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土 現代語訳

長塚節(ながつかたかし)・1987年

AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-08-03)

「土」

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「土」

について

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に就て

漱石

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漱石

「土」

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「土」

が「東京朝日」

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が「東京朝日」

に連載されたのは一昨年のことである。

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に連載されたのは一昨年の事である。

そうして、その責任者は私であった。

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さうして其責任者は余であつた。

ところが不幸にも私は「土」

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所が不幸にも余は「土」

の完結を見ないうちに病気にかかって、新聞を手にする自由を失ったきり、また「土」

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の完結を見ないうちに病氣に罹つて、新聞を手にする自由を失つたぎり、又「土」

の作者を思い出す機会を持たなかった。

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の作者を思ひ出す機會を有たなかつた。

当初五、六十回の予定であった「土」

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當初五六十囘の豫定であつた「土」

は、いつのまにか意外な長編に育っていた。

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は、同時に意外の長篇として發達してゐた。

途中で話の糸口を忘れた私は、もう一度それを取り上げて、でたらめな区切りから改めて読み出す勇気を奮い起こしにくかったので、つい、それきり放り出したようなものの、腹の中ではひそかに作者の根気と精力に驚いていた。

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途中で話の緒口を忘れた余は、再びそれを取り上げて、矢鱈な區切から改めて讀み出す勇氣を鼓舞しにくかつたので、つい夫限ぎりに打ち遣やつたやうなものゝ、腹のなかでは私かに作者の根氣と精力に驚ろいてゐた。

「土」

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「土」

はたしか百五、六十回に至ってようやく結末に達したのである。

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は何でも百五六十囘に至つて漸く結末に達したのである。

冷淡な世間と多忙な私は、その後長らく「土」

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冷淡な世間と多忙な余は其後久しく「土」

のことを忘れていた。

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の事を忘れてゐた。

ところが、ある時、この間亡くなった池辺君に会って、偶然話が小説に及んだ折、池辺君は、なぜ「土」

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所がある時此間亡くなつた池邊君に會つて偶然話頭が小説に及んだ折、池邊君は何故「土」

は出版にならないのだろうと言って、だいぶ長塚君の作をほめていた。

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は出版にならないのだらうと云つて、大分長塚君の作を褒めてゐた。

池辺君はその当時「朝日」

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池邊君は其當時「朝日」

の主筆だったので、「土」

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の主筆だつたので「土」

は初めから終わりまで目を通したのである。

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は始から仕舞迄眼を通したのである。

そのうえ池辺君は、自分で文学を知らないと言いながら、その実、誠実な批評眼を持って「土」

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其上池邊君は自分で文學を知らないと云ひながら、其實摯實な批評眼をもつて「土」

を根気よく読み通したのである。

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を根氣よく讀み通したのである。

私は、出版界の不景気のために「土」

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余は出版界の不景氣のために「土」

の単行本が出る時機がまだ来ないのだろうと答えておいた。

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の單行本が出る時機がまだ來ないのだらうと答へて置いた。

その時、心の中では、ずいぶん「土」

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其時心のうちでは、隨分「土」

に比べるとつまらないものも世に出される今日だから、できるならいつか書物にまとめておいたら作者のためによかろうと思ったが、不親切な私は、その日が過ぎるとまた「土」

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に比べると詰らないものも公けにされる今日だから、出來るなら何時か書物に纏めて置いたら作者の爲に好からうと思つたが、不親切な余は其日が過ぎると、又「土」

のことをまるで忘れてしまった。

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の事を丸で忘れて仕舞つた。

すると、この春になって長塚君が突然訪ねて来て、ようやく本屋が「土」

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すると此春になつて長塚君が突然尋ねて來て、漸く本屋が「土」

を引き受けることになったから、序文を書いてくれまいかという依頼である。

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を引受ける事になつたから、序を書いて呉れまいかといふ依頼である。

私はその時、自分の小説を毎日一回ずつ書いていたので、「土」

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余は其時自分の小説を毎日一囘づゝ書いてゐたので、「土」

を読み返す暇がなかった。

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を讀み返す暇がなかつた。

やむをえず、自分の仕事が済むまで待ってくれと答えた。

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已を得ず自分の仕事が濟む迄待つてくれと答へた。

すると長塚君は、池辺君の序文もほしいから、ついでに紹介してもらいたいと言うので、私はすぐ承知した。

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すると長塚君は池邊君の序も欲しいから序でに紹介して貰ひたいと云ふので、余はすぐ承知した。

私の名刺を持って「土」

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余の名刺を持つて「土」

の作者が池辺君の玄関に立ったのは、池辺君のお母さんが亡くなってちょうど三十五日にあたる日とかで、長塚君はただ立ったまま用件だけを頼んで帰ったそうであるが、それから三日して肝心の池辺君も突然亡くなってしまったから、同君の序文はとうとう手に入らなかったのである。

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の作者が池邊君の玄關に立つたのは、池邊君の母堂が死んで丁度三十五日に相當する日とかで、長塚君はたゞ立ちながら用事丈を頼んで歸つたさうであるが、それから三日して肝心の池邊君も突然亡くなつて仕舞つたから、同君の序はとう/\手に入らなかつたのである。

私は「彼岸過迄」

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余は「彼岸過迄」

を片づけるやいなや、前の約束を守って「土」

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を片付けるや否や前約を踏んで「土」

の校正刷りを読み出した。

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の校正刷を讀み出した。

思ったよりも長編なので、前後半日と丸一日をつぶしてようやく読み終えて考えてみると、なかなか骨の折れた作品である。

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思つたよりも長篇なので、前後半日と中一日を丸潰しにして漸く業を卒へて考へて見ると、中々骨の折れた作物である。

私はもともと安っぽい人間であるから、たいていの人のものを見るとすぐ感心したがる癖があるが、この「土」

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余は元來が安價な人間であるから、大抵の人のものを見ると、すぐ感心したがる癖があるが、此「土」

においてもまったくそうであった。

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に於ても全くさうであつた。

まず何よりも先に、これはとうてい私に書けるものではないと思った。

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先づ何よりも先に、是は到底余に書けるものでないと思つた。

次に、今の文壇で長塚君を除いたらだれが書けるだろうと、あれこれ捜してみた。

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次に今の文壇で長塚君を除いたら誰が書けるだらうと物色して見た。

すると、やはりだれにも書けそうにないという結論に達した。

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すると矢張誰にも書けさうにないといふ結論に達した。

もっとも、だれにも書けないと言うのは、文章を操る技量の点や、人間を生き生きと動かす天賦の力を指すのではない。

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尤も誰にも書けないと云ふのは、文を遣る技倆の點や、人間を活躍させる天賦の力を指すのではない。

もし、それだけの意味でだれも長塚君に及ばないと言うなら、一方ではほかの作家を侮辱した言葉にもなり、また一方では長塚君を担ぎすぎる策略とも取れて、どちらにしても作者の迷惑になるばかりである。

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もし夫れ丈の意味で誰も長塚君に及ばないといふなら、一方では他の作家を侮辱した言葉にもなり、又一方では長塚君を擔ぎ過ぎる策略とも取れて、何方にしても作者の迷惑になる計である。

私がだれも及ばないと言うのは、作品の中に書いてある事件なり自然なりが、まだ長塚君以外の人の研究に上っていないという意味なのである。

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余の誰も及ばないといふのは、作物中に書いてある事件なり天然なりが、まだ長塚君以外の人の研究に上つてゐないといふ意味なのである。

「土」

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「土」

の中に出て来る人物は、もっとも貧しい百姓である。

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の中に出て來る人物は、最も貧しい百姓である。

教育もなければ品格もなく、ただ土の上に生み付けられて、土とともに育ったうじ虫同様に哀れな百姓の生活である。

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教育もなければ品格もなければ、たゞ土の上に生み付けられて、土と共に生長した蛆同樣に憐れな百姓の生活である。

先祖以来、茨城の結城郡に住まいを移した地方の豪族として、多数の小作人を使う長塚君は、彼らの、けものに近い、恐ろしいほど疲れきった生活のありさまを、一から十まで誠実にこの「土」

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先祖以來茨城の結城郡に居を移した地方の豪族として、多數の小作人を使用する長塚君は、彼等の獸類に近き、恐るべく困憊を極めた生活状態を、一から十迄誠實に此「土」

の中に収め尽くしたのである。

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の中に收め盡したのである。

彼らの、下品で、浅はかで、迷信が強く、無邪気で、ずるく、無欲で、強欲で、ほとんど私たち(今の文壇の作家をことごとく含む)の想像にさえ上りにくいところを、ありありと目に映るように描いたのが「土」

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彼等の下卑で、淺薄で、迷信が強くて、無邪氣で、狡猾で、無欲で、強欲で、殆んど余等(今の文壇の作家を悉く含む)の想像にさへ上りがたい所を、あり/\と眼に映るやうに描寫したのが「土」

である。

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である。

そうして「土」

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さうして「土」

は、長塚君以外にだれも手をつけられない、苦しい百姓生活の、もっともけものに近い部分を、細かにまっすぐ書いたものであるから、だれも及ばないと言うのである。

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は長塚君以外に何人も手を著けられ得ない、苦しい百姓生活の、最も獸類に接近した部分を、精細に直叙したものであるから、誰も及ばないと云ふのである。

人の営みを離れた自然についても、同じ批評をどんな読者も容易にうなずかなければ済まないほど、作者は鬼怒川沿岸の景色や、空や、春や、秋や、雪や風を綿密に研究している。

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人事を離れた天然に就いても、前同樣の批評を如何な讀者も容易に肯はなければ濟まぬ程、作者は鬼怒川沿岸の景色や、空や、春や、秋や、雪や風を綿密に研究してゐる。

畑のもの、あぜに立つはんの木、蛙の声、鳥の音、かりにも彼の郷土に存在する自然なら、ほんの一点一画の細かさに至るまで、ことごとくその地方の特色を備えて描写の筆に上っている。

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畠のもの、畔に立つ榛の木、蛙の聲、鳥の音、苟くも彼の郷土に存在する自然なら、一點一畫の微に至る迄悉く其地方の特色を具へて叙述の筆に上つてゐる。

だから、どこにどう出て来ても必ず独特である。

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だから何處に何う出て來ても必ず獨特ユニークである。

その独特な点を、ふつうの作家の手になった自然描写の平凡さと比べて、私はだれも及ばないと言うのである。

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其獨特ユニークな點を、普通の作家の手に成つた自然の描寫の平凡なのに比べて、余は誰も及ばないといふのである。

私は彼の独特さに敬服しながら、それがあまりに細かすぎて、話の筋をしばしば殺してしまう失敗を嘆いたくらい、彼は精緻な自然の観察者である。

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余は彼の獨特ユニークなのに敬服しながら、そのあまりに精細過ぎて、話の筋を往々にして殺して仕舞ふ失敗を歎じた位、彼は精緻な自然の觀察者である。

作品としての「土」

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作としての「土」

は、むしろ苦しい読みものである。

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は、寧ろ苦しい讀みものである。

けっして、おもしろいから読めとは言いにくい。

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決して面白いから讀めとは云ひ惡い。

第一に、作中の人物の使う言葉が、私たちにはあまり縁の遠い方言からできあがっている。

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第一に作中の人物の使ふ言葉が余等には餘り縁の遠い方言から成り立つてゐる。

第二に、構えが大きいわりに、年代が前後数年にわたるわりに、周りへ平たく広がりたがる話が、筋をくっきりと描いて深まりながら前へ進んで行かない。

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第二に結構が大きい割に、年代が前後數年にわたる割に、周圍に平たく發達したがる話が、筋をくつきりと描いて深くなりつゝ前へ進んで行かない。

だから全体として、読者に加速度のつく興味を与えない。

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だから全體として讀者に加速度アクセレレーシヨンの興味を與へない。

だから、事件が入り組み絡み合ってもつれながら読者をぐいぐい引き込んで行くというよりも、その地方の年中行事を怠りなく丹念に淡々と述べて行くうちに、作者のこしらえた人物が途切れ途切れに動き出すと言ったほうが適当になってくる。

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だから事件が錯綜纏綿して縺れながら讀者をぐい/\引込んで行くよりも、其地方の年中行事を怠りなく丹念に平叙して行くうちに、作者の拵らへた人物が斷續的に活躍すると云つた方が適當になつて來る。

そこに、いささか人を引きつける力を失う恐れが潜んでいるという意味でも読みづらい。

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其所に聊か人を魅する牽引力を失ふ恐が潛んでゐるといふ意味でも讀みづらい。

しかし、これらは単に表面的な意味で読みづらいのであって、私のいわゆる読みづらいという本当の意味は、作中の人物の心なり行いなりが、ただ圧迫と不安と苦痛を読者に与えるだけで、少しも、神の作ってくれた幸福な人間であるという刺激と慰めを与えてくれないからである。

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然し是等は單に皮相の意味に於て讀みづらいので、余の所謂讀みづらいといふ本意は、篇中の人物の心なり行なりが、たゞ壓迫と不安と苦痛を讀者に與へる丈で、毫も神の作つてくれた幸福な人間であるといふ刺戟と安慰を與へ得ないからである。

悲劇は恐ろしいに違いない。

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悲劇は恐しいに違ない。

けれども、ふつうの悲劇のうちには悲しい以外に何かの償いがあるので、読者は涙という犠牲を喜ぶのである。

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けれども普通の悲劇のうちには悲しい以外に何かの償ひがあるので、讀者は涙の犧牲を喜こぶのである。

が、「土」

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が、「土」

に至っては、涙さえ出せない苦しさである。

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に至つては涙さへ出されない苦しさである。

雨の降らない代わりに一生照りもしない天気と同じ苦痛である。

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雨の降らない代りに生涯照りつこない天氣と同じ苦痛である。

ただ土の下へ心が沈むだけで、人情から言っても道義心から言っても、ほとんどこの圧迫の埋め合わせとして何一つ与えられていない。

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たゞ土の下したへ心が沈む丈で、人情から云つても道義心から云つても、殆んど此壓迫の賠償として何物も與へられてゐない。

ただ土を掘り下げて暗い中へ落ちて行くだけである。

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たゞ土を掘り下げて暗い中へ落ちて行く丈である。

「土」

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「土」

を読む者は、きっと自分も泥の中を引きずられるような気がするだろう。

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を讀むものは、屹度自分も泥の中を引き摺られるやうな氣がするだらう。

私もそういう感じがした。

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余もさう云ふ感じがした。

ある者は、なぜ長塚君はこんな読みづらいものを書いたのだと疑うかもしれない。

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或者は何故長塚君はこんな讀みづらいものを書いたのだと疑がふかも知れない。

そんな人に対して私はただ一言、こういう生活をしている人間が、我々と同時代に、しかも帝都をそう遠く離れていない田舎に住んでいるという悲惨な事実を、ぎゅっと一度は胸の底に抱きしめてみたら、あなたがたのこれから先の人生観の上に、またあなたがたの日常の行動の上に、何かの参考として役に立ちはしないかと聞きたい。

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そんな人に對して余はたゞ一言、斯樣な生活をして居る人間が、我々と同時代に、しかも帝都を去る程遠からぬ田舍に住んで居るといふ悲慘な事實を、ひしと一度は胸の底に抱き締めて見たら、公等の是から先の人生觀の上に、又公等の日常の行動の上に、何かの參考として利益を與へはしまいかと聞きたい。

私はとくに、歓楽に憧れる若い男や若い女が、読み苦しいのを我慢して、この「土」

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余はとくに歡樂に憧憬する若い男や若い女が、讀み苦しいのを我慢して、此「土」

を読む勇気を奮い起こすことを希望するのである。

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を讀む勇氣を鼓舞する事を希望するのである。

私の娘が年頃になって、音楽会がどうの、帝国座がどうのと言い立てる時分になったら、私はぜひこの「土」

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余の娘が年頃になつて、音樂會がどうだの、帝國座がどうだのと云ひ募る時分になつたら、余は是非此「土」

を読ませたいと思っている。

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を讀ましたいと思つて居る。

娘はきっといやだと言うに違いない。

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娘は屹度厭だといふに違ない。

もっと興味を感じる恋愛小説と取り替えてくれと言うに違いない。

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より多くの興味を感ずる戀愛小説と取り換へて呉れといふに違ない。

けれども私はその時、娘に向かって、おもしろいから読めと言うのではない。

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けれども余は其時娘に向つて、面白いから讀めといふのではない。

苦しいから読めと言うのだと告げたいと思っている。

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苦しいから讀めといふのだと告げたいと思つて居る。

参考のためだから、世間を知るためだから、知って自分の人格の上に暗い恐ろしい影を映すためだから、我慢して読めと忠告したいと思っている。

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參考の爲だから、世間を知る爲だから、知つて己れの人格の上に暗い恐ろしい影を反射させる爲だから我慢して讀めと忠告したいと思つて居る。

何も考えずに暖かく育った若い女(男でも同じである)の起こす悟りを求める心や宗教心は、みなこの暗い影の奥から差してくるのだと、私は固く信じているからである。

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何も考へずに暖かく生長した若い女(男でも同じである)の起す菩提心や宗教心は、皆此暗い影の奧から射さして來るのだと余は固く信じて居るからである。

長塚君の書き方は、どこまでも落ち着いている。

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長塚君の書き方は何處迄も沈着である。

その人物はみなありのままである。

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其人物は皆有の儘である。

話の筋はまったく自然である。

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話の筋は全く自然である。

私が「土」

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余が「土」

を「朝日」

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を「朝日」

に載せ始めた時、北のほうのSという人が、わざわざ手紙を私のもとに寄せて、長塚君が旅行して彼と会った折の議論を報せてきたことがある。

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に載せ始めた時、北の方のSといふ人がわざ/″\書を余のもとに寄せて、長塚君が旅行して彼と面會した折の議論を報じた事がある。

長塚君は、私が「朝日」

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長塚君は余の「朝日」

に書いた「満韓ところどころ」

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に書いた「滿韓ところ/″\」

というものをSの所で一回読んで、漱石という男は人をばかにしていると言って大いに憤慨したそうである。

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といふものをSの所で一囘讀んで、漱石といふ男は人を馬鹿にして居るといつて大いに憤慨したさうである。

漱石に限らず、そもそも「朝日」

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漱石に限らず一體「朝日」

新聞の記者の書きぶりはみな人をばかにしていると言ってののしったそうである。

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新聞の記者の書き振りは皆人を馬鹿にして居ると云つて罵つたさうである。

なるほど、まじめで円熟した、ほとんど厳粛という言葉で形容してしかるべき「土」

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成程眞面目に老成した、殆んど嚴肅といふ文字を以て形容して然るべき「土」

を書いた長塚君としては、もっともなことである。

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を書いた、長塚君としては尤もの事である。

「満韓ところどころ」

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「滿韓所々ところ/″\」

などが君の気に障ったのは、それもそのはずだと思う。

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抔が君の氣色を害したのは左もあるべきだと思ふ。

しかし、君から軽薄の疑いを受けた私にも、まじめな「土」

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然し君から輕佻の疑を受けた余にも、眞面目な「土」

を読む目はあるのである。

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を讀む眼はあるのである。

だから、この序文を書くのである。

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だから此序を書くのである。

長塚君はたまたま「満韓ところどころ」

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長塚君はたまたま「滿韓ところ/″\」

の一回を見て私の浮薄さに腹を立てたのだろうが、同じ私の手になったほかのものに偶然目を触れたら、あるいは反対の感じを起こすかもしれない。

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の一囘を見て余の浮薄を憤つたのだらうが、同じ余の手になつた外のものに偶然眼を觸れたら、或は反對の感を起すかも知れない。

もし私が徹頭徹尾「満韓ところどころ」

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もし余が徹頭徹尾「滿韓ところ/″\」

の中で長塚君の気に入らない一回のような調子で終始するのなら、とうてい長塚君の「土」

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のうちで、長塚君の氣に入らない一囘を以て終始するならば、到底長塚君の「土」

のためにこれほど言葉を費やすことはできない理屈だからである。

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の爲に是程言辭を費やす事は出來ない理窟だからである。

長塚君は不幸にして喉頭結核にかかり、この間まで東京で入院生活をしていたが、今は養生かたがた旅行の途中にある。

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長塚君は不幸にして喉頭結核にかゝつて、此間迄東京で入院生活をして居たが、今は養生旁旅行の途にある。

先だって、かねて紹介しておいた福岡大学の久保博士からの手紙に、長塚君が診察を頼みに見えたとあるから、今ごろは九州にいるだろう。

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先達てかねて紹介して置いた福岡大學の久保博士からの來書に、長塚君が診察を依頼に見えたとあるから、今頃は九州に居るだらう。

私は出版の時機に遅れないで、病中の君のために、「土」

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余は出版の時機に後れないで、病中の君の爲に、「土」

についてこれだけのことを言い得たのを喜ぶのである。

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に就いて是丈の事を云ひ得たのを喜こぶのである。

私がかつて「土」

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余がかつて「土」

を「朝日」

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を「朝日」

に載せ出した時、ある文士が、我々は「土」

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に載せ出した時、ある文士が、我々は「土」

などを読む義務はないと言ったと、わざわざ私に知らせてきた者があった。

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などを讀む義務はないと云つたと、わざ/\余に報知して來たものがあつた。

その時私は、この文士は何のために罪もない「土」

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其時余は此文士は何の爲に罪もない「土」

の作者を侮辱するのだろうと思って、苦々しい不愉快を感じた。

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の作家を侮辱するのだらうと思つて苦々しい不愉快を感じた。

理屈から言って、読まねばならない義務のある小説というものは、その小説の校正者か、内務省の検閲官以外にそうあろうはずがない。

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理窟から云つて、讀まねばならない義務のある小説といふものは、其小説の校正者か、内務省の檢閲官以外にさうあらう筈がない。

わざわざ断らなくても、いやならいやで黙って読まずにいればそれまでである。

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わざ/\斷わらんでも厭なら厭で默つて讀まずに居れば夫迄である。

もしまた、名の知れない人の書いたものだから読む義務はないと言うなら、その人はただ名前だけで小説を読む、内容などには頓着しない門外漢と同じである。

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もし又名の知れない人の書いたものだから讀む義務はないと云ふなら、其人は唯名前丈で小説を讀む、内容などには頓着しない、門外漢と一般である。

文士ならば同業の人に対して、たとえ無名の人にせよ、もう少しの同情と尊敬があってしかるべきだと思う。

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文士ならば同業の人に對して、たとひ無名氏にせよ、今少しの同情と尊敬があつて然るべきだと思ふ。

私は「土」

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余は「土」

の作者が病気だから、この場合にはなおさらそう言いたいのである。

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の作者が病氣だから、此場合には猶ほ更らさう云ひたいのである。

(明治四十五年五月)

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(明治四十五年五月)

一

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一

激しい西風が、目に見えない大きな塊をごうっと打ちつけては、またごうっと打ちつけて、みなやせこけた落葉樹の林を一日いじめ通した。

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烈はげしい西風にしかぜが目めに見みえぬ大おほきな塊かたまりをごうつと打うちつけては又またごうつと打うちつけて皆みな痩やせこけた落葉木らくえふぼくの林はやしを一日にち苛いぢめ通とほした。

木の枝は時々ひゅうひゅうと悲痛な音を立てて泣いた。

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木きの枝えだは時々とき/″\ひう/\と悲痛ひつうの響ひゞきを立たてゝ泣ないた。

短い冬の日はもう落ちかけて、黄色い光を放ちながら瞬いた。

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短みじかい冬ふゆの日ひはもう落おちかけて黄色きいろな光ひかりを放射はうしやしつゝ目叩またゝいた。

そうして西風は、どうかするとぱったりやんでしまったかと思うほど静かになった。

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さうして西風にしかぜはどうかするとぱつたり止やんで終しまつたかと思おもふ程ほど靜しづかになつた。

泥をちぎって投げたような雲が、不規則に林の上へじっとくっついていて、空はまだ騒がしいことを示している。

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泥どろを拗切ちぎつて投なげたやうな雲くもが不規則ふきそくに林はやしの上うへに凝然ぢつとひつゝいて居ゐて空そらはまだ騷さわがしいことを示しめして居ゐる。

それで時々は、思い出したように木の枝がざわざわと鳴る。

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それで時々とき/″\は思おもひ出だしたやうに木きの枝えだがざわ/″\と鳴なる。

世間が急に心細くなった。

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世間せけんが俄にはかに心こゝろぼそくなつた。

お品はまた天秤棒を下ろした。

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お品しなは復また天秤てんびんを卸おろした。

お品は竹の短い天秤棒の先へ、木の枝でこしらえた小さな鉤をぶら下げて、それで手桶の柄を引っ掛けていた。

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お品しなは竹たけの短みじかい天秤てんびんの先さきへ木きの枝えだで拵こしらへた小ちひさな鍵かぎの手てをぶらさげてそれで手桶てをけの柄えを引ひつ懸かけて居ゐた。

お品は百姓仕事の合間には、村から豆腐を仕入れて出ては二つ三つの村を歩いてくるのがいつものことである。

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お品しなは百姓ひやくしやうの隙間すきまには村むらから豆腐とうふを仕入しいれて出でては二三ヶ村そんを歩あるいて來くるのが例れいである。

手桶で持ち出すだけのことだから元手も要らない代わりにもうけも薄いのだが、それでも百姓ばかりしているよりも、日ごとに目に見えた小遣い銭が取れるので、もうしばらくそうしていた。

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手桶てをけで持もち出だすだけのことだから資本もとでも要いらない代かはりには儲まうけも薄うすいのであるが、それでも百姓ひやくしやうばかりして居ゐるよりも日毎ひごとに目めに見みえた小遣錢こづかひせんが取とれるのでもう暫しばらくさうして居ゐた。

手桶一つ分の豆腐では、いつもの所をぐるりと回れば必ずなくなった。

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手桶てをけ一提ひとさげの豆腐とうふではいつもの處ところをぐるりと廻まはれば屹度きつとなくなつた。

帰りには豆腐のくずでいくらか白くなった水を捨てて、天秤棒は軽くなるのである。

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還かへりには豆腐とうふの壞こはれで幾いくらか白しろくなつた水みづを棄すてゝ天秤てんびんは輕かるくなるのである。

お品はいつでも、日のあるうちに、夜なべで縄になう藁へ水を掛けておいたり、落ち葉をかき集めてみたり、あちらこちらと手を動かすことをやめなかった。

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お品しなは何時いつでも日ひのあるうちに夜よなべに繩なはに綯なふ藁わらへ水みずを掛かけて置おいたり、落葉おちばを攫さらつて見みたりそこらこゝらと手てを動うごかすことを止やめなかつた。

生まれつき丈夫なので、お品は仕事を苦しいと思ったことはなかった。

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天性ねが丈夫ぢやうぶなのでお品しなは仕事しごとを苦くるしいと思おもつたことはなかつた。

それがこの日は自分でもひどくいやであったが、冬至が来るからこんにゃくの仕入れをしなくてはならないと言って、無理に出たのであった。

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それが此この日ひは自分じぶんでも酷ひどく厭いやであつたが、冬至とうじが來くるから蒟蒻こんにやくの仕入しいれをしなくちや成ならないといつて無理むりに出でたのであつた。

冬至というと、にわか商人がぞくぞくと出てくるので、急いで一度歩かないと、そのにわか商人に先を越されてしまう。お品はどうしてもじっとしてはいられなかった。

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冬至とうじといふと俄商人にはかあきうどがぞく/\と出來できるので急いそいで一遍ぺん歩あるかないと、其その俄商人にはかあきうどに先せんを越こされて畢しまふのでお品しなはどうしても凝然ぢつとしては居ゐられなかつた。

こんにゃくは村にはないので、仕入れをするには田んぼを越えたり林を通ったりして遠くへ行かねばならない。

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蒟蒻こんにやくは村むらには無ないので、仕入しいれをするのには田圃たんぼを越こえたり林はやしを通とほつたりして遠とほくへ行ゆかねばならぬ。

それでお品は、その途中で商売をしようと思って、この日も豆腐をかついで出た。

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それでお品しなは其その途中とちうで商あきなひをしようと思おもつて此この日ひも豆腐とうふを擔かついで出でた。

あいにく夜から冷えきっていた空には激しい西風が立って、それに逆らって行くお品は、自分でひどく足元のふらつくのを感じた。

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生憎あいにく夜よるから冴さえ切きつて居ゐた空そらには烈はげしい西風にしかぜが立たつて、それに逆さからつて行ゆくお品しなは自分じぶんで酷ひどく足下あしもとのふらつくのを感かんじた。

ぞくぞくと体が冷えた。

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ぞく/\と身體からだが冷ひえた。

そうして豆腐を出すたびに水へ手を差し込むのが、震えるように身にしみた。

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さうして豆腐とうふを出だす度たびに水みづへ手てを刺込さしこむのが慄ふるへるやうに身みに染しみた。

かさかさに乾いた手が、水へつけるたびに赤くなった。

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かさ/\に乾燥かわいた手てが水みづへつける度たびに赤あかくなつた。

あかぎれがぴりぴりと痛んだ。

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皹ひゞがぴり/\と痛いたんだ。

懇意なあちこちで、お品は落ち葉をひとくべ焚いてもらっては手をかざして、やっと暖まった。

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懇意こんいなそここゝでお品しなは落葉おちばを一燻ひとくべ焚たいて貰もらつては手てを翳かざして漸やつと暖あたゝまつた。

こんにゃくを仕入れて出た時は、そんなこんなで暇を取っていつになく遅かった。

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蒟蒻こんにやくを仕入しいれて出でた時ときはそんなこんなで暇ひまをとつて何時いつになく遲おそかつた。

お品は林をいくつも過ぎて自分の村へ急いだが、疲れもしたけれど、けだるいような心持ちがして、幾度か道端へ荷を下ろしては休みながら来たのである。

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お品しなは林はやしを幾いくつも過すぎて自分じぶんの村むらへ急いそいだが、疲つかれもしたけれど懶ものういやうな心持こゝろもちがして幾度いくたびか路傍みちばたへ荷にを卸おろしては休やすみつゝ來きたのである。

お品は手桶の柄へ横たえた竹の天秤棒へ身を投げかけて、どかりと膝を折った。

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お品しなは手桶てをけの柄えへ横よこたへた竹たけの天秤てんびんへ身みを投なげ懸かけてどかりと膝ひざを折をつた。

ぐったりなったお品は、それでなくても見苦しい姿が、さらに締まりなく乱れた。

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ぐつたり成なつたお品しなはそれでなくても不見目みじめな姿すがたが更さらに檢束しどけなく亂みだれた。

西風の名残がお品の後ろから吹いた。

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西風にしかぜの餘波なごりがお品しなの後うしろから吹ふいた。

そうして西風は、後ろで結んだ汚い手拭いの端をめくって、油の切れたほこりだらけの赤い髪の毛をしごき上げるようにして、その垢だらけの首筋をむき出しにさせている。

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さうして西風にしかぜは後うしろで括くゝつた穢きたない手拭てぬぐひの端はしを捲まくつて、油あぶらの切きれた埃ほこりだらけの赤あかい髮かみの毛けを扱こきあげるやうにして其その垢あかだらけの首筋くびすぢを剥出むきだしにさせて居ゐる。

それとともに林の雑木はまだ持ち前の騒ぎをやめないで、道端のこずえがずっと取り巻いてお品の上からそれをのぞこうとすると、後ろからも後ろからも林のこずえが一斉に首を出す。

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夫それと共ともに林はやしの雜木ざふきはまだ持前もちまへの騷さわぎを止やめないで、路傍みちばたの梢こずゑがずつと繞しなつてお品しなの上うへからそれを覗のぞかうとすると、後うしろからも/\林はやしの梢こずゑが一齊せいに首くびを出だす。

そうしてしばらくすると、また一斉に後ろへぐっと戻って、体を横に揺らしながら、笑いささやくようにざわざわと鳴る。

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さうして暫しばらくしては又また一齊せいに後うしろへぐつと戻もどつて身體からだを横よこに動搖ゆさぶりながら笑わらひ私語さゞめくやうにざわ/\と鳴なる。

お品は体に変わったことが起こったのを意識するとともに、恐怖心を抱きはじめた。

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お品しなは身體からだに變態へんたいを來きたしたことを意識いしきすると共ともに恐怖心きようふしんを懷いだきはじめた。

三、四日どうもなかったから大丈夫だとは思ってみても、こうしてじっとしていると遠くのほうへ滅入ってしまうような心持ちがして、ふだんからいくらかのぼせやすくもあるのだが、そう思うと耳が鳴るようで、世間がかえって静かになってしまったように思われた。

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三四日かどうもなかつたから大丈夫だいぢやうぶだとは思おもつて見みても、恁かう凝然ぢつとして居ゐると遠とほくの方ほうへ滅入めいつて畢しまふ樣やうな心持こゝろもちがして、不斷ふだんから幾いくらか逆上性のぼせしやうでもあるのだがさう思おもふと耳みゝが鳴なるやうで世間せけんが却かへつて靜しづかに成なつて畢しまつたやうに思おもはれた。

ふと気がついた時、お品はてきぱきと天秤棒をかついだ。

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不圖ふと氣きが付ついた時ときお品しなははき/\として天秤てんびんを擔かついだ。

林が尽きて田んぼが見え出した。

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林はやしが竭つきて田圃たんぼが見みえ出だした。

田んぼを越せば村で、自分の家は田んぼの取っつきである。

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田圃たんぼを越こせば村むらで、自分じふんの家いへは田圃たんぼのとりつきである。

青い煙がすっと上っている。

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青あをい煙けぶりがすつと騰のぼつて居ゐる。

お品は二人の子供を思って心が躍った。

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お品しなは二人ふたりの子供こどもを思おもつて心こゝろが跳をどつた。

林の外れから田んぼへ下りる所はわずかに十メートルほどであるが、傾斜の険しい坂で、それが雨のあるたびにそこらの水を集めて田んぼへ落とす口になっているので、自然に土がえぐられて深いくぼみができている。

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林はやしの外はづれから田圃たんぼへおりる處ところは僅わづかに五六間けんであるが、勾配こうばいの峻けはしい坂さかでそれが雨あめのある度たびにそこらの水みづを聚あつめて田圃たんぼへ落おとす口くちに成なつて居ゐるので自然しぜんに土つちが抉ゑぐられて深ふかい窪くぼみが形かたちづくられて居ゐる。

お品は天秤棒を斜めに横へ向けて、右の手を前の手桶の柄へ、左の手を後ろの手桶の柄へ掛けて、注意しながら下りた。

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お品しなは天秤てんびんを斜なゝめに横よこへ向むけて、右みぎの手てを前まへの手桶てをけの柄えへ左ひだりの手てを後うしろの手桶てをけの柄えへ掛かけて注意ちういしつゝおりた。

それでも、ほとんど手桶いっぱいになりそうなこんにゃくの重さは、少しふらつく足をあやうく保たせた。

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それでも殆ほとんど手桶てをけ一杯ぱいに成なり相さうな蒟蒻こんにやくの重量おもみは少すこしふらつく足あしを危あやうく保たもたしめた。

やっと人がすれ違えるだけの狭い田んぼ道を、お品はそろそろと運んで行く。

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やつと人ひとの行ゆき違ちがふだけの狹せまい田圃たんぼをお品しなはそろ/\と運はこんで行ゆく。

お品は白茶けるほど古くなった股引へ、それでも先のほうだけ継ぎ足した足袋をはいている。

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お品しなは白茶しらちやけた程ほど古ふるく成なつた股引もゝひきへそれでも先さきの方ほうだけ繼つぎ足たした足袋たびを穿はいて居ゐる。

大きな藁草履は固めたように霜解けの泥がくっついていて、それがぼたぼたと足の運びをさらに鈍くしている。

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大おほきな藁草履わらざうりは固かためたやうに霜解しもどけの泥どろがくつゝいて、それがぼた/\と足あしの運はこびを更さらに鈍にぶくして居ゐる。

狭く連なっている田を縦に用水の堀がある。

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狹せまく連つらなつて居ゐる田たを竪たてに用水ようすゐの堀ほりがある。

二、三株、比較的大きなはんの木が立っている所に、わずか一枚板の橋が斜めに架けてある。

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二三株にさんかぶ比較的ひかくてき大おほきな榛はんの木きの立たつて居ゐる處ところに僅わづか一枚いちまい板いたの橋はしが斜なゝめに架かけてある。

お品は橋のたもとでちょっと立ち止まった。

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お品しなは橋はしの袂たもとで一寸ちよつと立たち止どまつた。

そうして近づいた自分の家を見た。

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さうして近ちかづいた自分じぶんの家いへを見みた。

村は台地にあるので、お品の家の後ろはすぐ斜めに田んぼへずり落ちそうな林である。

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村落むらは臺地だいちに在あるのでお品しなの家いへの後うしろは直すぐに斜なゝめに田圃たんぼへずり落おち相さうな林はやしである。

楢や雑木の間に短い竹が交じっている。

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楢ならや雜木ざふきの間あひだに短みじかい竹たけが交まじつて居ゐる。

いいかげん大きくなった楢の木はみな葉が落ち尽くしているので、その小枝を透してへこんだ棟が見える。

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いゝ加減かげん大おほきくなつた楢ならの木きは皆みな葉はが落おち盡つくして居ゐるので、其その小枝こえだを透とほして凹くぼんだ棟やのむねが見みえる。

白い羽の鶏が五、六羽、がりがりと爪で土をかき払ってはくちばしでそこをつつき、またがりがりと土をかき払っては、余念もなく夕方の餌を求めながら、田んぼから林へ帰りつつある。

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白しろい羽はねの鷄にはとりが五六羽ぱ、がり/\と爪つめで土つちを掻かつ掃ぱいては嘴くちばしでそこを啄つゝいて又またがり/\と土つちを掻かつ掃ぱいては餘念よねんもなく夕方ゆふがたの飼料ゑさを求もとめつゝ田圃たんぼから林はやしへ還かへりつゝある。

お品は非常な注意をもって斜めの橋を渡った。

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お品しなは非常ひじやうな注意ちういを以もつて斜なゝめな橋はしを渡わたつた。

四足目にはもう田んぼの土に立った。

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四足目よあしめにはもう田圃たんぼの土つちに立たつた。

その時は日はとうに沈んで、見渡すかぎり、田から林から、世間はただ黄褐色に光って、そうしてまだ明るかった。

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其その時ときは日ひは疾とうに沒ぼつして見渡みわたす限かぎり、田たから林はやしから世間せけんは只たゞ黄褐色くわうかつしよくに光ひかつてさうしてまだ明あかるかつた。

お品は田んぼから上がる前に天秤棒を下ろして左へ曲がった。

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お品しなは田圃たんぼからあがる前まへに天秤てんびんを卸おろして左ひだりへ曲まがつた。

自分の家の林と田との間には、人の足跡だけの小道がつけてある。

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自分じぶんの家いへの林はやしと田たとの間あひだには人ひとの足趾あしあとだけの小徑こみちがつけてある。

お品は、その小道と林との境を区切っているぐみの木のそばに立った。

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お品しなは其その小徑こみちと林はやしとの境界さかひを劃しきつて居ゐる牛胡頽子うしぐみの側そばに立たつた。

鶏の爪の跡が、そこの新しい土をかき散らしてあった。

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鷄にはとりの爪つめの趾あとが其處そこの新あたらしい土つちを掻かき散ちらしてあつた。

お品は土を手で集めて、草履の底でそくそくとならした。

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お品しなは土つちを手てで聚あつめて草履ざうりの底そこでそく/\とならした。

お品の姿が庭に見えた時には、西風は忘れたようにやんでいて、庭先の栗の木にぶっ掛けた大根の干からびた葉も動かなかった。

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お品しなの姿すがたが庭にはに見みえた時ときには西風にしかぜは忘わすれたやうに止やんで居ゐて、庭先にはさきの栗くりの木きにぶつ懸かけた大根だいこの乾からびた葉はも動うごかなかつた。

白い鶏はお品の足元へちょろちょろと駆けて来て、何かほしそうにけろっと見上げた。

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白しろい鷄にはとりはお品しなの足あしもとへちよろ/\と駈かけて來きて何なにか欲ほし相さうにけろつと見上みあげた。

お品はいつものように鶏などへ構ってはいられなかった。

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お品しなは平常いつものやうに鷄にはとり抔などへ構かまつては居ゐられなかつた。

お品は戸口に天秤棒を下ろして、突然

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お品しなは戸口とぐちに天秤てんびんを卸おろして突然いきなり

「おつう」

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「おつう」

と呼んだ。

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と喚よんだ。

「おっかあか」

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「おつかあか」

と、すぐにおつぎの返事が威勢よく聞こえた。

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と直すぐにおつぎの返辭へんじが威勢ゐせいよく聞きこえた。

それと同時に、かまどの火がひらひらと赤くお品の目に映った。

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それと同時どうじに竈かまどの火ひがひら/\と赤あかくお品しなの目めに映うつつた。

朝から雨戸は開けないので、内は薄暗くなっている。

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朝あさから雨戸あまどは開あけないので内うちはうす闇くらくなつて居ゐる。

外の光を見ていたお品の目には、すぐにはおつぎの姿も見えなかったのである。

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外そとの光ひかりを見みて居ゐたお品しなの目めには直すぐにはおつぎの姿すがたも見みえなかつたのである。

戸口からでは、おつぎの体はかまどの火を覆っていた。

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戸口とぐちからではおつぎの身體からだは竈かまどの火ひを掩おほうて居ゐた。

返事をするとともに体をひねったので、その赤い火が見えたのである。

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返辭へんじすると共ともに身體からだを捩ねぢつたので其その赤あかい火ひが見みえたのである。

おつぎの背にいた与吉は、お品の声を聞きつけると

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おつぎの脊せに居ゐた與吉よきちはお品しなの聲こゑを聞ききつけると

「まんまんま」

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「まん/\ま」

と両手を出して下りようとする。

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と兩手りやうてを出だして下おりようとする。

お品は、おつぎが帯を解いている間に、壁際の麦藁俵のそばへこんにゃくの手桶を二つ並べた。

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お品しなはおつぎが帶おびを解といてる間あひだに壁際かべぎはの麥藁俵むぎわらだはらの側そばへ蒟蒻こんにやくの手桶てをけを二つ並ならべた。

与吉はおふくろの懐に抱かれて、ろくに出もしない乳房を探った。

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與吉よきちはお袋ふくろの懷ふところに抱だかれて碌ろくに出でもしない乳房ちぶさを探さぐつた。

お品はかまどの前へ腰を掛けた。

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お品しなは竈かまどの前まへへ腰こしを掛かけた。

白い鶏は、掛けはしごの代わりに掛けてある荒縄でぐるぐる巻きにした竹の幹へ、めいめいに爪を引っ掛けて、両方の羽を広げて体の平均を保ちながら、慌てたようにねぐらへ上がった。

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白しろい鷄にはとりは掛梯子かけばしごの代かはりに掛かけてある荒繩あらなはでぐる/\捲まきにした竹たけの幹みきへ各自てんでに爪つめを引ひつ掛かけて兩方りやうはうの羽はねを擴ひろげて身體からだの平均へいきんを保たもちながら慌あわてたやうに塒とやへあがつた。

そうして青い煙の中に、じっとして目を閉じている。

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さうして青あをい煙けむりの中なかに凝然ぢつとして目めを閉とぢて居ゐる。

お品は家に帰っていくらか暖まったが、それでも一日冷えたせいか、ぞくぞくするのが止まなかった。

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お品しなは家いへに歸かへつて幾いくらか暖あたゝまつたがそれでも一日にち冷ひえた所爲せいかぞく/\するのが止やまなかつた。

そうして、後で近所で風呂をもらってゆっくり暖まったら、心持ちも治るだろうと思った。

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さうして後のちに近所きんじよで風呂ふろを貰もらつてゆつくり暖あつたまつたら心持こゝろもちも癒なほるだらうと思おもつた。

かまどには小さな鍋が掛かっている。

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竈かまどには小ちひさな鍋なべが懸かゝつて居ゐる。

汁はふたを浮かすようにして、ぐらぐらと煮立っている。

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汁しるは葢ふたを漂たゞよはすやうにしてぐら/\と煮立にたつて居ゐる。

外もいつかとっぷり暗くなった。

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外そともいつかとつぷり闇くらくなつた。

おつぎはかまどの下から火のついているそだを一つ取って、手ランプをつけて上がり框の柱へ掛けた。

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おつぎは竈かまどの下したから火ひのついてる麁朶そだを一ひとつとつて手てランプを點つけて上あがり框がまちの柱はしらへ懸かけた。

お品は、おつぎがひとえへ半纏を引っ掛けたままであるのを見た。

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お品しなはおつぎが單衣ひとへへ半纏はんてんを引ひつ掛かけた儘まゝであるのを見みた。

ふだんならそんなことはないのだが、自分がひどくぞくぞくして心持ちが悪いので、つい気になって

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平常いつもならそんなことはないのだが自分じぶんが酷ひどくぞく/\として心持こゝろもちが惡わるいのでつい氣きになつて

「おつう、そんな格好でお前は寒くないか」

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「おつう、そんな姿なりで汝わりや寒さむかねえか」

と聞いた。

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と聞きいた。

それから手拭いの下から見えるおつぎのあどけない顔を、じっと見た。

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それから手拭てぬぐひの下したから見みえるおつぎのあどけない顏かほを凝然ぢつと見みた。

「寒かないよ」

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「寒さむかあんめえな」

おつぎは事もなげに言った。

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おつぎは事こともなげにいつた。

与吉は懐の中でしきりにせがんでいる。

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與吉よきちは懷ふところの中なかで頻しきりにせがんで居ゐる。

お品はいつものようでなく何も買って来なかったので、ふと困った。

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お品しなは平常いつものやうでなく何なにも買かつて來こなかつたので、ふと困こまつた。

「おつう、そこらに砂糖はなかったっけかね」

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「おつう、そこらに砂糖さたうはなかつたつけゝえ」

お品は言った。

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お品しなはいつた。

おつぎは黙って草履を脱ぎ捨てて座敷へ駆け上がり、戸棚から小さな古い新聞紙の袋を探し出して、自分の手のひらへ少し砂糖をつまみ出して

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おつぎは默だまつて草履ざうりを脱棄ぬぎすてゝ座敷ざしきへ駈かけあがつて、戸棚とだなから小ちひさな古ふるい新聞紙しんぶんしの袋ふくろを探さがし出だして、自分じぶんの手ての平ひらへ少すこし砂糖さたうをつまみ出だして

「そらそら」

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「そら/\」

と言いながら、手を出して待っている与吉へやった。

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といひながら、手てを出だして待まつて居ゐる與吉よきちへ遺やつた。

おつぎは砂糖のついた自分の手をなめた。

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おつぎは砂糖さたうの附ついた自分じぶんの手てを嘗なめた。

与吉は、その砂糖をおふくろの懐へこぼしながら、危なそうにつまんでは口へ入れる。

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與吉よきちは其その砂糖さたうをお袋ふくろの懷ふところへこぼしながら危あぶな相さうにつまんでは口くちへ入いれる。

砂糖が尽きた時、与吉はそのべとついた手をおふくろの口のあたりへ出した。

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砂糖さたうが竭つきた時とき與吉よきちは其そのべとついた手てをお袋ふくろの口くちのあたりへ出だした。

お品は与吉の両手をつかまえてなめてやった。

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お品しなは與吉よきちの兩手りやうてを攫つかまへて舐ねぶつてやつた。

お品は鍋のふたを取って、そだの炎をかざしながら

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お品しなは鍋なべの蓋ふたをとつて麁朶そだの焔ほのほを翳かざしながら

「こりゃ芋か何だい」

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「こりや芋いもか何なんでえ」

と聞いた。

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と聞きいた。

「うん、少し芋を足して温め返したんだ」

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「うむ、少すこし芋いも足たして暖あつため返けえしたんだ」

「ご飯は冷たくないかい」

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「おまんまは冷つめたかねえけ」

「それから雑炊でもこしらえようと思ってたのよ」

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「それから雜炊おぢやでも拵こせえべと思おもつてたのよ」

お品は熱い物なら体が暖まるだろうと思いながら、自分はひどくけだるいので、何でもおつぎにさせていた。

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お品しなは熱あつい物ものなら身體からだが暖あたゝまるだらうと思おもひながら、自分じぶんは酷ひどく懶ものういので何なんでもおつぎにさせて居ゐた。

おつぎは、粘り気のない麦の勝ったぽろぽろな飯を鍋へ入れた。

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おつぎは粘ねばり氣けのない麥むぎの勝かつたぽろ/\な飯めしを鍋なべへ入いれた。

お品はそだをひとくべ突っ込んだ。

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お品しなは麁朶そだを一燻いとくべ突つつ込んだ。

おつぎは鍋を下ろして茶釜を掛けた。

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おつぎは鍋なべを卸おろして茶釜ちやがまを懸かけた。

ほうっと白く湯気の立つ鍋の中を、お玉杓子で二、三度かき立てて、おつぎはまたふたをした。

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ほうつと白しろく蒸氣ゆげの立たつ鍋なべの中なかをお玉杓子たまじやくしで二三度ど掻かき立たてゝおつぎは又また葢ふたをした。

おつぎは戸棚から膳を出して上がり框へ置いた。

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おつぎは戸棚とだなから膳ぜんを出だして上あがり框がまちへ置おいた。

柱につけてある手ランプの光が届かないので、おつぎは手探りでしている。

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柱はしらに點つけてある手てランプの光ひかりが屆とゞかぬのでおつぎは手探てさぐりでして居ゐる。

お品は左手に抱いた与吉の口へ、箸の先で少しずつ含ませながら雑炊を食べた。

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お品しなは左手ひだりてに抱だいた與吉よきちの口くちへ箸はしの先さきで少すこしづゝ含ふくませながら雜炊ざふすゐをたべた。

お品は芋を三つ四つ箸へ立てて与吉へ持たせた。

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お品しなは芋いもを三つ四つ箸はしへ立たてゝ與吉よきちへ持もたせた。

与吉は芋を口へ持っていって、すぐに熱いと言って泣いた。

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與吉よきちは芋いもを口くちへ持もつていつて直すぐに熱あついというて泣ないた。

お品は与吉のほおをふうふうと吹いて、それから芋を自分の口でかんでやった。

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お品しなは與吉よきちの頻ほゝをふう/\と吹ふいてそれから芋いもを自分じぶんの口くちで噛かんでやつた。

お品の茶碗はこうして冷えた。

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お品しなの茶碗ちやわんは恁かうして冷ひえた。

おつぎは冷たくなった時、鍋のと換えてやった。

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おつぎは冷つめたくなつた時とき鍋なべのと換かへてやつた。

お品は欲しくもない雑炊を三杯まで食べた。

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お品しなは欲ほしくもない雜炊ざふすゐを三杯ばいまでたべた。

いくらか腹の中の暖かくなったのを感じた。

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幾いくらか腹はらの中なかの暖あたゝかくなつたのを感かんじた。

そうしてようやく水離れのした茶釜の湯を汲んで飲んだ。

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さうして漸やうやく水離みづばなれのした茶釜ちやがまの湯ゆを汲くんで飮のんだ。

おつぎは庭先の井戸端へ出て、鍋へ一杯つるべの水をあけた。

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おつぎは庭先にはさきの井戸端ゐどばたへ出でて鍋なべへ一杯ぱい釣瓶つるべの水みづをあけた。

おつぎが戻った時

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おつぎが戻もどつた時とき

「おつう、今夜でなくてもいいよ」

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「おつう、今夜こんやでなくつてもえゝや」

とお品は言った。

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とお品しなはいつた。

おつぎは黙って俵のそばの手桶へ手を掛けて

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おつぎは默だまつて俵たわらの側そばの手桶てをけへ手てを掛かけて

「これにも水を入れておかなくちゃならないだろうね」

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「此これへも水みづ入せえて置おかなくつちやなんめえな」

「そうすればいいが、大変だろうよ」

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「さうすればえゝが大變たえへんだらえゝぞ」

お品が言い切らないうちに、おつぎは庭へ出た。

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お品しながいひ切きらぬうちにおつぎは庭にはへ出でた。

すぐに洗った鍋と手桶を持って、暗い庭先からぼんやり戸口へ姿を見せた。

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直すぐに洗あらつた鍋なべと手桶てをけを持もつて暗くらい庭先にはさきからぼんやり戸口とぐちへ姿すがたを見みせた。

敷居へちょっと手桶を置いて、お品と顔を見合わせた。

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閾しきゐへ一寸ちよつと手桶てをけを置おいてお品しなと顏かほを見合みあはせた。

手桶の水は半分で、両方のこんにゃくへ水が乗った。

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手桶てをけの水みづは半分はんぶんで兩方りやうはうの蒟蒻こんにやくへ水みづが乘のつた。

お品は三人連れで東隣へ風呂をもらいに行った。

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お品しなは三人連にんづれで東隣ひがしどなりへ風呂ふろを貰もらひに行いつた。

東隣というのは大きな一構えで、こんもりと茂った森に包まれている。

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東隣ひがしどなりといふのは大おほきな一構ひとかまへで蔚然うつぜんたる森もりに包つゝまれて居ゐる。

外は闇である。

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外そとは闇やみである。

隣の森の杉が、ざっくりと冴えた空へ突っ込んでいる。

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隣となりの森もりの杉すぎがぞつくりと冴さえた空そらへ突つつ込こんで居ゐる。

お品の家は以前から、この森のために日がよほど南へ回ってからでなければ庭へ光の差すことはなかった。

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お品しなの家いへは以前いぜんから此この森もりの爲ために日ひが餘程よほど南みなみへ廻まはつてからでなければ庭にはへ光ひかりの射さすことはなかつた。

お品の家族は、どこまでも日陰者であった。

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お品しなの家族かぞくは何處どこまでも日蔭者ひかげものであつた。

それが後になってから、方々に陸地測量部の三角測量台が建てられて、その上に小さな旗がひらひらとひるがえるようになってから、その森が見通しの邪魔になるというので、三、四本だけ伐らせられた。

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それが後のちに成なつてから方方はう/″\に陸地測量部りくちそくりやうぶの三角測量臺かくそくりやうだいが建たてられて其その上うへに小ちひさな旗はたがひら/\と閃ひらめくやうに成なつてから其その森もりが見通みとほしに障さはるといふので三四本ほん丈だけ伐きらせられた。

杉の大木は西へ倒したので、どしんとそこらを恐ろしく揺るがして、お品の庭へ横たわった。

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杉すぎの大木たいぼくは西にしへ倒たふしたのでづしんとそこらを恐おそろしく搖ゆるがしてお品しなの庭にはへ横よこたはつた。

枝はくじけて、その先が庭の土をえぐった。

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枝えだは挫くぢけて其その先さきが庭にはの土つちをさくつた。

それでも隣では、その木の始末をつける時にそこらへ散らばった小枝やその他の屑物はお品の家へ与えたので、思いがけない薪ができたのと、もう一つはいくらでも東が空いたのとで、隣では自分の腕を斬られたようだと惜しんだにもかかわらず、お品の家ではひそかに喜んだのであった。

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それでも隣となりでは其その木きの始末しまつをつける時ときにそこらへ散ちらばつた小枝こえだや其その他たの屑物くづものはお品しなの家いへへ與あたへたので思おもひ掛がけない薪たきゞが出來できたのと、も一ひとつは幾いくらでも東ひがしが隙すいたのとで、隣となりでは自分じぶんの腕うでを斬きられたやうだと惜をしんだにも拘かゝはらずお品しなの家いへでは竊ひそかに悦よろこんだのであつた。

それからというもの、どんな格好にも日が朝から差すようになった。

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それからといふものはどんな姿なりにも日ひが朝あさから射さすやうになつた。

それでもさすがに森はあたりを威圧して、夜になるとことにそびえ立って、小さなお品の家は地べたへ踏みつけられたように見えた。

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それでも有繋さすがに森もりはあたりを威壓ゐあつして夜よるになると殊ことに聳然すつくりとして小ちひさなお品しなの家いへは地ぢべたへ蹂ふみつけられたやうに見みえた。

お品は闇の中へ消えた。

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お品しなは闇やみの中なかへ消きえた。

そうして隣の戸口に現れた。

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さうして隣となりの戸口とぐちに現あらはれた。

隣の雇い人は夜なべの縄をなっていた。

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隣となりの雇人やとひにんは夜よなべの繩なはを綯なつて居ゐた。

板の間の端へあぐらをかいて、足で押さえた縄の端へ藁を継ぎ足し継ぎ足ししては、ちょりちょりと額の上まで揉み上げては、右の手を尻へ回してくっと縄を後ろへしごく。

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板いたの間まの端はしへ胡坐あぐらを掻かいて足あしで抑おさへた繩なはの端はしへ藁わらを繼つぎ足たし/\してちより/\と額ひたひの上うへまで揉もみ擧あげては右みぎの手てを臀しりへ廻まはしてくつと繩なはを後うしろへ扱こく。

縄はそのたびに土間へ落ちる。

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繩なはは其その度たびに土間どまへ落おちる。

お品は板の間に小さくなっていた。

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お品しなは板いたの間まに小ちひさくなつて居ゐた。

やがて藁が尽きると、雇い人はめいめいにその縄を足から手へ引っ掛けて、素早く数を数えては土間から手繰り上げながら、つながったまま一房ずつにくくった。

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軈やがて藁わらが竭つきると傭人やとひにんは各自てんでに其その繩なはを足あしから手てへ引ひつ掛かけて迅速じんそくに數かずを計はかつては土間どまから手繰たぐり上あげながら、繼つながつた儘まゝ一房ばうづゝに括くゝつた。

やがて彼らは板の間の藁屑を土間へ掃き下ろして、それから交代に風呂へ入った。

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やがて彼等かれらは板いたの間まの藁屑わらくづを土間どまへ掃はきおろしてそれから交代かうたいに風呂ふろへ這入はひつた。

お品はそれを見ながら、黙って待っていた。

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お品しなはそれを見みながら默だまつて待まつて居ゐた。

お品はここへ来るとこういう遠慮をしなければならないので、少しは遠くても風呂は外へもらいに行くのであったが、その晩はどこにも風呂が立たなかった。

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お品しなは此處こゝへ來くると恁かういふ遠慮ゑんりよをしなければならぬので、少すこしは遠とほくても風呂ふろは外ほかへ貰もらひに行ゆくのであつたが其その晩ばんはどこにも風呂ふろが立たたなかつた。

お品は二、三軒あちらこちらと歩いてみてから、隣の門をくぐったのであった。

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お品しなは二三軒けんそつちこつちと歩あるいて見みてから隣となりの門もんを潜くゞつたのであつた。

雇い人は大釜の下にぽっぽと火を焚いて当たっている。

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傭人やとひにんは大釜おほがまの下したにぽつぽと火ひを焚たいてあたつて居ゐる。

風呂から出ても、彼らはゆだったような赤いももを出して火のそばへ寄った。

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風呂ふろから出でても彼等かれらは茹ゆだつたやうな赤あかい腿もゝを出だして火ひの側そばへ寄よつた。

「どうだね、ひとくべ当たったらよかろう、今すぐに空くから」

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「どうだね、一燻ひとくべあたつたらようがせう、今いま直すぐに明あくから」

と雇い人が言ってくれても、お品は尻から冷えるのを我慢して、じっと辛抱していた。

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と傭人やとひにんがいつてくれてもお品しなは臀しりから冷ひえるのを我慢がまんして凝然ぢつと辛棒しんぼうして居ゐた。

懐で眠った与吉を騒がすまいとしては、足がしびれるので、幾度か体をもじもじ動かした。

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懷ふところで眠ねむつた與吉よきちを騷さわがすまいとしては足あしの痺しびれるので幾度いくどか身體からだをもぢ/\動うごかした。

ようやく風呂の空いた時は、お品は待ち遠しかったので、前後の考えもなく急いで着物を取った。

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漸やうやく風呂ふろの明あいた時ときはお品しなは待遠まちどほであつたので前後ぜんごの考かんがへもなく急いそいで衣物きものをとつた。

与吉は幸いにぐったりとなって、おふくろの懐から離れるのも知らないので、おつぎが小さな手で抱いた。

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與吉よきちは幸さいはひにぐつたりと成なつてお袋ふくろの懷ふところから離はなれるのも知しらないのでおつぎが小ちひさな手てで抱だいた。

お品はだんだんと体が暖まるにつれて、はじめて生き返ったようにうっとりとした。

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お品しなは段々だん/\と身體からだが暖あたゝまるに連つれて始はじめて蘇生いきかへつたやうに恍惚うつとりとした。

いつまでも沈んでいたいような心持ちがした。

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いつまでも沈しづんで居ゐたいやうな心持こゝろもちがした。

与吉が泣きはしないかと気づいた時、ろくに洗いもしないで出てしまった。

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與吉よきちが泣なきはせぬかと心付こゝろづいた時とき碌ろくに洗あらひもしないで出でて畢しまつた。

それでも顔がつやつやとして、髪の生え際が拭いても拭いても汗ばんだ。

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それでも顏かほがつや/\として髮かみの生際はえぎはが拭ぬぐつても/\汗あせばんだ。

そうして、しみじみと快かった。

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さうしてしみ/″\と快こゝろよかつた。

お品は着物を引っ掛けると、すぐと与吉を内懐へ入れた。

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お品しなは衣物きものを引ひつ掛かけると直すぐと與吉よきちを内懷うちふところへ入いれた。

お品の後へは下女が入ったので、おつぎはその間待たねばならなかった。

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お品しなの後あとへは下女げぢよが這入はひつたので、おつぎは其その間あひだ待またねばならなかつた。

おつぎが出た時は、お品の体は冷めかけていた。

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おつぎが出でた時ときはお品しなの身體からだは冷さめ掛かけて居ゐた。

お品は、自分が後で入ればよかったのにと後悔した。

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お品しなは自分じぶんが後あとではいればよかつたのにと後悔こうくわいした。

お品が自分の股引と足袋とをおつぎに提げさせて帰った時に、月はひそかに隣の森の輪郭をはっきりとさせて、その森の隙間がことに明るく光っていた。

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お品しなが自分じぶんの股引もゝひきと足袋たびとをおつぎに提さげさせて歸かへつた時ときに月つきは竊ひそかに隣となりの森もりの輪郭りんくわくをはつきりとさせて其その森もりの隙間すきまが殊ことに明あかるく光ひかつて居ゐた。

世間がしみじみと冷えていた。

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世間せけんがしみ/″\と冷ひえて居ゐた。

お品は薄い垢じみた布団へくるまると、体がまたぞくぞくとして、膝がしらが凍ったようになっていたのを知った。

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お品しなは薄うすい垢あかじみた蒲團ふとんへくるまると、身體からだが又またぞく/\として膝ひざかしらが氷こほつたやうに成なつて居ゐたのを知しつた。

二

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二

次の朝、お品は、まだ戸の隙間から薄明かりの差したばかりに目が覚めた。

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次つぎの朝あさお品しなはまだ戸との隙間すきまから薄うすら明あかりの射さしたばかりに眼めが覺さめた。

枕を持ち上げて見たが、頭の芯がしくしくと痛むようで、いつになく重かった。

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枕まくらを擡もたげて見みたが頭あたまの心しんがしく/\と痛いたむやうでいつになく重おもかつた。

狭い家の内に、羽ばたく鶏の声がけたたましく耳の底へ響いた。

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狹せばい家いへの内うちに羽叩はばたく鷄にはとりの聲こゑがけたゝましく耳みゝの底そこへ響ひゞいた。

おつぎはまだすやすやと眠っている。

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おつぎはまだすや/\として眠ねむつて居ゐる。

戸の隙間がまぶたを開いたように明るくなった時、鶏がまた甲高く鳴いた。

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戸との隙間すきまが瞼まぶたを開ひらいたやうに明あかるくなつた時とき鷄にはとりが復また甲走かんばしつて鳴ないた。

お品は、おつぎを今朝はゆっくりさせてやろうと思っていた。

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お品しなはおつぎを今朝けさは緩ゆつくりさせてやらうと思おもつて居ゐた。

それでもおつぎは、鶏がまた鳴いた時、むっくり起きた。

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それでもおつぎは鷄にはとりが又また鳴ないた時ときむつくり起おきた。

いつもと違ってあまりひっそりしているので、驚いたようにあたりを見た。

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いつもと違ちがつて餘あまりひつそりして居ゐるので驚おどろいたやうにあたりを見みた。

そうして、おふくろがまだ自分のそばに布団へくるまっているのを見た。

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さうしてお袋ふくろがまだ自分じぶんの傍そばに蒲團ふとんへくるまつてるのを見みた。

「おつう、急がなくてもいいぞ。おれは今朝少し具合が悪いから、ゆっくりするからな」

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「おつう、せかねえでもえゝぞ、俺おら今朝けさ少すこし工合ぐえゝが惡わりいから緩ゆつくりすつかんなよ」

お品は言った。

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お品しなはいつた。

おつぎはしばらくもじもじしながら帯を締めて、大戸を一枚がらがらと開けて、目をこすりながら庭へ出た。

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おつぎは暫しばらくもぢ/\しながら帶おびを締しめて大戸おほどを一枚まいがら/\と開あけて目めをこすりながら庭にはへ出でた。

井戸端の桶には芋が少しばかり水に浸してあって、その水にはガラス板くらいの氷が張っている。

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井戸端ゐどばたの桶をけには芋いもが少すこしばかり水みづに浸ひたしてあつて、其その水みづには氷こほりがガラス板いた位ぐらゐに閉とぢて居ゐる。

おつぎは、鍋をいつも磨いている砥石のかけらで氷をたたいてみた。

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おつぎは鍋なべをいつも磨みがいて居ゐる砥石といしの破片かけで氷こほりを叩たゝいて見みた。

おつぎは大戸を開け放しておいたので、朝の寒さが入ってきたのに気がついて

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おつぎは大戸おほどを開あけ放はなして置おいたので朝あさの寒さむさが侵入しんにふしたのに氣きがついて

「おっかあ、寒くなかったか、おれ知らないでいた」

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「おつかあ、寒さむかなかつたか、俺おら知しらねえで居ゐた」

と言いながら、大戸をがらがらと閉めた。

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いひながら大戸おほどをがら/\と閉しめた。

暗くなった家の内には、かまどの火だけが勢いよく赤く立った。

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闇くらくなつた家いへの内うちには竈かまどの火ひのみが勢いきほひよく赤あかく立つた。

おつぎは

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おつぎは

「ああ冷たい」

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「おゝ冷つめてえ」

と言いながら、かまどの口からめくれて出る炎へ手をかざして

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といひながら竈かまどの口くちから捲まくれて出でる燄ほのほへ手てを翳かざして

「今朝は芋の水が凍ったんだよ」

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「今朝けさは芋いもの水みづ氷こほつたんだよ」

と、おふくろのほうを向いて言った。

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とお袋ふくろの方はうを向むいていつた。

「うん、霜も降りたようだな」

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「うむ、霜しもも降ふつたやうだな」

お品は力なく言った。

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お品しなは力ちからなくいつた。

戸口を後にして、お品はかまどの火がべろべろと燃え上がるのを見た。

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戸口とぐちを後うしろにしてお品しなは竈かまどの火ひのべろ/\と燃もえ上あがるのを見みた。

「どこでも真っ白だよ」

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「何處どこでも眞白まつしろだよ」

おつぎは竹の火箸で落ち葉をかき立てながら言った。

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おつぎは竹たけの火箸ひばしで落葉おちばを掻かき立たてながらいつた。

「夜明けにひどく冷え冷えしたっけからな」

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「夜明よあけにひどく冷々ひや/\したつけかんな」

お品は言って、ちょっと首を持ち上げながら

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お品しなはいつて一寸ちよつと首くびを擡もたげながら

「おれは今朝は食べたくないからな、お前は構わないでできたら食べたほうがいいぞ」

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「俺おら今朝けさはたべたかねえかんな、汝われ構かまあねえで出來できたらたべた方はうがえゝぞ」

お品は言った。

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お品しなはいつた。

また凍った飯で雑炊が煮られた。

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又また氷こほつた飯めしで雜炊ざふすゐが煮にられた。

「おっかあ、少しでもやらないか」

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「おつかあ、ちつとでもやらねえか」

おつぎは茶碗をおふくろの枕元へ出した。

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おつぎは茶碗ちやわんをお袋ふくろの枕元まくらもとへ出だした。

雑炊の焦げついたような匂いがぷんと鼻を突いた時、お品は箸を取ってみようかと思ってうつぶせになってみたが、すぐに胸が悪くなってしまった。

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雜炊ざふすゐの焦こげついたやうな臭にほひがぷんと鼻はなを衝ついた時ときお品しなは箸はしを執とつて見みようかと思おもつて俯伏うつぶしになつて見みたが、直すぐに壓いやになつて畢しまつた。

お品が動いたので、懐の与吉は泣き出した。

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お品しなが動うごいたので懷ふところの與吉よきちは泣なき出だした。

お品はうつぶせのまま乳房を含ませた。

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お品しなは俯伏うつぶした儘まゝ乳房ちぶさを含ふくませた。

そうしてまた芋の串をこしらえて持たせた。

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さうして又また芋いもの串くしを拵こしらへて持もたせた。

お品が表の大戸を開けさせた時は、日がきらきらと東隣の森越しに庭へ差しかけて、きっかりと日陰を区切って、解け残った霜が白く見えていた。

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お品しなが表おもての大戸おほどを開あけさせた時ときは日ひがきら/\と東隣ひがしどなりの森もり越ごしに庭にはへ射さし掛かけてきつかりと日蔭ひかげを限かぎつて解とけ殘のこつた霜しもが白しろく見みえて居ゐた。

庭先の栗の木の枯れ葉からも、枝へ掛けた大根の葉からも、霜が解けてしずくがまだぽたりぽたりと垂れている。

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庭先にはさきの栗くりの木きの枯葉かれはからも、枝えだへ掛かけた大根だいこの葉はからも霜しもが解とけて雫しづくがまだぽたり/\と垂たれて居ゐる。

庭へ敷いてある庭ぶたの藁も、ただぐっしょりと湿っている。

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庭にはへ敷しいてある庭葢にはぶたの藁わらも只たゞぐつしりと濕しめつて居ゐる。

冬になると霜柱が立つので、庭へはみんな藁屑だのそば殻だのがいっぱいに敷かれる。

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冬ふゆになると霜柱しもばしらが立たつので庭にはへはみんな藁屑わらくづだの蕎麥幹そばがらだのが一杯ぱいに敷しかれる。

それが庭ぶたである。

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それが庭葢にはぶたである。

霜柱が庭から先の桑畑に、ぐらりぐらりと倒れつつある。

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霜柱しもばしらが庭にはから先さきの桑畑くはばたけにぐらり/\と倒たふれつゝある。

お品は布団の中でもめっきり暖かくなったことを感じた。

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お品しなは蒲團ふとんの中なかでも滅切めつきり暖あたゝかく成なつたことを感かんじた。

時々枕を持ち上げて戸口から外を見る。

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時々とき/″\枕まくらを擡もたげて戸口とぐちから外そとを見みる。

そうしては、麦藁俵のそばに置いたこんにゃくの手桶を、どうかすると無意識に見つめる。

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さうしては麥藁俵むぎわらだはらの側そばに置おいた蒟蒻こんにやくの手桶てをけをどうかすると無意識むいしきに見みつめる。

横になっている目からは東隣の森のこずえが妙に変わって見えるので、じっと見つめては目が疲れるようになるので、またこんにゃくの手桶へ目を移したりした。

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横よこに成なつて居ゐる目めからは東隣ひがしどなりの森もりの梢こずゑが妙めうに變かはつて見みえるので凝然ぢつと見みつめては目めが疲つかれるやうに成なるので又また蒟蒻こんにやくの手桶てをけへ目めを移うつしたりした。

お品は、どうかして少しでもこんにゃくを減らしておきたいと思った。

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お品しなはどうかして少すこしでも蒟蒻こんにやくを減へらして置おきたいと思おもつた。

お品は、そのうちに起きられるだろうと考えながら、時々うとうとになる。

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お品しなは其その内うちに起おきられるだらうと考かんがへつゝ時々とき/″\うと/\と成なる。

「切り干しでも切ったものかな」

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「切干きりぼしでも切きつたもんだかな」

おつぎが庭から大きな声で言った時、お品はふと枕を持ち上げた。

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おつぎが庭にはから大おほきな聲こゑでいつた時ときお品しなはふと枕まくらを擡もたげた。

それでおつぎの声は、意味も分からずにかすかに耳に入った。

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それでおつぎの聲こゑは意味いみも解わからずに微かすかに耳みゝに入いつた。

しばらくたってから、お品は庭でおつぎがざあと水を汲んでは、また間を置いてざあと水を汲んでいるのを聞いた。

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暫しばらくたつてからお品しなは庭にはでおつぎがざあと水みづを汲くんでは又また間あひだを隔へだてゝざあと水みづを汲くんで居ゐるのを聞きいた。

おつぎは大根を洗った。

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おつぎは大根だいこを洗あらつた。

おつぎは庭ぶたの上にむしろを敷いて、暖かい日光を浴びながら切り干しを切りはじめた。

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おつぎは庭葢にはぶたの上うへに筵むしろを敷しいて暖あたゝかい日光につくわうに浴よくしながら切干きりぼしを切きりはじめた。

大根を横に幾つかに切って、さらにそれを縦に割って短冊形に刻む。

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大根だいこを横よこに幾いくつかに切きつて、更さらにそれを竪たてに割わつて短册形たんざくがたに刻きざむ。

おつぎは飯台へ渡したまな板の上へとんとんと包丁を落としては、その包丁で白く刻まれた大根を飯台の中へしごき落とす。

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おつぎは飯臺はんだいへ渡わたした爼板まないたの上うへへとん/\と庖丁はうちやうを落おとしては其その庖丁はうちやうで白しろく刻きざまれた大根だいこを飯臺はんだいの中なかへ扱こき落おとす。

お品は切り干しを刻む音を聞いた時、さっきのは大根を洗っていたのだなと思った。

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お品しなは切干きりぼしを刻きざむ音おとを聞きいた時とき先刻さつきのは大根だいこを洗あらつて居ゐたのだなと思おもつた。

お品は、この二、三日、もう切り干しも切らなければならないと自分が口にして言っていたことを思い出して、おつぎがよく気を利かせたと心で喜んだ。

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お品しなは二三日にち此この來かたもう切干きりぼしも切きらなければならないと自分じぶんが口くちについて云いつて居ゐたことを思おもひ出だして、おつぎが能よく機轉きてんを利きかしたと心こゝろで悦よろこんだ。

包丁の音が雨戸の外に近く聞こえる。

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庖丁はうちやうの音おとが雨戸あまどの外そとに近ちかく聞きこえる。

お品が体を半分布団からずり出してみたら、手拭いで髪を包んで少し前かがみになっているおつぎの後ろ姿が見えた。

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お品しなは身體からだを半分はんぶん蒲團ふとんからずり出だして見みたら、手拭てぬぐひで髮かみを包つゝんで少すこし前屈まへかゞみになつて居ゐるおつぎの後姿うしろすがたが見みえた。

「大根は分かったのか」

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「大根だいこは分わかつたのか」

お品は聞いた。

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お品しなは聞きいた。

「分かってるよ」

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「分わかつてるよ」

おつぎは包丁の手を止めて、横を向いて返事した。

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おつぎは庖丁はうちやうの手てを止とゞめて横よこを向むいて返辭へんじした。

お品はまた布団へくるまった。

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お品しなは又また蒲團ふとんへくるまつた。

そうしてまだ下手な包丁の音を聞いた。

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さうしてまだ下手へたな庖丁はうちやうの音おとを聞きいた。

お品の懐にいた与吉は、退屈してせがみ出した。

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お品しなの懷ふところに居ゐた與吉よきちは退屈たいくつしてせがみ出だした。

おつぎはそれを聞いて

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おつぎは夫それを聞きいて

「そうら、姉んとこへでも来てみろ」

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「そうら、姊ねえが處とこへでも來きて見みろ」

と言いながら、忙しくぽっとひとくべ落ち葉を燃して、着物をあぶって与吉へ着せた。

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といひながら忙せはしくぽつと一燻ひとくべ落葉おちばを燃もやして衣物きものを灸あぶつて與吉よきちへ着きせた。

「よきは利口だから姉んとこにいるんだぞ」

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「よきは利口りこうだから姊ねえが處とこに居ゐるんだぞ」

お品は言った。

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お品しなはいつた。

おつぎは自分のむしろの上へ抱いて行った。

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おつぎは自分じぶんの筵むしろの上うへへ抱だいて行いつた。

おつぎの手は落ち葉のほこりで汚れていた。

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おつぎの手ては落葉おちばの埃ほこりで汚よごれて居ゐた。

再び包丁を持った時、大根には指の跡がついた。

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再ふたゝび庖丁はうちやうを持もつた時とき大根だいこには指ゆびの趾あとがついた。

おつぎはその手を半纏で拭いた。

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おつぎは其その手てを半纏はんてんで拭ぬぐつた。

与吉はそばで刻まれた大根へ手を出す。

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與吉よきちは側そばで刻きざまれた大根だいこへ手てを出だす。

「危ないよ、さあこれでも持ってろ」

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「危險あぶねえよ、さあ此これでも持もつて居ゐろ」

おつぎは切りかけの大根をやった。

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おつぎは切きり掛かけの大根だいこをやつた。

与吉はすぐにそれをかじった。

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與吉よきちは直すぐにそれを噛かぢつた。

「辛くてしようがないだろうな、よきは」

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「辛からくて仕しやうあんめえなよきは」

おつぎは甘やかすように言った。

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おつぎは甘あまやかすやうにいつた。

お品にはそれがよく聞こえて、二人がどんなことをしているのかが分かった。

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お品しなにはそれが能よく聞きこえて二人ふたりがどんなことをして居ゐるのかゞ分わかつた。

お品の耳には続いて

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お品しなの耳みゝには續つゞいて

「ぽうんとしたか、そらそっちへ行っちゃった」

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「ぽうんとしたか、そらそつちへ行いつちやつた」

という声がしたかと思うと

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といふ聲こゑがしたかと思おもふと

「今度はぽうんとするんじゃないからな」

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「こんだはぽうんとすんぢやねえかんな」

という声や、それからまた

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といふ聲こゑやそれから又また

「それ持ち出すんじゃない、聞かないとこれで切ってやるぞ、血が出るぞ、ああ痛い」

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「それ持もち出だすんぢやねえ、聽きかねえと此これで切きつてやんぞ、赤あかまんまが出でるぞおゝ痛いてえ」

などと、おつぎの言うのが聞こえた。

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抔などとおつぎのいふのが聞きこえた。

そのたびに包丁の音が止む。

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其その度たびに庖丁はうちやうの音おとが止やむ。

お品には、与吉がいたずらをしたり、おつぎが痛いと言って指をくわえてみせれば与吉も自分の手を口へ当てているのが、目に見えるようである。

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お品しなには與吉よきちが惡戯いたづらをしたり、おつぎが痛いたいといつて指ゆびを啣くはへて見みせれば與吉よきちも自分じぶんの手てを口くちへ當あてて居ゐるのが目めに見みえるやうである。

お品はおつぎをふだんからやかましくしていたので、よその子よりも割合に動けると思っているけれど、与吉とふざけたりしているのを見ると、まだ子供だということが念頭に浮かぶ。

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お品しなはおつぎを平常ふだんから八釜敷やかましくして居ゐたので餘所よその子こよりも割合わりあひに動うごけると思おもつて居ゐるけれど、與吉よきちと巫山戯ふざけたりして居ゐるのを見みるとまだ子供こどもだといふことが念頭ねんとうに浮うかぶ。

自分が勘次と知り合ったのは十六の秋である。

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自分じぶんが勘次かんじと相あひ知しつたのは十六の秋あきである。

おつぎはこうして大人らしくなるであろうかと、いつになくそんなことを思った。

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おつぎは恁かうして大人おとならしく成なるであらうかと何時いつになくそんなことを思おもつた。

おつぎは十五であった。

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おつぎは十五であつた。

昼飯もお品は欲しくなかった。

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午餐ひるもお品しなは欲ほしくなかつた。

自分でも今日は商売に出られないと諦めた。

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自分じぶんでも今日けふは商あきなひに出でられないと諦あきらめた。

明日になったらばと思っていた。

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明日あすに成なつたらばと思おもつて居ゐた。

しかしそれは空頼みであった。

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然しかしそれは空頼そらだのみであつた。

お品は依然として枕を離れられない。

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お品しなは依然いぜんとして枕まくらを離はなれられない。

さすがに不安の念が先に立った。

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有繋さすがに不安ふあんの念ねんが先さきに立たつた。

お品は、つい近ごろ行った勘次のことがしきりに思い出されて、こっちであれほど働いて行ったのに、きっと休みもしないで銭取りをしているのだろうと思うと、寒くてもシャツ一つになって、後にはそのシャツの端が抜け出してよく臍が出ることや、夜になるとよく骨がみりみりするようだと言ったことが目の前にあるようで、なんだか会いたくてたまらないような心持ちがするのであった。

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お品しなはつい近頃ちかごろ行いつた勘次かんじの事ことが頻しきりに思おもひ出だされて、こつちであれ程ほど働はたらいて行いつたのに屹度きつと休やすみもしないで錢取ぜにとりをして居ゐるのだらうと思おもふと、寒さむくてもシヤツ一ひとつになつて、後のちには其そのシヤツの端はしが拔ぬけ出だして能よく臍へそが出でることや、夜よるになると能よく骨ほねがみり/\する樣やうだといつたことが目めの前まへにあるやうで何なんだか逢あひたくて堪たまらぬやうな心持こゝろもちがするのであつた。

勘次は利根川の掘削工事へ行っていた。

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勘次かんじは利根川とねがはの開鑿工事かいさくこうじへ行いつて居ゐた。

秋のころから土方が勧誘に来て、だいぶ甘い話をされたので、この近くの村からも五、六人が募集に応じた。

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秋あきの頃ころから土方どかたが勸誘くわんいうに來きて大分だいぶ甘うまい噺はなしをされたので此この近村きんそんからも五六人にん募集ぼしふに應おうじた。

勘次は工事がどんなことかもよく知らなかったが、一日の手間が五十銭以上にもなるというので、それがその季節としては法外な値段なのに惚れ込んでしまったのである。

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勘次かんじは工事こうじがどんなことかも能よく知しらなかつたが一日にちの手間てまが五十錢せん以上いじやうにもなるといふので、それが其その季節きせつとしては法外はふぐわいな値段ねだんなのに惚ほれ込こんで畢しまつたのである。

工事の場所は霞ヶ浦に近い低地で、洪水がいったん岸の草を沈めると、湖は広がって川と一つになり、ただ白々と氾濫するのを、人の手で築かれた堤防がわずかに湖と川とを区別しているあたりである。

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工事こうじの場所ばしよは霞かすみヶ浦うらに近ちかい低地ていちで、洪水こうずゐが一旦たん岸きしの草くさを沒ぼつすと湖水こすゐは擴大くわくだいして川かはと一ひとつに只たゞ白々しら/″\と氾濫はんらんするのを、人工じんこうで築きづかれた堤防ていばうが僅わづかに湖水こすゐと川かはとを區別くべつするあたりである。

勘次は自分の土地と比べて、茫々としたあたりの様子に呑まれた。

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勘次かんじは自分じぶんの土地とちと比較ひかくして茫々ばう/\たるあたりの容子ようすに呑のまれた。

そうして人夫たちに権柄ずくでこき使われた。

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さうして工夫等こうふらに權柄けんぺいにこき使つかはれた。

勘次はいよいよ雇われて行くとなった時、取り入れを急いだ。

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勘次かんじは愈いよ/\傭やとはれて行ゆくとなつた時とき收穫とりいれを急いそいだ。

冬至が近づくころには、田は言うまでもなく、畑の芋でも大根でもそれぞれ始末しなくてはならない。

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冬至とうじが近ちかづく頃ころには田たはいふまでもなく畑はたけの芋いもでも大根だいこでもそれぞれ始末しまつしなくてはならぬ。

勘次は、お品が起きてかまどの火をつけるうちには、庭ぶたへもみのむしろを干したり、それから一人で磨臼をひいたりして、それから大根も干したり土へ埋けたりして、暗いうちから暗くなるまで働いた。

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勘次かんじはお品しなが起おきて竈かまどの火ひを點つけるうちには庭葢にはぶたへ籾もみの筵むしろを干ほしたりそれから獨ひとりで磨臼すりうすを挽ひいたりして、それから大根だいこも干ほしたり土つちへ活いけたりして闇くらいから闇くらいまで働はたらいた。

それでも、もみが少しと畑が少し残ったのを、お品がどうにかすると言ったので出て行ったのである。

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それでも籾もみが少すこしと畑はたけが少すこし殘のこつたのをお品しながどうにかするといつたので出でて行いつたのである。

工事の場所へは八十キロもあった。

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工事こうじの箇所かしよへは廿里りもあつた。

勘次は、行けばすぐに銭になると思ったので、ようやく一円ばかりの財布を懐にした。

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勘次かんじは行ゆけば直すぐに錢ぜにになると思おもつたので漸やうやく一圓ゑんばかりの財布さいふを懷ふところにした。

弁当をうんと背負ったので、目的地へ着くまでは渡し銭のほかには一銭も要らなかった。

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辨當べんたうをうんと背負しよつたので目的地もくてきちへつくまでは渡錢わたしせんの外ほかには一錢せんも要いらなかつた。

勘次は夜着いて、その次の日には疲れた体で仕事に出た。

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勘次かんじは夜よるついて其その次つぎの日ひには疲つかれた身體からだで仕事しごとに出でた。

彼は半日でも無駄な飯を食うことを恐れた。

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彼かれは半日はんにちでも無駄むだな飯めしを喰くふことを恐おそれた。

しかしその次の日は、過激な労働から、俗にそら手といって手の筋が痛んだので、二、三日仕事に出られなかった。

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然しかし其その次つぎの日ひは過激くわげきな勞働らうどうから俗ぞくにそら手というて手ての筋すぢが痛いたんだので二三日にち仕事しごとに出でられなかつた。

それから六、七日たって激しい西風が吹いた。

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それから六七日にちたつて烈はげしい西風にしかぜが吹ふいた。

勘次は薄い布団へくるまって、日のうちから冷えていた足が暖まらなかった。

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勘次かんじは薄うすい蒲團ふとんへくるまつて日ひの中うちから冷ひえてた足あしが暖あたゝまらなかつた。

うとうととぐっすり眠ることもできないで、寝返りを打って長い夜をようやく明かした。

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うと/\と熟睡じゆくすゐすることも出來できないで輾轉ごろ/\して長ながい夜よを漸やうやく明あかした。

その次の日、彼はこわばったように感じる手を動かして、冷たいシャベルの柄を取って泥にくるまっていた。

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其その次つぎの日ひ彼かれは硬こはばつたやうに感かんずる手てを動うごかして冷つめたいシヤブルの柄えを執とつて泥どろにくるまつて居ゐた。

そうしている所へ、村の近所の者がひょっこり訪ねて来たので、彼は狐にでも化かされたようにただ驚いた。

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さうして居ゐる處ところへ村むらの近所きんじよのものがひよつこり尋たづねて來きたので彼かれは狐きつねにでも魅つままれたやうに只たゞ驚おどろいた。

近所の者は、大勢がただ泥のようになって動いているので、どれがどうとも見分けがつかなくて困ったと言って、勘次に会えたことを繰り返してただ喜んだ。

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近所きんじよの者ものは大勢おほぜいが只たゞ泥どろのやうになつて動うごいて居ゐるのでどれがどうとも識別みわけがつかないで困こまつたといつて、勘次かんじに逢あうたことを反覆くりかへして只たゞ悦よろこんだ。

途中へ一晩泊まったというようなことを言って、勘次が気ぜわしく聞くまでは用件を言わなかった。

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途中とちゆうへ一晩ひとばん泊とまつたといふやうなことをいつて勘次かんじが心こゝろ忙せはしく聞きく迄までは理由わけをいはなかつた。

勘次はようやく、お品に頼まれて来たのだということを知った。

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勘次かんじは漸やうやくお品しなに頼たのまれて來きたのだといふことを知しつた。

勘次は、お品が病気にかかったのだというのを聞いて、万一かという懸念がぎくりと胸にこたえた。

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勘次かんじはお品しなが病氣びやうきに罹かゝつたのだといふのを聞きいて萬一もしかといふ懸念けねんがぎつくり胸むねにこたへた。

そうして繰り返して、どんな塩梅だと聞いた。

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さうして反覆くりかへしてどんな鹽梅あんばいだと聞きいた。

話の様子ではそれほどでもないのかと思ってもみたが、それでも勘次は、口を利くにも唾が喉からぐっと突き返してくるようで落ち着けなかった。

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噺はなしの容子ようすではそれ程ほどでもないのかと思おもつても見みたが、それでも勘次かんじは口くちを利きくにも唾つばが喉のどからぐつと突つつ返かへして來くるやうで落付おちつかれなかつた。

その日の夜中に彼らは立った。

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其その日ひの夜中よなかに彼等かれらは立たつた。

勘次は自分も急ぐし、使いを疲れた足で歩かせることもできないので、霞ヶ浦を汽船で土浦の町へ出た。

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勘次かんじは自分じぶんも急いそぐし使つかひを疲つかれた足あしで歩あるかせることも出來できないので霞かすみヶ浦うらを汽船きせんで土浦つちうらの町まちへ出でた。

夜は汽船で明けたが、どうしたのか途中で故障ができたので、土浦へ着いたのは予定の時間よりはるかに遅れていた。

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夜よるは汽船きせんで明あけたがどうしたのか途中とちうで故障こしやうが出來できたので土浦つちうらへ着ついたのは豫定よていの時間じかんよりは遙はろかに後おくれて居ゐた。

土浦の町で勘次は鰯を一包み買って、手拭いでくくってぶら下げた。

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土浦つちうらの町まちで勘次かんじは鰯いわしを一包ひとつゝみ買かつて手拭てねぐひで括くゝつてぶらさげた。

土浦から彼は、疲れた足を後に捨てて、自分は力のかぎり歩いた。

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土浦つちうらから彼かれは疲つかれた足あしを後あとに捨すてゝ自分じぶんは力ちからの限かぎり歩あるいた。

それでも村へ入った時はすれ違う人がぼんやり分かるくらいで、自分の戸口に立った時は、薄暗い手ランプが柱に掛かってくすぶっていた。

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それでも村ならへはひつた時ときは行ゆき違ちがふ人ひとがぼんやり分わかる位くらゐで自分じぶんの戸口とぐちに立たつた時ときは薄暗うすくらい手てランプが柱はしらに懸かゝつて燻くすぶつて居ゐた。

勘次は、ひっそりとした家の中に、すぐに布団へくるまっているお品の姿を見た。

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勘次かんじはひつそりとした家いへのなかに直すぐに蒲團ふとんへくるまつて居ゐるお品しなの姿すがたを見みた。

それから、お品の足をさすっているおつぎに目を移した。

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それからお品しなの足あしを揣さすつて居ゐるおつぎに目めを移うつした。

勘次は大戸をがらりと開けて敷居をまたいだ時、何も言わずにただ

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勘次かんじは大戸おほどをがらりと開あけて閾しきゐを跨またいだ時とき何なにもいはずに只たゞ

「どうしたい」

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「どうしてえ」

と言うのが先であった。

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といふのが先さきであつた。

お品は勘次の声を聞いて、思わず枕を動かして

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お品しなは勘次かんじの聲こゑを聞きいて思おもはず枕まくらを動うごかして

「勘次さんか」

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「勘次かんじさんか」

と言って、さらに

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といつて更さらに

「南のおとっつあんは行き違いにでもならなかっただろうかね」

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「南みなみのおとつゝあは行ゆき違ちげえにでもならなかつたんべかな」

と言った。

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といつた。

「行き会ったよ。そんだが、お前どんな塩梅なんだい」

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「行逢いきやつたよ。そんだがお前めえどんな鹽梅あんべえなんでえ」

「おれはそれほどでないと思っていたが、三、四日横になったきりでなあ。それでも今日あたりはちっとはいいようだから、この分じゃすぐに吹き返すかとも思ってるのよ」

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「俺おらそれ程ほどでねえと思おもつて居ゐたが三四日さんよつか横よこに成なつた切きりでなあ、それでも今日等けふらはちつたあえゝやうだから此この分ぶんぢや直すぐに吹ふつ返けえすかとも思おもつてんのよ」

「それじゃよかった。おれはただでも歩いてもよかったが、南のこと、また歩かせちゃ済まないから、いっしょに土浦まで汽船で乗りつけたんだが、南は草臥れたもんだから、おれが先へ出たんだがな。南もあの分じゃ今夜もなかなか容易じゃあるまいよ。それに汽船がまた遅れちまってな」

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「そんぢやよかつた、俺おら只たゞぢや歩あるいてもよかつたが、南みなみこと又また歩あるかせちや濟すまねえから同志どうしに土浦つちうらまで汽船じようきで乘のつ着つけたんだが、南みなみは草臥くたびれたもんだから俺おら先さきへ出でたんだがな、南みなみもあの分ぶんぢや今夜こんやもなか/\容易よういぢやあんめえよ、それに汽舩じようきが又また後おくれつちやつてな」

勘次は言いながらわらじを取った。

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勘次かんじはいひながら草鞋わらじをとつた。

手拭いの端へくくって来た鰯の包みをかさりとお品の枕元へ投げて、首へつけていた風呂敷包みをどさりと置いて、勘次は庭へ出て足を洗った。

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手拭てぬぐひの端はしへ括くゝつて來きた鰯いわしの包つゝみをかさりとお品しなの枕元まくらもとへ投なげて、首くびへつけて居ゐた風呂敷ふろしき包をどさりと置おいて勘次かんじは庭にはへ出でて足あしを洗あらつた。

勘次はお品の枕元へ座を占めた。

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勘次かんじはお品しなの枕元まくらもとへ座ざを占しめた。

「そんなに悪くなくてそれでもよかった。おれはどうしたかと思ってな」

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「そんなに惡わるくなくつちやそれでもよかつた、俺おらどうしたかと思おもつてな」

勘次は改めてまた言った。

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勘次かんじは改あらためて又またいつた。

「お品、ご飯は食べたか」

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「お品しなおまんまは喰たべてか」

勘次はつけ足した。

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勘次かんじはつけ足たした。

「さっき、おつうに米のお粥を炊いてもらって、それでもやっとかっ込んだところだよ」

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「先刻さつきおつうに米こめのお粥けえ炊たいて貰もらつてそれでもやつと掻かつ込こんだところだよ」

「それじゃどうした、途中で見つけて来たんだから、一匹やってみないか」

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「それぢやどうした、途中とちゆうで見付みつけて來きたんだから一疋ぴきやつて見みねえか」

勘次は手ランプをお品の枕元へ持って来て、鰯の包みを解いた。

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勘次かんじは手てランプをお品しなの枕元まくらもとへ持もつて來きて鰯いわしの包つゝみを解といた。

鰯は手ランプの光できらきらと青く見えた。

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鰯いわしは手てランプの光ひかりできら/\と青あをく見みえた。

「ほんによなあ」

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「ほんによなあ」

お品はうつぶせになってこう言った。

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お品しなは俯伏うつぶしになつて恁かういつた。

「おつう、そこへ火でも吹きつけてみないか」

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「おつう、其處そこへ火ひでも吹ふつたけて見みねえか」

勘次は言った。

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勘次かんじはいつた。

「勘次さん、そら大変だったな。おれはそんなには要らなかったな」

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「勘次かんじさんそら大變たいへんだつけな、俺おらそんなにや要えらなかつたな」

「今だから、いつまでももつよ。そうしてお前も力をつけろな」

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「今いまだから何時いつまでも保もつよ、さうしてお前めえも力ちからつけろな」

「汽船に乗って来たって、よっぽど費用も掛かったんだろうな」

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「汽船じようきに乘のつて來きたつて餘よつ程ぽど費用かゝりも掛かゝつたんべな」

「そうよ、二人で六十銭ばかりだが、これはおれが出したのよ。南に出させるわけにも行かないからな」

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「さうよ、二人ふたりで六十錢せんばかりだが此これは俺おれ出だしたのよ、南みなみに出ださせる譯わけにも行えかねえかんな」

「それじゃ稼いだ銭、それだけ棒に振っちまったな」

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「それぢや稼かせえだ錢ぜねそれだけ立投たてなげにしつちやつたな」

「そんでも財布にはまだあるよ。七日ばかり働いて、それでも二円は残ったからな。そんでまた行くはずで、前借りを少ししてきたんだ。こっちのほうから行ってる連中が保証してくれてな」

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「そんでも財布せえふにやまあだ有あるよ、七日なぬかばかり働はたらえてそれでも二兩りやうは殘のこつたかんな、そんで又また行いく筈はずで前借さきがり少すこしして來きたんだ、こつちの方はうから行いつてる連中れんぢうが保證ほしようしてくれてな」

勘次は誇り顔に言った。

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勘次かんじは誇ほこり顏がほにいつた。

「おれは今日みたいだといいが、ひどく会いたくなってなあ」

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「俺おら今日けふ見みてえだらえゝが、酷ひどく行逢いきやひたくなつてなあ」

お品はうつぶせた額を枕につけた。

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お品しなは俯伏うつぶした額ひたひを枕まくらにつけた。

「どうせここらの始末もしないで行ったんだから、一遍は途中で帰ってみなくちゃならないのだから、同じことだよ」

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「どうせ此處ここらの始末しまつもしねえで行いつたんだから、一遍いつぺんは途中とちうで歸けえつて見みなくつちや成ならねえのがだから同おなじ事ことだよ」

勘次はお品をのぞき込むようにして言った。

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勘次かんじはお品しなを覗のぞき込こむやうにしていつた。

「それでも俵にはしておいたな」

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「それでも俵たはらにしちや置おいたな」

勘次は壁際の麦藁俵を見て言った。

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勘次かんじは壁際かべぎはの麥藁俵むぎわらだはらを見みていつた。

お品はまだうつぶせたままである。

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お品しなはまだ俯伏うつぶした儘まゝである。

「あっちにいちゃ銭は要らないな。煙草一服吸うわけじゃなし、十五日目が晦日で、それまでは勘定なしで、その間は米でも薪でもみんな通帳で借りておくくらいなんだから、十五日目にならなくちゃ財布も膨れないが、また百でも出ることはないからな」

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「あつちに居ゐちや錢ぜには要えらねえな、煙草たばこ一服ぷく吸すふべえぢやなし、十五日目にちめが晦日みそかでそれまでは勘定かんぢやうなしで其その間あひだは米こめでも薪まきでもみんな通帳かよひで借かりて置おく位くれえなんだから、十五日目にちめに成ならなくつちや財布せえふも膨ふくれねえが、又また百ひやくでも出でつこはねえかんな」

勘次はさらに出先のことをお品へ聞かせた。

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勘次かんじは更さらに出先でさきのことをお品しなへ聞きかせた。

「米ばかり炊いても毎日一升ずつは要るくらいだから、骨もずいぶん折れるが、出しさえすりゃ二貫と三貫は残せるから、帰るまでにはおれもどうにかなると思ってるのよ。そうすりゃ塩鮭くらいは買うこともできるからな」

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「米こめばかり炊たえても毎日まいにち一升しようづゝは要える位くれえだから骨ほねも隨分ずゐぶん折をれんが出でせえすりや二貫くわんと三貫ぐわんは殘のこせつから、歸けえるまでにや俺おれもどうにか成なると思おもつてんのよ、さうすりや鹽鮭しほびき位ぐれえは買かあことも出來できらな」

「それじゃよかった。土方なんて、ろくな奴らはいないっていうから、どうしたかと思ってな」

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「そんぢやよかつた、土方どかたなんちや碌ろくな奴等やつらは居えねえつていふからどうしたかと思おもつてな」

お品は首を持ち上げた。

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お品しなは首くびを擡もたげた。

「そんな奴らと付き合った日には限りはないが、隅のほうに縮こまってりゃ何とも言わないな」

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「そんな奴等やつらと交際つきえゝした日ひにや限かぎりはねえが、隅すみの方はうにちゞまつてりや何なんともゆはねえな」

勘次がついている間に、おつぎは枯れそだを折って火鉢へ火を起こした。

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勘次かんじがついて居ゐる間あひだにおつぎは枯粗朶かれそだを折をつて火鉢ひばちへ火ひを起おこした。

勘次は火箸を渡して鰯を三つばかり乗せた。

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勘次かんじは火箸ひばしを渡わたして鰯いわしを三みつばかり乘のせた。

鰯の油がじりじりと垂れて、青い炎が立った。

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鰯いわしの油あぶらがぢり/\と垂たれて青あをい焔ほのほが立たつた。

鰯の匂いが薄い煙とともに部屋の中に満ちた。

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鰯いわしの臭にほひが薄うすい煙けむりと共ともに室内しつないに滿みちた。

そうして、その匂いがお品の食欲を促した。

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さうして其その臭にほひがお品しなの食慾しよくよくを促うながした。

お品はうつぶせたなりで、煙臭くなった鰯を食べた。

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お品しなは俯伏うつぶしたなりで煙臭けぶりくさくなつた鰯いわしを喰たべた。

「どうした、塩辛くはあるまい」

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「どうした鹽辛しよつぱかあ有あんめえ」

「さすがにうまいな」

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「有繋まさか佳味うめえな」

「これでも、ここらの商人は持って来ないぞ」

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「此これでもこゝらの商人あきんどは持もつちや來きねえぞ」

勘次は一心に見ながら言った。

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勘次かんじは一心いつしんに見みながらいつた。

お品は二匹へ手をつけて箸を置きながら、懐で眠っている与吉をのぞいて

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お品しなは二匹にひきへ手てをつけて箸はしを置おきながら懷ふところで眠ねむつて居ゐる與吉よきちを覗のぞいて

「起きていたら大騒ぎだろう」

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「起おきて居ゐたら大騷おほさわぎだんべ」

と言った。

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といつた。

「もっと食べろな」

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「いまつとたべろな」

勘次は言った。

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勘次かんじはいつた。

「たくさんだよ、おつうにもやってくれよな」

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「澤山たくさんだよ、おつうげもやつてくろうな」

「おれも飯でも食おうかね」

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「俺おれも飯めしでも食くはうかえ」

勘次は風呂敷包みから弁当の残りを出して、冷たいままぶすぶすとかじった。

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勘次かんじは風呂敷包ふろしきづゝみから辨當べんたうの殘のこりを出だして冷つめたい儘まゝぷす/\と噛かぢつた。

「おうい、お茶は冷たくなったっけかな」

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「おうつ、お茶ちやは冷つめたくなつたつけかな」

お品は言った。

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お品しなはいつた。

「要らないぞ、仕事に出りゃ毎日こうだ」

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「要えらねえぞ仕事しごとに出でりや毎日まえんちかうだ」

勘次は梅干しを少しずつなめ減らした。

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勘次かんじは梅干うめぼしを少すこしづゝ嘗なめ減へらした。

弁当が尽きてから、勘次は鰯をおつぎへ挟んでやった。

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辨當べんたうが盡つきてから勘次かんじは鰯いわしをおつぎへ挾はさんでやつた。

そうして自分でも一口食べた。

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さうして自分じぶんでも一口くちたべた。

「こりゃうまいことはうまいが、あんまり脂っこくて、おれのには胸が悪くなるようだな」

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「此こりや佳味うめえこたあ佳味うめえが餘あんまりあまくつて俺おらがにや胸むねが惡わるくなるやうだな」

勘次は冷めた湯を幾杯か傾けた。

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勘次かんじは冷さめた湯ゆを幾杯いくはいか傾かたぶけた。

勘次は風呂敷から袋を出してお品の枕元へ置いて

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勘次かんじは風呂敷ふろしきから袋ふくろを出だしてお品しなの枕元まくらもとへ置おいて

「米はこれだけ残ったから持って来たんだ。あっちにいればいいが、幾日でも空けると炊かれちまっても仕方がないからな。そんじゃ、こりゃおつうにやっておくんだ」

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「米こめこれだけ殘のこつたから持もつて來きたんだ、あつちに居ゐればえゝが幾日いつかでも明あけると炊たかれつちやつても仕しやうねえかんな、そんぢや此こりやおつうげやつて置おくんだ」

勘次は米の小さな袋をおつぎへ渡した。

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勘次かんじは米こめの小ちひさな袋ふくろをおつぎへ渡わたした。

「袋なんぞ、また何だと思ったよ」

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「袋ふくろなんぞ又また何なんだと思おもつたよ」

お品は軽く言った。

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お品しなは輕かるくいつた。

「それでも薪は持って来るわけにも行かないから、置いて来ちまった」

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「それでも薪まきは持もつて來くる譯わけにも行いかねえから置おいて來きつちやつた」

勘次は自ら嘲るように、目から口へかけて冷たい笑いが動いた。

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勘次かんじは自みづから嘲あざけるやうに目めから口くちへ掛かけて冷つめたい笑わらひが動うごいた。

「お品、足でもさすってやろうじゃないか」

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「お品しな、足あしでもさすつてやんべぢやねえか」

勘次はお品の裾のほうへ行った。

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勘次かんじはお品しなの裾すその方はうへ行いつた。

「いいよ勘次さん。おれは今日は日のうちから心持ちがいいんだから。さっきもおつぎがさすってやろうなんて言うもんだから、少しもやってくれるなって言ったところだよ。この分じゃ二、三日も過ぎたら、勘次さんはまた行けるだろうよ」

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「えゝよ勘次かんじさん、俺おら今日けふは日ひのうちから心持こゝろもちえゝんだから、先刻さつきもおつうが揣さすつてやんべなんていふもんだから少しもやつてくろつて云ゆつた處ところだよ、こんぢや二三日にさんちも過すぎたら勘次かんじさんは又また行いけべえよ」

お品は快さそうに言った。

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お品しなは快こゝろよげにいつた。

「今夜はひどく心持ちがいいんだよ。いいよ、本当だよ勘次さん、お前草臥れただろうな」

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「今夜こんやはひどく心持こゝろもちえゝんだよ、えゝよ本當ほんたうだよ勘次かんじさん、お前めえ草臥くたびれたんべえな」

さらにお品は威勢がついて言った。

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更さらにお品しなは威勢ゐせいがついていつた。

夜は更けた。

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夜よは深ふけた。

外の闇は凍ったかと思うように、ただしんとした。

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外そとの闇やみは氷こほつたかと思おもふやうに只たゞしんとした。

こんにゃくの水にも、紙のような氷が張った。

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蒟蒻こんにやくの水みづにも紙かみの如ごとき氷こほりが閉とぢた。

三

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三

次の朝、霜は白く庭ぶたの藁に降りた。

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次つぎの朝あさ霜しもは白しろく庭葢にはぶたの藁わらにおりた。

切り干しのむしろは三枚ばかりその庭ぶたの上に敷いたままで、切り干しには氷を粉にしたような霜が凝っていて、東の森の隙間から差し透す朝日にきらきらと光った。

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切干きりぼしの筵むしろは三枚さんまいばかり其その庭葢にはぶたの上うへに敷しいた儘まゝで、切干きりぼしには氷こほりを粉末ふんまつにしたやうな霜しもが凝こつて居ゐて、東ひがしの森もりの隙間すきまから射さし透とほす朝日あさひにきら/\と光ひかつた。

白い切り干しは、蒸さずに干したのであった。

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白しろい切干きりぼしは蒸むさずに干ほしたのであつた。

切り干しは、雨が降らなければ、ほこりだらけになろうがごみが交じろうが、昼も夜もむしろは敷き放しである。

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切干きりぼしは雨あめが降ふらねば埃ほこりだらけに成ならうが芥ごみが交まじらうが晝ひるも夜よるも筵むしろは敷しき放はなしである。

勘次は霜柱の立った小道を南へ行った。

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勘次かんじは霜柱しもばしらの立たつてる小徑こみちを南みなみへ行いつた。

昨夜遅かったことやら何やら話をして手間取った。

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昨夜ゆうべ遲おそかつたことやら何なにやら噺はなしをして暇ひまどつた。

庭先から続く小さな桑畑の向こうに家が見えるので、ふだんそれを勘次の家でもただ南とだけ言っている。

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庭先にはさきから續つゞく小ちひさな桑畑くはばたけの向むかふに家いへが見みえるので、平生へいぜいそれを勘次かんじの家いへでも唯たゞ南みなみとのみいつて居ゐる。

彼がこもつくこをかついで帰って来た時は、日なたの霜が少し解けて粘ついていた。

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彼かれが薦こもつくこを擔かついで歸かへつて來きた時ときは日向ひなたの霜しもが少すこし解とけて粘ねばついて居ゐた。

お品は、勘次がちょっとの間いなくなったのでひどく寂しかった。

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お品しなは勘次かんじが一寸ちよつとの間ま居ゐなく成なつたので酷ひどく寂さびしかつた。

この朝になってからもお品の容態がいいので、勘次はほっと安心した。

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此この朝あさになつてからもお品しなの容態ようだいがいゝので勘次かんじはほつと安心あんしんした。

そうして、斜めに遠くから差す冬の日を浴びながら、庭ぶたの上にむしろを敷いて俵を編みはじめた。

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さうして斜なゝめに遠とほくから射さす冬ふゆの日ひを浴あびながら庭葢にはぶたの上うへに筵むしろを敷しいて俵たはらを編あみはじめた。

こもつくこは両端に足が付いている。

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薦こもつくこは兩端りやうたんに足あしが附ついて居いる。

ちょうど荷鞍の骨のような簡単な道具である。

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丁度ちやうど荷鞍にぐらの骨ほねのやうな簡單かんたんな道具だうぐである。

その足から足へ渡した棒へ藁を一つかみずつ当てては、八人坊主をあっちへこっちへ打ち違えながら縄を締めつつ編むのである。

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其その足あしから足あしへ渡わたした棒ぼうへ藁わらを一掴ひとつかみづゝ當あてゝは八人坊主はちにんばうずをあつちへこつちへ打ぶつ違ちがひながら繩なはを締しめつゝ編あむのである。

八人坊主というのは、その縄を巻いた、いわば小さな錘である。八つあるので八人坊主と言っている。

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八人坊主はちにんばうずといふのは其その繩なはを捲まいたいはゞ小ちひさな錘おもりである、八やつつあるので八人坊主はちにんばうずといつて居ゐる。

小作米を入れる藁俵を四、五俵分作らねばならないことが、稼ぎに出る時から彼には気掛かりであった。

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小作米こさくまいを入いれる藁俵わらだはらを四五俵分へうぶん作つくらねば成ならぬことが稼かせぎに出でる時ときから彼かれには心掛こころがかりであつた。

すぐった藁も縄も別に取っておきながら、ただ忙しくて放り出して出て行ったのである。

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すぐつた藁わらも繩なはも別べつに取とつて置おきながら只たゞ忙せはしくて放棄うつちやつて出でて行いつたのである。

お品は、毎日閉め切っていた表の雨戸を一枚だけ開けさせた。

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お品しなは毎日まいにち閉しめ切きつて居ゐた表おもての雨戸あまどを一枚まいだけ開あけさせた。

からりとした青い空が見えて、日が自分のいる布団の近くまで伸びてきた。

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からりとした蒼あをい空そらが見みえて日ひが自分じぶんの居ゐる蒲團ふとんに近ちかくまで偃はつた。

お品はこれまでは、明るい外を見ようと思うにはあまりに心がふさいでいた。

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お品しなは此これまでは明あかるい外そとを見みようと思おもふには餘あまりに心こゝろが鬱うつして居ゐた。

お品は庭先の栗の木から垂れた大根が、褐色に干からびているのを見た。

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お品しなは庭先にはさきの栗くりの木きから垂たれた大根だいこが褐色かつしよくに干ひて居ゐるのを見みた。

おつぎも勘次の横へむしろを敷いて、また大根を切っている。

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おつぎも勘次かんじの横よこへ筵むしろを敷しいて又また大根だいこを切きつて居ゐる。

その包丁のとんとんと鳴る間に、忙しく八人坊主を動かしてはさらさらと藁をしごく音が、かすかに交じって聞こえる。

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其その庖丁はうちやうのとん/\と鳴なる間あひだに忙せはしく八人坊主はちにんばうずを動うごかしてはさらさらと藁わらを扱しごく音おとが微かすかに交まじつて聞きこえる。

お品は二人の姿を前にして、ひどく心強く感じた。

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お品しなは二人ふたりの姿すがたを前まへにして酷ひどく心強こゝろづよく感かんじた。

その日は、栗の木に掛けた大根の動かないほど穏やかな日であった。

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其その日ひは栗くりの木きに懸かけた大根だいこの動うごかぬ程ほど穩おだやかな日ひであつた。

お品はこの分で行けば、一枚紙をはがすように快くなることと確信した。

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お品しなは此この分ぶんで行ゆけば一枚紙いちまいがみを剥はがすやうに快こゝろよくなることゝ確信かくしんした。

勘次は藁俵を編み終えて、そうして端を縛った小さな藁の束を丸く開いて、それを足の底に踏んで、かかとを中心に手と足とをコンパスのようにしてぐるぐると回りながら、丸い俵ぼっちを作った。

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勘次かんじは藁俵わらだはらを編あみ了をへて、さうして端はしを縛しばつた小ちひさな藁わらの束たばを丸まるく開ひらいて、それを足あしの底そこに踏ふんで踵かゝとを中心ちうしんに手てと足あしとを筆規ぶんまはしのやうにしてぐる/\と廻まはりながら丸まるい俵たはらぼつちを作つくつた。

勘次は、お品がどうにか始末をしておいた麦藁俵を開けて、仕上げたばかりの藁俵へ米を量り込んだ。

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勘次かんじはお品しながどうにか始末しまつをして置おいた麥藁俵むぎわらだはらを明あけて仕上しあげた計ばかりの藁俵わらだはらへ米こめを量はかり込こんだ。

米には赤い粒もあったが、もみが少し交じっていて、それが目に立った。

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米こめには赤あかい粒つぶもあつたが籾あらが少すこし交まじつて居ゐてそれが目めに立たつた。

「もみが少し高かったな」

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「籾あらが少すこしたかゝつたな」

勘次はふとそう言った。

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勘次かんじはふとさういつた。

「そうだったっけかな。それでもおれは唐箕は強く立てたつもりなんだがなあ。今年は赤もたくさんだが、磨臼の切れ方もどういうもんだか悪いんだよ」

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「さうだつけかな、それでも俺おら唐箕たうみは強つよく立たてた積つもりなんだがなよ、今年ことしは赤あかも夥多しつかりだが磨臼するすの切きれ方かたもどういふもんだか惡わりいんだよ」

と、お品は少し身を動かして言い訳するように言った。

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とお品しなは少すこし身みを動うごかして分疏いひわけするやうにいつた。

「もっとも、これくらいじゃ旦那も大目に見てくれるだろうから心配はあるまいがなあ」

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「尤もつとも此この位くれえぢや旦那だんなも大目おほめに見みてくれべえから心配しんぺえはあんめえがなよ」

勘次はすぐにお品の病気に気づいて、こう言った。

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勘次かんじは直すぐにお品しなの病氣びやうきに心付こゝろづいて恁かういつた。

壁際には、藁の器用な俵が規則正しく積み換えられた。

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壁際かべぎはには藁わらの器用きような俵たはらが規則正きそくたゞしく積つみ換かへられた。

お品はそれを一心に見た。

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お品しなはそれを一心しんに見みた。

それもお品を快くする一つであった。

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それもお品しなを快こゝろよくする一ひとつであつた。

勘次は俵のそばの手桶のふたを取って

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勘次かんじは俵たはらの側そばな手桶てをけの蓋ふたをとつて

「こりゃこんにゃくだな」

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「此こりや蒟蒻こんにやくだな」

と言った。

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といつた。

「おれはそれを仕入れたっきり、起きられないんだよ」

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「俺おらそれ仕入しいれたつきり起おきられねえんだよ」

お品は枕を手で動かして言った。

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お品しなは枕まくらを手てで動うごかしていつた。

勘次はまたふたをした。

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勘次かんじは又また葢ふたをした。

静かな空をじりじりと移って行く日が傾いたかと思うと、一散に落ちはじめた。

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靜しづかな空そらをぢり/\と移うつつて行ゆく日ひが傾かたぶいたかと思おもふと一散さんに落おちはじめた。

冬の日はもう短い頂点に達しているのである。

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冬ふゆの日ひはもう短みじかい頂點ちやうてんに達たつして居ゐるのである。

勘次はまだ日があるからと言って、鍬をかついで麦畑へ出た。

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勘次かんじはまだ日ひが有あるからといつて鍬くはを擔かついで麥畑むぎばたけへ出でた。

しかしいくらも耕さないうちに日は落ちて、にわかに冷たくなった世間は暗澹としてきた。

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然しかし幾いくらも耕たがやさぬうちに日ひは落おちて俄にはかに冷つめたく成なつた世間せけんは暗澹あんたんとして來きた。

お品は勘次を出して、ひどくやるせないような心持ちになって、雨戸を引かせて暗いほうへ向いて目を閉じた。

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お品しなは勘次かんじを出だして酷ひどく遣瀬やるせないやうな心持こゝろもちになつて、雨戸あまどを引ひかせて闇くらい方はうへ向むいて目めを閉とぢた。

冬至はもう間が二日しかなくなった。

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冬至とうじはもう間あひだが二日しか無なくなつた。

朝のうちに勘次はこんにゃくのふたを取ってみて

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朝あさの内うちに勘次かんじは蒟蒻こんにやくの葢ふたをとつて見みて

「どうしたもんだかな、おれでもかついで歩こうかな。こうしておいたんじゃ仕方がないからな」

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「どうしたもんだかな、俺おれでも擔かついて歩あるつてんべかな、恁かうして置おいたんぢや仕しやうねえかんな」

お品へ相談してみた。

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お品しなへ相談さうだんして見みた。

「そうよなあ。それよりか、おれはどっちかといったら、大根でも漬けてもらいたいな。毎日栗の木を見ていて、干しすぎやしないかと思って心配してるんだからよ」

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「さうよな、それよりか俺おらどつちかつちつたら大根だいこでも漬つけて貰もれへてえな、毎日まいんち栗くりの木き見みて居ゐて干過ほしすぎやしめえかと思おもつて心配しんぺえしてんだからよ」

お品は訴えるように言って、そうしてさらに

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お品しなは訴うつたへるやうにいつてさうして更さらに

「自分が丈夫でさえありゃ、とっくにやっちまったんだが」

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「自分じぶんで丈夫ぢやうぶでせえありや疾とつくにやつちまつたんだが」

と小声で言った。

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と小聲こごゑでいつた。

お品はどうも勘次を出すのがいやであった。

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お品しなはどうも勘次かんじを出だすのが厭いやであつた。

しかし、なんだかそうはっきりとも言えないので、こう言ったのであった。

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然しかし何なんだかさう明白地あからさまにもいはれないので恁かういつたのであつた。

「勘次さん、塩を見てくれないか。おれは大丈夫あると思ってたっけがなあ。それからこっちの桶の糠がいいんだよ。そっちのには房州砂が交じってるんだから」

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「勘次かんじさん鹽しほ見みてくんねえか、俺おら大丈夫だえぢよぶ有あると思おもつてたつけがなよ、それからこつちの桶をけの糠ぬかがえゝんだよ、そつちのがにや房州砂ばうしうずな交まじつてんだから」

お品は言った。

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お品しなはいつた。

「おうい」

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「おうい」

勘次は言って、

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勘次かんじはいつて、

「房州砂でも何でも構うまい。どうせ糠を食うんじゃあるまいし。それにこっちのはちっと凝り固まってら」

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「房州砂ばうしうずなでも何なんでも構かまあめえ、どうで糠ぬか喰くふんぢやあんめえし、それにこつちなちつと凝結こごつてら」

「勘次さん、そんでも入れるなよ。毒だっていうんだから。おれ、せっかく別にしてたんだから」

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「勘次かんじさんそんでも入せえんなよ、毒どくだつちんだから、俺おれ折角せつかく別べつにしてたんだから」

お品は少し身を起こしかけて言った。

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お品しなは少すこし身みを起おこし掛かけていつた。

「そうか、そんじゃそうしよう」

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「さうかそんぢやさうすべよ」

それから塩を改めて見て

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それから鹽しほを改あらためて見みて

「どうしてこれだけで使い切れるもんかい」

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「どうして此これだけ使つかへ切きれるもんけえ」

と勘次は言った。

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と勘次かんじはいつた。

お品は、勘次がはしごを掛けて一つ一つに大根を外すのも、小糠をむしろへ量るのも、白い塩を小糠へ混ぜるのも、満足げに見ていた。

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お品しなは勘次かんじが梯子はしごを掛かけて一ひとつ/\に大根だいこを外はずすのも小糠こぬかを筵むしろへ量はかるのも白しろい鹽しほを小糠こぬかへ交まぜるのも滿足氣まんぞくげに見みて居ゐた。

お品は勘次を外へやるのがいやなので、そうは言わずに、時々おつぎに足をさすらせた。

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お品しなは勘次かんじを外ほかへ遣やるのが厭いやなのでさうはいはずに時々とき/″\おつぎに足あしをさすらせた。

そうすると勘次は

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さうすると勘次かんじは

「どうした、いくらか悪いのか」

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「どうした幾いくらか惡わるいのか」

と、自分も一心に布団の裾へ手を掛ける。

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と自分じぶんも一心しんに蒲團ふとんの裾すそへ手てを掛かける。

勘次は庭から外へは出られなかった。

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勘次かんじは庭にはから外そとへは出でられなかつた。

それでも冬至が明日と迫った日に、勘次はこんにゃくを持って出た。

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それでも冬至とうじが明日あすと迫せまつた日ひに勘次かんじは蒟蒻こんにやくを持もつて出でた。

お品もそれは止めなかった。

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お品しなもそれは止とめなかつた。

もう幾人か歩いた後なので、思うようにはさばけなかったが、それでも勘次はお品に引かれて、まだ残っているこんにゃくをかついで帰って来てしまった。

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もう幾人いくにんか歩あるいた後あとなので、思おもふやうには捌はけなかつたがそれでも勘次かんじはお品しなにひかされて、まだ殘のこつて居ゐる蒟蒻こんにやくを擔かついで歸かへつて來きて畢しまつた。

「こんにゃくはお品のもんだから、銭はみんなお前にやっておこう」

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「蒟蒻こんにやくはお品しながもんだから、錢ぜにはみんなおめえげ遣やつて置おくべ」

勘次は銅貨をじゃらじゃらとお品の枕元へ空けた。

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勘次かんじは銅貨どうくわをぢやら/\とお品しなの枕元まくらもとへ明あけた。

お品は銅貨を一つ一つ勘定した。

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お品しなは銅貨どうくわを一つ/\勘定かんぢやうした。

そうして元手を引いてもいくらかの余りがあったので

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さうして資本もとでを引ひいても幾いくらかの剩餘あまりがあつたので

「勘次さん、思いのほかだったな。まだあとよっぽどあるだろうか」

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「勘次かんじさん思おもひの外ほかだつけな、まあだあと餘程よつぽどあんべえか」

と言った。

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といつた。

「いくらでもないな。もうこれだけじゃ、また出るほどのこともあるまいよ」

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「幾いくらでもねえな、はあ此丈これだけぢや又また出でる程ほどのこつてもあんめえよ」

勘次は言った。

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勘次かんじはいつた。

お品は自分の手で銭を布団の下へ入れた。

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お品しなは自分じぶんの手てで錢ぜにを蒲團ふとんの下したへ入いれた。

その日、お品は勘次を出して情けないような心持ちがしていたのであるが、思ったよりは商売をして来てくれたので、一日の不足がまったく取り返された。

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其その日ひお品しなは勘次かんじを出だして情なさけないやうな心持こゝろもちがして居ゐたのであるが、思おもつたよりは商あきなひをして來きて呉くれたので一日にちの不足ふそくが全まつたく恢復くわいふくされた。

そうして

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さうして

「菜は畑へ置きっ放しだったろうな」

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「菜なは畑はたけへ置おきつ放ぱなしだつけべな」

勘次が言った時、お品も驚いたように

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勘次かんじがいつた時ときお品しなも驚おどろいたやうに

「ほんにそうだったなあ、まあ、遅れちまったっけなあ。おれは忘れてたっけが、大丈夫だろうかなあ」

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「ほんにさうだつけなまあ、後おくれつちやつたつけなあ、俺おら忘わすれてたつけが大丈夫だえぢよぶだんべかなあ」

と言った。

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といつた。

「そんじゃおれは、今からでも引ける丈引こう」

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「そんぢや俺おら今いまつからでも曳ひける丈だけ曳ひくべ」

勘次はおつぎを連れて出た。

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勘次かんじはおつぎを連つれて出でた。

冬至になるまで畑の菜を打ち捨てておく者は、村には一人もないのであった。

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冬至とうじになるまで畑はたけの菜なを打棄うつちやつて置おくものは村むらには一人ひとりもないのであつた。

勘次は荷車を借りて、たそがれまでに二車引いた。

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勘次かんじは荷車にぐるまを借かりて黄昏ひくれまでに二車くるま挽ひいた。

青菜の下葉は、もうよくよく黄色に枯れていた。

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青菜あをなの下葉したばはもうよく/\黄色きいろに枯かれて居ゐた。

お品は二人を出し、薄暗くなった家にぼんやりしていても、畑の取り入れを思案して、寂しい不足を感じはしなかった。

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お品しなは二人ふたりを出だし薄暗うすぐらくなつた家いへにぼつさりして居ゐても畑はたけの收穫しうくわくを思案しあんして寂さびしい不足ふそくを感かんじはしなかつた。

夏の忙しい、そうして野菜の乏しい時には、彼らの唯一の副食物が塩をかむような漬物に限られているので、大根でも青菜でも比較的余計な蓄えをすることが、彼らには重大な条件の一つになっているのである。

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夏季かきの忙いそがしいさうして野菜やさいの缺乏けつばふした時ときには彼等かれらの唯一ゆゐいつの副食物ふくしよくぶつが鹽しほを噛かむやうな漬物つけものに限かぎられて居ゐるので、大根だいこでも青菜あをなでも比較的ひかくてき餘計よけいな蓄たくはへをすることが彼等かれらには重大ぢゆうだいな條件でうけんの一ひとつに成なつてるのである。

冬至の日も静かであった。

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冬至とうじの日ひも靜しづかであつた。

このごろになってから、ここばかりは忘れたかと思うように西風が止んでいる。

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此この頃ごろになつてから此處ここばかりは忘わすれたかと思おもふやうに西風にしかぜが止やんで居ゐる。

昼のひとしきりは、冷たい空気を透して日が暖かに差しかけた。

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晝ひるの一ひとしきりは冷つめたい空氣くうきを透とほして日ひが暖あたゝかに射さし掛かけた。

お品は朝から心持ちが晴れ晴れして、日が昇るにつれて布団へ起き直ってみたが、体が力のないながらに妙に軽くなったことを感じた。

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お品しなは朝あさから心持こゝろもちが晴々はれ/″\して日ひが昇のぼるに連つれて蒲團ふとんへ起おき直なほつて見みたが、身體からだが力ちからの無ないながらに妙めうに輕かるく成なつたことを感かんじた。

自分の布団のそばまで差し込む日に誘い出されたように、雨戸の敷居際まで出て、与吉を抱いては倒してみたり、くすぐってみたりして騒がした。

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自分じぶんの蒲團ふとんの側そばまで射さし込こむ日ひに誘さそひ出だされたやうに、雨戸あまどの閾際しきゐぎはまで出でて與吉よきちを抱だいては倒たふして見みたり、擽くすぐつて見みたりして騷さわがした。

勘次はおつぎを相手に、井戸端で青菜の始末をしている。

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勘次かんじはおつぎを相手あひてに井戸端ゐどばたで青菜あをなの始末しまつをして居ゐる。

根を切って桶で洗った青菜は、地べたへ横たえたはしごの上に、一枚外して行って載せたその戸板へ積まれた。

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根ねを切きつて桶をけで洗あらつた青菜あをなは、地ちべたへ横よこたへた梯子はしごの上うへに一枚まい外はづして行いつて載のせた其その戸板といたへ積つまれた。

菜が洗い終わった時、枯れ葉の多いようなのはみな釜でゆでて、後ろの林の楢の幹へ縄を渡して干し菜に掛けた。

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菜なが洗あらひ畢をはつた時とき枯葉かれはの多おほいやうなのは皆みな釜かまで茹ゆでゝ後うしろの林はやしの楢ならの幹みきへ繩なはを渡わたして干菜ほしなに掛かけた。

自分たちの昼飯のおかずにも一釜ゆでた。

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自分等じぶんらの晝餐ひるの菜さいにも一釜ひとかま茹ゆでた。

お品は、わずかな日数を横になっていたばかりに目が衰えたものか、日がやや眩しいのを感じながら、その日の光を全身に浴びて、二人のするのを見ていた。

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お品しなは僅わづかな日數ひかずを横よこに成なつて居ゐたばかりに目めが衰おとろへたものか日ひの稍やゝ眩まぶしいのを感かんじつゝ其その日ひの光ひかりを全身ぜんしんに浴あびながら二人ふたりのするのを見みて居ゐた。

そうして、ゆで菜の一皿が、いくらか渇きを覚えたせいか、非常にうまく感じた。

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さうして茹菜ゆでなの一皿ひとさらが幾いくらか渇かつを覺おぼえた所爲せゐか非常ひじやうに佳味うまく感かんじた。

青菜の水が切れたので、勘次は桶へ塩を振っては青菜を足でぎりぎりと踏みつけ、また塩を振っては踏みつける。

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青菜あをなの水みずが切きれたので勘次かんじは桶をけへ鹽しほを振ふつては青菜あをなを足あしでぎり/\と蹂ふみつけて又また鹽しほを振ふつては蹂ふみつける。

お品は塩の加減やら何やら、さっきからしきりに口を出している。

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お品しなは鹽しほの加減かげんやら何なにやら先刻さつきから頻しきりに口くちを出だして居ゐる。

勘次はお品の言うとおりに運んでいる。

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勘次かんじはお品しなのいふ通とほりに運はこんで居ゐる。

お品は起きていても別に疲れもしないので、そっと草履をはいて後ろの戸口から出て、楢の木へ引っ張った干し菜を見た。

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お品しなは起おきて居ゐても別べつに疲つかれもしないのでそつと草履ざうりを穿はいて後うしろの戸口とぐちから出でて楢ならの木きへ引ひつ張ぱつた干菜ほしなを見みた。

それから林を斜めに田の端へ下りて、また、ぐみの木のそばに立って、そこをそっと踏み固めた。

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それから林はやしを斜なゝめに田たの端はたへおりて又また牛胡頽子うしぐみの側そばに立たつて其處そこをそつと踏ふみ固かためた。

それからしばらく周りを見て立っていた。

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それから暫しばらく周圍あたりを見みて立たつて居ゐた。

お品は庭先から呼ぶ勘次の大きな声を聞いた。

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お品しなは庭先にはさきから喚よぶ勘次かんじの大おほきな聲こゑを聞きいた。

竹や木の幹に手を掛けながら斜めに林を登って、後ろの戸口から家へ戻った時、さらに叫んだ勘次の声を聞くとともに、天秤棒をかついだままぼんやり立っている商人の姿を庭ぶたの上に見た。

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竹たけや木きの幹みきに手てを掛かけながら斜なゝめに林はやしをのぼつて後うしろの戸口とぐちから家うちへもどつた時とき更さらに叫さけんだ勘次かんじの聲こゑを聞きくと共ともに、天秤てんびんを擔かついだ儘まゝぼんやり立たつて居ゐる商人あきんどの姿すがたを庭葢にはぶたの上うへに見みた。

「お品、卵がほしいとよ」

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「お品しな卵たまご欲ほしいと」

勘次は次の桶の青菜に塩を振りかけながら言った。

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勘次かんじは次つぎの桶をけの青菜あをなに鹽しほを振ふり掛かけながらいつた。

「いくらかあったっけな」

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「幾いくらか有あつたつけな」

お品は戸棚の引き出しから、白い皮の卵を二十ばかり出した。

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お品しなは戸棚とだなの抽斗ひきだしから白しろい皮かはの卵たまごを廿ばかり出だした。

「おつう、四、五日見ないでいたっけが、ねぐらにもいくらかあったろう。上がってみないか」

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「おつう、四五日見みねえで居ゐたつけが塒とやにも幾いくらか有あつたつけべ、あがつて見みねえか」

おつぎに言いつけた。

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おつぎに吩附いひつけた。

おつぎが米俵へ登って、その上に低く吊った竹かごのねぐらをのぞいた時、雌鶏が一羽けたたましく飛び出して、後ろの楢の木の中へ鳴き込んだ。

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おつぎは米俵こめだはらへ登のぼつて其その上うへに低ひくく釣つつた竹籃たけかごの塒とやを覗のぞいた時とき、牝雞めんどりが一羽はけたゝましく飛とび出だして後うしろの楢ならの木きの中なかへ鳴なき込こんだ。

ほかの鶏もひとしきりともにやかましく鳴いた。

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他たの鷄にはとりも一しきり共ともに喧やかましく鳴ないた。

おつぎは手を伸ばしては、卵を一つ一つに取って袂へ入れた。

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おつぎは手てを延のばしては卵たまごを一つ/\に取とつて袂たもとへ入いれた。

おつぎは袂をぶらぶらさせて、危なそうに米俵を降りた。

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おつぎは袂たもとをぶら/\させて危相あぶなさうに米俵こめだはらを降おりた。

そこにも卵は六つばかりあった。

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其處そこにも卵たまごは六つばかりあつた。

商人は下ろした四角なぼてざるから、真鍮の皿と鉤が吊された秤を出した。

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商人あきんどは卸おろした四角かくなぼて笊ざるから眞鍮しんちうの皿さらと鍵かぎが吊つるされた秤はかりを出だした。

「相場はいくらだね」

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「掛かけは幾いくらだね」

お品は聞いた。

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お品しなは聞きいた。

「十一半さ。近ごろどうも安くてな」

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「十一半はんさ、近頃ちかごろどうも安やすくつてな」

商人は言いながら浅い目ざるへ卵を入れて、萌葱の紐の手掛けを持って秤の棹を目八分にして、そうして分銅の糸をぎっと押さえたまま銀色の目を数えた。

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商人あきんどはいひながら淺あさい目笊めざるへ卵たまごを入いれて萠黄もえぎの紐ひものたどりを持もつて秤はかりの棹さをを目め八分ぶにして、さうして分銅ふんどうの絲いとをぎつと抑おさへた儘まゝ銀色ぎんいろの目めを數かぞへた。

おもちゃのような小さなそろばんを出して、商人は

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玩具おもちやのやうな小ちひさな十露盤そろばんを出だして商人あきんどは

「みんなで四百二十三匁二分だからな、それ」

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「皆掛みながけが四百廿三匁もんめ二分ぶだからなそれ」

秤の目をお品に見せて、そろばんの玉をはじいた。

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秤はかりの目めをお品しなに見みせて十露盤そろばんの玉たまを彈はじいた。

「風袋を引くと四百八匁二分か。どうした、いくつだ、二十六かな。そうすると一つが」

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「風袋ふうたいを引ひくと四百八匁もんめ二分ぶか、どうした幾いくつだ廿六かな、さうすると一ひとつが」

商人の言い終わらないうちに、お品は

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商人あきんどのいひ畢をはらぬうちにお品しなは

「いくらなんだい、この風袋は」

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「幾いくらなんでえ、此この風袋ふうたいは」

と聞いた。

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と聞きいた。

「十五匁だな」

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「十五匁もんめだな」

「たいがい十匁じゃないかい」

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「大概てえげえ十匁もんめぢやねえけえ」

「そんなら見なさい、それ、十五匁だろう。おれのは他人のよりも大きいんだからな」

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「そんだら見みさつせえそれ、十五匁もんめだんべ、俺おらがな他人たにんのがよりや大えけえんだかんな」

商人は目ざるの目を掛けて見せて

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商人あきんどは目笊めざるの目めを掛かけて見みせて

「はて、一つ十五匁七分ずつだ。粒は小さいほうだな」

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「はて、一つ十五匁もんめ七分ぶづゝだ、粒つぶは小ちひせえ方はうだな」

商人はゆっくりそろばんの玉をはじいて

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商人あきんどはゆつくり十露盤そろばんの玉たまを彈はじいて

「四十六銭八厘六毛三朱となるんだが、こりゃ八厘としてもらってな」

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「四十六錢せん八厘りん六毛まう三朱しゆと成なるんだが、此こりや八厘りんとして貰もらつてな」

と、商人は財布から自分の手へ銭を空けた。

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と商人あきんどは財布さいふから自分じぶんの手てへ錢ぜにを明あけた。

「お品、お前自分でも食ったらよくないかい。いくつでも取っておけな」

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「お品しなおめえ自分じぶんでも喰くつたらよかねえけ、幾いくつでも取とつて置おけな」

勘次は塩だらけにした手を止めて、遠くから怒鳴った。

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勘次かんじは鹽しほだらけにした手てを止とめて遠とほくから呶鳴どなつた。

「この銭でほかの物を買って食ったほうがいいから、これだけはやることにしようよ。せっかく勘定もしたもんだからよ。おれは大層よくなったんだから大丈夫だよ」

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「此この錢ぜにで外ほかの物もの買かつて喰くつた方はうがえゝから此これ丈だけは遣やるとすべえよ、折角せつかく勘定かんぢやうもしたもんだからよ、俺おら大層たえそよくなつたんだから大丈夫だえぢよぶだよ」

お品は言った。

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お品しなはいつた。

「そんなこと言わないで、いくつでも取っておけよ。治り際が気をつけないといけないもんだから」

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「そんなこといはねえで幾いくつでも取とつて置おけよ、癒なほり際ぎはが氣きを附つけねえぢやえかねえもんだから」

勘次は漬け菜の手を放して、軒下へ来た。

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勘次かんじは漬菜つけなの手てを放はなして檐下のきしたへ來きた。

手も足もゆでたように赤くなっている。

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手ても足あしも茹ゆでたやうに赤あかくなつて居ゐる。

「それじゃ、ちっとも残したものかな」

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「それぢやちつとも殘のこしたものかな」

お品は小さいのを二つ取った。

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お品しなは小ちひさなのを二つ取とつた。

「そんなのじゃないのを取れな」

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「そんなんぢやねえのとれな」

勘次は大きいのを選んで三つ取った。

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勘次かんじは大おほきなのを選えらんで三つとつた。

卵の皮には手の塩が少しついた。

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卵たまごの皮かはには手ての鹽しほが少すこし附ついた。

「そんじゃ、それを掛けてみよう」

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「そんぢやそれ掛かけてんべ」

商人は今度は真鍮の皿へ卵を乗せて

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商人あきんどは今度こんどは眞鍮しんちうの皿さらへ卵たまごを乘のせて

「こっちなんぞじゃ、後いくらでもできらあな」

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「こつちなんぞぢや、後あと幾いくらでも出來できらあな」

と言いながら手掛けを持った。

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といひながらたどりを持もつた。

卵が少し動くと、秤の棹がぐらぐらと落ち着かない。

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卵たまごが少すこし動うごくと秤はかりの棹さをがぐら/\と落付おちつかない。

「ごまかしちゃいやだぞ」

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「誤魔化ごまくわしちや厭やだぞ」

お品は寂しく笑いながら言った。

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お品しなは寂さびしく笑わらひながらいつた。

「どうしてお前、この秤なんざあ検査したばかりだもの。一分でもこのとおり跳ねたり垂れたりして、どうしてとんだ話だ」

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「どうしておめえ、此この秤はかりなんざあ檢査けんさしたばかりだもの一分ぶでも此この通とほり跳はねたり垂たれたりして、どうして飛とんだ噺はなしだ」

商人は分銅の手を押さえて、また目を読んだ。

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商人あきんどは分銅ふんどうの手てを抑おさへて又また目めを讀よんだ。

「五十匁一分だな。そうすると一つ十六匁七分ずつだ。大きいからな」

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「五十匁もんめ一分ぶだな、さうすつと一ひとつ十六匁もんめ七分ぶづゝだ、大えけえからな」

「塩がくっついてるから、塩の目方もあるぞ」

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「鹽しほがくつゝいてつから鹽しほの目方めかたもあんぞ」

勘次はそばから言って笑った。

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勘次かんじは側そばからいつて笑わらつた。

商人は平然としている。

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商人あきんどは平然へいぜんとして居ゐる。

「五銭五厘六毛いくらっていうんだ。そうすると、さっきのはいくらの勘定だったっけな」

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「五錢せん五厘りん六毛まう幾いくらつていふんだ、さうすつと先刻さつきのは幾いくらの勘定かんぢやうだつけな」

「四十六銭八厘いくらとか言ったっけな」

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「四十六錢せん八厘りん幾いくらとか言いつたつけな」

お品はすぐに言った。

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お品しなは直すぐにいつた。

「それじゃ差し引き四十一銭三厘と端か。こっちのおっかさんは自分でも商売してるから、記憶がいいなあ」

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「それぢや差引さしひき四十一錢せん三厘りん小端こばしか、こつちのおつかさま自分じぶんでも商あきねえしてつから記憶おべえがえゝやな」

商人はそろばんを持って

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商人あきんどは十露盤そろばんを持もつて

「どうしたい、塩梅でも悪いようだが、風邪でも引いたんじゃあるまい」

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「どうしたえ、鹽梅あんべえでも惡わりいやうだが風邪かぜでも引ひいたんぢやあんめえ」

と言った。

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といつた。

「うん、少し悪くて仕方がないのよ」

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「うむ、少すこし惡わるくつて仕しやうねえのよ」

お品は言って

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お品しなはいつて

「端はいくらになるんだい」

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「小端こばしは幾いくらになんでえ」

とさらに聞いた。

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と更さらに聞きいた。

「勘定にはならないなあ、どうも。近ごろは仕方がないよ。文久銭だの青銭だのっていうのがさっぱり出なくなっちまってな。それからどこへ行ってもこうしておくんだ」

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「勘定かんぢやうにや成なんねえなどうも、近頃ちかごろは仕しやうねえよ文久錢ぶんきうせんだの青錢あをせんだのつちうのが薩張さつぱり出でなくなつちやつてな、それから何處どこへ行いつても恁かうして置おくんだ」

商人がぼてざるからマッチを出そうとすると

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商人あきんどがぼて笊ざるから燐寸マツチを出ださうとすると

「またマッチじゃあるまい」

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「又また燐寸マツチぢやあんめえ」

お品は微笑した。

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お品しなは微笑びせうした。

「細かい勘定には近ごろマッチと決めておくんだが、どこの商人もそうのようだな」

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「こまけえ勘定かんぢやうにや近頃ちかごろ燐寸マツチと極きめて置おくんだが、何處どこの商人あきんどもさうのやうだな」

商人は卵をざるへ入れながら言い続けた。

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商人あきんどは卵たまごを笊ざるへ入いれながらいひ續つゞけた。

「ひどく安くなっちまったな。寒くなっちゃ保存がいいのに、かえって安いっていうんだから、まるで反対になっちまったんだな」

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「酷ひどく安やすくなつちやつたな、寒さむく成なつちや保存もちがえゝのに却けえつて安やすいつちうんだから丸まるで反對あべこべになつちやつたんだな」

勘次は青菜を桶へ並べながら言った。

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勘次かんじは青菜あをなを桶をけへ並ならべつゝいつた。

「上海のが入ってきちゃ、ぐっと値が下がっちまってな。あっちじゃどれほど安いもんだかよ。品が少ない時に安くなるっていうんだから、商人ももうからない」

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「上海シヤンハイがへえつちやぐつと値ねが下さがつちやつてな、あつちぢやどれ程ほど安やすいもんだかよ、品しなが少すくねえ時ときに安やすくなるつちうんだから商人あきんども儲まうからねえ」

天秤棒をかついで、彼はまたさらに

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天秤てんびんを擔かついで彼かれは又また更さらに

「相場が下げ気味の時にはうっかりすると損物だからな。なんでも百姓して穀物を積んでおく者が一等だよ。卵拾いもなあ、赤痢でもはやって来てな、看護婦だの巡査だの役場員だのっていう奴らが、病人の口でもひねってみっしり食ってでもくれなくちゃ、商人はだめだよ」

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「相場さうばが下さげ氣味ぎみの時ときにやうつかりすつと損物そんものだかんな、なんでも百姓ひやくしやうして穀こく積つんで置おく者ものが一等とうだよ、卵拾たまごひろひもなあ、赤痢せきりでも流行はやつて來きてな、看護婦かんごふだの巡査じゆんさだの役場員やくばゐんだのつちう奴等やつら病人びやうにんの口くちでもひねつてみつしり喰くつてゞも呉くんなくつちや商人あきんどは駄目だめだよ」

商人は行きがけに

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商人あきんどは行ゆき掛かけて

「また溜めておいておくんなせえ」

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「また溜ためて置おいておくんなせえ」

今度は少し丁寧に言い捨てて去った。

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今度こんどは少すこし叮寧ていねいにいひ捨すてゝ去さつた。

お品は銭を布団の下の巾着へ入れた。

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お品しなは錢ぜにを蒲團ふとんの下したの巾着きんちやくへ入いれた。

そうして枠棚からまるめ箱を下ろして、三つの白い卵を入れた。

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さうして籰棚わくだなからまるめ箱を卸おろして三つの白しろい卵たまごを入いれた。

以前はこの土地でも綿が採れたので、夜なべには女がみな竹枠で糸を引いた。

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以前いぜんは此この土地とちでも綿わたが採とれたので、夜よなべには女をんなが皆みな竹籰たかわくで絲いとを引ひいた。

綿打ち弓でびんびんとほぐした綿は、箸のような棒を芯にして、ろうそくくらいの大きさにくるくると丸める。

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綿打弓わたうちゆみでびんびんとほかした綿わたは箸はしのやうな棒ぼうを心しんにして蝋燭らふそく位ぐらゐの大おほきさにくる/\と丸まるめる。

それがまるめである。

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それがまるめである。

このまるめから、不器用な百姓の手が自在に糸を引いた。

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此このまるめから不器用ぶきような百姓ひやくしやうの手てが自在じざいに絲いとを引ひいた。

このごろでは綿がすっかり採れなくなったので、まるめ箱もすすけたままにまれに保存されているのも、糸屑や布の切れ端が入れてあるくらいに過ぎないのである。

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此この頃ごろでは綿わたがすつかり採とれなくなつたので、まるめ箱ばこも煤すゝけた儘まゝ稀まれに保存ほぞんされて居ゐるのも絲屑いとくづや布ぬのの切端きれはしが入いれてある位くらゐに過すぎないのである。

お品はそれから、膨れた巾着のために跳ね上げられた布団の端を手で押さえた。

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お品しなはそれから膨ふくれた巾着きんちやくの爲ために跳はねあげられた蒲團ふとんの端はしを手てで抑おさへた。

それからまた横になった。

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それから又また横よこになつた。

さっきから疲れたような心持ちになっていたが、横になると体が溶けるようにぐったりして、かすかに快かった。

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先刻さつきから疲勞ひらうしたやうな心持こゝろもちに成なつて居ゐたが横よこになると身體からだが溶とけるやうにぐつたりして微かすかに快こゝろよかつた。

その晩、一年中の臓腑の砂払いだという冬至のこんにゃくを、みなで食べた。

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其その晩ばん一年中ねんぢうの臟腑ざうふの砂拂すなはらひだといふ冬至とうじの蒟蒻こんにやくを皆みんなで喰たべた。

お品は、この分では明日からでも起きられるように思っていた。

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お品しなは喰その日ひは明日あすからでも起おきられるやうに思おもつて居ゐた。

そうして勘次は、仕事のらちが明いたのでまた利根川へ行かれることと、心に期していた。

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さうして勘次かんじは仕事しごとの埓らちが明あいたので又また利根川とねがはへ行ゆかれることゝ心こゝろに期きして居ゐた。

四

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四

お品の容態は、その夜から激変した。

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お品しなの容態ようだいは其その夜よから激變げきへんした。

勘次がようやく眠りに落ちた時、お品は

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勘次かんじが漸やうやく眠ねむりに落おちた時ときお品しなは

「口が開けなくなって仕方がないよう」

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「口くちが開あけなく成なつて仕しやうねえよう」

と情けない声で言った。

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と情なさけない聲こゑでいつた。

お品はあごが釘付けにされたようになって、唾を飲むにも喉が狭められたように感じた。

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お品しなは顎あごが釘附くきづけにされたやうに成なつて、唾つばを飮のむにも喉のどが狹せばめられたやうに感かんじた。

それで、自分にもどうすることもできないのに驚いた。

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それで自分じぶんにもどうすることも出來できないのに驚おどろいた。

勘次もびっくりして起きた。

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勘次かんじも吃驚びつくりして起おきた。

「どうしたんだよ、大層悪いのか。朝までしっかりしてろよ」

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「どうしたんだよ大層たえそ惡わりいのか、朝あさまでしつかりしてろよ」

と力をつけてみたが、自分でもどうしていいのか分からないので、ただはらはらしながら夜を明かした。

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と力ちからをつけて見みたが、自分じぶんでもどうしていゝのか解わからないので只たゞはら/\しながら夜よを明あかした。

勘次はただお品が心配になるので、近所の者を頼んで取りあえず医者へ走らせた。

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勘次かんじは只たゞお品しなが心配しんぱいになるので、近所きんじよの者ものを頼たのんで取とり敢あへず醫者いしやへ走はしらせた。

そうして自分は枕元へくっついていた。

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さうして自分じぶんは枕元まくらもとへくつゝいて居ゐた。

彼らは容易なことで医者を呼ぶのではなかった。

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彼等かれらは容易よういなことで醫者いしやを聘よぶのではなかつた。

しかし、そのもっとも恐れを抱くべき金銭の問題がその心を抑えるには、勘次はあまりに慌てて、かつ驚いていた。

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然しかし其その最もつとも恐おそれを懷いだくべき金錢きんせんの問題もんだいが其その心こゝろを抑制よくせいするには勘次かんじは餘あまりに慌あわてゝ且かつ驚おどろいて居ゐた。

医者は鬼怒川を越えて東にいる。

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醫者いしやは鬼怒川きぬがはを越こえて東ひがしに居ゐる。

勘次は、草臥れやしないかと言ってはお品の足をさすった。

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勘次かんじは草臥くたぶれやしないかといつてはお品しなの足あしをさすつた。

それでもお品の大儀そうな様子が、彼の臆した心にびりびりと響いて、とても午後まではじっとしていることができなくなった。

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それでもお品しなの大儀相たいぎさうな容子ようすが彼かれの臆おくした心こゝろにびり/\と響ひゞいて、迚とても午後ごゞまでは凝然ぢつとして居ゐることが出來できなくなつた。

近所の女房が見に来てくれたのを幸いに、自分も後から走って行った。

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近所きんじよの女房にようばうが見みに來きて呉くれたのを幸さいはひに自分じぶんも後あとから走はしつて行いつた。

鬼怒川の渡し船で、さっきの使いと行き違いになった。

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鬼怒川きぬがはの渡わたしの船ふねで先刻さつきの使つかひと行違ゆきちがひに成なつた。

船から言葉が交わされた。

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船ふねから詞ことばが交換かうくわんされた。

勘次は、医者といっしょに帰るからそう言ってお品に安心させてくれと言って、医者の門をたたいた。

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勘次かんじは醫者いしやと一緒しよに歸かへるからさういつてお品しなに安心あんしんさせて呉くれといつて醫者いしやの門もんを叩たゝいた。

医者は、ちょうどそっちへ行くついでもあったからと悠長である。

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醫者いしやは丁度ちやうどそつちへ行ゆく序ついでも有あつたからと悠長いうちやうである。

きっと行ってはくれるにしても、その後についていくのでなくては勘次には不安でたまらないのである。そうして彼は、ぼんやりと玄関にうずくまって待っていることが、せめてもの気休めであった。

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屹度きつと行いつては呉くれるにしても其その後あとに跟ついて行ゆくのでなくては勘次かんじには不安ふあんで堪たまらないのである、さうして彼かれはぽつさりと玄關げんくわんに踞うづくまつて待まつて居ゐることがせめてもの氣安きやすめであつた。

医者は小さな手鞄を一つ持って、古い帽子をちょこんとかぶって出た。

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醫者いしやは小ちひさな手鞄てかばんを一つ持もつて古ふるい帽子ばうしをちよつぽり載いたゞいて出でた。

手鞄は勘次が大事そうに持った。

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手鞄てかばんは勘次かんじが大事相だいじさうに持もつた。

医者は特別の出来事がなければ人力車には乗らないので、いつも朴歯の日和下駄で短い体をぽくぽくと運んで行く。

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醫者いしやは特別とくべつの出來事できごとがなければ俥くるまには乘のらないので、いつも朴齒ほうばの日和下駄ひよりげたで短みじかい體躯からだをぽく/\と運はこんで行ゆく。

それで車賃だけでもいくら助かるか知れないというので、貧乏な百姓からよく呼ばれているのであった。

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それで車錢くるませんだけでも幾いくら助たすかるか知しれないといふので貧乏びんばふな百姓ひやくしやうから能よく聘よばれて居ゐるのであつた。

勘次は道々お品の容態を語って、医者の判断を促してみた。

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勘次かんじは途次みち/\お品しなの容態ようだいを語かたつて醫者いしやの判斷はんだんを促うながして見みた。

医者は一応見なければ分からないと言って、やかましい勘次に返事しなかった。

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醫者いしやは一應おう見みなければ分わからぬといつて五月蠅うるさい勘次かんじに返辭へんじしなかつた。

お品の病んだ体に手を掛けると、医者はさすがに首をかしげた。

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お品しなの病體びやうたいに手てを掛かけると醫者いしやは有繋さすがに首くびを傾かたぶけた。

それが破傷風の徴候であることを知って、恐怖心を抱いた。

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それが破傷風はしやうふうの徴候てうこうであることを知しつて恐怖心きようふしんを懷いだいた。

そうして、自分は注射器を持たないからと言って辞退してしまった。

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さうして自分じぶんは注射器ちうしやきを持もたないからといつて辭退じたいして畢しまつた。

勘次はまた慌てて、ほかの医者へ駆けつけた。

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勘次かんじは又また慌あわてゝ他たの醫者いしやへ駈かけつけた。

その医者は鉛筆で手帳の端へちょっと書きつけて、それではすぐにこれを薬屋で買って来るのだと言った。

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其その醫者いしやは鉛筆えんぴつで手帖ててふの端はしへ一寸ちよつと書かきつけて、それでは直すぐに此これを藥舖くすりやで買かつて來くるのだといつた。

それから、自分の家へこれを出せば渡してくれる者があるからと、これも手帳の端を裂いた。

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それから自分じぶんの家うちへ此これを出だせば渡わたして呉くれるものがあるからと此これも手帖ててふの端はしを裂さいた。

勘次はまた川を越えて走った。

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勘次かんじは又また川かはを越こえて走はしつた。

薬屋では、瓶へ入れた薬を二包み渡してくれた。

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藥舖くすりやでは罎びんへ入いれた藥くすりを二包ふたつゝみ渡わたして呉くれた。

一瓶が七十五銭ずつだと言われて、勘次は懐が急にげっそりと減った心持ちがした。

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一罎ひとびんが七十五錢せんづゝだといはれて、勘次かんじは懷ふところが急きふにげつそりと減へつた心持こゝろもちがした。

彼はとんぼ返りに帰って来た。

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彼かれは蜻蛉返とんぼがへりに歸かへつて來きた。

医者の家からは注射器を渡してくれた。

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醫者いしやの家うちからは注射器ちうしやきを渡わたしてくれた。

ほかの患家を診て、医者は夕刻に来た。

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他ほかの病家びやうかを診みて醫者いしやは夕刻ゆふこくに來きた。

医者はお品のももを湿したガーゼで拭いて、ぎっと肉をつまみ上げて針をぷつりと刺した。

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醫者いしやはお品しなの大腿部だいたいぶを濕しめしたガーゼで拭ぬぐつてぎつと肉にくを抓つまみ上あげて針はりをぷつりと刺さした。

しばらくして針を抜いて、指の先で針の跡を押さえて、そこへ絆創膏を貼った。

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暫しばらくして針はりを拔ぬいて指ゆびの先さきで針はりの趾あとを抑おさへて其處そこへ絆創膏ばんさうかうを貼はつた。

それがすべて、薄暗い手ランプの光で行われた。

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それが凡すべて薄闇うすくらい手てランプの光ひかりで行おこなはれた。

勘次に手ランプを近づけさせて、医者はやっと注射を終えた。

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勘次かんじに手てランプを近ちかづけさせて醫者いしやはやつと注射ちうしやを畢をはつた。

翌日の午前に来て、医者はまた注射をして、たいていこれでよかろうと言って去った。

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翌日よくじつの午前ごぜんに來きて醫者いしやは復また注射ちうしやをして大抵たいてい此これでよからうといつて去さつた。

しかしお品の容態は、依然として回復の徴候がないのみでなく、次第に大儀そうに見えはじめた。

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然しかしお品しなの容態ようだいは依然いぜんとして恢復くわいふくの徴候ちようこうがないのみでなく次第しだいに大儀相たいぎさうに見みえはじめた。

お品はその夕刻から、にわかに痙攣が起こった。

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お品しなは其その夕刻ゆふこくから俄にはかに痙攣けいれんが起おこつた。

体がびりびりと揺れながら、手も足も引き締められるように後ろへ反った。

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身體からだがびり/\と撼ゆるぎながら手ても足あしも引ひき緊しめられるやうに後うしろへ反そつた。

痙攣は時々起こった。

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痙攣けいれんは時々ときどき發作ほつさした。

そのたびごとに、病人は見ていられないほど苦しむ。

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其その度たび毎ごとに病人びやうにんは見みて居ゐられない程ほど苦惱くなうする。

顔が妙にゆがんで、口が無理に横へ引きつられるように見える。

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顏かほが妙めうに蹙しがんで口くちが無理むりに横よこへ引ひき吊つられるやうに見みえる。

勘次は、たった一人のおつぎを相手に、手の出しようもなかった。

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勘次かんじはたつた一人ひとりのおつぎを相手あひてに手ての出だしやうもなかつた。

そうして、しらしら明けというと、すぐにまた医者へ駆けつけた。

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さうしてしら/\明あけといふと直すぐに又また醫者いしやへ駈かけつけた。

医者は、また薬屋へ行って来いと言った。

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醫者いしやは復また藥舖くすりやへ行いつて來こいといつた。

勘次はまた飛んで行った。

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勘次かんじは又また飛とんで行いつた。

しかし、その二号の血清はどこにも品切れであった。

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然しかし其その二號がうの血清けつせいは何處どこにも品切しなぎれであつた。

それは、ある期間を過ぎれば効き目がなくなるので、余計な仕入れもしないのだと薬屋では言った。

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それは或ある期間きかんを經過けいくわすれば効力かうりよくが無なくなるので餘計よけいな仕入しいれもしないのだと藥舖くすりやではいつた。

それに値段が高いものだからというのであった。

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それに値段ねだんが不廉たかいものだからといふのであつた。

勘次はそれでも、いくらくらいするものかと思って聞いたら、一瓶が三円だと言った。

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勘次かんじはそれでも幾いくら位ぐらゐするものかと思おもつて聞きいたら一罎ひとびんが三圓ゑんだといつた。

勘次は、たとえ品物があったところで、自分の今の力ではとうていそれは求められなかったかもしれないと、今さらのように驚いて懐へ手を入れてみた。

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勘次かんじは例令たとひ品物しなものが有あつた處ところで、自分じぶんの現在いまの力ちからでは到底たうていそれは求もとめられなかつたかも知しれぬと今更いまさらのやうに喫驚びつくりして懷ふところへ手てを入いれて見みた。

医者はさらに勘次を薬屋へ走らせた。

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醫者いしやは更さらに勘次かんじを藥舖くすりやへ走はしらせた。

勘次は、ただ医者の言うがままに息せき切って駆けて歩く間が、きっとどうにか防ぎをつけてくれるだろうという頼みもあるので、わずかに自分の心を慰め得る唯一の機会であった。

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勘次かんじは只たゞ醫者いしやのいふが儘まゝに息いきせき切きつて駈かけて歩あるく間あひだが、屹度きつとどうにか防ふせぎをつけてくれるだらうとの恃たのみもあるので僅わづかに自分じぶんの心こゝろを慰なぐさめ得うる唯ゆゐ一の機會きくわいであつた。

医者は一号の倍の量を注射した。

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醫者いしやは一號がうの倍量ばいりやうを注射ちうしやした。

しかしそれは無駄であった。

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然しかしそれは徒勞とらうであつた。

病人の発作は間が短くなった。

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病人びやうにんの發作ほつさは間あひだが短みじかくなつた。

病人はそのたびに呼吸に圧迫を感じた。

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病人びやうにんは其その度たびに呼吸こきふに壓迫あつぱくを感かんじた。

近所の者も三、四人で、苦しむ枕元にいて、みな憂いに包まれた。

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近所きんじよの者ものも三四人にんで苦惱くなうする枕元まくらもとに居ゐて皆みな憂愁いうしうに包つゝまれた。

お品は突然

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お品しなは突然とつぜん

「野田へは知らせてくれまいか」

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「野田のだへは知しらせてくれめえか」

と聞いた。

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と聞きいた。

勘次も近所の者も、卯平へ知らせることも忘れて、ただ苦しむ病人を前に控えて困っているのみであった。

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勘次かんじも近所きんじよの者ものも卯平うへいへ知しらせることも忘わすれて只たゞ苦惱くなうする病人びやうにんを前まへに控ひかへて困こまつて居ゐるのみであつた。

「明日はきっと来るように言ってやったよ」

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「明日あしたは屹度きつと來くるやうにいつて遣やつたよ」

勘次はお品の耳へ口を当てて言った。

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勘次かんじはお品しなの耳みゝへ口くちを當あてていつた。

今さらのように近所の者が頼まれて、夜通しにでも行くということになった。

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今更いまさらのやうに近所きんじよの者ものが頼たのまれて夜通よどほしにも行ゆくといふことに成なつた。

次の日の昼過ぎに、卯平は使いとともに、のっそりとその長大な体を表の戸口に運ばせた。

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次つぎの日ひの午餐過ひるすぎに卯平うへいは使つかひと共ともにのつそりと其その長大ちやうだいな躯幹からだを表おもての戸口とぐちに運はこばせた。

彼は敷居をまたぐとともに、その時はもう、ただ痛い痛いと言って泣き訴えている病人の声を聞いた。

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彼かれは閾しきゐを跨またぐと共ともに、其その時ときはもう只たゞ痛いたい/\というて泣訴きふそして居ゐる病人びやうにんの聲こゑを聞きいた。

「どこが痛いんだ、少しさすらせてみるか」

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「何處どこが痛いたいんだ、少すこしさすらせて見みつか」

勘次が聞いても

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勘次かんじが聞きいても

「背中が仕方がないんだよ」

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「背中せなかが仕しやうがねえんだよ」

と病人は言うのみである。

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と病人びやうにんはいふのみである。

「お品さん、おとっつあんが来たよ、しっかりしろよ」

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「お品しなさん、おとつゝあ來きたよ、確乎しつかりしろよ」

と近所の女房が言った。

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と近所きんじよの女房にようばうがいつた。

それを聞いて、お品はしばらく静かになった。

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それを聞きいてお品しなは暫時しばし靜しづかに成なつた。

「品、どうしたい、大儀いのか」

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「品しなどうしたえ、大儀こはえのか」

口数の少ない卯平は、これだけ言った。

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寡言むくちな卯平うへいは此これだけいつた。

「おとっつあん、待ってたよ。おれは仕方がないよ」

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「おとつゝあ待まつてたよ、俺おら仕しやうねえよ」

お品は情けなさそうに言った。

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お品しなは情なさけなさ相さうにいつた。

「うん、困ったなあ」

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「うむ、困こまつたなあ」

卯平は深い皺をゆがめて言った。

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卯平うへいは深ふかい皺しわを蹙しがめていつた。

そうして後は一言も言わない。

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さうして後あとは一言ごんもいはない。

お品の病状は、だんだん険悪に陥った。

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お品しなの病状びやうじやうは段々だん/\險惡けんあくに陷おちいつた。

医者はモルヒネの注射をして、わずかに眠りの状態を保たせて、その苦痛から逃れさせようとした。

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醫者いしやはモルヒネの注射ちうしやをして僅わづかに睡眠すゐみんの状態じやうたいを保たもたせて其その苦痛くつうから遁のがれさせようとした。

それでもしばらくすると病人はまた意識を回復して、びりびりと体を震わせて、太い縄でぐっと吊されたかと思うように後ろへ反って、その激烈な痙攣に苦しめられた。

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それでも暫しばらくすると病人びやうにんは復また意識いしきを恢復くわいふくして、びり/\と身體からだを撼ふるはせて、太ふとい繩なはでぐつと吊つるされたかと思おもふやうに後うしろへ反そりかへつて、其その劇烈げきれつな痙攣けいれんに苦くるしめられた。

「先生さん、わたしはこれでもどうしたものでしょうね」

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「先生せんせいさん、わたしや此これでもどうしたものでがせうね」

お品は突然に聞いた。

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お品しなは突然とつぜんに聞きいた。

医者はただ口髭をひねって黙っていた。

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醫者いしやは只たゞ口髭くちひげを捻ひねつて默だまつて居ゐた。

「どうでしょうね、先生さん」

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「どうでせうね先生せんせいさん」

勘次も聞いた。

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勘次かんじも聞きいた。

「まあ大丈夫だろうって、病人へだけは言っていたらいいでしょう」

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「まあ大丈夫だいぢやうぶだらうつて病人びやうにんへだけはいつて居ゐたらいゝでせう」

医者はささやいた。

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醫者いしやは耳語さゝやいた。

「お品、大丈夫だとよ。それから我慢してしっかりしてろとよ」

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「お品しな、大丈夫だいぢやうぶだとよ、夫それから我慢がまんして確乎しつかりしてろとよ」

勘次は病人の耳で怒鳴った。

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勘次かんじは病人びやうにんの耳みゝで呶鳴どなつた。

「そんでも、おれは明日の日まではとても持たないと思うよ。本当におれは大儀いなあ」

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「そんでも俺おら明日あすの日ひまではとつても持もたねえと思おもふよ。本當ほんたうに俺おら大儀こはいゝなあ」

お品は切なそうに言った。

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お品しなは切せつな相さうにいつた。

歯の間をようやく漏れる声は、悲しい響きを伝えて、しかも意識ははっきりしていることを示した。

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齒はの間あひだを漸やうやくに洩もれる聲こゑは悲かなしい響ひゞきを傳つたへて然しかも意識いしきは明瞭めいれうであることを示しめした。

医者はついに、限度いっぱいのモルヒネを注射して去った。

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醫者いしやは遂つひに極量きよくりやうのモルヒネを注射ちうしやして去さつた。

夜になって、痙攣は絶え間なく起こった。

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夜よになつて痙攣けいれんは間斷かんだんなく發作ほつさした。

熱は非常に上がった。

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熱度ねつどは非常ひじやうに昂進かうしんした。

液体の一滴も取ることができないにもかかわらず、乱れた髪の毛ごとに伝って落ちるかと思うように、汗が玉をなして垂れた。

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液體えきたいの一滴てきをも攝取せつしゆすることが出來できないにも拘かゝはらず、亂みだれた髮かみの毛け毎ごとに傳つたひて落おちるかと思おもふやうに汗あせが玉たまをなして垂たれた。

布団を湿す汗の匂いが鼻を突いた。

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蒲團ふとんを濕ぬらす汗あせの臭くさみが鼻はなを衝ついた。

「勘次さん、ここにいてくれよ」

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「勘次かんじさん此處ここに居ゐてくろうよ」

お品は苦しい中にも、ひたすら勘次を慕った。

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お品しなは苦くるしい内うちにも只管ひたすら勘次かんじを慕したつた。

「おうよ、ここにいたよ。どこへも行きやしないよ」

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「おうよ、こゝに居ゐたよ、何處どこへも行ゆきやしねえよ」

勘次はそのたびに耳へ口を当てて言った。

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勘次かんじは其その度たびに耳みゝへ口くちを當あてていつた。

「勘次さん」

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「勘次かんじさん」

お品はまた呼んだ。

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お品しなは又また喚よんた。

「どうしたよ」

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「怎的どうしたよ」

勘次が言ったのはお品に通じなかったのか

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勘次かんじのいつたのはお品しなに通つうじなかつたのか

「おとっつあん、おれはとってもなあ」

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「おとつゝあ、俺おらとつてもなあ」

とお品は少し間を置いて、そうして勘次の手を取った。

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とお品しなは少時しばし間あひだを措おいて、さうして勘次かんじの手てを執とつた。

「おつう、お前はなあ、よきもなあ」

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「おつう汝われはなあ、よきもなあ」

と言って、また発作の苦しみに陥った。

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といつて又また發作ほつさの苦惱くなうに陷おちいつた。

「勘次さん、おれが死んだらなあ、棺桶へ入れてくれよ……」

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「勘次かんじさん、俺おら死しんだらなあ、棺桶くわんをけへ入いれてくろうよ……」

勘次が聞こうとすると、しばらく間を置いて

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勘次かんじは聞きかうとすると暫しばらく間あひだを隔へだてて

「後ろの田のあぜになあ、ぐみの木のとこでなあ」

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「後うしろの田たの畔くろになあ、牛胡頽子うしぐみのとこでなあ」

お品は切れ切れに言った。

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お品しなは切きれ/″\にいつた。

勘次はほぼその意味を理解した。

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勘次かんじは略ほゞ其その意いを了解れうかいした。

お品はそれから激烈な発作に遮られて、もう言わなかった。

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お品しなはそれから劇烈げきれつな發作ほつさに遮さへぎられてもういはなかつた。

突然

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突然とつぜん

「風呂敷、風呂敷」

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「風呂敷ふろしき、/\」

と理由の分からないうわごとを言って、意識はまったく不明になった。

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と理由わけの解わからぬ囈語うはごとをいつて、意識いしきは全まつたく不明ふめいに成なつた。

ついには、異常な力が加わったかと思うように、お品の足は布団を蹴って、体が激しく動いた。

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遂つひには異常いじやうな力ちからが加くははつたかと思おもふやうにお品しなの足あしは蒲團ふとんを蹴けつて身體からだが激動げきどうした。

枕元にいた人々はめいめいに、苦しむお品の足を押さえた。

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枕元まくらもとに居ゐた人々ひと/″\は各自てんでに苦くるしむお品しなの足あしを抑おさへた。

こうして人々は、刻々に死の運命に迫られて行くお品の病んだ体を押さえつけた。

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恁かうして人々ひと/″\は刻々こく/\に死しの運命うんめいに逼せまられて行ゆくお品しなの病體びやうたいを壓迫あつぱくした。

お品の発作が止まった時は、かすかなその呼吸も止まった。

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お品しなの發作ほつさが止やんだ時ときは微かすかな其その呼吸こきふも止とまつた。

夜はしんとしていた。

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夜よは森しんとして居ゐた。

雨戸がかすかに動いて、落ち葉の庭を走るのもさらさらと聞かれた。

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雨戸あまどが微かすかに動うごいて落葉おちばの庭にはを走はしるのもさら/\と聞きかれた。

お品の体は足のほうから冷たくなった。

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お品しなの身體からだは足あしの方はうから冷つめたくなつた。

お品が死んだということを意識した時に、勘次もおつぎも、みなこらえた思いが一時に激発した。

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お品しなが死しんだといふことを意識いしきした時ときに勘次かんじもおつぎもみんな怺こらへた情じやうが一時じに激發げきはつした。

そうして遠慮をする余裕を持たない彼らは、声を放って泣いた。

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さうして遠慮ゑんりよをする餘裕よゆうを有もたない彼等かれらは聲こゑを放はなつて泣ないた。

枕元の者はみなともに泣いた。

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枕元まくらもとのものは皆みな共ともに泣ないた。

与吉は独り、死んだお品のそばに熟睡していた。

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與吉よきちは獨ひとり死しんだお品しなの側そばに熟睡じゆくすゐして居ゐた。

卯平は取りあえず、お品の手を胸で合わせてやった。

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卯平うへいは取とり取あへずお品しなの手てを胸むねで合あはせてやつた。

そうして、機の道具の一つである杼を布団へ乗せた。

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さうして機はたの道具だうぐの一ひとつである杼ひを蒲團ふとんへ乘のせた。

猫が死人を越えて渡ると化けると言って、杼は猫よけであった。

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猫ねこが死人しにんを越こえて渡わたると化ばけるといつて杼ひは猫ねこの防禦ばうぎよであつた。

杼を乗せておけば猫は渡らないと信じられているのである。

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杼ひを乘のせて置おけば猫ねこは渡わたらないと信しんぜられて居ゐるのである。

夜はますます更けて、冷えきっていた。

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夜よは益ます/\深ふけて冷ひえ切きつて居ゐた。

家の中には一塊の炭火も蓄えてはなかった。

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家いへの内うちには一塊くわいの煨おきも貯たくはへてはなかつた。

枕元にいた近所の人々は、勘次とおつぎの泣き止むまでは体を動かすこともできないで、じっと冷たい手を懐に暖めていた。

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枕元まくらもとに居ゐた近所きんじよの人々ひと/″\は勘次かんじとおつぎの泣なき止やむまでは身體からだを動うごかすことも出來できないで凝然ぢつと冷つめたい手てを懷ふところに暖あたゝめて居ゐた。

おつぎはようやくかまどへ落ち葉をくべて茶を沸かした。みなただぼんやりとして茶をすすった。

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おつぎは漸やうやく竈かまどへ落葉おちばを燻くべて茶ちやを沸わかした、みんな只たゞぽつさりとして茶ちやを啜すゝつた。

「勘次も、早く知らせやがればいいのに」

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「勘次かんじもかせえて知しらせやがればえゝのに」

卯平がぶすりと呟く声は低く、しかもみなの耳の底に響いた。

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卯平うへいがぶすりと呟つぶやく聲こゑは低ひくくしかもみんなの耳みゝの底そこに響ひゞいた。

卯平はその日の未明に使いの来るまでは、お品の病気はちっとも知らずにいた。

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卯平うへいは其その日ひの未明みめいに使つかひの來くるまではお品しなの病氣びやうきはちつとも知しらずに居ゐた。

驚いて来てみれば、もうこんな始末である。

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驚おどろいて來きて見みればもうこんな始末しまつである。

卯平も泣いた。

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卯平うへいも泣ないた。

彼は煙管をかんでは、ただ舌打ちをして唾を飲んだ。

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彼かれは煙管きせるを噛かんでは只たゞ舌皷したつゞみを打うつて唾つばを嚥のんだ。

勘次はただ泣いていた。

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勘次かんじは只たゞ泣ないて居ゐた。

彼はお品の発病から、どれほど苦心してその身を労したか知れない。

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彼かれはお品しなの發病はつびやうからどれ程ほど苦心くしんして其その身みを勞らうしたか知しれぬ。

お品の病気を案じるほか、彼の心には何もなかった。

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お品しなの病氣びやうきを案あんずる外ほか彼かれの心こゝろには何なにもなかつた。

その当時には、卯平に不平を言われようというような懸念は、少しも頭に起こらなかったのである。

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其その當時たうじには卯平うへいに不平ふへいをいはれやうといふやうな懸念けねんは寸毫すこしも頭あたまに起おこらなかつたのである。

お品の死は、卯平をもひどく落胆させた。

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お品しなの死しは卯平うへいをも痛いたく落膽らくたんせしめた。

卯平は七十一の老人であった。

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卯平うへいは七十一の老爺おやぢであつた。

一昨年の秋から、卯平は野田の醤油蔵へ火の番に雇われた。

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一昨年をととしの秋あきから卯平うへいは野田のだの醤油藏しやうゆぐらへ火ひの番ばんに傭やとはれた。

卯平は、お品が三つの時に、死んだおふくろの所へ入り婿になったのである。

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卯平うへいはお品しなが三つの時ときに、死しんだお袋ふくろの處ところへ入夫にふふになつたのである。

五つの時から甘えたので、お品は卯平になついていた。

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五つの時ときから甘あまへたのでお品しなは卯平うへいに懷なづいて居ゐた。

おふくろの生きているうちは卯平もまだ壮健であったが、おふくろが亡くなって卯平の皺が深く刻まれてからは、以前からよくなかった勘次との間がだんだん隔たって、お品もそれには困った。

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お袋ふくろの生いきて居ゐるうちは卯平うへいもまだ壯さかりであつたが、お袋ふくろが亡なくなつて卯平うへいの皺しわが深ふかく刻きざまれてからは以前いぜんから善よくなかつた勘次かんじとの間あひだが段々だん/\隔へだつて、お品しなもそれには困こまつた。

とうとう、村の紹介業をしている者の勧めに任せて、卯平が言うままに奉公に出したのであった。

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到頭たうとう村むらの紹介業せうかいげふをして居ゐる者ものの勸すゝめに任まかせて卯平うへいがいふ儘まゝに奉公ほうこうに出だしたのであつた。

病人の枕元にいた近所の者は、一杯の茶をすすって、村の親戚へ知らせに出るものもあった。

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病人びやうにんの枕元まくらもとに居ゐた近所きんじよの者ものは一杯ぱいの茶ちやを啜すゝつて村むらの姻戚みよりへ知しらせに出でるものもあつた。

それから葬式のことについて相談をした。

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それから葬式さうしきのことに就ついて相談さうだんをした。

葬式はほんの親戚と近所とだけで、明日のうちに済ますということに決めた。

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葬式さうしきはほんの姻戚みよりと近所きんじよとだけで明日あすの内うちに濟すますといふことに極きめた。

夜が明けると、近所の人々は寺へ行ったり葬具を買いに行ったり、他村の親戚への知らせに行ったりして、家には近所の女房が二、三人、義理を言いに来ていた。

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夜よがあけると近所きんじよの人々ひとびとは寺てらへ行いつたり無常道具むじやうだうぐを買かひに行いつたり、他村たそんの姻戚みよりへの知しらせに行いつたりして家いへには近所きんじよの女房にようばうが二三人にん義理ぎりをいひに來きて居ゐた。

親戚といっても、お品のためには待たなくてはならないという者はないので、勘次はおつぎとともにむしろをめくって、そこへたらいを据えてお品の死体を清めてやった。

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姻戚みよりといつてもお品しなの爲ためには待またなくては成ならぬといふものはないので勘次かんじはおつぎと共ともに筵むしろを捲まくつて、其處そこへ盥たらひを据すゑてお品しなの死體したいを淨きよめて遣やつた。

激烈な病苦のために、その力ない死体はげっそりとひどいやつれようをしていた。

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劇烈げきれつな病苦びやうくの爲ために其その力ちからない死體したいはげつそりと酷ひどい窶やつれやうをして居ゐた。

卯平はただぼんやりとして、それを見ていた。

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卯平うへいは只たゞぽつさりとしてそれを見みて居ゐた。

死体はまた、その汚い夜具へ横たえられた。

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死體したいは復また其その穢きたない夜具やぐへ横よこたへられた。

たらいの汚れたぬるま湯は、すのこの上から土に注がれた。

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盥たらひの汚けがれた微温湯ぬるまゆは簀すの子この上うへから土つちに注そゝがれた。

そうして、そのぬれたすのこには、めくったむしろがまた敷かれた。

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さうして其その沾ぬれた簀すの子こには捲まくつた筵むしろが又また敷しかれた。

朝から雨戸は開け放たれて、歩けばぎしぎしと鳴るすのこの上のむしろは草箒で掃かれた。

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朝あさから雨戸あまどは開あけ放はなたれて歩あるけばぎし/\と鳴なる簀すの子この上うへの筵むしろは草箒くさばうきで掃はかれた。

そうして東隣から借りて来たござが五、六枚敷かれた。

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さうして東隣ひがしどなりから借かりて來きた蓙ござが五六枚まい敷しかれた。

それから土地の習慣で、勘次は清めてやったお品の死体は一切を近所の手に任せた。

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それから土地とちの習慣しふくわんで勘次かんじは淨きよめてやつたお品しなの死體したいは一切さいを近所きんじよの手てに任まかせた。

近所の女房らは、一反の晒し木綿を半分切って、それで形ばかりの短い経帷子と、死に顔を隠す頭巾と、ふんごみとを縫って、それを着せた。

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近所きんじよの女房等にようばうらは一反たんの晒木綿さらしもめんを半分はんぶん切きつてそれで形かたばかりの短みじかい經帷子きやうかたびらと死相しさうを隱かくす頭巾づきんとふんごみとを縫ぬつてそれを着きせた。

ふんごみは、ただ三角にして足袋の代わりに爪先へはかせるのであった。

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ふんごみは只たゞ三角かくにして足袋たびの代かはりに爪先つまさきへ穿はかせるのであつた。

脚絆は切れのまま、麻で足へくくりつけた。

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脚絆きやはんは切きれの儘まゝ麻あさで足あしへ括くゝり附つけた。

これもその木綿で縫った頭陀袋を首から掛けさせて、三途の川の渡し銭だという六文の銭を入れてやった。

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此これも其その木綿もめんで縫ぬつた頭陀袋づだぶくろを首くびから懸かけさせて三途づの川かはの渡錢わたしせんだといふ六文もんの錢ぜにを入いれてやつた。

髪は麻で結んで、白櫛を挿してやった。

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髮かみは麻あさで結むすんで白櫛しろぐしを揷さして遣やつた。

お品の硬くなった体は、曲げて立て膝にして棺桶へ入れられた。

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お品しなの硬着かうちやくした身體からだは曲まげて立膝たてひざにして棺桶くわんをけへ入いれられた。

首がふたに触れるので、骨のくじけるまで押さえつけられて、すくみが掛けられた。

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首くびが葢ふたに觸さはるので骨ほねの挫くぢけるまで抑おさへつけられてすくみが掛かけられた。

すくみというのは、縮めたままの形が保たれるように、死体の下から荒縄を回しておいて、首筋の所でぎっしりとくくることである。

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すくみといふのは蹙ちゞめた儘まゝの形かたちが保たもたれるやうに死體したいの下したから荒繩あらなはを廻まはして置おいて首筋くびすぢの處ところでぎつしりと括くゝることである。

粗末な松板でこしらえた出来合いの棺桶は、みりみりと鳴った。

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麁末そまつな松板まついたで拵こしらへた出來合できあひの棺桶くわんをけはみり/\と鳴なつた。

こういう無残な扱いは、どうしても他人の手に任せられねばならなかった。

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恁かういふ無残むざんな扱あつかひはどうしても他人たにんの手てに任まかせられねばならなかつた。

板のままばらばらになっている棺台は、買って来てから近所の手で釘付けにされた。

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板いたの儘まゝばら/\に成なつて居ゐる棺臺くわんだいは買かつて來きてから近所きんじよの手てで釘付くぎづけにされた。

そこには、浅い箱を逆さにしたようなものができた。

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其處そこには淺あさい箱はこの倒さかさにしたものが出來できた。

その棺台の上には、死体を入れた棺桶が載せられた。

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其その棺臺くわんだいの上うへには死體したいを入いれた棺桶くわんをけが載のせられた。

勘次はその朝未明に、そっと家の後ろの楢の木の間を田の端へ下りて、境木のぐみの木のそばを注意して見た。

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勘次かんじは其その朝あさ未明みめいにそつと家いへの後うしろの楢ならの木きの間あひだを田たの端はしへおりて境木さかひぎの牛胡頽子うしぐみの傍そばを注意ちういして見みた。

唐鍬か何かで動かした土の跡が目についた。

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唐鍬たうぐはか何なにかで動うごかした土つちの跡あとが目めに附ついた。

勘次は手にして行った草刈り鎌で、そくそくと土をつつくようにして掘った。

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勘次かんじは手てにして行いつた草刈鎌くさかりがまでそく/\と土つちをつゝくやうにして掘ほつた。

そうして、その柔らかになった土を手でさらった。

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さうして其その軟やはらかに成なつた土つちを手てで浚さらつた。

ぼろの包みが出た。

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襤褸ぼろの包つゝみが出でた。

彼はそこに、小さな一塊の肉を見つけたのである。

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彼かれは其處そこに小ちひさな一塊肉くわいにくを發見はつけんしたのである。

勘次はそれを大事に懐へ入れた。

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勘次かんじはそれを大事だいじに懷ふところへ入いれた。

悪事の発覚でも恐れるような様子で、彼は周りを見回した。

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惡事あくじの發覺はつかくでも恐おそれるやうな容子ようすで彼かれは周圍あたりを見廻みまはした。

彼はさらに古い油紙で包んで片づけておいて、お品の死体が棺桶に入れられた時、彼はそっとお品の懐に抱かせた。

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彼かれは更さらに古ふるい油紙あぶらがみで包つゝんで片付かたづけて置おいて、お品しなの死體したいが棺桶くわんをけに入いれられた時とき彼かれはそつとお品しなの懷ふところに抱いだかせた。

お品のやせきった手が、勘次のするままにそれをしっかりと抱き締めて、その骨ばかりの頬が、ぴったりと擦りつけられた。

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お品しなの痩やせ切きつた手てが勘次かんじのする儘まゝにそれを確乎しつかと抱だき締しめて、其その骨ほねばかりの頬ほゝが、ぴつたりと擦すりつけられた。

葬式の日は赤口という日であった。

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葬式さうしきの日ひは赤口しやくこうといふ日ひであつた。

勘次は近所と親戚とのほかには一飯も出さなかったが、それでも村の者はみな二銭ずつ持って弔みに来た。

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勘次かんじは近所きんじよと姻戚みよりとの外ほかには一飯ぱんも出ださなかつたがそれでも村むらのものは皆みな二錢せんづゝ持もつて弔くやみに來きた。

そうして、さっさと帰って行った。

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さうしてさつさと歸かへつて行いつた。

遠く離れた寺からは、住職と小坊主とが、色のさめた萌葱の法被を着た供を一人連れて、挟み箱をかつがせて歩いて来た。

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遠とほく離はなれた寺てらからは住職ぢうしよくと小坊主こばうずとが、褪さめた萠黄もえぎの法被はつぴを着きた供とも一人ひとり連つれて挾箱はさみばこを擔かつがせて歩あるいて來きた。

小坊主はすぐに棺桶のふたを取って、白い木綿をめくって、やつれた頬へかみそりをちょっと当てた。

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小坊主こばうずは直すぐに棺桶くわんをけの葢ふたをとつて白しろい木綿もめんを捲まくつて窶やつれた頬ほゝへ剃刀かみそりを一寸ちよつと當あてた。

この形式的な顔剃りが済んでから、ふたは釘で打ちつけられた。

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此この形式的けいしきてきの顏剃かほそりが濟すんでから葢ふたは釘くぎで打うち附つけられた。

荒縄が十文字に掛けられた。

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荒繩あらなはが十文字もんじに掛かけられた。

晒し木綿の残った半反で、それがぐるぐると巻かれた。

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晒木綿さらしもめんの残のこつた半反はんだんでそれがぐる/\と捲まかれた。

桶にはさらに天蓋が載せられた。

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桶をけには更さらに天葢てんがいが載のせられた。

天蓋といっても、両端がわらびのように巻いた狭い松板を二枚十字に合わせたまでのものに過ぎない、簡単なものである。

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天葢てんがいというても兩端りやうたんが蕨わらびのやうに捲まかれた狹せまい松板まついたを二枚まい十字じに合あはせたまでのものに過すぎない簡單かんたんなものである。

すすけた壁には、これも古ぼけた赤い曼荼羅の大幅が、飾りのように掛けられた。

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煤すゝけた壁かべには此これも古ふるぼけた赤あかい曼荼羅まんだらの大幅おほふくが飾かざりのやうに掛かけられた。

棺はわずかな人で葬られた。

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棺くわんは僅わづかな人ひとで葬はうむられた。

それでも白提灯が二張りかざされた。

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それでも白提灯しろぢやうちんが二張ふたはり翳かざされた。

裂き竹を格子の目に編んで、いいかげんの大きさになるとぐるりと四方を一つにまとめてくくった花籠も、二つかざされた。

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裂さき竹だけを格子かうしの目めに編あんでいゝ加減かげんの大おほきさに成なるとぐるりと四方はうを一つに纏まとめて括くゝつた花籠はなかごも二つ翳かざされた。

いずれも青竹の柄がつけられた。

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孰どれも青竹あをだけの柄えが附つけられた。

その籠へは、髭のように裂き竹を立てて、その裂き竹には赤や黄や青やその他の色紙で刻んだ花を飾った。

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其その籠かごへは髭ひげのやうに裂さき竹だけを立たてゝ其その裂さき竹だけには赤あかや黄きや青あをや其その他たの色紙いろがみで刻きざんだ花はなを飾かざつた。

その花籠はまた、底へ紙を敷いて死んだ者の年齢の数だけ小銭を入れて、それをかざした人が時々ざらざらと振っては、籠の目からその小銭を振り落とした。

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其その花籠はなかごは又また底そこへ紙かみを敷しいて死しんだものゝ年齡としの數かずだけ小錢こぜにを入いれて、それを翳かざした人ひとが時々ときどきざら/\と振ふつては籠かごの目めから其その小錢こぜにを振ふり落おとした。

村の子供が争ってそれを拾った。

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村むらの小供こどもが爭あらそつてそれを拾ひろつた。

提灯と花籠は先に立った。

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提灯ちやうちんと花籠はなかごは先さきに立たつた。

後ろからは村の念仏衆が、赤い胴の太鼓を首へ掛けて、だらりだらりとだらけた叩きようをしながら、いっせいに声を上げてついて行った。

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後あとからは村むらの念佛衆ねんぶつしうが赤あかい胴どうの太皷たいこを首くびへ懸かけてだらりだらりとだらけた叩たゝきやうをしながら一同どうに聲こゑを擧あげて跟ついて行いつた。

棺は小道を避けて大道を行った。

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柩ひつぎは小徑こみちを避さけて大道わうらいを行いつた。

村の者は自分の門からそれをのぞいた。

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村むらの者ものは自分じぶんの門かどからそれを覗のぞいた。

棺桶は据わりが悪いせいか、途中で止まずぐらりぐらりと揺れた。

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棺桶くわんをけは据すわりが惡わるい所爲せゐか途中とちうで止やまずぐらり/\と動搖どうえうした。

勘次はそれでも羽織袴で位牌を持った。

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勘次かんじはそれでも羽織はおり袴はかまで位牌ゐはいを持もつた。

それはみな借りたので、羽織の紐には紙縒りがつけてあった。

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それは皆みな借かりたので羽織はおりの紐ひもには紙撚こよりがつけてあつた。

墓の穴は、焼けたような赤土が四方へうずたかくかき上げられてあった。

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墓はかの穴あなは燒やけた樣やうな赤土あかつちが四方はうへ堆うづたかく掻かき上あげられてあつた。

そこには、これまで隙間のないほど穴が掘られて、多くの人が埋められたので、手の骨や足の骨がいつものように掘り出されて投げられてあった。

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其處そこには從來これまで隙間すきまのない程ほど穴あなが掘ほられて、幾多いくたの人ひとが埋うづめられたので手ての骨ほねや足あしの骨ほねがいつものやうに掘ほり出だされて投なげられてあつた。

法被を着た寺の供が、棺桶を巻いた半反の白木綿を取って挟み箱に入れた。

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法被はつぴを着きた寺てらの供ともが棺桶くわんをけを卷まいた半反はんだんの白木綿しろもめんをとつて挾箱はさんばこに入いれた。

やがて棺桶は荒縄で下げて、その赤い土の底に踏みつけられた。

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軈やがて棺桶くわんをけは荒繩あらなはでさげて其その赤あかい土つちの底そこに踏ふみつけられた。

粗末な棺台は少しうずたかくなった土の上に置かれて、二つの白張り提灯と二つの花籠とがそのそばに立てられた。

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麁末そまつな棺臺くわんだいは少すこし堆うづたかく成なつた土つちの上うへに置おかれて、二ふたつの白張提灯しらはりちやうちんと二ふたつの花籠はなかごとが其その傍そばに立たてられた。

お品は生まれてこのかた、土を踏まない日はないと言っていいくらいであった。

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お品しなは生來せいらい土つちを踏ふまない日ひはないといつていゝ位ぐらゐであつた。

そうしてそれは、凍てつく冬の季節を除いてはたいてい、直接に足の底が土についていた。

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さうしてそれは凍いてる冬ふゆの季節きせつを除のぞいては大抵たいていは直接ちよくせつに足あしの底そこが土つちについて居ゐた。

お品はこうして冷たい屍になってからも、その足の底は棺桶の板一枚を隔てただけで、さらに永久に土と接しているのであった。

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お品しなは恁かうして冷つめたい屍かばねに成なつてからも其その足あしの底そこは棺桶くわんをけの板いた一枚まいを隔へだてただけで更さらに永久えいきうに土つちと相あひ接せつして居ゐるのであつた。

小さな葬式ながら、棺が出た後は、つむじ風が埃を吹き払ったようにからりとしていた。

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小ちひさな葬式さうしきながら柩ひつぎが出でた後あとは旋風つむじかぜが埃ほこりを吹ふつ拂ぱらつた樣やうにからりとして居ゐた。

手伝いに来ていた女房らは、それでなくても膳立てをする客が少なくて暇であったから、めっきり手持ち無沙汰になった。

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手傳てつだひに來きて居ゐた女房等にようばうらはそれでなくても膳立ぜんだてをする客きやくが少すくなくて暇ひまであつたから滅切めつきり手持てもちがなくなつた。

それでも立ちながら椀と箸とを持って、口を動かしている者もあった。

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それでも立たちながら椀わんと箸はしとを持もつて口くちを動うごかして居ゐるものもあつた。

膳部は決まったとおり、皿も平椀も壺椀もつけられた。

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膳部ぜんぶは極きまつた通とほり皿さらも平ひらも壺つぼもつけられた。

それでも切り昆布とひじきと油揚げと豆腐とのほかは、百姓の手で作ったものばかりで料理された。

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それでも切昆布きりこぶと鹿尾菜ひじきと油揚あぶらげと豆腐とうふとの外ほかは百姓ひやくしやうの手てで作つくつたものばかりで料理れうりされた。

皿には、細かく刻んで塩でもんだ大根と人参とのなますが、ちょこんと乗せられた。

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皿さらには細こまかく刻きざんで鹽しほで揉もんだ大根だいこと人參にんじんとの膾なますがちよつぽりと乘のせられた。

そういう残り物と冷たくなった豆腐汁とをつついても、麦の交じらない飯がその口にはこの上もないごちそうなので、女房らは、その丈夫で、しかも広がった胃の容れるかぎりは、口がこれをむさぼって止まないのである。

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さういふ残物のこりものと冷つめたく成なつた豆腐汁とうふじるとをつゝいても麥むぎの交まじらぬ飯めしが其その口くちには此この上うへもない滋味じみなので、女房等にようばうらは其その強健きやうけんで且かつ擴大くわくだいされた胃ゐの容いれる限かぎりは口くちが之これを貪むさぼつて止やまないのである。

彼女らは裏戸の陰に集まって雑談にふけった。

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彼等かれらは裏戸うらどの陰かげに聚あつまつて雜談ざつだんに耽ふけつた。

「どうしたっけまあ、ひどく棺桶がぐらぐらしたんじゃなかったっけかい」

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「どうしたつけまあ、酷ひどく棺桶くわんをけぐら/\したんぢやなかつたつけゝえ」

「そのはずだろうな。後が心配で仕方がない仏はああいうふうに動くんだっていうぞ、お前」

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「其その筈はずだんべな、後あとが心配しんぺえで仕しやうねえ佛ほとけはあゝえに動いごくんだつちぞおめえ」

「勘次さんのことが欲しくて、後へ残して行くのがつらいんだろうよ」

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「勘次かんじさんこと欲ほしくつて後あとへ残のこしてくのが辛つれえんだごつさら」

「そんだがよ、あんまり欲しがられると、しまいには迎えに来て連れて行かれるとよ」

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「そんだがよ、餘あんまり欲ほしがられつと遂しめえにや迎むけえに來きて連つれ行ゆかれつとよ」

「ああいやだ、おれは」

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「おゝ厭やだ俺おら」

「連れてってくれと言ったって、お前らのことなんか迎えに来る者もあるまいな」

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「連つれてつてくろつちつたつておめえ等らこた迎むけえに來くるものもあんめえな」

口々にこんなことが遠慮もなく繰り返された。

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口々くちぐちに恁こんなことが遠慮ゑんりよもなく反覆くりかへされた。

間がしばらく途切れた時

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間あひだが少時しばし途切とぎれた時とき

「お品さんも惜しい命をなあ」

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「お品しなさんも可惜あつたら命いのちをなあ」

と一人が思い出したように言った。

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と一人ひとりが思おもひ出だしたやうにいつた。

「本当だ。他人のやらないことでもありゃしまいし」

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「本當ほんたうだ他人ひとのやらねえこつてもありやしめえし」

ほかの女房が相づちを打った。

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他たの女房にようばうが相槌あひづちを打うつた。

「風邪を引いたなんてか。今度の風邪は強いから起きられないなんて、しらばっくれてな」

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「風邪かぜ引ひいたなんてか、今度こんだの風邪かぜは強つええから起おきらんねえなんて、しらばつくれてな」

「死ぬ者貧乏なんだよ」

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「死しぬ者もの貧乏びんばふなんだよ」

「そんだが、お品さんは自分のばかりじゃないっていうんじゃないかい」

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「そんだがお品しなさんは自分じぶんのがばかりぢやねえつちんぢやねえけ」

「そうだとよ。大きな声じゃ言えないが、五十銭とか八十銭とか取って、他人のも行ったんだとよ」

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「さうだとよ、大えけえ聲こゑぢやゆはんねえが、五十錢ごくわんとか八十錢はちくわんとか取とつて他人ひとのがも行やつたんだとよ」

「八十銭ずつも取っちゃお前、女の手じゃたいしたもんだがな。今度は自分で死んじまうなんて、やりきれないこったなあ」

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「八十錢はちくわんづゝも取とつちやおめえ、女をんなの手てぢやたえしたもんだがな、今度こんだ自分じぶんで死しんちまあなんて、行やんねえこつたなあ」

「罪を作った罰じゃないか」

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「罪つみ作つくつた罰ばつぢやねえか」

遠慮もなく、それからそれへと移るのである。

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遠慮ゑんりよもなくそれからそれと移うつるのである。

「そんなこと言って、今出た仏のことをお前ら、取っつかれるから見ろよ」

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「そんなことゆつて、今いま出でた佛ほとけのことをおめえ等ら、とつゝかれつから見みろよ」

ほかの一人の女房が言った時、話がしばらく途切れて静まった。

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他たの一人ひとりの女房にようばうがいつた時とき噺はなしが暫時しばらく途切とぎれて靜しづまつた。

一人の女房が皿の大根を手でつまんで口へ入れた。

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一人ひとりの女房にようばうが皿さらの大根だいこを手てで撮つまんで口くちへ入いれた。

「そういう所を他人に見られたらどうしたもんだい」

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「さうえ處とこ他人ひとに見みられたらどうしたもんだえ」

そばから言われて

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側そばからいはれて

「見てやあしまいな」

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「見みてやあしめえな」

と、その女房は裏戸の口から庭のほうを見た。

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と其その女房にようばうは裏戸うらどの口くちから庭にはの方はうを見みた。

そうして

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さうして

「おれみたいな婆はどうせこれから嫁にでも行くあてがあるじゃなし、構わないことは構わないがな」

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「俺おら見みてえな婆ばゞあはどうで此これから娶よめにでも行いくあてがあんぢやなし、構かまあねえこたあ構かまあねえがな」

と言って笑った。

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といつて笑わらつた。

一同どっと笑い声を発した。

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一同みんなどつと笑聲わらひごゑを發はつした。

棺を送った人々が離れ離れに帰って来るまでは、雑談がそれからそれへと止まなかった。

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柩ひつぎを送おくつた人々ひとびとが離れ/″\に歸かへつて來くるまでは雜談ざつだんがそれからそれと止やまなかつた。

ふだん何の慰めを与えられる機会をも持っていないで、しかも聞きたがり、知りたがり、話したがる彼女らは、三人とさえ集まれば、膨らんだガスが袋の破れ目を求めて逃げ去るように、ついには前後の分別もなくその舌を動かすのである。

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平日へいじつ何等なんらの慰藉ゐしやを與あたへらるゝ機會きくわいをも有いうして居ゐないで、然しかも聞ききたがり、知しりたがり、噺はなしたがる彼等かれらは三人にんとさへ聚あつまれば膨脹ばうちやうした瓦斯ガスが袋ふくろの破綻はたんを求もとめて遁にげ去さる如ごとく、遂つひには前後ぜんごの分別ふんべつもなく其その舌したを動うごかすのである。

たまたま引き出しから出した垢のつかない半纏を着て、髪にはどんな格好にも櫛を入れて、そうして弔みを済ますまでは、彼女らはふだんにないしおらしい様子を保つのである。

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偶たま/\抽斗ひきだしから出だした垢あかの附つかぬ半纏はんてんを被きて、髮かみにはどんな姿なりにも櫛くしを入いれて、さうして弔くやみを濟すますまでは彼等かれらは平常いつもにないしほらしい容子ようすを保たもつのである。

それは、改まって不慣れな義理を述べねばならないという懸念が、わずかながら彼女らの心を支配しているからである。

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それは改あらたまつて不馴ふなれな義理ぎりを述のべねばならぬといふ懸念けねんが、僅わづかながら彼等かれらの心こゝろを支配しはいして居ゐるからである。

しかし土間へ下りて、たすきが掛けられて、膳や椀を洗ったり拭いたり、その手を忙しく動かすようになれば、彼女らの心はそれに引かれて、その聞きたがり、知りたがり、話したがる性情の自然に帰るのである。

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然しかし土間どまへおりて、襷たすきが掛かけられて、膳ぜんや椀わんを洗あらつたり拭ふいたり其その手てを忙いそがしく動うごかすやうに成なれば、彼等かれらの心こゝろはそれに曳ひかされて其その聞ききたがり、知しりたがり、噺はなしたがる性情せいじやうの自然しぜんに歸かへるのである。

たとえ他人のためには悲しい日でも、その一日だけは自分の生活から離れて何人かの人々といっしょに集まることが、彼女らにはむしろ愉快な一日でなければならない。

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假令たとひ他人たにんの爲ためには悲かなしい日ひでも其その一日じつだけは自己じこの生活せいくわつから離はなれて若干じやくかんの人々ひとびとと一緒しよに集合しふがふすることが彼等かれらには寧むしろ愉快ゆくわいな一日にちでなければならぬ。

絶え間なく消耗して行く肉体の欠損を補うために取る食料は、一椀といえどもことごとく自分の惨憺たる労力の一部を割いているのである。

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間斷かんだんなく消耗せうまうして行ゆく肉體にくたいの缺損けつそんを補給ほきふするために攝取せつしゆする食料しよくれうは一椀わんと雖いへども悉こと/″\く自己じこの慘憺さんたんたる勞力らうりよくの一部ぶを割さいて居ゐるのである。

しかし他人を悼む一日は、そこに自分のためには何の損失もなくて、十分に口腹の欲を満足させることができる。

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然しかし他人たにんを悼いたむ一日にちは其處そこに自己じこのためには何等なんらの損失そんしつもなくて十分ぶんに口腹こうふくの慾よくを滿足まんぞくせしめることが出來できる。

他人の悲しみはどれほど痛切でも、それは自分の当面の問題ではない。

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他人たにんの悲哀ひあいはどれ程ほど痛切つうせつでもそれは自己じこ當面たうめんの問題もんだいではない。

このようにして、彼女らの集まる所には常に笑い声を絶たないのである。

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如斯かくのごとくにして彼等かれらの聚あつまる處ところには常つねに笑聲せうせいを絶たたないのである。

お品もこういう仲間の一人であった。

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お品しなも恁かういふ伴侶なかまの一人ひとりであつた。

それが今日は、その笑い声を後にして冷たい土に帰したのである。

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それが今日けふは其その笑聲せうせいを後あとにして冷つめたい土つちに歸きしたのである。

五

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五

お品は自分の手で自分の身を殺したのである。

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お品しなは自分じぶんの手てで自分じぶんの身みを殺ころしたのである。

お品は十九の暮れにおつぎを産んでから、その次の年にもまた身ごもった。

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お品しなは十九の暮くれにおつぎを産うんでから其その次つぎの年としにも亦また姙娠にんしんした。

その時は彼らは窮迫の極みに達していたので、その胎児は死んだおふくろの手で七か月目に堕ろしてしまった。

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其その時ときは彼等かれらは窮迫きうはくの極度きよくどに達たつして居ゐたので其その胎兒たいじは死しんだお袋ふくろの手てで七月目めに墮胎だたいして畢しまつた。

それはまだ秋の暑いころであった。

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それはまだ秋あきの暑あつい頃ころであつた。

丈夫なお品は、四、五日たつと林の中で草刈りをしていた。

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強健きやうけんなお品しなは四五日にち經たつと林はやしの中なかで草刈くさかりをして居ゐた。

それでも無理をしたために、その後大患いはなかったが、回復するまではしばらくぶらぶらしていた。

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それでも無理むりをした爲ために其その後ご大煩おほわづらひはなかつたが恢復くわいふくするまでには暫しばらくぶら/\して居ゐた。

それからというものは、どういうものかお品は身ごもらなかった。

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それからといふものはどういふものかお品しなは姙娠にんしんしなかつた。

おつぎが十三の時、与吉が生まれた。

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おつぎが十三の時とき與吉よきちが生うまれた。

この時は勘次もお品も腹の子を大切にした。

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此この時ときは勘次かんじもお品しなも腹はらの子こを大切たいせつにした。

女の子が十三というともう役に立つので、与吉を育てながら夫婦は十分に働くことができた。

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女をんなの子こが十三といふともう役やくに立たつので、與吉よきちを育そだてながら夫婦ふうふは十分ぶんに働はたらくことが出來できた。

与吉が三つになったので、おつぎはよそへ奉公に出すことに、夫婦の間では決められた。

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與吉よきちが三つに成なつたのでおつぎは他よそへ奉公ほうこうに出だすことに夫婦ふうふの間あひだには決定けつていされた。

そのころ十五の女の子では、一年の給金はせいぜい十円くらいのものであった。

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其その頃ころ十五の女をんなの子こでは一年ねんの給金きふきんは精々せい/″\十圓ゑん位ぐらゐのものであつた。

それでも、それだけの収入のほかに食料の減ることが、貧乏な所帯には非常な影響なのである。

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それでもそれ丈だけの收入しうにふの外ほかに食料しよくれうの減げんずることが貧乏びんばふな世帶しよたいには非常ひじやうな影響えいきやうなのである。

それが、稲の穂先の垂れるころから、お品は思案の首をかしげるようになった。

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それが稻いねの穗首ほくびの垂たれる頃ころからお品しなは思案しあんの首くびを傾かしげるやうになつた。

体の様子が変になったことに気づいたからである。

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身體からだの容子ようすが變へんに成なつたことを心付こゝろづいたからである。

十年余りも身ごもらなかった腹は、与吉が宿ってから癖がついたものと見えて、また身ごもったのである。

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十年ねん餘あまりも保もたなかつた腹はらは與吉よきちが止とまつてから癖くせが附ついたものと見みえて又また姙娠にんしんしたのである。

お品も勘次も、それには当惑した。

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お品しなも勘次かんじもそれには當惑たうわくした。

おつぎを奉公に出してしまえば、二人の子を抱いてお品はこれまでのように働くことができない。わずかな稼ぎでも、それが止まることは彼らの生活のためには非常な打撃でなければならない。

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おつぎを奉公ほうこうに出だして畢しまへば、二人ふたりの子こを抱だいてお品しなは從來これまでのやうに働はたらくことが出來できない、僅わづかな稼かせぎでもそれが停止ていしされることは彼等かれらの生活せいくわつの爲ためには非常ひじやうな打撃だげきでなければならぬ。

そのうちに稲を刈ったり、もみを干したり、忙しい取り入れの季節が来て、冴えた空の下に夫婦は毎日埃を浴びていた。

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其その内うちに稻いねを刈かつたり、籾もみを干ほしたり忙いそがしい收穫しうくわくの季節きせつが來きて、冴さえた空そらの下したに夫婦ふうふは毎日まいにち埃ほこりを浴あびて居ゐた。

さすがに罪なような心持ちもするので、夫婦はただ困ってその日を過ごしていた。

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有繋さすがに罪つみなやうな心持こゝろもちもするので夫婦ふうふは只たゞ困こまつて其その日ひを過すごして居ゐた。

それも、夜になって疲れた体を横にし、ぐっすり眠りに落ちるまでのわずかな時間、彼らは互いに決しがたい思案を交換するのであった。

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それも夜よるに成なつて疲つかれた身體からだを横よこにし甘睡かんすゐに陷おちいるまでの少時間せうじかん彼等かれらは互たがひに決けつし難がたい思案しあんを交換かうくわんするのであつた。

これまでも夫婦の間は、どちらが主であるか分からないほど、勘次には決断の力が欠けていた。

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從來これまでも夫婦ふうふの間あひだは孰いづれが本位ほんゐであるか分わからぬ程ほど勘次かんじには決斷けつだんの力ちからが缺乏けつばふして居ゐた。

「どうでもお前の腹だから、好きにしたほうがいいよな」

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「どうでもおめえの腹はらだから好すきにした方はうがえゝやな」

勘次はこう言うのである。

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勘次かんじは恁かういふのである。

しかしそれは、どうでもいいという言い放ちではなくて、すべてがお品に対して命令をするには、勘次の心はあまりに憚っていたのである。

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然しかしそれは怎的どうでもいゝといふ云いひ擲なぐりではなくて、凡すべてがお品しなに對たいして命令めいれいをするには勘次かんじの心こゝろは餘あまり憚はばかつて居ゐたのである。

「そんでも、おれのにも困るだろうな」

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「そんでも、俺おれがにも困こまんべな」

お品は投げかけるように言うのである。

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お品しなは投なげ掛かけるやうにいふのである。

勘次は、お品がこうするつもりだときっぱり言ってしまえば、けっして反対をするのではない。

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勘次かんじはお品しなが恁かうする積つもりだときつぱりいつて畢しまへば決けつして反對はんたいをするのではない。

といって、お品は自分の判断だけで決行するには、あまりに大事であったのである。

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といつてお品しなは獨斷どくだんで決行けつかうするのには餘あまり大事だいじであつたのである。

そうして、それは決められる機会もなくて、夫婦は依然として農事に忙殺されていた。

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さうしてそれは決定けつていされる機會きくわいもなくて夫婦ふうふは依然いぜんとして農事のうじに忙殺ばうさつされて居ゐた。

その間に空を渡る木枯らしが、にわかに悲しい便りをもたらした。

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其その間あひだに空そらを渡わたる凩こがらしが俄にはかに哀かなしい音信おどづれを齎もたらした。

欅のこずえは、どうせもうこれまでだというように、慌ただしくその赤くなった枯れ葉を地上に投げつけた。

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欅けやきの梢こずゑは、どうでもう此これまでだといふやうに慌あわたゞしく其その赭あかく成なつた枯葉かれはを地上ちじやうに投なげつけた。

その捨て去られた軽い小さな落ち葉は、自分を引き止めてくれる陰を求めて転々と走っては、干した藁の間でも、もみのむしろでも、どこでもその身を託した。

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其その棄すて去さられた輕かろい小ちひさな落葉おちばは、自分じぶんを引ひき止とめて呉くれる蔭かげを求もとめて轉々ころ/\と走はしつては干ほした藁わらの間あひだでも籾もみの筵むしろでも何處どこでも其その身みを託たくした。

周りはすべてがただ騒がしく、かつ混雑した。

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周圍あたりは凡すべてが只たゞ騷さわがしく且かつ混雜こんざつした。

そのうちに勘次は、秋から募集のあった掘削工事へ、人に任せて行ったのである。

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其その内うちに勘次かんじは秋あきから募集ぼしふのあつた開鑿工事かいさくこうじへ人ひとに任まかせて行いつたのである。

「ただこうしてぐずぐずしていても仕方があるまいな」

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「只たゞかうしてぐづ/\して居ゐても仕しやうあんめえな」

お品はその時も、勘次の判断を促してみた。

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お品しなは其その時ときも勘次かんじの判斷はんだんを促うながして見みた。

「おれもそう言われても困るから、お前の好きにしてくれよ」

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「俺おれもさうゆはれても困こまつから、おめえ好すきにしてくろうよ」

勘次はただこう言った。

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勘次かんじは只たゞ恁かういつた。

勘次が去ってから、お品はその混雑した、しかも寂しい世間に交じって、やるせないような心持ちがして、とうとう罪を決行してしまった。

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勘次かんじが去さつてからお品しなは其その混雜こんざつした然しかも寂さびしい世間せけんに交まじつて遣瀬やるせのないやうな心持こゝろもちがして到頭たうとう罪惡ざいあくを決行けつかうして畢しまつた。

お品の腹は四か月であった。

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お品しなの腹はらは四月つきであつた。

そのころの腹がいちばん危険だと言われているとおり、お品はそれが原因で倒れたのである。

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其その頃ころの腹はらが一番ばん危險きけんだといはれて居ゐる如ごとくお品しなはそれが原因もとで斃たふれたのである。

胎児は四か月いっぱいこもったので、男女がはっきりと区別されていた。

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胎兒たいじは四月つき一杯ぱい籠こもつたので兩性りやうせいが明あきらかに區別くべつされて居ゐた。

小さい股の間には、飯粒ほどの突起があった。

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小ちひさい股またの間あひだには飯粒程めしつぶほどの突起とつきがあつた。

お品はさすがに、惜しいはかない心持ちがした。

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お品しなは有繋さすがに惜をしい果敢はかない心持こゝろもちがした。

第一に、事の発覚を恐れた。

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第だい一に事ことの發覺はつかくを畏おそれた。

それで、いったんはよく世間の女のするように床の下に埋めたのを、お品はさらに田の端のぐみの木のそばに、ぼろへくるんで埋めたのである。

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それで一旦たんは能よく世間せけんの女をんなのするやうに床ゆかの下したに埋うづめたのをお品しなは更さらに田たの端はたの牛胡頽子うしぐみの側そばに襤褸ぼろへくるんで埋うづめたのである。

お品は体の回復するまでじっとして布団にくるまっていれば、あるいはよかったかもしれない。

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お品しなは身體からだの恢復くわいふくするまで凝然ぢつとして蒲團ふとんにくるまつて居ゐれば或あるひはよかつたかも知しれぬ。

十幾年前には一切を死んだおふくろが処理してくれたのであったが、今度は勘次もいないしで、お品は暮らしの心配もしなくてはいられなかった。

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十幾年前いくねんまへには一切さいを死しんだお袋ふくろが處理しよりしてくれたのであつたが、今度こんどは勘次かんじも居ゐないしでお品しなは生計くらしの心配しんぱいもしなくては居ゐられなかつた。

一つには、それを世間に隠そうという考えから、知らない様子を装うために、無理にでもその身を動かしたのであった。

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一ひとつにはそれを世間せけんに隱蔽いんぺいしようといふ念慮ねんりよから知しらぬ容子ようすを粧よそほふ爲ために強しひても其その身みを動うごかしたのであつた。

しかしながら、その身を殺した黴菌はどうして入り込んだのであろうか。

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然しかしながら其その身みを殺ころした黴菌ばいきんがどうして侵入しんにふしたであつたらうか。

お品は卵膜を破る手当てに他人の手を煩わさなかった。

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お品しなは卵膜らんまくを破やぶる手術しゆじゆつに他人たにんを煩わずらはさなかつた。

そうして、その差し入れたほおずきの根が、感じないほどに軽い傷を粘膜に与えて、そこに黴菌を植えつけたのであろうか、それとも毎日煙のように浴びせかけた埃から来たのであろうか、それを明らかにすることは不可能でなければならない。

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さうして其その揷入さうにふした酸漿ほゝづきの根ねが知覺ちかくのないまでに輕微けいびな創傷さうしやうを粘膜ねんまくに與あたへて其處そこに黴菌ばいきんを移植いしよくしたのであつたらうか、それとも毎日まいにち煙けぶりの如ごとく浴あびせ掛かけた埃ほこりから來きたのであつたらうか、それを明あきらめることは不可能ふかのうでなければならぬ。

しかしいずれにしても、病毒は土がもたらしたのでなければならなかった。

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然しかし孰いづれにしても病毒びやうどくは土つちが齎もたらしたのでなければならなかつた。

葬式の次の日は、また近所の人が来た。

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葬式さうしきの次つぎの日ひは又また近所きんじよの人ひとが來きた。

勘次はその借りた羽織と袴を着て、村じゅうへ義理に回った。

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勘次かんじは其その借かりた羽織はおりと袴はかまを着きて村中むらぢうへ義理ぎりに廻まはつた。

土瓶へ入れた水を持って墓参りに行って、それから膳椀もみな返して、近所の人々も帰った後、勘次はぽつんとして、古い机の上に置かれた白木の位牌に対して、たまらなく寂しい哀れっぽい心持ちになった。

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土瓶どびんへ入いれた水みづを持もつて墓參はかまゐりに行いつて、それから膳椀ぜんわんも皆みな返かへして近所きんじよの人々ひと/″\も歸かへつた後のち勘次かんじは㷀然けいぜんとして古ふるい机つくゑの上うへに置おかれた白木しらきの位牌ゐはいに對たいして堪たまらなく寂さびしい哀あはれつぽい心持こゝろもちになつた。

二、三日の間は、片口やすり鉢に入れた葬式の時の残り物を食べて、一家はただぼんやりとして暮らした。

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二三日にちの間あひだは片口かたくちや摺鉢すりばちに入いれた葬式さうしきの時ときの残物ざんぶつを喰たべて一家かは只たゞばんやりとして暮くらした。

雨戸はいつものように引いたままで陰気であった。

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雨戸あまどはいつものやうに引ひいた儘まゝで陰氣いんきであつた。

卯平を加えて四人は、お互いがただ冷ややかであった。

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卯平うへいを加くはへて四人にんはお互たがひが只たゞ冷ひやゝかであつた。

卯平はその薄暗い家の中に、ただ煙草を吹かしては大きな真鍮の煙管で火鉢を叩いていた。

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卯平うへいは其その薄暗うすぐらい家うちの中なかに只たゞ煙草たばこを吹ふかしては大おほきな眞鍮しんちうの煙管きせるで火鉢ひばちを叩たゝいて居ゐた。

卯平と勘次とは、その間ろくに口も利かなかった。

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卯平うへいと勘次かんじとは其その間あひだ碌ろくに口くちも利きかなかつた。

勘次は、自分の体と自分の心とが別々になったような心持ちで、自分が自分をどうすることもできなかった。

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勘次かんじは自分じぶんの身體からだと自分じぶんの心こゝろとが別々べつ/\に成なつたやうな心持こゝろもちで自分じぶんが自分じぶんをどうする事ことも出來できなかつた。

それでも小作米のことは、その念頭から消え去ることはなかった。

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それでも小作米こさくまいのことは其その念頭ねんとうから沒ぼつし去さることはなかつた。

貧乏な小作人の常として、彼らはいつでも恐怖心に襲われている。

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貧乏びんばふな小作人こさくにんの常つねとして彼等かれらは何時いつでも恐怖心きようふしんに襲おそはれて居ゐる。

ことに、その地主を憚ることは並大抵ではない。

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殊ことに其その地主ぢぬしを憚はゞかることは尋常じんじやうではない。

そうして自分の作ってきた土地は、死んでもかじりついていたいほどそれを惜しむのである。

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さうして自分じぶんの作つくり來きたつた土地とちは死しんでも噛かぢり附ついて居ゐたい程ほどそれを惜をしむのである。

彼らが最初に踏んだ土の強大な引力は、永久に彼らを遠く放さない。

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彼等かれらの最初さいしよに踏ふんだ土つちの強大きやうだいな牽引力けんいんりよくは永久えいきうに彼等かれらを遠とほく放はなたない。

彼らはとうてい、その土に苦しみ通さねばならない運命を持っているのである。

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彼等かれらは到底たうてい其その土つちに苦くるしみ通とほさねばならぬ運命うんめいを持もつて居ゐるのである。

勘次は、お品の葬式が済むとすぐに新しい俵へ入れた小作米を地主へ運んで行かねばならないと、それが心を苦しめていた。

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勘次かんじはお品しなの葬式さうしきが濟すむと直すぐに新あたらしい俵たはらへ入いれた小作米こさくまいを地主ぢぬしへ運はこんで行ゆかねば成ならぬとそれが心こゝろを苦くるしめて居ゐた。

しかしその時は、その新しい俵の一つは輪になった縄から抜けて、米は叩いてもいくらも出なかった。

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然しかし其その時ときは其その新あたらしい俵たはらの一つは輪わに成なつた繩なはから拔ぬけて、米こめは叩たゝいても幾いくらも出でなかつた。

勘次は次の年には、ほとんど自分一人の手で農事に励まなくてはならない。

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勘次かんじは次つぎの年としには殆ほとんど自分じぶん一人ひとりの手てで農事のうじを勵はげまなくてはならぬ。

例年のように忙しい季節に日雇いに行くこともできまいし、それにはおふくろに捨てられた二人の子供もあることだし、今から穀物の用意もしなくてはならないと思うと、自分の身上から一俵の米を減らしてはとうてい立ち行けないことを深く思案して、彼は眠らないこともあった。

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例年れいねんのやうに忙いそがしい季節きせつに日傭ひように行ゆくことも出來できまいし、それにはお袋ふくろに捨すてられた二人ふたりの子供こどもも有あることだし、今いまから穀こくの用意よういもしなくては成ならぬと思おもふと自分じぶんの身上しんしやうから一俵ぺうの米こめを減げんじては到底たうてい立たち行ゆけぬことを深ふかく思案しあんして彼かれは眠ねむらないこともあつた。

しかしほかに方法もないので、彼は地主へ哀願して、小作米の半分を次の秋まで貸してもらった。

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然しかし他たに方法はうはふもないので彼かれは地主ぢぬしへ哀訴あいそして小作米こさくまいの半分はんぶんを次つぎの秋あきまで貸かして貰もらつた。

地主は東隣の元の主人であったので、それも承知された。

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地主ぢぬしは東隣ひがしどなりの舊主人きうしゆじんであつたのでそれも承諾しようだくされた。

彼はさらに、そのわずかな米の一部を割いて銭に換えねばならないほど、懐が窮していたのである。

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彼かれは更さらに其その僅わづかな米こめの一部ぶを割さいて錢ぜにに換かへねばならぬ程ほど懷ふところが窮きうして居ゐたのである。

勘次はそれから、また利根川の工事へ行かねばならないと思っていた。

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勘次かんじはそれから復また利根川とねがはの工事こうじへ行ゆかねばならないと思おもつて居ゐた。

それは彼が、わずかの間に見た放浪者の恐ろしさを思って、たとえどうしてもその頭を欺いて、そのわずかな前借りの金を踏み倒すほどの料簡が起こせなかったのである。

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それは彼かれが僅わづかの間あひだに見みた放浪者はうらうしやの怖おそろしさを思おもつて、假令たとひどうしても其その統領とうりやうを欺あざむいて其その僅少きんせうな前借ぜんしやくの金かねを踏ふみ倒たふす程ほどの料簡れうけんが起おこされなかつたのである。

そのうちに親方から葉書が来た。

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其その内うちに張元ちやうもとから葉書はがきが來きた。

彼はひたすら恐れた。

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彼かれは只管ひたすら恐怖きようふした。

しかし二人の子を見捨てて行くことができないので、どうしていいか判断もつかなかった。

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然しかし二人ふたりの子こを見棄みすてゝ行ゆくことが出來できないので、どうしていゝか判斷はんだんもつかなかつた。

そうするうちに、お品の七日も過ぎた。

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さうする内うちにお品しなの七日も過すぎた。

彼は苦しみ悩んだ。

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彼かれは煩悶はんもんした。

ただ一つ、卯平が野田へ行くのをしばらく延ばしてもらって、自分はその間に少しでも小遣い銭を稼いで来たいと思った。

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唯たゞ一つ卯平うへいが野田のだへ行ゆくのを暫しばらく猶豫いうよして貰もらつて自分じぶんは其その間あひだに少すこしでも小遣錢こづかひせんを稼かせいで來きたいと思おもつた。

しかしそれも直接には言い出せないので、例の桑畑一枚隔てた南へ頼んだ。

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然しかしそれも直接ちよくせつには云いひ出だせないので、例れいの桑畑くはばたけ一枚まい隔へだてた南みなみへ頼たのんだ。

数日来、彼は卯平がその大きな体を火鉢のそばに据えて、煙管をかんではむっつりとしているのを見ると、何となく憚って、なるべくその視線を避けるように遠ざかっていることを余儀なくされるのであった。

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數日來すうじつらい彼かれは卯平うへいが其その大おほきな體躯からだを火鉢ひばちの側そばに据すゑて煙管きせるを噛かんではむつゝりとして居ゐるのを見みると、何なんとなく憚はゞかつて成なるべく其その視線しせんを避さけるやうに遠とほざかつて居ゐることを餘儀よぎなくされるのであつた。

勘次とお品は相思の間柄であった。

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勘次かんじとお品しなは相思さうしの間柄あひだがらであつた。

勘次が東隣の主人に雇われたのは十七の冬で、十九の暮れにお品の婿になってからも、依然として主人の許に勤めていた。

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勘次かんじが東隣ひがしどなりの主人しゆじんに傭やとはれたのは十七の冬ふゆで十九の暮くれにお品しなの婿むこに成なつてからも依然いぜんとして主人しゆじんの許もとに勤つとめて居ゐた。

彼はその当時、お品の家へは隣づきあいということでよく出入りした。

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彼かれは其その當時たうじお品しなの家うちへは隣となりづかりといふので能よく出入でいつた。

一つには、形づくってきたお品の姿を見たいせいでもあった。

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一ひとつには形かたちづくつて來きたお品しなの姿すがたを見みたい所爲せゐでもあつた。

彼は秋の大豆打ちという日の晩などには、唐箕へ掛けたり俵に作ったりする間に、二升や三升の大豆はひそかに隠しておいて、お品の家へ持って行った。

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彼かれは秋あきの大豆打だいづうちといふ日ひの晩ばんなどには、唐箕たうみへ掛かけたり俵たはらに作つくつたりする間あひだに二升しようや三升じようの大豆だいづは竊ひそかに隱かくして置おいてお品しなの家うちへ持もつて行いつた。

そうして炒り豆をかじっては、夜更けまで話をすることもあった。

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さうして豆熬まめいりを噛かじつては夜更よふけまで噺はなしをすることもあつた。

お品の家からは、近所に風呂の立たない時はよく来た。

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お品しなの家うちからは近所きんじよに風呂ふろの立たたぬ時ときは能よく來きた。

忙しい仕事には雇われても来た。

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忙いそがしい仕事しごとには傭やとはれても來きた。

そういう間に、彼らの関係が成り立ったのである。

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さういふ間あひだに彼等かれらの關係くわんけいが成立なりたつたのである。

それはお品が十六の秋である。

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それはお品しなが十六の秋あきである。

それから足かけ三年たった。

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それから足掛あしかけ三年ねん經たつた。

勘次には、主人の家が愉快でよく働くことができた。

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勘次かんじには主人しゆじんの家うちが愉快ゆくわいに能よく働はたらくことが出來できた。

彼の体はむしろ小柄であるが、そのきりっと締まった筋肉が、だんだん仕事を上手にした。

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彼かれの體躯からだは寧むしろ矮小こつぶであるが、其そのきりつと緊しまつた筋肉きんにくが段々だん/″\仕事しごとを上手じやうずにした。

たとえどんな物が彼らの間を隔てようとしても、彼らが近づく機会を見いだしたことは、鬱蒼として遮っている密林のこずえを透して、どこからか日が地上に光を投げているようなものであった。

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假令たとひどんな物ものが彼等かれらの間あひだを隔へだてようとしても彼等かれらが相あひ近ちかづく機會きくわいを見出みいだしたことは鬱蒼うつさうとして遮さへぎつて居ゐる密樹みつじゆの梢こずゑを透とほしてどこからか日ひが地上ちじやうに光ひかりを投なげて居ゐるやうなものであつた。

彼らの心は、ただ明るかったのである。

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彼等かれらの心こゝろは唯たゞ明あかるかつたのである。

お品は十九の春に身ごもった。

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お品しなは十九の春はるに懷胎くわいたいした。

自分でもそれはしばらく知らずにいた。

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自分じぶんでもそれは暫しばらく知しらずに居ゐた。

季節がだんだん暖かくなって、仕事にはひとえでなければならないころになったので、女同士の目は隠しおおせないようになった。

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季節きせつが段々だん/\ぽかついて、仕事しごとには單衣ひとへものでなければならぬ頃ころに成なつたので女同士をんなどうしの目めは隱かくしおほせないやうに成なつた。

おふくろはお品をまだ子供のように思って、うかつにもそれに気づかなかった。

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お袋ふくろはお品しなをまだ子供こどものやうに思おもつて迂濶うくわつにそれを心付こゝろづかなかつた。

本当にそうだと思った時は、お品は間もなく肩で息するようになった。

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本當ほんたうにさうだと思おもつた時ときはお品しなは間まもなく肩かたで息いきするやうに成なつた。

そうして、体がもう捨てておけない状態になったので、両方の親戚の者でごたごたと協議が起こった。

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さうして身體からだがもう棄すてゝ置おけない場合ばあひに成なつたので兩方りやうはうの姻戚みよりの者ものでごた/\と協議けふぎが起おこつた。

勘次もお品も、その時互いに慕い合う心がにかわのように強かった。

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勘次かんじもお品しなも其その時とき互たがひに相あひ慕したふ心こゝろが鰾膠にべの如ごとく強つよかつた。

彼らはいたずら者に水をさされて慌てた機会に、ある夜逃げ出してしまった。

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彼等かれらは惡戲者いたづらものに水みづをさゝれて慌あわてた機會はづみに或ある夜よ遁にげ出だして畢しまつた。

それは、このままでは二人はとても添わされない様子だから、どうしても一つになろうというのならば、どこかへ二人で身を隠すのである。

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それは、此この儘まゝでは二人ふたりは迚とても添そはされぬ容子ようすだからどうしても一ひとつに成ならうといふのならば何處どこへか二人ふたりで身みを隱かくすのである。

そうして、いよいよとなればおれがどうにでもそこは始末をつけてやるから、何でもぐずぐずしていちゃだめだと、お品の心をそそのかしたのであった。

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さうして愈いよ/\となれば俺おれがどうにでも其處そこは始末しまつをつけて遣やるから、何なんでも愚圖ぐづ/\して居ゐちや駄目だめだとお品しなの心こゝろを教唆そゝつたのであつた。

お品から一心に勘次へ迫った。

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お品しなから一心しんに勘次かんじへ迫せまつた。

勘次はそのころから、お品の言うなりになるのであった。

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勘次かんじは其その頃ころからお品しなのいふなりに成なるのであつた。

二人は遠くは行けないので、隣村の知り合いへ身を投じた。

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二人ふたりは遠とほくは行ゆけないので、隣村となりむらの知合しりあひへ身みを投とうじた。

両方の親戚が騒ぎ出した。

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兩方りやうはうの姻戚みよりが騷さわぎ出だした。

こういう同士へのこんないたずらは、どこでもよく繰り返されるのであった。

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恁かういふ同志どうしへのこんな惡戲いたづらは何處どこでも能よく反覆くりかへされるのであつた。

そうして成功したいたずら者は

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さうして成功せいこうした惡戲者いたづらものは

「仕事は何でも雌鶏でなくちゃうまく行かないよ」

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「仕事しごとは何なんでも牝鷄めんどりでなくつちや甘うまく行いかねえよ」

と言っては陰で笑うのである。

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といつては陰かげで笑わらふのである。

「外聞をさらしやがって」

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「外聞げえぶん曝さらしやがつて」

と卯平は怒ったが、それがために事は容易に運ばれた。

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と卯平うへいは怒おこつたがそれが爲ために事ことは容易よういに運はこばれた。

勘次は婿になったのである。

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勘次かんじは婿むこに成なつたのである。

簡単な式が行われた。

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簡單かんたんな式しきが行おこなはれた。

にわかに仲人と定められた者が一人で、勘次を連れて行った。

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俄にはかに媒妁人ばいしやくにんと定さだめられたものが一人ひとりで勘次かんじを連つれて行いつた。

卯平はむっつりとしてそれを受けた。

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卯平うへいはむつゝりとしてそれを受うけた。

ふだん行きつけた家なので、勘次はきまり悪そうに座った。

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平生へいぜい行ゆきつけた家うちなので勘次かんじは極きまり惡相わるさうに坐すわつた。

お品はふだん着のままたすき掛けで、大儀そうな体を動かしていて、勘次のそばへは座らなかった。

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お品しなは不斷衣ふだんぎの儘まゝ襷掛たすきがけで大儀相たいぎさうな體躯からだを動うごかして居ゐて勘次かんじの側そばへは坐すわらなかつた。

仲人がただ酒を飲んで騒いだだけであった。

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媒妁人ばいしやくにんが只たゞ酒さけを飮のんで騷さわいだ丈だけであつた。

お品は間もなく女の子を産んだ。

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お品しなは間まもなく女をんなの子こを産うんだ。

それがおつぎであった。

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それがおつぎであつた。

季節は暮れの押し詰まった忙しい時であった。

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季節きせつは暮くれの押おし詰つまつた忙いそがしい時ときであつた。

おふくろはお品が好いているので、勘次を不足な婿と思ってはいなかった。

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お袋ふくろはお品しなが好すいて居ゐるので、勘次かんじを不足ふそくな婿むこと思おもつては居ゐなかつた。

勘次はその暮れもまた主人へ身を任せるはずで前借りした給金を、お品の家へ注ぎ込んだので、おふくろはかえって喜んでいた。

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勘次かんじは其その暮くれも亦また主人しゆじんへ身みを任まかせる筈はずで前借ぜんしやくした給金きふきんを、お品しなの家うちへ注つぎ込こんだのでお袋ふくろは却かへつて悦よろこんで居ゐた。

卯平はただ、勘次が虫が好かなかった。

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卯平うへいは唯たゞ勘次かんじを蟲むしが好すかなかつた。

自分はその大きな体でぐいぐいと仕事をしつけたのに、勘次が小さな体でちょこちょこと駆け歩いたり、ただ言いつけばかり聞いていて、自分の機転というものがいっこうになかったりするので、ひどく歯がゆく思っていた。

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自分じぶんは其その大おほきな體躯からだでぐい/\と仕事しごとをしつけたのに勘次かんじが小ちひさな體躯からだでちよこ/\と駈かけ歩あるいたり、ただ吩咐いひつけばかり聞きいて居ゐるので自分じぶんの機轉きてんといふものが一向かうなかつたりするので酷ひどく齒痒はがゆく思おもつて居ゐた。

しかし自分は入り婿という関係もあるし、それに生まれつきの無口なので、親戚の間の協議にも彼は

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然しかし自分じぶんは入夫にふふといふ關係くわんけいもあるしそれに生來せいらいの寡言むくちなので姻戚みよりの間あひだの協議けふぎにも彼かれは

「どうでもわしはよござんすからいい塩梅に決めておくんなせえ」

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「どうでもわしはようがすからえゝ鹽梅あんべいに極きめておくんなせえ」

とだけ言うのであった。

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とのみいふのであつた。

勘次は百姓のもっとも忙しいそのころの五月に病気になった。

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勘次かんじは百姓ひやくしやうの尤もつとも忙せはしい其その頃ころの五月ぐわつに病氣びやうきに成なつた。

彼はくつわへつけた竹竿の端を取って馬を操りながら、毎日泥だらけになって田の代掻きをした。

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彼かれは轡くつわへ附つけた竹竿たけざをの端はしを執とつて馬うまを馭ぎよしながら、毎日まいにち泥どろだらけになつて田たの代掻しろかきをした。

どうかすると、そんな季節に東南風が吹いて、震えるほど冷えることがある。

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どうかするとそんな季節きせつに東南風いなさが吹ふいて慄ふるへる程ほど冷ひえることがある。

勘次はその冷えが障ったのであろうか、心持ちが悪いと言って田から戻って来ると、それっきり枕も上がらないようになった。

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勘次かんじは其その冷ひえが障さはつたのであつたらうか心持こゝろもちが惡わるいというて田たから戻もどつて來くるとそれつ切きり枕まくらも上あがらぬやうになつた。

よく馬の病気に飲ませる赤玉という薬を幾粒か飲んで、彼は布団へくるまっていた。

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能よく馬うまの病氣びやうきに飮のませる赤玉あかだまといふ藥くすりを幾粒いくつぶか嚥のんで彼かれは蒲團ふとんへくるまつて居ゐた。

彼はどうにか病気をしのげるものなら、卯平のそばへは行きたくなかった。

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彼かれはどうにか病氣びやうきの凌しのぎがつけば卯平うへいの側そばへは行ゆきたくなかつた。

それと一つには、我慢して仕事に出ればろくには働けなくても一日の勤めを果たしたことになるけれども、まるで休んでしまえばその日だけの割り当て勘定が給金から差し引かれなければならないので、彼はそれを恐れた。

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それと一ひとつには我慢がまんして仕事しごとに出でれば碌ろくには働はたらけなくても一日にちの勤つとめを果はたしたことに成なるけれども、丸まるで休やすんで畢しまへば其その日ひだけの割當勘定わりあてかんぢやうが給金きふきんから差引さしひかれなければ成ならぬので彼かれはそれを畏おそれた。

しかし病気は、馬に飲ませる薬の赤玉ではすぐには治らなかった。

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然しかし病氣びやうきは馬うまに飮のませる藥くすりの赤玉あかだまでは直すぐには癒なほらなかつた。

それで彼はお品の厄介になるつもりで、次の朝早く朋輩の背に運ばれた。

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それで彼かれはお品しなの厄介やくかいに成なる積つもりで、次つぎの朝あさ早はやく朋輩ほうばいの背せに運はこばれた。

卯平は渋りきった顔で迎えた。

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卯平うへいは澁しぶり切きつた顏かほで迎むかへた。

お品が布団を敷いてやったので、勘次はそれへごろりとうつぶせになって、その額を交差した手に埋めた。

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お品しなが蒲團ふとんを敷しいて遣やつたので勘次かんじはそれへごろりと俯伏うつぶしになつて其その額ひたひを交叉かうさした手てに埋うづめた。

家の者はみな田へ出なければならなかった。

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家うちの者ものは皆みな田たへ出でなければならなかつた。

病人に構っていることは仕事が許さなかった。

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病人びやうにんに構かまつて居ゐることは仕事しごとが許ゆるさなかつた。

おふくろは出る時に表の大戸も閉めながら

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お袋ふくろは出でる時ときに表おもての大戸おほども閉たてながら

「腹が減ったらここにあるぞ」

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「腹はら減へつたら此處こゝにあんぞ」

と言って、ばたりと飯台のふたをした。

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といつてばたりと飯臺はんだいの蓋ふたをした。

後で勘次が布団からずり出して見たら、麦ばかりのぽろぽろした飯であった。

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後あとで勘次かんじは蒲團ふとんからずり出だして見みたら、麥むぎばかりのぽろ/\した飯めしであつた。

その時分、お品の家ではそういう食料で命をつないでいたのである。

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其その時分じぶんお品しなの家うちではさういふ食料しよくれうで生命いのちを繋つないで居ゐたのである。

勘次は奉公にばかり出ていたので、それほど粗末な物を口にしたことはない。

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勘次かんじは奉公ほうこうにばかり出でて居ゐたのでそれ程ほど麁末そまつな物ものを口くちにしたことはない。

それで、どうしても手を出そうという心が起こらなかった。

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それでどうしても手てを出ださうといふ心こゝろが起おこらなかつた。

昼飯に家の者は田から戻って、その飯を食べた。

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午餐ひるに家うちの者ものは田たから戻もどつて其その飯めしを喰たべた。

ちっとはどうだとおふくろに勧められても、勘次はただうつぶせになっていた。

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ちつとはどうだとお袋ふくろに勸すゝめられても勘次かんじは唯たゞ俯伏うつぶしに成なつて居ゐた。

「この野郎、こんな忙しい時に転がり込みやがって、くたばるつもりでもあるだろう」

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「此この野郎やらうこんな忙せはしい時ときに轉ころがり込こみやがつてくたばる積つもりでもあんべえ」

と、卯平はふだんになくこんなことを言った。

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と卯平うへいは平生へいぜいになく恁こんなことをいつた。

勘次は後で独り泣いた。

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勘次かんじは後あとで獨ひとり泣ないた。

彼はお品がこっそり布団の下へ入れてくれた煎餅をかじったりして、二、三日ごろごろしていた。

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彼かれはお品しながこつそり蒲團ふとんの下したへ入いれて呉くれた煎餅せんべいを噛かぢつたりして二三日にちごろ/\して居ゐた。

そのころは駄菓子屋もめったになかったので、これだけのことがお品にはよほどの心づくしであったのである。

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其その頃ころは駄菓子店だぐわしみせも滅多めつたに無なかつたので此これ丈だけのことがお品しなには餘程よほどの心竭こゝろづくしであつたのである。

勘次はどうも卯平がいやで、かつ恐ろしくて仕方がないので、少し体が回復しかけると、みなが田へ出た後でそっと抜けて、村の中の親戚の所へ行って板蔵の二階へ隠れて寝ていた。

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勘次かんじはどうも卯平うへいが厭いやで且かつ怖おそろしくつて仕しやうがないので少すこし身體からだが恢復くわいふくしかけると皆みんなが田たへ出でた後あとでそつと拔ぬけて村むらの中うちの姻戚みよりの處ところへ行いつて板藏いたぐらの二階かいへ隱かくれて寢ねて居ゐた。

夜になったらどうして知ったか、お品はおつぎを背負って鶏を一羽持って来た。

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夜よになつたらどうして知しつたかお品しなはおつぎを背負せおつて鷄にはとりを一羽は持もつて來きた。

「勘次さん、悪く思わないでくれよ。おれは悪くするつもりはないが、仕方がないからよ」

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「勘次かんじさん惡わるく思おもはねえでくろうよ、俺おら惡わるくする積つもりはねえが、仕しやうねえからよ」

と、お品は訴えるように言うのであった。

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とお品しなは訴うつたへるやうにいふのであつた。

お品は毎晩のように来て、板蔵のさるを内から下ろして泊まって行った。

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お品しなは毎晩まいばんのやうに來きて板藏いたぐらのさるを内うちから卸おろして泊とまつて行いつた。

それでも勘次は卯平のそばがいやなので、戻らないというつもりでほかの村へさまよい出た。

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それでも勘次かんじは卯平うへいの側そばが厭いやなので戻もどらないといふ積つもりで他たの村落むらへ漂泊へうはくした。

また土地へ帰って来ると、畑にいても田にいてもお品が迫って来るので、彼は農具を捨てて逃げることさえあった。

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復また土地とちへ歸かへつて來くると、畑はたけに居ゐても田たに居ゐてもお品しなが迫せまつて來くるので、彼かれは農具のうぐを棄すてゝ遁にげることさへあつた。

それがどうしたものか、いつの間にやらひどく自分からお品のそばへ行きたくなってしまって、他人からかえってからかわれるようになったのである。

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それが如何どうしたものか何時いつの間まにやら酷ひどく自分じぶんからお品しなの側そばへ行ゆきたく成なつて畢しまつて、他人たにんから却かへつて揶揄からかはれるやうに成たつたのである。

勘次が奉公の年季を勤め上げて帰ったとなった時、卯平とは一つ家でかまどを別にすることになった。

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勘次かんじは奉公ほうこうの年季ねんきを勤つとめあげて歸かへつたと成なつた時とき、卯平うへいとは一ひとつ家うちで竈かまどを別べつにすることに成なつた。

夫婦と乳飲み子と三人の所帯で、彼らは卯平から殻そばが一斗五升と麦が一斗と、後にも先にもたったこれだけが分けられた。

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夫婦ふうふと乳呑兒ちのみごと三人にんの所帶しよたいで彼等かれらは卯平うへいから殼蕎麥からそばが一斗と五升しようと麥むぎが一斗とと、後あとにも先さきにもたつた此これ丈だけが分わけられた。

正月のうどんも打てなかった。

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正月しやうぐわつの饂飩うどんも打うてなかつた。

さすがにおふくろは小麦粉を隠してお品へやった。

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有繋さすがにお袋ふくろは小麥粉こむぎこを隱かくしてお品しなへ遣やつた。

それでも勘次は、恐ろしい卯平と一つかまどであるよりも、かえって本望であった。

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それでも勘次かんじは怖おそろしい卯平うへいと一ひとつ竈かまどであるよりも却かへつて本意ほんいであつた。

おふくろが死んでから、老いた卯平は勘次と一つにならなければならなかった。

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お袋ふくろが死しんでから老おいた卯平うへいは勘次かんじと一ひとつに成ならなければならなかつた。

その時はもう勘次が主であった。

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其その時ときはもう勘次かんじが主あるじであつた。

そうして、とうに自分の住んでいる土地までが自分のものではなかった。

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さうして疾とうに自分じぶんの住すんで居ゐる土地とちまでが自分じぶんの所有ものではなかつた。

それは借金の始末をつけるために人が立って、東隣へ格外な値で持たせたのである。

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それは借錢しやくせんの極きまりをつける爲ために人ひとが立たつて東隣ひがしどなりへ格外かくぐわいな値ねで持もたせたのである。

それほど彼の家は窮していた。

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それ程ほど彼かれの家いへは窮きうして居ゐた。

勘次には、卯平は恐ろしいよりも、その時ではむしろいやな老人になっていた。

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勘次かんじには卯平うへいは畏おそろしいよりも其その時ときでは寧むしろ厭いやな老爺おやぢに成なつて居ゐた。

二人はめったに口も利かない。

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二人ふたりは滅多めつたに口くちも利きかぬ。

それを見ていなければならないお品の苦心は、容易なものではなかったのである。

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それを見みて居ゐなければ成ならぬお品しなの苦心くしんは容易よういなものではなかつたのである。

勘次に頼まれて南の亭主が話をした時、卯平はどうしたものかと案じたほどでもなく、「子供らが困るというなら、どうでもするさ。しないでどうするもんか」

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勘次かんじに頼たのまれて南みなみの亭主ていしゆが話はなしをした時ときに卯平うへいはどうしたものかと案あんじた程ほどでもなく「子奴等こめらが困こまるといへばどうでも仕しざらによ、仕しねえでどうするもんか」

と、煙管を手に持って、その癖の舌打ちをしながら言った。

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と煙管きせるを手てに持もつて其その癖くせの舌皷したつゞみを打うちながらいつた。

南にいて案じながら挨拶を待っていた勘次は、勢いづいて

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南みなみに居ゐて案あんじながら挨拶あいさつを待まつて居ゐた勘次かんじは勢いきほひづいて

「そんじゃ、おとっつあん、おれは行って来るから」

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「そんぢや、おとつゝあ俺おれ行いつ來くつから」

と言った。

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といつた。

この時ばかりは穏やかな挨拶が交わされた。

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此この時ときばかりは穩おだやかな挨拶あいさつが交換かうくわんされた。

勘次がいなくなってから、卯平はむっつりした顔に微笑を浮かべては、与吉を抱いて泣かれることもあった。

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勘次かんじが居ゐなく成なつてから卯平うへいはむつゝりした顏かほに微笑びせうを浮うかべては與吉よきちを抱だいて泣なかれることもあつた。

与吉は夜にわかに泣き出して止まないことがある。

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與吉よきちは夜よる俄にはかに泣なき出だして止やまぬことがある。

お品が死ぬまでかぶっていた布団の中に、おつぎは与吉を抱いてくるまるのであった。

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お品しなが死しぬまで被きて居ゐた蒲團ふとんの中なかにおつぎは與吉よきちを抱だいてくるまるのであつた。

与吉が夜泣きをする時、卯平は枕元のマッチをすって煙草へ火を移しては、燃えさしを手ランプへつけて

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與吉よきちが夜泣よなきをする時とき卯平うへいは枕元まくらもとの燐寸マツチをすつて煙草たばこへ火ひを移うつしては燃もえさしを手てランプへ點つけて

「おっかあが見えるんだかも知れない。そうら明るくなった。お前は姉に抱かさってるんだ。怖いことがあるもんか」

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「おつかあが見めえんだかも知しんねえ、さうら明あかるく成なつた。汝わりや姊ねえに抱だかさつてんだ。可怖おつかねえことあるもんか」

卯平は重い調子で言うのである。

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卯平うへいは重おもい調子てうしでいふのである。

与吉は壁のどこともなく見ては、火のついたように身を震わせて泣いて、ひしとおつぎへ抱きつく。

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與吉よきちは壁かべの何處どこともなく見みては火ひの附ついたやうに身みを慄ふるはして泣ないて犇ひしとおつぎへ抱だきつく。

おつぎは与吉を膝へ抱いて、泣き止むまでは両手で覆っている。

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おつぎは與吉よきちを膝ひざへ抱だいて泣なき止やむまでは兩手りやうてで掩おほうて居ゐる。

それが泣き出したら毎夜のようなので、おつぎは玉砂糖を布団の下へ入れておいて、泣く時にはなめさせた。

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それが泣なき出だしたら毎夜まいよのやうなのでおつぎは、玉砂糖たまざたうを蒲團ふとんの下したへ入いれて置おいて泣なく時ときには甞なめさせた。

それでも泣き募った時は、口へ入れた砂糖を吐き出しては、いよいよ激しく泣くのである。

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それでも泣なき募つのつた時ときは口くちへ入いれた砂糖さたうを吐はき出だしては愈いよ/\烈はげしく泣なくのである。

おつぎは焦れて、邪険に与吉を揺さぶることもあった。

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おつぎは焦ぢれて邪險じやけんに與吉よきちをゆさぶることもあつた。

それで与吉はついには、砂糖を口にしながらすやすやと眠る。

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それで與吉よきちは遂しまひには砂糖さたうを口くちにしながらすや/\と眠ねむる。

卯平は与吉が静かになるまでは、横になったままおつぎのほうを向いて、薄暗い手ランプにその目を光らせている。

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卯平うへいは與吉よきちが靜しづかに成なるまでは横よこに成なつた儘まゝおつぎの方はうを向むいて薄闇うすぐらい手てランプに其その目めを光ひからせて居ゐる。

与吉はおつぎに抱かれる時、いつもよくおつぎの乳房をいじるのであった。

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與吉よきちはおつぎに抱だかれる時ときいつも能よくおつぎの乳房ちぶさを弄いぢるのであつた。

うるさがって邪険に叱ってみても、与吉は甘えて笑っている。

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五月蠅うるさがつて邪險じやけんに叱しかつて見みても與吉よきちは甘あまえて笑わらつて居ゐる。

それでも泣く時に、お品のしたように懐を開けて乳房を含ませてみても、その小さな乳房は間違っても吸わなかった。

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それでも泣なく時ときにお品しなのしたやうに懷ふところを開あけて乳房ちぶさを含ふくませて見みても其その小ちひさな乳房ちぶさは間違まちがつても吸すはなかつた。

砂糖をつけてみても欺けなかった。

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砂糖さたうを附つけて見みても欺あざむけなかつた。

おつぎは与吉が腹を減らして泣く時には、米を水に浸しておいてすり鉢ですって、それをくつくつと煮て砂糖を入れてなめさせた。

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おつぎは與吉よきちが腹はらを減へらして泣なく時ときには米こめを水みづに浸ひたして置おいて摺鉢すりばちですつて、それをくつ/\と煮にて砂糖さたうを入いれて嘗なめさせた。

与吉は一箸なめては舌鼓を打って、その小さな白い歯を出して、頭を後ろへくっつけるほど身を反らして、おつぎの顔をじっと見ては、甘えた声を立てて笑うのである。

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與吉よきちは一箸ひとはし嘗なめては舌鼓したつゞみを打うつて其その小ちひさな白しろい齒はを出だして、頭あたまを後うしろへひつゝける程ほど身みを反そらしておつぎの顏かほを凝然ぢつと見みては甘あまえた聲こゑを立たてて笑わらふのである。

与吉はそれがほしくなれば、小さな手ですすけた枠棚を指した。

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與吉よきちはそれが欲ほしくなれば小ちひさな手てで煤すゝけた籰棚わくだなを指さした。

そこには、彼の好む砂糖の小さな袋が載せてあるのであった。

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其處そこには彼かれの好このむ砂糖さたうの小ちひさな袋ふくろが載のせてあるのであつた。

おつぎは勘次が言いつけて行ったとおり、桶へ入れてある米と麦とを混ぜたのを飯に炊いて、芋と大根の汁をこしらえるほか、どうという仕事もなかった。

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おつぎは勘次かんじが吩咐いひつけて行いつた通とほり桶をけへ入いれてある米こめと麥むぎとの交まぜたのを飯めしに炊たいて、芋いもと大根だいこの汁しるを拵こしらへる外ほかどうといふ仕事しごともなかつた。

その間には与吉を背負って林の中を歩いて、竹の竿で作った鉤で枯れ枝を採っては、そだを束ねるのが務めであった。

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其その間あひだには與吉よきちを背負せおつて林はやしの中なかを歩あるいて竹たけの竿さをで作つくつた鍵かぎの手てで枯枝かれえだを採とつては麁朶そだを束たばねるのが務つとめであつた。

おつぎは麦藁でたにしのような形にねじれた籠を作って、それを与吉へ持たせた。

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おつぎは麥藁むぎわらで田螺たにしのやうな形かたちに捻よぢれた籠かごを作つくつてそれを與吉よきちへ持もたせた。

卯平はぶらりと出て行っては、帰りには駄菓子を少し袂へ入れて来る。

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卯平うへいはぶらりと出でて行いつては歸かへりには駄菓子だぐわしを少すこし袂たもとへ入いれて來くる。

そうして卯平は、菓子を持った右の手を左の袖口から出して与吉へ見せる。与吉はふらふらとようやく歩いて行っては、突き当たりそうに卯平へつかまって袂を探す。

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さうして卯平うへいは菓子くわしを持もつた右みぎの手てを左ひだりの袖口そでくちから出だして與吉よきちへ見みせる、與吉よきちはふら/\と漸やうやく歩あるいて行いつては、衝つき當あたり相さうに卯平うへいへ捉つかまつて袂たもとを探さがす。

そうすると、菓子を持った手がさらに卯平の左の袂から出る。

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さうすると菓子くわしを持もつた手てが更さらに卯平うへいの左ひだりの袂たもとから出でる。

与吉は危なそうに卯平の体を伝いながら、左へ回って行く。

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與吉よきちは危あぶな相さうに卯平うへいの身體からだを傳つたひつゝ左ひだりへ廻まはつて行ゆく。

そうすると、卯平の手が与吉の頭の上に乗って、菓子が頭へ落とされる。

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さうすると卯平うへいの手てが與吉よきちの頭あたまの上うへに乘のつて菓子くわしが頭あたまへ落おとされる。

与吉が頭へ手をやる時に、菓子は足元へぽたりと落ちる。

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與吉よきちが頭あたまへ手てをやる時ときに菓子くわしは足下あしもとへぽたりと落おちる。

与吉は慌てて菓子を拾っては、声を立てて笑うのである。

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與吉よきちは慌あわてゝ菓子くわしを拾ひろつては聲こゑを立たてゝ笑わらふのである。

菓子は、いつまでも減らないように砂糖で固めた黒い鉄砲玉がよく与えられた。

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菓子くわしは何時いつまでも減へらないやうに砂糖さたうで固かためた黒くろい鐵砲玉てつぱうだまが能よく與あたへられた。

頭から落ちてころころと鉄砲玉が遠く転がって行くのを、倒れながら追いかけて行く与吉を見て、卯平のむっつりとした顔が溶けるのである。

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頭あたまから落おちてころ/\と鐵砲玉てつぱうだまが遠とほく轉ころがつて行ゆくのを、倒たふれながら逐おひ掛かけて行いく與吉よきちを見みて卯平うへいのむつゝりとした顏かほが溶とけるのである。

与吉はつまずいて倒れても、その時はけっして泣くことがない。

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與吉よきちは躓つまづいて倒たふれても其その時ときは決けつして泣なくことがない。

鉄砲玉は麦藁の籠へも入れられた。

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鐵砲玉てつぱうだまは麥藁むぎわらの籠かごへも入いれられた。

与吉はそれを大事そうに持っては時々のぞきながら、おつぎが炊事をする間、おとなしくして座っているのであった。

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與吉よきちはそれを大事相だいじさうに持もつては時ゝ《とき/″\》覗のぞきながら、おつぎが炊事すゐじの間あひだを大人おとなしくして坐すわつて居ゐるのであつた。

六

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六

春は空から、そうして土からかすかに動く。

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春はるは空そらからさうして土つちから微かすかに動うごく。

毎日のように西から埃を巻いて来る疾風が、どうかするとはたと止んで、空の際にはふわふわとした綿のような白い雲が、ほっかりと暖かい日光を浴びようとしてわずかに立ち上ったというように、動きもしないでじっとしていることがある。

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毎日まいにちのやうに西にしから埃ほこりを捲まいて來くる疾風しつぷうがどうかするとはたと止とまつて、空際くうさいにはふわ/\とした綿わたのやうな白しろい雲くもがほつかりと暖あたゝかい日光につくわうを浴あびようとして僅わづかに立たち騰のぼつたといふやうに、動うごきもしないで凝然ぢつとして居ゐることがある。

水に近い湿った土が暖かい日光を思うぞんぶんに吸って、その勢いづいた土のかすかな刺激を根に感じさせるので、田んぼのはんの木の地味なつぼみは、目に立たない間に少しずつ伸びてひらひらと動きやすくなる。

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水みづに近ちかい濕しめつた土つちが暖あたゝかい日光につくわうを思おもふ一杯ぱいに吸すうて其その勢いきほひづいた土つちの微かすかな刺戟しげきを根ねに感かんぜしめるので、田圃たんぼの榛はんの木きの地味ぢみな蕾つぼみは目めに立たたぬ間まに少すこしづゝ延のびてひら/\と動うごき易やすくなる。

その刺激から、蛙はまだ冬ごもりの状態にありながら、まれにはあっちでもこっちでもくくくくと鳴き出すことがある。

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其その刺戟しげきから蛙かへるはまだ蟄居ちつきよの状態じやうたいに在ありながら、稀まれにはそつちでもこつちでもくゝ/\と鳴なき出だすことがある。

空から差す日の光はそろそろと熱を増して、土はそれをいくらでも吸って止まない。

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空そらから射さす日ひの光ひかりはそろ/\と熱度ねつどを増まして、土つちはそれを幾いくらでも吸すうて止やまぬ。

土はすべてをだんだんと刺激して、堀のあたりには蘆やとだしばやその他の草が、空と映り合ってすっとその首をもたげる。

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土つちは凡すべてを段々だん/\と刺戟しげきして堀ほりの邊ほとりには蘆あしやとだしばや其その他たの草くさが空そらと相あひ映えいじてすつきりと其その首くびを擡もたげる。

柔らかさに満たされた空気をさらに鈍くするように、はんの木の花はひらひらと止まず動きながら、すすのような花粉をまき散らしている。

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軟やはらかさに滿みたされた空氣くうきを更さらに鈍にぶくするやうに、榛はんの木きの花はなはひら/\と止やまず動うごきながら煤すゝのやうな花粉くわふんを撒まき散ちらして居ゐる。

蛙は仮死の状態から離れて、柔らかな草の上に手を突いては、驚いたような様子をして空を仰いでみる。

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蛙かへるは假死かしの状態じやうたいから離はなれて軟やはらかな草くさの上うへに手てを突ついては、驚おどろいたやうな容子ようすをして空そらを仰あふいで見みる。

そうして彼らは、慌てたように声を放って、その長い眠りから生き返ったことを空に向かって告げる。

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さうして彼等かれらは慌あわてたやうに聲こゑを放はなつて其その長ながい睡眠すゐみんから復活ふくくわつしたことを空そらに向むかつて告つげる。

それで遠くで聞く時は、彼らの騒がしい声はただ空にのみ響いて快げである。

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それで遠とほく聞きく時ときは彼等かれらの騷さわがしい聲こゑは只たゞ空そらにのみ響ひゞいて快こゝろよげである。

彼らはさらに、春の来たことをいっさいの生き物に向かって促す。

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彼等かれらは更さらに春はるの到いたつたことを一切さいの生物せいぶつに向むかつて促うながす。

草や木が気づいて、その活力を存分に発揮するのを見ないうちは、鳴くことを止めまいと努める。

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草くさや木きが心こゝろづいて其その活力くわつりよくを存分ぞんぶんに發揮はつきするのを見みないうちは鳴なくことを止やめまいと努つとめる。

田んぼのはんの木は、とうに花を捨てて、自分が先に若葉の姿になってみせる。

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田圃たんぼの榛はんの木きは疾とうに花はなを捨すてゝ自分じぶんが先さきに嫩葉わかばの姿すがたに成なつて見みせる。

黄色みを含んだ若葉が、爽やかで、かつ朗らかな朝日を浴びて快い光を保ちながら、青い空の下に、まだためらっている周りの林を見る。

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黄色味きいろみを含ふくんだ嫩葉わかばが爽さわやかで且かつ朗ほがらかな朝日あさひを浴あびて快こゝろよい光ひかりを保たもちながら蒼あをい空そらの下したに、まだ猶豫たゆたうて居ゐる周圍しうゐの林はやしを見みる。

岬のような形に伸びている水田を抱えて、周りの林はようやくその本性のままに勝手に、白っぽいのや赤っぽいのや、黄色っぽいのや、さまざまに茂って、それが気がついた時には急いで一つの深い緑になるのである。

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岬みさきのやうな形かたちに偃はうて居ゐる水田すゐでんを抱かゝへて周圍しうゐの林はやしは漸やうやく其その本性ほんしやうのまに/\勝手かつてに白しろつぽいのや赤あかつぽいのや、黄色きいろつぽいのや種々いろ/\に茂しげつて、それが氣きが付ついた時ときに急いそいで一ひとつの深ふかい緑みどりに成なるのである。

雑木林のそこらここらに散らばっている開墾地の麦もすっと首を出して、そら豆の花もかわいらしい黒い瞳を集めて、恥ずかしそうに葉の間からこっそりと四方をのぞく。

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雜木林ざふきばやしの其處そこら此處こゝらに散在さんざいして居ゐる開墾地かいこんちの麥むぎもすつと首くびを出だして、蠶豆そらまめの花はなも可憐かれんな黒くろい瞳ひとみを聚あつめて羞はづかし相さうに葉はの間あいだからこつそりと四方はうを覗のぞく。

雑木林の間には、またすすきの硬い葉が空を刺そうとして立つ。

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雜木林ざふきばやしの間あひだには又また芒すゝきの硬直かうちよくな葉はが空そらを刺ささうとして立たつ。

その麦やすすきの下に住まいを求める雲雀が、時々空を占めて、春が更けたと呼びかける。

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其その麥むぎや芒すゝきの下したに居きよを求もとめる雲雀ひばりが時々とき/″\空そらを占しめて春はるが深ふけたと喚よびかける。

そうすると、自分の同族の声のみが空を支配しているべきはずだと思っている蛙は、そのさえずる声を押し消そうとして、互いの体を飛び越え飛び越え鳴き立てるので、勢いの少ない雲雀はすっと下りて、麦やすすきの根に潜んでしまう。

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さうすると其その同族どうぞくの聲こゑのみが空間くうかんを支配しはいして居可ゐべき筈はずだと思おもつて居ゐる蛙かへるは、其その囀さへづる聲こゑを壓あつし去さらうとして互たがひの身體からだを飛とび越こえ飛び越え鳴なき立たてるので小勢こぜいな雲雀ひばりはすつとおりて麥むぎや芒すゝきの根ねに潜ひそんで畢しまふ。

そうしては、蛙の鳴かない日中にのみ、これを仰げば眩しさに堪えられないように、その身をはるかに煌めく日の光の中に沈めて、その小さな喉のちぎれるまでは激しく鳴らそうとするのである。

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さうしては蛙かへるの鳴なかぬ日中につちうにのみ、之これを仰あふげば眩まばゆさに堪たへぬやうに其その身みを遙はるかに煌きらめく日ひの光ひかりの中なかに沒ぼつして其その小ちひさな咽のどの拗切ちぎれるまでは劇はげしく鳴ならさうとするのである。

蛙はいよいよますます鳴き誇って、樫の木のような大きな常緑樹の古い葉をも、一時にからりと落とさせなければ止まないとする。

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蛙かへるは愈いよ/\益ます/\鳴なき矜ほこつて樫かしの木きのやうな大おほきな常緑木ときはぎの古葉ふるはをも一時じにからりと落おとさせねば止やまないとする。

この時、すべての樹木や、それから冬の間はぐったりと地についていたすべての雑草が、爪立ちしてただ空へ空へと暖かな光を求めて止まない。

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此この時とき凡すべての樹木じゆもくやそれから冬季とうきの間あひだにはぐつたりと地ちに附ついて居ゐた凡すべての雜草ざつさうが爪立つまだてして只たゞ空そらへ/\と暖あたゝかな光ひかりを求もとめて止やまぬ。

土がそれをじっと引き止めて放さない。

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土つちがそれを凝然ぢつと曳ひきとめて放はなさない。

それで一切の草木は土と直角の角度を保っている。冬の間は土と平行することを好んでいた人も、鉄の針が磁石に吸われるように土に直立して、めいめいに手に農具を取る。

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それで一切さいの草木さうもくは土つちと直角ちよくかくの度どを保たもつて居ゐる、冬季とうきの間あひだは土つちと平行へいかうすることを好このんで居ゐた人ひとも鐵てつの針はりが磁石じしやくに吸すはれる如ごとく土つちに直立ちよくりつして各自てんでに手てに農具のうぐを執とる。

紺の股引を藁でくくって、みな田を耕しはじめる。

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紺こんの股引ももひきを藁わらで括くゝつて皆みな田たを耕たがやし始はじめる。

水がほしいと人が思う時、蛙は一斉に裂けるかと思うほど喉の袋をふくらませて、身を震わせながら、ことさらに鳴き立てる。

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水みづが欲ほしいと人ひとが思おもふ時とき蛙かへるは一齊せいに裂さけるかと思おもふ程ほど喉のどの袋ふくろを膨脹ばうちやうさせて身みを撼ゆるがしながら殊更ことさらに鳴なき立たてる。

白い絹糸のような雨は、水が田に満ちるまでは注いでまた注ぐ。

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白しろい絓絲すがいとのやうな雨あめは水みづが田たに滿みつるまでは注そゝいで又また注そゝぐ。

鳴くべき時に鳴くためにのみ生まれて来た蛙は、刈り株を引っ返し引っ返し働いている人々の周りから足元から迫って、素早くその手を動かせ動かせと促して止まない。

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鳴なくべき時ときに鳴なく爲ためにのみ生うまれて來きた蛙かへるは苅株かりかぶを引ひつ返かへし/\働はたらいて居ゐる人々ひと/″\の周圍しうゐから足下あしもとから逼せまつて敏捷びんせうに其その手てを動うごかせ/\と促うながして止やまぬ。

蛙がぴったりと声を呑む時には、日中の暖かさに人もぐったりとなって、田んぼの短い草にごろりと横になる。

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蛙かへるがぴつたりと聲こゑを呑のむ時ときには日中につちうの暖あたゝかさに人ひともぐつたりと成なつて田圃たんぼの短みじかい草くさにごろりと横よこに成なる。

さらに蛙は、ひっそりと静かな夜になると、いかに自分の声が遠く、かつはるかに響くかを誇るもののように、力を極めて鳴く。

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更さらに蛙かへるはひつそりと靜しづかな夜よるになると如何いかに自分じぶんの聲こゑが遠とほく且かつ遙はるかに響ひゞくかを矜ほこるものゝ如ごとく力ちからを極きはめて鳴なく。

雨戸を閉じる時、蛙の声はめっきり遠く隔たって、それがぐったりと疲れた耳をくすぐって、百姓のすべてを安らかな眠りに誘うのである。

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雨戸あまどを閉とづる時とき蛙かへるの聲こゑは滅切めつきり遠とほく隔へだつてそれがぐつたりと疲つかれた耳みゝを擽くすぐつて百姓ひやくしやうの凡すべてを安やすらかな眠ねむりに誘いざなふのである。

熟睡することによって、百姓はみな短い時間に肉体の消耗を回復する。

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熟睡じゆくすゐすることによつて百姓ひやくしやうは皆みな短みじかい時間じかんに肉體にくたいの消耗せうまうを恢復くわいふくする。

彼らが雨戸の隙間から差す夜明けの白い光に驚いて布団を蹴って外に出ると、今さらのように耳に迫る蛙の声にその目覚めを促されて、井戸端の冷たい水にまったく朝の元気を呼び返すのである。

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彼等かれらが雨戸あまどの隙間すきまから射さす夜明よあけの白しろい光ひかりに驚おどろいて蒲團ふとんを蹴けつて外そとに出でると、今更いまさらのやうに耳みゝに迫せまる蛙かへるの聲こゑに其その覺醒かくせいを促うながされて、井戸端ゐどばたの冷つめたい水みづに全まつたく朝あさの元氣げんきを喚よび返かへすのである。

草木は、遠くはるかに響けと鳴くその声に揺られながら、夜の間に生長する。

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草木くさきは遠とほく遙はるかに響ひゞけと鳴なく其その聲こゑに撼ゆすられつゝ夜よるの間あひだに生長せいちやうする。

櫟や楢やその他の雑木は、蛙が鳴けば鳴くほど、そうしてそれが鳴き止む季節までは、いくらでも茂ることを続けようとする。

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櫟くぬぎや楢ならや其その他たの雜木ざふきは蛙かへるが鳴なけば鳴なく程ほどさうしてそれが鳴なき止やむ季節きせつまでは幾いくらでも繁茂はんもすることを繼續けいぞくしようとする。

そこには毛虫やその他の情けない損害があるにしても、しとしととしばしばこずえを打つ雨が、空の青さを移したかと思うように力強い深い緑が地上を覆って、爽やかな涼しい陰を作るのである。

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其處そこには毛蟲けむしや其その他たの淺猿あさましい損害そんがいが或あるひは有あるにしても、しと/\と屡しば/\梢こずゑを打うつ雨あめが空そらの蒼あをさを移うつしたかと思おもふやうに力強ちからづよい深ふかいい緑みどりが地上ちじやうを掩おほうて爽さわやかな冷すゞしい陰かげを作つくるのである。

鬼怒川の西岸の一部の地にも、こうして春は来て、かつ移って行った。

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鬼怒川きぬがはの西岸せいがん一部ぶの地ちにも恁かうして春はるは來きたり且かつ推移すゐいした。

憂いのある者もない者も等しく農具を取って、それぞれその持ち場についた。

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憂うれひあるものも無ないものも等ひとしく耒耟らいしを執とつて各おの/\其その處ところに就ついた。

勘次もその一人である。

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勘次かんじも其その一人ひとりである。

勘次は春の間に、お品の四十九日も過ごした。

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勘次かんじは春はるの間あひだにお品しなの四十九日にちも過すごした。

白木の位牌に心ばかりの手向けをしただけで、一銭でも彼は無駄遣いを恐れた。

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白木しらきの位牌ゐはいに心こゝろばかりの手向たむけをしただけで一錢せんでも彼かれは冗費じようひを怖おそれた。

彼が再び利根川の工事へ行った時は、冬はようやく険悪な空を彼らの頭上に表した。

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彼かれが再ふたゝび利根川とねがはの工事こうじへ行いつた時ときは冬ふゆは漸やうやく險惡けんあくな空そらを彼等かれらの頭上づじやうに表あらはした。

みぞれや雪や雨が、時として彼らの労働に恐るべき障害を与えて、彼らを一日その寒い部屋に閉じ込めた。

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霙みぞれや雪ゆきや雨あめが時ときとして彼等かれらの勞働らうどうに怖おそるべき障害しやうがいを與あたへて彼等かれらを一日にち其その寒さむい部屋へやに閉とぢ込こめた。

一日の工賃は、非常な節約をしても、次の日に仕事に出なければ一銭も自分の手には残らなくなる。

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一日にちの工賃こうちんは非常ひじやうな節約せつやくをしても次つぎの日ひに仕事しごとに出でなければ一錢せんも自分じぶんの手てには残のこらなくなる。

それは食料と薪との高い供給を仰がねばならないからである。

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それは食料しよくれうと薪まきとの不廉ふれんな供給きようきふを仰あふがねばならぬからである。

勘次は、お品の発病から葬式までには、彼にしては過大な費用を要した。

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勘次かんじはお品しなの發病はつびやうから葬式さうしきまでには彼かれにしては過大くわだいな費用ひようを要えうした。

それでも葬具やその他の雑費には、二銭ずつでも村のすべてが持って来た香典と、お品の布団の下に入れてあった蓄えとで、どうにかすることができた。

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それでも葬具さうぐや其その他たの雜費ざつぴには二錢せんづつでも村むらの凡すべてが持もつて來きた香奠かうでんと、お品しなの蒲團ふとんの下したに入いれてあつた蓄たくはへとでどうにかすることが出來できた。

それでも医者への謝礼やその他で、彼自身の懐はげっそりと減ってしまった。

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それでも醫者いしやへの謝儀しやぎや其その他たで彼自身かれじしんの懷中ふところはげつそりと減へつて畢しまつた。

そうして小作米を売った苦しい懐から、それでも彼は自分のいない間の手当てに五十銭を託して行った。

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さうして小作米こさくまいを賣うつた苦くるしい懷ふところからそれでも彼かれは自分じぶんの居ゐない間あひだの手當てあてに五十錢せんを託たくして行いつた。

それも卯平へ直接ではなくて、南へ頼んで卯平へ渡してもらった。

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それも卯平うへいへ直接ちよくせつではなくて南みなみへ頼たのんで卯平うへいへ渡わたして貰もらつた。

勘次が行ってから、その銭を出された時、卯平は

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勘次かんじが行いつてから其その錢ぜにを出だされた時とき卯平うへいは

「そう疑ぐるなら、わしは預かりますまい」

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「さう疑うたぐるならわしは預あづかりますめえ」

と言って拒んだ。

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といつて拒絶きよぜつした。

「まあ、そんなこと言わないで、せっかくのことに。勘次さんも悪い料簡でしたんでもないだろうから」

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「まあ其麽そんなことゆはねえで折角せつかくのことに、勘次かんじさんも惡わるい料簡れうけんでしたんでもなかんべえから」

となだめても、とうとう卯平は聞かなかった。

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と宥なだめても到頭たうとう卯平うへいは聽きかなかつた。

勘次はどうにか稼ぎ出して帰りたいと思って一生懸命になったが、それはわずかに命をつなぎ得たに過ぎないのであった。

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勘次かんじはどうにか稼かせぎ出だして歸かへりたいと思おもつて一生懸命しやうけんめいになつたがそれは僅わづかに生命せいめいを繋つなぎ得えたに過すぎないのであつた。

近所の村から行った者は、しのぎきれないで夜逃げしてしまった者もあった。

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近所きんじよの村落むらから行いつたものは凌しのぎ切きれないで夜遁よにげして畢しまつたものもあつた。

それでも勘次は、わずかに持って出た財布の銭を減らさなかったというだけのことに繋ぎ止めた。

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それでも勘次かんじは僅わづかに持もつて出でた財布さいふの錢ぜにを減へらさなかつたといふ丈だけのことに繋つなぎ止とめた。

「おとっつあん、いてくれたなあ」

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「おとつゝあ居ゐて呉くれたなあ」

と媚びるように言って自分の家の敷居をまたいだ時は、足に感覚のないほどに彼は草臥れて、夜は暗くなっていた。

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と媚こびるやうにいつて自分じぶんの家うちの閾しきゐを跨またいだ時ときは足あしに知覺ちかくのない程ほどに彼かれは草臥くたびれて夜よるは闇くらくなつて居ゐた。

さすがに二人の子は喜んで、与吉は勘次の手にすがった。

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有繋さすがに二人ふたりの子こは悦よろこんで與吉よきちは勘次かんじの手てに縋すがつた。

卯平がしたように、鉄砲玉が勘次の手から出ることと思ったらしかった。

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卯平うへいがしたやうに鐵砲玉てつぽうだまが勘次かんじの手てから出でることゝ思おもつたらしかつた。

勘次は苦しい懐から、何も買っては来なかった。

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勘次かんじは苦くるしい懷ふところから何なにも買かつては來こなかつた。

彼はどんなにしても、無邪気な子のために小さな菓子の一袋も持って来なかったことを心に悔いた。

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彼かれは什麽どんなにしても無邪氣むじやきな子この爲ために小ちひさな菓子くわしの一袋ひとふくろも持もつて來こなかつたことを心こゝろに悔くいた。

「まんま」

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「まんま」

と言って、小さな与吉は勘次に求めた。

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というて小ちひさな與吉よきちは勘次かんじに求もとめた。

「そんじゃ、爺さんの砂糖でもなめろ」

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「そんぢや爺ぢいが砂糖さたうでも嘗なめろ」

と、おつぎは与吉を抱いて枠棚の袋を取った。

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とおつぎは與吉よきちを抱だいて籰棚わくだなの袋ふくろをとつた。

無口な卯平は、ちょっと見向いたきりで、帰ったかとも言わない。

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寡言むくちな卯平うへいは一寸ちよつと見向みむいたきりで歸かへつたかともいはない。

勘次が草臥れた様子をしているのがわざとらしいように見えるので、卯平は苦い顔をして、火の消えた煙管をぎっとかみしめては、思い出したように雁首を火鉢へ叩きつけた。

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勘次かんじが草臥くたびれた容子ようすをして居ゐるのが態わざとらしいやうに見みえるので卯平うへいは苦にがい顏かほをして、火ひの消きえた煙管きせるをぎつと噛かみしめては思おもひ出だしたやうに雁首がんくびを火鉢ひばちへ叩たゝき付つけた。

吸い殻がくっついているので、彼は力いっぱいに叩きつけた。

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吸穀すひがらがひつゝいてるので彼かれは力ちから一杯ぱいに叩たゝきつけた。

勘次には、それが当てつけにでもされるように心に響いた。

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勘次かんじにはそれが當あてつけにでもされるやうに心こゝろに響ひゞいた。

「おつぎ、みんなでもなめさせろ。そうしてお前もなめっちまえ。おとっつあんが稼いで来たから、お前らもこれからよかろう」

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「おつぎみんなでも嘗なめさせろ、さうして汝われも嘗なめつちめえ、おとつゝあ稼かせえで來きたから汝等わつらも此これからよかんべえ」

卯平は言った。

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卯平うへいはいつた。

勘次はようやく帰った、その矢先にこういうことで、自分の家でもひどく落ち着かない、こそばゆくてならない心持ちがするので、彼は足も洗わずに、近所へ義理も果たすからと言って出て行った。

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勘次かんじは漸やうやく歸かへつた其その箭先やさきにかういふことで自分じぶんの家うちでも酷ひどく落付おちつかない、こそつぱくて成ならない心持こゝろもちがするので彼かれは足あしも洗あらはずに近所きんじよへ義理ぎりも足たすからといつて出でて行いつた。

「明日だっていいのに」

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「明日あしただつてえゝのに」

卯平は後で呟いた。

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卯平うへいは後あとで呟つぶやいた。

彼はぶすりぶすりと口は利くのであったが、それでもさっきからのようにひねくれ曲がったことは、これまでは言ったことはなかった。

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彼かれはぶすり/\と口くちは利きくのであつたがそれでも先刻さつきからのやうにひねくれ曲まがつたことは此これまではいつたことはなかつた。

彼は死んだお品のことを思って、二人の子が哀れになって、勘次のいない間の面倒を見る気になった。

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彼かれは死しんだお品しなのことを思おもつて二人ふたりの子こが憐あはれになつて勘次かんじの居ゐない間あひだの面倒めんだうを見みる氣きに成なつた。

彼はわずかな菓子の袋から小さな与吉に慕われてみると、さすがに憎い心持ちも起こらなかった。

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彼かれは僅わづかな菓子くわしの袋ふくろから小ちひさな與吉よきちに慕したはれて見みると有繋さすがに憎にくい心持こゝろもちも起おこらなかつた。

その間、彼は何も不足に思ってはいなかった。

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其その間あひだ彼かれは何なんにも不足ふそくに思おもつては居ゐなかつた。

それを勘次が帰ってみると、生まれつき好きでない勘次へ、たちまちに二人の子はなびいてしまった。

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それを勘次かんじが歸かへつて見みると性來しやうらい好すきでない勘次かんじへ忽たちまちに二人ふたりの子こは靡なびいて畢しまつた。

彼はこれまでの心づくしを勘次に奪われたようで、ふっと不快な感じを起こしたのである。

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彼かれは此これまでの心竭こゝろづくしを勘次かんじに奪うばはれたやうで、ふつと不快ふくわいな感かんじを起おこしたのである。

それも、どんなかたちにでも勘次が義理を述べればそれでもまだよかったが、勘次は妙に気が引けて、それが喉まで出ても押さえつけられたようで、声に出すことができなかったのである。

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それもどんな姿なりにも勘次かんじが義理ぎりを述のべればそれでもまだよかつたが、勘次かんじは妙めうに身みがひけてそれが喉のどまで出でても抑おさへつけられたやうで聲こゑに發はつすることが出來できなかつたのである。

懐の寂しい勘次が、そうして気が引けるのを、卯平にはかえってよそよそしくされるような感じを与えた。

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懷ふところのさむしい勘次かんじはさうして身みがひけるのを卯平うへいには却かへつて餘所よそ/\しくされるやうな感かんじを與あたへた。

勘次は卯平にも子供にも済まないような気がしたので、近所へ義理を果たすと言って出て、菓子の一袋を懐へ入れて来た。

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勘次かんじは卯平うへいにも子供こどもにも濟すまぬやうな氣きがしたので近所きんじよへ義理ぎりを足たすというて出でて菓子くわしの一袋ひとふくろを懷ふところへ入いれて來きた。

その時、与吉はもう眠っていた。

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其その時とき與吉よきちはもう眠ねむつて居ゐた。

卯平は、変なことをすると思って見ていた。

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卯平うへいは變へんなことをすると思おもつて見みて居ゐた。

そうしてまたさらに、自分がひどく隔てられるように思った。

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さうして又また更さらに自分じぶんが酷ひどく隔へだてられるやうに思おもつた。

彼は五十銭の銭のことを思い出して、忌々しくなった。

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彼かれは五十錢せんの錢ぜにのことを思おもひ出だして忌々敷いま/\しくなつた。

「勘次ら、懐はいいだろう」

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「勘次等かんじら懷ふところはよかつぺ」

卯平はぶつりと聞いた。

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卯平うへいはぶつゝりと聞きいた。

「おとっつあん、おれはいい所なもんじゃない。やっとのことで逃げるようにして来たんだ。あんな所へなんざあ、けっして行くもんじゃない。とてもだめなことだ。おれも懲りちまったよ」

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「おとつゝあ、俺おらえゝ所ところなもんぢやねえ、やつとのことで逃にげるやうにして來きたんだ、あんな所ところへなんざあ決けつして行いくもんぢやねえ、とつても駄目だめなこつた、俺おらも懲こりつちやつたよ」

勘次は慌てて言った。

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勘次かんじは慌あわてゝいつた。

彼は会う人ごとに必ず、よかろうよかろうと言われるのを非常に恐れていた。

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彼かれは逢あふ人ひと毎ごとに必かならずよからう/\といはれるのを非常ひじやうに怖おそれて居ゐた。

「うん、そうかなあ」

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「うむ、さうかなあ」

卯平は気のないように言った。

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卯平うへいは氣きのないやうにいつた。

「どうせおれは余計者だ。いやしないからいいや。いくら持てたって構やしない」

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「どうで俺おら餘計者よけいものだ、居ゐやしねえからえゝや、幾いくら持もつてたつて構かまやしねえ」

彼はさらに独り言を言った。

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彼かれは更さらに獨語つぶやいた。

勘次は青くなった。

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勘次かんじは蒼あをくなつた。

卯平は、勘次がきっと銭を隠しているのだと思ったのである。

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卯平うへいは勘次かんじが屹度きつと錢ぜにを隱かくして居ゐるのだと思おもつたのである。

彼はそんなこんなが不快に堪えないので、次の日、野田へ立ってしまった。

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彼かれはそんなこんなが不快ふくわいに堪たへないので次つぎの日ひ野田のだへ立たつて畢しまつた。

野田で卯平の役目といえば、夜になって大きな蔵々の間を拍子木を叩いて歩くだけで、老人の体にもそれは格別の辛抱ではなかった。

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野田のだで卯平うへいの役目やくめといへば夜よるになつて大おほきな藏々くら/″\の間あひだを拍子木ひやうしぎ叩たゝいて歩あるく丈だけで老人としよりの體からだにもそれは格別かくべつの辛抱しんぼうではなかつた。

昼は昼寝が許されてあるので、その時間を割いて、器用な彼には内職の小遣い取りも少しはできた。

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晝ひるは午睡ひるねが許ゆるされてあるので其その時間じかんを割さいて器用きような彼かれには内職ないしよくの小遣取こづかひどりも少すこしは出來できた。

好きな煙草とコップ酒に渇することはなかった。

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好すきな煙草たばことコツプ酒ざけに渇かつすることはなかつた。

暑い時にはさっぱりした浴衣を引っ掛けていることもできた。

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暑あつい時ときにはさつぱりした浴衣ゆかたを引ひつ掛かけて居ゐることも出來できた。

そこは彼には住みづらい所でもなかった。

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其處そこは彼かれには住すみ辛づらい處ところでもなかつた。

ただ凍てのひどい冬の夜などには、以前からの持病である疝気で、どうかすると腰がきりきりと痛むこともあったが、その時だけは、勘次とまずくなければお品のそばでおとっつあんと言われていたい心持ちもするのであった。

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只たゞ凍いての酷ひどい冬ふゆの夜よなどには以前いぜんからの持病ぢびやうである疝氣せんきでどうかすると腰こしがきや/\と痛いたむこともあつたが、其その時とき丈だけは勘次かんじとまづくなければお品しなの側そばでおとつゝあといはれて居ゐたい心持こゝろもちもするのであつた。

生まれつき子を持ったことのない彼は、お品一人が頼りであった。

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生來せいらい子こを持もつたことのない彼かれはお品しな一人ひとりが手頼てたのみであつた。

お品に死なれて、彼はまったく孤立した。

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お品しなに死しなれて彼かれは全まつたく孤立こりつした。

そうして老後は、とうてい勘次の手に託さねばならないことになってしまったのである。

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さうして老後らうごは到底たうてい勘次かんじの手てに託たくさねばならぬことに成なつて畢しまつたのである。

それでも見苦しい貧相な勘次は、依然として彼には虫が好かなかった。

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それでも不見目みじめな貧相ひんさうな勘次かんじは依然いぜんとして彼かれには蟲むしが好すかなかつた。

彼は野田へ行けば比較的に不自由のない生活がして行かれるので、お前らの厄介にならなくてもおれはまだ立って行かれると、こうして哀愁に覆われた心の一方には、老人のひがみと愚痴とが起こったのであった。

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彼かれは野田のだへ行いけば比較的ひかくてきに不自由ふじいうのない生活せいくわつがして行いかれるので汝等わつらが厄介やくかいには成ならねえでも俺おれはまだ立たつて行いかれると、恁かうして哀愁あいしうに掩おほはれた心こゝろの一方ぱうには老人としよりの僻ひがみと愚癡ぐちとが起おこつたのであつた。

卯平は心に涙を呑んだ。

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卯平うへいは心こゝろに涙なみだを呑のんだ。

勘次はしょんぼりとしていた。

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勘次かんじは悄然せうぜんとして居ゐた。

与吉が泣くたびに、彼は困った。

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與吉よきちが泣なく度たびに彼かれは困こまつた。

そうして毎日お品のことを思い出しては、天秤棒で手桶をかついだ姿が庭にも戸口にも、時としては座敷にも見えることがあった。

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さうして毎日まいにちお品しなのことを思おもひ出だしては、天秤てんびんで手桶てをけを擔かついだ姿すがたが庭にはにも戸口とぐちにも時ときとしては座敷ざしきにも見みえることがあつた。

そばにいるような気がして、思わず振り返ることもあるのであった。

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側そばに居ゐるやうな氣きがして思おもはず顧かへりみることもあるのであつた。

彼はお品を思い出すと与吉を抱いては、「なあ、おっかあはいないんだぞ。おっかあの乳房はほしがれないんだぞ」

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彼かれはお品しなを思おもひ出だすと與吉よきちを抱だいては「なあ、おつかあは居ゐねえんだぞ、おつかあが乳房ちつこ欲ほしがんねえんだぞ」

と始終言って聞かせた。

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と始終しじういつて聞きかせた。

お品がいないとことさらに言うのは、それは一つには彼自身の諦めのためでもあったのである。

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お品しなが居ゐないと殊更ことさらにいふのはそれは一つには彼自身かれじしんの斷念あきらめの爲ためでもあつたのである。

お品は豆腐をかついでいる時は、よくビールの空き瓶を手桶へくくって行った。

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お品しなは豆腐とうふを擔かついで居ゐる時ときは能よく麥酒ビールの明罎あきびんを手桶てをけへ括くゝつて行いつた。

それで帰りの手桶が軽くなった時は、勘次の好きな酒がこぼこぼと瓶の中で鳴っていた。

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それで歸かへりの手桶てをけが輕かるくなつた時ときは勘次かんじの好すきな酒さけがこぼ/\と罎びんの中なかで鳴なつて居ゐた。

お品は酒屋へ豆腐を置いては、その銭だけ酒を入れてもらうので、豆腐のもうけだけ安い酒を買って、勘次を喜ばせるのであった。

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お品しなは酒店さかだなへ豆腐とうふを置おいては其その錢ぜにだけ酒さけを入いれて貰もらふので豆腐とうふの儲まうけだけ廉やすい酒さけを買かつて勘次かんじを悦よろこばせるのであつた。

それはお品の死ぬ年のことだけである。

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それはお品しなの死しぬ年としのことだけである。

お品が、ようやく商売を覚えたと言っていたのは、まだその夏のころからである。

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お品しなは漸やうやく商あきなひを覺おぼえたといつて居ゐたのはまだ其その夏なつの頃ころからである。

初めはきまりが悪くて、他人の敷居をまたぐのをためらっていた。

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初はじめは極きまりが惡わるくて他人たにんの閾しきゐを跨またぐのを逡巡もぢ/\して居ゐた。

それくらいだから変な赤い顔もして、余計に不愛想にも見えるのであったが、後には相応に時候の挨拶も言えるようになったと、お品はよく勘次へ語ったのである。

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其その位くらゐだから變へんな赤あかい顏かほもして餘計よけいに不愛想ぶあいさうにも見みえるのであつたが、後のちには相應さうおうに時候じこうの挨拶あいさつもいへるやうに成なつたとお品しなは能よく勘次かんじへ語かたつたのである。

勘次は思い出に堪えられなくなっては、お品の墓に泣いた。

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勘次かんじは追憶つゐおくに堪たへなくなつてはお品しなの墓塋はかに泣ないた。

彼は、紙が雨に溶けてだらりと崩れた白張り提灯を、恨めしそうに見るのであった。

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彼かれは紙かみが雨あめに溶とけてだらりとこけた白張提灯しらはりちやうちんを恨うらめし相さうに見みるのであつた。

勘次はうなだれた首をもたげて、三人の口を糊するために日雇いに出た。

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勘次かんじは悄しをれた首くびを擡もたげて三人にんの口くちを糊のりするために日傭ひように出でた。

彼はよく隣の主人に使ってもらった。

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彼かれは能よく隣となりの主人しゆじんに使つかつて貰もらつた。

米はきっと彼が搗かせられた。

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米こめは屹度きつと彼かれが搗つかせられた。

上手な彼は減らさないで、そうして白く搗いた。

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上手じやうずな彼かれは減へらさないでさうして白しろく搗ついた。

彼は時としては、主人のうっかりしている間に蔵から余計な米を量り出して、そっと隠しておいて、夜自分の家に持って来ることがあった。

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彼かれは時ときとしては主人しゆじんのうつかりして居ゐる間まに藏くらから餘計よけいな米こめを量はかり出だして、そつと隱かくして置おいて夜よる自分じぶんの家いへに持もつて來くることがあつた。

それもわずか二升か三升に過ぎない。

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それも僅わづか二升しようか三升じように過すぎない。

それくらいでは、主人の注意を引くには足りなかった。

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其その位くらゐでは主人しゆじんの注意ちういを惹ひくには足たらなかつた。

そうして、その米は窮迫した彼の台所をしばらく潤すのである。

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さうして其その米こめは窮迫きうはくした彼かれの厨くりやを少時しばし濕うるほすのである。

ある時、彼はまた主人の米をそっとかすめて、股引へ入れて目につかないように薪の積んだ間へ押し込んでおいた。

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或ある時とき彼かれは復また主人しゆじんの米こめをそつと掠かすめて股引もゝひきへ入いれて目めにつかぬやうに薪たきゞの積つんだ間あひだへ押おし込こんで置おいた。

雇い人がそれを見つけて、ひそかに主人のおかみさんに告げた。

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傭人やとひにんがそれを發見はつけんして竊ひそかに主人しゆじんの内儀かみさんに告つげた。

おかみさんは、わずかなことだから捨てておいてやれと言ったが、しかし雇い人は、一つにはいたずらから米を空けて、その代わりに一杯に土を入れておいた。

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内儀かみさんは僅わづかなことだから棄すてゝ置おいて遣やれといつたが然しかし傭人やとひにんは一つには惡戯いたづらから米こめを明あけて其その代かはりに一杯ぱいに土つちを入いれて置おいた。

勘次は発覚したことを恐れ、かつ恥じて、次の日には来なかった。

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勘次かんじは發覺はつかくしたことを怖おそれ且かつ恥はぢて次つぎの日ひには來こなかつた。

それから数日の間は、主人の家に姿を見せなかった。

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それから數日間すうじつかんは主人しゆじんの家うちに姿すがたを見みせなかつた。

おかみさんは雇い人のいたずらを聞いて、むしろ憐れになって、またこちらから仕事を言いつけてやった。

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内儀かみさんは傭人やとひにんの惡戯いたづらを聞きいて寧むしろ憐あはれになつて又またこちらから仕事しごとを吩咐いひつけてやつた。

さらに袋へ米と挽き割り麦とを混ぜたのを入れて、それから、これは雇い人にも炊いてやれないのだから、お前がよければ持って行って、秋にでもなったら糯粟を少しでも返せと、二、三斗入った粳粟の俵とを一つにやった。

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更さらに袋ふくろへ米こめと挽割麥ひきわりむぎとを交まぜたのを入いれて、それから此これは傭人やとひにんにも炊たいてやれないのだからお前まへがよければ持もつて行いつて秋あきにでもなつたら糯粟もちあはの少すこしも返かへせと二三斗ど入はひつた粳粟うるちあはの俵たわらとを一つに遣やつた。

勘次は主人のために一所懸命働いた。

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勘次かんじは主人しゆじんの爲ために一所懸命しよけんめい働はたらいた。

その以前からも、彼はただ隣の主人から見捨てられないようにと、心には思っているのであった。

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其その以前いぜんからも彼かれは只たゞ隣となりの主人しゆじんから見棄みすてられないやうと心こゝろには思おもつて居ゐるのであつた。

しかし非常な労働は、雇い人の仲間には嫌われた。

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然しかし非常ひじやうな勞働らうどうは傭人やとひにんの仲間なかまには忌いまれた。

それは、雇い人も彼にならって自分もその労力を惜しむことができないからである。

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それは傭人やとひにんも彼かれに倣ならつて自分じぶんも其その勞力らうりよくを偸ぬすむことが出來できないからである。

そうするうちに、世間はまた春が移って、雨が忙しく田畑へ水を供給した。

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さうする内うちに世間せけんは復また春はるが移うつつて雨あめが忙いそがしく田畑たはたへ水みづを供給きようきふした。

勘次は自分の後ろの田へ出て、刈り株を引っ返しては耕した。

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勘次かんじは自分じぶんの後うしろの田たへ出でて刈株かりかぶを引ひつ返かへしては耕たがやした。

おつぎも万能鍬を持って勘次の後についた。

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おつぎも萬能まんのうを持もつて勘次かんじの後あとに跟ついた。

勘次は、お品の手が減っただけはおつぎを使って、どうにかこれまで作った土地は始末をつけようと思った。

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勘次かんじはお品しなの手てが減へつた丈だけはおつぎを使つかつてどうにか從來これまで作つくつた土地とちは始末しまつをつけようと思おもつた。

ことに田はすぐ後ろなので、どんなにしても手放すまいとした。

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殊ことに田たは直すぐ後うしろなので什麽どんなにしても手放てばなすまいとした。

いったん地主へ返してしまったら、再び自分がほしくなっても容易に手に入れることができないのを恐れたからである。

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一且たん地主ぢぬしへ還かへして畢しまつたら再ふたゝび自分じぶんが欲ほしくなつても容易よういに手てに入いれることが出來できないのを怖おそれたからである。

今におつぎを一人前に仕込んでみると、勘次は心に思っている。

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今いまにおつぎを一人前にんまへに仕込しこんで見みると勘次かんじは心こゝろに思おもつて居ゐる。

勘次は万能鍬をぶつりと打ち込んでは、ぐっと大きな土の塊を引き返す。

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勘次かんじは萬能まんのうをぶつりと打うち込こんではぐつと大おほきな土つちの塊かたまりを引返ひきかへす。

おつぎはやっと小さな塊を起こす。

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おつぎは漸やうやく小ちひさな塊かたまりを起おこす。

勘次の手は速やかに動いて、ずんずんと先へ進む。

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勘次かんじの手ては速すみやかに運動うんどうしてずん/\と先さきへ進すゝむ。

おつぎはだんだん遅れて、小さな塊を浅く起こして進んで行く。

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おつぎは段々だん/\後おくれて小ちひさな塊かたまりを淺あさく起おこして進すゝんで行ゆく。

そうすると

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さうすると

「そんなに怖がってびくびくやるんじゃない、こうするんだ」

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「そんなに可怖おつかなびつくりやんぢやねえかうすんだ」

勘次はじれったそうに、おつぎの万能鍬を取って打ち込んで見せる。

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勘次かんじは遲緩もどかし相さうにおつぎの萬能まんのうをとつて打うち込こんで見みせる。

「そんでも、おとっつあん、おれのにはそういうふうにはできないんだもの」

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「そんでもおとつゝあ、俺おらがにやさういにや出來できねえんだもの」

「そんな料簡だからお前らはだめだ。本当にやってみるつもりでやってみろ」

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「そんな料簡れうけんだから汝等わツら駄目だめだ、本當ほんたうにやつて見みる積つもりでやつて見みろ」

おつぎは勘次に遅れながら、手の力の及ぶかぎり働いた。

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おつぎは勘次かんじに後おくれつゝ手ての力ちからの及およぶ限かぎり働はたらいた。

与吉は田んぼの堀のあたりにむしろを敷いて、そこに置いてある。

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與吉よきちは田圃たんぼの堀ほりの邊ほとりに筵むしろを敷しいて其處そこに置おいてある。

「じっとしていろ、動くんじゃないぞ。動くとぽかんと堀の中さ落っこちるからな。そうら蛙がぽかんと落っこちた。動くなあ、ここに棒があった。そうら、これでも持ってろ。泣くんじゃないぞ。姉はこの田の中にいるんだからな。泣くとおとっつあんにあっぷって怒られるからな」

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「えんとして居ゐろ、動いごくんぢやねえぞ動いごくとぽかあんと堀ほりの中なかさ落おつこちつかんな、そうら蛙けえるぽかあんと落おつこつた。動いごくなあ、此處こゝに棒ぼうあつた、そうら此これでも持もつてろ、泣なくんぢやねえぞ、姉ねえは此この田たン中なかに居ゐんだかんな、泣なくとおとつゝあにあつぷつて怒おこられつかんな」

おつぎは頬をすりつけて、よく言い含めた。

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おつぎは頬ほゝを擦すりつけて能よくいひ含ふくめた。

与吉は土だらけの短い棒で、岸の土を叩いている。

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與吉よきちは土つちだらけの短みぢかい棒ぼうで岸きしの土つちを叩たゝいて居ゐる。

そうして時々後ろを向いては姉の姿を見て、安心して棒でぴたぴたと叩いている。

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さうして時々とき/″\後あとを向むいては姉あねの姿すがたを見みて安心あんしんして棒ぼうでぴた/\と叩たゝいて居ゐる。

棒の先が水を打つので、与吉は喜んだ。

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棒ぼうの先さきが水みづを打うつので與吉よきちは悦よろこんだ。

それもしばらくの間に飽きた。

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それも少時しばしの間あひだに飽あいた。

おつぎは、与吉がまた見た時には、田の向こうの端に行っていた。

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おつぎは與吉よきちがまた見みた時ときには田たの向むかふの端はしに行いつて居ゐた。

「姉よう」

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「姉ねえよう」

と与吉は呼んだ。

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と與吉よきちは喚よんだ。

おつぎは返事しなかった。

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おつぎは返辭へんじしなかつた。

与吉はまた呼んだ。

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與吉よきちは又また喚よんだ。

そうして泣き出した。

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さうして泣なき出だした。

おつぎが立って行こうとすると

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おつぎは立たつて行いかうとすると

「構わないで置け。耕してあっちへ行ってからにしろ」

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「構かまあねえで置おけ、耕うなつてあつちへ行いつてからにしろ」

勘次はせっかちに厳しく、おつぎを止めた。

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勘次かんじは性急せいきふに嚴きびしくおつぎを止とめた。

おつぎは仕方なく、泣くのも構わずに耕した。

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おつぎは仕方しかたなく泣なくのも構かまはずに耕たがやした。

勘次は先へ先へと耕して、堀のそばまで来た。

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勘次かんじは先さきへ/\と耕たがやして堀ほりの側そばまで來きた。

「泣くな。今、姉が後から来らあ」

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「泣なくな、今いま姉ねえが後あとから來くらあ」

勘次はこう言って、与吉に一目くれたのみで、一心にその手を動かしている。

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勘次かんじはかういつて、與吉よきちに一瞥べつを與あたへたのみで一心しんに其その手てを動うごかして居ゐる。

与吉は、おつぎがようやく近づいた時、ひとしきりまた泣いた。

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與吉よきちはおつぎが漸やうやく近ちかづいた時とき一しきり又また泣ないた。

「よきはどうしたんだ」

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「よきはどうしたんだ」

おつぎは岸へ上がって、泥だらけの足で草の上に膝を突いた。

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おつぎは岸きしへ上あがつて泥どろだらけの足あしで草くさの上うへに膝ひざを突ついた。

与吉は笑い交じりに泣いて、両手を出して抱かれようとする。

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與吉よきちは笑交わらひまじりに泣ないて兩手りやうてを出だして抱だかれようとする。

「姉は泥だらけで仕方があるまいな。汚れてもいいのか、よきは」

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「姉ねえは泥どろだらけで仕しやうあんめえな、汚よごれてもえゝのかよきは」

と言いながら、おつぎは与吉を抱いた。

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いひながらおつぎは與吉よきちを抱だいた。

「どうした、蛙のやつはいないか。この棒でばたばたと叩いてやれ。そうしたら痛いようって蛙のやつが泣くだろうな。泣くな蛙だよう、よきは泣かないようってなあ」

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「どうした、蛙奴けえるめ居ゐねえか、此この棒ぼうでばた/″\と叩はたいてやれ、さうしたら痛いてえようつて蛙奴けえるめが泣なくべえな、泣なくな蛙けえるだよう、よきは泣なかねえようつてなあ」

おつぎは与吉を抱いたまま、勘次のほうを見て

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おつぎは與吉よきちを抱だいた儘まゝ勘次かんじの方ほうを見みて

「おとっつあん、あっちへ行っちゃった。姉も行かなくちゃならない。おとっつあんに怒られるからな。またじっとしていろ」

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「おとつゝあ、あつちへ行えつちやつた、姉ねえも行えかなくつちやなんねえ、おとつゝあに怒おこられつかんな、又またえんとして居ゐろ」

おつぎはそっと与吉をむしろへ下ろした。

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おつぎはそつと與吉よきちを筵むしろへ卸おろした。

「早くやれ、何してるんだ。いいかげんにしろ」

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「かせえてやれ、何なにしてんだ、えゝ加減かげんにしろ」

勘次は後ろを向いて怒鳴った。

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勘次かんじは後うしろを向むいて呶鳴どなつた。

「それ見ろな、怒られるから。そら、ここにいいものがあった」

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「それ見みろな怒おこられつから、そら此處こゝにえゝものが有あつた」

おつぎは田んぼにあるははこぐさの花をむしって、むしろへ載せてやった。

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おつぎは田圃たんぼにある鼠麹草はゝこぐさの花はなを挘むしつて筵むしろへ載のせて遣やつた。

そうしてまた、危ないようにそうっと田へ下りた。

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さうして又また危あぶないやうにそうつと田たへおりた。

与吉はただ、ははこぐさの花をいじっていた。

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與吉よきちは只たゞ鼠麹草はゝこぐさの花はなを弄いぢつて居ゐた。

堀は雨の後の水を集めて、さらさらと岸を浸して行く。

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堀ほりは雨あめの後あとの水みづを聚あつめてさら/\と岸きしを浸ひたして行ゆく。

青く茂って傾いている川柳の枝が一つ水につき、流れ去る力に軽く動かされている。

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青あをく茂しげつて傾かたむいて居ゐる川楊かはやなぎの枝えだが一つ水みづについて、流ながれ去さる力ちからに輕かるく動うごかされて居ゐる。

水はわずかに触れているその枝のために、下流へ放射線状を描いている。

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水みづは僅わづかに觸ふれて居ゐる其その枝えだの爲ために下流かりうへ放射線状はうしやせんじやうを描ゑがいて居ゐる。

蘆のようで、しかも極めて細いかわいらしいとだしばが、びりびりと震わされながら岸の水に立っている。

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蘆あしのやうで然しかも極きはめて細ほそい可憐かれんなとだしばがびり/\と撼ゆるがされながら岸きしの水みづに立たつて居ゐる。

おたまじゃくしが水の勢いにこらえられないようにしては、にわかに水に浸されて銀のように光っている岸の草の中に隠れようとする。

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お玉杓子たまじやくしが水みづの勢いきほひに怺こらへられぬやうにしては、俄にはかに水みづに浸ひたされて銀ぎんのやうに光ひかつて居ゐる岸きしの草くさの中なかに隱かくれやうとする。

そうしてはまた、すべての幼いものに特有で、じっとしていられなくて、かわいらしい尾をひらひらと動かしながら、力に余る水の勢いにぐっと持ち去られながら泳いでいる。

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さうしては又また凡すべての幼をさないものゝ特有もちまへで凝然ぢつとして居をられなくて可憐かれんな尾ををひら/\と動うごかしながら、力ちからに餘あまる水みづの勢いきほひにぐつと持もち去さられつゝ泳およいで居ゐる。

与吉はははこぐさの花を水へ投げた。

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與吉よきちは鼠麹草はゝこぐさの花はなを水みづへ投なげた。

花が上流に向いて落ちると、ぐるりと下流へ押し向けられて、ずんずんと運ばれて行く。

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花はなが上流じやうりうに向むいて落おちると、ぐるりと下流かりうへ押おし向むけられてずんずんと運はこばれて行ゆく。

岸の草の中にいた蛙は、ひょうきんにその花へ飛びついて、それからぐっと後ろの足で水をかいて向こうの岸へ着いて、ふわりと浮いたまま大きな目を見開いてこちらを見る。

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岸きしの草くさの中なかに居ゐた蛙かはづは剽輕へうきんに其その花はなへ飛とび付ついて、それからぐつと後うしろの足あしで水みづを掻かいて向むかふの岸きしへ着ついてふわりと浮ういた儘まゝ大おほきな目めを睜みはつてこちらを見みる。

ははこぐさの花がみな投げ尽くされて、与吉はまたおつぎを呼んだ。

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鼠麹草はゝこぐさの花はなが皆みな投なげ竭つくされて與吉よきちは又またおつぎを喚よんだ。

「おうい」

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「おうい」

と、おつぎの情のこもった声が遠くから言った。

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とおつぎの情じやうを含ふくんだ聲こゑが遠とほくからいつた。

おつぎの返事を聞いては、与吉は口癖のように姉よと呼ぶ。

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おつぎの返辭へんじを聞きいては與吉よきちは口癖くちぐせのやうに姉ねえよと喚よぶ。

そのたびごとに、おつぎは忙しい手を動かしながら、それに応じるのである。

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其その度たび毎ごとにおつぎは忙いそがしい手てを動うごかしながらそれに應おうずるのである。

正午にはまだ間があるうちに、昼飯の支度を急いで、おつぎは田んぼから茶を沸かしに上がる。

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正午ひるにはまだ間まがあるうちに午餐ひるの支度したくを急いそいでおつぎは田圃たんぼから茶ちやを沸わかしにのぼる。

与吉は喜んで、おつぎの背にかじりついた。

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與吉よきちは悦よろこんでおつぎの背せに噛かぢりついた。

勘次は後で独り耕した。

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勘次かんじは後あとで獨ひとり耕たがやした。

青い煙が楢の木から立って、やがて

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青あをい煙けむりが楢ならの木きから立たつて軈やがて

「沸いたぞう」

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「沸わいたぞう」

と、おつぎの声で呼ばれるまでは、勘次は忙しいその手を止めなかった。

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とおつぎの聲こゑで喚よばれるまでは勘次かんじは忙いそがしい其その手てを止とめなかつた。

昼飯過ぎから、おつぎは縫い針へ糸を通して竿へつけて、与吉に持たせた。

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午餐過ひるすぎからおつぎは縫針ぬひばりへ絲いとを透とほして竿さをへ附つけて與吉よきちに持もたせた。

与吉はほかの子供のするように、その針を上げてみてはまた水へ投げて、おとなしくしている。

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與吉よきちは外ほかの子供こどものするやうに其その針はりを擧あげて見みては又また水みづへ投なげて大人おとなしくして居ゐる。

しばらく時間がたつと、また姉ようと呼ぶ。

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暫しばらく時間じかんが經たつと又また姉ねえようと喚よぶ。

おつぎが堀の近くへ耕して来た時に見ると、与吉の竿は糸が取れていた。

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おつぎは堀ほりの近ちかくへ耕たがやして來きた時ときに見みると與吉よきちの竿さをは絲いとがとれて居ゐた。

おつぎは岸へ上がった。

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おつぎは岸きしへ上あがつた。

「どうしたんだい、よきは」

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「どうしたんでえ、よきは」

おつぎが見ると、針が向こうの岸から出た低い川柳の枝にまつわって、糸の端が水について下流へ向いている。

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おつぎは見みると針はりが向むかふの岸きしから出でた低ひくい川楊かはやなぎの枝えだに纏まつはつて絲いとの端はしが水みづについて下流かりうへ向むいて居ゐる。

おつぎは二百メートルばかり上流の板橋を渡って行って、ようやくのことで枝を曲げてその針を取った。

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おつぎは二町ちやうばかり上流じやうりうの板橋いたばしを渡わたつて行いつて、漸やうやくのことで枝えだを曲まげて其その針はりをとつた。

そうしてまた、与吉の棒へつけてやった。

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さうして又また與吉よきちの棒ぼうへ附つけてやつた。

「もう引っ掛けるんじゃないぞ、大変だからな」

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「はあ引ひつ懸かけんぢやねえぞ大變たえへんだかんな」

おつぎはきわめて軽く叱って、また田へ下りた。

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おつぎは極きはめて輕かるく叱しかつて又また田たへおりた。

勘次はまた怒鳴った。

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勘次かんじは又また呶鳴どなつた。

「そんでも、よきは糸を切っちまったんだもの」

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「そんでもよきは絲いと切きつちまつたんだもの」

おつぎは危ぶむようにして、控えめに声を立てて言った。

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おつぎは危あやぶむやうにして控ひかへ目めに聲こゑを立たてゝいつた。

おつぎは黙って、その手を動かしている。

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おつぎは默だまつて其その手てを動うごかして居ゐる。

与吉は返事がなくても、懐かしそうに姉ようと幾度も呼びかけた。

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與吉よきちは返辭へんじがなくても懷なつかし相さうに姉ねえようと數次しば/\喚よび掛かけた。

おつぎの姿が遠くなれば、むしろへ口のつくほどかがんで、声のかぎり呼んだ。

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おつぎの姿すがたが遠とほくなれば筵むしろへ口くちのつく程ほど屈かゞんで聲こゑを限かぎりに喚よんだ。

その晩、勘次は二人を連れて近所へ風呂をもらいに行った。

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其その晩ばん勘次かんじは二人ふたりを連つれて近所きんじよへ風呂ふろを貰もらひに行いつた。

おつぎはそこへ集まった近所の女房に自分の手を見せて

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おつぎは其處そこへ聚あつまつた近所きんじよの女房にようばうに自分じぶんの手てを見みせて

「おれ、こんなに豆ができちまったんだよ」

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「俺おらこんなに肉刺まめ出でつちやつたんだよ」

と呟いた。

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と呟つぶやいた。

「ほんによな、痛いだろうな、そりゃ。そんでも、おっかあがいないから働かなくちゃならないな」

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「ほんによな、痛いたかつぺえなそりや、そんでもおつかあが居ゐねえから働はたらかなくつちやなんねえな」

女房は慰めるように言った。

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女房にようばうは慰なぐさめるやうにいつた。

「おっかあのないものはいやだな」

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「おつかあのねえものは厭やだな」

おつぎは言って、勘次を見るとすぐに首をうつむけた。

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おつぎはいつて勘次かんじを見みると直すぐに首くびを俛たれた。

勘次はそばで、じっとそれを聞いていた。

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勘次かんじは側そばで凝然ぢつとそれを聞きいて居ゐた。

「おつうらだって今にいいこともあるだろうな。そんだが、おっかあがなくっちゃ、着物がほしくてもこればかりは仕方がないのよな」

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「おつう等らだつて今いまに善ええこともあらな、そんだがおつかゞ無なくつちや衣物きもの欲ほしくつても此こればかりは仕しやうがねえのよな」

女房は言った。

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女房にようばうはいつた。

勘次は、そんなことは言わずにいてくれればいいのにと思いながら、むずかしい顔をして黙っていた。

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勘次かんじは其麽そんなことは云いはずに居ゐて呉くれゝばいゝのにと思おもひながら六むづか敷しい顏かほをして默だまつて居ゐた。

「この豆はとがめないだろうか」

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「此この肉刺まめはとがめめえか」

おつぎは手のひらのところどころにできた豆を見て、心配そうに言った。

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おつぎは手ての平ひらの處々ところ/″\に出でた肉刺まめを見みて心配相しんぱいさうにいつた。

「何でとがめるもんか」

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「何なんでとがめるもんか」

勘次は、抑えていた何かが激発したように、すぐに打ち消した。

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勘次かんじは抑制よくせいした或ある物ものが激發げきはつしたやうに直すぐに打消うちけした。

勘次は家に戻ると、飯台の底にくっついている飯の中から米粒ばかり拾い出して、それを煙草の吸い殻と練り合わせた。

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勘次かんじは家いへに戻もどると飯臺はんだいの底そこにくつゝいて居ゐる飯めしの中なかから米粒こめつぶばかり拾ひろひ出だしてそれを煙草たばこの吸殼すひがらと煉合ねりあはせた。

そうして、針の先でおつぎの、湯から出たばかりで柔らかくなった手の豆をついて汁を出して、そこへそれを貼ってやった。

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さうして針はりの先さきでおつぎの湯ゆから出でたばかりで軟やはらかく成なつた手ての肉刺まめをついて汁液みづを出だして其處そこへそれを貼はつて遣やつた。

「しくしくするな」

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「しく/\すんな」

おつぎは貼った所を見て言った。

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おつぎは貼はつた箇所かしよを見みていつた。

「汁を出したばかりにはちっと痛いとも。その代わりすぐ治るから」

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「液汁みづ出だしたばかりにやちつた痛えてえとも、その代けえしすぐ癒なほつから」

勘次はおつぎをじっと見て、それからもう鼾をかいている与吉を見た。

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勘次かんじはおつぎを凝然ぢつと見みてそれからもう鼾いびきをかいて居ゐる與吉よきちを見みた。

「豆なんぞできたらできたって、おとっつあんに言うもんだ。他人になんぞ見せたり何かするもんじゃない。お前らは何にも知らないから仕方がない。田を耕す始まりには、おとっつあんらみたいな手だってこういうふうに出るんだか見ろ。それ、痛いのを我慢し我慢しやりさえすりゃ固まっちまうんだ」

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「肉刺まめなんぞ出でたらば出でたつておとつゝあげいふもんだ、他人ひとのげなんぞ見みせたりなにつかするもんぢやねえ、汝等わツらなんにも知しらねえから仕しやうねえ、田耕たうねえ始はじまりにやおとつゝあ等ら見みてえな手てだつてかうえに出でんだか見みろ。それ痛いてえの我慢がまんしい/\行やりせえすりや固かたまつちあんだ」

勘次は自分の手をおつぎへ示した。

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勘次かんじは自分じぶんの手てをおつぎへ示しめした。

「おっかあがなくなって困るな。お前ばかりじゃないんだから」

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「おつかゞ無なくなつて困こまんな汝わればかしぢやねえんだから」

勘次はしばらく間を置いて、ぽつんと言った。

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勘次かんじは暫しばらく間あひだを置おいてぽつさりとしていつた。

「身上のためだから、お前も我慢するもんだ。見ろ、お前らどころじゃない。武州のほうへなんぞやられて、泣き抜いてる者さえあらあ」

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「身上しんしやうの爲ためだから汝われも我慢がまんするもんだ、見みろ汝等處わツらとこぢやねえ、武州ぶしうの方はうへなんぞ遣やられて泣なき拔ぬいてるものせえあら」

と、彼はまたやっとのことで言った。

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と彼かれは又また辛からうじていつた。

おとなしく黙っていたおつぎは

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大人おとなしく默だまつて居ゐたおつぎは

「武州っていうのはどっちのほうだろう」

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「武州ぶしうツちやどつちの方はうだんべ」

と、むしろあどけなく聞いた。

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寧むしろあどけなく聞きいた。

「あっちのほうよ。お前の足じゃ一日には歩けない所だ」

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「あつちの方はうよ、汝われが足あしぢや一日にや歩あるけねえ處ところだ」

勘次は雨戸のほうを向いて西南を示した。

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勘次かんじは雨戸あまどの方はうを向むいて西南せいなんを示しめした。

「遠いんだな。そこへ行ったらどうするんだろう」

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「遠とほいんだな、其處そこへ行いつたらどうすんだんべ」

「機織りする者もあれば、百姓する者もあるのよ」

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「機織はたおりするものもあれば百姓ひやくしやうするものもあんのよ」

「機を教われるならよかろうな」

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「機教はたをされぢやよかんべな」

「何でいいことがあるもんか。家へなんざあめったに来られやしないんだぞ。そんで朝から晩までみっしり使われて、それどころじゃない、病気になったってよっぽどでなくちゃ葉書もよこさせやしない」

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「何なんでえゝことあるもんか、家うちへなんざあ滅多めつたに來きられやしねえんだぞ、そんで朝あさから晩迄ばんまでみつしら使つかあれて、それ處どこぢやねえ病氣びやうきに成なつたつて餘程よつぽどでなくつちや葉書はがきもよこさせやしねえ」

「そんじゃ、そういう所へ行っちゃひどいな。逃げて来ることもできないんだろうか」

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「そんぢや、さうえ處とこへ行いつちやひでえな、逃にげて來くることも出來できねえんだんべか」

「すぐ捕まえられちまうから、そんなに逃げられるかい」

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「直すぐ捉つかめえられつちあからそんなに遁にげられつかえ」

「巡査に捕まるんだろうか」

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「巡査じゆんさに捉つかまんだんべか」

「そんなもんか。巡査でなくたって、逃げ出せばすぐ捕まえるように人が番してるのよ。なあ、そんでもなくっちゃ、遠くの者ばかり頼んでおくんだもの、仕方があるもんか」

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「さうなもんか、巡査じゆんさでなくつたつて遁にげ出だせば直すぐ捉つかめえるやうに人ひとが番ばんしてんのよ、なあ、そんでもなくつちや遠とほくの者ものばかり頼たのんで置おくんだもの仕しやうあるもんか」

「そんでも、いやだって言ったらどうするんだろう」

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「そんでも厭やだつちつたらどうすんだんべ」

「いやだなんて言ったくらい、ひどいとも。立て替え金をしなくちゃならないから」

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「厭やだなんていつた位くれえひでえとも立金たてきんしなくつちやなんねえから」

「どういうふうにするんだろう、それは」

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「どういにすんだんべそら」

「それはなあ、いくら勤めたって途中でいやだからなんて出ちまえば、借りただけの給金はみんな取り返されるのよ。なあ、それから泣く泣くもいなくちゃならないのよ」

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「そらなあ、幾いくら勤つとめたつて途中とちうで厭やだからなんて出でつちめえば、借かりた丈だけの給金きふきんはみんな取とつくる返けえされんのよ、なあ、それから泣なき/\も居ゐなくつちやなんねえのよ」

「そんじゃ、おれはそういう所へ行かなくてよかったっけな」

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「そんぢや俺おらさうえ處とこへ行いかねえでよかつたつけな」

おつぎは熱心に言った。

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おつぎは熱心ねつしんにいつた。

「そんだから、お前らのことはやりゃしない。お前のことを奉公にやれば、その銭でおれの借金もなくなるし、よきのことだって軽業師の所へでも出しちまえば、それこそ楽になっちまうんだが、おっかあがなくっちゃつらいって後で泣かれるのがいやだから、おれは土をかじってもそんな料簡は出さないんだ」

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「そんだから汝等わツらこた遣やりやしねえ。汝われこと奉公ほうこうにやれば其その錢ぜねで俺おら借金しやくきんも無なくなるし、よきことだつて輕業師かるわざげでも出だしつちめえばそれこそ樂らくになつちあんだが、おつかゞ無なくつちや辛つれえつて後あとで泣なかれんの厭やだから俺おら土ちゝ噛かぢつてもそんな料簡れうけんは出ださねんだ」

「おとっつあん、奉公すれば借金がなくなるんだろうか」

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「おとつゝあ、奉公ほうこうすれば借金しやくきんなくなんだんべか」

「おっかあさえいれば、お前のことも奉公に出して、おとっつあんらもいい銭をつかまえるんだが、おっかあがなくなって、おとっつあんだって困ってるんだ。それからお前だって、奉公に行ったつもりで辛抱するもんだ。なあ、おれはお前らにみじめを見せたいことはありゃしないんだから」

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「おつかせえ居えれば汝われことも奉公ほうこうに出だして、おとつゝあ等らもえゝ錢ぜね捉つかめえんだが、おつかゞ無なくなつておとつゝあだつて困こまつてんだ、それから汝われだつて奉公ほうこうに行いつた積つもりで辛抱しんばうするもんだ、なあ、俺おら汝等わツらげみじめ見みせてえこたあ有ありやしねんだから」

勘次はしみじみと繰り返した。

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勘次かんじはしみ/″\と反覆くりかへした。

勘次は、おつぎに体に不相応な仕事をさせていることを知っている。

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勘次かんじはおつぎに身體からだ不相應ふさうおうな仕事しごとをさせて居ゐることを知しつて居ゐる。

それで自分が朝は必ず先に起きて、かまどの下へ火をつける。

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それで自分じぶんが朝あさは屹度きつと先さきへ起おきて竈かまどの下したへ火ひを點つける。

その時、疲れた少女はまだぐったりと正体もなく枕から転げている。

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其その時とき疲つかれた少女せうぢよはまだぐつたりと正體しやうたいもなく枕まくらからこけて居ゐる。

白い湯気が釜のふたから勢いよく漏れて、やがて火が引かれてから、おつぎは起こされる。

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白しろい蒸氣ゆげが釜かまの蓋ふたから勢いきほひよく洩もれてやがて火ひが引ひかれてからおつぎは起おこされる。

帯を締めたまま横になったおつぎは、容易に開かない目をこすって井戸端へ行く。

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帯おびを締しめた儘まゝ横よこになつたおつぎは容易よういに開あかない目めをこすつて井戸端ゐどばたへ行ゆく。

ぼうぼうとほどけた髪へ櫛を入れて、冷たい水へ手を入れた時、おつぎはようやく生き返ったようになる。

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蓬々ぼう/\と解とけた髮かみへ櫛くしを入いれて冷つめたい水みづへ手てを入いれた時ときおつぎは漸やうやく蘇生いきかへつたやうになる。

それでも目はまだ赤くて、動きがふらふらとけだるそうである。

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それでも目めはまだ赤あかくて態度たいどがふら/\と懶相だるさうである。

「さあ、飯ができたぞ」

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「さあ、飯おまんま出來できたぞ」

勘次は釜から茶碗へ飯を移す。

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勘次かんじは釜かまから茶碗ちやわんへ飯めしを移うつす。

そうして自分で農具を取っておつぎへ持たせて、それからさっさと連れ出すのである。

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さうして自分じぶんで農具のうぐを執とつておつぎへ持もたせてそれからさつさと連つれ出だすのである。

もみ種がぽっちりと水を突き上げて芽を出すと、ようやく強くなった日光に、緑深くなった若葉がぐったりとする。

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籾種もみだねがぽつちりと水みづを突つき上あげて萌もえ出だすと漸やうやく強つよくなつた日光につくわうに緑みどり深ふかくなつた嫩葉わかばがぐつたりとする。

柔らかな風が涼しく吹いて、松の花粉が埃のように湿った土を覆って、小麦の穂にもびっしりとかびのような花がついた。

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軟やはらかな風かぜが凉すゞしく吹ふいて松まつの花粉くわふんが埃ほこりのやうに濕しめつた土つちを掩おほうて、小麥こむぎの穗ほにもびつしりと黴かびのやうな花はなが附ついた。

百姓はみな、自分の手足に不足を感じるほど忙しくなる。

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百姓ひやくしやうは皆みな自分じぶんの手足てあしに不足ふそくを感かんずる程ほど忙いそがしくなる。

勘次はひたすら、ただ仕事の手遅れになるのを恐れた。

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勘次かんじは一意い只たゞ仕事しごとの手後ておくれになるのを怖おそれた。

草臥れても疲れても、彼は毎日未明に起きて、夜までその手足を動かして止まない。

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草臥くたびれても疲つかれても彼かれは毎日まいにち未明みめいに起おきて夜よまで其その手足てあしを動うごかして止やまぬ。

おつぎもその後についてゆき、草臥れた体を引きずられた。

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おつぎも其その後あとに跟ついて草臥くたびれた身體からだを引ひきずられた。

晩飯の支度に与吉を背負って先に帰るのが、おつぎにはせめてもの骨休めであった。

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晩餐ゆふめしの支度したくに與吉よきちを負おうて先さきへ歸かへるのがおつぎにはせめてもの骨休ほねやすめであつた。

勘次は麦の間へ大豆をまいた。

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勘次かんじは麥むぎの間あひだへ大豆だいづを蒔まいた。

うね間へ浅く堀のようなくぼみをこしらえて、そこへぽろぽろと種を落として行く。

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畦間うねまへ淺あさく堀ほりのやうな凹くぼみを拵こしらへてそこへぽろ/\と種たねを落おとして行ゆく。

勘次はぐいぐいとうね間を掘って行く。

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勘次かんじはぐい/\と畦間うねまを掘ほつて行ゆく。

後からおつぎが種を落とした。

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後あとからおつぎが種たねを落おとした。

おつぎのまだ小さな体は、麦の出そろった白い穂から、わずかにそのかぶった手拭いと肩とが現れている。

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おつぎのまだ短みじかい身體からだは麥むぎの出揃でそろつた白しろい穗ほから僅わづかに其その被かぶつた手拭てぬぐひと肩かたとが表あらはれて居ゐる。

与吉は道のそばのこもの上に、おとなしくしている。

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與吉よきちは道みちの側はたの薦こもの上うへに大人おとなしくして居ゐる。

おつぎの白い手拭いがだんだん麦の穂に隠れると、与吉は姉ようと呼ぶ。

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おつぎの白しろい手拭てぬぐひが段々だん/\麥むぎの穗ほに隱かくれると與吉よきちは姉ねえようと喚よぶ。

おつぎはおういと返事をする。

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おつぎはおういと返辭へんじをする。

おつぎの声が聞こえると、与吉はじっとしている。

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おつぎの聲こゑが聞きこえると與吉よきちは凝然ぢつとして居ゐる。

勘次はうね間を作り上げて、それから自分も忙しく大豆を落としはじめた。

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勘次かんじは畦間うねまを作つくりあげてそれから自分じぶんも忙いそがしく大豆だいづを落おとし初はじめた。

勘次は、まだるっこいおつぎの手元を見て、そのうねをひょいとのぞいた。

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勘次かんじは間懶まだるつこいおつぎの手てもとを見みて其その畝うねをひよつと覗のぞいた。

種と種との間隔が不ぞろいで、四粒も五粒も一つに落ちている所があった。

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種たねと種たねとの間隔かんかくが不平均ふへいきんで四粒つぶも五粒つぶも一つに落おちてる處ところがあつた。

「このざまはどうしたんだ。こんなことで暮らしができるか」

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「此このざまはどうしたんだ、こんなこつて生計くらしが出來できつか」

と怒鳴りながら、彼は突然おつぎを殴った。

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と呶鳴どなりながら彼かれは突然とつぜんおつぎを擲なぐつた。

おつぎは麦の茎とともに倒れた。

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おつぎは麥むぎの幹からと共ともに倒たふれた。

おつぎは倒れたまま、しくしくと泣いた。

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おつぎは倒たふれた儘まゝしく/\と泣ないた。

「たいがい分かりそうなもんじゃないか。こんなざまじゃ種ばかり要って仕方がありゃしない」

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「大概てえげえ解わかり相さうなもんぢやねえか、こんなざまぢや種たねばかし要いつて仕しやうありやしねえ」

勘次は後を呟いた。

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勘次かんじは後あとを呟つぶやいた。

隣の畑に、これも大豆をまいていた百姓は駆けて来た。

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隣となりの畑はたけに此これも大豆だいづを蒔まいて居ゐた百姓ひやくしやうは駈かけて來きた。

「勘次さん、どうしたもんだいまあ、そんな荒っぽいことして」

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「勘次かんじさんどうしたもんだいまあ、其麽そんな荒あらつぺえことして」

と勘次を押さえた。

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と勘次かんじを抑おさへた。

「おつぎ、泣かないでさあ起きて仕事しろ。おとっつあんにはおれが謝ってやるからなあ。与吉が泣いてら。さあ行って見なさい」

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「おつぎ泣なかねえでさあ起おきて仕事しごとしろ、おとつゝあげは俺おれ謝罪あやまつてやつかんなあ、與吉よきちが泣ねえてら、さあ行いつて見みさつせ」

百姓はさらにおつぎをなだめた。

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百姓ひやくしやうは更さらにおつぎを賺すかした。

与吉はおつぎの姿が見えないので、しきりに呼んだ。

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與吉よきちはおつぎの姿すがたが見みえないので頻しきりに喚よんだ。

それでもおつぎの声は聞こえないので、火のついたように泣き出したのである。

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それでもおつぎの聲こゑは聞きこえないので火ひの點ついたやうに泣なき出だしたのである。

おつぎはすすり泣きしながら、与吉を抱いた。

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おつぎは啜すゝり泣なきしながら與吉よきちを抱だいた。

「おふくろもないのに、お前いいかげんにしろよ。かわいそうじゃないか。そんなことして、お前いくつだと思うんだ。そう自分の気のように出来るもんじゃない。仏の障りにもなるだろうじゃないか」

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「お袋ふくろもねえのにおめえいゝ加減かげんにしろよ、可哀想かあいさうぢやねえか、そんなことしておめえ幾いくつだと思おもふんだ、さう自分じぶんの氣きのやうに出來できるもんぢやねえ、佛ほとけの障さはりにも成なんべぢやねえか」

隣の畑の百姓は言った。

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隣畑となりばたけの百姓ひやくしやうはいつた。

勘次は黙ってしまって、何とも言わなかった。

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勘次かんじは默だまつて畢しまつて何なんともいはなかつた。

与吉はおつぎに抱かれたので、おつぎの目がまだ濡れているうちに泣き止んだ。

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與吉よきちはおつぎに抱だかれたので、おつぎの目がまだ濕うるうて居ゐるうちに泣なき止やんだ。

勘次はその日の夕方、おつぎが晩飯の支度に立った時、自分もいっしょに家へ戻った。

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勘次かんじは其その日ひの夕方ゆふがたおつぎが晩餐ゆふめしの支度したくに立たつた時とき自分じぶんも一ひとつに家うちへ戻もどつた。

彼は膝がしらで四つんばいに歩きながら座敷へ上がって、財布を懐へねじ込んでふいと出た。

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彼かれは膝ひざがしらで四よつ偃ばひに歩あるきながら座敷ざしきへあがつて財布さいふを懷ふところへ捩ねぢ込こんでふいと出でた。

彼は風呂敷包みを持って帰った。

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彼かれは風呂敷包ふろしきづゝみを持もつて歸かへつた。

彼が戸口に立った時は、家の中は真っ暗で、ちょっとは物の見分けもつかなかった。

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彼かれが戸口とぐちに立たつた時ときは家うちの内なかは眞闇まつくらで一寸ちよつとは物ものの見分みわけもつかなかつた。

草臥れきった体で、彼はその夜も二人を連れて、自分のものではないその茂った小さな桑畑を越えて、南の風呂へ行った。

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草臥くたびれ切きつた身體からだで彼かれは其その夜よも二人ふたりを連つれて、自分じぶんの所有ものではない其その茂しげつた小ちひさな桑畑くはばたけを越こえて南みなみの風呂ふろへ行いつた。

そこにはいつものように、風呂をもらいに女房らが集まっていた。

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其處そこにはいつものやうに風呂ふろを貰もらひに女房等にようばうらが聚あつまつて居ゐた。

「よくなあ、おつうはよきの面倒を見るな。女の子はこうだからいいのさな、すぐ役に立つからな」

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「能よくなあ、おつうはよきこと面倒めんだう見みんな、女をんなの子こは斯かうだからいゝのさな、直すぐ役やくに立たつかんな」

女房の一人が言った。

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女房にようばうの一人ひとりがいつた。

「おつぎはどうしたんだい、今夜ひどく威勢が悪いな」

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「おつぎはどうしたんでえ、今夜こんやひどく威勢ゐせえ惡わりいな」

ほかの女房が言った。

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他たの女房にようばうがいつた。

「さっき、おれにぶん殴られたからでもあるだろう」

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「先刻さつき俺おれに打ぶつとばされたかんでもあんべえ」

勘次は苦笑しながら言った。

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勘次かんじは苦笑くせうしながらいつた。

「何でだろうな、まあ。お前、そんなにしないで面倒を見てやりなさいよ。これがお前、女の子でもなくて見なさい、こんな小さいのを抱えて仕方があるもんじゃないな」

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「何なんでだつぺなまあ、おめえそんなに仕しねえで面倒めんだう見みてやらつせえよ、此これがおめえ女をんなつ子こでもなくつて見みさつせえ、こんな小ちひせえの抱だけえて仕しやうあるもんぢやねえな」

「そうだともよ。これはおつうでもなくっちゃ育たなかったかも知れないぞ。それこそ因果を見なくちゃならないや。なあ、おつう」

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「さうだともよ、こらおつうでも無なくつちや育そだたなかつたかも知しんねえぞ、それこそ因果いんぐわ見みなくつちやなんねえや、なあおつう」

女房らは言った。

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女房等にようばうらはいつた。

「おれのところ、ちっともこれは離れないんだよ。仕方がないようだよ、本当に」

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「俺おらがとこちつともこら離はなんねえんだよ仕しやうねえやうだよ本當ほんたうに」

おつぎは、もうだんだん手に余ってきた与吉を膝にして言った。

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おつぎはもう段々だん/\手てに餘あまつて來きた與吉よきちを膝ひざにしていつた。

「今じゃ、まるっきりおっかあのような気がしてるんだな、きっと」

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「今いまぢや、まるつきしおつかのやうな氣きがしてんだな、屹度きつと」

女房らはまた与吉を見て言った。

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女房にようばうらはまた與吉よきちを見みていつた。

勘次はそばで、ただ目をしばたたいた。

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勘次かんじは側そばで只たゞ目めを屡叩しばたゝいた。

家へ戻ってから、勘次は

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家うちへ戻もどつてから勘次かんじは

「おつう、手ランプを持って来てみな。お前に見せるものがあるんだから」

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「おつう、手てランプ持もつて來きて見みせえ、汝われげ見みせるものあんだから」

おつぎは出る時に吹き消したブリキの手ランプをつけて、まだ様子がてきぱきとしなかった。

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おつぎは出でる時ときに吹消ふつけしたブリキの手てランプを點つけて、まだ容子ようすがはき/\としなかつた。

勘次はさっきの風呂敷包みを解いた。

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勘次かんじは先刻さつきの風呂敷包ふろしきづゝみを解といた。

小さく畳んだ弁慶縞のひとえが出た。

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小ちひさく疊たゝんだ辨慶縞べんけいじまの單衣ひとへが出でた。

「お前にこれをやろうと思って持って来たんだ。これでもなよ、おっかあが地糸で織ったんだぞ。今じゃ糸なんぞ引く者はいないが、おっかあらは毎晩のように引いたもんだ。紺もなあ、ようく染まってるから丈夫だぞ。おっかあはいくらも引っ掛けないでしまったから、まだまるっきり新しいようだ、見ろ。どうした、手ランプをもっとこっちへ出してみなまあ」

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「汝われげ此これ遣やんべと思おもつて持もつて來きたんだ。此こんでもなよ、おつかゞ地絲ぢいとで織おつたんだぞ、今いまぢや絲いとなんぞ引ひくものなあねえが、おつか等ら毎晩まいばんのやうに引ひいたもんだ、紺こんもなあ能ようく染そまつてつから丈夫ぢやうぶだぞ、おつかは幾いくらも引ひつ掛かけねえつちやつたから、まあだまるつきり新あたらしいやうだ見みろ、どうした手てランプまつとこつちへ出だして見みせえまあ」

勘次はひとえを少し開いて、鼻へ当てて匂いをかいでみた。

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勘次かんじは單衣ひとへを少すこし開ひらいて鼻はなへ當あてて臭にほひを嗅かいで見みた。

「ちっとはかび臭くなったようだが、そんでもこれくらいじゃ一日干せば匂いは直るから」

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「ちつたあ黴臭かびくさくなつたやうだが、そんでも此この位くれえぢや一日いちんち干ほせば臭くさえな直なほつから」

勘次は言い訳でもするように言った。

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勘次かんじは分疏いひわけでもするやうにいつた。

おつぎは左手に持ち換えた手ランプをかざして、ひとえをいじっては、風呂上がりのつやつやした顔に微笑を含んだ。

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おつぎは左手ひだりてに持もち換かへた手てランプを翳かざして單衣ひとへを弄いぢつては浴後よくごのつやゝかな顏かほに微笑びせうを含ふくんだ。

勘次はおつぎの顔ばかり見ていた。

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勘次かんじはおつぎの顏かほばかり見みて居ゐた。

そうして、その機嫌が回復しかけたのを見て

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さうして其その機嫌きげんが恢復くわいふくしかけたのを見みて

「どうした、それでもお前は気に入ったか。おっかあの物はみんなお前のもんだからな。おれは、お前らのだとなりゃいくら困ったって、もうけっして質になんざ置かないから、大事にしてお前がようくしまっておけ」

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「どうした、それでも汝わりや氣きにつたか、おつかゞ物ものはみんな汝われがもんだかんな、俺おら汝わツ等らがだとなりや幾いくら困こまつたつて、はあ決けつして質しちになんざ置おかねえから、大事でえじにして汝われ能ようく藏しまつて置おいたえ」

と、彼は満足らしく見えた。

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と彼かれは滿足まんぞくらしく見みえた。

おつぎは手ランプを置いて、勘次がしたように鼻へ当てて匂いをかいでみたり、左の手だけを袖へ通してみたりした。

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おつぎは手てランプを置おいて勘次かんじがしたやうに鼻はなへ當あてゝ臭にほひを嗅かいで見みたり、左ひだりの手てだけを袖そでへ透とほして見みたりした。

「おれのには、これじゃ引きずるようじゃあるまいか」

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「俺おらがにや此こんぢや引ひきじるやうぢやあんめえか」

おつぎはそれから、手で吊るしてみたりした。

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おつぎはそれから手てで釣つるして見みたりした。

「しまっておいて、おれはもっと大きくなってから着ようかな」

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「藏しまつて置おいて、俺おらいまつと大えかく成なつてから着きべかな」

「どうでもお前のもんだから、お前の好きにしろな」

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「どうでも汝われがもんだから汝われが好すきにしろな」

勘次は、おつぎの手が動くにつれて目を移した。

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勘次かんじはおつぎの手てが動うごくに從したがつて目めを移うつした。

手ランプのぼうっと立つ油煙が、ほぐれた髪へなびきかかるのも知らずに、おつぎはあっちこっちへひとえをいじっていた。

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手てランプのぼうと立たつ油煙ゆえんがほぐれた髮かみへ靡なびき掛かゝるのも知しらずにおつぎはそつちこつちへ單衣ひとへを弄いぢつて居ゐた。

「お前、うっかりして、そうれ燃えっちまうぞ」

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「汝われうつかりして、そうれ燃もえつちまあぞ」

勘次は油煙がまた傾いた時、慌てておつぎの髪へ手を当てて言った。

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勘次かんじは油煙ゆえんが復また傾かたむいた時とき慌あわてゝおつぎの髮かみへ手てを當あてゝいつた。

七

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七

勘次の田畑は、晩秋の取り入れがみじめなものであった。

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勘次かんじの田畑たはたは晩秋ばんしうの收穫しうくわくがみじめなものであつた。

それは気候が悪いのでもなく、また土地が悪いのでもない。

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それは氣候きこうが惡わるいのでもなく、又また土地とちが惡わるいのでもない。

耕す時期を逃していることと、肥料の乏しさとで、いくら焦っても、とうてい満足な結果が得られないのである。

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耕耘かううんの時期じきを逸いつして居ゐるのと、肥料ひれうの缺乏けつばふとで幾いくら焦慮あせつても到底たうてい滿足まんぞくな結果けつくわが得えられないのである。

貧乏な百姓はいつでも土にくっついて食料を得ることにばかり腐心しているにもかかわらず、その作物が俵になれば、すでに大部分は彼らのものではない。

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貧乏びんばふな百姓ひやくしやうはいつでも土つちにくつゝいて食料しよくれうを獲うることにばかり腐心ふしんして居ゐるにも拘かゝはらず、其その作物さくもつが俵たはらになれば既すでに大部分だいぶぶんは彼等かれらの所有しよいうではない。

そのものであり得るのは、作物が根をもって田や畑の土に立っている間のみである。

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其その所有しよいうであり得うるのは作物さくもつが根ねを以もつて田たや畑はたの土つちに立たつて居ゐる間あひだのみである。

小作料を払ってしまえば、すでに手をつけられた短い冬を凌ぐだけのことが、ともすればようやくのことである。

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小作料こさくれうを拂はらつて畢しまへば既すでに手てをつけられた短みじかい冬季とうきを凌しのぐ丈だけのことがともすれば漸やうやくのことである。

彼らは自分の田畑が忙しい時にも、その日に追われる食料を求めるために、比較的収入のいい日雇いに行く。

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彼等かれらは自分じぶんで田畑たはたが忙いそがしい時ときにも其その日ひに追おはれる食料しよくれうを求もとめる爲ために比較的ひかくてき收入みいりのいゝ日傭ひように行ゆく。

百姓といえば、どんなに愚かでも、すべての作物を耕作する季節を知らないことはない。

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百姓ひやくしやうといへば什麽どんなに愚昧ぐまいでも凡すべての作物さくもつを耕作かうさくする季節きせつを知しらないことはない。

村の端から端までみな同じ仕事にかかりきっているのだから、その季節をたとえ自分が忘れたとしても、まったく忘れ去ることのできるものではない。

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村落むらの端はしから端はしまで皆みな同どう一の仕事しごとに屈託くつたくして居ゐるのだから其その季節きせつを假令たとひ自分じぶんが忘わすれたとしても全まつたく忘わすれ去さることの出來できるものではない。

しかし、もう季節だと知ってみても、その日その日の食料を求めるために労力を割くのと、肥料の工夫がつかなかったりするのとで、作物の生育から言えば三日を争うような時でも、思いながら手が出ないのである。

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然しかしもう季節きせつだと知しつて見みても其その日ひ/\の食料しよくれうを求もとめる爲ために勞力らうりよくを割さくのと、肥料ひれうの工夫くふうがつかなかつたりするのとで作物さくもつの生育せいいくからいへば三日みつかを爭あらそふやうな時ときでも思おもひながら手てが出でないのである。

以前のように、自然の肥料を得ることが今ではできなくなってしまった。

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以前いぜんのやうに天然てんねんの肥料ひれうを獲うることが今いまでは出來できなくなつて畢しまつた。

どこの林でも、落ち葉をかくことや青草を刈ることが、みな銭に余裕のある者の手に帰してしまった。

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何處どこの林はやしでも落葉おちばを掻かくことや青草あをぐさを刈かることが皆みな錢ぜにに餘裕よゆうのあるものゝ手てに歸きして畢しまつた。

それとともに、林は封鎖されたような姿になっている。

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それと共ともに林はやしは封鎖ふうさされたやうな姿すがたに成なつて居ゐる。

冬ごとに熊手の爪の及ぶかぎりかいて行くので、草もしたがって短くなって、腰を没するような所はめったにない。

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冬ふゆ毎ごとに熊手くまでの爪つめの及およぶ限かぎり掻かいて行ゆくので、草くさも隨したがつて短みじかくなつて腰こしを沒ぼつするやうな處ところは滅多めつたにない。

その草もさらに土から刈って行くので、次第に土がやせて行く。

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其その草くさも更さらに土つちから刈かつて行ゆくので次第しだいに土つちが痩やせて行ゆく。

だから空手では、どこへ行っても盗まないかぎりは、存分に柔らかな草を刈ることはできない。

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だから空手からてでは何處どこへ行いつても竊取せつしゆせざる限かぎりは存分ぞんぶんに軟やはらかな草くさを刈かることは出來できない。

貧乏な百姓は、落ち葉でも青草でも、他人の熊手や鎌を入れ去った後に求める。

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貧乏びんばうな百姓ひやくしやうは落葉おちばでも青草あをぐさでも、他人ひとの熊手くまでや鎌かまを入いれ去さつた後あとに求もとめる。

そうして、やせて行く土をさらに骨までかじるようなことをしているのである。

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さうして瘠やせて行ゆく土つちを更さらに骨ほねまで噛かむやうなことをして居ゐるのである。

一般には、落ち葉や青草の不足を感じるとともに、便利な各種の人造肥料が供給される。

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一般ぱんには落葉おちばや青草あをぐさの缺乏けつばふを感かんずると共ともに便利べんりな各種かくしゆの人造肥料じんざうひれうが供給きようきふされる。

しかしそれも、依然として金銭にいくらでも余裕のある人にのみ便利なのであって、貧乏な百姓には、牛や馬が馬止めの棒で遮られたような形でなければならない。

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然しかしそれも依然いぜんとして金錢きんせんに幾いくらでも餘裕よゆうのある人ひとにのみ便利べんりなのであつて、貧乏びんばふな百姓ひやくしやうには牛うしや馬うまが馬塞棒ませぼうで遮さへぎられたやうな形かたちでなければならぬ。

そうかといって、それらの肥料なしには、とうてい一般に定められている小作料を支払うだけの収穫は得られないので、惨憺たる工夫が彼らの心を行き来する。

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さうかといつて其それ等らの肥料ひれうなしには到底たうてい一般ぱんに定さだめられてある小作料こさくれうを支拂しはらふ丈だけの收穫しうくわくは得えられないので慘憺さんたんたる工夫くふうが彼等かれらの心こゝろを往來わうらいする。

そうしてまた、食料を求めるために労力をほかに割くことによって、作物のうね間を耕すことも雑草を除くことも、一切が手遅れになる。

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さうして又また食料しよくれうを求もとめる爲ために勞力らうりよくを他たに割さくことによつて、作物さくもつの畦間うねまを耕たがやすことも雜草ざつさうを除のぞくことも一切さいが手後ておくれに成なる。

季節が暑くなれば、雨があって三日も見ないうちには、雑草は驚くべき速さで伸びる。

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季節きせつが暑あつくなれば雨あめがあつて三日かも見みないうちには雜草ざつさうは驚おどろくべき迅速じんそくな發育はついくを遂とげる。

それが著しく作物の勢いを妨げる。

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それが著いちじるしく作物さくもつの勢力せいりよくを阻害そがいする。

それだけ収穫の減少をきたさねばならないはずである。

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それだけ收穫しうくわくの減少げんせうを來きたさねばならぬ筈はずである。

要するに、勤勉な彼らは、実る以前においてすでに、青々とした作物の活力をそいで食っているのである。

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要えうするに勤勉きんべんな彼等かれらは成熟せいじゆくの以前いぜんに於おいて既すでに青々せい/\たる作物さくもつの活力くわつりよくを殺そいで食くつて居ゐるのである。

取り入れの季節がまったく終わりを告げると、彼らは草木の枯れ落ちるとともに、しおれてしまわねばならない。

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收穫しうくわくの季節きせつが全まつたく終をはりを告つげると彼等かれらは草木さうもくの凋落てうらくと共ともに萎靡ゐびして畢しまはねばならぬ。

草木が眠りに落ち去る少なくとも五、六十日の間は、彼らはまれに冬起こしといって、麦のうね間を耕すことや、林の間に落ち葉や薪を求めることがあるに過ぎない。

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草木さうもくの眠ねむりに落おち去さる少すくなくとも五六十日にちの間あひだは、彼等かれらは稀まれに冬懇ふゆばりというて麥むぎの畦間うねまを耕たがやすことや林はやしの間あひだに落葉おちばや薪たきゞを求もとめることがあるに過すぎぬ。

自分の食料に換わるだけの銭を得ることが、その期間の仕事においては見いだされないのである。

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自分じぶんの食料しよくれうに換かへる丈だけの錢ぜにを獲うることが其その期間きかんの仕事しごとに於おいては見出みいだされないのである。

蛇や蛙やその他の虫類が仮死の状態にある間に、彼らは目前に迫っている未来の苦しみを招くために、過去の苦しかった記念であるその乏しい米や麦を、日ごとに消耗して行くのである。

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蛇へびや蛙かへるや其その他たの蟲類むしるゐが假死かしの状態じやうたいに在ある間あひだに彼等かれらは目前もくぜんに逼せまつて居をる未來みらいの苦くるしみを招まねく爲ために、過去くわこの苦くるしかつた記念きねんである其その缺乏けつばふした米こめや麥むぎを日ひ毎ごとに消耗せうまうして行ゆくのである。

彼らは手に内職を持っていない。

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彼等かれらは手てに内職ないしよくを持もつて居をらぬ。

自分の使うためにのみは、むしろも草履ももっこもわらじもその他のものも藁で作ることを知っているけれども、たいていは刈り遅れになった藁では立派な製作は得られないのである。

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自分じぶんの使用しようすべき爲ためにのみは筵むしろも草履ざうりも畚もつこも草鞋わらぢも其その他たのものも藁わらで作つくることを知しつて居をれども、大抵たいていは刈かり後おくれになつた藁わらでは立派りつぱな製作せいさくは得えられないのである。

それであるのに、彼らは肥料の不足を訴えながら、その藁屑や粟殻やその他のものが庭に散らばっていても、容易にそれを始末しようとしない。

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それであるのに彼等かれらは肥料ひれうの缺乏けつばふを訴うつたへつゝ其その藁屑わらくづや粟幹あはがらや其その他たのものが庭にはに散ちらばつて居ゐても容易よういにそれを始末しまつしようとしない。

他人の注意を受けても、それでも改めることをしない。

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他人ひとの注意ちういを受うけてもそれでも改あらためることをしない。

彼らは苦しい時に苦しむこと以外に、何も知ることがないのである。

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彼等かれらは苦くるしい時ときに苦くるしむことより外ほかに何なんにも知しることがないのである。

勘次も彼らの仲間である。

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勘次かんじも彼等かれらの仲間なかまである。

しかしながら、彼は境遇の異常な刺激から、少しの間もその身を安んじさせる余裕を持たなかった。

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然しかしながら彼かれは境遇きやうぐうの異常いじやうな刺戟しげきから寸時すんじも其その身みを安住あんぢゆうせしむる餘裕よゆうを有もたなかつた。

彼もほかの貧乏な百姓のするように、冬の季節になれば薪を採って壁に積んでおくことをした。

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彼かれも他たの貧乏びんばふな百姓ひやくしやうのするやうに冬ふゆの季節きせつになれば薪たきゞを採とつて壁かべに積つんで置おくことをした。

彼は最近になってから、隣の主人が林を改良するために雑木林をいったん開墾して畑にするということになったので、その一部を担当した。

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彼かれは近來きんらいに成なつてから隣となりの主人しゆじんが林はやしを改良かいりやうする爲ために雜木林ざふきばやしを一旦たん開墾かいこんして畑はたけにするといふことに成なつたので其その一部ぶを擔當たんたうした。

彼は小さな体である。

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彼かれは小ちひさな身體からだである。

しかし彼は、重い唐鍬を振りかざして、一鍬ごとにぶつりと土を取っては、後ろへそっと投げながら進む。

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然しかし彼かれは重量ぢうりやうある唐鍬たうぐはを振ふり翳かざして一鍬くは毎ごとにぶつりと土つちをとつては後うしろへそつと投なげつゝ進すゝむ。

彼はその開墾の仕事が上手で、かつ好きである。

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彼かれは其その開墾かいこんの仕事しごとが上手じやうずで且かつ好すきである。

そのきりっと締まった体は小さいにしても、それが各部の均衡を保って、唐鍬を取るときには彼と唐鍬とはただ一体である。

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其そのきりつと緊しまつた身體からだは小ちひさいにしてもそれが各部かくぶの平均へいきんを保たもつて唐鍬たうぐはを執とるときには彼かれと唐鍬たうぐはとは唯たゞ一體たいである。

唐鍬の広い刃先が木の根に切り込む時には、彼の体も一つにぐさりとその根を切って通るかと思うようである。

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唐鍬たうぐはの廣ひろい刄先はさきが木きの根ねに切きり込こむ時ときには彼かれの身體からだも一ひとつにぐざりと其その根ねを切きつて透とほるかと思おもふやうである。

土を切り起こすことの上手なのは、彼の生まれつきである。

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土つちを切きり起おこすことの上手じやうずなのは彼かれの天性てんせいである。

それで彼は、遠く利根川の工事へも行ったのであった。

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それで彼かれは遠とほく利根川とねがはの工事こうじへも行いつたのであつた。

彼は自分の腕を頼みにしている。

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彼かれは自分じぶんの伎倆うでを恃たのんで居ゐる。

彼は以前からも、少しずつ開墾の仕事をした。

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彼かれは以前いぜんからも少すこしづつ開墾かいこんの仕事しごとをした。

その賃銭によって、その土地を深くも浅くも、速くも遅くも仕上げることを知っていた。

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其その賃錢ちんせんによつて其その土地とちを深ふかくも淺あさくも速はやくも遲おそくも仕上しあげることを知しつて居ゐた。

竹林を開墾した時、彼は根の閉じたまま一坪の大きさを、ただ四つの塊に掘り起こしたことがある。

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竹林ちくりんを開墾かいこんした時とき彼かれは根ねの閉とぢた儘まゝ一坪つぼの大おほきさを只たゞ四よつの塊かたまりに掘ほり起おこしたことがある。

それでも、そのころまではそういう仕事がいくらもなかったので、その賃銭は、仕事を始める時にその研ぎ減らした唐鍬の刃先を打たせる鍛冶の手間と、異常な労働のために費やすその食料を除いてはいくらもなかったのである。

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それでも其その頃ころまではさういふ仕事しごとが幾いくらも無なかつたので、其その賃錢ちんせんは仕事しごとを始はじめる時とき其その研とぎ減へらした唐鍬たうぐはの刄先はさきを打うたせる鍛冶かぢの手間てまと、異常いじやうな勞働らうどうの爲ために費つひやす其その食料しよくれうを除のぞいては幾いくらもなかつたのである。

彼は主人の開墾地が、春いっぱいの仕事には十分であることを喜んだ。

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彼かれは主人しゆじんの開墾地かいこんちが春はる一杯ぱいの仕事しごとには十分ぶんであることを悦よろこんだ。

銭のほかに、彼は米と麦との報酬を受けることにした。

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錢ぜにの外ほかに彼かれは米こめと麥むぎとの報酬ほうしうを受うけることにした。

おつぎは別に仕事といってはなかったが、彼はおつぎを一人では家に置かなかった。

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おつぎは別べつに仕事しごとといつてはなかつたが彼かれはおつぎを一人ひとりでは家うちに置おかなかつた。

与吉を連れて、おつぎは開墾地へ行っていた。

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與吉よきちを連つれておつぎは開墾地かいこんちへ行いつて居ゐた。

勘次がその鍛えた筋力を奮っている間に、おつぎはそこらの林から雀枝を採って、小さなそだを作っている。

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勘次かんじが其その鍛錬たんれんした筋力きんりよくを奮ふるつて居ゐる間まにおつぎはそこらの林はやしから雀枝すゞめえだを採とつて小ちひさな麁朶そだを作つくつて居ゐる。

小さな枝は、土地では雀枝と言われている。

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小ちひさな枝えだは土地とちでは雀枝すゞめえだといはれて居ゐる。

枯れた雀枝を採ることは、どこの林でも持ち主がやかましく言わなかった。

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枯かれた雀枝すゞめえだを採とることは何處どこの林はやしでも持主もちぬしが八釜敷やかましくいはなかつた。

勘次は雨でも降らなければ、毎日必ず唐鍬をかついで出た。

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勘次かんじは雨あめでも降ふらねば毎日まいにち必かならず唐鍬たうぐはを擔かついで出でた。

ある日、彼は木の株へ唐鍬を強く打ち込んで、ぐっとこじ上げようとした時、鍛えのいい刃と白樫の柄とは強かったのでどうもなかったが、鉄のくさびで柄の先を締めた、その唐鍬の四角な穴の所がにわかに緩んだ。

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或ある日ひ彼かれは木きの株かぶへ唐鍬たうぐはを強つよく打込うちこんでぐつとこじ扛あげようとした時とき鍛きたへのいゝ刃はと白橿しらかしの柄えとは強つよかつたのでどうもなかつたが、鐵てつの楔くさびで柄えの先さきを締しめた其その唐鍬たうぐはの四角かくな穴あなの處ところが俄にはかに緩ゆるんだ。

そこは、ひつと言われている。

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其處そこはひつといはれて居ゐる。

ひつに大きなひびが入ったのである。

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ひつに大おほきな罅ひゞが入いつたのである。

柄がやがてがたがたに動いた。

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柄えがやがてがた/\に動うごいた。

「ええ、べらぼう。一日の手間を鍛冶屋へ打ち込んじまわなくちゃならない」

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「えゝ、箆棒べらぼう、一日いちんちの手間てま鍛冶屋かぢやへ打ぶつ込こんちあなくつちやなんねえ」

彼は呟いた。

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彼かれは呟つぶやいた。

次の朝、彼は未明に鍛冶へ走った。

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次つぎの朝あさ彼かれは未明みめいに鍛冶かぢへ走はしつた。

「わしは行って来ますから、これらのことを見ていておくんなせえ」

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「わし行いつて來きあんすから、此等こつらこと見みてゝおくんなせえ」

おつぎと与吉とを南の女房へ頼んだ。

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おつぎと與吉よきちとを南みなみの女房にようばうへ頼たのんだ。

「ほかへは行くんじゃないぞ。いいか、よきは泣かさないようにしてるんだぞ」

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「他ほかへは行いくんぢやねえぞ、えゝか、よきは泣なかさねえやうにしてんだぞ」

彼はおつぎへも言って出た。

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彼かれはおつぎへもいつて出でた。

おつぎは、そんな注意を人前でされることが、もう恥ずかしくいやな心持ちがするようになっていた。

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おつぎは其麽そんな注意ちういを人前ひとまへでされることがもう耻はづかしく厭いやな心持こゝろもちがするやうに成なつて居ゐた。

勘次は鬼怒川の渡しを越えて土手を伝って、柄のない唐鍬を持って行った。

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勘次かんじは鬼怒川きぬがはの渡わたしを越こえて土手どてを傳つたひて、柄えのない唐鍬たうぐはを持もつて行いつた。

鍛冶はその時仕事がつかえていたが、それでもこういう職業に欠くべからざる道具というと、どこでもそういう例で、速やかにこしらえてくれた。

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鍛冶かぢは其その時とき仕事しごとが支つかへて居ゐたが、それでも恁かういふ職業しよくげふに缺かくべからざる道具だうぐといふと何處どこでもさういふ例れいの速すみやかに拵こしらへてくれた。

「ずいぶん荒いことをしたと見えるっけな。おれも近ごろになって、これくらいな唐鍬をめったに打ったことはないよ」

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「隨分ずゐぶん荒あれえことしたと見めえつけな、俺おらも近頃ちかごろになつて此この位くれえな唐鍬たうぐは滅多めつた打ぶつたこたあねえよ、」

鍛冶はその赤く熱した唐鍬をしばらく槌で叩いて、それから地中へ据えた桶の、泥を溶いたような水へじゅうと浸して、さらにまた小さな槌でちんちんと叩いて

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鍛冶かぢは赤あかく熱ねつした其その唐鍬たうぐはを暫しばらく槌つちで叩たゝいて、それから土中どちうへ据すゑた桶をけの泥どろを溶といたやうな水みづへぢうと浸ひたして、更さらに又また小ちひさな槌つちでちん/\と叩たゝいて

「今度こそ大丈夫だ。前にはどうしてひびなんぞ入ったっけかい」

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「こんだこさ大丈夫だいぢようぶだ、先せんにやどうして罅ひゞなんぞいつたけかよ」

鍛冶は汗の額を勘次に向けて

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鍛冶かぢは汗あせの額ひたひを勘次かんじに向むけて

「柄がへし折れないうちは動きっこないから」

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「柄えが折をつちよれねえうちは動いごきつこねえから」

と言って、また

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といつて又また

「体の割にしちゃ図抜けてるな」

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「身體からだの割わりにしちや圖づ無ねえな」

と、鍛冶は微笑した。

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と鍛冶かぢは微笑びせうした。

鉄の匂いのする唐鍬を提げて、勘次はまた土手を走った。

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鐵てつの臭にほひのする唐鍬たうぐはを提さげて勘次かんじは復また土手どてを走はしつた。

その日も西風が、枯れ木の林から麦畑から、そうして鬼怒川を渡って吹いた。

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其その日ひも西風にしかぜが枯木かれきの林はやしから麥畑むぎばたけからさうして鬼怒川きぬがはを渡わたつて吹ふいた。

鬼怒川の水は白い波が立って、遠くからはそれが粟立った肌のように、ただこそばゆく見えた。

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鬼怒川きぬがはの水みづは白しろい波なみが立たつて、遠とほくからはそれが粟あはを生しやうじた肌はだへのやうに只たゞこそばゆく見みえた。

西風は川に吹き落ちる時、西岸の篠をざわざわと揺るがす。

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西風にしかぜは川かはに吹ふき落おちる時とき西岸せいがんの篠しのをざわ/\と撼ゆるがす。

さらに東岸の土手を伝って吹き上げる時、土手の短い枯れ芝の葉を一葉ずつ激しくなびかせた。

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更さらに東岸とうがんの土手どてを傳つたうて吹ふき上あげる時とき、土手どての短みじかい枯芝かれしばの葉はを一葉ひとはづゝ烈はげしく靡なびけた。

その枯れ芝の間に、どうしたものか気まぐれなたんぽぽの黄色い頭がぽつぽつと見える。

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其その枯芝かれしばの間あひだにどうしたものか氣きまぐれな蒲公英たんぽの黄色きいろな頭あたまがぽつ/\と見みえる。

どうかすると土手は静かで暖かなことがあるので、つい騙されて、たんぽぽがまだ遠い春をじれったそうに首を出してみては、また寒くなったのに驚いて縮こまったような姿である。

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どうかすると土手どては靜しづかで暖あたゝかなことがあるので、遂つひ騙だまされて蒲公英たんぽがまだ遠とほい春はるを遲緩もどかしげに首くびを出だして見みては、また寒さむく成なつたのに驚おどろいて蹙ちゞまつたやうな姿すがたである。

勘次は唐鍬を持って、また自分の活力を取り戻し得たように、それからまた一日仕事を怠れば身内がみりみりして、何だか知らないがその仕事に催促されてならないような心持ちがした。

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勘次かんじは唐鍬たうぐはを持もつて復また自分じぶんの活力くわつりよくを恢復くわいふくし得えたやうに、それから又また一日にち仕事しごとを怠おこたれば身内みうちがみり/\して何なんだか知しらぬが其その仕事しごとに催促さいそくされて成ならぬやうな心持こゝろもちがした。

鬼怒川の水は落ちて、こちらの土手から連なっている大きな洲が、その流れを西岸の篠の下まで縮めている。

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鬼怒川きぬがはの水みづは落おちて此方こちらの土手どてから連つらなつて居ゐる大おほきな洲すが其その流ながれを西岸せいがんの篠しのの下したまで蹙ちゞめて居ゐる。

広く、かつ遠い洲には、ただ西風がわずかに乾いた砂をさらさらと掃くようにして吹いている。

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廣ひろく且かつ遠とほい洲すには只たゞ西風にしかぜが僅わづかに乾かわいた砂すなをさら/\と掃はくやうにして吹ふいて居ゐる。

それで、白く乾いた洲はただからりと清潔に見える。

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それで白しろく乾燥かんさうした洲すは只たゞからりと清潔せいけつに見みえる。

そういう間に、どうしたものかこれも気まぐれな人が、遠くはその砂から生えたように見えて、ちらほらと散らばって少しずつ動いている。

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さういふ間あひだにどうしたものか此これも氣きまぐれな人ひとが、遠とほくは其その砂すなから生はえたやうに見みえてちらほらと散ちらばつて少すこしづゝ動うごいて居ゐる。

勘次は土手から下りて見た。

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勘次かんじは土手どてからおりて見みた。

動いている人々は万能鍬でその砂を掘っているのであった。

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動うごいて居ゐる人々ひと/″\は萬能まんのうで其その砂すなを掘ほつて居ゐるのであつた。

西風が乾かしてはさらさらと掃いていても、洲にはなおいくらか波の跡がついている。

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西風にしかぜが乾かわかしてはさらさらと掃はいて居ゐても洲すには猶なほ幾いくらか波なみの趾あとがついて居ゐる。

その砂の中からは短い木片が出る。

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其その砂すなの中なかからは短みじかい木片もくへんが出でる。

十センチから二十センチくらいな、まれには三十センチくらいなものも掘り起こされる。

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二三寸すんから五六寸すん位ぐらゐな稀まれには一尺しやく位ぐらゐなものも掘ほり起おこされる。

みな研ぎ減らしたような木片ばかりである。

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皆みな研とぎ減へらしたやうな木片もくへんのみである。

人々は冷たくなった手を口へ当てて、白い暖かい息を吹きかけながら、一心に先へ先へと掘り起こしながら行く。

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人々ひと/″\は冷つめたく成なつた手てを口くちへ當あてゝ白しろい暖あたゝかい息いきを吹ふつ掛かけながら一心しんに先さきへ先さきへと掘ほり起おこしつゝ行ゆく。

「どうするんだね」

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「どうするんだね」

勘次は一人のそばへ立って聞いた。

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勘次かんじは一人ひとりの側そばへ立たつて聞きいた。

ひょいと首をもたげたのは婆さんであった。

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ひよつと首くびを擡もたげたのは婆ばあさんであつた。

婆さんは腰を伸ばして、強い西風によろける足を踏みしめて

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婆ばあさんは腰こしをのして強つよい西風にしかぜによろける足あしを踏ふみしめて

「これを干しておいて燃すのさ」

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「此これ干ほして置おいて燃もすのさ」

と、汚い白髪と手拭いとを吹かれながら、目をしかめて言った。

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と穢きたない白髮しらがと手拭てぬぐひとを吹ふかれながら目めを蹙しかめていつた。

「どうしても、こうなっちゃべろべろ燃えてあっけないだろうね」

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「どうしても斯かう成なつちやべろ/\燃もえて飽氣あつけなかんべえね」

勘次は聞いた。

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勘次かんじは聞きいた。

「赤い灰になってな、火も弱いのさ。そんでも、そだを買うよりはいいからな。松ぞだだといったって、こっちのほうへ来ちゃ、生で三十五把だの何だのって、小さいくせにな。おれのような婆でも十把くらいは背負えるんだもの。近ごろじゃ燃す物がいちばん不自由で仕方がないのさな」

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「赤あけえ灰はひに成なつてな、火ひも弱よえのさ、そんでも麁朶そだ買かあよりやえゝかんな、松麁朶まつそだだちつたつてこつちの方はうへ來きちや生なまで卅五把はだの何なんだのつて、ちつちえ癖くせにな、俺おらやうな婆ばゝあでも十把ぱ位ぐれえは背負しよへんだもの、近頃ちかごろぢや燃もうす物ものが一番ばん不自由ふじようで仕しやうねえのさな」

婆さんは言った。

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婆ばあさんはいつた。

「松ぞだで三十五把じゃ相場はそうでもないが、商人が丸め直すんだから小さくもなるはずだな」

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「松麁朶まつそだで卅五把はぢや相場さうばはさうでもねえが、商人あきんどがまるき直なほすんだから小ちひさくもなる筈はずだな」

勘次は首をかしげて言った。

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勘次かんじは首くびを傾かたむけていつた。

「そうなんだろうよなあ。そりゃそうと、お前さんはどこだね」

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「さうだごつさらよなあ、そりやさうとおめえさん何處どこだね」

万能鍬を杖にして、婆さんは言った。

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萬能まんのうを杖つゑにして婆ばあさんはいつた。

「おれは川向こうさ」

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「俺おら川向かはむかうさ」

「そんじゃ燃す木はある所だね」

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「そんぢや燃もうす木きは有あつ處とこだね」

婆さんはさらに勘次の唐鍬を見て

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婆ばあさんは更さらに勘次かんじの唐鍬たうぐはを見みて

「たいした唐鍬だが、よっぽどするんだろうな」

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「たいした唐鍬たうぐはだが餘よつ程ぽどすんだつぺな」

「そうさ、今打たせちゃ三十匁掛けはきっとだな」

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「さうさ今いま打ぶたせちや三十掛さんじふがけは屹度きつとだな」

「三十匁掛けっていくらするんだろう。目方もしっかりあるだろうな」

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「三十掛さんじふがけツちや幾いくらするごつさら、目方めかたもしつかり掛かゝんべな」

「一貫目もないがな」

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「一貫目いつくわんめもねえがな」

勘次は自慢らしく、婆さんへ唐鍬を持たせた。

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勘次かんじは自慢じまんらしく婆ばあさんへ唐鍬たうぐはを持もたせた。

「おおいや、おれのにゃ持ち上がらないようだ。お前さん自分で使うのかいまあ。何だろうよ、こんな道具は」

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「おういや、俺おらがにや引ひつたゝねえやうだ、おめえさん自分じぶんで使つかあのけまあ、何なにしたごつさらよ此こんな道具だうぐなあ」

「毎日木の根っこを起こしてたんだが、唐鍬のひつが痛んじまったから、直しに来たところさ」

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「毎日まいんち木根きねつ子こ起おこしてたんだが、唐鍬たうぐはのひつ痛いためつちやつたから直なほし來きた處とこさ」

「そんじゃ、お前さんは燃す物には不自由なしでいいな」

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「そんぢやおめえさん燃もうす物ものにや不自由ふじいうなしでえゝな」

婆さんは羨ましそうに言った。

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婆ばあさんは羨うらやまし相さうにいつた。

そうして、小さな木片を入れるために持って来た麻の汚い袋を、草刈り籠から出した。

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さうして小ちひさな木片もくへんを入いれる爲ために持もつて來きた麻あさの穢きたない袋ふくろを草刈籠くさかりかごから出だした。

わずかに鬼怒川の水を隔てて、西は林が連なっている。

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僅わづかに鬼怒川きぬがはの水みづを隔へだてゝ西にしは林はやしが連つらなつて居ゐる。

村も田も畑も、その林に包まれている。

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村落むらも田たも畑はたけも其その林はやしに包つゝまれて居ゐる。

東はただ低い水田と畑とで、村がその間に点在している。

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東ひがしは只たゞ低ひくい水田すゐでんと畑はたけとで村落むらが其その間あひだに點在てんざいして居ゐる。

そこに、家を囲んでわずかな木立があるばかりである。

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其處そこに家いへを圍かこんで僅わづかな木立こだちが有あるばかりである。

したがって、薪の不足から豆殻や藁のようなものもみな燃料として取っておかれていることは、勘次もよく知っていた。

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隨したがつて薪たきゞの缺乏けつばふから豆幹まめがらや藁わらのやうなものも皆みな燃料ねんれうとして保存ほぞんされて居ゐることは勘次かんじも能よく知しつて居ゐた。

しかし、その薪の不足から、自然にこういう砂の中に洪水がもたらした木片の埋まっているのを知って、これを求めているのだということは、彼は初めて見て初めて知った。

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然しかし其その薪たきゞの缺乏けつばふから自然しぜんにかういふ砂すなの中なかに洪水こうずゐが齎もたらした木片もくへんの埋うづまつて居ゐるのを知しつて之これを求もとめて居ゐるのだといふことは彼かれは始はじめて見みて始はじめて知しつた。

彼はめったに川を越えて出ることはなかったのである。

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彼かれは滅多めつたに川かはを越こえて出でることはなかつたのである。

勘次は自分の壁際には、薪がいっぱいに積まれてある。

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勘次かんじは自分じぶんの壁際かべぎはには薪たきゞが一杯ぱいに積つまれてある。

そのうえ開墾の仕事に携わって、何といっても薪はだんだん増えて行くばかりである。

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其その上うへに開墾かいこんの仕事しごとに携たづさはつて何なんといつても薪たきゞは段々だんだん殖ふえて行ゆくばかりである。

さらに、その開墾に第一の要件である道具が、今は完全になって自分の手に提げられてある。

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更さらに其その開墾かいこんに第だい一の要件えうけんである道具だうぐが今いまは完全くわんぜんして自分じぶんの手てに提さげられてある。

彼は、こういう辛苦をしてまでもわずかな木片を求めている人々の前に、誇りを感じた。

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彼かれは恁かういふ辛苦しんくをしてまでも些少させうな木片もくへんを求もとめて居ゐる人々ひとびとの前まへに矜ほこりを感かんじた。

彼は自分の境遇がどんなであるかは思わなかった。

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彼かれは自分じぶんの境遇きやうぐうが什麽どんなであるかは思おもはなかつた。

またこういう人々の哀れなことも、思いやる暇がなかった。

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又また恁かういふ人々ひとびとの憐あはれなことも想おもひやる暇いとまがなかつた。

そうして彼は、自分の腕前が愉快になった。

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さうして彼かれは自分じぶんの技倆うでが愉快ゆくわいになつた。

彼は再び土手から見下ろした。

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彼かれは再ふたゝび土手どてから見みおろした。

万能鍬を持っているのはみな女で、十三、四の子も交じっているのであった。

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萬能まんのうを持もつて居ゐるのは皆みな女をんなで十三四の子こも交まじつて居ゐるのであつた。

人々の掘り起こした跡は、畑の土をみみずが持ち上げたような形に、湿った砂がうねうねと連なっているのが彼の目に映った。

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人々ひと/″\の掘ほり起おこした趾あとは畑はたけの土つちを蚯蚓みゝずが擡もたげたやうな形かたちに、濕しめつた砂すなのうね/\と連つらなつて居ゐるのが彼かれの目めに映うつつた。

彼は家に帰るとともに、唐鍬の柄をつけた。

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彼かれは家うちに歸かへると共ともに唐鍬たうぐはの柄えを付つけた。

なたの峰で鉄のくさびを打ち込んで、そうして柄を取って動かしてみた。

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鉈なたの刀背みねで鐵てつの楔くさびを打うち込こんでさうして柄えを執とつて動うごかして見みた。

次の朝から、もう勘次の姿は林に見いだされた。

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次つぎの朝あさからもう勘次かんじの姿すがたは林はやしに見出みいだされた。

主人から与えられた穀物は、彼の一家を暖めた。

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主人しゆじんから與あたへられた穀物こくもつは彼かれの一家かを暖あたゝめた。

彼は近ごろにない心の余裕を感じた。

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彼かれは近來きんらいにない心こころの餘裕よゆうを感かんじた。

しかし、そういうわずかな、彼に幸いした事柄でも、いくらか他人の嫉妬を招いた。

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然しかしさういふ僅わづかな彼かれに幸さいはひした事柄ことがらでも幾いくらか他人たにんの嫉妬しつとを招まねいた。

ほかの百姓にも、もがいている者はいくらもある。

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他たの百姓ひやくしやうにも悶躁もがいて居ゐる者ものは幾いくらもある。

そういう仲間の間には、わずかに五円の金銭でも、それが懐に入ったとなればすぐに世間の目に立つ。

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さういふ伴侶なかまの間あひだには僅わづかに五圓ゑんの金錢かねでもそれは懷ふところに入はひつたとなれば直すぐに世間せけんの目めに立たつ。

彼らはいくらずつでも自分のためになることを見いだそうということのほかに、目を険しくして周りに注意しているのである。

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彼等かれらは幾いくらづゝでも自分じぶんの爲ためになることを見出みいださうといふことの外ほかに、目めを峙そばたてゝ周圍しうゐに注意ちういして居ゐるのである。

彼らは、他人が自分と同等以下に苦しんでいると思っている間は、互いに苦しんでいることに一種の安心を感じるのである。

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彼等かれらは他人ひとが自分じぶんと同等どうとう以下いかに苦くるしんで居ゐると思おもつて居ゐる間あひだは相互さうごに苦くるしんで居ゐることに一種しゆの安心あんしんを感かんずるのである。

しかし、その一人でも懐のいいのが目につけば、自分は後へ捨てられたような、ひどく切ないような妙な心持ちになって、そこに嫉妬の念が起こるのである。

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然しかし其その一人ひとりでも懷ふところのいゝのが目めにつけば自分じぶんは後あとへ捨すてられたやうな酷ひどく切せつないやうな妙めうな心持こゝろもちになつて、そこに嫉妬しつとの念ねんが起おこるのである。

それだから彼らは、他人のつまずきを見ると、そのひがんだ心の中にひそかに痛快を感じざるを得ないのである。

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それだから彼等かれらは他たの蹉跌つまづきを見みると其その僻ひがんだ心こゝろの中うちに竊ひそかに痛快つうくわいを感かんぜざるを得えないのである。

勘次の家には、薪が山のように積まれてある。

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勘次かんじの家いへには薪たきゞが山やまのやうに積つまれてある。

それが彼らの仲間の注目を引いた。

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それが彼等かれらの伴侶なかまの注目ちうもくを惹ひいた。

それとはなしに、幾度か彼の主人に告げられた。

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それとはなしに數次しばしば彼かれの主人しゆじんに告つげられた。

開墾地で木を焚いた、その灰をも家に運んだということまで主人の耳に入った。

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開墾地かいこんちで木きを焚たいた其その灰はひをも家いへに運はこんだといふことまで主人しゆじんの耳みゝに入はひつた。

勘次は開墾の手間賃を比較的余計に与えられる代わりには、櫟の根は一つも運ばないはずであった。

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勘次かんじは開墾かいこんの手間賃てまちんを比較的ひかくてき餘計よけいに與あたへられる代かはりには櫟くぬぎの根ねは一つも運はこばない筈はずであつた。

彼らの仲間は、そういうことをも知っていた。

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彼等かれらの伴侶なかまはさういふことをも知しつて居ゐた。

昼飯の後や、手の冷たくなった時などには、彼はそこらの木を集めて燃やす。

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晝餐ひるの後あとや手ての冷つめたく成なつた時ときなどには彼かれはそこらの木きを聚あつめて燃もやす。

木の根がくすぶって、いつでも青い煙が少しずつ立っている。

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木きの根ねが燻くすぶつていつでも青あをい煙けむりが少すこしづゝ立たつて居ゐる。

彼はその煙にだんだん遠ざかりながら、唐鍬を打ち込んでいる。

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彼かれは其その煙けむりに段々だんだん遠とほざかりつゝ唐鍬たうぐはを打うち込こんで居ゐる。

毎日、火は別の所で焚かれた。

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毎日まいにち火ひは別べつな處ところで焚たかれた。

彼は必ずその灰をかき払って去ったのである。

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彼かれは屹度きつと其その灰はひを掻かつ掃ぱいで去さつたのである。

しかし壁際に積んだ木の根は、そこには不正なものが交じっているにしても、大部分は彼の非常な労苦から得たものである。

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然しかし壁際かべぎはに積つんだ木きの根ねはそこには不正ふせいなものが交まじつて居ゐるにしても、大部分だいぶぶんは彼かれの非常ひじやうな勞苦らうくから獲えたものである。

彼は林の持ち主に請うて掘ったのである。

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彼かれは林はやしの持主もちぬしに請こうて掘ほつたのである。

それでも、あまりに人の口がやかましいので、主人はただいくらかでも将来の戒めをしようと思った。

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それでも餘あまりに人ひとの口くちが八釜敷やかましいので主人しゆじんは只たゞ幾分いくぶんでも將來しやうらいの警いましめをしようと思おもつた。

その以前から勘次は、秋になれば掛け稲を盗むとかいう陰口を利かれて、巡査の手帳にも載っているのだというようなことが言われていたのであった。

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其その以前いぜんから勘次かんじは秋あきになれば掛稻かけいねを盜ぬすむとかいふ蔭口かげぐちを利きかれて巡査じゆんさの手帖ててふにも載のつて居ゐるのだといふやうなことがいはれて居ゐたのであつた。

主人はそれでも、ひそかに人を使って、木の根を運んだかどうかということを聞かせてみた。

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主人しゆじんはそれでも竊ひそかに人ひとを以もつて木きの根ねを運はこんだかどうかといふことを聞きかせて見みた。

彼が気づいて詫びるならば、それなりにしてやろうと思ったからである。

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彼かれが心こゝろづいて謝罪しやざいするならばそれなりにして遣やらうと思おもつたからである。

彼は主人の心を知るすべはなかった。

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彼かれは主人しゆじんの心こゝろを知しる由よしはなかつた。

「どこでも見たほうがようがす。わしはけっして運んだ覚えなんざないから」

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「何處どこでも見みた方はうがようがす、わしは決けつして運はこんだ覺おぼえなんざねえから」

彼は恐ろしい権幕できっぱり断った。

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彼かれは恐おそろしい權幕けんまくできつぱり斷ことわつた。

主人は村の駐在所の巡査へ耳打ちをした。

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主人しゆじんは村むらの駐在所ちうざいしよの巡査じゆんさへ耳打みゝうちをした。

巡査はある日、ぶらっと勘次の家へ行った。

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巡査じゆんさは或ある日ひぶらつと勘次かんじの家うちへ行いつた。

その日は朝から雨なので、勘次は仕事にも出られず、火鉢へ少しずつ木の根をくべて当たっていた。

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其その日ひは朝あさから雨あめなので勘次かんじは仕事しごとにも出でられず、火鉢ひばちへ少すこしづゝ木きの根ねを燻くべてあたつて居ゐた。

「雨で困ったな。勘次はだいぶ勉強するそうだな」

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「雨あめで困こまつたな、勘次かんじは大分だいぶ勉強べんきやうする相さうだな」

巡査は帯剣の鞘をつかんで言った。

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巡査じゆんさは帶劍たいけんの鞘さやを掴つかんでいつた。

「へえ」

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「へえ」

勘次は急に膝を立て直した。

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勘次かんじは急きふに膝ひざを立たて直なほした。

表の戸口へひょっこり現れた巡査の、外套の頭巾を深くかぶっている顔が、勘次にはただ恐ろしく見えた。

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表おもての戸口とぐちへひよつこり現あらはれた巡査じゆんさの、外套ぐわいたうの頭巾づきんを深ふかく被かぶつて居ゐる顏かほが勘次かんじには只たゞ恐おそろしく見みえた。

そうして、その声が刺を含んで響いた。

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さうして其その聲こゑが刺とげを含ふくんで響ひゞいた。

巡査はぶらりと家の横手へ行って、壁際の木の根を見た。

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巡査じゆんさはぶらりと家いへの横手よこてへ行いつて壁際かべぎはの木きの根ねを見みた。

勘次は巡査の後からついて行った。

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勘次かんじは巡査じゆんさの後あとから跟ついて行いつた。

「だいぶあるな。これはまた、わしの来るまで動かしちゃならないからな」

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「大分だいぶ有あるな、此これは又またわしの來くるまで動うごかしちやならないからな」

巡査は言った。

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巡査じゆんさはいつた。

勘次は青くなった。

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勘次かんじは蒼あをくなつた。

「これらはわしがもらって掘ったんでがすから、どことどこって穴っこまでちゃんと分かってるんでがすから」

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「此こらわしが貰もらつて掘ほつたんでがすから何處どこと何處どこつて穴あなつ子こまでちやんと分わかつてんでがすから」

彼は慌てて言った。

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彼かれは慌あわてゝいつた。

「そんなことはどうでもいいんだ。動かすなと言ったら動かさなけりゃいいんだ」

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「そんなことはどうでもいゝんだ、動うごかすなといつたら動うごかさなけりやいゝんだ」

巡査は息で霧のように少し濡れた口髭をひねりながら

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巡査じゆんさは呼吸いきで霧きりのやうに少すこし霑ぬれた口髭くちひげを撚ひねりながら

「櫟の根がだいぶあるようだな」

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「櫟くぬぎの根ねが大分だいぶあるやうだな」

と言い捨てて去った。

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といひ棄すてゝ去さつた。

勘次は雨に打たれながら、放心したように庭に立っている。

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勘次かんじは雨あめに打うたれつゝ喪心さうしんしたやうに庭にはに立たつて居ゐる。

戸口の陰に隠れて聞いていたおつぎは、巡査の去った後、ようやく姿を現した。

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戸口とぐちの蔭かげに隱かくれて聞きいて居ゐたおつぎは巡査じゆんさの去さつた後のち漸やうやく姿すがたを表あらはした。

「おとっつあん」

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「おとつゝあ」

と小声で呼んだ。

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と小聲こごゑで喚よんだ。

「そんだから、おれは持って来るなって言ったのに」

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「そんだから俺おら持もつて來くんなつてゆつたのに」

さらに小声でおつぎは言った。

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更さらに小聲こごゑでおつぎはいつた。

「おとっつあん、どうしたもんだろうな」

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「おとつゝあ、どうしたもんだべな」

おつぎは聞いた。

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おつぎは聞きいた。

「おれは旦那に見放されちゃ、とても助からないだろう」

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「俺おら旦那だんなに見放みはなされちや、迚とつても助たすかれめえ」

勘次はようやくこれだけ言った。

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勘次かんじは漸やうやく此これだけいつた。

「おとっつあん、それじゃ旦那に謝ったらどうしたもんだろう」

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「おとつゝあ、それぢや旦那だんなげ謝罪あやまつたらどうしたもんだんべ」

「そんなこと言ったって、聞くか聞かないか分かるもんか」

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「そんなことゆつたつて、聽きくか聽きかねえか分わかるもんか」

「南のおとっつあんにでも頼んでみたらどうしたもんだろう」

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「南みなみのおとつゝあげでも頼たのんで見みたらどうしたもんだんべ」

「お前らが頼まなくたっていいから」

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「汝等わつら頼たのまなくつたつてえゝから」

「そんじゃ、おとっつあん、櫟の根っこさえなけりゃいいんだろうか」

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「そんぢやおとつゝあ、櫟くぬぎの根ねつ子こせえなけりやえゝんだんべか」

「そんだって、お前は駐在所に見られちまったもの、仕方があるもんか」

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「そんだつて汝われは駐在所ちうざいしよに見みられつちやつたもの仕しやうあるもんか」

勘次はそれでも、ほかに分別もないので、仕方なしに桑畑を越えて南へ詫びを頼みに行った。

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勘次かんじはそれでも他たに分別ふんべつもないので仕方しかたなしに桑畑くはばたけを越こえて南みなみへ詑わびを頼たのみに行いつた。

彼は古い菅笠をちょっと頭へかざして、首を縮めて行った。

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彼かれは古ふるい菅笠すげがさを一寸ちよつと頭あたまへ翳かざして首くびを蹙ちゞめて行いつた。

主人の挨拶は、とにかく明日のことにするからと言っただけだという返事である。

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主人しゆじんの挨拶あいさつは兎とに角かく明日あすのことにするからといつた丈だけだといふ返辭へんじである。

勘次はげっそりとして家へ帰ると、布団をかぶってしまった。

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勘次かんじはげつそりとして家うちへ歸かへると蒲團ふとんを被かぶつて畢しまつた。

おつぎは自分も毎日行っていたので、開墾地から運んだ櫟の根はみな知っている。

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おつぎは自分じぶんも毎日まいにち行いつて居ゐたので開墾地かいこんちから運はこんだ櫟くぬぎの根ねは皆みな知しつて居ゐる。

おつぎは、その櫟の根を独りでひそかに引き出した。

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おつぎは其その櫟くぬぎの根ねを獨ひとりで竊ひそかに引ひき出だした。

そうしてたそがれ時に、おつぎはそれを草刈り籠へ入れて、後ろの竹藪の中の古井戸へ投げ落とした。

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さうして黄昏時たそがれどきにおつぎはそれを草刈籠くさかりかごへ入いれて後うしろの竹藪たけやぶの中なかの古井戸ふるゐどへ投なげ落おとした。

古井戸は暗く、かつ深い。

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古井戸ふるゐどは暗くらくして且かつ深ふかい。

おつぎは冷たい雨に濡れて、そうして少し縮れた髪が乱れてくったりと頬について、足には朽ちた竹の葉がくっついている。

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おつぎは冷つめたい雨あめに沾ぬれてさうして少すこし縮ちゞれた髮かみが亂みだれてくつたりと頬ほゝに附ついて足あしには朽くちた竹たけの葉はがくつゝいて居ゐる。

「おとっつあん」

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「おとつゝあ」

おつぎは勘次を呼び起こした。

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おつぎは勘次かんじを喚よび起おこした。

「おれは櫟の根っこをうっちゃったぞ」

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「俺おら櫟くぬぎ根ねつ子こうつちやつたぞ」

おつぎはさらに声を殺して言った。

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おつぎは更さらに聲こゑを殺ころしていつた。

勘次はひょっこり起きて、何も言わずにおつぎの顔をじっと見つめた。

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勘次かんじはひよつこり起おきて何なにもいはずにおつぎの顏かほを凝然ぢつと見みつめた。

暗い家の中には、ようやく手ランプがともされた。

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暗くらい家うちの中なかには漸やうやく手てランプが點ともされた。

勘次もおつぎも、ただその目が光って見えた。

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勘次かんじもおつぎも唯たゞ其その目めが光ひかつて見みえた。

次の日、巡査は隣の雇い人を連れて来て壁際の木の根を調べさせたが、櫟の根は案外に少なかった。

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次つぎの日ひ巡査じゆんさは隣となりの傭人やとひにんを連つれて來きて壁際かべぎはの木きの根ねを檢しらべさせたが櫟くぬぎの根ねは案外あんぐわいに少すくなかつた。

それでも、おつぎの手では捨てきれなかったのである。

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それでもおつぎの手てでは棄すて切きれなかつたのである。

「こりゃ櫟がもっとあったはずじゃないか。勘次はどうかしやしないか」

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「此こりや櫟くぬぎがもつと有あつた筈はずぢやないか勘次かんじはどうかしやしないか」

巡査はこう言ってあたりを見たが、勘次の小さな建物のどこにもそれは見つからなかった。

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巡査じゆんさは恁かういつてあたりを見みたが勘次かんじの小ちひさな建物たてものの何處どこにもそれは發見はつけんされなかつた。

そうは言っても実際、巡査の目には櫟とほかの雑木とをはっきり見分けることができなかったのである。

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さういつても實際じつさいに巡査じゆんさの目めには櫟くぬぎと他ほかの雜木ざふきとを明瞭めいれうに識別しきべつし得えなかつたのである。

「勘次、それじゃこれを持ってついて来るんだ」

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「勘次かんじ、それぢや此これを持もつて跟ついて來くるんだ」

巡査は言った。

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巡査じゆんさはいつた。

勘次は震えた。

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勘次かんじは顫ふるへた。

「草刈り籠でも何でもいい、これを入れて後からついて」

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「草刈籠くさかりかごでも何なんでもいゝ、此これを入いれて後あとから跟ついて」

「へえ、どこまで持って行くんでしょう」

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「へえ、何處どこまで持もつて行いくんでがせう」

勘次はためらっている。

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勘次かんじは逡巡ぐつ/\して居ゐる。

「どこまででもいいんだ」

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「何處どこまでゝもいゝんだ」

巡査は怒鳴って、ぴしゃりと横手で勘次の頬を叩いた。

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巡査じゆんさは呶鳴どなつてぴしやりと横手よこてで勘次かんじの頬ほゝを叩たゝいた。

勘次は草刈り籠を背負って、巡査の後についてゆき、主人の家の裏庭へ導かれた。

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勘次かんじは草刈籠くさかりかごを脊負せおつて巡査じゆんさの後あとに跟ついて主人しゆじんの家いへの裏庭うらにはへ導みちびかれた。

巡査が縁側の座布団へ腰を掛けた時、勘次は籠を背負ったまま首をうなだれて立った。

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巡査じゆんさが縁側えんがはの坐蒲團ざぶとんへ腰こしを掛かけた時とき勘次かんじは籠かごを脊負せおつた儘まゝ首くびを俛たれて立たつた。

それはあまりに見え透いた仕事なので、さすがに分別盛りの主人は出なかった。

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それは餘あまりに見みえ透すいた仕事しごとなので有繋さすがに分別盛ふんべつざかりの主人しゆじんは出でなかつた。

おかみさんが出た。

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内儀かみさんが出でた。

勘次はますますしおれた。

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勘次かんじは益ます/\萎しほれた。

「勘次、お前まあそれを置いて、ここへ掛けてみたらどうだね」

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「勘次かんじ、お前まへまあそれを置おいて此處こゝへ掛かけて見みたらどうだね」

おかみさんは言った。

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内儀かみさんはいつた。

勘次はそれでも、ただ立っている。

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勘次かんじはそれでも只たゞ立たつて居ゐる。

「品物はこれだけなんでしたでしょうか」

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「品物しなものは此これだけなんでしたらうか」

おかみさんは巡査に聞いた。

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内儀かみさんは巡査じゆんさに聞きいた。

「これくらいのものらしいようでしたな。案外少なかったんですな」

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「此この位くらゐのものらしいやうでしたな、案外あんぐわい少すくなかつたんですな」

巡査は手帳を繰り返しながら言った。

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巡査じゆんさは手帖ててふを反覆くりかへしながらいつた。

「そうでございますか」

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「さうでございますか」

おかみさんは巡査に会釈して、そうして

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内儀かみさんは巡査じゆんさに會釋ゑしやくしてさうして

「どうしたね勘次、こうして連れて来られてもいい心持ちはすまいね」

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「どうしたね勘次かんじ、恁かうして連つれて來こられてもいゝ心持こゝろもちはすまいね」

と言った。

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といつた。

藁草履をはいた勘次の爪先に、涙がぽつりと落ちた。

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藁草履わらざうりを穿はいた勘次かんじの爪先つまさきに涙なみだがぽつりと落おちた。

「こんなことでお前、世間が騒がしくて仕方がないのでね、私の所でも本当に困ってしまうんだよ」

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「こんなことでお前まへ世間せけんが騷さわがしくて仕しやうがないのでね、私わたしの處ところでも本當ほんたうに困こまつて畢しまふんだよ」

おかみさんは巡査をちょっと見て、そうして

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内儀かみさんは巡査じゆんさを一寸ちよつと見みてさうして

「これからきっとやらないなら、今日の所だけは大目に見ていただいて、警察へ連れて行かれないように伺ってみてあげるがね、どうしたもんだね」

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「此これから屹度きつとやらないなら今日けふの處ところだけは大目おほめに見みて戴いたゞいて警察けいさつへ連つれて行ゆかれないやうに伺うかゞつて見みてあげるがね、どうしたもんだね」

と勘次へ言った。

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と勘次かんじへいつた。

「どうかもう、けっしてやりませんから、へえ、おかみさん、どうぞ」

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「何卒どうぞはあ、決けつしてやりませんから、へえお内儀かみさんどうぞ」

勘次は草刈り籠を背負って前かがみになった体を、幾度かかがめて言った。

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勘次かんじは草刈籠くさかりかごを脊負せおうて前屈まへかゞみになつた身體からだを幾度いくどか屈かゞめていつた。

涙がまたぼろぼろと着物の裾から跳ねて、ぽつぽつと庭の土に点を打った。

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涙なみだが又またぼろ/\と衣きものの裾すそから跳はねてほつ/\と庭にはの土つちに點てんじた。

「いかがなもんでございましょうね、これは」

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「如何いかゞなもんでござんせうね此これは」

おかみさんは微笑を含んで、巡査に向かって言った。

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内儀かみさんは微笑びせうを含ふくんで巡査じゆんさに向むかつていつた。

「そうですなあ」

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「さうですなあ」

巡査は首をかしげて言って、さらに帯剣の鞘を膝へ取って

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巡査じゆんさは首くびを傾かたむけていつて更さらに帶劍たいけんの鞘さやを膝ひざへとつて

「どうだ勘次、以来慎めるか。この次にこんなことがあったら枯れ枝一つでも赦さないからな。今日はまあこれで帰れ。その櫟の根はここへ置いて行くんだぞ」

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「どうだ勘次かんじ、以來いらい愼つゝしめるか、此この次つぎにこんなことが有あつたら枯枝かれえだ一つでも赦ゆるさないからな、今日けふはまあ此これで歸かへれ、其その櫟くぬぎの根ねは此處こゝへ置おいて行ゆくんだぞ」

勘次は草刈り籠を下ろそうとした。

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勘次かんじは草刈籠くさかりかごを卸おろさうとした。

「そんなものをこの庭へ置けというんじゃないんだ。置く所は知ってるんだろう。分からない奴だな。それ、うっかりしないで足元を気をつけるんだ」

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「そんなもの此この庭にはへ置おけといふんぢやないんだ、置おく處ところは知しつてるんだろう、解わからない奴やつだな、それうつかりしないで足下あしもとを氣きをつけるんだ」

巡査は叱った。

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巡査じゆんさは叱しかつた。

勘次はそっと土を踏んで庭を出た。

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勘次かんじはそつと土つちを踏ふんで庭にはを出でた。

門の外には、おつぎが与吉を連れてすすり泣いている。

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門もんの外そとにはおつぎが與吉よきちを連つれて歔欷すゝりなきして居ゐる。

与吉はおつぎの泣くのを見て、自分も声を放つ。

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與吉よきちはおつぎの泣なくのを見みて自分じぶんも聲こゑを放はなつ。

おつぎは声の漏れないように、袂でそれを覆っている。

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おつぎは聲こゑの洩もれぬやうに袂たもとでそれを掩おほうて居ゐる。

「よき、泣かないで帰れ」

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「よき泣なかねえで歸けえれ」

勘次は与吉の手を取った。

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勘次かんじは與吉よきちの手てを執とつた。

三人は黙って歩いた。

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三人にんは默だまつて歩あるいた。

雇い人らは笑って、勘次の様子を見ていた。

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傭人等やとひにんらは笑わらつて勘次かんじの容子ようすを見みて居ゐた。

「おとっつあん、どうしたっけ」

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「おとつゝあ、どうしたつけ」

おつぎは家に帰るとともに聞いた。

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おつぎは家うちに歸かへると共ともに聞きいた。

「そんでもまあ大丈夫になった。櫟の根っこがなくて助かった」

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「そんでもまあ大丈夫だいぢやうぶになつた、櫟くぬぎ根ねつ子こなくつて助たすかつた」

勘次はげっそりと力なく言った。

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勘次かんじはげつそりと力ちからなくいつた。

「おれは昨日は重たくてひどかったっけぞ。そのせいか今日は肩が痛いや」

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「俺おら昨日きにやうは重おもたくつて酷ひどかつたつけぞ、其その所爲せゐか今日けふは肩かた痛いてえや」

おつぎは喜ばしげに言った。

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おつぎは悦よろこばしげにいつた。

「おれがここでいなくなっちゃ、お前らも大変だったな」

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「俺おらこゝで居ゐなくなつちや汝等わツらも大變たえへんだつけな」

勘次はしばらく間を置いて、ぽつりとして言った。

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勘次かんじは間あひだを暫しばらく措おいてぽさ/\としていつた。

このことがあってからも、勘次の姿はすぐに唐鍬を持って林の中に見いだされた。

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此この事ことがあつてからも勘次かんじの姿すがたは直すぐに唐鍬たうぐは持もつて林はやしの中なかに見出みいだされた。

五、六日たって、勘次は針立てと針箱とを買って来た。

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五六日にち經たつて勘次かんじは針立はりだてと針箱はりばことを買かつて來きた。

「おつう、お前もこれからお針に行けるからな。そら、これを持って行くんだ。おっかあが持ってた古いのなんざあ外聞が悪くていやだなんて言うから、これでもおとっつあんらはひどい銭で買って来たんだぞ。それから、いいの悪いのって膨れたり何かするんじゃないぞ、なあ」

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「おつう、汝われも此これからお針はりにいけつかんな、そら此これ持もつて行えぐんだ、おつかゞ持もつてた古ふるいのなんざあ外聞げえぶん惡わるくつて厭やだなんていふから、此こんでもおとつゝあ等ら酷ひでえ錢ぜねで買かつて來きたんだぞ、それから善ええだの惡わりいだのつて膨ふくれたり何なにつかすんぢやねえぞ、なあ」

勘次はまた

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勘次かんじは又また

「よき、お前はおとっつあんのそばにいるんだぞ。いいか、姉はこれからお前の着物をこしらえるのでお針に行くんだからな。聞かないとひどいぞ」

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「よき汝われはおとつゝあが側そばに居ゐるんだぞ、えゝか、姊ねえは此これから汝われが衣物きもの拵こせえんでお針はりに行えくんだかんな、聽きかねえと酷ひでえぞ」

と、与吉を抱いてよく言い含めた。

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と與吉よきちを抱だいて能よくいひ含ふくめた。

おつぎはそれから、村の中へ近所の娘とともに通った。

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おつぎはそれから村内そんないへ近所きんじよの娘むすめと共ともに通かよつた。

おつぎは与吉の小さなひとえを仕上げた時、その風呂敷包みを抱えていそいそと帰って来た。

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おつぎは與吉よきちの小ちひさな單衣ひとへものを仕上しあげた時とき其その風呂敷包ふろしきづゝみを抱かゝへていそ/\と歸かへつて來きた。

おつぎは針を持つようになってから、てきぱきとして、にわかにませて来たように見えた。

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おつぎは針はり持もつやうに成なつてからはき/\として俄にはかにませて來きたやうに見みえた。

おつぎはもう十六である。

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おつぎはもう十六である。

辛苦の間にあるだけに、去年からではどれほど大人びて勘次の助けになるか知れない。

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辛苦しんくの間あひだに在ある丈だけに去年きよねんからでは何どれ程ほど大人おとなびて勘次かんじの助たすけに成なるか知しれない。

ことに秋のころになってからは、めっきり機転も利くようになって、死んだお品に似て来たと他人には言われるのであるが、毎日いっしょにいる自分にも、そう言えば体の格好までどうやらそう見えて来たと、勘次も心で思った。

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殊ことに秋あきの頃ころに成なつてからは滅切めつきり機轉きてんも利きくやうになつて、死しんだお品しなに似にて來きたと他人ひとにはいはれるのであるが、毎日まいにち一ひとつに居ゐる自分じぶんにもさういへば身體からだの恰好かつかうまでどうやらさう見みえて來きたと勘次かんじも心こゝろで思おもつた。

おつぎは今が遊びたい盛りに入ったのであるが、勘次からは一日でもたった一人で放されたことがない。

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おつぎは今いまが遊あそびたい盛さかりに這入はひつたのであるが、勘次かんじからは一日いちにちでも唯たゞ一人ひとりで放はなされたことがない。

村の休日には近所の女房に連れられて出てみることもあるが、必ず与吉がくっついているのと、自分は炊事の間を欠かすことができないのとで、昼飯でも晩飯でも他人より早く帰って来なければならない。

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村むらの休日ものびには近所きんじよの女房にようばうに連つれられて出でて見みることもあるが、屹度きつと與吉よきちがくつゝいて居ゐるのと、自分じぶんは炊事すゐじの間まを缺かかすことが出來できないのとで晝餐ひるでも晩餐ばんでも他人ひとより早はやく歸かへつて來こなければならない。

「おれはいっそ、物日なんざないほうがいい。そうでさえなけりゃ、出たいと思わないから」

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「俺おらいつそもの日びなんざ無ねえ方はうがえゝ、さうでせえなけりや出でてえた思おもはねえから」

おつぎはつくづく呟くことがあった。

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おつぎは熟つく/″\呟つぶやくことがあつた。

「どうにかおれだってするから」

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「どうにか俺おらだつて成なつから」

おつぎの呟くのを聞いて、勘次はさすがに心が切なくなる。

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おつぎの呟つぶやくのを聞きいて勘次かんじは有繋さすがに心こゝろが切せつなくなる。

それで言いようがなくては、こうぶすりと言ってしまうのであった。

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それで云いひやうが無なくては恁かうぶすりと云いつて畢しまふのであつた。

与吉は四つになった。

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與吉よきちは四よつつに成なつた。

いたずらも知って来て、それだけおつぎの手は省かれた。

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惡戯いたづらも知しつて來きてそれ丈だけおつぎの手ては省はぶかれた。

それでも与吉の着物は、おつぎの手には始末ができないので、近所の女房へ頼んではどうにかしてもらった。

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それでも與吉よきちの衣物きものはおつぎの手てには始末しまつが出來できないので、近所きんじよの女房にようばうへ頼たのんではどうにかして貰もらつた。

お品が生きていれば、そんな心配はまだ十六のおつぎがするのではない。

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お品しなが生いきて居ゐればそんな心配しんぱいはまだ十六のおつぎがするのではない。

おつぎはさらに、自分の着物に困った。

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おつぎは更さらに自分じぶんの衣物きものに困こまつた。

短くなるばかりではなく、ほころびにさえおつぎは当惑するのである。

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短みじかくなるばかりではなく綻ほころびにさへおつぎは當惑たうわくするのである。

「お針ができなくちゃ仕方がないなあ」

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「お針はり出來できなくつちや仕樣しやうねえなあ」

おつぎはいつでも嘆息するのであった。

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おつぎは何時いつでも嘆息たんそくするのであつた。

「お針にでも何でも、やれる時にはやるから。奉公にでも行ってみろ、いくつになったってろくなことができるもんか。十六くらいじゃ貧乏人はまだ行けないったって、仕方があるもんか。そうお前みたいに、やせ虱がたかったようにしきりなしに言うもんじゃない」

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「お針はりにでも何なんでも遣やれる時ときにや遣やつから、奉公ほうこうにでも行いつて見みろ、幾いくつに成なつたつて碌ろくなこと出來できるもんか、十六位ぐれえぢや貧乏人びんばふにんはまあだ行いけねえたつて仕しやうがあるもんか、さう汝われ見みてえに痩虱やせじらみたかつたやうにしつきりなし云いふもんぢやねえ」

「おとっつあんは、そんだって奉公にでも行ってる者には家でこしらえてやるんだろうな」

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「おとつゝあはそんだつて奉公ほうこうにでも行いつてるものげは家うちで拵こせえてやんだんべな」

「そんだって何だって、やれる時でなくちゃやれないから」

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「そんだつてなんだつて遣やれつ時ときでなくつちや遣やれねえから」

十六ではまだ針を持たなくてもいいというのは、それは無理ではない。

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十六ではまだ針はりを持もたなくつてもいゝといふのはそれは無理むりではない。

しかし勘次の家で、おつぎがいっこうに針を知らないことは不便であった。

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然しかし勘次かんじの家いへでおつぎの一向かう針はりを知しらぬことは不便ふべんであつた。

勘次もそれを知らないのではないが、今のところ自分にはその余裕がないので、おつぎがそう言うたびに彼の心は堪えられず苦しむので、わざと邪険に言ってしまうのであった。

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勘次かんじもそれを知しらないのではないが、今いまの處ところ自分じぶんには其その餘裕よゆうがないのでおつぎがさういふ度たびに彼かれの心こゝろは堪たへず苦くるしむので態わざと邪慳じやけんにいつて畢しまふのであつた。

その冬になってからも、おつぎは十六だというまにすぐ十七になってしまうと呟いたのであった。

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其その冬ふゆになつてからもおつぎは十六だといふ内うちに直すぐ十七になつて畢しまふと呟つぶやいたのであつた。

「春にでもなったらやれるかも知れないから」

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「春はるにでもなつたらやれつかも知しんねえから」

と、勘次はそのたびに言っていた。

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と勘次かんじは其その度たびにいつて居ゐた。

おつぎは、とうてい当てにはならないと心に諦めていたのであった。

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おつぎは到底たうてい當あてにはならぬと心こゝろに斷念あきらめて居ゐたのであつた。

それだけおつぎの満足は深かった。

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それだけおつぎの滿足まんぞくは深ふかかつた。

ある晩、どうして記憶をよみがえらせたか、おつぎはふいと言った。

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或ある晩ばんどうして記憶きおくを復活ふくくわつさせたかおつぎはふいといつた。

「井戸へ落とした櫟の根っこは、はしごを掛けても取れないだろうか」

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「井戸ゐどへ落おつことした櫟くぬぎ根ねつ子こは梯子はしご掛かけても取とれめえか」

「なぜそんなことを言うんだ」

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「何故なぜそんなこといふんだ」

勘次は驚いて目を見開いた。

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勘次かんじは驚おどろいて目めを睜みはつた。

「そんでも惜しいもんだからよ」

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「そんでも可惜あつたらもんだからよ」

「お前が自分ではしごを掛けて入るのか」

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「汝われ自分じぶんで梯子はしご掛かけて這入へえんのか」

「おれは怖いからいやだがな」

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「俺おら可怖おつかねえから厭やだがな」

「そんなこと言うもんじゃない。また引っ張られたらどうする。その時はお前でも行くのか」

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「そんなこといふもんぢやねえ、又また拘引つゝてかれたらどうする、そん時ときは汝われでも行えくのか」

勘次はこう言って苦笑した。

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勘次かんじは恁かういつて苦笑くせうした。

その晩はそれっきり、二人の間に話はなかった。

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其その晩ばんは其それつ切きり二人ふたりの間あひだに噺はなしはなかつた。

八

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八

与吉が五つの春になった。

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與吉よきちが五いつつの春はるに成なつた。

ずんずんと育って行く彼の体は、おつぎの手に重さが過ぎている。

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ずん/\と生長せいちやうして行ゆく彼かれの身體からだはおつぎの手てに重量ぢうりやうが過すぎて居ゐる。

しがみついていた筍の皮が自然にその幹から離れるように、与吉はだんだんおつぎの手から離れるようになった。

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しがみ附ついて居ゐた筍たけのこの皮かはが自然しぜんに其その幹みきから離はなれるやうに、與吉よきちは段々だん/\おつぎの手てから除のぞかれるやうに成なつた。

それでも、筍の皮が竹の幹にまつわっては横たわっているように、与吉がおつぎを慕うことに変わりはなかった。

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それでも筍たけのこの皮かはが竹たけの幹みきに纏まつはつては横よこたはつて居ゐるやうに、與吉よきちがおつぎを懷なつかしがることに變かはりはなかつた。

与吉は近所の子供とよく田んぼへ出た。

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與吉よきちは近所きんじよの子供こどもと能よく田圃たんぼへ出でた。

暖かい日には、彼はひとえに換えて、袂を後ろでぎっと縛ったり、尻をぐるっとはしょったりしてもらう間も待ち遠しくて跳ねている。

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暖あたゝかい日ひには彼かれは單衣ひとへに換かへて、袂たもとを後うしろでぎつと縛しばつたり尻しりをぐるつと端折はしよつたりして貰もらふ間まも待遠まちどほで跳はねて居ゐる。

「堀のそばへは行くんじゃないぞ。着物を汚すと聞かないぞ」

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「堀ほりの側そばへは行えぐんぢやねえぞ、衣物きもの汚よごすと聽きかねえぞ」

おつぎが言うのを耳へも入れないで、小ざるを手にして走って行く。

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おつぎがいふのを耳みゝへも入いれないで小笊こざるを手てにして走はしつて行ゆく。

田んぼのはんの木は、だらけた花が落ちて、若葉にはまだ少し間があるので、手持ち無沙汰そうに立っている季節である。

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田圃たんぼの榛はんの木きはだらけた花はなが落おちて嫩葉わかばにはまだ少すこし暇ひまがあるので手持てもちなさ相さうに立たつて居ゐる季節きせつである。

田はわずかに湿りを含んで、足の底に暖かみを感じる。

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田たは僅わづかに濕うるほひを含ふくんで足あしの底そこに暖味あたゝかみを感かんずる。

耕す人はまだ下り立たない。

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耕たがやす人ひとはまだ下おり立たたぬ。

白っぽく乾いた刈り株の間には、注意して見ればところどころにきわめて小さな穴がある。

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白しろつぽく乾かわいた刈株かりかぶの間あひだには注意ちういして見みれば處々ところ/″\に極きはめて小ちひさな穴あながある。

子供らは、その穴を探して歩くのである。

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子供等こどもらは其その穴あなを探さがして歩あるくのである。

彼らは小さな手を粘る土に差し込んでは、両手の力をこめて引っ返す。

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彼等かれらは小ちひさな手てを粘ねばる土つちに揷込さしこんでは兩手りやうての力ちからを籠こめて引ひつ返かへす。

そこにはどじょうがちょろちょろと跳ね返りながら、その身を慌ただしく動かしている。

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其處そこには鰌どぜうがちよろ/\と跳返はねかへりつゝ其その身みを慌あわたゞしく動うごかして居ゐる。

そうすると彼らは、いずれも声を立てて騒ぎながら、その小さな泥だらけの手で捕まえようとしては逃げられながら、ようやくのことでざるへ入れる。

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さうすると彼等かれらは孰いづれも聲こゑを立たてゝ騷さわぎながら、其その小ちひさな泥どろだらけの手てで捉とらへようとしては遁にげられつゝ漸やうやくのことで笊ざるへ入いれる。

どじょうは、そのこそばゆいざるの中でしばらくその身を動かしては落ち着く。

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鰌どぜうは其そのこそつぱい笊ざるの中なかで暫しばらく其その身みを動うごかしては落付おちつく。

ほかのどじょうがまた入れられる時、さっきのどじょうがいっしょに騒いでは落ち着く。

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他たの鰌どぜうが又また入いれられる時とき先刻さつきの鰌どぜうが一つに騷さわいでは落付おちつく。

彼らはこうして、その小さな穴を求めて田から田へ移って歩く。

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彼等かれらは斯かうして其その小ちひさな穴あなを求もとめて田たから田たへ移うつつて歩あるく。

土地では、それを目掘りと言っている。

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土地とちではそれを目掘めぼりというて居ゐる。

与吉には、いくら泥になってもどじょうは捕れなかった。

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與吉よきちには幾いくら泥どろになつても鰌どぜうは捕とれなかつた。

仲間の大きな子は、それでも一匹ずつくらいは与吉のざるにも入れてやるのであった。

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仲間なかまの大おほきな子こはそれでも一匹ぴき位ぐらゐづつ與吉よきちの笊ざるにも入いれて遣やるのであつた。

それで彼は、遅れながらもほかの子供についてゆかずにはいられなかったのである。

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それで彼かれは後おくれながらも他たの子供こどもに跟ついて歩あるかずには居をられなかつたのである。

堀には、動かない水が空を映してたたえている所がある。

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堀ほりには動うごかない水みづが空そらを映うつして湛たゝへて居ゐる處ところがある。

そうかと思えば、あるいは水は一滴もなくて、泥の上を筋のように流れた砂の跡がちらちらと春の日をわずかに反射している所がある。

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さうかと思おもへば或あるひは水みづは一滴てきもなくて泥どろの上うへを筋すぢのやうに流ながれた砂すなの趾あとがちら/\と春はるの日ひを僅わづかに反射はんしやして居ゐる處ところがある。

子供らはまばらな枯れ蘆のあたりから下りて、そこにも目掘りを試みる。

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子供等こどもらは疎まばらな枯蘆かれあしの邊ほとりからおりて其處そこにも目掘めぼりを試こゝろみる。

大きな子供は大事なざるをそっと持って下りる。

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大おほきな子供こどもは大事だいじな笊ざるをそつと持もつておりる。

小さな子供は堀へ下りながら、ざるを傾けてどじょうをこぼすことがある。

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小ちひさな子供こどもは堀ほりへおりながら笊ざるを傾かたぶけて鰌どぜうを滾こぼすことがある。

大きな子供はそれっと言って、いたずらにそれを捕まえようとする。

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大おほきな子供こどもはそれつといつて惡戯いたづらに其それを捕とらうとする。

子供らは順々にみな、それにならおうとする。

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子供等こどもらは順次じゆんじに皆みなそれに傚ならはうとする。

そうすると小さな子供は、ただ火のついたように泣く。

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さうすると小ちひさな小供こどもは唯たゞ火ひの點ついたやうに泣なく。

それと同時にどじょうが小さな子供のざるに返されて、子供はそのどじょうをのぞくとともに、その泣く声がはたと止まってしまうのである。

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それと同時どうじに鰌どぜうが小ちひさな子供こどもの笊ざるに返かへされて子供こどもは其その鰌どぜうを覗のぞくと共ともに其その泣なく聲こゑがはたと止とまつて畢しまふのである。

堀の粘ついた泥は、うっかりすると小さな足を吸いつけて放さない。

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堀ほりの粘ねばついた泥どろはうつかりすると小ちひさな足あしを吸すひ附つけて放はなさない。

そうすると、みんなが逃げるように岸へ上がって、指を出してその先を曲げながら騒ぐ。

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さうするとみんなが遁にげるやうに岸きしへ上あがつて指ゆびを出だして其その先さきを屈曲くつきよくさせながら騷さわぐ。

小さな子供はざるを手にしたまま、目には手も当てずに声を放って泣く。

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小ちひさな子供こどもは笊ざるを手てにした儘まゝ目めには手ても當あてずに聲こゑを放はなつて泣なく。

与吉はこうしてよく泣かされた。

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與吉よきちは恁かうして能よく泣なかされた。

彼には少しも父兄の力がかぶさっていない。

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彼かれには寸毫すこしも父兄ふけいの力ちからが被かうぶつて居ゐない。

聞き分けのない子供の間にも、家族の力は非常な勢いを示している。

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頑是ぐわんぜない子供こどもの間あひだにも家族かぞくの力ちからは非常ひじやうな勢いきほひを示しめして居ゐる。

その家族が一般から侮りの目をもって見られているように、子供の間にもまた、小さい与吉は侮られていた。

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其その家族かぞくが一般ぱんから輕侮けいぶの眼めを以もつて見みられて居ゐるやうに、子供こどもの間あひだにも亦また小ちひさい與吉よきちは侮あなどられて居ゐた。

それでも与吉は、帰りには小ざるの底にどじょうがあるので喜んでいた。

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それでも與吉よきちは歸かへりには小笊こざるの底そこに鰌どぜうがあるので悦よろこんで居ゐた。

泣いたその時はしおれても、彼はすぐに機嫌が直って、そのわずかな獲物のざるを誇っておつぎのそばに来る時は、いつもの甘えた与吉である。

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泣ないた當座たうざは萎しをれても彼かれは直すぐに機嫌きげんが出でて、其その僅わづかな獲物えものの笊ざるを誇ほこつておつぎの側そばに來くる時ときは何時いつもの甘あまえた與吉よきちである。

彼はどこへでもべたりと座るので、尻を丸出しにまくってやっても着物は泥だらけにした。

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彼かれは何處どこへでもべたりと坐すわるので臀しりを丸出まるだしに褰かかげてやつても衣物きものは泥どろだらけにした。

それで叱られても、泥の乾いたその尻を叩かれても、おつぎにされるのは彼にはちっとも恐ろしくなかった。

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それで叱しかられても泥どろの乾かわいた其その臀しりを叩たゝかれても、おつぎにされるのは彼かれにはちつとも怖おそろしくなかつた。

彼は小言は耳へも入れないで、「姉よう、見ろよう」

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彼かれは小言こごとは耳みゝへも入いれないで「姊ねえよう見みろよう」

と小ざるを傾けては、ちょこちょこと跳ねるようにして小刻みに足を動かしながら、おつぎの褒める言葉を促して止まない。

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と小笊こざるを枉まげてはちよこ/\と跳はねるやうにして小刻こきざみに足あしを動うごかしながらおつぎの譽ほめる詞ことばを促うながして止やまない。

彼はあまりに喜んで騒いで、ひょっとすると危ない手元でどじょうを庭へ落とすことがある。

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彼かれは餘あまりに悦よろこんで騷さわいでひよつとすると危あぶない手てもとで鰌どぜうを庭にはへ落おとす事ことがある。

どじょうは乾いた庭の土にまみれて、苦しそうに動く。

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鰌どぜうは乾かわいた庭にはの土つちにまぶれて苦くるしさうに動うごく。

与吉が押さえようとする時、鶏がひょいと来てくちばしでつついて、駆けて行ってしまう。

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與吉よきちが抑おさへようとする時とき鷄にはとりがひよつと來きて嘴くちばしで啄つゝいて駈かけて行いつて畢しまふ。

ほかの鶏がそれを追いかける。

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他たの鷄にはとりがそれを追おひ掛かける。

与吉はそうすると、またひとしきり泣くのである。

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與吉よきちはさうすると又また一ひとしきり泣なくのである。

「お前があんまりうっかりしてるからだわ」

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「汝われあんまりうつかりしてつかんだわ」

おつぎは笑いながら、立っている与吉の頭を抱いて、それから手水だらいへ水を汲んで、どじょうを入れてやる。

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おつぎは笑わらひながら、立たつてる與吉よきちの頭あたまを抱だいてそれから手水盥てうづだらひへ水みづを汲くんで鰌どぜうを入いれて遣やる。

与吉は水へ手を入れては、どじょうの騒ぐのを見てすぐに声を立てて笑う。

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與吉よきちは水みづへ手てを入いれては鰌どぜうの騷さわぐのを見みて直すぐに聲こゑを立たてて笑わらふ。

おつぎはそうしておいて、泥だらけの手足を洗ってやる。

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おつぎはさうして置おいて泥どろだらけの手足てあしを洗あらつてやる。

与吉は時々どじょうを持って来た。

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與吉よきちは時々とき/″\鰌どぜうを持もつて來きた。

おつぎは着物が泥になるのを叱りながら、それでも威勢よく田んぼへ出してやった。

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おつぎは衣物きものの泥どろになるのを叱しかりながらそれでも威勢ゐせいよく田圃たんぼへ出だしてやつた。

そのたびに、ほかの子供らの後から

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其その度たびに他ほかの子供等こどもらの後うしろから

「泣かさないで、よきのことも連れて行ってくれよな」

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「泣なかさねえでよきことも連つれでつてくろうな」

というおつぎの声が追いかけるのであった。

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といふおつぎの聲こゑが追おひ掛かけるのであつた。

わずかなどじょうは味噌汁へ入れて、箸で骨をしごいて与吉へやった。

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僅わづかな鰌どぜうは味噌汁みそしるへ入いれて箸はしで骨ほねを扱しごいて與吉よきちへやつた。

自分では骨と頭とをしばらく口へ含んで、それから捨てた。

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自分じぶんでは骨ほねと頭あたまとを暫しばらく口くちへ含ふくんでそれから捨すてた。

田がそろそろと耕されるようになった。

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田たがそろ/\と耕たがやされるやうに成なつた。

子供らはまた、一つ一つの塊に耕された田を渡って、その塊の上を滑りながら越えながら、きわめて小さいくわいのような、ゑぐの根を取った。

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子供等こどもらは又また一ひとつ/\の塊かたまりに耕たがやされた田たを渡わたつて、其その塊かたまりの上うへを辷すべりながら越こえながら、極きはめて小ちひさい慈姑くわゐのやうなゑぐの根ねをとつた。

それは土地では訛って、ゑごと呼ばれている。

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それは土地とちでは訛なまつてゑごと喚よばれて居ゐる。

そこらの田にはゑぐが多いので、秋のころになると、茂った稲の陰に小さな白い花が咲く。

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そこらの田たにはゑぐが多おほいので秋あきの頃ころに成なると茂しげつた稻いねの陰かげに小ちひさな白しろい花はなが咲さく。

与吉もほかの子供のするように、小ざるを持って出た。

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與吉よきちも他たの子供こどものするやうに小笊こざるを持もつて出でた。

どじょうとは違って、これは彼の手にもわずかずつは採ることができた。

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鰌どぜうとは違ちがつて此これは彼かれの手てにも僅わづかづゝは採とることが出來できた。

少しずつ採っては、毎日のように蓄えた。

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少すこしづゝ採とつては毎日まいにちのやうに蓄たくはへた。

おつぎは茶を沸かすたびに、それを灰の中へ投げ込んで焼いてやる。

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おつぎは茶ちやを沸わかす度たびにそれを灰はひの中なかへ投なげ込こんで燒やいてやる。

火をいじることが危ないので、与吉は独りでかまどへ手をつけることは禁じられている。

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火ひを弄いぢることが危あぶないので與吉よきちは獨ひとりで竈かまどへ手てをつけることは禁きんぜられて居ゐる。

灰の中へ入れたばかりで、与吉は

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灰はひの中なかへ入いれたばかりで與吉よきちは

「ようよう」

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「よう/\」

と言っておつぎに迫る。

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といつておつぎに迫せまる。

与吉は焼ける間がじれったいのである。

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與吉よきちは燒やける間あひだが遲緩もどかしいのである。

「そんなに焼けないだろうな。そんじゃ姉は構わないぞ」

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「そんなに燒やけめえな、そんぢや姊ねえは構かまあねえぞ」

と、おつぎはゑぐをかき出してやる。

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とおつぎはゑぐを掻かき出だして遣やる。

与吉は口へ入れても、まだがりがりで、かつ苦いので吐き出してしまう。

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與吉よきちは口くちへ入いれてもまだがり/\で且かつ苦にがいので吐はき出だして畢しまふ。

「そうら見ろ、大きな格好をして言うことを聞かないから」

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「そうら見みろ、大えけえ姿なりしていふこと聽きかねえから」

おつぎは怒ったような様子をして見せる。

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おつぎは怒おこつたやうな容子ようすをして見みせる。

「姉よ、よう」

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「姊ねえよ、よう」

と、与吉はまたねだる。

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と與吉よきちは又また強請せがむ。

その時はもう、皮に皺が寄って焼けたゑぐが与吉の手に載せられる。

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其その時ときはもう皮かはに皴しわが寄よつて燒やけたゑぐが與吉よきちの手てに載のせられる。

「お前、熱いぞ」

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「汝われ熱あつえぞ」

とおつぎが言えば、与吉は手を引いて、ゑぐは土間へ落ちる。

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とおつぎがいへば與吉よきちは手てを引ひいてゑぐは土間どまへ落おちる。

それをまた手に載せてやると、与吉はおつぎがするようにふうふうと灰を吹く。

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それを又また手てに載のせてやると與吉よきちはおつぎがするやうにふう/\と灰はひを吹ふく。

与吉はもっともっととおつぎにせがんで、勘次に怒鳴られてはやめるのである。

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與吉よきちは後あとも後あともとおつぎにせがんで、勘次かんじに呶鳴どなられては止やめるのである。

蓄えられたゑぐが小ざるに一杯になった時、おつぎは小ざるを手に持って

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蓄たくはへられたゑぐが小笊こざるに一杯ぱいに成なつた時ときおつぎは小笊こざるを手てに持もつて

「よきにこれを煮てやろうか。砂糖でも入れたらうまいだろうな」

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「よきげ此これ煮にてやつぺか、砂糖さたうでも入せえたら佳味うまかつぺな」

と、独り言のように言った。

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獨語ひとりごとのやうにいつた。

「煮てくれようよう」

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「煮にてくろうよう」

与吉はそれを聞いてまたせがんで、おつぎへ飛びついて、かぶっている手拭いを引っ張った。

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與吉よきちはそれを聞きいて又またせがんでおつぎへ飛とびついて、被かぶつて居ゐる手拭てぬぐひを引ひつ張ぱつた。

おつぎは

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おつぎは

「ああ痛いまあ」

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「おゝ痛いてえまあ」

と顔をしかめて、引かれるままに首を傾けて言った。

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と顏かほを蹙しかめて引ひかれる儘まゝに首くびを傾かたぶけていつた。

乱れた髪の三筋四筋が、手拭いとともに強く引かれたのである。

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亂みだれた髮かみの三筋みすぢ四筋よすぢが手拭てぬぐひと共ともに強つよく引ひかれたのである。

「そんなものは塩ででもゆでてやれ」

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「其麽そんなもの鹽しほでゞも茹ゆでてやれ」

勘次はにわかに怒鳴った。

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勘次かんじは俄にはかに呶鳴どなつた。

「砂糖だなんて、黙ってれば知らないでいるもの。泣かれたらどうするんだ。砂糖だの醤油だのって、そんなことしたっくらい、なんぼ損だか知れやしない。おとっつあんらはそんな銭なんざ一銭だって持ってないから、塩だって容易なもんじゃないや。そんな余計なものは何になるもんじゃない」

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「砂糖さたうだなんて、默だまつてれば知しらねえでるもの、泣なかれたらどうすんだ、砂糖さたうだの醤油しやうゆだのつてそんなことしたつ位くれえなんぼ損そんだか知しれやしねえ、おとつゝあ等らそんな錢ぜねなんざ一錢ひやくだつて持もつてねえから、鹽しほだつて容易よういなもんぢやねえや、そんな餘計よけいなもの何なんになるもんぢやねえ」

勘次は繰り返して叱った。

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勘次かんじは反覆くりかへして叱しかつた。

与吉はおつぎの陰へ回って抱きついた。

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與吉よきちはおつぎの陰かげへ廻まはつて抱だきついた。

「どうしたもんだろうなまあ。じきに怒るんだから」

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「どうしたもんだんべまあ、ぢつき怒おこんだから」

おつぎは小言を聞いて呟いた。

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おつぎは小言こごとを聞きいて呟つぶやいた。

「そんだって、おとっつあんらはそんなところじゃないから」

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「そんだつて、おとつゝあ等らそんな處とこぢやねえから」

勘次はがっかり声を落として言った。

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勘次かんじはがつかり聲こゑを落おとしていつた。

そうして黙り込んだ。

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さうして沈默ちんもくした。

おつぎも、お品が死んでから苦しい生活の間に二度春を迎えた。

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おつぎもお品しなが死しんでから苦くるしい生活せいくわつの間あひだに二たび春はるを迎むかへた。

おつぎは余儀なくされながら、生活の圧迫に対する抵抗力を早めた。

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おつぎは餘儀よぎなくされつゝ生活せいくわつの壓迫あつぱくに對たいする抵抗力ていかうりよくを促進そくしんした。

よその女の子のようなのどかな春は知られないで、おつぎは体の上にも著しい変化を遂げた。

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餘所よその女をんなの子このやうに長閑のどかな春はるは知しられないでおつぎは生理上せいりじやうにも著いちじるしい變化へんくわを遂とげた。

お品が死んだ時、おつぎはまだ落ち葉をくべるとては、竹の火箸の先をすぐに燃やしてしまうほど下手な子であった。

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お品しなが死しんだ時ときはおつぎはまだ落葉おちばを燻くべるとては竹たけの火箸ひばしの先さきを直すぐに燃もやして畢しまふ程ほど下手へたな子こであつた。

それが横にも縦にも大きくなって、肌もつやつやと見えて、髪も長くなった。

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それが横よこにも竪たてにも大おほきくなつて、肌膚はだもつやゝかに見みえて髮かみも長ながくなつた。

おつぎの家の後ろの、崖のようになった所からは、村の者がよく黄色な粘土を採った。

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おつぎの家いへの後うしろの崖がけのやうに成なつた處ところからは村むらのものが能よく黄色きいろな粘土ねんどを採とつた。

髪が粘るようになると、おつぎはその粘土をこすりつけて、肌脱ぎになったまま黄色く染まった頭を井戸のそばで洗うのである。

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髮かみが黏ねばるやうになるとおつぎは其その粘土ねんどをこすりつけて、肌はだぬぎになつた儘まゝ黄色きいろく染そまつた頭あたまを井戸ゐどの側そばで洗あらふのである。

そうして、そのふっさりとした髪は、二度梳く所は三度梳くようになった。

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さうして其そのふつさりとした髮かみは二度ど梳すく處ところは三度ど梳すくやうに成なつた。

おつぎはまた、髪へつける胡麻の油を元結で縛った小さな瓶へ入れて、大事にしまっておくのである。

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おつぎは又また髮かみへつける胡麻ごまの油あぶらを元結もとゆひで縛しばつた小ちひさな罎びんへ入いれて大事だいじに藏しまつて置おくのである。

短い期間ではあるが、針を持つようになってからは赤いたすきもくけた。

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短みじかい期間きかんではあるが針はり持もつやうになつてからは赤あかい襷たすきも絎くけた。

半纏も洗濯した。

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半纏はんてんも洗濯せんたくした。

どうにか自分の手で仕上げた、身丈に足りる着物を着て、おつぎはにわかに大人びたようになった。

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どうにか自分じぶんの手てで仕上しあげた身丈みたけに足たりる衣物きものを着きておつぎは俄にはかに大人おとなびたやうに成なつた。

田や畑に出る時には、まだ糊の抜けない半纏へ赤いたすきを肩から掛けて、勘次の後についてゆく。

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田たや畑はたけに出でる時ときにはまだ糊のりのぬけない半纏はんてんへ赤あかい襷たすきを肩かたから掛かけて勘次かんじの後うしろに跟ついて行ゆく。

おつぎは仕事にかかる時には、その半纏は取って木の枝へ掛ける。

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おつぎは仕事しごとにかゝる時ときには其その半纏はんてんはとつて木きの枝えだへ懸かける。

おつぎの姿は、ようやく村の注目に値した。

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おつぎの姿すがたは漸やうやく村むらの注目ちうもくに値あたひした。

春の野を飾って黄色な布を覆ったような菜の花も、春らしい雨がちらちらと降って、霜に焼けたような葉がめっきりと青みを加えて来たころは、その開いた葉の中心にはほんのわずかな突起を見いだす。

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春はるの野のを飾かざつて黄色きいろな布ぬのを掩おほうたやうな菜なの花はなも、春はるらしい雨あめがちら/\と降ふつて霜しもに燒やけたやうな葉はが滅切めつきりと青あをみを加くはへて來きた頃ころは其その開ひらいた葉はの心部しんぶには只たゞ僅わづかな突起とつきを見出みいだす。

しかしそこには、つぼみがはっきりと形をなしているのである。

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然しかしそこには蕾つぼみが明あきらかに形かたちを成なして居ゐるのである。

空からは暖かい日光が招いて、土からは長い手がずんずんと差し上げてはさらに長く差し上げるので、その派手な花が麦や小麦の穂にも埋もれることなく、広い野を占めるのである。

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空そらからは暖あたゝかい日光につくわうが招まねいて土つちからは長ながい手てがずん/\とさし扛あげては更さらに長ながくさし扛あげるので其その派手はでな花はなが麥むぎや小麥こむぎの穗ほにも沒却ぼつきやくされることなく廣ひろい野のを占しめるのである。

おつぎも、その中心に見えるつぼみであった。

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おつぎも其その心部しんぶに見みえる蕾つぼみであつた。

しかしそのつぼみは、差し上げられないのみでなく、押さえる手の強い力が加えられてある。

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然しかし其その蕾つぼみはさし扛あげられないのみではなく壓おさへる手ての強つよい力ちからが加くはへられてある。

勘次は少しの間もおつぎを自分のそばから放すまいとしている。

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勘次かんじは寸時すんじもおつぎを自分じぶんの側そばから放はなすまいとして居ゐる。

したがって、空の日光が招くように女の心を促すはずの村の青年との間には、おつぎは何の関係も結ばれなかった。

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隨したがつて空そらの日光につくわうが招まねくやうに女をんなの心こゝろを促うながすべき村むらの青年せいねんとの間あひだにはおつぎは何なんの關係くわんけいも繋つながれなかつた。

おつぎが十七という年齢を聞いて、いずれも今さらのようにその注意を引き起こしたのである。

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おつぎが十七といふ年齡としを聞きいて孰いづれも今更いまさらのやうに其その注意ちういを惹起ひきおこしたのである。

冬の季節に埃を巻いて来る西風は、まずどこよりもおつぎの家の雨戸を、今日も来たぞと叩く。

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冬ふゆの季節きせつに埃ほこりを捲まいて來くる西風にしかぜは先まづ何處どこよりもおつぎの家いへの雨戸あまどを今日けふも來きたぞと叩たゝく。

それは村の西の端にあるからである。

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それは村むらの西端せいたんに在あるからである。

位置がそういう追いやられたような形になっている上に、生活の状態から自然に、ある程度までは注意の目から逸れて、日陰にいるのと等しいものがあったのである。

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位置ゐちがさういふ逐おひやられたやうな形かたちに成なつて居ゐる上うへに、生活せいくわつの状態じやうたいから自然しぜんに或ある程度ていどまでは注意ちういの目めから逸それて日陰ひかげに居ゐると等ひとしいものがあつたのである。

勘次の監督の手は、つぼみの成長を止める冷ややかな空気で、そうしてこれをうかがう者を防ぎ止める堅固な垣である。

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勘次かんじの監督かんとくの手ては蕾つぼみの成長せいちやうを止とゞめる冷ひやゝかな空氣くうきで、さうして之これを覗ねらふものを防遏ばうあつする堅固けんごな牆壁しやうへきである。

しかし春の季節を地上の草木が知った時、どれほど白く霜が結んでも草木の活力は動いて止まないように、おつぎの心は外から加える監督の手をもって奪い去ることはできない。

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然しかし春はるの季節きせつを地上ちじやうの草木さうもくが知しつた時、どれ程ほど白しろく霜しもが結むすんでも草木さうもくの活力くわつりよくは動うごいて止やまぬ如ごとく、おつぎの心こゝろは外部ぐわいぶから加くはへる監督かんとくの手てを以もつて奪うばひ去さることは出來できない。

おつぎは勘次の後についてゆき、畑へ行き来する途中で、紺の仕事着に身を固めた村の青年に会う時には、さすがに心は引かされた。

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おつぎは勘次かんじの後あとへ跟ついて畑はたけへ往來わうらいする途上とじやうで紺こんの仕事衣しごとぎに身みを堅かためた村むらの青年せいねんに逢あふ時ときには有繋さすがに心こゝろは惹ひかされた。

肩にした鍬の柄へ、おつぎは両手を掛けている。

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肩かたにした鍬くはの柄えへおつぎは兩手りやうてを掛かけて居ゐる。

その握った手に頬をもたせるようにして、おつぎはいくらか首を傾けながら、手拭いの下から黒い瞳で青年を見るのであった。

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其その握にぎつた手てに頬ほゝを持もたせるやうにして、おつぎは幾いくらか首くびを傾かたむけつゝ手拭てぬぐひの下したから黒くろい瞳ひとみで青年せいねんを見みるのであつた。

勘次は、後からついて来るおつぎの様子まで知ることはできなかった。

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勘次かんじは後あとから跟ついて來くるおつぎの態度たいどまで知しることは出來できなかつた。

おつぎは幾度もそうして村の青年を見た。

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おつぎは數次しば/\さうして村むらの青年せいねんを見みた。

しかし一言も交わす機会を持たなかった。

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然しかし一語ごも交換かうくわんする機會きくわいを有もたなかつた。

おつぎはどうということもなく、むしろほとんど無意識に行き交う青年を見るのであったが、手拭いの下に光る暖かい二つの瞳には情がこもっていることが、青年らの目にも微妙に感じ取られた。

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おつぎはどうといふこともなく寧むしろ殆ほとんど無意識むいしきに行ゆき交かふ青年せいねんを見みるのであつたが、手拭てぬぐひの下したに光ひかる暖あたゝかい二ふたつの瞳ひとみには情じやうを含ふくんで居ゐることが青年等せいねんらの目めにも微妙びめうに感應かんおうした。

こうして、おつぎもいつか口の端に上ったのである。

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恁かうしておつぎもいつか口くちの端はに上のばつたのである。

それでも、とうてい青年がおつぎと接するのは、勘次の監督の下に白昼往来で一目見て行き違う、その瞬間に限られていた。

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それでも到底たうてい青年せいねんがおつぎと相あひ接せつするのは勘次かんじの監督かんとくの下もとに白晝はくちう往來わうらいで一瞥べつして行ゆき違ちがふ其その瞬間しゆんかんに限かぎられて居ゐた。

それゆえ、一般の娘のようではなく、おつぎの心にも男に対する恐れの幕を無理に引き払われる機会が、かつて一度も与えられなかった。

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それ故ゆゑ一般ぱんの子女しぢよのやうではなくおつぎの心こゝろにも男をとこに對たいする恐怖きようふの幕まくを無理むりに引拂ひきはらはれる機會きくわいが嘗かつて一度ひとたびも與あたへられなかつた。

おつぎは往来を行くとては、手拭いのかぶりようにも心を配るただの女である。

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おつぎは往來わうらいを行ゆくとては手拭てぬぐひの被かぶりやうにも心こゝろを配くばる只たゞの女をんなである。

それが家に帰れば、すぐに苦しい所帯の人にならねばならない。

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それが家いへに歸かへれば直たゞちに苦くるしい所帶しよたいの人ひとに成ならねばならぬ。

そこにおつぎの心は、別人のように異常に引き締められるのであった。

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そこにおつぎの心こゝろは別人べつにんの如ごとく異常いじやうに引ひき緊しめられるのであつた。

また爽やかな初夏が来て、百姓は忙しくなった。

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復また爽さわやかな初夏しよかが來きて百姓ひやくしやうは忙せはしくなつた。

おつぎは、死んだお品が地機に掛けたのだという弁慶縞のひとえを着て出るようになった。

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おつぎは死しんだお品しなが地機ぢばたに掛かけたのだといふ辨慶縞べんけいじまの單衣ひとへを着きて出でるやうに成なつた。

針を持つようになった時、おつぎはこれも自分の手で仕上げたのであった。

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針はりを持もつやうに成なつた時ときおつぎは此これも自分じぶんの手てで仕上しあげたのであつた。

それはそばで見ていては危なそうな手元で、幾度か針の運びようを間違えてほどいたこともあったが、ついには体にしっくり合うようになっていた。

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夫それは傍そばで見みて居ゐては危あぶな相さうな手てもとで幾度いくたびか針はりの運はこびやうを間違まちがつて解といたこともあつたが、遂しまひには身體からだにしつくり合あふやうに成なつて居ゐた。

死んだお品は、おつぎが生まれたばかりですぐにかまどを別にして、みすぼらしい暮らしをしたので、当時は晴れ着であったそのひとえに身を包んでみる機会もなく、空しくしまったままになっていたのである。

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死しんだお品しなはおつぎが生うまれたばかりに直すぐに竈かまどを別べつにして、不見目みじめな生計くらしをしたので當時たうじは晴はれの衣物きものであつた其その單衣ひとへに身みを包つゝんで見みる機會きくわいもなく空むなしく藏しまつた儘まゝになつて居ゐたのである。

それに、そのころは紺が七日からもたたなければ沸かないような藍瓶で染められたので、今のふつうの反物のように、水で落ちないかと思えば日に褪せるというのではなく、勘次が言ったように洗濯してもかえって冴えるようなので、それに生地もしっかりと丈夫なものであった。

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それに其その頃ころは紺こんが七日なぬかからも經たたねば沸わかないやうな藍瓶あゐがめで染そめられたので、今いまの普通ふつうの反物たんもののやうな水みづで落おちないかと思おもへば日ひに褪さめるといふのではなく、勘次かんじがいつたやうに洗濯せんたくしても却かへつて冴さえるやうなので、それに地質ぢしつもしつかりと丈夫ぢやうぶなものであつた。

おつぎが洗いざらしの袷を捨てて、弁慶縞のひとえで出るようになってからは、ひときわ人の注目を引いた。

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おつぎが洗あらひ曝ざらしの袷あはせを棄すてゝ辨慶縞べんけいじまの單衣ひとへで出でるやうに成なつてからは一際ひときは人ひとの注目ちうもくを惹ひいた。

例の赤いたすきが後ろで交差して、袖を短くしごき上げる。

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例れいの赤あかい襷たすきが後うしろで交叉かうさして袖そでを短みじかく扱こきあげる。

そのしごき上げられた肩は、着物の皺で少し張って、体をしっかりとさせて見せる。

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其その扱こきあげられた肩かたは衣物きものの皴しわで少すこし張はつて身體からだを確乎しつかとさせて見みせる。

現れた腕には、紺の手甲が着けられてある。

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現あらはれた腕うでには紺こんの手刺てさしが穿うがたれてある。

ようやく暑い日をいとって、おつぎは白い菅笠をかぶった。

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漸やうやく暑あつい日ひを厭いとうておつぎは白しろい菅笠すげがさを戴いたゞいた。

白い菅笠は雨にさらされればそれで破れてしまうので、夏のはじめには必ずどこでも新しいのに換えられるのである。

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白しろい菅笠すげがさは雨あめに曝さらされゝばそれで破やぶれて畢しまふので、夏なつのはじめには屹度きつと何處どこでも新あたらしいのに換かへられるのである。

おつぎは勘次に引かれて、麦のうね間を耕した。

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おつぎは勘次かんじに引ひかれて麥むぎの畦間うねまを耕たがやした。

鍬を入れるのが手遅れになった麦は、穂が白く出ている。

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鍬くはを入いれるのが手後ておくれになつた麥むぎは穗ほが白しろく出でて居ゐる。

時々立って、鍬についた土を足の底でしごき下ろすおつぎの姿が、さやさやとかすかな音を立てて動く白い穂の上に見える。

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時々とき/″\立たつて鍬くはに附ついた土つちを足あしの底そこで扱こきおろすおつぎの姿すがたがさや/\と微かすかな響ひゞきを立たてゝ動うごく白しろい穗ほの上うへに見みえる。

よそをちょっと見るたびに、大きな菅笠がぐるりと動く。

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餘所よそを一寸ちよつと見みる度たびに大おほきな菅笠すげがさがぐるりと動うごく。

菅笠は日を避けるのみではなく、女のためには風情ある飾りである。

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菅笠すげがさは日ひを避さけるのみではなく女をんなの爲ためには風情ふぜいある飾かざりである。

髪には白い手拭いをかぶって、笠の竹骨がその髪を押さえる時に、そこには小さな比較的厚い布団が置かれてある。

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髮かみには白しろい手拭てぬぐひを被かぶつて笠かさの竹骨たけぼねが其その髮かみを抑おさへる時ときに其處そこには小ちひさな比較的ひかくてき厚あつい蒲團ふとんが置おかれてある。

そういう間隔を保って、菅笠は前かがみに高く据えられるのである。

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さういふ間隔かんかくを保たもつて菅笠すげがさは前屈まへかゞみに高たかく据すゑられるのである。

女らはみな、わずかな休憩時間にも汗を拭うには笠を取って地上に置く。

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女等をんならは皆みな少時しばしの休憩時間きうけいじかんにも汗あせを拭ぬぐふには笠かさをとつて地上ちじやうに置おく。

一つには紐の汚れるのをいとって、必ず逆さにして裏を見せるのである。

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一ひとつには紐ひもの汚よごれるのを厭いとうて屹度きつと倒さかさにして裏うらを見みせるのである。

そうして、厚い笠布団の赤い切れが丸く、白い笠の中央に黒いくけ紐と調和を保つのである。

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さうして厚あつい笠蒲團かさぶとんの赤あかい切きれが丸まるく白しろい笠かさの中央まんなかに黒くろい絎紐くけひもと調和てうわを保たもつのである。

おつぎの笠布団は、赤や黄や青の小さな切れを集めて縫ったのであった。

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おつぎの笠蒲團かさぶとんは赤あかや黄きや青あをの小ちひさな切きれを聚あつめて縫ぬつたのであつた。

しかし、おつぎの帯だけは古かった。

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然しかしおつぎの帶おびだけは古ふるかつた。

よその女の子はたいてい、きれいな赤い帯を締めて、ぐるりとまくり上げた着物の裾は帯の結び目の下へ入れて、ひたすら後ろ姿を気にするのである。

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餘所よその女をんなの子こは大抵たいていは綺麗きれいな赤あかい帶おびを締しめて、ぐるりと褰からげた衣物きものの裾すそは帶おびの結むすび目めの下したへ入いれて只管ひたすらに後姿うしろすがたを氣きにするのである。

いっぱいに青く茂った桑畑などに、白い大きな菅笠と赤い帯との後ろ姿が、ことには空から投げる強い日光に反射して、その赤い帯が燃えるように見えたり、菅笠がさらに大きく白く光ったりする時には、さすがに人の目を引かねばならない。

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一杯いつぱいに青あをく茂しげつた桑畑くはばたけ抔などに白しろい大おほきな菅笠すげがさと赤あかい帶おびとの後姿うしろすがたが、殊ことには空そらから投なげる強つよい日光につくわうに反映はんえいして其その赤あかい帶おびが燃もえるやうに見みえたり、菅笠すげがさが更さらに大おほきく白しろく光ひかつたりする時ときには有繋さすがに人ひとの目めを惹ひかねばならぬ。

彼女らの姿はこうして遠く隔てて見るべきものであるが、しかしながらその近づいた時でも、跳ね上げられた笠の後ろには、両頬へ垂れて、そうしてその黒いくけ紐で締められた手拭いの隙間から少し乱れた髪がのぞいていて、そこにも一種の風情が見いだされねばならない。

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彼等かれらの姿すがたは斯かくして遠とほく隔へだてゝ見みるべきものであるが然しかしながら其その近ちかづいた時ときでも、跳はねあげられた笠かさの後うしろには兩頬りやうほほへ垂たれてさうして其その黒くろい絎紐くけひもで締しめられた手拭てぬぐひの隙間すきまから少すこし亂みだれた髮かみが覗のぞいて居ゐて其處そこにも一種しゆの風情ふぜいが發見はつけんされねばならぬ。

雨を含んだ雲が時々遮るとはいえ、暑い日のもとに黄色く熟した麦が刈られた時、畑はからりとなって、境木に植えられてある卯木のびっしりとついた白い花が、そこにもここにも目に立って、にわかに広々としたことを感じるとともに、遮るものがなくなるだけ、目に入る女の姿が増えるのである。

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雨あめを含ふくんだ雲くもが時々とき/″\遮さへぎるとはいへ、暑あつい日ひのもとに黄熟くわうじゆくした麥むぎが刈かられた時とき畑はたけはからりと成なつて境木さかひぎに植うゑられてある卯木うつぎのびつしりと附ついた白しろい花はなが其處そこにも此處こゝにも目めに立たつて、俄にはかに濶々ひろ/″\としたことを感かんずると共ともに支さゝへるものが無なくなる丈だけ目めに入いる女をんなの姿すがたが殖ふえるのである。

彼女らはわずかな休憩にも、必ず刈り倒した麦を尻に敷いて、その白い卯木の下に少しでも日を避ける。

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彼等かれらは少時しばしの休憩きうけいにも必かならず刈かり倒たふした麥むぎを臀しりに敷しいて其その白しろい卯木うつぎの下したに僅わづかでも日ひを避さける。

とうてい彼女らの白い菅笠と赤い帯とは、広い野を飾る大輪の花でなければならない。

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到底たうてい彼等かれらの白しろい菅笠すげがさと赤あかい帶おびとは廣ひろい野のを飾かざる大輪たいりんの花はなでなければならぬ。

その一つの要件が、おつぎには欠けていた。

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其その一ひとつの要件えうけんがおつぎには缺かけて居ゐた。

暑い気候は百姓のすべてを、その狭苦しい住まいから遠く野に誘って、互いにその青春のつやつやした面影に憧れさせるのに、そうして刺の生えた野茨さえ白い衣を飾って、快くひたひたと抱き合っては互いにうなずきながら尽きない思いをささやいているのに、おつぎはかつて青年との間に一言を交わすことさえ、その権利を押さえられていた。

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暑あつい氣候きこうは百姓ひやくしやうの凡すべてを其その狹苦せまくるしい住居すまゐから遠とほく野のに誘さそうて、相互さうごに其その青春せいしゆんのつやゝかな俤おもかげに憧憬あこがれしめるのに、さうして刺とげの生はえた野茨のばらさへ白しろい衣ころもを飾かざつて快こゝろよいひた/\と抱だき合あふては互たがひに首肯うなづきながら竭つきない思おもひを私語さゝやいて居ゐるのに、おつぎは嘗かつて青年せいねんとの間あひだに一語ごを交まじへることさへ其その權能けんのうを抑おさへられて居ゐた。

いずれにしても、おつぎの心にはさすがにかすかな不足を感じるのであった。

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孰いづれにしてもおつぎの心こゝろには有繋さすがに微かすかな不足ふそくを感かんずるのであつた。

勘次は洗いざらしの襦袢をふんどし一つの裸へ引っ掛けて、船頭がかぶるような藺草の編み笠へ麻の紐をつけている。

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勘次かんじは洗あらひ曝ざらしの襦袢じゆばんを褌ふんどし一つの裸はだかへ引ひつ掛かけて、船頭せんどうが被かぶるやうな藺草ゐぐさの編笠あみがさへ麻あさの紐ひもを附つけて居ゐる。

勘次に導かれて、おつぎは仕事が著しく上手になった。

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勘次かんじに導みちびかれておつぎは仕事しごとが著いちじるしく上手じやうずになつた。

おつぎが畑へ行き来する時は、村の女房らはよく言った。

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おつぎが畑はたけへ往來わうらいする時ときは村むらの女房等にようばうらは能よくいつた。

「何とまあ、おっかさんに似て来たことかな。歩きつきまでそっくりだ」

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「何なんちう、おつかさまに似にて來きたこつたかな、歩あるきつきまでそつくりだ」

「そばかすがぽちぽちしてる所までなあ」

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「雀斑そばかすがぽち/\してつ處とこまでなあ」

お品には、目と鼻のあたりにそばかすが少しあったのである。

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お品しなには目めと鼻はなのあたりに雀斑そばかすが少すこしあつたのである。

おつぎにもそれがそのままで、にっこりする時にはそれがかえって色気をつくらせた。

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おつぎにも其それがその儘まゝで嫣然にこりとする時ときにはそれが却かへつて科しなをつくらせた。

「勘次さん、わけのないもんだな。まだこの間だと思ってたのにな。嫁にやってもいいくらいじゃないかい。お品さんもお前、これくらいの時じゃなかったっけかい」

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「勘次かんじさん譯わけのねえもんだな、まあだ此間こねえだだと思おもつてたのにな、嫁よめにやつてもえゝ位くれえぢやねえけえ、お品しなさんもおめえ此この位くれえの時ときぢやなかつたつけかよ」

女房らはまた、からかい半分にこういうことも言った。

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女房等にようばうらは又また揶揄半分からかひはんぶんに恁かういふこともいつた。

おつぎは、勘次がそう言われる時いつも赤い顔をして、よそを向いてしまうのである。

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おつぎは勘次かんじがさういはれる時とき何時いつも赤あかい顏かほをして餘所よそを向むいて畢しまふのである。

勘次はお品のことを言われるたびに、おつぎの体をそう思ってはつくづくと見るたびに、お品の記憶が呼び返されて、一種の堪えがたい刺激を感じざるを得ない。

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勘次かんじはお品しなのことをいはれる度たびに、おつぎの身體からだをさう思おもつては熟々つく/″\と見みる度たびに、お品しなの記憶きおくが喚返よびかへされて一種しゆの堪たへ難がたい刺戟しげきを感かんぜざるを得えない。

それと同時に、女房がほしいという切ない思いを湧かすのである。

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それと同時どうじに女房にようばうが欲ほしいといふ切せつない念慮ねんりよを湧わかすのである。

遠慮のない女房らにお品の話をされるのは、いたずらに哀愁を催すに過ぎないのであるが、また一方には話をしてみてもらいたいような心持ちもしてならないことがあった。

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遠慮ゑんりよの無ない女房等にようばうらにお品しなの噺はなしをされるのは徒いたづらに哀愁あいしうを催もよほすに過すぎないのであるが、又また一方ぼうには噺はなしをして見みて貰もらひたいやうな心持こゝろもちもしてならぬことがあつた。

「勘次さん、どうしたい、いい塩梅のがあるんだが、後を持ってもよくないかい」

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「勘次かんじさんどうしたい、えゝ鹽梅あんべえのが有あんだが後あと持もつてもよかねえかえ」

と、彼に女房を世話しようという者は、お品が死んでから間もなくいくらもあった。

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と彼かれに女房にようばうを周旋しうせんしようといふ者ものはお品しなが死しんでから間まもなく幾いくらもあつた。

勘次はただお品にのみ焦がれていたのであるが、だんだん日数がたって不自由を感じるとともに、耳をそばだててそういう話を聞くようになった。

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勘次かんじは只たゞお品しなにのみ焦こがれて居ゐたのであるが、段々だん/\日數ひかずが經たつて不自由ふじいうを感かんずると共ともに耳みゝを聳そばだてゝさういふ噺はなしを聞きくやうに成なつた。

しかし、そんな話をして聞かせる人々は、勘次のひどい貧乏なのと、二人の子があるのとで、とうてい後妻は居つけないという見越しが先に立って、心底から世話をしようというのではない。

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然しかし其麽そんな噺はなしをして聞きかせる人々ひと/″\は勘次かんじの酷ひどい貧乏びんばふなのと、二人ふたりの子こが有あるのとで到底たうてい後妻ごさいは居ゐつかれないといふ見越みこしが先さきに立たつて、心底しんそこから周旋しうせんを仕しようといふのではない。

ただ暇を惜しがる勘次が、どこへでも鍬や鎌を捨てて釣り込まれるので、つい、いたずらにじらしてみるのである。

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唯たゞ暇ひまを惜をしがる勘次かんじが何處どこへでも鍬くはや鎌かまを棄すてゝ釣込つりこまれるので遂つひ惡戯いたづらにじらして見みるのである。

ことに、おつぎが大きくなればなるほど、その働きが目に立てば立つほど、後妻には居づらい所だと人は思った。

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殊ことにおつぎが大おほきくなればなる程ほど、其その働はたらきが目めに立たてば立たつ程ほど後妻ごさいには居憎ゐにくい處ところだと人ひとは思おもつた。

貧乏所帯へ後妻にでもなろうという者には、実際ろくな者はないというのが一般の断定であった。

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貧乏世帶びんばふじよたいへ後妻ごさいにでもならうといふものには實際じつさい碌ろくな者ものは無ないといふのが一般ぱんの斷案だんあんであつた。

他人はただ彼の心をいらだたせた。

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他人ひとは只たゞ彼かれの心こゝろを苛立いらだたせた。

そうして彼の並外れた態度が、かえっていたずら好きの心を挑発するのみであった。

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さうして彼かれの尋常外なみはずれた態度たいどが、却かへつて惡戯好いたづらずきの心こゝろを挑發てうはつするのみであつた。

「ままよう、ままようでえ、ままあな、ら、ぬう」

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「まゝよう、まゝようでえ、まゝあな、ら、ぬう」

勘次が小声で唄って行くのが、どうかすると人の耳にも響くようになった。

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勘次かんじは小聲こごゑで唄うたうて行ゆくのがどうかすると人ひとの耳みゝにも響ひゞくやうに成なつた。

そのころは勘次の庭の栗のこずえも、それに繁殖して残酷に葉を食い荒らす栗毛虫のような毒々しい花がようやく白くなって、どこの村にもふっさりとした青葉のこずえから、栗の木が比較的に多いことを示して、その白い花が目についた。

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其その頃ころは勘次かんじの庭にはの栗くりの梢こずゑも、それへ繁殖はんしよくして残酷ざんこくに葉はを喰くひ荒あらす栗毛蟲くりけむしのやうな毒々どく/\しい花はなが漸やうやく白しろく成なつて、何處どこの村落むらにもふつさりとした青葉あをばの梢こずゑから栗くりの木きが比較的ひかくてきに多おほいことを示しめして其その白しろい花はなが目めについた。

村を埋めているこずえから、ふわふわと湯気が立ち上ろうという形に、栗の花はいっぱいである。

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村落むらを埋うづめて居ゐる梢こずゑからふわ/\と蒸氣ゆげが立たち騰あがらうといふ形かたちに栗くりの花はなは一杯ぱいである。

空は降らないながらに低い雲がわだかまって、時々、目に鮮やかで、かつ黒ずんだ青葉の上に、かっと黄色い明るい光を投げる。

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空そらは降ふらないながらに低ひくい雲くもが蟠わだかまつて、時々とき/″\目めに鮮あざやかで且かつ黒くろずんだ青葉あをばの上うへにかつと黄色きいろな明あかるい光ひかりを投なげる。

どこということなく湿っぽく、頭を押さえるように重苦しい感じがする。

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何處どことなく濕しめつぽく頭あたまを抑おさへるやうに重苦おもくるしい感かんじがする。

ことごとく畑へ走った村の中には、まれにそういう青葉の間に鯉のぼりがばさばさとひるがえってはぐたりとなって、それが朝から長い日を一日、そうしてその家族が、日は沈んだにしてもいつになくまだ明るいうちに湯を浴びて、女までが裂いた菖蒲を髪に巻いて、忙しい日と日の間をそれでも晴れ着の姿になる、端午の日の来るのをけだるげに待っている。

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悉こと/″\く畑はたへ走はしつた村落むらの内うちには稀まれにさういふ青葉あをばの間あひだに鯉幟こひのぼりがばさ/\と飜ひるがへつてはぐたりと成なつて、それが朝あさから永ながい日ひを一日にち、さうして其その家族かぞくが日ひは沒ぼつしたにしても何時いつになくまだ明あかるい内うちに浴ゆあみをして女をんなまでが裂さいた菖蒲しやうぶを髮かみに卷まいて、忙せはしい日ひと日ひの間あひだをそれでも晴衣はれぎの姿すがたになる端午たんごの日ひの來くるのを懶ものうげに待まつて居ゐる。

そういう青葉の村から村を、女の飴屋が太鼓を叩いて歩いた。

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さういふ青葉あをばの村落むらから村落むらを女をんなの飴屋あめやが太皷たいこを叩たゝいて歩あるいた。

空き家ばかりの村を、雨が降らなければ女は端から端へと唄って歩く。

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明屋あきやばかりの村落むらを雨あめが降ふらねば女をんなは端はしから端はしと唄うたうて歩あるく。

勘次が唄ったのは、その女の唄である。

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勘次かんじが唄うたうたのは其その女をんなの唄うたである。

女は声を高く唄っては、また声を低くしてその句を繰り返す。

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女をんなは聲こゑを高たかく唄うたうては又また聲こゑを低ひくくして其その句くを反覆はんぷくする。

その唄う所は、毎日ただこの一句に限られていた。

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其その唄うたふ處ところは毎日まいにち唯たゞ此この一句くに限かぎられて居ゐた。

女は年増で、一人の子を背負っている。

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女をんなは年増としまで一人ひとりの子こを負おうて居ゐる。

鬼怒川を行き来する高瀬舟の船頭がかぶる編み笠をかぶって、洗いざらしのひとえを、裾は左の小褄を取って帯へ挟んだだけで、飴は箱へ入れて肩から掛けてある。

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鬼怒川きぬがはを徃復わうふくする高瀬船たかせぶねの船頭せんどうが被かぶる編笠あみがさを戴いたゞいて、洗あらひ曝ざらしの單衣ひとへを裾すそは左ひだりの小褄こづまをとつて帶おびへ挾はさんだ丈だけで、飴あめは箱はこへ入いれて肩かたから掛かけてある。

暗い日は、笠の編み目を透して女の顔に細い強い線を描く。

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暮あつい日ひは笠かさの編目あみめを透とほして女をんなの顏かほに細ほそい強つよい線せんを描ゑがく。

女の顔はやつれていた。

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女をんなの顏かほは窶やつれて居ゐた。

子はおおかた眠っていた。

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子こは概おほむね眠ねむつて居ゐた。

耳元で鳴る太鼓のやかましい音と、おふくろの唄う声とが、いつとはなしに誘ったのであったかもしれない。

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耳みゝもとで鳴なる太皷たいこの喧やかましい音おととお袋ふくろの唄うたふ聲こゑとがいつとはなしに誘さそつたのであつたかも知しれぬ。

首はむしろ逆さに垂れて、額がいつでも暑い日に照らされて汗ばんでいた。

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首くびは寧むしろ倒さかさまに垂たれて額ひたひがいつでも暑あつい日ひに照てられて汗あせばんで居ゐた。

百姓はみな、このみすぼらしい女を顧みなかった。

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百姓ひやくしやうは皆みな此この見窄みすぼらしい女をんなを顧かへりみなかつた。

村から村へ野を渡る時、女の姿は人目を引くべき要点が一つも備わっていなかった。

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村落むらから村落むらへ野のを渡わたる時とき女をんなの姿すがたは人目ひとめを惹ひくべき要點えうてんが一つも備そなはつて居ゐなかつた。

しかしいつの間にか、人が遠くから見るようになった。

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然しかしいつの間まにか人ひとが遠とほくより見みるやうに成なつた。

行き違う女房らは、額に照らされて眠っている子を見て、痛々しいと思うのであった。

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行ゆき違ちがふ女房等にようばうらは額ひたひに照てられて眠ねむつて居ゐる子こを見みて痛々敷いた/\しいと思おもふのであつた。

女は唄わなくても太鼓の音が村の子を遠くから誘うのに、気の乗らない唄いようをして、ただその一句を繰り返すのである。

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女をんなは唄うたはなくても太皷たいこの音ねが村落むらの子こを遠とほくから誘さそふのに氣きの乘のらぬ唄うたひやうをして只たゞ其その一句くを反覆くりかへすのである。

女は背中の子が眠っているのを喜んで、その子がどんな格好であるかは気づかない。

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女をんなは背中せなかの子こが眠ねむつて居ゐるのを悦よろこんで其その子こが什麽どんな姿なりであるかは心付こゝろづかない。

ただ小さな銅貨を持って走って来る村の子を待ちながら、誘いながら歩くのである。

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只たゞ小ちひさな銅貨どうくわを持もつて走はしつて來くる村落むらの子こを待まちつゝ誘さそひつゝ歩あるくのである。

女がどこから出てどう行くのかということも、忙しくただ田畑で働いている百姓の間には知られなかった。

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女をんなは何處どこから出でてどう行ゆくといふことも忙せはしく只たゞ田畑たはたに勞働らうどうして居ゐる百姓ひやくしやうの間あひだには知しられなかつた。

毎日そうして歩いていた女が、知りたがり聞きたがる女房らの間で、めいめいに口やかましい陰の噂をたくましくされると間もなく、ある日村外れの青葉の中へ太鼓の音と唄の声とが遠くかすかに消え去ったきり、やがて梅雨がおびただしく、かつ毒々しいその栗の花の腐るまではと降り出したので、その女の汚らしいやつれた姿は再び見られなかった。

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毎日まいにちさうして歩あるいて居ゐた女をんなが知しりたがり聞ききたがる女房等にようばうらの間あひだに、各自てんでに口喧くちやかましい陰占かげうらなひを逞たくましくされると間まもなく、或ある日ひ村外むらはずれの青葉あをばの中なかへ太皷たいこの音おとと唄うたの聲こゑとが遠とほく微かすかに沒ぼつし去さつた切きり、軈やがて梅雨つゆが夥おびたゞしく且かつ毒々どく/\しい其その栗くりの花はなの腐くさるまではと降ふり出だしたので其その女をんなの穢きたなげな窶やつれた姿すがたは再ふたゝび見みられなかつた。

勘次は耳の底に響いたその句を、独り感に堪えたように唄っては行くのである。

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勘次かんじは耳みゝの底そこに響ひゞいた其その句くを獨ひとり感かんに堪たへたやうに唄うたうては行ゆくのである。

彼は自分の声が高いと思った時、他人に聞かれることを恥じるように、突然あたりを見ることがあった。

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彼かれは自分じぶんの聲こゑが高たかいと思おもつた時とき他人ひとに聞きかれることを恥はづるやうに突然とつぜんあたりを見みることがあつた。

曲がり角でひょいと会う時、それが口軽な女房であれば、二、三歩やり過ごしては

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曲まがり角かどでひよつと逢あふ時ときそれが口輕くちがるな女房にようばうであれば二三歩ぽ行やり過すごしては

「どうしたい、勘次さん、あの女に焦がれたんじゃあるまい。もっとも年ごろは持って来いだから、連れ子の一人くらいは我慢もできらあな。そんだが、あれっきり来なくなっちまって困ったな」

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「どうしたえ、勘次かんじさん彼女あれげ焦こがれたんぢやあんめえ、尤もつとも年頃としごろは持もつゝけだから連つれつ子この一人ひとり位ぐれえは我慢がまんも出來できらあな、そんだがあれつ切きり來きなくなつちやつて困こまつたな」

と遠慮もなくからかっては、少し隔たるとわざと声を立ててその句を唄ったりする。

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と遠慮ゑんりよもなく揶揄からかうては、少すこし隔へだたると態わざと聲こゑを立たてゝ其その句くを唄うたつたりする。

そうすると勘次は、家に帰るまで一句も唄わない。

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さうすると勘次かんじは家うちに歸かへるまで一句くも唄うたはない。

しかし彼は、しばらくそれを唄うことを止めなかった。

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然しかし彼かれは暫しばらくそれを唄うたふことを止やめなかつた。

彼はただ、女房がほしいほしいとのみ思った。

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彼かれは只たゞ女房にようばうが欲ほしい/\とのみ思おもつた。

九

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九

勘次は依然として、苦しい生活の外に一歩も逃れ去ることができないでいる。

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勘次かんじは依然いぜんとして苦くるしい生活せいくわつの外そとに一歩ぽも遁のがれ去さることが出來できないで居ゐる。

お品が死んだ時、理由を言って借りた小作米の滞りも、まだ一粒も返してない。

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お品しなが死しんだ時とき理由わけをいうて借かりた小作米こさくまいの滯とゞこほりもまだ一粒つぶも返かへしてない。

大暑の日が井戸の水まで減らして炒りつけるころは、それまでに幾度か勘次の穀桶は空になるのである。

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大暑たいしよの日ひが井戸ゐどの水みづまで減へらして炒いりつける頃ころはそれまでに幾度いくたびか勘次かんじの穀桶こくをけは空からに成なるのである。

彼は一般の百姓がすることはしなくてはならないので、ことには副食物として必要なので、茄子や南瓜や胡瓜や、そういう物も一通りは作った。

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彼かれは一般ぱんの百姓ひやくしやうがすることは仕しなくては成ならないので、殊ことには副食物ふくしよくぶつとして必要ひつえうなので茄子なすや南瓜たうなすや胡瓜きうりやさういふ物ものも一通ひととほりは作つくつた。

彼は村外れの櫟林のそばにいたので、自分の家の近くにはそういう物を作る畑が一枚もなかった。

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彼かれは村外むらはづれの櫟林くぬぎばやしの側そばに居ゐたので自分じぶんの家いへの近ちかくにはさういふ物ものを作つくる畑はたけが一枚まいもなかつた。

それでも胡瓜だけは垣根の内側へ一列に植えて、後ろの林に交じった短い竹を伐って支柱に立てた。

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それでも胡瓜きうりだけは垣根かきねの内側うちがはへ一列れつに植うゑて後うしろの林はやしに交まじつた短みじかい竹たけを伐きつて手てに立たてた。

竹の立っている林は彼のものではないけれど、彼はこうして必要のたびごとに、しいては隠さない盗みを敢えてするのである。

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竹たけの立たつてる林はやしは彼かれの所有しよいうではないけれど、彼かれは恁かうして必要ひつえうの度たび毎ごとに強しひては隱かくさない盜ぬすみを敢あへてするのである。

南瓜も庭の隅へ、粟殻で囲った厠のそばへ植えた。

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南瓜たうなすも庭にはの隅すみへ粟幹あはがらで圍かこうた厠かはやの側そばへ植うゑた。

それから庭の栗の木へも絡ませた。

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それから庭にはの栗くりの木きへも絡からませた。

茄子だけは遠い畑の、麦のうね間へ植えた。

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茄子なすだけは遠とほい畑はたけの麥むぎの畦間うねまへ植うゑた。

彼はさつまいものほかには、とうていそういうすべての苗を仕立てることができないので、また立派な苗を買いに行くだけの余裕もないので、様子から見れば近くの村ではあるが、どことも確かには知れない天秤商人からそれを求めた。

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彼かれは甘藷さつまいもの外ほかには到底たうていさういふ凡すべての苗なへを仕立したてることが出來できないので、又また立派りつぱな苗なへを買かひに行ゆく丈だけの餘裕よゆうもないので、容子ようすから見みれば近村きんそんではあるが何處どことも確乎しかとは知しれない天秤商人てんびんあきうどからそれを求もとめた。

天秤商人の持って来るのは、たいてい屑ばかりである。

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天秤商人てんびんあきうどの持もつて來くるのは大抵たいてい屑くづばかりである。

それでも勘次は安いのを喜んだ。

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それでも勘次かんじは廉やすいのを悦よろこんだ。

彼はそのわずかな銭を幾度か勘定して渡した。

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彼かれは其その僅わづかな錢ぜにを幾度いくたびか勘定かんぢやうして渡わたした。

麦が刈られて、その束が両端を切りそいだ竹の棒へ通して畑の外へかつぎ出された時、跡には陸稲や大豆がひょろひょろと青ばんだ畑に、勘次の茄子は短いうねが五うねばかりになって立っていた。

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麥むぎが刈かられて其その束たばが兩端りやうはしを切きつ殺そいだ竹たけの棒ぼうへ透とほして畑はたけの外そとへ擔かつぎ出だされた時とき、趾あとには陸稻をかぼや大豆だいづがひよろ/\と青あをばんだ畑はたけに勘次かんじの茄子なすは短みじかい畝うねが五畝うねばかりになつて立たつて居ゐた。

下葉は黄色くなっていたが、それでも麦がしばらく日を覆ったので、みな根づいて育ちかけていた。

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下葉したはは黄色きいろくなつて居ゐたがそれでも麥むぎが暫しばらく日ひを掩おほうたので皆みな根ねづいて生長せいちやうしかけて居ゐた。

たとえやせさせないまでも、肥やして行くことをしない畑の土に、茄子はしなびて、それでところどころに一つずつ花を持っていた。

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假令たとひ痩やせさせないまでも肥こやして行ゆくことをしない畑はたけの土つちに茄子なすは干稻ひねびてそれで處々ところ/″\に一ひとつ宛づゝ花はなを持もつて居ゐた。

勘次は朝のまだ涼しい、葉に湿りのある間に、かまどの灰を持って行ってその葉に掛けてやるだけの手間は尽くしたのである。

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勘次かんじは朝あさのまだ凉すゞしい、葉はに濕しめりのある間あひだに竈かまどの灰はひを持もつて行いつて其その葉はに掛かけて遣やる丈だけの手數てすうは竭つくしたのである。

それで、いくらでも活発に動き回るうりはむしは防がれた。

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それで幾いくらでも活溌くわつぱつに運動うんどうする瓜葉蟲うりはむしは防ふせがれた。

それは羽が赤いので、赤蠅と土地では言っている。

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それは羽はねが赤あかいので赤蠅あかばへと土地とちではいつて居ゐる。

木の灰では、油虫の湧くのはどうもできなかった。

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木きの灰はひでは油蟲あぶらむしの湧わくのはどうも出來できなかつた。

それからまた、根切り虫が残酷に堅い茎を根元からぷつりとかみ倒して、植えた数が減るにもかかわらず、彼は遠く畑に出て、土に潜んでいるその憎むべき害虫を探し出して、その丈夫な体をひしぎ潰してやるだけの余裕を、体にも心にも持っていない。

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それから又また根切蟲ねきりむしが残酷ざんこくに堅かたい莖くきを根ねもとからぷきりと噛かみ倒たふして植うゑた數かずの減へるにも拘かゝはらず、彼かれは遠とほく畑はたけに出でて土つちに潜伏せんぷくして居ゐる其その憎にくむべき害蟲がいちうを探さがし出だして其その丈夫ぢやうぶな體からだをひしぎ潰つぶして遣やる丈だけの餘裕よゆうを身體からだにも心こゝろにも持もつて居ゐない。

垣根の胡瓜は、季節の南風が吹いて、朝の靄がしっとりと乾いた庭の土を湿して下りると、何をひがんでか葉の陰に下がる瓜が、しぼんだ花の取れないうちに尻が曲がって、たちまちに蔓も葉もがらがらに枯れてしまったのであった。

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垣根かきねの胡瓜きうりは季節きせつの南みなみが吹ふいて、朝あさの靄もやがしつとりと乾かわいた庭にはの土つちを濕しめしておりると何なにを僻ひがんでか葉はの陰かげに下さがる瓜うりが、萎しぼんだ花はなのとれぬうちに尻しりが曲まがつて忽たちまちに蔓つるも葉はもがら/\に枯かれて畢しまつたのであつた。

ただ南瓜だけは、その特有の大きな葉をずんずんと広げて、蔓の先がたちまちに厠の低いひさしから垂れた。

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只たゞ南瓜たうなすだけは其その特有もちまへの大おほきな葉はをずん/\と擴ひろげて蔓つるの先さきが忽たちまちに厠かはやの低ひくい廂ひさしから垂たれた。

ことに栗の木に絡んだのは、白昼の忘れるほど長い間、雨戸は閉じたままで、たとえ油蝉が炒りつけるようにそこらの木ごとにしがみついて声のかぎり鳴いたにしたところで、すべてが暑さに疲れたようで、むしろきわめてひっそりとした庭をのぞいては、葉の陰ながら、だんだんに日に焼けながら太りながら、尻のへそをむき出してどっしりと枝から垂れ下がった。

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殊ことに栗くりの木きに絡からんだのは白晝ひるまの忘わすれる程ほど長ながい間あひだ雨戸あまどは閉とぢた儘まゝで、假令たとひ油蝉あぶらぜみが炒いりつけるやうに其處そこらの木き毎ごとにしがみ附ついて聲こゑを限かぎりに鳴ないたにした處ところで、凡すべてが暑あつさに疲つかれたやうで寧むしろ極きはめて閑寂かんじやくな庭にはを覗のぞいては、葉はの陰かげながら段々だん/\に日にに燒やけつゝ太ふとりつゝ臀しりの臍へそを剥むき出だしてどつしりと枝えだから垂たれ下さがつた。

それがわずかに庭に威勢をつけている。

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それが僅わづかに庭にはに威勢ゐせいをつけて居ゐる。

一般にそうではあるが、ことに勘次の手に作られた野菜は、すべてその実りが遅れた。

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一般ぱんにさうではあるが殊ことに勘次かんじの手てに作つくられた蔬菜そさいは凡すべて其その成熟せいじゆくが後おくれた。

それで、その野菜が包丁にかかるまでは、口にこそばゆい干し菜や切り干しや、それも不足を告げれば、これでも彼らのはかない蓄えの心をもっとも発揮した菜や大根の塩辛い漬物の桶にのみ、その副食物を求めるのである。

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それで其その蔬菜そさいが庖丁はうちやうにかゝる間あひだは口くちにこそつぱい干菜ほしなや切干きりぼしやそれも缺乏けつばうを告つげれば、此これでも彼等かれらの果敢はかない貯蓄心ちよちくしんを最もつとも發揮はつきした菜なや大根だいこんの鹽辛しほからい漬物つけものの桶をけにのみ其その副食物ふくしよくぶつを求もとめるのである。

彼らは労働から来る空腹を意識する時は、ちょっとも動くことのできないほど、にわかに疲れを感じることさえある。

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彼等かれらは勞働らうどうから來くる空腹くうふくを意識いしきする時ときは一寸いつすんも動うごくことの出來できない程ほど俄にはかに疲勞ひらうを感かんずることさへある。

どんな粗末な物でも、彼らの口には問題ではない。

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什麽どんな麁末そまつな物ものでも彼等かれらの口くちには問題もんだいではない。

彼らは味わうのではなくて、要するに喉の穴を埋めるのである。

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彼等かれらは味あじはふのではなくて要えうするに咽喉のどの孔あなを埋うづめるのである。

冷たい水を注いで、そのぽろぽろな麦飯をかき込む時、彼らの一人もかみしめる者はない。

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冷水れいすゐを注そゝいで其そのぼろ/\な麥飯むぎめしを掻かき込こむ時とき彼等かれらの一人ひとりでも咀嚼そしやくするものはない。

彼らはただ、多量に飲み下すことによってその精力を回復し、満足するのである。

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彼等かれらは只たゞ多量たりやうに嚥下えんげすることによつて其その精力せいりよくを恢復くわいふくし滿足まんぞくするのである。

牛や馬でも、地上に柔らかな草の茂る季節が来れば、自然に干し草や藁を嫌うようになる。

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牛うしや馬うまでも地上ちじやうに軟やはらかな草くさの繁茂はんもする季節きせつが來くれば自然しぜんに乾草ほしぐさや藁わらを厭いとふやうになる。

それが、貧しい生活の人々のみはこうして甘んじていることを余儀なくされているのである。

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それが貧まづしい生活せいくわつの人人ひと/″\のみは恁かうして甘あまんじて居ゐることを餘儀よぎなくされつゝあるのである。

しかし、いずれも汗をかくのに伴って渇いた口に、爽やかな野菜の味を欲しない者はない。

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然しかし孰いづれも發汗はつかんに伴ともなうて渇かつした口くちに爽さわやかな蔬菜そさいの味あぢを欲ほつしないものはない。

貧しさに悩んで、そうしてその野菜の不足を感じている者は、勘次のみではない。

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貧苦ひんくに惱なやんでさうして其その蔬菜そさいの缺乏けつばふを感かんじて居ゐるものは勘次かんじのみではない。

そういう仲間の、ことに女は、人目の少ないたそがれの小道につやつやした青物を見ると、つい、した料簡からそれをちぎって前垂れに隠して来ることがある。

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さういふ伴侶なかまの殊ことに女をんなは人目ひとめの少すくない黄昏たそがれの小徑こみちにつやゝかな青物あをものを見みると遂つひした料簡れうけんからそれを拗切ちぎつて前垂まへだれに隱かくして來くることがある。

畑の作り主が、その損失以外にそれを惜しむ心から陰で勢い激しく怒ろうとも、それは顧みる暇を持たない。

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畑はたけの作主さくぬしが其その損失そんしつ以外いぐわいにそれを惜をしむ心こゝろから蔭かげで勢いきほひ激はげしく怒おこらうともそれは顧かへりみる暇いとまを有もたない。

勘次のやせた茄子畑も、そうして襲われた。

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勘次かんじの痩やせた茄子畑なすばたけもさうして襲おそはれた。

その茎を痛めても構わないちぎりようを見て、失望と憤りの情とを自然に味わわざるを得なかった。

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其その莖くきを痛いためても構かまはぬ拗切ちぎりやうを見みて失望しつばうと憤懣ふんまんの情じやうとを自然しぜんに經驗けいけんせざるを得えなかつた。

しかしながら彼は、つくづくと忌々しいその心持ちを知り尽くしていながら、自分もまた他人の隙に乗じることを敢えてするのであった。

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然しかしながら彼かれはつく/″\と忌々敷いま/\しい其その心持こゝろもちに熟じゆくして居ゐながら自分じぶんも亦また他たの虚きよに乘じようずることを敢あへてするのであつた。

一つには、どうせ他人にも盗られるのだからという自暴自棄の理屈が、心のうちにこしらえられるのである。

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一ひとつにはどうで他人ひとにも盜とられるのだからといふ自暴自棄やけの理窟りくつが心こゝろのうちに捏造ねつざうされるのである。

一つには、良心のとがめをよそにして、そうしてまたそれがどこまでも見つけられないものであるならば、他人の物を盗ることは、口腹の欲を満足させるには容易で、かつ手軽な手段でなければならないはずである。

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一ひとつには良心りやうしんの苛責かしやくを餘所よそにしてさうして又またそれが何處どこまでも發見はつけんせられないものであるならば他人ひとの物ものを盜とることは口腹こうふくの慾よくを滿足まんぞくせしむるには容易よういで且かつ輕便けいべんな手段しゆだんでなければならぬ筈はずである。

こういう理由で、比較的余裕のある百姓よりも貧乏な百姓は、十分早く、しかも幾度もその新鮮な野菜を味わうのである。

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恁かういふ理由わけで比較的ひかくてき餘裕よゆうのある百姓ひやくしやうよりも貧乏びんばふな百姓ひやくしやうは十分ぶん早はやく然しかも數次しば/″\其その新鮮しんせんな蔬菜そさいを味あぢあふのである。

たまたま市場に遠く、馬の背で運ぶ者は、その実りの時期を早めたつやつやしたものがいくらあっても、自分の口には入れない。

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偶たま/\市場しぢやうに遠とほく馬うまの脊せで運はこぶ者ものは其その成熟せいじゆくの期きを早はやめたつやゝかな數かずが幾いくら有あつても自分じぶんの口くちには入いれない。

少しずつでも、ほかの必要品を求めるために銭に換えようとするのである。

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少すこしづゝでも他ほかの必要品ひつえうひんを求もとめる爲ために錢ぜにに換かへようとするのである。

季節が熟さなければ収穫の多量を望むことができないので、彼らが食料として畑へ手をつけるのは、すべてが存分の生育を遂げた後でなければならない。

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季節きせつが熟じゆくさねば收穫しうくわくの多量たりやうを望のぞむことが出來できないので、彼等かれらが食料しよくれうとして畑はたけへ手てをつけるのは凡すべてが存分ぞんぶんの生育せいいくを遂とげた後あとでなければならぬ。

そこが、互いに盗む者をして乗じさせる機会である。

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其處そこが相互さうごに盜ぬすむものをして乘じようぜしめる機會きくわいである。

与吉は、よく貧乏な仲間の子がうまそうに青物をかじっているのを見て、おつぎにねだることがあった。

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與吉よきちは能よく貧乏びんばふな伴侶なかまの子こが佳味相うまさうに青物あをものを噛かじつて居ゐるのを見みておつぎに強請せがむことがあつた。

勘次の家では、どうかすると朝になって大きな南瓜が土間に転がっていることがある。

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勘次かんじの家うちではどうかすると朝あさに成なつて大おほきな南瓜たうなすが土間どまに轉ころがつて居ゐることがある。

それで庭の南瓜は一つも減っていない。

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それで庭にはの南瓜たうなすは一ひとつも減へつて居ゐない。

「これはどうしたんだい、おとっつあん」

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「こらどうしたんでえおとつゝあ」

与吉は喜んで、危なそうに抱いては聞く。

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與吉よきちは悦よろこんで危あぶな相さうに抱だいては聞きく。

「いじるんじゃない」

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「弄いぢんぢやねえ」

勘次はただ恐ろしい目をして、叱るように押さえる。

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勘次かんじは只たゞ恐おそろしい目めをして叱しかるやうに抑おさへる。

勘次は、まだ肌の白く、かつ薄赤みを帯びた人形の手足のようなさつまいもを飯へ炊き込むことがあった。

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勘次かんじはまだ肌はだの白しろく且かつ薄赤味うすあかみを帶おびた人形にんぎやうの手足てあしのやうな甘藷さつまいもを飯めしへ炊たき込こむことがあつた。

「うまいな」

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「佳味うめえな」

とおつぎが言った時

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とおつぎがいつた時とき

「〆粕で作るからよ」

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「〆粕しめかすで作つくつからよ」

勘次は言った。

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勘次かんじはいつた。

「旦那じゃ、〆粕ばかり使うんだろうか」

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「旦那だんなぢや、〆粕しめかす許ばかり使つかあんだつぺか」

おつぎは自分の知らない高い肥料のことについて聞いた。

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おつぎは自分じぶんの知しらぬ不廉ふれんな肥料ひれうのことに就ついて聞きいた。

勘次は気がついて

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勘次かんじは氣きがついて

「さつまいもを食ったなんて言うんじゃないぞ」

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「甘藷さつま喰くつたなんていふんぢやねえぞ」

と与吉を戒めた。

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與吉よきちを警いましめた。

勘次は、彼の大豆畑の近くに隣の主人のさつまいも畑と、それからその途中に南瓜畑があったので、ほかの畑の物よりも自然にそれを盗った。

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勘次かんじは彼かれの大豆畑だいづばたけの近ちかくに隣となりの主人しゆじんの甘藷畑さつまばたけとそれから其その途中とちうに南瓜畑たうなすばたけがあつたので、他たの畑はたけのものよりも自然しぜんにそれを盜とつた。

少しずつ盗った。

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少すこしづつ盜とつた。

南瓜は昼間見ておいて、夜になるとそっと蔓を引いて在りかを探すのである。

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南瓜たうなすは晝間ひるま見みて置おいて夜よるになるとそつと蔓つるを曳ひいて所在ありかを探さがすのである。

さつまいもは、土をかき払って探し掘りにするのは気が急きすぎるので、ぐっと引き抜く。

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甘藷さつまいもは土つちを掻かつ掃ぱいて探さがし掘ぼりにするのは心こゝろが忙せはし過すぎるのでぐつと引ひき拔ぬく。

彼は日中さつまいも畑のそばを過ぎては、自分の荒らした跡を見て心にひどいとは思うのであるが、それを埋めておくには心がとがめた。

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彼かれは日中につちう甘藷畑さつまいもばたけの側そばを過すぎては自分じぶんの荒あらした趾あとを見みて心こゝろに酷ひどいとは思おもふのであるがそれを埋うめて置おくには心こゝろが咎とがめた。

こういう仲間は、千菜荒らしという名称のもとに呼ばれた。

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恁かういふ伴侶なかまは千菜荒せんざいあらしといふ名稱めいしようの下もとに喚よばれた。

与吉は独りで村を遊んで歩いた。

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與吉よきちは獨ひとりで村むらを遊あそんで歩あるいた。

秋が更けて、さつまいもが蒸されるようになった。

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秋あきが深ふけて甘藷さつまいもが蒸むされるやうに成なつた。

与吉はよくそういう所へ行っては、ほしそうな顔をして黙って見ているので、どこでも熱いさつまいもが与えられるのであった。

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與吉よきちは能よくさういふ處ところへ行いつては欲ほし相さうな顏かほをして默だまつて見みて居ゐるので何處どこでも熱あつい甘藷さつまいもが與あたへられるのであつた。

ある時、彼は

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或ある時とき彼かれは

「おれは家でさつまいもを食ったなんて言わないんだ」

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「俺おらあ家うちで甘藷さつまくつたなんてゆはねえんだ」

と、さつまいもを手に持っておずおずと言った。

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甘藷さつまいもを手てに持もつて怖おづ/\いつた。

彼はただ嬉しかったのである。

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彼かれは只たゞ嬉うれしかつたのである。

「なぜ言わないんだ」

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「何故なぜゆはねえんだ」

与えた人は聞いた。

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與あたへた人ひとは聞きいた。

「なぜでもだ」

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「何故なぜでもだ」

「そんじゃいい、そのさつまいもは取り返しちまうから」

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「そんぢやえゝ、其その甘藷さつま取とつ返けえしつちまあから」

と驚かされて

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と驚おどろかされて

「そんでも、おれの家のおとっつあんが、さつまいもを食ったなんて言うんじゃないぞって言ったんだ」

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「そんでも俺家おらぢのおとつゝあ甘藷さつま喰くつたなんてゆふんぢやねえぞつて云ゆつたんだ」

与吉は媚びるような様子で言った。

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與吉よきちは媚こびるやうな容子ようすでいつた。

「よきらの家のさつまいもはうまいか」

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「よきら家への甘藷さつまうめえか」

「旦那のはうまいって言ったんだ」

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「旦那だんなのがはうめえつて云ゆつたんだ」

「おとっつあんが言ったのか、姉が言ったのか」

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「おとつゝあ云ゆつたのか姊ねえ云ゆつたのか」

「姉じゃない、おとっつあんだ」

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「姊ねえぢやねえ、おとつゝあだ」

「おとっつあんは家でさつまいもを食って、旦那のはうまいって言ったのか」

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「おとつゝあは家うちで甘藷さつまくつて旦那だんなのがうめえつちつたのか」

「そうなんだわ」

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「さうなんだわ」

無心な与吉は、誘い出されるままに言ってしまった。

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無心むしんな與吉よきちは誘さそひ出だされるまゝにいつて畢しまつた。

しかし互いに畑を荒らしては、やせた骨身をかじり合っているような彼らの間に、こんなことがなければ、ことさらに勘次ばかりが注目されるのではなかったのである。

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然しかし相互さうごに畑はたけを荒あらしては、痩やせた骨身ほねみを噛かじり合あうて居ゐるやうな彼等かれらの間あひだにこんなことが無なければ殊更ことさらに勘次かんじばかりが注目ちうもくされるのではなかつたのである。

一〇

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一〇

秋も、朝は冷ややかになった。

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秋あきも朝あさは冷ひやゝかに成なつた。

稲の穂は、北が吹けば南へ向いたり、南が吹けば北へ向いたりして、その重たそうな首を止まず動かしては、さらさらと寂しく笑いはじめた。

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稻いねの穗ほは北きたが吹ふけば南みなみへ向むいたり、南みなみが吹ふけば北きたへ向むいたりして其その重相おもさうな首くびを止やまず動うごかしてはさら/\と寂さびしく笑わらひはじめた。

強い秋の雨が一夜ざあざあと降った。

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強つよい秋あきの雨あめが一夜やざあ/\と降ふつた。

次の日には、空は少しの塵も止めないといったように凄いほど晴れて、山もめっきり近くなっていた。

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次つぎの日ひには空そらは些いさゝかの微粒物びりふぶつも止とゞめないといつたやうに凄すごい程ほど晴はれて、山やまも滅切めつきり近ちかく成なつて居ゐた。

しっとりと落ち着いた空気を透して、日光が妙に肌へ揉み込むように暖かで、かつ暑かった。

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しつとりと落付おちついた空氣くうきを透とほして、日光につくわうが妙めうに肌膚はだへ揉もみ込こむやうに暖あたゝかで且かつ暑あつかつた。

春のような日に騙されて、雲雀は、そっけない三角形の種が膨れながら、まだいっぱいに白い蕎麦畑や、それから陸稲畑の上にさえずった。

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春はるのやうな日ひに騙だまされて雲雀ひばりは、そつけない三稜形りようけいの種たねが膨ふくれつゝまだ一杯ぱいに白しろい蕎麥畑そばばたけやそれから陸稻畑をかぼばたけの上うへに囀さへづつた。

それでも、いくらか羽の動きが鈍くなっているのか、春のようではなく低くさまよって、しわがれた喉を鳴らしている。

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それでも幾いくらか羽はねの運動うんどうが鈍にぶく成なつて居ゐるのか春はるのやうではなく低ひくく徘徊さまようて皺嗄しやがれた喉のどを鳴ならして居ゐる。

周りの台地からは、土瓶のふたを取ってつるべをごっと傾けたように、雨水がいっぱいに田に集まって、稲の穂先が少し浸った。

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周圍しうゐの臺地だいちからは土瓶どびんの蓋ふたをとつて釣瓶つるべをごつと傾かたむけたやうに雨水あまみづが一杯ぱいに田たに聚あつまつて稻いねの穗首ほくびが少すこし浸ひたつた。

田んぼも堀も一つになった水は、土瓶の口から吐き出すように、徐々に低い田へと落ちる。

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田圃たんぼも堀ほりも一ひとつに成なつた水みづは土瓶どびんの口くちから吐はき出だすやうに徐おもむろに低ひくい田たへと落おちる。

村の子供らは「三平ぴいつくぴいつく」

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村落むらの子供等こどもらは「三平ぺいぴいつく/\」

と雲雀の鳴き声を真似しながら、小ざるを持ったり叉手網を持ったりして、じゃぶじゃぶと快い田んぼの水を渡って歩いた。

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と雲雀ひばりの鳴聲なきごゑを眞似まねしながら、小笊こざるを持もつたり叉手さでを持もつたりしてぢやぶ/\と快こゝろよい田圃たんぼの水みづを渉わたつて歩あるいた。

そこにはまた、これも春のような日に騙されて、とうに鳴かなくなっていた蛙がふわりと浮いては、こそばゆい稲の穂につかまりながら、げらげらと鳴いた。

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其處そこには又また此これも春はるのやうな日ひに騙だまされて、疾とうから鳴なかなく成なつて居ゐた蛙かへるがふわりと浮ういてはこそつぱい稻いねの穗ほに捉つかまりながらげら/\と鳴ないた。

いっぱいにふさがっている稲の穂の下を、そろそろとはいながら水が低くなった時、秋の日は落ちかけた。

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一杯ぱいに塞ふさがつて居ゐる稻いねの穗ほの下したをそろ/\と偃はひながら水みづが低ひくく成なつた時とき秋あきの日ひは落おち掛かけた。

そうして、いつでもその本能を突き動かす機会があれば鳴くのだと言って待っているその蛙も、ひっそりとした。

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さうして什麽どんな時ときでも其その本能ほんのうを衝動そゝる機會きくわいがあれば鳴なくのだといつて待まつて居ゐる其その蛙かへるもひつそりとした。

大雨の後の畑へは、百姓はたいてい控えめにして出なかった。

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大雨おほあめの後あとの畑はたけへは百姓ひやくしやうは大抵たいてい控ひかへ目めにして出でなかつた。

勘次はたそがれ近くなってから、独りで草刈り籠を背負って出た。

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勘次かんじは黄昏たそがれ近ちかくなつてから獨ひとりで草刈籠くさかりかごを背負せおつて出でた。

彼はいつもの道へは出ないで、後ろの田んぼから林へ、それから遠く回り道して畑地へ出た。

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彼かれは何時いつもの道みちへは出でないで後うしろの田圃たんぼから林はやしへ、それから遠とほく迂廻うくわいして畑地はたちへ出でた。

日はまだほんのりと明るかったので、勘次はあっちこっちと空の草刈り籠を背負ったまま歩いた。

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日ひはまだほんのりと明あかるかつたので勘次かんじはそつちこつちと空からな草刈籠くさかりかごを背負せおつた儘まゝ歩あるいた。

彼はそれでも良心のとがめに対して、編み笠でその顔を隔てた。

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彼かれは其それでも良心りやうしんの苛責かしやくに對たいして編笠あみがさで其その顏かほを隔へだてた。

日がとっぷりと暮れた時、彼は道端へ草刈り籠を下ろした。

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日ひがとつぷりと暮くれた時とき彼かれは道端みちばたへ草刈籠くさかりかごを卸おろした。

そこには、畑の周りに一うねずつに作ったとうもろこしが丈高く突っ立っている。

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其處そこには畑はたけの周圍まはりに一畝ひとうねづつに作つくつた蜀黍もろこしが丈たけ高たかく突つつ立たつて居ゐる。

草刈り籠がすっと地上に転がる時、とうもろこしの大きな葉へ触れてがさりと鳴った。

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草刈籠くさかりかごがすつと地上ちじやうにこける時とき蜀黍もろこしの大おほきな葉はへ觸ふれてがさりと鳴なつた。

さらにその葉は、どこにも感じない微風に揺れて、自分だけが怖がったように騒いでいる。

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更さらに其その葉はは何處どこにも感かんじない微風びふうに動搖どうえうして自分じぶんのみが怖おぢたやうに騷さわいで居ゐる。

穂は、何を騒ぐのかといぶかるように、少し伏し目に見下ろしている。

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穗ほは何なにを騷さわぐのかと訝いぶかるやうに少すこし俯目ふしめに見みおろして居ゐる。

勘次は菜切り包丁を取り出して、その高いとうもろこしの幹をぐっと曲げては、穂首に近く斜めに切った。

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勘次かんじは菜切庖丁なきりばうちやうを取出とりだして、其その高たかい蜀黍もろこしの幹みきをぐつと曲まげては穗首ほくびに近ちかく斜なゝめに伐きつた。

穂は勘次の手に止まって、幹は急に跳ね返った。

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穗ほは勘次かんじの手てに止とまつて幹みきは急きふに跳はね返かへつた。

そうして震えた。

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さうして戰慄せんりつした。

勘次は重くなった草刈り籠を背負って、今度は野の道を一散に自分の家へ帰った。

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勘次かんじは重おもく成なつた草刈籠くさかりかごを背負せおつて今度こんどは野のらの道みちを一散いつさんに自分じぶんの家うちへ歸かへつた。

次の朝、勘次は軒端へ横に竹を渡して、ゆっさりとするその穂を縛って打ち違いに掛けた。

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次つぎの朝あさ勘次かんじは軒端のきばたへ横よこに竹たけを渡わたして、ゆつさりとする其その穗ほを縛しばつて打ぶつ違ちがひに掛かけた。

南へ低くなった日が、それをのぞくように差しかけた。

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南みなみへ低ひくくなつた日ひが其それを覗のぞくやうに射さし掛かけた。

その日は、いずれも言い合わせたように畑へ出た。

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其その日ひは孰いづれもいひ合あはせたやうに畑はたけへ出でた。

一日照ったので、畑はたいていぱさぱさに乾いている。

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一日にち照てつたので畑はたけは大抵たいていぱさ/\に乾かわいて居ゐる。

とうもろこしの穂を切りに出た村の一人は、自分の畑がざっくりと荒らされているのを見つけて驚いた。

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蜀黍もろこしの穗ほを伐きりに出でた村むらの一人ひとりは自分じぶんの畑はたけがぞつくりと荒あらされて居ゐるのを發見はつけんして驚おどろいた。

彼は畑へ来たなり、穂は一本も切らないでそのまま駐在所へ駆けつけた。

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彼かれは畑はたけへ來きたなり穗ほは一本ぽんも伐きらないで其その儘まゝ駐在所ちうざいしよへ驅かけつけた。

巡査はそれでも、すぐに官服を着て被害者といっしょに現場へ来て見て、切られた穂の数を改めて手帳へ書き止めた。

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巡査じゆんさはそれでも直すぐに官服くわんぷくを着きて被害者ひがいしやと一緒しよに現場げんぢやうへ來きて見みて伐きられた穗ほの數かずを改あらためて手帖ててふへ止とめた。

被害者が駐在所へ駆けつける間に、畑の遠くに離れ離れに散らばっている百姓らは、ことごとくそれを知った。

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被害者ひがいしやが駐在所ちうざいしよへ驅かけつける間まに、畑はたけの遠とほくに離はなれ/″\に散ちらばつて居ゐる百姓等ひやくしやうらは悉ことごとく其それを知しつた。

被害者は道々大声を出して怒鳴って行ったからである。

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被害者ひがいしやは途次みちみち大聲おほごゑを出だして呶鳴どなつて行いつたからである。

何でも昨夜遅く野から帰る者があったというが、それではそれに相違ないだろうということが伝えられた。

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なんでも昨夜さくや遲おそく野のらから歸かへるものが有あつたといふがそれぢや其それに相違さうゐないだらうといふことが傳つたへられた。

勘次も畑へ出ていて、騒ぎになりはじめたのを知った。

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勘次かんじも畑はたけへ出でて居ゐて騷さわぎに成なりはじめたのを知しつた。

彼はすぐに飛んで帰って、ことごとくとうもろこしの穂を外して、そっと近くの林へ隠して、むしろを二枚ばかりかぶせた。

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彼かれは直すぐに飛とんで歸かへつて悉ことごとく蜀黍もろこしの穗ほを外はづして、そつと近ちかくの林はやしへ隱かくして筵むしろを二枚まいばかり掩おほうた。

「癖になるから、みっしり懲りさせたほうがいい。おれのほうは畑がやかましくて本当に仕方がない」

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「癖くせになつから、みつしら懲こりらかした方はうがえゝ、俺方おらはうは畑はたけが五月蠅うるさくつて本當ほんたうに仕しやうねえ」

「見せしめに行く時には、こっぴどくやらなくちゃいけないよ」

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「見みせしめに行やつ時ときにや、こつぴどく行やんなくつちやえかねえよ」

「村の中をようく見さえすりゃすぐに分かるさ。とうもろこしなんぞ、どこへ隠せるもんじゃない」

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「村落むらの内うちようく見みせえすりや直すぐに分わからな、蜀黍もろこしなんぞ何處どこへ隱かくせるもんぢやねえ」

などと、近い畑同士は怒鳴り合った。

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抔などと近ちかい畑同士はたけどうしは呶鳴どなり合あつた。

その声は被害者の耳にも入って、むかむかと激したその心に勢いをつけた。

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其その聲こゑは被害者ひがいしやの耳みゝにも這入はひつてむか/\と激げきした其その心こゝろに勢いきほひを附つけた。

「数が分かったら、もう後へ手をつけてもいい」

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「數かずが分わかつたらもう後あとへ手てを附つけてもえゝ」

巡査は畑を去った。

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巡査じゆんさは畑はたけを去さつた。

「わしも行ってみましょう。自分の畑のは一目見りゃ分かりますから」

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「わしも行いつて見みあんせう、自分じぶんの畑はたけのがは一目ひとめ見みりや分わかりあんすから」

こう言って、被害者はとうもろこしの穂を二、三本持って村へ戻った。

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恁かういつて被害者ひがいしやは蜀黍もろこしの穗ほを二三本ぼん持もつて村落むらへ戻もどつた。

巡査はそこらここらと二、三軒見て歩いて、勘次の庭へ立った。

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巡査じゆんさは其處そこら此處ここらと二三軒げん見みて歩あるいて勘次かんじの庭にはへ立たつた。

それは、勘次は二、三の者とともに巡査の注意人物であったからである。

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それは勘次かんじは二三の者ものと共ともに巡査じゆんさの注意人物ちういじんぶつであつたからである。

しかし彼の貧しい建物のどこにも、隠される余地を見つけることができなかった。

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然しかし彼かれの貧まづしい建物たてものの何處どこにも隱匿いんとくされる餘地よちを發見はつけんすることが出來できなかつた。

その時は、勘次がよそへ運んだ後なのである。

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其その時ときは勘次かんじが餘所よそへ運はこんだ後あとなのである。

巡査は軒に渡した竹の棒を見て

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巡査じゆんさは檐のきに渡わたした竹たけの棒ぼうを見みて

「こりゃどうするんだい」

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「此こりやどうするんだい」

と聞いた。

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と聞きいた。

被害者はさっきから雨だれの水で土のくぼんだあたりを見ていたが

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被害者ひがいしやは先刻さつきから雨垂あまだれの水みづで土つちの窪くぼんだあたりを見みて居ゐたが

「はてな」

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「はてな」

と首をかしげて

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と首くびを傾かたぶけて

「とうもろこしの粒が落ちてありますぞ。そうするとここへ引っ掛けたのを、また、どこかへか持って行っちまったな」

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「蜀黍粒もろこしつぶ落おつこつてあんすぞ、さうすつと此處ここへ引ひつ懸かけたの又また何處どこへか持もつてつちやつたな」

被害者は言った。

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被害者ひがいしやはいつた。

巡査はうなずいた。

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巡査じゆんさは首肯うなづいた。

「この粒でがすから、わしのに相違ありません。あいつらのは、こんなにできっこないんですから。それ、証拠には、きっと自分の畑のは一つ穂でも切っちゃないから見なさい。わしのはこれでも〆粕を入れて作ったんでがすから」

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「此この粒つぶでがすから、わしがに相違さうゐありあんせん、彼等あつらがな此こんなに出來できつこねえんですから、それ證據しようこにや屹度きつと自分じぶんの畑はたけのがな一ひとつ穗ぽでも伐とつちやねえから見みさつせ、わしが此こんでも〆粕しめかす入せえて作つくつたんでがすから」

被害者は熱心に言った。

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被害者ひがいしやは熱心ねつしんにいつた。

勘次はその時、不安な様子でぽつんと自分の庭に立った。

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勘次かんじは其その時とき不安ふあんな態度たいどでぽつさりと自分じぶんの庭にはに立たつた。

彼はすでに、巡査が軒下に立っているのを見てぞっとした。

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彼かれは既すでに巡査じゆんさの檐下のきしたに立たつてるのを見みて悚然ぞつとした。

「勘次、この竹はどうしたんだな」

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「勘次かんじ、此この竹たけはどうしたんだな」

巡査は横目に勘次を見て言った。

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巡査じゆんさは横目よこめに勘次かんじを見みていつた。

「わし、これらは、とうもろこしを切って引っ掛けようと思ったんでがす」

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「わし此こらあ、蜀黍もろこし伐きつて引ひつ懸かけべと思おもつたんでがす」

「うん、この粒のこぼれたのはどうしたんだ。とうもろこしなんだろう、これは」

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「うむ、此この粒つぶの零こぼれたのはどうしたんだ、蜀黍もろこしなんだらう此これは」

「へえ、なに、わしが一つかみ引きしごいて来てみたのを、うっちゃったんでがした」

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「へえ、なに、わしが一攫ひとつかみ引ひつ扱こいて來きて見みたの打棄うつちやつたんでがした」

勘次はこう言って青くなった。

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勘次かんじは恁かういつて蒼あをく成なつた。

巡査はさらに、被害者に勘次の畑を案内させた。

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巡査じゆんさは更さらに被害者ひがいしやに勘次かんじの畑はたけを案内あんないさせた。

しょんぼりとして後についてくる勘次を、要らないからと巡査は邪険に叱って追いやった。

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悄然せうぜんとして後あとに跟ついて來くる勘次かんじを要えうはないからと巡査じゆんさは邪慳じやけんに叱しかつて逐おひやつた。

勘次の畑のとうもろこしは、被害者が言ったように、情けないようなみすぼらしい穂がさらりと立って、それでもその恐怖心に駆られたというように、特有な一種の騒がしい響きを立てつつあった。

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勘次かんじの畑はたけの蜀黍もろこしは被害者ひがいしやがいつたやうに、情なさけないやうな見窄みすぼらしい穗ほがさらりと立たつてそれでも其その恐怖心きようふしんに驅かられたといふやうに特有もちまへな一種しゆの騷さわがしい響ひゞきを立たてつゝあつた。

穂は一つも切ってはなかった。

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穗ほは一ひとつも伐きつてはなかつた。

「これだから、わしは言ったんでがす。ねえ、それ、この粒でがすからね」

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「此これだからわし云いつたんでがす、ねえそれ、此この粒つぶでがすかんね」

被害者は威勢が出た。

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被害者ひがいしやは威勢ゐせいが出でた。

「稲の束をかつぐんだって、わしらは口へ出しちゃ言わないが、ちゃんと知ってるんでがすから。そう言っちゃ何だが、そんなことするのは、決まったようなもんですからね」

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「稻いねつ束たば擔かつぐんだつて、わし等ら口くちへ出だしちや云ゆはねえが、ちやんと知しつてんでがすから、さう云いつちや何なんだが其麽そんなことするもなあ、極きまつたやうなもんですかんね」

被害者はさらに、手柄でもしたように言った。

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被害者ひがいしやは更さらに手柄てがらでもしたやうにいつた。

「もう分かったから、それじゃ自分の仕事をするがいい。後でわしが申報書をこしらえて来てやるから、それへ印形を捺せば、それで手続きは済むんだからな」

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「もう解わかつたから、それぢや自分じぶんの仕事しごとをするがいい、後のちにわしが申報書しんぱうしよを拵こしらへて來きて遣やるから、それへ印形いんぎやうを捺おせばそれで手續てつゞきは濟すむんだからな」

巡査はそう言って、そうして被害者が

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巡査じゆんさはさういつてさうして被害者ひがいしやが

「そんじゃ、わしはとうもろこしを隠しておく所を見つけ出しますから。きっとあるに決まってるんだから」

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「そんぢや、わし蜀黍もろこし隱かくして置おく處とこ見出めつけあんすから、屹度きつと有あんに極きまつてんだから」

と言う声を後にして、畑の小道をうねりながら行った。

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といふ聲こゑを後あとにして畑はたけの小徑こみちをうねりつゝ行いつた。

「今度こそは、捕まっちゃ一杯に食らうんだろう」

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「今度こんだこさあ、捕縛つかまつちや一杯いつぺえに引ひつ喰くらあんだんべ」

畑同士は痛快に感じながら、口々にこういうことを言った。

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畑同士はたけどうしは痛快つうくわいに感かんじつゝ口々くち/″\に恁かういふことをいつた。

「おつう、おれはとても今度はだめだよ」

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「おつう俺おらとつても今度こんだあ駄目だめだよ」

勘次は、はかない自分の心持ちを、唯一の家族であるおつぎの身へ投げかけるように、しおれきって言った。

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勘次かんじは果敢はかない自分じぶんの心持こゝろもちを唯ゆゐ一の家族かぞくであるおつぎの身體からだへ投なげ掛かけるやうに萎しをれ切きつていつた。

勘次は心の底から恐れたのである。

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勘次かんじは衷心ちうしんから恐怖きようふしたのである。

それほどならば、なぜ彼はとうもろこしの穂を切ることを敢えてしたのであろうか。

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其それ程ほどならば何故なぜ彼かれは蜀黍もろこしの穗ほを伐きることを敢あへてしたのであつたらうか。

彼はこれまでも、畑の物を盗ったのは一度や二度ではない。

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彼かれは此これまでも畑はたけの物ものを盜とつたのは一度どや二度どではない。

それはわずかであったが、彼は盗りたくなった時、機会さえあればいつでも盗りつつあったのである。

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其それは些少させうであつたが彼かれは盜とりたくなつた時とき機會きくわいさへあれば何時いつでも盜とりつゝあつたのである。

彼は身を殺そうとまで、その弱い意志が少しのことにも彼を苦しめる時、彼を突き動かして盗み心がむかむかと首をもたげつつあったのである。

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彼かれは身みを殺ころさうとまで其その薄弱はくじやくな意思いしが少すこしのことにも彼かれを苦くるしめる時とき、彼かれを衝動そそつて盜性たうせいがむか/\と首くびを擡もたげつゝあつたのである。

勘次はもう、仕事をするどころではない。

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勘次かんじはもう仕事しごとをする處どころではない。

彼はとうてい少しの間もその家にいられなくなって、隣の彼の主人にすがろうとした。

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彼かれは到底たうてい寸時すんじも其その家いへに堪たへられなく成なつて、隣となりの彼かれの主人しゆじんに縋すがらうとした。

その敷居を越すことが、彼にはどれほどつらかったか知れない。

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其その閾しきゐを越こすことが彼かれにはどれ程ほど辛つらかつたか知しれぬ。

主人は留守であった。

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主人しゆじんは不在ふざいであつた。

「おかみさん、わしはまた間違いをしまして、どうもこれ、おかみさんの所へは敷居が高くて何でがすが、わしがいなくでもなっちゃ、子供らは仕方がありませんから、助かれるもんならわしももう……」

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「お内儀かみさん、わしも又また間違まちがえしあんしてどうも此これお内儀かみさん處とこへは閾しきゐが高たかくつて何なんでがすが、わし居ゐなくでも成なつちや子奴等こめら仕しやうがあせんから、助たすかれるもんならわしもはあ……」

と、彼はぐったり首をうなだれた。

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と彼かれはぐつたり首くびを俛たれた。

主人のおかみさんは、勘次がとうもろこしを切ったことはもう知っていた。

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主人しゆじんの内儀かみさんは勘次かんじが蜀黍もろこしを伐きつたことはもう知しつて居ゐた。

まだ癖が止まないかと、一度は腹を立ててもみたり呆れもしたりしたが、しかしどこといって庇ってくれる者がないので、こうして来るのだと、目の前にそのしおれた姿を見ると、さすがに憐れになって叱るどころではなかった。

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まだ癖くせが止やまないかと一度どは腹はらを立たてても見みたり惘あきれもしたりしたが、然しかし何處どこといつて庇護かばつてくれるものが無ないので恁かうして來くるのだと、目前もくぜんに其その萎しをれた姿すがたを見みると有繋さすがに憐あはれに成なつて叱しかる處どころではなかつた。

それではどうか心配してみてやろうと言われて、勘次は顔が生き返ったようになった。

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それではどうか心配しんぱいして見みてやらうといはれて勘次かんじは顏かほが蘇生いきかへつたやうに成なつた。

彼は何でも、主人が力を尽くしてくれれば成し遂げられると思っているのである。

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彼かれは何なんでも主人しゆじんが盡力じんりよくして呉くれゝば成就じやうじゆすると思おもつて居ゐるのである。

それでも自分の家にはいられないので、どうか隠してくれと、彼は土蔵へ入れてもらった。

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それでも自分じぶんの家いへには居をられないので、どうか隱かくしてくれと彼かれは土藏どざうへ入いれて貰もらつた。

勘次はそこでも不安に堪えられないので、そこにしばらく使わずにしまってある四尺桶へ、こっそりと潜っていた。

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勘次かんじは其處そこでも不安ふあんに堪たへないので其處そこに暫しばらく使つかはずに藏しまつてある四尺桶しやくをけへこつそりと潜もぐつて居ゐた。

巡査は午後に申報書の印を取りに来て、勘次の家へ行ってみた。

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巡査じゆんさは午後ごごに申報書しんぱうしよの印いんを取とりに來きて勘次かんじの家いへへ行いつて見みた。

勘次はどこへ行ったと巡査に聞かれて、おつぎはただ知らないと言った。

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勘次かんじは何處どこへ行いつたと巡査じゆんさに聞きかれておつぎは只たゞ知しらないといつた。

そうして巡査の後ろ姿が垣根を出た時、ひそかに泣いた。

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さうして巡査じゆんさの後姿うしろすがたが垣根かきねを出でた時とき竊ひそかに泣ないた。

被害者はとうとう隠した箇所を見つけて、巡査を案内した。

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被害者ひがいしやは到頭たう/\隱匿いんとくした箇處かしよを發見はつけんして巡査じゆんさを導みちびいた。

雑木林の茂った間の、もう硬くなった草の中へ、とうもろこしの穂は縛ったままどさりと置いてあったのである。

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雜木林ざふきばやしの繁茂はんもした間あひだの、もう硬こはく成なつた草くさの中なかへ蜀黍もろこしの穗ほは縛しばつた儘まゝどさりと置おいてあつたのである。

そこにはもうそっけなくなったおみなえしの茎がけろりと立って、枝まで折られた栗が、低いながらにこずえのほうにだけはわずかにはじけている。

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其處そこにはもうそつけなくなつた女郎花をみなへしの莖くきがけろりと立たつて、枝えだまで折をられた栗くりが低ひくいながらに梢こずゑの方はうにだけは僅わづかに笑ゑんで居ゐる。

その小さな柴栗が偶然落ちてさえ驚いて騒ぐだろうと思うように、か細いこおろぎがあっちこっちでかすかに鳴いている。

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其その小ちひさな芝栗しばぐりが偶然ひよつくり落おちてさへ驚おどろいて騷さわぐだらうと思おもふやうに薄弱はくじやくな蟋蟀こほろぎがそつちこつちで微かすかに鳴ないて居ゐる。

ちょっと他人の目には触れない場所であった。

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一寸ちよつと他人ひとの目めには觸ふれぬ場所ばしよであつた。

穂を覆ったそのむしろが、勘次の仕業であることを確かに証拠立てていた。

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穗ほを掩おほうた其その筵むしろが勘次かんじの所業しわざであることを的確てきかくに證據立しようこだてゝ居ゐた。

主人のおかみさんは、一応被害者へ話をつけてみた。

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主人しゆじんの内儀かみさんは一應おう被害者ひがいしやへ噺はなしをつけて見みた。

被害者の家族は律義者で、みな激しきっている。

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被害者ひがいしやの家族かぞくは律義者りちぎもので皆みな激げきし切きつて居ゐる。

七十ばかりになる被害者の老人が、ことに頑固に主張した。

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七十ばかりに成なる被害者ひがいしやの老人ぢいさんが殊ことに頑固ぐわんこに主張しゆちやうした。

「泥棒なんぞする奴は、わしは大嫌いでがすから。わしらの畑の茄子を引きむしったんだって、ちゃんと知っちゃいるんでがすから。いや、まったくでがす。おかみさんの所のさつまいもも盗りましたとも。ぐうずら蔓を引っこ抜いてうっちゃって、いや本当でがす。わしゃ嘘なんざあ言うのは嫌でがすから。それどころじゃがありません、おかみさん。夜切って来て、朝っぱらになったらもう引っ掛けたに相違ないというんでがすから。なに、わしもむしろを打ちかけた所を見ました。むしろで分かるからだめでがす。いや、まったくひどい野郎でがす、どうも」

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「泥棒どろぼうなんぞする奴やざあ、わし大嫌だえきれえでがすから、わし等ら畑はたけの茄子なす引ひん挘もぎつたんだつてちやんと知しつちや居ゐんでがすから、いや全まつたくでがす、お内儀かみさん處とこの甘藷さつまも盜とりあんしたとも、ぐうづら蔓つる引ひつこ拔ぬいて打棄うつちやつて、いや本當ほんたうでがす、わしや嘘ちくなんざあいふな嫌きれえでがすから、其それ處どこぢやがあせんお内儀かみさん、夜よる伐きつて來きて、朝あさつぱらに成なつたらはあ引ひつ懸かけたに相違さうゐねえつちんでがすから、なにわしも筵むしろ打ぶつ掛かけた處ところ見みあんした、筵むしろで分わかるから駄目だめでがす、いや全まつたく酷ひでえ野郎やらうでがすどうも」

おかみさんはそれは予期していた。

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内儀かみさんは其それは豫期よきして居ゐた。

「そりゃそうさね。この前も私の所で救ってやったのに、それにまたこうなんだから。まあ病気さね、これも。困ったもんだが、しかしあれを懲役にやってみたところで、子供らが泣くばかりだからね。それにまあ本当を言えば、一つ村にこうしているんだから、先方が困りきっているうちに勘弁してやったとなると、一生先方は気が引けている道理だが、それが一杯の罪にでも落としてみると、先方では帳消しにでもなったようなつもりでいまいものでもなし。そうすると、敵を一人こしらえておくようなものだしね。他人に叩かれたのでは眠れるが、叩いたのでは眠れないとさえ言うんだから、何でも後腹の病まないほうがいいようだが、どうだね」

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「そりやさうさね、此この前まへも私わたしの處ところで救すくつて遣やつたのにそれに復またかうなんだから、まあ病氣びやうきさね此これも、困こまつたもんだが然しかしあれを懲役ちやうえきに遣やつて見みた處ところで子供等こどもらが泣なくばかりだからね、それにまあ本當ほんたういへば一ひとつ村落むらに斯かうして居ゐるんだから先さきが困こまり切きつてる内うちに勘辨かんべんして遣やつたと成なると一生しやう先さきは身みがひけて居ゐる道理だうりだがそれが一杯ぱいの罪つみにでも落おとして見みると、先さきでは帳消ちやうけしにでも成なつたやうな積つもりで居ゐまいものでもなし、さうすると敵かたき一人ひとり拵こしらへて置おくやうなものだしね、他人ひとに叩たゝかれたのでは眠ねむれるが、叩たゝいたのでは眠ねむれないとさへいふんだから、何なんでも後腹あとばらの病やめない方はうが善いいやうだがどうだね」

「そんでも、おかみさん、わしゃ卯平のことをみじめを見せてるのが、他人のことでも忌々しいんでさ。わしゃ血気のころから卯平とは相棒で仕事もしたんでがすが、卯平はもう何でも、あれが女房らを育てる時分のことなんぞ思っちゃ、粗末にはできないんでがすからね。それ、おかみさん、卯平はいくつになりますね。わしらだったらなあに、ああいう野郎なんざあ、槍ででも何でも突き刺しちまうんでがすがね」

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「そんでもお内儀かみさん、わしや卯平うへいことみじめ見みせてんのが他人ひとのこつても忌々敷いめえましいんでさ、わしや血氣けつきの頃ころから卯平うへいたあ棒組ぼうぐみで仕事しごともしたんでがすが、卯平うへいはあんでもあれが嚊等かゝあら育そだつ時分じぶんの事ことなんぞ思おもつちや疎末そまつにや成なんねえんでがすかんね、それお内儀かみさん卯平うへいは幾いくつに成なりあんすね、わし等らだらなあに、あゝた野郎やらうなんざあ槍やりでゝも何なんでも突つつ刺ぷしつちあんでがすがね」

老人は憤りに堪えないように、固めた拳を膝がしらへ当てて言った。

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老人ぢいさんは憤慨ふんがいに堪たへぬやうに固かためた拳こぶしを膝ひざがしらへ當あてゝいつた。

「もっともさね、そりゃ。それだが、腹の立つ時分は憎い奴だと思っても、後悔する時がないとも言えないしね。少しのことで二代も三代も仲直りができないような実例が、いくらも世間にはあるもんだからね」

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「尤もつともさねそりや、それだが腹はらの立たつ時分じぶんは憎にくい奴やつだと思おもつても後悔こうくわいする時ときが無ないともいひないしね、少すこしのことで二代だいも三代だいも仲直なかなほりが出來できないやうな實例ためしが幾いくらも世間せけんには有あるもんだからね」

おかみさんは繰り返して言った。

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内儀かみさんは反覆くりかへしていつた。

しかし容易に彼らの心は落ち着かない。

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然しかし容易よういに彼等かれらの心こゝろは落居おちゐない。

しばらく話は途切れていた。

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暫しばらく噺はなしは途切とぎれて居ゐた。

「遠くのほうへやったなんて言ったっけが、おりせはまた孫ができたそうだね。今度のは男だって、それでもよかったねえ」

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「遠とほくの方はうへ遣やつたなんていつたつけがおりせは又また孫まごが出來できた相さうだね、今度こんどのは男をとこだつてそれでも善よかつたねえ」

おかみさんは、そばにいた老母へ向いて突然こう言いかけた。

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内儀かみさんは側そばに居ゐた老母ばあさんへ向むいて突然とつぜん恁かういひ掛かけた。

そうしておかみさんは、冷たくなっていた茶碗を手にした。

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さうして内儀かみさんは冷つめたく成なつて居ゐた茶碗ちやわんを手てにした。

それを見て被害者の女房は土間へ駆け下りて、かまどの口へ火をつけてふうふうと火吹き竹を吹いた。

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其それを見みて被害者ひがいしやの女房にようばうは土間どまへ駈かけおりて竈かまどの口くちへ火ひを點つけてふう/\と火吹竹ひふきだけを吹ふいた。

「はい、そうでござりますよ。おかみさんの厄介になりましたっけが、あれも今じゃ大層いい塩梅でございましてね。四人目でやっと、それでも男でがすよ。おかみさんに言われた時にはわしらももうしぶっていたんでがしたが、身上もあの時からはよくなるしね。兄弟の中で今じゃ、りせが一番だって言ってるところなのさ。おかみさんがあれなら大丈夫だからって言ってくれましたっけが、婿も心根がよくてね。爺婆にって、わしらにこういう物をよこしましたよ」

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「はあいさうでござりますよ、お内儀かみさんの厄介やつけえに成なりあんしたつけが、あれも今いまぢや大層たえそうえゝ鹽梅あんべいでがしてない、四人目よつたりめ漸やつとそんでも男をとこでがすよ、お内儀かみさんに云やあれた時ときにやわし等らもはあ澁しびれえて居ゐたんでがしたが、身上しんしやうもあん時ときかんぢやよくなるしね、兄弟中きやうでえぢうで今いまぢやりせが一番ばんだつて云ゆつてつ處とこなのせ、お内儀かみさんあれなら大丈夫でえぢよぶだからつて云ゆつて呉くれあんしたつけが婿むこも心底しんていが善よくつてね、爺婆ぢゝばゝあげつて、わし等らげ斯かうた物もの遣よこしあんしたよ」

老母は待ち構えてでもいたように、小風呂敷の包みを解いて、手織りのように見える粗末な反物を出して、手柄そうに見せた。

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老母ばあさんは待まち構かまへてゞも居ゐたやうに小風呂敷こぶろしきの包つゝみを解といて手織ておりのやうに見みえる疎末そまつな反物たんものを出だして手柄相てがらさうに見みせた。

おかみさんは仕方ないという様子で、反物へ手を掛けて

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内儀かみさんは仕方しかたないといふ容子ようすで反物たんものへ手てを掛かけて

「それでも孫抱きには行ったかね」

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「それでも孫まご抱だきには行いつたかね」

「ほんに、わしゃ今日あたり、おかみさんの所へ行こうと思っていたら、何ということか、こんな騒ぎでもう行くこともできないで、わしゃ昨日帰って来たところなのさ、おかみさん」

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「ほんに、わしや今日けふらお内儀かみさん處とこさ行えくべと思おもつて居ゐたら、何なんちこつたか恁こんな騷さわぎではあ行いくも出來できねえで、わしや昨日きのふ歸けえつて來きた處ところなのせえ、お内儀かみさん」

老母はいくらでも勢いづいてしゃべろうとする。

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老母ばあさんは幾いくらでも勢いきほひづいて饒舌しやべらうとする。

熱い茶がようやく、おかみさんの前に汲まれた。

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熱あつい茶ちやが漸やうやく内儀かみさんの前まへに汲くまれた。

被害者は老父と座敷の隅で、さっきからこそこそと話をしている。

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被害者ひがいしやは老父ぢいさんと座敷ざしきの隅すみで先刻さつきからこそ/\と噺はなしをして居ゐる。

そうしてさらに、老母を呼んだ。

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さうして更さらに老母ばあさんを喚よんだ。

「うん、そうだともよ」

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「うむ、さうだともよ」

という老母の声がすると、みな座に直って

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といふ老母ばあさんの聲こゑがすると皆みな坐ざに直なほつて

「それじゃ、おかみさん、さっきのをおかみさんのいいように行ってみておくんなせえ」

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「それぢや、お内儀かみさん、先刻さつきのがなお内儀かみさんえゝやうに行やつて見みておくんなせえ」

被害者は言った。

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被害者ひがいしやはいつた。

「わしゃ一徹者だから、おかみさん、悪く思わないでおくんなせえ」

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「わしや、一剋者いつこくものだからお内儀かみさん惡わるく思おもはねえでおくんなせえ」

老父も言った。

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老父ぢいさんもいつた。

「どうぞねえ、おかみさん」

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「どうぞねえお内儀かみさん」

老母も言った。

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老母ばあさんもいつた。

おかみさんはそれからまたしばらく雑談をして、みなで笑って帰った。

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内儀かみさんはそれから又また暫しばらく雜談ざふだんをして皆みんなで笑わらつて歸かへつた。

腹にあるだけのことを言わせてしまえば、彼らはそれだけ心が晴れ晴れとして勢いがだんだん鈍ってくるので、その間は機嫌も取ってみて、そうして決まりきった理屈も繰り返して聞かせているうちには、ころりと落ちてしまうという、その呼吸をおかみさんはよく知っているのである。

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腹はらに在あるだけのことをいはして畢しまへば彼等かれらはそれだけ心こゝろが晴々せいせいとして勢いきほひが段々だん/\鈍にぶつて來くるので、其その間あひだは機嫌きげんもとつて見みて、さうして極きまり切きつた理窟りくつも反覆はんぷくして聞きかせて居ゐるうちにはころりと落おちて畢しまふといふ其その呼吸こきふを内儀かみさんは能よく知しつて居ゐるのである。

その夜、おつぎはおかみさんに呼ばれて隣へ泊まった。

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其その夜よおつぎは内儀かみさんに喚よばれて隣となりへ泊とまつた。

おかみさんは、おつぎと与吉をただ二人その家に置くには忍びなかったのである。

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内儀かみさんはおつぎと與吉よきちを只たゞ二人ふたり其その家いへに置おくには忍しのびなかつたのである。

夜になってから、勘次は土蔵から出されて雇い人のそばに一夜を明かした。

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夜よになつてから勘次かんじは土藏どざうから出だされて傭人やとひにんの側そばに一夜やを明あかした。

彼は未明にまた土蔵へ隠れた。

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彼かれは未明みめいに復また土藏どざうへ隱かくれた。

おかみさんは雇い人の口を堅く戒めて、外へ漏れないようにと苦心をした。

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内儀かみさんは傭人やとひにんの口くちを堅かたく警いましめて外そとへ洩もれないやうと苦心くしんをした。

その日も巡査は勘次の家のあたりをうろついたが、それでもその東隣の門を叩いて詮索するまでには至らなかった。

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其その日ひも巡査じゆんさは勘次かんじの家いへのあたりを徘徊はいくわいしたがそれでも其その東隣ひがしどなりの門もんを叩たゝいて穿鑿せんさくするまでには至いたらなかつた。

おかみさんは、どうにかしても救ってやりたいと思い出したら、そこに障害が起これば、かえってそれを破ろうといろいろに工夫も凝らしてみるのであった。

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内儀かみさんは什麽どんなにしても救すくつて遣やりたいと思おもひ出だしたら其處そこに障害しやうがいが起おこれば却かへつてそれを破やぶらうと種々しゆじゆに工夫くふうも凝こらして見みるのであつた。

それで被害者のほうの話も決まったのだから、この上は警察の手加減に待つよりほかに道はないのであるが、留守であった主人はその日も帰らない。

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それで被害者ひがいしやの方はうの噺はなしも極きまつたのだから此この上うへは警察けいさつの手加減てかげんに俟まつより外ほかに道みちは無ないのであるが、不在ふざいであつた主人しゆじんは其その日ひも歸かへらない。

勘次はひたすらに、主人の力によってのみ救われるものと念じている。

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勘次かんじは只管ひたすらに主人しゆじんの力ちからに倚よつてのみ救すくはれるものと念ねんじて居ゐる。

おかみさんも主人を待ちあぐんでいる。

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内儀かみさんも主人しゆじんを待まちあぐんで居ゐる。

そうしてまた夜が来た。

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さうして復また夜よるが來きた。

おかみさんはもう、じっとしてはいられない。

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内儀かみさんはもう凝然ぢつとしては居ゐられない。

それでおつぎを連れて、提灯をつけてひそかに土蔵の二階へ上った。

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それでおつぎを連つれて、提灯ちやうちんを點つけて竊ひそかに土藏どざうの二階かいへ昇のぼつた。

「おとっつあん」

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「おとつゝあ」

おつぎは声を殺しながら、力を入れて言った。

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おつぎは聲こゑを殺ころしながら力ちからを入いれていつた。

勘次は返事がない。

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勘次かんじは返辭へんじがない。

おつぎはさらに幾度か呼んで、それからおかみさんが呼んだ時、汚れた体を桶の中から現した。

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おつぎは更さらに幾度いくたびか喚よんでそれからお内儀かみさんが喚よんだ時とき汚よごれた身體からだを桶をけの中なかから現あらはした。

「旦那がまだ帰らないのでね、警察のほうの話ができないで困っているんだが、どうだねお前、警察へ出ても盗らないと言いきれるかね。そうすりゃ私が始末をしてやるがね」

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「旦那だんながまだ歸かへらないのでね、警察けいさつの方はうの噺はなしが出來できないで困こまつて居ゐるんだが、どうだねお前まへ警察けいさつへ出でても盜とらないといひ切きれるかね、さうすりや私わたしが始末しまつをして遣やるがね」

おかみさんは言って聞かせた。

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内儀かみさんはいつて聞きかせた。

「へえ」

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「へえ」

勘次はただ首をうなだれている。

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勘次かんじは只たゞ首くびを俛たれて居ゐる。

「どうだね」

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「どうだね」

おかみさんは繰り返した。

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内儀かみさんは反覆くりかへした。

「わしのには、とても持ちきれません」

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「わしがにや、とつても持もち切きれあんせん」

勘次はしおれて震えている。

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勘次かんじは萎しをれて顫ふるへて居ゐる。

「おとっつあんは何て言うんだろうな」

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「おとつゝあは何なんちんだんべな」

おつぎは歯がゆそうに言って、ひと声さらに

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おつぎは齒痒相はがいさうにいつて一聲せい更さらに

「おとっつあん」

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「おとつゝあ」

と力を入れて

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と力ちからを入いれて

「盗らないって言えよ、おとっつあん」

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「盜とらねえつて云ゆへよ、おとつゝあ」

おつぎは熱心に勘次を見た。

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おつぎは熱心ねつしんに勘次かんじを見みた。

「そんでもおれは、あそこへ出ちゃ、とても白状しないわけには行かないよ」

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「そんでも俺おら、あすこへ出でちや、とつても白状はくじやうしねえ譯わけにや行ゆかねえよ」

「そんな料簡でなく、私は自分のを切ったんですと言えば、それでいいように始末してやるんだから」

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「そんな料簡れうけんでなく私わたしは自分じぶんのが伐きつたんですつていへば、そんでいゝやうに始末しまつしてやるだから」

おかみさんが力をつけてみても、勘次はただ首をうなだれている。

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内儀かみさんが力ちからを附つけて見みても勘次かんじは只ただ首くびを俛たれて居ゐる。

「そう言いさえすりゃいいっていうのになあ、おとっつあんは」

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「さう云ゆへせえすりやえゝつちのになあ、おとつゝあは」

おつぎは落胆したように言った。

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おつぎは落膽がつかりしたやうにいつた。

おかみさんとおつぎは、こうして熟睡した体を立たせようと苦心するほどの、無駄な力を尽くしたのであった。

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内儀かみさんとおつぎは恁かうして熟睡じゆくすゐした身體からだを直立ちよくりつせしめやうと苦心くしんする程ほどの徒むだな力ちからを盡つくしたのであつた。

雇い人もすっかり眠りに落ちたと思うころ、おかみさんとおつぎとの黒い姿が、ひそかに裏の竹藪に動いた。

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傭人やとひにんもすつかり眠ねむりに落おちたと思おもふ頃ころ内儀かみさんとおつぎとの黒くろい姿すがたが竊ひそかに裏うらの竹藪たけやぶに動うごいた。

落ちている竹の枝が足の下でぽちぽちと折れて鳴った。

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落おちて居ゐる竹たけの枝えだが足あしの下したにぽち/\と折をれて鳴なつた。

北西のほうの垣根のそばへ来た時、おかみさんは垣根の土についた所を力任せにぼりぼりと破った。

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乾いぬゐの方はうの垣根かきねの側そばへ來きた時ときに内儀かみさんは、垣根かきねの土つちに附ついた處ところを力任ちからまかせにぼり/\と破やぶつた。

おつぎも両手を掛けて破った。

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おつぎも兩手りやうてを掛かけて破やぶつた。

幾年となしに隙間が生じれば小笹を継ぎ足し継ぎ足ししつつあった竹の垣根は、土の所がどすどすに朽ちているので、すぐに大きな穴が開いた。

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幾年いくねんとなしに隙間すきまを生しやうずれば小笹をざさを繼つぎ足たし/\しつゝあつた竹たけの垣根かきねは、土つちの處ところがどす/\に朽くちて居ゐるので直すぐに大おほきな穴あなが明あいた。

おつぎはそこから潜って出た。

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おつぎは其處そこから潜くぐつて出でた。

突然ぱたぱたとけたたましい羽音が、すぐ頭の上で騒いだ。

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突然とつぜんぱた/\とけたゝましい羽音はおとが直すぐ頭あたまの上うへで騷さわいだ。

竹のこずえに止まっていた鳩が、にわかに驚いて遠く逃げたのである。

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竹たけの梢こずゑに泊とまつて居ゐた鳩はとが俄にはかに驚おどろいて遠とほく逃にげたのである。

「寂しくはないかい」

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「さむしかないかい」

おかみさんは垣根越しに聞いた。

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内儀かみさんは垣根越かきねごしに聞きいた。

「大丈夫ですよ、おかみさん」

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「大丈夫だいぢやうぶですよ、お内儀かみさん」

おつぎは少し歩きかけて言った。

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おつぎは少すこし歩あるき掛かけていつた。

「おや、もうそっちのほうへ行ったのかい。それじゃあそこを叩くんだよ」

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「おやもうそつちの方はうへ行いつたのかい、それぢや彼處あすこを叩たゝくんだよ」

おかみさんは言って別れた。

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内儀かみさんはいつて分わかれた。

おつぎはすぐに、自分の裏の戸口に立った。

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おつぎは直すぐに自分じぶんの裏戸口うらどぐちに立たつた。

そっと開けて入ってみると、自分の家ながら、おつぎはひやりとした。

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そつと開あけて這入はひつて見みると、自分じぶんの家うちながらおつぎはひやりとした。

ねぐらの鶏は暗い中でじっとしていながら、くくうと細い長い妙な声を出した。

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塒とやの鷄にはとりは闇くらい中なかで凝然ぢつとして居ゐながらくゝうと細ほそい長ながい妙めうな聲こゑを出だした。

鼠が二、三匹がたがたと騒いで、何かで押さえつけられたかと思うように、ちゅうちゅうと苦しげな声を立てて鳴いた。

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鼠ねずみが二三匹びきがた/\と騷さわいで、何なにかで壓おさへつけられたかと思おもふやうにちう/\と苦くるしげな聲こゑを立たてて鳴ないた。

おつぎは手探りに、壁際の草刈り鎌を取った。

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おつぎは手探てさぐりに壁際かべぎはの草刈鎌くさかりがまを執とつた。

またそっと戸を閉めて出る時、首筋の髪の毛をこそばゆい手で一つかみにされるように感じた。

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又またそつと戸とを閉たてゝ出でる時とき頸筋くびすぢの髮かみの毛けをこそつぱい手てで一攫ひとつかみにされるやうに感かんじた。

おつぎは外の壁際の草刈り籠を背負った。

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おつぎは外そとの壁際かべぎはの草刈籠くさかりかごを脊負せおつた。

どうしたはずみであったか、これも壁際に立てかけた竹箒が倒れて、柄がかちっと草刈り籠を打った。

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どうした機會はずみであつたか此これも壁際かべぎはに立たて掛かけた竹箒たけばうきが倒たふれて柄えがかちつと草刈籠くさかりかごを打うつた。

おつぎはひょいと振り返った。

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おつぎはひよつと顧かへりみた。

夜は闇である。

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夜よるは闇やみである。

凄く冴えた空へざっくりと立った隣の森のこずえにくっついて、天の川が低く西へ傾きながら流れている。

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凄すごく冴さえた空そらへぞつくりと立たつた隣となりの森もりの梢こずゑにくつゝいて天あまの川がはが低ひくく西にしへ傾かたぶきつゝ流ながれて居ゐる。

しばらくして、おつぎは自分たちの手で作ったとうもろこしのそばに立った。

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暫しばらくしておつぎは自分等じぶんらの手てで作つくつた蜀黍もろこしの側そばに立たつた。

やせたとうもろこしは眠ったかと思うようにしっとりとしていては、やがてざわざわと鳴った。

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痩やせた蜀黍もろこしは眠ねむつたかと思おもふやうにしつとりとして居ゐては、軈やがてざわ/\と鳴なつた。

おつぎは草刈り鎌でざくりざくりと、その穂を切った。

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おつぎは草刈鎌くさかりがまでざくり/\と其その穗ほを伐きつた。

そうして、ぎっと押し込んで重くなった草刈り籠を背負った。

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さうしてぎつと押おし込こんで重おもく成なつた草刈籠くさかりかごを脊負せおつた。

そこらの畑には、土が目を開いたようにところどころぽつりぽつりと、秋そばの花が白く見えている。

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其處そこらの畑はたけには土つちが眼めを開ひらいたやうに處々ところ/″\ぽつり/\と秋蕎麥あきそばの花はなが白しろく見みえて居ゐる。

おつぎは足速に、台地の畑からとうもろこしの葉のざわつく小道を低地の畑へ下りて、ようやくのことで鬼怒川の土手へ出た。

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おつぎは足速あしばやに臺地だいちの畑はたけから蜀黍もろこしの葉はのざわつく小徑こみちを低地ていちの畑はたけへおりて漸やうやくのことで鬼怒川きぬがはの土手どてへ出でた。

おつぎは四つんばいになって、芝につかまりながら登った。

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おつぎは四よつ偃ばひに成なつて芝しばに捉つかまりながら登のぼつた。

その時おつぎの心には、斜めに土手の中腹へつけられた小道を見いだしているほどの余裕がなかったのである。

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其その時ときおつぎの心こゝろには斜なゝめに土手どての中腹ちうふくへつけられた小徑こみちを見出みいだして居ゐる程ほどの餘裕よゆうがなかつたのである。

土手の内側は水際から篠がいっぱいに茂って、夜目にはそれがごっそりと自分を押しつけて見える。

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土手どての内側うちがはは水際みづぎはから篠しのが一杯ぱいに繁茂はんもして夜目よめにはそれがごつしやりと自分じぶんを壓あつして見みえる。

篠の間から水がしらしらと見えて、篠の根を洗って行く水の響きがちろちろと耳に近く聞こえる。

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篠しのの間あひだから水みづがしら/\と見みえて、篠しのの根ねを洗あらつて行ゆく水みづの響ひゞきがちろ/\と耳みゝに近ちかく聞きこえる。

おつぎは汀へ下りようと思って篠を分けてみると、そこは崖になっていて、爪先から落ちた小さな土の塊がぽちぽちと水に鳴った。

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おつぎは汀みぎはへおりようと思おもつて篠しのを分わけて見みると其處そこは崖がけに成なつて居ゐて爪先つまさきから落おちた小ちひさな土つちの塊かたまりがぽち/\と水みづに鳴なつた。

おつぎはさらに篠を分けて下りようとすると、そこも崖で、目の前にひょっこりと高瀬舟の帆柱が闇を突いて立っている。

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おつぎは更さらに篠しのを分わけておりようとすると、其處そこも崖がけで目めの前まへにひよつこりと高瀬船たかせぶねの帆柱ほばしらが闇やみを衝ついて立たつて居ゐる。

水に近く、こそこそと人の話し声が聞こえる。

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水みづに近ちかくこそ/\と人ひとの噺聲はなしごゑが聞きこえる。

たそがれにようやくそこへつながった高瀬舟が、そこらで食料を求め歩いて遅く晩飯を済まして、まだ眠らずにいたのであったろう。

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黄昏たそがれに漸やうやく其處そこへ繋かゝつた高瀬船たかせぶねが、其處そこらで食料しよくれうを求もとめ歩あるいて遲おそく晩餐ばんさんを濟すましてまだ眠ねむらずに居ゐたのであつたらう。

それは高瀬舟の船頭夫婦が、足りても足りなくても自分の家族の唯一の住まいである、その舳に造られた箱のような狭い船室の中で話している声であった。

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それは高瀬船たかせぶねの船頭夫婦せんどうふうふが、足たりても足たりなくても自分じぶんの家族かぞくの唯一ゆゐいつの住居すまゐである其その舳へさきに造つくられた箱はこのやうな狹せばいせえじの中なかで噺はなして居ゐる聲こゑであつた。

乳飲み子の泣く声も交じって聞こえた。

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乳呑兒ちのみごの泣なく聲こゑも交まじつて聞きこえた。

おつぎは後へ退いた。

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おつぎは後あとへ退去すさつた。

おつぎはほとんど無意識に、土手を南へ走った。

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おつぎは殆ほとんど無意識むいしきに土手どてを南みなみへ走はしつた。

ところどころ誰かが道芝の葉を縛り合わせておいたので、おつぎは幾度かそれへ爪先を引っ掛けてつまずいた。

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處々ところ/″\誰だれかゞ道芝みちしばの葉はを縛しばり合あはせて置おいたので、おつぎは幾度いくたびかそれへ爪先つまさきを引ひつ掛かけて蹶つまづいた。

土手の篠はだんだんまばらになって、水がいっぱいに見えて来た。

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土手どての篠しのは段々だん/\に疎まばらに成なつて水みづが一杯ぱいに見みえて來きた。

鬼怒川の水は土手よりはるかに低く、闇の底にしらしらと薄く光っている。

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鬼怒川きぬがはの水みづは土手どてより遙はるかに低ひくく闇やみの底そこにしら/\と薄うすく光ひかつて居ゐる。

夜の手は対岸の松林の影をその水に投げて、川幅はわずかに半分に縮められて見える。

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夜よるの手ては對岸たいがんの松林まつばやしの陰翳かげを其その水みづに投なげて、川幅かわはゞは僅わづかに半分はんぶんに蹙せばめられて見みえる。

こおろぎはそこらあたりいっぱいに鳴きしきって、その集まった声は空にまで響こうとしては沈みながら沈みながら、それがゆったりと大きな波のように、自然に高くなり低くなりしている。

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蟋蟀こほろぎは其處そこらあたり一杯ぱいに鳴なきしきつて、其その聚あつまつた聲こゑは空そらにまで響ひゞかうとしては沈しづみつゝ/\、それがゆつたりと大おほきな波動はどうの如ごとく自然しぜんに抑揚よくやうを成なしつゝある。

おつぎはとうとう渡し場まで来た。

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おつぎは到頭たうとう渡船場とせんばまで來きた。

おつぎはそれから水際へ下りようとすると、水を渡って静かに、しかも近く人の声がして、時々じゃぶっという響きが水に起こる。

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おつぎはそれから水際みづぎはへおりようとすると水みづを渡わたつて靜しづかに然しかも近ちかく人ひとの聲こゑがして、時々ときどきしやぶつといふ響ひゞきが水みづに起おこる。

不審に思ってためらっていると、突然目の前に、対岸の松林の影から白く光っている水の上へ舳が出て、舟が現れた。

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不審ふしんに思おもつて躊躇ちうちよして居ゐると突然とつぜん目めの前まへに對岸たいがんの松林まつばやしの陰翳かげから白しろく光ひかつて居ゐる水みづの上うへへ舳へさきが出でて船ふねが現あらはれた。

渡し舟が深夜に人を乗せたので、じゃぶっという響きは、舟棹が水をかき切るたびに鳴ったのである。

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渡わたし船ぶねが深夜しんやに人ひとを乘のせたのでしやぶつといふ響ひゞきは舟棹ふなさをが水みづを掻かつ切きる度たびに鳴なつたのである。

おつぎはまた土手へ戻って、大きな川柳のそばに身を避けた。

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おつぎは又また土手どてへ戻もどつて大おほきな川柳かはやなぎの傍そばに身みを避さけた。

二言三言を交わして、人は去ったようである。

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二三語ごを交換かうくわんして人ひとは去さつたやうである。

船頭は暗い小屋の戸をがらっと開けて、またがらっと閉じた。

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船頭せんどうは闇くらい小屋こやの戸とをがらつと開あけて又またがらつと閉とぢた。

おつぎはしばらく待っていて、それからそくそくと舟をつないだあたりへ下りた。

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おつぎは暫しばらく待まつて居ゐてそれからそく/\と船ふねを繋つないだあたりへ下おりた。

おつぎはすぐそばでかさかさと何かが動くのを聞くとともに、ぶうぶうと豚らしい鳴き声のするのを聞いた。

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おつぎは直すぐ側そばでかさ/\と何なにかが動うごくのを聞きくと共ともに、ゐい/\と豚ぶたらしい鳴聲なきごゑのするのを聞きいた。

「行くのかあ」

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「行えくのかあ」

と、まだ眠らなかった船頭は突然、特有の大声で怒鳴った。

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とまだ眠ねむらなかつた船頭せんどうは突然とつぜん特有もちまへの大聲おほごゑで呶鳴どなつた。

おつぎは驚いて、また一散に土手を走った。

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おつぎは驚おどろいて又また一散さんに土手どてを走はしつた。

船頭はがらっと戸を開けて、人の走ったような響きがはっきりと耳に感じたので、はるかに暗い土手を透して見て、ぶつぶつ言いながら、彼はさらに豚小屋に近づいてマッチをさっとすってみて、「油断ならない」

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船頭せんどうはがらつと戸とを開あけて、人ひとの走はしつたやうな響ひゞきが明あきらかに耳みゝに感かんじたので、遙はるかに闇くらい土手どてを透すかして見みてぶつ/\いひながら彼かれは更さらに豚小屋ぶたごやに近ちかづいて燐寸マツチをさつと擦すつて見みて「油斷ゆだんなんねえ」

と呟いて、また戸を閉じた。

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と呟つぶやいて又また戸とを閉とぢた。

彼は内職に飼った豚が近ごろ子を生んだので、他人が狙いはしないかと心配しつつあったのである。

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彼かれは内職ないしよくに飼かつた豚ぶたが近頃ちかごろ子こを生うんだので他人たにんが覘ねらひはせぬかと懸念けねんしつゝあつたのである。

おつぎは、どこでも構わないと土手の篠を分けて、一つ一つにとうもろこしの穂を力のかぎり水に投げた。

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おつぎは何處どこでも構かまはぬと土手どての篠しのを分わけて一ひとつ/\に蜀黍もろこしの穗ほを力ちからの限かぎり水みづに投とうじた。

おつぎは空の草刈り籠を背負って急いで帰った。

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おつぎは空からな草刈籠くさかりかごを脊負せおつて急いそいで歸かへつた。

おつぎがことことと叩いた時、おかみさんはすぐに戸を開けて

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おつぎがこと/\と叩たゝいた時とき内儀かみさんは直すぐに戸とを開あけて

「どうしたい、大変遅かったね」

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「どうしたい、大變たいへん遲おそかつたね」

と聞いた。

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と聞きいた。

「おかみさん、言うとおりにしましたよ」

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「お内儀かみさんいふ通とほりにしあんしたよ」

「そのとうもろこしはどこへやったい」

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「其その蜀黍もろこしは何處どこへ遣やつたい」

「わたしはどうしていいか知らないから、川へ持って行ってうっちゃりました」

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「わたしやどうしてえゝか知しんねえから川かはへ持もつて行いつて打棄うつちやりあんした」

「そうかい、よく行って来たね。まあお上がり」

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「さうかい、能よく行やつて來きたね、まあ上あがりな」

おかみさんはランプを自分の頭の上に上げて、じっと首を低くしておつぎの様子を見た。

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内儀かみさんはランプを自分じぶんの頭あたまの上うへに上あげて凝然ぢつと首くびを低ひくくしておつぎの容子ようすを見みた。

「どうしたんだえ、おつぎはまあ、その着物は」

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「どうしたんだえ、おつぎはまあ、其その衣物きものは」

「本当にまあ」

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「本當ほんたうにまあ」

おつぎは初めて気づいたようで

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おつぎは始はじめて心付こゝろづいたやうで

「さっき土手へ行く時、堀っこの所へ滑ったんですが、その時こんなに汚したんでしょうよ」

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「先刻さつき土手どてさ行えく時とき、堀ほりつ子こん處とこへ辷すべつたんですが、其そん時ときかうえに汚よごしたんでせうよ」

と、おつぎは泥になった腰のあたりへ手を当てた。

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とおつぎは泥どろに成なつた腰こしのあたりへ手てを當あてた。

「おかみさん、わたしはとんだことをしました」

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「お内儀かみさん、わたしや飛とんだことを仕しあんした」

おつぎはまた言った。

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おつぎは又またいつた。

「どうしたんだえ」

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「どうしたんだえ」

「わたしは鎌をどこへやっちまったか、分からなくしちまったんでさ」

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「わたしや、鎌かま何處どこへ遣やつちやつたか分わかんなく仕しつちやつたんでさ」

「今夜持って行ったのかえ」

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「今夜こんや持もつてつたのかえ」

「そうなんでさ。わたしはとうもろこしをうっちゃる時まであると思ってたら、見えないんでさ。わたしらの家のおとっつあんは、道具といったらひどく怒るんですから」

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「さうなんでさ、わたしや蜀黍もろこし打棄うつちやつ時ときまで有あつと思おもつてたら見めえねえんでさ、私等家わたしらぢのおとつつあは道具だうぐつちと酷ひどく怒おこんですから」

「草刈り鎌の一挺や二挺、お前どうするもんじゃない。あっちへ回って足でも洗ってさあ」

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「草刈鎌くさかりがまの一挺ちやうや二挺ちやうお前まへどうするもんぢやない、あつちへ廻まはつて足あしでも洗あらつてさあ」

おかみさんの口元には、かすかな笑いが浮かんだ。

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内儀かみさんの口くちもとには微かすかな笑わらひが浮うかんだ。

次の日にようやく主人は帰った。

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次つぎの日ひに漸やうやく主人しゆじんは歸かへつた。

巡査へ話をしてみたが、その時はもう被害者からの申報書が分署へ出されてあったので、さらに分署長へ頼み込んでみた。

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巡査じゆんさへ噺はなしをして見みたが其その時ときはもう被害者ひがいしやからの申報書しんぱうしよが分署ぶんしよへ提出ていしゆつされてあつたので更さらに分署長ぶんしよちやうへ懇請こんせいして見みた。

そうして、被害者から事実が違っていたという意味の取り消しを出せば、それでいいということにまで運びがついた。

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さうして被害者ひがいしやから事實じじつが相違さうゐしたといふ意味いみの取消とりけしを出だせばそれで善いいといふことにまで運はこびがついた。

微罪ということで、その筋の手加減ができたのである。

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微罪びざいといふので其その筋すぢの手加減てかげんが出來できたのである。

おかみさんはまた被害者の家へ行って、それだけの筋道を聞かせたが、どうしても今度はうんと言わない。

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内儀かみさんは復また被害者ひがいしやの家うちへ行いつて其それ丈だけの筋道すぢみちを聞きかせたが、どうしても今度こんどはうんといはない。

「どうも、わしらは分署へなんぞ出るのは、なんぼにもいやでがすからね。きっと怒られるんでがすから、もう」

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「どうもわし等ら分署ぶんしよへなんぞ出でんな、なんぼにも厭やでがすかんね、屹度きつと怒おこられんでがすからはあ」

とのみ言うのである。

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とのみいふのである。

「そうだがね、ここまで話がついているんだから、こっちでそれだけのことをしてくれなくちゃ、これまでのことが水の泡なんだからね」

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「さうだがね、此處ここまで噺はなしがついて居ゐるんだから此方こつちでそれだけのことは仕して呉くれなくつちや此これまでのことが水みづの泡あわなんだからね」

と道理を聞かせても

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と道理だうりを聞きかせても

「盗られた上にこうして暇をつぶして、おまけに分署へ出て怒られたり何かするんじゃ、こんなつまらないことはめったにありませんからね。それに書付だって、どうしていいんだか分からないし」

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「盜とらつた上うへに恁かうして暇ひま潰つぶして、おまけに分署ぶんしよへ出でて怒おこられたり何なにつかすんぢや、こんな詰つまんねえこたあ滅多めつたありあんせんかんね、それに書付かきつけだつてどうしてえゝんだか分わかんねえし」

彼はただ、いかめしく見える警察官が恐ろしくて、どうしても足が進まないのである。

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彼かれは只たゞ嚴いかめしく見みえる警察官けいさつくわんが恐おそろしくてどうしても足あしが進すゝまないのである。

「そりゃ書付なんぞは、旦那が書いてやるから心配にはならないがね」

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「そりや書付かきつけなんぞは、旦那だんなが書かいて遣やるから心配しんぱいにや成ならないがね」

おかみさんはようやく、近所の者を一人ついて行かせるようにしてやるということにしたので、被害者も思い切って出ることになった。

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内儀かみさんは漸やうやく近所きんじよの者ものを一人ひとり跟ついてくやうにして遣やるといふことにしたので被害者ひがいしやも思おもひ切きつて出でることに成なつた。

彼らが帰った時は、反対に威勢がよかった。

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彼等かれらが歸かへつた時ときは反對あべこべに威勢ゐせいがよかつた。

「どうしたっけね」

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「どうしたつけね」

と聞かれて

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聞きかれて

「髭のこう生えた部長さんだっていう怖い人でがしたがね。盗まれたなんて届けをしていて、そうして警察へ余計な手間を掛けて不埒な奴だなんて怒鳴られた時には、どうしようかと思って。そんじゃ、その書付を持って帰りますと言おうかと思いましたっけ。そうしたらしばらく書付を見てたっけが、これは誰が書いたと聞くから、わしらのほうの旦那でがすと言ったら、そうか、そんじゃよしよし帰れなんて言うもんだから、ほっと息をつきました。おこりが落ちたようでさあ、もう。そんだから、わしらはなんぼにもああいう所へは出るのはいやで」

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「髭ひげのかう生はえた部長ぶちやうさんだつていふ可怖おつかねえ人ひとでがしたがね、盜ぬすまつたなんて屆とゞけしてゝさうして警察けいさつへ餘計よけいな手間てま掛かけて不埓ふらちな奴やつだなんて呶鳴どならつた時ときにやどうすべかと思おもつて、そんぢや其その書付かきつけ持もつて歸けえりますべつて云いふべかと思おもひあんしたつけ、さうしたら暫しばらく書付かきつけ見みてたつけが此これは誰たれが書かいたつて聞きくから、わし等ら方はうの旦那だんなでがすつて云ゆつたら、さうかそんぢやよし/\歸けえれなんていふもんだからほつと息いきつきあんした、瘧おこり落おちたやうでさあはあ、そんだからわし等らなんぼにもあゝい處ところへは出でんな厭やで」

彼はしばらく間を置いて

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彼かれは少時しばし間あひだを措おいて

「そんだが、旦那はたいしたもんでがすね。旦那が書いたんだと言ったらなあ」

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「そんだが、旦那だんなはたいしたもんでがすね、旦那だんな書かいたんだつて云ゆつたらなあ」

と、彼はさらについて行った近所の者を振り返って言った。

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と彼かれは更さらに跟ついて行いつた近所きんじよの者ものを顧かへりみていつた。

事件はこのようにして、一見妙な、しかももっともふつうな方法をたどって終わりが告げられた。

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事件じけんは如此かくのごとくにして一見けん妙めうな然しかも最もつとも普通ふつうな方法はうはふを踏ふんで終局しうきよくが告つげられた。

被害者の損害に対する賠償は、わずかであるとはいいながら、一時主人の手から出て、それが被害者に渡された。

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被害者ひがいしやの損害そんがいに對たいする賠償ばいしやうは僅わづかであるとはいひながら一時じ主人しゆじんの手てから出でてそれが被害者ひがいしやに渡わたされた。

「わしもこれからは、けっして他人の物は塵っ葉一本でも盗りませんから、どうぞ」

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「わしも此これからは決けつして他人たにんの物ものは塵ちりつ葉ぱ一本ぽんでも盜とりませんからどうぞ」

と、勘次はさすがに泣いた。

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と勘次かんじは有繋さすがに泣ないた。

彼はまだ、お品が死んだ年の小作米の滞りも払ってはないし、その上、卯平から譲られた借財の残りもちっとも始末がついていないのに、また今度の間違いからわずかながら新たな負担が加わったのである。

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彼かれはまだお品しなが死しんだ年としの小作米こさくまいの滯とゞこほりも拂はらつてはないし、加之それのみでなく卯平うへいから譲ゆづられた借財しやくざいの残のこりもちつとも極きまりがついて無ないのに又また今度こんどの間違まちがひから僅わづかながら新あらたな負擔ふたんが加くははつたのである。

彼の懸命の労働は、以前に倍して著しく人の目に立った。

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彼かれが懸命けんめいの勞働らうどうは舊きうに倍ばいして著いちじるしく人ひとの目めに立たつた。

ある日、主人のおかみさんは、ふとした機会があって勘次に話をした。

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或ある日ひ主人しゆじんの内儀かみさんは偶然ひよつとした機會はづみがあつて勘次かんじに噺はなしをした。

「あれでなかなか、おつぎにも驚いたもんだね」

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「あれでなか/\おつぎにも驚おどろいたもんだね」

おかみさんは言った。

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内儀かみさんはいつた。

「もう、どうかしましたんでしょうか、おかみさん」

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「はあどうか仕しあんしたんべか、お内儀かみさん」

勘次は怪訝な様子をして、かつつらいいやなことでも言い出されるかと案じるように、おずおずと言った。

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勘次かんじは怪訝けげんな容子ようすをして且かつ辛つらい厭いやなことでもいひ出だされるかと案あんずるやうに怖おづ/\いつた。

「どうしたっていうんじゃないが、この間の晩のことを知ってるかね」

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「どうしたつていふんぢやないが、此この間あひだの晩ばんのことを知しつてるかね」

「何でしょうね、おかみさん」

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「何なんでがせうね、お内儀かみさん」

「夜中にあのとうもろこしを切らせたことだがね。実はあの時はね、警察のほうが間に合わなければ、お前に盗らないとどこまでも言わせておいて、そうして旦那が帰ってからのことと思ったもんだから。それにはお前が白状してしまっても困るし、自分の畑がそっくりしていてもまずいからね。それも今になっちゃ、何もそんなことしなくてもよかったようなものだが、その時は私もどうかしてと思ってね。それだが、おつぎが度胸のあるのには私も驚いたよ」

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「夜中よなかにあの蜀黍もろこし伐きらせたことだがね、實じつはあの時ときはね、警察けいさつの方はうが間まに合あはなければお前まへに盜とらないと何處どこまでもいはして置おいて、さうして旦那だんなが歸かへつてからのことと思おもつたもんだから、それにやお前まへが白状はくじようして畢しまつても困こまるし、自分じぶんの畑はたけがそつくりして居ゐても不味まづいからね、それも今いまに成なつちや何なにもそんなこと仕しなくつても善よかつたやうなものだが、其その時ときは私わたしもどうかしてと思おもつてね、それだがおつぎが度胸どきようのあるのぢや私わたしも喫驚びつくりしたよ」

おかみさんは言った。

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内儀かみさんはいつた。

「へえ、わしもおつうに聞きました。鎌が一挺見えないもんだからどうしたと言ったら、おかみさんが言うから切ったんだなんて。そんでも鎌は笹の中にありましたっけや」

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「へえわしもおつうに聞ききあんした、鎌かま一挺ちやう見めえねえもんだからどうしたつちつたら、お内儀かみさんいふから伐きつたんだなんて、そんでも鎌かまは笹さゝん中なかに有ありあんしたつけや」

「そうかい。どんな鎌だか、おつぎは心配していたからね」

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「さうかい、どんな鎌かまだかおつぎは心配しんぱいして居ゐたからね」

「なあに、もう、減っちまった鎌だから惜しくはないんですがね」

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「なあにはあ、減へつちやつた鎌かまだから惜をしかあねえんですがね」

「おつぎのことは、そんなことでは無闇に怒らないようにしなよ。面倒を見てね」

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「おつぎのことはそんなことでは無闇むやみに怒おこらないやうにしなよ、面倒めんだう見みてね」

「それから、わしもおかみさん、こうして独りで辛抱してるんでがすが、わしらの女房も死ぬ時には子供らのことは心配したんでがすからね。それからわしも、おつうが行きたいと言うもんだからお針にもやりますしね。たすきなんぞもほしいほしいと言うもんだから、わしらみたいな貧乏人には余計なもんではありますが、赤いのを買ってやったんでがす。こういうことをして、おかみさんの所へも小作の借りも持って来ないで済まないんですが、女房のひとえ物も質に入れてたのを出してやったんでがすがね。畑へなんぞ出るのにはあまり過ぎ物なんだが、それ一枚きりだから、わしも構わないで見てるのさ。そんだがおかみさん、不思議と汚しませんからね」

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「それからわしもお内儀かみさん、恁かうして獨ひとりで辛抱しんばうしてんでがすが、わし等ら嚊かゝあも死しぬ時ときにや子奴等こめらこたあ心配しんぺえしたんでがすかんね、夫それからわしもおつうが行いきてえつちもんだからお針はりにも遣やりあんすしね、襷たすきなんぞも欲ほしい/\つちもんだからわし等ら見みてえな貧乏人びんばふにんにや餘計よけいなもんぢやありあんすが赤あけえの買かつて遣やつたんでがさ、此これさうだことしてお内儀かみさん處とこへも小作こさくの借さがりも持もつて來きねえで濟すまねえんですが、嚊かゝあが單衣物ひてえものも質しちに入せえてたの出だして遣やつたんでがすがね、畑はたけへなんぞ出でんのにや餘あんまり過すぎ物ものなんだが、それ一枚めえ切きりだからわしも構かまあねえで見みてんのせ、そんだがお内儀かみさん奇態きたえに汚よごしあんせんかんね」

勘次は最後の一言に力を入れて言った。

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勘次かんじは最後さいごの一語ごに力ちからを入いれていつた。

「そうだよ、そうしてやれば励みが違うからね」

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「さうだよ、さうして遣やれば勵はげみが違ちがふからね」

おかみさんは言って、また

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内儀かみさんはいつて又また

「おつぎもよく働けるようになったね。それだが、この間のような所を見ると、死んだお品が乗り移ったかと思うようさね」

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「おつぎも能よく働はたらけるやうに成なつたね、それだが此この間あひだのやうな處ところを見みると死しんだお品しなが乘のり移うつつたかと思おもふやうさね」

「わしももう、あれのことには驚いたことがあるんでがすがね」

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「わしもはあ、あれがこたあ魂消たまげてつことあんでがすがね」

「そう言っちゃ何だが、お品もずいぶんお前では気をもんで苦労したこともあるからね」

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「さういつちや何なんだがお品しなも隨分ずゐぶんお前まへぢや意地いぢ燒やいて苦勞くらうしたことも有あるからね」

「へえ、わしはもう怖くて仕方がないんですから。わしが出られない所へは女房ばかり出て出てしたんでがすから」

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「へえ、わしやはあ可怖おつかなくつて仕しやうねえんですから、わし出でらんねえ處ところへは嚊かゝあばかり出でえ/\仕したんでがすから」

「そうだったねえ」

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「さうだつけねえ」

おかみさんは微笑して

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内儀かみさんは微笑びせうして

「おつぎは心持ちまでおふくろのほうだね。お前の姉だが、おつたはああいう性質なのに、一つ腹から出ても違うもんだね」

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「おつぎは心持こゝろもちまでお袋ふくろの方はうだね、お前まへの姊あねだがおつたはあゝいふ性質たちなのに一つ腹はらから出でても違ちがふもんだね」

「わしらの姉はおかみさん、ろくでなしですからね」

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「わし等ら姊あねはお内儀かみさん、碌ろくでなしですかんね」

彼は恥じて、そうして自分を庇うように、その姉というのを卑下して、ひがんだような苦笑を敢えてした。

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彼かれは恥はぢてさうして自分じぶんを庇護かばふやうに其その姊あねといふのを卑下くさして僻ひがんだやうな苦笑くせうを敢あへてした。

「おつたは今どこにいるね」

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「おつたは今いま何處どこに居ゐるね」

「下のほうにいますがね。わしは行き来なしでさ。同胞だとは思わないからと、わしが断ったんでがすから。わしらの女房が死んだ時だって来もしないんですからね。おかみさん、そういう者はありますまいね」

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「下しもの方ほうに居ゐあんすがね、わしは往來いきゝなしでさ、同胞きやうでえだたあ思おもはねえからつてわし斷ことわつたんでがすから、わし等ら嚊かゝあ死しんだ時ときだつて來きもしねえんですかんね、お内儀かみさんさうえ者もなあ有ありあんすめえね」

「そうだったっけかね」

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「さうだつけかね」

「わしは姉には、とうとう小作に持って行こうと思ってたのを一俵ぺてんに掛けられたことがあるんですから。自分のを始末すればすぐ返すからと持って行って、それっきりなんでさ。わしらの女房が生きてるころなもんだから、女房がとろっぴ催促に行き行きしたんだが、なくちゃやられないからと喧嘩を吹っかけるっていうんだから、女房も忌々しがっていたが、先方が不法なんだからだめでさね。それどころじゃない、盲になった自分の餓鬼の銭さえ騙して叩くんだから」

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「わしや、姊あねにや到頭たうとう小作こさくに持もつてくべと思おもつてたの一俵ぺうぺてんに掛かけられたことあんですから、自分じぶんのが始末しまつすれば直すぐ返けえすからつて持もつて行いつてそれつ切きりなんでさ、わし等ら嚊かゝあ生いきてる頃ころなもんだから、嚊かゝあとろつぴ催促せえそくに行いき/\したんだが、無なくつちや遣やらんねえからつて喧嘩けんくわ吹ふつ掛かけるつちんだから嚊かゝあも忌々敷えめえがしがつて居ゐたが先さきが不法ふはふなんだから駄目だめでさね、それ處どこぢやねえ、盲目めくらに成なつた自分じぶんの餓鬼がきの錢ぜにせえ騙だまして叩はたくんだから」

「盲というのはどうしたんだね、それは」

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「盲目めくらといふのはどうしたんだねそれは」

「野田へ醤油屋奉公に行っていて、あまり飯を食い過ぎたのが原因で目へ出たなんて言うんですが、二十くらいで潰れちまったんでさ。そうしたら、それをうっちゃって夜逃げみたいにさ、まるで。自分の村にだっていられなくなったんでがすから」

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「野田のだへ醤油屋奉公しやうゆやばうこうに行いつてゝ餘あんまり飯めし食くひ過すぎたの原因もとで眼めへ出でたなんていふんですが、廿位はたちぐれえで潰つぶれつちやつたんでさ、さうしたらそれ打棄うつちやつて夜遁よにげ見みてえせまるで、自分じぶんの村落むらにだつて居ゐらんなく成なつたんでがすから」

「そういうことがねえ、よくできたもんだね。自分の本当の子をねえ、まあ。おつたはひどいということは聞いてはいたがねえ」

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「さういふことがねえ、能よく出來できたもんだね、自分じぶんの本當ほんたうの子こをねえまあ、おつたは酷ひどいといふことは聞きいちや居ゐたがねえ」

おかみさんは驚いた様子で言った。

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内儀かみさんは驚おどろいた容子ようすでいつた。

「そんだが、おかみさん、その盲が不思議で、麦搗きでも米搗きでも畑を耕すのでも、何でも百姓仕事はやるんでさ。薄明かりには見えるんだなんて言うんだが、そんでも不思議なのさ、どうも。そんで、ごく堅い者だから他人にも面倒を見られて、それくらいだから銭も持ってるんでさ。そうしたらどこで聞いたか来て騙して連れて行ってね。ええ、わしらの姉さえ、おかみさん」

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「そんだがお内儀かみさん其その盲目めぐら奇態きたえで、麥搗むぎつきでも米搗こめつきでも畑耕はたけうねえでも何なんでも百姓仕事ひやくしやうしごとは行やんでさ、薄うすら明あかりにや見めえんだなんていふんだがそんでも奇態きたえなのせどうも、そんで極ごく堅かてえもんだから他人ひとにも面倒めんどう見みられて其その位くれえだから錢ぜにも持もつてんでさ、さうしたら何處どこで聞きいたか來きて騙だまして連つれてつてね、えゝわしら等ら姊あねせお内儀かみさん」

彼は目をつり上げた。

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彼かれは目めを峙そばだてた。

「盲もさすがにおふくろだから、不自由になっちゃ他人の所なんぞよりはいいと思ったんでしょうね。そうしたらおかみさん、盲が銭を叩いちまったらまたうっちゃって。聞いてみちゃひどい話なのさ、本当に。その時には盲もわしの所へ泣きついて来て、わしももう、二十過ぎにもなっていくらなんだって騙されるなんて、盲のことも忌々しいようでがしたが、わしもその時は女房に死なれた当座なもんだから、そう薄情なこともできないと思って。そんでも一晩泊めて、わしも困ってはいたが、穀物もちっとはやったのさ。わしはおかみさん、女房を殺してからというものは、乞食にだって手づかみで物を出したことはないんでがすからね。そら、おつうにももう断っておくんでがすから。わしはおかみさん、それだけは心掛けてるんでがすよ」

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「盲目めくらも有繋まさかお袋ふくろだから畸形かたわに成なつちや他人ひとの處とこなんぞよりやえゝと思おもつたんでがせうね、さうしたらお内儀かみさん盲目めくらが錢ぜに叩はたいつちやつたら又また打棄うつちやつて、聞きいて見みちや酷ひでえ噺はなしなのせ本當ほんたうに、そん時ときにや盲目めくらもわしが處とこへ泣なきついて來きて、わしもはあ、二十先はたちさきにも成なつて幾いくらなんだつて騙だまさつるなんて盲目めくらことも忌々敷えめえましいやうでがしたが、わしも其そん時ときや嚊かゝあに死しなれた當座たうざなもんだからさう薄情はくじやうなことも出來できねえと思おもつて、そんでも一晩ばん泊とめて、わしも困こまつちや居ゐたが穀こくもちつたあ遣やつたのせ、わしやお内儀かみさん嚊かゝあおつ殺ころしてからつちものは乞食こじきげだつて手攫てづかみで物もの出だしたこたあねえんでがすかんね、そらおつうげもはあ斷ことわつて置おくんでがすから、わしやお内儀かみさん其それ丈だけは心掛こゝろがけてんでがすよ」

勘次は、おかみさんの心の裡に潜んでいる何物かを求めるような態度で言った。

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勘次かんじは内儀かみさんの心裡こゝろに伏在ふくざいして居ゐる何物なにものかを求もとめるやうな態度たいどでいつた。

「そうだともさね。そういう心掛けでいさえすりゃ、けっして間違いはないからね」

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「さうだともさね、さういふ心掛こゝろがけで居ゐさへすりや決けつして間違まちがひはないからね」

おかみさんは言って、さらにさっきからの話にいくらか釣り込まれているようで

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内儀かみさんはいつて更さらに以前いぜんからの噺はなしに幾いくらか釣つり込こまれて居ゐるやうで

「そりゃそうと、その盲はどうしたね」

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「そりやさうと其その盲目めくらはどうしたね」

「村にいますさ。どこと言ったって行き場所はないんですから。なあに、独りでさえありゃ、かえって懐はいいんでがすから」

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「村落むらに居ゐあんさ、何處どこつちつたつて行ゆき場所ばしよはねえんですから、なあに獨ひとりでせえありや却けえつて懷ふところはえゝんでがすから」

「それはまあ、おつたはそうとしても、それがさ、彦次はどうしたんだね。私もおつたのことはしばらく前に見たっきりだが」

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「それはまあ、おつたはさうとしても、それがさ、彦次ひこじはどうしたんだね、私わたしもおつたのことは暫しばらく前まへに見みたつ切きりだが」

「おかみさん、夫婦揃ってなくっちゃやれるもんじゃありませんぞ。親父だっておかみさん、自分の女の子を女郎に売って百五十円とか言いましたっけが、その帰りに軍鶏喧嘩に引っ掛かって七十円も奪られて来たっていうんでがすから、話にはならないですよ。そっから、わしは姉ら夫婦のことは大嫌いなんでさあ」

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「お内儀かみさん、夫婦ふうふ揃そろつてなくつちや行やれるもんぢやありあんせんぞ、親爺おやぢだつてお内儀かみさん自分じぶんの女あまつ子こ女郎ぢよらうに賣うつて百五十兩りやうとかだつていひあんしたつけがそれ歸けえりに軍鷄喧嘩しやもげんくわへ引ひつ掛かゝつて、七十兩りやうも奪とられて來きたつちんでがすから噺はなしにや成なんねえですよ、そつからわしや姊等夫婦あねらふうふのこたあ大嫌だえきれえなんでさあ」

「本当とは思えないようなことだね」

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「本當ほんたうとは思おもへないやうなことだね」

「おかみさん、本当ですともね。わしは嘘なんざおかみさんに言いませんから」

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「お内儀かみさん本當ほんたうですともね、わしあ嘘ちくなんざお内儀かみげいひあんせんから」

「そりゃ本当には相違ないだろうがね」

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「そりや本當ほんたうにや相違さうゐないだらうがね」

「そんだが、おかみさん、その女の子もすぐ逃げて来ちまいましたね。今じゃ何とか言って、いやなら構わないそうでがすね」

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「そんだがお内儀かみさん、其その女あまつ子こも直すぐ遁にげて來きつちめえあんしたね、今いまぢや何なんとか云いつて厭やだら構かまあねえ相さうでがすね」

「私もそんなことは知らないが、新聞で騒ぎはあったようだったね」

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「私わたしもそんなことは知しらないが、新聞しんぶんで騷さわぎはあつたやうだつけね」

おかみさんは、どこかそういう話には気が乗らないようで

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内儀かみさんは何處どこかさういふ噺はなしには氣きが乘のらぬやうで

「おつたも見たところじゃ体裁がよくてね」

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「おつたも見みた處ところぢや體裁ていさいがよくてね」

「そうなんでさ。うまいもんだから、わしもとうとう米一俵損させられちまって」

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「さうなんでさ、うまいもんだからわしも到頭たうとう米こめ一俵ぺう損そんさせられちやつて」

勘次はそれを言うたびに、惜しそうな様子が見えるのである。

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勘次かんじはそれをいふ度たびに惜をし相さうな容子ようすが見みえるのである。

「そう言っちゃお前の姉のことを悪くばかり言うようだが、舅が鬼怒川へ落ちて死んだなんて大騒ぎしたことがあったっけねえ」

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「さういつちやお前まへの姊あねのこと惡わるくばかりいふやうだが、舅しうとが鬼怒川きぬがはへ落おちて死しんだなんて大騷おほさわぎしたことが有あつたつけねえ」

「そうでさ。よっぽどになりますがね。ありゃ鬼怒川へ蚤を叩くと言って行って、それっきりになっちまったのさ」

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「さうでさ、餘よつ程ぽどに成なりあんすがね、ありや鬼怒川きぬがはへ蚤のみ叩はたくつて行いつてそれつ切きりに成なつちやつたのせ」

「彦次は実の子なんだね」

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「彦次ひこじは實子じつしなんだね」

「ええ、しばらく目が不自由で、別に小さく作って隠居してたんですが、蚤はいた様子なんでがすね。一度なんざあ畑のそばで叩いたら、そこらを通った人がみんなぞよぞよとはい上がられてひどい目に遭ったっていうんですから。そんで、そこらで叩いちゃ仕方がないからなんて言われたんでしょうね。それから何でも、ござを持って鬼怒川へ行くつもりになったんでがすね。鬼怒川まではさすがによっぽどありますさね。足元が本当じゃないから、ずぶりとのめっちまったもんでさ。本当にあっけない話で。それ、おかみさん、わしらの姉は、他人が死骸を見つけて大騒ぎして知らせに来たら、すぐもう死人の着物から始末して掛かったっていうんですから」

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「えゝ、暫しばらく目めが不自由ふじいうで別べつに小ちひさく作つくつて隱居いんきよしてたんですが、蚤のみは居ゐた容子ようすなんでがすね、一度どなんざあ畑はたけの側そばで叩たてえたら其處そこら通とほつた人ひとみんなぞよ/\偃はひ上あがられて酷ひでえ目めに逢あつたちんですから、そんで其處そこらで叩たてえちや仕しやうねえからなんて云いはれたんでがせうね、それから何なんでも蓙ござ持もつて鬼怒川きぬがはさ行ゆく積つもりに成なつたんでがすね、鬼怒川きぬがはまでは有繋まさが餘よつ程ぽどありあんさね、足あしもとが本當ほんたうぢやねえからずんぶらのめつちやつたもんでさ、本當ほんたうに飽氣あつけねえ噺はなしで、それお内儀かみさんわし等ら姊あねは他人ひとが死骸しげえ見付めつけて大騷おほさわぎして知しらせに來きたら、直すぐはあ死人しにんの衣物きものから始末しまつして掛かゝつたつちんですから」

「自分で取ってしまうつもりなんだね」

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「自分じぶんで取とつて畢しまふ積つもりなんだね」

「兄弟らに分けてなんざあやらないつもりなんでさね」

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「兄弟等きやうでえらげ分わけてなんざあ遣やんねえ積つむりなんでさね」

「着物だっていくらもないんだろうがね。それにまあ、どうして川へなんて、そんな遠くへござばかり持ってね。行くうちにはいた蚤もみんな飛んでしまうだろうがね。まあそういうのも巡り合わせだね」

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「衣物きものだつて幾いくらも無ないんだらうがね、それにまあどうして川かはへなんて其麽そんな遠とほくへ蓙ござばかり持もつてね、行ゆくうちにや居ゐた蚤のみもみんな飛とんで了しまふだらうがね、まあさういのも運めぐり合あはせだね」

「もう耄碌してたんでがすから。あんまり耄碌しちゃ嫌がられますからね」

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「はあ耄碌まうろくしてたんでがすから、餘あんまり耄碌まうろくしちや厭やがられあんすかんね」

「嫌がられるって、お前そんなものじゃないよ。舅だもの、婿だの娘だのというものは、余計に気をつけなくちゃならないものなんだね」

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「厭いやがられるつてお前まへそんなものぢやないよ、舅しうとだもの、婿むこだの娘むすめだのといふものは餘計よけい氣きをつけなくちや成ならないものなんだね」

おかみさんはたしなめるように言った。

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内儀かみさんは窘たしなめる樣やうにいつた。

「そりゃそうですがね、おかみさん」

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「そりやさうですがね、お内儀かみさん」

勘次は何だか隠しごとでも暴かれたように慌てて言って、そうして苦笑した。

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勘次かんじは何なんだが隱事いんじでも發あばかれたやうに慌あわてゝいつてさうして苦笑くせうした。

「おつたは本当に舅にはよくしなかったそうだな。自分らのほうの餡には砂糖を入れても、舅のほうへは砂糖を入れなかったなんて、しばらく前に聞いたっけが」

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「おつたは本當ほんたうに舅しうとは善よくしなかつた相さうだな、自分等じぶんらの方はうの饀あんへは砂糖さたうを入いれても舅しうとの方はうへは砂糖さたうを入いれなかつたなんて暫しばらく前まへに聞きいたつけが」

おかみさんは独りで低い声で言った。

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内儀かみさんは獨ひとりで低聲こごゑにいつた。

「どうでしたかね、それは」

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「どうでがしたかねそれは」

勘次はさっきの様子とは違って、にわかに庇いでもするような態度で言った。

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勘次かんじは先刻さつきの容子ようすとは違ちがつて、俄にはかに庇護かばひでもするやうな態度たいどでいつた。

「そんなにしなくたって、いくらも生きやしない老人のことをな」

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「そんなに仕しなくつたつて幾いくらも生いきやしない老人としよりのことをな」

おかみさんはつくづくとまた言った。

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内儀かみさんは熟つくづくと復またいつた。

勘次は余計にしおれた。

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勘次かんじは餘計よけいに萎しをれた。

「勘次も、銭は自分の手から湧かすようにして辛抱してりゃ、つらいことばかりはないから。何でも人間は子供次第だよ。後で厄介にならなくちゃならないんだから、子供の面倒を見ないのは間違いだよ」

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「勘次かんじも錢ぜには自分じぶんの手てから湧わかすやうにして辛抱しんばうしてりや辛つらいことばかり無ないから、何なんでも人間にんげんは子供次第こどもしだいだよ、後あとで厄介やくかいに成ならなくちや成ならないんだから子供こどもの面倒めんだうは見みないな間違まちがひだよ」

おかみさんは励ますように、そうしてしんみりと言った。

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内儀かみさんは勵はげますやうにさうしてしんみりといつた。

しばらく話が途切れた時、勘次は突然

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暫しばらく噺はなしが途切とぎれた時とき勘次かんじは突然とつぜん

「おかみさん、変なことを聞くようでがすが、帯にする布切れはどのくらいあったらいいもんでしょうね」

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「お内儀かみさん變へんなこと聞きくやうでがすが帶おびにする布片きれはどの位くれえ有あつたらえゝもんでがせうね」

と聞いた。

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と聞きいた。

「おつぎにでも締めさせるのかい」

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「おつぎにでも締しめさせるのかい」

「へえ、今のが古くていやだなんてねだられて、いつでもわしは怒るんでがすが。おかみさんの所へも不義理ばかりして、そんな所じゃないと言って聞かせても、みんな赤いのを締めてるもんだから、ほしくて仕方がないんでさ」

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「へえ、今いまのが古ふるくつて厭やだなんて強請ねだれんで、何時いつでもわし怒おこるんでがすが、お内儀かみさん處とこへも不義理ふぎりばかりしてそんな處ところぢやねえつて云ゆつて聞きかせても、みんな赤あけえの締しめてるもんだから欲ほしくつて仕しやうねえんでさ」

「そうだね、帯はまあ一丈っていうんだが、そこらの子の締めるのはどんなものだかさね」

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「さうだね、帶おびはまあ一丈ぢやうつていふんだが、其處そこらの子この締しめるのは什麽どんなものだかさね」

「わしらのおつうは、それ、四尺もあればいいっていうんですがね。それだから、わしはおかみさんにでも聞かないじゃ分からないと思って」

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「わしらおつうはそれ四尺しやくもあればえゝつちんですがね、それだからわしお内儀かみさんにでも聞きかねえぢや分わかんねえと思おもつて」

「そうさ、なるほど。外へ出る所だけあればいいんだから、それには四尺もあったらたくさんだね。こうこっちばかりつければね」

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「さうさ成程なるほど、外そとへ出でる處ところだけ有あれば善いいんだから、それにや四尺しやくもあつたら澤山たくさんだね、斯かうこつちばかり附つければね」

おかみさんは自分の帯へ手を当ててみて言った。

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内儀かみさんは自分じぶんの帶おびへ手てを當あてゝ見みていつた。

「それおかみさん、両方へつけるんだって、こういうふうに縛って中へたぐめた端っこが赤くなくちゃみっともないってね。そんな所はどうでもよかろうと思うんだが、もっともそこは一尺でいいなんて言うんでさ」

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「それお内儀かみさん、兩方りやうはうへ附つけんだつて恁かういに縛しばつて中なかへたぐめた端はじつ子こが赤あかくなくつちや見みつともねえつてね、そんな處ところどうでもよかんべと思おもふんだが、尤もつとも其處そこは一尺しやくでえゝなんて云いふんでさ」

「なるほどね。私らは今までそういうことには気がつかなかったが、結び目も仕事するんだからそんなに大きくなくたって構わないし、四尺五寸もあればまるで新しいように見えるんだね」

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「成程なるほどね、私等わたしら今いままでさういふことにや氣きが附つかなかつたが、結むすび目めも仕事しごとするんだから其麽そんなに大おほきくなくつたつて構かまはないし、四尺しやく五寸すんもあれば丸まるで新あたらしいやうに見みえるんだね」

「そんで、おかみさん、どのくらいしたもんでしょうね、銭は。たんと出るんじゃもう仕方がないが」

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「そんでお内儀かみさん、どの位くれえしたもんでがせうね錢ぜには、たんと出でんぢやはあ仕しやうねえが」

勘次は危ぶむように言った。

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勘次かんじは危あやぶむやうにいつた。

「いくらもしないね、それだけじゃ」

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「幾いくらもしないね、其それ丈だけぢや」

「そんでも、おおよそまあどのくらいしたもんでしょうね」

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「そんでも大凡おほよそまあどの位くれえしたもんでがせうね」

勘次はまた繰り返して促した。

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勘次かんじは又また反覆くりかへして促うながした。

「唐縮緬も近ごろじゃ安くなったから、一尺十二、三銭くらいのものかね。上等で十四、五銭しかしないだろうね」

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「唐縮緬たうちりめんも近頃ちかごろぢや廉やすくなつたから一尺しやく十二三錢位せんぐらゐのものかね、上等じやうとうで十四五錢せんしかしないだらうね」

「そうでがすか。わしはまた大変出るんだとばかり思ってました」

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「さうでがすか、わしやまた大變たいへん出でんだとばかし思おもつてあんした」

「それも反物になってるのを切らせてそうだよ。それからもっと安くもできるのさ。村の店なんぞじゃ銭ばかり取って、虱が潜りそうなのでね」

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「それも反物たんものに成なつてるのを切きらしてさうだよ、それからもつと廉やすくも出來できるのさ、村むらの店みせなんぞぢや錢ぜにばかりとつて虱しらみが潜もぐり相さうなのでね」

おかみさんは微笑した。

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内儀かみさんは微笑びせうした。

「そういう短いのは端布で買うに限るのさ。いくらにもつかないもんだよ。私が近ごろ出るついでもあるから、買って来てやってもいいよ」

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「さういふ短みじかいのは端布片はしぎれで買かふに限かぎるのさ、幾いくらにもつかないもんだよ、私わたしが近頃ちかごろ出でる序ついでもあるから買かつて來きて遣やつても善いいよ」

「そうですか。そんじゃおかみさん、どうかそうしておくんなせえ。おかみさんに見てもらいさえすりゃ大丈夫でがすから。なあに、赤くさえありゃどんなんでも構わないんでがすがね」

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「さうですか、そんぢやお内儀かみさんどうかさうしておくんなせえ、お内儀かみさんに見みて貰もれえせえすりや大丈夫だえぢようぶでがすから、なあに赤あかくせえありや什麽どんなんでも構かまあねえんでがすがね」

「一日お前が日雇いに来さえすりゃそれだけは出てしまうから、ほしいというものならこしらえてやるがいいよ。そりゃほしいはずさ、おつぎも明ければ十八になるんだったね」

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「一日にちお前まへが日傭ひように來きさへすりやそれ丈だけは出でて畢しまふから、欲ほしいといふものなら拵こしらへて遣やるが善いいよ、そりや欲ほしい筈はずさおつぎも明あければ十八に成なるんだつけね」

おかみさんは同情して言った。

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内儀かみさんは同情どうじやうしていつた。

「わしに怒られるもんだから、陰でぐずぐず言って困るんでさ」

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「わしに怒おこらつるもんだから蔭かげでぐず/\云ゆつて困こまんでさ」

勘次はさらに

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勘次かんじは更さらに

「そんじゃまあよかった。わしらはそんなことはちっとも分からないから、それでもうおかみさんに聞いてみようと思ってたのさ」

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「そんぢやまあ善よかつた、わし等らそんなこたあちつとも分わかんねえから、夫それからはあお内儀かみさんに聞きいてんべと思おもつてたのせ」

と言って、どことなくそわそわと喜ばしさを抑えられないもののようである。

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といつて何處どことなくそわ/\と悦よろこばしさを禁きんじ得えないものゝ如ごとくである。

「女の子はこれで飾りだから、他人にも見られるからね」

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「女をんなの子こは此これで飾かざりだから他人ひとにも見みられるからね」

おかみさんは懇ろに言った。

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内儀かみさんは懇ねんごろにいつた。

「わしらは自分じゃどんなぼろだって構わないが、これで女の子にはねえ。わしもこれで、おかみさんに聞くまでには心配しましたよ」

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「わし等ら自分じぶんぢや什麽どんな襤褸ぼろだつて構かまあねえが此これで女あまつ子こにやねえ、わしもこんでお内儀かみさんに聞きく迄までにや心配しんぺえしあんしたよ」

勘次は、わずかな帯のことが大きな事件の解決でも与えられたように、心の底から勢いづいて、おかみさんの前に感謝した。

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勘次かんじは僅わづかな帶おびのことが大おほきな事件じけんの解決かいけつでも與あたへられたやうに心こゝろの底そこから勢いきほひづいて内儀かみさんの前まへに感謝かんしやした。

一一

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一一

勘次はきわめて狭い周りを持っている。

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勘次かんじは極きはめて狹せまい周圍しうゐを有いうして居ゐる。

しかし彼のやせた小さな体は、その狭い周りと反発しているような関係が、自然に成り立っている。

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然しかし彼かれの痩やせた小ちひさな體躯からだは、其その狹せまい周圍しうゐと反撥はんぱつして居ゐるやうな關係くわんけいが自然しぜんに成立なりたつて居ゐる。

彼はけっして他人と争いを起こした例もなく、むしろきわめて穏やかな態度を保っている。

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彼かれは決けつして他人たにんと爭鬪さうとうを惹ひき起おこした例ためしもなく、寧むしろ極きはめて平穩へいをんな態度たいどを保たもつて居ゐる。

ただ彼らのような貧しい暮らしの者は、互いに疑いと嫉妬との目をつり上げている。

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唯たゞ彼等かれらのやうな貧まづしい生活せいくわつの者ものは相互さうごに猜忌さいぎと嫉妬しつととの目めを峙そばだてゝ居ゐる。

勘次は異常な労働によって報酬を得ようとする一方で、一銭といえども容易にその懐を減らすまいとのみ心掛けている。

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勘次かんじは異常いじやうな勞働らうどうによつて報酬はうしうを得えようとする一方ぱうに一錢せんと雖いへども容易よういに其その懷ふところを減げんじまいとのみ心懸こゝろがけて居ゐる。

彼らのような低い階級の間でも、互いの付き合いを少しでも壊さないようにするには、そこには必ず、それに対して金銭の若干が犠牲にされねばならない。

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彼等かれらのやうな低ひくい階級かいきふの間あひだでも相互さうごの交誼かうぎを少すこしでも破やぶらないやうにするのには、其處そこには必かならず其それに對たいして金錢きんせんの若干じやくかんが犧牲ぎせいに供きようされねばならぬ。

絶対にその犠牲を惜しむ者は、他人の憎しみを買うに至らないまでも、互いの間は疎遠にならねばならない。

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絶對ぜつたいに其その犧牲ぎせいを惜をしむものは他たの憎惡ぞうをを買かふに至いたらないまでも、相互さうごの間あひだは疎略そりやくにならねばならぬ。

しかしそんなことは、勘次を苦しめてその卑しい心の何かを引き戻す力を持っていないのみでなく、ほとんど何の響きも彼の心に伝えるものではない。

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然しかし其麽そんなことは勘次かんじを苦くるしめて其そのさもしい心こゝろの或ある物ものを挽囘ばんくわいさせる力ちからを有いうして居ゐないのみでなく、殆ほとんど何なんの響ひゞきをも彼かれの心こゝろに傳つたふるものではない。

彼はただ、その日その日の暮らしが自分の心にいくらでも余裕を与えてくれればとのみ焦っているのである。

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彼かれは只たゞ其その日ひ/\の生活せいくわつが自分じぶんの心こゝろに幾いくらでも餘裕よゆうを與あたへて呉くれればとのみ焦慮あせつて居ゐるのである。

彼の心を満足させる程度は、たとえば目の前にある低い竹の垣根を壊して、一歩足をその中に踏み入れるだけのことに過ぎないのである。

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彼かれの心こゝろを滿足まんぞくせしめる程度ていどは、譬たとへば目前もくぜんに在ある低ひくい竹たけの垣根かきねを破壤はくわいして一歩ぽ足あしを其その域内ゐきないに趾あとつけるだけのことに過すぎないのである。

しかも竹の垣根は朽ちている。

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然しかも竹たけの垣根かきねは朽くちて居ゐる。

朽ちた低い竹の垣根は、その強い手の力をもって壊すのに何の造作もないはずであるが、手の先を触れさせることさえできないでいるのである。

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朽くちた低ひくい竹たけの垣根かきねは其その強つよい手ての筋力きんりよくを以もつて破壤はくわいするに何なんの造作ざうさもない筈はずであるが、手ての先端せんたんを觸ふれしめることさへ出來できないで居ゐるのである。

彼は長い時間、氷雪の間を渡った後、一杯の冷たいつるべの水を注ぐことによって、快い暖かさをその赤くなった足に感じるように、わずかな何かが彼の顔面のひがんだ筋を伸ばすのに十分であるのに、彼はその冷水の一杯さえ空しく求めつつあったのである。

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彼かれは長ながい時間じかん氷雪ひようせつの間あひだを渉わたつた後のち、一杯ぱいの冷つめたい釣瓶つるべの水みづを注そゝぐことによつて快こゝよよい暖氣だんきを其その赤あかく成なつた足あしに感かんずる樣やうに、僅少きんせうな或ある物ものが彼かれの顏面がんめんの僻ひがんだ筋すぢを伸のべるに十分ぶんであるのに、彼かれは其その冷水れいすゐの一杯ぱいをさへ空むなしく求もとめつゝあつたのである。

自然にできあがっている階級の違いを持っている者、または長い間彼の暮らしの内情を知り尽くしている者からは、彼は同情の目をもって見られているけれども、こせこせとしたその態度と、疑い深そうなその顔つきとは、そこに憎むべき何物も存在していないにしても、とうてい彼らの仲間のすべてと溶け合うべき理由のものではない。

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自然しぜんに形かたちづくられて居ゐる階級かいきふの相違さうゐを有いうして居ゐる者もの又または長ながい間あひだ彼かれの生活せいくわつの内情ないじやうを知悉ちしつして居ゐる者ものからは彼かれは同情どうじやうの眼まなこを以もつて視みられて居ゐるけれども、こせ/\とした其その態度たいどと、狐疑こぎして居ゐるやうな其その容貌ようばうとは其處そこに敢あへて憎惡ぞうをすべき何物なにものも存在そんざいして居ゐないにしても到底たうてい彼等かれらの伴侶なかまの凡すべてと融和ゆうわさるべき所以ゆゑんのものではない。

彼は彼らの仲間にあっては、幾度か言いふらされているとおり、水に落とした菜種油の一滴である。

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彼かれは彼等かれらの伴侶なかまに在あつては、幾度いくたびかいひふらされて居ゐる如ごとく水みづに落おとした菜種油なたねあぶらの一滴てきである。

水が動く時、油は従って動かねばならない。

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水みづが動うごく時とき油あぶらは隨したがつて動うごかねば成ならぬ。

水が傾く時、油はまた傾かねばならない。

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水みづが傾かたむく時とき油あぶらは亦また傾かたむかねば成ならぬ。

しかし水が静けさを保つ時、油はさらに恐れたように一か所に凝り固まる。

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併しかし水みづが平靜へいせいの度どを保たもつ時とき油あぶらは更さらに怖おそれたやうに一所しよに凝集ぎようしふする。

両者の間には何もその性質を変えさせるべき働きが起こるでもなく、それは水が油をのけ者にするのか、油が水を弾くのか、ついに溶け合う機会がないのである。

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兩者りやうしやの間あひだには何等なんら其その性質せいしつを變化へんくわせしむべき作用さようの起おこるでもなく、其それは水みづが油あぶらを疎外そぐわいするのか、油あぶらが水みづを反撥はんぱつするのか遂つひに溶とけ合あふ機會きくわいが無ないのである。

これをかき乱す他の力が加えられなければ、両者はただ静かである。

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之これを攪亂かうらんする他たの力ちからが加くはへられねば兩者りやうしやは唯たゞ平靜へいせいである。

村の空気が静かであるように、勘次と他のすべてとの間もきわめて静かで、それで相容れないのである。

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村落むらの空氣くうきが平靜へいせいである如ごとく、勘次かんじと他たの凡すべてとの間あひだも極きはめて平靜へいせいでそれで相あひ容いれないのである。

勘次はその菜種油のように、櫟林と接しながら村の西の端に片寄っていて、親子三人がただ凝り固まったような状態を保って落ち着いているのである。

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勘次かんじは其その菜種油なたねあぶらのやうに櫟林くぬぎばやしと相あひ接せつしつゝ村落むらの西端せいたんに僻在へきざいして親子おやこ三人にんが只たゞ凝結ぎようけつしたやうな状態じやうたいを保たもつて落付おちついて居ゐるのである。

偶然に起こった彼の恥知らずな行いが、にわかに村の耳目を驚かせても、とにもかくにも一家を処理して行かねばならないすべての者は、彼らに共通な聞きたがり知りたがる性情に駆られながらも、むしろ地味で移り気な心が、際限もなく一つを追うには、年齢があまりに彼らを冷静な方向に傾かせている。

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偶然ぐうぜんに起おこつた彼かれの破廉耻はれんちな行爲かうゐが俄にはかに村落むらの耳目じもくを聳動しようどうしても、兎とにも角かくにも一家かを處理しよりして行ゆかねばならぬ凡すべての者ものは、彼等かれらに共通きようつうな聞ききたがり知しりたがる性情せいじやうに驅かられつゝも、寧むしろ地味ぢみで移氣うつりぎな心こゝろが際限さいげんもなく一ひとつを逐おふには年齡ねんれいが餘あまりに彼等かれらを冷靜れいせいな方向はうかうに傾かたむかしめて居ゐる。

それでなくても、その知りたがり聞きたがる性情を刺激すべきことは、些細であるとはいいながら次々に彼らの耳に聞こえるので、勘次のみが問題ではなくなるのである。

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それでなくても其その知しりたがり聞ききたがる性情せいじやうを刺戟しげきすべきことは些細ささいであるとはいひながら相あひ尋ついで彼等かれらの耳みゝに聞きこえるので勘次かんじのみが問題もんだいでは無なくなるのである。

しかしながら、若い衆と呼ばれる青年の一部は、勘次の家に絶えず注目を怠らない。

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然しかしながら若わかい衆しゆと稱しようする青年せいねんの一部ぶは勘次かんじの家いへに不斷ふだんの注目ちうもくを怠おこたらない。

それは、おつぎの姿を忘れ去ることができないからである。

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其それはおつぎの姿すがたを忘わすれ去さることが出來できないからである。

かりそめにも血の巡りが彼らの体に止まらないかぎりは、いったん心に映った女の姿を、めいめいの胸から消し去ることは不可能でなければならない。

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苟且かりそめにも血液けつえきの循環じゆんくわんが彼等かれらの肉體にくたいに停止ていしされない限かぎりは、一旦たん心こゝろに映うつつた女をんなの容姿かたちを各自かくじの胸むねから消滅せうめつさせることは不可能ふかのうでなければならぬ。

しかし彼らは、一方に持っている矛盾した恥じらいの念に抑えられて、燃えるような心からひそかに、はかない目の光を主として夜に向かって注ぐのである。

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然しかし彼等かれらは一方ぱうに有いうして居ゐる矛盾むじゆんした羞耻しうちの念ねんに制せいせられて燃もえるやうな心情しんじやうから竊ひそかに果敢はかない目めの光ひかりを主しゆとして夜よに向むかつて注そゝぐのである。

夜は彼らの世界である。

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夜よは彼等かれらの世界せかいである。

熟練な漁師は、大海の波に任せて舷から縄につないだ壺を沈める。

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熟練じゆくれんな漁師れふしは大洋たいやうの波なみに任まかせて舷こべりから繩なはに繼ついだ壺つぼを沈しづめる。

その縄をたぐって、沈めた赤い素焼きの壺が再び舷に引きつけられる時、そこにはじっとして蛸が足の吸盤で内側に吸いついている。

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其その繩なはを探さぐつて沈しづめた赤あかい土燒どやきの壺つぼが再ふたゝび舷こべりに引ひきつけられる時とき、其處そこには凝然ぢつとして蛸たこが足あしの疣いぼを以もつて内側うちがはに吸すひついて居ゐる。

こうして漁師は、鋭い目をもって獲物を外さない道を、波の間に極めているのである。

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恁かうして漁師れふしは烱眼けいがんを以もつて獲物えものを過あやまたぬ道みちを波なみの間あひだに窮きはめて居ゐるのである。

わずかな村の中で、毎日すべての目に見慣れている女の居場所を狙うことは、蛸壺を沈めるような、そんな、むしろあてどもないものではない。

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僅わづかな村落むらの内うちで毎日まいにち凡すべての目めに熟じゆくして居ゐる女をんなの所在ありかを覘ねらふことは、蛸壺たこつぼを沈しづめるやうな其麽そんな寧むしろあてどもないものではない。

木の葉が陰を落としてくれない冬の夜には、狙って歩く彼らは自分の恥じらいの心を、頭からどてらで覆っている。

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木この葉はが陰翳かげを落おとして呉くれぬ冬ふゆの夜よには覘ねらうて歩あるく彼等かれらは自分じぶんの羞耻心しうちしんを頭あたまから褞袍どてらで被おほうて居ゐる。

短い夜のころでも、朝の眠たさがてきめんに自分を苦しめるにもかかわらず、うそうそと歩いてみなければ、臭い古ぼけた蚊帳の中に諦めてその身を横たえることができないのである。

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短みじかい夜よの頃ころでも、朝あさの眠ねむたさが覿面てきめんに自分じぶんを窘たしなめるにも拘かゝはらずうそ/\と歩あるいて見みねば臭くさい古ふるぼけた蚊帳かやの中なかに諦あきらめて其その身みを横よこたへることが出來できないのである。

彼らが女の居場所を狙うのは、きわめて容易なもののようではありながら、蛸壺が少しの妨げもなく沈められるようではなく、父母の目が闇の夜にさえ光を放って、女を彼らから遮ろうとしている。

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彼等かれらが女をんなの所在ありかを覘ねらふのは極きはめて容易よういなものの樣やうではありながら蛸壺たこつぼが少すこしの妨さまたげもなく沈しづめられる樣やうではなく、父母ふぼの目めが闇やみの夜よにさへ光ひかりを放はなつて女をんなを彼等かれらから遮斷しやだんしようとして居ゐる。

彼らはそれで、目の光の及ぶ範囲内には自分の身を現さないで、目的を遂げようと苦心する。

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彼等かれらはそれで目めの光ひかりの及およぶ範圍内はんゐないには自分じぶんの身みを表あらはさないで目的もくてきを遂とげようと苦心くしんする。

たとえてみれば、彼らは狭いとはいいながら跳んでは越せない堀を隔てて、しかも茂った野茨や川柳に身を沈めながら、女の柔らかい手を取ろうとするのである。

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譬たとへて見みれば彼等かれらは狹せばいとはいひながら跳はねては越こせぬ堀ほりを隔へだてゝ、然しかも繁茂はんもした野茨のばらや川楊かはやなぎに身みを沒ぼつしつゝ女をんなの軟やはらかい手てを執とらうとするのである。

それはとうてい、触れ合うことさえ不可能である。

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其それは到底たうてい相あひ觸ふれることさへ不可能ふかのうである。

焦れて堀を飛び越えようとしては、野茨の刺に肌を傷つけたり、泥に着物を汚したり、苦い失敗の味をなめねばならない。

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焦燥あせつて堀ほりを飛とび越こえようとしては野茨のばらの刺とげに肌膚はだを傷きずつけたり、泥どろに衣物きものを汚よごしたり苦にがい失敗しつぱいの味あぢを嘗なめねばならぬ。

それゆえ彼らは、目立たないうちに巧みな手段を施そうとして、そこに工夫が凝らされるのである。

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其それ故ゆゑ彼等かれらは隱約いんやくの間あひだに巧妙かうめうな手段しゆだんを施ほどこさうとして其處そこに工夫くふうが凝こらされるのである。

すでに漁師の手に命を握られている蛸は、力を極めて壺の内側に張りつけば、どんなに強い手の力が袋のようなその頭を持って引こうとも、蛇が体の一部を穴に差し入れたように、ちぎれるまでも離れない。

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既すでに漁師れふしの手てに生命せいめいを握にぎられて居ゐる蛸たこは力ちからを極きはめて壺つぼの内側うちがはに緊着きんちやくすれば什麽どんな強つよい手ての力ちからが袋ふくろのやうな其その頭あたまを持もつて曳ひかうとも、蛇へびが身體からだの一部ぶを穴あなに揷入さうにうしたやうに拗切ちぎれるまでも離はなれない。

刃物で突き刺しても同じである。

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刄物はものを以もつて突つつ刺つあしても同どう一である。

蛸壺の底には必ず小さな穴が開けられてある。

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蛸壺たこつぼの底そこには必かならず小ちひさな穴あなが穿うがたれてある。

尻からふっと息を吹きかけると、蛸は驚いてするりと壺から逃げる。

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臀しりからふつと息いきを吹ふつ掛かけると蛸たこは驚おどろいてすると壺つぼから逃にげる。

それでもなお騙されない時は、小さな穴から熱湯をぽっちりと尻に注げば、蛸は必ず慌てて漁師の前に躍り出る。

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それでも猶旦やつぱり騙だまされぬ時ときは小ちひさな穴あなから熱湯ねつたうをぽつちりと臀しりに注そゝげば蛸たこは必かならず慌あわてゝ漁師れふしの前まへに跳をどり出だす。

熱い一滴によって、容易に蛸は騙されるのである。

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熱あつい一滴てきによつて容易よういに蛸たこは騙だまされるのである。

たとえ見張りの目から逃れて女に近づいたとしても、打ち込んだ女の情が強ければ、蛸壺の蛸が騙されるようにころりと落とす工夫のつくまでは、男は忍耐と、むしろ危険とを併せて凌がねばならない。

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假令たとひ監視かんしの目めから逭のがれて女をんなに接近せつきんしたとしても、打うち込こんだ女をんなの情じやうが強こはければ蛸壺たこつぼの蛸たこが騙だまされる樣やうにころりと落おとす工夫くふうのつくまでは男をとこは忍耐にんたいと寧むしろ危險きけんとを併あわせて凌しのがねば成ならぬ。

そうしてわずかに触れ合った男女が心から引き合う時、互いに他のすべてに対して恐れの念を抱きはじめるのである。

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さうして纔わづかに相あひ接せつした兩性りやうせいが心こゝろから相あひ曳ひく時とき相あひ互たがひに他たの凡すべてに對たいして恐怖きようふの念ねんを懷いだきはじめるのである。

空が夕日の消えて行く光を西の底深く閉ざしてしまって、薄い宵が地を低く覆って夜が来た時、女は井戸端で愉快に唄いながら、一種の調子を持った手の動かしようをして米を研ぐ。

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空そらが夕日ゆふひの消きえ行ゆく光ひかりを西にしの底そこ深ふかく鎖とざして畢しまつて、薄うすい宵よひが地ちを低ひくく掩おほうて夜よが到いたつた時とき女をんなは井戸端ゐどばたで愉快ゆくわいに唄うたひながら一種しゆの調子てうしを持もつた手ての動うごかし樣やうをして米こめを研とぐ。

女は研ぎ桶と唄との二つの音が入り交じりつつある間にも、木陰にたたずむ男の気配を悟るほど、耳の神経が高ぶっている。

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女をんなは研桶とぎをけと唄うたとの二つの聲こゑが錯綜さくそうしつゝある間あひだにも木陰こかげに佇たゝずむ男をとこのけはひを悟さとる程ほど耳みゝの神經しんけいが興奮こうふんして居ゐる。

それが涼しい夏の夜で、女が男を待つ時には、毎日汗に汚れやすい、そうしてその飾りでなければならない手拭いの洗濯に手間取るのである。

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其それが凉すゞしい夏なつの夜よで女をんなが男をとこを待まつ時ときには毎日まいにち汗あせに汚よごれ易やすいさうして其その飾かざりでなければ成ならぬ手拭てぬぐひの洗濯せんたくに暇ひまどるのである。

庭の木陰に身を避けて、しんみりと互いの胸を繰り返す時、茂った柿や栗の木は彼らの唯一の味方で、月夜でさえ深い陰が安全に彼らを包む。

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庭にはの木陰こかげに身みを避さけてしんみりと互たがひの胸むねを反覆くりかへす時とき繁茂はんもした柹かきや栗くりの木きは彼等かれらが唯ゆゐ一の味方みかたで月夜つきよでさへ深ふかい陰翳かげが安全あんぜんに彼等かれらを包つゝむ。

空に冴えた月は、放り出してある手水だらいをのぞいては冷ややかに笑っている。

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空そらに冴さえた月つきは放棄はうきしてある手水盥てうづだらひを覗のぞいては冷ひやゝかに笑わらうて居ゐる。

彼らがあまりに手間取っていれば、月はこっそりと首を傾けて、木の葉の間からのぞいてみる。

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彼等かれらが餘あまりに暇ひまどつて居ゐれば月つきはこつそりと首くびを傾かたむけて木この葉はの間あひだから覗のぞいて見みる。

それでもなお彼らがぐずぐずしていれば、彼らを庇っている木が柿の木であれば、こずえからまだ青い実を投げて、その瞬間、驚きやすい彼らが欺かれて、彼らの仲間のいたずらであるかを疑っては慌てて周りを見る時、茂った大きな葉が涼しい風にさやさやと微笑する。

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其それでも猶なほ彼等かれらが屈託くつたくして居をれば、彼等かれらを庇護ひごして居ゐる木きが柹かきの木きであれば梢こずゑからまだ青あをい實みを投なげて、其その瞬間しゆんかん驚おどろき易やすい彼等かれらが欺あざむかれて、彼等かれらの伴侶なかまの惡戯あくぎであるかを疑うたがうては慌あわてゝ周圍しうゐを見みる時とき、繁茂はんもした大おほきな葉はが凉すゞしい風かぜにさや/\と微笑びせうする。

彼らはこうして、家の中から声を立てて激しく呼ばれるまでは、恐れ恐れも際限のない話にふけるのである。

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彼等かれらはかうして家いへの内うちから聲こゑを立たてゝ劇はげしく呼よばれるまでは怖おそれ/\も際限さいげんのない噺はなしに耽ふけるのである。

彼らがそういう苦心の間に、次の日の体の疲れを犠牲にしてまでも、わずかな時間を向かい合っていながら、互いの顔も見ることができないで、低く殺した声にのみ満足するほかに、彼らは林の中に放たれた時、思い思われるすべてがひたすらに甘い味をむさぼるのである。

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彼等かれらがさういふ苦辛くしんの間あひだに次つぎの日ひの身體からだの疲つかれを犧牲ぎせいにしてまでも僅わづかな時間じかんを相あひ對たいして居ゐながら互たがひの顏かほも見みることが出來できないで低ひくく殺ころした聲こゑにのみ滿足まんぞくする外ほかに、彼等かれらは林はやしの中なかに放はなたれた時とき想おもひ想おもはぬ凡すべてが只管ひたすらに甘あまい味あぢを貪むさぼるのである。

林は彼らの天地である。

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林はやしは彼等かれらの天地てんちである。

落ち葉をかくとて熊手を入れる時、彼らは連れ立って自在にさまようことが黙って許されてある。

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落葉おちばを掻かくとて熊手くまでを入いれる時とき彼等かれらは相あひ伴ともなうて自在じざいに徜徉さまよふことが默託もくきよされてある。

しかし熊手の爪が速やかに木陰の土に跡をつける、その動きさえ、一度は一度と短い日を刻んで行くような冬の季節は、あまりに冷たく彼らの心を引き締めている。

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然しかし熊手くまでの爪つめが速すみやかに木陰こかげの土つちに趾あとつける其その運動うんどうさへ一度どは一度どと短みじかい日ひを刻きざんで行ゆく樣やうな冬ふゆの季節きせつは餘あまりに冷つめたく彼等かれらの心こゝろを引ひき緊しめて居ゐる。

至る所、畑のとうもろこしが葉の間からもさもさと赤い毛を吹いて、その大きな葉がざわざわと人の心を騒がすようになると、男女の群れが長雨の後の茂った林の下草に、研ぎすました草刈り鎌の刃を入れる。

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到いたる處ところ畑はたけの玉蜀黍たうもろこしが葉はの間あひだからもさ/\と赤あかい毛けを吹ふいて、其その大おほきな葉はがざわ/\と人ひとの心こゝろを騷さわがす樣やうに成なると、男女なんによの群むれが霖雨りんうの後あとの繁茂はんもした林はやしの下草したぐさに研とぎすました草刈鎌くさかりがまの刄はを入いれる。

初めは朝早くに馬のまぐさの一籠を刈るに過ぎないけれど、焼けるような日のもとに畑もようやく片がついて、村のすべてがみな草刈りに心を注ぐようになれば、若い同士が誘い合っては、遠く林の小道を分けて行く。

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初はじめは朝あさまだきに馬うまの秣まぐさの一籠かごを刈かるに過すぎないけれど、燬やくやうな日ひのもとに畑はたも漸やうやく極きまりがついて村落むらの凡すべてが皆みな草刈くさかりに心こゝろを注そゝぐ樣やうに成なれば、若わかい同志どうしが相あひ誘さそうては遠とほく林はやしの小徑こみちを分わけて行ゆく。

そうして自分の天地に、その羽をいっぱいに広げる。

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さうして自分じぶんの天地てんちに其その羽はねを一杯ぱいに擴ひろげる。

どこを見てもただ深い緑に閉ざされた林の中に、彼らは唄う声によって互いの居場所を知ったり知らせたりする。

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何處どこを見みても只たゞ深ふかい緑みどりに鎖とざされた林はやしの中なかに彼等かれらは唄うたふ聲こゑに依よつて互たがひの所在ありかを知しつたり知しらせたりする。

彼らのしおらしい者はそれでも、午前の何時間かを懸命に働いて、父なる者の小言を聞かないまでに厩のそばに草を積んでは、午後の何時間かを勝手に費やそうとする。

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彼等かれらのしをらしい者ものはそれでも午前ごぜんの幾時間いくじかんを懸命けんめいに働はたらいて父ちゝなるものゝ小言こごとを聞きかぬまでに厩うまやの傍そばに草くさを積つんでは、午後ごごの幾時間いくじかんを勝手かつてに費つひやさうとする。

一度でもしめやかに語り合った男女が出会えば、彼らは一切を忘れて、それでもさすがに人目だけはいとって、小道から一歩木の間に身を避ける。

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一度どでもしめやかに語かたり合あうた兩性りやうせいが邂逅であへば彼等かれらは一切さいを忘わすれて、それでも有繋さすがに人目ひとめをのみは厭いとうて小徑こみちから一歩ぽ木きの間あひだに身みを避さける。

茂った青草が、そばを行く人にも知られないように、かがんだ彼らをいくらでも覆い隠す。

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繁茂はんもした青草あをぐさが側そば行ゆく人ひとにも知しられぬ樣やうに屈かゞんだ彼等かれらを幾いくらでも掩おほひ隱かくす。

彼らは決まった何の話も持っていないのに、快く冷たい土に座って、ついには手にした鎌の刃先で少しずつ土をほじくりながら、女は白い手拭いの端を微かに動かしては、うつむきながら微笑しながら、際限もなくそこにじっとしていようとする。

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彼等かれらは極きまつた何なんの噺はなしも持もつて居ゐないのに快こゝろよく冷つめたい土つちに坐すわつて、遂つひには手てにした鎌かまの刄先はさきで少すこしづゝ土つちをほじくりつゝ女をんなは白しろい手拭てぬぐひの端はしを微動びどうさせては俯伏つゝぷしなから微笑びせうしながら際限さいげんもなく其處そこに凝然ぢつとして居ゐようとする。

炒りつけるような油蝉の声が彼らの心を揺るがしては、鼻のつまったようなみんみん蝉の声が、その心を溶かそうとする。

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熬いりつける樣やうな油蝉あぶらぜみの聲こゑが彼等かれらの心こゝろを撼ゆるがしては鼻はなのつまつたやうなみん/\蝉ぜみの聲こゑが其その心こゝろを溶とろかさうとする。

藪蚊が彼らの日に焼けた赤い足へ針を刺して、尻がたわらぐみのように血を吸って膨れても、彼らはちくりと刺激を与えられた時に慌ててはたと叩くのみで、蚊が逃げようとも知らない顔である。

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藪蚊やぶかが彼等かれらの日ひに燒やけた赤あかい足あしへ針はりを刺さして、臀しりがたはら胡頽子ぐみの樣やうに血ちを吸すうて膨ふくれても、彼等かれらはちくりと刺戟しげきを與あたへられた時ときに慌あわてゝはたと叩たゝくのみで蚊かが逃にげようとも知しらぬ顏かほである。

暑い日が、草いきれで汗びっしりになっている彼らの体に、時刻が過ぎたと枝の間から強い光を投げかけて促すまでは、まれにはしびれた足を投げ出して、聞きも聞かせもしなくていい話を繰り返してのみいるのである。

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暑あつい日ひが草くさいきれで汗あせびつしりに成なつて居ゐる彼等かれらの身體からだに時刻じこくが過すぎたと枝えだの間あひだから強つよい光ひかりを投掛なげかけて促うながす迄までは、稀まれには痺しびれた足あしを投出なげだして聞ききも聞きかせもしなくて善いい噺はなしを反覆はんぷくしてのみ居ゐるのである。

彼らはこうして時間を空しく費やしては、遠く近く蜩の声が一斉に忙しくめいめいの耳を騒がして、大きな紗で覆ったかと思うように薄い陰が世間を包むと、彼らは慌ててみな家路につく。

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彼等かれらは恁かうして時間じかんを空むなしく費つひやしては遠とほく近ちかく蜩ひぐらしの聲こゑが一齊せいに忙いそがしく各自かくじの耳みゝを騷さわがして、大おほきな紗しやで掩おほうたかと思おもふ樣やうに薄うすい陰翳かげが世間せけんを包つゝむと彼等かれらは慌あわてゝ皆みな家路いへぢに就つく。

どうかしてあまりに遅れると、空の草刈り籠を逆さに背負って、歩けばざわざわと鳴るように、大きな籠の目へ楢や雑木の枝を差して、たそがれの庭に身を運んで、刈り積んだ青草の近くに籠を下ろす。

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どうかして餘あまりに後おくれると空からな草刈籠くさかりかごを倒さかしまに脊負せおつて、歩あるけばざわ/\と鳴なる樣やうに、大おほきな籠かごの目めへ楢ならや雜木ざふきの枝えだを揷さして黄昏たそがれの庭にはに身みを運はこんで刈積かりつんだ青草あをくさに近ちかく籠かごを卸おろす。

父なる者は、蚊柱の立つ厩のそばで、ぶるぶるとたてがみを震わせながら、ぱさりぱさりと尾で尻のあたりを叩いている馬に、まぐさを与えている。

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父ちゝなるものは蚊柱かばしらの立たつてる厩うまやの側そばでぶる/\と鬣たてがみを撼ゆるがしながら、ぱさり/\と尾をで臀しりの邊あたりを叩たゝいて居ゐる馬うまに秣まぐさを與あたへて居ゐる。

母なる者は、青い煙に満ちたかまどの前に立ってはすそをからげながら、明かりをつける余裕もなく、我が子をぶつぶつと待っている。

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母はゝなるものは青あをい烟けぶりに滿みちた竈かまどの前まへに立たつては裾うづくまりつゝ、燈火ともしびを點つける餘裕よゆうもなく我わが子こをぶつ/\と待まつて居ゐる。

こうして忙しさに、楢や雑木の枝で欺いた手段が見つけられないのである。

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恁かうして忙いそがしさに楢ならや雜木ざふきの枝えだで欺あざむいた手段しゆだんが發見はつけんされないのである。

やましい女は、黙って何よりもまず空の手桶を持って井戸端へ駆けて行っては、ざあと水を汲んで、それから汁の実でも切れてなければ、慌ただしくとんとんと包丁の音を立てて、少しずつでも母なる者の小言から逃れようとする。

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うしろめたい女をんなは默だまつて何なによりも先まづ空からな手桶てをけを持もつて井戸端ゐどばたへ驅かけて行いつてはざあと水みづを汲くんでそれから汁しるの身みでも切きれてなければ慌あわたゞしくとん/\と庖丁はうちやうの響ひゞきを立たてゝ、少すこしづゝでも母はゝなるものゝ小言こごとから遁のがれようとする。

狭い庭の垣根に、黄色い蝶がいくつも止まってしきりに羽を動かしているように、一つ一つにひらりひらりと開いては、夜目にもほっかりと匂っている月見草は、自分たちの夜が来たと、駆け歩いている女に対して懐かしそうに目を見開くのである。

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狹せまい庭にはの垣根かきねに黄色きいろな蝶てふが幾いくつも止とまつて頻しきりに羽はねを動うごかして居ゐるやうに一つ/\にひらり/\と開ひらいては夜目よめにもほつかりと匂にほうて居ゐる月見草つきみさうは自分等じぶんらの夜よるが來きたと、駈かけ歩あるいて居ゐる女をんなに對たいして懷なつかし相さうに目めを睜みはるのである。

彼らのある者は、さらに夜の眠りにつく前に、戸口に近く蚊帳の裾にくるまっては、ひそかに雨戸の外に訪れる男を待とうとさえするのである。

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彼等かれらの或ある者ものは更さらに夜よるの眠ねむりに就つく前まへに戸口とぐちに近ちかく蚊帳かやの裾すそにくるまつては竊ひそかに雨戸あまどの外そとに訪おとづるゝ男をとこを待またうとさへするのである。

男は雨戸を開けて忍ぶ時、月が冴えていてさえためらわない。

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男をとこは雨戸あまどを開あけて忍しのぶ時とき月つきが冴さえ居ゐてさへ躊躇ちうちよせぬ。

彼はそれでも、畳の上に差し込む光をいとって、ひさしの近くにむしろを吊る。

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彼かれはそれでも疊た々みの上うへに射さし込こむ光ひかりを厭いとうて廂ひさしに近ちかく筵むしろを吊つる。

ゆがんだ戸がぎしぎしと鳴るのに、それが彼らの西瓜や瓜の畑を襲うころであれば、道端の草むらからくつわむしを捕って行って、雨戸の隙間から放つ。

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歪ゆがんだ戸とがぎし/\と鳴なるのにそれが彼等かれらの西瓜すゐくわや瓜うりの畑はたけを襲おそふ頃ころであれば道端みちばたの草村くさむらから轡蟲くつわむしを捕とつて行いつて雨戸あまどの隙間すきまから放はなつ。

くつわむしは暗い中へ放たれれば、すぐに声を揃えて鳴く。

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轡蟲くつわむしは闇くらいなかへ放はなたれゝば、直たゞちに聲こゑを揃そろへて鳴なく。

土地でそれが一般にがしゃがしゃという名を与えられているだけ、やかましく、ただがしゃがしゃと鳴く。

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土地とちで其それが一般ぱんにがしや/\といふ名稱めいしようを與あたへられて居ゐるだけ喧やかましく只たゞがしや/\と鳴なく。

がしゃがしゃが鳴き出せば、彼らは安心して雨戸をこじるのである。

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がしや/\が鳴なき出だせば彼等かれらは安やすんじて雨戸あまどをこじるのである。

それからまた、箱を転がしたような、隔ての障子さえない小さな家で、女が男を導くとて、どうしても父母の枕元を過ぎねばならない時は、踏めばぎしぎしと鳴る床板に二人の足音を憚って、女は闇に男を背負うのである。

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それから又また箱はこを轉ころがしたやうな、隔へだての障子しやうじさへ無ない小ちひさな家いへで女をんなが男をとこを導みちびくとて、如何どうしても父母ちゝはゝの枕元まくらもとを過すぎねば成ならぬ時ときは、踏ふめばぎし/\と鳴なる床板ゆかいたに二人ふたりの足音あしおとを憚はゞかつて女をんなは闇やみに男をとこを脊負せおふのである。

そこには、たとえ重さが加えられても、それは巧みに疲れて眠い父母の耳を欺くのである。

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其處そこには假令たとへ重量ぢゆうりやうが加くはへられても、それは巧たくみに疲つかれて眠ねむい父母ちゝはゝの耳みゝを欺あざむくのである。

一般の娘の境遇はこのようであって、まれにはひどく叱られることもあって、その時のみはしおれても、明日はたちまち以前に戻って、その性情のままに進んで顧みない。

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一般ぱんの子女しぢよの境涯きやうがいは如此かくのごとくにして稀まれには痛いたく叱しかられることもあつて其その時ときのみは萎しをれても明日あすは忽たちまち以前いぜんに還かへつて其その性情せいじやうの儘まゝに進すゝんで顧かへりみぬ。

おつぎは、そんな仲間と一日でもいっしょにその身を放されたことがないのである。

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おつぎは其麽そんな伴侶なかまと一日にちでも一つに其その身みを放はなたれたことがないのである。

勘次がどんなにやかましくおつぎを押さえても、おつぎがそれで抑えられても、勘次は村の若者がおつぎに思いを掛けることに歯止めをかける、少しの力をも持っていない。

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勘次かんじが什麽どんなに八釜敷やかましくおつぎを抑おさへてもおつぎがそれで制せいせられても、勘次かんじは村むらの若者わかものがおつぎに想おもひを懸かけることに掣肘せいちうを加くはへる些さの力ちからをも有いうして居をらぬ。

すべての村の若者が女を狙おうとする時はずいぶん執念深く、それはちょうど、追えばたちまち逃げる鶏が、どうかして狭く戸口を開けてある穀倉に好む餌を見つけて入ろうとする時、その狭い戸口が身を入れるに足りなければ、いたずらに首を差し込んでは足掻いて足掻いて、そうしてほかへ行ってしまうようなものである。

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凡すべての村落むらの若者わかものが女をんなを覘ねらはうとする時ときは隨分ずゐぶん執念しふねく其それは丁度ちやうど、追おへば忽たちまちに遁にげる鷄とりがどうかして狹せまく戸口とぐちを開ひらいてある穀倉こくぐらに好このむ餌料ゑさを見出みいだして這入はひらうとする時ときに其その狹せまい戸口とぐちが身みを入いるゝに足たりなければ徒いたづらに首くびを揷さし込こんでは足掻あがいて/\さうして他ほかへ行いつて畢しまふ。

それが一度で諦めればそれまでであるけれど、二度三度戸口に立って足掻きはじめれば、去っては来り、去っては来り、首筋の皮が擦りむけて戸口におびただしく血の跡をつけても、執念深く餌を求めて止まないような形でなければならない。

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其それが一度どで斷念だんねんすれば其それ迄までであるけれど、二度ふたたび三度みたび戸口とぐちに立たつて足掻あがき始はじめれば、去さつては來きたり、去さつては來きたり、首筋くびすぢの皮かはが擦すり剥むけて戸口とぐちに夥したゝか血ちの趾あとを印いんしても執念しふねく餌料ゑさを求もとめて止やまぬやうな形かたちでなければならぬ。

めいめいの心に、おつぎをどれほど深く思おうとも、それはめいめいが持つ権利に属している。

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各自かくじの心こゝろにおつぎを何どれ程ほど深ふかく思おもはうともそれは各自かくじが有いうする權能けんのうに屬ぞくして居ゐる。

しかしながら、おつぎへ加えようとするその手を極端に防ごうとすることも、勘次が持つ権利である。

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然しかしながらおつぎへ加くはへようとする其その手てを極端きよくたんに防遏ばうあつしようとすることも勘次かんじが有いうする權能けんのうである。

互いにその権利を越えて他人の領分を侵す時、そこには必ずもめごとが伴われるはずでなければならない。

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相互さうごに其その權能けんのうを越こえて他たの領域りやうゐきを冒をかす時とき其處そこには必かならず葛藤かつとうが伴ともなはれる筈はずでなければ成ならぬ。

若者は寄り集まれば、みな不平の情を語り合って、勝手に勘次を邪魔なこそばゆい者にしていた。

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若者わかものは相あひ聚あつまれば皆みな不平ふへいの情じやうを語かたり合あうて、勝手かつてに勘次かんじを邪魔じやまなこそつぱい者ものにして居ゐた。

そのくせ彼らはみな、互いに自分独りのみがおつぎを得ようとして、及ばない手を伸ばしているのである。

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其その癖くせ彼等かれらは皆みな互たがひに自分じぶん獨ひとりのみがおつぎを獲えようとして及およばぬ手てを延のばして居をるのである。

万一目的が遂げられたことがあったとしても、それはただ一人に限られていて、その他の幾人かは空しく、しかもきわめて軽い不快と嫉妬とから、口々にその一人に向かって嫌味を言って止まねばならない。

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萬まん一目的もくてきが遂とげられたことが有あつたとしても其それは只たゞ一人にんに限かぎられて居ゐて、爾餘じよの幾人いくにんは空むなしく然しかも極きはめて輕かるい不快ふくわいと嫉妬しつととから口々くちぐちに其その一人にんに向むかつて厭味いやみをいうて止やまねば成ならぬ。

しかしながら、ついにその一人が彼らの間に見いだされなかった。

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然しかしながら遂つひに其その一人にんが彼等かれらの間あひだに發見はつけんされなかつた。

彼らの怨みがすべて勘次の一身に集まった。

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彼等かれらの怨恨うらみが凡すべて勘次かんじの一身しんに聚あつまつた。

それでも、あっさりした彼らの怨みは、三人以上が集まって口を開けば必ず笑い声を絶やさないほどのものであった。

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それでも淡白たんぱくな彼等かれらの怨恨うらみは三人にん以上いじやうが聚あつまつて口くちを開ひらけば必かならず笑聲せうせいを絶たたぬ程ほどのものであつた。

怨みというよりも、じれったさであった。

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怨恨うらみといふよりも焦燥じれつたさであつた。

おつぎの身には、こうして事件を引き起こすべき機会が与えられなかった。

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おつぎの身體からだには恁かうして事件じけんを惹ひき起おこすべき機會きくわいが與あたへられなかつた。

それでも、ただ一人おつぎと手を取って語ることにまで近づき得た者があった。

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それでも只たつた一人ひとりおつぎと手てを執とつて語かたることにまで近ちかづき得えたものがあつた。

勘次はどれほど厳重にしても、おつぎが厠に通う時間をさえ、狭い庭の夜の中へ放つことを拒むことはできなかった。

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勘次かんじはどれ程ほど嚴重げんぢうにしてもおつぎが厠かはやに通かよふ時間じかんをさへ狹せまい庭にはの夜よの中なかへ放はなつことを拒こばむことは出來できなかつた。

執念深い一人が、偶然そういう機会を見つけた。

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執念深しふねんぶかい一人にんが偶然ぐうぜんさういふ機會きくわいを發見はつけんした。

彼は、まだ恥じらいと恐れとが全身を支配しているおつぎを捕まえて、ただじっと動かさないまでには、幾度か手を換えて苦心した。

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彼かれは、まだ羞恥はぢと恐怖おそれとが全身ぜんしんを支配しはいして居ゐるおつぎを捕とらへて只たゞ凝然ぢつと動うごかさないまでには幾度いくたびか手てを換かへて苦心くしんした。

勘次が戸の内から呼んでも、厠のそばで返事をするおつぎの声は、最初の間は疑いを抱かせるまでには至らなかった。

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勘次かんじが戸との内うちから呼よんでも厠かはやの側そばで返辭へんじをするおつぎの聲こゑは最初さいしよの間あひだは疑念ぎねんを懷いだかせるまでには至いたらなかつた。

それでも、彼らが心に深く互いの情を刻むまで、疑いの目を見開いている勘次を欺きおおせることはできなかった。

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其それでも彼等かれらが心こゝろに深ふかく互たがひの情じやうを刻きざむまで猜忌さいぎの目めを睜みはつて居ゐる勘次かんじを欺あざむきおほせることは出來できなかつた。

ある晩、勘次はがらっと戸を開けて出た。

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或ある晩ばん勘次かんじはがらつと戸とを開あけて出でた。

激しく開けた戸が、やや朽ちかけた敷居の溝を外れようとして、ぎっしりと固まった。

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劇はげしく開あけた戸とが稍やゝ朽くち掛かけた閾しきゐの溝みぞを外はづれようとしてぎつしりと固着こちやくした。

彼はいらだって戸を叩いて溝に戻すと、そのまま飛び出した。

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彼かれは苛立いらだつて戸とを叩たゝいて溝みぞに復ふくすと其その儘まゝ飛とび出だした。

彼はすぐ自分の近くに、手拭いをかぶったおつぎの姿が徐々に動いて来るのを見た。

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彼かれは直すぐ自分じぶんに近ちかく手拭てぬぐひ被かぶつたおつぎの姿すがたが徐おもむろに動うごいて來くるのを見みた。

それと同時に、ひそかに落ちて行く草履の音が勘次の耳に響いた。

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其それと同時どうじに竊ひそかに落おち行ゆく草履ざうりの音おとが勘次かんじの耳みゝに響ひゞいた。

彼はそれを耳に感じる瞬間、右の手が壁際の木の根に掛かって、木の根は彼の力いっぱいに木陰の闇へ投げられた。

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彼かれは其それを耳みゝに感かんずる瞬間しゆんかん右みぎの手てが壁際かべぎはの木きの根ねに掛かゝつて、木きの根ねは彼かれの力ちから一杯ぱいに木陰こかげの闇やみに投とうぜられた。

木の根はどさりと遠く落ちて、庭の土をえぐって、余勢が幾度かもんどりを打った。

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木きの根ねはどさりと遠とほく落おちて庭にはの土つちをさくつて餘勢よせいが幾度いくどかもんどりを打うつた。

勘次は続いて投げた。

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勘次かんじは續つゞいて擲なげうつた。

曲者はすでに逃げ落ちたけれど、彼の不意の襲撃に慌てて、節くれ立った柿の根につまずいて倒れた。

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曲者くせものは既すでに遁にげ落おちたけれど彼かれの不意ふいの襲撃しふげきに慌あわてゝ節ふしくれ立だつた柹かきの根ねに蹶つまづいて倒たふれた。

彼は次の日、足を引きずらねば歩けないほど足首の関節に痛みを感じたのであった。

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彼かれは次つきの日ひ足あしを引ひきずらねば歩あるけぬ程ほど足首あしくびの關節くわんせつに疼痛とうつうを感かんじたのであつた。

勘次は、ぽつんと立っているおつぎを突きのめすように戸口へ送って、がらりと戸を閉じて掛け金を掛けた。

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勘次かんじはぽつさりと立たつて居ゐるおつぎを突つきのめす樣やうに戸口とぐちに送おくつてがらりと戸とを閉とぢて掛金かけがねを掛かけた。

その夜はまだ、めいめいが一つ加わった年齢の数だけの炒り豆をかじって鬼を追った夜から、いくらも隔たらないので、塩鰯の頭とともに戸口に挿した柊の葉も、いっこうに乾いた様子の見えないほどのことであった。

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其その夜よはまだ各おの/\が一つ加くははつた年齡ねんれいの數かず程ほどの熬豆いりまめを噛かじつて鬼おにをやらうた夜よから、幾いくらも隔へだたらないので、鹽鰮しほいわしの頭あたまと共ともに戸口とぐちに揷さした柊ひゝらぎの葉はも一向いつかうに乾かわいた容子やうすの見みえない程ほどのことであつた。

おつぎは十八といっても、その年齢に達したというばかりで、こんな場合を巧みに繕うという料簡さえ、かりそめにも持っていないほど、一面においては濁りのないかわいらしい少女であった。

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おつぎは十八じふはちというても其その年齡としに達たつしたといふばかりで、恁こんな場合ばあひを巧たくみに繕つくらふといふ料簡れうけんさへ苟且かりそめにも持もつて居ゐない程ほど一面めんに於おいては濁にごりのない可憐かれんな少女せうぢよであつた。

おつぎはしおれて、ただぽつんと立っている。

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おつぎは萎しをれて只たゞぽつさりと立たつて居ゐる。

勘次の目は、薄暗い手ランプに光った。

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勘次かんじの目めは薄闇うすくらい手てランプに光ひかつた。

「おつう」

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「おつう」

とひと声怒鳴って、感情の激した勘次は、とっさに次の言葉が出せなかった。

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と一聲せい呶鳴どなつて情じやうの激げきした勘次かんじは咄嗟とつさに次つぎの語ことばが出だせなかつた。

「何してけつかったんだ」

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「何なにしてけつかつたんだ」

勘次はおつぎを睨みつけた。

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勘次かんじはおつぎを睨にらみつけた。

おつぎはうつむいて黙っている。

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おつぎは俯向うつむいて默だまつて居ゐる。

「さあ言ってみろ。嘘を言ったって知ってるぞ、おい」

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「さあ云ゆつて見みろ、嘘ちく云ゆつたつて知しつてつゝお」

勘次はなおも激しく問いただした。

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勘次かんじは猶なほも激はげしく訊たずねた。

「お前はいつでも何と言った。おとっつあんにはけっして心配を掛けないからと言ったんじゃないか。そんでもお前は心配を掛けないのか。掛けないというんなら言ってみろ」

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「汝わりや何時いつでも何なんちつた、おとつゝあげは決けつして心配しんぺえ掛かけねえからつて云ゆつたんぢやねえか、そんでも汝わりや心配しんぺえ掛かけねえのか、掛かけねえつちんだら云ゆつて見みろ」

彼は忌々しそうに、かつ刃で心を突き通される苦しさを堪えたかと思うような様子で、わくわくする胸から声を絞って言った。

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彼かれは忌々敷相いま/\しさうに且かつ刄やいばを以もつて心部むねを突つき通とほされる苦くるしさを忍しのんだかと思おもふやうな容子ようすでわく/\する胸むねから聲こゑを絞しぼつていつた。

彼はしばらく間を置いてはまた、かんでかんでかみしめてもかみ切れない何かに対するようなじれったさと、期待していた何かをにわかに奪い去られたような絶望とが入り混じり、もつれ合った自暴自棄の態度をもって、おつぎを責めた。

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彼かれは暫しばらく間あひだを措おいては又また、噛かんで/\噛締かみしめても噛かみ切きれぬ或ある物ものに對たいするやうな焦燥じれつたさと、期待きたいして居ゐた或ある物ものを俄にはかに奪うばひ去さられた樣やうな絶望ぜつばうとが混淆こんかうし紛糾ふんきうした自暴自棄やけの態度たいどを以もつておつぎを責せめた。

彼の振る舞いは、ほとんど発作的であった。

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彼かれの擧動きよどうは殆ほとんど發作的ほつさてきであつた。

おつぎの声を殺して泣く声は、隙間だらけな戸の外に絶え絶えに漏れた。

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おつぎの聲こゑを殺ころして泣なく聲こゑは隙間すきまだらけな戸との外そとに絶たえ/″\に漏もれた。

これまでとても、おつぎはたとえ異性を慕う心がようやく育って来たとはいいながら、ひそかにその手を取られた時は、後ではむしろ悔いるまでも、恥じらいと恐れと、それから勘次を憚ることから生じる抑えの念とが、慌ててその手を振りほどかせるのであった。

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從來これまでとてもおつぎは假令たとひ異性いせいを慕したふ性情せいじやうが漸やうやく發達はつたつして來きたとはいひながら、竊ひそかに其その手てを執とられた時ときは、後あとでは寧むしろ悔くいるまでも羞恥はぢと恐怖おそれとそれから勘次かんじを憚はゞかることから由よつて來きたる抑制よくせいの念ねんとが慌あわてゝ其その手てを振ふり挘もきらせるのであつた。

それがだんだん、いやでない誘惑の手に乗って、甘い味をわずかに感じる程度まで近づいた刹那、一切が壊し去られたのである。

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其それが段々だん/\厭いやでない誘惑いうわくの手てに乘のつて甘あまい味あぢを僅わづかに感かんずる程度ていどまで近ちかづいた刹那せつな一切さいが破壞はくわいし去さられたのである。

おつぎは以前に戻って、恐れの手に深くその身を沈めねばならなくなった。

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おつぎは以前いぜんに還かへつて恐怖きようふの手てに深ふかく其その身みを沒却ぼつきやくせねばならなく成なつた。

深い罪を含んでいないその夜の事件は、それで済んだ。

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深ふかい罪惡ざいあくを包藏はうざうして居ゐない其その夜よの事件じけんはそれで濟すんだ。

勘次は依然として、おつぎにはただ一つしかない大樹の陰であった。

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勘次かんじは依然やつぱりおつぎには只たゞ一ひとつしか無ない大樹たいじゆの陰かげであつた。

しかし勘次自身には、どんな種類の物でも、今の彼の心に与え得る満足の程度は、失ったお品を思い出すことから受ける哀愁の十分の一にも及ばない。

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然しかし勘次かんじ自身じしんには如何どんな種類しゆるゐの物ものでも現在げんざい彼かれの心こゝろに與あたへ得うる滿足まんぞくの程度ていどは、失うしなうたお品しなを追憶つゐおくすることから享うける哀愁あいしうの十分ぶんの一にも及およばない。

彼はもはや、それ以上、彼の心の裡に残っている何かをまで奪い去られることには堪えられないのである。

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彼かれは最早もはやそれ以上いじやう彼かれの心裏しんりに残存ざんぞんして居ゐる或ある物ものをまで奪うばひ去さられることには堪たへないのである。

彼はわずかに三人の家族が、油のように水に弾かれても、のけ者にされても、ただ凝り固まっていることにのみ、たとえ慰められないまでも不安を感じることなしに、その日その日と刻んで暮らして行くことができるのである。

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彼かれは僅わづかに三人にんの家族かぞくが油あぶらの如ごとく水みづに彈はじかれても疎外そぐわいされても只たゞ凝結ぎようけつして居ゐることにのみ、假令たとひ慰藉ゐしやされないまでも不安ふあんを感かんずることなしに其その日ひ/\と刻きざんで暮くらして行ゆくことが出來できるのである。

彼は一度でも、おつぎが自分を離れたことを見つけ、あるいは意識しては、一種の嫉妬を感じずにはいられなかった。

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彼かれは一度どでもおつぎが自分じぶんを離はなれたことを發見はつけんし或あるひは意識いしきしては一種しゆの嫉妬しつとを感かんぜずには居をられなかつた。

彼はそうして、悲痛の感に責め苛まれた。

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彼かれはさうして悲痛ひつうの感かんに責せめ訶さいなまれた。

村の若者は、彼のためには敵である。

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村落むらの若者わかものは彼かれの爲ためには仇敵きうてきである。

それと同時に、若者のためには彼は蝮の毒牙のようなものでなければならない。

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それと同時どうじに若者わかものの爲ためには彼かれは蝮蛇まむしの毒牙どくがの如ごときものでなければ成ならぬ。

それでありながら、少しの威厳も勢力もない彼は、すべての若者から彼をいらだたせるいたずらをもって報いられた。

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其それでありながら些さの威嚴ゐげんも勢力せいりよくもない彼かれは凡すべての若者わかものから彼かれを苛立いらだたしめる惡戯いたづらを以もつて報むくいられた。

青草の中に身を沈めている毒蛇に、直接手を触れようとする者は一人もないけれど、遠くから土くれを投げたり、棒の先でつついたり、いたずらに怒る牙を振るわせることは、彼らの好んでするところであった。

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青草あをくさの中なかに身みを沒ぼつして居ゐる毒蛇どくじやに直接ちよくせつ手てを觸ふれようとするものは一人にんもないけれど、遠とほくから土塊どくわいを擲ほつたり、棒ぼうの先さきでつゝいたり徒いたづらに怒おこる牙きばを振ふるはせることは彼等かれらの好このんでする處ところであつた。

勘次の削ったようなやせた顔が、いつでもひがんで、そうして怒りやすいのを、彼らは嘲りの目をもって遠くからのぞくのである。

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勘次かんじの削けづつたやうな痩やせた顏かほが何時いつでも僻ひがんでさうして怒おこり易やすいのを彼等かれらは嘲笑てうせうの眼まなこを以もつて遠とほくから覗のぞくのである。

彼らは夜、垣根のそばに立って指を口にくわえてぴゅうぴゅうと激しく鳴らしてみたり、戸口の近くにひそかに下駄の歯の跡をつけておいたり、勘次が眠りに落ちようとするころ、作り声を使っておつぎを呼んだりした。

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彼等かれらは夜よる垣根かきねの側そばに立たつて指ゆびを口くちに啣くはへてぴゆう/\と劇はげしく鳴ならして見みたり、戸口とぐちに近ちかく竊ひそかに下駄げたの齒はの趾あとを附つけて置おいたり、勘次かんじが眠ねむりに落おちようとする頃ころ假聲こはいろを使つかつておつぎを喚よんだりした。

勘次はそのたびに心がいらだったけれど、霧でもつかむような、誰の仕業とも分からないいたずらを、どうすることもできなかった。

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勘次かんじは其その度たびに心こゝろが苛立いらだつたけれど、霧きりでも捉つかむ樣やうな、誰たれの所爲しよゐとも判明はんめいしない惡戯いたづらをどうすることも出來できなかつた。

しかし、表に現れた影響のないいたずらは、長く続かなかった。

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然しかし表面へうめんに現あらはれた影響えいきやうの無ない惡戯いたづらは永ながく持續ぢぞくしなかつた。

春は冬に遠くして、また冬と隣り合っている。

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春はるは冬ふゆに遠とほくして又また冬ふゆと相あひ隣となりして居ゐる。

季節の移り変わりを繰り返しながら、月日は容赦なく移った。

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季節きせつの變化へんくわを反覆くりかへしつゝ月日つきひは容赦ようしやなく推移すゐいした。

一二

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一二

冬は低く地をはって沈んだ。

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冬ふゆは低ひくく地ちを偃はうて沈しづんだ。

旧暦の暮れが近くなって、婚礼の多く行われる季節が来た。

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舊暦きうれきの暮くれが近ちかく成なつて婚姻こんいんの多おほく行おこなはれる季節きせつが來きた。

町の建具師の店先に据えられた箪笥や長持ちから、粗末な金具が光るのを見るようになった。

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町まちの建具師たてぐしの店先みせさきに据すゑられた簟笥たんすや長持ながもちから疎末そまつな金具かなぐが光ひかるのを見みるやうに成なつた。

おつぎが通った針の師匠の家でも、嫁が決まった。

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おつぎが通かようた針はりの師匠ししやうの家うちでも嫁よめが極きまつた。

その当日になると、針子はいずれも、しまっておいた半纏へ赤いたすきを掛けて、そこらの掃除やら、芋や大根を洗うことやら、朝から大騒ぎをして笑いながら手伝いをした。

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其その當日たうじつに成なると針子はりこは孰いづれも藏しまつて置おいた半纏はんてんへ赤あかい襷たすきを掛かけて、其處そこらの掃除さうぢやら、芋いもや大根だいこんを洗あらふことやら朝あさから大騷おほさわぎをして笑わらひながら手傳てつだひをした。

おつぎも行って、みなといっしょに働いた。

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おつぎも行いつて皆みんなと一緒しよに働はたらいた。

おつぎは赤糸大名の半纏で、萌葱のたすきを掛けていた。

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おつぎは赤絲大名あかいとだいみやうの半纏はんてんで萌黄もえぎの襷たすきを掛かけて居ゐた。

針子らは毎年、春がようやく暖かくなって百姓の仕事が忙しくなると、次の冬まで暇を取るとて、一日みなで鍬を持って畑の仕事の手伝いに行く。

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針子等はりこらは毎年まいねん春はるが漸やうやく暖あたゝかく成なつて百姓ひやくしやうの仕事しごとが忙いそがしくなると又またの冬ふゆまで暇ひまをとるとて一日にち皆みんなで鍬くはを持もつて畑はたけの仕事しごとの手傳てつだひに行ゆく。

広くもない畑へ残らずが一度に鍬を入れるので、めいめいが互いに邪魔になりながら、人数の半分は始終鍬の柄を杖に突いては立って、遠くへ目を配りながら笑いさざめく。

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廣ひろくもない畑はたけへ残のこらずが一度どに鍬くはを入いれるので各おの/\が互たがひに邪魔じやまに成なりつゝ人數にんずの半なかばは始終しじう鍬くはの柄えを杖つゑに突ついては立たつて遠とほくへ目めを配くばりつゝ笑わらひさゞめく。

彼女らの白い手拭いが集まって、はるかに人の目を引くほか、師匠の家に格別の利益もなく、彼女ら自分たちのみが一日を楽しく暮らし得るのである。

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彼等かれらの白しろい手拭てぬぐひが聚あつまつて遙はるかに人ひとの目めを惹ひく外ほか師匠ししやうの家うちに格別かくべつの利益りえきもなく彼等かれら自分等じぶんらのみが一日にちを樂たのしく暮くらし得うるのである。

それだから彼女らは、婚礼の当日にも仕事の割合にしてはあまりに大人数に過ぎるので、一つ仕事に集まっては、屈託ない様子をしてしゃべるのであった。

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其それだから彼等かれらは婚姻こんいんの當日たうじつにも仕事しごとの割合わりあひにしては餘あまりに多人數たにんずに過すぎるので、一ひとつ仕事しごとに集あつまつては屈託くつたくない容子ようすをして饒舌しやべるのであつた。

「どういう嫁さんだろうな」

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「どうえ嫁樣よめさまだんべな」

「いい女だろうな」

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「善ええ女をんなだんべえな」

「早く来ればいいな、おれは見たいな」

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「早はやく來くればえゝな、俺おら見みてえな」

彼女らはそういうことすら口々に繰り返しながら、ひそひそとささやいた。

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彼等かれらはさういふことをすら口々くち/″\に反覆くりかへしつゝ密々ひそ/\と耳語さゝやいた。

「白粉をつけて来るんだな」

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「白粉おしろい附つけて來くんだな」

いちばん年の少ない子が言った。

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一番ばん年としの少すくない子こがいつた。

「どうしたもんだい、白粉をつけるんだろうかとまあ」

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「どうしたもんだえ、白粉おしろい附つけんだんべかとまあ」

年かさが笑った。

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年嵩としかさが笑わらつた。

「水白粉を持って来るんだか知れないぞ」

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「水白粉みづおしろい持もつて來くんだか知しんねえぞ」

「ただの水みたいな白粉もあるんだって言ったっけぞ」

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「只たゞの水みづ見みてえな白粉おしろいも有あんだつて云ゆつけぞ」

彼女らはそういう罪のない詮索から、それから

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彼等かれらはさういふ罪つみのない穿鑿せんさくからそれから

「おれはお給仕に出なくちゃならないか知れないが、恥ずかしくていやだな」

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「俺おらお給仕きふじに出でなくつちや成なんねえか知しんねえが、耻はづかしくつて厭やだな」

「嫁さんはもっと恥ずかしいだろうな」

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「嫁樣よめさままつと耻はづかしかつぺな」

「そんだが、おれは嫁さんの着物がどんななんだか見たいもんだな」

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「そんだが俺おら嫁樣よめさまの衣物きものどういんだか見みてえもんだな」

と、半分は望むような、半分は気遣うような互いの心を語るのであった。

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半分はんぶんは望のぞむやうな半分はんぶんは氣遺きづかふやうな互たがひの心こゝろを語かたるのであつた。

夜になって、板の間の娘らが座敷のほうへ引かれたころ、勝手口に村の若者が五、六人立った。

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夜よに成なつて板いたの間まの娘等むすめらが座敷ざしきの方はうへ引ひかれた頃ころ勝手口かつてぐちに村落むらの若者わかものが五六人にん立たつた。

彼らは婚礼の夜には必ず決まった、例のうどんをもらいに来たのである。

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彼等かれらは婚姻こんいんの夜よには屹度きつと極きまつた例ためしの饂飩うどんを貰もらひに來きたのである。

昼の間に用意されたうどんが、彼らに与えられた。

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晝ひるの間あひだに用意よういされた饂飩うどんが彼等かれらに與あたへられた。

彼らの手には、うどんの大きなざると二升樽と、それから醤油の入れ物であるビール瓶とが提げられた。

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彼等かれらの手てには饂飩うどんの大おほきな笊ざると二升樽しようだるとそれから醤油しやうゆの容器いれものである麥酒罎ビールびんとが提さげられた。

垣根の外へ出た時、彼らは作り声を出してどっと囃し立てて、また囃した。

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垣根かきねの外そとへ出でた時とき彼等かれらは假聲こわいろを出だしてどつと囃はやし立たてゝ又また囃はやした。

彼らは道々も騒ぐことをやめないで、とうとう村の念仏堂へ引き取った。

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彼等かれらは途次みちみちも騷さわぐことを止やめないで到頭たうとう村落むらの念佛寮ねんぶつれうへ引ひきとつた。

そこには、これもどてらをかぶった彼らの仲間が、囲炉裏へそだをくべて暖まりながら待っていた。

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其處そこには此これも褞袍どてらを被はおつた彼等かれらの伴侶なかまが圍爐裏ゐろりへ麁朶そだを燻くべて暖あたゝまりながら待まつて居ゐた。

念仏衆の使っている鍋や土瓶や茶碗が、ただごたごたと投げ出されてあった。

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念佛衆ねんぶつしゆうの使つかつて居ゐる鍋なべや土瓶どびんや茶碗ちやわんが只たゞごた/\と投なげ出だされてあつた。

台つきの手ランプは、近所から借りて来たのであった。

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臺だいつきの手てランプは近所きんじよから借かりて來きたのであつた。

そだの炎が、手ランプに光を添えていた。

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麁朶そだの焔ほのほが手てランプに光ひかりを添そへて居ゐた。

婚礼の席上では、酒の後には長く続くようにという縁起を祝って、一つには膳部の簡単なのとで、うどんをふるまうのである。

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婚姻こんいんの席上せきじやうでは酒さけの後あとには長ながく繼つながる樣やうといふ縁起えんぎを祝いはうて、一ひとつには膳部ぜんぶの簡單かんたんなのとで饂飩うどんを饗もてなすのである。

蕎麦は短く切れるとて、どこでも嫌った。

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蕎麥そばは短みじかく切きれるとて何處どこでも厭いとうた。

どんな婚礼でも、それを若い衆がもらいに行く。

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どんな婚姻こんいんでもそれを若わかい衆しゆが貰もらひに行ゆく。

貧乏な所帯であれば、彼らはいくら少なくても不足を言わない。

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貧乏びんばふな所帶しよたいであれば彼等かれらは幾いくら少量せうりやうでも不足ふそくをいはぬ。

しかし、多少の財産を持っていると彼らが認めている家でそれを惜しめば、彼らは不平を訴えて止まない。

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然しかし多少たせうの財産ざいさんを有いうして居ゐると彼等かれらが認みとめて居ゐる家うちでそれを惜をしめば彼等かれらは不平ふへいを訴うつたへて止やまぬ。

どうかすると、暗い木陰に潜んでいて、嫁の車が近づいた時、突然その車をひっくり返してやれというような、脅しめいた暴言をすら吐くことがある。

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どうかすると闇くらい木陰こかげに潜伏せんぷくして居ゐて嫁よめの車くるまが近ちかづいた時とき突然とつぜん、其その車くるまを顛覆てんぷくさせてやれといふやうな威嚇的ゐかくてきの暴言ばうげんをすら吐はくことがある。

しかしこれまで、そんなことはめったになく、格別に認めるべき弊害が伴うのでもないのであった。

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然しかし從來じゆうらい其麽そんなことは滅多めつたになく、別段べつだんに認みとむべき弊害へいがいが伴ともなふのでもないのであつた。

それでふつう、どの家でも彼らが満足を買い得る分量を、前もって用意しているのである。

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それで普通ふつうどの家うちでも彼等かれらが滿足まんぞくを買かひ得うる分量ぶんりやうを前以まへもつて用意よういして居ゐるのである。

彼らは、そういう夜にどてらをかぶって他人の裏戸口に立たねばならない必要な条件を、一つも持っていない。

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彼等かれらはさういふ夜よに褞袍どてらを被かぶつて他人たにんの裏戸口うらどぐちに立たたねば成ならぬ必要ひつえうな條件でうけんを一ひとつも有もつて居ゐない。

ただ彼らのすべては、藁を打って縄をなうべき夜の務めを捨てて、公然といっしょに集まる機会を見いだすことを求めている。

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只たゞ彼等かれらの凡すべては藁わらを打うつて繩なはを綯なふべき夜よるの務つとめを捨すてて公然こうぜん一所しよに集合しふがふする機會きくわいを見出みいだすことを求もとめて居ゐる。

集まることが、すぐに彼らに楽しみを与えるからである。

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集合しふがふすることが直たゞちに彼等かれらに娯樂ごらくを與あたへるからである。

男女が、しかも他人の手を借りて一つになる婚礼の事実を思い浮かべることから、彼らの心が微妙に刺激される。

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兩性りやうせいが然しかも他人たにんの手てを藉かりて一ひとつに成なる婚姻こんいんの事實じじつを聯想れんさうすることから彼等かれらの心こゝろが微妙びめうに刺戟しげきされる。

彼らのすべては、ことごとく異性を知り、また知ろうとしている。

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彼等かれらの凡すべては悉ことごとく異性いせいを知しり又また知しらんとして居ゐる。

彼らは他人の目を盗むのには幾多の障害があり、それはそのために慕い合う思いがむしろかえって盛んに、かつ長続きすることすらありながら、当事者である彼らにはうるさいその障害をこっそりと払いのけねばならないじれったさが止まないのに、周りのすべてが杯を挙げてくれる、その夜の当人同士を思い浮かべる時、彼らは淡い嫉妬を沸かさねばならない。

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彼等かれらは他人たにんの目めを偸ぬすむのには幾多いくたの支障さはり、それは其その爲ために相あひ慕したふ念慮ねんりよが寧むしろ却かへつて熾さかんに且かつ永續えいぞくすることすら有ありながら、當事者たうじしやたる彼等かれらには五月繩うるさい其その支障さはりをこつそりと拂はらひ退のけねば成ならぬ焦燥じれつたい感かんが止やまないのに、周圍しうゐの凡すべてが杯さかづきを擧あげてくれる其その夜よの當人同士たうにんどうしを念頭ねんとうに浮うかべる時とき彼等かれらは淡あはい嫉妬しつとを沸わかさねば成ならぬ。

それで彼らの心には、食ってやれ、飲んでやれ、そうしてやらねば腹が癒えないという思いが、期せずして一致するのである。

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それで彼等かれらの心こゝろには喰くつてやれ、飮のんでやれ、さうして遣やらねば腹はらが癒いえぬといふ觀念くわんねんが期きせずして一致いつちするのである。

ざるで運んだうどんが、大人数の彼らにとうてい十分の満足を与え得るものではない。

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笊ざるで運はこんだ饂飩うどんが多人數たにんずうの彼等かれらに到底たうてい十分ぶんの滿足まんぞくを與あたへ得うるものではない。

しかし彼らは、そんなことに頓着を持たない。

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然しかし彼等かれらは其麽そんなことに頓着とんぢやくを持もたぬ。

酒がすすけた土瓶で沸かされた。

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酒さけが煤すゝけた土瓶どびんで沸わかされた。

彼らはめいめいに茶碗へ注いで、ぐいと飲んだ。

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彼等かれらは各自かくじに茶碗ちやわんへ注ついでぐいと飮のんだ。

そこには燗の加減も何もなかった。

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其處そこには燗かんの加減かげんも何なにも無なかつた。

めいめいの喉がそれを求めるのではなくて、一種の習わしが彼らにそれを強いるのである。

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各自かくじの喉のどがそれを要求えうきうするのではなくて一種しゆの因襲いんしふが彼等かれらにそれを強しひるのである。

彼らはじりじりと喉が焦げるように感じても、苦い顔をしかめながら飲んでみる者さえある。

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彼等かれらはじり/\と喉のどが焦こげる樣やうに感かんじても苦にがい顏かほを蹙しかめつゝ飮のんで見みる者ものさへある。

比較的少ない酒が、注ぐたびに手にするたびにむしろの上にこぼれても、彼らは惜しまない。

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比較的ひかくてき少量せうりやうな酒さけが注つぐ度たびに手てにする度たびに筵むしろの上うへに滾こぼれても彼等かれらは惜をしまない。

彼らはそれから、茶碗も箸もべたりとむしろの上へ置いて、単純に水へ醤油を差した汁に浸して、騒々しくうどんをすすった。

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彼等かれらはそれから茶碗ちやわんも箸はしもべたりと筵むしろの上うへへ置おいて、單純たんじゆんに水みづへ醤油しようゆを注さした液汁したぢに浸ひたして騷々敷さう/″\しく饂飩うどんを啜すゝつた。

彼らはふだんでもそうであるのに、酒のためにいくらか興奮しているので、めいめいの口からさらに聞くに堪えない雑言が吐き出された。

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彼等かれらは平生へいぜいでもさうであるのに酒さけの爲ために幾分いくぶんでも興奮こうふんして居ゐるので、各自かくじの口くちから更さらに聞きくに堪たへぬ雜言ざふごんが吐はき出だされた。

不作法な言葉に慣れきっている彼らは、どうしたら互いに感動を与え得るかと苦心しつつあったかと思うような卑猥な一句が、唐突に誰か一人の口から出ると、ほかの一人がまたそれに応じた。

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不作法ぶさはふな言辭げんじに麻痺まひして居ゐる彼等かれらはどうしたら相互さうごに感動かんどうを與あたへ得うるかと苦心くしんしつゝあつたかと思おもふ樣やうな卑猥ひわいな一句くが唐突だしぬけに或ある一人にんの口くちから出でると他たの一人にんが又またそれに應おうじた。

彼らの間には、異分子を交えていない。

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彼等かれらの間あひだには異分子いぶんしを交まじへて居をらぬ。

彼らは時によっては恐れて控えめにしながら、体が縮んだようになっているほど、物に臆する習慣がある。

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彼等かれらは時ときによつては怖おそれて控目ひかへめにしつゝ身體からだが萎縮すくんだやうに成なつて居ゐる程ほど物ものに臆おくする習慣しふくわんがある。

しかしこうして仲間のみが集まれば、ほとんど別人である。

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然しかし恁かうして儕輩さいはいのみが聚あつまれば殆ほとんど別人べつじんである。

うどんが尽きて、茶碗が乱雑に投げ出された時、夜の遅いことに無頓着な彼らは、それからしばらく止めどもなく雑談にふけった。

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饂飩うどんが竭つきて茶碗ちやわんが亂雜らんざつに投なげ出だされた時とき夜よるの遲おそいことに無頓着むとんぢやくな彼等かれらはそれから暫しばらく止とめどもなく雜談ざつだんに耽ふけつた。

彼らはついに、自分の村に野合の夫婦が幾組あるかということをさえ数え出した。

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彼等かれらは遂つひに自分じぶんの村落むらに野合やがふの夫婦ふうふが幾組いくくみあるかといふことをさへ數かぞへ出だした。

そっちからもこっちからも、それが数えられた。

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そつちからもこつらからも其それが數かぞへられた。

左手の指が二度曲げて二度起こされても、尽くせなかった。

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左手さしゆの指ゆびが二度ど曲まげて二度ど起おこされても盡つくせなかつた。

もちろん、しまいには連れ合いの欠けたものまで指を折って数えられた。

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勿論もちろん畢しまひには配偶はいぐうの缺かけたものまで僂指るしされた。

それらの夫婦の間に生まれた者も、幾人か彼らの間に交じっていた。

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其それ等らの夫婦ふうふの間あひだに生うまれた者ものも幾人いくにんか彼等かれらの間あひだに介在かいざいして居ゐた。

さすがにその幾人かは、自分の父母が呼ばれるので、苦い笑いをかみ殺して控えている。

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有繋さすがに其その幾人いくにんは自分じぶんの父母ふぼが喚よばれるので苦にがい笑わらひを噛かんで控ひかへて居ゐる。

そうすると、ほかの者はそれを面白がって、がやがやと囃し立てた。

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さうすると他たの者ものはそれを興きようあることにがや/\と囃はやし立たてた。

話が少しだれた時

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噺はなしが少すこしだれた時とき

「勘次さんらみたいなのはな、ありゃ勘定には入らないもんだろうか」

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「勘次かんじさん等ら見みてえなゝ、ありや勘定かんぢやうにやへえんねえもんだんべか」

と怒鳴った者があった。

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と呶鳴どなつたものがあつた。

この唐突な発言で、しばらく静まっていた彼らはにわかに威勢が出て、手を叩いた。

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此この唐突たうとつな發言はつげんで暫しばらく靜止せいしして居ゐた彼等かれらは俄にはかに威勢ゐせいが出でて拍手はくしゆした。

「勘次さんに聞いてみろ」

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「勘次かんじさんに聞きいて見みろ」

という声が隅のほうから出た。

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といふ聲こゑが隅すみの方はうから出でた。

「そんなこと言ったっくらい、ぶん殴られらあ、べらぼう臭え」

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「其麽そんなこと云ゆつたつ位くれえ、打ぶん擲なぐらつら篦棒臭べらぼうくせえ」

打ち消す声が聞こえた。

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打うち消けす聲こゑが聞きこえた。

「そんじゃ、おつぎに聞いてみろ」

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「そんぢや、おつぎに聞きいて見みろ」

「足でもへし折られるぞ」

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「足あしでも打折ぶつちよられんなえ」

「薪ざっぽう振られてか」

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「薪雜棒まきざつぽうふられてか」

笑い声が入り交じって、堂の中はいっそう騒がしくなった。

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笑聲せうせいが雜然ざつぜんとして寮れうの内うちは一層そう騷さわがしく成なつた。

「今日あたりも見ろ、角の店で自棄酒を飲んで怒ってたっけぞ」

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「今日けふらも見みろ、角かどの店みせで自棄酒やけざけ飮のんで怒おこつてたつけぞ」

一人が自慢らしく、新しい事実を提供した。

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一人ひとりが自慢じまんらしく新あらたな事實じじつを提供ていきようした。

「どうしてよ」

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「どうしてよ」

一同が耳をそばだてた。

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一同どうが耳みゝを峙そばだてた。

「おつぎのことをお針っ子らといっしょに手伝いにやったのを知ってるだろうな」

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「おつぎことお針はりつ子等こらと一緒しよに手傳てづでえに遣やつたの知しつてべな」

「知ってらあな、そら」

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「知しつてらなそら」

「そんでよ、手伝いにやっていても、もう、日暮れになったら、あっかもっかしてじっとしちゃいられないんだ。そんでぐずぐず言ってるのが面白いから、おれは聞いてたのさ。ちょうどいい塩梅に、おれは草履を買いに行って出くわしてな」

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「そんでよ、手傳てづでえに遣やつてゝも、はあ、日暮ひぐれに成なつたら、あつかもつかして凝然ぢつとしちや居ゐらんねえんだ、そんで愚圖ぐづ/\云ゆつてんの面白おもしれえから俺おら聞きいてたな、丁度ちやうどえゝ鹽梅あんべえに俺おれ草履ざうり買かひに行いつて出でつかせてな」

「毎日暮れじゃないかい、徳利をおっ立ててるのは」

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「毎日暮まいひぐれぢやねえけ徳利とつくりおつ立たてゝんな」

「そうなんだ。近ごろ唐鍬を使って骨が折れるからと言って、仕事が終わっちゃ一合くらい引っ掛けてすぐ行っちまうんだと言ったっけが、それが今日は早くから来てたんだって言うのさ。店のおとっつあんに聞いたのさ、おれは」

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「さうなんだ、近頃ちかごろ唐鍬たうぐは使つけえ骨ほね折おれつからつて仕事しごと畢しまつちや一合がふ位ぐれえ引ひつ掛かけて直すぐ行いつちやあんだつちけが、それ今日けふは早はやくから來きてたんだつちきや、店みせのおとつゝあに聞きいたな俺おら」

話し手は、自分がまず興に入ったようにまた言った。

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噺手はなしては自分じぶんが先まづ興きように入いつた樣やうに又またいつた。

「おれは今日、うまい所を聞いちまったな」

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「俺おら今日けふうめえ處とこ聞きいつちやつたな」

「何て言ったっけ」

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「何なんだつて云ゆつけ」

「ひどいあまだ、夕飯も何も仕方がありゃしないなんてな、独りでぐずぐず言ってな。そんで与吉のことを何遍も迎えにやってな。そうすると、あの与吉の野郎がまた、今すぐにうどんをごちそうしてよこすとう、なんてのたくりのたくり帰って来るんだ。そうすると、また、だめだお前は、もう一度行って来う、すぐ来うって言うんだぞ、なんて怒ったみたいになあ。おれは可笑しくて仕方がなかったっけぞ」

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「酷ひでえ阿魔あまだ、夕飯ゆふめしも何なにも仕しやうありやしねえなんてな、獨ひとりでぐうづ/″\云ゆつてな、そんで與吉よきちこと何遍なんべんも迎むけえに遣やつてな、さうすつとあの與吉よきちの野郎やらうまた、今いま直すぐに饂飩うどん饗ふるまつてよこすとう、なんてのたくり/\歸けえつて來くんだ、さうすつと又また駄目だめだ汝わりや復また行いつて來こう、直すぐに來こうつて云ゆふんだぞなんて怒おこつた見みてえになあ、俺おら可笑をかしくつて仕樣しやう無なかつたつけぞ」

話し手は左右を向きながら言った。

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噺手はなしては左右さいうを向むきつゝいつた。

みなまた手を叩いて囃し立てた。

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皆みな復また拍子ひやうしして囃はやし立たてた。

「そんじゃすぐよこしただろう」

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「そんぢや直すぐよこしたつぺ」

「うん、途中で行き会ったんだろう。すぐ来たっけや」

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「うむ、途中とちうで行逢いきやつたんだんべ、直すぐ來きたつきや」

「あっちだって、それくらい知ってらあな」

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「あつちだつて其その位くれえ知しつてらな」

「おつぎは店へ寄ったっけか」

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「おつぎは店みせへよつたつけか」

二人が一度に言った。

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二人ふたりが一度どにいつた。

「寄らないや。そうしたら、おつう、なんておとっつあんが呼ばれたんだ。たいした声してな。そんでもおつうは行っちまうのよ。そうしたらまた、おつう、なんて怒鳴ってな、勘定するのにも慌てて銭を落っことしたり何かして、後から駆けて行ったんだ。五合も飲んだだろうって言ったっけな。怖い目つきをしちまってな。そんだが、おつぎは聞かないぞ、なかなか。つっつっと行っちまってな」

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「寄よんねえや、さうしたらおつう、なんておとつゝあ喚よばつたんだ、たいした聲こゑしてな、そんでもおつうは行いつちまあのよ、さうしたら又また、おつうなんて呶鳴どなつてな、勘定かんぢやうすんのにも慌あわくつて錢ぜに落おつことしたり何なんかして後あとから駈かけてつたんだ、五合がふも飮のんだつぺつちけな、可怖おつかねえ目めつきしつちやつてな、そんだがおつぎは聽きかねえぞなか/\、つツ/\と行いつちやつてな」

話し手はしばらく口を閉ざした。

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噺手はなしては暫時しばし口くちを鎖とざした。

「今日は若い衆らが行くと思って、もう、夜まで置けないんだな」

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「今日けふは若わけえ衆等しら行いくと思おもつてはあ、夜よるまで置おけねえんだな」

「決まってらあな」

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「極きまつてらあな」

「そんだって、べらぼう。若い衆らだって、そういうことばかりするもんじゃない。つまらない」

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「そんだつて箆棒べらぼう、若わけえ衆等しらだつてさうだことばかりするものぢやねえ、詰つまんねえ」

憤慨してこう言う者も

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憤慨ふんがいしてかういふものも

「外聞が悪いも何にも知らないんだな」

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「外聞げえぶん惡わりいも何なんにも知しんねえんだな」

嘲りの意味ではあるが、どことなく沈んで、またこう言う者もあった。

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嘲笑てうせうの意味いみではあるが何處どことなく沈しづんで又また斯かういふ者ものも有あつた。

「おつぎはそんだが、頭髪をてかてか光らせた所らはよくなっちまったっけぞ」

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「おつぎはそんだが頭髮あたまてか/\光ひからかせた處とこら善よく成なつちやつたつけぞ」

にわかに思い出したように、さっきの話し手が言った。

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俄にはかに思おもひ出だした樣やうに先刻せんこくの噺手はなしてがいつた。

「そんで、おとっつあんは余計に仕方がなくなっちまったんだろう」

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「そんで、おとつゝあ餘計よけい仕しやう無なくなつちやつたんだんべえ」

尻へ釘を差して台に乗っている手ランプの油煙が、あっちへこっちへなびく光の下に、茶碗を箸で叩きながら、またわあっと騒ぎ出した。

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臀しりへ釘くぎを揷さして臺だいに乘のつて居ゐる手てランプの油煙ゆえんがそつちへこつちへ靡なびく光ひかりの下もとに茶碗ちやわんを箸はしで叩たゝきながら又またわあつと騷さわぎ出だした。

勘次は今、開墾の仕事のために、春までには主人の手から三、四十円の金を与えられるようにまでなった。

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勘次かんじは今いま開墾かいこんの仕事しごとの爲ために春はるまでには主人しゆじんの手てから三四十圓ゑんの金かねを與あたへられる樣やうにまで成なつた。

大部分は借財の古い穴へ埋めても、彼は懐に窮屈を感じない程度に進んだ。

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大部分だいぶぶんは借財しやくざいの舊ふるい穴あなへ埋うめても彼かれは懷ふところに窮屈きうくつを感かんじない程度ていどに進すゝんだ。

一円の銭が絶えず財布にあり得るならば、彼らは嘆くところはないのである。

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一圓ゑんの錢ぜにが絶たえず財布さいふに在あり得うるならば彼等かれらは嘆なげく處ところは無ないのである。

彼はただ、主人に頼ってさえいればいいと思っている。

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彼かれは只たゞ主人しゆじんに倚よつて居ゐさへすれば善よいと思おもつて居ゐる。

こういう遠慮のない陰口を利かれるまでには、苦しい間の三、四年を過ごして来たのである。

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恁かういふ遠慮ゑんりよのない蔭口かげぐちを利きかれるまでには苦くるしい間あひだの三四年ねんを過すごして來きたのである。

彼の暮らしは、ほっかりと夜明けの光を見たのであった。

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彼かれの生活せいくわつはほつかりと夜明よあけの光ひかりを見みたのであつた。

おつぎはこの時、二十の声を聞いていたのである。

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おつぎは此この時とき廿はたちの聲こゑを聞きいて居ゐたのである。

一三

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一三

初秋の風が吊りっ放しの蚊帳の裾をさらさらと吹いて、とうにとうもろこしがかまどの灰の中でぱりぱりと威勢よく燃える麦藁の火に焼かれて、その殻があっちにもこっちにも捨てられる。

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初秋しよしうの風かぜが吊放つりはなしの蚊帳かやの裾すそをさら/\と吹ふいて、疾とうから玉蜀黍たうもろこしが竈かまどの灰はひの中なかでぱり/\と威勢ゐせいよく燃もえる麥藁むぎわらの火ひに燒やかれて、其その殼からがそつちにもこつちにも捨すてられる。

畑の仕事がしばらく片がついて、百姓の家には盆が来た。

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畑はたけの仕事しごとが暫時ざんじ極きまりがついて百姓ひやくしやうの家いへには盆ぼんが來きた。

その日も昼過ぎまで仕事をしていた勘次は、それでも慌ただしく庭へ箒を入れて、目に立つ草は鎌の刃先でかき切った。

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其その日ひも晝過迄ひるすぎまで仕事しごとをして居ゐた勘次かんじはそれでも慌あわたゞしく庭にはへ箒はうきを入いれて目めに立たつ草くさは鎌かまの刄先はさきで掻かつ切きつた。

戸も障子もないすすけきった仏壇は、おつぎを使って仏具やその他の掃除をして、さいの目に刻んだ茄子を盛った芋の葉と、寂しいみそはぎの短い小さな花束とを供えた。

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戸とも障子しやうじもない煤すゝけ切きつた佛壇ぶつだんはおつぎを使つかつて佛器ぶつきや其その他たの掃除さうぢをして、賽さいの目めに刻きざんだ茄子なすを盛もつた芋いもの葉はと、寂さびしいみそ萩はぎの短みじかい小ちひさな花束はなたばとを供そなへた。

みそはぎのそばには、茶碗へいっぱいに水がたたえられた。

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みそ萩はぎの側そばには茶碗ちやわんへ一杯ぱいに水みづが沒くまれた。

夕方近くなってから、三人は雨戸を閉めて、火のない提灯を持って田んぼを越えて墓地へ行った。

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夕方ゆふがた近ちかく成なつてから三人にんは雨戸あまどを締しめて、火ひのない提灯ちやうちんを持もつて田圃たんぼを越こえて墓地ぼちへ行いつた。

お品の塔婆の前に、それからそこらいっぱいの墓石の前に線香を少しずつ手向けて、火をつけてほっかりと赤くなった提灯を提げて戻った。

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お品しなの塔婆たふばの前まへにそれから其處そこら一杯ぱいの卵塔らんたふの前まへに線香せんかうを少すこしづゝ手向たむけて、火ひを點つけてほつかりと赤あかく成なつた提灯ちやうちんを提さげて戻もどつた。

冥途から来た仏がその火に宿ったしるしだと言って、必ず提灯が墓地からつけられるのである。

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冥途めいどから來きた佛ほとけが其その火ひに宿やどつたしるしだといつて必かならず提灯ちやうちんが墓地ぼちから點つけられるのである。

おつぎは勘次の懐がいくらか暖かになったので、安物ではあるが、中形の浴衣地もこしらえてもらった。

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おつぎは勘次かんじの懷ふところが幾いくらか暖あたゝかに成なつたので、廉物やすものではあるが中形ちうがたの浴衣地ゆかたぢも拵こしらへて貰もらつた。

おつぎはもう十九の秋であった。

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おつぎはもう十九の秋あきであつた。

おつぎはその浴衣地を着て、お品の墓へ行ったのである。

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おつぎは其その浴衣地ゆかたぢを着きてお品しなの墓はかへ行いつたのである。

髪は昼のうちに、近所の娘同士が汗染みた襦袢一つの姿で、互いに結い合ったのである。

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髮かみは晝ひるの内うちに近所きんじよの娘同士むすめどうしが汗染あせじみた襦袢じゆばん一ひとつの姿すがたで互たがひに結ゆひ合あうたのである。

おつぎは浴衣地へ赤い帯を締めた。

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おつぎは浴衣地ゆかたぢへ赤あかい帶おびを締しめた。

勘次は紺の筒袖のひとえで、日に焼けた足が短い裾から出ていた。

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勘次かんじは紺こんの筒袖つゝそでの單衣ひとへで日ひに燒やけた足あしが短みじかい裾すそから出でて居ゐた。

おつぎの装いはそばでは粗末であっても、ところどころちらりちらりと白い穂先がのぞいて、たいていはまだ冴え冴えとして、ただ一枚の青畳を敷いたような田んぼの間を、くっきりと際立って目に立つのであった。

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おつぎの裝よそほひは側そばでは疎末そまつであつても、處々ところ/″\ちらり/\と白しろい穗先ほさきが覗のぞいて大抵たいていはまだ冴さえ/″\として只たゞ一枚まいの青疊あをだゝみを敷しいた樣やうな田圃たんぼの間あひだをくつきりと際立きはだつて目めに立たつのであつた。

三人が田んぼを行き来してからしばらくたって、村の中からは、どこの家からも提灯を持って、田んぼの道を老人と子供とがぞろぞろ通った。

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三人にんが田甫たんぼを往復わうふくしてから暫しばらく經たつて村落むらの内うちからは何處どこの家いへからも提灯ちやうちん持もつて田甫たんぼの道みちを老人としよりと子供こどもとがぞろ/″\通とほつた。

勘次は提灯の火を、仏壇の灯明皿へ移した。

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勘次かんじは提灯ちやうちんの火ひを佛壇ぶつだんの燈明皿とうみやうざらへ移うつした。

すすけきった仏壇の菜種油の明かりは、遠い国からでも光って来るように、ぽっちりとかすかに見えた。

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煤すゝけ切きつた佛壇ぶつだんの菜種油なたねあぶらの明あかりは遠とほい國くにからでも光ひかつて來くるやうにぽつちりと微かすかに見みえた。

おふくろのよりもまず、白木のままのお品の位牌に、心からの線香の煙がなびいた。

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お袋ふくろのよりも先まづ白木しらきの儘まゝのお品しなの位牌ゐはいに心こゝろからの線香せんかうの煙けぶりが靡なびいた。

勘次もおつぎも、みそはぎの小さな花束の先を茶碗の水に浸して、その水をはらりと芋の葉へ盛った茄子へ振りかけた。

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勘次かんじもおつぎもみそ萩はぎの小ちひさな花束はなたばの先さきを茶碗ちやわんの水みづに浸ひたして其その水みづをはらりと芋いもの葉はへ盛もつた茄子なすへ振ふり掛かけけた。

勘次は雨戸をいっぱいに開けた。

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勘次かんじは雨戸あまどを一杯ぱいに開あけた。

おつぎは浴衣を取って襦袢一つになって、ざるに水を切っておいたもち米をかまどで蒸しはじめた。

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おつぎは浴衣ゆかたをとつて襦袢じゆばん一ひとつに成なつて、笊ざるに水みづを切きつて置おいた糯米もちごめを竈かまどで蒸むし始はじめた。

勘次は裸で臼や杵を洗って軒端に据えた。

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勘次かんじは裸はだかで臼うすや杵きねを洗あらうて檐端のきばに据すゑた。

彼らはそういう仕事があるので、墓へ行くにも人よりも先立って非常に急いだのであったが、それでも米が蒸せるまでには、家の中は薄暗くなっていた。

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彼等かれらはさういふ仕事しごとがあるので墓はかへ行ゆくにも人ひとよりも先立さきだつて非常ひじやうに急いそいだのであつたが、それでも米こめが蒸むせるまでには家いへの内うちは薄闇うすくらく成なつて居ゐた。

日のまだ落ちないうちから庭をのぞいていた月が白く、やがてそれがやや黄色みを帯びて来て、庭の茂った柿の木や栗の木にほっかりと陰を投げた。

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日ひのまだ落おちない内うちから庭にはを覗のぞいて居ゐた月つきが白しろく、軈やがてそれが稍やゝ黄色味きいろみを帶おびて來きて庭にはの茂しげつた柿かきの木きや栗くりの木きにほつかりと陰翳かげを投なげた。

おつぎが忙しくどさりと臼へ落とした蒸し米から、ぼうっと白い湯気が立った。

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おつぎが忙いそがしくどさりと臼うすへ落おとしたふかしからぼうつと白しろい蒸氣ゆげが立たつた。

その湯気の中に、月が一瞬間目をしかめて、すぐつやつやした姿になった。

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其その蒸氣ゆげの中なかに月つきが一瞬間しゆんかん目めを蹙しかめて直すぐにつやゝかな姿すがたに成なつた。

おつぎは熱い蒸し米を蒸籠から杓子で臼へしごき落としながら、そばに立っている与吉へ少しやった。

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おつぎは熱あついふかしを蒸籠せいろうから杓子しやくしで臼うすへ扱こき落おとしながら側そばに立たつて居ゐる與吉よきちへ少すこし遣やつた。

程よく蒸したその蒸し米を、与吉はうまそうに食べた。

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程ほどよく蒸むした其そのふかしを與吉よきちは甘相うまさうにたべた。

おつぎも指についたのを、前歯でかむようにして口へ入れた。

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おつぎも指ゆびに附ついたのを前齒まへばで噛かむやうにして口くちへ入いれた。

湯気の立つ臼を、勘次はしばらく杵の先でこねた。

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蒸氣ゆげの立たつ臼うすを勘次かんじは暫しばらく杵きねの先さきで捏こねた。

杵の先が粘って離れなくなる。

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杵きねの先さきが粘ねばつて離はなれなく成なる。

おつぎは米研ぎ桶へ水を汲んで、それへ浮かべた杓子で杵の先をしごき落として、臼の中を丸い形に直す。

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おつぎは米研桶こめとぎをけへ水みづを汲くんでそれへ浮うかべた杓子しやくしで杵きねの先さきを扱落こきおとして臼うすの中なかを丸まるい形かたちに直なほす。

そうすると勘次は、力を極めて臼の中央を打つ。

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さうすると勘次かんじは力ちからを極きはめて臼うすの中央ちうあうを打うつ。

それが幾度も繰り返された。

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それが幾度いくども反覆はんぷくされた。

庭の木立の陰が濃くなって、月の光はきらきらと臼から反射した。

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庭にはの木立こだちの陰翳かげが濃こく成なつて月つきの光ひかりはきら/\と臼うすから反射はんしやした。

蒸し暑い中にも、すべてが水のような月の光を浴びて、涼しい微風が土に触れて渡った。

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蒸暑むしあつい中うちにも凡すべてが水みづの樣やうな月つきの光ひかりを浴あびて凉すゞしい微風びふうが土つちに觸ふれて渡わたつた。

おつぎは臼から餅をちぎって、茗荷の葉に乗せて一つ一つ膳へ並べた。

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おつぎは臼うすから餅もちを拗切ねぢきつて茗荷めうがの葉はに乘のせて一ひとつ/\膳ぜんへ並ならべた。

少し丸みを欠いた十三日の月が、白くその一つ一つの茗荷の葉の上に光った。

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少すこし丸まるみを缺かいた十三日にちの月つきが白しろく其その一つ/\の茗荷めうがの葉はの上うへに光ひかつた。

冷水を打ったような柿の葉がゆらゆらと動いて、後ろの林の竹のこずえもさらさらと鳴った。

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冷水れいすゐを打うつた樣やうな柹かきの葉はがゆら/\と動うごいて後うしろの林はやしの竹たけの梢こずゑもさら/\と鳴なつた。

それでも忙しいおつぎは、汗を流しながらまず茗荷の餅を仏壇に供えた。

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それでも忙いそがしいおつぎは汗あせを流ながしながら先まづ茗荷めうがの餅もちを佛壇ぶつだんに供そなへた。

それから別にちぎった餅が、きな粉とともに手ランプの下に置かれた。

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それから別べつに拗切ねぢきつた餅もちが豆粉きなこと共ともに手てランプの下もとに置おかれた。

与吉はすぐに座敷へ座って待った。

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與吉よきちは直すぐに座敷ざしきへ坐すわつて待まつた。

晩飯が終わると、踊り子を誘う太鼓の音が、ようやく沈みかけた夜の気を騒がせて聞こえはじめた。

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晩餐ばんさんが畢をはると踊子をどりこを誘さそふ太鼓たいこの音おとが漸やうやく沈しづみ掛かけた夜氣やきを騷さわがして聞きこえ始はじめた。

軒に立った蚊柱が崩れて、やがて座敷を襲った。

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檐のきに立たつた蚊柱かばしらが崩くづれて軈やがて座敷ざしきを襲おそうた。

勘次は麦藁を一つかみ軒端へ投げて、刈った青草をそれへ打ちかけて、マッチの火をつけて、そうして押さえつけた。

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勘次かんじは麥藁むぎわらを一捉ひとつかみ軒端のきばへ投なげて、刈かつた青草あをぐさをそれへ打ぶつ掛かけて、燐寸マツチの火ひを點つけてさうして抑おさへつけた。

ぷすぷすとくすぶる煙が、蚊を遠く散らせる。

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ぷす/\と燻いぶる煙けぶりが蚊かを遠とほく散亂さんらんせしめる。

ぽっと炎が立って燃え上がれば、水を打った。

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ぽつと焔ほのほが立たつて燃もえあがれば水みづを打うつた。

彼らは目鼻にしみる青い煙の中に、裸のままじっとしている。

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彼等かれらは目鼻めはなにしみる青あをい煙けぶりの中なかに裸體はだかの儘まゝ凝然ぢつとして居ゐる。

煙がよそへ逸れれば、箕であおいで家の中へ向かわせた。

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煙けぶりが餘所よそへ逸それゝば箕みで煽あふつて家いへの内うちへ向むかはせた。

おつぎは勝手の始末をして、それから井戸端で、だらだらと垂れる汗を水で拭いた。

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おつぎは勝手かつての始末しまつをしてそれから井戸端ゐどばたで、だら/\と垂たれる汗あせを水みづで拭ぬぐつた。

手拭いを浸すたびに、小さな手水だらいの水に月がまったくその影を失って、しばらくすると手水だらいの周りから集まるように、だんだんと月の形がまとまって見えて来る。

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手拭てぬぐひを浸ひたす度たびに小ちひさな手水盥てうずだらひの水みづに月つきが全まつたく其その影かげを失うしなつて暫しばらくすると手水盥てうずだらひの周圍しうゐから聚あつまる樣やうに段々だん/\と月つきの形かたちが纏まとまつて見みえて來くる。

踊り子を誘う太鼓の音が、自分の村のはすぐ垣根の外のように、遠い村のは茂っている林の向こうに、空に響いて聞こえる。

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踊子をどりこを誘さそふ太鼓たいこの音おとが自分じぶんの村落むらのは直すぐ垣根かきねの外そとの樣やうに、遠とほい村落むらのは繁茂はんもして居ゐる林はやしの彼方あなたに空そらに響ひゞいて聞きこえる。

それが井戸端に立っているおつぎの心を誘った。

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それが井戸端ゐどばたに立たつて居ゐるおつぎの心こゝろを誘導そゝつた。

同い年の子はみな踊りに行くのである。

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同年輩どうねんぱいの子こは皆みな踊をどりに行ゆくのである。

おつぎにはいくらかそれが羨ましく、ぼうっとして太鼓に聞き惚れていた。

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おつぎには幾分いくぶんそれが羨うらやましくぼうつとして太鼓たいこに聞きき惚ほれて居ゐた。

柔らかな月の光に、おつぎの肌は白く見えていた。

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軟やはらかな月つきの光ひかりにおつぎの肌膚はだは白しろく見みえて居ゐた。

おつぎは耳に響く太鼓の音を聞きながら、まだもつれない髪を、少し首を傾けながら両方の親指の股で代わる代わる、髱を軽く後ろへしごいた。

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おつぎは耳みゝに響ひゞく太鼓たいこの音おとを聞ききながら、まだ縺ほつれぬ髮かみを少すこし首くびを傾かたむけつゝ兩方りやうはうの拇指おやゆびの股またで代かはり代がはりに髱たぼを輕かるく後うしろへ扱こいた。

おつぎは汗を拭いて、さっぱりとした体へまた浴衣を着た。

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おつぎは汗あせを拭ぬぐつてさつぱりとした身體からだへ復また浴衣ゆかたを着きた。

「おとっつあん、あの太鼓はどこだろう」

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「おとつゝあ、あの太鼓たいこは何處どこだんべ」

おつぎは帯の端を気にして、後ろへ手を回しながら聞いた。

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おつぎは帶おびの端はしを氣きにして後うしろへ手てを廻まはしながら聞きいた。

「どれ、あの遠くのがか。分かるもんか、どこだか」

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「どれ、あの遠とほくのがゝ、分わかるもんか何處どこだか」

勘次は、燃えた所だけがっくりと減った蚊いぶしの青草に目を注ぎながら、気乗りのしないように言った。

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勘次かんじは燃もえた處ところだけがつくりと減へつた蚊燻かいぶしの青草あをくさに目めを注そゝぎながら氣乘きのりのしない樣やうにいつた。

「おれらのほうへはまだ、よその村から来るころじゃあるまいな」

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「俺おら方はうへはまあだ、他村ほかむらから來くる頃ころぢやあんめえな」

「おとっつあんらに分かるもんかよ、そんなこと」

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「おとつゝあ等らがにや分わかるもんかよ、そんなこと」

「そんでも、よその村から来るんだって言ったっけぞ。支度して来るんだって、おれは今日、髪を結ってて聞いたんだぞ」

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「そんでも、他村ほかむらから來くんだつて云ゆつけぞ、支度したくして來くんだつて俺おら今日けふ頭髮あたま結ゆつてゝ聞きいたんだぞ」

「そういう者はな、そういう者よ」

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「さうえ者もな、さうえ者ものよ」

「おれは行ってみよう。よきも行ってみろな、姉といっしょに」

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「俺おら行いつてんべ、よきも行いつて見みろなあ、姉ねえと一緒しよに」

おつぎは独り言を言った。

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おつぎは獨語ひとりごとした。

「お前らのことばかりやれるかい」

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「汝わツ等らことばかし遣やれつかえ」

勘次は突然怒鳴った。

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勘次かんじは突然とつぜん呶鳴どなつた。

「そんでも、南のおっかさんが、行きたけりゃ連れて行くって言ったんだぞ」

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「そんでも、南みなみのおつかさん行ゆきたけりや連つれてくつちつたんだぞ」

「べらぼう、そんなことされるかい。踊りなんざあ後幾日だってあらあ。今夜あたりから行かないったっていいから。他人に言われるともう、それに乗ってあおられあおられ出たがるんだから」

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「箆棒べらぼう、そんなことされつかえ、踊をどりなんざあ後あと幾日いくかだつてあらあ、今夜こんやらつから行えかねえつたつてえゝから、他人ひとに云ゆはれつとはあ、其それに乘のつてあふり/\出てたがんだから」

勘次は頭ごなしに叱りつけた。

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勘次かんじは一概がいに叱しかりつけた。

おつぎは締めかけた帯を解いて、そばへ投げ捨てた。

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おつぎは締しめ掛かけた帶おびを解といて傍そばへ投なげ棄すてた。

次の日の晩飯には、例年のごとくうどんが打たれた。

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次つぎの日ひの晩餐ばんさんには例年れいねんの如ごとく饂飩うどんが打うたれた。

小麦粉を、少し塩を入れた水でこねて、それを玉にして、むしろの間へ入れて足で踏んで、棒へ巻いては薄く延ばして、さらに幾つかに畳んで、そくそくと包丁で断った。

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小麥粉こむぎこを少すこし鹽しほを入いれた水みづで捏こねて、それを玉たまにして、筵むしろの間あひだへ入いれて足あしで蹂ふんで、棒ぼうへ卷まいては薄うすく延のばして、更さらに幾いくつかに疊たゝんでそく/\と庖丁はうちやうで斷たつた。

うどんの切れ端はみな、ちょっと一か所をつまんで三角形にこしらえて、膳へ並べて仏壇へ供えた。

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饂飩うどんの切きり端はしは皆みな一寸ちよつと一箇所かしよを撮つまんで三角形かくけいに拵こしらへて膳ぜんへ並ならべて佛壇ぶつだんへ供そなへた。

その切れ端は、その翌朝めいめいが自分の田畑をぐるりと回っては、豆や稲の穂やその他の作物を仏へ供えるのであるが、仏もその朝、野回りに出るのだというので、その仏の笠に供えるのだというのである。

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其その切きり端はしは其その翌朝よくあさ各自かくじが自分じぶんの田畑たはたをぐるりと廻まはつては菽まめや稻いねの穗ほや其その他たの作物さくもつを佛ほとけへ供そなへるのであるが、佛ほとけも其その朝あさ野廻のまはりに出でるのだといふので其その佛ほとけの笠かさに供そなへるのだといふのである。

踊り子を誘う太鼓の音は、夜を待ちかねて鳴り出した。

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踊子をどりこを誘さそふ太鼓たいこの音おとは夜よを待まち兼かねて鳴なり出だした。

勘次はその夜、蚊いぶしの支度もしないで、紺のひとえへぐるぐると無造作に三尺帯を巻いて、雨戸をがらがらと閉めはじめた。

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勘次かんじは其その夜よ蚊燻かいぶしの支度したくもしないで紺こんの單衣ひとへへぐる/\と無造作むざうさに三尺帶じやくおびを卷まいて、雨戸あまどをがら/\と閉たて始はじめた。

そうして

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さうして

「おつう、支度してみろ。おれが連れて行くから」

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「おつう支度したくして見みろ、俺おれ連つれてんから」

勘次はせっかちに、おつぎを促し立てた。

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勘次かんじは性急せいきふにおつぎを促うながし立たてた。

大戸の鍵を外から掛けて三人が庭に立った時、月は雲の影を遠ざかって、静かに柿の木の上に懸かっていた。

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大戸おほどの鍵かぎを外そとから掛かけて三人にんが庭にはに立たつた時とき月つきは雲翳うんえいを遠とほざかつて靜しづかに柹かきの木きの上うへに懸かゝつて居ゐた。

毎年決まった踊りの場所は、村の社の大きな樅の木陰である。

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毎年まいねん極きまつた踊をどりの場所ばしよは村むらの社やしろの大おほきな樅もみの木陰こかげである。

勘次ら三人が行った時は、踊り子はもうだいぶ集まっていた。

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勘次等かんじら三人にんが行いつた時ときは踊子をどりこはもう大分だいぶ集あつまつて居ゐた。

一足森に入れば、激しく叩く太鼓の音が、その急いで遠くへ響き去るのを周りから遮り止めようとして、入り交じって茂っている幹や小枝に打ち当たってもつれているように、森いっぱいに鳴り響いて、上へ上へと恐ろしく人々の心を誘った。

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一足ひとあし森もりに入はひれば劇はげしく叩たゝく太鼓たいこの音おとが、その急いそいで遠とほくへ響ひゞき去さるのを周圍しうゐから遮さへぎり止とめようとして錯雜さくざつして茂しげつて居ゐる幹みきや小枝こえだに打當ぶツつかつて紛糾こぐらかつて居ゐるやうに、森もり一杯いつぱいに鳴なり響ひゞいて上うへへ/\と恐おそろしく人々ひと/″\の心こゝろを誘導そゝつた。

男女が入り交じって、太鼓を中央に輪を描いている。

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男女なんによが入いり交まじつて太鼓たいこを中央ちうあうに輪わを描ゑがいて居ゐる。

それが一定の間隔を置いては、一同が袋の口の紐を引いたように輪が縮まって、ぱらりぱらりと手拍子を取って、また以前のように広がる。

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それが一定ていの間隔かんかくを措おいては一同どうが袋ふくろの口くちの紐ひもを引ひいた樣やうに輪わが蹙しぼまつて、ぱらり/\と手拍子てびやうしをとつて、復また以前いぜんのやうに擴ひろがる。

そうしては、その踊りの手を繰り返しながら、徐々に太鼓の周りを回る。

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さうしては其その踊をどりの手てを反覆はんぷくしつゝ徐おもむろに太鼓たいこの周圍しうゐを廻めぐる。

女は袖を長く見せるために手拭いを折って両方の袂の先へ縫いつけて、それからしごき帯をたすきにして結んだ長い端を、後ろへだらりと垂れている。

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女をんなは袖そでを長ながく見みせる爲ために手拭てぬぐひを折をつて兩方りやうはうの袂たもとの先さきへ縫ぬひつけて、それから扱帶しごきを襷たすきにして結むすんだ長ながい端はしを後うしろへだらりと垂たれて居ゐる。

しごき帯は、踊りの手を描くたびごとに、袂とともにゆらりゆらりと揺れる。

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扱帶しごきは踊をどりの手てを描ゑがく度たび毎ごとに袂たもとと共ともにゆらり/\と搖ゆれる。

男は少し乱暴に、女の体にこすりつきながら踊る。

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男をとこは少すこし亂暴らんばうに女をんなの身體からだにこすりつきながら踊をどる。

女はうるさい時には一時踊りの手を止めて相手を叱ったり叩いたり、しかもその持ち前のつつましさを保って拍子を合わせながら、大勢の間にもまれながら、同じ線を繰り返しながら踊る。

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女をんなは五月繩うるさい時ときには一時ちよつと踊をどりの手てを止やめて對手あひてを叱しかつたり叩たゝいたり、然しかも其その特性とくせいのつゝましさを保たもつて拍子ひやうしを合あはせ乍ながら多勢おほぜいの間あひだに揉もまれつゝ同どう一線せんを反覆はんぷくしつゝ踊をどる。

次第に人数が増えて、大きな輪の内側にさらに小さな輪が描かれた。

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漸次ぜんじに人勢にんずが殖ふえて大おほきな輪わの内側うちがはに更さらに小ちひさな輪わが描ゑがかれた。

太鼓が怠ければ

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太鼓たいこが倦怠だれれば

「太鼓がおろそかじゃ踊りもおろかだ」

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「太鼓たいこが疎おろかぢや踊をどりもおろかだ」

と口々に促し促し、代わる代わる唄の声を張り上げて踊る。

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と口々くち/″\に促うながし促うながし交互たがひに唄うたの聲こゑを張はり揚あげて踊をどる。

太鼓の手は疲れれば、さらに人が交代して、撥も折れよと鳴らす。

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太鼓たいこの手ては疲つかれゝば更さらに人ひとが交代かうたいして撥ばちも折をれよと鳴ならす。

踊り子はみな、いっぱいに飾った笠をかぶっている。

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踊子をどりこは皆みな一杯ぱいに裝飾さうしよくした笠かさを戴いたゞいて居ゐる。

飾りといっても、夜目に鮮やかなように、饅頭やその他の物を包む白いへぎ皮をおびただしくくくりつけておくのである。

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裝飾さうしよくといつても夜目よめに鮮あざやかな樣やうに、饅頭まんぢうや其その他たの物ものを包つゝむ白しろいへぎ皮かはを夥おびたゞしく括くゝり附つけて置おくのである。

それが月光を遮っている樅の木陰に著しく目に立って、身を動かすたびに一斉にがさがさと鳴りながら、波のように動いて彼らの姿を引き立てている。

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其それが月光げつくわうを遮さへぎつて居ゐる樅もみの木陰こかげに著いちじるしく目めに立たつて、身みを動うごかす度たびに一齊せいにがさがさと鳴なりながら波なみの如ごとく動うごいて彼等かれらの風姿ふうしを添そへて居ゐる。

彼らが幾夜も踊って不用になった時には、それが彼らの歩いた道の傍らに埃にまみれながら、至る所に投げ捨てられて散らばっているのを見るのである。

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彼等かれらが幾夜いくよも踊をどつて不用ふように歸きした時ときには、それが彼等かれらの歩あるいた路みちの傍はたに埃ほこりに塗まみれながら到いたる處ところに抛棄はうきせられて散亂さんらんして居ゐるのを見みるのである。

その踊りの周りには、ようやく村の見物が集まった。

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其その踊をどりの周圍しうゐには漸やうやく村落むらの見物けんぶつが聚あつまつた。

混雑した群衆と少し離れて、村のにわか商人がむしろを敷いて、駄菓子や梨やまくわ瓜や西瓜を並べている。

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混雜こんざつして群集ぐんしふと少すこし離はなれて村落むらの俄商人にはかあきんどが筵むしろを敷しいて駄菓子だぐわしや梨なしや甜瓜まくはうりや西瓜すゐくわを並ならべて居ゐる。

油煙がぼうっと上がるカンテラの光が、そういうすべてを涼しく見せている。

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油煙ゆえんがぼうつと騰あがるカンテラの光ひかりがさういふ凡すべてを凉すゞしく見みせて居ゐる。

ことに断ち割った西瓜の赤い切れは、小さな店の第一の飾りである。

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殊ことに斷たち割わつた西瓜すゐくわの赤あかい切きれは小ちひさな店みせの第だい一の飾かざりである。

踊り子の渇いた喉には、自分たちが立てる埃の掛かるのも構わず、ひたすらそれをうまく感じるのである。

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踊子をどりこの渇かつした喉のどには自分等じぶんらが立たてる埃ほこりの掛かゝるのも頓着とんちやくなく只管ひたすらそれを佳味うまく感かんずるのである。

それが少女であれば、少なくとも三、四人が群れて、飾られた花笠深く顔が覆われているのに、それでもなお知られることを恥じらって、ようやく手の及ぶ程度にカンテラの光の範囲から遠ざかろうとしながら、西瓜の一切れずつを求める。

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それが少女せうぢよであれば少すくなくとも三四人にんが群むれて飾かざられた花笠はながさ深ふかく顏かほが掩おほはれて居ゐるのにそれでも猶且やつぱり知しられることを恥はぢらうて漸やうやく手ての及およぶ程度ていどにカンテラの光ひかりの範圍はんゐから遠とほざからうとしつゝ西瓜すゐくわの一片きれづつを求もとめる。

にわか商人は、カンテラの明かりと木陰の薄い闇との間に立った、その姿がはっきりと見極めがたいので、しきりに目をしかめながら、求められるままにむしろの端に立って西瓜を出してやる。

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俄商人にはかあきんどはカンテラの光明くわうみやうと木陰こかげの薄うすい闇やみとの間あひだに立たつた其その姿すがたが明瞭はつきりと見極みきはめ難がたいので、頻しきりに目めを蹙しかめつゝ求もとめられる儘まゝに筵むしろの端はしに立たつて西瓜すゐくわを出だして遣やる。

踊り子はそれを手にして、慌ただしく木陰に隠れる。

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踊子をどりこは其それを手てにして慌あわたゞしく木陰こかげに隱かくれる。

そこには必ず、めいめいの口から発する笑い声が聞かれるのである。

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其處そこには必かならず各おの/\の口くちから發はつする笑聲わらひごゑが聞きかれるのである。

カンテラの光のためにかえって視界を狭められた商人は、木陰の闇から見れば滑稽なほど、絶えずその目をしかめながら、外の闇を透して騒がしい群衆を見ている。

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カンテラの光ひかりの爲ために却かへつて眼界がんかいを狹せばめられた商人あきんどは木陰こかげの闇やみから見みれば滑稽こつけいな程ほど絶たえず其その眼めを蹙しかめつゝ外そとの闇やみを透すかして騷さわがしい群集ぐんしふを見みて居ゐる。

勘次は与吉の求めるままに西瓜の一切れを与えて、自分は商人の狭いむしろの端へ腰を下ろした。

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勘次かんじは與吉よきちの求もとめる儘まゝに西瓜すゐくわの一片きれを與あたへて自分じぶんは商人あきんどの狹せまい筵むしろの端はしへ腰こしを卸おろした。

おつぎはしばらく店のそばに立っていたが、明るい光をいとって、やがて樅の木の下に与吉とともに身を避けた。

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おつぎは暫しばらく店みせの側そばに立たつて居ゐたが、明あかるい光ひかりを厭いとうて軈やがて樅もみの木きの下したに與吉よきちと共ともに身みを避さけた。

勘次はにわかに目をそばだてるようにして、木陰の闇を見た。

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勘次かんじは俄にはかに眼めを聳そびやかすやうにして木陰こかげの闇やみを見みた。

彼はそこにおつぎの浴衣姿がじっとしているのを見て、むしろから離れることはしなかった。

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彼かれは其處そこにおつぎの浴衣姿ゆかたすがたが凝然じつとして居ゐるのを見みて筵むしろから離はなれることは仕しなかつた。

「おつぎさん、よく来たっけな」

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「おつぎさん能よく來きたつけな」

列を離れた踊り子が、汗の胸を少し開いて、袂でしきりにあおぎながら、樅の木のそばに立って言いかけた。

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列れつを離はなれた踊子をどりこが汗あせの胸むねを少すこし開ひらいて、袂たもとで頻しきりに煽あふぎながら樅もみの木きの側そばに立たつていひ掛かけた。

「ああ暑いやまあ、むせ返るようだ」

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「おゝ暑あついやまあ、咽むせつ返けえる樣やうだ」

と、袂の端で汗を拭きながら

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と、袂たもとの端はしで汗あせを拭ふきながら

「おつぎさん、踊らないか」

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「おつぎさん、踊をどんねえか」

と、ほかの一人が言った。

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と他ほかの一人ひとりがいつた。

「おれはいやだよ、おとっつあんがいるから」

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「俺おら厭やだよ、おとつゝあ居えつから」

おつぎは小声で言った。

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おつぎは小聲こごゑでいつた。

誘った踊り子は、目をしかめている勘次の様子を見て、自分が睨みつけられているように感じたので、ほかへこそこそと身を避けた。

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誘さそうた踊子をどりこは目めを蹙しかめて居ゐる勘次かんじの容子ようすを見みて自分じぶんが睨にらみつけられて居ゐる樣やうに感かんじたので、他たへ孤鼠々々こそ/\と身みを避さけた。

女同士の目には、姿を変えた踊り子がみな一目で分かるのであった。

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女同士をんなどうしの眼めには姿すがたを變へんじた踊子をどりこが皆みな一見けんして了解れうかいされるのであつた。

踊りを見ながら輪の周りに立っている村の女らは、手と手を突き合って勘次の様子を見ては、くすくすとひそかに冷笑を浴びせかけるのであった。

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踊をどりを見みながら輪わの周圍しうゐに立たつて居ゐる村落むらの女等をんならは手てと手てを突つゝき合あうて勘次かんじの容子ようすを見みてはくすくすと竊ひそかに冷笑れいせうを浴あびせ掛かけるのであつた。

カンテラの光は、樅の木陰のどこからでもはっきりと勘次の様子を目に立たせるように、ぼうぼうと油煙を立てながら、周りの目とうなずき合って、赤い舌をべろべろと吐きながら揺らめいた。

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カンテラの光ひかりは樅もみの木陰こかげの何處いづこからでも明瞭はつきりと勘次かんじの容子ようすを目めに立たたせる樣やうにぼう/\と油煙ゆえんを立たてながら、周圍しうゐの眼まなこと首肯うなづき合あうて赤あかい舌したをべろべろと吐はきつゝゆらめいた

おつぎの姿が五、六人立った中に見えなくなった時、勘次は商人のむしろを立って、すっと樅の木のそばへ行った。

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おつぎの姿すがたが五六人にん立たつた中なかに見みえなく成なつた時とき勘次かんじは商人あきんどの筵むしろを立たつてすつと樅もみの木きの側そばへ行いつた。

おつぎは一、二歩位置を変えただけであったので、彼はすぐにおつぎの白い姿と接して立った。

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おつぎは一二歩ほ位置ゐちを變かへた丈だけであつたので、彼かれは直すぐにおつぎの白しろい姿すがたと相あひ接せつして立たつた。

女同士は勘次の姿を見て、少し身を避けた。

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女同士をんなどうしは勘次かんじの姿すがたを見みて少すこし身みを避さけた。

五、六本そびえ立った樅の木は、引きしごいたようなこずえが寄り合って、さっきから明るい光をいとう踊り子を覆っていっぱいに陰を投げていたのであるが、じっとした静かな月がいくらか首を傾けたと思ったら、樅のこずえの間から少しのぞいて、踊り子が形づくっている輪の一端をかっと明るくした。

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五六本ぽん屹立きつりつした樅もみの木きは引ひつ扱こいた樣やうな梢こずゑが相あひ倚よつて、先刻さつきから明あかるい光ひかりを厭いとふ踊子をどりこを掩おほうて一杯ぱいに陰翳かげを投なげて居ゐたのであるが、凝然ぢつとした靜しづかな月つきが幾いくらか首くびを傾かたむけたと思おもつたら樅もみの梢こずゑの間あひだから少すこし覗のぞいて、踊子をどりこが形かたちづくつて居ゐる輪わの一端たんをかつと明あかるくした。

彼らのかぶっている飾りがその光に触れれば、ことごとく目を射るようにはっきりと白く見え出した。

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彼等かれらの戴いたゞいて居ゐる裝飾さうしよくが其その光ひかりに觸ふれゝば悉ことごとく目めを射いるやうにはつきりと白しろく見みえ出だした。

ほとんど疲れということを感じないのであろうかと怪しまれる彼らは、ますます興に乗じて、少し乱雑になりかけた。

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殆ほとんど疲勞ひらうといふことを感かんじないであらうかと怪あやしまれる彼等かれらは益々ます/\興きように乘じようじて少すこし亂雜らんざつに成なり掛かけた。

白いシャツの上に浴衣を肩までまくって、尻をからげて草鞋をはいた幾人かが列から離れたと思ったら、そこらに立って見物している女らに向かって、津波のように襲った。

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白しろいシヤツの上うへに浴衣ゆかたを肩かたまで捲まくつて、臀しりを褰からげて草鞋わらぢを穿はいた幾人いくにんが列れつから離はなれたと思おもつたら、其處そこらに立たつて見物けんぶつして居ゐる女等をんならに向むかつて海嘯つなみの如ごとく襲おそうた。

女同士はわあとただ笑い声を発して、めいめいに相手を突いたり叩いたりして、乱れながら騒いだ。

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女同士をんなどうしはわあと只たゞ笑わらひ聲ごゑを發はつして各自てんでに對手あひてを突ついたり叩たゝいたりして亂みだれつゝ騷さわいだ。

突然一人が、おつぎの髪へひょいと手を掛けた。

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突然とつぜん一人ひとりがおつぎの髮かみへひよつと手てを掛かけた。

「これはまあ、どうしたもんだ」

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「此こらまあ、どうしたもんだ」

おつぎが驚いて叫んだ時、相手はおつぎの櫛を奪って、混雑した群衆の中へ身を沈めた。

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おつぎが驚おどろいて叫さけんだ時とき、對手あひてはおつぎの櫛くしを奪うばつて混雜こんざつした群集ぐんしふの中なかへ身みを沒ぼつした。

おつぎは髪へいたずらされたことを嫌って、思わず手を当ててみて、櫛のなくなったのを知った。

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おつぎは髮かみへ惡戯いたづらされたことを嫌きらつて思おもはず手てを當あてて見みて櫛くしの無なくなつたのを知しつた。

「他人の櫛をまあ」

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「他人ひとの櫛くしまあ」

おつぎはそれを追おうとして、覚えず足を踏み出すと、一歩運んだ勘次の手が、むずとおつぎの首筋をつかまえた。

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おつぎは其それを追おはうとして覺おぼえず足あしを蹂ふみ出だすと、一歩ぽ運はこんだ勘次かんじの手てがむづとおつぎの首筋くびすぢを捉とらへた。

彼は同時に、おつぎの小鬢を横に打った。

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彼かれは同時どうじにおつぎの小鬢こびんを横よこに打うつた。

おつぎが慌てて後ろを向こうとする時、再び激しく打った手がおつぎの鼻に当たった。

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おつぎが慌あわてゝ後うしろを向むかうとする時とき、復ふたゝび劇はげしく打うつた手てがおつぎの鼻はなに當あたつた。

おつぎは両手で鼻を押さえて縮まった。

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おつぎは兩手りやうてで鼻はなを抑おさへて縮ちゞまつた。

女同士は樅の木陰に身をすくめて、手の出しようもなかった。

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女同士をんなどうしは樅もみの木陰こかげに身みを峙そばめて手ての出だし樣やうもなかつた。

一つには、ふだんからおつぎに対する勘次の態度を知っていて、そこに一種の恐れを感じていたからでもあった。

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一ひとつには平生ふだんからおつぎに對たいする勘次かんじの態度たいどを知しつて居ゐて其處そこに一種しゆの恐怖きようふを感かんじて居ゐたからでもあつた。

「どうしてお前は、櫛なんぞ取られたんだ」

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「どうして汝わりや、櫛くしなんぞ取とらつたんだ」

勘次はからびた喉から絞り出すような声で問いつめた。

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勘次かんじはからびた喉のどから絞しぼり出だす樣やうな聲こゑで詰問きつもんした。

「こら、このあま奴、しらばくれやがって、どうしたんだよ」

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「こうれ、此この阿魔奴あまめ、しらばくれやがつて、どうしたんだよ」

勘次はかがんだままのおつぎをぐいと突いた。

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勘次かんじは屈かゞんだ儘まゝのおつぎをぐいと突ついた。

おつぎは転がりそうにして、ようやく土へ手を突いた。

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おつぎは轉ころがり相さうにして漸やうやく土つちへ手てを突ついた。

「何するんだな、おとっつあん」

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「何なに爲すんだな、おとつゝあ」

おつぎは慌てて顔をねじ向けて、少し泣き声で、むしろ鋭く言った。

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おつぎは慌あわてゝ顏かほを捩ねぢ向むけて少すこし泣なき聲ごゑで寧むしろ鋭するどくいつた。

「何するんだとう。ずうずうしいあまだ。櫛をどうして取られたんだか言ってみろというんだ。これでも分からないのか。言ってみろよ」

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「何なに爲すんだとう、づう/\しい阿魔あまだ、櫛くし何故どうして取とらつたんだか云ゆつて見みろつちんだ、此こんでも分わかんねえのか、云ゆつて見みろよ」

勘次はしばらく間を置いて、またかっと忌々しくなったように

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勘次かんじは暫しばらく間あひだを措おいて、又またかつと忌々敷いま/\しくなつたやうに

「言ってみろというのに、言ってみろよ」

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「云ゆつて見みろつちのに、云ゆつて見みろよ」

と繰り返して、おつぎを責めた。

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と反覆くりかへしておつぎを責せめた。

「どうしてと言ったって、おれには分からないよ」

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「どうしてつちつたつて、俺おらがにや分わかんねえよ」

おつぎは恨めしそうに、しかしながら周りを憚るようにして小声で言った。

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おつぎは恨うらめし相さうに然しかしながら周圍しうゐに憚はゞかる樣やうにして小聲こごゑでいつた。

袂は顔を覆ったままである。

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袂たもとは顏かほを掩おほうた儘まゝである。

「分からないとう。何にも知らない者で他人の櫛なんぞ取るか」

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「分わかんねえとう、何なんにも知しらねえ者もので他人ひとの櫛くしなんぞ取とつか」

勘次は苦しい息を吐くようにして

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勘次かんじは苦くるしい息いきを吐つくやうにして

「そんならお前は」

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「そんだら汝わりや」

と、歯でぎっとかみ殺したような声で言った。

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と齒はでぎつと噛かみ殺ころした樣やうな聲こゑでいつた。

しばらくじっと見ていた彼は、おつぎを蹴った。

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暫時しばらく凝然ぢつと見みて居ゐた彼かれはおつぎを蹴けつた。

おつぎは前へのめった。

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おつぎは前まへへのめつた。

しかし、おつぎは泣かなかった。

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然しかしおつぎは泣なかなかつた。

「ああ痛いまあ」

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「おゝ痛いてえまあ」

群衆の中から作り声で言った。

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群集ぐんしふの中なかから假聲こわいろでいつた。

踊りの列はさっきから崩れて、垣のように勘次とおつぎの周りに集まったのである。

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踊をどりの列れつは先刻さつきから崩くづれて堵との如ごとく勘次かんじとおつぎの周圍まはりに集あつまつたのである。

おつぎはこの声を聞くとともに、乱れかけた着物の合わせ目を繕った。

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おつぎは此この聲こゑを聞きくと共ともに亂みだれ掛かけた衣物きものの合あはせ目めを繕つくろうた。

「櫛を取ったのはここにいたよう」

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「櫛くしとつたな此處ここに居ゐたよう」

と、これも喉の底からかすれて出るような声が、群衆の中から発せられた。

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と此これも喉のどの底そこからかすれて出でるやうな聲こゑが群集ぐんしふの中なかから發はつせられた。

「持ってたら、やっちまえ」

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「持もつてたら、やつちめえ」

「いやだよう、おとっつあんにぶん殴られるから。おとっつあん勘弁してくれよう」

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「厭やだよう、おとつゝあに打ぶん擲なぐられつから、おとつゝあ勘辨かんべんしてくろよう」

と、すすり泣くような作り声がさらに聞こえた。

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と歔欷すゝりなくやうな假聲こわいろが更さらに聞きこえた。

呆然として見ていたすべてがどよめいた。

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惘然ばうぜんとして見みて居ゐた凡すべてがどよめいた。

「おとっつあん、明かりをつけようかあ」

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「おとつゝあ明あかり點つけべえかあ」

と、群衆の後ろから怒鳴るとともに、すべてがまたどっと笑った。

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と群集ぐんしふの後あとから呶鳴どなると共ともに凡すべてが復またどつと笑わらつた。

おつぎはむっくり起きて、さっさと行きかけた。

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おつぎはむつくり起おきてさつさと行ゆき掛かけた。

「お前、どこへ行くんだ。こら」

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「汝われ何處どこさ行えくんだ。こうれ」

勘次はつかまえようとしたが、おつぎは身をよじってさっさと行く。

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勘次かんじは引ひつ捉つかまうとしたがおつぎは身みを捩ねぢつてさつさと行ゆく。

勘次は慌てて草履の爪先がつまずきながら、おつぎの後についた。

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勘次かんじは慌あわてゝ草履ざうりの爪先つまさきが蹶つまづきつゝおつぎの後あとに跟ついた。

「おつう」

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「おつう」

彼は心もとなげに呼んだ。

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彼かれは心こゝろもとなげに喚よんだ。

与吉はどうしたわけとも分からないので、さっきからただ泣いていた。

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與吉よきちはどうした理由わけとも分わからないので先刻さつきから只たゞ泣ないて居ゐた。

太鼓が止んで、踊りはまったく乱れてしまった。

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太鼓たいこが止やんで踊をどりは全まつたく亂みだれて畢しまつた。

それでなくても彼らは、ひとしきり踊れば田んぼを越えて三々五々と、男は女を伴って、畑の小道から林を過ぎて、村から村へと太鼓の音を尋ねて行くのである。

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それでなくても彼等かれらは一しきり踊をどれば田圃たんぼを越こえて三々五々さんさんごゝと男をとこは女をんなを伴ともなうて、畑はたの小徑こみちから林はやしを過すぎて村落むらから村落むらへと太鼓たいこの音おとを尋たづねて行ゆくのである。

勘次の後から、彼らはぞろぞろとついて行った。

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勘次かんじの後うしろから彼等かれらはぞろ/\と跟ついて行いつた。

ある者は足速に駆け抜けては

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或ある者ものは足速あしばやに駈かけ拔ぬけては

「焼き餅焼くとて手を焼いて、その手でお釈迦の団子をこねた」

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「燒餅やきもち燒やくとて手てを燒やいてえ、其その手てでお釋迦しやかの團子だんご捏こねたあ」

と当てつけに唄って、ずんずん行ってしまう。

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と當あてつけに唄うたうてずん/\行いつて畢しまふ。

後ろの群衆はそれに応じて、指をくわえてぴゅうぴゅうと鳴らしながら、勘次の心をいらだたせた。

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後うしろの群集ぐんしふはそれに應おうじて指ゆびを啣くはへてぴう/\と鳴ならしながら勘次かんじの心こゝろを苛立いらだたせた。

勘次はどれほどそれが激した心に忌々しくても、それをたしなめて叱ってやる何の手がかりも持っていない。

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勘次かんじは何どれ程ほどそれが激げきした心こゝろに忌々敷いま/\しくくても其それを窘たしなめて叱しかつて遣やる何なんの手てがかりも有もつて居をらぬ。

三人はただ黙って歩いた。

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三人にんは只たゞ默だまつて歩あるいた。

社の森の外は、白い月夜である。

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社やしろの森もりの外そとは白しろい月夜つきよである。

勘次が村外れの家に帰った時は、踊り子はみな自分の向かう所に赴いて、三人のみが静かに更けて行く庭にぽつんと立ったのであった。

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勘次かんじが村落外むらはづれの家いへに歸かへつた時ときは踊子をどりこは皆みな自分じぶんの嚮むかふ處ところに赴おもむいて三人にんのみが靜しづかに深ふけ行ゆく庭にはにぽつさりと立たつたのであつた。

各所の太鼓の音が、面白いのはかえってこれからだというように、沈んだ夜を透して一直線に響いて来る。

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各所かくしよの太鼓たいこの音おとが興味きようみは却かへつて此これからだといふ樣やうに沈しづんだ夜よを透とほして一直線ちよくせんに響ひゞいて來くる。

唄の声は遠く近く聞こえる。

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唄うたの聲こゑは遠とほく近ちかく聞きこえる。

夜はまったく、踊る者の領分に帰した。

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夜よるは全まつたく踊をどるものゝ領域りやうゐきに歸きした。

彼らは、とうもろこしの葉がざわざわと妙に心を騒がせて、花粉の匂いがさらに心の何かを突き動かす畑の間を行くとては、踊って唄って渇いた喉に、そこに瓜が作ってあるのを知れば、ひそかに瓜や西瓜を盗んで、道端の草の中に打ち割った皮を投げ捨てて行くのである。

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彼等かれらは玉蜀黍たうもろこしの葉はがざわ/\と妙めうに心こゝろを騷さわがせて、花粉くわふんの臭にほひが更さらに心こゝろの或ある物ものを衝動そゝる畑はたけの間あひだを行ゆくとては、踊をどつて唄うたうて渇かつした喉のどに其處そこに瓜うりが作つくつてあるのを知しれば竊ひそかに瓜うりや西瓜すゐくわを盗ぬすんで路傍みちばたの草くさの中なかに打うち割わつた皮かはを投なげ棄すてゝ行ゆくのである。

彼らの間のいたずら好きな五、六人が、夜が更けてからそっと勘次の庭へ立ってみた。

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彼等かれらの間あひだに惡戯いたづらの好すきな五六人にんが夜よが深ふけてからそつと勘次かんじの庭にはへ立たつて見みた。

その時はただ自分たちの影がやや長く庭の土に映って、月は隙間だらけの古ぼけた雨戸を、ほのかに白く見せていた。

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其その時ときは只たゞ自分等じぶんらの陰翳かげが稍やゝ長ながく庭にはの土つちに映えいじて、月つきは隙間すきまだらけの古ふるぼけた雨戸あまどをほのかに白しろく見みせて居ゐた。

周りは泣き止んだ後のように、あまりに寂しかった。

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周圍しうゐは泣なき止やんだ後あとのやうに餘あまりに寂さびしかつた。

五、六人はただぽつんと帰ってしまった。

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五六人にんは只たゞぽつさりと歸かへつて畢しまつた。

おつぎは次の朝、櫛を探しに出た。

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おつぎは次つきの朝あさ櫛くしを探さがしに出でた。

同じ年ごろの間には、誰のいたずらであるかがその場ですべての耳に知れ渡っていた。

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同おなじ年輩ねんぱいの間あひだには誰たれの惡戯いたづらであるかが其その場ばで凡すべての耳みゝに知しれ渡わたつて居ゐた。

「櫛なんざ持っていないぞ、もう。それよりは、帰って柿の木の二股でも見たほうがいいと」

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「櫛くしなんざ持もつてゐねえぞはあ、それよりやあ、歸けえつて柹かきの木きのざく股またでも見みた方はうがえゝと」

仲間の一人がおつぎへ言った。

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朋輩ほうばいの一人ひとりがおつぎへいつた。

おつぎは、自分の庭の柿の木の幹が二股になった所に、櫛がそっと載せてあるのを見つけた。

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おつぎは自分じぶんの庭にはの柹木かきのきの幹みきが二股またに成なつた處ところに櫛くしがそつと載のせてあるのを發見はつけんした。

櫛は鼈甲まがいのゴムの櫛であった。

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櫛くしは鼈甲模擬べつかふまがひのゴムの櫛くしであつた。

歯が二枚ばかり欠けていた。

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齒はが二枚まいばかり缺かけて居ゐた。

おつぎは傷んだ所をじっと見て、すぐに髪へ挿した。

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おつぎは損所そんしよを凝然ぢつと見みて直すぐに髮かみへ揷さした。

櫛の事件はそれっきりで終わった。

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櫛くしの事件じけんは其それつ切きりで畢をはつた。

勘次は何かにつけては、おつう、おつうと懐かしげに呼んで、一家は人の目に立つほどきわめて睦まじかった。

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勘次かんじは何なにかにつけてはおつう/\と懷なつかしげに喚よんで一家かは人ひとの目めに立たつ程ほど極きはめて睦むつましかつた。

しかし、こういう事件は村のすべての口を長く塞ぐことはできなかった。

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然しかしかういふ事件じけんは村落むらの凡すべての口くちを久ひさしく防ふせぐことは出來できなかつた。

ことに女房らの間には

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殊ことに女房等にようばうらの間あひだには

「勘次さんもどうしたっていうんだろう。おれは怖いようだったぞ」

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「勘次かんじさんもどうしたつちんだんべ、俺おら可怖おつかねえやうだつけぞ」

「本当によ、まるっきり狂気のようだものなあ」

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「本當ほんたうによ、丸まるつきり狂氣きちげえのやうだものなあ」

という驚きの声が、至る所に繰り返された。

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といふ驚異きやういの聲こゑが到いたる處ところに反覆はんぷくされた。

「ただとは思えないよ。勘次さんも、ああいうふうにしないでもよかろうと思うのになあ」

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「唯たゞたあ思おもへねえよ、勘次かんじさんもあゝいに仕しねえでもよかんべと思おもふのになあ」

嘆きの声を発しては、めいめいの心に潜んでいる何かを、口にははっきりと言うことを憚るように、目と目を見合わせて互いに笑っては、わずかに

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嘆聲たんせいを發はつしては各自かくじの心こゝろに伏在ふくざいして居ゐる或ある物ものを口くちには明白地あからさまに云いふことを憚はゞかる樣やうに眼めと眼めを見合みあはせて互たがひに笑わらうては僅わづかに

「いやだいやだ」

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「厭やだ/\」

という、底に一種の意味を含んだ一言を投げ捨てて別れるのである。

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といふ底そこに一種しゆの意味いみを含ふくんだ一語ごを投なげ棄すてゝ別わかれるのである。

ことには村の若者の間へは、少しも遠慮のない想像に伴う陰口をたくましくさせる、格好の材料を提供したのであった。

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殊ことには村落むらの若者わかものの間あひだへは寸毫すんがうも遠慮ゑんりよの無ない想像さうざうに伴ともなふ陰口かげぐちを逞たくましくせしめる好箇かうこの材料ざいれうを提供ていきようしたのであつた。

一四

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一四

夏が巡って来た。

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夏なつが循環じゆんくわんした。

暑い日の刺激が、驚くべき活動力を百姓の手足に与える。

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暑あつい日ひの刺戟しげきが驚おどろくべき活動力くわつどうりよくを百姓ひやくしやうの手足てあしに與あたへる。

百姓は馬や荷車を駆って、刈り倒した麦をせっせと運ぶ。

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百姓ひやくしやうは馬うまや荷車にぐるまを駈かつて刈かり倒たふした麥むきをせつせと運はこぶ。

長い日はわずかな日数のうちに、目に果てしない畑をからりとさせて、しばらくすると天候は限りない変化の手をいっぱいに広げて、黄色に熟する梅の小枝を苦しめているあぶらむしも滅びてしまうほどの長雨が、呆れもしないで降り続く。

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永ながい日ひは僅わづかな日數ひかずの内うちに目めに渺々べうべうたる畑はたけをからりとさせて、暫しばらくすると天候てんこうは極きはまりない變化へんくわの手てを一杯ぱいに擴ひろげて、黄色きいろに熟じゆくする梅うめの小枝こえだを苦くるしめて居ゐる蚜蟲あぶらむしも滅亡めつばうして畢しまふ程ほどの霖雨りんうが惘あきれもしないで降ふり續つゞく。

そうすると、麦を刈った跡の豆や陸稲が、渇いた口へ冷たい水を得たように勢いづいて、四、五日のうちに青い葉で畑の土が隙間なく覆われる。

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さうすると麥むきを刈かつた跟あとの菽まめや陸穗をかぼが渇かつした口くちへ冷つめたい水みづを獲えた樣やうに勢いきほひづいて、四五日にちの内うちに青あをい葉はを以もつて畑はたけの土つちが寸隙すんげきもなく掩おほはれる。

雨は踏み固めてある百姓の庭の土にも、たねつけばなやきつねのぼたんの黄色い小粒な花を持たせて、棟にさえ長い短い草を生えさせる。

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雨あめは蹂ふみ固かためてある百姓ひやくしやうの庭にはの土つちにも蔊菜いぬがしらや石龍芮たがらしの黄色きいろい小粒こつぶな花はなを持もたせて、棟やのむねにさへ長ながい短みじかい草くさを生しやうぜしめる。

自然の意志は、ひたすら地上の至る所に柔らかな青い葉で覆い隠そうとのみ力を注いでいるのである。

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自然しぜんの意志いしは只管ひたすらに地上ちじやうの到いたる處ところに軟やはらかな青あをい葉はを以もつて掩おほひ隱かくさうとのみ力ちからを注そゝいで居ゐるのである。

その意志に逆らってためらっているのは、百姓の手で丁寧にこねられた水田のみである。

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其その意志いしに逆さからうて猶豫たゆたうて居ゐるのは百姓ひやくしやうの手てで丁寧ていねいに捏こねられた水田すゐでんのみである。

夏がようやく更けると、自然はその心を焦らせて、長雨が低い田に水を満たさせて、堀にも茂った草を沈めて岸を越えさせる。

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夏なつが漸やうやく深ふけると自然しぜんは其その心こゝろを焦燥あせらせて、霖雨りんうが低ひくい田たに水みづを滿みたしめて、堀ほりにも茂しげつた草くさを沒ぼつして岸きしを越こえしめる。

稲で田の空き地を埋めることが一日でも速ければ、それだけ余計な報酬を晩秋の収穫において与えるからと教えて、自然は百姓の体力の及ぶかぎり活動させる。

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稻草いなぐさを以もつて田たの空地くうちを埋うづめることが一日にちでも速すみやかなればそれだけ餘計よけいな報酬はうしうを晩秋ばんしうの收穫しうくわくに於おいて與あたへるからと教をしへて自然しぜんは百姓ひやくしやうの體力たいりよくの及およぶ限かきり活動くわつどうせしめる。

そうすると百姓は、田のようにどろどろと往来の土をもこねて、馬とともに泥にまみれながら、田植えにのみかかりきる。

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さうすると百姓ひやくしやうは田たのやうにどろ/\と往來わうらいの土つちをも捏こねて馬うまと共ともに泥どろに塗まみれながら田植たうゑにのみ屈託くつたくする。

彼らは雨を藁の蓑に避けて、左手に持った苗を少しずつ取っては、後ずさりに深い泥から股引の足を引き抜き引き抜き、植えて退く。

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彼等かれらは雨あめを藁わらの蓑みのに避さけて左手ひだりてに持もつた苗なへを少すこしづつ取とつて後退あとずさりに深ふかい泥どろから股引もゝひきの足あしを引ひき拔ぬき引ひき拔ぬき植うゑ退のく。

こうして広々とした水田は、一日泥に浸ったままでも愉快そうに唄う声があっちからもこっちからも響くとともに、だんだんに淡い緑が覆って、多忙で、かつ活発な夏の自然は、先に植えられた田から次第に深い緑を染めて行く。

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恁かうして宏濶くわうくわつな水田すゐでんは、一日にち泥どろに浸ひたつた儘まゝでも愉快相ゆくわいさうに唄うたふ聲こゑがそつちからもこつちからも響ひゞくと共ともに、段々だん/\に淺あさい緑みどりが掩おほうて、多忙たばうで且かつ活溌くわつぱつな夏なつの自然しぜんは先さきに植うゑられた田たから漸次ぜんじに深ふかい緑みどりを染そめて行ゆく。

田がすべて植え終わった時には、あぜにも短い草が生えていて、土の黒い部分がどこにも見えなくなる。

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田たが凡すべて植うゑ畢をはつた時ときには畦畔くろにも短みじかい草くさが生はえて居ゐて土つちの黒くろい部分ぶぶんが何處どこにも見みえなく成なる。

自然ははじめて自分の満足を得たように、からりと快い空を拭って、暑い日の光を投げかける。

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自然しぜんは始はじめて自己じこの滿足まんぞくを得えた樣やうにからりと快こゝろよい空そらを拭ぬぐうて暑あつい日ひの光ひかりを投なげ掛かける。

青田のあぜにはところどころにかんぞうが開いて、田の草をかくとては、村の少女が赤い帯を暑い日に燃やさない日でも、しぼんでは開いて、朱の杯のように点々と耕地を彩るのである。

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青田あをたの畦畔くろには處々しよ/\に萱草くわんさうが開ひらいて、田たの草くさを掻かくとては村落むらの少女むすめが赤あかい帶おびを暑あつい日ひに燃もやさない日ひでも、萎しぼんでは開ひらいて朱杯しゆはいの如ごとく點々てん/\と耕地かうちを彩いろどるのである。

百姓は忙しい田植えが終われば、どこの家でも秋の収穫を待つ準備がすっかり施されたので、めいめいの労をねぎらうために、相当なもてなしが行われるのである。

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百姓ひやくしやうは忙いそがしい田植たうゑが畢をはれば何處どこの家いへでも秋あきの收穫しうくわくを待まつ準備じゆんびが全まつたく施ほどこされたので、各自かくじの勞らうを劬ねぎらふ爲ために相當さうたうな饗應もてなしが行おこなはれるのである。

それが早苗饗である。

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其それが早苗振さなぶりである。

勘次とおつぎは、南の早苗饗の日に雇われて行っていた。

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勘次かんじとおつぎは南みなみの早苗振さなぶりの日ひに傭やとはれて行いつて居ゐた。

勘次の家から南へ行く小道を挟んだ桑畑は、刈り取ってから草の生えたくらいに枝が立ちはじめていた。

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勘次かんじの家いへから南みなみへ行ゆく小徑こみちを挾はさんだ桑畑くはばたけは刈取かりとつてから草くさの生はえた位くらゐに枝えだが立たち始はじめて居ゐた。

桑の間にはじゃがいもが茂って、花を持っていた。

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桑くはの間あひだには馬鈴薯じやがいもが茂しげつて花はなを持もつて居ゐた。

南の家では少しばかり養蚕をしたので、百姓の仕事がすべて手遅れになったのであった。

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南みなみの家いへでは少すこしばかり養蠶やうさんをしたので百姓ひやくしやうの仕事しごとが凡すべて手後ておくれに成なつたのであつた。

村のたいていが田植えを終えかけたので、慌てて大勢の手を雇った。

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村落むらの大抵たいていが田植たうゑを畢をはり掛かけたので慌あわてゝ大勢おほぜいの手てを傭やとうた。

その日は晴れて心持ちがよかったのと、一同が非常な奮発をしたのとで、仕事は日の高いうちに済んだ。

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其その日ひは晴はれて心持こゝろもちがよかつたのと、一同どうが非常ひじやうな奮發ふんぱつをしたのとで仕事しごとは日ひの高たかい内うちに濟すんだ。

南の女房は仕事の見極めがついたので、おつぎを連れて、その晩のおかずの用意をするために、一足先に田から帰った。

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南みなみの女房にようばうは仕事しごとの見極みきはめがついたのでおつぎを連つれて、其その晩ばんの惣菜そうざいの用意よういをする爲ために一足あし先さきへ田たから歸かへつた。

女房は忙しい思いをしながら、麦を炒って香煎も篩っておいた。

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女房にようばうは忙いそがしい思おもひをしながら麥むぎを熬いつて香煎かうせんも篩ふるつて置おいた。

田植えの一同は、股引をはいたまま泥の足をずっと堀の水に立てて、股引の紺地がはっきりとなるまで、両手でごしごしとしごいた。

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田植たうゑの同勢どうぜいは股引もゝひき穿はいた儘まゝ泥どろの足あしをずつと堀ほりの水みづに立たてゝ、股引もゝひきの紺地こんぢがはつきりと成なるまで兩手りやうてでごし/\と扱しごいた。

溶けた泥が煙のように水を濁らせて、ずんずんと流される。

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溶とけた泥どろが煙けぶりの如ごとく水みづを濁にごらしてずん/\と流ながされる。

そうしてから、その股引を脱いでざぶざぶと洗う者もあった。

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さうしてから其その股引もゝひきを脱ぬいでざぶ/\と洗あらふ者ものも有あつた。

彼らが帰って、家の中は急にがやがやとにぎやかになった。

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彼等かれらが歸かへつて家いへの内うちは急きふにがや/\と賑にぎやかに成なつた。

裏の戸口の柿の木の下に据えられた風呂には、牛が舌を出して鼻をなめずっているような炎が、煙とともにべろべろと立って、くすぶりながら燃えている。

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裏戸口うらとぐちの柹かきの木きの下したに据すゑられた風呂ふろには牛うしが舌したを出だして鼻はなを舐なめづつて居ゐる樣やうな焔ほのほが煙けぶりと共ともにべろ/\と立たつて燻いぶりつゝ燃もえて居ゐる。

雇われて来た女房らの一人がふたを取ってがらがらとかき回して、それからまた火吹き竹でふうふうと吹いた。

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傭やとはれて來きた女房等にようばうらの一人ひとりが蓋ふたをとつてがら/\と掻かき廻まはして、それから復また火吹竹ひふきだけでふう/\と吹ふいた。

炎の赤い舌がべろべろと長く立った。

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焔ほのほの赤あかい舌したがべろ/\と長ながく立たつた。

再びふたを取った時には、掃除の足らない風呂桶の中には、前夜の垢がいっぱいに浮いていた。

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再ふたゝび蓋ふたをとつた時ときには掃除さうぢの足たらぬ風呂桶ふろをけのなかには前夜ぜんやの垢あかが一杯ぱいに浮ういて居ゐた。

そんなことには構わずに、田植えの一同はずんずんと入った。

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其麽そんなことには關かまはずに田植たうゑの同勢どうぜいはずん/\と這入はひつた。

彼らはほとんど、ただ手拭いでぼちゃぼちゃと体をこすって出た。

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彼等かれらは殆ほとんど只たゞ手拭てぬぐひでぼちや/\と身體からだをこすつて出でた。

足の爪先に詰まった泥を落とすことさえしなかった。

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足あしの爪先つまさきに詰つまつた泥どろを落おとすことさへ仕しなかつた。

「くすぶってるのをそっちへ押し出さなくちゃ仕方がないや」

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「燻けぶつてえのそつちへおん出ださなくつちや仕しやうねえや」

風呂から出たまま拭いもしない足に下駄をはいて、裸の尻を他人に向けて立った一人が、後ろを振り返って言った。

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風呂ふろから出でた儘まゝ拭ぬぐひもせぬ足あしに下駄げたを穿はいて裸はだかの臀しりを他人たにんに向むけて立たつた一人にんが後うしろを顧かへりみていつた。

「なあに構わない」

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「なあに管かまあねえ」

後から目をしかめながら、一人が首筋まで沈んだ。

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後あとから目めを蹙しかめながら一人ひとりが首筋くびすぢまで沈しづんだ。

それから風呂桶へ腰を掛けて、ごしごしと洗いながら

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それから風呂桶ふろをけへ腰こしを掛かけてごし/\と洗あらひながら

「こりゃくすぶってる」

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「此こりや燻けぶつてえ」

と、また沈んだままごしごしと垢を落としていたが

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と復また沈しづんだ儘まゝごし/\と垢あかを落おとして居ゐたが

「ああいい所だ。よう、おつぎ、ちょっとここまで来てくれないか」

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「あゝ善ええ處とこだ、よう、おつぎ、少ちつと此處ここまで來きてくんねえか」

と言った。

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といつた。

彼は百姓の間には、馬を引いて歩く村の博労であった。

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彼かれは百姓ひやくしやうの間あひだには馬うまを曳ひいて歩あるく村落むらの博勞ばくらうであつた。

「どうしたもんだろう。兼さんら自分で入るのに、くすぶってるなら押し出してから入ったらよかろうな。それにどうしたもんだ、一同いて、水汲みに来た者なんぞ使わなくたっていいだろうな」

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「どうしたもんだんべ、兼かねさん等ら自分じぶんで這入へえんのに燻けむつたけりや、おん出だしてからへえつたら善よかんべなあ、それに怎的どうしたもんだ一同みんな居ゐて、水汲みずくみに來きたものなんぞ使つかあねえたつてよかんべなあ」

おつぎは軽くたしなめるように言って、二つの手桶をそっと置いて、くすぶっている薪を出してやった。

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おつぎは輕かるく窘たしなめる樣やうにいつて二つの手桶てをけをそつと置おいて、燻いぶつて居ゐる薪たきゞを出だして遣やつた。

「おつぎにかき出してもらうんでなくちゃいやだというから、おれは構わないんだな。そうでなけりゃいくらでも出してやるさ、よ」

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「おつぎに掻かん出だして貰もらあんでなくつちや厭やだつちから俺おら管かまあねえんだな、そんでなけりや幾いくらでも出だして遣やらざらによ」

そばからすぐに言った。

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側そばから直すぐにいつた。

「くすぶってるのがなくなったら、ひどく晴れ晴れして、入っているようでなくなった。おれはばかな目に遭っちまったよ」

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「燻けぶつてえの無なく成なつたら酷ひどく晴々せい/\してへえつてる樣やうぢやなくなつた。俺おら莫迦ばかな目めに逢あつちやつたえ」

兼博労は、がぶりと風呂の音をさせて立ちながら言った。

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兼かね博勞ばくらうはがぶりと風呂ふろの音おとをさせて立たちながらいつた。

「どうしたもんだ、他人のことを使って小憎らしいこと。そんなこと言うと、押しつけてやるから」

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「どうしたもんだ、他人ひとのこと使つかつて小憎こにくらしいこと、そんなこと云いふとおつけて遣やつから」

おつぎはくすぶった薪を、兼博労の近くへ出した。

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おつぎは燻いぶつた薪たきゞを兼かね博勞ばくらうの近ちかくへ出だした。

兼博労は慌てて

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兼かね博勞ばくらうは慌あわてゝ

「謝った、謝った」

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「謝罪あやまつた/\」

と、ずっと身を引いた。

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とずつと身みを引ひいた。

おつぎが手桶のそばへ戻ったら

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おつぎが手桶てをけの側そばへ戻もどつたら

「ああ、おつぎ、おつぎ、ちょっと待っててくれよ。おれがいい物を出すから」

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「ああ、おつぎ/\少ちつと待まつてゝくろえ、俺おれえゝ物もの出だすから」

兼博労は口早に呼びかけた。

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兼かね博勞ばくらうは口速くちばやに喚よび掛かけた。

「ああいやなこった、要らないよ」

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「おゝ厭やなこつた、要えらねえよ」

おつぎは少し身をかがめて手桶の柄をつかんで、そのまま身を伸ばすと、手桶の底が十センチほど地を離れた。

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おつぎは少すこし身みを屈かがめて手桶てをけの柄えを攫つかんで其その儘まゝ身みを延のばすと手桶てをけの底そこが三寸ずんばかり地ちを離はなれた。

「ええ、これを出そうというのに」

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「えゝ、此これ出だすべつちのに」

兼博労は後ろから投げた。

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兼かね博勞ばくらうは後あとから投なげた。

それはこずえから風呂の中へ落ちた、へたのない青い柿であった。

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それは梢こずゑから風呂ふろの中なかへ落おちた蔕へたのない青あをい柹かきであつた。

柿は手桶の水へぽたりと落ちて、水のとばっちりが少しおつぎの足へ掛かった。

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柹かきは手桶てをけの水みづへぽたりと落おちて、水みづのとばちりが少すこしおつぎの足あしへ掛かゝつた。

「憎らしいことまあ、いたずらばかりして」

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「憎にくらしいことまあ、惡戯いたづらばかし仕して」

おつぎはにっこりとして後ろを見た。

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おつぎは嫣然にこりとして後うしろを見みた。

「後ろを見さえすりゃ、それでいいんだ」

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「後うしろ見みせえすりやそんでえゝんだ」

と、風呂のそばにいた一人が言った。

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と風呂ふろの側そばに居ゐた一人ひとりがいつた。

「おれはそのそばかすを見さえすりゃ気が済んでるんだよ」

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「俺おら其その雀班そばつかす見みせえすりや氣きが濟すんでんだよ」

兼博労は後について言った。

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兼かね博勞ばくらうは後あとに跟ついていつた。

「どれほどすれっからしなんだろうな、兼さんは。他人のことを本当に」

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「何程なんぼすれつからしなんだんべ兼かねさんは、他人ひとのこと本當ほんたうに」

と、おつぎは手桶を置いて、水に浮かんだ青い柿を兼博労へ投げた。

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とおつぎは手桶てをけを置おいて水みづに泛うかんだ青あをい柹かきを兼かね博勞ばくらうへ投なげた。

「兼さん、すっかり惚れられちまった」

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「兼かねさんすつかり惚ほれられつちやつた」

と、風呂桶の傍らから言った。

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と風呂桶ふろをけの傍そばからいつた。

おつぎは顔を赤くして、慌ただしく手桶を持って逃げた。

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おつぎは顏かほを赧あかくして慌あわたゞしく手桶てをけを持もつて遁にげた。

いっぱいに汲んだ手桶の水が、少し波立ってこぼれた。

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一杯ぱいに汲くんだ手桶てをけの水みづが少すこし波立なみだつて滾こぼれた。

風呂桶の傍らでは、四十五十になる百姓もいて、一同が愉快そうにどよめいた。

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風呂桶ふろをけの傍そばでは四十五十に成なる百姓ひやくしやうも居ゐて一同みんなが愉快相ゆくわいさうにどよめいた。

おつぎが手桶を持った時、勘次は裏戸の垣根口にひょっこりと出た。

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おつぎが手桶てをけを持もつた時とき勘次かんじは裏戸うらどの垣根口かきねぐちにひよつこりと出でた。

彼は着物を換えに桑畑の小道を越えて、自分の家へ行ったのであった。

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彼かれは衣物きものを換かへに桑畑くはばたけの小徑こみちを越こえて自分じぶんの家うちへ行いつたのであつた。

彼は風呂のそばの騒ぎをちらと耳にして、それからおつぎの後ろ姿を目にしたので、怪訝な様子をして庭に入って来た。

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彼かれは風呂ふろの側そばの騷さわぎをちらと耳みゝにしてそれからおつぎの後姿うしろすがたを目めにしたので怪訝けげんな容子ようすをして庭にはにはひつて來きた。

一同は打ち合わせたように黙ってしまった。

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一同どうは打合うちあはせた樣やうに默もくして畢しまつた。

落ちかけた日がしばらく竹藪を透して湿った土に差しかけて、それから井戸を囲んだ井桁に臨んで、陰気に茂ったくちなしの花を際立って白くした。

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落おち掛かけた日ひが少時しばし竹藪たけやぶを透とほして濕しめつた土つちに射さし掛かけて、それから井戸ゐどを圍かこんだ井桁ゐげたに蒞のぞんで陰氣いんきに茂しげつた山梔子くちなしの花はなを際立はきだつて白しろくした。

しばらくして、青い煙の満ちた家の中には、心も切らないランプが吊るされて、板の間には一同ぞろっとあぐらをかいて、丸い座がつくられた。

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暫しばらくして青あをい煙けむりの滿みちた家いへの内うちには心しんも切きらぬランプが釣つるされて、板いたの間まには一同どうぞろつと胡坐あぐらを掻かいて丸まるい坐ざが形かたちづくられた。

これも雇われて来た若い女房らは、かまどの前に立って、家の女房とおつぎとに手を貸していた。

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此これも傭やとはれて來きた若わかい女房等にようばうらは竈かまどの前まへに立たつて内うちの女房にようばうとおつぎとに手てを藉かして居ゐた。

徳利が三、四本、膳の前に運ばれた。

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徳利とくりが三四本ほん膳ぜんの前まへに運はこばれた。

「おかげでどうも捗りました。どうぞゆっくりやっておくんなせえ」

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「お蔭かげでどうも捗はか行ゆきあんした。どうぞゆつくり行やつておくんなせえ」

亭主は改まって挨拶した。

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亭主ていしゆは改あらたまつて挨拶あいさつした。

「はい」

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「はい」

と一同がお辞儀をした。

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と一同どうが時儀じぎをした。

めいめいの膳の隅へ一つずつ渡された茶飲み茶碗へ酒が注がれようとした時

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各自かくじの膳ぜんの隅すみへ一つ宛づゝ渡わたされた茶呑茶碗ちやのみぢやわんへ酒さけが注つがれようとした時とき

「あれ、待っててくれないか」

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「あれ待まつてゝくんねえか」

と、家の女房が慌てて言った。

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と内うちの女房にようばうが慌あわてゝいつた。

「おとっつあん、お竈さまを忘れたっけだろうな」

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「おとつゝあん、お竈樣かまさま忘わすれたつけべな」

女房はかまどから飯の釜を下ろして、布巾を手にしたまま言った。

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女房にようばうは竈かまどから飯めしの釜かまを卸おろして布巾ふきんを手てにした儘まゝいつた。

「そうだったな、ほんに」

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「さうだつけな、ほんに」

亭主はいきなり一本の徳利を手にして、土間へ下りた。

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亭主ていしゆはいきなり一本ぽんの徳利とくりを手てにして土間どまへおりた。

かまどの上のすすけた小さな神棚へは、田から提げて来た一把の苗が載せてあった。

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竈かまどの上うへの煤すゝけた小ちひさな神棚かみだなへは田たから提さげて來きた一把はの苗なへが載のせてあつた。

彼はその苗束へ、徳利から少し酒を注いだ。

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彼かれは其その苗束なへたばへ徳利とくりから少すこし酒さけを注ついだ。

「酒はそっちのほうへたんと掛けないでもらいたいな」

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「酒さけそつちの方はうへたんと掛かけねえで貰もれえてえな」

兼博労はけろりとした様子をして冗談を言った。

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兼かね博勞ばくらうはけろりとした容子ようすをして戯談じやうだんをいつた。

「酒を飲む者は、そんなに惜しいもんだろうか」

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「酒さけ飮のむ者もな、さうだに惜をしいもんだんべか」

おつぎはこっそり言った。

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おつぎはこつそりいつた。

「そんだって、酒っていうのは人の口へ入るようにできてるんだから。それ、証拠にはおれの口へ入りゃすぐ利くから見ろよ」

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「そんだつて酒さけつちや人ひとの口くちさ入せえる樣やうに出來できてんだから、それ證據しようこにや俺おらが口くちさ入せえりやすぐ利きくから見みろえ」

兼博労は言った。

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兼かね博勞ばくらうはいつた。

亭主はまた、苗束へ香煎を少し振りかけた。

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亭主ていしゆは又また苗束なへたばへ香煎かうせんを少すこし振ふり掛かけた。

それは稲の花になぞらえたので、稲の花がいっぱいに開くようにとの縁起であった。

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それは稻いねの花はなに模擬なぞらつたので、稻いねの花はなが一杯ぱいに開ひらく樣やうとの縁起えんぎであつた。

兼博労はそれを見て、急に土間へ下りて行った。

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兼かね博勞ばくらうは其それを見みて急きふに土間どまへ下おりて行いつた。

「どれ、お前ら、うどん粉をちょっと持って来てみな。ひとつまみでいいんだ。おおい、持って来うな。おつぎでもいいや、よう」

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「どうれ、おめえ等ら饂飩粉うどんこな少ちつと持もつて來きて見みせえ、一ツ爪尻つまじりでえゝんだ、おゝえ持もつて來こうな、おつぎでもえゝや、よう」

と兼博労は促した。

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と兼かね博勞ばくらうは促うながした。

「どうしたもんだ、大威張りして」

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「どうしたもんだ、大威張おほえばりして」

おつぎは呟きながら、家の女房に聞いて小麦粉をひとつまみ出してやった。

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おつぎは呟つぶやきながら内うちの女房にようばうに聞きいて小麥粉こむぎこを一捉つかみ出だして遣やつた。

「そうら、これを掛けて。これが晩稲の花だ」

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「さうら此これ掛かけて、此これが晩稻おくいねの花はなだ」

兼博労は手にした小麦粉を、ことごとく掛けてしまった。

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兼かね博勞ばくらうは手てにした小麥粉こむぎこを悉こと/″\く掛かけて畢しまつた。

苗束は少し白くなった。

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苗束なへたばは少すこし白しろく成なつた。

「どこにもそんなふうに掛ける者はあるまいな」

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「何處どこにもさういに掛かけるもな有あんめえな」

女房の一人が見ていて言った。

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女房にようばうの一人ひとりが見みて居ゐていつた。

「おれは晩稲を作るんだから。役場の奴らが作っちゃならないなんて言ったって、おれのみたいな、うっかりすると乳のあたりまで入るような深田の冷える所じゃ、どうしたって晩稲でなくちゃ穫れるもんじゃないな。それからおれは、役場で役人が講釈するから、深田じゃこうだと話したら、はっきり悪いとは言わないんだから。それからおれは、糞をつかんで見ない奴じゃだめだというんだ」

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「俺おら晩稻おくいね作つくんだから、役場やくばの奴等やつら作つくつちやなんねえなんちつたつて、俺おら見みてえな、うつかりすつと乳ちゝツ岸ぎしまでへえるやうな深ふかん坊ばうの冷ひえつ處とこぢやどうしたつて晩稻おくいねでなくつちや穫とれるもんぢやねえな、それから俺おれ役場やくばで役人やくにんが講釋かうしやくすつから深ふかん坊ばうぢや斯かうだつち噺はなししたら、はつきり惡わりいたあ云ゆはねえんだから、夫それから俺おれ糞くそ攫つかんで見みねえ奴やつぢや駄目だめだつちんだ」

彼は笑いながら独りしゃべった。

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彼かれは笑わらひながら獨ひとり饒舌しやべつた。

「根性がねじれてるからだあ、晩稲は作るなというのに」

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「根性こんじやう捩ねぢれてつからだあ、晩稻おくいねは作つくんなつちのに」

女房の一人がまた言った。

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女房にようばうの一人ひとりが又またいつた。

「おれか。いやどうも、ねじれてるにも何にも」

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「俺おれか、いやどうも捩ねぢれてんにもなんにも」

兼博労は言って

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兼かね博勞ばくらうはいつて

「そうれ見ろよ、稲へ白い花が咲いたぞ。白坊主の花だ、こりゃ」

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「そうれ見みろえ、稻いねへ白しれえ花はなが咲さえたぞ、白坊主しろばうずの花はなだこりや」

彼は手についた粉をよく叩いた。

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彼かれは手てに附ついた粉こを能よく叩たゝいた。

「いやだよ、白坊主っていう稲はあるまいな」

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「厭やだよ、白坊主しろばうずツち稻いねはあんめえな」

女房がまた言った。

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女房にようばうが又またいつた。

「そんでも、おれは勘次さんに聞いたぞ」

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「そんでも俺おら勘次かんじさんに聞きいたぞ」

彼は少し首をすくめながら、声を低めて言った。

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彼かれは少すこし首くびをすくめながら聲こゑを低ひくめていつた。

袂で口を押さえて、女房らは笑いを殺した。

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袂たもとで口くちを抑おさへて女房等にようばうらは笑わらひを殺ころした。

兼博労はわざと笑いを飲んで、再び板の間にあぐらをかいた。

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兼かね博勞ばくらうは態わざと笑わらひを嚥のんで再ふたゝび板いたの間まに胡坐あぐらを掻かいた。

勘次は小さな時分から侮られて、よく泣かされた。

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勘次かんじは小ちひさな時分じぶんから侮あなどられて能よく泣なかされた。

彼は恐ろしい泣き虫であった。

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彼かれは恐おそろしい泣蟲なきむしであつた。

彼はいつの間にか、燗鍋というあだ名をつけられた。

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彼かれは何時いつの間まにか燗鍋かんなべといふ綽名あだなを附つけられた。

彼は心にいくらそれを嫌ったか知れない。

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彼かれは心こゝろに幾いくら其それを嫌きらつたか知しれない。

三十を越えて四十になっても、彼は鍋というのがひどくいやであった。

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卅越こえて四十に成なつても彼かれは鍋なべといふのが酷ひどく厭いやであつた。

村ではそれを知らない者はない。

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村落むらではそれを知しらぬ者ものはない。

ある時、いたずら好きな兼博労が、勘次の刈っている稲を、これは何だいと聞いた。

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或ある時とき惡戯好いたづらずきな兼かね博勞ばくらうが勘次かんじの刈かつて居ゐる稻いねを、此これは何なんだえと聞きいた。

わざと聞いたのであった。

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態わざと聞きいたのであつた。

それは鍋割れとも、それから芒が白いので白芒とも言うのであったが、勘次は

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其それは鍋割なべわれとも、それから芒のげが白しろいので白芒しらのげとも云いふのであつたが勘次かんじは

「これは白坊主」

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「此これは白坊主しろばうず」

とそっけなく言った。

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とそつけなくいつた。

彼は鍋というのがいやで、そう言ったのである。

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彼かれは鍋なべといふのが厭いやでさういつたのである。

兼博労は、うまく何かをつかまえたように得意になって、村じゅうへ響かせた。

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兼かね博勞ばくらうはうまく或ある物ものを攫とらへた樣やうに得意とくいに成なつて村落中むらぢゆうへ響ひゞかせた。

口の悪い百姓らは、勘次がおつぎを連れて田へ出ているのを見て

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口くちの惡わるい百姓等ひやくしやうらは勘次かんじがおつぎを連つれて田たへ出でて居ゐるのを見みて

「白坊主ら、夫婦して耕してら」

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「白坊主等しろばうずら夫婦ふうふして耕うなつてら」

などと放言することすらあるのであった。

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抔などと放言はうげんすることすらあるのであつた。

茶碗には一杯ずつ酒が注がれた。

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茶碗ちやわんには一杯ぱいづつ酒さけが注つがれた。

一同はしおらしく茶碗を口に当てた。

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一同どうはしをらしく茶碗ちやわんを口くちに當あてた。

「こんな物でよけりゃ、たくさんやっておくんなせえ。まだ後にもありますから」

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「恁こんな物ものでよけりや、夥多みつしらやつておくんなせえ、まあだ後あとにも有ありやんすから」

家の女房は、塩で煮たかと思うような白っぽいじゃがいもの大きな皿を膳へ乗せて、二か所へ置いた。

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内うちの女房にようばうは鹽しほで煮にたかと思おもふ樣やうな白しろつぽい馬鈴薯じやがたらいもの大おほきな皿さらを膳ぜんへ乘のせて二處ふたとこへ置おいた。

たちまち一杯を干して、酌み交わしが始まった。

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忽たちまち一杯ぱいを干ほして獻酬とりやりが始はじまつた。

注がれる者は茶碗の手を上げて、相手が持つ徳利の口へ手を掛けて、酒のこぼれるのを防いだ。

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注つがれるものは茶碗ちやわんの手てを擧あげて相手あひてが持もつてる徳利とくりの口くちへ手てを掛かけて酒さけの滾こぼれるのを防ふせいだ。

酒が始まってから、みなが妙にもったいぶって居ずまいを改めた。

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酒さけが始はじまつてから皆みなが妙めうに鹿爪しかつめらしく居ゐずまひを改あらためた。

「さあ、どうかずんずん干しておくんなせえね」

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「さあ、何卒どうぞずん/\干ほしておくんなせえね」

亭主は促した。

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亭主ていしゆは促うながした。

「はい」

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「はい」

挨拶がまた口々に出た。

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挨拶あいさつが又また口々くち/″\に出でた。

このごろでは高い酒は容易に席上へは運ばれなくなっていたので、したがって他人の買ったのでもみな控えめにするようになっていた。

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此この頃ごろでは不廉ふれんな酒さけは容易よういに席上せきじやうへは運はこばれなく成なつて居ゐたので隨したがつて他人たにんの買かつたのでも皆みな控ひかへ目めにする樣やうに成なつて居ゐた。

南では養蚕の結果がよかったのと、少しばかり余った桑が意外な相場で売れたのとで、一円ばかりの酒を奮発したのであった。

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南みなみでは養蠶やうさんの結果けつくわが好よかつたのと少すこしばかり餘あまつた桑くはが意外いぐわいな相場さうばで飛とんだのとで、一圓ゑんばかりの酒さけを奮發ふんぱつしたのであつた。

その晩の料理に使う醤油が要るので、両方を兼ねて亭主は昼飯休みの時刻に天秤棒をかついで鬼怒川を渡った。

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其その晩ばんの料理れうりに使つかふ醤油しやうゆが要いるので兩方りやうはうを兼かねて亭主ていしゆは晝餐休ひるやすみの時刻じこくに天秤てんびん擔かついで鬼怒川きぬがはを渡わたつた。

村の店では買わずに直接酒蔵へ行ったので、酒は白鳥徳利の肩まで届いていた。

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村落むらの店みせでは買かはずに直接ちよくせつ酒藏さかぐらへ行いつたので酒さけは白鳥徳利はくてうどくりの肩かたまで屆とゞいて居ゐた。

めいめいのふだん渇いている口には酒は非常にうまく感じるとともに、その麻痺させる力に対する抵抗力が衰えているので、徳利が一本ずつ倒されて次の徳利に手が掛かったと思うころ、板の間では一同のたしなみが乱れて威勢が出た。

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各自かくじの平生へいぜい渇かつして居ゐる口くちには酒さけは非常ひじやうに佳味うまく感かんずると共ともに、其その痲痺まひする力ちからに對たいする抵抗力ていかうりよくが衰おとろへて居ゐるので徳利とくりが一本ぽんづつ倒たふされて次つきの徳利とくりに手てが掛かゝつたと思おもふ頃ころ板いたの間までは一同どうのたしなみが亂みだれて威勢ゐせいが出でた。

「お前、そんなに自分の所ばかり置かないで干せな」

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「おめえ、さういに自分じぶんの處とこれえばかし置おかねえで干ほせな」

と、弱い者の所へ杯を集めて、困るのを見ようとさえするようになった。

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と弱よわい者ものの處ところへ杯さかづきを聚あつめて困こまるのを見みようとさへする樣やうに成なつた。

勘次は独りそばの徳利を引きつけて何杯か傾けて、他人よりも先に小鬢の筋が膨れていた。

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勘次かんじは獨ひとり側そばなる徳利とくりを引ひきつけて幾抔いくはいか傾かたむけて他人ひとよりも先さきに小鬢こびんの筋すぢが膨ふくれて居ゐた。

「おれは、鉋の持たない大工だ。鑿一方というんだから」

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「俺おら、鉋かんなの持もたねえ大工でえくだ、鑿のみ一方ぽうつちんだから」

と言って、勘次は相手もないのにわざとらしい笑いようをして、女房らのいるほうを見た。

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といつて勘次かんじは相手あひてもないのに態わざとらしい笑わらひやうをして女房等にようばうらの居ゐる方はうを見みた。

彼はうなだれそうになる首を起こして、幾度も見ることを繰り返した。

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彼かれは俛たれ相さうに成なる首くびを起おこして數々しば/\見みることを反覆くりかへした。

おつぎは後ろのほうへ隠れていた。

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おつぎは後うしろの方はうへ隱かくれて居ゐた。

勘次は箸を一本持って、危ない物にでも触るように平椀のじゃがいもをその先へ刺しては、いっぱいに口を開いて頬張った。

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勘次かんじは箸はしを一本ぽん持もつて危險あぶない物ものにでも觸さはるやうに平椀ひらわんの馬鈴薯じやがたらいもを其その先さきへ刺さしては一杯ぱいに口くちを開あいて頬張ほゝばつた。

平椀には牛蒡とじゃがいもとがうずたかく盛られて、油揚げが一枚載せてある。

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平椀ひらわんには牛蒡ごばうと馬鈴薯じやがたらいもとが堆うづたかく盛もられて油揚あぶらあげが一枚まい載のせてある。

「べらぼうに大きくなったっけな、このじゃがいもはなあ」

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「箆棒べらぼうに大えかく成なつたつけな、此この馬鈴薯じやがいもはなあ」

一人が言った。

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一人ひとりがいつた。

「これでも桑の間へ作ったんだが、思いのほかだったのさ」

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「此こんでも桑くはの間あひださ作つくつたんだが、思おもひの外ほかだつけのさ」

亭主は自慢らしく、それでもわざと声を落として言った。

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亭主ていしゆは自慢じまんらしくそれでも態わざと聲こゑを落おとしていつた。

「桑の間でこうできるかな。そりゃそうと、どこへ作ったんだいまあ」

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「桑くはの間あひだでかう出來できつかな、そりやさうと何處どこさ作つくつたんでえまあ」

「裏の垣根の外さ。土は硬くて赤っぽいが、掃き溜めをみっしり掘り込んでおいた所だから、それが出たと見えるのさ。思いのほか土地は嫌わないもんだよ。こんなもんでも作っちゃ桑には悪かろうが」

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「裏うらの垣根外くねそとさ、土つちはかたで赤あかつぽうろくだが、掃溜はきだめみつしら掘ほつ込こんで置おいた處ところだから、其それが出でたと見めえんのさ、思おもひの外ほか土地とちは嫌きらあねえもんだよ、此こんなもんでも作つくつちや桑くはにや惡わるかんべが」

「大丈夫だとも。じゃがいもが大きくなるようじゃ、その肥料は桑も吸うから。いや、桑の根っこの遠くへ踏み出すんじゃ驚いたもんだから。目もありもしないのに、肥料のほうへ真っ直ぐにずうっと来るからな」

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「大丈夫だいぢやうぶだとも、馬鈴薯じやがいもが大えかく成なる樣やうぢや其その肥料こやしは桑くはも吸すふから、いや桑くはの根ねつ子この遠とほくへ踏ふん出だすんぢや魂消たまげたもんだから、目めも有ありもしねえのに肥料こやしの方はうへ眞直まつすぐにずうつと來くつかんな」

「これでどのくらい増えるものだと思ったら、一株で一升くらいずつも起こせるよ」

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「此これでどの位くれえ殖ふえるものだと思おもつたら一ツ株かぶで一升しよう位ぐれえづゝも起おこせるよ」

亭主が言えば

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亭主ていしゆがいへば

「うん、そうかな。そうすると割のいいもんだな」

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「うむ、さうかな、さうすつと割わりの善ええもんだな」

めいめいにそう言っていると

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各自てんでにさういつて居ゐると

「よく牛蒡はもたせたっけな」

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「能よく牛蒡ごぼうは保もたせたつけな」

と言う者があった。

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といふものがあつた。

「なあに、踏み固める所へ埋けさえしておけば大丈夫なものさ。おれの家じゃ田植えまではあるように、庭へ埋めておくのよ」

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「なあに、踏ふん固がためる處ところへ活いけてせえ置おけば大丈夫でえぢやうぶなものさ、俺おら家ぢや田植たうゑ迄までは有あるやうに庭にはへ埋うめて置おくのよ」

亭主は自分も椀の牛蒡を挟んで言った。

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亭主ていしゆは自分じぶんも椀わんの牛蒡ごぼうを挾はさんでいつた。

「そうだが、おれの家なんぞじゃ、それまでにはなくなっちまうから、一度もそんなふうに埋けておいたことはないな」

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「さうだが、俺おら家ぢなんぞぢや、それまでにや無なく成なつちまあから一度どでもさういに活いけて置おいたことあねえな」

と一人が言えば

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と一人ひとりがいへば

「おれなんざ、腹にしまっておくから、盗られっこなしだ」

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「俺おらなんざ、腹はらさ藏しまつて置おくから盜とられつこなしだ」

兼博労は口を出した。

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兼かね博勞ばくらうは口くちを出だした。

「牛蒡もうっかりして縄で縛って埋けちゃ、そこから腐りが入ってひどいもんだな。藁はよっぽど嫌いだと見えるのさな」

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「牛蒡ごばうもうつかりして繩なはで縛しばつて活いけちや、其處そこから腐くされがへえつて酷ひでえもんだな、藁わらは餘よつ程ぽど嫌きれえだと見めえんのさな」

勘次は横合いから言った。

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勘次かんじは横合よこあひからいつた。

「どうしたかよ」

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「どうしたかよ」

疑いの声が発せられた。

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疑うたがひの聲こゑが發はつせられた。

「どうしたかなもんじゃない。おれの家でやったことがあるんだもの」

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「どうしたかなもんぢやねえ、俺おら家ぢで行やつたこと有あんだもの」

彼は相手に押されたように声を低めて

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彼かれは相手あひてに壓あつせられた樣やうに聲こゑを低ひくめて

「なあ、おつう、そうだな」

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「なあおつう、さうだな」

と、体を横に向けて言った。

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と身體からだを横よこに向むけていつた。

板の間と土間との境に立っている柱の陰に、ランプの光から身を避けるようにして一座の酌み交わしを見ていた女房らの手が、にわかにおつぎの尻をつついて

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板いたの間まと土間どまとの界さかひに立たつて居ゐる柱はしらの陰かげにランプの光ひかりから身みを避さけるやうにして一座ざの獻酬けんしうを見みて居ゐた女房等にようばうらの手てが俄にはかにおつぎの臀しりをつゝいて

「おつうと、それ、返事するもんだ」

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「おつうとそれ、返辭へんじするもんだ」

と小声で言って、かすかに笑った。

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小聲こごゑでいつて微かすかに笑わらつた。

勘次は怪訝な様子をして、柱の陰をじっと見て目をしかめた。

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勘次かんじは怪訝けげんな容子ようすをして柱はしらの陰かげを凝然ぢつと見みて目めを蹙しかめた。

「おつぎはいるよ、お前、そんなに見なくても」

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「おつぎは居ゐるよおめえ、さういに見みねえでも」

柱の陰から言って、ささやいた。

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柱はしらの陰かげからいつて私語さゞめいた。

勘次は板の間の端の近くにいたのであるが、膳を越えて体をぐっと前へ伸ばしては、徳利を動かして空になったのは女房らへ渡して、どことなしに心を配るようにそわそわとしている。

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勘次かんじは板いたの間まの端はしに近ちかく居ゐたのであるが膳ぜんを越こえて身體からだをぐつと前まへへ延のばしては徳利とくりを動うごかして空からに成なつたのは女房等にようばうらへ渡わたして何處どことなしに心こゝろを配くばる樣やうにそわ/\として居ゐる。

「はてな、懐へ入れたはずだったが」

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「はてな、懷ふとこれえ入せえた筈はずだつけが」

と兼博労は懐から周りを探して、そばへ落ちた小さな紙包みを手にして

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と兼かね博勞ばくらうは懷ふところから周圍あたりを探さがして側そばへ落おちた小ちひさな紙包かみづゝみを手てにして

「こら、うまい物を見ろよまあ」

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「こうれ、うめえ物もの見みろえまあ」

と言って開けてみると、三センチばかりのかまきりが斧をもたげて、ちょろちょろと歩き出した。

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といつて開あけて見みると一寸すんばかりの蟷螂かまきりが斧をのを擡もたげてちよろちよろと歩あるき出だした。

「へへえ、この畜生め、これでも怒ってらあ」

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「へゝえ、此こん畜生奴ちきしよめこんでも怒おこつてらあ」

兼博労はちょいとかまきりをつついてみて、独り面白がって笑った。

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兼かね博勞ばくらうはちよいと蟷螂かまきりをつゝいて見みて獨ひとり興きようがつて笑わらつた。

「どうしたもんだろう、大きな格好をして」

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「どうしたもんだんべ大えけえ姿なりして」

と、女房はみな笑った。

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と女房にようばうは皆みな笑わらつた。

「あれ、おれは知ってら」

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「あれ俺おら知しつてら」

おつぎの傍らにいた与吉は、兼博労のそばへ行って

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おつぎの傍そばに居ゐた與吉よきちは兼かね博勞ばくらうの側そばへ行いつて

「烏のきんたまから出るんだぞ、これは」

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「鴉からすのきんたまから出でんだぞこら」

と言った。

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といつた。

「お前らは知りもしないで」

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「汝わツ等ら知しりもしねえで」

勘次は与吉を甘やかすようにして言った。

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勘次かんじは與吉よきちを甘あまやかす樣やうにしていつた。

「そんだって、おれは見た。笹っ葉の枝にくっついてた所から出たんだ」

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「そんだつて俺おら見みた、笹さゝつ葉ぱの枝えだにくつゝいてた處ところから出でたんだ」

与吉はかまきりをいじりながら言った。

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與吉よきちは蟷螂かまきりを弄いぢりながらいつた。

「勘次さん、だめだよ。学校へやっちゃ半年とは言えないから。下手をすると今の子供らには、やり込められちまうから。おとっつあん、これを知ってるかなんて言われたって、困るなあ、どうもなあ」

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「勘次かんじさん駄目だめだよ、學校がくこへ遣やつちや半年はんとしたあ云ゆはんねえから、下手へたんすつと今いまの子奴等こめらにや遣やり込こめられつちやからおとつゝあ此これ知しつてつかなんちあれたつて、困こまらなどうもなあ」

そばから言ったので、勘次はさすがににっこりとした。

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側そばからいつたので勘次かんじは有繋さすがに嫣然にこりとした。

白鳥徳利の口が底よりも低くなった時、一座の間には馬の話が出た。

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白鳥徳利はくてうどくりの口くちが底そこよりも低ひくく成なつた時とき一座ざの間あひだには馬うまの噺はなしが出でた。

馬という奴はあの体で、酒の二杯も口へ入れてやるとたちまちどろんとして、暴れ馬でも静かになる、博労は以前はそうして悪い馬をはめ込んだものである。

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馬うまといふ奴やつはあの身體からだで酒さけの二杯はいも口くちへ入いれてやると忽たちまちにどろんとして駻馬かんばでも靜しづかに成なる、博勞ばくらうは以前いぜんはさうして惡わるい馬うまを嵌はめ込こんだものである。

今でもそんなことで油断はならぬ、村が貧乏したから荷車ばかり増えて馬が減ってしまったが、荷車の検査に行ってみて驚いたなどということや、朝鮮牛がだいぶ輸入されたが、犬ころのような体で割合に安いからどうしたものだかなどということが、際限もなくがやがやと大声で怒鳴り合われた。

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現在いまでもそんなことで油斷ゆだんは成ならぬ、村落むらが貧乏びんばふしたから荷車にぐるまばかり殖ふえて馬うまが減へつて畢しまつたが荷車にぐるまの檢査けんさに行いつて見みて驚おどろいた抔などといふことや、朝鮮牛てうせんうしが大分だいぶ輸入ゆにふされたが狗いねころの樣やうな身體からだで割合わりあひに不廉たかいからどうしたものだか抔などといふことが際限さいげんもなくがや/\と大聲おほごゑで呶鳴どなり合あうた。

「博労なんていう奴らは、泥棒根性がなくちゃできない商売だな。嘘っぱちを打ち抜いて、兼らお前は、おれのことさえはめ込むつもりしやがって」

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「博勞ばくらうなんちい奴等やつらは泥棒根性どろぼうこんじやう無なくつちや出來できね商賣しやうべえだな、嘘ちくらつぽう打ぶんぬいて、兼等かねら汝わりや、俺おれことせえおつ嵌ぱめる積つもりしやがつて」

兼博労の向かい側から冗談らしい調子で言うと

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兼かね博勞ばくらうの向側むかうがはから戯談じようだんらしい調子てうしでいふと

「べらぼう、はめ込むもんじゃない。それ、いやなら銭を出せよ、銭。なあ、銭を出さないつもりでいるのが泥棒より太いんだな。西のおとっつあんらはためらってばかりだから、駄目で」

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「箆棒べらぼう、おつ嵌ぱめんなもんぢやねえ、それ厭やだら錢ぜに出だせよ錢ぜに、なあ、錢ぜに出ださねえ積つもりすんのが泥棒どろぼうより太ふてえんだな、西にしのおとつゝあ等ら躊躇逡巡しつゝくむつゝくだから、かたで」

「そんだから見ろよ、博労で蔵を建てた奴はありゃしない。罰が当たってるから」

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「そんだから見みろえ、博勞ばくらうで藏くら建たてた奴やつあ有ありやしねえ、罰ばちたかつてつから」

「どうした、そんだがこの間の白はよかっただろう。あれと交換しろな。ああ西のおとっつあん、白じゃ徴発はされないぞ」

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「どうした、そんだが此間こねえだの白しろは善よかつたんべ、彼あれさ打ぶてな、あゝ西にしのおとつゝあ、白しろぢや徴發ちようはつはさんねえぞ」

「いいから、それよりか、そんなに安いことを言わないで、なあ、米一俵で交換しようじゃないか」

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「えゝから、それよりか、そんなに不廉たけえこと云ゆはねえで、なあ、米こめ一俵ぺう打ぶつべえぢやねえか」

「無駄だよ、それじゃ。何でも六銭の横ござを乗せて引いて来たんだぞ。血統証まであるんだぞ。ああ、その手はないぞ」

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「徒勞だめだよそんぢや、あんでも六錢の横薦よこゞも乘のつけて曳ひいて來きたんだぞ、血統證けつとうしようまで有あんぞ、あゝ、彼あの手てはねえぞ」

「何だいお前がまた、牡馬と牝馬だけの血統証だろう。そんなものは何になるもんじゃない。おれが知らないと思って。おれは白河の市で聞いてらあ」

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「何なんでえ汝われがまた、牡馬をんまと牝馬めんまだけの血統證けつとうしようだんべ、そんなもの何なんに成なるもんぢやねえ、俺おれ知しらねえと思おもつて、俺おら白河しらかはの市いちで聞きいてらあ」

「博労がうまく練れないようだな。ようし、そんじゃおれが一つ交換してやろう」

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「博勞ばくらううまく練ねれねえ樣やうだな、ようしそんぢや俺おれ一つ打ぶつてやんべ」

二人が冗談交じりに激しく悪口を言っていると、ふとそばからこう言った。

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二人ふたりが戯談交じやうだんまじりに劇はげしく惡口あくこうを云いつて居ゐるとふと側そばから凭かういつた。

「そんじゃ、それを干せな。兼さんもそれ」

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「そんぢや、それ干ほせな、兼かねさんもそれ」

彼は二人の茶碗を自分の手で交換させて、それを両方へ渡して酒を注いだ。

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彼かれは二人ふたりの茶碗ちやわんを自分じぶんの手てで交換かうくわんさせて、それを兩方りやうはうへ渡わたして酒さけを注ついだ。

「どうだい、博労がうまく交換できただろう。どっちもえこひいきなしという所だ」

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「どうだえ、博勞ばくらううまく打ぶてたんべ、どつちも依怙贔負えこひいきなしつち處とこだ」

相手は得意になって言った。

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相手あひては得意とくいに成なつて云いつた。

「こっちのおとっつあん、いくつだったっけな。ちょっと白くなったな」

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「こつちのおとつゝあ、幾いくつだつけな、少ちつと白しろく成なつたな」

突然一人が怒鳴った。

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突然とつぜん一人ひとりが呶鳴どなつた。

「そうよな」

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「さうよな」

亭主は髪に手を当てて言った時

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亭主ていしゆは頭髮あたまに手てを當あてゝいつた時とき

「お前、おれの家のおとっつあんもどうしてかひどく白くなったんだが、これで年齢はそんなに取っちゃいないんだぞ」

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「おめえ、俺おら家ぢのおとつゝあもどうしてか酷ひどく白しろく成なつたんだが、斯こんで年齡としはさういにとつちや居ゐねえんだぞ」

そこへ小さな子を抱いて座った家の女房が、微笑しながら言った。

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其處そこへ小ちひさな子こを抱だいて坐すわつた内うちの女房にようばうが微笑びせうしながらいつた。

「おれと同い年だよ」

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「俺おれと同年齡おねえどしだよ」

独りぼっちになっていた勘次は、横から口を挟んだ。

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獨ひとりぼつちに成なつて居ゐた勘次かんじは横よこから口くちを挾はさんだ。

「どうだかよ」

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「どうだかよ」

「なあに、どうだかなもんじゃない」

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「なあに、どうだかなもんぢやねえ」

勘次は口をとがらせて言った。

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勘次かんじは口くちを角つののやうにしていつた。

「本当にそうなんだよ、お前」

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「本當ほんたうにさうなんだよおめえ」

女房はそばから言った。

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女房にようばうは側そばからいつた。

「そんじゃ勘次さん、お前いくつだい」

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「そんぢや勘次かんじさんおめえ幾いくつでえ」

相手は乗り気になって聞いた。

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相手あひては乘地のりぢになつて聞きいた。

「そうよ、おれはこっちのおとっつあんと同い年だったっけな」

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「さうよ、俺おらこつちのおとつゝあと同年齡おねえどしだつけな」

彼は自分の思いつきではなくて、どこかで聞いた記憶をそのまま繰り返して、そうして冗談を敢えてした。

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彼かれは自身じしんの創意さういではなくて何處どこかで聞きいた記憶きおくを其その儘まゝ反覆はんぷくしてさうして戯談じやうだんを敢あへてした。

「ええ、べらぼうな」

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「えゝ箆棒べらぼうな」

と相手は言ってしまった。

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と相手あひてはいつて畢しまつた。

家の女房は両方の髪をつくづくと見て

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内うちの女房にようばうは兩方りやうはうの頭髮あたまを熟つく/″\と見みて

「そんだが勘次さんは本当に若いな。おれの家のおとっつあんらとは、たいした違いだな」

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「そんだが勘次かんじさんは本當ほんたうに若わけえな。俺おら家ぢのおとつゝあ等らたあ、たえした違ちげえだな」

と言った。

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といつた。

「勘次さんらはまだ十七だな」

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「勘次かんじさん等らまあだ十七だな」

兼博労はすぐ後についで言った。

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兼かね博勞ばくらうは直すぐに後あとを跟ついていつた。

女房らはまた、ひそかに袂で口を覆った。

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女房等にようばうらは復また竊ひそかに袂たもとで口くちを掩おほうた。

兼博労が振り返った時、女房らは割った松明の先を突っかけては、香煎を口へ含んで面倒になめていたのであった。

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兼かね博勞ばくらうが顧かへりみた時とき女房等にようばうらは割わつた燭奴つけぎの先さきを突つつ掛かけては香煎かうせんを口くちへ含ふくんで面倒めんだうに嘗なめて居ゐたのであつた。

「香煎をなめるのには、笑っちゃいけないと言ったっけぞ、お前ら」

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「香煎かうせん嘗なめんのにや、笑わらつちやいかねえつちけぞ、おめえ等ら」

兼博労は言った。

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兼かね博勞ばくらうはいつた。

さっきから笑う癖のついていた女房らは、いっぺんにぷっと吹き出して、粉がそこらに散った。

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先刻さつきから笑わらふ癖くせのついてた女房等にようばうらは一時じにぷつと吹出ふきだして粉こなが其處そこらに散ちつた。

乾いている粉のためにむせて、女房らはしきりに咳をした。

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乾燥かんさうして居ゐる粉こなの爲ために咽むせて女房等にようばうらは頻しきりに咳せきをした。

彼女らは駆け下りて手桶の水をがぶりと飲んで、ようやく胸を落ち着けた。

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彼等かれらは驅かけおりて手桶てをけの水みづをがぶりと飮のんで漸やうやく胸むねを落附おちつけた。

「ああ、ひどい目に遭った。粉が鼻のほうへ入って、鼻がつんつんして仕方がありゃしないや。本当に兼さんは人が悪いや。なんぼ憎らしいか知れやしない。そこらに薪ざっぽうでもあれば、ぶっ飛ばしてやりたいようだ」

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「おゝ、酷ひでえ目めに逢あつた。粉鼻こなはなの方はうさへえつて鼻はなつん/\して仕しやうありやしねえや、本當ほんたうに兼かねさんは人ひとが惡わりいや、なんぼ憎にくらしいか知しれやしねえ、其處そこらに薪雜棒まきざつぽうでも有あれば打ぶつ飛とばして遣やりてえ樣やうだ」

涙の目を拭って、恨めしげに女房らは言うのであった。

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涙なみだの目めを拭ぬぐつて恨うらめしげに女房等にようばうらは云いふのであつた。

「そんだから、おれは笑っちゃいけないと言ったんだな。それを聞かないから」

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「そんだから俺おれ、笑わらつちやえかねえつて云ゆつたんだな、それ聽きかねえから」

兼博労はわざと平然として言った。こうしてがみがみ言う声が入り交じった時

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兼かね博勞ばくらうは態わざと平然へいぜんとして云いつた、恁かうしてがみ/\いふ聲こゑが錯雜こぐらかつた時とき

「博労さんが一つやっつけるかな」

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「博勞ばくらうさん一つやつゝけつかな」

兼博労はひと声ことに大きく怒鳴ったと思ったら、茶碗の酒を一口にぐっと干して、両手に茶碗を伏せて、板の間にぱかぱかぱかぱかと蹄をまねて拍子を取った音を立てながら

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兼かね博勞ばくらうは一聲こゑ殊ことに大おほきく呶鳴どなつたと思おもつたら茶碗ちやわんの酒さけを一口くちにぐつと干ほして兩手りやうてに茶碗ちやわんを伏ふせて、板いたの間まにぱか/\ぱか/\と蹄ひづめに傚ならうて拍子ひやうし取とつた響ひゞきを立たてながら

「三春から白河のほうへ、これでも横ござを乗せたのをつないで引いて来る所だからな。よく聞いてみな。この手には行かないぞ」

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「三春みはるから白河しらかはの方はうへこんでも横薦よこごも乘のつけたの繋つないで曳ひいて來くつ處とこらえゝかんな、能よく聞きいて見みせえ、此この手てにや行いかねえぞ」

彼はその自慢の後から

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彼かれは其その自慢じまんの下したから

「どうどうどうよ、ほうい、ほいとう」

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「どう/\どうよ、ほうい、ほいとう」

と、馬への掛け声をもっともらしくした。

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と馬うまへの掛聲かけごゑを尤もつともらしくした。

茶碗の拍子につれて、一同はぴったり静かになった。

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茶碗ちやわんの拍子ひやうしに連つれて一同どうはぴつたり靜しづかに成なつた。

「はあええええ」

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「はあえゝえゝえゝ」

と、ぼうっと太い声で唄い出して

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とぼうと太ふとい聲こゑで唄うたひ出だして

「枯れ芝あにいいいいええ、はあえ、止まるうえ、蝶々のおおおおえ、はあ、ありゃ気があああああえ、え、はあ知れえぬうよおうう」

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「枯芝かれしばあえにいゝゝゝゝえゝ、はあえ、止とまるうえ、てふ/\のおゝゝゝゝえ、はあ、ありや氣きがあゝゝゝゝえ、え、はあ知しれえゝぬうよおうゝゝ」

と、彼は目をつぶって少し上向きに首を傾けて、いっぱいの声を絞って、きわめてゆったりと、そうして句の続きを

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と彼かれは眼めを瞑つぶつて少すこし上向うはむきに首くびを傾かたむけて一杯ぱいの聲こゑを絞しぼつて極きはめて悠長いうちやうにさうして句くの續つゞきを

「ええ傍にええ、菜種えのおおおおえ、ええ花があえ、あああえるううううええ、ほういほい」

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「えゝ傍そばにえゝ、菜種なたねえのおゝゝゝゝえ、えゝ花はながあえ、あゝえるうゝゝゝゝえゝ、ほういほい」

と唄い終わった時、顔がことさらに赤くなって、汗が吊りランプに光って見えた。

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と唄うたひ畢をはつた時とき顏かほが殊更ことさらに赤あかく成なつて汗あせが吊つるしランプに光ひかつて見みえた。

彼は手でぐるりと拭いた。

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彼かれは手てでぐるりと拭ぬぐつた。

「べらぼうにまだるっこい唄だな。この夜の短いのに、眠たくなっちまうな」

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「箆棒べらぼうに迂遠まだるつけえ唄うただな、此この夜よの短みじけえのに眠ねむつたく成なつちやあな」

そばから悪口を吐いた。

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側そばから惡口あくこうを吐ついた。

「いいから、西のおとっつあん、耳くそをほじくって聞いてろよ」

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「えゝから西にしのおとつゝあ、耳糞みゝくそほじくつて聞きいてろえ」

兼博労は言って

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兼かね博勞ばくらうはいつて

「はあええええ、ええ朝のううええ、はあ出掛えにいいいいええ」

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「はあえゝえゝ、えゝ朝あさのうゝゝえゝえ、はあ出掛でがけえにいゝゝゝゝえ」

と、また唄い出した。

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と又また唄うたひ出だした。

「朝の出掛けにどの山見ても、雲の掛からぬ山はない」

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「朝あさの出掛でがけにどの山やま見みても雲くもの掛かゝらぬ山やまはない」

と唄って、茶碗を動かしては

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と唄うたつて茶碗ちやわんを動うごかしては

「ぱかぱかぱかぱかとなあ、こう。二十三坂を越えて引く所だぜ。畜生、あばれるなよ」

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「ぱか/\ぱか/\となあ斯かう、廿三坂さか越こえて引ひく處とこだぜ、畜生ちきしやうあばさけんなえ」

と、彼はさらに

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と彼かれは更さらに

「ひいいん」

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「ひゝいん」

と馬の鳴き声をして、それから

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と馬うまの啼なき聲ごゑをしてそれから

「二十三坂か。白河のこっちだ。しまいの坂がべらぼうに長くてな」

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「廿三坂さかか、白河しらかはのこつちだ、畢しめえの坂さかが箆棒べらぼうに長ながくつてな」

と言って、また

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といつて又また

「はあええええ」

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「はあえゝえゝえゝ」

と、いかにも気の乗ったらしく

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と左さも氣きの乘のつたらしく

「奥の博労さん、どこで夜が明けた、二十三坂七つ目で」

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「奧おくの博勞ばくらうさん何處どこで夜よが明あけた、廿三坂さか七つ目めで」

と愉快な声で唄った。

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と愉快ゆくわいな聲こゑで唄うたつた。

「夜引きをする時には、人間も眠たくなりゃ馬も眠たくなってな。石坂だから畜生らがくたりくたりともう、なんぼにも歩かないな。その時には、おうい一つどうだねやっつけちまおうというところでなあ。博労らがぞろぞろつながって来るんだから、峰のほうでも谷底のほうでも一度に大変だあ。そうすると駒っこらがひいんなんてあばれて、ぱかぱかぱかぱかと、こう運びが違って来らあな。みなおっかあにばかり食っついてたのを引き離して来るんだから、足が不揃いだな、どうしても。それに坂が急だというと逆さのつむじを立てるようだから、畜生はなんぼにも足が出ないな。そいつへ合わせて唄うんだから、ゆっくり行かなくちゃならないな」

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「夜引よびきすつ時ときにや人間にんげんも眠ねむつたく成なりや馬うまも眠ねむつたく成なつてな、石坂いしざかだから畜生等ちきしやうらがくたり/\はあ、なんぼにも歩あるかねえな、そん時ときにや、おうい一つどうだね遣やつゝけちやあと許ばかりでなあ、博勞等ばくらうらぞろ/\繼つながつて來くんだから、峯みねの方はうでも谷底たにそこの方はうでも一度どに大變たいへんだあ、さうすつと駒こまつ子奴等こめらひゝんなんてあばさけてぱか/\ぱか/\と斯かう運はこびが違ちがつて來くらな、皆みんなおつかげばかし喰くつ附ついてたの引ひつ放ぱなして來くんだから足あしが不揃ふぞろひだなどうしても、それに坂さかが急きふだつちと倒旋毛さかさつむじおつ立たてる樣やうだから畜生ちきしやうなんぼにも足あしが出でねえな、其奴そいつへ合あはせて唄うたあんだからゆつくり行やんなくつちやなんねえな」

兼博労は帯を解いて裸になって、着物を後ろへ投げた。

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兼かね博勞ばくらうは帶おびを解といて裸はだかに成なつて衣物きものを後うしろへ投なげた。

帯は一重で、左の腰骨の所でだらりと結んであった。

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帶おびは一重ひとへで左ひだりの腰骨こしぼねの處ところでだらりと結むすんであつた。

両方の端が赤い切れで縁を取ってある。

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兩方りやうはうの端はしが赤あかい切きれで縁ふちをとつてある。

粗い棒縞の染め抜きで、それは馬の飾りの鉢巻に用いる布切れであった。

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粗あらい棒縞ぼうじまの染拔そめぬきでそれは馬うまの飾かざりの鉢卷はちまきに用もちひる布片きれであつた。

「ここらの馬だって見ろよ。博労節を門先でやったくらい、厩の中で畜生は体をゆさぶって大騒ぎだな」

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「此處ここらの馬うまだつて見みろえ、博勞節ばくらうぶし門かどツ先つあきでやつたつ位くれえ厩まやん中なかで畜生ちきしやう身體からだゆさぶつて大騷おほさわぎだな」

彼は独りで酒席をにぎわした。

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彼かれは獨ひとりで酒席しゆせきを賑にぎはした。

彼はそうして、土のような汗と埃とで染まった手拭いで、首筋から体いっぱいに拭いた。

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彼かれはさうして土つちのやうな汗あせと埃ほこりとで染そまつた手拭てぬぐひで首筋くびすぢから身體からだ一杯ぱいに拭ぬぐつた。

それから

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それから

「ああ痒い」

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「おゝ痒かいい」

と、ぴしゃりと手で蚊を叩いた。

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とぴしやり手てで蚊かを叩たゝいた。

彼の唄につれて、めいめいがさらに唄った。

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彼かれの唄うたに連つれて各自めいめいが更さらに唄うたつた。

みな箸で茶碗を叩いて拍子を合わせた。

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皆みな箸はしで茶碗ちやわんを叩たゝいて拍子ひやうしを合あはせた。

そういう騒ぎになってから、酒は減らなかった。

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さういふ騷さわぎに成なつてから酒さけは減へらなかつた。

勘次は独りで唄うこともなく、絶えず何かを探すような目で土間のあたりをきょろきょろと見ていたが

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勘次かんじは獨ひとりで唄うたふこともなく絶たえず何物なにものかを探さがすやうな目めで土間どまのあたりをきよろ/\と見みて居ゐたが

「おつう」

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「おつう」

と唐突に呼んだ。

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と唐突だしぬけに喚よんだ。

彼は勢いよく呼んでみて、自分で拍子抜けしたようにしていたが

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彼かれは勢いきほひよく喚よんで見みて自分じぶんで拍子拔ひやうしぬけした樣やうにして居ゐたが

「これへじゃがいもでもくれないか」

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「此これさ馬鈴薯じやがいもでもくんねえか」

と、椀をずうっと出した。

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と椀わんをづうつと出だした。

「どうしたもんだ、おとっつあんは。お平の盛り換えをする者もあるまいな。じゃがいもは前にいくらでもあるのに」

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「どうしたもんだおとつゝあは、お平ひらの盛換もりけえするもな有あんめえな、馬鈴薯じやがいもは前めえに幾いくらでも有あんのに」

おつぎはさらにたしなめるように

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おつぎは更さらに窘たしなめるやうに

「おとっつあんは酔ったって、そんなに取り乱さなけりゃよかろうな」

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「おとつゝあは酩酊よつぱらつたつてそんなに顛倒ぐれなけりやよかつぺなあ」

と独り呟いた。

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と獨ひとり呟つぶやいた。

「言ってみたのよ」

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「云ゆつて見みたのよ」

勘次はわざと笑って、椀を膳へ置いた。

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勘次かんじは態わざと笑わらつて椀わんを膳ぜんへ置おいた。

「おかみさんらもこっちへ来うな、一杯やれな」

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「おつか樣等さまらもこつちへ來こうな、一杯いつぺえやれな」

彼はさらに、板の間の隅のほうにいる女房らに言った。

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彼かれは更さらに板いたの間まの隅すみの方はうに居ゐる女房等にようばうらにいつた。

「ほんに、仲間入りしたらよかろう」

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「ほんに仲間入なかまいりしたらよかつぺ」

家の女房も言った。

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内うちの女房にようばうもいつた。

若い女房らは仲間にはならなかった。

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若わかい女房等にようばうらは仲間なかまには成ならなかつた。

そうしてただ笑っていた。

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さうして唯たゞ笑わらつて居ゐた。

唄い騒ぐ声にすべてが心を奪われていると

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唄うたひ騷さわぐ聲こゑに凡すべてが心こゝろを奪とられて居ゐると

「お前は梅をかじったんだろう。学校の先生に姉が言いつけてやるから。腹が痛くたって我慢してるもんだ」

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「汝わりや梅うめ噛かじつたんべ、學校がつこの先生せんせいげ姊ねえ訴えつけてやつから、腹はら痛いたくつたつて我慢がまんしてるもんだ」

おつぎは眠い目をこすりながらしくしく泣いている与吉を横にして、背中を叩いてはさすりながら言った。

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おつぎは眠ねむい眼めをこすりながらしく/\泣ないて居ゐる與吉よきちを横よこにして背中せなかを叩たゝいては撫いたはりながらいつた。

「どうしたんだ、腹が痛いのか。毒消しでも飲ませてみるか。おれももう、梅だの李だのが熟しちゃびやびやするんだよ。出て行くんだから、言ったって聞かないしなあ」

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「どうしたんだあ、腹はら痛いてえのか毒消どくけしでも呑のませて見みつか、俺おらもはあ、梅うめだの李すもんもだの成熟できちやびや/\すんだよ、出でて行やんだから云ゆつたつて聽きかねえしなあ」

家の女房は、すやすやと眠った膝の子の蚊を追いながら言った。

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内うちの女房にようばうはすや/\と眠ねむつた膝ひざの子この蚊かを追おひながらいつた。

「お前は梅なんぞかじって。おとっつあんが腹をえぐり抜いてやるから待ってろ」

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「汝われ梅うめなんぞ噛かじつて、おとつゝあ腹はら抉ゑぐり拔ぬいてやつから待まつてろ」

勘次は、とうにもつれていた舌で言った。

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勘次かんじは疾とうから澁しぶつて居ゐた舌したでいつた。

「そんなこと言わなくたって、泣いてるのに何だろうな、おとっつあん」

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「そんなこと云ゆはねえつたつて泣ないてんのに何なんだつぺな、おとつゝあ」

おつぎは勘次を叱った。

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おつぎは勘次かんじを叱しかつた。

勘次は口をつぐんで、箸の先へじゃがいもを刺した。

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勘次かんじは口くちを嵌つぐんで箸はしの先さきへ馬鈴薯じやがいもを刺さした。

与吉はまぶたが緩んで、いつか軽い鼾をかいた。

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與吉よきちは瞼まぶたが弛ゆるんでいつか輕かるい鼾いびきを掻かいた。

「さあ、ご飯だよ」

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「さあ、お飯まんまだえ」

唄も騒ぎも止んで、一同の口からにわかに催促が出た。

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唄うたも騷さわぎも止やんで一同どうの口くちから俄にはかに催促さいそくが出でた。

女房らはみなで給仕をした。

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女房等にようばうらは皆みなで給仕きふじをした。

家の女房は

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内うちの女房にようばうは

「おつぎも体がみっしりして来たなあ。女も二十となっちゃ役に立つなあ」

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「おつぎも身體からだみつしりして來きたなあ、女をんなも廿はたちと成なつちや役やくに立たつなあ」

と、おつぎを見て言った。

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とおつぎを見みていつた。

勘次は茶碗から少し飯粒をこぼしては、危ない手つきで箸を持ったまま、指の先でつまんで口へ持って行った。

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勘次かんじは茶碗ちやわんから少すこし飯粒めしつぶを零こぼしては危險あぶない手てつきで箸はしを持もつた儘まゝ指ゆびの先さきで抓つまんで口くちへ持もつて行いつた。

「おとっつあん、そんなにこぼしちゃだめだな」

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「おとつゝあ、さういに零こぼしちや駄目だめだな」

おつぎは勘次の茶碗へ手を添えた。

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おつぎは勘次かんじの茶碗ちやわんへ手てを添そへた。

「勘次さん」

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「勘次かんじさん」

と、家の女房は呼びかけた。

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と内うちの女房にようばうは喚よび掛かけた。

勘次が目をしかめて見た時

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勘次かんじが目めを蹙しかめて見みた時とき

「勘次さん、もうおつぎのことは出してもよくないかい」

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「勘次かんじさん、はあおつぎこたあ出だしても善よかねえけえ」

女房は言った。

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女房にようばうはいつた。

「嫁になんざ出せないよ。今のところ、おれが困るから」

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「嫁よめになんざ出だせねえよ、今いまん處ところ俺おれ困こまつから」

勘次はそっけなく言った。

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勘次かんじはそつけなくいつた。

「不自由な所があれば出して、自分でも引っ込むのよ」

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「不自由ふじいうな處ところありや出だして、自分じぶんでも引ひつ込こむのよ」

兼博労は遠慮なく言った。

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兼かね博勞ばくらうは遠慮ゑんりよなくいつた。

「おれはそんな話は聞かない。もらいたけりゃいくらでもあらあ」

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「俺おらそんな噺はなしや聽きかねえ、貰もらひたけりや幾いくらでも有あらあ」

勘次は退けた。

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勘次かんじは斥しりぞけた。

「そんだってお前、あっちこっち口を掛けておかないじゃ、すぐ年ばかり取らせちまって仕方がないぞ。おれも一人出したが、お前、容易じゃないよ。ああだこうだ言われないうちだぞ、お前」

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「そんだつておめえ、そつちこつち口くち掛かけて置おかねえぢや、直ぢき年齡としばかしとらせつちやつて仕しやうねえぞ、俺おらも一人ひとり出だしたがおめえ容易よういぢやねえよ、さうだかうだ云ゆはれねえ内うちだぞおめえ」

女房は言った。

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女房にようばうはいつた。

「いいよ、三十まで独りじゃ置かないから。これには今に婿を取るんだから」

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「えゝよ卅まで獨ひとりぢや置おかねえから此これげはいまに聟むことんだから」

勘次は喧嘩でもするような様子で、こわばった舌で言った。

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勘次かんじは喧嘩けんくわでもする樣やうな容子ようすで硬こはばつた舌したでいつた。

女房は黙って、口のあたりに冷ややかな笑いを含んで、膝をそっと動かして、ぐっすり眠りこけた自分の子を見た。

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女房にようばうは默だまつて口くちの邊あたりに冷ひやゝかな笑ゑみを含ふくんで膝ひざをそつと動うごかしてぐつすり眠ねむりこけた自分じぶんの子こを見みた。

「どうしたい、ままよままよでもやらないか、勘次さん。ままにならぬとお鉢を投げりゃ、そこらあたりは飯だらけだあ。あまりむずかしいことを言うなよ」

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「どうしたえ、儘まゝよ/\でもやんねえか勘次かんじさん。まゝにならぬとお鉢はちを投なげりや其處そこらあたりは飯まゝだらけだあ、過多げえに六むづかしいこと云いふなえ」

兼博労は米の飯をかっ込みながら言った。

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兼かね博勞ばくらうは米こめの飯めしを掻かつ込こみながらいつた。

腹をいっぱいに膨らませた一座は

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腹はらを一杯ぱいに膨ふくらませた一座ざは

「どうもごちそうさまでした」

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「どうも御馳走樣ごつゝおさまでがした」

と義理を述べて、土間の下駄をがらがらかき探して、がやがや騒ぎながら帰りかけた。

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と義理ぎりを述のべて土間どまの下駄げたをがら/\掻かき探さぐつてがや/\騷さわぎながら歸かへり掛かけた。

「おつう、よきのことを起こせ」

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「おつう、よきこと起おこせ」

勘次はそう言って、自分もいっしょによろけながら立った。

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勘次かんじはさういつて自分じぶんも一ひとつに蹣跚よろけながら立たつた。

おつぎは与吉の体を激しく動かしたが、熟睡してしまったので、容易に目を開かなかった。

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おつぎは與吉よきちの身體からだを劇はげしく動うごかしたが熟睡じゆくすゐして畢しまつたので容易よういに目めを開ひらかなかつた。

与吉は草履をはくにも、おつぎの心をいらだたせた。

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與吉よきちは草履ざうりを穿はくにもおつぎの心こゝろを苛立いらだたせた。

「おつう」

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「おつう」

と激しく呼ぶ勘次の声が、裏の垣根の外から聞こえた。

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と劇はげしく喚よぶ勘次かんじの聲こゑが裏うらの垣根かきねの外そとから聞きこえた。

そうするとまた

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さうすると又また

「何してけつかるんだ」

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「何なにしてけつかんだ」

と、勘次は裏の戸口から一同を驚かして怒鳴った。

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と勘次かんじは裏戸口うらとぐちから一同どうを驚おどろかして呶鳴どなつた。

「勘次さん、与吉のことを起こしてたところなんだよ」

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「勘次かんじさん與吉よきちこと起おこしてた處とこなんだよ」

家の女房は言い訳をしてやった。

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内うちの女房にようばうは分疏いひわけしてやつた。

「お前はいつでもそうだ、ぐずぐずしてやがって」

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「汝わりや何時いつでもさうだ、ぐづ/\してやがつて」

勘次はなおも怒って言った。

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勘次かんじは猶なほも憤いきどほつていつた。

「待ってればいいんだな、おとっつあん。洗い物までもしないのに、どうしたもんだ」

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「待まつてれば善ええんだなおとつゝあ、洗あらひまでも仕しねえのにどうしたもんだ」

酒席の跡を見て、おつぎは呟いた。

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酒席しゆせきの趾あとを見みておつぎは呟つぶやいた。

「構わないで帰れよ。おとっつあんは酔ってるんだから」

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「管かまあねえで歸けえれよ、おとつゝあ酩酊よつぱらつてんだから」

女房はおつぎの意を汲んでやった。

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女房にようばうはおつぎの意いを汲くんでやつた。

後では、乱雑に散らかした道具の始末をしながら、女房らは言った。

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後あとでは亂雜らんざつに散ちらかした道具だうぐの始末しまつをしながら女房等にようばうらはいつた。

「勘次さんの心持ちも分からないな」

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「勘次かんじさんが心持こゝろもちも分わかんねえな」

「いくら女房の焼き餅を焼くものでも、ああいうのはないな」

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「幾いくら嚊かゝあの嫉妬やきもち燒やくもんでも、あゝえもなあねえな」

「ああいうのが何かの生まれ変わりだというのでもあるだろうな。怖いようだよ、本当にな」

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「あゝえのが何なんかの生うまれ變かはりつちんでも有あんべな、可怖おつかねえやうだよ本當ほんたうにな」

「近ごろそれに、あれじゃないかい。あれほどほしがったのに、後妻をもらおうとは言わないんじゃないかい」

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「近頃ちかごろそれに何なんぢやねえけえ、あら程ほど欲ほしがつたのに後妻あと貰もらあべえたあ、云ゆはねえんぢやねえけえ」

いずれの心にも、口には言わなくても分かっている何かを、少しずつ現そうとして、さすがにためらうようにして話し合った。

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孰いづれの心こゝろにも口くちにはいはなくて了解れうかいされて居ゐる或ある物ものを少すこしづつ現あらはさうとして有繋さすがに躊躇ちうちよする樣やうにして噺合はなしあうた。

勘次ら三人が出て垣根の外へ行ったと思うころ、椀を拭いていた一人が慌ただしく立って外へ出た。

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勘次等かんじら三人にんが出でて垣根かきねの外そとへ行いつたと思おもふ頃ころ、椀わんを拭ふいて居ゐた一人ひとりが慌あわただしく立たつて外そとへ出でた。

しばらくして帰って来ると、いきなり

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暫しばらくして歸かへつて來くるといきなり

「どうしたものだ、お前は。他人の後なんぞつけて行って。罪だから見ろよ」

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「どうしたものだおめえは、他人ひとの後あとなんぞ尾行つけて行いつて、罪つみだから見みろよ」

一人が言った。

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一人ひとりがいつた。

「そうじゃないよ。あんまりお前、他人のことを、おれだって」

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「さうぢやねえよ、有撃まさかおめえ、他人ひとのこと俺おれだつて」

と言い訳をした。

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分疏いひわけした。

「そんじゃ何に行ったんだ」

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「そんぢや何なんに行いつたんだ」

「小便をしたくなったからよ」

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「小便せうべん垂たつたく成なつたからよ」

やがて抑えきれない笑いが顔に浮かんで

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軈やがて抑おさへ切きれぬ笑わらひが顏かほに浮うかんで

「そんだからあんまり飲むなというんだ、なんておつぎに怒られ怒られ行くんだわ」

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「そんだから過多げえに飮のむなつちんだ、なんておつぎに怒おこられ/\行いんけわ」

と言った。

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といつた。

「そうれお前、罪だよ」

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「そうれおめえ、罪つみだよ」

遠慮もなく、みなどっと笑った。

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遠慮ゑんりよもなく皆みなどつと笑わらつた。

夜は更けていた。

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夜よは深ふけて居ゐた。

きろきろきろきろと、風船玉を擦り合わせるような蛙の声が入り交じって聞こえていた。

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きろ/\きろ/\と風船玉ふうせんだまを擦こすり合あはせる樣やうな蛙かへるの聲こゑが錯雜さくざつして聞きこえて居ゐた。

一五

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十五

霜がひそかに地を覆った。

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霜しもが竊ひそかに地ちを掩おほうた。

晩秋の冴えた空気は、地上のすべてを乾かす。

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晩秋ばんしうの冴さえた空氣くうきは地上ちじやうの凡すべてを乾燥かんさうせしめる。

思いのままに枝葉を広げた独活の実へ目白が集まって鳴くのが愉快らしくもあるが、何となく忙しげであって、それもわずかの間に、どこでも草木の葉が硬くなったり傷ついたりして、一切がただがさがさと入り交じってしまった。

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思おもひの儘まゝに枝葉えだはを擴ひろげた獨活うどの實みへ目白めじろの聚あつまつて鳴なくのが愉快ゆくわいらしくもあれど、何なんとなく忙いそがしげであつて、それも少時しばしの間まに何處どこでも草木さうもくの葉はが硬こはばつたり傷きずついたりして一切さいが只たゞがさ/\と混雜こんざつして畢しまつた。

そういう所へ季節の冬はいやでも行き渡らねばならないのであるが、それでも暖かい日があったり、冷たい日があったりして、冬はひたすらためらいながら地上に沈もうとした。

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さういふ處ところへ季節きせつの冬ふゆは厭いやでも行ゆき渡わたらねばならないのであるがそれでも暖あたゝかい日ひがあつたり、冷つめたい日ひがあつたりして冬ふゆは只管ひたすら躊躇ちうちよしつゝ地上ちじやうに沈しづまうとした。

そうして霜を一度はわせてみた。

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さうして霜しもを一度ど偃ははせて見みた。

すべての草木はさらに慌てた。

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凡すべての草木さうもくは更さらに慌あわてた。

地味な常緑樹を除いたほかはみな、次の春の用意のできるまでは、凄い姿になってまでも、じっとしがみついている。

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地味ぢみな常磐木ときはぎを除のぞいた外ほかに皆みな次つぎの春はるの用意よういの出來できるまでは凄すごい姿すがたに成なつてまでも凝然ぢつとしがみついて居ゐる。

冬はまた霜をはわせてみた。

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冬ふゆは復また霜しもを偃ははせて見みた。

恐ろしく潔癖な霜は、そのみすぼらしい草木の葉を地上に踏みにじった。

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恐おそろしく潔癖けつぺきな霜しもは其その見窄みすぼらしい草木さうもくの葉はを地上ちじやうに躪にじりつけた。

人間の手を借りたものは、田でも畑でも、人間の手を借りて至る所をからりとさせる。

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人間にんげんの手てを藉かりたものは田たでも畑はたでも人間にんげんの手てを藉かりて到處いたるところをからりとさせる。

その時、畑には刷毛の先でかすったように、麦や小麦でほのかに青みを保っている。

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其その時とき畑はたには刷毛はけの先さきでかすつた樣やうに麥むぎや小麥こむぎで仄ほのかに青味あをみを保たもつて居ゐる。

それから冬はまた、百姓をして、寂しい外からもっぱら内に力を注がせる。

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それから冬ふゆは又また百姓ひやくしやうをして寂さびしい外そとから專もつぱら内うちに力ちからを致いたさせる。

百姓らは忙しく藁で俵を編んで米を入れて、春以来の報酬を目の前に積んで楽しむのである。

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百姓等ひやくしやうらは忙いそがしく藁わらで俵たわらを編あんで米こめを入いれて春はる以來いらいの報酬はうしうを目前もくぜんに積つんで娯よろこぶのである。

彼らの間には、こういう時に、そうして冬が本当にまだ彼らの上に泣いてみせないうちに、相前後してどこの村にも「まち」

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彼等かれらの間あひだには恁かういふ時ときに、さうして冬ふゆが本當ほんたうにまだ彼等かれらの上うへに泣ないて見みせない内うちに相あひ前後ぜんごして何處どこの村落むらにも「まち」

が来るのである。

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が來くるのである。

それは村ごとに建てられてある社の祭りのことである。

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其それは村落毎むらごとに建たてられてある社やしろの祭まつりのことである。

貧乏な勘次の村でも、以前からの慣例で、村に相応した方法をもって祭りが行われた。

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貧乏びんばふな勘次かんじの村落むらでも以前いぜんからの慣例くわんれいで村落むらに相應さうおうした方法はうはふを以もつて祭まつりが行おこなはれた。

当日は白い狩衣の神官が独りで、氏子の総代というのが四、五人、きまり悪そうな様子で後についてゆき、馬場先を進んで行った。

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當日たうじつは白しろい狩衣かりぎぬの神官しんくわんが獨ひとりで氏子うぢこの總代そうだいといふのが四五人にん、極きまりの惡相わるさうな容子ようすで後あとへ跟ついて馬場先ばゞさきを進すゝんで行いつた。

一人は農具の箕を持っている。

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一人にんは農具のうぐの箕みを持もつて居ゐる。

総代らはそれでも羽織袴の姿であるが、一人も満足に袴の紐を結んだのはない。

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總代等そうだいらはそれでも羽織袴はおりはかまの姿すがたであるが一人ひとりでも滿足まんぞくに袴はかまの紐ひもを結むすんだのはない。

さらにその後から、鏡を抜いた四斗樽を馬の荷縄にくくって、太い棒でかついでついて行った。

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更さらに其その後あとから鏡かゞみを拔ぬいた四斗樽とだるを馬うまの荷繩になはに括くゝつて太ふとい棒ぼうで擔かついで跟ついた。

四斗樽には、濁ったような甘酒がだぶだぶと動いている。

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四斗樽とだるには濁にごつたやうな甘酒あまざけがだぶ/\と動うごいて居ゐる。

神官の白い指貫の袴には、泥の跳ねた跡も見えて、ずいぶん汚れていた。

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神官しんくわんの白しろい指貫さしぬきの袴はかまには泥どろの跳はねた趾あとも見みえて隨分ずゐぶん汚よごれて居ゐた。

神官は、埃だらけな板の間へようやくござを敷いた狭い拝殿へ座って、榊の小さな枝をいじって、それから卓の供え物を格好よくしている間に、総代らは箕へ入れて行った注連縄を樅の木から樅の木へ引っ張って、末社の飾りをした。

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神官しんくわんは埃ほこりだらけな板いたの間まへ漸やうやく蓙ござを敷しいた狹せまい拜殿はいでんへ坐すわつて榊さかきの小ちひさな枝えだをいぢつて、それから卓しよくの供物くもつを恰好かつかうよくして居ゐる間まに總代等そうだいらは箕みへ入いれて行いつた注連繩しめなはを樅もみの木きから樅もみの木きへ引ひつ張ぱつて末社まつしやの飾かざりをした。

村の者はだんだんに、器量相応な晴れ着を着て神社の前に集まった。

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村落むらの者ものは段々だん/\に器量きりやう相當さうたうな晴衣はれぎを着きて神社じんじやの前まへに聚あつまつた。

目に立つのはやはり女の子で、粗末な手織り木綿であっても、メリンスの帯と前垂れとが彼女らを十分に飾っている。

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目めに立たつのは猶且やつぱり女をんなの子こで、疎末そまつな手織木綿ておりもめんであつてもメリンスの帶おびと前垂まへだれとが彼等かれらを十分ぶんに粧よそほうて居ゐる。

十くらいの子でも、それから二十になる者でも、みな前垂れを掛けている。

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十位とをぐらゐの子こでもそれから廿はたちに成なるものでも皆みな前垂まへだれを掛かけて居ゐる。

前垂れがなければ、彼女らの姿は寂しくなってしまわねばならない。

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前垂まへだれがなければ彼等かれらの姿すがたは索寞さくばくとして畢しまはねば成ならぬ。

彼女らは足に合わない不格好な、皺の寄った白い足袋をはいている。

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彼等かれらは足あしに合あはぬ不恰好ぶかつかうな皺しわの寄よつた白しろい足袋たびを穿はいて居ゐる。

遠い国の山から切り出すのだという、まがいの重い台へゴム製の表を打った下駄を突っかけている者もある。

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遠國ゑんごくの山やまから切きり出だすのだといふ模擬まがひの重おもい臺だいへゴム製せいの表おもてを打うつた下駄げたを突つつ掛かけて居ゐるものもある。

彼女らはその年齢に応じて三人五人と互いに手を引きながら、垣根のそばや辻の角に立っていては、思い出した時にそこらここらと移って歩くのである。

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彼等かれらは其その年齡ねんれいに應おうじて三人にん五人にんと互たがひに手てを曳ひきながら垣根かきねの側そばや辻つじの角かどに立たつて居ゐては思おもひ出だした時ときに其處そこら此處ここらと移うつつて歩あるくのである。

彼女らはただ仲間とともに立っていること以外に、「まち」

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彼等かれらは只たゞ朋輩ほうばいと共ともに立たつて居ゐることより外ほかに「まち」

といっても別に目的もなければ、楽しみもないのである。

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というても別べつに目的もくてきもなければ娯樂ごらくもないのである。

それで彼女らは、少しでも変わった出来事を見逃すことを敢えてしないのである。

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其それで彼等かれらは少すこしでも異ことなつた出來事できごとを見逃みのがすことを敢あへてしないのである。

神官は、小さな筑波蜜柑だの駄菓子だの鯣だのを少しばかりずつ供えた卓の前に座って、祝詞を上げた。

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神官しんくわんは小ちひさな筑波蜜柑つくばみかんだの駄菓子だぐわしだの鯣するめだのを少すこしばかりづつ供そなへた卓しよくの前まへに坐すわつて祝詞のつとを上あげた。

それは大きな厚い紙へ書いたので、それをさらに紙へ包んだのであった。

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其それは大おほきな厚あつい紙かみへ書かいたので、それを更さらに紙かみへ包つゝんだのであつた。

包み紙は幾度か懐へ出し入れしたと見えて、ひどく擦れて汚れている。

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包紙つゝみがみは幾度いくたびか懷ふところへ出だし入いれしたと見みえて痛いたく擦すれて汚よごれて居ゐる。

祝詞はきわめて短い文であった。

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祝詞のつとは極きはめて短文たんぶんであつた。

神官はそれをきわめてゆったりと声を張り上げて読んだが、それでもいくらも時間が要らなかった。

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神官しんくわんはそれを極きはめて悠長いうちやうに聲こゑを張はり上あげて讀よんだがそれでも幾いくらも時間じかんが要いらなかつた。

それが一枚あればどこの神社へ行っても役に立てているものと見えて、短い文中に読み上げるべき神社の名は書いてなくて、何郡何村何神社という文字で埋めてある。

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それが一枚まいあれば何處どこの神社じんじやへ行いつても役やくに立たてゝ居ゐるものと見みえて短みじかい文中ぶんちうに讀上よみあぐべき神社じんじやの名なは書かいてなくて何郡なにごほり何村なにむら何神社なにじんじやといふ文字もじで埋うづめてある。

神官はそこに読み至ると、当日の神社をただ口の先で言うのである。

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神官しんくわんは其處そこに讀よみ至いたると當日たうじつの神社じんじやを只たゞ口くちの先さきでいふのである。

さすがに彼は、間違うことなしに読み退けた。

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有繋さすがに彼かれは間違まちがふことなしに讀よみ退のけた。

神官が卓の横手へ座を換えて、ちょっと笏で指図をすると、氏子の総代らが順々に榊の小枝の玉串を持って卓の前に出て、その玉串を捧げて拍手した。

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神官しんくわんが卓しよくの横手よこてへ座ざを換かへて一寸ちよつと笏しやくで指圖さしづをすると氏子うぢこの總代等そうだいらが順次じゆんじに榊さかきの小枝こえだの玉串たまくしを持もつて卓しよくの前まへに出でて其その玉串たまくしを捧さゝげて拍手はくしゆした。

彼らはただおずおずして、拍手も鳴らなかった。

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彼等かれらは只たゞ怖おづ/\して拍手はくしゆも鳴ならなかつた。

立ちながら袴の裾を踏んでよろけては、驚いた様子をして周りを見る者もあった。

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立たちながら袴はかまの裾すそを踏ふんで蹌踉よろけては驚おどろいた容子ようすをして周圍あたりを見みるのもあつた。

こういう作法をも、見物のすべてはいかにも熱心らしい態度で、拝殿に迫って見ていた。

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恁かういふ作法さはふをも見物けんぶつの凡すべては左さも熱心ねつしんらしい態度たいどで拜殿はいでんに迫せまつて見みて居ゐた。

おつぎも与吉の手を取って、群衆に交じって立っていた。

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おつぎも與吉よきちの手てを執とつて群集ぐんしふに交まじつて立たつて居ゐた。

勘次もそこにいたのであるが、しかし彼はずっと後ろの樅の木陰にぽつんとしていたのであった。

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勘次かんじも其處そこに在あつたのであるが然しかし彼かれはずつと後うしろの樅もみの木陰こかげにぽつさりとして居ゐたのであつた。

簡単ながら一日の式が終わった時、四斗樽の甘酒が柄杓で汲み出して、周りに立っている人々に与えられた。

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簡單かんたん乍ながら一日にちの式しきが畢をはつた時とき四斗樽とだるの甘酒あまざけが柄杓ひしやくで汲出くみだして周圍しうゐに立たつて居ゐる人々ひと/″\に與あたへられた。

主として子供らが先を争って、その大きな茶碗を換えた。

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主しゆとして子供等こどもらが先さきを爭あらそうて其その大おほきな茶碗ちやわんを換かへた。

彼らはむしろ自分の家で造ったもののほうがうまいにもかかわらず、大勢とともに騒ぐのが愉快なので、水ばかりのような甘酒を幾杯も傾けるのである。

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彼等かれらは寧むしろ自分じぶんの家うちで造つくつたものゝ方はうが佳味うまいにも拘かゝわらず大勢おほぜいと共ともに騷さわぐのが愉快ゆくわいなので、水許みづばかりのやうな甘酒あまざけを幾杯いくはいも傾かたむけるのである。

当日からでは数日前に当番の者が村じゅうを歩いて、二合ずつでも三合ずつでも白米をもらって、夜になれば当番の者らは集まった白米で晩飯の飯を十分に炊いて、その他はことごとく甘酒に仕込む。

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當日たうじつからでは數日前すうじつぜんに當番たうばんの者ものが村落中むらぢうを歩あるいて二合がふづゝでも三合がふづゝでも白米はくまいを貰もらつて、夜よになれば當番たうばんの者等ものらは集あつまつた白米はくまいで晩餐ばんさんの飯めしを十分ぶんに焚たいて其その他たは悉ことごとく甘酒あまざけに造つくり込こむ。

甘酒は時間が短いのと麹が少ないのとで、熱い湯で仕込むのが常である。

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甘酒あまざけは時間じかんが短みじかいのと麹かうぢが少すくないのとで熱あつい湯ゆで造つくり込こむのが例れいである。

それだからたちまちに甘くなるけれども、またたちまちに酸味を帯びて来る。

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それだから忽たちまちに甘あまく成なるけれども亦また忽たちまちに酸味さんみを帶おびて來くる。

彼らは当日の前夜に口見だと言って、近隣の者らが寄ってたかって、鍋で幾杯となく沸かしては飲むので、おびただしく減らしてしまって、それへいっぱいに水を差しておくのである。

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彼等かれらは當日たうじつの前夜ぜんやに口見くちみだといつて近隣きんりんの者等ものらが寄よつてたかつて、鍋なべで幾杯いくはいとなく沸わかしては飮のむので夥したゝか減へらして畢しまつて、それへ一杯ぱいに水みづを注さして置おくのである。

子供らの間に交じって、与吉も互いの体をかき分けるようにして飲んだ。

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子供等こどもらの間あひだに交まじつて與吉よきちも互たがひの身體からだを掻かき分わける樣やうにして飮のんだ。

村の者が飲んでいる後から、木陰にたたずんでいた乞食がぞろぞろと来て、曲げ物の小鉢を出して求めた。

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村落むらの者ものが飮のんでる後うしろから木陰こかげに佇たゝずんで居ゐた乞食こじきがぞろ/\と來きて曲物まげものの小鉢こばちを出だして要求えうきうした。

「よき、それ、いいかげんにするもんだよ、お前は」

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「よき、それえゝ加減かげんにするもんだよ汝わりや」

おつぎは、まだ茶碗を放さない与吉の手を引いた。

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おつぎはまだ茶碗ちやわんを放はなさない與吉よきちの手てを曳ひいた。

「待ってろお前ら、そんなに触り出さないで、小汚い」

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「待まつてろ汝わツ等ら、さうだにさはり出でねえで、小穢こぎたねえ」

「こいつら、お前らにやりはぐったことはありゃしない。それにそんなに騒ぎやがって。うるさい奴らだ、待ってるもんだ」

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「此奴等こねやつら、汝わツ等らげ呉くれはぐつたこた有ありやしねえ、それにさうだに騷さわぎやがつて、五月繩うるせえ奴等やつらだ待まつてるもんだ」

「そうれ、お前らへ注いでやるのに、そんな小鉢なんぞ桶の上へ突き出させちゃかなわないな。それ、だらだら垂れるじゃないか。柄杓をそっちへ押し出してやるもんだ」

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「そうれお前等めえら注つえで遣やんのにそんな小鉢こばちなんぞ桶をけの上うへさ突出つんださせちや畢をへねえな、それだらだら垂たツらあ、柄杓ひしやくそつちへおん出だして行やるもんだ」

下駄をはいて立った氏子の総代らが、乞食を叱ったり当番に注意したりした。

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下駄げたを穿はいて立たつた氏子うぢこの總代等そうだいらが乞食こじきを叱しかつたり當番たうばんに注意ちういしたりした。

神官らが石の鳥居を出て行った後は、しばらくして人も散って、鳥居の傍らには大きな文字を表した白木綿の幟が高く突っ立って、ばさばさと鳴っていた。

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神官等しんくわんらが石いしの華表とりゐを出でて行いつた後のちは暫しばらくして人ひとも散ちつて、華表とりゐの傍そばには大おほきな文字もじを表あらはした白木綿しろもめんの幟旗のぼりばたが高たかく突つつ立たつてばさ/\と鳴なつて居ゐた。

散らばった人々は、そのくせそこにぽつんと、ここにぽつんと固まって立っているのであった。

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散亂さんらんした人々ひと/″\は其その癖くせの其處そこにぼつゝり此處ここにぼつゝりと固かたまつて立たつてるのであつた。

しばらくして短い日が傾いた。

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暫しばらくして短みじかい日ひが傾かたむいた。

社の森を包んで、時雨の雲が東の空いっぱいに広がった。

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社やしろの森もりを包つゝんで時雨しぐれの雲くもが東ひがしの空そら一杯ぱいに擴ひろがつた。

濃い鼠色の雲は凄く人に迫って来るようで、しかもくっきりと森を浮かした。

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濃厚のうこうな鼠色ねずみいろの雲くもは凄すごく人ひとに迫せまつて來くるやうで、然しかもくつきりと森もりを浮うかした。

かっと横に差しかかる日の光が、その凄い雲の色をやや和らげて、ビロードのような滑らかな感じを与えた。

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かつと横よこに射さし掛かける日ひの光ひかりが其その凄すごい雲くもの色いろを稍やゝ和やはらげて天鵞絨びろうどのやうな滑なめらかな感かんじを與あたへた。

さらにくすんだ赤い欅のこずえにも微妙な色彩を発揮させて、ことにその間に交じった楓の大樹は、これも冴えないこずえに日は全力を注いで、驚くべき荘厳で、かつ鮮やかな光を放射させた。

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更さらにくすんだ赭あかい欅けやきの梢こずゑにも微妙びめうな色彩しきさいを發揮はつきせしめて、殊ことに其その間あひだに交まじつた槭もみぢの大樹たいじゆは此これも冴さえない梢こずゑに日ひは全力ぜんりよくを傾注けいちゆうして驚おどろくべき莊嚴さうごんで且かつ鮮麗せんれいな光ひかりを放射はうしやせしめた。

時雨の雲に映る楓のこずえは、はっきりと浮き上がっていながら、ビロードの地に深くしみ込んでいるようにも見えた。

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時雨しぐれの雲くもに映えいずる槭もみぢの梢こずゑは確然かくぜんと浮うき上あがつて居ゐながら天鵞絨びろうどの地ぢに深ふかく浸しみ込こんで居ゐる樣やうにも見みえた。

その前に空を支えて立った二条の白い柱は、幟であった。

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其その前まへに空そらを支さゝへて立たつた二條でうの白しろい柱はしらは幟旗のぼりばたであつた。

幟は止まずばたばたとひるがえった。

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幟旗のぼりばたは止やまずばた/\と飜ひるがへつた。

さらににわかにごうっと立った風に、森のこずえの葉は散乱して、鮮やかな光を保ちながら空中に閃いた。

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更さらに俄にはかにごつと立たつた風かぜに森もりの梢こずゑの葉はは散亂さんらんして鮮あざやかな光ひかりを保たもちながら空中くうちうに閃ひらめいた。

数分の後、世間はたちまちに暗澹たる光に包まれて、時雨がざあっと来た。

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數分時すうふんじの後のち世間せけんは忽たちまちに暗澹あんたんたる光ひかりに包つゝまれて時雨しぐれがざあと來きた。

村のどこにも、晴れ着の姿を見なくなった。

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村落むらの何處どこにも晴衣はれぎの姿すがたを見みなく成なつた。

おつぎは与吉を連れて、とうに帰っていたのであった。

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おつぎは與吉よきちを連つれて疾とつくに歸かへつて居ゐたのであつた。

夜になって雨がやんだ。

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夜よるに成なつて雨あめが歇やんだ。

村の者はだんだんに、瞽女の泊まった小店の近くへ集まって、戸口の近くに立った。

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村落むらの者ものは段々だん/\に瞽女ごぜの泊とまつた小店こみせの近ちかくへ集あつまつて戸口とぐちに近ちかく立たつた。

戸はことごとく開け放って、障子も外してある。

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戸とは悉こと/″\く開放あけはなつて障子しやうじも外はづしてある。

瞽女はめいめいに晩飯を求めて去った後であった。

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瞽女ごぜは各自かくじに晩餐ばんさんを求もとめて去さつた後あとであつた。

瞽女は村から村の「まち」

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瞽女ごぜは村落むらから村落むらの「まち」

を渡って歩いて、毎年泊めてもらう宿について、それから村じゅうを戸ごとに唄って歩く間に、ところどころで一人分ずつの晩飯のごちそうを承諾してもらっておく。

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を渡わたつて歩あるいて毎年まいねん泊とめて貰もらふ宿やどに就ついてそれから村落中むらぢうを戸毎こごとに唄うたうて歩あるく間あひだに、處々ところ/″\で一人分いちにんぶんづゝの晩餐ばんさんの馳走ちそうを承諾しようだくして貰もらつて置おく。

それで彼女らは、夜の時刻が来ると、目明きの手引きがだんだんとその家々に配って歩く。

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それで彼等かれらは夜よるの時刻じこくが來くると、目明めあきの手曳てびきがだんだんと其その家々いへ/\に配くばつて歩あるく。

そうしてはまた、手引きがそれを集めて打ち連れて帰って来る。

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さうしては復また手曳てびきがそれを集あつめて打うち連つれて歸かへつて來くる。

目の不自由な彼女らは、ようやくのことで自分の求める家に着いても、板の間の端などにぽつんとして膳の運ばれるのを待っているので、一同の腹が満たされて再び杖にすがるまでには、面倒な時間を要するのである。

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目めの不自由ふじいうな彼等かれらは漸やうやくのことで自分じぶんの求もとめる家いへに就ついても板いたの間まの端はしなどにぽつさりとして膳ぜんの運はこばれるのを待まつて居ゐるので一同どうの腹はらが滿みたされて再ふたゝび杖つゑに縋すがるまでには面倒めんだうな時間じかんを要えうするのである。

小店の座敷には、瞽女の大きな荷物と袋へ入れた三味線とが置いてあって、寂しく見えていた。

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小店こみせの座敷ざしきには瞽女ごぜの大おほきな荷物にもつと袋ふくろへ入いれた三味線さみせんとが置おいてあつて淋さびしく見みえて居ゐた。

ただ一人の巫女が、彼女らに特有の態度を保って正座を張って、そのいつでも放さない荷物を前へ置いて、しゃんと座っているのであった。

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只たゞ一人ひとりの巫女くちよせが彼等かれらに特有とくいうの態度たいどを保たもつて正座しやうざを張はつて、其その何時いつでも放はなさない荷物にもつを前まへへ置おいてしやんと坐すわつて居ゐるのであつた。

表には村の者がようやく増えて、土間から座敷へ上がる者もあった。

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表おもてには村落むらの者ものが漸やうやく殖ふえて土間どまから座敷ざしきへ上あがる者ものもあつた。

彼らはわけもなしに、ただ騒ぎはじめた。

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彼等かれらは理由わけもなしに只たゞ騷さわぎはじめた。

彼らは沼辺の葦のように、集まれば互いにただざわざわと騒ぐのである。

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彼等かれらは沼邊ぬまべの葦あしのやうに集あつまれば互たがひに只たゞざわ/\と騷さわぐのである。

巫女はかなりの婆さんであったので、白粉をつけた瞽女らに向かってからかうような言葉は、彼らの間には発せられなかった。

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巫女くちよせはかなりの婆ばあさんであつたので、白粉おしろいつけた瞽女等ごぜらに向むかつて揶揄からかふ樣やうな言辭ことばは彼等かれらの間あひだには發はつせられなかつた。

「どうだい、口寄せを一つやってみないかい」

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「どうしたえ、口寄くちよせ一ひとつやつて見みねえかえ」

大勢の中から切り出した者があった。

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大勢おほぜいの中うちから切きり出だしたものがあつた。

葦の葉先が微風にもなびかされるように、この一言のためにみなぞよぞよとまた騒いだ。

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葦あしの葉末はずゑが微風びふうにも靡なびけられる樣やうに此この一語ごの爲ために皆みなぞよ/\と復また騷さわいだ。

群衆の中には、おつぎも交じっていた。

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群集ぐんしふの中うちにはおつぎも交まじつて居ゐた。

若い衆らはさっきからそれに注目していたが

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若わかい衆等しゆらは先刻さつきからそれに注目ちうもくして居ゐたが

「どうした、あいつのことを寄せてみようじゃないか」

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「どうした、彼奴等あいつらこと寄よせてんべぢやねえか」

「おつぎのことを出してみようじゃないか」

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「おつぎこと出だしてんべぢやねえか」

彼らはひそひそとひそかに申し合わせた。

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彼等かれらはひそ/\と竊ひそかに喋しめし合あはせた。

「寄せてみようとよ」

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「寄よせてんべえと」

群衆の後ろのほうから怒鳴った。

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群集ぐんしふの後うしろの方はうから呶鳴どなつた。

「そんじゃこっちへ出なさいな」

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「そんぢや此方こつちへ出でさつせえな」

店の女房は言った。

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店みせの女房にようばうはいつた。

群衆は一時に威勢がついて、巫女の膝の近くまでぎっしりと座敷を塞いだ。

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群集ぐんしふは一時じに威勢ゐせいがついて巫女くちよせの膝ひざ近ちかくまでぎつしりと座敷ざしきを塞ふさいだ。

勘次もおつぎも、座敷に窮屈な居ずまいをしていた。

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勘次かんじもおつぎも座敷ざしきに窮屈きうくつな居ゐずまひをして居ゐた。

店の女房は、少し剥げた塗り盆へ水をいっぱいに汲んだ飯茶碗を載せて

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店みせの女房にようばうは少すこし剥はげた塗盆ぬりぼんへ水みづを一杯ぱいに汲くんだ飯茶碗めしぢやわんを載のせて

「ちょっとお前ら、退いてくれないか」

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「ちつとおめえ等ら退しやつてくんねえか」

と言いながら、人々の間を足探りに歩いて、巫女の婆さんの前へ置いた。

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といひながら人々ひと/″\の間あひだを足探あしさぐりに歩あるいて巫女くちよせの婆ばあさんの前まへへ置おいた。

「そんじゃ誰だろう、寄せるのは」

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「そんぢや誰だれだんべ、寄よせんな」

女房は立ったまま一同を見回して、にっこりとして言った。

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女房にようばうは立たつた儘まゝ一同どうを見廻みまはして嫣然にこりとしていつた。

それでもしばらくは、すべてが口をつぐんでいた。

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それでも暫しばらくは凡すべてが口くちを緘つぐんで居ゐた。

巫女の婆さんは、箱を包んだ荷物をそのまま自分の膝へ引きつけて待っている。

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巫女くせよせの婆ばあさんは箱はこを包つゝんだ荷物にもつを其その儘まゝ自分じぶんの膝ひざへ引ひきつけて待まつて居ゐる。

「おれがやろう、そんじゃ」

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「俺おれやんべ、そんぢや」

若い衆の一人が婆さんの前へ出て

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若わかい衆しゆの一人ひとりが婆ばあさんの前まへへ出でて

「おれは生き口を寄せてみたいんだが、いくらだろう、一口は」

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「俺おら生口いきぐち寄よせて見みてえんだが、幾いくらだんべ一口ひとくちは」

「五銭ずつでさ」

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「五錢せんづゝでさ」

巫女の婆さんは落ち着いて言った。

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巫女くちよせの婆ばあさんは落付おちついていつた。

「これはただ黙っていていいんだったっけかな」

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「此こら只たゞ默だまつてゝえゝんだつけかな」

と言うと

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といふと

「いいんだよ、それで。自分の思ってたのが出て来るんだから」

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「えゝんだよそんで、自分じぶんの思おもつてたの出でて來くんだから」

「紙縒りをこしらえて水をかき回せばいいんだよ」

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「かんぜん撚より拵こせえて水みづ掻かん廻まあせば、えゝんだよ」

そばから、巫女の婆さんの言うのも待たずに口を出した。

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側そばから巫女くちよせの婆ばあさんのいふのも待またずに口くちを出だした。

「三度でいいんだったっけかな」

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「三度とでえゝんだつけかな」

婆さんの前へ座った一人は後ろのほうを向いて言って、彼は不器用な紙縒りをこしらえて、その先を茶碗の水へ浸して三度丁寧にかき回して、そのまま紙縒りを水に浸しておいた。

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婆ばあさんの前まへへ坐すわつた一人ひとりは後うしろの方はうを向むいていつて彼かれは不器用ぶきような紙捻こよりを拵こしらへて其その先さきを茶碗ちやわんの水みづへ浸ひたして三度ど丁寧ていねいに掻かき廻まはして其その儘まゝ紙捻こよりを水みづに浸ひたして置おいた。

「見ろよ、近ごろさっぱり来てくれないが、おれのことがいやにでもなったんじゃないかなんて出るから」

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「見みろよ、近頃ちかごろ薩張さつぱり來きてくんねえが、俺おれこと厭やにでも成なつたんぢやねえかなんて出でつから」

と、店の女房は冗談を交えた。

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と店みせの女房にようばうは戯談ぜうだんを交まじへた。

巫女はしばらく手を合わせて口の中で何か念じていたが、風呂敷包みのまま箱へ両肘を突いて、だんだんに諸国の神々の名を呼んで、一座に集めるという意味を、熟練した言い方で調子を取って言った。

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巫女くちよせは暫しばらく手てを合あはせて口くちの中なかで何なにか念ねんじて居ゐたが風呂敷包ふろしきづゝみの儘まゝ箱はこへ兩肘りやうひぢを突ついて段々だん/\に諸國しよこくの神々かみ/″\の名なを喚よんで、一座ざに聚あつめるといふ意味いみを熟練じゆくれんしたいひ方かたで調子てうしをとつていつた。

がやがやと騒いでいた家の内も外も、ともにひっそりとなった。

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がや/\と騷さわいで居ゐた家いへの内外ないぐわいは共ともにひつそりと成なつた。

「よしきりが土用へ入ったみたいに、ぴったりしちまったな」

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「行々子よしきり土用どようへ入へえつた見みてえに、ぴつたりしつちやつたな」

と怒鳴った者があった。

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と呶鳴どなつたものがあつた。

ようやく静まった群衆は、しばらくどよめいた。

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漸やうやく靜しづまつた群集ぐんしふは少時しばしどよめいた。

しかしすぐにまた静まった。

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然しかし直すぐに復また靜しづまつた。

「白紙頼り水頼り、紙縒り頼りにい……」

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「白紙しらがみ手頼たより水みづ手頼たより、紙捻こより手頼たよりにい……」

と、巫女の婆さんの声は、前歯が少し欠けているために句切りがやや不明であるが、それでも滞ることなくずんずんと句を追って行った。

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と巫女くちよせの婆ばあさんの聲こゑは前齒まへばが少すこし缺かけて居ゐる爲ために句切くきりが稍やゝ不明ふめいであるがそれでも澁滯じふたいすることなくずん/\と句くを逐おうて行いつた。

斜めに茶碗の水に立った紙縒りが、だんだんに水を吸って、うなずいたようにくたりとなった。

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斜なゝめに茶碗ちやわんの水みづに立たつた紙捻こよりがだん/\に水みづを吸すうて點頭うなづいた樣やうにくたりと成なつた。

「どうせよ一つにはなれぬ身を、別れたいとは思えども……」

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「どうせよ一つにや成なれぬ身みを、別わかれたいとは思おもへども……」

と一同の耳に響いた時、「出た、出た」

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と一同どうの耳みゝに響ひゞいた時とき「出でた/\」

と、静まっていた群衆の中から声が発せられた。

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と靜しづまつて居ゐた群集ぐんしふの中なかから聲こゑが發はつせられた。

巫女の婆さんは突いている肘を少し動かして、乗り気になった。

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巫女くちよせの婆ばあさんは突ついて居ゐる肘ひぢを少すこし動うごかして乘地のりぢに成なつた。

「おれが我が身と言ったとて、自由自在になるならば、今日の巫女も要るまいにい……」

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「俺おれが我わが身みというたとて、自由自儘じいうじまゝに成なるならば、今日けふの巫女あづさも要いるまいにい……」

婆さんは同じような句を繰り返した。

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婆ばあさんは同おなじやうな句くを反覆くりかへした。

「出たところで、もっとしゃべらせろよ」

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「出でた處ところでまつと饒舌しやべらせろえ」

と、一人がさらに紙縒りを持って水をかき回した。

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と一人ひとりが更さらに紙捻こよりを持もつて水みづを掻かき廻まはした。

「紙縒りがくたくたして言うことを聞かないや」

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「かんぜん捻よりくた/\して云いふこと聽きかねえや」

と言いながら、彼は手を止めた。

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いひながら彼かれは手てを止やめた。

「おれが心はこうなれど、怒るまいぞえ見捨てまい、互いに顔も合わせたら、言葉も掛けてくださろう……」

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「俺おれがよ心こゝろはこうなれど、怒おこるまえぞえ見棄みすてまえ、互たがひに顏かほも合あはせたら、言辭ことばも掛かけてくだされよう……」

巫女は時々調子を張り上げて言った。

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巫女くちよせは時々とき/″\調子てうしを張はり上あげていつた。

「そうだそうだ、そうでなくちゃおとっつあんが泣くぞ」

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「さうださうだ、そんでなくつちやおとつゝあ泣なくぞ」

群衆の後ろから怒鳴った。

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群集ぐんしふの後うしろから呶鳴どなつた。

群衆はしばらくまたどよめいたが、一句でも巫女の言うことを聞き外すまいとして静まった。

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群集ぐんしふは少時しばし復またどよめいたが一句くでも巫女くちよせのいふことを聞きき外はづすまいとして靜しづまつた。

巫女の婆さんの姿勢が箱を離れて以前に戻った時、押さえつけられたようになっていたすべてが、にわかにがやがやと騒ぎ出した。

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巫女くちよせの婆ばあさんの姿勢しせいが箱はこを離はなれて以前いぜんに復ふくした時とき抑壓よくあつされたやうに成なつて居ゐた凡すべてが俄にはかにがや/\と騷さわぎ出だした。

彼らは絶えず勘次とおつぎとに対して冷笑を浴びせかけているのであったが、しかしそれを知らない二人は、ただじっとしていた。

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彼等かれらは絶たえず勘次かんじとおつぎとに對たいして冷笑れいせうを浴あびせ拂かけてゐるのであつたが、然しかしそれを知しらぬ二人ふたりは只たゞ凝然ぢつとして居ゐた。

すべてが騒ぐ間にあって、そうしている二人の様子は、わざとらしく見えるまで際立っていた。

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凡すべてが騷さわぐ間あひだに在あつてさうして居ゐる二人ふたりの容子ようすは態わざとらしく見みえるまで際立きわだつて居ゐた。

巫女の唱えたことだけでは、いたずらな若い衆の意図も知らない二人には、自分たちが言われていることとは気づくはずがなかったのである。

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巫女くちよせの唱となへたことだけでは惡戯いたづらな若わかい衆しゆの意志こゝろも知しらない二人ふたりには自分等じぶんらがいはれて居ゐることゝは心こゝろづく筈はずがなかつたのである。

群衆の後ろのほうからのにわかな騒ぎが、内側に及んだ。

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群集ぐんしふの後うしろの方はうからの俄にはかな騷さわぎが内側うちがはに及およんだ。

晩飯を済まして、瞽女が手を引き連れて来たところなのである。

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晩餐ばんさんを濟すまして瞽女ごぜが手てを曳ひき連つれて來きた處ところなのである。

それを若い衆がからかい半分に、道を開いてやろうとしては、やるまいとして騒いだのであった。

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それを若わかい衆しゆが揶揄半分からかひはんぶんに道みちを開ひらいてやらうとしては遣やるまいとして騷さわいだのであつた。

瞽女は危なそうにして、ようやく座敷へ上がった時

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瞽女ごぜは危險相あぶなさうにして漸やうやく座敷ざしきへ上あがつた時とき

「目も見えないのに、そんなに押し回すなよ」

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「目めも見めえねえのにさうだに押廻おしまはすなえ」

瞽女の後についてゆき、座敷の端まで割り込んで来た近所の爺さんが言った。

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瞽女ごぜの後あとに跟ついて座敷ざしきの端はしまで割込わりこんで來きた近所きんじよの爺ぢいさんさんがいつた。

若い衆らはただ

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若わかい衆等しゆらは只たゞ

「ほういほうい」

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「ほうい/\」

と作り声で囃した。

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と假聲こわいろで囃はやした。

爺さんは勘次がそばにいたのを見つけて

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爺ぢいさんは勘次かんじが側そばに居ゐたのを見みつけて

「なあ、勘次さん、これで若い者のほうがいいからな」

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「なあ、勘次かんじさん、こんで若わけえものゝ處ところがえゝかんな」

と言いかけた。

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といひ掛かけた。

外では再び囃し立てて騒いだ。

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外そとでは再ふたゝび囃はやし立たてゝ騷さわいだ。

白い手拭いを、髷の後ろが少し現れた瞽女かぶりにしている瞽女が増えたので、座敷はにわかに生きたようになった。

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白しろい手拭てぬぐひを髷まげの後うしろが少すこし現あらはれた瞽女被ごぜかぶりにして居ゐる瞽女ごぜが殖ふえたので座敷ざしきは俄にはかに生いきたやうに成なつた。

瞽女は一つに固まって、なるべくランプの明るい光を避けようとしている。

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瞽女ごぜは一ひとつに固かたまつて成なるべくランプの明あかるい光ひかりを避さけようとして居ゐる。

その態度を心憎く思う若い衆が

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其その態度たいどを心憎こゝろにくく思おもふ若わかい衆しゆが

「おれはその手拭いをかぶってこっちを向いてる姐さんのことを寄せてみたいもんだな」

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「俺おら其その手拭てぬげ被かぶつてこつち向むいてる姐樣あねさまこと寄よせて見みてえもんだな」

と、立ち塞がった陰から瞽女の一人へからかって言った者がある。

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立たち塞ふさがつた陰かげから瞽女ごぜの一人ひとりへ揶揄からかつていつたものがある。

「何とか言うか、寄せてみな」

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「何なんちいか寄よせて見みせえ」

さっきの爺さんは言った。

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先刻さつきの爺ぢいさんはいつた。

彼の顔にはあばたを深く印している。

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彼かれの顏かほには痘痕あばたを深ふかく印いんして居ゐる。

「どうした、寄せてみるのか。そんなら、おれが紙縒りをこしらえてやろうかい」

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「どうした寄よせて見みんのか、そんだら俺おれかんぜん捻より拵こせえてやつかれえ」

爺さんがさらに言った時、返事がなかった。

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爺ぢいさんが更さらにいつた時とき返辭へんじがなかつた。

「ええ、情けない奴らだな」

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「えゝ、情なさけねえ奴等やつらだな」

爺さんはひねりかけた紙を捨てた。

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爺ぢいさんは捻より掛かけた紙かみを棄すてた。

店先の駄菓子を入れた店台を、がたがたと動かす者があった。

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店先みせさきの駄菓子だぐわしを入いれた店臺みせだいをがた/\と動うごかす者ものがあつた。

「菓子なんぞまた盗っちまわないぞ。うん、そっちのほうの酒樽の所にも立ってて、飲み口でも引っこ抜かないでもらおうぞ、みんな」

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「菓子くわしなんぞまた盜とつちや畢をへねえぞ、うむ、そつちの方はうの酒樽さかだるん處とこにも立たつてゝ飮のみ口ぐちでも引ひつこ拔ぬかねえで貰もらあべえぞ、みんな」

と、あばたの爺さんは独り乗り気になって言うのであった。

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と痘痕あばたの爺ぢいさんは獨ひとり乘地のりぢに成なつていふのであつた。

「そうじゃないんだよ。店台が自分で歩き出しはじめたから、おれが押さえたところなんだよ」

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「さうぢやねえんだよ、店臺みせでえ自分じぶんで歩あるき出だし始はじまつたから俺おれ抑つかめえた處とこなんだよ」

「いいから、ガラスでもぶち欠かないようにしろよ。こっちのおかみさんに怒られるから」

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「えゝからガラスでもおつ缺かかねえやうにしろえ、此方こつちのおつかさまに怒おこられつから」

「そんでも店台は四つ足へ何かはいてら。土鍋に片口に皿だ。どれもどれもよく欠けてらあ」

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「そんでも店臺みせでえは四つ足あしへ何なにか穿はいてら、土鍋どなべに片口かたくちに皿さらだ、どれも/\能よく打ぶつ缺かけてらあ」

「どこらか歩いて来たと見えて、足が埃だらけだと」

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「何處どこらか歩あるいて來きたと見みえて足あし埃ほこりだらけだと」

二、三人の声で冗談を返した。

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二三人にんの聲こゑで戯談ぜうだんを返かへした。

家の内と外のむっとした空気が、ますますざわついた。

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家いへの内外うちそとのむつとした空氣くうきが益ます/\ざわついた。

店台へは、暑いころには蟻の襲うのをいとって、四つの足へ皿や丼の類をはかせて、始終水をたたえておくことを怠らないのであった。

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店臺みせだいへは暑あつい頃ころには蟻ありの襲おそふのを厭いとうて四つの足あしへ皿さらや丼どんぶりの類るゐを穿はかせて始終しじう水みづを湛たゝへて置おくことを怠おこたらないのであつた。

「どれ、誰も寄せないなら、おれでも寄せてみようかい」

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「どうれ、誰だれも寄よせねえけりや俺おれでも寄よせてんべかえ」

後ろのほうから一人進んで来た者があった。

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後うしろの方はうから一人ひとり進すゝんで來きたものがあつた。

「ただじゃだめだぞ」

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「只たゞぢや駄目だめだぞ」

あばたの爺さんは、すぐに要らないことを言った。

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痘痕あばたの爺ぢいさんは直すぐに要いらぬことをいつた。

「そんじゃ困ったなあ。お前、どうした、婆さんのことを死に口でも寄せてみないか」

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「そんぢや困こまつたなあ、おめえどうした婆ばあさまこと死口しにぐちでも寄よせて見みねえか」

「おれはいやだよ。待ってるから早く来てくれなんて言われた日には、縁起でもないから」

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「俺おら厭やだよ、待まつてつから早はやく來きてくろなんて云ゆはれた日ひにや縁起えんぎでもねえから」

爺さんは爪で頭をかいた。

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爺ぢいさんは爪つめで頭あたまを掻かいた。

「ひどくお前、近ごろぼさぼさしちまってるんだな。ああいう婆でも焦がれてるせいじゃあるまい。髪まで抜けたようだな」

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「酷ひどくおめえ近頃ちかごろぽさ/\しつちやつてんだな、あゝだ婆ばゞあでも焦こがれてる所爲せゐぢやあんめえ、頭髮あたままで拔ぬけた樣やうだな」

ひょうきんな相手は、爺さんの頭へ手を掛けてゆさゆさと動かした。

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剽輕へうきんな相手あひては爺ぢいさんの頭あたまへ手てを掛かけてゆさ/\と動うごかした。

乗り気になっていた爺さんは、少し白い膜で覆われたような目を見開いて、やや辟易した。

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乘地のりぢに成なつて居ゐた爺ぢいさんは少すこし白しろい膜まくを以もつて掩おほはれた樣やうな眼めを睜みはつて稍やゝ辟易へきえきした。

「大豆打ちにひっくり返ったみたいに、顔じゅう穴だらけにしてなあ」

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「大豆打でえづぶちにかつ轉ころがつた見みてえに面中つらぢう穴めどだらけにしてなあ」

ひょうきんな相手は、ますます悪口をたくましくした。

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剽輕へうきんな相手あひては益ます/\惡口あくこうを逞たくましくした。

群衆は、ひと声の終わるごとに笑いどよめいた。

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群衆ぐんしふは一聲ひとこゑの畢をはる毎ごとに笑わらひどよめいた。

「べらぼう、そんな柔らかい顔で風の吹く所を歩けるもんじゃない」

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「篦棒べらぼう、さうだ軟やつけえ面つらで風かぜ吹ふく處とこ歩あるけるもんぢやねえ」

爺さんはむきになって言った。

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爺ぢいさんはむきに成なつていつた。

「どうした、赤い手拭いをかぶらせられただろう」

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「どうした赤あけえ手拭てねげ被かぶらせらつたんべえ」

「おれはそんな手拭いなんざあ、かぶったことはないよ」

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「俺おらさうだ手拭てねげなんざあ被かぶつたこたねえよ」

「そんでも疱瘡神は赤い手拭いが好きだというそうだな」

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「そんでも疱瘡神はうそうがみは赤あけえ手拭てねげ好すきだつちげな」

「そんだって、おれはかぶらないよ」

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「そんだつて俺おら被かぶんねえよ」

あばたの爺さんは、すっかりしおれてしまった。

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痘痕あばたの爺ぢいさんはすつかり悄しをれて畢しまつた。

群衆はみな腹を抱えた。

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群集ぐんしふは皆みな腹はらを抱かゝへた。

「どれ、おれは帰って牛蒡でもこしらえよう。明日、天秤棒をかついで出る支障にならあ」

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「どうれ、俺おら歸けえつて牛蒡ごぼうでも拵こせえべえ、明日あした天秤棒てんびんぼう檐かついで出でる支障さはりにならあ」

ひょうきんな相手は、思い出したように言った。

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剽輕へうきんな相手あひては思おもひ出だしたやうにいつた。

「どうせ、お前らのように紺屋の弟子みたいな手足の者は、牛蒡でもかついで歩くのにはちょうどよかろう」

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「どうせ、おめえ等らやうに紺屋こんやの弟子でし見みてえな手足てあしの者もな牛蒡ごばうでも檐かついで歩あるくのにや丁度ちやうどよかんべ」

復讐でもし得たような様子で、爺さんは言った。

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復讎ふくしうでも仕得しえたやうな容子ようすで爺ぢいさんはいつた。

「元手の二円二分くらいで、これで餓鬼らまでには四、五人も命をつないで行くのには、赤い手拭いでもかぶってるような放心した料簡じゃいられないからな」

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「資本もとでの二兩りやう二分ぶ位ぐれえでこんで餓鬼奴等がきめらまでにや四五人にんも命いのち繋つないで行いくのにや赤あけえ手拭てねげでも被かぶつてる樣やうな放心うつかりした料簡れうけんぢや居ゐらんねえかんな」

彼はまた爺さんの頭へ手を掛けて言って、ついと行ってしまった。

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彼かれは復また爺ぢいさんの頭あたまへ手てを掛かけていつてついと行いつて畢しまつた。

後では、波が岩に打ちつけるようにしばらく騒いだ。

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後あとでは波なみが巖いはに打うちつける樣やうに暫しばらく騷さわいだ。

若い女はみな十分笑って、またあばたの爺さんをつくづくと見ては思い出して、袂で口を覆った。

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若わかい女をんなは皆みな十分ぶん笑わらつて、又また痘痕あばたの爺ぢいさんを熟々つく/″\と見みては思おもひ出だして袂たもとで口くちを掩おほうた。

とうとうきまり悪そうにして、爺さんも去ってしまった。

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到頭たうとう極きまり惡相わるさうにして爺ぢいさんも去さつて畢しまつた。

「この箱の中には何が入ってるんだ。人形だって本当かね」

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「此この箱はこん中なかにや何なんだね入へえつてんなあ、人形坊にんぎやうばうだつて本當ほんたうかね」

前のほうにいた若い衆が、巫女の荷物へ手を掛けて言った。

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前まへの方はうに居ゐた若わかい衆しゆが巫女くちよせの荷物にもつへ手てを掛かけていつた。

「なあに、今じゃ幣束だとよ」

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「なあに今いまぢや幣束へいそくだとよ」

と、ほかの者が言った。

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と他たの者ものがいつた。

「これは見せられないんでさ。これを見られると、どれほど寄せてみても当たらなくなっちまってね。自分がいない間に見られても、きっと知れるんでさ」

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「此こら見みせらんねえんでさ、此これ見みられつと何程なんぼ寄よせて見みても當あたんなくなつちやつてね、自分じぶんで居ゐねえ間まに見みらつても屹度きつと知しれんでさ」

婆さんは、風呂敷をめくりかけた若い衆の手をそっと払って言った。

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婆ばあさんは風呂敷ふろしきを捲まくり掛かけた若わかい衆しゆの手てをそつと拂はらつていつた。

そうすると

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さうすると

「見せられないよ、それが種だから」

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「見みせらんねえよ、其それが種たねだから」

と怒鳴った者があった。

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呶鳴どなつたものがあつた。

そういう騒ぎをしている間に、幾度かもじもじと体を動かしていた勘次は、思い切って婆さんの前へ進んだ。

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さういふ騷さわぎをして居ゐる間まに幾度いくどかもぢ/\と身體からだを動うごかして居ゐた勘次かんじは思おもひ切きつて婆ばあさんの前まへへ進すゝんだ。

「わしに一つ寄せてみておくんなせえ。死に口でがす」

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「わしげ一つ寄よせて見みておくんなせえ、死口しにぐちでがさ」

「そんじゃ、笹っ葉を折って来ておくんなせえ」

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「そんぢや笹さゝつ葉ぱ折をつちよつて來きておくんなせえ」

巫女の婆さんは言った。

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巫女くちよせの婆ばあさんはいつた。

「こっちで折ってやろう」

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「此方こつちで折をつちよつて遣やんべ」

と勘次が立ちかけた時、後ろのほうで怒鳴った。

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と勘次かんじが立たち掛かけた時とき後うしろの方はうで呶鳴どなつた。

しばらくして、小さな竹の葉が手から手へ伝えられて、茶碗の水の中に置かれた。

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暫しばらくして小ちひさな竹たけの葉はが手てから手てへ傳つたへられて茶碗ちやわんの水みづの中なかに置おかれた。

一同は再び静まった。

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一同どうは再ふたゝび靜しづまつた。

勘次は竹の葉で茶碗の水を三度かき回して、そっと手を放した。

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勘次かんじは竹たけの葉はを以もつて茶碗ちやわんの水みづを三度ど掻かき廻まはしてそつと手てを放はなした。

ランプの光に、竹の葉は水から出た部分は青く、水に沈んだ部分は水銀のように白く光った。

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ランプの光ひかりに竹たけの葉はは水みづから出でた部分ぶぶんは青あをく、水みづに沒ぼつした部分ぶぶんは水銀すゐぎんのやうに白しろく光ひかつた。

巫女の婆さんは、さっきと同じく箱へ肘を突いて

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巫女くちよせの婆ばあさんは先刻さつきと同おなじく箱はこへ肱ひぢを突ついて

「よく呼び出してくれたぞよう……」

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「能よく喚よび出だしてくれたぞよう……」

と、決まったような句を繰り返しながら、まだ十分の意味をなさないのに、勘次はきちんと座った膝へ両手を棒のように突いて、ぐったりと頭をうなだれた。

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と極きまつたやうな句くを反覆くりかへしつゝまだ十分ぶんの意味いみを成なさないのに勘次かんじは整然ちやんと坐すわつた膝ひざへ兩手りやうてを棒ぼうのやうに突ついてぐつたりと頭かしらを俛たれた。

おつぎもしおらしくうつむいた。

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おつぎもしをらしく俯向うつむいた。

島田に結ったおつぎの髪が、明るいランプに光った。

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島田しまだに結ゆうたおつぎの頭髮かみが明あかるいランプに光ひかつた。

おつぎは特に勘次に許されて、未明に鬼怒川の渡しを越えて、仲間同士とともに髪結いの所へ行ったのであった。

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おつぎは特とくに勘次かんじに許ゆるされて未明みめいに鬼怒川きぬがはの渡わたしを越こえて朋輩同志ほうばいどうしと共ともに髮結かみゆひの許もとへ行いつたのであつた。

髷には油がよく乗っていて、上手に掛けた金房が少しざらりと揺れた。

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髷まげには油あぶらが能よく乘のつて居ゐて上手じやうず掛かけた金房きんぶさが少すこしざらりとして動搖ゆらめいた。

巫女が次第に句を追って行くうちに

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巫女くちよせが漸次ぜんじに句くを逐おうて行ゆくうちに

「姿隠れて出てみれば、何も知るまいと思うだろうが、おれはその身の所へは、日々毎日ついてるぞ。雨は降らねど箕になり、笠になりてよ……」

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「姿すがた隱かくれて出でて見みれば、何なに知しるまいと思おもだろが、俺おれは其その身みの處ところへは、日日ひにち毎日まいにちついてるぞ、雨あめは降ふらねど箕みのに成なり、笠かさに成なりてよ……」

と、巫女の声は前歯の少し欠けたにもかかわらず、一つには一同がひっそりとして咳払いもしないゆえであろうが、きわめてはっきりと聞き取られた。

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と巫女くちよせの聲こゑは前齒まへばの少すこし缺かけたにも拘かゝはらず、一つには一同どうがひつそりとして咳拂せきばらひをもせぬ故せいであらうが極きはめて明瞭めいれうに聞ききとられた。

「一度ならず、二度三度、不思議を起こさせて知らせたに……」

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「一度どならず、二度ど三度ど、不思議ふしぎ打ぶたせて知しらせたに……」

婆さんの声が次いで響いた。

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婆ばあさんの聲こゑが次ついで響ひゞいた。

勘次もおつぎも、ただじっとしているのみである。

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勘次かんじもおつぎも只たゞ凝然ぢつとして居ゐるのみである。

「おれが達者でいるならば……」

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「俺おれが達者たつしやで居ゐるならば……」

という句が読まれたと思うと、やがて

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といふ句くが讀よまれたと思おもふと軈やがて

「くれるよほどの心なら、ほんに苦労でも大儀でも、つぼみの花を散らさずに、どうか咲かせてくだされよう……」

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「呉くれるよ程ほどの心こゝろなら、ほんに苦勞くろでも大儀たいぎでも、蕾つぼみの花はなを散ちらさずに、どうか咲さかせてくだされよう……」

熟練した声の調子が、そうでなくても興味を持っている一同の耳に、しみじみと響いた。

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熟練じゆくれんした聲こゑの調子てうしが、さうでなくても興味きようみを持もつて居ゐる一同どうの耳みゝにしみじみと響ひゞいた。

「烏の鳴かない日はあれど、草葉の陰で……」

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「鴉からすの鳴なかない日ひはあれど、草葉くさばの陰かげで……」

婆さんが自分の声に乗って来た時、勘次はぼろぼろと涙をこぼした。

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婆ばあさんが自分じぶんの聲こゑに乘のつて來きた時とき勘次かんじはぼろ/\と涙なみだを零こぼした。

おつぎもそっと涙を拭いた。

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おつぎもそつと涙なみだを拭ぬぐつた。

「ほんの仮の座のことなれば、これにておれは帰るぞよう……」

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「ほんの假座かりざのことなれば、此これにて俺おれは歸かへるぞよう……」

それからまた

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それから又また

「烏の鳴きがそうでなくもう……」

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「鴉からすの鳴なきがそでなくもう……」

と繰り返しながら、巫女の婆さんの声は軽く引いて、そっと抜いたように止んだ。

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と反覆くりかへしつゝ巫女くちよせの婆ばあさんの聲こゑは輕かるく引ひいてそつと拔ぬいたやうに止やんだ。

「おれは済まない」

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「俺おれ濟すまねえ」

勘次はぽつんと言って、また涙を横に拭いた。

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勘次かんじはぽつさりといつて又また涙なみだを横よこに拭ぬぐつた。

「本当に出たんだよ。怖いようだな」

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「本當ほんたうに出でたんだよ、可怖おつかねえやうだな」

そこにいた若い女房は、しみじみと言った。

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其處そこに居ゐた若わかい女房にようばうはしみ/″\といつた。

それから続いて、ほかの二、三人が身の上やら生き口やらを寄せた。

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それから續つゞいて他たの二三人にんが身みの上うへやら生口いきぐちやらを寄よせた。

そうして座敷の隅にいた瞽女が代わって、三味線の袋をすっとしごき下ろした時、巫女は荷物の箱を背負って、自分の泊まった宿へ帰って行った。

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さうして座敷ざしきの隅すみに居ゐた瞽女ごぜが代かはつて三味線さみせんの袋ふくろをすつと扱こきおろした時とき巫女くちよせは荷物にもつの箱はこを脊負しよつて自分じぶんの泊とまつた宿やどへ歸かへつて行いつた。

三味線の撥が一度弦に触れると、しんみりとした座敷が急に勢いづいて、ランプの光がにわかに明るいようになった。

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三味線さみせんの撥ばちが一度ど絃いとに觸ふれるとしんみりとした座敷ざしきが急きふに勢いきほひづいてランプの光ひかりが俄にはかに明あかるいやうに成なつた。

勘次はそれを聞くに堪えられないで、彼はその夜にかぎって、自分で与吉の手を引いて自分の家へと、闇の中へ身を沈めた。

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勘次かんじはそれを聞きくに堪たへないで、彼かれは其その夜よに限かぎつて自分じぶんで與吉よきちの手てを曳ひいて自分じぶんの家うちへと闇やみの中なかへ身みを沒ぼつした。

若い衆は三人の後ろ姿を見て

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若わかい衆しゆうは三人にんの後姿うしろすがたを見みて

「こおろぎじゃないが、口を鳴らさないじゃいられないな」

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「蛬きりぎりすぢやねえが、口くち鳴ならさねえぢや居ゐらんねえな」

と言った。

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といつた。

「そんだが、今夜はしみじみ泣いたんじゃないかい。何でもお品さんのことはどれほど惜しいか知れないのだからな」

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「そんだが、今夜こんやはしみ/″\泣ないたんぢやねえけ、あんでもお品しなさんこた何程なんぼ惜をしいか知しんねえのがだかんな」

「今だってその話をするといくらでもしてるんだからな」

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「今いまだつて其その噺はなしすつと幾いくらでもしてんだかんな」

「そんだがよ、さっきみたいに泣いてるのに、悪口なんぞ言うのは罪だよなあ」

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「そんだがよ、先刻さつき見みてえに泣ないてんのに惡口わるくちなんぞいふな罪つみだよなあ」

と、若い女房らはそれでもしんみりと言った。

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と若わかい女房等にようばうらはそれでもしんみりといつた。

その夜からしばらくの間、勘次は以前とは違って、おつぎを独りで放して出すことがあるようになった。

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其その夜よから暫しばらくの間あひだ勘次かんじは以前いぜんとは異かはつておつぎを獨ひとり放はなして出だすことが有ある樣やうに成なつた。

そうかと思っているうちに、村じゅうがまた、勘次のおつぎに対する態度がまったく以前に戻ったことを認めずにはいられなくなった。

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さうかと思おもつて居ゐる内うちに村落中むらぢうが復また勘次かんじのおつぎに對たいする態度たいどの全まつたく以前いぜんに還かへつたことを認みとめずには居ゐられなくなつた。

村の目は、勢い嫉妬と疑いと、それから新しく起こった事件に対するような興味とをもって、勘次の上に注がれねばならなかった。

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村落むらの目めは勢いきほひ嫉妬しつとと猜忌さいぎとそれから新あらたに起おこつた事件じけんに對たいするやうな興味きようみとを以もつて勘次かんじの上うへに注そゝがれねばならなかつた。

一六

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十六

勘次はほとんど事あるごとに冷笑の目をもって見られているのであったが、しかしそれがいやな感情を彼に与えるよりも、彼は彼の懐にいくらかの余裕が生じて来たことが、すべての不満を償ってなお余りあることであった。

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勘次かんじは殆ほとんど事毎ことごとに冷笑れいせうの眼まなこを以もつて見みられて居ゐるのであつたが然しかしそれが厭いやな感情かんじやうを彼かれに與あたへるよりも、彼かれは彼かれの懷ふところに幾分いくぶんの餘裕よゆうを生しやうじて來きたことが凡すべての不滿ふまんを償つぐなうて猶なほ餘あまりあることであつた。

お品がまだ生きているころ、隣の主人のおかみさんに向かって

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お品しながまだ生いきて居ゐる頃ころ隣となりの主人しゆじんの内儀かみさんに向むかつて

「おかみさんらは何にも心配なんざなくて、晴れ晴れとしているんでございましょうね」

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「お内儀かみさん等ら何なんにも心配しんぺえなんざ無なくつて晴々せい/\として居えんでござんせうね」

とお品はつくづくと言ったことがある。

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お品しなはつく/″\といつたことがある。

「なぜそんなことを言うんだい」

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「何故なぜそんなこといふんだい」

おかみさんは怪しんで聞いたら

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内儀かみさんは怪あやしんで聞きいたら

「そんでも、おかみさんらは食べる心配なんざちっともないんだから。わたしはそうだと思ってさ」

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「そんでもお内儀かみさん等ら喰たべる心配しんぺえなんざちつともねえんだから、わたしやさうだと思おもつてせえ」

お品は言った。

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お品しなはいつた。

おかみさんは、なるほどそういう心持ちでいるのかと、それからいろいろと身分相応な苦労の止まないことを話して聞かせると

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内儀かみさんは成程なるほどさういふ心持こゝろもちで居ゐるのかと、それから種々いろ/\と身分みぶん相應さうおうな苦勞くらうの止やまぬことを噺はなして聞きかせると

「そうでございましょうかね、おかみさん。わたしらはまた、明けても暮れてもない足りないの心配ばかりしてるんだから、そういうことのない人は心配なんてないんだとばかり思ってたんでございますよ。ねえ本当に」

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「さうでござんせうかねお内儀かみさん、わたし等らまた明あけても暮くれても無ねえ足たんねえの心配しんぺえばかしゝてんだから、さういことねえ人ひとは心配しんぺえなんちやねえんだとばかし思おもつてたんでござんすよ、ねえ本當ほんたうに」

お品は感に堪えたように言ったのであった。

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お品しなは感かんに堪たへたやうにいつたのであつた。

お品がそれほど苦労した米穀の問題が、その死後四、五年間の惨憺たる境遇から、ようやく解決が告げられようとしたのである。

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お品しながそれ程ほど苦勞くらうした米穀べいこくの問題もんだいが其その死後しご四五年間ねんかんの惨憺さんたんたる境遇きやうぐうから漸やうやく解決かいけつが告つげられようとしたのである。

彼は毎年冬から、まだ草木の芽の出ない春までのうちに、彼らにしては驚くべき巨額の四、五十円を稼ぎ得るのであった。

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彼かれは毎年まいねん冬ふゆからまだ草木さうもくの萌もえ出ださぬ春はるまでの内うちに彼等かれらにしては驚おどろくべき巨額きよがくの四五十圓ゑんを贏かち得うるのであつた。

それは古い傷の穴に投じられるにしても、彼は土間の鶏のねぐらの下に、三人が安心しているだけの食料を求めておくことができるようになった。

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其それは古ふるい創痍さういの穴あなに投とうぜられるにしても彼かれは土間どまの鷄にはとりの塒とやの下したに三人にんが安心あんしんして居ゐるだけの食料しよくれうを求もとめて置おくことが出來できる樣やうに成なつた。

おつぎは二十の声を聞いて、与吉は学校へ出るようになった。

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おつぎは二十はたちの聲こゑを聞きいて與吉よきちは學校がくかうへ出でる樣やうに成なつた。

彼は絶えず何かを探すような、しかも隠した心の裡の何かを知られまいというような、見苦しい顔つきを村の中にさらす必要が、ようやく減って来た。

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彼かれは絶たえず或ある物ものを探さがすやうな然しかも隱蔽いんぺいした心裏しんりの或ある物ものを知しられまいといふやうな、不見目みじめな容貌ようばうを村落むらの内うちに曝さらす必要ひつえうが漸やうやく減げんじて來きた。

彼はだんだん、彼らの仲間に向かって、以前のようにこせこせといたずらに遠慮した態度がなくなった。

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彼かれは段々だん/\彼等かれらの伴侶なかまに向むかつて以前いぜんの如ごとくこせ/\と徒いたづらに遠慮ゑんりよした態度たいどがなくなつた。

彼は村のすべてに向かって払った恐れの念を、ことごとく東隣の家族にのみ捧げてしまった。

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彼かれは村落むらの凡すべてに向むかつて拂はらつた恐怖きようふの念ねんを悉ことごとく東隣ひがしどなりの家族かぞくにのみ捧さゝげて畢しまつた。

その間、彼と卯平とはただ一度会ったのみである。

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其その間あひだ彼かれと卯平うへいとは只たゞ一回くわい逢あつたのみである。

卯平は、お品が三年目の盆にふいと来て、ふいと立ったのである。

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卯平うへいはお品しなが三年目ねんめの盆ぼんにふいと來きてふいと立たつたのである。

卯平は八十に近くなっていながら、恐ろしく頑丈な体で、髪は白く、かつ少なくなったが、肌には潤いがあった。

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卯平うへいは八十に近ちかく成なつて居ゐながら恐おそろしい岩疊がんでふな身體からだが髮かみは白しろく且かつ少すくなく成なつたが肌膚はだには潤澤じゆんたくがあつた。

卯平は夜は火の番をしても、暑い日には庭の草むしりをしたり、ほかの蔵々への使いに行ったり、いくらかの忙しさを感じても、使いに行けば必ず茶菓子を包まれたり、手拭いをもらったり、それから主人からは給料以外の賞与があったりするので、少し倹約すれば懐には小銭を蓄えておくこともできるのであったが、彼はよくコップ酒を傾けたので、彼の懐はけっして余裕を残してはいなかった。

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卯平うへいは夜よるは火ひの番ばんをしても暑あつい日ひには庭にはの草挘くさむしりをしたり、他たの藏々くら/″\への使つかひに行いつたり、幾分いくぶんの忙いそがしさを感かんじても、使つかひに行ゆけば屹度きつと茶菓子ちやぐわしを包つゝまれたり、手拭てぬぐひを貰もらつたり、それから主人しゆじんからは給料きふれう以外いぐわいの賞與しやうよがあつたりするので少すこし堅固けんごにすれば、懷ふところには小錢こぜにを蓄たくはへて置おくことも出來できるのであつたが彼かれは能よくコツプ酒ざけを傾かたむけたので彼かれの懷ふところは決けつして餘裕よゆうを存そんしては居ゐなかつた。

野田は郷里からは比較的近いので、醤油蔵がだんだん発達して行くにつれて、雇われて行く若者が増えて来た。

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野田のだは郷里きやうりからは比較的ひかくてき近ちかいので醤油藏しやうゆぐらが段々だん/\發達はつたつして行ゆくに連つれて傭やとはれて行ゆく壯丁わかものが殖ふえて來きた。

郷里では雇い人の給料が急に上がって来たほど、どの村からも若者が行った。

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郷里きやうりでは傭人やとひにんの給料きふれうが暴騰ばうとうして來きた程ほどどの村落むらからも壯丁わかものが行いつた。

それがしきりに交代されるので、卯平は一度しか郷里の土を踏まなくても、いろいろの変化を耳にした。

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其それが頻しきりに交代かうたいされるので、卯平うへいは一度どしか郷里きやうりの土つちを踏ふまなくても種々しゆ/″\の變化へんくわを耳みゝにした。

彼はいちばん、おつぎのことが念頭に浮かぶ。

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彼かれは一番ばんおつぎのことが念頭ねんとうに浮うかぶ。

十七の秋に見たおつぎの姿が、お品によくも似ていたことを思い出しては、他人の噂も聞いてみて、時々は会ってもみたい心持ちがした。

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十七の秋あきに見みたおつぎの姿すがたがお品しなに能よくも似にて居ゐたことを思おもひ出だしては、他人ひとの噂うはさも聞きいて見みて時々とき/″\は逢あつても見みたい心持こゝろもちがした。

しかしお品が死んだ時、野田への立ち際がよくなかったことを彼自身の心にも悔いるところがあったので、しいていやな勘次へ挨拶をして、一時なりとも肩身を狭くせねばならないのをいとって、つい億劫になるのであった。

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然しかしお品しなが死しんだ時とき野田のだへの立たち際ぎはがよくなかつたことを彼自身かれじしんの心こゝろにも悔くゆる處ところがあつたので強しひて厭いやな勘次かんじへ挨拶あいさつをして一時いつときなりとも肩身かたみを狹せまくせねばならないのを厭いとうて遂つひ憶劫おくくふに成なるのであつた。

年を重ねるにしたがって短く感じる月日が、そういう間に巡って、くすんで見えることの多い江戸川の水を行き来する通運丸の、牛が吼えるような汽笛も身にしみて、冬の寒さがひどくなると、以前からの癖で腰に痛みを感じることがあった。

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年齡としを積つむに從したがつて短みじかく感かんずる月日つきひがさういふ間あひだに循環じゆんくわんして、くすんで見みえることの多おほい江戸川えどがはの水みづを往復わうふくする通運丸つううんまるの牛うしが吼ほえるやうな汽笛きてきも身みに沁しみて、冬ふゆの寒さむさが酷ひどくなると以前いぜんからの癖くせで腰こしに疼痛いたみを感かんずることがあつた。

蔵の雇い人のために抱えてある医者に見てもらっても、老いの病だから薬を飲んでみたところで、そう効き目が見えるのではないが、それでも飲みたけりゃ飲むがいいと言うのみで、別段身にしみて言ってくれるのでもない。

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藏くらの傭人やとひにんの爲ために抱かゝへてある醫者いしやに見みて貰もらつても、老病らうびやうだから藥くすりを飮のんで見みた處ところで、さう效驗きゝめが見みえるのではないがそれでも、飮のみたけりや飮のむが善いいといふのみで別段べつだん身みに沁しみていつてくれるのでもない。

卯平はいくら飲んでも自分の懐が痛まないのだからと思ってみても、医者の言うとおりどうもてきぱきとしないので、昼間はなるべく布団にくるまるようにしていた。

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卯平うへいは幾いくら飮のんでも自分じぶんの懷ふところが痛いたまないのだからと思おもつて見みても醫者いしやのいふ通とほりどうもはき/\としないので晝間ひるまは成なるべく蒲團ふとんにくるまる樣やうにして居ゐた。

卯平は年末の出替わりの季節になれば、その持病を苦にして、奉公もどうしたものかと悲観することもあるが、我慢をすれば凌げるので、つい居据わりになっているうちに、いつでも春の季節に戻って、郊外に果てしなく植えられた桃の花がいっぱいに赤くなると、その木陰の麦が青く地を覆って、江戸川の水を遡る高瀬舟の白帆も暖かく見えて、大きな蔵々の建物が空になるほど一切の雇い人が桃畑に一日の愉快を尽くすようになれば、病気もけろりと忘れるのが常であった。

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卯平うへいは年末ねんまつの出代でがはりの季節きせつになれば其その持病ぢびやうを苦くにして、奉公ほうこうもどうしたものかと悲觀ひくわんすることもあるが、我慢がまんをすれば凌しのげるので遂つひ居据ゐすわりに成なつて居ゐるうちに何時いつでも春はるの季節きせつに還かへつて、郊外かうぐわいに際涯さいがいもなく植うゑられた桃もゝの花はなが一杯ぱいに赤あかくなると其その木陰こかげの麥むぎが青あをく地ちを掩おほうて、江戸川えどがはの水みづを溯さかのぼる高瀬船たかせぶねの白帆しらほも暖あたたかく見みえて、大おほきな藏々くら/″\の建物たてものが空むなしく成なる程ほど一切さいの傭人やとひにんが桃畑もゝばたけに一日にちの愉快ゆくわいを竭つくすやうになれば病氣びやうきもけそりと忘わすれるのが例れいであつた。

きれい好きな彼は、命じられるまでもなく、庭にぽっちりでも草が見えればむしらずにはいられない。

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清潔好きれいずきな彼かれは命令めいれいされるまでもなく、庭にはにぽつちりでも草くさが見みえれば挘むしらずには居ゐられない。

狭苦しいにしても、きちんとした雇い人部屋の周りの土に箒目を入れて、水でも打ってみたり、そこらで作る朝顔の苗をもらって、どんなかたちにでも鉢へ植えてみたりしていると、奉公がつらくも思わないのであった。

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狹苦せまくるしいにしてもきちんとした傭人部屋やとひにんべやの周圍しうゐの土つちに箒目はうきめを入いれて水みづでも打うつて見みたり、其處そこらで作つくる朝顏あさがほの苗なへを貰もらつてどんな姿なりにも鉢はちへ植うゑて見みたりして居ゐると奉公ほうこうが辛つらくも思おもはないのであつた。

それも二、三年の間で、ふつうの人間ならばもうとうてい役にも立たない年齢に達しているので、たとえ彼の境遇が安楽を許さないためにこうして気持ちの上で健康が保たれているのだとしても、彼の老いた体は日ごとに、空腹から来る疲れを癒すために食料を取る、わずかな満足が、そのたびごとに先の見えている彼を引っ張って、その行くべき所に導いているのである。

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それも二三年ねんの間あひだで普通ふつうの人間にんげんならばもう到底たうてい役やくにも立たたぬ年齡ねんれいに達たつして居ゐるので、假令たとひ彼かれの境遇きやうぐうが安佚あんいつを許ゆるさない爲ために恁かうして精神的せいしんてきに健康けんかうが保たもたれて居ゐるのだとしても、彼かれの老躯らうくは日毎ひごとに空腹くうふくから來くる疲勞ひらうを醫いする爲ために食料しよくれうを攝取せつしゆする僅わづかな滿足まんぞくが其その度毎たびごとに目先めさきの知しれてる彼かれを拉らつして其その行ゆく可べき處ところに導みちびいて居ゐるのである。

また冬が来た時、彼は今までの腰の痛みと違った一種の病を生じたように感じた。

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復また冬ふゆが來きた時とき、彼かれは今いままでの腰こしの痛いたみと違ちがつた一種しゆの疾患しつくわんを生しやうじたやうに感かんじた。

医者は依然としてリューマチなのだと言って、寒い夜に火の番をして歩くのは絶対に悪いと言うのであった。

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醫者いしやは依然いぜん僂痲質斯レウマチスなのだといつて、寒さむい夜よに火ひの番ばんをして歩あるくのは絶對ぜつたいに惡わるいといふのであつた。

それでも彼は、我慢のできるだけ務めた。

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それでも彼かれは我慢がまんの出來できるだけ務つとめた。

出替わりの季節が来た時、彼はまたしきりに迷ったが、どうもそこを立ってしまうのが惜しい心持ちもするし、ためらってまた居据わりになった。

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出代でがはりの季節きせつが來きた時とき彼かれはまた頻しきりに惑まどうたが、どうも其處そこを立たつて畢しまふのが惜をしい心持こゝろもちもするし、逡巡しりごみして復また居据ゐすわりになつた。

郷里から来た者に聞いて、彼は勘次が次第に順境に向かいつつあることを知った。

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郷里きやうりから來きたものに聞きいて彼かれは勘次かんじが次第しだいに順境じゆんきやうに赴おもむきつゝあることを知しつた。

彼は心がまた揺れて、脆くなった心がひどく哀れっぽく情けなくなった。

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彼かれは心こゝろが復また動搖どうえうして脆もろく成なつた心こゝろが酷ひどく哀あはれつぽく情なさけなくなつた。

しかし長い間機嫌を損ね合った勘次の許へ帰るのには、彼は空手ではならないということを深く思った。

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然しかし長ながい間あひだ機嫌きげんを損そこね合あうた勘次かんじの許もとへ歸かへるのには彼かれは空手からてではならぬといふことを深ふかく念ねんとした。

彼はそれからというもの、なるべくコップ酒も控えて懐を暖めようとした。

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彼かれは夫それからといふもの成なるべくコツプ酒ざけも節制せつせいして懷ふところを暖あたゝめようとした。

これまで彼が遠く奉公に出ていて、いくらでも慰めの道を見つけていたのは、割合に暖かな懐をほとんど費やしつつあったからである。

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從來じうらい彼かれが遠とほく奉公ほうこうに出でて居ゐて幾いくらでも慰藉ゐしやの途みちを發見はつけんして居ゐたのは割合わりあひに暖あたゝかな懷ふところを殆ほとんど費つひやしつゝあつたからである。

それで彼は今そう気がついてみても、体の養生をしなくてはならないということが一方にあるので、それが思うようにはいかなかった。

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それで彼かれは今いまさう氣きがついて見みても身體からだの養生やうじやうをしなくてはならぬといふことが一方ぱうに有あるのでそれが思おもふ程ほどにはいかなかつた。

そういう心配が、また春も暖かになって病気を忘れると、帰ることもそのままに消えてしまうのである。

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さういふ心配しんぱいが又また春はるも暖あたゝかに成なつて病氣びやうきを忘わすれると歸かへることも其その儘まゝに消滅せうめつして畢しまふのである。

しかしどう我慢をしてみても、後幾年も勤まらないということを、周りの人も見ているのである。

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然しかしどう我慢がまんをして見みても後あと幾年いくねんも勤つとまらないといふことを周圍しうゐの人ひとも見みて居ゐるのである。

ことに長い間野田へ身上を持って、近所の蔵の親方をしているのが郷里の近くから出たので、自然知り合いであったが、それが卯平に引退を勧めた。

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殊ことに永ながい間あひだ野田のだへ身上しんしやうを持もつて近所きんじよの藏くらの親方おやかたをして居ゐるのが郷里きやうりの近ちかくから出でたので自然しぜん知合しりあひであつたが、それが卯平うへいに引退いんたいを勸すゝめた。

彼は故郷へ幾年目かで行くついでもあるし、幸い勘次のことは村にいるうちに知っていたから、相談をして来てやろうと言った。

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彼かれは故郷こきやうへ幾年目いくねんめかで行ゆく序ついでもあるし、幸さいはひ勘次かんじのことは村落むらに居ゐる内うちに知しつて居ゐたから相談さうだんをして來きてやらうといつた。

卯平は近ごろめっきり窪んだ茶色の目をしかめるようにしながら、かすかな笑いを浮かべた。

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卯平うへいは近頃ちかごろ滅切めつきり窪くぼんだ茶色ちやいろの眼めを蹙しかめるやうにしながら微かすかな笑ゑみを浮うかべた。

親方が勘次へ話をした時

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親方おやかたが勘次かんじへ噺はなしをした時とき

「わしは、なあに、家の者だから面倒を見ないとは言わないね」

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「わしや、なあに、家うちのもんだから面倒めんだう見みねえた云ゆはねえね」

勘次は油の乗らない態度で言った。

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勘次かんじは油あぶらの乘のらぬ態度たいどでいつた。

「勘次さん、近ごろ具合がいいという話だが」

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「勘次かんじさん近頃ちかごろ工合ぐあひがえゝといふ噺はなしだが」

親方も義理一遍のように言うと

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親方おやかたも義理ぎり一遍ぺんのやうにいふと

「具合がいいということもないが、これでも命懸けで働いてるんだから、他人のには大きな銭になるようにも見えるだろうが、おれにはこれで爺さんの代の借金が抜けないでいるんだから、それさえなけりゃ泣かないでも済むんだよ。そんだが、それでばかり身動きが取れないな」

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「工合ぐあひえゝつちこともねえが、此こんでも命懸いのちがけで働はたれえてんだから、他人ひとのがにや大えけえ錢ぜねになるやうにも見めえべが、俺おらにこんで爺樣ぢさまが代でえの借金しやくきん拔ぬけねえで居えんだからそれせえなけりや泣なかねえでも畢をへんだよ、そんだがそれでばかり動いごき取とれねえな」

「そんじゃ、その時には勘次さんもいい理由だね」

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「そんぢや、其その時ときにや勘次かんじさんも善いい理由わけだね」

「そりゃそうだが」

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「そりやさうだが」

勘次はどことなく調子を変えて言った。

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勘次かんじは何處どことなく拍子ひやうしを變かへていつた。

「勘次さんら、それでも穀物はなかなかある様子だね」

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「勘次かんじさん等らそれでも穀類こくるゐはなか/\有ある容子ようすだね」

突っ込んで聞くと

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突込つゝこんで聞きくと

「それくらいなくちゃ仕方がないもの。おれはここへ来た当座には、病気の時でもからきし挽き割り麦ばかりの飯なんぞ押し出されて、おれはずいぶんつらい目に遭ったんだよ。これでそういうことは忘れられないもんだからな」

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「其その位くれえなくつちや仕しやうねえもの、俺おら此處ここへ來きた當座たうざにや病氣びやうきん時ときでもからつき挽割麥ひきわりばかしの飯めしなんぞおん出だされて、俺おら隨分ずいぶん辛つれえ目めに逢あつたんだよ、こんでさうえこた、忘わすらんねえもんだかんな」

勘次はとうとう、要領を得ない返事をするのみであった。

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勘次かんじは到頭たうとう要領えうりやうを得えない返辭へんじをするのみであつた。

蔵の親方は、勘次がどういう料簡であるということは、卯平へは言わなかった。

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藏くらの親方おやかたは勘次かんじがどういふ料簡れうけんであるといふことは卯平うへいへはいはなかつた。

たとえどうしたところで勘次の許へ帰らねばならないことに決まっているのだから、それには戸板へ乗せてやるような病気の起こるまで奉公させておくよりも、丈夫なうちに暇を取らせて還してしまえば、あるいは勘次との間も思ったほどのこともないだろうと、程よいことに卯平へ話した。

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假令たとひどうした處ところで勘次かんじの許もとへ歸かへらねばならぬことに極きまつて居ゐるのだから、それには戸板といたへ乘のせてやる樣やうな病氣びやうきの起おこるまで奉公ほうこうさせて置おくよりも、丈夫ぢやうぶなうちに暇ひまを取とらせて還かへして畢しまへば、或あるひは勘次かんじとの間あひだも思おもつた程ほどのこともないだらうと、程ほどよいことに卯平うへいへ噺はなした。

卯平はもとより親方から、家の様子や、おつぎの大人になったことや、隣近所のことも一つ一つ聞かされた。

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卯平うへいは固もとより親方おやかたから家うちの容子ようすやおつぎの成人せいじんしたことや、隣近所となりきんじよのことも逐ちく一聞きかされた。

卯平は窪んだ茶色の目に、暖かな光をたたえた。

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卯平うへいは窪くぼんだ茶色ちやいろの眼めに暖あたゝかな光ひかりを湛たたへた。

卯平は短い時間であったが、気がついてから心掛けたので、財布にはいくらかの蓄えもあった。

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卯平うへいは短みじかい時間じかんであつたが氣きがついてから心掛こゝろがけたので財布さいふには幾いくらかの蓄たくはへもあつた。

わずかな着物であるが、それでもすすけたように色のさめた風呂敷に大きな包みが二つできた。

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僅わづかな衣物きものであるがそれでも煤すゝけたやうに褪さめた風呂敷ふろしきに大おほきな包つゝみが二つ出來できた。

一つの、要らないほうは、運河から鬼怒川へ通う高瀬舟へ頼んで、自分の村の河岸へ揚げてもらうことにして、彼は煙草の一服をも忘れないように身につけた。

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一つの不用ふようの分ぶんは運河うんがから鬼怒川きぬがはへ通かよふ高瀬船たかせぶねへ頼たのんで自分じぶんの村落むらの河岸かしへ揚あげて貰もらふことにして、彼かれは煙草たばこの一服ぷくをも忘わすれない樣やうに身みにつけた。

彼は股引にわらじをはいて、その大風呂敷を背負って立った。

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彼かれは股引もゝひきに草鞋わらぢを穿はいて其その大風呂敷おほぶろしきを脊負せおつて立たつた。

ビールの空き瓶二本へいっぱいの醤油を、すげ縄でくくって提げた。

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麥酒ビールの明罎あきびん二本ほんへ一杯ぱいの醤油しやうゆを莎草繩くゞなはで括くゝつて提さげた。

それから彼はまた、煎餅を一袋買った。

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それから彼かれは又また煎餅せんべいを一袋ふくろ買かつた。

醤油と米とがいいので、うまい煎餅であった。

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醤油しやうゆと米こめとが善よいので佳味うまい煎餅せんべいであつた。

彼は三つの時に別れて、五つの秋にちょっと見た与吉が、もう八つか九つになっていると、こう数えてみて、土産が買いたくなったのである。

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彼かれは三つの時ときに別わかれて五つの秋あきに一寸ちよつと見みた與吉よきちがもう八つか九つに成なつて居ゐると恁かう數かぞへて見みて土産みやげが買かひたく成なつたのである。

煎餅の袋は、毎日使っていた手拭いでくくって、荷締めの紐へ縛りつけた。

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煎餅せんべいの袋ふくろは毎日まいにち使つかつて居ゐた手拭てぬぐひで括くゝつて荷締にじめの紐ひもへ縛しばりつけた。

彼は冬になってまた起こりかけたリューマチを恐れて、きわめてそろそろと歩を運んだ。

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彼かれは冬ふゆになつてまた起おこりかけた僂痲質斯レウマチスを恐おそれて極きはめてそろ/\と歩ほを運はこんだ。

利根川を渡ってからは、枯れ木の林が寂しく続きながら彼を呑んだ。

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利根川とねがはを渡わたつてからは枯木かれきの林はやしは索寞さくばくとして連續れんぞくしつゝ彼かれを呑のんだ。

彼はところどころへのっそりと腰を下ろして、好きな煙草をふかした。

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彼かれは處々ところ/″\へのつそりと腰こしを卸おろして好すきな煙草たばこをふかした。

荷物を道端へ下ろす時、彼は必ず縛りつけた手拭いの包みへ手を掛けて、新聞紙の袋のがさがさと鳴るのを聞いて安心した。

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荷物にもつを路傍みちばたへ卸おろす時とき彼かれは屹度きつと縛しばりつけた手拭てぬぐひの包つゝみへ手てを掛かけて新聞紙しんぶんしの袋ふくろのがさ/\と鳴なるのを聞きいて安心あんしんした。

枯れ木の林は、立ち上る煙草の煙が根の切れたまますっと急いで枝に絡んで消えるのも隠さずに、がらんとしている。

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枯木かれきの林はやしは立たち騰のぼる煙草たばこの煙けぶりが根ねの切きれた儘まゝすつと急いそいで枝えだに絡からんで消散せうさんするのも隱かくさずに空洞からりとして居ゐる。

卯平がじっとしていると、あおじが忍び忍びに乾いた落ち葉を踏んで彼の近くまで来ては、すいと枝へ飛んだ。

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卯平うへいが凝然ぢつとして居ゐると萵雀あをじが忍しのび/\に乾かわいた落葉おちばを踏ふんで彼かれの近ちかくまで來きてはすいと枝えだへ飛とんだ。

彼は周りには一切心を引かれることもなく、袂のマッチへ火をつけてはまたマッチを袂へ入れて、そうしてからげっそりと落ちた両頬の肉が、さらにぴっちりと歯茎に吸いついてしまうまでゆっくりと煙草を吸って、煙管をすっと抜いてからまた歯茎へ空気を吸って、煙と一つに飲んでしまったかと思うようにごくりと唾を飲んで、それから煙を吐き出すのである。

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彼かれは周圍しうゐには一切さい心こゝろを惹ひかされることもなく袂たもとの燐寸マツチへ火ひを點つけては又また燐寸マツチを袂たもとへ入いれて、さうしてからげつそりと落おちた兩頬りやうほゝの肉にくが更さらにぴつちりと齒齦はぐきに吸すひついて畢しまふまで徐ゆるりと煙草たばこを吸すうて、煙管きせるをすつと拔ぬいてから又また齒齦はぐきへ空氣くうきを吸すうて煙けぶりと一つに飮のんで畢しまつたかと思おもふやうにごくりと唾つばを嚥のんで、それから煙けぶりを吐はき出だすのである。

彼は周りが寂しいとも何とも思わなかった。

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彼かれは周圍しうゐが寂さびしいとも何なんとも思おもはなかつた。

しかし彼自身は、見るからに乾いて憐れげであった。

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然しかし彼自身かれじしんは見みるから枯燥こさうして憐あはれげであつた。

彼は少しきりきりと痛む腰を伸ばして、荷物を背負って立った。

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彼かれは少すこしきや/\と痛いたむ腰こしを延のばして荷物にもつを脊負せおつて立たつた。

捨てたマッチの燃えさしが道端の枯れ草に火をつけて、あざ笑うような火がべろべろと広がっても、見向こうともしないほど彼はけだるげである。

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捨すてた燐寸マツチの燃もえさしが道端みちばたの枯草かれくさに火ひを點つけて愚弄ぐろうするやうな火ひがべろ/\と擴ひろがつても、見向みむかうともせぬ程ほど彼かれは懶ものうげである。

野田からは四十キロに足らない平地の道を、鬼怒川に沿った自分の村まで来るのに、冬の短い日が雑木林のこずえに彼を待たなかった。

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野田のだからは十里りに足たらぬ平地へいちの道みちを鬼怒川きぬがはに沿そうた自分じぶんの村落むらまで來くるのに、冬ふゆの短みじかい日ひが雜木林ざふきばやしの梢こずゑに彼かれを待またなかつた。

彼は自分の家に着いた時は、醤油を提げた手が痛いほど冷えていた。

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彼かれは自分じぶんの家いへに着ついた時ときは醤油しやうゆを提さげた手てが痛いたい程ほど冷ひえて居ゐた。

彼はやっとのことで戸口に立った。

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彼かれは漸やつとのことで戸口とぐちに立たつた。

勘次を呼ぼうとしてみたら、中はひっそりと暗い。

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勘次かんじを喚よばうとして見みたら内うちはひつそりと闇くらい。

戸口に手を当ててみたら、鍵が掛けてあった。

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戸口とぐちに手てを當あてゝ見みたら鍵かぎが掛かけてあつた。

「いたかい」

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「居ゐたかえ」

それでも卯平は怒鳴ってみたが、返事がない。

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それでも卯平うへいは呶鳴どなつて見みたが返辭へんじがない。

卯平は口の中で呟いて、裏の戸口へ回ってみたら、そこは内から掛け金が掛かっている。

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卯平うへいは口くちの内うちで呟つぶやいて裏戸口うらとぐちへ廻まはつて見みたら其處そこは内うちから掛金かけがねが掛かゝつて居ゐる。

彼はそれでも煙管を出して、戸の隙間から掛け金をぐっと突いたら、栓を差してなかったのですぐに外れた。

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彼かれはそれでも煙管きせるを出だして戸との隙間すきまから掛金かけがねをぐつと突ついたら栓せんを揷さしてなかつたので直すぐに外はづれた。

彼は暗い敷居をまたいで、袂のマッチをすっとつけた。

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彼かれは闇くらい閾しきゐを跨またいで袂たもとの燐寸マツチをすつと點つけた。

幾年いなくても勝手を知っているので、彼は柱へ掛けてある手ランプをつけて、取りあえず手足を暖めるために、そだをぽちぽちと折って火鉢へくべた。

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幾年いくねん居ゐなくても勝手かつてを知しつて居ゐるので彼かれは柱はしらへ懸かけてある手てランプを點つけて、取とり敢あへず手足てあしを暖あたゝめる爲ために麁朶そだをぽち/\と折をつて火鉢ひばちへ燻くべた。

すすけた薬缶を五徳へ掛けて、それから彼はわらじを取った。

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煤すゝけた藥罐やくわんを五徳とくへ掛かけてそれから彼かれは草鞋わらぢをとつた。

乾いた道を歩いて来たので、いくらも汚れない足の底を二、三度ずつ手でこすって、座敷へ上がった。

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乾かわいた道みちを歩あるいて來きたので幾いくらも汚よごれない足あしの底そこを二三度どづゝ手てでこすつて座敷ざしきへ上あがつた。

勘次は南の風呂へ行っていた。

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勘次かんじは南みなみの風呂ふろへ行いつて居ゐた。

彼は昼はわずかの暇をも惜しんで働くので、一つにはそれが夜なべの仕事に励み得ないほどの疲れを覚えさせているのでもあるが、少し懐が窮屈でなくなってからは、長い夜の休みの時間にはめったに縄をなうこともなく、風呂に行ってはよく話をしながら出がらしの茶をすすった。

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彼かれは晝ひるは寸暇すんかをも惜をしんで勞働らうどうをするので一つには其それが夜よなべの仕事しごとを勵はげみ得えない程ほどの疲勞ひらうを覺おぼえしめて居ゐるのでもあるが、少すこし懷ふところが窮屈きうくつでなくなつてからは長ながい夜よの休憇時間きうけいじかんには滅多めつたに繩なはを綯なふこともなく風呂ふろに行いつては能よく噺はなしをしながら出殼でがらの茶ちやを啜すゝつた。

その夜、与吉は南の女房から、薄荷の入った駄菓子を二つばかりもらった。

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其その夜よ與吉よきちは南みなみの女房にようばうから薄荷はくかの入はひつた駄菓子だぐわしを二つばかり貰もらつた。

裏の垣根から桑畑を越えて歩きながら、与吉は菓子をなめた。

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裏うらの垣根かきねから桑畑くはばたけを越こえて歩あるきながら與吉よきちは菓子くわしを舐しやぶつた。

「どれ、おれにもちょっと出してみないか」

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「どれ、俺おれげもちつと出だして見みねえか」

おつぎは与吉の手から少し欠いて、自分の口へ入れた。

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おつぎは與吉よきちの手てから少すこし缺かいて自分じぶんの口くちへ入いれた。

「姉は大きく欠いちゃいやだぞう」

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「姊ねえは大えかくおつ缺けえちや厭やだぞう」

与吉は心配して言うと

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與吉よきちは懸念けねんしていふと

「ああ薄荷だ、これは。口の中がすうすうすらあ。おとっつあんにもやってみろ」

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「おゝ薄荷はくかだこら、口くちん中なかすう/\すら、おとつゝあげも遣やつて見みろ」

おつぎはまた菓子へ手を掛けようとすると

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おつぎは又また菓子くわしへ手てを掛かけようとすると

「いいから、よきになめさせろ」

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「えゝから、よきげ嘗なめさせろ」

勘次はおつぎを制した。

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勘次かんじはおつぎを制せいした。

三人は他人の目が開いていない闇夜の小道を、こうして自分の庭へ戻った。

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三人にんは他人ひとの目めが開あいてない闇夜やみよの小徑こみちを恁かうして自分じぶんの庭にはへ戻もどつた。

「どうしたんだろう、おとっつあん」

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「どうしたんだんべ、おとつゝあ」

おつぎは戸の隙間から差す明かりを見て、にわかに立ち止まって言った。

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おつぎは戸との隙間すきまから射さす明あかりを見みて俄にはかに立たち止どまつていつた。

勘次はすくんだようになって黙った。

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勘次かんじは竦すくんだやうに成なつて默だまつた。

おつぎは戸の隙間からのぞいて

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おつぎは戸との隙間すきまから覗のぞいて

「爺さんみたいだな、おとっつあん」

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「爺ぢい見みてえだな、おとつゝあ」

と小声で告げた。

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と小聲こごゑで告つげた。

それから勘次ものぞいて、鍵を外して入った。

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それから勘次かんじも覗のぞいて、鍵かぎを外はづして這入はひつた。

与吉は見知らない爺さんがいるので、恥ずかしがっておつぎの後ろへ隠れた。

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與吉よきちは見識みしらぬ爺ぢいさんが居ゐるので羞はにかんでおつぎの後うしろへ隱かくれた。

「爺さんだ」

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「爺ぢいだ」

と、おつぎは叫んで卯平のそばへ寄った。

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とおつぎは叫さけんで卯平うへいの側そばへ寄よつた。

「爺さんは今日来たのか」

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「爺ぢいは今日けふ來きたのか」

おつぎの挨拶に続いて

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おつぎの挨拶あいさつに續つゞいて

「おとっつあん、遅かったな」

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「おとつゝあ遲おそかつたな」

勘次も言った。

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勘次かんじもいつた。

「出だすのもそんなに早くはなかったっけが、しばらく歩きつけないせいか、なんぼにも足が出ないで、こんなに遅くなるつもりもなかったっけが」

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「出でだすのもそんなに早はやかなかつたつけが、暫しばらく歩あるきつけねえ所爲せゐかなんぼにも足あしが出でねえで、かういに遲おそくなる積つもりもなかつたつけが」

卯平は重い口で言った。

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卯平うへいは重おもい口くちでいつた。

「よっぽど待っていたか、爺さんは」

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「餘よつ程ぽど待まつてゝか爺ぢいは」

おつぎは、そだを折り足しながら言った。

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おつぎは麁朶そだを折をり足たしながらいつた。

「火を吹きつけたばかりよ」

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「火ひい吹ふつたけたばかりよ」

卯平は、その窪んだ茶色の目をしかめるようにして

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卯平うへいは其その窪くぼんだ茶色ちやいろの眼めを蹙しかめるるやうにして

「おつうも大きくなったな。途中でなんぞ行き会っちゃ分からないな。そんだが、お前はさすがにおれのことは忘れなかったっけな」

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「おつうも大えかくなつたな、途中とちうでなんぞ行逢いきやつちや分わかんねえな、そんだが汝わりや有繋まさか俺おれこた忘わすれなかつたつけな」

「忘れまいな、爺さんは」

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「忘わすれめえな爺ぢいは」

おつぎは卯平に対して、こそばゆい一皮が間を隔てているような感じがしていながら、そのくせ甘えたような舌で言って、ちゅうちゅうと鳴り出した薬缶へ手を掛けた。

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おつぎは卯平うへいに對たいしてこそつぱい一皮かはが間あひだを隔へだてゝ居ゐるやうな感かんじがして居ゐながら、其その癖くせの甘あまえた樣やうな舌したでいつてちう/\と鳴なり出だした藥罐やくわんへ手てを掛かけた。

卯平は、おつぎの挨拶を今さらのごとくしみじみと嬉しく感じた。

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卯平うへいはおつぎの挨拶あいさつを今更いまさらの如ごとくしみ/″\と嬉うれしく感かんじた。

卯平は、お品が死んで三年目の盆に来た時、不器用な様子の彼がどうして思いついたか、おつぎへ花簪を一つ買って来た。

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卯平うへいはお品しなが死しんで三年目ねんめの盆ぼんに來きた時とき不器用ぶきような容子ようすの彼かれがどうして思おもひついたかおつぎへ花簪はなかんざしを一つ買かつて來きた。

十七のおつぎが、どれほどそれを喜んだか知れなかった。

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十七のおつぎがどれ程ほどそれを喜よろこんだか知しれなかつた。

おつぎはけっしてそれを忘れなかった。

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おつぎは決けつしてそれを忘わすれなかつた。

「爺さんにお茶を入れよう」

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「爺ぢいげお茶ちや入せえべえ」

おつぎは立って茶碗を洗った。

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おつぎは立たつて茶碗ちやわんを洗あらつた。

卯平は濃霧に塞がれた森の中へ踏み込むような、一種の不安を感じながら来たのであったが、彼はおつぎの仕打ちに心が晴れ晴れした。

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卯平うへいは濃霧のうむに塞ふさがれた森もりの中なかへ踏込ふみこむやうな一種しゆの不安ふあんを感かんじつゝ來きたのであつたが、彼かれはおつぎの仕打しうちに心こゝろが晴々せい/\した。

卯平は、まだ菓子をなめながら隠れるようにしている与吉を見て

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卯平うへいは、まだ菓子くわしを舐しやぶりながら隱かくれるやうにして居ゐる與吉よきちを見みて

「おれのことを忘れただろう、これは。大きくなったと思って来たっけが、本当に分からないほど大きくなったな」

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「俺おれこと忘わすれたんべ此こら、大えかく成なつたと思おもつて來きたつけが本當ほんたうに分わかんねえ程ほど大えかく成なつたな」

口数の少ない卯平が、この夜はいろいろにしゃべった。

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寡言むくちな卯平うへいが此この夜よは種々いろ/\に饒舌しやべつた。

「これでも学校へ行くんだもの」

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「此こんでも學校がくかうへ行いくんだもの」

おつぎは茶を入れながら言った。

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おつぎは茶ちやを入いれながらいつた。

「そうら」

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「さうら」

と、卯平は荷物へ縛りつけた煎餅の包みを、与吉へ投げ出してやった。

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と卯平うへいは荷物にもつへ縛しばりつけた煎餅せんべいの包つゝみを與吉よきちへ投なげ出だしてやつた。

「おつう、手拭いを解いてみないか。野田でも一番うまいんだから」

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「おつう、手拭てねげ解とえて見みねえか、野田のだでも一番ばんうめえんだから」

卯平は言ったが、おつぎの手が手間取るので、自分で手拭いを解いて勘次の前へ出して、彼はさらに一枚を取って与吉へやった。

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卯平うへいはいつたがおつぎの手てが暇ひまどれるので自分じぶんで手拭てぬぐひを解といて勘次かんじの前まへへ出だして、彼かれは更さらに一枚まいをとつて與吉よきちへ遣やつた。

「よき、それをもらうもんだ。爺さんがくれるというのに」

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「よき、それ貰もらあもんだ。爺ぢい呉くれるつちのに」

おつぎは茶碗を卯平と勘次との前へ据えながら言った。

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おつぎは茶碗ちやわんを卯平うへいと勘次かんじとの前まへへ据すゑつゝいつた。

「こっちへ上がってもらうもんだ」

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「こつちへ上あがつて貰もらあもんだ」

勘次も言った。

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勘次かんじもいつた。

土間に立っていた与吉は、そっと草履を脱いで、危なそうに手を出して取った。

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土間どまに立たつて居ゐた與吉よきちはそつと草履ざうりを脱ぬいで危險相あぶなさうに手てを出だして取とつた。

そうしてすぐに、盗むようにかじった。

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さうして直すぐに偸ぬすむやうに噛かんだ。

「遠くのほうのだぞ。お前、うまかろう」

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「遠とほくの方はうのがんだぞ、汝われうまかんべ」

おつぎは自分も一枚をかじりながら言った。

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おつぎは自分じぶんも一枚まいを噛かじり乍ながらいつた。

「うまくないや、そんなに」

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「うまかねえやそんなに」

与吉はおつぎの袂へ隠れるようにして言った。

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與吉よきちはおつぎの袂たもとへ隱かくれるやうにしていつた。

甘味の強い菓子をかんだ口に、そうして醤油の味を区別するまで育った舌を持たない与吉は、卯平が遠くからもたらしたと聞かされたほどには感じなかったのである。

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甘味あまみの強つよい菓子くわしを噛かんだ口くちに、さうして醤油しやうゆの味あぢを區別くべつするまで發達はつたつした舌したを持もたない與吉よきちは卯平うへいが遠とほく齎もたらしたと聞きかせられた程ほどには感かんじなかつたのである。

「そんなこと言うもんじゃない。そんなら姉によこしちまえ」

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「其麽そんなこといふもんぢやねえ、そんだら姊ねえげよこしつちめえ」

おつぎは小さな声で言って、尻目に掛けた。

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おつぎは小ちひさな聲こゑでいつて尻目しりめに掛かけた。

与吉はそう言われながら、手にしただけはぽりぽりとかじった。

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與吉よきちはさういひ乍ながら手てにした丈だけはぽり/\と噛かんだ。

乾いた響きが、三人の口に鳴った。

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乾燥かんさうした響ひゞきが三人にんの口くちに鳴なつた。

卯平は幾杯も、ただ茶をすすった。

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卯平うへいは幾杯いくはいも只たゞ茶ちやを啜すゝつた。

丈夫だといっても、彼は歯がげっそりと落ちて、柔らかな物でなければかめなくなっていた。

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壯健たつしやだといつても彼かれは齒はがげつそりと落おちて軟やはらかな物ものでなければ噛かめなくなつて居ゐた。

卯平はまた、おつぎへ醤油の瓶を出して

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卯平うへいは又またおつぎへ醤油しやうゆの罎びんを出だして

「おれが持って来ればなんぼでもわけないんだが、荷物があるもんだから、これっきりしか持っては来られなかった。これでもおれは、蔵じゃこの上はないんだ。炊事はお前がするんだろうから、お前がそっちへしまっておけな」

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「俺おれ持もつて來くればなんぼでも譯わけねえんだが荷物にもつがあるもんだから、此これつ切きりしか持もつちや來きねえつちやつた、此こんでも俺おら藏くらぢや此この上うへはねえんだ、炊事かしきは汝われすんだんべから、汝われそつちへ藏しまつて置おけな」

「大変だったな、爺さん。荷物があるのになあ。これだけじゃしばらくあるだろうよ」

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「大變たえへんだつけな爺ぢい、荷物にもつあんのになあ、此これだけぢや暫しばらくあんべよ」

おつぎは瓶を柱のそばへ置いた。

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おつぎは罎びんを柱はしらの傍そばへ置おいた。

「荷物はそうでもないが、体が利かないでな、どうも」

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「荷物にもつはさうでもねえが、身體からだ利きかねえでな、どうも」

卯平は煙管をかんだ。

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卯平うへいは煙管きせるを噛かんだ。

「爺さんはどうしただろう。ご飯を食べたんだろうか」

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「爺ぢいはどうしたつぺ、お飯まんまたべたんべか」

おつぎは、敢えて言いかけるという態度でもなく、勘次に向かって言った。

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おつぎは敢あへていひ掛かけるといふ態度たいどでもなく勘次かんじに向むかつていつた。

「おれはどっちでもいいや」

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「おらどつちでもえゝや」

卯平は少し遠慮を交えて言った。

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卯平うへいは少すこし遠慮ゑんりよを交まじへていつた。

「どっちでもいいって、腹が減っちゃ仕方があるまいな」

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「どつちでもえゝつて腹はら減へつちやしやうあんめえな」

おつぎは茶碗と箸とを棚から下ろした。

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おつぎは茶碗ちやわんと箸はしとを棚たなから卸おろした。

「菜っ葉の漬けたのはどうしただろう」

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「菜なつ葉ぱの漬つけたなどうしたんべ」

おつぎは振り返って聞いた。

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おつぎは顧かへりみて聞きいた。

「おれは要らないや。歯が悪くなっちまってかめないから」

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「俺おら要いらねえや、齒は悪わるくなつちやつて噛かまんねえから」

「そんじゃ細かく刻んだらどうしただろう」

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「そんぢや細こまかく刻きざんだらどうしたんべ」

おつぎはとんとんと包丁を使った。

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おつぎはとん/\と庖丁はうちやうを使つかつた。

「お汁がまあ、ちっとも実なんざないや。よき、お前がみんな芋をすくっちまったな」

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「お汁つけまあ、ちつとも身みなんざねえや、よき汝われみんな芋いもすくつちやつたな」

おつぎは鍋ぶたを取って言った。

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おつぎは鍋葢なべぶたをとつていつた。

「お汁も何も要らないから、一杯かっ込もう」

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「お汁つけも何なにも要いらねえから一杯ぺえ掻かつ込こんべ」

卯平はじれったそうに言った。

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卯平うへいは遲緩もどかし相さうにいつた。

「そんじゃ、この醤油を掛けてみような」

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「そんぢや此この醤油しやうゆ掛かけてんべな」

おつぎは卯平の前に膳を据えて、瓶の醤油を菜漬けへ掛けた。

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おつぎは卯平うへいの前まへに膳ぜんを据すゑて罎びんの醤油しやうゆを菜漬なづけへ掛かけた。

「それ、底のほうへ回ってこぼれらあな」

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「それ、底そこの方はうへ廻まはつて零こぼれらな」

勘次はさっきから、怒ったような恥ずかしがったような、なんだか落ち着きの悪い手持ち無沙汰な顔をして、かえって自分をじっと見もしない卯平の目から外れるように、よそを見てはまたちらと卯平を見つつあったが、この時おつぎの手元へ口を挟んだ。

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勘次かんじは先刻さつきから、怒おこつたやうな羞はにかんだやうな、何なんだか落付おちつきの惡わるい手持てもちのない顏かほをして、却かへつて自分じぶんをば凝然ぢいつと見みもせぬ卯平うへいの目めから外それるやうに、餘所よそを見みては又またちらと卯平うへいを見みつゝあつたが此この時ときおつぎの手許てもとへ嘴くちばしを容いれた。

その時、醤油がごっと出て菜漬けが漂うばかりになった。

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其その時とき醤油しやうゆがごつと出でて菜漬なづけが漂たゞよふばかりに成なつた。

「そうれ見ろ」

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「そうれ見みろ」

勘次はそっけなく言った。

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勘次かんじはそつけなくいつた。

おつぎが瓶を再び柱のそばへ置くと

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おつぎが罎びんを再ふたゝび柱はしらの傍そばへ置おくと、

「まだそこでひっくり返しちゃ大変だぞ。戸棚へでも入れておけ」

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「まだ其處そこで引ひつくるけえしちや大變たえへんだぞ、戸棚とだなへでも入せえて置おけ」

勘次はまた注意した。

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勘次かんじは復また注意ちういした。

卯平は薬缶の湯を注いで、三杯を食べた。

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卯平うへいは藥罐やくわんの湯ゆを注ついで三杯ばいを喫きつした。

わずかに醤油の味のみが、数年来の彼の舌にうまさを失わなかったが、挽き割り麦の勝った粗い飯は、歯茎がとうていそれをかみ砕けないので、こそばゆいまま飲み下した。

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僅わづかに醤油しやうゆの味あぢのみが數年來すうねんらいの彼かれの舌したに好味かうみたるを失うしなはなかつたが、挽割麥ひきわりむぎの勝かつた粗剛こはい飯めしは齒齦はぐきが到底たうていそれを咀嚼そしやくし能あたはぬのでこそつぱい儘まゝに嚥のみ下くだした。

おつぎが膳を引こうとすると

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おつぎが膳ぜんを引ひかうとすると

「その醤油はうっちゃらないで、大事にしておけ」

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「其その醤油しやうゆは打棄うつちやらねえで大事でえじにして置おけ」

勘次は小皿の数滴を惜しんだ。

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勘次かんじは小皿こざらの數滴すうてきを惜をしんだ。

「そんなこと言わなくたって、うっちゃる者もあるまいな」

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「其麽そんなこと云ゆはねえつたつて打棄うつちやるもなあんめえな」

おつぎは、干渉が過ぎた勘次の注意がいやだと思うよりも、たまたま会った卯平のそばで言われるのがきまりが悪いので、喉の底で呟いた。

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おつぎは干渉かんせふに過すぎた勘次かんじの注意ちういが厭いやだと思おもふよりも、偶たま/\逢あつた卯平うへいの側そばでいはれるのが極きまりが惡わるいので喉のどの底そこで呟つぶやいた。

「姉、もう一枚くれないか」

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「姊ねえ今いま一枚めえくんねえか」

与吉は流し元に手を動かしているおつぎへ、きわめて小さな声で求めた。

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與吉よきちは流ながし元もとに手てを動うごかして居ゐるおつぎへ極きはめて小ちひさな聲こゑで請求せいきうした。

「お前は、そっからうまくないなんて言うもんじゃない。すぐほしくなるくせに」

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「汝わりや、そつから佳味うまかねえなんていふもんぢやねえ、直すぐ欲ほしくなる癖くせに」

おつぎはこっそり叱った。

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おつぎはこつそり叱しかつた。

「そうら、お前に買って来たんだ。ほしけりゃいくらでも持って行け」

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「そうら汝われげ買かつて來きたんだ、欲ほしけりや幾いくらでも持もつてけ」

卯平は不器用な言い方をしながら、煎餅を取ってやった。

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卯平うへいは不器用ぶきようないひ方かたをしながら煎餅せんべいをとつて遣やつた。

与吉はそれでも、窪んだ目をしかめている卯平がまだこそばゆくて、指の先で下唇を口の中へ押し込むようにしながら、額越しに卯平を見た。

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與吉よきちはそれでも窪くぼんだ目めを蹙しがめて居ゐる卯平うへいがまだこそつぱくて指ゆびの先さきで下唇したくちびるを口くちの中なかへ押おし込こむやうにしながら額越ひたひごしに卯平うへいを見みた。

一七

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十七

次の朝、与吉はまだみなの膳の据えられないうちから、学校へ行くとては騒いだ。

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次つぎの朝あさ與吉よきちはまだ皆みなの膳ぜんの据すゑられぬうちから學校がくかうへ行ゆくとては騷さわいだ。

村の生徒らは登校の早いことを教師からただ一言でも褒められてみたいので、慌てなくてもいいのに、汁も煮立たないうちからねだるのである。

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村落むらの生徒等せいとらは登校とうかうの早はやいことを教師けうしから只たゞ一言ごんでも褒ほめられて見みたいので、慌あわてなくても善いいのに汁しるも煮立にたたぬうちから強請せがむのである。

与吉はこれで、毎朝おつぎからうるさがられていた。

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與吉よきちは此これで毎朝まいあさおつぎから五月蝿うるさがられて居ゐた。

与吉は風呂敷包みを背負って、おつぎに弁当を包んでもらいながら

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與吉よきちは風呂敷包ふろしきづゝみを脊負せおつておつぎに辨當べんたうを包つゝんで貰もらひながら

「煎餅をくれないか」

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「煎餅せんべいくんねえか」

と求めた。

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と要求えいきうした。

「まだそんなこと。そんだからお前には見せられないというんだ。爺さんに怒られるから見ろ」

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「まださうだこと、そんだから汝われげは見みせらんねえつちんだ、爺ぢいに怒おこられつから見みろ」

おつぎは叱って振り返らなかった。

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おつぎは叱しかつて顧かへりみなかつた。

勘次はその時、外の壁際に積んだ木の根をぱかりぱかりと割っていた。

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勘次かんじは其その時とき外そとの壁際かべぎはに積つんだ木きの根ねをぱかり/\と割わつて居ゐた。

卯平は一日歩いた疲れがひどく出たようでもあるし、また自分の村へ帰ったので心がゆったりとしたようでもあるし、それにこの数年来は火の番の癖で朝はゆっくりとしているのが常であったので、彼はその時、布団の中にじっと目を開いておつぎの働いているのを見ていたが

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卯平うへいは一日にち歩あるいた草臥くたびれが酷ひどく出でたやうでもあるし、又また自分じぶんの村落むらへ歸かへつたので心こゝろが悠長のんびりとした樣やうでもあるし、それに此この數年來すうねんらいは火ひの番ばんの癖くせで朝あさはゆつくりとして居ゐるのが例れいであつたので、彼かれは其その時とき蒲團ふとんの中なかに凝然ぢつと目めを開あいておつぎの働はたらいて居ゐるのを見みて居ゐたが

「ほしいというんなら出してやれ」

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「欲ほしいつちんだら出だして遣やれえ」

と彼は言った。

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彼かれはいつた。

おつぎは戸棚から煎餅を一枚出して、与吉へ渡した。

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おつぎは戸棚とだなから煎餅せんべいを一枚まい出だして與吉よきちへ渡わたした。

与吉はすっと奪うようにして取った。

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與吉よきちはすつと奪うばふ樣やうにして取とつた。

「しらばっくれて」

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「しらばつくれて」

おつぎは、斜めに背負った本の上から与吉をぱたと叩いた。

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おつぎは斜なゝめに脊負せおつた書藉しよせきの上うへから與吉よきちをぱたと叩たゝいた。

与吉は霜の白く覆った庭を、小さな下駄でからからと鳴らしながら、逃げるように駆けて行った。

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與吉よきちは霜しもの白しろく掩おほうた庭にはを小ちひさな下駄げたでから/\と鳴ならしながら遁にげるやうに駈かけて行いつた。

卯平は窪んだ目をしかめて、一種の暖かな表情を示して与吉の後ろ姿を見た。

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卯平うへいは窪くぼんだ目めを蹙しがめて一種しゆの暖あたゝかな表情へうじやうを示しめして與吉よきちの後姿うしろすがたを見みた。

勘次は割った薪を草刈り籠へ入れて、かまどの前へ置いて朝飯の膳に向かって、一杯を盛った。

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勘次かんじは割わつた薪まきを草刈籠くさかりかごへ入いれて竈かまどの前まへへ置おいて朝餉あさげの膳ぜんに向むかつて、一碗わんを盛もつた。

おつぎは気がついたように

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おつぎは氣きがついた樣やうに

「爺さんのことを起こそうか」

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「爺ぢいこと起おこすべか」

と言って、勘次が返事しないうちに

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といつて勘次かんじが返辭へんじせぬ内うちに

「爺さん、ご飯ができたよ」

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「爺ぢい、お飯まんま出來できたよ」

と卯平を呼んだ。

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卯平うへいを喚よんだ。

「先にやってくれよ」

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「先さきやつてくろえ」

卯平はそう言って、しばらくたってから布団を出て井戸端へ行った。

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卯平うへいはさういつて暫しばらく經たつてから蒲團ふとんを出でて井戸端ゐどばたへ行いつた。

卯平は幾年目かで、冷たい水で顔を洗った。

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卯平うへいは幾年目いくねんめかで冷つめたい水みづで顏かほを洗あらつた。

彼は近ごろにない早起きをしたので、霜の白い庭に立って、こわばった足の爪先が痛くなるほど冷たいのを感じた。

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彼かれは近來きんらいにない晨起はやおきをしたので、霜しもの白しろい庭にはに立たつて硬こはばつた足あしの爪先つまさきが痛いたくなる程ほど冷つめたいのを感かんじた。

火鉢のそばへ座っても煙草の火もないので、彼は自分でかまどの下の燃えさしを灰のまま取った。

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火鉢ひばちの側そばへ坐すわつても煙草たばこの火ひもないので彼かれは自分じぶんで竈かまどの下したの燃もえさしを灰はひの儘まゝとつた。

おつぎは勘次が煙草を吸わないので、ちょっと煙草の火を取ることにまでは気づかなかった。

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おつぎは勘次かんじが煙草たばこを吸すはないので一寸ちよつと煙草たばこの火ひをとることにまでは心附こゝろづかなかつた。

野田では始終かんかんと堅炭を熾して、湯はいくらでも沸いて、夜でも部屋の中に火の気の去ることはないのである。

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野田のだでは始終しじうかん/\と堅炭かたずみを熾おこして湯ゆは幾いくらでも沸たぎつて夜よるでも室内しつないに火氣くわきの去さることはないのである。

卯平は遅れて箸を取ったが、飯は暖かいというだけで、大釜で炊いたように程よい柔らかさを保ってはいないし、汁もその舌にひどくこそばゆく、かつまずかった。

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卯平うへいは後おくれて箸はしを執とつたが、飯めしは暖あたゝかいといふ迄までで大釜おほがまで炊たいた樣やうに程ほどよい軟やはらかさを保たもつては居ゐないし、汁しるも其その舌したに酷ひどくこそつぱく且かつ不味まづかつた。

彼は味噌には、分量を増すために醤油粕がかき混ぜてあることを知った。

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彼かれは味噌みそには分量ぶんりやうを増ます爲ために醤油粕しやうゆかすが掻かき交まぜてあることを知しつた。

勘次は鍬を取って立った。

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勘次かんじは鍬くはを執とつて立たつた。

彼は毎日唐鍬を持って出ていたのであったが、この日はおつぎを連れて麦畑の冬起こしに出るのであった。

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彼かれは毎日まいにち唐鍬たうぐはを持もつて出でて居ゐるのであつたが此この日ひはおつぎを連つれて麥畑むぎばたけの冬墾ふゆばりに出でるのであつた。

卯平は独り、ぽつんと残された。

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卯平うへいは獨ひとりで㷀然ぽさりと残のこされた。

丈夫な建物に箒を入れて清潔に住んで来た彼は、天井もない屋根裏からすすが垂れて、そうして雨戸を開けてない薄暗い家の中にじっとしていては、妙に心が滅入った。

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丈夫ぢやうぶな建物たてものに箒はうきを入いれて清潔せいけつに住すんで來きた彼かれは天井てんじやうもない屋根裏やねうらから煤すゝが垂たれてさうして雨戸あまどを開あけてない薄闇うすくらい家いへの内うちに凝然ぢつとしては妙めうに心こゝろが滅入めいつた。

毎日朝から尻切れ襦袢一つで、熱湯の桶を右の手で肩に支えては駆け歩く、威勢のいい若者の間に交じって唄の声を聞いていたのに、一つには疲れも出たためでもあるが、わずか一日の隔たりで、彼はにわかに年を取ったほどげっそりとやつれたような心持ちになった。

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毎日まいにち朝あさから尻切襦袢しりきりじゆばん一つで熱湯ねつたうの桶をけを右みぎの手てで肩かたに支さゝへては駈かけ歩あるく威勢ゐせいの善いい壯丁わかものの間あひだに交まじつて唄うたの聲こゑを聞きいて居ゐたのに、一つには草臥くたびれも出でた爲ためでもあるが僅わづか一日にちの隔へだてで彼かれは俄にはかに年齡としをとつた程ほどげつそりと窶やつれたやうな心持こゝろもちに成なつた。

みなの夜具は、ただ壁際に端をめくったまま突きつけてある。

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皆みなの夜具やぐは只たゞ壁際かべぎはに端はしを捲まくつた儘まゝで突つきつけてある。

卯平はそこをじっと見た。

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卯平うへいは其處そこを凝然ぢつと見みた。

箱枕のくくりは紙で包んでないばかりでなく、生地の縞目も分からないほど汚く脂に染まっている。

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箱枕はこまくらの括くゝりは紙かみで包つゝんでないばかりでなく、切地きれぢの縞目しまめも分わからぬ程ほど汚きたなく脂肪あぶらに染そまつて居ゐる。

土間の壁際に吊った竹かごのねぐらには、鶏の糞がいっぱいに溜まったと見えて、異臭が鼻を突いた。

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土間どまの壁際かべぎはに吊つつた竹籃たけかごの塒とやには鷄にはとりの糞ふんが一杯ぱいに溜たまつたと見みえて異臭いしうが鼻はなを衝ついた。

卯平は生まれつきがきれい好きであったが、百姓の暮らしをして、それに非常な貧乏からどうしても汚い物の間に起き伏しせねばならないので、彼も野田へ行くまではそれをも別段苦にはしなかったのであるが、たとえ幾年でも清潔な住まいをした彼は、生まれつきを助長して一種の習慣を養った。

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卯平うへいは天性ねが清潔好きれいずきであつたが、百姓ひやくしやうの生活せいくわつをして、それに非常ひじやうな貧乏びんばふから什麽どんなにしても穢きたない物ものの間あひだに起臥きぐわせねばならぬので彼かれも野田のだへ行ゆくまではそれをも別段べつだん苦くにはしなかつたのであるが、假令たとひ幾年いくねんでも清潔せいけつな住すまひをした彼かれは天性てんせいを助長じよちやうして一種しゆの習慣しふくわんを養やしなつた。

彼が家に帰ったのは、お品が死んだ時でも、それから三年目の盆の時でも、家はがらんと清潔になっていて、それほど汚い感じは与えられなかった。

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彼かれが家いへに歸かへつたのはお品しなが死しんだ時ときでも、それから三年目ねんめの盆ぼんの時ときでも家いへは空洞からりと清潔きれいに成なつて居ゐてそれほど汚穢むさい感かんじは與あたへられなかつた。

彼は今、盛んな暑い日を仰いだ目を放って、にわかに物陰を探そうとする者のように、ひどく勝手が違ったのである。

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彼かれは今いま熾さかんな暑あつい日ひを仰あふいだ目めを放はなつて俄にはかに物陰ものかげを探さがさうとするものゝやうに酷ひどく勝手かつてが違ちがつたのである。

彼はしばらく好きな煙草にかかりきっていたが、ようやく日が暖かくなりかけたので、まれに生き残っている昔の仲間や近所への義理かたがた、顔を出すつもりで外へ出た。

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彼かれは暫しばらく好すきな煙草たばこに屈託くつたくして居ゐたが漸やうやく日ひが暖あたゝかく成なり掛かけたので、稀まれに生存せいぞんして居ゐる往年わうねんの朋輩ほうばいや近所きんじよへの義理ぎりかた/″\顏かほを出だす積つもりで外そとへ出でた。

勘次とおつぎとが昼飯に帰って来た時、卯平はいなかった。

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勘次かんじとおつぎとが晝餐ひるに歸かへつて來きた時ときに卯平うへいは居ゐなかつた。

彼は夜になって、のっそりと戸口に立った。

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彼かれは夜よるに成なつてのつそりと戸口とぐちに立たつた。

勘次が庭へ出ようとして大戸をがらりと開けた時、卯平とぶつかりそうになった。

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勘次かんじが庭にはへ出でようとして大戸おほどをがらりと開あけた時とき卯平うへいと衝突つきあたり相さうに成なつた。

勘次は足元にずるずると横たわった蛇を見つけた刹那のごとく、ぞっとして退いた。

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勘次かんじは足あしもとにずる/\と横よこたはつた蛇へびを見みつけた刹那せつなの如ごとく悚然ぞつとして退去すさつた。

卯平は欠けた歯茎で煙管を横にかんでは、唇をぎっと締めると、口がすすきで裂いたように見えた。

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卯平うへいは缺かけた齒齦はぐきで煙管きせるを横よこに噛かんでは脣くちびるをぎつと締しめると口くちが芒すゝきで裂さいた樣やうに見みえた。

老いてから余計にのっそりした卯平の体は、それでも以前のがっしりした骨格がそびえて、そばにいる勘次を異様に圧した。

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老衰らうすゐしてから餘計よけいにのつそりした卯平うへいの身體からだは、それでも以前いぜんのがつしりした骨格ほねぐみが聳そびえて側そばに居ゐる勘次かんじを異樣いやうに壓あつした。

卯平は五、六日の間、毎日ただぶらぶらと出ては、たそがれ近くか、そうでなければ夜になって帰った。

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卯平うへいは五六日にちの間あひだ毎日まいにち唯たゞぶら/\と出でては黄昏近たそがれちかくかそれでなければ夜よるに成なつて歸かへつた。

勘次は毎日、唐鍬を持って林へ出た。

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勘次かんじは毎日まいにち唐鍬たうぐは持もつて林はやしへ出でた。

おつぎは半纏を引っ掛けて、針の師匠へ通った。

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おつぎは半纏はんてんを引掛ひつかけて針はりの師匠しゝやうへ通かよつた。

おつぎはもう幾年という長い間のことではあるが、それでも決まった月日を続けて針仕事に励む余裕がなく、ようやく手についたかと思うと途中を切ったり止めたりするので、思うような上達はなかった。

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おつぎはもう幾年いくねんといふ永ながい間あひだのことではあるが、それでも極きまつた月日つきひを繼續けいぞくして針仕事はりしごとを勵はげむ餘裕よゆうがなく漸やうやく手てについたかと思おもふと途中とちうを切きつたり止やめたりするので思おもふ樣やうな上達じやうたつはなかつた。

おつぎは暇を盗んでは、一生懸命で針を取った。

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おつぎは暇ひまを偸ぬすんでは一生懸命しやうけんめいで針はりを執とつた。

卯平がのっそりとして箸を持つのは、毎朝こせこせと忙しい勘次がわらじをはいて出ようとする時である。

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卯平うへいがのつそりとして箸はしを持もつのは毎朝まいあさこせ/\と忙いそがしい勘次かんじが草鞋わらぢを穿はいて出でようとする時ときである。

おつぎは卯平のために火鉢へ炭火を埋けてやったり、お鉢をそばへ供えたりするので、いくらか時間が遅れる。

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おつぎは卯平うへいの爲ために火鉢ひばちへ煨おきを活いけてやつたり、お鉢はちを側そばへ供そなへたりするので幾いくらか時間じかんが後おくれる。

そうすると勘次は、かついだ唐鍬をどさりと置いたり、敷居を出たり入ったり、ただもじもじとしていては、口に出せない何かを包むような恐ろしい権幕でおつぎを見る。勘次はそれでも満足しないで、おつぎの姿が戸口を出るまでは庭に立っていることもある。

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さうすると勘次かんじは擔かついだ唐鍬たうぐはをどさりと置おいたり、閾しきゐを出でたり這入はひつたり、唯たゞ忸怩もぢ/\として居ゐては、口くちに出だせない或ある物ものを包つゝむやうな恐おそろしい權幕けんまくでおつぎを見みる、勘次かんじはそれでも慊あきたらないでおつぎの姿すがたが戸口とぐちを出でるまでは庭にはに立たつて居ゐることもある。

勘次は毎朝出て行く方面が違っているにもかかわらず、同時に立って行くのを見なければ心が済まないのであった。

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勘次かんじは毎朝まいあさ出でて行ゆく方面はうめんが異ことなつて居ゐるにも拘かゝはらず、同時どうじに立たつて行ゆくのを見みなければ心こゝろが濟すまないのであつた。

毎朝そうするので

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毎朝まいあささうするので

「おとっつあんは行けな。爺さんのことを見てやらなくちゃなるまいな」

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「おとつゝあは行いけな、爺ぢいこと見みてやんなくつちや成なんめえな」

おつぎはひそかに勘次をたしなめて言うことがある。

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おつぎは竊ひそかに勘次かんじを窘たしなめていふことがある。

勘次は恐ろしい権幕でじっと立ったまま、おつぎを睨んで、そうして卯平をちらと一目見ては、卯平の目を憚るようにして、さっさと唐鍬をかついで出て行く。

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勘次かんじは恐おそろしい權幕けんまくで凝然ぢつと立たつた儘まゝおつぎを睨にらんでさうして卯平うへいをちらと一瞥べつしては、卯平うへいの目めを憚はゞかる樣やうにしてさつさと唐鍬たうぐはを擔かついで出でて行ゆく。

卯平は自分のためにおつぎが遅くなる時には

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卯平うへいは自分じぶんの爲ためにおつぎが遲おそく成なる時ときには

「おれは自分でやるから、お前は構わないで行けよ」

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「俺おら自分じぶんでやつから汝わりや構かまあねえで行いけよ」

と、おつぎを促し立てた。

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おつぎを促うながし立たてた。

卯平は当座のうちはそこらここらへ行っては、自分からは求めないでも、しばらく会わなかった間柄で、短い日の落ちるのも知らずに話をしては、百姓相応なまずいごちそうになるのであったが、だんだん互いに珍しくなくなってからは、彼はあまり外へも出ないで、ぽつんとして好きな煙草にのみかかりきった。

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卯平うへいは當座たうざの内うちは其處そこら此處ここらへ行いつては自分じぶんからは求もとめないでも、暫しばらく遭あはなかつた間柄あひだがらで、短みじかい日ひの落おちるのも知しらずに噺はなしをしては百姓ひやくしやう相當さうたうな不味まづい馳走ちそうに成なるのであつたが、段々だん/\互たがひに珍めづらしくなくなつてからは彼かれは餘あまり外そとへも出でないで㷀然ぽつさりとして好すきな煙草たばこにのみ屈託くつたくした。

彼は昼飯というと、ことに冷たい粗い飯をいとって、箸を取るのがつらいようでもあった。

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彼かれは晝飯ひるめしといふと殊ことに冷つめたい粗剛こはい飯めしを厭いとうて箸はしを執とるのが辛つらいやうでもあつた。

それで彼は時々村の店へ行って、豆腐の一丁くらいで腹を塞いだ。

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其それで彼かれは時々とき/″\村落むらの店みせへ行いつて豆腐とうふの一丁位ちやうぐらゐに腹はらを塞ふさげた。

皿の豆腐を隅から箸でちぎってみては、あまりに冷たいので、腰の痛みを思い出して小さな鍋を借りて温めた。

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皿さらの豆腐とうふを隅すみから箸はしで拗切ちぎつて見みては餘あまりに冷つめたいので、腰こしの痛いたみを思おもひ出だして小ちひさな鍋なべを借かりて暖あたゝめた。

そうしてはつい一杯の酒がほしくなって、そこでむっつりと時間を潰した。

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さうしては遂つひ一杯ぱいの酒さけが欲ほしくなつて其處そこでむつゝりと時間じかんを潰つぶした。

豆腐は彼の歯茎に、もっとも適した食べ物であった。

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豆腐とうふは彼かれの齒齦はぐきに最もつとも適當てきたうした食料しよくれうであつた。

卯平は体が悪くなってからわずかの間でも覚悟をしたので、いくらでも財布には蓄えができていた。

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卯平うへいは身體からだが惡わるく成なつてから僅わづかの間あひだでも覺悟かくごをしたので幾いくらでも財布さいふには蓄たくはへが出來できて居ゐた。

彼はどれほど節約しても、ついにじりじりと減って行くのみである財布にすがって、すすきで裂いたように閉じたその口に、何でもかみ殺しているのだという様子をして、その日その日と刻んで過ごした。

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彼かれは何程なにほど節約せつやくしても遂つひにじり/\と減へつて行ゆくのみである財布さいふに縋すがつて、芒すゝきで裂さいた樣やうに閉とぢた其その口くちに何なんでも噛かみ殺ころして居ゐるのだといふ容子やうすをして其その日ひ々々と刻きざんで過すごした。

彼は一日じっとして、冷たい火鉢の前にあぐらをかいていることもあった。

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彼かれは一日にち凝然ぢつとして冷つめたい火鉢ひばちの前まへに胡坐あぐらを掻かいて居ゐることもあつた

与吉は学校から帰って、ひっそりとした家にただ卯平がむっつりとしているのを見ると、威勢よく駆けて来たのもしょげて、風呂敷包みの本をばたりと座敷へ投げて、庭へ出てしまう。

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與吉よきちは學校がくかうから歸かへつてひつそりとした家いへに只たゞ卯平うへいがむつゝりとして居ゐるのを見みると威勢ゐせいよく駈かけて來きたのも悄しよげて風呂敷包ふろしきづゝみの書籍しよせきをばたりと座敷ざしきへ投なげて庭にはへ出でて畢しまふ。

卯平は

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卯平うへいは

「よき、待ってろ、そら」

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「よき、待まつてろ、そら」

と、財布から面倒に五厘の銅貨を拾い出して投げてやる。

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と財布さいふから面倒めんだうに五厘りんの銅貨どうくわを拾ひろひ出だして投なげてやる。

与吉は戸の陰にいては、もじもじして容易に取らないで、しかもほしそうにむしろの上の銅貨を見る。

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與吉よきちは戸との陰かげに居ゐては忸怩もぢ/\して容易よういに取とらないで然しかも欲ほし相さうに筵むしろの上うへの銅貨どうくわを見みる。

卯平はそうすると、またのっそりとけだるげに体を戸口まで動かして、与吉の手に渡してやる。

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卯平うへいはさうすると又またのつそりと懶ものうげに身體からだを戸口とぐちまで動うごかして與吉よきちの手てに渡わたしてやる。

与吉は一散に駆けて、菓子を求めに行く。

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與吉よきちは一散さんに駈かけて菓子くわしを求もとめに行ゆく。

卯平の窪んだ茶色の目が、後で独りしかめたようになるのである。

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卯平うへいの窪くぼんだ茶色ちやいろの眼めが後あとで獨ひとり蹙しがんだやうに成なるのである。

卯平が村の店にけだるい体を据えて煙草を吹かしている所へ、与吉が行き合わせることがあっても、遠くのほうから卯平を見ていて、近づきもしないが去ろうともしないでいる。

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卯平うへいが村落むらの店みせに懶ものうい身體からだを据すゑて煙草たばこを吹ふかして居ゐる處ところへ與吉よきちは行合いきあはせることがあつても遠とほくの方はうから卯平うへいを見みて居ゐて、近ちかづきもしないが去さらうともしないで居ゐる。

卯平は必ずガラス戸を立てて、店台から自分で菓子を取ってやる。

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卯平うへいは屹度きつとガラス戸どを立たてて店臺みせだいから自分じぶんで菓子くわしをとつてやる。

それでも与吉は、菓子をかじりながらそばへは寄ろうともしなかった。

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それでも與吉よきちは菓子くわしを噛かぢりながら側そばへは寄よらうともしなかつた。

「与吉らはたいしたもんだな、始終もらって」

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「與吉よきちらたえしたもんだな、始終とほしてもらつてな」

店の女房が言うのを聞くのは、与吉よりもむしろ卯平が心に満足を感じるのであった。

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店みせの女房にようばうがいふのを聞きくのは與吉よきちよりも寧むしろ卯平うへいが心こゝろに滿足まんぞくを感かんずるのであつた。

しかし与吉はこうしてだんだん卯平に近づいて、学校から帰ったといっては

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然しかし與吉よきちは恁かうして段々だん/\卯平うへいに近ちかづいて學校がくかうから歸かへつたといつては

「爺さん」

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「爺ぢい」

と言って戸口に立つようになった。

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といつて戸口とぐちに立たつやうに成なつた。

ついには彼は

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遂つひには彼かれは

「爺さん、くれないか」

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「爺ぢいくんねえか」

と、上がり框に胸をもたせて、ばたばたと下駄で土間を叩きながら、卯平に銭を請うようになった。

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と上あがり框がまちに胸むねを持もたせて、ばた/\と下駄げたで土間どまを叩たゝきながら卯平うへいに錢ぜにを請こふやうに成なつた。

それでも彼は、銭とははっきりとは言わない。

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それでも彼かれは錢ぜにとは明白地あからさまにはいはない。

「お前は、何をくれというんだい」

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「汝わりや、何なにくろつちんでえ」

むっつりした卯平がわざとこう聞くと

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むつゝりした卯平うへいが態わざとかう聞きくと

「くれないか、買うんだから」

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「呉くんねえか、買かあんだから」

与吉はまたぼんやりと、しかも熱心に求める。

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與吉よきちは又またぼんやりと然しかも熱心ねつしんに要求えうきうする。

その態度を卯平は、ただ快く思うのであった。

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其その態度たいどを卯平うへいは只たゞ快こゝろよく思おもふのであつた。

与吉がなつくまでには、日数がたった。

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與吉よきちが懷なづくまでには日數ひかずが經たつた。

卯平は勘次との間は予期していたごとく冷ややかではあったが、ちょうど落ち着かない藁屑を足でかき払っては鶏がとうとうその巣を作るように、彼は互いにこそばゆい勘次のそばに、いくらかずつでも身も心も落ち着かねばならなく余儀なくされた。

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卯平うへいは勘次かんじとの間あひだは豫期よきして居ゐた如ごとく冷ひやゝがではあつたが、丁度ちやうど落付おちつかない藁屑わらくづを足あしで掻かつ拂ぱいては鷄にはとりが到頭たうとう其その巣すを作つくるやうに、彼かれは互たがひにこそつぱい勘次かんじの側そばに幾分いくぶんづゝでも身みも心こゝろも落付おちつけねばならなく餘儀よぎなくされた。

そうして彼は、自分の定まった家そのものはたとえどうであろうとも、心の一部には遠慮から離れた余裕が生じて来て、彼はわずかに五、六日と思ううちに三十日以上を過ごしてしまったのであった。

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さうして彼かれは自分じぶんの定さだまつた家いへ其その物ものは假令たとひどうであらうとも、心こゝろの一部ぶには遠慮ゑんりよから離はなれた餘裕よゆうが生しやうじて來きて彼かれは僅わづかに五六日にちと思おもふ内うちに卅日にち以上いじやうを經過けいくわして畢しまつたのであつた。

その間、彼はただの一度でも柔らかな飯を快く飲み下したことがない。労働者の多くむさぼらねばならない丈夫な胃は、とうてい柔らかな物に堪え得るところではない。

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其その間あひだ彼かれは只たゞの一度どでも軟やはらかな飯めしを快こゝろよく嚥のみ下くだしたことがない、勞働者らうどうしやの多おほく貪むさぼらねばならぬ強健きやうけんなる胃ゐは到底たうてい軟やはらかな物ものに堪たへ得うる處ところではない。

歯に硬く感じる物でなければ、食事から食事までの間を保ち得ないほど、たちまちに空腹を感じてしまうからである。

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齒はに硬こはく感かんずる物ものでなければ食事しよくじから食事しよくじまでの間あひだを保たもち能あたはぬ程ほど忽たちまちに空腹くうふくを感かんじて畢しまふからである。

したがって、いずれの家庭にあっても、老いた者と若い者との間には、この点の折り合いが難しい。

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隨したがつて孰いづれの家庭かていに在あつても老者らうしやと壯者さうしやとの間あひだには此この點てんの調和てうわが難事なんじである。

しかし卯平は、老いた身をようやくのことで投げかけた心の底にわだかまった遠慮と、生まれつきの無口とで、自分から求めることは少しもなかった。

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然しかし卯平うへいは老衰らうすゐの身みを漸やうやくのことで投なげ掛かけた心こゝろの底そこに蟠わだかまつた遠慮ゑんりよと性來せいらいの寡言むくちとで、自分じぶんから要求えうきうすることは寸毫すんがうもなかつた。

彼はただ空腹を凌ぐために、日ごとにまずい口をしいて動かしつつあるのである。

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彼かれは只たゞ空腹くうふくを凌しのぐ爲ために日毎ひごとに不味まづい口くちを強しひて動うごかしつゝあるのである。

粗末な食べ物は、小さい時からおつぎの目にも口にもなじんでいるので、そこには何も気がつかなかった。

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疎惡そあくな食料しよくれうは少時せうじからおつぎの目めにも口くちにも熟じゆくして居ゐるので、其處そこには何なんの心こゝろも附つかなかつた。

まずそうな様子をして箸を取るのは、卯平がすべての場合を通じての状態なので、おつぎの目には格別の注意を起こさせるべききっかけが一つもつかまえられなかった。

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不味相まづさうな容子ようすをして箸はしを執とるのは卯平うへいが凡すべての場合ばあひを通つうじての状態じやうたいなので、おつぎの目めには格別かくべつの注意ちういを起おこさしむべき動機どうきが一ひとつも捉とらへられなかつた。

こうしておつぎは卯平に向かって、彼がいくらかずつでも余計に満足し得る程度にまで心を尽くすことが、善意をもってしても、むしろ冷淡であるかのように見えねばならなかった。

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恁かうしておつぎは卯平うへいに向むかつて彼かれが幾分いくぶんづゝでも餘計よけいに滿足まんぞくし得うる程度ていどにまで心こゝろを竭つくすことが、善意ぜんいを以もつてしても寧むしろ冷淡れいたんであるが如ごとく見みえねばならなかつた。

しかし卯平は、けっして心の底からおつぎを憎まなかった。

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然しかし卯平うへいは決けつして衷心ちうしんからおつぎを憎にくまなかつた。

卯平は時々外へ出ては豆腐を食べて、自分の膳の箸を取らないことはあるのであったが、それでも勘次は、三人のみが家族であった時よりも穀物の減る量が増えて来たことを、たちまちに目に止めた。

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卯平うへいは時々とき/″\外そとへ出でては豆腐とうふを喫きつして自分じぶんの膳ぜんの箸はしを執とらぬことはあるのであつたが、それでも勘次かんじは三人にんのみが家族かぞくであつた時ときよりも穀物こくもつの減少げんせうする量りやうが殖ふえて來きたことを忽たちまちに目めに止とめた。

どれほど大きな体でも、卯平は八十に近い老いた者である。

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何どれ程ほど大おほきな身體からだでも卯平うへいは八十に近ちかい老衰者らうすゐしやである。

一日の食べ物がどれほど要るか、それは知れたものである。

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一日いちにちの食料しよくれうがどれ程ほど要いるかそれは知しれたものである。

それでも勘次は、これまでよりも余計に費やさねばならない穀物について、その卑しい心がとうてい騒がされねばならなかった。

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それでも勘次かんじは從來これまでよりも餘計よけいに費つひやさねばならぬ穀物こくもつに就ついて彼かれの淺猿さもしい心こゝろが到底たうてい騷さわがされねばならなかつた。

勘次は卯平のいない時には、それとはなく独りぶつぶつと呟くことがあった。

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勘次かんじは卯平うへいの居ゐぬ時ときにはそれとはなく獨ひとりぶつ/\と呟つぶやくことがあつた。

与吉はそれを聞いていた。

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與吉よきちはそれを聞きいて居ゐた。

彼は、火鉢の前にじっとしていては座敷へ上がる鶏をしいしいと追いながら、むっつりとしている卯平に小さな銅貨をもらっては、それを口へ入れたり座敷へ落としたりしながら、卯平へいろいろなことをしゃべって聞かせた。

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彼かれは、火鉢ひばちの前まへに凝然ぢつとして居ゐては座敷ざしきへ上あがる鷄にはとりをしい/\と逐おひつつむつゝりとして居ゐる卯平うへいに小ちひさな銅貨どうくわを貰もらつては、それを口くちへ入いれたり座敷ざしきへ落おとしたりしながら卯平うへいへ種々いろ/\なことを饒舌しやべつて聞きかせた。

「爺さん」

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「爺ぢい」

と呼びかけて、彼はある日こう言った。

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と喚よび掛かけて彼かれは或ある日ひ斯かういつた。

「爺さんが来てから米がしっかり減って仕方がないって言ったぞう」

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「爺ぢい來きてから米こめしつかり減へつてしやうねえつて云ゆつたぞう」

「うん」

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「うむ」

卯平は口にくわえた煙管を徐々に手に取って

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卯平うへいは口くちに銜くはへた煙管きせるを徐おもむろに手てに取とつて

「おとっつあんでもあるだろう」

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「おとつゝあでもあんべ」

卯平はげっそりと言った。

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卯平うへいはげつそりといつた。

「おとっつあんが、何遍も言ったんだわ」

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「おとつゝあ、何遍なんべんも云ゆつたんだわ」

卯平はまた煙管をかんで、手が少し震えた。

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卯平うへいは又また煙管きせるを噛かんで手てが少すこし顫ふるへた。

「言うだろうさ」

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「云ゆはざらに」

と卯平は、じっと目をしかめながら、少し壊れた壁の一方を睨めながら言った。

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と卯平うへいは凝然ぢつと目めを蹙しかめつゝ少すこし壤こはれた壁かべの一方ぱうを睨ねめつゝいつた。

霜解けの庭をかき立てていた鶏が、くるりと指を巻いては足を上げて、驚いたように周りを見て、また足を踏みつけ踏みつけのっそり歩いて、戸口の敷居へしばらく乗って、ずっと伸ばした首を少し傾けて卯平を見て、ついと座敷へ上がった。

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霜解しもどけの庭にはを掻かき立たてゝ居ゐた鷄とりがくるりと指ゆびを捲まいては足あしを擧あげて驚おどろいた樣やうに周圍あたりを見みて、又また足あしを踏ふみつけ/\のつそり歩あるいて戸口とぐちの閾しきゐへ暫しばらく乘のつてずつと延のばした首くびを少すこし傾かたむけて卯平うへいを見みてついと座敷ざしきへ立たつた。

卯平はいきなり煙管を叩きつけた。

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卯平うへいはいきなり煙管きせるを叩たゝきつけた。

鶏は慌てて座敷のむしろへ泥を落として、敷居の外に脚を突き出したまましばらく転がっていたが、ついにはよろけよろけ鳴き騒ぎながら、遠く逃げた。

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鷄とりは慌あわてゝ座敷ざしきの筵むしろへ泥どろを落おとして閾しきゐの外そとに脚あしを突つき出だした儘まゝ暫しばらく轉ころがつて居ゐたが、遂つひには蹌跟よろけ/\鳴なき騷さわぎつゝ遠とほく遁にげた。

白い毛が抜けて、そこらじゅうにおびただしく散らばった。

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白しろい毛けが拔ぬけて其處そこら中ぢうに夥おびたゞしく散亂さんらんした。

煙管は鶏からさらに強く戸口の敷居を打って、庭の土に止まった。

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煙管きせるは鷄とりから更さらに強つよく戸口とぐちの閾しきゐを打うつて庭にはの土つちに止とまつた。

「爺さん、取ってやろうか」

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「爺ぢいとつてやんべか」

しばらくして、与吉は卯平の顔をのぞくようにして言った。

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暫しばらくして與吉よきちは卯平うへいの顏かほを覗のぞくやうにしていつた。

「よこせ」

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「よこせ」

卯平はしばらくたってから、むっつりとして舌を鳴らしながら言った。

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卯平うへいは暫しばらく經たつてからむつゝりとして舌したを鳴ならしながらいつた。

「さあ」

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「さあ」

与吉の出した煙管を、卯平は拭きもせずに口へくわえた。

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與吉よきちの出だした煙管きせるを卯平うへいは拭ふきもせずに口くちへ銜くはへた。

しばらくしてから、卯平は苦い顔をしてじゅりじゅりと、こそばゆい口の泥をぴょっと吐き出して、それから口を着物でこすった。

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暫しばらくしてから卯平うへいは苦にがい顏かほをしてぢより/\とこそつぱい口くちの泥どろをぴよつと吐はき出だしてそれから口くちを衣物きものでこすつた。

彼はまた煙草を吸いつけようとして、羅宇にひびが入ったのを知った。

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彼かれは又また煙草たばこを吸すひつけようとしては羅宇らうに罅ひゞが入いつたのを知しつた。

彼はくたくたになった紙を袂から探り出して、それを唾で濡らして、きわめて面倒にぐるぐるとそのひびを巻いた。

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彼かれはくた/\に成なつた紙かみを袂たもとから探さぐり出だしてそれを睡つばで濡ぬらして極きはめて面倒めんだうにぐる/\と其その罅ひゞを捲まいた。

卯平はそれからふいと出て、夜まで帰らなかった。

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卯平うへいはそれからふいと出でて夜よるまで歸かへらなかつた。

勘次は鶏の抜け毛を見て、いたちが出たのではないかという心配を抱いて、そこらじゅうを隈なく見た。

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勘次かんじは鷄とりの拔毛ぬけげを見みて鼬いたちが出でたのではないかといふ懸念けねんを懷いだいて其處そこら中ぢうを隈くまなく見みた。

鶏はほかの鶏がことごとくねぐらについても帰らなかった。

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鷄とりは他ほかの鷄とりが悉こと/″\く塒とやに就ついても歸かへらなかつた。

いたちは一羽殺せば必ずまた他を襲うので、勘次は少なからずその心を騒がしたのであった。

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鼬いたちは一羽は殺ころせば必かならず復また他ほかを襲おそふので勘次かんじは少すくなからず其その心こゝろを騷さわがしたのであつた。

「爺さんがぶっ飛ばしたんだわ」

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「爺ぢい打ぶつとばしたんだわ」

与吉は勘次へ言った。

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與吉よきちは勘次かんじへいつた。

「どうしてだ」

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「どうしてだ」

勘次は驚いた目を見開いて、慌てて聞いた。

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勘次かんじは驚おどろいた眼めを睜みはつて慌あわてゝ聞きいた。

「座敷へ上がったら、煙管をぶつけたんだ。そんでおれが煙管を取ってやったんだ」

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「座敷ざしきへ上あがつたら煙管きせる打ぶつゝけたんだ。そんで俺おれ煙管きせるとつてやつたんだ」

勘次は餌をまいて、鶏を集めてみた。

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勘次かんじは餌料ゑさを撒まいて鷄とりを聚あつめて見みた。

いったんねぐらについた鶏が、餌を見てはみなかごからばさばさと飛び下りて、こっこっと鳴きながら爪でかき払いかき払い、争ってついばんだ。

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一旦たん塒とやに就ついた鷄とりが餌料ゑさを見みてはみんな籃かごからばさ/\と飛とびおりてこツこツと鳴なきながら爪つめで掻かつ拂ぱき/\爭あらそうて啄つゝいた。

勘次はついに、鶏の数が足りていないことを確かめざるを得なかった。

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勘次かんじは遂つひに鷄とりの數かずの不足ふそくして居ゐることを確たしかめざるを得えなかつた。

卯平は例のごとく豆腐でコップ酒を傾けて来て、晩飯を欲しなかった。

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卯平うへいは例れいの如ごとく豆腐とうふでコツプ酒ざけを傾かたむけて來きて晩餐ばんさんを欲ほつしなかつた。

彼の皺深く刻んだ頬に、ほんのりと赤みを帯びていた。

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彼かれの皺しわ深ふかく刻きざんだ頬ほゝにほんのりと赤味あかみを帶おびて居ゐた。

彼は火鉢の前にあぐらをかいたまま、一言も言わない。

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彼かれは火鉢ひばちの前まへに胡坐あぐらを掻かいた儘まゝ一言ごんもいはない。

おつぎが甘えた舌で言っても、返事もしなかった。

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おつぎが甘あまえた舌したでいつても返辭へんじもしなかつた。

勘次も卯平のそばを退いて、ただ恐ろしくひがんだ様子をしていた。

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勘次かんじも卯平うへいの側そばを退去すさつて只たゞ恐おそろしく僻ひがんだ容子ようすをして居ゐた。

おつぎもついに言わなかった。

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おつぎも遂つひにいはなかつた。

与吉はただ、ぐっすりと眠っていた。

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與吉よきちは只たゞぐつすりと眠ねむつて居ゐた。

恐れのあまり物陰にじっと潜んでいた鶏は、次の朝ようやくほかの鶏の群れに交じって歩いたけれど、いくらかまだ足を引きずっていた。

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驚怖きやうふの餘あまり物陰ものかげに凝然ぢつと潜伏せんぷくして居ゐた鷄とりは次つぎの朝あさ漸やうやく他たの鷄とりの群むれに交まじつて歩あるいたけれど幾いくらかまだ跛足びつこ曳ひいて居ゐた。

勘次はわざと卯平へ見せつけるように、その夜ねぐらについた時、その鶏をかごに伏せて、戸口の庭ぶたの上に三日も四日も置いたのであった。

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勘次かんじは態わざと卯平うへいへ見みせつける樣やうに其その夜よ塒とやに就ついた時とき其その鷄とりを籠かごに伏ふせて、戸口とぐちの庭葢にはぶたの上うへに三日かも四日かも置おいたのであつた。

卯平は巻きつけた紙へ煙脂のしみた煙管をじゅうじゅうと鳴らしながら、むずかしい顔がしばらく解けなかった。

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卯平うへいは捲まきつけた紙かみへ煙脂やにの浸しみた煙管きせるをぢう/\と鳴ならしながら難むづかしい顏かほが暫しばらく解とけなかつた。

卯平はきれい好きなので、むっつりとしながら独りでいる時には、草箒で土間の軒の下を掃いては、鶏が足の爪でかき乱した庭ぶたの周りをも掃きつけておいた。

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卯平うへいは清潔好きれいずきなのでむつゝりとしながら獨ひとりで居ゐる時ときには草箒くさばうきで土間どまの軒のきの下したを掃はいては鷄とりが足あしの爪つめで掻かき亂みだした庭葢にはぶたの周圍あたりをも掃はきつけて置おいた。

彼は座敷の中も掃除をして、毎朝布団をきちんと始末するように、無口な口からおつぎに言いつけた。

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彼かれは座敷ざしきの内うちも掃除さうぢをして毎朝まいあさ蒲團ふとんを整然ちやんと始末しまつする樣やうに寡言むくちな口くちからおつぎに吩咐いひつけた。

清潔になることは勘次も悪いこととは思わなかったが、いくらもない家財道具へ少しでも手を掛けられるのが、懐でも探られるように、勘次には何となく不安の念が起こされるのであった。

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清潔きれいに成なることは勘次かんじも惡わるいことには思おもはなかつたが、幾いくらもない家財道具かざいだうぐへ少すこしでも手てを掛かけられるのが懷ふところでも探さぐられる樣やうに勘次かんじには何なんとなく不安ふあんの念ねんが起おこされるのであつた。

勘次の目には、卯平がよく村の店に行くのは贅沢な老人であるように、ひがんで見えるところもあった。

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勘次かんじの目めには卯平うへいが能よく村落むらの店みせに行ゆくのは贅澤ぜいたくな老人としよりである樣やうに僻ひがんで見みえる廉かどもあつた。

ただそうしている間に旧暦の年末が近づいて、どこの家でも小麦や蕎麦の粉を挽いた。

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只たゞさうして居ゐる間うちに舊暦きうれきの年末ねんまつが近ちかづいて何處どこの家うちでも小麥こむぎや蕎麥そばの粉こを挽ひいた。

卯平は時々は、東隣の門をもくぐった。

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卯平うへいは時々とき/″\は東隣ひがしとなりの門もんをも潜くゞつた。

主人夫婦は、丈夫だといってもやつれた卯平を見ると憐れになって

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主人夫婦しゆじんふうふは丈夫ぢやうぶだといつても窶やつれた卯平うへいを見みると憐あはれになつて

「体はどうしたね」

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「身體からだはどうしたえ」

とよく聞いた。

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と能よく聞きいた。

「ええ、今の分じゃ、そんなに悪いということもないが」

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「えゝ、今分いまぶんぢや、さうだに惡わりいつちこともねえが」

と、卯平はいつも煮えきらない言い方をして、それを聞かれることをさすがに心の内で喜んで、窪んだ目をしかめるようにした。

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と卯平うへいはいつも煮にえ切きらぬいひ方かたをして、其それを聞きかれることを有繋さすがに心こゝろの内うちに悦よろこんで窪くぼんだ目めを蹙しかめる樣やうにした。

「それでも勘次はよくするかえ」

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「それでも勘次かんじは能よくするかえ」

おかみさんが聞けば

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内儀かみさんが聞きけば

「ありゃもう、以前からああ言うんだから」

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「ありや、はあ、以前めえかたつからあゝゆんだから」

卯平はぶすりと言うのである。

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卯平うへいはぶすりといふのである。

「おつぎはどうだね」

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「おつぎはどうだえ」

「ありゃあそれ、勘次とは違うから。何と言ってもさすがに、赤ん坊の時からのだから」

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「ありやあそれ、勘次かんじたあ違ちがあから、何なんちつても有繋まさか赤あかん坊ばうん時ときつからのがだから」

「粉挽きはたんとした様子かえ、それでも」

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「節挽せちびきはたんとした容子ようすかえそれでも」

「ええ、おつうのことを連れて行って、南で挽くのは挽いたようだが、桶へ入れたままでふたをしたきりしまっておくから、わしはどれくらいあるもんだか見もしないが」

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「えゝ、おつうこと連つれてつて、南みなみで挽ひくなあ挽ひいたやうだが、桶をけさ入せえた儘まゝで蓋ふたしたつ切きり藏しまつて置おくから、わしやどのつ位くれえあるもんだか見みもしねえが」

「勘次は柔らかい物でも少しはこしらえてくれるかね」

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「勘次かんじは軟やはらかい物ものでも少すこしは拵こしらえてくれるかね」

「ええ、毎日いっしょに食べちゃいるんだが、なあに、歯さえ丈夫なら粗くたって構いやしないが」

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「えゝ、毎日まいんち同士どうしにたべちや居ゐんだがなあに齒はせえ丈夫ぢやうぶなら粗剛こうえつたつて管かまやしねえが」

「それじゃ蕎麦粉でも少しやろうかね。蕎麦がきでもこしらえて食べたほうがいいよ。蕎麦に打っちゃ冷えるが、蕎麦がきは暖まるというからね」

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「それぢや蕎麥粉そばこでも少すこし遣やらうかね蕎麥掻そばがきでも拵こしらへてたべた方はうが善いいよ、蕎麥そばに打うつちや冷ひえるが蕎麥掻そばがきは暖あつたまるといふからね」

おかみさんは木綿で作った袋へ蕎麦粉を二升ばかり入れて

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内儀かみさんは木綿もめんで作つくつた袋ふくろへ蕎麥粉そばこを二升しやうばかり入いれて

「勘次も泣きだから、それでも今に暮らしもだんだんよくなるだろうから、そうすりゃ悪くばかりもすまいよ。どうも昔から性が合わないんだからね。まあ年を取ったら仕方がないから我慢しているんだよ。あまりひどけりゃ他人がともども見ちゃいないから。それだが勘次も、さすがにそれほどでもないんだろうしね」

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「勘次かんじも泣なきだから、それでも今いまに生計くらしもだん/\善よくなんだらうから、さうすりや惡わるくばかりもすまいよ、どうも昔むかしから合性あひしやうが惡わるいんだからね、まあ年齡としとつたら仕方しかたがないから我慢がまんして居ゐるんだよ、餘あんまり酷ひどけりや他人ひとが共々とも/″\見みちや居ゐないから、それだが勘次かんじも有繋まさかそれ程ほどでもないんだらうしね」

おかみさんは慰めて言った。

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内儀かみさんは慰なぐさめていつた。

卯平は蕎麦粉を大事にして、勘次が開墾に出た後で、薬缶の湯を沸かしては蕎麦がきをこしらえて食べた。

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卯平うへいは蕎麥粉そばこを大事だいじにして、勘次かんじが開墾かいこんに出でた後あとで藥罐やくわんの湯ゆを沸わかしては蕎麥掻そばがきを拵こしらへてたべた。

そのころは、彼の提げて来た二瓶の醤油はもうなくなっていた。

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其その頃ころは彼かれの提さげて來きた二罎びんの醤油しやうゆはもう無なくなつて居ゐた。

彼はその減って行くのを、さらに惜しいとは思わなかったが、しかし彼は、自分がいるうちは容易に瓶の分量が減らないのに、一日よそへ行っていた日はめっきりと少なくなっているのを、ある時ふと見つけて、少し不快に、かつ変に思いつつあった。

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彼かれは其その減へつて行ゆくのを更さらに惜おしいとは思おもはなかつたが、然しかし彼かれは自分じぶんが居ゐる内うちは容易よういに罎びんの分量ぶんりやうが減へらないのに、一日にち餘處よそへ行いつて居ゐた日ひは滅切めつきりと少すくなくなつて居ゐるのを或ある時ときふと發見はつけんして少すこし不快ふくわいに且かつ變へんに思おもひつゝあつた。

縄でくくった別の瓶の底のほうに、醤油が少しあった。

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繩なはで括くゝつた別べつの罎びんの底そこの方はうに醤油しやうゆが少すこしあつた。

卯平はそれでもそれを見つけて、ようやく蕎麦がきの味を補った。

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卯平うへいはそれでも其それを見みつけて漸やうやく蕎麥掻そばがきの味あぢを補おぎなつた。

瓶の底になった醤油は一番の醤油粕で仕込んだ安物で、塩の辛い味が舌を刺激するばかりでなく、苦味さえ加わっている。

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罎びんの底そこになつた醤油しやうゆは一番ばんの醤油粕しやうゆかすで造つくり込こんだ安物やすもので、鹽しほの辛からい味あぢが舌したを刺戟しげきするばかりでなく、苦味にがみさへ加くははつて居ゐる。

彼らはふだんそういう醤油でもめったに使わないので、多量に求める時でも十銭を越えないのである。

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彼等かれらは平生へいぜいさういふ醤油しやうゆでも滅多めつたに用もちゐないので多量たりやうに求もとめる時ときでも十錢せんを越こえないのである。

以前の卯平であれば、そういう味がふつうで、かつうまく感じるはずなのであるが、数年来うまい醤油を惜し気もなく使って来た口には、恐ろしいまずさを感じずにはいられなかった。

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以前いぜんの卯平うへいであればさういふ味あぢが普通ふつうで且かつ佳味うまく感かんずる筈はずなのであるが、數年來すうねんらい佳味うまい醤油しやうゆを惜氣をしげもなく使用しようして來きた口くちには恐おそろしい不味まづさを感かんぜずには居ゐられなかつた。

それでも蕎麦がきは、体が暖まるようで快かった。

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それでも蕎麥掻そばがきは身體からだが暖あたゝまる樣やうで快こゝろよかつた。

彼は食べた後の茶碗へ沸いた湯を注いで、箸で茶碗の内側を落として、そのまま棚へ置いた。

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彼かれはたべた後あとの茶碗ちやわんへ沸たぎつた湯ゆを注ついで箸はしで茶碗ちやわんの内側うちがはを落おとして其その儘まゝ棚たなへ置おいた。

そうしては彼は、毎日の仕事のように外へ出た。

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さうしては彼かれは毎日まいにちの仕事しごとのやうに外そとへ出でた。

勘次は一日の仕事を終えて帰って来ては、目ざとく卯平の茶碗を見て不審に思って、桶のふたを取ってみた。

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勘次かんじは一日にちの仕事しごとを畢をへて歸かへつて來きては目敏めざとく卯平うへいの茶碗ちやわんを見みて不審ふしんに思おもつて桶をけの蓋ふたをとつて見みた。

ついに彼は、卯平の袋を見つけた。

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遂つひに彼かれは卯平うへいの袋ふくろを發見はつけんした。

「おつう、お前がこの蕎麦粉を出してやったのか」

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「おつう、汝われ此この蕎麥そばつ粉こな出だして遣やつたのか」

勘次はおつぎに聞いた。

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勘次かんじはおつぎに聞きいた。

「おれが出すまいな」

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「俺おら出だすめえな」

おつぎは何も分からない様子で言った。

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おつぎは何なにも解かいせぬ容子ようすでいつた。

「蕎麦がきなんぞにしたって詰まりやしない。ろくにありもしない粉だ」

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「蕎麥そばツ掻かきなんぞにしたつて詰つまりやしねえ、碌ろくに有ありもしねえ粉こなだ」

彼は呟いた。

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彼かれは呟つぶやいた。

それから彼はまた

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それから彼かれは又また

「これももう、ありゃしない」

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「此これも、はあ、有ありやしねえ」

と、醤油の瓶を透して、それから振ってみて言った。

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醤油しやうゆの罎びんを透すかして其それから振ふつて見みていつた。

「おとっつあん、それにはないんだぞ」

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「おとつゝあ、それにやねえのがんだぞ」

おつぎは打ち消した。

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おつぎは打うち消けした。

「いいから、これっきりじゃきかないんだから」

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「えゝから、此これつ切きりぢやきかねえのがんだから」

勘次はおつぎを怒鳴りつけた。

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勘次かんじはおつぎを呶鳴どなりつけた。

彼はさらに袋の蕎麦粉を桶へ空けてしまって、なおぶつぶつしていた。

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彼かれは更さらに袋ふくろの蕎麥粉そばこを桶をけへ明あけて畢しまつて猶なほぶつ/\して居ゐた。

手ランプが薄暗くともされた時、卯平はのっそり帰って来た。

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手てランプが薄闇うすぐらく點ともされた時とき卯平うへいはのつそり歸かへつて來きた。

彼は膳に向かおうともしないが、火鉢の前にどさりと座ったまま、例のわだかまりのありそうな様子をしては、右手の人差し指を掛けてぎっと握った煙管を横にかんでいた。

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彼かれは膳ぜんに向むかはうともしないが火鉢ひばちの前まへにどさりと坐すわつた儘まゝ、例れいの蟠わだかまりの有相ありさうな容子ようすをしては右手うしゆの人ひとさし指ゆびを掛かけてぎつと握にぎつた煙管きせるを横よこに噛かんで居ゐた。

「おつう、お前、もっとここへ火を取ってくれないか」

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「おつう、汝われまつと此處ここさ火ひいとつてくんねえか」

卯平はそれだけ言って、依然として火もない煙管をかんだ。

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卯平うへいはそれだけいつて依然いぜんとして火ひもない煙管きせるを噛かんだ。

おつぎはそだを折って、薬缶の下を燃やしてやった。

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おつぎは麁朶そだを折をつて藥罐やくわんの下したを燃もやしてやつた。

薬缶が鳴り出した時、卯平はけだるそうな体をゆっさりと起こして、そこらをしきりに探しはじめた。

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藥罐やくわんが鳴なり出だした時とき卯平うへいは懶ものうさ相さうな身體からだをゆつさりと起おこして其處そこらを頻しきりに探さがしはじめた。

「何だい、爺さん」

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「何なんでえ爺ぢい」

おつぎはすぐに聞いた。

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おつぎは直すぐに聞きいた。

「うん、袋よ」

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「うむ、袋ふくろよ」

卯平はきわめて簡単に言った。

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卯平うへいは極きはめて簡單かんたんにいつた。

「これだろう爺さん、蕎麦粉の入ってたのは。おれはどうしたんだか知らないから、桶の中へ空けておいたっけや。そんじゃ爺さんのだったっけなあ、そら。どうして袋へなんぞ入れてたんだい、爺さんは」

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「此これだんべ爺ぢい、蕎麥そばつ粉こなへえつてたのな、俺おらどうしたんだか知しんねえから桶をけん中なかさ明あけて置おいたつきや、そんぢや爺ぢいがんだつけなあそら、どうして袋ふくろさなんぞ入せえてたんでえ爺ぢいは」

おつぎは事もなげに言った。

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おつぎは事こともなげにいつた。

「蕎麦がきでもしたらよかろうと、おかみさんが出したっけのよ」

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「蕎麥そばツ掻かきでもしたらよかつぺつてお内儀かみさん出だしたつけのよ」

卯平はもとの位置に座って言った。

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卯平うへいは舊もとの位置ゐちに坐すわつていつた。

「そうかあ。そんじゃ悪かったっけな、爺さん。そんじゃおれが今入れてやるからな」

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「さうかあ、そんぢや惡わるかつたつけな爺ぢいそんぢや俺おれ今いま入せえてやつかんなよ」

おつぎは、勘次が寝る壁際の桶から、さっきのよりははるかに多い量を袋へ入れてやった。

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おつぎは勘次かんじが寢ねる壁際かべぎはの桶をけから先刻さつきのよりは遙はるかに多量たりやうを袋ふくろへ入いれてやつた。

そうしておつぎは、勘次を尻目で見た。

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さうしておつぎは勘次かんじを尻目しりめで見みた。

卯平はまた蕎麦がきをこしらえた。

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卯平うへいは復また蕎麥掻そばがきを拵こしらへた。

「おれが注いでやろうか、爺さん」

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「俺おれ注ついでやつべか爺ぢい」

火鉢のそばにいた与吉は、薬缶へ手を掛けた。

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火鉢ひばちの側そばに居ゐた與吉よきちは藥罐やくわんへ手てを掛かけた。

卯平は与吉のするがままに任せた。

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卯平うへいは與吉よきちのするが儘まゝに任まかせた。

卯平は比較的ゆったりと、茶碗を箸でかき混ぜた。

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卯平うへいは比較的ひかくてき悠長いうちやうに茶碗ちやわんを箸はしで掻かき交まぜた。

「できたかあ」

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「出來できたかあ」

与吉は卯平の腕へ小さな手を掛けて、のぞくようにして言った。

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與吉よきちは卯平うへいの腕うでへ小ちひさな手てを掛かけて覗のぞく樣やうにしていつた。

「よき、何だいお前は、ご飯を食ったばかりで」

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「よき、何なんでえ汝わりや、お飯まんまくつたばかしで」

おつぎは与吉を叱った。

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おつぎは與吉よきちを叱しかつた。

「お前も食え」

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「汝われも喰くへ」

卯平は蕎麦がきを分けてやった。

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卯平うへいは蕎麥掻そばがきを分わけてやつた。

彼はそうして、さらに後の一杯を食べて、その茶碗へ湯を汲んで飲んだ。

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彼かれはさうして更さらに後あとの一杯ぱいを喫きつして其その茶碗ちやわんへ湯ゆを汲くんで飮のんだ。

薬缶は軽くなった。

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藥罐やくわんは輕かるくなつた。

勘次は冷たい手を火にもかざさないで、ことさらに遠く卯平のそばを離れて、しかめたひどい顔に恐れの相を表して、ただじっと黙っていた。

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勘次かんじは冷つめたい手てを火ひにも翳かざさないで殊更ことさらに遠とほく卯平うへいの側そばを離はなれて蹙しかめた酷ひどい顏かほに恐怖きようふの相さうを表あらはして唯たゞ凝然ぢつと默だまつて居ゐた。

冷たい三人は、夜の温度がしんしんと下がりつつあるのを感じた。

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冷つめたい三人にんは夜よるの温度をんどのしん/\と降下かうかしつゝあるのを感かんじた。

一八

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一八

卯平は久しぶりで故郷に年を迎えた。

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卯平うへいは久振ひさしぶりで故郷こきやうに歳としを迎むかへた。

彼らの家の門松は、ただ短い松の枝と竹の枝とを小さな杭に縛りつけて、垣根の入口に立てたのみである。

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彼等かれらの家いへの門松かどまつは只たゞ短みじかい松まつの枝えだと竹たけの枝えだとを小ちひさな杙くひに縛しばり付つけて垣根かきねの入口いりくちに立たてたのみである。

神棚へは、藁で太くなった海老の形を横に飾って、そこにも松の短い枝をつけた。

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神棚かみだなへは藁わらで太ふとく綯なつた蝦えびの形かたちを横よこに飾かざつて其處そこにも松まつの短みじかい枝えだをつけた。

藁の海老は卯平が作った。

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藁わらの蝦えびは卯平うへいが造つくつた。

彼はむっつりとしながらも、柔らかに藁を打って熱心に手を動かした。

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彼かれはむつゝりとしながらも軟やはらかに藁わらを打うつて熱心ねつしんに手てを動うごかした。

それで年男の役で、飾りは勘次にさせた。

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それで歳男としをとこの役やくで飾かざりは勘次かんじにさせた。

すすけきった棚に、新しい藁の海老が生き生きとして見えた。

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煤すゝけ切きつた棚たなに新あたらしい藁わらの蝦えびが活々いき/\として見みえた。

三が日は与吉も汚い着物を捨てて、おつぎも近所で髪を結って、炊事の時でもよそ行きの半纏にたすきを掛けて働いた。

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三ヶ日にちは與吉よきちも穢きたない衣物きものを棄すてゝ、おつぎも近所きんじよで髮かみを結ゆうて炊事すゐじの時ときでも餘所行よそゆきの半纏はんてんに襷たすきを掛かけて働はたらいた。

勘次は三が日さえ、まったく安楽をむさぼってはいなかった。

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勘次かんじは三ヶ日にちさへ全然まる/\安佚あんいつを貪むさぼつては居ゐなかつた。

彼は唐鍬をかついで、必ず開墾地へ出たのである。

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彼かれは唐鍬たうぐはを擔かついで必かならず開墾地かいこんちへ出でたのである。

彼は次第に懐の具合がよくなりかけたので、今ではその勢いづいた唐鍬の一打ちは一打ちと自分の蓄えを積んで行くわけなので、彼は余念もなくきわめて愉快に仕事に従っているようになったのである。

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彼かれは次第しだいに懷ふところの工合ぐあひが善よく成なり掛かけたので、今いまでは其その勢いきほひづいた唐鍬たうぐはの一打うちは一打うちと自分じぶんの蓄たくはへを積つんで行ゆく理由わけなので、彼かれは餘念よねんもなく極きはめて愉快ゆくわいに仕事しごとに從したがつて居ゐるやうに成なつたのである。

年の初めというので、さすがに彼の家でも相応に餅やうどんや蕎麦が、その日その日の例によって供えられた。

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歳としの首はじめといふので有繋さすがに彼かれの家いへでも相當さうたうに餅もちや饂飩うどんや蕎麥そばが其その日ひ/\の例れいに依よつて供そなへられた。

柔らかな餅が、卯平の歯茎にはいちばん適していた。

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軟やはらかな餅もちが卯平うへいの齒齦はぐきには一番ばん適當てきたうして居ゐた。

ことに陸稲の餅は粘りが弱いので、少し煮ればすぐくたくたに溶けようとする。

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殊ことに陸稻をかぼの餅もちは足あしが弱よわいので、少すこし煮にれば直すぐくた/\に溶とけようとする。

卯平にはかえってそれがいいので、彼はそうしてくれるおつぎを、どこまでも嬉しく思った。

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卯平うへいには却かへつてそれが善よいので、彼かれはさうして呉くれるおつぎを何處どこまでも嬉うれしく思おもつた。

彼はただ一つでもいいから、始終汁の中で必ずくつくつと煮てほしかった。

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彼かれは只たゞ一つでも善いいから始終しじゆう汁しるの中なかで必かならずくつ/\と煮にて欲ほしかつた。

しかしそれは一同で祝う時のみで、それさえ卯平がただ独りゆっくりと味わうには、焙烙に乗せる分量があまりに足りなかった。

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然しかしそれは一同みんなで祝いはふ時ときのみで、それさへ卯平うへいが只獨ただひとりゆつくりと味あぢはふには焙烙はうろくに乘のせる分量ぶんりやうが餘あまりに足たらなかつた。

餅は四角に包丁を入れると、すぐに勘次は自分の枕元の桶へしまって、無断にはおつぎにさえ出すことを許さないのであった。

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餅もちは四角かくに庖丁はうちやうを入いれると直すぐに勘次かんじは自分じぶんの枕元まくらもとの桶をけへ藏しまつて無斷むだんにはおつぎにさへ出だすことを許容ゆるさないのであつた。

勘次はたとえどんなことがあっても、面と向かって卯平に一言でも呟いたことがないのみでなく、ひたすら何かを隠そうとするような恐れの状態を現していながら、陰では爪の垢ほどのことを目に止めては、独りでぶつぶつとしていた。

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勘次かんじは假令たとひ什麽どんなことがあつても面まのあたり卯平うへいに向むかつて一言ごんでも呟つぶやいたことがないのみでなく、只管ひたすら或ある物ものを隱蔽いんぺいしようとするやうな恐怖きようふの状態じやうたいを現あらはして居ゐながら、陰かげでは爪つめの垢あか程ほどのことを目めに止とめて獨ひとりでぶつ/\として居ゐた。

勘次はただ一度、おつぎが自分の留守に卯平のためにその餅のわずかを焼いてやったのすら見つけて、おつぎを叱った。

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勘次かんじは只たゞ一度どおつぎが自分じぶんの留守るすに卯平うへいの爲ために其その餅もちの僅わづかを燒やいてやつたのをすら發見はつけんしておつぎを叱しかつた。

「そんだって、おとっつあん、よきがほしいと言うから出して、おれと焼いたんだ。食べたくなっちゃ仕方があるまいな」

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「そんだつておとつゝあは、よき欲ほしいつちから出だして俺おれと燒やいたんだあ、食くへたくなつちやしやうあんめえな」

おつぎは甘えた舌で、言葉は荒く勘次をたしなめた。

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おつぎは甘あまえた舌したで言辭ことばは荒あらく勘次かんじを窘たしなめた。

勘次はそれ以上を越えて、再びおつぎを叱ることはよくしなかった。

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勘次かんじは其その以上いじやうを越こして再ふたゝびおつぎを叱しかることは能よくしなかつた。

わずかな餅はそういうことでいくらも減らないのに時間がたって、寒い空気のために陸稲の特色を現して、切り口からたちまちにひび割れになって硬く乾いた。

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僅わづかな餅もちはさういふことで幾いくらも減へらないのに時間じかんが經たつて、寒冷かんれいな空氣くうきの爲ために陸稻をかぼの特色とくしよくを現あらはして切口きりくちから忽たちまちに罅割ひゞわれになつて堅かたく乾燥かんそうした。

だんだん焼いて膨れても、外側は歯茎を痛めるほどこわばって来た。

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だん/\燒やいて膨ふくれても外側そとがはは齒齦はぐきを痛いためる程ほど硬こはばつて來きた。

卯平はその一つさえ満足に飲み下そうとするには、むしろ粗いぽろぽろな飯よりも容易でなかった。

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卯平うへいは其その一つさへ滿足まんぞくに嚥のみ下くださうとするには寧むしろ粗剛こはいぼろ/\な飯めしよりも容易よういでなかつた。

そうなってからは、勘次は尽きるまでよく焼いた。

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さうなつてからは勘次かんじは竭つきるまで能よく燒やいた。

卯平はむっつりとして、額に深く刻んだ大きな皺をむずかしそうに動かしては、硬い餅をなめた。

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卯平うへいはむつゝりとして額ひたひに深ふかく刻きざんだ大おほきな皺しわを六むづヶ敷相しさうに動うごかしては堅かたい餅もちを舐しやぶつた。

卯平の膳には、冷たくなった餅が必ず残された。

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卯平うへいの膳ぜんには冷つめたく成なつた餅もちが屹度きつと残のこされた。

腹を減らして学校から帰って来る与吉が、いつでもそれをかじるのであった。

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腹はらを減へらして學校がくかうから歸かへつて來くる與吉よきちが何時いつでもそれを噛かじるのであつた。

勘次はまた、蕎麦を打ったことがあった。

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勘次かんじは又また蕎麥そばを打うつたことがあつた。

彼はとろろあおいの粉をつなぎにして打った。

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彼かれは黄蜀葵ねりの粉こを繼つなぎにして打うつた。

彼はまた、おつぎへ注意をして、よくはゆでさせなかった。

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彼かれは又またおつぎへ注意ちういをして能よくは茹うでさせなかつた。

手桶の冷たい水でさらした蕎麦は、杉箸のように太いのに、とろろあおいの特色の硬さと滑らかさとで、椀から躍り出しそうになるのであった。

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手桶てをけの冷つめたい水みづで曝さらした蕎麥そばは杉箸すぎはしのやうに太ふといのに、黄蜀葵ねりの特色とくしよくの硬こはさと滑なめらかさとで椀わんから跳をどり出だし相さうに成なるのであつた。

とろろあおいはよく畑の周りに作られて、短い茎には暑い日に大きな黄色い花を開く。

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黄蜀葵ねりは能よく畑はたけの周圍まはりに作つくられて短みじかい莖くきには暑あつい日ひに大おほきな黄色きいろい花はなを開ひらく。

その根を乾かして粉にして入れれば、蕎麦の分量がめっきり増えるというので、腹いっぱいになる程度において、ひたすら食べ物の少ないことのみを望んでいる勘次は、毎年作って必ずそれを用いつつあった。

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其その根ねを乾燥かんさうして粉こにして入いれゝば蕎麥そばの分量かさが滅切めつきり殖ふえるといふので、滿腹まんぷくする程度ていどに於おいては只管ひたすら食料しよくれうの少量せうりやうなることのみを望のぞんで居ゐる勘次かんじは毎年まいねん作つくつて屹度きつとそれを用もちひつゝあつた。

卯平の歯茎には、蕎麦が滑ってかめなかった。

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卯平うへいの齒齦はぐきには蕎麥そばが辷すべつて噛かめなかつた。

「爺さんにはうまくあるまい。おとっつあんはもっと丁寧に打てばいいのに、粗忽だから」

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「爺ぢいがにや佳味うまかあんめえ、おとつゝあはまつと丁寧ていねいに打ぶてばえゝのに疎忽敷そゝつかしいから」

おつぎは、どうかすると椀から落ちそうになる蕎麦をすすりながら、卯平の手元を見て言った。

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おつぎはどうかすると椀わんから落おち相さうになる蕎麥そばを啜すゝりながら卯平うへいの手てもとを見みていつた。

「どうせおれは、うまくたってそんなに減るほどでも食うわけじゃなし、構いやしないが」

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「どうせ俺おらあ、佳味うめえつたつてさうだに減へる程ほどでも食くふべぢやなし、管かまやしねえが」

卯平は皮肉らしい口調で言った。

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卯平うへいは皮肉ひにくらしい口調くてうでいつた。

勘次はただ黙って、むしゃむしゃとまずそうにかんだ。

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勘次かんじは只たゞ默だまつてむしや/\と不味相まづさうに噛かんだ。

こうしている間に春の彼岸が来て、日なたの垣根には耳菜草やその他の雑草が勢いよく出しはじめて、桑畑のうね間には冬を越したなずなが線香のような薹をもたげて、その先に砕け米に似た花を集めた。

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恁かうして居ゐる間あひだに春はるの彼岸ひがんが來きて日南ひなたの垣根かきねには耳菜草みゝなぐさや其その他たの雜草ざつさうが勢いきほひよく出でだして桑畑くはばたけの畦間うねまには冬ふゆを越こした薺なづなが線香せんかうの樣やうな薹たうを擡もたげて、其その先さきに粉米こごめに似にた花はなを聚あつめた。

そっけない杉の木までが、どこから枝であるやらはっきりとは区別もつかないような、しかも焼けたかと思うほど赤くなっている葉先に、ざらりとつぼみがついてこっそりと咲いてしまった。

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そつけない杉すぎの木きまでが何處どこから枝えだであるやら明瞭はつきりとは區別くべつもつかぬ樣やうな然しかも燒やけたかと思おもふ程ほど赤あかく成なつて居ゐる葉先はさきにざらりと蕾つぼみが附ついてこつそりと咲さいて畢しまつた。

寂しい中にも、春らしい空気がすべての物を揺るがした。

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淋さびしい内うちにも春はるらしい空氣くうきが凡すべての物ものを撼うごかした。

日はまだ南を低く渡りながら、暖かい光を投げる。

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日ひはまだ南みなみを低ひくく渡わたりながら暖あたゝかい光ひかりを投なげる。

たまたま夜の雨がやんで、ふうわりと柔らかな空が青く割れて、やや昇ったその暖かな日が斜めに差しかけると、枯れた桑畑から、青い麦畑から、すべてから、湿った布を火にかざしたように凝った水蒸気が、見渡すかぎり白くほかほかと立ち上って、低く一帯に地を覆うことがあった。

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偶たまたま夜よるの雨あめが歇やんでふうわりと軟やはらかな空そらが蒼あをく割われて稍やゝ昇のぼつた其その暖あたゝかな日ひが斜なゝめに射さし掛かけると、枯かれた桑畑くはばたけから、青あをい麥畑むぎばたけから、凡すべてから濕しめつた布ぬのを火ひに翳かざしたやうに凝こつた水蒸氣すゐじようきが見渡みわたす限かぎり白しろくほか/\と立たち騰のぼつて低ひくく一帶たいに地ちを掩おほふことがあつた。

卯平は村に帰ってから、昔の仲間の間へ再び加わって、念仏衆の一人になった。

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卯平うへいは村落むらに歸かへつてから往年むかしの伴侶なかまの間あひだへ再ふたゝび加くはゝつて念佛衆ねんぶつしゆうの一人にんになつた。

家にあっては孫の守をしたりして、どうしても独り離れたようになっているめいめいが、のんきに、そうして放埒なことを言い合って騒ぐので、念仏堂はただ愉快な場所であった。

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家いへに在あつては孫まごの守もりをしたりしてどうしても獨ひとり離はなれた樣やうに成なつて居ゐる各自てんでが暢氣のんきにさうして放埓はうらつなことを云いひ合あうて騷さわぐので念佛寮ねんぶつれうは只たゞ愉快ゆくわいな場所ばしよであつた。

彼岸へかけては、ことに毎日愉快であった。

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彼岸ひがんへ掛かけては殊ことに毎日まいにち愉快ゆくわいであつた。

どこの家からもそれ相応に、仏へと言って供えるごちそうに飽いて、卯平ははじめて満足した口を拭うことができたのであった。

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何處どこの家うちからもそれ相應さうおうに佛ほとけへというて供そなへる馳走ちさうに飽あいて卯平うへいは始はじめて滿足まんぞくした口くちを拭ぬぐふことが出來できたのであつた。

卯平はだんだん時候が暖かくなるにつれて、体ものんびりとして、案じていた病気の悩みも少しずつ薄らいだ。

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卯平うへいは段々だん/\時候じこうが暖あたゝかく成なるに連つれて身體からだものんびりとして案あんじて居ゐた病氣びやうきの惱なやみも少すこしづつ薄うすらいだ。

彼は手元のすべてが不自由だらけな生活に戻って来たとはいうものの、衰えた体を自分から毎夜苛めるように引き立てている奉公の務めをしていた当時と比べて、むしろ相反した気ままな日々が、自然に心にも体にも急激な休養を与えたので、彼は自分ながら一時はげっそりと衰えたようにも思われて、けだるさに堪えられないようになったが、それでもその休養のためにいくらかずつでも持病の苦しみが減ったので、そういう理由を知らない彼は、この分では二、三年はまだ野田にいたほうがましであったと、後悔の念が湧くこともあった。

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彼かれは手てもとの凡すべてが不自由ふじいうだらけな生活せいくわつに還かへつて來きたとはいふものゝ衰おとろへた身體からだを自分じぶんから毎夜まいよ苛いぢめる樣やうに引ひき立たてゝ居ゐる奉公ほうこうの務つとめをして居ゐた當時たうじと比くらべて、寧むしろ相あひ反はんした放縱はうじうな日頃ひごろが自然しぜんに精神せいしんにも肉體にくたいにも急激にはかな休養きうやうを與あたへたので彼かれは自分じぶんながら一時じはげつそりと衰おとろへた樣やうにも思おもはれて、懶ものうさに堪たへぬ樣やうに成なつたがそれでも其その休養きうやうの爲ために幾いくらづゝでも持病ぢびやうの苦くるしみを減げんじたので、さういふ理由わけを知しらない彼かれは、此この分ぶんでは二三年ねんはまだ野田のだに居ゐた方はうが増ましであつたと後悔こうくわいの念ねんが湧わくこともあつた。

季節は、雨に湿った土へまれにかっと暑い日の光が投げられて、日の帰った後の空が丈夫な百姓の肌にさえぞくぞくと空気の冷ややかさを感じさせて、さらにじめじめと霧のような雨が斜めに降りかけては、柔らかに首をもたげはじめた麦の穂の芒に細かな水の玉を宿して、白い穂先をさらに白くして、世間がただ湿っぽくなったかと思うと、またかっと日の光が差して、がらんと明るくなって、畑にはしどろに倒れかけたえんどうの花も、心よげに首をもたげて微笑する。

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季節きせつは雨あめに濕しめつた土つちへ稀まれにかつと暑あつい日ひの光ひかりが投なげられて、日歸ひがへりの空そらが強健きやうけんな百姓ひやくしやうの肌膚はだにさへぞく/\と空氣くうきの冷ひやゝかさを感かんぜしめて、更さらにじめ/\と霧きりのやうな雨あめが斜なゝめに降ふり掛かけては軟やはらかに首くびを擡もたげはじめた麥むぎの穗ほの芒のげに微細びさいな水球すゐきうを宿やどして白しろい穗先ほさきを更さらに白しろくして世間せけんが只たゞ濕しめつぽく成なつたかと思おもふと、又またかつと日ひの光ひかりが射さして、空洞からりと明あかるく成なつて畑はたけにはしどろに倒たふれ掛かけた豌豆ゑんどうの花はなも心こゝろよげに首くびを擡もたげて微笑びせうする。

そうすると、畑を包む遠い近い林には、若葉の隙間からわずかな日の光が、また柔らかな、そうしてやや深い草の上にぽつりぽつりと明るくのぞき込んで、松の木からはみんみん蝉のような松蝉の声が、くすぐったいほど人の鼓膜に軽く響いて、すべての心を突き動かす。

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さうすると畑はたを包つゝむ遠とほい近ちかい林はやしには嫩葉わかばの隙間すきまから少すくない日ひの光ひかりがまた軟やはらかなさうして稍やゝ深ふかい草くさの上うへにぽつり/\と明あかるく覗のぞき込こんで、松まつの木きからはみんみん蝉ぜみの樣やうな松蝉まつぜみの聲こゑが擽くすぐつたい程ほど人ひとの鼓膜こまくに輕かるく響ひゞいて凡すべての心こゝろを衝動しようどうする。

卯平も、ほかの百姓に誘われたように、ただその身をじっとさせてのみはいられなかった。

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卯平うへいも他たの百姓ひやくしやうに誘さそはれたやうに只たゞ其その身みを凝然ぢつとさせてのみは居をられなかつた。

他人に倍して忙しい勘次が、だんだんに減りつつある俵の中身を苦にして、ひどい目つきをしながら戸口を出入りするのを、卯平は見るのがいやで、かつつらかった。

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他人ひとに倍ばいして忙せはしい勘次かんじがだん/\に減へりつゝある俵たわらの内容ないようを苦くにして酷ひどい目めをしつゝ戸口とぐちを出入でいりするのを卯平うへいは見みるのが厭いやで且かつ辛つらかつた。

それで彼は、そこらここらと他人の仕事を求めて歩いたのであった。

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それで彼かれは其處そこら此處ここらと他人たにんの仕事しごとを求もとめて歩あるいたのであつた。

卯平は見るからに不器用な様子をしていて、恐ろしく手先の業の器用な生まれつきであった。

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卯平うへいは見みるから不器用ぶきような容子ようすをして居ゐて、恐おそろしく手先てさきの業わざの器用きような性來たちであつた。

それで彼は仕事に出るとなってからは、方々へ雇われてよく俵を編んだ。

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それで彼かれは仕事しごとに出でると成なつてからは方々はう/″\へ傭やとはれて能よく俵たわらを編あんだ。

麦俵も、それから堆肥を入れて運ぶ肥俵も編んだ。

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麥俵むぎだわらもそれから堆肥つみごえを入いれて運はこぶ肥俵こやしだわらも編あんだ。

ゆっくりと、しかも絶え間なく手を動かしては、時々好きな煙草を吸って、少し口を開いたまま煙管の吸い口をこけた頬に当て、深い考えにでも悩んだように、ただじっとしている。

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ゆつくりと然しかも暇ひまなく手てを動うごかしては時々とき/″\好すきな煙草たばこを吸すうて少すこし口くちを開あいた儘まゝ煙管きせるの吸口すひくちをこけた頬ほゝに當あてて深ふかい考かんがへにでも惱なやんだ樣やうに只たゞ凝然ぢつとして居ゐる。

煙は口から少しずつ漏れて、鼻を伝って上る。

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煙けぶりは口くちから少すこしづゝ漏もれて鼻はなを傳つたひて騰あがる。

彼は煙が上るたびに窪んだ黄色い目をしかめるようにして、気づいたように吸い殻を手のひらに吹くのである。

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彼かれは煙けぶりが騰あがる度たびに窪くぼんだ黄色きいろな目めを蹙しがめるやうにして、心こゝろづいた樣やうに吸殼すひがらを手ての平ひらに吹ふくのである。

彼はこうしてきわめてゆったりと手を動かすようでありながら、それでも雇われた先でその日の食い扶持はしてもらうので、相応な銭を得つつあるのであった。

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彼かれはかうして極きはめて悠長いうちやうに手てを動うごかす樣やうでありながら、それでも傭やとはれた先さきで其その日ひの扶持ふちはして貰もらふので、相應さうおうな錢ぜにを獲えつゝあるのであつた。

卯平は夏になれば、どこでも忙しい麦扱きや陸稲の草取りに雇われた。

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卯平うへいは夏なつになれば何處どこでも忙いそがしい麥扱むぎこきや陸稻をかぼの草取くさとりに傭やとはれた。

彼は自分の村を離れて、五日も六日も泊まっていて帰らないことがある。

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彼かれは自分じぶんの村落むらを離はなれて五日かも六日かも泊とまつて居ゐて歸かへらぬことがある。

卯平には、先から先と歩いていることが、かえって幸いであった。

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卯平うへいには先さきから先さきと歩あるいて居ゐることが却かへつて幸さいはひであつた。

彼は鬼怒川の高瀬舟の船頭の着物かと思うような、よくもよくも継ぎだらけな、それも自分の手で繕って清潔に洗いざらした仕事着を裾長に着て、手拭いをかぶって、暑い庭に小麦を叩いているのを、そこここに見ることがある。

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彼かれは鬼怒川きぬがはの高瀬船たかせぶねの船頭せんどうの衣物きものかと思おもふ樣やうな能よくも/\繼つぎだらけな、それも自分じぶんの手てで膳つくろつて清潔きれいに洗あらひ曝ざらした仕事衣しごとぎを裾長すそながに着きて、手拭てぬぐひを被かぶつて暑あつい庭にはに小麥こむぎを叩たゝいて居ゐるのを其處そこ此處ここに見みることがある。

横に転がした臼を前に据えて、小麦をつかんでは穂先をその臼の腹に叩きつけると、種がぽろぽろと向こうへ落ちる。

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横よこに轉ころがした臼うすを前まへに据すゑて小麥こむぎを攫つかんでは穗先ほさきを其その臼うすの腹はらに叩たゝきつけると種たねがぼろ/\と向むかふへ落おちる。

のっそりとしてゆったりした卯平は、若いころに慣れた仕事の呼吸で、大きな手が肩から打ち下ろす時、まだ相応にはかどるのであった。

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のつそりとして悠長いうちやうな卯平うへいは壯時さうじに熟じゆくして居ゐた仕事しごとの呼吸こきふで大おほきな手てが肩かたから打うち下おろす時とき、まだ相當さうたうに捗はかどるのであつた。

彼はこうしてぐるぐると雇われて歩きながら、きれいな花が咲いているのを見ると、種をもらったり根分けをしてもらったりして、庭先の栗の木のそばや井戸端の近くに植えた。

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彼かれは恁かうしてぐる/\と傭やとはれて歩あるきながら綺麗きれいな花はなが咲さいて居ゐるのを見みると種たねを貰もらつたり根分ねわけをして貰もらつたりして庭先にはさきの栗くりの木きの側そばや井戸端ゐどばたに近ちかく植うゑた。

彼は忙しい仕事が終わりになった時、すなわち稲刈りから稲扱きから、そうしてもみすりも済んで、彼が得意の俵編みもなくなって、世間がげっそりと寂しく沈んだ時に、彼は急に勘次と別の住まいがしたくなった。

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彼かれは忙いそがしい仕事しごとが畢しまひになつた時とき即すなはち稻刈いねかりから稻扱いねこきからさうして籾もみすりも濟すんで彼かれが得意とくいの俵編たわらあみもなくなつて、世間せけんがげつそりと寂さびしく沈しづんだ時ときに彼かれは急きふに勘次かんじと別べつな住すまひが仕したくなつた。

彼は少しばかり余してあった蓄えから、虫食いでも何でも柱になる木やら粟殻やらを求めて、家の横手へ小さな、二間四方くらいな掘っ立て小屋を建てる計画をした。

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彼かれは少すこしばかり餘あましてあつた蓄たくはへから蝕むしくひでも何なんでも柱はしらになる木きやら粟幹あはがらやらを求もとめて、家いへの横手よこてへ小ちひさな二間けん四方はう位ぐらゐな掘立小屋ほつたてごやを建たてる計畫けいくわくをした。

彼は寒い西風をいとって、ほとんど勘次の家と接して東脇へ建てようとした。

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彼かれは寒さむい西風にしかぜを厭いとうて殆ほとんど勘次かんじの家うちと相あひ接せつして東脇ひがしわきへ建たてようとした。

勘次はもとより自分の懐が目に見えて減るのでもなし、それについてはけっして陰で呟くことはなかった。

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勘次かんじは固もとより自分じぶんの懷ふところが目めに見みえて減へるのでもなし、それに就ついては決けつして陰かげで呟つぶやくことはなかつた。

簡単な普請には大工が少し鑿を使っただけで、その他は近所の人々が手伝ったので、仕事はただ一日で終わった。

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簡單かんたんな普請ふしんには大工だいくが少すこし鑿のみを使つかつた丈だけで其その他たは近所きんじよの人々ひと/″\が手傳てつだつたので仕事しごとは只たゞ一日にちで畢をはつた。

長いかさばった粟殻で手薄く葺いた屋根は、これも職人の手を借りなかった。

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長ながい嵩張かさばつた粟幹あはがらで手薄てうすく葺ふいた屋根やねは此これも職人しよくにんの手てを借からなかつた。

必要な縄は、卯平が丈夫になっておいた。

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必要ひつえうな繩なはは卯平うへいが丈夫ぢやうぶに綯なつて置おいた。

それから壁を塗るのには、間を置いて二、三日かかった。

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それから壁かべを塗ぬるのには間あひだを措おいて二三日にちかゝつた。

勘次もさすがに労力を惜しまなかった。

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勘次かんじも有繋さすがに勞力らうりよくを惜をしまなかつた。

彼は粟殻が葺き上げられた次の日から、二、三日近所の馬を借りて、田の傍らの畑から土を運んだ。

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彼かれは粟幹あはがらが葺ふき上あげられた次つぎの日ひから二三日にち近所きんじよの馬うまを借かりて田たの傍そばの畑はたけから土つちを運搬つけた。

畑にはその時、麦が青く生えていたが、それでも持ち主は、畑が減るだけ田の面積が増すわけなのと、土の分量も格別のことでないのとで、切り取ることを拒まなかった。

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畑はたけには其その時とき麥むぎが青あをく生はえて居ゐたが、それでも持主もちぬしは畑はたけが減へるだけ田たの面積めんせきが増ます理由わけなのと、土つちの分量ぶんりやうも格別かくべつの事ことでないのとで切きり取とることを否いなまなかつた。

庭へ下ろした土には、ちらりちらりと青い麦の柔らかな葉が交じっていた。

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庭にはへ卸おろした土つちにはちらり/\と青あをい麥むぎの軟やはらかな葉はが交まじつて居ゐた。

勘次は夕方になって馬を返しながら、一日の餌として、おつぎに煮させた麦をざるへ入れて、それから刻んだ藁も添えてやった。

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勘次かんじは夕方ゆふがたに成なつて馬うまを返かへしながら、一日にちの餌料ゑさとしておつぎに煮にさせた麥むぎを笊ざるへ入いれて、それから刻きざんだ藁わらも添そへてやつた。

勘次はそのついでに、余計な藁を切った。

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勘次かんじは其その序ついでに餘計よけいな藁わらを切きつた。

土は終わりの日の夕方に、周りに土手のような輪をこしらえて、そこに水を打ってはぐちゃぐちゃと足でこねながら、刻んだ藁をまいては踏み込んで、そうして一晩置いた。

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土つちは畢しまひの日ひの夕方ゆふがたに周圍しうゐに土手どてのやうな輪わを拵こしらへて其處そこに水みづを打うつてはぐちや/\と足あしで溲こねながら刻きざんだ藁わらを撒まいては踏ふみ込こんでさうして一晩ばん置おいた。

そういう間に卯平は、なたで篠を幾つかに裂いて、柱と柱との間へ壁の下地に細かな格子目を編んでいた。

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さういふ間あひだに卯平うへいは鉈なたで篠しのを幾いくつかに裂さいて柱はしらと柱はしらとの間あひだへ壁かべの下地したぢに細こまかな格子目かうしめを編あんで居ゐた。

篠は東隣の主人に請うて、真竹に交じったのを後ろの林から伐ったのである。

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篠しのは東隣ひがしどなりの主人しゆじんから請こうて苦竹まだけに交まじつたのを後うしろの林はやしから伐きつたのである。

次の日、土はよく水を引いていて、程よくこねられた。

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次つぎの日ひ土つちは能よく水みづを引ひいて居ゐて程ほどよく溲こねられた。

勘次はおつぎにその泥をたらいへ運ばせておいて、不器用な手元で塗った。

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勘次かんじはおつぎに其その泥どろを盥たらひへ運はこばせて置おいて不器用ぶきような手てもとで塗ぬつた。

卯平はなおも、篠で編み残した箇所をこしらえていた。

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卯平うへいは猶なほも篠しので編あみ残のこした箇所かしよを拵こしらへて居ゐた。

塗りたての壁は、狭苦しい小屋の内側を湿っぽく、かつ暗くした。

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塗ぬりたての壁かべは狹苦せまくるしい小屋こやの内側うちがはを濕しめつぽく且かつ闇くらくした。

壁の土のだんだんに乾くのが待ち遠しくて、卯平は毎日床の上のむしろに座って火を焚いた。

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壁かべの土つちの段々だん/\に乾かわくのが待遠まちどほで卯平うへいは毎日まいにち床ゆかの上うへの筵むしろに坐すわつて火ひを焚たいた。

彼は近ごろになってから毎日のように林を歩いては、そだを背負って来て、折っては焚き折っては焚きしていた。

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彼かれは近頃ちかごろに成なつてから毎日まいにちの樣やうに林はやしを歩あるいては麁朶そだを脊負せおつて來きて折をつては焚たき折をつては焚たきして居ゐた。

壁を塗る時に格子目から内側へめくれ出た泥の一つ一つが、だんだんに白っぽく乾いて明るくなった時、勘次はまた内側から塗って、めくれて出た一つ一つを一帯に隠した。

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壁かべを塗ぬる時とき格子目かうしめから内側うちがはへ捲まくれ出でた泥どろの一つ/\がだん/\に白しろつぽく乾かわいて明あかるく成なつた時とき勘次かんじは又また内側うちがはから塗ぬつて捲まくれて出でた一つ/\を一帶たいに隱かくした。

卯平は掘っ立て小屋を建てるとなったら、勘次がこれまでになく油が乗ったように威勢よく仕事をしてくれるのを、何となく嬉しく思ってみたが、それでも仕事をしながらしみじみ口を利くのでもなければ、毎日膳を並べると必ずひがんだような顔をされるので、卯平は一日も早く別になってみたい心から、さらに塗った壁のために再び暗くなった小屋の明るくなるのが、じれったさに堪えられないのであった。

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卯平うへいは掘立小屋ほつたてごやを建たてるとなつたら勘次かんじが此これ迄までになく油あぶらが乘のつた樣やうに威勢ゐせいよく仕事しごとをしてくれるのを何なんとなく嬉うれしく思おもつて見みたが、夫それでも仕事しごとをしながらしみ/″\口くちを利きくのでもなければ、毎日まいにち膳ぜんを竝ならべると屹度きつと僻ひがんだやうな顏かほをされるので、卯平うへいは一日にちも速はやく別べつに成なつて見みたい心こゝろから更さらに塗ぬつた壁かべの爲ために再ふたゝび闇くらくなつた小屋こやの明あかるく成なるのが遲緩もどかしさに堪たへぬのであつた。

卯平は狭いながらにどうにか土間もこしらえて、そこへは自在鉤を一つ吊して、蔓のある鉄瓶を掛けたり小鍋を掛けたりすることができるようにした。

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卯平うへいは狹せまいながらにどうにか土間どまも拵こしらへて其處そこへは自在鍵じざいかぎを一ひとつ吊つるして蔓つるのある鐵瓶てつびんを懸かけたり小鍋こなべを掛かけたりすることが出來できる樣やうにした。

彼は勘次からいくらかずつの米や麦を分けさせて、別居した当座は自分の手で煮炊きをした。

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彼かれは勘次かんじから幾いくらかづゝの米こめや麥むぎを分わけさせて別居べつきよした當座たうざは自分じぶんの手てで煮焚にたきをした。

それがかえって気楽で、そうして少しずつは彼の舌にうまく感じる程度の物を求めて来ることができた。

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それが却かへつて氣藥きらくでさうして少すこしづゝは彼かれの舌したに佳味うまく感かんずる程度ていどの物ものを求もとめて來くることが出來できた。

しかしそうしていても、寒さが非常に厳しい時は、彼はただ狭苦しい小屋の中でそだを少しずつ折ってくべるよりも、比較的広いかまどの前で、横に転がした大かごからがさがさと木の葉をかき出して、ぼうぼうと炎を立てて暖まりたい心持ちがするのであった。

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然しかしさうして居ゐても寒さむさが非常ひじやうに嚴きびしい時ときは彼かれは只たゞ狹苦せまくるしい小屋こやの中なかに麁朶そだを少すこしづつ折をり燻くべるよりも比較的ひかくてき廣ひろい竈かまどの前まへで横よこに轉ころがした大籠おほかごからがさ/\と木この葉はを掻かき出だしてぼう/\と焔ほのほを立たてゝ暖あたゝまりたい心持こゝろもちがするのであつた。

それで彼は勘次の留守には、かまどの前でゆったりと木の葉を焚いて、顔や手足の皮が焼けたように赤くなるまで当たった。

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それで彼かれは勘次かんじの留守るすには竈かまどの前まへで悠長いうちやうに木この葉はを焚たいて顏かほや手足てあしの皮かはの燒やけた樣やうに赤あかくなるまであたつた。

勘次は時々、持ち込んだそだや木の葉がわけもなく減っていることを知って、不快な感じを抱いてはこっそりと呟きながら、おつぎに当たるのであった。

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勘次かんじは時々とき/″\持もち込こんだ麁朶そだや木この葉はが理由わけもなく減へつて居ゐることを知しつて不快ふくわいな感かんを懷いどいてはこつそりと呟つぶやきつゝおつぎに當あたるのであつた。

卯平はしばらく隠居に落ち着いてからは、一銭ずつでも懐をこしらえねばならないという決心から促されて、毎日煙管を横にくわえては、ゆったりとではあるが、しかも絶え間なく縄をちよりちよりとなったり、それから草鞋を作ったりした。

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卯平うへいは暫しばらく隱居いんきよに落付おちついてからは一錢せんづゝでも懷ふところを拵こしらへねばならぬといふ決心けつしんから促うながされて、毎日まいにち煙管きせるを横よこに銜くはへては悠長いうちやうではあるが、然しかも間斷かんだんなく繩なはをちより/\と綯なつたり、それから草鞋わらぢを作つくつたりした。

彼は原料の藁を勘次に求めずに、五銭か十銭くらいずつ懐の銭を出して、よく選んだ藁をそこここで買って、穂先の所を持っては肩から打ちかけて、がさがさと背負って来るのである。

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彼かれは原料げんれうの藁わらを勘次かんじに要求えうきうせずに五錢せんか十錢位せんぐらゐづゝ懷錢ふところせんを出だして能よく選すぐつた藁わらを其處そこ此處こゝで買かつて、穗先ほさきの處ところを持もつては肩かたから打ぶつ掛かけてがさ/\と背負せおつて來くるのである。

藁の小さな決まった束は、一把はたいてい一銭ずつであった。

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藁わらの小ちひさな極きまつた束たばが一把はは大抵たいてい一錢せんづゝであつた。

その一把の藁が、縄にすれば二房半くらいで、草鞋にすれば五足は仕上がるのであった。

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其その一把はの藁わらが繩なはにすれば二房半位ばうはんぐらゐで、草鞋わらぢにすれば五足そくは仕上しあがるのであつた。

それで彼の一日の仕事は、縄ならば二十房の大束が一把、草鞋ならば五足というところなので、一房の縄が七銭五毛で、一足の草鞋が一銭五厘という相場だから、どっちにしても一日熱心に手を動かせば、彼は六、七銭のもうけを得るのである。

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それで彼かれの一日にちの仕事しごとは繩なはならば二十房ばうの大束おほたばが一把は、草鞋わらぢならば五足そくといふ處ところなので、一房ばうの繩なはが七錢せん五毛まうで一足そくの草鞋わらぢが一錢せん五厘りんといふ相場さうばだからどつちにしても一日にち熱心ねつしんに手てを動うごかせば彼かれは六七錢せんの儲まうけを獲えるのである。

卯平が求める副食物は、一日わずかに二銭もあれば十分なので、彼は毎日藁を使っていれば四、五銭ずつの余りを得るわけではあるが、品物を商いに出る日を別にしても、気が乗らないと言っては朝からごろりと転がっていることもあるので、平均してみると一日がいくらにもならないのであった。

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卯平うへいが求もとめる副食物ふくしよくもつは一日にち僅わづかに二錢せんもあれば十分ぶんなので彼かれは毎日まいにち藁わらを使つかつて居をれば四五錢せんづつの剰餘じようよを得うる理由わけではあるが、品物しなものを商あきなひに出でる日ひを別べつにしても氣きが乘のらないといつては朝あさからごろりと轉ころがつて居ゐることもあるので平均へいきんして見みると一日にちが幾いくらにも成ならないのであつた。

しかしそれだけでさえ、卯平は始終財布の銭が出入りするのを心強く思うのであった。

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然しかし其それ丈だけでさへ卯平うへいは始終しじう財布さいふの錢ぜにの出入でいりするのを心丈夫こゝろぢやうぶに思おもふのであつた。

勘次はむっつりとした卯平の戸口をのぞいたこともないが、卯平がすぐに来ても来なくても、飯のできた時に呼びに行くのはおつぎであった。

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勘次かんじはむつゝりとした卯平うへいの戸口とぐちを覗のぞいたこともないが、卯平うへいが直すぐに來きても來こなくても飯めしの出來できた時ときに喚よびに行ゆくのはおつぎであつた。

卯平は熱心に藁仕事をする時は、自分で炊事をするのは時間がひどく惜しくもなったり、面倒にもなったり、ただ独りのみでぽつんとしていると情けなくもなったりするので、ふだんは再び一同といっしょに箸を取ることにしたのである。

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卯平うへいは熱心ねつしんに藁仕事わらしごとをする時ときは自分じぶんで炊事すゐじをするのは時間じかんが酷ひどく惜をしくも成なつたり、面倒めんだうにも成なつたり、唯たゞ獨ひとりのみで㷀然ぽつさりとして居ゐると情なさけなくもなつたりするので、平生へいぜいは再ふたゝび一同みんなと一緒しよに箸はしを執とることにしたのである。

彼はおつぎがてきぱきと一言でも言ってくれるたびに、そのひがもうとする心がどれほど和らげられるか知れないのである。

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彼かれはおつぎがはき/\と一言ひとことでもいうて呉くれる毎ごとに其その僻ひがまうとする心こゝろがどれ程ほど和やはらげられるか知しれないのである。

彼は草鞋を作るとて、四筋の縦縄に柔らかな藁をうねうねと通しては、その縄の間に指を入れてぎっと前へ引き締める、かすかな動きの間にも、彼は勘次に対して口にも振る舞いにも出せない忌々しさが、心の底に勃々と首をもたげはじめることもあるのであったが、おつぎの言葉はいつでも、その火を消し止める一杯の水なのであった。

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彼かれは草鞋わらぢを作つくるとて四筋すぢの竪繩たてなはに軟やはらかな藁わらをうね/\と透とほしては其その繩なはの間あひだに指ゆびを入いれてぎつと前まへへ引ひき緊しめる微かすかな運動うんどうの間あひだにも彼かれは勘次かんじに對たいして口くちにも擧動きよどうにも出だせぬ忌々敷いま/\しさが心こゝろの底そこに勃々むか/\と首くびを擡もたげ始はじめることもあるのであつたが、おつぎの言辭ことばはいつでも其その火ひを消けし止とめる一杯ぱいの水みづなのであつた。

おつぎは、どうかすると目のあたりにあるそばかすが一種の色気をつくって、甘えたような口の利き方をするのであった。

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おつぎはどうかすると目めの邊へんに在ある雀斑そばかすが一種しゆの嬌態しなを作つくつて甘あまえたやうな口くちの利方きゝかたをするのであつた。

おつぎは勘次のいない時は、雌鶏がけたたましく鳴いて出れば、すぐにねぐらをのぞいて暖かい卵の一つを採って、卯平のむしろへ転がしてやることもあった。

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おつぎは勘次かんじの居ゐない時ときは牝鷄めんどりが消魂けたゝましく鳴ないて出でれば直すぐに塒とやを覗のぞいて暖あたゝかい卵たまごの一ひとつを採とつて卯平うへいの筵むしろへ轉ころがしてやることもあつた。

おつぎは勘次の素早い目を欺くには、これだけの深い注意を払わなければならなかった。

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おつぎは勘次かんじの敏捷びんせふな目めを欺あざむくには此これだけの深ふかい注意ちういを拂はらはなければならなかつた。

それもまれなことで、数は必ず一つに限られていた。

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それも稀まれなことで數かずは必かならず一ひとつに限かぎられて居ゐた。

しかし卯平は、そのわずかな厚意に対して窪んだ茶色の目をしかめるようにして、洗いもしない殻の両端に小さな穴を開けてすするのであった。

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然しかし卯平うへいは其その僅少きんせうな厚意こういに對たいして窪くぼんだ茶色ちやいろの眼めを蹙しがめる樣やうにして、洗あらひもせぬ殼からの兩端りやうはしに小ちひさな穴あなを穿うがつて啜すゝるのであつた。

彼はおつぎの意中をよく分かっているので、その吸い殻はけっして目につく所へは捨てないで、細かく押し揉んで、外へ出るついでに他人の垣根の中などへ放り捨てた。

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彼かれはおつぎの意中いちうを能よく解かいして居ゐるので其その吸殼すひがらは決けつして目めにつく處ところへは棄すてないで細こまかに押おし揉もんで外そとへ出でる序ついでに他人たにんの垣根かきねの中なかなどへ放棄ほうつた。

それからもう一つ、ひがもうとする彼の心を爽やかにするのは与吉であった。

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それからも一つ僻ひがまうとする彼かれの心こゝろを爽さわやかにするのは與吉よきちであつた。

とうに甘えきっている与吉は、卯平の戸口に立ち塞がっては銭を請うた。

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疾とうから甘あまえ切きつて居ゐる與吉よきちは卯平うへいの戸口とぐちに立たち塞ふさがつては錢ぜにを請こうた。

狭い戸口は、与吉の小さな体でさえ、卯平の藁をいじっている手元を薄暗くした。

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狹せまい戸口とぐちは與吉よきちの小ちひさな身體からだでさへ卯平うへいの藁わらをいぢつて居ゐる手てもとを薄闇うすぐらくした。

卯平は藁屑と一つに投げ出してある胴乱から、五厘の銅貨を出してやるのが常であるが、与吉は自分で銭を出そうとして、胴乱の大きな金具が容易に開かないので、怒って投げ出してみたり、卯平へすがったりした。

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卯平うへいは藁屑わらくづと一つに投出なげだしてある胴亂どうらんから五厘りんの銅貨どうくわを出だしてやるのが例れいであるが、與吉よきちは自分じぶんで錢ぜにを出ださうとして胴亂どうらんの大おほきな金具かなぐが容易よういに開あかないので怒おこつて投なげ出だして見みたり、卯平うへいへ縋すがつたりした。

卯平はわざと与吉に倒されて、転がることもあった。

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卯平うへいは態わざと與吉よきちに倒たふされて轉ころがることもあつた。

勘次は与吉が卯平から銭をもらうことを知ってから、ただでさえめったにくれたことのない彼は、けっして一度も与えることがなかった。

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勘次かんじは與吉よきちが卯平うへいから錢ぜにを貰もらふことを知しつてから只たゞさへ滅多めつたにくれたことのない彼かれは決けつして一度ども與あたへることがなかつた。

卯平はそれを知ってさえ、与吉に求められることが、かえって彼のためにはどれほどの慰めであるか知れないのであった。

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卯平うへいはそれを知しつてさへ與吉よきちに要求えうきうされることが却かへつて彼かれの爲ためにはどれ程ほどの慰藉ゐしやであるか知しれないのであつた。

卯平は惨めな隠居に移るまでには、野田から持って来た少しばかりの蓄えは、いくらも財布に残ってはいなかった。

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卯平うへいは悲慘みじめな隱居いんきよに移うつるまでには野田のだから持もつて來きた少すこし許ばかりの蓄たくはへは幾いくらも財布さいふに残のこつては居ゐなかつた。

彼はにわかに思い出したように一日熱心に仕事にかかりきってみたり、また勘次に対する自棄から酒も飲んでみたりした。

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彼かれは俄にはかに思おもひ出だした樣やうに一日にち熱心ねつしんに仕事しごとに屈託くつたくして見みたり、又また勘次かんじに對たいする自棄やけから酒さけも飮のんで見みたりした。

酒といっても知れた分量であるが、それでも藁一筋ずつを刻んで行く仕事のもうけにのみ頼る彼の懐を悲しくした。

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酒さけといつても知しれた分量ぶんりやうであるが、それでも藁わら一筋ひとすぢづつを刻きざんで行ゆく仕事しごとの儲まうけにのみ手頼たよる彼かれの懷ふところを悲かなしくした。

卯平はそんなはかない仕事でも、彼の体が滞りなく、また勘次との間が和らいでいるならば、彼は好きなコップ酒の一杯を傾けるついでに、酒を瓶に買って勘次に与えることさえ不自由を感じもしなければ、惜しむこともないのであった。

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卯平うへいは其麽そんな果敢はかない仕事しごとでも、彼かれの身體からだが滯とゞこほりなく又また勘次かんじとの間あひだが融和ゆうわされて居ゐるならば彼かれは好すきなコツプ酒ざけの一杯ぱいを傾かたむける序ついでに、酒さけを壜びんに買かつて勘次かんじに與あたへることさへ不自由ふじいうを感かんじもしなければ、惜をしむこともないのであつた。

勘次も疲れた日の夕方には、唐鍬を村の店の軒下へ下ろして一杯を傾けて来るのであるが、かつて自分の家に運んだこともなければ、臭い息を吐く間は卯平へ顔を合わせたこともなかった。

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勘次かんじも疲勞ひらうした日ひの夕方ゆふがたには唐鍬たうぐはを村落むらの店みせの軒下のきしたへ卸おろして一杯ぱいを傾かたむけて來くるのであるが、嘗かつて自分じぶんの家うちに運はこんだこともなければ臭くさい息いきを吐はく間あひだは卯平うへいへ顏かほを合あはせたこともなかつた。

卯平は腰の痛みに悩まされて、余計にかさかさと乾びてこわばっている手を動かしにくくなると、彼は一塊の炭火もない火鉢を枕元に置いて、じっと布団をかぶったままである。

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卯平うへいは腰こしの疼痛いたみに惱なやまされて、餘計よけいにかさ/\と乾からびて硬こはばつて居ゐる手てを動うごかし難がたくなると彼かれは一塊くわいの煨おきもない火鉢ひばちを枕元まくらもとに置おいて凝然ぢつと蒲團ふとんを被かぶつた儘まゝである。

彼はそうでなくても、かつててきぱきと口を利いたこともなく、ことさら勘次に対しては皺びた顔の筋肉をさらにしかめているので、こうしてじっとしていることをも、勘次はリューマチが悩ませているのだとは知らないで、むしろ老人にありがちな倦怠に伴う眠りをむさぼっているのだろうくらいに見るのであった。

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彼かれはさうでなくても嘗かつてはき/\と口くちを利きいたこともなく、殊更ことさら勘次かんじに對たいしては皺しなびた顏かほの筋肉きんにくを更さらに蹙しがめて居ゐるので、恁かうして凝然ぢつとして居ゐることをも勘次かんじは僂麻質斯レウマチスが惱なやまして居ゐるのだとは知しらないで、寧むしろ老人らうじんに通有つういうな倦怠けんたいに伴ともなふ睡眠すゐみんを貪むさぼつて居ゐるのだらう位ぐらゐに見みるのであつた。

枕元の火鉢は、戸口からでは彼の薄い白髪の頭を覆っていた。

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枕元まくらもとの火鉢ひばちは戸口とぐちからでは彼かれの薄うすい白髮しらがの頭あたまを掩おほうて居ゐた。

彼はそうかと思うと、起きて一心に草鞋を作ることがある。

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彼かれはさうかと思おもふと起おきて一心しんに草鞋わらぢを作つくることがある。

彼の仕事は老いて面倒なようであるが、その生まれつきの器用は失われなかった。

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彼かれの仕事しごとは老衰らうすゐして面倒めんだうな樣やうであるが、其その天性てんせいの器用きようは失うしなはれなかつた。

彼は五足ずつを一つに束ねた草鞋と、それから縄が一荷物になると、大風呂敷で背負って出た。

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彼かれは五足そくづつを一ひとつに束たばねた草鞋わらぢとそれから繩なはが一荷物ひとにもつに成なると大風呂敷おほぶろしきで脊負しよつて出でた。

それはたいてい暖かな日に限られていたのであったが、その時は彼の大きな体はきりりと帯を締めて、股引の上に高く尻をはしょって、まだ頼もしげにがっしりとして見えるのであった。

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それは大抵たいてい暖あたゝかな日ひに限かぎられて居ゐるのであつたが、其その時ときは彼かれの大おほきな躯幹からだはきりゝと帶おびを締しめて、股引もゝひきの上うへに高たかく尻しりを端折はしよつてまだ頼母たのもしげにがつしりとして見みえるのであつた。

卯平はこうして仕事をしてみたり寝てみたり、それから自分で小鍋立てをするかと思えば、家族三人とともに膳へ向かったり、そばから見ている勘次には、気の知れない爺さんであった。

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卯平うへいは斯かうして仕事しごとをして見みたり寐ねて見みたり、それから自分じぶんで小鍋立こなべだてをするかと思おもへば家族かぞく三人にんと共ともに膳ぜんへ向むかつたり、側そばから見みて居ゐる勘次かんじには氣きが知しれぬ爺ぢいさんであつた。

卯平は時々塩鮭の一切れを古新聞紙の端へ包んで来ては、火鉢へ鉄の火箸を渡して、少しくすぶるそだの火で焼いた。

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卯平うへいは時々とき/″\鹽鮭しほざけの一切ひときれを古新聞紙ふるしんぶんしの端はしへ包つゝんで來きては火鉢ひばちへ鐵てつの火箸ひばしを渡わたして、少すこし燻いぶる麁朶そだの火ひに燒やいた。

彼は危ない手元で、間違って落としては灰にくるまっても、口でふうふうと吹いて手でばたばたと叩くのみで、洗うこともしなかった。

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彼かれは危險あぶない手てもとで間違まちがつて落おとしては灰はひにくるまつても口くちでふう/\と吹ふいて手てでばた/\と叩たゝくのみで洗あらふこともしなかつた。

じりじりと白く火箸へ焼きついた塩が、長く火箸に臭いを止めた。

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じり/\と白しろく火箸ひばしへ燒やけ附ついた鹽しほが長ながく火箸ひばしに臭氣しうきを止とめた。

勘次は小屋で卯平が塩鮭を焼く匂いをかいでは、一種の刺激を感じるとともに、卯平を妬むような不快の念が、どうかするとつい起こった。

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勘次かんじは小屋こやで卯平うへいが鹽鮭しほざけを燒やく臭にほひを嗅かいでは一種しゆの刺戟しげきを感かんずると共ともに卯平うへいを嫉にくむやうな不快ふくわいの念ねんがどうかすると遂つひ起おこつた。

それだが卯平はまた、独りでむっつりと布団にくるまっている時は、父子三人の話がよく聞こえた。

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それだが卯平うへいは又また獨ひとりでむつゝりと蒲團ふとんにくるまつて居ゐる時ときは父子おやこ三人にんの噺はなしが能よく聞きこえた。

彼は自分がいっしょにいる時は互いに隔てがありそうでいて、自分が離れるとにわかに睦まじそうに笑いさざめくもののように、彼は久しい前から思っていた。

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彼かれは自分じぶんが一緒しよに居ゐる時ときは互たがひに隔へだてが有相ありさうで居ゐて、自分じぶんが離はなれると俄にはかに陸むつまじ相さうに笑語さゝやくものゝ樣やうに彼かれは久ひさしい前まえから思おもつて居ゐた。

それを聞くと彼は一種の嫉妬を伴ったいやな心持ちになって、布団を深くかぶってみても何となく耳について、おつぎのちょっと甘えたような声や与吉の無遠慮な無邪気な声を聞くと、一方にはまた彼らの家族と一つになりたいような心持ちも起こるし、彼はじっと目を閉じているので頭の中が余計にもつれて、いろいろな状態がはっきりと目先にちらついて、しみじみと悲しいようになってみたりして、なおさらにリューマチの痛みがじりじりと自分の体を引き締めてしまうようにも感じられた。

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其それを聞きくと彼かれは一種しゆの嫉妬しつとを伴ともなうた厭いやな心持こゝろもちに成なつて、蒲團ふとんを深ふかく被かぶつて見みても何なんとなく耳みゝについて、おつぎの一寸ちよつと甘あまえた樣やうな聲こゑや與吉よきちの無遠慮ぶゑんりよな無邪氣むじやきな聲こゑを聞きくと一方ぱうには又また彼等かれらの家族かぞくと一つに成なりたいやうな心持こゝろもちも起おこるし、彼かれは凝然ぢつと眼めを閉とぢて居ゐるので頭あたまの中なかが餘計よけいに紛糾こぐらかつて、種々いろ/\な状態じやうたいが明瞭はつきりと目先めさきにちらついてしみ/″\と悲かなしい樣やうに成なつて見みたりして猶更なほさらに僂麻質斯レウマチスの疼痛いたみがぢり/\と自分じぶんの身體からだを引緊ひきしめて畢しまふ樣やうにも感かんぜられた。

彼はそういう時、おつぎでも与吉でも

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彼かれはさういふ時ときおつぎでも與吉よきちでも

「爺さんよう」

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「爺ぢいよう」

と呼んでくれれば、ふいとけだるい首をもたげて、明るい白昼の光を見ることによって、何とも知れない嬉しさに涙がいっぱいにあふれることもあるのであった。

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と喚よんでくれゝばふいと懶ものうい首くびを擡もたげて明あかるい白晝はくちうの光ひかりを見みることによつて何なんとも知しれぬ嬉うれしさに涙なみだが一杯ぱいに漲みなぎることもあるのであつた。

おつぎはやかましく勘次に使われて、昼の間はわずかの暇もなかった。

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おつぎは八釜敷やかましく勘次かんじに使つかはれて晝ひるの間あひだは寸暇すんかもなかつた。

夜がひっそりとするころは、おつぎはよく卯平の小屋へ来て、悩んでいる腰を揉んでやった。

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夜よがひつそりとする頃ころはおつぎは能よく卯平うへいの小屋こやへ來きて惱なやんで居ゐる腰こしを揉もんでやつた。

おつぎは卯平をいたわるには、いくら勘次がやかましくても、いちいち断りを言っては出なかった。

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おつぎは卯平うへいを勦いたはるには幾いくら勘次かんじが八釜敷やかましくても一々斷ことわりをいうては出でなかつた。

勘次は、おつぎがしばらくでもいなくなると、たとえ卯平のそばにいるとは知っても

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勘次かんじはおつぎが暫時しばしでも居ゐなくなると假令たとひ卯平うへいの側そばに居ゐるとは知しつても

「おつう」

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「おつう」

と例のように激しく怒鳴ってみるのである。

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と例いつものやうに激はげしく呶鳴どなつて見みるのである。

「ここにいたよ。そんなに呼ばれなくたっていいから。何だか、おとっつあんは」

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「此處こゝに居ゐたよ、そんなに喚よばらなくつたつてえゝから、何なんだかおとつゝあは」

おつぎの勘次を叱る声は柔らかで、そうしてはっきりと勘次の耳に響いた。

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おつぎの勘次かんじを叱しかる聲こゑは軟やはらかでさうして明瞭めいれうに勘次かんじの耳みゝに響ひびいた。

勘次は手ランプの光にただ目がひどく光るのみで、一言もなく息をひそめてしまうのである。

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勘次かんじは手てランプの光ひかりに只たゞ目めが酷ひどく光ひかるのみで一言ごんもなく屏息へいそくして畢しまふのである。

彼はまたしばらくして大戸をがらりと勢いよく開けて出ては、また少し隙間を残して大戸を引いて、ちょうど中へ戻ったと見せて、ほとんど壁に接した卯平の戸口の近くに立ってみるのである。

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彼かれは又また暫しばらくして大戸おほどをがらりと勢いきほひよく開あけて出でては又また少すこし隙間すきを残のこして大戸おほどを引ひいて丁度ちやうど内うちへ還かへつたと見みせて、殆ほとんど壁かべに接せつした卯平うへいの戸口とぐちに近ちかく立たつて見みるのである。

手ランプもつけない卯平の狭い小屋の空気は、黒くしょんぼりとして死んだようである。

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手てランプも點つけぬ卯平うへいの狹せまい小屋こやの空氣くうきは黒くろく悄然ひつそりとして死しんだ樣やうである。

勘次は抜き足して戻っては、できるだけ静かに戸を閉じる。

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勘次かんじは拔ぬき足あしして戻もどつては出來できるだけ靜しづかに戸とを閉とぢる。

非常に不平な顔つきをしていても、勘次はおつぎが帰るとすぐに機嫌が直って

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非常ひじやうに不平ふへいな相形さうぎやうをして居ゐても勘次かんじはおつぎが歸かへると直すぐに機嫌きげんが直なほつて

「お前はそんなに夜更かしするもんじゃない」

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「汝わりやそんなに夜更よふかしするもんぢやねえ」

と、いたわるようなたしなめるような調子で言ってみるのである。

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と勦いたはるやうな窘たしなめるやうな調子てうしていつて見みるのである。

そうすると

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さうすると、

「明日の障りにでもなりゃしまいし、構うこともあるまいな、おとっつあんは」

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「明日あしたの障さはりにでも成なりやしめえし管かまあこたあんめえな、おとつゝあは」

と言って、おつぎは勘次を押さえつけてしまうのである。

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といつておつぎは勘次かんじを壓おしつけて畢しまふのである。

卯平は、おつぎが看病に来る時はたいてい

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卯平うへいはおつぎが看病かんびやうに來くる時ときは大抵たいてい

「お前はいいよ」

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「汝わりやえゝよ」

と言うのが常である。

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といふのが例れいである。

彼は勘次に遠慮をするのではなくて、おつぎがぶつぶつ言われるのを心配するのであった。

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彼かれは勘次かんじに遠慮ゑんりよをするのではなくて、おつぎがぶつ/\いはれるのを懸念けねんするのであつた。

それでも卯平は、心ひそかにおつぎを待ちつつあった。

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それでも卯平うへいは心こゝろ竊ひそかにおつぎを待まちつゝあつた。

彼が悩まされたリューマチは、病気の性質として彼の頑丈な体からその命を奪い去るまでに力をたくましくすることはなく、起こったり和らいだりして、彼が帰ってから二度目の冬も一日一日と短い日を刻んで行った。

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彼かれが惱なやまされた僂麻質斯レウマチスは病氣びやうきの性質せいしつとして彼かれの頑丈ぐわんぢやうな身體からだから其その生命せいめいを奪うばひ去さるまでに力ちからを逞たくましくすることはなく、起おこつたり和やはらいだりして彼かれが歸かへつてから二度目どめの冬ふゆも一日々々いちにち/\と短みじかい日ひを刻きざんで行いつた。

狭苦しい掘っ立て小屋は、彼が最初に思い込んだほど、彼のために幸いな所ではなかった。

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狹苦せまくるしい掘立小屋ほつたてごやは彼かれが當初はじめに思おもひ込こんだ程ほど彼かれの爲ために幸さいはひな處ところではなかつた。

一九

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一九

「ああ暑い暑い、何と暑いことかな」

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「おゝ暑あつえ/\、なんち暑あつえこつたかな」

おつたは前駒の下駄を引きずって

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おつたは前駒まへこまの下駄げたを引ひき擦ずつて

「おやおやまあ、よくこうまあ、どこにも草っ葉一つなくて、見ても晴れ晴れとするようだ」

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「おや/\まあ能よく斯かうなあ、何處どこにも草くさだら一ひとつなくつて、見みても晴々せえ/\とする樣やうだ」

と、わざとらしいように言って庭に立った。

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と態わざとらしい樣やうにいつて庭にはに立たつた。

そうしてから

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さうしてから

「たんと穫れるだろうな、これじゃ。茎ばかりでもたいした出来だな」

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「たんと穫とれべえなこんぢや、幹からばかしでもたえした出來できだな」

と言って、勘次の近くに歩を運んだ。

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といつて勘次かんじに近ちかく歩ほを運はこんだ。

勘次は庭先の栗の木の陰へ二つの臼を横に転がして、おつぎと二人で夏蕎麦を打っていた。

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勘次かんじは庭先にはさきの栗くりの木きの陰かげへ二ふたつの臼うすを横よこに轉ころがしておつぎと二人ふたりで夏蕎麥なつそばを打うつて居ゐた。

夏蕎麦は小麦でも打つように、一つつかんでは肩から背負うようにして臼の腹へ叩きつけると、三角形の種がまだ少し青い葉とともに落ちて、ほとんど直射する日光を遮っている栗の木の陰から遠ざかって、はるかに先のほうまで転がって行く。

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夏蕎麥なつそばは小麥こむぎでも打うつ樣やうに一ひとつ攫つかんでは肩かたから背負せおふやうにして臼うすの腹はらへ叩たゝきつけると三稜形りようけいの種子みがまだ少すこし青あをい葉はと共ともに落おちて殆ほとんど直射ちよくしやする日光につくわうを遮さへぎつて居ゐる栗くりの木きの陰かげから遠とほざかつて遙はるかに先さきの方はうまで轉ころがつて行ゆく。

小麦と違って湿っぽい夏蕎麦は、茎がくたくたとして、幾度も叩きつけなければなかなか落ちない。

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小麥こむぎと違ちがつて濕しめつぽい夏蕎麥なつそばは幹からがくた/\として幾度いくども叩たゝきつけねばなか/\落おちない。

それでも種は不揃いに熟しているので、まだ青いのはどうしてもしがみついている。

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それでも種子みは不規則ふきそくな成熟せいじゆくをして居ゐるので、まだ青あをいのはどうしてもしがみ附ついて居ゐる。

二人は藁で縛った大きな束を解いては、粘った物でも引き剥がすようにつかみ取って、熱心に忙しく臼の腹へ叩きつけた。

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二人ふたりは藁わらで縛くゝつた大おほきな束たばを解といては粘ねばつた物ものでも引ひき剥はがす樣やうに攫つかみ取とつて熱心ねつしんに忙せはしく臼うすの腹はらへ叩たゝきつけた。

庭は卯平が始終草をむしって掃除してあるのに、蕎麦を打つ前にいったん丁寧に箒が渡ったので、見るからに清潔になっていたのである。

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庭にはは卯平うへいが始終しじゆ草くさを挘むしつて掃除さうぢしてあるのに、蕎麥そばを打うつ前まへに一旦たん丁寧ていねいに箒はうきが渡わたつたので見みるから清潔せいけつに成なつて居ゐたのである。

勘次は暑いので、紺の襦袢も腰のあたりへだらりと落として、焦げたような肌をさらけ出している。

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勘次かんじは暑あついので紺こんの襦袢じゆばんも腰こしのあたりへだらりとこかして、焦こげたやうな肌膚はだをさらけ出だして居ゐる。

彼はさらに栗の木の茂った葉の間から、針の先で突くようにぽちりぽちりと漏れて差す光を避けて、いつものごとく藺草の編み笠をかぶって、麻の紐をあごでぎっと結んである。

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彼かれは更さらに栗くりの木きの茂しげつた葉はの間あひだから針はりの先さきで突つくやうにぽちり/\と洩もれて射さす光ひかりを避さけて例いつもの如ごとく藺草ゐぐさの編笠あみがさを被かぶつて、麻あさの紐ひもを顎あごでぎつと結むすんである。

毎日必ず汗でぐっしょりと湿るので、その強い繊維の力が脆くなって、秋の冷たい季節までにはどうしても中途で一度は換えねばならないと勘次が自慢している紐は、埃が加わって汚れていた。

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毎日まいにち必かならず汗あせでぐつしりと濕しめるので、其その強靱きやうじんな纎維せんゐの力ちからが脆もろく成なつて、秋あきの冷つめたい季節きせつまでにはどうしても中途ちうとで一度どは換かへねばならぬと勘次かんじが自慢じまんして居ゐる紐ひもは埃ほこりが加くははつて汚よごれて居ゐた。

勘次はおつたの姿をちらりと垣根の入口に見た時、不快な目をしかめて、知らない様子を装いながら、ひたすら蕎麦の茎に力を注いだのであった。

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勘次かんじはおつたの姿すがたをちらりと垣根かきねの入口いりぐちに見みた時とき不快ふくわいな目めを蹙しがめて知しらぬ容子ようすを粧よそほひながら只管ひたすら蕎麥そばの幹からに力ちからを注そゝいだのであつた。

おつたはやや褐色にさめた毛繻子の洋傘を肩に打ちかけたまま、そこらにこぼれた蕎麦の種を踏まないように注意しながら、勘次の横手へ立ち止まった。

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おつたは稍やゝ褐色ちやいろに腿さめた毛繻子けじゆすの洋傘かうもりを肩かたに打ぶつ掛かけた儘まゝ其處そこらに零こぼれた蕎麥そばの種子みを蹂ふまぬ樣やうに注意ちういしつゝ勘次かんじの横手よこてへ立たち止どまつた。

おつたは幾年か以前の仕立てと見える、めったにない大柄の鳴海絞りの浴衣を片肌脱ぎにして、左の袖口がだらりと膝の下まで垂れている。

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おつたは幾年いくねんか以前まへの仕立したてと見みえる滅多めつたにない大形おほがたの鳴海絞なるみしぼりの浴衣ゆかたを片肌脱かたはだぬぎにして左ひだりの袖口そでぐちがだらりと膝ひざの下したまで垂たれて居ゐる。

裾は片隅をはしょって、外から帯へ挟んだ。

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裾すそは片隅かたすみを端折はしよつて外そとから帶おびへ挾はさんだ。

勘次はどこまでも知らない様子を保つことはできなかった。

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勘次かんじは何處どこまでも知しらぬ容子ようすを保たもつことは出來できなかつた。

彼はおつたのわざとらしい声も聞かず、また近くに立ったその姿を目に映さないわけには行かなかった。

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彼かれはおつたの態わざとらしい聲こゑも聞きかず、又また近ちかく立たつた其その姿すがたを眼めに映うつさない譯わけには行ゆかなかつた。

彼は蕎麦をつかむのを止めて、おつたのほうを向いた。

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彼かれは蕎麥そばを攫つかむのを止やめておつたの方はうを向むいた。

彼はしかめていた顔に、少しきまりの悪そうな一種の表情を浮かべた。

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彼かれは蹙しがめて居ゐた顏かほに少すこし極きまりの惡相わるさうな一種しゆの表情へうじやうを浮うかべた。

「何だい、姉さんら」

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「何なんでえ姊等あねら」

勘次は無意識にそう言った。

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勘次かんじは無意識むいしきにさういつた。

彼の胸のあたりに湧き出る汗は、わずかに曲がりながら幾筋かの流れる道を作っている。

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彼かれの胸むねのあたりに湧わき出いづる汗あせは、僅わづかに曲折きよくせつをなしつゝ幾筋いくすぢかの流ながるゝ途みちを作つくつて居ゐる。

そこには蕎麦の茎から知られないほどずつ立つ埃がついて湿っている。

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其處そこには蕎麥そばの幹からから知しられぬ程ほどづつ立たつ埃ほこりが付ついて濕しめつて居ゐる。

じりじりと汗腺から絞れ出る汗が、その跡をつけられた流れの道を絶たないで、そこだけ蕎麦の埃を洗い去っている。

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ぢり/\と汗腺かんせんから搾しぼれ出いづる汗あせが其その趾あとつけられた流ながれの途みちを絶たたないで其處そこだけ蕎麥そばの埃ほこりを洗あらひ去さつて居ゐる。

彼はおつたの前に、その暑そうな身を向けた。

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彼かれはおつたの前まへに其その暑相あつさうな身みを向むけた。

「どうしたということもないがなあ。おれはこっちのほうを通ったもんだから、ちょっと踏み込んでみたところさ」

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「どうしたつちこともねえがなよ、俺おらこつちの方はう通とほつたもんだから一寸ちよつくら踏ふん掛がゝつて見みた處ところさ」

おつたは何かわけのありそうな口ぶりで軽く言った。

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おつたは何なにか理由わけの有相ありさうな口吻くちつきで輕かるくいつた。

「おれはしばらくこっちへも来なかったっけが、これはおつぎじゃあるまいか。大層いい娘になっちまったなあ。もっとももう、こういう手合いはちょっと見ないでいちゃ分からなくなるな、すぐだからな。その割にしちゃ、おれみたいなのは年は取らないものさな」

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「俺おら暫しばらくこつちへも來きなかつたつけが、此こらおつぎぢやあんめえか、大層たえそえゝ娘むすめに成なつちやつたなあ、尤もつともはあ恁かうい手合てえはちつと見みねえでちや分わかんなく成なんな直すぐだかんな、其その割わりにしちや俺おら見みてえなもな年齡としはとんねえものさな」

おつたは立ったまま独り言のように、そうして少し張り合いのないように、何か話の糸口でも求めたいという様子で、栗の木のこずえからだらりと垂れている南瓜の尻を見上げながら言った。

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おつたは立たつた儘まゝ獨語ひとりごとの樣やうに、さうして少すこし張合はりあひのない樣やうに、何なにか噺はなしの端緒いとぐちでも求もとめたいといふ容子ようすで栗くりの木きの梢こずゑからだらりと垂たれてる南瓜たうなすの臀しりを見上みあげながらいつた。

おつぎはこの時、菅笠の端へちょっと手を掛けて、おつたへ腰を屈めた。

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おつぎは此この時とき菅笠すげがさの端はしへ一寸ちよつと手てを掛かけておつたへ腰こしを屈かゞめた。

おつぎは白い襦袢の襟をのぞかせて、ひとえの胸をきちんと合わせて、そうしてたすきと手甲とで身を固めて、暑いのにもかかわらず、女のたしなみを失わなかった。

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おつぎは白しろい襦袢じゆばんの襟えりを覗のぞかせて、單衣ひとへの胸むねをきちんと合あはせて、さうして襷たすきと手刺てさしとで身みを堅かためて、暑あついのにも拘かゝはらず女をんなの節制たしなみを失うしなはなかつた。

おつぎは蕎麦の手を放して、小走りに駆けて行った。

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おつぎは蕎麥そばの手てを放はなして小走こばしりに驅かけて行いつた。

菅笠を取って、だらりとかぶった手拭いを外した時、少し乱れた髪がぐっしょりと汗に濡れて、げっそりと衰えたもののように覚えた。

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菅笠すげがさをとつてだらりと被かぶつた手拭てぬぐひを外はづした時とき少すこし亂みだれた髮かみがぐつしやりと汗あせに濡ぬれてげつそりと衰おとろへたものゝ樣やうに覺おぼえた。

おつたは開いたままの洋傘を栗の木のそばへ仰向けに置いて、黙って井戸端へ行って、手水だらいに一杯の水を汲んだ。

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おつたは開ひらいた儘まゝの洋傘かうもりを栗くりの木きの側そばへ仰向あふむけに置おいて默だまつて井戸端ゐどばたへ行いつて手水盥てうづだらひに一杯ぱいの水みづを汲くんだ。

「冷たくて本当に晴れ晴れといい水じゃないか。おれのほうの井戸みたいに柄杓で汲み出すようなんじゃ、ぼかぼかぬるまっこくて」

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「冷つめたくつて本當ほんとに晴々せえ/\とえゝ水みづぢやねえか、俺おら方ほの井戸ゐど見みてえに柄杓ひしやくで汲くみ出だすやうなんぢや、ぼか/\ぬるまつたくつて」

おつたはまた独り言を言った。

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おつたは復また獨語ひとりごとをいつた。

勘次はそばを去ったおつたを捨てて、しかも気の乗らないようにまた蕎麦を臼へ打ちつけはじめた。

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勘次かんじは側そばを去さつたおつたを棄すてゝ、然しかも氣きの乘のらぬ樣やうに又また蕎麥そばを臼うすへ打うちつけ始はじめた。

おつたは汗のしみた手拭いをしきりにごしごしと揉み出して、首筋のあたりから一帯に幾度となく拭いて、手水だらいの水を換えた。

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おつたは汗沁あせじみた手拭てぬぐひを頻しきりにごし/\と揉もみ出だして首筋くびすぢのあたりから一帶たいに幾度いくたびとなく拭ぬぐつて手水盥てうづだらひの水みづを換かへた。

しばらくして、家のひさしからは青い煙が這って、だんだんに薄い煙が後から後から暑い日に消えて行った。

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暫しばらくして家うちの廂ひさしからは青あをい煙けぶりが偃たつてだん/\に薄うすい煙けぶりが後あとから/\と暑あつい日ひに消散せうさんした。

「おとっつあん、お茶が沸いたぞ」

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「おとつゝあ、お茶ちや沸わいたぞ」

おつぎは戸口へ出て、小声で勘次へ告げた。

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おつぎは戸口とぐちへ出でて小聲こごゑで勘次かんじへ告つげた。

「うん」

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「うむ」

勘次は喉の底で言って

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勘次かんじは喉のどの底そこでいつて

「姉さん、お茶が沸いたとう」

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「姊あね、お茶ちや沸わいたとう」

彼はまたぶすりと言って、蕎麦の手を止めなかった。

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彼かれは又またぶすりといつて蕎麥そばの手てを止やめなかつた。

「お茶をお上がんなさいね」

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「お茶ちやおあがんなせえね」

おつぎは勘次の後について、少し声高に言った。

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おつぎは勘次かんじの尾しりに跟ついて少すこし聲高こわだかにいつた。

おつたはぎりっと絞った手拭いを開いて、ばたばたと叩いた。

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おつたはぎりつと絞しぼつた手拭てぬぐひを開ひらいてばた/\と叩たゝいた。

井戸端にぼさぼさと茂りながら、日中の暑さにぐったりと葉がしおれている鳳仙花の、やっとすがっている花が手拭いの端に触れて、ぽろっと落ちた。

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井戸端ゐどばたにぼつさりと茂しげりながら日中につちうの暑あつさにぐつたりと葉はが萎しをれて居ゐる鳳仙花ほうせんくわの、やつと縋すがつて居ゐる花はなが手拭てぬぐひの端はしに觸ふれてぼろつと落おちた。

そばには背の高い向日葵が、むしろ毒々しいほどいっぱいに開いて、周りに誇っている。

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側そばには長大ちやうだいな向日葵ひまわりが寧むしろ毒々どく/\しい程ほど一杯ぱいに開ひらいて周圍しうゐに誇ほこつて居ゐる。

おいらん草の花がもさもさと茂ったまま、向日葵のそばに列をなしている。

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草夾竹桃くさけふちくたうの花はながもさ/\と茂しげつた儘まま向日葵ひまわりの側そばに列れつをなして居ゐる

「よくまあこんなに作ったっけな。おれももう、好きは好きだが、自分じゃあっちだこっちだで作れないもんだ。これをまあ、朝っぱらの涼しいうちに見たら、どれほどいいことかよ」

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「能よくまあかういに作つくつたつけな、俺おらもはあ、好すきは好すきだが自分じぶんぢやそつちだこつちだで作つくれねえもんだ、此これまあ朝あさつぱら凉すゞしい内うちに見みたらどら程ほどえゝこつたかよ」

おつたは湿った手拭いを幾つかに折って手につかんだまま、栗の木のそばに置いた洋傘をすぼめて、ゆっくりと家へ入った。

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おつたは濕しめつた手拭てぬぐひを幾いくつかに折をつて手てに攫つかんだ儘まゝ、栗くりの木きの側そばに置おいた洋傘かうもりを窄つぼめてゆつくりと家うちへ這入はひつた。

おつぎは茶を沸かす火のために汗がさらに湧いたのを手拭いで拭いて、それから乱れた髪に櫛を入れて、さらに丁寧に手拭いをかぶって、そうしておつたを呼んだのであった。

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おつぎは茶ちやを沸わかす火ひの爲ために汗あせが更さらに湧わいたのを手拭てぬぐひでふいて、それから亂みだれた髮かみに櫛くしを入いれて更さらに丁寧ていねいに手拭てぬぐひを被かぶつてさうしておつたを喚よんだのであつた。

おつたはどこか落ち着かない様子で、洋傘も外の壁際に立てかけて敷居をまたいだ。

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おつたは何處どこか落付おちつかぬ容子ようすで洋傘かうもりも外そとの壁際かべぎはに立たて掛かけて閾しきゐを跨またいだ。

「お暑うございますね、どうも」

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「お暑あつうござんすねどうも」

おつぎはたすきを取ってお辞儀を述べながら、おつたへ茶をすすめた。

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おつぎは襷たすきをとつて時儀じぎを述のべながらおつたへ茶ちやを侑すゝめた。

三人はしばらく黙っていた。

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三人にんは暫しばらく沈默ちんもくして居ゐた。

東隣の庭からは、大勢が揃ってからさおで麦を打っている響きが、森を透して、それからどろりどろりと地を揺すって聞こえた。

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東隣ひがしどなりの庭にはからは大勢おほぜいが揃そろつて連枷ふるぢで麥むぎを打うつて居ゐる響ひゞきが、森もりを透とほして夫それからどろり/\と地ちを搖ゆすつて聞きこえた。

自分たちが立てる響きに誘われて騒ぐ、彼らの決まった囃しの声が「ほういほうい」

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自分等じぶんらが立たてる響ひゞきに誘さそはれて騷さわぐ彼等かれらの極きまつた囃はやしの聲こゑが「ほうい/\」

と一人の口から、そうしてだんだんとめいめいの口から一斉にほとばしって、愉快そうに聞こえた。

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と一人ひとりの口くちからさうして段々だん/\と各自めいめいの口くちから一齊せいに迸ほとばしつて愉快相ゆくわいさうに聞きこえた。

三人の耳は同じく誘われたように、一種の調子を持った隣の庭の響きに耳を傾けながら、沈黙の時間を続けた。

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三人にんの耳みゝは同おなじく誘さそはれた樣やうに一種しゆの調子てうしを持もつた隣となりの庭にはの響ひゞきに耳みゝを傾かたむけつゝ沈默ちんもくの時間じかんを繼續けいぞくした。

おつたは茶柱の立った茶碗の中を見て、それからちょっとにっこりしてみたり、庭のほうを見たりしていた。

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おつたは茶柱ちやばしらの立たつた茶碗ちやわんの中なかを見みてそれから一寸ちよつと嫣然につこりとして見みたり、庭にはの方はうを見みたりして居ゐた。

おつたが庭を見ると、勘次は幾年も会わなかった姉の様子を、さすがにしみじみと見るのであった。

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おつたが庭にはを見みると勘次かんじは幾年いくねんも遭あはなかつた姊あねの容子ようすを有繋さすがにしみ/″\と見みるのであつた。

おつたは五十をいくつも越えている。

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おつたは五十を幾いくつも越こえて居ゐる。

小柄な、少しくりくりと丸みを持った顔は、年ほどには見えないにしても、ようやく深い皺が刻んでいるのに、髪は恐ろしくつやつやとしている。

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小柄こがらな少すこしくり/\と丸まるみを持もつた顏かほは、年齡程としほどには見みえないにしても漸やうやく深ふかい皺しわが刻きざんで居ゐるのに、髮かみは恐おそろしくつや/\として居ゐる。

おつたは髪を染めていた。

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おつたは髮かみを染そめて居ゐた。

しかし薬の力は、肌を透してその下にまで及ぼすことはできなかった。

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然しかし藥くすりの力ちからは肌膚はだを透とほして其その下したにまで及およぼすことは出來できなかつた。

髪は染めてからしばらくたったと見えて、一帯に肌についたわずかの部分が、髪のすべてをそっくり突き上げたように、ほのかに白く見えていた。

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髮かみは染そめてから暫しばらく經たつたと見みえて一帶たいに肌膚はだについた僅わづかの部分ぶぶんが髮かみの凡すべてをそつくり突つき扛あげた樣やうに仄ほのかに白しろく見みえて居ゐた。

勘次はただ音を立てながら、容易に冷めない熱い茶碗をすすった。

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勘次かんじは只たゞ響ひゞきを立たてながら容易よういに冷さめぬ熱あつい茶碗ちやわんを啜すゝつた。

おつぎも、幾年か会わない伯母の人なつっこいような、わけの分からないような様子を盗み見た。

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おつぎも幾年いくねんか逢あはぬ伯母をばの人ひとなづこい樣やうで理由わけの分わからぬ樣やうな容子ようすを偸ぬすみ視みた。

「夏蕎麦でも穫れるのは、こういう塩梅じゃ粒も大きいようだな」

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「夏蕎麥なつそばでもとれんなかうい鹽梅あんべえぢや粒つぶも大えけえ樣やうだな」

おつたは庭を見たまま、また第一に目に触れる蕎麦について言った。

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おつたは庭にはを見みた儘まゝ復また第だい一に目めに觸ふれる蕎麥そばに就ついていつた。

こちらへ向いている二つの臼の腹が、まだ先の柔らかな夏蕎麦の茎で薄青く染まったのが見えている。

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此方こちらへ向むいて居ゐる二ふたつの臼うすの腹はらが、まだ先さきの軟やはらかな夏蕎麥なつそばの莖くきで薄青うすあをく染そまつたのが見みえて居ゐる。

「馬鹿に降ってばかりいたせいか、茎ばかり伸びちまって。そんだが穫れないほうでもあるまいが、夏蕎麦が穫れるようじゃ世の中はよくないというから、こんなものはどうでもいいようなもんだが」

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「馬鹿ばかに降ふつてばかし居ゐた所爲せゐか幹からばかし延のびつちやつて、そんだがとれねえ方はうでもあんめえが、夏蕎麥なつそばとれる樣やうぢや世柄よがらよくねえつちから、恁こんなもなどうでもえゝやうなもんだが」

勘次の言い方はこそばゆかった。

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勘次かんじのいひ方かたはこそつぱかつた。

庭の油蝉が、暑くなれば暑くなるほどひどくじりじりと炒りつけるのみで、ひっそりとした村の端に、たまたま会った姉弟はこうして、ただよそよそしく向かい合った。

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庭にはの油蝉あぶらぜみが暑あつくなれば暑あつくなる程ほど酷ひどくぢり/\と熬いりつけるのみで、閑寂しづかな村落むらの端はしに偶たま/\遭あうた姊弟きやうだいはかうして只たゞ餘所々々よそ/\しく相對あひたいした。

「本当に、おれはさっきからそう思ってるんだが、立派な花じゃないかな」

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「本當ほんとに俺おら先刻さつきからさう思おもつてんだが立派りつぱな花はなぢやねえかな」

おつたは庭先の草花に、また話をついだ。

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おつたは庭先にはさきの草花くさばなに復また噺はなしを繼ついだ。

「うん、そんだが、ろくにありもしない肥料ばかり使われて」

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「うむ、そんだが碌ろくに有ありもしねえ肥料こやしばかし使つかあれて」

「お前が植えたんじゃないのか」

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「おめえ植うゑたんぢやねえのか」

「なあに、爺さんがあっちこっちから持って来て植えたのよ。去年はそんでも、そこらへとうもろこしくらい作れたっけが、これ、邪魔だとも言えないしなあ」

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「なあに爺樣ぢいさまそつちこつちから持もつて來きて植うゑたてたのよ、去年きよねんはそんでも其處そこらへ玉蜀黍位たうもろこしぐれえ作つくれたつけが、此これ、邪魔じやまだとも云いはんねえしなあ」

「おれはしばらく来ないから知らなかったっけが、そんでも野田から引っ込んでか」

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「俺おら暫しばらく來きねえから知しらなかつたつけが、そんでも野田のだから引ひつこんでか」

「うん、もう二年にならあ」

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「うむ、はあ二年ねんに成ならえ」

「よっぽどの年だろうが、丈夫かい、それでも」

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「餘よつ程ぽどの年齡としだつぺが丈夫ぢやうぶけえそんでも」

「丈夫なことは、驚くほど丈夫だが、何でも自分が好きなら働く様子で、そこらをほっつき歩いちゃ小遣い銭くらいは取ってるんだな、塩梅しだいが」

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「丈夫ぢやうぶなこたあ、魂消たまげる程ほど丈夫ぢやうぶだが何なんでも自分じぶんの好すきなら働はたらく容子ようすで、其處そこらほうつき歩あるいちや小遣錢位こづけえぜねぐれえはとつてんだな鹽梅あんべえしきが」

「そんじゃ忙しい時にはちっとは手伝ってもらえてよかろうな」

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「そんぢや忙いそがしい時ときにやちつたあ手傳てつだつて貰もらへてよかんべな」

「何だ、一つ手伝うなんてありゃしまいし。それからもう、こっちも頼みもしないが」

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「なんだら一つ手傳てつだあなんちや有ありやしめえし、それからはあ、此方こつちも頼たのんもしねえが」

「もっともそう言えば、若いころでもおれが知ってからは、仕事は上手でやるとなればみっしりやるようだったっけが、好きじゃない塩梅だったっけのさな」

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「尤もつともさういへば壯さかりの頃ころでも俺おらあ知しつてからは仕事しごとは上手じやうずで行やると出だしちやみつしら行やる樣やうだつけが、好すきぢやねえ鹽梅あんべえだつけのさな」

「それどころじゃないや。おれといっしょにいるのさえいやなんだろうが、別々になっちまったな。つまらない、余計な銭なんぞ遣って。おれだって大きな手間を打ち込んだな。なあに、おれは爺さんさえちっとその気で行ってくれさえすりゃ、いくらでも面倒を見るというんだが、どういう料簡のもんだか、おれには分からないが」

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「其それ處どこぢやねえや、俺おらと一緒しよに居ゐんのせえ厭やなんだんべが、別々べつ/\に成なつちやつたな、つまんねえ、餘計よけいな錢ぜねなんぞ遣つかつて、俺おらだつて大えけえこと手間てま打ぶつこんだな、なあに俺おら爺樣ぢいさませえちつと其その積つもりで行やつて呉くれせえすりや、幾いくらでも面倒めんだう見みるつちつてんだが、如何どういふ料簡れうけんのもんだか俺おらがにや分わかんねえが」

「そんじゃ、このそばの小屋じゃあるまい。おれはさっき見た時は、肥料小屋だとばかり思ってたな。本当に、こういう所へ酔狂な話よな。何でも世を渡しちゃ誰でも同じこと、跡取りの気味を悪くしないようにやらなくちゃかなわないよ。そんだが、それも性分でなあ、他人からじゃ仕方がないものよ」

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「そんぢや、此この側そばな小屋こやぢやあんめえ、俺おら先刻さつき見みた時ときや肥料小屋こやしごやだとばかし思おもつてたな、本當ほんとにかうだ處とこへ醉狂すゐきやうな噺はなしよな、なんでも世よを渡わたしちや誰たれでも同おなじこと相續人さうぞくにんの氣味きあぢ惡わるくしねえ樣やうにやんなくつちや畢をへねえよ、そんだがそれも性分しやうぶんでなあ、他ほかからぢやしやうねえものよ」

「おれだって、これで一人増えちゃ増えただけ、麦米の心配からしてかからなくちゃならないんだから、そのつもりでいてくれなくちゃ。これで心持ちじゃあんまり面白くないからな。毎日苦虫を噛み潰したような面つきばかりされたんじゃ、いやになっちまうぞ、本当に」

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「俺おらだつてこんで一人ひとり殖ふえちや殖ふえた丈だけに麥米むぎこめの心配しんぺえからして掛かゝんなくつちやなんねえんだから、其その積つもりで居ゐてくんなくつちや、此こんで心持こゝろもちぢや餘あんまり面白おもしろかねえかんな、毎日まいにち苦蟲にがむし喰くつ潰ちやしたやうな面つらつきばかしされたんぢや厭やんなつちまあぞ、本當ほんたうに」

「そりゃそうにも何にもよ。他人でさえ、これで柔らかい言葉でも掛けられると、後じゃほしくなるような物でも出す料簡にもなるもんだからなあ」

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「そりやさうにも何なんにもよ、他人たにんでせえこんで軟やつけえ言辭ことばでも掛かけられつと、後あとぢや欲ほしく成なるやうな物ものでも出だす料簡れうけんにもなるもんだかんなあ」

おつたはこう言いながら、さっきから鶏のねぐらの下にある二俵の俵へ目を注いでいた。

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おつたは斯かういひながら先刻さつきから雞とりの塒とやの下したに在ある二俵へうの俵たわらへ目めを注そゝいで居ゐた。

「そんだがお前も、たいした働きだと見えるな。こんなに俵までちゃんとして。たいがいの百姓じゃお前、この手には行かないぞ。おれはお世辞を言うわけじゃないが」

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「そんだがおめえもたえした働はたらきだと見めえんな、かうえに俵たわらまでちやんとして、大概てえげえな百姓ひやくしやうぢやおめえ此この手てにや行いかねえぞ、俺おら世辭つやいふわけぢやねえが」

勘次はようやく話に釣り込まれたように、この時微笑を漏らして

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勘次かんじは漸やうやく噺はなしに吊つり込こまれた樣やうに此この時とき微笑びせうを洩もらして

「おれも今になってからじゃこれ、話するようなもんだが、ひとしきりは泣いたからな、本当に。これでもこれくらいにするにはやっとこさだぞ」

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「俺おらも今いまんなつてからぢやこれ、噺はなしするやうなもんだが一ひとしきりや泣ないたかんな本當ほんたうに、こんでも此この位くらえにすんにやゝつとこせえだぞ」

と言った。

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といつた。

「おつぎも働けそうだな、きりきりとして。さっきおれが蕎麦を打ってるのを見ていても、心持ちがいいようだったっけよ。仕事は何でも身なりのいいもんでなくちゃなあ。これもお前が仕込んだせいだろうが」

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「おつぎも働はたらけ相さうだな、きり/\としてなあ、先刻さつき俺おら蕎麥そば打ぶつてんの見みてゝも心持こゝろもちえゝ樣やうだつけよ、仕事しごとはなんでも身拵みごしれえのえゝもんでなくつちやなあ、此これもおめえが仕込しこみの所爲せゐだんべが」

おつたはそう言って、また

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おつたはさういつて又また

「そりゃそうと、おっかさんにそのままだなあ」

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「そりやさうとおつかさまに其儘そつくりだなあ」

と、そばにいたおつぎに目を移した。

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と側そばに居ゐたおつぎに目めを移うつした。

おつぎはそれを聞くとともに、身を避けるように手桶を持って庭へ出た。

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おつぎはそれを聞きくと共ともに身みを避さける樣やうに手桶てをけを持もつて庭にはへ出でた。

「おれもこれで、女房に死なれた当座には、これも役に立たないから泣き抜いたよ」

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「俺おらもこんで嚊かゝあに死しなれた當座たうざにや此これも役やくに立たたねえから泣なきぬいたよ」

勘次はにわかにしんみりとして言った。

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勘次かんじは俄にはかにしんみりとしていつた。

おつたはお品のことが勘次の口から出た時、かすかに苦笑して

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おつたはお品しなのことが勘次かんじの口くちから出でた時とき微かすかに苦笑くせうして

「ほんに、おれはあの時には来られなかったっけが、遠くのほうへ行ってたもんだから。お前にはもう、悪く思われるだろうとは思ってたのよ」

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「ほんに、俺おら彼あん時ときにや來きねえつちやつたつけが、遠とほくの方はうへ行いつてたもんだから、おめえにやはあ惡わるく思おもはれべえたあ思おもつてたのよ」

おつたはようやくのことで、しかも表面は事もなげに言ってしまった。

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おつたは漸やうやくのことで然しかも表面へうめんは事こともなげにいつて畢しまつた。

「おれはさっきから見てるんだが、道具はよく大事にすると見えて、鎌なんぞでも光ってることな。それによく、こう三日月みたいな形に減らせたもんだな。研ぎ方もよっぽど気をつけなくちゃ、こうはできないな。道具もこうすりゃいつまでも使えて安いものさな」

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「俺おら先刻さつきから見みてんだが道具だうぐは能よく大事でえじにすつと見みえて鎌かまなんぞでも光ひかつてつことなあ、それに能よくかう三日月姿みかづきなりに減へらせたもんだな、研とぎ方かたも餘よつ程ぽど氣きをつけなくつちやかうは出來できねえな、道具だうぐも斯かうすりや何時いつまでゝも使つかへて廉やすえものさな」

おつたは少し慌てたように、しかもなるべく落ち着こうと努めながら話を外した。

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おつたは少すこし慌あわてた樣やうに然しかも成なるべく落附おちつかうと勉つとめつゝ噺はなしを外そらした。

「唐鍬もたいしたもんじゃないかな」

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「唐鍬たうぐはもたえしたもんぢやねえかな」

おつたはわざと唐鍬のそばに立った。

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おつたは態わざと唐鍬たうぐはの側そばに立たつた。

「うん、そんでもおれのみたいなのは、めったに持ってる者もないからな」

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「うむ、そんでも俺おらが見みてえなゝ、滅多めつた持もつてるもなねえかんな」

「どうするんだい、こんな大きいの。引き立てるばかりでも大変なようじゃないかい」

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「どうすんでえこんな大えけえの、引ひつ立たてるばかしでも大變たえへんなやうぢやねえけ」

「そんだって姉さん、これを見ろな」

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「そんだつて姊あねは此これ見みろな」

勘次は手のひらをおつたの前へ出した。

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勘次かんじは掌てのひらをおつたの前まへへ出だした。

百姓にしては比較的小さな手は、腫れたかと思うほどぽつりと膨れて、どれほど樫の柄をつかんでも、けっして豆を生じるはずの手でないことをはっきりと示している。

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百姓ひやくしやうにしては比較的ひかくてき小ちひさな手ては腫はれたかと思おもふ程ほどぽつりと膨ふくれて、どれ程ほど樫かしの柄えを攫つかんでも決けつして肉刺まめを生しやうずべき手てでないことを明あきらかに示しめして居ゐる。

「これだから、知らない者は、おれが手をかざしてると、どうしたんだいなんて聞くから、おれはこんなに腫れちまって痛くて仕方がないんだなんて、そうっと出して見せると、なるほどこりゃ痛かろうなんて驚くらあな。唐鍬なんざ銭を出しさえすりゃいくらでもあるが、この手のひらはないぞ。二年三年唐鍬を持ったんじゃ、こうはならないからな。おれのは唐鍬の柄へすっかりくっついちまったんだから。これで毎年四、五反歩くらいは開墾するんだから」

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「此こんだから知しらねえもな俺おれ手懷てぶところしてつと、如何どうしたんでえなんて聞きくから俺おらかういに腫はれつちやつて痛いたくつてしやうねえんだなんて、そろうつと出だして見みせつと、成なる程ほどこりや痛いたかんべえなんて魂消たまげらあな、唐鍬たうぐはなんざ錢ぜね出だしせえすりや幾いくらでも有あんが、此この手てつ平ぴらはねえぞ、二年ねん三年ねん唐鍬たうぐは持もつたんぢや恁かうは成なんねえかんな、俺おらがな唐鍬たうぐはの柄えさすつかりくつゝいちやつたんだから、こんで毎年まいとし四五反歩位たんぶりぐれえは打開墾ぶちおこすんだから」

勘次はしかめた顔の筋が緩んだようになって、おつたの前に誇った。

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勘次かんじは蹙しがめた顏かほの筋すぢがゆるんだ樣やうになつておつたの前まへに誇ほこつた。

「旦那の山林を開墾しちゃうまいのよ。場所によっちゃ陸稲も作れるし。おれはこれでも三、四反歩ずつは作ってるんだが、今年はいい塩梅の降りだから大丈夫だとは思ってるのよ。どういうもんだか、以前は陸稲というともう、穫れないようなもんだったっけがな」

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「旦那だんなの山林開墾やまおこしちやうめえのよ、場所ばしよによつちや陸稻をかぼも作つくれるし、俺おらこんでも三四反歩たんぶりづつは作つくつてんだが、今年ことしはえゝ鹽梅あんべえな降ふりだから大丈夫だえぢよぶだたあ思おもつてんのよ、どうえもんだか以前めえかたは陸稻をかぼつちとはあ、とれねえ樣やうなもんだつけがな」

「そんなに作っちゃ、大層なもんじゃないかな」

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「其麽そんなに作つくつちや大層たえそなもんぢやねえかな」

おつたは驚いたように言った。

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おつたは驚おどろいたやうにいつた。

「陸稲も地が新しいうちはできるもんだわ。穂の出た割には量は取れないが、そんでも開墾したばかりには草は出ないから手間が要らないしな。それに肥料というのはなんぼもしないんだから。もっとも三年も作っちゃその手には行かないが、その時はもとの山林になるんだから、怖いことも何にもないのよ」

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「陸稻をかぼも地ぢが珍めづらしい内うちは出來できるもんだわ、穗ほの出でた割わりにや分ぶは拔ぬけねえが、そんでも開墾おこしたばかしにや草くさは出でねえから手間てまが要えらねえしな、それに肥料こやしつちやなんぼもしねえんだから、尤もつとも三年ねんも作つくつちや其その手てにや行いかねえが、其そん時ときや以前もとの山林やまになんだから可怖おつかねえこともなんにもねえのよ」

「よっぽど穫れるだろうな、三、四反歩も作っちゃなあ」

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「餘よつ程ぽどとれべえな、三四反歩たんぶりも作つくつちやなあ」

「これで穂の出際に雨でもいい塩梅なら、反で四俵なんざどうしても穫れると思ってるのよ」

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「こんで穗ほの出際でぎはに雨あめでもえゝ鹽梅あんべえなら、反たんで四俵へうなんざどうしてもとれべと思おもつてんのよ」

「陸稲とも言えないもんだな。以前と違って今の時世じゃそうだから、これで場所によっちゃ、百姓にもたいした起き転びがあるのよなあ。おれのほうみたいに洪水で持って行かれてばかりいる所もあるのに、山林の中で米が穫れるなんて」

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「陸稻をかぼとも云いはんねえもんだな、以前めえかたと違ちがつて今いまの時世ときよぢやさうだからこんで場所ばしよによつちや、百姓ひやくしやうにもたえした起おき轉ころびがあるのよなあ、俺おら方はう見みてえに洪水みづで持もつてかれてばかし居ゐつ處とこも有あんのに山林やまんなかで米こめとれるなんて」

「そうよ、ここらは洪水の心配はそんなにしないでもいい所だからな」

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「さうよ、此處こゝらは洪水みづの心配しんぺえはさうだにしねえでもえゝ處とこだかんな」

勘次は、これまでその間がどうであったにしても、偶然会ったおつたに対してだんだん話しているうちには、同じ乳房にすがった骨肉の関係が、彼の卑しい心の底を開いて、それを隠すにはあまりに彼を無防備にさせたのであった。

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勘次かんじは從來これまで其その間あひだがどうであつたにしても偶然ぐうぜん逢あつたおつたに對たいしてだん/\噺はなして居ゐるうちには同おなじ乳房ちぶさに縋すがつた骨肉こつにくの關係くわんけいが彼かれの淺猿さもしい心こゝろの底そこを披瀝ひらいてそれを陰蔽いんぺいするのには餘あまりに彼かれを放心うつかりとさせたのであつた。

「おつう、あのらっきょうでも出してみな。土用前に採ってすぐ漬けたんだから、もうよかろう」

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「おつう、彼あの薤らつきやうでも出だして見みせえ、土用前どようめえに採とつて直すぐ漬つけたんだから、はあよかんべえ」

勘次は快くおつぎに命じた。

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勘次かんじは快こゝろよくおつぎに命めいじた。

おつぎは古い醤油樽から白漬けのらっきょうを片口へ出して、おつたのそばへすすめた。

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おつぎは古ふるい醤油樽しやうゆだるから白漬しろづけの薤らつきやうを片口かたくちへ出だしておつたの側そばへ侑すゝめた。

勘次は一つつまんでかりかりとかじった。

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勘次かんじは一つ撮つまんでかり/\と噛かじつた。

少し丸みがかった頬に絶えず微笑を含んで、勘次の言うことを聞いていたおつたは、何かさらに言おうとしてちょっとためらっている様子が見えた。

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少すこし丸まるみがかつた頬ほゝに絶たえず微笑びせうを含ふくんで勘次かんじのいふことを聞きいて居ゐたおつたは何なにか更さらにいはうとして一寸ちよつと躊躇ちうちよしつゝある容子ようすが見みえた。

勘次もおつぎも、それは知らなかった。

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勘次かんじもおつぎもそれは知しらなかつた。

おつたは、いっぱいに注いである茶碗へまた茶を注ごうとして、にわかにやめた。

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おつたは一杯ぱいに注ついである茶碗ちやわんへ又また茶ちやを注つがうとして俄にはかに止やめた。

おつたは茶碗をぐっと飲み干した。

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おつたは茶碗ちやわんをぐつと嚥のみ干ほした。

「これで同胞のいい話を聞くのは悪くないもんだよ。さすがに自分ばかりよくて、他の同胞には構わないというものもないからな」

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「こんで同胞きやうでえのえゝ噺はなし聞きくな惡わるかねえもんだよ、有繋まさか自分じぶんばかしよくつて他ほかの同胞きやうでえにや管かまあねえつちいものもねえかんな」

と言って、庭の便所へ立って、それから再び上がり框に腰を下ろした。

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といつて庭にはの便所べんじよへ立たつてそれから再ふたゝび上あがり框がまちに腰こしを卸おろした。

「おれはお前にちっと相談に乗ってもらいたいと思うことがあって来たんだったがなあ」

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「俺おらおめえにちつと相談さうだんに乘のつて貰もれえてえと思おもふこと有あつて來きたんだつけがなよ」

おつたはわざと改まった様子でなく言いかけた。

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おつたは態わざと改あらたまつた容子ようすでなくいひ掛かけた。

「何だろう」

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「何なんだんべ」

勘次はふっと彼のふだんに戻ろうとして、例の不安らしい目を見開いておつたを見た。

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勘次かんじはふつと彼かれの平生へいぜいに還かへらうとして例いつもの不安ふあんらしい目めを睜みはつておつたを見みた。

「なあに、たいしたことじゃないが、盲の野郎に嫁を世話されるもんだから、どうしたもんだろうかと思ってよ」

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「なあにたえしたこつちやねえが、盲目めくらの野郎やらうげ嫁よめ世話せわされるもんだからどうしたもんだんべかと思おもつてよ」

「姉さんがもらいたけりゃ、他人には構うことはあるまいな」

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「姊あね貰もらへたけりや他人ひとにや管かまあこたあ有あんめえな」

勘次は、おつたがゆっくりと言うのが終わらないのに、そっけなく言った。

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勘次かんじはおつたがゆつくりといふのが畢をはらぬのにそつけなくいつた。

「そう言っちまえばそうだがなあ。そんだって、同胞に一言の話もないなんて後で文句を言われても、黙ってちゃお前、口が開けまいな。そんだから、おれはお前に耳打ちしておこうと思ったんだな」

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「さう云ゆつちめえばさうだがなよ、そんだつて同胞きやうでえに一噺ひとはなしもねえなんて後あとで文句もんく云ゆはれても、默だまつてちやおめえ口くちが開あけめえな、そんだから俺おらおめえげ耳打みゝうちして置おくべと思おもつたんだな」

「おれは何も不服を言う筋合いはないな」

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「俺おら何なにも不服ふふくいふ席せきはねえな」

勘次は少し安心したらしく、こう軽く言い退けた。

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勘次かんじは少すこし安心あんしんしたらしく、恁かう輕かるくいひ退のけた。

「そんならいいがなあ。あれももう二十七になるんだから、おれもこれでまあ心配はしてたんだが、自分でもそれ、ない足りないの心配が絶えないもんだから、思ってはいても手が出ないのよ。自分の子供のことを、お前、まったくどうなっても構わないとは思えないよ、これで」

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「そんだらえゝがなよ、彼あれもはあ廿七に成なるんだから俺おらもこんでまあ心配しんぺえはしてたんだが、自分じぶんでもそれ無ねえ足たんねえの心配しんぺえが絶たえねえもんだから、思おもつちや居ゐても手てが出でねえのよ、自分じぶんの餓鬼がきのことおめえ全然まるつきりどうなつても管かまあねえたあ思おもへねえよこんで」

勘次は足の先で土間の土を擦りながら、黙っておつたの言うのを聞いた。

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勘次かんじは足あしの先さきで土間どまの土つちを擦こすりながら默だまつておつたのいふのを聞きいた。

「あれもそれ、中途で盲になったんだから、それまでに働いて体はできてるし、お前も知ってるとおり、あれでいて仕事もできるしするもんだから、ありがたいことに、不具でも嫁を世話しようという者もあるようなわけさなあ。何でも人間は働き次第だよ。お前だって、働くというのでばかり他人にはよく言われてるじゃないかい。そんで、おれもその女は見たが、女はそれ、器量は悪いがな。そんだって盲だもの、目鼻立ちを見るわけじゃなし、心根さえよけりゃいいと思って」

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「彼あれもそれ中途ちうとで盲目めくらに成なつたんだから、それまでに働はたらいて身體からだは成熟できてるしおめえも知しつてる通とほりあんで居ゐて仕事しごとも出來できるしするもんだから、難有ありがてえことに不具かたわでも嫁よめ世話せわすべつちいものもあるやうな譯わけさなあ、何なんでも人間にんげんは働はたらき次第しでえだよ、おめえだつて働はたらくんでばかり他人ひとにや好よく云ゆはれてべえぢやねえけえ、そんで俺おれも其その女をんなは見みたが、女をんなはそれ惡わりいがな、そんだつて盲目めくらだもの目鼻立めはなだち見みべえぢやなし、心底しんてえせえよけりやえゝと思おもつてな」

おつたはしきりに、勘次の心の底からの同意を得ようとした。

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おつたは頻しきりに勘次かんじの衷心ちうしんからの同意どういを得えようとした。

「そりゃよかろうな、そんじゃ」

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「そりやよかんべなそんぢや」

勘次はただ簡単にそう言った。

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勘次かんじは只たゞ簡單かんたんにさういつた。

「そんで嫁を持たせるにしても、せっかくこっちにいて働いてるんだから、おれは自分の所へは連れて行くわけには行かないと思ってな。何と言ってもそれ、知ってる所でなくちゃ、盲だから面倒を見てくれるという人もあるまいしなあ。それからおれは、そこのところも心配していたんだが、ちょうどこの村にいい塩梅に貸してもいいという家があるというもんだから、ついでだと思って見て来たが、ここからじゃあっちのほうの、それ、知ってるだろう、仕切って貸すというんだから、おれはそこへ入れたいと思って。おそるおそる聞いてみたんだが、借りるのには保証人がなくちゃだめだというから、近くではあるし、お前に保証に立ってもらいたいと思ってな」

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「そんで娵よめ持もたせるにしても折角せつかくこつちに居ゐて働はたらいてんだから俺おら自分じぶんの處とこへは連つれて行ゆく譯わけにや行いかねえと思おもつてな何なんちつてもそれ、知しつてつ處とこでなくつちや盲目めくらだから面倒めんだう見みてくれるつち人ひともあんめえしなあ、それから俺おら其處そこんとこも心配しんぺえして居ゐたんだが、丁度ちやうど此この村落むらにえゝ鹽梅あんべえ貸かしてもえゝつち家うち有あるつちもんだから、序ついでだと思おもつて見みて來きたが、此處こゝからぢやあつちの方はうのそれ知しつてべえ仕切しきつて貸かすつちんだから、俺おら其處そこさ入えれてえと思おもつて、おそこそ聞きいて見みたんだが借かりんのにや保證人ほしようにん無なくつちや駄目だめだつちから、近ちかくぢやあるしおめえに保證ほしように立たつて貰もれえてえと思おもつてな」

「いやだよ、おれはそんなこと」

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「厭やだよ俺おらそんなこと」

勘次は慌てたように言った。

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勘次かんじは慌あわてたやうにいつた。

「そんじゃ仕方がないな。どうしてだろうな、また。せっかくあれの身も固まるんだから、そうしてくれればいいんだがな」

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「そんぢや仕しやうねえな、どうしてだんべなまた、折角せつかく彼あれが身みも堅かたまんだからさうして呉くれゝばえゝんだがな」

おつたはがっかり投げかけた態度で言った。

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おつたはがつかり投なげ掛かけた態度たいどでいつた。

「べらぼう、家賃でも滞った日には、おれが弁償しなくちゃなるまいし。それこそおれの身上なんざ潰れても間に合いやしない。いやにも何にも」

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「箆棒べらぼう、家賃やちんでも滯とゞこほつた日ひにや、俺おれ辨償まよはなくつちや成なりやすめえし、それこさあ俺おらが身上しんしやうなんざ潰つぶれても間まにやえやしねえ、厭やだにもなんにも」

「そんなこと言ったってお前、あれだって独りででもいるんじゃなし、持つ物を持って働くのに、三十銭や五十銭の家賃の払えないこともあるまいな。それも何なら、お前、一月でも二月でも様子を見て、その時見込みがなけりゃ身を抜いても構いやしないな」

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「そんなこと云ゆつたつておめえ、彼あれだつて獨ひとりでゝも居ゐんぢやなし持もつもの持もつて働はたらくのに三十錢せんや五十錢せんの家賃やちんの拂はらへねえことも有あんめえな、それも何なんならおめえ一月ひとつきでも二月ふたつきでも見試みためして、そん時とき見込みこみなけりや身拔みぬけしても管かまえやしねえな」

「そんでもいやだよ。おれはそういう話じゃ聞きたくもない」

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「そんでも厭やだよ、俺おらさうい噺はなしぢや聞ききたくもねえ」

勘次はそっけなく言って、すいと庭へ立って、また夏蕎麦へ手を掛けた。

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勘次かんじは素氣すげなくいつてすいと庭にはへ立たつて復また夏蕎麥なつそばへ手てを掛かけた。

「ひどく忙しいこったな」

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「酷ひどく忙いそがしいこつたな」

おつたは口を引き締めて、勘次の後ろ姿を見た。

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おつたは口くちを引ひき締しめて勘次かんじの後姿うしろすがたを見みた。

「忙しいとも。田の草もまだかいちゃいないんだ。土用になってからだって、いくらも照りやしまいし。降ってばかりいるから見ろ、あれ、隣の旦那らだって今ごろ麦を打ってる騒ぎだあ。百姓はこのごろの時節に余計な暇なんざないから」

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「忙いそがしいとも田たの草くさもまあだ掻かきやしねえんだ、土用どようになつてからだつて幾いくらも照てりやしめえし、降ふつてばかし居ゐつから見みろうあれ、隣となりの旦那等だんなたちだつて今頃いまごろ麥むぎ打ぶつてる騷さわぎだあ、百姓ひやくしやうは此この頃ごろの時節じせつに餘計よけいな暇ひまなんざねえから」

勘次は呟くように言った。

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勘次かんじは呟つぶやくやうにいつた。

隣の庭では、さっきよりもさらに勢いがついたように、からさおの響きが囃しの声を伴いながら、森を漏れて聞こえた。

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隣となりの庭にはでは先刻さつきよりも更さらに勢いきほひがついた樣やうに連枷ふるぢの響ひゞきが囃はやしの聲こゑを伴ともなひつゝ森もりを洩もれて聞きこえた。

「うん、たいした挨拶だな。おれはまた、姉弟というのはそんなもんじゃあるまいと思ってたんだったな」

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「うむ、たえした挨拶あいさつだな、俺おらまた姊弟きやうでえつちやさうえもんぢやあんめえと思おもつてたんだつけな」

おつたは少しむっとした様子を見せた。

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おつたは少すこし勃然むつとした容子ようすを見みせた。

「姉さんらが言うことを聞いたっくらい、どんなことをされるか分からないから」

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「姊等あねらが云いふこと聽きいたつ位くれえどんなことされつか分わかんねえから」

勘次は自棄に蕎麦の茎を打ちつけ打ちつけしながら言った。

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勘次かんじは自棄やけに蕎麥そばの幹からを打うちつけ/\しつゝいつた。

彼はそうして、一目もおつたを見なかった。

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彼かれは而さうして一目ひとめもおつたを見みなかつた。

「どんなことをするって、おれは泥棒はしないぞ、勘次」

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「什麽どんなことするつて俺おら泥棒どろぼうはしねえぞ、勘次かんじ」

その切れた目尻に一種の凄みを持っておつたが立った時、卯平はのっそりと戸口に大きな体を運ばせた。

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其その切きれた目尻めじりに一種しゆの凄味すごみを持もつておつたが立たつた時とき、卯平うへいはのつそりと戸口とぐちに大おほきな躯幹からだを運はこばせた。

卯平はおつたを見て、例のごとく窪んだ茶色の目をしかめるようにした。

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卯平うへいはおつたを見みて例いつもの如ごとく窪くぼんだ茶色ちやいろの目めを蹙しがめる樣やうにした。

「おや、こっちのおとっつあん、しばらくでしたねどうも。ご機嫌よろしゅうございますね」

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「おやこつちのおとつゝあん、暫しばらくでがしたねどうも、御機嫌ごきげんよろしがすね」

おつたは、そらぞらしいほど打って変わった調子で言った。

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おつたはそら/″\しい程ほど打うつて變かはつた調子てうしでいつた。

「まあこっちへでも来なさいね」

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「まあこつちへでも來きさつせえね」

卯平は隠居へおつたを導いた。

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卯平うへいは隱居いんきよへおつたを導みちびいた。

「おれは今、外から帰って来たばかりだが、何でしょうね」

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「俺おらいま外ほかから歸けえつて來きたばかしだが、何なんでがすね」

卯平はぶすりと聞いた。

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卯平うへいはぶすりと聞きいた。

「ほんにもう、他人には聞かせたくもないこったがねえ。わしもそれ、盲の野郎が一人いるんだが、これが三十近くにもなるものをねえ。ただ打ち捨てても置けないから嫁を取らせようと思って、いい塩梅のがそれ、口が掛かったもんだから、勘次にも一言話そうと思って来たところなのさ。わしもこれで、義理は欠くのはいやだからね」

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「ほんにはあ、他人ひとにや聞きかせたくもねえこつたがねえ、わしもそれ盲目めくらの野郎やらうが一人ひとりあんだが、これ三十近ちかくにもなるものをねえ、只たゞ打棄うつちやつても置おけねえから嫁よめとらせべと思おもつて、えゝ鹽梅あんべえのがそれ口くち掛かゝつたもんだから勘次かんじげも一噺はなしすべと思おもつて來きた處ところなのさ、わしもこんで義理ぎりは缺かくの厭やだかんね」

「そうしたら、この村にいい塩梅の家があるもんだから、借りて身上を持たせようと思って、保証に立ってくれと言ったところが、たいした挨拶なのさ。三十銭か五十銭の家賃をねえ。不憫だろうじゃないかねえ、不具の甥のことをねえ。保証に立ったくらいで身上が潰れるという挨拶なのさ。ねえこれ、年を取っちゃこっちのおとっつあん、先も短いのに、心根のいいものでなくちゃ、万一の時が心配だからねえ。後の者の厄介になりたいというのは、みな同じだろうじゃないか。ねえ、こっちのおとっつあん、そうでしょう。そんでそれ、嫁というのが心根のいい女だというんだから、わしもほしいのさ、本当の話がねえ。そう言っちゃ我欲のようだが、同じものなら柔らかい言葉でも掛けてくれる嫁でなくちゃねえ。そうじゃあるまいかね」

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「さうしたら此この村落むらにえゝ鹽梅あんべえの家うちあるもんだから借かりて身上しんしやう持もたせべと思おもつて保證ほしように立たつてくろつちつた處ところがたえした挨拶あいさつなのさ、三十錢せんか五十錢せんの家賃やちんをねえ、不便ふびんだんべぢやねえかねえ不具かたわの甥おひつ子このことをねえ、保證ほしように立たつた位くれえ身上しんしやう潰つぶれるつち挨拶あいさつなのさ、ねえこれ、年齡としとつちやこつちのおとつゝあん先さきも短みじけえのに心底しんてえのえゝものでなくつちや、萬一まさかの時ときが心配しんぺえだからねえ、後あとの者ものの厄介やくけえに成なりてえつちな皆みんなおんなじだんべぢやねえか、ねえこつちのおとつゝあんさうでがせう、そんでそれ娵よめつちのが心底しんてえのえゝ女をんなだつちんだからわしも欲ほしいのさ本當ほんたうの噺はなしがねえ、さう云ゆつちや我慾がよくの樣やうだがおんなじもんなら軟やつけえ言辭ことばでも掛かけてくれる嫁よめでなくつちやねえ、さうぢやあんめえかね」

おつたは狭い戸口に立ったまま、洋傘の先で土へ穴を開けながら、勘次のほうをじろっと見ながらいきり立って言った。

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おつたは狹せまい戸口とぐちに立たつた儘まゝ洋傘かさの先さきで土つちへ穴あなを穿うがちながら勘次かんじの方はうをぢろつと見みつゝいきり立たつていつた。

「そりゃもう、そうだが」

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「そりや、はあ、さうだが」

ただこれだけ言って、無口な卯平は自分の意を得たというように、始終窪んだ目をしかめて、手からは煙管を放さなかった。

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只たゞ此これだけいつて寡言むくちな卯平うへいは自分じぶんの意いを得えたといふ樣やうに始終しじう窪くぼんだ目めを蹙しがめて手てからは煙管きせるを放はなさなかつた。

勘次は庭から盗むように見ては、卯平がおつたへ威勢をつけているように思った。

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勘次かんじは庭にはから偸ぬすむやうに視みては卯平うへいがおつたへ威勢ゐせいをつけて居ゐるやうに思おもつた。

彼は解いて打って、さらに藁でくくった蕎麦の束を、どさりと遠くへ投げつけた。

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彼かれは解といて打うつて更さらに藁わらで括くゝつた蕎麥そばの束たばをどさりと遠とほくへ擲はふつた。

葉がさらにぐったりとしおれた鳳仙花の枝が、すかりと裂けて先が地についた。

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葉はが更さらにぐつたりと萎しをれた鳳仙花ほうせんくわの枝えだがすかりと裂さけて先さきが地ちについた。

「姉さんら、大層なことを言ったって、老人の面倒を見たとは言えまい」

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「姊等あねら、大層たえそなこと云ゆつたつて、老人としよりの面倒めんだう見みたゝ云ゆへめえ」

勘次はぶつぶつと独り言を言った。

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勘次かんじはぶつ/\と獨語どくごした。

おつたの耳にも、かすかにそれが聞こえた。

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おつたの耳みゝにも微かすかにそれが聞きこえた。

おつたはきっと見た。

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おつたは屹きつと見みた。

「おとっつあん、黙ってるもんだ」

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「おとつゝあ默だまつてるもんだ」

おつぎは軽く勘次を制して

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おつぎは輕かるく勘次かんじを制せいして

「お昼だぞ、もう」

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「お晝餐ひるだぞはあ」

と、おつぎはさらに勘次へ注意した。

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とおつぎは更さらに勘次かんじへ注意ちういした。

「そんじゃ、こっちのおとっつあん、お騒がせしました。わしは帰りましょうもう。一刻もいちゃ邪魔でしょうから。こっちのおとっつあんも、邪魔にならないほうがようございますよねえ」

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「そんぢやこつちのおとつゝあん、お八釜敷やかましがした、わしや歸けえりませうはあ、一刻こくも居ゐちや邪魔じやまでがせうから、こつちのおとつゝあんも邪魔じやまに成なんねえ方はうがようがすよねえ」

おつたは洋傘を開いて

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おつたは洋傘かさを開ひらいて

「傍目でも知れましょうねえ。たとえどうでも俵まで持ってられて、弁償と言ってみたところで三十銭か五十銭のことだろうじゃないかね。できるもできないもあるもんじゃない」

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「岡目をかめでも知しれまさあねえ、假令たとひどうでも俵たはらまで持もつてられて、辨償まよつて見みた處ところで三十錢せんか五十錢せんのことだんべぢやねえか、出來できるも出來できねえもあるもんぢやねえ」

と、おつたは忌々しさにその口を止めなかった。

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とおつたは忌々敷いま/\しさに其その口くちを止とめなかつた。

「お昼はどうでしょうね」

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「お晝餐ひるはどうでがすね」

おつぎはそれでも、おずおずとおつたへ言った。

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おつぎはそれでも怖おづ/\おつたへいつた。

「おれはもう要らないともね」

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「俺おら、はあ要えらねえともね」

おつたは蕎麦の種のいっぱいに散らかった庭を、遠慮もなく一直線に下駄の跡をつけた。

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おつたは蕎麥そばの種子みの一杯ぱいに散ちらけた庭にはを遠慮ゑんりよもなく一直線ちよくせんに不駄げたの跡あとをつけた。

「勘次ら、親子仲よくてよかろう。世間の聞こえも立派だあ。身内の者は、おかげで肩身が広くていいや」

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「勘次等かんじら、親子おやこ仲なかよくつてよかんべ、世間せけんの聞きこえも立派りつぱだあ、親身しんみのもなあ、お蔭かげで肩身かたみが廣ひろくつてえゝや」

おつたは庭の出口からちょっと振り返って言った。

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おつたは庭にはの出口でぐちから一寸ちよつと顧かへりみていつた。

そうしてさっさと行ってしまった。

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さうしてさつさと行いつて畢しまつた。

隣の庭の麦打ちの連中は、静かになったこちらの庭をあざけるように騒いでは、また騒ぐのが聞こえた。

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隣となりの庭にはの麥打むぎうちの連中れんぢうは、靜しづかになつたこちらの庭にはを嘲あざけるやうに騷さわいでは又また騷さわぐのが聞きこえた。

勘次はただ力を込めて蕎麦の茎を打って、ついに一言も口に出さなかった。

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勘次かんじは只ただ力ちからを極きはめて蕎麥そばの幹からを打うつて遂つひに一言ごんも吐はかなかつた。

おつぎは、垣根の上に浮かんだおつたの洋傘が見えなくなるまで、しばらくぽつねんとして庭に立った。

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おつぎは垣根かきねの上うへに浮うかんだおつたの洋傘かさが見みえなくなるまで暫しばらくぽつさりとして庭にはに立たつた。

卯平は煙管を噛んだまま、じっとして黙っていた。

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卯平うへいは煙管きせるを噛かんだ儘まゝ凝然ぢつとして默だまつて居ゐた。

卯平はしばらくして、鳳仙花の折れたのを見つけて井戸端へ立った。

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卯平うへいは暫しばらくして鳳仙花ほうせんくわの折をれたのを見みつけて井戸端ゐどばたへ立たつた。

彼はいきなり蕎麦の茎の束を大きな足で蹴った。

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彼かれはいきなり蕎麥幹そばがらの束たばを大おほきな足あしで蹴けつた。

彼はさらに短い竹の棒を持って行って、きっと力を込めて地に突き通した。

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彼かれは更さらに短みじかい竹たけの棒ぼうを持もつて行いつてきつと力ちからを極きめて地ちに突つき透とほした。

垂れた鳳仙花の枝は、竹の杖に縛りつけようとして手を触れたら、ぽろりと茎から離れてしまった。

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垂たれた鳳仙花ほうせんくわの枝えだは竹たけの杖つゑに縛しばりつけようとして手てを觸ふれたらぽろりと莖くきから離はなれて畢しまつた。

卯平は忌々しそうに投げ捨てた。

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卯平うへいは忌々敷相いまいましさうに打棄うつちやつた。

卯平がのっそりと大きな体を立てたそばに、向日葵はことごとく日に背いて、昂然として立っている。

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卯平うへいがのつそりと大おほきな躯幹からだを立たてた傍そばに向日葵ひまはりは悉ことごとく日ひに背そむいて昂然かうぜんとして立たつて居ゐる。

向日葵は、蕾が非常に膨れて黄色になってから卯平が植えたのであった。

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向日葵ひまはりは蕾つぼみが非常ひじやうに膨ふくれて黄色きいろに成なつてから卯平うへいが植うゑたのであつた。

その時はもう蕾はどうしても日の言うことを聞いて動かないので、暑い、そうして乾燥の激しい日がそれを憎んで、硬い下葉をがさがさに枯らした。

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其その時ときはもう蕾つぼみはどうしても日ひのいふこと聽きいて動うがかないので、暑あついさうして乾燥かんさうの烈はげしい日ひがそれを憎にくんで硬こはい下葉したばをがさ/\に枯からした。

それでも強い茎はすっと立って、たいがいはがっかりと暑さに打たれている草木の間に、誇ったように見えた。

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それでも強つよい莖くきはすつと立たつて、大抵たいていはがつかりと暑あつさに打うたれて居ゐる草木さうもくの間あひだに誇ほこつたやうに見みえた。

そのいっぱいに開いた皿のような花が、庭先からいつでも冷ややかな三人をあざけるもののように見えるのであった。

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其その一杯ぱいに開ひらいた皿さらの樣やうな花はなが庭先にはさきからいつでも冷ひやゝかな三人にんを嘲あざけるものゝやうに見みえるのであつた。

竹の棒はぎっと突き通したまま、いつまでも空しく鳳仙花のそばに立っていた。

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竹たけの棒ぼうはぎつと突つき透とほした儘まゝいつまでも空むなしく鳳仙花ほうせんくわの傍そばに立たつて居ゐた。

二〇

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二〇

秋だ。

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秋あきだ。

どのこずえも、茂る力がその極度に達して、そこに凋落の面影がかすかに浮かんだ。

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孰いづれの梢こずゑも繁茂はんもする力ちからが其その極度きよくどに達たつして其處そこに凋落てうらくの俤おもかげが微かすかに浮うかんだ。

毎日透き通った空をじりじりときしりながら、高熱を放射しつつあった日も、あまりに長い昼の時間に飽きようとして、空から、そうして地上のすべてがようやく変調を呈した。

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毎日まいにち透徹とうてつした空そらをぢり/\と軋きしりながら高熱かうねつを放射はうしやしつゝあつた日ひも餘あまりに長ながい晝ひるの時間じかんに倦うまうとして、空そらからさうして地上ちじやうの凡すべてが漸やうやく變調へんてうを呈ていした。

心もとなげな雲がむらむらと南から駆け走って、そのたびごとににわか雨をざあと斜めに注ぐ。

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心こゝろもとなげな雲くもが簇々むら/\と南みなみから駈かけ走はしつて、其その度たび毎ごとに驟雨しううをざあと斜なゝめに注そゝぐ。

雨は畑の乾いた土にまみれて、やがてしぶきを作物の下葉に蹴って、さらに濁った水が白い泡を乗せながら低いほうを求めて去った。

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雨あめは畑はたの乾かわいた土つちにまぶれて、軈やがて飛沫しぶきを作物さくもつの下葉したばに蹴けつて、更さらに濁水だくすゐが白しろい泡あわを乘のせつゝ低ひくきを求もとめて去さつた。

それもわずかに桑の木へ絡んだ昼顔の花にいっぱいの量を注いでは、慌てて走り去って、からりと熱した空が拭われることもあるのであるが、にわか雨は後から後からと駆けて来るので、夜明けの白まないうちから麦を搗いて庭いっぱいに筵を干した百姓を、どうかするとうるさく苛めた。

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それも僅わづかに桑くはの木きへ絡からんだ晝顏ひるがほの花はなに一杯ぱいの量りやうを注そゝいでは慌あわてゝ疾驅しつくしつゝからりと熱ねつした空そらが拭ぬぐはれることも有あるのであるが、驟雨しううは後あとから後あとからと驅かつて來くるので曉あかつきの白しらまぬうちから麥むぎを搗ついて庭には一杯ぱいに筵むしろを干ほした百姓ひやくしやうをどうかすると五月蠅うるさく苛いぢめた。

土地で言うその「降っ掛け」は、一日で止まなければ、三日とか五日とか、必ず奇数の日で終わった。

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土地とちでいふ其その降ふつ掛かけは一日にちで止やまねば三日かとか五日かとか必かならず奇數きすうの日ひで畢をはつた。

降っ掛けが来てから、瓜畑はことごとく蔓も葉もにわかにがらがらに枯れて、悲惨になってしまった。

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降ふつ掛かけが來きてから瓜畑うりばたけは悉ことごとく蔓つるも葉はも俄にはかにがら/\に枯かれて悲慘みじめに成なつて畢しまつた。

きわめてそっと、しかも騒がしそうに動く雲が、高く低く反対の方向に交差しつつあるのを見るとともに、干からびかけた草木の葉が触れ合い打ち合っては、だんだんと破れながら、ざわざわと悲しげな響きを立てて鳴った。

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極きはめてそつと然しかも騷さわがし相さうに動うごく雲くもが高たかく低ひくく反對はんたいの方向はうかうに交叉かうさしつゝあるのを見みると共ともに、枯燥こさうしかけた草木くさきの葉はが相あひ觸ふれ相あひ打うつてはだん/\と破やぶれつゝざわ/\と悲かなしげな響ひゞきを立たてゝ鳴なつた。

すごいほど冴えた夜の空は、忙しげな雲が月を呑んですぐに後へ吐き出し吐き出し走った。

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凄すごい程ほど冴さえた夜よるの空そらは忙いそがしげな雲くもが月つきを呑のんで直すぐに後うしろへ吐はき出だし/\走はしつた。

月は反対に逃げながら走った。

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月つきは反對はんたいに遁にげつゝ走はしつた。

秋風だ。

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秋風あきかぜだ。

櫟も楢も雑木もすべてが節制を失って、ことごとく裏葉も肌も隠す隙がなく、ざあっと吹かれてただ騒いだ。

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櫟くぬぎや楢ならや雜木ざふきや凡すべてが節制たしなみを失うしなつて悉ことごとく裏葉うらはも肌膚はだも隱かくす隙すきがなくざあつと吹ふかれて只たゞ騷さわいだ。

夜は寂しさに、すべてのこずえが互いにささやきながら、余計に騒いだ。

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夜よるは寂さびしさに凡すべての梢こずゑが相あひ耳語さゝやきつゝ餘計よけいに騷さわいだ。

まだ暑い空気を冷たくしながら、豪雨がさらに幾日か草木の葉を苛めては、降って降って、また降った。

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まだ暑あつい空氣くうきを冷つめたくしつゝ豪雨がううが更さらに幾日いくにちか草木くさきの葉はを苛いぢめては降ふつて/\又また降ふつた。

例年のごとき季節の洪水が、残酷に河川の沿岸をなめた。

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例年れいねんの如ごとき季節きせつの洪水こうずゐが残酷ざんこくに河川かせんの沿岸えんがんを舐ねぶつた。

洪水の去った後は、ちょうど過激な精神の疲労からにわかに老衰した者のように、半死の状態を呈した草木は皆白髪に変じて、その力ない葉先を秋風に吹きなびかされた。

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洪水こうずゐの去さつた後あとは、丁度ちやうど過激くわげきな精神せいしんの疲勞ひらうから俄にはかに老衰らうすゐした者ものの如ごとく、半死はんしの状態じやうたいを呈ていした草木さうもくは皆みな白髮はくはつに變へんじて其その力ちからない葉先はさきを秋風あきかぜに吹ふき靡なびかされた。

鬼怒川の土手に茂った篠の根にまつわっている短い露草も、葉から茎から泥にまみれていながら、なお生命を保ちつつ、日ごとに憐れげな花をつけた。

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鬼怒川きぬがはの土手どてに繁茂はんもした篠しのの根ねに纏まつはつて居ゐる短みじかい鴨跖草つゆぐさも葉はから莖くきから泥どろに塗まみれて居ゐながら尚なほ生命せいめいを保たもちつゝ日毎ひごとに憐あはれげな花はなをつけた。

こおろぎが滅入るようにその陰に鳴いた。

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蛼こほろぎが滅入めいる樣やうに其その蔭かげに鳴ないた。

空をはるかに飛んだ椋鳥の群れが幾つかに分かれて、地上に低く騒いでは、こずえを求めてぎいぎいと鳴きながら落ち着かなかった。

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空そらを遙はるかに飛とんだ椋鳥むくどりの群むれが幾いくつかに分わかれて、地上ちじやうに低ひくく騷さわいでは梢こずゑを求もとめてぎい/\と鳴なきつゝ落付おちつかなかつた。

いたる所、荒れた藪の端や土手の痩せた篠のこずえに乗りかかって、これを噛めば歯がこぼれると言われている毒な仙人草が、その手をいくらでも伸ばして思い切ってわだかまった蔓が白い花をいっぱいにつけて、そうして生き生きとしたものは自分だけであることを誇るもののごとく、秋風に吹かれながら白い布のようにふわふわと動いた。

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到いたる處ところ荒あれた藪やぶの端はしや土手どての瘠やせた篠しのの梢こずゑに乘のり掛かゝつて、之これを噛かめば齒はがこぼれるといはれて居ゐる毒どくな仙人草せんにんさうが其その手てを幾いくらでも延のばして思おもひ切きつて蟠わだかまつた蔓つるが白しろい花はなを一杯ぱいにつけて、さうして活々いき/\としたものは自分じぶんのみであることを誇ほこるものゝ如ごとく、秋風あきかぜに吹ふかれつゝ白しろい布ぬのの樣やうにふは/\と動うごいた。

勘次の村は台地であるのと、鬼怒川の土手が篠の密生した根の力でわずかながら崩れる土を引き止めたので、損害が軽く済んだ。

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勘次かんじの村落むらは臺地だいちであるのと鬼怒川きぬがはの土手どてが篠しのの密生みつせいした根ねの力ちからを以もつて僅わづかながら崩壤ほうくわいする土つちを引ひき止とめたので損害そんがいが輕かるく濟すんだ。

それでも幾日か降り続いた雨が水を蓄えて、低い畑はしばらく乾くことがなかった。

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それでも幾日いくにちか降ふり續つゞいた雨あめが水みづを蓄たくはへて低ひくい畑はたは暫しばらく乾かわくことがなかつた。

田もその水のために浸かった箇所が少なくなかった。

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田たも其その水みづの爲ために浸ひたつた箇所かしよが少すくなくなかつた。

勘次は昼となく夜となく田畑を歩いて、ひたすら心を悩ましたが、ようやく自分の田畑の作物がわずかな損害で済んだことを確かめた時は、彼は激甚な被害地の状況を伝え聞いて、自分がむしろ幸いであったことをひそかに喜んだ。

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勘次かんじは日ひとなく夜よとなく田畑たはたを歩あるいて只管ひたすら心こゝろを惱なやましたが、漸やうやく自分じぶんの田畑たはたの作物さくもつが僅わづかな損害そんがいに畢をはつたことを慥たしかめた時ときは彼かれは激甚げきじんな被害地ひがいちの状况じやうきやうを傳聞でんぶんして自分じぶんの寧むしろ幸さいはひであつたことを竊ひそかに悦よろこんだ。

彼が大豆を引いて庭に運んだころは、まだ暑い日が落ち着いて、いがの割れ始めた栗の木のこずえから庭をじりじりと照らしていた。

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彼かれが大豆だいづを引ひいて庭にはに運はこんだ頃ころはまだ暑あつい日ひが落付おちついて毬いがの割われ始はじめた栗くりの木きの梢こずゑから庭にはをぢり/\と照てらして居ゐた。

根が幾日もぐっしょりと水に浸かっていた大豆は、黄色味の勝った褐色の莢も茎も、泥で汚れたように黒ずんでいた。

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根ねが幾日いくにちもぐつしりと水みづに浸ひたつてた大豆だいづは黄色味きいろみの勝かつた褐色ちやいろの莢さやも幹からも泥どろで汚よごれた樣やうに黒くろずんで居ゐた。

大豆を引いたのは、それでもまれな晴天であったので、「いい返し」

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大豆だいづを引ひいたのはそれでも稀まれな晴天せいてんであつたので「いひ返がへし」

に来るはずになっていた南の女房を頼んだ。

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に來くる筈はずに成なつて居ゐた南みなみの女房にようばうを頼たのんだ。

彼らは互いの便宜上、手間の交換をするのであるが、彼らはそれを「いいどり」

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彼等かれらは相互さうごの便宜上べんぎじやう手間てまの交換かうくわんをするのであるが、彼等かれらはそれを「いひどり」

と言っている。

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というて居ゐる。

それで、その借りた手間を返すのが「いい返し」である。

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それで其その借かりた手間てまを返かへすのがいひがへしである。

大豆は庭に運ぶとともに、ひとつかみにしては根を上にして先を丸く開いて、互いの茎が支柱になるようにして、庭いっぱいに立てて干した。

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大豆だいづは庭にはに運はこぶと共ともに一攫ひとつかみにしては根ねを上うへにして先さきを丸まるく開あいて互たがひの幹みきが支柱しちうに成なるやうにして庭には一杯ぱいに立たてゝ干ほした。

煙草を一服吸うだけの時間に、熟しきった大豆はようやくぱちぱちと軽い快い響きを立てながら爆ぜ始めた。

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煙草たばこを一服ぷく吸すふだけの時間じかんに、成熟せいじゆくしきつた大豆だいづは漸やうやくぱち/\と輕かるい快こゝろよい響ひゞきを立たてつゝ爆はぜ始はじめた。

大豆はことごとく庭の土に倒された。

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大豆だいづは悉ことごとく庭にはの土つちに倒たふされた。

三人はからさおを取って、端からだんだんと茎を打った。

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三人にんは連枷ふるぢを執とつて端はしからだん/\と幹からを打うつた。

おつぎと南の女房とは並んで、勘次に向かって交互に打ち下ろすからさおが、どさりどさりと庭の土を打つと、こわばった大豆の茎はしゃりしゃりと乾いた軽い響きを交えて、くすんだ汚い莢が白く割れて、薄青いつやつやした豆の粒が威勢よく跳ね出して、みんな茎の下に潜り込んでしまう。

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おつぎと南みなみの女房にようばうとは相あひ竝ならんで勘次かんじに對たいして交互かうごに打うち卸おろす連枷ふるぢがどさり/\と庭にはの土つちを打うつと硬こはばつた大豆だいづの幹からはしやりゝ/\と乾燥かんさうした輕かるい響ひゞきを交まじへてくすんだ穢きたない莢さやが白しろく割われて薄青うすあをいつやゝかな豆まめの粒つぶが威勢ゐせいよく跳はね出だしてみんな幹からの下したに潜もぐり込こんで畢しまふ。

三人が一度大豆の茎を踏んで渡ったら、茎がぐっと落ち着いた。

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三人にんが一遍ぺん大豆だいづの幹からを踏ふんで渡わたつたら幹からがぐつと落付おちついた。

おつぎは昼飯の支度の茶を沸かした。

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おつぎは晝餐ひるの支度したくの茶ちやを沸わかした。

三人は食事の後の口を鳴らしながら戸口に出て、それから栗の木の陰にしばらくうずくまったまま休んでいた。

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三人にんは食事しよくじの後あとの口くちを鳴ならしながら戸口とぐちに出でてそれから栗くりの木きの陰かげに暫しばらく蹲うづくまつた儘まゝ憩いこうて居ゐた。

「おやおやまあ、こっちのほうはいいこったなあ、大豆でもこんなに穫れて」

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「おや/\まあ、こつちの方はうはえゝこつたなあ、大豆でえづでもかうだにとれて」

おつたは小柄な体を割合に大股に運んで、妙な足拍子を取りながら入って来た。

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おつたは小柄こがらな身體からだを割合わりあひに大股おほまたに運はこんで妙めうな足拍手あしびやうしを取とりつゝ這入はひつて來きた。

勘次はちらと見て、栗の木の幹を後ろにしたままうつむいてしまった。

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勘次かんじはちらと見みて栗くりの木きの幹みきを後うしろにした儘まゝ俯向うつむいて畢しまつた。

おつたはさらに気にしないような態度で、ずっと戸口へ行って、斜めに肩へ掛けた風呂敷包みを下ろした。

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おつたは更さらに介意かいいないやうな態度たいどでずつと戸口とぐちへ行いつて、斜なゝめに肩かたへ掛かけた風呂敷包ふろしきづゝみをおろした。

「ああ重たかった」

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「おゝ重おもたかつた」

と、少し汗ばんだ額を手拭いで拭きながら、洋傘を仰向けに戸口へ置いて、洋傘の中へその風呂敷包みを置いた。

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と少すこし汗あせばんだ額ひたひを手拭てぬぐひでふきながら洋傘かうもりを仰向あふむけに戸口とぐちへ置おいて、洋傘かうもりの中なかへ其その風呂敷包ふろしきづゝみを置おいた。

南の女房はおつたを見て立った。

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南みなみの女房にようばうはおつたを見みて立たつた。

「おやまあ、しばらくでしたね」

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「おやまあ、暫しばらくでがしたね」

と、おつたは先にお世辞を言った。

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とおつたは、先さきに世辭せじをいうた。

「そう言えばまあ、あっちのほうはひどい洪水だという話だったっけが、どうでございましたね」

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「さういへばまあ、あつちの方はうは酷ひでえ洪水みづだつち噺はなしだつけがどうでござんしたね」

女房は手拭いを取って言った。

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女房にようばうは手拭てぬぐひをとつていつた。

「話の外でさどうも。あれこれもう、三十日近くにもなるだろうが、まだ片づけで、どっちから手をつけていいか分からないんでさどうも。わしらのほうみたいに洪水ばかり出たんじゃ、いるのもいやになっちまうようなのさ、本当に。そう言っても、こっちのほうはようございますね」

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「噺はなしの外ほかでがさどうも、彼此かれこれはあ、小卅日こさんじいんちにも成なんべが、まあだかたでどつちから手てえつけてえゝか分わかんねえんでがさどうもはあ、わし等ら方はう見みてえに洪水みづばかし出でたんぢや、居ゐんのも厭やんなつちまあやうなのせ本當ほんたうに、さう云ゆつてもこつちの方はうはようがすね」

おつたは相手を見つけて力を得たように言った。

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おつたは相手あひてを見みつけて力ちからを得えたやうにいつた。

「これでもまさか。この村だって随分かぶった所もあるんだから、まったく何ともないということもないがねえ」

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「此こんでもまさか、此この村落むらだつて隨分ずいぶんかぶつた處ところも有あんだから全然まるつきりなんともねえつちこともねえがねえ」

南の女房は声を低くして言った。

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南みなみの女房にようばうは聲こゑを低ひくくしていつた。

「そんでも、ここらじゃいる所には差し支えないんだから、何と言っても諦めはようございますね。わしらのほうなんぞじゃ、土手へ筵囲いをしてやっとこさ凌いだ者がなんぼあったかさ。土手にいても、雨さえなけりゃいいが、降られちゃひどいという話でしたよ。そんでもまあ、わしらは家にいられるのはいられたんだからまあ、同じにもようございましたのさ。そんでも床の上へ四斗樽をこう逆さまにして置いて、その上へ板を渡してやっとまあ暮らし通しましたがね、煮炊きするのもやっとこさで。隣近所はあったって行ったり来たりするんじゃなし、どれほど心細いか分からないもんですよ。もっともこれ、死ぬ者さえあるんだから、こうしていられるのはありがたいようなもんではあるが。そんでも四斗樽の太い箍のところへもぐった時は、夜、横になってみたって、すぐ耳のそばでさらさらっとこう水が動いてるんだから、うっかり眠ったらそっくり持って行かれるかどうだか分からないと思ってね、ぽつりとももう言えないでいたのさ。

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「そんでも此處こゝらぢや居ゐる處とこにや支障さはりねえんだからなんちつても諦あきらめはようがさね、わし等ら方はうなんぞぢや、土手どてへ筵圍むしろがこひしてやつとこせ凌しのいだものなんぼ有あつたかせ、土手どてに居ゐても雨あめせえなけりやえゝが、降ふられちや酷ひでえつち噺はなしでがしたよ、そんでもまあわし等らあ、家うちに居えられんな居えられたんだからまあ同おなじにもようがしたのせ、そんでも床ゆかの上うへへ四斗樽とだるかう倒さかさにして置おえてね、其その上うへへ板いた渡わたしてやつとまあ居通ゐとほしあんしたがね、煮燒にやきすんのもやつとこせで、隣近所となりきんじよは有あつたつて往いつたり來きたりすんぢやなし、何程なんぼ心細こゝろぼせえか分わかんねえもんですよ、尤もつともこれ、死しぬ者ものせえあんだから斯かうして居えられんな難有ありがてえ樣やうなもんぢやあるが、そんでも四斗樽とだるの太ふてえ箍たがん處ところむぐつた時ときや、夜よる横よこに成なつて見みたつて直ぢき耳みゝの側そばでさら/\つとかう水みづが動うごいてんだから、放心うつかり眠ねむつたらそつくり持もつてかれつかどうだか分わかんねえと思おもつてね、ぼつちりともはあ云ゆはんねえで居ゐたのせえ、

それから板の端のところからそうっと手を出してみると、宵の口にはそうでもないのが、ひやっと手の先がすぐ水へ触った時にはぞっとするようでしたよ。それからもう、舟は枕元へ繋いでたんだが、本当に枕元なのさ。みんなして固まって、狭いといったって窮屈だって、やっといるだけなんだから、天井へは頭を打ちつけそうで、命でも何でも縮められるような思いでさ。そんでもまあ、とうとう逃げもしないでいられたんだから、家でも持って行かれた者からじゃ運がいいのさ。まあ昼間は何と言っても方々見えていいが、夜がなんぼにも薄気味悪くてねえ」

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それから板いたの端はじん處とこからそろつと手てえ出だして見みつと宵よひの口くちにやさうでもねえのがひやつと手ての先さきが直すぐ水みづへ觸さあつた時ときにや悚然ぞつとする樣やうでがしたよ、それからはあ船ふねは枕元まくらもとへ繋つないでたんだが、本當ほんたうに枕元まくらもとなのせえ、みんなして凝こゞつて狹せめえつたつて窮屈きうくつだつてやつと居ゐる丈だけなんだから、天井てんじやうへは頭あたま打ぶつゝかり相さうで生命いのちでも何なんでも蹙ちゞめらつる樣やうなおもひでさ、そんでもまあ到頭たうとう遁にげもしねえで居ゐらつたんだから、家うちでも持もつてかれたものからぢや運うんがえゝのせえ、まあ晝間ひるまはなんちつても方々はう/″\見めえてえゝが、夜よるがなんぼにも小凄こすごくつてねえ」

おつたは、自分の恐ろしかった経験を聞いてくれるのを喜ぶように語り続けるのであった。

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おつたは自分じぶんの怖おそろしかつた經驗けいけんを聞きいてくれるのを悦よろこぶやうに語かたり續つゞけるのであつた。

「そんでまあ、それもいいが、蛙だの蛇だのが来てね。蛙は何だが、蛇がなんぼにもいやで、もう棒で引っ掛けて遠くのほうへ放り投げてみても、執念深いというのか、またぞよぞよ泳いで来て。それも夜がねえ、万一のことがあっちゃと思うもんだから明かりを点けてたんだが、そのせいか余計に来るようで。薄暗い明かりだから、じきそばへ来てからでなくちゃ分からないし、首をもたげてるのを見ちゃ、本当にいやでねえ」

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「そんでまあ、それもえゝが蛙けえるだの蛇へびだのが來きてね、蛙けえるはなんだが蛇へびがなんぼにも厭いやではあ、棒ぼうで引ひつ掛かけて遠とほくの方はうへ打ぶん投なげて見みても、執念深しふねんぶけえつちのか又またぞよ/\泳およいで來きて、それも夜よるがねえ萬一もしものことが有あつちやと思おもふもんだから明あかり點つけてたんだが其その所爲せゐか餘計よけいに來くる樣やうで、薄うすつ闇くれえ明あかりだからぢつき側そばへ來きてからでなくつちや分わかんねえし、首くび擡もちやげてんの見みちや本當ほんたうに厭やでねえ」

おつたは、いくら言っても尽きない当時をありありと思い浮かべさせようとする様子で言った。

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おつたは幾いくらいつても竭つきない當時たうじを髣髴はうふつせしめようとする容子ようすでいつた。

栗の木の陰にいた勘次は、だんだんといくらかずつでも洪水の話に興味を感じても来たし、それから、たとえどうであっても訪ねて来た姉に挨拶もしないのは他人の手前が許さないので、ようやく立って

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栗くりの木きの陰かげに居ゐた勘次かんじはだん/\と幾いくらづゝでも洪水こうずゐの噺はなしに興味きようみを感かんじても來きたし、それから假令たとひどうでも尋たづねて來きた姊あねに挨拶あいさつもせぬのは他人たにんの手前てまへが許容ゆるさないので漸やうやく立たつて

「姉さんらも随分ひどい目に遭ったんだな」

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「姊等あねらも隨分ずゐぶんひでえ目めに遭あつたんだな」

彼は言いながら、家の中へおつたを導いた。

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彼かれはいひながら家いへの内うちへおつたを導みちびいた。

大豆の埃をいとって雨戸は閉め切ってあったので、大戸をいっぱいに開けても、内は少し暗く、かつ暑かった。

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大豆だいづの埃ほこりを厭いとうて雨戸あまどは閉しめ切きつてあつたので、大戸おほどを一杯ぱいに開あけても内うちは少すこし闇くらく且かつ暑あつかつた。

おつぎは先ごろのように、すぐに竈を焚いて柄杓で二、三杯の水を茶釜へ差した。

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おつぎは先頃さきごろの樣やうに直すぐに竈かまどを焚たいて柄杓ひしやくで二三杯ばいの水みづを茶釜ちやがまへ注さした。

「何と言っても、こんなに豆が穫れるなんて、お前らのほうはいいのよなあ。おれのほうじゃ土手の近くで手のある者はな、田の畦豆を引っこ抜いて土手の中腹へ干してはみたようだが、まだ何と言っても莢が本当に膨れないんだから、ほんの豆の形をしたというくらいなもんだろうな。そりゃそうと、この豆はいい豆だな。甘そうでなあ」

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「なんちつても、かうえ豆まめとれるなんておめえ等ら方はうはえゝのよなあ、俺おら方はうぢや土手どての近ちかくで手ての有あるもなあ、田たの畦豆くろまめ引ひつこ拔ぬえて土手どての中ちうツ腹ぱらへ干ほしちや見みた樣やうだが、まあだなんちつても莢さやが本當ほんたうに膨ふくれねえんだから、ほんの豆まめの形かたちしたつち位くれえなもんだべな、そりやさうと此この豆まめはえゝ豆まめだな、甘相うまさうでなあ」

おつたは敷居をまたいで、手先の豆を少しつかんでみて言った。

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おつたは閾しきゐを跨またいで手先てさきの豆まめを少すこし攫つかんで見みていつた。

それからおつたは、洋傘といっしょに置いたさっきの風呂敷包みを持ち込んで、そうしてまた尻を据えた。

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それからおつたは洋傘かさと一つに置おいた先刻さつきの風呂敷包ふろしきづゝみを持もち込こんでさうして又また臀しりを据すゑた。

「水の中にいちゃ、仕事するにも仕事はなしさなあ。それからみんな棒の先へ鉤をくっつけて魚釣りをしたのよ。庭でいくらでも鮒が釣れるというんだから、知らない者が見ちゃ、ひどく困らない奴らだと思うくらいなもんだろうのさ」

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「水みづん中なかに居ゐちや仕事しごとするにも仕事しごとはなしさなあ、それからみんな棒ぼうの先さきへ鈎はりくつゝけて魚釣さかなつりしたのよ、庭にはで幾いくらでも鮒ふな釣つれるつちんだから知しらねえものが見みちや酷ひどく困こまんねえ奴等やつらだと思おもふ位くれえなもんだんべのさ」

おつたは一杯の茶をすすって喉を湿した。

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おつたは一杯ぱいの茶ちやを啜すゝつて喉のどを濕うるほした。

おつぎも南の女房も、目を据えて黙って聞いていた。

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おつぎも南みなみの女房にようばうも眼めを据すゑて默だまつて聞きいて居ゐた。

勘次は難しい顔をしていながらも、熱心に聞いた。

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勘次かんじは六むづヶ敷しい顏かほをして居ゐながらも熱心ねつしんに聞きいた。

「後がひどくてな。縁の下でも何でも泥がいっぱいで、それはまあ掻き出せばいいんだが、床板が白かびになっちまって、これがまだなかなか乾かないから、畳なんざいつ敷き込めるもんだか分からないのさ。そんでまた、田でも畑でもかぶった所は水が乾いてから腐ってるもんだから、その臭いことがまた話にはならないや。おれは作物ばかり困るんだと思ったら、畑の桐の木でも樫の木でも、今になってからぼろぼろ葉っぱが落っこちちまって、怖いもんだよ」

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「後あとが酷ひどくつてな、縁えんの下したでも何なんでも泥えごみが一杯ぺえで、そえつあゝ掻かん出だせばえゝんだが床板ゆかいたが白しらつ黴かびに成なつちやつて此これがまだなか/\干ひねえから疊たゝみなんざ何時いつ敷しつ込こめるもんだか分わかんねえのさ、そんでまた田たでも畑はたけでも引ひつ被かぶつた處とこは水みづ干ひてから腐くさつてるもんだから其その臭くせえことが又また噺はなしにやなんねえや、俺おら作物さくもつばかし困こまんだと思おもつたら、畑はたけの桐きりの木きでも樫かしの木きでも今いまん成なつてからぼろ/\葉々はつぱが落おつこつちやつて可怖おつかねえもんだよ」

おつたは言いながら風呂敷を解いた。

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おつたはいひながら風呂敷ふろしきを解といた。

やまと煮と書いた牛肉の缶詰が三本と、菓子でもあるかと思う小さな紙包みの、固めた食塩の四つ五つとが出た。

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やまと煮にと書かいた牛肉ぎうにくの鑵詰くわんづめが三本ぼんと菓子くわしでもあるかと思おもふ小ちひさな紙包かみづゝみの堅かためた食鹽しよくえんの四つ五つとが出でた。

「これはな、そんでもありがたいことに、水浸しになった家へは役場から一軒ごとに下げ渡しになったんだよ。おれはまた、こっちの家なんぞじゃどういう塩梅だと思って、しばらく外へも出たことがないもんだから出ても見たいし、こういう物を自分ばかりで口を開けちまうのも何だと思って持って来てみたのよ。おれは一つ手をつけてみたが、どれほどいい味のもんだか知らないや」

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「此これなあ、そんでも難有ありがてえことに、水浸みづびたしに成なつた家いへさは役場やくばから一軒毎えつけんごめらに下さげ渡わたしになつたんだよ、俺おらまたこつちの家うちなんぞぢやどうえ鹽梅あんべえだと思おもつて暫しばらく外ほかへも出でたことねえもんだから出でても見みてえし、かうえ物もの自分じぶんでばかし口くち開あけつちやあのも何なんだと思おもつて持もつて來きて見みたのよ、俺おら一ひとつ手てえつけて見みたが何程なんぼえゝ味あぢのもんだか知しんねえや」

おつたは空になったかなり大きな風呂敷を、幾つかに折った。

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おつたは空からになつたかなり大おほきな風呂敷ふろしきを幾いくつかに折をつた。

「おおいや、たいしたもんだね。これは塩だろうかまあ。見たいったって見られるもんじゃないよ。こういう物はねえ。よくまあ持って来て、勘次さんら大変だ」

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「おゝえや、たえしたもんだね、此これ鹽しほだんべけまあ、見みてえたつて見みらつるもんぢやねえよ、かうえ物ものあねえ、能よくまあ持もつて來きて勘次かんじさん此こら大變たいへんだ」

南の女房は食塩の一つを手にして見ながら、羨ましげに言った。

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南みなみの女房にようばうは食鹽しよくえんの一箇こを手てにして見みながら羨うらやましげにいつた。

おつぎも珍しそうにして、南の女房の手をのぞいた。

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おつぎも珍めづらし相さうにして南みなみの女房にようばうの手てを覗のぞいた。

勘次も白い食塩を爪の先で少し取って口へ入れた。

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勘次かんじも白しろい食鹽しよくえんを爪つめの先さきで少すこしとつて口くちへ入いれた。

「塩辛いや、まさか」

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「鹽辛しよつぺえやまさか」

彼はにっこりとしながら

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彼かれは嫣然につこりとし乍ながら

「おつう、これはしまっておけ、そんじゃ」

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「おつう、此これ藏しまつて置おけ、そんぢや」

と言って、さらに

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といつて更さらに

「姉さんらもひどかろう、野良は」

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「姊等あねらも酷ひどかんべ野のらは」

と、彼はおつたの染めていた髪が、交じった白髪をほんのりと見せるまでに薬がさめて汚くなったのを見ながら言った。

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と彼かれはおつたの染そめつゝあつた髮かみが、交まじつた白髮しらがをほんのりと見みせるまでに藥くすりの褪さめて穢きたなく成なつつたのを見みつゝいつた。

「米でも何でも一粒も穫れやしないのよ」

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「米こめでも何なんでも一粒ひとつぶもとれやしねえのよ」

おつたはぽつりとしたように言った。

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おつたはぽさりとした樣やうにいつた。

「汁の実なんざ、そんでもどうにかできるのか」

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「汁しんの身みなんざそんでも、どうにか出來できんのか」

「どうしてよお前。青いものは土手の草ばかりだって言ってるくらいだもの。今日が今日困ってるんだな」

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「どうしてよおめえ、青あをえもな土手どての草くさばかしだつて云ゆつてる位くれえだもの、今日けふが今日けふ困こまつてんだな」

「そんじゃ、姉さんに茄子か南瓜でもやろうかなあ」

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「そんぢや、姊あねげ茄子なすか南瓜たうなすでもやんべかなあ」

勘次は同情が少し動いたように言った。

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勘次かんじは同情どうじやうが小すこし動うごいたやうにいつた。

「おや、そんじゃ、おれの家でも葱の少しも上げましょう」

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「おやそんぢや俺おら家ぢでも葱ねぎの少すこしもあげあんせう」

南の女房は言って、桑畑の小道を小走りに駆けて行った。

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南みなみの女房にようばうはいつて桑畑くはばたけの小徑こみちを小走こばしりに駈かけて行いつた。

「おとっつあん、それも何だが、そんなに持てやしまいし、米でも少しやったらよかろうな。どうせ少し経つと陸稲が刈れるんだもの」

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「おとつゝあ、それもなんだが、さうえに持もてやしめえし、米こめでも少すこしやつたらよかんべな、どうせ少すこし經たつと陸稻をかぼ刈かれんだもの」

おつぎは口を添えた。

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おつぎは口くちを添そへた。

「うん、そうだなあ」

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「うむさうだなあ」

と、勘次は南京米の袋へ米を五升ばかり、もう痩せている俵から量り出した。

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と勘次かんじは南京米ナンキンまいの袋ふくろへ米こめを五升しようばかり、もう痩やせて居ゐる俵たわらから量はかり出だした。

「挽き割り麦もやったらよかろうな」

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「挽割麥ひきわりもやつたらよかんべな」

おつぎはまた言った。

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おつぎは又またいつた。

「これへ混ぜていいかい」

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「此これさ交まぜてえゝけ」

勘次はおつたを顧みて言った。

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勘次かんじはおつたを顧かへりみていつた。

「うん、いっしょにしてくれ」

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「うむ、一緒しよにしてくろ」

と、おつたは柔らかに言った。

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とおつたは軟やはらかにいつた。

勘次は二つを半々に混ぜて、それからまた大きな南瓜を三つばかり土間へ並べた。

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勘次かんじは二ふたつを等半とうはんに交まぜてそれから又また大おほきな南瓜たうなすを三みつばかり土間どまへ竝ならべた。

「そんじゃ大層厄介を掛けて済まないな。そんじゃおれは米ばかり背負って行って、明日でもまた南瓜は取りに来るとしようよ。そんじゃこれ、米は大変だから、おれの風呂敷じゃちっと小さいんだが、大きいのがあれば貸してくれないか」

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「そんぢや大層たえそ厄介やつけえ掛かけて濟すまねえな、そんぢや俺おら米こめばかし脊負しよつてつて明日あしたでも又また南瓜たうなすはとりに來くるとすべえよ、そんぢや此こら、米こめ大變たいへんだから俺おれが風呂敷ふろしきぢやちつと小ちつちえんだが大えかえの有あれば貸かしてくんねえか」

おつたはおつぎへ言いかけた。

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おつたはおつぎへいひ掛かけた。

「おれの家にはないが、爺さんがな、あったっけな、おとっつあん」

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「俺おら家ぢにやねえが、爺ぢいがな有あつたつけな、おとつゝあ」

そう言って、おつぎは小走りに卯平の小屋へ行った。

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さういつておつぎは小走こばしりに卯平うへいの小屋こやへ行いつた。

さっきまで見えなかった卯平が、どこから帰って来たか、むっつりとして独りで煙管を噛んでいた。

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先刻さつきまで見みえなかつた卯平うへいが何處どこから歸かへつて來きたかむつゝりとして獨ひとりで煙管きせるを噛かんで居ゐた。

「爺さん、いたんだな。おれ、いなけりゃ黙って借りて行こうと思ったんだったが、明日まで伯母さんが大きな風呂敷が要るというから、貸してくれないか。米を背負って行くんだから」

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「爺ぢい居ゐたんだな、俺おら居ゐねえけりや默だまつて借かりてくべと思おもつたんだつけが、明日あしたまで伯母をばさん大えかえ風呂敷ふろしき要えるつちから貸かしてくんねえか、米こめ脊負しよつて行えくんだから」

おつぎは唐突に言った。

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おつぎは突然だしぬけにいつた。

「うん」

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「うむ」

と、卯平は不器用に風呂敷を出して、そうしておつぎの後からおつたのそばへのっそりと来て立った。

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と卯平うへいは不器用ぶきように風呂敷ふろしきを出だしてさうしておつぎの後うしろからおつたの側そばへのつそりと來きて立たつた。

「これはまあ、勘次らにも済まないと言ってるところさ。わしらも洪水でねえ」

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「此これまあ、勘次等かんじらにも濟すまねえつちつてつ處ところさ、わし等らも洪水みづでねえ」

おつたは風呂敷で南京米の袋をきりっと包んだ。

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おつたは風呂敷ふろしきで南京米なんきんまいの袋ふくろをきりつと包つゝんだ。

「そんじゃこの南瓜もおれがもらっていいんだな。馬鹿に大きい南瓜じゃないかな。明日まで置いてくれな」

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「そんぢや此この南瓜たうなすも俺おれ貰もらつてえゝんだな、馬鹿ばかに大えけえ南瓜たうなすぢやねえかな、明日あしたまで置おいてくろうな」

おつたが始終笑顔を作っている所へ、南の女房が葱を一束、藁でくるんだのを抱えて来た。

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おつたは始終しよつちう笑顏えがほを作つくつて居ゐる處ところへ南みなみの女房にようばうは葱ねぎを一束ひとたば藁わらでくるんだのを抱かゝへて來きた。

「どうも済みませんね、これは」

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「どうも濟すみませんねこら」

おつたは勘次を見て

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おつたは勘次かんじを見みて

「どうしたもんだ、たいした葱じゃないか。本当に済まないな。そんじゃこれも明日まで取っておいてくれな」

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「どうしたもんだ、たえした葱ねぎぢやねえか、本當ほんたうに濟すまねえな、そんぢや此これも明日あしたまでとつて置おいてくろうな」

と、さらにまた尻を据えて一杯の茶をすすった。

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と更さらに又また臀しりを据すゑて一杯ぱいの茶ちやを啜すゝつた。

「おやっ、この栗はもう笑んでるんだな」

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「おやツ、此この栗くりは笑ゑんでんだなはあ」

庭先の栗のこずえに初めて目をつけたように、おつたは言った。

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庭先にはさきの栗くりの梢こずゑに始はじめて目めをつけた樣やうにおつたはいつた。

「この間からなんでさ。ちっとばかりだが、落ちたのがありまさ」

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「此間こねえだからなんでさ、ちつとばかしだが落おちたの有ありあんさ」

おつぎは小笊の底の粒栗を出して

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おつぎは小笊こざるの底そこの粒栗つぶぐりを出だして

「あっちになけりゃ持って行ったらようございましょう。大豆も、これ、打った所なら持って行くといいんでしたがね」

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「あつちになけりや持もつてつたらようござんせう、大豆でえづもこれ打ぶつた處ところなら持もつてくとえゝんでがしたがね」

おつぎは快く言った。

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おつぎは快こゝろよくいつた。

「そうだな、そんじゃもらって行くかな」

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「さうだな、そんぢや貰もらつて行えくかな」

おつたは手拭いの両端へ栗をくくった。

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おつたは手拭てぬぐひの兩端りやうはしへ栗くりを括くゝつた。

「こっちのおとっつあん、これはわしが役場から下がったのを持って来てみたんだが、一つ分けてもらったらようございましょう。めったにない味のもんだから」

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「こつちのおとつゝあん、此これわし役場やくばから下さがつたの持もつて來きて見みたんだが一つ分わけて貰もらつたらようがせう、滅多めつたねえ味あぢのもんだから」

おつぎがさっきしまうことを勘次に促されても、おつたの手前を憚るようにしてそのままにしておいた牛肉の缶詰の一つを、おつたは卯平へやった。

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おつぎが先刻さつき藏しまふことを勘次かんじに促うながされてもおつたの手前てまへを憚はゞかつた樣やうにして其その儘まゝにして置おいた牛肉ぎうにくの鑵詰くわんづめの一つをおつたは卯平うへいへやつた。

卯平は窪んだ目をしかめるようにした。

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卯平うへいは窪くぼんだ目めを蹙しかめるやうにした。

勘次は、油断した自分の懐の物を奪われたほどの驚きと不快との目で、卯平とおつたとを見た。

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勘次かんじは放心うつかりした自分じぶんの懷ふところの物ものを奪うばはれた程ほどの驚愕きやうがくと不快ふくわいとの目めを以もつて卯平うへいとおつたとを見みた。

おつたは重そうな風呂敷包みをうんと背負って、胸の結び目へ両手を掛けて、包みの据わりを良くするために二、三度揺すった。

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おつたは重相おもさうな風呂敷包ふろしきづゝみをうんと脊負しよつて胸むねの結むすび目めへ兩手りやうてを掛かけて包つゝみの据すわりを好よくする爲ために二三度ど搖ゆすつた。

「そんじゃ明日またお目にかかりましょう」

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「そんぢや明日あしたまたお目めにかゝりあんせう」

おつたは一同へ挨拶して

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おつたは一同どうへ挨拶あいさつして

「これはよかった、本当にまあ」

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「此こりやよかつた、本當ほんたうにまあ」

聞こえよがしに独り言を言いながら、おつたは庭から垣根を出た。

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聞きこえよがしに獨語どくごしながらおつたは庭にはから垣根かきねを出でた。

勘次は、自分のそばに牛缶を手にして立った卯平を改めてさらに不快な目でじっと見つめながら、彼の心の内には惜しかったという思いが、何ということもなしにただふいと湧いたのであった。

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勘次かんじは自分じぶんの側そばに牛鑵ぎうくわんを手てにして立たつた卯平うへいを改あらためて更さらに不快ふくわいな目めを以もつて凝視ぎようししながら、彼かれの心こゝろの裡うちには惜をしかつたといふ念慮ねんりよが何なんといふことはなしに只たゞふいと湧わいたのであつた。

「袋は明日持って来てくれなくちゃかなわないぞ」

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「袋ふくろは明日あした持もつて來きてくんなくつちや畢をへねえぞ」

と、勘次はおつたの後から追いかけるようにして言った。

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と勘次かんじはおつたの後あとから追おひ掛かけるやうにしていつた。

おつたは垣根に沿って、後ろの林のそばから田圃へ出た。

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おつたは垣根かきねに添そうて後うしろの林はやしの側そばから田圃たんぼへ出でた。

道端の竹のこずえには、どこまでも這っていっぱいに乗りかからねば止むまいとする毒な仙人草が、くっきりと白く誇っている。

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道端みちばたの竹たけの梢こずゑには何處どこまでも偃はうて一杯ぱいに乘のり掛かゝらねば止やむまいとする毒どくなせんにん草さうがくつきりと白しろく誇ほこつて居ゐる。

小さな体でありながら少し鋭いくちばしを持ったばかりに、はかない雀や頬白の前でだけ威力をたくましくする鵙が、小さな勝利者の声を放って、きいきいと際どくどこかの木のてっぺんで鳴いていた。

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小ちひさな身體からだでありながら少すこし鋭するどい嘴くちばしを持もつたばかりに、果敢はかない雀すゞめや頬白ほゝじろの前まへにのみ威力ゐりよくを逞たくましくする鵙もずが小ちひさな勝利者しようりしやの聲こゑを放はなつてきい/\と際きはどく何處どこかの木きの天邊てつぺんで鳴ないて居ゐた。

その夜、勘次の家には、突然一同を驚かせた事件が起こった。

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其その夜よ勘次かんじの家いへには突然とつぜん一同どうを驚愕きやうがくせしめた事件じけんが起おこつた。

それは事もなく済んで、そうしてあまりに滑稽な要素を交えていた。

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それは事こともなく濟すんでさうして餘あまりに滑稽こつけいな分子ぶんしを交まじへて居ゐた。

与吉はその日の夕方、紙へ包んだ食塩を一つ盗んだ。

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與吉よきちは其その日ひの夕方ゆふがた、紙かみへ包つゝんだ食鹽しよくえんを一ひとつ盜ぬすんだ。

彼は、これまで見たことのない綺麗な菓子を発見したと思って心が躍った。

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彼かれは從來じうらい見みたことのない綺麗きれいな菓子くわしを發見はつけんしたと思おもつて心こゝろが躍をどつた。

それでも彼はその半分を割って、いきなり飲み下した。

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それでも彼かれは其その半分はんぶんを割わつていきなり嚥のみ下くだした。

彼は喉がじりじりと焦げつくほど、非常な苦しみを感じた。

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彼かれは喉のどがぢり/\と焦こげつく程ほど非常ひじやうな苦惱くなうを感かんじた。

勘次もおつぎも、ただ慌てた。

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勘次かんじもおつぎも只たゞ慌あわてた。

勘次はその原因を知って

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勘次かんじは其その原因げんいんを知しつて

「お前は馬鹿だな、本当に。何て馬鹿だろうなあ」

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「汝わりや馬鹿ばかだな本當ほんたうに、何なんち馬鹿ばかだんべなあ」

と叱ってみるだけであった。

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と叱しかつて見みるだけであつた。

勘次があまりに叱るので

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勘次かんじが餘あまりに叱しかるので

「そんなに怒ったって治るまいな、おとっつあんは」

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「そんなに怒おこつたつて癒なほるめえな、おとつゝあは」

と、ついにはおつぎが勘次を叱った。

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と遂つひにはおつぎが勘次かんじを叱しかつた。

与吉はただ苦しんで、胸をかきむしるようにしながら転がって泣いた。

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與吉よきちは只たゞ苦くるしんで胸むねを掻かき挘むしる樣やうにしつゝ顛ころがつて泣ないた。

卯平は騒ぎを聞いて、のっそりと来た。

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卯平うへいは騷さわぎを聞きいてのつそりと來きた。

「水を飲ませてみろ」

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「水みづ飮のませて見みろ」

彼は慌てるということを知らない者のごとく、一言言った。

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彼かれは慌あわてるといふことを知しらぬものゝ如ごとく一言ごんいつた。

おつぎはすぐに柄杓で水を汲んだ。

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おつぎは直すぐに柄杓ひしやくで水みづを汲くんだ。

与吉はいくらでも柄にすがって飲んだ。

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與吉よきちは幾いくらでも柄えに縋すがつて飮のんだ。

「鶏が納豆を食ったって、死なないうちに水を飲ませりゃ何ともないんだもの。水を飲ませりゃ、そんなに騒ぐには当たらない」

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「雞にはとり納豆なつとうくつたつて死しなねえ内うちに水みづ飮のませりや何なんともねんだもの、水みづ飮のませりやそんなに騷さわぐにやあたらねえ」

卯平は言って、自分でもまた飲ませた。

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卯平うへいはいつて自分じぶんでも又また飮のませた。

与吉の枕元で、三人は夜通し眠らなかった。

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與吉よきちの枕元まくらもとに三人にんは徹宵よつぴて眠ねむらなかつた。

恐ろしく多量の水を飲んだ与吉は、ついにすやすやと眠った。

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恐おそろしく多量たりやうの水みづを飮のんだ與吉よきちは遂つひにすや/\と眠ねむつた。

そうして翌朝、けろりと治って駆け出したのであった。

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さうして翌朝よくあさけそ/\と癒なほつて驅かけ出だしたのであつた。

次の日、おつたはまた来た。

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次つぎの日ひおつたは復また來きた。

おつたは、自分が無意識に種を蒔いた昨夜の騒ぎを知っているはずがないので、昨日のごとく威勢がよかった。

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おつたは自分じぶんが無意識むいしきに種たねを蒔まいた昨夜さくやの騷さわぎを知しつてる筈はずがないので、昨日きのふの如ごとく威勢ゐせいがよかつた。

勘次は睡眠の不足から、さらに余計に不快そうに目をしかめた。

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勘次かんじは睡眠すゐみんの不足ふそくから更さらに餘計よけいに不快ふくわいの目めを蹙しかめた。

自分の風呂敷へ、軒の下に並べてある三つの南瓜を包もうとして、おつたは

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自分じぶんの風呂敷ふろしきへ軒のきの下したに竝ならべてある三つの南瓜たうなすを包つゝまうとしておつたは

「おれの南瓜はこれだったっけかな」

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「俺おれが南瓜たうなすは此これだつけかな」

と、不審そうに言った。

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と不審相ふしんさうにいつた。

「それだろうな」

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「それだんべな」

勘次はようやくこれだけ言った。

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勘次かんじは漸やうやくこれだけいつた。

卑しい彼は、おつたへやった南瓜を取り替えておいたのであった。

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淺猿さもしい彼かれはおつたへやつた南瓜たうなすを換かへて置おいたのであつた。

「どうしたっけ、昨日の豆は。そんでもたんと穫れた割合だったっけが」

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「どうしたつけ、昨日きのふの豆まめはそんでもたんと收穫とれた割合わりえゝだつけが」

おつたが謎のように言っても、勘次はいっこうにはきはきと言わなかった。

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おつたが謎なぞのやうにいつても勘次かんじは更さらにはき/\といはなかつた。

おつたも不快な様子をしながら、南瓜と葱とを背負って、別に口を利くでもなく、ただ卯平と二言三言言って、もうどうでもいいという態度で出て行った。

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おつたも不快ふくわいな容子ようすをしながら南瓜たうなすと葱ねぎとを脊負しよつて別べつに口くちを利きくでもなく、只たゞ卯平うへいと二言ふたこと三言みこといつてもうどうでも好いいといふ態度たいどで出でて行いつた。

勘次はつくづくと、中間のひどく痩せてくびれた俵を見た。

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勘次かんじはつく/″\と中間ちうかんの痛いたく痩やせて括くびれた俵たわらを見みた。

財貨によって物質的な満足を自分の暖かな懐に感じた時、すべてはこれを失うまいとする恐怖から絶えずその心を騒がせているように、無尽蔵な自然の懐から財貨が百姓の手に必ず一度与えられる秋の季節になれば、その財貨を保った田や畑の穂先が、これを妬む一部の自然現象に対して常に戦慄しながら、かつ泣いた。

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財貨ざいくわによつて物質的ぶつしつてきの滿足まんぞくを自分じぶんの暖あたゝかな懷ふところに感かんじた時とき凡すべては此これを失うしなふまいとする恐怖きようふから絶たえず其その心こゝろを騷さわがせつゝあるやうに、無盡藏むじんざうな自然しぜんの懷ふところから財貨ざいくわが百姓ひやくしやうの手てに必かならず一度ど與あたへられる秋あきの季節きせつに成なれば、其その財貨ざいくわを保たもつた田たや畑はたけの穗先ほさきが之これを嫉ねたむ一部ぶの自然現象しぜんげんしやうに對たいして常つねに戰慄せんりつしつゝ且かつ泣ないた。

二百十日から二十日の間にわたっての暴風は懸念したほどのことはなく、ただ秋の空は難しそうに低くなって、棒のような雲へ煙のような雲がぽつりぽつりとまとわっている日が続いて、二、三日昼から夜へかけて、ぼかぼかと暖かい空っ風が思い切り吹いた。

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二百十日かから廿日かの間あひだに渡わたつての暴風ばうふうは懸念けねんした程ほどのことはなく、只たゞ秋あきの空そらは六かし相さうに低ひくく成なつて棒ぼうのやうな雲くもへ煙けぶりの樣やうな雲くもがぽつり/\と纏まつはつて居ゐる日ひが續つゞいて二三日にち晝ひるから夜よるへ掛かけてぼか/\と暖あたゝかい空からつ風かぜが思おもひ切きり吹ふいた。

小松や櫟の林に交じって、これに触れれば人の肌に血を見せるほどの硬い意地の悪い葉を持った芒までが、そうしなければ目にも立たないのに、わざわざ薄赤い柔らかな穂先を高く差し上げて、人一倍に騒いだ。

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小松こまつや櫟くぬぎの林はやしに交まじつて、之これに觸ふれゝば人ひとの肌膚はだへに血ちを見みせる程ほどの硬こはい意地いぢの惡わるい葉はを持もつた芒すゝきまでが、さうしなければ目めにも立たたないのに態々わざ/\と薄赤うすあかい軟やはらかな穗先ほさきを高たかくさし扛あげて、他ひと一倍ばいに騷さわいだ。

しばらくして、秋はまぶしいほど冴えた空を見せた。

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暫しばらくして秋あきは眩まぶしい程ほど冴さえた空そらを見みせた。

畑には、昼が余計に明るいほど黄褐色に熟した陸稲がいっぱいにうなずいた。

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畑はたけには晝ひるが餘計よけいに明あかるい程ほど黄褐色くわうかつしよくに成熟せいじゆくした陸稻をかぼが一杯ぱいに首肯うなづいた。

蕎麦は、爽やかでかつ細く強い秋雨がしとしとと洗って、秋風がそれを乾かした。

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蕎麥そばは爽さわやかで且かつ細ほそく強つよい秋雨あきさめがしと/\と洗あらつて秋風あきかぜがそれを乾かわかした。

洗っては干し干し、しばしばそれが繰り返されて、だんだんに薄青く、そうして闇の夜をさえ明るくするほど純白に曝された。

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洗あらつては乾かわかし/\屡しば/\それが反覆はんぷくされてだん/\に薄青うすあをく、さうして闇やみの夜よをさへ明あかるくする程ほど純白じゆんぱくに曝さらされた。

台地の畑は黄と白が相交じって、地勢のままになだらかに起伏して、鬼怒川の土手に近く向こうへ低く傾いている。

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臺地だいちの畑はたけは黄白くわうはく相あひ交まじつて地勢ちせいの儘まゝになだらかに起伏きふくして鬼怒川きぬがはの土手どてに近ちかく向方むかうへ低ひくくこけて居ゐる。

そういう畑の周囲に立っている蜀黍は、強い茎がすっくりと穂を支えて、それがまばらな垣根のように連なって、畑から畑をつないでは幾十度の屈折をなしながら、だんだんに短くなって、これも鬼怒川の土手に近く尽きる。

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さういふ畑はたけの周圍まはりに立たつて居ゐる蜀黍もろこしは強つよい莖くきがすつくりと穗ほを支さゝへて、それが疎まばらな垣根かきねのやうに連つらなつて畑はたけから畑はたけを繼つないでは幾いく十度どの屈折くつせつをなしつゝ段々だん/\に短みぢかくなつて此これも鬼怒川きぬがはの土手どてに近ちかく竭つきる。

土手の篠の高さに見える蜀黍は、南風を受けて、差し上げた手のごとき形をなしては先から先へと動いて、その手が遡る白帆を静かに上流へ押し進めている。

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土手どての篠しのの高たかさに見みえる蜀黍もろこしは南風なんぷうを受うけて、さし扛あげた手ての如ごとき形かたちをなしては先さきから先さきへと動うごいて、其その手てが溯さかのぼる白帆しらほを靜しづかに上流じやうりうへ押おし進すゝめて居ゐる。

そうしてはまた、そのまばらな垣根は、長い短いによって遠くの林のこずえや、冴えた山々の頂をなでている。

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さうしては又また其その疎まばらな垣根かきねは長ながい短みじかいによつて遠とほくの林はやしの梢こずゑや冴さえた山々やま/\の頂いたゞきを撫なでゝ居ゐる。

爽やかな秋は、こうしてからりと展開した。

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爽さわやかな秋あきは斯かくしてからりと展開てんかいした。

しかし勘次の作った陸稲は、こういう畑ではなく、こずえの荒れた雑木林の間だけであった。

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然しかし勘次かんじの作つくつた陸稻をかぼはかういふ畑はたけではなく、梢こずゑの荒すさんだ雜木林ざふきばやしの間あひだのみであつた。

彼の開墾地へは、周囲に隠れる場所があるせいか、村のどこにもにわかにその声を聞かなくなった雀が、群れをなして日ごとに襲った。

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彼かの開墾地かいこんちへは周圍しうゐに隱かくれる場所ばしよが有ある所爲せゐか、村落むらの何處どこにも俄にはかに其その聲こゑを聞きかなくなつた雀すゞめが群ぐんをなして日毎ひごとに襲おそうた。

彼はそれでも根よく、白いガス糸を縦横に畑の上に引っ張って、ひらひらと燭奴を吊って威してみた。

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彼かれはそれでも根こんよく白しろい瓦斯絲ガスいとを縱横じゆうわうに畑はたけの上うへに引ひつ張ぱつてひら/\と燭奴つけぎを吊つつて威おどして見みた。

それでもずるい雀のために、籾がまだ固まらないで甘い液汁のような状態をなしているうちから、小さなくちばしで噛んで、おびただしく籾殻がこぼされた。

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それでも狡獪かうくわいな雀すゞめの爲ために籾もみのまだ堅かたまらないで甘あまい液汁しるの如ごとき状態じやうたいをなして居ゐる内うちから小ちひさな嘴くちばしで噛かんで夥したゝかに籾殼もみがらが滾こぼされた。

彼は空っ風が障ったとは思っていても、長い茎を刈り倒した時はそれでも熱心で、かつ愉快であったが、しかし乾燥して米にした時には、彼は夏のころの予想と非常な相違であることを確かめて落胆せざるを得なかった。

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彼かれは空からつ風かぜが障さはつたとは思おもつて居ゐても、長ながい幹からを刈かり倒たふした時ときはそれでも熱心ねつしんで且かつ愉快ゆくわいであつたが、然しかし乾燥かんさうして米こめにした時ときには彼かれは夏なつの頃ころの豫想よさうと非常ひじやうな相違さうゐであることを確たしかめて落膽らくたんせざるを得えなかつた。

彼の卑しい心が、わずかな米や麦を姉であるおつたに騙し取られたかと思い出しては、しばらくの間、忌々しさに堪えられなかった。

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彼かれの淺猿さもしい心こゝろが僅わづかな米こめや麥むぎを姊あねなるものゝおつたに騙だまして取とられたかと思おもひ出だしては暫しばらくの間あひだ忌々敷いま/\しさに堪たへなかつた。

彼は勢い何かに当たり散らそうとするのに、おつぎと与吉とに対してはあまりに深い親しみを持っていた。

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彼かれは勢いきほひ何なにかに當あたり散ちらさうとするのにおつぎと與吉よきちとに對たいしては餘あまりに深ふかい親したしみを有もつて居ゐた。

こうして彼の卯平に対する憎悪の念が、彼の心へ錐を穿って、さらに釘ではっきりと打ちつけられたのであった。

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斯かうして彼かれの卯平うへいに對たいする憎惡ぞうをの念ねんが彼かれの心こゝろへ錐きりを穿うがつて更さらに釘くぎを以もつて確然しつかと打うちつけられたのであつた。

二一

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二一

勘次が走って鬼怒川の岸に立った時は、霧がいっぱいに降りて、水は彼の足元から二、三間先が見えるのみであった。

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勘次かんじが走はしつて鬼怒川きぬがはの岸きしに立たつた時ときは霧きりが一杯ぱいに降おりて、水みづは彼かれの足許あしもとから二三間げん先さきが見みえるのみであつた。

岸には舟が繋いでなかった。

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岸きしには船ふねが繋つないでなかつた。

彼は焦って、いつものように大声を出して、対岸へ行ったはずの舟を呼んだ。

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彼かれは焦慮あせつて例いつもするやうに大聲おほごゑ出だして對岸むかうへ行いつた筈はずの船ふねを喚よんだ。

「おうい」

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「おうえ」

と応じる声が、水を渡って強く、しかも近く聞こえた。

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と應おうずる聲こゑが水みづを渉わたつて強つよく然しかも近ちかく聞きこえた。

勘次はその声に圧されて黙った。

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勘次かんじは其その聲こゑに壓あつせられて默だまつた。

すぐに舳先が薄く霧の中から見えた。

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直すぐに舳へさきが薄うすく霧きりの中なかから見みえた。

勘次は、ほとんどむせるような霧に包まれて舟に立った。

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勘次かんじは殆ほとんど咽むせぶやうな霧きりに包つゝまれて船ふねに立たつた。

所々さらさらとかすかに響きを伝えて、舟の底がつかえようとする。

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處々ところ/″\さら/\と微かすかに響ひゞきを傳つたひて船ふねの底そこが支さゝへられようとする。

初秋の洪水以来、河の中央には大きな洲が積もったので、舟はその周囲を這って、遠く曲線を描かねばならない。

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初秋しよしうの洪水こうずゐ以來いらい河かはの中央ちうあうには大おほきな洲すが堆積たいせきされたので、船ふねは其その周圍しうゐを偃はうて遠とほく彎曲わんきよくを描ゑがかねば成ならぬ。

勘次は目を覆われたようで心細い霧の中に、そんなことで著しく延びた水路をたどっていながら、悠然として鈍い棹の立て方をするのに心を焦らせて

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勘次かんじは目めを掩おほはれたやうで心細こゝろぼそい霧きりの中なかに、其麽そんなことで著いちじるしく延長えんちやうされた水路すゐろを辿たどつて居ゐながら、悠然ゆつくりとして鈍にぶい棹さをの立たてやうをするのに心こゝろを焦慮あせらせて

「どうしたろう、入っちゃ越せまいか」

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「どうしたんべ、入へえつちや越こせめえか」

船頭のほうを向いて彼は言った。

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船頭せんどうの方はうを向むいて彼かれはいつた。

「ぶくぶくやりたけりゃ入ったほうがいいや」

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「ぶく/\やりたけりや入へえつた方はうがえゝや」

船頭はそっけなく言って、おもむろに棹を立てる。

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船頭せんどうはそつけなくいつて徐おもむろに棹さをを立たてる。

舟底が触れて、立っている体がぐらりと後ろへ倒れそうになった。

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船底ふなぞこが觸さはつて立たつて居ゐる身體からだがぐらりと後うしろへ倒たふれ相さうに成なつた。

勘次は、船頭がわざと自分を突きのめしたもののように感じて、ひどく頼りない心持ちがした。

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勘次かんじは船頭せんどうが態わざと自分じぶんを突つきのめしたものゝやうに感かんじて酷ひどく手頼たよりない心持こゝろもちがした。

彼はじっと屈んで、船頭の操るままに任せた。

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彼かれは凝然ぢつと屈かゞんで船頭せんどうの操あやつる儘まゝに任まかせた。

中央の大きな洲から続く浅瀬につかえて、舟は例の所へは着けられなくなっている。

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中央ちうあうの大おほきな洲すから續つゞく淺瀬あさせに支さゝへられて船ふねは例いつもの處ところへは着つけられなく成なつて居ゐる。

ただ一人の乗客である勘次は、船頭の勝手な所へ下ろされたように思った。

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只たゞ一人ひとりの乘客じようかくである勘次かんじは船頭せんどうの勝手かつてな處ところへおろされたやうに思おもつた。

川柳が痩せて、赤い実を隠したくこの枝がぽつねんと垂れて、大きな蓼の葉が黄色くなっている岸へ、舟はがさりと舳先を突っ込んだのである。

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河楊かはやなぎが痩やせて、赤あかい實みを隱かくした枸杞くこの枝えだがぽつさりと垂たれて、大おほきな蓼たでの葉はが黄色きいろくなつて居ゐる岸きしへ船ふねはがさりと舳へさきを突つつ込こんだのである。

それでもそこには、もう幾度か舟がつけられたと見えて、足跡らしいのが階段のように形づけられてある。

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それでも其處そこにはもう幾度いくたびか船ふねがつけられたと見みえて足趾あしあとらしいのが階段かいだんのやうに形かたちづけられてある。

勘次は川柳の枝に手を掛けて、他人の足跡を踏んだ。

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勘次かんじは河楊かはやなぎの枝えだに手てを掛かけて他人ひとの足趾あしあとを踏ふんだ。

枝や葉がざらざらと彼の蓙に触れて鳴った。

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枝えだや葉はがざら/\と彼かれの蓙ござに觸ふれて鳴なつた。

彼は三足目に岸に立った。

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彼かれは三足目みあしめに岸きしに立たつた。

岸は畑で、洪水がもたらした灰に似ている泥がいっぱいに乾いて、大きな亀裂を生じている。

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岸きしは畑はたけで、洪水こうずゐが齎もたらした灰はひに似にてる泥えごみが一杯ぱいに乾かわいて大おほきな龜裂きれつを生しやうじて居ゐる。

周囲の蜀黍が穂を伐られたまま、少し遠くはぼんやりとして、これも霧の中にしょんぼりと立っている。

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周圍しうゐの蜀黍もろこしが穗ほを伐きられた儘まゝ、少すこし遠とほくはぼんやりとして此これも霧きりの中なかに悄然ぽつさりと立たつて居ゐる。

勘次が振り返った時、彼を捨てた舟は沈んだ霧に隔てられて見えなかった。

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勘次かんじが顧ふりかへつた時とき、彼かれを打棄うつちやつた船ふねは沈しづんだ霧きりに隔へだてられて見みえなかつた。

彼は蜀黍の茎に沿って、足跡に従って、はるかに土手の往来へ出た。

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彼かれは蜀黍もろこしの幹からに添そうて足趾あしあとに從したがつて遙はるかに土手どての往來わうらいへ出でた。

霧がいっぺんに晴れた。

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霧きりが一遍ぺんに晴はれた。

彼は何かに騙された後のように、がらんとした周囲をぐるりと見回さないわけにはいかなかった。

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彼かれは何なにかに騙だまされた後あとのやうに空洞からりとした周圍しうゐをぐるりと見廻みまはさない譯わけにはいかなかつた。

彼は沿岸の洪水後の変化に、驚きの目を見開いた。

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彼かれは沿岸えんがんの洪水後こうずゐじの變化へんくわに驚愕おどろきの目めを睜みはつた。

偶然、彼は、にわかに透明になった空気の中から駆けて来て網膜の底にひっついたもののように、ぽっちりと一つ目についたものがある。

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偶然ひよつと彼かれは俄にはかに透明とうめいに成なつた空氣くうきの中なかから驅かけつて來きて網膜まうまくの底そこにひつゝいたものゝやうにぽつちりと一つ目めについたものがある。

それは遠い上流に繋がっている小さな舟であった。

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それは遠とほい上流じやうりうに繋かゝつて居ゐる小ちひさな船ふねであつた。

そこには数本の竹竿が立てられてあるのも、同時に彼の目に入った。

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其處そこには數本すうほんの竹竿たけざをが立たてられてあるのも同時どうじに彼かれの目めに入いつた。

彼はすぐに、それが鮭捕り舟であることを知った。

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彼かれは直すぐにそれが鮭捕船さけとりぶねであることを知しつた。

漁夫は鮭が深夜に網に掛かるのを待ちながら、たとえ連夜にわたってそれが空しくとも、ぽっちりとさえ眠ることなく、また獲物が鋭く水を切って進んで来るのを彼らの敏捷な目が闇夜にも必ず逸することなく、接近した一瞬、彼らは水中に躍って機敏に網で獲物を巻くのである。

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漁夫ぎよふは鮭さけが深夜しんやに網あみに懸かゝるのを待まちつゝ、假令たとひ連夜れんやに渡わたつてそれが空むなしからうともぽつちりとさへ眠ねむることなく、又また獲物えものが鋭するどく水みづを切きつて進すゝんで來くるのを彼等かれらの敏捷びんせふな目めが闇夜あんやにも必かならず逸いつすることなく、接近せつきんした一刹那せつな彼等かれらは水中すゐちうに躍をどつて機敏きびんに網あみを以もつて獲物えものを卷まくのである。

彼らは夜が明けると、銀のごとく光っている獲物が一尾でも舟にあれば、それを青竹の葉に包んで威勢よく担いで出る。

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彼等かれらは夜よが明あけると銀ぎんの如ごとく光ひかつて居ゐる獲物えものが一尾ぴでも船ふねに在あればそれを青竹あをだけの葉はに包つゝんで威勢ゐせいよく擔かついで出でる。

そうでなければ、賢い鮭が淀みに隠れて動かない白昼の間だけ、ぐったりと疲れた体にわずかに一睡を盗むにすぎないので、朝の明るく白い水にさえ、じっとその目を放たないのである。

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さもなければ怜悧りこうな鮭さけが澱よどみに隱かくれて動うごかぬ白晝ひるの間あひだのみぐつたりと疲つかれた身體からだに僅わづかに一睡すいを偸ぬすむに過すぎないので、朝あさの明あかるく白しろい水みづにさへ凝然ぢつと其その目めを放はなたないのである。

いずれにしても、小さな舟は今、冷たい朝の静けさを保っているのである。

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孰いづれにしても小ちひさな船ふねは今いま冷つめたい朝あさの靜しづけさを保たもつて居ゐるのである。

ただはるかに隔たった村の木立のこずえから昇る炊煙が、冴えた冷たい空に吸い込まれているだけで、その小さな舟が中心点をなして、勘次の目には一つも動く物を見なかった。

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只たゞ遙はるかに隔へだつた村落むらの木立こだちの梢こずゑから騰のぼる炊煙すゐえんが冴さえた冷つめたい空そらに吸すひこまれて居ゐるのみで、其その小ちひさな船ふねが中心點ちうしんてんをなして勘次かんじの目めには一つも動うごく物ものを見みなかつた。

彼はしばらくまたじっとして、上流の小舟を見ていた。

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彼かれは暫しばらく又また凝然ぢつとして上流じやうりうの小船こぶねを見みて居ゐた。

彼は気がついた時、土手を一散に北へ急いだ。

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彼かれは氣きがついた時とき土手どてを一散さんに北きたへ急いそいだ。

土手はやがて水田に沿って、うねうねと遠く走っている。

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土手どては軈やがて水田すゐでんに添そうてうね/\と遠とほく走はしつて居ゐる。

土手の道幅が狭くなった。

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土手どての道幅みちはゞが狹せまくなつた。

それは、刈られてぐっしょりと湿っている稲が、土手の芝の上いっぱいに干されてあったからである。

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それは刈かられてぐつしやりと濕しめつて居ゐる稻いねが土手どての芝しばの上うへ一杯ぱいに干ほされてあつたからである。

稲は、ぽつぽつと群がっている野茨の株を除いて、ことごとく広げられてある。

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稻いねはぼつ/\と簇むらがつて居ゐる野茨のばらの株かぶを除のぞいて悉こと/″\く擴ひろげられてある。

野茨の葉はもう落ちてしまって、小さな枝の先には赤いつやつやした実が一つずつかざされている。

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野茨のばらの葉ははもう落おちて畢しまつて、小ちひさな枝えだの先さきには赤あかいつやゝかな實みが一つづゝ翳かざされて居ゐる。

草刈りの鎌を逃れて、しっかりとその株の根にすがった嫁菜の花が、刺の立った枝に寄りかかりながら、しっとりと朝の湿りを帯びている。

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草刈くさかりの鎌かまを遁のがれて確乎しつかと其その株かぶの根ねに縋すがつた嫁菜よめなの花はなが刺立とげだつた枝えだに倚より掛かゝりながらしつとりと朝あさの濕うるほひを帶おびて居ゐる。

濡れた稲の匂いが勘次の鼻を突いた。

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濡ぬれた稻いねの臭にほひが勘次かんじの鼻はなを衝ついた。

いなごがぱらぱらと足の響きにつれて、稲を渡って逃げた。

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螽いなごがぱら/\と足あしの響ひゞきに連つれて稻いねを渉わたつて遁にげた。

彼はその干された稲の穂先をつかんで、籾の幾粒かを手にしごいてみた。

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彼かれは其その干ほされた稻いねの穗先ほさきを攫つかんで籾もみの幾粒いくつぶかを手てに扱しごいて見みた。

彼はさらにその籾粒を歯で噛んでみた。

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彼かれは更さらに其その籾粒もみつぶを齒はで噛かんで見みた。

彼はそれからまた一散に走った。

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彼かれは夫それから又また一散さんに走はしつた。

彼は少しの間に、ひどく手間取ったように感じた。

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彼かれは少すこしの間まに酷ひどく暇ひまどつたやうに感かんじた。

足には脚絆と草鞋とを履いて、背には蓙を背負っている。

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足あしには脚絆きやはんと草鞋わらぢとを穿はいて背せには蓙ござを負おうて居ゐる。

蓙は絶えず彼の背後にがさがさと鳴って、その耳を騒がせた。

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蓙ござは終たえず彼かれの背後はいごにがさ/\と鳴なつて其その耳みゝを騷さわがした。

彼はついに土手から折れて、東へ東へと走った。

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彼かれは遂つひに土手どてから折をれて東ひがしへ/\と走はしつた。

村がぽつりぽつりと木立を作っているほかには、一帯にただ連続している水田を貫いて、道ははるかに遠く、ひっついたような台地の林を望んで一直線である。

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村落むらがぽつり/\と木立こだちを形かたどつて居ゐる外ほかには一帶たいに只たゞ連續れんぞくして居ゐる水田すゐでんを貫つらぬいて道みちは遙はるかに遠とほく、ひつゝいたやうな臺地だいちの林はやしを望のぞんで一直線ちよくせんである。

彼はかつてそこを歩いたことはあった。

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彼かれは嘗かつて其處そこを歩あるいたことはあつた。

しかし彼が知っているのは、幾つも曲がりくねっていた当時である。

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然しかし彼かれの知しつてるのは幾屈曲いくくつきよくをなして居ゐた當時たうじである。

彼はいつの間にか極端に人工的な整理を施された耕地に、驚きの目を見開いた。

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彼かれは何時いつの間まにか極端きよくたんに人工的じんこうてきの整理せいりを施ほどこされた耕地かうちに驚愕おどろきの目めを睜みはつた。

彼は溝が整然としているのに見とれてしまった。

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彼かれは溝渠こうきよの井然せいぜんとして居ゐるのに見惚みとれて畢しまつた。

日はようやく朝を離れて、空に居座った。

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日ひは漸やうやく朝あさを離はなれて空そらに居据ゐすわつた。

すべての物が明るい光を添えた。

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凡すべての物ものが明あかるい光ひかりを添そへた。

しかしながら、周囲のどこにも生き生きした緑は絶えて目に映らなかった。

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然しかしながら周圍しうゐの何處いづこにも活々いき/\した緑みどりは絶たえて目めに映うつらなかつた。

まだいくらも刈られていない田は、黄褐色の明るい光を反射して、所々の畑に作る桑も、霜に遭うまではとこずえの小さな柔らかな葉の四、五枚が潤いを持っているだけである。

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まだ幾いくらも刈かられてない田たは、黄褐色くわうかつしよくの明あかるい光ひかりを反射はんしやして、處々しよ/\の畑はたけに仕ある桑くはも、霜しもに逢あふまではと梢こずゑの小ちひさな軟やはらかな葉はの四五枚まいが潤うるほひを有もつて居ゐるのみである。

ぽつぽつと群がった村の木立は、どれもことごとく赤茶けたくすんだ葉で覆われている。

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ぽつ/\と簇むらがつた村落むらの木立こだちの孰いづれも悉こと/″\く赭あかいくすんだ葉はを以もつて掩おほはれて居ゐる。

そうして低く接している木立との間に、はっきりと強い線を描いて、空は憎いほど冴えている。

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さうして低ひくく相あひ接せつして居ゐる木立こだちとの間あひだに截然くつきりと強つよい線せんを描ゑがいて空そらは憎にくい程ほど冴さえて居ゐる。

そうだ。

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さうだ。

すべての植物が持っている葉緑素は、すっかり空が持っているのだ。

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凡すべての植物しよくぶつが有もつて居ゐる緑素りよくそは悉皆みんな空そらが持もつて居ゐるのだ。

春になると空はそれを雨に溶かして撒いてやるのだ。

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春はるになると空そらはそれを雨あめに溶解ようかいして撒まいてやるのだ。

だから湿った枝はどれでも青く彩られねばならないはずである。

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それだから濕うるほうた枝えだはどれでも青あをく彩いろどられねばならぬ筈はずである。

だから、幾度百姓の手が耕そうとも、その土を乾かして濡らさない工夫を立てない限りは、思わぬ所にぽつりぽつりと草の葉が青く出て、雨が降れば降るほど、どこでもいっぱいにその草の葉が濃くなって行かねばならないはずである。

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それだから幾度いくたび百姓ひやくしやうの手てが耕たがやさうとも其その土つちを乾燥かんさうして濡ぬらさぬ工夫くふうを立たてない限かぎりは、思おもはぬ處ところにぽつり/\と草くさの葉はが青あをく出でて、雨あめが降ふれば降ふる程ほど何處どこでも一杯ぱいに其その草くさの葉はが濃こく成なつて行ゆかねばならぬ筈はずである。

それを晩秋の空がすっかり持ち去るので、めっきりと冴える反対に、草木はすべてが乾燥したりくすんだりしてしまうに違いないのである。

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それを晩秋ばんしうの空そらが悉皆みんな持もち去さるので滅切めつきりと冴さえる反對はんたいに草木くさきは凡すべてが乾燥かんさうしたりくすんだりして畢しまふのに相違さうゐないのである。

明るい日はまったく昼になった。

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明あかるい日ひは全まつたく晝ひるに成なつた。

所々の島のような畑の縁から田へ這いかかっている料理菊の黄色い花が、とりわけ一番強く日光を反射して、近いよりは遠いほど快く鮮やかに見えている。

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處々ところ/″\の島しまのやうな畑はたけの縁へりから田たへ偃はひ掛かゝつて居ゐる料理菊れうりぎくの黄きな花はなが就中なかでも一番ばん強つよく日光につくわうを反射はんしやして近ちかいよりは遠とほい程ほど快こゝろよく鮮あざやかに見みえて居ゐる。

勘次は始終手拭いで巻いた右手の肘を抱えるようにして、伏し目に歩いた。

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勘次かんじは始終しよつちう手拭てぬぐひを以もつて捲まいた右手めての肘ひぢを抱かゝへるやうにして伏目ふしめに歩あるいた。

道に沿った狭い堀の浅い水に、彼の目が放たれた。

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道みちに添そうて狹せまい堀ほりの淺あさい水みづに彼かれの目めが放はなたれた。

がらがらに荒れた狼把草やえぐが、ぽつぽつと水に浸かっている。

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がら/\に荒すさんだ狼把草たうこぎやゑぐがぽつ/\と水みづに浸ひたつて居ゐる。

青い空は浅い水の底から、はるかに深く遠く光った。

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蒼あをい空そらは淺あさい水みづの底そこから遙はるかに深ふかく遠とほく光ひかつた。

そうして、どこからか迷い出して落ち着く場所を見出しかねて困っているような白い雲が映って、勘次が走れば走るほど先へ先へと移った。

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さうして何處どこからか迷まよひ出だして落付おちつく場所ばしよを見出みいだし兼かねて困こまつて居ゐるやうな白しろい雲くもが映うつつて、勘次かんじが走はしれば走はしる程ほど先さきへ/\と移うつつた。

勘次はそれをじっと見つめて行くと、何だか頭がぐらぐらするように感じられた。

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勘次かんじはそれを凝視みつめて行ゆくと何なんだか頭腦あたまがぐら/\するやうに感かんぜられた。

彼は昨夜は眠らなかった。

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彼かれは昨夜ゆふべは眠ねむらなかつた。

彼の、自分独りで噛み殺していなければならない忌々しさが、頭を刺激した。

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彼かれの自分じぶん獨ひとりで噛かみ殺ころして居ゐねばならぬ忌々敷いま/\しさが頭腦あたまを刺戟しげきした。

彼はひたすら、肘の傷を実際よりも幾倍もはるかに重く他人には見せたいという、一種の分からない心持ちを持っていた。

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彼かれは只管ひたすら肘ひぢの瘡痍きずの實際じつさいよりも幾倍いくばい遙はるかに重おもく他人ひとには見みせたい一種しゆの解わからぬ心持こゝろもちを有もつて居ゐた。

寸暇をも惜しんだ彼の心は、これまでになく、自分の損失を顧みる余裕を持たないほど惑乱し、濁っていた。

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寸暇すんかをも惜をしんだ彼かれの心こゝろは從來これまでになく、自分じぶんの損失そんしつを顧かへりみる餘裕よゆうを有もたぬ程ほど惑亂わくらんし溷濁こんだくして居ゐた。

白昼の日は横頬に暑いほどに射しかけたが、周囲は依然冷たかった。

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白晝ひるの日ひは横頬よこほゝに暑あつい程ほどに射さし掛かけたが周圍あたりは依然やつぱり冷つめたかつた。

堀の浅い水には、これも冷たげにじっと身を沈めた蛙が、黙って彼を見ていた。

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堀ほりの淺あさい水みづには此これも冷つめたげに凝然ぢつと身みを沈しづめた蛙かへるが默だまつて彼かれを見みて居ゐた。

遠い田圃を、彼は前後にただ一人の通行人であった。

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遠とほい田圃たんぼを彼かれは前後ぜんごに只たゞ一人ひとりの行人かうじんであつた。

はるかにぽつりぽつりと見える稲刈りの百姓は、孤独な彼の目から隠れようとするように、すっかりずっと低く身を屈めている。

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遙はるかにぽつり/\と見みえる稻刈いねかりの百姓ひやくしやうは㷀然ぽつさりとした彼かれの目めから隱かくれようとする樣やうに悉皆みんなずつと低ひくく身みを屈かゞめて居ゐる。

明るい光に満ちた田圃を、その惑乱し濁った心を抱いて寂しく歩数を積んで行く彼は、ガラスの器の水を日にかざして発見した一点の塵であった。

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明あかるい光ひかりに滿みちた田圃たんぼを其その惑亂わくらんし溷濁こんだくした心こゝろを懷いだいて寂さびしく歩數あゆみを積つんで行ゆく彼かれは、玻璃器はりきの水みづを日ひに翳かざして發見はつけんした一點てんの塵芥ごみであつた。

勘次は田圃が尽きた時、村を過ぎて台地へ出た。

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勘次かんじは田圃たんぼが竭つきた時とき村落むらを過すぎて臺地だいちへ出でた。

村の垣根には稲を掛けている人々があった。

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村落むらの垣根かきねには稻いねを掛かけて居ゐる人々ひとびとがあつた。

道行く人を見たがる癖の彼らは、皆忙しげな勘次を見た。

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道みち行ゆく人ひとを見みたがる癖くせの彼等かれらは皆みな忙いそがしげな勘次かんじを見みた。

勘次は他人が自分を見ることを知った時、肘をまた丁寧に抱いた。

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勘次かんじは他人ひとが自分じぶんを見みることを知しつた時とき肘ひぢを復また叮嚀ていねいに抱だいた。

台地には林の間に、陰気な畑が開墾されてあった。

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臺地だいちには林はやしの間あひだに陰氣いんきな畑はたけが開墾かいこんされてあつた。

彼は開墾地の土質と作物とを、非常な注意で見た。

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彼かれは開墾地かいこんちの土質どしつと作物さくもつとを非常ひじやうな注意ちういで見みた。

また村があって、広い畑が展開した。

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又また村落むらがあつて廣ひろい畑はたけが展開てんかいした。

畑は陸稲を刈ったままの所がいくらもあった。

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畑はたけは陸稻をかぼを刈かつた儘まゝの處ところが幾いくらもあつた。

彼は陸稲の刈り株を丁寧に草鞋の先で踏んでみた。

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彼かれは陸稻をかぼの刈株かりかぶを叮嚀ていねいに草鞋わらぢの先さきで蹂ふんで見みた。

百姓がちらほらと動いて、麦を蒔くべき土が清潔に耕されつつある。

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百姓ひやくしやうがちらほらと動うごいて麥むぎを蒔まくべき土つちが清潔せいけつに耕たがやされつゝある。

畑の黒い土は、彼らの技巧を発揮して丁寧に耕されれば、日がまだそれを乾かさないうちは、ただ清潔で快い感じを見る人の心に与えるのである。

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畑はたけの黒くろい土つちは彼等かれらの技巧ぎかうを發揮はつきして叮嚀ていねいに耕たがやされゝば日ひがまだそれを乾ほさない内うちは只たゞ清潔せいけつで快こゝろよい感かんじを見みる人ひとの心こゝろに與あたへるのである。

そういう村を包んで、そこにも雑木林が一帯に赤茶けている。

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さういふ村落むらを包つゝんで其處そこにも雜木林ざふきばやしが一帶たいに赭あかくなつて居ゐる。

他に先立って際どく燃えるようになった白膠木の葉が、黒い土と遠く映じ合っている。

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他たに先立さきだつて際きはどく燃もえるやうになつた白膠木ぬるでの葉はが黒くろい土つちと遠とほく相あひ映えいじて居ゐる。

勘次は、自分の麦を蒔くべき畑の用意がまだ十分でないことを思った。

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勘次かんじは自分じぶんの麥むぎを蒔まくべき畑はたけの用意よういがまだ十分ぶんでないことを思おもつた。

彼は前年、寒さが急に襲った時、種を蒔く日がわずかに二日の違いで後れた麦が、意外に収穫の減った苦い経験を忘れ去ることができなかった。

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彼かれは前年ぜんねん寒さむさが急きふに襲おそうた時とき、種たね蒔まく日ひが僅わづかに二日ふつかの相違さうゐで後おくれた麥むぎの意外いぐわいに收穫しうくわくの減少げんせうした苦にがい經驗けいけんを忘わすれ去さることが出來できなかつた。

彼は標準として教えられたその日を外すことなく、麦は蒔かねばならないものと覚悟をしているのである。

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彼かれは標準へうじゆんとして教をしへられた其その日ひを外はづすことなく麥むぎは蒔まかねばならぬものと覺悟かくごをして居ゐるのである。

それとともに、一日でもこうして時間を空費する自分の傷について、彼は深く悲しんだ。

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それと共ともに一日にちでも斯かうして時間じかんを空費くうひする自分じぶんの瘡痍きずに就ついて彼かれは深ふかく悲かなしんだ。

しかしそれでいながら、彼は悲痛から来る憤懣の情が、ただその傷を誰にも実際以上に重く見せもし、見られもしたいというはかない思いを湧かせること以外に、何物をも持たなかった。

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然しかしそれで居ゐながら彼かれは悲痛ひつうから來くる憤懣ふんまんの情じやうが、只たゞ其その瘡痍きずを何人なんぴとにも實際じつさい以上いじやうに重おもく見みせもし見みられもしたい果敢はかない念慮ねんりよを湧わかしむることより外ほかに何物なにものをも有もたなかつた。

彼はほとんど絶対に、同情と慰めとに渇していたのである。

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彼かれは殆ほとんど絶對ぜつたいに同情どうじやうと慰藉ゐしやとに渇かつして居ゐたのである。

畑の黒い土には、ぽつぽつと大根の葉が茂っている。

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畑はたけの黒くろい土つちにはぽつ/\と大根だいこんの葉はが繁しげつて居ゐる。

周囲に冴えた青い物は、大根の葉だけである。

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周圍しうゐに冴さえた青あをい物ものは大根だいこんの葉はのみである。

大根の葉は、いったん地上の緑を奪って透き通った空が、その濃厚な緑を沈殿させて地上に置いた結晶体でなければならない。

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大根だいこんの葉はは、一旦たん地上ちじやうの緑みどりを奪うばうて透徹とうてつした空そらが其その濃厚のうこうな緑みどりを沈澱ちんでんさせて地上ちじやうに置おいた結晶體けつしやうたいでなければならぬ。

晩秋の気配は、ひたすらに沈もうとばかりしている。

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晩秋ばんしうの氣きは只管ひたすらに沈しづまうとのみして居ゐる。

生殖作用を終えたすべての作物の穂先は、すっかりもううなだれている。

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生殖作用せいしよくさようを畢をはつた凡すべての作物さくもつの穗先ほさきは悉皆みんなもう俛首うなだれて居ゐる。

虫の声も地に染み入ろうとしている。

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蟲むしの聲こゑも地ちに沁しみ入いらうとして居ゐる。

独り爽やかな緑を与えられた大根の葉も、いくら成長しても強く引き締める晩秋の気を受けて、地にひっつくようにしてようやく斜めに広がるのみで、少しでも高く立ち昇ることを許されていない。

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獨ひとり爽さわやかな緑みどりを與あたへられた大根だいこんの葉はも、幾いくら成長せいちやうしても強つよく引ひき締しめる晩秋ばんしうの氣きを受うけて地ちにひつゝくやうにして漸やつと斜なゝめに廣ひろがるのみで、毫すこしでも高たかく立たち昇のぼることを許容ゆるされて居をらぬ。

こうして畑の土は、ただ冷たく凍るのを待っているのである。

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恁かうして畑はたけの土つちは只たゞ冷つめたく凍こほるのを待まつて居ゐるのである。

勘次はようやく整骨医の門に達した。

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勘次かんじは漸やうやく整骨醫せいこついの門もんに達たつした。

整骨医の家は、がら竹の垣根に珊瑚樹の大木が覆いかぶさって、陰気に見えていた。

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整骨醫せいこついの家いへはがら竹たけの垣根かきねに珊瑚樹さんごじゆの大木たいぼくが掩おほひかぶさつて陰氣いんきに見みえて居ゐた。

戸板を三角形に合わせて駕籠のようにこしらえたものが、垣根の内に置かれてあった。

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戸板といたを三角形かくけいに合あはせて駕籠かごのやうに拵こしらへたのが垣根かきねの内うちに置おかれてあつた。

誰か重い怪我人が運ばれたのだと勘次はすぐに悟って、そうして何だかぞっとした。

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誰たれか重おもい怪我人けがにんが運はこばれたのだと勘次かんじは直すぐに悟さとつてさうして何なんだか悚然ぞつとした。

彼は仰々しい自分の身なりに恥じて、ためらいながら案内を請うた。

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彼かれは業々げふ/\しい自分じぶんの扮裝いでたちに恥はぢて躊躇ちうちよしつゝ案内あんないを請こうた。

ぽつねんとして玄関に待っているのは、すっかり怪我人ばかりである。

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ぽつさりとして玄關げんくわんに待まつて居ゐるのは悉皆みんな怪我人けがにんばかりである。

首から白い布切れを吊って、これも白く包帯した手を持たせた者もあった。

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首くびから白しろい布片きれを吊つつて此これも白しろく繃帶ほうたいした手てを持もたせたものもあつた。

そこに青い顔をしてぐったりと横たわっている者もあった。

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其處そこに蒼あをい顏かほをしてぐつたりと横よこたはつて居ゐるものもあつた。

勘次は怪我人の後ろに隠れるようにして自分の番になるのを待ちながら、周りが何となく薬臭くて恐ろしいような感じにとらわれた。

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勘次かんじは怪我人けがにんの後うしろに隱かくれるやうにして自分じぶんの番ばんになるのを待まちながら周邊あたりが何なんとなく藥臭くすりくさくて恐おそろしいやうな感かんじに囚とらはれた。

医者は一人の患部を柔らかく揉んでやっていたが、勘次をちらと見た。

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醫者いしやは一人ひとりの患部くわんぶを軟やはらかに柔もんでやつて居ゐたが勘次かんじをちらと見みた。

勘次は何だか睨まれたように感じた。

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勘次かんじは何なんだか睨にらまれたやうに感かんじた。

医者はまな板のような板の上に黄褐色な粉薬を少し出して、白い糊と練り合わせて、瓶の酒のような液体でそれを緩めて、それから長い鋏で白紙を刻んで、真鍮の箆でその薬を紙へ塗りつけて患部へ貼ってやった。

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醫者いしやは爼板まないたのやうな板いたの上うへに黄褐色くわうかつしよくな粉藥こぐすりを少すこし出だして、白しろい糊のりと煉ねり合あはせて、罎びんの酒さけのやうな液體えきたいでそれを緩ゆるめてそれから長ながい鋏はさみで白紙はくしを刻きざんで、眞鍮しんちうの箆へらで其その藥くすりを紙かみへ塗抹ぬつて患部くわんぶへ貼はつてやつた。

怪我人らは、ただじっとして医者の熟練した手元を見つめた。

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怪我人等けがにんらは只たゞ凝然ぢつとして醫者いしやの熟練じゆくれんした手てもとを凝視ぎようしした。

勘次は他人の後ろから爪立ちをした。

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勘次かんじは他人ひとの後うしろから爪立つまだてをした。

二、三人小さな治療が済んで、十二、三の男の子が仕事着のままの二十四、五の百姓に負われて、医者の前に据えられた。

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二三人にん小ちひさな療治れうぢが濟すんで十二三の男をとこの子こが仕事衣しごとぎの儘まゝな二十四五の百姓ひやくしやうに負おはれて醫者いしやの前まへに据すゑられた。

医者は縁側の明るみへ座蒲団を敷いて出た。

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醫者いしやは縁側えんがはの明あかるみへ座蒲團ざぶとんを敷しいて出でた。

怪我人は医者の前へ出ると、恐怖に襲われたようににわかにむせび泣いた。

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怪我人けがにんは醫者いしやの前まへへ出でると恐怖きようふに襲おそはれたやうに俄にはかに鳴咽をえつした。

医者は横に膨れた大きな体で、ゆったりと胡坐をかいたまま、怪我人の左の手をまくって見た。

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醫者いしやは横よこに膨ふくれた大おほきな身體からだでゆつたりと胡坐あぐらをかいた儘まゝ怪我人けがにんの左ひだりの手てを捲まくつて見みた。

怪我人の二の腕が折れて、ぶらりと垂れていた。

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怪我人けがにんの上膊じやうはくが挫折ざせつしてぶらりと垂たれて居ゐた。

医者は怪我人の患部に手を触れてみて

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醫者いしやは怪我人けがにんの患部くわんぶに手てを觸ふれて見みて

「お前、そっちを持って」

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「お前まへそつち持もつて」

と、簡単に顎で百姓へ指図した。

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と簡單かんたんに顎あごで百姓ひやくしやうへ指圖さしづした。

百姓はおずおず怪我人の後ろへ回って、青い顔をして抱いた。

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百姓ひやくしやうは怖おづ/\怪我人けがにんの後うしろへ廻まはつて蒼あをい顏かほをして抱だいた。

「いいか、ぎっと抱いてるんだぞ」

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「えゝか、ぎつと抱だいてるんだぞ」

医者は足を怪我人の腹に当てて、両手に折れた手を持って引こうとした。

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醫者いしやは足あしを怪我人けがにんの腹部ふくぶに當あてゝ兩手りやうてに挫折ざせつした手てを持もつて曳ひかうとした。

怪我人は恐ろしさに、わっと声を放って泣いた。

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怪我人けがにんは恐おそろしさにわつと聲こゑを放はなつて泣ないた。

医者は手を止めた。

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醫者いしやは手てを止とめた。

「お前は兄貴だな。そんじゃいい、無駄だ」

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「お前まへ兄貴あにきだな、そんぢやえゝ、徒勞むだだ」

と、抱いた手を放させた。

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と抱だいた手てを放はなたしめた。

百姓は骨肉のいたわりが、泣き叫ぶ子をぎっと力を込めて引かせない。

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百姓ひやくしやうは骨肉こつにくの勦いたはりが泣なき號さけぶ子こをぎつと力ちからを籠こめて曳ひかせない。

そんな思い切った手段に加わることはできないのであった。

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そんな思おもひきつた手段しゆだんに加くははることは出來できないのであつた。

百姓は泣けば泣くほど手を緩めた。

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百姓ひやくしやうは泣なけば泣なく程ほど手てを緩ゆるめた。

医者はそれで無駄だと言った。

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醫者いしやはそれで徒勞むだだといつた。

百姓はただ青い顔をして、ぼうっとしているだけであった。

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百姓ひやくしやうは只たゞ蒼あをい顏かほをしてぼつとして居ゐるのみであつた。

医者はさらに家族に命じて、近所の若者を呼びにやった。

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醫者いしやは更さらに家族かぞくに命めいじて近所きんじよの壯者わかものを喚よびにやつた。

「木から落ちたな」

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「木きから落おつこつたな」

医者は百姓に聞いた。

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醫者いしやは百姓ひやくしやうに聞きいた。

「ええ、わしはもう、どうしていいもんだか分からないから、畑を耕してたまま着物も着ないで、こうして負って来たんだが」

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「えゝ、わしやはあ、どうしてえゝもんだか分わかんねえから畑はたけ耕うなつてた儘まゝ衣物きものも着きねえで斯かうして負おぶつて來きたんだが」

と百姓は言って、それから

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と百姓ひやくしやうはいつて、それから

「わしは柿の木へ登るのを見てたんだったが、落ちたから駆けて行って見たら、目を引きつけちまって。そんでもしばらく経ったら泣き出したんで、わしが抱き起こして手へ触ったら、痛い痛いと言うから、まくって見たら、こうぶらんとなったっきりで、わしももう、驚いちまって」

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「わし柹かきの木きさ登のぼんな見みてたんだつけが、落おつこつたから驅かけてつて見みたら、目めえ引ひつゝけつちやつて、そんでも暫しばらく經たつたら泣なき出だしたんでわし抱だき起おこして手てへ觸さはつたら、痛いてえ/\つちから捲まくつて見みたら、斯かうぶらんと成なつたつ切きりでわしもはあ、魂消たまげつちやつて」

百姓はひたすらに慌てて言った。

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百姓ひやくしやうは只管ひたすらに慌あわてゝいつた。

「本当に、ここへ来ていちゃ、毎日のように木から落ちたという怪我人が来るんだよまあ。椎の木から落ちたの、栗の木から落ちたのって。子供の怪我はたいがいそうなんだから、男の子を持っちゃ心配さね。そんだがこれ、怪我というのは間違いだから、わしらも下駄を履きながらひょいっと転んだだけで手首が折れたんだなんて」

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「本當ほんたうに此處こゝへ來きて居ゐちや毎日まいんちのやうに木きから落おつこつたつち怪我人けがにんが來くんだよまあ、椎しひの木きから落おつこつたの栗くりの木きから落おつこつたのつて、子供こどもの怪我けがは大概てえげえさうなんだから、男をとこつ子こ持もつちや心配しんぺえさねえ、そんだがこれ、怪我けがつちや過えゝまちだから、わし等らも下駄げた穿はきながらひよえつと轉ころがつた丈だけで手てつ首くび折をつちよれたんだなんて」

と、そばにいた婆さんが言った。

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と側そばに居ゐた婆ばあさんがいつた。

「うちのも毎日のように柿の木へ登ってて、木登りは上手なんだから。それも雨でも降ったばかりならつるつるして足が引っ掛からないもんだが、雨は降らないし、そんなことはないはずなんだが、つかまってた枝の所に蛇がいたとかって、慌てて下りようと思ったというんだから。いつでももう、枝なんざがさがさやって、てっぺんのほうで怒鳴ったりなにかしてたんだったが、かさっというのがひどく変な音だと思って見るうちには、落ちるのは早いもんで。困ったことができたのさ」

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「わし等らがも毎日まいんちのやうに柹かきの木きさ登のぼつてゝ木登きのぼりは上手じやうずなんだから、それも雨あめでも降ふつたばかしならつる/\して足あし引ひつ掛かゝんねえもんだが雨あめは降ふんねえし、そんなこたねえ筈はずなんだが、攫つかまつてた枝えだん處とこに蛇へび居ゐたとかつて慌あわくつておりべと思おもつたつちんだから、いつでもはあ枝えだなんざがさがさやつて天邊てつぺんの方はうで呶鳴どなつたりなにつかしてたんだつけが、かさあつちのが酷ひどく變へんな音おとだと思おもつて見みる内うちにや落おつこちんな早はえゝもんで、困こまつたこと出來できたのせ」

百姓は調子に乗って言い続けた。

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百姓ひやくしやうは乘地のりぢになつていひ續つゞけた。

勘次は恐怖の目を見開いて耳を傾けた。

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勘次かんじは恐怖きようふの目めを睜みはつて耳みゝを傾かたむけた。

「柿の木へ蛇が上がるようじゃ、雨でもまた降らなけりゃいいが。百姓には大事な所なんだからまあ、ちっと続けさせたいもんだが」

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「柹かきの木きさ蛇へびがあがるやうぢや雨あめでもまた降ふらなけりやえゝが、百姓ひやくしやうにや大事でえじな處ところなんだからまあ、ちつと續つゞけさせてえもんだが」

そばからまた一人の怪我人が口を添えた。

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側そばから又また一人ひとりの怪我人けがにんが口くちを添そへた。

勘次はまたその話を聞きながら、定まりない天候の変化を案じた。

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勘次かんじは又また其その噺はなしを聞ききながら定さだまりない天候てんこうの變化へんくわを案あんじた。

やがて近所の若者が来て、以前のごとく怪我人を抱いた。

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軈やがて近所きんじよの壯者わかものが來きて以前いぜんの如ごとく怪我人けがにんを懷だいた。

医者はさっきのようにして、怪我人の恐怖した顔を見ながら、口を締めてぎっとその手を引いた。

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醫者いしやは先刻さつきのやうにして怪我けが人の恐怖きようふした顏かほを見みながら口くちを締しめてぎつと其その手てを曳ひいた。

怪我人の手はぼきっと恐ろしい音を立てた。

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怪我人けがにんの手てはぼぎつと恐おそろしい音おとを立たてた。

怪我人はただ泣き叫んだ。

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怪我人けがにんは只たゞ泣なき號さけんだ。

「よしよし、治っちゃった」

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「よし/\癒なほつちやつた」

医者は手を放って、太い柔らかそうな指の腹でしばらく揉むようにして、それから薬を塗った紙をいっぱいに貼って、燭奴のような薄い木の板を当てて、ぐるりと包帯を施した。

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醫者いしやは手てを放はなつて、太ふとい軟やはらか相さうな指ゆびの腹はらで暫しばらく揉もむやうにしてそれから藥くすりを塗ぬつた紙かみを一杯ぱいに貼はつて燭奴つけぎのやうな薄うすい木きの板いたを當あてゝぐるりと繃帶ほうたいを施ほどこした。

「どれくらいで治ったもんでございましょうね、先生さん」

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「どのつ位くれえで癒なほつたもんでござんせうね、先生せんせいさん」

百姓は心配そうに聞いた。

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百姓ひやくしやうは懸念けねんらしく聞きいた。

「そうすぐには治らないな」

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「さう直すぐにや癒なほらねえな」

医者は無愛想に言った。

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醫者いしやは無愛想ぶあいそにいつた。

百姓は依然として青い顔をしながら、怪我人を背負って帰って行った。

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百姓ひやくしやうは依然いぜんとして蒼あをい顏かほをしながら怪我人けがにんを脊負しよつて歸かへつて行いつた。

それから二、三人の治療が済んで、勘次の番になった。

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それから二三人にんの療治れうぢが濟すんで勘次かんじの番ばんに成なつた。

「こりゃ大層大事にしてあるな」

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「此こりや大層たいそう大事だいじにしてあるな」

医者は汚い手拭いを取って、勘次の肘を見た。

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醫者いしやは穢きたない手拭てぬぐひをとつて勘次かんじの肘ひぢを見みた。

鉄の火箸で打った跡が、指のごとくほのかに膨れていた。

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鐵てつの火箸ひばしで打うつた趾あとが指ゆびの如ごとくほのかに膨ふくれて居ゐた。

「どうしたんだいこれは、夫婦喧嘩でもしたか」

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「どうしたんだえ此こら、夫婦喧嘩ふうふげんくわでもしたか」

医者は毎日百姓を相手にして砕けて付き合う習慣がついているので、どっしりと大きな体からこういう冗談も出るのであった。

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醫者いしやは毎日まいにち百姓ひやくしやうを相手あひてにして碎くだけて交際つきあふ習慣しふくわんがついて居ゐるので、どつしりと大おほきな身體からだからかういふ戯談じようだんも出でるのであつた。

「なあに、わしはもう、女房に死なれてから七、八年にもなるんでございますから」

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「なあにわしやはあ、嚊かゝあに死しなれてから七八年ねんにもなんでがすから」

勘次は少し苦笑して言った。

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勘次かんじは少すこし苦笑くせうしていつた。

「そうか、そんじゃ誰に打たれたい。まだ若いんだから、そんでもどこかへこしらえたかい」

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「さうか、そんぢや誰だれに打ぶたれたえ、まあだ壯さかりだからそんでも何處どこへか拵こしらえたかえ」

軽い傷をあまりに大袈裟に包んだ勘次の様子を、心から冷笑することを禁じなかった医者は、こうからかいながら口髭をひねった。

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輕微けいびな瘡痍きずを餘あまりに大袈裟おほげさに包つゝんだ勘次かんじの容子ようすを心こゝろから冷笑れいせうすることを禁きんじなかつた醫者いしやはかう揶揄からかひながら口髭くちひげを捻ひねつた。

「先生さん、冗談を言って。なあに、わしは爺さんに打たれたんでさ」

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「先生せんせいさん戯談じやうだんいつて、なあにわしや爺樣ぢいさまに打ぶたれたんでさ」

勘次はひたすらに、医者の前で追及の圧迫から逃れようとするように言った。

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勘次かんじは只管ひたすらに醫者いしやの前まへに追求つゐきうの壓迫あつぱくから遁のがれようとするやうにいつた。

医者はそれからはもう黙って薬を貼って、形ばかりの包帯をした。

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醫者いしやはそれからはもう默だまつて藥くすりを貼はつて形かたばかりの繃帶ほうたいをした。

「先生さん、わしはまだ来なくちゃなりますまいか」

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「先生せんせいさん、わしやまあだ來きなくつちやなりあんすめえか」

勘次は心配そうな目で聞いた。

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勘次かんじは懸念けねんらしい目めを以もつて聞きいた。

「この薬をやるから、自分で貼ったほうがいい。これで治るから」

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「此この藥くすりをやるから、自分じぶんで貼はつた方はうがえゝ、此これで癒なほるから」

と、医者は一袋の薬を与えた。

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と醫者いしやは一袋ひとふくろの藥くすりを與あたへた。

勘次は一度整骨医の門をくぐってからは、世間にはこんなに怪我人の数があるものだろうかと、絶えず驚きと恐怖との念に圧されていたが、珊瑚樹の茂った木陰から竹の垣根を往来へ出た時、彼は身も心もにわかに軽くなったことを感じた。

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勘次かんじは一度ど整骨醫せいこついの門もんを潜くゞつてからは、世間せけんには這麽こんなに怪我人けがにんの數かずが有あるものだらうかと絶たえず驚愕おどろきと恐怖おそれとの念ねんに壓あつせられて居ゐたが、珊瑚樹さんごじゆの繁茂はんもした木蔭こかげから竹たけの垣根かきねを往來わうらいへ出でた時とき彼かれは身みも心こゝろも俄にはかに輕かるくなつたことを感かんじた。

彼は小さな怪我人から連想して、これも毎日庭の木を狙っている与吉を心配し出した。

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彼かれは小ちひさな怪我人けがにんから聯想れんさうして此これも毎日まいにち庭にはの木きを覘ねらつて居ゐる與吉よきちを憂うれへ出だした。

彼は脚力の及ぶ限り帰り道を急いだ。

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彼かれは脚力きやくりよくの及およぶ限かぎり歸途きとを急いそいだ。

彼は行く行く、午前に見てしばらく忘れていた百姓の活動を再び目の前に見せつけられて、隠れていた憤懣の情がまたむらむらと首をもたげた。

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彼かれは行ゆく/\午前ごぜんに見みて暫しばらく忘わすれて居ゐた百姓ひやくしやうの活動くわつどうを再ふたゝび目前もくぜんに見みせ付つけられて隱かくれて居ゐた憤懣ふんまんの情じやうが復また勃々むか/\と首くびを擡もたげた。

彼は自分の傷が軽いと医者から宣告された時は何となく安心されたのであったが、しかしまた次第に道のりを運びながら、いろいろな雑念が湧くにつれて、失望と不満足を心に抱きはじめた。

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彼かれは自分じぶんの瘡痍きずが輕かるく醫者いしやから宣告せんこくされた時ときは何なんとなく安心あんしんされたのであつたが、然しかし又また漸次だんだん道程みちのりを運はこびつゝ種々いろいろな雜念ざふねんが湧わくに連つれて、失望しつばうと不滿足ふまんぞくを心こゝろに懷いだきはじめた。

彼が家に帰った後、傷を重く見せかけようとするのには、医者の診断が寸毫も彼に味方していなかったからである。

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彼かれは家いへに歸かへつた後のち瘡痍きずを重おもく見みせ掛かけようとするのには醫者いしやの診斷しんだんが寸毫すんがうも彼かれに味方みかたして居ゐなかつたからである。

彼が家に帰ったのは、日が西に連なった雑木林の上に傾こうとしたころであった。

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彼かれの家いへに歸かへつたのは日ひが西にしに連つらなつた雜木林ざふきばやしの上うへに傾かたむかうとした頃ころであつた。

彼はただそのままに、自分の怪我とその事実とを覆っておくのが名残惜しい心持ちがした。

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彼かれは只たゞ其その儘まゝに自分じぶんの怪我けがと其その事實じじつとを掩おほうて置おくのが残のこり惜をしい心持こゝろもちがした。

それで彼はその足ですぐに南の家へ行った。

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それで彼かれは其その足あしで直すぐに南みなみの家いへへ行いつた。

脚絆と草鞋とで身を固めた勘次の様子を不審に思った南の亭主へ、勘次は突然訴えるように言った。

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脚絆きやはんと草鞋わらぢとで身みを堅かためた勘次かんじの容子ようすを不審ふしんに思おもつた南みなみの亭主ていしゆへ勘次かんじは突然とつぜん訴うつたへるやうにいつた。

「おれは爺さんに鉄火箸で打っ飛ばされて、骨接ぎへ行って来たところだが、忙しい所へひどい目に遭っちまった」

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「俺おら、爺樣ぢいさまに鐵火箸かなひばしで打ぶつ飛とばさつて、骨接ほねつぎへ行いつて來きた處とこだが、忙いそがし處ところ酷ひでえ目めに逢あつちやつた」

勘次はそれでも口が渋って、思うようには言えなかった。

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勘次かんじはそれでも口くちが澁しぶつて思おもふ樣やうにいへなかつた。

南の亭主は、わざわざ来て話をされては、捨てて顧みないこともできなかった。

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南みなみの亭主ていしゆは態々わざ/\來きて噺はなしをされては棄すてゝ顧かへりみぬことも出來できなかつた。

「どうしたっていうんだいまあ、勘次さん」

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「どうしたつちんでえまあ、勘次かんじさん」

いくらかわざとらしく驚いたように聞いた。

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幾いくらか態わざとらしく驚おどろいたやうに聞きいた。

「昨日の日暮れに、おれが野良から帰って来たら、爺さんが鶏に餌を撒いてやってるから見たら、米を混ぜておいた食い稲のほうを掻き出して撒いてるじゃないかい。それでおれも、それをやったんじゃかなわないと言ったんだな。鶏にやるのはそっちに別にしてあるんだから、撒いてやるならそっちのにしてくれと言ったのよ。鶏になんざもったいないな。そうしたらいきなり鉄火箸でおれのことを打っ飛ばして、お前はおれに食わせるのさえ惜しいくらいだから、鶏にやってさえそんなことを言いやがるんだろうなんて。おれもうっかりしてたもんだから逃げる間もなくて、これ、こんなに怪我をしちまったな。今、種蒔きの忙しい所へ打ち込んで、いつまでも治らないようでも仕方がないから、朝稼ぎに骨接ぎへ行ったんだが、遠いのに、それに行ってみると怪我人が来ていて、ちょっとやそっとじゃないもんだから、随分急いだつもりだったっけが、こんなに遅くなっちまって。何と言っても日は短くなったからな。そう言っても、怪我人ってあるもんだな」

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「昨日きのふの日暮ひぐれに俺おれ野のらから歸けえつて來きたら爺樣ぢさま雞にはとりげ餌料ゑさ撒まえてやつてつから見みたら、米こめ交まぜて置おいた食稻けしねの方ほう掻かん出だして撤まいてんぢやねえけ、夫それから俺おらもそれ遣やつたんぢや畢をへねつちつたな、雞にはとりげやんなそつちに別べつにして有あんだから撒まいてやんだらそつちのがにして呉くろつちつたのよ、雞にはとりげなんざ勿體もつていねえな、さうしたらいきなり鐵火箸かなひばしで俺おれこと打ぶつ飛とばして、汝わりや俺おれげ食くはせんのせえ惜をしいつ位くれえだから雞にはとりげやつてせえ其麽そんなこと云ゆへやがんだんべなんて、麽おら放心うつかりしてたもんだから逃にげ間まにやあねえで、此これかうえに怪我けがしつちやつたな、今いま蒔物まきものの忙いそがしい處ところへ打ぶつ込こんで、何處どこまでも癒なほんねえやうでもしやうねえから朝あさつ稼かせぎに骨接ほねつぎへ行えつたんだが、遠とほいのにそれに行えつて見みつと怪我人けがにんが來きて居ゐてちよつくらぢやねえもんだから、隨分ずいぶん急えそえだ積つもりだつけがこんなに遲おそくなつちやつて、何なんちつても日ひは短みじかくなつたかんな、さう云ゆつても怪我人けがにんちや有あるもんだな、」

勘次はようやくそうして、詳しく事の顛末を打ち明けた。

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勘次かんじは漸やうやくさうして仔細しさいに事ことの顛末てんまつを打うち明あけた。

「そんだが、怪我は大変なことはないのか」

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「そんだが怪我けがは大變たいへんなこたねえのか」

南の亭主は、それも義理だというように聞いた。

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南みなみの亭主ていしゆはそれも義理ぎりだといふやうに聞きいた。

「うん」

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「うむ」

と、勘次は言い淀んだ。

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と勘次かんじはいひ淀よどんだ。

南の亭主は、その理由を悟ることができないのみでなく、その言い淀んだことを不審に思う心さえ起こさないほど、うっかりと聞いていた。

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南みなみの亭主ていしゆは其その理由わけを覺さとることは出來できないのみでなく、其そのいひ澱よどんだことを不審ふしんに思おもふ心こゝろさへ起おこさぬ程ほど放心うつかりと聞きいて居ゐた。

「そんで爺さんはどうしたっていうんだい」

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「そんで爺樣ぢさまはどうしたつちんでえ」

南の亭主は、それから先を聞いた。

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南みなみの亭主ていしゆはそれから先さきを聞きいた。

「おれは朝っぱらから出かけちまって、まだ行き合いもしないから、どうするっていうんだか分からないが、どうせ甘い顔つきもしちゃいまいな。これで怪我なんぞさせて、いい心持ちじゃあるまいな。そうじゃないかい」

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「俺おら朝あさつぱら出掛でかけつちやつてまあだ行逢えきやえもしねえから、どうするつちんだか分わかんねえが、どうせ甘うめえ面付つらつきもしちや居えらんめえな、此こんで怪我けがなんぞさせてえゝ心持こゝろもちぢやあんめえな、さうぢやねえけ」

勘次はだんだん勢いがついて言った。

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勘次かんじはだん/\勢いきほひがついていつた。

「そんじゃ話はどういう形にでもしておかなくちゃ仕方があるまいな。おれがまあ話はしてみるから。どっちがどうのこうのと言ったって仕方がないし、まさかお前、手を出したのは爺さんだと言ったって、親のことを謝れということも言えないから、何気なしのことにして押しつけようじゃないか、なあ」

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「そんぢや噺はなしはどうゆ姿なりにもして置おかなくつちやしやうあんめえな、俺おれまあ噺はなしはして見みつから、どつちがどうのかうのつちつたつて仕しやうねえし、まさかおめえ手越てごししたな爺樣ぢさまだつちつたつて、親おやのこと謝罪あやまれつちことも云ゆはんねえから何氣なにげなしのことにして押おつゝけべぢやねえか、なあ」

南の亭主はそう言って、卯平の狭い戸口に立っていた。

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南みなみの亭主ていしゆはさういつて卯平うへいの狹せまい戸口とぐちに立たつて居ゐた。

「こっちのおとっつあん、わしもこれ、変な話だが、勘次さんに頼まれたような形でまあ来たんだがね。昨日の日暮れとかにそれ、あれこれあったということだったっけが、勘次さんもそんなに悪い心持ちで言ったんでもない塩梅だし、まあ手をついて謝らせるの何のということでなく、これはその場限りとして仲良くやってもらいたいんだが、どうしたもんだろうね。腹を立たせるのはこれは悪いかも知れないが、親子となっていてこれ、ちっとのことで後で考えてみちゃつまらないもんだから。なあ、こっちのおとっつあん」

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「こつちのおとつゝあん、わしも此これ變へんな噺はなしだが勘次かんじさんに頼たのまれたやうな形かたちでまあ來きたんだがね、昨日きのふの日暮ひくれとかにそれ、そつちこつち仕したつちことだつけが、勘次かんじさんもそんなに惡わりい心持こゝろもちで云ゆつたんでもねえ鹽梅あんべえだし、まあ手てえついて謝罪あやまらせんの何なんだのつちことでなく、此こら其その場ば限かぎりとして仲善なかよくやつて貰もれえてえんだがどうしたもんだんべね、腹はらあ立たたせんなこら惡わりいかも知しんねえが、親子おやこと成なつてゝ此これ、ちつとのことで後あとで考かんげへて見みちやつまんねえもんだから、なあこつちのおとつゝあん」

仲裁者は柔らかに、そうしてしかもいやとは言われないように打ち解けて突っ込んだ。

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仲裁者ちうさいしやは軟やはらかにさうして然しかも厭いやといはれぬやうに打うち解とけて突つつ込こんだ。

「なあに、おれはどうもこうもないんだが、あの野郎めはもう、何じゃない、おれのことが邪魔なんだから。おれはおれだと思ってるから構やしないが、おれに食わせる物が惜しくて仕方がないんだから。おれが家の物を一粒でも減らさないように外に行ってりゃいいんだろうが。おれがそれから、おれのことがそんなにいやなら、自分でどこへでも失せたほうがいい。いやなら後から来た者が出ろという気なんだから」

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「なあに俺おらあどうもかうもねえんだが、彼あの野郎奴やらうめはあ、何なんぢやねえ、俺おれこと邪魔じやまなんだから、俺おらあ俺おれだと思おもつてつから管かまやしねえが、俺おれげ食くはせる物もの惜をしくつて仕しやうねえんだから、俺おれ家うちの物もの一粒ひとつぶでも減へらさねえやうに外ほかに行いつてりやえゝんだんべが、俺おれえそれから、俺おれことさうだに厭やなんだら自分じぶんで何處どこさでもけつかつた方はうがえゝ、厭やだら後あとから來きた者もの出でろつち氣きなんだから」

卯平はくわえた煙管を少し震える手に持って、途切れながらようやくこれだけ言った。

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卯平うへいは銜くはへた煙管きせるを少すこし顫ふるへる手てに持もつて途切とぎれながら漸やうやく此これだけいつた。

「そりゃ、こっちのおとっつあん、そうだがな。さっきも言うとおり腹も立とうが、親子となってみりゃこれ、いいこともあるもんだからなあ。そう言わないでそれ、わしに任せて承知しなさいね」

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「そりちこつちのおとつゝあんさうだがな、先刻さつきもいふ通とほり腹はらも立たつべえが親子おやことなつて見みりや此これ、えゝことも有あるもんだからなあ、さう云ゆはねえでそれ、わしげ任まかせて不承ふしようしさつせえね」

南の亭主はただ繰り返して言った。

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南みなみの亭主ていしゆは只たゞ反覆くりかへしていつた。

「こういうことはこれ、黙ってりゃ隣近所でも分からないもんだが、勘次らはもういい加減長く味噌さえなくしておくんだから、一杓子もありやしないんだ。去年の暮れには味噌を搗くというんで、おれが働いた銭で塩まで買ったんだな。おれも硬い物は噛めないから、味噌がなくちゃ仕方がないな。おれは若いころから味噌は好きで、味噌がなくちゃなんぼにも体に力がつかなくて困り困りしたんだから。麦麹は塩まで切ってあるんだから、豆さえ煮ればすぐなのに。それが今になったって搗くわけじゃなし、何でもおれが死ねばいいくらいにして待ってるんだろうが。これ、味噌なんざ搗いたからってそうすぐに手をつけられるもんじゃなし、おれは明日が日にも死ぬかどうだか分かりやしないが、そんでも自分の見てる所で搗きさえすりゃ、明日死ぬにしたって心持ちはいいから」

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「斯かうだこた此これ、默だまつてりや隣近所となりきんじよでも分わかんねえもんだが勘次等かんじらえゝ暫しばらく味噌みそせえ無なくして置おくんだから、一杓子ひとつちやくしも有ありやしねえんだ。去年きよねんの暮くれにや味噌みそ搗つくつちんで俺おら働はたれえた錢ぜねで鹽しほ迄まで買かつたんだな、俺おれも硬こええ物もな噛かめねえから味噌みそなくつちや仕しやうねえな、俺おら壯さかりの頃ころつから味噌みそは好すきで味噌みそなくつちやなんぼにも身體からだに力ちからつかねえで困こまり/\したんだから、麥麹むぎつかうぢは鹽しほまで切きつて有あんだから豆まめせえ煮にりや直ぢきなのに、それ今いまんなつたつて搗つくべぢやなし、なんでも俺おれ死しねばえゝ位ぐれえにして待まつてんだんべが、此これ、味噌みそなんざ搗ついたからつてさう直すぐに手てえつけらつるもんぢやなし、俺おら明日あすが日ひにも死しぬかどうだか分わかりやしねえが、そんでも自分じぶんの見みてつ處ところで搗つきせえすりや明日あした死しぬにしたつて心持こゝろもちやえゝから」

卯平は独り呟くようにして、それから

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卯平うへいは獨ひとり呟つぶやくやうにしてそれから

「あの時搗きさえすりゃ、今ごろは食えば食えるのに」

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「あん時とき搗つきせえすりや今頃いまごら食くへば食くへんのに」

と、彼はその癖の舌を鳴らした。

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と彼かれは其その癖くせの舌したを鳴ならした。

「おれは少し忌々しいから打っ飛ばしてやったに」

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「俺おれ小忌々敷こえめえましいから打ぶつ飛とばしてやつたに」

卯平はしばらく置いて、また少し声に力を入れて言った。

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卯平うへいは暫しばらく措おいて又また少すこし聲こゑに力ちからを入いれていつた。

「そうかね。おれはそんなことは知らなかったっけが。そういうことは、いくら懇意だ近所だと言ったって、いちいち他人の飯台まで蓋を取っちゃ見られないから、おれも知らないでいたな。そんじゃそりゃまあ、味噌でも何でもそういう理由じゃ、こっちのおとっつあんの好きなように搗かせることにしてな。大豆はそれ、穫れたしするから、やるつもりにさえなれば訳のない話だな。そうして、こっちのおとっつあん、胸を撫でなさい。おれは悪いことは言わないから。なあ、こっちのおとっつあん、あっちだこっちだやっちゃ、誰よりも子供らが可哀想だから。それに、同じもんじゃ東の旦那らの耳へは入れたくないから、そうしなさいよなあ」

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「さうかね、俺おらそんなこた知しらなかつたつけが、さうえこた幾いくら懇意こんいだ近所きんじよだつちつたつて一々いち/\他人ひとの飯臺はんだいまで蓋ふたとつちや見みられねえから俺おらも知しらねえでたな、そんぢやそらまあ、味噌みそでも何なんでもさうえ理由わけぢやこつちのおとつゝあん好すきなやうに搗つかせることにしてな、大豆でえづはそれとつたしすつから行やる積つもりにせえなりや譯わけねえ噺はなしだな、さうしてこつちのおとつゝあん胸むね撫なでさつせえ、俺おれ惡わりいこた云ゆはねえから、なあこつちのおとつゝあん、そつちだこつちだやつちや誰だれよりも子奴等こめら可哀想かあいさうだから、それに同おなじもんぢや東ひがしの旦那等だんならが耳みゝへは入いれたくねえから、さうしさつせえよなあ」

南の亭主はそう言って、心ではだんだんに尻込みするのであった。

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南みなみの亭主ていしゆはさういつて心こゝろでは段々だん/\に臀しりごみするのであつた。

卯平は再び煙管を口にして沈黙した。

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卯平うへいは再ふたゝび煙管きせるを口くちにして沈默ちんもくした。

南の亭主は、勘次を卯平の狭い戸口に導いた。

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南みなみの亭主ていしゆは勘次かんじを卯平うへいの狹せまい戸口とぐちに導みちびいた。

勘次はふだんならば、自分の心からけっして形式的な和睦を望まなかったはずである。

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勘次かんじは平常いつもならば自分じぶんの心こゝろから決けつして形式的けいしきてきな和睦わぼくを希望きばうしなかつた筈はずである。

彼は反目しているだけならば、久しく慣れていた。

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彼かれは反目はんもくして居ゐるだけならば久ひさしく馴なれて居ゐた。

しかし彼は、これまでかつてなかった卯平の行為に初めて恐怖心を抱いたのであった。

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然しかし彼かれは從來じゆうらい嘗かつてなかつた卯平うへいの行爲かうゐに始はじめて恐怖心きようふしんを懷いだいたのであつた。

「そんじゃね、おとっつあん、お互いにこう根に持たないことにしてね。勘次さん、お前も忙しくて手をつけないでいたかも知れないが、麹も塩まで切ってあるというんだから、後は豆を煮るだけのことだし、味噌は搗くことにしてな。こういい塩梅にしてくれなさいね。さっきも言うとおり、あっちだこっちだないようにしなくちゃね、こっちのおとっつあん」

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「そんぢやねえおとつゝあん、お互たげえに斯かう根ねに持もたねえことにしてね、勘次かんじさんおめえも忙いそがしくつて手てえつけねえでたかも知しんねえが、麹かうぢも鹽しほまで切きつて有あるつちんだから、後あとは豆まめ煑にるだけのことだし、味噌みそは搗つくことにしてな、斯かうえゝ鹽梅あんべえにしてくれさつせえね、先刻さつきもいふ通とほりそつちだこつちだねえやうにしなくちやねえ、こつちのおとつゝあん」

南の亭主は二人を見比べるようにして言った。

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南みなみの亭主ていしゆは二人ふたりを見較みくらべるやうにしていつた。

勘次は卯平の前へ出ては、ただ首をうなだれた。

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勘次かんじは卯平うへいの前まへへ出でては只たゞ首くびを俛うなだれた。

卯平はじっと横を向いて、勘次をちらりとも見なかった。

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卯平うへいは凝然ぢつと横よこを向むいて勘次かんじをちらりとも見みなかつた。

彼はこれまでとは様子がいくらか違っていた。

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彼かれは從來これまでとは容子ようすが幾分いくぶん違ちがつて居ゐた。

彼はその癖の舌を鳴らしていたが

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彼かれは其その癖くせの舌したを鳴ならして居ゐたが

「畜生め」

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「畜生奴ちきしやうめ」

と、ただ一言言った。

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と只たゞ一言ひとこといつた。

そうしてまたしばらく間を置いて

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さうして又また暫しばらく間あひだを措おいて

「畜生と言われるのが口惜しけりゃ、口惜しいと言ってみたほうがいい。元はと言えば、てめえが手出しをするのが悪いんだから」

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「畜生ちきしやうつちはれんの口惜くやしけりや、口惜くやしいちつて見みた方はうがえゝ、原因もとはつちへば己奴うのが手出てだしすんのが惡わりいんだから」

と低く、しかも鋭く彼は呟いて、芒で裂いたように口をぎっと閉じてしまった。

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と低ひくく然しかも鋭するどく彼かれは呟つぶやいて、芒すゝきで裂さいたやうに口くちをぎつと閉とぢて畢しまつた。

勘次は刈られた草のごとくしょんぼりとした。

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勘次かんじは刈かられた草くさの如ごとく悄然せうぜんとした。

「こっちのおとっつあん、そんじゃ仕方がないよ。さっきもおれがそっちから承知してくれと固く言ったんだったな。そんじゃおれも困るから、そこはお互いにこう、物は言わないことにしてやってくれなくちゃなあ」

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「こつちのおとつゝあん、そんぢや仕しやうねえよ、先刻さつきも俺おれそつから不承ふしようしてくろうつて堅かたしく云ゆつたんだつけな、そんぢや俺おれも困こまつから其處そこはお互たげえにかう物ものは云ゆはねえことにしてやつてくんなくつちやなあ」

と南の亭主は、いったん橋渡しをすれば後は再びどうなろうとも、それはまたその時だという心から、そこはいい加減に繕って逃げるように帰った。

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と南みなみの亭主ていしゆは一旦たん橋渡はしわたしをすれば後あとは再ふたゝびどうならうともそれは又また其その時ときだといふ心こゝろから其處そこは加いい加減かげんに繕つくろうて遁にげるやうに歸かへつた。

彼はどちらからも依頼された仲裁人ではなかった。

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彼かれはどちらからも依頼いらいされた仲裁人ちうさいにんではなかつた。

彼らは次第に家族の間の、ことに夫婦の争いに深入りして、かえって双方から恨まれるような損な立場にはまった経験があるので、壊れた茶碗をそっと合わせるだけの手数で、巧みに身を引く方法と機会とを知っていた。

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彼等かれらは漸次しば/\家族かぞくの間あひだの殊ことに夫婦ふうふの爭あらそひに深入ふかいりして却かへつて雙方さうはうから恨うらまれるやうな損そんな立場たちばに嵌はまつた經驗けいけんがあるので、壞こはれた茶碗ちやわんをそつと合あはせるだけの手數てすうで巧たくみに身みを引ひく方法はうはふと機會きくわいとを知しつて居ゐた。

黄昏が彼にその機会を与えた。

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黄昏たそがれが彼かれに其その機會きくわいを與あたへた。

勘次は彼の軽い傷を、たとえ表面だけでもいいから思い切って重く見て、そうして彼に同情の言葉を惜しまない者を求めたが、彼には少しでもその顛末を聞いてくれるべき者は、医者と南の亭主とよりほかはなかった。

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勘次かんじは彼かれの輕微けいびな瘡痍きずを假令たとひ表面へうめんだけでも好いいから思おもひ切きつて重おもく見みてさうして彼かれに同情どうじやうの言葉ことばを惜をしまないものを求もとめたが、彼かれには些少すこしでも其その顛末てんまつを聞きいてくれべきものは醫者いしやと南みなみの亭主ていしゆとより外ほかはなかつた。

しかしあまりによく傷そのものの性質を見分けた医者は、彼にそのはかない心を訴える余裕を与えずに、彼を頭から圧するようにからかった。

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然しかし餘あまりに能よく瘡痍きず其その物ものの性質せいしつを識別しきべつした醫者いしやは、彼かれに其その果敢はかない心こゝろを訴うつたへる餘裕よゆうを與あたへずに彼かれを頭あたまから壓おさへる樣やうに揶揄からかうた。

彼はそこに何物をも得ないで、逃げるように珊瑚樹の木陰を出た。

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彼かれは其處そこに何物なにものをも得えないで遁にげるやうに珊瑚樹さんごじゆの木蔭こかげを出でた。

南の亭主も、ことさらに彼に同情して慰めの言葉を惜しまないほどその心が動かされなかったのみでなく、彼はむしろ仲裁者の地位に立たねばならないことにいくらかの迷惑を感じた。

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南みなみの亭主ていしゆも殊更ことさらに彼かれに同情どうじやうして慰藉ゐしやの言辭ことばを惜をしまぬ程ほど其その心こゝろが動うごかされなかつたのみでなく、彼かれは寧むしろ仲裁者ちうさいしやの地位ちゐに立たたねば成ならぬことに幾分いくぶんの迷惑めいわくを感かんじた。

勘次はけっして仲裁を依頼しなかった。

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勘次かんじは決けつして仲裁ちうさいを依頼いらいしなかつた。

彼はただ、自分の調子に乗って話をしてくれることに満足を求めようとしたのみであった。

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彼かれは只たゞ自分じぶんの調子てうしに乘のつて噺はなしをしてくれることに滿足まんぞくを求もとめようとしたのみであつた。

しかしそれはことごとく徒労であった。

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然しかしそれは悉こと/″\く徒勞むだであつた。

勘次は羞恥と恐怖と憤懣との情を沸かしたが、それでも薄弱な彼は、それをひがんだ目に表して、会う人ごとに同情してくれと強いるかのごとく見えるのみであった。

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勘次かんじは羞恥しうちと恐怖きようふと憤懣ふんまんとの情じやうを沸わかしたが夫それでも薄弱はくじやくな彼かれは、それを僻ひがんだ目めに表現へうげんして逢あふ人ひと毎ごとに同情どうじやうしてくれと強しふるが如ごとく見みえるのみであつた。

百姓のすべては、彼の心を推測するほど鋭敏な目を持っていなかった。

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百姓ひやくしやうの凡すべては彼かれの心こゝろを推測すゐそくする程ほど鋭敏えいびんな目めを有もつて居ゐなかつた。

彼は自棄にわざと包帯の手を抱いて、数日間ぶらぶらと遊んでいた。

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彼かれは自棄やけに態わざと繃帶ほうたいの手てを抱だいて數日間すうじつかんぶら/\と遊あそんで居ゐた。

忙しい麦蒔きの季節が迫って、百姓はことごとく畑へ出ているので、昼間は彼の相手になる者がなかったのみでなく、今に働かずにはいられないからと陰で冷笑を浴びせているのであった。

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忙いそがしい麥蒔むぎまきの季節きせつが迫せまつて百姓ひやくしやうは悉こと/″\く畑はたけへ出でて居ゐるので晝間ひるまは彼かれの相手あひてになるものがなかつたのみでなく、今いまに働はたらかずには居をられぬからと陰かげで冷笑れいせうを浴あびせて居ゐるのであつた。

この季節を空しく費やすことが一日でも非常な損失であるという、分かりやすい利害の計算から、彼はとうとう打ち負かされて、また一所懸命に労働に従事した。

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此この季節きせつを空むねしく費つひやすことが一日にちでも非常ひじやうな損失そんしつであるといふ見易みやすい利害りがいの打算ださんから彼かれは到頭たうとう打うち負まかされて復また一所懸命しよけんめいに勞働らうどうに從事じうじした。

彼はもう卯平と一言も口を利かなくなった。

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彼かれはもう卯平うへいと一言ひとことも口くちを利きかなくなつた。

無口なむっつりとした卯平は、もとより勘次を顧みようともしなかった。

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寡言むくちなむつゝりとした卯平うへいは固もとより勘次かんじを顧かへりみようともしなかつた。

おつぎはそれを心に苦しんで見たが、それは到底及ばないことであった。

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おつぎはそれを心こゝろに苦くるしんで見みたがそれは到底たうてい及およばぬことであつた。

村の内には、卯平との衝突がぱっとまた広まった。

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村落むらの内うちには卯平うへいとの衝突しようとつがぱつと又また傳播でんぱされた。

しかしそれは、分別ある壮年の間でのみ解釈され記憶された。

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然しかしそれは分別ふんべつある壯年さうねんの間あひだにのみ解釋かいしやくし記憶きおくされた。

その事件の内容は、勘次のおつぎに対する行為を猜疑と嫉妬との目で臆測をたくましくするようには、興味を彼らに与えなかった。

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其その事件じけんの内容ないようは勘次かんじのおつぎに對たいする行爲かうゐを猜忌さいぎと嫉妬しつととの目めを以もつて臆測おくそくを逞たくましくするやうに興味きようみを彼等かれらに與あたへなかつた。

誰も自分から彼らの間に嘴を挟もうとはしない。

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誰だれも自分じぶんから彼等かれらの間あひだに嘴くちばしを容いれようとはしない。

遠い以前からもつれて来た互いの感情に根ざした事件が、どんなに些細なことであろうとも、けっして快く解決されるはずでないことを知っている人々は、いくら愚かでも自ら好んでその難局に当たろうとはしないのであった。

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遠とほい以前いぜんから紛糾こゞらけて來きた互たがひの感情かんじやうに根ねざした事件じけんがどんな些少させうなことであらうとも、決けつして快こゝろよく解決かいけつされる筈はずでないことを知しつて居ゐる人々ひとびとは幾いくら愚おろかでも自みづから好このんで其その難局なんきよくに當あたらうとはしないのであつた。

二二

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二二

夜明けの光はまだ行き渡らない。

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拂曉よあけの光ひかりはまだ行ゆき渡わたらぬ。

薄い蒲団にくるまっている百姓らの肌には寒気がしみじみと透って、眠りに落ちていながら、すべてが顎を覆うまでは無意識に蒲団の端を引いて、もじもじと動くころであった。

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薄うすい蒲團ふとんにくるまつて居ゐる百姓等ひやくしやうらの肌膚はだには寒冷かんれいの氣きがしみ/″\と透とほつて、睡眠ねむりに落おちて居ゐながら、凡すべてが顎あごを掩おほふまでは無意識むいしきに蒲團ふとんの端はしを引ひいてもぢ/\と動うごく頃ころであつた。

かんかんと凍って鳴る鉦の音が、沈んだ村の空気に響き渡った。

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かん/\と凍こほつて鳴なる鉦かねの音ねが沈しづんだ村落むらの空氣くうきに響ひゞき渡わたつた。

希望と楽しみとにそそのかされて待っていた老人らは皆、その左の手に提げて撞木で叩いている鉦の響きを、後れるな急げ急げと耳に聞いた。

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希望きばうと娯樂ごらくとに唆そゝのかされて待まつて居ゐた老人等としよりらは悉皆みんな、其その左ひだりの手てに提さげて撞木しゆもくで叩たゝいて居ゐる鉦かねの響ひびきを後おくれるな急いそげ/\と耳みゝに聞きいた。

老人はどこの家からも一斉に念仏寮を指して集まった。

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老人としよりは何處どこの家うちからも一齊もいに念佛寮ねんぶつれうを指さして集あつまつた。

彼らはいずれも、まだぐっすりと眠っている家族の者にはそっと支度をして、動けないほど褞袍を重ねて節度なく紐を締めて、表の戸を開けるとひやりとする明け方近い外気に白い息を吹きながら、大きな塊が転がって行くようにその姿を運んだ。

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彼等かれらは孰いづれも、まだぐつすりと眠ねむつて居ゐる家族かぞくの者ものには竊そつと支度したくをして、動うごけぬ程ほど褞袍どてらを襲かさねて節制だらしなく紐ひもを締しめて、表おもての戸とを開あけるとひやりとする曉あけ近ちかい外氣ぐわいきに白しろい息いきを吹ふきながら、大おほきな塊かたまりが轉ころがつて行ゆくやうに其その姿すがたを運はこんだ。

彼らは外の壁際からそだの一把を持って行く者もあった。

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彼等かれらは外そとの壁際かべぎはから麁朶そだの一把はを持もつて行ゆく者ものも有あつた。

旧暦の二月の半ばになると、例年のごとく念仏の集まりがあるのである。

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舊暦きうれきの二月ぐわつの半なかばに成なると例年れいねんの如ごとく念佛ねんぶつの集あつまりが有あるのである。

彼らはそれが日輪に対する報謝を意味しているので、お天念仏と言っている。

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彼等かれらはそれが日輪にちりんに對たいする報謝はうしやを意味いみして居ゐるのでお天念佛てんねんぶつというて居ゐる。

彼らの口から、そうして村の一般から訛って「おで念仏」

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彼等かれらの口くちからさうして村落むらの一般ぱんから訛なまつて「おで念佛ねんぶつ」

と呼ばれた。

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と喚よばれた。

先駆けの光が各自の顔をほの明るくして、日が地平線上にその輪郭の一端を現そうとする時間を誤らずに、彼らは揃って念仏を唱えるはずなので、まだすべてが夜の眠りから離れないうちに、皆ことごとく口をすすいで待っていなければならないのである。

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先驅さきがけの光ひかりが各自てんでの顏かほを微明ほのあかるくして日ひが地平線上ちへいせんじやうに其その輪郭りんくわくの一端たんを現あらはさうとする時間じかんを誤あやまらずに彼等かれらは揃そろつて念佛ねんぶつを唱となへる筈はずなので、まだ凡すべてが夜よの眠ねむりから離はなれぬ内うちに皆悉みんな口くちを嗽すゝいで待まつて居ゐねばならぬのである。

念仏衆の内には、選ばれて法願と呼ばれている二人ばかりの爺さんが、難しくもない万事の世話をした。

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念佛衆ねんぶつしうの内うちには選えらばれて法願ほふぐわんと喚よばれて居ゐる二人ふたりばかりの爺ぢいさんが、難むづかしくもない萬事ばんじの世話せわをした。

法願は凍りそうな手に鉦を提げて、ちらほらと大きな塊のような姿が動いて来るまでは、力の限り辻に立ってかんかんと叩くのである。

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法願ほうぐわんは凍こほり相さうな手てに鉦かねを提さげてちらほらと大おほきな塊かたまりのやうな姿すがたが動うごいて來くるまでは力ちからの限かぎり辻つじに立たつてかん/\と叩たゝくのである。

念仏寮の雨戸はがらんと開け放たれて、ことさらに身にしみる寒さに、囲炉裏にはそだの火が炎を立てた。

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念佛寮ねんぶつれうの雨戸あまどは空洞からりと開あけ放はなたれて、殊更ことさらに身みに沁しむ寒さむさに圍爐裏ゐろりには麁朶そだの火ひが焔ほのほを立たてた。

蔓のある煤けた鉄瓶が自在鉤から低く垂れて、炎を尻で抑えた。

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蔓つるのある煤すゝけた鐵瓶てつびんが自在鍵じざいかぎから低ひくく垂たれて焔ほのほを臀しりで抑おさへた。

ぐるりと囲んだ老人の不格好な姿を、火ははっきりと見せた。

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ぐるりと圍かこんだ老人としよりの不恰好ぶかくかうな姿すがたを火ひは明瞭はつきりと見みせた。

やがて二番鶏が遠く近く鳴いて、時間が来た。

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軈やがて二番ばん雞どりが遠とほく近ちかく鳴ないて時間じかんが來きた。

法願は敷居のそばに太鼓を据えて、その後ろへだんだんと一同が座って、一斉に声を合わせた。

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法願ほふぐわんは閾しきゐの側そばに太鼓たいこを据すゑて、其その後うしろへ段々だん/\と一同どうが坐すわつて一齊せいに聲こゑを合あはせた。

横に据えた太鼓を両手に持った二本の撥が、両方から交互に打って、悠長な鈍い響きを立てた。

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横よこに据すゑた太鼓たいこを兩手りやうてに持もつた二本ほんの撥ばちが兩方りやうはうから交互かうごに打うつて悠長いうちやうな鈍にぶい響ひゞきを立たてた。

撥に合わせる一同の声は、しなびて痩せた喉から出る濁った声であった。

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撥ばちに合あはせる一同どうの聲こゑは皺しなびて痩やせた喉のどから出でる濁にごつた聲こゑであつた。

雑然としたその声が、波のごとく沈んでまた起こった。

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雜然ざつぜんたる其その聲こゑが波なみの如ごとく沈しづんで復また起おこつた。

太鼓の撥は強く打ち軽く打ち、さらに赤く塗った胴をそっと打って、そうしてまただらりだらりと強く軽く打つことを繰り返した。

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太鼓たいこの撥ばちは強つよく打うち輕かるく打うち、更さらに赤あかく塗ぬつた胴どうをそつと打うつて、さうして又まただらり/\と強つよく輕かるく打うつことを反覆はんぷくした。

念仏が終わるまでには、だんだんと遠い近い木立の輪郭がくっきりとして、青い蜜柑の皮が日に当たった部分から少しずつ彩られて行くように、東の空が薄く黄色に染まって、だんだんにそれが濃くなって、そうして寒さのうちにもほっかりと暖かみを持ったように明るくなった。

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念佛ねんぶつが畢をはるまでには段々だん/\と遠とほい近ちかい木立こだちの輪郭りんくわくがくつきりとして青あをい蜜柑みかんの皮かはが日ひに當あたつた部分ぶぶんから少すこしづゝ彩いろどられて行ゆくやうに東ひがしの空そらが薄うすく黄色きいろに染そまつて段々だん/\にそれが濃こく成なつて、さうして寒冷ひやゝかなうちにもほつかりと暖味あたゝかみを持もつたやうに明あかるく成なつた。

念仏の濁った声も明るく響いた。

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念佛ねんぶつの濁にごつた聲こゑも明あかるく響ひゞいた。

地上を覆った霜がめっきりと白く見えて、寮の庭に立てられた天棚の飾りの赤や青の紙がはっきりとして来た。

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地上ちじやうを掩おほうた霜しもが滅切めつきりと白しろく見みえて寮れうの庭にはに立たてられた天棚てんだなの粧飾かざりの赤あかや青あをの紙かみが明瞭はつきりとして來きた。

中心に一本の青竹が立てられて、その先端は青と赤と黄との重ねた色紙で包んである。

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中心ちうしんに一本ぽんの青竹あをだけが立たてられて其その先端せんたんは青あをと赤あかと黄きとの襲かさねた色紙いろがみで包つゝんである。

その周囲には、これも四本の青竹が立てられて、それには縄が張ってある。

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其その周圍しうゐには此これも四本ほんの青竹あをだけが立たてられてそれには繩なはが張はつてある。

縄には注連のように刻んだ、その赤や青や黄の紙がいっぱいにひらひらと吊られてある。

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繩なはには注連しめのやうに刻きざんだ其その赤あかや青あをや黄きの紙かみが一杯ぱいにひら/\と吊つられてある。

彼らは昨日のうちに一切の飾りをして、鶏の鳴くのを待ったのである。

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彼等かれらは昨日きのふの内うちに一切さいの粧飾かざりをして雞にはとりの鳴なくのを待まつたのである。

その天棚は、以前は立派な木の柱を、ちょうど小さな家の棟上げでもしたような形に組まれたのであった。

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其その天棚てんだなは以前もとは立派りつぱな木きの柱はしらを丁度ちやうど小ちひさな家いへの棟上むねあげでもしたやうな形かたちに組くまれたのであつた。

今ではそれがなくなったというのは、一度この地を襲った暴風のために、厚い草葺きの念仏寮はごしゃりと潰された。

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現今いまではそれが無なく成なつたといふのは、一度ど此この地ちを襲おそうた暴風ばうふうの爲ために、厚あつい草葺くさぶきの念佛寮ねんぶつれうはごつしやりと潰つぶされた。

その時は多くの民家がなおかつ非常な惨害を被って、村のすべては自分の凌ぎがやっとのことであったので、ほとんど無用である寮の再建を顧みる者はなかった。

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其その時ときは幾多いくたの民家みんかが猶且やつぱり非常ひじやうな慘害さんがいを蒙かうむつて、村落むらの凡すべては自分じぶんの凌しのぎが漸やつとのことであつたので、殆ほとんど無用むようである寮れうの再建さいこんを顧かへりみるものはなかつた。

そうしている間に、他人の林に鉈を入れなければ薪が得られない貧乏な百姓らが、こそこそと寮の木材を引いた。

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さういふ間あひだに他人たにんの林はやしに鉈なたを入いれねば薪たきゞが獲えられぬ貧乏びんばふな百姓等ひやくしやうらがこそ/\と寮れうの木材もくざいを引ひいた。

やっとのことで今の寮が以前の幾分の一の大きさに再建されるまでには、その棚も無残な鋸の歯に掛かっていたのである。

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漸やつとのことで現今いまの寮れうが以前いぜんの幾分いくぶんの一の大おほきさに再建さいこんされるまでには其その棚たなも無残むざんな鋸のこぎりの齒はに掛かゝつて居ゐたのである。

それでも、老人らは念仏の復活したことに十分の感謝と満足とを持った。

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それでも、老人等としよりらは念佛ねんぶつの復活ふくくわつしたことに十分ぶんの感謝かんしやと滿足まんぞくとを有もつた。

彼らはそこに、老後における無上の楽しみと慰めとを見出しつつあるのである。

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彼等かれらはそこに老後らうごに於おける無上むじやうの娯樂ごらくと慰藉ゐしやとを發見はつけんしつゝあるのである。

太鼓が撥とともにぽつりと置かれて、すっかり窮屈な囲炉裏の辺りに集まった。

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太鼓たいこが撥ばちと共ともにぽつさりと置おかれて悉皆みんな窮屈きうくつな圍爐裏ゐろりの邊あたりに聚あつまつた。

寮の内も明るくなって、立ち昇る炎の光がやや消されて来た。

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寮れうの内うちも明あかるく成なつて立たち騰のぼる焔ほのほの光ひかりが稍やゝ消けされて來きた。

近所の百姓が雨戸を開ける音が、性急にがたぴしと聞こえた。

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近所きんじよの百姓ひやくしやうの雨戸あまどを開あける音おとが性急せいきふにがたぴしと聞きこえた。

庭へ下りた鶏が、あくびでもするように体を反らしながら、うっかりしていてまだ鳴き足りなかったという様子をして、喉の痛いほど鳴くのが聞こえた。

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庭にはへおりた雞にはとりが欠伸あくびでもするやうに身體からだを反そらしながら、放心うつかりして居ゐてまだ鳴なき足たらなかつたといふ容子ようすをして喉のどの痛いたい程ほど鳴なくのが聞きこえた。

どこの家にも、青い煙がひさしを這って昇った。

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何處どこの家いへにも青あをい煙けぶりが廂ひさしを偃はうて騰のぼつた。

老人らはひとまず自分の家に帰った。

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老人等としよりらは一先ひとまづ自分じぶんの家いへに歸かへつた。

卯平も、隣の森の影がいっぱいに覆っている狭い庭に立った時は、勘次はおつぎを連れて開墾地へ出た後であった。

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卯平うへいも隣となりの森もりの陰翳かげが一杯ぱいに掩おほうて居ゐる狹せまい庭にはに立たつた時ときは、勘次かんじはおつぎを連つれて開墾地かいこんちへ出でた後あとであつた。

卯平は庭に立ったまま、空っぽになって、そうして雨戸が閉ざしてある勘次の家をじっと見た。

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卯平うへいは庭にはに立たつた儘まゝ、空虚からになつてさうして雨戸あまどが閉とざしてある勘次かんじの家いへを凝然ぢつと見みた。

家はやつれている。

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家いへは窶やつれて居ゐる。

しかしながら、たとえどうであっても話し声が聞こえて青い煙が立っていれば、わずかでも血が巡っているもののように生きて見えるのであるが、静まり返って人気のなくなった時は、荒れつつあるその建物のどこにも生命が保たれているとは見られないほど悲しげであった。

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然しかしながら假令たとひどうでも噺聲はなしごゑが聞きこえて青あをい煙けぶりが立たつて居ゐれば、僅わづかでも血ちが循環めぐつて居ゐるものゝやうに活いきて見みえるのであるが、靜寂ひつそりと人氣ひとけのなくなつた時ときは頽廢たいはいしつゝある其その建物たてものの何處どこにも生命いのちが保たもたれて居ゐるとは見みられぬ程ほど悲かなしげであつた。

卯平が薄暗い庭の霜に下駄の跡をつけて出てから間もなく、勘次は布団を蹴って竈に火を点けた。

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卯平うへいが薄闇うすぐらい庭にはの霜しもに下駄げたの趾あとをつけて出でてから間まもなく勘次かんじは褥しとねを蹴けつて竈かまどに火ひを點つけた。

それからおつぎが朝飯の膳を据えるまでには、勘次はきりりと仕事着に着替えて、寒さに少し震えていた。

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それからおつぎが朝餐あさげの膳ぜんを据すゑる迄までには勘次かんじはきりゝと仕事衣しごとぎに換かへて寒さむさに少すこし顫ふるへて居ゐた。

おつぎも箸を取る時は、股引の端を藁でくくっておいた。

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おつぎも箸はしを執とる時ときは股引もゝひきの端はしを藁わらで括くゝつて置おいた。

勘次は、開墾の土地が年々遠くへ進んで行って、今では例年の面積では広すぎていたことに気づいたので、彼は少しの油断もできなくなった。

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勘次かんじは開墾かいこんの土地とちが年々ねんねん遠とほくへ進すゝんで行いつて、現在いまでは例年いつもの面積めんせきでは廣過ひろすぎて居ゐたことを心こゝろづいたので、彼かれは少すこしの油斷ゆだんも出來できなくなつた。

彼は毎日のようにおつぎを連れて、唐鍬で切り起こした土の塊を万能の背で叩いてはほぐし、平坦にならさせつつあったのである。

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彼かれは毎日まいにちのやうにおつぎを連つれて、唐鍬たうぐはで切きり起おこした土つちの塊かたまりを萬能まんのうの背せで叩たゝいては解ほぐして平坦たひらにならさせつゝあつたのである。

卯平はまず勘次の戸口に近づいた。

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卯平うへいは先まづ勘次かんじの戸口とぐちに近ちかづいた。

表の大戸には錠が下ろしてあった。

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表おもての大戸おほどには錠ぢやうがおろしてあつた。

鍵はもとより勘次の腰を離れないことを知って、卯平は手も掛けてみなかった。

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鍵かぎは固もとより勘次かんじの腰こしを離はなれないことを知しつて卯平うへいは手ても掛かけて見みなかつた。

彼はまた裏戸の口へ行ってみたが、掛け金には栓を差したと見えて動かなかった。

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彼かれは又また裏戸うらどの口くちへ行いつて見みたが、掛金かけがねには栓せんを揷さしたと見みえて動うごかなかつた。

卯平はそれから懐手をしたまま、その癖の舌を鳴らしながら、悠長に自分の狭い戸口に立った。

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卯平うへいはそれから懷手ふところでをした儘まゝ其その癖くせの舌したを鳴ならしながら悠長いうちやうに自分じぶんの狹せまい戸口とぐちに立たつた。

内はただ陰気で、出る時に端をまくった夜具も冷たくなっていた。

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内うちは只たゞ陰氣いんきで出でる時ときに端はしを捲まくつた夜具やぐも冷つめたく成なつて居ゐた。

彼はようやく火鉢にそだをくすべた。

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彼かれは漸やうやく火鉢ひばちに麁朶そだを燻くべた。

彼はそばに重箱と小鍋とが置かれてあるのを見た。

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彼かれは側そばに重箱ぢゆうばこと小鍋こなべとが置おかれてあるのを見みた。

蓋を取ったら、重箱には飯があった。

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蓋ふたをとつたら重箱ぢゆうばこには飯めしがあつた。

蓋の裏には少し湿りを持っていた。

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蓋ふたの裏うらには少すこし濕うるほひを持もつて居ゐた。

その朝、おつぎは知らずに呼んだのであったが、卯平はいなかった。

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其その朝あさおつぎは知しらずに喚よんだのであつたが、卯平うへいは居ゐなかつた。

それでおつぎは出る時、飯と汁とを卯平の小屋へ置いて行ったのである。

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それでおつぎは出でる時とき飯めしと汁しるとを卯平うへいの小屋こやへ置おいて行いつたのである。

卯平はともかく、おつぎに呼ばれて毎朝暖かい飯と熱い汁とに腹をこしらえつつあったのである。

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卯平うへいは兎とに角かくおつぎに喚よばれて毎朝まいあさ暖あたゝかい飯めしと熱あつい汁しるとに腹はらを拵こしらへつゝあつたのである。

彼はその朝は褞袍を着ても、夜のまだ明けないうちからの騒ぎなので、体が冷えていた。

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彼かれは其その朝あさは褞袍どてらを着きても夜よのまだ明あけない内うちからの騷さわぎなので身體からだが冷ひえて居ゐた。

それで彼は、家に帰ったならば汁はどうでも、飯台の中はまだ十分に暖かさを保っているだろうという希望を抱いて、戸の開かないことにまでは思い至らなかった。

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夫それで彼かれは家うちに歸かへつたならば汁しるはどうでも、飯臺はんだいの中なかはまだ十分ぶんに暖氣だんきを保たもつて居ゐるだらうといふ希望きばうを懷いだいて、戸との開あかないことにまでは思おもひ至いたらなかつた。

重箱はもう冷えてしまった。

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重箱ぢゆうばこはもう冷ひえて畢しまつた。

彼は仕方なしに小鍋を火鉢へ掛けた。

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彼かれは仕方しかたなしに小鍋こなべを火鉢ひばちへ掛かけた。

彼はかすかに白い湯気が鍋から立ち始めた時、お玉杓子で掻き立てて吸ってみたが、なおかつ冷たかった。

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彼かれは微かすかに白しろい水蒸氣ゆげが鍋なべから立たち始はじめた時ときお玉杓子たまじやくしで掻かき立たてゝ吸すつて見みたが猶且やつぱり冷つめたかつた。

彼はまた火鉢へそだを足して、重箱の飯を鍋へ入れた。

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彼かれは復また火鉢ひばちへ麁朶そだを足たして重箱ぢゆうばこの飯めしを鍋なべへ入いれた。

火鉢の割合には大きな鍋に頬が触るばかりにして、ふうふうと火を吹いた。

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火鉢ひばちの割合わりあひには大おほきな鍋なべに頬ほゝが觸さはるばかりにしてふう/\と火ひを吹ふいた。

鍋がぐずぐずと濁った音を立てている間、彼はしなびた大きな手を火にかざしながら、目をしかめていた。

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鍋なべのぐず/\と濁にごつた聲こゑを立たてゝ居ゐる間あひだ彼かれは皺しなびた大おほきな手てを火ひに翳かざしながら目めを蹙しかめて居ゐた。

彼はじっと遠くへ自分の心を放ったようにぼうっとしていては、また思い出したようにそだをぽちぽちと折ってくべた。

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彼かれは凝然ぢつと遠とほくへ自分じぶんの心こゝろを放はなつたやうにぽうつとして居ゐては復また思おもひ出だしたやうに麁朶そだをぽち/\と折をつて燻くべた。

彼は例年になく体のやつれが見えた。

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彼かれは例年いつになく身體からだの窶やつれが見みえた。

かさかさと乾いた肌が、一般の老衰者に共通な哀れさを見せているばかりでなく、その大きな体は肉が落ちてげっそりと肩がこけた。

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かさ/\と乾燥かんさうした肌膚はだへが一般ぱんの老衰者らうすゐしやに通有つういうな哀あはれさを見みせて居ゐるばかりでなく、其その大おほきな身體からだは肉にくが落おちてげつそりと肩かたがこけた。

彼は体のやつれを自分でも知った。

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彼かれは身體からだの窶やつれを自分じぶんでも知しつた。

彼はこの一年の間に、持病のリューマチが執念く骨のどこかを蝕みつつあるように感じた。

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彼かれは此この一年ねんの間あひだに持病ぢびやうの僂麻質斯レウマチスが執念しふねく骨ほねの何處どこかを蝕はみつゝあるやうに感かんじた。

暑い季節になれば必ずその勢いを潜めた持病が、彼を忘れて去らなかった。

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暑あつい季節きせつになれば必かならず其その勢いきほひを潜ひそめた持病ぢびやうが彼かれを忘わすれて去さらなかつた。

鍋の中は少しぷんと焦げつく臭いがした。

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鍋なべの中なかは少すこしぷんと焦こげつく臭にほひがした。

彼はお玉杓子で掻き立てた。

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彼かれはお玉杓子たまじやくしで掻かき立たてた。

鍋の底は手を動かすごとに、じりじりと鳴った。

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鍋なべの底そこは手てを動うごかす毎ごとにぢり/\と鳴なつた。

彼はわずかに、熱い雑炊が食道を通過して胃に落ち着く時、ほかりと感じた。

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彼かれは僅わづかに熱あつい雜炊ざふすゐが食道しよくだうを通過つうくわして胃ゐに落おちつく時ときほかりと感かんじた。

そうして箸を置いた後、ようやく体に快い暖かさの加わったことを知った。

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さうして箸はしを措をいた後のち漸やうやく身體からだに快こゝろよい暖氣だんきの加くははつたことを知しつた。

少量の水を注いだ鉄瓶の沸くのを、彼はまたじっと待った。

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少量せうりやうの水みづを注ついだ鐵瓶てつびんの沸わくのを彼かれは復また凝然ぢつとして待まつた。

彼はさっきから、どうかすると手元を探るようにして煙草入れを膝にした。

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彼かれは先刻さつきからどうかすると手てもとを探さぐるやうにして煙草入たばこいれを膝ひざにした。

煙草入れは空であった。

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煙草入たばこいれは虚空からであつた。

彼は自分の体力がめっきりと減って、仕事をするのに手が利かなくなって、小遣い銭の不足を感じた時、自棄になった心から、断然その噛むほど好きな煙草をやめようとした。

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彼かれは自分じぶんの體力たいりよくが滅切めつきりと減へつて仕事しごとをするのに手てが利きかなくなつて、小遣錢こづかひせんの不足ふそくを感かんじた時とき、自棄やけに成なつた心こゝろから斷然だんぜん其その噛かむ程ほど好すきな煙草たばこを廢よさうとした。

彼は悲惨な自分を自分が苛めてやるような心持ちを、一方には持った。

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彼かれは悲慘みじめな自分じぶんを自分じぶんが苛いぢめてやるやうな心持こゝろもちを一方ぱうには有もつた。

一方にはまた、無知な彼らの仲間がよくするように、彼は持病の平癒を仏に祈ったのでもあった。

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一方ぱうには又また無智むちな彼等かれらの伴侶なかまが能よくするやうに彼かれは持病ぢびやうの平癒へいゆを佛ほとけに祈いのつたのでもあつた。

それが明日からという日に、彼はその残った煙草をほとんど一日吸い続けた。

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それが明日あすからといふ日ひに彼かれは其その残のこつた煙草たばこを殆ほとんど一日にち喫すひ續つゞけた。

煙草入れの叺を逆さまにして、爪先でぱたぱたと弾いて、少しの粉でさえ余さなかった。

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煙草入たばこいれの叺かますを倒さかさにして爪先つまさきでぱた/\と彈はじいて少すこしの粉こでさへ餘あまさなかつた。

その後、手についた癖が何かにつけては煙管をつかませるので、やめたことを彼は心に悔いることもあった。

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其その後のち手てについた癖くせが何なにかにつけては煙管きせるを掴つかませるので、止やめたことを彼かれは心こゝろに悔くいることもあつた。

しかし彼はまたすぐに、仏に対しての誓いを破ることに非常な恐怖を抱いた。

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然しかし彼かれは又また直すぐに佛ほとけに對たいしての誓約せいやくを破やぶることに非常ひじやうな恐怖きようふを懷いだいた。

彼はどうしても諦めねばならない心の苦しみを紛らすために、蕗の葉や桑の葉を干して煙管の火皿につめてみたが、どれでも煙草のようにしっとりとした一種の潤いが火の足を引き止めるような力はなくて、一度吸えばすぐに灰になって、ヤニで塞がろうとしている羅宇の隙間を透して煙が口に満ちる時は、つんとしたいやな刺激を鼻に感じるのであった。

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彼かれはどうしても斷念だんねんせねばならぬ心こゝろの苦くるしみを紛まぎらす爲ために蕗ふきの葉はや桑くはの葉はを干ほして煙管きせるの火皿ひざらにつめて見みたが、どれでも煙草たばこのやうにしつとりとした一種しゆの潤うるほひが火ひの足あしを引止ひきとめるやうな力ちからはなくて一度ど吸すへば直すぐに灰はひになつて、煙脂やにで塞ふさがらうとして居ゐる羅宇らうの空隙くうげきを透とほして煙けぶりが口くちに滿みちる時ときはつんとした厭いやな刺戟しげきを鼻はなに感かんずるのであつた。

葡萄の葉を他人に勧められてみたが、これも到底彼の好みを欺くことはできなかった。

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葡萄ぶだうの葉はを他人ひとに勸すゝめられて見みたが、此これも到底たうてい彼かれの嗜好しかうを欺あざむくことは出來できなかつた。

彼は煙管を手にすることが欲を忘れ得る方法でないことを知って、彼はちょうど他人に対するある憤懣の情から、当てつけに自分の愛児をおびただしく打ち据える者のように、羅宇を踏み潰した。

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彼かれは煙管きせるを手てにすることが慾念よくねんを忘わすれ得うる方法はうはふでないことを知しつて、彼かれは丁度ちやうど他人たにんに對たいする或ある憤懣ふんまんの情じやうから當あてつけに自分じぶんの愛兒あいじを夥したゝかに打うち据すゑる者もののやうに羅宇らうを踏ふみ潰つぶした。

しかしそれを誰も見てはいなかった。

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然しかしそれを誰たれも見みては居ゐなかつた。

それでも彼は、空っぽな煙草入れを放すに忍びない心持ちがした。

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それでも彼かれは空虚からな煙草入たばこいれを放はなすに忍しのびない心持こゝろもちがした。

彼はわずかな小遣い銭を入れて、始終腰につけた。

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彼かれは僅わづかな小遣錢こづかひせんを入いれて始終しじう腰こしにつけた。

これも空っぽになってはくたくたとして力のない革の筒には、潰れたままの煙管を差していた。

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此これも空虚からに成なつてはくた/\として力ちからのない革かはの筒つゝには潰つぶれた儘まゝの煙管きせるを揷さして居ゐた。

彼はしばらくそうしていたが、どうかしては忘れて、癖づけられた手先が不用な煙草入れを探らせるのであった。

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彼かれは暫しばらくさうして居ゐたがどうかしては忘わすれて癖くせづけられた手先てさきが不用ふような煙草入たばこいれを探さぐらせるのであつた。

日はようやく庭の霜を溶かして射しかけた。

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日ひは漸やうやく庭にはの霜しもを溶とかして射さし掛かけた。

彼は不快な朝に目をしかめて、またぽつねんと念仏寮へやつれた身を運んだ。

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彼かれは不快ふくわいな朝あさを目めに蹙しかめた復またぽつさりと念佛寮ねんぶつれうへ窶やつれた身みを運はこんだ。

彼は田圃のそばへ下りて小道を行った。

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彼かれは田圃たんぼの側そばへおりて小徑こみちを行いつた。

道筋には所々、離れ離れな家の隙間に小さな麦畑があった。

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道筋みちすぢには處々ところ/″\離はなれ離ばなれな家いへの隙間すきまに小ちひさな麥畑むぎばたけがあつた。

麦畑の畝は、たいがい東西に形づけられてあった。

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麥畑むぎばたけの畝うねは大抵たいてい東西とうざいに形かたちづけられてあつた。

遠くから南へ回ろうとしている日は、思いのほかに暖かい光で一帯に霜を溶かしたので、どこでも水を打ったような湿りを持っていた。

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遠とほくから南みなみへ廻まはらうとして居ゐる日ひは思おもひの外ほかに暖あたゝかい光ひかりで一帶たいに霜しもを溶とかしたので、何處どこでも水みづを打うつたやうな濕うるほひを持もつて居ゐた。

しかし薄い日の光は、畑の畝が形づくっている長い小山の頂点を越えて、いくらもその力を及ぼさなかった。

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然しかし薄うすい日ひの光ひかりは畑はたけの畝うねが形かたちづくつて居ゐる長ながい小山こやまの頂點ちやうてんを越こえて幾いくらも其その力ちからを及およぼさなかつた。

どの畝でも、その陰は依然として白かった。

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どの畝うねでも其その陰かげは依然いぜんとして白しろかつた。

卯平は田圃に沿って北側の道を歩いたので、彼の目にはことごとく夜明けのごとき白い冷たい霜で覆われている畑ばかりが映った。

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卯平うへいは田圃たんぼに從ついて北側きたがはの道みちを歩あるいたので彼かれの目めには悉こと/″\く夜明よあけの如ごとき白しろい冷つめたい霜しもを以もつて掩おほはれて居ゐる畑はたけのみが映うつつた。

午後から村のどの家からも、風呂敷包みの飯つぎや重箱が寮へ運ばれた。

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午後ごごから村落むらのどの家いへからも風呂敷包ふろしきづゝみの飯めしつぎや重箱ぢゆうばこが寮れうへ運はこばれた。

老人らは皆それを、埃だらけな仏壇の前に供えた。

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老人等としよりらは皆みな夫それを埃ほこりだらけな佛壇ぶつだんの前まへに供そなへた。

汚い風呂敷包みが小山のごとく積まれた時、念仏の太鼓がまた鳴った。

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穢きたない風呂敷包ふろしきづゝみが小山こやまの如ごとく積つまれた時とき念佛ねんぶつの太鼓たいこが復また鳴なつた。

それから庭に集まった子供らの前に、その飯つぎや重箱の供物が分け与えられた。

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それから庭にはに聚あつまつた子供等こどもらの前まへに其その飯めしつぎや重箱ぢゆうばこの供物くもつが分與ぶんよされた。

念仏衆はそれからさらに酒を飲んで、各自に重箱や飯つぎを箸でつついて、近ごろにない口腹の欲を満たした。

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念佛衆ねんぶつしゆうはそれから更さらに酒さけを飮のんで各自てんでに重箱ぢゆうばこや飯めしつぎを箸はしでつゝいて近頃ちかごろにない口腹こうふくの慾よくを充みたしめた。

独り卯平は杯を手にしなかった。

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獨ひとり卯平うへいは杯さかづきを手てにしなかつた。

彼は他の老人に先立って、自分の家の重箱を持ってぽさぽさと帰った。

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彼かれは他たの老人としよりに先立さきだつて自分じぶんの家うちの重箱ぢゆうばこを持もつてぽさ/\と歸かへつた。

たいがいの家では米の菱餅を出すのが習わしであるが、勘次にはそういう暇がないので、おつぎはわずかに小豆飯を炊いて重箱を持って行ったのであった。

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大抵たいていの家うちでは米こめの菱餅ひしもちを出だすのが常例じやうれいであるが勘次かんじにはさういふ暇ひまがないのでおつぎは僅わづかに小豆飯あづきめしを炊たいて重箱ぢゆうばこを持もつて行いつたのであつた。

すべての老人がほとんど狂うばかりに騒ぐ二日のその一日が、卯平には不快で、そうして無意味に費やされた。

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凡すべての老人としよりが殆ほとんど狂きやうするばかりに騷さわぐ二日ふつかの其その一日にちが卯平うへいには不快ふくわいでさうして無意味むいみに費つひやされた。

彼は夜になってから

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彼かれは夜よになつてから

「爺さん、今朝のご飯は冷たくなったっけろう。おれが忘れて呼びに行ったのがよ。そうしたら爺さんはとっくにいなかったんだもの。そんでもさっきはがやがや大勢いるようだったっけが、あっちじゃ甘い物があって、爺さんらは取っ返し取ったんだろうなあ」

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「爺ぢい、今朝けさのお飯まんま冷つめたく成なつたつけべ俺おら忘わすれて喚よばりに行えつたのがよ、さうしたら爺ぢいは疾とつくに居えねえのがんだもの、そんでも先刻さつきはがや/\一杯ぺえ居えるやうだつけがあつちぢや甘うめえ物ものあつて爺等ぢいらとつ返けえしとつたんべなあ」

と、おつぎが少し甘えたように言ったことを、彼はさすがに憎いとは思って聞かなかった。

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とおつぎが少すこし甘あまえたやうにいつたことを彼かれは有繋さすがに憎にくいと思おもつては聞きかなかつた。

二三

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二三

念仏は次の日も同じように繰り返された。

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念佛ねんぶつは次つぎの日ひも同一どういつに反覆はんぷくされた。

午後になって、村のどの家からもまた風呂敷包みが運ばれた。

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午後ごごになつて村落むらのどの家いへからも復また風呂敷包ふろしきづゝみが運はこばれた。

子供らは学校から帰って、風呂敷包みを背負ったのも、乳飲み子を帯でくくったのも、たいがいは寮の庭へ集まった。

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子供等こどもらは學校がくかうから歸かへつて風呂數包ふろしきづゝみを脊負しよつたのも、乳呑兒ちのみごを帶おびで括くゝつたのも大抵たいていは寮れうの庭にはへ集あつまつた。

「さあ、そんじゃまた、みんな上がれ」

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「さあそんぢや又また、みんな上あがれ」

と婆さんらが言うと、敷居際に迫って待っていた子供らは争って席を取った。

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と婆ばあさん等らがいふと閾際しきゐぎはに迫せまつて待まつて居ゐた子供等こどもらは爭あらそうて席せきをとつた。

彼らは今日も狭い寮の内側にぎっしりと膝をすぼめて座った。

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彼等かれらは今日けふも狹せまい寮れうの内側うちがはにぎつしりと膝ひざを窄すぼめて坐すわつた。

四、五人の婆さんらは、仏壇の前に積まれてあった風呂敷包みを解きながら、ひそひそとささやいた。

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四五人にんの婆ばあさん等らは佛壇ぶつだんの前まへに積つまれてあつた風呂敷包ふろしきづゝみを解ときながらひそ/″\と耳語さゝやいた。

「これは何だと思ったら、鮨だよ」

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「此こりや何なんだと思おもつたら、鮨すしだよ」

と一人の婆さんが言えば

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と一人ひとりの婆ばあさんがいへば

「そんじゃ、そっちへ別にしておけよ、お前」

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「そんぢや、そつちへ別べつにして置おけよおめえ」

「そんじゃ、こっちのも別にしておこうよ、なあ」

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「そんぢやこつちのがも別べつにして置おくべよ、なあ」

婆さんらはすこぶる慌てたように手元忙しく、三つ四つの風呂敷包みをそっと仏壇へ隠した。

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婆ばあさん等らは頗すこぶる慌あわてたやうに手てもと忙せはしく三つ四つの風呂敷包ふろしきづゝみをそつと佛壇ぶつだんへ隱かくした。

そうしているうちに、他の婆さんらは

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さうして居ゐる内うちに他ほかの婆ばあさん等らは

「みんな、おとなしくしなくちゃ、くれないぞ」

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「みんな、おとなしく仕しなくつちや、呉くんねえぞ」

「そんなに洟を垂らしてる者にはやらないことにしようよ」

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「さうだに洟はな垂たらしてるものげはやんねえことにすべえ」

口々にからかった。

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口々くち/″\に揶揄からかつた。

子供らは一斉に洟をすすって、そうして着物で横に拭った。

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子供等こどもらは一齊せいに洟はなを啜すゝつてさうして衣物きもので横よこに拭ぬぐつた。

白い紙が一枚ずつ、子供らの前に広げられた。

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白しろい紙かみが一枚まいづつ子供等こどもらの前まへに擴ひろげられた。

「子供らのことを言って、手洟なんぞかんだ手じゃ引かないでくれよ。お前らももったいないから」

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「子奴等こめらこと云ゆつて、手洟てばななんぞかんだ手てぢや引ひかねえで呉くろえ、おめえ等らも勿體もつてえねえから」

婆さんらが飯つぎを左の手に抱えて立った時、こう囲炉裏のそばから怒鳴った。

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婆ばあさん等らが飯めしつぎを左ひだりの手てに抱かゝへて立たつた時とき、かう圍爐裏ゐろりの側そばから呶鳴どなつた。

彼は小柄な爺さんで、ちょっと婆さんらを顧みて微笑しながら言ったのである。

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彼かれは小柄こがらな爺ぢいさんで一寸ちよつと婆ばあさん等らを顧かへりみて微笑びせうしながらいつたのである。

彼は喉へ二重にした数珠を巻いていた。

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彼かれは喉のどへ二重ぢゆうにした珠數じゆずを卷まいて居ゐた。

彼の声は恐ろしく大きかった。

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彼かれの聲こゑは恐おそろしく大おほきかつた。

婆さんらは

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婆ばあさん等らは

「はいはい、そんじゃ手でも洗いましょうよ」

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「はい/\、そんぢや手てでも洗あらひますべよ」

と言ったり

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といつたり

「おれはお前、手洟はかまないよ」

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「俺おらおめえ、手洟てばなはかまねえよ」

と言ったり、がらがらと騒ぎながら、笑いささやきつつ、濡れた手を前掛けで拭いて再び飯つぎを抱えた。

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といつたりがら/\と騷さわぎながら、笑わらひ私語さゝやきつゝ、濡ぬれた手てを前掛まへかけで拭ふいて再ふたゝび飯めしつぎを抱かゝへた。

婆さんらは箸の先で少しずつ、飯つぎの物を突っ掛けてその広げられた紙へ置きながら、端からぐるりと回って行く。

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婆ばあさん等らは箸はしの先さきで少すこしづつ、飯めしつぎの物ものを突つつ掛かけて其その擴ひろげられた紙かみへ置おきつゝ、端はしからぐるりと廻まはつて行ゆく。

紙は子供らの数のほかにも敷かれてあった。

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紙かみは子供等こどもらの數かずの外ほかにも敷しかれてあつた。

それは、空になった飯つぎを返す時にその中へ入れてやるためであった。

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それは空虚からになつた飯めしつぎを返かへす時ときに其その中なかへ入いれてやる爲ためであつた。

飯つぎには、たいがい菱餅と小豆飯とが入れられてあった。

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飯めしつぎには大抵たいてい菱餅ひしもちと小豆飯あづきめしとが入いれられてあつた。

小豆飯はどれもこれも米がよく搗けていないのでくすんで、そうして腹の裂けた小豆が粉を吐いて、余計に粘り気のないぼろぼろな飯になっていた。

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小豆飯あづきめしはどれも/\米こめが能よく搗つけてないのでくすんでさうして腹はらの裂さけた小豆あづきが粉こを吐はいて餘計よけいに粘氣ねばりけのないぼろ/\な飯めしになつて居ゐた。

それでも飯つぎが違うごとに、小豆飯の赤さがいくらかずつ変わっていた。

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それでも飯めしつぎの異ことなる毎ごとに小豆飯あづきめしの赤あかさが幾いくらかづつ變かはつて居ゐた。

子供らは、違った小豆飯が一箸一箸と増えて行くのが嬉しくて、外へ転がったのは慌てて手で取って紙へ載せた。

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子供等こどもらは變かはつた小豆飯あづきめしが一箸々々ひとはし/\と殖ふえて行ゆくのが嬉うれしくて、外そとへ轉ころがつたのは慌あわてゝ手てでとつて紙かみへ載のせた。

小豆飯は昨日と違ったことはなかったが、菱餅は昨日のように米のではなくて、どれでも粟ばかりであった。

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小豆飯あづきめしは昨日きのふに異ことなつたことはなかつたが、菱餅ひしもちは昨日きのふのやうに米こめのではなくてどれでも粟あはばかりであつた。

子供らは大小違った粟の菱餅が、一つはまた一つと紙の上に量を増して積まれるのを楽しげにして、自分の紙から、両方の隣の紙から、遠くのほうから、それから一つ一つに屈んで箸を動かしている婆さんらの忙しい手元に目を奪われるのであった。

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子供等こどもらは大小だいせう異ことなつた粟あはの菱餅ひしもちが一つは一つと紙かみの上うへに分量ぶんりやうを増まして積つまれるのを樂たのしげにして、自分じぶんの紙かみから兩方りやうはうの隣となりの紙かみから遠とほくの方はうから、それから一つ/\に屈かゞんで箸はしを動うごかして居ゐる婆ばあさん等らの忙せはしい手てもとに目めを奪とられるのであつた。

婆さんらはそわそわとしながら、狭いので互いにぶつかっては騒ぎながら、自分の家にいる時のような節度が少しも保たれていなかった。

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婆ばあさん等らはそは/\としつゝ狹せまいので互たがひに衝突つきあたつては騷さわぎながら、自分じぶんの家いへに居ゐる時ときのやうな節制たしなみが少すこしも保たもたれて居ゐなかつた。

「さあ、お前らこれっきりだ」

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「さあ、汝わつ等ら此これつきりだ」

婆さんらが空になった最後の飯つぎの底を叩いて腰を伸ばした時、子供らは危なそうな手でようやく紙を包んで、がたがたと先を争って立った。

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婆ばあさん等らが空虚からになつた最後さいごの飯めしつぎの底そこを叩たゝいて腰こしを伸のばした時とき、子供等こどもらは危あぶな相さうな手てで漸やうやく紙かみを包つゝんで、がた/\と先さきを爭あらそうて立たつた。

下駄を遠くへ跳ね飛ばされたり、転んだり、紙包みの餅を落としたりして泣く声が入り交じった。

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下駄げたを遠とほくへ跳はね飛とばされたり、轉ころがつたり、紙包かみづゝみの餅もちを落おとしたりして泣なく聲こゑが相あひ交まじつた。

彼らは庭へ下りてから、おもむろにその紙を開いて小豆飯を手でつまんで食べた。

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彼等かれらは庭にはへおりてから徐おもむろに其その紙かみを開ひらいて小豆飯あづきめしを手てで抓つまんで喫たべた。

紙にくっついた小豆飯を、彼らは歯でかじるようにして取った。

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紙かみにくつゝいた小豆飯あづきめしを彼等かれらは齒はで噛かじるやうにしてとつた。

破れた紙を捨てて、菱餅を懐へ入れる者もあった。

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破やぶれた紙かみを棄すてゝ菱餅ひしもちを懷ふところへ入いれるものもあつた。

庭にはあっちにもこっちにも、捨てられた紙が白く乱れて散らばっていた。

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庭にはにはそつちにもこつちにも棄すてられた紙かみが白しろく亂みだれて散ちらばつて居ゐた。

老人らは囲炉裏に絶えず薪をくべながら、酒を燗し始めた。

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老人等としよりらは圍爐裏ゐろりに絶たえず薪たきぎを燻くべながら酒さけを沸わかし始はじめた。

村のどの家からか、今日も念仏衆へと言って供えられた二升樽を囲炉裏のそばへ引きつけて、尻の煤けた土瓶へごぼごぼと注いで自在鉤へ掛けた。

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村落むらのどの家うちからか今日けふも念佛衆ねんぶつしうへというて供そなへられた二升樽しようだるを圍爐裏ゐろりの側そばへ引ひきつけて、臀しりの煤すゝけた土瓶どびんへごぼ/\と注ついで自在鍵じざいかぎへ掛かけた。

外があまりに寒いからというので、念仏が済んでから誰かが雨戸を二、三枚引いたので、寮の内は薄暗くなっていた。

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外そとが餘あまりに寒さむいからといふので念佛ねんぶつが濟すんでから誰たれかゞ雨戸あまどを二三枚まい引ひいたので寮れうの内うちは薄闇うすぐらくなつて居ゐた。

仏壇の前には、婆さんが三、四人でひそひそと額を集めている。

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佛壇ぶつだんの前まへには婆ばあさんが三四人にんでひそ/″\と額ひたひを鳩あつめて居ゐる。

「この婆さんら、そっちのほうで盗み食いしてないで、うまい物があったらこっちへ持って来い」

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「此この婆奴等ばゝあめら、そつちの方はうで偸嘴ぬすみぐひしてねえで、佳味うめえ物もの有あつたら此方こつちへ持もつて來こう」

さっきの、首へ数珠を巻いた小柄な爺さんが怒鳴った。

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先刻さつきの首くびへ珠數じゆずを卷まいた小柄こがらな爺ぢいさんが呶鳴どなつた。

「盗んだというわけじゃないが、蓋を取って見たところなんだよ」

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「盜ぬすんだつち譯わけぢやねえが、蓋ふたとつて見みた處ところなんだよ」

そう言って婆さんらは、風呂敷の四隅をつかんで囲炉裏のそばへ持って来た。

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さういつて婆ばあさん等らは風呂敷ふろしきの四隅よすみを掴つかんで圍爐裏ゐろりの側そばへ持もつて來きた。

飯つぎには、干瓢を帯にした稲荷鮨が少し白い腹を見せて、そっくりと積まれてあった。

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飯めしつぎには干瓢かんぺうを帶おびにした稻荷鮨いなりずしが少すこし白しろい腹はらを見みせてそつくりと積つまれてあつた。

鮨は少し減っていた。

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鮨すしは少すこし減へつて居ゐた。

「独りでせしめちゃかなわないからね」

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「獨ひとりでせしめちやえかねえから」

爺さんは冗談らしく言った。

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爺ぢいさんは戲談じようだんらしくいつた。

「独りじゃあるまいな。こうやって三人も四人もいたんだものなあ」

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「獨ひとりぢやあんめえな、かうやつて三人にんも四人よつたりも居ゐたんだものなあ」

「そうだとも。これくらいおれらにくれたって、本当にすりゃいいんだよ。なあ、おれらなんざ、上がった酒だってそんなに飲むわけじゃなし」

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「さうだとも、此この位くれえ俺おらげよこしたつて本當ほんたうにすりやえゝんだよ、なあ、俺おらなんざ上あがつた酒さけだつてさうだに飮のむべぢやなし」

婆さんらは言い返すように言った。

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婆ばあさん等らは抗辯かうべんするやうにいつた。

みんなが一つ一つと鮨をつまんだ。

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悉皆みんなが一ひとつ/\と鮨すしを撮つまんだ。

「そりゃそうと、酒はどうしたい」

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「そりやさうと、酒さけどうしたえ」

小柄な爺さんは、ひょいと自在鉤のまま土瓶を手元へ引きつけて、底へ手を当ててみた。

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小柄こがらな爺ぢいさんはひよつと自在鍵じざいかぎの儘まゝ土瓶どびんを手てもとへ引ひきつけて、底そこへ手てを當あてゝ見みた。

「うっかりしてて、これは煮立っちまうところだったっけ」

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「放心うつかりしてゝ此こら煑立にたツちやあ處とこだつけ」

と急いで土瓶を外して

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と急いそいで土瓶どびんを外はづして

「おれはそんなに鮨なんざ自分じゃ一つでもほしくないんだから。そんな物で腹をふくらませたっくらい、酒がからっきり甘くなくなっちまうから」

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「俺おらさうだ鮨すしなんざ自分じぶんぢや一ひとつでも欲ほしかねえんだから、さうだ物もので滿腹はらくちくしたつ位くれえ酒さけからツき甘うまくなくしつちやあから、」

爺さんは土瓶を畳の上へ置いて言った。

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爺ぢいさんは土瓶どびんを疊たゝみの上うへへ置おいていつた。

みんながずらりと座を作った。

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悉皆みんながずらりと座ざを作つくつた。

茶飲み茶碗が一つ一つに置かれて、どこからか供えられた芋や牛蒡や人参やその他の野菜の煮しめが、重箱のまま置かれた。

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茶呑茶碗ちやのみぢやわんが一ひとつ/\に置おかれて、何處どこからか供そなへられた芋いもや牛蒡ごばうや人參にんじんや其その他たの野菜やさいの煮〆にしめが重箱ぢゆうばこの儘まゝ置おかれた。

そこには膳も台も何もなかった。

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其處そこには膳ぜんも臺だいも何なにもなかつた。

土瓶の酒が徳利へ移されて、土瓶は再び自在鉤へ吊された。

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土瓶どびんの酒さけが徳利とくりへ移うつされて土瓶どびんは再ふたゝび自在鍵じざいかぎへ吊つるされた。

二度目の酒が茶碗へ注がれた時

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二度目どめの酒さけが茶碗ちやわんへ注つがれた時とき

「これはだめだ、焦げ臭くなっちまった。酒を燗するのにはかなわない、どうも気をつけなくちゃ。酒と茶はちっとでも臭みが移るんだから」

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「此こら駄目だめだ、焦臭こげくさくしツちやつた、酒さけ沸わかすのにや畢をへねえどうも氣きをつけなくつちや、酒さけと茶ちやはちつとでも臭味くさみ移うつらさんだから」

小柄な爺さんは茶碗を口へ当てて、いかにも憤慨に堪えない者のように言った。

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小柄こがらな爺ぢいさんは茶碗ちやわんを口くちへ當あてゝ左さも憤慨ふんがいに堪たへぬものゝやうにいつた。

「なあに、土瓶だって二度目のを少しにしないで、さっきのより余計なくらい注ぎさえすりゃ大丈夫なんだが。それ、そうでないと周りがそれ、焦げるから」

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「なあに、土瓶どびんだつて二度目どめのが少すこしに仕しねえで、先刻さつきのがより餘計よけいなツ位くれえ注つぎせえすりや大丈夫だいぢようぶなんだが、それさうでねえと周圍まありがそれ焦こびつから」

と、そばからすぐに口が出た。

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と側そばから直すぐに口くちが出でた。

「そんじゃ、今度はたくさん入れような。おれはろくに飲みもしないで怒られちゃつまらないな」

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「そんぢや、今度こんだ澤山しつかり入せえびやな、俺おら碌ろくに飮のんもしねえで、怒おこられちやつまんねえな」

土瓶を手にした婆さんは笑いながら言った。

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土瓶どびんを手てにした婆ばあさんは笑わらひながらいつた。

「本当にすりゃ、一遍ごとに土瓶の中を水ですすがなくちゃだめなんだがな」

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「本當ほんたうにすりや、一遍ぺん毎ごとに土瓶どびんの中なか水みづでゆすがなくつちや駄目だめなんだがな」

「そっちから、もう、鉄瓶の中へ徳利を押し込めばいいんだな。そうすりゃどうもこうもないんだな」

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「そつから、はあ、鐵瓶てつびんの中なかさ徳利とつくりおしこめばえゝんだな、さうすりやどうだもかうだもねえんだな」

「せっかく甘い酒を台なしにして、惜しいもんだな。これはこれで、よっぽどいい酒だぞ」

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「折角せつかく甘うめえ酒さけ臺でえなしにして可惜物あつたらもんだな、此こらこんで餘程よつぽどえゝ酒さけだぞ」

などという声が雑然として聞こえた。

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抔などといふ聲こゑが雜然ざつぜんとして聞きこえた。

「鉄瓶じゃ徳利が一本ずつしか入らないから、面倒臭かろうと思ってよ」

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「鐵瓶てつびんぢや徳利とつくり一本ぽんづつしかへえんねえから面倒臭めんだうくさかんべと思おもつてよ」

と婆さんは言いながら、いったん沸いた鉄瓶を掛けた。

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と婆ばあさんはいひながら、一旦たん沸たぎつた鐵瓶てつびんを懸かけた。

樽が空になって、みんな飲む者は酔ってがやがやとただ騒いだ。

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樽たるが空虚からになつて悉皆みんな飮のむ者ものは銘酊よつぱらつてがや/\と只たゞ騷さわいだ。

卯平は囲炉裏のそばを離れずに、むっつりとして杯を取らない婆さんらと火に当たりながら、煙管を持たない所在なさに、そだの先を折ってその癖の舌を鳴らしながら、歯茎をつついていた。

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卯平うへいは圍爐裏ゐろりの側そばを離はなれずにむつゝりとして杯さかづきをとらぬ婆ばあさん等らと火ひにあたりながら、煙管きせるを持もたぬ所在しよざいなさに麁朶そだの先さきを折をつて其その癖くせの舌したを鳴ならしつゝ齒齦はぐきをつゝいて居ゐた。

彼はみんなが騒いでいる間に、自分の腹に足りるだけの鮨や惣菜やらを箸に挟んで、杯へは手を触れようとしなかった。

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彼かれは悉皆みんなが騷さわいで居ゐる間まに自分じぶんの腹はらに足たりるだけの鮨すしや惚菜そうざいやらを箸はしに挾はさんで杯さかづきへは手てを觸ふれようとしなかつた。

老人らは自分の騒ぐほうにばかり心を奪われて、卯平のことはそっちのけにしたままであった。

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老人等としよりらは自分じぶんの騷さわぐ方はうにばかり心こゝろを奪うばはれて卯平うへいのことはそつちのけにした儘まゝであつた。

卯平はそれでも、いろいろな百姓料理の塩辛い重箱へ箸をつけて、近ごろになく快かった。

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卯平うへいはそれでも種々いろいろな百姓料理ひやくしやうれうりの鹽辛しほからい重箱ぢゆうばこへ箸はしをつけて近頃ちかごろになく快こゝろよかつた。

彼は腹にいっぱいになるまでには、欠けた歯茎で噛んで飲み下して、さらに次の箸が口まで来る、その悠長な手の運動が待ち遠しくて、口の中の粘膜からは自然に薄い水のような唾液の湧いて出るのを抑えることができないほどであった。

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彼かれは腹はらに一杯ぱいになる迄までには、缺かけた齒齦はぐきで噛かんで嚥下のみくだして、更さらに次つぎの箸はしが口くちまで來くる其その悠長いうちやうな手ての運動うんどうが待遠まちどほで口腔こうかうの粘膜ねんまくからは自然しぜんに薄うすい水みづのやうな唾液つばの湧わいて出でるのを抑おさへることが出來できない程ほどであつた。

威勢よくなった老人らは、赤い胴の太鼓を首筋から胸へ吊って、だらりだらりと叩いて先に立つと、足元も手元も節度がなくなったすべてが後から後からと、ことに婆さんらは騒ぎながらついて出る。

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威勢ゐせいよく成なつた老人等としよりらは赤あかい胴どうの太鼓たいこを首筋くびすぢから胸むねへ吊つつて、だらり/\と叩たゝいて先さきに立たつと足あしもと手てもと節制だらしなくなつた凡すべてが後あとから/\と、殊ことに婆ばあさん等らは騷さわぎながら跟ついて出でる。

軒端から青竹の棚に沿って敷いてある筵を渡って、おもむろに回る。

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軒端のきばから青竹あをだけの棚たなに添そうて敷しいてある筵むしろを渡わたつて徐おもむろに廻まはる。

彼らはそれをお山回りというのである。

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彼等かれらはそれをお山廻やままはりといふのである。

互いによろけながら、踊りとも何ともつかない剽軽な手足の動かし方をして、蓄えておいた一年中の笑いを一度に吐き出したかと思うほどの声を放って、止めどもなくどよめいた。

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相互さうごに踉蹌よろけながら踊をどりとも何なんともつかぬ剽輕へうきんな手足てあしの動うごかしやうをして、蓄たくはへて置おいた一年中ねんぢうの笑わらひを一時じに吐はき出だしたかと思おもふ程ほどの聲こゑを放はなつて止とめどもなくどよめいた。

ついには列が乱れて、互いにぶつかっては足を踏んだり踏まれたりして、一人が倒れれば後から後からと折り重なって、ひとしきり同じ所に止まってはがやがやと騒いだ。

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遂つひには列れつが亂みだれて互たがひに衝突しようとつしては足あしを踏ふんだり踏ふまれたりして、一人ひとりが倒たふれゝば後あとから/\と折重をりかさなつて一ひとしきり同おなじ處ところに止とまつてはがや/\と騷さわいだ。

彼らはほとんど冷え切ろうとしつつある肉体のいずれの部分かに、失われようとしてぽっちりとその面影を止めていた青春の血液の一滴がにわかに沸いて、彼らの全体を支配し、かつ活動させたかと思うように、干からびつつある彼らの顔にはどれでも華やかな紅が差している。

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彼等かれらは殆ほとんど冷却れいきやくしようとしつゝある肉體にくたいの孰いづれの部分ぶぶんかに失うしなはれんとしてほつちりと其その俤おもかげを止とめて居ゐた青春せいしゆんの血液けつえきの一滴てきが俄にはかに沸わいて彼等かれらの全體ぜんたいを支配しはいし且かつ活動くわつどうせしめたかと思おもふやうに、枯燥こさうしつゝある彼等かれらの顏かほにはどれでも華はなやかな紅べにを潮さして居ゐる。

彼らはまったく節度を失っている。

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彼等かれらは全まつたく節制たしなみを失うしなつて居をる。

彼らはふだん家族に交わって、その老衰の身がどうしても自然に若い者の間に疎外されつつ、各自はむしろ無意識でありながら、しかもうっくつして怠い月日を過ごしつつある時に、例年の定めである念仏の日は、そういうすべてを放つ自由の境地である。

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彼等かれらは平生へいぜい家族かぞくに交まじつて、其その老衰らうすゐの身みがどうしても自然しぜんに壯者さうしやの間あひだに疎外そぐわいされつゝ、各自かくじは寧むしろ無意識むいしきでありながら然しかも鬱屈うつくつして懶ものうい月日つきひを過すごしつゝある時ときに、例年れいねんの定さだめである念佛ねんぶつの日ひはさういふ凡すべてを放はなつ自由境じいうきやうである。

彼らはそこに少しの遠慮をも持っていない。

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彼等かれらは其處そこに些すこしの遠慮ゑんりよをも有もつて居をらぬ。

彼らは冬の間を長い夜の眠りに飽きながら、寒さに苛められていた苦しさを、もう空のどこかにその勢いを潜めてためらっているはずの春に先立って、一度に取り返そうとする者のごとく、騒いで騒いでまた騒ぐのである。

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彼等かれらは冬季とうきの間あひだを長ながい夜よの眠ねむりに飽あきつゝ寒さむさに苛いぢめられて居ゐた苦くるしさを、もう空そらの何處どこにか其その勢いきほひを潜ひそめて躊躇ちうちよして居ゐる筈はずの春はるに先立さきだつて一度どに取返とりかへさうとするものゝ如ごとく騷さわいで/\又また騷さわぐのである。

酒がそこに火を点じた。

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酒さけが其處そこに火ひを點てんじた。

庭の四本の青竹に張った縄の、赤や青や黄の刻んだ注連がひらひらと動きながら、老人らと一つになってささやくように見えた。

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庭にはの四本ほんの青竹あをだけに長はつた繩なはの赤あかや青あをや黄きの刻きざんだ注連しめがひら/\と動うごきながら老人等としよりらと一ひとつに私語さゝやくやうに見みえた。

日は陽気な庭へいっぱいに暖かな光を投げた。

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日ひは陽氣やうきな庭にはへ一杯ぱいに暖あたゝかな光ひかりを投なげた。

庭には子供らや村の者がぞろりと立って、この騒ぎを笑って見ていた。

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庭にはには子供等こどもらや村落むらの者ものがぞろつと立たつて此この騷さわぎを笑わらつて見みて居ゐた。

その辺りには、難しそうなものは一つも見られなかった。

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其その邊へんには難むづかし相さうなものは一ひとつも見みられなかつた。

彼らを包んだ柔らかな空気が、春の徴候でなければならなかった。

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彼等かれらを包つゝんだ軟やはらかな空氣くうきが春はるの徴候きざしでなければならなかつた。

しかしながら、卯平はただ独りその群れに加わらなかった。

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然しかしながら卯平うへいは只たゞ獨ひとり其その群むれに加くははらなかつた。

老人らの勢いがごうっと庭に移った時、寮の内はその騒ぎの声がいっぱいに襲い来て、やかましいにもかかわらず寂しかった。

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老人等としよりらの勢いきほひがごつと庭にはに移うつつた時とき寮れうの内うちは其その騷さわぎの聲こゑが一杯ぱいに襲おそひ來きて喧やかましいにも拘かゝはらず寂さびしかつた。

囲炉裏の火も灰が白く覆って、めっきりと衰えた。

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圍爐裏ゐろりの火ひも灰はひが白しろく掩おほうて滅切めつきりと衰おとろへた。

卯平はじっと腕を組んだまま目をしかめて、燃え尽きた薪をすら突き出そうとしなかった。

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卯平うへいは凝然ぢつと腕うでを拱こまねいた儘まゝ眼めを蹙しかめて燃もえ退のいた薪まきをすら突つき出ださうとしなかつた。

彼には、庭の節度のない騒ぎの声がその耳を支配するよりも、遠くかつはるかな闇に何物かを探そうとしつつあるように、ただぼんやりとしているのであった。

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彼かれには庭にはの節制だらしのない騷さわぎの聲こゑが其その耳みゝを支配しはいするよりも遠とほく且かつ遙はるかな闇やみに何物なにものをか搜さがさうとしつゝあるやうに只たゞ惘然ばうぜんとして居ゐるのであつた。

与吉は紙包みの小豆飯を食べ尽くして、しばらく庭の騒ぎを見ていたが、寮の内に独りぽつねんとしている卯平を見つけて、囲炉裏に近く迫った。

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與吉よきちは紙包かみづゝみの小豆飯あづきめしを盡つくして暫しばらく庭にはの騷さわぎを見みて居ゐたが寮れうの内うちに㷀然ぽつさりとして居ゐる卯平うへいを見出みいだして圍爐裏ゐろりに近ちかく迫せまつた。

「爺さん、くれないか」

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「爺ぢいくんねえか」

と彼は、またいつものように卯平に甘えた。

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と彼かれは又また何時いつものやうに卯平うへいに甘あまえた。

卯平はその声を聞いても、しばらく屈んだままでいた。

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卯平うへいは其その聲こゑを聞きいても暫しばらく蹙しがんだ儘まゝで居ゐた。

立春の日を過ぎてから、かえって黄昏のはかない薄い光の空に吹き落ちるはずの西風が何を怒ってか吹いて吹いて吹きまくって、夜にわたっても幾日か止まないほどのまれな現象に伴って、鬼怒川の浅瀬が氷に閉ざされて、やがて氷の塊が流れたという噂が立ったことがあった。

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立春りつしゆんの日ひを過すぎてから、却かへつて黄昏たそがれの果敢はかない薄うすい光ひかりの空そらに吹ふき落おちる筈はずの西風にしかぜが何なにを憤いかつてか吹ふいて/\吹ふき捲まくつて、夜よに渡わたつても幾日いくにちか止やまぬ程ほどな稀有けうな現象げんしやうに伴ともなうて、鬼怒川きぬがはの淺瀬あさせが氷こほりに閉とざされて、軈やがて氷こほりの塊かたまりが流ながれたといふ噂うはさが立たつたことがあつた。

卯平はそれとともに、その乾いた肌が余計に荒れて、寒気が骨に徹したかと思うと、にわかに手の自由を失って来たように自覚した。

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卯平うへいはそれと共ともに其その乾燥かんさうした肌膚はだが餘計よけいに荒あれて寒冷かんれいの氣きが骨ほねに徹てつしたかと思おもふと俄にはかに手ての自由じいうを失うしなつて來きたやうに自覺じかくした。

彼は縄を綯うにも草鞋を作るにも、それがある凝り固まった塊がすべての筋肉の働きを妨げているようで、各部にうずく痛みをさえ感じるのであった。

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彼かれは繩なはを綯なふにも草鞋わらぢを作つくるにも、其それが或ある凝塊しこりが凡すべての筋肉きんにくの作用さようを阻害そがいして居ゐるやうで各部かくぶに疼痛とうつうをさへ感かんずるのであつた。

器用な彼の手先が、彼自身の物ではなくなった。

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器用きような彼かれの手先てさきが彼自身かれじしんの物ものではなくなつた。

彼は与吉が狭い戸口に立つごとに、心から迎える以前の卯平ではなくなっていた。

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彼かれは與吉よきちが狹せまい戸口とぐちに立たつ毎ごとに心こゝろから迎むかへる以前いぜんの卯平うへいではなくなつて居ゐた。

それでも彼は与吉を愛していた。

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それでも彼かれは與吉よきちを愛あいして居ゐた。

「明日にしろ」

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「明日あしたにしろ」

と彼は簡単に拒絶して、そうしてそれっきり言わないことがあるようになった。

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と彼かれは簡單かんたんに拒絶きよぜつしてさうしてそれつきりいはないことが有あるやうになつた。

与吉はしばしばそう言われてしょんぼりしているのを、卯平は見つめて余計に目をしかめつつあるのであった。

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與吉よきちは屡しば/\さういはれて悄然せうぜんとして居ゐるのを、卯平うへいは凝視みつめて餘計よけいに目めを蹙しかめつゝあるのであつた。

そういうことが幾度か幾日か繰り返された後、卯平は与吉へ一銭の銅貨を与えた。

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さういふことが幾度いくたびか幾日いくにちか反覆くりかへされた後のち卯平うへいは與吉よきちへ一錢せんの銅貨どうくわを與あたへた。

これまでの倍になっているのと、ほとんどまた拒絶されるのではないかという不安を抱きつつある与吉は、いつでもそれに非常な満足を表した。

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從來これまでに倍ばいして居ゐるのと殆ほとんど復また拒絶きよぜつされるのではないかといふ懸念けねんを懷いだきつゝある與吉よきちは何時いつでも其それに非常ひじやうな滿足まんぞくを表あらはした。

その様子を見る卯平は、勢い心が動かされた。

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其その容子ようすを見みる卯平うへいは勢いきほひ心こゝろが動うごかされた。

自分が老衰者であることを知った時、諦めのないすべては、ややもすれば互いに余命のいくらもないはかなさを語り合って、それが冗談を言って笑いさざめく時にさえ絶えず繰り返されて、各自が痛切に感じる程度の違いはあるにしても、死の問題に苦しめられているのは事実である。

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自分じぶんの老衰者らうすゐしやであることを知しつた時とき諦あきらめのない凡すべては、動ともすれば互たがひに餘命よめいの幾何いくばくもない果敢はかなさを語かたり合あうて、それが戲談じようだんいうて笑語さゞめく時ときにさへ絶たえず反覆くりかへされて、各自かくじが痛切つうせつに感かんずる程度ていどの相違さうゐはあるにしても、死しの問題もんだいに苦くるしめられて居ゐるのは事實じじつである。

卯平の心にも、同じく死の観念が止まず行き来した。

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卯平うへいの心こゝろにも同おなじく死しの觀念くわんねんが止やまず往來わうらいした。

彼はその手先の自由を失った時、自棄の心から彼の風呂敷包みを解いた。

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彼かれは其その手先てさきの自由じいうを失うしなうた時とき自棄やけの心こゝろから彼かれの風呂敷包ふろしきづゝみを解といた。

野田にいたころ、主人や、または主人の用での出先からもらった幾筋の手拭いを継ぎ合わせてこしらえた浴衣を出した。

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野田のだに居ゐた頃ころ主人しゆじんや又または主人しゆじんの用ようでの出先でさきから貰もらつた幾筋いくすぢの手拭てぬぐひを繼つぎ合あはせて拵こしらへた浴衣ゆかたを出だした。

清潔好きな彼には、派手な手拭いの模様が当時の誇りの一つであった。

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清潔好きれいずきな彼かれには派手はでな手拭てぬぐひの模樣もやうが當時たうじ矜ほこりの一ひとつであつた。

彼はもう、自分の心を苛めてやるような心持ちで、目ぼしい物を次第に質入れした。

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彼かれはもう自分じぶんの心こゝろを苛いぢめてやるやうな心持こゝろもちで目欲めぼしい物ものを漸次だん/\に質入しちいれした。

彼は目の前に、氷が閉じては毎日暖かい日の光に溶かされるのを見ていた。

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彼かれは眼前がんぜんに氷こほりが閉とぢては毎日まいにち暖あたゝかい日ひの光ひかりに溶解ようかいされるのを見みて居ゐた。

彼にはそれが、ただそういう現象としてのみ目に映った。

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彼かれにはそれが只たゞさういふ現象げんしやうとしてのみ眼めに映うつつた。

彼は、自由を失ったその手先が、暖かい春の日が積もって次第に和らげられるであろうという、かすかな希望をさえ起こさないほど、身も心もひがんで、そうして苦しんだ。

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彼かれは自由じいうを失うしなうた其その手先てさきが暖あたゝかい春はるの日ひが積つもつて漸次だん/\に和やはらげられるであらうといふ微かすかな希望のぞみをさへ起おこさぬ程ほど身みも心こゝろも僻ひがんでさうして苦くるしんだ。

彼の風呂敷包みから得つつあった金銭は些少のものであったが、それは時として、彼のこわばった舌に適した食べ物のあるものを求めるほかに、一部分は与吉の小さな手に落とされるのであった。

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彼かれの風呂敷包ふろしきづゝみから獲えつゝあつた金錢きんせんは些少すこしのものであつたが、それは時ときとして彼かれの硬こはばつた舌したに適てきした食料しよくれうの或ある物ものを求もとめる外ほかに一部分ぶぶんは與吉よきちの小ちひさな手てに落おとされるのであつた。

はかない煙草入れの叺の中を、心配するように彼は幾度も覗いた。

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果敢はかない煙草入たばこいれの叺かますの中なかを懸念けねんするやうに彼かれは數次しばしば覗のぞいた。

陰鬱な狭い小屋の中で覗く叺の底は暗かった。

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陰鬱いんうつな狹せまい小屋こやの中なかで覗のぞく叺かますの底そこは闇くらかつた。

わずかに交じった小さな白い銀貨が、見るたびに彼の心にいくらかの光を与えた。

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僅わづかに交まじつた小ちひさな白しろい銀貨ぎんくわが見みる度たびに彼かれの心こゝろに幾いくらかの光ひかりを與あたへた。

彼がどんなに惜しんでも、叺の中の減って行くのを防ぐことはできない。

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彼かれが什麽どんなに惜をしんでも叺かますの中なかの減へつて行ゆくのを防ふせぐことは出來できない。

しかも無口な彼は、いたずらに自分独りが噛みしめて、絶えずただやつれながら沈鬱の状態を持続した。

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然しかも寡言むくちな彼かれは徒いたづらに自分じぶん獨ひとりが噛かみしめて、絶たえず只たゞ憔悴せうすゐしつゝ沈鬱ちんうつの状態じやうたいを持續ぢぞくした。

彼はその状態を保って、念仏寮の囲炉裏にどっかりと怠い体を据えていた。

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彼かれは其その状態じやうたいを保たもつて念佛寮ねんぶつれうの圍爐裏ゐろりにどつかと懶ものうい身體からだを据すゑて居ゐた。

庭の騒ぎは止んで、疾風の襲ったごとく寮の内はまた雑然として、卯平を囲んだ沈鬱な空気をかき乱した。

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庭にはの騷さわぎは止やんで疾風しつぷうの襲おそうた如ごとく寮れうの内うちは復また雜然ざつぜんとして卯平うへいを圍かこんだ沈鬱ちんうつな空氣くうきを攪亂かくらんした。

やがて老人らが互いの懐銭を出し合った二升樽が運ばれて、酒がまた燗された。

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軈やがて老人等としよりらが互たがひの懷錢ふところせんを出だし合あうた二升樽しやうだるが運はこばれて酒さけが又また沸わかされた。

酒の座は囲炉裏に近く作られた。

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酒さけの座ざは圍爐裏ゐろりに近ちかく形かたちづくられた。

その時まだ与吉は去らなかった。

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其その時ときまだ與吉よきちは去さらなかつた。

卯平は黙って五厘の銅貨を投げた。

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卯平うへいは默だまつて五厘りんの銅貨どうくわを投なげた。

そばにいた一人の老人がそれを拾おうとして見せると、与吉は両方の手を掛けて、それから身で覆った。

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側そばに居ゐた一人ひとりの老人としよりがそれを拾ひろはうとして見みせると與吉よきちは兩方りやうはうの手てを掛かけてそれから身みを以もつて俺おほうた。

彼はそれを固くつかんで

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彼かれはそれを堅かたく掴つかんで

「爺さん、もう一つくれないか」

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「爺ぢい、いま一ひとつくんねえか」

と、さらにねだった。

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と更さらに強請せがんだ。

彼は五厘の銅貨を大事にした。

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彼かれは五厘りんの銅貨どうくわを大事だいじにした。

しかし彼はしばらく一銭の銅貨に慣れていたので、心にわずかな不足を感じたのであった。

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然しかし彼かれは暫しばらく一錢せんの銅貨どうくわに訓なれて居ゐたので心こゝろに僅わづかな不足ふそくを感かんじたのであつた。

卯平は口を閉ざしている。

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卯平うへいは口くちを緘つぐんで居ゐる。

「お前は、そんなことを言うんじゃない。さっきあんなに何か貰って要るもんか。もっとほしいなんて言えば、おれが腹を掻き裂いて小豆飯を掻き出してやるから。お前は口ばかり動かしてるから見ろ、それ、鴉に灸を据えられてらあ」

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「汝わりや、さうだこと云いふんぢやねえ、先刻さつきあゝだに何なにつか貰もらつて要いるもんか、まつと欲ほしいなんちへば俺おれ腹はら掻裂かつツえて小豆飯あづきめし掻出かんだしてやつから、汝わりや口くちばかし動いごかしてつから見みろうそれ、鴉からすに灸きう据すゑらツてら」

と、さっきの首へ数珠を巻いた爺さんががみがみと言った。

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と先刻さつきの首くびへ數珠ずゝを卷まいた爺ぢいさんががみ/\といつた。

与吉は恥じたようにして、五厘の銅貨で唇をこすりながら立っていた。

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與吉よきちは羞はにかんだやうにして五厘りんの銅貨どうくわで脣くちびるをこすりながら立たつて居ゐた。

彼の口の両端には、鴉の灸と言われている瘡ができて、泥でもくっつけたようになっていた。

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彼かれの口くちの兩端りやうはしには鴉からすの灸きうといはれて居ゐる瘡かさが出來できて泥どろでもくつゝけたやうになつて居ゐた。

「お前は銭がほしけりゃ、おとっつあんに貰え」

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「汝わりや錢ぜね欲ほしけりやおとつゝあに貰もらへ」

爺さんはまた怒鳴った。

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爺ぢいさんは又また呶鳴どなつた。

「そんだってだめだあ、おとっつあんらはくれやしまいし」

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「そんだつて駄目だめだあ、おとつゝあ等ら呉くれやしめえし」

与吉はやっと言った。

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與吉よきちは漸やつといつた。

「おとっつあんは耳が遠いから聞こえないんだ。おとっつあん、くれと、おれみたいに怒鳴ってみろ。そうでなけりゃ耳を引っ張ってやれ」

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「おとつゝあ聾つんぼだから聞きけえねんだ、おとつゝあ呉くろうつと俺おれ見みてえに呶鳴どなつて見みろ、そんでなけれ耳みゝ引張ひツぱつてやれ」

「そんだっていやだあ、おれは。おとっつあんに打っ飛ばされるから」

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「そんだつて厭やだあ俺おら、おとつゝあに打ぶつ飛とばされつから」

「いいから行けもう。お前らみたいな子供らがごやごや来ちゃ、うるさくて仕方がないから」

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「えゝから行えけはあ、汝等わつら見みてえな餓鬼奴等がきめらごや/\來きちや五月蠅うるさくつて仕しやうねえから」

与吉はすごすごと立った。

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與吉よきちは悄々しを/\と立たつた。

「そうら」

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「さうら」

と、卯平は後から五厘の銅貨を庭へ投げてやった。

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と卯平うへいは後あとから五厘りんの銅貨どうくわを庭にはへ投なげてやつた。

そうしている間に、二度目の酒にあずからない婆さんらは、表の雨戸をさらに二、三枚引いて、余計に薄暗くなった仏壇の前に固まった。

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さうして居ゐる間まに二度目どめの酒さけに與あづからぬ婆ばあさん等らは表おもての雨戸あまどを更さらに二三枚まい引ひいて餘計よけいに薄闇うすぐらく成なつた佛壇ぶつだんの前まへに凝集こゞつた。

いつの間にか念仏衆以外の村の女房も加わって、十人ばかりになった。

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何時いつの間まにか念佛衆ねんぶつしゆう以外いぐわいの村落むらの女房にようばうも加くははつて十人にんばかりに成なつた。

彼らは外からの人目を雨戸に避けて、その唯一の楽しみとされてある宝引きをしようというのであった。

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彼等かれらは外そとからの人目ひとめを雨戸あまどに避さけて其その唯一ゆゐいつの娯樂ごらくとされてある寶引はうびきをしようといふのであつた。

畳には八本の紺の宝引き糸がざらりと投げ出された。

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疊たゝみには八本ほんの紺こんの寶引絲はうびきいとがざらりと投なげ出だされた。

彼らはそれを糸と呼んでいるけれども、機を織って切り放した最後の糸の端を、縄のように綯った綱である。

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彼等かれらはそれを絲いとと喚よんで居ゐるけれども、機はたを織おつて切きり放はなした最後さいごの絲いとの端はしを繩なはのやうに綯なつた綱つなである。

婆さんらは丸い座を作って、めいめいの前へ二銭ずつの銭を置いた。

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婆ばあさん等らは圓まるい座ざを作つくつて銘々めい/\の前まへへ二錢せんづつの錢ぜにを置おいた。

親になった一人が八本の綱の元をつかんで、一度ぎっと指へ絡んでばらりと投げ出すと、みんなが一つずつつかんで、これもその端を指へぎりっと絡んで一度に引くと、七本の綱が空しくすっと倒れる。

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親おやに成なつた一人ひとりが八本ほんの綱つなの本もとを掴つかんで一度どぎつと指ゆびへ絡からんでばらりと投なげ出だすと、悉皆みんなが一ひとつづゝ掴つかんで此これも其その端はしを指ゆびへぎりつと絡からんで一度どに引ひくと七本ほんの綱つなが空むなしくすつとこける。

ただ一本の綱の尻には、彼らの言う「どっぺ」

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只たゞ一本ぽんの綱つなの臀しりには彼等かれらのいふ「どツぺ」

が付いていて、それがどさりと畳を打って一人の手元へ引かれる。

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が附ついて居ゐてそれがどさりと疊たゝみを打うつて一人ひとりの手てもとへ引ひかれる。

どっぺは、一厘銭を三寸ばかりの厚さに穴を通してぎっとくくった錘である。

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どつぺは一厘錢りんせんを三寸ずんばかりの厚あつさに穴あなを透とほしてぎつと括くゝつた錘おもりである。

一厘銭は、黄銅の地色がぴかぴかと光るまで擦られてあった。

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一厘錢りんせんは黄銅くわうどうの地色ぢいろがぴか/\と光ひかるまで摩擦まさつされてあつた。

どっぺを引いた者がさらに親になって、一度ごとにどっぺは解いて他の綱へつける。

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どつぺを引ひいたのが更さらに親おやになつて一度ど毎ごとにどつぺは解といて他たの綱つなへつける。

そうすると婆さんらは思案しながら、しかも速やかに綱の一つをつまんでは放したり、また つまんだり、きわめて忙しげにその手を動かす。

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さうすると婆ばあさん等らは思案しあんしつゝ然しかも速すみやかに綱つなの一ひとつを抓つまんでは放はなしたり又また抓つまんだり極きはめて忙いそがしげに其その手てを動うごかす。

彼らはちょうどくじを引くように、きっと一つは当たるはずのどっぺを、みんなが心当てにつかんで引くのである。

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彼等かれらは丁度ちやうど䰗くじを引ひくやうに屹度きつと一ひとつは當あたる筈はずのどつぺを悉皆みんなが心こゝろあてに掴つかんで引ひくのである。

一度ごとに失望と満足とが、みんなの顔にそれからそれと移って行く。

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一度ど毎ごとに失望しつばうと滿足まんぞくとが悉皆みんなの顏かほにそれからそれと移うつつて行ゆく。

綱をぎっと束ねて引かせる手元や、一つずつに思案しながら、しかもつかんだら威勢よくすいと引く手元は、彼らのこわばった手でありながら、熟練して、そうして敏捷に動く。

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綱つなをぎつと束つかねて引ひかせる手てもとや、一ひとつづゝに思案しあんしながら然しかも掴つかんだら威勢ゐせいよくすいと引ひく手てもとは彼等かれらが硬こはばつた手てでありながら熟練じゆくれんしてさうして敏捷びんせふに運動うんどうする。

綱の周囲からみんなが形づくっている輪が縮まるようにして、一つつかんではまたその輪が広がるようにしながら引く様子は、大勢が一つの紐を打っているような形にも見えた。

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綱つなの周圍しうゐから悉皆みんなの形かたちづくつて居ゐる輪わが縮ちゞまるやうにして、一ひとつ掴つかんでは又また其その輪わが擴ひろがるやうにしつゝ引ひく容子ようすは大勢おほぜいが一ひとつの紐ひもを打うつて居ゐるやうな形かたちにも見みえた。

彼らは忙しく手を動かしているとともに、声を殺してひそひそと、しかも力を入れて笑いささやいた。

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彼等かれらは忙いそがしく手てを動うごかして居ゐると共ともに聲こゑを殺ころしてひそ/\と然しかも力ちからを入いれて笑語さゞめいた。

彼らは外に聞こえるのを憚らないならば、興味に乗じて大胆に騒ぐはずでなければならない。

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彼等かれらは戸外こぐわいの聞きこえを憚はばからぬならば興味きようみに乘じようじて放膽はうたんに騷さわぐ筈はずでなければならぬ。

各自の前にある銭は、どっぺを引き当てた者の手に一つずつ引き去られて、誰の前にもまったくなくなった時、また新たに置かれるのである。

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各自かくじの前まへに在ある錢ぜにはどつぺを引ひき當あてた者ものの手てに一ひとつづゝ引ひき去さられて誰たれの前まへにも全まつたくなくなつた時とき又また更さらに置おかれるのである。

彼らはそれに熱中して、まったく他を忘れている。

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彼等かれらはそれに熱中ねつちうして全まつたく他たを忘わすれて居ゐる。

宝引きにも酒にも加わらない老人らは、棚の周りを回ってからは帰った者もあって、寮にはいくらか人数も減っていたが、囲炉裏の辺りは酔いが加わって、宝引きの群れに行かない婆さんらは、酒の好きな、どれも威勢のいい者ばかりであった。

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寶引はうびきにも酒さけにも加くははらぬ老人等としよりらは棚たなの周圍しうゐを廻まはつてからは歸かへつたものも有あつて寮れうには幾いくらか人數にんずも減へつて居ゐたが、圍爐裏ゐろりの邊ほとりは醉ゑひが加くははつて寶引はうびきの群むれに行ゆかぬ婆ばあさん等らは酒さけの好すきな孰どれも威勢ゐせいのいゝものばかりであつた。

「なあお前、これでおれも若い時には面白いのだったんだよなあ」

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「なあおめえ、こんで俺おらも若わけえ時ときにや面白おもしろえのがんだよなあ」

と、爺さんの肩へもたれかかる者もあった。

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と爺ぢいさんの肩かたへ靠もたれ掛かゝるものもあつた。

「べらぼう、以前のことなんぞ、外聞が悪い。おれなんざこれで随分無鉄砲なことはしたが、これで女には迷わなかったっけから」

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「篦棒べらぼう、以前めえかたのことなんぞ、外聞げえぶん惡わりい、俺おらなんざこんで隨分ずゐぶん無鐵砲がしよきなこたあしたが、こんで女をんなにや煎えれねえつちやつたから」

と、首に数珠を巻いた爺さんがそばでそれを見ていて怒鳴った。

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と首くびに珠數じゆずを卷まいた爺ぢいさんが側そばでそれを見みて居ゐて呶鳴どなつた。

「お前、怒らなくてもいいやな。酒の座敷じゃそれくらいのことは仕方があるまいな」

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「おめえ、怒おこんなくつてもえゝやな、酒さけの座敷ざしきぢや其それつ位くれえなこた仕方しかたあんめえな」

と叱られた婆さんは、右の手を上から左の手のひらへ打ちつけて、大声を立てて笑いながら

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と叱しかられた婆ばあさんは右みぎの手てを上うへから左ひだりの手ての平ひらへ打うちつけて、大聲おほごゑを立たてゝ笑わらひながら

「どうしたんだいまあ、一杯やりなさいね」

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「どうしたんでえまあ一杯ぺえやらつせえね」

と、婆さんはさらに卯平へ茶碗を突きつけた。

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と婆ばあさんは更さらに卯平うへいへ茶碗ちやわんを突つきつけた。

卯平は一杯をも口へ含まないのに、さっきからただじっとして、騒ぎを聞くでもなく聞かないでもない様子をして、胡坐をかいていた。

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卯平うへいは一杯ぱいをも口くちへ銜ふくまぬのに先刻さつきから只たゞ凝然ぢつとして、騷さわぎを聞きくでもなく聞きかぬでもない容子ようすをして胡坐あぐらをかいて居ゐた。

二度目の酒はいくらか腹に余計であった老人らは、もう卯平を見逃してはおかなかったのである。

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二度目どめの酒さけは幾いくらか腹はらに餘計よけいであつた老人等としよりらはもう卯平うへいを見遁みのがしては置おかなかつたのである。

「おれはしばらくやらないから」

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「俺おら暫しばらくやんねえから」

卯平はそっけなく言って、その癖の舌を鳴らした。

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卯平うへいはそつけなくいつて其その癖くせの舌したを鳴ならした。

「何でまた飲まないんだ。そんなにしんねりむっつりしてないで、ちっとは威勢をつけてみるもんだ。そうれ」

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「何なんでまた飮のまねえんだ、さうだにしんねりむつゝりしてねえで、ちつた威勢えせいつけて見みるもんだ、そうれ」

と、さっきからの爺さんは茶碗を突きつけた。

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と先刻さつきからの爺ぢいさんは茶碗ちやわんを突つきつけた。

卯平はまた舌を鳴らして、唾をぐっと飲んだ。

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卯平うへいは復また舌したを鳴ならして、唾つばをぐつと嚥のんだ。

「おれはもう、しばらくやらないから。煙草は体の具合が悪いから断ったんだから何だが、酒はこれ、銭は稼げないし、ちっとでも飲めばまた飲みたくなるから、やめちまったな。酒ももう、以前と違って一杯いくらというんだから、銭を食うようで」

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「俺おらはあ、暫しばらくやんねえから、煙草たばこは身體からだの工合ぐえゝ惡わりいから斷たつたんだから何なんだが、酒さけは此これ錢ぜねは稼かせげねえし、ちつとでも飮のめば又また飮のみたくなつから廢やめつちやつたな、酒さけもはあ以前めえかたた違ちがつて一杯ぺえ幾いくらつちんだから錢ぜねくんのむやうで」

彼はぶすりとして、しかも力のない声を投げかけるようにして言った。

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彼かれはぶすりとして然しかも力ちからのない聲こゑを投なげ掛かけるやうにしていつた。

「そんなことを言わないで、そら来たとこう手を突き出すもんだ。だるくて仕方がない、これらがな」

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「さうだこと云やあねえで、そら來きたつとかう手てえつんだすもんだ、倦怠まだるつこくつて仕しやうねえ此等こツらがな」

さっきの爺さんは、また一杯をぐっと干して怒鳴った。

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先刻さつきの爺ぢいさんは又また一杯ぱいをぐつと干ほして呶鳴どなつた。

「そうだよ、飲みなさいよお前。めでたい酒だから。威勢をつければお前、体の具合だってちっとくらいなら治っちまうよ」

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「さうだよ、飮のまつせえよおめえ、めでゝえ酒さけだから、威勢えせえつければおめえ身體からだの工合ぐえゝだつてちつと位ぐれえなら癒なほつちやあよ」

婆さんらはまた勧めた。

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婆ばあさん等らは又また侑すゝめた。

「この人も勘次どんにはよくされないんだってさ。困ったもんさな。そんだってお前、そんなものは仕方がないから、そんなにくよくよしないほうがいいよ」

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「此この人ひとも勘次かんじどんにや善よくさんねえごつさら、困こまつたもんさな、そんだつておめえさうえもな仕しやうねえから、さうえにくよくよしねえ方はうがえゝよ」

他の婆さんも言った。

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他たの婆ばあさんもいつた。

「体の具合が悪いなんて、そんな料簡だから卯平らは仕方がない。これらはリューマチだなんて。リューマチなんて病気は腹の虫から出るんだから、なあに訳はないんだよ。蛇でこうしごき下ろすんだ。いいか、おれがこすってやるから。いや本当だよ、おれのなんざあ」

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「身體からだの工合ぐえゝ惡わりいなんて、さうだ料簡れうけんだから卯平等うへいら仕しやうねえ、此等こツらようまづだなんて、ようまづなんち病氣びやうきは腹はらの蟲むしから出でんだから、なあに譯わきあねえだよ、蛇へびでかう扱こきおろすんだ、えゝか、俺おれこすつてやつから、いや本當ほんたうだよ俺おらがなんざあ」

小柄な爺さんは、非常な勢いで言った。

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小柄こがらな爺ぢいさんは非常ひじやうな勢いきほひでいつた。

首の数珠は、彼の声が喉をふくらませるので、そのたびごとに少しずつ動いた。

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首くびの珠數じゆずは彼かれの聲こゑが喉のどを膨脹ばうちやうさせるので其その度たび毎ごとに少すこしづゝ動うごいた。

「おれは蛇は嫌いだから」

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「俺おら蛇へびは嫌きれえだから」

卯平は苦しそうに言った。

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卯平うへいは苦くるし相さうにいつた。

「蛇が嫌いだと。そんな大きな体をして、だらしのないことを言うない。おれなんざ蛇でも毛虫でも怖いなんてことはないんだから。こう、いいか、こうだぞ」

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「蛇へび嫌きれえだと、さうだ大えけえ姿なりしてあばさけたこといふなえ、俺おらなんざ蛇へびでも毛蟲けむしでも可怖おつかねえなんちやねえだから、かうえゝか、斯かうだぞ」

と言いながら爺さんは後ろ向きに立って、十分に酔った足を大股に踏んで、肌を脱いだ両方の手をぎっと握って、手拭いで背中をこするような形をして見せた。

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といひながら爺ぢいさんは後向うしろむきに立たつて、十分ぶんに酩酊よつぱらつた足あしを大股おほまたに踏ふんで、肌はだを脱ぬいだ兩方りやうはうの手てをぎつと握にぎつて、手拭てぬぐひで背中せなかを擦こするやうな形かたちをして見みせた。

「おれはリューマチじゃ八、九年も悩んだんだが、蛇でこすればいいというから、これはうまいことを聞いたと思ってな。大きな青大将がぶらんと柿の木からぶら下がったから、竹竿で掻き落とそうと思ったら、おれの家の婆さんらが構うなと言ったっけが、いいからお前らは黙って見てろ、なんて。それからおれがぐうっと頭をふん掴まえて、こうおれの背中をこすったな。大きな青大将だから、畜生、縮んで曲がった時は引っ掛かってなかなか動かないんだ。それからうんと引き伸ばしちゃこすったな。そうしたら、こう塊がごりごりと崩れるのが分かったっけな。そうしたらなあにけろりよ」

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「俺おらようまづぢや八九年ねんも惱なやんだんだが、蛇へびでこすればえゝつちから、此こら甘うめえこと聞きいたと思おもつてな、大えけえ青大將あをだいしやうぶらんと柹かきの木きからぶらさがつたから竹竿たけざをで掻かき落おとすべと思おもつたら、俺おら家ぢの婆奴等ばゝめら構かまあななんて云ゆつけが、えゝから汝等わツら默だまつて見みてろ、なんてそれから俺おれぐうつと頭あたまふん掴づかめえて、斯かう俺おれ背中せなかこすつたな、大えけえ青大將あをだいしやうだから畜生ちきしやう縮ちゞまつて屈曲えんぢぐんぢした時ときや引ひつ掛かゝつて仲々なかなか動いごかねえだ、それからうゝんと引ひき伸のばしちやこすつたな、さうしたら斯かう塊かたまりごりつ/\とこけんの知しれたつけな、さうしたらなあにけろりよ」

彼は一同へ向けた背中へ手を回して

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彼かれは一同どうへ向むけた背中せなかへ手てを廻まはして

「この辺のところに塊があったのだが、それっきりどこかへ行っちまったな。それからおれはもう、リューマチなんざ訳はないと言ってるんだ」

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「此處こゝらんとこに塊かたまり有あつたのがだが、それつきり何處どこさか行いつちやつたな、それから俺おれはあ、ようまづなんざ譯わきあねえつちつてんだ」

彼の手先が背骨の近くに触れた。

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彼かれの手先てさきが脊椎せきずゐに近ちかく觸ふれた。

「おおいやまあ、大きな灸の跡じゃないかい」

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「おゝえやまあ、大えけえ灸きうの痕あとぢやねえけえ」

と、一人の婆さんが驚いて言った。

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と一人ひとりの婆ばあさんが驚おどろいていつた。

「おれのはこれで三百挺を一遍に火をつけたんだから。おれはむしゃくしゃなことが大好きなのだから。いや本当だよ。おれはこれで腹に疫病がくっついた時だって、とうとう寝なかったっけからな。今じゃ教わってるから、子供らまで赤い病だなんて知ってるが、おれが若いころは何でも疫病と覚えてたのだから。なあ卯平、これらもその時やったから知ってらな。おれは一日に十六度手水場へ行ったのが一等だったっけが。なあに、病気なんぞには負けられるもんかというんだから。その時には村中ずっともう、みんなごろごろしてて、おればかり薬箱を持って医者の送り迎えをしたな。隣近所一軒ごと役には立たないんだから。いや本当だよ。おれは十五日下痢して治ったが、おれは強かったからな。いや強いとも、まったく。なあにってんで、おれは毎日酒をぴんぴん飲んだな。酒を飲んじゃ悪いなんて、医者なんてのはだめだな、ずっと。檳榔樹とか何とかだなんてちっとばかりずつ、削った薬なんぞだるくて仕方がないから、当薬を煎じ出して、毎日おれは片口で五杯ずつも飲んだな。五合くらい入っただろうが、おれは息をつかずだ。なあに、息をついちゃ苦くて仕方がないんだよ」

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「俺おらがな此こんで三百挺ちやう一遍ぺんに火ひい點つけたんだから、俺おらがむしやらなこと大好だえすきのがんだから、いや本當ほんたうだよ、俺おら恁こんで腹疫病はらやくびやうくつゝいた時ときだつて到頭たうとう寢ねねえつちやつたかんな、今いまぢや教をさつてつから餓鬼奴等がきめらまで赤せきれえ病びやうだなんて知しつてんが、俺おら壯さかりの頃ころあ何なんでも疫病やくびやうと覺おべえてたのがんだから、なあ卯平うへい、此こツ等らもそん時ときやつたから知しつてらな、俺おら一日いちんちに十六度ど手水場てうづばへ行いつたの一等とうだつけが、なあに病氣びやうきなんぞにや負まけらツるもんかつちんだから、其そん時ときにや村落中むらぢうかたではあ、みんなごろ/\してんで俺おればかり藥箱くすりばこ持もつて醫者いしやの送迎おくりむけえしたな、隣近所となりきんじよ一軒毎えつけんごめら役やくにや立たたねえだから、いや本當ほんたうだよ、俺おら十五日んち下痢くだつて癒なほつたが俺おら強つよかつたかんな、いや強つええとも全まつたく、なあにツちんで俺おれ毎日まいんち酒さけぴん飮のんだな、酒さけ飮のんぢや惡わりいなんて醫者いしやなんちや駄目だめだなかたで、檳榔樹びんらうじゆとか何なんとかだなんてちつとばかしづゝ、削けづつた藥くすりなんぞ倦怠まだるつこくつて仕しやうねえから、當藥たうやく煎せんじ出だして氣日まいんち俺おれ片口かたくちで五杯へえづゝも飮のんだな、五合がふ位ぐれえへえつけべが、俺おら呼吸えきつかずだ、なあに呼吸えきついちや苦にがくつて仕しやうねえだよ」

と、彼は汚い手拭いで顔の汗を一度拭いた。

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と彼かれは穢きたない手拭てぬぐひで顏かほの汗あせを一度どふいた。

彼は七十を越えても、髪はまだいくらも白くなかった。

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彼かれは七十を越こえても髮かみはまだ幾いくらも白しろくなかつた。

彼は石の塊を投げ出したような硬い体に力を入れて、独り威勢づいた。

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彼かれは石いしの塊かたまりを投なげ出だしたやうな堅かたい身體からだに力ちからを入いれて獨ひとり威勢ゐぜいづいた。

「おれはそれから、五百匁くらいな軍鶏の雑種を一羽引っ縊って、一遍に食っちまったな。そうしたら熱が出た」

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「俺おらそれから五百匁ひやくめ位ぐれえな軍鷄雜種しやもおとし一羽ぱ引ひつ縊くゝつて一遍ぺんに食くつちまつたな、さうしたら熱ねつ出でた」

彼はにわかに声を低くしたが、さらに以前に戻って

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彼かれは俄にはかに聲こゑを低ひくくしたが、更さらに以前いぜんに還かへつて

「熱は出たが、それでおれはぐっと体に力をつけちまったな。そのせいだな、十五日で治ったな。そんだからおれはすぐに麦の八斗はずんずん搗けたな。おれはこれで体格はちっちゃいが強かったな。おれのは無垢に強いのだから。いや本当だよ。卯平らも仕事じゃ強かったが、そりゃ強いとも。そんだがこれらは根性がやくざだから、疫病がくっついて大儀で仕方がないなんて。それからおれが、しっかりしろと言えば、どうも下痢しちゃ力が抜けて仕方がない、うんうんなんて唸って。そんだがあの時には女房は可哀想なことをしたな。世間の奴らが、卯平は女房に祟られるだろうなんて言うから、心配するなっておれが言ったんだな。そんだがこれらは根性がないから。おれは心配するのは大嫌いだ。それ、心配しないで一杯引っ掛けろというんだ」

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「熱ねつは出でたがそれで俺おれぐつと身體からだにや力ちからつけつちやつたな、其その所爲せゐだな十五日んちで癒なほつたな、そんだから俺おら直すぐに麥むぎの八斗とはずん/\搗つけたな、俺おらこんで體格なりはちつちえが強つをかつたな、俺おらがな無垢むくに強つええのがだから、いや本當ほんたうだよ、卯平等うへいらも仕事しごとぢや強つをかつたが、そりや強つええとも、そんだが此こら根性こんじやうやくざだから、疫病やくびやうくつゝいて太儀こはくつて仕しやうねえなんて、それから俺おれ、確乎しつかりしろツちへばどうも下痢くだつちや力ちから拔ぬけて仕しやうねえ、うん/\なんて唸うなつて、そんだがあん時ときにや嚊かゝあは可哀相かはいさうなことしたな世間せけんの奴等やつら卯平うへいは嚊かゝあに崇とつつかれべえなんちから心配しんぺえすんなつて俺おれ云ゆつたんだな、そんだが此こら根性こんじやうねえから、俺おら心配しんぺえするもな大嫌だえきれえだ、それ、心配しんぺえしねえで一杯ぺえ引ひつ掛かけろつちんだ」

爺さんはいくらでも調子に乗ってまくしかけた。

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爺ぢいさんは幾いくらでも乘地のりぢになつてまくしかけた。

「そうだよお前、酒の座敷でむっつりしてるものがあるもんじゃない」

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「さうだよおめえ、酒さけの座敷ざしきでむつゝりしてるもな有あるもんぢやねえ」

「婆さんの手だってお前、酒じゃ酔うから、やってみなさいよ」

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「婆ばあさまの手てだつておめえ酒さけぢや酩酊よつぱらあからやつて見みさつせえよ」

婆さんらはそばから交互に杯を勧めた。

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婆ばあさん等らは側そばから交互たがひに杯さかづきを侑すゝめた。

彼らは情けなげな卯平を慰めようとするよりも、独りむっつりとしている彼を仲間に引き込もうというのと、変わっている彼の様子に対してからかってもみたいからとであった。

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彼等かれらは情なさけなげな卯平うへいを慰なぐさめようとするよりも、獨ひとりむつゝりとして居ゐる彼かれを伴侶なかまに引ひつ込こまうといふのと、變かはつて居ゐる彼かれの容子ようすに對たいして揶揄からかつても見みたいからとであつた。

「おれは銭を出しもしないで、他人の酒なんぞ」

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「俺おら錢ぜね出だしもしねえで、他人ひとの酒さけなんぞ」

卯平は口が粘って舌がこわばったように言った。

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卯平うへいは口くちが粘ねばつて舌したが硬こはばつたやうにいつた。

「お前が構うもんじゃないな、そんなこと」

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「おめえ管かまあもんぢやねえな、其麽そんなこと」

婆さんらはまた言った。

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婆ばあさん等らは又またいつた。

「酒代が足りなけりゃ、こっちのほうに寺銭ができてるよ、お前ら」

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「酒代さかで足たんなけりや、こつちの方はうに寺錢てらせん出來できてるよおめえ等ら」

宝引きの仲間がこちらを顧みて言った。

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寶引はうびきの仲間なかまがこちらを顧かへりみていつた。

「要らないとも、そんな銭なんざ。おれは博打なんざ何でも嫌いだから」

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「要えらねえともそんな錢ぜねなんざ、俺おら博奕ばくちなんざ何なんでも嫌きれえだから」

小柄な爺さんはすぐに怒鳴った。

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小柄こがらな爺ぢいさんは直すぐに呶鳴どなつた。

「おれはもう、銭もありもしないで」

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「俺おらはあ錢ぜねも有ありもしねえで」

卯平は他人の騒ぎに釣り込まれようとするよりも、自分の心の内のあるものをやっとのことで吐き出そうとするように呟いた。

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卯平うへいは他人ひとの騷さわぎに釣つり込こまれようとするよりも、自分じぶんの心裏しんりの或ある物ものを漸やつとのこと吐はき出ださうとするやうに呟つぶやいた。

「またそんなことだから仕方がない。勘次らは懐具合がいいというんだから、要るなら何でも、てめえよこせとこう言うんだ。構わないから奪い取ってやれ。おれだったらそうだ。いや本当だとも。婿なんぞに威張られてるなんてことがあるもんか。卯平らは根性が弱いから仕方がない」

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「又またさうだこつたから仕しやうねえ、勘次等かんじら懷工合ふところぐえゝえゝつちんだから、要えらば何なんでも、汝われよこせつと斯かういふんだ。管かまあねえから奪取ふんだくつてやれ、俺おらだらさうだ、いや本當ほんたうだとも、聟むこなんぞに威張えばられてるなんちこと有あるもんか、卯平等うへいら根性こんじよう薄弱やくざだから仕しやうねえ」

小柄な爺さんは、髪をいっぱいに汗で濡らした。

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小柄こがらな爺ぢいさんは髮かみを一杯ぱいに汗あせで濕うるほした。

「威張られる理由じゃないが、おれはおれでやろうと思ってるんだから」

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「威張えばらツる理由わけぢやねえが、俺おら俺おれでやんべと思おもつてんだから」

卯平は自分をかばうように言った。

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卯平うへいは自分じぶんを庇護ひごするやうにいつた。

「婿なんぞ、承知するもんじゃない。あんな泥棒野郎、おれは嫌いだ。畑でも田でも油断ならないから」

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「聟むこなんぞ、承知しようちするもんぢやねえ、あゝだ泥棒野郎どろぼうやらう、俺おら嫌きれえだ、畑はたけでも田たでも油斷ゆだんなんねえから」

「そんだが、今じゃ懐がちっとはいいせいか、盗るのは盗らないよ」

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「そんだが、今いまぢや懷ふところちつたえゝ所爲せえか盜とるな盜とんねえよ」

「なあにおれは、蜀黍を伐った時には勘弁するまいと思ったんだったが、お内儀さんに来られたから我慢したんだ。おれが卯平だったら槍で突き刺してやるんだ。いや、おれには本当にやられるとも。おれは家族の奴らになんざ、ぐずぐずは言わせないんだ。おれの家じゃ元日には暗いうちに起きて、蓑を着て、囲炉裏端で芋を焼いて食う縁起なんだが、おれの家の奴らが、外聞が悪いからいやだなんて吐かしやがるから、おれが、何だとうお前ら、いやだと言うんならいやだって今一遍言ってみろ、おれの目玉の黒いうちはそうはいかないぞというんだから。いや本当に、おれは聞かないんだから」

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「なあに俺おれ、蜀黍もろこし伐きつた時ときにや勘辨かんべんしめえと思おもつたんだつけがお内儀かみさんに來きらツたから我慢がまんしたんだ、俺おれ卯平うへいだら槍やりで突つつ刺ぶしてやんだ、いや俺おれにや本當ほんたうに行やられつとも、俺おら家族うちの奴等やつらげなんざぐづ/\は云やあせねえだ、俺おら家ぢぢや元日ぐわんじつにや闇くれえに起おきて、蓑みの着きて、圍爐裏端ゐろりばたで芋いも燒やえてくふ縁起えんぎなんだが、俺おら家ぢの奴等やつら外聞げえぶん惡わりいから厭やだなんて吐ぬかしやがつから、俺おれ、何なんだとう汝わツ等ら、厭やだつちんだら厭やだつて今いま一遍ぺん云ゆつて見みろ、俺おれ目玉めだまの黒くれえ内うちやさうはえがねえぞつちんだから、いや本當ほんたうに俺おら聽きかねえだから」

彼は髪が余計に湿りを増して、みんなの耳の底に徹るほど怒鳴って見せた。

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彼かれは髮かみが餘計よけいに濕うるほひを増まして悉皆みんなの耳みゝの底そこに徹とほる程ほど呶鳴どなつて見みせた。

「お前みたいにそうは行かないよ、他人は」

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「おめえ見みてえにさうは行いかねえよ、他人たにんは」

卯平はぽつりと言った。

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卯平うへいはぽさりといつた。

「本当にお前みたいなものはないよ。若い時から毎晩酔っちゃ、後夜が鶏でも構わない、馬を曳いて帰っちゃ戸の割れるほど叩いて、そうしちゃ馬の裾湯が沸いてないって言っちゃ、家族の者を追い出してなあ。百姓はお前、夜中まで眠らないで待ってはいられないな。そんだがお前も、跡取りがよくできて仕合わせだよなあ」

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「本當ほんたうにおめえ見みてえなもなねえよ、若わけえ時ときから毎晩まいばん酩酊よつぱらつちや後夜ごやが鷄とりでも構かまあねえ馬うま曳ひいて歸けえつちや戸との割われる程ほど叩たゝいて、さうしちや馬うまの裾湯すそゆ沸わえてねえつて云ゆつちや家族うちの者ものこと追おひ出だしてなあ、百姓ひやくしやうはおめえ夜中よなかまで眠ねむんねえで待まつちや居ゐらんねえな、そんだがおめえも相續人さうぞくにん善よく出來できて仕合しあはせだよなあ」

そばにいてさっきから聞いていた婆さんの一人が言った。

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側そばに居ゐて先刻さつきから聞きいて居ゐた婆ばあさんの一人ひとりがいつた。

その身なりは、他の老人らとは違っていた。

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其その服裝なりは他たの老人等としよりらとは異ちがつて居ゐた。

「おれには打ち出されるとも。これでおれは力は強かったからな。仕事じゃ卯平も強かったが、こんな大きな体格をして、相撲じゃおれにはずっとぺたぺただ。おれはあっという間に投げつけちまうんだから。ああ、おれは腕ばかりじゃない。それくらいだから歯も強いんだよ。おれは麦打ちの時、唐箕を立ててて半夏桃をもらったのを、ひょいと口へ入れたっきり、種までがりがり噛んじまったな。奇態だよ、そんだが桃を噛ってると鼻の中へ埃が入らないからな。おれの歯じゃ誰でも驚くんだから。真鍮の煙管なんざ、くわえてぎりぎりっとこう手のひらでぶん回すと、ぽろっと噛み切れちまうのだから。そんだから今でも、こうれ、このとおりだ」

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「俺おれにや打ぶち出だされつとも、此こんで俺おら力ちからは強つをかつたかんな、仕事しごとぢや卯平うへいも強つをかつたが、かうだ大えけえ體格なりして相撲すまふぢや俺おれにやかたでぺた/\だ。俺おらやあつち内うちにや打ぶん投なげつちやあだから、あゝ、俺おら腕うでばかしぢやねえ、そらつ位くれえだから齒はも強つええだよ、俺おら麥打むぎぶちん時とき唐箕たうみ立たてゝちや半夏桃はんげもゝ貰もらつたの、ひよえつと口くちさ入せえたつきり、核たねまでがり/\噛かぢつちやつたな、奇態きたいだよそんだが桃もゝ噛かぢつてつと鼻はなん中なかさ埃ほこりへえんねえかんな、俺おれが齒はぢや誰たれでも魂消たまげんだから眞鍮しんちうの煙管きせるなんざ、銜くうええてぎり/\つとかう手てツ平ぴらでぶん廻まあすとぽろうつと噛かみ切きれちやあのがんだから、そんだから今いまでも、かうれ、此この通とほりだ」

爺さんはぎりぎりと歯を噛み合わせて見せた。

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爺ぢいさんはぎり/\と齒はを噛かみ合あはせて見みせた。

「おれはそれから、喧嘩じゃ負けたことはないんだよ。野郎、何だというときには、張り倒すか、引っ転がすかだな。ごろりと転がった所を爪先と踵を持って、こうぐるぐる引き回すと、どうだ、大きな野郎でも起きられないんだよ。もうおかしくて仕方がないな。いいか、こう、こうやるんだよ。ああ、おれは本当に強いのだよ。それ、卯平らはだめだな。後ろのほうにばかり隠れててからっきり」

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「俺おらそれから、喧嘩けんくわぢや負まけたこたねえだよ、野郎やらう何なんだつち内うちにや打ぶつ張ぱるか、掻かつ轉ころがすかだな、ごろり轉ころがつた處ところ爪先つまさきと踵くびす持もつてかうぐる/\引ひん廻まあすとどうだ大えけえ野郎やらうでも起おきらんねえだよ、から笑止をかしくつて仕しやうねえな、えゝか、斯かう、かうやんだよ、あゝ、俺おら本當ほんたうに強つええのがんだよ、それ卯平等うへいら駄目だめだな後うしろの方はうにばかし隱かくれてゝからつき」

と、爺さんは少し座を下がって、両手で喧嘩の相手を苛めるような様子をして見せた。

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と爺ぢいさんは少すこし座ざを退さがつて兩手りやうてを以もつて喧嘩けんくわの相手あひてを苛いぢめるやうな容子ようすをして見みせた。

「そんだがおれは旦那に言われてから、家族の奴らのことも怒らないもう。おれはうまい所を見られちまったな。いや、言われちゃもったいのうございます。本当にもったいないんだよ、お婆さん」

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「そんだが俺おれ旦那だんなに云やあれてから、家族うちの奴等やつらことも怒おこんねえはあ、俺おれうめえ處とこ見みられつちやつたな、いや云やあれちや勿體もつてえながす、本當ほんたうに勿體もつてえねえだよ、お婆ばあさん」

爺さんは首をうなだれて、めっきり静かになって言った。

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爺ぢいさんは首くびを俛たれて滅切めつきり靜しづかになつていつた。

そうして彼は茶碗の酒をだらだらとこぼしながら、一口に飲んだ。

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さうして彼かれは茶碗ちやわんの酒さけをだら/\と零こぼしながらに一口ひとくちに嚥のんだ。

この時、外から女房が一人忙しく来た。

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此この時とき外そとから女房にようばうが一人ひとり忙せはしく來きた。

女房は仏壇の前へ行って

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女房にようばうは佛壇ぶつだんの前まへへ行いつて

「駐在所が来たよ」

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「駐在所ちうざいしよ來きたよ」

みんなの中へ首を突き入れるようにして、そっと語った。

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悉皆みんなの中なかへ首くびを突つき入いれるやうにして竊そつと語かたつた。

みんなはしきりに勝ち負けにばかり心を奪われていた。

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悉皆みんなは頻しきりに輸臝かちまけにのみ心こゝろを奪うばはれて居ゐた。

彼らの顔はにこにことしたり、または しばらくどっぺをつかまない者は、難しくなった目をしかめたり、口をむぐむぐと動かしたりして、自分はいっこうにそれを知らないのであった。

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彼等かれらの顏かほはにこ/\としたり又または暫しばらくどつぺを掴つかまぬものは難むづかしくなつた目めを蹙しがめたり口くちをむぐ/\と動うごかしたりして自分じぶんは一向かうそれを知しらないのであつた。

彼らの各自が持っているさまざまな隠れた性情が、薄暗い部屋の内にこっそりと思い切って表れていた。

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彼等かれらの各自めい/\が持もつて居ゐる種々いろ/\な隱かくれた性情せいじやうが薄闇うすぐらい室しつの内うちにこつそりと思おもひ切きつて表現へうげんされて居ゐた。

女房の言葉は、みんなの顔をただ驚きの表情で覆わせた。

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女房はようばうの言辭ことばは悉皆みんなの顏かほを唯たゞ驚愕おどろきの表情へうじやうを以もつて掩おほはしめた。

一度に女房を見た彼らには、その時までささやき合った面影がちっともなかった。

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一度どに女房にようばうを見みた彼等かれらには其その時ときまで私語さゞめき合あうた俤おもかげがちつともなかつた。

彼らは慌てて宝引き糸も懐へ隠して、知らない様子を装って囲炉裏のそばへ集まった。

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彼等かれらは慌あわてゝ寶引絲はうびきいとも懷ふところへ隱かくして知しらぬ容子ようすを粧よそほうて圍爐裏ゐろりの側そばへ集あつまつた。

「こっちのほうはひどく威勢がいいから、おれらも仲間入りさせてもらいたいもんだ」

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「こつちの方はう酷ひどく威勢えせいえゝから俺おらも仲間入なかまいりさせてもらえてもんだ」

宝引きの婆さんらは言った。

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寶引はうびきの婆ばあさん等らはいつた。

「この婆さんらは、寄れば触れば博打なんぞする気にばかりなって」

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「此この婆等ばゝあら寄よれば觸さあれば博奕ばくちなんぞする氣きにばかし成なつて」

爺さんは依然として悪口を止めなかった。

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爺ぢいさんは依然いぜんとして惡口わるくちを止やめなかつた。

「こんな婆さんらだって、そんなに荷厄介にしないでくれよ。これでおれの家じゃまだおれがいなくちゃ闇だよお前、嫁があの仕掛けだもの」

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「かうだ婆等ばゞあらだつてさうだに荷厄介にやつけえにしねえでくろよ、こんで俺おら家ぢぢやまあだ俺おれなくつちや闇くらやみだよおめえ、嫁よめがあの仕掛しかけだもの」

婆さんはさらに

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婆ばあさんは更さらに

「おれの仲間も寺銭で後を買うから、独りでむっつりしてないで一つやりなさいね」

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「俺おらあ仲間なかまも寺錢てらせんで後あと買かあから、獨ひとりでむつゝりしてねえで一ひとつやらつせえね」

と、卯平へ杯を勧めた。

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と卯平うへいへ杯さかづきを侑すゝめた。

一同の威勢が次第に卯平の心を引き立てて、とうとう彼の大きな手に茶碗を取らせた。

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一同どうの威勢ゐせいが漸次しだいに卯平うへいの心こゝろを惹ひき立たてゝ到頭たうとう彼かれの大おほきな手てに茶碗ちやわんを執とらせた。

婆さんらの袂が触れて、軽くなっていた徳利が倒された。

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婆ばあさん等らの袂たもとが觸ふれて輕かるく成なつてた徳利とくりが倒たふされた。

婆さんらは慌てて手拭いで拭こうとした。

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婆ばあさん等らは慌あわてゝ手拭てぬぐひでふかうとした。

小柄な爺さんは突然畳へ口をつけて、すうすうと息もつかずに酒をすすって、それから強い咳をして、ざらざらになった口の埃を手拭いでこすった。

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小柄こがらな爺ぢいさんは突然いきなり疊たゝみへ口くちをつけてすう/\と呼吸いきもつかずに酒さけを啜すゝつてそれから強つよい咳せきをして、ざら/\に成なつた口くちの埃ほこりを手拭てぬぐひでこすつた。

「婆さんらがもったいないことをするから仕方がない。いやもったいないとも、米の油だからこれで。それ、証拠には酒を飲んだ翌日じゃ、顔を洗う時つるつるするところが奇態だな。何でも人間は油が吹き出すようなら体は大丈夫だから。卯平、そうれ一杯飲め」

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「婆等ばゝあら勿體もつてえねえことすつから仕しやうねえ、いや勿體もつてえねえとも米こめの油あぶらだからこんで、それ證據しようこにや酒さけ飮のんだ明日あしたぢや面つら洗あらあ時ときつる/\すつ處とこ奇態きてえだな、何なんでも人間にんげんは油あぶら吹ふき出だすやうだら身體からだは大丈夫だえぢやうぶだから、卯平うへいそうれ一杯ぺえ飮のめ」

爺さんは、また口を手拭いでこすりながら言った。

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爺ぢいさんは又また口くちを手拭てぬぐひでこすりつゝいつた。

「畜生だからあんな野郎は。畜生と同じだから」

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「畜生ちきしやうだからあゝだ野郎やらうは、畜生ちきしやうとおんなじだから」

爺さんは、小さな頭の湿りをまたすっと手拭いで拭いた。

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爺ぢいさんは小ちひさな頭あたまの濕うるほひを又またすつと手拭てぬぐひでふいた。

「そんなにお前、畜生だなんて。手元も見もしないで」

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「其麽そんなにおめえ、畜生ちきしやうだなんて、手てもとも見みもしねえで」

と、さっきの身なりのいい婆さんがたしなめるように言った。

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と先刻さつきの服裝みなりの好いい婆ばあさんが窘たしなめるやうにいつた。

「いやっ、お婆さん、手元を見ないったって、そうに決まってるんだから。いや本当だよ。おれは嘘を言うのは嫌いだから。そんだがあの阿魔もずうずうしい阿魔だ。この間なんざ、おっかさんのことは思い出さないかと言ったら、思い出さないなんて吐かしやがって」

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「いやツ、お婆ばあさん、手てもと見みねえつたつてさうに極きまつてんだから、いや本當ほんたうだよ。俺おら嘘ちくいふな嫌きれえだから、そんだがあの阿魔あまもづう/\しい阿魔あまだ、此間こねえだなんざおつかこた思おもひ出ださねえかつちつたら、思おもひ出ださねえなんて吐ぬかしやがつて」

爺さんはまた調子に乗った。

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爺ぢいさんは又また乘地のりぢに成なつた。

「ありゃあそれ、おれには分かるんだよ。随分辛い目に遭ったから、お袋のことを思わないことはないが、みんなでからかいからかいしたから、それでそんなことを言うようになったんだな。さすがにあれだって困ってはいるんだから。何と言ったって、あれには罪はないよ」

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「ありやあそれ、俺おれがにやえゝんだよ、隨分ずゐぶん辛つれえ目めに逢あつたから、お袋ふくろこと思まあねえこたねえが、悉皆みんな揶揄からけえ/\したからそんでさうだこといふやうん成なつたんだな、有繋まさかあれだつて困こまつちや居ゐんだから、何なんちつたつてあれにや罪つみやあねえよ」

最後の一句をすっと低く言って、彼はようやく茶碗の底を干した。

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最後さいごの一句くをすつと低ひくくいつて彼かれは漸やうやく茶碗ちやわんの底そこを干ほした。

「勘次も辛かったろうが、おれもお品に死なれた時には泣いたよ。あれのことは三つの時から育てたんだから」

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「勘次かんじも辛つらかつたんべが、俺おらも品しなに死しなつた時ときにや泣ねえたよ、あれこた三みつつの時ときツから育そだツたんだから」

卯平はまた情けなげな舌が、もうこわばってしまった。

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卯平うへいは又また情なさけなげな舌したがもう硬こはばつて畢しまつた。

「ほんにお前も、お品さんに死なれたのが不運だったっけのさな。そんだがお前、長生きしただけいいんだよ」

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「ほんにおめえもお品しなさんに死なくならつたのが不運くされだつけのさな、そんだがおめえ長命ながいきしたゞけええんだよ」

婆さんらは口々に慰めながら言った。

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婆ばあさん等らは口々くちぐちに慰なぐさめつゝいつた。

「手足も利かなくなっちまって、銭は取れずもう。野田でこしらえた単衣物もなくしちまったな。どうせこれ、来年の夏まで生きていられるかどうだか分かりやしまいし、構わないな」

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「手足てあしも利きかなくなつちやつて錢ぜねはとれずはあ、野田のだで拵こせえた單衣物ひてえものもなくしつちやつたな、どうせ此これ、來年らいねんの夏なつまで生いきてられつか何どうだか分わかりやすめえし、管かまあねえな」

卯平は口の中で独り呟くように、ぶすりと言った。

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卯平うへいは口たゞ獨ひとりで呟つぶやくやうにぶすりといつた。

彼はほとんど、その舌が味を感じないであろうと思うように、ただ茶碗の酒を傾けるのみであった。

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彼かれは殆ほとんど其その舌したが味あぢを感かんぜぬであらうと思おもふやうに只たゞ茶碗ちやわんの酒さけを傾かたむけるのみであつた。

「そんだが娘も年ごろが来てるのに、やるとか取るとかしないじゃ可哀想だよなあ」

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「そんだが娘むすめも年頃としごろ來きてんのに遣やるとかとるとかしねえぢや可哀相かあいさうだよなあ」

婆さんらの口は、それからそれと尽きなかった。

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婆ばあさん等らの口くちはそれからそれと竭つきなかつた。

酒に勢いをつけられた婆さんらは、何かの詮索をしなければ気が済まないのであった。

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酒さけに勢いきほひつけられた婆ばあさん等らは何なにかの穿鑿せんさくをせねば氣きが濟すまないのであつた。

「どうするこったか、自分の子供でもありやしまいし、おれには分からないな」

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「どうするこつたか自分じぶんの子供こどもでもありやすめえし、俺おらがにや分わかんねえな」

卯平は、どこまでも乾いた言い方である。

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卯平うへいは何處どこまでも乾からびたいひやうである。

「そんだがよ、話してやるといいんだな。出すと決まりゃ、いくらでも口はあらあな」

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「そんだがよ、噺はなしてやつとえゝんだな、出だすと極きまりや幾いくらでも口くちは有あらな」

「無駄だよお前、誰が言うことだって聞く苦労はないんだから」

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「徒勞むだだよおめえ、誰だれがいふことだつて聽きく苦勞くらうはねえんだから」

婆さんらは互いに勝手なことを、がやがやと語り続けた。

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婆ばあさん等らは互たがひに勝手かつてなことをがや/\と語かたり續つゞけた。

「そんじゃ隣の旦那にでもよく話してもらったら、聞くかも知れないぞ。それよりほかはないぞ、お前」

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「そんぢや隣となりの旦那だんなにでもようく噺はなしてもらつたら聽きくかも知しんねえぞ、それより外ほかあねえぞおめえ」

婆さんの一人が卯平に向かって言った。

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婆ばあさんの一人ひとりが卯平うへいに向むかつていつた。

「そうすりゃもう、お互いにいい塩梅で疵もつかないんだから。おれもそうは思ってはいるんだが、これ、言うのもおかしなもんで」

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「さうすりやはあ、お互たげえにえゝ鹽梅あんべえで疵きずもつかねえんだから、俺おれもさうは思おもつちや居ゐんだが、此これ、いふのもをかしなもんで」

卯平の頬にはやや紅が差して、彼は婆さんに言われたことが嬉しそうに見えるのであった。

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卯平うへいの頬ほゝには稍やゝ紅べにを潮さして彼かれは婆ばあさんにいはれたことが嬉うれし相さうに見みえるのであつた。

「なあに、そうもこうもあるもんか。いいから、そんな奴らは打っ飛ばしてやれ」

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「なあに、さうだもかうだも有あるもんか、えゝから、さうだ奴等やつら打ぶつ飛とばしてやれ」

しばらく黙っていたさっきの爺さんは、小柄な体を固めてまた怒鳴った。

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暫しばらく默だまつて居ゐた先刻さつきの爺ぢいさんは小柄こがらな身體からだを堅かためて又また呶鳴どなつた。

「うん、なあに、おれもそれから去年の秋は火箸で打っ飛ばしてやったな」

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「うむ、なあに俺おれもそれから去年きよねんの秋あきは火箸ひばしで打ぶつ飛とばしてやつたな」

卯平はこう言って、彼にしては著しく元気を回復していた。

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卯平うへいは斯かういつて彼かれにしては著いちじるしく元氣げんきを恢復くわいふくして居ゐた。

「そうだとも。銭でも何でもくれなけりゃ、よこせと言えばいいんだ。銭がないなんて言えば、米でも麦でも奪い取ってやれ」

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「さうだとも、錢ぜねでも何なんでも呉くんなけりや、よこせつちばえゝんだ、錢ぜねねえなんちへば米こめでも麥むぎでも奪取ふんだくつてやれ」

爺さんは周りへ唾を飛ばした。

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爺ぢいさんは周圍あたりへ唾つばを飛とばした。

「それでもおれは、打っ飛ばしてから、質の流れだなんて味噌を一樽買ったな。麩味噌でうまくはないが、今じゃそんでも汁は吸えることは吸えるのよ」

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「それでも俺おれ打ぶつ飛とばしてから質しちの流ながれだなんち味噌みそ一樽たる買かつたな、麩味噌ふすまみそで佳味うまかねえが今いまぢやそんでもお汁つけは吸すへるこた吸すへんのよ」

卯平は、自分の手柄でも語るような言い方であった。

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卯平うへいは自分じぶんの手柄てがらでも語かたるやうないひ方かたであつた。

「食い物を惜しがるなんて、業つくばりもないもんじゃないか。本当に罰当たりだから。おれだったら生かしちゃおかない。いや、まったくだよ。親に食わせるのが惜しいなんて野郎は、突き刺したって申し開きが立つとも。おれだったら立派に立てて見せらあな。卯平、しっかりしろ。おれだったら勘次らくらいのは、またうんという目に遭わせらあな。いや本当に、おれに掛かっちゃひどいからな、これで」

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「食料くひもの措をしがるなんち業ごふつくばりもねえもんぢやねえか、本當ほんたうに罰ばちつたかりだから、俺おらだら生いかしちや置おかねえ、いや全まつたくだよ、親おやのげ食かあせんの惜をしいなんち野郎やらうは突つつ刺ぷしたつて申まをし開ひらき立たつとも、俺おらだら立派りつぱに立たてゝ見みせらな、卯平うへい確乎しつかりしろ、俺おらだら勘次等かんじら位ぐれえなゝ又またうんち目めに逢ああせらな、いや本當ほんたうに俺おれに掛かゝつちや酷ひでえかんなこんで」

爺さんは激しく、そうして例の自慢を言い続けた。

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爺ぢいさんは激はげしくさうして例れいの自慢じまんをいひ續つゞけた。

「そんなことを言ったってお前、以前から他人のことを切ったこともない癖に」

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「さうだこと云ゆつたつておめえ、以前めえかたから他人ひとのこと切きつたこともねえ癖くせに」

そばから身なりのいい婆さんがけなして言った。

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側そばから服裝みなりの好いい婆ばあさんが貶くさしていつた。

「そんだが、この年になって懲役に行くのはいやよ、おれも」

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「そんだが、此この年齡としになつて懲役ちようえきに行えぐな厭やよ俺おれも」

爺さんはずっと垂れた頭を手で抑えて笑いこけた。

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爺ぢいさんはずつと垂たれた頭あたまを手てで抑おさへて笑わらひこけた。

婆さんらもどっと笑った。

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婆ばあさん等らもどつと哄笑どよめいた。

「勘次らは、その時からおれとは口も利かないや」

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「勘次等かんじら、そん時ときから俺おれた口くちも利きかねえや」

卯平は他人には頓着なしにこう言って、その舌を鳴らして唾を飲んだ。

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卯平うへいは他人ひとには頓着とんぢやくなしにかういつて其その舌したを鳴ならして唾つばを嚥のんだ。

「口を利かない。そんなら口を両方へふん裂いてやれ。さあ利くか利かないかと、こうだ」

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「口くち利きかねえ、そんだら口くち兩方りやうはうへふん裂ぜえてやれ、さあ利きくか利きかねえかと斯かうだ」

小柄な爺さんは自分の口を両手の指でぐっと広げて言った。囲炉裏の辺りは、しばらく騒ぎが止まなかった。

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小柄こがらな爺ぢいさんは自分じぶんの口くちを兩手りやうての指ゆびでぐつと擴ひろげていつた、圍爐裏ゐろりの邊あたりは暫しばらく騷さわぎが止やまなかつた。

卯平の心も、たとえ一時的でも周囲の刺激からいくらかの力を添えられて、ある勢いを回復したのであった。

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卯平うへいの心こゝろも假令たとひ一時的じてきでも周圍しうゐの刺戟しげきから幾分いくぶんの力ちからを添そへられて或ある勢いきほひを恢復くわいふくしたのであつた。

「しっかりしろえ、いいから」

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「確乎しつかりしろえ、えゝから」

小柄な爺さんは、別れる時また怒鳴った。

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小柄こがらな爺ぢいさんは別わかれる時とき復また呶鳴どなつた。

卯平の足元は、やや力づいて見えていた。

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卯平うへいの足あしもとは稍やゝ力ちからづいて見みえて居ゐた。

卯平は念仏寮から帰って来た時、どかりと火鉢の前に座った。

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卯平うへいは念佛寮ねんぶつれうから歸かへつて來きた時ときどかりと火鉢ひばちの前まへに坐すわつた。

彼は勢いづけられていた。

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彼かれは勢いきほひづけられて居ゐた。

勘次は例のごとく遠ざかった。

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勘次かんじは例れいの如ごとく遠とほざかつた。

「おつう、米と挽き割り麦を出せ」

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「おつう、米こめと挽割麥ひきわり出だせ」

卯平は座に就くと、突然こう言った。

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卯平うへいは座ざに就つくと突然とつぜんかういつた。

「たくさん出せ」

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「夥多みつしら出だせ」

間を置いてまた言った。

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間あひだを措おいて又またいつた。

「何するんだい、爺さんは」

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「何なにすんでえ、爺ぢいは」

おつぎはそれを軽く受けて、こう言った。

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おつぎはそれを輕かるく受うけて斯かういつた。

卯平は目をしかめた。

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卯平うへいは目めを蹙しがめた。

彼は闇夜にずんずんと運んだ足が、急に窪みを踏んでがくりと調子が狂ったような様子であった。

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彼かれは闇夜あんやにずんずんと運はこんだ足あしが急きふに窪くぼみを踏ふんでがくりと調子てうしが狂くるつたやうな容子ようすであつた。

「明日、要るなら出してやろうな。爺さんらはどうせ夜なんぞ要りやしまいしなあ」

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「明日あした、要えれば出だしてやんびやな、爺等ぢいらどうせ夜よるなんぞ要えりやすめえしなあ」

おつぎはまた、なだめるように言った。

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おつぎは又また賺すかすやうにいつた。

卯平はもう、繰り返して言わなかった。

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卯平うへいはもう反覆くりかへしていはなかつた。

彼はただその癖の舌を鳴らして、ごくりと唾を飲むのみであった。

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彼かれは只たゞ其その癖くせの舌したを鳴ならしてごくりと唾つばを嚥のむのみであつた。

次の朝になって酒気がことごとく彼の体から発散し尽くしたら、彼はふだんの卯平であった。

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次つぎの朝あさに成なつて酒氣しゆきが悉こと/″\く彼かれの身體からだから發散はつさんし盡つくしたら彼かれは平生へいぜいの卯平うへいであつた。

二四

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二四

卯平はけっして悪人ではなかった。

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卯平うへいは決けつして惡人あくにんではなかつた。

彼は生まれつき厳めしく大きな体であったけれど、そのしかめたような目には不断にどこか柔らかな光を持っているようで、思い切ってしなければならない事件に出遭っても、二度や三度はためらうのが、どうかと言えば彼の癖の一つであった。

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彼かれは性來せいらい嚴疊がんでふで大おほきな身體からだであつたけれど、其その蹙しかめたやうな目めには不斷ふだんに何處どこか軟やはらかな光ひかりを有もつて居ゐるやうで、思おもひ切きつてせねば成ならぬ事件じけんに出逢であうても二度どや三度どは逡巡しりごみするのがどうかといへば彼かれの癖くせの一つであつた。

ぶすりとしてそっけない様子でも、表面に現れたよりも暖かで、女に脆いところさえあるのであった。

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ぶすりと膠にべない容子ようすでも表面へうめんに現あらはれたよりも暖あたゝかで、女をんなに脆もろい處ところさへあるのであつた。

彼が働き盛りのころに他人の目についたのは、自分自身の仕事にはあまり精を出さないように見えることであった。

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彼かれが盛年さかりの頃ころに他人たにんの目めについたのは、自分自身じぶんじしんの仕事しごとには餘あまり精せいを出ださないやうに見みえることであつた。

たいがいのことではいっこうに騒がないような彼の様子が、外からではそうらしくも見えるのであった。

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大概たいがいのことでは一向かうに騷さわがぬやうな彼かれの容子ようすが外ほかからではさうらしくも見みえるのであつた。

もう一つは、身なりをけっして崩さないことであった。

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も一つは服裝ふくさうを決けつして崩くずさぬことであつた。

彼は他人に雇われていながら、草刈りにでも出る時は、手拭いと紺の単衣と三尺帯とを風呂敷に包んで馬の荷鞍にくくった。

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彼かれは他人たにんに傭やとはれて居ゐながら、草刈くさかりにでも出でる時ときは手拭てぬぐひと紺こんの單衣ひとへものと三尺帶じやくおびとを風呂敷ふろしきに包つゝんで馬うまの荷鞍にぐらに括くゝつた。

そのころは、草といってはすっかり薙ぎ倒して、そだでも縛るように中央を束ねて馬に積むのであった。

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其その頃ころは草くさというては悉皆みんな薙倒なぎたふして麁朶そだでも縛しばるやうに中央ちうあうを束つかねて馬うまに積つむのであつた。

雑木林の間に馬を繋いだままで、彼は着物を改めて当てもなくぶらつくのが好きであった。

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雜木林ざふきばやしの間あひだに馬うまを繋つないだ儘まゝで彼かれは衣物きものを改あらためてあてどもなくぶらつくのが好すきであつた。

それでも彼の強健な鍛えられた腕は、定められた一人分の仕事を果たすのは、日がやや傾いてからでも、あながち難しいことではないのであった。

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それでも彼かれの強健きやうけんな鍛練たんれんされた腕うでは定さだめられた一人分にんぶんの仕事しごとを果はたすのは日ひが稍やゝ傾かたぶいてからでも強あながち難事なんじではないのであつた。

この二つのほかには、別段これといって数えるほど他人の記憶にも残っていなかった。

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此この二つの外ほかには別段べつだん此これというて數かぞへる程ほど他人たにんの記憶きおくにも残のこつて居ゐなかつた。

それでも彼の大きな体と生まれつきの器用とは、主人をして比較的余計な給料を惜しませなかった。

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それでも彼かれの大おほきな躰躯からだと性來せいらいの器用きようとは主人しゆじんをして比較的ひかくてき餘計よけいな給料きふれうを惜をしませなかつた。

彼はその奉公して得た給料を自分の身に費やして、そのころでは他所目には疑われる年ごろの、三十近くまで独身の生活を続けた。

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彼かれは其その奉公ほうこうして獲えた給料きふれうを自分じぶんの身みに費つひやして其その頃ころでは餘所目よそめには疑うたがはれる年頃としごろの卅近ぢかくまで獨身どくしんの生活せいくわつを繼續けいぞくした。

その間に彼は梅毒を病んだ。

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其その間あひだに彼かれは黴毒ばいどくを病やんだ。

一時はぶらぶらと怠そうな青い顔もしていたが、病気はしばらくして忘れたように、その強健な体のどこかに潜んでしまった。

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一時じはぶら/\と懶相だるさうな蒼あをい顏かほもして居ゐたが、病氣びやうきは暫しばらくして忘わすれたやうに其その強健きやうけんな身體からだの何處どこにか潜伏せんぷくして畢しまつた。

彼はもちろんそれを、治ったことと思っていた。

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彼かれは勿論もちろんそれを癒なほつたことゝ思おもつて居ゐた。

そのうちに彼は嫁を取って、小さな所帯を持って稼ぐことになった。

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其その内うちに彼かれは娶よめをとつて小ちひさな世帶しよたいを持もつて稼かせぐことになつた。

嫁は間もなく身ごもったが、胎児は死んで、そうして腐って出た。

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娶よめは間まもなく懷姙くわいにんしたが胎兒たいじは死しんでさうして腐敗ふはいして出でた。

自分も他人も瘡っ子だと言った。

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自分じぶんも他人ひとも瘡かさツ子こだといつた。

二、三人生まれたが、どれも育たなかった。

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二三人にん生うまれたがどれも發育はついくしなかつた。

それでも幼児の死ぬのは瘡っ子だからというだけで、病毒の惨害を知るはずもなく、したがって恐れるはずもなかった。

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それでも幼兒えうじの死しぬのは瘡かさツ子こだからといふのみで病毒びやうどくの慘害さんがいを知しる筈はずもなく隨したがつて怖おそれる筈はずもなかつた。

お品の母は非常に貧乏な寡婦で、足が立つか立たないかのお品を懐にして、悲惨な生活をしていた。

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お品しなの母はゝは非常ひじやうな貧乏びんばふな寡婦ごけで、足あしが立たつか立たたぬのお品しなを懷ふところにして悲慘みじめな生活せいくわつをして居ゐた。

それを卯平は心から哀れみの情で見ていた。

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それを卯平うへいは心こゝろから哀憐あはれみの情じやうを以もつて見みて居ゐた。

お品の母は百姓としては格別の働きを持たなかったから、寡婦として独立して行くには非常な困難でなければならないだけ、体のどこかに柔らかな様子があって、清潔好きな卯平の心を引いた。

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お品しなの母はゝは百姓ひやくしやうとしては格別かくべつの働はたらきを有もたなかつたから、寡婦ごけとして獨立どくりつして行ゆくには非常ひじやうな困難こんなんでなければ成ならぬだけ身體からだの何處どこにか軟やはらかな容子ようすがあつて、清潔好きれいずきな卯平うへいの心こゝろを惹ひいた。

どこか人懐こいところがあって、ひたすらに他人の同情に渇していたお品の母の、何物かを求めるような態度が、ようやく二人を近づけた。

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何處どこか人懷ひとなつこい處ところがあつて只管ひたすらに他人たにんの同情どうじやうに渇かつして居ゐたお品しなの母はゝの何物なにものをか求もとめるやうな態度たいどが漸やうやく二人ふたりを近ちかづけた。

そのころ彼の女房は、長い間病気に悩まされていた。

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其その頃ころ彼かれの女房にようばうは長ながい間あひだ病氣びやうきに惱なやまされて居ゐた。

病気はついに回復しなかった。

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病氣びやうきは遂つひに恢復くわいふくしなかつた。

女房はある年また身ごもって、臨月が近くなったら、どうしたものか数日のうちに腹が膨れて、一夜のうちにもそれがずんずんと目に見える。

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女房にようばうは或ある年とし復また姙娠にんしんして臨月りんげつが近ちかくなつたら、どうしたものか數日すうじつの中うちに腹部ふくぶが膨脹ばうちやうして一夜やの内うちにもそれがずん/\と目めに見みえる。

女房は横になることもその苦痛に堪えられないで、積んだ蒲団に寄りかかって、わずかに切ない息をついていた。

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女房にようばうは横臥わうぐわすることも其その苦痛くつうに堪たへないで、積つんだ蒲團ふとんに倚より掛かゝつて僅わづかに切せつない呼吸いきをついて居ゐた。

胎児を浮かべた水が余計に溜まったのである。

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胎兒たいじを泛うかしめた水みづが餘計よけいに溜たまつたのである。

そのころは医者の手でさえ、それをどうすることもできなかった。

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其その頃ころは醫者いしやの手てでさへそれをどうすることも出來できなかつた。

その上、彼は医者を呼ぶことが億劫で、大事な命ということを考えることさえ、心に暇を持たなかった。

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加之それのみでなく彼かれは醫者いしやを聘よぶことが億劫おつくふで、大事だいじな生命いのちといふことを考かんがへることさへ心こゝろに暇いとまを持もたなかつた。

幸いにも、卵膜を膨らませた液体が自分から逃げ去る道を求めて、その包囲を破った。

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僥倖げうかうにも卵膜らんまくを膨脹ばうちやうさせた液體みづが自分じぶんから逃にげ去さる途みちを求もとめて其その包圍はうゐを破やぶつた。

数升の液体がほとばしって、驚いて横たえた身を蒲団の上に浮かそうとした。

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數升すうしようの液體みづが迸ほとばしつて、驚おどろいて横よこたへた身みを蒲團ふとんの上うへに浮うかさうとした。

それとともに、安住の場所を失った胎児は自然に母体を離れて出なければならなかった。

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それと共ともに安住あんぢうの場所ばしよを失うしなうた胎兒たいじは自然しぜんに母體ぼたいを離はなれて出でねばならなかつた。

胎児はもちろん死んで、そうして手を出した。

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胎兒たいじは勿論もちろん死しんでさうして手てを出だした。

その時、女房は非常に疲れきっていたが、我慢をするからと言ったばかりに、卯平はぐっと力を入れて引き出した。

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其その時とき女房にようばうは非常ひじやうに疲憊ひはいして居ゐたが、我慢がまんをするからといつたばかりに卯平うへいはぐつと力ちからを入いれて引ひき出だした。

彼の悪意を持たない手がこのように残酷に働かされたのは、夫婦の間ではわずかでも他人の手を借りることに、金銭上の恐怖を抱かせられたからであった。

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彼かれの惡意あくいを有もたぬ手てが斯かくの如ごとく残酷ざんこくに働はたらかされたのは、夫婦ふうふの間あひだには僅わづかでも他人たにんの手てを藉かることに金錢上きんせんじやうの恐怖おそれを懷いだかしめられたからであつた。

女房はそれでも死ななかった。

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女房にようばうはそれでも死しなゝかつた。

しかし、ほとんど想像もされなかった痛みが満身に染み渡った。

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然しかし殆ほとんど想像さうざうされなかつた疼痛とうつうが滿身まんしんに沁しみ渡わたつた。

やがて非常な発熱が伴った。

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軈やがて非常ひじやうな發熱はつねつが伴ともなつた。

それからというものは、三年も臥せったままで、季節が暖かになればまれには蒲団からずり出して、わずかに杖にすがっては、柔らかな春の日をさえ刺激に堪えないようにまぶしがっていた。

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それからといふものは三年ねんも臥ふせつた儘まゝで季節きせつが暖あたゝかに成なれば稀まれには蒲團ふとんからずり出だして僅わづかに杖つゑに縋すがつては軟やはらかな春はるの日ひをさへ刺戟しげきに堪たへぬやうに眩まぶしがつて居ゐた。

お品の母との関係が、余計な告げ口から女房の耳に入った。

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お品しなの母はゝとの關係くわんけいが餘計よけいな告口つげぐちから女房にようばうの耳みゝに入はひつた。

そのころ暑さに向かっていたせいでもあったが、女房はそれを苦にし始めてから、がっかりとやつれたように見えた。

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其その頃ころ暑あつさに向むいて居ゐた所爲せゐでもあつたが女房にようばうはそれを苦くにし始はじめてからがつかりと窶やつれたやうに見みえた。

女房が死んだ時は、卯平は枕元にいなかった。

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女房にようばうが死しんだ時ときは卯平うへいは枕元まくらもとに居ゐなかつた。

村には赤痢が発生した。

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村落むらには赤痢せきりが發生はつせいした。

予防の注意も何もない彼らは、互いに葬儀に呼び合って少しの心配もなしに飲み食いをしたので、病気は非常な勢いで広まったのであった。

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豫防よばうの注意ちういも何なにもない彼等かれらは互たがひに葬儀さうぎに喚よび合あうて少すこしの懸念けねんもなしに飮食いんしよくをしたので病氣びやうきは非常ひじやうな勢いきほひで蔓延まんえんしたのであつた。

卯平も患者の一人で、そうしてお品の家で悩んでいた。

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卯平うへいも患者くわんじやの一人にんでさうしてお品しなの家いへに惱なやんで居ゐた。

お品の母の親切な看病から、彼は救われた。

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お品しなの母はゝの懇切こんせつな介抱かいはうから彼かれは救すくはれた。

彼はどうしても、瀕死の女房のそばに病んだ体を運ぶことができなかった。

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彼かれはどうしても瀕死ひんしの女房にようばうの傍かたはらに病躯びやうくを運はこぶことが出來できなかつた。

そのやつれた目が憂えるのを、彼は見るに忍びなかったからである。

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其その窶やつれた目めの憂うれへるのを彼かれは見みるに忍しのびなかつたからである。

彼のそういう心持ちは、長い月日の病苦にさいなまれてひがんだ女房の心に通じる理由がなかった。

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彼かれのさういふ意志いしは長ながい月日つきひの病苦びやうくに嘖さいなまれて僻ひがんだ女房にようばうの心こゝろに通つうずる理由わけがなかつた。

そうして女房は、激烈な神経痛を訴えながら死んだ。

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さうして女房にようばうは激烈げきれつな神經痛しんけいつうを訴うつたへつゝ死しんだ。

卯平はさすがに泣いた。

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卯平うへいは有繋さすがに泣ないた。

葬式は親戚と近所とで営んだが、卯平もやっと杖にすがって行った。

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葬式さうしきは姻戚みよりと近所きんじよとで營いとなんだが、卯平うへいも漸やつと杖つゑに縋すがつて行いつた。

その秋の盆には、赤痢の騒ぎも沈んで、新しい仏の数が増えていた。

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其その秋あきの盆ぼんには赤痢せきりの騷さわぎも沈しづんで新あたらしい佛ほとけの數かずが殖ふえて居ゐた。

墓地には、掘り上げた赤い土の小さな塚が、幾つも粗末な棺台を載せていた。

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墓地ぼちには掘ほり上あげた赤あかい土つちの小ちひさな塚つかが幾いくつも疎末そまつな棺臺くわんだいを載のせて居ゐた。

たいがいは赤痢にかかってようやく体に力がついたばかりの人々が、例年のごとく草刈り鎌を持って、六日の日の夕刻に墓薙ぎと言って出た。

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大抵たいていは赤痢せきりに罹かゝつて漸やうやく身體からだに力ちからがついたばかりの人々ひと/″\が例年れいねんの如ごとく草刈鎌くさかりがまを持もつて六日かの日ひの夕刻ゆふこくに墓薙はかなぎというて出でた。

墓の辺りは、生えるに任せた草が刈り払われて、見るからに清潔になった。

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墓はかの邊ほとりは生はえるに任まかせた草くさが刈拂かりはらはれて見みるから清潔せいけつに成なつた。

中央に青竹の線香立てが杭のように立てられて、石碑の前には一つずつ、青竹の簀の子のような小さな棚が作られた。

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中央ちうあうに青竹あをだけの線香立せんかうたてが杙くひのやうに立たてられて、石碑せきひの前まへには一ひとつづゝ青竹あをだけの簀すの子このやうな小ちひさな棚たなが作つくられた。

卯平も墓薙ぎの群れに加わった。

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卯平うへいも墓薙はかなぎの群むれに加くははつた。

彼のまだ力ない手に持った鎌の刃先が、女房の棺台の下を覗いてからりと渡った時、彼はぞっとして手を引いた。

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彼かれのまだ力ちからない手てに持もつた鎌かまの刄先はさきが女房にようばうの棺臺くわんだいの下したを覗のぞいてからりと渡わたつた時とき彼かれは悚然ぞつとして手てを引ひいた。

蛇が体の後ろ半分を彼の足元に現して、白い腹を見せた。

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蛇へびが身體からだの後半こうはんを彼かれの足あしもとに現あらはして白しろい腹はらを見みせた。

鎌の刃先が蛇を切ったのである。

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鎌かまの刄先はさきが蛇へびを切きつたのである。

蛇はしばらくじっとしていて、きわめておもむろに棺台の下に隠れた。

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蛇へびは暫しばらく凝然ぢつとして居ゐて極きはめて徐おもむろに棺臺くわんだいの下したに隱かくれた。

卯平の顔は、黄昏の光に青かった。

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卯平うへいの顏かほは黄昏たそがれの光ひかりに蒼あをかつた。

彼はそれから、外出することもまれになった。

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彼かれはそれから他出たしゆつすることも稀まれになつた。

回復しかけた病後の疲れが、夜は粘るような汗を出させた。

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恢復くわいふくしかけた病後びやうごの疲勞ひらうが夜よるは粘ねばるやうな汗あせを分泌ぶんぴさせた。

それから八日目に、村の者が仏を迎えに提灯を持って行った時は、刈り払われた草が、暑いといっても秋らしくなった日に、その生殖作用を急ごうとして、そそり立つように首をもたげていた。

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それから八日目かめに村落むらの者ものが佛ほとけを迎むかへに提灯ちやうちん持もつて行いつた時ときは刈かり拂はらはれた草くさが暑あついといつても秋あきらしくなつた日ひに其その生殖作用せいしよくさようを急いそがうとして聳然すつくりと首くびを擡もたげて居ゐた。

村の人々は好奇心に駆られて、おずおずと棺台をそっと上げてみた。

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村落むらの人々ひとびとは好奇心かうきしんに驅かられて怖おづ/\も棺臺くわんだいをそつと揚あげて見みた。

蛇は依然として、だらりと横たわったままであった。

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蛇へびは依然いぜんとしてだらりと横よこたはつた儘まゝであつた。

人々は見開いた目を見合わせた。

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人々ひとびとは睜みはつた目めを見合みあはせた。

村の者が去った後には、小さな青竹の線香立てから、そこらの石碑の前から、じりじりと身を焼いて行く火に苦しんで悶えるように、煙はうねりながら立ち昇って、寂しい黄昏の光の中をさまよった。

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村落むらの者ものが去さつた後あとには小ちひさな青竹あをだけの線香立せんかうたてからそこらの石碑せきひの前まへからぢり/\と身みを燒やいて行ゆく火ひに苦くるしんで悶もだえるやうに煙けぶりはうねりながら立たち騰のぼつて寂寥せきれうたる黄昏たそがれの光ひかりの中なかに彷徨さまようた。

それからまた四日目に、仏を送って村の者は黄昏の墓地に落ち合った。

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それから又また四日目かめに佛ほとけを送おくつて村落むらの者ものは黄昏たそがれの墓地ぼちに落おち合あうた。

蛇はなおかつ、棺台の陰を去らなかった。

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蛇へびは猶且やつぱり棺臺くわんだいの陰かげを去さらなかつた。

蛇は自由に這うには、あまりに傷が大きかった。

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蛇へびは自由じいうに匍匐はらばふには餘あまりに瘡痍きずが大おほきかつた。

反り返った唇のように膨れた肉は、埃にまみれて黒く変じていた。

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反そり返かへつた唇くちびるのやうに膨ふくれた肉にくは埃ほこりに塗まみれて黒くろく變へんじて居ゐた。

棺台を透かして人がこれを覗けば、恐怖を抱いて少しずつのたくるのであった。

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棺臺くわんだいを透すかして人ひとが之これを覗うかゞへば恐怖おそれを懷いだいて少すこしづゝのたくるのであつた。

女房が出たのだと言って、村の者は減らず口を叩いた。

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女房にようばうが出でたのだといつて村落むらの者ものは減へらず口ぐちを叩たゝいた。

しばらくして、お品の母の耳へも蛇の噂が伝わった。

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暫しばらくしてお品しなの母はゝの耳みゝへも蛇へびの噂うはさが傳つたはつた。

それからというもの、お品の母は一夜でも卯平を自分の家から放さない。

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それからといふものお品しなの母はゝは一夜やでも卯平うへいを自分じぶんの家うちから放はなさない。

三つになっていたお品が卯平を慕って、しっかりとその家に引き留めたのは、それから間もないことである。

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三みつつに成なつて居ゐたお品しなが卯平うへいを慕したうて確乎しつかと其その家うちに引ひき留とめたのはそれから間まもないことである。

蛇の話は、いつの間にか消えてなくなった。

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蛇へびの噺はなしは何時いつの間まにか消滅せうめつした。

それは、みんなが互いに心に記憶を繰り返して快しとするほど、彼らを憎んではいなかったからである。

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それは悉皆みんなが互たがひに心こゝろに記憶きおくを反覆くりかへして快こゝろよしとする程ほど彼等かれらを憎にくんでは居ゐなかつたからである。

その後、長い歳月を経てお品の母が死んだ時、以前の話を見たり聞いたりしていた者の間でのみ、わずかに記憶が呼び返された。

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其その後のち長ながい歳月としつきを經へてお品しなの母はゝが死しんだ時とき以前いぜんの噺はなしを見みたり聞きいたりして居ゐた者ものの間あひだにのみ僅わづかに記憶きおくが喚よび返かへされた。

お品の母は、腰に病気を持っていた。

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お品しなの母はゝは腰こしに病氣びやうきを持もつて居ゐた。

卯平は、自分の手から作った罪というものは、ほとんど見られなかった。

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卯平うへいは自分じぶんの手てから作つくつた罪つみといふものは殆ほとんど見みられなかつた。

ただ彼は、働き盛りのころは他の雇い人らとともに、よく猫を殺して食べていた。

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唯たゞ彼かれは盛年さかりの頃ころは他たの傭人等やとひにんらと共ともに能よく猫ねこを殺ころして喫たべてた。

もっともそのころは、猫でも犬でも飼い主を離れて鶏を狙うのがさまよっていた。

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尤もつとも其その頃ころは猫ねこでも犬いぬでも飼主かひぬしを離はなれて雞にはとりを狙ねらふのが彷徨うろついた。

彼らは罠を掛けてそれを待った。

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彼等かれらは罠わなを掛かけてそれを待まつた。

しかし、たいがいの家々では鶏でさえ家の内では煮るのを許さないので、後ろの庭へ竹で三本の脚を作って、それへ鍋の蔓を掛けたほどであったから、猫を殺すことが恐ろしい罪悪のように見られたのであった。

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然しかし大抵たいていの家々いへ/\では雞にはとりでさへ家いへの内うちでは煮にるのを許容ゆるさないので、後うしろの庭にはへ竹たけで三本ぼんの脚あしを作つくつてそれへ鍋蔓なべつるを掛かけた程ほどであつたから、猫ねこを殺ころすことが恐おそろしい罪惡ざいあくのやうに見みられたのであつた。

猫は辛い塩鮭を与えれば腰が利かない病気にかかると一般に言われているので、卯平が腰を悩んでいるのを、まれには猫の祟りだと冗談に言う者もあった。

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猫ねこは辛からい鹽鮭しほざけを與あたへれば腰こしが利きかない病氣びやうきに罹かゝると一般ぱんにいはれて居ゐるので卯平うへいが腰こしを惱なやんで居ゐるのを稀まれには猫ねこの祟たゝりだと戯談じようだんにいふものもあつた。

それでも、そういう噂は広がらなかった。

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それでもさういふ噂うはさは擴ひろがらなかつた。

彼は憎悪と嫉妬とを、村の誰からも買わなかった。

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彼かれは憎惡ぞうをと嫉妬しつととを村落むらの誰たれからも買かはなかつた。

憎悪も嫉妬もない、そこにわざと悪評を生み出すほど、百姓は邪心を持っていなかった。

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憎惡ぞうをも嫉妬しつともない其處そこに故意わざと惡評あくひやうを生うみ出だす程ほど百姓ひやくしやうは邪心じやしんを有もつて居ゐなかつた。

村の西の端に離れて住んでいる彼には、興味を持って見させる一つの条件も備わっていなかった。

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村落むらの西端せいたんに僻在へきざいして居ゐる彼かれには興味きようみを以もつて見みさせる一ひとつの條件でうけんも具そなへて居ゐなかつた。

ただむっつりとして、他人に訴えることも求めることもない彼は、一切村との交渉がなかった。

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只たゞむつゝりとして他人たにんに訴うつたへることも求もとめることもない彼かれは一切さい村落むらとの交渉かうせふがなかつた。

彼一身のあるなしは、少しも村のためには重みを持たなかった。

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彼かれの一身しんの有無うむは少すこしも村落むらの爲ためには輕重けいちようする處ところがなかつた。

二五

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二五

初冬のこずえに慌ただしく渡って、それからしばらく騒いだまま、その後はぱたりと忘れていて、まれに思い出したように枯木の枝を泣かせた西風が、雑木林のこずえに白く連なっている西の遠い山々の彼方に横たわっていたのが、にわかに自分の威力をたくましくすべき冬の季節が自分を捨てて去ったのに気がついて、吹くだけ吹かなければ止められないその特性を発揮して、毎日その特有な力が軽い土を空に巻いた。

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初冬しよとうの梢こずゑに慌あわたゞしく渡わたつてそれから暫しばらく騷さわいだ儘まゝ其その後のちは礑はたと忘わすれて居ゐて稀まれに思おもひ出だしたやうに枯木かれきの枝えだを泣なかせた西風にしかぜが、雜木林ざふきばやしの梢こずゑに白しろく連つらなつて居ゐる西にしの遠とほい山々やま/\の彼方かなたに横臥ねて居ゐたのが俄にはかに自分じぶんの威力ゐりよくを逞たくましくすべき冬ふゆの季節きせつが自分じぶんを棄すてゝ去さつたのに氣きがついて、吹ふくだけ吹ふかねば止やめられない其その特性とくせいを發揮はつきして毎日まいにち其その特有もちまへな力ちからが輕鬆けいしような土つちを空そらに捲まいた。

その日も、夜明けから空があまりにからりとして、鈍い柔らかな光を持たなかった。

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其その日ひも拂曉あけがたから空そらが餘あまりにからりとして鈍にぶい軟やはらかな光ひかりを有もたなかつた。

毎日吹きまくる疾風が、その遠い西山の氷雪を含んで、細かに地上を覆って撒き散らしたかと思うように、霜が白く凝っていた。

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毎日まいにち吹ふき捲まくる疾風しつぷうが其その遠とほい西山せいざんの氷雪ひようせつを含ふくんで微細びさいに地上ちじやうを掩おほうて撒布さんぷしたかと思おもふやうに霜しもが白しろく凝こつて居ゐた。

勘次はふだんのごとく、おつぎを連れて開墾地へ出た。

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勘次かんじは平生いつもの如ごとくおつぎを連つれて開墾地かいこんちへ出でた。

おつぎは半纏を後ろへふわりと掛けたまま手も通さないで、肩へは襷を斜めに掛けて、万能を担いでいた。

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おつぎは半纏はんてんを後うしろへふはりと掛かけた儘まゝ手ても通とほさないで、肩かたへは襷たすきを斜なゝめに掛かけて萬能まんのうを擔かついで居ゐた。

白い手拭いと、それから手拭いの外に少し覗いた後れ毛が、歩くたびにふらふらと動くのも、しみじみと冷たそうであった。

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白しろい手拭てぬぐひとそれから手拭てぬぐひの外そとに少すこし覗のぞいた後おくれ毛げの歩あるく度たびにふら/\と動うごくのもしみ/″\と冷つめた相さうであつた。

草木および地上の霜にまばたきしながら、横に、そうして斜めに射しかける日に、遠い西の山々の雪がひとしきり光った。

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草木さうもく及および地上ちじやうの霜しもに瞬まばたきしながら横よこにさうして斜なゝめに射さし掛かける日ひに遠とほい西にしの山々やま/\の雪ゆきが一頻ひとしきり光ひかつた。

すべてを通じて褐色の光で包まれた。

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凡すべてを通つうじて褐色かつしよくの光ひかりで包つゝまれた。

その遠く連なった山々の頂には、ぽつりぽつりと大小の群れ雲が凝ったままに掻き乱されて、しばらく動かなかった。

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其その遠とほく連つらなつた山々やま/\の頂巓いたゞきにはぽつり/\と大小だいせうの簇雲むらくもが凝こつた儘まゝに掻かき亂みだされて暫しばらく動うごかなかつた。

ついにはそれが一つになって山々の所在を暗まして、その末端が油煙のごとく空に向かって消えつつあるように見え始めた。

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遂つひにはそれが一つに成なつて山々やま/\の所在しよざいを暗くらまして、其その末端まつたんが油煙ゆえんの如ごとく空そらに向むかつて消散せうさんしつゝあるやうに見みえ始はじめた。

そこには毎日必ずやかましい足音が人の鼓膜を騒がせつつある、その巨人の群れが、その目からは悲惨な地上のすべてを苛めて爪先に蹴飛ばそうとして、山々の彼方から出発したのだ。

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其處そこには毎日まいにち必かならず喧嚚けんがうな跫音あしおとが人ひとの鼓膜こまくを騷さわがしつゝある其その巨人きよじんの群集ぐんじゆが、其その目めからは悲慘みじめな地上ちじやうの凡すべてを苛いぢめて爪先つまさきに蹴飛けとばさうとして、山々やま/\の彼方かなたから出立しゆつたつしたのだ。

その驚くべき素早い脚が空間を一直線に、そうしてわずかな障害物であるはずのこずえのすべてを押しつけ押しつけ、林を越えて疾駆して来るのは、今もうすぐである。

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其その驚おどろくべき迅速じんそくな脚あしが空間くうかんを一直線ちよくせんに、さうして僅わづかな障害物しやうがいぶつであるべき梢こずゑの凡すべてを壓おしつけ壓おしつけ林はやしを越こえて疾驅しつくして來くるのは今いまもう直すぐである。

竹を伐って束ねたように寸分の隙もなく群がっている、その爪先に蹴られては、怖えに怖えた草木は皆声を放って泣くのである。

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竹たけを伐きつて束つかねたやうに寸隙すんげきもなく簇むらがつて居ゐる其その爪先つまさきに蹴けられては怖おびえに怖おびえた草木さうもくは皆みな聲こゑを放はなつて泣なくのである。

そうして、もう泣かねばならない時間が迫っている。

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さうしてもう泣なかねば成ならぬ時間じかんが迫せまつて居ゐる。

勘次が霜の白い自分の庭を往来へ出ると、不格好な櫟の林が、彼の行くべき方に従って道に沿って連なっている。

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勘次かんじは霜しも白しろい自分じぶんの庭にはを往來わうらいへ出でると無器用ぶきような櫟くぬぎの林はやしが彼かれの行ゆくべき方かたに從したがつて道みちに沿そうて連つらなつて居ゐる。

彼の破れて、毎日打ちつける疾風のために傾けられた笹の垣根には、狭い往来を越えて櫟の落ち葉が、熊手で掻いたように集まって、かつ連なっている。

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彼かの破やぶれて、毎日まいにち打うちつける疾風しつぷうの爲ために傾かたむけられた笹さゝの垣根かきねには、狹せまい往來わうらいを越こえて櫟くぬぎの落葉おちばが熊手くまでで掻かいたやうに聚あつまつて且かつ連つらなつて居ゐる。

およそ櫟の木ほど頑健な木は、他にあるまい。

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凡およそ櫟くぬぎの木き程ほど頑健ぐわんけんな木きは他たに有あるまい。

乾いた冬枯れの草や落ち葉に煙草の吸い殻が誤って火を点じて、それが盛んに林を焼き払っても、渋の強い、表面が山葵おろしのような櫟の皮は、黒い火傷を幹いっぱいに止めても、他の針葉樹に見るようではなく、春の雨が幾度も柔らかに湿せば、ついにはこそばゆい皮のどこからか白っぽい芽を吹いて、粗く硬い厚い皮の囲みから逃れて爽やかな呼吸をし始めたことを喜ぶように、ずんずんと伸びて、ついには伐っても伐っても、なおかつずんずんと骨立って幹がさらに形づくられるほど、旺盛な活力を回復するのである。

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乾燥かんさうした冬枯ふゆがれの草くさや落葉おちばに煙草たばこの吸殼すひがらが誤あやまつて火ひを點てんじて、それが熾さかんに林はやしを燒やき拂はらうても澁しぶの強つよい、表面へうめんが山葵わさびおろしのやうな櫟くぬぎの皮かはは、黒くろい火傷やけどを幹みき一杯ぱいに止とゞめても、他たの針葉樹しんえふじゆに見みるやうではなく、春はるの雨あめが數次しば/\軟やはらかに濕うるほせば遂つひにはこそつぱい皮かはの何處どこからか白しろつぽい芽めを吹ふいて、粗剛そがうな厚あつい皮かはの圍かこみから遁のがれて爽快さうくわいな呼吸こきふを仕始しはじめたことを悦よろこぶやうにずん/\と伸長しんちやうして、遂つひには伐きつても/\、猶且やつぱりずん/\と骨立ほねだつて幹みきが更さらに形かたちづくられる程ほど旺盛わうせいな活力くわつりよくを恢復くわいふくするのである。

彼らはそういう特性を持っていながら、理解し難いほど臆病である。

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彼等かれらはさういふ特性とくせいを有もつて居ゐながら了解れうかいし難がたい程ほど臆病おくびやうである。

黄色な光が快く鮮やかに満ちている晩秋の、水のような淡い霜がひそかに降りる以前から、その葉はことごとくくるくるとその周囲が捲れ始めて、他の雑木はその葉をからりと落として、そのこずえよりもはるかに低く垂れている西の空の明るい入り日を透して見せるように疎らになるのに、しっかりとしがみついて離れない。

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黄色きいろな光ひかりが快こゝろよく鮮あざやかに滿みちて居ゐる晩秋ばんしうの水みづのやうな淡あはい霜しもが竊ひそかにおりる以前いぜんから其その葉はは悉こと/″\くくる/\と其その周圍しうゐが捲まくれ始はじめて、他たの雜木ざふきは其その葉はをからりと落おとして其その梢こずゑよりも遙はるかに低ひくく垂たれて居ゐる西にしの空そらの明あかるい入日いりひを透すかして見みせるやうに疎まばらに成なるのに、確乎しつかとしがみついて離はなれない。

彼らはようやく樹の姿を形づくるとともに、鋸の歯が残酷に渡って、少しでも余裕を与えられないのである。

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彼等かれらは漸やうやく樹相じゆさうを形かたちづくると共ともに鋸のこぎりの齒はが残酷ざんこくに渡わたつて少すこしでも餘裕よゆうを與あたへられないのである。

それで彼らの間には、自然にただ恐怖する性質のみが育ったのであるかも知れない。

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それで彼等かれらの間あひだには自然しぜんに只たゞ恐怖きようふする性質せいしつのみが助長じよちやうされたのであるかも知しれない。

だから、すでに薪に伐るべき時期を過ぎて、大木の姿を備えて、どんぐりがその浅い皿に載せられるようになれば、枯れ葉は潔く散り敷いて、からりと爽やかに樹の姿を見せるのである。

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それだから既すでに薪たきぎに伐きるべき時期じきを過すごして、大木たいぼくの相さうを具そなへて團栗どんぐりが其その淺あさい皿さらに載のせられるやうに成なれば、枯葉かれはは潔いさぎよく散ちり敷しいてからりと爽さわやかに樹相じゆさうを見みせるのである。

ちょうどそれは、子孫の繁殖と自己の防御との必要をまったく忘れさせられた梨の接ぎ木が、大きな刺を幹にも枝にも持たなくなったように、恐怖が彼らを去ったのである。

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丁度ちやうどそれは子孫しそんの繁殖はんしよくと自己じこの防禦ばうぎよとの必要ひつえうを全まつたく忘わすれさせられた梨なしの接木つぎきが、大おほきな刺とげを幹みきにも枝えだにも持もたなく成なつたやうに、恐怖おそれが彼等かれらを去さつたのである。

しかしながら、林の櫟はいくら遠く根を伸ばして素早い生長を遂げようとしても、冷ややかな秋が冬を地上に導くのである。

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然しかしながら林はやしの櫟くぬぎは幾いくら遠とほく根ねを伸のばして迅速じんそくな生長せいちやうを遂とげようとしても、冷ひやゝかな秋あきが冬ふゆを地上ちじやうに導みちびくのである。

彼らはその冬の季節において生命を保って行くのには、すべての働きを止めて引き締めなければならない。

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彼等かれらは其その冬ふゆの季節きせつに於おいて生命せいめいを保たもつて行ゆくのには凡すべての機能きのうを停止ていしして引ひき緊しまらねば成ならぬ。

そうでなければ、彼らは氷雪のために枯れ死なねばならない。

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それでなければ彼等かれらは氷雪ひようせつの爲ために枯死こしせねばならぬ。

その季節に、彼らの最後の運命である薪や炭に伐られるように、一番適した組織に変化することを余儀なくされるのである。

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其その季節きせつに彼等かれらの最後さいごの運命うんめいである薪まきや炭すみに伐きられるやうに一番ばん適當てきたうした組織そしきに變化へんくわすることを餘儀よぎなくされるのである。

彼らはそれから、その貴重な呼吸器であった枯れ葉を、一枚でも枝から放すまいとし、また離れまいとしている。

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彼等かれらはそれから其その貴重きちような呼吸器こきふきであつた枯葉かれはを一枚まいでも枝えだから放はなすまいとし又また離はなれまいとして居ゐる。

育つ働きが止められるとともに、粘り着く力を失うはずの葉柄が、しっかりと保たれてある。

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生育せいいくの機能きのうが停止ていしされると共ともに粘着力ねんちやくりよくを失うしなふべき筈はずの葉柄えふへいが確乎しつかりと保たもたれてある。

そこで乾いた枯れ葉は、少しのことにさえ寄り合ってさやさやと、互いに恐怖をささやくのである。

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そこで乾燥かんさうした枯葉かれはは少すこしのことにさへ相あひ倚よつてさや/\と互たがひに恐怖きやうふを耳語さゝやくのである。

しかし、樹木が吸収して得た物質の一部を地および空気に還そうとして、すべての葉をこずえから奪って、いたる所を広々と、かつ簡単にすることを好む冬の目には、櫟の枯れ葉は入り組み、濁って見えねばならない。

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然しかし樹木じゆもくが吸收きふしうして獲えた物質ぶつしつの一部ぶを地つち及および空氣くうきに還元くわんげんせしめようとして凡すべての葉はを梢こずゑから奪うばつて、到いたる處ところ空濶くうくわつで且かつ簡單かんたんにすることを好このむ冬ふゆの目めには、櫟くぬぎの枯葉かれはは錯雜さくざつし、溷濁こんだくして見みえねばならぬ。

それで、巨人を載せた西風がその爪先にそれを蹴飛ばそうとしても、恐ろしく執念深い枯れ葉は泣いて、そうしてその力を保とうとする。

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それで巨人きよじんを載のせた西風にしかぜが其その爪先つまさきにそれを蹴飛けとばさうとしても、恐おそろしく執念深しふねんぶかい枯葉かれはは泣ないてさうして其その力ちからを保たもたうとする。

たまたま力が足りないで吹き散らされたのは、そういう時に非常に便利なように捲いてあるので、どんな陰でもその身を託する場所を求めてころころと転がって行っては、自分の仲間が一つに寄り合い抱き合って、微風にさえ絶えず響きを立てて震えつつあるのである。

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偶たまたま力ちからが足たりないで吹ふき散ちらされたのは、さういふ時ときに非常ひじやうに便利べんりなやうに捲まいてあるので、どんな陰かげでも其その身みを託たくする場所ばしよを求もとめてころ/\と轉ころがつて行いつては、自分じぶんの伴侶なかまが一つに相あひ倚より相あひ抱いだいて微風びふうにさへ絶たえず響ひゞきを立たてゝ戰慄せんりつしつゝあるのである。

勘次はこういう櫟の木を植えて林を造るべき土地の開墾をするために、もう幾年という間雇われて、その力を尽くした。

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勘次かんじは斯かういふ櫟くぬぎの木きを植うゑて林はやしを造つくるべき土地とちの開墾かいこんをする爲ためにもう幾年いくねんといふ間あひだ雇やとはれて其その力ちからを竭つくした。

彼はようやく林の姿を形づくって来た櫟林に沿って、田圃を越えて走った。

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彼かれは漸やうやく林相りんさうを形かたちづくつて來きた櫟林くぬぎばやしに沿そうて田圃たんぼを越こえて走はしつた。

田圃の鴫が何に驚いたかきいと鳴いて、刈り株をかすめるようにして慌てて飛んで行った。

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田圃たんぼの鴫しぎが何なにに驚おどろいたかきゝと鳴ないて、刈株かりかぶを掠かすめるやうにして慌あわてゝ飛とんで行いつた。

そうして後は、白く閉ざした氷が時々ぴりぴりと鳴ってしゃりしゃりと壊れるのみで、ただ静かであった。

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さうして後のちは白しろく閉とざした氷こほりが時々ときどきぴり/\と鳴なつてしやり/\と壞こはれるのみで只たゞ靜しづかであつた。

田圃を透して林の間から見えるその遠い山々の雲は、やや薄くなって空を濁していた。

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田圃たんぼを透とほして林はやしの間あひだから見みえる其その遠とほい山々やま/\の雲くもは稍やゝ薄うすくなつて空そらを濁にごして居ゐた。

やがて雑木林の枝先が少し動いたと思ったら、ごうっという響きが勘次の耳に鳴った。

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軈やがて雜木林ざふきばやしの枝頭えださきが少すこし動うごいたと思おもつたらごうつといふ響ひゞきが勘次かんじの耳みゝに鳴なつた。

巨人の脚が迫ったのである。

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巨人きよじんの脚あしが逼せまつたのである。

彼はむっと、思わず息が詰まった。

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彼かれはむつと思おもはず呼吸こきふが切迫せつぱくした。

毎日吹き渡る西風は、乾きつつあるすべての物をさらに乾かさなければ止まない。

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毎日まいにち吹ふき渡わたる西風にしかぜは乾燥かんさうしつゝある凡すべての物ものを更さらに乾燥かんさうさせねば止やまない。

雨がまれにしんみりと降っても、西風は朝から一日、青い常緑樹の葉をも泥の中へねじ切って撒き散らすほど吹き募れば、それだけで土はもうほとんど乾かされるのである。

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雨あめが稀まれにしんみりと降ふつても西風にしかぜは朝あさから一日にち青あをい常緑木ときはぎの葉はをも泥どろの中なかへ拗切ちぎつて撒布まきちらす程ほど吹ふき募つのれば、それだけで土つちはもう殆ほとんど乾かわかされるのである。

土が保つべき水分がそれほど蒸発し尽くしても、その吹き渡る間は、西風はけっして空に一滴の雨さえ催させない。

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土つちが保有ほいうすべき水分すゐぶんがそれ程ほど蒸發じようはつし盡つくしても其その吹ふき渡わたる間あひだは西風にしかぜは決けつして空そらに一滴てきの雨あめさへ催もよほさせぬ。

それでもさすがに深く水を蓄えている土は、垢のごとき表皮のみを掻き払って行く疾風のためには容易にその力を失わないで、夜が更ければいくらでも空気中に保たれた水分を細かに結晶させて、いっぱいに白く引きつける。

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それでも有繋さすがに深ふかく水みづを藏ざうして居ゐる土つちは垢あかの如ごとき表皮へうひのみを掻かき拂はらつて行ゆく疾風しつぷうの爲ためには容易よういに其その力ちからを失うしなはないで、夜よが更ふければ幾いくらでも空氣中くうきちうに保たもたれた水分すゐぶんを微細びさいに結晶けつしやうさせて一杯ぱいに白しろく引ひきつける。

土が夜通しそういう働きを営んだばかりに、日は夜明けの空から横に、そうして斜めにその霜を溶かして、西風はすぐにそれを乾かして、残酷に表土の埃を空中に吹きまくる。

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土つちが徹宵よつぴてさういふ作用さようを營いとなんだばかりに、日ひは拂曉あけがたの空そらから横よこにさうして斜なゝめに其その霜しもを解とかして、西風にしかぜは直たゞちにそれを乾かわかして残酷ざんこくに表土へうどの埃ほこりを空中くうちうに吹ふき捲まくる。

その力が激しいほど夜明けの霜が白く、それが白いほど、乱れて飛ぶ鴉のごとき群れ雲を遠い西山の頂に伴って、疾風は駆けるのである。

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其その力ちからが烈はげしい程ほど拂曉ふつげうの霜しもが白しろく、其それが白しろい程ほど亂みだれて飛とぶ鴉からすの如ごとき簇雲むらくもを遠とほい西山せいざんの頂巓いたゞきに伴ともなうて疾風しつぷうは驅かけるのである。

両方が疲れきって勢いを消耗する季節の変化を見るまでは、その争いは止むことがない。

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兩方りやうはうが疲憊ひはいして勢いきほひを消耗せうまうする季節きせつの變化へんくわを見みるまでは其その爭あらそひは止やむことがない。

その日も、埃が天を焦がして立った。

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其その日ひも埃ほこりが天てんを焦こがして立たつた。

その埃は黄褐色で、霧のごとく地上のすべてを覆い、かつ包んだ。

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其その埃ほこりは黄褐色くわうかつしよくで霧きりの如ごとく地上ちじやうの凡すべてを掩おほひ且かつ包つゝんだ。

雑木林は一斉に斜めに傾こうとして、こずえは曲線を描いた。

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雜木林ざふきばやしは一齊せいに斜なゝめに傾かたぶかうとして梢こずゑは彎曲わんきよくを描ゑがいた。

樹木は皆互いに泣いてささやきながら、いくらか日の明るさをも妨げているその濃霧から逃れようとするように、絶え間なく騒いだ。

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樹木じゆもくは皆みな互たがひに泣ないて囁さゝやきながら、幾いくらか日ひの明あかるさをも妨さまたげて居ゐる其その濃霧のうむから遁のがれようとするやうに間斷かんだんなく騷さわいだ。

霧は悲惨なすべての物を互いに知らせまいとして吹き立ち吹き立ち、数十間の距離においては、その物の形をもはっきりと示さない。

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霧きりは悲慘みじめな凡すべての物ものを互たがひに知しらせまいとして吹ふき立たち/\數すう十間けんの距離きよりに於おいては其その物體ぶつたいの形状けいじやうをも明あきらかに示しめさない。

雑木林の樹木は、開墾地の周囲にも入り乱れた。

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雜木林ざふきばやしの樹木じゆもくは開墾地かいこんちの周圍しうゐにも混亂こんらんした。

しかし勘次が目を放っているのは、足の爪先二、三尺の、今唐鍬で伐り去ってはるかに後ろへ引いて、そっと捨てた跡の一点である。

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然しかし勘次かんじが目めを放はなつて居ゐるのは足あしの爪先つまさき二三尺じやくの、今いま唐鍬たうぐはを以もつて伐去きりさつて遙はるかに後うしろへ引ひいてそつと棄すてた趾あとの一點てんである。

埃は、土にいくらでも湿りを持った彼の足元からは立たなかった。

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埃ほこりは土つちに幾いくらでも濕うるほひを持もつた彼かれの足あしもとからは立たたなかつた。

おつぎは、勘次が起こした塊を一つ一つに万能の背で叩いて、さらりとほぐして平らにならしている。

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おつぎは勘次かんじが起おこした塊かたまりを一つ/\に萬能まんのうの脊せで叩たゝいてさらりと解ほぐして平たひらにならして居ゐる。

軽い土から固まっていた塊は、ほぐせばすぐに吹き払われた。

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輕鬆けいしような土つちから凝集こゞつて居ゐた塊かたまりは解ほぐせば直すぐに吹ふき拂はらはれた。

おつぎは、正面に埃を受けるのには、遠く吹きつける土砂が頬を走って不快であった。

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おつぎは當面まともに埃ほこりを受うけるのには遠とほく吹ふきつける土砂どしやが頬ほゝを走はしつて不快ふくわいであつた。

手拭いの端をまくって、浴びせる埃のために髪の毛の荒れるのをひどく嫌った。

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手拭てぬぐひの端はしを捲まくつて沿あびせる埃ほこりの爲ために髮かみの毛けの荒あれるのを酷ひどく嫌きらつた。

それでも、その手元はおろそかではなかった。

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それでも其その手てもとは疎略そりやくではなかつた。

勘次は矢立のごとき硬い体を伸ばし曲げして、一歩一歩と運んだ。

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勘次かんじは矢立やたての如ごとき硬直かうちよくな身體からだを伸長しんちやうし屈曲くつきよくさせて一歩ぽ/\と運はこんだ。

彼は周囲に無数な樹木の泣いてささやくのを、耳に入れなかった。

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彼かれは周圍しうゐに無數むすうな樹木じゆもくの泣ないて囁さゝやくのを耳みゝに入いれなかつた。

その上、彼は自分の耳に鳴るのさえ気づかないほど、懸命に唐鍬を打った。

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加之それのみでなく彼かれは自分じぶんの耳朶みゝたぶらに鳴なるさへ心こゝろづかぬ程ほど懸命けんめいに唐鍬たうぐはを打うつた。

彼は満身に汗していた。

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彼かれは滿身まんしんに汗あせして居ゐた。

卯平は、暇を惜しがる勘次が唐鍬を取って出た時、朝飯の後の口をうるさく鳴らしながら、火鉢の前にどっかりと座っていた。

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卯平うへいは暇ひまを惜をしがる勘次かんじが唐鍬たうぐはを執とつて出でた時とき朝餉あさげの後あとの口くちを五月蠅うるさく鳴ならしながら火鉢ひばちの前まへにどつかりと坐すわつて居ゐた。

破れた草葺きの家を揺さぶって、西風がごうっと打ちつけて来た時には、火鉢の埋み火はまだ白く灰の皮をかぶって暖かかった。

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破やぶれた草葺くさぶきの家いへをゆさぶつて西風にしかぜがごうつと打うちつけて來きた時ときには火鉢ひばちの煨おきはまだ白しろく灰はひの皮かはを被かぶつて暖あたゝかゝつた。

天井もない屋根裏から、煤がかすかにさらさらと散って、時々ぽつりと固まったままに落ちた。

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天井てんじやうもない屋根裏やねうらから煤すゝが微かすかにさら/\と散ちつて、時々ときどきぽつりと凝集こゞつた儘まゝに落おちた。

高い木が遮り立って、そのこずえに青い空を見せている庭へすら、疾風の驚くべき周到な手が袋の口を解いて逆さまにしたように、埃が満ちてさらさらと沈んだ。

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喬木けうぼくが遮さへぎり立たつて其その梢こずゑに蒼あをい空そらを見みせて居ゐる庭にはへすら疾風しつぷうの驚おどろくべき周到しうたうな手てが袋ふくろの口くちを解といて倒さかさにしたやうに埃ほこりが滿みちてさら/\と沈しづんだ。

一日そうして止めどもなく駆けて行く巨人の爪先には、この平坦な田や畑や山林の間に挟まっている各村の茅屋は、ことごとく落ち葉を持ち上げて出た茸のような、小さな悲惨な物でなければならなかった。

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一日にちさうして止とめ處どもなく駈かつて行ゆく巨人きよじんの爪先つまさきには此この平坦へいたんな田たや畑はたや山林さんりんの間あひだに介在かいざいして居ゐる各かく村落そんらくの茅屋あばらやは悉こと/″\く落葉おちばを擡もたげて出でた茸きのこのやうな小ちひさな悲慘みじめな物ものでなければならなかつた。

各自の真上を中心点にして空に弧を描いた、その輪郭の外の横に、それから斜めに見える広く、かつ遠い空は、黄褐色な霧のごとき埃のために、ただ炎に焼かれたようである。

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各自かくじの直上ちよくじやうを中心點ちうしんてんにして空そらに弧こを描ゑがいた其その輪郭外りんくわくぐわいの横よこにそれから斜なゝめに見みえる廣ひろく且かつ遠とほい空そらは黄褐色くわうかつしよくな霧きりの如ごとき埃ほこりの爲ために只たゞ熖ほのほに燒やかれたやうである。

卯平は自分の小屋に身をすぼめた。

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卯平うへいは自分じぶんの小屋こやに身みを窄すぼめた。

しばらく彼の火鉢から立って、狭い壁から壁にぶつかってさまよい出た薄い煙が、疾風のためにすぐにごうっと蹴散らされてしまった。

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暫しばらく彼かの火鉢ひばちから立たつて、狹せまい壁かべから壁かべに衡突ぶつかつて彷徨さまよひ出でた薄うすい煙けぶりが疾風しつぷうの爲ために直すぐにごうつと蹴散けちらされて畢しまつた。

狭い小屋の内は、それからまた沈んだ。

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狹せまい小屋こやの内うちはそれから復また沈しづんだ。

卯平は少し開いた戸口から、その小さくしかめた目で外を見た。

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卯平うへいは少すこし開ひらいた戸口とぐちから其その小ちひさく蹙しがめた目めで外そとを見みた。

狭い庭の先に、紙縒りを植えたような桑畑の乾ききった軽い土が、黄褐色な霧の中へ吹き立って行くのが見える。

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狹せまい庭にはの先さきに紙捻こよりを植うゑたやうな桑畑くはばたけの乾燥かんさうしきつた輕鬆けいしような土つちが黄褐色くわうかつしよくな霧きりの中なかへ吹ふつ立たつて行ゆくのが見みえる。

そうして南の家は、きわめてぼんやりとしてその形が現れて、また隠れた。

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さうして南みなみの家うちは極きはめてぼんやりとして其その形態けいたいが現あらはれて又また隱かくれた。

栗の木のそばに木の枝を杭に打ってこしらえた鍵の手へ引っ掛けた撥ね釣瓶が、ごうっと吹くごとにぐらりぐらりと動いて、釣瓶が外れそうにしては外れまいとして、争って騒いでいる。

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栗くりの木きの側そばに木きの枝えだを杙くひに打うつて拵こしらへた鍵かぎの手てへ引ひつ掛かけた桔槹はねつるべが、ごうつと吹ふく毎ごとにぐらり/\と動うごいて釣瓶つるべが外はづれ相さうにしては外はづれまいとして爭あらそうて騷さわいで居ゐる。

卯平は、彼のぼんやりした心がそこへ繋がれたように、釣瓶を見つめた。

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卯平うへいは彼かのぼんやりした心こゝろが其處そこへ繋つながれたやうに釣瓶つるべを凝視ぎようしした。

彼はしばらくしてから庭に立った。

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彼かれは暫しばらくしてから庭にはに立たつた。

彼はその癖の舌を鳴らしながら、釣瓶へ手を掛けた。

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彼かれは其その癖くせの舌したを鳴ならしながら釣瓶つるべへ手てを掛かけた。

釣瓶の底には、わずかに残った水に埃が浸されて沈んでいた。

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釣瓶つるべの底そこには僅わづかに保たもたれた水みづに埃ほこりが浸ひたされて沈しづんで居ゐた。

外側は青い苔のままに乾いていた。

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外側そとがはは青あをい苔こけの儘まゝに乾燥かんさうして居ゐた。

彼は鍵の手の杭を両手に持って、その大きな体の重さを加えて、縦に押さえてみた。

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彼かれは鍵かぎの手ての杙くひを兩手りやうてに持もつて其その大おほきな身體からだの重量ぢうりやうを加くはへて竪たてに壓おさへて見みた。

小さな杭は、毎日水のために柔らかにされている土へ、ぐっと深く入った。

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小ちひさな杙くひは毎日まいにち水みづの爲ために軟やはらかにされて居ゐる土つちへぐつと深ふかくはひつた。

鍵の手は深く釣瓶の内側を覗いていたので、さっきよりもしっかりと釣瓶を引き止めた。

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鍵かぎの手ては深ふかく釣瓶つるべの内側うちがはを覗のぞいて居ゐたので先刻さつきよりも確乎しつかと釣瓶つるべを引ひき止とめた。

彼はそれから狭い戸口をぴたりと閉ざして、干からびた手足を汚い蒲団に包んで、ごろりと横になった。

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彼かれはそれから狹せまい戸口とぐちをぴたりと閉とざして枯燥こさうした手足てあしを穢きたない蒲團ふとんに包つゝんでごろりと横よこに成なつた。

昼飯に勘次が戻って、また口の中の粗い飯粒を噛みながら走った後へ、与吉は鼻緒の緩んだ下駄をからからと引きずって、学校から帰って来た。

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午餐ひるに勘次かんじが戻もどつて、復また口中こうちうの粗剛こはい飯粒めしつぶを噛かみながら走はしつた後あとへ與吉よきちは鼻緒はなをの緩ゆるんだ下駄げたをから/\と引ひきずつて學校がくかうから歸かへつて來きた。

足袋も履かない足の甲が、鮫の皮のようにばりばりとあかぎれだらけになっている。

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足袋たびも穿はかぬ足あしの甲かふが鮫さめの皮かはのやうにばり/\と皹ひゞだらけに成なつて居ゐる。

彼はまだ冷め切らない茶釜の湯を汲んで、しきりに飯を掻き込んだ。

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彼かれはまだ冷さめ切きらぬ茶釜ちやがまの湯ゆを汲くんで頻しきりに飯めしを掻込かつこんだ。

粘膜のように赤く湿りを持った二つの道筋を伝って冷たく垂れた洟を、彼はすすりながら、箸を横に持ち換えて汁椀の塩辛い干し納豆をつまんで口へ入れたり、茶碗の中へ撒いたりして、幾杯かの飯を盛った。

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粘膜ねんまくのやうに赤あかく濕うるほひを持もつた二つの道筋みちすぢを傳つたひて冷つめたく垂たれた洟はなを彼かれは啜すゝりながら、箸はしを横よこに持もち換かへて汁椀しるわんの鹽辛しほからい干納豆ほしなつとうを抓つまんで口くちへ入いれたり茶碗ちやわんの中なかへ撒まいたりして幾杯いくはいかの飯めしを盛もつた。

飯粒は茶碗から彼の胸を伝って、土間へぼろぼろと落ちた。

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飯粒めしつぶは茶碗ちやわんから彼かれの胸むねを傳つたひて土間どまへぼろ/\と落おちた。

彼は土間に立ったままで食べていた。

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彼かれは土間どまに立たつた儘まゝ喫たべて居ゐた。

彼は飯粒の少し底に残った茶碗を膳の上に転がして、ばたりと飯台の蓋をした。

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彼かれは飯粒めしつぶの少すこし底そこに残のこつた茶碗ちやわんを膳ぜんの上うへに轉ころがしてばたりと飯臺はんだいの蓋ふたをした。

卯平は横になったままで、おつぎが呼んだ時に来なかった。

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卯平うへいは横臥わうぐわした儘まゝでおつぎが喚よんだ時ときに來こなかつた。

おつぎが再び声を掛けて開墾地へ出てからも、彼はしばらく怠い体を蒲団から起こさなかった。

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おつぎが再ふたゝび聲こゑを掛かけて開墾地かいこんちへ出でてからも彼かれは暫しばらく懶ものうい身體からだを蒲團ふとんから起おこさなかつた。

彼がふと思い出したように狭い戸口を開けて、明るい外の埃に目をしかめて出て行った時、与吉は慌ただしく飯台の蓋をしたところであった。

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彼かれがふと思おもひ出だしたやうに狹せまい戸口とぐちを開あけて明あかるい外そとの埃ほこりに目めを蹙しがめて出でて行いつた時とき與吉よきちは慌あわたゞしく飯臺はんだいの蓋ふたをした處ところであつた。

「お前は、今日はどうしてそんなに早いんだい」

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「汝わりや、今日けふはどうしてさうえに早はええんでえ」

卯平は太い低い声で聞いた。

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卯平うへいは太ふとい低ひくい聲こゑで聞きいた。

「ああ」

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「あゝ」

と、与吉は唇を反らして洟をすすりながら

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と與吉よきちは脣くちびるを反そらして洟はなを啜すゝりながら

「先生がそんでも、明日は日曜だからこれっきりで帰ってもいいと言ったんだ」

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「先生せんせいそんでも、明日あしたは日曜にちえうだから此これつ切きりで歸けえつてもえゝつちつたんだ」

「昼飯は食ったか」

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「午餐おまんまくつたか」

卯平はのっそりと飯台のそばに近づいた。

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卯平うへいはのつそりと飯臺はんだいの側そばに近ちかづいた。

「お前は、爺さんが、膳へこんなにこぼして」

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「汝わりや、爺ぢいが膳ぜんさかうだに滾こぼして」

と、彼はさっきよりも低い声で

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と彼かれは先刻さつきよりも低ひくい聲こゑで

「おとっつあんに見られたら怒られるから」

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「おとつゝあに見みらつたら怒おこられつから」

こう言って、また

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斯かういつて又また

「お前らのおとっつあんは怒りん坊だから」

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「汝わツ等らおとつゝあは怒おこりつ坊ぽだから」

と、沈んで呟くように言った。

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と沈しづんで呟つぶやくやうにいつた。

彼は膳の上に散っている飯粒を一つ一つにつまんで、それから干し納豆は、これも一つ一つに汁椀の中へ入れた。

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彼かれは膳ぜんの上うへに散ちつて居ゐる飯粒めしつぶを一つ/\に撮つまんで、それから干納豆ほしなつとうは此これも一つ/\に汁椀しるわんの中なかへ入いれた。

汁椀は手に取って、椀の腹を左の手に軽く打ちつけるようにして、納豆を平らにした。

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汁椀しるわんは手てに取とつて、椀わんの腹はらを左ひだりの手てに輕かるく打うちつけるやうにして納豆なつとうを平たひらにした。

おつぎは昼飯から開墾地へ出る時、菜にする干し納豆を汁椀へ入れて、彼のために膳を据えて行ったのである。

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おつぎは午餐ひるから開墾地かいこんちへ出でる時とき、菜さいにする干納豆ほしなつとうを汁椀しるわんへ入いれて彼かれの爲ために膳ぜんを据すゑて行いつたのである。

与吉は遠慮もなく、その膳に向かったのである。

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與吉よきちは遠慮ゑんりよもなく其その膳ぜんに向むかつたのである。

卯平は飯台の蓋を開けて見たが、暖かみがないので彼はためらった。

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卯平うへいは飯臺はんだいの蓋ふたを開あけて見みたが暖味あたゝかみがないので彼かれは躊躇ちうちよした。

茶釜の蓋を取ってみたが、蓋の裏からはだらだらと滴りが垂れて、わずかに湯気が立った。

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茶釜ちやがまの蓋ふたをとつて見みたが、蓋ふたの裏うらからはだら/\と滴したゝりが垂たれて僅わづかに水蒸氣ゆげが立たつた。

茶釜は冷めていたのである。

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茶釜ちやがまは冷さめて居ゐたのである。

それほどに空腹を感じない彼は、箸を取るのがいやになった。

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それ程ほどに空腹くうふくを感かんぜぬ彼かれは箸はしを執とるのが厭いやになつた。

彼は体が非常に冷えていることを知った。

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彼かれは身體からだが非常ひじやうに冷ひえて居ゐることを知しつた。

それに右の手が肩の辺りでこわばったようで、動かし方によってはきゃきゃと痛みを覚えた。

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それに右みぎの手てが肩かたのあたりで硬こはばつたやうで動うごかしやうによつてはきや/\と疼痛いたみを覺おぼえた。

彼は病気がそこに集まったのではないかと思った。

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彼かれは病氣びやうきが其處そこに聚あつまつたのではないかと思おもつた。

それが睡眠中の体の置き方で一時の変調をきたしたのだかどうだか分からないにもかかわらず、彼はただ病気ゆえだと決めてしまった。

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それが睡眠中すゐみんちうの身體からだの置おきやうで一時じの變調へんてうを來きたしたのだかどうだか分わからないにも拘かゝはらず、彼かれは唯たゞ病氣びやうき故ゆゑだと極きめて畢しまつた。

決めたというよりも、彼のはかないひがんだ心には、そう判断するよりほか何もなかったのである。

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極きめたといふよりも彼かれの果敢はかない僻ひがんだ心こゝろにはさう判斷はんだんするより外ほか何なにもなかつたのである。

彼の心は、ひたすら自分を悲惨な方面に解釈していれば、それで済んでいるのであった。

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彼かれの心こゝろは只管ひたすら自分じぶんを悲慘みじめな方面はうめんに解釋かいしやくして居をればそれで濟すんで居ゐるのであつた。

彼のやつれた体から、その手がひどく自由を失ったように感じられた。

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彼かれの窶やつれた身體からだから其その手てが酷ひどく自由じいうを失うしなつたやうに感かんぜられた。

手は軽く痺れたようになっていた。

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手ては輕かるく痺しびれたやうになつて居ゐた。

彼は冷えた体に暖かさを求めて、茶釜を掛けた竈の前に怠い体を据えてうずくまった。

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彼かれは冷ひえた身體からだに暖氣だんきを欲ほつして、茶釜ちやがまを掛かけた竈かまどの前まへに懶だるい身體からだを据すゑて蹲裾うづくまつた。

彼はさらに、熱い茶の一杯が飲みたかったのである。

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彼かれは更さらに熱あつい茶ちやの一杯ぱいが飮のみたかつたのである。

彼は竈の底にしっとりと落ち着いた灰に近づいて、手をかざしてみた。

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彼かれは竈かまどの底そこにしつとりと落おちついた灰はひに接近せつきんして手てを翳かざして見みた。

まだ柔らかに白い灰は、かすかに暖かかった。

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まだ軟やはらかに白しろい灰はひは微かすかに暖あたたかゝつた。

彼はそれから大籠の落ち葉をつかみ出して、茶釜の下に突っ込んだ。

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彼かれはそれから大籠おほかごの落葉おちばを攫つかみ出だして茶釜ちやがまの下したに突込つゝこんだ。

与吉もそばから小さな手でつかんで投げた。

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與吉よきちも側そばから小ちひさな手てで攫つかんで投なげた。

卯平の足元には、灰を覆って落ち葉が散乱した。

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卯平うへいの足あしもとには灰はひを掩おほうて落葉おちばが散亂さんらんした。

落ち葉は卯平の着物にも止まった。

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落葉おちばは卯平うへいの衣物きものにも止とまつた。

卯平は竹の火箸の先で落ち葉を少し透かすようにして灰を掻き立ててみても、火はもうぽっちりともなかったのである。

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卯平うへいは竹たけの火箸ひばしの光さきで落葉おちばを少すこし透すかすやうにして灰はひを掻かき立たてゝ見みても火ひはもうぽつちりともなかつたのである。

彼はそれからマッチを探してみたが、どこにも見出されなかった。

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彼かれはそれから燐寸マツチを深さがして見みたが何處どこにも見出みいだされなかつた。

彼は自分のマッチを探しに、狭い戸口へ与吉をやろうとした。

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彼かれは自分じぶんの燐寸マツチを探さがしに狹せまい戸口とぐちへ與吉よきちをやらうとした。

与吉は甘えて拒んだ。

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與吉よきちは甘あまえて否いなんだ。

彼はどうしても、怠い体を運ばねばならなかった。

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彼かれはどうしても懶だるい身體からだを運はこばねばならなかつた。

卯平の手元は、よほど狂っていた。

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卯平うへいの手てもとは餘程よほど狂くるつて居ゐた。

彼はすっとマッチを擦ったが、その火は手が落ち葉に届くまでには、かすかな煙を立てて消えた。

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彼かれはすつと燐寸マツチを擦すつたが其その火ひは手てが落葉おちばに達たつするまでには微かすかな煙けぶりを立たてゝ消きえた。

マッチはそうして五、六本捨てられた。

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燐寸マツチはさうして五六本ぽん棄すてられた。

与吉はその不自由な手からマッチを奪うようにして、火を点けてみた。

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與吉よきちは其その不自由ふじいうな手てから燐寸マツチを奪うばふやうにして火ひを點つけて見みた。

卯平は与吉のするままにして、丸太の端を切り放した腰掛けに体を据えて、そのやつれた柔らかな目をしかめていた。

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卯平うへいは與吉よきちのする儘まゝにして、丸太まるたの端はしを切きり放はなした腰掛こしかけに身體からだを据すゑて其その窶やつれた軟やはらかな目めを蹙しかめて居ゐた。

慌てた与吉の手は、その軸木の先からいたずらに毛のような煙を立てるのみであった。

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慌あわてた與吉よきちの手ては其その軸木ぢくぎの先さきから徒いたづらに毛けのやうな煙けぶりを立たてるのみであつた。

彼は焦れて、卯平の足元の灰へマッチの箱を投げた。

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彼かれは焦躁じれて卯平うへいの足あしもとの灰はひへ燐寸マツチの箱はこを投なげた。

箱はからりと鳴った。

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箱はこはからりと鳴なつた。

箱の底は、もう見えていたのである。

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箱はこの底そこはもう見みえて居ゐたのである。

卯平は目をしかめたままマッチを取って、またすっと擦って、ゆっくりと軸木を逆さまにして、その白い軸木を包んで燃え昇ろうとする小さな火を、干からびた大きな手で包んで、大事そうに覗いた。

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卯平うへいは目めを蹙しかめた儘まゝ燐寸マツチをとつて復またすつと擦すつて、ゆつくりと軸木ぢくぎを倒さかさにして其その白しろい軸木ぢくぎを包つゝんで燃もえ昇のぼらうとする小ちひさな火ひを枯燥こさうした大おほきな手てで包つゝんで、大事相だいじさうに覗のぞいた。

それがまた二、三度繰り返された。

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それが復また二三度ど反覆くりかへされた。

手の内側がぼんやりとして、それからだんだんに明るくなって、火はようやく保たれた。

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手ての内側うちがはがぼんやりとしてそれから段々だん/\に明あかるく成なつて火ひは漸やうやく保たもたれた。

茶釜の底に触れるばかりに突っ込まれた落ち葉には、こうして火が点けられた。

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茶釜ちやがまの底そこに觸ふれるばかりに突込つゝこまれた落葉おちばには斯かうして火ひが點つけられた。

落ち葉には灰際から、その外側を伝って火がべろべろと渡った。

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落葉おちばには灰際はひぎはから其その外側そとがはを傳つたひて火ひがべろ/\と渡わたつた。

卯平は不自由な手の火箸で、落ち葉を透かした。

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卯平うへいは不自由ふじいうな手ての火箸ひばしで落葉おちばを透すかした。

火は素早くその生命を回復した。

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火ひは迅速じんそくに其その生命せいめいを恢復くわいふくした。

彼らのためにふだんほとんど半分以上を無駄に使われている炎が、竈の口から捲れて立った。

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彼等かれらの爲ために平生へいぜい殆ほとんど半なかば以上いじやうを無駄むだに使つかはれて居ゐる焔ほのほが竈かまどの口くちから捲まくれて立たつた。

しかしその余計に漏れて出る炎が、彼の自由を失って凍ろうとしている手を暖めた。

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然しかし其その餘計よけいに洩もれて出いづる焔ほのほが彼かれの自由じいうを失うしなうて凍こほらうとして居ゐる手てを暖あたゝめた。

彼は横に転がした大籠からかさかさと掻き出しては、燃えやすい落ち葉を絶え間なく足した。

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彼かれは横よこに轉ころがした大籠おほかごからかさ/\と掻かき出だしては燃もえ易やすい落葉おちばを間斷かんだんなく足たした。

与吉は卯平のそばから、斜めに手を出していた。

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與吉よきちは卯平うへいの側そばから斜なゝめに手てを出だして居ゐた。

卯平は与吉の小さな足の甲へ、そっと手を触れてみた。

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卯平うへいは與吉よきちの小ちひさな足あしの甲かふへそつと手てを觸ふれて見みた。

手も足も、どちらもざらざらとこそばゆかった。

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手ても足あしも孰どつちもざら/\とこそつぱかつた。

与吉は斜めに身を置くのが少し窮屈であったのと、小言がなければただ悪戯をしてみたいのとで、そばの竈の口へ別に自分で落ち葉の火を点けた。

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與吉よきちは斜なゝめに身みを置おくのが少すこし窮屈きうくつであつたのと、叱言こごとがなければ唯たゞ惡戲いたづらをして見みたいのとで側そばな竈かまどの口くちへ別べつに自分じぶんで落葉おちばの火ひを點つけた。

針金のような火をちらりと持った落ち葉の一ひら一ひらが、煙とともに軽く昇った。

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針金はりがねのやうな火ひをちらりと持もつた落葉おちばの一ひとひら/\が煙けぶりと共ともに輕かるく騰のぼつた。

落ち葉はすぐに白い灰に変わって、さらに幾つかに分かれて、与吉の髪から卯平の白髪に散った。

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落葉おちばは直すぐに白しろい灰はひに化なつて更さらに幾いくつかに分わかれて與吉よきちの頭髮かみから卯平うへいの白髮かみに散ちつた。

煙の中には、その白い灰が後から後から立っては落ちた。

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煙けぶりの中なかには其その白しろい灰はひが後あとから/\と立たつて落おちた。

与吉はいつも、彼らの仲間とともに道端の枯れ芝に火を点じて、それが黒い跡を残してめろめろと燃え広がるのを見るのが、愉快でならなかった。

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與吉よきちはいつも彼等かれらの伴侶なかまと共ともに路傍みちばたの枯芝かれしばに火ひを點てんじて、それが黒くろい趾あとを残のこしてめろめろと燃もえ擴ひろがるのを見みるのが愉快ゆくわいでならなかつた。

彼はまた、火が野茨の株に燃え移って、そこに茂った茅萱を焼いて炎が一条の柱を立てると、喜びと驚きとの入り交じった声を放って痛快に叫びながら、ついにはそこに恐怖が加われば、棒で叩いたり土塊を投げつけたり、または自分らの着物を取ってばさりばさりと叩いたりして、その火を消すことに力めるのであった。

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彼かれは又また火ひが野茨のいばらの株かぶに燃もえ移うつつて、其處そこに茂しげつた茅萱ちがやを燒やいて焔ほのほが一條でうの柱はしらを立たてると、喜悦よろこびと驚愕おどろきとの錯雜さくざつした聲こゑを放はなつて痛快つうくわいに叫さけびながら、遂つひには其處そこに恐怖おそれが加くははれば棒ぼうで叩たゝいたり土塊つちくれを擲はふつたり、又または自分等じぶんらの衣物きものをとつてぱさり/\と叩たゝいたりして其その火ひを消けすことに力つとめるのであつた。

素早く、かつ壮快な変化を目の前に見せる火が、彼らの悪戯好きな心をどれほど誘ったか知れない。

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迅速じんそくで且かつ壯快さうくわいな變化へんくわを目前もくぜんに見みせる火ひが彼等かれらの惡戲好いたづらずきな心こゝろをどれ程ほど誘導そゝつたか知しれない。

彼は落ち葉をつかんでは竈の口に投じて、ぼうぼうと燃え上がる炎に手をかざした。

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彼かれは落葉おちばを攫つかんでは竈かまどの口くちに投とうじてぼうぼうと燃もえあがる焔ほのほに手てを翳かざした。

茶釜がちゅうちゅうと少し響きを立てて鳴り出した時、卯平は干からびたように感じていた喉を潤そうとして、怠い尻を少し起こして、膳の上の茶碗へ手を伸ばした。

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茶釜ちやがまがちう/\と少すこし響ひゞきを立たてゝ鳴なり出だした時とき卯平うへいは乾ひからびたやうに感かんじて居ゐた喉のどを濕うるほさうとして懶だるい臀しりを少すこし起おこして膳ぜんの上うへの茶碗ちやわんへ手てを伸のばした。

自由を欠いていた手が、爪先で持った茶碗をころりと落とさせた。

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自由じいうを缺かいて居ゐた手てが、爪先つまさきで持もつた茶碗ちやわんをころりと落おとさせた。

茶碗の底に冷たくなっていた少しの水が、土間へぽっちりと落ちてはねた。

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茶碗ちやわんの底そこに冷つめたく成なつて居ゐた少すこしの水みづが土間どまへぽつちりと落おちてはねた。

飯粒がともに散らばった。

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飯粒めしつぶが共ともに散ちらばつた。

彼はまた悠長に茶碗を取って、汚れた部分を手でこすって、さらに茶釜の熱湯を注いで、足元の灰へ傾けた。

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彼かれは又また悠長いうちやうに茶碗ちやわんをとつて汚よごれた部分ぶゞんを手てでこすつて、更さらに茶釜ちやがまの熱湯ねつたうを注そゝいで足あしもとの灰はひへ傾まけた。

蓋を取ったので、ほうほうと威勢よく立っている湯気が、ちらちらと白く立って落ちる灰を吸った。

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蓋ふたをとつたのでほう/\と威勢ゐせいよく立たつて居ゐる水蒸氣ゆげがちら/\と白しろく立たつて落おちる灰はひを吸すうた。

彼はようやくにして柄杓の手を放って、再び茶釜の蓋をした時、にわかにぼうっと立った炎の音を聞いた。

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彼かれは漸やうやくにして柄杓ひしやくの手てを放はなつて再ふたゝび茶釜ちやがまの蓋ふたをした時とき俄にはかにぼうつと立たつた焔ほのほの聲こゑを聞きいた。

彼が思わず後ろを見た時、与吉の驚きから発せられた泣き声が耳を打った。

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彼かれが思おもはず後うしろを見みた時とき與吉よきちの驚愕きやうがくから發はつせられた泣なき聲ごゑが耳みゝを打うつた。

盛んな火の柱が、近く目を覆って立っていた。

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熾さかんな火ひの柱はしらが近ちかく目めを掩おほうて立たつて居ゐた。

彼はまたすぐに、激しい熱を顔いっぱいに感じた。

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彼かれは又また直すぐに激はげしい熱度ねつどを顏かほ一杯ぱいに感かんじた。

火は、どうしたはずみか、横に転がした大籠の落ち葉に移っていたのである。

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火ひはどうした機會はずみか横よこに轉ころがした大籠おほかごの落葉おちばに移うつつて居ゐたのである。

与吉は初め、野外の悪戯に用いた手段でその火を叩いて消そうとし、また掻き出そうとした。

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與吉よきちは初はじめ野外やぐわいの惡戲あくぎに用もちゐた手段しゆだんを以もつて其その火ひを叩たゝいて消けさうとし又また掻かき出ださうとした。

乾いた落ち葉は素早く火を誘って彼の横頬をなめて、彼は思わず声を放ったのである。

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乾燥かんさうした落葉おちばは迅速じんそくに火ひを誘導いうだうして彼かれの横頬よこほゝを舐ねぶつて、彼かれは思おもはず聲こゑを放はなつたのである。

卯平は慌てて再び茶碗を落とした。

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卯平うへいは慌あわてて再ふたゝび茶碗ちやわんを落おとした。

彼は突然、与吉をそばに掻き退けた。

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彼かれは突然いきなり與吉よきちを傍かたはらに掻かき退のけた。

彼はそうして無意識に、火になった落ち葉を掻き出そうとして、自由を失った手の鈍い動きが、その火を消すのに何の効き目もなかった。

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彼かれはさうして無意識むいしきに火ひに成なつた落葉おちばを掻かき出ださうとして、自由じいうを失うしなうた手ての鈍のろい運動うんどうが其その火ひを消けすに何なんの功果こうくわもなかつた。

彼は炎のままに、軽い落ち葉の籠を庭へ投げればよかったのである。

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彼かれは焔ほのほの儘まゝに輕かるい落葉おちばの籠かごを庭にはへ投なげればよかつたのである。

疾風は必ずその落ち葉を散乱させて、火は遠く燃えながら走るにしても、切れ切れの落ち葉は広い区域にことごとくその面影をも止めないで、消えてしまわねばならないのであった。

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疾風しつぷうは必かならず其その落葉おちばを散亂さんらんせしめて、火ひは遠とほく燃もえながら走はしるにしても、片々へんぺんたる落葉おちばは廣ひろい區域くゐきに悉ことごとく其その俤おもかげをも止とゞめないで消滅せうめつして畢しまはねば成ならぬのであつた。

しかしながら、慌てた卯平の手は、このように簡単で、かつ最良である方法を取る暇がなかった。

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然しかしながら慌あわてた卯平うへいの手ては此かくの如ごとき簡單かんたんで且かつ最良さいりやうである方法はうはふを執とる暇ひまがなかつた。

火はまた怒って、彼の頬をなめ、彼の手を焼いた。

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火ひは復また怒いかつて彼かれの頬ほゝを舐ねぶり彼かれの手てを燒やいた。

彼の目はくらんだ。

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彼かれの目めは昏くらんだ。

一時に激した落ち葉の火は、それが長く続かなくても、老衰した卯平の心を奪うには余りあった。

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一時じに激げきした落葉おちばの火ひはそれが久ひさしく持續ぢぞくされなくても老衰らうすゐした卯平うへいの心こゝろを奪うばふには餘あまりあつた。

卯平の視力が再び回復した時には、火はすでに天井の梁に積んだ藁束の、乱れて覗いている穂先を伝って昇った。

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卯平うへいの視力しりよくが再ふたゝび恢復くわいふくした時ときには火ひは既すでに天井てんじやうの梁はりに積つんだ藁束わらたばの、亂みだれて覗のぞいて居ゐる穗先ほさきを傳つたひて昇のぼつた。

火は乾いた藁束の周囲をなめて、さらにその炎が薄暗い家の内から逃れようとして、屋根裏を這った。

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火ひは乾燥かんさうした藁束わらたばの周圍しうゐを舐ねぶつて、更さらに其その焔ほのほが薄闇うすぐらい家いへの内うちから遁のがれようとして屋根裏やねうらを偃はうた。

それが素早い火の力の、瞬間の活動であった。

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それが迅速じんそくな火ひの力ちからの瞬間しゆんかんの活動くわつどうであつた。

なめた火はさらにこれを噛んで、ずたずたに崩れた藁束はその火を保ったまま、すでにその勢いを沈めた落ち葉の上にばらばらと乱れ落ちて、そこにまた火勢が回復された。

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舐ねぶつた火ひは更さらに此これを噛かんでずた/\に崩壞ほうくわいした藁束わらたばは其その火ひを保たもつた儘まゝ既すでに其その勢いきほひを沈しづめた落葉おちばの上うへにばら/\と亂みだれ落おちて其處そこに復また火勢くわせいが恢復くわいふくされた。

ぼんやりとして我を失っていた卯平は、藁の火を浴びた。

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惘然ばうぜんとして自失じしつして居ゐた卯平うへいは藁わらの火ひを浴あびた。

彼は慌てて戸口へ逃げ出した時、火はすでに赤い天井を造っていた。

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彼かれは慌あわてゝ戸口とぐちへ遁にげ出だした時とき火ひは既すでに赤あかい天井てんじやうを造つくつて居ゐた。

煙は四方から軒を伝って、むくむくと走っていた。

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煙けぶりは四方はうから檐のきを傳つたひてむく/\と奔はしつて居ゐた。

蛇の舌のごとくべろべろと、炎が吐き出された。

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蛇へびの舌したの如ごとくべろ/\と焔ほのほが吐はき出だされた。

吹き募っている疾風は、すぐにその赤い舌を吹きねじ切ろうとした。

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吹ふき募つのつて居ゐる疾風しつぷうは直すぐに其その赤あかい舌したを吹ふき拗切ちぎらうとした。

後から後から勢いを加えて吐き出す煙や炎は、穂のごとく押しなびかされた。

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後あとから/\と勢力せいりよくを加くはへて吐はき出だす煙けぶりや焔ほのほは穗ほの如ごとく壓おし靡なびかされた。

火は瞬く間に、所々落ち窪んでやつれた屋根をまったく包んでしまった。

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火ひは瞬間しゆんかんに處々ところ/″\落おち窪くぼんで窶やつれた屋根やねを全まつたく包つゝんで畢しまつた。

卯平は数分前に予期しなかったこの変事を意識した時、ほとんど気を失って庭に倒れた。

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卯平うへいは數分時すうふんじの前まへに豫期よきしなかつた此この變事へんじを意識いしきした時とき殆ほとんど喪心さうしんして庭にはに倒たふれた。

土塊のごとく動かない彼の体からは、憐れにかすかな煙が立って、地を這って消えた。

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土塊どくわいの如ごとく動うごかぬ彼かれの身體からだからは憐あはれに微かすかな煙けぶりが立たつて地ちを偃はうて消きえた。

藁の火を浴びた時、その火がぼろぼろな彼の着物を焦がしたのである。

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藁わらの火ひを沿あびた時とき其その火ひが襤褸ぼろな彼かれの衣物きものを焦こがしたのである。

しかしその火は、灸のごとき跡をぽつぽつと止めたのみで、着物の芯までは深く噛まなかった。

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然しかし其その火ひは灸きうの如ごとき跡あとをぽつ/\と止とゞめたのみで衣物きものの心部しんぶは深ふかく噛かまなかつた。

埃は彼を越えて走った。

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埃ほこりは彼かれを越こえて走はしつた。

与吉は火傷の痛みを訴えて、独り悲しく泣いた。

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與吉よきちは火傷やけどの疼痛とうつうを訴うつたへて獨ひとり悲かなしく泣ないた。

疾風はその威力を遮って包んだ炎を掻き退けようとして、その余力が屋根の葺き草を吹きまくった。

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疾風しつぷうは其その威力ゐりよくを遮さへぎつて包つゝんだ焔ほのほを掻かき退のけようとして其その餘力よりよくが屋根やねの葺草ふきぐさを吹ふき捲まくつた。

火はすぐにその隙間に噛み入って、ますますそこに力をたくましくした。

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火ひは直たゞちに其その空隙くうげきに噛かみ入いつて益ます/\其處そこに力ちからを逞たくましくした。

そそり立って空に奔り昇ろうとする炎を横に押しつけ押しつけ、疾風はついに塊のごとき火の粉をつかんで投げた。

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聳然すつくりと空そらに奔騰ほんたうしようとする焔ほのほを横よこに壓おしつけ/\疾風しつぷうは遂つひに塊かたまりの如ごとき火ひの子こを攫つかんで投なげた。

その礫は、ゆらりゆらりとのみ動いている東隣の森の木がふわりと受けて遮った。

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其その礫つぶてはゆらり/\とのみ動うごいて居ゐる東隣ひがしどなりの森もりの木きがふはりと受うけて遮斷しやだんした。

ただ一部、三角測量台の見通しに障るために切り払われた隙間が、それを導いた。

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只たゞ一部ぶ、三角測量臺かくそくりやうだいの見通みとほしに障さはる爲ために切きり拂はらはれた空隙すきがそれを導みちびいた。

火の粉は、東隣の主人の屋根の一角にどさりと止まった。

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火ひの子こは東隣ひがしどなりの主人しゆじんの屋根やねの一角かくにどさりと止とまつた。

勘次の家を包んだ火は、屋根裏の煤竹を一時に爆ぜさせて、小銃のごとき響きを立てた。

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勘次かんじの家いへを包つゝんだ火ひは屋根裏やねうらの煤竹すゝたけを一時じに爆破ばくはさせて小銃せうじうの如ごとき響ひゞきを立たてた。

その響きは近所の耳を驚かせた。

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其その響ひゞきは近所きんじよの耳みゝを驚おどろかした。

その人々が駆けつけた時は、棟はどさりと落ちて、疾風の力を凌いで空中はるかに炎を揚げた。

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其その人々ひと/″\が驅かけつけた時ときは棟むねはどさりと落おちて、疾風しつぷうの力ちからを凌しのいで空中くうちう遙はるかに焔ほのほを揚あげた。

その時はすでに、東隣の主人の家を火がべろべろとなめつつあったのである。

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其その時ときは既すでに東隣ひがしどなりの主人しゆじんの家いへを火ひがべろ/\と甞なめつゝあつたのである。

村の者が万能や鳶口を持って集まった時は、火はすさまじい勢いを持っていた。

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村落むらの者ものが萬能まんのうや鳶口とびぐちを持もつて集あつまつた時ときは火ひは凄すさまじい勢いきほひを持もつて居ゐた。

それでも大きな建物を焼き尽くすには時間を要した。

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それでも大おほきな建物たてものを燒盡せうじんするには時間じかんを要えうした。

その間に村の者は手当たり次第に家財を持って、それを安全な場所に移した。

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其その間あひだに村落むらの者ものは手當てあたり次第しだいに家財かざいを持もつて其それを安全あんぜんの地位ちゐに移うつした。

その点において、白昼の動作は素早く、かつ容易であった。

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其その點てんに於おいて白晝はくちうの動作どうさは敏活びんくわつで且かつ容易よういであつた。

家財道具が門の外に運ばれた時、火勢はすでにすべての物が近づくことを許さなかった。

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家財道具かざいだうぐが門もんの外そとに運はこばれた時とき火勢くわせいは既すでに凡すべての物ものの近ちかづくことを許容ゆるさなかつた。

家を囲んで、東にも杉の高木が立っていた。

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家いへを圍かこんで東ひがしにも杉すぎの喬木けうぼくが立たつて居ゐた。

森のこずえの上にはるかに立ち昇ろうとして、次第にその勢いを加える炎を、疾風はぐるりと包んだ高木のこずえからごうっと押しつけ押しつけ吹き落ちた。

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森もりの梢こずゑの上うへに遙はるかに立たち騰のぼらうとして次第しだいに其その勢いきほひを加くはへる焔ほのほを、疾風しつぷうはぐるりと包つゝんだ喬木けうぼくの梢こずゑからごうつと壓おしつけ壓おしつけ吹ふき落おちた。

炎は斜めに、そうして傾きながら、群集の耳には疾風の響きを奪って、轟々と鳴り続いた。

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焔ほのほは斜なゝめにさうして傾かたむきつゝ、群集ぐんしふの耳みゝには疾風しつぷうの響ひゞきを奪うばつて轟々ぐわう/\と鳴なり續つづいた。

吹き落とす疾風に抵抗してその力をたくましくしようとする炎は、深く木材の芯にまでしっかりと爪を引っ掛けた。

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吹ふき落おとす疾風しつぷうに抵抗ていこうして其その力ちからを逞たくましくしようとする焔ほのほは深ふかく木材もくざいの心部しんぶにまで確乎しつかと爪つめを引ひつ掛かけた。

そうしてその炎は、近くそびえた杉のこずえから枝へかけて爪先で引っ掻いた。

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さうして其その焔ほのほは近ちかく聳そびえた杉すぎの梢こずゑから枝えだへ掛かけて爪先つまさきで引ひつ掻かいた。

そのたびに杉は針葉樹の特色を現して、樹脂の多い葉がばりばりとすさまじく鳴って焼けた。

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其その度たびに杉すぎは針葉樹しんえふじゆの特色とくしよくを現あらはして樹脂やに多おほい葉はがばり/\と凄すさまじく鳴なつて燒やけた。

屋根裏の竹が爆ぜた。

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屋根裏やねうらの竹たけが爆破ばくはした。

消防の群集は、ほとんど皮膚を焼かれるような熱さを恐れて、だんだん遠ざかった。

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消防せうばうの群集ぐんしふは殆ほとんど皮膚ひふを燒やかれるやうな熱あつさを怖おそれて段々だん/\遠とほざかつた。

小さなポンプは、その盛んな炎の前にただ一条の細い短い曲がった白い線を描くのみで、何の効き目も見えなかった。

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小ちひさな喞筒ポンプは其その熾さかんな焔ほのほの前まへに只ただ一條でうの細ほそい短みじかい彎曲わんきよくした白しろい線せんを描ゑがくのみで何なんの功果こうくわも見みえなかつた。

他の村の人々が聞き伝えて田圃や林を越えて、その間に各自の体力を消耗しつつ駆けつけるまでには、大きな棟は熱い火を四方に煽って落ちた。

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他たの村落むらの人々ひと/″\が聞きき傳つたへて田圃たんぼや林はやしを越こえて、其その間あひだに各自かくじの體力たいりよくを消耗せうまうしつゝ驅かけつけるまでには大おほきな棟むねは熱火ねつくわを四方はうに煽あふつて落おちた。

疾風の力がこれを押しつけて、周囲の高木のこずえが他と隔てて、白昼の力がその光を奪おうとしているので、空に立って見えるのは遠いようで、かつ近いようで、一種の凄惨な気を含んだ煙である。

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疾風しつぷうの力ちからが此これを壓おしつけて、周圍しうゐの喬木けうぼくの梢こずゑが他たと隔へだてゝ白晝はくちうの力ちからが其その光ひかりを奪うばはうとして居ゐるので、空そらに立たつて見みえるのは遠とほいやうで且かつ近ちかいやうで一種しゆの凄慘せいさんな氣きを含ふくんだ煙けぶりである。

それでも高木のこずえの上に、火は圧迫に苦しんでいるようにまれに立ち昇っては、また押しつけられた。

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それでも喬木けうぼくの梢こずゑの上うへに火ひは壓迫あつぱくに苦くるしんで居ゐるやうに稀まれに立たち騰のぼつては又また壓おしつけられた。

無駄であるポンプへ群集は水を汲むのに、近所のあらゆる井戸は皆釣瓶が届かなくなった。

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徒勞むだである喞筒ポンプへ群集ぐんしふは水みづを汲くむのに近所きんじよの有あらゆる井戸ゐどは皆みな釣瓶つるべが屆とゞかなくなつた。

群集はただごうごうとして、乱れた響きの中に騒ぎを極めた。

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群集ぐんしふは唯たゞ囂々がう/\として混亂こんらんした響ひゞきの中なかに騷擾さうぜうを極きはめた。

火の力はこのようにして、周囲の村をも一つに吸収した。

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火ひの力ちからは此かくの如ごとくにして周圍しうゐの村落そんらくをも一つに吸收きふしうした。

しかしながら、その群集は勘次の庭を顧みようとはしなかった。

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然しかしながら、其その群集ぐんしふは勘次かんじの庭にはを顧かへりみようとはしなかつた。

黄褐色の霧で四方を塞がれながら、ひたすらにその唐鍬を打っていた勘次は、田圃を渡って林を越えて遠く行っていた。

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黄褐色くわうかつしよくの霧きりを以もつて四圍ゐを塞ふさがれつゝ只管ひたすらに其その唐鍬たうぐはを打うつて居ゐた勘次かんじは田圃たんぼを渡わたつて林はやしを越こえて遠とほく行いつて居ゐた。

彼はこの凶事を知る理由がなかった。

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彼かれは此この凶事きようじを知しる理由わけがなかつた。

開墾地に近い小道を走って行く人の慌ただしい様子を見咎めて、彼は初めてその火を知った。

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開墾地かいこんちに近ちかい小徑こみちを走はしつて行ゆく人ひとの慌あわたゞしい容子ようすを見咎みとがめて彼かれは始はじめて其その火ひを知しつた。

それが東隣の主人の家に起こったことを聞かされて、彼はおつぎを促して立った。

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それが東隣ひがしどなりの主人しゆじんの家いへに起おこつたことを聞きかされて彼かれはおつぎを促うながして立たつた。

彼は疾駆しようとして、そのしっかりと身を据えた位置から一歩を踏み出した時、じゃりっとその爪先を打って財布が落ちた。

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彼かれは疾驅しつくしようとして、其その確乎しつかと身みを据すゑた位置ゐちから一歩ぽを踏ふみ出だした時とき、じやりつと其その爪先つまさきを打うつて財布さいふが落おちた。

彼が顧みた時、財布は二、三歩後ろに見つかった。

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彼かれが顧かへりみた時とき財布さいふは二三歩ぽ後うしろに發見はつけんされた。

彼は簡単な三尺帯を解いて、ぎりっとそこに大きな塊のような結び目を作って、その財布を包んだ。

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彼かれは簡單かんたんな三尺帶じやくおびを解といて、ぎりつと其處そこに大おほきな塊かたまりのやうな結むすび目めを作つくつて其その財布さいふを包つゝんだ。

彼はほとんどその脚力の及ぶ限り走った。

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彼かれは殆ほとんど其その脚力きやくりよくの及およぶ限かぎり走はしつた。

彼はおつぎが後に続かないことを気にかける暇もなかった。

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彼かれはおつぎが後うしろに續つゞかぬことを顧慮こりよする暇いとまもなかつた。

彼はその主人を思ったのである。

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彼かれは其その主人しゆじんを懷おもつたのである。

勘次は後ろの田圃へ出た時、霧のごとき埃を隔てて主人の家の森から昇る盛んな煙を見て、今さらのごとく恐れた。

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勘次かんじは後うしろの田圃たんぼへ出でた時とき霧きりの如ごとき埃ほこりを隔へだてゝ主人しゆじんの家いへの森もりから騰のぼる熾さかんな煙けぶりを見みて今更いまさらの如ごとく恐怖きようふした。

彼はまたふと、自分の後ろの林に少し見えていた自分の家の棟が見えないのに、その心を騒がせた。

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彼かれは又またふと自分じぶんの後うしろの林はやしに少すこし見みえて居ゐた自分じぶんの家いへの棟むねが見みえないのに其その心こゝろを騷さわがせた。

少しもその力を落とさない疾風は、雑木に交じった竹のこずえを低く、そうしてさらに低く吹きなびけているけれど、棟はどうしても見えなかった。

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毫がうも其その力ちからを落おとさぬ疾風しつぷうは雜木ざふきに交まじつた竹たけの梢こずゑを低ひくくさうして更さらに低ひくく吹靡ふきなびけて居をれど棟むねはどうしても見みえなかつた。

彼はまた煙が糸のごとく、しかもすさまじく自分の林の辺りから立っては押しつけられるのを見た。

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彼かれは又また煙けぶりが絲いとの如ごとく然しかも凄すさまじく自分じぶんの林はやしの邊あたりから立たつては壓おしつけられるのを見みた。

彼が自分の庭に立った時は、古い煤だらけの粗末な建物は焼き尽くされて、主要の木材がわずかに炎を吐いて立っている。

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彼かれが自分じぶんの庭にはに立たつた時ときは、古ふるい煤すゝだらけの疎末そまつな建築けんちくは燒盡やきつくして主要しゆえうの木材もくざいが僅わづかに焔ほのほを吐はいて立たつて居ゐる。

火はなお執念く木材の芯を噛んでいる。

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火ひは尚なほ執念しふねく木材もくざいの心部しんぶを噛かんで居ゐる。

何物をも吹き払わなければ止むまいとする疾風は、赤い埋み火を包む白い灰を、寸時の猶予をも与えないで吹きまくった。

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何物なにものをも吹ふき拂はらはねば止やむまいとする疾風しつぷうは、赤あかい煨おきを包つゝむ白しろい灰はひを寸時すんじの猶豫いうよをも與あたへないで吹ふき捲まくつた。

芯を噛まれつつある木材は、赤い歯を食いしばったような無数のひび割れが、火と煙とを吐いていた。

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心部しんぶを噛かまれつゝある木材もくざいは赤あかい齒はを喰くひしばつたやうな無數むすうの罅ひゞが火ひと煙けぶりとを吐はいて居ゐた。

勘次はほとんどぼんやりとして、この急激な変化を見た。

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勘次かんじは殆ほとんど惘然ばうぜんとして此この急激きふげきな變化へんくわを見みた。

彼は足元がよろけるほど、疾風の手に突かれた。

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彼かれは足あしもとが踉蹌よろける程ほど疾風しつぷうの手てに突つかれた。

彼は庭に立って泣いている与吉を見た。

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彼かれは庭にはに立たつて泣ないて居ゐる與吉よきちを見みた。

与吉の横頬に印した火傷が、彼の惑乱した心を騒がせた。

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與吉よきちの横頬よこほゝに印いんした火傷やけどが彼かれの惑亂わくらんした心こゝろを騷さわがせた。

勘次はまた、そのそばに目を閉じて後ろ向きになっている卯平を見た。

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勘次かんじは又また其その側そばに目めを瞑つぶつて後向うしろむきに成なつて居ゐる卯平うへいを見みた。

卯平は、いつの間に誰がそうしたのか、筵の上に横たえられてあった。

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卯平うへいは何時いつの間まに誰たれがさうしたのか筵むしろの上うへに横よこたへられてあつた。

彼は少ない白髪を薙ぎ払って焼いた火傷の辺りを、手で覆っていた。

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彼かれは少すくない白髮しらがを薙なぎ拂はらつて燒やいた火傷やけどのあたりを手てで掩おうて居ゐた。

「お前はどうしたんだ」

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「汝わりやどうしたんだ」

勘次は忙しく聞いた。

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勘次かんじは忙せわしく聞きいた。

「木の葉へ火がくっついたんだ」

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「木きの葉はへ火ひいくつゝえたんだ」

与吉はむせび入りながら言った。

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與吉よきちは咽むせび入いりながらいつた。

「お前でも悪戯したんじゃないか」

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「汝われでも惡戲いたづらしたんぢやねえか」

勘次はもどかしげに激しく追及した。

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勘次かんじは遲緩もどかしげに烈はげしく追求つゐきうした。

「おれは爺さんと火に当たってたんだ。そうしたらくっついたんだ」

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「俺おら爺ぢいと火ひいあたつてたんだ、さうしたらくつゝかつたんだ」

そう言って、与吉はにわかに声を放って泣いた。

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さういつて與吉よきちは俄にはかに聲こゑを放はなつて泣ないた。

彼は何のためにそう悲しくなったのか、むしろ幼い彼自身には分からなかった。

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彼かれは何なんの爲ためにさう悲かなしくなつたのか寧むしろ頑是ぐわんぜない彼自身かれじしんには分わからなかつた。

彼はただ涙がこみあげて、止めどもなく悲しく、そうしてしみじみと泣き続けた。

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彼かれは只たゞ涙なみだがこみあげて止とめ處どもなく悲かなしくさうしてしみ/″\と泣なき續つゞけた。

勘次はそれを聞いた瞬間、肩の唐鍬を転がしてぶつりと土を打った。

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勘次かんじはそれを聞きいた瞬間しゆんかん肩かたの唐鍬たうぐはを轉ころがしてぶつりと土つちを打うつた。

唐鍬の刃先は、卯平の頭に近く筵の一端をかすめて、深く土に立った。

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唐鍬たうぐはの刄先はさきは卯平うへいの頭あたまに近ちかく筵むしろの一端たんを掠かすつて深ふかく土つちに立たつた。

彼はそれから、焼き尽くされていっぱいの埋み火になった自分の家に近く駆け寄った。

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彼かれはそれから燒盡やきつくして一杯ぱいの煨おきになつた自分じぶんの家うちに近ちかく駈かけ寄よつた。

彼は火の恐ろしい熱さを感じて、しばらくためらって立った。

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彼かれは火ひの恐おそろしい熱度ねつどを感かんじて少時しばし躊躇ちうちよして立たつた。

後ろの林の、ややうなだれた竹の外側がぐるりと焼かれて変色していたのが、彼の目に映じた。

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後うしろの林はやしの稍やゝ俛首うなだれた竹たけの外側そとがはがぐるりと燒やかれて變色へんしよくして居ゐたのが彼かれの目めに映えいじた。

それとともに彼は、隣の森の中の群集がごうごうと騒ぐのを耳にして、自分が今何のために疾走して来たかに気づいた。

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それと共ともに彼かれは隣となりの森もりの中なかの群集ぐんしふの囂々がう/\と騷さわぐのを耳みゝにして自分じぶんが今いま何なんの爲ために疾走しつそうして來きたかを心こゝろづいた。

しかし彼はもう、その群集の間に交じって主人の災難に赴く心は起こらなかった。

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然しかし彼かれはもう其その群集ぐんしふの間あひだに交まじつて主人しゆじんの災厄さいやくに赴おもむく心こゝろは起おこらなかつた。

彼はその群集の声を聞いて、自ら意識しない圧迫を感じた。

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彼かれは其その群集ぐんしふの聲こゑを聞きいて、自みづから意識いしきしない壓迫あつぱくを感かんじた。

彼はひどく、自分の哀れっぽい悲惨な姿を泣きたくなった。

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彼かれは酷ひどく自分じぶんの哀あはれつぽい悲慘みじめな姿すがたを泣なきたくなつた。

彼は疾走した後の異常な疲れを感じた。

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彼かれは疾走しつそうした後あとの異常いじやうな疲勞ひらうを感かんじた。

彼は自分の焼け跡を掻き立てようとするのに、鳶口も万能も皆その火の中に包まれてしまっていた。

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彼かれは自分じぶんの燒趾やけあとを掻かき立たてようとするのに鳶口とびぐちも萬能まんのうも皆みな其その火ひの中なかに包つゝまれて畢しまつて居ゐた。

彼は素手であった。

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彼かれは空手からてであつた。

唐鍬を取って、彼は再び熱い火のそばに立った。

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唐鍬たうぐはを執とつて彼かれは再ふたゝび熱あつい火ひの側そばに立たつた。

熱さに堪えられない火のそばを、彼は飛び退いてまた立った。

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熱あつさに堪たへぬ火ひの側そばを彼かれは飛とび退すさつて又また立たつた。

彼はその刃先の鈍くなるのを思う暇もなく唐鍬で、まだ立っている木材を引っ掛けて倒そうとした。

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彼かれは其その刃先はさきの鈍にぶく成なるのを思おもふ暇いとまもなく唐鍬たうぐはで、また立たつて居ゐる木材もくざいを引ひつ掛かけて倒たふさうとした。

おつぎは後れて、ようやく垣根の入口に立った。

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おつぎは後おくれて漸やうやく垣根かきねの入口いりくちに立たつた。

おつぎはもう、自分の家がないことを知った。

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おつぎはもう自分じぶんの家うちが無ないことを知しつた。

貧しい生活の間から数年来ようやく蓄えた衣類の数点が、すでにその一片をも止めていないことを知って、そうして心に悲しんだ。

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貧窮ひんきうな生活せいくわつの間あひだから數年來すうねんらい漸やうやく蓄たくはへた衣類いるゐの數點すうてんが既すでに其その一片ぺんをも止とゞめないことを知しつてさうして心こゝろに悲かなしんだ。

汗がびっしりと髪の生え際を浸して、疲れきった体を、おつぎはしばらくぼんやりと庭に立てた。

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汗あせがびつしりと髮かみの生際はえぎはを浸ひたして疲憊ひはいした身體からだをおつぎは少時しばし惘然ぼんやりと庭にはに立たてた。

おつぎはそれからまた、泣いている与吉と、死骸のごとく横たわっている卯平とを見た。

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おつぎはそれから又また泣ないて居ゐる與吉よきちと死骸しがいの如ごとく横よこたはつて居ゐる卯平うへいとを見みた。

おつぎは万能を置いて、与吉の火傷した頭をそっと抱いた。

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おつぎは萬能まんのうを置おいて與吉よきちの火傷やけどした頭部とうぶをそつと抱いだいた。

与吉はまた涙がこみあげて、むせびながらしみじみと悲しげに泣いた。

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與吉よきちは復また涙なみだがこみあげて咽むせびながらしみ/″\と悲かなしげに泣ないた。

その声は、聞く者をただ泣きたくさせた。

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其その聲こゑは聞きくものを只たゞ泣なきたくさせた。

疲れたおつぎの目には、ふっと涙が浮かんだ。

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疲つかれたおつぎの目めにはふつと涙なみだが泛うかんだ。

おつぎはまた、手で抑えた卯平の頭に疑いの目を注いで、二人の悲しむべき記念に思い至った。

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おつぎは又また手てで抑おさへた卯平うへいの頭部とうぶに疑うたがひの目めを注そゝいで、二人にんの悲かなしむべき記念かたみにおもひ至いたつた。

おつぎは、その原因を追及して聞こうとはしなかった。

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おつぎは其その原因げんいんを追求つゐきうして聞きかうとはしなかつた。

おつぎはしみじみと与吉を心にいたわって、さらに「爺さん」

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おつぎはしみ/″\と與吉よきちを心こゝろに勦いたはつて更さらに、「爺ぢい」

と、卯平の筵に近づいてそっと膝をついた。

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と卯平うへいの蓆むしろに近ちかづいてそつと膝ひざをついた。

ふだんのおつぎは、勘次との間を繋ごうとする苦心からの甘えた言葉が、卯平の心に投じるのであった。

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平生いつものおつぎは勘次かんじとの間あひだを繋つながうとする苦心くしんからの甘あまえた言辭ことばが卯平うへいの心こゝろに投とうずるのであつた。

今、おつぎの心の内には何の理屈もなかった。

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現在いまおつぎの心裏しんりには何なんの理窟りくつもなかつた。

ただしみじみと悲しい、いたわしい心からの言葉が、自然にその口から出るのであった。

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只たゞしみ/″\と悲かなしい痛いたはしい心こゝろからの言辭ことばが自然しぜんに其その口くちから出でるのであつた。

おつぎは、まだ燃えている火を忘れたように卯平を越えて覗いた。

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おつぎは未まだ燃もえてる火ひを忘わすれたやうに卯平うへいを越こえて覗のぞいた。

卯平はおつぎの声が耳に入ったので、後ろを向こうとしてわずかに目を開いた。

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卯平うへいはおつぎの聲こゑが耳みゝに入はひつたので後うしろを向むかうとして僅わづかに目めを開あいた。

地をかすめて走りつつある埃が彼の頬を打って、彼の横たえた体を越えた。

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地ちを掠かすつて走はしりつゝある埃ほこりが彼かれの頬ほゝを打うつて彼かれの横よこたへた身體からだを越こえた。

彼はすぐに以前のごとく目を閉じた。

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彼かれは直すぐに以前もとの如ごとく目めを閉とぢた。

「爺さんも火傷したのか」

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「爺ぢいも火傷やけどしたのか」

おつぎは静かに言って、卯平の手をそっと退けて、左の横頬に印した火傷を見た。

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おつぎは靜しづかにいつて卯平うへいの手てをそつと退のけて左ひだりの横頬よこほゝに印いんした火傷やけどを見みた。

「痛いか。そんでもたいしたこともないから、心配するなよ」

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「痛えてえか、そんでもたえしたこともねえから心配しんぺえすんなよ」

おつぎは、火に薙ぎ払われた汚い卯平の白髪へ、そっと手を当てた。

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おつぎは火ひに薙なぎ拂はらはれた穢きたない卯平うへいの白髮しらがへそつと手てを當あてた。

卯平はおつぎのするままに任せて、少し口を動かすようであったが、またごうっと吹きつける疾風に妨げられた。

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卯平うへいはおつぎのする儘まゝに任まかせて少すこし口くちを動うごかすやうであつたが、又またごつと吹ふきつける疾風しつぷうに妨さまたげられた。

おつぎは隣の庭の騒ぎを聞いた。

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おつぎは隣となりの庭にはの騷擾さうぜうを聞きいた。

しかもそのさまざまな叫びが入り交じって聞こえる声が、自分の心の芯からあるものを引っつかんで行くようで、自然にそれへ耳を澄ますと、何だかやるせないようなはかなさを感じて涙が落ちた。

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然しかも其その種々いろ/\な叫さけびの錯雜さくざつして聞きこえる聲こゑが自分じぶんの心部むねから或ある物ものを引ひつ攫つかんで行ゆくやうで、自然しぜんにそれへ耳みゝを澄すますと何なんだか遣やる瀬せのないやうな果敢はかなさを感かんじて涙なみだが落おちた。

涙は卯平の白髪に滴った。

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涙なみだは卯平うへいの白髮しらがに滴したゝつた。

おつぎが気づいた時、勘次はいたずらに、そうして発作的に汗を垂らして動いているのを見た。

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おつぎが心こゝろづいた時とき勘次かんじは徒いたづらにさうして發作的ほつさてきに汗あせを垂たらして動うごいて居ゐるのを見みた。

おつぎの心もきっと、まだ燃えつつある火に移った。

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おつぎの心こゝろも屹きつとして未まだ燃もえつゝある火ひに移うつつた。

おつぎはにわかに自分の万能を取って、勘次の手につかませた。

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おつぎは俄にはかに自分じぶんの萬能まんのうを執とつて勘次かんじの手てに攫つかませた。

勘次は初めて気づいて、熱した唐鍬を冷まそうとして井戸端へ走った。

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勘次かんじは始はじめて心こゝろづいて、熱ねつした唐鍬たうぐはを冷ひやさうとして井戸端ゐどばたへ走はしつた。

鍵の手を離れた釣瓶は、高く空中に浮かんでゆっくりと大きく動いていた。

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鍵かぎの手てを離はなれた釣瓶つるべは高たかく空中くうちうに浮うかんでゆつくりと大おほきく動うごいて居ゐた。

彼は流し尻にずぶりと唐鍬を投じて、また万能を取った。

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彼かれは流ながし尻じりにずぶりと唐鍬たうぐはを投とうじて又また萬能まんのうを執とつた。

一日吹いた疾風がぱたりとその力を落としたら、日が西の空の土手のような雲の端に近く据わって、次第に沈みつつまたたいた。

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一日にち吹ふいた疾風しつぷうが礑はたと其その力ちからを落おとしたら、日ひが西にしの空そらの土手どてのやうな雲くもの端はしに近ちかく据すわつて漸次だん/\に沒却ぼつきやくしつゝ瞬またゝいた。

その一瞬、強烈な光が横に東の森の高木を錆びた橙色に染めて、さらにその光は隙間を遠くずっと手を伸ばした。

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其その一瞬時しゆんじ強烈きやうれつな光ひかりが横よこに東ひがしの森もりの喬木けうぼくを錆さびた橙色だい/″\いろに染そめて、更さらに其その光ひかりは隙間すきまを遠とほくずつと手てを伸のばした。

冷たく、かつ薄暗くなるに従って、焼け跡の火が周囲を明るくした。

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冷つめたく且かつ薄闇うすぐらく成なるに從したがつて燒趾やけあとの火ひが周圍しうゐを明あかるくした。

隣の火はほんのりと空をぼかした。

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隣となりの火ひはほんのりと空そらをぼかした。

隣の庭には、自分の村から他の村から、手桶や飯台へ入れた握り飯が数多く運ばれた。

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隣となりの庭にはには自分じぶんの村落むらから他たの村落むらから手桶てをけや飯臺はんだいへ入いれた握にぎり飯めしが數多かずおほく運はこばれた。

消防に力を尽くした群集は、白い握り飯を貪った。

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消防せうばうに力ちからを竭つくした群集ぐんしふは白しろい握飯にぎりめしを貪むさぼつた。

群集はさらに、時分を見計らってはぐらぐらと柱を突き倒そうとした。

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群集ぐんしふは更さらに時分じぶんを見計みはからつてはぐら/\と柱はしらを突つき倒たふさうとした。

丈夫な柱は、まだ火勢が辺りを遠ざけて、しっかりと立っていた。

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丈夫ちやうぶな柱はしらはまだ火勢くわせいがあたりを遠とほざけて確乎しつかと立たつて居ゐた。

他の村の人々は、次第に帰り去った。

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他たの村落むらの人々ひと/″\は漸次だんだんに歸かへり去さつた。

自分の村の人々は、交代に残って盛んな火の番をした。

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自村むらの人々ひと/″\は交代かうたいに残のこつて熾さかんな火ひの番ばんをした。

帰り行く人々がそのついでに勘次の庭に挨拶に立ったのみで、南の家から笊へ入れた握り飯が来ただけであった。

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歸かへり行ゆく人々ひと/″\が其その序ついでに勘次かんじの庭にはに挨拶あいさつに立たつたのみで、南みなみの家いへから笊ざるへ入いれた握飯にぎりめしが來きた丈だけであつた。

彼はそれでも、そのおかげで空腹を逃れた。

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彼かれはそれでも其その爲ために空腹くうふくを遁のがれた。

隣の主人からは、しばらくしてその集まった握り飯の手桶を二つ三つ持たせてよこした。

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隣となりの主人しゆじんからは暫しばらくして其その集あつまつた握にぎり飯めしの手桶てをけを二つ三つ持もたせてよこした。

夜になってから、近所の者の手で卯平は念仏寮へ運ばれた。

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夜よに成なつてから近所きんじよの者ものの手てで卯平うへいは念佛寮ねんぶつれうへ運はこばれた。

勘次は卯平を乗せた荷車を曳いた。

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勘次かんじは卯平うへいを乘のせた荷車にぐるまを曳ひいた。

彼はそれから隣の主人へ挨拶に出たが、自分の喉の底で物を言って逃げるように帰った。

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彼かれはそれから隣となりの主人しゆじんへ挨拶あいさつに出でたが、自分じぶんの喉のどの底そこで物ものをいうて逃にげるやうに歸かへつた。

彼はその夜は、三人が凍った空をいただいて、焼け跡の火の気を頼りに明かした。

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彼かれは其その夜よは三人にんが凍こほつた空そらを戴いたゞいて燒趾やけあとの火氣くわきを手頼たよりに明あかした。

卯平を横たえた筵は、誰も取りには来なかった。

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卯平うへいを横よこたへた筵むしろは誰たれも取とりには來こなかつた。

筵は三人に席を与えた。

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筵むしろは三人にんに席せきを與あたへた。

勘次は失火について、与吉から要領を得なかった。

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勘次かんじは失火しつくわに就ついて與吉よきちから要領えうりやうを得えなかつた。

しかしながら、彼の悲憤に堪えない心がさいなもうとするには、与吉の泣いて止まない火傷がそれを抑えつけた。

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然しかしながら彼かれの悲憤ひふんに堪たへぬ心こゝろが嘖さいなまうとするには與吉よきちの泣ないて止やまぬ火傷やけどがそれを抑おさへつけた。

勘次は疲れた。

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勘次かんじは疲つかれた。

二六

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二六

夜が更けるに従って、霜は三人の周囲に密着して凝ろうとしながら、火の力をすら押しつけた。

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夜よが深ふけるに隨したがつて霜しもは三人にんの周圍しうゐに密接みつせつして凝こらうとしつゝ火ひの力ちからをすら壓おしつけた。

彼らは冷めて行く火に、だんだんと筵を近づけた。

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彼等かれらは冷さめて行ゆく火ひに段々だん/\と筵むしろを近ちかづけた。

勘次もおつぎも、薄い仕事着にしんしんと凍る霜の冷たさと、じりじりと焦がすような火の熱さとを同時に感じた。

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勘次かんじもおつぎも薄うすい仕事衣しごとぎにしん/\と凍こほる霜しもの冷つめたさと、ぢり/\と焦こがすやうな火ひの熱あつさとを同時どうじに感かんじた。

与吉は火傷へ、夜の冷たさが染みた。

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與吉よきちは火傷やけどへ夜よの冷つめたさが沁しみた。

そうかといって火に当たろうとするのには、なおかつ火傷の痛みを加えるだけであった。

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さうかといつて火ひに當あたらうとするのには猶且やつぱり火傷やけどの疼痛いたみを加くはへるだけであつた。

彼は思い出したように泣いては、また泣いた。

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彼かれは思出おもひだしたやうに泣ないては又また泣ないた。

ついには泣き疲れて、しくしくとただ声を呑んだ。

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遂つひには泣なき疲つかれてしく/\と只たゞ聲こゑを呑のんだ。

それがかえって、勘次とおつぎの心を掻き乱した。

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それが却かへつて勘次かんじとおつぎの心こゝろを掻かき亂みだした。

疲れた二人はうとうととしながら、とうとう眠ることができなかった。

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疲つかれた二人ふたりはうと/\としながら到頭たうとう眠ねむることが出來できなかつた。

焼け跡に横たわった梁や柱から、まだかすかな煙を立てながら、次の日は明けた。

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燒趾やけあとに横よこたはつた梁はりや柱はしらからまだ微かすかな煙けぶりを立たてつゝ次つぎの日ひは明あけた。

勘次はおつぎを相手に、灰を掻き集めることに一日を費やした。

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勘次かんじはおつぎを相手あひてに灰燼くわいじんを掻かき集あつめることに一日にちを費つひやした。

手桶の冷たい握り飯が、頼りない三人の口を糊した。

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手桶てをけの冷つめたい握飯にぎりめしが手頼たよりない三人にんの口くちを糊こした。

勘次は炭のようになった痩せた柱や梁を、垣根のそばに積んだ。

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勘次かんじは炭すみのやうに成なつた痩やせた柱はしらや梁はりを垣根かきねの側そばに積つんだ。

彼はその新しい手桶へ水を汲んで、まだ火のありそうな梁や柱へばしゃりとその水を掛けた。

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彼かれは其その新あたらしい手桶てをけへ水みづを汲くんでまだ火ひの有あり相さうな梁はりや柱はしらへばしやりと其その水みづを掛かけた。

彼は灰を掻き集めて、所々円錐形の小山を作った。

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彼かれは灰はひを掻かき集あつめて處々ところどころ圓錘形ゑんすゐけいの小山こやまを作つくつた。

彼は灰の中から鍋や釜や鉄瓶やその他の器物を、だんだんと万能の先から掻き出した。

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彼かれは灰燼くわいじんの中なかから鍋なべや釜かまや鐵瓶てつびんや其その他たの器物きぶつをだん/\と萬能まんのうの先さきから掻かき出だした。

鉄製の器物はその形を保っていても、すっかり幾年も使わずに捨ててあったもののように変わっていた。

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鐵製てつせいの器物きぶつは其その形かたちを保たもつて居ゐても悉皆みんな幾年いくねんも使つかはずに捨すててあつたものゝやうに變かはつて居ゐた。

彼はそれをそっと大事にそばへ集めた。

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彼かれはそれをそつと大事だいじに傍そばへ聚あつめた。

茶碗や皿や、すべての陶磁器は熱い火に割れてしまって、一つでも役に立つものはなかった。

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茶碗ちやわんや皿さらや凡すべての陶磁器たうじきは熱火ねつくわに割はねて畢しまつて一つでも役やくに立たつものはなかつた。

勘次が赤く焼けた土を草鞋の底でだんだんに掻き払おうとした時、黒く焦げたようなある物が草鞋の先に掛かった。

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勘次かんじは赤あかく燒やけた土つちを草鞋わらぢの底そこで段々だん/\に掻かつ拂ばかうとした時とき、黒くろく焦こげたやうな或ある物ものが草鞋わらぢの先さきに掛かゝつた。

焼けて変色した銅貨の少し固まったようになったのが、足に触れてぞろりと離れた。

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燒やけて變色へんしよくした銅貨どうくわの少すこし凝こゞつたやうになつたのが足あしに觸ふれてぞろりと離はなれた。

彼は周囲にひょいと目を放った。

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彼かれは周圍しうゐにひよつと目めを放はなつた。

彼の目に入るものは、これも一心に灰の始末をしているおつぎのほかにはなかった。

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彼かれの目めに入いるものは此これも一心しんに灰はひの始末しまつをして居ゐるおつぎの外ほかにはなかつた。

彼は銅貨をそっと竹の林のそばへ持って行った。

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彼かれは銅貨どうくわを竊そつと竹たけの林はやしの側そばへ持もつて行いつた。

彼はぎりっと縛った三尺帯を解いて、財布をくくった結び目に歯を掛けて、ようやくその財布を取り出した。

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彼かれはぎりつと縛しばつた三尺帶じやくおびを解といて、財布さいふを括くゝつた結むすび目めに齒はを掛かけて漸やうやく其その財布さいふを取とり出だした。

焼けた銅貨を彼は財布へ投げ込んで、またぎりっと腰へくくった。

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燒やけた銅貨どうくわを彼かれは財布さいふへ投なげ込こんで復またぎりつと腰こしへ括くゝつた。

彼はそうして再び、きょろきょろと周囲を見た。

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彼かれはさうして再ふたゝびきよろ/\と周圍ぐるりを見みた。

勘次は幾つかの小山を形づくった灰へ、藁や粟の茎でしっかりと蓋をした。

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勘次かんじは幾いくつかの小山こやまを形かたちづくつた灰はひへ藁わらや粟幹あはがらでしつかと蓋ふたをした。

彼はそれを田や畑へ持ち出そうとしたので、雨に打たせない工夫である。

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彼かれはそれを田たや畑はたへ持もち出ださうとしたので、雨あめに打うたせぬ工夫くふうである。

その藁や粟の茎は、近所の手から与えられた。

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其その藁わらや粟幹あはがらは近所きんじよの手てから與あたへられた。

彼は住居を失った二日目に、初めて近隣の交わりを知った。

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彼かれは住居すまゐを失うしなつた第だい二日目かめに始はじめて近隣きんりんの交誼かうぎを知しつた。

南の女房は、古い薬缶と茶碗とを持って来てくれた。

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南みなみの女房にようばうは古ふるい藥鑵やくわんと茶碗ちやわんとを持もつて來きてくれた。

勘次はふだん何とも思わなかったこれらの器物に、しみじみと便利を感じた。

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勘次かんじは平生へいぜい何なんとも思おもはなかつた此これ等らの器物きぶつにしみ/″\と便利べんりを感かんじた。

彼は薬缶のまだ熱い湯を茶碗に注いで、彼らの身を落ち着けるただ一枚の筵の端に憩うた。

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彼かれは藥鑵やくわんのまだ熱あつい湯ゆを茶碗ちやわんに注ついで彼等かれらの身みを落おちつける唯たゞ一枚まいの筵むしろの端はしに憩いこうた。

にわかにがらんとした焼け跡を限って立っている後ろの林の竹は、外側がぐるりと枯れて、焦げた枝が青い枝を覆って、幹は火の近かった部分は油を吹いて、きらきらと滑らかに変わっていた。

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俄にはかに空洞からりとした燒趾やけあとを限かぎつて立たつて居ゐる後うしろの林はやしの竹たけは外側そとがはがぐるりと枯かれて、焦こげた枝えだが青あをい枝えだを掩おほうて幹みきは火ひの近ちかかつた部分ぶゞんは油あぶらを吹ふいてきら/\と滑なめらかに變かはつて居ゐた。

東隣の主人の庭には、この日も村の者が大勢集まって、大きな焼け跡の始末に忙殺された。

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東隣ひがしどなりの主人しゆじんの庭にはには此この日ひも村落むらの者ものが大勢おほぜい集あつまつて大おほきな燒趾やけあとの始末しまつに忙殺ばうさつされた。

それで、その人々は勘次の庭に手を貸そうとはしなかった。

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それで其その人々ひと/″\は勘次かんじの庭にはに手てを藉かさうとはしなかつた。

彼らは隣の主人に対して、ふだんの恩に報いようとするよりも、将来を恐れている。

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彼等かれらは隣となりの主人しゆじんに對たいして平素へいそに報むくいようとするよりも將來しやうらいを怖おそれて居ゐる。

彼らは皆ひとしく、静かに落ち着いた白昼の庭に立つことが、その家族の目に触れやすいことを知っているのである。

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彼等かれらは皆みな齊ひとしく靜しづかに落おちついた白晝はくちうの庭にはに立たつことが其その家族かぞくの目めに觸ふれ易やすいことを知しつて居ゐるのである。

勘次は疲れた体を、その日も余念なく働かせた。

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勘次かんじは疲つかれた身體からだを其その日ひも餘念よねんなく使役しえきした。

その夜は、三人が空をいただいて狭い筵に明かすのには、わずかでもその体を暖める火は消えていたのである。

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其その夜よは三人にんが空そらを戴いたゞいて狹せまい筵むしろに明あかすのには、僅わづかでも其その身體からだを暖あたゝめる火ひは消滅せうめつして居ゐたのである。

三人はその夜、南の家に導かれた。

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三人にんは其その夜よ南みなみの家いへに導みちびかれた。

勘次もおつぎも、汗と灰と埃とに汚れた体を風呂に洗い落とした。

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勘次かんじもおつぎも汗あせと灰はひと埃ほこりとに汚よごれた身體からだを風呂ふろに洗あらひ落おとした。

快かったその風呂が、気詰まりな他人の家に彼らをぐっすりと熟睡させて、二日間の疲れを忘れさせようとした。

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快こゝろよかつた其その風呂ふろが氣盡きづくしな他人たにんの家いへに彼等かれらをぐつすりと熟睡じゆくすゐさせて二日間かかんの疲勞ひらうを忘わすれさせようとした。

与吉の横頬は、皮膚がわずかに水疱を生じて膨れていた。

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與吉よきちの横頬よこほゝは皮膚ひふが僅わづかに水疱すゐはうを生しやうじて膨ふくれて居ゐた。

彼はその日の機嫌が悪かった。

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彼かれは其その日ひの機嫌きげんが惡わるかつた。

南の女房は、その水疱に髪へつける胡麻の油を塗ってやった。

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南みなみの女房にようばうは其その水疱すゐはうに頭髮あたまへつける胡麻ごまの油あぶらを塗ぬつてやつた。

勘次は焼け木杭を地に建てて、彼にとって第一の必要である仮の住まいを造った。

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勘次かんじは燒木杙やけぼつくひを地ちに建たてゝ彼かれに第だい一の要件えうけんたる假かりの住居すまゐを造つくつた。

近所から集めた粟の茎のわずかな材料が、葺き草であった。

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近所きんじよから聚あつめた粟幹あはがらの僅少きんせうな材料ざいれうが葺草ふきぐさであつた。

それはやっと雨が漏るか漏らないかだけの、薄い葺き方であった。

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それは漸やつと雨あめの洩もるか洩もらないだけの薄うすい葺方ふきかたであつた。

もとより壁を塗る暇はない。

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固もとより壁かべを塗ぬる暇ひまはない。

あちらこちらの林の間に刈り残された萱や篠を刈って来て、乏しい藁と混ぜて、垣根でも結うようにそれを内外から裂いた竹を当てて、ぎっと締めた。

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そこらこゝらの林はやしの間あひだに刈かり残のこされた萱かやや篠しのを刈かつて來きて、乏とぼしい藁わらと交まぜて垣根かきねでも結ゆふやうにそれを内外うちそとから裂さいた竹たけを當あてゝぎつと締しめた。

彼は南の家から借りた鋸で、大小の焼け木杭を挽き切った。

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彼かれは南みなみの家いへから借かりた鋸のこぎりで大小だいせうの燒木杙やけぼつくひを挽切ひつきつた。

ついに彼は後ろから焼けた竹を伐って来て、簀の子のように横たえて低い床を造った。

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遂しまひに彼かれは後うしろから燒やけた竹たけを伐きつて來きて簀すの子このやうに横よこたへて低ひくい床ゆかを造つくつた。

竹を伐った鉈も、彼の持ち物ではなかった。

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竹たけを伐きつた鉈なたも彼かれの所有ものではなかつた。

彼の、熱い火に焼かれて独りで冷めた鉈も鎌も、すべての刃物はもう役には立たなかった。

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彼かれの熱火ねつくわに燒やかれて獨ひとりで冷さめた鉈なたも鎌かまも凡すべての刄物はものはもう役やくには立たたなかつた。

彼の手に完全に保たれたものは、彼が自分の手を頼みにしている唐鍬のみである。

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彼かれの手てに完全くわんぜんに保たもたれたものは彼かれが自分じぶんの手てを恃たのんで居ゐる唐鍬たうぐはのみである。

彼はこの壁もない小屋を造るために、二日ばかりの間は少しも他を顧みる暇がないほど、心が忙しかった。

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彼かれは此この壁かべもない小屋こやを造つくる爲ために二日かばかりの間あひだは毫すこしも他たを顧かへりみる暇いとまがなかつた程ほど心こゝろが忙いそがしかつた。

彼の悲惨な狭い小屋には、薬缶と茶碗と、それから火事の夕方に隣の主人がよこした新しい手桶とのみで、夜に身を横たえるのに一枚の蒲団もなかった。

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彼かれの悲慘みじめな狹せまい小屋こやには藥鑵やくわんと茶碗ちやわんとそれから火事くわじの夕方ゆふがたに隣となりの主人しゆじんがよこした新あたらしい手桶てをけとのみで、夜よるの身みを横よこたへるのに一枚まいの蒲團ふとんもなかつた。

砥石を掛けて磨かなければ使えない鍋や釜は、彼のさらに狭い土間に、いたずらに場所を塞いでいた。

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砥石といしを掛かけて磨みがかねば使用しように堪たへぬ鍋なべや釜かまは彼かれの更さらに狹せまい土間どまに徒いたづらに場所ばしよを塞ふさげて居ゐた。

その土間にはまだ簡単な囲炉裏さえなくて、彼は火を焚くのに三本脚の竹を立てて、それへ薬缶を掛けた。

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其その土間どまにはまだ簡單かんたんな圍爐裏ゐろりさへなくて、彼かれは火ひを焚たくのに三本脚ぼんあしの竹たけを立たてゝそれへ藥鑵やくわんを掛かけた。

おつぎは、ただ勘次の仕事を助けていた。

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おつぎは只たゞ勘次かんじの仕事しごとを幇たすけて居ゐた。

しかしその間にも、念仏寮へ運ばれた卯平を忘れてはいなかった。

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然しかし其その間あひだにも念佛寮ねんぶつれうへ運はこばれた卯平うへいを忘わすれては居ゐなかつた。

おつぎは火事の次の日に、勘次へは黙って念仏寮を覗いてみた。

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おつぎは火事くわじの次つぎの日ひに勘次かんじへは默だまつて念佛寮ねんぶつれうを覗のぞいて見みた。

おつぎは卯平へ目に見えた心尽くしをするのに、何の方法も見出し得なかった。

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おつぎは卯平うへいへ目めに見みえた心盡こゝろづくしをするのに何なんの方法はうはふも見出みいだし得えなかつた。

おつぎの懐には一銭もないのである。

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おつぎの懷ふところには一錢せんもないのである。

おつぎは手桶の底の凍った握り飯を、焼け跡の炭に火を起こして狐色に焼いて、それを二つ三つ前垂れにくるんで行ってみた。

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おつぎは手桶てをけの底そこの凍こほつた握飯にぎりめしを燒趾やけあとの炭すみに火ひを起おこして狐色きつねいろに燒やいてそれを二つ三つ前垂まへだれにくるんで行いつて見みた。

おつぎはこっそりと覗くようにして見た。

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おつぎはこつそりと覗のぞくやうにして見みた。

卯平は、誰がそうしてくれたか、ただ一人で蒲団にゆっくりとくるまっていた。

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卯平うへいは誰たれがさうしてくれたか唯たゞ一人ひとりで蒲團ふとんにゆつくりとくるまつて居ゐた。

枕元には小さな鍋と膳とが置かれて、膳には茶碗が伏せてある。

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枕元まくらもとには小ちひさな鍋なべと膳ぜんとが置おかれて、膳ぜんには茶碗ちやわんが伏ふせてある。

汁椀も、これも小皿を覆って伏せてある。

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汁椀しるわんは此これも小皿こざらを掩おほうて伏ふせてある。

卯平はやつれた青い顔をこちらへ向けていた。

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卯平うへいは窶やつれた蒼あをい顏かほをこちらへ向むけて居ゐた。

彼は眠っていた。

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彼かれは眠ねむつて居ゐた。

おつぎは、すやすやと聞こえる息にじっと耳を澄ました。

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おつぎはすや/\と聞きこえる呼吸いきに凝然ぢつと耳みゝを澄すました。

おつぎはそれから、枕元の鍋の蓋を取ってみた。

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おつぎはそれから枕元まくらもとの鍋蓋なべぶたをとつて見みた。

鍋の底には、白いどろりとした米の粥があった。

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鍋なべの底そこには白しろいどろりとした米こめの粥かゆがあつた。

汁椀を取ってみたら、小皿には醤が少し載せてあった。

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汁椀しるわんをとつて見みたら小皿こざらには醤ひしほが少すこし乘のせてあつた。

卯平は冷めた白粥へ、まだ一口も箸をつけた様子がない。

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卯平うへいは冷さめた白粥しろがゆへまだ一口ひとくちも箸はしをつけた容子ようすがない。

おつぎは焼いた握り飯を一つ枕元にそっと置いて、逃げるように帰って来た。

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おつぎは燒やいた握飯にぎりめしを一つ枕元まくらもとにそつと置おいて遁にげるやうに歸かへつて來きた。

老人の鋭い目が、とうとう開かなかった。

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老人としよりの敏さとい目めが到頭たうとう開ひらかなかつた。

卯平は疲れた心が静まって、ようやく熟睡したところなのであった。

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卯平うへいは疲つかれた心こゝろが靜しづまつて漸やうやく熟睡じゆくすゐした處ところなのであつた。

掘っ立て小屋ができてから、勘次はそれでも近所で鍋や釜やその他の日用品を少しはもらったり借りたりして使った。

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掘立小屋ほつたてごやが出來できてから勘次かんじはそれでも近所きんじよで鍋なべや釜かまや其その他たの日用品にちようひんを少すこしは貰もらつたり借かりたりして使つかつた。

おつぎはその間、一心に焼けた鍋釜を砥石でこすった。

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おつぎは其その間あひだ一心しんに燒やけた鍋釜なべかまを砥石といしでこすつた。

竹の床へ敷く筵が三、四枚、これも近所で古いのを一枚くらいずつくれた。

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竹たけの床とこへ數しく筵むしろが三四枚まい、此これも近所きんじよで古ふるいのを一枚まい位ぐらゐづつ呉くれた。

そうしてからようやく、蒲団が運ばれた。

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さうしてから漸やうやく蒲團ふとんが運はこばれた。

それは彼がぎっしりと腰にくくった財布の力であった。

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それは彼かれがぎつしりと腰こしに括くゝつた財布さいふの力ちからであつた。

米や麦や味噌が、それでどうにか工面ができた。

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米こめや麥むぎや味噌みそがそれでどうにか工夫くふうが出來できた。

彼はこうして、命を繋ぐ方法がやっと立った。

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彼かれは斯かうして命いのちを繼つなぐ方法はうはふが漸やつと立たつた。

二、三日過ぎて、与吉の火傷は水疱が破れて、死んだ皮膚の下が少しただれかけた。

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二三日にち過すぎて與吉よきちの火傷やけどは水疱すゐはうが破やぶれて死しんだ皮膚ひふの下したが少すこし糜爛びらんし掛かけた。

勘次は心から、ようやくその傷をいたわった。

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勘次かんじは心こゝろから漸やうやく其その瘡痍きずを勦いたはつた。

彼はふだんになく、それを放っておけば一生の畸形になりはしないかという憂いをすら抱いた。

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彼かれは平生いつもになくそれを放任うつちやつて置おけば生涯しやうがいの畸形かたわに成なりはしないかといふ憂うれひをすら懷いだいた。

そうして彼は鬼怒川を越えて、医者の所に与吉を連れて走った。

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さうして彼かれは鬼怒川きぬがはを越こえて醫者いしやの許もとに與吉よきちを連つれて走はしつた。

医者は微笑を含んだまま、白いどろりとした薬を陶製の板の上で練って、それをこってりとガーゼに塗って、火傷を覆ってべたりと貼って、ぐるぐると白い包帯を施した。

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醫者いしやは微笑びせうを含ふくんだ儘まゝ白しろいどろりとした藥くすりを陶製たうせいの板いたの上うへで練ねつて、それをこつてりとガーゼに塗ぬつて、火傷やけどを掩おほうてべたりと貼はつてぐる/\と白しろい繃帶ほうたいを施ほどこした。

手先の火傷は横頬のような痛みも傷もなかったが、医者はそこにもざっと包帯をした。

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手先てさきの火傷やけどは横頬よこほゝのやうな疼痛いたみも瘡痍きずもなかつたが醫者いしやは其處そこにもざつと繃帶ほうたいをした。

与吉は目ばかり出して、大袈裟な姿になって帰って来た。

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與吉よきちは目めばかり出だして大袈裟おほげさな姿すがたに成なつて歸かへつて來きた。

与吉は包帯をしてから、痛みも取れた。

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與吉よきちは繃帶ほうたいをしてから疼痛いたみもとれた。

包帯はまた、直接他の物との摩擦を防いで、彼に快く村の内をさまよわせた。

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繃帶ほうたいは又また直接ちよくせつ他たの物ものとの摩擦まさつを防ふせいで、彼かれに快こゝろよく村落むらの内うちを彷徨さまよはせた。

包帯が乾いていれば五、六日は捨てておいてもいいが、液が染み出すようならば明日にもすぐに来るようにと医者は言ったのであるが、液は幸いにぱっちりと点を打ったのみで、別段広がりもしなかった。

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繃帶ほうたいが乾かわいて居をれば五六日にちは棄すてゝ置おいても好いいが、液汁みづが浸しみ出だすやうならば明日あすにも直すぐに來くるやうにと醫者いしやはいつたのであるが、液汁みづは幸さいはひにぱつちりと點てんを打うつたのみで別段べつだん擴ひろがりもしなかつた。

おつぎは焼け跡の始末の忙しい間にも、時々卯平を見た。

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おつぎは燒趾やけあとの始末しまつの忙せはしい間あひだにも時々とき/″\卯平うへいを見みた。

しかし卯平を慰めるのに一銭の蓄えもないおつぎは、なおかつ何の方法も手段も見出し得なかったのである。

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然しかし卯平うへいを慰なぐさめるに一錢せんの蓄たくはへもないおつぎは猶且やつぱり何なんの方法はうはふも手段しゆだんも見出みいだし得えなかつたのである。

おつぎは、勘次がようやくにして求めたわずかな米をそっと前垂れに隠して持って行った。

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おつぎは勘次かんじが漸やうやくにして求もとめた僅わづかな米こめを竊そつと前垂まへだれに隱かくして持もつて行いつた。

米には挽き割り麦が混じっている。

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米こめには挽割麥ひきわりが交まじつて居ゐる。

おつぎはけっして卯平を満足させ得ることとは思わなかったが、彼が食べてみようと言えば、粥にでも炊いてやろうと思ったのである。

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おつぎは決けつして卯平うへいを滿足まんぞくさせ得うることとは思おもはなかつたが、彼かれが喫たべて見みようといへば粥かゆにでも炊たいてやらうと思おもつたのである。

しかし、おつぎが恥じながら、それでもやむを得ず隠して持って行った米の必要はなかった。

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然しかしおつぎが恥はぢつゝそれでも餘儀よぎなく隱かくして持もつて行いつた米こめの必要ひつえうはなかつた。

念仏の仲間が交互に少しずつの食べ物を持って来てくれるのを、卯平はきっと余していた。

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念佛ねんぶつの伴侶なかまが交互かはりがはりに少すこしづゝの食料しよくれうを持もつて來きてくれるのを卯平うへいは屹度きつと餘あまして居ゐた。

「爺さん、そんでもちっとは塩梅がよくなったようだが、痛くはないかい」

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「爺ぢい、そんでもちつた鹽梅あんべえよくなつたやうだが、痛いたかねえけえ」

おつぎは毎度のように繰り返して聞いた。

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おつぎは毎度いつものやうに反覆くりかへして聞きいた。

言葉は柔らかで、そうして潤んでいた。

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言辭ことばは軟やはらかでさうして潤うるんで居ゐた。

卯平の火傷へも、油が塗られてあった。

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卯平うへいの火傷やけどへも油あぶらが塗ぬられてあつた。

水疱はいつか破れてただれた患部を、油は見るからにいとわしく、かつ汚くしていた。

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水疱すゐはうはいつか破やぶれて糜爛びらんした患部くわんぶを、油あぶらは見みるから厭いとはしく且かつ穢きたなくして居ゐた。

死んだ細胞の下から鮮やかに赤く見え始めた肉芽は、外部の刺激に対して少しの抵抗力も持っていない細胞の集まりである。

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死しんだ細胞さいぼうの下したから鮮あざやかに赤あかく見みえ始はじめた肉芽にくげは外部ぐわいぶの刺戟しげきに對たいして少すこしの抵抗力ていかうりよくも持もつて居ゐない細胞さいぼうの集あつまりである。

朝夕の冷たさすら、その過敏な神経を刺激した。

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朝夕あさゆふの冷つめたさすら其その過敏くわびんな神經しんけいを刺戟しげきした。

卯平はいつでも、右の横頬を上にしているほかはなかった。

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卯平うへいは何時いつでも右みぎの横頬よこほゝを上うへにして居ゐる外ほかはなかつた。

「そんなにかからなくても治るだろうなあ」

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「さうだにかゝんなくつても癒なほんべなあ」

おつぎは、油が汚くした火傷をじっと見ていると自然に目がしかめられて、むしろ自分の傷の経過でも聞くように、卯平の枕へ口をつけて言った。

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おつぎは、油あぶらが穢きたなくした火傷やけどを凝然ぢつと見みて居ゐると自然しぜんに目めが蹙しがめられて、寧むしろ自分じぶんの瘡痍きずの經過けいくわでも聞きくやうに卯平うへいの枕まくらへ口くちをつけていつた。

「うん」

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「うむ」

という卯平の低く響く声が、けっしてその言葉のような簡単な意味のものではなかった。

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と卯平うへいの低ひくく響ひゞく聲こゑが決けつして其その言辭ことばのやうな簡單かんたんな意味いみのものではなかつた。

「そんでもどうにか家もこしらえたから、爺さんのことも連れて行くよなあ」

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「そんでもどうにか家うちも拵こせえたから、爺ぢいことも連つれてくべよなあ」

おつぎの声は次第に潤んで低くなった。

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おつぎの聲こゑは漸次ぜんじに潤うるんで低ひくくなつた。

卯平はそれでも、おつぎの声を聞くと目を閉じたまま、ほとんどはっきりとは見られないようなかすかな笑いが浮かぶのであった。

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卯平うへいはそれでもおつぎの聲こゑを聞きくと目めを瞑つぶつた儘まゝ、殆ほとんど明瞭はつきりとは見みられぬやうな微かすかな笑わらひが泛うかぶのであつた。

「どういうのを建てた」

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「どうえの建たてゝえ」

卯平はさすがに聞きたかった。

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卯平うへいは有繋さすがに聞ききたかつた。

「どういうのって爺さんは、焼けた柱を掘っ立てたのよ。そんだから壁も塗らないのよ」

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「どうえのつて爺ぢいは、燒やけた柱はしら掘立ほつたてたのよ、そんだから壁かべも塗ぬんねえのよ」

「そんじゃ、藁か萱で塞いだんでもあろう」

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「そんぢや、藁わらか萱かやでおツ塞ぷてえたんでもあんびや」

「うん、そうだあ。そんだから触るとがさがさするんだよ」

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「うむ、さうだあ、そんだから觸さあつとがさ/\すんだよ」

こう言って、おつぎの声は少しはっきりとして来た。

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斯かういつておつぎの聲こゑは少すこし明瞭はつきりとして來きた。

おつぎは恥じらいを含んだ様子を作った。

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おつぎは羞はぢを含ふくんだ容子ようすを作つくつた。

卯平は悲惨な焼け小屋を思うと、自分が与吉とともにしくじったことが自分を苦しめて、ひどく辛かった。

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卯平うへいは悲慘みじめな燒小屋やけごやを思おもふと、自分じぶんが與吉よきちと共ともに失錯しくじつたことが自分じぶんを苦くるしめて酷ひどく辛つらかつた。

彼はにわかに目をしかめた。

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彼かれは俄にはかに目めを蹙しかめた。

「痛いのか」

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「痛いてえのか」

おつぎは目ざとくそれを見て、心もとなげに言った。

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おつぎは目敏めざとくそれを見みて心こゝろもとなげにいつた。

おつぎはやつれて沈んだ卯平のそばにいると、つい自分も沈んでしまって、ただじっとすくんだようになっているよりほかはなかった。

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おつぎは窶やつれて沈しづんだ卯平うへいの側そばに居ゐると、遂つひ自分じぶんも沈しづんで畢しまつて只たゞ凝然ぢつと悚すくんだやうに成なつて居ゐるより外ほかはなかつた。

それでも、おつぎは長い時間をそうして空しく費やすことは許されなかった。

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それでもおつぎは長ながい時間じかんをさうして空むなしく費つひやすことは許容ゆるされなかつた。

「また来るからな」

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「又また來くつかんな」

と、おつぎは沈んだ声で言って出て行くのを、後で卯平の目尻からは涙が少し漏れて、その小さな玉がしばらくやつれた皺に引っ掛かって、そうしてほろりと枕に落ちるのであった。

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とおつぎは沈しづんだ聲こゑでいつて出でて行ゆくのを、後あとで卯平うへいの眥めじりからは涙なみだが少すこし洩もれて、其その小ちひさな玉たまが暫しばらく窶やつれた皺しわに引掛ひつかゝつてさうしてほろりと枕まくらに落おちるのであつた。

勘次は一度も念仏寮を顧みなかった。

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勘次かんじは一度ども念佛寮ねんぶつれうを顧かへりみなかつた。

五、六日過ぎて、与吉はまた医者へ連れられた。

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五六日にち過すぎて與吉よきちは復また醫者いしやへ連つれられた。

医者は汚くなった包帯を解いて、どろりとした白い薬をまた陶製の板で練って貼った。

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醫者いしやは穢きたなく成なつた繃帶ほうたいを解といてどろりとした白しろい藥くすりを復また陶製たうせいの板いたで練ねつて貼はつた。

先ごろのよりも濃くして貼ったから、もうこれで遠い道のりをわざわざ来なくても、これを時々貼ってやれば自然に乾いてしまうだろうと、その白い薬と、それからガーゼとを袋へ入れてくれた。

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先頃さきごろのよりも濃こくして貼はつたからもう此これで遠とほい道程みちのりを態々わざ/\來こなくても此これを時々とき/″\貼はつてやれば自然しぜんに乾かわいて畢しまふだらうと、其その白しろい藥くすりとそれからガーゼとを袋ふくろへ入いれてくれた。

与吉はにわかに勢いづいた。

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與吉よきちは俄にはかに勢いきほひづいた。

彼は時々、卯平のそばへも行った。

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彼かれは時々とき/″\卯平うへいの側そばへも行いつた。

卯平は横になった目に与吉の包帯を見て、その心を痛めた。

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卯平うへいは横臥わうぐわした目めに與吉よきちの繃帶ほうたいを見みて其その心こゝろを痛いためた。

ある日与吉が行った時、先ごろ念仏の時に卯平へ酒を勧めた小柄な爺さんが、枕元にいた。

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或ある日ひ與吉よきちが行いつた時とき、先頃さきごろ念佛ねんぶつの時ときに卯平うへいへ酒さけを侑すゝめた小柄こがらな爺ぢいさんが枕元まくらもとに居ゐた。

「お前、そんなに力を落とすなよ。これくらいの火傷なんぞどうするもんじゃない。おれが治してやるから。どうした、あの時からじゃ痛くはあるまい。あのまじないで火を鎮めさえすりゃ奇態だから」

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「おめえ、さうだに力ちから落おとすなよ、此こらつ位くれえな火傷やけどなんぞどうするもんぢやねえ、俺おれ癒なほしてやつから、どうした彼あん時ときからぢや痛いたかあんめえ、彼あの禁厭まじねえで火ひしめしせえすりや奇態きてえだから」

そう言って爺さんは、仏壇の隅に置いた燈明皿を出して、その油を火傷へ塗った。

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さういつて爺ぢいさんは佛壇ぶつだんの隅すみに置おいた燈明皿とうみやうざらを出だして其その油あぶらを火傷やけどへ塗ぬつた。

卯平はそのするままに任せて動かなかった。

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卯平うへいは其その爲する儘まゝに任まかせて動うごかなかつた。

「力を落としちゃだめだから。おれなんざこんな所じゃない。こっちの腕、馬に噛まれた時には、自分で見ちゃいられないって言われたっけが。そんでもおれは自分で手拭いの端をこう歯でくわえて、ぎいっと縛って、そうしておれは馬を曳いて来たな。汗は豆粒くらいのがぼろぼろ垂れたっけが、そんでもとうとう我慢しちまった。何でも力を落としさえしなけりゃ、治るのはすぐだから。年を取っちゃ治りが面倒だの何のって、そんなことはないから」

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「力ちから落おとしちや駄目だめだから、俺おらなんざこんな處ところぢやねえ、こつちな腕うで、馬うまに咬かまつた時ときにや、自分じぶんで見みちやえかねえつて云ゆはつたつけが、そんでも俺おれ自分じぶんで手拭てねげの端はし斯かう齒はで咥くええてぎいゝつと縛しばつて、さうして俺おら馬うま曳ひいて來きたな、汗あせは豆粒まめつぶ位ぐれえなのぼろ/\垂たれつけがそんでも到頭たうとう我慢がまんしつちやつた、何なんでも力ちから落おとしせえしなけりや癒なほんな直すぐだから、年とし寄よつちや癒なほりが面倒めんだうだの何なんだのつてそんなこたあねえから」

爺さんはひたすら卯平の元気を引き立てようとした。

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爺ぢいさんは只管ひたすら卯平うへいの元氣げんきを引立ひきたてようとした。

「おれはそんだが、そんな怪我をしても馬は憎くはないのよ。馬に迷うのが癖で、ひひんと騒いだところへ、おれが手を横へ出して抑えたもんだから、畜生、見境もなく噛んだんだからなあ」

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「俺おらそんだが、さうえ怪我けがしても馬うまは憎にくかねえのよ、馬うまに煎えれんのが癖くせでひゝんと騷さわいだ處ところ俺おれ手てえ横よこさ出だして抑おさえたもんだから畜生ちきしやう見界みさけえもなく噛かぢツたんだからなあ」

と、彼は酒を飲んではいなかったので声は低かったが、それでも次第に勢いを加えていた。

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と彼かれは酒さけを飮のんでは居ゐなかつたので聲こゑは低ひくかつたが、それでも漸々だん/\に勢いきほひを加くはへて居ゐた。

「おれは白い薬を貼ったんだぞ」

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「俺おら白しれえ藥くすり貼はつたんだぞ」

与吉はさっきから油を塗った卯平の傷に目を注いでいて、こう突然に言った。

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與吉よきちは先刻さつきから油あぶらを塗ぬつた卯平うへいの瘡痍きずに目めを注そゝいで居ゐてかう突然とつぜんにいつた。

「なあに、そんな物なんざ貼らなくたって、お前らのよりはこっちのほうが早く治るから」

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「なあに、さうだ物もんなんざ貼はんねえツたつて汝わツ等らがよりやこつちの方はうが早はやく癒なほつから」

小柄な爺さんは、しばらく手元へ置いた油の皿を再び仏壇の隅へしまった。

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小柄こがらな爺ぢいさんは暫しばらく手てもとへ置おいた油あぶらの皿さらを再ふたゝび佛壇ぶつだんの隅すみへ藏しまつた。

「そんでも、おれのことはもう、来なくても治るからいいと言って薬をよこしたんだぞ」

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「そんでも俺おれこたはあ、來きなくつても癒なほつからえゝつて藥くすりよこしたんだぞ」

与吉は少し間を隔てて、おずおずと言った。

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與吉よきちは少すこし間あひだを隔へだてゝ怖おづ/\いつた。

「治るもんかい、お前らが」

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「癒なほるもんかえ、汝等わツらが」

小柄な爺さんはからかうようにして怒鳴った。

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小柄こがらな爺ぢいさんは揶揄からかふやうにして呶鳴どなつた。

「治らあい。そんだって痛くはない、おれらは」

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「癒なほらあえ、そんだつて痛いたかねえ俺おツ等ら」

与吉は驚いたように言った。

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與吉よきちは驚おどろいたやうにいつた。

「その白い薬というのをよこしたのか」

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「其その白しれえ藥くすりだツちのよこしたのか」

卯平はかすかな声で聞いた。

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卯平うへいは微かすかな聲こゑで聞きいた。

「そうなんだわ」

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「さうなんだわ」

「お前は、それ、姉さんにでも貼ってもらうのか」

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「汝わりや、それ姊ねえにでも貼はつてもらあのか」

「おれは貼らない」

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「俺おら貼はんねえ」

「そんじゃ薬はどうしたんだい、お前は」

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「そんぢや藥くすりはどうしたんでえ、汝わりやあ」

「おとっつあんが持ってるんだから、おれは知らない」

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「おとつゝあ持もつてんだから俺おら知しんねえ」

与吉は上がり框に胸をもたせて、下駄の爪先で土間の土を叩きながら、卯平とこうして数語を交わした時

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與吉よきちは上あがり框がまちに胸むねを持もたせて下駄げたの爪先つまさきで土間どまの土つちを叩たゝきながら卯平うへいと斯かうして數語すうごを交換かうくわんした時とき

「いいから、そんな薬なんぞのことを構い立てするない。これで治るから」

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「えゝからそんな藥くすりなんぞのこと構かめえたてんなえ、此これで癒なほつから」

と、小柄な爺さんはそばから打ち消した。

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と小柄こがらな爺ぢいさんは傍そばから打うち消けした。

「乞食野郎め。お前らの親父は見やがれ、お前のことは医者へ連れて行く銭を持ちやがって、ここへは一度でも来やがらない畜生だから、見ろ。それくらいだから罰が当たって丸焼けになっちまうんだ」

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「乞食野郎奴こちきやらうめ、汝わツ等らが親爺おやぢは見みやがれ、汝われこた醫者いしやさ連つれてく錢ぜに持もつてけつかつて、此處ここさは一度どでも來きやがんねえ畜生ちきしやうだから、見みろう。其そのツ位くれえだから罰ばち當あたつて丸燒まるやけに成なつちやあんだ」

と、爺さんはさらに独り憤った語勢で言った。

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と爺ぢいさんは更さらに獨ひとり憤いきどほつた語勢ごせいを以もつていつた。

「おとっつあんは、爺さんに焼かれたって言ってるんだあ」

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「おとつゝあは爺ぢいに燒やかつたツちツてんだあ」

与吉は勢いに圧されて恥じるようにしながら、やっと言った。

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與吉よきちは勢いきほひに壓あつせられて羞はにかむやうにしながら漸やつといつた。

「お前らの親父めが言ったのか」

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「汝等わツら親爺奴おやぢめ云ゆつたのか」

爺さんはさらに

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爺ぢいさんは更さらに

「お前は何と言った、それで」

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「汝わりや何なんちつたそんで」

と怒鳴った。

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と呶鳴どなつた。

与吉はしょげて、しばらく黙った。

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與吉よきちは悄しをれて暫しばらく沈默ちんもくした。

「おれは火に当たってたら木の葉にくっついたんだって言ったんだあ」

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「俺おら火ひいあたつてたら木きの葉はさくつゝえたんだつて云ゆつたんだあ」

「そう言われても仕方がないよ」

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「さう云ゆはつても仕方しかたねえよ」

与吉が言い終わらないうちに、卯平は言葉を挟んだ。

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與吉よきちのいひ畢をはらぬ内うちに卯平うへいは言辭ことばを挾はさんだ。

「べらぼう、燃やしたくて燃やすものがあるもんか」

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「箆棒べらぼう、つん燃もしたくつて、つん燃もすもの有あるもんか」

爺さんは少し激して

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爺ぢいさんは少すこし激げきして

「過ちだもの、後で何と言ったって仕方があるもんじゃない」

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「過失えゝまちだもの後あとで何なんちつたつて仕しやうあるもんぢやねえ」

と、独りで力んだ。

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と獨ひとりで力りきんだ。

「そんでも気の毒で来られまいって言ったあ」

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「そんでも氣きの毒どくで來きらんめえつて云ゆつたあ」

与吉はぽつりと言った。

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與吉よきちはぽさりといつた。

やや大きくなった彼は、怒鳴る爺さんの前に恐怖を抱いたが、また抑えられることにかすかな反抗心を持っていた。

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稍やゝ大おほきく成なつた彼かれは呶鳴どなる爺ぢいさんの前まへに恐怖おそれを懷いだいたが又また壓おさへられることに微かすかな反抗力はんかうりよくを持もつて居ゐた。

「爺さんのことを来られまいって言ったのか。姉さんも言ったのかあ」

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「爺ぢいこと來きらんめえつて云ゆつたのか、姊ねえも云ゆつたのかあ」

「姉さんは言わない。姉さんが爺さんの所へ行くというと、おとっつあんが怒るんだ。そうしたら姉さんに怒られたんだあ」

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「姊ねえは云ゆはねえ、姊ねえ爺ぢいが處とこさ行えぐつちとおとつゝあ怒おこんだ、さうしたら姊ねえに怒おこらつたんだあ」

与吉は、自分の心に少しの隔てをも持っていない卯平の前に、知っていることを誇るように言った。

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與吉よきちは自分じぶんの心こゝろに少すこしの隔へだてをも有いうして居をらぬ卯平うへいの前まへに知しつてることを矜ほこるやうにいつた。

「お前のことは怒らないのか」

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「汝われこた怒おこんねえのか」

小柄な爺さんは、与吉の隠さない言葉に少し力んだ勢いが抜けたようになって、こう言った。

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小柄こがらな爺ぢいさんは與吉よきちの隱かくさぬ言辭ことばに少すこし力りきんだ勢いきほひが拔ぬけたやうになつて斯かういつた。

「おれのことは怒らない。おれは怒ったっくらい逃げちまうから」

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「俺おれこた怒おこんねえ、俺おら怒おこつたつ位くれえ遁にげつちやあから」

与吉の言うのを聞いて、爺さんの憤りは和らげられた。

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與吉よきちのいふのを聞きいて爺ぢいさんの憤いかりは和やはらげられた。

卯平は青い顔をして、じっと閉じた目をしかめて聞いていた。

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卯平うへいは蒼あをい顏かほをして凝然ぢつと瞑つぶつた目めを蹙しがめて聞きいて居ゐた。

囲炉裏には、そだの一枝もくべてなかった。

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圍爐裏ゐろりには麁朶そだの一枝えだも燻くべてなかつた。

三人はしばらくぽつねんとした。

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三人にんは暫しばらくぽさりとした。

「爺さん、くれないか」

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「爺ぢいくんねえか」

与吉は危ぶむように言った。

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與吉よきちは危あやぶむやうにいつた。

「お前は何がほしいというんだ」

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「汝わりや何なに欲ほしいつちんだ」

小柄な爺さんは、底力のある声を低くして言った。

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小柄こがらな爺ぢいさんは底力そこぢからの有ある聲こゑを低ひくくしていつた。

「おれは一銭もないから」

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「俺おら一錢ひやくもねえから」

と、卯平はこそばゆいある物が喉へつかえたように、ごくりと唾を飲んだ。

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と卯平うへいはこそつぱい或ある物ものが喉のどへ支つかへたやうにごつくりと唾つばを嚥のんだ。

彼の目の皺が、余計にぎっと締まった。

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彼かれの目めの皺しわが餘計よけいにぎつと緊しまつた。

「おれはまだ、ちっとはあったんだったが、煙草入れといっしょに焼けちまったから」

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「俺おらまあだ、ちつた有あつたんだつけが、煙草入たぶこれと同志どうしに燒やえつちやつたから」

彼はぽつりと投げ出して言った。

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彼かれはぽさりと投なげ出だしていつた。

「煙草入れは焼けたって、銭だったら灰を掻き払えばあるはずだ。ほかに盗る奴があるまいし」

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「煙草入たぶこれは燒やけたつて錢ぜねだら灰へえ掻掃かつぱけば有ある筈はずだ、外ほかに盜とる奴やざ有ありやすめえし」

小柄な爺さんの目は光った。

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小柄こがらな爺ぢいさんの目めは光ひかつた。

「なあに分からないよ。おつうらが毎日来ていてもその話はないんだから。おれはどうせ治るか何だか分かりやしまいし、要らないな」

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「なあに分わかんねえよ、おつう等ら毎日まいんち來きてゝも其その噺はなしやねえんだから、俺おらどうせ癒なほつか何なんだか分わかりやすめえし、要えらねえな」

「なあに、おれが聞いてみなくちゃならない。出すも出さないもあるもんか」

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「なあに、俺おれ聞きいて見みなくつちやなんねえ、出だすも出ださねえも有あるもんか」

小柄な爺さんは呟いて

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小柄こがらな爺ぢいさんは呟つぶやいて

「行けもう。お前は大きな体をして、くれの何のって」

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「行えけはあ、汝わりや大えけえ姿なりして、呉くろうの何なんだのつて」

と、与吉を怒鳴りつけた。

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と與吉よきちを呶鳴どなりつけた。

与吉はすごすごと出て行った。

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與吉よきちは悄々すご/\と出でて行いつた。

卯平は少し目を開いて、与吉の後ろ姿を見た。

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卯平うへいは少すこし目めを開ひらいて與吉よきちの後姿うしろすがたを見みた。

涙が止めどもなく出た。

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涙なみだが止とめどもなく出でた。

彼はそれを拭おうともしなかった。

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彼かれはそれを拭ぬぐはうともしなかつた。

二七

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二七

その夜、気温が著しく下がった。

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其その夜よ温度をんどが著いちじるしく下降かかうした。

季節は彼岸も過ぎて四月に入っているのであるが、寒さは地に凝りついたように離れなかった。

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季節きせつは彼岸ひがんも過すぎて四月ぐわつに入はひつて居ゐるのであるが、寒さむさは地ちに凝こりついたやうに離はなれなかつた。

夜半に卯平はのっそりと起きて、囲炉裏にそだをくべた。

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夜半やはんに卯平うへいはのつそりと起おきて圍爐裏ゐろりに麁朶そだを燻くべた。

ちろちろと鉄瓶の尻から燃え昇る火は、周囲の闇に包まれながら、やつれた卯平の顔にほの明るい光を添えた。

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ちろちろと鐵瓶てつびんの尻しりから燃もえのぼる火ひは周圍しうゐの闇やみに包つゝまれながら窶やつれた卯平うへいの顏かほにほの明あかるい光ひかりを添そへた。

彼は勢いない炎の前に目を閉じたまま、ただ沈鬱の状態を保った。

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彼かれは勢いきほひない焔ほのほの前まへに目めを瞑つぶつた儘まゝ只たゞ沈鬱ちんうつの状態じやうたいを保たもつた。

彼はほとんど動かないようにして、捨てておけばすっと深く沈んでしまったように冷めて行く火へ、ぽちりぽちりとそだを足していた。

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彼かれは殆ほとんど動うごかぬやうにして棄すてゝ置おけばすつと深ふかく沈しづんで畢しまつたやうに冷さめて行ゆく火ひへぽちり/\と麁朶そだを足たして居ゐた。

彼はしばらく我を失ったようにしていて、そだの火が周囲の闇に押しつけられようとしてわずかにその勢いを保った時、彼はすっと立ち上がった。

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彼かれは暫しばらく自失じしつしたやうにして居ゐて麁朶そだの火ひが周圍しうゐの闇やみに壓おしつけられようとして僅わづかに其その勢いきほひを保たもつた時とき彼かれはすつと立たち上あがつた。

彼のただれた横頬は、もう火の消えようとしている薄明かりにぼんやりとした。

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彼かれの糜爛びらんした横頬よこほゝはもう火ひの氓ほろびようとして居ゐる薄明うすあかりにぼんやりとした。

火はげっそりと落ちて、彼の姿が消え入ろうとした。

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火ひはげつそりと落おちて彼かれの姿すがたが消きえ入いらうとした。

彼は戸を開けて、よろけながら出た。

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彼かれは戸とを開あけて踉蹌よろけながら出でた。

寒い風が冷たい刃を浴びせた。

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寒さむい風かぜが冷つめたい刄やいばを浴あびせた。

卯平はぞっとした。

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卯平うへいは悚然ぞつとした。

勘次ら三人は、その夜も固まって薄い蒲団にくるまった。

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勘次等かんじら三人にんは其その夜よも凝集こごつて薄うすい蒲團ふとんにくるまつた。

勘次は足に非常な冷たさを感じて、うとうととしていた眠りから醒めた。

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勘次かんじは足あしに非常ひじやうな冷つめたさを感かんじて、うと/\として居ゐた眠ねむりから醒さめた。

手足を伸ばせばくくりつけた萱や篠の葉に触れて、かさかさと鳴るほど狭い室内を、寒さは束ねた松葉の先でつつくように、夜通しその隙間を狙って止まなかった。

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手足てあしを伸のばせば括くゝりつけた萱かやや篠しのの葉はに觸ふれてかさ/\と鳴なる程ほど狹せまい室内しつないを、寒さむさは束たばねた松葉まつばの先さきでつゝくやうに徹宵よつぴて其その隙間すきまを狙ねらつて止やまなかつた。

勘次は目が冴えてしまった。

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勘次かんじは目めが冴さえて畢しまつた。

彼は北に枕していた。

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彼かれは北きたに枕まくらして居ゐた。

後ろの林が性急に騒いでは、また静まって、そうしてざわざわと鳴った。

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後うしろの林はやしが性急せいきふに騷さわいでは又また靜しづまつてさうしてざわ/\と鳴なつた。

北風が立ったのだ。

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北風きたかぜが立たつたのだ。

低い粟の茎の屋根から、そのくくりつけた萱や篠の葉には、冴えた耳にやっと聞き取れるような、さらさらとかすかに何かを打ちつけるような響きが止まない。

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低ひくい粟幹あはがらの屋根やねから其その括くゝりつけた萱かやや篠しのの葉はには冴さえた耳みゝに漸やつと聞きゝとれるやうなさら/\と微かすかに何なにかを打うちつけるやうな響ひゞきが止やまない。

次第にその響きが消えて、隙間を求めて入り込む寒さの度合いが加わった。

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漸次だん/\に其その響ひゞきを消滅せうめつして、隙間すきまを求もとめて侵入しんにふする寒さむさの度どが加くははつた。

どこかで凍った土へ響くような鶏の声が甲高く聞こえると、夜は軒の隙間から明るくなった。

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何處どこかで凍こほつてた土つちへ響ひゞくやうな雞にはとりの聲こゑが疳走かんばしつて聞きこえると夜よるは檐のきの隙間すきまから明あかるくなつた。

勘次はおつぎを起こした。

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勘次かんじはおつぎを起おこした。

彼は夜が明ければ、蒲団に固くなっているよりも火に当たったほうがはるかによかった。

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彼かれは夜よが明あければ蒲團ふとんに堅かたくなつて居ゐるよりも火ひにあたつた方はうが遙はるかによかつた。

彼は明けるのを待ち遠しくしていた。

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彼かれは明あけるのを待遠まちどほにして居ゐた。

おつぎは外へ出ようとした。

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おつぎは外そとへ出でようとした。

外は意外に積もりかけた雪が白かった。

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外そとは意外いぐわいに積つもり掛かけた雪ゆきが白しろかつた。

さらに積もりつつある大粒な雪が、北から斜めに空間を掻き乱して飛んでいる。

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更さらに積つもりつゝある大粒おほつぶな雪ゆきが北きたから斜なゝめに空間くうかんを掻亂かきみだして飛とんで居ゐる。

おつぎはしばらく立ちすくんだ。

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おつぎは少時しばし立たち悚すくんだ。

大粒な雪を投げながら吹き落ちる北風が、ごうっと寒さを煽った。

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大粒おほつぶな雪ゆきを投なげつゝ吹ふき落おちる北風きたかぜがごつと寒さむさを煽あふつた。

勘次は狭い土間に掻き集めてあった落ち葉やそだに火を点けた。

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勘次かんじは狹せまい土間どまに掻かき集あつめてあつた落葉おちばや麁朶そだに火ひを點つけた。

煙は低い軒を這って、ぐるぐると空間が回転するように見えながら、飛び散る忙しい雪のために逃げ行く道を妨げられたように、低くさまよって行く。

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烟けぶりは低ひくい檐のきを偃はつて、ぐる/\と空間くうかんが廻轉くわいてんするやうに見みえつゝ飛とび散ちる忙せはしい雪ゆきの爲ために遁にげ行ゆく道みちを妨さまたげられたやうに低ひくく彷徨さまようて行ゆく。

おつぎは外側に置いた手桶を取った。

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おつぎは外側そとがはに置おいた手桶てをけを執とつた。

北風の吹きつける雪は、一つの手桶を半分白くしていた。

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北風きたかぜの吹ふきつける雪ゆきは一ひとつの手桶てをけを半分はんぶん白しろくして居ゐた。

おつぎが低い軒の下を一歩踏み出したら、北風は待っていたというように、その乱れた髪の毛を吹きまくって、大粒な雪が争って首筋へ群がり落ちて、瞬く間に消えた。

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おつぎは低ひくい檐のきの下したを一歩ぽ踏ふみ出だしたら、北風きたかぜは待まつて居ゐたといふやうに、其その亂みだれた髮かみの毛けを吹ふき捲まくつて、大粒おほつぶな雪ゆきが爭あらそつて首筋くびすぢへ群むらがり落おちて瞬間しゆんかんに消きえた。

そうしてまた、着物の上に軽く柔らかに止まった。

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さうして又また衣物きものの上うへに輕かるく軟やはらかに止とまつた。

おつぎは、釣瓶の竹竿が北から打ちつける雪のために、縦に一条の白い線を描きつつあるのを見た。

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おつぎは釣瓶つるべの竹竿たけざをが北きたから打うちつける雪ゆきの爲ために竪たてに一條ひとすぢの白しろい線せんを描ゑがきつゝあるのを見みた。

ちらちらと目をくらますような雪の中に、樹木はことごとく純白な柱を立て、釣瓶の縁は白い丸い輪を描いている。

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ちら/\と目めを昏くらますやうな雪ゆきの中なかに樹木じゆもくは悉皆みんな純白じゆんぱくな柱はしらを立たてて、釣瓶つるべの縁ふちは白しろい丸まるい輪わを描ゑがいて居ゐる。

おつぎが竹竿へ手を掛けると、軽い柔らかな雪はさらりと崩れて落ちた。

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おつぎは竹竿たけざをへ手てを掛かけると輕かるい軟やはらかな雪ゆきはさらりと轉こけて落おちた。

おつぎが一杯を汲んでひょいと振り返った時、後ろの竹の林が強い北風に首筋を押しつけられては、雪をつかんでぱあっと投げつけられながら、力の限り争おうとして苦しんでいるのを見た。

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おつぎは一杯ぱいを汲くんでひよつと顧ふりかへつた時とき後うしろの竹たけの林はやしが強つよい北風きたかぜに首筋くびすぢを壓おしつけては雪ゆきを攫つかんでぱあつと投なげつけられながら力ちからの限かぎりは爭あらそはうとして苦悶もがいて居ゐるのを見みた。

おつぎは見るなと吹きつける北風を正面に受けて、息がむっと詰まるように感じて、ふと横手を向いた。

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おつぎは見みるなと吹ふきつける北風きたかぜを當面まともに受うけて呼吸いきがむつとつまるやうに感かんじてふと横手よこてを向むいた。

少し離れた柿の木の下に、おつぎは吸いつけられたように疑いの目を見開いた。

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少すこし離はなれた柹かきの木きの下したにおつぎは吸すひつけられたやうに疑うたがひの目めを睜みはつた。

おつぎは釣瓶を放して、少し柿の木の下に近づいた。

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おつぎは釣瓶つるべを放はなして少すこし柹かきの木きの下したに近ちかづいた。

「おとっつあん」

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「おとつゝあ」

と、おつぎは底の粘る草履を捨てて、激しく呼んで駆け込んだ。

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とおつぎは底そこの粘ねばる草履ざうりを捨すてゝ激はげしく呼よんで驅かけ込こんだ。

「大変だよ、おとっつあん」

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「大變たえへんだよ、おとつゝあ」

と、今度は少し声を殺すようにして勘次を促した。

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と今度こんどは少すこし聲こゑを殺ころすやうにして勘次かんじを促うながした。

勘次は怪訝な鋭い目でおつぎを見た。

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勘次かんじは怪訝けげんな鋭するどい目めを以もつておつぎを見みた。

「よう、おとっつあん」

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「よう、おとつゝあ」

おつぎの節度を失った慌ただしさが、勘次を庭に走らせた。

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おつぎの節制たしなみを失うしなつた慌あわたゞしさが勘次かんじを庭にはに走はしらせた。

勘次は震えた。

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勘次かんじは戰慄せんりつした。

柿の木の下には、冷たい卯平が横たわっていたのである。

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柹かきの木きの下したには冷つめたい卯平うへいが横よこたはつて居ゐたのである。

その大きな体は少し柿の木にもたれかかりながら、胸から脚へまだらに雪を浴びていた。

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其その大おほきな體躯からだは少すこし柹かきの木きに倚より掛かゝりながら、胸むねから脚部きやくぶへ斑まだらに雪ゆきを浴あびて居ゐた。

荒縄が彼の手を離れて、横に体を越えていた。

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荒繩あらなはが彼かれの手てを轉こけて横よこに體躯からだを超こえて居ゐた。

「爺さん」

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「爺ぢい」

と、おつぎはその耳に口を当てて怒鳴った。

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とおつぎは其その耳みゝに口くちを當あてゝ呶鳴どなつた。

冷たい卯平は、ぐったりとうなだれたままである。

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冷つめたい卯平うへいはぐつたりと俛首うなだれた儘まゝである。

少し傾げた彼の横頬にただれた火傷が、勘次をぞっとさせた。

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少すこし傾かしげた彼かれの横頬よこほゝに糜爛びらんした火傷やけどが勘次かんじを悚然ぞつとさせた。

勘次は夜に荷車で運んだ後、卯平を見るのは初めてであった

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勘次かんじは夜よる荷車にぐるまで運はこんだ後のち卯平うへいを見みるのは始はじめてゞあつた

「おとっつあんは、どうしたっていうんだろうな」

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「おとつゝあは、どうしたつちんだんべな」

おつぎは勘次を叱って、卯平の体を起こしながら、白く掛かった雪を手で払った。

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おつぎは勘次かんじを叱しかつて、卯平うへいの身體からだを起おこしながら白しろく掛かゝつた雪ゆきを手てで拂はらつた。

勘次はおずおずと手を貸した。

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勘次かんじは怖おづ/\手てを藉かした。

卯平の力ない体は、ようやく二人の手で運ばれた。

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卯平うへいの力ちからない身體からだは漸やうやく二人ふたりの手てで運はこばれた。

勘次は簀の子の上の筵に横たえて、気を失ったようにぼんやりとして立った。

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勘次かんじは簀すの子この上うへの筵むしろに横よこたへて、喪心さうしんしたやうに惘然ばうぜんとして立たつた。

彼はまた、卯平のただれた火傷を見た。

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彼かれは復また卯平うへいの糜爛びらんした火傷やけどを見みた。

彼は何を思ったか、忙しく雪を蹴立てて、桑畑の間を過ぎて南の家に走った。

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彼かれは何なにを思おもつたか忙いそがしく雪ゆきを蹴立けたてゝ、桑畑くはばたけの間あひだを過すぎて南みなみの家いへに走はしつた。

いったん開けてまたそっと閉ざした表の戸口から、突然に

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一旦たん開あけて又またそつと閉とざした表おもての戸口とぐちから突然とつぜんに

「起きてないか」

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「起おきめえか」

と、彼は激しく怒鳴った。

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と彼かれは激はげしく呶鳴どなつた。

彼は褞袍を着て竈の前に火を焚いている女房を見た。

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彼かれは褞袍どてらを着きて竈かまどの前まへに火ひを焚たいて居ゐる女房にようばうを見みた。

「何だい」

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「何なんでえ」

と、亭主の驚いて言う声が近く聞こえた。

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と亭主ていしゆの驚おどろいていふ聲こゑが近ちかく聞きこえた。

勘次も驚いて、上がり框の蒲団から首をもたげた亭主を見た。

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勘次かんじも驚おどろいて上あがり框がまちの蒲團ふとんから首くびを擡もたげた亭主ていしゆを見みた。

「大変なことができたよ、おれの家の」

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「大變たえへんなこと出來できたよ、俺おら家ぢの」

と、勘次はこそばゆい喉からようやくそれだけを吐き出した。

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と勘次かんじはこそつぱい喉のどから漸やうやくそれだけを吐はき出だした。

「来てくれないか」

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「來きてくんねえか」

と、彼は簡単にそう言って、思い出したようにまた雪を蹴って走った。

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と彼かれは簡單かんたんにさういつて、思おもひ出だしたやうに又また雪ゆきを蹴けつて走はしつた。

慌てた彼は、敷居もまたがなかった。

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慌あわてた彼かれは閾しきゐも跨またがなかつた。

南の家の亭主は、勘次の様子を見てただごとでないことを知った。

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南みなみの家いへの亭主ていしゆは勘次かんじの容子ようすを見みて尋常じんじやうでないことを知しつた。

しかしながら彼は、きわめてはっきりしない事件に赴くには、すぐに起こる多少の懸念が、吹きまくる雪に逆らって、蓑も笠も持たずに走って行くほど慌てさせるわけには行かなかった。

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然しかしながら彼かれは極きはめて不判明ふはんめいな事件じけんに赴おもむくには、直たゞちに起おこる多少たせうの懸念けねんが吹ふき捲まくる雪ゆきに逆さからつて、蓑みのも笠かさも持もたずに走はしつて行ゆく程ほど慌あわてさせる譯わけには行ゆかなかつた。

彼は土間に転がった下駄を探した。

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彼かれは土間どまに轉ころがつた下駄げたを探さがした。

非常な勢いで積もろうとする雪は、庭から庭を繋ぐ桑畑の間に下駄の運びを鈍くした。

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非常ひじやうな勢いきほひで積つもらうとする雪ゆきは、庭にはから庭にはを繼つぐ桑畑くはばたけの間あひだに下駄げたの運はこびを鈍にぶくした。

彼が勘次の小屋を覗いた時は、低く、かつ狭い入口を自分の体が塞いで、内を薄暗くした。

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彼かれが勘次かんじの小屋こやを覗のぞいた時ときは低ひくく且かつ狹せまい入口いりぐちを自分じぶんの身體からだが塞ふさいで内うちを薄闇うすぐらくした。

外の白い雪を見た彼の目が、しばらくくらんだ。

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外そとの白しろい雪ゆきを見みた彼かれの目めが暫しばらく昏くらんだ。

彼はただ、勘次が与吉を叱る声を耳のそばで聞いた。

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彼かれは只たゞ勘次かんじが與吉よきちを叱しかる聲こゑを耳みゝの傍そばで聞きいた。

勘次が帰った時、卯平は横たえたままであった。

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勘次かんじが歸かへつた時とき卯平うへいは横よこたへた儘まゝであつた。

浅く掛かっていた雪が溶けて、卯平の褞袍が少し濡れていた。

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淺あさく掛かゝつて居ゐた雪ゆきが溶とけて卯平うへいの褞袍どてらが少すこし濡ぬれて居ゐた。

彼はまた、ただれた火傷を見るとともに、卯平の懐へ手を入れているおつぎを見た。

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彼かれは復また糜爛びらんした火傷やけどを見みると共ともに、卯平うへいの懷ふところへ手てを入いれて居ゐるおつぎを見みた。

「おとっつあん、暖かいんだよ」

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「おとつゝあ、暖ぬくてえんだよ」

おつぎは言って、また

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おつぎはいつて又また

「息をついてるんだよ」

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「呼吸いきつえてんだよ」

他を憚る者のように、低く声を殺して言った。

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他たを憚はゞかるものゝやうに低ひくく聲こゑを殺ころしていつた。

勘次は勢いづいた。

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勘次かんじは勢いきほひづいた。

彼は突然、与吉を起こした。

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彼かれは突然とつぜん與吉よきちを起おこした。

蒲団をまくって与吉の腕を引いた。

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蒲團ふとんを捲まくつて與吉よきちの腕うでを引ひいた。

与吉は例にない厳しい扱いに驚いて、まだ眠い目を見開いた。

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與吉よきちは例いつもにない苛酷かこくな扱あつかひに驚おどろいてまだ眠ねむい目めを睜みはつた。

「急いで、それ、着物」

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「急かせえて、それ、衣物きもの」

と、勘次はただおろおろしている与吉を叱りつけた。

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と勘次かんじは只たゞおろ/\して居ゐる與吉よきちを叱しかりつけた。

「そんじゃまあよかった。何にしても蒲団へ寝かせたほうがいいな。暖まりさえすりゃ、だんだんよくなるだろうから」

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「そんぢやまあよかつた。何なにしても蒲團ふとんへ寢ねかせた方はうがえゝな、暖ぬくとまりせえすりや段々だん/\よくなつぺから」

南の亭主は、数分前から二人を心の底から狼狽させた事件の簡単な説明を聞いた時、言った。

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南みなみの亭主ていしゆは數分時すうふんじの前まへから二人ふたりを衷心ちうしんより狼狽らうばいせしめた事件じけんの簡單かんたんな説明せつめいを聞きいた時ときいつた。

「着物が濡れたようだな。脱がせたらよかろう。それにひどく汚れちまったな」

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「衣物きもの濡ぬれたやうだな、脱ぬがせたらよかつぺ、それに酷ひどく汚よごれつちやつたな」

亭主は言って、まくった蒲団へ手を当ててみた。

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亭主ていしゆはいつて捲まくつた蒲團ふとんへ手てを當あてて見みた。

「これは暖かくていい塩梅だ。冷やしちゃいけない」

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「此こら暖ぬくとくつてえゝ鹽梅あんべえだ、冷ひえさせちやえかねえ」

彼は掛け蒲団をとっぷりとかぶせた。

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彼かれは掛蒲團かけぶとんをとつぷり蓋ふたした。

「そうだな、着物は焙る間は仕方がないな。そんじゃ褞袍でもおれの家から持って来るといいな。この蒲団だけじゃ暖まれまい、これは」

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「さうだな衣物きものは焙あぶる間えゝだ仕しやうねえなそんぢや褞袍どてらでも俺おら家ぢから持もつて來くつとえゝな、此この蒲團ふとんだけぢや暖ぬくとまれめえこら」

彼は少し権威を持った態度で言った。

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彼かれは少すこし權威けんゐを有もつた態度たいどでいつた。

狭い小屋の焚き火は消えていた。

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狹せまい小屋こやの焚火たきびは消きえて居ゐた。

怪訝な様子をして遠ざかっていた与吉が、落ち葉を足してしばらくくすぶらせた。

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怪訝けゞんな容子ようすをして遠とほざかつて居ゐた與吉よきちが落葉おちばを足たして暫しばらく燻くすぶらした。

「お前はまた、それ、おつうを見てやれ」

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「汝われまた、それ、おつう見みてやれ」

勘次は与吉に注意の言葉を残して、駆け出して行った。

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勘次かんじは與吉よきちに注意ちういの言葉ことばを殘のこして驅かけ出だして行いつた。

「蒲団も持てるなら持って来たほうがいいな」

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「蒲團ふとんも持もてらば持もつて來きた方はうがえゝな」

南の亭主の声は、だんだんに大粒になって飛んでいる雪の乱れの中に消え行く勘次の後から追いかけた。

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南みなみの亭主ていしゆの聲こゑは段々だん/\に大粒おほつぶに成なつて飛とんで居ゐる雪ゆきの亂みだれの中なかに消きえ行ゆく勘次かんじの後あとから追おひ掛かけた。

勘次は二人を加えて勢いづけられた手を素早く動かして、まだ暖まっている蒲団へそっと卯平を横たえた。

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勘次かんじは二人ふたりを加くはへて勢いきほひづけられた手てを敏活びんくわつに動うごかして、まだ暖あたゝまつて居ゐる蒲團ふとんへそつと卯平うへいを横よこたへた。

卯平の冷たい体には、落ち葉の火でおつぎが焙った褞袍と、それから余計な蒲団とが覆われた。

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卯平うへいの冷つめたい身體からだには、落葉おちばの火ひでおつぎが焙あぶつた褞袍どてらと夫それから餘計よけいな蒲團ふとんとが蔽おほはれた。

卯平のかすかな息が、だんだんと回復して来る。

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卯平うへいの微かすかな呼吸いきが段々だん/\と恢復くわいふくして來くる。

勘次はどんどんと落ち葉やそだを焚いた。

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勘次かんじはどん/\と落葉おちばや麁朶そだを焚たいた。

彼はその時、雪の林に燃料を探すことの難しさを気にかける暇さえ持たなかったのである。

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彼かれは其その時とき雪ゆきの林はやしに燃料ねんれうを探さがすことの困難こんなんなことを顧慮こりよする遑いとまさへ有もたなかつたのである。

午後になって、この例年にない雪も止んだ。

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午後ごゝになつて此この例年れいねんにない雪ゆきも歇やんだ。

空が、いかにもがっかりしたようにぼんやりした。

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空そらが左さもがつかりしたやうにぼんやりした。

おつぎが騒いだ心も静まって、また水を汲みに出た時、釣瓶の底は重くなって、抑えた鍵の手から外れようとしていた。

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おつぎが騷さわいだ心こゝろも靜しづまつて又また水みづを汲くみに出でた時とき、釣瓶つるべの底そこは重おもく成なつて抑おさへた鍵かぎの手てから外はづれようとして居ゐた。

後ろの竹の林はべったりとうなだれた。

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後うしろの竹たけの林はやしはべつたりと俛首うなだれた。

冬のようにさらさらと潔い落ち方はしないで、湿りを持った雪は竹のこずえをぎっとつかんで放すまいとしている。

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冬ふゆのやうにさら/\と潔いさぎよい落おちやうはしないで、濕うるほひを持もつた雪ゆきは竹たけの梢こずゑをぎつと攫つかんで放はなすまいとして居ゐる。

竹は苦しい息をするように、小さな枝が一つずつぴらりぴらりと動いて、その圧迫から逃れようと努めつつある。

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竹たけは苦くるしい呼吸いきをするやうに小ちひさな枝えだが一ひとつづゝぴらり/\と動うごいて其その壓迫あつぱくから遁のがれようと力つとめつゝある。

北から見れば白い柱であった樹木の幹も、ことごとく以前の姿になろうとして、ずんずんと雪を転がした。

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北きたから見みれば白しろい柱はしらであつた樹木じゆもくの幹みきも悉皆みんな以前いぜんの姿すがたに成ならうとしてずん/\と雪ゆきを轉ころがした。

庭から先の桑畑は、ただいっぱいに白い。

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庭にはから先さきの桑畑くはばたは唯たゞ一杯ぱいに白しろい。

地上数寸の深さに、雪は積もっていた。

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地上ちじやう數寸すすんの深ふかさに雪ゆきは積つもつて居ゐた。

桑畑の端のほうに薹の立った菜種の、少し黄色く膨れた蕾は、すっくとその雪から伸び上がっている。

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桑畑くはばたの端はしの方はうに薹とうに立たつた菜種なたねの少すこし黄色きいろく膨ふくれた蕾つぼみは聳然すつくりと其その雪ゆきから伸のび上あがつて居ゐる。

そこらには枯れた蓬も、ぽつりぽつりと白い褥に上体をもたげた。

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其處そこらには枯かれた蓬よもぎもぽつり/\と白しろい褥しとねに上體じやうたいを擡もたげた。

頬白か何かが、菜種の花や枯れ蓬の陰の浅い雪に短い脛を立ててみたいのか、桑の枝をしなやかに蹴って活発に飛び下りた。

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頬白ほゝじろか何なにかゞ菜種なたねの花はなや枯蓬かれよもぎの陰かげの淺あさい雪ゆきに短みじかい臑すねを立たてゝ見みたいのか桑くはの枝えだをしなやかに蹴けつて活溌くわつぱつに飛とびおりた。

そうしてまた枝に移った。

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さうして又また枝えだに移うつつた。

後ろの田圃では、水はけの悪い田には降っているうちから雪は溶けつつあったので、畦がことさらに白い線を描いて目立った。

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後うしろの田圃たんぼでは、水みづこけの惡わるい田たには降ふつてる内うちから雪ゆきは溶とけつゝあつたので、畦畔くろが殊更ことさらに白しろい線せんを描ゑがいて目めに立たつた。

そこにも堀の辺りの、赤い実の錆びた野茨の枝に縦になったり横になったりして、ずんずんと消え行く雪を喜ぶように、頬白がちょんちょんと渡った。

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其處そこにも堀ほりの邊ほとりの赤あかい實みの錆さびた野茨のばらの枝えだに堅たてに成なつたり横よこに成なつたりして、ずん/\と消きえ行ゆく雪ゆきを悦よろこぶやうに頬白ほゝじろがちよん/\と渡わたつた。

夕方には、田圃の白い線も途切れ途切れになった。

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夕方ゆふがたには田圃たんぼの白しろい線せんも途切とぎれ/\に成なつた。

どのこずえも白い物を止めないで、疲れたように濡れていた。

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何處どこの梢こずゑも白しろい物ものを止とゞめないで疲つかれたやうに濡ぬれて居ゐた。

雪はことごとく土に落ち着いてしまった。

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雪ゆきは悉こと/″\く土つちに落おちついて畢しまつた。

その落ち着いた雪を突き上げて、どこの屋根でも白い大きな塊のように見えた。

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其その落おちついた雪ゆきを突つき扛あげて何處どこの屋根やねでも白しろい大おほきな塊かたまりのやうに見みえた。

枯木の間には、ことさらそれがはっきりと目立った。

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枯木かれきの間あひだには殊更ことさらそれが明瞭はつきりと目めに立たつた。

黄昏の煙が青く割れた空へ吸われて、静かな日は暮れた。

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黄昏たそがれの煙けぶりが蒼あをく割われた空そらへ吸すはれて靜しづかな日ひは暮くれた。

卯平はすやすやと息を回復したままで、口は利かない。

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卯平うへいはすや/\と呼吸こきふを恢復くわいふくした儘まゝで口くちは利きかない。

ぴしゃぴしゃとしぶきの泥を蹴りながら、粟の茎の軒からも雪の解けて滴る勢いのいい雨垂れが止まないで、夜になった。

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ぴしや/\と飛沫しぶきの泥どろを蹴けりつゝ粟幹あはがらの檐のきからも雪ゆきの解とけて滴したゝる勢いきほひのいゝ雨垂あまだれが止やまないで夜よるに成なつた。

その夜、南の女房は蒲団を二枚肩に掛けて持って来た。

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其その夜よ南みなみの女房にようばうは蒲團ふとんを二枚まい肩かたに掛かけて持もつて來きた。

一つには義理が済まないというので、卯平の様子を見に来たのである。

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一ひとつには義理ぎりが濟すまぬといふので卯平うへいの容子ようすを見みに來きたのである。

それは二度目であった。

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其それは二度目どめであつた。

手ランプもない暗い小屋の内にしばらく語って女房が去った後、与吉は卯平の裾へ潜らせた。

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手てランプもない闇くらい小屋こやの内うちに暫しばらく語かたつて女房にようばうが去さつた後のち、與吉よきちは卯平うへいの裾すそへ潜もぐらせた。

おつぎはその一枚の蒲団を掛けて、卯平に添って身を横たえた。

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おつぎは其その一枚まいの蒲團ふとんを掛かけて卯平うへいに添そうて身みを横よこたへた。

勘次は土間へ筵を敷いて、他の一枚の蒲団をかぶって、くるくると身を屈めた。

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勘次かんじは土間どまへ筵むしろを敷しいて他たの一枚まいの蒲團ふとんを被かぶつてくる/\と身みを屈かゞめた。

彼は足を伸ばしたまま上体をもたげて、一度暗い床の上を見た。

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彼かれは足あしを伸のばした儘まゝ上體じやうたいを擡もたげて一度ど闇くらい床ゆかの上うへを見みた。

ぴしゃぴしゃと落ちる滴が、しばらく彼の耳の底を打った。

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ぴしや/\と落おちる涓滴したゝりが暫しばらく彼かれの耳みゝの底そこを打うつた。

次の日は、朝からきらきらと照った。

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次つぎの日ひは朝あさからきら/\と照てつた。

暖かい日光は、勘次の土間まで這った。

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暖あたゝかい日光につくわうは勘次かんじの土間どままで偃はつた。

地上はすべて、柔らかな熱で蒸された。

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地上ちじやうは凡すべて軟やはらかな熱度ねつどを以もつて蒸むされた。

物陰に一夜保ってゆっくりした雪が、慌てて溶けた。

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物陰ものかげに一夜や保たもつてゆつくりした雪ゆきが慌あわてゝ溶とけた。

土がしっとりとして落ち着けられた。

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土つちがしつとりとして落おちつけられた。

卯平は目を開いた。

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卯平うへいは目めを開ひらいた。

彼は不審そうに辺りを見た。

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彼かれは不審相ふしんさうにあたりを見みた。

執念く土にひっついていた冬が、蒸されるような暖かさに居たたまらなくなって慌てて逃げ去った後へ、一遍に来た春の光の中に、彼は意識を回復した。

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執念しふねく土つちにひつゝいて居ゐた冬ふゆが、蒸むされるやうな暖あたゝかさに居ゐたゝまらなく成なつて倉皇そゝくさと遁にげ去さつた後あとへ一遍ぺんに來きた春はるの光ひかりの中なかに彼かれは意識いしきを恢復くわいふくした。

彼は寒さが骨に徹するその夜のことをはっきりと頭に浮かべて判断するのには、気候の変化があまりに急激であった。

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彼かれは寒さむさが骨ほねに徹てつする其その夜よのことを明瞭めいれうに頭あたまに泛うかべて判斷はんだんするのには氣候きこうの變化へんくわが餘あまりに急激きふげきであつた。

彼はその間、人事不省の幾時間を過ごした。

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彼かれは其その間あひだ人事不省じんじふせいの幾時間いくじかんを經過けいくわした。

彼は与吉の無意識な告げ口から、ひどく悲しくはかなくなって、後で独り泣いた。

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彼かれは與吉よきちの無意識むいしきな告口つげぐちから酷ひどく悲かなしく果敢はかなくなつて後あとで獨ひとりで泣ないた。

怒りの情を燃やすのには、彼はあまりに疲れていた。

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憤怒ふんぬの情じやうを燃もやすのには彼かれは餘あまりに彼つかれて居ゐた。

しかし自分でもその時、自分の身に変事の起ころうとすることは少しも予期していなかった。

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然しかし自分じぶんでも其その時とき、自分じぶんの身みに變事へんじの起おこらうとすることは毫すこしも豫期よきして居ゐなかつた。

彼は囲炉裏のそばで、夜のむしろ冷たい火に当たりながら、ふと気が変わって、ついと庭へ出た。

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彼かれは圍爐裏ゐろりの側そばで、夜よるの寧むしろ冷つめたい火ひにあたりながらふと氣きが變かはつてついと庭にはへ出でた。

彼は何かが足にまとわったのを知った。

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彼かれは何なにかゞ足あしに纏まつはつたのを知しつた。

手に取ってみたら、それは荒縄であった。

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手てに取とつて見みたらそれは荒繩あらなはであつた。

彼はそれからどうしたのか、はっきりと描いてみようとするには、頭があまりにぼんやりと疲れていた。

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彼かれはそれからどうしたのか明瞭めいれうに描ゑがいて見みようとするには頭腦づなうが餘あまりにぼんやりと疲つかれて居ゐた。

彼は勘次の庭に立った。

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彼かれは勘次かんじの庭にはに立たつた。

彼は荒縄が手にあったことに気づいた時、柿の木の低い枝にそれを引っ掛けようとして投げた。

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彼かれは荒繩あらなはが手てに在あつたことを心こゝろづいた時とき、柹かきの木きの低ひくい枝えだにそれを引掛ひつかけようとして投なげた。

彼の不自由な手は、暗い夜にその目的を遂げさせなかった。

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彼かれの不自由ふじいうな手ては暗夜あんやに其その目的もくてきを遂とげさせなかつた。

彼は幾度投げても無駄であった。

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彼かれは幾度いくたび投なげても徒勞むだであつた。

身を切るような北風が田圃を渡って、それを隔てようとする後ろの林をごうっと押さえては吹き落ちて、彼の手の動きをまったく鈍くしてしまった。

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身みを切きるやうな北風きたかぜが田圃たんぼを渡わたつて、それを隔へだてようとする後うしろの林はやしをごうつと壓おさへては吹ふき落おちて、彼かれの手ての運動うんどうを全まつたく鈍にぶくして畢しまつた。

やがて後ろの林のこずえから、斜めに雪が吹き下ろして来た。

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軈やがて後うしろの林はやしの梢こずゑから斜なゝめに雪ゆきが吹ふきおろして來きた。

卯平はしばらくためらって、柿の木の根にその疲れた身を寄せた。

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卯平うへいは少時しばらく躊躇ちうちよして柹かきの木きの根ねに其その疲つかれた身みを倚よせた。

しばらくして彼は、雪が冷たく自分の懐に溶けて不愉快に流れるのを知った。

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暫しばらくして彼かれは雪ゆきが冷つめたく自分じぶんの懷ふところに溶とけて不愉快ふゆくわいに流ながれるのを知しつた。

彼はそれから体が固まるように思いながら、疎らな白髪が梳られるのをも、かすかに感じた。

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彼かれはそれから身體からだが固かたまるやうに思おもひながら、疎あらい白髮しらがの梳くしけづられるのをも、微かすかに感覺かんかくを有いうした。

鶏の声が耳に遠く聞こえて消えて行くのを知った。

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雞にはとりの聲こゑが耳みゝに遠とほく聞きこえて消滅せうめつするのを知しつた。

彼はついにうとうとしてしまった。

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彼かれは遂つひにうと/\と成なつて畢しまつた。

さらに数十分間そのままに忘れられていたならば、彼はその時自分が望んだように、冷たい骸から蘇らなかったかも知れなかった。

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更さらに數すう十分間ぷんかん其その儘まゝに忘わすられて居ゐたならば彼かれは其その時とき自分じぶんが欲ほつしたやうに冷つめたい骸むくろから蘇生よみがへらなかつたかも知しれなかつた。

勘次の冴えた目が、隙間から射す白い雪の光に欺かれて、おつぎを水汲みに出した。

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勘次かんじの冴さえた目めが隙間すきまから射さす白しろい雪ゆきの光ひかりに欺あざむかれておつぎを水汲みづくみに出だした。

そうして卯平は救われたのである。

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さうして卯平うへいは救すくはれたのである。

「爺さん、どうした。心持ちは悪くないか、もう」

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「爺ぢいどうした、心持こゝろもち惡わるかねえか、はあ」

と、おつぎは卯平が周囲を見た時、耳へ口を当てて言った。

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とおつぎは卯平うへいが周圍あたりを見みた時とき耳みゝへ口くちを當あてゝいつた。

「動かないでろ、爺さん。食べたい物でもないか」

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「動いごかねえでろ爺ぢい、喰たべてえ物ものでもねえか」

おつぎはまた柔らかに言った。

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おつぎは復また軟やはらかにいつた。

卯平はただうなずいた。

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卯平うへいは只たゞ點頭うなづいた。

「おとっつあん、そんでもちっとはしっかりしたか」

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「おとつゝあ、そんでもちつた確乎しつかりしてか」

勘次はその後について聞いた。

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勘次かんじは其その尾をに跟ついて聞きいた。

ほっと息をついたような様子は、勘次の心の底からの喜びであった。

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ほつと息いきをついたやうな容子ようすは勘次かんじの衷心ちうしんからの悦よろこびであつた。

「おとっつあん、火傷は痛いかいまだ」

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「おとつゝあ、火傷やけどは痛えてえけまあだ」

勘次はすぐに後の言葉を続けた。

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勘次かんじは直すぐに後あとの言辭ことばを續つゞけた。

「枕はつけられないな」

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「枕まくらはおつゝけらんねえな」

卯平は柔らかな目をしかめるようにした。

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卯平うへいは軟やはらかな目めを蹙しがめるやうにした。

勘次はふいと駆け出して、しばらく経って帰って来た時には、手に白い晒し木綿と、古新聞紙の切れ端に包んだのを持っていた。

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勘次かんじはふいと駈かけ出だして暫しばらく經たつて歸かへつて來きた時ときには手てに白しろい曝木綿さらしもめんの古新聞紙ふるしんぶんがみの切端きれはしに包つゝんだのを持もつて居ゐた。

彼はそれを四つに裂いて、医者がしたように白い練り薬を腿の上でガーゼへ塗って、卯平の横頬へ貼って、晒し木綿でぐるぐると巻いた。

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彼かれはそれを四つに裂さいて、醫者いしやがしたやうに白しろい練藥ねりぐすりを腿もゝの上うへでガーゼへ塗ぬつて、卯平うへいの横頬よこほゝへ貼はつた曝木綿さらしもめんでぐる/\と卷まいた。

彼は与吉にさえ白い薬を惜しんで、医者からもらったまましまっておいたのであった。

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彼かれは與吉よきちにさへ白しろい藥くすりを惜をしんで醫者いしやから貰もらつた儘まゝ藏しまつて置おいたのであつた。

卯平はじっとして、勘次のするままに任せた。

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卯平うへいは凝然ぢつとして勘次かんじの爲する儘まゝに任まかせた。

不器用な、少し動けば崩れそうな包帯であったが、それでも勘次の目には心丈夫であった。

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不器用ぶきような少すこし動うごけば轉こけ相さうな繃帶ほうたいであつたが夫それでも勘次かんじの目めには心丈夫こゝろじやうぶであつた。

彼は自分の恐怖を誘った傷が白い快い布で覆い隠されたのと、自分のなすべき仕事を果たし得たように感じられるのとで、心がにわかに軽くすがすがしくなった。

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彼かれは自分じぶんの恐怖おそれを誘さそうた瘡痍きずが白しろい快こゝろよい布ぬのを以もつて掩おほひ隱かくされたのと、自分じぶんの爲すべき仕事しごとを果はたし得えたやうに感かんぜられるのとで心こゝろが俄にはかに輕かるくすが/\しくなつた。

卯平も、どうなることかはっきりとは分からないながら、心の内では喜んだ。

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卯平うへいもどうなることか確しかとは分わからぬながら心こゝろの内うちでは悦よろこんだ。

勘次はまた、どこかへ出た。

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勘次かんじは又また何處どこへか出でた。

彼はただ心がそわそわとして、容易には落ち着かなかった。

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彼かれは只たゞ心こゝろがそは/\として容易たやすくは落おちつかなかつた。

柔らかな春の光は情を含んだ目をまばたきしながら、彼の狭い小屋を細やかに萱や篠の隙間から覗いて、卯平の裾にも這った。

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軟やはらかな春はるの光ひかりは情なさけを含ふくんだ目めを瞬またゝきしながら彼かれの狹せまい小屋こやをこまやかに萱かやや篠しのの隙間すきまから覗のぞいて卯平うへいの裾すそにも偃はつた。

卯平はしばらく目を閉じたままでいたが、またぱっちりと目を開いた。

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卯平うへいは暫しばらく目めを瞑つぶつた儘まゝで居ゐたが復またぱつちりと目めを開あいた。

そばにはおつぎが座っていた。

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側そばにはおつぎが坐すわつて居ゐた。

「おつう」

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「おつう」

と、卯平は低い声で呼んだ。

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と卯平うへいは低ひくい聲こゑで喚よんだ。

「何だい」

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「何なんでえ」

おつぎはまた耳へ口を当てた。

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おつぎは又また耳みゝへ口くちを當あてた。

卯平は右の手を出して蒲団の上へ伸ばして

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卯平うへいは右みぎの手てを出だして蒲團ふとんの上うへへ伸のばして

「熱ぼったいから一枚取ってくれないか」

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「熱あつぼつてえから一枚めえとつてくんねえか」

力ない、すがるような声で言った。

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力ちからない縋すがるやうな聲こゑでいつた。

「本当に暖かくなったんだよなあ。お日様までひどくまぶしくなったようなんだよ」

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「本當ほんたうに暖ぬくとく成なつたんだよなあ日輪おてんとさままで酷ひどく眩まちつぽくなつたやうなんだよ」

おつぎは例の少し甘えるような口ぶりで、一枚の掛け蒲団を取った。

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おつぎは例れいの少すこし甘あまえるやうな口吻くちつきで一枚まいの掛蒲團かけぶとんをとつた。

「この蒲団は板っ端みたいなんだよなあ。これを取ったほうが爺さんは軽くなってよかろうな、ほんに。そう言っても、暖かくなるというのはいいもんだよ。おれは昨日らみたいじゃどうしようと思ったっけ」

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「此この蒲團ふとんは板いたツ端ぱち見みてえなんだよなあ、此これとつた方はうが爺ぢいは輕かるく成なつてよかつぺなほんに、さう云ゆつても暖ぬくとくなるつちやえゝもんだよ、俺おら作日等きのふら見みてえぢやどうすべと思おもつたつきや」

おつぎは掛け蒲団を四つにして、卯平の裾へ置いた。

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おつぎは掛蒲團かけぶとんを四よつにして卯平うへいの裾すそへ置おいた。

「彼岸を過ぎてこんなことというのは、おれが覚えてからだってめったにはないこったから、これから暖かくなるばかりだな。麦も一日ごとに腰が引き立つな」

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「彼岸ひがん過すぎて斯かうだことつちや俺おら覺おべえてからだつで滅多めつたにやねえこつたから此これから暖ぬくとく成なるばかしだな、麥むぎも一日毎いちんちごめらに腰こし引ひつ立たたな」

卯平はやや快さそうに言った。

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卯平うへいは稍やゝ快こゝろよげにいつた。

「おれの家の麦は今のところじゃ村でも悪くないんだぞ。おれはそんだが、先のころは畑を耕すのはいやだったっけな、本当に。おとっつあんには、深く耕せ、深く耕さないじゃ肥料をしたって役には立たないからなんて怒られてなあ」

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「俺おら家ぢの麥むぎは今いまん處ところぢや村落むらでも惡わるかねえんだぞ、俺おらそんだが先せんの頃こら畑はたけ耕うなあな厭やだつけな本當ほんたうに、おとつゝあにや深ふかく耕うなへ、深ふかく耕うなあねえぢや肥料こやししたつて役やくにや立たたねえからなんて怒おこられてなあ」

「うん、畑は深くなくちゃ穫れないものよ、それは。おれは若いころには、この間のように浅く耕すもんだとは思わなかったのだから。今じゃもう、みんな利口になってるから、おれには分からないが」

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「うむ、畑はたきや深ふかくなくつちや收穫とんねえものよそら、俺おらあ壯さかりの頃ころにや此間こねえだのやうに淺あさく耕うなあもんだた思まあねえのがんだから、現在いまぢやはあ、悉皆みんな利口りこうんなつてつから俺おらがにや分わかんねえが」

「深く耕しちゃ、逆さの旋毛を立てるみたいで、やりつけないじゃなんぼ大儀いかよなあ。そんだがおれは今じゃ、お前のほうがおれより深いくらいだなんて、おとっつあんには言われるのよ」

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「深ふかく耕うなつちや逆旋毛さかさつむじ立たてる見みてえで行やりつけねえぢやなんぼ大儀こええかよなあ、そんだが俺おら今いまぢや、汝われの方はうが俺おれより深ふけえつ位くれえだなんておとつゝあにや云ゆはれんのよ」

「大儀いにもよ、それは。そんでもお前はよくやるな。以前は女に三年作らせちゃ畑はできなくなると言ったくらいだ」

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「大儀こええにもよそら、そんでも汝わりや能よくやんな、以前めえかたは女をんなに三年ねん作つくらせちや畑はたけは出來できなくなるつちつた位くれえだ」

「そっちから、おれはいくらも耕さないんだよ、このごろは。そんでもそんなに大儀いとは思わなくなったがな、おれも」

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「そつから俺おら幾いくらも耕うなえねえんだよ此この頃ごらそんでもさうだに大儀こええた思おもはなくなつたがな俺おらも」

おつぎが言うのを卯平はまた柔らかに目をしかめるようにして聞きながら、軽くなった掛け蒲団を足の先で裾のほうへ寄せて、少し身動きをした。

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おつぎがいふのを卯平うへいは又また軟やはらかに目めを蹙しがめるやうにして聞ききながら、輕かるく成なつた掛蒲團かけぶとんを足あしの先さきで裾すその方はうへこかして少すこし身動みうごきをした。

おつぎはその時ちらと出した卯平の手を、初めて気がついたように

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おつぎは其その時ときちらと出だした卯平うへいの手てを始はじめて氣きがついたやうに

「爺さんは手も痛くしてるんだったな。そんじゃさっき、薬を貼ってもらうとこだったっけな」

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「爺ぢいは手ても痛えたくしてんだつけな、そんぢや先刻さつき藥くすり貼はつて貰もらあとこだつけな」

おつぎは卯平の手先を手にして見た。

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おつぎは卯平うへいの手先てさきを手てにして見みた。

「こっちはそれほどはひどくないや、そんでもなあ」

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「こつちはそれ程ほだひどかねえやそんでもなあ」

おつぎは安心したように、そっと手を放した。

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おつぎは安心あんしんしたやうにそつと手てを放はなした。

勘次は忙しげな様子をして帰った。

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勘次かんじは忙いそがしげな容子ようすをして歸かへつた。

彼は蒲団を二、三枚畳んだまま、帯で背負って来た。

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彼かれは蒲團ふとんを二三枚まい疊たゝんだ儘まゝ帶おびで脊負しよつて來きた。

「どうだい、おとっつあん、昨夜はそんでも寒くはなかったっけかい」

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「どうしてえおとつゝあ、昨夜ゆんべはそんでも寒さむかなかつたつけゝえ」

彼は荷物を卯平の裾のほうへ下ろして、胸で結んだ帯を解きながら言った。

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彼かれは荷物にもつを卯平うへいの裾すその方はうへ卸おろして胸むねで結むすんだ帶おびを解ときながらいつた。

「熱ぼったいって、今蒲団を一枚取ったところなんだよ」

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「熱あつぼつてえつて今いま蒲團ふとん一枚めえとつた處ところなんだよ」

おつぎは横合いから言った。

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おつぎは横合よこあひからいつた。

「うん、そうだ。この蒲団は返さなくちゃならないから」

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「うむ、さうだ、此この蒲團ふとんは返けえさなくつちやなんねえから」

勘次は独り言を言って

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勘次かんじは獨語どくごして

「どうした、おとっつあん、薬を貼ってちっとはよくないかい」

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「どうしたおとつゝあ、藥くすり貼はつてちつたよかねえけ」

彼はまた白い晒し木綿を見て言った。

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彼かれは復また白しろい曝木綿さらしもめんを見みていつた。

「うん、そうだ、枕がつけられるようになったからいいことはいいに」

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「うむ、枕まくらおつゝかるやうに成なつたからえゝこたえゝに」

卯平の言うのを聞いて、勘次はいくらか誇りを持ってまた白い木綿を見た。

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卯平うへいのいふのを聞きいて勘次かんじは幾いくらか矜ほこりを以もつて又また白しろい木綿もめんを見みた。

「おとっつあん、食べたい物でもないかい。おれは明日、川向こうへ行って来ようと思うんだ」

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「おとつゝあ、喫たべてえ物ものでもねえけえ、俺おら明日あした川向かはむかうさ行いつて來くべと思おもふんだ」

勘次はまだいくらか心にわだかまりがあるというよりも、こそばゆいところが取れきらないようで、しかも努めて機嫌を取るような様子であった。

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勘次かんじはまだ幾いくらか心こゝろに蟠わだかまりがあるといふよりも、こそつぱい處ところが取とれ切きらないやうで然しかも力つとめて機嫌きげんをとるやうな容子ようすであつた。

「うん」

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「うむ」

と卯平は言って、唾をぐっと飲んだ。

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と卯平うへいはいつて唾つばきをぐつと嚥のんだ。

「格別もう、食べたいという物もないが」

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「格別かくべつはあ、喫たべてえつち物ものもねえが」

彼の目にはまた改めて、柔らかな光が宿った。

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彼かれの目めには又また改あらためて軟やはらかな光ひかりを有もつた。

「そんじゃおとっつあん、水飴でも買って来てやったらよかろうな。与吉に隠しておけば何でもあるまいな」

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「そんぢやおとつゝあ水飴みづあめでも買かつて來きてやつたらよかつぺな、與吉よきげ隱かくして置おけば何なんでも有あんめえな」

おつぎはさらに卯平を顧みて

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おつぎは更さらに卯平うへいを顧かへりみて

「なあ爺さん、そのほうがよかろう」

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「なあ爺ぢゝ、其その方はうがよかつぺ」

と言いかけた。

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といひ掛かけた。

卯平は、そのしかめるような目でかすかにうなずいた。

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卯平うへいは其その蹙しがめるやうな目めで微かすかに點頭うなづいた。

「おとっつあん、どうせ茶漬け茶碗も要るから、茶碗を買って、それへ水飴を入れて縄で縛って来よう。そうするといいや」

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「おとつゝあ、どうせ茶漬茶碗ちやづけぢやわんも要えつから茶碗ちやわん買かつてそれさ水飴みづあめ入せえて繩なはで縛しばつて來こう、さうすつとえゝや」

「そうでも何でもしようよな」

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「さうでも何なんでもすびやな」

「それに、明日行ったらまた薬をもらって来よう。爺さんの手にも貼ってやらなくちゃ仕方がないぞ」

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「それに、明日あした行いつたら又また藥くすり貰もらつて來こう、爺ぢいが手てさも貼はつてやんなくつちや仕しやうねえぞ」

「おれは言われないでも、薬は気がついてたのよ」

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「俺おら云ゆはんねえでも藥くすりは氣きいついてたのよ」

勘次は、おつぎの言うのを迎えて聞いた。

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勘次かんじはおつぎのいふのを迎むかへて聞きいた。

彼の三尺帯には、その時もぎっとくくった塊があった。

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彼かれの三尺帶じやくおびには其その時ときもぎつと括くゝつた塊かたまりがあつた。

その財布のわずかな蓄えは、この数日間にどれほど彼を救ったか知れなかった。

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其その財布さいふの僅わづかな蓄たくはへは此この數日間すじつかんにどれ程ほど彼かれを救すくつたか知しれなかつた。

彼はまだいくらかの日用品を求める余力を持っていた。

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彼かれはまだ幾いくらかの日用品にちようひんを求もとめる餘力よりよくを有いうして居ゐた。

彼は開墾の賃金を手にすることができればという望みが、十分にあった。

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彼かれは開墾かいこんの賃錢ちんせんを手てにすることが出來できればといふ望のぞみが十分ぶんにあつた。

ただ彼は今、その幾部分でも要求することが、自分の火が焼いたその主人の家に対して、とても口にするだけの勇気が起こされなかったのである。

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只たゞ彼かれは目下いま其その幾部分いくぶぶんでも要求えうきうすることが、自分じぶんの火ひが燒やいた其その主人しゆじんの家うちに對たいして迚とても口くちにするだけの勇氣ゆうきが起おこされなかつたのである。

二八

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二八

勘次は昼過ぎになって、また外に出た。

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勘次かんじは午餐過ひるすぎになつて復また外そとに出でた。

もつれた心を持って、彼は少しうなだれつつ歩いた。

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紛糾こぐらかつた心こゝろを持もつて彼かれは少すこし俛首うなだれつつ歩あるいた。

暖かな光は、畑の土を所々さらりと乾かし始めた。

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暖あたゝかな光ひかりは畑はたけの土つちの處々ところ/″\さらりと乾かわかし始はじめた。

ことさらがっかりしたようにしおたれた櫟の枯れ葉も、からからになった。

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殊更ことさらがつかりしたやうにしをたれた櫟くぬぎの枯葉かれはもからからに成なつた。

すべての樹木は勢いづいていた。

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凡すべての樹木じゆもくは勢いきほひづいて居ゐた。

村の所々には、まだ少し舌を出しかけたような白い辛夷が、にわかにぽっと開いて、青い空にほかほかと浮かんで、竹のこずえを抜け出していた。

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村落むらの處々ところ/″\にはまだ少すこし舌したを出だし掛かけたやうな白しろい辛夷こぶしが、俄にはかにぽつと開ひらいて蒼あをい空そらにほか/\と泛うかんで竹たけの梢こずゑを拔ぬけ出だして居ゐた。

ただ蒿雀は冬も春もわきまえないように、暖かい日なたから陰気な竹の林を求めて低い小枝を渡って、下手な鳴き方をして、そうしてなおかつ日なたへ出て土をぴょんぴょんと跳ねた。

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只たゞ蒿雀あをじは冬ふゆも春はるも辨わきまへぬやうに、暖あたゝかい日南ひなたから隱氣いんきな竹たけの林はやしを求もとめて低ひくい小枝こえだを渡わたつて下手へたな鳴なきやうをして、さうして猶且やつぱり日南ひなたへ出でて土つちをぴよん/\と跳はねた。

すべての心は、暖かな光の中に溶けてしまわねばならなかった。

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凡すべての心こゝろは暖あたゝかな光ひかりの中なかに融とけて畢しまはねばならなかつた。

勘次は依然としてうなだれたまま、ついに隣の主人の門をくぐった。

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勘次かんじは依然いぜんとして俛首うなだれた儘まゝ遂つひに隣となりの主人しゆじんの門もんを潜くゞつた。

焼け跡は礎を残して、清潔に掻き払われてあった。

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燒趾やけあとは礎いしずゑを止とゞめて清潔きれいに掻かき拂はらはれてあつた。

中央の大きかった建物を失って、庭は高木に囲まれている。

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中央ちうあうの大おほきかつた建物たてものを失うしなつて庭にはは喬木けうぼくに圍かこまれて居ゐる。

赤茶けて焼けた杉の木を控えて、からりとした庭は、赤土の崖の底に沈んだように見える。

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赭あかく燒やけた杉すぎの木きを控ひかへてからりとした庭にはは、赤土あかつちの斷崖だんがいの底そこに沈しづんだやうに見みえる。

青い空を限って立った高木のこずえが、さらに高く感じられた。

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蒼あをい空そらを限かぎつて立たつた喬木けうぼくの梢こずゑが更さらに高たかく感かんぜられた。

勘次は恐ろしい異常な感じに圧された。

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勘次かんじは怕おそろしい異常いじやうな感かんじに壓あつせられた。

隣の主人の家族は、長屋門の一部に畳を敷いて仮の住まいを形づくっていた。

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隣となりの主人しゆじんの家族かぞくは長屋門ながやもんの一部ぶに疊たゝみを敷しいて假かりの住居すまゐを形かたちづくつて居ゐた。

主人夫婦は、勘次の目からはさすがに災難の後の乱れた様子が少しも見出されなかった。

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主人夫婦しゆじんふうふは勘次かんじの目めからは有繋さすがに災厄さいやくの後あとの亂みだれた容子ようすが少すこしも發見はつけんされなかつた。

主人夫婦の曇らない顔が、ひたすら恐怖にとらわれた勘次の首をもたげさせた。

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主人夫婦しゆじんふうふの曇くもらぬ顏かほが只管ひたすら恐怖きようふに囚とらへられた勘次かんじの首くびを擡もたげしめた。

ことに内儀さんの迎えて聞く態度が、彼が言いたかった幾部分をようやくに打ち明けさせた。

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殊ことに内儀かみさんの迎むかへて聞きく態度たいどが、彼かれのいひたかつた幾部分いくぶぶんを漸やうやくに打うち明あけしめた。

「お内儀さん、これは運の悪い者は仕方がありませんね」

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「お内儀かみさん、こら運うんの惡わりい者もな仕しやうありあんせんね」

彼は憐れに声を投げかけた。

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彼かれは憐あはれに聲こゑを投なげ掛かけた。

彼の災難の後に、しみじみとこういうことを聞いてくれる者は、内儀さんのほかにはまだなかったのである。

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彼かれの災厄さいやくの後のちにしみ/″\と斯かういふことを聞きいてくれる者ものは内儀かみさんの外ほかにはまだなかつたのである。

「そんだがこれ、お内儀さんらの家からなんぞ見た日には爪の垢だから、わしらなんざ辛いも悲しいもない話なんだが」

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「そんだが此これお内儀かみさん等らあ家ぢからなんぞ見みた日ひにや爪つめの垢あかだからわし等らなんざ辛つれえも悲かなしいもねえ噺はなしなんだが」

彼は自分の不運を訴えるのに、自分一身のことよりほかは何物もその心に行き来してはいなかった。

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彼かれは自分じぶんの不運ふうんを訴うつたへるのに、自分じぶん一身しんのことより外ほかは何物なにものも其その心こゝろに往來わうらいしては居ゐなかつた。

彼はふと、自分の火が焼いたことを思った時、ひどく自分のことばかりを言ってしまったのが、済まないような心持ちがしてならなかった。

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彼かれはふと自分じぶんの火ひが燒やいたことを思おもつた時とき、酷ひどく自分じぶんのことのみをいつて畢しまつたのが濟すまないやうな心持こゝろもちがしてならなかつた。

「まあ惜しいと言えば紙一枚でも何だが、これ、家はすぐにも建てれば建つんだが、樹が惜しいことをしたって言ってるのさ。それだが、これもそんなことを言ったって仕方がないがね」

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「まあ惜をしいといへば紙かみ一枚まいでも何なんだが、これ、家うちは直すぐにも建たてれば建たつんだが、樹きが惜をしいことをしたつて云ゆつてるのさ、それだが此これもそんなことを云ゆつたつて仕方しかたがないがね」

内儀さんは、そそり立ってはいるが到底枯れ死ぬべき運命を持っている高木の数本を、端近に見上げて言った。

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内儀かみさんは聳然すつくりと立たつては居ゐるが到底たうてい枯死こしすべき運命うんめいを持もつて居ゐる喬木けうぼくの數本すうほんを端近はしぢかに見上みあげていつた。

遠く落ちかけた日が、はっきりとそのこずえに光った。

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遠とほく落おち掛かけた日ひが劃然かつきりと其その梢こずゑに光ひかつた。

勘次の顔は青くなって、ぐったりと頭を垂れた。

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勘次かんじの顏かほは蒼あをくなつてぐつたりと頭あたまを垂たれた。

彼はしばらく沈黙を保った。

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彼かれは暫しばらく沈默ちんもくを保たもつた。

「どうしたね。私も気のつかないことをしていたが、お前も丸焼けで仕方があるまいが、少しは銭でも持って行くかね」

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「どうしたね、私わたしも氣きのつかないことをして居ゐたが、お前まへも丸燒まるやけで仕しやうあるまいが少すこしは錢ぜにでも持もつて行いくかね」

内儀さんは、勘次の心を推し量ったように言った。

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内儀かみさんは勘次かんじの心こゝろを推察すゐさつしたやうにいつた。

「へえ」

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「へえ」

勘次の首はさらにうなだれた。

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勘次かんじの首くびは更さらに俛うなだれた。

彼の目は潤んだ。

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彼かれの目めは潤うるんだ。

「わしももう、そうならなんぼ助かるかも知れませんが、お内儀さんの所へそう言って来るわけにも行かないで」

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「わしもはあ、そんならなんぼ助たすかるかも知しれあんせんが、お内儀かみさん處とこささう云ゆつて來くる譯わけにも行えがねえで」

と、勘次は乱れた髪へ手を当てて、媚びるような様子をして言った。

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と勘次かんじは亂みだれた頭髮かみへ手てを當あてゝ媚こびるやうな容子ようすをしていつた。

「それだが、お前にやるくらいならどうにかなるから、心配しなくてもいいよ」

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「それだがお前まへにやる位くらゐならどうにか成なるから心配しんぱいしなくつても好いいよ」

「わしもこれ、罰が当たったんでしょう。そう思うよりほかありませんから」

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「わしも此これ、罰ばち當あたつたんでがせう、さう思おもふより外ほか有ありあんせんから」

勘次はしばらく間を置いて

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勘次かんじは暫しばらく間あひだを措おいて

「わしも女房に因果を見せて、罪を作ったのが悪いんでしょう」

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「わしも嚊かゝあこと因果いんぐわ見みせて罪つみ作つくつたの惡わりいんでがせう」

彼の声は沈んだ。

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彼かれの聲こゑは沈しづんだ。

「お内儀さん、わしはどんな形にか家も建てなくちゃならないから、その時は家族の始末もつけようと思ってるんですが、お内儀さん、またわしのことを面倒見ておくんなさい。わしのところの野郎もそのうちもう大きくなって来るから、学校もあとちっとにして、百姓をみっしり仕込もうと思ってるんでございますがね」

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「お内儀かみさん、わしどんな形なりにか家うちも建たてなくつちやなんねえから、そん時ときや家族うちの極きまりもつけべと思おもつてんですが、お内儀かみさん又またわしこと面倒めんだう見みておくんなせえ、わし等ら野郎やらうも其その内うちはあ大えかく成なつて來くつから學校がくかうもあとちつとにして百姓ひやくしやうみつしら仕込しこむべと思おもつてんでがすがね」

「そうかえ」

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「さうかえ」

内儀さんは慰めるように言った。

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内儀かみさんは慰なぐさめるやうにいつた。

「お内儀さん、親不孝だなんてのは、親が警察へでも願って出なけりゃ、巡査ばかりじゃどうすることもできないもんでございましょうかね」

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「お内儀かみさん親不孝おやふかうだなんちな、親おやが警察けいさつへでも願ねがつて出でなけりや巡査じゆんさばかしぢやどうすることも出來できねえもんでござんせうかね」

勘次はさっきからの話の内にも、何だか後ろから物に襲われるような様子が止まなかったが、ついにこう言った。

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勘次かんじは先刻さつきからの噺はなしの内うちにも何なんだか後うしろから物ものに襲おそはれるやうな容子ようすが止やまなかつたが遂つひに斯かういつた。

「そうさね。巡査だって、むやみにどうかするということもないんだろうと思うようだがね」

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「さうさね、巡査じゆんさだつて無闇むやみにどうかするといふこともないんだらうと思おもふやうだがね」

内儀さんは意外な面持ちで言った。

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内儀かみさんは意外いぐわいな面持おももちでいつた。

「これからもう、わしも爺さんのことを面倒見ようと思うんでございますがね。今からでもお内儀さん、間に合わないことはありますまいね」

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「此これからはあ、わしも爺樣ぢいさまこと面倒めんだう見みべと思おもふんでがすがね、今いまツからでもお内儀かみさん間合まにやあねえこたありあんすめえね」

「そうだよ。老人なんていうものは少しの加減なんだから、まあ心配させないようにしたほうがいいよ。そう言っちゃ何だが、後いくらも生きるんじゃなしねえ」

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「さうだよ、老人としよりなんていふものは少すこしの加減かげんなんだから、まあ心配しんぱいさせないやうにした方はうが好いいよ、さういつちや何なんだが後あと幾いくらも生いきるんぢやなしねえ」

「へえ、そうでございますよ。昨日らから、ちっと柔らかい言葉を掛けると嬉しがってるんですから。それからわしは、野郎にもらって来た火傷の薬も貼ってやったんでさ。薬が足りなくなっちまったから、医者さまへ行って来ようと思ったっけが、今日は午後でいないだろうと思うから明日にしようと思って止めたのさ。明日行ったら水飴でも買って来てやれなんて、おつうも言うもんでございますからね」

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「へえさうでがすよ、昨日等きのふらツからちつと柔やつけえ言辭ことば掛かけつとうるしがつて居ゐんですから、それからわし野郎やらうげ貰もらつて來きた火傷やけどの藥くすりも貼はつてやつたんでさ、藥くすり足たんなく成なつちやつたから醫者樣いしやさまさ行いつて來くべと思おもつたつけが、今日けふは午後ひるすぎで居ゐめえと思おもふから明日あしたにすべと思おもつて止やめたのせ、明日あした行いつたら水飴みづあめでも買かつて來きてやれなんておつうも云いふもんでがすからね」

「火傷したなんて聞いたっけが、それでも家へ連れて来てかね」

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「火傷やけどしたなんて聞きいたつけがそれでも家うちへ連つれて來きてかね」

「へえ」

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「へえ」

勘次は、その明け方のことをどうしてか内儀さんがまだ知らないらしいのでほっと息をついたが、また自分から恥じて、簡単に曖昧にこう言った。

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勘次かんじは其その佛曉あけがたのことをどうしてか内儀かみさんがまだ知しらぬらしいのでほつと息いきをついたが又また自分じぶんから恥はぢて、簡單かんたんに瞹昧あいまいに斯かういつた。

「お内儀さん、こうちっとでもよくない銭が入っちゃ、末始終はどうしてもいいことはありますまいね」

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「お内儀かみさん、こうちつとでもよくねえ錢ぜにへえつちや末始終すゑしじうはどうしてもえゝこたありあんすめえね」

勘次はさらにまた、ひどく心配そうな様子をして突然に聞いた。

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勘次かんじは更さらにまた酷ひどく懸念けねんらしい容子ようすをして突然とつぜんに聞きいた。

「そうさねえ」

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「さうさねえ」

内儀さんは、勘次の心持ちがはっきりとは分からないので、気の乗らないように言った。

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内儀かみさんは勘次かんじの心持こゝろもちが明瞭はつきりとは分わからないので氣きの乘のらぬやうにいつた。

「そんだがお内儀さん、そういう銭は自分のために役に立てさえしなけりゃ、どうしても違いましょうね」

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「そんだがお内儀かみさんさうえ錢ぜには自分じぶんのげ役やくに立たてせえしなけりやどうしても違ちげえあんすべえね」

勘次は内儀さんに分かっても分からなくても、そんなことを考える余裕がなかった。

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勘次かんじは内儀かみさんに分わかつても分わからなくても、そんなことを考かんがへる餘裕よゆうがなかつた。

彼はただ自分の心配だけを、底から蓋から打ち傾けてしまわねば堪えられなかったのである。

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彼かれは只たゞ自分じぶんの心配しんぱいだけを底そこから蓋ふたから打ぶち傾まけて畢しまはねば堪たへられなかつたのである。

「そうだが、それもどういう筋の銭だか分からないが、そりゃ使っちゃいけないんだろうさね」

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「さうだが、それもどういふ筋すぢの錢ぜにだか分わからないがそりや使つかつちやいかないんだらうさね」

「そんじゃお内儀さん、他人の銭をなくしたのなんぞ見つけても知らない様子なんぞして、後でやるのは盗ったみたいで変な時は、何かで落とした分だけの物でもやれば、それでも違いましょうね」

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「そんぢやお内儀かみさん他人ひとの錢ぜになくしたのなんぞ發見めつけても知しらねえ容子ふりなんぞして、後あとで遣やんな盜とつた見みてえで變をかしな時ときや、何なんでかで落おつことした丈だけの物ものでもやればそれでも違ちげえあんすべね」

勘次は少し、自分の言うことの中身を打ち明けるように言った。

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勘次かんじは少すこし自分じぶんのいふことの内容ないようを打うち明あけるやうにいつた。

「黙っていればそれっきりなんだが」

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「默だまつて居ゐればそれつ切きりなんだが」

彼は独り喉の底で言った。

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彼かれは獨ひとり喉のどの底そこでいつた。

「そりゃそんなことしないで、見つけた物なら、そのまま返すのが本当だよ」

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「そりやそんなことしないで發見みつけた物ものなら其儘そつくり返かへすのが本當ほんたうだよ」

内儀さんは声は低かったが、きっぱりと言った。

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内儀かみさんは聲こゑは低ひくかつたがきつぱりいつた。

勘次の惑った心の底には、それがびりっと強く響いた。

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勘次かんじの惑まどうた心こゝろの底そこにはそれがびりゝと強つよく響ひゞいた。

「そんじゃお内儀さん、それを返して、またそのほかにも何とかしたら、冥利の悪いようなこともありますまいな」

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「そんぢやお内儀かみさんそれ返けえして又また其その外ほかにも何なんとかしたら冥利みやうりの惡わりいやうなことも有ありあんすめえな」

彼は情けなげな目で内儀さんをちらりと見て言った。

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彼かれは情なさけなげな目めで内儀かみさんをちらりと見みていつた。

「そんなことはしなくたって、何もよさそうなもんだね」

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「そんなこた仕しなくつたつて何なにもよかりさうなもんだね」

内儀さんは、勘次のあまりに心配そうな様子にとっくから気づいたことがあった。

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内儀かみさんは勘次かんじの餘あまりに懸念けねんらしい容子ようすに疾とうから心こゝろづいたことがあつた。

内儀さんは、しばらく聞かなかった彼の盗み癖に思い至った。

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内儀かみさんは暫しばらく聞きかなかつた彼かれの盜癖たうへきに思おもひ至いたつた。

しかし彼が自分からひどく悔いつつあるらしいのを心に確かめて、強いては追及しようという思いも起こし得なかった。

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然しかし彼かれが自分じぶんから甚はなはだしく悔くいつゝあるらしいのを心こゝろに確たしかめて強しひては追求つゐきうしようといふ念慮ねんりよも起おこし得えなかつた。

勘次はただ不憫に見えた。

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勘次かんじは只たゞ不便ふびんに見みえた。

内儀さんはふと思い出して、少しばかりの銀貨を勘次のそばへ並べて

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内儀かみさんはふと思おもひ出だして少すこしばかりの銀貨ぎんくわを勘次かんじの側そばへ竝ならべて

「そりゃそうと、お前も家族の始末をつけるつもりだっていうんだが、まあどうするつもりなんだね」

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「そりやさうと、お前まへも家族うちの極きまりをつける積つもりだつていふんだが、まあどうする積つもりなんだね」

と静かに聞いた。

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と靜しづかに聞きいた。

「そうでございますね」

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「さうでござんすね」

勘次はぐったりとうなだれて、言葉の尻が聞き取れないほどであった。

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勘次かんじはぐつたりと俛首うなだれて言辭ことばの尻しりが聞ききとれぬ程ほどであつた。

深い憂いが、顔の皺に強く刻んだ。

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深ふかい憂うれひが顏面かほの皺しわに強つよく刻きざんだ。

「わしもこれ……」

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「わしも此これ……」

と彼はかすかに言ったのみで、沈黙を続けた。

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と彼かれは微かすかにいつたのみで沈默ちんもくを續つゞけた。

彼は内儀さんの前に、どうしても述べなければならないことに、その心が惑乱した。

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彼かれは内儀かみさんの前まへにどうしても述のべなければならないことに其その心こゝろが惑亂わくらんした。

彼はぼうっとして、目がくらもうとした。

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彼かれはぽうつとして目めが昏くらまうとした。

遠く呼ぶようで、しかも近い声のために彼が我に返った時

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遠とほく喚よぶやうで然しかも近ちかい聲こゑの爲ために彼かれが我われに返かへつた時とき

「それじゃお前、まあこの銭をしまったらどうだね」

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「それぢやお前まへ、まあ此この錢ぜにを藏しまつたらどうだね」

と、内儀さんが促したのであった。

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と内儀かみさんが促うながしたのであつた。

心の底から困ったような彼に向かって、内儀さんはもう追及する力を持たなかった。

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衷心ちうしんから困こまつたやうな彼かれに向むかつて内儀かみさんはもう追求つゐきうする力ちからを有もたなかつた。

「誠にどうも、お内儀さん」

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「誠まことにどうもお内儀かみさん」

彼は財布を帯から解いて出した時、ひどく減ってしまったように感じて、その財布を外からちょっと見て首を傾げた。

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彼かれは財布さいふを帶おびから解といて出だした時とき酷ひどく減へつて畢しまつたやうに感かんじて、其その財布さいふを外そとから一寸ちよつと見みて首くびを傾かたぶけた。

彼はまた財布の底の銭をつかみ出してみた。

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彼かれは又また財布さいふの底そこの錢ぜにを攫つかみ出だして見みた。

焼け跡の灰から出て青銅のように変わった銅貨は、ぽつぽつと焼けた皮を残して、鮮やかな地肌が剥けていた。

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燒趾やけあとの灰はひから出でて青銅せいどうのやうに變かはつた銅貨どうくわはぽつ/\と燒やけた皮かはを殘のこして鮮あざやかな地質ぢしつが剥むけて居ゐた。

彼はそれを目に近づけて、しばらくじっと見入った。

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彼かれはそれを目めに近ちかづけて暫しばらく凝然ぢつと見入みいつた。

彼は気づいた時、にわかに恐れたように内儀さんを顧みて、じゃらりとその銭を財布の底へ落とした。

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彼かれは心こゝろづいた時とき俄にはかに怖おそれたやうに内儀かみさんを顧ふりかへつてじやらりと其その錢ぜにを財布さいふの底そこへ落おとした。

(完)

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(完)