて櫟林くぬぎばやし沿うて田圃たんぼえてはしつた。

田んぼのしぎが何におどろいたかきいと鳴いて、刈り株をかすめるようにして慌てて飛んで行った。

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田圃たんぼしぎなにおどろいたかきゝといて、刈株かりかぶかすめるやうにしてあわてゝとんいつた。

そして後は、白く閉ざしたこおりがときどきぴりぴりと鳴ってしゃりしゃりとこわれるだけで、ただ静かだった。

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さうしてのちしろとざしたこほり時々ときどきぴり/\となつてしやり/\とこはれるのみでたゞしづかであつた。

田んぼをとおして林のあいだから見えるその遠い山々の雲は、ややうすくなって空をにごらせていた。

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田圃たんぼとほしてはやしあひだからえるそのとほ山々やま/\くもやゝうすくなつてそらにごしてた。

やがて雑木林のえだ先が少し動いたと思ったら、ごうっというひびきが勘次の耳に鳴った。

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やが雜木林ざふきばやし枝頭えださきすこうごいたとおもつたらごうつといふひゞき勘次かんじみゝつた。

巨人の足がせまったのである。

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巨人きよじんあしせまつたのである。

彼はむっと、思わず息がつまった。

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かれはむつとおもはず呼吸こきふ切迫せつぱくした。

毎日ふきわたる西風は、かわきつつあるすべての物をさらにかわかさなければ止まない。

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毎日まいにちわた西風にしかぜ乾燥かんさうしつゝあるすべてのものさら乾燥かんさうさせねばまない。

雨がまれにしんみり降っても、西風は朝から一日、青い常緑樹の葉さえどろの中へねじ切ってまき散らすほどふき募れば、それだけで土はもうほとんどかわいてしまうのである。

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あめまれにしんみりとつても西風にしかぜあさから一にちあを常緑木ときはぎをもどろなか拗切ちぎつて撒布まきちらすほどつのれば、それだけでつちはもうほとんどかわかされるのである。

土が保つべき水分がそれほど蒸発しても、その風がふきわたるあいだは、西風はけっして空に一てきの雨さえ降らせない。

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つち保有ほいうすべき水分すゐぶんがそれほど蒸發じようはつつくしてもわたあひだ西風にしかぜけつしてそらに一てきあめさへもよほさせぬ。

それでもさすがに深く水をたくわえている土は、あかのような表面だけをかき払って行く強い風にはかんたんに力を失わないで、夜がふければいくらでも空気中の水分を細かく結しょうにして、いっぱいに白く引きつける。

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それでも有繋さすがふかみづざうしてつちあかごと表皮へうひのみをはらつて疾風しつぷうためには容易よういちからうしなはないで、ければいくらでも空氣中くうきちうたもたれた水分すゐぶん微細びさい結晶けつしやうさせて一ぱいしろきつける。

土が夜通しそういうはたらきをしたばかりに、日は夜明けの空から横に、そしてななめにその霜をとかして、西風はすぐにそれをかわかして、むごく表面の土のほこりを空へふきまくる。

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つち徹宵よつぴてさういふ作用さよういとなんだばかりに、拂曉あけがたそらからよこにさうしてなゝめしもかして、西風にしかぜたゞちにそれをかわかして残酷ざんこく表土へうどほこり空中くうちうくる。

その力がはげしいほど夜明けの霜が白く、それが白いほど、乱れて飛ぶからすのような群れ雲を遠い西の山の頂につれて、強い風はかけるのである。

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ちからはげしいほど拂曉ふつげうしもしろく、れがしろほどみだれてからすごと簇雲むらくもとほ西山せいざん頂巓いたゞきともなうて疾風しつぷうかけるのである。

両方がつかれきって勢いを使い果たす季節の変わり目を見るまでは、その争いは止むことがない。

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兩方りやうはう疲憊ひはいしていきほひ消耗せうまうする季節きせつ變化へんくわるまではあらそひはむことがない。

その日も、ほこりが空をこがして立った。

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ほこりてんこがしてつた。

そのほこりは黄茶色で、きりのように地上のすべてをおおい、そして包んだ。

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ほこり黄褐色くわうかつしよくきりごと地上ちじやうすべてをおほつゝんだ。

雑木林はいっせいにななめにかたむこうとして、えだは曲線をえがいた。

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雜木林ざふきばやしは一せいなゝめかたぶかうとしてこずゑ彎曲わんきよくゑがいた。

木々はみなたがいに泣いてささやきながら、いくらか日の明るさもさえぎっているその濃いきりからのがれようとするように、絶え間なくさわいだ。

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樹木じゆもくみなたがひいてさゝやきながら、いくらかあかるさをもさまたげて濃霧のうむからのがれようとするやうに間斷かんだんなくさわいだ。

きりはみじめなすべての物をたがいに知らせまいとしてふき立ちふき立ち、数十間のきょりでは、その物の形さえはっきり見せない。

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きり悲慘みじめすべてのものたがひらせまいとしてち/\すうけん距離きよりおいては物體ぶつたい形状けいじやうをもあきらかにしめさない。

雑木林の木々は、開こん地のまわりでも入り乱れた。

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雜木林ざふきばやし樹木じゆもく開墾地かいこんち周圍しうゐにも混亂こんらんした。

しかし勘次が目を向けているのは、足のつま先二、三尺の、今くわで切り取ってはるか後ろへ引いて、そっと捨てたあとの一点である。

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しか勘次かんじはなつてるのはあし爪先つまさき二三じやくの、いま唐鍬たうぐはもつ伐去きりさつてはるかうしろいてそつとてたあとの一てんである。

ほこりは、土がいくらでもしめっている彼の足元からは立たなかった。

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ほこりつちいくらでもうるほひをつたかれあしもとからはたなかつた。

おつぎは、勘次が起こしたかたまりを一つ一つ万能ぐわの背でたたいて、さらりとくずして平らにならしている。

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おつぎは勘次かんじおこしたかたまりを一つ/\に萬能まんのうたゝいてさらりとほぐしてたひらにならしてる。

軽い土から固まったかたまりは、くずせばすぐにふき払われた。

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輕鬆けいしようつちから凝集こゞつてかたまりほぐせばすぐはらはれた。

おつぎは、正面からほこりを受けるので、遠くからふきつける土や砂がほおを走って不快だった。

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おつぎは當面まともほこりけるのにはとほきつける土砂どしやほゝはしつて不快ふくわいであつた。

手ぬぐいのはしをまくって、あびるほこりのために髪の毛が荒れるのをひどくきらった。

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手拭てぬぐひはしくつて沿びせるほこりためかみれるのをひどきらつた。

それでも、その手元はいいかげんではなかった。

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それでもそのもとは疎略そりやくではなかつた。

勘次は矢立のようなかたい体をのばし曲げして、一歩一歩と進んだ。

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勘次かんじ矢立やたてごと硬直かうちよく身體からだ伸長しんちやう屈曲くつきよくさせて一/\とはこんだ。

彼はまわりで数えきれない木々が泣いてささやくのを、耳に入れなかった。

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かれ周圍しうゐ無數むすう樹木じゆもくいてさゝやくのをみゝれなかつた。

その上、彼は自分の耳が鳴るのさえ気づかないほど、けんめいにくわを打った。

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加之それのみでなくかれ自分じぶん耳朶みゝたぶらるさへこゝろづかぬほど懸命けんめい唐鍬たうぐはつた。

彼は体じゅうに汗をかいていた。

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かれ滿身まんしんあせしてた。

卯平は、ひまをおしがる勘次がくわを取って出たとき、朝ごはんの後の口をうるさく鳴らしながら、火ばちの前にどっかりとすわっていた。

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卯平うへいひましがる勘次かんじ唐鍬たうぐはとつとき朝餉あさげあとくち五月蠅うるさらしながら火鉢ひばちまへにどつかりとすわつてた。

やぶれた草ぶきの家をゆさぶって、西風がごうっと打ちつけて来たときには、火ばちのうずみ火はまだ白く灰の皮をかぶって暖かかった。

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やぶれた草葺くさぶきいへをゆさぶつて西風にしかぜがごうつとちつけてときには火鉢ひばちおきはまだしろはひかはかぶつてあたゝかゝつた。

天井もない屋根裏から、すすがかすかにさらさらと散って、ときどきぽつりと固まったまま落ちた。

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天井てんじやうもない屋根裏やねうらからすゝかすかにさら/\とつて、時々ときどきぽつりと凝集こゞつたまゝちた。

高い木がさえぎって立って、そのえだに青い空を見せている庭にさえ、強い風のおどろくほど手回しのいい手がふくろの口を解いてさかさまにしたように、ほこりが満ちてさらさらとしずんだ。

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喬木けうぼくさへぎつてこずゑあをそらせてにはへすら疾風しつぷうおどろくべき周到しうたうふくろくちいてさかさにしたやうにほこり滿ちてさら/\としづんだ。

一日そうして止めどもなくかけて行く巨人のつま先には、この平らな田や畑や山林のあいだにはさまっている村々の草ぶきの家は、すべて落ち葉を持ち上げて出たきのこのような、小さくてみじめな物にちがいなかった。

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にちさうしてもなくつて巨人きよじん爪先つまさきには平坦へいたんはた山林さんりんあひだ介在かいざいしてかく村落そんらく茅屋あばらやこと/″\落葉おちばもたげてきのこのやうなちひさな悲慘みじめものでなければならなかつた。

それぞれの真上を中心にして空にこをえがいた、そのふちの外の横に、それからななめに見える広く遠い空は、黄茶色のきりのようなほこりのために、ただほのおに焼かれたようである。

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各自かくじ直上ちよくじやう中心點ちうしんてんにしてそらゑがいた輪郭外りんくわくぐわいよこにそれからなゝめえるひろとほそら黄褐色くわうかつしよくきりごとほこりためたゞほのほかれたやうである。

卯平は自分の小屋に体を縮めた。

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卯平うへい自分じぶん小屋こやすぼめた。

しばらく彼の火ばちから立って、せまいかべからかべにぶつかってさまよい出たうすいけむりが、強い風のためにすぐにごうっとけ散らされてしまった。

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しばら火鉢ひばちからつて、せまかべからかべ衡突ぶつかつて彷徨さまようすけぶり疾風しつぷうためぐにごうつと蹴散けちらされてしまつた。

せまい小屋の中は、それからまたしずんだ。

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せま小屋こやうちはそれからしづんだ。

卯平は少し開いた戸口から、その小さくしかめた目で外を見た。

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卯平うへいすこひらいた戸口とぐちからちひさくしがめたそとた。

せまい庭の先に、こよりを植えたような桑畑のかわききった軽い土が、黄茶色のきりの中へふき上がって行くのが見える。

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せまにはさき紙捻こよりゑたやうな桑畑くはばたけ乾燥かんさうしきつた輕鬆けいしようつち黄褐色くわうかつしよくきりなかつてくのがえる。

そして南の家は、とてもぼんやりとその形が現れて、また見えなくなった。

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さうしてみなみうちきはめてぼんやりとして形態けいたいあらはれてまたかくれた。

くりの木のそばに木のえだをくいに打ってこしらえたかぎの手に引っかけたはねつるべが、ごうっとふくたびにぐらりぐらりと動いて、つるべが外れそうになっては外れまいとして、争ってさわいでいる。

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くりそばえだくひつてこしらへたかぎけた桔槹はねつるべが、ごうつとごとにぐらり/\とうごいて釣瓶つるべはづさうにしてははづれまいとしてあらそうてさわいでる。

卯平は、彼のぼんやりした心がそこにつながれたように、つるべを見つめた。

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卯平うへいかのぼんやりしたこゝろ其處そこつながれたやうに釣瓶つるべ凝視ぎようしした。

彼はしばらくしてから庭に立った。

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かれしばらくしてからにはつた。

彼はそのくせの舌を鳴らしながら、つるべに手をかけた。

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かれそのくせしたらしながら釣瓶つるべけた。

つるべの底には、わずかに残った水にほこりがひたされてしずんでいた。

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釣瓶つるべそこにはわづかたもたれたみづほこりひたされてしづんでた。

外側は青いこけのままかわいていた。

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外側そとがはあをこけまゝ乾燥かんさうしてた。

彼はかぎの手のくいを両手に持って、その大きな体の重さをかけて、上から押さえてみた。

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かれかぎくひ兩手りやうてつてそのおほきな身體からだ重量ぢうりやうくはへてたておさへてた。

小さなくいは、毎日水でやわらかくなっている土へ、ぐっと深く入った。

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ちひさなくひ毎日まいにちみづためやはらかにされてつちへぐつとふかくはひつた。

かぎの手は深くつるべの内側に入っていたので、さっきよりしっかりとつるべを引き止めた。

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かぎふか釣瓶つるべ内側うちがはのぞいてたので先刻さつきよりも確乎しつか釣瓶つるべめた。

彼はそれからせまい戸口をぴたりと閉めて、かわいた手足を汚いふとんに包んで、ごろりと横になった。

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かれはそれからせま戸口とぐちをぴたりととざして枯燥こさうした手足てあしきたな蒲團ふとんつゝんでごろりとよこつた。

昼ごはんに勘次がもどって、また口の中のあらいごはんつぶをかみながら走って行った後へ、与吉は鼻おのゆるんだ下駄をからからと引きずって、学校から帰って来た。

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午餐ひる勘次かんじもどつて、また口中こうちう粗剛こは飯粒めしつぶみながらはしつたあと與吉よきち鼻緒はなをゆるんだ下駄げたをから/\ときずつて學校がくかうからかへつてた。

足袋もはかない足の甲が、さめの皮のようにばりばりとあかぎれだらけになっている。

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足袋たび穿かぬあしかふさめかはのやうにばり/\とひゞだらけにつてる。

彼はまだ冷めきらない茶がまの湯をくんで、しきりにごはんをかき込んだ。

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かれはまだらぬ茶釜ちやがまんでしきりにめし掻込かつこんだ。

赤くしめった二本のすじを伝って冷たくたれた洟を、彼はすすりながら、はしを持ちかえてしるわんの塩からいほし納豆をつまんで口へ入れたり、茶わんの中へまいたりして、何ばいものごはんを盛った。

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粘膜ねんまくのやうにあかうるほひをつた二つの道筋みちすぢつたひてつめたくれたはなかれすゝりながら、はしよこへて汁椀しるわん鹽辛しほから干納豆ほしなつとうつまんでくちれたり茶碗ちやわんなかいたりして幾杯いくはいかのめしつた。

ごはんつぶは茶わんから彼の胸を伝って、土間へぼろぼろと落ちた。

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飯粒めしつぶ茶碗ちやわんからかれむねつたひて土間どまへぼろ/\とちた。

彼は土間に立ったままで食べていた。

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かれ土間どまつたまゝべてた。

彼はごはんつぶが少し底に残った茶わんをおぜんの上にころがして、ばたりと飯だいのふたをした。

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かれ飯粒めしつぶすこそこのこつた茶碗ちやわんぜんうへころがしてばたりと飯臺はんだいふたをした。

卯平は横になったままで、おつぎが呼んだときに来なかった。

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卯平うへい横臥わうぐわしたまゝでおつぎがんだときなかつた。

おつぎがもう一度声をかけて開こん地へ出てからも、彼はしばらくだるい体をふとんから起こさなかった。

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おつぎがふたゝこゑけて開墾地かいこんちてからもかれしばらものう身體からだ蒲團ふとんからおこさなかつた。

彼がふと思い出したようにせまい戸口を開けて、明るい外のほこりに目をしかめて出て行ったとき、与吉はあわただしく飯だいのふたをしたところだった。

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かれがふとおもしたやうにせま戸口とぐちけてあかるいそとほこりしがめてつたとき與吉よきちあわたゞしく飯臺はんだいふたをしたところであつた。

「お前は、今日はどうしてそんなに早いんだい」

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りや、今日けふはどうしてさうえにはええんでえ」

卯平は太い低い声で聞いた。

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卯平うへいふとひくこゑいた。

「ああ」

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「あゝ」

と、与吉はくちびるをそらして洟をすすりながら

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與吉よきちくちびるらしてはなすゝりながら

「先生がそんでも、明日は日曜だからこれっきりで帰ってもいいと言ったんだ」

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先生せんせいそんでも、明日あした日曜にちえうだかられつきりけえつてもえゝつちつたんだ」

「昼ごはんは食ったか」

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午餐おまんまくつたか」

卯平はのっそりと飯だいのそばに近づいた。

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卯平うへいはのつそりと飯臺はんだいそばちかづいた。

「お前は、爺さんが、おぜんへこんなにこぼして」

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りや、ぢいぜんさかうだにこぼして」

と、彼はさっきより低い声で

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かれ先刻さつきよりもひくこゑ

「おとっつあんに見られたら怒られるから」

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「おとつゝあにらつたらおこられつから」

こう言って、また

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ういつてまた

「お前らのおとっつあんは怒りんぼうだから」

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おとつゝあはおこりつだから」

と、しずんでつぶやくように言った。

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しづんでつぶやくやうにいつた。

彼はおぜんの上に散っているごはんつぶを一つ一つつまんで、それからほし納豆も、一つ一つしるわんの中へ入れた。

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かれぜんうへつて飯粒めしつぶを一つ/\につまんで、それから干納豆ほしなつとうれも一つ/\に汁椀しるわんなかれた。

しるわんは手に取って、わんの腹を左の手に軽く打ちつけるようにして、納豆を平らにした。

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汁椀しるわんつて、わんはらひだりかるちつけるやうにして納豆なつとうたひらにした。

おつぎは昼ごはんの後で開こん地へ出るとき、おかずのほし納豆をしるわんへ入れて、彼のためにおぜんを置いて行ったのである。

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おつぎは午餐ひるから開墾地かいこんちときさいにする干納豆ほしなつとう汁椀しるわんいれかれためぜんゑてつたのである。

与吉はえんりょもなく、そのおぜんに向かったのである。

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與吉よきち遠慮ゑんりよもなくぜんむかつたのである。

卯平は飯だいのふたを開けて見たが、暖かみがないので彼はためらった。

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卯平うへい飯臺はんだいふたけてたが暖味あたゝかみがないのでかれ躊躇ちうちよした。

茶がまのふたを取ってみたが、ふたの裏からはだらだらとしずくがたれて、わずかにゆげが立った。

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茶釜ちやがまふたをとつてたが、ふたうらからはだら/\としたゝりがれてわづかに水蒸氣ゆげつた。

茶がまは冷めていたのである。

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茶釜ちやがまめてたのである。

それほどおなかがすいていない彼は、はしを取るのがいやになった。

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それほど空腹くうふくかんぜぬかれはしるのがいやになつた。

彼は体がとても冷えていることに気づいた。

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かれ身體からだ非常ひじやうえてることをつた。

それに右の手が肩のあたりでこわばったようで、動かし方によってはきゃきゃと痛みを感じた。

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それにみぎかたのあたりでこはばつたやうでうごかしやうによつてはきや/\と疼痛いたみおぼえた。

彼は病気がそこに集まったのではないかと思った。

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かれ病氣びやうき其處そこあつまつたのではないかとおもつた。

それがねているあいだの体の置き方で一時おかしくなったのかどうか分からないのに、彼はただ病気のせいだと決めてしまった。

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それが睡眠中すゐみんちう身體からだきやうで一變調へんてうきたしたのだかどうだかわからないにもかゝはらず、かれたゞ病氣びやうきゆゑだとめてしまつた。

決めたというより、彼のはかないひがんだ心には、そう考えるよりほかなかったのである。

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めたといふよりもかれ果敢はかないひがんだこゝろにはさう判斷はんだんするよりほかなにもなかつたのである。

彼の心は、ひたすら自分をみじめなほうへ考えていれば、それで済んでいたのである。

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かれこゝろ只管ひたすら自分じぶん悲慘みじめ方面はうめん解釋かいしやくしてればそれでんでるのであつた。

彼のやつれた体から、その手がひどく自由を失ったように感じられた。

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かれやつれた身體からだからひど自由じいううしなつたやうにかんぜられた。

手は軽くしびれたようになっていた。

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かるしびれたやうになつてた。

彼は冷えた体に暖かさを求めて、茶がまをかけたかまどの前にだるい体をすえてうずくまった。

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かれえた身體からだ暖氣だんきほつして、茶釜ちやがまけたかまどまへだる身體からだゑて蹲裾うづくまつた。

彼はさらに、熱いお茶が一ぱい飲みたかったのである。

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かれらにあつちやの一ぱいみたかつたのである。

彼はかまどの底にしっとりと落ち着いた灰に近づいて、手をかざしてみた。

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かれかまどそこにしつとりとちついたはひ接近せつきんしてかざしてた。

まだやわらかく白い灰は、かすかに暖かかった。

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まだやはらかにしろはひかすかあたたかゝつた。

彼はそれから大きなかごの落ち葉をつかみ出して、茶がまの下に突っこんだ。

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かれはそれから大籠おほかご落葉おちばつかして茶釜ちやがました突込つゝこんだ。

与吉もそばから小さな手でつかんで投げた。

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與吉よきちそばからちひさなつかんでげた。

卯平の足元には、灰をおおって落ち葉が散らばった。

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卯平うへいあしもとにははひおほうて落葉おちば散亂さんらんした。

落ち葉は卯平の着物にもついた。

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落葉おちば卯平うへい衣物きものにもとまつた。

卯平は竹の火ばしの先で落ち葉を少しどけるようにして灰をかき立ててみても、火はもうぽっちりともなかったのである。

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卯平うへいたけ火箸ひばしさき落葉おちばすこすかすやうにしてはひてゝてもはもうぽつちりともなかつたのである。

彼はそれからマッチをさがしてみたが、どこにも見つからなかった。

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かれはそれから燐寸マツチさがしてたが何處どこにも見出みいだされなかつた。

彼は自分のマッチを取りに、せまい戸口へ与吉をやろうとした。

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かれ自分じぶん燐寸マツチさがしにせま戸口とぐち與吉よきちをやらうとした。

与吉は甘えてことわった。

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與吉よきちあまえていなんだ。

彼はどうしても、だるい体を運ばなければならなかった。

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かれはどうしてもだる身體からだはこばねばならなかつた。

卯平の手元は、よほどくるっていた。

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卯平うへいもとは餘程よほどくるつてた。

彼はすっとマッチをすったが、その火は手が落ち葉にとどくまでには、かすかなけむりを立てて消えた。

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かれはすつと燐寸マツチつたが落葉おちばたつするまでにはかすかなけぶりてゝえた。

マッチはそうして五、六本捨てられた。

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燐寸マツチはさうして五六ぽんてられた。

与吉はその不自由な手からマッチをうばうようにして、火をつけてみた。

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與吉よきち不自由ふじいうから燐寸マツチうばふやうにしてけてた。

卯平は与吉のするままにして、丸太のはしを切りはなした腰かけに体をすえて、そのやつれたやわらかな目をしかめていた。

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卯平うへい與吉よきちのするまゝにして、丸太まるたはしはなした腰掛こしかけ身體からだゑてやつれたやはらかなしかめてた。

慌てた与吉の手は、その軸の先からむだに毛のようなけむりを立てるばかりだった。

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あわてた與吉よきち軸木ぢくぎさきからいたづらにのやうなけぶりてるのみであつた。

彼はじれて、卯平の足元の灰へマッチの箱を投げた。

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かれ焦躁れて卯平うへいあしもとのはひ燐寸マツチはこげた。

箱はからりと鳴った。

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はこはからりとつた。

箱の底は、もう見えていたのである。

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はこそこはもうえてたのである。

卯平は目をしかめたままマッチを取って、またすっとすって、ゆっくりと軸をさかさまにして、その白い軸を包んで燃え上がろうとする小さな火を、かわいた大きな手で包んで、大事そうにのぞいた。

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卯平うへいしかめたまゝ燐寸マツチをとつてまたすつとつて、ゆつくりと軸木ぢくぎさかさにしてしろ軸木ぢくぎつゝんでのぼらうとするちひさな枯燥こさうしたおほきなつゝんで、大事相だいじさうのぞいた。

それがまた二、三度くり返された。

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それがまた二三反覆くりかへされた。

手の内側がぼんやりとして、それからだんだん明るくなって、火はやっと保たれた。

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内側うちがはがぼんやりとしてそれから段々だん/\あかるくつてやうやたもたれた。

茶がまの底にふれるほど突っこまれた落ち葉には、こうして火がつけられた。

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茶釜ちやがまそこれるばかりに突込つゝこまれた落葉おちばにはうしてけられた。

落ち葉には灰のきわから、その外側を伝って火がべろべろとわたった。

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落葉おちばには灰際はひぎはから外側そとがはつたひてがべろ/\とわたつた。

卯平は不自由な手の火ばしで、落ち葉をすかした。

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卯平うへい不自由ふじいう火箸ひばし落葉おちばすかした。

火はすばやくその命を取りもどした。

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迅速じんそく生命せいめい恢復くわいふくした。

彼らのためにふだんほとんど半分以上をむだに使われているほのおが、かまどの口からめくれて立った。

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彼等かれらため平生へいぜいほとんどなかば以上いじやう無駄むだ使つかはれてほのほかまどくちからまくれてつた。

しかしそのよけいにもれて出るほのおが、彼の自由を失ってこおろうとしている手を暖めた。

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しか餘計よけいれていづほのほかれ自由じいううしなうてこほらうとしてあたゝめた。

彼は横にころがした大きなかごからかさかさとかき出しては、燃えやすい落ち葉を絶え間なく足した。

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かれよこころがした大籠おほかごからかさ/\としてはやす落葉おちば間斷かんだんなくした。

与吉は卯平のそばから、ななめに手を出していた。

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與吉よきち卯平うへいそばからなゝめしてた。

卯平は与吉の小さな足の甲へ、そっと手をふれてみた。

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卯平うへい與吉よきちちひさなあしかふへそつとれてた。

手も足も、どちらもざらざらとこそばゆかった。

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あしどつちもざら/\とこそつぱかつた。

与吉はななめに体を置くのが少し窮くつだったのと、小言を言われなければただいたずらをしてみたいのとで、そばのかまどの口へ別に自分で落ち葉の火をつけた。

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與吉よきちなゝめくのがすこ窮屈きうくつであつたのと、叱言こごとがなければたゞ惡戲いたづらをしてたいのとでそばかまどくちべつ自分じぶん落葉おちばけた。

針金のような火をちらりとつけた落ち葉が、一まい一まいけむりとともに軽くのぼった。

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針金はりがねのやうなをちらりとつた落葉おちばひとひら/\がけぶりともかるのぼつた。

落ち葉はすぐに白い灰に変わって、さらにいくつかに分かれて、与吉の髪から卯平の白髪に散った。

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落葉おちばぐにしろはひつてさらいくつかにわかれて與吉よきち頭髮かみから卯平うへい白髮かみつた。

けむりの中には、その白い灰が後から後から立ってはまた落ちた。

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けぶりなかにはしろはひあとから/\とたつちた。

与吉はいつも、仲間といっしょに道ばたのかれ芝に火をつけて、それが黒いあとを残してめろめろと燃え広がるのを見るのが、楽しくてならなかった。

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與吉よきちはいつも彼等かれら伴侶なかまとも路傍みちばた枯芝かれしばてんじて、それがくろあとのこしてめろめろとひろがるのをるのが愉快ゆくわいでならなかつた。

彼はまた、火が野茨の株に燃え移って、そこにしげったちがやを焼いてほのおが一本の柱になると、よろこびとおどろきの入りまじった声を上げて痛快にさけびながら、ついにはそこにこわさが加われば、棒でたたいたり土くれを投げつけたり、または自分たちの着物をぬいでばさりばさりとたたいたりして、その火を消そうと力めるのだった。

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かれまた野茨のいばらかぶうつつて、其處そこしげつた茅萱ちがやいてほのほが一でうはしらてると、喜悦よろこび驚愕おどろきとの錯雜さくざつしたこゑはなつて痛快つうくわいさけびながら、つひには其處そこ恐怖おそれくははればぼうたゝいたり土塊つちくれはふつたり、また自分等じぶんら衣物きものをとつてぱさり/\とたゝいたりしてそのすことにつとめるのであつた。

すばやく、そして気持ちよく変わっていく火が、彼らのいたずら好きな心をどれほどさそったか知れない。

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迅速じんそくかつ壯快さうくわい變化へんくわ目前もくぜんせる彼等かれら惡戲好いたづらずきこゝろをどれほど誘導そゝつたかれない。

彼は落ち葉をつかんではかまどの口へ投げて、ぼうぼうと燃え上がるほのおに手をかざした。

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かれ落葉おちばつかんではかまどくちとうじてぼうぼうとえあがるほのほかざした。

茶がまがちゅうちゅうと少し音を立てて鳴り出したとき、卯平はかわいたように感じていた喉をうるおそうとして、だるいしりを少し上げて、おぜんの上の茶わんへ手をのばした。

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茶釜ちやがまがちう/\とすこひゞきてゝしたとき卯平うへいひからびたやうにかんじてのどうるほさうとしてだるしりすこおこしてぜんうへ茶碗ちやわんのばした。

自由の利かない手が、指先で持った茶わんをころりと落とさせた。

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自由じいういてが、爪先つまさきつた茶碗ちやわんをころりとおとさせた。

茶わんの底に冷たくなっていた少しの水が、土間へぽっちりと落ちてはねた。

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茶碗ちやわんそこつめたくつてすこしのみづ土間どまへぽつちりとちてはねた。

ごはんつぶもいっしょに散らばった。

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飯粒めしつぶともらばつた。

彼はまたゆっくりと茶わんを取って、よごれた所を手でこすって、さらに茶がまの熱い湯を注いで、足元の灰へかたむけた。

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かれまた悠長いうちやう茶碗ちやわんをとつてよごれた部分ぶゞんでこすつて、さら茶釜ちやがま熱湯ねつたうそゝいであしもとのはひけた。

ふたを取ったので、ほうほうと勢いよく立っているゆげが、ちらちらと白く立って落ちる灰を吸った。

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ふたをとつたのでほう/\と威勢ゐせいよくつて水蒸氣ゆげがちら/\としろつてちるはひうた。

彼はやっとしゃくしの手を放して、また茶がまのふたをしたとき、急にぼうっと立ったほのおの音を聞いた。

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かれやうやくにして柄杓ひしやくはなつてふたゝ茶釜ちやがまふたをしたときにはかにぼうつとつたほのほこゑいた。

彼が思わず後ろを見たとき、与吉のおどろいた泣き声が耳を打った。

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かれおもはずうしろとき與吉よきち驚愕きやうがくからはつせられたごゑみゝつた。

さかんな火の柱が、すぐ近くで目をふさいで立っていた。

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さかんはしらちかおほうてつてた。

彼はまたすぐに、はげしい熱を顔いっぱいに感じた。

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かれまたすぐはげしい熱度ねつどかほぱいかんじた。

火は、どうしたはずみか、横にころがした大きなかごの落ち葉に移っていたのである。

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はどうした機會はずみよこころがした大籠おほかご落葉おちばうつつてたのである。

与吉は初め、野原のいたずらでやるやり方でその火をたたいて消そうとし、またかき出そうとした。

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與吉よきちはじ野外やぐわい惡戲あくぎもちゐた手段しゆだんもつたゝいてさうとしまたさうとした。

かわいた落ち葉はすばやく火をさそって彼の横のほおをなめて、彼は思わず声を上げたのである。

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乾燥かんさうした落葉おちば迅速じんそく誘導いうだうしてかれ横頬よこほゝねぶつて、かれおもはずこゑはなつたのである。

卯平は慌ててまた茶わんを落とした。

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卯平うへいあわててふたゝ茶碗ちやわんおとした。

彼はとつぜん、与吉をそばへかきのけた。

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かれ突然いきなり與吉よきちかたはら退けた。

彼はそうして無意識に、火になった落ち葉をかき出そうとしたが、自由を失った手のにぶい動きは、その火を消すのに何の役にも立たなかった。

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かれはさうして無意識むいしきつた落葉おちばさうとして、自由じいううしなうたのろ運動うんどうすになん功果こうくわもなかつた。

彼はほのおのまま、軽い落ち葉のかごを庭へ投げればよかったのである。

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かれほのほまゝかる落葉おちばかごにはげればよかつたのである。

強い風は必ずその落ち葉を散らして、火は遠くまで燃えながら走るにしても、切れ切れの落ち葉は広い所ですっかりあとかたもなく、消えてしまわなければならないはずだった。

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疾風しつぷうかなら落葉おちば散亂さんらんせしめて、とほえながらはしるにしても、片々へんぺんたる落葉おちばひろ區域くゐきことごとおもかげをもとゞめないで消滅せうめつしてしまはねばらぬのであつた。

しかしながら、慌てた卯平の手には、こんなかんたんで、しかもいちばんいい方法を取るひまがなかった。

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しかしながらあわてた卯平うへいかくごと簡單かんたんかつ最良さいりやうである方法はうはふひまがなかつた。

火はまた怒って、彼のほおをなめ、彼の手を焼いた。

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またいかつてかれほゝねぶかれいた。

彼の目はくらんだ。

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かれくらんだ。

一気に燃え立った落ち葉の火は、それが長くつづかなくても、年老いた卯平の心をうばうには十分すぎた。

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げきした落葉おちばはそれがひさしく持續ぢぞくされなくても老衰らうすゐした卯平うへいこゝろうばふにはあまりあつた。

卯平の目がふたたび見えるようになったときには、火はもう天井のはりに積んだ藁たばの、乱れてのぞいているほ先を伝ってのぼった。

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卯平うへい視力しりよくふたゝ恢復くわいふくしたときにはすで天井てんじやうはりんだ藁束わらたばの、みだれてのぞいて穗先ほさきつたひてのぼつた。

火はかわいた藁たばのまわりをなめて、さらにそのほのおがうす暗い家の中からのがれようとして、屋根裏をはった。

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乾燥かんさうした藁束わらたば周圍しうゐねぶつて、さらそのほのほ薄闇うすぐらいへうちからのがれようとして屋根裏やねうらうた。

それがすばやい火の力の、一しゅんのはたらきだった。

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それが迅速じんそくちから瞬間しゆんかん活動くわつどうであつた。

なめた火はさらにこれをかんで、ずたずたにくずれた藁たばはその火を持ったまま、もう勢いのおさまった落ち葉の上にばらばらと乱れ落ちて、そこでまた火の勢いがよみがえった。

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ねぶつたさられをんでずた/\に崩壞ほうくわいした藁束わらたばたもつたまゝすでいきほひをしづめた落葉おちばうへにばら/\とみだおち其處そこ火勢くわせい恢復くわいふくされた。

ぼんやりして我を忘れていた卯平は、藁の火をあびた。

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惘然ばうぜんとして自失じしつして卯平うへいわらびた。

彼が慌てて戸口へ逃げ出したとき、火はもう赤い天井を作っていた。

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かれあわてゝ戸口とぐちしたときすであか天井てんじやうつくつてた。

けむりは四方からのきを伝って、むくむくと走っていた。

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けぶりは四はうからのきつたひてむく/\とはしつてた。

へびの舌のようにべろべろと、ほのおがはき出された。

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へびしたごとくべろ/\とほのほされた。

ふき募っている強い風は、すぐにその赤い舌をふきねじ切ろうとした。

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つのつて疾風しつぷうぐにそのあかした拗切ちぎらうとした。

後から後から勢いを増してはき出すけむりやほのおは、ほのように押しなびかされた。

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あとから/\と勢力せいりよくくはへてけぶりほのほごとなびかされた。

火はまたたく間に、ところどころ落ちくぼんだやつれた屋根をすっかり包んでしまった。

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瞬間しゆんかん處々ところ/″\くぼんでやつれた屋根やねまつたつゝんでしまつた。

卯平は数分前には思いもしなかったこの大変なできごとに気づいたとき、ほとんど気を失って庭にたおれた。

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卯平うへい數分時すうふんじまへ豫期よきしなかつた變事へんじ意識いしきしたときほとんど喪心さうしんしてにはたふれた。

土のかたまりのように動かない彼の体からは、あわれにかすかなけむりが立って、地面をはって消えた。

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土塊どくわいごとうごかぬかれ身體からだからはあはれかすかなけぶりつてうてえた。

藁の火をあびたとき、その火がぼろぼろの彼の着物をこがしたのである。

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わら沿びたとき襤褸ぼろかれ衣物きものこがしたのである。

しかしその火は、おきゅうのようなあとをぽつぽつと残しただけで、着物の芯まで深くはこがさなかった。

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しかきうごとあとをぽつ/\ととゞめたのみで衣物きもの心部しんぶふかまなかつた。

ほこりは彼をこえて走った。

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ほこりかれえてはしつた。

与吉はやけどの痛みをうったえて、独り悲しく泣いた。

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與吉よきち火傷やけど疼痛とうつううつたへてひとりかなしくいた。

強い風はその力をさえぎって包んだほのおをかきのけようとして、その余った力が屋根のふき草をふきまくった。

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疾風しつぷう威力ゐりよくさへぎつてつゝんだほのほ退けようとしてその餘力よりよく屋根やね葺草ふきぐさまくつた。

火はすぐにそのすきまにかみついて、ますますそこで力を強くした。

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たゞち空隙くうげきつてます/\其處そこちからたくましくした。

そそり立って空へかけ上がろうとするほのおを横に押しつけ押しつけ、強い風はついにかたまりのような火の粉をつかんで投げた。

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聳然すつくりそら奔騰ほんたうしようとするほのほよこしつけ/\疾風しつぷうつひかたまりごとつかんでげた。

そのつぶては、ゆらりゆらりとだけ動いている東どなりの森の木がふわりと受け止めてさえぎった。

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つぶてはゆらり/\とのみうごいて東隣ひがしどなりもりがふはりとけて遮斷しやだんした。

ただ一か所、三角測量台の見通しのじゃまになるといって切り払われたすきまが、それを通した。

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たゞ、三角測量臺かくそくりやうだい見通みとほしにさはためはらはれた空隙すきがそれをみちびいた。

火の粉は、東どなりの主人の屋根のすみにどさりと落ちた。

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東隣ひがしどなり主人しゆじん屋根やねの一かくにどさりととまつた。

勘次の家を包んだ火は、屋根裏のすす竹を一度にはぜさせて、鉄ぽうのような音を立てた。

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勘次かんじいへつゝんだ屋根裏やねうら煤竹すゝたけを一爆破ばくはさせて小銃せうじうごとひゞきてた。

その音は近所の人たちをおどろかせた。

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ひゞき近所きんじよみゝおどろかした。

その人たちがかけつけたときには、屋根のむねはどさりと落ちて、強い風にも負けず空中はるかにほのおを上げた。

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人々ひと/″\けつけたときむねはどさりとちて、疾風しつぷうちからしのいで空中くうちうはるかほのほげた。

そのときにはもう、東どなりの主人の家を火がべろべろとなめはじめていたのである。

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ときすで東隣ひがしどなり主人しゆじんいへがべろ/\とめつゝあつたのである。

村の人が万能ぐわやとび口を持って集まったときには、火はすさまじい勢いになっていた。

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村落むらもの萬能まんのう鳶口とびぐちつてあつまつたときすさまじいいきほひをつてた。

それでも大きな建物を焼きつくすには時間がかかった。

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それでもおほきな建物たてもの燒盡せうじんするには時間じかんえうした。

そのあいだに村の人は手当たりしだいに家財道具を持って、安全な場所へ移した。

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あひだ村落むらもの手當てあた次第しだい家財かざいつてれを安全あんぜん地位ちゐうつした。

その点では、真昼の作業は早く、そしてやりやすかった。

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てんおい白晝はくちう動作どうさ敏活びんくわつ容易よういであつた。

家財道具が門の外に運ばれたとき、火の勢いはもうすべての物が近づくのをゆるさなかった。

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家財道具かざいだうぐもんそとはこばれたとき火勢くわせいすですべてのものちかづくことを許容ゆるさなかつた。

家をかこんで、東にもすぎの高い木が立っていた。

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いへかこんでひがしにもすぎ喬木けうぼくつてた。

森のえだの上にはるかに立ちのぼろうとして、次第に勢いを増すほのおを、強い風はぐるりとかこんだ高い木のえだからごうっと押しつけ押しつけふき下ろした。

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もりこずゑうへはるかのぼらうとして次第しだいいきほひをくはへるほのほを、疾風しつぷうはぐるりとつゝんだ喬木けうぼくこずゑからごうつとしつけしつけちた。

ほのおはななめに、そしてかたむきながら、人々の耳には風の音を消して、ごうごうと鳴りつづいた。

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ほのほなゝめにさうしてかたむきつゝ、群集ぐんしふみゝには疾風しつぷうひゞきうばつて轟々ぐわう/\つづいた。

ふき下ろす風にさからって力を強くしようとするほのおは、深く木材の芯までしっかりとつめを引っかけた。

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おと疾風しつぷう抵抗ていこうしてちからたくましくしようとするほのほふか木材もくざい心部しんぶにまで確乎しつかつめけた。

そしてそのほのおは、近くにそびえたすぎのえだから小えだへかけてつめ先で引っかいた。

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さうしてほのほちかそびえたすぎこずゑからえだけて爪先つまさきいた。

そのたびにすぎは針葉樹らしく、やにの多い葉がばりばりとすさまじく鳴って焼けた。

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たびすぎ針葉樹しんえふじゆ特色とくしよくあらはして樹脂やにおほがばり/\とすさまじくつてけた。

屋根裏の竹がはぜた。

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屋根裏やねうらたけ爆破ばくはした。

消火に来た人たちは、ほとんど皮膚を焼かれるような熱さをおそれて、だんだん遠ざかった。

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消防せうばう群集ぐんしふほとんど皮膚ひふかれるやうなあつさをおそれて段々だん/\とほざかつた。

小さなポンプは、そのさかんなほのおの前でただ一本の細く短い曲がった白い線をえがくだけで、何の効き目も見えなかった。

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ちひさな喞筒ポンプそのさかんほのほまへただでうほそみじか彎曲わんきよくしたしろせんゑがくのみでなん功果こうくわえなかつた。

ほかの村の人々が聞き伝えて田んぼや林をこえて、そのあいだにそれぞれ体力を使いながらかけつけるまでには、大きなむねが熱い火を四方にあおって落ちた。

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村落むら人々ひと/″\つたへて田圃たんぼはやしえて、あひだ各自かくじ體力たいりよく消耗せうまうしつゝけつけるまでにはおほきなむね熱火ねつくわを四はうあふつてちた。

強い風がこれを押しつけて、まわりの高い木のえだがほかとへだてて、真昼の明るさがその光をうばおうとしているので、空に立って見えるのは遠いようで、近いようで、一種のすさまじさをふくんだけむりである。

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疾風しつぷうちかられをしつけて、周圍しうゐ喬木けうぼくこずゑへだてゝ白晝はくちうちからひかりうばはうとしてるので、そらつてえるのはとほいやうでちかいやうで一しゆ凄慘せいさんふくんだけぶりである。

それでも高い木のえだの上に、火はおさえつけられて苦しんでいるようにまれに立ちのぼっては、また押しつけられた。

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それでも喬木けうぼくこずゑうへ壓迫あつぱくくるしんでるやうにまれのぼつてはまたおしつけられた。

役に立たないポンプへ人々は水をくむのに、近所のあらゆる井戸はみなつるべが底にとどかなくなった。

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徒勞むだである喞筒ポンプ群集ぐんしふみづむのに近所きんじよあらゆる井戸ゐどみな釣瓶つるべとゞかなくなつた。

人々はただごうごうと、乱れた音の中でさわぎに満ちていた。

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群集ぐんしふたゞ囂々がう/\として混亂こんらんしたひゞきなか騷擾さうぜうきはめた。

火の力はこうして、まわりの村までも一つに吸いよせた。

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ちからかくごとくにして周圍しうゐ村落そんらくをも一つに吸收きふしうした。

しかしながら、その人たちは勘次の庭をかえりみようとはしなかった。

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しかしながら、群集ぐんしふ勘次かんじにはかへりみようとはしなかつた。

黄茶色のきりで四方をふさがれながら、ひたすらくわを打っていた勘次は、田んぼをわたって林をこえて遠くへ行っていた。

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黄褐色くわうかつしよくきりもつて四ふさがれつゝ只管ひたすら唐鍬たうぐはつて勘次かんじ田圃たんぼわたつてはやしえてとほつてた。

彼はこの大変なできごとを知るすべがなかった。

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かれ凶事きようじ理由わけがなかつた。

開こん地に近い細い道を走って行く人のあわただしいようすを見て、彼は初めてその火を知った。

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開墾地かいこんちちか小徑こみちはしつてひとあわたゞしい容子ようす見咎みとがめてかれはじめてそのつた。

それが東どなりの主人の家で起きたことを聞かされて、彼はおつぎをせかして立った。

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それが東隣ひがしどなり主人しゆじんいへおこつたことをかされてかれはおつぎをうながしてつた。

彼は走り出そうとして、そのしっかり立っていた場所から一歩ふみ出したとき、じゃりっとつま先に当たってさいふが落ちた。

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かれ疾驅しつくしようとして、確乎しつかゑた位置ゐちから一したとき、じやりつとその爪先つまさきつて財布さいふちた。

彼がふり返ったとき、さいふは二、三歩後ろに見つかった。

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かれかへりみたとき財布さいふは二三うしろ發見はつけんされた。

彼はかんたんな三尺帯を解いて、ぎりっとそこに大きなかたまりのような結び目を作って、そのさいふを包んだ。

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かれ簡單かんたんな三尺帶じやくおびいて、ぎりつと其處そこおほきなかたまりのやうなむすつくつて財布さいふつゝんだ。

彼はほとんど足の力のかぎり走った。

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かれほとん脚力きやくりよくおよかぎはしつた。

彼はおつぎが後についてこないことを気にするひまもなかった。

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かれはおつぎがうしろつゞかぬことを顧慮こりよするいとまもなかつた。

彼は主人のことを思ったのである。

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かれ主人しゆじんおもつたのである。

勘次は後ろの田んぼへ出たとき、きりのようなほこりをへだてて主人の家の森から上がるさかんなけむりを見て、今さらのようにおそろしくなった。

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勘次かんじうしろ田圃たんぼとききりごとほこりへだてゝ主人しゆじんいへもりからのぼさかんけぶり今更いまさらごと恐怖きようふした。

彼はまたふと、自分の後ろの林に少し見えていた自分の家のむねが見えないのに、心をさわがせた。

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かれまたふと自分じぶんうしろはやしすこえて自分じぶんいへむねえないのにそのこゝろさわがせた。

少しも力をゆるめない強い風は、雑木にまじった竹のえだを低く、さらに低くふきなびかせているけれど、むねはどうしても見えなかった。

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がうちからおとさぬ疾風しつぷう雜木ざふきまじつたたけこずゑひくくさうしてさらひく吹靡ふきなびけてれどむねはどうしてもえなかつた。

彼はまたけむりが糸のように、しかもすさまじく自分の林のあたりから立っては押しつけられるのを見た。

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かれまたけぶりいとごとしかすさまじく自分じぶんはやしあたりからたつてはしつけられるのをた。

彼が自分の庭に立ったときには、古いすすだらけのそまつな家は焼きつくされて、太い木材がわずかにほのおをはいて立っている。

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かれ自分じぶんにはつたときは、ふるすゝだらけの疎末そまつ建築けんちく燒盡やきつくして主要しゆえう木材もくざいわづかほのほいてつてる。

火はまだしつこく木材の芯をかんでいる。

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執念しふね木材もくざい心部しんぶんでる。

何でもふき払わなければ止まないという強い風は、赤いうずみ火を包む白い灰を、少しの間も置かずにふきまくった。

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何物なにものをもはらはねばむまいとする疾風しつぷうは、あかおきつゝしろはひ寸時すんじ猶豫いうよをもあたへないでまくつた。

芯をかまれつつある木材は、赤い歯を食いしばったような数えきれないひび割れが、火とけむりをはいていた。

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心部しんぶまれつゝある木材もくざいあかひしばつたやうな無數むすうひゞけぶりとをいてた。

勘次はほとんどぼんやりとして、この急な変わりようを見た。

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勘次かんじほとんど惘然ばうぜんとして急激きふげき變化へんくわた。

彼は足元がよろけるほど、強い風に突かれた。

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かれあしもとが踉蹌よろけほど疾風しつぷうかれた。

彼は庭に立って泣いている与吉を見た。

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かれにはつていて與吉よきちた。

与吉の横のほおについたやけどが、彼の乱れた心をさわがせた。

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與吉よきち横頬よこほゝいんした火傷やけどかれ惑亂わくらんしたこゝろさわがせた。

勘次はまた、そのそばに目を閉じて後ろ向きになっている卯平を見た。

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勘次かんじまたそばつぶつて後向うしろむきつて卯平うへいた。

卯平は、いつのまにかだれがそうしたのか、むしろの上に横たえられていた。

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卯平うへい何時いつたれがさうしたのかむしろうへよこたへられてあつた。

彼は少ない白髪を焼かれたやけどのあたりを、手でおおっていた。

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かれすくな白髮しらがはらつていた火傷やけどのあたりをうてた。

「お前はどうしたんだ」

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りやどうしたんだ」

勘次はいそいで聞いた。

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勘次かんじせわしくいた。

「木の葉へ火がくっついたんだ」

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ひいくつゝえたんだ」

与吉はむせびながら言った。

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與吉よきちむせりながらいつた。

「お前がいたずらしたんじゃないか」

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われでも惡戲いたづらしたんぢやねえか」

勘次はもどかしそうにはげしく問いつめた。

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勘次かんじ遲緩もどかしげにはげしく追求つゐきうした。

「おれは爺さんと火に当たってたんだ。そうしたらくっついたんだ」

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ぢいひいあたつてたんだ、さうしたらくつゝかつたんだ」

そう言って、与吉は急に声を上げて泣いた。

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さういつて與吉よきちにはかこゑはなつていた。

彼は何のためにそんなに悲しくなったのか、まだ幼い彼自身にも分からなかった。

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かれなんためにさうかなしくなつたのかむし頑是ぐわんぜない彼自身かれじしんにはわからなかつた。

彼はただなみだがこみ上げて、止めどもなく悲しく、しみじみと泣きつづけた。

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かれたゞなみだがこみあげてもなくかなしくさうしてしみ/″\とつゞけた。

勘次はそれを聞いた瞬間、肩のくわをころがしてぶつりと土を打った。

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勘次かんじはそれをいた瞬間しゆんかんかた唐鍬たうぐはころがしてぶつりとつちつた。

くわの刃先は、卯平の頭の近くのむしろのはしをかすめて、深く土に立った。

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唐鍬たうぐは刄先はさき卯平うへいあたまちかむしろの一たんかすつてふかつちつた。

彼はそれから、焼きつくされていっぱいのうずみ火になった自分の家の近くへかけ寄った。

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かれはそれから燒盡やきつくして一ぱいおきになつた自分じぶんうちちかつた。

彼は火のおそろしい熱さを感じて、しばらくためらって立った。

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かれおそろしい熱度ねつどかんじて少時しばし躊躇ちうちよしてつた。

後ろの林の、ややうなだれた竹の外側がぐるりと焼かれて色が変わっていたのが、彼の目に映った。

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うしろはやしやゝ俛首うなだれたたけ外側そとがはがぐるりとかれて變色へんしよくしてたのがかれえいじた。

それとともに彼は、となりの森の中で人々がごうごうとさわぐのを耳にして、自分が今何のために走って来たのかに気づいた。

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それとともかれとなりもりなか群集ぐんしふ囂々がう/\さわぐのをみゝにして自分じぶんいまなんため疾走しつそうしてたかをこゝろづいた。

しかし彼はもう、その人たちにまじって主人の災難を助けに行く気は起こらなかった。

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しかかれはもう群集ぐんしふあひだまじつて主人しゆじん災厄さいやくおもむこゝろおこらなかつた。

彼はその人たちの声を聞いて、自分では気づかないおさえつけを感じた。

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かれ群集ぐんしふこゑいて、みづか意識いしきしない壓迫あつぱくかんじた。

彼はひどく、自分のあわれでみじめなすがたに泣きたくなった。

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かれひど自分じぶんあはれつぽい悲慘みじめ姿すがたきたくなつた。

彼は走った後のひどいつかれを感じた。

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かれ疾走しつそうしたあと異常いじやう疲勞ひらうかんじた。

彼は自分の焼けあとをかき回そうとしたが、とび口も万能ぐわもみなその火の中に包まれてしまっていた。

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かれ自分じぶん燒趾やけあとてようとするのに鳶口とびぐち萬能まんのうみなそのなかつゝまれてしまつてた。

彼は素手だった。

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かれ空手からてであつた。

くわを取って、彼はまた熱い火のそばに立った。

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唐鍬たうぐはつてかれふたゝあつそばつた。

熱さにたえられない火のそばを、彼は飛びのいてまた立った。

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あつさにへぬそばかれ退すさつてまたつた。

彼はその刃先がにぶくなるのを考えるひまもなくくわで、まだ立っている木材を引っかけてたおそうとした。

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かれ刃先はさきにぶるのをおもいとまもなく唐鍬たうぐはで、またつて木材もくざいけてたふさうとした。

おつぎはおくれて、やっとかきねの入口に立った。

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おつぎはおくれてやうや垣根かきね入口いりくちつた。

おつぎはもう、自分の家がないことを知った。

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おつぎはもう自分じぶんうちいことをつた。

貧しい暮らしの中から数年かけてやっとたくわえた何まいかの着物が、もう一きれも残っていないことを知って、心の中で悲しんだ。

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貧窮ひんきう生活せいくわつあひだから數年來すうねんらいやうやたくはへた衣類いるゐ數點すうてんすでの一ぺんをもとゞめないことをつてさうしてこゝろかなしんだ。

汗がびっしりと髪の生えぎわをぬらして、つかれきった体を、おつぎはしばらくぼんやりと庭に立てた。

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あせがびつしりとかみ生際はえぎはひたして疲憊ひはいした身體からだをおつぎは少時しばし惘然ぼんやりにはてた。

おつぎはそれからまた、泣いている与吉と、なきがらのように横たわっている卯平を見た。

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おつぎはそれからまたいて與吉よきち死骸しがいごとよこたはつて卯平うへいとをた。

おつぎは万能ぐわを置いて、与吉のやけどした頭をそっとだいた。

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おつぎは萬能まんのういて與吉よきち火傷やけどした頭部とうぶをそつといだいた。

与吉はまたなみだがこみ上げて、むせびながらしみじみと悲しげに泣いた。

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與吉よきちまたなみだがこみあげてむせびながらしみ/″\とかなしげにいた。

その声は、聞く人をただ泣きたくさせた。

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こゑくものをたゞきたくさせた。

つかれたおつぎの目には、ふっとなみだがうかんだ。

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つかれたおつぎのにはふつとなみだうかんだ。

おつぎはまた、手でおさえた卯平の頭にうたがいの目を向けて、二人の悲しいしるしに思い当たった。

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おつぎはまたおさへた卯平うへい頭部とうぶうたがひのそゝいで、二にんかなしむべき記念かたみにおもひいたつた。

おつぎは、そのわけを問いつめて聞こうとはしなかった。

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おつぎは原因げんいん追求つゐきうしてかうとはしなかつた。

おつぎはしみじみと与吉を心の中でいたわって、さらに「爺さん」

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おつぎはしみ/″\と與吉よきちこゝろいたはつてさらに、「ぢい

と、卯平のむしろに近づいてそっとひざをついた。

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卯平うへいむしろちかづいてそつとひざをついた。

ふだんのおつぎは、勘次とのあいだをつなごうとする苦心からの甘えた言葉が、卯平の心にとどくのだった。

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平生いつものおつぎは勘次かんじとのあひだつながうとする苦心くしんからのあまえた言辭ことば卯平うへいこゝろとうずるのであつた。

今、おつぎの心の中には何の計算もなかった。

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現在いまおつぎの心裏しんりにはなん理窟りくつもなかつた。

ただしみじみと悲しい、いたわしい心からの言葉が、自然にその口から出るのだった。

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たゞしみ/″\とかなしいいたはしいこゝろからの言辭ことば自然しぜんくちからるのであつた。

おつぎは、まだ燃えている火を忘れたように卯平をこえてのぞいた。

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おつぎはえてるわすれたやうに卯平うへいえてのぞいた。

卯平はおつぎの声が耳に入ったので、後ろを向こうとしてわずかに目を開いた。

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卯平うへいはおつぎのこゑみゝはひつたのでうしろかうとしてわづかいた。

地面をかすめて走っているほこりが彼のほおを打って、彼の横たえた体をこえた。

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かすつてはしりつゝあるほこりかれほゝつてかれよこたへた身體からだえた。

彼はすぐに元のように目を閉じた。

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かれすぐ以前もとごとぢた。

「爺さんもやけどしたのか」

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ぢい火傷やけどしたのか」

おつぎは静かに言って、卯平の手をそっとどけて、左の横のほおについたやけどを見た。

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おつぎはしづかにいつて卯平うへいをそつと退けてひだり横頬よこほゝいんした火傷やけどた。

「痛いか。そんでもたいしたこともないから、心配するなよ」

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てえか、そんでもたえしたこともねえから心配しんぺえすんなよ」

おつぎは、火に焼かれた汚い卯平の白髪へ、そっと手を当てた。

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おつぎははらはれたきたな卯平うへい白髮しらがへそつとあてた。

卯平はおつぎのするままに任せて、少し口を動かすようだったが、またごうっとふきつける風にじゃまされた。

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卯平うへいはおつぎのするまゝまかせてすこくちうごかすやうであつたが、またごつときつける疾風しつぷうさまたげられた。

おつぎはとなりの庭のさわぎを聞いた。

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おつぎはとなりには騷擾さうぜういた。

しかもそのいろいろなさけびがまじって聞こえる声が、自分の心の芯から何かを引っつかんで行くようで、自然にそれへ耳をすますと、なんだかやるせないようなはかなさを感じてなみだが落ちた。

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しかその種々いろ/\さけびの錯雜さくざつしてきこえるこゑ自分じぶん心部むねからあるものつかんでくやうで、自然しぜんにそれへみゝすますとなんだかのないやうな果敢はかなさをかんじてなみだちた。

なみだは卯平の白髪にしたたった。

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なみだ卯平うへい白髮しらがしたゝつた。

おつぎが気づいたとき、勘次はむだに、そして発作のように汗を流して動いているのが見えた。

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おつぎがこゝろづいたとき勘次かんじいたづらにさうして發作的ほつさてきあせらしてうごいてるのをた。

おつぎの心もはっと、まだ燃えている火に向いた。

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おつぎのこゝろきつとしてえつゝあるうつつた。

おつぎは急に自分の万能ぐわを取って、勘次の手ににぎらせた。

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おつぎはにはか自分じぶん萬能まんのうつて勘次かんじつかませた。

勘次は初めて気づいて、熱くなったくわを冷やそうとして井戸ばたへ走った。

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勘次かんじはじめてこゝろづいて、ねつした唐鍬たうぐはひやさうとして井戸端ゐどばたはしつた。

かぎの手をはなれたつるべは、高く空中にうかんでゆっくりと大きく動いていた。

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かぎはなれた釣瓶つるべたか空中くうちううかんでゆつくりとおほきくうごいてた。

彼は流しのはしにずぶりとくわを投げこんで、また万能ぐわを取った。

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かれながじりにずぶりと唐鍬たうぐはとうじてまた萬能まんのうつた。

一日ふいた強い風がぱたりと力を落としたら、日が西の空の土手のような雲のはしの近くにすわって、次第にしずみながらまたたいた。

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にちいた疾風しつぷうはたちからおとしたら、西にしそら土手どてのやうなくもはしちかすわつて漸次だん/\沒却ぼつきやくしつゝまたゝいた。

その一しゅん、強い光が横から東の森の高い木をさびた橙色に染めて、さらにその光はすきまを遠くまでずっと手をのばした。

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の一瞬時しゆんじ強烈きやうれつひかりよこひがしもり喬木けうぼくさび橙色だい/″\いろめて、さらひかり隙間すきまとほくずつとのばした。

冷たく、そしてうす暗くなるにつれて、焼けあとの火がまわりを明るくした。

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つめたくかつ薄闇うすぐらるにしたがつて燒趾やけあと周圍しうゐあかるくした。

となりの火はほんのりと空をぼかした。

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となりはほんのりとそらをぼかした。

となりの庭には、自分の村からほかの村から、手おけや飯だいに入れたおにぎりがたくさん運ばれた。

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となりにはには自分じぶん村落むらから村落むらから手桶てをけ飯臺はんだいれたにぎめし數多かずおほはこばれた。

消火に力をつくした人々は、白いおにぎりをむさぼった。

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消防せうばうちからつくした群集ぐんしふしろ握飯にぎりめしむさぼつた。

人々はさらに、ころ合いを見てはぐらぐらと柱を突きたおそうとした。

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群集ぐんしふさら時分じぶん見計みはからつてはぐら/\とはしらたふさうとした。

丈夫な柱は、まだ火の勢いがあたりを遠ざけて、しっかりと立っていた。

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丈夫ちやうぶはしらはまだ火勢くわせいがあたりをとほざけて確乎しつかつてた。

ほかの村の人々は、次第に帰って行った。

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村落むら人々ひと/″\漸次だんだんかへつた。

自分の村の人々は、交代で残ってさかんな火の番をした。

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自村むら人々ひと/″\交代かうたいのこつてさかんばんをした。

帰る人々がそのついでに勘次の庭へあいさつに立ち寄っただけで、南の家からざるに入れたおにぎりが来ただけだった。

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かへ人々ひと/″\ついで勘次かんじには挨拶あいさつつたのみで、みなみいへからざるれた握飯にぎりめしだけであつた。

彼はそれでも、そのおかげでおなかをすかさずに済んだ。

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かれはそれでもため空腹くうふくのがれた。

となりの主人からは、しばらくしてその集まったおにぎりの手おけを二つ三つ持たせてよこした。

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となり主人しゆじんからはしばらくしてあつまつたにぎめし手桶てをけを二つ三つたせてよこした。

夜になってから、近所の人の手で卯平は念仏寮へ運ばれた。

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つてから近所きんじよもの卯平うへい念佛寮ねんぶつれうはこばれた。

勘次は卯平を乗せた荷車を引いた。

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勘次かんじ卯平うへいせた荷車にぐるまいた。

彼はそれからとなりの主人へあいさつに出たが、自分の喉の底で何か言って逃げるように帰った。

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かれはそれからとなり主人しゆじん挨拶あいさつたが、自分じぶんのどそこものをいうてげるやうにかへつた。

彼はその夜は、三人でこおった空の下、焼けあとの火の気をたよりに明かした。

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かれは三にんこほつたそらいたゞいて燒趾やけあと火氣くわき手頼たよりにかした。

卯平を横たえたむしろは、だれも取りには来なかった。

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卯平うへいよこたへたむしろたれりにはなかつた。

むしろは三人にすわる場所を与えた。

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むしろは三にんせきあたへた。

勘次は火事のわけについて、与吉からはっきりしたことを聞き出せなかった。

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勘次かんじ失火しつくわいて與吉よきちから要領えうりやうなかつた。

しかしながら、彼の悲しみと怒りにたえられない心がせめようとするのを、与吉の泣いて止まないやけどがおさえつけた。

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しかしながらかれ悲憤ひふんへぬこゝろさいなまうとするには與吉よきちいてまぬ火傷やけどがそれをおさへつけた。

勘次はつかれた。

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勘次かんじつかれた。

二六

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二六

夜がふけるにつれて、霜は三人のまわりにぴったりくっついて固まろうとしながら、火の力さえおさえつけた。

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けるにしたがつてしもは三にん周圍しうゐ密接みつせつしてらうとしつゝちからをすらしつけた。

彼らは冷めて行く火に、だんだんとむしろを近づけた。

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彼等かれらめて段々だん/\むしろちかづけた。

勘次もおつぎも、うすい仕事着にしんしんとこおる霜の冷たさと、じりじりとこがすような火の熱さを同時に感じた。

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勘次かんじもおつぎもうす仕事衣しごとぎにしん/\とこほしもつめたさと、ぢり/\とこがすやうなあつさとを同時どうじかんじた。

与吉はやけどに、夜の冷たさがしみた。

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與吉よきち火傷やけどつめたさがみた。

そうかといって火に当たろうとすれば、なおさらやけどの痛みが増すだけだった。

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さうかといつてあたらうとするのには猶且やつぱり火傷やけど疼痛いたみくはへるだけであつた。

彼は思い出したように泣いては、また泣いた。

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かれ思出おもひだしたやうにいてはまたいた。

ついには泣きつかれて、しくしくとただ声をのんだ。

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つひにはつかれてしく/\とたゞこゑんだ。

それがかえって、勘次とおつぎの心をかき乱した。

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それがかへつ勘次かんじとおつぎのこゝろみだした。

つかれた二人はうとうととしながら、とうとうねむることができなかった。

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つかれた二人ふたりはうと/\としながら到頭たうとうねむることが出來できなかつた。

焼けあとに横たわったはりや柱から、まだかすかなけむりを上げながら、次の日は明けた。

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燒趾やけあとよこたはつたはりはしらからまだかすかなけぶりてつゝつぎけた。

勘次はおつぎを相手に、灰をかき集めるのに一日を使った。

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勘次かんじはおつぎを相手あひて灰燼くわいじんあつめることに一にちつひやした。

手おけの冷たいおにぎりが、たよりない三人のおなかを満たした。

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手桶てをけつめたい握飯にぎりめし手頼たよりない三にんくちした。

勘次は炭のようになったやせた柱やはりを、かきねのそばに積んだ。

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勘次かんじすみのやうにつたせたはしらはり垣根かきねそばんだ。

彼はその新しい手おけへ水をくんで、まだ火のありそうなはりや柱にばしゃりとその水をかけた。

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かれあたらしい手桶てをけみづんでまださうはりはしらへばしやりとみづけた。

彼は灰をかき集めて、ところどころ円すいの形の小山を作った。

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かれはひあつめて處々ところどころ圓錘形ゑんすゐけい小山こやまつくつた。

彼は灰の中からなべやかまや鉄びんやそのほかの道具を、だんだんと万能ぐわの先でかき出した。

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かれ灰燼くわいじんなかからなべかま鐵瓶てつびん器物きぶつをだん/\と萬能まんのうさきからした。

鉄の道具は形を保っていても、まるで何年も使わずに捨ててあった物のように変わっていた。

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鐵製てつせい器物きぶつかたちたもつてても悉皆みんな幾年いくねん使つかはずにすててあつたものゝやうにかはつてた。

彼はそれをそっと大事にそばへ集めた。

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かれはそれをそつと大事だいじそばあつめた。

茶わんや皿や、すべての焼き物は熱い火で割れてしまって、一つも使える物はなかった。

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茶碗ちやわんさらすべての陶磁器たうじき熱火ねつくわねてしまつて一つでもやくつものはなかつた。

勘次が赤く焼けた土をわらじの底でだんだんかき払おうとしたとき、黒くこげたような何かがわらじの先にかかった。

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勘次かんじあかけたつち草鞋わらぢそこ段々だん/\かうとしたときくろげたやうなあるもの草鞋わらぢさきかゝつた。

焼けて色の変わった銅貨が少し固まったようになったのが、足にふれてぞろりとはなれた。

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けて變色へんしよくした銅貨どうくわすここゞつたやうになつたのがあしれてぞろりとはなれた。

彼はまわりをひょいと見た。

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かれ周圍しうゐにひよつとはなつた。

彼の目に入るのは、これもいっしんに灰のかたづけをしているおつぎのほかにはなかった。

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かれるものはこれも一しんはひ始末しまつをしてるおつぎのほかにはなかつた。

彼は銅貨をそっと竹の林のそばへ持って行った。

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かれ銅貨どうくわそつたけはやしそばつてつた。

彼はぎりっとしばった三尺帯を解いて、さいふをくくった結び目に歯をかけて、やっとそのさいふを取り出した。

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かれはぎりつとしばつた三尺帶じやくおびいて、財布さいふくゝつたむすけてやうやその財布さいふした。

焼けた銅貨を彼はさいふへ投げこんで、またぎりっと腰へくくった。

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けた銅貨どうくわかれ財布さいふんでたぎりつとこしくゝつた。

彼はそうしてまた、きょろきょろとまわりを見た。

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かれはさうしてふたゝびきよろ/\と周圍ぐるりた。

勘次はいくつかの小山にした灰へ、藁や粟のくきでしっかりとふたをした。

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勘次かんじいくつかの小山こやまかたちづくつたはひわら粟幹あはがらでしつかとふたをした。

彼はそれを田や畑へ持ち出すつもりなので、雨に打たせない工夫である。

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かれはそれをはたさうとしたので、あめたせぬ工夫くふうである。

その藁や粟のくきは、近所の人からもらった。

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わら粟幹あはがら近所きんじよからあたへられた。

彼は住む家を失った二日目に、初めて近所づきあいのありがたさを知った。

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かれ住居すまゐうしなつただい日目かめはじめて近隣きんりん交誼かうぎつた。

南の家の女房は、古い薬かんと茶わんを持って来てくれた。

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みなみ女房にようばうふる藥鑵やくわん茶碗ちやわんとをつててくれた。

勘次はふだん何とも思わなかったこれらの道具に、しみじみと便利さを感じた。

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勘次かんじ平生へいぜいなんともおもはなかつた器物きぶつにしみ/″\と便利べんりかんじた。

彼は薬かんのまだ熱い湯を茶わんに注いで、彼らが体を落ち着けるたった一まいのむしろのはしで休んだ。

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かれ藥鑵やくわんのまだあつ茶碗ちやわんいで彼等かれらちつけるたゞまいむしろはしいこうた。

急にがらんとした焼けあとを区切って立っている後ろの林の竹は、外側がぐるりとかれて、こげたえだが青いえだをおおって、みきは火の近かった所は油をふいて、きらきらとなめらかに変わっていた。

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にはか空洞からりとした燒趾やけあとかぎつてつてうしろはやしたけ外側そとがはがぐるりとれて、げたえだあをえだおほうてみきちかかつた部分ぶゞんあぶらいてきら/\となめらかにかはつてた。

東どなりの主人の庭には、この日も村の人が大ぜい集まって、大きな焼けあとのかたづけにおわれていた。

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東隣ひがしどなり主人しゆじんにはには村落むらもの大勢おほぜいあつまつておほきな燒趾やけあと始末しまつ忙殺ばうさつされた。

それで、その人たちは勘次の庭に手を貸そうとはしなかった。

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それでその人々ひと/″\勘次かんじにはさうとはしなかつた。

彼らはとなりの主人に対して、ふだんの恩に報いようとするよりも、これから先のことをおそれている。

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彼等かれらとなり主人しゆじんたいして平素へいそむくいようとするよりも將來しやうらいおそれてる。

彼らはみな同じように、静かに落ち着いた真昼の庭に立つことが、その家族の目につきやすいことを知っているのである。

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彼等かれらみなひとしくしづかにおちついた白晝はくちうにはたつことが家族かぞくやすいことをつてるのである。

勘次はつかれた体を、その日も余念なく働かせた。

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勘次かんじつかれた身體からだ餘念よねんなく使役しえきした。

その夜は、三人が空の下せまいむしろで明かすには、少しでも体を暖める火はもう消えていたのである。

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は三にんそらいたゞいてせまむしろあかすのには、わづかでもその身體からだあたゝめる消滅せうめつしてたのである。

三人はその夜、南の家に連れて行かれた。

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にんそのみなみいへみちびかれた。

勘次もおつぎも、汗と灰とほこりでよごれた体をおふろで洗い落とした。

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勘次かんじもおつぎもあせはひほこりとによごれた身體からだ風呂ふろあらおとした。

気持ちよかったそのおふろが、気づまりな他人の家でも彼らをぐっすりねむらせて、二日間のつかれを忘れさせようとした。

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こゝろよかつたその風呂ふろ氣盡きづくしな他人たにんいへ彼等かれらをぐつすりと熟睡じゆくすゐさせて二日間かかん疲勞ひらうわすれさせようとした。

与吉の横のほおは、皮膚がわずかに水ぶくれになってふくれていた。

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與吉よきち横頬よこほゝ皮膚ひふわづか水疱すゐはうしやうじてふくれてた。

彼はその日は機げんが悪かった。

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かれ機嫌きげんわるかつた。

南の家の女房は、その水ぶくれに髪へつけるごまの油をぬってやった。

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みなみ女房にようばう水疱すゐはう頭髮あたまへつける胡麻ごまあぶらつてやつた。

勘次は焼けたくいを地面に立てて、彼にとっていちばん必要な仮の住まいを作った。

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勘次かんじ燒木杙やけぼつくひてゝかれだい一の要件えうけんたるかり住居すまゐつくつた。

近所から集めた粟のくきのわずかな材料が、屋根をふく草だった。

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近所きんじよからあつめた粟幹あはがら僅少きんせう材料ざいれう葺草ふきぐさであつた。

それはやっと雨がもるかもらないかというだけの、うすいふき方だった。

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それはやつあめるからないだけのうす葺方ふきかたであつた。

もちろんかべを塗るひまはない。

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もとよりかべひまはない。

あちこちの林のあいだに刈り残された萱やしのを刈って来て、少ない藁とまぜて、かきねでも作るようにそれを内と外から裂いた竹をあてて、ぎっとしめた。

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そこらこゝらのはやしあひだのこされたかやしのつてて、とぼしいわらぜて垣根かきねでもふやうにそれを内外うちそとからいたたけてゝぎつとめた。

彼は南の家から借りたのこぎりで、大小の焼けたくいを切った。

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かれみなみいへからりたのこぎり大小だいせう燒木杙やけぼつくひ挽切ひつきつた。

ついに彼は後ろから焼けた竹を切って来て、すのこのように横にならべて低いゆかを作った。

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しまひかれうしろからけたたけつてのやうによこたへてひくゆかつくつた。

竹を切ったなたも、彼の持ち物ではなかった。

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たけつたなたかれ所有ものではなかつた。

彼の、熱い火に焼かれて独りで冷めたなたもかまも、すべての刃物はもう役に立たなかった。

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かれ熱火ねつくわかれてひとりめたなたかますべての刄物はものはもうやくにはたなかつた。

彼の手に無事に残ったのは、彼が自分の手のようにたよりにしているくわだけである。

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かれ完全くわんぜんたもたれたものはかれ自分じぶんたのんで唐鍬たうぐはのみである。

彼はこのかべもない小屋を作るために、二日ばかりのあいだは少しもほかを気にするひまがないほど、心がいそがしかった。

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かれかべもない小屋こやつくために二ばかりのあひだすこしかへりみるいとまがなかつたほどこゝろいそがしかつた。

彼のみじめなせまい小屋には、薬かんと茶わんと、それから火事の夕方にとなりの主人がくれた新しい手おけだけで、夜にねるのに一まいのふとんもなかった。

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かれ悲慘みじめせま小屋こやには藥鑵やくわん茶碗ちやわんとそれから火事くわじ夕方ゆふがたとなり主人しゆじんがよこしたあたらしい手桶てをけとのみで、よるよこたへるのに一まい蒲團ふとんもなかつた。

といしでみがかなければ使えないなべやかまは、彼のさらにせまい土間で、むだに場所をふさいでいた。

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砥石といしけてみがかねば使用しようへぬなべかまかれさらせま土間どまいたづらに場所ばしよふさげてた。

その土間にはまだかんたんないろりさえなくて、彼は火をたくのに三本足の竹を立てて、それに薬かんをかけた。

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土間どまにはまだ簡單かんたん圍爐裏ゐろりさへなくて、かれくのに三本脚ぼんあしたけてゝそれへ藥鑵やくわんけた。

おつぎは、ただ勘次の仕事を手伝っていた。

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おつぎはたゞ勘次かんじ仕事しごとたすけてた。

しかしそのあいだにも、念仏寮へ運ばれた卯平を忘れてはいなかった。

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しかあひだにも念佛寮ねんぶつれうはこばれた卯平うへいわすれてはなかつた。

おつぎは火事の次の日に、勘次には黙って念仏寮をのぞいてみた。

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おつぎは火事くわじつぎ勘次かんじへはだまつて念佛寮ねんぶつれうのぞいてた。

おつぎは卯平に目に見える形で心づかいをする方法を、何も見つけられなかった。

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おつぎは卯平うへいえた心盡こゝろづくしをするのになん方法はうはふ見出みいだなかつた。

おつぎのふところには一銭もないのである。

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おつぎのふところには一せんもないのである。

おつぎは手おけの底のこおったおにぎりを、焼けあとの炭に火を起こしてきつね色に焼いて、それを二つ三つ前かけにくるんで行ってみた。

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おつぎは手桶てをけそここほつた握飯にぎりめし燒趾やけあとすみおこして狐色きつねいろいてそれを二つ三つ前垂まへだれにくるんでつてた。

おつぎはこっそりとのぞくようにして見た。

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おつぎはこつそりとのぞくやうにしてた。

卯平は、だれがそうしてくれたのか、ただ一人でふとんにゆっくりとくるまっていた。

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卯平うへいたれがさうしてくれたかたゞ一人ひとり蒲團ふとんにゆつくりとくるまつてた。

まくら元には小さななべとおぜんが置かれて、おぜんには茶わんが伏せてある。

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枕元まくらもとにはちひさななべぜんとがかれて、ぜんには茶碗ちやわんせてある。

しるわんも、小皿をかぶせて伏せてある。

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汁椀しるわんれも小皿こざらおほうてせてある。

卯平はやつれた青い顔をこちらへ向けていた。

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卯平うへいやつれたあをかほをこちらへけてた。

彼はねむっていた。

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かれねむつてた。

おつぎは、すやすやと聞こえる息にじっと耳をすませた。

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おつぎはすや/\ときこえる呼吸いき凝然ぢつみゝすました。

おつぎはそれから、まくら元のなべのふたを取ってみた。

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おつぎはそれから枕元まくらもと鍋蓋なべぶたをとつてた。

なべの底には、白いどろりとした米のおかゆがあった。

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なべそこにはしろいどろりとしたこめかゆがあつた。

しるわんを取ってみたら、小皿にはひしおが少し乗せてあった。

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汁椀しるわんをとつてたら小皿こざらにはひしほすこせてあつた。

卯平は冷めた白がゆに、まだ一口もはしをつけたようすがない。

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卯平うへいめた白粥しろがゆへまだ一口ひとくちはしをつけた容子ようすがない。

おつぎは焼いたおにぎりを一つまくら元にそっと置いて、逃げるように帰って来た。

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おつぎはいた握飯にぎりめしを一つ枕元まくらもとにそつといてげるやうにかへつてた。

年寄りのするどい目が、とうとう開かなかった。

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老人としよりさと到頭たうとうひらかなかつた。

卯平はつかれた心が静まって、やっとぐっすりねむったところだったのである。

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卯平うへいつかれたこゝろしづまつてやうや熟睡じゆくすゐしたところなのであつた。

掘っ立て小屋ができてから、勘次はそれでも近所でなべやかまやそのほかの道具を少しはもらったり借りたりして使った。

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掘立小屋ほつたてごや出來できてから勘次かんじはそれでも近所きんじよなべかま日用品にちようひんすこしはもらつたりりたりして使つかつた。

おつぎはそのあいだ、いっしんに焼けたなべやかまをといしでこすった。

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おつぎはあひだしんけた鍋釜なべかま砥石といしでこすつた。

竹のゆかにしくむしろが三、四まい、これも近所で古いのを一まいくらいずつくれた。

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たけとこむしろが三四まいこれ近所きんじよふるいのを一まいぐらゐづつれた。

そうしてからやっと、ふとんが運ばれた。

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さうしてからやうや蒲團ふとんはこばれた。

それは彼がぎっしりと腰にくくったさいふの力だった。

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それはかれがぎつしりとこしくゝつた財布さいふちからであつた。

米や麦や味噌が、それでどうにか買えた。

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こめむぎ味噌みそがそれでどうにか工夫くふう出來できた。

彼はこうして、命をつなぐ方法がやっと立った。

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かれうしていのちつな方法はうはふやつつた。

二、三日たって、与吉のやけどは水ぶくれがやぶれて、死んだ皮膚の下が少しただれかけた。

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二三にちぎて與吉よきち火傷やけど水疱すゐはうやぶれてんだ皮膚ひふしたすこ糜爛びらんけた。

勘次は心から、やっとそのきずをいたわった。

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勘次かんじこゝろからやうや瘡痍きずいたはつた。

彼はふだんになく、それをほうっておけば一生あとが残るのではないかという心配さえ持った。

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かれ平生いつもになくそれを放任うつちやつてけば生涯しやうがい畸形かたわりはしないかといふうれひをすらいだいた。

そして彼は鬼怒川をこえて、医者の所へ与吉を連れて走った。

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さうしてかれ鬼怒川きぬがはえて醫者いしやもと與吉よきちれてはしつた。

医者はほほえみをうかべたまま、白いどろりとした薬を焼き物の板の上で練って、それをこってりとガーゼにぬって、やけどをおおってべたりとはって、ぐるぐると白いほうたいをした。

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醫者いしや微笑びせうふくんだまゝしろいどろりとしたくすり陶製たうせいいたうへつて、それをこつてりとガーゼにつて、火傷やけどおほうてべたりとはつてぐる/\としろ繃帶ほうたいほどこした。

手のやけどは横のほおのような痛みもきずもなかったが、医者はそこにもざっとほうたいをした。

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手先てさき火傷やけど横頬よこほゝのやうな疼痛いたみ瘡痍きずもなかつたが醫者いしや其處そこにもざつと繃帶ほうたいをした。

与吉は目ばかり出して、大げさなすがたになって帰って来た。

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與吉よきちばかりして大袈裟おほげさ姿すがたつてかへつてた。

与吉はほうたいをしてから、痛みも取れた。

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與吉よきち繃帶ほうたいをしてから疼痛いたみもとれた。

ほうたいはまた、直接ほかの物とこすれるのをふせいで、彼が気持ちよく村の中を歩き回れるようにした。

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繃帶ほうたいまた直接ちよくせつものとの摩擦まさつふせいで、かれこゝろよく村落むらうち彷徨さまよはせた。

ほうたいがかわいていれば五、六日はそのままでいいが、しるがしみ出すようなら明日にでもすぐ来るようにと医者は言ったのだが、しるは運よくぽっちり点をつけただけで、特に広がりもしなかった。

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繃帶ほうたいかわいてれば五六にちてゝいてもいが、液汁みづすやうならば明日あすにもすぐるやうにと醫者いしやはいつたのであるが、液汁みづさいはひにぱつちりとてんつたのみで別段べつだんひろがりもしなかつた。

おつぎは焼けあとのかたづけのいそがしいあいだにも、ときどき卯平を見に行った。

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おつぎは燒趾やけあと始末しまつせはしいあひだにも時々とき/″\卯平うへいた。

しかし卯平をなぐさめるのに一銭のたくわえもないおつぎは、やはり何の方法も見つけられなかったのである。

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しか卯平うへいなぐさめるに一せんたくはへもないおつぎは猶且やつぱりなん方法はうはふ手段しゆだん見出みいだなかつたのである。

おつぎは、勘次がやっと手に入れたわずかな米をそっと前かけにかくして持って行った。

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おつぎは勘次かんじやうやくにしてもとめたわづかこめそつ前垂まへだれかくしてつてつた。

米にはひきわり麦がまじっている。

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こめには挽割麥ひきわりまじつてる。

おつぎはけっして卯平を満足させられるとは思わなかったが、彼が食べてみようと言えば、おかゆにでもたいてやろうと思ったのである。

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おつぎはけつして卯平うへい滿足まんぞくさせることとはおもはなかつたが、かれべてようといへばかゆにでもいてやらうとおもつたのである。

しかし、おつぎがはずかしがりながら、それでも仕方なくかくして持って行った米は必要なかった。

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しかしおつぎがぢつゝそれでも餘儀よぎなくかくしてつてつたこめ必要ひつえうはなかつた。

念仏の仲間が代わる代わる少しずつの食べ物を持って来てくれるのを、卯平はきっと残していた。

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念佛ねんぶつ伴侶なかま交互かはりがはりすこしづゝの食料しよくれうつててくれるのを卯平うへい屹度きつとあましてた。

「爺さん、そんでもちっとはよくなったようだが、痛くはないかい」

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ぢい、そんでもちつた鹽梅あんべえよくなつたやうだが、いたかねえけえ」

おつぎは毎度のようにくり返して聞いた。

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おつぎは毎度いつものやうに反覆くりかへしていた。

言葉はやわらかで、そしてうるんでいた。

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言辭ことばやはらかでさうしてうるんでた。

卯平のやけどにも、油がぬられてあった。

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卯平うへい火傷やけどへもあぶらられてあつた。

水ぶくれがいつのまにかやぶれてただれた所を、油は見るからにいやらしく、そして汚くしていた。

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水疱すゐはうはいつかやぶれて糜爛びらんした患部くわんぶを、あぶらるからいとはしくきたなくしてた。

死んだ細ぼうの下からあざやかに赤く見えはじめた新しい肉は、外からのしげきに少しもたえる力を持たない細ぼうの集まりである。

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んだ細胞さいぼうしたからあざやかにあかはじめた肉芽にくげ外部ぐわいぶ刺戟しげきたいしてすこしの抵抗力ていかうりよくつてない細胞さいぼうあつまりである。

朝夕の冷たささえ、その敏感な神経をしげきした。

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朝夕あさゆふつめたさすら過敏くわびん神經しんけい刺戟しげきした。

卯平はいつでも、右の横のほおを上にしているほかなかった。

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卯平うへい何時いつでもみぎ横頬よこほゝうへにしてほかはなかつた。

「そんなに長くかからなくても治るだろうなあ」

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「さうだにかゝんなくつてもなほんべなあ」

おつぎは、油が汚くしたやけどをじっと見ていると自然に目がしかめられて、むしろ自分のきずの様子でも聞くように、卯平のまくらへ口をつけて言った。

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おつぎは、あぶらきたなくした火傷やけど凝然ぢつると自然しぜんしがめられて、むし自分じぶん瘡痍きず經過けいくわでもくやうに卯平うへいまくらくちをつけていつた。

「うん」

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「うむ」

という卯平の低くひびく声は、けっしてその言葉のようなかんたんな意味のものではなかった。

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卯平うへいひくひゞこゑけつして言辭ことばのやうな簡單かんたん意味いみのものではなかつた。

「そんでもどうにか家もこしらえたから、爺さんのことも連れて行くよなあ」

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「そんでもどうにかうちこせえたから、ぢいこともれてくべよなあ」

おつぎの声は次第にうるんで低くなった。

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おつぎのこゑ漸次ぜんじうるんでひくくなつた。

卯平はそれでも、おつぎの声を聞くと目を閉じたまま、ほとんどはっきりとは見えないほどのかすかな笑いがうかぶのだった。

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卯平うへいはそれでもおつぎのこゑくとつぶつたまゝほとん明瞭はつきりとはられぬやうなかすかなわらひがうかぶのであつた。

「どういうのを建てた」

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「どうえのてゝえ」

卯平はさすがに聞きたかった。

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卯平うへい有繋さすがきたかつた。

「どういうのって爺さんは、焼けた柱を立てただけよ。そんだからかべも塗らないのよ」

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「どうえのつてぢいは、けたはしら掘立ほつたてたのよ、そんだからかべんねえのよ」

「そんじゃ、藁か萱でふさいだんでもあろう」

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「そんぢや、わらかやでおツぷてえたんでもあんびや」

「うん、そうだあ。そんだからさわるとがさがさするんだよ」

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「うむ、さうだあ、そんだからさあつとがさ/\すんだよ」

こう言って、おつぎの声は少しはっきりして来た。

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ういつておつぎのこゑすこ明瞭はつきりとしてた。

おつぎははずかしそうなようすをした。

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おつぎははぢふくんだ容子ようすつくつた。

卯平はみじめな焼け小屋を思うと、自分が与吉といっしょにしくじったことが自分を苦しめて、ひどくつらかった。

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卯平うへい悲慘みじめ燒小屋やけごやおもふと、自分じぶん與吉よきちとも失錯しくじつたことが自分じぶんくるしめてひどつらかつた。

彼は急に目をしかめた。

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かれにはかしかめた。

「痛いのか」

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いてえのか」

おつぎは目ざとくそれを見て、心配そうに言った。

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おつぎは目敏めざとくそれをこゝろもとなげにいつた。

おつぎはやつれてしずんだ卯平のそばにいると、つい自分もしずんでしまって、ただじっとすくんだようになっているよりほかなかった。

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おつぎはやつれてしづんだ卯平うへいそばると、つひ自分じぶんしづんでしまつてたゞ凝然ぢつすくんだやうにつてるよりほかはなかつた。

それでも、おつぎは長い時間をそうしてむだに使うことはゆるされなかった。

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それでもおつぎはなが時間じかんをさうしてむなしくつひやすことは許容ゆるされなかつた。

「また来るからな」

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またつかんな」

と、おつぎがしずんだ声で言って出て行くと、その後で卯平の目じりからなみだが少しもれて、その小さな玉がしばらくやつれたしわに引っかかって、そしてほろりとまくらに落ちるのだった。

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とおつぎはしづんだこゑでいつてくのを、あと卯平うへいめじりからはなみだすこれて、ちひさなたましばらやつれたしわ引掛ひつかゝつてさうしてほろりとまくらちるのであつた。

勘次は一度も念仏寮をたずねなかった。

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勘次かんじは一念佛寮ねんぶつれうかへりみなかつた。

五、六日たって、与吉はまた医者へ連れて行かれた。

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五六にちぎて與吉よきち醫者いしやれられた。

医者は汚くなったほうたいを解いて、どろりとした白い薬をまた焼き物の板で練ってはった。

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醫者いしやきたなつた繃帶ほうたいいてどろりとしたしろくすり陶製たうせいいたつてつた。

この前より濃くしてはったから、もうこれで遠い道のりをわざわざ来なくても、これをときどきはってやれば自然にかわいてしまうだろうと、その白い薬と、それからガーゼをふくろに入れてくれた。

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先頃さきごろのよりもくしてつたからもうれでとほ道程みちのり態々わざ/\なくてもれを時々とき/″\つてやれば自然しぜんかわいてしまふだらうと、しろくすりとそれからガーゼとをふくろれてくれた。

与吉は急に元気づいた。

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與吉よきちにはかいきほひづいた。

彼はときどき、卯平のそばへも行った。

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かれ時々とき/″\卯平うへいそばへもつた。

卯平は横になった目に与吉のほうたいを見て、心を痛めた。

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卯平うへい横臥わうぐわした與吉よきち繃帶ほうたいこゝろいためた。

ある日与吉が行ったとき、この前の念仏のときに卯平にお酒をすすめた小がらなおじいさんが、まくら元にいた。

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ある與吉よきちつたとき先頃さきごろ念佛ねんぶつとき卯平うへいさけすゝめた小柄こがらぢいさんが枕元まくらもとた。

「お前、そんなに気を落とすなよ。これくらいのやけどなんぞどうということはない。おれが治してやるから。どうした、あのときからじゃ痛くはあるまい。あのまじないで火をしずめさえすりゃふしぎだから」

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「おめえ、さうだにちからおとすなよ、らつくれえ火傷やけどなんぞどうするもんぢやねえ、なほしてやつから、どうしたときからぢやいたかあんめえ、禁厭まじねえしめしせえすりや奇態きてえだから」

そう言っておじいさんは、仏だんのすみに置いた灯明皿を出して、その油をやけどにぬった。

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さういつてぢいさんは佛壇ぶつだんすみいた燈明皿とうみやうざらしてあぶら火傷やけどつた。

卯平はそのするままに任せて動かなかった。

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卯平うへいまゝまかせてうごかなかつた。

「気を落としちゃだめだから。おれなんざこんな所じゃない。こっちのうで、馬にかまれたときには、自分で見ちゃいられないって言われたっけが。そんでもおれは自分で手ぬぐいのはしをこう歯でくわえて、ぎいっとしばって、そしておれは馬を引いて来たな。汗は豆つぶくらいのがぼろぼろたれたっけが、そんでもとうとうがまんしちまった。何でも気を落としさえしなけりゃ、治るのはすぐだから。年を取っちゃ治りが遅いの何のって、そんなことはないから」

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ちからおとしちや駄目だめだから、らなんざこんなところぢやねえ、こつちなうでうまかまつたときにや、自分じぶんちやえかねえつてはつたつけが、そんでも自分じぶん手拭てねげはしくええてぎいゝつとしばつて、さうしてうまいてたな、あせ豆粒まめつぶぐれえなのぼろ/\れつけがそんでも到頭たうとう我慢がまんしつちやつた、なんでもちからおとしせえしなけりやなほんなすぐだから、としつちやなほりが面倒めんだうだのなんだのつてそんなこたあねえから」

おじいさんはひたすら卯平の元気を引き立てようとした。

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ぢいさんは只管ひたすら卯平うへい元氣げんき引立ひきたてようとした。

「おれはそんだが、そんなけがをしても馬はにくくはないのよ。馬がおびえるくせがあって、ひひんとさわいだ所へ、おれが手を横へ出しておさえたもんだから、畜生、見境もなくかんだんだからなあ」

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らそんだが、さうえ怪我けがしてもうまにくかねえのよ、うまれんのがくせでひゝんとさわいだところてえよこしておさえたもんだから畜生ちきしやう見界みさけえもなくかぢツたんだからなあ」

と、彼はお酒を飲んではいなかったので声は低かったが、それでも次第に勢いを増していた。

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かれさけんではなかつたのでこゑひくかつたが、それでも漸々だん/\いきほひをくはへてた。

「おれは白い薬をはったんだぞ」

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しれくすりつたんだぞ」

与吉はさっきから油をぬった卯平のきずに目を向けていて、こうとつぜんに言った。

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與吉よきち先刻さつきからあぶらつた卯平うへい瘡痍きずそゝいでてかう突然とつぜんにいつた。

「なあに、そんな物なんざはらなくたって、お前らのよりこっちのほうが早く治るから」

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「なあに、さうだもんなんざんねえツたつてがよりやこつちのはうはやなほつから」

小がらなおじいさんは、しばらく手元に置いた油の皿をまた仏だんのすみへしまった。

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小柄こがらぢいさんはしばらもとへいたあぶらさらふたゝ佛壇ぶつだんすみしまつた。

「そんでも、おれのことはもう、来なくても治るからいいと言って薬をくれたんだぞ」

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「そんでもれこたはあ、なくつてもなほつからえゝつてくすりよこしたんだぞ」

与吉は少しはなれて、おずおずと言った。

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與吉よきちすこあひだへだてゝづ/\いつた。

「治るもんかい、お前らが」

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なほるもんかえ、汝等わツらが」

小がらなおじいさんはからかうようにどなった。

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小柄こがらぢいさんは揶揄からかふやうにして呶鳴どなつた。

「治らあい。そんだって痛くはない、おれらは」

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なほらあえ、そんだつていたかねえ

与吉はおどろいたように言った。

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與吉よきちおどろいたやうにいつた。

「その白い薬というのをくれたのか」

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しれくすりだツちのよこしたのか」

卯平はかすかな声で聞いた。

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卯平うへいかすかなこゑいた。

「そうなんだわ」

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「さうなんだわ」

「お前は、それ、姉ちゃんにでもはってもらうのか」

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りや、それねえにでもつてもらあのか」

「おれははらない」

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んねえ」

「そんじゃ薬はどうしたんだい、お前は」

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「そんぢやくすりはどうしたんでえ、りやあ」

「おとっつあんが持ってるんだから、おれは知らない」

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「おとつゝあつてんだからんねえ」

与吉は上がりがまちに胸をもたせて、下駄のつま先で土間の土をたたきながら、卯平とこうして何か言葉を交わしたとき

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與吉よきちあががまちむねたせて下駄げた爪先つまさき土間どまつちたゝきながら卯平うへいうして數語すうご交換かうくわんしたとき

「いいから、そんな薬のことなんぞ気にするない。これで治るから」

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「えゝからそんなくすりなんぞのことかめえたてんなえ、れでなほつから」

と、小がらなおじいさんがそばから打ち消した。

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小柄こがらぢいさんはそばからした。

「こじき野郎め。お前らの父親は見やがれ、お前のことは医者へ連れて行くお金を持ちやがって、ここへは一度でも来やがらない奴だから、見ろ。それくらいだからばちが当たって丸焼けになっちまうんだ」

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乞食野郎奴こちきやらうめ親爺おやぢやがれ、われこた醫者いしやれてくぜにつてけつかつて、此處ここさは一でもやがんねえ畜生ちきしやうだから、ろう。のツくれえだからばちあたつて丸燒まるやけつちやあんだ」

と、おじいさんはさらに独りで怒った調子で言った。

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ぢいさんはさらひとりいきどほつた語勢ごせいもつていつた。

「おとっつあんは、爺さんに焼かれたって言ってるんだあ」

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「おとつゝあはぢいかつたツちツてんだあ」

与吉は勢いにおされてはずかしそうにしながら、やっと言った。

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與吉よきちいきほひにあつせられてはにかむやうにしながらやつといつた。

「お前らの父親めが言ったのか」

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汝等わツら親爺奴おやぢめつたのか」

おじいさんはさらに

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ぢいさんはさら

「お前は何と言った、それで」

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りやなんちつたそんで」

とどなった。

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呶鳴どなつた。

与吉はしょげて、しばらく黙った。

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與吉よきちしをれてしばら沈默ちんもくした。

「おれは火に当たってたら木の葉にくっついたんだって言ったんだあ」

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ひいあたつてたらさくつゝえたんだつてつたんだあ」

「そう言われても仕方がないよ」

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「さうはつても仕方しかたねえよ」

与吉が言い終わらないうちに、卯平が言葉をはさんだ。

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與吉よきちのいひをはらぬうち卯平うへい言辭ことばはさんだ。

「ばかを言え、燃やしたくて燃やす者があるもんか」

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箆棒べらぼう、つんしたくつて、つんすものるもんか」

おじいさんは少し興ふんして

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ぢいさんはすこげきして

「まちがいだもの、後で何と言ったって仕方があるもんじゃない」

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過失えゝまちだものあとなんちつたつてやうあるもんぢやねえ」

と、独りで力んだ。

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ひとりりきんだ。

「そんでも気の毒で来られまいって言ったあ」

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「そんでもどくらんめえつてつたあ」

与吉はぽつりと言った。

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與吉よきちはぽさりといつた。

やや大きくなった彼は、どなるおじいさんの前でこわがったが、また、おさえつけられることにかすかな反発を持っていた。

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やゝおほきくつたかれ呶鳴どなぢいさんのまへ恐怖おそれいだいたがまたおさへられることにかすかな反抗力はんかうりよくつてた。

「爺さんのことを来られまいって言ったのか。姉ちゃんも言ったのかあ」

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ぢいことらんめえつてつたのか、ねえつたのかあ」

「姉ちゃんは言わない。姉ちゃんが爺さんの所へ行くというと、おとっつあんが怒るんだ。そうしたら姉ちゃんが怒られたんだあ」

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ねえはねえ、ねえぢいとこぐつちとおとつゝあおこんだ、さうしたらねえおこらつたんだあ」

与吉は、自分の心に少しのへだてもない卯平の前で、知っていることを自まんするように言った。

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與吉よきち自分じぶんこゝろすこしのへだてをもいうしてらぬ卯平うへいまへつてることをほこるやうにいつた。

「お前のことは怒らないのか」

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われこたおこんねえのか」

小がらなおじいさんは、与吉のかくさない言葉に少し力んだ勢いがぬけたようになって、こう言った。

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小柄こがらぢいさんは與吉よきちかくさぬ言辭ことばすこりきんだいきほひがけたやうになつてういつた。

「おれのことは怒らない。おれは怒られたっくらい逃げちまうから」

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れこたおこんねえ、おこつたつくれえげつちやあから」

与吉の言うのを聞いて、おじいさんの怒りはやわらいだ。

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與吉よきちのいふのをいてぢいさんのいかりはやはらげられた。

卯平は青い顔をして、じっと閉じた目をしかめて聞いていた。

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卯平うへいあをかほをして凝然ぢつつぶつたしがめていてた。

いろりには、しばの一本もくべてなかった。

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圍爐裏ゐろりには麁朶そだの一えだべてなかつた。

三人はしばらくぽつねんとした。

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にんしばらくぽさりとした。

「爺さん、くれないか」

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ぢいくんねえか」

与吉はおそるおそる言った。

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與吉よきちあやぶむやうにいつた。

「お前は何がほしいというんだ」

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りやなにしいつちんだ」

小がらなおじいさんは、底力のある声を低くして言った。

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小柄こがらぢいさんは底力そこぢからこゑひくくしていつた。

「おれは一銭もないから」

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一錢ひやくもねえから」

と、卯平はこそばゆい何かが喉につかえたように、ごくりとつばを飲んだ。

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卯平うへいはこそつぱいあるもののどつかへたやうにごつくりとつばんだ。

彼の目のしわが、よけいにぎっとしまった。

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かれしわ餘計よけいにぎつとしまつた。

「おれはまだ、ちっとはあったんだったが、たばこ入れといっしょに焼けちまったから」

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らまあだ、ちつたつたんだつけが、煙草入たぶこれ同志どうしえつちやつたから」

彼はぽつりと投げ出すように言った。

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かれはぽさりとしていつた。

「たばこ入れは焼けたって、お金だったら灰をかき払えばあるはずだ。ほかにぬすむ者もあるまいし」

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煙草入たぶこれけたつてぜねだらへえ掻掃かつぱけばはずだ、ほかりやすめえし」

小がらなおじいさんの目は光った。

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小柄こがらぢいさんのひかつた。

「なあに分からないよ。おつうらが毎日来ていてもその話はないんだから。おれはどうせ治るか何だか分かりやしまいし、要らないな」

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「なあにわかんねえよ、おつう毎日まいんちてゝもはなしやねえんだから、らどうせなほつかなんだかわかりやすめえし、らねえな」

「なあに、おれが聞いてみなくちゃならない。出すも出さないもあるもんか」

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「なあに、いてなくつちやなんねえ、すもさねえもるもんか」

小がらなおじいさんはつぶやいて

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小柄こがらぢいさんはつぶやいて

「行けもう。お前は大きな体をして、くれの何のって」

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けはあ、りやけえ姿なりして、ろうのなんだのつて」

と、与吉をどなりつけた。

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與吉よきち呶鳴どなりつけた。

与吉はすごすごと出て行った。

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與吉よきち悄々すご/\つた。

卯平は少し目を開いて、与吉の後ろすがたを見た。

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卯平うへいすこひらいて與吉よきち後姿うしろすがたた。

なみだが止めどもなく出た。

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なみだめどもなくた。

彼はそれをふこうともしなかった。

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かれはそれをぬぐはうともしなかつた。

二七

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二七

その夜、気温がとても下がった。

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温度をんどいちじるしく下降かかうした。

季節はお彼岸もすぎて四月に入っているのだが、寒さは地面にくっついたようにはなれなかった。

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季節きせつ彼岸ひがんぎて四ぐわつはひつてるのであるが、さむさはりついたやうにはなれなかつた。

夜中に卯平はのっそりと起きて、いろりにしばをくべた。

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夜半やはん卯平うへいはのつそりときて圍爐裏ゐろり麁朶そだべた。

ちろちろと鉄びんのしりから燃え上がる火は、まわりの暗やみにつつまれながら、やつれた卯平の顔にほの明るい光をそえた。

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ちろちろと鐵瓶てつびんしりからえのぼる周圍しうゐやみつゝまれながらやつれた卯平うへいかほにほのあかるいひかりへた。

彼は勢いのないほのおの前で目を閉じたまま、ただしずんだ気持ちのままでいた。

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かれいきほひないほのほまへつぶつたまゝたゞ沈鬱ちんうつ状態じやうたいたもつた。

彼はほとんど動かないようにして、そのままにすればすっと深くしずんでしまうように冷めて行く火へ、ぽちりぽちりとしばを足していた。

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かれほとんどうごかぬやうにしててゝけばすつとふかしづんでしまつたやうにめてへぽちり/\と麁朶そだしてた。

彼はしばらく我を忘れたようにしていて、しばの火がまわりの暗やみにおさえつけられそうになりながらわずかに勢いを保ったとき、彼はすっと立ち上がった。

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かれしばら自失じしつしたやうにして麁朶そだ周圍しうゐやみしつけられようとしてわづかいきほひをたもつたときかれはすつとあがつた。

彼のただれた横のほおは、もう消えようとしている火のうす明かりにぼんやりとした。

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かれ糜爛びらんした横頬よこほゝはもうほろびようとして薄明うすあかりにぼんやりとした。

火はげっそりと落ちて、彼のすがたが消え入りそうになった。

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はげつそりとちてかれ姿すがたらうとした。

彼は戸を開けて、よろけながら出た。

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かれけて踉蹌よろけながらた。

寒い風が冷たい刃をあびせた。

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さむかぜつめたいやいばびせた。

卯平はぞっとした。

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卯平うへい悚然ぞつとした。

勘次ら三人は、その夜も固まってうすいふとんにくるまった。

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勘次等かんじらにん凝集こごつてうす蒲團ふとんにくるまつた。

勘次は足にとても冷たさを感じて、うとうとしていたねむりからさめた。

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勘次かんじあし非常ひじやうつめたさをかんじて、うと/\としてねむりからめた。

手足をのばせばくくりつけた萱やしのの葉にふれて、かさかさと鳴るほどせまい部屋を、寒さはたばねた松葉の先でつつくように、夜通しそのすきまをねらって止まなかった。

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手足てあしのばせばくゝりつけたかやしのれてかさ/\とほどせま室内しつないを、さむさはたばねた松葉まつばさきでつゝくやうに徹宵よつぴてその隙間すきまねらつてまなかつた。

勘次は目がさえてしまった。

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勘次かんじえてしまつた。

彼は北にまくらを向けていた。

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かれきたまくらしてた。

後ろの林が急にさわいでは、また静まって、そしてざわざわと鳴った。

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うしろはやし性急せいきふさわいではまたしづまつてさうしてざわ/\とつた。

北風が立ったのだ。

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北風きたかぜつたのだ。

低い粟のくきの屋根から、そのくくりつけた萱やしのの葉には、さえた耳にやっと聞き取れるような、さらさらとかすかに何かを打ちつけるような音が止まない。

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ひく粟幹あはがら屋根やねからそのくゝりつけたかやしのにはえたみゝやつきゝとれるやうなさら/\とかすかになにかをちつけるやうなひゞきまない。

次第にその音が消えて、すきまを求めて入りこむ寒さがひどくなった。

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漸次だん/\ひゞき消滅せうめつして、隙間すきまもとめて侵入しんにふするさむさのくははつた。

どこかでこおった土にひびくようなにわとりの声が高く聞こえると、夜はのきのすきまから明るくなった。

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何處どこかでこほつてたつちひゞくやうなにはとりこゑ疳走かんばしつてきこえるとよるのき隙間すきまからあかるくなつた。

勘次はおつぎを起こした。

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勘次かんじはおつぎをおこした。

彼は夜が明ければ、ふとんの中で固くなっているより火に当たったほうがずっとよかった。

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かれければ蒲團ふとんかたくなつてるよりもにあたつたはうはるかによかつた。

彼は明けるのを待ち遠しく思っていた。

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かれけるのを待遠まちどほにしてた。

おつぎは外へ出ようとした。

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おつぎはそとようとした。

外は思いがけず、積もりかけた雪が白かった。

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そと意外いぐわいつもけたゆきしろかつた。

さらに積もりつつある大つぶの雪が、北からななめに空をかき乱して飛んでいる。

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さらつもりつゝある大粒おほつぶゆききたからなゝめ空間くうかん掻亂かきみだしてんでる。

おつぎはしばらく立ちすくんだ。

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おつぎは少時しばしすくんだ。

大つぶの雪を投げながらふき下ろす北風が、ごうっと寒さをあおった。

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大粒おほつぶゆきげつゝちる北風きたかぜがごつとさむさをあふつた。

勘次はせまい土間にかき集めてあった落ち葉やしばに火をつけた。

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勘次かんじせま土間どまあつめてあつた落葉おちば麁朶そだけた。

けむりは低いのきをはって、ぐるぐると空が回るように見えながら、飛び散るいそがしい雪のために逃げ道をふさがれたように、低くさまよって行く。

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けぶりひくのきつて、ぐる/\と空間くうかん廻轉くわいてんするやうにえつゝせはしいゆきためみちさまたげられたやうにひく彷徨さまようてく。

おつぎは外に置いた手おけを取った。

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おつぎは外側そとがはいた手桶てをけつた。

北風のふきつける雪は、一つの手おけを半分白くしていた。

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北風きたかぜきつけるゆきひとつの手桶てをけ半分はんぶんしろくしてた。

おつぎが低いのきの下を一歩ふみ出したら、北風は待っていたというように、その乱れた髪の毛をふきまくって、大つぶの雪が争って首すじへ群がり落ちて、またたく間に消えた。

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おつぎはひくのきしたを一したら、北風きたかぜつてたといふやうに、みだれたかみまくつて、大粒おほつぶゆきあらそつて首筋くびすぢむらがおち瞬間しゆんかんえた。

そしてまた、着物の上に軽くやわらかに止まった。

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さうしてまた衣物きものうへかるやはらかにとまつた。

おつぎは、つるべの竹ざおが北から打ちつける雪のために、たてに一本の白い線をえがきつつあるのを見た。

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おつぎは釣瓶つるべ竹竿たけざをきたからうちつけるゆきためたて一條ひとすぢしろせんゑがきつゝあるのをた。

ちらちらと目をくらますような雪の中に、木々はみな真っ白な柱を立て、つるべのふちは白い丸い輪をえがいている。

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ちら/\とくらますやうなゆきなか樹木じゆもく悉皆みんな純白じゆんぱくはしらたてて、釣瓶つるべふちしろまるゑがいてる。

おつぎが竹ざおに手をかけると、軽いやわらかな雪はさらりとくずれて落ちた。

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おつぎは竹竿たけざをけるとかるやはらかなゆきはさらりとけてちた。

おつぎが一ぱいくんでひょいとふり返ったとき、後ろの竹の林が強い北風に首すじを押しつけられては、雪をつかんでぱあっと投げつけられながら、力のかぎり争おうとして苦しんでいるのを見た。

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おつぎは一ぱいんでひよつとふりかへつたときうしろたけはやしつよ北風きたかぜ首筋くびすぢしつけてはゆきつかんでぱあつとげつけられながらちからかぎりあらそはうとして苦悶もがいてるのをた。

おつぎは見るなとふきつける北風を正面から受けて、息がむっとつまるように感じて、ふと横を向いた。

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おつぎはるなときつける北風きたかぜ當面まともけて呼吸いきがむつとつまるやうにかんじてふと横手よこていた。

少しはなれたかきの木の下に、おつぎは吸いよせられたようにおどろきの目を見開いた。

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すこはなれたかきしたにおつぎはひつけられたやうにうたがひのみはつた。

おつぎはつるべを放して、少しかきの木の下へ近づいた。

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おつぎは釣瓶つるべはなしてすこかきしたちかづいた。

「おとっつあん」

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「おとつゝあ」

と、おつぎは底のねばるぞうりを捨てて、はげしく呼んでかけこんだ。

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とおつぎはそこねば草履ざうりてゝはげしくんでんだ。

「大変だよ、おとっつあん」

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大變たえへんだよ、おとつゝあ」

と、今度は少し声を殺すようにして勘次をせかした。

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今度こんどすここゑころすやうにして勘次かんじうながした。

勘次はふしぎそうなするどい目でおつぎを見た。

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勘次かんじ怪訝けげんするどもつておつぎをた。

「よう、おとっつあん」

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「よう、おとつゝあ」

おつぎのふだんとちがうあわてぶりが、勘次を庭へ走らせた。

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おつぎの節制たしなみうしなつたあわたゞしさが勘次かんじにははしらせた。

勘次はふるえた。

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勘次かんじ戰慄せんりつした。

かきの木の下には、冷たい卯平が横たわっていたのである。

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かきしたにはつめたい卯平うへいよこたはつてたのである。

その大きな体は少しかきの木にもたれかかりながら、胸から足へまだらに雪をあびていた。

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そのおほきな體躯からだすこかきかゝりながら、むねから脚部きやくぶまだらゆきびてた。

荒縄が彼の手をはなれて、横に体をこえていた。

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荒繩あらなはかれけてよこ體躯からだえてた。

「爺さん」

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ぢい

と、おつぎはその耳に口を当ててどなった。

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とおつぎはみゝくちてゝ呶鳴どなつた。

冷たい卯平は、ぐったりとうなだれたままである。

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つめたい卯平うへいはぐつたりと俛首うなだれたまゝである。

少しかたむいた彼の横のほおのただれたやけどが、勘次をぞっとさせた。

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すこかしげたかれ横頬よこほゝ糜爛びらんした火傷やけど勘次かんじ悚然ぞつとさせた。

勘次は夜に荷車で運んだ後、卯平を見るのは初めてだった

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勘次かんじよる荷車にぐるまはこんだのち卯平うへいるのははじめてゞあつた

「おとっつあんは、どうしたっていうんだろうな」

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「おとつゝあは、どうしたつちんだんべな」

おつぎは勘次をしかって、卯平の体を起こしながら、白くかかった雪を手で払った。

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おつぎは勘次かんじしかつて、卯平うへい身體からだおこしながらしろかゝつたゆきはらつた。

勘次はおずおずと手を貸した。

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勘次かんじづ/\した。

卯平の力ない体は、やっと二人の手で運ばれた。

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卯平うへいちからない身體からだやうや二人ふたりはこばれた。

勘次はすのこの上のむしろに横たえて、気を失ったようにぼんやりと立った。

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勘次かんじうへむしろよこたへて、喪心さうしんしたやうに惘然ばうぜんとしてつた。

彼はまた、卯平のただれたやけどを見た。

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かれ卯平うへい糜爛びらんした火傷やけどた。

彼は何を思ったか、いそいで雪をけ立てて、桑畑のあいだを通って南の家へ走った。

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かれなにおもつたかいそがしくゆき蹴立けたてゝ、桑畑くはばたけあひだぎてみなみいへはしつた。

いったん開けてまたそっと閉めた表の戸口から、とつぜん

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たんけてまたそつととざしたおもて戸口とぐちから突然とつぜん

「起きてないか」

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きめえか」

と、彼ははげしくどなった。

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かれはげしく呶鳴どなつた。

彼はどてらを着てかまどの前で火をたいている女房を見た。

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かれ褞袍どてらかまどまへいて女房にようばうた。

「何だい」

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なんでえ」

と、亭主のおどろいて言う声が近くで聞こえた。

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亭主ていしゆおどろいていふこゑちかきこえた。

勘次もおどろいて、上がりがまちのふとんから首を上げた亭主を見た。

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勘次かんじおどろいてあががまち蒲團ふとんからくびもたげた亭主ていしゆた。

「大変なことができたよ、おれの家の」

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大變たえへんなこと出來できたよ、の」

と、勘次はこそばゆい喉からやっとそれだけを出した。

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勘次かんじはこそつぱいのどからやうやくそれだけをした。

「来てくれないか」

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てくんねえか」

と、彼はかんたんにそう言って、思い出したようにまた雪をけって走った。

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かれ簡單かんたんにさういつて、おもしたやうにまたゆきつてはしつた。

慌てた彼は、しきいもまたがなかった。

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あわてたかれしきゐまたがなかつた。

南の家の亭主は、勘次のようすを見てただごとでないと知った。

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みなみいへ亭主ていしゆ勘次かんじ容子ようす尋常じんじやうでないことをつた。

しかしながら彼は、まるでよく分からないできごとへ行くのに、すぐわいてくる多少の心配のせいで、ふきまくる雪にさからってみのもかさも持たずに走って行くほど慌てはしなかった。

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しかしながらかれきはめて不判明ふはんめい事件じけんおもむくには、たゞちおこ多少たせう懸念けねんまくゆきさからつて、みのかさたずにはしつてほどあわてさせるわけにはかなかつた。

彼は土間にころがった下駄をさがした。

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かれ土間どまころがつた下駄げたさがした。

すごい勢いで積もろうとする雪は、庭から庭をつなぐ桑畑のあいだで下駄の運びをおそくした。

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非常ひじやういきほひでつもらうとするゆきは、にはからには桑畑くはばたけあひだ下駄げたはこびをにぶくした。

彼が勘次の小屋をのぞいたときは、低くせまい入口を自分の体がふさいで、中をうす暗くした。

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かれ勘次かんじ小屋こやのぞいたときひくかつせま入口いりぐち自分じぶん身體からだふさいでうち薄闇うすぐらくした。

外の白い雪を見た彼の目が、しばらくくらんだ。

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そとしろゆきかれしばらくらんだ。

彼はただ、勘次が与吉をしかる声を耳のそばで聞いた。

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かれたゞ勘次かんじ與吉よきちしかこゑみゝそばいた。

勘次が帰ったとき、卯平は横たえたままだった。

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勘次かんじかへつたとき卯平うへいよこたへたまゝであつた。

浅くかかっていた雪がとけて、卯平のどてらが少しぬれていた。

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あさかゝつてゆきけて卯平うへい褞袍どてらすこれてた。

彼はまた、ただれたやけどを見るとともに、卯平のふところへ手を入れているおつぎを見た。

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かれ糜爛びらんした火傷やけどるとともに、卯平うへいふところれてるおつぎをた。

「おとっつあん、暖かいんだよ」

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「おとつゝあ、ぬくてえんだよ」

おつぎは言って、また

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おつぎはいつてまた

「息をしてるんだよ」

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呼吸いきつえてんだよ」

だれかに聞かれるのを気にする者のように、低く声を殺して言った。

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はゞかるものゝやうにひくこゑころしていつた。

勘次は元気づいた。

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勘次かんじいきほひづいた。

彼はとつぜん、与吉を起こした。

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かれ突然とつぜん與吉よきちおこした。

ふとんをまくって与吉のうでを引いた。

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蒲團ふとんまくつて與吉よきちうでいた。

与吉はいつにないきびしいあつかいにおどろいて、まだねむい目を見開いた。

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與吉よきちいつもにない苛酷かこくあつかひにおどろいてまだねむみはつた。

「急いで、それ、着物」

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かせえて、それ、衣物きもの

と、勘次はただおろおろしている与吉をしかりつけた。

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勘次かんじたゞおろ/\して與吉よきちしかりつけた。

「そんじゃまあよかった。何にしてもふとんへねかせたほうがいいな。暖まりさえすりゃ、だんだんよくなるだろうから」

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「そんぢやまあよかつた。なにしても蒲團ふとんかせたはうがえゝな、ぬくとまりせえすりや段々だん/\よくなつぺから」

南の家の亭主は、数分前から二人を心の底から慌てさせたできごとのかんたんな説明を聞いたとき、言った。

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みなみ亭主ていしゆ數分時すうふんじまへから二人ふたり衷心ちうしんより狼狽らうばいせしめた事件じけん簡單かんたん説明せつめいいたときいつた。

「着物がぬれたようだな。ぬがせたらよかろう。それにひどくよごれちまったな」

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衣物きものれたやうだな、ぬがせたらよかつぺ、それにひどよごれつちやつたな」

亭主は言って、まくったふとんに手を当ててみた。

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亭主ていしゆはいつてまくつた蒲團ふとんあてた。

「これは暖かくていいぐあいだ。冷やしちゃいけない」

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ぬくとくつてえゝ鹽梅あんべえだ、ひえさせちやえかねえ」

彼はかけぶとんをとっぷりとかけた。

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かれ掛蒲團かけぶとんをとつぷりふたした。

「そうだな、着物はかわかすあいだは仕方がないな。そんじゃどてらでもおれの家から持って来るといいな。このふとんだけじゃ暖まれまい、これは」

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「さうだな衣物きものあぶえゝだやうねえなそんぢや褞袍どてらでもからつてつとえゝな、蒲團ふとんだけぢやぬくとまれめえこら」

彼は少しえらそうな態度で言った。

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かれすこ權威けんゐつた態度たいどでいつた。

せまい小屋のたき火は消えていた。

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せま小屋こや焚火たきびえてた。

ふしぎそうにして遠ざかっていた与吉が、落ち葉を足してしばらくくすぶらせた。

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怪訝けゞん容子ようすをしてとほざかつて與吉よきち落葉おちばしてしばらくすぶらした。

「お前はまた、それ、おつうを見てやれ」

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われまた、それ、おつうてやれ」

勘次は与吉に注意の言葉を残して、かけ出して行った。

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勘次かんじ與吉よきち注意ちうい言葉ことばのこしてしてつた。

「ふとんも持てるなら持って来たほうがいいな」

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蒲團ふとんてらばつてはうがえゝな」

南の家の亭主の声は、だんだん大つぶになって飛んでいる雪の乱れの中へ消えて行く勘次の後を追いかけた。

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みなみ亭主ていしゆこゑ段々だん/\大粒おほつぶつてんでゆきみだれのなか勘次かんじあとからけた。

勘次は二人が加わって元気づけられた手をすばやく動かして、まだ暖まっているふとんへそっと卯平を横たえた。

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勘次かんじ二人ふたりくはへていきほひづけられた敏活びんくわつうごかして、まだあたゝまつて蒲團ふとんへそつと卯平うへいよこたへた。

卯平の冷たい体には、落ち葉の火でおつぎが暖めたどてらと、それからもう一まいのふとんがかけられた。

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卯平うへいつめたい身體からだには、落葉おちばでおつぎがあぶつた褞袍どてらそれから餘計よけい蒲團ふとんとがおほはれた。

卯平のかすかな息が、だんだんもどって来る。

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卯平うへいかすかな呼吸いき段々だん/\恢復くわいふくしてる。

勘次はどんどんと落ち葉やしばをたいた。

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勘次かんじはどん/\と落葉おちば麁朶そだいた。

彼はそのとき、雪の林で燃やす物をさがすのが大変だと気にするひまさえなかったのである。

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かれときゆきはやし燃料ねんれうさがすことの困難こんなんなことを顧慮こりよするいとまさへたなかつたのである。

昼過ぎになって、この例年にない雪も止んだ。

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午後ごゝになつて例年れいねんにないゆきんだ。

空が、いかにもがっかりしたようにぼんやりした。

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そらもがつかりしたやうにぼんやりした。

おつぎのさわいだ心も静まって、また水をくみに出たとき、つるべの底は重くなって、おさえたかぎの手から外れそうになっていた。

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おつぎがさわいだこゝろしづまつてまたみづみにとき釣瓶つるべそこおもつておさへたかぎからはづれようとしてた。

後ろの竹の林はべったりとうなだれた。

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うしろたけはやしはべつたりと俛首うなだれた。

冬のようにさらさらといさぎよく落ちる雪ではなくて、しめった雪は竹のえだをぎっとつかんで放すまいとしている。

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ふゆのやうにさら/\といさぎよおちやうはしないで、うるほひをつたゆきたけこずゑをぎつとつかんではなすまいとしてる。

竹は苦しい息をするように、小さなえだが一つずつぴらりぴらりと動いて、そのおもみからのがれようと力めている。

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たけくるしい呼吸いきをするやうにちひさなえだひとつづゝぴらり/\とうごいて壓迫あつぱくからのがれようとつとめつゝある。

北から見れば白い柱だった木のみきも、みな元のすがたにもどろうとして、ずんずんと雪をころがした。

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きたからればしろはしらであつた樹木じゆもくみき悉皆みんな以前いぜん姿すがたらうとしてずん/\とゆきころがした。

庭から先の桑畑は、ただいっぱいに白い。

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にはからさき桑畑くはばたたゞぱいしろい。

地面から数寸の深さに、雪は積もっていた。

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地上ちじやう數寸すすんふかさにゆきつもつてた。

桑畑のはしのほうに、くきののびた菜種の少し黄色くふくらんだつぼみが、すっくとその雪からのび上がっている。

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桑畑くはばたはしはうとうつた菜種なたねすこ黄色きいろふくれたつぼみ聳然すつくりそのゆきからあがつてる。

そこらにはかれたよもぎも、ぽつりぽつりと白いしきぶとんから体を出した。

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其處そこらにはれたよもぎもぽつり/\としろしとね上體じやうたいもたげた。

ほおじろか何かが、菜種の花やかれよもぎのかげの浅い雪に短い足を立ててみたいのか、桑のえだをしなやかにけって元気よく飛び下りた。

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頬白ほゝじろなにかゞ菜種なたねはな枯蓬かれよもぎかげあさゆきみじかすねてゝたいのかくはえだをしなやかにつて活溌くわつぱつびおりた。

そしてまたえだへもどった。

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さうしてまたえだうつつた。

後ろの田んぼでは、水はけの悪い田は降っているうちから雪がとけていたので、あぜがことさら白い線をえがいて目立った。

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うしろ田圃たんぼでは、みづこけのわるにはつてるうちからゆきけつゝあつたので、畦畔くろ殊更ことさらしろせんゑがいてたつた。

そこにもほりのあたりの、赤い実のさびた野茨のえだにたてになったり横になったりして、ずんずん消えて行く雪をよろこぶように、ほおじろがちょんちょんとわたった。

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其處そこにもほりほとりあかびた野茨のばらえだたてつたりよこつたりして、ずん/\とゆきよろこぶやうに頬白ほゝじろがちよん/\とわたつた。

夕方には、田んぼの白い線もとぎれとぎれになった。

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夕方ゆふがたには田圃たんぼしろせん途切とぎれ/\につた。

どのえだも白い物を残さないで、つかれたようにぬれていた。

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何處どここずゑしろものとゞめないでつかれたやうにぬれた。

雪はすっかり土に落ち着いてしまった。

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ゆきこと/″\つちおちついてしまつた。

その落ち着いた雪を持ち上げて、どの屋根も白い大きなかたまりのように見えた。

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そのおちついたゆきげて何處どこ屋根やねでもしろおほきなかたまりのやうにえた。

かれ木のあいだでは、ことさらそれがはっきりと目立った。

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枯木かれきあひだには殊更ことさらそれが明瞭はつきりつた。

夕暮れのけむりが青く割れた空へ吸われて、静かな一日は暮れた。

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黄昏たそがれけぶりあをれたそらはれてしづかなれた。

卯平はすやすやと息を取りもどしたままで、口はきかない。

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卯平うへいはすや/\と呼吸こきふ恢復くわいふくしたまゝくちかない。

ぴしゃぴしゃとしぶきのどろをけりながら、粟のくきののきからも雪のとけて落ちる勢いのいい雨だれが止まないで、夜になった。

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ぴしや/\と飛沫しぶきどろりつゝ粟幹あはがらのきからもゆきけてしたゝいきほひのいゝ雨垂あまだれまないでよるつた。

その夜、南の家の女房はふとんを二まい肩にかけて持って来た。

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みなみ女房にようばう蒲團ふとんを二まいかたけてつてた。

一つには義理があるというので、卯平のようすを見に来たのである。

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ひとつには義理ぎりまぬといふので卯平うへい容子ようすたのである。

それは二度目だった。

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れは二度目どめであつた。

手ランプもない暗い小屋の中でしばらく話して女房が去った後、与吉は卯平の足元へもぐらせた。

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ランプもないくら小屋こやうちしばらかたつて女房にようばうつたのち與吉よきち卯平うへいすそもぐらせた。

おつぎはその一まいのふとんをかけて、卯平にそって体を横たえた。

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おつぎはの一まい蒲團ふとんけて卯平うへいうてよこたへた。

勘次は土間へむしろをしいて、もう一まいのふとんをかぶって、くるくると体を丸めた。

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勘次かんじ土間どまむしろいての一まい蒲團ふとんかぶつてくる/\とかゞめた。

彼は足をのばしたまま体を起こして、一度暗いゆかの上を見た。

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かれあしばしたまゝ上體じやうたいもたげて一くらゆかうへた。

ぴしゃぴしゃと落ちるしずくが、しばらく彼の耳の底を打った。

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ぴしや/\とちる涓滴したゝりしばらかれみゝそこつた。

次の日は、朝からきらきらと照った。

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つぎあさからきら/\とつた。

暖かい日ざしは、勘次の土間まではった。

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あたゝかい日光につくわう勘次かんじ土間どままでつた。

地面はすべて、やわらかな熱で蒸された。

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地上ちじやうすべやはらかな熱度ねつどもつされた。

物かげで一晩残っていた雪が、慌ててとけた。

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物陰ものかげに一たもつてゆつくりしたゆきあわてゝけた。

土がしっとりとして落ち着いた。

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つちがしつとりとしてちつけられた。

卯平は目を開いた。

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卯平うへいひらいた。

彼はふしぎそうにあたりを見た。

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かれ不審相ふしんさうにあたりをた。

しつこく土にくっついていた冬が、蒸されるような暖かさにいたたまれなくなって慌てて逃げ去った後へ、一度に来た春の光の中で、彼は気がついた。

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執念しふねつちにひつゝいてふゆが、されるやうなあたゝかさにたゝまらなくつて倉皇そゝくさつたあとへ一ぺんはるひかりなかかれ意識いしき恢復くわいふくした。

彼は寒さが骨までしみたその夜のことをはっきり思いうかべて考えるには、天気の変わり方があまりに急だった。

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かれさむさがほねてつするのことを明瞭めいれうあたまうかべて判斷はんだんするのには氣候きこう變化へんくわあまりに急激きふげきであつた。

彼はそのあいだ、何時間も気を失っていた。

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かれあひだ人事不省じんじふせい幾時間いくじかん經過けいくわした。

彼は与吉の何気ない告げ口から、ひどく悲しくはかなくなって、後で独り泣いた。

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かれ與吉よきち無意識むいしき告口つげぐちからひどかなしく果敢はかなくなつてあとひとりいた。

怒りを燃やすには、彼はあまりにつかれていた。

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憤怒ふんぬじやうもやすのにはかれあまりつかれてた。

しかし自分でもそのとき、自分の身に大変なことが起こるとは少しも思っていなかった。

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しか自分じぶんでもとき自分じぶん變事へんじおこらうとすることはすこし豫期よきしてなかつた。

彼はいろりのそばで、夜のむしろ冷たい火に当たりながら、ふと気が変わって、ついと庭へ出た。

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かれ圍爐裏ゐろりそばで、よるむしつめたにあたりながらふとかはつてついとにはた。

彼は何かが足にまとわりついたのに気づいた。

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かれなにかゞあしまつはつたのをつた。

手に取ってみたら、それは荒縄だった。

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つてたらそれは荒繩あらなはであつた。

彼はそれからどうしたのか、はっきり思いうかべてみようとするには、頭があまりにぼんやりつかれていた。

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かれはそれからどうしたのか明瞭めいれうゑがいてようとするには頭腦づなうあまりにぼんやりとつかれてた。

彼は勘次の庭に立った。

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かれ勘次かんじにはつた。

彼は荒縄が手にあったことに気づいたとき、かきの木の低いえだにそれを引っかけようとして投げた。

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かれ荒繩あらなはつたことをこゝろづいたときかきひくえだにそれを引掛ひつかけようとしてげた。

彼の不自由な手は、暗い夜にその目的をとげさせなかった。

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かれ不自由ふじいう暗夜あんや目的もくてきげさせなかつた。

彼は何度投げてもむだだった。

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かれ幾度いくたびげても徒勞むだであつた。

身を切るような北風が田んぼをわたって、それをさえぎろうとする後ろの林をごうっとおさえてはふき下ろして、彼の手の動きをまったくにぶくしてしまった。

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るやうな北風きたかぜ田圃たんぼわたつて、それをへだてようとするうしろはやしをごうつとおさへてはちて、かれ運動うんどうまつたにぶくしてしまつた。

やがて後ろの林のえだから、ななめに雪がふき下ろして来た。

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やがうしろはやしこずゑからなゝめゆききおろしてた。

卯平はしばらくためらって、かきの木の根につかれた体をよせた。

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卯平うへい少時しばらく躊躇ちうちよしてかきつかれたせた。

しばらくして彼は、雪が冷たく自分のふところでとけて、いやな感じで流れるのに気づいた。

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しばらくしてかれゆきつめたく自分じぶんふところとけ不愉快ふゆくわいながれるのをつた。

彼はそれから体が固まるように思いながら、まばらな白髪がとかされるのも、かすかに感じた。

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かれはそれから身體からだかたまるやうにおもひながら、あら白髮しらがくしけづられるのをも、かすか感覺かんかくいうした。

にわとりの声が耳に遠く聞こえて消えて行くのを知った。

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にはとりこゑみゝとほきこえて消滅せうめつするのをつた。

彼はついにうとうとしてしまった。

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かれつひにうと/\とつてしまつた。

さらに数十分そのまま忘れられていたら、彼はそのとき自分がのぞんだように、冷たいなきがらから生き返らなかったかも知れなかった。

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さらすう分間ぷんかんまゝわすられてたならばかれとき自分じぶんほつしたやうにつめたいむくろから蘇生よみがへらなかつたかもれなかつた。

勘次のさえた目が、すきまからさす白い雪の光にだまされて、おつぎを水くみに出した。

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勘次かんじえた隙間すきまからしろゆきひかりあざむかれておつぎを水汲みづくみにした。

そうして卯平は助かったのである。

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さうして卯平うへいすくはれたのである。

「爺さん、どうした。気分は悪くないか、もう」

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ぢいどうした、心持こゝろもちわるかねえか、はあ」

と、おつぎは卯平があたりを見たとき、耳に口を当てて言った。

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とおつぎは卯平うへい周圍あたりときみゝくちてゝいつた。

「動かないでろ、爺さん。食べたい物でもないか」

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いごかねえでろぢいべてえものでもねえか」

おつぎはまたやわらかに言った。

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おつぎはやはらかにいつた。

卯平はただうなずいた。

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卯平うへいたゞ點頭うなづいた。

「おとっつあん、そんでもちっとはしっかりしたか」

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「おとつゝあ、そんでもちつた確乎しつかりしてか」

勘次はそのあとにつづけて聞いた。

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勘次かんじいていた。

ほっと息をついたようなようすは、勘次の心の底からのよろこびだった。

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ほつといきをついたやうな容子ようす勘次かんじ衷心ちうしんからのよろこびであつた。

「おとっつあん、やけどは痛いかいまだ」

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「おとつゝあ、火傷やけどえてえけまあだ」

勘次はすぐに次の言葉をつづけた。

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勘次かんじすぐあと言辭ことばつゞけた。

「まくらはつけられないな」

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まくらはおつゝけらんねえな」

卯平はやわらかな目をしかめるようにした。

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卯平うへいやはらかなしがめるやうにした。

勘次はふいとかけ出して、しばらくして帰って来たときには、手に白いさらし木綿と、古新聞紙のきれはしに包んだ物を持っていた。

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勘次かんじはふいとしてしばらつてかへつてときにはしろ曝木綿さらしもめん古新聞紙ふるしんぶんがみ切端きれはしつゝんだのをつてた。

彼はそれを四つに裂いて、医者がしたように白い練り薬をももの上でガーゼにぬって、卯平の横のほおにはって、さらし木綿でぐるぐると巻いた。

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かれはそれを四つにいて、醫者いしやがしたやうにしろ練藥ねりぐすりもゝうへでガーゼへつて、卯平うへい横頬よこほゝつた曝木綿さらしもめんでぐる/\といた。

彼は与吉にさえ白い薬をおしんで、医者からもらったまましまっておいたのだった。

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かれ與吉よきちにさへしろくすりしんで醫者いしやからもらつたまゝしまつていたのであつた。

卯平はじっとして、勘次のするままに任せた。

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卯平うへい凝然ぢつとして勘次かんじまゝまかせた。

不器用な、少し動けばくずれそうなほうたいだったが、それでも勘次の目には心強かった。

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不器用ぶきようすこうごけばさう繃帶ほうたいであつたがそれでも勘次かんじには心丈夫こゝろじやうぶであつた。

彼は自分をこわがらせたきずが白い気持ちのいい布でおおいかくされたのと、自分のすべきことをやりとげたように感じられたのとで、心が急に軽くすがすがしくなった。

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かれ自分じぶん恐怖おそれさそうた瘡痍きずしろこゝろよいぬのもつおほかくされたのと、自分じぶんべき仕事しごとはたたやうにかんぜられるのとでこゝろにはかかるくすが/\しくなつた。

卯平も、どうなることかはっきりとは分からないながら、心の中ではよろこんだ。

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卯平うへいもどうなることかしかとはわからぬながらこゝろうちではよろこんだ。

勘次はまた、どこかへ出かけた。

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勘次かんじまた何處どこへかた。

彼はただ心がそわそわとして、なかなか落ち着かなかった。

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かれたゞこゝろがそは/\として容易たやすくはおちつかなかつた。

やわらかな春の光は、やさしい目をまばたきしながら、彼のせまい小屋を細やかに萱やしののすきまからのぞいて、卯平の足元にもはった。

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やはらかなはるひかりなさけふくんだまたゝきしながらかれせま小屋こやをこまやかにかやしの隙間すきまからのぞいて卯平うへいすそにもつた。

卯平はしばらく目を閉じたままでいたが、またぱっちりと目を開いた。

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卯平うへいしばらつぶつたまゝたがたぱつちりといた。

そばにはおつぎがすわっていた。

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そばにはおつぎがすわつてた。

「おつう」

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「おつう」

と、卯平は低い声で呼んだ。

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卯平うへいひくこゑんだ。

「何だい」

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なんでえ」

おつぎはまた耳に口を当てた。

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おつぎはまたみゝくちてた。

卯平は右の手を出してふとんの上へのばして

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卯平うへいみぎして蒲團ふとんうへのばして

「熱ぼったいから一まい取ってくれないか」

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あつぼつてえから一めえとつてくんねえか」

力ない、すがるような声で言った。

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ちからないすがるやうなこゑでいつた。

「本当に暖かくなったんだよなあ。お日さままでひどくまぶしくなったようなんだよ」

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本當ほんたうぬくとつたんだよなあ日輪おてんとさままでひどまちつぽくなつたやうなんだよ」

おつぎは例の少し甘えるような口ぶりで、一まいのかけぶとんを取った。

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おつぎはれいすこあまえるやうな口吻くちつきで一まい掛蒲團かけぶとんをとつた。

「このふとんは板っきれみたいなんだよなあ。これを取ったほうが爺さんは軽くなってよかろうな、ほんに。そう言っても、暖かくなるというのはいいもんだよ。おれは昨日らみたいじゃどうしようと思ったっけ」

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蒲團ふとんいたぱちてえなんだよなあ、れとつたはうぢいかるつてよかつぺなほんに、さうつてもぬくとくなるつちやえゝもんだよ、作日等きのふらてえぢやどうすべとおもつたつきや」

おつぎはかけぶとんを四つにたたんで、卯平の足元へ置いた。

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おつぎは掛蒲團かけぶとんつにして卯平うへいすそいた。

「お彼岸をすぎてこんなことというのは、おれがおぼえてからだってめったにないこったから、これから暖かくなるばかりだな。麦も一日ごとに元気になるな」

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彼岸ひがんぎてうだことつちやおべえてからだつで滅多めつたにやねえこつたかられからぬくとるばかしだな、むぎ一日毎いちんちごめらこしたな」

卯平はやや気持ちよさそうに言った。

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卯平うへいやゝこゝろよげにいつた。

「おれの家の麦は今のところじゃ村でも悪くないんだぞ。おれはそんだが、前のころは畑をたがやすのはいやだったっけな、本当に。おとっつあんには、深くたがやせ、深くたがやさないじゃ肥料をしたって役に立たないからなんて怒られてなあ」

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むぎいまところぢや村落むらでもわるかねえんだぞ、らそんだがせんはたけうなあなだつけな本當ほんたうに、おとつゝあにやふかうなへ、ふかうなあねえぢや肥料こやししたつてやくにやたねえからなんておこられてなあ」

「うん、畑は深くなくちゃ穫れないものよ、それは。おれは若いころには、この間のように浅くたがやすもんだとは思わなかったのだから。今じゃもう、みんな利口になってるから、おれには分からないが」

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「うむ、はたきふかくなくつちや收穫んねえものよそら、らあさかりころにや此間こねえだのやうにあさうなあもんだたあねえのがんだから、現在いまぢやはあ、悉皆みんな利口りこうんなつてつかららがにやわかんねえが」

「深くたがやしちゃ、さかさの旋毛を立てるみたいで、やりなれないとなんぼ大変かよなあ。そんだがおれは今じゃ、お前のほうがおれより深いくらいだなんて、おとっつあんには言われるのよ」

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ふかうなつちや逆旋毛さかさつむじてるてえでりつけねえぢやなんぼ大儀こええかよなあ、そんだがいまぢや、われはうれよりふけえつくれえだなんておとつゝあにやはれんのよ」

「大変にもよ、それは。そんでもお前はよくやるな。むかしは女に三年作らせちゃ畑はだめになると言ったくらいだ」

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大儀こええにもよそら、そんでもりやくやんな、以前めえかたをんなに三ねんつくらせちやはたけ出來できなくなるつちつたくれえだ」

「そのころから、おれはいくらもたがやさないんだよ、このごろは。そんでもそんなに大変とは思わなくなったがな、おれも」

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「そつからいくらもうなえねえんだよらそんでもさうだに大儀こええたおもはなくなつたがならも」

おつぎが言うのを卯平はまたやわらかに目をしかめるようにして聞きながら、軽くなったかけぶとんを足の先で足元のほうへよせて、少し身動きをした。

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おつぎがいふのを卯平うへいまたやはらかにしがめるやうにしてきながら、かるつた掛蒲團かけぶとんあしさきすそはうへこかしてすこ身動みうごきをした。

おつぎはそのときちらと出した卯平の手を、初めて気がついたように

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おつぎはときちらとした卯平うへいはじめてがついたやうに

「爺さんは手も痛くしてるんだったな。そんじゃさっき、薬をはってもらうとこだったっけな」

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ぢいえたくしてんだつけな、そんぢや先刻さつきくすりつてもらあとこだつけな」

おつぎは卯平の手先を手に取って見た。

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おつぎは卯平うへい手先てさきにしてた。

「こっちはそれほどはひどくないや、そんでもなあ」

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「こつちはそれだひどかねえやそんでもなあ」

おつぎは安心したように、そっと手を放した。

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おつぎは安心あんしんしたやうにそつとはなした。

勘次はいそがしそうなようすで帰った。

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勘次かんじいそがしげな容子ようすをしてかへつた。

彼はふとんを二、三まいたたんだまま、帯で背負って来た。

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かれ蒲團ふとんを二三まいたゝんだまゝおび脊負しよつてた。

「どうだい、おとっつあん、昨夜はそんでも寒くはなかったっけかい」

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「どうしてえおとつゝあ、昨夜ゆんべはそんでもさむかなかつたつけゝえ」

彼は荷物を卯平の足元のほうへ下ろして、胸で結んだ帯を解きながら言った。

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かれ荷物にもつ卯平うへいすそはうおろしてむねむすんだおびきながらいつた。

「熱ぼったいって、今ふとんを一まい取ったところなんだよ」

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あつぼつてえつていま蒲團ふとんめえとつたところなんだよ」

おつぎは横から言った。

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おつぎは横合よこあひからいつた。

「うん、そうだ。このふとんは返さなくちゃならないから」

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「うむ、さうだ、蒲團ふとんけえさなくつちやなんねえから」

勘次は独り言を言って

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勘次かんじ獨語どくごして

「どうした、おとっつあん、薬をはってちっとはよくないかい」

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「どうしたおとつゝあ、くすりつてちつたよかねえけ」

彼はまた白いさらし木綿を見て言った。

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かれまたしろ曝木綿さらしもめんていつた。

「うん、そうだ、まくらがつけられるようになったからいいことはいいに」

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「うむ、まくらおつゝかるやうにつたからえゝこたえゝに」

卯平の言うのを聞いて、勘次はいくらかほこらしげにまた白い木綿を見た。

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卯平うへいのいふのをきい勘次かんじいくらかほこりもつまたしろ木綿もめんた。

「おとっつあん、食べたい物でもないかい。おれは明日、川向こうへ行って来ようと思うんだ」

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「おとつゝあ、べてえものでもねえけえ、明日あした川向かはむかうつてべとおもふんだ」

勘次はまだいくらか心にわだかまりがあるというより、気まずさが取れきらないようで、しかも努めて機げんを取るようなようすだった。

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勘次かんじはまだいくらかこゝろわだかまりがあるといふよりも、こそつぱいところらないやうでしかつとめて機嫌きげんをとるやうな容子ようすであつた。

「うん」

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「うむ」

と卯平は言って、つばをぐっと飲んだ。

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卯平うへいはいつてつばきをぐつとんだ。

「特にもう、食べたいという物もないが」

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格別かくべつはあ、べてえつちものもねえが」

彼の目にはまたあらためて、やわらかな光が宿った。

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かれにはまたあらためてやはらかなひかりつた。

「そんじゃおとっつあん、水あめでも買って来てやったらよかろうな。与吉にかくしておけば何でもあるまいな」

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「そんぢやおとつゝあ水飴みづあめでもつててやつたらよかつぺな、與吉よきかくしてけばなんでもんめえな」

おつぎはさらに卯平を見て

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おつぎはさら卯平うへいかへりみて

「なあ爺さん、そのほうがよかろう」

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「なあぢゝはうがよかつぺ」

と言いかけた。

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といひけた。

卯平は、そのしかめるような目でかすかにうなずいた。

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卯平うへいしがめるやうなかすかに點頭うなづいた。

「おとっつあん、どうせ茶づけの茶わんも要るから、茶わんを買って、それへ水あめを入れて縄でしばって来よう。そうするといいや」

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「おとつゝあ、どうせ茶漬茶碗ちやづけぢやわんつから茶碗ちやわんつてそれさ水飴みづあめえてなはしばつてう、さうすつとえゝや」

「そうでも何でもしようよな」

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「さうでもなんでもすびやな」

「それに、明日行ったらまた薬をもらって来よう。爺さんの手にもはってやらなくちゃ仕方がないぞ」

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「それに、明日あしたつたらまたくすりもらつてう、ぢいさもつてやんなくつちややうねえぞ」

「おれは言われないでも、薬は気がついてたのよ」

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はんねえでもくすりきいついてたのよ」

勘次は、おつぎの言うのをすぐに受けて聞いた。

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勘次かんじはおつぎのいふのをむかへていた。

彼の三尺帯には、そのときもぎっとくくったかたまりがあった。

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かれの三尺帶じやくおびにはときもぎつとくゝつたかたまりがあつた。

そのさいふのわずかなたくわえが、この数日間にどれほど彼を助けたか知れなかった。

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その財布さいふわづかたくはへはこの數日間すじつかんにどれほどかれすくつたかれなかつた。

彼はまだいくらか日用品を買う力を持っていた。

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かれはまだいくらかの日用品にちようひんもとめる餘力よりよくいうしてた。

彼は開こんの賃金を手にできればという望みが、十分にあった。

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かれ開墾かいこん賃錢ちんせんにすることが出來できればといふのぞみが十ぶんにあつた。

ただ彼は今、その一部でもくれと言うことが、自分の火が焼いたその主人の家に対して、とても口にする勇気が出せなかったのである。

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たゞかれ目下いま幾部分いくぶぶんでも要求えうきうすることが、自分じぶんいた主人しゆじんうちたいしてとてくちにするだけの勇氣ゆうきおこされなかつたのである。

二八

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二八

勘次は昼過ぎになって、また外に出た。

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勘次かんじ午餐過ひるすぎになつてそとた。

もつれた心をかかえて、彼は少しうなだれながら歩いた。

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紛糾こぐらかつたこゝろつてかれすこ俛首うなだれつつあるいた。

暖かな光は、畑の土をところどころさらりとかわかしはじめた。

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あたゝかなひかりはたけつち處々ところ/″\さらりとかわかしはじめた。

ことさらがっかりしたようにしおれたくぬぎのかれ葉も、からからになった。

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殊更ことさらがつかりしたやうにしをたれたくぬぎ枯葉かれはもからからにつた。

すべての木は元気づいていた。

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すべての樹木じゆもくいきほひづいてた。

村のところどころには、まだ少し舌を出しかけたような白いこぶしが、急にぽっと開いて、青い空にほかほかとうかんで、竹のえだを抜け出していた。

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村落むら處々ところ/″\にはまだすこしたけたやうなしろ辛夷こぶしが、にはかにぽつとひらいてあをそらにほか/\とうかんでたけこずゑしてた。

ただあおじは冬も春も分からないように、暖かい日なたから暗い竹の林を求めて低い小えだをわたって、下手な鳴き方をして、それでもまた日なたへ出て土をぴょんぴょんとはねた。

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たゞ蒿雀あをじふゆはるわきまへぬやうに、あたゝかい日南ひなたから隱氣いんきたけはやしもとめてひく小枝こえだわたつて下手へたきやうをして、さうして猶且やつぱり日南ひなたつちをぴよん/\とねた。

すべての心は、暖かな光の中にとけてしまわなければならなかった。

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すべてのこゝろあたゝかなひかりなかけてしまはねばならなかつた。

勘次はあいかわらずうなだれたまま、ついにとなりの主人の門をくぐった。

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勘次かんじ依然いぜんとして俛首うなだれたまゝつひとなり主人しゆじんもんくゞつた。

焼けあとは土台を残して、きれいにかき払われてあった。

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燒趾やけあといしずゑとゞめて清潔きれいはらはれてあつた。

真ん中の大きかった建物を失って、庭は高い木にかこまれている。

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中央ちうあうおほきかつた建物たてものうしなつてには喬木けうぼくかこまれてる。

赤茶けて焼けたすぎの木をひかえて、からりとした庭は、赤土のがけの底にしずんだように見える。

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あかけたすぎひかへてからりとしたにはは、赤土あかつち斷崖だんがいそこしづんだやうにえる。

青い空を区切って立った高い木のえだが、さらに高く感じられた。

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あをそらかぎつてつた喬木けうぼくこずゑさらたかかんぜられた。

勘次はおそろしい、ふつうでない感じにおされた。

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勘次かんじおそろしい異常いじやうかんじにあつせられた。

となりの主人の家族は、長屋門の一部にたたみをしいて仮の住まいを作っていた。

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となり主人しゆじん家族かぞく長屋門ながやもんの一たゝみいてかり住居すまゐかたちづくつてた。

主人夫婦は、勘次の目からはさすがに、災難の後の乱れたようすが少しも見えなかった。

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主人夫婦しゆじんふうふ勘次かんじからは有繋さすが災厄さいやくあとみだれた容子ようすすこしも發見はつけんされなかつた。

主人夫婦の曇らない顔が、ひたすらこわがっていた勘次の首を上げさせた。

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主人夫婦しゆじんふうふくもらぬかほ只管ひたすら恐怖きようふとらへられた勘次かんじくびもたげしめた。

ことにおかみさんのむかえて聞く態度が、彼が言いたかったことをやっと少し打ち明けさせた。

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こと内儀かみさんのむかへて態度たいどが、かれのいひたかつた幾部分いくぶぶんやうやくにけしめた。

「お内儀さん、これは運の悪い者は仕方がありませんね」

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「お内儀かみさん、こらうんわりやうありあんせんね」

彼はあわれっぽく声をかけた。

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かれあはれにこゑけた。

彼の災難の後に、しみじみとこういう話を聞いてくれる人は、おかみさんのほかにはまだいなかったのである。

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かれ災厄さいやくのちにしみ/″\とういふことをいてくれるもの内儀かみさんのほかにはまだなかつたのである。

「そんだがこれ、お内儀さんらの家から見た日にはつめのあかだから、わしらなんざつらいも悲しいもない話なんだが」

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「そんだがれお内儀かみさんらあからなんぞにやつめあかだからわしなんざつれえもかなしいもねえはなしなんだが」

彼は自分の不運をうったえるのに、自分一人のことよりほかは何も心に浮かんでいなかった。

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かれ自分じぶん不運ふうんうつたへるのに、自分じぶんしんのことよりほか何物なにものこゝろ往來わうらいしてはなかつた。

彼はふと、自分の火が焼いたことを思ったとき、ひどく自分のことばかり言ってしまったのが、済まないような気がしてならなかった。

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かれはふと自分じぶんいたことをおもつたときひど自分じぶんのことのみをいつてしまつたのがまないやうな心持こゝろもちがしてならなかつた。

「まあおしいと言えば紙一まいでも何だが、これ、家はすぐにも建てれば建つんだが、木がおしいことをしたって言ってるのさ。それだが、これもそんなことを言ったって仕方がないがね」

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「まあしいといへばかみまいでもなんだが、これ、うちぐにもてればつんだが、しいことをしたつてつてるのさ、それだがれもそんなことをつたつて仕方しかたがないがね」

おかみさんは、そびえてはいるがとてもかれ死ぬ運命の高い木を数本、縁側の近くから見上げて言った。

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内儀かみさんは聳然すつくりたつてはるが到底たうてい枯死こしすべき運命うんめいつて喬木けうぼく數本すうほん端近はしぢか見上みあげていつた。

遠く落ちかけた日が、はっきりとそのえだに光った。

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とほけた劃然かつきりこずゑひかつた。

勘次の顔は青くなって、ぐったりと頭を下げた。

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勘次かんじかほあをくなつてぐつたりとあたまれた。

彼はしばらく黙っていた。

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かれしばら沈默ちんもくたもつた。

「どうしたね。私も気のつかないことをしていたが、お前も丸焼けで仕方があるまいが、少しはお金でも持って行くかね」

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「どうしたね、わたしのつかないことをしてたが、おまへ丸燒まるやけやうあるまいがすこしはぜにでもつてくかね」

おかみさんは、勘次の心を見ぬいたように言った。

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内儀かみさんは勘次かんじこゝろ推察すゐさつしたやうにいつた。

「へえ」

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「へえ」

勘次の首はさらにうなだれた。

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勘次かんじくびさらうなだれた。

彼の目はうるんだ。

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かれうるんだ。

「わしももう、そうならどれだけ助かるか知れませんが、お内儀さんの所へそう言って来るわけにも行かないで」

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「わしもはあ、そんならなんぼたすかるかもれあんせんが、お内儀かみさんとこささうつてわけにもがねえで」

と、勘次は乱れた髪に手を当てて、こびるようなようすで言った。

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勘次かんじみだれた頭髮かみてゝびるやうな容子ようすをしていつた。

「それだが、お前にやるくらいならどうにかなるから、心配しなくてもいいよ」

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「それだがおまへにやるくらゐならどうにかるから心配しんぱいしなくつてもいよ」

「わしもこれ、ばちが当たったんでしょう。そう思うよりほかありませんから」

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「わしもれ、ばちあたつたんでがせう、さうおもふよりほかりあんせんから」

勘次はしばらく間を置いて

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勘次かんじしばらあひだいて

「わしも女房につらい思いをさせて、つみを作ったのが悪いんでしょう」

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「わしもかゝあこと因果いんぐわせてつみつくつたのりいんでがせう」

彼の声はしずんだ。

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かれこゑしづんだ。

「お内儀さん、わしはどんな形にか家も建てなくちゃならないから、そのときは家族のことも決めようと思ってるんですが、お内儀さん、またわしのことを面倒見ておくんなさい。わしの所の子もそのうち大きくなって来るから、学校もあとちっとにして、百姓をみっしり仕込もうと思ってるんでございますがね」

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「お内儀かみさん、わしどんななりにかうちてなくつちやなんねえから、そんとき家族うちきまりもつけべとおもつてんですが、お内儀かみさんまたわしこと面倒めんだうておくんなせえ、わし野郎やらうそのうちはあえかつてつから學校がくかうもあとちつとにして百姓ひやくしやうみつしら仕込しこむべとおもつてんでがすがね」

「そうかえ」

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「さうかえ」

おかみさんはなぐさめるように言った。

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内儀かみさんはなぐさめるやうにいつた。

「お内儀さん、親不孝だなんてのは、親が警察へでもうったえて出なけりゃ、巡査だけじゃどうすることもできないもんでございましょうかね」

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「お内儀かみさん親不孝おやふかうだなんちな、おや警察けいさつへでもねがつてなけりや巡査じゆんさばかしぢやどうすることも出來できねえもんでござんせうかね」

勘次はさっきからの話のあいだも、なんだか後ろから何かにおそわれるようなようすが止まなかったが、ついにこう言った。

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勘次かんじ先刻さつきからのはなしうちにもなんだかうしろからものおそはれるやうな容子ようすまなかつたがつひういつた。

「そうさね。巡査だって、むやみにどうかするということもないんだろうと思うようだがね」

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「さうさね、巡査じゆんさだつて無闇むやみにどうかするといふこともないんだらうとおもふやうだがね」

おかみさんは意外そうな顔で言った。

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内儀かみさんは意外いぐわい面持おももちでいつた。

「これからもう、わしも爺さんのことを面倒見ようと思うんでございますがね。今からでもお内儀さん、間に合わないことはありますまいね」

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れからはあ、わしも爺樣ぢいさまこと面倒めんだうべとおもふんでがすがね、いまツからでもお内儀かみさん間合まにやあねえこたありあんすめえね」

「そうだよ。年寄りなんていうものはちょっとしたことで変わるんだから、まあ心配させないようにしたほうがいいよ。そう言っちゃ何だが、あといくらも生きるんじゃなしねえ」

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「さうだよ、老人としよりなんていふものはすこしの加減かげんなんだから、まあ心配しんぱいさせないやうにしたはういよ、さういつちやなんだがあといくらもきるんぢやなしねえ」

「へえ、そうでございますよ。昨日らから、ちっとやわらかい言葉をかけるとよろこんでるんですから。それからわしは、子どもにもらって来たやけどの薬もはってやったんでさ。薬が足りなくなっちまったから、お医者さまへ行って来ようと思ったっけが、今日は昼過ぎでいないだろうと思うから明日にしようと思って止めたのさ。明日行ったら水あめでも買って来てやれなんて、おつうも言うもんでございますからね」

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「へえさうでがすよ、昨日等きのふらツからちつとやつけ言辭ことばけつとうるしがつてんですから、それからわし野郎やらうもらつて火傷やけどくすりつてやつたんでさ、くすりんなくつちやつたから醫者樣いしやさまつてべとおもつたつけが、今日けふ午後ひるすぎめえとおもふから明日あしたにすべとおもつてめたのせ、明日あしたつたら水飴みづあめでもつててやれなんておつうもふもんでがすからね」

「やけどしたなんて聞いたっけが、それでも家へ連れて来てかね」

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火傷やけどしたなんていたつけがそれでもうちれててかね」

「へえ」

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「へえ」

勘次は、その明け方のことをどうしてかおかみさんがまだ知らないらしいのでほっと息をついたが、また自分ではずかしくなって、かんたんにあいまいにこう言った。

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勘次かんじ佛曉あけがたのことをどうしてか内儀かみさんがまだらぬらしいのでほつといきをついたがまた自分じぶんからぢて、簡單かんたん瞹昧あいまいういつた。

「お内儀さん、こうちっとでもよくないお金が入っちゃ、この先はどうしてもいいことはありますまいね」

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「お内儀かみさん、こうちつとでもよくねえぜにへえつちや末始終すゑしじうはどうしてもえゝこたありあんすめえね」

勘次はさらにまた、ひどく心配そうなようすでとつぜん聞いた。

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勘次かんじさらにまたひど懸念けねんらしい容子ようすをして突然とつぜんいた。

「そうさねえ」

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「さうさねえ」

おかみさんは、勘次の気持ちがはっきり分からないので、気の乗らないように言った。

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内儀かみさんは勘次かんじ心持こゝろもち明瞭はつきりとはわからないのでらぬやうにいつた。

「そんだがお内儀さん、そういうお金は自分のために使いさえしなけりゃ、どうしてもちがいましょうね」

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「そんだがお内儀かみさんさうえぜに自分じぶんのげやくてせえしなけりやどうしてもちげえあんすべえね」

勘次はおかみさんに分かっても分からなくても、そんなことを考えるゆとりがなかった。

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勘次かんじ内儀かみさんにわかつてもわからなくても、そんなことをかんがへる餘裕よゆうがなかつた。

彼はただ自分の心配だけを、底からふたから全部あけてしまわなければたえられなかったのである。

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かれたゞ自分じぶん心配しんぱいだけをそこからふたからけてしまはねばへられなかつたのである。

「そうだが、それもどういうお金だか分からないが、そりゃ使っちゃいけないんだろうさね」

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「さうだが、それもどういふすぢぜにだかわからないがそりや使つかつちやいかないんだらうさね」

「そんじゃお内儀さん、他人がなくしたお金なんぞ見つけても知らないふりをして、後で返すのはぬすんだみたいで変なときは、何かで落とした分だけの物でもやれば、それでもちがいましょうね」

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「そんぢやお内儀かみさん他人ひとぜになくしたのなんぞ發見めつけてもらねえ容子ふりなんぞして、あとんなつたてえでをかしときや、なんでかでおつことしただけものでもやればそれでもちげえあんすべね」

勘次は少し、自分の言っていることの中身を打ち明けるように言った。

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勘次かんじすこ自分じぶんのいふことの内容ないようけるやうにいつた。

「黙っていればそれっきりなんだが」

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だまつてればそれつきりなんだが」

彼は独り喉の底で言った。

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かれひとりのどそこでいつた。

「そりゃそんなことしないで、見つけた物なら、そのまま返すのが本当だよ」

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「そりやそんなことしないで發見みつけたものなら其儘そつくりかへすのが本當ほんたうだよ」

おかみさんは声は低かったが、きっぱりと言った。

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内儀かみさんはこゑひくかつたがきつぱりいつた。

勘次のまよった心の底には、それがびりっと強くひびいた。

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勘次かんじまどうたこゝろそこにはそれがびりゝとつよひゞいた。

「そんじゃお内儀さん、それを返して、またそのほかにも何とかしたら、ばちが当たるようなこともありますまいな」

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「そんぢやお内儀かみさんそれけえしてまたほかにもなんとかしたら冥利みやうりりいやうなこともりあんすめえな」

彼は情けなさそうな目でおかみさんをちらりと見て言った。

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かれなさけなげな内儀かみさんをちらりとていつた。

「そんなことはしなくたって、何もよさそうなもんだね」

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「そんなこたなくつたつてなにもよかりさうなもんだね」

おかみさんは、勘次のあまりに心配そうなようすに、とっくから気づいたことがあった。

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内儀かみさんは勘次かんじあまりに懸念けねんらしい容子ようすとうからこゝろづいたことがあつた。

おかみさんは、しばらく聞かなかった彼のぬすみぐせに思い当たった。

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内儀かみさんはしばらかなかつたかれ盜癖たうへきおもいたつた。

しかし彼が自分からひどく後かいしているらしいのを心の中で確かめて、しいて問いつめようという気にもなれなかった。

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しかかれ自分じぶんからはなはだしくいつゝあるらしいのをこゝろたしかめてひては追求つゐきうしようといふ念慮ねんりよおこなかつた。

勘次はただ、かわいそうに見えた。

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勘次かんじたゞ不便ふびんえた。

おかみさんはふと思い出して、少しばかりの銀貨を勘次のそばへならべて

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内儀かみさんはふとおもしてすこしばかりの銀貨ぎんくわ勘次かんじそばならべて

「そりゃそうと、お前も家族のことを決めるつもりだっていうんだが、まあどうするつもりなんだね」

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「そりやさうと、おまへ家族うちきまりをつけるつもりだつていふんだが、まあどうするつもりなんだね」

と静かに聞いた。

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しづかいた。

「そうでございますね」

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「さうでござんすね」

勘次はぐったりとうなだれて、言葉のおしまいが聞き取れないほどだった。

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勘次かんじはぐつたりと俛首うなだれて言辭ことばしりきとれぬほどであつた。

深いうれいが、顔のしわに強く刻まれた。

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ふかうれひ顏面かほしわつよきざんだ。

「わしもこれ……」

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「わしもれ……」

と彼はかすかに言っただけで、黙りつづけた。

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かれかすかにいつたのみで沈默ちんもくつゞけた。

彼はおかみさんの前で、どうしても言わなければならないことに、心が乱れた。

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かれ内儀かみさんのまへにどうしてものべなければならないことにそのこゝろ惑亂わくらんした。

彼はぼうっとして、目がくらみそうになった。

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かれはぽうつとしてくらまうとした。

遠くから呼ぶようで、しかも近い声で彼が我に返ったとき

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とほぶやうでしかちかこゑためかれわれかへつたとき

「それじゃお前、まあこのお金をしまったらどうだね」

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「それぢやおまへ、まあこのぜにしまつたらどうだね」

と、おかみさんがすすめたのだった。

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内儀かみさんがうながしたのであつた。

心の底から困っているような彼に向かって、おかみさんはもう問いつめる気になれなかった。

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衷心ちうしんからこまつたやうなかれむかつて内儀かみさんはもう追求つゐきうするちからもたなかつた。

「まことにどうも、お内儀さん」

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まことにどうもお内儀かみさん」

彼はさいふを帯から解いて出したとき、ひどくへってしまったように感じて、そのさいふを外からちょっと見て首をかしげた。

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かれ財布さいふおびからいてしたときひどつてしまつたやうにかんじて、財布さいふそとから一寸ちよつとくびかたぶけた。

彼はまたさいふの底のお金をつかみ出してみた。

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かれまた財布さいふそこぜにつかしてた。

焼けあとの灰から出て青銅のように変わった銅貨は、ぽつぽつと焼けた皮を残して、あざやかな地はだが見えていた。

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燒趾やけあとはひから青銅せいどうのやうにかはつた銅貨どうくわはぽつ/\とけたかはのこしてあざやかな地質ぢしつけてた。

彼はそれを目に近づけて、しばらくじっと見入った。

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かれはそれをちかづけてしばら凝然ぢつ見入みいつた。

彼は気づいたとき、急におそれたようにおかみさんをふり返って、じゃらりとそのお金をさいふの底へ落とした。

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かれこゝろづいたときにはかおそれたやうに内儀かみさんをふりかへつてじやらりとぜに財布さいふそこおとした。

(おわり)

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(完)