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現代語訳

長塚節ながつかたかし)・1987

AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-08-03

「土」

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「土」

について

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に就て

漱石

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漱石

「土」

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「土」

が「東京朝日」

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が「東京朝日」

に連載されたのは一昨年のことである。

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に連載されたのは一昨年の事である。

そうして、その責任者は私であった。

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さうして其責任者は余であつた。

ところが不幸にも私は「土」

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所が不幸にも余は「土」

の完結を見ないうちに病気にかかって、新聞を手にする自由を失ったきり、また「土」

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の完結を見ないうちに病氣に罹つて、新聞を手にする自由を失つたぎり、又「土」

の作者を思い出す機会を持たなかった。

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の作者を思ひ出す機會を有たなかつた。

当初五、六十回の予定であった「土」

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當初五六十囘の豫定であつた「土」

は、いつのまにか意外な長編に育っていた。

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は、同時に意外の長篇として發達してゐた。

途中で話の糸口を忘れた私は、もう一度それを取り上げて、でたらめな区切りから改めて読み出す勇気を奮い起こしにくかったので、つい、それきり放り出したようなものの、腹の中ではひそかに作者の根気と精力に驚いていた。

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途中で話の緒口を忘れた余は、再びそれを取り上げて、矢鱈な區切から改めて讀み出す勇氣を鼓舞しにくかつたので、つい夫ぎりに打ちつたやうなものゝ、腹のなかでは私かに作者の根氣と精力に驚ろいてゐた。

「土」

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「土」

はたしか百五、六十回に至ってようやく結末に達したのである。

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は何でも百五六十囘に至つて漸く結末に達したのである。

冷淡な世間と多忙な私は、その後長らく「土」

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冷淡な世間と多忙な余は其後久しく「土」

のことを忘れていた。

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の事を忘れてゐた。

ところが、ある時、この間亡くなった池辺君に会って、偶然話が小説に及んだ折、池辺君は、なぜ「土」

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所がある時此間亡くなつた池邊君に會つて偶然話頭が小説に及んだ折、池邊君は何故「土」

は出版にならないのだろうと言って、だいぶ長塚君の作をほめていた。

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は出版にならないのだらうと云つて、大分長塚君の作を褒めてゐた。

池辺君はその当時「朝日」

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池邊君は其當時「朝日」

の主筆だったので、「土」

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の主筆だつたので「土」

は初めから終わりまで目を通したのである。

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は始から仕舞迄眼を通したのである。

そのうえ池辺君は、自分で文学を知らないと言いながら、その実、誠実な批評眼を持って「土」

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其上池邊君は自分で文學を知らないと云ひながら、其實摯實な批評眼をもつて「土」

を根気よく読み通したのである。

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を根氣よく讀み通したのである。

私は、出版界の不景気のために「土」

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余は出版界の不景氣のために「土」

の単行本が出る時機がまだ来ないのだろうと答えておいた。

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の單行本が出る時機がまだ來ないのだらうと答へて置いた。

その時、心の中では、ずいぶん「土」

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其時心のうちでは、隨分「土」

に比べるとつまらないものも世に出される今日だから、できるならいつか書物にまとめておいたら作者のためによかろうと思ったが、不親切な私は、その日が過ぎるとまた「土」

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に比べると詰らないものも公けにされる今日だから、出來るなら何時か書物に纏めて置いたら作者の爲に好からうと思つたが、不親切な余は其日が過ぎると、又「土」

のことをまるで忘れてしまった。

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の事を丸で忘れて仕舞つた。

すると、この春になって長塚君が突然訪ねて来て、ようやく本屋が「土」

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すると此春になつて長塚君が突然尋ねて來て、漸く本屋が「土」

を引き受けることになったから、序文を書いてくれまいかという依頼である。

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を引受ける事になつたから、序を書いて呉れまいかといふ依頼である。

私はその時、自分の小説を毎日一回ずつ書いていたので、「土」

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余は其時自分の小説を毎日一囘づゝ書いてゐたので、「土」

を読み返す暇がなかった。

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を讀み返す暇がなかつた。

やむをえず、自分の仕事が済むまで待ってくれと答えた。

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已を得ず自分の仕事が濟む迄待つてくれと答へた。

すると長塚君は、池辺君の序文もほしいから、ついでに紹介してもらいたいと言うので、私はすぐ承知した。

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すると長塚君は池邊君の序も欲しいから序でに紹介して貰ひたいと云ふので、余はすぐ承知した。

私の名刺を持って「土」

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余の名刺を持つて「土」

の作者が池辺君の玄関に立ったのは、池辺君のお母さんが亡くなってちょうど三十五日にあたる日とかで、長塚君はただ立ったまま用件だけを頼んで帰ったそうであるが、それから三日して肝心の池辺君も突然亡くなってしまったから、同君の序文はとうとう手に入らなかったのである。

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の作者が池邊君の玄關に立つたのは、池邊君の母堂が死んで丁度三十五日に相當する日とかで、長塚君はたゞ立ちながら用事丈を頼んで歸つたさうであるが、それから三日して肝心の池邊君も突然亡くなつて仕舞つたから、同君の序はとう/\手に入らなかつたのである。

私は「彼岸過迄」

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余は「彼岸過迄」

を片づけるやいなや、前の約束を守って「土」

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を片付けるや否や前約を踏んで「土」

の校正刷りを読み出した。

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の校正刷を讀み出した。

思ったよりも長編なので、前後半日と丸一日をつぶしてようやく読み終えて考えてみると、なかなか骨の折れた作品である。

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思つたよりも長篇なので、前後半日と中一日を丸潰しにして漸く業を卒へて考へて見ると、中々骨の折れた作物である。

私はもともと安っぽい人間であるから、たいていの人のものを見るとすぐ感心したがる癖があるが、この「土」

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余は元來が安價な人間であるから、大抵の人のものを見ると、すぐ感心したがる癖があるが、此「土」

においてもまったくそうであった。

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に於ても全くさうであつた。

まず何よりも先に、これはとうてい私に書けるものではないと思った。

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先づ何よりも先に、是は到底余に書けるものでないと思つた。

次に、今の文壇で長塚君を除いたらだれが書けるだろうと、あれこれ捜してみた。

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次に今の文壇で長塚君を除いたら誰が書けるだらうと物色して見た。

すると、やはりだれにも書けそうにないという結論に達した。

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すると矢張誰にも書けさうにないといふ結論に達した。

もっとも、だれにも書けないと言うのは、文章を操る技量の点や、人間を生き生きと動かす天賦の力を指すのではない。

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尤も誰にも書けないと云ふのは、文を遣る技倆の點や、人間を活躍させる天賦の力を指すのではない。

もし、それだけの意味でだれも長塚君に及ばないと言うなら、一方ではほかの作家を侮辱した言葉にもなり、また一方では長塚君を担ぎすぎる策略とも取れて、どちらにしても作者の迷惑になるばかりである。

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もし夫れ丈の意味で誰も長塚君に及ばないといふなら、一方では他の作家を侮辱した言葉にもなり、又一方では長塚君を擔ぎ過ぎる策略とも取れて、何方にしても作者の迷惑になる計である。

私がだれも及ばないと言うのは、作品の中に書いてある事件なり自然なりが、まだ長塚君以外の人の研究に上っていないという意味なのである。

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余の誰も及ばないといふのは、作物中に書いてある事件なり天然なりが、まだ長塚君以外の人の研究に上つてゐないといふ意味なのである。

「土」

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「土」

の中に出て来る人物は、もっとも貧しい百姓である。

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の中に出て來る人物は、最も貧しい百姓である。

教育もなければ品格もなく、ただ土の上に生み付けられて、土とともに育ったうじ虫同様に哀れな百姓の生活である。

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教育もなければ品格もなければ、たゞ土の上に生み付けられて、土と共に生長した蛆同樣に憐れな百姓の生活である。

先祖以来、茨城の結城郡に住まいを移した地方の豪族として、多数の小作人を使う長塚君は、彼らの、けものに近い、恐ろしいほど疲れきった生活のありさまを、一から十まで誠実にこの「土」

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先祖以來茨城の結城郡に居を移した地方の豪族として、多數の小作人を使用する長塚君は、彼等の獸類に近き、恐るべく困憊を極めた生活状態を、一から十迄誠實に此「土」

の中に収め尽くしたのである。

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の中に收め盡したのである。

彼らの、下品で、浅はかで、迷信が強く、無邪気で、ずるく、無欲で、強欲で、ほとんど私たち(今の文壇の作家をことごとく含む)の想像にさえ上りにくいところを、ありありと目に映るように描いたのが「土」

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彼等の下卑で、淺薄で、迷信が強くて、無邪氣で、狡猾で、無欲で、強欲で、殆んど余等(今の文壇の作家を悉く含む)の想像にさへ上りがたい所を、あり/\と眼に映るやうに描寫したのが「土」

である。

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である。

そうして「土」

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さうして「土」

は、長塚君以外にだれも手をつけられない、苦しい百姓生活の、もっともけものに近い部分を、細かにまっすぐ書いたものであるから、だれも及ばないと言うのである。

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は長塚君以外に何人も手を著けられ得ない、苦しい百姓生活の、最も獸類に接近した部分を、精細に直叙したものであるから、誰も及ばないと云ふのである。

人の営みを離れた自然についても、同じ批評をどんな読者も容易にうなずかなければ済まないほど、作者は鬼怒川沿岸の景色や、空や、春や、秋や、雪や風を綿密に研究している。

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人事を離れた天然に就いても、前同樣の批評を如何な讀者も容易に肯はなければ濟まぬ程、作者は鬼怒川沿岸の景色や、空や、春や、秋や、雪や風を綿密に研究してゐる。

畑のもの、あぜに立つはんの木、蛙の声、鳥の音、かりにも彼の郷土に存在する自然なら、ほんの一点一画の細かさに至るまで、ことごとくその地方の特色を備えて描写の筆に上っている。

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畠のもの、畔に立つ榛の木、蛙の聲、鳥の音、苟くも彼の郷土に存在する自然なら、一點一畫の微に至る迄悉く其地方の特色を具へて叙述の筆に上つてゐる。

だから、どこにどう出て来ても必ず独特である。

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だから何處に何う出て來ても必ず獨特ユニークである。

その独特な点を、ふつうの作家の手になった自然描写の平凡さと比べて、私はだれも及ばないと言うのである。

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獨特ユニークな點を、普通の作家の手に成つた自然の描寫の平凡なのに比べて、余は誰も及ばないといふのである。

私は彼の独特さに敬服しながら、それがあまりに細かすぎて、話の筋をしばしば殺してしまう失敗を嘆いたくらい、彼は精緻な自然の観察者である。

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余は彼の獨特ユニークなのに敬服しながら、そのあまりに精細過ぎて、話の筋を往々にして殺して仕舞ふ失敗を歎じた位、彼は精緻な自然の觀察者である。

作品としての「土」

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作としての「土」

は、むしろ苦しい読みものである。

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は、寧ろ苦しい讀みものである。

けっして、おもしろいから読めとは言いにくい。

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決して面白いから讀めとは云ひ惡い。

第一に、作中の人物の使う言葉が、私たちにはあまり縁の遠い方言からできあがっている。

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第一に作中の人物の使ふ言葉が余等には餘り縁の遠い方言から成り立つてゐる。

第二に、構えが大きいわりに、年代が前後数年にわたるわりに、周りへ平たく広がりたがる話が、筋をくっきりと描いて深まりながら前へ進んで行かない。

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第二に結構が大きい割に、年代が前後數年にわたる割に、周圍に平たく發達したがる話が、筋をくつきりと描いて深くなりつゝ前へ進んで行かない。

だから全体として、読者に加速度のつく興味を与えない。

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だから全體として讀者に加速度アクセレレーシヨンの興味を與へない。

だから、事件が入り組み絡み合ってもつれながら読者をぐいぐい引き込んで行くというよりも、その地方の年中行事を怠りなく丹念に淡々と述べて行くうちに、作者のこしらえた人物が途切れ途切れに動き出すと言ったほうが適当になってくる。

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だから事件が錯綜纏綿して縺れながら讀者をぐい/\引込んで行くよりも、其地方の年中行事を怠りなく丹念に平叙して行くうちに、作者の拵らへた人物が斷續的に活躍すると云つた方が適當になつて來る。

そこに、いささか人を引きつける力を失う恐れが潜んでいるという意味でも読みづらい。

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其所に聊か人を魅する牽引力を失ふ恐が潛んでゐるといふ意味でも讀みづらい。

しかし、これらは単に表面的な意味で読みづらいのであって、私のいわゆる読みづらいという本当の意味は、作中の人物の心なり行いなりが、ただ圧迫と不安と苦痛を読者に与えるだけで、少しも、神の作ってくれた幸福な人間であるという刺激と慰めを与えてくれないからである。

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然し是等は單に皮相の意味に於て讀みづらいので、余の所謂讀みづらいといふ本意は、篇中の人物の心なり行なりが、たゞ壓迫と不安と苦痛を讀者に與へる丈で、毫も神の作つてくれた幸福な人間であるといふ刺戟と安慰を與へ得ないからである。

悲劇は恐ろしいに違いない。

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悲劇は恐しいに違ない。

けれども、ふつうの悲劇のうちには悲しい以外に何かの償いがあるので、読者は涙という犠牲を喜ぶのである。

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けれども普通の悲劇のうちには悲しい以外に何かの償ひがあるので、讀者は涙の犧牲を喜こぶのである。

が、「土」

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が、「土」

に至っては、涙さえ出せない苦しさである。

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に至つては涙さへ出されない苦しさである。

雨の降らない代わりに一生照りもしない天気と同じ苦痛である。

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雨の降らない代りに生涯照りつこない天氣と同じ苦痛である。

ただ土の下へ心が沈むだけで、人情から言っても道義心から言っても、ほとんどこの圧迫の埋め合わせとして何一つ与えられていない。

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たゞ土のしたへ心が沈む丈で、人情から云つても道義心から云つても、殆んど此壓迫の賠償として何物も與へられてゐない。

ただ土を掘り下げて暗い中へ落ちて行くだけである。

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たゞ土を掘り下げて暗い中へ落ちて行く丈である。

「土」

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「土」

を読む者は、きっと自分も泥の中を引きずられるような気がするだろう。

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を讀むものは、屹度自分も泥の中を引き摺られるやうな氣がするだらう。

私もそういう感じがした。

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余もさう云ふ感じがした。

ある者は、なぜ長塚君はこんな読みづらいものを書いたのだと疑うかもしれない。

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或者は何故長塚君はこんな讀みづらいものを書いたのだと疑がふかも知れない。

そんな人に対して私はただ一言、こういう生活をしている人間が、我々と同時代に、しかも帝都をそう遠く離れていない田舎に住んでいるという悲惨な事実を、ぎゅっと一度は胸の底に抱きしめてみたら、あなたがたのこれから先の人生観の上に、またあなたがたの日常の行動の上に、何かの参考として役に立ちはしないかと聞きたい。

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そんな人に對して余はたゞ一言、斯樣な生活をして居る人間が、我々と同時代に、しかも帝都を去る程遠からぬ田舍に住んで居るといふ悲慘な事實を、ひしと一度は胸の底に抱き締めて見たら、公等の是から先の人生觀の上に、又公等の日常の行動の上に、何かの參考として利益を與へはしまいかと聞きたい。

私はとくに、歓楽に憧れる若い男や若い女が、読み苦しいのを我慢して、この「土」

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余はとくに歡樂に憧憬する若い男や若い女が、讀み苦しいのを我慢して、此「土」

を読む勇気を奮い起こすことを希望するのである。

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を讀む勇氣を鼓舞する事を希望するのである。

私の娘が年頃になって、音楽会がどうの、帝国座がどうのと言い立てる時分になったら、私はぜひこの「土」

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余の娘が年頃になつて、音樂會がどうだの、帝國座がどうだのと云ひ募る時分になつたら、余は是非此「土」

を読ませたいと思っている。

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を讀ましたいと思つて居る。

娘はきっといやだと言うに違いない。

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娘は屹度厭だといふに違ない。

もっと興味を感じる恋愛小説と取り替えてくれと言うに違いない。

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より多くの興味を感ずる戀愛小説と取り換へて呉れといふに違ない。

けれども私はその時、娘に向かって、おもしろいから読めと言うのではない。

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けれども余は其時娘に向つて、面白いから讀めといふのではない。

苦しいから読めと言うのだと告げたいと思っている。

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苦しいから讀めといふのだと告げたいと思つて居る。

参考のためだから、世間を知るためだから、知って自分の人格の上に暗い恐ろしい影を映すためだから、我慢して読めと忠告したいと思っている。

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參考の爲だから、世間を知る爲だから、知つて己れの人格の上に暗い恐ろしい影を反射させる爲だから我慢して讀めと忠告したいと思つて居る。

何も考えずに暖かく育った若い女(男でも同じである)の起こす悟りを求める心や宗教心は、みなこの暗い影の奥から差してくるのだと、私は固く信じているからである。

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何も考へずに暖かく生長した若い女(男でも同じである)の起す菩提心や宗教心は、皆此暗い影の奧からして來るのだと余は固く信じて居るからである。

長塚君の書き方は、どこまでも落ち着いている。

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長塚君の書き方は何處迄も沈着である。

その人物はみなありのままである。

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其人物は皆有の儘である。

話の筋はまったく自然である。

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話の筋は全く自然である。

私が「土」

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余が「土」

を「朝日」

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を「朝日」

に載せ始めた時、北のほうのSという人が、わざわざ手紙を私のもとに寄せて、長塚君が旅行して彼と会った折の議論を報せてきたことがある。

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に載せ始めた時、北の方のSといふ人がわざ/″\書を余のもとに寄せて、長塚君が旅行して彼と面會した折の議論を報じた事がある。

長塚君は、私が「朝日」

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長塚君は余の「朝日」

に書いた「満韓ところどころ」

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に書いた「滿韓ところ/″\」

というものをSの所で一回読んで、漱石という男は人をばかにしていると言って大いに憤慨したそうである。

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といふものをSの所で一囘讀んで、漱石といふ男は人を馬鹿にして居るといつて大いに憤慨したさうである。

漱石に限らず、そもそも「朝日」

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漱石に限らず一體「朝日」

新聞の記者の書きぶりはみな人をばかにしていると言ってののしったそうである。

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新聞の記者の書き振りは皆人を馬鹿にして居ると云つて罵つたさうである。

なるほど、まじめで円熟した、ほとんど厳粛という言葉で形容してしかるべき「土」

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成程眞面目に老成した、殆んど嚴肅といふ文字を以て形容して然るべき「土」

を書いた長塚君としては、もっともなことである。

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を書いた、長塚君としては尤もの事である。

「満韓ところどころ」

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「滿韓所々ところ/″\

などが君の気に障ったのは、それもそのはずだと思う。

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抔が君の氣色を害したのは左もあるべきだと思ふ。

しかし、君から軽薄の疑いを受けた私にも、まじめな「土」

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然し君から輕佻の疑を受けた余にも、眞面目な「土」

を読む目はあるのである。

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を讀む眼はあるのである。

だから、この序文を書くのである。

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だから此序を書くのである。

長塚君はたまたま「満韓ところどころ」

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長塚君はたまたま「滿韓ところ/″\」

の一回を見て私の浮薄さに腹を立てたのだろうが、同じ私の手になったほかのものに偶然目を触れたら、あるいは反対の感じを起こすかもしれない。

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の一囘を見て余の浮薄を憤つたのだらうが、同じ余の手になつた外のものに偶然眼を觸れたら、或は反對の感を起すかも知れない。

もし私が徹頭徹尾「満韓ところどころ」

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もし余が徹頭徹尾「滿韓ところ/″\」

の中で長塚君の気に入らない一回のような調子で終始するのなら、とうてい長塚君の「土」

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のうちで、長塚君の氣に入らない一囘を以て終始するならば、到底長塚君の「土」

のためにこれほど言葉を費やすことはできない理屈だからである。

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の爲に是程言辭を費やす事は出來ない理窟だからである。

長塚君は不幸にして喉頭結核にかかり、この間まで東京で入院生活をしていたが、今は養生かたがた旅行の途中にある。

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長塚君は不幸にして喉頭結核にかゝつて、此間迄東京で入院生活をして居たが、今は養生旁旅行の途にある。

先だって、かねて紹介しておいた福岡大学の久保博士からの手紙に、長塚君が診察を頼みに見えたとあるから、今ごろは九州にいるだろう。

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先達てかねて紹介して置いた福岡大學の久保博士からの來書に、長塚君が診察を依頼に見えたとあるから、今頃は九州に居るだらう。

私は出版の時機に遅れないで、病中の君のために、「土」

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余は出版の時機に後れないで、病中の君の爲に、「土」

についてこれだけのことを言い得たのを喜ぶのである。

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に就いて是丈の事を云ひ得たのを喜こぶのである。

私がかつて「土」

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余がかつて「土」

を「朝日」

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を「朝日」

に載せ出した時、ある文士が、我々は「土」

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に載せ出した時、ある文士が、我々は「土」

などを読む義務はないと言ったと、わざわざ私に知らせてきた者があった。

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などを讀む義務はないと云つたと、わざ/\余に報知して來たものがあつた。

その時私は、この文士は何のために罪もない「土」

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其時余は此文士は何の爲に罪もない「土」

の作者を侮辱するのだろうと思って、苦々しい不愉快を感じた。

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の作家を侮辱するのだらうと思つて苦々しい不愉快を感じた。

理屈から言って、読まねばならない義務のある小説というものは、その小説の校正者か、内務省の検閲官以外にそうあろうはずがない。

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理窟から云つて、讀まねばならない義務のある小説といふものは、其小説の校正者か、内務省の檢閲官以外にさうあらう筈がない。

わざわざ断らなくても、いやならいやで黙って読まずにいればそれまでである。

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わざ/\斷わらんでも厭なら厭で默つて讀まずに居れば夫迄である。

もしまた、名の知れない人の書いたものだから読む義務はないと言うなら、その人はただ名前だけで小説を読む、内容などには頓着しない門外漢と同じである。

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もし又名の知れない人の書いたものだから讀む義務はないと云ふなら、其人は唯名前丈で小説を讀む、内容などには頓着しない、門外漢と一般である。

文士ならば同業の人に対して、たとえ無名の人にせよ、もう少しの同情と尊敬があってしかるべきだと思う。

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文士ならば同業の人に對して、たとひ無名氏にせよ、今少しの同情と尊敬があつて然るべきだと思ふ。

私は「土」

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余は「土」

の作者が病気だから、この場合にはなおさらそう言いたいのである。

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の作者が病氣だから、此場合には猶ほ更らさう云ひたいのである。

(明治四十五年五月)

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(明治四十五年五月)

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激しい西風が、目に見えない大きな塊をごうっと打ちつけては、またごうっと打ちつけて、みなやせこけた落葉樹の林を一日いじめ通した。

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はげしい西風にしかぜえぬおほきなかたまりをごうつとちつけてはまたごうつとちつけてみなやせこけた落葉木らくえふぼくはやしを一にちいぢとほした。

木の枝は時々ひゅうひゅうと悲痛な音を立てて泣いた。

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えだ時々とき/″\ひう/\と悲痛ひつうひゞきてゝいた。

短い冬の日はもう落ちかけて、黄色い光を放ちながら瞬いた。

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みじかふゆはもうちかけて黄色きいろひかり放射はうしやしつゝ目叩またゝいた。

そうして西風は、どうかするとぱったりやんでしまったかと思うほど静かになった。

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さうして西風にしかぜはどうかするとぱつたりんでしまつたかとおもほどしづかになつた。

泥をちぎって投げたような雲が、不規則に林の上へじっとくっついていて、空はまだ騒がしいことを示している。

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どろ拗切ちぎつてげたやうなくも不規則ふきそくはやしうへ凝然ぢつとひつゝいてそらはまださわがしいことをしめしてる。

それで時々は、思い出したように木の枝がざわざわと鳴る。

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それで時々とき/″\おもしたやうにえだがざわ/″\とる。

世間が急に心細くなった。

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世間せけんにはかこゝろぼそくなつた。

お品はまた天秤棒を下ろした。

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しな天秤てんびんおろした。

お品は竹の短い天秤棒の先へ、木の枝でこしらえた小さな鉤をぶら下げて、それで手桶の柄を引っ掛けていた。

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しなたけみじか天秤てんびんさきえだこしらへたちひさなかぎをぶらさげてそれで手桶てをけけてた。

お品は百姓仕事の合間には、村から豆腐を仕入れて出ては二つ三つの村を歩いてくるのがいつものことである。

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しな百姓ひやくしやう隙間すきまにはむらから豆腐とうふ仕入しいれてては二三ヶそんあるいてるのがれいである。

手桶で持ち出すだけのことだから元手も要らない代わりにもうけも薄いのだが、それでも百姓ばかりしているよりも、日ごとに目に見えた小遣い銭が取れるので、もうしばらくそうしていた。

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手桶てをけすだけのことだから資本もとでいらないかはりにはまうけうすいのであるが、それでも百姓ひやくしやうばかりしてるよりも日毎ひごとえた小遣錢こづかひせんれるのでもうしばらくさうしてた。

手桶一つ分の豆腐では、いつもの所をぐるりと回れば必ずなくなった。

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手桶てをけ一提ひとさげ豆腐とうふではいつものところをぐるりとまはれば屹度きつとなくなつた。

帰りには豆腐のくずでいくらか白くなった水を捨てて、天秤棒は軽くなるのである。

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かへりには豆腐とうふこはれでいくらかしろくなつたみづてゝ天秤てんびんかるくなるのである。

お品はいつでも、日のあるうちに、夜なべで縄になう藁へ水を掛けておいたり、落ち葉をかき集めてみたり、あちらこちらと手を動かすことをやめなかった。

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しな何時いつでものあるうちになべになはわらみずけていたり、落葉おちばさらつてたりそこらこゝらとうごかすことをめなかつた。

生まれつき丈夫なので、お品は仕事を苦しいと思ったことはなかった。

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天性丈夫ぢやうぶなのでおしな仕事しごとくるしいとおもつたことはなかつた。

それがこの日は自分でもひどくいやであったが、冬至が来るからこんにゃくの仕入れをしなくてはならないと言って、無理に出たのであった。

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それがこの自分じぶんでもひどいやであつたが、冬至とうじるから蒟蒻こんにやく仕入しいれをしなくちやらないといつて無理むりたのであつた。

冬至というと、にわか商人がぞくぞくと出てくるので、急いで一度歩かないと、そのにわか商人に先を越されてしまう。お品はどうしてもじっとしてはいられなかった。

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冬至とうじといふと俄商人にはかあきうどがぞく/\と出來できるのでいそいで一ぺんあるかないと、その俄商人にはかあきうどせんされてしまふのでおしなはどうしても凝然ぢつとしてはられなかつた。

こんにゃくは村にはないので、仕入れをするには田んぼを越えたり林を通ったりして遠くへ行かねばならない。

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蒟蒻こんにやくむらにはいので、仕入しいれをするのには田圃たんぼえたりはやしとほつたりしてとほくへかねばならぬ。

それでお品は、その途中で商売をしようと思って、この日も豆腐をかついで出た。

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それでおしなその途中とちうあきなひをしようとおもつて豆腐とうふかついでた。

あいにく夜から冷えきっていた空には激しい西風が立って、それに逆らって行くお品は、自分でひどく足元のふらつくのを感じた。

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生憎あいにくよるからつてそらにははげしい西風にしかぜつて、それにさからつてくおしな自分じぶんひど足下あしもとのふらつくのをかんじた。

ぞくぞくと体が冷えた。

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ぞく/\と身體からだえた。

そうして豆腐を出すたびに水へ手を差し込むのが、震えるように身にしみた。

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さうして豆腐とうふたびみづ刺込さしこむのがふるへるやうにみた。

かさかさに乾いた手が、水へつけるたびに赤くなった。

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かさ/\に乾燥かわいたみづへつけるたびあかくなつた。

あかぎれがぴりぴりと痛んだ。

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ひゞがぴり/\といたんだ。

懇意なあちこちで、お品は落ち葉をひとくべ焚いてもらっては手をかざして、やっと暖まった。

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懇意こんいなそここゝでおしな落葉おちば一燻ひとくいてもらつてはかざしてやつあたゝまつた。

こんにゃくを仕入れて出た時は、そんなこんなで暇を取っていつになく遅かった。

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蒟蒻こんにやく仕入しいれてときはそんなこんなでひまをとつて何時いつになくおそかつた。

お品は林をいくつも過ぎて自分の村へ急いだが、疲れもしたけれど、けだるいような心持ちがして、幾度か道端へ荷を下ろしては休みながら来たのである。

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しなはやしいくつもぎて自分じぶんむらいそいだが、つかれもしたけれどものういやうな心持こゝろもちがして幾度いくたび路傍みちばたおろしてはやすみつゝたのである。

お品は手桶の柄へ横たえた竹の天秤棒へ身を投げかけて、どかりと膝を折った。

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しな手桶てをけよこたへたたけ天秤てんびんけてどかりとひざつた。

ぐったりなったお品は、それでなくても見苦しい姿が、さらに締まりなく乱れた。

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ぐつたりつたおしなはそれでなくても不見目みじめ姿すがたさら檢束しどけなくみだれた。

西風の名残がお品の後ろから吹いた。

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西風にしかぜ餘波なごりがおしなうしろからいた。

そうして西風は、後ろで結んだ汚い手拭いの端をめくって、油の切れたほこりだらけの赤い髪の毛をしごき上げるようにして、その垢だらけの首筋をむき出しにさせている。

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さうして西風にしかぜうしろくゝつたきたな手拭てぬぐひはしまくつて、あぶられたほこりだらけのあかかみきあげるやうにしてそのあかだらけの首筋くびすぢ剥出むきだしにさせてる。

それとともに林の雑木はまだ持ち前の騒ぎをやめないで、道端のこずえがずっと取り巻いてお品の上からそれをのぞこうとすると、後ろからも後ろからも林のこずえが一斉に首を出す。

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それともはやし雜木ざふきはまだ持前もちまへさわぎをめないで、路傍みちばたこずゑがずつとしなつておしなうへからそれをのぞかうとすると、うしろからも/\はやしこずゑが一せいくびす。

そうしてしばらくすると、また一斉に後ろへぐっと戻って、体を横に揺らしながら、笑いささやくようにざわざわと鳴る。

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さうしてしばらくしてはまたせいうしろへぐつともどつて身體からだよこ動搖ゆさぶりながらわら私語さゞめくやうにざわ/\とる。

お品は体に変わったことが起こったのを意識するとともに、恐怖心を抱きはじめた。

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しな身體からだ變態へんたいきたしたことを意識いしきするととも恐怖心きようふしんいだきはじめた。

三、四日どうもなかったから大丈夫だとは思ってみても、こうしてじっとしていると遠くのほうへ滅入ってしまうような心持ちがして、ふだんからいくらかのぼせやすくもあるのだが、そう思うと耳が鳴るようで、世間がかえって静かになってしまったように思われた。

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三四どうもなかつたから大丈夫だいぢやうぶだとはおもつてても、凝然ぢつとしてるととほくのほう滅入めいつてしまやう心持こゝろもちがして、不斷ふだんからいくらか逆上性のぼせしやうでもあるのだがさうおもふとみゝるやうで世間せけんかへつしづかにつてしまつたやうにおもはれた。

ふと気がついた時、お品はてきぱきと天秤棒をかついだ。

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不圖ふといたときしなははき/\として天秤てんびんかついだ。

林が尽きて田んぼが見え出した。

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はやしきて田圃たんぼした。

田んぼを越せば村で、自分の家は田んぼの取っつきである。

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田圃たんぼせばむらで、自分じふんいへ田圃たんぼのとりつきである。

青い煙がすっと上っている。

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あをけぶりがすつとのぼつてる。

お品は二人の子供を思って心が躍った。

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しな二人ふたり子供こどもおもつてこゝろをどつた。

林の外れから田んぼへ下りる所はわずかに十メートルほどであるが、傾斜の険しい坂で、それが雨のあるたびにそこらの水を集めて田んぼへ落とす口になっているので、自然に土がえぐられて深いくぼみができている。

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はやしはづれから田圃たんぼへおりるところわづかに五六けんであるが、勾配こうばいけはしいさかでそれがあめのあるたびにそこらのみづあつめて田圃たんぼおとくちつてるので自然しぜんつちゑぐられてふかくぼみかたちづくられてる。

お品は天秤棒を斜めに横へ向けて、右の手を前の手桶の柄へ、左の手を後ろの手桶の柄へ掛けて、注意しながら下りた。

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しな天秤てんびんなゝめよこけて、みぎまへ手桶てをけひだりうしろ手桶てをけけて注意ちういしつゝおりた。

それでも、ほとんど手桶いっぱいになりそうなこんにゃくの重さは、少しふらつく足をあやうく保たせた。

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それでもほとんど手桶てをけぱいさう蒟蒻こんにやく重量おもみすこしふらつくあしあやうたもたしめた。

やっと人がすれ違えるだけの狭い田んぼ道を、お品はそろそろと運んで行く。

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やつとひとちがふだけのせま田圃たんぼをおしなはそろ/\とはこんでく。

お品は白茶けるほど古くなった股引へ、それでも先のほうだけ継ぎ足した足袋をはいている。

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しな白茶しらちやけたほどふるつた股引もゝひきへそれでもさきほうだけした足袋たび穿いてる。

大きな藁草履は固めたように霜解けの泥がくっついていて、それがぼたぼたと足の運びをさらに鈍くしている。

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おほきな藁草履わらざうりかためたやうに霜解しもどけどろがくつゝいて、それがぼた/\とあしはこびをさらにぶくしてる。

狭く連なっている田を縦に用水の堀がある。

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せまつらなつてたて用水ようすゐほりがある。

二、三株、比較的大きなはんの木が立っている所に、わずか一枚板の橋が斜めに架けてある。

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二三株にさんかぶ比較的ひかくてきおほきなはんつてところわづか一枚いちまいいたはしなゝめけてある。

お品は橋のたもとでちょっと立ち止まった。

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しなはしたもと一寸ちよつとどまつた。

そうして近づいた自分の家を見た。

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さうしてちかづいた自分じぶんいへた。

村は台地にあるので、お品の家の後ろはすぐ斜めに田んぼへずり落ちそうな林である。

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村落むら臺地だいちるのでおしないへうしろすぐなゝめ田圃たんぼへずりさうはやしである。

楢や雑木の間に短い竹が交じっている。

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なら雜木ざふきあひだみじかたけまじつてる。

いいかげん大きくなった楢の木はみな葉が落ち尽くしているので、その小枝を透してへこんだ棟が見える。

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いゝ加減かげんおほきくなつたならみなつくしてるので、その小枝こえだとほしてくぼんだやのむねえる。

白い羽の鶏が五、六羽、がりがりと爪で土をかき払ってはくちばしでそこをつつき、またがりがりと土をかき払っては、余念もなく夕方の餌を求めながら、田んぼから林へ帰りつつある。

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しろはねにはとりが五六、がり/\とつめつちいてはくちばしでそこをつゝいてまたがり/\とつちいては餘念よねんもなく夕方ゆふがた飼料ゑさもとめつゝ田圃たんぼからはやしかへりつゝある。

お品は非常な注意をもって斜めの橋を渡った。

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しな非常ひじやう注意ちういもつなゝめはしわたつた。

四足目にはもう田んぼの土に立った。

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四足目よあしめにはもう田圃たんぼつちつた。

その時は日はとうに沈んで、見渡すかぎり、田から林から、世間はただ黄褐色に光って、そうしてまだ明るかった。

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そのときとうぼつして見渡みわたかぎり、からはやしから世間せけんたゞ黄褐色くわうかつしよくひかつてさうしてまだあかるかつた。

お品は田んぼから上がる前に天秤棒を下ろして左へ曲がった。

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しな田圃たんぼからあがるまへ天秤てんびんおろしてひだりまがつた。

自分の家の林と田との間には、人の足跡だけの小道がつけてある。

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自分じぶんいへはやしとのあひだにはひと足趾あしあとだけの小徑こみちがつけてある。

お品は、その小道と林との境を区切っているぐみの木のそばに立った。

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しなその小徑こみちはやしとの境界さかひしきつて牛胡頽子うしぐみそばたつた。

鶏の爪の跡が、そこの新しい土をかき散らしてあった。

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にはとりつめあと其處そこあたらしいつちらしてあつた。

お品は土を手で集めて、草履の底でそくそくとならした。

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しなつちあつめて草履ざうりそこでそく/\とならした。

お品の姿が庭に見えた時には、西風は忘れたようにやんでいて、庭先の栗の木にぶっ掛けた大根の干からびた葉も動かなかった。

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しな姿すがたにはえたときには西風にしかぜわすれたやうにんでて、庭先にはさきくりにぶつけた大根だいこからびたうごかなかつた。

白い鶏はお品の足元へちょろちょろと駆けて来て、何かほしそうにけろっと見上げた。

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しろにはとりはおしなあしもとへちよろ/\とけてなにさうにけろつと見上みあげた。

お品はいつものように鶏などへ構ってはいられなかった。

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しな平常いつものやうににはとりなどかまつてはられなかつた。

お品は戸口に天秤棒を下ろして、突然

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しな戸口とぐち天秤てんびんおろして突然いきなり

「おつう」

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「おつう」

と呼んだ。

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んだ。

「おっかあか」

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「おつかあか」

と、すぐにおつぎの返事が威勢よく聞こえた。

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すぐにおつぎの返辭へんじ威勢ゐせいよくきこえた。

それと同時に、かまどの火がひらひらと赤くお品の目に映った。

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それと同時どうじかまどがひら/\とあかくおしなうつつた。

朝から雨戸は開けないので、内は薄暗くなっている。

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あさから雨戸あまどけないのでうちはうすくらくなつてる。

外の光を見ていたお品の目には、すぐにはおつぎの姿も見えなかったのである。

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そとひかりたおしなにはぐにはおつぎの姿すがたえなかつたのである。

戸口からでは、おつぎの体はかまどの火を覆っていた。

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戸口とぐちからではおつぎの身體からだかまどおほうてた。

返事をするとともに体をひねったので、その赤い火が見えたのである。

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返辭へんじするととも身體からだねぢつたのでそのあかえたのである。

おつぎの背にいた与吉は、お品の声を聞きつけると

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おつぎの與吉よきちはおしなこゑきつけると

「まんまんま」

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「まん/\ま」

と両手を出して下りようとする。

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兩手りやうてしてりようとする。

お品は、おつぎが帯を解いている間に、壁際の麦藁俵のそばへこんにゃくの手桶を二つ並べた。

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しなはおつぎがおびいてるあひだ壁際かべぎは麥藁俵むぎわらだはらそば蒟蒻こんにやく手桶てをけを二つならべた。

与吉はおふくろの懐に抱かれて、ろくに出もしない乳房を探った。

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與吉よきちはおふくろふところかれてろくもしない乳房ちぶささぐつた。

お品はかまどの前へ腰を掛けた。

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しなかまどまへこしけた。

白い鶏は、掛けはしごの代わりに掛けてある荒縄でぐるぐる巻きにした竹の幹へ、めいめいに爪を引っ掛けて、両方の羽を広げて体の平均を保ちながら、慌てたようにねぐらへ上がった。

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しろにはとり掛梯子かけばしごかはりけてある荒繩あらなはでぐる/\まきにしたたけみき各自てんでつめけて兩方りやうはうはねひろげて身體からだ平均へいきんたもちながらあわてたやうにとやへあがつた。

そうして青い煙の中に、じっとして目を閉じている。

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さうしてあをけむりなか凝然ぢつとしてぢてる。

お品は家に帰っていくらか暖まったが、それでも一日冷えたせいか、ぞくぞくするのが止まなかった。

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しないへかへつていくらかあたゝまつたがそれでも一にちえた所爲せいかぞく/\するのがまなかつた。

そうして、後で近所で風呂をもらってゆっくり暖まったら、心持ちも治るだろうと思った。

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さうしてのち近所きんじよ風呂ふろもらつてゆつくりあつたまつたら心持こゝろもちなほるだらうとおもつた。

かまどには小さな鍋が掛かっている。

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かまどにはちひさななべかゝつてる。

汁はふたを浮かすようにして、ぐらぐらと煮立っている。

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しるふたたゞよはすやうにしてぐら/\と煮立にたつてる。

外もいつかとっぷり暗くなった。

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そともいつかとつぷりくらくなつた。

おつぎはかまどの下から火のついているそだを一つ取って、手ランプをつけて上がり框の柱へ掛けた。

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おつぎはかまどしたからのついてる麁朶そだひとつとつてランプをけてあががまちはしらけた。

お品は、おつぎがひとえへ半纏を引っ掛けたままであるのを見た。

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しなはおつぎが單衣ひとへ半纏はんてんけたまゝであるのをた。

ふだんならそんなことはないのだが、自分がひどくぞくぞくして心持ちが悪いので、つい気になって

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平常いつもならそんなことはないのだが自分じぶんひどくぞく/\として心持こゝろもちわるいのでついになつて

「おつう、そんな格好でお前は寒くないか」

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「おつう、そんな姿なりわりさむかねえか」

と聞いた。

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いた。

それから手拭いの下から見えるおつぎのあどけない顔を、じっと見た。

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それから手拭てぬぐひしたからえるおつぎのあどけないかほ凝然ぢつた。

「寒かないよ」

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さむかあんめえな」

おつぎは事もなげに言った。

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おつぎはこともなげにいつた。

与吉は懐の中でしきりにせがんでいる。

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與吉よきちふところなかしきりにせがんでる。

お品はいつものようでなく何も買って来なかったので、ふと困った。

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しな平常いつものやうでなくなにつてなかつたので、ふとこまつた。

「おつう、そこらに砂糖はなかったっけかね」

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「おつう、そこらに砂糖さたうはなかつたつけゝえ」

お品は言った。

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しなはいつた。

おつぎは黙って草履を脱ぎ捨てて座敷へ駆け上がり、戸棚から小さな古い新聞紙の袋を探し出して、自分の手のひらへ少し砂糖をつまみ出して

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おつぎはだまつて草履ざうり脱棄ぬぎすてゝ座敷ざしきけあがつて、戸棚とだなからちひさなふる新聞紙しんぶんしふくろさがして、自分じぶんひらすこ砂糖さたうをつまみして

「そらそら」

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「そら/\」

と言いながら、手を出して待っている与吉へやった。

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といひながら、してつて與吉よきちつた。

おつぎは砂糖のついた自分の手をなめた。

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おつぎは砂糖さたういた自分じぶんめた。

与吉は、その砂糖をおふくろの懐へこぼしながら、危なそうにつまんでは口へ入れる。

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與吉よきちその砂糖さたうをおふくろふところへこぼしながらあぶさうにつまんではくちれる。

砂糖が尽きた時、与吉はそのべとついた手をおふくろの口のあたりへ出した。

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砂糖さたうきたとき與吉よきちそのべとついたをおふくろくちのあたりへした。

お品は与吉の両手をつかまえてなめてやった。

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しな與吉よきち兩手りやうてつかまへてねぶつてやつた。

お品は鍋のふたを取って、そだの炎をかざしながら

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しななべふたをとつて麁朶そだほのほかざしながら

「こりゃ芋か何だい」

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「こりやいもなんでえ」

と聞いた。

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いた。

「うん、少し芋を足して温め返したんだ」

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「うむ、すこいもしてあつたけえしたんだ」

「ご飯は冷たくないかい」

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「おまんまはつめたかねえけ」

「それから雑炊でもこしらえようと思ってたのよ」

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「それから雜炊おぢやでもこせえべとおもつてたのよ」

お品は熱い物なら体が暖まるだろうと思いながら、自分はひどくけだるいので、何でもおつぎにさせていた。

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しなあつものなら身體からだあたゝまるだらうとおもひながら、自分じぶんひどものういのでなんでもおつぎにさせてた。

おつぎは、粘り気のない麦の勝ったぽろぽろな飯を鍋へ入れた。

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おつぎはねばのないむぎつたぽろ/\なめしなべれた。

お品はそだをひとくべ突っ込んだ。

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しな麁朶そだ一燻いとくつ込んだ。

おつぎは鍋を下ろして茶釜を掛けた。

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おつぎはなべおろして茶釜ちやがまけた。

ほうっと白く湯気の立つ鍋の中を、お玉杓子で二、三度かき立てて、おつぎはまたふたをした。

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ほうつとしろ蒸氣ゆげなべなかをお玉杓子たまじやくしで二三てゝおつぎはまたふたをした。

おつぎは戸棚から膳を出して上がり框へ置いた。

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おつぎは戸棚とだなからぜんしてあががまちいた。

柱につけてある手ランプの光が届かないので、おつぎは手探りでしている。

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はしらけてあるランプのひかりとゞかぬのでおつぎは手探てさぐりでしてる。

お品は左手に抱いた与吉の口へ、箸の先で少しずつ含ませながら雑炊を食べた。

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しな左手ひだりていた與吉よきちくちはしさきすこしづゝふくませながら雜炊ざふすゐをたべた。

お品は芋を三つ四つ箸へ立てて与吉へ持たせた。

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しないもを三つ四つはしてゝ與吉よきちたせた。

与吉は芋を口へ持っていって、すぐに熱いと言って泣いた。

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與吉よきちいもくちつていつてぐにあついというていた。

お品は与吉のほおをふうふうと吹いて、それから芋を自分の口でかんでやった。

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しな與吉よきちほゝをふう/\といてそれからいも自分じぶんくちんでやつた。

お品の茶碗はこうして冷えた。

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しな茶碗ちやわんうしてえた。

おつぎは冷たくなった時、鍋のと換えてやった。

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おつぎはつめたくなつたときなべのとかへてやつた。

お品は欲しくもない雑炊を三杯まで食べた。

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しなしくもない雜炊ざふすゐを三ばいまでたべた。

いくらか腹の中の暖かくなったのを感じた。

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いくらかはらなかあたゝかくなつたのをかんじた。

そうしてようやく水離れのした茶釜の湯を汲んで飲んだ。

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さうしてやうや水離みづばなれのした茶釜ちやがまんでんだ。

おつぎは庭先の井戸端へ出て、鍋へ一杯つるべの水をあけた。

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おつぎは庭先にはさき井戸端ゐどばたなべへ一ぱい釣瓶つるべみづをあけた。

おつぎが戻った時

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おつぎがもどつたとき

「おつう、今夜でなくてもいいよ」

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「おつう、今夜こんやでなくつてもえゝや」

とお品は言った。

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とおしなはいつた。

おつぎは黙って俵のそばの手桶へ手を掛けて

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おつぎはだまつてたわらそば手桶てをけけて

「これにも水を入れておかなくちゃならないだろうね」

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これへもみづせえかなくつちやなんめえな」

「そうすればいいが、大変だろうよ」

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「さうすればえゝが大變たえへんだらえゝぞ」

お品が言い切らないうちに、おつぎは庭へ出た。

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しながいひらぬうちにおつぎはにはた。

すぐに洗った鍋と手桶を持って、暗い庭先からぼんやり戸口へ姿を見せた。

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ぐにあらつたなべ手桶てをけつてくら庭先にはさきからぼんやり戸口とぐち姿すがたせた。

敷居へちょっと手桶を置いて、お品と顔を見合わせた。

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しきゐ一寸ちよつと手桶てをけいておしなかほ見合みあはせた。

手桶の水は半分で、両方のこんにゃくへ水が乗った。

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手桶てをけみづ半分はんぶん兩方りやうはう蒟蒻こんにやくみづつた。

お品は三人連れで東隣へ風呂をもらいに行った。

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しなは三人連にんづれ東隣ひがしどなり風呂ふろもらひにつた。

東隣というのは大きな一構えで、こんもりと茂った森に包まれている。

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東隣ひがしどなりといふのはおほきな一構ひとかまへ蔚然うつぜんたるもりつゝまれてる。

外は闇である。

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そとやみである。

隣の森の杉が、ざっくりと冴えた空へ突っ込んでいる。

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となりもりすぎがぞつくりとえたそらんでる。

お品の家は以前から、この森のために日がよほど南へ回ってからでなければ庭へ光の差すことはなかった。

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しないへ以前いぜんからもりめに餘程よほどみなみまはつてからでなければにはひかりすことはなかつた。

お品の家族は、どこまでも日陰者であった。

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しな家族かぞく何處どこまでも日蔭者ひかげものであつた。

それが後になってから、方々に陸地測量部の三角測量台が建てられて、その上に小さな旗がひらひらとひるがえるようになってから、その森が見通しの邪魔になるというので、三、四本だけ伐らせられた。

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それがのちつてから方方はう/″\陸地測量部りくちそくりやうぶの三角測量臺かくそくりやうだいてられてそのうへちひさなはたがひら/\とひらめくやうにつてからそのもり見通みとほしにさはるといふので三四ほんだけらせられた。

杉の大木は西へ倒したので、どしんとそこらを恐ろしく揺るがして、お品の庭へ横たわった。

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すぎ大木たいぼく西にしたふしたのでづしんとそこらをおそろしくゆるがしておしなにはよこたはつた。

枝はくじけて、その先が庭の土をえぐった。

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えだくぢけてそのさきにはつちをさくつた。

それでも隣では、その木の始末をつける時にそこらへ散らばった小枝やその他の屑物はお品の家へ与えたので、思いがけない薪ができたのと、もう一つはいくらでも東が空いたのとで、隣では自分の腕を斬られたようだと惜しんだにもかかわらず、お品の家ではひそかに喜んだのであった。

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それでもとなりではその始末しまつをつけるときにそこらへらばつた小枝こえだその屑物くづものはおしないへあたへたのでおもけないたきゞ出來できたのと、もひとつはいくらでもひがしいたのとで、となりでは自分じぶんうでられたやうだとしんだにもかゝはらずおしないへではひそかよろこんだのであつた。

それからというもの、どんな格好にも日が朝から差すようになった。

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それからといふものはどんな姿なりにもあさからすやうになつた。

それでもさすがに森はあたりを威圧して、夜になるとことにそびえ立って、小さなお品の家は地べたへ踏みつけられたように見えた。

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それでも有繋さすがもりはあたりを威壓ゐあつしてよるになるとこと聳然すつくりとしてちひさなおしないへべたへふみつけられたやうにえた。

お品は闇の中へ消えた。

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しなやみなかえた。

そうして隣の戸口に現れた。

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さうしてとなり戸口とぐちあらはれた。

隣の雇い人は夜なべの縄をなっていた。

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となり雇人やとひにんなべのなはつてた。

板の間の端へあぐらをかいて、足で押さえた縄の端へ藁を継ぎ足し継ぎ足ししては、ちょりちょりと額の上まで揉み上げては、右の手を尻へ回してくっと縄を後ろへしごく。

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いたはし胡坐あぐらいてあしおさへたなははしわらし/\してちより/\とひたひうへまであげてはみぎしりまはしてくつとなはうしろく。

縄はそのたびに土間へ落ちる。

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なはそのたび土間どまちる。

お品は板の間に小さくなっていた。

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しないたちひさくなつてた。

やがて藁が尽きると、雇い人はめいめいにその縄を足から手へ引っ掛けて、素早く数を数えては土間から手繰り上げながら、つながったまま一房ずつにくくった。

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やがわらきると傭人やとひにん各自てんでそのなはあしからけて迅速じんそくかずはかつては土間どまから手繰たぐげながら、つながつたまゝばうづゝにくゝつた。

やがて彼らは板の間の藁屑を土間へ掃き下ろして、それから交代に風呂へ入った。

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やがて彼等かれらいた藁屑わらくづ土間どまきおろしてそれから交代かうたい風呂ふろ這入はひつた。

お品はそれを見ながら、黙って待っていた。

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しなはそれをながらだまつてつてた。

お品はここへ来るとこういう遠慮をしなければならないので、少しは遠くても風呂は外へもらいに行くのであったが、その晩はどこにも風呂が立たなかった。

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しな此處こゝるとういふ遠慮ゑんりよをしなければならぬので、すこしはとほくても風呂ふろほかもらひにくのであつたがそのばんはどこにも風呂ふろたなかつた。

お品は二、三軒あちらこちらと歩いてみてから、隣の門をくぐったのであった。

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しなは二三けんそつちこつちとあるいててからとなりもんくゞつたのであつた。

雇い人は大釜の下にぽっぽと火を焚いて当たっている。

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傭人やとひにん大釜おほがましたにぽつぽといてあたつてる。

風呂から出ても、彼らはゆだったような赤いももを出して火のそばへ寄った。

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風呂ふろからても彼等かれらゆだつたやうなあかもゝしてそばつた。

「どうだね、ひとくべ当たったらよかろう、今すぐに空くから」

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「どうだね、一燻ひとくべあたつたらようがせう、いますぐくから」

と雇い人が言ってくれても、お品は尻から冷えるのを我慢して、じっと辛抱していた。

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傭人やとひにんがいつてくれてもおしなしりからえるのを我慢がまんして凝然ぢつ辛棒しんぼうしてた。

懐で眠った与吉を騒がすまいとしては、足がしびれるので、幾度か体をもじもじ動かした。

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ふところねむつた與吉よきちさわがすまいとしてはあししびれるので幾度いくど身體からだをもぢ/\うごかした。

ようやく風呂の空いた時は、お品は待ち遠しかったので、前後の考えもなく急いで着物を取った。

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やうや風呂ふろいたときはおしな待遠まちどほであつたので前後ぜんごかんがへもなくいそいで衣物きものをとつた。

与吉は幸いにぐったりとなって、おふくろの懐から離れるのも知らないので、おつぎが小さな手で抱いた。

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與吉よきちさいはひにぐつたりとつておふくろふところからはなれるのもらないのでおつぎがちひさないた。

お品はだんだんと体が暖まるにつれて、はじめて生き返ったようにうっとりとした。

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しな段々だん/\身體からだあたゝまるにれてはじめて蘇生いきかへつたやうに恍惚うつとりとした。

いつまでも沈んでいたいような心持ちがした。

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いつまでもしづんでたいやうな心持こゝろもちがした。

与吉が泣きはしないかと気づいた時、ろくに洗いもしないで出てしまった。

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與吉よきちきはせぬかと心付こゝろづいたときろくあらひもしないでしまつた。

それでも顔がつやつやとして、髪の生え際が拭いても拭いても汗ばんだ。

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それでもかほがつや/\としてかみ生際はえぎはぬぐつても/\あせばんだ。

そうして、しみじみと快かった。

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さうしてしみ/″\とこゝろよかつた。

お品は着物を引っ掛けると、すぐと与吉を内懐へ入れた。

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しな衣物きものけるとぐと與吉よきち内懷うちふところれた。

お品の後へは下女が入ったので、おつぎはその間待たねばならなかった。

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しなあとへは下女げぢよ這入はひつたので、おつぎはそのあひだたねばならなかつた。

おつぎが出た時は、お品の体は冷めかけていた。

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おつぎがときはおしな身體からだけてた。

お品は、自分が後で入ればよかったのにと後悔した。

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しな自分じぶんあとではいればよかつたのにと後悔こうくわいした。

お品が自分の股引と足袋とをおつぎに提げさせて帰った時に、月はひそかに隣の森の輪郭をはっきりとさせて、その森の隙間がことに明るく光っていた。

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しな自分じぶん股引もゝひき足袋たびとをおつぎにげさせてかへつたときつきひそかとなりもり輪郭りんくわくをはつきりとさせてそのもり隙間すきまことあかるくひかつてた。

世間がしみじみと冷えていた。

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世間せけんがしみ/″\とえてた。

お品は薄い垢じみた布団へくるまると、体がまたぞくぞくとして、膝がしらが凍ったようになっていたのを知った。

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しなうすあかじみた蒲團ふとんへくるまると、身體からだまたぞく/\としてひざかしらがこほつたやうにつてたのをつた。

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次の朝、お品は、まだ戸の隙間から薄明かりの差したばかりに目が覚めた。

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つぎあさしなはまだ隙間すきまからうすあかりのしたばかりにめた。

枕を持ち上げて見たが、頭の芯がしくしくと痛むようで、いつになく重かった。

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まくらもたげてたがあたましんがしく/\といたむやうでいつになくおもかつた。

狭い家の内に、羽ばたく鶏の声がけたたましく耳の底へ響いた。

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せばいへうち羽叩はばたにはとりこゑがけたゝましくみゝそこひゞいた。

おつぎはまだすやすやと眠っている。

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おつぎはまだすや/\としてねむつてる。

戸の隙間がまぶたを開いたように明るくなった時、鶏がまた甲高く鳴いた。

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隙間すきままぶたひらいたやうにあかるくなつたときにはとり甲走かんばしつていた。

お品は、おつぎを今朝はゆっくりさせてやろうと思っていた。

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しなはおつぎを今朝けさゆつくりさせてやらうとおもつてた。

それでもおつぎは、鶏がまた鳴いた時、むっくり起きた。

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それでもおつぎはにはとりまたいたときむつくりきた。

いつもと違ってあまりひっそりしているので、驚いたようにあたりを見た。

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いつもとちがつてあまりひつそりしてるのでおどろいたやうにあたりをた。

そうして、おふくろがまだ自分のそばに布団へくるまっているのを見た。

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さうしておふくろがまだ自分じぶんそば蒲團ふとんへくるまつてるのをた。

「おつう、急がなくてもいいぞ。おれは今朝少し具合が悪いから、ゆっくりするからな」

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「おつう、せかねえでもえゝぞ、今朝けさすこ工合ぐえゝわりいからゆつくりすつかんなよ」

お品は言った。

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しなはいつた。

おつぎはしばらくもじもじしながら帯を締めて、大戸を一枚がらがらと開けて、目をこすりながら庭へ出た。

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おつぎはしばらくもぢ/\しながらおびしめ大戸おほどを一まいがら/\とけてをこすりながらにはた。

井戸端の桶には芋が少しばかり水に浸してあって、その水にはガラス板くらいの氷が張っている。

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井戸端ゐどばたをけにはいもすこしばかりみづひたしてあつて、そのみづにはこほりがガラスいたぐらゐぢてる。

おつぎは、鍋をいつも磨いている砥石のかけらで氷をたたいてみた。

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おつぎはなべをいつもみがいて砥石といし破片かけこほりたゝいてた。

おつぎは大戸を開け放しておいたので、朝の寒さが入ってきたのに気がついて

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おつぎは大戸おほどはなしていたのであささむさが侵入しんにふしたのにがついて

「おっかあ、寒くなかったか、おれ知らないでいた」

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「おつかあ、さむかなかつたか、らねえでた」

と言いながら、大戸をがらがらと閉めた。

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いひながら大戸おほどをがら/\とめた。

暗くなった家の内には、かまどの火だけが勢いよく赤く立った。

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くらくなつたいへうちにはかまどのみがいきほひよくあかく立つた。

おつぎは

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おつぎは

「ああ冷たい」

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「おゝつめてえ」

と言いながら、かまどの口からめくれて出る炎へ手をかざして

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といひながらかまどくちからまくれてほのほかざして

「今朝は芋の水が凍ったんだよ」

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今朝けさいもみづこほつたんだよ」

と、おふくろのほうを向いて言った。

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とおふくろはういていつた。

「うん、霜も降りたようだな」

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「うむ、しもつたやうだな」

お品は力なく言った。

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しなちからなくいつた。

戸口を後にして、お品はかまどの火がべろべろと燃え上がるのを見た。

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戸口とぐちうしろにしておしなかまどのべろ/\とあがるのをた。

「どこでも真っ白だよ」

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何處どこでも眞白まつしろだよ」

おつぎは竹の火箸で落ち葉をかき立てながら言った。

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おつぎはたけ火箸ひばし落葉おちばてながらいつた。

「夜明けにひどく冷え冷えしたっけからな」

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夜明よあけにひどく冷々ひや/\したつけかんな」

お品は言って、ちょっと首を持ち上げながら

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しなはいつて一寸ちよつとくびもたげながら

「おれは今朝は食べたくないからな、お前は構わないでできたら食べたほうがいいぞ」

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今朝けさはたべたかねえかんな、われかまあねえで出來できたらたべたはうがえゝぞ」

お品は言った。

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しなはいつた。

また凍った飯で雑炊が煮られた。

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またこほつためし雜炊ざふすゐられた。

「おっかあ、少しでもやらないか」

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「おつかあ、ちつとでもやらねえか」

おつぎは茶碗をおふくろの枕元へ出した。

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おつぎは茶碗ちやわんをおふくろ枕元まくらもとした。

雑炊の焦げついたような匂いがぷんと鼻を突いた時、お品は箸を取ってみようかと思ってうつぶせになってみたが、すぐに胸が悪くなってしまった。

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雜炊ざふすゐげついたやうなにほひがぷんとはないたときしなはしつてようかとおもつて俯伏うつぶしになつてたが、すぐいやになつてしまつた。

お品が動いたので、懐の与吉は泣き出した。

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しなうごいたのでふところ與吉よきちした。

お品はうつぶせのまま乳房を含ませた。

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しな俯伏うつぶしたまゝ乳房ちぶさふくませた。

そうしてまた芋の串をこしらえて持たせた。

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さうしてまたいもくしこしらへてたせた。

お品が表の大戸を開けさせた時は、日がきらきらと東隣の森越しに庭へ差しかけて、きっかりと日陰を区切って、解け残った霜が白く見えていた。

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しなおもて大戸おほどけさせたときがきら/\と東隣ひがしどなりもりしににはけてきつかりと日蔭ひかげかぎつてのこつたしもしろえてた。

庭先の栗の木の枯れ葉からも、枝へ掛けた大根の葉からも、霜が解けてしずくがまだぽたりぽたりと垂れている。

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庭先にはさきくり枯葉かれはからも、えだけた大根だいこからもしもけてしづくがまだぽたり/\とれてる。

庭へ敷いてある庭ぶたの藁も、ただぐっしょりと湿っている。

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にはいてある庭葢にはぶたわらたゞぐつしりとしめつてる。

冬になると霜柱が立つので、庭へはみんな藁屑だのそば殻だのがいっぱいに敷かれる。

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ふゆになると霜柱しもばしらつのでにはへはみんな藁屑わらくづだの蕎麥幹そばがらだのが一ぱいかれる。

それが庭ぶたである。

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それが庭葢にはぶたである。

霜柱が庭から先の桑畑に、ぐらりぐらりと倒れつつある。

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霜柱しもばしらにはからさき桑畑くはばたけにぐらり/\とたふれつゝある。

お品は布団の中でもめっきり暖かくなったことを感じた。

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しな蒲團ふとんなかでも滅切めつきりあたゝかくつたことをかんじた。

時々枕を持ち上げて戸口から外を見る。

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時々とき/″\まくらもたげて戸口とぐちからそとる。

そうしては、麦藁俵のそばに置いたこんにゃくの手桶を、どうかすると無意識に見つめる。

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さうしては麥藁俵むぎわらだはらそばいた蒟蒻こんにやく手桶てをけをどうかすると無意識むいしきつめる。

横になっている目からは東隣の森のこずえが妙に変わって見えるので、じっと見つめては目が疲れるようになるので、またこんにゃくの手桶へ目を移したりした。

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よこつてからは東隣ひがしどなりもりこずゑめうかはつてえるので凝然ぢつつめてはつかれるやうにるのでまた蒟蒻こんにやく手桶てをけうつしたりした。

お品は、どうかして少しでもこんにゃくを減らしておきたいと思った。

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しなはどうかしてすこしでも蒟蒻こんにやくらしてきたいとおもつた。

お品は、そのうちに起きられるだろうと考えながら、時々うとうとになる。

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しなそのうちきられるだらうとかんがへつゝ時々とき/″\うと/\とる。

「切り干しでも切ったものかな」

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切干きりぼしでもつたもんだかな」

おつぎが庭から大きな声で言った時、お品はふと枕を持ち上げた。

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おつぎがにはからおほきなこゑでいつたときしなはふとまくらもたげた。

それでおつぎの声は、意味も分からずにかすかに耳に入った。

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それでおつぎのこゑ意味いみわからずにかすかにみゝつた。

しばらくたってから、お品は庭でおつぎがざあと水を汲んでは、また間を置いてざあと水を汲んでいるのを聞いた。

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しばらくたつてからおしなにはでおつぎがざあとみづんではまたあひだへだてゝざあとみづんでるのをいた。

おつぎは大根を洗った。

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おつぎは大根だいこあらつた。

おつぎは庭ぶたの上にむしろを敷いて、暖かい日光を浴びながら切り干しを切りはじめた。

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おつぎは庭葢にはぶたうへむしろいてあたゝかい日光につくわうよくしながら切干きりぼしりはじめた。

大根を横に幾つかに切って、さらにそれを縦に割って短冊形に刻む。

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大根だいこよこいくつかにつて、さらにそれをたてつて短册形たんざくがたきざむ。

おつぎは飯台へ渡したまな板の上へとんとんと包丁を落としては、その包丁で白く刻まれた大根を飯台の中へしごき落とす。

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おつぎは飯臺はんだいわたした爼板まないたうへへとん/\と庖丁はうちやうおとしてはその庖丁はうちやうしろきざまれた大根だいこ飯臺はんだいなかおとす。

お品は切り干しを刻む音を聞いた時、さっきのは大根を洗っていたのだなと思った。

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しな切干きりぼしきざおといたとき先刻さつきのは大根だいこあらつてたのだなとおもつた。

お品は、この二、三日、もう切り干しも切らなければならないと自分が口にして言っていたことを思い出して、おつぎがよく気を利かせたと心で喜んだ。

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しなは二三にちこのかたもう切干きりぼしらなければならないと自分じぶんくちについてつてたことをおもして、おつぎが機轉きてんかしたとこゝろよろこんだ。

包丁の音が雨戸の外に近く聞こえる。

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庖丁はうちやうおと雨戸あまどそとちかきこえる。

お品が体を半分布団からずり出してみたら、手拭いで髪を包んで少し前かがみになっているおつぎの後ろ姿が見えた。

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しな身體からだ半分はんぶん蒲團ふとんからずりしてたら、手拭てぬぐひかみつゝんですこ前屈まへかゞみになつてるおつぎの後姿うしろすがたえた。

「大根は分かったのか」

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大根だいこわかつたのか」

お品は聞いた。

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しないた。

「分かってるよ」

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わかつてるよ」

おつぎは包丁の手を止めて、横を向いて返事した。

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おつぎは庖丁はうちやうとゞめてよこむい返辭へんじした。

お品はまた布団へくるまった。

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しなまた蒲團ふとんへくるまつた。

そうしてまだ下手な包丁の音を聞いた。

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さうしてまだ下手へた庖丁はうちやうおといた。

お品の懐にいた与吉は、退屈してせがみ出した。

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しなふところ與吉よきち退屈たいくつしてせがみした。

おつぎはそれを聞いて

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おつぎはそれいて

「そうら、姉んとこへでも来てみろ」

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「そうら、ねえとこへでもろ」

と言いながら、忙しくぽっとひとくべ落ち葉を燃して、着物をあぶって与吉へ着せた。

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といひながらせはしくぽつと一燻ひとく落葉おちばもやして衣物きものあぶつて與吉よきちせた。

「よきは利口だから姉んとこにいるんだぞ」

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よき利口りこうだからねえとこるんだぞ」

お品は言った。

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しなはいつた。

おつぎは自分のむしろの上へ抱いて行った。

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おつぎは自分じぶんむしろうへいてつた。

おつぎの手は落ち葉のほこりで汚れていた。

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おつぎの落葉おちばほこりよごれてた。

再び包丁を持った時、大根には指の跡がついた。

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ふたゝ庖丁はうちやうつたとき大根だいこにはゆびあとがついた。

おつぎはその手を半纏で拭いた。

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おつぎはその半纏はんてんぬぐつた。

与吉はそばで刻まれた大根へ手を出す。

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與吉よきちそばきざまれた大根だいこす。

「危ないよ、さあこれでも持ってろ」

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危險あぶねえよ、さあこれでもつてろ」

おつぎは切りかけの大根をやった。

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おつぎはけの大根だいこをやつた。

与吉はすぐにそれをかじった。

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與吉よきちすぐにそれをぢつた。

「辛くてしようがないだろうな、よきは」

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からくてやうあんめえなよきは」

おつぎは甘やかすように言った。

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おつぎはあまやかすやうにいつた。

お品にはそれがよく聞こえて、二人がどんなことをしているのかが分かった。

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しなにはそれがきこえて二人ふたりがどんなことをしてるのかゞわかつた。

お品の耳には続いて

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しなみゝにはつゞいて

「ぽうんとしたか、そらそっちへ行っちゃった」

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「ぽうんとしたか、そらそつちへつちやつた」

という声がしたかと思うと

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といふこゑがしたかとおもふと

「今度はぽうんとするんじゃないからな」

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「こんだはぽうんとすんぢやねえかんな」

という声や、それからまた

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といふこゑやそれからまた

「それ持ち出すんじゃない、聞かないとこれで切ってやるぞ、血が出るぞ、ああ痛い」

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「それすんぢやねえ、かねえとこれつてやんぞ、あかまんまがるぞおゝいてえ」

などと、おつぎの言うのが聞こえた。

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などとおつぎのいふのがきこえた。

そのたびに包丁の音が止む。

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そのたび庖丁はうちやうおとむ。

お品には、与吉がいたずらをしたり、おつぎが痛いと言って指をくわえてみせれば与吉も自分の手を口へ当てているのが、目に見えるようである。

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しなには與吉よきち惡戯いたづらをしたり、おつぎがいたいといつてゆびくはへてせれば與吉よきち自分じぶんくちあてるのがえるやうである。

お品はおつぎをふだんからやかましくしていたので、よその子よりも割合に動けると思っているけれど、与吉とふざけたりしているのを見ると、まだ子供だということが念頭に浮かぶ。

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しなはおつぎを平常ふだんから八釜敷やかましくしてたので餘所よそよりも割合わりあひうごけるとおもつてるけれど、與吉よきち巫山戯ふざけたりしてるのをるとまだ子供こどもだといふことが念頭ねんとううかぶ。

自分が勘次と知り合ったのは十六の秋である。

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自分じぶん勘次かんじあひつたのは十六のあきである。

おつぎはこうして大人らしくなるであろうかと、いつになくそんなことを思った。

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おつぎはうして大人おとならしくるであらうかと何時いつになくそんなことをおもつた。

おつぎは十五であった。

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おつぎは十五であつた。

昼飯もお品は欲しくなかった。

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午餐ひるもおしなしくなかつた。

自分でも今日は商売に出られないと諦めた。

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自分じぶんでも今日けふあきなひられないとあきらめた。

明日になったらばと思っていた。

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明日あすつたらばとおもつてた。

しかしそれは空頼みであった。

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しかしそれは空頼そらだのみであつた。

お品は依然として枕を離れられない。

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しな依然いぜんとしてまくらはなれられない。

さすがに不安の念が先に立った。

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有繋さすが不安ふあんねんさきつた。

お品は、つい近ごろ行った勘次のことがしきりに思い出されて、こっちであれほど働いて行ったのに、きっと休みもしないで銭取りをしているのだろうと思うと、寒くてもシャツ一つになって、後にはそのシャツの端が抜け出してよく臍が出ることや、夜になるとよく骨がみりみりするようだと言ったことが目の前にあるようで、なんだか会いたくてたまらないような心持ちがするのであった。

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しなはつい近頃ちかごろつた勘次かんじことしきりにおもされて、こつちであれほどはたらいてつたのに屹度きつとやすみもしないで錢取ぜにとりをしてるのだらうとおもふと、さむくてもシヤツひとつになつて、のちにはそのシヤツのはししてへそることや、よるになるとほねがみり/\するやうだといつたことがまへにあるやうでなんだかひたくてたまらぬやうな心持こゝろもちがするのであつた。

勘次は利根川の掘削工事へ行っていた。

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勘次かんじ利根川とねがは開鑿工事かいさくこうじつてた。

秋のころから土方が勧誘に来て、だいぶ甘い話をされたので、この近くの村からも五、六人が募集に応じた。

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あきころから土方どかた勸誘くわんいう大分だいぶうまはなしをされたので近村きんそんからも五六にん募集ぼしふおうじた。

勘次は工事がどんなことかもよく知らなかったが、一日の手間が五十銭以上にもなるというので、それがその季節としては法外な値段なのに惚れ込んでしまったのである。

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勘次かんじ工事こうじがどんなことかもらなかつたが一にち手間てまが五十せん以上いじやうにもなるといふので、それがその季節きせつとしては法外はふぐわい値段ねだんなのにんでしまつたのである。

工事の場所は霞ヶ浦に近い低地で、洪水がいったん岸の草を沈めると、湖は広がって川と一つになり、ただ白々と氾濫するのを、人の手で築かれた堤防がわずかに湖と川とを区別しているあたりである。

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工事こうじ場所ばしよかすみうらちか低地ていちで、洪水こうずゐが一たんきしくさぼつすと湖水こすゐ擴大くわくだいしてかはひとつにたゞ白々しら/″\氾濫はんらんするのを、人工じんこうきづかれた堤防ていばうわづか湖水こすゐかはとを區別くべつするあたりである。

勘次は自分の土地と比べて、茫々としたあたりの様子に呑まれた。

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勘次かんじ自分じぶん土地とち比較ひかくして茫々ばう/\たるあたりの容子ようすまれた。

そうして人夫たちに権柄ずくでこき使われた。

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さうして工夫等こうふら權柄けんぺいにこき使つかはれた。

勘次はいよいよ雇われて行くとなった時、取り入れを急いだ。

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勘次かんじいよ/\やとはれてくとなつたとき收穫とりいれいそいだ。

冬至が近づくころには、田は言うまでもなく、畑の芋でも大根でもそれぞれ始末しなくてはならない。

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冬至とうじちかづくころにははいふまでもなくはたけいもでも大根だいこでもそれぞれ始末しまつしなくてはならぬ。

勘次は、お品が起きてかまどの火をつけるうちには、庭ぶたへもみのむしろを干したり、それから一人で磨臼をひいたりして、それから大根も干したり土へ埋けたりして、暗いうちから暗くなるまで働いた。

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勘次かんじはおしなきてかまどけるうちには庭葢にはぶたもみむしろしたりそれからひとりで磨臼すりうすいたりして、それから大根だいこしたりつちけたりしてくらいからくらいまではたらいた。

それでも、もみが少しと畑が少し残ったのを、お品がどうにかすると言ったので出て行ったのである。

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それでももみすこしとはたけすこのこつたのをおしながどうにかするといつたのでつたのである。

工事の場所へは八十キロもあった。

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工事こうじ箇所かしよへは廿もあつた。

勘次は、行けばすぐに銭になると思ったので、ようやく一円ばかりの財布を懐にした。

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勘次かんじけばすぐぜにになるとおもつたのでやうやく一ゑんばかりの財布さいふふところにした。

弁当をうんと背負ったので、目的地へ着くまでは渡し銭のほかには一銭も要らなかった。

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辨當べんたうをうんと背負しよつたので目的地もくてきちへつくまでは渡錢わたしせんほかには一せんらなかつた。

勘次は夜着いて、その次の日には疲れた体で仕事に出た。

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勘次かんじよるついてそのつぎにはつかれた身體からだ仕事しごとた。

彼は半日でも無駄な飯を食うことを恐れた。

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かれ半日はんにちでも無駄むだめしふことをおそれた。

しかしその次の日は、過激な労働から、俗にそら手といって手の筋が痛んだので、二、三日仕事に出られなかった。

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しかつぎ過激くわげき勞働らうどうからぞくそら手というてすぢいたんだので二三にち仕事しごとられなかつた。

それから六、七日たって激しい西風が吹いた。

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それから六七にちたつてはげしい西風にしかぜいた。

勘次は薄い布団へくるまって、日のうちから冷えていた足が暖まらなかった。

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勘次かんじうす蒲團ふとんへくるまつてうちからえてたあしあたゝまらなかつた。

うとうととぐっすり眠ることもできないで、寝返りを打って長い夜をようやく明かした。

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うと/\と熟睡じゆくすゐすることも出來できないで輾轉ごろ/\してながやうやあかした。

その次の日、彼はこわばったように感じる手を動かして、冷たいシャベルの柄を取って泥にくるまっていた。

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つぎかれこはばつたやうにかんずるうごかしてつめたいシヤブルのつてどろにくるまつてた。

そうしている所へ、村の近所の者がひょっこり訪ねて来たので、彼は狐にでも化かされたようにただ驚いた。

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さうしてところむら近所きんじよのものがひよつこりたづねてたのでかれきつねにでもつままれたやうにたゞおどろいた。

近所の者は、大勢がただ泥のようになって動いているので、どれがどうとも見分けがつかなくて困ったと言って、勘次に会えたことを繰り返してただ喜んだ。

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近所きんじよもの大勢おほぜいたゞどろのやうになつてうごいてるのでどれがどうとも識別みわけがつかないでこまつたといつて、勘次かんじうたことを反覆くりかへしてたゞよろこんだ。

途中へ一晩泊まったというようなことを言って、勘次が気ぜわしく聞くまでは用件を言わなかった。

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途中とちゆう一晩ひとばんとまつたといふやうなことをいつて勘次かんじこゝろせはしくまで理由わけをいはなかつた。

勘次はようやく、お品に頼まれて来たのだということを知った。

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勘次かんじやうやくおしなたのまれてたのだといふことをつた。

勘次は、お品が病気にかかったのだというのを聞いて、万一かという懸念がぎくりと胸にこたえた。

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勘次かんじはおしな病氣びやうきかゝつたのだといふのをいて萬一もしかといふ懸念けねんがぎつくりむねにこたへた。

そうして繰り返して、どんな塩梅だと聞いた。

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さうして反覆くりかへしてどんな鹽梅あんばいだといた。

話の様子ではそれほどでもないのかと思ってもみたが、それでも勘次は、口を利くにも唾が喉からぐっと突き返してくるようで落ち着けなかった。

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はなし容子ようすではそれほどでもないのかとおもつてもたが、それでも勘次かんじくちくにもつばのどからぐつとかへしてるやうで落付おちつかれなかつた。

その日の夜中に彼らは立った。

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夜中よなか彼等かれらつた。

勘次は自分も急ぐし、使いを疲れた足で歩かせることもできないので、霞ヶ浦を汽船で土浦の町へ出た。

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勘次かんじ自分じぶんいそぐし使つかひつかれたあしあるかせることも出來できないのでかすみうら汽船きせん土浦つちうらまちた。

夜は汽船で明けたが、どうしたのか途中で故障ができたので、土浦へ着いたのは予定の時間よりはるかに遅れていた。

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よる汽船きせんけたがどうしたのか途中とちう故障こしやう出來できたので土浦つちうらいたのは豫定よてい時間じかんよりははろかおくれてた。

土浦の町で勘次は鰯を一包み買って、手拭いでくくってぶら下げた。

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土浦つちうらまち勘次かんじいわし一包ひとつゝつて手拭てねぐひくゝつてぶらさげた。

土浦から彼は、疲れた足を後に捨てて、自分は力のかぎり歩いた。

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土浦つちうらからかれつかれたあしあとてゝ自分じぶんちからかぎあるいた。

それでも村へ入った時はすれ違う人がぼんやり分かるくらいで、自分の戸口に立った時は、薄暗い手ランプが柱に掛かってくすぶっていた。

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それでもならへはひつたときちがひとがぼんやりわかくらゐ自分じぶん戸口とぐちつたとき薄暗うすくらランプがはしらかゝつてくすぶつてた。

勘次は、ひっそりとした家の中に、すぐに布団へくるまっているお品の姿を見た。

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勘次かんじはひつそりとしたいへのなかにすぐ蒲團ふとんへくるまつてるおしな姿すがたた。

それから、お品の足をさすっているおつぎに目を移した。

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それからおしなあしさすつてるおつぎにうつした。

勘次は大戸をがらりと開けて敷居をまたいだ時、何も言わずにただ

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勘次かんじ大戸おほどをがらりとけてしきゐまたいだときなにもいはずにたゞ

「どうしたい」

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「どうしてえ」

と言うのが先であった。

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といふのがさきであつた。

お品は勘次の声を聞いて、思わず枕を動かして

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しな勘次かんじこゑいておもはずまくらうごかして

「勘次さんか」

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勘次かんじさんか」

と言って、さらに

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といつてさら

「南のおとっつあんは行き違いにでもならなかっただろうかね」

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みなみのおとつゝあはちげえにでもならなかつたんべかな」

と言った。

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といつた。

「行き会ったよ。そんだが、お前どんな塩梅なんだい」

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行逢いきやつたよ。そんだがおめえどんな鹽梅あんべえなんでえ」

「おれはそれほどでないと思っていたが、三、四日横になったきりでなあ。それでも今日あたりはちっとはいいようだから、この分じゃすぐに吹き返すかとも思ってるのよ」

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らそれほどでねえとおもつてたが三四日さんよつかよこつたきりでなあ、それでも今日等けふらはちつたあえゝやうだからこのぶんぢやすぐけえすかともおもつてんのよ」

「それじゃよかった。おれはただでも歩いてもよかったが、南のこと、また歩かせちゃ済まないから、いっしょに土浦まで汽船で乗りつけたんだが、南は草臥れたもんだから、おれが先へ出たんだがな。南もあの分じゃ今夜もなかなか容易じゃあるまいよ。それに汽船がまた遅れちまってな」

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「そんぢやよかつた、たゞぢやあるいてもよかつたが、みなみことまたあるかせちやまねえから同志どうし土浦つちうらまで汽船じようきけたんだが、みなみ草臥くたびれたもんだからさきたんだがな、みなみもあのぶんぢや今夜こんやもなか/\容易よういぢやあんめえよ、それに汽舩じようきまたおくれつちやつてな」

勘次は言いながらわらじを取った。

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勘次かんじはいひながら草鞋わらじをとつた。

手拭いの端へくくって来た鰯の包みをかさりとお品の枕元へ投げて、首へつけていた風呂敷包みをどさりと置いて、勘次は庭へ出て足を洗った。

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手拭てぬぐひはしくゝつていわしつゝみをかさりとおしな枕元まくらもとげて、くびへつけて風呂敷ふろしき包をどさりといて勘次かんじにはあしあらつた。

勘次はお品の枕元へ座を占めた。

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勘次かんじはおしな枕元まくらもとめた。

「そんなに悪くなくてそれでもよかった。おれはどうしたかと思ってな」

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「そんなにわるくなくつちやそれでもよかつた、らどうしたかとおもつてな」

勘次は改めてまた言った。

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勘次かんじあらためてまたいつた。

「お品、ご飯は食べたか」

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「おしなおまんまはべてか」

勘次はつけ足した。

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勘次かんじはつけした。

「さっき、おつうに米のお粥を炊いてもらって、それでもやっとかっ込んだところだよ」

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先刻さつきおつうにこめのおけえいてもらつてそれでもやつとんだところだよ」

「それじゃどうした、途中で見つけて来たんだから、一匹やってみないか」

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「それぢやどうした、途中とちゆう見付みつけてたんだから一ぴきやつてねえか」

勘次は手ランプをお品の枕元へ持って来て、鰯の包みを解いた。

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勘次かんじランプをおしな枕元まくらもとつていわしつゝみいた。

鰯は手ランプの光できらきらと青く見えた。

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いわしランプのひかりできら/\とあをえた。

「ほんによなあ」

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「ほんによなあ」

お品はうつぶせになってこう言った。

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しな俯伏うつぶしになつてういつた。

「おつう、そこへ火でも吹きつけてみないか」

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「おつう、其處そこでもつたけてねえか」

勘次は言った。

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勘次かんじはいつた。

「勘次さん、そら大変だったな。おれはそんなには要らなかったな」

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勘次かんじさんそら大變たいへんだつけな、らそんなにやらなかつたな」

「今だから、いつまでももつよ。そうしてお前も力をつけろな」

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いまだから何時いつまでもつよ、さうしておめえちからつけろな」

「汽船に乗って来たって、よっぽど費用も掛かったんだろうな」

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汽船じようきつてたつてぽど費用かゝりかゝつたんべな」

「そうよ、二人で六十銭ばかりだが、これはおれが出したのよ。南に出させるわけにも行かないからな」

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「さうよ、二人ふたりで六十せんばかりだがこれおれしたのよ、みなみさせるわけにもかねえかんな」

「それじゃ稼いだ銭、それだけ棒に振っちまったな」

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「それぢやかせえだぜねそれだけ立投たてなげにしつちやつたな」

「そんでも財布にはまだあるよ。七日ばかり働いて、それでも二円は残ったからな。そんでまた行くはずで、前借りを少ししてきたんだ。こっちのほうから行ってる連中が保証してくれてな」

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「そんでも財布せえふにやまあだるよ、七日なぬかばかりはたらえてそれでも二りやうのこつたかんな、そんでまたはず前借さきがりすこししてたんだ、こつちのはうからつてる連中れんぢう保證ほしようしてくれてな」

勘次は誇り顔に言った。

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勘次かんじほこがほにいつた。

「おれは今日みたいだといいが、ひどく会いたくなってなあ」

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今日けふてえだらえゝが、ひど行逢いきやひたくなつてなあ」

お品はうつぶせた額を枕につけた。

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しな俯伏うつぶしたひたひまくらにつけた。

「どうせここらの始末もしないで行ったんだから、一遍は途中で帰ってみなくちゃならないのだから、同じことだよ」

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「どうせ此處ここらの始末しまつもしねえでつたんだから、一遍いつぺん途中とちうけえつてなくつちやらねえのがだからおなことだよ」

勘次はお品をのぞき込むようにして言った。

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勘次かんじはおしなのぞこむやうにしていつた。

「それでも俵にはしておいたな」

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「それでもたはらにしちやいたな」

勘次は壁際の麦藁俵を見て言った。

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勘次かんじ壁際かべぎは麥藁俵むぎわらだはらていつた。

お品はまだうつぶせたままである。

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しなはまだ俯伏うつぶしたまゝである。

「あっちにいちゃ銭は要らないな。煙草一服吸うわけじゃなし、十五日目が晦日で、それまでは勘定なしで、その間は米でも薪でもみんな通帳で借りておくくらいなんだから、十五日目にならなくちゃ財布も膨れないが、また百でも出ることはないからな」

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「あつちにちやぜにらねえな、煙草たばこぷくふべえぢやなし、十五日目にちめ晦日みそかでそれまでは勘定かんぢやうなしでそのあひだこめでもまきでもみんな通帳かよひりてくれえなんだから、十五日目にちめらなくつちや財布せえふふくれねえが、またひやくでもつこはねえかんな」

勘次はさらに出先のことをお品へ聞かせた。

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勘次かんじさら出先でさきのことをおしなかせた。

「米ばかり炊いても毎日一升ずつは要るくらいだから、骨もずいぶん折れるが、出しさえすりゃ二貫と三貫は残せるから、帰るまでにはおれもどうにかなると思ってるのよ。そうすりゃ塩鮭くらいは買うこともできるからな」

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こめばかりえても毎日まいにちしようづゝはくれえだからほね隨分ずゐぶんれんがせえすりや二くわんと三ぐわんのこせつから、けえるまでにやおれもどうにかるとおもつてんのよ、さうすりや鹽鮭しほびきぐれえあことも出來できらな」

「それじゃよかった。土方なんて、ろくな奴らはいないっていうから、どうしたかと思ってな」

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「そんぢやよかつた、土方どかたなんちやろく奴等やつらねえつていふからどうしたかとおもつてな」

お品は首を持ち上げた。

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しなくびもたげた。

「そんな奴らと付き合った日には限りはないが、隅のほうに縮こまってりゃ何とも言わないな」

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「そんな奴等やつら交際つきえゝしたにやかぎりはねえが、すみはうにちゞまつてりやなんともゆはねえな」

勘次がついている間に、おつぎは枯れそだを折って火鉢へ火を起こした。

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勘次かんじがついてあひだにおつぎは枯粗朶かれそだをつ火鉢ひばちおこした。

勘次は火箸を渡して鰯を三つばかり乗せた。

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勘次かんじ火箸ひばしわたしていわしつばかりせた。

鰯の油がじりじりと垂れて、青い炎が立った。

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いわしあぶらがぢり/\とれてあをほのほつた。

鰯の匂いが薄い煙とともに部屋の中に満ちた。

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いわしにほひうすけむりとも室内しつない滿ちた。

そうして、その匂いがお品の食欲を促した。

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さうしてそのにほひがおしな食慾しよくよくうながした。

お品はうつぶせたなりで、煙臭くなった鰯を食べた。

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しな俯伏うつぶしたなりで煙臭けぶりくさくなつたいわしべた。

「どうした、塩辛くはあるまい」

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「どうした鹽辛しよつぱかあんめえ」

「さすがにうまいな」

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有繋まさか佳味うめえな」

「これでも、ここらの商人は持って来ないぞ」

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これでもこゝらの商人あきんどつちやねえぞ」

勘次は一心に見ながら言った。

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勘次かんじ一心いつしんながらいつた。

お品は二匹へ手をつけて箸を置きながら、懐で眠っている与吉をのぞいて

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しな二匹にひきをつけてはしきながらふところねむつて與吉よきちのぞいて

「起きていたら大騒ぎだろう」

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きてたら大騷おほさわぎだんべ」

と言った。

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といつた。

「もっと食べろな」

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「いまつとたべろな」

勘次は言った。

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勘次かんじはいつた。

「たくさんだよ、おつうにもやってくれよな」

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澤山たくさんだよ、おつうげもやつてくろうな」

「おれも飯でも食おうかね」

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おれめしでもはうかえ」

勘次は風呂敷包みから弁当の残りを出して、冷たいままぶすぶすとかじった。

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勘次かんじ風呂敷包ふろしきづゝみから辨當べんたうのこりしてつめたいまゝぷす/\とかぢつた。

「おうい、お茶は冷たくなったっけかな」

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「おうつ、おちやめたくなつたつけかな」

お品は言った。

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しなはいつた。

「要らないぞ、仕事に出りゃ毎日こうだ」

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えらねえぞ仕事しごとりや毎日まえんちかうだ」

勘次は梅干しを少しずつなめ減らした。

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勘次かんじ梅干うめぼしすこしづゝらした。

弁当が尽きてから、勘次は鰯をおつぎへ挟んでやった。

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辨當べんたうきてから勘次かんじいわしをおつぎへはさんでやつた。

そうして自分でも一口食べた。

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さうして自分じぶんでも一くちたべた。

「こりゃうまいことはうまいが、あんまり脂っこくて、おれのには胸が悪くなるようだな」

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りや佳味うめえこたあ佳味うめえがあんまりあまくつておらがにやむねわるくなるやうだな」

勘次は冷めた湯を幾杯か傾けた。

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勘次かんじめた幾杯いくはいかたぶけた。

勘次は風呂敷から袋を出してお品の枕元へ置いて

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勘次かんじ風呂敷ふろしきからふくろしておしな枕元まくらもといて

「米はこれだけ残ったから持って来たんだ。あっちにいればいいが、幾日でも空けると炊かれちまっても仕方がないからな。そんじゃ、こりゃおつうにやっておくんだ」

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こめこれだけのこつたからつてたんだ、あつちにればえゝが幾日いつかでもけるとかれつちやつてもやうねえかんな、そんぢやりやおつうげやつてくんだ」

勘次は米の小さな袋をおつぎへ渡した。

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勘次かんじこめちひさなふくろをおつぎへわたした。

「袋なんぞ、また何だと思ったよ」

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ふくろなんぞまたなんだとおもつたよ」

お品は軽く言った。

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しなかるくいつた。

「それでも薪は持って来るわけにも行かないから、置いて来ちまった」

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「それでもまきつてわけにもかねえからいてつちやつた」

勘次は自ら嘲るように、目から口へかけて冷たい笑いが動いた。

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勘次かんじみづかあざけるやうにからくちけてつめたいわらひうごいた。

「お品、足でもさすってやろうじゃないか」

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「おしなあしでもさすつてやんべぢやねえか」

勘次はお品の裾のほうへ行った。

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勘次かんじはおしなすそはうつた。

「いいよ勘次さん。おれは今日は日のうちから心持ちがいいんだから。さっきもおつぎがさすってやろうなんて言うもんだから、少しもやってくれるなって言ったところだよ。この分じゃ二、三日も過ぎたら、勘次さんはまた行けるだろうよ」

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「えゝよ勘次かんじさん、今日けふのうちから心持こゝろもちえゝんだから、先刻さつきもおつうがさすつてやんべなんていふもんだから少しもやつてくろつてつたところだよ、こんぢや二三日にさんちぎたら勘次かんじさんはまたけべえよ」

お品は快さそうに言った。

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しなこゝろよげにいつた。

「今夜はひどく心持ちがいいんだよ。いいよ、本当だよ勘次さん、お前草臥れただろうな」

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今夜こんやはひどく心持こゝろもちえゝんだよ、えゝよ本當ほんたうだよ勘次かんじさん、おめえ草臥くたびれたんべえな」

さらにお品は威勢がついて言った。

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さらにおしな威勢ゐせいがついていつた。

夜は更けた。

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けた。

外の闇は凍ったかと思うように、ただしんとした。

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そとやみこほつたかとおもふやうにたゞしんとした。

こんにゃくの水にも、紙のような氷が張った。

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蒟蒻こんにやくみづにもかみごとこほりぢた。

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次の朝、霜は白く庭ぶたの藁に降りた。

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つぎあさしもしろ庭葢にはぶたわらにおりた。

切り干しのむしろは三枚ばかりその庭ぶたの上に敷いたままで、切り干しには氷を粉にしたような霜が凝っていて、東の森の隙間から差し透す朝日にきらきらと光った。

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切干きりぼしむしろ三枚さんまいばかりその庭葢にはぶたうへいたまゝで、切干きりぼしにはこほり粉末ふんまつにしたやうなしもつてて、ひがしもり隙間すきまからとほ朝日あさひにきら/\とひかつた。

白い切り干しは、蒸さずに干したのであった。

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しろ切干きりぼしさずにしたのであつた。

切り干しは、雨が降らなければ、ほこりだらけになろうがごみが交じろうが、昼も夜もむしろは敷き放しである。

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切干きりぼしあめらねばほこりだらけにらうがごみまじらうがひるよるむしろはなしである。

勘次は霜柱の立った小道を南へ行った。

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勘次かんじ霜柱しもばしらたつてる小徑こみちみなみつた。

昨夜遅かったことやら何やら話をして手間取った。

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昨夜ゆうべおそかつたことやらなにやらはなしをしてひまどつた。

庭先から続く小さな桑畑の向こうに家が見えるので、ふだんそれを勘次の家でもただ南とだけ言っている。

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庭先にはさきからつゞちひさな桑畑くはばたけむかふいへえるので、平生へいぜいそれを勘次かんじいへでもたゞみなみとのみいつてる。

彼がこもつくこをかついで帰って来た時は、日なたの霜が少し解けて粘ついていた。

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かれこもつくこをかついでかへつてとき日向ひなたしもすこけてねばついてた。

お品は、勘次がちょっとの間いなくなったのでひどく寂しかった。

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しな勘次かんじ一寸ちよつとなくつたのでひどさびしかつた。

この朝になってからもお品の容態がいいので、勘次はほっと安心した。

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あさになつてからもおしな容態ようだいがいゝので勘次かんじはほつと安心あんしんした。

そうして、斜めに遠くから差す冬の日を浴びながら、庭ぶたの上にむしろを敷いて俵を編みはじめた。

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さうしてなゝめとほくからふゆびながら庭葢にはぶたうへむしろいてたはらみはじめた。

こもつくこは両端に足が付いている。

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こもつくこは兩端りやうたんあしいてる。

ちょうど荷鞍の骨のような簡単な道具である。

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丁度ちやうど荷鞍にぐらほねのやうな簡單かんたん道具だうぐである。

その足から足へ渡した棒へ藁を一つかみずつ当てては、八人坊主をあっちへこっちへ打ち違えながら縄を締めつつ編むのである。

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そのあしからあしわたしたぼうわら一掴ひとつかみづゝてゝは八人坊主はちにんばうずをあつちへこつちへちがひながらなはめつゝむのである。

八人坊主というのは、その縄を巻いた、いわば小さな錘である。八つあるので八人坊主と言っている。

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八人坊主はちにんばうずといふのはそのなはいたいはゞちひさなおもりである、やつつあるので八人坊主はちにんばうずといつてる。

小作米を入れる藁俵を四、五俵分作らねばならないことが、稼ぎに出る時から彼には気掛かりであった。

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小作米こさくまいれる藁俵わらだはらを四五俵分へうぶんつくらねばらぬことがかせぎにときからかれには心掛こころがかりであつた。

すぐった藁も縄も別に取っておきながら、ただ忙しくて放り出して出て行ったのである。

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すぐつたわらなはべつつてきながらたゞせはしくて放棄うつちやつてつたのである。

お品は、毎日閉め切っていた表の雨戸を一枚だけ開けさせた。

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しな毎日まいにちつておもて雨戸あまどを一まいだけけさせた。

からりとした青い空が見えて、日が自分のいる布団の近くまで伸びてきた。

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からりとしたあをそらえて自分じぶん蒲團ふとんちかくまでつた。

お品はこれまでは、明るい外を見ようと思うにはあまりに心がふさいでいた。

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しなれまではあかるいそとようとおもふにはあまりにこゝろうつしてた。

お品は庭先の栗の木から垂れた大根が、褐色に干からびているのを見た。

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しな庭先にはさきくりかられた大根だいこ褐色かつしよくるのをた。

おつぎも勘次の横へむしろを敷いて、また大根を切っている。

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おつぎも勘次かんじよこむしろいてまた大根だいこつてる。

その包丁のとんとんと鳴る間に、忙しく八人坊主を動かしてはさらさらと藁をしごく音が、かすかに交じって聞こえる。

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その庖丁はうちやうのとん/\とあひだせはしく八人坊主はちにんばうずうごかしてはさらさらとわらしごおとかすかにまじつてきこえる。

お品は二人の姿を前にして、ひどく心強く感じた。

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しな二人ふたり姿すがたまへにしてひど心強こゝろづよかんじた。

その日は、栗の木に掛けた大根の動かないほど穏やかな日であった。

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くりけた大根だいこうごかぬほどおだやかなであつた。

お品はこの分で行けば、一枚紙をはがすように快くなることと確信した。

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しなぶんけば一枚紙いちまいがみがすやうにこゝろよくなることゝ確信かくしんした。

勘次は藁俵を編み終えて、そうして端を縛った小さな藁の束を丸く開いて、それを足の底に踏んで、かかとを中心に手と足とをコンパスのようにしてぐるぐると回りながら、丸い俵ぼっちを作った。

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勘次かんじ藁俵わらだはらへて、さうしてはししばつたちひさなわらたばまるひらいて、それをあしそこんでかゝと中心ちうしんあしとを筆規ぶんまはしのやうにしてぐる/\とまはりながらまるたはらぼつちをつくつた。

勘次は、お品がどうにか始末をしておいた麦藁俵を開けて、仕上げたばかりの藁俵へ米を量り込んだ。

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勘次かんじはおしながどうにか始末しまつをしていた麥藁俵むぎわらだはらけて仕上しあげたばかりの藁俵わらだはらこめはかんだ。

米には赤い粒もあったが、もみが少し交じっていて、それが目に立った。

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こめにはあかつぶもあつたがあらすこまじつててそれがつた。

「もみが少し高かったな」

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あらすこたかゝつたな

勘次はふとそう言った。

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勘次かんじはふとさういつた。

「そうだったっけかな。それでもおれは唐箕は強く立てたつもりなんだがなあ。今年は赤もたくさんだが、磨臼の切れ方もどういうもんだか悪いんだよ」

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「さうだつけかな、それでも唐箕たうみつよてたつもりなんだがなよ、今年ことしあか夥多しつかりだが磨臼するすかたもどういふもんだかわりいんだよ」

と、お品は少し身を動かして言い訳するように言った。

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とおしなすこうごかして分疏いひわけするやうにいつた。

「もっとも、これくらいじゃ旦那も大目に見てくれるだろうから心配はあるまいがなあ」

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もつとこのくれえぢや旦那だんな大目おほめてくれべえから心配しんぺえはあんめえがなよ」

勘次はすぐにお品の病気に気づいて、こう言った。

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勘次かんじすぐにおしな病氣びやうき心付こゝろづいてういつた。

壁際には、藁の器用な俵が規則正しく積み換えられた。

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壁際かべぎはにはわら器用きようたはら規則正きそくたゞしくかへられた。

お品はそれを一心に見た。

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しなはそれを一しんた。

それもお品を快くする一つであった。

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それもおしなこゝろよくするひとつであつた。

勘次は俵のそばの手桶のふたを取って

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勘次かんじたはらそば手桶てをけふたをとつて

「こりゃこんにゃくだな」

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りや蒟蒻こんにやくだな」

と言った。

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といつた。

「おれはそれを仕入れたっきり、起きられないんだよ」

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らそれ仕入しいれたつきりおきられねえんだよ」

お品は枕を手で動かして言った。

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しなまくらうごかしていつた。

勘次はまたふたをした。

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勘次かんじまたふたをした。

静かな空をじりじりと移って行く日が傾いたかと思うと、一散に落ちはじめた。

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しづかなそらをぢり/\とうつつてかたぶいたかとおもふと一さんちはじめた。

冬の日はもう短い頂点に達しているのである。

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ふゆはもうみじか頂點ちやうてんたつしてるのである。

勘次はまだ日があるからと言って、鍬をかついで麦畑へ出た。

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勘次かんじはまだるからといつてくはかついで麥畑むぎばたけた。

しかしいくらも耕さないうちに日は落ちて、にわかに冷たくなった世間は暗澹としてきた。

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しかいくらもたがやさぬうちにちてにはかにつめたくつた世間せけん暗澹あんたんとしてた。

お品は勘次を出して、ひどくやるせないような心持ちになって、雨戸を引かせて暗いほうへ向いて目を閉じた。

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しな勘次かんじしてひど遣瀬やるせないやうな心持こゝろもちになつて、雨戸あまどひかせてくらはうむいぢた。

冬至はもう間が二日しかなくなった。

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冬至とうじはもうあひだが二日しかくなつた。

朝のうちに勘次はこんにゃくのふたを取ってみて

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あさうち勘次かんじ蒟蒻こんにやくふたをとつて

「どうしたもんだかな、おれでもかついで歩こうかな。こうしておいたんじゃ仕方がないからな」

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「どうしたもんだかな、おれでもかついてあるつてんべかな、かうしていたんぢややうねえかんな」

お品へ相談してみた。

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しな相談さうだんしてた。

「そうよなあ。それよりか、おれはどっちかといったら、大根でも漬けてもらいたいな。毎日栗の木を見ていて、干しすぎやしないかと思って心配してるんだからよ」

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「さうよな、それよりからどつちかつちつたら大根だいこでもつけもれへてえな、毎日まいんちくり干過ほしすぎやしめえかとおもつて心配しんぺえしてんだからよ」

お品は訴えるように言って、そうしてさらに

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しなうつたへるやうにいつてさうしてさら

「自分が丈夫でさえありゃ、とっくにやっちまったんだが」

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自分じぶん丈夫ぢやうぶでせえありやとつくにやつちまつたんだが」

と小声で言った。

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小聲こごゑでいつた。

お品はどうも勘次を出すのがいやであった。

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しなはどうも勘次かんじすのがいやであつた。

しかし、なんだかそうはっきりとも言えないので、こう言ったのであった。

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しかなんだかさう明白地あからさまにもいはれないのでういつたのであつた。

「勘次さん、塩を見てくれないか。おれは大丈夫あると思ってたっけがなあ。それからこっちの桶の糠がいいんだよ。そっちのには房州砂が交じってるんだから」

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勘次かんじさんしほてくんねえか、大丈夫だえぢよぶるとおもつてたつけがなよ、それからこつちのをけぬかがえゝんだよ、そつちのがにや房州砂ばうしうずなまじつてんだから」

お品は言った。

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しなはいつた。

「おうい」

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「おうい」

勘次は言って、

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勘次かんじはいつて、

「房州砂でも何でも構うまい。どうせ糠を食うんじゃあるまいし。それにこっちのはちっと凝り固まってら」

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房州砂ばうしうずなでもなんでもかまあめえ、どうでぬかふんぢやあんめえし、それにこつちなちつと凝結こごつてら」

「勘次さん、そんでも入れるなよ。毒だっていうんだから。おれ、せっかく別にしてたんだから」

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勘次かんじさんそんでもえんなよ、どくだつちんだから、おれ折角せつかくべつにしてたんだから」

お品は少し身を起こしかけて言った。

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しなすこおこけていつた。

「そうか、そんじゃそうしよう」

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「さうかそんぢやさうすべよ」

それから塩を改めて見て

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それからしほあらためて

「どうしてこれだけで使い切れるもんかい」

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「どうしてれだけ使つかれるもんけえ」

と勘次は言った。

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勘次かんじはいつた。

お品は、勘次がはしごを掛けて一つ一つに大根を外すのも、小糠をむしろへ量るのも、白い塩を小糠へ混ぜるのも、満足げに見ていた。

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しな勘次かんじ梯子はしごけてひとつ/\に大根だいこはずすのも小糠こぬかむしろはかるのもしろしほ小糠こぬかぜるのも滿足氣まんぞくげた。

お品は勘次を外へやるのがいやなので、そうは言わずに、時々おつぎに足をさすらせた。

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しな勘次かんじほかるのがいやなのでさうはいはずに時々とき/″\おつぎにあしをさすらせた。

そうすると勘次は

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さうすると勘次かんじ

「どうした、いくらか悪いのか」

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「どうしたいくらかわるいのか」

と、自分も一心に布団の裾へ手を掛ける。

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自分じぶんも一しん蒲團ふとんすそける。

勘次は庭から外へは出られなかった。

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勘次かんじにはからそとへはられなかつた。

それでも冬至が明日と迫った日に、勘次はこんにゃくを持って出た。

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それでも冬至とうじ明日あすせまつた勘次かんじ蒟蒻こんにやくつてた。

お品もそれは止めなかった。

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しなもそれはめなかつた。

もう幾人か歩いた後なので、思うようにはさばけなかったが、それでも勘次はお品に引かれて、まだ残っているこんにゃくをかついで帰って来てしまった。

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もう幾人いくにんあるいたあとなので、おもふやうにはけなかつたがそれでも勘次かんじはおしなにひかされて、まだのこつて蒟蒻こんにやくかついでかへつてしまつた。

「こんにゃくはお品のもんだから、銭はみんなお前にやっておこう」

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蒟蒻こんにやくはおしながもんだから、ぜにはみんなおめえげつてくべ」

勘次は銅貨をじゃらじゃらとお品の枕元へ空けた。

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勘次かんじ銅貨どうくわをぢやら/\とおしな枕元まくらもとけた。

お品は銅貨を一つ一つ勘定した。

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しな銅貨どうくわを一つ/\勘定かんぢやうした。

そうして元手を引いてもいくらかの余りがあったので

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さうして資本もとでいてもいくらかの剩餘あまりがあつたので

「勘次さん、思いのほかだったな。まだあとよっぽどあるだろうか」

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勘次かんじさんおもひのほかだつけな、まあだあと餘程よつぽどあんべえか」

と言った。

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といつた。

「いくらでもないな。もうこれだけじゃ、また出るほどのこともあるまいよ」

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いくらでもねえな、はあ此丈これだけぢやまたほどのこつてもあんめえよ」

勘次は言った。

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勘次かんじはいつた。

お品は自分の手で銭を布団の下へ入れた。

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しな自分じぶんぜに蒲團ふとんしたれた。

その日、お品は勘次を出して情けないような心持ちがしていたのであるが、思ったよりは商売をして来てくれたので、一日の不足がまったく取り返された。

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しな勘次かんじしてなさけないやうな心持こゝろもちがしてたのであるが、おもつたよりはあきなひをしてれたので一にち不足ふそくまつた恢復くわいふくされた。

そうして

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さうして

「菜は畑へ置きっ放しだったろうな」

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はたけきつぱなしだつけべな」

勘次が言った時、お品も驚いたように

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勘次かんじがいつたときしなおどろいたやうに

「ほんにそうだったなあ、まあ、遅れちまったっけなあ。おれは忘れてたっけが、大丈夫だろうかなあ」

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「ほんにさうだつけなまあ、おくれつちやつたつけなあ、わすれてたつけが大丈夫だえぢよぶだんべかなあ」

と言った。

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といつた。

「そんじゃおれは、今からでも引ける丈引こう」

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「そんぢやいまつからでもけるだけくべ」

勘次はおつぎを連れて出た。

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勘次かんじはおつぎをれてた。

冬至になるまで畑の菜を打ち捨てておく者は、村には一人もないのであった。

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冬至とうじになるまではたけ打棄うつちやつてくものはむらには一人ひとりもないのであつた。

勘次は荷車を借りて、たそがれまでに二車引いた。

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勘次かんじ荷車にぐるまりて黄昏ひくれまでに二くるまいた。

青菜の下葉は、もうよくよく黄色に枯れていた。

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青菜あをな下葉したばはもうよく/\黄色きいろれてた。

お品は二人を出し、薄暗くなった家にぼんやりしていても、畑の取り入れを思案して、寂しい不足を感じはしなかった。

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しな二人ふたり薄暗うすぐらくなつたいへにぼつさりしててもはたけ收穫しうくわく思案しあんしてさびしい不足ふそくかんじはしなかつた。

夏の忙しい、そうして野菜の乏しい時には、彼らの唯一の副食物が塩をかむような漬物に限られているので、大根でも青菜でも比較的余計な蓄えをすることが、彼らには重大な条件の一つになっているのである。

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夏季かきいそがしいさうして野菜やさい缺乏けつばふしたときには彼等かれら唯一ゆゐいつ副食物ふくしよくぶつしほむやうな漬物つけものかぎられてるので、大根だいこでも青菜あをなでも比較的ひかくてき餘計よけいたくはへをすることが彼等かれらには重大ぢゆうだい條件でうけんひとつにつてるのである。

冬至の日も静かであった。

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冬至とうじしづかであつた。

このごろになってから、ここばかりは忘れたかと思うように西風が止んでいる。

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ごろになつてから此處ここばかりはわすれたかとおもふやうに西風にしかぜんでる。

昼のひとしきりは、冷たい空気を透して日が暖かに差しかけた。

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ひるひとしきりはつめたい空氣くうきとほしてあたゝかにけた。

お品は朝から心持ちが晴れ晴れして、日が昇るにつれて布団へ起き直ってみたが、体が力のないながらに妙に軽くなったことを感じた。

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しなあさから心持こゝろもち晴々はれ/″\してのぼるにれて蒲團ふとんなほつてたが、身體からだちからいながらにめうかるつたことをかんじた。

自分の布団のそばまで差し込む日に誘い出されたように、雨戸の敷居際まで出て、与吉を抱いては倒してみたり、くすぐってみたりして騒がした。

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自分じぶん蒲團ふとんそばまでさそされたやうに、雨戸あまど閾際しきゐぎはまで與吉よきちいてはたふしてたり、くすぐつてたりしてさわがした。

勘次はおつぎを相手に、井戸端で青菜の始末をしている。

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勘次かんじはおつぎを相手あひて井戸端ゐどばた青菜あをな始末しまつをしてる。

根を切って桶で洗った青菜は、地べたへ横たえたはしごの上に、一枚外して行って載せたその戸板へ積まれた。

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つてをけあらつた青菜あをなは、べたへよこたへた梯子はしごうへに一まいはづしてつてせたその戸板といたまれた。

菜が洗い終わった時、枯れ葉の多いようなのはみな釜でゆでて、後ろの林の楢の幹へ縄を渡して干し菜に掛けた。

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あらをはつたとき枯葉かれはおほいやうなのはみなかまでゝうしろはやしならみきなはわたして干菜ほしなけた。

自分たちの昼飯のおかずにも一釜ゆでた。

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自分等じぶんら晝餐ひるさいにも一釜ひとかまでた。

お品は、わずかな日数を横になっていたばかりに目が衰えたものか、日がやや眩しいのを感じながら、その日の光を全身に浴びて、二人のするのを見ていた。

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しなわづか日數ひかずよこつてたばかりにおとろへたものかやゝまぶしいのをかんじつゝひかり全身ぜんしんびながら二人ふたりのするのをた。

そうして、ゆで菜の一皿が、いくらか渇きを覚えたせいか、非常にうまく感じた。

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さうして茹菜ゆでな一皿ひとさらいくらかかつおぼえた所爲せゐ非常ひじやう佳味うまかんじた。

青菜の水が切れたので、勘次は桶へ塩を振っては青菜を足でぎりぎりと踏みつけ、また塩を振っては踏みつける。

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青菜あをなみずれたので勘次かんじをけしほつては青菜あをなあしでぎり/\とみつけてまたしほつてはみつける。

お品は塩の加減やら何やら、さっきからしきりに口を出している。

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しなしほ加減かげんやらなにやら先刻さつきからしきりにくちしてる。

勘次はお品の言うとおりに運んでいる。

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勘次かんじはおしなのいふとほりにはこんでる。

お品は起きていても別に疲れもしないので、そっと草履をはいて後ろの戸口から出て、楢の木へ引っ張った干し菜を見た。

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しなきててもべつつかれもしないのでそつと草履ざうり穿いてうしろ戸口とぐちからならつた干菜ほしなた。

それから林を斜めに田の端へ下りて、また、ぐみの木のそばに立って、そこをそっと踏み固めた。

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それからはやしなゝめはたへおりてまた牛胡頽子うしぐみそばつて其處そこをそつとかためた。

それからしばらく周りを見て立っていた。

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それからしばら周圍あたりつてた。

お品は庭先から呼ぶ勘次の大きな声を聞いた。

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しな庭先にはさきから勘次かんじおほきなこゑいた。

竹や木の幹に手を掛けながら斜めに林を登って、後ろの戸口から家へ戻った時、さらに叫んだ勘次の声を聞くとともに、天秤棒をかついだままぼんやり立っている商人の姿を庭ぶたの上に見た。

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たけみきけながらなゝめにはやしをのぼつてうしろ戸口とぐちからうちへもどつたときさらさけんだ勘次かんじこゑくとともに、天秤てんびんかついだまゝぼんやりつて商人あきんど姿すがた庭葢にはぶたうへた。

「お品、卵がほしいとよ」

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「おしなたまごしいと」

勘次は次の桶の青菜に塩を振りかけながら言った。

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勘次かんじつぎをけ青菜あをなしほけながらいつた。

「いくらかあったっけな」

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いくらかつたつけな」

お品は戸棚の引き出しから、白い皮の卵を二十ばかり出した。

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しな戸棚とだな抽斗ひきだしからしろかはたまごを廿ばかりした。

「おつう、四、五日見ないでいたっけが、ねぐらにもいくらかあったろう。上がってみないか」

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「おつう、四五日ねえでたつけがとやにもいくらかつたつけべ、あがつてねえか」

おつぎに言いつけた。

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おつぎに吩附いひつけた。

おつぎが米俵へ登って、その上に低く吊った竹かごのねぐらをのぞいた時、雌鶏が一羽けたたましく飛び出して、後ろの楢の木の中へ鳴き込んだ。

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おつぎは米俵こめだはらのぼつてそのうへひくつた竹籃たけかごとやのぞいたとき牝雞めんどりが一けたゝましくしてうしろならなかんだ。

ほかの鶏もひとしきりともにやかましく鳴いた。

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にはとりも一しきりともやかましくいた。

おつぎは手を伸ばしては、卵を一つ一つに取って袂へ入れた。

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おつぎはばしてはたまごを一つ/\につてたもとれた。

おつぎは袂をぶらぶらさせて、危なそうに米俵を降りた。

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おつぎはたもとをぶら/\させて危相あぶなさう米俵こめだはらりた。

そこにも卵は六つばかりあった。

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其處そこにもたまごは六つばかりあつた。

商人は下ろした四角なぼてざるから、真鍮の皿と鉤が吊された秤を出した。

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商人あきんどおろした四かくなぼてざるから眞鍮しんちうさらかぎつるされたはかりした。

「相場はいくらだね」

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かけいくらだね」

お品は聞いた。

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しないた。

「十一半さ。近ごろどうも安くてな」

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「十一はんさ、近頃ちかごろどうもやすくつてな」

商人は言いながら浅い目ざるへ卵を入れて、萌葱の紐の手掛けを持って秤の棹を目八分にして、そうして分銅の糸をぎっと押さえたまま銀色の目を数えた。

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商人あきんどはいひながらあさ目笊めざるたまごれて萠黄もえぎひもたどりつてはかりさをにして、さうして分銅ふんどういとをぎつとおさへたまゝ銀色ぎんいろかぞへた。

おもちゃのような小さなそろばんを出して、商人は

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玩具おもちやのやうなちひさな十露盤そろばんして商人あきんど

「みんなで四百二十三匁二分だからな、それ」

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皆掛みながけが四百廿三もんめだからなそれ」

秤の目をお品に見せて、そろばんの玉をはじいた。

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はかりをおしなせて十露盤そろばんたまはじいた。

「風袋を引くと四百八匁二分か。どうした、いくつだ、二十六かな。そうすると一つが」

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風袋ふうたいくと四百八もんめか、どうしたいくつだ廿六かな、さうするとひとつが」

商人の言い終わらないうちに、お品は

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商人あきんどのいひをはらぬうちにおしな

「いくらなんだい、この風袋は」

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いくらなんでえ、風袋ふうたいは」

と聞いた。

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いた。

「十五匁だな」

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「十五もんめだな」

「たいがい十匁じゃないかい」

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大概てえげえもんめぢやねえけえ」

「そんなら見なさい、それ、十五匁だろう。おれのは他人のよりも大きいんだからな」

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「そんだらさつせえそれ、十五もんめだんべ、おらがな他人たにんのがよりやけえんだかんな」

商人は目ざるの目を掛けて見せて

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商人あきんど目笊めざるけてせて

「はて、一つ十五匁七分ずつだ。粒は小さいほうだな」

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「はて、一つ十五もんめづゝだ、つぶちひせえはうだな」

商人はゆっくりそろばんの玉をはじいて

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商人あきんどはゆつくり十露盤そろばんたまはじいて

「四十六銭八厘六毛三朱となるんだが、こりゃ八厘としてもらってな」

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「四十六せんりんまうしゆるんだが、りや八りんとしてもらつてな」

と、商人は財布から自分の手へ銭を空けた。

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商人あきんど財布さいふから自分じぶんぜにけた。

「お品、お前自分でも食ったらよくないかい。いくつでも取っておけな」

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「おしなおめえ自分じぶんでもつたらよかねえけ、いくつでもつてけな」

勘次は塩だらけにした手を止めて、遠くから怒鳴った。

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勘次かんじしほだらけにしためてとほくから呶鳴どなつた。

「この銭でほかの物を買って食ったほうがいいから、これだけはやることにしようよ。せっかく勘定もしたもんだからよ。おれは大層よくなったんだから大丈夫だよ」

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ぜにほかものつてつたはうがえゝからだけるとすべえよ、折角せつかく勘定かんぢやうもしたもんだからよ、大層たえそよくなつたんだから大丈夫だえぢよぶだよ」

お品は言った。

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しなはいつた。

「そんなこと言わないで、いくつでも取っておけよ。治り際が気をつけないといけないもんだから」

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「そんなこといはねえでいくつでもつてけよ、なほぎはけねえぢやえかねえもんだから」

勘次は漬け菜の手を放して、軒下へ来た。

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勘次かんじ漬菜つけなはなして檐下のきしたた。

手も足もゆでたように赤くなっている。

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あしでたやうにあかくなつてる。

「それじゃ、ちっとも残したものかな」

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「それぢやちつとものこしたものかな」

お品は小さいのを二つ取った。

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しなちひさなのを二つつた。

「そんなのじゃないのを取れな」

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「そんなんぢやねえのとれな」

勘次は大きいのを選んで三つ取った。

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勘次かんじおほきなのをえらんで三つとつた。

卵の皮には手の塩が少しついた。

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たまごかはにはしほすこいた。

「そんじゃ、それを掛けてみよう」

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「そんぢやそれけてんべ」

商人は今度は真鍮の皿へ卵を乗せて

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商人あきんど今度こんど眞鍮しんちうさらたまごせて

「こっちなんぞじゃ、後いくらでもできらあな」

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「こつちなんぞぢや、あといくらでも出來できらあな」

と言いながら手掛けを持った。

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といひながらたどりつた。

卵が少し動くと、秤の棹がぐらぐらと落ち着かない。

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たまごすこうごくとはかりさをがぐら/\と落付おちつかない。

「ごまかしちゃいやだぞ」

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誤魔化ごまくわしちやだぞ」

お品は寂しく笑いながら言った。

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しなさびしくわらひながらいつた。

「どうしてお前、この秤なんざあ検査したばかりだもの。一分でもこのとおり跳ねたり垂れたりして、どうしてとんだ話だ」

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「どうしておめえ、はかりなんざあ檢査けんさしたばかりだもの一でもとほねたりれたりして、どうしてんだはなしだ」

商人は分銅の手を押さえて、また目を読んだ。

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商人あきんど分銅ふんどうおさへてまたんだ。

「五十匁一分だな。そうすると一つ十六匁七分ずつだ。大きいからな」

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「五十もんめだな、さうすつとひとつ十六もんめづゝだ、けえからな」

「塩がくっついてるから、塩の目方もあるぞ」

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しほがくつゝいてつからしほ目方めかたもあんぞ」

勘次はそばから言って笑った。

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勘次かんじそばからいつてわらつた。

商人は平然としている。

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商人あきんど平然へいぜんとしてる。

「五銭五厘六毛いくらっていうんだ。そうすると、さっきのはいくらの勘定だったっけな」

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「五せんりんまういくらつていふんだ、さうすつと先刻さつきのはいくらの勘定かんぢやうだつけな」

「四十六銭八厘いくらとか言ったっけな」

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「四十六せんりんいくらとかいつたつけな」

お品はすぐに言った。

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しなすぐにいつた。

「それじゃ差し引き四十一銭三厘と端か。こっちのおっかさんは自分でも商売してるから、記憶がいいなあ」

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「それぢや差引さしひき四十一せんりん小端こばしか、こつちのおつかさま自分じぶんでもあきねえしてつから記憶おべえがえゝやな」

商人はそろばんを持って

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商人あきんど十露盤そろばんつて

「どうしたい、塩梅でも悪いようだが、風邪でも引いたんじゃあるまい」

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「どうしたえ、鹽梅あんべえでもわりいやうだが風邪かぜでもいたんぢやあんめえ」

と言った。

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といつた。

「うん、少し悪くて仕方がないのよ」

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「うむ、すこわるくつてやうねえのよ」

お品は言って

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しなはいつて

「端はいくらになるんだい」

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小端こばしいくらになんでえ」

とさらに聞いた。

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さらいた。

「勘定にはならないなあ、どうも。近ごろは仕方がないよ。文久銭だの青銭だのっていうのがさっぱり出なくなっちまってな。それからどこへ行ってもこうしておくんだ」

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勘定かんぢやうにやんねえなどうも、近頃ちかごろやうねえよ文久錢ぶんきうせんだの青錢あをせんだのつちうのが薩張さつぱりなくなつちやつてな、それから何處どこつてもかうしてくんだ」

商人がぼてざるからマッチを出そうとすると

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商人あきんどがぼてざるから燐寸マツチさうとすると

「またマッチじゃあるまい」

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また燐寸マツチぢやあんめえ」

お品は微笑した。

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しな微笑びせうした。

「細かい勘定には近ごろマッチと決めておくんだが、どこの商人もそうのようだな」

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「こまけえ勘定かんぢやうにや近頃ちかごろ燐寸マツチめてくんだが、何處どこ商人あきんどもさうのやうだな」

商人は卵をざるへ入れながら言い続けた。

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商人あきんどたまござるれながらいひつゞけた。

「ひどく安くなっちまったな。寒くなっちゃ保存がいいのに、かえって安いっていうんだから、まるで反対になっちまったんだな」

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ひどやすくなつちやつたな、さむつちや保存もちがえゝのにけえつやすいつちうんだからまる反對あべこべになつちやつたんだな」

勘次は青菜を桶へ並べながら言った。

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勘次かんじ青菜あをなをけならべつゝいつた。

「上海のが入ってきちゃ、ぐっと値が下がっちまってな。あっちじゃどれほど安いもんだかよ。品が少ない時に安くなるっていうんだから、商人ももうからない」

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上海シヤンハイがへえつちやぐつとさがつちやつてな、あつちぢやどれほどやすいもんだかよ、しなすくねえときやすくなるつちうんだから商人あきんどまうからねえ」

天秤棒をかついで、彼はまたさらに

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天秤てんびんかついでかれまたさら

「相場が下げ気味の時にはうっかりすると損物だからな。なんでも百姓して穀物を積んでおく者が一等だよ。卵拾いもなあ、赤痢でもはやって来てな、看護婦だの巡査だの役場員だのっていう奴らが、病人の口でもひねってみっしり食ってでもくれなくちゃ、商人はだめだよ」

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相場さうば氣味ぎみときにやうつかりすつと損物そんものだかんな、なんでも百姓ひやくしやうしてこくんでものが一とうだよ、卵拾たまごひろひもなあ、赤痢せきりでも流行はやつててな、看護婦かんごふだの巡査じゆんさだの役場員やくばゐんだのつちう奴等やつら病人びやうにんくちでもひねつてみつしりつてゞもんなくつちや商人あきんど駄目だめだよ」

商人は行きがけに

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商人あきんどけて

「また溜めておいておくんなせえ」

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「まためていておくんなせえ」

今度は少し丁寧に言い捨てて去った。

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今度こんどすこ叮寧ていねいにいひてゝつた。

お品は銭を布団の下の巾着へ入れた。

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しなぜに蒲團ふとんした巾着きんちやくれた。

そうして枠棚からまるめ箱を下ろして、三つの白い卵を入れた。

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さうして籰棚わくだなからまるめ箱をおろして三つのしろたまごれた。

以前はこの土地でも綿が採れたので、夜なべには女がみな竹枠で糸を引いた。

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以前いぜん土地とちでも綿わたれたので、なべにはをんなみな竹籰たかわくいといた。

綿打ち弓でびんびんとほぐした綿は、箸のような棒を芯にして、ろうそくくらいの大きさにくるくると丸める。

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綿打弓わたうちゆみでびんびんとほかした綿わたはしのやうなぼうしんにして蝋燭らふそくぐらゐおほきさにくる/\とまるめる。

それがまるめである。

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それがまるめである。

このまるめから、不器用な百姓の手が自在に糸を引いた。

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まるめから不器用ぶきよう百姓ひやくしやう自在じざいいといた。

このごろでは綿がすっかり採れなくなったので、まるめ箱もすすけたままにまれに保存されているのも、糸屑や布の切れ端が入れてあるくらいに過ぎないのである。

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ごろでは綿わたがすつかりれなくなつたので、まるめばこすゝけたまゝまれ保存ほぞんされてるのも絲屑いとくづぬの切端きれはしれてあるくらゐぎないのである。

お品はそれから、膨れた巾着のために跳ね上げられた布団の端を手で押さえた。

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しなはそれからふくれた巾着きんちやくめにねあげられた蒲團ふとんはしおさへた。

それからまた横になった。

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それからまたよこになつた。

さっきから疲れたような心持ちになっていたが、横になると体が溶けるようにぐったりして、かすかに快かった。

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先刻さつきから疲勞ひらうしたやうな心持こゝろもちつてたがよこになると身體からだけるやうにぐつたりしてかすかにこゝろよかつた。

その晩、一年中の臓腑の砂払いだという冬至のこんにゃくを、みなで食べた。

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ばん年中ねんぢう臟腑ざうふ砂拂すなはらひだといふ冬至とうじ蒟蒻こんにやくみんなべた。

お品は、この分では明日からでも起きられるように思っていた。

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しな明日あすからでもきられるやうにおもつてた。

そうして勘次は、仕事のらちが明いたのでまた利根川へ行かれることと、心に期していた。

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さうして勘次かんじ仕事しごとらちいたのでまた利根川とねがはかれることゝこゝろしてた。

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お品の容態は、その夜から激変した。

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しな容態ようだいから激變げきへんした。

勘次がようやく眠りに落ちた時、お品は

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勘次かんじやうやねむりちたときしな

「口が開けなくなって仕方がないよう」

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くちけなくつてやうねえよう」

と情けない声で言った。

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なさけないこゑでいつた。

お品はあごが釘付けにされたようになって、唾を飲むにも喉が狭められたように感じた。

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しなあご釘附くきづけにされたやうにつて、つばむにものどせばめられたやうにかんじた。

それで、自分にもどうすることもできないのに驚いた。

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それで自分じぶんにもどうすることも出來できないのにおどろいた。

勘次もびっくりして起きた。

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勘次かんじ吃驚びつくりしてきた。

「どうしたんだよ、大層悪いのか。朝までしっかりしてろよ」

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「どうしたんだよ大層たえそわりいのか、あさまでしつかりしてろよ」

と力をつけてみたが、自分でもどうしていいのか分からないので、ただはらはらしながら夜を明かした。

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ちからをつけてたが、自分じぶんでもどうしていゝのかわからないのでたゞはら/\しながらあかした。

勘次はただお品が心配になるので、近所の者を頼んで取りあえず医者へ走らせた。

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勘次かんじたゞしな心配しんぱいになるので、近所きんじよものたのんであへ醫者いしやはしらせた。

そうして自分は枕元へくっついていた。

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さうして自分じぶん枕元まくらもとへくつゝいてた。

彼らは容易なことで医者を呼ぶのではなかった。

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彼等かれら容易よういなことで醫者いしやぶのではなかつた。

しかし、そのもっとも恐れを抱くべき金銭の問題がその心を抑えるには、勘次はあまりに慌てて、かつ驚いていた。

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しかそのもつとおそれをいだくべき金錢きんせん問題もんだいそのこゝろ抑制よくせいするには勘次かんじあまりにあわてゝかつおどろいてた。

医者は鬼怒川を越えて東にいる。

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醫者いしや鬼怒川きぬがはえてひがしる。

勘次は、草臥れやしないかと言ってはお品の足をさすった。

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勘次かんじ草臥くたぶれやしないかといつてはおしなあしをさすつた。

それでもお品の大儀そうな様子が、彼の臆した心にびりびりと響いて、とても午後まではじっとしていることができなくなった。

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それでもおしな大儀相たいぎさう容子ようすかれおくしたこゝろにびり/\とひゞいて、とて午後ごゞまでは凝然ぢつとしてることが出來できなくなつた。

近所の女房が見に来てくれたのを幸いに、自分も後から走って行った。

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近所きんじよ女房にようばうれたのをさいはひに自分じぶんあとからはしつてつた。

鬼怒川の渡し船で、さっきの使いと行き違いになった。

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鬼怒川きぬがはわたしふね先刻さつき使つかひと行違ゆきちがひつた。

船から言葉が交わされた。

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ふねからことば交換かうくわんされた。

勘次は、医者といっしょに帰るからそう言ってお品に安心させてくれと言って、医者の門をたたいた。

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勘次かんじ醫者いしやと一しよかへるからさういつておしな安心あんしんさせてれといつて醫者いしやもんたゝいた。

医者は、ちょうどそっちへ行くついでもあったからと悠長である。

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醫者いしや丁度ちやうどそつちへついでつたからと悠長いうちやうである。

きっと行ってはくれるにしても、その後についていくのでなくては勘次には不安でたまらないのである。そうして彼は、ぼんやりと玄関にうずくまって待っていることが、せめてもの気休めであった。

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屹度きつとつてはれるにしてもあといてくのでなくては勘次かんじには不安ふあんたまらないのである、さうしてかれはぽつさりと玄關げんくわんうづくまつてつてることがせめてもの氣安きやすめであつた。

医者は小さな手鞄を一つ持って、古い帽子をちょこんとかぶって出た。

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醫者いしやちひさな手鞄てかばんを一つつてふる帽子ばうしをちよつぽりいたゞいてた。

手鞄は勘次が大事そうに持った。

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手鞄てかばん勘次かんじ大事相だいじさうつた。

医者は特別の出来事がなければ人力車には乗らないので、いつも朴歯の日和下駄で短い体をぽくぽくと運んで行く。

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醫者いしや特別とくべつ出來事できごとがなければくるまにはらないので、いつも朴齒ほうば日和下駄ひよりげたみじか體躯からだをぽく/\とはこんでく。

それで車賃だけでもいくら助かるか知れないというので、貧乏な百姓からよく呼ばれているのであった。

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それで車錢くるませんだけでもいくたすかるかれないといふので貧乏びんばふ百姓ひやくしやうからよばれてるのであつた。

勘次は道々お品の容態を語って、医者の判断を促してみた。

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勘次かんじ途次みち/\しな容態ようだいかたつて醫者いしや判斷はんだんうながしてた。

医者は一応見なければ分からないと言って、やかましい勘次に返事しなかった。

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醫者いしやは一おうなければわからぬといつて五月蠅うるさ勘次かんじ返辭へんじしなかつた。

お品の病んだ体に手を掛けると、医者はさすがに首をかしげた。

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しな病體びやうたいけると醫者いしや有繋さすがくびかたぶけた。

それが破傷風の徴候であることを知って、恐怖心を抱いた。

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それが破傷風はしやうふう徴候てうこうであることをつて恐怖心きようふしんいだいた。

そうして、自分は注射器を持たないからと言って辞退してしまった。

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さうして自分じぶん注射器ちうしやきたないからといつて辭退じたいしてしまつた。

勘次はまた慌てて、ほかの医者へ駆けつけた。

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勘次かんじまたあわてゝ醫者いしやけつけた。

その医者は鉛筆で手帳の端へちょっと書きつけて、それではすぐにこれを薬屋で買って来るのだと言った。

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醫者いしや鉛筆えんぴつ手帖ててふはし一寸ちよつときつけて、それではすぐこれ藥舖くすりやつてるのだといつた。

それから、自分の家へこれを出せば渡してくれる者があるからと、これも手帳の端を裂いた。

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それから自分じぶんうちこれせばわたしてれるものがあるからとこれ手帖ててふはしいた。

勘次はまた川を越えて走った。

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勘次かんじまたかはえてはしつた。

薬屋では、瓶へ入れた薬を二包み渡してくれた。

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藥舖くすりやではびんれたくすり二包ふたつゝみわたしてれた。

一瓶が七十五銭ずつだと言われて、勘次は懐が急にげっそりと減った心持ちがした。

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一罎ひとびんが七十五せんづゝだといはれて、勘次かんじふところきふにげつそりとつた心持こゝろもちがした。

彼はとんぼ返りに帰って来た。

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かれ蜻蛉返とんぼがへりにかへつてた。

医者の家からは注射器を渡してくれた。

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醫者いしやうちからは注射器ちうしやきわたしてくれた。

ほかの患家を診て、医者は夕刻に来た。

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ほか病家びやうか醫者いしや夕刻ゆふこくた。

医者はお品のももを湿したガーゼで拭いて、ぎっと肉をつまみ上げて針をぷつりと刺した。

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醫者いしやはおしな大腿部だいたいぶしめしたガーゼでぬぐつてぎつとにくつまげてはりをぷつりとした。

しばらくして針を抜いて、指の先で針の跡を押さえて、そこへ絆創膏を貼った。

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しばらくしてはりいてゆびさきはりあとおさへて其處そこ絆創膏ばんさうかうつた。

それがすべて、薄暗い手ランプの光で行われた。

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それがすべ薄闇うすくらランプのひかりおこなはれた。

勘次に手ランプを近づけさせて、医者はやっと注射を終えた。

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勘次かんじランプをちかづけさせて醫者いしやはやつと注射ちうしやをはつた。

翌日の午前に来て、医者はまた注射をして、たいていこれでよかろうと言って去った。

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翌日よくじつ午前ごぜん醫者いしやまた注射ちうしやをして大抵たいていれでよからうといつてつた。

しかしお品の容態は、依然として回復の徴候がないのみでなく、次第に大儀そうに見えはじめた。

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しかしおしな容態ようだい依然いぜんとして恢復くわいふく徴候ちようこうがないのみでなく次第しだい大儀相たいぎさうえはじめた。

お品はその夕刻から、にわかに痙攣が起こった。

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しな夕刻ゆふこくからにはかに痙攣けいれんおこつた。

体がびりびりと揺れながら、手も足も引き締められるように後ろへ反った。

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身體からだがびり/\とゆるぎながらあしめられるやうにうしろつた。

痙攣は時々起こった。

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痙攣けいれん時々ときどき發作ほつさした。

そのたびごとに、病人は見ていられないほど苦しむ。

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そのたびごと病人びやうにんられないほど苦惱くなうする。

顔が妙にゆがんで、口が無理に横へ引きつられるように見える。

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かほめうしがんでくち無理むりよこられるやうにえる。

勘次は、たった一人のおつぎを相手に、手の出しようもなかった。

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勘次かんじはたつた一人ひとりのおつぎを相手あひてしやうもなかつた。

そうして、しらしら明けというと、すぐにまた医者へ駆けつけた。

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さうしてしら/\けといふとすぐまた醫者いしやけつけた。

医者は、また薬屋へ行って来いと言った。

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醫者いしやまた藥舖くすりやつていといつた。

勘次はまた飛んで行った。

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勘次かんじまたんでつた。

しかし、その二号の血清はどこにも品切れであった。

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しかの二がう血清けつせい何處どこにも品切しなぎれであつた。

それは、ある期間を過ぎれば効き目がなくなるので、余計な仕入れもしないのだと薬屋では言った。

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それはある期間きかん經過けいくわすれば効力かうりよくくなるので餘計よけい仕入しいれもしないのだと藥舖くすりやではいつた。

それに値段が高いものだからというのであった。

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それに値段ねだん不廉たかいものだからといふのであつた。

勘次はそれでも、いくらくらいするものかと思って聞いたら、一瓶が三円だと言った。

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勘次かんじはそれでもいくぐらゐするものかとおもつていたら一罎ひとびんが三ゑんだといつた。

勘次は、たとえ品物があったところで、自分の今の力ではとうていそれは求められなかったかもしれないと、今さらのように驚いて懐へ手を入れてみた。

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勘次かんじ例令たとひ品物しなものつたところで、自分じぶん現在いまちからでは到底たうていそれはもとめられなかつたかもれぬと今更いまさらのやうに喫驚びつくりしてふところれてた。

医者はさらに勘次を薬屋へ走らせた。

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醫者いしやさら勘次かんじ藥舖くすりやはしらせた。

勘次は、ただ医者の言うがままに息せき切って駆けて歩く間が、きっとどうにか防ぎをつけてくれるだろうという頼みもあるので、わずかに自分の心を慰め得る唯一の機会であった。

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勘次かんじたゞ醫者いしやのいふがまゝいきせきつてけてあるあひだが、屹度きつとどうにかふせぎをつけてくれるだらうとのたのみもあるのでわづか自分じぶんこゝろなぐさゆゐ一の機會きくわいであつた。

医者は一号の倍の量を注射した。

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醫者いしやは一がう倍量ばいりやう注射ちうしやした。

しかしそれは無駄であった。

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しかしそれは徒勞とらうであつた。

病人の発作は間が短くなった。

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病人びやうにん發作ほつさあひだみじかくなつた。

病人はそのたびに呼吸に圧迫を感じた。

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病人びやうにんそのたび呼吸こきふ壓迫あつぱくかんじた。

近所の者も三、四人で、苦しむ枕元にいて、みな憂いに包まれた。

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近所きんじよものも三四にん苦惱くなうする枕元まくらもとみな憂愁いうしうつゝまれた。

お品は突然

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しな突然とつぜん

「野田へは知らせてくれまいか」

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野田のだへはらせてくれめえか」

と聞いた。

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いた。

勘次も近所の者も、卯平へ知らせることも忘れて、ただ苦しむ病人を前に控えて困っているのみであった。

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勘次かんじ近所きんじよもの卯平うへいらせることもわすれてたゞ苦惱くなうする病人びやうにんまへひかへてこまつてるのみであつた。

「明日はきっと来るように言ってやったよ」

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明日あした屹度きつとるやうにいつてつたよ」

勘次はお品の耳へ口を当てて言った。

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勘次かんじはおしなみゝくちあてていつた。

今さらのように近所の者が頼まれて、夜通しにでも行くということになった。

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今更いまさらのやうに近所きんじよものたのまれて夜通よどほしにもくといふことにつた。

次の日の昼過ぎに、卯平は使いとともに、のっそりとその長大な体を表の戸口に運ばせた。

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つぎ午餐過ひるすぎ卯平うへい使つかひともにのつそりと長大ちやうだい躯幹からだおもて戸口とぐちはこばせた。

彼は敷居をまたぐとともに、その時はもう、ただ痛い痛いと言って泣き訴えている病人の声を聞いた。

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かれしきゐまたぐとともに、そのときはもうたゞいたい/\というて泣訴きふそして病人びやうにんこゑいた。

「どこが痛いんだ、少しさすらせてみるか」

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何處どこいたいんだ、すこしさすらせてつか」

勘次が聞いても

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勘次かんじいても

「背中が仕方がないんだよ」

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背中せなかやうがねえんだよ」

と病人は言うのみである。

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病人びやうにんはいふのみである。

「お品さん、おとっつあんが来たよ、しっかりしろよ」

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「おしなさん、おとつゝあたよ、確乎しつかりしろよ」

と近所の女房が言った。

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近所きんじよ女房にようばうがいつた。

それを聞いて、お品はしばらく静かになった。

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それをいておしな暫時しばししづかにつた。

「品、どうしたい、大儀いのか」

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しなどうしたえ、大儀こはえのか」

口数の少ない卯平は、これだけ言った。

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寡言むくち卯平うへいこれだけいつた。

「おとっつあん、待ってたよ。おれは仕方がないよ」

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「おとつゝあつてたよ、やうねえよ」

お品は情けなさそうに言った。

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しななさけなささうにいつた。

「うん、困ったなあ」

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「うむ、こまつたなあ」

卯平は深い皺をゆがめて言った。

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卯平うへいふかしわしがめていつた。

そうして後は一言も言わない。

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さうしてあとは一ごんもいはない。

お品の病状は、だんだん険悪に陥った。

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しな病状びやうじやう段々だん/\險惡けんあくおちいつた。

医者はモルヒネの注射をして、わずかに眠りの状態を保たせて、その苦痛から逃れさせようとした。

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醫者いしやはモルヒネの注射ちうしやをしてわづか睡眠すゐみん状態じやうたいたもたせて苦痛くつうからのがれさせようとした。

それでもしばらくすると病人はまた意識を回復して、びりびりと体を震わせて、太い縄でぐっと吊されたかと思うように後ろへ反って、その激烈な痙攣に苦しめられた。

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それでもしばらくすると病人びやうにん意識いしき恢復くわいふくして、びり/\と身體からだふるはせて、ふとなはでぐつとつるされたかとおもふやうにうしろそりかへつて、その劇烈げきれつ痙攣けいれんくるしめられた。

「先生さん、わたしはこれでもどうしたものでしょうね」

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先生せんせいさん、わたしやれでもどうしたものでがせうね」

お品は突然に聞いた。

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しな突然とつぜんいた。

医者はただ口髭をひねって黙っていた。

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醫者いしやたゞ口髭くちひげひねつてだまつてた。

「どうでしょうね、先生さん」

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「どうでせうね先生せんせいさん」

勘次も聞いた。

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勘次かんじいた。

「まあ大丈夫だろうって、病人へだけは言っていたらいいでしょう」

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「まあ大丈夫だいぢやうぶだらうつて病人びやうにんへだけはいつてたらいゝでせう」

医者はささやいた。

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醫者いしや耳語さゝやいた。

「お品、大丈夫だとよ。それから我慢してしっかりしてろとよ」

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「おしな大丈夫だいぢやうぶだとよ、それから我慢がまんして確乎しつかりしてろとよ」

勘次は病人の耳で怒鳴った。

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勘次かんじ病人びやうにんみゝ呶鳴どなつた。

「そんでも、おれは明日の日まではとても持たないと思うよ。本当におれは大儀いなあ」

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「そんでも明日あすまではとつてもたねえとおもふよ。本當ほんたう大儀こはいゝなあ」

お品は切なそうに言った。

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しなせつさうにいつた。

歯の間をようやく漏れる声は、悲しい響きを伝えて、しかも意識ははっきりしていることを示した。

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あひだやうやくにれるこゑかなしいひゞきつたへてかも意識いしき明瞭めいれうであることをしめした。

医者はついに、限度いっぱいのモルヒネを注射して去った。

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醫者いしやつひ極量きよくりやうのモルヒネを注射ちうしやしてつた。

夜になって、痙攣は絶え間なく起こった。

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になつて痙攣けいれん間斷かんだんなく發作ほつさした。

熱は非常に上がった。

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熱度ねつど非常ひじやう昂進かうしんした。

液体の一滴も取ることができないにもかかわらず、乱れた髪の毛ごとに伝って落ちるかと思うように、汗が玉をなして垂れた。

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液體えきたいの一てきをも攝取せつしゆすることが出來できないにもかゝはらず、みだれたかみごとつたひておちるかとおもふやうにあせたまをなしてれた。

布団を湿す汗の匂いが鼻を突いた。

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蒲團ふとんぬらあせくさみはないた。

「勘次さん、ここにいてくれよ」

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勘次かんじさん此處ここてくろうよ」

お品は苦しい中にも、ひたすら勘次を慕った。

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しなくるしいうちにも只管ひたすら勘次かんじしたつた。

「おうよ、ここにいたよ。どこへも行きやしないよ」

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「おうよ、こゝにたよ、何處どこへもゆきやしねえよ」

勘次はそのたびに耳へ口を当てて言った。

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勘次かんじそのたびみゝくちあてていつた。

「勘次さん」

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勘次かんじさん」

お品はまた呼んだ。

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しなまたんた。

「どうしたよ」

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怎的どうしたよ」

勘次が言ったのはお品に通じなかったのか

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勘次かんじのいつたのはおしなつうじなかつたのか

「おとっつあん、おれはとってもなあ」

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「おとつゝあ、らとつてもなあ」

とお品は少し間を置いて、そうして勘次の手を取った。

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とおしな少時しばしあひだいて、さうして勘次かんじつた。

「おつう、お前はなあ、よきもなあ」

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「おつうわれはなあ、よきもなあ」

と言って、また発作の苦しみに陥った。

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といつてまた發作ほつさ苦惱くなうおちいつた。

「勘次さん、おれが死んだらなあ、棺桶へ入れてくれよ……」

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勘次かんじさん、おらんだらなあ、棺桶くわんをけれてくろうよ……」

勘次が聞こうとすると、しばらく間を置いて

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勘次かんじかうとするとしばらあひだへだてて

「後ろの田のあぜになあ、ぐみの木のとこでなあ」

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うしろくろになあ、牛胡頽子うしぐみのとこでなあ」

お品は切れ切れに言った。

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しなれ/″\にいつた。

勘次はほぼその意味を理解した。

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勘次かんじほゞ了解れうかいした。

お品はそれから激烈な発作に遮られて、もう言わなかった。

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しなはそれから劇烈げきれつ發作ほつささへぎられてもういはなかつた。

突然

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突然とつぜん

「風呂敷、風呂敷」

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風呂敷ふろしき、/\」

と理由の分からないうわごとを言って、意識はまったく不明になった。

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理由わけわからぬ囈語うはごとをいつて、意識いしきまつた不明ふめいつた。

ついには、異常な力が加わったかと思うように、お品の足は布団を蹴って、体が激しく動いた。

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つひには異常いじやうちからくははつたかとおもふやうにおしなあし蒲團ふとんけつ身體からだ激動げきどうした。

枕元にいた人々はめいめいに、苦しむお品の足を押さえた。

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枕元まくらもと人々ひと/″\各自てんでくるしむおしなあしおさへた。

こうして人々は、刻々に死の運命に迫られて行くお品の病んだ体を押さえつけた。

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うして人々ひと/″\刻々こく/\運命うんめいせまられてくおしな病體びやうたい壓迫あつぱくした。

お品の発作が止まった時は、かすかなその呼吸も止まった。

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しな發作ほつさんだときかすかな呼吸こきふとまつた。

夜はしんとしていた。

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しんとしてた。

雨戸がかすかに動いて、落ち葉の庭を走るのもさらさらと聞かれた。

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雨戸あまどかすかにうごいて落葉おちばにははしるのもさら/\とかれた。

お品の体は足のほうから冷たくなった。

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しな身體からだあしはうからつめたくなつた。

お品が死んだということを意識した時に、勘次もおつぎも、みなこらえた思いが一時に激発した。

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しなんだといふことを意識いしきしたとき勘次かんじもおつぎもみんなこらへたじやうが一激發げきはつした。

そうして遠慮をする余裕を持たない彼らは、声を放って泣いた。

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さうして遠慮ゑんりよをする餘裕よゆうたない彼等かれらこゑはなつていた。

枕元の者はみなともに泣いた。

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枕元まくらもとのものはみなともいた。

与吉は独り、死んだお品のそばに熟睡していた。

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與吉よきちひとんだおしなそば熟睡じゆくすゐしてた。

卯平は取りあえず、お品の手を胸で合わせてやった。

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卯平うへいあへずおしなむねあはせてやつた。

そうして、機の道具の一つである杼を布団へ乗せた。

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さうしてはた道具だうぐひとつである蒲團ふとんせた。

猫が死人を越えて渡ると化けると言って、杼は猫よけであった。

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ねこ死人しにんえてわたるとけるといつてねこ防禦ばうぎよであつた。

杼を乗せておけば猫は渡らないと信じられているのである。

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せてけばねこわたらないとしんぜられてるのである。

夜はますます更けて、冷えきっていた。

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ます/\けてつてた。

家の中には一塊の炭火も蓄えてはなかった。

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いへうちには一くわいおきたくはへてはなかつた。

枕元にいた近所の人々は、勘次とおつぎの泣き止むまでは体を動かすこともできないで、じっと冷たい手を懐に暖めていた。

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枕元まくらもと近所きんじよ人々ひと/″\勘次かんじとおつぎのむまでは身體からだうごかすことも出來できないで凝然ぢつつめたいふところあたゝめてた。

おつぎはようやくかまどへ落ち葉をくべて茶を沸かした。みなただぼんやりとして茶をすすった。

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おつぎはやうやかまど落葉おちばべてちやわかした、みんなたゞぽつさりとしてちやすゝつた。

「勘次も、早く知らせやがればいいのに」

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勘次かんじかせえてらせやがればえゝのに」

卯平がぶすりと呟く声は低く、しかもみなの耳の底に響いた。

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卯平うへいがぶすりとつぶやこゑひくくしかもみんなのみゝそこひゞいた。

卯平はその日の未明に使いの来るまでは、お品の病気はちっとも知らずにいた。

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卯平うへい未明みめい使つかひるまではおしな病氣びやうきはちつともらずにた。

驚いて来てみれば、もうこんな始末である。

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おどろいてればもうこんな始末しまつである。

卯平も泣いた。

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卯平うへいいた。

彼は煙管をかんでは、ただ舌打ちをして唾を飲んだ。

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かれ煙管きせるんではたゞ舌皷したつゞみつてつばんだ。

勘次はただ泣いていた。

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勘次かんじたゞいてた。

彼はお品の発病から、どれほど苦心してその身を労したか知れない。

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かれはおしな發病はつびやうからどれほど苦心くしんしてそのらうしたかれぬ。

お品の病気を案じるほか、彼の心には何もなかった。

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しな病氣びやうきあんずるほかかれこゝろにはなにもなかつた。

その当時には、卯平に不平を言われようというような懸念は、少しも頭に起こらなかったのである。

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その當時たうじには卯平うへい不平ふへいをいはれやうといふやうな懸念けねん寸毫すこしあたまおこらなかつたのである。

お品の死は、卯平をもひどく落胆させた。

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しな卯平うへいをもいた落膽らくたんせしめた。

卯平は七十一の老人であった。

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卯平うへいは七十一の老爺おやぢであつた。

一昨年の秋から、卯平は野田の醤油蔵へ火の番に雇われた。

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一昨年をととしあきから卯平うへい野田のだ醤油藏しやうゆぐらばんやとはれた。

卯平は、お品が三つの時に、死んだおふくろの所へ入り婿になったのである。

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卯平うへいはおしなが三つのときに、んだおふくろところ入夫にふふになつたのである。

五つの時から甘えたので、お品は卯平になついていた。

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五つのときからあまへたのでおしな卯平うへいなづいてた。

おふくろの生きているうちは卯平もまだ壮健であったが、おふくろが亡くなって卯平の皺が深く刻まれてからは、以前からよくなかった勘次との間がだんだん隔たって、お品もそれには困った。

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ふくろきてるうちは卯平うへいもまださかりであつたが、おふくろくなつて卯平うへいしわふかきざまれてからは以前いぜんからくなかつた勘次かんじとのあひだ段々だん/\へだつて、おしなもそれにはこまつた。

とうとう、村の紹介業をしている者の勧めに任せて、卯平が言うままに奉公に出したのであった。

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到頭たうとうむら紹介業せうかいげふをしてものすゝめにまかせ卯平うへいがいふまゝ奉公ほうこうしたのであつた。

病人の枕元にいた近所の者は、一杯の茶をすすって、村の親戚へ知らせに出るものもあった。

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病人びやうにん枕元まくらもと近所きんじよものは一ぱいちやすゝつてむら姻戚みよりらせにるものもあつた。

それから葬式のことについて相談をした。

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それから葬式さうしきのことにいて相談さうだんをした。

葬式はほんの親戚と近所とだけで、明日のうちに済ますということに決めた。

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葬式さうしきはほんの姻戚みより近所きんじよとだけで明日あすうちすますといふことにめた。

夜が明けると、近所の人々は寺へ行ったり葬具を買いに行ったり、他村の親戚への知らせに行ったりして、家には近所の女房が二、三人、義理を言いに来ていた。

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があけると近所きんじよ人々ひとびとてらつたり無常道具むじやうだうぐひにつたり、他村たそん姻戚みよりへのらせにつたりしていへには近所きんじよ女房にようばうが二三にん義理ぎりをいひにた。

親戚といっても、お品のためには待たなくてはならないという者はないので、勘次はおつぎとともにむしろをめくって、そこへたらいを据えてお品の死体を清めてやった。

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姻戚みよりといつてもおしなめにはたなくてはらぬといふものはないので勘次かんじはおつぎとともむしろまくつて、其處そこたらひゑておしな死體したいきよめてつた。

激烈な病苦のために、その力ない死体はげっそりとひどいやつれようをしていた。

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劇烈げきれつ病苦びやうくめにそのちからない死體したいはげつそりとひどやつれやうをしてた。

卯平はただぼんやりとして、それを見ていた。

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卯平うへいたゞぽつさりとしてそれをた。

死体はまた、その汚い夜具へ横たえられた。

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死體したいまたきたな夜具やぐよこたへられた。

たらいの汚れたぬるま湯は、すのこの上から土に注がれた。

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たらひけがれた微温湯ぬるまゆうへからつちそゝがれた。

そうして、そのぬれたすのこには、めくったむしろがまた敷かれた。

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さうしてれたにはくつたむしろまたかれた。

朝から雨戸は開け放たれて、歩けばぎしぎしと鳴るすのこの上のむしろは草箒で掃かれた。

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あさから雨戸あまどはなたれてあるけばぎし/\とうへむしろ草箒くさばうきかれた。

そうして東隣から借りて来たござが五、六枚敷かれた。

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さうして東隣ひがしどなりからりてござが五六まいかれた。

それから土地の習慣で、勘次は清めてやったお品の死体は一切を近所の手に任せた。

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それから土地とち習慣しふくわん勘次かんじきよめてやつたおしな死體したいは一さい近所きんじよまかせた。

近所の女房らは、一反の晒し木綿を半分切って、それで形ばかりの短い経帷子と、死に顔を隠す頭巾と、ふんごみとを縫って、それを着せた。

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近所きんじよ女房等にようばうらは一たん晒木綿さらしもめん半分はんぶんきつてそれでかたばかりのみじか經帷子きやうかたびら死相しさうかく頭巾づきんとふんごみとをつてそれをせた。

ふんごみは、ただ三角にして足袋の代わりに爪先へはかせるのであった。

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ふんごみはたゞかくにして足袋たびかはり爪先つまさき穿かせるのであつた。

脚絆は切れのまま、麻で足へくくりつけた。

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脚絆きやはんきれまゝあさあしくゝけた。

これもその木綿で縫った頭陀袋を首から掛けさせて、三途の川の渡し銭だという六文の銭を入れてやった。

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れも木綿もめんつた頭陀袋づだぶくろくびからけさせて三かは渡錢わたしせんだといふ六もんぜにれてやつた。

髪は麻で結んで、白櫛を挿してやった。

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かみあさむすんで白櫛しろぐししてつた。

お品の硬くなった体は、曲げて立て膝にして棺桶へ入れられた。

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しな硬着かうちやくした身體からだげて立膝たてひざにして棺桶くわんをけれられた。

首がふたに触れるので、骨のくじけるまで押さえつけられて、すくみが掛けられた。

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くびふたさはるのでほねくぢけるまでおさへつけられてすくみがけられた。

すくみというのは、縮めたままの形が保たれるように、死体の下から荒縄を回しておいて、首筋の所でぎっしりとくくることである。

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すくみといふのはちゞめたまゝかたちたもたれるやうに死體したいしたから荒繩あらなはまはしていて首筋くびすぢところでぎつしりとくゝることである。

粗末な松板でこしらえた出来合いの棺桶は、みりみりと鳴った。

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麁末そまつ松板まついたこしらへた出來合できあひ棺桶くわんをけはみり/\とつた。

こういう無残な扱いは、どうしても他人の手に任せられねばならなかった。

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ういふ無残むざんあつかひはどうしても他人たにんまかせられねばならなかつた。

板のままばらばらになっている棺台は、買って来てから近所の手で釘付けにされた。

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いたまゝばら/\につて棺臺くわんだいつててから近所きんじよ釘付くぎづけにされた。

そこには、浅い箱を逆さにしたようなものができた。

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其處そこにはあさはこさかさにしたものが出來できた。

その棺台の上には、死体を入れた棺桶が載せられた。

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棺臺くわんだいうへには死體したいれた棺桶くわんをけせられた。

勘次はその朝未明に、そっと家の後ろの楢の木の間を田の端へ下りて、境木のぐみの木のそばを注意して見た。

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勘次かんじそのあさ未明みめいにそつといへうしろならあひだはしへおりて境木さかひぎ牛胡頽子うしぐみそば注意ちういしてた。

唐鍬か何かで動かした土の跡が目についた。

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唐鍬たうぐはなにかでうごかしたつちあといた。

勘次は手にして行った草刈り鎌で、そくそくと土をつつくようにして掘った。

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勘次かんじにしてつた草刈鎌くさかりがまでそく/\とつちをつゝくやうにしてつた。

そうして、その柔らかになった土を手でさらった。

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さうしてそのやはらかにつたつちさらつた。

ぼろの包みが出た。

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襤褸ぼろつゝみた。

彼はそこに、小さな一塊の肉を見つけたのである。

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かれ其處そこちひさな一塊肉くわいにく發見はつけんしたのである。

勘次はそれを大事に懐へ入れた。

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勘次かんじはそれを大事だいじふところれた。

悪事の発覚でも恐れるような様子で、彼は周りを見回した。

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惡事あくじ發覺はつかくでもおそれるやうな容子ようすかれ周圍あたり見廻みまはした。

彼はさらに古い油紙で包んで片づけておいて、お品の死体が棺桶に入れられた時、彼はそっとお品の懐に抱かせた。

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かれさらふる油紙あぶらがみつゝんで片付かたづけていて、おしな死體したい棺桶くわんをけれられたときかれはそつとおしなふところいだかせた。

お品のやせきった手が、勘次のするままにそれをしっかりと抱き締めて、その骨ばかりの頬が、ぴったりと擦りつけられた。

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しなつた勘次かんじのするまゝにそれを確乎しつかめて、ほねばかりのほゝが、ぴつたりとりつけられた。

葬式の日は赤口という日であった。

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葬式さうしき赤口しやくこうといふであつた。

勘次は近所と親戚とのほかには一飯も出さなかったが、それでも村の者はみな二銭ずつ持って弔みに来た。

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勘次かんじ近所きんじよ姻戚みよりとのほかには一ぱんさなかつたがそれでもむらのものはみなせんづゝつてくやみにた。

そうして、さっさと帰って行った。

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さうしてさつさとかへつてつた。

遠く離れた寺からは、住職と小坊主とが、色のさめた萌葱の法被を着た供を一人連れて、挟み箱をかつがせて歩いて来た。

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とほはなれたてらからは住職ぢうしよく小坊主こばうずとが、めた萠黄もえぎ法被はつぴとも一人ひとりれて挾箱はさみばこかつがせてあるいてた。

小坊主はすぐに棺桶のふたを取って、白い木綿をめくって、やつれた頬へかみそりをちょっと当てた。

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小坊主こばうずすぐ棺桶くわんをけふたをとつてしろ木綿もめんくつてやつれたほゝ剃刀かみそり一寸ちよつとてた。

この形式的な顔剃りが済んでから、ふたは釘で打ちつけられた。

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形式的けいしきてき顏剃かほそりんでからふたくぎけられた。

荒縄が十文字に掛けられた。

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荒繩あらなはが十文字もんじけられた。

晒し木綿の残った半反で、それがぐるぐると巻かれた。

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晒木綿さらしもめんのこつた半反はんだんでそれがぐる/\とかれた。

桶にはさらに天蓋が載せられた。

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をけにはさら天葢てんがいせられた。

天蓋といっても、両端がわらびのように巻いた狭い松板を二枚十字に合わせたまでのものに過ぎない、簡単なものである。

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天葢てんがいというても兩端りやうたんわらびのやうにまかれたせま松板まついたを二まいあはせたまでのものにすぎない簡單かんたんなものである。

すすけた壁には、これも古ぼけた赤い曼荼羅の大幅が、飾りのように掛けられた。

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すゝけたかべにはれもふるぼけたあか曼荼羅まんだら大幅おほふくかざりのやうにけられた。

棺はわずかな人で葬られた。

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くわんわづかひとはうむられた。

それでも白提灯が二張りかざされた。

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それでも白提灯しろぢやうちん二張ふたはりかざされた。

裂き竹を格子の目に編んで、いいかげんの大きさになるとぐるりと四方を一つにまとめてくくった花籠も、二つかざされた。

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だけ格子かうしんでいゝ加減かげんおほきさにるとぐるりと四はうを一つにまとめてくゝつた花籠はなかごも二つかざされた。

いずれも青竹の柄がつけられた。

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れも青竹あをだけけられた。

その籠へは、髭のように裂き竹を立てて、その裂き竹には赤や黄や青やその他の色紙で刻んだ花を飾った。

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かごへはひげのやうにだけてゝだけにはあかあを色紙いろがみきざんだはなかざつた。

その花籠はまた、底へ紙を敷いて死んだ者の年齢の数だけ小銭を入れて、それをかざした人が時々ざらざらと振っては、籠の目からその小銭を振り落とした。

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花籠はなかごまたそこかみいてんだものゝ年齡としかずだけ小錢こぜにれて、それをかざしたひと時々ときどきざら/\とつてはかごから小錢こぜにおとした。

村の子供が争ってそれを拾った。

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むら小供こどもあらそつてそれをひろつた。

提灯と花籠は先に立った。

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提灯ちやうちん花籠はなかごさきつた。

後ろからは村の念仏衆が、赤い胴の太鼓を首へ掛けて、だらりだらりとだらけた叩きようをしながら、いっせいに声を上げてついて行った。

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あとからはむら念佛衆ねんぶつしうあかどう太皷たいこくびけてだらりだらりとだらけたたゝきやうをしながら一どうこゑあげいてつた。

棺は小道を避けて大道を行った。

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ひつぎ小徑こみちけて大道わうらいつた。

村の者は自分の門からそれをのぞいた。

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むらもの自分じぶんかどからそれをのぞいた。

棺桶は据わりが悪いせいか、途中で止まずぐらりぐらりと揺れた。

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棺桶くわんをけすわりがわる所爲せゐ途中とちうまずぐらり/\と動搖どうえうした。

勘次はそれでも羽織袴で位牌を持った。

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勘次かんじはそれでも羽織はおりはかま位牌ゐはいつた。

それはみな借りたので、羽織の紐には紙縒りがつけてあった。

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それはみなりたので羽織はおりひもには紙撚こよりがつけてあつた。

墓の穴は、焼けたような赤土が四方へうずたかくかき上げられてあった。

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はかあなけたやう赤土あかつちが四はううづたかげられてあつた。

そこには、これまで隙間のないほど穴が掘られて、多くの人が埋められたので、手の骨や足の骨がいつものように掘り出されて投げられてあった。

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其處そこには從來これまで隙間すきまのないほどあなられて、幾多いくたひとうづめられたのでほねあしほねがいつものやうにされてげられてあつた。

法被を着た寺の供が、棺桶を巻いた半反の白木綿を取って挟み箱に入れた。

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法被はつぴてらとも棺桶くわんをけいた半反はんだん白木綿しろもめんをとつて挾箱はさんばこいれた。

やがて棺桶は荒縄で下げて、その赤い土の底に踏みつけられた。

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やが棺桶くわんをけ荒繩あらなはでさげてあかつちそこみつけられた。

粗末な棺台は少しうずたかくなった土の上に置かれて、二つの白張り提灯と二つの花籠とがそのそばに立てられた。

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麁末そまつ棺臺くわんだいすこうづたかつたつちうへかれて、ふたつの白張提灯しらはりちやうちんふたつの花籠はなかごとがそのそばてられた。

お品は生まれてこのかた、土を踏まない日はないと言っていいくらいであった。

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しな生來せいらいつちまないはないといつていゝぐらゐであつた。

そうしてそれは、凍てつく冬の季節を除いてはたいてい、直接に足の底が土についていた。

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さうしてそれはてるふゆ季節きせつのぞいては大抵たいてい直接ちよくせつあしそこつちについてた。

お品はこうして冷たい屍になってからも、その足の底は棺桶の板一枚を隔てただけで、さらに永久に土と接しているのであった。

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しなかうしてつめたいかばねつてからもあしそこ棺桶くわんをけいたまいへだてただけでさら永久えいきうつちあひせつしてるのであつた。

小さな葬式ながら、棺が出た後は、つむじ風が埃を吹き払ったようにからりとしていた。

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ちひさな葬式さうしきながらひつぎあと旋風つむじかぜほこりぱらつたやうにからりとしてた。

手伝いに来ていた女房らは、それでなくても膳立てをする客が少なくて暇であったから、めっきり手持ち無沙汰になった。

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手傳てつだひ女房等にようばうらはそれでなくても膳立ぜんだてをするきやくすくなくてひまであつたから滅切めつきり手持てもちがなくなつた。

それでも立ちながら椀と箸とを持って、口を動かしている者もあった。

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それでもちながらわんはしとをつてくちうごかしてるものもあつた。

膳部は決まったとおり、皿も平椀も壺椀もつけられた。

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膳部ぜんぶきまつたとほさらひらつぼもつけられた。

それでも切り昆布とひじきと油揚げと豆腐とのほかは、百姓の手で作ったものばかりで料理された。

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それでも切昆布きりこぶ鹿尾菜ひじき油揚あぶらげ豆腐とうふとのほか百姓ひやくしやうつくつたものばかりで料理れうりされた。

皿には、細かく刻んで塩でもんだ大根と人参とのなますが、ちょこんと乗せられた。

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さらにはこまかくきざんでしほんだ大根だいこ人參にんじんとのなますがちよつぽりとせられた。

そういう残り物と冷たくなった豆腐汁とをつついても、麦の交じらない飯がその口にはこの上もないごちそうなので、女房らは、その丈夫で、しかも広がった胃の容れるかぎりは、口がこれをむさぼって止まないのである。

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さういふ残物のこりものつめたくつた豆腐汁とうふじるとをつゝいてもむぎまじらぬめしくちにはうへもない滋味じみなので、女房等にようばうら強健きやうけんかつ擴大くわくだいされたれるかぎりはくちこれむさぼつてまないのである。

彼女らは裏戸の陰に集まって雑談にふけった。

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彼等かれら裏戸うらどかげあつまつて雜談ざつだんふけつた。

「どうしたっけまあ、ひどく棺桶がぐらぐらしたんじゃなかったっけかい」

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「どうしたつけまあ、ひど棺桶くわんをけぐら/\したんぢやなかつたつけゝえ」

「そのはずだろうな。後が心配で仕方がない仏はああいうふうに動くんだっていうぞ、お前」

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そのはずだんべな、あと心配しんぺえやうねえほとけはあゝえにいごくんだつちぞおめえ」

「勘次さんのことが欲しくて、後へ残して行くのがつらいんだろうよ」

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勘次かんじさんことしくつてあとのこしてくのがつれえんだごつさら」

「そんだがよ、あんまり欲しがられると、しまいには迎えに来て連れて行かれるとよ」

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「そんだがよ、あんましがられつとしめえにやむけえかれつとよ」

「ああいやだ、おれは」

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「おゝら」

「連れてってくれと言ったって、お前らのことなんか迎えに来る者もあるまいな」

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れてつてくろつちつたつておめえこたむけえるものもあんめえな」

口々にこんなことが遠慮もなく繰り返された。

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口々くちぐちんなことが遠慮ゑんりよもなく反覆くりかへされた。

間がしばらく途切れた時

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あひだ少時しばし途切とぎれたとき

「お品さんも惜しい命をなあ」

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「おしなさんも可惜あつたらいのちをなあ」

と一人が思い出したように言った。

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一人ひとりおもしたやうにいつた。

「本当だ。他人のやらないことでもありゃしまいし」

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本當ほんたう他人ひとのやらねえこつてもありやしめえし」

ほかの女房が相づちを打った。

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女房にようばう相槌あひづちつた。

「風邪を引いたなんてか。今度の風邪は強いから起きられないなんて、しらばっくれてな」

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風邪かぜいたなんてか、今度こんだ風邪かぜつええからきらんねえなんて、しらばつくれてな」

「死ぬ者貧乏なんだよ」

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もの貧乏びんばふなんだよ」

「そんだが、お品さんは自分のばかりじゃないっていうんじゃないかい」

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「そんだがおしなさんは自分じぶんのがばかりぢやねえつちんぢやねえけ」

「そうだとよ。大きな声じゃ言えないが、五十銭とか八十銭とか取って、他人のも行ったんだとよ」

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「さうだとよ、けえこゑぢやゆはんねえが、五十錢ごくわんとか八十錢はちくわんとかつて他人ひとのがもつたんだとよ」

「八十銭ずつも取っちゃお前、女の手じゃたいしたもんだがな。今度は自分で死んじまうなんて、やりきれないこったなあ」

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八十錢はちくわんづゝもつちやおめえ、をんなぢやたえしたもんだがな、今度こんだ自分じぶんんちまあなんて、んねえこつたなあ」

「罪を作った罰じゃないか」

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つみつくつたばつぢやねえか」

遠慮もなく、それからそれへと移るのである。

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遠慮ゑんりよもなくそれからそれとうつるのである。

「そんなこと言って、今出た仏のことをお前ら、取っつかれるから見ろよ」

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「そんなことゆつて、いまほとけのことをおめえ、とつゝかれつからろよ」

ほかの一人の女房が言った時、話がしばらく途切れて静まった。

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一人ひとり女房にようばうがいつたときはなし暫時しばらく途切とぎれてしづまつた。

一人の女房が皿の大根を手でつまんで口へ入れた。

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一人ひとり女房にようばうさら大根だいこつまんでくちれた。

「そういう所を他人に見られたらどうしたもんだい」

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「さうえとこ他人ひとられたらどうしたもんだえ」

そばから言われて

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そばからいはれて

「見てやあしまいな」

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てやあしめえな」

と、その女房は裏戸の口から庭のほうを見た。

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その女房にようばう裏戸うらどくちからにははうた。

そうして

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さうして

「おれみたいな婆はどうせこれから嫁にでも行くあてがあるじゃなし、構わないことは構わないがな」

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てえなばゞあはどうでれからよめにでもくあてがあんぢやなし、かまあねえこたあかまあねえがな」

と言って笑った。

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といつてわらつた。

一同どっと笑い声を発した。

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一同みんなどつと笑聲わらひごゑはつした。

棺を送った人々が離れ離れに帰って来るまでは、雑談がそれからそれへと止まなかった。

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ひつぎおくつた人々ひとびとが離れ/″\にかへつてるまでは雜談ざつだんがそれからそれとまなかつた。

ふだん何の慰めを与えられる機会をも持っていないで、しかも聞きたがり、知りたがり、話したがる彼女らは、三人とさえ集まれば、膨らんだガスが袋の破れ目を求めて逃げ去るように、ついには前後の分別もなくその舌を動かすのである。

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平日へいじつ何等なんら慰藉ゐしやあたへらるゝ機會きくわいをもいうしてないで、しかきたがり、りたがり、はなしたがる彼等かれらは三にんとさへあつまれば膨脹ばうちやうした瓦斯ガスふくろ破綻はたんもとめてごとく、つひには前後ぜんご分別ふんべつもなくそのしたうごかすのである。

たまたま引き出しから出した垢のつかない半纏を着て、髪にはどんな格好にも櫛を入れて、そうして弔みを済ますまでは、彼女らはふだんにないしおらしい様子を保つのである。

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たま/\抽斗ひきだしからしたあかかぬ半纏はんてんて、かみにはどんな姿なりにもくしれて、さうしてくやみをすますまでは彼等かれら平常いつもにないしほらしい容子ようすたもつのである。

それは、改まって不慣れな義理を述べねばならないという懸念が、わずかながら彼女らの心を支配しているからである。

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それはあらたまつて不馴ふなれ義理ぎりべねばならぬといふ懸念けねんが、わづかながら彼等かれらこゝろ支配しはいしてるからである。

しかし土間へ下りて、たすきが掛けられて、膳や椀を洗ったり拭いたり、その手を忙しく動かすようになれば、彼女らの心はそれに引かれて、その聞きたがり、知りたがり、話したがる性情の自然に帰るのである。

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しか土間どまへおりて、たすきけられて、ぜんわんあらつたりいたりそのいそがしくうごかすやうにれば、彼等かれらこゝろはそれにかされてきたがり、りたがり、はなしたがる性情せいじやう自然しぜんかへるのである。

たとえ他人のためには悲しい日でも、その一日だけは自分の生活から離れて何人かの人々といっしょに集まることが、彼女らにはむしろ愉快な一日でなければならない。

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假令たとひ他人たにんためにはかなしいでもの一じつだけは自己じこ生活せいくわつからはなれて若干じやくかん人々ひとびとと一しよ集合しふがふすることが彼等かれらにはむし愉快ゆくわいな一にちでなければならぬ。

絶え間なく消耗して行く肉体の欠損を補うために取る食料は、一椀といえどもことごとく自分の惨憺たる労力の一部を割いているのである。

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間斷かんだんなく消耗せうまうして肉體にくたい缺損けつそん補給ほきふするために攝取せつしゆする食料しよくれうは一わんいへどこと/″\自己じこ慘憺さんたんたる勞力らうりよくの一いてるのである。

しかし他人を悼む一日は、そこに自分のためには何の損失もなくて、十分に口腹の欲を満足させることができる。

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しか他人たにんいたむ一にち其處そこ自己じこのためには何等なんら損失そんしつもなくて十ぶん口腹こうふくよく滿足まんぞくせしめることが出來できる。

他人の悲しみはどれほど痛切でも、それは自分の当面の問題ではない。

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他人たにん悲哀ひあいはどれほど痛切つうせつでもそれは自己じこ當面たうめん問題もんだいではない。

このようにして、彼女らの集まる所には常に笑い声を絶たないのである。

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如斯かくのごとくにして彼等かれらあつまところにはつね笑聲せうせいたないのである。

お品もこういう仲間の一人であった。

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しなういふ伴侶なかま一人ひとりであつた。

それが今日は、その笑い声を後にして冷たい土に帰したのである。

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それが今日けふ笑聲せうせいあとにしてつめたいつちしたのである。

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お品は自分の手で自分の身を殺したのである。

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しな自分じぶん自分じぶんころしたのである。

お品は十九の暮れにおつぎを産んでから、その次の年にもまた身ごもった。

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しなは十九のくれにおつぎをんでからそのつぎとしにもまた姙娠にんしんした。

その時は彼らは窮迫の極みに達していたので、その胎児は死んだおふくろの手で七か月目に堕ろしてしまった。

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とき彼等かれら窮迫きうはく極度きよくどたつしてたので胎兒たいじんだおふくろで七月墮胎だたいしてしまつた。

それはまだ秋の暑いころであった。

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それはまだあきあつころであつた。

丈夫なお品は、四、五日たつと林の中で草刈りをしていた。

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強健きやうけんなおしなは四五にちつとはやしなか草刈くさかりをしてた。

それでも無理をしたために、その後大患いはなかったが、回復するまではしばらくぶらぶらしていた。

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それでも無理むりをしたためその大煩おほわづらひはなかつたが恢復くわいふくするまでにはしばらくぶら/\してた。

それからというものは、どういうものかお品は身ごもらなかった。

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それからといふものはどういふものかおしな姙娠にんしんしなかつた。

おつぎが十三の時、与吉が生まれた。

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おつぎが十三のとき與吉よきちうまれた。

この時は勘次もお品も腹の子を大切にした。

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とき勘次かんじもおしなはら大切たいせつにした。

女の子が十三というともう役に立つので、与吉を育てながら夫婦は十分に働くことができた。

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をんなが十三といふともうやくつので、與吉よきちそだてながら夫婦ふうふは十ぶんはたらくことが出來できた。

与吉が三つになったので、おつぎはよそへ奉公に出すことに、夫婦の間では決められた。

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與吉よきちが三つにつたのでおつぎはよそ奉公ほうこうすことに夫婦ふうふあひだには決定けつていされた。

そのころ十五の女の子では、一年の給金はせいぜい十円くらいのものであった。

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ころ十五のをんなでは一ねん給金きふきん精々せい/″\ゑんぐらゐのものであつた。

それでも、それだけの収入のほかに食料の減ることが、貧乏な所帯には非常な影響なのである。

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それでもそれだけ收入しうにふほか食料しよくれうげんずることが貧乏びんばふ世帶しよたいには非常ひじやう影響えいきやうなのである。

それが、稲の穂先の垂れるころから、お品は思案の首をかしげるようになった。

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それがいね穗首ほくびれるころからおしな思案しあんくびかしげるやうになつた。

体の様子が変になったことに気づいたからである。

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身體からだ容子ようすへんつたことを心付こゝろづいたからである。

十年余りも身ごもらなかった腹は、与吉が宿ってから癖がついたものと見えて、また身ごもったのである。

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ねんあまりたなかつたはら與吉よきちとまつてからくせいたものとえてまた姙娠にんしんしたのである。

お品も勘次も、それには当惑した。

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しな勘次かんじもそれには當惑たうわくした。

おつぎを奉公に出してしまえば、二人の子を抱いてお品はこれまでのように働くことができない。わずかな稼ぎでも、それが止まることは彼らの生活のためには非常な打撃でなければならない。

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おつぎを奉公ほうこうしてしまへば、二人ふたりいておしな從來これまでのやうにはたらくことが出來できない、わづかかせぎでもそれが停止ていしされることは彼等かれら生活せいくわつためには非常ひじやう打撃だげきでなければならぬ。

そのうちに稲を刈ったり、もみを干したり、忙しい取り入れの季節が来て、冴えた空の下に夫婦は毎日埃を浴びていた。

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うちいねつたり、もみしたりいそがしい收穫しうくわく季節きせつて、えたそらした夫婦ふうふ毎日まいにちほこりびてた。

さすがに罪なような心持ちもするので、夫婦はただ困ってその日を過ごしていた。

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有繋さすがつみなやうな心持こゝろもちもするので夫婦ふうふたゞこまつてすごしてた。

それも、夜になって疲れた体を横にし、ぐっすり眠りに落ちるまでのわずかな時間、彼らは互いに決しがたい思案を交換するのであった。

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それもよるつてつかれた身體からだよこにし甘睡かんすゐおちいるまでの少時間せうじかん彼等かれらたがひけつがた思案しあん交換かうくわんするのであつた。

これまでも夫婦の間は、どちらが主であるか分からないほど、勘次には決断の力が欠けていた。

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從來これまで夫婦ふうふあひだいづれが本位ほんゐであるかわからぬほど勘次かんじには決斷けつだんちから缺乏けつばふしてた。

「どうでもお前の腹だから、好きにしたほうがいいよな」

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「どうでもおめえのはらだからきにしたはうがえゝやな」

勘次はこう言うのである。

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勘次かんじういふのである。

しかしそれは、どうでもいいという言い放ちではなくて、すべてがお品に対して命令をするには、勘次の心はあまりに憚っていたのである。

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しかしそれは怎的どうでもいゝといふなぐりではなくて、すべてがおしなたいして命令めいれいをするには勘次かんじこゝろあまはばかつてたのである。

「そんでも、おれのにも困るだろうな」

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「そんでも、おれがにもこまんべな」

お品は投げかけるように言うのである。

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しなけるやうにいふのである。

勘次は、お品がこうするつもりだときっぱり言ってしまえば、けっして反対をするのではない。

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勘次かんじはおしなうするつもりだときつぱりいつてしまへばけつして反對はんたいをするのではない。

といって、お品は自分の判断だけで決行するには、あまりに大事であったのである。

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といつておしな獨斷どくだん決行けつかうするのにはあま大事だいじであつたのである。

そうして、それは決められる機会もなくて、夫婦は依然として農事に忙殺されていた。

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さうしてそれは決定けつていされる機會きくわいもなくて夫婦ふうふ依然いぜんとして農事のうじ忙殺ばうさつされてた。

その間に空を渡る木枯らしが、にわかに悲しい便りをもたらした。

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あひだそらわたこがらしにはかかなしい音信おどづれもたらした。

欅のこずえは、どうせもうこれまでだというように、慌ただしくその赤くなった枯れ葉を地上に投げつけた。

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けやきこずゑは、どうでもうれまでだといふやうにあわたゞしくあかつた枯葉かれは地上ちじやうげつけた。

その捨て去られた軽い小さな落ち葉は、自分を引き止めてくれる陰を求めて転々と走っては、干した藁の間でも、もみのむしろでも、どこでもその身を託した。

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られたかろちひさな落葉おちばは、自分じぶんめてれるかげもとめて轉々ころ/\はしつてはしたわらあひだでももみむしろでも何處どこでもたくした。

周りはすべてがただ騒がしく、かつ混雑した。

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周圍あたりすべてがたゞさわがしく混雜こんざつした。

そのうちに勘次は、秋から募集のあった掘削工事へ、人に任せて行ったのである。

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うち勘次かんじあきから募集ぼしふのあつた開鑿工事かいさくこうじひとまかせてつたのである。

「ただこうしてぐずぐずしていても仕方があるまいな」

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たゞかうしてぐづ/\しててもやうあんめえな」

お品はその時も、勘次の判断を促してみた。

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しなとき勘次かんじ判斷はんだんうながしてた。

「おれもそう言われても困るから、お前の好きにしてくれよ」

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おれもさうゆはれてもこまつから、おめえきにしてくろうよ」

勘次はただこう言った。

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勘次かんじたゞういつた。

勘次が去ってから、お品はその混雑した、しかも寂しい世間に交じって、やるせないような心持ちがして、とうとう罪を決行してしまった。

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勘次かんじつてからおしなその混雜こんざつしたしかさびしい世間せけんまじつて遣瀬やるせのないやうな心持こゝろもちがして到頭たうとう罪惡ざいあく決行けつかうしてしまつた。

お品の腹は四か月であった。

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しなはらは四つきであつた。

そのころの腹がいちばん危険だと言われているとおり、お品はそれが原因で倒れたのである。

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ころはらが一ばん危險きけんだといはれてごとくおしなはそれが原因もとたふれたのである。

胎児は四か月いっぱいこもったので、男女がはっきりと区別されていた。

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胎兒たいじは四つきぱいこもつたので兩性りやうせいあきらかに區別くべつされてた。

小さい股の間には、飯粒ほどの突起があった。

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ちひさいまたあひだには飯粒程めしつぶほど突起とつきがあつた。

お品はさすがに、惜しいはかない心持ちがした。

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しな有繋さすがしい果敢はかない心持こゝろもちがした。

第一に、事の発覚を恐れた。

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だい一にこと發覺はつかくおそれた。

それで、いったんはよく世間の女のするように床の下に埋めたのを、お品はさらに田の端のぐみの木のそばに、ぼろへくるんで埋めたのである。

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それで一たん世間せけんをんなのするやうにゆかしたうづめたのをおしなさらはた牛胡頽子うしぐみそば襤褸ぼろへくるんでうづめたのである。

お品は体の回復するまでじっとして布団にくるまっていれば、あるいはよかったかもしれない。

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しな身體からだ恢復くわいふくするまで凝然ぢつとして蒲團ふとんにくるまつてればあるひはよかつたかもれぬ。

十幾年前には一切を死んだおふくろが処理してくれたのであったが、今度は勘次もいないしで、お品は暮らしの心配もしなくてはいられなかった。

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幾年前いくねんまへには一さいんだおふくろ處理しよりしてくれたのであつたが、今度こんど勘次かんじないしでおしな生計くらし心配しんぱいもしなくてはられなかつた。

一つには、それを世間に隠そうという考えから、知らない様子を装うために、無理にでもその身を動かしたのであった。

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ひとつにはそれを世間せけん隱蔽いんぺいしようといふ念慮ねんりよかららぬ容子ようすよそほためひてもうごかしたのであつた。

しかしながら、その身を殺した黴菌はどうして入り込んだのであろうか。

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しかしながらころした黴菌ばいきんがどうして侵入しんにふしたであつたらうか。

お品は卵膜を破る手当てに他人の手を煩わさなかった。

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しな卵膜らんまくやぶ手術しゆじゆつ他人たにんわずらはさなかつた。

そうして、その差し入れたほおずきの根が、感じないほどに軽い傷を粘膜に与えて、そこに黴菌を植えつけたのであろうか、それとも毎日煙のように浴びせかけた埃から来たのであろうか、それを明らかにすることは不可能でなければならない。

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さうしてその揷入さうにふした酸漿ほゝづき知覺ちかくのないまでに輕微けいび創傷さうしやう粘膜ねんまくあたへて其處そこ黴菌ばいきん移植いしよくしたのであつたらうか、それとも毎日まいにちけぶりごとあびけたほこりからたのであつたらうか、それをあきらめることは不可能ふかのうでなければならぬ。

しかしいずれにしても、病毒は土がもたらしたのでなければならなかった。

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しかいづれにしても病毒びやうどくつちもたらしたのでなければならなかつた。

葬式の次の日は、また近所の人が来た。

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葬式さうしきつぎまた近所きんじよひとた。

勘次はその借りた羽織と袴を着て、村じゅうへ義理に回った。

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勘次かんじりた羽織はおりはかま村中むらぢう義理ぎりまはつた。

土瓶へ入れた水を持って墓参りに行って、それから膳椀もみな返して、近所の人々も帰った後、勘次はぽつんとして、古い机の上に置かれた白木の位牌に対して、たまらなく寂しい哀れっぽい心持ちになった。

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土瓶どびんれたみづつて墓參はかまゐりにつて、それから膳椀ぜんわんみなかへして近所きんじよ人々ひと/″\かへつたのち勘次かんじ㷀然けいぜんとしてふるつくゑうへかれた白木しらき位牌ゐはいたいしてたまらなくさびしいあはれつぽい心持こゝろもちになつた。

二、三日の間は、片口やすり鉢に入れた葬式の時の残り物を食べて、一家はただぼんやりとして暮らした。

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二三にちあひだ片口かたくち摺鉢すりばちれた葬式さうしきとき残物ざんぶつべて一たゞばんやりとしてくらした。

雨戸はいつものように引いたままで陰気であった。

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雨戸あまどはいつものやうにいたまゝ陰氣いんきであつた。

卯平を加えて四人は、お互いがただ冷ややかであった。

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卯平うへいくはへて四にんはおたがひたゞひやゝかであつた。

卯平はその薄暗い家の中に、ただ煙草を吹かしては大きな真鍮の煙管で火鉢を叩いていた。

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卯平うへい薄暗うすぐらうちなかたゞ煙草たばこかしてはおほきな眞鍮しんちう煙管きせる火鉢ひばちたゝいてた。

卯平と勘次とは、その間ろくに口も利かなかった。

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卯平うへい勘次かんじとはあひだろくくちきかなかつた。

勘次は、自分の体と自分の心とが別々になったような心持ちで、自分が自分をどうすることもできなかった。

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勘次かんじ自分じぶん身體からだ自分じぶんこゝろとが別々べつ/\つたやうな心持こゝろもち自分じぶん自分じぶんをどうすること出來できなかつた。

それでも小作米のことは、その念頭から消え去ることはなかった。

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それでも小作米こさくまいのことは念頭ねんとうからぼつることはなかつた。

貧乏な小作人の常として、彼らはいつでも恐怖心に襲われている。

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貧乏びんばふ小作人こさくにんつねとして彼等かれら何時いつでも恐怖心きようふしんおそはれてる。

ことに、その地主を憚ることは並大抵ではない。

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こと地主ぢぬしはゞかることは尋常じんじやうではない。

そうして自分の作ってきた土地は、死んでもかじりついていたいほどそれを惜しむのである。

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さうして自分じぶんつくきたつた土地とちんでもかぢいてたいほどそれををしむのである。

彼らが最初に踏んだ土の強大な引力は、永久に彼らを遠く放さない。

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彼等かれら最初さいしよんだつち強大きやうだい牽引力けんいんりよく永久えいきう彼等かれらとほはなたない。

彼らはとうてい、その土に苦しみ通さねばならない運命を持っているのである。

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彼等かれら到底たうていつちくるしみとほさねばならぬ運命うんめいつてるのである。

勘次は、お品の葬式が済むとすぐに新しい俵へ入れた小作米を地主へ運んで行かねばならないと、それが心を苦しめていた。

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勘次かんじはおしな葬式さうしきむとすぐあたらしいたはられた小作米こさくまい地主ぢぬしはこんでかねばらぬとそれがこゝろくるしめてた。

しかしその時は、その新しい俵の一つは輪になった縄から抜けて、米は叩いてもいくらも出なかった。

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しかときあたらしいたはらの一つはつたなはからけて、こめたゝいてもいくらもなかつた。

勘次は次の年には、ほとんど自分一人の手で農事に励まなくてはならない。

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勘次かんじつぎとしにはほとん自分じぶん一人ひとり農事のうじはげまなくてはならぬ。

例年のように忙しい季節に日雇いに行くこともできまいし、それにはおふくろに捨てられた二人の子供もあることだし、今から穀物の用意もしなくてはならないと思うと、自分の身上から一俵の米を減らしてはとうてい立ち行けないことを深く思案して、彼は眠らないこともあった。

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例年れいねんのやうにいそがしい季節きせつ日傭ひようくことも出來できまいし、それにはおふくろてられた二人ふたり子供こどもることだし、いまからこく用意よういもしなくてはらぬとおもふと自分じぶん身上しんしやうから一ぺうこめげんじては到底たうていけぬことをふか思案しあんしてかれねむらないこともあつた。

しかしほかに方法もないので、彼は地主へ哀願して、小作米の半分を次の秋まで貸してもらった。

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しか方法はうはふもないのでかれ地主ぢぬし哀訴あいそして小作米こさくまい半分はんぶんつぎあきまでしてもらつた。

地主は東隣の元の主人であったので、それも承知された。

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地主ぢぬし東隣ひがしどなり舊主人きうしゆじんであつたのでそれも承諾しようだくされた。

彼はさらに、そのわずかな米の一部を割いて銭に換えねばならないほど、懐が窮していたのである。

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かれさらわづかこめの一いてぜにへねばならぬほどふところきうしてたのである。

勘次はそれから、また利根川の工事へ行かねばならないと思っていた。

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勘次かんじはそれから利根川とねがは工事こうじかねばならないとおもつてた。

それは彼が、わずかの間に見た放浪者の恐ろしさを思って、たとえどうしてもその頭を欺いて、そのわずかな前借りの金を踏み倒すほどの料簡が起こせなかったのである。

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それはかれわづかあひだ放浪者はうらうしやおそろしさをおもつて、假令たとひどうしてもその統領とうりやうあざむいて僅少きんせう前借ぜんしやくかねたふほど料簡れうけんおこされなかつたのである。

そのうちに親方から葉書が来た。

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うち張元ちやうもとから葉書はがきた。

彼はひたすら恐れた。

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かれ只管ひたすら恐怖きようふした。

しかし二人の子を見捨てて行くことができないので、どうしていいか判断もつかなかった。

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しか二人ふたり見棄みすてゝくことが出來できないので、どうしていゝか判斷はんだんもつかなかつた。

そうするうちに、お品の七日も過ぎた。

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さうするうちにおしなの七日もぎた。

彼は苦しみ悩んだ。

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かれ煩悶はんもんした。

ただ一つ、卯平が野田へ行くのをしばらく延ばしてもらって、自分はその間に少しでも小遣い銭を稼いで来たいと思った。

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たゞ一つ卯平うへい野田のだくのをしばら猶豫いうよしてもらつて自分じぶんあひだすこしでも小遣錢こづかひせんかせいでたいとおもつた。

しかしそれも直接には言い出せないので、例の桑畑一枚隔てた南へ頼んだ。

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しかしそれも直接ちよくせつにはせないので、れい桑畑くはばたけまいへだてたみなみたのんだ。

数日来、彼は卯平がその大きな体を火鉢のそばに据えて、煙管をかんではむっつりとしているのを見ると、何となく憚って、なるべくその視線を避けるように遠ざかっていることを余儀なくされるのであった。

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數日來すうじつらいかれ卯平うへいおほきな體躯からだ火鉢ひばちそばゑて煙管きせるんではむつゝりとしてるのをると、なんとなくはゞかつてるべく視線しせんけるやうにとほざかつてることを餘儀よぎなくされるのであつた。

勘次とお品は相思の間柄であった。

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勘次かんじとおしな相思さうし間柄あひだがらであつた。

勘次が東隣の主人に雇われたのは十七の冬で、十九の暮れにお品の婿になってからも、依然として主人の許に勤めていた。

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勘次かんじ東隣ひがしどなり主人しゆじんやとはれたのは十七のふゆで十九のくれにおしな婿むこつてからも依然いぜんとして主人しゆじんもとつとめてた。

彼はその当時、お品の家へは隣づきあいということでよく出入りした。

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かれその當時たうじしなうちへはとなりづかりといふので出入でいつた。

一つには、形づくってきたお品の姿を見たいせいでもあった。

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ひとつにはかたちづくつてたおしな姿すがたたい所爲せゐでもあつた。

彼は秋の大豆打ちという日の晩などには、唐箕へ掛けたり俵に作ったりする間に、二升や三升の大豆はひそかに隠しておいて、お品の家へ持って行った。

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かれあき大豆打だいづうちといふばんなどには、唐箕たうみけたりたはらつくつたりするあひだに二しようや三じよう大豆だいづひそかかくしていておしなうちつてつた。

そうして炒り豆をかじっては、夜更けまで話をすることもあった。

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さうして豆熬まめいりかじつては夜更よふけまではなしをすることもあつた。

お品の家からは、近所に風呂の立たない時はよく来た。

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しなうちからは近所きんじよ風呂ふろたぬときた。

忙しい仕事には雇われても来た。

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いそがしい仕事しごとにはやとはれてもた。

そういう間に、彼らの関係が成り立ったのである。

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さういふあひだ彼等かれら關係くわんけい成立なりたつたのである。

それはお品が十六の秋である。

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それはおしなが十六のあきである。

それから足かけ三年たった。

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それから足掛あしかけねんつた。

勘次には、主人の家が愉快でよく働くことができた。

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勘次かんじには主人しゆじんうち愉快ゆくわいはたらくことが出來できた。

彼の体はむしろ小柄であるが、そのきりっと締まった筋肉が、だんだん仕事を上手にした。

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かれ體躯からだむし矮小こつぶであるが、そのきりつとしまつた筋肉きんにく段々だん/″\仕事しごと上手じやうずにした。

たとえどんな物が彼らの間を隔てようとしても、彼らが近づく機会を見いだしたことは、鬱蒼として遮っている密林のこずえを透して、どこからか日が地上に光を投げているようなものであった。

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假令たとひどんなもの彼等かれらあひだへだてようとしても彼等かれらあひちかづく機會きくわい見出みいだしたことは鬱蒼うつさうとしてさへぎつて密樹みつじゆこずゑとほしてどこからか地上ちじやうひかりげてるやうなものであつた。

彼らの心は、ただ明るかったのである。

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彼等かれらこゝろたゞあかるかつたのである。

お品は十九の春に身ごもった。

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しなは十九のはる懷胎くわいたいした。

自分でもそれはしばらく知らずにいた。

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自分じぶんでもそれはしばららずにた。

季節がだんだん暖かくなって、仕事にはひとえでなければならないころになったので、女同士の目は隠しおおせないようになった。

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季節きせつ段々だん/\ぽかついて、仕事しごとには單衣ひとへものでなければならぬころつたので女同士をんなどうしかくしおほせないやうにつた。

おふくろはお品をまだ子供のように思って、うかつにもそれに気づかなかった。

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ふくろはおしなをまだ子供こどものやうにおもつて迂濶うくわつにそれを心付こゝろづかなかつた。

本当にそうだと思った時は、お品は間もなく肩で息するようになった。

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本當ほんたうにさうだとおもつたときはおしなもなくかたいきするやうにつた。

そうして、体がもう捨てておけない状態になったので、両方の親戚の者でごたごたと協議が起こった。

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さうして身體からだがもうてゝけない場合ばあひつたので兩方りやうはう姻戚みよりものでごた/\と協議けふぎおこつた。

勘次もお品も、その時互いに慕い合う心がにかわのように強かった。

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勘次かんじもおしなそのときたがひあひしたこゝろ鰾膠にべごとつよかつた。

彼らはいたずら者に水をさされて慌てた機会に、ある夜逃げ出してしまった。

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彼等かれら惡戲者いたづらものみづをさゝれてあわてた機會はづみあるしてしまつた。

それは、このままでは二人はとても添わされない様子だから、どうしても一つになろうというのならば、どこかへ二人で身を隠すのである。

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それは、まゝでは二人ふたりてもはされぬ容子ようすだからどうしてもひとつにらうといふのならば何處どこへか二人ふたりかくすのである。

そうして、いよいよとなればおれがどうにでもそこは始末をつけてやるから、何でもぐずぐずしていちゃだめだと、お品の心をそそのかしたのであった。

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さうしていよ/\となればおれがどうにでも其處そこ始末しまつをつけてるから、なんでも愚圖ぐづ/\してちや駄目だめだとおしなこゝろ教唆そゝつたのであつた。

お品から一心に勘次へ迫った。

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しなから一しん勘次かんじせまつた。

勘次はそのころから、お品の言うなりになるのであった。

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勘次かんじころからおしなのいふなりにるのであつた。

二人は遠くは行けないので、隣村の知り合いへ身を投じた。

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二人ふたりとほくはけないので、隣村となりむら知合しりあひとうじた。

両方の親戚が騒ぎ出した。

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兩方りやうはう姻戚みよりさわした。

こういう同士へのこんないたずらは、どこでもよく繰り返されるのであった。

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ういふ同志どうしへのこんな惡戲いたづら何處どこでも反覆くりかへされるのであつた。

そうして成功したいたずら者は

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さうして成功せいこうした惡戲者いたづらもの

「仕事は何でも雌鶏でなくちゃうまく行かないよ」

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仕事しごとなんでも牝鷄めんどりでなくつちやうまかねえよ」

と言っては陰で笑うのである。

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といつてはかげわらふのである。

「外聞をさらしやがって」

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外聞げえぶんさらしやがつて」

と卯平は怒ったが、それがために事は容易に運ばれた。

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卯平うへいおこつたがそれがためこと容易よういはこばれた。

勘次は婿になったのである。

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勘次かんじ婿むこつたのである。

簡単な式が行われた。

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簡單かんたんしきおこなはれた。

にわかに仲人と定められた者が一人で、勘次を連れて行った。

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にはか媒妁人ばいしやくにんさだめられたものが一人ひとり勘次かんじれてつた。

卯平はむっつりとしてそれを受けた。

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卯平うへいはむつゝりとしてそれをけた。

ふだん行きつけた家なので、勘次はきまり悪そうに座った。

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平生へいぜいきつけたうちなので勘次かんじきま惡相わるさうすわつた。

お品はふだん着のままたすき掛けで、大儀そうな体を動かしていて、勘次のそばへは座らなかった。

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しな不斷衣ふだんぎまゝ襷掛たすきがけ大儀相たいぎさう體躯からだうごかして勘次かんじそばへはすわらなかつた。

仲人がただ酒を飲んで騒いだだけであった。

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媒妁人ばいしやくにんたゞさけんでさわいだだけであつた。

お品は間もなく女の子を産んだ。

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しなもなくをんなんだ。

それがおつぎであった。

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それがおつぎであつた。

季節は暮れの押し詰まった忙しい時であった。

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季節きせつくれつまつたいそがしいときであつた。

おふくろはお品が好いているので、勘次を不足な婿と思ってはいなかった。

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ふくろはおしないてるので、勘次かんじ不足ふそく婿むこおもつてはなかつた。

勘次はその暮れもまた主人へ身を任せるはずで前借りした給金を、お品の家へ注ぎ込んだので、おふくろはかえって喜んでいた。

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勘次かんじそのくれまた主人しゆじんまかせるはず前借ぜんしやくした給金きふきんを、おしなうちんだのでおふくろかへつよろこんでた。

卯平はただ、勘次が虫が好かなかった。

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卯平うへいたゞ勘次かんじむしすかなかつた。

自分はその大きな体でぐいぐいと仕事をしつけたのに、勘次が小さな体でちょこちょこと駆け歩いたり、ただ言いつけばかり聞いていて、自分の機転というものがいっこうになかったりするので、ひどく歯がゆく思っていた。

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自分じぶんそのおほきな體躯からだでぐい/\と仕事しごとをしつけたのに勘次かんじちひさな體躯からだでちよこ/\とあるいたり、ただ吩咐いひつけばかりいてるので自分じぶん機轉きてんといふものが一かうなかつたりするのでひど齒痒はがゆおもつてた。

しかし自分は入り婿という関係もあるし、それに生まれつきの無口なので、親戚の間の協議にも彼は

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しか自分じぶん入夫にふふといふ關係くわんけいもあるしそれに生來せいらい寡言むくちなので姻戚みよりあひだ協議けふぎにもかれ

「どうでもわしはよござんすからいい塩梅に決めておくんなせえ」

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「どうでもわしはようがすからえゝ鹽梅あんべいめておくんなせえ」

とだけ言うのであった。

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とのみいふのであつた。

勘次は百姓のもっとも忙しいそのころの五月に病気になった。

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勘次かんじ百姓ひやくしやうもつとせはしいころの五ぐわつ病氣びやうきつた。

彼はくつわへつけた竹竿の端を取って馬を操りながら、毎日泥だらけになって田の代掻きをした。

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かれくつわけた竹竿たけざをはしつてうまぎよしながら、毎日まいにちどろだらけになつて代掻しろかきをした。

どうかすると、そんな季節に東南風が吹いて、震えるほど冷えることがある。

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どうかするとそんな季節きせつ東南風いなさいてふるへるほどえることがある。

勘次はその冷えが障ったのであろうか、心持ちが悪いと言って田から戻って来ると、それっきり枕も上がらないようになった。

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勘次かんじえがさはつたのであつたらうか心持こゝろもちわるいというてからもどつてるとそれつまくらあがらぬやうになつた。

よく馬の病気に飲ませる赤玉という薬を幾粒か飲んで、彼は布団へくるまっていた。

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うま病氣びやうきませる赤玉あかだまといふくすり幾粒いくつぶんでかれ蒲團ふとんへくるまつてた。

彼はどうにか病気をしのげるものなら、卯平のそばへは行きたくなかった。

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かれはどうにか病氣びやうきしのぎがつけば卯平うへいそばへはきたくなかつた。

それと一つには、我慢して仕事に出ればろくには働けなくても一日の勤めを果たしたことになるけれども、まるで休んでしまえばその日だけの割り当て勘定が給金から差し引かれなければならないので、彼はそれを恐れた。

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それとひとつには我慢がまんして仕事しごとればろくにははたらけなくても一にちつとめをはたしたことにるけれども、まるやすんでしまへばだけの割當勘定わりあてかんぢやう給金きふきんから差引さしひかれなければらぬのでかれはそれをおそれた。

しかし病気は、馬に飲ませる薬の赤玉ではすぐには治らなかった。

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しか病氣びやうきうまませるくすり赤玉あかだまではすぐにはなほらなかつた。

それで彼はお品の厄介になるつもりで、次の朝早く朋輩の背に運ばれた。

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それでかれはおしな厄介やくかいつもりで、つぎあさはや朋輩ほうばいはこばれた。

卯平は渋りきった顔で迎えた。

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卯平うへいしぶつたかほむかへた。

お品が布団を敷いてやったので、勘次はそれへごろりとうつぶせになって、その額を交差した手に埋めた。

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しな蒲團ふとんいてつたので勘次かんじはそれへごろりと俯伏うつぶしになつてひたひ交叉かうさしたうづめた。

家の者はみな田へ出なければならなかった。

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うちものみななければならなかつた。

病人に構っていることは仕事が許さなかった。

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病人びやうにんかまつてることは仕事しごとゆるさなかつた。

おふくろは出る時に表の大戸も閉めながら

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ふくろときおもて大戸おほどてながら

「腹が減ったらここにあるぞ」

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はらつたら此處こゝにあんぞ」

と言って、ばたりと飯台のふたをした。

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といつてばたりと飯臺はんだいふたをした。

後で勘次が布団からずり出して見たら、麦ばかりのぽろぽろした飯であった。

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あと勘次かんじ蒲團ふとんからずりしてたら、むぎばかりのぽろ/\しためしであつた。

その時分、お品の家ではそういう食料で命をつないでいたのである。

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時分じぶんしなうちではさういふ食料しよくれう生命いのちつないでたのである。

勘次は奉公にばかり出ていたので、それほど粗末な物を口にしたことはない。

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勘次かんじ奉公ほうこうにばかりたのでそれほど麁末そまつものくちにしたことはない。

それで、どうしても手を出そうという心が起こらなかった。

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それでどうしてもさうといふこゝろおこらなかつた。

昼飯に家の者は田から戻って、その飯を食べた。

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午餐ひるうちものからもどつてめしべた。

ちっとはどうだとおふくろに勧められても、勘次はただうつぶせになっていた。

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ちつとはどうだとおふくろすゝめられても勘次かんじたゞ俯伏うつぶしつてた。

「この野郎、こんな忙しい時に転がり込みやがって、くたばるつもりでもあるだろう」

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野郎やらうこんなせはしいときころがりみやがつてくたばるつもりでもあんべえ」

と、卯平はふだんになくこんなことを言った。

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卯平うへい平生へいぜいになくんなことをいつた。

勘次は後で独り泣いた。

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勘次かんじあとひといた。

彼はお品がこっそり布団の下へ入れてくれた煎餅をかじったりして、二、三日ごろごろしていた。

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かれはおしながこつそり蒲團ふとんしたいれれた煎餅せんべいかぢつたりして二三にちごろ/\してた。

そのころは駄菓子屋もめったになかったので、これだけのことがお品にはよほどの心づくしであったのである。

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ころ駄菓子店だぐわしみせ滅多めつたかつたのでだけのことがおしなには餘程よほど心竭こゝろづくしであつたのである。

勘次はどうも卯平がいやで、かつ恐ろしくて仕方がないので、少し体が回復しかけると、みなが田へ出た後でそっと抜けて、村の中の親戚の所へ行って板蔵の二階へ隠れて寝ていた。

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勘次かんじはどうも卯平うへいいやおそろしくつてやうがないのですこ身體からだ恢復くわいふくしかけるとみんなあとでそつとけてむらうち姻戚みよりところつて板藏いたぐらの二かいかくれてた。

夜になったらどうして知ったか、お品はおつぎを背負って鶏を一羽持って来た。

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になつたらどうしてつたかおしなはおつぎを背負せおつてにはとりを一つてた。

「勘次さん、悪く思わないでくれよ。おれは悪くするつもりはないが、仕方がないからよ」

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勘次かんじさんわるおもはねえでくろうよ、おらわるくするつもりはねえが、やうねえからよ」

と、お品は訴えるように言うのであった。

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とおしなうつたへるやうにいふのであつた。

お品は毎晩のように来て、板蔵のさるを内から下ろして泊まって行った。

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しな毎晩まいばんのやうに板藏いたぐらさるうちからおろしてとまつてつた。

それでも勘次は卯平のそばがいやなので、戻らないというつもりでほかの村へさまよい出た。

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それでも勘次かんじ卯平うへいそばいやなのでもどらないといふつもり村落むら漂泊へうはくした。

また土地へ帰って来ると、畑にいても田にいてもお品が迫って来るので、彼は農具を捨てて逃げることさえあった。

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また土地とちかへつてると、はたけてもてもおしなせまつてるので、かれ農具のうぐてゝげることさへあつた。

それがどうしたものか、いつの間にやらひどく自分からお品のそばへ行きたくなってしまって、他人からかえってからかわれるようになったのである。

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それが如何どうしたものか何時いつにやらひど自分じぶんからおしなそばきたくつてしまつて、他人たにんからかへつ揶揄からかはれるやうにつたのである。

勘次が奉公の年季を勤め上げて帰ったとなった時、卯平とは一つ家でかまどを別にすることになった。

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勘次かんじ奉公ほうこう年季ねんきつとめあげてかへつたとつたとき卯平うへいとはひとうちかまどべつにすることにつた。

夫婦と乳飲み子と三人の所帯で、彼らは卯平から殻そばが一斗五升と麦が一斗と、後にも先にもたったこれだけが分けられた。

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夫婦ふうふ乳呑兒ちのみごと三にん所帶しよたい彼等かれら卯平うへいから殼蕎麥からそばが一しようむぎが一と、あとにもさきにもたつただけけられた。

正月のうどんも打てなかった。

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正月しやうぐわつ饂飩うどんてなかつた。

さすがにおふくろは小麦粉を隠してお品へやった。

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有繋さすがにおふくろ小麥粉こむぎこかくしておしなつた。

それでも勘次は、恐ろしい卯平と一つかまどであるよりも、かえって本望であった。

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それでも勘次かんじおそろしい卯平うへいひとかまどであるよりもかへつ本意ほんいであつた。

おふくろが死んでから、老いた卯平は勘次と一つにならなければならなかった。

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ふくろんでからいた卯平うへい勘次かんじひとつにらなければならなかつた。

その時はもう勘次が主であった。

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そのときはもう勘次かんじあるじであつた。

そうして、とうに自分の住んでいる土地までが自分のものではなかった。

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さうしてとう自分じぶんんで土地とちまでが自分じぶん所有ものではなかつた。

それは借金の始末をつけるために人が立って、東隣へ格外な値で持たせたのである。

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それは借錢しやくせんきまりをつけるためひとつて東隣ひがしどなり格外かくぐわいたせたのである。

それほど彼の家は窮していた。

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それほどかれいへきうしてた。

勘次には、卯平は恐ろしいよりも、その時ではむしろいやな老人になっていた。

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勘次かんじには卯平うへいおそろしいよりもそのときではむしいや老爺おやぢつてた。

二人はめったに口も利かない。

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二人ふたり滅多めつたくちかぬ。

それを見ていなければならないお品の苦心は、容易なものではなかったのである。

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それをなければらぬおしな苦心くしん容易よういなものではなかつたのである。

勘次に頼まれて南の亭主が話をした時、卯平はどうしたものかと案じたほどでもなく、「子供らが困るというなら、どうでもするさ。しないでどうするもんか」

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勘次かんじたのまれてみなみ亭主ていしゆはなしをしたとき卯平うへいはどうしたものかとあんじたほどでもなく「子奴等こめらこまるといへばどうでもざらによ、ねえでどうするもんか」

と、煙管を手に持って、その癖の舌打ちをしながら言った。

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煙管きせるつてくせ舌皷したつゞみちながらいつた。

南にいて案じながら挨拶を待っていた勘次は、勢いづいて

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みなみあんじながら挨拶あいさつつて勘次かんじいきほひづいて

「そんじゃ、おとっつあん、おれは行って来るから」

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「そんぢや、おとつゝあおれつから」

と言った。

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といつた。

この時ばかりは穏やかな挨拶が交わされた。

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ときばかりはおだやかな挨拶あいさつ交換かうくわんされた。

勘次がいなくなってから、卯平はむっつりした顔に微笑を浮かべては、与吉を抱いて泣かれることもあった。

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勘次かんじなくつてから卯平うへいはむつゝりしたかほ微笑びせうかべては與吉よきちいてかれることもあつた。

与吉は夜にわかに泣き出して止まないことがある。

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與吉よきちよるにはかしてまぬことがある。

お品が死ぬまでかぶっていた布団の中に、おつぎは与吉を抱いてくるまるのであった。

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しなぬまで蒲團ふとんなかにおつぎは與吉よきちいてくるまるのであつた。

与吉が夜泣きをする時、卯平は枕元のマッチをすって煙草へ火を移しては、燃えさしを手ランプへつけて

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與吉よきち夜泣よなきをするとき卯平うへい枕元まくらもと燐寸マツチをすつて煙草たばこうつしてはえさしをランプへけて

「おっかあが見えるんだかも知れない。そうら明るくなった。お前は姉に抱かさってるんだ。怖いことがあるもんか」

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「おつかあがえんだかもんねえ、さうらあかるくつた。りやねえかさつてんだ。可怖おつかねえことあるもんか」

卯平は重い調子で言うのである。

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卯平うへいおも調子てうしでいふのである。

与吉は壁のどこともなく見ては、火のついたように身を震わせて泣いて、ひしとおつぎへ抱きつく。

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與吉よきちかべ何處どこともなくてはいたやうにふるはしていてひしとおつぎへきつく。

おつぎは与吉を膝へ抱いて、泣き止むまでは両手で覆っている。

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おつぎは與吉よきちひざいてむまでは兩手りやうておほうてる。

それが泣き出したら毎夜のようなので、おつぎは玉砂糖を布団の下へ入れておいて、泣く時にはなめさせた。

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それがしたら毎夜まいよのやうなのでおつぎは、玉砂糖たまざたう蒲團ふとんしたれていてときにはめさせた。

それでも泣き募った時は、口へ入れた砂糖を吐き出しては、いよいよ激しく泣くのである。

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それでもつのつたときくちれた砂糖さたうしてはいよ/\はげしくくのである。

おつぎは焦れて、邪険に与吉を揺さぶることもあった。

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おつぎはれて邪險じやけん與吉よきちをゆさぶることもあつた。

それで与吉はついには、砂糖を口にしながらすやすやと眠る。

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それで與吉よきちしまひには砂糖さたうくちにしながらすや/\とねむる。

卯平は与吉が静かになるまでは、横になったままおつぎのほうを向いて、薄暗い手ランプにその目を光らせている。

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卯平うへい與吉よきちしづかにるまではよこつたまゝおつぎのはういて薄闇うすぐらランプにひからせてる。

与吉はおつぎに抱かれる時、いつもよくおつぎの乳房をいじるのであった。

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與吉よきちはおつぎにかれるときいつもくおつぎの乳房ちぶさいぢるのであつた。

うるさがって邪険に叱ってみても、与吉は甘えて笑っている。

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五月蠅うるさがつて邪險じやけんしかつてても與吉よきちあまえてわらつてる。

それでも泣く時に、お品のしたように懐を開けて乳房を含ませてみても、その小さな乳房は間違っても吸わなかった。

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それでもときにおしなのしたやうにふところけて乳房ちぶさふくませててもちひさな乳房ちぶさ間違まちがつてもはなかつた。

砂糖をつけてみても欺けなかった。

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砂糖さたうけててもあざむけなかつた。

おつぎは与吉が腹を減らして泣く時には、米を水に浸しておいてすり鉢ですって、それをくつくつと煮て砂糖を入れてなめさせた。

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おつぎは與吉よきちはららしてときにはこめみづひたしていて摺鉢すりばちですつて、それをくつ/\と砂糖さたういれめさせた。

与吉は一箸なめては舌鼓を打って、その小さな白い歯を出して、頭を後ろへくっつけるほど身を反らして、おつぎの顔をじっと見ては、甘えた声を立てて笑うのである。

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與吉よきち一箸ひとはしめては舌鼓したつゞみつてそのちひさなしろして、あたまうしろへひつゝけるほどらしておつぎのかほ凝然ぢつてはあまえたこゑたてわらふのである。

与吉はそれがほしくなれば、小さな手ですすけた枠棚を指した。

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與吉よきちはそれがほしくなればちひさなすゝけた籰棚わくだなした。

そこには、彼の好む砂糖の小さな袋が載せてあるのであった。

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其處そこにはかれこの砂糖さたうちひさなふくろせてあるのであつた。

おつぎは勘次が言いつけて行ったとおり、桶へ入れてある米と麦とを混ぜたのを飯に炊いて、芋と大根の汁をこしらえるほか、どうという仕事もなかった。

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おつぎは勘次かんじ吩咐いひつけてつたとほをけれてあるこめむぎとのぜたのをめしいて、いも大根だいこしるこしらへるほかどうといふ仕事しごともなかつた。

その間には与吉を背負って林の中を歩いて、竹の竿で作った鉤で枯れ枝を採っては、そだを束ねるのが務めであった。

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あひだには與吉よきち背負せおつてはやしなかあるいてたけ竿さをつくつたかぎ枯枝かれえだつては麁朶そだたばねるのがつとめであつた。

おつぎは麦藁でたにしのような形にねじれた籠を作って、それを与吉へ持たせた。

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おつぎは麥藁むぎわら田螺たにしのやうなかたちよぢれたかごつくつてそれを與吉よきちたせた。

卯平はぶらりと出て行っては、帰りには駄菓子を少し袂へ入れて来る。

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卯平うへいはぶらりとつてはかへりには駄菓子だぐわしすこたもとれてる。

そうして卯平は、菓子を持った右の手を左の袖口から出して与吉へ見せる。与吉はふらふらとようやく歩いて行っては、突き当たりそうに卯平へつかまって袂を探す。

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さうして卯平うへい菓子くわしつたみぎひだり袖口そでくちからして與吉よきちせる、與吉よきちはふら/\とやうやあるいてつては、あたさう卯平うへいつかまつてたもとさがす。

そうすると、菓子を持った手がさらに卯平の左の袂から出る。

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さうすると菓子くわしつたさら卯平うへいひだりたもとからる。

与吉は危なそうに卯平の体を伝いながら、左へ回って行く。

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與吉よきちあぶさう卯平うへい身體からだつたひつゝひだりまはつてく。

そうすると、卯平の手が与吉の頭の上に乗って、菓子が頭へ落とされる。

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さうすると卯平うへい與吉よきちあたまうへつて菓子くわしあたまおとされる。

与吉が頭へ手をやる時に、菓子は足元へぽたりと落ちる。

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與吉よきちあたまをやるとき菓子くわし足下あしもとへぽたりとちる。

与吉は慌てて菓子を拾っては、声を立てて笑うのである。

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與吉よきちあわてゝ菓子くわしひろつてはこゑてゝわらふのである。

菓子は、いつまでも減らないように砂糖で固めた黒い鉄砲玉がよく与えられた。

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菓子くわし何時いつまでもらないやうに砂糖さたうかためたくろ鐵砲玉てつぱうだまあたへられた。

頭から落ちてころころと鉄砲玉が遠く転がって行くのを、倒れながら追いかけて行く与吉を見て、卯平のむっつりとした顔が溶けるのである。

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あたまからちてころ/\と鐵砲玉てつぱうだまとほころがつてくのを、たふれながらけて與吉よきち卯平うへいのむつゝりとしたかほけるのである。

与吉はつまずいて倒れても、その時はけっして泣くことがない。

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與吉よきちつまづいてたふれてもそのときけつしてくことがない。

鉄砲玉は麦藁の籠へも入れられた。

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鐵砲玉てつぱうだま麥藁むぎわらかごへもれられた。

与吉はそれを大事そうに持っては時々のぞきながら、おつぎが炊事をする間、おとなしくして座っているのであった。

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與吉よきちはそれを大事相だいじさうつては時ゝ《とき/″\》のぞきながら、おつぎが炊事すゐじあひだ大人おとなしくしてすわつてるのであつた。

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春は空から、そうして土からかすかに動く。

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はるそらからさうしてつちからかすかうごく。

毎日のように西から埃を巻いて来る疾風が、どうかするとはたと止んで、空の際にはふわふわとした綿のような白い雲が、ほっかりと暖かい日光を浴びようとしてわずかに立ち上ったというように、動きもしないでじっとしていることがある。

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毎日まいにちのやうに西にしからほこりいて疾風しつぷうがどうかするとはたととまつて、空際くうさいにはふわ/\とした綿わたのやうなしろくもがほつかりとあたゝかい日光につくわうびようとしてわづかのぼつたといふやうに、うごきもしないで凝然ぢつとしてることがある。

水に近い湿った土が暖かい日光を思うぞんぶんに吸って、その勢いづいた土のかすかな刺激を根に感じさせるので、田んぼのはんの木の地味なつぼみは、目に立たない間に少しずつ伸びてひらひらと動きやすくなる。

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みづちかしめつたつちあたゝかい日光につくわうおもふ一ぱいうてそのいきほひづいたつちかすかな刺戟しげきかんぜしめるので、田圃たんぼはん地味ぢみつぼみたぬすこしづゝびてひら/\とうごやすくなる。

その刺激から、蛙はまだ冬ごもりの状態にありながら、まれにはあっちでもこっちでもくくくくと鳴き出すことがある。

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刺戟しげきからかへるはまだ蟄居ちつきよ状態じやうたいりながら、まれにはそつちでもこつちでもくゝ/\とすことがある。

空から差す日の光はそろそろと熱を増して、土はそれをいくらでも吸って止まない。

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そらからひかりはそろ/\と熱度ねつどして、つちはそれをいくらでもうてまぬ。

土はすべてをだんだんと刺激して、堀のあたりには蘆やとだしばやその他の草が、空と映り合ってすっとその首をもたげる。

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つちすべてを段々だん/\刺戟しげきしてほりほとりにはあしやとだしばやくさそらあひえいじてすつきりとくびもたげる。

柔らかさに満たされた空気をさらに鈍くするように、はんの木の花はひらひらと止まず動きながら、すすのような花粉をまき散らしている。

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やはらかさに滿たされた空氣くうきさらにぶくするやうに、はんはなはひら/\とまずうごきながらすゝのやうな花粉くわふんらしてる。

蛙は仮死の状態から離れて、柔らかな草の上に手を突いては、驚いたような様子をして空を仰いでみる。

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かへる假死かし状態じやうたいからはなれてやはらかなくさうへいては、おどろいたやうな容子ようすをしてそらあふいでる。

そうして彼らは、慌てたように声を放って、その長い眠りから生き返ったことを空に向かって告げる。

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さうして彼等かれらあわてたやうにこゑはなつてそのなが睡眠すゐみんから復活ふくくわつしたことをそらむかつてげる。

それで遠くで聞く時は、彼らの騒がしい声はただ空にのみ響いて快げである。

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それでとほとき彼等かれらさわがしいこゑたゞそらにのみひゞいてこゝろよげである。

彼らはさらに、春の来たことをいっさいの生き物に向かって促す。

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彼等かれらさらはるいたつたことを一さい生物せいぶつむかつてうながす。

草や木が気づいて、その活力を存分に発揮するのを見ないうちは、鳴くことを止めまいと努める。

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くさこゝろづいて活力くわつりよく存分ぞんぶん發揮はつきするのをないうちはくことをめまいとつとめる。

田んぼのはんの木は、とうに花を捨てて、自分が先に若葉の姿になってみせる。

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田圃たんぼはんとうはなてゝ自分じぶんさき嫩葉わかば姿すがたつてせる。

黄色みを含んだ若葉が、爽やかで、かつ朗らかな朝日を浴びて快い光を保ちながら、青い空の下に、まだためらっている周りの林を見る。

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黄色味きいろみふくんだ嫩葉わかばさわやかでほがらかな朝日あさひびてこゝろよひかりたもちながらあをそらしたに、まだ猶豫たゆたうて周圍しうゐはやしる。

岬のような形に伸びている水田を抱えて、周りの林はようやくその本性のままに勝手に、白っぽいのや赤っぽいのや、黄色っぽいのや、さまざまに茂って、それが気がついた時には急いで一つの深い緑になるのである。

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みさきのやうなかたちうて水田すゐでんかゝへて周圍しうゐはやしやうや本性ほんしやうのまに/\勝手かつてしろつぽいのやあかつぽいのや、黄色きいろつぽいのや種々いろ/\しげつて、それがいたときいそいでひとつのふかみどりるのである。

雑木林のそこらここらに散らばっている開墾地の麦もすっと首を出して、そら豆の花もかわいらしい黒い瞳を集めて、恥ずかしそうに葉の間からこっそりと四方をのぞく。

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雜木林ざふきばやし其處そこ此處こゝらに散在さんざいして開墾地かいこんちむぎもすつとくびして、蠶豆そらまめはな可憐かれんくろひとみあつめてはづかしさうあいだからこつそりと四はうのぞく。

雑木林の間には、またすすきの硬い葉が空を刺そうとして立つ。

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雜木林ざふきばやしあひだにはまたすゝき硬直かうちよくそらさうとしてつ。

その麦やすすきの下に住まいを求める雲雀が、時々空を占めて、春が更けたと呼びかける。

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そのむぎすゝきしたきよもとめる雲雀ひばり時々とき/″\そらめてはるけたとびかける。

そうすると、自分の同族の声のみが空を支配しているべきはずだと思っている蛙は、そのさえずる声を押し消そうとして、互いの体を飛び越え飛び越え鳴き立てるので、勢いの少ない雲雀はすっと下りて、麦やすすきの根に潜んでしまう。

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さうするとその同族どうぞくこゑのみが空間くうかん支配しはいして居可ゐべはずだとおもつてかへるは、そのさへづこゑあつらうとしてたがひ身體からだえ飛び越えてるので小勢こぜい雲雀ひばりはすつとおりてむぎすゝきひそんでしまふ。

そうしては、蛙の鳴かない日中にのみ、これを仰げば眩しさに堪えられないように、その身をはるかに煌めく日の光の中に沈めて、その小さな喉のちぎれるまでは激しく鳴らそうとするのである。

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さうしてはかへるかぬ日中につちうにのみ、これあふげばまばゆさにへぬやうにはるかきらめくひかりなかぼつしてそのちひさなのど拗切ちぎれるまでははげしくらさうとするのである。

蛙はいよいよますます鳴き誇って、樫の木のような大きな常緑樹の古い葉をも、一時にからりと落とさせなければ止まないとする。

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かへるいよ/\ます/\ほこつてかしのやうなおほきな常緑木ときはぎ古葉ふるはをも一にからりとおとさせねばまないとする。

この時、すべての樹木や、それから冬の間はぐったりと地についていたすべての雑草が、爪立ちしてただ空へ空へと暖かな光を求めて止まない。

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ときすべての樹木じゆもくやそれから冬季とうきあひだにはぐつたりといてすべての雜草ざつさう爪立つまだてしてたゞそらへ/\とあたゝかなひかりもとめてまぬ。

土がそれをじっと引き止めて放さない。

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つちがそれを凝然ぢつきとめてはなさない。

それで一切の草木は土と直角の角度を保っている。冬の間は土と平行することを好んでいた人も、鉄の針が磁石に吸われるように土に直立して、めいめいに手に農具を取る。

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それで一さい草木さうもくつち直角ちよくかくたもつてる、冬季とうきあひだつち平行へいかうすることをこのんでひとてつはり磁石じしやくはれるごとつち直立ちよくりつして各自てんで農具のうぐる。

紺の股引を藁でくくって、みな田を耕しはじめる。

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こん股引ももひきわらくゝつてみなたがやはじめる。

水がほしいと人が思う時、蛙は一斉に裂けるかと思うほど喉の袋をふくらませて、身を震わせながら、ことさらに鳴き立てる。

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みづしいとひとおもときかへるは一せいけるかとおもほどのどふくろ膨脹ばうちやうさせてゆるがしながら殊更ことさらてる。

白い絹糸のような雨は、水が田に満ちるまでは注いでまた注ぐ。

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しろ絓絲すがいとのやうなあめみづ滿つるまではそゝいでまたそゝぐ。

鳴くべき時に鳴くためにのみ生まれて来た蛙は、刈り株を引っ返し引っ返し働いている人々の周りから足元から迫って、素早くその手を動かせ動かせと促して止まない。

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くべきときためにのみうまれてかへる苅株かりかぶかへし/\はたらいて人々ひと/″\周圍しうゐから足下あしもとからせまつて敏捷びんせううごかせ/\とうながしてまぬ。

蛙がぴったりと声を呑む時には、日中の暖かさに人もぐったりとなって、田んぼの短い草にごろりと横になる。

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かへるがぴつたりとこゑときには日中につちうあたゝかさにひともぐつたりとつて田圃たんぼみじかくさにごろりとよこる。

さらに蛙は、ひっそりと静かな夜になると、いかに自分の声が遠く、かつはるかに響くかを誇るもののように、力を極めて鳴く。

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さらかへるはひつそりとしづかなよるになると如何いか自分じぶんこゑとほかつはるかひゞくかをほこるものゝごとちからきはめてく。

雨戸を閉じる時、蛙の声はめっきり遠く隔たって、それがぐったりと疲れた耳をくすぐって、百姓のすべてを安らかな眠りに誘うのである。

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雨戸あまどづるときかへるこゑ滅切めつきりとほへだつてそれがぐつたりとつかれたみゝくすぐつて百姓ひやくしやうすべてをやすらかなねむりにいざなふのである。

熟睡することによって、百姓はみな短い時間に肉体の消耗を回復する。

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熟睡じゆくすゐすることによつて百姓ひやくしやうみなみじか時間じかん肉體にくたい消耗せうまう恢復くわいふくする。

彼らが雨戸の隙間から差す夜明けの白い光に驚いて布団を蹴って外に出ると、今さらのように耳に迫る蛙の声にその目覚めを促されて、井戸端の冷たい水にまったく朝の元気を呼び返すのである。

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彼等かれら雨戸あまど隙間すきまから夜明よあけしろひかりおどろいて蒲團ふとんつてそとると、今更いまさらのやうにみゝせまかへるこゑ覺醒かくせいうながされて、井戸端ゐどばたつめたいみづまつたあさ元氣げんきかへすのである。

草木は、遠くはるかに響けと鳴くその声に揺られながら、夜の間に生長する。

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草木くさきとほはるかひゞけとこゑゆすられつゝよるあひだ生長せいちやうする。

櫟や楢やその他の雑木は、蛙が鳴けば鳴くほど、そうしてそれが鳴き止む季節までは、いくらでも茂ることを続けようとする。

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くぬぎならその雜木ざふきかへるけばほどさうしてそれが季節きせつまではいくらでも繁茂はんもすることを繼續けいぞくしようとする。

そこには毛虫やその他の情けない損害があるにしても、しとしととしばしばこずえを打つ雨が、空の青さを移したかと思うように力強い深い緑が地上を覆って、爽やかな涼しい陰を作るのである。

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其處そこには毛蟲けむし淺猿あさましい損害そんがいあるひるにしても、しと/\としば/\こずゑあめそらあをさをうつしたかとおもふやうに力強ちからづよふかいみどり地上ちじやうおほうてさわやかなすゞしいかげつくるのである。

鬼怒川の西岸の一部の地にも、こうして春は来て、かつ移って行った。

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鬼怒川きぬがは西岸せいがんにもうしてはるきたかつ推移すゐいした。

憂いのある者もない者も等しく農具を取って、それぞれその持ち場についた。

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うれひあるものもいものもひとしく耒耟らいしつておの/\ところいた。

勘次もその一人である。

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勘次かんじ一人ひとりである。

勘次は春の間に、お品の四十九日も過ごした。

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勘次かんじはるあひだにおしなの四十九にちすごした。

白木の位牌に心ばかりの手向けをしただけで、一銭でも彼は無駄遣いを恐れた。

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白木しらき位牌ゐはいこゝろばかりの手向たむけをしただけで一せんでもかれ冗費じようひおそれた。

彼が再び利根川の工事へ行った時は、冬はようやく険悪な空を彼らの頭上に表した。

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かれふたゝ利根川とねがは工事こうじつたときふゆやうや險惡けんあくそら彼等かれら頭上づじやうあらはした。

みぞれや雪や雨が、時として彼らの労働に恐るべき障害を与えて、彼らを一日その寒い部屋に閉じ込めた。

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みぞれゆきあめときとして彼等かれら勞働らうどうおそるべき障害しやうがいあたへて彼等かれらを一にちそのさむ部屋へやめた。

一日の工賃は、非常な節約をしても、次の日に仕事に出なければ一銭も自分の手には残らなくなる。

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にち工賃こうちん非常ひじやう節約せつやくをしてもつぎ仕事しごとなければ一せん自分じぶんにはのこらなくなる。

それは食料と薪との高い供給を仰がねばならないからである。

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それは食料しよくれうまきとの不廉ふれん供給きようきふあふがねばならぬからである。

勘次は、お品の発病から葬式までには、彼にしては過大な費用を要した。

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勘次かんじはおしな發病はつびやうから葬式さうしきまでにはかれにしては過大くわだい費用ひようえうした。

それでも葬具やその他の雑費には、二銭ずつでも村のすべてが持って来た香典と、お品の布団の下に入れてあった蓄えとで、どうにかすることができた。

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それでも葬具さうぐ雜費ざつぴには二せんづつでもむらすべてがつて香奠かうでんと、おしな蒲團ふとんしたいれてあつたたくはへとでどうにかすることが出來できた。

それでも医者への謝礼やその他で、彼自身の懐はげっそりと減ってしまった。

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それでも醫者いしやへの謝儀しやぎ彼自身かれじしん懷中ふところはげつそりとつてしまつた。

そうして小作米を売った苦しい懐から、それでも彼は自分のいない間の手当てに五十銭を託して行った。

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さうして小作米こさくまいつたくるしいふところからそれでもかれ自分じぶんないあひだ手當てあてに五十せんたくしてつた。

それも卯平へ直接ではなくて、南へ頼んで卯平へ渡してもらった。

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それも卯平うへい直接ちよくせつではなくてみなみたのんで卯平うへいわたしてもらつた。

勘次が行ってから、その銭を出された時、卯平は

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勘次かんじつてからぜにされたとき卯平うへい

「そう疑ぐるなら、わしは預かりますまい」

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「さううたぐるならわしはあづかりますめえ」

と言って拒んだ。

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といつて拒絶きよぜつした。

「まあ、そんなこと言わないで、せっかくのことに。勘次さんも悪い料簡でしたんでもないだろうから」

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「まあ其麽そんなことゆはねえで折角せつかくのことに、勘次かんじさんもわる料簡れうけんでしたんでもなかんべえから」

となだめても、とうとう卯平は聞かなかった。

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なだめても到頭たうとう卯平うへいかなかつた。

勘次はどうにか稼ぎ出して帰りたいと思って一生懸命になったが、それはわずかに命をつなぎ得たに過ぎないのであった。

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勘次かんじはどうにかかせしてかへりたいとおもつて一生懸命しやうけんめいになつたがそれはわづか生命せいめいつなたにすぎないのであつた。

近所の村から行った者は、しのぎきれないで夜逃げしてしまった者もあった。

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近所きんじよ村落むらからつたものはしのれないで夜遁よにげしてしまつたものもあつた。

それでも勘次は、わずかに持って出た財布の銭を減らさなかったというだけのことに繋ぎ止めた。

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それでも勘次かんじわづかつて財布さいふぜにらさなかつたといふだけのことにつなめた。

「おとっつあん、いてくれたなあ」

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「おとつゝあれたなあ」

と媚びるように言って自分の家の敷居をまたいだ時は、足に感覚のないほどに彼は草臥れて、夜は暗くなっていた。

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びるやうにいつて自分じぶんうちしきゐまたいだときあし知覺ちかくのないほどかれ草臥くたびれてよるくらくなつてた。

さすがに二人の子は喜んで、与吉は勘次の手にすがった。

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有繋さすが二人ふたりよろこんで與吉よきち勘次かんじすがつた。

卯平がしたように、鉄砲玉が勘次の手から出ることと思ったらしかった。

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卯平うへいがしたやうに鐵砲玉てつぽうだま勘次かんじからることゝおもつたらしかつた。

勘次は苦しい懐から、何も買っては来なかった。

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勘次かんじくるしいふところからなにつてはなかつた。

彼はどんなにしても、無邪気な子のために小さな菓子の一袋も持って来なかったことを心に悔いた。

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かれ什麽どんなにしても無邪氣むじやきためちひさな菓子くわし一袋ひとふくろつてなかつたことをこゝろいた。

「まんま」

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「まんま」

と言って、小さな与吉は勘次に求めた。

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というてちひさな與吉よきち勘次かんじもとめた。

「そんじゃ、爺さんの砂糖でもなめろ」

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「そんぢやぢい砂糖さたうでもめろ」

と、おつぎは与吉を抱いて枠棚の袋を取った。

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とおつぎは與吉よきちだい籰棚わくだなふくろをとつた。

無口な卯平は、ちょっと見向いたきりで、帰ったかとも言わない。

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寡言むくち卯平うへい一寸ちよつと見向みむいたきりでかへつたかともいはない。

勘次が草臥れた様子をしているのがわざとらしいように見えるので、卯平は苦い顔をして、火の消えた煙管をぎっとかみしめては、思い出したように雁首を火鉢へ叩きつけた。

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勘次かんじ草臥くたびれた容子ようすをしてるのがわざとらしいやうにえるので卯平うへいにがかほをして、えた煙管きせるをぎつとみしめてはおもしたやうに雁首がんくび火鉢ひばちたゝけた。

吸い殻がくっついているので、彼は力いっぱいに叩きつけた。

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吸穀すひがらがひつゝいてるのでかれちからぱいたゝきつけた。

勘次には、それが当てつけにでもされるように心に響いた。

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勘次かんじにはそれがてつけにでもされるやうにこゝろひゞいた。

「おつぎ、みんなでもなめさせろ。そうしてお前もなめっちまえ。おとっつあんが稼いで来たから、お前らもこれからよかろう」

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「おつぎみんなでもめさせろ、さうしてわれめつちめえ、おとつゝあかせえでたから汝等わつられからよかんべえ」

卯平は言った。

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卯平うへいはいつた。

勘次はようやく帰った、その矢先にこういうことで、自分の家でもひどく落ち着かない、こそばゆくてならない心持ちがするので、彼は足も洗わずに、近所へ義理も果たすからと言って出て行った。

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勘次かんじやうやかへつた箭先やさきにかういふことで自分じぶんうちでもひど落付おちつかない、こそつぱくてらない心持こゝろもちがするのでかれあしあらはずに近所きんじよ義理ぎりすからといつてつた。

「明日だっていいのに」

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明日あしただつてえゝのに」

卯平は後で呟いた。

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卯平うへいあとつぶやいた。

彼はぶすりぶすりと口は利くのであったが、それでもさっきからのようにひねくれ曲がったことは、これまでは言ったことはなかった。

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かれはぶすり/\とくちくのであつたがそれでも先刻さつきからのやうにひねくれまがつたことはれまではいつたことはなかつた。

彼は死んだお品のことを思って、二人の子が哀れになって、勘次のいない間の面倒を見る気になった。

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かれんだおしなのことをおもつて二人ふたりあはれになつて勘次かんじないあひだ面倒めんだうつた。

彼はわずかな菓子の袋から小さな与吉に慕われてみると、さすがに憎い心持ちも起こらなかった。

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かれわづか菓子くわしふくろからちひさな與吉よきちしたはれてると有繋さすがにく心持こゝろもちおこらなかつた。

その間、彼は何も不足に思ってはいなかった。

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あひだかれなんにも不足ふそくおもつてはなかつた。

それを勘次が帰ってみると、生まれつき好きでない勘次へ、たちまちに二人の子はなびいてしまった。

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それを勘次かんじかへつてると性來しやうらいきでない勘次かんじたちまちに二人ふたりなびいてしまつた。

彼はこれまでの心づくしを勘次に奪われたようで、ふっと不快な感じを起こしたのである。

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かれこれまでの心竭こゝろづくしを勘次かんじうばはれたやうで、ふつと不快ふくわいかんじをおこしたのである。

それも、どんなかたちにでも勘次が義理を述べればそれでもまだよかったが、勘次は妙に気が引けて、それが喉まで出ても押さえつけられたようで、声に出すことができなかったのである。

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それもどんな姿なりにも勘次かんじ義理ぎりのべればそれでもまだよかつたが、勘次かんじめうひけてそれがのどまでてもおさへつけられたやうでこゑはつすることが出來できなかつたのである。

懐の寂しい勘次が、そうして気が引けるのを、卯平にはかえってよそよそしくされるような感じを与えた。

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ふところのさむしい勘次かんじはさうしてがひけるのを卯平うへいにはかへつ餘所よそ/\しくされるやうなかんじをあたへた。

勘次は卯平にも子供にも済まないような気がしたので、近所へ義理を果たすと言って出て、菓子の一袋を懐へ入れて来た。

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勘次かんじ卯平うへいにも子供こどもにもすまぬやうながしたので近所きんじよ義理ぎりすというて菓子くわし一袋ひとふくろふところれてた。

その時、与吉はもう眠っていた。

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とき與吉よきちはもうねむつてた。

卯平は、変なことをすると思って見ていた。

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卯平うへいへんなことをするとおもつてた。

そうしてまたさらに、自分がひどく隔てられるように思った。

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さうしてまたさら自分じぶんひどへだてられるやうにおもつた。

彼は五十銭の銭のことを思い出して、忌々しくなった。

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かれは五十せんぜにのことをおもして忌々敷いま/\しくなつた。

「勘次ら、懐はいいだろう」

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勘次等かんじらふところはよかつぺ」

卯平はぶつりと聞いた。

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卯平うへいはぶつゝりといた。

「おとっつあん、おれはいい所なもんじゃない。やっとのことで逃げるようにして来たんだ。あんな所へなんざあ、けっして行くもんじゃない。とてもだめなことだ。おれも懲りちまったよ」

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「おとつゝあ、らえゝところなもんぢやねえ、やつとのことでげるやうにしてたんだ、あんなところへなんざあけつしてくもんぢやねえ、とつても駄目だめなこつた、おらりつちやつたよ」

勘次は慌てて言った。

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勘次かんじあわてゝいつた。

彼は会う人ごとに必ず、よかろうよかろうと言われるのを非常に恐れていた。

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かれひとごとかならずよからう/\といはれるのを非常ひじやうおそれてた。

「うん、そうかなあ」

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「うむ、さうかなあ」

卯平は気のないように言った。

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卯平うへいのないやうにいつた。

「どうせおれは余計者だ。いやしないからいいや。いくら持てたって構やしない」

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「どうで餘計者よけいものだ、やしねえからえゝや、いくもつてたつてかまやしねえ」

彼はさらに独り言を言った。

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かれさら獨語つぶやいた。

勘次は青くなった。

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勘次かんじあをくなつた。

卯平は、勘次がきっと銭を隠しているのだと思ったのである。

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卯平うへい勘次かんじ屹度きつとぜにかくしてるのだとおもつたのである。

彼はそんなこんなが不快に堪えないので、次の日、野田へ立ってしまった。

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かれはそんなこんなが不快ふくわいへないのでつぎ野田のだつてしまつた。

野田で卯平の役目といえば、夜になって大きな蔵々の間を拍子木を叩いて歩くだけで、老人の体にもそれは格別の辛抱ではなかった。

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野田のだ卯平うへい役目やくめといへばよるになつておほきな藏々くら/″\あひだ拍子木ひやうしぎたゝいてあるだけ老人としよりからだにもそれは格別かくべつ辛抱しんぼうではなかつた。

昼は昼寝が許されてあるので、その時間を割いて、器用な彼には内職の小遣い取りも少しはできた。

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ひる午睡ひるねゆるされてあるので時間じかんいて器用きようかれには内職ないしよく小遣取こづかひどりすこしは出來できた。

好きな煙草とコップ酒に渇することはなかった。

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きな煙草たばことコツプざけかつすることはなかつた。

暑い時にはさっぱりした浴衣を引っ掛けていることもできた。

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あつときにはさつぱりした浴衣ゆかたけてることも出來できた。

そこは彼には住みづらい所でもなかった。

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其處そこかれにはづらところでもなかつた。

ただ凍てのひどい冬の夜などには、以前からの持病である疝気で、どうかすると腰がきりきりと痛むこともあったが、その時だけは、勘次とまずくなければお品のそばでおとっつあんと言われていたい心持ちもするのであった。

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たゞてのひどふゆなどには以前いぜんからの持病ぢびやうである疝氣せんきでどうかするとこしがきや/\といたむこともあつたが、ときだけ勘次かんじとまづくなければおしなそばでおとつゝあといはれてたい心持こゝろもちもするのであつた。

生まれつき子を持ったことのない彼は、お品一人が頼りであった。

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生來せいらいつたことのないかれはおしな一人ひとり手頼てたのみであつた。

お品に死なれて、彼はまったく孤立した。

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しななれてかれまつた孤立こりつした。

そうして老後は、とうてい勘次の手に託さねばならないことになってしまったのである。

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さうして老後らうご到底たうてい勘次かんじたくさねばならぬことにつてしまつたのである。

それでも見苦しい貧相な勘次は、依然として彼には虫が好かなかった。

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それでも不見目みじめ貧相ひんさう勘次かんじ依然いぜんとしてかれにはむしかなかつた。

彼は野田へ行けば比較的に不自由のない生活がして行かれるので、お前らの厄介にならなくてもおれはまだ立って行かれると、こうして哀愁に覆われた心の一方には、老人のひがみと愚痴とが起こったのであった。

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かれ野田のだけば比較的ひかくてき不自由ふじいうのない生活せいくわつがしてかれるので汝等わつら厄介やくかいにはらねえでもおれはまだたつかれると、うして哀愁あいしうおほはれたこゝろの一ぱうには老人としよりひがみと愚癡ぐちとがおこつたのであつた。

卯平は心に涙を呑んだ。

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卯平うへいこゝろなみだんだ。

勘次はしょんぼりとしていた。

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勘次かんじ悄然せうぜんとしてた。

与吉が泣くたびに、彼は困った。

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與吉よきちたびかれこまつた。

そうして毎日お品のことを思い出しては、天秤棒で手桶をかついだ姿が庭にも戸口にも、時としては座敷にも見えることがあった。

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さうして毎日まいにちしなのことをおもしては、天秤てんびん手桶てをけかついだ姿すがたにはにも戸口とぐちにもときとしては座敷ざしきにもえることがあつた。

そばにいるような気がして、思わず振り返ることもあるのであった。

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そばるやうながしておもはずかへりみることもあるのであつた。

彼はお品を思い出すと与吉を抱いては、「なあ、おっかあはいないんだぞ。おっかあの乳房はほしがれないんだぞ」

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かれはおしなおもすと與吉よきちいては「なあ、おつかあはねえんだぞ、おつかあが乳房ちつこしがんねえんだぞ」

と始終言って聞かせた。

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始終しじういつてかせた。

お品がいないとことさらに言うのは、それは一つには彼自身の諦めのためでもあったのである。

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しなないと殊更ことさらにいふのはそれは一つには彼自身かれじしん斷念あきらめためでもあつたのである。

お品は豆腐をかついでいる時は、よくビールの空き瓶を手桶へくくって行った。

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しな豆腐とうふかついでとき麥酒ビール明罎あきびん手桶てをけくゝつてつた。

それで帰りの手桶が軽くなった時は、勘次の好きな酒がこぼこぼと瓶の中で鳴っていた。

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それでかへりの手桶てをけかるくなつたとき勘次かんじきなさけがこぼ/\とびんなかつてた。

お品は酒屋へ豆腐を置いては、その銭だけ酒を入れてもらうので、豆腐のもうけだけ安い酒を買って、勘次を喜ばせるのであった。

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しな酒店さかだな豆腐とうふいてはそのぜにだけさけれてもらふので豆腐とうふまうけだけやすさけつて勘次かんじよろこばせるのであつた。

それはお品の死ぬ年のことだけである。

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それはおしなとしのことだけである。

お品が、ようやく商売を覚えたと言っていたのは、まだその夏のころからである。

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しなやうやあきなひおぼえたといつてたのはまだなつころからである。

初めはきまりが悪くて、他人の敷居をまたぐのをためらっていた。

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はじめはきまりがわるくて他人たにんしきゐまたぐのを逡巡もぢ/\してた。

それくらいだから変な赤い顔もして、余計に不愛想にも見えるのであったが、後には相応に時候の挨拶も言えるようになったと、お品はよく勘次へ語ったのである。

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くらゐだからへんあかかほもして餘計よけい不愛想ぶあいさうにもえるのであつたが、のちには相應さうおう時候じこう挨拶あいさつもいへるやうにつたとおしな勘次かんじかたつたのである。

勘次は思い出に堪えられなくなっては、お品の墓に泣いた。

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勘次かんじ追憶つゐおくへなくなつてはおしな墓塋はかいた。

彼は、紙が雨に溶けてだらりと崩れた白張り提灯を、恨めしそうに見るのであった。

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かれかみあめけてだらりとこけた白張提灯しらはりちやうちんうらめしさうるのであつた。

勘次はうなだれた首をもたげて、三人の口を糊するために日雇いに出た。

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勘次かんじしをれたくびもたげて三にんくちのりするために日傭ひようた。

彼はよく隣の主人に使ってもらった。

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かれとなり主人しゆじん使つかつてもらつた。

米はきっと彼が搗かせられた。

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こめ屹度きつとかれかせられた。

上手な彼は減らさないで、そうして白く搗いた。

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上手じやうずかれらさないでさうしてしろいた。

彼は時としては、主人のうっかりしている間に蔵から余計な米を量り出して、そっと隠しておいて、夜自分の家に持って来ることがあった。

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かれときとしては主人しゆじんのうつかりしてくらから餘計よけいこめはかして、そつとかくしていてよる自分じぶんいへつてることがあつた。

それもわずか二升か三升に過ぎない。

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それもわづか二しようか三じようぎない。

それくらいでは、主人の注意を引くには足りなかった。

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くらゐでは主人しゆじん注意ちういくにはらなかつた。

そうして、その米は窮迫した彼の台所をしばらく潤すのである。

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さうしてこめ窮迫きうはくしたかれくりや少時しばしうるほすのである。

ある時、彼はまた主人の米をそっとかすめて、股引へ入れて目につかないように薪の積んだ間へ押し込んでおいた。

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ときれは主人しゆじんこめをそつとかすめて股引もゝひきれてにつかぬやうにたきゞんだあひだんでいた。

雇い人がそれを見つけて、ひそかに主人のおかみさんに告げた。

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傭人やとひにんがそれを發見はつけんしてひそか主人しゆじん内儀かみさんにげた。

おかみさんは、わずかなことだから捨てておいてやれと言ったが、しかし雇い人は、一つにはいたずらから米を空けて、その代わりに一杯に土を入れておいた。

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内儀かみさんはわづかなことだからてゝいてれといつたがしか傭人やとひにんは一つには惡戯いたづらからこめけてかはりに一ぱいつちれていた。

勘次は発覚したことを恐れ、かつ恥じて、次の日には来なかった。

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勘次かんじ發覺はつかくしたことをおそぢてつぎにはなかつた。

それから数日の間は、主人の家に姿を見せなかった。

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それから數日間すうじつかん主人しゆじんうち姿すがたせなかつた。

おかみさんは雇い人のいたずらを聞いて、むしろ憐れになって、またこちらから仕事を言いつけてやった。

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内儀かみさんは傭人やとひにん惡戯いたづらいてむしあはれになつてまたこちらから仕事しごと吩咐いひつけてやつた。

さらに袋へ米と挽き割り麦とを混ぜたのを入れて、それから、これは雇い人にも炊いてやれないのだから、お前がよければ持って行って、秋にでもなったら糯粟を少しでも返せと、二、三斗入った粳粟の俵とを一つにやった。

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さらふくろこめ挽割麥ひきわりむぎとをぜたのをれて、それかられは傭人やとひにんにもいてやれないのだからおまへがよければつてつてあきにでもなつたら糯粟もちあはすこしもかへせと二三はひつた粳粟うるちあはたわらとを一つにつた。

勘次は主人のために一所懸命働いた。

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勘次かんじ主人しゆじんために一所懸命しよけんめいはたらいた。

その以前からも、彼はただ隣の主人から見捨てられないようにと、心には思っているのであった。

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以前いぜんからもかれたゞとなり主人しゆじんから見棄みすてられないやうとこゝろにはおもつてるのであつた。

しかし非常な労働は、雇い人の仲間には嫌われた。

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しか非常ひじやう勞働らうどう傭人やとひにん仲間なかまにはまれた。

それは、雇い人も彼にならって自分もその労力を惜しむことができないからである。

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それは傭人やとひにんかれならつて自分じぶん勞力らうりよくぬすむことが出來できないからである。

そうするうちに、世間はまた春が移って、雨が忙しく田畑へ水を供給した。

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さうするうち世間せけんまたはるうつつてあめいそがしく田畑たはたみづ供給きようきふした。

勘次は自分の後ろの田へ出て、刈り株を引っ返しては耕した。

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勘次かんじ自分じぶんうしろ刈株かりかぶかへしてはたがやした。

おつぎも万能鍬を持って勘次の後についた。

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おつぎも萬能まんのうつて勘次かんじあといた。

勘次は、お品の手が減っただけはおつぎを使って、どうにかこれまで作った土地は始末をつけようと思った。

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勘次かんじはおしなつただけはおつぎを使つかつてどうにか從來これまでつくつた土地とち始末しまつをつけようとおもつた。

ことに田はすぐ後ろなので、どんなにしても手放すまいとした。

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ことすぐうしろなので什麽どんなにしても手放てばなすまいとした。

いったん地主へ返してしまったら、再び自分がほしくなっても容易に手に入れることができないのを恐れたからである。

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たん地主ぢぬしかへしてしまつたらふたゝ自分じぶんしくなつても容易よういれることが出來できないのをおそれたからである。

今におつぎを一人前に仕込んでみると、勘次は心に思っている。

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いまにおつぎを一人前にんまへ仕込しこんでると勘次かんじこゝろおもつてる。

勘次は万能鍬をぶつりと打ち込んでは、ぐっと大きな土の塊を引き返す。

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勘次かんじ萬能まんのうをぶつりとんではぐつとおほきなつちかたまり引返ひきかへす。

おつぎはやっと小さな塊を起こす。

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おつぎはやうやちひさなかたまりおこす。

勘次の手は速やかに動いて、ずんずんと先へ進む。

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勘次かんじすみやかに運動うんどうしてずん/\とさきすゝむ。

おつぎはだんだん遅れて、小さな塊を浅く起こして進んで行く。

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おつぎは段々だん/\おくれてちひさなかたまりあさおこしてすゝんでく。

そうすると

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さうすると

「そんなに怖がってびくびくやるんじゃない、こうするんだ」

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「そんなに可怖おつかなびつくりやんぢやねえかうすんだ」

勘次はじれったそうに、おつぎの万能鍬を取って打ち込んで見せる。

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勘次かんじ遲緩もどかさうにおつぎの萬能まんのうをとつてんでせる。

「そんでも、おとっつあん、おれのにはそういうふうにはできないんだもの」

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「そんでもおとつゝあ、おらがにやさういにや出來できねえんだもの」

「そんな料簡だからお前らはだめだ。本当にやってみるつもりでやってみろ」

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「そんな料簡れうけんだから汝等わツら駄目だめだ、本當ほんたうにやつてつもりでやつてろ」

おつぎは勘次に遅れながら、手の力の及ぶかぎり働いた。

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おつぎは勘次かんじおくれつゝちからおよかぎはたらいた。

与吉は田んぼの堀のあたりにむしろを敷いて、そこに置いてある。

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與吉よきち田圃たんぼほりほとりむしろいて其處そこいてある。

「じっとしていろ、動くんじゃないぞ。動くとぽかんと堀の中さ落っこちるからな。そうら蛙がぽかんと落っこちた。動くなあ、ここに棒があった。そうら、これでも持ってろ。泣くんじゃないぞ。姉はこの田の中にいるんだからな。泣くとおとっつあんにあっぷって怒られるからな」

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「えんとしてろ、いごくんぢやねえぞいごくとぽかあんとほりなかおつこちつかんな、そうらけえるぽかあんとおつこつた。いごくなあ、此處こゝぼうあつた、そうらこれでもつてろ、くんぢやねえぞ、ねえなかんだかんな、くとおとつゝあにあつぷつておこられつかんな」

おつぎは頬をすりつけて、よく言い含めた。

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おつぎはほゝりつけてくいひふくめた。

与吉は土だらけの短い棒で、岸の土を叩いている。

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與吉よきちつちだらけのみぢかぼうきしつちたゝいてる。

そうして時々後ろを向いては姉の姿を見て、安心して棒でぴたぴたと叩いている。

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さうして時々とき/″\あといてはあね姿すがた安心あんしんしてぼうでぴた/\とたゝいてる。

棒の先が水を打つので、与吉は喜んだ。

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ぼうさきみづつので與吉よきちよろこんだ。

それもしばらくの間に飽きた。

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それも少時しばしあひだいた。

おつぎは、与吉がまた見た時には、田の向こうの端に行っていた。

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おつぎは與吉よきちがまたときにはむかふはしつてた。

「姉よう」

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ねえよう」

と与吉は呼んだ。

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與吉よきちんだ。

おつぎは返事しなかった。

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おつぎは返辭へんじしなかつた。

与吉はまた呼んだ。

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與吉よきちまたんだ。

そうして泣き出した。

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さうしてした。

おつぎが立って行こうとすると

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おつぎはつてかうとすると

「構わないで置け。耕してあっちへ行ってからにしろ」

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かまあねえでけ、うなつてあつちへつてからにしろ」

勘次はせっかちに厳しく、おつぎを止めた。

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勘次かんじ性急せいきふきびしくおつぎをめた。

おつぎは仕方なく、泣くのも構わずに耕した。

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おつぎは仕方しかたなくくのもかまはずにたがやした。

勘次は先へ先へと耕して、堀のそばまで来た。

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勘次かんじさきへ/\とたがやしてほりそばまでた。

「泣くな。今、姉が後から来らあ」

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くな、いまねえあとかららあ」

勘次はこう言って、与吉に一目くれたのみで、一心にその手を動かしている。

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勘次かんじはかういつて、與吉よきちに一べつあたへたのみで一しんうごかしてる。

与吉は、おつぎがようやく近づいた時、ひとしきりまた泣いた。

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與吉よきちはおつぎがやうやちかづいたとき一しきりまたいた。

「よきはどうしたんだ」

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よきはどうしたんだ」

おつぎは岸へ上がって、泥だらけの足で草の上に膝を突いた。

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おつぎはきしあがつてどろだらけのあしくさうへひざついた。

与吉は笑い交じりに泣いて、両手を出して抱かれようとする。

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與吉よきち笑交わらひまじりにいて兩手りやうてしてかれようとする。

「姉は泥だらけで仕方があるまいな。汚れてもいいのか、よきは」

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ねえどろだらけでやうあんめえな、よごれてもえゝのかよきは」

と言いながら、おつぎは与吉を抱いた。

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いひながらおつぎは與吉よきちいた。

「どうした、蛙のやつはいないか。この棒でばたばたと叩いてやれ。そうしたら痛いようって蛙のやつが泣くだろうな。泣くな蛙だよう、よきは泣かないようってなあ」

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「どうした、蛙奴けえるめねえか、ぼうでばた/″\とはたいてやれ、さうしたらいてえようつて蛙奴けえるめくべえな、くなけえるだよう、よきかねえようつてなあ」

おつぎは与吉を抱いたまま、勘次のほうを見て

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おつぎは與吉よきちいたまゝ勘次かんじほう

「おとっつあん、あっちへ行っちゃった。姉も行かなくちゃならない。おとっつあんに怒られるからな。またじっとしていろ」

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「おとつゝあ、あつちへつちやつた、ねえかなくつちやなんねえ、おとつゝあにおこられつかんな、またえんとしてろ」

おつぎはそっと与吉をむしろへ下ろした。

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おつぎはそつと與吉よきちむしろおろした。

「早くやれ、何してるんだ。いいかげんにしろ」

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「かせえてやれ、なにしてんだ、えゝ加減かげんにしろ」

勘次は後ろを向いて怒鳴った。

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勘次かんじうしろいて呶鳴どなつた。

「それ見ろな、怒られるから。そら、ここにいいものがあった」

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「それろなおこられつから、そら此處こゝにえゝものがつた」

おつぎは田んぼにあるははこぐさの花をむしって、むしろへ載せてやった。

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おつぎは田圃たんぼにある鼠麹草はゝこぐさはなむしつてむしろのせつた。

そうしてまた、危ないようにそうっと田へ下りた。

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さうしてまたあぶないやうにそうつとへおりた。

与吉はただ、ははこぐさの花をいじっていた。

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與吉よきちたゞ鼠麹草はゝこぐさはないぢつてた。

堀は雨の後の水を集めて、さらさらと岸を浸して行く。

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ほりあめあとみづあつめてさら/\ときしひたしてく。

青く茂って傾いている川柳の枝が一つ水につき、流れ去る力に軽く動かされている。

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あをしげつてかたむいて川楊かはやなぎえだが一つみづについて、ながちからかるうごかされてる。

水はわずかに触れているその枝のために、下流へ放射線状を描いている。

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みづわづかれてそのえだため下流かりう放射線状はうしやせんじやうゑがいてる。

蘆のようで、しかも極めて細いかわいらしいとだしばが、びりびりと震わされながら岸の水に立っている。

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あしのやうでしかきはめてほそ可憐かれんなとだしばがびり/\とゆるがされながらきしみづつてる。

おたまじゃくしが水の勢いにこらえられないようにしては、にわかに水に浸されて銀のように光っている岸の草の中に隠れようとする。

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玉杓子たまじやくしみづいきほひにこらへられぬやうにしては、にはかみづひたされてぎんのやうにひかつてきしくさなかかくれやうとする。

そうしてはまた、すべての幼いものに特有で、じっとしていられなくて、かわいらしい尾をひらひらと動かしながら、力に余る水の勢いにぐっと持ち去られながら泳いでいる。

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さうしてはまたすべてのをさないものゝ特有もちまへ凝然ぢつとしてられなくて可憐かれんをひら/\とうごかしながら、ちからあまみづいきほひにぐつとられつゝおよいでる。

与吉はははこぐさの花を水へ投げた。

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與吉よきち鼠麹草はゝこぐさはなみづげた。

花が上流に向いて落ちると、ぐるりと下流へ押し向けられて、ずんずんと運ばれて行く。

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はな上流じやうりういてちると、ぐるりと下流かりうけられてずんずんとはこばれてく。

岸の草の中にいた蛙は、ひょうきんにその花へ飛びついて、それからぐっと後ろの足で水をかいて向こうの岸へ着いて、ふわりと浮いたまま大きな目を見開いてこちらを見る。

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きしくさなかかはづ剽輕へうきんそのはないて、それからぐつとうしろあしみづいてむかふきしいてふわりといたまゝおほきなみはつてこちらをる。

ははこぐさの花がみな投げ尽くされて、与吉はまたおつぎを呼んだ。

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鼠麹草はゝこぐさはなみなつくされて與吉よきちまたおつぎをんだ。

「おうい」

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「おうい」

と、おつぎの情のこもった声が遠くから言った。

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とおつぎのじやうふくんだこゑとほくからいつた。

おつぎの返事を聞いては、与吉は口癖のように姉よと呼ぶ。

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おつぎの返辭へんじいては與吉よきち口癖くちぐせのやうにねえよとぶ。

そのたびごとに、おつぎは忙しい手を動かしながら、それに応じるのである。

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そのたびごとにおつぎはいそがしいうごかしながらそれにおうずるのである。

正午にはまだ間があるうちに、昼飯の支度を急いで、おつぎは田んぼから茶を沸かしに上がる。

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正午ひるにはまだがあるうちに午餐ひる支度したくいそいでおつぎは田圃たんぼからちやわかしにのぼる。

与吉は喜んで、おつぎの背にかじりついた。

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與吉よきちよろこんでおつぎのかぢりついた。

勘次は後で独り耕した。

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勘次かんじあとひとたがやした。

青い煙が楢の木から立って、やがて

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あをけむりならからつてやが

「沸いたぞう」

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いたぞう」

と、おつぎの声で呼ばれるまでは、勘次は忙しいその手を止めなかった。

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とおつぎのこゑばれるまでは勘次かんじいそがしいめなかつた。

昼飯過ぎから、おつぎは縫い針へ糸を通して竿へつけて、与吉に持たせた。

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午餐過ひるすぎからおつぎは縫針ぬひばりいととほして竿さをけて與吉よきちたせた。

与吉はほかの子供のするように、その針を上げてみてはまた水へ投げて、おとなしくしている。

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與吉よきちほか子供こどものするやうにはりげててはまたみづげて大人おとなしくしてる。

しばらく時間がたつと、また姉ようと呼ぶ。

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しばら時間じかんつとまたねえようとぶ。

おつぎが堀の近くへ耕して来た時に見ると、与吉の竿は糸が取れていた。

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おつぎはほりちかくへたがやしてときると與吉よきち竿さをいとがとれてた。

おつぎは岸へ上がった。

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おつぎはきしあがつた。

「どうしたんだい、よきは」

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「どうしたんでえ、よきは」

おつぎが見ると、針が向こうの岸から出た低い川柳の枝にまつわって、糸の端が水について下流へ向いている。

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おつぎはるとはりむかふきしからひく川楊かはやなぎえだまつはつていとはしみづについて下流かりういてる。

おつぎは二百メートルばかり上流の板橋を渡って行って、ようやくのことで枝を曲げてその針を取った。

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おつぎは二ちやうばかり上流じやうりう板橋いたばしわたつてつて、やうやくのことでえだげてそのはりをとつた。

そうしてまた、与吉の棒へつけてやった。

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さうしてまた與吉よきちぼうけてやつた。

「もう引っ掛けるんじゃないぞ、大変だからな」

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「はあけんぢやねえぞ大變たえへんだかんな」

おつぎはきわめて軽く叱って、また田へ下りた。

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おつぎはきはめてかるしかつてまたへおりた。

勘次はまた怒鳴った。

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勘次かんじまた呶鳴どなつた。

「そんでも、よきは糸を切っちまったんだもの」

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「そんでもよきいとつちまつたんだもの」

おつぎは危ぶむようにして、控えめに声を立てて言った。

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おつぎはあやぶむやうにしてひかこゑてゝいつた。

おつぎは黙って、その手を動かしている。

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おつぎはだまつてうごかしてる。

与吉は返事がなくても、懐かしそうに姉ようと幾度も呼びかけた。

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與吉よきち返辭へんじがなくてもなつかしさうねえようと數次しば/\けた。

おつぎの姿が遠くなれば、むしろへ口のつくほどかがんで、声のかぎり呼んだ。

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おつぎの姿すがたとほくなればむしろくちのつくほどかゞんでこゑかぎりにんだ。

その晩、勘次は二人を連れて近所へ風呂をもらいに行った。

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ばん勘次かんじ二人ふたりれて近所きんじよ風呂ふろもらひにつた。

おつぎはそこへ集まった近所の女房に自分の手を見せて

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おつぎは其處そこあつまつた近所きんじよ女房にようばう自分じぶんせて

「おれ、こんなに豆ができちまったんだよ」

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らこんなに肉刺まめつちやつたんだよ」

と呟いた。

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つぶやいた。

「ほんによな、痛いだろうな、そりゃ。そんでも、おっかあがいないから働かなくちゃならないな」

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「ほんによな、いたかつぺえなそりや、そんでもおつかあがねえからはたらかなくつちやなんねえな」

女房は慰めるように言った。

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女房にようばうなぐさめるやうにいつた。

「おっかあのないものはいやだな」

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「おつかあのねえものはだな」

おつぎは言って、勘次を見るとすぐに首をうつむけた。

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おつぎはいつて勘次かんじるとすぐくびたれた。

勘次はそばで、じっとそれを聞いていた。

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勘次かんじそば凝然ぢつとそれをいてた。

「おつうらだって今にいいこともあるだろうな。そんだが、おっかあがなくっちゃ、着物がほしくてもこればかりは仕方がないのよな」

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「おつうだつていまえこともあらな、そんだがおつかゞくつちや衣物きものしくつてもこればかりはやうがねえのよな」

女房は言った。

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女房にようばうはいつた。

勘次は、そんなことは言わずにいてくれればいいのにと思いながら、むずかしい顔をして黙っていた。

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勘次かんじ其麽そんなことははずにれゝばいゝのにとおもひながらむづかほをしてだまつてた。

「この豆はとがめないだろうか」

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肉刺まめとがめめえか」

おつぎは手のひらのところどころにできた豆を見て、心配そうに言った。

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おつぎはひら處々ところ/″\肉刺まめ心配相しんぱいさうにいつた。

「何でとがめるもんか」

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なんでとがめるもんか」

勘次は、抑えていた何かが激発したように、すぐに打ち消した。

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勘次かんじ抑制よくせいしたあるもの激發げきはつしたやうにすぐ打消うちけした。

勘次は家に戻ると、飯台の底にくっついている飯の中から米粒ばかり拾い出して、それを煙草の吸い殻と練り合わせた。

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勘次かんじいへもどると飯臺はんだいそこにくつゝいてめしなかから米粒こめつぶばかりひろしてそれを煙草たばこ吸殼すひがら煉合ねりあはせた。

そうして、針の先でおつぎの、湯から出たばかりで柔らかくなった手の豆をついて汁を出して、そこへそれを貼ってやった。

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さうしてはりさきでおつぎのからたばかりでやはらかくつた肉刺まめをついて汁液みづして其處そこへそれをつてつた。

「しくしくするな」

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「しく/\すんな」

おつぎは貼った所を見て言った。

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おつぎはつた箇所かしよていつた。

「汁を出したばかりにはちっと痛いとも。その代わりすぐ治るから」

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液汁みづしたばかりにやちつたえてえとも、そのけえしすぐなほつから」

勘次はおつぎをじっと見て、それからもう鼾をかいている与吉を見た。

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勘次かんじはおつぎを凝然ぢつてそれからもういびきをかいて與吉よきちた。

「豆なんぞできたらできたって、おとっつあんに言うもんだ。他人になんぞ見せたり何かするもんじゃない。お前らは何にも知らないから仕方がない。田を耕す始まりには、おとっつあんらみたいな手だってこういうふうに出るんだか見ろ。それ、痛いのを我慢し我慢しやりさえすりゃ固まっちまうんだ」

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肉刺まめなんぞたらばたつておとつゝあげいふもんだ、他人ひとのげなんぞせたりなにつかするもんぢやねえ、汝等わツらなんにもらねえからやうねえ、田耕たうねはじまりにやおとつゝあてえなだつてかうえにんだかろ。それいてえの我慢がまんしい/\りせえすりやかたまつちあんだ」

勘次は自分の手をおつぎへ示した。

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勘次かんじ自分じぶんをおつぎへしめした。

「おっかあがなくなって困るな。お前ばかりじゃないんだから」

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「おつかゞくなつてこまんなわればかしぢやねえんだから」

勘次はしばらく間を置いて、ぽつんと言った。

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勘次かんじしばらあひだおいてぽつさりとしていつた。

「身上のためだから、お前も我慢するもんだ。見ろ、お前らどころじゃない。武州のほうへなんぞやられて、泣き抜いてる者さえあらあ」

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身上しんしやうためだからわれ我慢がまんするもんだ、汝等處わツらとこぢやねえ、武州ぶしうはうへなんぞられていてるものせえあら」

と、彼はまたやっとのことで言った。

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かれまたからうじていつた。

おとなしく黙っていたおつぎは

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大人おとなしくだまつてたおつぎは

「武州っていうのはどっちのほうだろう」

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武州ぶしうツちやどつちのはうだんべ」

と、むしろあどけなく聞いた。

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むしろあどけなくいた。

「あっちのほうよ。お前の足じゃ一日には歩けない所だ」

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「あつちのはうよ、われあしぢや一日にやあるけねえところだ」

勘次は雨戸のほうを向いて西南を示した。

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勘次かんじ雨戸あまどはういて西南せいなんしめした。

「遠いんだな。そこへ行ったらどうするんだろう」

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とほいんだな、其處そこつたらどうすんだんべ」

「機織りする者もあれば、百姓する者もあるのよ」

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機織はたおりするものもあれば百姓ひやくしやうするものもあんのよ」

「機を教われるならよかろうな」

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機教はたをされぢやよかんべな」

「何でいいことがあるもんか。家へなんざあめったに来られやしないんだぞ。そんで朝から晩までみっしり使われて、それどころじゃない、病気になったってよっぽどでなくちゃ葉書もよこさせやしない」

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なんでえゝことあるもんか、うちへなんざあ滅多めつたられやしねえんだぞ、そんであさから晩迄ばんまでみつしら使つかあれて、それどこぢやねえ病氣びやうきつたつて餘程よつぽどでなくつちや葉書はがきもよこさせやしねえ」

「そんじゃ、そういう所へ行っちゃひどいな。逃げて来ることもできないんだろうか」

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「そんぢや、さうえとこつちやひでえな、げてることも出來できねえんだんべか」

「すぐ捕まえられちまうから、そんなに逃げられるかい」

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つかめえられつちあからそんなにげられつかえ」

「巡査に捕まるんだろうか」

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巡査じゆんさつかまんだんべか」

「そんなもんか。巡査でなくたって、逃げ出せばすぐ捕まえるように人が番してるのよ。なあ、そんでもなくっちゃ、遠くの者ばかり頼んでおくんだもの、仕方があるもんか」

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「さうなもんか、巡査じゆんさでなくつたつてせばつかめえるやうにひとばんしてんのよ、なあ、そんでもなくつちやとほくのものばかりたのんでくんだものやうあるもんか」

「そんでも、いやだって言ったらどうするんだろう」

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「そんでもだつちつたらどうすんだんべ」

「いやだなんて言ったくらい、ひどいとも。立て替え金をしなくちゃならないから」

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だなんていつたくれえひでえとも立金たてきんしなくつちやなんねえから」

「どういうふうにするんだろう、それは」

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「どういにすんだんべそら」

「それはなあ、いくら勤めたって途中でいやだからなんて出ちまえば、借りただけの給金はみんな取り返されるのよ。なあ、それから泣く泣くもいなくちゃならないのよ」

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「そらなあ、いくつとめたつて途中とちうだからなんてつちめえば、りただけ給金きふきんはみんなつくるえされんのよ、なあ、それからき/\もなくつちやなんねえのよ」

「そんじゃ、おれはそういう所へ行かなくてよかったっけな」

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「そんぢやらさうえとこかねえでよかつたつけな」

おつぎは熱心に言った。

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おつぎは熱心ねつしんにいつた。

「そんだから、お前らのことはやりゃしない。お前のことを奉公にやれば、その銭でおれの借金もなくなるし、よきのことだって軽業師の所へでも出しちまえば、それこそ楽になっちまうんだが、おっかあがなくっちゃつらいって後で泣かれるのがいやだから、おれは土をかじってもそんな料簡は出さないんだ」

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「そんだから汝等わツらこたりやしねえ。われこと奉公ほうこうにやればぜね借金しやくきんくなるし、よきことだつて輕業師かるわざげでもしつちめえばそれこそらくになつちあんだが、おつかゞくつちやつれえつてあとかれんのだからちゝかぢつてもそんな料簡れうけんさねんだ」

「おとっつあん、奉公すれば借金がなくなるんだろうか」

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「おとつゝあ、奉公ほうこうすれば借金しやくきんなくなんだんべか」

「おっかあさえいれば、お前のことも奉公に出して、おとっつあんらもいい銭をつかまえるんだが、おっかあがなくなって、おとっつあんだって困ってるんだ。それからお前だって、奉公に行ったつもりで辛抱するもんだ。なあ、おれはお前らにみじめを見せたいことはありゃしないんだから」

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「おつかせえればわれことも奉公ほうこうして、おとつゝあもえゝぜねつかめえんだが、おつかゞくなつておとつゝあだつてこまつてんだ、それからわれだつて奉公ほうこうつたつもり辛抱しんばうするもんだ、なあ、汝等わツらげみじめせてえこたありやしねんだから」

勘次はしみじみと繰り返した。

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勘次かんじはしみ/″\と反覆くりかへした。

勘次は、おつぎに体に不相応な仕事をさせていることを知っている。

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勘次かんじはおつぎに身體からだ不相應ふさうおう仕事しごとをさせてることをつてる。

それで自分が朝は必ず先に起きて、かまどの下へ火をつける。

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それで自分じぶんあさ屹度きつとさききてかまどしたける。

その時、疲れた少女はまだぐったりと正体もなく枕から転げている。

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ときつかれた少女せうぢよはまだぐつたりと正體しやうたいもなくまくらからこけてる。

白い湯気が釜のふたから勢いよく漏れて、やがて火が引かれてから、おつぎは起こされる。

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しろ蒸氣ゆげかまふたからいきほひよくれてやがてかれてからおつぎはおこされる。

帯を締めたまま横になったおつぎは、容易に開かない目をこすって井戸端へ行く。

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おびしめまゝよこになつたおつぎは容易よういかないをこすつて井戸端ゐどばたく。

ぼうぼうとほどけた髪へ櫛を入れて、冷たい水へ手を入れた時、おつぎはようやく生き返ったようになる。

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蓬々ぼう/\けたかみくしれてつめたいみづれたときおつぎはやうや蘇生いきかへつたやうになる。

それでも目はまだ赤くて、動きがふらふらとけだるそうである。

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それでもはまだあかくて態度たいどがふら/\と懶相だるさうである。

「さあ、飯ができたぞ」

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「さあ、おまんま出來できたぞ」

勘次は釜から茶碗へ飯を移す。

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勘次かんじかまから茶碗ちやわんめしうつす。

そうして自分で農具を取っておつぎへ持たせて、それからさっさと連れ出すのである。

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さうして自分じぶん農具のうぐつておつぎへたせてそれからさつさとすのである。

もみ種がぽっちりと水を突き上げて芽を出すと、ようやく強くなった日光に、緑深くなった若葉がぐったりとする。

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籾種もみだねがぽつちりとみづげてすとやうやつよくなつた日光につくわうみどりふかくなつた嫩葉わかばがぐつたりとする。

柔らかな風が涼しく吹いて、松の花粉が埃のように湿った土を覆って、小麦の穂にもびっしりとかびのような花がついた。

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やはらかなかぜすゞしくいてまつ花粉くわふんほこりのやうにしめつたつちおほうて、小麥こむぎにもびつしりとかびのやうなはないた。

百姓はみな、自分の手足に不足を感じるほど忙しくなる。

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百姓ひやくしやうみな自分じぶん手足てあし不足ふそくかんずるほどいそがしくなる。

勘次はひたすら、ただ仕事の手遅れになるのを恐れた。

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勘次かんじは一たゞ仕事しごと手後ておくれになるのをおそれた。

草臥れても疲れても、彼は毎日未明に起きて、夜までその手足を動かして止まない。

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草臥くたびれてもつかれてもかれ毎日まいにち未明みめいきてまで手足てあしうごかしてまぬ。

おつぎもその後についてゆき、草臥れた体を引きずられた。

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おつぎもあといて草臥くたびれた身體からだきずられた。

晩飯の支度に与吉を背負って先に帰るのが、おつぎにはせめてもの骨休めであった。

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晩餐ゆふめし支度したく與吉よきちうてさきかへるのがおつぎにはせめてもの骨休ほねやすめであつた。

勘次は麦の間へ大豆をまいた。

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勘次かんじむぎあひだ大豆だいづいた。

うね間へ浅く堀のようなくぼみをこしらえて、そこへぽろぽろと種を落として行く。

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畦間うねまあさほりのやうなくぼみをこしらへてそこへぽろ/\とたねおとしてく。

勘次はぐいぐいとうね間を掘って行く。

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勘次かんじはぐい/\と畦間うねまつてく。

後からおつぎが種を落とした。

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あとからおつぎがたねおとした。

おつぎのまだ小さな体は、麦の出そろった白い穂から、わずかにそのかぶった手拭いと肩とが現れている。

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おつぎのまだみじか身體からだむぎ出揃でそろつたしろからわづかかぶつた手拭てぬぐひかたとがあらはれてる。

与吉は道のそばのこもの上に、おとなしくしている。

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與吉よきちみちはたこもうへ大人おとなしくしてる。

おつぎの白い手拭いがだんだん麦の穂に隠れると、与吉は姉ようと呼ぶ。

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おつぎのしろ手拭てぬぐひ段々だん/\むぎかくれると與吉よきちねえようとぶ。

おつぎはおういと返事をする。

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おつぎはおういと返辭へんじをする。

おつぎの声が聞こえると、与吉はじっとしている。

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おつぎのこゑきこえると與吉よきち凝然ぢつとしてる。

勘次はうね間を作り上げて、それから自分も忙しく大豆を落としはじめた。

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勘次かんじ畦間うねまつくりあげてそれから自分じぶんいそがしく大豆だいづおとはじめた。

勘次は、まだるっこいおつぎの手元を見て、そのうねをひょいとのぞいた。

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勘次かんじ間懶まだるつこいおつぎのもとをうねをひよつとのぞいた。

種と種との間隔が不ぞろいで、四粒も五粒も一つに落ちている所があった。

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たねたねとの間隔かんかく不平均ふへいきんで四つぶも五つぶも一つにちてるところがあつた。

「このざまはどうしたんだ。こんなことで暮らしができるか」

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のざまはどうしたんだ、こんなこつて生計くらし出來できつか」

と怒鳴りながら、彼は突然おつぎを殴った。

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呶鳴どなりながらかれ突然とつぜんおつぎをなぐつた。

おつぎは麦の茎とともに倒れた。

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おつぎはむぎからともたふれた。

おつぎは倒れたまま、しくしくと泣いた。

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おつぎはたふれたまゝしく/\といた。

「たいがい分かりそうなもんじゃないか。こんなざまじゃ種ばかり要って仕方がありゃしない」

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大概てえげえわかさうなもんぢやねえか、こんなざまぢやたねばかしつてやうありやしねえ」

勘次は後を呟いた。

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勘次かんじあとつぶやいた。

隣の畑に、これも大豆をまいていた百姓は駆けて来た。

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となりはたけこれ大豆だいづいて百姓ひやくしやうけてた。

「勘次さん、どうしたもんだいまあ、そんな荒っぽいことして」

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勘次かんじさんどうしたもんだいまあ、其麽そんなあらつぺえことして」

と勘次を押さえた。

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勘次かんじおさへた。

「おつぎ、泣かないでさあ起きて仕事しろ。おとっつあんにはおれが謝ってやるからなあ。与吉が泣いてら。さあ行って見なさい」

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「おつぎかねえでさあきて仕事しごとしろ、おとつゝあげはおれ謝罪あやまつてやつかんなあ、與吉よきちねえてら、さあつてさつせ」

百姓はさらにおつぎをなだめた。

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百姓ひやくしやうさらにおつぎをすかした。

与吉はおつぎの姿が見えないので、しきりに呼んだ。

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與吉よきちはおつぎの姿すがたえないのでしきりにんだ。

それでもおつぎの声は聞こえないので、火のついたように泣き出したのである。

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それでもおつぎのこゑきこえないのでいたやうにしたのである。

おつぎはすすり泣きしながら、与吉を抱いた。

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おつぎはすゝきしながら與吉よきちいた。

「おふくろもないのに、お前いいかげんにしろよ。かわいそうじゃないか。そんなことして、お前いくつだと思うんだ。そう自分の気のように出来るもんじゃない。仏の障りにもなるだろうじゃないか」

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「おふくろもねえのにおめえいゝ加減かげんにしろよ、可哀想かあいさうぢやねえか、そんなことしておめえいくつだとおもふんだ、さう自分じぶんのやうに出來できるもんぢやねえ、ほとけさはりにもんべぢやねえか」

隣の畑の百姓は言った。

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隣畑となりばたけ百姓ひやくしやうはいつた。

勘次は黙ってしまって、何とも言わなかった。

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勘次かんじだまつてしまつてなんともいはなかつた。

与吉はおつぎに抱かれたので、おつぎの目がまだ濡れているうちに泣き止んだ。

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與吉よきちはおつぎにかれたので、おつぎの目がまだうるうてるうちにやんだ。

勘次はその日の夕方、おつぎが晩飯の支度に立った時、自分もいっしょに家へ戻った。

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勘次かんじ夕方ゆふがたおつぎが晩餐ゆふめし支度したくつたとき自分じぶんひとつにうちもどつた。

彼は膝がしらで四つんばいに歩きながら座敷へ上がって、財布を懐へねじ込んでふいと出た。

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かれひざがしらでばひあるきながら座敷ざしきへあがつて財布さいふふところんでふいとた。

彼は風呂敷包みを持って帰った。

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かれ風呂敷包ふろしきづゝみつてかへつた。

彼が戸口に立った時は、家の中は真っ暗で、ちょっとは物の見分けもつかなかった。

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かれ戸口とぐちつたときうちなか眞闇まつくら一寸ちよつともの見分みわけもつかなかつた。

草臥れきった体で、彼はその夜も二人を連れて、自分のものではないその茂った小さな桑畑を越えて、南の風呂へ行った。

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草臥くたびつた身體からだかれその二人ふたりれて、自分じぶん所有ものではないそのしげつたちひさな桑畑くはばたけえてみなみ風呂ふろつた。

そこにはいつものように、風呂をもらいに女房らが集まっていた。

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其處そこにはいつものやうに風呂ふろもらひに女房等にようばうらあつまつてた。

「よくなあ、おつうはよきの面倒を見るな。女の子はこうだからいいのさな、すぐ役に立つからな」

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くなあ、おつうはよきこと面倒めんだうんな、をんなうだからいゝのさな、やくつかんな」

女房の一人が言った。

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女房にようばう一人ひとりがいつた。

「おつぎはどうしたんだい、今夜ひどく威勢が悪いな」

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「おつぎはどうしたんでえ、今夜こんやひどく威勢ゐせえわりいな」

ほかの女房が言った。

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女房にようばうがいつた。

「さっき、おれにぶん殴られたからでもあるだろう」

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先刻さつきおれつとばされたかんでもあんべえ」

勘次は苦笑しながら言った。

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勘次かんじ苦笑くせうしながらいつた。

「何でだろうな、まあ。お前、そんなにしないで面倒を見てやりなさいよ。これがお前、女の子でもなくて見なさい、こんな小さいのを抱えて仕方があるもんじゃないな」

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なんでだつぺなまあ、おめえそんなにねえで面倒めんだうてやらつせえよ、れがおめえをんなでもなくつてさつせえ、こんなちひせえのだけえてやうあるもんぢやねえな」

「そうだともよ。これはおつうでもなくっちゃ育たなかったかも知れないぞ。それこそ因果を見なくちゃならないや。なあ、おつう」

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「さうだともよ、こらおつうでもくつちやそだたなかつたかもんねえぞ、それこそ因果いんぐわなくつちやなんねえや、なあおつう」

女房らは言った。

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女房等にようばうらはいつた。

「おれのところ、ちっともこれは離れないんだよ。仕方がないようだよ、本当に」

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おらがとこちつともこらはなんねえんだよやうねえやうだよ本當ほんたうに」

おつぎは、もうだんだん手に余ってきた与吉を膝にして言った。

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おつぎはもう段々だん/\あまつて與吉よきちひざにしていつた。

「今じゃ、まるっきりおっかあのような気がしてるんだな、きっと」

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いまぢや、まるつきしおつかのやうながしてんだな、屹度きつと

女房らはまた与吉を見て言った。

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女房にようばうらはまた與吉よきちていつた。

勘次はそばで、ただ目をしばたたいた。

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勘次かんじそばたゞ屡叩しばたゝいた。

家へ戻ってから、勘次は

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うちもどつてから勘次かんじ

「おつう、手ランプを持って来てみな。お前に見せるものがあるんだから」

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「おつう、ランプつてせえ、われせるものあんだから」

おつぎは出る時に吹き消したブリキの手ランプをつけて、まだ様子がてきぱきとしなかった。

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おつぎはとき吹消ふつけしたブリキのランプをけて、まだ容子ようすがはき/\としなかつた。

勘次はさっきの風呂敷包みを解いた。

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勘次かんじ先刻さつき風呂敷包ふろしきづゝみいた。

小さく畳んだ弁慶縞のひとえが出た。

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ちひさくたゝんだ辨慶縞べんけいじま單衣ひとへた。

「お前にこれをやろうと思って持って来たんだ。これでもなよ、おっかあが地糸で織ったんだぞ。今じゃ糸なんぞ引く者はいないが、おっかあらは毎晩のように引いたもんだ。紺もなあ、ようく染まってるから丈夫だぞ。おっかあはいくらも引っ掛けないでしまったから、まだまるっきり新しいようだ、見ろ。どうした、手ランプをもっとこっちへ出してみなまあ」

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われこれんべとおもつてつてたんだ。んでもなよ、おつかゞ地絲ぢいとつたんだぞ、いまぢやいとなんぞくものなあねえが、おつか毎晩まいばんのやうにいたもんだ、こんもなあうくまつてつから丈夫ぢやうぶだぞ、おつかはいくらもかけねえつちやつたから、まあだまるつきりあたらしいやうだろ、どうしたランプまつとこつちへしてせえまあ」

勘次はひとえを少し開いて、鼻へ当てて匂いをかいでみた。

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勘次かんじ單衣ひとへすこひらいてはなあてにほひいでた。

「ちっとはかび臭くなったようだが、そんでもこれくらいじゃ一日干せば匂いは直るから」

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「ちつたあ黴臭かびくさくなつたやうだが、そんでもこのくれえぢや一日いちんちせばくさえななほつから」

勘次は言い訳でもするように言った。

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勘次かんじ分疏いひわけでもするやうにいつた。

おつぎは左手に持ち換えた手ランプをかざして、ひとえをいじっては、風呂上がりのつやつやした顔に微笑を含んだ。

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おつぎは左手ひだりてかへランプをかざして單衣ひとへいぢつては浴後よくごのつやゝかなかほ微笑びせうふくんだ。

勘次はおつぎの顔ばかり見ていた。

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勘次かんじはおつぎのかほばかりた。

そうして、その機嫌が回復しかけたのを見て

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さうして機嫌きげん恢復くわいふくしかけたのを

「どうした、それでもお前は気に入ったか。おっかあの物はみんなお前のもんだからな。おれは、お前らのだとなりゃいくら困ったって、もうけっして質になんざ置かないから、大事にしてお前がようくしまっておけ」

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「どうした、それでもりやにつたか、おつかゞものはみんなわれがもんだかんな、がだとなりやいくこまつたつて、はあけつしてしちになんざかねえから、大事でえじにしてわれうくしまつていたえ」

と、彼は満足らしく見えた。

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かれ滿足まんぞくらしくえた。

おつぎは手ランプを置いて、勘次がしたように鼻へ当てて匂いをかいでみたり、左の手だけを袖へ通してみたりした。

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おつぎはランプをいて勘次かんじがしたやうにはなてゝにほひいでたり、ひだりだけをそでとほしてたりした。

「おれのには、これじゃ引きずるようじゃあるまいか」

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おらがにやんぢやきじるやうぢやあんめえか」

おつぎはそれから、手で吊るしてみたりした。

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おつぎはそれからるしてたりした。

「しまっておいて、おれはもっと大きくなってから着ようかな」

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しまつていて、らいまつとえかつてからべかな」

「どうでもお前のもんだから、お前の好きにしろな」

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「どうでもわれがもんだからわれきにしろな」

勘次は、おつぎの手が動くにつれて目を移した。

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勘次かんじはおつぎのうごくにしたがつてうつした。

手ランプのぼうっと立つ油煙が、ほぐれた髪へなびきかかるのも知らずに、おつぎはあっちこっちへひとえをいじっていた。

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ランプのぼうと油煙ゆえんがほぐれたかみなびかゝるのもらずにおつぎはそつちこつちへ單衣ひとへいぢつてた。

「お前、うっかりして、そうれ燃えっちまうぞ」

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われうつかりして、そうれえつちまあぞ」

勘次は油煙がまた傾いた時、慌てておつぎの髪へ手を当てて言った。

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勘次かんじ油煙ゆえんかたむいたときあわてゝおつぎのかみてゝいつた。

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勘次の田畑は、晩秋の取り入れがみじめなものであった。

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勘次かんじ田畑たはた晩秋ばんしう收穫しうくわくがみじめなものであつた。

それは気候が悪いのでもなく、また土地が悪いのでもない。

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それは氣候きこうわるいのでもなく、また土地とちわるいのでもない。

耕す時期を逃していることと、肥料の乏しさとで、いくら焦っても、とうてい満足な結果が得られないのである。

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耕耘かううん時期じきいつしてるのと、肥料ひれう缺乏けつばふとでいく焦慮あせつても到底たうてい滿足まんぞく結果けつくわられないのである。

貧乏な百姓はいつでも土にくっついて食料を得ることにばかり腐心しているにもかかわらず、その作物が俵になれば、すでに大部分は彼らのものではない。

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貧乏びんばふ百姓ひやくしやうはいつでもつちにくつゝいて食料しよくれうることにばかり腐心ふしんしてるにもかゝはらず、作物さくもつたはらになればすで大部分だいぶぶん彼等かれら所有しよいうではない。

そのものであり得るのは、作物が根をもって田や畑の土に立っている間のみである。

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所有しよいうでありるのは作物さくもつもつはたつちつてあひだのみである。

小作料を払ってしまえば、すでに手をつけられた短い冬を凌ぐだけのことが、ともすればようやくのことである。

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小作料こさくれうはらつてしまへばすでをつけられたみじか冬季とうきしのけのことがともすればやうやくのことである。

彼らは自分の田畑が忙しい時にも、その日に追われる食料を求めるために、比較的収入のいい日雇いに行く。

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彼等かれら自分じぶん田畑たはたいそがしいときにもおはれる食料しよくれうもとめため比較的ひかくてき收入みいりのいゝ日傭ひようく。

百姓といえば、どんなに愚かでも、すべての作物を耕作する季節を知らないことはない。

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百姓ひやくしやうといへば什麽どんな愚昧ぐまいでもすべての作物さくもつ耕作かうさくする季節きせつらないことはない。

村の端から端までみな同じ仕事にかかりきっているのだから、その季節をたとえ自分が忘れたとしても、まったく忘れ去ることのできるものではない。

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村落むらはしからはしまでみなどう一の仕事しごと屈託くつたくしてるのだから季節きせつ假令たとひ自分じぶんわすれたとしてもまつたわすることの出來できるものではない。

しかし、もう季節だと知ってみても、その日その日の食料を求めるために労力を割くのと、肥料の工夫がつかなかったりするのとで、作物の生育から言えば三日を争うような時でも、思いながら手が出ないのである。

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しかしもう季節きせつだとつてても/\の食料しよくれうもとめるめに勞力らうりよくくのと、肥料ひれう工夫くふうがつかなかつたりするのとで作物さくもつ生育せいいくからいへば三日みつかあらそふやうなときでもおもひながらないのである。

以前のように、自然の肥料を得ることが今ではできなくなってしまった。

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以前いぜんのやうに天然てんねん肥料ひれうることがいまでは出來できなくなつてしまつた。

どこの林でも、落ち葉をかくことや青草を刈ることが、みな銭に余裕のある者の手に帰してしまった。

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何處どこはやしでも落葉おちばくことや青草あをぐさることがみなぜに餘裕よゆうのあるものゝしてしまつた。

それとともに、林は封鎖されたような姿になっている。

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それとともはやし封鎖ふうさされたやうな姿すがたつてる。

冬ごとに熊手の爪の及ぶかぎりかいて行くので、草もしたがって短くなって、腰を没するような所はめったにない。

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ふゆごと熊手くまでつめおよかぎいてくので、くさしたがつてみじかくなつてこしぼつするやうなところ滅多めつたにない。

その草もさらに土から刈って行くので、次第に土がやせて行く。

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くささらつちからつてくので次第しだいつちせてく。

だから空手では、どこへ行っても盗まないかぎりは、存分に柔らかな草を刈ることはできない。

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だから空手からてでは何處どこつても竊取せつしゆせざるかぎり存分ぞんぶんやはらかなくさることは出來できない。

貧乏な百姓は、落ち葉でも青草でも、他人の熊手や鎌を入れ去った後に求める。

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貧乏びんばう百姓ひやくしやう落葉おちばでも青草あをぐさでも、他人ひと熊手くまでかまつたあともとめる。

そうして、やせて行く土をさらに骨までかじるようなことをしているのである。

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さうしてせてつちさらほねまでむやうなことをしてるのである。

一般には、落ち葉や青草の不足を感じるとともに、便利な各種の人造肥料が供給される。

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ぱんには落葉おちば青草あをぐさ缺乏けつばふかんずるととも便利べんり各種かくしゆ人造肥料じんざうひれう供給きようきふされる。

しかしそれも、依然として金銭にいくらでも余裕のある人にのみ便利なのであって、貧乏な百姓には、牛や馬が馬止めの棒で遮られたような形でなければならない。

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しかしそれも依然いぜんとして金錢きんせんいくらでも餘裕よゆうのあるひとにのみ便利べんりなのであつて、貧乏びんばふ百姓ひやくしやうにはうしうま馬塞棒ませぼうさへぎられたやうなかたちでなければならぬ。

そうかといって、それらの肥料なしには、とうてい一般に定められている小作料を支払うだけの収穫は得られないので、惨憺たる工夫が彼らの心を行き来する。

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さうかといつて肥料ひれうなしには到底たうていぱんさだめられてある小作料こさくれう支拂しはらだけ收穫しうくわくられないので慘憺さんたんたる工夫くふう彼等かれらこゝろ往來わうらいする。

そうしてまた、食料を求めるために労力をほかに割くことによって、作物のうね間を耕すことも雑草を除くことも、一切が手遅れになる。

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さうしてまた食料しよくれうもとめるため勞力らうりよくくことによつて、作物さくもつ畦間うねまたがやすことも雜草ざつさうのぞくことも一さい手後ておくれにる。

季節が暑くなれば、雨があって三日も見ないうちには、雑草は驚くべき速さで伸びる。

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季節きせつあつくなればあめがあつて三ないうちには雜草ざつさうおどろくべき迅速じんそく發育はついくげる。

それが著しく作物の勢いを妨げる。

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それがいちじるしく作物さくもつ勢力せいりよく阻害そがいする。

それだけ収穫の減少をきたさねばならないはずである。

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それだけ收穫しうくわく減少げんせうきたさねばならぬはずである。

要するに、勤勉な彼らは、実る以前においてすでに、青々とした作物の活力をそいで食っているのである。

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えうするに勤勉きんべん彼等かれら成熟せいじゆく以前いぜんおいすで青々せい/\たる作物さくもつ活力くわつりよくいでつてるのである。

取り入れの季節がまったく終わりを告げると、彼らは草木の枯れ落ちるとともに、しおれてしまわねばならない。

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收穫しうくわく季節きせつまつたをはりをげると彼等かれら草木さうもく凋落てうらくとも萎靡ゐびしてしまはねばならぬ。

草木が眠りに落ち去る少なくとも五、六十日の間は、彼らはまれに冬起こしといって、麦のうね間を耕すことや、林の間に落ち葉や薪を求めることがあるに過ぎない。

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草木さうもくねむりにすくなくとも五六十にちあひだは、彼等かれらまれ冬懇ふゆばりというてむぎ畦間うねまたがやすことやはやしあひだ落葉おちばたきゞもとめることがあるにぎぬ。

自分の食料に換わるだけの銭を得ることが、その期間の仕事においては見いだされないのである。

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自分じぶん食料しよくれうかへだけぜにることが期間きかん仕事しごとおいては見出みいだされないのである。

蛇や蛙やその他の虫類が仮死の状態にある間に、彼らは目前に迫っている未来の苦しみを招くために、過去の苦しかった記念であるその乏しい米や麦を、日ごとに消耗して行くのである。

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へびかへる蟲類むしるゐ假死かし状態じやうたいあひだ彼等かれら目前もくぜんせまつて未來みらいくるしみをまねために、過去くわこくるしかつた記念きねんである缺乏けつばふしたこめむぎごと消耗せうまうしてくのである。

彼らは手に内職を持っていない。

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彼等かれら内職ないしよくつてらぬ。

自分の使うためにのみは、むしろも草履ももっこもわらじもその他のものも藁で作ることを知っているけれども、たいていは刈り遅れになった藁では立派な製作は得られないのである。

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自分じぶん使用しようすべきためにのみはむしろ草履ざうりもつこ草鞋わらぢのものもわらつくることをつてれども、大抵たいていおくれになつたわらでは立派りつぱ製作せいさくられないのである。

それであるのに、彼らは肥料の不足を訴えながら、その藁屑や粟殻やその他のものが庭に散らばっていても、容易にそれを始末しようとしない。

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それであるのに彼等かれら肥料ひれう缺乏けつばふうつたへつゝ藁屑わらくづ粟幹あはがらのものがにはらばつてても容易よういにそれを始末しまつしようとしない。

他人の注意を受けても、それでも改めることをしない。

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他人ひと注意ちういけてもそれでもあらためることをしない。

彼らは苦しい時に苦しむこと以外に、何も知ることがないのである。

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彼等かれらくるしいときくるしむことよりほかなんにもることがないのである。

勘次も彼らの仲間である。

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勘次かんじ彼等かれら仲間なかまである。

しかしながら、彼は境遇の異常な刺激から、少しの間もその身を安んじさせる余裕を持たなかった。

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しかしながらかれ境遇きやうぐう異常いじやう刺戟しげきから寸時すんじ安住あんぢゆうせしむる餘裕よゆうたなかつた。

彼もほかの貧乏な百姓のするように、冬の季節になれば薪を採って壁に積んでおくことをした。

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かれ貧乏びんばふ百姓ひやくしやうのするやうにふゆ季節きせつになればたきゞつてかべんでくことをした。

彼は最近になってから、隣の主人が林を改良するために雑木林をいったん開墾して畑にするということになったので、その一部を担当した。

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かれ近來きんらいつてからとなり主人しゆじんはやし改良かいりやうするため雜木林ざふきばやしを一たん開墾かいこんしてはたけにするといふことにつたのでの一擔當たんたうした。

彼は小さな体である。

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かれちひさな身體からだである。

しかし彼は、重い唐鍬を振りかざして、一鍬ごとにぶつりと土を取っては、後ろへそっと投げながら進む。

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しかかれ重量ぢうりやうある唐鍬たうぐはかざして一くはごとにぶつりとつちをとつてはうしろへそつとげつゝすゝむ。

彼はその開墾の仕事が上手で、かつ好きである。

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かれその開墾かいこん仕事しごと上手じやうずきである。

そのきりっと締まった体は小さいにしても、それが各部の均衡を保って、唐鍬を取るときには彼と唐鍬とはただ一体である。

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のきりつとしまつた身體からだちひさいにしてもそれが各部かくぶ平均へいきんたもつて唐鍬たうぐはるときにはかれ唐鍬たうぐはとはたゞたいである。

唐鍬の広い刃先が木の根に切り込む時には、彼の体も一つにぐさりとその根を切って通るかと思うようである。

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唐鍬たうぐはひろ刄先はさきときにはかれ身體からだひとつにぐざりとつてとほるかとおもふやうである。

土を切り起こすことの上手なのは、彼の生まれつきである。

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つちおこすことの上手じやうずなのはかれ天性てんせいである。

それで彼は、遠く利根川の工事へも行ったのであった。

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それでかれとほ利根川とねがは工事こうじへもつたのであつた。

彼は自分の腕を頼みにしている。

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かれ自分じぶん伎倆うでたのんでる。

彼は以前からも、少しずつ開墾の仕事をした。

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かれ以前いぜんからもすこしづつ開墾かいこん仕事しごとをした。

その賃銭によって、その土地を深くも浅くも、速くも遅くも仕上げることを知っていた。

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賃錢ちんせんによつて土地とちふかくもあさくもはやくもおそくも仕上しあげることをつてた。

竹林を開墾した時、彼は根の閉じたまま一坪の大きさを、ただ四つの塊に掘り起こしたことがある。

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竹林ちくりん開墾かいこんしたときかれぢたまゝつぼおほきさをたゞつのかたまりおこしたことがある。

それでも、そのころまではそういう仕事がいくらもなかったので、その賃銭は、仕事を始める時にその研ぎ減らした唐鍬の刃先を打たせる鍛冶の手間と、異常な労働のために費やすその食料を除いてはいくらもなかったのである。

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それでもころまではさういふ仕事しごといくらもかつたので、賃錢ちんせん仕事しごとはじめるときらした唐鍬たうぐは刄先はさきたせる鍛冶かぢ手間てまと、異常いじやう勞働らうどうためつひや食料しよくれうのぞいてはいくらもなかつたのである。

彼は主人の開墾地が、春いっぱいの仕事には十分であることを喜んだ。

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かれ主人しゆじん開墾地かいこんちはるぱい仕事しごとには十ぶんであることをよろこんだ。

銭のほかに、彼は米と麦との報酬を受けることにした。

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ぜにほかかれこめむぎとの報酬ほうしうけることにした。

おつぎは別に仕事といってはなかったが、彼はおつぎを一人では家に置かなかった。

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おつぎはべつ仕事しごとといつてはなかつたがかれはおつぎを一人ひとりではうちかなかつた。

与吉を連れて、おつぎは開墾地へ行っていた。

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與吉よきちれておつぎは開墾地かいこんちつてた。

勘次がその鍛えた筋力を奮っている間に、おつぎはそこらの林から雀枝を採って、小さなそだを作っている。

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勘次かんじ鍛錬たんれんした筋力きんりよくふるつてにおつぎはそこらのはやしから雀枝すゞめえだつてちひさな麁朶そだつくつてる。

小さな枝は、土地では雀枝と言われている。

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ちひさなえだ土地とちでは雀枝すゞめえだといはれてる。

枯れた雀枝を採ることは、どこの林でも持ち主がやかましく言わなかった。

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かれ雀枝すゞめえだることは何處どこはやしでも持主もちぬし八釜敷やかましくいはなかつた。

勘次は雨でも降らなければ、毎日必ず唐鍬をかついで出た。

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勘次かんじあめでもらねば毎日まいにちかなら唐鍬たうぐはかついでた。

ある日、彼は木の株へ唐鍬を強く打ち込んで、ぐっとこじ上げようとした時、鍛えのいい刃と白樫の柄とは強かったのでどうもなかったが、鉄のくさびで柄の先を締めた、その唐鍬の四角な穴の所がにわかに緩んだ。

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あるかれかぶ唐鍬たうぐはつよ打込うちこんでぐつとこじげようとしたとききたへのいゝ白橿しらかしとはつよかつたのでどうもなかつたが、てつくさびさきめた唐鍬たうぐはの四かくあなところにはかゆるんだ。

そこは、ひつと言われている。

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其處そこはひつといはれてる。

ひつに大きなひびが入ったのである。

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ひつにおほきなひゞつたのである。

柄がやがてがたがたに動いた。

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がやがてがた/\にうごいた。

「ええ、べらぼう。一日の手間を鍛冶屋へ打ち込んじまわなくちゃならない」

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「えゝ、箆棒べらぼう一日いちんち手間てま鍛冶屋かぢやんちあなくつちやなんねえ」

彼は呟いた。

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かれつぶやいた。

次の朝、彼は未明に鍛冶へ走った。

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つぎあさかれ未明みめい鍛冶かぢはしつた。

「わしは行って来ますから、これらのことを見ていておくんなせえ」

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「わしつてあんすから、此等こつらことてゝおくんなせえ」

おつぎと与吉とを南の女房へ頼んだ。

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おつぎと與吉よきちとをみなみ女房にようばうたのんだ。

「ほかへは行くんじゃないぞ。いいか、よきは泣かさないようにしてるんだぞ」

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ほかへはくんぢやねえぞ、えゝか、よきはかさねえやうにしてんだぞ」

彼はおつぎへも言って出た。

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かれはおつぎへもいつてた。

おつぎは、そんな注意を人前でされることが、もう恥ずかしくいやな心持ちがするようになっていた。

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おつぎは其麽そんな注意ちうい人前ひとまへでされることがもうはづかしくいや心持こゝろもちがするやうになつた。

勘次は鬼怒川の渡しを越えて土手を伝って、柄のない唐鍬を持って行った。

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勘次かんじ鬼怒川きぬがはわたしえて土手どてつたひて、のない唐鍬たうぐはつてつた。

鍛冶はその時仕事がつかえていたが、それでもこういう職業に欠くべからざる道具というと、どこでもそういう例で、速やかにこしらえてくれた。

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鍛冶かぢとき仕事しごとつかへてたが、それでもういふ職業しよくげふくべからざる道具だうぐといふと何處どこでもさういふれいすみやかこしらへてくれた。

「ずいぶん荒いことをしたと見えるっけな。おれも近ごろになって、これくらいな唐鍬をめったに打ったことはないよ」

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隨分ずゐぶんあれえことしたとえつけな、らも近頃ちかごろになつてくれえな唐鍬たうぐは滅多めつたつたこたあねえよ、」

鍛冶はその赤く熱した唐鍬をしばらく槌で叩いて、それから地中へ据えた桶の、泥を溶いたような水へじゅうと浸して、さらにまた小さな槌でちんちんと叩いて

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鍛冶かぢあかねつした唐鍬たうぐはしばらつちたゝいて、それから土中どちうゑたをけどろいたやうなみづへぢうとひたして、さらまたちひさなつちでちん/\とたゝいて

「今度こそ大丈夫だ。前にはどうしてひびなんぞ入ったっけかい」

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「こんだこさ大丈夫だいぢようぶだ、せんにやどうしてひゞなんぞいつたけかよ」

鍛冶は汗の額を勘次に向けて

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鍛冶かぢあせひたひ勘次かんじけて

「柄がへし折れないうちは動きっこないから」

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つちよれねえうちはいごきつこねえから」

と言って、また

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といつてまた

「体の割にしちゃ図抜けてるな」

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身體からだわりにしちやえな」

と、鍛冶は微笑した。

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鍛冶かぢ微笑びせうした。

鉄の匂いのする唐鍬を提げて、勘次はまた土手を走った。

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てつにほひのする唐鍬たうぐはげて勘次かんじまた土手どてはしつた。

その日も西風が、枯れ木の林から麦畑から、そうして鬼怒川を渡って吹いた。

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西風にしかぜ枯木かれきはやしから麥畑むぎばたけからさうして鬼怒川きぬがはわたつていた。

鬼怒川の水は白い波が立って、遠くからはそれが粟立った肌のように、ただこそばゆく見えた。

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鬼怒川きぬがはみづしろなみつて、とほくからはそれがあはしやうじたはだへのやうにたゞこそばゆくえた。

西風は川に吹き落ちる時、西岸の篠をざわざわと揺るがす。

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西風にしかぜかはちるとき西岸せいがんしのをざわ/\とゆるがす。

さらに東岸の土手を伝って吹き上げる時、土手の短い枯れ芝の葉を一葉ずつ激しくなびかせた。

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さら東岸とうがん土手どてつたうてげるとき土手どてみじか枯芝かれしば一葉ひとはづゝはげしくなびけた。

その枯れ芝の間に、どうしたものか気まぐれなたんぽぽの黄色い頭がぽつぽつと見える。

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枯芝かれしばあひだにどうしたものかまぐれな蒲公英たんぽ黄色きいろあたまがぽつ/\とえる。

どうかすると土手は静かで暖かなことがあるので、つい騙されて、たんぽぽがまだ遠い春をじれったそうに首を出してみては、また寒くなったのに驚いて縮こまったような姿である。

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どうかすると土手どてしづかであたゝかなことがあるので、つひだまされて蒲公英たんぽがまだとほはる遲緩もどかしげにくびしてては、またさむつたのにおどろいてちゞまつたやうな姿すがたである。

勘次は唐鍬を持って、また自分の活力を取り戻し得たように、それからまた一日仕事を怠れば身内がみりみりして、何だか知らないがその仕事に催促されてならないような心持ちがした。

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勘次かんじ唐鍬たうぐはつて自分じぶん活力くわつりよく恢復くわいふくたやうに、それからまたにち仕事しごとおこたれば身内みうちがみり/\してなんだからぬが仕事しごと催促さいそくされてらぬやうな心持こゝろもちがした。

鬼怒川の水は落ちて、こちらの土手から連なっている大きな洲が、その流れを西岸の篠の下まで縮めている。

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鬼怒川きぬがはみづちて此方こちら土手どてからつらなつておほきなながれを西岸せいがんしのしたまでちゞめてる。

広く、かつ遠い洲には、ただ西風がわずかに乾いた砂をさらさらと掃くようにして吹いている。

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ひろかつとほにはたゞ西風にしかぜわづかかわいたすなをさら/\とくやうにしていてる。

それで、白く乾いた洲はただからりと清潔に見える。

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それでしろ乾燥かんさうしたたゞからりと清潔せいけつえる。

そういう間に、どうしたものかこれも気まぐれな人が、遠くはその砂から生えたように見えて、ちらほらと散らばって少しずつ動いている。

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さういふあひだにどうしたものかれもまぐれなひとが、とほくはすなからえたやうにえてちらほらとらばつてすこしづゝうごいてる。

勘次は土手から下りて見た。

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勘次かんじ土手どてからおりてた。

動いている人々は万能鍬でその砂を掘っているのであった。

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うごいて人々ひと/″\萬能まんのうすなつてるのであつた。

西風が乾かしてはさらさらと掃いていても、洲にはなおいくらか波の跡がついている。

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西風にしかぜかわかしてはさらさらといててもにはなほいくらかなみあとがついてる。

その砂の中からは短い木片が出る。

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そのすななかからはみじか木片もくへんる。

十センチから二十センチくらいな、まれには三十センチくらいなものも掘り起こされる。

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二三すんから五六すんぐらゐまれには一しやくぐらゐなものもおこされる。

みな研ぎ減らしたような木片ばかりである。

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みなへらしたやうな木片もくへんのみである。

人々は冷たくなった手を口へ当てて、白い暖かい息を吹きかけながら、一心に先へ先へと掘り起こしながら行く。

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人々ひと/″\つめたくつたくちてゝしろあたゝかいいきけながら一しんさきさきへとおこしつゝく。

「どうするんだね」

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「どうするんだね」

勘次は一人のそばへ立って聞いた。

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勘次かんじ一人ひとりそばつていた。

ひょいと首をもたげたのは婆さんであった。

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ひよつとくびもたげたのはばあさんであつた。

婆さんは腰を伸ばして、強い西風によろける足を踏みしめて

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ばあさんはこしをのしてつよ西風にしかぜによろけるあしふみしめて

「これを干しておいて燃すのさ」

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していてすのさ」

と、汚い白髪と手拭いとを吹かれながら、目をしかめて言った。

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きたな白髮しらが手拭てぬぐひとをかれながらしかめていつた。

「どうしても、こうなっちゃべろべろ燃えてあっけないだろうね」

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「どうしてもつちやべろ/\えて飽氣あつけなかんべえね」

勘次は聞いた。

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勘次かんじいた。

「赤い灰になってな、火も弱いのさ。そんでも、そだを買うよりはいいからな。松ぞだだといったって、こっちのほうへ来ちゃ、生で三十五把だの何だのって、小さいくせにな。おれのような婆でも十把くらいは背負えるんだもの。近ごろじゃ燃す物がいちばん不自由で仕方がないのさな」

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あけはひつてな、えのさ、そんでも麁朶そだあよりやえゝかんな、松麁朶まつそだだちつたつてこつちのはうちやなまで卅五だのなんだのつて、ちつちえくせにな、らやうなばゝあでも十ぐれえ背負しよへんだもの、近頃ちかごろぢやもうものが一ばん不自由ふじようやうねえのさな」

婆さんは言った。

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ばあさんはいつた。

「松ぞだで三十五把じゃ相場はそうでもないが、商人が丸め直すんだから小さくもなるはずだな」

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松麁朶まつそだで卅五ぢや相場さうばはさうでもねえが、商人あきんどがまるきなほすんだからちひさくもなるはずだな」

勘次は首をかしげて言った。

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勘次かんじくびかたむけていつた。

「そうなんだろうよなあ。そりゃそうと、お前さんはどこだね」

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「さうだごつさらよなあ、そりやさうとおめえさん何處どこだね」

万能鍬を杖にして、婆さんは言った。

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萬能まんのうつゑにしてばあさんはいつた。

「おれは川向こうさ」

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川向かはむかうさ」

「そんじゃ燃す木はある所だね」

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「そんぢやもうとこだね」

婆さんはさらに勘次の唐鍬を見て

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ばあさんはさら勘次かんじ唐鍬たうぐは

「たいした唐鍬だが、よっぽどするんだろうな」

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「たいした唐鍬たうぐはだがぽどすんだつぺな」

「そうさ、今打たせちゃ三十匁掛けはきっとだな」

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「さうさいまたせちや三十掛さんじふがけ屹度きつとだな」

「三十匁掛けっていくらするんだろう。目方もしっかりあるだろうな」

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三十掛さんじふがけツちやいくらするごつさら、目方めかたもしつかりかゝんべな」

「一貫目もないがな」

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一貫目いつくわんめもねえがな」

勘次は自慢らしく、婆さんへ唐鍬を持たせた。

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勘次かんじ自慢じまんらしくばあさんへ唐鍬たうぐはたせた。

「おおいや、おれのにゃ持ち上がらないようだ。お前さん自分で使うのかいまあ。何だろうよ、こんな道具は」

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「おういや、らがにやつたゝねえやうだ、おめえさん自分じぶん使つかあのけまあ、なにしたごつさらよんな道具だうぐなあ」

「毎日木の根っこを起こしてたんだが、唐鍬のひつが痛んじまったから、直しに来たところさ」

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毎日まいんち木根きねおこしてたんだが、唐鍬たうぐはのひついためつちやつたからなほとこさ」

「そんじゃ、お前さんは燃す物には不自由なしでいいな」

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「そんぢやおめえさんもうものにや不自由ふじいうなしでえゝな」

婆さんは羨ましそうに言った。

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ばあさんはうらやましさうにいつた。

そうして、小さな木片を入れるために持って来た麻の汚い袋を、草刈り籠から出した。

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さうしてちひさな木片もくへんいれためもつあさきたなふくろ草刈籠くさかりかごからした。

わずかに鬼怒川の水を隔てて、西は林が連なっている。

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わづか鬼怒川きぬがはみづへだてゝ西にしはやしつらなつてる。

村も田も畑も、その林に包まれている。

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村落むらはたけはやしつゝまれてる。

東はただ低い水田と畑とで、村がその間に点在している。

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ひがしたゞひく水田すゐでんはたけとで村落むらあひだ點在てんざいしてる。

そこに、家を囲んでわずかな木立があるばかりである。

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其處そこいへかこんでわづかな木立こだちるばかりである。

したがって、薪の不足から豆殻や藁のようなものもみな燃料として取っておかれていることは、勘次もよく知っていた。

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したがつてたきゞ缺乏けつばふから豆幹まめがらわらのやうなものもみな燃料ねんれうとして保存ほぞんされてることは勘次かんじつてた。

しかし、その薪の不足から、自然にこういう砂の中に洪水がもたらした木片の埋まっているのを知って、これを求めているのだということは、彼は初めて見て初めて知った。

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しかたきゞ缺乏けつばふから自然しぜんにかういふすななか洪水こうずゐもたらした木片もくへんうづまつてるのをつてこれもとめてるのだといふことはかれはじめてはじめてつた。

彼はめったに川を越えて出ることはなかったのである。

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かれ滅多めつたかはえてることはなかつたのである。

勘次は自分の壁際には、薪がいっぱいに積まれてある。

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勘次かんじ自分じぶん壁際かべぎはにはたきゞが一ぱいまれてある。

そのうえ開墾の仕事に携わって、何といっても薪はだんだん増えて行くばかりである。

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そのうへ開墾かいこん仕事しごとたづさはつてなんといつてもたきゞ段々だんだんえてくばかりである。

さらに、その開墾に第一の要件である道具が、今は完全になって自分の手に提げられてある。

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さら開墾かいこんだい一の要件えうけんである道具だうぐいま完全くわんぜんして自分じぶんげられてある。

彼は、こういう辛苦をしてまでもわずかな木片を求めている人々の前に、誇りを感じた。

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かれういふ辛苦しんくをしてまでも些少させう木片もくへんもとめて人々ひとびとまへほこりかんじた。

彼は自分の境遇がどんなであるかは思わなかった。

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かれ自分じぶん境遇きやうぐう什麽どんなであるかはおもはなかつた。

またこういう人々の哀れなことも、思いやる暇がなかった。

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またういふ人々ひとびとあはれなこともおもひやるいとまがなかつた。

そうして彼は、自分の腕前が愉快になった。

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さうしてかれ自分じぶん技倆うで愉快ゆくわいになつた。

彼は再び土手から見下ろした。

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かれふたゝ土手どてからおろした。

万能鍬を持っているのはみな女で、十三、四の子も交じっているのであった。

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萬能まんのうつてるのはみなをんなで十三四のまじつてるのであつた。

人々の掘り起こした跡は、畑の土をみみずが持ち上げたような形に、湿った砂がうねうねと連なっているのが彼の目に映った。

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人々ひと/″\おこしたあとはたけつち蚯蚓みゝずもたげたやうなかたちに、しめつたすなのうね/\とつらなつてるのがかれうつつた。

彼は家に帰るとともに、唐鍬の柄をつけた。

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かれうちかへるととも唐鍬たうぐはつけた。

なたの峰で鉄のくさびを打ち込んで、そうして柄を取って動かしてみた。

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なた刀背みねてつくさびんでさうしてつてうごかしてた。

次の朝から、もう勘次の姿は林に見いだされた。

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つぎあさからもう勘次かんじ姿すがたはやし見出みいだされた。

主人から与えられた穀物は、彼の一家を暖めた。

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主人しゆじんからあたへられた穀物こくもつかれの一あたゝめた。

彼は近ごろにない心の余裕を感じた。

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かれ近來きんらいにないこころ餘裕よゆうかんじた。

しかし、そういうわずかな、彼に幸いした事柄でも、いくらか他人の嫉妬を招いた。

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しかしさういふわづかかれさいはひした事柄ことがらでもいくらか他人たにん嫉妬しつとまねいた。

ほかの百姓にも、もがいている者はいくらもある。

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百姓ひやくしやうにも悶躁もがいてものいくらもある。

そういう仲間の間には、わずかに五円の金銭でも、それが懐に入ったとなればすぐに世間の目に立つ。

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さういふ伴侶なかまあひだにはわづかに五ゑん金錢かねでもそれはふところはひつたとなればすぐ世間せけんつ。

彼らはいくらずつでも自分のためになることを見いだそうということのほかに、目を険しくして周りに注意しているのである。

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彼等かれらいくらづゝでも自分じぶんためになることを見出みいださうといふことのほかに、そばたてゝ周圍しうゐ注意ちういしてるのである。

彼らは、他人が自分と同等以下に苦しんでいると思っている間は、互いに苦しんでいることに一種の安心を感じるのである。

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彼等かれら他人ひと自分じぶん同等どうとう以下いかくるしんでるとおもつてあひだ相互さうごくるしんでることに一しゆ安心あんしんかんずるのである。

しかし、その一人でも懐のいいのが目につけば、自分は後へ捨てられたような、ひどく切ないような妙な心持ちになって、そこに嫉妬の念が起こるのである。

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しか一人ひとりでもふところのいゝのがにつけば自分じぶんあとてられたやうなひどせつないやうなめう心持こゝろもちになつて、そこに嫉妬しつとねんおこるのである。

それだから彼らは、他人のつまずきを見ると、そのひがんだ心の中にひそかに痛快を感じざるを得ないのである。

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それだから彼等かれら蹉跌つまづきるとそのひがんだこゝろうちひそか痛快つうくわいかんぜざるをないのである。

勘次の家には、薪が山のように積まれてある。

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勘次かんじいへにはたきゞやまのやうにまれてある。

それが彼らの仲間の注目を引いた。

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それが彼等かれら伴侶なかま注目ちうもくいた。

それとはなしに、幾度か彼の主人に告げられた。

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それとはなしに數次しばしばかれ主人しゆじんげられた。

開墾地で木を焚いた、その灰をも家に運んだということまで主人の耳に入った。

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開墾地かいこんちいたそのはひをもいへはこんだといふことまで主人しゆじんみゝはひつた。

勘次は開墾の手間賃を比較的余計に与えられる代わりには、櫟の根は一つも運ばないはずであった。

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勘次かんじ開墾かいこん手間賃てまちん比較的ひかくてき餘計よけいあたへられるかはりにはくぬぎは一つもはこばないはずであつた。

彼らの仲間は、そういうことをも知っていた。

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彼等かれら伴侶なかまはさういふことをもつてた。

昼飯の後や、手の冷たくなった時などには、彼はそこらの木を集めて燃やす。

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晝餐ひるあとつめたくつたときなどにはかれはそこらのあつめてやす。

木の根がくすぶって、いつでも青い煙が少しずつ立っている。

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くすぶつていつでもあをけむりすこしづゝつてる。

彼はその煙にだんだん遠ざかりながら、唐鍬を打ち込んでいる。

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かれそのけむり段々だんだんとほざかりつゝ唐鍬たうぐはんでる。

毎日、火は別の所で焚かれた。

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毎日まいにちべつところかれた。

彼は必ずその灰をかき払って去ったのである。

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かれ屹度きつとはひいでつたのである。

しかし壁際に積んだ木の根は、そこには不正なものが交じっているにしても、大部分は彼の非常な労苦から得たものである。

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しか壁際かべぎはんだはそこには不正ふせいなものがまじつてるにしても、大部分だいぶぶんかれ非常ひじやう勞苦らうくからたものである。

彼は林の持ち主に請うて掘ったのである。

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かれはやし持主もちぬしうてつたのである。

それでも、あまりに人の口がやかましいので、主人はただいくらかでも将来の戒めをしようと思った。

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それでもあまりにひとくち八釜敷やかましいので主人しゆじんたゞ幾分いくぶんでも將來しやうらいいましめをしようとおもつた。

その以前から勘次は、秋になれば掛け稲を盗むとかいう陰口を利かれて、巡査の手帳にも載っているのだというようなことが言われていたのであった。

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以前いぜんから勘次かんじあきになれば掛稻かけいねぬすむとかいふ蔭口かげぐちかれて巡査じゆんさ手帖ててふにもつてるのだといふやうなことがいはれてたのであつた。

主人はそれでも、ひそかに人を使って、木の根を運んだかどうかということを聞かせてみた。

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主人しゆじんはそれでもひそかひともつはこんだかどうかといふことをかせてた。

彼が気づいて詫びるならば、それなりにしてやろうと思ったからである。

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かれこゝろづいて謝罪しやざいするならばそれなりにしてらうとおもつたからである。

彼は主人の心を知るすべはなかった。

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かれ主人しゆじんこゝろよしはなかつた。

「どこでも見たほうがようがす。わしはけっして運んだ覚えなんざないから」

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何處どこでもはうがようがす、わしはけつしてはこんだおぼえなんざねえから」

彼は恐ろしい権幕できっぱり断った。

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かれおそろしい權幕けんまくできつぱりことわつた。

主人は村の駐在所の巡査へ耳打ちをした。

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主人しゆじんむら駐在所ちうざいしよ巡査じゆんさ耳打みゝうちをした。

巡査はある日、ぶらっと勘次の家へ行った。

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巡査じゆんさあるぶらつと勘次かんじうちつた。

その日は朝から雨なので、勘次は仕事にも出られず、火鉢へ少しずつ木の根をくべて当たっていた。

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あさからあめなので勘次かんじ仕事しごとにもられず、火鉢ひばちすこしづゝべてあたつてた。

「雨で困ったな。勘次はだいぶ勉強するそうだな」

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あめこまつたな、勘次かんじ大分だいぶ勉強べんきやうするさうだな」

巡査は帯剣の鞘をつかんで言った。

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巡査じゆんさ帶劍たいけんさやつかんでいつた。

「へえ」

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「へえ」

勘次は急に膝を立て直した。

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勘次かんじきふひざなほした。

表の戸口へひょっこり現れた巡査の、外套の頭巾を深くかぶっている顔が、勘次にはただ恐ろしく見えた。

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おもて戸口とぐちへひよつこりあらはれた巡査じゆんさの、外套ぐわいたう頭巾づきんふかかぶつてかほ勘次かんじにはたゞおそろしくえた。

そうして、その声が刺を含んで響いた。

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さうしてこゑとげふくんでひゞいた。

巡査はぶらりと家の横手へ行って、壁際の木の根を見た。

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巡査じゆんさはぶらりといへ横手よこてつて壁際かべぎはた。

勘次は巡査の後からついて行った。

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勘次かんじ巡査じゆんさあとからいてつた。

「だいぶあるな。これはまた、わしの来るまで動かしちゃならないからな」

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大分だいぶるな、れはまたわしのるまでうごかしちやならないからな」

巡査は言った。

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巡査じゆんさはいつた。

勘次は青くなった。

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勘次かんじあをくなつた。

「これらはわしがもらって掘ったんでがすから、どことどこって穴っこまでちゃんと分かってるんでがすから」

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らわしがもらつてつたんでがすから何處どこ何處どこつてあなまでちやんとわかつてんでがすから」

彼は慌てて言った。

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かれあわてゝいつた。

「そんなことはどうでもいいんだ。動かすなと言ったら動かさなけりゃいいんだ」

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「そんなことはどうでもいゝんだ、うごかすなといつたらうごかさなけりやいゝんだ」

巡査は息で霧のように少し濡れた口髭をひねりながら

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巡査じゆんさ呼吸いききりのやうにすこれた口髭くちひげひねりながら

「櫟の根がだいぶあるようだな」

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くぬぎ大分だいぶあるやうだな」

と言い捨てて去った。

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といひてゝつた。

勘次は雨に打たれながら、放心したように庭に立っている。

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勘次かんじあめたれつゝ喪心さうしんしたやうににはつてる。

戸口の陰に隠れて聞いていたおつぎは、巡査の去った後、ようやく姿を現した。

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戸口とぐちかげかくれていてたおつぎは巡査じゆんさつたのちやうや姿すがたあらはした。

「おとっつあん」

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「おとつゝあ」

と小声で呼んだ。

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小聲こごゑんだ。

「そんだから、おれは持って来るなって言ったのに」

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「そんだからつてんなつてゆつたのに」

さらに小声でおつぎは言った。

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さら小聲こごゑでおつぎはいつた。

「おとっつあん、どうしたもんだろうな」

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「おとつゝあ、どうしたもんだべな」

おつぎは聞いた。

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おつぎはいた。

「おれは旦那に見放されちゃ、とても助からないだろう」

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旦那だんな見放みはなされちや、とつてたすかれめえ」

勘次はようやくこれだけ言った。

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勘次かんじやうやれだけいつた。

「おとっつあん、それじゃ旦那に謝ったらどうしたもんだろう」

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「おとつゝあ、それぢや旦那だんな謝罪あやまつたらどうしたもんだんべ」

「そんなこと言ったって、聞くか聞かないか分かるもんか」

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「そんなことゆつたつて、くかかねえかわかるもんか」

「南のおとっつあんにでも頼んでみたらどうしたもんだろう」

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みなみのおとつゝあげでもたのんでたらどうしたもんだんべ」

「お前らが頼まなくたっていいから」

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汝等わつらたのまなくつたつてえゝから」

「そんじゃ、おとっつあん、櫟の根っこさえなけりゃいいんだろうか」

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「そんぢやおとつゝあ、くぬぎせえなけりやえゝんだんべか」

「そんだって、お前は駐在所に見られちまったもの、仕方があるもんか」

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「そんだつてわれ駐在所ちうざいしよられつちやつたものやうあるもんか」

勘次はそれでも、ほかに分別もないので、仕方なしに桑畑を越えて南へ詫びを頼みに行った。

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勘次かんじはそれでも分別ふんべつもないので仕方しかたなしに桑畑くはばたけこえみなみわびたのみにつた。

彼は古い菅笠をちょっと頭へかざして、首を縮めて行った。

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かれふる菅笠すげがさ一寸ちよつとあたまかざしてくびちゞめてつた。

主人の挨拶は、とにかく明日のことにするからと言っただけだという返事である。

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主人しゆじん挨拶あいさつかく明日あすのことにするからといつただけだといふ返辭へんじである。

勘次はげっそりとして家へ帰ると、布団をかぶってしまった。

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勘次かんじはげつそりとしてうちかへると蒲團ふとんかぶつてしまつた。

おつぎは自分も毎日行っていたので、開墾地から運んだ櫟の根はみな知っている。

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おつぎは自分じぶん毎日まいにちつてたので開墾地かいこんちからはこんだくぬぎみなつてる。

おつぎは、その櫟の根を独りでひそかに引き出した。

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おつぎはくぬぎひとりでひそかした。

そうしてたそがれ時に、おつぎはそれを草刈り籠へ入れて、後ろの竹藪の中の古井戸へ投げ落とした。

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さうして黄昏時たそがれどきにおつぎはそれを草刈籠くさかりかごれてうしろ竹藪たけやぶなか古井戸ふるゐどおとした。

古井戸は暗く、かつ深い。

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古井戸ふるゐどくらくしてかつふかい。

おつぎは冷たい雨に濡れて、そうして少し縮れた髪が乱れてくったりと頬について、足には朽ちた竹の葉がくっついている。

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おつぎはつめたいあめれてさうしてすこちゞれたかみみだれてくつたりとほゝいてあしにはちたたけがくつゝいてる。

「おとっつあん」

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「おとつゝあ」

おつぎは勘次を呼び起こした。

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おつぎは勘次かんじおこした。

「おれは櫟の根っこをうっちゃったぞ」

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くぬぎうつちやつたぞ」

おつぎはさらに声を殺して言った。

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おつぎはさらこゑころしていつた。

勘次はひょっこり起きて、何も言わずにおつぎの顔をじっと見つめた。

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勘次かんじはひよつこりきてなにもいはずにおつぎのかほ凝然ぢつつめた。

暗い家の中には、ようやく手ランプがともされた。

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くらうちなかにはやうやランプがともされた。

勘次もおつぎも、ただその目が光って見えた。

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勘次かんじもおつぎもたゞひかつてえた。

次の日、巡査は隣の雇い人を連れて来て壁際の木の根を調べさせたが、櫟の根は案外に少なかった。

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つぎ巡査じゆんさとなり傭人やとひにんれて壁際かべぎはしらべさせたがくぬぎ案外あんぐわいすくなかつた。

それでも、おつぎの手では捨てきれなかったのである。

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それでもおつぎのではれなかつたのである。

「こりゃ櫟がもっとあったはずじゃないか。勘次はどうかしやしないか」

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りやくぬぎがもつとつたはずぢやないか勘次かんじはどうかしやしないか」

巡査はこう言ってあたりを見たが、勘次の小さな建物のどこにもそれは見つからなかった。

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巡査じゆんさういつてあたりをたが勘次かんじちひさな建物たてもの何處どこにもそれは發見はつけんされなかつた。

そうは言っても実際、巡査の目には櫟とほかの雑木とをはっきり見分けることができなかったのである。

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さういつても實際じつさい巡査じゆんさにはくぬぎほか雜木ざふきとを明瞭めいれう識別しきべつなかつたのである。

「勘次、それじゃこれを持ってついて来るんだ」

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勘次かんじ、それぢやれをつていてるんだ」

巡査は言った。

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巡査じゆんさはいつた。

勘次は震えた。

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勘次かんじふるへた。

「草刈り籠でも何でもいい、これを入れて後からついて」

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草刈籠くさかりかごでもなんでもいゝ、れをれてあとからいて」

「へえ、どこまで持って行くんでしょう」

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「へえ、何處どこまでつてくんでがせう」

勘次はためらっている。

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勘次かんじ逡巡ぐつ/\してる。

「どこまででもいいんだ」

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何處どこまでゝもいゝんだ」

巡査は怒鳴って、ぴしゃりと横手で勘次の頬を叩いた。

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巡査じゆんさ呶鳴どなつてぴしやりと横手よこて勘次かんじほゝたゝいた。

勘次は草刈り籠を背負って、巡査の後についてゆき、主人の家の裏庭へ導かれた。

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勘次かんじ草刈籠くさかりかご脊負せおつて巡査じゆんさあといて主人しゆじんいへ裏庭うらにはみちびかれた。

巡査が縁側の座布団へ腰を掛けた時、勘次は籠を背負ったまま首をうなだれて立った。

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巡査じゆんさ縁側えんがは坐蒲團ざぶとんこしけたとき勘次かんじかご脊負せおつたまゝくびれてつた。

それはあまりに見え透いた仕事なので、さすがに分別盛りの主人は出なかった。

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それはあまりにいた仕事しごとなので有繋さすが分別盛ふんべつざかり主人しゆじんなかつた。

おかみさんが出た。

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内儀かみさんがた。

勘次はますますしおれた。

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勘次かんじます/\しほれた。

「勘次、お前まあそれを置いて、ここへ掛けてみたらどうだね」

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勘次かんじ、おまへまあそれをいて此處こゝけてたらどうだね」

おかみさんは言った。

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内儀かみさんはいつた。

勘次はそれでも、ただ立っている。

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勘次かんじはそれでもたゞつてる。

「品物はこれだけなんでしたでしょうか」

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品物しなものこれだけなんでしたらうか」

おかみさんは巡査に聞いた。

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内儀かみさんは巡査じゆんさいた。

「これくらいのものらしいようでしたな。案外少なかったんですな」

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くらゐのものらしいやうでしたな、案外あんぐわいすくなかつたんですな」

巡査は手帳を繰り返しながら言った。

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巡査じゆんさ手帖ててふ反覆くりかへしながらいつた。

「そうでございますか」

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「さうでございますか」

おかみさんは巡査に会釈して、そうして

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内儀かみさんは巡査じゆんさ會釋ゑしやくしてさうして

「どうしたね勘次、こうして連れて来られてもいい心持ちはすまいね」

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「どうしたね勘次かんじうしてれてられてもいゝ心持こゝろもちはすまいね」

と言った。

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といつた。

藁草履をはいた勘次の爪先に、涙がぽつりと落ちた。

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藁草履わらざうり穿いた勘次かんじ爪先つまさきなみだがぽつりとちた。

「こんなことでお前、世間が騒がしくて仕方がないのでね、私の所でも本当に困ってしまうんだよ」

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「こんなことでおまへ世間せけんさわがしくてやうがないのでね、わたしところでも本當ほんたうこまつてしまふんだよ」

おかみさんは巡査をちょっと見て、そうして

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内儀かみさんは巡査じゆんさ一寸ちよつとてさうして

「これからきっとやらないなら、今日の所だけは大目に見ていただいて、警察へ連れて行かれないように伺ってみてあげるがね、どうしたもんだね」

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れから屹度きつとやらないなら今日けふところだけは大目おほめいたゞいて警察けいさつれてかれないやうにうかゞつててあげるがね、どうしたもんだね」

と勘次へ言った。

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勘次かんじへいつた。

「どうかもう、けっしてやりませんから、へえ、おかみさん、どうぞ」

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何卒どうぞはあ、けつしてやりませんから、へえお内儀かみさんどうぞ」

勘次は草刈り籠を背負って前かがみになった体を、幾度かかがめて言った。

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勘次かんじ草刈籠くさかりかご脊負せおうて前屈まへかゞみになつた身體からだ幾度いくどかゞめていつた。

涙がまたぼろぼろと着物の裾から跳ねて、ぽつぽつと庭の土に点を打った。

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なみだまたぼろ/\ときものすそからねてほつ/\とにはつちてんじた。

「いかがなもんでございましょうね、これは」

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如何いかゞなもんでござんせうねれは」

おかみさんは微笑を含んで、巡査に向かって言った。

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内儀かみさんは微笑びせうふくんで巡査じゆんさむかつていつた。

「そうですなあ」

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「さうですなあ」

巡査は首をかしげて言って、さらに帯剣の鞘を膝へ取って

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巡査じゆんさくびかたむけていつてさら帶劍たいけんさやひざへとつて

「どうだ勘次、以来慎めるか。この次にこんなことがあったら枯れ枝一つでも赦さないからな。今日はまあこれで帰れ。その櫟の根はここへ置いて行くんだぞ」

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「どうだ勘次かんじ以來いらいつゝしめるか、つぎにこんなことがつたら枯枝かれえだ一つでもゆるさないからな、今日けふはまあれでかへれ、くぬぎ此處こゝいてくんだぞ」

勘次は草刈り籠を下ろそうとした。

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勘次かんじ草刈籠くさかりかごおろさうとした。

「そんなものをこの庭へ置けというんじゃないんだ。置く所は知ってるんだろう。分からない奴だな。それ、うっかりしないで足元を気をつけるんだ」

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「そんなものにはけといふんぢやないんだ、ところつてるんだろう、わからないやつだな、それうつかりしないで足下あしもとをつけるんだ」

巡査は叱った。

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巡査じゆんさしかつた。

勘次はそっと土を踏んで庭を出た。

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勘次かんじはそつとつちんでにはた。

門の外には、おつぎが与吉を連れてすすり泣いている。

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もんそとにはおつぎが與吉よきちれて歔欷すゝりなきしてる。

与吉はおつぎの泣くのを見て、自分も声を放つ。

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與吉よきちはおつぎのくのを自分じぶんこゑはなつ。

おつぎは声の漏れないように、袂でそれを覆っている。

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おつぎはこゑれぬやうにたもとでそれをおほうてる。

「よき、泣かないで帰れ」

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「よきかねえでえれ」

勘次は与吉の手を取った。

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勘次かんじ與吉よきちつた。

三人は黙って歩いた。

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にんだまつてあるいた。

雇い人らは笑って、勘次の様子を見ていた。

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傭人等やとひにんらわらつて勘次かんじ容子ようすた。

「おとっつあん、どうしたっけ」

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「おとつゝあ、どうしたつけ」

おつぎは家に帰るとともに聞いた。

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おつぎはうちかへるとともいた。

「そんでもまあ大丈夫になった。櫟の根っこがなくて助かった」

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「そんでもまあ大丈夫だいぢやうぶになつた、くぬぎなくつてたすかつた」

勘次はげっそりと力なく言った。

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勘次かんじはげつそりとちからなくいつた。

「おれは昨日は重たくてひどかったっけぞ。そのせいか今日は肩が痛いや」

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昨日きにやうおもたくつてひどかつたつけぞ、所爲せゐ今日けふかたいてえや」

おつぎは喜ばしげに言った。

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おつぎはよろこばしげにいつた。

「おれがここでいなくなっちゃ、お前らも大変だったな」

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おらこゝでなくなつちや汝等わツら大變たえへんだつけな」

勘次はしばらく間を置いて、ぽつりとして言った。

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勘次かんじあひだしばらいてぽさ/\としていつた。

このことがあってからも、勘次の姿はすぐに唐鍬を持って林の中に見いだされた。

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ことがあつてからも勘次かんじ姿すがたすぐ唐鍬たうぐはつてはやしなか見出みいだされた。

五、六日たって、勘次は針立てと針箱とを買って来た。

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五六にちつて勘次かんじ針立はりだて針箱はりばことをつてた。

「おつう、お前もこれからお針に行けるからな。そら、これを持って行くんだ。おっかあが持ってた古いのなんざあ外聞が悪くていやだなんて言うから、これでもおとっつあんらはひどい銭で買って来たんだぞ。それから、いいの悪いのって膨れたり何かするんじゃないぞ、なあ」

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「おつう、われれからおはりにいけつかんな、そらつてぐんだ、おつかゞつてたふるいのなんざあ外聞げえぶんわるくつてだなんていふから、んでもおとつゝあひでぜねつてたんだぞ、それからえだのわりいだのつてふくれたりなにつかすんぢやねえぞ、なあ」

勘次はまた

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勘次かんじまた

「よき、お前はおとっつあんのそばにいるんだぞ。いいか、姉はこれからお前の着物をこしらえるのでお針に行くんだからな。聞かないとひどいぞ」

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「よきわれはおとつゝあがそばるんだぞ、えゝか、ねえこれからわれ衣物きものこせえんでおはりくんだかんな、かねえとひでえぞ」

と、与吉を抱いてよく言い含めた。

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與吉よきちいてくいひふくめた。

おつぎはそれから、村の中へ近所の娘とともに通った。

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おつぎはそれから村内そんない近所きんじよむすめともかよつた。

おつぎは与吉の小さなひとえを仕上げた時、その風呂敷包みを抱えていそいそと帰って来た。

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おつぎは與吉よきちちひさな單衣ひとへもの仕上しあげたとき風呂敷包ふろしきづゝみかゝへていそ/\とかへつてた。

おつぎは針を持つようになってから、てきぱきとして、にわかにませて来たように見えた。

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おつぎははりつやうにつてからはき/\としてにはかにませてたやうにえた。

おつぎはもう十六である。

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おつぎはもう十六である。

辛苦の間にあるだけに、去年からではどれほど大人びて勘次の助けになるか知れない。

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辛苦しんくあひだだけ去年きよねんからではほど大人おとなびて勘次かんじたすけるかれない。

ことに秋のころになってからは、めっきり機転も利くようになって、死んだお品に似て来たと他人には言われるのであるが、毎日いっしょにいる自分にも、そう言えば体の格好までどうやらそう見えて来たと、勘次も心で思った。

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ことあきころつてからは滅切めつきり機轉きてんくやうになつて、んだおしなたと他人ひとにはいはれるのであるが、毎日まいにちひとつに自分じぶんにもさういへば身體からだ恰好かつかうまでどうやらさうえてたと勘次かんじこゝろおもつた。

おつぎは今が遊びたい盛りに入ったのであるが、勘次からは一日でもたった一人で放されたことがない。

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おつぎはいまあそびたいさかりに這入はひつたのであるが、勘次かんじからは一日いちにちでもたゞ一人ひとりはなされたことがない。

村の休日には近所の女房に連れられて出てみることもあるが、必ず与吉がくっついているのと、自分は炊事の間を欠かすことができないのとで、昼飯でも晩飯でも他人より早く帰って来なければならない。

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むら休日ものびには近所きんじよ女房にようばうれられてることもあるが、屹度きつと與吉よきちがくつゝいてるのと、自分じぶん炊事すゐじかすことが出來できないのとで晝餐ひるでも晩餐ばんでも他人ひとよりはやかへつてなければならない。

「おれはいっそ、物日なんざないほうがいい。そうでさえなけりゃ、出たいと思わないから」

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らいつそものなんざはうがえゝ、さうでせえなけりやてえたおもはねえから」

おつぎはつくづく呟くことがあった。

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おつぎはつく/″\つぶやくことがあつた。

「どうにかおれだってするから」

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「どうにからだつてつから」

おつぎの呟くのを聞いて、勘次はさすがに心が切なくなる。

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おつぎのつぶやくのをいて勘次かんじ有繋さすがこゝろせつなくなる。

それで言いようがなくては、こうぶすりと言ってしまうのであった。

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それでひやうがくてはうぶすりとつてしまふのであつた。

与吉は四つになった。

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與吉よきちよつつにつた。

いたずらも知って来て、それだけおつぎの手は省かれた。

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惡戯いたづらつててそれだけおつぎのはぶかれた。

それでも与吉の着物は、おつぎの手には始末ができないので、近所の女房へ頼んではどうにかしてもらった。

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それでも與吉よきち衣物きものはおつぎのには始末しまつ出來できないので、近所きんじよ女房にようばうたのんではどうにかしてもらつた。

お品が生きていれば、そんな心配はまだ十六のおつぎがするのではない。

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しなきてればそんな心配しんぱいはまだ十六のおつぎがするのではない。

おつぎはさらに、自分の着物に困った。

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おつぎはさら自分じぶん衣物きものこまつた。

短くなるばかりではなく、ほころびにさえおつぎは当惑するのである。

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みじかくなるばかりではなくほころびにさへおつぎは當惑たうわくするのである。

「お針ができなくちゃ仕方がないなあ」

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「おはり出來できなくつちや仕樣しやうねえなあ」

おつぎはいつでも嘆息するのであった。

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おつぎは何時いつでも嘆息たんそくするのであつた。

「お針にでも何でも、やれる時にはやるから。奉公にでも行ってみろ、いくつになったってろくなことができるもんか。十六くらいじゃ貧乏人はまだ行けないったって、仕方があるもんか。そうお前みたいに、やせ虱がたかったようにしきりなしに言うもんじゃない」

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「おはりにでもなんでもれるときにやつから、奉公ほうこうにでもつてろ、いくつにつたつてろくなこと出來できるもんか、十六ぐれえぢや貧乏人びんばふにんはまあだけねえたつてやうがあるもんか、さうわれてえに痩虱やせじらみたかつたやうにしつきりなしふもんぢやねえ」

「おとっつあんは、そんだって奉公にでも行ってる者には家でこしらえてやるんだろうな」

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「おとつゝあはそんだつて奉公ほうこうにでもつてるものげはうちこせえてやんだんべな」

「そんだって何だって、やれる時でなくちゃやれないから」

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「そんだつてなんだつてれつときでなくつちやれねえから」

十六ではまだ針を持たなくてもいいというのは、それは無理ではない。

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十六ではまだはりたなくつてもいゝといふのはそれは無理むりではない。

しかし勘次の家で、おつぎがいっこうに針を知らないことは不便であった。

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しか勘次かんじいへでおつぎの一かうはりらぬことは不便ふべんであつた。

勘次もそれを知らないのではないが、今のところ自分にはその余裕がないので、おつぎがそう言うたびに彼の心は堪えられず苦しむので、わざと邪険に言ってしまうのであった。

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勘次かんじもそれをらないのではないが、いまところ自分じぶんには餘裕よゆうがないのでおつぎがさういふたびかれこゝろへずくるしむのでわざ邪慳じやけんにいつてしまふのであつた。

その冬になってからも、おつぎは十六だというまにすぐ十七になってしまうと呟いたのであった。

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ふゆになつてからもおつぎは十六だといふうちすぐ十七になつてしまふとつぶやいたのであつた。

「春にでもなったらやれるかも知れないから」

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はるにでもなつたらやれつかもんねえから」

と、勘次はそのたびに言っていた。

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勘次かんじたびにいつてた。

おつぎは、とうてい当てにはならないと心に諦めていたのであった。

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おつぎは到底たうていあてにはならぬとこゝろ斷念あきらめてたのであつた。

それだけおつぎの満足は深かった。

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それだけおつぎの滿足まんぞくふかかつた。

ある晩、どうして記憶をよみがえらせたか、おつぎはふいと言った。

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あるばんどうして記憶きおく復活ふくくわつさせたかおつぎはふいといつた。

「井戸へ落とした櫟の根っこは、はしごを掛けても取れないだろうか」

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井戸ゐどおつことしたくぬぎ梯子はしごけてもれめえか」

「なぜそんなことを言うんだ」

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何故なぜそんなこといふんだ」

勘次は驚いて目を見開いた。

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勘次かんじおどろいてみはつた。

「そんでも惜しいもんだからよ」

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「そんでも可惜あつたらもんだからよ」

「お前が自分ではしごを掛けて入るのか」

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われ自分じぶん梯子はしごけて這入へえんのか」

「おれは怖いからいやだがな」

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可怖おつかねえからだがな」

「そんなこと言うもんじゃない。また引っ張られたらどうする。その時はお前でも行くのか」

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「そんなこといふもんぢやねえ、また拘引つゝてかれたらどうする、そんときわれでもくのか」

勘次はこう言って苦笑した。

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勘次かんじういつて苦笑くせうした。

その晩はそれっきり、二人の間に話はなかった。

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そのばんれつ二人ふたりあひだはなしはなかつた。

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与吉が五つの春になった。

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與吉よきちいつつのはるつた。

ずんずんと育って行く彼の体は、おつぎの手に重さが過ぎている。

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ずん/\と生長せいちやうしてかれ身體からだはおつぎの重量ぢうりやうぎてる。

しがみついていた筍の皮が自然にその幹から離れるように、与吉はだんだんおつぎの手から離れるようになった。

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しがみいてたけのこかは自然しぜんみきからはなれるやうに、與吉よきち段々だん/\おつぎのからのぞかれるやうにつた。

それでも、筍の皮が竹の幹にまつわっては横たわっているように、与吉がおつぎを慕うことに変わりはなかった。

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それでもたけのこかはたけみきまつはつてはよこたはつてるやうに、與吉よきちがおつぎをなつかしがることにかはりはなかつた。

与吉は近所の子供とよく田んぼへ出た。

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與吉よきち近所きんじよ子供こども田圃たんぼた。

暖かい日には、彼はひとえに換えて、袂を後ろでぎっと縛ったり、尻をぐるっとはしょったりしてもらう間も待ち遠しくて跳ねている。

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あたゝかいにはかれ單衣ひとへかへて、たもとうしろでぎつとしばつたりしりをぐるつと端折はしよつたりしてもら待遠まちどほねてる。

「堀のそばへは行くんじゃないぞ。着物を汚すと聞かないぞ」

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ほりそばへはぐんぢやねえぞ、衣物きものよごすとかねえぞ」

おつぎが言うのを耳へも入れないで、小ざるを手にして走って行く。

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おつぎがいふのをみゝへもれないで小笊こざるにしてはしつてく。

田んぼのはんの木は、だらけた花が落ちて、若葉にはまだ少し間があるので、手持ち無沙汰そうに立っている季節である。

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田圃たんぼはんはだらけたはなちて嫩葉わかばにはまだすこひまがあるので手持てもちなささうつて季節きせつである。

田はわずかに湿りを含んで、足の底に暖かみを感じる。

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わづかうるほひをふくんであしそこ暖味あたゝかみかんずる。

耕す人はまだ下り立たない。

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たがやひとはまだたぬ。

白っぽく乾いた刈り株の間には、注意して見ればところどころにきわめて小さな穴がある。

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しろつぽくかわいた刈株かりかぶあひだには注意ちういしてれば處々ところ/″\きはめてちひさなあながある。

子供らは、その穴を探して歩くのである。

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子供等こどもらあなさがしてあるくのである。

彼らは小さな手を粘る土に差し込んでは、両手の力をこめて引っ返す。

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彼等かれらちひさなねばつち揷込さしこんでは兩手りやうてちからめてかへす。

そこにはどじょうがちょろちょろと跳ね返りながら、その身を慌ただしく動かしている。

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其處そこにはどぜうがちよろ/\と跳返はねかへりつゝそのあわたゞしくうごかしてる。

そうすると彼らは、いずれも声を立てて騒ぎながら、その小さな泥だらけの手で捕まえようとしては逃げられながら、ようやくのことでざるへ入れる。

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さうすると彼等かれらいづれこゑてゝさわぎながら、ちひさなどろだらけのとらへようとしてはげられつゝやうやくのことでざるれる。

どじょうは、そのこそばゆいざるの中でしばらくその身を動かしては落ち着く。

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どぜうのこそつぱいざるなかしばらうごかしては落付おちつく。

ほかのどじょうがまた入れられる時、さっきのどじょうがいっしょに騒いでは落ち着く。

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どぜうまたれられるとき先刻さつきどぜうが一つにさわいでは落付おちつく。

彼らはこうして、その小さな穴を求めて田から田へ移って歩く。

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彼等かれらうしてそのちひさなあなもとめてからうつつてあるく。

土地では、それを目掘りと言っている。

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土地とちではそれを目掘めぼりというてる。

与吉には、いくら泥になってもどじょうは捕れなかった。

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與吉よきちにはいくどろになつてもどぜうれなかつた。

仲間の大きな子は、それでも一匹ずつくらいは与吉のざるにも入れてやるのであった。

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仲間なかまおほきなはそれでも一ぴきぐらゐづつ與吉よきちざるにもれてるのであつた。

それで彼は、遅れながらもほかの子供についてゆかずにはいられなかったのである。

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それでかれおくれながらも子供こどもいてあるかずにはられなかつたのである。

堀には、動かない水が空を映してたたえている所がある。

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ほりにはうごかないみづそらうつしてたゝへてところがある。

そうかと思えば、あるいは水は一滴もなくて、泥の上を筋のように流れた砂の跡がちらちらと春の日をわずかに反射している所がある。

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さうかとおもへばあるひみづは一てきもなくてどろうへすぢのやうにながれたすなあとがちら/\とはるわづか反射はんしやしてところがある。

子供らはまばらな枯れ蘆のあたりから下りて、そこにも目掘りを試みる。

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子供等こどもらまばらな枯蘆かれあしほとりからおりて其處そこにも目掘めぼりをこゝろみる。

大きな子供は大事なざるをそっと持って下りる。

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おほきな子供こども大事だいじざるをそつともつておりる。

小さな子供は堀へ下りながら、ざるを傾けてどじょうをこぼすことがある。

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ちひさな子供こどもほりへおりながらざるかたぶけてどぜうこぼすことがある。

大きな子供はそれっと言って、いたずらにそれを捕まえようとする。

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おほきな子供こどもはそれつといつて惡戯いたづらそれとらうとする。

子供らは順々にみな、それにならおうとする。

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子供等こどもら順次じゆんじみなそれにならはうとする。

そうすると小さな子供は、ただ火のついたように泣く。

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さうするとちひさな小供こどもたゞいたやうにく。

それと同時にどじょうが小さな子供のざるに返されて、子供はそのどじょうをのぞくとともに、その泣く声がはたと止まってしまうのである。

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それと同時どうじどぜうちひさな子供こどもざるかへされて子供こどもそのどぜうのぞくとともこゑがはたととまつてしまふのである。

堀の粘ついた泥は、うっかりすると小さな足を吸いつけて放さない。

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ほりねばついたどろはうつかりするとちひさなあしけてはなさない。

そうすると、みんなが逃げるように岸へ上がって、指を出してその先を曲げながら騒ぐ。

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さうするとみんながげるやうにきしあがつてゆびしてさき屈曲くつきよくさせながらさわぐ。

小さな子供はざるを手にしたまま、目には手も当てずに声を放って泣く。

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ちひさな子供こどもざるにしたまゝにはあてずにこゑはなつてく。

与吉はこうしてよく泣かされた。

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與吉よきちうしてかされた。

彼には少しも父兄の力がかぶさっていない。

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かれには寸毫すこし父兄ふけいちからかうぶつてない。

聞き分けのない子供の間にも、家族の力は非常な勢いを示している。

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頑是ぐわんぜない子供こどもあひだにも家族かぞくちから非常ひじやういきほひをしめしてる。

その家族が一般から侮りの目をもって見られているように、子供の間にもまた、小さい与吉は侮られていた。

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その家族かぞくが一ぱんから輕侮けいぶもつられてるやうに、子供こどもあひだにもまたちひさい與吉よきちあなどられてた。

それでも与吉は、帰りには小ざるの底にどじょうがあるので喜んでいた。

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それでも與吉よきちかへりには小笊こざるそこどぜうがあるのでよろこんでた。

泣いたその時はしおれても、彼はすぐに機嫌が直って、そのわずかな獲物のざるを誇っておつぎのそばに来る時は、いつもの甘えた与吉である。

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いた當座たうざしをれてもかれすぐ機嫌きげんて、そのわづか獲物えものざるほこつておつぎのそばとき何時いつものあまえた與吉よきちである。

彼はどこへでもべたりと座るので、尻を丸出しにまくってやっても着物は泥だらけにした。

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かれ何處どこへでもべたりとすわるのでしり丸出まるだしにかかげてやつても衣物きものどろだらけにした。

それで叱られても、泥の乾いたその尻を叩かれても、おつぎにされるのは彼にはちっとも恐ろしくなかった。

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それでしかられてもどろかわいたそのしりたゝかれても、おつぎにされるのはかれにはちつともおそろしくなかつた。

彼は小言は耳へも入れないで、「姉よう、見ろよう」

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かれ小言こごとみゝへもれないで「ねえようろよう」

と小ざるを傾けては、ちょこちょこと跳ねるようにして小刻みに足を動かしながら、おつぎの褒める言葉を促して止まない。

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小笊こざるげてはちよこ/\とねるやうにして小刻こきざみにあしうごかしながらおつぎのめることばうながしてまない。

彼はあまりに喜んで騒いで、ひょっとすると危ない手元でどじょうを庭へ落とすことがある。

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かれあまりによろこんでさわいでひよつとするとあぶなもとでどぜうにはおとことがある。

どじょうは乾いた庭の土にまみれて、苦しそうに動く。

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どぜうかわいたにはつちにまぶれてくるしさうにうごく。

与吉が押さえようとする時、鶏がひょいと来てくちばしでつついて、駆けて行ってしまう。

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與吉よきちおさへようとするときにはとりがひよつとくちばしつゝいてけてつてしまふ。

ほかの鶏がそれを追いかける。

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にはとりがそれをける。

与吉はそうすると、またひとしきり泣くのである。

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與吉よきちはさうするとまたひとしきりくのである。

「お前があんまりうっかりしてるからだわ」

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われあんまりうつかりしてつかんだわ」

おつぎは笑いながら、立っている与吉の頭を抱いて、それから手水だらいへ水を汲んで、どじょうを入れてやる。

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おつぎはわらひながら、つてる與吉よきちあたまいてそれから手水盥てうづだらひみづんでどぜうれてる。

与吉は水へ手を入れては、どじょうの騒ぐのを見てすぐに声を立てて笑う。

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與吉よきちみづれてはどぜうさわぐのをすぐこゑててわらふ。

おつぎはそうしておいて、泥だらけの手足を洗ってやる。

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おつぎはさうしていてどろだらけの手足てあしあらつてやる。

与吉は時々どじょうを持って来た。

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與吉よきち時々とき/″\どぜうつてた。

おつぎは着物が泥になるのを叱りながら、それでも威勢よく田んぼへ出してやった。

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おつぎは衣物きものどろになるのをしかりながらそれでも威勢ゐせいよく田圃たんぼしてやつた。

そのたびに、ほかの子供らの後から

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たびほか子供等こどもらうしろから

「泣かさないで、よきのことも連れて行ってくれよな」

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かさねえでよきこともれでつてくろうな」

というおつぎの声が追いかけるのであった。

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といふおつぎのこゑけるのであつた。

わずかなどじょうは味噌汁へ入れて、箸で骨をしごいて与吉へやった。

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わづかどぜう味噌汁みそしるれてはしほねしごいて與吉よきちへやつた。

自分では骨と頭とをしばらく口へ含んで、それから捨てた。

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自分じぶんではほねあたまとをしばらくちふくんでそれからてた。

田がそろそろと耕されるようになった。

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がそろ/\とたがやされるやうになつた。

子供らはまた、一つ一つの塊に耕された田を渡って、その塊の上を滑りながら越えながら、きわめて小さいくわいのような、ゑぐの根を取った。

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子供等こどもらまたひとつ/\のかたまりたがやされたわたつて、そのかたまりうへすべりながらえながら、きはめてちひさい慈姑くわゐのやうなゑぐのをとつた。

それは土地では訛って、ゑごと呼ばれている。

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それは土地とちではなまつてゑごとばれてる。

そこらの田にはゑぐが多いので、秋のころになると、茂った稲の陰に小さな白い花が咲く。

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そこらのにはゑぐがおほいのであきころるとしげつたいねかげちひさなしろはなく。

与吉もほかの子供のするように、小ざるを持って出た。

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與吉よきち子供こどものするやうに小笊こざるもつた。

どじょうとは違って、これは彼の手にもわずかずつは採ることができた。

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どぜうとはちがつてれはかれにもわづかづゝはることが出來できた。

少しずつ採っては、毎日のように蓄えた。

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すこしづゝとつては毎日まいにちのやうにたくはへた。

おつぎは茶を沸かすたびに、それを灰の中へ投げ込んで焼いてやる。

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おつぎはちやわかたびにそれをはひなかんでいてやる。

火をいじることが危ないので、与吉は独りでかまどへ手をつけることは禁じられている。

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いぢることがあぶないので與吉よきちひとりでかまどをつけることはきんぜられてる。

灰の中へ入れたばかりで、与吉は

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はひなかれたばかりで與吉よきち

「ようよう」

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「よう/\」

と言っておつぎに迫る。

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といつておつぎにせまる。

与吉は焼ける間がじれったいのである。

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與吉よきちけるあひだ遲緩もどかしいのである。

「そんなに焼けないだろうな。そんじゃ姉は構わないぞ」

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「そんなにけめえな、そんぢやねえかまあねえぞ」

と、おつぎはゑぐをかき出してやる。

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とおつぎはゑぐをしてる。

与吉は口へ入れても、まだがりがりで、かつ苦いので吐き出してしまう。

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與吉よきちくちれてもまだがり/\でかつにがいのでしてしまふ。

「そうら見ろ、大きな格好をして言うことを聞かないから」

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「そうらろ、けえ姿なりしていふことかねえから」

おつぎは怒ったような様子をして見せる。

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おつぎはおこつたやうな容子ようすをしてせる。

「姉よ、よう」

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ねえよ、よう」

と、与吉はまたねだる。

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與吉よきちまた強請せがむ。

その時はもう、皮に皺が寄って焼けたゑぐが与吉の手に載せられる。

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ときはもうかはしわつてけたゑぐが與吉よきちせられる。

「お前、熱いぞ」

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われあつえぞ」

とおつぎが言えば、与吉は手を引いて、ゑぐは土間へ落ちる。

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とおつぎがいへば與吉よきちいてゑぐは土間どまちる。

それをまた手に載せてやると、与吉はおつぎがするようにふうふうと灰を吹く。

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それをまたせてやると與吉よきちはおつぎがするやうにふう/\とはひく。

与吉はもっともっととおつぎにせがんで、勘次に怒鳴られてはやめるのである。

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與吉よきちあとあともとおつぎにせがんで、勘次かんじ呶鳴どなられてはめるのである。

蓄えられたゑぐが小ざるに一杯になった時、おつぎは小ざるを手に持って

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たくはへられたゑぐが小笊こざるに一ぱいつたときおつぎは小笊こざるつて

「よきにこれを煮てやろうか。砂糖でも入れたらうまいだろうな」

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「よきげこれてやつぺか、砂糖さたうでもせえたら佳味うまかつぺな」

と、独り言のように言った。

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獨語ひとりごとのやうにいつた。

「煮てくれようよう」

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てくろうよう」

与吉はそれを聞いてまたせがんで、おつぎへ飛びついて、かぶっている手拭いを引っ張った。

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與吉よきちはそれをいてまたせがんでおつぎへびついて、かぶつて手拭てぬぐひつた。

おつぎは

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おつぎは

「ああ痛いまあ」

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「おゝいてえまあ」

と顔をしかめて、引かれるままに首を傾けて言った。

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かほしかめてかれるまゝくびかたぶけていつた。

乱れた髪の三筋四筋が、手拭いとともに強く引かれたのである。

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みだれたかみ三筋みすぢ四筋よすぢ手拭てぬぐひともつよかれたのである。

「そんなものは塩ででもゆでてやれ」

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其麽そんなものしほでゞもゆでてやれ」

勘次はにわかに怒鳴った。

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勘次かんじにはか呶鳴どなつた。

「砂糖だなんて、黙ってれば知らないでいるもの。泣かれたらどうするんだ。砂糖だの醤油だのって、そんなことしたっくらい、なんぼ損だか知れやしない。おとっつあんらはそんな銭なんざ一銭だって持ってないから、塩だって容易なもんじゃないや。そんな余計なものは何になるもんじゃない」

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砂糖さたうだなんて、だまつてればらねえでるもの、かれたらどうすんだ、砂糖さたうだの醤油しやうゆだのつてそんなことしたつくれえなんぼそんだかれやしねえ、おとつゝあそんなぜねなんざ一錢ひやくだつてつてねえから、しほだつて容易よういなもんぢやねえや、そんな餘計よけいなものなんになるもんぢやねえ」

勘次は繰り返して叱った。

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勘次かんじ反覆くりかへしてしかつた。

与吉はおつぎの陰へ回って抱きついた。

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與吉よきちはおつぎのかげまはつてきついた。

「どうしたもんだろうなまあ。じきに怒るんだから」

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「どうしたもんだんべまあ、ぢつきおこんだから」

おつぎは小言を聞いて呟いた。

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おつぎは小言こごといてつぶやいた。

「そんだって、おとっつあんらはそんなところじゃないから」

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「そんだつて、おとつゝあそんなとこぢやねえから」

勘次はがっかり声を落として言った。

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勘次かんじはがつかりこゑおとしていつた。

そうして黙り込んだ。

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さうして沈默ちんもくした。

おつぎも、お品が死んでから苦しい生活の間に二度春を迎えた。

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おつぎもおしなんでからくるしい生活せいくわつあひだに二たびはるむかへた。

おつぎは余儀なくされながら、生活の圧迫に対する抵抗力を早めた。

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おつぎは餘儀よぎなくされつゝ生活せいくわつ壓迫あつぱくたいする抵抗力ていかうりよく促進そくしんした。

よその女の子のようなのどかな春は知られないで、おつぎは体の上にも著しい変化を遂げた。

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餘所よそをんなのやうに長閑のどかはるられないでおつぎは生理上せいりじやうにもいちじるしい變化へんくわげた。

お品が死んだ時、おつぎはまだ落ち葉をくべるとては、竹の火箸の先をすぐに燃やしてしまうほど下手な子であった。

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しなんだときはおつぎはまだ落葉おちばべるとてはたけ火箸ひばしさきぐにやしてしまほど下手へたであつた。

それが横にも縦にも大きくなって、肌もつやつやと見えて、髪も長くなった。

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それがよこにもたてにもおほきくなつて、肌膚はだもつやゝかにえてかみながくなつた。

おつぎの家の後ろの、崖のようになった所からは、村の者がよく黄色な粘土を採った。

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おつぎのいへうしろがけのやうにつたところからはむらのものが黄色きいろ粘土ねんどつた。

髪が粘るようになると、おつぎはその粘土をこすりつけて、肌脱ぎになったまま黄色く染まった頭を井戸のそばで洗うのである。

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かみねばるやうになるとおつぎは粘土ねんどをこすりつけて、はだぬぎになつたまゝ黄色きいろまつたあたま井戸ゐどそばあらふのである。

そうして、そのふっさりとした髪は、二度梳く所は三度梳くようになった。

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さうしてのふつさりとしたかみは二ところは三くやうにつた。

おつぎはまた、髪へつける胡麻の油を元結で縛った小さな瓶へ入れて、大事にしまっておくのである。

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おつぎはまたかみへつける胡麻ごまあぶら元結もとゆひしばつたちひさなびんれて大事だいじしまつてくのである。

短い期間ではあるが、針を持つようになってからは赤いたすきもくけた。

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みじか期間きかんではあるがはりつやうになつてからはあかたすきけた。

半纏も洗濯した。

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半纏はんてん洗濯せんたくした。

どうにか自分の手で仕上げた、身丈に足りる着物を着て、おつぎはにわかに大人びたようになった。

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どうにか自分じぶん仕上しあげた身丈みたけりる衣物きものておつぎはにはか大人おとなびたやうにつた。

田や畑に出る時には、まだ糊の抜けない半纏へ赤いたすきを肩から掛けて、勘次の後についてゆく。

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はたけときにはまだのりのぬけない半纏はんてんあかたすきかたからけて勘次かんじうしろいてく。

おつぎは仕事にかかる時には、その半纏は取って木の枝へ掛ける。

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おつぎは仕事しごとにかゝるときには半纏はんてんはとつてえだける。

おつぎの姿は、ようやく村の注目に値した。

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おつぎの姿すがたやうやむら注目ちうもくあたひした。

春の野を飾って黄色な布を覆ったような菜の花も、春らしい雨がちらちらと降って、霜に焼けたような葉がめっきりと青みを加えて来たころは、その開いた葉の中心にはほんのわずかな突起を見いだす。

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はるかざつて黄色きいろぬのおほうたやうなはなも、はるらしいあめがちら/\とつてしもけたやうな滅切めつきりあをみをくはへてころそのひらいた心部しんぶにはたゞわづか突起とつき見出みいだす。

しかしそこには、つぼみがはっきりと形をなしているのである。

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しかしそこにはつぼみあきらかにかたちしてるのである。

空からは暖かい日光が招いて、土からは長い手がずんずんと差し上げてはさらに長く差し上げるので、その派手な花が麦や小麦の穂にも埋もれることなく、広い野を占めるのである。

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そらからはあたゝかい日光につくわうまねいてつちからはなががずん/\とさしげてはさらながくさしげるので派手はではなむぎ小麥こむぎにも沒却ぼつきやくされることなくひろめるのである。

おつぎも、その中心に見えるつぼみであった。

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おつぎも心部しんぶえるつぼみであつた。

しかしそのつぼみは、差し上げられないのみでなく、押さえる手の強い力が加えられてある。

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しかそのつぼみはさしげられないのみではなくおさへるつよちからくはへられてある。

勘次は少しの間もおつぎを自分のそばから放すまいとしている。

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勘次かんじ寸時すんじもおつぎを自分じぶんそばからはなすまいとしてる。

したがって、空の日光が招くように女の心を促すはずの村の青年との間には、おつぎは何の関係も結ばれなかった。

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したがつてそら日光につくわうまねくやうにをんなこゝろうながすべきむら青年せいねんとのあひだにはおつぎはなん關係くわんけいつながれなかつた。

おつぎが十七という年齢を聞いて、いずれも今さらのようにその注意を引き起こしたのである。

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おつぎが十七といふ年齡としいていづれも今更いまさらのやうに注意ちうい惹起ひきおこしたのである。

冬の季節に埃を巻いて来る西風は、まずどこよりもおつぎの家の雨戸を、今日も来たぞと叩く。

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ふゆ季節きせつほこりいて西風にしかぜ何處どこよりもおつぎのいへ雨戸あまど今日けふたぞとたゝく。

それは村の西の端にあるからである。

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それはむら西端せいたんるからである。

位置がそういう追いやられたような形になっている上に、生活の状態から自然に、ある程度までは注意の目から逸れて、日陰にいるのと等しいものがあったのである。

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位置ゐちがさういふひやられたやうなかたちつてうへに、生活せいくわつ状態じやうたいから自然しぜんある程度ていどまでは注意ちういかられて日陰ひかげるとひとしいものがあつたのである。

勘次の監督の手は、つぼみの成長を止める冷ややかな空気で、そうしてこれをうかがう者を防ぎ止める堅固な垣である。

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勘次かんじ監督かんとくつぼみ成長せいちやうとゞめるひやゝかな空氣くうきで、さうしてこれねらふものを防遏ばうあつする堅固けんご牆壁しやうへきである。

しかし春の季節を地上の草木が知った時、どれほど白く霜が結んでも草木の活力は動いて止まないように、おつぎの心は外から加える監督の手をもって奪い去ることはできない。

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しかはる季節きせつ地上ちじやう草木さうもくつた時、どれほどしろしもむすんでも草木さうもく活力くわつりよくうごいてまぬごとく、おつぎのこゝろ外部ぐわいぶからくはへる監督かんとくもつうばることは出來できない。

おつぎは勘次の後についてゆき、畑へ行き来する途中で、紺の仕事着に身を固めた村の青年に会う時には、さすがに心は引かされた。

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おつぎは勘次かんじあといてはたけ往來わうらいする途上とじやうこん仕事衣しごとぎかためたむら青年せいねんときには有繋さすがこゝろかされた。

肩にした鍬の柄へ、おつぎは両手を掛けている。

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かたにしたくはへおつぎは兩手りやうてけてる。

その握った手に頬をもたせるようにして、おつぎはいくらか首を傾けながら、手拭いの下から黒い瞳で青年を見るのであった。

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そのにぎつたほゝたせるやうにして、おつぎはいくらかくびかたむけつゝ手拭てぬぐひしたからくろひとみ青年せいねんるのであつた。

勘次は、後からついて来るおつぎの様子まで知ることはできなかった。

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勘次かんじあとからいてるおつぎの態度たいどまでることは出來できなかつた。

おつぎは幾度もそうして村の青年を見た。

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おつぎは數次しば/\さうしてむら青年せいねんた。

しかし一言も交わす機会を持たなかった。

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しかし一交換かうくわんする機會きくわいたなかつた。

おつぎはどうということもなく、むしろほとんど無意識に行き交う青年を見るのであったが、手拭いの下に光る暖かい二つの瞳には情がこもっていることが、青年らの目にも微妙に感じ取られた。

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おつぎはどうといふこともなくむしほとん無意識むいしき青年せいねんるのであつたが、手拭てぬぐひしたひかあたゝかいふたつのひとみにはじやうふくんでることが青年等せいねんらにも微妙びめう感應かんおうした。

こうして、おつぎもいつか口の端に上ったのである。

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うしておつぎもいつかくちのばつたのである。

それでも、とうてい青年がおつぎと接するのは、勘次の監督の下に白昼往来で一目見て行き違う、その瞬間に限られていた。

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それでも到底たうてい青年せいねんがおつぎとあひせつするのは勘次かんじ監督かんとくもと白晝はくちう往來わうらいで一べつしてちがその瞬間しゆんかんかぎられてた。

それゆえ、一般の娘のようではなく、おつぎの心にも男に対する恐れの幕を無理に引き払われる機会が、かつて一度も与えられなかった。

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それゆゑぱん子女しぢよのやうではなくおつぎのこゝろにもをとこたいする恐怖きようふまく無理むり引拂ひきはらはれる機會きくわいかつ一度ひとたびあたへられなかつた。

おつぎは往来を行くとては、手拭いのかぶりようにも心を配るただの女である。

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おつぎは往來わうらいくとては手拭てぬぐひかぶりやうにもこゝろくばたゞをんなである。

それが家に帰れば、すぐに苦しい所帯の人にならねばならない。

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それがいへかへればたゞちくるしい所帶しよたいひとらねばならぬ。

そこにおつぎの心は、別人のように異常に引き締められるのであった。

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そこにおつぎのこゝろ別人べつにんごと異常いじやうめられるのであつた。

また爽やかな初夏が来て、百姓は忙しくなった。

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またさわやかな初夏しよか百姓ひやくしやうせはしくなつた。

おつぎは、死んだお品が地機に掛けたのだという弁慶縞のひとえを着て出るようになった。

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おつぎはんだおしな地機ぢばたけたのだといふ辨慶縞べんけいじま單衣ひとへるやうにつた。

針を持つようになった時、おつぎはこれも自分の手で仕上げたのであった。

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はりつやうにつたときおつぎはこれ自分じぶん仕上しあげたのであつた。

それはそばで見ていては危なそうな手元で、幾度か針の運びようを間違えてほどいたこともあったが、ついには体にしっくり合うようになっていた。

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それそばてはあぶさうもとで幾度いくたびはりはこびやうを間違まちがつていたこともあつたが、しまひには身體からだにしつくりふやうにつてた。

死んだお品は、おつぎが生まれたばかりですぐにかまどを別にして、みすぼらしい暮らしをしたので、当時は晴れ着であったそのひとえに身を包んでみる機会もなく、空しくしまったままになっていたのである。

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んだおしなはおつぎがうまれたばかりにすぐかまどべつにして、不見目みじめ生計くらしをしたので當時たうじはれ衣物きものであつた單衣ひとへつゝんで機會きくわいもなくむなしくしまつたまゝになつてたのである。

それに、そのころは紺が七日からもたたなければ沸かないような藍瓶で染められたので、今のふつうの反物のように、水で落ちないかと思えば日に褪せるというのではなく、勘次が言ったように洗濯してもかえって冴えるようなので、それに生地もしっかりと丈夫なものであった。

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それにころこん七日なぬかからもたねばわかないやうな藍瓶あゐがめそめられたので、いま普通ふつう反物たんもののやうなみづちないかとおもへばめるといふのではなく、勘次かんじがいつたやうに洗濯せんたくしてもかへつえるやうなので、それに地質ぢしつもしつかりと丈夫ぢやうぶなものであつた。

おつぎが洗いざらしの袷を捨てて、弁慶縞のひとえで出るようになってからは、ひときわ人の注目を引いた。

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おつぎがあらざらしのあはせてゝ辨慶縞べんけいじま單衣ひとへるやうにつてからは一際ひときはひと注目ちうもくいた。

例の赤いたすきが後ろで交差して、袖を短くしごき上げる。

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れいあかたすきうしろ交叉かうさしてそでみじかこきあげる。

そのしごき上げられた肩は、着物の皺で少し張って、体をしっかりとさせて見せる。

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そのきあげられたかた衣物きものしわすこつて身體からだ確乎しつかとさせてせる。

現れた腕には、紺の手甲が着けられてある。

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あらはれたうでにはこん手刺てさし穿うがたれてある。

ようやく暑い日をいとって、おつぎは白い菅笠をかぶった。

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やうやあついとうておつぎはしろ菅笠すげがさいたゞいた。

白い菅笠は雨にさらされればそれで破れてしまうので、夏のはじめには必ずどこでも新しいのに換えられるのである。

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しろ菅笠すげがさあめさらされゝばそれでやぶれてしまふので、なつのはじめには屹度きつと何處どこでもあたらしいのにかへられるのである。

おつぎは勘次に引かれて、麦のうね間を耕した。

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おつぎは勘次かんじかれてむぎ畦間うねまたがやした。

鍬を入れるのが手遅れになった麦は、穂が白く出ている。

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くはれるのが手後ておくれになつたむぎしろる。

時々立って、鍬についた土を足の底でしごき下ろすおつぎの姿が、さやさやとかすかな音を立てて動く白い穂の上に見える。

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時々とき/″\つてくはいたつちあしそこきおろすおつぎの姿すがたがさや/\とかすかなひゞきてゝうごしろうへえる。

よそをちょっと見るたびに、大きな菅笠がぐるりと動く。

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餘所よそ一寸ちよつとたびおほきな菅笠すげがさがぐるりとうごく。

菅笠は日を避けるのみではなく、女のためには風情ある飾りである。

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菅笠すげがさけるのみではなくをんなためには風情ふぜいあるかざりである。

髪には白い手拭いをかぶって、笠の竹骨がその髪を押さえる時に、そこには小さな比較的厚い布団が置かれてある。

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かみにはしろ手拭てぬぐひかぶつてかさ竹骨たけぼねかみおさへるとき其處そこにはちひさな比較的ひかくてきあつ蒲團ふとんかれてある。

そういう間隔を保って、菅笠は前かがみに高く据えられるのである。

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さういふ間隔かんかくたもつて菅笠すげがさ前屈まへかゞみにたかゑられるのである。

女らはみな、わずかな休憩時間にも汗を拭うには笠を取って地上に置く。

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女等をんならみな少時しばし休憩時間きうけいじかんにもあせぬぐふにはかさをとつて地上ちじやうく。

一つには紐の汚れるのをいとって、必ず逆さにして裏を見せるのである。

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ひとつにはひもよごれるのをいとうて屹度きつとさかさにしてうらせるのである。

そうして、厚い笠布団の赤い切れが丸く、白い笠の中央に黒いくけ紐と調和を保つのである。

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さうしてあつ笠蒲團かさぶとんあかきれまるしろかさ中央まんなかくろ絎紐くけひも調和てうわたもつのである。

おつぎの笠布団は、赤や黄や青の小さな切れを集めて縫ったのであった。

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おつぎの笠蒲團かさぶとんあかあをちひさなきれあつめてつたのであつた。

しかし、おつぎの帯だけは古かった。

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しかしおつぎのおびだけはふるかつた。

よその女の子はたいてい、きれいな赤い帯を締めて、ぐるりとまくり上げた着物の裾は帯の結び目の下へ入れて、ひたすら後ろ姿を気にするのである。

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餘所よそをんな大抵たいてい綺麗きれいあかおびめて、ぐるりとからげた衣物きものすそおびむすしたれて只管ひたすら後姿うしろすがたにするのである。

いっぱいに青く茂った桑畑などに、白い大きな菅笠と赤い帯との後ろ姿が、ことには空から投げる強い日光に反射して、その赤い帯が燃えるように見えたり、菅笠がさらに大きく白く光ったりする時には、さすがに人の目を引かねばならない。

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一杯いつぱいあをしげつた桑畑くはばたけなどしろおほきな菅笠すげがさあかおびとの後姿うしろすがたが、ことにはそらからげるつよ日光につくわう反映はんえいしてあかおびえるやうにえたり、菅笠すげがささらおほきくしろひかつたりするときには有繋さすがひとかねばならぬ。

彼女らの姿はこうして遠く隔てて見るべきものであるが、しかしながらその近づいた時でも、跳ね上げられた笠の後ろには、両頬へ垂れて、そうしてその黒いくけ紐で締められた手拭いの隙間から少し乱れた髪がのぞいていて、そこにも一種の風情が見いだされねばならない。

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彼等かれら姿すがたくしてとほへだてゝるべきものであるがしかしながらちかづいたときでも、ねあげられたかさうしろには兩頬りやうほほれてさうしてくろ絎紐くけひもめられた手拭てぬぐひ隙間すきまからすこみだれたかみのぞいて其處そこにも一しゆ風情ふぜい發見はつけんされねばならぬ。

雨を含んだ雲が時々遮るとはいえ、暑い日のもとに黄色く熟した麦が刈られた時、畑はからりとなって、境木に植えられてある卯木のびっしりとついた白い花が、そこにもここにも目に立って、にわかに広々としたことを感じるとともに、遮るものがなくなるだけ、目に入る女の姿が増えるのである。

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あめふくんだくも時々とき/″\さへぎるとはいへ、あつのもとに黄熟くわうじゆくしたむぎられたときはたけはからりとつて境木さかひぎうゑられてある卯木うつぎのびつしりといたしろはな其處そこにも此處こゝにもつて、にはか濶々ひろ/″\としたことをかんずるとともさゝへるものがくなるだけをんな姿すがたえるのである。

彼女らはわずかな休憩にも、必ず刈り倒した麦を尻に敷いて、その白い卯木の下に少しでも日を避ける。

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彼等かれら少時しばし休憩きうけいにもかならたふしたむぎしりいてしろ卯木うつぎしたわづかでもける。

とうてい彼女らの白い菅笠と赤い帯とは、広い野を飾る大輪の花でなければならない。

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到底たうてい彼等かれらしろ菅笠すげがさあかおびとはひろかざ大輪たいりんはなでなければならぬ。

その一つの要件が、おつぎには欠けていた。

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ひとつの要件えうけんがおつぎにはけてた。

暑い気候は百姓のすべてを、その狭苦しい住まいから遠く野に誘って、互いにその青春のつやつやした面影に憧れさせるのに、そうして刺の生えた野茨さえ白い衣を飾って、快くひたひたと抱き合っては互いにうなずきながら尽きない思いをささやいているのに、おつぎはかつて青年との間に一言を交わすことさえ、その権利を押さえられていた。

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あつ氣候きこう百姓ひやくしやうすべてをその狹苦せまくるし住居すまゐからとほさそうて、相互さうごその青春せいしゆんのつやゝかなおもかげ憧憬あこがれしめるのに、さうしてとげえた野茨のばらさへしろころもかざつてこゝろよいひた/\とあふてはたがひ首肯うなづきながらきないおもひ私語さゝやいてるのに、おつぎはかつ青年せいねんとのあひだに一まじへることさへその權能けんのうおさへられてた。

いずれにしても、おつぎの心にはさすがにかすかな不足を感じるのであった。

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いづれにしてもおつぎのこゝろには有繋さすがかすかな不足ふそくかんずるのであつた。

勘次は洗いざらしの襦袢をふんどし一つの裸へ引っ掛けて、船頭がかぶるような藺草の編み笠へ麻の紐をつけている。

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勘次かんじあらざらしの襦袢じゆばんふんどし一つのはだかかけて、船頭せんどうかぶるやうな藺草ゐぐさ編笠あみがさあさひもけてる。

勘次に導かれて、おつぎは仕事が著しく上手になった。

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勘次かんじみちびかれておつぎは仕事しごといちじるしく上手じやうずになつた。

おつぎが畑へ行き来する時は、村の女房らはよく言った。

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おつぎがはたけ往來わうらいするときむら女房等にようばうらくいつた。

「何とまあ、おっかさんに似て来たことかな。歩きつきまでそっくりだ」

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なんちう、おつかさまにたこつたかな、あるきつきまでそつくりだ」

「そばかすがぽちぽちしてる所までなあ」

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雀斑そばかすがぽち/\してつとこまでなあ」

お品には、目と鼻のあたりにそばかすが少しあったのである。

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しなにははなのあたりに雀斑そばかすすこしあつたのである。

おつぎにもそれがそのままで、にっこりする時にはそれがかえって色気をつくらせた。

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おつぎにもれがそのまゝ嫣然にこりとするときにはそれがかへつしなをつくらせた。

「勘次さん、わけのないもんだな。まだこの間だと思ってたのにな。嫁にやってもいいくらいじゃないかい。お品さんもお前、これくらいの時じゃなかったっけかい」

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勘次かんじさんわけのねえもんだな、まあだ此間こねえだだとおもつてたのにな、よめにやつてもえゝくれえぢやねえけえ、おしなさんもおめえこのくれえときぢやなかつたつけかよ」

女房らはまた、からかい半分にこういうことも言った。

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女房等にようばうらまた揶揄半分からかひはんぶんういふこともいつた。

おつぎは、勘次がそう言われる時いつも赤い顔をして、よそを向いてしまうのである。

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おつぎは勘次かんじがさういはれるとき何時いつあかかほをして餘所よそいてしまふのである。

勘次はお品のことを言われるたびに、おつぎの体をそう思ってはつくづくと見るたびに、お品の記憶が呼び返されて、一種の堪えがたい刺激を感じざるを得ない。

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勘次かんじはおしなのことをいはれるたびに、おつぎの身體からだをさうおもつては熟々つく/″\たびに、おしな記憶きおく喚返よびかへされて一しゆがた刺戟しげきかんぜざるをない。

それと同時に、女房がほしいという切ない思いを湧かすのである。

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それと同時どうじ女房にようばうしいといふせつない念慮ねんりよかすのである。

遠慮のない女房らにお品の話をされるのは、いたずらに哀愁を催すに過ぎないのであるが、また一方には話をしてみてもらいたいような心持ちもしてならないことがあった。

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遠慮ゑんりよ女房等にようばうらにおしなはなしをされるのはいたづらに哀愁あいしうもよほすにぎないのであるが、またぼうにははなしをしてもらひたいやうな心持こゝろもちもしてならぬことがあつた。

「勘次さん、どうしたい、いい塩梅のがあるんだが、後を持ってもよくないかい」

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勘次かんじさんどうしたい、えゝ鹽梅あんべえのがんだがあとつてもよかねえかえ」

と、彼に女房を世話しようという者は、お品が死んでから間もなくいくらもあった。

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かれ女房にようばう周旋しうせんしようといふものはおしなんでからもなくいくらもあつた。

勘次はただお品にのみ焦がれていたのであるが、だんだん日数がたって不自由を感じるとともに、耳をそばだててそういう話を聞くようになった。

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勘次かんじたゞしなにのみこがれてたのであるが、段々だん/\日數ひかずつて不自由ふじいうかんずるとともみゝそばだてゝさういふはなしくやうにつた。

しかし、そんな話をして聞かせる人々は、勘次のひどい貧乏なのと、二人の子があるのとで、とうてい後妻は居つけないという見越しが先に立って、心底から世話をしようというのではない。

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しか其麽そんなはなしをしてかせる人々ひと/″\勘次かんじひど貧乏びんばふなのと、二人ふたりるのとで到底たうてい後妻ごさいつかれないといふ見越みこしさきつて、心底しんそこから周旋しうせんようといふのではない。

ただ暇を惜しがる勘次が、どこへでも鍬や鎌を捨てて釣り込まれるので、つい、いたずらにじらしてみるのである。

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たゞひましがる勘次かんじ何處どこへでもくはかまてゝ釣込つりこまれるのでつひ惡戯いたづらにじらしてるのである。

ことに、おつぎが大きくなればなるほど、その働きが目に立てば立つほど、後妻には居づらい所だと人は思った。

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ことにおつぎがおほきくなればなるほどはたらきがてばほど後妻ごさいには居憎ゐにくところだとひとおもつた。

貧乏所帯へ後妻にでもなろうという者には、実際ろくな者はないというのが一般の断定であった。

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貧乏世帶びんばふじよたい後妻ごさいにでもならうといふものには實際じつさいろくものいといふのが一ぱん斷案だんあんであつた。

他人はただ彼の心をいらだたせた。

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他人ひとたゞかれこゝろ苛立いらだたせた。

そうして彼の並外れた態度が、かえっていたずら好きの心を挑発するのみであった。

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さうしてかれ尋常外なみはずれた態度たいどが、かへつ惡戯好いたづらずきのこゝろ挑發てうはつするのみであつた。

「ままよう、ままようでえ、ままあな、ら、ぬう」

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「まゝよう、まゝようでえ、まゝあな、ら、ぬう」

勘次が小声で唄って行くのが、どうかすると人の耳にも響くようになった。

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勘次かんじ小聲こごゑうたうてくのがどうかするとひとみゝにもひゞくやうにつた。

そのころは勘次の庭の栗のこずえも、それに繁殖して残酷に葉を食い荒らす栗毛虫のような毒々しい花がようやく白くなって、どこの村にもふっさりとした青葉のこずえから、栗の木が比較的に多いことを示して、その白い花が目についた。

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ころ勘次かんじにはくりこずゑも、それへ繁殖はんしよくして残酷ざんこくあら栗毛蟲くりけむしのやうな毒々どく/\しいはなやうやしろつて、何處どこ村落むらにもふつさりとした青葉あをばこずゑからくり比較的ひかくてきおほいことをしめしてしろはなについた。

村を埋めているこずえから、ふわふわと湯気が立ち上ろうという形に、栗の花はいっぱいである。

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村落むらうづめてこずゑからふわ/\と蒸氣ゆげあがらうといふかたちくりはなは一ぱいである。

空は降らないながらに低い雲がわだかまって、時々、目に鮮やかで、かつ黒ずんだ青葉の上に、かっと黄色い明るい光を投げる。

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そららないながらにひくくもわだかまつて、時々とき/″\あざやかでかつくろずんだ青葉あをばうへにかつと黄色きいろあかるいひかりげる。

どこということなく湿っぽく、頭を押さえるように重苦しい感じがする。

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何處どことなくしめつぽくあたまおさへるやうに重苦おもくるしいかんじがする。

ことごとく畑へ走った村の中には、まれにそういう青葉の間に鯉のぼりがばさばさとひるがえってはぐたりとなって、それが朝から長い日を一日、そうしてその家族が、日は沈んだにしてもいつになくまだ明るいうちに湯を浴びて、女までが裂いた菖蒲を髪に巻いて、忙しい日と日の間をそれでも晴れ着の姿になる、端午の日の来るのをけだるげに待っている。

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こと/″\はたはしつた村落むらうちにはまれにさういふ青葉あをばあひだ鯉幟こひのぼりがばさ/\とひるがへつてはぐたりとつて、それがあさからながを一にち、さうして家族かぞくぼつしたにしても何時いつになくまだあかるいうちゆあみをしてをんなまでがいた菖蒲しやうぶかみいて、せはしいあひだをそれでも晴衣はれぎ姿すがたになる端午たんごるのをものうげにつてる。

そういう青葉の村から村を、女の飴屋が太鼓を叩いて歩いた。

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さういふ青葉あをば村落むらから村落むらをんな飴屋あめや太皷たいこたゝいてあるいた。

空き家ばかりの村を、雨が降らなければ女は端から端へと唄って歩く。

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明屋あきやばかりの村落むらあめらねばをんなはしからはしうたうてあるく。

勘次が唄ったのは、その女の唄である。

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勘次かんじうたうたのはをんなうたである。

女は声を高く唄っては、また声を低くしてその句を繰り返す。

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をんなこゑたかうたうてはまたこゑひくくして反覆はんぷくする。

その唄う所は、毎日ただこの一句に限られていた。

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うたところ毎日まいにちたゞの一かぎられてた。

女は年増で、一人の子を背負っている。

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をんな年増としま一人ひとりうてる。

鬼怒川を行き来する高瀬舟の船頭がかぶる編み笠をかぶって、洗いざらしのひとえを、裾は左の小褄を取って帯へ挟んだだけで、飴は箱へ入れて肩から掛けてある。

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鬼怒川きぬがは徃復わうふくする高瀬船たかせぶね船頭せんどうかぶ編笠あみがさいたゞいて、あらざらしの單衣ひとへすそひだり小褄こづまをとつておびはさんだだけで、あめはこれてかたからけてある。

暗い日は、笠の編み目を透して女の顔に細い強い線を描く。

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あつかさ編目あみめとほしてをんなかほほそつよせんゑがく。

女の顔はやつれていた。

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をんなかほやつれてた。

子はおおかた眠っていた。

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おほむねむつてた。

耳元で鳴る太鼓のやかましい音と、おふくろの唄う声とが、いつとはなしに誘ったのであったかもしれない。

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みゝもとで太皷たいこやかましいおととおふくろうたこゑとがいつとはなしにさそつたのであつたかもれぬ。

首はむしろ逆さに垂れて、額がいつでも暑い日に照らされて汗ばんでいた。

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くびむしさかさまれてひたひがいつでもあつられてあせばんでた。

百姓はみな、このみすぼらしい女を顧みなかった。

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百姓ひやくしやうみな見窄みすぼらしいをんなかへりみなかつた。

村から村へ野を渡る時、女の姿は人目を引くべき要点が一つも備わっていなかった。

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村落むらから村落むらわたときをんな姿すがた人目ひとめくべき要點えうてんが一つもそなはつてなかつた。

しかしいつの間にか、人が遠くから見るようになった。

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しかしいつのにかひととほくよりるやうにつた。

行き違う女房らは、額に照らされて眠っている子を見て、痛々しいと思うのであった。

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ちが女房等にようばうらひたひられてねむつて痛々敷いた/\しいおもふのであつた。

女は唄わなくても太鼓の音が村の子を遠くから誘うのに、気の乗らない唄いようをして、ただその一句を繰り返すのである。

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をんなうたはなくても太皷たいこ村落むらとほくからさそふのにらぬうたひやうをしてたゞの一反覆くりかへすのである。

女は背中の子が眠っているのを喜んで、その子がどんな格好であるかは気づかない。

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をんな背中せなかねむつてるのをよろこんで什麽どんな姿なりであるかは心付こゝろづかない。

ただ小さな銅貨を持って走って来る村の子を待ちながら、誘いながら歩くのである。

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たゞちひさな銅貨どうくわつてはしつて村落むらちつゝさそひつゝあるくのである。

女がどこから出てどう行くのかということも、忙しくただ田畑で働いている百姓の間には知られなかった。

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をんな何處どこからてどうくといふこともせはしくたゞ田畑たはた勞働らうどうして百姓ひやくしやうあひだにはられなかつた。

毎日そうして歩いていた女が、知りたがり聞きたがる女房らの間で、めいめいに口やかましい陰の噂をたくましくされると間もなく、ある日村外れの青葉の中へ太鼓の音と唄の声とが遠くかすかに消え去ったきり、やがて梅雨がおびただしく、かつ毒々しいその栗の花の腐るまではと降り出したので、その女の汚らしいやつれた姿は再び見られなかった。

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毎日まいにちさうしてあるいてをんなりたがりきたがる女房等にようばうらあひだに、各自てんで口喧くちやかましい陰占かげうらなひたくましくされるともなく、ある村外むらはずれの青葉あをばなか太皷たいこおとうたこゑとがとほかすかにぼつつたり、やが梅雨つゆおびたゞしく毒々どく/\しいくりはなくさるまではとしたのでをんなきたなげなやつれた姿すがたふたゝられなかつた。

勘次は耳の底に響いたその句を、独り感に堪えたように唄っては行くのである。

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勘次かんじみゝそこひゞいたひとかんへたやうにうたうてはくのである。

彼は自分の声が高いと思った時、他人に聞かれることを恥じるように、突然あたりを見ることがあった。

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かれ自分じぶんこゑたかいとおもつたとき他人ひとかれることをづるやうに突然とつぜんあたりをることがあつた。

曲がり角でひょいと会う時、それが口軽な女房であれば、二、三歩やり過ごしては

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まがかどでひよつとときそれが口輕くちがる女房にようばうであれば二三すごしては

「どうしたい、勘次さん、あの女に焦がれたんじゃあるまい。もっとも年ごろは持って来いだから、連れ子の一人くらいは我慢もできらあな。そんだが、あれっきり来なくなっちまって困ったな」

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「どうしたえ、勘次かんじさん彼女あれこがれたんぢやあんめえ、もつと年頃としごろつゝけだからつれ一人ひとりぐれえ我慢がまん出來できらあな、そんだがあれつなくなつちやつてこまつたな」

と遠慮もなくからかっては、少し隔たるとわざと声を立ててその句を唄ったりする。

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遠慮ゑんりよもなく揶揄からかうては、すこへだたるとわざこゑてゝうたつたりする。

そうすると勘次は、家に帰るまで一句も唄わない。

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さうすると勘次かんじうちかへるまで一うたはない。

しかし彼は、しばらくそれを唄うことを止めなかった。

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しかかれしばらくそれをうたふことをめなかつた。

彼はただ、女房がほしいほしいとのみ思った。

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かれたゞ女房にようばうほしい/\とのみおもつた。

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勘次は依然として、苦しい生活の外に一歩も逃れ去ることができないでいる。

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勘次かんじ依然いぜんとしてくるしい生活せいくわつそとに一のがることが出來できないでる。

お品が死んだ時、理由を言って借りた小作米の滞りも、まだ一粒も返してない。

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しなんだとき理由わけをいうてりた小作米こさくまいとゞこほりもまだ一つぶかへしてない。

大暑の日が井戸の水まで減らして炒りつけるころは、それまでに幾度か勘次の穀桶は空になるのである。

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大暑たいしよ井戸ゐどみづまでらしてりつけるころはそれまでに幾度いくたび勘次かんじ穀桶こくをけからるのである。

彼は一般の百姓がすることはしなくてはならないので、ことには副食物として必要なので、茄子や南瓜や胡瓜や、そういう物も一通りは作った。

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かれは一ぱん百姓ひやくしやうがすることはなくてはらないので、ことには副食物ふくしよくぶつとして必要ひつえうなので茄子なす南瓜たうなす胡瓜きうりやさういふもの一通ひととほりはつくつた。

彼は村外れの櫟林のそばにいたので、自分の家の近くにはそういう物を作る畑が一枚もなかった。

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かれ村外むらはづれの櫟林くぬぎばやしそばたので自分じぶんいへちかくにはさういふものつくはたけが一まいもなかつた。

それでも胡瓜だけは垣根の内側へ一列に植えて、後ろの林に交じった短い竹を伐って支柱に立てた。

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それでも胡瓜きうりだけは垣根かきね内側うちがはへ一れつゑてうしろはやしまじつたみじかたけつててた。

竹の立っている林は彼のものではないけれど、彼はこうして必要のたびごとに、しいては隠さない盗みを敢えてするのである。

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たけつてるはやしかれ所有しよいうではないけれど、かれうして必要ひつえうたびごとひてはかくさないぬすみをあへてするのである。

南瓜も庭の隅へ、粟殻で囲った厠のそばへ植えた。

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南瓜たうなすにはすみ粟幹あはがらかこうたかはやそばゑた。

それから庭の栗の木へも絡ませた。

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それからにはくりへもからませた。

茄子だけは遠い畑の、麦のうね間へ植えた。

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茄子なすだけはとほはたけむぎ畦間うねまゑた。

彼はさつまいものほかには、とうていそういうすべての苗を仕立てることができないので、また立派な苗を買いに行くだけの余裕もないので、様子から見れば近くの村ではあるが、どことも確かには知れない天秤商人からそれを求めた。

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かれ甘藷さつまいもほかには到底たうていさういふすべてのなへ仕立したてることが出來できないので、また立派りつぱなへひにだけ餘裕よゆうもないので、容子ようすかられば近村きんそんではあるが何處どことも確乎しかとはれない天秤商人てんびんあきうどからそれをもとめた。

天秤商人の持って来るのは、たいてい屑ばかりである。

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天秤商人てんびんあきうどつてるのは大抵たいていくづばかりである。

それでも勘次は安いのを喜んだ。

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それでも勘次かんじやすいのをよろこんだ。

彼はそのわずかな銭を幾度か勘定して渡した。

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かれわづかぜに幾度いくたび勘定かんぢやうしてわたした。

麦が刈られて、その束が両端を切りそいだ竹の棒へ通して畑の外へかつぎ出された時、跡には陸稲や大豆がひょろひょろと青ばんだ畑に、勘次の茄子は短いうねが五うねばかりになって立っていた。

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むぎられてたば兩端りやうはしいだたけぼうとほしてはたけそとかつされたときあとには陸稻をかぼ大豆だいづがひよろ/\とあをばんだはたけ勘次かんじ茄子なすみじかうねが五うねばかりになつてつてた。

下葉は黄色くなっていたが、それでも麦がしばらく日を覆ったので、みな根づいて育ちかけていた。

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下葉したは黄色きいろくなつてたがそれでもむぎしばらおほうたのでみなづいて生長せいちやうしかけてた。

たとえやせさせないまでも、肥やして行くことをしない畑の土に、茄子はしなびて、それでところどころに一つずつ花を持っていた。

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假令たとひせさせないまでもこやしてくことをしないはたけつち茄子なす干稻ひねびてそれで處々ところ/″\ひとづゝはなつてた。

勘次は朝のまだ涼しい、葉に湿りのある間に、かまどの灰を持って行ってその葉に掛けてやるだけの手間は尽くしたのである。

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勘次かんじあさのまだすゞしい、しめりのあるあひだかまどはひつてつてけてだけ手數てすうつくしたのである。

それで、いくらでも活発に動き回るうりはむしは防がれた。

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それでいくらでも活溌くわつぱつ運動うんどうする瓜葉蟲うりはむしふせがれた。

それは羽が赤いので、赤蠅と土地では言っている。

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それははねあかいので赤蠅あかばへ土地とちではいつてる。

木の灰では、油虫の湧くのはどうもできなかった。

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はひでは油蟲あぶらむしくのはどうも出來できなかつた。

それからまた、根切り虫が残酷に堅い茎を根元からぷつりとかみ倒して、植えた数が減るにもかかわらず、彼は遠く畑に出て、土に潜んでいるその憎むべき害虫を探し出して、その丈夫な体をひしぎ潰してやるだけの余裕を、体にも心にも持っていない。

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それからまた根切蟲ねきりむし残酷ざんこくかたくきもとからぷきりとたふしてうゑかずるにもかゝはらず、かれとほはたけつち潜伏せんぷくしてそのにくむべき害蟲がいちうさがしてその丈夫ぢやうぶからだをひしぎつぶしてだけ餘裕よゆう身體からだにもこゝろにもつてない。

垣根の胡瓜は、季節の南風が吹いて、朝の靄がしっとりと乾いた庭の土を湿して下りると、何をひがんでか葉の陰に下がる瓜が、しぼんだ花の取れないうちに尻が曲がって、たちまちに蔓も葉もがらがらに枯れてしまったのであった。

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垣根かきね胡瓜きうり季節きせつみなみいて、あさもやがしつとりとかわいたにはつちしめしておりるとなにひがんでかかげさがうりが、しぼんだはなのとれぬうちにしりまがつてたちまちにつるもがら/\にかれしまつたのであつた。

ただ南瓜だけは、その特有の大きな葉をずんずんと広げて、蔓の先がたちまちに厠の低いひさしから垂れた。

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たゞ南瓜たうなすだけは特有もちまへおほきなをずん/\とひろげてつるさきたちまちにかはやひくひさしかられた。

ことに栗の木に絡んだのは、白昼の忘れるほど長い間、雨戸は閉じたままで、たとえ油蝉が炒りつけるようにそこらの木ごとにしがみついて声のかぎり鳴いたにしたところで、すべてが暑さに疲れたようで、むしろきわめてひっそりとした庭をのぞいては、葉の陰ながら、だんだんに日に焼けながら太りながら、尻のへそをむき出してどっしりと枝から垂れ下がった。

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ことくりからんだのは白晝ひるまわすれるほどながあひだ雨戸あまどぢたまゝで、假令たとひ油蝉あぶらぜみりつけるやうに其處そこらのごとにしがみいてこゑかぎりにいたにしたところで、すべてがあつさにつかれたやうでむしきはめて閑寂かんじやくにはのぞいては、かげながら段々だん/\けつゝふとりつゝしりへそしてどつしりとえだからさがつた。

それがわずかに庭に威勢をつけている。

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それがわづかには威勢ゐせいをつけてる。

一般にそうではあるが、ことに勘次の手に作られた野菜は、すべてその実りが遅れた。

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ぱんにさうではあるがこと勘次かんじつくられた蔬菜そさいすべ成熟せいじゆくおくれた。

それで、その野菜が包丁にかかるまでは、口にこそばゆい干し菜や切り干しや、それも不足を告げれば、これでも彼らのはかない蓄えの心をもっとも発揮した菜や大根の塩辛い漬物の桶にのみ、その副食物を求めるのである。

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それで蔬菜そさい庖丁はうちやうにかゝるあひだくちにこそつぱい干菜ほしな切干きりぼしやそれも缺乏けつばうげれば、れでも彼等かれら果敢はかない貯蓄心ちよちくしんもつと發揮はつきした大根だいこん鹽辛しほから漬物つけものをけにのみ副食物ふくしよくぶつもとめるのである。

彼らは労働から来る空腹を意識する時は、ちょっとも動くことのできないほど、にわかに疲れを感じることさえある。

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彼等かれら勞働らうどうから空腹くうふく意識いしきするとき一寸いつすんうごくことの出來できないほどにはか疲勞ひらうかんずることさへある。

どんな粗末な物でも、彼らの口には問題ではない。

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什麽どんな麁末そまつものでも彼等かれらくちには問題もんだいではない。

彼らは味わうのではなくて、要するに喉の穴を埋めるのである。

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彼等かれらあじはふのではなくてえうするに咽喉のどあなうづめるのである。

冷たい水を注いで、そのぽろぽろな麦飯をかき込む時、彼らの一人もかみしめる者はない。

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冷水れいすゐそゝいでのぼろ/\な麥飯むぎめしとき彼等かれら一人ひとりでも咀嚼そしやくするものはない。

彼らはただ、多量に飲み下すことによってその精力を回復し、満足するのである。

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彼等かれらたゞ多量たりやう嚥下えんげすることによつて精力せいりよく恢復くわいふく滿足まんぞくするのである。

牛や馬でも、地上に柔らかな草の茂る季節が来れば、自然に干し草や藁を嫌うようになる。

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うしうまでも地上ちじやうやはらかなくさ繁茂はんもする季節きせつれば自然しぜん乾草ほしぐさわらいとふやうになる。

それが、貧しい生活の人々のみはこうして甘んじていることを余儀なくされているのである。

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それがまづしい生活せいくわつ人人ひと/″\のみはうしてあまんじてることを餘儀よぎなくされつゝあるのである。

しかし、いずれも汗をかくのに伴って渇いた口に、爽やかな野菜の味を欲しない者はない。

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しかいづれも發汗はつかんともなうてかつしたくちさわやかな蔬菜そさいあぢほつしないものはない。

貧しさに悩んで、そうしてその野菜の不足を感じている者は、勘次のみではない。

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貧苦ひんくなやんでさうして蔬菜そさい缺乏けつばふかんじてるものは勘次かんじのみではない。

そういう仲間の、ことに女は、人目の少ないたそがれの小道につやつやした青物を見ると、つい、した料簡からそれをちぎって前垂れに隠して来ることがある。

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さういふ伴侶なかまことをんな人目ひとめすくな黄昏たそがれ小徑こみちにつやゝかな青物あをものるとつひした料簡れうけんからそれを拗切ちぎつて前垂まへだれかくしてることがある。

畑の作り主が、その損失以外にそれを惜しむ心から陰で勢い激しく怒ろうとも、それは顧みる暇を持たない。

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はたけ作主さくぬしその損失そんしつ以外いぐわいにそれををしこゝろからかげいきほはげしくおこらうともそれはかへりみるいとまたない。

勘次のやせた茄子畑も、そうして襲われた。

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勘次かんじせた茄子畑なすばたけもさうしておそはれた。

その茎を痛めても構わないちぎりようを見て、失望と憤りの情とを自然に味わわざるを得なかった。

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くきいためてもかまはぬ拗切ちぎりやうを失望しつばう憤懣ふんまんじやうとを自然しぜん經驗けいけんせざるをなかつた。

しかしながら彼は、つくづくと忌々しいその心持ちを知り尽くしていながら、自分もまた他人の隙に乗じることを敢えてするのであった。

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しかしながらかれはつく/″\と忌々敷いま/\しその心持こゝろもちじゆくしてながら自分じぶんまたきよじようずることをあへてするのであつた。

一つには、どうせ他人にも盗られるのだからという自暴自棄の理屈が、心のうちにこしらえられるのである。

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ひとつにはどうで他人ひとにもられるのだからといふ自暴自棄やけ理窟りくつこゝろのうちに捏造ねつざうされるのである。

一つには、良心のとがめをよそにして、そうしてまたそれがどこまでも見つけられないものであるならば、他人の物を盗ることは、口腹の欲を満足させるには容易で、かつ手軽な手段でなければならないはずである。

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ひとつには良心りやうしん苛責かしやく餘所よそにしてさうしてまたそれが何處どこまでも發見はつけんせられないものであるならば他人ひとものることは口腹こうふくよく滿足まんぞくせしむるには容易よういかつ輕便けいべん手段しゆだんでなければならぬはずである。

こういう理由で、比較的余裕のある百姓よりも貧乏な百姓は、十分早く、しかも幾度もその新鮮な野菜を味わうのである。

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ういふ理由わけ比較的ひかくてき餘裕よゆうのある百姓ひやくしやうよりも貧乏びんばふ百姓ひやくしやうは十ぶんはやかも數次しば/″\新鮮しんせん蔬菜そさいあぢあふのである。

たまたま市場に遠く、馬の背で運ぶ者は、その実りの時期を早めたつやつやしたものがいくらあっても、自分の口には入れない。

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たま/\市場しぢやうとほうまはこもの成熟せいじゆくはやめたつやゝかなかずいくつても自分じぶんくちにはれない。

少しずつでも、ほかの必要品を求めるために銭に換えようとするのである。

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すこしづゝでもほか必要品ひつえうひんもとめるためぜにへようとするのである。

季節が熟さなければ収穫の多量を望むことができないので、彼らが食料として畑へ手をつけるのは、すべてが存分の生育を遂げた後でなければならない。

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季節きせつじゆくさねば收穫しうくわく多量たりやうのぞむことが出來できないので、彼等かれら食料しよくれうとしてはたけをつけるのはすべてが存分ぞんぶん生育せいいくげたあとでなければならぬ。

そこが、互いに盗む者をして乗じさせる機会である。

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其處そこ相互さうごぬすむものをしてじようぜしめる機會きくわいである。

与吉は、よく貧乏な仲間の子がうまそうに青物をかじっているのを見て、おつぎにねだることがあった。

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與吉よきち貧乏びんばふ伴侶なかま佳味相うまさう青物あをものかじつてるのをておつぎに強請せがむことがあつた。

勘次の家では、どうかすると朝になって大きな南瓜が土間に転がっていることがある。

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勘次かんじうちではどうかするとあさつておほきな南瓜たうなす土間どまころがつてることがある。

それで庭の南瓜は一つも減っていない。

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それでには南瓜たうなすひとつもつてない。

「これはどうしたんだい、おとっつあん」

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「こらどうしたんでえおとつゝあ」

与吉は喜んで、危なそうに抱いては聞く。

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與吉よきちよろこんであぶさういてはく。

「いじるんじゃない」

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いぢんぢやねえ」

勘次はただ恐ろしい目をして、叱るように押さえる。

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勘次かんじたゞおそろしいをしてしかるやうにおさへる。

勘次は、まだ肌の白く、かつ薄赤みを帯びた人形の手足のようなさつまいもを飯へ炊き込むことがあった。

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勘次かんじはまだはだしろかつ薄赤味うすあかみびた人形にんぎやう手足てあしのやうな甘藷さつまいもめしむことがあつた。

「うまいな」

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佳味うめえな」

とおつぎが言った時

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とおつぎがいつたとき

「〆粕で作るからよ」

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〆粕しめかすつくつからよ」

勘次は言った。

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勘次かんじはいつた。

「旦那じゃ、〆粕ばかり使うんだろうか」

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旦那だんなぢや、〆粕しめかすばか使つかあんだつぺか」

おつぎは自分の知らない高い肥料のことについて聞いた。

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おつぎは自分じぶんらぬ不廉ふれん肥料ひれうのことにいていた。

勘次は気がついて

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勘次かんじがついて

「さつまいもを食ったなんて言うんじゃないぞ」

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甘藷さつまくつたなんていふんぢやねえぞ」

と与吉を戒めた。

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與吉よきちいましめた。

勘次は、彼の大豆畑の近くに隣の主人のさつまいも畑と、それからその途中に南瓜畑があったので、ほかの畑の物よりも自然にそれを盗った。

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勘次かんじかれ大豆畑だいづばたけちかくにとなり主人しゆじん甘藷畑さつまばたけとそれから途中とちう南瓜畑たうなすばたけがあつたので、はたけのものよりも自然しぜんにそれをつた。

少しずつ盗った。

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すこしづつつた。

南瓜は昼間見ておいて、夜になるとそっと蔓を引いて在りかを探すのである。

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南瓜たうなす晝間ひるまいてよるになるとそつとつるいて所在ありかさがすのである。

さつまいもは、土をかき払って探し掘りにするのは気が急きすぎるので、ぐっと引き抜く。

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甘藷さつまいもつちいてさがりにするのはこゝろせはぎるのでぐつとく。

彼は日中さつまいも畑のそばを過ぎては、自分の荒らした跡を見て心にひどいとは思うのであるが、それを埋めておくには心がとがめた。

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かれ日中につちう甘藷畑さつまいもばたけそばぎては自分じぶんあらしたあとこゝろひどいとはおもふのであるがそれをうめくにはこゝろとがめた。

こういう仲間は、千菜荒らしという名称のもとに呼ばれた。

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ういふ伴侶なかま千菜荒せんざいあらしといふ名稱めいしようもとばれた。

与吉は独りで村を遊んで歩いた。

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與吉よきちひとりむらあそんであるいた。

秋が更けて、さつまいもが蒸されるようになった。

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あきけて甘藷さつまいもされるやうにつた。

与吉はよくそういう所へ行っては、ほしそうな顔をして黙って見ているので、どこでも熱いさつまいもが与えられるのであった。

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與吉よきちくさういふところつてはさうかほをしてだまつてるので何處どこでもあつ甘藷さつまいもあたへられるのであつた。

ある時、彼は

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あるときかれ

「おれは家でさつまいもを食ったなんて言わないんだ」

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らあうち甘藷さつまくつたなんてゆはねえんだ」

と、さつまいもを手に持っておずおずと言った。

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甘藷さつまいもつてづ/\いつた。

彼はただ嬉しかったのである。

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かれたゞうれしかつたのである。

「なぜ言わないんだ」

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何故なぜゆはねえんだ」

与えた人は聞いた。

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あたへたひといた。

「なぜでもだ」

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何故なぜでもだ」

「そんじゃいい、そのさつまいもは取り返しちまうから」

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「そんぢやえゝ、その甘藷さつまけえしつちまあから」

と驚かされて

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おどろかされて

「そんでも、おれの家のおとっつあんが、さつまいもを食ったなんて言うんじゃないぞって言ったんだ」

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「そんでも俺家おらぢのおとつゝあ甘藷さつまつたなんてゆふんぢやねえぞつてつたんだ」

与吉は媚びるような様子で言った。

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與吉よきちびるやうな容子ようすでいつた。

「よきらの家のさつまいもはうまいか」

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「よきら甘藷さつまうめえか」

「旦那のはうまいって言ったんだ」

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旦那だんなのがはうめえつてつたんだ」

「おとっつあんが言ったのか、姉が言ったのか」

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「おとつゝあゆつたのかねえゆつたのか」

「姉じゃない、おとっつあんだ」

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ねえぢやねえ、おとつゝあだ」

「おとっつあんは家でさつまいもを食って、旦那のはうまいって言ったのか」

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「おとつゝあはうち甘藷さつまくつて旦那だんなのがうめえつちつたのか」

「そうなんだわ」

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「さうなんだわ」

無心な与吉は、誘い出されるままに言ってしまった。

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無心むしん與吉よきちさそされるまゝにいつてしまつた。

しかし互いに畑を荒らしては、やせた骨身をかじり合っているような彼らの間に、こんなことがなければ、ことさらに勘次ばかりが注目されるのではなかったのである。

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しか相互さうごはたけあらしては、せた骨身ほねみかじうてるやうな彼等かれらあひだにこんなことがければ殊更ことさら勘次かんじばかりが注目ちうもくされるのではなかつたのである。

一〇

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一〇

秋も、朝は冷ややかになった。

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あきあさひやゝかにつた。

稲の穂は、北が吹けば南へ向いたり、南が吹けば北へ向いたりして、その重たそうな首を止まず動かしては、さらさらと寂しく笑いはじめた。

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いねきたけばみなみいたり、みなみけばきたいたりして重相おもさうくびまずうごかしてはさら/\とさびしくわらひはじめた。

強い秋の雨が一夜ざあざあと降った。

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つよあきあめが一ざあ/\とつた。

次の日には、空は少しの塵も止めないといったように凄いほど晴れて、山もめっきり近くなっていた。

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つぎにはそらいさゝか微粒物びりふぶつとゞめないといつたやうにすごほどれて、やま滅切めつきちかつてた。

しっとりと落ち着いた空気を透して、日光が妙に肌へ揉み込むように暖かで、かつ暑かった。

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しつとりと落付おちついた空氣くうきとほして、日光につくわうめう肌膚はだむやうにあたゝかであつかつた。

春のような日に騙されて、雲雀は、そっけない三角形の種が膨れながら、まだいっぱいに白い蕎麦畑や、それから陸稲畑の上にさえずった。

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はるのやうなだまされて雲雀ひばりは、そつけない三稜形りようけいたねふくれつゝまだ一ぱいしろ蕎麥畑そばばたけやそれから陸稻畑をかぼばたけうへさへづつた。

それでも、いくらか羽の動きが鈍くなっているのか、春のようではなく低くさまよって、しわがれた喉を鳴らしている。

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それでもいくらかはね運動うんどうにぶつてるのかはるのやうではなくひく徘徊さまようて皺嗄しやがれたのどらしてる。

周りの台地からは、土瓶のふたを取ってつるべをごっと傾けたように、雨水がいっぱいに田に集まって、稲の穂先が少し浸った。

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周圍しうゐ臺地だいちからは土瓶どびんふたをとつて釣瓶つるべをごつとかたむけたやうに雨水あまみづが一ぱいあつまつていね穗首ほくびすこひたつた。

田んぼも堀も一つになった水は、土瓶の口から吐き出すように、徐々に低い田へと落ちる。

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田圃たんぼほりひとつにつたみづ土瓶どびんくちからすやうにおもむろひくへとおちる。

村の子供らは「三平ぴいつくぴいつく」

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村落むら子供等こどもらは「三ぺいぴいつく/\」

と雲雀の鳴き声を真似しながら、小ざるを持ったり叉手網を持ったりして、じゃぶじゃぶと快い田んぼの水を渡って歩いた。

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雲雀ひばり鳴聲なきごゑ眞似まねしながら、小笊こざるつたり叉手さでつたりしてぢやぶ/\とこゝろよい田圃たんぼみづわたつてあるいた。

そこにはまた、これも春のような日に騙されて、とうに鳴かなくなっていた蛙がふわりと浮いては、こそばゆい稲の穂につかまりながら、げらげらと鳴いた。

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其處そこにはまたれもはるのやうなだまされて、とうからかなくつてかへるがふわりといてはこそつぱいいねつかまりながらげら/\といた。

いっぱいにふさがっている稲の穂の下を、そろそろとはいながら水が低くなった時、秋の日は落ちかけた。

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ぱいふさがつていねしたをそろ/\とひながらみづひくつたときあきけた。

そうして、いつでもその本能を突き動かす機会があれば鳴くのだと言って待っているその蛙も、ひっそりとした。

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さうして什麽どんなときでも本能ほんのう衝動そゝ機會きくわいがあればくのだといつてつてかへるもひつそりとした。

大雨の後の畑へは、百姓はたいてい控えめにして出なかった。

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大雨おほあめあとはたけへは百姓ひやくしやう大抵たいていひかにしてなかつた。

勘次はたそがれ近くなってから、独りで草刈り籠を背負って出た。

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勘次かんじ黄昏たそがれちかくなつてからひとり草刈籠くさかりかご背負せおつてた。

彼はいつもの道へは出ないで、後ろの田んぼから林へ、それから遠く回り道して畑地へ出た。

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かれ何時いつものみちへはないでうしろ田圃たんぼからはやしへ、それからとほ迂廻うくわいして畑地はたちた。

日はまだほんのりと明るかったので、勘次はあっちこっちと空の草刈り籠を背負ったまま歩いた。

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はまだほんのりとあかるかつたので勘次かんじはそつちこつちとから草刈籠くさかりかご背負せおつたまゝあるいた。

彼はそれでも良心のとがめに対して、編み笠でその顔を隔てた。

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かれれでも良心りやうしん苛責かしやくたいして編笠あみがさかほへだてた。

日がとっぷりと暮れた時、彼は道端へ草刈り籠を下ろした。

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がとつぷりとれたときかれ道端みちばた草刈籠くさかりかごおろした。

そこには、畑の周りに一うねずつに作ったとうもろこしが丈高く突っ立っている。

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其處そこにははたけ周圍まはり一畝ひとうねづつにつくつた蜀黍もろこしたけたかつてる。

草刈り籠がすっと地上に転がる時、とうもろこしの大きな葉へ触れてがさりと鳴った。

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草刈籠くさかりかごがすつと地上ちじやうにこけるとき蜀黍もろこしおほきれてがさりとつた。

さらにその葉は、どこにも感じない微風に揺れて、自分だけが怖がったように騒いでいる。

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さらその何處どこにもかんじない微風びふう動搖どうえうして自分じぶんのみがおぢたやうにさわいでる。

穂は、何を騒ぐのかといぶかるように、少し伏し目に見下ろしている。

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なにさわぐのかといぶかるやうにすこ俯目ふしめおろしてる。

勘次は菜切り包丁を取り出して、その高いとうもろこしの幹をぐっと曲げては、穂首に近く斜めに切った。

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勘次かんじ菜切庖丁なきりばうちやう取出とりだして、そのたか蜀黍もろこしみきをぐつとまげては穗首ほくびちかなゝめつた。

穂は勘次の手に止まって、幹は急に跳ね返った。

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勘次かんじとまつてみききふかへつた。

そうして震えた。

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さうして戰慄せんりつした。

勘次は重くなった草刈り籠を背負って、今度は野の道を一散に自分の家へ帰った。

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勘次かんじおもつた草刈籠くさかりかご背負せおつて今度こんどらのみち一散いつさん自分じぶんうちかへつた。

次の朝、勘次は軒端へ横に竹を渡して、ゆっさりとするその穂を縛って打ち違いに掛けた。

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つぎあさ勘次かんじ軒端のきばたよこたけわたして、ゆつさりとするしばつてちがひにけた。

南へ低くなった日が、それをのぞくように差しかけた。

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みなみひくくなつたれをのぞくやうにけた。

その日は、いずれも言い合わせたように畑へ出た。

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いづれもいひあはせたやうにはたけた。

一日照ったので、畑はたいていぱさぱさに乾いている。

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にちつたのではたけ大抵たいていぱさ/\にかわいてる。

とうもろこしの穂を切りに出た村の一人は、自分の畑がざっくりと荒らされているのを見つけて驚いた。

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蜀黍もろこしりにむら一人ひとり自分じぶんはたけがぞつくりとあらされてるのを發見はつけんしておどろいた。

彼は畑へ来たなり、穂は一本も切らないでそのまま駐在所へ駆けつけた。

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かれはたけたなりは一ぽんらないでまゝ駐在所ちうざいしよけつけた。

巡査はそれでも、すぐに官服を着て被害者といっしょに現場へ来て見て、切られた穂の数を改めて手帳へ書き止めた。

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巡査じゆんさはそれでもぐに官服くわんぷく被害者ひがいしやと一しよ現場げんぢやうられたかずあらためて手帖ててふめた。

被害者が駐在所へ駆けつける間に、畑の遠くに離れ離れに散らばっている百姓らは、ことごとくそれを知った。

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被害者ひがいしや駐在所ちうざいしよけつけるに、はたけとほくにはなれ/″\にらばつて百姓等ひやくしやうらことごとれをつた。

被害者は道々大声を出して怒鳴って行ったからである。

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被害者ひがいしや途次みちみち大聲おほごゑして呶鳴どなつてつたからである。

何でも昨夜遅く野から帰る者があったというが、それではそれに相違ないだろうということが伝えられた。

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なんでも昨夜さくやおそらからかへるものがつたといふがそれぢやれに相違さうゐないだらうといふことがつたへられた。

勘次も畑へ出ていて、騒ぎになりはじめたのを知った。

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勘次かんじはたけさわぎにりはじめたのをつた。

彼はすぐに飛んで帰って、ことごとくとうもろこしの穂を外して、そっと近くの林へ隠して、むしろを二枚ばかりかぶせた。

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かれすぐんでかへつてことごと蜀黍もろこしはづして、そつとちかくのはやしかくしてむしろを二まいばかりおほうた。

「癖になるから、みっしり懲りさせたほうがいい。おれのほうは畑がやかましくて本当に仕方がない」

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くせになつから、みつしらりらかしたはうがえゝ、俺方おらはうはたけ五月蠅うるさくつて本當ほんたうやうねえ」

「見せしめに行く時には、こっぴどくやらなくちゃいけないよ」

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せしめにときにや、こつぴどくんなくつちやえかねえよ」

「村の中をようく見さえすりゃすぐに分かるさ。とうもろこしなんぞ、どこへ隠せるもんじゃない」

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村落むらうちようくせえすりやすぐわからな、蜀黍もろこしなんぞ何處どこかくせるもんぢやねえ」

などと、近い畑同士は怒鳴り合った。

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などちか畑同士はたけどうし呶鳴どなつた。

その声は被害者の耳にも入って、むかむかと激したその心に勢いをつけた。

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こゑ被害者ひがいしやみゝにも這入はひつてむか/\とげきしたこゝろいきほひをけた。

「数が分かったら、もう後へ手をつけてもいい」

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かずわかつたらもうあとけてもえゝ」

巡査は畑を去った。

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巡査じゆんさはたけつた。

「わしも行ってみましょう。自分の畑のは一目見りゃ分かりますから」

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「わしもつてあんせう、自分じぶんはたけのがは一目ひとめりやわかりあんすから」

こう言って、被害者はとうもろこしの穂を二、三本持って村へ戻った。

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ういつて被害者ひがいしや蜀黍もろこしを二三ぼんつて村落むらもどつた。

巡査はそこらここらと二、三軒見て歩いて、勘次の庭へ立った。

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巡査じゆんさ其處そこ此處ここらと二三げんあるいて勘次かんじにはつた。

それは、勘次は二、三の者とともに巡査の注意人物であったからである。

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それは勘次かんじは二三のものとも巡査じゆんさ注意人物ちういじんぶつであつたからである。

しかし彼の貧しい建物のどこにも、隠される余地を見つけることができなかった。

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しかかれまづしい建物たてもの何處どこにも隱匿いんとくされる餘地よち發見はつけんすることが出來できなかつた。

その時は、勘次がよそへ運んだ後なのである。

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とき勘次かんじ餘所よそはこんだあとなのである。

巡査は軒に渡した竹の棒を見て

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巡査じゆんさのきわたしたたけぼう

「こりゃどうするんだい」

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りやどうするんだい」

と聞いた。

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いた。

被害者はさっきから雨だれの水で土のくぼんだあたりを見ていたが

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被害者ひがいしや先刻さつきから雨垂あまだれみづつちくぼんだあたりをたが

「はてな」

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「はてな」

と首をかしげて

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くびかたぶけて

「とうもろこしの粒が落ちてありますぞ。そうするとここへ引っ掛けたのを、また、どこかへか持って行っちまったな」

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蜀黍粒もろこしつぶおつこつてあんすぞ、さうすつと此處ここけたのまた何處どこへかつてつちやつたな」

被害者は言った。

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被害者ひがいしやはいつた。

巡査はうなずいた。

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巡査じゆんさ首肯うなづいた。

「この粒でがすから、わしのに相違ありません。あいつらのは、こんなにできっこないんですから。それ、証拠には、きっと自分の畑のは一つ穂でも切っちゃないから見なさい。わしのはこれでも〆粕を入れて作ったんでがすから」

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つぶでがすから、わしがに相違さうゐありあんせん、彼等あつらがなんなに出來できつこねえんですから、それ證據しようこにや屹度きつと自分じぶんはたけのがなひとでもつちやねえからさつせ、わしがんでも〆粕しめかすえてつくつたんでがすから」

被害者は熱心に言った。

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被害者ひがいしや熱心ねつしんにいつた。

勘次はその時、不安な様子でぽつんと自分の庭に立った。

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勘次かんじそのとき不安ふあん態度たいどでぽつさりと自分じぶんにはつた。

彼はすでに、巡査が軒下に立っているのを見てぞっとした。

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かれすで巡査じゆんさ檐下のきしたつてるのを悚然ぞつとした。

「勘次、この竹はどうしたんだな」

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勘次かんじたけはどうしたんだな」

巡査は横目に勘次を見て言った。

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巡査じゆんさ横目よこめ勘次かんじていつた。

「わし、これらは、とうもろこしを切って引っ掛けようと思ったんでがす」

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「わしらあ、蜀黍もろこしつてけべとおもつたんでがす」

「うん、この粒のこぼれたのはどうしたんだ。とうもろこしなんだろう、これは」

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「うむ、つぶこぼれたのはどうしたんだ、蜀黍もろこしなんだらうれは」

「へえ、なに、わしが一つかみ引きしごいて来てみたのを、うっちゃったんでがした」

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「へえ、なに、わしが一攫ひとつかいてたの打棄うつちやつたんでがした」

勘次はこう言って青くなった。

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勘次かんじういつてあをつた。

巡査はさらに、被害者に勘次の畑を案内させた。

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巡査じゆんささら被害者ひがいしや勘次かんじはたけ案内あんないさせた。

しょんぼりとして後についてくる勘次を、要らないからと巡査は邪険に叱って追いやった。

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悄然せうぜんとしてあといて勘次かんじえうはないからと巡査じゆんさ邪慳じやけんしかつてひやつた。

勘次の畑のとうもろこしは、被害者が言ったように、情けないようなみすぼらしい穂がさらりと立って、それでもその恐怖心に駆られたというように、特有な一種の騒がしい響きを立てつつあった。

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勘次かんじはたけ蜀黍もろこし被害者ひがいしやがいつたやうに、なさけないやうな見窄みすぼらしいがさらりとつてそれでも恐怖心きようふしんられたといふやうに特有もちまへな一しゆさわがしいひゞきてつゝあつた。

穂は一つも切ってはなかった。

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ひとつもつてはなかつた。

「これだから、わしは言ったんでがす。ねえ、それ、この粒でがすからね」

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れだからわしつたんでがす、ねえそれ、つぶでがすかんね」

被害者は威勢が出た。

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被害者ひがいしや威勢ゐせいた。

「稲の束をかつぐんだって、わしらは口へ出しちゃ言わないが、ちゃんと知ってるんでがすから。そう言っちゃ何だが、そんなことするのは、決まったようなもんですからね」

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いねたばかつぐんだつて、わしくちしちやはねえが、ちやんとつてんでがすから、さうつちやなんだが其麽そんなことするもなあ、きまつたやうなもんですかんね」

被害者はさらに、手柄でもしたように言った。

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被害者ひがいしやさら手柄てがらでもしたやうにいつた。

「もう分かったから、それじゃ自分の仕事をするがいい。後でわしが申報書をこしらえて来てやるから、それへ印形を捺せば、それで手続きは済むんだからな」

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「もうわかつたから、それぢや自分じぶん仕事しごとをするがいい、のちにわしが申報書しんぱうしよこしらへてるから、それへ印形いんぎやうせばそれで手續てつゞきむんだからな」

巡査はそう言って、そうして被害者が

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巡査じゆんさはさういつてさうして被害者ひがいしや

「そんじゃ、わしはとうもろこしを隠しておく所を見つけ出しますから。きっとあるに決まってるんだから」

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「そんぢや、わし蜀黍もろこしかくしてとこ見出めつけあんすから、屹度きつとんにきまつてんだから」

と言う声を後にして、畑の小道をうねりながら行った。

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といふこゑあとにしてはたけ小徑こみちをうねりつゝつた。

「今度こそは、捕まっちゃ一杯に食らうんだろう」

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今度こんだこさあ、捕縛つかまつちや一杯いつぺえらあんだんべ」

畑同士は痛快に感じながら、口々にこういうことを言った。

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畑同士はたけどうし痛快つうくわいかんじつゝ口々くち/″\ういふことをいつた。

「おつう、おれはとても今度はだめだよ」

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「おつうらとつても今度こんだあ駄目だめだよ」

勘次は、はかない自分の心持ちを、唯一の家族であるおつぎの身へ投げかけるように、しおれきって言った。

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勘次かんじ果敢はかない自分じぶん心持こゝろもちゆゐ一の家族かぞくであるおつぎの身體からだけるやうにしをつていつた。

勘次は心の底から恐れたのである。

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勘次かんじ衷心ちうしんから恐怖きようふしたのである。

それほどならば、なぜ彼はとうもろこしの穂を切ることを敢えてしたのであろうか。

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ほどならば何故なぜかれ蜀黍もろこしることをあへてしたのであつたらうか。

彼はこれまでも、畑の物を盗ったのは一度や二度ではない。

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かれれまでもはたけものつたのは一や二ではない。

それはわずかであったが、彼は盗りたくなった時、機会さえあればいつでも盗りつつあったのである。

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れは些少させうであつたがかれりたくなつたとき機會きくわいさへあれば何時いつでもりつゝあつたのである。

彼は身を殺そうとまで、その弱い意志が少しのことにも彼を苦しめる時、彼を突き動かして盗み心がむかむかと首をもたげつつあったのである。

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かれころさうとまで薄弱はくじやく意思いしすこしのことにもかれくるしめるときかれ衝動そそつて盜性たうせいがむか/\とくびもたげつゝあつたのである。

勘次はもう、仕事をするどころではない。

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勘次かんじはもう仕事しごとをするどころではない。

彼はとうてい少しの間もその家にいられなくなって、隣の彼の主人にすがろうとした。

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かれ到底たうてい寸時すんじいへへられなくつて、となりかれ主人しゆじんすがらうとした。

その敷居を越すことが、彼にはどれほどつらかったか知れない。

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しきゐすことがかれにはどれほどつらかつたかれぬ。

主人は留守であった。

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主人しゆじん不在ふざいであつた。

「おかみさん、わしはまた間違いをしまして、どうもこれ、おかみさんの所へは敷居が高くて何でがすが、わしがいなくでもなっちゃ、子供らは仕方がありませんから、助かれるもんならわしももう……」

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「お内儀かみさん、わしもまた間違まちがえしあんしてどうもれお内儀かみさんとこへはしきゐたかくつてなんでがすが、わしなくでもつちや子奴等こめらやうがあせんから、たすかれるもんならわしもはあ……」

と、彼はぐったり首をうなだれた。

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かれはぐつたりくびれた。

主人のおかみさんは、勘次がとうもろこしを切ったことはもう知っていた。

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主人しゆじん内儀かみさんは勘次かんじ蜀黍もろこしつたことはもうつてた。

まだ癖が止まないかと、一度は腹を立ててもみたり呆れもしたりしたが、しかしどこといって庇ってくれる者がないので、こうして来るのだと、目の前にそのしおれた姿を見ると、さすがに憐れになって叱るどころではなかった。

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まだくせまないかと一はらたててもたりあきれもしたりしたが、しか何處どこといつて庇護かばつてくれるものがいのでうしてるのだと、目前もくぜんそのしをれた姿すがたると有繋さすがあはれつてしかどころではなかつた。

それではどうか心配してみてやろうと言われて、勘次は顔が生き返ったようになった。

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それではどうか心配しんぱいしててやらうといはれて勘次かんじかほ蘇生いきかへつたやうにつた。

彼は何でも、主人が力を尽くしてくれれば成し遂げられると思っているのである。

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かれなんでも主人しゆじん盡力じんりよくしてれゝば成就じやうじゆするとおもつてるのである。

それでも自分の家にはいられないので、どうか隠してくれと、彼は土蔵へ入れてもらった。

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それでも自分じぶんいへにはられないので、どうかかくしてくれとかれ土藏どざうれてもらつた。

勘次はそこでも不安に堪えられないので、そこにしばらく使わずにしまってある四尺桶へ、こっそりと潜っていた。

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勘次かんじ其處そこでも不安ふあんへないので其處そこしばら使つかはずにしまつてある四尺桶しやくをけへこつそりともぐつてた。

巡査は午後に申報書の印を取りに来て、勘次の家へ行ってみた。

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巡査じゆんさ午後ごご申報書しんぱうしよいんりに勘次かんじいへつてた。

勘次はどこへ行ったと巡査に聞かれて、おつぎはただ知らないと言った。

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勘次かんじ何處どこつたと巡査じゆんさかれておつぎはたゞらないといつた。

そうして巡査の後ろ姿が垣根を出た時、ひそかに泣いた。

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さうして巡査じゆんさ後姿うしろすがた垣根かきねときひそかいた。

被害者はとうとう隠した箇所を見つけて、巡査を案内した。

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被害者ひがいしや到頭たう/\隱匿いんとくした箇處かしよ發見はつけんして巡査じゆんさみちびいた。

雑木林の茂った間の、もう硬くなった草の中へ、とうもろこしの穂は縛ったままどさりと置いてあったのである。

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雜木林ざふきばやし繁茂はんもしたあひだの、もうこはつたくさなか蜀黍もろこししばつたまゝどさりといてあつたのである。

そこにはもうそっけなくなったおみなえしの茎がけろりと立って、枝まで折られた栗が、低いながらにこずえのほうにだけはわずかにはじけている。

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其處そこにはもうそつけなくなつた女郎花をみなへしくきがけろりとつて、えだまでられたくりひくいながらにこずゑはうにだけはわづかんでる。

その小さな柴栗が偶然落ちてさえ驚いて騒ぐだろうと思うように、か細いこおろぎがあっちこっちでかすかに鳴いている。

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ちひさな芝栗しばぐり偶然ひよつくりちてさへおどろいてさわぐだらうとおもふやうに薄弱はくじやく蟋蟀こほろぎがそつちこつちでかすかにいてる。

ちょっと他人の目には触れない場所であった。

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一寸ちよつと他人ひとにはれぬ場所ばしよであつた。

穂を覆ったそのむしろが、勘次の仕業であることを確かに証拠立てていた。

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おほうたむしろ勘次かんじ所業しわざであることを的確てきかく證據立しようこだてゝた。

主人のおかみさんは、一応被害者へ話をつけてみた。

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主人しゆじん内儀かみさんは一おう被害者ひがいしやはなしをつけてた。

被害者の家族は律義者で、みな激しきっている。

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被害者ひがいしや家族かぞく律義者りちぎものみなげきつてる。

七十ばかりになる被害者の老人が、ことに頑固に主張した。

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七十ばかりに被害者ひがいしや老人ぢいさんこと頑固ぐわんこ主張しゆちやうした。

「泥棒なんぞする奴は、わしは大嫌いでがすから。わしらの畑の茄子を引きむしったんだって、ちゃんと知っちゃいるんでがすから。いや、まったくでがす。おかみさんの所のさつまいもも盗りましたとも。ぐうずら蔓を引っこ抜いてうっちゃって、いや本当でがす。わしゃ嘘なんざあ言うのは嫌でがすから。それどころじゃがありません、おかみさん。夜切って来て、朝っぱらになったらもう引っ掛けたに相違ないというんでがすから。なに、わしもむしろを打ちかけた所を見ました。むしろで分かるからだめでがす。いや、まったくひどい野郎でがす、どうも」

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泥棒どろぼうなんぞするやざあ、わし大嫌だえきれえでがすから、わしはたけ茄子なすもぎつたんだつてちやんとつちやんでがすから、いやまつたくでがす、お内儀かみさんとこ甘藷さつまりあんしたとも、ぐうづらつるつこいて打棄うつちやつて、いや本當ほんたうでがす、わしやちくなんざあいふなきれえでがすから、どこぢやがあせんお内儀かみさん、よるつてて、あさつぱらにつたらはあけたに相違さうゐねえつちんでがすから、なにわしもむしろけたところあんした、むしろわかるから駄目だめでがす、いやまつたひで野郎やらうでがすどうも」

おかみさんはそれは予期していた。

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内儀かみさんはれは豫期よきしてた。

「そりゃそうさね。この前も私の所で救ってやったのに、それにまたこうなんだから。まあ病気さね、これも。困ったもんだが、しかしあれを懲役にやってみたところで、子供らが泣くばかりだからね。それにまあ本当を言えば、一つ村にこうしているんだから、先方が困りきっているうちに勘弁してやったとなると、一生先方は気が引けている道理だが、それが一杯の罪にでも落としてみると、先方では帳消しにでもなったようなつもりでいまいものでもなし。そうすると、敵を一人こしらえておくようなものだしね。他人に叩かれたのでは眠れるが、叩いたのでは眠れないとさえ言うんだから、何でも後腹の病まないほうがいいようだが、どうだね」

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「そりやさうさね、まへわたしところすくつてつたのにそれにたかうなんだから、まあ病氣びやうきさねこれも、こまつたもんだがしかしあれを懲役ちやうえきつてところ子供等こどもらくばかりだからね、それにまあ本當ほんたういへばひと村落むらうしてるんだからさきこまつてるうち勘辨かんべんしてつたとると一しやうさきがひけて道理だうりだがそれが一ぱいつみにでもおとしてると、さきでは帳消ちやうけしにでもつたやうなつもりまいものでもなし、さうするとかたき一人ひとりこしらへてくやうなものだしね、他人ひとたゝかれたのではねむれるが、たゝいたのではねむれないとさへいふんだから、なんでも後腹あとばらめないはういやうだがどうだね」

「そんでも、おかみさん、わしゃ卯平のことをみじめを見せてるのが、他人のことでも忌々しいんでさ。わしゃ血気のころから卯平とは相棒で仕事もしたんでがすが、卯平はもう何でも、あれが女房らを育てる時分のことなんぞ思っちゃ、粗末にはできないんでがすからね。それ、おかみさん、卯平はいくつになりますね。わしらだったらなあに、ああいう野郎なんざあ、槍ででも何でも突き刺しちまうんでがすがね」

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「そんでもお内儀かみさん、わしや卯平うへいことみじめせてんのが他人ひとのこつても忌々敷いめえましいんでさ、わしや血氣けつきころから卯平うへいたあ棒組ぼうぐみ仕事しごともしたんでがすが、卯平うへいはあんでもあれが嚊等かゝあらそだ時分じぶんことなんぞおもつちや疎末そまつにやんねえんでがすかんね、それお内儀かみさん卯平うへいいくつにりあんすね、わしだらなあに、あゝた野郎やらうなんざあやりでゝもなんでもしつちあんでがすがね」

老人は憤りに堪えないように、固めた拳を膝がしらへ当てて言った。

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老人ぢいさん憤慨ふんがいへぬやうにかためたこぶしひざがしらへてゝいつた。

「もっともさね、そりゃ。それだが、腹の立つ時分は憎い奴だと思っても、後悔する時がないとも言えないしね。少しのことで二代も三代も仲直りができないような実例が、いくらも世間にはあるもんだからね」

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もつともさねそりや、それだがはら時分じぶんにくやつだとおもつても後悔こうくわいするときいともいひないしね、すこしのことで二だいも三だい仲直なかなほりが出來できないやうな實例ためしいくらも世間せけんにはるもんだからね」

おかみさんは繰り返して言った。

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内儀かみさんは反覆くりかへしていつた。

しかし容易に彼らの心は落ち着かない。

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しか容易ようい彼等かれらこゝろ落居おちゐない。

しばらく話は途切れていた。

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しばらはなし途切とぎれた。

「遠くのほうへやったなんて言ったっけが、おりせはまた孫ができたそうだね。今度のは男だって、それでもよかったねえ」

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とほくのはうつたなんていつたつけがおりせはまたまご出來できさうだね、今度こんどのはをとこだつてそれでもかつたねえ」

おかみさんは、そばにいた老母へ向いて突然こう言いかけた。

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内儀かみさんはそば老母ばあさんいて突然とつぜんういひけた。

そうしておかみさんは、冷たくなっていた茶碗を手にした。

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さうして内儀かみさんはつめたくつて茶碗ちやわんにした。

それを見て被害者の女房は土間へ駆け下りて、かまどの口へ火をつけてふうふうと火吹き竹を吹いた。

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れを被害者ひがいしや女房にようばう土間どまけおりてかまどくちけてふう/\と火吹竹ひふきだけいた。

「はい、そうでござりますよ。おかみさんの厄介になりましたっけが、あれも今じゃ大層いい塩梅でございましてね。四人目でやっと、それでも男でがすよ。おかみさんに言われた時にはわしらももうしぶっていたんでがしたが、身上もあの時からはよくなるしね。兄弟の中で今じゃ、りせが一番だって言ってるところなのさ。おかみさんがあれなら大丈夫だからって言ってくれましたっけが、婿も心根がよくてね。爺婆にって、わしらにこういう物をよこしましたよ」

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「はあいさうでござりますよ、お内儀かみさんの厄介やつけえりあんしたつけが、あれもいまぢや大層たえそうえゝ鹽梅あんべいでがしてない、四人目よつたりめやつとそんでもをとこでがすよ、お内儀かみさんにあれたときにやわしもはあしびれえてたんでがしたが、身上しんしやうもあんときかんぢやよくなるしね、兄弟中きやうでえぢういまぢやりせが一ばんだつてつてつとこなのせ、お内儀かみさんあれなら大丈夫でえぢよぶだからつてゆつれあんしたつけが婿むこ心底しんていくつてね、爺婆ぢゝばゝあげつて、わしうたものよこしあんしたよ」

老母は待ち構えてでもいたように、小風呂敷の包みを解いて、手織りのように見える粗末な反物を出して、手柄そうに見せた。

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老母ばあさんかまへてゞもたやうに小風呂敷こぶろしきつゝみいて手織ておりのやうにえる疎末そまつ反物たんものして手柄相てがらさうせた。

おかみさんは仕方ないという様子で、反物へ手を掛けて

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内儀かみさんは仕方しかたないといふ容子ようす反物たんものけて

「それでも孫抱きには行ったかね」

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「それでもまごきにはつたかね」

「ほんに、わしゃ今日あたり、おかみさんの所へ行こうと思っていたら、何ということか、こんな騒ぎでもう行くこともできないで、わしゃ昨日帰って来たところなのさ、おかみさん」

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「ほんに、わしや今日けふらお内儀かみさんとこくべとおもつてたら、なんちこつたかんなさわぎではあくも出來できねえで、わしや昨日きのふけえつてところなのせえ、お内儀かみさん」

老母はいくらでも勢いづいてしゃべろうとする。

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老母ばあさんいくらでもいきほひづいて饒舌しやべらうとする。

熱い茶がようやく、おかみさんの前に汲まれた。

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あつちややうや内儀かみさんのまへまれた。

被害者は老父と座敷の隅で、さっきからこそこそと話をしている。

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被害者ひがいしや老父ぢいさん座敷ざしきすみ先刻さつきからこそ/\とはなしをしてる。

そうしてさらに、老母を呼んだ。

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さうしてさら老母ばあさんんだ。

「うん、そうだともよ」

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「うむ、さうだともよ」

という老母の声がすると、みな座に直って

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といふ老母ばあさんこゑがするとみななほつて

「それじゃ、おかみさん、さっきのをおかみさんのいいように行ってみておくんなせえ」

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「それぢや、お内儀かみさん、先刻さつきのがなお内儀かみさんえゝやうにつてておくんなせえ」

被害者は言った。

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被害者ひがいしやはいつた。

「わしゃ一徹者だから、おかみさん、悪く思わないでおくんなせえ」

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「わしや、一剋者いつこくものだからお内儀かみさんわるおもはねえでおくんなせえ」

老父も言った。

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老父ぢいさんもいつた。

「どうぞねえ、おかみさん」

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「どうぞねえお内儀かみさん」

老母も言った。

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老母ばあさんもいつた。

おかみさんはそれからまたしばらく雑談をして、みなで笑って帰った。

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内儀かみさんはそれからまたしばら雜談ざふだんをしてみんなわらつてかへつた。

腹にあるだけのことを言わせてしまえば、彼らはそれだけ心が晴れ晴れとして勢いがだんだん鈍ってくるので、その間は機嫌も取ってみて、そうして決まりきった理屈も繰り返して聞かせているうちには、ころりと落ちてしまうという、その呼吸をおかみさんはよく知っているのである。

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はらるだけのことをいはしてしまへば彼等かれらはそれだけこゝろ晴々せいせいとしていきほひ段々だん/\にぶつてるので、そのあひだ機嫌きげんもとつてて、さうしてきまつた理窟りくつ反覆はんぷくしてかせてるうちにはころりとちてしまふといふ呼吸こきふ内儀かみさんはつてるのである。

その夜、おつぎはおかみさんに呼ばれて隣へ泊まった。

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おつぎは内儀かみさんにばれてとなりとまつた。

おかみさんは、おつぎと与吉をただ二人その家に置くには忍びなかったのである。

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内儀かみさんはおつぎと與吉よきちたゞ二人ふたりいへくにはしのびなかつたのである。

夜になってから、勘次は土蔵から出されて雇い人のそばに一夜を明かした。

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になつてから勘次かんじ土藏どざうからされて傭人やとひにんそばに一あかした。

彼は未明にまた土蔵へ隠れた。

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かれ未明みめいまた土藏どざうかくれた。

おかみさんは雇い人の口を堅く戒めて、外へ漏れないようにと苦心をした。

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内儀かみさんは傭人やとひにんくちかたいましめてそとれないやうと苦心くしんをした。

その日も巡査は勘次の家のあたりをうろついたが、それでもその東隣の門を叩いて詮索するまでには至らなかった。

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巡査じゆんさ勘次かんじいへのあたりを徘徊はいくわいしたがそれでも東隣ひがしどなりもんたゝいて穿鑿せんさくするまでにはいたらなかつた。

おかみさんは、どうにかしても救ってやりたいと思い出したら、そこに障害が起これば、かえってそれを破ろうといろいろに工夫も凝らしてみるのであった。

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内儀かみさんは什麽どんなにしてもすくつてりたいとおもしたら其處そこ障害しやうがいおこればかへつてそれをやぶらうと種々しゆじゆ工夫くふうこらしてるのであつた。

それで被害者のほうの話も決まったのだから、この上は警察の手加減に待つよりほかに道はないのであるが、留守であった主人はその日も帰らない。

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それで被害者ひがいしやはうはなしきまつたのだからうへ警察けいさつ手加減てかげんつよりほかみちいのであるが、不在ふざいであつた主人しゆじんかへらない。

勘次はひたすらに、主人の力によってのみ救われるものと念じている。

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勘次かんじ只管ひたすら主人しゆじんちからつてのみすくはれるものとねんじてる。

おかみさんも主人を待ちあぐんでいる。

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内儀かみさんも主人しゆじんちあぐんでる。

そうしてまた夜が来た。

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さうしてまたよるた。

おかみさんはもう、じっとしてはいられない。

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内儀かみさんはもう凝然ぢつとしてはられない。

それでおつぎを連れて、提灯をつけてひそかに土蔵の二階へ上った。

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それでおつぎをれて、提灯ちやうちんけてひそか土藏どざうの二かいのぼつた。

「おとっつあん」

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「おとつゝあ」

おつぎは声を殺しながら、力を入れて言った。

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おつぎはこゑころしながらちかられていつた。

勘次は返事がない。

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勘次かんじ返辭へんじがない。

おつぎはさらに幾度か呼んで、それからおかみさんが呼んだ時、汚れた体を桶の中から現した。

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おつぎはさら幾度いくたびんでそれからお内儀かみさんがんだときよごれた身體からだをけなかからあらはした。

「旦那がまだ帰らないのでね、警察のほうの話ができないで困っているんだが、どうだねお前、警察へ出ても盗らないと言いきれるかね。そうすりゃ私が始末をしてやるがね」

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旦那だんながまだかへらないのでね、警察けいさつはうはなし出來できないでこまつてるんだが、どうだねおまへ警察けいさつてもらないといひれるかね、さうすりやわたし始末しまつをしてるがね」

おかみさんは言って聞かせた。

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内儀かみさんはいつてかせた。

「へえ」

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「へえ」

勘次はただ首をうなだれている。

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勘次かんじたゞくびれてる。

「どうだね」

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「どうだね」

おかみさんは繰り返した。

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内儀かみさんは反覆くりかへした。

「わしのには、とても持ちきれません」

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「わしがにや、とつてもれあんせん」

勘次はしおれて震えている。

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勘次かんじしをれてふるへてる。

「おとっつあんは何て言うんだろうな」

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「おとつゝあはなんちんだんべな」

おつぎは歯がゆそうに言って、ひと声さらに

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おつぎは齒痒相はがいさうにいつて一せいさら

「おとっつあん」

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「おとつゝあ」

と力を入れて

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ちかられて

「盗らないって言えよ、おとっつあん」

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らねえつてへよ、おとつゝあ」

おつぎは熱心に勘次を見た。

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おつぎは熱心ねつしん勘次かんじた。

「そんでもおれは、あそこへ出ちゃ、とても白状しないわけには行かないよ」

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「そんでもおら、あすこへちや、とつても白状はくじやうしねえわけにやかねえよ」

「そんな料簡でなく、私は自分のを切ったんですと言えば、それでいいように始末してやるんだから」

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「そんな料簡れうけんでなくわたし自分じぶんのがつたんですつていへば、そんでいゝやうに始末しまつしてやるだから」

おかみさんが力をつけてみても、勘次はただ首をうなだれている。

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内儀かみさんがちからけてても勘次かんじただくびれてる。

「そう言いさえすりゃいいっていうのになあ、おとっつあんは」

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「さうへせえすりやえゝつちのになあ、おとつゝあは」

おつぎは落胆したように言った。

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おつぎは落膽がつかりしたやうにいつた。

おかみさんとおつぎは、こうして熟睡した体を立たせようと苦心するほどの、無駄な力を尽くしたのであった。

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内儀かみさんとおつぎはうして熟睡じゆくすゐした身體からだ直立ちよくりつせしめやうと苦心くしんするほどむだちからつくしたのであつた。

雇い人もすっかり眠りに落ちたと思うころ、おかみさんとおつぎとの黒い姿が、ひそかに裏の竹藪に動いた。

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傭人やとひにんもすつかりねむりにちたとおもころ内儀かみさんとおつぎとのくろ姿すがたひそかうら竹藪たけやぶうごいた。

落ちている竹の枝が足の下でぽちぽちと折れて鳴った。

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ちてたけえだあししたにぽち/\とれてつた。

北西のほうの垣根のそばへ来た時、おかみさんは垣根の土についた所を力任せにぼりぼりと破った。

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いぬゐはう垣根かきねそばとき内儀かみさんは、垣根かきねつちいたところ力任ちからまかせにぼり/\とやぶつた。

おつぎも両手を掛けて破った。

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おつぎも兩手りやうてけてやぶつた。

幾年となしに隙間が生じれば小笹を継ぎ足し継ぎ足ししつつあった竹の垣根は、土の所がどすどすに朽ちているので、すぐに大きな穴が開いた。

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幾年いくねんとなしに隙間すきましやうずれば小笹をざさし/\しつゝあつたたけ垣根かきねは、つちところがどす/\にちてるのですぐおほきなあないた。

おつぎはそこから潜って出た。

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おつぎは其處そこからくぐつてた。

突然ぱたぱたとけたたましい羽音が、すぐ頭の上で騒いだ。

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突然とつぜんぱた/\とけたゝましい羽音はおとすぐあたまうへさわいだ。

竹のこずえに止まっていた鳩が、にわかに驚いて遠く逃げたのである。

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たけこずゑとまつてはとにはかおどろいてとほげたのである。

「寂しくはないかい」

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「さむしかないかい」

おかみさんは垣根越しに聞いた。

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内儀かみさんは垣根越かきねごしにいた。

「大丈夫ですよ、おかみさん」

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大丈夫だいぢやうぶですよ、お内儀かみさん」

おつぎは少し歩きかけて言った。

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おつぎはすこあるけていつた。

「おや、もうそっちのほうへ行ったのかい。それじゃあそこを叩くんだよ」

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「おやもうそつちのはうつたのかい、それぢや彼處あすこたゝくんだよ」

おかみさんは言って別れた。

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内儀かみさんはいつてわかれた。

おつぎはすぐに、自分の裏の戸口に立った。

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おつぎはすぐ自分じぶん裏戸口うらどぐちつた。

そっと開けて入ってみると、自分の家ながら、おつぎはひやりとした。

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そつとけて這入はひつてると、自分じぶんうちながらおつぎはひやりとした。

ねぐらの鶏は暗い中でじっとしていながら、くくうと細い長い妙な声を出した。

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とやにはとりくらなか凝然ぢつとしてながらくゝうとほそながめうこゑした。

鼠が二、三匹がたがたと騒いで、何かで押さえつけられたかと思うように、ちゅうちゅうと苦しげな声を立てて鳴いた。

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ねずみが二三びきがた/\とさわいで、なにかでおさへつけられたかとおもふやうにちう/\とくるしげなこゑたていた。

おつぎは手探りに、壁際の草刈り鎌を取った。

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おつぎは手探てさぐりに壁際かべぎは草刈鎌くさかりがまつた。

またそっと戸を閉めて出る時、首筋の髪の毛をこそばゆい手で一つかみにされるように感じた。

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またそつとてゝとき頸筋くびすぢかみをこそつぱい一攫ひとつかみにされるやうにかんじた。

おつぎは外の壁際の草刈り籠を背負った。

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おつぎはそと壁際かべぎは草刈籠くさかりかご脊負せおつた。

どうしたはずみであったか、これも壁際に立てかけた竹箒が倒れて、柄がかちっと草刈り籠を打った。

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どうした機會はずみであつたかこれ壁際かべぎはけた竹箒たけばうきたふれてがかちつと草刈籠くさかりかごつた。

おつぎはひょいと振り返った。

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おつぎはひよつとかへりみた。

夜は闇である。

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よるやみである。

凄く冴えた空へざっくりと立った隣の森のこずえにくっついて、天の川が低く西へ傾きながら流れている。

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すごえたそらへぞつくりとつたとなりもりこずゑにくつゝいてあまがはひく西にしかたぶきつゝながれてる。

しばらくして、おつぎは自分たちの手で作ったとうもろこしのそばに立った。

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しばらくしておつぎは自分等じぶんらつくつた蜀黍もろこしそばつた。

やせたとうもろこしは眠ったかと思うようにしっとりとしていては、やがてざわざわと鳴った。

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せた蜀黍もろこしねむつたかとおもふやうにしつとりとしてては、やがてざわ/\とつた。

おつぎは草刈り鎌でざくりざくりと、その穂を切った。

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おつぎは草刈鎌くさかりがまでざくり/\とつた。

そうして、ぎっと押し込んで重くなった草刈り籠を背負った。

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さうしてぎつとんでおもつた草刈籠くさかりかご脊負せおつた。

そこらの畑には、土が目を開いたようにところどころぽつりぽつりと、秋そばの花が白く見えている。

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其處そこらのはたけにはつちひらいたやうに處々ところ/″\ぽつり/\と秋蕎麥あきそばはなしろえてる。

おつぎは足速に、台地の畑からとうもろこしの葉のざわつく小道を低地の畑へ下りて、ようやくのことで鬼怒川の土手へ出た。

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おつぎは足速あしばや臺地だいちはたけから蜀黍もろこしのざわつく小徑こみち低地ていちはたけへおりてやうやくのことで鬼怒川きぬがは土手どてた。

おつぎは四つんばいになって、芝につかまりながら登った。

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おつぎはばひつてしばつかまりながらのぼつた。

その時おつぎの心には、斜めに土手の中腹へつけられた小道を見いだしているほどの余裕がなかったのである。

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ときおつぎのこゝろにはなゝめ土手どて中腹ちうふくへつけられた小徑こみち見出みいだしてほど餘裕よゆうがなかつたのである。

土手の内側は水際から篠がいっぱいに茂って、夜目にはそれがごっそりと自分を押しつけて見える。

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土手どて内側うちがは水際みづぎはからしのが一ぱい繁茂はんもして夜目よめにはそれがごつしやりと自分じぶんあつしてえる。

篠の間から水がしらしらと見えて、篠の根を洗って行く水の響きがちろちろと耳に近く聞こえる。

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しのあひだからみづがしら/\とえて、しのあらつてみづひゞきがちろ/\とみゝちかきこえる。

おつぎは汀へ下りようと思って篠を分けてみると、そこは崖になっていて、爪先から落ちた小さな土の塊がぽちぽちと水に鳴った。

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おつぎはみぎはへおりようとおもつてしのけてると其處そこがけつて爪先つまさきからちたちひさなつちかたまりがぽち/\とみづつた。

おつぎはさらに篠を分けて下りようとすると、そこも崖で、目の前にひょっこりと高瀬舟の帆柱が闇を突いて立っている。

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おつぎはさらしのけておりようとすると、其處そこがけまへにひよつこりと高瀬船たかせぶね帆柱ほばしらやみいてたつる。

水に近く、こそこそと人の話し声が聞こえる。

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みづちかくこそ/\とひと噺聲はなしごゑきこえる。

たそがれにようやくそこへつながった高瀬舟が、そこらで食料を求め歩いて遅く晩飯を済まして、まだ眠らずにいたのであったろう。

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黄昏たそがれやうや其處そこかゝつた高瀬船たかせぶねが、其處そこらで食料しよくれうもとあるいておそ晩餐ばんさんすましてまだねむらずにたのであつたらう。

それは高瀬舟の船頭夫婦が、足りても足りなくても自分の家族の唯一の住まいである、その舳に造られた箱のような狭い船室の中で話している声であった。

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それは高瀬船たかせぶね船頭夫婦せんどうふうふが、りてもりなくても自分じぶん家族かぞく唯一ゆゐいつ住居すまゐであるへさきつくられたはこのやうなせばいせえじのなかはなしてこゑであつた。

乳飲み子の泣く声も交じって聞こえた。

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乳呑兒ちのみごこゑまじつてきこえた。

おつぎは後へ退いた。

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おつぎはあと退去すさつた。

おつぎはほとんど無意識に、土手を南へ走った。

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おつぎはほとんど無意識むいしき土手どてみなみはしつた。

ところどころ誰かが道芝の葉を縛り合わせておいたので、おつぎは幾度かそれへ爪先を引っ掛けてつまずいた。

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處々ところ/″\だれかゞ道芝みちしばしばあはせていたので、おつぎは幾度いくたびかそれへ爪先つまさきけてつまづいた。

土手の篠はだんだんまばらになって、水がいっぱいに見えて来た。

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土手どてしの段々だん/\まばらにつてみづが一ぱいえてた。

鬼怒川の水は土手よりはるかに低く、闇の底にしらしらと薄く光っている。

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鬼怒川きぬがはみづ土手どてよりはるかひくやみそこにしら/\とうすひかつてる。

夜の手は対岸の松林の影をその水に投げて、川幅はわずかに半分に縮められて見える。

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よる對岸たいがん松林まつばやし陰翳かげみづげて、川幅かわはゞわづか半分はんぶんせばめられてえる。

こおろぎはそこらあたりいっぱいに鳴きしきって、その集まった声は空にまで響こうとしては沈みながら沈みながら、それがゆったりと大きな波のように、自然に高くなり低くなりしている。

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蟋蟀こほろぎ其處そこらあたり一ぱいきしきつて、あつまつたこゑそらにまでひゞかうとしてはしづみつゝ/\、それがゆつたりとおほきな波動はどうごと自然しぜん抑揚よくやうしつゝある。

おつぎはとうとう渡し場まで来た。

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おつぎは到頭たうとう渡船場とせんばまでた。

おつぎはそれから水際へ下りようとすると、水を渡って静かに、しかも近く人の声がして、時々じゃぶっという響きが水に起こる。

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おつぎはそれから水際みづぎはへおりようとするとみづわたつてしづかにしかちかひとこゑがして、時々ときどきしやぶつといふひゞきみづおこる。

不審に思ってためらっていると、突然目の前に、対岸の松林の影から白く光っている水の上へ舳が出て、舟が現れた。

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不審ふしんおもつて躊躇ちうちよしてると突然とつぜんまへ對岸たいがん松林まつばやし陰翳かげからしろひかつてみづうへへさきふねあらはれた。

渡し舟が深夜に人を乗せたので、じゃぶっという響きは、舟棹が水をかき切るたびに鳴ったのである。

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わたぶね深夜しんやひとせたのでしやぶつといふひゞき舟棹ふなさをみづたびつたのである。

おつぎはまた土手へ戻って、大きな川柳のそばに身を避けた。

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おつぎはまた土手どてもどつておほきな川柳かはやなぎそばけた。

二言三言を交わして、人は去ったようである。

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二三交換かうくわんしてひとつたやうである。

船頭は暗い小屋の戸をがらっと開けて、またがらっと閉じた。

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船頭せんどうくら小屋こやをがらつとけてまたがらつとぢた。

おつぎはしばらく待っていて、それからそくそくと舟をつないだあたりへ下りた。

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おつぎはしばらつててそれからそく/\とふねつないだあたりへりた。

おつぎはすぐそばでかさかさと何かが動くのを聞くとともに、ぶうぶうと豚らしい鳴き声のするのを聞いた。

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おつぎはそばでかさ/\となにかがうごくのをくとともに、ゐい/\とぶたらしい鳴聲なきごゑのするのをいた。

「行くのかあ」

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くのかあ」

と、まだ眠らなかった船頭は突然、特有の大声で怒鳴った。

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とまだねむらなかつた船頭せんどう突然とつぜん特有もちまへ大聲おほごゑ呶鳴どなつた。

おつぎは驚いて、また一散に土手を走った。

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おつぎはおどろいてまたさん土手どてはしつた。

船頭はがらっと戸を開けて、人の走ったような響きがはっきりと耳に感じたので、はるかに暗い土手を透して見て、ぶつぶつ言いながら、彼はさらに豚小屋に近づいてマッチをさっとすってみて、「油断ならない」

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船頭せんどうはがらつとけて、ひとはしつたやうなひゞきがあきらかにみゝかんじたので、はるかくら土手どてすかしててぶつ/\いひながらかれさら豚小屋ぶたごやちかづいて燐寸マツチをさつとつてて「油斷ゆだんなんねえ」

と呟いて、また戸を閉じた。

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つぶやいてまたぢた。

彼は内職に飼った豚が近ごろ子を生んだので、他人が狙いはしないかと心配しつつあったのである。

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かれ内職ないしよくつたぶた近頃ちかごろんだので他人たにんねらひはせぬかと懸念けねんしつゝあつたのである。

おつぎは、どこでも構わないと土手の篠を分けて、一つ一つにとうもろこしの穂を力のかぎり水に投げた。

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おつぎは何處どこでもかまはぬと土手どてしのけてひとつ/\に蜀黍もろこしちからかぎみづとうじた。

おつぎは空の草刈り籠を背負って急いで帰った。

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おつぎはから草刈籠くさかりかご脊負せおつていそいでかへつた。

おつぎがことことと叩いた時、おかみさんはすぐに戸を開けて

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おつぎがこと/\とたゝいたとき内儀かみさんはすぐけて

「どうしたい、大変遅かったね」

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「どうしたい、大變たいへんおそかつたね」

と聞いた。

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いた。

「おかみさん、言うとおりにしましたよ」

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「お内儀かみさんいふとほりにしあんしたよ」

「そのとうもろこしはどこへやったい」

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蜀黍もろこし何處どこつたい」

「わたしはどうしていいか知らないから、川へ持って行ってうっちゃりました」

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「わたしやどうしてえゝかんねえからかはつてつて打棄うつちやりあんした」

「そうかい、よく行って来たね。まあお上がり」

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「さうかい、つてたね、まああがりな」

おかみさんはランプを自分の頭の上に上げて、じっと首を低くしておつぎの様子を見た。

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内儀かみさんはランプを自分じぶんあたまうへげて凝然ぢつくびひくくしておつぎの容子ようすた。

「どうしたんだえ、おつぎはまあ、その着物は」

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「どうしたんだえ、おつぎはまあ、衣物きものは」

「本当にまあ」

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本當ほんたうにまあ」

おつぎは初めて気づいたようで

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おつぎははじめて心付こゝろづいたやうで

「さっき土手へ行く時、堀っこの所へ滑ったんですが、その時こんなに汚したんでしょうよ」

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先刻さつき土手どてときほりとこすべつたんですが、ときかうえによごしたんでせうよ」

と、おつぎは泥になった腰のあたりへ手を当てた。

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とおつぎはどろつたこしのあたりへてた。

「おかみさん、わたしはとんだことをしました」

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「お内儀かみさん、わたしやんだことをあんした」

おつぎはまた言った。

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おつぎはまたいつた。

「どうしたんだえ」

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「どうしたんだえ」

「わたしは鎌をどこへやっちまったか、分からなくしちまったんでさ」

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「わたしや、かま何處どこつちやつたかわかんなくつちやつたんでさ」

「今夜持って行ったのかえ」

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今夜こんやつてつたのかえ」

「そうなんでさ。わたしはとうもろこしをうっちゃる時まであると思ってたら、見えないんでさ。わたしらの家のおとっつあんは、道具といったらひどく怒るんですから」

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「さうなんでさ、わたしや蜀黍もろこし打棄うつちやときまでつとおもつてたらえねえんでさ、私等家わたしらぢのおとつつあは道具だうぐつちとひどおこんですから」

「草刈り鎌の一挺や二挺、お前どうするもんじゃない。あっちへ回って足でも洗ってさあ」

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草刈鎌くさかりがまの一ちやうや二ちやうまへどうするもんぢやない、あつちへまはつてあしでもあらつてさあ」

おかみさんの口元には、かすかな笑いが浮かんだ。

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内儀かみさんのくちもとにはかすかなわらひがうかんだ。

次の日にようやく主人は帰った。

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つぎやうや主人しゆじんかへつた。

巡査へ話をしてみたが、その時はもう被害者からの申報書が分署へ出されてあったので、さらに分署長へ頼み込んでみた。

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巡査じゆんさはなしをしてたがときはもう被害者ひがいしやからの申報書しんぱうしよ分署ぶんしよ提出ていしゆつされてあつたのでさら分署長ぶんしよちやう懇請こんせいしてた。

そうして、被害者から事実が違っていたという意味の取り消しを出せば、それでいいということにまで運びがついた。

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さうして被害者ひがいしやから事實じじつ相違さうゐしたといふ意味いみ取消とりけしせばそれでいといふことにまではこびがついた。

微罪ということで、その筋の手加減ができたのである。

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微罪びざいといふのでそのすぢ手加減てかげん出來できたのである。

おかみさんはまた被害者の家へ行って、それだけの筋道を聞かせたが、どうしても今度はうんと言わない。

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内儀かみさんは被害者ひがいしやうちつてだけ筋道すぢみちかせたが、どうしても今度こんどはうんといはない。

「どうも、わしらは分署へなんぞ出るのは、なんぼにもいやでがすからね。きっと怒られるんでがすから、もう」

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「どうもわし分署ぶんしよへなんぞんな、なんぼにもでがすかんね、屹度きつとおこられんでがすからはあ」

とのみ言うのである。

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とのみいふのである。

「そうだがね、ここまで話がついているんだから、こっちでそれだけのことをしてくれなくちゃ、これまでのことが水の泡なんだからね」

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「さうだがね、此處ここまではなしがついてるんだから此方こつちでそれだけのことはれなくつちやれまでのことがみづあわなんだからね」

と道理を聞かせても

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道理だうりかせても

「盗られた上にこうして暇をつぶして、おまけに分署へ出て怒られたり何かするんじゃ、こんなつまらないことはめったにありませんからね。それに書付だって、どうしていいんだか分からないし」

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らつたうへうしてひまつぶして、おまけに分署ぶんしよおこられたりなにつかすんぢや、こんなつまんねえこたあ滅多めつたありあんせんかんね、それに書付かきつけだつてどうしてえゝんだかわかんねえし」

彼はただ、いかめしく見える警察官が恐ろしくて、どうしても足が進まないのである。

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かれたゞいかめしくえる警察官けいさつくわんおそろしくてどうしてもあしすゝまないのである。

「そりゃ書付なんぞは、旦那が書いてやるから心配にはならないがね」

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「そりや書付かきつけなんぞは、旦那だんないてるから心配しんぱいにやらないがね」

おかみさんはようやく、近所の者を一人ついて行かせるようにしてやるということにしたので、被害者も思い切って出ることになった。

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内儀かみさんはやうや近所きんじよもの一人ひとりいてくやうにしてるといふことにしたので被害者ひがいしやおもつてることにつた。

彼らが帰った時は、反対に威勢がよかった。

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彼等かれらかへつたとき反對あべこべ威勢ゐせいがよかつた。

「どうしたっけね」

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「どうしたつけね」

と聞かれて

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かれて

「髭のこう生えた部長さんだっていう怖い人でがしたがね。盗まれたなんて届けをしていて、そうして警察へ余計な手間を掛けて不埒な奴だなんて怒鳴られた時には、どうしようかと思って。そんじゃ、その書付を持って帰りますと言おうかと思いましたっけ。そうしたらしばらく書付を見てたっけが、これは誰が書いたと聞くから、わしらのほうの旦那でがすと言ったら、そうか、そんじゃよしよし帰れなんて言うもんだから、ほっと息をつきました。おこりが落ちたようでさあ、もう。そんだから、わしらはなんぼにもああいう所へは出るのはいやで」

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ひげのかうえた部長ぶちやうさんだつていふ可怖おつかねひとでがしたがね、ぬすまつたなんてとゞけしてゝさうして警察けいさつ餘計よけい手間てまけて不埓ふらちやつだなんて呶鳴どならつたときにやどうすべかとおもつて、そんぢや書付かきつけつてけえりますべつてふべかとおもひあんしたつけ、さうしたらしばら書付かきつけてたつけがこれれがいたつてくから、わしはう旦那だんなでがすつてつたら、さうかそんぢやよし/\けえれなんていふもんだからほつといきつきあんした、おこりちたやうでさあはあ、そんだからわしなんぼにもあゝいところへはんなで」

彼はしばらく間を置いて

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かれ少時しばしあひだいて

「そんだが、旦那はたいしたもんでがすね。旦那が書いたんだと言ったらなあ」

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「そんだが、旦那だんなはたいしたもんでがすね、旦那だんないたんだつてつたらなあ」

と、彼はさらについて行った近所の者を振り返って言った。

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かれさらいてつた近所きんじよものかへりみていつた。

事件はこのようにして、一見妙な、しかももっともふつうな方法をたどって終わりが告げられた。

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事件じけん如此かくのごとくにして一けんめうしかもつと普通ふつう方法はうはふんで終局しうきよくげられた。

被害者の損害に対する賠償は、わずかであるとはいいながら、一時主人の手から出て、それが被害者に渡された。

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被害者ひがいしや損害そんがいたいする賠償ばいしやうわづかであるとはいひながら一主人しゆじんからてそれが被害者ひがいしやわたされた。

「わしもこれからは、けっして他人の物は塵っ葉一本でも盗りませんから、どうぞ」

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「わしもれからはけつして他人たにんものちりぽんでもりませんからどうぞ」

と、勘次はさすがに泣いた。

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勘次かんじ有繋さすがいた。

彼はまだ、お品が死んだ年の小作米の滞りも払ってはないし、その上、卯平から譲られた借財の残りもちっとも始末がついていないのに、また今度の間違いからわずかながら新たな負担が加わったのである。

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かれはまだおしなんだとし小作米こさくまいとゞこほりもはらつてはないし、加之それのみでなく卯平うへいからゆづられた借財しやくざいのこりもちつともきまりがついていのにまた今度こんど間違まちがひからわづかながらあらた負擔ふたんくははつたのである。

彼の懸命の労働は、以前に倍して著しく人の目に立った。

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かれ懸命けんめい勞働らうどうきうばいしていちじるしくひとつた。

ある日、主人のおかみさんは、ふとした機会があって勘次に話をした。

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ある主人しゆじん内儀かみさんは偶然ひよつとした機會はづみがあつて勘次かんじはなしをした。

「あれでなかなか、おつぎにも驚いたもんだね」

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「あれでなか/\おつぎにもおどろいたもんだね」

おかみさんは言った。

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内儀かみさんはいつた。

「もう、どうかしましたんでしょうか、おかみさん」

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「はあどうかあんしたんべか、お内儀かみさん」

勘次は怪訝な様子をして、かつつらいいやなことでも言い出されるかと案じるように、おずおずと言った。

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勘次かんじ怪訝けげん容子ようすをしてかつつらいやなことでもいひされるかとあんずるやうにづ/\いつた。

「どうしたっていうんじゃないが、この間の晩のことを知ってるかね」

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「どうしたつていふんぢやないが、あひだばんのことをつてるかね」

「何でしょうね、おかみさん」

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なんでがせうね、お内儀かみさん」

「夜中にあのとうもろこしを切らせたことだがね。実はあの時はね、警察のほうが間に合わなければ、お前に盗らないとどこまでも言わせておいて、そうして旦那が帰ってからのことと思ったもんだから。それにはお前が白状してしまっても困るし、自分の畑がそっくりしていてもまずいからね。それも今になっちゃ、何もそんなことしなくてもよかったようなものだが、その時は私もどうかしてと思ってね。それだが、おつぎが度胸のあるのには私も驚いたよ」

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夜中よなかにあの蜀黍もろこしらせたことだがね、じつはあのときはね、警察けいさつはうはなければおまへらないと何處どこまでもいはしていて、さうして旦那だんなかへつてからのこととおもつたもんだから、それにやおまへ白状はくじようしてしまつてもこまるし、自分じぶんはたけがそつくりしてても不味まづいからね、それもいまつちやなにもそんなことなくつてもかつたやうなものだが、ときわたしもどうかしてとおもつてね、それだがおつぎが度胸どきようのあるのぢやわたし喫驚びつくりしたよ」

おかみさんは言った。

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内儀かみさんはいつた。

「へえ、わしもおつうに聞きました。鎌が一挺見えないもんだからどうしたと言ったら、おかみさんが言うから切ったんだなんて。そんでも鎌は笹の中にありましたっけや」

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「へえわしもおつうにきあんした、かまちやうえねえもんだからどうしたつちつたら、お内儀かみさんいふからつたんだなんて、そんでもかまさゝなかりあんしたつけや」

「そうかい。どんな鎌だか、おつぎは心配していたからね」

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「さうかい、どんなかまだかおつぎは心配しんぱいしてたからね」

「なあに、もう、減っちまった鎌だから惜しくはないんですがね」

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「なあにはあ、つちやつたかまだからしかあねえんですがね」

「おつぎのことは、そんなことでは無闇に怒らないようにしなよ。面倒を見てね」

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「おつぎのことはそんなことでは無闇むやみおこらないやうにしなよ、面倒めんだうてね」

「それから、わしもおかみさん、こうして独りで辛抱してるんでがすが、わしらの女房も死ぬ時には子供らのことは心配したんでがすからね。それからわしも、おつうが行きたいと言うもんだからお針にもやりますしね。たすきなんぞもほしいほしいと言うもんだから、わしらみたいな貧乏人には余計なもんではありますが、赤いのを買ってやったんでがす。こういうことをして、おかみさんの所へも小作の借りも持って来ないで済まないんですが、女房のひとえ物も質に入れてたのを出してやったんでがすがね。畑へなんぞ出るのにはあまり過ぎ物なんだが、それ一枚きりだから、わしも構わないで見てるのさ。そんだがおかみさん、不思議と汚しませんからね」

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「それからわしもお内儀かみさん、うしてひとり辛抱しんばうしてんでがすが、わしかゝあときにや子奴等こめらこたあ心配しんぺえしたんでがすかんね、それからわしもおつうがきてえつちもんだからおはりにもりあんすしね、たすきなんぞもほしい/\つちもんだからわしてえな貧乏人びんばふにんにや餘計よけいなもんぢやありあんすがあけえのつてつたんでがさ、これさうだことしてお内儀かみさんとこへも小作こさくさがりつてねえでまねえんですが、かゝあ單衣物ひてえものしちえてたのしてつたんでがすがね、はたけへなんぞんのにやあんまものなんだが、それ一めえりだからわしもかまあねえでてんのせ、そんだがお内儀かみさん奇態きたえよごしあんせんかんね」

勘次は最後の一言に力を入れて言った。

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勘次かんじ最後さいごの一ちかられていつた。

「そうだよ、そうしてやれば励みが違うからね」

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「さうだよ、さうしてればはげみがちがふからね」

おかみさんは言って、また

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内儀かみさんはいつてまた

「おつぎもよく働けるようになったね。それだが、この間のような所を見ると、死んだお品が乗り移ったかと思うようさね」

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「おつぎもはたらけるやうにつたね、それだがあひだのやうなところるとんだおしなうつつたかとおもふやうさね」

「わしももう、あれのことには驚いたことがあるんでがすがね」

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「わしもはあ、あれがこたあ魂消たまげてつことあんでがすがね」

「そう言っちゃ何だが、お品もずいぶんお前では気をもんで苦労したこともあるからね」

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「さういつちやなんだがおしな隨分ずゐぶんまへぢや意地いぢいて苦勞くらうしたこともるからね」

「へえ、わしはもう怖くて仕方がないんですから。わしが出られない所へは女房ばかり出て出てしたんでがすから」

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「へえ、わしやはあ可怖おつかなくつてやうねえんですから、わしらんねえところへはかゝあばかりえ/\たんでがすから」

「そうだったねえ」

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「さうだつけねえ」

おかみさんは微笑して

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内儀かみさんは微笑びせうして

「おつぎは心持ちまでおふくろのほうだね。お前の姉だが、おつたはああいう性質なのに、一つ腹から出ても違うもんだね」

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「おつぎは心持こゝろもちまでおふくろはうだね、おまへあねだがおつたはあゝいふ性質たちなのに一つはらからてもちがふもんだね」

「わしらの姉はおかみさん、ろくでなしですからね」

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「わしあねはお内儀かみさん、ろくでなしですかんね」

彼は恥じて、そうして自分を庇うように、その姉というのを卑下して、ひがんだような苦笑を敢えてした。

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かれぢてさうして自分じぶん庇護かばふやうにあねといふのを卑下くさしてひがんだやうな苦笑くせうあへてした。

「おつたは今どこにいるね」

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「おつたはいま何處どこるね」

「下のほうにいますがね。わしは行き来なしでさ。同胞だとは思わないからと、わしが断ったんでがすから。わしらの女房が死んだ時だって来もしないんですからね。おかみさん、そういう者はありますまいね」

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しもほうあんすがね、わしは往來いきゝなしでさ、同胞きやうでえだたあおもはねえからつてわしことわつたんでがすから、わしかゝあんだときだつてもしねえんですかんね、お内儀かみさんさうえもなりあんすめえね」

「そうだったっけかね」

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「さうだつけかね」

「わしは姉には、とうとう小作に持って行こうと思ってたのを一俵ぺてんに掛けられたことがあるんですから。自分のを始末すればすぐ返すからと持って行って、それっきりなんでさ。わしらの女房が生きてるころなもんだから、女房がとろっぴ催促に行き行きしたんだが、なくちゃやられないからと喧嘩を吹っかけるっていうんだから、女房も忌々しがっていたが、先方が不法なんだからだめでさね。それどころじゃない、盲になった自分の餓鬼の銭さえ騙して叩くんだから」

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「わしや、あねにや到頭たうとう小作こさくつてくべとおもつてたの一ぺうぺてんにけられたことあんですから、自分じぶんのが始末しまつすればすぐけえすからつてつてつてそれつりなんでさ、わしかゝあきてるころなもんだから、かゝあとろつぴ催促せえそくき/\したんだが、くつちやらんねえからつて喧嘩けんくわかけるつちんだからかゝあ忌々敷えめえがしがつてたがさき不法ふはふなんだから駄目だめでさね、それどこぢやねえ、盲目めくらつた自分じぶん餓鬼がきぜにせえだましてはたくんだから」

「盲というのはどうしたんだね、それは」

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盲目めくらといふのはどうしたんだねそれは」

「野田へ醤油屋奉公に行っていて、あまり飯を食い過ぎたのが原因で目へ出たなんて言うんですが、二十くらいで潰れちまったんでさ。そうしたら、それをうっちゃって夜逃げみたいにさ、まるで。自分の村にだっていられなくなったんでがすから」

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野田のだ醤油屋奉公しやうゆやばうこうつてゝあんまめしぎたの原因もとたなんていふんですが、廿位はたちぐれえつぶれつちやつたんでさ、さうしたらそれ打棄うつちやつて夜遁よにてえせまるで、自分じぶん村落むらにだつてらんなくつたんでがすから」

「そういうことがねえ、よくできたもんだね。自分の本当の子をねえ、まあ。おつたはひどいということは聞いてはいたがねえ」

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「さういふことがねえ、出來できたもんだね、自分じぶん本當ほんたうをねえまあ、おつたはひどいといふことはいちやたがねえ」

おかみさんは驚いた様子で言った。

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内儀かみさんはおどろいた容子ようすでいつた。

「そんだが、おかみさん、その盲が不思議で、麦搗きでも米搗きでも畑を耕すのでも、何でも百姓仕事はやるんでさ。薄明かりには見えるんだなんて言うんだが、そんでも不思議なのさ、どうも。そんで、ごく堅い者だから他人にも面倒を見られて、それくらいだから銭も持ってるんでさ。そうしたらどこで聞いたか来て騙して連れて行ってね。ええ、わしらの姉さえ、おかみさん」

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「そんだがお内儀かみさんその盲目めぐら奇態きたえで、麥搗むぎつきでも米搗こめつきでも畑耕はたけうねえでもなんでも百姓仕事ひやくしやうしごとんでさ、うすあかりにやえんだなんていふんだがそんでも奇態きたえなのせどうも、そんでてえもんだから他人ひとにも面倒めんどうられてくれえだからぜにつてんでさ、さうしたら何處どこいたかだましてれてつてね、えゝわしらあねせお内儀かみさん」

彼は目をつり上げた。

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かれそばだてた。

「盲もさすがにおふくろだから、不自由になっちゃ他人の所なんぞよりはいいと思ったんでしょうね。そうしたらおかみさん、盲が銭を叩いちまったらまたうっちゃって。聞いてみちゃひどい話なのさ、本当に。その時には盲もわしの所へ泣きついて来て、わしももう、二十過ぎにもなっていくらなんだって騙されるなんて、盲のことも忌々しいようでがしたが、わしもその時は女房に死なれた当座なもんだから、そう薄情なこともできないと思って。そんでも一晩泊めて、わしも困ってはいたが、穀物もちっとはやったのさ。わしはおかみさん、女房を殺してからというものは、乞食にだって手づかみで物を出したことはないんでがすからね。そら、おつうにももう断っておくんでがすから。わしはおかみさん、それだけは心掛けてるんでがすよ」

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盲目めくら有繋まさかふくろだから畸形かたわつちや他人ひととこなんぞよりやえゝとおもつたんでがせうね、さうしたらお内儀かみさん盲目めくらぜにはたいつちやつたらまた打棄うつちやつて、いてちやでえはなしなのせ本當ほんたうに、そんときにや盲目めくらもわしがとこきついてて、わしもはあ、二十先はたちさきにもつていくらなんだつてだまさつるなんて盲目めくらことも忌々敷えめえましいやうでがしたが、わしもときかゝあなれた當座たうざなもんだからさう薄情はくじやうなことも出來できねえとおもつて、そんでも一ばんめて、わしもこまつちやたがこくもちつたあつたのせ、わしやお内儀かみさんかゝあおつころしてからつちものは乞食こじきげだつて手攫てづかみでものしたこたあねえんでがすかんね、そらおつうげもはあことわつてくんでがすから、わしやお内儀かみさんだけ心掛こゝろがけてんでがすよ」

勘次は、おかみさんの心の裡に潜んでいる何物かを求めるような態度で言った。

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勘次かんじ内儀かみさんの心裡こゝろ伏在ふくざいして何物なにものかをもとめるやうな態度たいどでいつた。

「そうだともさね。そういう心掛けでいさえすりゃ、けっして間違いはないからね」

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「さうだともさね、さういふ心掛こゝろがけさへすりやけつして間違まちがひはないからね」

おかみさんは言って、さらにさっきからの話にいくらか釣り込まれているようで

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内儀かみさんはいつてさら以前いぜんからのはなしいくらかまれてるやうで

「そりゃそうと、その盲はどうしたね」

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「そりやさうとその盲目めくらはどうしたね」

「村にいますさ。どこと言ったって行き場所はないんですから。なあに、独りでさえありゃ、かえって懐はいいんでがすから」

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村落むらあんさ、何處どこつちつたつて場所ばしよはねえんですから、なあにひとりでせえありやけえつてふところはえゝんでがすから」

「それはまあ、おつたはそうとしても、それがさ、彦次はどうしたんだね。私もおつたのことはしばらく前に見たっきりだが」

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「それはまあ、おつたはさうとしても、それがさ、彦次ひこじはどうしたんだね、わたしもおつたのことはしばらまへたつきりだが」

「おかみさん、夫婦揃ってなくっちゃやれるもんじゃありませんぞ。親父だっておかみさん、自分の女の子を女郎に売って百五十円とか言いましたっけが、その帰りに軍鶏喧嘩に引っ掛かって七十円も奪られて来たっていうんでがすから、話にはならないですよ。そっから、わしは姉ら夫婦のことは大嫌いなんでさあ」

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「お内儀かみさん、夫婦ふうふそろつてなくつちやれるもんぢやありあんせんぞ、親爺おやぢだつてお内儀かみさん自分じぶんあま女郎ぢよらうつて百五十りやうとかだつていひあんしたつけがそれけえりに軍鷄喧嘩しやもげんくわかゝつて、七十りやうられてたつちんでがすからはなしにやんねえですよ、そつからわしや姊等夫婦あねらふうふのこたあ大嫌だえきれえなんでさあ」

「本当とは思えないようなことだね」

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本當ほんたうとはおもへないやうなことだね」

「おかみさん、本当ですともね。わしは嘘なんざおかみさんに言いませんから」

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「お内儀かみさん本當ほんたうですともね、わしあちくなんざお内儀かみげいひあんせんから」

「そりゃ本当には相違ないだろうがね」

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「そりや本當ほんたうにや相違さうゐないだらうがね」

「そんだが、おかみさん、その女の子もすぐ逃げて来ちまいましたね。今じゃ何とか言って、いやなら構わないそうでがすね」

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「そんだがお内儀かみさん、そのあますぐげてつちめえあんしたね、いまぢやなんとかつてだらかまあねえさうでがすね」

「私もそんなことは知らないが、新聞で騒ぎはあったようだったね」

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わたしもそんなことはらないが、新聞しんぶんさわぎはあつたやうだつけね」

おかみさんは、どこかそういう話には気が乗らないようで

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内儀かみさんは何處どこかさういふはなしにはのらぬやうで

「おつたも見たところじゃ体裁がよくてね」

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「おつたもところぢや體裁ていさいがよくてね」

「そうなんでさ。うまいもんだから、わしもとうとう米一俵損させられちまって」

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「さうなんでさ、うまいもんだからわしも到頭たうとうこめぺうそんさせられちやつて」

勘次はそれを言うたびに、惜しそうな様子が見えるのである。

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勘次かんじはそれをいふたびさう容子ようすえるのである。

「そう言っちゃお前の姉のことを悪くばかり言うようだが、舅が鬼怒川へ落ちて死んだなんて大騒ぎしたことがあったっけねえ」

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「さういつちやおまへあねのことわるくばかりいふやうだが、しうと鬼怒川きぬがはちてんだなんて大騷おほさわぎしたことがつたつけねえ」

「そうでさ。よっぽどになりますがね。ありゃ鬼怒川へ蚤を叩くと言って行って、それっきりになっちまったのさ」

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「さうでさ、ぽどりあんすがね、ありや鬼怒川きぬがはのみはたくつてつてそれつりにつちやつたのせ」

「彦次は実の子なんだね」

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彦次ひこじ實子じつしなんだね」

「ええ、しばらく目が不自由で、別に小さく作って隠居してたんですが、蚤はいた様子なんでがすね。一度なんざあ畑のそばで叩いたら、そこらを通った人がみんなぞよぞよとはい上がられてひどい目に遭ったっていうんですから。そんで、そこらで叩いちゃ仕方がないからなんて言われたんでしょうね。それから何でも、ござを持って鬼怒川へ行くつもりになったんでがすね。鬼怒川まではさすがによっぽどありますさね。足元が本当じゃないから、ずぶりとのめっちまったもんでさ。本当にあっけない話で。それ、おかみさん、わしらの姉は、他人が死骸を見つけて大騒ぎして知らせに来たら、すぐもう死人の着物から始末して掛かったっていうんですから」

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「えゝ、しばら不自由ふじいうべつちひさくつくつて隱居いんきよしてたんですが、のみ容子ようすなんでがすね、一なんざあはたけそばたてえたら其處そことほつたひとみんなぞよ/\あがられてでえつたちんですから、そんで其處そこらでたてえちややうねえからなんてはれたんでがせうね、それからなんでもござつて鬼怒川きぬがはつもりつたんでがすね、鬼怒川きぬがはまでは有繋まさがぽどありあんさね、あしもとが本當ほんたうぢやねえからずんぶらのめつちやつたもんでさ、本當ほんたう飽氣あつけねえはなしで、それお内儀かみさんわしあね他人ひと死骸しげえ見付めつけて大騷おほさわぎしてらせにたら、すぐはあ死人しにん衣物きものから始末しまつしてかゝつたつちんですから」

「自分で取ってしまうつもりなんだね」

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自分じぶんつてしまつもりなんだね」

「兄弟らに分けてなんざあやらないつもりなんでさね」

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兄弟等きやうでえらけてなんざあんねえつむりなんでさね」

「着物だっていくらもないんだろうがね。それにまあ、どうして川へなんて、そんな遠くへござばかり持ってね。行くうちにはいた蚤もみんな飛んでしまうだろうがね。まあそういうのも巡り合わせだね」

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衣物きものだつていくらもいんだらうがね、それにまあどうしてかはへなんて其麽そんなとほくへござばかりつてね、くうちにやのみもみんなんでしまふだらうがね、まあさういのもめぐあはせだね」

「もう耄碌してたんでがすから。あんまり耄碌しちゃ嫌がられますからね」

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「はあ耄碌まうろくしてたんでがすから、あんまり耄碌まうろくしちやがられあんすかんね」

「嫌がられるって、お前そんなものじゃないよ。舅だもの、婿だの娘だのというものは、余計に気をつけなくちゃならないものなんだね」

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いやがられるつておまへそんなものぢやないよ、しうとだもの、婿むこだのむすめだのといふものは餘計よけいをつけなくちやらないものなんだね」

おかみさんはたしなめるように言った。

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内儀かみさんはたしなめるやうにいつた。

「そりゃそうですがね、おかみさん」

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「そりやさうですがね、お内儀かみさん」

勘次は何だか隠しごとでも暴かれたように慌てて言って、そうして苦笑した。

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勘次かんじなんだが隱事いんじでもあばかれたやうにあわてゝいつてさうして苦笑くせうした。

「おつたは本当に舅にはよくしなかったそうだな。自分らのほうの餡には砂糖を入れても、舅のほうへは砂糖を入れなかったなんて、しばらく前に聞いたっけが」

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「おつたは本當ほんたうしうとくしなかつたさうだな、自分等じぶんらはうあんへは砂糖さたうれてもしうとはうへは砂糖さたうれなかつたなんてしばらまへいたつけが」

おかみさんは独りで低い声で言った。

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内儀かみさんはひとり低聲こごゑにいつた。

「どうでしたかね、それは」

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「どうでがしたかねそれは」

勘次はさっきの様子とは違って、にわかに庇いでもするような態度で言った。

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勘次かんじ先刻さつき容子ようすとはちがつて、にはか庇護かばひでもするやうな態度たいどでいつた。

「そんなにしなくたって、いくらも生きやしない老人のことをな」

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「そんなになくつたつていくらもきやしない老人としよりのことをな」

おかみさんはつくづくとまた言った。

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内儀かみさんはつくづくまたいつた。

勘次は余計にしおれた。

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勘次かんじ餘計よけいしをれた。

「勘次も、銭は自分の手から湧かすようにして辛抱してりゃ、つらいことばかりはないから。何でも人間は子供次第だよ。後で厄介にならなくちゃならないんだから、子供の面倒を見ないのは間違いだよ」

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勘次かんじぜに自分じぶんからわかすやうにして辛抱しんばうしてりやつらいことばかりいから、なんでも人間にんげん子供次第こどもしだいだよ、あと厄介やくかいらなくちやらないんだから子供こども面倒めんだうないな間違まちがひだよ」

おかみさんは励ますように、そうしてしんみりと言った。

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内儀かみさんははげますやうにさうしてしんみりといつた。

しばらく話が途切れた時、勘次は突然

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しばらはなし途切とぎれたとき勘次かんじ突然とつぜん

「おかみさん、変なことを聞くようでがすが、帯にする布切れはどのくらいあったらいいもんでしょうね」

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「お内儀かみさんへんなことくやうでがすがおびにする布片きれはどのくれえつたらえゝもんでがせうね」

と聞いた。

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いた。

「おつぎにでも締めさせるのかい」

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「おつぎにでもめさせるのかい」

「へえ、今のが古くていやだなんてねだられて、いつでもわしは怒るんでがすが。おかみさんの所へも不義理ばかりして、そんな所じゃないと言って聞かせても、みんな赤いのを締めてるもんだから、ほしくて仕方がないんでさ」

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「へえ、いまのがふるくつてだなんて強請ねだれんで、何時いつでもわしおこるんでがすが、お内儀かみさんとこへも不義理ふぎりばかりしてそんなところぢやねえつてつてかせても、みんなあけえのめてるもんだからしくつてやうねえんでさ」

「そうだね、帯はまあ一丈っていうんだが、そこらの子の締めるのはどんなものだかさね」

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「さうだね、おびはまあ一ぢやうつていふんだが、其處そこらのめるのは什麽どんなものだかさね」

「わしらのおつうは、それ、四尺もあればいいっていうんですがね。それだから、わしはおかみさんにでも聞かないじゃ分からないと思って」

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「わしらおつうはそれ四しやくもあればえゝつちんですがね、それだからわしお内儀かみさんにでもかねえぢやわかんねえとおもつて」

「そうさ、なるほど。外へ出る所だけあればいいんだから、それには四尺もあったらたくさんだね。こうこっちばかりつければね」

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「さうさ成程なるほどそとところだければいんだから、それにや四しやくもあつたら澤山たくさんだね、うこつちばかりければね」

おかみさんは自分の帯へ手を当ててみて言った。

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内儀かみさんは自分じぶんおびてゝていつた。

「それおかみさん、両方へつけるんだって、こういうふうに縛って中へたぐめた端っこが赤くなくちゃみっともないってね。そんな所はどうでもよかろうと思うんだが、もっともそこは一尺でいいなんて言うんでさ」

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「それお内儀かみさん、兩方りやうはうけんだつてういにしばつてなかへたぐめたはじあかくなくつちやつともねえつてね、そんなところどうでもよかんべとおもふんだが、もつと其處そこは一しやくでえゝなんていふんでさ」

「なるほどね。私らは今までそういうことには気がつかなかったが、結び目も仕事するんだからそんなに大きくなくたって構わないし、四尺五寸もあればまるで新しいように見えるんだね」

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成程なるほどね、私等わたしらいままでさういふことにやかなかつたが、むす仕事しごとするんだから其麽そんなおほきくなくつたつてかまはないし、四しやくすんもあればまるあたらしいやうにえるんだね」

「そんで、おかみさん、どのくらいしたもんでしょうね、銭は。たんと出るんじゃもう仕方がないが」

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「そんでお内儀かみさん、どのくれえしたもんでがせうねぜには、たんとんぢやはあやうねえが」

勘次は危ぶむように言った。

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勘次かんじあやぶむやうにいつた。

「いくらもしないね、それだけじゃ」

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いくらもしないね、だけぢや」

「そんでも、おおよそまあどのくらいしたもんでしょうね」

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「そんでも大凡おほよそまあどのくれえしたもんでがせうね」

勘次はまた繰り返して促した。

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勘次かんじまた反覆くりかへしてうながした。

「唐縮緬も近ごろじゃ安くなったから、一尺十二、三銭くらいのものかね。上等で十四、五銭しかしないだろうね」

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唐縮緬たうちりめん近頃ちかごろぢややすくなつたから一しやく十二三錢位せんぐらゐのものかね、上等じやうとうで十四五せんしかしないだらうね」

「そうでがすか。わしはまた大変出るんだとばかり思ってました」

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「さうでがすか、わしやまた大變たいへんんだとばかしおもつてあんした」

「それも反物になってるのを切らせてそうだよ。それからもっと安くもできるのさ。村の店なんぞじゃ銭ばかり取って、虱が潜りそうなのでね」

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「それも反物たんものつてるのをらしてさうだよ、それからもつとやすくも出來できるのさ、むらみせなんぞぢやぜにばかりとつてしらみもぐさうなのでね」

おかみさんは微笑した。

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内儀かみさんは微笑びせうした。

「そういう短いのは端布で買うに限るのさ。いくらにもつかないもんだよ。私が近ごろ出るついでもあるから、買って来てやってもいいよ」

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「さういふみじかいのは端布片はしぎれふにかぎるのさ、いくらにもつかないもんだよ、わたし近頃ちかごろついでもあるからつてつてもいよ」

「そうですか。そんじゃおかみさん、どうかそうしておくんなせえ。おかみさんに見てもらいさえすりゃ大丈夫でがすから。なあに、赤くさえありゃどんなんでも構わないんでがすがね」

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「さうですか、そんぢやお内儀かみさんどうかさうしておくんなせえ、お内儀かみさんにもれえせえすりや大丈夫だえぢようぶでがすから、なあにあかくせえありや什麽どんなんでもかまあねえんでがすがね」

「一日お前が日雇いに来さえすりゃそれだけは出てしまうから、ほしいというものならこしらえてやるがいいよ。そりゃほしいはずさ、おつぎも明ければ十八になるんだったね」

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「一にちまへ日傭ひようさへすりやそれだけしまふから、しいといふものならこしらへてるがいよ、そりやしいはずさおつぎもければ十八にるんだつけね」

おかみさんは同情して言った。

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内儀かみさんは同情どうじやうしていつた。

「わしに怒られるもんだから、陰でぐずぐず言って困るんでさ」

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「わしにおこらつるもんだからかげでぐず/\つてこまんでさ」

勘次はさらに

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勘次かんじさら

「そんじゃまあよかった。わしらはそんなことはちっとも分からないから、それでもうおかみさんに聞いてみようと思ってたのさ」

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「そんぢやまあかつた、わしそんなこたあちつともわかんねえから、それからはあお内儀かみさんにいてんべとおもつてたのせ」

と言って、どことなくそわそわと喜ばしさを抑えられないもののようである。

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といつて何處どことなくそわ/\とよろこばしさをきんないものゝごとくである。

「女の子はこれで飾りだから、他人にも見られるからね」

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をんなれでかざりだから他人ひとにもられるからね」

おかみさんは懇ろに言った。

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内儀かみさんはねんごろにいつた。

「わしらは自分じゃどんなぼろだって構わないが、これで女の子にはねえ。わしもこれで、おかみさんに聞くまでには心配しましたよ」

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「わし自分じぶんぢや什麽どんな襤褸ぼろだつてかまあねえがれであまにやねえ、わしもこんでお内儀かみさんにまでにや心配しんぺえしあんしたよ」

勘次は、わずかな帯のことが大きな事件の解決でも与えられたように、心の底から勢いづいて、おかみさんの前に感謝した。

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勘次かんじわづかおびのことがおほきな事件じけん解決かいけつでもあたへられたやうにこゝろそこからいきほひづいて内儀かみさんのまへ感謝かんしやした。

一一

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一一

勘次はきわめて狭い周りを持っている。

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勘次かんじきはめてせま周圍しうゐいうしてる。

しかし彼のやせた小さな体は、その狭い周りと反発しているような関係が、自然に成り立っている。

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しかかれせたちひさな體躯からだは、せま周圍しうゐ反撥はんぱつしてるやうな關係くわんけい自然しぜん成立なりたつてる。

彼はけっして他人と争いを起こした例もなく、むしろきわめて穏やかな態度を保っている。

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かれけつして他人たにん爭鬪さうとうおこしたためしもなく、むしきはめて平穩へいをん態度たいどたもつてる。

ただ彼らのような貧しい暮らしの者は、互いに疑いと嫉妬との目をつり上げている。

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たゞ彼等かれらのやうなまづしい生活せいくわつもの相互さうご猜忌さいぎ嫉妬しつととのそばだてゝる。

勘次は異常な労働によって報酬を得ようとする一方で、一銭といえども容易にその懐を減らすまいとのみ心掛けている。

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勘次かんじ異常いじやう勞働らうどうによつて報酬はうしうようとする一ぱうに一せんいへど容易よういふところげんじまいとのみ心懸こゝろがけてる。

彼らのような低い階級の間でも、互いの付き合いを少しでも壊さないようにするには、そこには必ず、それに対して金銭の若干が犠牲にされねばならない。

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彼等かれらのやうなひく階級かいきふあひだでも相互さうご交誼かうぎすこしでもやぶらないやうにするのには、其處そこにはかならそれたいして金錢きんせん若干じやくかん犧牲ぎせいきようされねばならぬ。

絶対にその犠牲を惜しむ者は、他人の憎しみを買うに至らないまでも、互いの間は疎遠にならねばならない。

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絶對ぜつたいその犧牲ぎせいをしむものは憎惡ぞうをふにいたらないまでも、相互さうごあひだ疎略そりやくにならねばならぬ。

しかしそんなことは、勘次を苦しめてその卑しい心の何かを引き戻す力を持っていないのみでなく、ほとんど何の響きも彼の心に伝えるものではない。

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しか其麽そんなことは勘次かんじくるしめてのさもしいこゝろあるもの挽囘ばんくわいさせるちからいうしてないのみでなく、ほとんどなんひゞきをもかれこゝろつたふるものではない。

彼はただ、その日その日の暮らしが自分の心にいくらでも余裕を与えてくれればとのみ焦っているのである。

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かれたゞ/\の生活せいくわつ自分じぶんこゝろいくらでも餘裕よゆうあたへてれればとのみ焦慮あせつてるのである。

彼の心を満足させる程度は、たとえば目の前にある低い竹の垣根を壊して、一歩足をその中に踏み入れるだけのことに過ぎないのである。

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かれこゝろ滿足まんぞくせしめる程度ていどは、たとへば目前もくぜんひくたけ垣根かきね破壤はくわいして一あしその域内ゐきないあとつけるだけのことにぎないのである。

しかも竹の垣根は朽ちている。

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しかたけ垣根かきねちてる。

朽ちた低い竹の垣根は、その強い手の力をもって壊すのに何の造作もないはずであるが、手の先を触れさせることさえできないでいるのである。

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ちたひくたけ垣根かきねつよ筋力きんりよくもつ破壤はくわいするになん造作ざうさもないはずであるが、先端せんたんれしめることさへ出來できないでるのである。

彼は長い時間、氷雪の間を渡った後、一杯の冷たいつるべの水を注ぐことによって、快い暖かさをその赤くなった足に感じるように、わずかな何かが彼の顔面のひがんだ筋を伸ばすのに十分であるのに、彼はその冷水の一杯さえ空しく求めつつあったのである。

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かれなが時間じかん氷雪ひようせつあひだわたつたのち、一ぱいつめたい釣瓶つるべみづそゝぐことによつてこゝよよい暖氣だんきあかつたあしかんずるやうに、僅少きんせうあるものかれ顏面がんめんひがんだすぢのべるに十ぶんであるのに、かれ冷水れいすゐの一ぱいをさへむなしくもとめつゝあつたのである。

自然にできあがっている階級の違いを持っている者、または長い間彼の暮らしの内情を知り尽くしている者からは、彼は同情の目をもって見られているけれども、こせこせとしたその態度と、疑い深そうなその顔つきとは、そこに憎むべき何物も存在していないにしても、とうてい彼らの仲間のすべてと溶け合うべき理由のものではない。

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自然しぜんかたちづくられて階級かいきふ相違さうゐいうしてものまたながあひだかれ生活せいくわつ内情ないじやう知悉ちしつしてものからはかれ同情どうじやうまなこもつられてるけれども、こせ/\とした態度たいどと、狐疑こぎしてるやうなその容貌ようばうとは其處そこあへ憎惡ぞうをすべき何物なにもの存在そんざいしてないにしても到底たうてい彼等かれら伴侶なかますべてと融和ゆうわさるべき所以ゆゑんのものではない。

彼は彼らの仲間にあっては、幾度か言いふらされているとおり、水に落とした菜種油の一滴である。

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かれ彼等かれら伴侶なかまつては、幾度いくたびかいひふらされてごとみづおとした菜種油なたねあぶらの一てきである。

水が動く時、油は従って動かねばならない。

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みづうごときあぶらしたがつてうごかねばらぬ。

水が傾く時、油はまた傾かねばならない。

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みづかたむときあぶらまたかたむかねばらぬ。

しかし水が静けさを保つ時、油はさらに恐れたように一か所に凝り固まる。

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しかみづ平靜へいせいたもときあぶらさらおそれたやうに一しよ凝集ぎようしふする。

両者の間には何もその性質を変えさせるべき働きが起こるでもなく、それは水が油をのけ者にするのか、油が水を弾くのか、ついに溶け合う機会がないのである。

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兩者りやうしやあひだには何等なんら性質せいしつ變化へんくわせしむべき作用さようおこるでもなく、れはみづあぶら疎外そぐわいするのか、あぶらみづ反撥はんぱつするのかつひ機會きくわいいのである。

これをかき乱す他の力が加えられなければ、両者はただ静かである。

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これ攪亂かうらんするちからくはへられねば兩者りやうしやたゞ平靜へいせいである。

村の空気が静かであるように、勘次と他のすべてとの間もきわめて静かで、それで相容れないのである。

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村落むら空氣くうき平靜へいせいであるごとく、勘次かんじすべてとのあひだきはめて平靜へいせいでそれであひいれないのである。

勘次はその菜種油のように、櫟林と接しながら村の西の端に片寄っていて、親子三人がただ凝り固まったような状態を保って落ち着いているのである。

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勘次かんじ菜種油なたねあぶらのやうに櫟林くぬぎばやしあひせつしつゝ村落むら西端せいたん僻在へきざいして親子おやこにんたゞ凝結ぎようけつしたやうな状態じやうたいたもつて落付おちついるのである。

偶然に起こった彼の恥知らずな行いが、にわかに村の耳目を驚かせても、とにもかくにも一家を処理して行かねばならないすべての者は、彼らに共通な聞きたがり知りたがる性情に駆られながらも、むしろ地味で移り気な心が、際限もなく一つを追うには、年齢があまりに彼らを冷静な方向に傾かせている。

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偶然ぐうぜんおこつたかれ破廉耻はれんち行爲かうゐにはか村落むら耳目じもく聳動しようどうしても、にもかくにも一處理しよりしてかねばならぬすべてのものは、彼等かれら共通きようつうきたがりりたがる性情せいじやうられつゝも、むし地味ぢみ移氣うつりぎこゝろ際限さいげんもなくひとつをふには年齡ねんれいあまり彼等かれら冷靜れいせい方向はうかうかたむかしめてる。

それでなくても、その知りたがり聞きたがる性情を刺激すべきことは、些細であるとはいいながら次々に彼らの耳に聞こえるので、勘次のみが問題ではなくなるのである。

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それでなくてもりたがりきたがる性情せいじやう刺戟しげきすべきことは些細ささいであるとはいひながらあひつい彼等かれらみゝきこえるので勘次かんじのみが問題もんだいではくなるのである。

しかしながら、若い衆と呼ばれる青年の一部は、勘次の家に絶えず注目を怠らない。

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しかしながらわかしゆしようする青年せいねんの一勘次かんじいへ不斷ふだん注目ちうもくおこたらない。

それは、おつぎの姿を忘れ去ることができないからである。

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れはおつぎの姿すがたわすることが出來できないからである。

かりそめにも血の巡りが彼らの体に止まらないかぎりは、いったん心に映った女の姿を、めいめいの胸から消し去ることは不可能でなければならない。

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苟且かりそめにも血液けつえき循環じゆんくわん彼等かれら肉體にくたい停止ていしされないかぎりは、一たんこゝろうつつたをんな容姿かたち各自かくじむねから消滅せうめつさせることは不可能ふかのうでなければならぬ。

しかし彼らは、一方に持っている矛盾した恥じらいの念に抑えられて、燃えるような心からひそかに、はかない目の光を主として夜に向かって注ぐのである。

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しか彼等かれらは一ぱういうして矛盾むじゆんした羞耻しうちねんせいせられてえるやうな心情しんじやうからひそか果敢はかないひかりしゆとしてむかつてそゝぐのである。

夜は彼らの世界である。

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彼等かれら世界せかいである。

熟練な漁師は、大海の波に任せて舷から縄につないだ壺を沈める。

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熟練じゆくれん漁師れふし大洋たいやうなみまかせてこべりからなはいだつぼしづめる。

その縄をたぐって、沈めた赤い素焼きの壺が再び舷に引きつけられる時、そこにはじっとして蛸が足の吸盤で内側に吸いついている。

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なはさぐつてしづめたあか土燒どやきつぼふたゝこべりきつけられるとき其處そこには凝然ぢつとしてたこあしいぼもつ内側うちがはひついてる。

こうして漁師は、鋭い目をもって獲物を外さない道を、波の間に極めているのである。

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うして漁師れふし烱眼けいがんもつ獲物えものあやまたぬみちなみあひだきはめてるのである。

わずかな村の中で、毎日すべての目に見慣れている女の居場所を狙うことは、蛸壺を沈めるような、そんな、むしろあてどもないものではない。

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わづか村落むらうち毎日まいにちすべてのじゆくしてをんな所在ありかねらふことは、蛸壺たこつぼしづめるやうな其麽そんなむしろあてどもないものではない。

木の葉が陰を落としてくれない冬の夜には、狙って歩く彼らは自分の恥じらいの心を、頭からどてらで覆っている。

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陰翳かげとしてれぬふゆにはねらうてある彼等かれら自分じぶん羞耻心しうちしんあたまから褞袍どてらおほうてる。

短い夜のころでも、朝の眠たさがてきめんに自分を苦しめるにもかかわらず、うそうそと歩いてみなければ、臭い古ぼけた蚊帳の中に諦めてその身を横たえることができないのである。

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みじかころでも、あさねむたさが覿面てきめん自分じぶんたしなめるにもかゝはらずうそ/\とあるいてねばくさふるぼけた蚊帳かやなかあきらめてそのよこたへることが出來できないのである。

彼らが女の居場所を狙うのは、きわめて容易なもののようではありながら、蛸壺が少しの妨げもなく沈められるようではなく、父母の目が闇の夜にさえ光を放って、女を彼らから遮ろうとしている。

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彼等かれらをんな所在ありかねらふのはきはめて容易よういなもののやうではありながら蛸壺たこつぼすこしのさまたげもなくしづめられるやうではなく、父母ふぼやみにさへひかりはなつてをんな彼等かれらから遮斷しやだんしようとしてる。

彼らはそれで、目の光の及ぶ範囲内には自分の身を現さないで、目的を遂げようと苦心する。

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彼等かれらはそれでひかりおよ範圍内はんゐないには自分じぶんあらはさないで目的もくてきげようと苦心くしんする。

たとえてみれば、彼らは狭いとはいいながら跳んでは越せない堀を隔てて、しかも茂った野茨や川柳に身を沈めながら、女の柔らかい手を取ろうとするのである。

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たとへれば彼等かれらせばいとはいひながらはねてはせぬほりへだてゝ、かも繁茂はんもした野茨のばら川楊かはやなぎぼつしつゝをんなやはらかいらうとするのである。

それはとうてい、触れ合うことさえ不可能である。

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れは到底たうていあひれることさへ不可能ふかのうである。

焦れて堀を飛び越えようとしては、野茨の刺に肌を傷つけたり、泥に着物を汚したり、苦い失敗の味をなめねばならない。

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焦燥あせつてほりえようとしては野茨のばらとげ肌膚はだきずつけたり、どろ衣物きものよごしたりにが失敗しつぱいあぢめねばならぬ。

それゆえ彼らは、目立たないうちに巧みな手段を施そうとして、そこに工夫が凝らされるのである。

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ゆゑ彼等かれら隱約いんやくあひだ巧妙かうめう手段しゆだんほどこさうとして其處そこ工夫くふうこらされるのである。

すでに漁師の手に命を握られている蛸は、力を極めて壺の内側に張りつけば、どんなに強い手の力が袋のようなその頭を持って引こうとも、蛇が体の一部を穴に差し入れたように、ちぎれるまでも離れない。

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すで漁師れふし生命せいめいにぎられてたこちからきはめてつぼ内側うちがは緊着きんちやくすれば什麽どんなつよちからふくろのやうなあたまつてかうとも、へび身體からだの一あな揷入さうにうしたやうに拗切ちぎれるまでもはなれない。

刃物で突き刺しても同じである。

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刄物はものもつつあしてもどう一である。

蛸壺の底には必ず小さな穴が開けられてある。

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蛸壺たこつぼそこにはかならちひさなあな穿うがたれてある。

尻からふっと息を吹きかけると、蛸は驚いてするりと壺から逃げる。

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しりからふつといきけるとたこおどろいてするとつぼからげる。

それでもなお騙されない時は、小さな穴から熱湯をぽっちりと尻に注げば、蛸は必ず慌てて漁師の前に躍り出る。

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それでも猶旦やつぱりだまされぬときちひさなあなから熱湯ねつたうをぽつちりとしりそゝげばたこかならあわてゝ漁師れふしまへをどす。

熱い一滴によって、容易に蛸は騙されるのである。

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あつい一てきによつて容易よういたこだまされるのである。

たとえ見張りの目から逃れて女に近づいたとしても、打ち込んだ女の情が強ければ、蛸壺の蛸が騙されるようにころりと落とす工夫のつくまでは、男は忍耐と、むしろ危険とを併せて凌がねばならない。

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假令たとひ監視かんしからのがれてをんな接近せつきんしたとしても、んだをんなじやうこはければ蛸壺たこつぼたこだまされるやうにころりとおと工夫くふうのつくまではをとこ忍耐にんたいむし危險きけんとをあわせてしのがねばらぬ。

そうしてわずかに触れ合った男女が心から引き合う時、互いに他のすべてに対して恐れの念を抱きはじめるのである。

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さうしてわづかあひせつした兩性りやうせいこゝろからあひときあひたがひすべてにたいして恐怖きようふねんいだきはじめるのである。

空が夕日の消えて行く光を西の底深く閉ざしてしまって、薄い宵が地を低く覆って夜が来た時、女は井戸端で愉快に唄いながら、一種の調子を持った手の動かしようをして米を研ぐ。

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そら夕日ゆふひひかり西にしそこふかとざしてしまつて、うすよひひくおほうていたつたときをんな井戸端ゐどばた愉快ゆくわいうたひながら一しゆ調子てうしつたうごかしやうをしてこめぐ。

女は研ぎ桶と唄との二つの音が入り交じりつつある間にも、木陰にたたずむ男の気配を悟るほど、耳の神経が高ぶっている。

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をんな研桶とぎをけうたとの二つのこゑ錯綜さくそうしつゝあるあひだにも木陰こかげたゝずをとこのけはひをさとほどみゝ神經しんけい興奮こうふんしてる。

それが涼しい夏の夜で、女が男を待つ時には、毎日汗に汚れやすい、そうしてその飾りでなければならない手拭いの洗濯に手間取るのである。

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れがすゞしいなつをんなをとこときには毎日まいにちあせよごやすいさうしてかざりでなければらぬ手拭てぬぐひ洗濯せんたくひまどるのである。

庭の木陰に身を避けて、しんみりと互いの胸を繰り返す時、茂った柿や栗の木は彼らの唯一の味方で、月夜でさえ深い陰が安全に彼らを包む。

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には木陰こかげけてしんみりとたがひむね反覆くりかへとき繁茂はんもしたかきくり彼等かれらゆゐ一の味方みかた月夜つきよでさへふか陰翳かげ安全あんぜん彼等かれらつゝむ。

空に冴えた月は、放り出してある手水だらいをのぞいては冷ややかに笑っている。

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そらえたつき放棄はうきしてある手水盥てうづだらひのぞいてはひやゝかにわらうてる。

彼らがあまりに手間取っていれば、月はこっそりと首を傾けて、木の葉の間からのぞいてみる。

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彼等かれらあまりにひまどつてればつきはこつそりとくびかたむけてあひだからのぞいてる。

それでもなお彼らがぐずぐずしていれば、彼らを庇っている木が柿の木であれば、こずえからまだ青い実を投げて、その瞬間、驚きやすい彼らが欺かれて、彼らの仲間のいたずらであるかを疑っては慌てて周りを見る時、茂った大きな葉が涼しい風にさやさやと微笑する。

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れでもなほ彼等かれら屈託くつたくしてれば、彼等かれら庇護ひごしてかきであればこずゑからまだあをげて、瞬間しゆんかんおどろやす彼等かれらあざむかれて、彼等かれら伴侶なかま惡戯あくぎであるかをうたがうてはあわてゝ周圍しうゐとき繁茂はんもしたおほきなすゞしいかぜにさや/\と微笑びせうする。

彼らはこうして、家の中から声を立てて激しく呼ばれるまでは、恐れ恐れも際限のない話にふけるのである。

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彼等かれらはかうしていへうちからこゑてゝはげしくばれるまではおそれ/\も際限さいげんのないはなしふけるのである。

彼らがそういう苦心の間に、次の日の体の疲れを犠牲にしてまでも、わずかな時間を向かい合っていながら、互いの顔も見ることができないで、低く殺した声にのみ満足するほかに、彼らは林の中に放たれた時、思い思われるすべてがひたすらに甘い味をむさぼるのである。

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彼等かれらがさういふ苦辛くしんあひだつぎ身體からだつかれを犧牲ぎせいにしてまでもわづか時間じかんあひたいしてながらたがひかほることが出來できないでひくころしたこゑにのみ滿足まんぞくするほかに、彼等かれらはやしなかはなたれたときおもおもはぬすべてが只管ひたすらあまあぢむさぼるのである。

林は彼らの天地である。

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はやし彼等かれら天地てんちである。

落ち葉をかくとて熊手を入れる時、彼らは連れ立って自在にさまようことが黙って許されてある。

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落葉おちばくとて熊手くまでれるとき彼等かれらあひともなうて自在じざい徜徉さまよふことが默託もくきよされてある。

しかし熊手の爪が速やかに木陰の土に跡をつける、その動きさえ、一度は一度と短い日を刻んで行くような冬の季節は、あまりに冷たく彼らの心を引き締めている。

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しか熊手くまでつめすみやかに木陰こかげつちあとつける運動うんどうさへ一は一みじかきざんでやうふゆ季節きせつあまりにつめたく彼等かれらこゝろめてる。

至る所、畑のとうもろこしが葉の間からもさもさと赤い毛を吹いて、その大きな葉がざわざわと人の心を騒がすようになると、男女の群れが長雨の後の茂った林の下草に、研ぎすました草刈り鎌の刃を入れる。

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いたところはたけ玉蜀黍たうもろこしあひだからもさ/\とあかいて、おほきながざわ/\とひとこゝろさわがすやうると、男女なんによむれ霖雨りんうあと繁茂はんもしたはやし下草したぐさぎすました草刈鎌くさかりがまれる。

初めは朝早くに馬のまぐさの一籠を刈るに過ぎないけれど、焼けるような日のもとに畑もようやく片がついて、村のすべてがみな草刈りに心を注ぐようになれば、若い同士が誘い合っては、遠く林の小道を分けて行く。

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はじめあさまだきにうままぐさの一かごるにすぎないけれど、くやうなのもとにはたやうやきまりがついて村落むらすべてがみな草刈くさかりこゝろそゝやうれば、わか同志どうしあひさそうてはとほはやし小徑こみちわけく。

そうして自分の天地に、その羽をいっぱいに広げる。

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さうして自分じぶん天地てんちそのはねを一ぱいひろげる。

どこを見てもただ深い緑に閉ざされた林の中に、彼らは唄う声によって互いの居場所を知ったり知らせたりする。

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何處どこてもたゞふかみどりとざされたはやしなか彼等かれらうたこゑつてたがひ所在ありかつたりらせたりする。

彼らのしおらしい者はそれでも、午前の何時間かを懸命に働いて、父なる者の小言を聞かないまでに厩のそばに草を積んでは、午後の何時間かを勝手に費やそうとする。

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彼等かれらのしをらしいものはそれでも午前ごぜん幾時間いくじかん懸命けんめいはたらいてちゝなるものゝ小言こごとかぬまでにうまやそばくさんでは、午後ごご幾時間いくじかん勝手かつてつひやさうとする。

一度でもしめやかに語り合った男女が出会えば、彼らは一切を忘れて、それでもさすがに人目だけはいとって、小道から一歩木の間に身を避ける。

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でもしめやかにかたうた兩性りやうせい邂逅であへば彼等かれらは一さいわすれて、それでも有繋さすが人目ひとめをのみはいとうて小徑こみちから一あひだける。

茂った青草が、そばを行く人にも知られないように、かがんだ彼らをいくらでも覆い隠す。

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繁茂はんもした青草あをぐさそばひとにもられぬやうかゞんだ彼等かれらいくらでもおほかくす。

彼らは決まった何の話も持っていないのに、快く冷たい土に座って、ついには手にした鎌の刃先で少しずつ土をほじくりながら、女は白い手拭いの端を微かに動かしては、うつむきながら微笑しながら、際限もなくそこにじっとしていようとする。

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彼等かれらきまつたなんはなしつてないのにこゝろよくつめたいつちすわつて、つひにはにしたかま刄先はさきすこしづゝつちをほじくりつゝをんなしろ手拭てぬぐひはし微動びどうさせては俯伏つゝぷしなから微笑びせうしながら際限さいげんもなく其處そこ凝然ぢつとしてようとする。

炒りつけるような油蝉の声が彼らの心を揺るがしては、鼻のつまったようなみんみん蝉の声が、その心を溶かそうとする。

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りつけるやう油蝉あぶらぜみこゑ彼等かれらこゝろゆるがしてははなのつまつたやうなみん/\ぜみこゑこゝろとろかさうとする。

藪蚊が彼らの日に焼けた赤い足へ針を刺して、尻がたわらぐみのように血を吸って膨れても、彼らはちくりと刺激を与えられた時に慌ててはたと叩くのみで、蚊が逃げようとも知らない顔である。

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藪蚊やぶか彼等かれらけたあかあしはりして、しりがたはら胡頽子ぐみやううてふくれても、彼等かれらはちくりと刺戟しげきあたへられたときあわてゝはたとたゝくのみでげようともらぬかほである。

暑い日が、草いきれで汗びっしりになっている彼らの体に、時刻が過ぎたと枝の間から強い光を投げかけて促すまでは、まれにはしびれた足を投げ出して、聞きも聞かせもしなくていい話を繰り返してのみいるのである。

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あつくさいきれであせびつしりにつて彼等かれら身體からだ時刻じこくぎたとえだあひだからつよひかり投掛なげかけてうながまでは、まれにはしびれたあし投出なげだしてきもかせもしなくてはなし反覆はんぷくしてのみるのである。

彼らはこうして時間を空しく費やしては、遠く近く蜩の声が一斉に忙しくめいめいの耳を騒がして、大きな紗で覆ったかと思うように薄い陰が世間を包むと、彼らは慌ててみな家路につく。

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彼等かれらうして時間じかんむなしくつひやしてはとほちかひぐらしこゑが一せいいそがしく各自かくじみゝさわがして、おほきなしやおほうたかとおもやううす陰翳かげ世間せけんつゝむと彼等かれらあわてゝみな家路いへぢく。

どうかしてあまりに遅れると、空の草刈り籠を逆さに背負って、歩けばざわざわと鳴るように、大きな籠の目へ楢や雑木の枝を差して、たそがれの庭に身を運んで、刈り積んだ青草の近くに籠を下ろす。

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どうかしてあまりにおくれるとから草刈籠くさかりかごさかしま脊負せおつて、あるけばざわ/\とやうに、おほきなかごなら雜木ざふきえだして黄昏たそがれにははこんで刈積かりつんだ青草あをくさちかかごおろす。

父なる者は、蚊柱の立つ厩のそばで、ぶるぶるとたてがみを震わせながら、ぱさりぱさりと尾で尻のあたりを叩いている馬に、まぐさを与えている。

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ちゝなるものは蚊柱かばしらたつてるうまやそばでぶる/\とたてがみゆるがしながら、ぱさり/\としりあたりたゝいてうままぐさあたへてる。

母なる者は、青い煙に満ちたかまどの前に立ってはすそをからげながら、明かりをつける余裕もなく、我が子をぶつぶつと待っている。

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はゝなるものはあをけぶり滿みちかまどまへつてはうづくまりつゝ、燈火ともしびける餘裕よゆうもなくをぶつ/\とつてる。

こうして忙しさに、楢や雑木の枝で欺いた手段が見つけられないのである。

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うしていそがしさになら雜木ざふきえだあざむいた手段しゆだん發見はつけんされないのである。

やましい女は、黙って何よりもまず空の手桶を持って井戸端へ駆けて行っては、ざあと水を汲んで、それから汁の実でも切れてなければ、慌ただしくとんとんと包丁の音を立てて、少しずつでも母なる者の小言から逃れようとする。

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うしろめたいをんなだまつてなによりもから手桶てをけつて井戸端ゐどばたけてつてはざあとみづんでそれからしるでもれてなければあわたゞしくとん/\と庖丁はうちやうひゞきてゝ、すこしづゝでもはゝなるものゝ小言こごとからのがれようとする。

狭い庭の垣根に、黄色い蝶がいくつも止まってしきりに羽を動かしているように、一つ一つにひらりひらりと開いては、夜目にもほっかりと匂っている月見草は、自分たちの夜が来たと、駆け歩いている女に対して懐かしそうに目を見開くのである。

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せまには垣根かきね黄色きいろてふいくつもとまつてしきりにはねうごかしてるやうに一つ/\にひらり/\とひらいては夜目よめにもほつかりとにほうて月見草つきみさう自分等じぶんらよるたと、あるいてをんなたいしてなつかさうみはるのである。

彼らのある者は、さらに夜の眠りにつく前に、戸口に近く蚊帳の裾にくるまっては、ひそかに雨戸の外に訪れる男を待とうとさえするのである。

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彼等かれらあるものさらよるねむりにまへ戸口とぐちちか蚊帳かやすそにくるまつてはひそか雨戸あまどそとおとづるゝをとこたうとさへするのである。

男は雨戸を開けて忍ぶ時、月が冴えていてさえためらわない。

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をとこ雨戸あまどけてしのときつきてさへ躊躇ちうちよせぬ。

彼はそれでも、畳の上に差し込む光をいとって、ひさしの近くにむしろを吊る。

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かれはそれでもた々みうへひかりいとうてひさしちかむしろる。

ゆがんだ戸がぎしぎしと鳴るのに、それが彼らの西瓜や瓜の畑を襲うころであれば、道端の草むらからくつわむしを捕って行って、雨戸の隙間から放つ。

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ゆがんだがぎし/\とるのにそれが彼等かれら西瓜すゐくわうりはたけおそころであれば道端みちばた草村くさむらから轡蟲くつわむしつてつて雨戸あまど隙間すきまからはなつ。

くつわむしは暗い中へ放たれれば、すぐに声を揃えて鳴く。

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轡蟲くつわむしくらいなかへはなたれゝば、たゞちこゑそろへてく。

土地でそれが一般にがしゃがしゃという名を与えられているだけ、やかましく、ただがしゃがしゃと鳴く。

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土地とちれが一ぱんにがしや/\といふ名稱めいしようあたへられてるだけやかましくたゞがしや/\とく。

がしゃがしゃが鳴き出せば、彼らは安心して雨戸をこじるのである。

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がしや/\がせば彼等かれらやすんじて雨戸あまどをこじるのである。

それからまた、箱を転がしたような、隔ての障子さえない小さな家で、女が男を導くとて、どうしても父母の枕元を過ぎねばならない時は、踏めばぎしぎしと鳴る床板に二人の足音を憚って、女は闇に男を背負うのである。

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それからまたはこころがしたやうな、へだての障子しやうじさへちひさないへをんなをとこみちびくとて、如何どうしても父母ちゝはゝ枕元まくらもとぎねばらぬときは、めばぎし/\と床板ゆかいた二人ふたり足音あしおとはゞかつてをんなやみをとこ脊負せおふのである。

そこには、たとえ重さが加えられても、それは巧みに疲れて眠い父母の耳を欺くのである。

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其處そこには假令たとへ重量ぢゆうりやうくはへられても、それはたくみつかれてねむ父母ちゝはゝみゝあざむくのである。

一般の娘の境遇はこのようであって、まれにはひどく叱られることもあって、その時のみはしおれても、明日はたちまち以前に戻って、その性情のままに進んで顧みない。

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ぱん子女しぢよ境涯きやうがい如此かくのごとくにしてまれにはいたしかられることもあつてそのときのみはしをれても明日あすたちま以前いぜんかへつてその性情せいじやうまゝすゝんでかへりみぬ。

おつぎは、そんな仲間と一日でもいっしょにその身を放されたことがないのである。

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おつぎは其麽そんな伴侶なかまと一にちでも一つにそのはなたれたことがないのである。

勘次がどんなにやかましくおつぎを押さえても、おつぎがそれで抑えられても、勘次は村の若者がおつぎに思いを掛けることに歯止めをかける、少しの力をも持っていない。

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勘次かんじ什麽どんな八釜敷やかましくおつぎをおさへてもおつぎがそれでせいせられても、勘次かんじむら若者わかものがおつぎにおもひけることに掣肘せいちうくはへるちからをもいうしてらぬ。

すべての村の若者が女を狙おうとする時はずいぶん執念深く、それはちょうど、追えばたちまち逃げる鶏が、どうかして狭く戸口を開けてある穀倉に好む餌を見つけて入ろうとする時、その狭い戸口が身を入れるに足りなければ、いたずらに首を差し込んでは足掻いて足掻いて、そうしてほかへ行ってしまうようなものである。

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すべての村落むら若者わかものをんなねらはうとするとき隨分ずゐぶん執念しふねれは丁度ちやうどへばたちまちにげるとりがどうかしてせま戸口とぐちひらいてある穀倉こくぐらこの餌料ゑさ見出みいだして這入はひらうとするときせま戸口とぐちるゝにりなければいたづらにくびんでは足掻あがいて/\さうしてほかつてしまふ。

それが一度で諦めればそれまでであるけれど、二度三度戸口に立って足掻きはじめれば、去っては来り、去っては来り、首筋の皮が擦りむけて戸口におびただしく血の跡をつけても、執念深く餌を求めて止まないような形でなければならない。

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れが一斷念だんねんすればまでであるけれど、二度ふたたび三度みたび戸口とぐちつて足掻あがはじめれば、つてはきたり、つてはきたり、首筋くびすぢかはけて戸口とぐちしたゝあといんしても執念しふね餌料ゑさもとめてまぬやうなかたちでなければならぬ。

めいめいの心に、おつぎをどれほど深く思おうとも、それはめいめいが持つ権利に属している。

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各自かくじこゝろにおつぎをほどふかおもはうともそれは各自かくじいうする權能けんのうぞくしてる。

しかしながら、おつぎへ加えようとするその手を極端に防ごうとすることも、勘次が持つ権利である。

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しかしながらおつぎへくはへようとするその極端きよくたん防遏ばうあつしようとすることも勘次かんじいうする權能けんのうである。

互いにその権利を越えて他人の領分を侵す時、そこには必ずもめごとが伴われるはずでなければならない。

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相互さうご權能けんのうえて領域りやうゐきをかとき其處そこにはかなら葛藤かつとうともなはれるはずでなければらぬ。

若者は寄り集まれば、みな不平の情を語り合って、勝手に勘次を邪魔なこそばゆい者にしていた。

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若者わかものあひあつまればみな不平ふへいじやうかたうて、勝手かつて勘次かんじ邪魔じやまなこそつぱいものにしてた。

そのくせ彼らはみな、互いに自分独りのみがおつぎを得ようとして、及ばない手を伸ばしているのである。

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そのくせ彼等かれらみなたがひ自分じぶんひとりのみがおつぎをようとしておよばぬばしてるのである。

万一目的が遂げられたことがあったとしても、それはただ一人に限られていて、その他の幾人かは空しく、しかもきわめて軽い不快と嫉妬とから、口々にその一人に向かって嫌味を言って止まねばならない。

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まん目的もくてきげられたことがつたとしてもれはたゞにんかぎられてて、爾餘じよ幾人いくにんむなしくしかきはめてかる不快ふくわい嫉妬しつととから口々くちぐちそのにんむかつて厭味いやみをいうてまねばらぬ。

しかしながら、ついにその一人が彼らの間に見いだされなかった。

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しかしながらつひそのにん彼等かれらあひだ發見はつけんされなかつた。

彼らの怨みがすべて勘次の一身に集まった。

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彼等かれら怨恨うらみすべ勘次かんじの一しんあつまつた。

それでも、あっさりした彼らの怨みは、三人以上が集まって口を開けば必ず笑い声を絶やさないほどのものであった。

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それでも淡白たんぱく彼等かれら怨恨うらみは三にん以上いじやうあつまつてくちひらけばかなら笑聲せうせいたぬほどのものであつた。

怨みというよりも、じれったさであった。

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怨恨うらみといふよりも焦燥じれつたさであつた。

おつぎの身には、こうして事件を引き起こすべき機会が与えられなかった。

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おつぎの身體からだにはうして事件じけんおこすべき機會きくわいあたへられなかつた。

それでも、ただ一人おつぎと手を取って語ることにまで近づき得た者があった。

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それでもたつた一人ひとりおつぎとつてかたることにまでちかづきたものがあつた。

勘次はどれほど厳重にしても、おつぎが厠に通う時間をさえ、狭い庭の夜の中へ放つことを拒むことはできなかった。

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勘次かんじはどれほど嚴重げんぢうにしてもおつぎがかはやかよ時間じかんをさへせまにはなかはなつことをこばむことは出來できなかつた。

執念深い一人が、偶然そういう機会を見つけた。

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執念深しふねんぶかい一にん偶然ぐうぜんさういふ機會きくわい發見はつけんした。

彼は、まだ恥じらいと恐れとが全身を支配しているおつぎを捕まえて、ただじっと動かさないまでには、幾度か手を換えて苦心した。

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かれは、まだ羞恥はぢ恐怖おそれとが全身ぜんしん支配しはいしてるおつぎをとらへてたゞ凝然ぢつうごかさないまでには幾度いくたびかへ苦心くしんした。

勘次が戸の内から呼んでも、厠のそばで返事をするおつぎの声は、最初の間は疑いを抱かせるまでには至らなかった。

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勘次かんじうちからんでもかはやそば返辭へんじをするおつぎのこゑ最初さいしよあひだ疑念ぎねんいだかせるまでにはいたらなかつた。

それでも、彼らが心に深く互いの情を刻むまで、疑いの目を見開いている勘次を欺きおおせることはできなかった。

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れでも彼等かれらこゝろふかたがひじやうきざむまで猜忌さいぎみはつて勘次かんじあざむきおほせることは出來できなかつた。

ある晩、勘次はがらっと戸を開けて出た。

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あるばん勘次かんじはがらつとけてた。

激しく開けた戸が、やや朽ちかけた敷居の溝を外れようとして、ぎっしりと固まった。

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はげしくけたやゝけたしきゐみぞはづれようとしてぎつしりと固着こちやくした。

彼はいらだって戸を叩いて溝に戻すと、そのまま飛び出した。

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かれ苛立いらだつてたゝいてみぞふくすとまゝした。

彼はすぐ自分の近くに、手拭いをかぶったおつぎの姿が徐々に動いて来るのを見た。

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かれすぐ自分じぶんちか手拭てぬぐひかぶつたおつぎの姿すがたおもむろにうごいてるのをた。

それと同時に、ひそかに落ちて行く草履の音が勘次の耳に響いた。

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それ同時どうじひそか草履ざうりおと勘次かんじみゝひゞいた。

彼はそれを耳に感じる瞬間、右の手が壁際の木の根に掛かって、木の根は彼の力いっぱいに木陰の闇へ投げられた。

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かれそれみゝかんずる瞬間しゆんかんみぎ壁際かべぎはかゝつて、かれちからぱい木陰こかげやみとうぜられた。

木の根はどさりと遠く落ちて、庭の土をえぐって、余勢が幾度かもんどりを打った。

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はどさりととほちてにはつちをさくつて餘勢よせい幾度いくどかもんどりをつた。

勘次は続いて投げた。

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勘次かんじつゞいてなげうつた。

曲者はすでに逃げ落ちたけれど、彼の不意の襲撃に慌てて、節くれ立った柿の根につまずいて倒れた。

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曲者くせものすでちたけれどかれ不意ふい襲撃しふげきあわてゝふしくれつたかきつまづいてたふれた。

彼は次の日、足を引きずらねば歩けないほど足首の関節に痛みを感じたのであった。

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かれつきあしひきずらねばあるけぬほど足首あしくび關節くわんせつ疼痛とうつうかんじたのであつた。

勘次は、ぽつんと立っているおつぎを突きのめすように戸口へ送って、がらりと戸を閉じて掛け金を掛けた。

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勘次かんじはぽつさりとつてるおつぎをきのめすやう戸口とぐちおくつてがらりとぢて掛金かけがねけた。

その夜はまだ、めいめいが一つ加わった年齢の数だけの炒り豆をかじって鬼を追った夜から、いくらも隔たらないので、塩鰯の頭とともに戸口に挿した柊の葉も、いっこうに乾いた様子の見えないほどのことであった。

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そのはまだおの/\が一つくははつた年齡ねんれいかずほど熬豆いりまめかじつておにをやらうたから、いくらもへだたらないので、鹽鰮しほいわしあたまとも戸口とぐちしたひゝらぎ一向いつかうかわいた容子やうすえないほどのことであつた。

おつぎは十八といっても、その年齢に達したというばかりで、こんな場合を巧みに繕うという料簡さえ、かりそめにも持っていないほど、一面においては濁りのないかわいらしい少女であった。

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おつぎは十八じふはちというても年齡としたつしたといふばかりで、んな場合ばあひたくみつくらふといふ料簡れうけんさへ苟且かりそめにもつてないほどめんおいてはにごりのない可憐かれん少女せうぢよであつた。

おつぎはしおれて、ただぽつんと立っている。

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おつぎはしをれてたゞぽつさりとつてる。

勘次の目は、薄暗い手ランプに光った。

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勘次かんじ薄闇うすくらランプにひかつた。

「おつう」

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「おつう」

とひと声怒鳴って、感情の激した勘次は、とっさに次の言葉が出せなかった。

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と一せい呶鳴どなつてじやうげきした勘次かんじ咄嗟とつさつぎことばせなかつた。

「何してけつかったんだ」

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なにしてけつかつたんだ」

勘次はおつぎを睨みつけた。

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勘次かんじはおつぎをにらみつけた。

おつぎはうつむいて黙っている。

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おつぎは俯向うつむいてだまつてる。

「さあ言ってみろ。嘘を言ったって知ってるぞ、おい」

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「さあつてろ、ちくつたつてつてつゝお」

勘次はなおも激しく問いただした。

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勘次かんじなほはげしくたずねた。

「お前はいつでも何と言った。おとっつあんにはけっして心配を掛けないからと言ったんじゃないか。そんでもお前は心配を掛けないのか。掛けないというんなら言ってみろ」

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りや何時いつでもなんちつた、おとつゝあげはけつして心配しんぺえけねえからつてつたんぢやねえか、そんでもりや心配しんぺえけねえのか、けねえつちんだらつてろ」

彼は忌々しそうに、かつ刃で心を突き通される苦しさを堪えたかと思うような様子で、わくわくする胸から声を絞って言った。

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かれ忌々敷相いま/\しさうやいばもつ心部むねとほされるくるしさをしのんだかとおもふやうな容子ようすでわく/\するむねからこゑしぼつていつた。

彼はしばらく間を置いてはまた、かんでかんでかみしめてもかみ切れない何かに対するようなじれったさと、期待していた何かをにわかに奪い去られたような絶望とが入り混じり、もつれ合った自暴自棄の態度をもって、おつぎを責めた。

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かれしばらあひだいてはまたんで/\噛締かみしめてもれぬあるものたいするやうな焦燥じれつたさと、期待きたいしてあるものにはかうばられたやう絶望ぜつばうとが混淆こんかう紛糾ふんきうした自暴自棄やけ態度たいどもつておつぎをめた。

彼の振る舞いは、ほとんど発作的であった。

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かれ擧動きよどうほとん發作的ほつさてきであつた。

おつぎの声を殺して泣く声は、隙間だらけな戸の外に絶え絶えに漏れた。

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おつぎのこゑころしてこゑ隙間すきまだらけなそとえ/″\にれた。

これまでとても、おつぎはたとえ異性を慕う心がようやく育って来たとはいいながら、ひそかにその手を取られた時は、後ではむしろ悔いるまでも、恥じらいと恐れと、それから勘次を憚ることから生じる抑えの念とが、慌ててその手を振りほどかせるのであった。

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從來これまでとてもおつぎは假令たとひ異性いせいした性情せいじやうやうや發達はつたつしてたとはいひながら、ひそかそのられたときは、あとではむしいるまでも羞恥はぢ恐怖おそれとそれから勘次かんじはゞかることからつてきた抑制よくせいねんとがあわてゝもきらせるのであつた。

それがだんだん、いやでない誘惑の手に乗って、甘い味をわずかに感じる程度まで近づいた刹那、一切が壊し去られたのである。

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れが段々だん/\いやでない誘惑いうわくつてあまあぢわづかかんずる程度ていどまでちかづいた刹那せつなさい破壞はくわいられたのである。

おつぎは以前に戻って、恐れの手に深くその身を沈めねばならなくなった。

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おつぎは以前いぜんかへつて恐怖きようふふか沒却ぼつきやくせねばならなくつた。

深い罪を含んでいないその夜の事件は、それで済んだ。

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ふか罪惡ざいあく包藏はうざうしてない事件じけんはそれでんだ。

勘次は依然として、おつぎにはただ一つしかない大樹の陰であった。

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勘次かんじ依然やつぱりおつぎにはたゞひとつしか大樹たいじゆかげであつた。

しかし勘次自身には、どんな種類の物でも、今の彼の心に与え得る満足の程度は、失ったお品を思い出すことから受ける哀愁の十分の一にも及ばない。

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しか勘次かんじ自身じしんには如何どん種類しゆるゐものでも現在げんざいかれこゝろあた滿足まんぞく程度ていどは、うしなうたおしな追憶つゐおくすることからける哀愁あいしうの十ぶんの一にもおよばない。

彼はもはや、それ以上、彼の心の裡に残っている何かをまで奪い去られることには堪えられないのである。

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かれ最早もはやそれ以上いじやうかれ心裏しんり残存ざんぞんしてものをまでうばられることにはへないのである。

彼はわずかに三人の家族が、油のように水に弾かれても、のけ者にされても、ただ凝り固まっていることにのみ、たとえ慰められないまでも不安を感じることなしに、その日その日と刻んで暮らして行くことができるのである。

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かれわづかに三にん家族かぞくあぶらごとみづはじかれても疎外そぐわいされてもたゞ凝結ぎようけつしてることにのみ、假令たとひ慰藉ゐしやされないまでも不安ふあんかんずることなしに/\ときざんでくらしてくことが出來できるのである。

彼は一度でも、おつぎが自分を離れたことを見つけ、あるいは意識しては、一種の嫉妬を感じずにはいられなかった。

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かれは一でもおつぎが自分じぶんはなれたことを發見はつけんあるひ意識いしきしては一しゆ嫉妬しつとかんぜずにはられなかつた。

彼はそうして、悲痛の感に責め苛まれた。

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かれはさうして悲痛ひつうかんさいなまれた。

村の若者は、彼のためには敵である。

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村落むら若者わかものかれためには仇敵きうてきである。

それと同時に、若者のためには彼は蝮の毒牙のようなものでなければならない。

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それと同時どうじ若者わかものためにはかれ蝮蛇まむし毒牙どくがごときものでなければらぬ。

それでありながら、少しの威厳も勢力もない彼は、すべての若者から彼をいらだたせるいたずらをもって報いられた。

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れでありながら威嚴ゐげん勢力せいりよくもないかれすべての若者わかものからかれ苛立いらだたしめる惡戯いたづらもつむくいられた。

青草の中に身を沈めている毒蛇に、直接手を触れようとする者は一人もないけれど、遠くから土くれを投げたり、棒の先でつついたり、いたずらに怒る牙を振るわせることは、彼らの好んでするところであった。

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青草あをくさなかぼつして毒蛇どくじや直接ちよくせつれようとするものは一にんもないけれど、とほくから土塊どくわいつたり、ぼうさきでつゝいたりいたづらにおこきばふるはせることは彼等かれらこのんでするところであつた。

勘次の削ったようなやせた顔が、いつでもひがんで、そうして怒りやすいのを、彼らは嘲りの目をもって遠くからのぞくのである。

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勘次かんじけづつたやうなせたかほ何時いつでもひがんでさうしておこやすいのを彼等かれら嘲笑てうせうまなこもつとほくからのぞくのである。

彼らは夜、垣根のそばに立って指を口にくわえてぴゅうぴゅうと激しく鳴らしてみたり、戸口の近くにひそかに下駄の歯の跡をつけておいたり、勘次が眠りに落ちようとするころ、作り声を使っておつぎを呼んだりした。

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彼等かれらよる垣根かきねそばつてゆびくちくはへてぴゆう/\とはげしくらしてたり、戸口とぐちちかひそか下駄げたあとけていたり、勘次かんじねむりちようとするころ假聲こはいろ使つかつておつぎをんだりした。

勘次はそのたびに心がいらだったけれど、霧でもつかむような、誰の仕業とも分からないいたずらを、どうすることもできなかった。

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勘次かんじたびこゝろ苛立いらだつたけれど、きりでもつかやうな、たれ所爲しよゐとも判明はんめいしない惡戯いたづらをどうすることも出來できなかつた。

しかし、表に現れた影響のないいたずらは、長く続かなかった。

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しか表面へうめんあらはれた影響えいきやう惡戯いたづらなが持續ぢぞくしなかつた。

春は冬に遠くして、また冬と隣り合っている。

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はるふゆとほくしてまたふゆあひとなりしてる。

季節の移り変わりを繰り返しながら、月日は容赦なく移った。

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季節きせつ變化へんくわ反覆くりかへしつゝ月日つきひ容赦ようしやなく推移すゐいした。

一二

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一二

冬は低く地をはって沈んだ。

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ふゆひくうてしづんだ。

旧暦の暮れが近くなって、婚礼の多く行われる季節が来た。

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舊暦きうれきくれちかつて婚姻こんいんおほおこなはれる季節きせつた。

町の建具師の店先に据えられた箪笥や長持ちから、粗末な金具が光るのを見るようになった。

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まち建具師たてぐし店先みせさきゑられた簟笥たんす長持ながもちから疎末そまつ金具かなぐひかるのをるやうにつた。

おつぎが通った針の師匠の家でも、嫁が決まった。

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おつぎがかようたはり師匠ししやううちでもよめきまつた。

その当日になると、針子はいずれも、しまっておいた半纏へ赤いたすきを掛けて、そこらの掃除やら、芋や大根を洗うことやら、朝から大騒ぎをして笑いながら手伝いをした。

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當日たうじつると針子はりこいづれもしまつていた半纏はんてんあかたすきけて、其處そこらの掃除さうぢやら、いも大根だいこんあらふことやらあさから大騷おほさわぎをしてわらひながら手傳てつだひをした。

おつぎも行って、みなといっしょに働いた。

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おつぎもつてみんなと一しよはたらいた。

おつぎは赤糸大名の半纏で、萌葱のたすきを掛けていた。

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おつぎは赤絲大名あかいとだいみやう半纏はんてん萌黄もえぎたすきけてた。

針子らは毎年、春がようやく暖かくなって百姓の仕事が忙しくなると、次の冬まで暇を取るとて、一日みなで鍬を持って畑の仕事の手伝いに行く。

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針子等はりこら毎年まいねんはるやうやあたゝかくつて百姓ひやくしやう仕事しごといそがしくなるとまたふゆまでひまをとるとて一にちみんなくはつてはたけ仕事しごと手傳てつだひく。

広くもない畑へ残らずが一度に鍬を入れるので、めいめいが互いに邪魔になりながら、人数の半分は始終鍬の柄を杖に突いては立って、遠くへ目を配りながら笑いさざめく。

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ひろくもないはたけのこらずが一くはれるのでおの/\たがひ邪魔じやまりつゝ人數にんずなかば始終しじうくはつゑいてはつてとほくへくばりつゝわらひさゞめく。

彼女らの白い手拭いが集まって、はるかに人の目を引くほか、師匠の家に格別の利益もなく、彼女ら自分たちのみが一日を楽しく暮らし得るのである。

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彼等かれらしろ手拭てぬぐひあつまつてはるかひとほか師匠ししやううち格別かくべつ利益りえきもなく彼等かれら自分等じぶんらのみが一にちたのしくらるのである。

それだから彼女らは、婚礼の当日にも仕事の割合にしてはあまりに大人数に過ぎるので、一つ仕事に集まっては、屈託ない様子をしてしゃべるのであった。

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れだから彼等かれら婚姻こんいん當日たうじつにも仕事しごと割合わりあひにしてはあまりに多人數たにんずぎるので、ひと仕事しごとあつまつては屈託くつたくない容子ようすをして饒舌しやべるのであつた。

「どういう嫁さんだろうな」

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「どうえ嫁樣よめさまだんべな」

「いい女だろうな」

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をんなだんべえな」

「早く来ればいいな、おれは見たいな」

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はやればえゝな、てえな」

彼女らはそういうことすら口々に繰り返しながら、ひそひそとささやいた。

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彼等かれらはさういふことをすら口々くち/″\反覆くりかへしつゝ密々ひそ/\耳語さゝやいた。

「白粉をつけて来るんだな」

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白粉おしろいけてんだな」

いちばん年の少ない子が言った。

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ばんとしすくながいつた。

「どうしたもんだい、白粉をつけるんだろうかとまあ」

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「どうしたもんだえ、白粉おしろいけんだんべかとまあ」

年かさが笑った。

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年嵩としかさわらつた。

「水白粉を持って来るんだか知れないぞ」

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水白粉みづおしろいつてんだかんねえぞ」

「ただの水みたいな白粉もあるんだって言ったっけぞ」

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たゞみづてえな白粉おしろいんだつてつけぞ」

彼女らはそういう罪のない詮索から、それから

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彼等かれらはさういふつみのない穿鑿せんさくからそれから

「おれはお給仕に出なくちゃならないか知れないが、恥ずかしくていやだな」

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らお給仕きふじなくつちやんねえかんねえが、はづかしくつてだな」

「嫁さんはもっと恥ずかしいだろうな」

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嫁樣よめさままつとはづかしかつぺな」

「そんだが、おれは嫁さんの着物がどんななんだか見たいもんだな」

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「そんだが嫁樣よめさま衣物きものどういんだかてえもんだな」

と、半分は望むような、半分は気遣うような互いの心を語るのであった。

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半分はんぶんのぞむやうな半分はんぶん氣遺きづかふやうなたがひこゝろかたるのであつた。

夜になって、板の間の娘らが座敷のほうへ引かれたころ、勝手口に村の若者が五、六人立った。

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つていた娘等むすめら座敷ざしきはうかれたころ勝手口かつてぐち村落むら若者わかものが五六にんつた。

彼らは婚礼の夜には必ず決まった、例のうどんをもらいに来たのである。

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彼等かれら婚姻こんいんには屹度きつときまつたためし饂飩うどんもらひにたのである。

昼の間に用意されたうどんが、彼らに与えられた。

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ひるあひだ用意よういされた饂飩うどん彼等かれらあたへられた。

彼らの手には、うどんの大きなざると二升樽と、それから醤油の入れ物であるビール瓶とが提げられた。

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彼等かれらには饂飩うどんおほきなざると二升樽しようだるとそれから醤油しやうゆ容器いれものである麥酒罎ビールびんとがげられた。

垣根の外へ出た時、彼らは作り声を出してどっと囃し立てて、また囃した。

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垣根かきねそととき彼等かれら假聲こわいろしてどつとはやてゝまたはやした。

彼らは道々も騒ぐことをやめないで、とうとう村の念仏堂へ引き取った。

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彼等かれら途次みちみちさわぐことをめないで到頭たうとう村落むら念佛寮ねんぶつれうひきとつた。

そこには、これもどてらをかぶった彼らの仲間が、囲炉裏へそだをくべて暖まりながら待っていた。

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其處そこにはこれ褞袍どてらはおつた彼等かれら伴侶なかま圍爐裏ゐろり麁朶そだべてあたゝまりながらつてた。

念仏衆の使っている鍋や土瓶や茶碗が、ただごたごたと投げ出されてあった。

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念佛衆ねんぶつしゆう使つかつてなべ土瓶どびん茶碗ちやわんたゞごた/\とされてあつた。

台つきの手ランプは、近所から借りて来たのであった。

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だいつきのランプは近所きんじよからりてたのであつた。

そだの炎が、手ランプに光を添えていた。

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麁朶そだほのほランプにひかりへてた。

婚礼の席上では、酒の後には長く続くようにという縁起を祝って、一つには膳部の簡単なのとで、うどんをふるまうのである。

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婚姻こんいん席上せきじやうではさけあとにはながつながるやうといふ縁起えんぎいはうて、ひとつには膳部ぜんぶ簡單かんたんなのとで饂飩うどんもてなすのである。

蕎麦は短く切れるとて、どこでも嫌った。

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蕎麥そばみじかれるとて何處どこでもいとうた。

どんな婚礼でも、それを若い衆がもらいに行く。

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どんな婚姻こんいんでもそれをわかしゆもらひにく。

貧乏な所帯であれば、彼らはいくら少なくても不足を言わない。

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貧乏びんばふ所帶しよたいであれば彼等かれらいく少量せうりやうでも不足ふそくをいはぬ。

しかし、多少の財産を持っていると彼らが認めている家でそれを惜しめば、彼らは不平を訴えて止まない。

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しか多少たせう財産ざいさんいうしてると彼等かれらみとめてうちでそれををしめば彼等かれら不平ふへいうつたへてまぬ。

どうかすると、暗い木陰に潜んでいて、嫁の車が近づいた時、突然その車をひっくり返してやれというような、脅しめいた暴言をすら吐くことがある。

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どうかするとくら木陰こかげ潜伏せんぷくしてよめくるまちかづいたとき突然とつぜんくるま顛覆てんぷくさせてやれといふやうな威嚇的ゐかくてき暴言ばうげんをすらくことがある。

しかしこれまで、そんなことはめったになく、格別に認めるべき弊害が伴うのでもないのであった。

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しか從來じゆうらい其麽そんなことは滅多めつたになく、別段べつだんみとむべき弊害へいがいともなふのでもないのであつた。

それでふつう、どの家でも彼らが満足を買い得る分量を、前もって用意しているのである。

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それで普通ふつうどのうちでも彼等かれら滿足まんぞく分量ぶんりやう前以まへもつ用意よういしてるのである。

彼らは、そういう夜にどてらをかぶって他人の裏戸口に立たねばならない必要な条件を、一つも持っていない。

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彼等かれらはさういふ褞袍どてらかぶつて他人たにん裏戸口うらどぐちたねばらぬ必要ひつえう條件でうけんひとつもつてない。

ただ彼らのすべては、藁を打って縄をなうべき夜の務めを捨てて、公然といっしょに集まる機会を見いだすことを求めている。

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たゞ彼等かれらすべてはわらつてなはふべきよるつとめをすて公然こうぜんしよ集合しふがふする機會きくわい見出みいだすことをもとめてる。

集まることが、すぐに彼らに楽しみを与えるからである。

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集合しふがふすることがたゞち彼等かれら娯樂ごらくあたへるからである。

男女が、しかも他人の手を借りて一つになる婚礼の事実を思い浮かべることから、彼らの心が微妙に刺激される。

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兩性りやうせいしか他人たにんりてひとつに婚姻こんいん事實じじつ聯想れんさうすることから彼等かれらこゝろ微妙びめう刺戟しげきされる。

彼らのすべては、ことごとく異性を知り、また知ろうとしている。

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彼等かれらすべてはことごと異性いせいまたらんとしてる。

彼らは他人の目を盗むのには幾多の障害があり、それはそのために慕い合う思いがむしろかえって盛んに、かつ長続きすることすらありながら、当事者である彼らにはうるさいその障害をこっそりと払いのけねばならないじれったさが止まないのに、周りのすべてが杯を挙げてくれる、その夜の当人同士を思い浮かべる時、彼らは淡い嫉妬を沸かさねばならない。

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彼等かれら他人たにんぬすむのには幾多いくた支障さはり、それはためあひした念慮ねんりよむしかへつさかん永續えいぞくすることすらりながら、當事者たうじしやたる彼等かれらには五月繩うるさ支障さはりをこつそりとはら退けねばらぬ焦燥じれつたいかんまないのに、周圍しうゐすべてがさかづきげてくれる當人同士たうにんどうし念頭ねんとううかべるとき彼等かれらあは嫉妬しつとかさねばらぬ。

それで彼らの心には、食ってやれ、飲んでやれ、そうしてやらねば腹が癒えないという思いが、期せずして一致するのである。

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それで彼等かれらこゝろにはつてやれ、んでやれ、さうしてらねばはらえぬといふ觀念くわんねんせずして一致いつちするのである。

ざるで運んだうどんが、大人数の彼らにとうてい十分の満足を与え得るものではない。

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ざるはこんだ饂飩うどん多人數たにんずう彼等かれら到底たうていぶん滿足まんぞくあたるものではない。

しかし彼らは、そんなことに頓着を持たない。

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しか彼等かれら其麽そんなことに頓着とんぢやくたぬ。

酒がすすけた土瓶で沸かされた。

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さけすゝけた土瓶どびんかされた。

彼らはめいめいに茶碗へ注いで、ぐいと飲んだ。

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彼等かれら各自かくじ茶碗ちやわんいでぐいとんだ。

そこには燗の加減も何もなかった。

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其處そこにはかん加減かげんなにかつた。

めいめいの喉がそれを求めるのではなくて、一種の習わしが彼らにそれを強いるのである。

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各自かくじのどがそれを要求えうきうするのではなくて一しゆ因襲いんしふ彼等かれらにそれをひるのである。

彼らはじりじりと喉が焦げるように感じても、苦い顔をしかめながら飲んでみる者さえある。

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彼等かれらはじり/\とのどげるやうかんじてもにがかほしかめつゝんでものさへある。

比較的少ない酒が、注ぐたびに手にするたびにむしろの上にこぼれても、彼らは惜しまない。

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比較的ひかくてき少量せうりやうさけたびにするたびむしろうへこぼれても彼等かれらをしまない。

彼らはそれから、茶碗も箸もべたりとむしろの上へ置いて、単純に水へ醤油を差した汁に浸して、騒々しくうどんをすすった。

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彼等かれらはそれから茶碗ちやわんはしもべたりとむしろうへいて、單純たんじゆんみづ醤油しようゆした液汁したぢひたして騷々敷さう/″\しく饂飩うどんすゝつた。

彼らはふだんでもそうであるのに、酒のためにいくらか興奮しているので、めいめいの口からさらに聞くに堪えない雑言が吐き出された。

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彼等かれら平生へいぜいでもさうであるのにさけため幾分いくぶんでも興奮こうふんしてるので、各自かくじくちからさらくにへぬ雜言ざふごんされた。

不作法な言葉に慣れきっている彼らは、どうしたら互いに感動を与え得るかと苦心しつつあったかと思うような卑猥な一句が、唐突に誰か一人の口から出ると、ほかの一人がまたそれに応じた。

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不作法ぶさはふ言辭げんじ麻痺まひして彼等かれらはどうしたら相互さうご感動かんどうあたるかと苦心くしんしつゝあつたかとおもやう卑猥ひわいな一唐突だしぬけあるにんくちからるとの一にんまたそれにおうじた。

彼らの間には、異分子を交えていない。

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彼等かれらあひだには異分子いぶんしまじへてらぬ。

彼らは時によっては恐れて控えめにしながら、体が縮んだようになっているほど、物に臆する習慣がある。

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彼等かれらときによつてはおそれて控目ひかへめにしつゝ身體からだ萎縮すくんだやうにつてほどものおくする習慣しふくわんがある。

しかしこうして仲間のみが集まれば、ほとんど別人である。

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しかうして儕輩さいはいのみがあつまればほとんど別人べつじんである。

うどんが尽きて、茶碗が乱雑に投げ出された時、夜の遅いことに無頓着な彼らは、それからしばらく止めどもなく雑談にふけった。

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饂飩うどんきて茶碗ちやわん亂雜らんざつされたときよるおそいことに無頓着むとんぢやく彼等かれらはそれからしばらめどもなく雜談ざつだんふけつた。

彼らはついに、自分の村に野合の夫婦が幾組あるかということをさえ数え出した。

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彼等かれらつひ自分じぶん村落むら野合やがふ夫婦ふうふ幾組いくくみあるかといふことをさへかぞした。

そっちからもこっちからも、それが数えられた。

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そつちからもこつらからもれがかぞへられた。

左手の指が二度曲げて二度起こされても、尽くせなかった。

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左手さしゆゆびが二げて二おこされてもつくせなかつた。

もちろん、しまいには連れ合いの欠けたものまで指を折って数えられた。

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勿論もちろんしまひには配偶はいぐうけたものまで僂指るしされた。

それらの夫婦の間に生まれた者も、幾人か彼らの間に交じっていた。

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夫婦ふうふあひだうまれたもの幾人いくにん彼等かれらあひだ介在かいざいしてた。

さすがにその幾人かは、自分の父母が呼ばれるので、苦い笑いをかみ殺して控えている。

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有繋さすが幾人いくにん自分じぶん父母ふぼばれるのでにがわらひんでひかへてる。

そうすると、ほかの者はそれを面白がって、がやがやと囃し立てた。

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さうするとものはそれをきようあることにがや/\とはやてた。

話が少しだれた時

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はなしすこしだれたとき

「勘次さんらみたいなのはな、ありゃ勘定には入らないもんだろうか」

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勘次かんじさんてえなゝ、ありや勘定かんぢやうにやへえんねえもんだんべか」

と怒鳴った者があった。

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呶鳴どなつたものがあつた。

この唐突な発言で、しばらく静まっていた彼らはにわかに威勢が出て、手を叩いた。

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唐突たうとつ發言はつげんしばら靜止せいしして彼等かれらにはか威勢ゐせい拍手はくしゆした。

「勘次さんに聞いてみろ」

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勘次かんじさんにいてろ」

という声が隅のほうから出た。

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といふこゑすみはうからた。

「そんなこと言ったっくらい、ぶん殴られらあ、べらぼう臭え」

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其麽そんなことつたつくれえなぐらつら篦棒臭べらぼうくせえ」

打ち消す声が聞こえた。

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こゑきこえた。

「そんじゃ、おつぎに聞いてみろ」

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「そんぢや、おつぎにいてろ」

「足でもへし折られるぞ」

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あしでも打折ぶつちよられんなえ」

「薪ざっぽう振られてか」

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薪雜棒まきざつぽうふられてか」

笑い声が入り交じって、堂の中はいっそう騒がしくなった。

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笑聲せうせい雜然ざつぜんとしてれううちは一そうさわがしくつた。

「今日あたりも見ろ、角の店で自棄酒を飲んで怒ってたっけぞ」

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今日けふらもろ、かどみせ自棄酒やけざけんでおこつてたつけぞ」

一人が自慢らしく、新しい事実を提供した。

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一人ひとり自慢じまんらしくあらた事實じじつ提供ていきようした。

「どうしてよ」

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「どうしてよ」

一同が耳をそばだてた。

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どうみゝそばだてた。

「おつぎのことをお針っ子らといっしょに手伝いにやったのを知ってるだろうな」

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「おつぎことおはり子等こらと一しよ手傳てづでえつたのつてべな」

「知ってらあな、そら」

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つてらなそら」

「そんでよ、手伝いにやっていても、もう、日暮れになったら、あっかもっかしてじっとしちゃいられないんだ。そんでぐずぐず言ってるのが面白いから、おれは聞いてたのさ。ちょうどいい塩梅に、おれは草履を買いに行って出くわしてな」

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「そんでよ、手傳てづでえつてゝも、はあ、日暮ひぐれつたら、あつかもつかして凝然ぢつとしちやらんねえんだ、そんで愚圖ぐづ/\つてんの面白おもしれえからいてたな、丁度ちやうどえゝ鹽梅あんべえおれ草履ざうりひにつてつかせてな」

「毎日暮れじゃないかい、徳利をおっ立ててるのは」

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毎日暮まいひぐれぢやねえけ徳利とつくりおつてゝんな」

「そうなんだ。近ごろ唐鍬を使って骨が折れるからと言って、仕事が終わっちゃ一合くらい引っ掛けてすぐ行っちまうんだと言ったっけが、それが今日は早くから来てたんだって言うのさ。店のおとっつあんに聞いたのさ、おれは」

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「さうなんだ、近頃ちかごろ唐鍬たうぐは使つけほねおれつからつて仕事しごとしまつちや一がふぐれえけてつちやあんだつちけが、それ今日けふはやくからてたんだつちきや、みせのおとつゝあにいたなら」

話し手は、自分がまず興に入ったようにまた言った。

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噺手はなして自分じぶんきようつたやうまたいつた。

「おれは今日、うまい所を聞いちまったな」

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今日けふうめえとこいつちやつたな」

「何て言ったっけ」

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なんだつてつけ」

「ひどいあまだ、夕飯も何も仕方がありゃしないなんてな、独りでぐずぐず言ってな。そんで与吉のことを何遍も迎えにやってな。そうすると、あの与吉の野郎がまた、今すぐにうどんをごちそうしてよこすとう、なんてのたくりのたくり帰って来るんだ。そうすると、また、だめだお前は、もう一度行って来う、すぐ来うって言うんだぞ、なんて怒ったみたいになあ。おれは可笑しくて仕方がなかったっけぞ」

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でえ阿魔あまだ、夕飯ゆふめしなにやうありやしねえなんてな、ひとりでぐうづ/″\つてな、そんで與吉よきちこと何遍なんべんむけえつてな、さうすつとあの與吉よきち野郎やらうまた、いますぐ饂飩うどんふるまつてよこすとう、なんてのたくり/\けえつてんだ、さうすつとまた駄目だめりやつてう、すぐうつてふんだぞなんておこつたてえになあ、可笑をかしくつて仕樣しやうかつたつけぞ」

話し手は左右を向きながら言った。

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噺手はなして左右さいうきつゝいつた。

みなまた手を叩いて囃し立てた。

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みな拍子ひやうししてはやてた。

「そんじゃすぐよこしただろう」

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「そんぢやぐよこしたつぺ」

「うん、途中で行き会ったんだろう。すぐ来たっけや」

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「うむ、途中とちう行逢いきやつたんだんべ、たつきや」

「あっちだって、それくらい知ってらあな」

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「あつちだつてくれえつてらな」

「おつぎは店へ寄ったっけか」

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「おつぎはみせへよつたつけか」

二人が一度に言った。

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二人ふたりが一にいつた。

「寄らないや。そうしたら、おつう、なんておとっつあんが呼ばれたんだ。たいした声してな。そんでもおつうは行っちまうのよ。そうしたらまた、おつう、なんて怒鳴ってな、勘定するのにも慌てて銭を落っことしたり何かして、後から駆けて行ったんだ。五合も飲んだだろうって言ったっけな。怖い目つきをしちまってな。そんだが、おつぎは聞かないぞ、なかなか。つっつっと行っちまってな」

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んねえや、さうしたらおつう、なんておとつゝあばつたんだ、たいしたこゑしてな、そんでもおつうはつちまあのよ、さうしたらまた、おつうなんて呶鳴どなつてな、勘定かんぢやうすんのにもあわくつてぜにつことしたりなんかしてあとからけてつたんだ、五がふんだつぺつちけな、可怖おつかねつきしつちやつてな、そんだがおつぎはかねえぞなか/\、つツ/\とつちやつてな」

話し手はしばらく口を閉ざした。

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噺手はなして暫時しばしくちとざした。

「今日は若い衆らが行くと思って、もう、夜まで置けないんだな」

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今日けふわけ衆等しらくとおもつてはあ、よるまでけねえんだな」

「決まってらあな」

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きまつてらあな」

「そんだって、べらぼう。若い衆らだって、そういうことばかりするもんじゃない。つまらない」

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「そんだつて箆棒べらぼうわけ衆等しらだつてさうだことばかりするものぢやねえ、つまんねえ」

憤慨してこう言う者も

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憤慨ふんがいしてかういふものも

「外聞が悪いも何にも知らないんだな」

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外聞げえぶんわりいもなんにもんねえんだな」

嘲りの意味ではあるが、どことなく沈んで、またこう言う者もあった。

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嘲笑てうせう意味いみではあるが何處どことなくしづんでまたういふものつた。

「おつぎはそんだが、頭髪をてかてか光らせた所らはよくなっちまったっけぞ」

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「おつぎはそんだが頭髮あたまてか/\ひからかせたとこつちやつたつけぞ」

にわかに思い出したように、さっきの話し手が言った。

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にはかおもしたやう先刻せんこく噺手はなしてがいつた。

「そんで、おとっつあんは余計に仕方がなくなっちまったんだろう」

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「そんで、おとつゝあ餘計よけいやうくなつちやつたんだんべえ」

尻へ釘を差して台に乗っている手ランプの油煙が、あっちへこっちへなびく光の下に、茶碗を箸で叩きながら、またわあっと騒ぎ出した。

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しりくぎしてだいつてランプの油煙ゆえんがそつちへこつちへなびひかりもと茶碗ちやわんはしたゝきながらまたわあつとさわした。

勘次は今、開墾の仕事のために、春までには主人の手から三、四十円の金を与えられるようにまでなった。

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勘次かんじいま開墾かいこん仕事しごとためはるまでには主人しゆじんから三四十ゑんかねあたへられるやうにまでつた。

大部分は借財の古い穴へ埋めても、彼は懐に窮屈を感じない程度に進んだ。

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大部分だいぶぶん借財しやくざいふるあなめてもかれふところ窮屈きうくつかんじない程度ていどすゝんだ。

一円の銭が絶えず財布にあり得るならば、彼らは嘆くところはないのである。

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ゑんぜにえず財布さいふるならば彼等かれらなげところいのである。

彼はただ、主人に頼ってさえいればいいと思っている。

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かれたゞ主人しゆじんつてさへすればいとおもつてる。

こういう遠慮のない陰口を利かれるまでには、苦しい間の三、四年を過ごして来たのである。

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ういふ遠慮ゑんりよのない蔭口かげぐちかれるまでにはくるしいあひだの三四ねんすごしてたのである。

彼の暮らしは、ほっかりと夜明けの光を見たのであった。

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かれ生活せいくわつはほつかりと夜明よあけひかりたのであつた。

おつぎはこの時、二十の声を聞いていたのである。

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おつぎはこのとき廿はたちこゑいてたのである。

一三

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一三

初秋の風が吊りっ放しの蚊帳の裾をさらさらと吹いて、とうにとうもろこしがかまどの灰の中でぱりぱりと威勢よく燃える麦藁の火に焼かれて、その殻があっちにもこっちにも捨てられる。

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初秋しよしうかぜ吊放つりはなしの蚊帳かやすそをさら/\といて、とうから玉蜀黍たうもろこしかまどはひなかでぱり/\と威勢ゐせいよくえる麥藁むぎわらかれて、からがそつちにもこつちにもてられる。

畑の仕事がしばらく片がついて、百姓の家には盆が来た。

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はたけ仕事しごと暫時ざんじきまりがついて百姓ひやくしやういへにはぼんた。

その日も昼過ぎまで仕事をしていた勘次は、それでも慌ただしく庭へ箒を入れて、目に立つ草は鎌の刃先でかき切った。

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晝過迄ひるすぎまで仕事しごとをして勘次かんじはそれでもあわたゞしくにははうきれてくさかま刄先はさきつた。

戸も障子もないすすけきった仏壇は、おつぎを使って仏具やその他の掃除をして、さいの目に刻んだ茄子を盛った芋の葉と、寂しいみそはぎの短い小さな花束とを供えた。

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障子しやうじもないすゝつた佛壇ぶつだんはおつぎを使つかつて佛器ぶつきその掃除さうぢをして、さいきざんだ茄子なすつたいもと、さびしいみそはぎみじかちひさな花束はなたばとをそなへた。

みそはぎのそばには、茶碗へいっぱいに水がたたえられた。

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みそはぎそばには茶碗ちやわんへ一ぱいみづまれた。

夕方近くなってから、三人は雨戸を閉めて、火のない提灯を持って田んぼを越えて墓地へ行った。

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夕方ゆふがたちかつてから三にん雨戸あまどしめて、のない提灯ちやうちんつて田圃たんぼえて墓地ぼちつた。

お品の塔婆の前に、それからそこらいっぱいの墓石の前に線香を少しずつ手向けて、火をつけてほっかりと赤くなった提灯を提げて戻った。

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しな塔婆たふばまへにそれから其處そこら一ぱい卵塔らんたふまへ線香せんかうすこしづゝ手向たむけて、けてほつかりとあかつた提灯ちやうちんげてもどつた。

冥途から来た仏がその火に宿ったしるしだと言って、必ず提灯が墓地からつけられるのである。

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冥途めいどからほとけ宿やどつたしるしだといつてかなら提灯ちやうちん墓地ぼちからけられるのである。

おつぎは勘次の懐がいくらか暖かになったので、安物ではあるが、中形の浴衣地もこしらえてもらった。

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おつぎは勘次かんじふところいくらかあたゝかにつたので、廉物やすものではあるが中形ちうがた浴衣地ゆかたぢこしらへてもらつた。

おつぎはもう十九の秋であった。

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おつぎはもう十九のあきであつた。

おつぎはその浴衣地を着て、お品の墓へ行ったのである。

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おつぎは浴衣地ゆかたぢておしなはかつたのである。

髪は昼のうちに、近所の娘同士が汗染みた襦袢一つの姿で、互いに結い合ったのである。

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かみひるうち近所きんじよ娘同士むすめどうし汗染あせじみた襦袢じゆばんひとつの姿すがたたがひうたのである。

おつぎは浴衣地へ赤い帯を締めた。

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おつぎは浴衣地ゆかたぢあかおびめた。

勘次は紺の筒袖のひとえで、日に焼けた足が短い裾から出ていた。

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勘次かんじこん筒袖つゝそで單衣ひとへやけあしみじかすそからた。

おつぎの装いはそばでは粗末であっても、ところどころちらりちらりと白い穂先がのぞいて、たいていはまだ冴え冴えとして、ただ一枚の青畳を敷いたような田んぼの間を、くっきりと際立って目に立つのであった。

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おつぎのよそほひはそばでは疎末そまつであつても、處々ところ/″\ちらり/\としろ穗先ほさきのぞいて大抵たいていはまだえ/″\としてたゞまい青疊あをだゝみいたやう田圃たんぼあひだをくつきりと際立きはだつてつのであつた。

三人が田んぼを行き来してからしばらくたって、村の中からは、どこの家からも提灯を持って、田んぼの道を老人と子供とがぞろぞろ通った。

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にん田甫たんぼ往復わうふくしてからしばらつて村落むらうちからは何處どこいへからも提灯ちやうちんもつ田甫たんぼみち老人としより子供こどもとがぞろ/″\とほつた。

勘次は提灯の火を、仏壇の灯明皿へ移した。

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勘次かんじ提灯ちやうちん佛壇ぶつだん燈明皿とうみやうざらうつした。

すすけきった仏壇の菜種油の明かりは、遠い国からでも光って来るように、ぽっちりとかすかに見えた。

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すゝつた佛壇ぶつだん菜種油なたねあぶらあかりはとほくにからでもひかつてるやうにぽつちりとかすかにえた。

おふくろのよりもまず、白木のままのお品の位牌に、心からの線香の煙がなびいた。

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ふくろのよりも白木しらきまゝのおしな位牌ゐはいこゝろからの線香せんかうけぶりなびいた。

勘次もおつぎも、みそはぎの小さな花束の先を茶碗の水に浸して、その水をはらりと芋の葉へ盛った茄子へ振りかけた。

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勘次かんじもおつぎもみそはぎちひさな花束はなたばさき茶碗ちやわんみづひたしてみづをはらりといもつた茄子なすかけけた。

勘次は雨戸をいっぱいに開けた。

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勘次かんじ雨戸あまどを一ぱいけた。

おつぎは浴衣を取って襦袢一つになって、ざるに水を切っておいたもち米をかまどで蒸しはじめた。

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おつぎは浴衣ゆかたをとつて襦袢じゆばんひとつにつて、ざるみづつていた糯米もちごめかまどはじめた。

勘次は裸で臼や杵を洗って軒端に据えた。

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勘次かんじはだかうすきねあらうて檐端のきばゑた。

彼らはそういう仕事があるので、墓へ行くにも人よりも先立って非常に急いだのであったが、それでも米が蒸せるまでには、家の中は薄暗くなっていた。

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彼等かれらはさういふ仕事しごとがあるのではかくにもひとよりも先立さきだつて非常ひじやういそいだのであつたが、それでもこめせるまでにはいへうち薄闇うすくらつてた。

日のまだ落ちないうちから庭をのぞいていた月が白く、やがてそれがやや黄色みを帯びて来て、庭の茂った柿の木や栗の木にほっかりと陰を投げた。

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のまだちないうちからにはのぞいてつきしろく、やがてそれがやゝ黄色味きいろみびてにはしげつたかきくりにほつかりと陰翳かげげた。

おつぎが忙しくどさりと臼へ落とした蒸し米から、ぼうっと白い湯気が立った。

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おつぎがいそがしくどさりとうすおとしたふかしからぼうつとしろ蒸氣ゆげつた。

その湯気の中に、月が一瞬間目をしかめて、すぐつやつやした姿になった。

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蒸氣ゆげなかつきが一瞬間しゆんかんしかめてすぐにつやゝかな姿すがたつた。

おつぎは熱い蒸し米を蒸籠から杓子で臼へしごき落としながら、そばに立っている与吉へ少しやった。

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おつぎはあつふかし蒸籠せいろうから杓子しやくしうすおとしながらそばつて與吉よきちすこつた。

程よく蒸したその蒸し米を、与吉はうまそうに食べた。

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ほどよくしたそのふかし與吉よきち甘相うまさうにたべた。

おつぎも指についたのを、前歯でかむようにして口へ入れた。

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おつぎもゆびいたのを前齒まへばむやうにしてくちれた。

湯気の立つ臼を、勘次はしばらく杵の先でこねた。

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蒸氣ゆげうす勘次かんじしばらきねさきねた。

杵の先が粘って離れなくなる。

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きねさきねばつてはなれなくる。

おつぎは米研ぎ桶へ水を汲んで、それへ浮かべた杓子で杵の先をしごき落として、臼の中を丸い形に直す。

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おつぎは米研桶こめとぎをけみづんでそれへうかべた杓子しやくしきねさき扱落こきおとしてうすなかまるかたちなほす。

そうすると勘次は、力を極めて臼の中央を打つ。

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さうすると勘次かんじちからきはめてうす中央ちうあうつ。

それが幾度も繰り返された。

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それが幾度いくど反覆はんぷくされた。

庭の木立の陰が濃くなって、月の光はきらきらと臼から反射した。

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には木立こだち陰翳かげつてつきひかりはきら/\とうすから反射はんしやした。

蒸し暑い中にも、すべてが水のような月の光を浴びて、涼しい微風が土に触れて渡った。

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蒸暑むしあつうちにもすべてがみづやうつきひかりびてすゞしい微風びふうつちれてわたつた。

おつぎは臼から餅をちぎって、茗荷の葉に乗せて一つ一つ膳へ並べた。

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おつぎはうすからもち拗切ねぢきつて茗荷めうがせてひとつ/\ぜんならべた。

少し丸みを欠いた十三日の月が、白くその一つ一つの茗荷の葉の上に光った。

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すこまるみをいた十三にちつきしろの一つ/\の茗荷めうがうへひかつた。

冷水を打ったような柿の葉がゆらゆらと動いて、後ろの林の竹のこずえもさらさらと鳴った。

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冷水れいすゐつたやうかきがゆら/\とうごいてうしろはやしたけこずゑもさら/\とつた。

それでも忙しいおつぎは、汗を流しながらまず茗荷の餅を仏壇に供えた。

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それでもいそがしいおつぎはあせながしながら茗荷めうがもち佛壇ぶつだんそなへた。

それから別にちぎった餅が、きな粉とともに手ランプの下に置かれた。

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それからべつ拗切ねぢきつたもち豆粉きなこともランプのもとかれた。

与吉はすぐに座敷へ座って待った。

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與吉よきちすぐ座敷ざしきすわつてつた。

晩飯が終わると、踊り子を誘う太鼓の音が、ようやく沈みかけた夜の気を騒がせて聞こえはじめた。

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晩餐ばんさんをはると踊子をどりこさそ太鼓たいこおとやうやしづけた夜氣やきさわがしてきこはじめた。

軒に立った蚊柱が崩れて、やがて座敷を襲った。

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のきつた蚊柱かばしらくづれてやが座敷ざしきおそうた。

勘次は麦藁を一つかみ軒端へ投げて、刈った青草をそれへ打ちかけて、マッチの火をつけて、そうして押さえつけた。

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勘次かんじ麥藁むぎわら一捉ひとつか軒端のきばげて、つた青草あをぐさをそれへけて、燐寸マツチけてさうしておさへつけた。

ぷすぷすとくすぶる煙が、蚊を遠く散らせる。

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ぷす/\といぶけぶりとほ散亂さんらんせしめる。

ぽっと炎が立って燃え上がれば、水を打った。

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ぽつとほのほつてえあがればみづつた。

彼らは目鼻にしみる青い煙の中に、裸のままじっとしている。

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彼等かれら目鼻めはなにしみるあをけぶりなか裸體はだかまゝ凝然ぢつとしてる。

煙がよそへ逸れれば、箕であおいで家の中へ向かわせた。

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けぶり餘所よそれゝばあふつていへうちむかはせた。

おつぎは勝手の始末をして、それから井戸端で、だらだらと垂れる汗を水で拭いた。

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おつぎは勝手かつて始末しまつをしてそれから井戸端ゐどばたで、だら/\とれるあせみづぬぐつた。

手拭いを浸すたびに、小さな手水だらいの水に月がまったくその影を失って、しばらくすると手水だらいの周りから集まるように、だんだんと月の形がまとまって見えて来る。

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手拭てぬぐひひたたびちひさな手水盥てうずだらひみづつきまつたかげうしなつてしばらくすると手水盥てうずだらひ周圍しうゐからあつまやう段々だん/\つきかたちまとまつてえてる。

踊り子を誘う太鼓の音が、自分の村のはすぐ垣根の外のように、遠い村のは茂っている林の向こうに、空に響いて聞こえる。

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踊子をどりこさそ太鼓たいこおと自分じぶん村落むらのはすぐ垣根かきねそとやうに、とほ村落むらのは繁茂はんもしてはやし彼方あなたそらひゞいてきこえる。

それが井戸端に立っているおつぎの心を誘った。

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それが井戸端ゐどばたつてるおつぎのこゝろ誘導そゝつた。

同い年の子はみな踊りに行くのである。

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同年輩どうねんぱいみなをどりくのである。

おつぎにはいくらかそれが羨ましく、ぼうっとして太鼓に聞き惚れていた。

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おつぎには幾分いくぶんそれがうらやましくぼうつとして太鼓たいこれてた。

柔らかな月の光に、おつぎの肌は白く見えていた。

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やはらかなつきひかりにおつぎの肌膚はだしろえてた。

おつぎは耳に響く太鼓の音を聞きながら、まだもつれない髪を、少し首を傾けながら両方の親指の股で代わる代わる、髱を軽く後ろへしごいた。

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おつぎはみゝひゞ太鼓たいこおときながら、まだほつれぬかみすこくびかたむけつゝ兩方りやうはう拇指おやゆびまたかはがはりにたぼかるうしろいた。

おつぎは汗を拭いて、さっぱりとした体へまた浴衣を着た。

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おつぎはあせぬぐつてさつぱりとした身體からだ浴衣ゆかたた。

「おとっつあん、あの太鼓はどこだろう」

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「おとつゝあ、あの太鼓たいこ何處どこだんべ」

おつぎは帯の端を気にして、後ろへ手を回しながら聞いた。

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おつぎはおびはしにしてうしろまはしながらいた。

「どれ、あの遠くのがか。分かるもんか、どこだか」

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「どれ、あのとほくのがゝ、わかるもんか何處どこだか」

勘次は、燃えた所だけがっくりと減った蚊いぶしの青草に目を注ぎながら、気乗りのしないように言った。

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勘次かんじえたところだけがつくりとつた蚊燻かいぶしの青草あをくさそゝぎながら氣乘きのりのしないやうにいつた。

「おれらのほうへはまだ、よその村から来るころじゃあるまいな」

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はうへはまあだ、他村ほかむらからころぢやあんめえな」

「おとっつあんらに分かるもんかよ、そんなこと」

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「おとつゝあがにやわかるもんかよ、そんなこと」

「そんでも、よその村から来るんだって言ったっけぞ。支度して来るんだって、おれは今日、髪を結ってて聞いたんだぞ」

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「そんでも、他村ほかむらからんだつてつけぞ、支度したくしてんだつて今日けふ頭髮あたまつてゝいたんだぞ」

「そういう者はな、そういう者よ」

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「さうえな、さうえものよ」

「おれは行ってみよう。よきも行ってみろな、姉といっしょに」

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つてんべ、よきもつてろなあ、ねえと一しよに」

おつぎは独り言を言った。

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おつぎは獨語ひとりごとした。

「お前らのことばかりやれるかい」

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ことばかしれつかえ」

勘次は突然怒鳴った。

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勘次かんじ突然とつぜん呶鳴どなつた。

「そんでも、南のおっかさんが、行きたけりゃ連れて行くって言ったんだぞ」

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「そんでも、みなみのおつかさんきたけりやれてくつちつたんだぞ」

「べらぼう、そんなことされるかい。踊りなんざあ後幾日だってあらあ。今夜あたりから行かないったっていいから。他人に言われるともう、それに乗ってあおられあおられ出たがるんだから」

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箆棒べらぼう、そんなことされつかえ、をどりなんざああと幾日いくかだつてあらあ、今夜こんやらつからかねえつたつてえゝから、他人ひとはれつとはあ、れにつてあふり/\たがんだから」

勘次は頭ごなしに叱りつけた。

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勘次かんじは一がいしかりつけた。

おつぎは締めかけた帯を解いて、そばへ投げ捨てた。

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おつぎはけたおびいてそばてた。

次の日の晩飯には、例年のごとくうどんが打たれた。

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つぎ晩餐ばんさんには例年れいねんごと饂飩うどんたれた。

小麦粉を、少し塩を入れた水でこねて、それを玉にして、むしろの間へ入れて足で踏んで、棒へ巻いては薄く延ばして、さらに幾つかに畳んで、そくそくと包丁で断った。

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小麥粉こむぎこすこしほれたみづねて、それをたまにして、むしろあひだれてあしんで、ぼういてはうすばして、さらいくつかにたゝんでそく/\と庖丁はうちやうつた。

うどんの切れ端はみな、ちょっと一か所をつまんで三角形にこしらえて、膳へ並べて仏壇へ供えた。

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饂飩うどんはしみな一寸ちよつと箇所かしよつまんで三角形かくけいこしらへてぜんならべて佛壇ぶつだんそなへた。

その切れ端は、その翌朝めいめいが自分の田畑をぐるりと回っては、豆や稲の穂やその他の作物を仏へ供えるのであるが、仏もその朝、野回りに出るのだというので、その仏の笠に供えるのだというのである。

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はし翌朝よくあさ各自かくじ自分じぶん田畑たはたをぐるりとまはつてはまめいね作物さくもつほとけそなへるのであるが、ほとけあさ野廻のまはりにるのだといふのでそのほとけかさそなへるのだといふのである。

踊り子を誘う太鼓の音は、夜を待ちかねて鳴り出した。

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踊子をどりこさそ太鼓たいこおとねてした。

勘次はその夜、蚊いぶしの支度もしないで、紺のひとえへぐるぐると無造作に三尺帯を巻いて、雨戸をがらがらと閉めはじめた。

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勘次かんじ蚊燻かいぶしの支度したくもしないでこん單衣ひとへへぐる/\と無造作むざうさに三尺帶じやくおびいて、雨戸あまどをがら/\とはじめた。

そうして

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さうして

「おつう、支度してみろ。おれが連れて行くから」

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「おつう支度したくしてろ、おれれてんから」

勘次はせっかちに、おつぎを促し立てた。

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勘次かんじ性急せいきふにおつぎをうながてた。

大戸の鍵を外から掛けて三人が庭に立った時、月は雲の影を遠ざかって、静かに柿の木の上に懸かっていた。

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大戸おほどかぎそとからけて三にんにはつたときつき雲翳うんえいとほざかつてしづかにかきうへかゝつてた。

毎年決まった踊りの場所は、村の社の大きな樅の木陰である。

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毎年まいねんきまつたをどり場所ばしよむらやしろおほきなもみ木陰こかげである。

勘次ら三人が行った時は、踊り子はもうだいぶ集まっていた。

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勘次等かんじらにんつたとき踊子をどりこはもう大分だいぶあつまつてた。

一足森に入れば、激しく叩く太鼓の音が、その急いで遠くへ響き去るのを周りから遮り止めようとして、入り交じって茂っている幹や小枝に打ち当たってもつれているように、森いっぱいに鳴り響いて、上へ上へと恐ろしく人々の心を誘った。

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一足ひとあしもりはひればはげしくたゝ太鼓たいこおとが、そのいそいでとほくへひゞるのを周圍しうゐからさへぎめようとして錯雜さくざつしてしげつてみき小枝こえだ打當ぶツつかつて紛糾こぐらかつてるやうに、もり一杯いつぱいひゞいてうへへ/\とおそろしく人々ひと/″\こゝろ誘導そゝつた。

男女が入り交じって、太鼓を中央に輪を描いている。

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男女なんによまじつて太鼓たいこ中央ちうあうゑがいてる。

それが一定の間隔を置いては、一同が袋の口の紐を引いたように輪が縮まって、ぱらりぱらりと手拍子を取って、また以前のように広がる。

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それが一てい間隔かんかくいては一どうふくろくちひもいたやうしぼまつて、ぱらり/\と手拍子てびやうしをとつて、また以前いぜんのやうにひろがる。

そうしては、その踊りの手を繰り返しながら、徐々に太鼓の周りを回る。

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さうしてはをどり反覆はんぷくしつゝおもむろに太鼓たいこ周圍しうゐめぐる。

女は袖を長く見せるために手拭いを折って両方の袂の先へ縫いつけて、それからしごき帯をたすきにして結んだ長い端を、後ろへだらりと垂れている。

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をんなそでながせるため手拭てぬぐひつて兩方りやうはうたもとさきぬひつけて、それから扱帶しごきたすきにしてむすんだながはしうしろへだらりとれてる。

しごき帯は、踊りの手を描くたびごとに、袂とともにゆらりゆらりと揺れる。

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扱帶しごきをどりゑがたびごとたもとともにゆらり/\とれる。

男は少し乱暴に、女の体にこすりつきながら踊る。

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をとこすこ亂暴らんばうをんな身體からだにこすりつきながらをどる。

女はうるさい時には一時踊りの手を止めて相手を叱ったり叩いたり、しかもその持ち前のつつましさを保って拍子を合わせながら、大勢の間にもまれながら、同じ線を繰り返しながら踊る。

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をんな五月繩うるさときには一時ちよつとをどりめて對手あひてしかつたりたゝいたり、しかその特性とくせいのつゝましさをたもつて拍子ひやうしあはなが多勢おほぜいあひだまれつゝどうせん反覆はんぷくしつゝをどる。

次第に人数が増えて、大きな輪の内側にさらに小さな輪が描かれた。

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漸次ぜんじ人勢にんずえておほきな内側うちがはさらちひさゑがかれた。

太鼓が怠ければ

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太鼓たいこ倦怠だれれば

「太鼓がおろそかじゃ踊りもおろかだ」

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太鼓たいこおろかぢやをどりもおろかだ」

と口々に促し促し、代わる代わる唄の声を張り上げて踊る。

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口々くち/″\うながうなが交互たがひうたこゑげてをどる。

太鼓の手は疲れれば、さらに人が交代して、撥も折れよと鳴らす。

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太鼓たいこつかれゝばさらひと交代かうたいしてばちれよとらす。

踊り子はみな、いっぱいに飾った笠をかぶっている。

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踊子をどりこみなぱい裝飾さうしよくしたかさいたゞいてる。

飾りといっても、夜目に鮮やかなように、饅頭やその他の物を包む白いへぎ皮をおびただしくくくりつけておくのである。

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裝飾さうしよくといつても夜目よめあざやかなやうに、饅頭まんぢうものつゝしろへぎかはおびたゞしくくゝけてくのである。

それが月光を遮っている樅の木陰に著しく目に立って、身を動かすたびに一斉にがさがさと鳴りながら、波のように動いて彼らの姿を引き立てている。

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れが月光げつくわうさへぎつてもみ木陰こかげいちじるしくつて、うごかすたびに一せいにがさがさとりながらなみごとうごいて彼等かれら風姿ふうしへてる。

彼らが幾夜も踊って不用になった時には、それが彼らの歩いた道の傍らに埃にまみれながら、至る所に投げ捨てられて散らばっているのを見るのである。

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彼等かれら幾夜いくよをどつて不用ふようしたときには、それが彼等かれらあるいたみちはたほこりまみれながらいたところ抛棄はうきせられて散亂さんらんしてるのをるのである。

その踊りの周りには、ようやく村の見物が集まった。

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をどり周圍しうゐにはやうや村落むら見物けんぶつあつまつた。

混雑した群衆と少し離れて、村のにわか商人がむしろを敷いて、駄菓子や梨やまくわ瓜や西瓜を並べている。

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混雜こんざつして群集ぐんしふすこはなれて村落むら俄商人にはかあきんどむしろいて駄菓子だぐわしなし甜瓜まくはうり西瓜すゐくわならべてる。

油煙がぼうっと上がるカンテラの光が、そういうすべてを涼しく見せている。

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油煙ゆえんがぼうつとあがるカンテラのひかりがさういふすべてをすゞしくせてる。

ことに断ち割った西瓜の赤い切れは、小さな店の第一の飾りである。

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ことつた西瓜すゐくわあかきれちひさなみせだい一のかざりである。

踊り子の渇いた喉には、自分たちが立てる埃の掛かるのも構わず、ひたすらそれをうまく感じるのである。

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踊子をどりこかつしたのどには自分等じぶんらてるほこりかゝるのも頓着とんちやくなく只管ひたすらそれを佳味うまかんずるのである。

それが少女であれば、少なくとも三、四人が群れて、飾られた花笠深く顔が覆われているのに、それでもなお知られることを恥じらって、ようやく手の及ぶ程度にカンテラの光の範囲から遠ざかろうとしながら、西瓜の一切れずつを求める。

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それが少女せうぢよであればすくなくとも三四にんれてかざられた花笠はながさふかかほおほはれてるのにそれでも猶且やつぱりられることをはぢらうてやうやおよ程度ていどにカンテラのひかり範圍はんゐからとほざからうとしつゝ西瓜すゐくわの一きれづつをもとめる。

にわか商人は、カンテラの明かりと木陰の薄い闇との間に立った、その姿がはっきりと見極めがたいので、しきりに目をしかめながら、求められるままにむしろの端に立って西瓜を出してやる。

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俄商人にはかあきんどはカンテラの光明くわうみやう木陰こかげうすやみとのあひだつた姿すがた明瞭はつきり見極みきはがたいので、しきりにしかめつゝもとめられるまゝむしろはしつて西瓜すゐくわしてる。

踊り子はそれを手にして、慌ただしく木陰に隠れる。

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踊子をどりこれをにしてあわたゞしく木陰こかげかくれる。

そこには必ず、めいめいの口から発する笑い声が聞かれるのである。

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其處そこにはかならおの/\くちからはつする笑聲わらひごゑかれるのである。

カンテラの光のためにかえって視界を狭められた商人は、木陰の闇から見れば滑稽なほど、絶えずその目をしかめながら、外の闇を透して騒がしい群衆を見ている。

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カンテラのひかりためかへつ眼界がんかいせばめられた商人あきんど木陰こかげやみかられば滑稽こつけいほどえずしかめつゝそとやみすかしてさわがしい群集ぐんしふる。

勘次は与吉の求めるままに西瓜の一切れを与えて、自分は商人の狭いむしろの端へ腰を下ろした。

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勘次かんじ與吉よきちもとめるまゝ西瓜すゐくわの一きれあたへて自分じぶん商人あきんどせまむしろはしこしおろした。

おつぎはしばらく店のそばに立っていたが、明るい光をいとって、やがて樅の木の下に与吉とともに身を避けた。

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おつぎはしばらみせそばつてたが、あかるいひかりいとうてやがもみした與吉よきちともけた。

勘次はにわかに目をそばだてるようにして、木陰の闇を見た。

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勘次かんじにはかそびやかすやうにして木陰こかげやみた。

彼はそこにおつぎの浴衣姿がじっとしているのを見て、むしろから離れることはしなかった。

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かれ其處そこにおつぎの浴衣姿ゆかたすがた凝然じつとしてるのをむしろからはなれることはなかつた。

「おつぎさん、よく来たっけな」

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「おつぎさんたつけな」

列を離れた踊り子が、汗の胸を少し開いて、袂でしきりにあおぎながら、樅の木のそばに立って言いかけた。

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れつはなれた踊子をどりこあせむねすこひらいて、たもとしきりにあふぎながらもみそばつていひけた。

「ああ暑いやまあ、むせ返るようだ」

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「おゝあついやまあ、むせけえやうだ」

と、袂の端で汗を拭きながら

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と、たもとはしあせきながら

「おつぎさん、踊らないか」

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「おつぎさん、をどんねえか」

と、ほかの一人が言った。

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ほか一人ひとりがいつた。

「おれはいやだよ、おとっつあんがいるから」

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だよ、おとつゝあつから」

おつぎは小声で言った。

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おつぎは小聲こごゑでいつた。

誘った踊り子は、目をしかめている勘次の様子を見て、自分が睨みつけられているように感じたので、ほかへこそこそと身を避けた。

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さそうた踊子をどりこしかめて勘次かんじ容子ようす自分じぶんにらみつけられてやうかんじたので、孤鼠々々こそ/\けた。

女同士の目には、姿を変えた踊り子がみな一目で分かるのであった。

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女同士をんなどうしには姿すがたへんじた踊子をどりこみなけんして了解れうかいされるのであつた。

踊りを見ながら輪の周りに立っている村の女らは、手と手を突き合って勘次の様子を見ては、くすくすとひそかに冷笑を浴びせかけるのであった。

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をどりながら周圍しうゐつて村落むら女等をんならつゝうて勘次かんじ容子ようすてはくすくすとひそか冷笑れいせうあびけるのであつた。

カンテラの光は、樅の木陰のどこからでもはっきりと勘次の様子を目に立たせるように、ぼうぼうと油煙を立てながら、周りの目とうなずき合って、赤い舌をべろべろと吐きながら揺らめいた。

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カンテラのひかりもみ木陰こかげ何處いづこからでも明瞭はつきり勘次かんじ容子ようすたせるやうにぼう/\と油煙ゆえんてながら、周圍しうゐまなこ首肯うなづうてあかしたをべろべろときつゝゆらめいた

おつぎの姿が五、六人立った中に見えなくなった時、勘次は商人のむしろを立って、すっと樅の木のそばへ行った。

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おつぎの姿すがたが五六にんつたなかえなくつたとき勘次かんじ商人あきんどむしろつてすつともみそばつた。

おつぎは一、二歩位置を変えただけであったので、彼はすぐにおつぎの白い姿と接して立った。

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おつぎは一二位置ゐちへただけであつたので、かれすぐにおつぎのしろ姿すがたあひせつしてつた。

女同士は勘次の姿を見て、少し身を避けた。

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女同士をんなどうし勘次かんじ姿すがたすこけた。

五、六本そびえ立った樅の木は、引きしごいたようなこずえが寄り合って、さっきから明るい光をいとう踊り子を覆っていっぱいに陰を投げていたのであるが、じっとした静かな月がいくらか首を傾けたと思ったら、樅のこずえの間から少しのぞいて、踊り子が形づくっている輪の一端をかっと明るくした。

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五六ぽん屹立きつりつしたもみいたやうこずゑあひつて、先刻さつきからかるいひかりいと踊子をどりこおほうて一ぱい陰翳かげげてたのであるが、凝然ぢつとしたしづかなつきいくらかくびかたむけたとおもつたらもみこずゑあひだからすこのぞいて、踊子をどりこかたちづくつての一たんをかつとかるくした。

彼らのかぶっている飾りがその光に触れれば、ことごとく目を射るようにはっきりと白く見え出した。

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彼等かれらいたゞいて裝飾さうしよくそのひかりれゝばことごとるやうにはつきりとしろした。

ほとんど疲れということを感じないのであろうかと怪しまれる彼らは、ますます興に乗じて、少し乱雑になりかけた。

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ほとんど疲勞ひらうといふことをかんじないであらうかとあやしまれる彼等かれら益々ます/\きようじようじてすこ亂雜らんざつけた。

白いシャツの上に浴衣を肩までまくって、尻をからげて草鞋をはいた幾人かが列から離れたと思ったら、そこらに立って見物している女らに向かって、津波のように襲った。

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しろいシヤツのうへ浴衣ゆかたかたまでくつて、しりからげて草鞋わらぢ穿はい幾人いくにんれつからはなれたとおもつたら、其處そこらにつて見物けんぶつして女等をんならむかつて海嘯つなみごとおそうた。

女同士はわあとただ笑い声を発して、めいめいに相手を突いたり叩いたりして、乱れながら騒いだ。

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女同士をんなどうしはわあとたゞわらごゑはつして各自てんで對手あひていたりたゝいたりしてみだれつゝさわいだ。

突然一人が、おつぎの髪へひょいと手を掛けた。

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突然とつぜん一人ひとりがおつぎのかみへひよつとけた。

「これはまあ、どうしたもんだ」

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らまあ、どうしたもんだ」

おつぎが驚いて叫んだ時、相手はおつぎの櫛を奪って、混雑した群衆の中へ身を沈めた。

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おつぎがおどろいてさけんだとき對手あひてはおつぎのくしうばつて混雜こんざつした群集ぐんしふなかぼつした。

おつぎは髪へいたずらされたことを嫌って、思わず手を当ててみて、櫛のなくなったのを知った。

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おつぎはかみ惡戯いたづらされたことをきらつておもはずあてくしくなつたのをつた。

「他人の櫛をまあ」

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他人ひとくしまあ」

おつぎはそれを追おうとして、覚えず足を踏み出すと、一歩運んだ勘次の手が、むずとおつぎの首筋をつかまえた。

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おつぎはれをはうとしておぼえずあしすと、一はこんだ勘次かんじがむづとおつぎの首筋くびすぢとらへた。

彼は同時に、おつぎの小鬢を横に打った。

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かれ同時どうじにおつぎの小鬢こびんよこつた。

おつぎが慌てて後ろを向こうとする時、再び激しく打った手がおつぎの鼻に当たった。

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おつぎがあわてゝうしろかうとするときふたゝはげしくつたがおつぎのはなあたつた。

おつぎは両手で鼻を押さえて縮まった。

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おつぎは兩手りやうてはなおさへてちゞまつた。

女同士は樅の木陰に身をすくめて、手の出しようもなかった。

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女同士をんなどうしもみ木陰こかげそばめてやうもなかつた。

一つには、ふだんからおつぎに対する勘次の態度を知っていて、そこに一種の恐れを感じていたからでもあった。

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ひとつには平生ふだんからおつぎにたいする勘次かんじ態度たいどつて其處そこに一しゆ恐怖きようふかんじてたからでもあつた。

「どうしてお前は、櫛なんぞ取られたんだ」

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「どうしてりや、くしなんぞらつたんだ」

勘次はからびた喉から絞り出すような声で問いつめた。

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勘次かんじはからびたのどからしぼやうこゑ詰問きつもんした。

「こら、このあま奴、しらばくれやがって、どうしたんだよ」

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「こうれ、この阿魔奴あまめ、しらばくれやがつて、どうしたんだよ」

勘次はかがんだままのおつぎをぐいと突いた。

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勘次かんじかゞんだまゝのおつぎをぐいといた。

おつぎは転がりそうにして、ようやく土へ手を突いた。

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おつぎはころがりさうにしてやうやつちいた。

「何するんだな、おとっつあん」

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なにんだな、おとつゝあ」

おつぎは慌てて顔をねじ向けて、少し泣き声で、むしろ鋭く言った。

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おつぎはあわてゝかほけてすこごゑむしするどくいつた。

「何するんだとう。ずうずうしいあまだ。櫛をどうして取られたんだか言ってみろというんだ。これでも分からないのか。言ってみろよ」

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なにんだとう、づう/\しい阿魔あまだ、くし何故どうしてらつたんだかつてろつちんだ、んでもわかんねえのか、つてろよ」

勘次はしばらく間を置いて、またかっと忌々しくなったように

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勘次かんじしばらあひだいて、またかつと忌々敷いま/\しくなつたやうに

「言ってみろというのに、言ってみろよ」

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つてろつちのに、つてろよ」

と繰り返して、おつぎを責めた。

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反覆くりかへしておつぎをめた。

「どうしてと言ったって、おれには分からないよ」

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「どうしてつちつたつて、らがにやわかんねえよ」

おつぎは恨めしそうに、しかしながら周りを憚るようにして小声で言った。

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おつぎはうらめしさうしかしながら周圍しうゐはゞかやうにして小聲こごゑでいつた。

袂は顔を覆ったままである。

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たもとかほおほうたまゝである。

「分からないとう。何にも知らない者で他人の櫛なんぞ取るか」

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わかんねえとう、なんにもらねえもの他人ひとくしなんぞつか」

勘次は苦しい息を吐くようにして

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勘次かんじくるしいいきくやうにして

「そんならお前は」

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「そんだらりや」

と、歯でぎっとかみ殺したような声で言った。

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でぎつところしたやうこゑでいつた。

しばらくじっと見ていた彼は、おつぎを蹴った。

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暫時しばらく凝然ぢつかれはおつぎをつた。

おつぎは前へのめった。

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おつぎはまへへのめつた。

しかし、おつぎは泣かなかった。

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しかしおつぎはかなかつた。

「ああ痛いまあ」

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「おゝてえまあ」

群衆の中から作り声で言った。

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群集ぐんしふなかから假聲こわいろでいつた。

踊りの列はさっきから崩れて、垣のように勘次とおつぎの周りに集まったのである。

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をどりれつ先刻さつきからくづれてごと勘次かんじとおつぎの周圍まはりあつまつたのである。

おつぎはこの声を聞くとともに、乱れかけた着物の合わせ目を繕った。

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おつぎはこのこゑくとともみだけた衣物きものあはつくろうた。

「櫛を取ったのはここにいたよう」

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くしとつたな此處ここたよう」

と、これも喉の底からかすれて出るような声が、群衆の中から発せられた。

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れものどそこからかすれてるやうなこゑ群集ぐんしふなかからはつせられた。

「持ってたら、やっちまえ」

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つてたら、やつちめえ」

「いやだよう、おとっつあんにぶん殴られるから。おとっつあん勘弁してくれよう」

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だよう、おとつゝあになぐられつから、おとつゝあ勘辨かんべんしてくろよう」

と、すすり泣くような作り声がさらに聞こえた。

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歔欷すゝりなくやうな假聲こわいろさらきこえた。

呆然として見ていたすべてがどよめいた。

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惘然ばうぜんとしてすべてがどよめいた。

「おとっつあん、明かりをつけようかあ」

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「おとつゝああかけべえかあ」

と、群衆の後ろから怒鳴るとともに、すべてがまたどっと笑った。

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群集ぐんしふあとから呶鳴どなるとともすべてがたどつとわらつた。

おつぎはむっくり起きて、さっさと行きかけた。

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おつぎはむつくりきてさつさとけた。

「お前、どこへ行くんだ。こら」

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われ何處どこくんだ。こうれ」

勘次はつかまえようとしたが、おつぎは身をよじってさっさと行く。

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勘次かんじつかまうとしたがおつぎはねぢつてさつさとく。

勘次は慌てて草履の爪先がつまずきながら、おつぎの後についた。

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勘次かんじあわてゝ草履ざうり爪先つまさきつまづきつゝおつぎのあといた。

「おつう」

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「おつう」

彼は心もとなげに呼んだ。

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かれこゝろもとなげにんだ。

与吉はどうしたわけとも分からないので、さっきからただ泣いていた。

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與吉よきちはどうした理由わけともわからないので先刻さつきからたゞいてた。

太鼓が止んで、踊りはまったく乱れてしまった。

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太鼓たいこんでをどりまつたみだれてしまつた。

それでなくても彼らは、ひとしきり踊れば田んぼを越えて三々五々と、男は女を伴って、畑の小道から林を過ぎて、村から村へと太鼓の音を尋ねて行くのである。

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それでなくても彼等かれらは一しきりをどれば田圃たんぼえて三々五々さんさんごゝをとこをんなともなうて、はた小徑こみちからはやしぎて村落むらから村落むらへと太鼓たいこおとたづねてくのである。

勘次の後から、彼らはぞろぞろとついて行った。

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勘次かんじうしろから彼等かれらはぞろ/\といてつた。

ある者は足速に駆け抜けては

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あるもの足速あしばやけては

「焼き餅焼くとて手を焼いて、その手でお釈迦の団子をこねた」

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燒餅やきもちくとていてえ、でお釋迦しやか團子だんごねたあ」

と当てつけに唄って、ずんずん行ってしまう。

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てつけにうたうてずん/\つてしまふ。

後ろの群衆はそれに応じて、指をくわえてぴゅうぴゅうと鳴らしながら、勘次の心をいらだたせた。

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うしろ群集ぐんしふはそれにおうじてゆびくはへてぴう/\とらしながら勘次かんじこゝろ苛立いらだたせた。

勘次はどれほどそれが激した心に忌々しくても、それをたしなめて叱ってやる何の手がかりも持っていない。

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勘次かんじほどそれがげきしたこゝろ忌々敷いま/\しくくてもれをたしなめてしかつてなんがかりもつてらぬ。

三人はただ黙って歩いた。

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にんたゞだまつてあるいた。

社の森の外は、白い月夜である。

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やしろもりそとしろ月夜つきよである。

勘次が村外れの家に帰った時は、踊り子はみな自分の向かう所に赴いて、三人のみが静かに更けて行く庭にぽつんと立ったのであった。

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勘次かんじ村落外むらはづれのいへかへつたとき踊子をどりこみな自分じぶんむかところおもむいて三にんのみがしづかにはにぽつさりとつたのであつた。

各所の太鼓の音が、面白いのはかえってこれからだというように、沈んだ夜を透して一直線に響いて来る。

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各所かくしよ太鼓たいこおと興味きようみかへつれからだといふやうしづんだとほして一直線ちよくせんひゞいてる。

唄の声は遠く近く聞こえる。

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うたこゑとほちかきこえる。

夜はまったく、踊る者の領分に帰した。

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よるまつたをどるものゝ領域りやうゐきした。

彼らは、とうもろこしの葉がざわざわと妙に心を騒がせて、花粉の匂いがさらに心の何かを突き動かす畑の間を行くとては、踊って唄って渇いた喉に、そこに瓜が作ってあるのを知れば、ひそかに瓜や西瓜を盗んで、道端の草の中に打ち割った皮を投げ捨てて行くのである。

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彼等かれら玉蜀黍たうもろこしがざわ/\とめうこゝろさわがせて、花粉くわふんにほひがさらこゝろあるもの衝動そゝはたけあひだくとては、をどつてうたうてかつしたのど其處そこうりつくつてあるのをればひそかうり西瓜すゐくわぬすんで路傍みちばたくさなかつたかはてゝくのである。

彼らの間のいたずら好きな五、六人が、夜が更けてからそっと勘次の庭へ立ってみた。

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彼等かれらあひだ惡戯いたづらきな五六にんけてからそつと勘次かんじにはつてた。

その時はただ自分たちの影がやや長く庭の土に映って、月は隙間だらけの古ぼけた雨戸を、ほのかに白く見せていた。

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ときたゞ自分等じぶんら陰翳かげやゝながにはつちえいじて、つき隙間すきまだらけのふるぼけた雨戸あまどをほのかにしろせてた。

周りは泣き止んだ後のように、あまりに寂しかった。

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周圍しうゐんだあとのやうにあまりにさびしかつた。

五、六人はただぽつんと帰ってしまった。

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五六にんたゞぽつさりとかへつてしまつた。

おつぎは次の朝、櫛を探しに出た。

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おつぎはつきあさくしさがしにた。

同じ年ごろの間には、誰のいたずらであるかがその場ですべての耳に知れ渡っていた。

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おな年輩ねんぱいあひだにはたれ惡戯いたづらであるかがすべてのみゝわたつてた。

「櫛なんざ持っていないぞ、もう。それよりは、帰って柿の木の二股でも見たほうがいいと」

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くしなんざつてゐねえぞはあ、それよりやあ、けえつてかきのざくまたでもはうがえゝと」

仲間の一人がおつぎへ言った。

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朋輩ほうばい一人ひとりがおつぎへいつた。

おつぎは、自分の庭の柿の木の幹が二股になった所に、櫛がそっと載せてあるのを見つけた。

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おつぎは自分じぶんには柹木かきのきみきが二またつたところくしがそつとせてあるのを發見はつけんした。

櫛は鼈甲まがいのゴムの櫛であった。

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くし鼈甲模擬べつかふまがひのゴムのくしであつた。

歯が二枚ばかり欠けていた。

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が二まいばかりけてた。

おつぎは傷んだ所をじっと見て、すぐに髪へ挿した。

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おつぎは損所そんしよ凝然ぢつすぐかみした。

櫛の事件はそれっきりで終わった。

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くし事件じけんれつきりをはつた。

勘次は何かにつけては、おつう、おつうと懐かしげに呼んで、一家は人の目に立つほどきわめて睦まじかった。

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勘次かんじなにかにつけてはおつう/\となつかしげにんで一ひとほどきはめてむつましかつた。

しかし、こういう事件は村のすべての口を長く塞ぐことはできなかった。

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しかしかういふ事件じけん村落むらすべてのくちひさしくふせぐことは出來できなかつた。

ことに女房らの間には

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こと女房等にようばうらあひだには

「勘次さんもどうしたっていうんだろう。おれは怖いようだったぞ」

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勘次かんじさんもどうしたつちんだんべ、可怖おつかねえやうだつけぞ」

「本当によ、まるっきり狂気のようだものなあ」

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本當ほんたうによ、まるつきり狂氣きちげえのやうだものなあ」

という驚きの声が、至る所に繰り返された。

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といふ驚異きやういこゑいたところ反覆はんぷくされた。

「ただとは思えないよ。勘次さんも、ああいうふうにしないでもよかろうと思うのになあ」

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たゞたあおもへねえよ、勘次かんじさんもあゝいにねえでもよかんべとおもふのになあ」

嘆きの声を発しては、めいめいの心に潜んでいる何かを、口にははっきりと言うことを憚るように、目と目を見合わせて互いに笑っては、わずかに

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嘆聲たんせいはつしては各自かくじこゝろ伏在ふくざいしてあるものくちには明白地あからさまふことをはゞかやう見合みあはせてたがひわらうてはわづか

「いやだいやだ」

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だ/\」

という、底に一種の意味を含んだ一言を投げ捨てて別れるのである。

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といふそこに一しゆ意味いみふくんだ一てゝわかれるのである。

ことには村の若者の間へは、少しも遠慮のない想像に伴う陰口をたくましくさせる、格好の材料を提供したのであった。

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ことには村落むら若者わかものあひだへは寸毫すんがう遠慮ゑんりよ想像さうざうともな陰口かげぐちたくましくせしめる好箇かうこ材料ざいれう提供ていきようしたのであつた。

一四

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一四

夏が巡って来た。

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なつ循環じゆんくわんした。

暑い日の刺激が、驚くべき活動力を百姓の手足に与える。

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あつ刺戟しげきおどろくべき活動力くわつどうりよく百姓ひやくしやう手足てあしあたへる。

百姓は馬や荷車を駆って、刈り倒した麦をせっせと運ぶ。

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百姓ひやくしやううま荷車にぐるまつてたふしたむきをせつせとはこぶ。

長い日はわずかな日数のうちに、目に果てしない畑をからりとさせて、しばらくすると天候は限りない変化の手をいっぱいに広げて、黄色に熟する梅の小枝を苦しめているあぶらむしも滅びてしまうほどの長雨が、呆れもしないで降り続く。

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ながわづか日數ひかずうち渺々べうべうたるはたけをからりとさせて、しばらくすると天候てんこうきはまりない變化へんくわを一ぱいひろげて、黄色きいろじゆくするうめ小枝こえだくるしめて蚜蟲あぶらむし滅亡めつばうしてしまほど霖雨りんうあきれもしないでつゞく。

そうすると、麦を刈った跡の豆や陸稲が、渇いた口へ冷たい水を得たように勢いづいて、四、五日のうちに青い葉で畑の土が隙間なく覆われる。

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さうするとむきつたあとまめ陸穗をかぼかつしたくちつめたいみづやういきほひづいて、四五にちうちあをもつはたけつち寸隙すんげきもなくおほはれる。

雨は踏み固めてある百姓の庭の土にも、たねつけばなやきつねのぼたんの黄色い小粒な花を持たせて、棟にさえ長い短い草を生えさせる。

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あめかためてある百姓ひやくしやうにはつちにも蔊菜いぬがしら石龍芮たがらし黄色きいろ小粒こつぶはなたせて、やのむねにさへながみじかくさしやうぜしめる。

自然の意志は、ひたすら地上の至る所に柔らかな青い葉で覆い隠そうとのみ力を注いでいるのである。

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自然しぜん意志いし只管ひたすら地上ちじやういたところやはらかなあをもつおほかくさうとのみちからそゝいでるのである。

その意志に逆らってためらっているのは、百姓の手で丁寧にこねられた水田のみである。

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意志いしさからうて猶豫たゆたうてるのは百姓ひやくしやう丁寧ていねいねられた水田すゐでんのみである。

夏がようやく更けると、自然はその心を焦らせて、長雨が低い田に水を満たさせて、堀にも茂った草を沈めて岸を越えさせる。

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なつやうやけると自然しぜんこゝろ焦燥あせらせて、霖雨りんうひくみづ滿たしめて、ほりにもしげつたくさぼつしてきしえしめる。

稲で田の空き地を埋めることが一日でも速ければ、それだけ余計な報酬を晩秋の収穫において与えるからと教えて、自然は百姓の体力の及ぶかぎり活動させる。

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稻草いなぐさもつ空地くうちうづめることが一にちでもすみやかなればそれだけ餘計よけい報酬はうしう晩秋ばんしう收穫しうくわくおいあたへるからとをしへて自然しぜん百姓ひやくしやう體力たいりよくおよかき活動くわつどうせしめる。

そうすると百姓は、田のようにどろどろと往来の土をもこねて、馬とともに泥にまみれながら、田植えにのみかかりきる。

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さうすると百姓ひやくしやうのやうにどろ/\と往來わうらいつちをもねてうまともどろまみれながら田植たうゑにのみ屈託くつたくする。

彼らは雨を藁の蓑に避けて、左手に持った苗を少しずつ取っては、後ずさりに深い泥から股引の足を引き抜き引き抜き、植えて退く。

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彼等かれらあめわらみのけて左手ひだりてつたなへすこしづつつて後退あとずさりにふかどろから股引もゝひきあし退く。

こうして広々とした水田は、一日泥に浸ったままでも愉快そうに唄う声があっちからもこっちからも響くとともに、だんだんに淡い緑が覆って、多忙で、かつ活発な夏の自然は、先に植えられた田から次第に深い緑を染めて行く。

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うして宏濶くわうくわつ水田すゐでんは、一にちどろひたつたまゝでも愉快相ゆくわいさううたこゑがそつちからもこつちからもひゞくとともに、段々だん/\あさみどりおほうて、多忙たばうかつ活溌くわつぱつなつ自然しぜんさきゑられたから漸次ぜんじふかみどりめてく。

田がすべて植え終わった時には、あぜにも短い草が生えていて、土の黒い部分がどこにも見えなくなる。

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すべをはつたときには畦畔くろにもみじかくさえてつちくろ部分ぶぶん何處どこにもえなくる。

自然ははじめて自分の満足を得たように、からりと快い空を拭って、暑い日の光を投げかける。

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自然しぜんはじめて自己じこ滿足まんぞくやうにからりとこゝろよいそらぬぐうてあつひかりける。

青田のあぜにはところどころにかんぞうが開いて、田の草をかくとては、村の少女が赤い帯を暑い日に燃やさない日でも、しぼんでは開いて、朱の杯のように点々と耕地を彩るのである。

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青田あをた畦畔くろには處々しよ/\萱草くわんさうひらいて、くさくとては村落むら少女むすめあかおびあつやさないでも、しぼんではひらいて朱杯しゆはいごと點々てん/\耕地かうちいろどるのである。

百姓は忙しい田植えが終われば、どこの家でも秋の収穫を待つ準備がすっかり施されたので、めいめいの労をねぎらうために、相当なもてなしが行われるのである。

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百姓ひやくしやういそがしい田植たうゑをはれば何處どこいへでもあき收穫しうくわく準備じゆんびまつたほどこされたので、各自かくじらうねぎらため相當さうたう饗應もてなしおこなはれるのである。

それが早苗饗である。

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それ早苗振さなぶりである。

勘次とおつぎは、南の早苗饗の日に雇われて行っていた。

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勘次かんじとおつぎはみなみ早苗振さなぶりやとはれてつてた。

勘次の家から南へ行く小道を挟んだ桑畑は、刈り取ってから草の生えたくらいに枝が立ちはじめていた。

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勘次かんじいへからみなみ小徑こみちはさんだ桑畑くはばたけ刈取かりとつてからくさえたくらゐえだはじめてた。

桑の間にはじゃがいもが茂って、花を持っていた。

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くはあひだには馬鈴薯じやがいもしげつてはなつてた。

南の家では少しばかり養蚕をしたので、百姓の仕事がすべて手遅れになったのであった。

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みなみいへではすこしばかり養蠶やうさんをしたので百姓ひやくしやう仕事しごとすべ手後ておくれにつたのであつた。

村のたいていが田植えを終えかけたので、慌てて大勢の手を雇った。

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村落むら大抵たいてい田植たうゑをはけたのであわてゝ大勢おほぜいやとうた。

その日は晴れて心持ちがよかったのと、一同が非常な奮発をしたのとで、仕事は日の高いうちに済んだ。

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れて心持こゝろもちがよかつたのと、一どう非常ひじやう奮發ふんぱつをしたのとで仕事しごとたかうちんだ。

南の女房は仕事の見極めがついたので、おつぎを連れて、その晩のおかずの用意をするために、一足先に田から帰った。

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みなみ女房にようばう仕事しごと見極みきはめがついたのでおつぎをれて、そのばん惣菜そうざい用意よういをするために一あしさきからかへつた。

女房は忙しい思いをしながら、麦を炒って香煎も篩っておいた。

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女房にようばういそがしいおもひをしながらむぎつて香煎かうせんふるつていた。

田植えの一同は、股引をはいたまま泥の足をずっと堀の水に立てて、股引の紺地がはっきりとなるまで、両手でごしごしとしごいた。

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田植たうゑ同勢どうぜい股引もゝひき穿いたまゝどろあしをずつとほりみづてゝ、股引もゝひき紺地こんぢがはつきりとるまで兩手りやうてでごし/\としごいた。

溶けた泥が煙のように水を濁らせて、ずんずんと流される。

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けたどろけぶりごとみづにごらしてずん/\とながされる。

そうしてから、その股引を脱いでざぶざぶと洗う者もあった。

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さうしてから股引もゝひきいでざぶ/\とあらものつた。

彼らが帰って、家の中は急にがやがやとにぎやかになった。

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彼等かれらかへつていへうちきふにがや/\とにぎやかにつた。

裏の戸口の柿の木の下に据えられた風呂には、牛が舌を出して鼻をなめずっているような炎が、煙とともにべろべろと立って、くすぶりながら燃えている。

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裏戸口うらとぐちかきしたゑられた風呂ふろにはうししたしてはなめづつてやうほのほけぶりともにべろ/\とつていぶりつゝえてる。

雇われて来た女房らの一人がふたを取ってがらがらとかき回して、それからまた火吹き竹でふうふうと吹いた。

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やとはれて女房等にようばうら一人ひとりふたをとつてがら/\とまはして、それから火吹竹ひふきだけでふう/\といた。

炎の赤い舌がべろべろと長く立った。

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ほのほあかしたがべろ/\とながつた。

再びふたを取った時には、掃除の足らない風呂桶の中には、前夜の垢がいっぱいに浮いていた。

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ふたゝふたをとつたときには掃除さうぢらぬ風呂桶ふろをけのなかには前夜ぜんやあかが一ぱいいてた。

そんなことには構わずに、田植えの一同はずんずんと入った。

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其麽そんなことにはかまはずに田植たうゑ同勢どうぜいはずん/\と這入はひつた。

彼らはほとんど、ただ手拭いでぼちゃぼちゃと体をこすって出た。

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彼等かれらほとんどたゞ手拭てぬぐひでぼちや/\と身體からだをこすつてた。

足の爪先に詰まった泥を落とすことさえしなかった。

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あし爪先つまさきまつたどろおとすことさへなかつた。

「くすぶってるのをそっちへ押し出さなくちゃ仕方がないや」

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けぶつてえのそつちへおんさなくつちややうねえや」

風呂から出たまま拭いもしない足に下駄をはいて、裸の尻を他人に向けて立った一人が、後ろを振り返って言った。

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風呂ふろからまゝぬぐひもせぬあし下駄げた穿いてはだかしり他人たにんけてつた一にんうしろかへりみていつた。

「なあに構わない」

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「なあにかまあねえ」

後から目をしかめながら、一人が首筋まで沈んだ。

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あとからしかめながら一人ひとり首筋くびすぢまでしづんだ。

それから風呂桶へ腰を掛けて、ごしごしと洗いながら

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それから風呂桶ふろをけこしけてごし/\とあらひながら

「こりゃくすぶってる」

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りやけぶつてえ」

と、また沈んだままごしごしと垢を落としていたが

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またしづんだまゝごし/\とあかおとしてたが

「ああいい所だ。よう、おつぎ、ちょっとここまで来てくれないか」

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「あゝとこだ、よう、おつぎ、ちつ此處ここまでてくんねえか」

と言った。

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といつた。

彼は百姓の間には、馬を引いて歩く村の博労であった。

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かれ百姓ひやくしやうあひだにはうまいてある村落むら博勞ばくらうであつた。

「どうしたもんだろう。兼さんら自分で入るのに、くすぶってるなら押し出してから入ったらよかろうな。それにどうしたもんだ、一同いて、水汲みに来た者なんぞ使わなくたっていいだろうな」

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「どうしたもんだんべ、かねさん自分じぶん這入へえんのにけむつたけりや、おんしてからへえつたらかんべなあ、それに怎的どうしたもんだ一同みんなて、水汲みずくみにたものなんぞ使つかあねえたつてよかんべなあ」

おつぎは軽くたしなめるように言って、二つの手桶をそっと置いて、くすぶっている薪を出してやった。

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おつぎはかるたしなめるやうにいつて二つの手桶てをけをそつといて、いぶつてたきゞしてつた。

「おつぎにかき出してもらうんでなくちゃいやだというから、おれは構わないんだな。そうでなけりゃいくらでも出してやるさ、よ」

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「おつぎにしてもらあんでなくつちやだつちからかまあねえんだな、そんでなけりやいくらでもしてらざらによ」

そばからすぐに言った。

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そばからすぐにいつた。

「くすぶってるのがなくなったら、ひどく晴れ晴れして、入っているようでなくなった。おれはばかな目に遭っちまったよ」

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けぶつてえのつたらひど晴々せい/\してへえつてるやうぢやなくなつた。莫迦ばかつちやつたえ」

兼博労は、がぶりと風呂の音をさせて立ちながら言った。

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かね博勞ばくらうはがぶりと風呂ふろおとをさせてたちながらいつた。

「どうしたもんだ、他人のことを使って小憎らしいこと。そんなこと言うと、押しつけてやるから」

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「どうしたもんだ、他人ひとのこと使つかつて小憎こにくらしいこと、そんなことふとおつけてつから」

おつぎはくすぶった薪を、兼博労の近くへ出した。

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おつぎはいぶつたたきゞかね博勞ばくらうちかくへした。

兼博労は慌てて

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かね博勞ばくらうあわてゝ

「謝った、謝った」

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謝罪あやまつた/\」

と、ずっと身を引いた。

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とずつといた。

おつぎが手桶のそばへ戻ったら

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おつぎが手桶てをけそばもどつたら

「ああ、おつぎ、おつぎ、ちょっと待っててくれよ。おれがいい物を出すから」

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「ああ、おつぎ/\ちつつてゝくろえ、れえゝものすから」

兼博労は口早に呼びかけた。

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かね博勞ばくらう口速くちばやけた。

「ああいやなこった、要らないよ」

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「おゝなこつた、らねえよ」

おつぎは少し身をかがめて手桶の柄をつかんで、そのまま身を伸ばすと、手桶の底が十センチほど地を離れた。

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おつぎはすこかがめて手桶てをけつかんでまゝのばすと手桶てをけそこが三ずんばかりはなれた。

「ええ、これを出そうというのに」

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「えゝ、すべつちのに」

兼博労は後ろから投げた。

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かね博勞ばくらうあとからげた。

それはこずえから風呂の中へ落ちた、へたのない青い柿であった。

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それはこずゑから風呂ふろなかちたへたのないあをかきであつた。

柿は手桶の水へぽたりと落ちて、水のとばっちりが少しおつぎの足へ掛かった。

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かき手桶てをけみづへぽたりとちて、みづのとばちりがすこしおつぎのあしかゝつた。

「憎らしいことまあ、いたずらばかりして」

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にくらしいことまあ、惡戯いたづらばかして」

おつぎはにっこりとして後ろを見た。

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おつぎは嫣然にこりとしてうしろた。

「後ろを見さえすりゃ、それでいいんだ」

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うしろせえすりやそんでえゝんだ」

と、風呂のそばにいた一人が言った。

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風呂ふろそば一人ひとりがいつた。

「おれはそのそばかすを見さえすりゃ気が済んでるんだよ」

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雀班そばつかすせえすりやんでんだよ」

兼博労は後について言った。

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かね博勞ばくらうあといていつた。

「どれほどすれっからしなんだろうな、兼さんは。他人のことを本当に」

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何程なんぼすれつからしなんだんべかねさんは、他人ひとのこと本當ほんたうに」

と、おつぎは手桶を置いて、水に浮かんだ青い柿を兼博労へ投げた。

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とおつぎは手桶てをけいてみづうかんだあをかきかね博勞ばくらうげた。

「兼さん、すっかり惚れられちまった」

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かねさんすつかりほれられつちやつた」

と、風呂桶の傍らから言った。

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風呂桶ふろをけそばからいつた。

おつぎは顔を赤くして、慌ただしく手桶を持って逃げた。

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おつぎはかほあかくしてあわたゞしく手桶てをけつてげた。

いっぱいに汲んだ手桶の水が、少し波立ってこぼれた。

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ぱいんだ手桶てをけみづすこ波立なみだつてこぼれた。

風呂桶の傍らでは、四十五十になる百姓もいて、一同が愉快そうにどよめいた。

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風呂桶ふろをけそばでは四十五十に百姓ひやくしやう一同みんな愉快相ゆくわいさうにどよめいた。

おつぎが手桶を持った時、勘次は裏戸の垣根口にひょっこりと出た。

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おつぎが手桶てをけつたとき勘次かんじ裏戸うらど垣根口かきねぐちにひよつこりとた。

彼は着物を換えに桑畑の小道を越えて、自分の家へ行ったのであった。

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かれ衣物きものへに桑畑くはばたけ小徑こみちえて自分じぶんうちつたのであつた。

彼は風呂のそばの騒ぎをちらと耳にして、それからおつぎの後ろ姿を目にしたので、怪訝な様子をして庭に入って来た。

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かれ風呂ふろそばさわぎをちらとみゝにしてそれからおつぎの後姿うしろすがたにしたので怪訝けげん容子ようすをしてにはにはひつてた。

一同は打ち合わせたように黙ってしまった。

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どう打合うちあはせたやうもくしてしまつた。

落ちかけた日がしばらく竹藪を透して湿った土に差しかけて、それから井戸を囲んだ井桁に臨んで、陰気に茂ったくちなしの花を際立って白くした。

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けた少時しばし竹藪たけやぶとほしてしめつたつちけて、それから井戸ゐどかこんだ井桁ゐげたのぞんで陰氣いんきしげつた山梔子くちなしはな際立はきだつてしろくした。

しばらくして、青い煙の満ちた家の中には、心も切らないランプが吊るされて、板の間には一同ぞろっとあぐらをかいて、丸い座がつくられた。

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しばらくしてあをけむり滿ちたいへうちにはしんらぬランプがるされて、いたには一どうぞろつと胡坐あぐらいてまるかたちづくられた。

これも雇われて来た若い女房らは、かまどの前に立って、家の女房とおつぎとに手を貸していた。

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これやとはれてわか女房等にようばうらかまどまへつてうち女房にようばうとおつぎとにしてた。

徳利が三、四本、膳の前に運ばれた。

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徳利とくりが三四ほんぜんまへはこばれた。

「おかげでどうも捗りました。どうぞゆっくりやっておくんなせえ」

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「おかげでどうもはかきあんした。どうぞゆつくりつておくんなせえ」

亭主は改まって挨拶した。

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亭主ていしゆあらたまつて挨拶あいさつした。

「はい」

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「はい」

と一同がお辞儀をした。

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と一どう時儀じぎをした。

めいめいの膳の隅へ一つずつ渡された茶飲み茶碗へ酒が注がれようとした時

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各自かくじぜんすみへ一つづゝわたされた茶呑茶碗ちやのみぢやわんさけがれようとしたとき

「あれ、待っててくれないか」

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「あれつてゝくんねえか」

と、家の女房が慌てて言った。

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うち女房にようばうあわてゝいつた。

「おとっつあん、お竈さまを忘れたっけだろうな」

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「おとつゝあん、お竈樣かまさまわすれたつけべな」

女房はかまどから飯の釜を下ろして、布巾を手にしたまま言った。

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女房にようばうかまどからめしかまおろして布巾ふきんにしたまゝいつた。

「そうだったな、ほんに」

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「さうだつけな、ほんに」

亭主はいきなり一本の徳利を手にして、土間へ下りた。

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亭主ていしゆはいきなり一ぽん徳利とくりにして土間どまへおりた。

かまどの上のすすけた小さな神棚へは、田から提げて来た一把の苗が載せてあった。

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かまどうへすゝけたちひさな神棚かみだなへはからげてた一なへせてあつた。

彼はその苗束へ、徳利から少し酒を注いだ。

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かれその苗束なへたば徳利とくりからすこさけいだ。

「酒はそっちのほうへたんと掛けないでもらいたいな」

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さけそつちのはうへたんとけねえでれえてえな」

兼博労はけろりとした様子をして冗談を言った。

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かね博勞ばくらうはけろりとした容子ようすをして戯談じやうだんをいつた。

「酒を飲む者は、そんなに惜しいもんだろうか」

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さけな、さうだにしいもんだんべか」

おつぎはこっそり言った。

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おつぎはこつそりいつた。

「そんだって、酒っていうのは人の口へ入るようにできてるんだから。それ、証拠にはおれの口へ入りゃすぐ利くから見ろよ」

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「そんだつてさけつちやひとくちえるやう出來できてんだから、それ證據しようこにやらがくちえりやすぐくからろえ」

兼博労は言った。

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かね博勞ばくらうはいつた。

亭主はまた、苗束へ香煎を少し振りかけた。

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亭主ていしゆまた苗束なへたば香煎かうせんすこけた。

それは稲の花になぞらえたので、稲の花がいっぱいに開くようにとの縁起であった。

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それはいねはな模擬なぞらつたので、いねはなが一ぱいひらやうとの縁起えんぎであつた。

兼博労はそれを見て、急に土間へ下りて行った。

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かね博勞ばくらうれをきふ土間どまりてつた。

「どれ、お前ら、うどん粉をちょっと持って来てみな。ひとつまみでいいんだ。おおい、持って来うな。おつぎでもいいや、よう」

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「どうれ、おめえ饂飩粉うどんこなちつつてせえ、一ツ爪尻つまじりでえゝんだ、おゝえつてうな、おつぎでもえゝや、よう」

と兼博労は促した。

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かね博勞ばくらううながした。

「どうしたもんだ、大威張りして」

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「どうしたもんだ、大威張おほえばりして」

おつぎは呟きながら、家の女房に聞いて小麦粉をひとつまみ出してやった。

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おつぎはつぶやきながらうち女房にようばういて小麥粉こむぎこを一つかしてつた。

「そうら、これを掛けて。これが晩稲の花だ」

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「さうらけて、れが晩稻おくいねはなだ」

兼博労は手にした小麦粉を、ことごとく掛けてしまった。

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かね博勞ばくらうにした小麥粉こむぎここと/″\けてしまつた。

苗束は少し白くなった。

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苗束なへたばすこしろつた。

「どこにもそんなふうに掛ける者はあるまいな」

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何處どこにもさういにけるもなんめえな」

女房の一人が見ていて言った。

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女房にようばう一人ひとりていつた。

「おれは晩稲を作るんだから。役場の奴らが作っちゃならないなんて言ったって、おれのみたいな、うっかりすると乳のあたりまで入るような深田の冷える所じゃ、どうしたって晩稲でなくちゃ穫れるもんじゃないな。それからおれは、役場で役人が講釈するから、深田じゃこうだと話したら、はっきり悪いとは言わないんだから。それからおれは、糞をつかんで見ない奴じゃだめだというんだ」

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晩稻おくいねつくんだから、役場やくば奴等やつらつくつちやなんねえなんちつたつて、てえな、うつかりすつとちゝぎしまでへえるやうなふかばうえつとこぢやどうしたつて晩稻おくいねでなくつちやれるもんぢやねえな、それから役場やくば役人やくにん講釋かうしやくすつからふかばうぢやうだつちはなししたら、はつきりりいたあはねえんだから、それからくそつかんでねえやつぢや駄目だめだつちんだ」

彼は笑いながら独りしゃべった。

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かれわらひながらひと饒舌しやべつた。

「根性がねじれてるからだあ、晩稲は作るなというのに」

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根性こんじやうねぢれてつからだあ、晩稻おくいねつくんなつちのに」

女房の一人がまた言った。

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女房にようばう一人ひとりまたいつた。

「おれか。いやどうも、ねじれてるにも何にも」

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れか、いやどうもねぢれてんにもなんにも」

兼博労は言って

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かね博勞ばくらうはいつて

「そうれ見ろよ、稲へ白い花が咲いたぞ。白坊主の花だ、こりゃ」

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「そうれろえ、いねしれはなえたぞ、白坊主しろばうずはなだこりや」

彼は手についた粉をよく叩いた。

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かれいたたゝいた。

「いやだよ、白坊主っていう稲はあるまいな」

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だよ、白坊主しろばうずツちいねはあんめえな」

女房がまた言った。

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女房にようばうまたいつた。

「そんでも、おれは勘次さんに聞いたぞ」

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「そんでも勘次かんじさんにいたぞ」

彼は少し首をすくめながら、声を低めて言った。

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かれすこくびをすくめながらこゑひくめていつた。

袂で口を押さえて、女房らは笑いを殺した。

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たもとくちおさへて女房等にようばうらわらひころした。

兼博労はわざと笑いを飲んで、再び板の間にあぐらをかいた。

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かね博勞ばくらうわざわらひんでふたゝいた胡坐あぐらいた。

勘次は小さな時分から侮られて、よく泣かされた。

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勘次かんじちひさな時分じぶんからあなどられてかされた。

彼は恐ろしい泣き虫であった。

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かれおそろしい泣蟲なきむしであつた。

彼はいつの間にか、燗鍋というあだ名をつけられた。

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かれ何時いつにか燗鍋かんなべといふ綽名あだなけられた。

彼は心にいくらそれを嫌ったか知れない。

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かれこゝろいくれをきらつたかれない。

三十を越えて四十になっても、彼は鍋というのがひどくいやであった。

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えて四十につてもかれなべといふのがひどいやであつた。

村ではそれを知らない者はない。

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村落むらではそれをらぬものはない。

ある時、いたずら好きな兼博労が、勘次の刈っている稲を、これは何だいと聞いた。

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あるとき惡戯好いたづらずきかね博勞ばくらう勘次かんじかついねを、これなんだえといた。

わざと聞いたのであった。

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わざいたのであつた。

それは鍋割れとも、それから芒が白いので白芒とも言うのであったが、勘次は

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れは鍋割なべわれとも、それからのげしろいので白芒しらのげともふのであつたが勘次かんじ

「これは白坊主」

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これ白坊主しろばうず

とそっけなく言った。

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とそつけなくいつた。

彼は鍋というのがいやで、そう言ったのである。

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かれなべといふのがいやでさういつたのである。

兼博労は、うまく何かをつかまえたように得意になって、村じゅうへ響かせた。

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かね博勞ばくらうはうまくあるものとらへたやう得意とくいつて村落中むらぢゆうひゞかせた。

口の悪い百姓らは、勘次がおつぎを連れて田へ出ているのを見て

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くちわる百姓等ひやくしやうら勘次かんじがおつぎをれてるのを

「白坊主ら、夫婦して耕してら」

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白坊主等しろばうずら夫婦ふうふしてうなつてら」

などと放言することすらあるのであった。

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など放言はうげんすることすらあるのであつた。

茶碗には一杯ずつ酒が注がれた。

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茶碗ちやわんには一ぱいづつさけがれた。

一同はしおらしく茶碗を口に当てた。

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どうはしをらしく茶碗ちやわんくちてた。

「こんな物でよけりゃ、たくさんやっておくんなせえ。まだ後にもありますから」

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んなものでよけりや、夥多みつしらやつておくんなせえ、まあだあとにもりやんすから」

家の女房は、塩で煮たかと思うような白っぽいじゃがいもの大きな皿を膳へ乗せて、二か所へ置いた。

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うち女房にようばうしほたかとおもやうしろつぽい馬鈴薯じやがたらいもおほきなさらぜんせて二處ふたとこいた。

たちまち一杯を干して、酌み交わしが始まった。

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たちまち一ぱいして獻酬とりやりはじまつた。

注がれる者は茶碗の手を上げて、相手が持つ徳利の口へ手を掛けて、酒のこぼれるのを防いだ。

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がれるものは茶碗ちやわんげて相手あひてもつてる徳利とくりくちけてさけこぼれるのをふせいだ。

酒が始まってから、みなが妙にもったいぶって居ずまいを改めた。

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さけはじまつてからみなめう鹿爪しかつめらしくずまひをあらためた。

「さあ、どうかずんずん干しておくんなせえね」

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「さあ、何卒どうぞずん/\しておくんなせえね」

亭主は促した。

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亭主ていしゆうながした。

「はい」

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「はい」

挨拶がまた口々に出た。

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挨拶あいさつまた口々くち/″\た。

このごろでは高い酒は容易に席上へは運ばれなくなっていたので、したがって他人の買ったのでもみな控えめにするようになっていた。

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ごろでは不廉ふれんさけ容易ようい席上せきじやうへははこばれなくつてたのでしたがつて他人たにんつたのでもみなひかにするやうつてた。

南では養蚕の結果がよかったのと、少しばかり余った桑が意外な相場で売れたのとで、一円ばかりの酒を奮発したのであった。

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みなみでは養蠶やうさん結果けつくわかつたのとすこしばかりあまつたくは意外いぐわい相場さうばんだのとで、一ゑんばかりのさけ奮發ふんぱつしたのであつた。

その晩の料理に使う醤油が要るので、両方を兼ねて亭主は昼飯休みの時刻に天秤棒をかついで鬼怒川を渡った。

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ばん料理れうり使つか醤油しやうゆるので兩方りやうはうねて亭主ていしゆ晝餐休ひるやすみの時刻じこく天秤てんびんかついで鬼怒川きぬがはわたつた。

村の店では買わずに直接酒蔵へ行ったので、酒は白鳥徳利の肩まで届いていた。

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村落むらみせでははずに直接ちよくせつ酒藏さかぐらつたのでさけ白鳥徳利はくてうどくりかたまでとゞいてた。

めいめいのふだん渇いている口には酒は非常にうまく感じるとともに、その麻痺させる力に対する抵抗力が衰えているので、徳利が一本ずつ倒されて次の徳利に手が掛かったと思うころ、板の間では一同のたしなみが乱れて威勢が出た。

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各自かくじ平生へいぜいかつしてくちにはさけ非常ひじやう佳味うまかんずるとともに、痲痺まひするちからたいする抵抗力ていかうりよくおとろへてるので徳利とくりが一ぽんづつたふされてつき徳利とくりかゝつたとおもころいたでは一どうのたしなみがみだれて威勢ゐせいた。

「お前、そんなに自分の所ばかり置かないで干せな」

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「おめえ、さういに自分じぶんとこれえばかしかねえでせな」

と、弱い者の所へ杯を集めて、困るのを見ようとさえするようになった。

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よわものところさかづきあつめてこまるのをようとさへするやうつた。

勘次は独りそばの徳利を引きつけて何杯か傾けて、他人よりも先に小鬢の筋が膨れていた。

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勘次かんじひとそばなる徳利とくりきつけて幾抔いくはいかたむけて他人ひとよりもさき小鬢こびんすぢふくれてた。

「おれは、鉋の持たない大工だ。鑿一方というんだから」

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ら、かんなたねえ大工でえくだ、のみぽうつちんだから」

と言って、勘次は相手もないのにわざとらしい笑いようをして、女房らのいるほうを見た。

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といつて勘次かんじ相手あひてもないのにわざとらしいわらひやうをして女房等にようばうらはうた。

彼はうなだれそうになる首を起こして、幾度も見ることを繰り返した。

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かれさうくびおこして數々しば/\ることを反覆くりかへした。

おつぎは後ろのほうへ隠れていた。

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おつぎはうしろはうかくれてた。

勘次は箸を一本持って、危ない物にでも触るように平椀のじゃがいもをその先へ刺しては、いっぱいに口を開いて頬張った。

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勘次かんじはしを一ぽんつて危險あぶなものにでもさはるやうに平椀ひらわん馬鈴薯じやがたらいもそのさきしては一ぱいくちいて頬張ほゝばつた。

平椀には牛蒡とじゃがいもとがうずたかく盛られて、油揚げが一枚載せてある。

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平椀ひらわんには牛蒡ごばう馬鈴薯じやがたらいもとがうづたかられて油揚あぶらあげが一まいせてある。

「べらぼうに大きくなったっけな、このじゃがいもはなあ」

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箆棒べらぼうかくつたつけな、馬鈴薯じやがいもはなあ」

一人が言った。

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一人ひとりがいつた。

「これでも桑の間へ作ったんだが、思いのほかだったのさ」

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んでもくはあひだつくつたんだが、おもひのほかだつけのさ」

亭主は自慢らしく、それでもわざと声を落として言った。

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亭主ていしゆ自慢じまんらしくそれでもわざこゑおとしていつた。

「桑の間でこうできるかな。そりゃそうと、どこへ作ったんだいまあ」

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くはあひだでかう出來できつかな、そりやさうと何處どこつくつたんでえまあ」

「裏の垣根の外さ。土は硬くて赤っぽいが、掃き溜めをみっしり掘り込んでおいた所だから、それが出たと見えるのさ。思いのほか土地は嫌わないもんだよ。こんなもんでも作っちゃ桑には悪かろうが」

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うら垣根外くねそとさ、つちはかたであかつぽうろくだが、掃溜はきだめみつしらんでいたところだから、れがたとえんのさ、おもひのほか土地とちきらあねえもんだよ、んなもんでもつくつちやくはにやわるかんべが」

「大丈夫だとも。じゃがいもが大きくなるようじゃ、その肥料は桑も吸うから。いや、桑の根っこの遠くへ踏み出すんじゃ驚いたもんだから。目もありもしないのに、肥料のほうへ真っ直ぐにずうっと来るからな」

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大丈夫だいぢやうぶだとも、馬鈴薯じやがいもかくやうぢやその肥料こやしくはふから、いやくはとほくへすんぢや魂消たまげたもんだから、りもしねえのに肥料こやしはう眞直まつすぐにずうつとつかんな」

「これでどのくらい増えるものだと思ったら、一株で一升くらいずつも起こせるよ」

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れでどのくれええるものだとおもつたら一ツかぶで一しようぐれえづゝもおこせるよ」

亭主が言えば

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亭主ていしゆがいへば

「うん、そうかな。そうすると割のいいもんだな」

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「うむ、さうかな、さうすつとわりえもんだな」

めいめいにそう言っていると

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各自てんでにさういつてると

「よく牛蒡はもたせたっけな」

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牛蒡ごぼうたせたつけな」

と言う者があった。

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といふものがあつた。

「なあに、踏み固める所へ埋けさえしておけば大丈夫なものさ。おれの家じゃ田植えまではあるように、庭へ埋めておくのよ」

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「なあに、がためるところけてせえけば大丈夫でえぢやうぶなものさ、田植たうゑまでるやうににはめてくのよ」

亭主は自分も椀の牛蒡を挟んで言った。

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亭主ていしゆ自分じぶんわん牛蒡ごぼうはさんでいつた。

「そうだが、おれの家なんぞじゃ、それまでにはなくなっちまうから、一度もそんなふうに埋けておいたことはないな」

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「さうだが、なんぞぢや、それまでにやつちまあから一でもさういにけていたことあねえな」

と一人が言えば

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一人ひとりがいへば

「おれなんざ、腹にしまっておくから、盗られっこなしだ」

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らなんざ、はらしまつてくからられつこなしだ」

兼博労は口を出した。

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かね博勞ばくらうくちした。

「牛蒡もうっかりして縄で縛って埋けちゃ、そこから腐りが入ってひどいもんだな。藁はよっぽど嫌いだと見えるのさな」

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牛蒡ごばうもうつかりしてなはしばつてけちや、其處そこからくされがへえつてひでえもんだな、わらぽどきれえだとえんのさな」

勘次は横合いから言った。

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勘次かんじ横合よこあひからいつた。

「どうしたかよ」

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「どうしたかよ」

疑いの声が発せられた。

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うたがひのこゑはつせられた。

「どうしたかなもんじゃない。おれの家でやったことがあるんだもの」

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「どうしたかなもんぢやねえ、つたことんだもの」

彼は相手に押されたように声を低めて

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かれ相手あひてあつせられたやうこゑひくめて

「なあ、おつう、そうだな」

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「なあおつう、さうだな」

と、体を横に向けて言った。

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身體からだよこけていつた。

板の間と土間との境に立っている柱の陰に、ランプの光から身を避けるようにして一座の酌み交わしを見ていた女房らの手が、にわかにおつぎの尻をつついて

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いた土間どまとのさかひつてはしらかげにランプのひかりからけるやうにして一獻酬けんしう女房等にようばうらにはかにおつぎのしりをつゝいて

「おつうと、それ、返事するもんだ」

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「おつうとそれ、返辭へんじするもんだ」

と小声で言って、かすかに笑った。

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小聲こごゑでいつてかすかわらつた。

勘次は怪訝な様子をして、柱の陰をじっと見て目をしかめた。

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勘次かんじ怪訝けげん容子ようすをしてはしらかげ凝然ぢつしかめた。

「おつぎはいるよ、お前、そんなに見なくても」

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「おつぎはるよおめえ、さういにねえでも」

柱の陰から言って、ささやいた。

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はしらかげからいつて私語さゞめいた。

勘次は板の間の端の近くにいたのであるが、膳を越えて体をぐっと前へ伸ばしては、徳利を動かして空になったのは女房らへ渡して、どことなしに心を配るようにそわそわとしている。

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勘次かんじいたはしちかたのであるがぜんえて身體からだをぐつとまへばしては徳利とくりうごかしてからつたのは女房等にようばうらわたして何處どことなしにこゝろくばやうにそわ/\としてる。

「はてな、懐へ入れたはずだったが」

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「はてな、ふとこれえたはずだつけが」

と兼博労は懐から周りを探して、そばへ落ちた小さな紙包みを手にして

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かね博勞ばくらうふところから周圍あたりさがしてそばちたちひさな紙包かみづゝみにして

「こら、うまい物を見ろよまあ」

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「こうれ、うめえものろえまあ」

と言って開けてみると、三センチばかりのかまきりが斧をもたげて、ちょろちょろと歩き出した。

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といつてけてると一すんばかりの蟷螂かまきりをのもたげてちよろちよろとあるした。

「へへえ、この畜生め、これでも怒ってらあ」

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「へゝえ、畜生奴ちきしよめこんでもおこつてらあ」

兼博労はちょいとかまきりをつついてみて、独り面白がって笑った。

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かね博勞ばくらうはちよいと蟷螂かまきりをつゝいてひときようがつてわらつた。

「どうしたもんだろう、大きな格好をして」

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「どうしたもんだんべけえ姿なりして」

と、女房はみな笑った。

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女房にようばうみなわらつた。

「あれ、おれは知ってら」

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「あれつてら」

おつぎの傍らにいた与吉は、兼博労のそばへ行って

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おつぎのそば與吉よきちかね博勞ばくらうそばつて

「烏のきんたまから出るんだぞ、これは」

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からすのきんたまからんだぞこら」

と言った。

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といつた。

「お前らは知りもしないで」

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りもしねえで」

勘次は与吉を甘やかすようにして言った。

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勘次かんじ與吉よきちあまやかすやうにしていつた。

「そんだって、おれは見た。笹っ葉の枝にくっついてた所から出たんだ」

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「そんだつてた、さゝえだにくつゝいてたところからたんだ」

与吉はかまきりをいじりながら言った。

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與吉よきち蟷螂かまきりいぢりながらいつた。

「勘次さん、だめだよ。学校へやっちゃ半年とは言えないから。下手をすると今の子供らには、やり込められちまうから。おとっつあん、これを知ってるかなんて言われたって、困るなあ、どうもなあ」

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勘次かんじさん駄目だめだよ、學校がくこつちや半年はんとしたあはんねえから、下手へたんすつといま子奴等こめらにやめられつちやからおとつゝあつてつかなんちあれたつて、こまらなどうもなあ」

そばから言ったので、勘次はさすがににっこりとした。

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そばからいつたので勘次かんじ有繋さすが嫣然にこりとした。

白鳥徳利の口が底よりも低くなった時、一座の間には馬の話が出た。

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白鳥徳利はくてうどくりくちそこよりもひくつたときあひだにはうまはなした。

馬という奴はあの体で、酒の二杯も口へ入れてやるとたちまちどろんとして、暴れ馬でも静かになる、博労は以前はそうして悪い馬をはめ込んだものである。

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うまといふやつはあの身體からださけの二はいくちいれてやるとたちまちにどろんとして駻馬かんばでもしづかる、博勞ばくらう以前いぜんはさうしてわるうまんだものである。

今でもそんなことで油断はならぬ、村が貧乏したから荷車ばかり増えて馬が減ってしまったが、荷車の検査に行ってみて驚いたなどということや、朝鮮牛がだいぶ輸入されたが、犬ころのような体で割合に安いからどうしたものだかなどということが、際限もなくがやがやと大声で怒鳴り合われた。

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現在いまでもそんなことで油斷ゆだんらぬ、村落むら貧乏びんばふしたから荷車にぐるまばかりえてうまつてしまつたが荷車にぐるま檢査けんさつておどろいたなどといふことや、朝鮮牛てうせんうし大分だいぶ輸入ゆにふされたがいねころのやう身體からだ割合わりあひ不廉たかいからどうしたものだかなどといふことが際限さいげんもなくがや/\と大聲おほごゑ呶鳴どなうた。

「博労なんていう奴らは、泥棒根性がなくちゃできない商売だな。嘘っぱちを打ち抜いて、兼らお前は、おれのことさえはめ込むつもりしやがって」

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博勞ばくらうなんちい奴等やつら泥棒根性どろぼうこんじやうくつちや出來でき商賣しやうべえだな、ちくらつぽうんぬいて、兼等かねらりや、れことせえおつめるつもりしやがつて」

兼博労の向かい側から冗談らしい調子で言うと

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かね博勞ばくらう向側むかうがはから戯談じようだんらしい調子てうしでいふと

「べらぼう、はめ込むもんじゃない。それ、いやなら銭を出せよ、銭。なあ、銭を出さないつもりでいるのが泥棒より太いんだな。西のおとっつあんらはためらってばかりだから、駄目で」

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箆棒べらぼう、おつめんなもんぢやねえ、それだらぜにせよぜに、なあ、ぜにさねえつもりすんのが泥棒どろぼうよりふてえんだな、西にしのおとつゝあ躊躇逡巡しつゝくむつゝくだから、かたで」

「そんだから見ろよ、博労で蔵を建てた奴はありゃしない。罰が当たってるから」

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「そんだからろえ、博勞ばくらうくらてたやつりやしねえ、ばちたかつてつから」

「どうした、そんだがこの間の白はよかっただろう。あれと交換しろな。ああ西のおとっつあん、白じゃ徴発はされないぞ」

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「どうした、そんだが此間こねえだしろかつたんべ、れさてな、あゝ西にしのおとつゝあ、しろぢや徴發ちようはつはさんねえぞ」

「いいから、それよりか、そんなに安いことを言わないで、なあ、米一俵で交換しようじゃないか」

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「えゝから、それよりか、そんなに不廉たけえことはねえで、なあ、こめぺうつべえぢやねえか」

「無駄だよ、それじゃ。何でも六銭の横ござを乗せて引いて来たんだぞ。血統証まであるんだぞ。ああ、その手はないぞ」

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徒勞だめだよそんぢや、あんでも六錢の横薦よこゞもつけていてたんだぞ、血統證けつとうしようまでんぞ、あゝ、はねえぞ」

「何だいお前がまた、牡馬と牝馬だけの血統証だろう。そんなものは何になるもんじゃない。おれが知らないと思って。おれは白河の市で聞いてらあ」

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んでえわれがまた、牡馬をんま牝馬めんまだけの血統證けつとうしようだんべ、そんなものなんるもんぢやねえ、らねえとおもつて、白河しらかはいちいてらあ」

「博労がうまく練れないようだな。ようし、そんじゃおれが一つ交換してやろう」

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博勞ばくらううまくれねえやうだな、ようしそんぢやれ一つつてやんべ」

二人が冗談交じりに激しく悪口を言っていると、ふとそばからこう言った。

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二人ふたり戯談交じやうだんまじりにはげしく惡口あくこうつてるとふとそばからういつた。

「そんじゃ、それを干せな。兼さんもそれ」

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「そんぢや、それせな、かねさんもそれ」

彼は二人の茶碗を自分の手で交換させて、それを両方へ渡して酒を注いだ。

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かれ二人ふたり茶碗ちやわん自分じぶん交換かうくわんさせて、それを兩方りやうはうわたしてさけいだ。

「どうだい、博労がうまく交換できただろう。どっちもえこひいきなしという所だ」

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「どうだえ、博勞ばくらううまくてたんべ、どつちも依怙贔負えこひいきなしつちとこだ」

相手は得意になって言った。

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相手あひて得意とくいつてつた。

「こっちのおとっつあん、いくつだったっけな。ちょっと白くなったな」

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「こつちのおとつゝあ、いくつだつけな、つとしろつたな」

突然一人が怒鳴った。

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突然とつぜん一人ひとり呶鳴どなつた。

「そうよな」

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「さうよな」

亭主は髪に手を当てて言った時

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亭主ていしゆ頭髮あたまてゝいつたとき

「お前、おれの家のおとっつあんもどうしてかひどく白くなったんだが、これで年齢はそんなに取っちゃいないんだぞ」

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「おめえ、のおとつゝあもどうしてかひどしろつたんだが、んで年齡としはさういにとつちやねえんだぞ」

そこへ小さな子を抱いて座った家の女房が、微笑しながら言った。

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其處そこちひさないてすわつたうち女房にようばう微笑びせうしながらいつた。

「おれと同い年だよ」

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れと同年齡おねえどしだよ」

独りぼっちになっていた勘次は、横から口を挟んだ。

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ひとりぼつちにつて勘次かんじよこからくちはさんだ。

「どうだかよ」

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「どうだかよ」

「なあに、どうだかなもんじゃない」

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「なあに、どうだかなもんぢやねえ」

勘次は口をとがらせて言った。

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勘次かんじくちつののやうにしていつた。

「本当にそうなんだよ、お前」

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本當ほんたうにさうなんだよおめえ」

女房はそばから言った。

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女房にようばうそばからいつた。

「そんじゃ勘次さん、お前いくつだい」

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「そんぢや勘次かんじさんおめえいくつでえ」

相手は乗り気になって聞いた。

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相手あひて乘地のりぢになつていた。

「そうよ、おれはこっちのおとっつあんと同い年だったっけな」

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「さうよ、らこつちのおとつゝあと同年齡おねえどしだつけな」

彼は自分の思いつきではなくて、どこかで聞いた記憶をそのまま繰り返して、そうして冗談を敢えてした。

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かれ自身じしん創意さういではなくて何處どこかでいた記憶きおくまゝ反覆はんぷくしてさうして戯談じやうだんあへてした。

「ええ、べらぼうな」

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「えゝ箆棒べらぼうな」

と相手は言ってしまった。

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相手あひてはいつてしまつた。

家の女房は両方の髪をつくづくと見て

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うち女房にようばう兩方りやうはう頭髮あたまつく/″\

「そんだが勘次さんは本当に若いな。おれの家のおとっつあんらとは、たいした違いだな」

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「そんだが勘次かんじさんは本當ほんたうけえな。のおとつゝあたあ、たえしたちげえだな」

と言った。

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といつた。

「勘次さんらはまだ十七だな」

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勘次かんじさんまあだ十七だな」

兼博労はすぐ後についで言った。

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かね博勞ばくらうすぐあといていつた。

女房らはまた、ひそかに袂で口を覆った。

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女房等にようばうらひそかたもとくちおほうた。

兼博労が振り返った時、女房らは割った松明の先を突っかけては、香煎を口へ含んで面倒になめていたのであった。

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かね博勞ばくらうかへりみたとき女房等にようばうらつた燭奴つけぎさきけては香煎かうせんくちふくんで面倒めんだうめてたのであつた。

「香煎をなめるのには、笑っちゃいけないと言ったっけぞ、お前ら」

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香煎かうせんめんのにや、わらつちやいかねえつちけぞ、おめえ

兼博労は言った。

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かね博勞ばくらうはいつた。

さっきから笑う癖のついていた女房らは、いっぺんにぷっと吹き出して、粉がそこらに散った。

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先刻さつきからわらくせのついてた女房等にようばうらは一にぷつと吹出ふきだしてこな其處そこらにつた。

乾いている粉のためにむせて、女房らはしきりに咳をした。

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乾燥かんさうしてこなためせて女房等にようばうらしきりにせきをした。

彼女らは駆け下りて手桶の水をがぶりと飲んで、ようやく胸を落ち着けた。

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彼等かれらけおりて手桶てをけみづをがぶりとんでやうやむね落附おちつけた。

「ああ、ひどい目に遭った。粉が鼻のほうへ入って、鼻がつんつんして仕方がありゃしないや。本当に兼さんは人が悪いや。なんぼ憎らしいか知れやしない。そこらに薪ざっぽうでもあれば、ぶっ飛ばしてやりたいようだ」

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「おゝ、ひでつた。粉鼻こなはなはうさへえつてはなつん/\してやうありやしねえや、本當ほんたうかねさんはひとりいや、なんぼにくらしいかれやしねえ、其處そこらに薪雜棒まきざつぽうでもればばしてりてえやうだ」

涙の目を拭って、恨めしげに女房らは言うのであった。

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なみだぬぐつてうらめしげに女房等にようばうらふのであつた。

「そんだから、おれは笑っちゃいけないと言ったんだな。それを聞かないから」

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「そんだかられ、わらつちやえかねえつてつたんだな、それかねえから」

兼博労はわざと平然として言った。こうしてがみがみ言う声が入り交じった時

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かね博勞ばくらうわざ平然へいぜんとしてつた、うしてがみ/\いふこゑ錯雜こぐらかつたとき

「博労さんが一つやっつけるかな」

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博勞ばくらうさん一つやつゝけつかな」

兼博労はひと声ことに大きく怒鳴ったと思ったら、茶碗の酒を一口にぐっと干して、両手に茶碗を伏せて、板の間にぱかぱかぱかぱかと蹄をまねて拍子を取った音を立てながら

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かね博勞ばくらうは一こゑことおほきく呶鳴どなつたとおもつたら茶碗ちやわんさけを一くちにぐつとして兩手りやうて茶碗ちやわんせて、いたにぱか/\ぱか/\とひづめならうて拍子ひやうしつたひゞきてながら

「三春から白河のほうへ、これでも横ござを乗せたのをつないで引いて来る所だからな。よく聞いてみな。この手には行かないぞ」

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三春みはるから白河しらかははうへこんでも横薦よこごもつけたのつないでいてとこらえゝかんな、いてせえ、にやかねえぞ」

彼はその自慢の後から

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かれ自慢じまんしたから

「どうどうどうよ、ほうい、ほいとう」

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「どう/\どうよ、ほうい、ほいとう」

と、馬への掛け声をもっともらしくした。

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うまへの掛聲かけごゑもつともらしくした。

茶碗の拍子につれて、一同はぴったり静かになった。

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茶碗ちやわん拍子ひやうしれて一どうはぴつたりしづかにつた。

「はあええええ」

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「はあえゝえゝえゝ」

と、ぼうっと太い声で唄い出して

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とぼうとふとこゑうたして

「枯れ芝あにいいいいええ、はあえ、止まるうえ、蝶々のおおおおえ、はあ、ありゃ気があああああえ、え、はあ知れえぬうよおうう」

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枯芝かれしばあえにいゝゝゝゝえゝ、はあえ、とまるうえ、てふ/\のおゝゝゝゝえ、はあ、ありやがあゝゝゝゝえ、え、はあれえゝぬうよおうゝゝ」

と、彼は目をつぶって少し上向きに首を傾けて、いっぱいの声を絞って、きわめてゆったりと、そうして句の続きを

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かれつぶつてすこ上向うはむきくびかたむけて一ぱいこゑしぼつてきはめて悠長いうちやうにさうしてつゞきを

「ええ傍にええ、菜種えのおおおおえ、ええ花があえ、あああえるううううええ、ほういほい」

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「えゝそばにえゝ、菜種なたねえのおゝゝゝゝえ、えゝはながあえ、あゝえるうゝゝゝゝえゝ、ほういほい」

と唄い終わった時、顔がことさらに赤くなって、汗が吊りランプに光って見えた。

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うたをはつたときかほ殊更ことさらあかつてあせるしランプにひかつてえた。

彼は手でぐるりと拭いた。

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かれでぐるりとぬぐつた。

「べらぼうにまだるっこい唄だな。この夜の短いのに、眠たくなっちまうな」

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箆棒べらぼう迂遠まだるつけえうただな、みじけえのにねむつたくつちやあな」

そばから悪口を吐いた。

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そばから惡口あくこういた。

「いいから、西のおとっつあん、耳くそをほじくって聞いてろよ」

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「えゝから西にしのおとつゝあ、耳糞みゝくそほじくつていてろえ」

兼博労は言って

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かね博勞ばくらうはいつて

「はあええええ、ええ朝のううええ、はあ出掛えにいいいいええ」

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「はあえゝえゝ、えゝあさのうゝゝえゝえ、はあ出掛でがけえにいゝゝゝゝえ」

と、また唄い出した。

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またうたした。

「朝の出掛けにどの山見ても、雲の掛からぬ山はない」

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あさ出掛でがけにどのやまてもくもかゝらぬやまはない」

と唄って、茶碗を動かしては

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うたつて茶碗ちやわんうごかしては

「ぱかぱかぱかぱかとなあ、こう。二十三坂を越えて引く所だぜ。畜生、あばれるなよ」

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「ぱか/\ぱか/\となあう、廿三さかえてとこだぜ、畜生ちきしやうあばさけんなえ」

と、彼はさらに

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かれさら

「ひいいん」

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「ひゝいん」

と馬の鳴き声をして、それから

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うまごゑをしてそれから

「二十三坂か。白河のこっちだ。しまいの坂がべらぼうに長くてな」

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「廿三さかか、白河しらかはのこつちだ、しめえさか箆棒べらぼうながくつてな」

と言って、また

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といつてまた

「はあええええ」

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「はあえゝえゝえゝ」

と、いかにも気の乗ったらしく

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つたらしく

「奥の博労さん、どこで夜が明けた、二十三坂七つ目で」

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おく博勞ばくらうさん何處どこけた、廿三さか七つで」

と愉快な声で唄った。

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愉快ゆくわいこゑうたつた。

「夜引きをする時には、人間も眠たくなりゃ馬も眠たくなってな。石坂だから畜生らがくたりくたりともう、なんぼにも歩かないな。その時には、おうい一つどうだねやっつけちまおうというところでなあ。博労らがぞろぞろつながって来るんだから、峰のほうでも谷底のほうでも一度に大変だあ。そうすると駒っこらがひいんなんてあばれて、ぱかぱかぱかぱかと、こう運びが違って来らあな。みなおっかあにばかり食っついてたのを引き離して来るんだから、足が不揃いだな、どうしても。それに坂が急だというと逆さのつむじを立てるようだから、畜生はなんぼにも足が出ないな。そいつへ合わせて唄うんだから、ゆっくり行かなくちゃならないな」

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夜引よびきすつときにや人間にんげんねむつたくりやうまねむつたくつてな、石坂いしざかだから畜生等ちきしやうらがくたり/\はあ、なんぼにもあるかねえな、そんときにや、おうい一つどうだねつゝけちやあとばかりでなあ、博勞等ばくらうらぞろ/\つながつてんだから、みねはうでも谷底たにそこはうでも一大變たいへんだあ、さうすつとこま子奴等こめらひゝんなんてあばさけてぱか/\ぱか/\とはこびがちがつてらな、みんなおつかげばかしいてたのぱなしてんだからあし不揃ふぞろひだなどうしても、それにさかきふだつちと倒旋毛さかさつむじおつてるやうだから畜生ちきしやうなんぼにもあしねえな、其奴そいつあはせてうたあんだからゆつくりんなくつちやなんねえな」

兼博労は帯を解いて裸になって、着物を後ろへ投げた。

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かね博勞ばくらうおびいてはだかつて衣物きものうしろなげた。

帯は一重で、左の腰骨の所でだらりと結んであった。

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おび一重ひとへひだり腰骨こしぼねところでだらりとむすんであつた。

両方の端が赤い切れで縁を取ってある。

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兩方りやうはうはしあかきれふちをとつてある。

粗い棒縞の染め抜きで、それは馬の飾りの鉢巻に用いる布切れであった。

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あら棒縞ぼうじま染拔そめぬきでそれはうまかざりの鉢卷はちまきもちひる布片きれであつた。

「ここらの馬だって見ろよ。博労節を門先でやったくらい、厩の中で畜生は体をゆさぶって大騒ぎだな」

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此處ここらのうまだつてろえ、博勞節ばくらうぶしかどつあきでやつたつくれえまやなか畜生ちきしやう身體からだゆさぶつて大騷おほさわぎだな」

彼は独りで酒席をにぎわした。

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かれひとりで酒席しゆせきにぎはした。

彼はそうして、土のような汗と埃とで染まった手拭いで、首筋から体いっぱいに拭いた。

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かれはさうしてつちのやうなあせほこりとでまつた手拭てぬぐひ首筋くびすぢから身體からだぱいぬぐつた。

それから

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それから

「ああ痒い」

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「おゝかいい」

と、ぴしゃりと手で蚊を叩いた。

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とぴしやりたゝいた。

彼の唄につれて、めいめいがさらに唄った。

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かれうたつれ各自めいめいさらうたつた。

みな箸で茶碗を叩いて拍子を合わせた。

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みなはし茶碗ちやわんたゝいて拍子ひやうしあはせた。

そういう騒ぎになってから、酒は減らなかった。

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さういふさわぎにつてからさけらなかつた。

勘次は独りで唄うこともなく、絶えず何かを探すような目で土間のあたりをきょろきょろと見ていたが

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勘次かんじひとりでうたふこともなくえず何物なにものかをさがすやうな土間どまのあたりをきよろ/\とたが

「おつう」

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「おつう」

と唐突に呼んだ。

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唐突だしぬけんだ。

彼は勢いよく呼んでみて、自分で拍子抜けしたようにしていたが

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かれいきほひよくんで自分じぶん拍子拔ひやうしぬけしたやうにしてたが

「これへじゃがいもでもくれないか」

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れさ馬鈴薯じやがいもでもくんねえか」

と、椀をずうっと出した。

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わんをづうつとした。

「どうしたもんだ、おとっつあんは。お平の盛り換えをする者もあるまいな。じゃがいもは前にいくらでもあるのに」

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「どうしたもんだおとつゝあは、おひら盛換もりけえするもなんめえな、馬鈴薯じやがいもめえいくらでもんのに」

おつぎはさらにたしなめるように

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おつぎはさらたしなめるやうに

「おとっつあんは酔ったって、そんなに取り乱さなけりゃよかろうな」

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「おとつゝあは酩酊よつぱらつたつてそんなに顛倒ぐれなけりやよかつぺなあ」

と独り呟いた。

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ひとつぶやいた。

「言ってみたのよ」

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つてたのよ」

勘次はわざと笑って、椀を膳へ置いた。

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勘次かんじわざわらつてわんぜんいた。

「おかみさんらもこっちへ来うな、一杯やれな」

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「おつか樣等さまらもこつちへうな、一杯いつぺえやれな」

彼はさらに、板の間の隅のほうにいる女房らに言った。

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かれさらいたすみはう女房等にようばうらにいつた。

「ほんに、仲間入りしたらよかろう」

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「ほんに仲間入なかまいりしたらよかつぺ」

家の女房も言った。

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うち女房にようばうもいつた。

若い女房らは仲間にはならなかった。

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わか女房等にようばうら仲間なかまにはらなかつた。

そうしてただ笑っていた。

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さうしてたゞわらつてた。

唄い騒ぐ声にすべてが心を奪われていると

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うたさわこゑすべてがこゝろられてると

「お前は梅をかじったんだろう。学校の先生に姉が言いつけてやるから。腹が痛くたって我慢してるもんだ」

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りやうめかじつたんべ、學校がつこ先生せんせいねええつけてやつから、はらいたくつたつて我慢がまんしてるもんだ」

おつぎは眠い目をこすりながらしくしく泣いている与吉を横にして、背中を叩いてはさすりながら言った。

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おつぎはねむをこすりながらしく/\いて與吉よきちよこにして背中せなかたゝいてはいたはりながらいつた。

「どうしたんだ、腹が痛いのか。毒消しでも飲ませてみるか。おれももう、梅だの李だのが熟しちゃびやびやするんだよ。出て行くんだから、言ったって聞かないしなあ」

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「どうしたんだあ、はらいてえのか毒消どくけしでもませてつか、らもはあ、うめだのすもんもだの成熟できちやびや/\すんだよ、んだからつたつてかねえしなあ」

家の女房は、すやすやと眠った膝の子の蚊を追いながら言った。

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うち女房にようばうはすや/\とねむつたひざひながらいつた。

「お前は梅なんぞかじって。おとっつあんが腹をえぐり抜いてやるから待ってろ」

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うめなんぞじつて、おとつゝあはらゑぐいてやつからつてろ」

勘次は、とうにもつれていた舌で言った。

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勘次かんじとうからしぶつてしたでいつた。

「そんなこと言わなくたって、泣いてるのに何だろうな、おとっつあん」

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「そんなことはねえつたつていてんのになんだつぺな、おとつゝあ」

おつぎは勘次を叱った。

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おつぎは勘次かんじしかつた。

勘次は口をつぐんで、箸の先へじゃがいもを刺した。

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勘次かんじくちつぐんではしさき馬鈴薯じやがいもした。

与吉はまぶたが緩んで、いつか軽い鼾をかいた。

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與吉よきちまぶたゆるんでいつかかるいびきいた。

「さあ、ご飯だよ」

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「さあ、おまんまだえ」

唄も騒ぎも止んで、一同の口からにわかに催促が出た。

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うたさわぎもんで一どうくちからにはか催促さいそくた。

女房らはみなで給仕をした。

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女房等にようばうらみな給仕きふじをした。

家の女房は

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うち女房にようばう

「おつぎも体がみっしりして来たなあ。女も二十となっちゃ役に立つなあ」

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「おつぎも身體からだみつしりしてたなあ、をんな廿はたちつちややくつなあ」

と、おつぎを見て言った。

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とおつぎをていつた。

勘次は茶碗から少し飯粒をこぼしては、危ない手つきで箸を持ったまま、指の先でつまんで口へ持って行った。

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勘次かんじ茶碗ちやわんからすこ飯粒めしつぶこぼしては危險あぶなつきではしつたまゝゆびさきつまんでくちつてつた。

「おとっつあん、そんなにこぼしちゃだめだな」

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「おとつゝあ、さういにこぼしちや駄目だめだな」

おつぎは勘次の茶碗へ手を添えた。

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おつぎは勘次かんじ茶碗ちやわんへた。

「勘次さん」

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勘次かんじさん」

と、家の女房は呼びかけた。

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うち女房にようばうけた。

勘次が目をしかめて見た時

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勘次かんじしかめてとき

「勘次さん、もうおつぎのことは出してもよくないかい」

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勘次かんじさん、はあおつぎこたあしてもかねえけえ」

女房は言った。

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女房にようばうはいつた。

「嫁になんざ出せないよ。今のところ、おれが困るから」

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よめになんざせねえよ、いまところこまつから」

勘次はそっけなく言った。

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勘次かんじはそつけなくいつた。

「不自由な所があれば出して、自分でも引っ込むのよ」

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不自由ふじいうところありやして、自分じぶんでもむのよ」

兼博労は遠慮なく言った。

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かね博勞ばくらう遠慮ゑんりよなくいつた。

「おれはそんな話は聞かない。もらいたけりゃいくらでもあらあ」

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らそんなはなしかねえ、もらひたけりやいくらでもらあ」

勘次は退けた。

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勘次かんじしりぞけた。

「そんだってお前、あっちこっち口を掛けておかないじゃ、すぐ年ばかり取らせちまって仕方がないぞ。おれも一人出したが、お前、容易じゃないよ。ああだこうだ言われないうちだぞ、お前」

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「そんだつておめえ、そつちこつちくちけてかねえぢや、ぢき年齡としばかしとらせつちやつてやうねえぞ、らも一人ひとりしたがおめえ容易よういぢやねえよ、さうだかうだはれねえうちだぞおめえ」

女房は言った。

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女房にようばうはいつた。

「いいよ、三十まで独りじゃ置かないから。これには今に婿を取るんだから」

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「えゝよ卅までひとりぢやかねえかられげはいまにむことんだから」

勘次は喧嘩でもするような様子で、こわばった舌で言った。

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勘次かんじ喧嘩けんくわでもするやう容子ようすこはばつたしたでいつた。

女房は黙って、口のあたりに冷ややかな笑いを含んで、膝をそっと動かして、ぐっすり眠りこけた自分の子を見た。

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女房にようばうだまつてくちあたりひやゝかなゑみふくんでひざをそつとうごかしてぐつすりねむりこけた自分じぶんた。

「どうしたい、ままよままよでもやらないか、勘次さん。ままにならぬとお鉢を投げりゃ、そこらあたりは飯だらけだあ。あまりむずかしいことを言うなよ」

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「どうしたえ、まゝよ/\でもやんねえか勘次かんじさん。まゝにならぬとおはちげりや其處そこらあたりはまゝだらけだあ、過多げえむづかしいことふなえ」

兼博労は米の飯をかっ込みながら言った。

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かね博勞ばくらうこめめしみながらいつた。

腹をいっぱいに膨らませた一座は

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はらを一ぱいふくらませた一

「どうもごちそうさまでした」

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「どうも御馳走樣ごつゝおさまでがした」

と義理を述べて、土間の下駄をがらがらかき探して、がやがや騒ぎながら帰りかけた。

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義理ぎりべて土間どま下駄げたをがら/\さぐつてがや/\さわぎながらかへけた。

「おつう、よきのことを起こせ」

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「おつう、よきことおこせ」

勘次はそう言って、自分もいっしょによろけながら立った。

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勘次かんじはさういつて自分じぶんひとつに蹣跚よろけながらつた。

おつぎは与吉の体を激しく動かしたが、熟睡してしまったので、容易に目を開かなかった。

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おつぎは與吉よきち身體からだはげしくうごかしたが熟睡じゆくすゐしてしまつたので容易よういひらかなかつた。

与吉は草履をはくにも、おつぎの心をいらだたせた。

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與吉よきち草履ざうり穿くにもおつぎのこゝろ苛立いらだたせた。

「おつう」

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「おつう」

と激しく呼ぶ勘次の声が、裏の垣根の外から聞こえた。

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はげしく勘次かんじこゑうら垣根かきねそとからきこえた。

そうするとまた

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さうするとまた

「何してけつかるんだ」

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なにしてけつかんだ」

と、勘次は裏の戸口から一同を驚かして怒鳴った。

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勘次かんじ裏戸口うらとぐちから一どうおどろかして呶鳴どなつた。

「勘次さん、与吉のことを起こしてたところなんだよ」

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勘次かんじさん與吉よきちことおこしてたとこなんだよ」

家の女房は言い訳をしてやった。

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うち女房にようばう分疏いひわけしてやつた。

「お前はいつでもそうだ、ぐずぐずしてやがって」

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りや何時いつでもさうだ、ぐづ/\してやがつて」

勘次はなおも怒って言った。

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勘次かんじなほいきどほつていつた。

「待ってればいいんだな、おとっつあん。洗い物までもしないのに、どうしたもんだ」

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つてればえんだなおとつゝあ、あらひまでもねえのにどうしたもんだ」

酒席の跡を見て、おつぎは呟いた。

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酒席しゆせきあとておつぎはつぶやいた。

「構わないで帰れよ。おとっつあんは酔ってるんだから」

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かまあねえでけえれよ、おとつゝあ酩酊よつぱらつてんだから」

女房はおつぎの意を汲んでやった。

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女房にようばうはおつぎのんでやつた。

後では、乱雑に散らかした道具の始末をしながら、女房らは言った。

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あとでは亂雜らんざつらかした道具だうぐ始末しまつをしながら女房等にようばうらはいつた。

「勘次さんの心持ちも分からないな」

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勘次かんじさんが心持こゝろもちわかんねえな」

「いくら女房の焼き餅を焼くものでも、ああいうのはないな」

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いくかゝあ嫉妬やきもちくもんでも、あゝえもなあねえな」

「ああいうのが何かの生まれ変わりだというのでもあるだろうな。怖いようだよ、本当にな」

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「あゝえのがなんかのうまかはりつちんでもんべな、可怖おつかねえやうだよ本當ほんたうにな」

「近ごろそれに、あれじゃないかい。あれほどほしがったのに、後妻をもらおうとは言わないんじゃないかい」

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近頃ちかごろそれになんぢやねえけえ、あらほどしがつたのに後妻あともらあべえたあ、はねえんぢやねえけえ」

いずれの心にも、口には言わなくても分かっている何かを、少しずつ現そうとして、さすがにためらうようにして話し合った。

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いづれのこゝろにもくちにはいはなくて了解れうかいされてあるものすこしづつあらはさうとして有繋さすが躊躇ちうちよするやうにして噺合はなしあうた。

勘次ら三人が出て垣根の外へ行ったと思うころ、椀を拭いていた一人が慌ただしく立って外へ出た。

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勘次等かんじらにん垣根かきねそとつたとおもころわんいて一人ひとりあわただしくつてそとた。

しばらくして帰って来ると、いきなり

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しばらくしてかへつてるといきなり

「どうしたものだ、お前は。他人の後なんぞつけて行って。罪だから見ろよ」

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「どうしたものだおめえは、他人ひとあとなんぞ尾行けてつて、つみだからろよ」

一人が言った。

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一人ひとりがいつた。

「そうじゃないよ。あんまりお前、他人のことを、おれだって」

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「さうぢやねえよ、有撃まさかおめえ、他人ひとのことおれだつて」

と言い訳をした。

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分疏いひわけした。

「そんじゃ何に行ったんだ」

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「そんぢやなんつたんだ」

「小便をしたくなったからよ」

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小便せうべんつたくつたからよ」

やがて抑えきれない笑いが顔に浮かんで

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やがおされぬわらひがかほかんで

「そんだからあんまり飲むなというんだ、なんておつぎに怒られ怒られ行くんだわ」

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「そんだから過多げえむなつちんだ、なんておつぎにおこられ/\んけわ」

と言った。

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といつた。

「そうれお前、罪だよ」

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「そうれおめえ、つみだよ」

遠慮もなく、みなどっと笑った。

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遠慮ゑんりよもなくみなどつとわらつた。

夜は更けていた。

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けてた。

きろきろきろきろと、風船玉を擦り合わせるような蛙の声が入り交じって聞こえていた。

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きろ/\きろ/\と風船玉ふうせんだまこすあはせるやうかへるこゑ錯雜さくざつしてきこえてた。

一五

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十五

霜がひそかに地を覆った。

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しもひそかおほうた。

晩秋の冴えた空気は、地上のすべてを乾かす。

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晩秋ばんしうえた空氣くうき地上ちじやうすべてを乾燥かんさうせしめる。

思いのままに枝葉を広げた独活の実へ目白が集まって鳴くのが愉快らしくもあるが、何となく忙しげであって、それもわずかの間に、どこでも草木の葉が硬くなったり傷ついたりして、一切がただがさがさと入り交じってしまった。

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おもひのまゝ枝葉えだはひろげた獨活うど目白めじろあつまつてくのが愉快ゆくわいらしくもあれど、なんとなくいそがしげであつて、それも少時しばし何處どこでも草木さうもくこはばつたりきずついたりして一さいたゞがさ/\と混雜こんざつしてしまつた。

そういう所へ季節の冬はいやでも行き渡らねばならないのであるが、それでも暖かい日があったり、冷たい日があったりして、冬はひたすらためらいながら地上に沈もうとした。

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さういふところ季節きせつふゆいやでもわたらねばならないのであるがそれでもあたゝかいがあつたり、つめたいがあつたりしてふゆ只管ひたすら躊躇ちうちよしつゝ地上ちじやうしづまうとした。

そうして霜を一度はわせてみた。

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さうしてしもを一はせてた。

すべての草木はさらに慌てた。

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すべての草木さうもくさらあわてた。

地味な常緑樹を除いたほかはみな、次の春の用意のできるまでは、凄い姿になってまでも、じっとしがみついている。

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地味ぢみ常磐木ときはぎのぞいたほかみなつぎはる用意ようい出來できるまではすご姿すがたつてまでも凝然ぢつとしがみついてる。

冬はまた霜をはわせてみた。

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ふゆしもはせてた。

恐ろしく潔癖な霜は、そのみすぼらしい草木の葉を地上に踏みにじった。

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おそろしく潔癖けつぺきしも見窄みすぼらしい草木さうもく地上ちじやうにじりつけた。

人間の手を借りたものは、田でも畑でも、人間の手を借りて至る所をからりとさせる。

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人間にんげんりたものはでもはたでも人間にんげんりて到處いたるところをからりとさせる。

その時、畑には刷毛の先でかすったように、麦や小麦でほのかに青みを保っている。

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ときはたには刷毛はけさきでかすつたやうむぎ小麥こむぎほのか青味あをみたもつてる。

それから冬はまた、百姓をして、寂しい外からもっぱら内に力を注がせる。

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それからふゆまた百姓ひやくしやうをしてさびしいそとからもつぱうちちからいたさせる。

百姓らは忙しく藁で俵を編んで米を入れて、春以来の報酬を目の前に積んで楽しむのである。

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百姓等ひやくしやうらいそがしくわらたわらんでこめれてはる以來いらい報酬はうしう目前もくぜんんでよろこぶのである。

彼らの間には、こういう時に、そうして冬が本当にまだ彼らの上に泣いてみせないうちに、相前後してどこの村にも「まち」

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彼等かれらあひだにはういふときに、さうしてふゆ本當ほんたうにまだ彼等かれらうへいてせないうちあひ前後ぜんごして何處どこ村落むらにも「まち」

が来るのである。

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るのである。

それは村ごとに建てられてある社の祭りのことである。

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れは村落毎むらごとてられてあるやしろまつりのことである。

貧乏な勘次の村でも、以前からの慣例で、村に相応した方法をもって祭りが行われた。

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貧乏びんばふ勘次かんじ村落むらでも以前いぜんからの慣例くわんれい村落むら相應さうおうした方法はうはふもつまつりおこなはれた。

当日は白い狩衣の神官が独りで、氏子の総代というのが四、五人、きまり悪そうな様子で後についてゆき、馬場先を進んで行った。

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當日たうじつしろ狩衣かりぎぬ神官しんくわんひとり氏子うぢこ總代そうだいといふのが四五にんきまりの惡相わるさう容子ようすあとつい馬場先ばゞさきすゝんでつた。

一人は農具の箕を持っている。

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にん農具のうぐつてる。

総代らはそれでも羽織袴の姿であるが、一人も満足に袴の紐を結んだのはない。

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總代等そうだいらはそれでも羽織袴はおりはかま姿すがたであるが一人ひとりでも滿足まんぞくはかまひもむすんだのはない。

さらにその後から、鏡を抜いた四斗樽を馬の荷縄にくくって、太い棒でかついでついて行った。

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さらあとからかゞみいた四斗樽とだるうま荷繩になはくゝつてふとぼうかついでいた。

四斗樽には、濁ったような甘酒がだぶだぶと動いている。

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斗樽とだるにはにごつたやうな甘酒あまざけがだぶ/\とうごいてる。

神官の白い指貫の袴には、泥の跳ねた跡も見えて、ずいぶん汚れていた。

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神官しんくわんしろ指貫さしぬきはかまにはどろねたあとえて隨分ずゐぶんよごれてた。

神官は、埃だらけな板の間へようやくござを敷いた狭い拝殿へ座って、榊の小さな枝をいじって、それから卓の供え物を格好よくしている間に、総代らは箕へ入れて行った注連縄を樅の木から樅の木へ引っ張って、末社の飾りをした。

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神官しんくわんほこりだらけないたやうやございたせま拜殿はいでんすわつてさかきちひさなえだをいぢつて、それからしよく供物くもつ恰好かつかうよくして總代等そうだいられてつた注連繩しめなはもみからもみつて末社まつしやかざりをした。

村の者はだんだんに、器量相応な晴れ着を着て神社の前に集まった。

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村落むらもの段々だん/\器量きりやう相當さうたう晴衣はれぎ神社じんじやまへあつまつた。

目に立つのはやはり女の子で、粗末な手織り木綿であっても、メリンスの帯と前垂れとが彼女らを十分に飾っている。

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つのは猶且やつぱりをんなで、疎末そまつ手織木綿ておりもめんであつてもメリンスのおび前垂まへだれとが彼等かれらを十ぶんよそほうてる。

十くらいの子でも、それから二十になる者でも、みな前垂れを掛けている。

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十位とをぐらゐでもそれから廿はたちるものでもみな前垂まへだれけてる。

前垂れがなければ、彼女らの姿は寂しくなってしまわねばならない。

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前垂まへだれがなければ彼等かれら姿すがた索寞さくばくとしてしまはねばらぬ。

彼女らは足に合わない不格好な、皺の寄った白い足袋をはいている。

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彼等かれらあしはぬ不恰好ぶかつかうしわつたしろ足袋たび穿いてる。

遠い国の山から切り出すのだという、まがいの重い台へゴム製の表を打った下駄を突っかけている者もある。

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遠國ゑんごくやまからすのだといふ模擬まがひおもだいへゴムせいおもてつた下駄げたけてるものもある。

彼女らはその年齢に応じて三人五人と互いに手を引きながら、垣根のそばや辻の角に立っていては、思い出した時にそこらここらと移って歩くのである。

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彼等かれら年齡ねんれいおうじて三にんにんたがひきながら垣根かきねそばつじかどつててはおもしたとき其處そこ此處ここらとうつつてあるくのである。

彼女らはただ仲間とともに立っていること以外に、「まち」

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彼等かれらたゞ朋輩ほうばいともつてることよりほかに「まち」

といっても別に目的もなければ、楽しみもないのである。

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というてもべつ目的もくてきもなければ娯樂ごらくもないのである。

それで彼女らは、少しでも変わった出来事を見逃すことを敢えてしないのである。

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れで彼等かれらすこしでもことなつた出來事できごと見逃みのがすことをあへてしないのである。

神官は、小さな筑波蜜柑だの駄菓子だの鯣だのを少しばかりずつ供えた卓の前に座って、祝詞を上げた。

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神官しんくわんちひさな筑波蜜柑つくばみかんだの駄菓子だぐわしだのするめだのをすこしばかりづつそなへたしよくまへすわつて祝詞のつとげた。

それは大きな厚い紙へ書いたので、それをさらに紙へ包んだのであった。

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れはおほきなあつかみいたので、それをさらかみつゝんだのであつた。

包み紙は幾度か懐へ出し入れしたと見えて、ひどく擦れて汚れている。

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包紙つゝみがみ幾度いくたびふところれしたとえていたれてよごれてる。

祝詞はきわめて短い文であった。

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祝詞のつときはめて短文たんぶんであつた。

神官はそれをきわめてゆったりと声を張り上げて読んだが、それでもいくらも時間が要らなかった。

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神官しんくわんはそれをきはめて悠長いうちやうこゑげてんだがそれでもいくらも時間じかんらなかつた。

それが一枚あればどこの神社へ行っても役に立てているものと見えて、短い文中に読み上げるべき神社の名は書いてなくて、何郡何村何神社という文字で埋めてある。

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それが一まいあれば何處どこ神社じんじやつてもやくてゝるものとえてみじか文中ぶんちう讀上よみあぐべき神社じんじやいてなくて何郡なにごほり何村なにむら何神社なにじんじやといふ文字もじうづめてある。

神官はそこに読み至ると、当日の神社をただ口の先で言うのである。

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神官しんくわん其處そこいたると當日たうじつ神社じんじやたゞくちさきでいふのである。

さすがに彼は、間違うことなしに読み退けた。

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有繋さすがかれ間違まちがふことなしに退けた。

神官が卓の横手へ座を換えて、ちょっと笏で指図をすると、氏子の総代らが順々に榊の小枝の玉串を持って卓の前に出て、その玉串を捧げて拍手した。

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神官しんくわんしよく横手よこてかへ一寸ちよつとしやく指圖さしづをすると氏子うぢこ總代等そうだいら順次じゆんじさかき小枝こえだ玉串たまくしつてしよくまへ玉串たまくしさゝげて拍手はくしゆした。

彼らはただおずおずして、拍手も鳴らなかった。

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彼等かれらたゞづ/\して拍手はくしゆらなかつた。

立ちながら袴の裾を踏んでよろけては、驚いた様子をして周りを見る者もあった。

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ちながらはかますそんで蹌踉よろけてはおどろいた容子ようすをして周圍あたりるのもあつた。

こういう作法をも、見物のすべてはいかにも熱心らしい態度で、拝殿に迫って見ていた。

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ういふ作法さはふをも見物けんぶつすべては熱心ねつしんらしい態度たいど拜殿はいでんせまつてた。

おつぎも与吉の手を取って、群衆に交じって立っていた。

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おつぎも與吉よきちつて群集ぐんしふまじつてつてた。

勘次もそこにいたのであるが、しかし彼はずっと後ろの樅の木陰にぽつんとしていたのであった。

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勘次かんじ其處そこつたのであるがしかかれはずつとうしろもみ木陰こかげにぽつさりとしてたのであつた。

簡単ながら一日の式が終わった時、四斗樽の甘酒が柄杓で汲み出して、周りに立っている人々に与えられた。

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簡單かんたんながら一にちしきをはつたとき斗樽とだる甘酒あまざけ柄杓ひしやく汲出くみだして周圍しうゐつて人々ひと/″\あたへられた。

主として子供らが先を争って、その大きな茶碗を換えた。

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しゆとして子供等こどもらさきあらそうてそのおほきな茶碗ちやわんへた。

彼らはむしろ自分の家で造ったもののほうがうまいにもかかわらず、大勢とともに騒ぐのが愉快なので、水ばかりのような甘酒を幾杯も傾けるのである。

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彼等かれらむし自分じぶんうちつくつたものゝはう佳味うまいにもかゝわらず大勢おほぜいともさわぐのが愉快ゆくわいなので、水許みづばかりのやうな甘酒あまざけ幾杯いくはいかたむけるのである。

当日からでは数日前に当番の者が村じゅうを歩いて、二合ずつでも三合ずつでも白米をもらって、夜になれば当番の者らは集まった白米で晩飯の飯を十分に炊いて、その他はことごとく甘酒に仕込む。

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當日たうじつからでは數日前すうじつぜん當番たうばんもの村落中むらぢうあるいて二がふづゝでも三がふづゝでも白米はくまいもらつて、になれば當番たうばん者等ものらあつまつた白米はくまい晩餐ばんさんめしを十ぶんいてそのことごと甘酒あまざけつくむ。

甘酒は時間が短いのと麹が少ないのとで、熱い湯で仕込むのが常である。

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甘酒あまざけ時間じかんみじかいのとかうぢすくないのとであつつくむのがれいである。

それだからたちまちに甘くなるけれども、またたちまちに酸味を帯びて来る。

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それだからたちまちにあまるけれどもまたたちまちに酸味さんみびてる。

彼らは当日の前夜に口見だと言って、近隣の者らが寄ってたかって、鍋で幾杯となく沸かしては飲むので、おびただしく減らしてしまって、それへいっぱいに水を差しておくのである。

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彼等かれら當日たうじつ前夜ぜんや口見くちみだといつて近隣きんりん者等ものらつてたかつて、なべ幾杯いくはいとなくわかしてはむのでしたゝらしてしまつて、それへ一ぱいみづしてくのである。

子供らの間に交じって、与吉も互いの体をかき分けるようにして飲んだ。

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子供等こどもらあひだまじつて與吉よきちたがひ身體からだけるやうにしてんだ。

村の者が飲んでいる後から、木陰にたたずんでいた乞食がぞろぞろと来て、曲げ物の小鉢を出して求めた。

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村落むらものんでるうしろから木陰こかげたゝずんで乞食こじきがぞろ/\と曲物まげもの小鉢こばちして要求えうきうした。

「よき、それ、いいかげんにするもんだよ、お前は」

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「よき、それえゝ加減かげんにするもんだよりや」

おつぎは、まだ茶碗を放さない与吉の手を引いた。

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おつぎはまだ茶碗ちやわんはなさない與吉よきちいた。

「待ってろお前ら、そんなに触り出さないで、小汚い」

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つてろ、さうだにさはりねえで、小穢こぎたねえ」

「こいつら、お前らにやりはぐったことはありゃしない。それにそんなに騒ぎやがって。うるさい奴らだ、待ってるもんだ」

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此奴等こねやつられはぐつたこたりやしねえ、それにさうだにさわぎやがつて、五月繩うるせ奴等やつらつてるもんだ」

「そうれ、お前らへ注いでやるのに、そんな小鉢なんぞ桶の上へ突き出させちゃかなわないな。それ、だらだら垂れるじゃないか。柄杓をそっちへ押し出してやるもんだ」

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「そうれお前等めえらえでんのにそんな小鉢こばちなんぞをけうへ突出つんださせちやへねえな、それだらだらツらあ、柄杓ひしやくそつちへおんしてるもんだ」

下駄をはいて立った氏子の総代らが、乞食を叱ったり当番に注意したりした。

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下駄げた穿いてつた氏子うぢこ總代等そうだいら乞食こじきしかつたり當番たうばん注意ちういしたりした。

神官らが石の鳥居を出て行った後は、しばらくして人も散って、鳥居の傍らには大きな文字を表した白木綿の幟が高く突っ立って、ばさばさと鳴っていた。

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神官等しんくわんらいし華表とりゐつたのちしばらくしてひとつて、華表とりゐそばにはおほきな文字もじあらはした白木綿しろもめん幟旗のぼりばたたかつてばさ/\とつてた。

散らばった人々は、そのくせそこにぽつんと、ここにぽつんと固まって立っているのであった。

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散亂さんらんした人々ひと/″\くせ其處そこにぼつゝり此處ここにぼつゝりとかたまつてつてるのであつた。

しばらくして短い日が傾いた。

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しばらくしてみじかかたむいた。

社の森を包んで、時雨の雲が東の空いっぱいに広がった。

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やしろもりつゝんで時雨しぐれくもひがしそらぱいひろがつた。

濃い鼠色の雲は凄く人に迫って来るようで、しかもくっきりと森を浮かした。

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濃厚のうこう鼠色ねずみいろくもすごひとせまつてるやうで、しかもくつきりともりかした。

かっと横に差しかかる日の光が、その凄い雲の色をやや和らげて、ビロードのような滑らかな感じを与えた。

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かつとよこかけひかりすごくもいろやゝやはらげて天鵞絨びろうどのやうななめらかなかんじをあたへた。

さらにくすんだ赤い欅のこずえにも微妙な色彩を発揮させて、ことにその間に交じった楓の大樹は、これも冴えないこずえに日は全力を注いで、驚くべき荘厳で、かつ鮮やかな光を放射させた。

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さらにくすんだあかけやきこずゑにも微妙びめう色彩しきさい發揮はつきせしめて、ことあひだまじつたもみぢ大樹たいじゆこれえないこずゑ全力ぜんりよく傾注けいちゆうしておどろくべき莊嚴さうごん鮮麗せんれいひかり放射はうしやせしめた。

時雨の雲に映る楓のこずえは、はっきりと浮き上がっていながら、ビロードの地に深くしみ込んでいるようにも見えた。

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時雨しぐれくもえいずるもみぢこずゑ確然かくぜんあがつてながら天鵞絨びろうどふかんでやうにもえた。

その前に空を支えて立った二条の白い柱は、幟であった。

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まへそらさゝへてつた二でうしろはしら幟旗のぼりばたであつた。

幟は止まずばたばたとひるがえった。

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幟旗のぼりばたまずばた/\とひるがへつた。

さらににわかにごうっと立った風に、森のこずえの葉は散乱して、鮮やかな光を保ちながら空中に閃いた。

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さらにはかにごつとつたかぜもりこずゑ散亂さんらんしてあざやかなひかりたもちながら空中くうちうひらめいた。

数分の後、世間はたちまちに暗澹たる光に包まれて、時雨がざあっと来た。

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數分時すうふんじのち世間せけんたちまちに暗澹あんたんたるひかりつゝまれて時雨しぐれがざあとた。

村のどこにも、晴れ着の姿を見なくなった。

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村落むら何處どこにも晴衣はれぎ姿すがたなくつた。

おつぎは与吉を連れて、とうに帰っていたのであった。

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おつぎは與吉よきちれてとつくにかへつてたのであつた。

夜になって雨がやんだ。

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よるつてあめんだ。

村の者はだんだんに、瞽女の泊まった小店の近くへ集まって、戸口の近くに立った。

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村落むらもの段々だん/\瞽女ごぜとまつた小店こみせちかくへあつまつて戸口とぐちちかつた。

戸はことごとく開け放って、障子も外してある。

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こと/″\開放あけはなつて障子しやうじはづしてある。

瞽女はめいめいに晩飯を求めて去った後であった。

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瞽女ごぜ各自かくじ晩餐ばんさんもとめてつたあとであつた。

瞽女は村から村の「まち」

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瞽女ごぜ村落むらから村落むらの「まち」

を渡って歩いて、毎年泊めてもらう宿について、それから村じゅうを戸ごとに唄って歩く間に、ところどころで一人分ずつの晩飯のごちそうを承諾してもらっておく。

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わたつてあるいて毎年まいねんめてもら宿やどついてそれから村落中むらぢう戸毎こごとうたうてあるあひだに、處々ところ/″\一人分いちにんぶんづゝの晩餐ばんさん馳走ちそう承諾しようだくしてもらつてく。

それで彼女らは、夜の時刻が来ると、目明きの手引きがだんだんとその家々に配って歩く。

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それで彼等かれらよる時刻じこくると、目明めあき手曳てびきがだんだんと家々いへ/\くばつてあるく。

そうしてはまた、手引きがそれを集めて打ち連れて帰って来る。

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さうしては手曳てびきがそれをあつめてれてかへつてる。

目の不自由な彼女らは、ようやくのことで自分の求める家に着いても、板の間の端などにぽつんとして膳の運ばれるのを待っているので、一同の腹が満たされて再び杖にすがるまでには、面倒な時間を要するのである。

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不自由ふじいう彼等かれらやうやくのことで自分じぶんもとめるいへいてもいたはしなどにぽつさりとしてぜんはこばれるのをつてるので一どうはら滿たされてふたゝつゑすがるまでには面倒めんだう時間じかんえうするのである。

小店の座敷には、瞽女の大きな荷物と袋へ入れた三味線とが置いてあって、寂しく見えていた。

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小店こみせ座敷ざしきには瞽女ごぜおほきな荷物にもつふくろれた三味線さみせんとがいてあつてさびしくえてた。

ただ一人の巫女が、彼女らに特有の態度を保って正座を張って、そのいつでも放さない荷物を前へ置いて、しゃんと座っているのであった。

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たゞ一人ひとり巫女くちよせ彼等かれら特有とくいう態度たいどたもつて正座しやうざつて、何時いつでもはなさない荷物にもつまへいてしやんとすわつてるのであつた。

表には村の者がようやく増えて、土間から座敷へ上がる者もあった。

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おもてには村落むらものやうやえて土間どまから座敷ざしきあがものもあつた。

彼らはわけもなしに、ただ騒ぎはじめた。

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彼等かれら理由わけもなしにたゞさわぎはじめた。

彼らは沼辺の葦のように、集まれば互いにただざわざわと騒ぐのである。

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彼等かれら沼邊ぬまべあしのやうにあつまればたがひたゞざわ/\とさわぐのである。

巫女はかなりの婆さんであったので、白粉をつけた瞽女らに向かってからかうような言葉は、彼らの間には発せられなかった。

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巫女くちよせはかなりのばあさんであつたので、白粉おしろいつけた瞽女等ごぜらむかつて揶揄からかやう言辭ことば彼等かれらあひだにははつせられなかつた。

「どうだい、口寄せを一つやってみないかい」

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「どうしたえ、口寄くちよせひとつやつてねえかえ」

大勢の中から切り出した者があった。

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大勢おほぜいうちからしたものがあつた。

葦の葉先が微風にもなびかされるように、この一言のためにみなぞよぞよとまた騒いだ。

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あし葉末はずゑ微風びふうにもなびけられるやうこのためみなぞよ/\とまたさわいだ。

群衆の中には、おつぎも交じっていた。

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群集ぐんしふうちにはおつぎもまじつてた。

若い衆らはさっきからそれに注目していたが

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わか衆等しゆら先刻さつきからそれに注目ちうもくしてたが

「どうした、あいつのことを寄せてみようじゃないか」

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「どうした、彼奴等あいつらことせてんべぢやねえか」

「おつぎのことを出してみようじゃないか」

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「おつぎことしてんべぢやねえか」

彼らはひそひそとひそかに申し合わせた。

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彼等かれらはひそ/\とひそかしめあはせた。

「寄せてみようとよ」

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せてんべえと」

群衆の後ろのほうから怒鳴った。

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群集ぐんしふうしろはうから呶鳴どなつた。

「そんじゃこっちへ出なさいな」

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「そんぢや此方こつちさつせえな」

店の女房は言った。

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みせ女房にようばうはいつた。

群衆は一時に威勢がついて、巫女の膝の近くまでぎっしりと座敷を塞いだ。

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群集ぐんしふは一威勢ゐせいがついて巫女くちよせひざちかくまでぎつしりと座敷ざしきふさいだ。

勘次もおつぎも、座敷に窮屈な居ずまいをしていた。

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勘次かんじもおつぎも座敷ざしき窮屈きうくつずまひをしてた。

店の女房は、少し剥げた塗り盆へ水をいっぱいに汲んだ飯茶碗を載せて

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みせ女房にようばうすこげた塗盆ぬりぼんみづを一ぱいんだ飯茶碗めしぢやわんせて

「ちょっとお前ら、退いてくれないか」

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「ちつとおめえ退しやつてくんねえか」

と言いながら、人々の間を足探りに歩いて、巫女の婆さんの前へ置いた。

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といひながら人々ひと/″\あひだ足探あしさぐりにあるいて巫女くちよせばあさんのまへいた。

「そんじゃ誰だろう、寄せるのは」

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「そんぢやだれだんべ、せんな」

女房は立ったまま一同を見回して、にっこりとして言った。

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女房にようばうつたまゝどう見廻みまはして嫣然にこりとしていつた。

それでもしばらくは、すべてが口をつぐんでいた。

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それでもしばらくはすべてがくちつぐんでた。

巫女の婆さんは、箱を包んだ荷物をそのまま自分の膝へ引きつけて待っている。

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巫女くせよせばあさんははこつゝんだ荷物にもつそのまゝ自分じぶんひざきつけてつてる。

「おれがやろう、そんじゃ」

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れやんべ、そんぢや」

若い衆の一人が婆さんの前へ出て

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わかしゆ一人ひとりばあさんのまへ

「おれは生き口を寄せてみたいんだが、いくらだろう、一口は」

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生口いきぐちせててえんだが、いくらだんべ一口ひとくちは」

「五銭ずつでさ」

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「五せんづゝでさ」

巫女の婆さんは落ち着いて言った。

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巫女くちよせばあさんは落付おちついていつた。

「これはただ黙っていていいんだったっけかな」

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たゞだまつてゝえゝんだつけかな」

と言うと

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といふと

「いいんだよ、それで。自分の思ってたのが出て来るんだから」

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「えゝんだよそんで、自分じぶんおもつてたのんだから」

「紙縒りをこしらえて水をかき回せばいいんだよ」

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「かんぜんよりこせえてみづまあせば、えゝんだよ」

そばから、巫女の婆さんの言うのも待たずに口を出した。

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そばから巫女くちよせばあさんのいふのもたずにくちした。

「三度でいいんだったっけかな」

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「三でえゝんだつけかな」

婆さんの前へ座った一人は後ろのほうを向いて言って、彼は不器用な紙縒りをこしらえて、その先を茶碗の水へ浸して三度丁寧にかき回して、そのまま紙縒りを水に浸しておいた。

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ばあさんのまへすわつた一人ひとりうしろはういていつてかれ不器用ぶきよう紙捻こよりこしらへてさき茶碗ちやわんみづひたして三丁寧ていねいまはしてまゝ紙捻こよりみづひたしていた。

「見ろよ、近ごろさっぱり来てくれないが、おれのことがいやにでもなったんじゃないかなんて出るから」

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ろよ、近頃ちかごろ薩張さつぱりてくんねえが、れことにでもつたんぢやねえかなんてつから」

と、店の女房は冗談を交えた。

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みせ女房にようばう戯談ぜうだんまじへた。

巫女はしばらく手を合わせて口の中で何か念じていたが、風呂敷包みのまま箱へ両肘を突いて、だんだんに諸国の神々の名を呼んで、一座に集めるという意味を、熟練した言い方で調子を取って言った。

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巫女くちよせしばらあはせてくちなかなにねんじてたが風呂敷包ふろしきづゝみまゝはこ兩肘りやうひぢいて段々だん/\諸國しよこく神々かみ/″\んで、一あつめるといふ意味いみ熟練じゆくれんしたいひかた調子てうしをとつていつた。

がやがやと騒いでいた家の内も外も、ともにひっそりとなった。

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がや/\とさわいでいへ内外ないぐわいともにひつそりとつた。

「よしきりが土用へ入ったみたいに、ぴったりしちまったな」

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行々子よしきり土用どようえつたてえに、ぴつたりしつちやつたな」

と怒鳴った者があった。

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呶鳴どなつたものがあつた。

ようやく静まった群衆は、しばらくどよめいた。

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やうやしづまつた群集ぐんしふ少時しばしどよめいた。

しかしすぐにまた静まった。

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しかすぐしづまつた。

「白紙頼り水頼り、紙縒り頼りにい……」

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白紙しらがみ手頼たよみづ手頼たより、紙捻こより手頼たよりにい……」

と、巫女の婆さんの声は、前歯が少し欠けているために句切りがやや不明であるが、それでも滞ることなくずんずんと句を追って行った。

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巫女くちよせばあさんのこゑ前齒まへばすこけてため句切くきりやゝ不明ふめいであるがそれでも澁滯じふたいすることなくずん/\とうてつた。

斜めに茶碗の水に立った紙縒りが、だんだんに水を吸って、うなずいたようにくたりとなった。

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なゝめ茶碗ちやわんみづつた紙捻こよりがだん/\にみづうて點頭うなづいたやうにくたりとつた。

「どうせよ一つにはなれぬ身を、別れたいとは思えども……」

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「どうせよ一つにやれぬを、わかれたいとはおもへども……」

と一同の耳に響いた時、「出た、出た」

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と一どうみゝひゞいたときた/\」

と、静まっていた群衆の中から声が発せられた。

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しづまつて群集ぐんしふなかからこゑはつせられた。

巫女の婆さんは突いている肘を少し動かして、乗り気になった。

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巫女くちよせばあさんはついひぢすこうごかして乘地のりぢつた。

「おれが我が身と言ったとて、自由自在になるならば、今日の巫女も要るまいにい……」

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れがというたとて、自由自儘じいうじまゝるならば、今日けふ巫女あづさるまいにい……」

婆さんは同じような句を繰り返した。

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ばあさんはおなじやうな反覆くりかへした。

「出たところで、もっとしゃべらせろよ」

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ところでまつと饒舌しやべらせろえ」

と、一人がさらに紙縒りを持って水をかき回した。

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一人ひとりさら紙捻こよりつてみづまはした。

「紙縒りがくたくたして言うことを聞かないや」

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「かんぜんよりくた/\してふことかねえや」

と言いながら、彼は手を止めた。

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いひながらかれめた。

「おれが心はこうなれど、怒るまいぞえ見捨てまい、互いに顔も合わせたら、言葉も掛けてくださろう……」

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れがよこゝろはこうなれど、おこるまえぞえ見棄みすてまえ、たがひかほあはせたら、言辭ことばけてくだされよう……」

巫女は時々調子を張り上げて言った。

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巫女くちよせ時々とき/″\調子てうしげていつた。

「そうだそうだ、そうでなくちゃおとっつあんが泣くぞ」

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「さうださうだ、そんでなくつちやおとつゝあくぞ」

群衆の後ろから怒鳴った。

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群集ぐんしふうしろから呶鳴どなつた。

群衆はしばらくまたどよめいたが、一句でも巫女の言うことを聞き外すまいとして静まった。

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群集ぐんしふ少時しばしたどよめいたが一でも巫女くちよせのいふことをはづすまいとしてしづまつた。

巫女の婆さんの姿勢が箱を離れて以前に戻った時、押さえつけられたようになっていたすべてが、にわかにがやがやと騒ぎ出した。

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巫女くちよせばあさんの姿勢しせいはこはなれて以前いぜんふくしたとき抑壓よくあつされたやうにつてすべてがにはかにがや/\とさわした。

彼らは絶えず勘次とおつぎとに対して冷笑を浴びせかけているのであったが、しかしそれを知らない二人は、ただじっとしていた。

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彼等かれらえず勘次かんじとおつぎとにたいして冷笑れいせうあびけてゐるのであつたが、しかしそれをらぬ二人ふたりたゞ凝然ぢつとしてた。

すべてが騒ぐ間にあって、そうしている二人の様子は、わざとらしく見えるまで際立っていた。

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すべてがさわあひだつてさうして二人ふたり容子ようすわざとらしくえるまで際立きわだつてた。

巫女の唱えたことだけでは、いたずらな若い衆の意図も知らない二人には、自分たちが言われていることとは気づくはずがなかったのである。

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巫女くちよせとなへたことだけでは惡戯いたづらわかしゆ意志こゝろらない二人ふたりには自分等じぶんらがいはれてることゝはこゝろづくはずがなかつたのである。

群衆の後ろのほうからのにわかな騒ぎが、内側に及んだ。

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群集ぐんしふうしろはうからのにはかさわぎが内側うちがはおよんだ。

晩飯を済まして、瞽女が手を引き連れて来たところなのである。

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晩餐ばんさんまして瞽女ごぜれてところなのである。

それを若い衆がからかい半分に、道を開いてやろうとしては、やるまいとして騒いだのであった。

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それをわかしゆ揶揄半分からかひはんぶんみちひらいてやらうとしてはるまいとしてさわいだのであつた。

瞽女は危なそうにして、ようやく座敷へ上がった時

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瞽女ごぜ危險相あぶなさうにしてやうや座敷ざしきあがつたとき

「目も見えないのに、そんなに押し回すなよ」

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えねえのにさうだに押廻おしまはすなえ」

瞽女の後についてゆき、座敷の端まで割り込んで来た近所の爺さんが言った。

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瞽女ごぜあといて座敷ざしきはしまで割込わりこんで近所きんじよぢいさんさんがいつた。

若い衆らはただ

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わか衆等しゆらたゞ

「ほういほうい」

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「ほうい/\」

と作り声で囃した。

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假聲こわいろはやした。

爺さんは勘次がそばにいたのを見つけて

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ぢいさんは勘次かんじそばたのをつけて

「なあ、勘次さん、これで若い者のほうがいいからな」

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「なあ、勘次かんじさん、こんでわけえものゝところがえゝかんな」

と言いかけた。

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といひけた。

外では再び囃し立てて騒いだ。

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そとではふたゝはやてゝさわいだ。

白い手拭いを、髷の後ろが少し現れた瞽女かぶりにしている瞽女が増えたので、座敷はにわかに生きたようになった。

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しろ手拭てぬぐひまげうしろすこあらはれた瞽女被ごぜかぶりにして瞽女ごぜえたので座敷ざしきにはかいきたやうにつた。

瞽女は一つに固まって、なるべくランプの明るい光を避けようとしている。

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瞽女ごぜひとつにかたまつてるべくランプのあかるいひかりけようとしてる。

その態度を心憎く思う若い衆が

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態度たいど心憎こゝろにくおもわかしゆ

「おれはその手拭いをかぶってこっちを向いてる姐さんのことを寄せてみたいもんだな」

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手拭てぬげかぶつてこつちいてる姐樣あねさまことせててえもんだな」

と、立ち塞がった陰から瞽女の一人へからかって言った者がある。

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ふさがつたかげから瞽女ごぜ一人ひとり揶揄からかつていつたものがある。

「何とか言うか、寄せてみな」

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んちいかせてせえ」

さっきの爺さんは言った。

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先刻さつきぢいさんはいつた。

彼の顔にはあばたを深く印している。

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かれかほには痘痕あばたふかいんしてる。

「どうした、寄せてみるのか。そんなら、おれが紙縒りをこしらえてやろうかい」

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「どうしたせてんのか、そんだられかんぜんよりこせえてやつかれえ」

爺さんがさらに言った時、返事がなかった。

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ぢいさんがさらにいつたとき返辭へんじがなかつた。

「ええ、情けない奴らだな」

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「えゝ、なさけねえ奴等やつらだな」

爺さんはひねりかけた紙を捨てた。

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ぢいさんはかけかみてた。

店先の駄菓子を入れた店台を、がたがたと動かす者があった。

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店先みせさき駄菓子だぐわしれた店臺みせだいをがた/\とうごかすものがあつた。

「菓子なんぞまた盗っちまわないぞ。うん、そっちのほうの酒樽の所にも立ってて、飲み口でも引っこ抜かないでもらおうぞ、みんな」

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菓子くわしなんぞまたつちやへねえぞ、うむ、そつちのはう酒樽さかだるとこにもつてゝぐちでもつこかねえでもらあべえぞ、みんな」

と、あばたの爺さんは独り乗り気になって言うのであった。

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痘痕あばたぢいさんはひと乘地のりぢつていふのであつた。

「そうじゃないんだよ。店台が自分で歩き出しはじめたから、おれが押さえたところなんだよ」

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「さうぢやねえんだよ、店臺みせでえ自分じぶんあるはじまつたからつかめえたとこなんだよ」

「いいから、ガラスでもぶち欠かないようにしろよ。こっちのおかみさんに怒られるから」

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「えゝからガラスでもおつかねえやうにしろえ、此方こつちのおつかさまにおこられつから」

「そんでも店台は四つ足へ何かはいてら。土鍋に片口に皿だ。どれもどれもよく欠けてらあ」

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「そんでも店臺みせでえは四つあしなに穿いてら、土鍋どなべ片口かたくちさらだ、どれも/\けてらあ」

「どこらか歩いて来たと見えて、足が埃だらけだと」

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何處どこらかあるいてたとえてあしほこりだらけだと」

二、三人の声で冗談を返した。

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二三にんこゑ戯談ぜうだんかへした。

家の内と外のむっとした空気が、ますますざわついた。

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いへ内外うちそとのむつとした空氣くうきます/\ざわついた。

店台へは、暑いころには蟻の襲うのをいとって、四つの足へ皿や丼の類をはかせて、始終水をたたえておくことを怠らないのであった。

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店臺みせだいへはあつころにはありおそふのをいとうて四つのあしさらどんぶりるゐ穿かせて始終しじうみづたゝへてくことをおこたらないのであつた。

「どれ、誰も寄せないなら、おれでも寄せてみようかい」

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「どうれ、だれせねえけりやれでもせてんべかえ」

後ろのほうから一人進んで来た者があった。

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うしろはうから一人ひとりすゝんでたものがあつた。

「ただじゃだめだぞ」

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たゞぢや駄目だめだぞ」

あばたの爺さんは、すぐに要らないことを言った。

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痘痕あばたぢいさんはぐにらぬことをいつた。

「そんじゃ困ったなあ。お前、どうした、婆さんのことを死に口でも寄せてみないか」

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「そんぢやこまつたなあ、おめえどうしたばあさまこと死口しにぐちでもせてねえか」

「おれはいやだよ。待ってるから早く来てくれなんて言われた日には、縁起でもないから」

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だよ、つてつからはやてくろなんてはれたにや縁起えんぎでもねえから」

爺さんは爪で頭をかいた。

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ぢいさんはつめあたまいた。

「ひどくお前、近ごろぼさぼさしちまってるんだな。ああいう婆でも焦がれてるせいじゃあるまい。髪まで抜けたようだな」

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ひどくおめえ近頃ちかごろぽさ/\しつちやつてんだな、あゝだばゞあでもこがれてる所爲せゐぢやあんめえ、頭髮あたままでぬけやうだな」

ひょうきんな相手は、爺さんの頭へ手を掛けてゆさゆさと動かした。

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剽輕へうきん相手あひてぢいさんのあたまかけてゆさ/\とうごかした。

乗り気になっていた爺さんは、少し白い膜で覆われたような目を見開いて、やや辟易した。

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乘地のりぢつてぢいさんはすこしろまくもつおほはれたやうみはつてやゝ辟易へきえきした。

「大豆打ちにひっくり返ったみたいに、顔じゅう穴だらけにしてなあ」

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大豆打でえづぶちにかつころがつたてえに面中つらぢうめどだらけにしてなあ」

ひょうきんな相手は、ますます悪口をたくましくした。

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剽輕へうきん相手あひてます/\惡口あくこうたくましくした。

群衆は、ひと声の終わるごとに笑いどよめいた。

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群衆ぐんしふ一聲ひとこゑをはごとわらひどよめいた。

「べらぼう、そんな柔らかい顔で風の吹く所を歩けるもんじゃない」

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篦棒べらぼう、さうだやつけえつらかぜとこあるけるもんぢやねえ」

爺さんはむきになって言った。

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ぢいさんはむきにつていつた。

「どうした、赤い手拭いをかぶらせられただろう」

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「どうしたあけ手拭てねげかぶらせらつたんべえ」

「おれはそんな手拭いなんざあ、かぶったことはないよ」

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らさうだ手拭てねげなんざあかぶつたこたねえよ」

「そんでも疱瘡神は赤い手拭いが好きだというそうだな」

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「そんでも疱瘡神はうそうがみあけ手拭てねげきだつちげな」

「そんだって、おれはかぶらないよ」

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「そんだつてかぶんねえよ」

あばたの爺さんは、すっかりしおれてしまった。

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痘痕あばたぢいさんはすつかりしをれてしまつた。

群衆はみな腹を抱えた。

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群集ぐんしふみなはらかゝへた。

「どれ、おれは帰って牛蒡でもこしらえよう。明日、天秤棒をかついで出る支障にならあ」

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「どうれ、けえつて牛蒡ごぼうでもこせえべえ、明日あした天秤棒てんびんぼうかついで支障さはりにならあ」

ひょうきんな相手は、思い出したように言った。

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剽輕へうきん相手あひておもしたやうにいつた。

「どうせ、お前らのように紺屋の弟子みたいな手足の者は、牛蒡でもかついで歩くのにはちょうどよかろう」

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「どうせ、おめえやうに紺屋こんや弟子でしてえな手足てあし牛蒡ごばうでもかついであるくのにや丁度ちやうどよかんべ」

復讐でもし得たような様子で、爺さんは言った。

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復讎ふくしうでも仕得しえたやうな容子ようすぢいさんはいつた。

「元手の二円二分くらいで、これで餓鬼らまでには四、五人も命をつないで行くのには、赤い手拭いでもかぶってるような放心した料簡じゃいられないからな」

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資本もとでの二りやうぐれえでこんで餓鬼奴等がきめらまでにや四五にんいのちつないでくのにやあけ手拭てねげでもかぶつてるやう放心うつかりした料簡れうけんぢやらんねえかんな」

彼はまた爺さんの頭へ手を掛けて言って、ついと行ってしまった。

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かれぢいさんのあたまけていつてついとつてしまつた。

後では、波が岩に打ちつけるようにしばらく騒いだ。

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あとではなみいはちつけるやうしばらくさわいだ。

若い女はみな十分笑って、またあばたの爺さんをつくづくと見ては思い出して、袂で口を覆った。

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わかをんなみなぶんわらつて、また痘痕あばたぢいさんを熟々つく/″\てはおもしてたもとくちおほうた。

とうとうきまり悪そうにして、爺さんも去ってしまった。

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到頭たうとうきま惡相わるさうにしてぢいさんもつてしまつた。

「この箱の中には何が入ってるんだ。人形だって本当かね」

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はこなかにやなんだねえつてんなあ、人形坊にんぎやうばうだつて本當ほんたうかね」

前のほうにいた若い衆が、巫女の荷物へ手を掛けて言った。

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まへはうわかしゆ巫女くちよせ荷物にもつかけていつた。

「なあに、今じゃ幣束だとよ」

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「なあにいまぢや幣束へいそくだとよ」

と、ほかの者が言った。

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ものがいつた。

「これは見せられないんでさ。これを見られると、どれほど寄せてみても当たらなくなっちまってね。自分がいない間に見られても、きっと知れるんでさ」

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せらんねえんでさ、られつと何程なんぼせててもあたんなくなつちやつてね、自分じぶんねえらつても屹度きつとれんでさ」

婆さんは、風呂敷をめくりかけた若い衆の手をそっと払って言った。

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ばあさんは風呂敷ふろしきまくかけわかしゆをそつとはらつていつた。

そうすると

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さうすると

「見せられないよ、それが種だから」

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せらんねえよ、れがたねだから」

と怒鳴った者があった。

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呶鳴どなつたものがあつた。

そういう騒ぎをしている間に、幾度かもじもじと体を動かしていた勘次は、思い切って婆さんの前へ進んだ。

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さういふさわぎをして幾度いくどかもぢ/\と身體からだうごかして勘次かんじおもつてばあさんのまへすゝんだ。

「わしに一つ寄せてみておくんなせえ。死に口でがす」

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「わしげ一つせてておくんなせえ、死口しにぐちでがさ」

「そんじゃ、笹っ葉を折って来ておくんなせえ」

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「そんぢやさゝつちよつてておくんなせえ」

巫女の婆さんは言った。

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巫女くちよせばあさんはいつた。

「こっちで折ってやろう」

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此方こつちつちよつてんべ」

と勘次が立ちかけた時、後ろのほうで怒鳴った。

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勘次かんじかけときうしろはう呶鳴どなつた。

しばらくして、小さな竹の葉が手から手へ伝えられて、茶碗の水の中に置かれた。

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しばらくしてちひさなたけからつたへられて茶碗ちやわんみづなかかれた。

一同は再び静まった。

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どうふたゝしづまつた。

勘次は竹の葉で茶碗の水を三度かき回して、そっと手を放した。

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勘次かんじたけもつ茶碗ちやわんみづを三まはしてそつとはなした。

ランプの光に、竹の葉は水から出た部分は青く、水に沈んだ部分は水銀のように白く光った。

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ランプのひかりたけみづから部分ぶぶんあをく、みづぼつした部分ぶぶん水銀すゐぎんのやうにしろひかつた。

巫女の婆さんは、さっきと同じく箱へ肘を突いて

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巫女くちよせばあさんは先刻さつきおなじくはこひぢいて

「よく呼び出してくれたぞよう……」

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してくれたぞよう……」

と、決まったような句を繰り返しながら、まだ十分の意味をなさないのに、勘次はきちんと座った膝へ両手を棒のように突いて、ぐったりと頭をうなだれた。

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きまつたやうな反覆くりかへしつゝまだ十ぶん意味いみさないのに勘次かんじ整然ちやんすわつたひざ兩手りやうてぼうのやうにいてぐつたりとかしられた。

おつぎもしおらしくうつむいた。

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おつぎもしをらしく俯向うつむいた。

島田に結ったおつぎの髪が、明るいランプに光った。

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島田しまだうたおつぎの頭髮かみかるいランプにひかつた。

おつぎは特に勘次に許されて、未明に鬼怒川の渡しを越えて、仲間同士とともに髪結いの所へ行ったのであった。

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おつぎはとく勘次かんじゆるされて未明みめい鬼怒川きぬがはわたしえて朋輩同志ほうばいどうしとも髮結かみゆひもとつたのであつた。

髷には油がよく乗っていて、上手に掛けた金房が少しざらりと揺れた。

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まげにはあぶらつて上手じやうずけた金房きんぶさすこしざらりとして動搖ゆらめいた。

巫女が次第に句を追って行くうちに

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巫女くちよせ漸次ぜんじうてくうちに

「姿隠れて出てみれば、何も知るまいと思うだろうが、おれはその身の所へは、日々毎日ついてるぞ。雨は降らねど箕になり、笠になりてよ……」

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姿すがたかくれてれば、なにるまいとおもだろが、れはところへは、日日ひにち毎日まいにちついてるぞ、あめらねどみのり、かさりてよ……」

と、巫女の声は前歯の少し欠けたにもかかわらず、一つには一同がひっそりとして咳払いもしないゆえであろうが、きわめてはっきりと聞き取られた。

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巫女くちよせこゑ前齒まへばすこけたにもかゝはらず、一つには一どうがひつそりとして咳拂せきばらひをもせぬせいであらうがきはめて明瞭めいれうきとられた。

「一度ならず、二度三度、不思議を起こさせて知らせたに……」

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「一ならず、二不思議ふしぎたせてらせたに……」

婆さんの声が次いで響いた。

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ばあさんのこゑついひゞいた。

勘次もおつぎも、ただじっとしているのみである。

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勘次かんじもおつぎもたゞ凝然ぢつとしてるのみである。

「おれが達者でいるならば……」

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れが達者たつしやるならば……」

という句が読まれたと思うと、やがて

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といふまれたとおもふとやが

「くれるよほどの心なら、ほんに苦労でも大儀でも、つぼみの花を散らさずに、どうか咲かせてくだされよう……」

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れるよほどこゝろなら、ほんに苦勞くろでも大儀たいぎでも、つぼみはならさずに、どうかかせてくだされよう……」

熟練した声の調子が、そうでなくても興味を持っている一同の耳に、しみじみと響いた。

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熟練じゆくれんしたこゑ調子てうしが、さうでなくても興味きようみつてる一どうみゝにしみじみとひゞいた。

「烏の鳴かない日はあれど、草葉の陰で……」

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からすかないはあれど、草葉くさばかげで……」

婆さんが自分の声に乗って来た時、勘次はぼろぼろと涙をこぼした。

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ばあさんが自分じぶんこゑつてとき勘次かんじはぼろ/\となみだこぼした。

おつぎもそっと涙を拭いた。

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おつぎもそつとなみだぬぐつた。

「ほんの仮の座のことなれば、これにておれは帰るぞよう……」

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「ほんの假座かりざのことなれば、れにてれはかへるぞよう……」

それからまた

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それからまた

「烏の鳴きがそうでなくもう……」

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からすきがそでなくもう……」

と繰り返しながら、巫女の婆さんの声は軽く引いて、そっと抜いたように止んだ。

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反覆くりかへしつゝ巫女くちよせばあさんのこゑかるいてそつといたやうにんだ。

「おれは済まない」

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まねえ」

勘次はぽつんと言って、また涙を横に拭いた。

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勘次かんじはぽつさりといつてまたなみだよこぬぐつた。

「本当に出たんだよ。怖いようだな」

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本當ほんたうたんだよ、可怖おつかねえやうだな」

そこにいた若い女房は、しみじみと言った。

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其處そこわか女房にようばうはしみ/″\といつた。

それから続いて、ほかの二、三人が身の上やら生き口やらを寄せた。

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それからつゞいての二三にんうへやら生口いきぐちやらをせた。

そうして座敷の隅にいた瞽女が代わって、三味線の袋をすっとしごき下ろした時、巫女は荷物の箱を背負って、自分の泊まった宿へ帰って行った。

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さうして座敷ざしきすみ瞽女ごぜかはつて三味線さみせんふくろをすつときおろしたとき巫女くちよせ荷物にもつはこ脊負しよつて自分じぶんとまつた宿やどかへつてつた。

三味線の撥が一度弦に触れると、しんみりとした座敷が急に勢いづいて、ランプの光がにわかに明るいようになった。

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三味線さみせんばちが一いとれるとしんみりとした座敷ざしききふいきほひづいてランプのひかりにはかあかるいやうにつた。

勘次はそれを聞くに堪えられないで、彼はその夜にかぎって、自分で与吉の手を引いて自分の家へと、闇の中へ身を沈めた。

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勘次かんじはそれをくにへないで、かれかぎつて自分じぶん與吉よきちいて自分じぶんうちへとやみなかぼつした。

若い衆は三人の後ろ姿を見て

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わかしゆうは三にん後姿うしろすがた

「こおろぎじゃないが、口を鳴らさないじゃいられないな」

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きりぎりすぢやねえが、くちらさねえぢやらんねえな」

と言った。

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といつた。

「そんだが、今夜はしみじみ泣いたんじゃないかい。何でもお品さんのことはどれほど惜しいか知れないのだからな」

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「そんだが、今夜こんやはしみ/″\いたんぢやねえけ、あんでもおしなさんこた何程なんぼしいかんねえのがだかんな」

「今だってその話をするといくらでもしてるんだからな」

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いまだつてそのはなしすつといくらでもしてんだかんな」

「そんだがよ、さっきみたいに泣いてるのに、悪口なんぞ言うのは罪だよなあ」

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「そんだがよ、先刻さつきてえにいてんのに惡口わるくちなんぞいふなつみだよなあ」

と、若い女房らはそれでもしんみりと言った。

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わか女房等にようばうらはそれでもしんみりといつた。

その夜からしばらくの間、勘次は以前とは違って、おつぎを独りで放して出すことがあるようになった。

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からしばらくのあひだ勘次かんじ以前いぜんとはかはつておつぎをひとはなしてすことがやうつた。

そうかと思っているうちに、村じゅうがまた、勘次のおつぎに対する態度がまったく以前に戻ったことを認めずにはいられなくなった。

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さうかとおもつてうち村落中むらぢう勘次かんじのおつぎにたいする態度たいどまつた以前いぜんかへつたことをみとめずにはられなくなつた。

村の目は、勢い嫉妬と疑いと、それから新しく起こった事件に対するような興味とをもって、勘次の上に注がれねばならなかった。

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村落むらいきほ嫉妬しつと猜忌さいぎとそれからあらたおこつた事件じけんたいするやうな興味きようみとをもつ勘次かんじうへそゝがれねばならなかつた。

一六

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十六

勘次はほとんど事あるごとに冷笑の目をもって見られているのであったが、しかしそれがいやな感情を彼に与えるよりも、彼は彼の懐にいくらかの余裕が生じて来たことが、すべての不満を償ってなお余りあることであった。

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勘次かんじほとんど事毎ことごと冷笑れいせうまなこもつられてるのであつたがしかしそれがいや感情かんじやうかれあたへるよりも、かれかれふところ幾分いくぶん餘裕よゆうしやうじてたことがすべての不滿ふまんつぐなうてなほあまりあることであつた。

お品がまだ生きているころ、隣の主人のおかみさんに向かって

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しながまだきてころとなり主人しゆじん内儀かみさんにむかつて

「おかみさんらは何にも心配なんざなくて、晴れ晴れとしているんでございましょうね」

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「お内儀かみさんなんにも心配しんぺえなんざくつて晴々せい/\としてんでござんせうね」

とお品はつくづくと言ったことがある。

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しなはつく/″\といつたことがある。

「なぜそんなことを言うんだい」

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何故なぜそんなこといふんだい」

おかみさんは怪しんで聞いたら

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内儀かみさんはあやしんでいたら

「そんでも、おかみさんらは食べる心配なんざちっともないんだから。わたしはそうだと思ってさ」

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「そんでもお内儀かみさんべる心配しんぺえなんざちつともねえんだから、わたしやさうだとおもつてせえ」

お品は言った。

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しなはいつた。

おかみさんは、なるほどそういう心持ちでいるのかと、それからいろいろと身分相応な苦労の止まないことを話して聞かせると

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内儀かみさんは成程なるほどさういふ心持こゝろもちるのかと、それから種々いろ/\身分みぶん相應さうおう苦勞くらうまぬことをはなしかせると

「そうでございましょうかね、おかみさん。わたしらはまた、明けても暮れてもない足りないの心配ばかりしてるんだから、そういうことのない人は心配なんてないんだとばかり思ってたんでございますよ。ねえ本当に」

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「さうでござんせうかねお内儀かみさん、わたしまたけてもれてもんねえの心配しんぺえばかしゝてんだから、さういことねえひと心配しんぺえなんちやねえんだとばかしおもつてたんでござんすよ、ねえ本當ほんたうに」

お品は感に堪えたように言ったのであった。

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しなかんへたやうにいつたのであつた。

お品がそれほど苦労した米穀の問題が、その死後四、五年間の惨憺たる境遇から、ようやく解決が告げられようとしたのである。

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しながそれほど苦勞くらうした米穀べいこく問題もんだい死後しご四五年間ねんかん惨憺さんたんたる境遇きやうぐうからやうや解決かいけつげられようとしたのである。

彼は毎年冬から、まだ草木の芽の出ない春までのうちに、彼らにしては驚くべき巨額の四、五十円を稼ぎ得るのであった。

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かれ毎年まいねんふゆからまだ草木さうもくさぬはるまでのうち彼等かれらにしてはおどろくべき巨額きよがくの四五十ゑんるのであつた。

それは古い傷の穴に投じられるにしても、彼は土間の鶏のねぐらの下に、三人が安心しているだけの食料を求めておくことができるようになった。

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れはふる創痍さういあなとうぜられるにしてもかれ土間どまにはとりとやしたに三にん安心あんしんしてるだけの食料しよくれうもとめてくことが出來できやうつた。

おつぎは二十の声を聞いて、与吉は学校へ出るようになった。

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おつぎは二十はたちこゑいて與吉よきち學校がくかうやうつた。

彼は絶えず何かを探すような、しかも隠した心の裡の何かを知られまいというような、見苦しい顔つきを村の中にさらす必要が、ようやく減って来た。

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かれえずあるものさがすやうなしか隱蔽いんぺいした心裏しんりあるものられまいといふやうな、不見目みじめ容貌ようばう村落むらうちさら必要ひつえうやうやげんじてた。

彼はだんだん、彼らの仲間に向かって、以前のようにこせこせといたずらに遠慮した態度がなくなった。

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かれ段々だん/\彼等かれら伴侶なかまむかつて以前いぜんごとくこせ/\といたづらに遠慮ゑんりよした態度たいどがなくなつた。

彼は村のすべてに向かって払った恐れの念を、ことごとく東隣の家族にのみ捧げてしまった。

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かれ村落むらすべてにむかつてはらつた恐怖きようふねんことごと東隣ひがしどなり家族かぞくにのみさゝげてしまつた。

その間、彼と卯平とはただ一度会ったのみである。

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あひだかれ卯平うへいとはたゞくわいつたのみである。

卯平は、お品が三年目の盆にふいと来て、ふいと立ったのである。

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卯平うへいはおしなが三年目ねんめぼんにふいとてふいとつたのである。

卯平は八十に近くなっていながら、恐ろしく頑丈な体で、髪は白く、かつ少なくなったが、肌には潤いがあった。

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卯平うへいは八十にちかつてながらおそろしい岩疊がんでふ身體からだかみしろかつすくなつたが肌膚はだには潤澤じゆんたくがあつた。

卯平は夜は火の番をしても、暑い日には庭の草むしりをしたり、ほかの蔵々への使いに行ったり、いくらかの忙しさを感じても、使いに行けば必ず茶菓子を包まれたり、手拭いをもらったり、それから主人からは給料以外の賞与があったりするので、少し倹約すれば懐には小銭を蓄えておくこともできるのであったが、彼はよくコップ酒を傾けたので、彼の懐はけっして余裕を残してはいなかった。

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卯平うへいよるばんをしてもあつにはには草挘くさむしりをしたり、藏々くら/″\への使つかひにつたり、幾分いくぶんいそがしさをかんじても、使つかひにけば屹度きつと茶菓子ちやぐわしつゝまれたり、手拭てぬぐひもらつたり、それから主人しゆじんからは給料きふれう以外いぐわい賞與しやうよがあつたりするのですこ堅固けんごにすれば、ふところには小錢こぜにたくはへてくことも出來できるのであつたがかれくコツプざけかたむけたのでかれふところけつして餘裕よゆうそんしてはなかつた。

野田は郷里からは比較的近いので、醤油蔵がだんだん発達して行くにつれて、雇われて行く若者が増えて来た。

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野田のだ郷里きやうりからは比較的ひかくてきちかいので醤油藏しやうゆぐら段々だん/\發達はつたつしてくにれてやとはれて壯丁わかものえてた。

郷里では雇い人の給料が急に上がって来たほど、どの村からも若者が行った。

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郷里きやうりでは傭人やとひにん給料きふれう暴騰ばうとうしてほどどの村落むらからも壯丁わかものつた。

それがしきりに交代されるので、卯平は一度しか郷里の土を踏まなくても、いろいろの変化を耳にした。

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れがしきりに交代かうたいされるので、卯平うへいは一しか郷里きやうりつちまなくても種々しゆ/″\變化へんくわみゝにした。

彼はいちばん、おつぎのことが念頭に浮かぶ。

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かれは一ばんおつぎのことが念頭ねんとううかぶ。

十七の秋に見たおつぎの姿が、お品によくも似ていたことを思い出しては、他人の噂も聞いてみて、時々は会ってもみたい心持ちがした。

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十七のあきたおつぎの姿すがたがおしなくもたことをおもしては、他人ひとうはさいて時々とき/″\つてもたい心持こゝろもちがした。

しかしお品が死んだ時、野田への立ち際がよくなかったことを彼自身の心にも悔いるところがあったので、しいていやな勘次へ挨拶をして、一時なりとも肩身を狭くせねばならないのをいとって、つい億劫になるのであった。

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しかしおしなんだとき野田のだへのぎはがよくなかつたことを彼自身かれじしんこゝろにもゆるところがあつたのでひていや勘次かんじ挨拶あいさつをして一時いつときなりとも肩身かたみせまくせねばならないのをいとうてつひ憶劫おくくふるのであつた。

年を重ねるにしたがって短く感じる月日が、そういう間に巡って、くすんで見えることの多い江戸川の水を行き来する通運丸の、牛が吼えるような汽笛も身にしみて、冬の寒さがひどくなると、以前からの癖で腰に痛みを感じることがあった。

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年齡としむにしたがつてみじかかんずる月日つきひがさういふあひだ循環じゆんくわんして、くすんでえることのおほ江戸川えどがはみづ往復わうふくする通運丸つううんまるうしえるやうな汽笛きてきみて、ふゆさむさがひどくなると以前いぜんからのくせこし疼痛いたみかんずることがあつた。

蔵の雇い人のために抱えてある医者に見てもらっても、老いの病だから薬を飲んでみたところで、そう効き目が見えるのではないが、それでも飲みたけりゃ飲むがいいと言うのみで、別段身にしみて言ってくれるのでもない。

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くら傭人やとひにんためかゝへてある醫者いしやもらつても、老病らうびやうだからくすりんでところで、さう效驗きゝめえるのではないがそれでも、みたけりやむがいといふのみで別段べつだんみていつてくれるのでもない。

卯平はいくら飲んでも自分の懐が痛まないのだからと思ってみても、医者の言うとおりどうもてきぱきとしないので、昼間はなるべく布団にくるまるようにしていた。

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卯平うへいいくんでも自分じぶんふところいたまないのだからとおもつてても醫者いしやのいふとほりどうもはき/\としないので晝間ひるまるべく蒲團ふとんにくるまるやうにしてた。

卯平は年末の出替わりの季節になれば、その持病を苦にして、奉公もどうしたものかと悲観することもあるが、我慢をすれば凌げるので、つい居据わりになっているうちに、いつでも春の季節に戻って、郊外に果てしなく植えられた桃の花がいっぱいに赤くなると、その木陰の麦が青く地を覆って、江戸川の水を遡る高瀬舟の白帆も暖かく見えて、大きな蔵々の建物が空になるほど一切の雇い人が桃畑に一日の愉快を尽くすようになれば、病気もけろりと忘れるのが常であった。

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卯平うへい年末ねんまつ出代でがはり季節きせつになれば持病ぢびやうにして、奉公ほうこうもどうしたものかと悲觀ひくわんすることもあるが、我慢がまんをすればしのげるのでつひ居据ゐすわりにつてるうちに何時いつでもはる季節きせつかへつて、郊外かうぐわい際涯さいがいもなくうゑられたもゝはなが一ぱいあかくなると木陰こかげむぎあをおほうて、江戸川えどがはみづさかのぼ高瀬船たかせぶね白帆しらほあたたかえて、おほきな藏々くら/″\建物たてものむなしくほどさい傭人やとひにん桃畑もゝばたけに一にち愉快ゆくわいつくすやうになれば病氣びやうきもけそりとわすれるのがれいであつた。

きれい好きな彼は、命じられるまでもなく、庭にぽっちりでも草が見えればむしらずにはいられない。

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清潔好きれいずきかれ命令めいれいされるまでもなく、にはにぽつちりでもくさえればむしらずにはられない。

狭苦しいにしても、きちんとした雇い人部屋の周りの土に箒目を入れて、水でも打ってみたり、そこらで作る朝顔の苗をもらって、どんなかたちにでも鉢へ植えてみたりしていると、奉公がつらくも思わないのであった。

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狹苦せまくるしいにしてもきちんとした傭人部屋やとひにんべや周圍しうゐつち箒目はうきめれてみづでもつてたり、其處そこらでつく朝顏あさがほなへもらつてどんな姿なりにもはちうゑたりしてると奉公ほうこうつらくもおもはないのであつた。

それも二、三年の間で、ふつうの人間ならばもうとうてい役にも立たない年齢に達しているので、たとえ彼の境遇が安楽を許さないためにこうして気持ちの上で健康が保たれているのだとしても、彼の老いた体は日ごとに、空腹から来る疲れを癒すために食料を取る、わずかな満足が、そのたびごとに先の見えている彼を引っ張って、その行くべき所に導いているのである。

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それも二三ねんあひだ普通ふつう人間にんげんならばもう到底たうていやくにもたぬ年齡ねんれいたつしてるので、假令たとひかれ境遇きやうぐう安佚あんいつゆるさないためうして精神的せいしんてき健康けんかうたもたれてるのだとしても、かれ老躯らうく日毎ひごと空腹くうふくから疲勞ひらうするため食料しよくれう攝取せつしゆするわづか滿足まんぞく度毎たびごと目先めさきれてるかれらつしてところみちびいてるのである。

また冬が来た時、彼は今までの腰の痛みと違った一種の病を生じたように感じた。

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ふゆときかれいままでのこしいたみとちがつた一しゆ疾患しつくわんしやうじたやうにかんじた。

医者は依然としてリューマチなのだと言って、寒い夜に火の番をして歩くのは絶対に悪いと言うのであった。

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醫者いしや依然いぜん僂痲質斯レウマチスなのだといつて、さむばんをしてあるくのは絶對ぜつたいわるいといふのであつた。

それでも彼は、我慢のできるだけ務めた。

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それでもかれ我慢がまん出來できるだけつとめた。

出替わりの季節が来た時、彼はまたしきりに迷ったが、どうもそこを立ってしまうのが惜しい心持ちもするし、ためらってまた居据わりになった。

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出代でがはり季節きせつときかれはまたしきりにまどうたが、どうも其處そこつてしまふのがしい心持こゝろもちもするし、逡巡しりごみして居据ゐすわりになつた。

郷里から来た者に聞いて、彼は勘次が次第に順境に向かいつつあることを知った。

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郷里きやうりからたものにいてかれ勘次かんじ次第しだい順境じゆんきやうおもむきつゝあることをつた。

彼は心がまた揺れて、脆くなった心がひどく哀れっぽく情けなくなった。

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かれこゝろ動搖どうえうしてもろつたこゝろひどあはれつぽくなさけなくなつた。

しかし長い間機嫌を損ね合った勘次の許へ帰るのには、彼は空手ではならないということを深く思った。

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しかながあひだ機嫌きげんそこうた勘次かんじもとかへるのにはかれ空手からてではならぬといふことをふかねんとした。

彼はそれからというもの、なるべくコップ酒も控えて懐を暖めようとした。

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かれそれからといふものるべくコツプざけ節制せつせいしてふところあたゝめようとした。

これまで彼が遠く奉公に出ていて、いくらでも慰めの道を見つけていたのは、割合に暖かな懐をほとんど費やしつつあったからである。

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從來じうらいかれとほ奉公ほうこういくらでも慰藉ゐしやみち發見はつけんしてたのは割合わりあひあたゝかなふところほとんどつひやしつゝあつたからである。

それで彼は今そう気がついてみても、体の養生をしなくてはならないということが一方にあるので、それが思うようにはいかなかった。

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それでかれいまさうがついてても身體からだ養生やうじやうをしなくてはならぬといふことが一ぱうるのでそれがおもほどにはいかなかつた。

そういう心配が、また春も暖かになって病気を忘れると、帰ることもそのままに消えてしまうのである。

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さういふ心配しんぱいまたはるあたゝかにつて病氣びやうきわすれるとかへることもまゝ消滅せうめつしてしまふのである。

しかしどう我慢をしてみても、後幾年も勤まらないということを、周りの人も見ているのである。

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しかしどう我慢がまんをしててもあと幾年いくねんつとまらないといふことを周圍しうゐひとるのである。

ことに長い間野田へ身上を持って、近所の蔵の親方をしているのが郷里の近くから出たので、自然知り合いであったが、それが卯平に引退を勧めた。

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ことながあひだ野田のだ身上しんしやうつて近所きんじよくら親方おやかたをしてるのが郷里きやうりちかくからたので自然しぜん知合しりあひであつたが、それが卯平うへい引退いんたいすゝめた。

彼は故郷へ幾年目かで行くついでもあるし、幸い勘次のことは村にいるうちに知っていたから、相談をして来てやろうと言った。

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かれ故郷こきやう幾年目いくねんめかでついでもあるし、さいは勘次かんじのことは村落むらうちつてたから相談さうだんをしててやらうといつた。

卯平は近ごろめっきり窪んだ茶色の目をしかめるようにしながら、かすかな笑いを浮かべた。

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卯平うへい近頃ちかごろ滅切めつきりくぼんだ茶色ちやいろしかめるやうにしながらかすかなゑみうかべた。

親方が勘次へ話をした時

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親方おやかた勘次かんじはなしをしたとき

「わしは、なあに、家の者だから面倒を見ないとは言わないね」

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「わしや、なあに、うちのもんだから面倒めんだうねえたはねえね」

勘次は油の乗らない態度で言った。

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勘次かんじあぶららぬ態度たいどでいつた。

「勘次さん、近ごろ具合がいいという話だが」

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勘次かんじさん近頃ちかごろ工合ぐあひがえゝといふはなしだが」

親方も義理一遍のように言うと

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親方おやかた義理ぎりぺんのやうにいふと

「具合がいいということもないが、これでも命懸けで働いてるんだから、他人のには大きな銭になるようにも見えるだろうが、おれにはこれで爺さんの代の借金が抜けないでいるんだから、それさえなけりゃ泣かないでも済むんだよ。そんだが、それでばかり身動きが取れないな」

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工合ぐあひえゝつちこともねえが、んでも命懸いのちがけではたれえてんだから、他人ひとのがにやけえぜねになるやうにもえべが、らにこんで爺樣ぢさまでえ借金しやくきんけねえでんだからそれせえなけりやかねえでもへんだよ、そんだがそれでばかりいごれねえな」

「そんじゃ、その時には勘次さんもいい理由だね」

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「そんぢや、ときにや勘次かんじさんも理由わけだね」

「そりゃそうだが」

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「そりやさうだが」

勘次はどことなく調子を変えて言った。

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勘次かんじ何處どことなく拍子ひやうしへていつた。

「勘次さんら、それでも穀物はなかなかある様子だね」

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勘次かんじさんそれでも穀類こくるゐはなか/\容子ようすだね」

突っ込んで聞くと

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突込つゝこんでくと

「それくらいなくちゃ仕方がないもの。おれはここへ来た当座には、病気の時でもからきし挽き割り麦ばかりの飯なんぞ押し出されて、おれはずいぶんつらい目に遭ったんだよ。これでそういうことは忘れられないもんだからな」

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くれえなくつちややうねえもの、此處ここ當座たうざにや病氣びやうきときでもからつき挽割麥ひきわりばかしのめしなんぞおんされて、隨分ずいぶんつれつたんだよ、こんでさうえこた、わすらんねえもんだかんな」

勘次はとうとう、要領を得ない返事をするのみであった。

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勘次かんじ到頭たうとう要領えうりやうない返辭へんじをするのみであつた。

蔵の親方は、勘次がどういう料簡であるということは、卯平へは言わなかった。

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くら親方おやかた勘次かんじがどういふ料簡れうけんであるといふことは卯平うへいへはいはなかつた。

たとえどうしたところで勘次の許へ帰らねばならないことに決まっているのだから、それには戸板へ乗せてやるような病気の起こるまで奉公させておくよりも、丈夫なうちに暇を取らせて還してしまえば、あるいは勘次との間も思ったほどのこともないだろうと、程よいことに卯平へ話した。

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假令たとひどうしたところ勘次かんじもとかへらねばならぬことにきまつてるのだから、それには戸板といたせてやるやう病氣びやうきおこるまで奉公ほうこうさせてくよりも、丈夫ぢやうぶなうちにひまらせてかへしてしまへば、あるひ勘次かんじとのあひだおもつたほどのこともないだらうと、ほどよいことに卯平うへいはなした。

卯平はもとより親方から、家の様子や、おつぎの大人になったことや、隣近所のことも一つ一つ聞かされた。

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卯平うへいもとより親方おやかたからうち容子ようすやおつぎの成人せいじんしたことや、隣近所となりきんじよのこともちくかされた。

卯平は窪んだ茶色の目に、暖かな光をたたえた。

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卯平うへいくぼんだ茶色ちやいろあたゝかなひかりたたへた。

卯平は短い時間であったが、気がついてから心掛けたので、財布にはいくらかの蓄えもあった。

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卯平うへいみじか時間じかんであつたががついてから心掛こゝろがけたので財布さいふにはいくらかのたくはへもあつた。

わずかな着物であるが、それでもすすけたように色のさめた風呂敷に大きな包みが二つできた。

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わづか衣物きものであるがそれでもすゝけたやうにめた風呂敷ふろしきおほきなつゝみが二つ出來できた。

一つの、要らないほうは、運河から鬼怒川へ通う高瀬舟へ頼んで、自分の村の河岸へ揚げてもらうことにして、彼は煙草の一服をも忘れないように身につけた。

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一つの不用ふようぶん運河うんがから鬼怒川きぬがはかよ高瀬船たかせぶねたのんで自分じぶん村落むら河岸かしげてもらふことにして、かれ煙草たばこの一ぷくをもわすれないやうにつけた。

彼は股引にわらじをはいて、その大風呂敷を背負って立った。

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かれ股引もゝひき草鞋わらぢ穿いて大風呂敷おほぶろしき脊負せおつてつた。

ビールの空き瓶二本へいっぱいの醤油を、すげ縄でくくって提げた。

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麥酒ビール明罎あきびんほんへ一ぱい醤油しやうゆ莎草繩くゞなはくゝつてげた。

それから彼はまた、煎餅を一袋買った。

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それからかれまた煎餅せんべいを一ふくろつた。

醤油と米とがいいので、うまい煎餅であった。

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醤油しやうゆこめとがいので佳味うま煎餅せんべいであつた。

彼は三つの時に別れて、五つの秋にちょっと見た与吉が、もう八つか九つになっていると、こう数えてみて、土産が買いたくなったのである。

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かれは三つのときわかれて五つのあき一寸ちよつと與吉よきちがもう八つか九つにつてるとかぞへて土産みやげひたくつたのである。

煎餅の袋は、毎日使っていた手拭いでくくって、荷締めの紐へ縛りつけた。

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煎餅せんべいふくろ毎日まいにち使つかつて手拭てぬぐひくゝつて荷締にじめのひもしばりつけた。

彼は冬になってまた起こりかけたリューマチを恐れて、きわめてそろそろと歩を運んだ。

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かれふゆになつてまたおこりかけた僂痲質斯レウマチスおそれてきはめてそろ/\とはこんだ。

利根川を渡ってからは、枯れ木の林が寂しく続きながら彼を呑んだ。

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利根川とねがはわたつてからは枯木かれきはやし索寞さくばくとして連續れんぞくしつゝかれんだ。

彼はところどころへのっそりと腰を下ろして、好きな煙草をふかした。

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かれ處々ところ/″\へのつそりとこしおろしてきな煙草たばこをふかした。

荷物を道端へ下ろす時、彼は必ず縛りつけた手拭いの包みへ手を掛けて、新聞紙の袋のがさがさと鳴るのを聞いて安心した。

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荷物にもつ路傍みちばたおろときかれ屹度きつとしばりつけた手拭てぬぐひつゝみけて新聞紙しんぶんしふくろのがさ/\とるのをいて安心あんしんした。

枯れ木の林は、立ち上る煙草の煙が根の切れたまますっと急いで枝に絡んで消えるのも隠さずに、がらんとしている。

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枯木かれきはやしのぼ煙草たばこけぶりれたまゝすつといそいでえだからんで消散せうさんするのもかくさずに空洞からりとしてる。

卯平がじっとしていると、あおじが忍び忍びに乾いた落ち葉を踏んで彼の近くまで来ては、すいと枝へ飛んだ。

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卯平うへい凝然ぢつとしてると萵雀あをじしのび/\にかわいた落葉おちばんでかれちかくまでてはすいとえだんだ。

彼は周りには一切心を引かれることもなく、袂のマッチへ火をつけてはまたマッチを袂へ入れて、そうしてからげっそりと落ちた両頬の肉が、さらにぴっちりと歯茎に吸いついてしまうまでゆっくりと煙草を吸って、煙管をすっと抜いてからまた歯茎へ空気を吸って、煙と一つに飲んでしまったかと思うようにごくりと唾を飲んで、それから煙を吐き出すのである。

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かれ周圍しうゐには一さいこゝろかされることもなくたもと燐寸マツチけてはまた燐寸マツチたもといれて、さうしてからげつそりとちた兩頬りやうほゝにくさらにぴつちりと齒齦はぐきすひついてしまふまでゆるりと煙草たばこうて、煙管きせるをすつといてからまた齒齦はぐき空氣くうきうてけぶりと一つにんでしまつたかとおもふやうにごくりとつばんで、それからけぶりすのである。

彼は周りが寂しいとも何とも思わなかった。

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かれ周圍しうゐさびしいともなんともおもはなかつた。

しかし彼自身は、見るからに乾いて憐れげであった。

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しか彼自身かれじしんるから枯燥こさうしてあはれげであつた。

彼は少しきりきりと痛む腰を伸ばして、荷物を背負って立った。

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かれすこしきや/\といたこしのばして荷物にもつ脊負せおつてつた。

捨てたマッチの燃えさしが道端の枯れ草に火をつけて、あざ笑うような火がべろべろと広がっても、見向こうともしないほど彼はけだるげである。

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てた燐寸マツチえさしが道端みちばた枯草かれくさけて愚弄ぐろうするやうながべろ/\とひろがつても、見向みむかうともせぬほどかれものうげである。

野田からは四十キロに足らない平地の道を、鬼怒川に沿った自分の村まで来るのに、冬の短い日が雑木林のこずえに彼を待たなかった。

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野田のだからは十らぬ平地へいちみち鬼怒川きぬがは沿うた自分じぶん村落むらまでるのに、ふゆみじか雜木林ざふきばやしこずゑかれたなかつた。

彼は自分の家に着いた時は、醤油を提げた手が痛いほど冷えていた。

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かれ自分じぶんいへいたとき醤油しやうゆげたいたほどえてた。

彼はやっとのことで戸口に立った。

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かれやつとのことで戸口とぐちつた。

勘次を呼ぼうとしてみたら、中はひっそりと暗い。

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勘次かんじばうとしてたらうちはひつそりとくらい。

戸口に手を当ててみたら、鍵が掛けてあった。

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戸口とぐちてゝたらかぎかけてあつた。

「いたかい」

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たかえ」

それでも卯平は怒鳴ってみたが、返事がない。

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それでも卯平うへい呶鳴どなつてたが返辭へんじがない。

卯平は口の中で呟いて、裏の戸口へ回ってみたら、そこは内から掛け金が掛かっている。

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卯平うへいくちうちつぶやいて裏戸口うらとぐちまはつてたら其處そこうちから掛金かけがねかゝつてる。

彼はそれでも煙管を出して、戸の隙間から掛け金をぐっと突いたら、栓を差してなかったのですぐに外れた。

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かれはそれでも煙管きせるして隙間すきまから掛金かけがねをぐつといたらせんさしてなかつたのですぐはづれた。

彼は暗い敷居をまたいで、袂のマッチをすっとつけた。

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かれくらしきゐまたいでたもと燐寸マツチをすつとけた。

幾年いなくても勝手を知っているので、彼は柱へ掛けてある手ランプをつけて、取りあえず手足を暖めるために、そだをぽちぽちと折って火鉢へくべた。

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幾年いくねんなくても勝手かつてつてるのでかれはしらかけてあるランプをけて、あへ手足てあしあたゝめるため麁朶そだをぽち/\とつて火鉢ひばちべた。

すすけた薬缶を五徳へ掛けて、それから彼はわらじを取った。

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すゝけた藥罐やくわんを五とくかけてそれからかれ草鞋わらぢをとつた。

乾いた道を歩いて来たので、いくらも汚れない足の底を二、三度ずつ手でこすって、座敷へ上がった。

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かわいたみちあるいてたのでいくらもよごれないあしそこを二三づゝでこすつて座敷ざしきあがつた。

勘次は南の風呂へ行っていた。

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勘次かんじみなみ風呂ふろつてた。

彼は昼はわずかの暇をも惜しんで働くので、一つにはそれが夜なべの仕事に励み得ないほどの疲れを覚えさせているのでもあるが、少し懐が窮屈でなくなってからは、長い夜の休みの時間にはめったに縄をなうこともなく、風呂に行ってはよく話をしながら出がらしの茶をすすった。

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かれひる寸暇すんかをもをしんで勞働らうどうをするので一つにはれがなべの仕事しごとはげないほど疲勞ひらうおぼえしめてるのでもあるが、すこふところ窮屈きうくつでなくなつてからはなが休憇時間きうけいじかんには滅多めつたなはふこともなく風呂ふろつてははなしをしながら出殼でがらちやすゝつた。

その夜、与吉は南の女房から、薄荷の入った駄菓子を二つばかりもらった。

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その與吉よきちみなみ女房にようばうから薄荷はくかはひつた駄菓子だぐわしを二つばかりもらつた。

裏の垣根から桑畑を越えて歩きながら、与吉は菓子をなめた。

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うら垣根かきねから桑畑くはばたけえてあるきながら與吉よきち菓子くわししやぶつた。

「どれ、おれにもちょっと出してみないか」

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「どれ、おれげもちつとだしねえか」

おつぎは与吉の手から少し欠いて、自分の口へ入れた。

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おつぎは與吉よきちからすこいて自分じぶんくちれた。

「姉は大きく欠いちゃいやだぞう」

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ねえかくおつえちやだぞう」

与吉は心配して言うと

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與吉よきち懸念けねんしていふと

「ああ薄荷だ、これは。口の中がすうすうすらあ。おとっつあんにもやってみろ」

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「おゝ薄荷はくかだこら、くちなかすう/\すら、おとつゝあげもつてろ」

おつぎはまた菓子へ手を掛けようとすると

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おつぎは菓子くわしけようとすると

「いいから、よきになめさせろ」

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「えゝから、よきげめさせろ」

勘次はおつぎを制した。

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勘次かんじはおつぎをせいした。

三人は他人の目が開いていない闇夜の小道を、こうして自分の庭へ戻った。

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にん他人ひといてない闇夜やみよ小徑こみちうして自分じぶんにはもどつた。

「どうしたんだろう、おとっつあん」

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「どうしたんだんべ、おとつゝあ」

おつぎは戸の隙間から差す明かりを見て、にわかに立ち止まって言った。

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おつぎは隙間すきまからあかりをにはかどまつていつた。

勘次はすくんだようになって黙った。

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勘次かんじすくんだやうにつてだまつた。

おつぎは戸の隙間からのぞいて

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おつぎは隙間すきまからのぞいて

「爺さんみたいだな、おとっつあん」

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ぢいてえだな、おとつゝあ」

と小声で告げた。

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小聲こごゑげた。

それから勘次ものぞいて、鍵を外して入った。

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それから勘次かんじのぞいて、かぎはづして這入はひつた。

与吉は見知らない爺さんがいるので、恥ずかしがっておつぎの後ろへ隠れた。

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與吉よきち見識みしらぬぢいさんがるのではにかんでおつぎのうしろかくれた。

「爺さんだ」

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ぢいだ」

と、おつぎは叫んで卯平のそばへ寄った。

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とおつぎはさけんで卯平うへいそばつた。

「爺さんは今日来たのか」

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ぢい今日けふたのか」

おつぎの挨拶に続いて

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おつぎの挨拶あいさつつゞいて

「おとっつあん、遅かったな」

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「おとつゝあおそかつたな」

勘次も言った。

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勘次かんじもいつた。

「出だすのもそんなに早くはなかったっけが、しばらく歩きつけないせいか、なんぼにも足が出ないで、こんなに遅くなるつもりもなかったっけが」

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だすのもそんなにはやかなかつたつけが、しばらあるきつけねえ所爲せゐかなんぼにもあしねえで、かういにおそくなるつもりもなかつたつけが」

卯平は重い口で言った。

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卯平うへいおもくちでいつた。

「よっぽど待っていたか、爺さんは」

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ぽどつてゝかぢいは」

おつぎは、そだを折り足しながら言った。

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おつぎは麁朶そだしながらいつた。

「火を吹きつけたばかりよ」

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ひいつたけたばかりよ」

卯平は、その窪んだ茶色の目をしかめるようにして

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卯平うへいくぼんだ茶色ちやいろしかめるるやうにして

「おつうも大きくなったな。途中でなんぞ行き会っちゃ分からないな。そんだが、お前はさすがにおれのことは忘れなかったっけな」

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「おつうもかくなつたな、途中とちうでなんぞ行逢いきやつちやわかんねえな、そんだがりや有繋まさかれこたわすれなかつたつけな」

「忘れまいな、爺さんは」

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わすれめえなぢいは」

おつぎは卯平に対して、こそばゆい一皮が間を隔てているような感じがしていながら、そのくせ甘えたような舌で言って、ちゅうちゅうと鳴り出した薬缶へ手を掛けた。

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おつぎは卯平うへいたいしてこそつぱい一かはあひだへだてゝるやうなかんじがしてながら、くせあまえたやうしたでいつてちう/\とした藥罐やくわんけた。

卯平は、おつぎの挨拶を今さらのごとくしみじみと嬉しく感じた。

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卯平うへいはおつぎの挨拶あいさつ今更いまさらごとくしみ/″\とうれしくかんじた。

卯平は、お品が死んで三年目の盆に来た時、不器用な様子の彼がどうして思いついたか、おつぎへ花簪を一つ買って来た。

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卯平うへいはおしなんで三年目ねんめぼんとき不器用ぶきよう容子ようすかれがどうしておもひついたかおつぎへ花簪はなかんざしを一つつてた。

十七のおつぎが、どれほどそれを喜んだか知れなかった。

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十七のおつぎがどれほどそれをよろこんだかれなかつた。

おつぎはけっしてそれを忘れなかった。

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おつぎはけつしてそれをわすれなかつた。

「爺さんにお茶を入れよう」

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ぢいげおちやえべえ」

おつぎは立って茶碗を洗った。

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おつぎはつて茶碗ちやわんあらつた。

卯平は濃霧に塞がれた森の中へ踏み込むような、一種の不安を感じながら来たのであったが、彼はおつぎの仕打ちに心が晴れ晴れした。

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卯平うへい濃霧のうむふさがれたもりなか踏込ふみこむやうな一しゆ不安ふあんかんじつゝたのであつたが、かれはおつぎの仕打しうちこゝろ晴々せい/\した。

卯平は、まだ菓子をなめながら隠れるようにしている与吉を見て

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卯平うへいは、まだ菓子くわししやぶりながらかくれるやうにして與吉よきち

「おれのことを忘れただろう、これは。大きくなったと思って来たっけが、本当に分からないほど大きくなったな」

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れことわすれたんべら、かくつたとおもつてたつけが本當ほんたうわかんねえほどかくつたな」

口数の少ない卯平が、この夜はいろいろにしゃべった。

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寡言むくち卯平うへい種々いろ/\饒舌しやべつた。

「これでも学校へ行くんだもの」

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んでも學校がくかうくんだもの」

おつぎは茶を入れながら言った。

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おつぎはちやれながらいつた。

「そうら」

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「さうら」

と、卯平は荷物へ縛りつけた煎餅の包みを、与吉へ投げ出してやった。

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卯平うへい荷物にもつしばりつけた煎餅せんべいつゝみ與吉よきちしてやつた。

「おつう、手拭いを解いてみないか。野田でも一番うまいんだから」

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「おつう、手拭てねげえてねえか、野田のだでも一ばんうめえんだから」

卯平は言ったが、おつぎの手が手間取るので、自分で手拭いを解いて勘次の前へ出して、彼はさらに一枚を取って与吉へやった。

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卯平うへいはいつたがおつぎのひまどれるので自分じぶん手拭てぬぐひいて勘次かんじまへして、かれさらに一まいをとつて與吉よきちつた。

「よき、それをもらうもんだ。爺さんがくれるというのに」

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「よき、それもらあもんだ。ぢいれるつちのに」

おつぎは茶碗を卯平と勘次との前へ据えながら言った。

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おつぎは茶碗ちやわん卯平うへい勘次かんじとのまへゑつゝいつた。

「こっちへ上がってもらうもんだ」

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「こつちへあがつてもらあもんだ」

勘次も言った。

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勘次かんじもいつた。

土間に立っていた与吉は、そっと草履を脱いで、危なそうに手を出して取った。

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土間どまつて與吉よきちはそつと草履ざうりいで危險相あぶなさうしてとつた。

そうしてすぐに、盗むようにかじった。

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さうしてぐにぬすむやうにんだ。

「遠くのほうのだぞ。お前、うまかろう」

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とほくのはうのがんだぞ、われうまかんべ」

おつぎは自分も一枚をかじりながら言った。

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おつぎは自分じぶんも一まいかじながらいつた。

「うまくないや、そんなに」

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「うまかねえやそんなに」

与吉はおつぎの袂へ隠れるようにして言った。

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與吉よきちはおつぎのたもとかくれるやうにしていつた。

甘味の強い菓子をかんだ口に、そうして醤油の味を区別するまで育った舌を持たない与吉は、卯平が遠くからもたらしたと聞かされたほどには感じなかったのである。

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甘味あまみつよ菓子くわしんだくちに、さうして醤油しやうゆあぢ區別くべつするまで發達はつたつしたしたたない與吉よきち卯平うへいとほもたらしたとかせられたほどにはかんじなかつたのである。

「そんなこと言うもんじゃない。そんなら姉によこしちまえ」

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其麽そんなこといふもんぢやねえ、そんだらねえげよこしつちめえ」

おつぎは小さな声で言って、尻目に掛けた。

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おつぎはちひさなこゑでいつて尻目しりめけた。

与吉はそう言われながら、手にしただけはぽりぽりとかじった。

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與吉よきちはさういひながにしただけはぽり/\とんだ。

乾いた響きが、三人の口に鳴った。

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乾燥かんさうしたひゞきが三にんくちつた。

卯平は幾杯も、ただ茶をすすった。

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卯平うへい幾杯いくはいたゞちやすゝつた。

丈夫だといっても、彼は歯がげっそりと落ちて、柔らかな物でなければかめなくなっていた。

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壯健たつしやだといつてもかれがげつそりとちてやはらかなものでなければめなくなつてた。

卯平はまた、おつぎへ醤油の瓶を出して

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卯平うへいまたおつぎへ醤油しやうゆびんして

「おれが持って来ればなんぼでもわけないんだが、荷物があるもんだから、これっきりしか持っては来られなかった。これでもおれは、蔵じゃこの上はないんだ。炊事はお前がするんだろうから、お前がそっちへしまっておけな」

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つてればなんぼでもわけねえんだが荷物にもつがあるもんだから、れつきりしかつちやねえつちやつた、んでもくらぢやこのうへはねえんだ、炊事かしきわれすんだんべから、われそつちへしまつてけな」

「大変だったな、爺さん。荷物があるのになあ。これだけじゃしばらくあるだろうよ」

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大變たえへんだつけなぢい荷物にもつあんのになあ、れだけぢやしばらくあんべよ」

おつぎは瓶を柱のそばへ置いた。

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おつぎはびんはしらそばいた。

「荷物はそうでもないが、体が利かないでな、どうも」

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荷物にもつはさうでもねえが、身體からだかねえでな、どうも」

卯平は煙管をかんだ。

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卯平うへい煙管きせるんだ。

「爺さんはどうしただろう。ご飯を食べたんだろうか」

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ぢいはどうしたつぺ、おまんまたべたんべか」

おつぎは、敢えて言いかけるという態度でもなく、勘次に向かって言った。

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おつぎはあへていひけるといふ態度たいどでもなく勘次かんじむかつていつた。

「おれはどっちでもいいや」

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「おらどつちでもえゝや」

卯平は少し遠慮を交えて言った。

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卯平うへいすこ遠慮ゑんりよまじへていつた。

「どっちでもいいって、腹が減っちゃ仕方があるまいな」

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「どつちでもえゝつてはらつちやしやうあんめえな」

おつぎは茶碗と箸とを棚から下ろした。

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おつぎは茶碗ちやわんはしとをたなからおろした。

「菜っ葉の漬けたのはどうしただろう」

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つけたなどうしたんべ」

おつぎは振り返って聞いた。

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おつぎはかへりみていた。

「おれは要らないや。歯が悪くなっちまってかめないから」

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らねえや、わるくなつちやつてまんねえから」

「そんじゃ細かく刻んだらどうしただろう」

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「そんぢやこまかくきざんだらどうしたんべ」

おつぎはとんとんと包丁を使った。

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おつぎはとん/\と庖丁はうちやう使つかつた。

「お汁がまあ、ちっとも実なんざないや。よき、お前がみんな芋をすくっちまったな」

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「おつけまあ、ちつともなんざねえや、よきわれみんないもすくつちやつたな」

おつぎは鍋ぶたを取って言った。

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おつぎは鍋葢なべぶたをとつていつた。

「お汁も何も要らないから、一杯かっ込もう」

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「おつけなにらねえから一ぺえんべ」

卯平はじれったそうに言った。

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卯平うへい遲緩もどかさうにいつた。

「そんじゃ、この醤油を掛けてみような」

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「そんぢやこの醤油しやうゆけてんべな」

おつぎは卯平の前に膳を据えて、瓶の醤油を菜漬けへ掛けた。

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おつぎは卯平うへいまへぜんゑてびん醤油しやうゆ菜漬なづけけた。

「それ、底のほうへ回ってこぼれらあな」

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「それ、そこはうまはつてこぼれらな」

勘次はさっきから、怒ったような恥ずかしがったような、なんだか落ち着きの悪い手持ち無沙汰な顔をして、かえって自分をじっと見もしない卯平の目から外れるように、よそを見てはまたちらと卯平を見つつあったが、この時おつぎの手元へ口を挟んだ。

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勘次かんじ先刻さつきから、おこつたやうなはにかんだやうな、なんだか落付おちつきわる手持てもちのないかほをして、かへつ自分じぶんをば凝然ぢいつもせぬ卯平うへいかられるやうに、餘所よそてはまたちらと卯平うへいつゝあつたがこのときおつぎの手許てもとくちばしれた。

その時、醤油がごっと出て菜漬けが漂うばかりになった。

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とき醤油しやうゆがごつと菜漬なづけたゞよふばかりにつた。

「そうれ見ろ」

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「そうれろ」

勘次はそっけなく言った。

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勘次かんじはそつけなくいつた。

おつぎが瓶を再び柱のそばへ置くと

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おつぎがびんふたゝはしらそばくと、

「まだそこでひっくり返しちゃ大変だぞ。戸棚へでも入れておけ」

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「まだ其處そこつくるけえしちや大變たえへんだぞ、戸棚とだなへでもえてけ」

勘次はまた注意した。

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勘次かんじ注意ちういした。

卯平は薬缶の湯を注いで、三杯を食べた。

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卯平うへい藥罐やくわんいで三ばいきつした。

わずかに醤油の味のみが、数年来の彼の舌にうまさを失わなかったが、挽き割り麦の勝った粗い飯は、歯茎がとうていそれをかみ砕けないので、こそばゆいまま飲み下した。

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わづか醤油しやうゆあぢのみが數年來すうねんらいかれした好味かうみたるをうしなはなかつたが、挽割麥ひきわりむぎつた粗剛こはめし齒齦はぐき到底たうていそれを咀嚼そしやくあたはぬのでこそつぱいまゝくだした。

おつぎが膳を引こうとすると

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おつぎがぜんかうとすると

「その醤油はうっちゃらないで、大事にしておけ」

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醤油しやうゆ打棄うつちやらねえで大事でえじにしてけ」

勘次は小皿の数滴を惜しんだ。

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勘次かんじ小皿こざら數滴すうてきをしんだ。

「そんなこと言わなくたって、うっちゃる者もあるまいな」

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其麽そんなことはねえつたつて打棄うつちやるもなあんめえな」

おつぎは、干渉が過ぎた勘次の注意がいやだと思うよりも、たまたま会った卯平のそばで言われるのがきまりが悪いので、喉の底で呟いた。

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おつぎは干渉かんせふぎた勘次かんじ注意ちういいやだとおもふよりも、たま/\つた卯平うへいそばでいはれるのがきまりがわるいのでのどそこつぶやいた。

「姉、もう一枚くれないか」

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ねえいまめえくんねえか」

与吉は流し元に手を動かしているおつぎへ、きわめて小さな声で求めた。

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與吉よきちながもとうごかしてるおつぎへきはめてちひさなこゑ請求せいきうした。

「お前は、そっからうまくないなんて言うもんじゃない。すぐほしくなるくせに」

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りや、そつから佳味うまかねえなんていふもんぢやねえ、しくなるくせに」

おつぎはこっそり叱った。

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おつぎはこつそりしかつた。

「そうら、お前に買って来たんだ。ほしけりゃいくらでも持って行け」

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「そうらわれつてたんだ、しけりやいくらでもつてけ」

卯平は不器用な言い方をしながら、煎餅を取ってやった。

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卯平うへい不器用ぶきようないひかたをしながら煎餅せんべいをとつてつた。

与吉はそれでも、窪んだ目をしかめている卯平がまだこそばゆくて、指の先で下唇を口の中へ押し込むようにしながら、額越しに卯平を見た。

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與吉よきちはそれでもくぼんだしがめて卯平うへいがまだこそつぱくてゆびさき下唇したくちびるくちなかむやうにしながら額越ひたひごしに卯平うへいた。

一七

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十七

次の朝、与吉はまだみなの膳の据えられないうちから、学校へ行くとては騒いだ。

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つぎあさ與吉よきちはまだみなぜんゑられぬうちから學校がくかうくとてはさわいだ。

村の生徒らは登校の早いことを教師からただ一言でも褒められてみたいので、慌てなくてもいいのに、汁も煮立たないうちからねだるのである。

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村落むら生徒等せいとら登校とうかうはやいことを教師けうしからたゞごんでもめられてたいので、あわてなくてもいのにしる煮立にたたぬうちから強請せがむのである。

与吉はこれで、毎朝おつぎからうるさがられていた。

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與吉よきちれで毎朝まいあさおつぎから五月蝿うるさがられてた。

与吉は風呂敷包みを背負って、おつぎに弁当を包んでもらいながら

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與吉よきち風呂敷包ふろしきづゝみ脊負せおつておつぎに辨當べんたうつゝんでもらひながら

「煎餅をくれないか」

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煎餅せんべいくんねえか」

と求めた。

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要求えいきうした。

「まだそんなこと。そんだからお前には見せられないというんだ。爺さんに怒られるから見ろ」

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「まださうだこと、そんだからわれげはせらんねえつちんだ、ぢいおこられつからろ」

おつぎは叱って振り返らなかった。

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おつぎはしかつてかへりみなかつた。

勘次はその時、外の壁際に積んだ木の根をぱかりぱかりと割っていた。

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勘次かんじときそと壁際かべぎはんだをぱかり/\とつてた。

卯平は一日歩いた疲れがひどく出たようでもあるし、また自分の村へ帰ったので心がゆったりとしたようでもあるし、それにこの数年来は火の番の癖で朝はゆっくりとしているのが常であったので、彼はその時、布団の中にじっと目を開いておつぎの働いているのを見ていたが

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卯平うへいは一にちあるいた草臥くたびれひどたやうでもあるし、また自分じぶん村落むらかへつたのでこゝろ悠長のんびりとしたやうでもあるし、それに數年來すうねんらいばんくせあさはゆつくりとしてるのがれいであつたので、かれとき蒲團ふとんなか凝然ぢついておつぎのはたらいてるのをたが

「ほしいというんなら出してやれ」

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しいつちんだらしてれえ」

と彼は言った。

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かれはいつた。

おつぎは戸棚から煎餅を一枚出して、与吉へ渡した。

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おつぎは戸棚とだなから煎餅せんべいを一まいして與吉よきちわたした。

与吉はすっと奪うようにして取った。

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與吉よきちはすつとうばやうにしてつた。

「しらばっくれて」

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「しらばつくれて」

おつぎは、斜めに背負った本の上から与吉をぱたと叩いた。

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おつぎはなゝめ脊負せおつた書藉しよせきうへから與吉よきちをぱたとたゝいた。

与吉は霜の白く覆った庭を、小さな下駄でからからと鳴らしながら、逃げるように駆けて行った。

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與吉よきちしもしろおほうにはちひさな下駄げたでから/\とらしながらげるやうにけてつた。

卯平は窪んだ目をしかめて、一種の暖かな表情を示して与吉の後ろ姿を見た。

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卯平うへいくぼんだしがめて一しゆあたゝかな表情へうじやうしめして與吉よきち後姿うしろすがたた。

勘次は割った薪を草刈り籠へ入れて、かまどの前へ置いて朝飯の膳に向かって、一杯を盛った。

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勘次かんじつたまき草刈籠くさかりかごれてかまどまへいて朝餉あさげぜんむかつて、一わんつた。

おつぎは気がついたように

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おつぎはがついたやう

「爺さんのことを起こそうか」

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ぢいことおこすべか」

と言って、勘次が返事しないうちに

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といつて勘次かんじ返辭へんじせぬうち

「爺さん、ご飯ができたよ」

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ぢい、おまんま出來できたよ」

と卯平を呼んだ。

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卯平うへいんだ。

「先にやってくれよ」

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さきやつてくろえ」

卯平はそう言って、しばらくたってから布団を出て井戸端へ行った。

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卯平うへいはさういつてしばらつてから蒲團ふとん井戸端ゐどばたつた。

卯平は幾年目かで、冷たい水で顔を洗った。

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卯平うへい幾年目いくねんめかでつめたいみづかほあらつた。

彼は近ごろにない早起きをしたので、霜の白い庭に立って、こわばった足の爪先が痛くなるほど冷たいのを感じた。

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かれ近來きんらいにない晨起はやおきをしたので、しもしろにはつてこはばつたあし爪先つまさきいたくなるほどつめたいのをかんじた。

火鉢のそばへ座っても煙草の火もないので、彼は自分でかまどの下の燃えさしを灰のまま取った。

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火鉢ひばちそばすわつても煙草たばこもないのでかれ自分じぶんかまどしたえさしをはひまゝとつた。

おつぎは勘次が煙草を吸わないので、ちょっと煙草の火を取ることにまでは気づかなかった。

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おつぎは勘次かんじ煙草たばこはないので一寸ちよつと煙草たばこをとることにまでは心附こゝろづかなかつた。

野田では始終かんかんと堅炭を熾して、湯はいくらでも沸いて、夜でも部屋の中に火の気の去ることはないのである。

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野田のだでは始終しじうかん/\と堅炭かたずみおこしていくらでもたぎつてよるでも室内しつない火氣くわきることはないのである。

卯平は遅れて箸を取ったが、飯は暖かいというだけで、大釜で炊いたように程よい柔らかさを保ってはいないし、汁もその舌にひどくこそばゆく、かつまずかった。

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卯平うへいおくれてはしつたが、めしあたゝかいといふまで大釜おほがまいたやうほどよいやはらかさをたもつてはないし、しるしたひどくこそつぱくかつ不味まづかつた。

彼は味噌には、分量を増すために醤油粕がかき混ぜてあることを知った。

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かれ味噌みそには分量ぶんりやうため醤油粕しやうゆかすぜてあることをつた。

勘次は鍬を取って立った。

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勘次かんじくはつてつた。

彼は毎日唐鍬を持って出ていたのであったが、この日はおつぎを連れて麦畑の冬起こしに出るのであった。

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かれ毎日まいにち唐鍬たうぐはつてるのであつたがはおつぎをれて麥畑むぎばたけ冬墾ふゆばりるのであつた。

卯平は独り、ぽつんと残された。

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卯平うへいひとり㷀然ぽさりのこされた。

丈夫な建物に箒を入れて清潔に住んで来た彼は、天井もない屋根裏からすすが垂れて、そうして雨戸を開けてない薄暗い家の中にじっとしていては、妙に心が滅入った。

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丈夫ぢやうぶ建物たてものはうきれて清潔せいけつんでかれ天井てんじやうもない屋根裏やねうらからすゝれてさうして雨戸あまどけてない薄闇うすくらいへうち凝然ぢつとしてはめうこゝろ滅入めいつた。

毎日朝から尻切れ襦袢一つで、熱湯の桶を右の手で肩に支えては駆け歩く、威勢のいい若者の間に交じって唄の声を聞いていたのに、一つには疲れも出たためでもあるが、わずか一日の隔たりで、彼はにわかに年を取ったほどげっそりとやつれたような心持ちになった。

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毎日まいにちあさから尻切襦袢しりきりじゆばん一つで熱湯ねつたうをけみぎかたさゝへてはある威勢ゐせい壯丁わかものあひだまじつてうたこゑきいたのに、一つには草臥くたびれためでもあるがわづかにちへだてかれにはか年齡としをとつたほどげつそりとやつれたやうな心持こゝろもちつた。

みなの夜具は、ただ壁際に端をめくったまま突きつけてある。

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みな夜具やぐたゞ壁際かべぎははしくつたまゝきつけてある。

卯平はそこをじっと見た。

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卯平うへい其處そこ凝然ぢつた。

箱枕のくくりは紙で包んでないばかりでなく、生地の縞目も分からないほど汚く脂に染まっている。

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箱枕はこまくらくゝりはかみつゝんでないばかりでなく、切地きれぢ縞目しまめわからぬほどきたなく脂肪あぶらそまつてる。

土間の壁際に吊った竹かごのねぐらには、鶏の糞がいっぱいに溜まったと見えて、異臭が鼻を突いた。

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土間どま壁際かべぎはつた竹籃たけかごとやにはにはとりふんが一ぱいたまつたとえて異臭いしうはないた。

卯平は生まれつきがきれい好きであったが、百姓の暮らしをして、それに非常な貧乏からどうしても汚い物の間に起き伏しせねばならないので、彼も野田へ行くまではそれをも別段苦にはしなかったのであるが、たとえ幾年でも清潔な住まいをした彼は、生まれつきを助長して一種の習慣を養った。

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卯平うへい天性清潔好きれいずきであつたが、百姓ひやくしやう生活せいくわつをして、それに非常ひじやう貧乏びんばふから什麽どんなにしてもきたないものあひだ起臥きぐわせねばならぬのでかれ野田のだくまではそれをも別段べつだんにはしなかつたのであるが、假令たとひ幾年いくねんでも清潔せいけつすまひをしたかれ天性てんせい助長じよちやうして一しゆ習慣しふくわんやしなつた。

彼が家に帰ったのは、お品が死んだ時でも、それから三年目の盆の時でも、家はがらんと清潔になっていて、それほど汚い感じは与えられなかった。

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かれいへかへつたのはおしなんだときでも、それから三年目ねんめぼんときでもいへ空洞からり清潔きれいつててそれほど汚穢むさかんじはあたへられなかつた。

彼は今、盛んな暑い日を仰いだ目を放って、にわかに物陰を探そうとする者のように、ひどく勝手が違ったのである。

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かれいまさかんあつあふいだはなつてにはか物陰ものかげさがさうとするものゝやうにひど勝手かつてちがつたのである。

彼はしばらく好きな煙草にかかりきっていたが、ようやく日が暖かくなりかけたので、まれに生き残っている昔の仲間や近所への義理かたがた、顔を出すつもりで外へ出た。

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かれしばらすき煙草たばこ屈託くつたくしてたがやうやあたゝかけたので、まれ生存せいぞんして往年わうねん朋輩ほうばい近所きんじよへの義理ぎりかた/″\かほつもりそとた。

勘次とおつぎとが昼飯に帰って来た時、卯平はいなかった。

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勘次かんじとおつぎとが晝餐ひるかへつてとき卯平うへいなかつた。

彼は夜になって、のっそりと戸口に立った。

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かれよるつてのつそりと戸口とぐちつた。

勘次が庭へ出ようとして大戸をがらりと開けた時、卯平とぶつかりそうになった。

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勘次かんじにはようとして大戸おほどをがらりとけたとき卯平うへい衝突つきあたさうつた。

勘次は足元にずるずると横たわった蛇を見つけた刹那のごとく、ぞっとして退いた。

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勘次かんじあしもとにずる/\とよこたはつたへびつけた刹那せつなごと悚然ぞつとして退去すさつた。

卯平は欠けた歯茎で煙管を横にかんでは、唇をぎっと締めると、口がすすきで裂いたように見えた。

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卯平うへいけた齒齦はぐき煙管きせるよこんではくちびるをぎつとめるとくちすゝきいたやうえた。

老いてから余計にのっそりした卯平の体は、それでも以前のがっしりした骨格がそびえて、そばにいる勘次を異様に圧した。

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老衰らうすゐしてから餘計よけいにのつそりした卯平うへい身體からだは、それでも以前いぜんのがつしりした骨格ほねぐみそびえてそば勘次かんじ異樣いやうあつした。

卯平は五、六日の間、毎日ただぶらぶらと出ては、たそがれ近くか、そうでなければ夜になって帰った。

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卯平うへいは五六にちあひだ毎日まいにちたゞぶら/\とては黄昏近たそがれちかくかそれでなければよるつてかへつた。

勘次は毎日、唐鍬を持って林へ出た。

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勘次かんじ毎日まいにち唐鍬たうぐはつてはやした。

おつぎは半纏を引っ掛けて、針の師匠へ通った。

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おつぎは半纏はんてん引掛ひつかけてはり師匠しゝやうかよつた。

おつぎはもう幾年という長い間のことではあるが、それでも決まった月日を続けて針仕事に励む余裕がなく、ようやく手についたかと思うと途中を切ったり止めたりするので、思うような上達はなかった。

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おつぎはもう幾年いくねんといふながあひだのことではあるが、それでもきまつた月日つきひ繼續けいぞくして針仕事はりしごとはげ餘裕よゆうがなくやうやについたかとおもふと途中とちうつたりめたりするのでおもやう上達じやうたつはなかつた。

おつぎは暇を盗んでは、一生懸命で針を取った。

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おつぎはひまぬすんでは一生懸命しやうけんめいはりつた。

卯平がのっそりとして箸を持つのは、毎朝こせこせと忙しい勘次がわらじをはいて出ようとする時である。

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卯平うへいがのつそりとしてはしつのは毎朝まいあさこせ/\といそがしい勘次かんじ草鞋わらぢ穿はいようとするときである。

おつぎは卯平のために火鉢へ炭火を埋けてやったり、お鉢をそばへ供えたりするので、いくらか時間が遅れる。

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おつぎは卯平うへいため火鉢ひばちおきけてやつたり、おはちそばそなへたりするのでいくらか時間じかんおくれる。

そうすると勘次は、かついだ唐鍬をどさりと置いたり、敷居を出たり入ったり、ただもじもじとしていては、口に出せない何かを包むような恐ろしい権幕でおつぎを見る。勘次はそれでも満足しないで、おつぎの姿が戸口を出るまでは庭に立っていることもある。

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さうすると勘次かんじかついだ唐鍬たうぐはをどさりといたり、しきゐたり這入はひつたり、たゞ忸怩もぢ/\としてては、くちせないあるものつゝむやうなおそろしい權幕けんまくでおつぎをる、勘次かんじはそれでもあきたらないでおつぎの姿すがた戸口とぐちるまではにはつてることもある。

勘次は毎朝出て行く方面が違っているにもかかわらず、同時に立って行くのを見なければ心が済まないのであった。

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勘次かんじ毎朝まいあさ方面はうめんことなつてるにもかゝはらず、同時どうじつてくのをなければこゝろまないのであつた。

毎朝そうするので

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毎朝まいあささうするので

「おとっつあんは行けな。爺さんのことを見てやらなくちゃなるまいな」

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「おとつゝあはけな、ぢいことてやんなくつちやんめえな」

おつぎはひそかに勘次をたしなめて言うことがある。

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おつぎはひそか勘次かんじたしなめていふことがある。

勘次は恐ろしい権幕でじっと立ったまま、おつぎを睨んで、そうして卯平をちらと一目見ては、卯平の目を憚るようにして、さっさと唐鍬をかついで出て行く。

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勘次かんじおそろしい權幕けんまく凝然ぢつつたまゝおつぎをにらんでさうして卯平うへいをちらと一べつしては、卯平うへいはゞかやうにしてさつさと唐鍬たうぐはかついでく。

卯平は自分のためにおつぎが遅くなる時には

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卯平うへい自分じぶんためにおつぎがおそときには

「おれは自分でやるから、お前は構わないで行けよ」

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自分じぶんでやつからりやかまあねえでけよ」

と、おつぎを促し立てた。

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おつぎをうながてた。

卯平は当座のうちはそこらここらへ行っては、自分からは求めないでも、しばらく会わなかった間柄で、短い日の落ちるのも知らずに話をしては、百姓相応なまずいごちそうになるのであったが、だんだん互いに珍しくなくなってからは、彼はあまり外へも出ないで、ぽつんとして好きな煙草にのみかかりきった。

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卯平うへい當座たうざうち其處そこ此處ここらへつては自分じぶんからはもとめないでも、しばらはなかつた間柄あひだがらで、みじかちるのもらずにはなしをしては百姓ひやくしやう相當さうたう不味まづ馳走ちそうるのであつたが、段々だん/\たがひめづらしくなくなつてからはかれあまそとへもないで㷀然ぽつさりとしてきな煙草たばこにのみ屈託くつたくした。

彼は昼飯というと、ことに冷たい粗い飯をいとって、箸を取るのがつらいようでもあった。

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かれ晝飯ひるめしといふとことつめたい粗剛こはめしいとうてはしるのがつらいやうでもあつた。

それで彼は時々村の店へ行って、豆腐の一丁くらいで腹を塞いだ。

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れでかれ時々とき/″\村落むらみせつて豆腐とうふの一丁位ちやうぐらゐはらふさげた。

皿の豆腐を隅から箸でちぎってみては、あまりに冷たいので、腰の痛みを思い出して小さな鍋を借りて温めた。

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さら豆腐とうふすみからはし拗切ちぎつててはあまりにつめたいので、こしいたみをおもしてちひさななべりてあたゝめた。

そうしてはつい一杯の酒がほしくなって、そこでむっつりと時間を潰した。

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さうしてはつひぱいさけほしくなつて其處そこでむつゝりと時間じかんつぶした。

豆腐は彼の歯茎に、もっとも適した食べ物であった。

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豆腐とうふかれ齒齦はぐきもつと適當てきたうした食料しよくれうであつた。

卯平は体が悪くなってからわずかの間でも覚悟をしたので、いくらでも財布には蓄えができていた。

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卯平うへい身體からだわるつてからわづかあひだでも覺悟かくごをしたのでいくらでも財布さいふにはたくはへが出來できた。

彼はどれほど節約しても、ついにじりじりと減って行くのみである財布にすがって、すすきで裂いたように閉じたその口に、何でもかみ殺しているのだという様子をして、その日その日と刻んで過ごした。

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かれ何程なにほど節約せつやくしてもつひにじり/\とへつくのみである財布さいふすがつて、すゝきいたやうぢたくちなんでもころしてるのだといふ容子やうすをしてその々々ときざんですごした。

彼は一日じっとして、冷たい火鉢の前にあぐらをかいていることもあった。

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かれは一にち凝然ぢつとしてつめたい火鉢ひばちまへ胡坐あぐらいてることもあつた

与吉は学校から帰って、ひっそりとした家にただ卯平がむっつりとしているのを見ると、威勢よく駆けて来たのもしょげて、風呂敷包みの本をばたりと座敷へ投げて、庭へ出てしまう。

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與吉よきち學校がくかうからかへつてひつそりとしたいへたゞ卯平うへいがむつゝりとしてるのをると威勢ゐせいよくけてたのもしよげて風呂敷包ふろしきづゝみ書籍しよせきをばたりと座敷ざしきげてにはしまふ。

卯平は

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卯平うへい

「よき、待ってろ、そら」

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「よき、つてろ、そら」

と、財布から面倒に五厘の銅貨を拾い出して投げてやる。

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財布さいふから面倒めんだうに五りん銅貨どうくわひろしてなげてやる。

与吉は戸の陰にいては、もじもじして容易に取らないで、しかもほしそうにむしろの上の銅貨を見る。

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與吉よきちかげては忸怩もぢ/\して容易よういらないでしかさうむしろうへ銅貨どうくわる。

卯平はそうすると、またのっそりとけだるげに体を戸口まで動かして、与吉の手に渡してやる。

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卯平うへいはさうするとまたのつそりとものうげに身體からだ戸口とぐちまでうごかして與吉よきちわたしてやる。

与吉は一散に駆けて、菓子を求めに行く。

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與吉よきちは一さんけて菓子くわしもとめにく。

卯平の窪んだ茶色の目が、後で独りしかめたようになるのである。

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卯平うへいくぼんだ茶色ちやいろあとひとりしがんだやうにるのである。

卯平が村の店にけだるい体を据えて煙草を吹かしている所へ、与吉が行き合わせることがあっても、遠くのほうから卯平を見ていて、近づきもしないが去ろうともしないでいる。

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卯平うへい村落むらみせものう身體からだゑて煙草たばこかしてところ與吉よきち行合いきあはせることがあつてもとほくのはうから卯平うへいて、ちかづきもしないがらうともしないでる。

卯平は必ずガラス戸を立てて、店台から自分で菓子を取ってやる。

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卯平うへい屹度きつとガラスたて店臺みせだいから自分じぶん菓子くわしをとつてやる。

それでも与吉は、菓子をかじりながらそばへは寄ろうともしなかった。

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それでも與吉よきち菓子くわしぢりながらそばへはらうともしなかつた。

「与吉らはたいしたもんだな、始終もらって」

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與吉よきちらたえしたもんだな、始終とほしてもらつてな」

店の女房が言うのを聞くのは、与吉よりもむしろ卯平が心に満足を感じるのであった。

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みせ女房にようばうがいふのをくのは與吉よきちよりもむし卯平うへいこゝろ滿足まんぞくかんずるのであつた。

しかし与吉はこうしてだんだん卯平に近づいて、学校から帰ったといっては

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しか與吉よきちうして段々だん/\卯平うへいちかづいて學校がくかうからかへつたといつては

「爺さん」

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ぢい

と言って戸口に立つようになった。

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といつて戸口とぐちつやうにつた。

ついには彼は

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つひにはかれ

「爺さん、くれないか」

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ぢいくんねえか」

と、上がり框に胸をもたせて、ばたばたと下駄で土間を叩きながら、卯平に銭を請うようになった。

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あががまちむねたせて、ばた/\と下駄げた土間どまたゝきながら卯平うへいぜにふやうにつた。

それでも彼は、銭とははっきりとは言わない。

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それでもかれぜにとは明白地あからさまにはいはない。

「お前は、何をくれというんだい」

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りや、なにくろつちんでえ」

むっつりした卯平がわざとこう聞くと

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むつゝりした卯平うへいわざとかうくと

「くれないか、買うんだから」

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んねえか、あんだから」

与吉はまたぼんやりと、しかも熱心に求める。

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與吉よきちまたぼんやりとしか熱心ねつしん要求えうきうする。

その態度を卯平は、ただ快く思うのであった。

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その態度たいど卯平うへいたゞこゝろよくおもふのであつた。

与吉がなつくまでには、日数がたった。

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與吉よきちなづくまでには日數ひかずつた。

卯平は勘次との間は予期していたごとく冷ややかではあったが、ちょうど落ち着かない藁屑を足でかき払っては鶏がとうとうその巣を作るように、彼は互いにこそばゆい勘次のそばに、いくらかずつでも身も心も落ち着かねばならなく余儀なくされた。

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卯平うへい勘次かんじとのあひだ豫期よきしてごとひやゝがではあつたが、丁度ちやうど落付おちつかない藁屑わらくづあしいてはにはとり到頭たうとうつくるやうに、かれたがひにこそつぱい勘次かんじそば幾分いくぶんづゝでもこゝろ落付おちつけねばならなく餘儀よぎなくされた。

そうして彼は、自分の定まった家そのものはたとえどうであろうとも、心の一部には遠慮から離れた余裕が生じて来て、彼はわずかに五、六日と思ううちに三十日以上を過ごしてしまったのであった。

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さうしてかれ自分じぶんさだまつたいへもの假令たとひどうであらうとも、こゝろの一には遠慮ゑんりよからはなれた餘裕よゆうしやうじてかれわづかに五六にちおもうちに卅にち以上いじやう經過けいくわしてしまつたのであつた。

その間、彼はただの一度でも柔らかな飯を快く飲み下したことがない。労働者の多くむさぼらねばならない丈夫な胃は、とうてい柔らかな物に堪え得るところではない。

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あひだかれたゞの一でもやはらかなめしこゝろよくくだしたことがない、勞働者らうどうしやおほむさぼらねばならぬ強健きやうけんなる到底たうていやはらかものところではない。

歯に硬く感じる物でなければ、食事から食事までの間を保ち得ないほど、たちまちに空腹を感じてしまうからである。

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こはかんずるものでなければ食事しよくじから食事しよくじまでのあひだたもあたはぬほどたちまちに空腹くうふくかんじてしまふからである。

したがって、いずれの家庭にあっても、老いた者と若い者との間には、この点の折り合いが難しい。

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したがつていづれの家庭かていつても老者らうしや壯者さうしやとのあひだにはてん調和てうわ難事なんじである。

しかし卯平は、老いた身をようやくのことで投げかけた心の底にわだかまった遠慮と、生まれつきの無口とで、自分から求めることは少しもなかった。

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しか卯平うへい老衰らうすゐやうやくのことでけたこゝろそこわだかまつた遠慮ゑんりよ性來せいらい寡言むくちとで、自分じぶんから要求えうきうすることは寸毫すんがうもなかつた。

彼はただ空腹を凌ぐために、日ごとにまずい口をしいて動かしつつあるのである。

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かれたゞ空腹くうふくしのため日毎ひごと不味まづくちひてうごかしつゝあるのである。

粗末な食べ物は、小さい時からおつぎの目にも口にもなじんでいるので、そこには何も気がつかなかった。

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疎惡そあく食料しよくれう少時せうじからおつぎのにもくちにもじゆくしてるので、其處そこにはなんこゝろかなかつた。

まずそうな様子をして箸を取るのは、卯平がすべての場合を通じての状態なので、おつぎの目には格別の注意を起こさせるべききっかけが一つもつかまえられなかった。

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不味相まづさう容子ようすをしてはしるのは卯平うへいすべての場合ばあひつうじての状態じやうたいなので、おつぎのには格別かくべつ注意ちういおこさしむべき動機どうきひとつもとらへられなかつた。

こうしておつぎは卯平に向かって、彼がいくらかずつでも余計に満足し得る程度にまで心を尽くすことが、善意をもってしても、むしろ冷淡であるかのように見えねばならなかった。

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うしておつぎは卯平うへいむかつてかれ幾分いくぶんづゝでも餘計よけい滿足まんぞく程度ていどにまでこゝろつくすことが、善意ぜんいもつてしてもむし冷淡れいたんであるがごとえねばならなかつた。

しかし卯平は、けっして心の底からおつぎを憎まなかった。

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しか卯平うへいけつして衷心ちうしんからおつぎをにくまなかつた。

卯平は時々外へ出ては豆腐を食べて、自分の膳の箸を取らないことはあるのであったが、それでも勘次は、三人のみが家族であった時よりも穀物の減る量が増えて来たことを、たちまちに目に止めた。

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卯平うへい時々とき/″\そとては豆腐とうふきつして自分じぶんぜんはしらぬことはあるのであつたが、それでも勘次かんじは三にんのみが家族かぞくであつたときよりも穀物こくもつ減少げんせうするりやうえてたことをたちまちにめた。

どれほど大きな体でも、卯平は八十に近い老いた者である。

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ほどおほきな身體からだでも卯平うへいは八十にちか老衰者らうすゐしやである。

一日の食べ物がどれほど要るか、それは知れたものである。

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一日いちにち食料しよくれうがどれほどるかそれはれたものである。

それでも勘次は、これまでよりも余計に費やさねばならない穀物について、その卑しい心がとうてい騒がされねばならなかった。

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それでも勘次かんじ從來これまでよりも餘計よけいつひやさねばならぬ穀物こくもついてかれ淺猿さもしいこゝろ到底たうていさわがされねばならなかつた。

勘次は卯平のいない時には、それとはなく独りぶつぶつと呟くことがあった。

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勘次かんじ卯平うへいときにはそれとはなくひとりぶつ/\とつぶやくことがあつた。

与吉はそれを聞いていた。

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與吉よきちはそれをいてた。

彼は、火鉢の前にじっとしていては座敷へ上がる鶏をしいしいと追いながら、むっつりとしている卯平に小さな銅貨をもらっては、それを口へ入れたり座敷へ落としたりしながら、卯平へいろいろなことをしゃべって聞かせた。

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かれは、火鉢ひばちまへ凝然ぢつとしてては座敷ざしきあがにはとりをしい/\とひつつむつゝりとして卯平うへいちひさな銅貨どうくわもらつては、それをくちれたり座敷ざしきおとしたりしながら卯平うへい種々いろ/\なことを饒舌しやべつてかせた。

「爺さん」

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ぢい

と呼びかけて、彼はある日こう言った。

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けてかれういつた。

「爺さんが来てから米がしっかり減って仕方がないって言ったぞう」

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ぢいてからこめしつかりつてしやうねえつてつたぞう」

「うん」

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「うむ」

卯平は口にくわえた煙管を徐々に手に取って

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卯平うへいくちくはへた煙管きせるおもむろにつて

「おとっつあんでもあるだろう」

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「おとつゝあでもあんべ」

卯平はげっそりと言った。

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卯平うへいはげつそりといつた。

「おとっつあんが、何遍も言ったんだわ」

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「おとつゝあ、何遍なんべんつたんだわ」

卯平はまた煙管をかんで、手が少し震えた。

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卯平うへいまた煙管きせるんですこふるへた。

「言うだろうさ」

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はざらに」

と卯平は、じっと目をしかめながら、少し壊れた壁の一方を睨めながら言った。

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卯平うへい凝然ぢつしかめつゝすここはれたかべの一ぱうめつゝいつた。

霜解けの庭をかき立てていた鶏が、くるりと指を巻いては足を上げて、驚いたように周りを見て、また足を踏みつけ踏みつけのっそり歩いて、戸口の敷居へしばらく乗って、ずっと伸ばした首を少し傾けて卯平を見て、ついと座敷へ上がった。

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霜解しもどけにはてゝとりがくるりとゆびいてはあしげておどろいたやう周圍あたりて、またあしみつけ/\のつそりあるいて戸口とぐちしきゐしばらつてずつとばしたくびすこかたむけて卯平うへいてついと座敷ざしきつた。

卯平はいきなり煙管を叩きつけた。

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卯平うへいはいきなり煙管きせるたゝきつけた。

鶏は慌てて座敷のむしろへ泥を落として、敷居の外に脚を突き出したまましばらく転がっていたが、ついにはよろけよろけ鳴き騒ぎながら、遠く逃げた。

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とりあわてゝ座敷ざしきむしろどろおとしてしきゐそとあししたまゝしばらころがつてたが、つひには蹌跟よろけ/\さわぎつゝとほにげた。

白い毛が抜けて、そこらじゅうにおびただしく散らばった。

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しろけて其處そこぢうおびたゞしく散亂さんらんした。

煙管は鶏からさらに強く戸口の敷居を打って、庭の土に止まった。

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煙管きせるとりからさらつよ戸口とぐちしきゐつてにはつちとまつた。

「爺さん、取ってやろうか」

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ぢいとつてやんべか」

しばらくして、与吉は卯平の顔をのぞくようにして言った。

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しばらくして與吉よきち卯平うへいかほのぞくやうにしていつた。

「よこせ」

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「よこせ」

卯平はしばらくたってから、むっつりとして舌を鳴らしながら言った。

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卯平うへいしばらつてからむつゝりとしてしたらしながらいつた。

「さあ」

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「さあ」

与吉の出した煙管を、卯平は拭きもせずに口へくわえた。

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與吉よきちした煙管きせる卯平うへいきもせずにくちくはへた。

しばらくしてから、卯平は苦い顔をしてじゅりじゅりと、こそばゆい口の泥をぴょっと吐き出して、それから口を着物でこすった。

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しばらくしてから卯平うへいにがかほをしてぢより/\とこそつぱいくちどろをぴよつとしてそれからくち衣物きものでこすつた。

彼はまた煙草を吸いつけようとして、羅宇にひびが入ったのを知った。

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かれまた煙草たばこひつけようとしては羅宇らうひゞつたのをつた。

彼はくたくたになった紙を袂から探り出して、それを唾で濡らして、きわめて面倒にぐるぐるとそのひびを巻いた。

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かれはくた/\につたかみたもとからさぐしてそれをつばらしてきはめて面倒めんだうにぐる/\とひゞいた。

卯平はそれからふいと出て、夜まで帰らなかった。

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卯平うへいはそれからふいとよるまでかへらなかつた。

勘次は鶏の抜け毛を見て、いたちが出たのではないかという心配を抱いて、そこらじゅうを隈なく見た。

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勘次かんじとり拔毛ぬけげいたちたのではないかといふ懸念けねんいだいて其處そこぢうくまなくた。

鶏はほかの鶏がことごとくねぐらについても帰らなかった。

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とりほかとりこと/″\とやいてもかへらなかつた。

いたちは一羽殺せば必ずまた他を襲うので、勘次は少なからずその心を騒がしたのであった。

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いたちは一ころせばかならまたほかおそふので勘次かんじすくなからずこゝろさわがしたのであつた。

「爺さんがぶっ飛ばしたんだわ」

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ぢいつとばしたんだわ」

与吉は勘次へ言った。

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與吉よきち勘次かんじへいつた。

「どうしてだ」

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「どうしてだ」

勘次は驚いた目を見開いて、慌てて聞いた。

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勘次かんじおどろいたみはつてあわてゝいた。

「座敷へ上がったら、煙管をぶつけたんだ。そんでおれが煙管を取ってやったんだ」

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座敷ざしきあがつたら煙管きせるつゝけたんだ。そんで煙管きせるとつてやつたんだ」

勘次は餌をまいて、鶏を集めてみた。

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勘次かんじ餌料ゑさいてとりあつめてた。

いったんねぐらについた鶏が、餌を見てはみなかごからばさばさと飛び下りて、こっこっと鳴きながら爪でかき払いかき払い、争ってついばんだ。

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たんとやいたとり餌料ゑさてはみんなかごからばさ/\とびおりてこツこツときながらつめき/\あらそうてつゝいた。

勘次はついに、鶏の数が足りていないことを確かめざるを得なかった。

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勘次かんじつひとりかず不足ふそくしてることをたしかめざるをなかつた。

卯平は例のごとく豆腐でコップ酒を傾けて来て、晩飯を欲しなかった。

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卯平うへいれいごと豆腐とうふでコツプざけかたむけて晩餐ばんさんほつしなかつた。

彼の皺深く刻んだ頬に、ほんのりと赤みを帯びていた。

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かれしわふかきざんだほゝにほんのりと赤味あかみびてた。

彼は火鉢の前にあぐらをかいたまま、一言も言わない。

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かれ火鉢ひばちまへ胡坐あぐらいたまゝごんもいはない。

おつぎが甘えた舌で言っても、返事もしなかった。

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おつぎがあまえたしたでいつても返辭へんじもしなかつた。

勘次も卯平のそばを退いて、ただ恐ろしくひがんだ様子をしていた。

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勘次かんじ卯平うへいそば退去すさつてたゞおそろしくひがんだ容子ようすをしてた。

おつぎもついに言わなかった。

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おつぎもつひにいはなかつた。

与吉はただ、ぐっすりと眠っていた。

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與吉よきちたゞぐつすりとねむつてた。

恐れのあまり物陰にじっと潜んでいた鶏は、次の朝ようやくほかの鶏の群れに交じって歩いたけれど、いくらかまだ足を引きずっていた。

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驚怖きやうふあま物陰ものかげ凝然ぢつ潜伏せんぷくしてとりつぎあさやうやとりむれまじつてあるいたけれどいくらかまだ跛足びつこいてた。

勘次はわざと卯平へ見せつけるように、その夜ねぐらについた時、その鶏をかごに伏せて、戸口の庭ぶたの上に三日も四日も置いたのであった。

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勘次かんじわざ卯平うへいせつけるやうとやいたときとりかごせて、戸口とぐち庭葢にはぶたうへに三も四いたのであつた。

卯平は巻きつけた紙へ煙脂のしみた煙管をじゅうじゅうと鳴らしながら、むずかしい顔がしばらく解けなかった。

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卯平うへいきつけたかみ煙脂やにみた煙管きせるをぢう/\とらしながらむづかしいかほしばらけなかつた。

卯平はきれい好きなので、むっつりとしながら独りでいる時には、草箒で土間の軒の下を掃いては、鶏が足の爪でかき乱した庭ぶたの周りをも掃きつけておいた。

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卯平うへい清潔好きれいずきなのでむつゝりとしながらひとりときには草箒くさばうき土間どまのきしたいてはとりあしつめみだした庭葢にはぶた周圍あたりをもきつけていた。

彼は座敷の中も掃除をして、毎朝布団をきちんと始末するように、無口な口からおつぎに言いつけた。

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かれ座敷ざしきうち掃除さうぢをして毎朝まいあさ蒲團ふとん整然ちやん始末しまつするやう寡言むくちくちからおつぎに吩咐いひつけた。

清潔になることは勘次も悪いこととは思わなかったが、いくらもない家財道具へ少しでも手を掛けられるのが、懐でも探られるように、勘次には何となく不安の念が起こされるのであった。

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清潔きれいることは勘次かんじわるいことにはおもはなかつたが、いくらもない家財道具かざいだうぐすこしでもけられるのがふところでもさぐられるやう勘次かんじにはなんとなく不安ふあんねんおこされるのであつた。

勘次の目には、卯平がよく村の店に行くのは贅沢な老人であるように、ひがんで見えるところもあった。

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勘次かんじには卯平うへい村落むらみせくのは贅澤ぜいたく老人としよりであるやうひがんでえるかどもあつた。

ただそうしている間に旧暦の年末が近づいて、どこの家でも小麦や蕎麦の粉を挽いた。

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たゞさうしてうち舊暦きうれき年末ねんまつちかづいて何處どこうちでも小麥こむぎ蕎麥そばいた。

卯平は時々は、東隣の門をもくぐった。

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卯平うへい時々とき/″\東隣ひがしとなりもんをもくゞつた。

主人夫婦は、丈夫だといってもやつれた卯平を見ると憐れになって

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主人夫婦しゆじんふうふ丈夫ぢやうぶだといつてもやつれた卯平うへいるとあはれになつて

「体はどうしたね」

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身體からだはどうしたえ」

とよく聞いた。

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いた。

「ええ、今の分じゃ、そんなに悪いということもないが」

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「えゝ、今分いまぶんぢや、さうだにりいつちこともねえが」

と、卯平はいつも煮えきらない言い方をして、それを聞かれることをさすがに心の内で喜んで、窪んだ目をしかめるようにした。

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卯平うへいはいつもらぬいひかたをして、れをかれることを有繋さすがこゝろうちよろこんでくぼんだしかめるやうにした。

「それでも勘次はよくするかえ」

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「それでも勘次かんじくするかえ」

おかみさんが聞けば

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内儀かみさんがけば

「ありゃもう、以前からああ言うんだから」

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「ありや、はあ、以前めえかたつからあゝゆんだから」

卯平はぶすりと言うのである。

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卯平うへいはぶすりといふのである。

「おつぎはどうだね」

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「おつぎはどうだえ」

「ありゃあそれ、勘次とは違うから。何と言ってもさすがに、赤ん坊の時からのだから」

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「ありやあそれ、勘次かんじたあちがあから、なんちつても有繋まさかあかばうときつからのがだから」

「粉挽きはたんとした様子かえ、それでも」

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節挽せちびきはたんとした容子ようすかえそれでも」

「ええ、おつうのことを連れて行って、南で挽くのは挽いたようだが、桶へ入れたままでふたをしたきりしまっておくから、わしはどれくらいあるもんだか見もしないが」

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「えゝ、おつうことれてつて、みなみくなあいたやうだが、をけえたまゝふたしたつきりしまつてくから、わしやどのつくれえあるもんだかもしねえが」

「勘次は柔らかい物でも少しはこしらえてくれるかね」

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勘次かんじやはらかいものでもすこしはこしらえてくれるかね」

「ええ、毎日いっしょに食べちゃいるんだが、なあに、歯さえ丈夫なら粗くたって構いやしないが」

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「えゝ、毎日まいんち同士どうしにたべちやんだがなあにせえ丈夫ぢやうぶなら粗剛こうえつたつてかまやしねえが」

「それじゃ蕎麦粉でも少しやろうかね。蕎麦がきでもこしらえて食べたほうがいいよ。蕎麦に打っちゃ冷えるが、蕎麦がきは暖まるというからね」

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「それぢや蕎麥粉そばこでもすこらうかね蕎麥掻そばがきでもこしらへてたべたはういよ、蕎麥そばつちやえるが蕎麥掻そばがきあつたまるといふからね」

おかみさんは木綿で作った袋へ蕎麦粉を二升ばかり入れて

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内儀かみさんは木綿もめんつくつたふくろ蕎麥粉そばこを二しやうばかりれて

「勘次も泣きだから、それでも今に暮らしもだんだんよくなるだろうから、そうすりゃ悪くばかりもすまいよ。どうも昔から性が合わないんだからね。まあ年を取ったら仕方がないから我慢しているんだよ。あまりひどけりゃ他人がともども見ちゃいないから。それだが勘次も、さすがにそれほどでもないんだろうしね」

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勘次かんじきだから、それでもいま生計くらしもだん/\くなんだらうから、さうすりやわるくばかりもすまいよ、どうもむかしから合性あひしやうわるいんだからね、まあ年齡としとつたら仕方しかたがないから我慢がまんしてるんだよ、あんまひどけりや他人ひと共々とも/″\ちやないから、それだが勘次かんじ有繋まさかそれほどでもないんだらうしね」

おかみさんは慰めて言った。

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内儀かみさんはなぐさめていつた。

卯平は蕎麦粉を大事にして、勘次が開墾に出た後で、薬缶の湯を沸かしては蕎麦がきをこしらえて食べた。

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卯平うへい蕎麥粉そばこ大事だいじにして、勘次かんじ開墾かいこんあと藥罐やくわんわかしては蕎麥掻そばがきこしらへてたべた。

そのころは、彼の提げて来た二瓶の醤油はもうなくなっていた。

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ころかれげてた二びん醤油しやうゆはもうくなつてた。

彼はその減って行くのを、さらに惜しいとは思わなかったが、しかし彼は、自分がいるうちは容易に瓶の分量が減らないのに、一日よそへ行っていた日はめっきりと少なくなっているのを、ある時ふと見つけて、少し不快に、かつ変に思いつつあった。

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かれつてくのをさらおしいとはおもはなかつたが、しかかれ自分じぶんうち容易よういびん分量ぶんりやうらないのに、一にち餘處よそつて滅切めつきりすくなくなつてるのをあるときふと發見はつけんしてすこ不快ふくわいかつへんおもひつゝあつた。

縄でくくった別の瓶の底のほうに、醤油が少しあった。

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なはくゝつたべつびんそこはう醤油しやうゆすこしあつた。

卯平はそれでもそれを見つけて、ようやく蕎麦がきの味を補った。

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卯平うへいはそれでもれをつけてやうや蕎麥掻そばがきあぢおぎなつた。

瓶の底になった醤油は一番の醤油粕で仕込んだ安物で、塩の辛い味が舌を刺激するばかりでなく、苦味さえ加わっている。

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びんそこになつた醤油しやうゆは一ばん醤油粕しやうゆかすつくんだ安物やすもので、しほからあぢした刺戟しげきするばかりでなく、苦味にがみさへくははつてる。

彼らはふだんそういう醤油でもめったに使わないので、多量に求める時でも十銭を越えないのである。

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彼等かれら平生へいぜいさういふ醤油しやうゆでも滅多めつたもちゐないので多量たりやうもとめるときでも十せんえないのである。

以前の卯平であれば、そういう味がふつうで、かつうまく感じるはずなのであるが、数年来うまい醤油を惜し気もなく使って来た口には、恐ろしいまずさを感じずにはいられなかった。

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以前いぜん卯平うへいであればさういふあぢ普通ふつうかつ佳味うまかんずるはずなのであるが、數年來すうねんらい佳味うま醤油しやうゆ惜氣をしげもなく使用しようしてくちにはおそろしい不味まづさをかんぜずにはられなかつた。

それでも蕎麦がきは、体が暖まるようで快かった。

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それでも蕎麥掻そばがき身體からだあたゝまるやうこゝろよかつた。

彼は食べた後の茶碗へ沸いた湯を注いで、箸で茶碗の内側を落として、そのまま棚へ置いた。

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かれはたべたあと茶碗ちやわんたぎつたいではし茶碗ちやわん内側うちがはおとしてまゝたないた。

そうしては彼は、毎日の仕事のように外へ出た。

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さうしてはかれ毎日まいにち仕事しごとのやうにそとた。

勘次は一日の仕事を終えて帰って来ては、目ざとく卯平の茶碗を見て不審に思って、桶のふたを取ってみた。

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勘次かんじは一にち仕事しごとへてかへつてては目敏めざと卯平うへい茶碗ちやわん不審ふしんおもつてをけふたをとつてた。

ついに彼は、卯平の袋を見つけた。

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つひかれ卯平うへいふくろ發見はつけんした。

「おつう、お前がこの蕎麦粉を出してやったのか」

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「おつう、われ蕎麥そばこなしてつたのか」

勘次はおつぎに聞いた。

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勘次かんじはおつぎにいた。

「おれが出すまいな」

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すめえな」

おつぎは何も分からない様子で言った。

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おつぎはなにかいせぬ容子ようすでいつた。

「蕎麦がきなんぞにしたって詰まりやしない。ろくにありもしない粉だ」

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蕎麥そばかきなんぞにしたつてつまりやしねえ、ろくりもしねえこなだ」

彼は呟いた。

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かれつぶやいた。

それから彼はまた

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それからかれまた

「これももう、ありゃしない」

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れも、はあ、りやしねえ」

と、醤油の瓶を透して、それから振ってみて言った。

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醤油しやうゆびんすかしてそれからつてていつた。

「おとっつあん、それにはないんだぞ」

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「おとつゝあ、それにやねえのがんだぞ」

おつぎは打ち消した。

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おつぎはした。

「いいから、これっきりじゃきかないんだから」

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「えゝから、れつきりぢやきかねえのがんだから」

勘次はおつぎを怒鳴りつけた。

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勘次かんじはおつぎを呶鳴どなりつけた。

彼はさらに袋の蕎麦粉を桶へ空けてしまって、なおぶつぶつしていた。

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かれさらふくろ蕎麥粉そばこをけけてしまつてなほぶつ/\してた。

手ランプが薄暗くともされた時、卯平はのっそり帰って来た。

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ランプが薄闇うすぐらともされたとき卯平うへいはのつそりかへつてた。

彼は膳に向かおうともしないが、火鉢の前にどさりと座ったまま、例のわだかまりのありそうな様子をしては、右手の人差し指を掛けてぎっと握った煙管を横にかんでいた。

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かれぜんむかはうともしないが火鉢ひばちまへにどさりとすわつたまゝれいわだかまりの有相ありさう容子ようすをしては右手うしゆひとさしゆびけてぎつとにぎつた煙管きせるよこんでた。

「おつう、お前、もっとここへ火を取ってくれないか」

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「おつう、われまつと此處ここひいとつてくんねえか」

卯平はそれだけ言って、依然として火もない煙管をかんだ。

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卯平うへいはそれだけいつて依然いぜんとしてもない煙管きせるんだ。

おつぎはそだを折って、薬缶の下を燃やしてやった。

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おつぎは麁朶そだつて藥罐やくわんしたやしてやつた。

薬缶が鳴り出した時、卯平はけだるそうな体をゆっさりと起こして、そこらをしきりに探しはじめた。

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藥罐やくわんしたとき卯平うへいものうさう身體からだをゆつさりとおこして其處そこらをしきりにさがしはじめた。

「何だい、爺さん」

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なんでえぢい

おつぎはすぐに聞いた。

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おつぎはすぐいた。

「うん、袋よ」

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「うむ、ふくろよ」

卯平はきわめて簡単に言った。

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卯平うへいきはめて簡單かんたんにいつた。

「これだろう爺さん、蕎麦粉の入ってたのは。おれはどうしたんだか知らないから、桶の中へ空けておいたっけや。そんじゃ爺さんのだったっけなあ、そら。どうして袋へなんぞ入れてたんだい、爺さんは」

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れだんべぢい蕎麥そばこなへえつてたのな、らどうしたんだかんねえからをけなかけていたつきや、そんぢやぢいがんだつけなあそら、どうしてふくろさなんぞえてたんでえぢいは」

おつぎは事もなげに言った。

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おつぎはこともなげにいつた。

「蕎麦がきでもしたらよかろうと、おかみさんが出したっけのよ」

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蕎麥そばかきでもしたらよかつぺつてお内儀かみさんしたつけのよ」

卯平はもとの位置に座って言った。

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卯平うへいもと位置ゐちすわつていつた。

「そうかあ。そんじゃ悪かったっけな、爺さん。そんじゃおれが今入れてやるからな」

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「さうかあ、そんぢやわるかつたつけなぢいそんぢやいまえてやつかんなよ」

おつぎは、勘次が寝る壁際の桶から、さっきのよりははるかに多い量を袋へ入れてやった。

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おつぎは勘次かんじ壁際かべぎはをけから先刻さつきのよりははるかに多量たりやうふくろれてやつた。

そうしておつぎは、勘次を尻目で見た。

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さうしておつぎは勘次かんじ尻目しりめた。

卯平はまた蕎麦がきをこしらえた。

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卯平うへい蕎麥掻そばがきこしらへた。

「おれが注いでやろうか、爺さん」

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いでやつべかぢい

火鉢のそばにいた与吉は、薬缶へ手を掛けた。

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火鉢ひばちそば與吉よきち藥罐やくわんけた。

卯平は与吉のするがままに任せた。

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卯平うへい與吉よきちのするがまゝまかせた。

卯平は比較的ゆったりと、茶碗を箸でかき混ぜた。

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卯平うへい比較的ひかくてき悠長いうちやう茶碗ちやわんはしぜた。

「できたかあ」

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出來できたかあ」

与吉は卯平の腕へ小さな手を掛けて、のぞくようにして言った。

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與吉よきち卯平うへいうでちひさなけてのぞやうにしていつた。

「よき、何だいお前は、ご飯を食ったばかりで」

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「よき、なんでえりや、おまんまくつたばかしで」

おつぎは与吉を叱った。

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おつぎは與吉よきちしかつた。

「お前も食え」

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われへ」

卯平は蕎麦がきを分けてやった。

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卯平うへい蕎麥掻そばがきけてやつた。

彼はそうして、さらに後の一杯を食べて、その茶碗へ湯を汲んで飲んだ。

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かれはさうしてさらあとの一ぱいきつしてその茶碗ちやわんんでんだ。

薬缶は軽くなった。

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藥罐やくわんかるくなつた。

勘次は冷たい手を火にもかざさないで、ことさらに遠く卯平のそばを離れて、しかめたひどい顔に恐れの相を表して、ただじっと黙っていた。

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勘次かんじつめたいにもかざさないで殊更ことさらとほ卯平うへいそばはなれてしかめたひどかほ恐怖きようふさうあらはしてたゞ凝然ぢつだまつてた。

冷たい三人は、夜の温度がしんしんと下がりつつあるのを感じた。

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つめたい三にんよる温度をんどのしん/\と降下かうかしつゝあるのをかんじた。

一八

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一八

卯平は久しぶりで故郷に年を迎えた。

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卯平うへい久振ひさしぶり故郷こきやうとしむかへた。

彼らの家の門松は、ただ短い松の枝と竹の枝とを小さな杭に縛りつけて、垣根の入口に立てたのみである。

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彼等かれらいへ門松かどまつたゞみじかまつえだたけえだとをちひさなくひしばけて垣根かきね入口いりくちてたのみである。

神棚へは、藁で太くなった海老の形を横に飾って、そこにも松の短い枝をつけた。

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神棚かみだなへはわらふとつたえびかたちよこかざつて其處そこにもまつみじかえだをつけた。

藁の海老は卯平が作った。

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わらえび卯平うへいつくつた。

彼はむっつりとしながらも、柔らかに藁を打って熱心に手を動かした。

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かれはむつゝりとしながらもやはらかにわらつて熱心ねつしんうごかした。

それで年男の役で、飾りは勘次にさせた。

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それで歳男としをとこやくかざり勘次かんじにさせた。

すすけきった棚に、新しい藁の海老が生き生きとして見えた。

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すゝつたたなあたらしいわらえび活々いき/\としてえた。

三が日は与吉も汚い着物を捨てて、おつぎも近所で髪を結って、炊事の時でもよそ行きの半纏にたすきを掛けて働いた。

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三ヶにち與吉よきちきたな衣物きものてゝ、おつぎも近所きんじよかみうて炊事すゐじときでも餘所行よそゆき半纏はんてんたすきけてはたらいた。

勘次は三が日さえ、まったく安楽をむさぼってはいなかった。

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勘次かんじは三ヶにちさへ全然まる/\安佚あんいつむさぼつてはなかつた。

彼は唐鍬をかついで、必ず開墾地へ出たのである。

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かれ唐鍬たうぐはかついでかなら開墾地かいこんちたのである。

彼は次第に懐の具合がよくなりかけたので、今ではその勢いづいた唐鍬の一打ちは一打ちと自分の蓄えを積んで行くわけなので、彼は余念もなくきわめて愉快に仕事に従っているようになったのである。

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かれ次第しだいふところ工合ぐあひけたので、いまではいきほひづいた唐鍬たうぐはの一うちは一うち自分じぶんたくはへをんで理由わけなので、かれ餘念よねんもなくきはめて愉快ゆくわい仕事しごとしたがつてるやうにつたのである。

年の初めというので、さすがに彼の家でも相応に餅やうどんや蕎麦が、その日その日の例によって供えられた。

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としはじめといふので有繋さすがかれいへでも相當さうたうもち饂飩うどん蕎麥そば/\のれいよつそなへられた。

柔らかな餅が、卯平の歯茎にはいちばん適していた。

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やはらかなもち卯平うへい齒齦はぐきには一ばん適當てきたうしてた。

ことに陸稲の餅は粘りが弱いので、少し煮ればすぐくたくたに溶けようとする。

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こと陸稻をかぼもちあしよわいので、すこればぐくた/\にけようとする。

卯平にはかえってそれがいいので、彼はそうしてくれるおつぎを、どこまでも嬉しく思った。

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卯平うへいにはかへつてそれがいので、かれはさうしてれるおつぎを何處どこまでもうれしくおもつた。

彼はただ一つでもいいから、始終汁の中で必ずくつくつと煮てほしかった。

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かれたゞ一つでもいから始終しじゆうしるなかかならずくつ/\としかつた。

しかしそれは一同で祝う時のみで、それさえ卯平がただ独りゆっくりと味わうには、焙烙に乗せる分量があまりに足りなかった。

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しかしそれは一同みんないはときのみで、それさへ卯平うへい只獨ただひとりゆつくりとあぢはふには焙烙はうろくせる分量ぶんりやうあまりにらなかつた。

餅は四角に包丁を入れると、すぐに勘次は自分の枕元の桶へしまって、無断にはおつぎにさえ出すことを許さないのであった。

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もちは四かく庖丁はうちやうれるとぐに勘次かんじ自分じぶん枕元まくらもとをけしまつて無斷むだんにはおつぎにさへすことを許容ゆるさないのであつた。

勘次はたとえどんなことがあっても、面と向かって卯平に一言でも呟いたことがないのみでなく、ひたすら何かを隠そうとするような恐れの状態を現していながら、陰では爪の垢ほどのことを目に止めては、独りでぶつぶつとしていた。

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勘次かんじ假令たとひ什麽どんなことがあつてもまのあた卯平うへいむかつて一ごんでもつぶやいたことがないのみでなく、只管ひたすらあるもの隱蔽いんぺいしようとするやうな恐怖きようふ状態じやうたいあらはしてながら、かげではつめあかほどのことをとめひとりでぶつ/\としてた。

勘次はただ一度、おつぎが自分の留守に卯平のためにその餅のわずかを焼いてやったのすら見つけて、おつぎを叱った。

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勘次かんじたゞおつぎが自分じぶん留守るす卯平うへいためもちわづかいてやつたのをすら發見はつけんしておつぎをしかつた。

「そんだって、おとっつあん、よきがほしいと言うから出して、おれと焼いたんだ。食べたくなっちゃ仕方があるまいな」

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「そんだつておとつゝあは、よきしいつちからしてれといたんだあ、へたくなつちやしやうあんめえな」

おつぎは甘えた舌で、言葉は荒く勘次をたしなめた。

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おつぎはあまえたした言辭ことばあら勘次かんじたしなめた。

勘次はそれ以上を越えて、再びおつぎを叱ることはよくしなかった。

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勘次かんじ以上いじやうしてふたゝびおつぎをしかることはくしなかつた。

わずかな餅はそういうことでいくらも減らないのに時間がたって、寒い空気のために陸稲の特色を現して、切り口からたちまちにひび割れになって硬く乾いた。

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わづかもちはさういふことでいくらもらないのに時間じかんつて、寒冷かんれい空氣くうきため陸稻をかぼ特色とくしよくあらはして切口きりくちからたちまちに罅割ひゞわれになつてかた乾燥かんそうした。

だんだん焼いて膨れても、外側は歯茎を痛めるほどこわばって来た。

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だん/\いてふくれても外側そとがは齒齦はぐきいためるほどこはばつてた。

卯平はその一つさえ満足に飲み下そうとするには、むしろ粗いぽろぽろな飯よりも容易でなかった。

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卯平うへいの一つさへ滿足まんぞくくださうとするにはむし粗剛こはいぼろ/\なめしよりも容易よういでなかつた。

そうなってからは、勘次は尽きるまでよく焼いた。

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さうなつてからは勘次かんじきるまでいた。

卯平はむっつりとして、額に深く刻んだ大きな皺をむずかしそうに動かしては、硬い餅をなめた。

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卯平うへいはむつゝりとしてひたひふかきざんだおほきなしわむづ敷相しさううごかしてはかたもちしやぶつた。

卯平の膳には、冷たくなった餅が必ず残された。

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卯平うへいぜんにはつめたくつたもち屹度きつとのこされた。

腹を減らして学校から帰って来る与吉が、いつでもそれをかじるのであった。

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はららして學校がくかうからかへつて與吉よきち何時いつでもそれをかじるのであつた。

勘次はまた、蕎麦を打ったことがあった。

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勘次かんじまた蕎麥そばつたことがあつた。

彼はとろろあおいの粉をつなぎにして打った。

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かれ黄蜀葵ねりつなぎにしてつた。

彼はまた、おつぎへ注意をして、よくはゆでさせなかった。

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かれまたおつぎへ注意ちういをしてくはでさせなかつた。

手桶の冷たい水でさらした蕎麦は、杉箸のように太いのに、とろろあおいの特色の硬さと滑らかさとで、椀から躍り出しそうになるのであった。

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手桶てをけつめたいみづさらした蕎麥そば杉箸すぎはしのやうにふといのに、黄蜀葵ねり特色とくしよくこはさとなめらかさとでわんからをどさうるのであつた。

とろろあおいはよく畑の周りに作られて、短い茎には暑い日に大きな黄色い花を開く。

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黄蜀葵ねりはたけ周圍まはりつくられてみじかくきにはあつおほきな黄色きいろはなひらく。

その根を乾かして粉にして入れれば、蕎麦の分量がめっきり増えるというので、腹いっぱいになる程度において、ひたすら食べ物の少ないことのみを望んでいる勘次は、毎年作って必ずそれを用いつつあった。

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乾燥かんさうしてにしてれゝば蕎麥そば分量かさ滅切めつきりえるといふので、滿腹まんぷくする程度ていどおいては只管ひたすら食料しよくれう少量せうりやうなることのみをのぞんで勘次かんじ毎年まいねんつくつて屹度きつとそれをもちひつゝあつた。

卯平の歯茎には、蕎麦が滑ってかめなかった。

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卯平うへい齒齦はぐきには蕎麥そばすべつてめなかつた。

「爺さんにはうまくあるまい。おとっつあんはもっと丁寧に打てばいいのに、粗忽だから」

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ぢいがにや佳味うまかあんめえ、おとつゝあはまつと丁寧ていねいてばえゝのに疎忽敷そゝつかしいから」

おつぎは、どうかすると椀から落ちそうになる蕎麦をすすりながら、卯平の手元を見て言った。

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おつぎはどうかするとわんからさうになる蕎麥そばすゝりながら卯平うへいもとをていつた。

「どうせおれは、うまくたってそんなに減るほどでも食うわけじゃなし、構いやしないが」

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「どうせらあ、佳味うめえつたつてさうだにほどでもふべぢやなし、かまやしねえが」

卯平は皮肉らしい口調で言った。

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卯平うへい皮肉ひにくらしい口調くてうでいつた。

勘次はただ黙って、むしゃむしゃとまずそうにかんだ。

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勘次かんじたゞだまつてむしや/\と不味相まづさうんだ。

こうしている間に春の彼岸が来て、日なたの垣根には耳菜草やその他の雑草が勢いよく出しはじめて、桑畑のうね間には冬を越したなずなが線香のような薹をもたげて、その先に砕け米に似た花を集めた。

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うしてあひだはる彼岸ひがん日南ひなた垣根かきねには耳菜草みゝなぐさその雜草ざつさういきほひよくだして桑畑くはばたけ畦間うねまにはふゆしたなづな線香せんかうやうたうもたげて、さき粉米こごめはなあつめた。

そっけない杉の木までが、どこから枝であるやらはっきりとは区別もつかないような、しかも焼けたかと思うほど赤くなっている葉先に、ざらりとつぼみがついてこっそりと咲いてしまった。

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そつけないすぎまでが何處どこからえだであるやら明瞭はつきりとは區別くべつもつかぬやうしかけたかとおもほどあかつて葉先はさきにざらりとつぼみいてこつそりといてしまつた。

寂しい中にも、春らしい空気がすべての物を揺るがした。

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さびしいうちにもはるらしい空氣くうきすべてのものうごかした。

日はまだ南を低く渡りながら、暖かい光を投げる。

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はまだみなみひくわたりながらあたゝかいひかりげる。

たまたま夜の雨がやんで、ふうわりと柔らかな空が青く割れて、やや昇ったその暖かな日が斜めに差しかけると、枯れた桑畑から、青い麦畑から、すべてから、湿った布を火にかざしたように凝った水蒸気が、見渡すかぎり白くほかほかと立ち上って、低く一帯に地を覆うことがあった。

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たまたまよるあめんでふうわりとやはらかなそらあをれてやゝのぼつたそのあたゝかななゝめけると、れた桑畑くはばたけから、あを麥畑むぎばたけから、すべてからしめつたぬのかざしたやうにつた水蒸氣すゐじようき見渡みわたかぎしろくほか/\とのぼつてひくく一たいおほふことがあつた。

卯平は村に帰ってから、昔の仲間の間へ再び加わって、念仏衆の一人になった。

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卯平うへい村落むらかへつてから往年むかし伴侶なかまあひだふたゝくはゝつて念佛衆ねんぶつしゆうの一にんになつた。

家にあっては孫の守をしたりして、どうしても独り離れたようになっているめいめいが、のんきに、そうして放埒なことを言い合って騒ぐので、念仏堂はただ愉快な場所であった。

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いへつてはまごもりをしたりしてどうしてもひとりはなれたやうつて各自てんで暢氣のんきにさうして放埓はうらつなことをうてさわぐので念佛寮ねんぶつれうたゞ愉快ゆくわい場所ばしよであつた。

彼岸へかけては、ことに毎日愉快であった。

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彼岸ひがんけてはこと毎日まいにち愉快ゆくわいであつた。

どこの家からもそれ相応に、仏へと言って供えるごちそうに飽いて、卯平ははじめて満足した口を拭うことができたのであった。

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何處どこうちからもそれ相應さうおうほとけへというてそなへる馳走ちさういて卯平うへいはじめて滿足まんぞくしたくちぬぐふことが出來できたのであつた。

卯平はだんだん時候が暖かくなるにつれて、体ものんびりとして、案じていた病気の悩みも少しずつ薄らいだ。

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卯平うへい段々だん/\時候じこうあたゝかくるにれて身體からだものんびりとしてあんじて病氣びやうきなやみもすこしづつうすらいだ。

彼は手元のすべてが不自由だらけな生活に戻って来たとはいうものの、衰えた体を自分から毎夜苛めるように引き立てている奉公の務めをしていた当時と比べて、むしろ相反した気ままな日々が、自然に心にも体にも急激な休養を与えたので、彼は自分ながら一時はげっそりと衰えたようにも思われて、けだるさに堪えられないようになったが、それでもその休養のためにいくらかずつでも持病の苦しみが減ったので、そういう理由を知らない彼は、この分では二、三年はまだ野田にいたほうがましであったと、後悔の念が湧くこともあった。

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かれもとのすべてが不自由ふじいうだらけな生活せいくわつかへつてたとはいふものゝおとろへた身體からだ自分じぶんから毎夜まいよいぢめるやうてゝ奉公ほうこうつとめをして當時たうじくらべて、むしあひはんした放縱はうじう日頃ひごろ自然しぜん精神せいしんにも肉體にくたいにも急激にはか休養きうやうあたへたのでかれ自分じぶんながら一はげつそりとおとろへたやうにもおもはれて、ものうさにへぬやうつたがそれでも休養きうやうためいくらづゝでも持病ぢびやうくるしみをげんじたので、さういふ理由わけらないかれは、ぶんでは二三ねんはまだ野田のだはうしであつたと後悔こうくわいねんくこともあつた。

季節は、雨に湿った土へまれにかっと暑い日の光が投げられて、日の帰った後の空が丈夫な百姓の肌にさえぞくぞくと空気の冷ややかさを感じさせて、さらにじめじめと霧のような雨が斜めに降りかけては、柔らかに首をもたげはじめた麦の穂の芒に細かな水の玉を宿して、白い穂先をさらに白くして、世間がただ湿っぽくなったかと思うと、またかっと日の光が差して、がらんと明るくなって、畑にはしどろに倒れかけたえんどうの花も、心よげに首をもたげて微笑する。

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季節きせつあめしめつたつちまれにかつとあつひかりげられて、日歸ひがへりのそら強健きやうけん百姓ひやくしやう肌膚はだにさへぞく/\と空氣くうきひやゝかさをかんぜしめて、さらにじめ/\ときりのやうなあめなゝめけてはやはらかにくびもたげはじめたむぎのげ微細びさい水球すゐきう宿やどしてしろ穗先ほさきさらしろくして世間せけんたゞしめつぽくつたかとおもふと、またかつとひかりして、空洞からりあかるくつてはたけにはしどろにたふかけ豌豆ゑんどうはなこゝろよげにくびもたげて微笑びせうする。

そうすると、畑を包む遠い近い林には、若葉の隙間からわずかな日の光が、また柔らかな、そうしてやや深い草の上にぽつりぽつりと明るくのぞき込んで、松の木からはみんみん蝉のような松蝉の声が、くすぐったいほど人の鼓膜に軽く響いて、すべての心を突き動かす。

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さうするとはたつゝとほちかはやしには嫩葉わかば隙間すきまからすくなひかりがまたやはらかなさうしてやゝふかくさうへにぽつり/\とあかるくのぞこんで、まつからはみんみんぜみやう松蝉まつぜみこゑくすぐつたいほどひと鼓膜こまくかるひゞいてすべてのこゝろ衝動しようどうする。

卯平も、ほかの百姓に誘われたように、ただその身をじっとさせてのみはいられなかった。

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卯平うへい百姓ひやくしやうさそはれたやうにたゞその凝然ぢつとさせてのみはられなかつた。

他人に倍して忙しい勘次が、だんだんに減りつつある俵の中身を苦にして、ひどい目つきをしながら戸口を出入りするのを、卯平は見るのがいやで、かつつらかった。

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他人ひとばいしてせはしい勘次かんじがだん/\にりつゝあるたわら内容ないようにしてひどをしつゝ戸口とぐち出入でいりするのを卯平うへいるのがいやかつつらかつた。

それで彼は、そこらここらと他人の仕事を求めて歩いたのであった。

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それでかれ其處そこ此處ここらと他人たにん仕事しごともとめてあるいたのであつた。

卯平は見るからに不器用な様子をしていて、恐ろしく手先の業の器用な生まれつきであった。

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卯平うへいるから不器用ぶきよう容子ようすをしてて、おそろしく手先てさきわざ器用きよう性來たちであつた。

それで彼は仕事に出るとなってからは、方々へ雇われてよく俵を編んだ。

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それでかれ仕事しごとるとつてからは方々はう/″\やとはれてたわらんだ。

麦俵も、それから堆肥を入れて運ぶ肥俵も編んだ。

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麥俵むぎだわらもそれから堆肥つみごえれてはこ肥俵こやしだわらんだ。

ゆっくりと、しかも絶え間なく手を動かしては、時々好きな煙草を吸って、少し口を開いたまま煙管の吸い口をこけた頬に当て、深い考えにでも悩んだように、ただじっとしている。

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ゆつくりとしかひまなくうごかしては時々とき/″\すき煙草たばこうてすこくちいたまゝ煙管きせる吸口すひくちをこけたほゝあてふかかんがへにでもなやんだやうたゞ凝然ぢつとしてる。

煙は口から少しずつ漏れて、鼻を伝って上る。

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けぶりくちからすこしづゝれてはなつたひてあがる。

彼は煙が上るたびに窪んだ黄色い目をしかめるようにして、気づいたように吸い殻を手のひらに吹くのである。

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かれけぶりあがたびくぼんだ黄色きいろしがめるやうにして、こゝろづいたやう吸殼すひがらひらくのである。

彼はこうしてきわめてゆったりと手を動かすようでありながら、それでも雇われた先でその日の食い扶持はしてもらうので、相応な銭を得つつあるのであった。

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かれはかうしてきはめて悠長いうちやううごかすやうでありながら、それでもやとはれたさき扶持ふちはしてもらふので、相應さうおうぜにつゝあるのであつた。

卯平は夏になれば、どこでも忙しい麦扱きや陸稲の草取りに雇われた。

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卯平うへいなつになれば何處どこでもいそがしい麥扱むぎこき陸稻をかぼ草取くさとりやとはれた。

彼は自分の村を離れて、五日も六日も泊まっていて帰らないことがある。

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かれ自分じぶん村落むらはなれて五も六とまつてかへらぬことがある。

卯平には、先から先と歩いていることが、かえって幸いであった。

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卯平うへいにはさきからさきあるいてることがかへつさいはひであつた。

彼は鬼怒川の高瀬舟の船頭の着物かと思うような、よくもよくも継ぎだらけな、それも自分の手で繕って清潔に洗いざらした仕事着を裾長に着て、手拭いをかぶって、暑い庭に小麦を叩いているのを、そこここに見ることがある。

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かれ鬼怒川きぬがは高瀬船たかせぶね船頭せんどう衣物きものかとおもやうくも/\ぎだらけな、それも自分じぶんつくろつて清潔きれいあらざらした仕事衣しごとぎ裾長すそながて、手拭てぬぐひかぶつてあつには小麥こむぎたゝいてるのを其處そこ此處ここることがある。

横に転がした臼を前に据えて、小麦をつかんでは穂先をその臼の腹に叩きつけると、種がぽろぽろと向こうへ落ちる。

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よこころがしたうすまへゑて小麥こむぎつかんでは穗先ほさきうすはらたゝきつけるとたねがぼろ/\とむかふちる。

のっそりとしてゆったりした卯平は、若いころに慣れた仕事の呼吸で、大きな手が肩から打ち下ろす時、まだ相応にはかどるのであった。

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のつそりとして悠長いうちやう卯平うへい壯時さうじじゆくして仕事しごと呼吸こきふおほきなかたからおろとき、まだ相當さうたうはかどるのであつた。

彼はこうしてぐるぐると雇われて歩きながら、きれいな花が咲いているのを見ると、種をもらったり根分けをしてもらったりして、庭先の栗の木のそばや井戸端の近くに植えた。

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かれうしてぐる/\とやとはれてあるきながら綺麗きれいはないてるのをるとたねもらつたり根分ねわけをしてもらつたりして庭先にはさきくりそば井戸端ゐどばたちかゑた。

彼は忙しい仕事が終わりになった時、すなわち稲刈りから稲扱きから、そうしてもみすりも済んで、彼が得意の俵編みもなくなって、世間がげっそりと寂しく沈んだ時に、彼は急に勘次と別の住まいがしたくなった。

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かれいそがしい仕事しごとしまひになつたときすなは稻刈いねかりから稻扱いねこきからさうしてもみすりもんでかれ得意とくい俵編たわらあみもなくなつて、世間せけんがげつそりとさびしくしづんだときかれきふ勘次かんじべつまひがたくなつた。

彼は少しばかり余してあった蓄えから、虫食いでも何でも柱になる木やら粟殻やらを求めて、家の横手へ小さな、二間四方くらいな掘っ立て小屋を建てる計画をした。

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かれすこしばかりあましてあつたたくはへからむしくひでもなんでもはしらになるやら粟幹あはがらやらをもとめて、いへ横手よこてちひさな二けんはうぐらゐ掘立小屋ほつたてごやてる計畫けいくわくをした。

彼は寒い西風をいとって、ほとんど勘次の家と接して東脇へ建てようとした。

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かれさむ西風にしかぜいとうてほとん勘次かんじうちあひせつして東脇ひがしわきたてようとした。

勘次はもとより自分の懐が目に見えて減るのでもなし、それについてはけっして陰で呟くことはなかった。

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勘次かんじもとより自分じぶんふところえてるのでもなし、それについてはけつしてかげつぶやくことはなかつた。

簡単な普請には大工が少し鑿を使っただけで、その他は近所の人々が手伝ったので、仕事はただ一日で終わった。

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簡單かんたん普請ふしんには大工だいくすこのみ使つかつただけその近所きんじよ人々ひと/″\手傳てつだつたので仕事しごとたゞにちをはつた。

長いかさばった粟殻で手薄く葺いた屋根は、これも職人の手を借りなかった。

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なが嵩張かさばつた粟幹あはがら手薄てうすいた屋根やねれも職人しよくにんらなかつた。

必要な縄は、卯平が丈夫になっておいた。

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必要ひつえうなは卯平うへい丈夫ぢやうぶつていた。

それから壁を塗るのには、間を置いて二、三日かかった。

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それからかべるのにはあひだいて二三にちかゝつた。

勘次もさすがに労力を惜しまなかった。

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勘次かんじ有繋さすが勞力らうりよくをしまなかつた。

彼は粟殻が葺き上げられた次の日から、二、三日近所の馬を借りて、田の傍らの畑から土を運んだ。

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かれ粟幹あはがらげられたぎのから二三にち近所きんじようまりてそばはたけからつち運搬けた。

畑にはその時、麦が青く生えていたが、それでも持ち主は、畑が減るだけ田の面積が増すわけなのと、土の分量も格別のことでないのとで、切り取ることを拒まなかった。

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はたけにはときむぎあをえてたが、それでも持主もちぬしはたけるだけ面積めんせき理由わけなのと、つち分量ぶんりやう格別かくべつことでないのとでることをいなまなかつた。

庭へ下ろした土には、ちらりちらりと青い麦の柔らかな葉が交じっていた。

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にはおろしたつちにはちらり/\とあをむぎやはらかなまじつてた。

勘次は夕方になって馬を返しながら、一日の餌として、おつぎに煮させた麦をざるへ入れて、それから刻んだ藁も添えてやった。

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勘次かんじ夕方ゆふがたつてうまかへしながら、一にち餌料ゑさとしておつぎにさせたむぎざるれて、それからきざんだわらへてやつた。

勘次はそのついでに、余計な藁を切った。

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勘次かんじついで餘計よけいわらつた。

土は終わりの日の夕方に、周りに土手のような輪をこしらえて、そこに水を打ってはぐちゃぐちゃと足でこねながら、刻んだ藁をまいては踏み込んで、そうして一晩置いた。

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つちしまひ夕方ゆふがた周圍しうゐ土手どてのやうなこしらへて其處そこみづつてはぐちや/\とあしねながらきざんだわらいてはんでさうして一ばんいた。

そういう間に卯平は、なたで篠を幾つかに裂いて、柱と柱との間へ壁の下地に細かな格子目を編んでいた。

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さういふあひだ卯平うへいなたしのいくつかにいてはしらはしらとのあひだかべ下地したぢこまかな格子目かうしめんでた。

篠は東隣の主人に請うて、真竹に交じったのを後ろの林から伐ったのである。

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しの東隣ひがしどなり主人しゆじんからうて苦竹まだけまじつたのをうしろはやしからつたのである。

次の日、土はよく水を引いていて、程よくこねられた。

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つぎつちみづいてほどよくねられた。

勘次はおつぎにその泥をたらいへ運ばせておいて、不器用な手元で塗った。

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勘次かんじはおつぎにどろたらひはこばせていて不器用ぶきようもとでつた。

卯平はなおも、篠で編み残した箇所をこしらえていた。

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卯平うへいなほしののこした箇所かしよこしらへてた。

塗りたての壁は、狭苦しい小屋の内側を湿っぽく、かつ暗くした。

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りたてのかべ狹苦せまくるしい小屋こや内側うちがはしめつぽくかつくらくした。

壁の土のだんだんに乾くのが待ち遠しくて、卯平は毎日床の上のむしろに座って火を焚いた。

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かべつち段々だん/\かわくのが待遠まちどほ卯平うへい毎日まいにちゆかうへむしろすわつてたいた。

彼は近ごろになってから毎日のように林を歩いては、そだを背負って来て、折っては焚き折っては焚きしていた。

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かれ近頃ちかごろつてから毎日まいにちやうはやしあるいては麁朶そだ脊負せおつてつてはつてはきしてた。

壁を塗る時に格子目から内側へめくれ出た泥の一つ一つが、だんだんに白っぽく乾いて明るくなった時、勘次はまた内側から塗って、めくれて出た一つ一つを一帯に隠した。

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かべとき格子目かうしめから内側うちがはくれどろの一つ/\がだん/\にしろつぽくかわいてあかるくつたとき勘次かんじまた内側うちがはからつてまくれてた一つ/\を一たいかくした。

卯平は掘っ立て小屋を建てるとなったら、勘次がこれまでになく油が乗ったように威勢よく仕事をしてくれるのを、何となく嬉しく思ってみたが、それでも仕事をしながらしみじみ口を利くのでもなければ、毎日膳を並べると必ずひがんだような顔をされるので、卯平は一日も早く別になってみたい心から、さらに塗った壁のために再び暗くなった小屋の明るくなるのが、じれったさに堪えられないのであった。

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卯平うへい掘立小屋ほつたてごやてるとなつたら勘次かんじまでになくあぶらつたやう威勢ゐせいよく仕事しごとをしてくれるのをなんとなくうれしくおもつてたが、それでも仕事しごとをしながらしみ/″\くちくのでもなければ、毎日まいにちぜんならべると屹度きつとひがんだやうなかほをされるので、卯平うへいは一にちはやべつつてたいこゝろからさらつたかべためふたゝくらくなつた小屋こやあかるくるのが遲緩もどかしさにへぬのであつた。

卯平は狭いながらにどうにか土間もこしらえて、そこへは自在鉤を一つ吊して、蔓のある鉄瓶を掛けたり小鍋を掛けたりすることができるようにした。

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卯平うへいせまいながらにどうにか土間どまこしらへて其處そこへは自在鍵じざいかぎひとつるしてつるのある鐵瓶てつびんかけたり小鍋こなべけたりすることが出來できやうにした。

彼は勘次からいくらかずつの米や麦を分けさせて、別居した当座は自分の手で煮炊きをした。

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かれ勘次かんじからいくらかづゝのこめむぎけさせて別居べつきよした當座たうざ自分じぶん煮焚にたきをした。

それがかえって気楽で、そうして少しずつは彼の舌にうまく感じる程度の物を求めて来ることができた。

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それがかへつ氣藥きらくでさうしてすこしづゝはかれした佳味うまかんずる程度ていどものもとめてることが出來できた。

しかしそうしていても、寒さが非常に厳しい時は、彼はただ狭苦しい小屋の中でそだを少しずつ折ってくべるよりも、比較的広いかまどの前で、横に転がした大かごからがさがさと木の葉をかき出して、ぼうぼうと炎を立てて暖まりたい心持ちがするのであった。

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しかしさうしててもさむさが非常ひじやうきびしいときかれたゞ狹苦せまくるしい小屋こやなか麁朶そだすこしづつべるよりも比較的ひかくてきひろかまどまへよこころがした大籠おほかごからがさ/\としてぼう/\とほのほてゝあたゝまりたい心持こゝろもちがするのであつた。

それで彼は勘次の留守には、かまどの前でゆったりと木の葉を焚いて、顔や手足の皮が焼けたように赤くなるまで当たった。

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それでかれ勘次かんじ留守るすにはかまどまへ悠長いうちやういてかほ手足てあしかはけたやうあかくなるまであたつた。

勘次は時々、持ち込んだそだや木の葉がわけもなく減っていることを知って、不快な感じを抱いてはこっそりと呟きながら、おつぎに当たるのであった。

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勘次かんじ時々とき/″\んだ麁朶そだ理由わけもなくつてることをつて不快ふくわいかんいどいてはこつそりとつぶやきつゝおつぎにあたるのであつた。

卯平はしばらく隠居に落ち着いてからは、一銭ずつでも懐をこしらえねばならないという決心から促されて、毎日煙管を横にくわえては、ゆったりとではあるが、しかも絶え間なく縄をちよりちよりとなったり、それから草鞋を作ったりした。

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卯平うへいしばら隱居いんきよ落付おちついてからは一せんづゝでもふところこしらへねばならぬといふ決心けつしんからうながされて、毎日まいにち煙管きせるよこくはへては悠長いうちやうではあるが、しか間斷かんだんなくなはをちより/\とつたり、それから草鞋わらぢつくつたりした。

彼は原料の藁を勘次に求めずに、五銭か十銭くらいずつ懐の銭を出して、よく選んだ藁をそこここで買って、穂先の所を持っては肩から打ちかけて、がさがさと背負って来るのである。

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かれ原料げんれうわら勘次かんじ要求えうきうせずに五せんか十錢位せんぐらゐづゝ懷錢ふところせんしてすぐつたわら其處そこ此處こゝつて、穗先ほさきところもつてはかたからけてがさ/\と背負せおつてるのである。

藁の小さな決まった束は、一把はたいてい一銭ずつであった。

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わらちひさなきまつたたばが一大抵たいていせんづゝであつた。

その一把の藁が、縄にすれば二房半くらいで、草鞋にすれば五足は仕上がるのであった。

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の一わらなはにすれば二房半位ばうはんぐらゐで、草鞋わらぢにすれば五そく仕上しあがるのであつた。

それで彼の一日の仕事は、縄ならば二十房の大束が一把、草鞋ならば五足というところなので、一房の縄が七銭五毛で、一足の草鞋が一銭五厘という相場だから、どっちにしても一日熱心に手を動かせば、彼は六、七銭のもうけを得るのである。

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それでかれの一にち仕事しごとなはならば二十ばう大束おほたばが一草鞋わらぢならば五そくといふところなので、一ばうなはが七せんまうで一そく草鞋わらぢが一せんりんといふ相場さうばだからどつちにしても一にち熱心ねつしんうごかせばかれは六七せんまうけるのである。

卯平が求める副食物は、一日わずかに二銭もあれば十分なので、彼は毎日藁を使っていれば四、五銭ずつの余りを得るわけではあるが、品物を商いに出る日を別にしても、気が乗らないと言っては朝からごろりと転がっていることもあるので、平均してみると一日がいくらにもならないのであった。

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卯平うへいもとめる副食物ふくしよくもつは一にちわづかに二せんもあれば十ぶんなのでかれ毎日まいにちわら使つかつてれば四五せんづつの剰餘じようよ理由わけではあるが、品物しなものあきなひにべつにしてもらないといつてはあさからごろりところがつてることもあるので平均へいきんしてると一にちいくらにもらないのであつた。

しかしそれだけでさえ、卯平は始終財布の銭が出入りするのを心強く思うのであった。

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しかだけでさへ卯平うへい始終しじう財布さいふぜに出入でいりするのを心丈夫こゝろぢやうぶおもふのであつた。

勘次はむっつりとした卯平の戸口をのぞいたこともないが、卯平がすぐに来ても来なくても、飯のできた時に呼びに行くのはおつぎであった。

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勘次かんじはむつゝりとした卯平うへい戸口とぐちのぞいたこともないが、卯平うへいすぐてもなくてもめし出來できときびにくのはおつぎであつた。

卯平は熱心に藁仕事をする時は、自分で炊事をするのは時間がひどく惜しくもなったり、面倒にもなったり、ただ独りのみでぽつんとしていると情けなくもなったりするので、ふだんは再び一同といっしょに箸を取ることにしたのである。

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卯平うへい熱心ねつしん藁仕事わらしごとをするとき自分じぶん炊事すゐじをするのは時間じかんひどしくもつたり、面倒めんだうにもつたり、たゞひとりのみで㷀然ぽつさりとしてるとなさけなくもなつたりするので、平生へいぜいふたゝ一同みんなと一しよはしることにしたのである。

彼はおつぎがてきぱきと一言でも言ってくれるたびに、そのひがもうとする心がどれほど和らげられるか知れないのである。

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かれはおつぎがはき/\と一言ひとことでもいうてれるごとひがまうとするこゝろがどれほどやはらげられるかれないのである。

彼は草鞋を作るとて、四筋の縦縄に柔らかな藁をうねうねと通しては、その縄の間に指を入れてぎっと前へ引き締める、かすかな動きの間にも、彼は勘次に対して口にも振る舞いにも出せない忌々しさが、心の底に勃々と首をもたげはじめることもあるのであったが、おつぎの言葉はいつでも、その火を消し止める一杯の水なのであった。

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かれ草鞋わらぢつくるとて四すぢ竪繩たてなはやはらかなわらをうね/\ととほしてはなはあひだゆびれてぎつとまへめるかすかな運動うんどうあひだにもかれ勘次かんじたいしてくちにも擧動きよどうにもせぬ忌々敷いま/\しさがこゝろそこ勃々むか/\くびもたはじめることもあるのであつたが、おつぎの言辭ことばはいつでもめる一ぱいみづなのであつた。

おつぎは、どうかすると目のあたりにあるそばかすが一種の色気をつくって、甘えたような口の利き方をするのであった。

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おつぎはどうかするとへん雀斑そばかすが一しゆ嬌態しなつくつてあまえたやうなくち利方きゝかたをするのであつた。

おつぎは勘次のいない時は、雌鶏がけたたましく鳴いて出れば、すぐにねぐらをのぞいて暖かい卵の一つを採って、卯平のむしろへ転がしてやることもあった。

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おつぎは勘次かんじないとき牝鷄めんどり消魂けたゝましくいてればぐにとやのぞいてあたゝかいたまごひとつをつて卯平うへいむしろころがしてやることもあつた。

おつぎは勘次の素早い目を欺くには、これだけの深い注意を払わなければならなかった。

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おつぎは勘次かんじ敏捷びんせふあざむくにはこれだけのふか注意ちういはらはなければならなかつた。

それもまれなことで、数は必ず一つに限られていた。

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それもまれなことでかずかならひとつにかぎられてた。

しかし卯平は、そのわずかな厚意に対して窪んだ茶色の目をしかめるようにして、洗いもしない殻の両端に小さな穴を開けてすするのであった。

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しか卯平うへい僅少きんせう厚意こういたいしてくぼんだ茶色ちやいろしがめるやうにして、あらひもせぬから兩端りやうはしちひさなあな穿うがつてすゝるのであつた。

彼はおつぎの意中をよく分かっているので、その吸い殻はけっして目につく所へは捨てないで、細かく押し揉んで、外へ出るついでに他人の垣根の中などへ放り捨てた。

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かれはおつぎの意中いちうかいしてるので吸殼すひがらけつしてにつくところへはてないでこまかにんでそとついで他人たにん垣根かきねなかなどへ放棄ほうつた。

それからもう一つ、ひがもうとする彼の心を爽やかにするのは与吉であった。

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それからも一つひがまうとするかれこゝろさわやかにするのは與吉よきちであつた。

とうに甘えきっている与吉は、卯平の戸口に立ち塞がっては銭を請うた。

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とうからあまつて與吉よきち卯平うへい戸口とぐちふさがつてはぜにうた。

狭い戸口は、与吉の小さな体でさえ、卯平の藁をいじっている手元を薄暗くした。

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せま戸口とぐち與吉よきちちひさな身體からだでさへ卯平うへいわらをいぢつてもとを薄闇うすぐらくした。

卯平は藁屑と一つに投げ出してある胴乱から、五厘の銅貨を出してやるのが常であるが、与吉は自分で銭を出そうとして、胴乱の大きな金具が容易に開かないので、怒って投げ出してみたり、卯平へすがったりした。

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卯平うへい藁屑わらくづと一つに投出なげだしてある胴亂どうらんから五りん銅貨どうくわしてやるのがれいであるが、與吉よきち自分じぶんぜにさうとして胴亂どうらんおほきな金具かなぐ容易よういかないのでおこつてしてたり、卯平うへいすがつたりした。

卯平はわざと与吉に倒されて、転がることもあった。

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卯平うへいわざ與吉よきちたふされてころがることもあつた。

勘次は与吉が卯平から銭をもらうことを知ってから、ただでさえめったにくれたことのない彼は、けっして一度も与えることがなかった。

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勘次かんじ與吉よきち卯平うへいからぜにもらふことをつてからたゞさへ滅多めつたにくれたことのないかれけつして一あたへることがなかつた。

卯平はそれを知ってさえ、与吉に求められることが、かえって彼のためにはどれほどの慰めであるか知れないのであった。

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卯平うへいはそれをつてさへ與吉よきち要求えうきうされることがかへつかれためにはどれほど慰藉ゐしやであるかれないのであつた。

卯平は惨めな隠居に移るまでには、野田から持って来た少しばかりの蓄えは、いくらも財布に残ってはいなかった。

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卯平うへい悲慘みじめ隱居いんきようつるまでには野田のだからつてすこばかりのたくはへはいくらも財布さいふのこつてはなかつた。

彼はにわかに思い出したように一日熱心に仕事にかかりきってみたり、また勘次に対する自棄から酒も飲んでみたりした。

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かれにはかおもしたやうに一にち熱心ねつしん仕事しごと屈託くつたくしてたり、また勘次かんじたいする自棄やけからさけんでたりした。

酒といっても知れた分量であるが、それでも藁一筋ずつを刻んで行く仕事のもうけにのみ頼る彼の懐を悲しくした。

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さけといつてもれた分量ぶんりやうであるが、それでもわら一筋ひとすぢづつをきざんで仕事しごとまうけにのみ手頼たよかれふところかなしくした。

卯平はそんなはかない仕事でも、彼の体が滞りなく、また勘次との間が和らいでいるならば、彼は好きなコップ酒の一杯を傾けるついでに、酒を瓶に買って勘次に与えることさえ不自由を感じもしなければ、惜しむこともないのであった。

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卯平うへい其麽そんな果敢はかない仕事しごとでも、かれ身體からだとゞこほりなくまた勘次かんじとのあひだ融和ゆうわされてるならばかれきなコツプざけの一ぱいかたむけるついでに、さけびんかつ勘次かんじあたへることさへ不自由ふじいうかんじもしなければ、しむこともないのであつた。

勘次も疲れた日の夕方には、唐鍬を村の店の軒下へ下ろして一杯を傾けて来るのであるが、かつて自分の家に運んだこともなければ、臭い息を吐く間は卯平へ顔を合わせたこともなかった。

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勘次かんじ疲勞ひらうした夕方ゆふがたには唐鍬たうぐは村落むらみせ軒下のきしたおろして一ぱいかたむけてるのであるが、かつ自分じぶんうちはこんだこともなければくさいきあひだ卯平うへいかほあはせたこともなかつた。

卯平は腰の痛みに悩まされて、余計にかさかさと乾びてこわばっている手を動かしにくくなると、彼は一塊の炭火もない火鉢を枕元に置いて、じっと布団をかぶったままである。

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卯平うへいこし疼痛いたみなやまされて、餘計よけいにかさ/\とからびてこはばつてうごかしがたくなるとかれは一くわいおきもない火鉢ひばち枕元まくらもといて凝然ぢつ蒲團ふとんかぶつたまゝである。

彼はそうでなくても、かつててきぱきと口を利いたこともなく、ことさら勘次に対しては皺びた顔の筋肉をさらにしかめているので、こうしてじっとしていることをも、勘次はリューマチが悩ませているのだとは知らないで、むしろ老人にありがちな倦怠に伴う眠りをむさぼっているのだろうくらいに見るのであった。

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かれはさうでなくてもかつてはき/\とくちいたこともなく、殊更ことさら勘次かんじたいしてはしなびたかほ筋肉きんにくさらしがめてるので、うして凝然ぢつとしてることをも勘次かんじ僂麻質斯レウマチスなやましてるのだとはらないで、むし老人らうじん通有つういう倦怠けんたいともな睡眠すゐみんむさぼつてるのだらうぐらゐるのであつた。

枕元の火鉢は、戸口からでは彼の薄い白髪の頭を覆っていた。

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枕元まくらもと火鉢ひばち戸口とぐちからではかれうす白髮しらがあたまおほうてた。

彼はそうかと思うと、起きて一心に草鞋を作ることがある。

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かれはさうかとおもふときて一しん草鞋わらぢつくることがある。

彼の仕事は老いて面倒なようであるが、その生まれつきの器用は失われなかった。

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かれ仕事しごと老衰らうすゐして面倒めんだうやうであるが、天性てんせい器用きよううしなはれなかつた。

彼は五足ずつを一つに束ねた草鞋と、それから縄が一荷物になると、大風呂敷で背負って出た。

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かれは五そくづつをひとつにたばねた草鞋わらぢとそれからなは一荷物ひとにもつると大風呂敷おほぶろしき脊負しよつてた。

それはたいてい暖かな日に限られていたのであったが、その時は彼の大きな体はきりりと帯を締めて、股引の上に高く尻をはしょって、まだ頼もしげにがっしりとして見えるのであった。

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それは大抵たいていあたゝかなかぎられてるのであつたが、そのときかれおほきな躯幹からだはきりゝとおびめて、股引もゝひきうへたかしり端折はしよつてまだ頼母たのもしげにがつしりとしてえるのであつた。

卯平はこうして仕事をしてみたり寝てみたり、それから自分で小鍋立てをするかと思えば、家族三人とともに膳へ向かったり、そばから見ている勘次には、気の知れない爺さんであった。

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卯平うへいうして仕事しごとをしてたりたり、それから自分じぶん小鍋立こなべだてをするかとおもへば家族かぞくにんともぜんむかつたり、そばから勘次かんじにはれぬぢいさんであつた。

卯平は時々塩鮭の一切れを古新聞紙の端へ包んで来ては、火鉢へ鉄の火箸を渡して、少しくすぶるそだの火で焼いた。

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卯平うへい時々とき/″\鹽鮭しほざけ一切ひときれ古新聞紙ふるしんぶんしはしつゝんでては火鉢ひばちてつ火箸ひばしわたして、すこいぶ麁朶そだいた。

彼は危ない手元で、間違って落としては灰にくるまっても、口でふうふうと吹いて手でばたばたと叩くのみで、洗うこともしなかった。

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かれ危險あぶなもとで間違まちがつておとしてははひにくるまつてもくちでふう/\といてでばた/\とたゝくのみであらふこともしなかつた。

じりじりと白く火箸へ焼きついた塩が、長く火箸に臭いを止めた。

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じり/\としろ火箸ひばしいたしほなが火箸ひばし臭氣しうきめた。

勘次は小屋で卯平が塩鮭を焼く匂いをかいでは、一種の刺激を感じるとともに、卯平を妬むような不快の念が、どうかするとつい起こった。

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勘次かんじ小屋こや卯平うへい鹽鮭しほざけにほひいでは一しゆ刺戟しげきかんずるととも卯平うへいにくむやうな不快ふくわいねんがどうかするとつひおこつた。

それだが卯平はまた、独りでむっつりと布団にくるまっている時は、父子三人の話がよく聞こえた。

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それだが卯平うへいまたひとりでむつゝりと蒲團ふとんにくるまつてとき父子おやこにんはなしきこえた。

彼は自分がいっしょにいる時は互いに隔てがありそうでいて、自分が離れるとにわかに睦まじそうに笑いさざめくもののように、彼は久しい前から思っていた。

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かれ自分じぶんが一しよときたがひへだてが有相ありさうて、自分じぶんはなれるとにはかむつまじさう笑語さゝやくものゝやうかれひさしいまえからおもつてた。

それを聞くと彼は一種の嫉妬を伴ったいやな心持ちになって、布団を深くかぶってみても何となく耳について、おつぎのちょっと甘えたような声や与吉の無遠慮な無邪気な声を聞くと、一方にはまた彼らの家族と一つになりたいような心持ちも起こるし、彼はじっと目を閉じているので頭の中が余計にもつれて、いろいろな状態がはっきりと目先にちらついて、しみじみと悲しいようになってみたりして、なおさらにリューマチの痛みがじりじりと自分の体を引き締めてしまうようにも感じられた。

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それくとかれは一しゆ嫉妬しつとともなうたいや心持こゝろもちつて、蒲團ふとんふかかぶつててもなんとなくみゝについて、おつぎの一寸ちよつとあまえたやうこゑ與吉よきち無遠慮ぶゑんりよ無邪氣むじやきこゑくと一ぱうにはまた彼等かれら家族かぞくと一つにりたいやうな心持こゝろもちおこるし、かれ凝然ぢつぢてるのであたまなか餘計よけい紛糾こぐらかつて、種々いろ/\状態じやうたい明瞭はつきり目先めさきにちらついてしみ/″\とかなしいやうつてたりして猶更なほさら僂麻質斯レウマチス疼痛いたみがぢり/\と自分じぶん身體からだ引緊ひきしめてしまやうにもかんぜられた。

彼はそういう時、おつぎでも与吉でも

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かれはさういふときおつぎでも與吉よきちでも

「爺さんよう」

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ぢいよう」

と呼んでくれれば、ふいとけだるい首をもたげて、明るい白昼の光を見ることによって、何とも知れない嬉しさに涙がいっぱいにあふれることもあるのであった。

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んでくれゝばふいとものうくびもたげてあかるい白晝はくちうひかりることによつてなんともれぬうれしさになみだが一ぱいみなぎることもあるのであつた。

おつぎはやかましく勘次に使われて、昼の間はわずかの暇もなかった。

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おつぎは八釜敷やかましく勘次かんじ使つかはれてひるあひだ寸暇すんかもなかつた。

夜がひっそりとするころは、おつぎはよく卯平の小屋へ来て、悩んでいる腰を揉んでやった。

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がひつそりとするころはおつぎは卯平うへい小屋こやなやんでこしんでやつた。

おつぎは卯平をいたわるには、いくら勘次がやかましくても、いちいち断りを言っては出なかった。

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おつぎは卯平うへいいたはるにはいく勘次かんじ八釜敷やかましくても一々ことわりをいうてはなかつた。

勘次は、おつぎがしばらくでもいなくなると、たとえ卯平のそばにいるとは知っても

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勘次かんじはおつぎが暫時しばしでもなくなると假令たとひ卯平うへいそばるとはつても

「おつう」

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「おつう」

と例のように激しく怒鳴ってみるのである。

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いつものやうにはげしく呶鳴どなつてるのである。

「ここにいたよ。そんなに呼ばれなくたっていいから。何だか、おとっつあんは」

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此處こゝたよ、そんなにばらなくつたつてえゝから、なんだかおとつゝあは」

おつぎの勘次を叱る声は柔らかで、そうしてはっきりと勘次の耳に響いた。

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おつぎの勘次かんじしかこゑやはらかでさうして明瞭めいれう勘次かんじみゝひびいた。

勘次は手ランプの光にただ目がひどく光るのみで、一言もなく息をひそめてしまうのである。

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勘次かんじランプのひかりたゞひどひかるのみで一ごんもなく屏息へいそくしてしまふのである。

彼はまたしばらくして大戸をがらりと勢いよく開けて出ては、また少し隙間を残して大戸を引いて、ちょうど中へ戻ったと見せて、ほとんど壁に接した卯平の戸口の近くに立ってみるのである。

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かれまたしばらくして大戸おほどをがらりといきほひよくけててはまたすこ隙間すきのこして大戸おほどいて丁度ちやうどうちかへつたとせて、ほとんどかべせつした卯平うへい戸口とぐちちかつてるのである。

手ランプもつけない卯平の狭い小屋の空気は、黒くしょんぼりとして死んだようである。

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ランプもけぬ卯平うへいせま小屋こや空氣くうきくろ悄然ひつそりとしてんだやうである。

勘次は抜き足して戻っては、できるだけ静かに戸を閉じる。

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勘次かんじあししてもどつては出來できるだけしづかぢる。

非常に不平な顔つきをしていても、勘次はおつぎが帰るとすぐに機嫌が直って

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非常ひじやう不平ふへい相形さうぎやうをしてても勘次かんじはおつぎがかへるとすぐ機嫌きげんなほつて

「お前はそんなに夜更かしするもんじゃない」

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りやそんなに夜更よふかしするもんぢやねえ」

と、いたわるようなたしなめるような調子で言ってみるのである。

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いたはるやうなたしなめるやうな調子てうしていつてるのである。

そうすると

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さうすると、

「明日の障りにでもなりゃしまいし、構うこともあるまいな、おとっつあんは」

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明日あしたさはりにでもりやしめえしかまあこたあんめえな、おとつゝあは」

と言って、おつぎは勘次を押さえつけてしまうのである。

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といつておつぎは勘次かんじしつけてしまふのである。

卯平は、おつぎが看病に来る時はたいてい

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卯平うへいはおつぎが看病かんびやうとき大抵たいてい

「お前はいいよ」

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りやえゝよ」

と言うのが常である。

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といふのがれいである。

彼は勘次に遠慮をするのではなくて、おつぎがぶつぶつ言われるのを心配するのであった。

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かれ勘次かんじ遠慮ゑんりよをするのではなくて、おつぎがぶつ/\いはれるのを懸念けねんするのであつた。

それでも卯平は、心ひそかにおつぎを待ちつつあった。

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それでも卯平うへいこゝろひそかにおつぎをちつゝあつた。

彼が悩まされたリューマチは、病気の性質として彼の頑丈な体からその命を奪い去るまでに力をたくましくすることはなく、起こったり和らいだりして、彼が帰ってから二度目の冬も一日一日と短い日を刻んで行った。

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かれなやまされた僂麻質斯レウマチス病氣びやうき性質せいしつとしてかれ頑丈ぐわんぢやう身體からだから生命せいめいうばるまでにちからたくましくすることはなく、おこつたりやはらいだりしてかれかへつてから二度目どめふゆ一日々々いちにち/\みじかきざんでつた。

狭苦しい掘っ立て小屋は、彼が最初に思い込んだほど、彼のために幸いな所ではなかった。

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狹苦せまくるしい掘立小屋ほつたてごやかれ當初はじめおもんだほどかれためさいはひところではなかつた。

一九

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一九

「ああ暑い暑い、何と暑いことかな」

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「おゝあつえ/\、なんちあつえこつたかな」

おつたは前駒の下駄を引きずって

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おつたは前駒まへこま下駄げたつて

「おやおやまあ、よくこうまあ、どこにも草っ葉一つなくて、見ても晴れ晴れとするようだ」

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「おや/\まあうなあ、何處どこにもくさだらひとつなくつて、ても晴々せえ/\とするやうだ」

と、わざとらしいように言って庭に立った。

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わざとらしいやうにいつてにはつた。

そうしてから

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さうしてから

「たんと穫れるだろうな、これじゃ。茎ばかりでもたいした出来だな」

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「たんとれべえなこんぢや、からばかしでもたえした出來できだな」

と言って、勘次の近くに歩を運んだ。

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といつて勘次かんじちかはこんだ。

勘次は庭先の栗の木の陰へ二つの臼を横に転がして、おつぎと二人で夏蕎麦を打っていた。

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勘次かんじ庭先にはさきくりかげふたつのうすよこころがしておつぎと二人ふたり夏蕎麥なつそばつてた。

夏蕎麦は小麦でも打つように、一つつかんでは肩から背負うようにして臼の腹へ叩きつけると、三角形の種がまだ少し青い葉とともに落ちて、ほとんど直射する日光を遮っている栗の木の陰から遠ざかって、はるかに先のほうまで転がって行く。

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夏蕎麥なつそば小麥こむぎでもやうひとつかんではかたから背負せおふやうにしてうすはらたゝきつけると三稜形りようけい種子がまだすこあをともちてほとん直射ちよくしやする日光につくわうさへぎつてくりかげからとほざかつてはるかさきはうまでころがつてく。

小麦と違って湿っぽい夏蕎麦は、茎がくたくたとして、幾度も叩きつけなければなかなか落ちない。

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小麥こむぎちがつてしめつぽい夏蕎麥なつそばからがくた/\として幾度いくどたゝきつけねばなか/\ちない。

それでも種は不揃いに熟しているので、まだ青いのはどうしてもしがみついている。

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それでも種子不規則ふきそく成熟せいじゆくをしてるので、まだあをいのはどうしてもしがみいてる。

二人は藁で縛った大きな束を解いては、粘った物でも引き剥がすようにつかみ取って、熱心に忙しく臼の腹へ叩きつけた。

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二人ふたりわらくゝつたおほきなたばいてはねばつたものでもはがやうつかつて熱心ねつしんせはしくうすはらたゝきつけた。

庭は卯平が始終草をむしって掃除してあるのに、蕎麦を打つ前にいったん丁寧に箒が渡ったので、見るからに清潔になっていたのである。

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には卯平うへい始終しじゆくさむしつて掃除さうぢしてあるのに、蕎麥そばまへに一たん丁寧ていねいはうきわたつたのでるから清潔せいけつつてたのである。

勘次は暑いので、紺の襦袢も腰のあたりへだらりと落として、焦げたような肌をさらけ出している。

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勘次かんじあついのでこん襦袢じゆばんこしのあたりへだらりとこかして、こげたやうな肌膚はだをさらけしてる。

彼はさらに栗の木の茂った葉の間から、針の先で突くようにぽちりぽちりと漏れて差す光を避けて、いつものごとく藺草の編み笠をかぶって、麻の紐をあごでぎっと結んである。

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かれさらくりしげつたあひだからはりさきくやうにぽちり/\とれてひかりけていつものごと藺草ゐぐさ編笠あみがさかぶつて、あさひもあごでぎつとむすんである。

毎日必ず汗でぐっしょりと湿るので、その強い繊維の力が脆くなって、秋の冷たい季節までにはどうしても中途で一度は換えねばならないと勘次が自慢している紐は、埃が加わって汚れていた。

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毎日まいにちかならあせでぐつしりとしめるので、強靱きやうじん纎維せんゐちからもろつて、あきつめたい季節きせつまでにはどうしても中途ちうとで一へねばならぬと勘次かんじ自慢じまんしてひもほこりくははつてよごれてた。

勘次はおつたの姿をちらりと垣根の入口に見た時、不快な目をしかめて、知らない様子を装いながら、ひたすら蕎麦の茎に力を注いだのであった。

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勘次かんじはおつたの姿すがたをちらりと垣根かきね入口いりぐちとき不快ふくわいしがめてらぬ容子ようすよそほひながら只管ひたすら蕎麥そばからちからそゝいだのであつた。

おつたはやや褐色にさめた毛繻子の洋傘を肩に打ちかけたまま、そこらにこぼれた蕎麦の種を踏まないように注意しながら、勘次の横手へ立ち止まった。

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おつたはやゝ褐色ちやいろめた毛繻子けじゆす洋傘かうもりかたけたまゝ其處そこらにこぼれた蕎麥そば種子まぬやう注意ちういしつゝ勘次かんじ横手よこてどまつた。

おつたは幾年か以前の仕立てと見える、めったにない大柄の鳴海絞りの浴衣を片肌脱ぎにして、左の袖口がだらりと膝の下まで垂れている。

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おつたは幾年いくねん以前まへ仕立したてえる滅多めつたにない大形おほがた鳴海絞なるみしぼりの浴衣ゆかた片肌脱かたはだぬぎにしてひだり袖口そでぐちがだらりとひざしたまでれてる。

裾は片隅をはしょって、外から帯へ挟んだ。

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すそ片隅かたすみ端折はしよつてそとからおびはさんだ。

勘次はどこまでも知らない様子を保つことはできなかった。

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勘次かんじ何處どこまでもらぬ容子ようすたもつことは出來できなかつた。

彼はおつたのわざとらしい声も聞かず、また近くに立ったその姿を目に映さないわけには行かなかった。

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かれはおつたのわざとらしいこゑかず、またちかつた姿すがたうつさないわけにはかなかつた。

彼は蕎麦をつかむのを止めて、おつたのほうを向いた。

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かれ蕎麥そばつかむのをめておつたのはういた。

彼はしかめていた顔に、少しきまりの悪そうな一種の表情を浮かべた。

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かれしがめてかほすこきまりの惡相わるさうな一しゆ表情へうじやううかべた。

「何だい、姉さんら」

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なんでえ姊等あねら

勘次は無意識にそう言った。

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勘次かんじ無意識むいしきにさういつた。

彼の胸のあたりに湧き出る汗は、わずかに曲がりながら幾筋かの流れる道を作っている。

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かれむねのあたりにいづあせは、わづか曲折きよくせつをなしつゝ幾筋いくすぢかのながるゝみちつくつてる。

そこには蕎麦の茎から知られないほどずつ立つ埃がついて湿っている。

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其處そこには蕎麥そばからからられぬほどづつほこりいてしめつてる。

じりじりと汗腺から絞れ出る汗が、その跡をつけられた流れの道を絶たないで、そこだけ蕎麦の埃を洗い去っている。

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ぢり/\と汗腺かんせんからしぼいづあせあとつけられたながれのみちたないで其處そこだけ蕎麥そばほこりあらつてる。

彼はおつたの前に、その暑そうな身を向けた。

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かれはおつたのまへ暑相あつさうけた。

「どうしたということもないがなあ。おれはこっちのほうを通ったもんだから、ちょっと踏み込んでみたところさ」

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「どうしたつちこともねえがなよ、らこつちのはうとほつたもんだから一寸ちよつくらがゝつてところさ」

おつたは何かわけのありそうな口ぶりで軽く言った。

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おつたはなに理由わけ有相ありさう口吻くちつきかるくいつた。

「おれはしばらくこっちへも来なかったっけが、これはおつぎじゃあるまいか。大層いい娘になっちまったなあ。もっとももう、こういう手合いはちょっと見ないでいちゃ分からなくなるな、すぐだからな。その割にしちゃ、おれみたいなのは年は取らないものさな」

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しばらくこつちへもなかつたつけが、らおつぎぢやあんめえか、大層たえそえゝむすめつちやつたなあ、もつともはあうい手合てえはちつとねえでちやわかんなくんなすぐだかんな、わりにしちやてえなもな年齡としはとんねえものさな」

おつたは立ったまま独り言のように、そうして少し張り合いのないように、何か話の糸口でも求めたいという様子で、栗の木のこずえからだらりと垂れている南瓜の尻を見上げながら言った。

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おつたはつたまゝ獨語ひとりごとやうに、さうしてすこ張合はりあひのないやうに、なにはなし端緒いとぐちでももとめたいといふ容子ようすくりこずゑからだらりとたれてる南瓜たうなすしり見上みあげながらいつた。

おつぎはこの時、菅笠の端へちょっと手を掛けて、おつたへ腰を屈めた。

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おつぎはとき菅笠すげがさはし一寸ちよつとけておつたへこしかゞめた。

おつぎは白い襦袢の襟をのぞかせて、ひとえの胸をきちんと合わせて、そうしてたすきと手甲とで身を固めて、暑いのにもかかわらず、女のたしなみを失わなかった。

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おつぎはしろ襦袢じゆばんえりのぞかせて、單衣ひとへむねをきちんとあはせて、さうしてたすき手刺てさしとでかためて、あついのにもかゝはらずをんな節制たしなみうしなはなかつた。

おつぎは蕎麦の手を放して、小走りに駆けて行った。

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おつぎは蕎麥そばはなして小走こばしりにけてつた。

菅笠を取って、だらりとかぶった手拭いを外した時、少し乱れた髪がぐっしょりと汗に濡れて、げっそりと衰えたもののように覚えた。

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菅笠すげがさをとつてだらりとかぶつた手拭てぬぐひはづしたときすこみだれたかみがぐつしやりとあせれてげつそりとおとろへたものゝやうおぼえた。

おつたは開いたままの洋傘を栗の木のそばへ仰向けに置いて、黙って井戸端へ行って、手水だらいに一杯の水を汲んだ。

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おつたはひらいたまゝ洋傘かうもりくりそば仰向あふむけいてだまつて井戸端ゐどばたつて手水盥てうづだらひに一ぱいみづんだ。

「冷たくて本当に晴れ晴れといい水じゃないか。おれのほうの井戸みたいに柄杓で汲み出すようなんじゃ、ぼかぼかぬるまっこくて」

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つめたくつて本當ほんと晴々せえ/\とえゝみづぢやねえか、井戸ゐどてえに柄杓ひしやくすやうなんぢや、ぼか/\ぬるまつたくつて」

おつたはまた独り言を言った。

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おつたは獨語ひとりごとをいつた。

勘次はそばを去ったおつたを捨てて、しかも気の乗らないようにまた蕎麦を臼へ打ちつけはじめた。

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勘次かんじそばつたおつたをてゝ、しからぬやうまた蕎麥そばうすちつけはじめた。

おつたは汗のしみた手拭いをしきりにごしごしと揉み出して、首筋のあたりから一帯に幾度となく拭いて、手水だらいの水を換えた。

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おつたは汗沁あせじみた手拭てぬぐひしきりにごし/\として首筋くびすぢのあたりから一たい幾度いくたびとなくぬぐつて手水盥てうづだらひみづへた。

しばらくして、家のひさしからは青い煙が這って、だんだんに薄い煙が後から後から暑い日に消えて行った。

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しばらくしてうちひさしからはあをけぶりつてだん/\にうすけぶりあとから/\とあつ消散せうさんした。

「おとっつあん、お茶が沸いたぞ」

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「おとつゝあ、おちやいたぞ」

おつぎは戸口へ出て、小声で勘次へ告げた。

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おつぎは戸口とぐち小聲こごゑ勘次かんじげた。

「うん」

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「うむ」

勘次は喉の底で言って

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勘次かんじのどそこでいつて

「姉さん、お茶が沸いたとう」

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あね、おちやいたとう」

彼はまたぶすりと言って、蕎麦の手を止めなかった。

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かれまたぶすりといつて蕎麥そばめなかつた。

「お茶をお上がんなさいね」

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「おちやおあがんなせえね」

おつぎは勘次の後について、少し声高に言った。

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おつぎは勘次かんじしりいてすこ聲高こわだかにいつた。

おつたはぎりっと絞った手拭いを開いて、ばたばたと叩いた。

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おつたはぎりつとしぼつた手拭てぬぐひひらいてばた/\とたゝいた。

井戸端にぼさぼさと茂りながら、日中の暑さにぐったりと葉がしおれている鳳仙花の、やっとすがっている花が手拭いの端に触れて、ぽろっと落ちた。

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井戸端ゐどばたにぼつさりとしげりながら日中につちうあつさにぐつたりとしをれて鳳仙花ほうせんくわの、やつとすがつてはな手拭てぬぐひはしれてぼろつとちた。

そばには背の高い向日葵が、むしろ毒々しいほどいっぱいに開いて、周りに誇っている。

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そばには長大ちやうだい向日葵ひまわりむし毒々どく/\しいほどぱいひらいて周圍しうゐほこつてる。

おいらん草の花がもさもさと茂ったまま、向日葵のそばに列をなしている。

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草夾竹桃くさけふちくたうはながもさ/\としげつたまま向日葵ひまわりそばれつをなして

「よくまあこんなに作ったっけな。おれももう、好きは好きだが、自分じゃあっちだこっちだで作れないもんだ。これをまあ、朝っぱらの涼しいうちに見たら、どれほどいいことかよ」

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くまあかういにつくつたつけな、らもはあ、きはきだが自分じぶんぢやそつちだこつちだでつくれねえもんだ、れまああさつぱらすゞしいうちたらどらほどえゝこつたかよ」

おつたは湿った手拭いを幾つかに折って手につかんだまま、栗の木のそばに置いた洋傘をすぼめて、ゆっくりと家へ入った。

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おつたはしめつた手拭てぬぐひいくつかにつてつかんだまゝくりそばいた洋傘かうもりつぼめてゆつくりとうち這入はひつた。

おつぎは茶を沸かす火のために汗がさらに湧いたのを手拭いで拭いて、それから乱れた髪に櫛を入れて、さらに丁寧に手拭いをかぶって、そうしておつたを呼んだのであった。

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おつぎはちやわかためあせさらいたのを手拭てぬぐひでふいて、それからみだれたかみくしいれさら丁寧ていねい手拭てぬぐひかぶつてさうしておつたをんだのであつた。

おつたはどこか落ち着かない様子で、洋傘も外の壁際に立てかけて敷居をまたいだ。

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おつたは何處どこ落付おちつかぬ容子ようす洋傘かうもりそと壁際かべぎはかけしきゐまたいだ。

「お暑うございますね、どうも」

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「おあつうござんすねどうも」

おつぎはたすきを取ってお辞儀を述べながら、おつたへ茶をすすめた。

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おつぎはたすきをとつて時儀じぎべながらおつたへちやすゝめた。

三人はしばらく黙っていた。

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にんしばら沈默ちんもくしてた。

東隣の庭からは、大勢が揃ってからさおで麦を打っている響きが、森を透して、それからどろりどろりと地を揺すって聞こえた。

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東隣ひがしどなりにはからは大勢おほぜいそろつて連枷ふるぢむぎつてひゞきが、もりとほしてそれからどろり/\とゆすつてきこえた。

自分たちが立てる響きに誘われて騒ぐ、彼らの決まった囃しの声が「ほういほうい」

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自分等じぶんらてるひゞきさそはれてさわ彼等かれらきまつたはやしこゑが「ほうい/\」

と一人の口から、そうしてだんだんとめいめいの口から一斉にほとばしって、愉快そうに聞こえた。

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一人ひとりくちからさうして段々だん/\各自めいめいくちから一せいほとばしつて愉快相ゆくわいさうきこえた。

三人の耳は同じく誘われたように、一種の調子を持った隣の庭の響きに耳を傾けながら、沈黙の時間を続けた。

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にんみゝおなじくさそはれたやうに一しゆ調子てうしつたとなりにはひゞきみゝかたむけつゝ沈默ちんもく時間じかん繼續けいぞくした。

おつたは茶柱の立った茶碗の中を見て、それからちょっとにっこりしてみたり、庭のほうを見たりしていた。

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おつたは茶柱ちやばしらつた茶碗ちやわんなかてそれから一寸ちよつと嫣然につこりとしてたり、にははうたりしてた。

おつたが庭を見ると、勘次は幾年も会わなかった姉の様子を、さすがにしみじみと見るのであった。

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おつたがにはると勘次かんじ幾年いくねんはなかつたあね容子ようす有繋さすがにしみ/″\とるのであつた。

おつたは五十をいくつも越えている。

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おつたは五十をいくつもえてる。

小柄な、少しくりくりと丸みを持った顔は、年ほどには見えないにしても、ようやく深い皺が刻んでいるのに、髪は恐ろしくつやつやとしている。

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小柄こがらすこしくり/\とまるみをつたかほは、年齡程としほどにはえないにしてもやうやふかしわきざんでるのに、かみおそろしくつや/\としてる。

おつたは髪を染めていた。

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おつたはかみめてた。

しかし薬の力は、肌を透してその下にまで及ぼすことはできなかった。

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しかくすりちから肌膚はだとほしてしたにまでおよぼすことは出來できなかつた。

髪は染めてからしばらくたったと見えて、一帯に肌についたわずかの部分が、髪のすべてをそっくり突き上げたように、ほのかに白く見えていた。

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かみめてからしばらつたとえて一たい肌膚はだについたわづか部分ぶぶんかみすべてをそつくりげたやうほのかにしろえてた。

勘次はただ音を立てながら、容易に冷めない熱い茶碗をすすった。

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勘次かんじたゞひゞきてながら容易よういめぬあつ茶碗ちやわんすゝつた。

おつぎも、幾年か会わない伯母の人なつっこいような、わけの分からないような様子を盗み見た。

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おつぎも幾年いくねんはぬ伯母をばひとなづこいやう理由わけわからぬやう容子ようすぬすた。

「夏蕎麦でも穫れるのは、こういう塩梅じゃ粒も大きいようだな」

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夏蕎麥なつそばでもとれんなかうい鹽梅あんべえぢやつぶえけやうだな」

おつたは庭を見たまま、また第一に目に触れる蕎麦について言った。

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おつたはにはまゝだい一にれる蕎麥そばついていつた。

こちらへ向いている二つの臼の腹が、まだ先の柔らかな夏蕎麦の茎で薄青く染まったのが見えている。

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此方こちらいてふたつのうすはらが、まださきやはらかな夏蕎麥なつそばくき薄青うすあをまつたのがえてる。

「馬鹿に降ってばかりいたせいか、茎ばかり伸びちまって。そんだが穫れないほうでもあるまいが、夏蕎麦が穫れるようじゃ世の中はよくないというから、こんなものはどうでもいいようなもんだが」

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馬鹿ばかつてばかし所爲せゐからばかしびつちやつて、そんだがとれねえはうでもあんめえが、夏蕎麥なつそばとれるやうぢや世柄よがらよくねえつちから、んなもなどうでもえゝやうなもんだが」

勘次の言い方はこそばゆかった。

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勘次かんじのいひかたはこそつぱかつた。

庭の油蝉が、暑くなれば暑くなるほどひどくじりじりと炒りつけるのみで、ひっそりとした村の端に、たまたま会った姉弟はこうして、ただよそよそしく向かい合った。

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には油蝉あぶらぜみあつくなればあつくなるほどひどくぢり/\とりつけるのみで、閑寂しづか村落むらはしたま/\うた姊弟きやうだいはかうしてたゞ餘所々々よそ/\しく相對あひたいした。

「本当に、おれはさっきからそう思ってるんだが、立派な花じゃないかな」

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本當ほんと先刻さつきからさうおもつてんだが立派りつぱはなぢやねえかな」

おつたは庭先の草花に、また話をついだ。

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おつたは庭先にはさき草花くさばなはなしいだ。

「うん、そんだが、ろくにありもしない肥料ばかり使われて」

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「うむ、そんだがろくりもしねえ肥料こやしばかし使つかあれて」

「お前が植えたんじゃないのか」

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「おめえゑたんぢやねえのか」

「なあに、爺さんがあっちこっちから持って来て植えたのよ。去年はそんでも、そこらへとうもろこしくらい作れたっけが、これ、邪魔だとも言えないしなあ」

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「なあに爺樣ぢいさまそつちこつちからつてゑたてたのよ、去年きよねんはそんでも其處そこらへ玉蜀黍位たうもろこしぐれえつくれたつけが、れ、邪魔じやまだともはんねえしなあ」

「おれはしばらく来ないから知らなかったっけが、そんでも野田から引っ込んでか」

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しばらねえかららなかつたつけが、そんでも野田のだからつこんでか」

「うん、もう二年にならあ」

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「うむ、はあ二ねんらえ」

「よっぽどの年だろうが、丈夫かい、それでも」

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ぽど年齡としだつぺが丈夫ぢやうぶけえそんでも」

「丈夫なことは、驚くほど丈夫だが、何でも自分が好きなら働く様子で、そこらをほっつき歩いちゃ小遣い銭くらいは取ってるんだな、塩梅しだいが」

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丈夫ぢやうぶなこたあ、魂消たまげほど丈夫ぢやうぶだがなんでも自分じぶんきならはたら容子ようすで、其處そこらほうつきあるいちや小遣錢位こづけえぜねぐれえはとつてんだな鹽梅あんべえしきが」

「そんじゃ忙しい時にはちっとは手伝ってもらえてよかろうな」

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「そんぢやいそがしいときにやちつたあ手傳てつだつてもらへてよかんべな」

「何だ、一つ手伝うなんてありゃしまいし。それからもう、こっちも頼みもしないが」

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「なんだら一つ手傳てつだあなんちやりやしめえし、それからはあ、此方こつちたのんもしねえが」

「もっともそう言えば、若いころでもおれが知ってからは、仕事は上手でやるとなればみっしりやるようだったっけが、好きじゃない塩梅だったっけのさな」

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もつともさういへばさかりころでもらあつてからは仕事しごと上手じやうずるとしちやみつしらやうだつけが、きぢやねえ鹽梅あんべえだつけのさな」

「それどころじゃないや。おれといっしょにいるのさえいやなんだろうが、別々になっちまったな。つまらない、余計な銭なんぞ遣って。おれだって大きな手間を打ち込んだな。なあに、おれは爺さんさえちっとその気で行ってくれさえすりゃ、いくらでも面倒を見るというんだが、どういう料簡のもんだか、おれには分からないが」

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どこぢやねえや、らと一しよんのせえなんだんべが、別々べつ/\つちやつたな、つまんねえ、餘計よけいぜねなんぞつかつて、らだつてえけえこと手間てまつこんだな、なあに爺樣ぢいさませえちつとそのつもりつてれせえすりや、いくらでも面倒めんだうるつちつてんだが、如何どういふ料簡れうけんのもんだからがにやわかんねえが」

「そんじゃ、このそばの小屋じゃあるまい。おれはさっき見た時は、肥料小屋だとばかり思ってたな。本当に、こういう所へ酔狂な話よな。何でも世を渡しちゃ誰でも同じこと、跡取りの気味を悪くしないようにやらなくちゃかなわないよ。そんだが、それも性分でなあ、他人からじゃ仕方がないものよ」

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「そんぢや、そば小屋こやぢやあんめえ、先刻さつきとき肥料小屋こやしごやだとばかしおもつてたな、本當ほんとにかうだとこ醉狂すゐきやうはなしよな、なんでもわたしちやたれでもおなじこと相續人さうぞくにん氣味きあぢわるくしねえやうにやんなくつちやへねえよ、そんだがそれも性分しやうぶんでなあ、ほかからぢやしやうねえものよ」

「おれだって、これで一人増えちゃ増えただけ、麦米の心配からしてかからなくちゃならないんだから、そのつもりでいてくれなくちゃ。これで心持ちじゃあんまり面白くないからな。毎日苦虫を噛み潰したような面つきばかりされたんじゃ、いやになっちまうぞ、本当に」

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らだつてこんで一人ひとりえちやえただけ麥米むぎこめ心配しんぺえからしてかゝんなくつちやなんねえんだから、つもりてくんなくつちや、んで心持こゝろもちぢやあんま面白おもしろかねえかんな、毎日まいにち苦蟲にがむしちやしたやうなつらつきばかしされたんぢやんなつちまあぞ、本當ほんたうに」

「そりゃそうにも何にもよ。他人でさえ、これで柔らかい言葉でも掛けられると、後じゃほしくなるような物でも出す料簡にもなるもんだからなあ」

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「そりやさうにもなんにもよ、他人たにんでせえこんでやつけえ言辭ことばでもけられつと、あとぢやしくるやうなものでも料簡れうけんにもなるもんだかんなあ」

おつたはこう言いながら、さっきから鶏のねぐらの下にある二俵の俵へ目を注いでいた。

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おつたはういひながら先刻さつきからとりとやしたる二へうたわらそゝいでた。

「そんだがお前も、たいした働きだと見えるな。こんなに俵までちゃんとして。たいがいの百姓じゃお前、この手には行かないぞ。おれはお世辞を言うわけじゃないが」

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「そんだがおめえもたえしたはたらきだとえんな、かうえにたわらまでちやんとして、大概てえげえ百姓ひやくしやうぢやおめえこのにやかねえぞ、世辭つやいふわけぢやねえが」

勘次はようやく話に釣り込まれたように、この時微笑を漏らして

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勘次かんじやうやはなしまれたやうとき微笑びせうらして

「おれも今になってからじゃこれ、話するようなもんだが、ひとしきりは泣いたからな、本当に。これでもこれくらいにするにはやっとこさだぞ」

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らもいまんなつてからぢやこれ、はなしするやうなもんだがひとしきりやいたかんな本當ほんたうに、こんでもくらえにすんにやゝつとこせえだぞ」

と言った。

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といつた。

「おつぎも働けそうだな、きりきりとして。さっきおれが蕎麦を打ってるのを見ていても、心持ちがいいようだったっけよ。仕事は何でも身なりのいいもんでなくちゃなあ。これもお前が仕込んだせいだろうが」

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「おつぎもはたらさうだな、きり/\としてなあ、先刻さつき蕎麥そばつてんのてゝも心持こゝろもちえゝやうだつけよ、仕事しごとはなんでも身拵みごしれえのえゝもんでなくつちやなあ、れもおめえが仕込しこみ所爲せゐだんべが」

おつたはそう言って、また

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おつたはさういつてまた

「そりゃそうと、おっかさんにそのままだなあ」

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「そりやさうとおつかさまに其儘そつくりだなあ」

と、そばにいたおつぎに目を移した。

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そばたおつぎにうつした。

おつぎはそれを聞くとともに、身を避けるように手桶を持って庭へ出た。

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おつぎはそれをくとともけるやう手桶てをけつてにはた。

「おれもこれで、女房に死なれた当座には、これも役に立たないから泣き抜いたよ」

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らもこんでかゝあなれた當座たうざにやれもやくたねえからきぬいたよ」

勘次はにわかにしんみりとして言った。

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勘次かんじにはかにしんみりとしていつた。

おつたはお品のことが勘次の口から出た時、かすかに苦笑して

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おつたはおしなのことが勘次かんじくちからときかすかに苦笑くせうして

「ほんに、おれはあの時には来られなかったっけが、遠くのほうへ行ってたもんだから。お前にはもう、悪く思われるだろうとは思ってたのよ」

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「ほんに、ときにやねえつちやつたつけが、とほくのはうつてたもんだから、おめえにやはあわるおもはれべえたあおもつてたのよ」

おつたはようやくのことで、しかも表面は事もなげに言ってしまった。

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おつたはやうやくのことでしか表面へうめんこともなげにいつてしまつた。

「おれはさっきから見てるんだが、道具はよく大事にすると見えて、鎌なんぞでも光ってることな。それによく、こう三日月みたいな形に減らせたもんだな。研ぎ方もよっぽど気をつけなくちゃ、こうはできないな。道具もこうすりゃいつまでも使えて安いものさな」

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先刻さつきからてんだが道具だうぐ大事でえじにすつとえてかまなんぞでもひかつてつことなあ、それにくかう三日月姿みかづきなりらせたもんだな、かたぽどをつけなくつちやかうは出來できねえな、道具だうぐうすりや何時いつまでゝも使つかへてやすえものさな」

おつたは少し慌てたように、しかもなるべく落ち着こうと努めながら話を外した。

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おつたはすこあわてたやうしかるべく落附おちつかうとつとめつゝはなしそらした。

「唐鍬もたいしたもんじゃないかな」

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唐鍬たうぐはもたえしたもんぢやねえかな」

おつたはわざと唐鍬のそばに立った。

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おつたはわざ唐鍬たうぐはそばつた。

「うん、そんでもおれのみたいなのは、めったに持ってる者もないからな」

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「うむ、そんでもらがてえなゝ、滅多めつたつてるもなねえかんな」

「どうするんだい、こんな大きいの。引き立てるばかりでも大変なようじゃないかい」

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「どうすんでえこんなえけえの、てるばかしでも大變たえへんなやうぢやねえけ」

「そんだって姉さん、これを見ろな」

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「そんだつてあねろな」

勘次は手のひらをおつたの前へ出した。

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勘次かんじてのひらをおつたのまへした。

百姓にしては比較的小さな手は、腫れたかと思うほどぽつりと膨れて、どれほど樫の柄をつかんでも、けっして豆を生じるはずの手でないことをはっきりと示している。

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百姓ひやくしやうにしては比較的ひかくてきちひさなれたかとおもほどぽつりとふくれて、どれほどかしつかんでもけつして肉刺まめしやうずべきでないことをあきらかにしめしてる。

「これだから、知らない者は、おれが手をかざしてると、どうしたんだいなんて聞くから、おれはこんなに腫れちまって痛くて仕方がないんだなんて、そうっと出して見せると、なるほどこりゃ痛かろうなんて驚くらあな。唐鍬なんざ銭を出しさえすりゃいくらでもあるが、この手のひらはないぞ。二年三年唐鍬を持ったんじゃ、こうはならないからな。おれのは唐鍬の柄へすっかりくっついちまったんだから。これで毎年四、五反歩くらいは開墾するんだから」

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んだかららねえもな手懷てぶところしてつと、如何どうしたんでえなんてくかららかういにはれつちやつていたくつてしやうねえんだなんて、そろうつとしてせつと、ほどこりやいたかんべえなんて魂消たまげらあな、唐鍬たうぐはなんざぜねしせえすりやいくらでもんが、ぴらはねえぞ、二ねんねん唐鍬たうぐはつたんぢやうはんねえかんな、らがな唐鍬たうぐはさすつかりくつゝいちやつたんだから、こんで毎年まいとし四五反歩位たんぶりぐれえ打開墾ぶちおこすんだから」

勘次はしかめた顔の筋が緩んだようになって、おつたの前に誇った。

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勘次かんじしがめたかほすぢがゆるんだやうになつておつたのまへほこつた。

「旦那の山林を開墾しちゃうまいのよ。場所によっちゃ陸稲も作れるし。おれはこれでも三、四反歩ずつは作ってるんだが、今年はいい塩梅の降りだから大丈夫だとは思ってるのよ。どういうもんだか、以前は陸稲というともう、穫れないようなもんだったっけがな」

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旦那だんな山林開墾やまおこしちやうめえのよ、場所ばしよによつちや陸稻をかぼつくれるし、らこんでも三四反歩たんぶりづつはつくつてんだが、今年ことしはえゝ鹽梅あんべえりだから大丈夫だえぢよぶだたあおもつてんのよ、どうえもんだか以前めえかた陸稻をかぼつちとはあ、とれねえやうなもんだつけがな」

「そんなに作っちゃ、大層なもんじゃないかな」

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其麽そんなつくつちや大層たえそなもんぢやねえかな」

おつたは驚いたように言った。

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おつたはおどろいたやうにいつた。

「陸稲も地が新しいうちはできるもんだわ。穂の出た割には量は取れないが、そんでも開墾したばかりには草は出ないから手間が要らないしな。それに肥料というのはなんぼもしないんだから。もっとも三年も作っちゃその手には行かないが、その時はもとの山林になるんだから、怖いことも何にもないのよ」

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陸稻をかぼめづらしいうち出來できるもんだわ、わりにやけねえが、そんでも開墾おこしたばかしにやくさねえから手間てまらねえしな、それに肥料こやしつちやなんぼもしねえんだから、もつとも三ねんつくつちやにやかねえが、とき以前もと山林やまになんだから可怖おつかねえこともなんにもねえのよ」

「よっぽど穫れるだろうな、三、四反歩も作っちゃなあ」

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ぽどとれべえな、三四反歩たんぶりつくつちやなあ」

「これで穂の出際に雨でもいい塩梅なら、反で四俵なんざどうしても穫れると思ってるのよ」

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「こんで出際でぎはあめでもえゝ鹽梅あんべえなら、たんで四へうなんざどうしてもとれべとおもつてんのよ」

「陸稲とも言えないもんだな。以前と違って今の時世じゃそうだから、これで場所によっちゃ、百姓にもたいした起き転びがあるのよなあ。おれのほうみたいに洪水で持って行かれてばかりいる所もあるのに、山林の中で米が穫れるなんて」

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陸稻をかぼともはんねえもんだな、以前めえかたちがつていま時世ときよぢやさうだからこんで場所ばしよによつちや、百姓ひやくしやうにもたえしたころびがあるのよなあ、はうてえに洪水みづつてかれてばかしとこんのに山林やまんなかでこめとれるなんて」

「そうよ、ここらは洪水の心配はそんなにしないでもいい所だからな」

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「さうよ、此處こゝらは洪水みづ心配しんぺえはさうだにしねえでもえゝとこだかんな」

勘次は、これまでその間がどうであったにしても、偶然会ったおつたに対してだんだん話しているうちには、同じ乳房にすがった骨肉の関係が、彼の卑しい心の底を開いて、それを隠すにはあまりに彼を無防備にさせたのであった。

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勘次かんじ從來これまであひだがどうであつたにしても偶然ぐうぜんつたおつたにたいしてだん/\はなしてるうちにはおな乳房ちぶさすがつた骨肉こつにく關係くわんけいかれ淺猿さもしいこゝろそこ披瀝ひらいてそれを陰蔽いんぺいするのにはあまりにかれ放心うつかりとさせたのであつた。

「おつう、あのらっきょうでも出してみな。土用前に採ってすぐ漬けたんだから、もうよかろう」

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「おつう、らつきやうでもしてせえ、土用前どようめえつてつけたんだから、はあよかんべえ」

勘次は快くおつぎに命じた。

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勘次かんじこゝろよくおつぎにめいじた。

おつぎは古い醤油樽から白漬けのらっきょうを片口へ出して、おつたのそばへすすめた。

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おつぎはふる醤油樽しやうゆだるから白漬しろづけらつきやう片口かたくちしておつたのそばすゝめた。

勘次は一つつまんでかりかりとかじった。

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勘次かんじは一つつまんでかり/\とかじつた。

少し丸みがかった頬に絶えず微笑を含んで、勘次の言うことを聞いていたおつたは、何かさらに言おうとしてちょっとためらっている様子が見えた。

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すこまるみがかつたほゝたえ微笑びせうふくんで勘次かんじのいふことをいてたおつたはなにさらにいはうとして一寸ちよつと躊躇ちうちよしつゝある容子ようすえた。

勘次もおつぎも、それは知らなかった。

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勘次かんじもおつぎもそれはらなかつた。

おつたは、いっぱいに注いである茶碗へまた茶を注ごうとして、にわかにやめた。

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おつたは一ぱいいである茶碗ちやわんまたちやがうとしてにはかめた。

おつたは茶碗をぐっと飲み干した。

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おつたは茶碗ちやわんをぐつとした。

「これで同胞のいい話を聞くのは悪くないもんだよ。さすがに自分ばかりよくて、他の同胞には構わないというものもないからな」

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「こんで同胞きやうでえのえゝはなしくなわるかねえもんだよ、有繋まさか自分じぶんばかしよくつてほか同胞きやうでえにやかまあねえつちいものもねえかんな」

と言って、庭の便所へ立って、それから再び上がり框に腰を下ろした。

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といつてには便所べんじよつてそれからふたゝあががまちこしおろした。

「おれはお前にちっと相談に乗ってもらいたいと思うことがあって来たんだったがなあ」

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らおめえにちつと相談さうだんつてもれえてえとおもふことつてたんだつけがなよ」

おつたはわざと改まった様子でなく言いかけた。

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おつたはわざあらたまつた容子ようすでなくいひけた。

「何だろう」

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なんだんべ」

勘次はふっと彼のふだんに戻ろうとして、例の不安らしい目を見開いておつたを見た。

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勘次かんじはふつとかれ平生へいぜいかへらうとしていつも不安ふあんらしいみはつておつたをた。

「なあに、たいしたことじゃないが、盲の野郎に嫁を世話されるもんだから、どうしたもんだろうかと思ってよ」

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「なあにたえしたこつちやねえが、盲目めくら野郎やらうよめ世話せわされるもんだからどうしたもんだんべかとおもつてよ」

「姉さんがもらいたけりゃ、他人には構うことはあるまいな」

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あねもらへたけりや他人ひとにやかまあこたあんめえな」

勘次は、おつたがゆっくりと言うのが終わらないのに、そっけなく言った。

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勘次かんじはおつたがゆつくりといふのがをはらぬのにそつけなくいつた。

「そう言っちまえばそうだがなあ。そんだって、同胞に一言の話もないなんて後で文句を言われても、黙ってちゃお前、口が開けまいな。そんだから、おれはお前に耳打ちしておこうと思ったんだな」

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「さうつちめえばさうだがなよ、そんだつて同胞きやうでえ一噺ひとはなしもねえなんてあと文句もんくはれても、だまつてちやおめえくちけめえな、そんだかららおめえげ耳打みゝうちしてくべとおもつたんだな」

「おれは何も不服を言う筋合いはないな」

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なに不服ふふくいふせきはねえな」

勘次は少し安心したらしく、こう軽く言い退けた。

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勘次かんじすこ安心あんしんしたらしく、かるくいひ退けた。

「そんならいいがなあ。あれももう二十七になるんだから、おれもこれでまあ心配はしてたんだが、自分でもそれ、ない足りないの心配が絶えないもんだから、思ってはいても手が出ないのよ。自分の子供のことを、お前、まったくどうなっても構わないとは思えないよ、これで」

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「そんだらえゝがなよ、れもはあ廿七になるんだかららもこんでまあ心配しんぺえはしてたんだが、自分じぶんでもそれんねえの心配しんぺええねえもんだから、おもつちやてもねえのよ、自分じぶん餓鬼がきのことおめえ全然まるつきりどうなつてもかまあねえたあおもへねえよこんで」

勘次は足の先で土間の土を擦りながら、黙っておつたの言うのを聞いた。

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勘次かんじあしさき土間どまつちこすりながらだまつておつたのいふのをいた。

「あれもそれ、中途で盲になったんだから、それまでに働いて体はできてるし、お前も知ってるとおり、あれでいて仕事もできるしするもんだから、ありがたいことに、不具でも嫁を世話しようという者もあるようなわけさなあ。何でも人間は働き次第だよ。お前だって、働くというのでばかり他人にはよく言われてるじゃないかい。そんで、おれもその女は見たが、女はそれ、器量は悪いがな。そんだって盲だもの、目鼻立ちを見るわけじゃなし、心根さえよけりゃいいと思って」

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あれもそれ中途ちうと盲目めくらつたんだから、それまでにはたらいて身體からだ成熟できてるしおめえもつてるとほりあんで仕事しごと出來できるしするもんだから、難有ありがてえことに不具かたわでもよめ世話せわすべつちいものもあるやうなわけさなあ、なんでも人間にんげんはたら次第しでえだよ、おめえだつてはたらくんでばかり他人ひとにやはれてべえぢやねえけえ、そんでれもをんなたが、をんなはそれりいがな、そんだつて盲目めくらだもの目鼻立めはなだちべえぢやなし、心底しんてえせえよけりやえゝとおもつてな」

おつたはしきりに、勘次の心の底からの同意を得ようとした。

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おつたはしきりに勘次かんじ衷心ちうしんからの同意どういようとした。

「そりゃよかろうな、そんじゃ」

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「そりやよかんべなそんぢや」

勘次はただ簡単にそう言った。

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勘次かんじたゞ簡單かんたんにさういつた。

「そんで嫁を持たせるにしても、せっかくこっちにいて働いてるんだから、おれは自分の所へは連れて行くわけには行かないと思ってな。何と言ってもそれ、知ってる所でなくちゃ、盲だから面倒を見てくれるという人もあるまいしなあ。それからおれは、そこのところも心配していたんだが、ちょうどこの村にいい塩梅に貸してもいいという家があるというもんだから、ついでだと思って見て来たが、ここからじゃあっちのほうの、それ、知ってるだろう、仕切って貸すというんだから、おれはそこへ入れたいと思って。おそるおそる聞いてみたんだが、借りるのには保証人がなくちゃだめだというから、近くではあるし、お前に保証に立ってもらいたいと思ってな」

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「そんでよめたせるにしても折角せつかくこつちにはたらいてんだから自分じぶんとこへはれてわけにやかねえとおもつてななんちつてもそれ、しつてつとこでなくつちや盲目めくらだから面倒めんだうてくれるつちひともあんめえしなあ、それから其處そこんとこも心配しんぺえしてたんだが、丁度ちやうどこの村落むらにえゝ鹽梅あんべえしてもえゝつちうちるつちもんだから、ついでだとおもつてたが、此處こゝからぢやあつちのはうのそれつてべえ仕切しきつてすつちんだから、其處そこれてえとおもつて、おそこそいてたんだがりんのにや保證人ほしようにんくつちや駄目だめだつちから、ちかくぢやあるしおめえに保證ほしようつてもれえてえとおもつてな」

「いやだよ、おれはそんなこと」

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だよらそんなこと」

勘次は慌てたように言った。

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勘次かんじあわてたやうにいつた。

「そんじゃ仕方がないな。どうしてだろうな、また。せっかくあれの身も固まるんだから、そうしてくれればいいんだがな」

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「そんぢややうねえな、どうしてだんべなまた、折角せつかくあれかたまんだからさうしてれゝばえゝんだがな」

おつたはがっかり投げかけた態度で言った。

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おつたはがつかりけた態度たいどでいつた。

「べらぼう、家賃でも滞った日には、おれが弁償しなくちゃなるまいし。それこそおれの身上なんざ潰れても間に合いやしない。いやにも何にも」

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箆棒べらぼう家賃やちんでもとゞこほつたにや、辨償まよはなくつちやりやすめえし、それこさあらが身上しんしやうなんざつぶれてもにやえやしねえ、だにもなんにも」

「そんなこと言ったってお前、あれだって独りででもいるんじゃなし、持つ物を持って働くのに、三十銭や五十銭の家賃の払えないこともあるまいな。それも何なら、お前、一月でも二月でも様子を見て、その時見込みがなけりゃ身を抜いても構いやしないな」

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「そんなことつたつておめえ、あれだつてひとりでゝもんぢやなしつものつてはたらくのに三十せんや五十せん家賃やちんはらへねえこともんめえな、それもなんならおめえ一月ひとつきでも二月ふたつきでも見試みためして、そんとき見込みこみなけりや身拔みぬけしてもかまえやしねえな」

「そんでもいやだよ。おれはそういう話じゃ聞きたくもない」

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「そんでもだよ、らさういはなしぢやきたくもねえ」

勘次はそっけなく言って、すいと庭へ立って、また夏蕎麦へ手を掛けた。

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勘次かんじ素氣すげなくいつてすいとにはつて夏蕎麥なつそばけた。

「ひどく忙しいこったな」

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ひどいそがしいこつたな」

おつたは口を引き締めて、勘次の後ろ姿を見た。

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おつたはくちめて勘次かんじ後姿うしろすがたた。

「忙しいとも。田の草もまだかいちゃいないんだ。土用になってからだって、いくらも照りやしまいし。降ってばかりいるから見ろ、あれ、隣の旦那らだって今ごろ麦を打ってる騒ぎだあ。百姓はこのごろの時節に余計な暇なんざないから」

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いそがしいともくさもまあだきやしねえんだ、土用どようになつてからだつていくらもりやしめえし、つてばかしつからろうあれ、となり旦那等だんなたちだつて今頃いまごろむぎつてるさわぎだあ、百姓ひやくしやうごろ時節じせつ餘計よけいひまなんざねえから」

勘次は呟くように言った。

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勘次かんじつぶやくやうにいつた。

隣の庭では、さっきよりもさらに勢いがついたように、からさおの響きが囃しの声を伴いながら、森を漏れて聞こえた。

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となりにはでは先刻さつきよりもさらいきほひがついたやう連枷ふるぢひゞきはやしこゑともなひつゝもりれてきこえた。

「うん、たいした挨拶だな。おれはまた、姉弟というのはそんなもんじゃあるまいと思ってたんだったな」

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「うむ、たえした挨拶あいさつだな、らまた姊弟きやうでえつちやさうえもんぢやあんめえとおもつてたんだつけな」

おつたは少しむっとした様子を見せた。

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おつたはすこ勃然むつとした容子ようすせた。

「姉さんらが言うことを聞いたっくらい、どんなことをされるか分からないから」

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姊等あねらふこといたつくれえどんなことされつかわかんねえから」

勘次は自棄に蕎麦の茎を打ちつけ打ちつけしながら言った。

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勘次かんじ自棄やけ蕎麥そばからちつけ/\しつゝいつた。

彼はそうして、一目もおつたを見なかった。

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かれさうして一目ひとめもおつたをなかつた。

「どんなことをするって、おれは泥棒はしないぞ、勘次」

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什麽どんなことするつて泥棒どろぼうはしねえぞ、勘次かんじ

その切れた目尻に一種の凄みを持っておつたが立った時、卯平はのっそりと戸口に大きな体を運ばせた。

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れた目尻めじりに一しゆ凄味すごみつておつたがつたとき卯平うへいはのつそりと戸口とぐちおほきな躯幹からだはこばせた。

卯平はおつたを見て、例のごとく窪んだ茶色の目をしかめるようにした。

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卯平うへいはおつたをいつもごとくぼんだ茶色ちやいろしがめるやうにした。

「おや、こっちのおとっつあん、しばらくでしたねどうも。ご機嫌よろしゅうございますね」

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「おやこつちのおとつゝあん、しばらくでがしたねどうも、御機嫌ごきげんよろしがすね」

おつたは、そらぞらしいほど打って変わった調子で言った。

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おつたはそら/″\しいほどつてかはつた調子てうしでいつた。

「まあこっちへでも来なさいね」

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「まあこつちへでもさつせえね」

卯平は隠居へおつたを導いた。

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卯平うへい隱居いんきよへおつたをみちびいた。

「おれは今、外から帰って来たばかりだが、何でしょうね」

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らいまほかからけえつてたばかしだが、なんでがすね」

卯平はぶすりと聞いた。

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卯平うへいはぶすりといた。

「ほんにもう、他人には聞かせたくもないこったがねえ。わしもそれ、盲の野郎が一人いるんだが、これが三十近くにもなるものをねえ。ただ打ち捨てても置けないから嫁を取らせようと思って、いい塩梅のがそれ、口が掛かったもんだから、勘次にも一言話そうと思って来たところなのさ。わしもこれで、義理は欠くのはいやだからね」

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「ほんにはあ、他人ひとにやかせたくもねえこつたがねえ、わしもそれ盲目めくら野郎やらう一人ひとりあんだが、これ三十ちかくにもなるものをねえ、たゞ打棄うつちやつてもけねえからよめとらせべとおもつて、えゝ鹽梅あんべえのがそれくちかゝつたもんだから勘次かんじげも一はなしすべとおもつてところなのさ、わしもこんで義理ぎりくのだかんね」

「そうしたら、この村にいい塩梅の家があるもんだから、借りて身上を持たせようと思って、保証に立ってくれと言ったところが、たいした挨拶なのさ。三十銭か五十銭の家賃をねえ。不憫だろうじゃないかねえ、不具の甥のことをねえ。保証に立ったくらいで身上が潰れるという挨拶なのさ。ねえこれ、年を取っちゃこっちのおとっつあん、先も短いのに、心根のいいものでなくちゃ、万一の時が心配だからねえ。後の者の厄介になりたいというのは、みな同じだろうじゃないか。ねえ、こっちのおとっつあん、そうでしょう。そんでそれ、嫁というのが心根のいい女だというんだから、わしもほしいのさ、本当の話がねえ。そう言っちゃ我欲のようだが、同じものなら柔らかい言葉でも掛けてくれる嫁でなくちゃねえ。そうじゃあるまいかね」

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「さうしたら村落むらにえゝ鹽梅あんべえうちあるもんだからりて身上しんしやうたせべとおもつて保證ほしようつてくろつちつたところがたえした挨拶あいさつなのさ、三十せんか五十せん家賃やちんをねえ、不便ふびんだんべぢやねえかねえ不具かたわおひのことをねえ、保證ほしようつたくれえ身上しんしやうつぶれるつち挨拶あいさつなのさ、ねえこれ、年齡としとつちやこつちのおとつゝあんさきみじけえのに心底しんてえのえゝものでなくつちや、萬一まさかとき心配しんぺえだからねえ、あともの厄介やくけえりてえつちなみんなおんなじだんべぢやねえか、ねえこつちのおとつゝあんさうでがせう、そんでそれよめつちのが心底しんてえのえゝをんなだつちんだからわしもしいのさ本當ほんたうはなしがねえ、さうつちや我慾がよくやうだがおんなじもんならやつけえ言辭ことばでもけてくれるよめでなくつちやねえ、さうぢやあんめえかね」

おつたは狭い戸口に立ったまま、洋傘の先で土へ穴を開けながら、勘次のほうをじろっと見ながらいきり立って言った。

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おつたはせま戸口とぐちつたまゝ洋傘かささきつちあな穿うがちながら勘次かんじはうをぢろつとつゝいきりつていつた。

「そりゃもう、そうだが」

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「そりや、はあ、さうだが」

ただこれだけ言って、無口な卯平は自分の意を得たというように、始終窪んだ目をしかめて、手からは煙管を放さなかった。

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たゞこれだけいつて寡言むくち卯平うへい自分じぶんたといふやう始終しじうくぼんだしがめてからは煙管きせるはなさなかつた。

勘次は庭から盗むように見ては、卯平がおつたへ威勢をつけているように思った。

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勘次かんじにはからぬすむやうにては卯平うへいがおつたへ威勢ゐせいをつけてるやうにおもつた。

彼は解いて打って、さらに藁でくくった蕎麦の束を、どさりと遠くへ投げつけた。

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かれいてつてさらわらくゝつた蕎麥そばたばをどさりととほくへはふつた。

葉がさらにぐったりとしおれた鳳仙花の枝が、すかりと裂けて先が地についた。

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さらにぐつたりとしをれた鳳仙花ほうせんくわえだがすかりとさけさきについた。

「姉さんら、大層なことを言ったって、老人の面倒を見たとは言えまい」

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姊等あねら大層たえそなことつたつて、老人としより面倒めんだうたゝへめえ」

勘次はぶつぶつと独り言を言った。

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勘次かんじはぶつ/\と獨語どくごした。

おつたの耳にも、かすかにそれが聞こえた。

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おつたのみゝにもかすかにそれがきこえた。

おつたはきっと見た。

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おつたはきつた。

「おとっつあん、黙ってるもんだ」

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「おとつゝあだまつてるもんだ」

おつぎは軽く勘次を制して

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おつぎはかる勘次かんじせいして

「お昼だぞ、もう」

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「お晝餐ひるだぞはあ」

と、おつぎはさらに勘次へ注意した。

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とおつぎはさら勘次かんじ注意ちういした。

「そんじゃ、こっちのおとっつあん、お騒がせしました。わしは帰りましょうもう。一刻もいちゃ邪魔でしょうから。こっちのおとっつあんも、邪魔にならないほうがようございますよねえ」

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「そんぢやこつちのおとつゝあん、お八釜敷やかましがした、わしやけえりませうはあ、一こくちや邪魔じやまでがせうから、こつちのおとつゝあんも邪魔じやまんねえはうがようがすよねえ」

おつたは洋傘を開いて

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おつたは洋傘かさひらいて

「傍目でも知れましょうねえ。たとえどうでも俵まで持ってられて、弁償と言ってみたところで三十銭か五十銭のことだろうじゃないかね。できるもできないもあるもんじゃない」

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岡目をかめでもれまさあねえ、假令たとひどうでもたはらまでつてられて、辨償まよつてところで三十せんか五十せんのことだんべぢやねえか、出來できるも出來できねえもあるもんぢやねえ」

と、おつたは忌々しさにその口を止めなかった。

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とおつたは忌々敷いま/\しさにくちめなかつた。

「お昼はどうでしょうね」

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「お晝餐ひるはどうでがすね」

おつぎはそれでも、おずおずとおつたへ言った。

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おつぎはそれでもづ/\おつたへいつた。

「おれはもう要らないともね」

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ら、はあらねえともね」

おつたは蕎麦の種のいっぱいに散らかった庭を、遠慮もなく一直線に下駄の跡をつけた。

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おつたは蕎麥そば種子の一ぱいらけたには遠慮ゑんりよもなく一直線ちよくせん不駄げたあとをつけた。

「勘次ら、親子仲よくてよかろう。世間の聞こえも立派だあ。身内の者は、おかげで肩身が広くていいや」

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勘次等かんじら親子おやこなかよくつてよかんべ、世間せけんきこえも立派りつぱだあ、親身しんみのもなあ、おかげ肩身かたみひろくつてえゝや」

おつたは庭の出口からちょっと振り返って言った。

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おつたはには出口でぐちから一寸ちよつとかへりみていつた。

そうしてさっさと行ってしまった。

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さうしてさつさとつてしまつた。

隣の庭の麦打ちの連中は、静かになったこちらの庭をあざけるように騒いでは、また騒ぐのが聞こえた。

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となりには麥打むぎうち連中れんぢうは、しづかになつたこちらのにはあざけるやうにさわいではまたさわぐのがきこえた。

勘次はただ力を込めて蕎麦の茎を打って、ついに一言も口に出さなかった。

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勘次かんじただちからきはめて蕎麥そばからつてつひに一ごんかなかつた。

おつぎは、垣根の上に浮かんだおつたの洋傘が見えなくなるまで、しばらくぽつねんとして庭に立った。

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おつぎは垣根かきねうへうかんだおつたの洋傘かさえなくなるまでしばらくぽつさりとしてにはたつた。

卯平は煙管を噛んだまま、じっとして黙っていた。

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卯平うへい煙管きせるんだまゝ凝然ぢつとしてだまつてた。

卯平はしばらくして、鳳仙花の折れたのを見つけて井戸端へ立った。

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卯平うへいしばらくして鳳仙花ほうせんくわれたのをつけて井戸端ゐどばたつた。

彼はいきなり蕎麦の茎の束を大きな足で蹴った。

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かれはいきなり蕎麥幹そばがらたばおほきなあしつた。

彼はさらに短い竹の棒を持って行って、きっと力を込めて地に突き通した。

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かれさらみじかたけぼうつてつてきつとちからめてとほした。

垂れた鳳仙花の枝は、竹の杖に縛りつけようとして手を触れたら、ぽろりと茎から離れてしまった。

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れた鳳仙花ほうせんくわえだたけつゑしばりつけようとしてれたらぽろりとくきからはなれてしまつた。

卯平は忌々しそうに投げ捨てた。

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卯平うへい忌々敷相いまいましさう打棄うつちやつた。

卯平がのっそりと大きな体を立てたそばに、向日葵はことごとく日に背いて、昂然として立っている。

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卯平うへいがのつそりとおほきな躯幹からだてたそば向日葵ひまはりことごとそむいて昂然かうぜんとしてつてる。

向日葵は、蕾が非常に膨れて黄色になってから卯平が植えたのであった。

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向日葵ひまはりつぼみ非常ひじやうふくれて黄色きいろつてから卯平うへいゑたのであつた。

その時はもう蕾はどうしても日の言うことを聞いて動かないので、暑い、そうして乾燥の激しい日がそれを憎んで、硬い下葉をがさがさに枯らした。

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ときはもうつぼみはどうしてものいふこといてうがかないので、あついさうして乾燥かんさうはげしいがそれをにくんでこは下葉したばをがさ/\にらした。

それでも強い茎はすっと立って、たいがいはがっかりと暑さに打たれている草木の間に、誇ったように見えた。

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それでもつよくきはすつとつて、大抵たいていはがつかりとあつさにたれて草木さうもくあひだほこつたやうにえた。

そのいっぱいに開いた皿のような花が、庭先からいつでも冷ややかな三人をあざけるもののように見えるのであった。

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の一ぱいひらいたさらやうはな庭先にはさきからいつでもひやゝかな三にんあざけるものゝやうにえるのであつた。

竹の棒はぎっと突き通したまま、いつまでも空しく鳳仙花のそばに立っていた。

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たけぼうはぎつととほしたまゝいつまでもむなしく鳳仙花ほうせんくわそばつてた。

二〇

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二〇

秋だ。

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あきだ。

どのこずえも、茂る力がその極度に達して、そこに凋落の面影がかすかに浮かんだ。

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いづれのこずゑ繁茂はんもするちから極度きよくどたつして其處そこ凋落てうらくおもかげかすかにうかんだ。

毎日透き通った空をじりじりときしりながら、高熱を放射しつつあった日も、あまりに長い昼の時間に飽きようとして、空から、そうして地上のすべてがようやく変調を呈した。

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毎日まいにち透徹とうてつしたそらをぢり/\ときしりながら高熱かうねつ放射はうしやしつゝあつたあまりにながひる時間じかんまうとして、そらからさうして地上ちじやうすべてがやうや變調へんてうていした。

心もとなげな雲がむらむらと南から駆け走って、そのたびごとににわか雨をざあと斜めに注ぐ。

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こゝろもとなげなくも簇々むら/\みなみからはしつて、そのたびごと驟雨しううをざあとなゝめそゝぐ。

雨は畑の乾いた土にまみれて、やがてしぶきを作物の下葉に蹴って、さらに濁った水が白い泡を乗せながら低いほうを求めて去った。

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あめはたかわいたつちにまぶれて、やが飛沫しぶき作物さくもつ下葉したばつて、さら濁水だくすゐしろあわせつゝひくきをもとめてつた。

それもわずかに桑の木へ絡んだ昼顔の花にいっぱいの量を注いでは、慌てて走り去って、からりと熱した空が拭われることもあるのであるが、にわか雨は後から後からと駆けて来るので、夜明けの白まないうちから麦を搗いて庭いっぱいに筵を干した百姓を、どうかするとうるさく苛めた。

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それもわづかくはからんだ晝顏ひるがほはなに一ぱいりやうそゝいではあわてゝ疾驅しつくしつゝからりとねつしたそらぬぐはれることもるのであるが、驟雨しううあとからあとからとつてるのであかつきしらまぬうちからむぎいてにはぱいむしろほし百姓ひやくしやうをどうかすると五月蠅うるさいぢめた。

土地で言うその「降っ掛け」は、一日で止まなければ、三日とか五日とか、必ず奇数の日で終わった。

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土地とちでいふけは一にちまねば三とか五とかかなら奇數きすうをはつた。

降っ掛けが来てから、瓜畑はことごとく蔓も葉もにわかにがらがらに枯れて、悲惨になってしまった。

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けがてから瓜畑うりばたけことごとつるにはかにがら/\にれて悲慘みじめつてしまつた。

きわめてそっと、しかも騒がしそうに動く雲が、高く低く反対の方向に交差しつつあるのを見るとともに、干からびかけた草木の葉が触れ合い打ち合っては、だんだんと破れながら、ざわざわと悲しげな響きを立てて鳴った。

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きはめてそつとしかさわがしさううごくもたかひく反對はんたい方向はうかう交叉かうさしつゝあるのをるとともに、枯燥こさうしかけた草木くさきあひあひつてはだん/\とやぶれつゝざわ/\とかなしげなひゞきてゝつた。

すごいほど冴えた夜の空は、忙しげな雲が月を呑んですぐに後へ吐き出し吐き出し走った。

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すごほどえたよるそらいそがしげなくもつきんですぐうしろし/\はしつた。

月は反対に逃げながら走った。

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つき反對はんたいげつゝはしつた。

秋風だ。

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秋風あきかぜだ。

櫟も楢も雑木もすべてが節制を失って、ことごとく裏葉も肌も隠す隙がなく、ざあっと吹かれてただ騒いだ。

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くぬぎなら雜木ざふきすべてが節制たしなみうしなつてことごと裏葉うらは肌膚はだかくすきがなくざあつとかれてたゞさわいだ。

夜は寂しさに、すべてのこずえが互いにささやきながら、余計に騒いだ。

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よるさびしさにすべてのこずゑあひ耳語さゝやきつゝ餘計よけいさわいだ。

まだ暑い空気を冷たくしながら、豪雨がさらに幾日か草木の葉を苛めては、降って降って、また降った。

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まだあつ空氣くうきつめたくしつゝ豪雨がううさら幾日いくにち草木くさきいぢめてはつて/\またつた。

例年のごとき季節の洪水が、残酷に河川の沿岸をなめた。

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例年れいねんごと季節きせつ洪水こうずゐ残酷ざんこく河川かせん沿岸えんがんねぶつた。

洪水の去った後は、ちょうど過激な精神の疲労からにわかに老衰した者のように、半死の状態を呈した草木は皆白髪に変じて、その力ない葉先を秋風に吹きなびかされた。

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洪水こうずゐつたあとは、丁度ちやうど過激くわげき精神せいしん疲勞ひらうからにはか老衰らうすゐしたものごとく、半死はんし状態じやうたいていした草木さうもくみな白髮はくはつへんじてちからない葉先はさき秋風あきかぜなびかされた。

鬼怒川の土手に茂った篠の根にまつわっている短い露草も、葉から茎から泥にまみれていながら、なお生命を保ちつつ、日ごとに憐れげな花をつけた。

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鬼怒川きぬがは土手どて繁茂はんもしたしのまつはつてみじか鴨跖草つゆぐさからくきからどろまみれてながらなほ生命せいめいたもちつゝ日毎ひごとあはれげなはなをつけた。

こおろぎが滅入るようにその陰に鳴いた。

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こほろぎ滅入めいやうかげいた。

空をはるかに飛んだ椋鳥の群れが幾つかに分かれて、地上に低く騒いでは、こずえを求めてぎいぎいと鳴きながら落ち着かなかった。

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そらはるかんだ椋鳥むくどりむれいくつかにわかれて、地上ちじやうひくさわいではこずゑもとめてぎい/\ときつゝ落付おちつかなかつた。

いたる所、荒れた藪の端や土手の痩せた篠のこずえに乗りかかって、これを噛めば歯がこぼれると言われている毒な仙人草が、その手をいくらでも伸ばして思い切ってわだかまった蔓が白い花をいっぱいにつけて、そうして生き生きとしたものは自分だけであることを誇るもののごとく、秋風に吹かれながら白い布のようにふわふわと動いた。

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いたところれたやぶはし土手どてせたしのこずゑかゝつて、これめばがこぼれるといはれてどく仙人草せんにんさういくらでものばしておもつてわだかまつたつるしろはなを一ぱいにつけて、さうして活々いき/\としたものは自分じぶんのみであることをほこるものゝごとく、秋風あきかぜかれつゝしろぬのやうにふは/\とうごいた。

勘次の村は台地であるのと、鬼怒川の土手が篠の密生した根の力でわずかながら崩れる土を引き止めたので、損害が軽く済んだ。

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勘次かんじ村落むら臺地だいちであるのと鬼怒川きぬがは土手どてしの密生みつせいしたちからもつわづかながら崩壤ほうくわいするつちめたので損害そんがいかるんだ。

それでも幾日か降り続いた雨が水を蓄えて、低い畑はしばらく乾くことがなかった。

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それでも幾日いくにちつゞいたあめみづたくはへてひくはたしばらかわくことがなかつた。

田もその水のために浸かった箇所が少なくなかった。

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みづためひたつた箇所かしよすくなくなかつた。

勘次は昼となく夜となく田畑を歩いて、ひたすら心を悩ましたが、ようやく自分の田畑の作物がわずかな損害で済んだことを確かめた時は、彼は激甚な被害地の状況を伝え聞いて、自分がむしろ幸いであったことをひそかに喜んだ。

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勘次かんじとなくとなく田畑たはたあるいて只管ひたすらこゝろなやましたが、やうや自分じぶん田畑たはた作物さくもつわづか損害そんがいをはつたことをたしかめたときかれ激甚げきじん被害地ひがいち状况じやうきやう傳聞でんぶんして自分じぶんむしさいはひであつたことをひそかよろこんだ。

彼が大豆を引いて庭に運んだころは、まだ暑い日が落ち着いて、いがの割れ始めた栗の木のこずえから庭をじりじりと照らしていた。

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かれ大豆だいづいてにははこんだころはまだあつ落付おちついていがはじめたくりこずゑからにはをぢり/\とてらしてた。

根が幾日もぐっしょりと水に浸かっていた大豆は、黄色味の勝った褐色の莢も茎も、泥で汚れたように黒ずんでいた。

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幾日いくにちもぐつしりとみづひたつてた大豆だいづ黄色味きいろみつた褐色ちやいろさやからどろよごれたやうくろずんでた。

大豆を引いたのは、それでもまれな晴天であったので、「いい返し」

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大豆だいづいたのはそれでもまれ晴天せいてんであつたので「いひがへし」

に来るはずになっていた南の女房を頼んだ。

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はずつてみなみ女房にようばうたのんだ。

彼らは互いの便宜上、手間の交換をするのであるが、彼らはそれを「いいどり」

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彼等かれら相互さうご便宜上べんぎじやう手間てま交換かうくわんをするのであるが、彼等かれらはそれを「いひどり」

と言っている。

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というてる。

それで、その借りた手間を返すのが「いい返し」である。

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それでりた手間てまかへすのがいひがへしである。

大豆は庭に運ぶとともに、ひとつかみにしては根を上にして先を丸く開いて、互いの茎が支柱になるようにして、庭いっぱいに立てて干した。

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大豆だいづにははこぶととも一攫ひとつかみにしてはうへにしてさきまるいてたがひみき支柱しちうるやうにしてにはぱいてゝした。

煙草を一服吸うだけの時間に、熟しきった大豆はようやくぱちぱちと軽い快い響きを立てながら爆ぜ始めた。

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煙草たばこを一ぷくふだけの時間じかんに、成熟せいじゆくしきつた大豆だいづやうやくぱち/\とかるこゝろよひゞきてつゝはじめた。

大豆はことごとく庭の土に倒された。

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大豆だいづことごとにはつちたふされた。

三人はからさおを取って、端からだんだんと茎を打った。

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にん連枷ふるぢつてはしからだん/\とからつた。

おつぎと南の女房とは並んで、勘次に向かって交互に打ち下ろすからさおが、どさりどさりと庭の土を打つと、こわばった大豆の茎はしゃりしゃりと乾いた軽い響きを交えて、くすんだ汚い莢が白く割れて、薄青いつやつやした豆の粒が威勢よく跳ね出して、みんな茎の下に潜り込んでしまう。

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おつぎとみなみ女房にようばうとはあひならんで勘次かんじたいして交互かうごおろ連枷ふるぢがどさり/\とにはつちつとこはばつた大豆だいづからはしやりゝ/\と乾燥かんさうしたかるひゞきまじへてくすんだきたなさやしろれて薄青うすあをいつやゝかなまめつぶ威勢ゐせいよくしてみんなからしたもぐんでしまふ。

三人が一度大豆の茎を踏んで渡ったら、茎がぐっと落ち着いた。

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にんが一ぺん大豆だいづからんでわたつたらからがぐつと落付おちついた。

おつぎは昼飯の支度の茶を沸かした。

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おつぎは晝餐ひる支度したくちやわかした。

三人は食事の後の口を鳴らしながら戸口に出て、それから栗の木の陰にしばらくうずくまったまま休んでいた。

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にん食事しよくじあとくちらしながら戸口とぐちてそれからくりかげしばらうづくまつたまゝいこうてた。

「おやおやまあ、こっちのほうはいいこったなあ、大豆でもこんなに穫れて」

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「おや/\まあ、こつちのはうはえゝこつたなあ、大豆でえづでもかうだにとれて」

おつたは小柄な体を割合に大股に運んで、妙な足拍子を取りながら入って来た。

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おつたは小柄こがら身體からだ割合わりあひ大股おほまたはこんでめう足拍手あしびやうしりつゝ這入はひつてた。

勘次はちらと見て、栗の木の幹を後ろにしたままうつむいてしまった。

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勘次かんじはちらとくりみきうしろにしたまゝ俯向うつむいてしまつた。

おつたはさらに気にしないような態度で、ずっと戸口へ行って、斜めに肩へ掛けた風呂敷包みを下ろした。

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おつたはさら介意かいいないやうな態度たいどでずつと戸口とぐちつて、なゝめかたけた風呂敷包ふろしきづゝみをおろした。

「ああ重たかった」

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「おゝおもたかつた」

と、少し汗ばんだ額を手拭いで拭きながら、洋傘を仰向けに戸口へ置いて、洋傘の中へその風呂敷包みを置いた。

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すこあせばんだひたひ手拭てぬぐひでふきながら洋傘かうもり仰向あふむけ戸口とぐちいて、洋傘かうもりなか風呂敷包ふろしきづゝみいた。

南の女房はおつたを見て立った。

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みなみ女房にようばうはおつたをつた。

「おやまあ、しばらくでしたね」

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「おやまあ、しばらくでがしたね」

と、おつたは先にお世辞を言った。

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とおつたは、さき世辭せじをいうた。

「そう言えばまあ、あっちのほうはひどい洪水だという話だったっけが、どうでございましたね」

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「さういへばまあ、あつちのはうひで洪水みづだつちはなしだつけがどうでござんしたね」

女房は手拭いを取って言った。

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女房にようばう手拭てぬぐひをとつていつた。

「話の外でさどうも。あれこれもう、三十日近くにもなるだろうが、まだ片づけで、どっちから手をつけていいか分からないんでさどうも。わしらのほうみたいに洪水ばかり出たんじゃ、いるのもいやになっちまうようなのさ、本当に。そう言っても、こっちのほうはようございますね」

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はなしほかでがさどうも、彼此かれこれはあ、小卅日こさんじいんちにもんべが、まあだかたでどつちからてえつけてえゝかわかんねえんでがさどうもはあ、わしはうてえに洪水みづばかしたんぢや、んのもんなつちまあやうなのせ本當ほんたうに、さうつてもこつちのはうはようがすね」

おつたは相手を見つけて力を得たように言った。

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おつたは相手あひてつけてちからたやうにいつた。

「これでもまさか。この村だって随分かぶった所もあるんだから、まったく何ともないということもないがねえ」

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んでもまさか、村落むらだつて隨分ずいぶんかぶつたところんだから全然まるつきりなんともねえつちこともねえがねえ」

南の女房は声を低くして言った。

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みなみ女房にようばうこゑひくくしていつた。

「そんでも、ここらじゃいる所には差し支えないんだから、何と言っても諦めはようございますね。わしらのほうなんぞじゃ、土手へ筵囲いをしてやっとこさ凌いだ者がなんぼあったかさ。土手にいても、雨さえなけりゃいいが、降られちゃひどいという話でしたよ。そんでもまあ、わしらは家にいられるのはいられたんだからまあ、同じにもようございましたのさ。そんでも床の上へ四斗樽をこう逆さまにして置いて、その上へ板を渡してやっとまあ暮らし通しましたがね、煮炊きするのもやっとこさで。隣近所はあったって行ったり来たりするんじゃなし、どれほど心細いか分からないもんですよ。もっともこれ、死ぬ者さえあるんだから、こうしていられるのはありがたいようなもんではあるが。そんでも四斗樽の太い箍のところへもぐった時は、夜、横になってみたって、すぐ耳のそばでさらさらっとこう水が動いてるんだから、うっかり眠ったらそっくり持って行かれるかどうだか分からないと思ってね、ぽつりとももう言えないでいたのさ。

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「そんでも此處こゝらぢやとこにや支障さはりねえんだからなんちつてもあきらめはようがさね、わしはうなんぞぢや、土手どて筵圍むしろがこひしてやつとこせしのいだものなんぼつたかせ、土手どててもあめせえなけりやえゝが、られちやひでえつちはなしでがしたよ、そんでもまあわしらあうちられんなられたんだからまあおなじにもようがしたのせ、そんでもゆかうへへ四斗樽とだるかうさかさにしてえてね、そのうへいたわたしてやつとまあ居通ゐとほしあんしたがね、煮燒にやきすんのもやつとこせで、隣近所となりきんじよつたつてつたりたりすんぢやなし、何程なんぼ心細こゝろぼせえかわかんねえもんですよ、もつともこれ、ものせえあんだからうしてられんな難有ありがてやうなもんぢやあるが、そんでも四斗樽とだるふてたがところむぐつたときや、よるよこつてたつてぢきみゝそばでさら/\つとかうみづうごいてんだから、放心うつかりねむつたらそつくりつてかれつかどうだかわかんねえとおもつてね、ぼつちりともはあはんねえでたのせえ、

それから板の端のところからそうっと手を出してみると、宵の口にはそうでもないのが、ひやっと手の先がすぐ水へ触った時にはぞっとするようでしたよ。それからもう、舟は枕元へ繋いでたんだが、本当に枕元なのさ。みんなして固まって、狭いといったって窮屈だって、やっといるだけなんだから、天井へは頭を打ちつけそうで、命でも何でも縮められるような思いでさ。そんでもまあ、とうとう逃げもしないでいられたんだから、家でも持って行かれた者からじゃ運がいいのさ。まあ昼間は何と言っても方々見えていいが、夜がなんぼにも薄気味悪くてねえ」

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それからいたはじとこからそろつとてえしてつとよひくちにやさうでもねえのがひやつとさきみづさあつたときにや悚然ぞつとするやうでがしたよ、それからはあふね枕元まくらもとつないでたんだが、本當ほんたう枕元まくらもとなのせえ、みんなしてこゞつてせめえつたつて窮屈きうくつだつてやつとだけなんだから、天井てんじやうへはあたまつゝかりさう生命いのちでもなんでもちゞめらつるやうなおもひでさ、そんでもまあ到頭たうとうげもしねえでらつたんだから、うちでもつてかれたものからぢやうんがえゝのせえ、まあ晝間ひるまはなんちつても方々はう/″\えてえゝが、よるがなんぼにも小凄こすごくつてねえ」

おつたは、自分の恐ろしかった経験を聞いてくれるのを喜ぶように語り続けるのであった。

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おつたは自分じぶんおそろしかつた經驗けいけんいてくれるのをよろこぶやうにかたつゞけるのであつた。

「そんでまあ、それもいいが、蛙だの蛇だのが来てね。蛙は何だが、蛇がなんぼにもいやで、もう棒で引っ掛けて遠くのほうへ放り投げてみても、執念深いというのか、またぞよぞよ泳いで来て。それも夜がねえ、万一のことがあっちゃと思うもんだから明かりを点けてたんだが、そのせいか余計に来るようで。薄暗い明かりだから、じきそばへ来てからでなくちゃ分からないし、首をもたげてるのを見ちゃ、本当にいやでねえ」

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「そんでまあ、それもえゝがけえるだのへびだのがてね、けえるはなんだがへびがなんぼにもいやではあ、ぼうけてとほくのはうげてても、執念深しふねんぶけえつちのかまたぞよ/\およいでて、それもよるがねえ萬一もしものことがつちやとおもふもんだからあかけてたんだが所爲せゐ餘計よけいやうで、うすくれあかりだからぢつきそばてからでなくつちやわかんねえし、くびもちやげてんのちや本當ほんたうでねえ」

おつたは、いくら言っても尽きない当時をありありと思い浮かべさせようとする様子で言った。

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おつたはいくらいつてもきない當時たうじ髣髴はうふつせしめようとする容子ようすでいつた。

栗の木の陰にいた勘次は、だんだんといくらかずつでも洪水の話に興味を感じても来たし、それから、たとえどうであっても訪ねて来た姉に挨拶もしないのは他人の手前が許さないので、ようやく立って

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くりかげ勘次かんじはだん/\といくらづゝでも洪水こうずゐはなし興味きようみかんじてもたし、それから假令たとひどうでもたづねてあね挨拶あいさつもせぬのは他人たにん手前てまへ許容ゆるさないのでやうやつて

「姉さんらも随分ひどい目に遭ったんだな」

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姊等あねら隨分ずゐぶんひでえあつたんだな」

彼は言いながら、家の中へおつたを導いた。

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かれはいひながらいへうちへおつたをみちびいた。

大豆の埃をいとって雨戸は閉め切ってあったので、大戸をいっぱいに開けても、内は少し暗く、かつ暑かった。

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大豆だいづほこりいとうて雨戸あまどつてあつたので、大戸おほどを一ぱいけてもうちすこくらかつあつかつた。

おつぎは先ごろのように、すぐに竈を焚いて柄杓で二、三杯の水を茶釜へ差した。

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おつぎは先頃さきごろやうすぐかまどいて柄杓ひしやくで二三ばいみづ茶釜ちやがました。

「何と言っても、こんなに豆が穫れるなんて、お前らのほうはいいのよなあ。おれのほうじゃ土手の近くで手のある者はな、田の畦豆を引っこ抜いて土手の中腹へ干してはみたようだが、まだ何と言っても莢が本当に膨れないんだから、ほんの豆の形をしたというくらいなもんだろうな。そりゃそうと、この豆はいい豆だな。甘そうでなあ」

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「なんちつても、かうえまめとれるなんておめえはうはえゝのよなあ、はうぢや土手どてちかくでるもなあ、畦豆くろまめつこえて土手どてちうぱらしちややうだが、まあだなんちつてもさや本當ほんたうふくれねえんだから、ほんのまめかたちしたつちくれえなもんだべな、そりやさうとまめはえゝまめだな、甘相うまさうでなあ」

おつたは敷居をまたいで、手先の豆を少しつかんでみて言った。

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おつたはしきゐまたいで手先てさきまめすこつかんでていつた。

それからおつたは、洋傘といっしょに置いたさっきの風呂敷包みを持ち込んで、そうしてまた尻を据えた。

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それからおつたは洋傘かさと一つにいた先刻さつき風呂敷包ふろしきづゝみんでさうしてまたしりゑた。

「水の中にいちゃ、仕事するにも仕事はなしさなあ。それからみんな棒の先へ鉤をくっつけて魚釣りをしたのよ。庭でいくらでも鮒が釣れるというんだから、知らない者が見ちゃ、ひどく困らない奴らだと思うくらいなもんだろうのさ」

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みづなかちや仕事しごとするにも仕事しごとはなしさなあ、それからみんなぼうさきはりくつゝけて魚釣さかなつりしたのよ、にはいくらでもふなれるつちんだかららねえものがちやひどこまんねえ奴等やつらだとおもくれえなもんだんべのさ」

おつたは一杯の茶をすすって喉を湿した。

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おつたは一ぱいちやすゝつてのどうるほした。

おつぎも南の女房も、目を据えて黙って聞いていた。

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おつぎもみなみ女房にようばうゑてだまつていてた。

勘次は難しい顔をしていながらも、熱心に聞いた。

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勘次かんじむづしいかほをしてながらも熱心ねつしんいた。

「後がひどくてな。縁の下でも何でも泥がいっぱいで、それはまあ掻き出せばいいんだが、床板が白かびになっちまって、これがまだなかなか乾かないから、畳なんざいつ敷き込めるもんだか分からないのさ。そんでまた、田でも畑でもかぶった所は水が乾いてから腐ってるもんだから、その臭いことがまた話にはならないや。おれは作物ばかり困るんだと思ったら、畑の桐の木でも樫の木でも、今になってからぼろぼろ葉っぱが落っこちちまって、怖いもんだよ」

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あとひどくつてな、えんしたでもなんでもえごみが一ぺえで、そえつあゝせばえゝんだが床板ゆかいたしらかびつちやつてれがまだなか/\ねえからたゝみなんざ何時いつめるもんだかわかんねえのさ、そんでまたでもはたけでもかぶつたとこみづてからくさつてるもんだからくせえことがまたはなしにやなんねえや、作物さくもつばかしこまんだとおもつたら、はたけきりでもかしでもいまつてからぼろ/\葉々はつぱおつこつちやつて可怖おつかねえもんだよ」

おつたは言いながら風呂敷を解いた。

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おつたはいひながら風呂敷ふろしきいた。

やまと煮と書いた牛肉の缶詰が三本と、菓子でもあるかと思う小さな紙包みの、固めた食塩の四つ五つとが出た。

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やまといた牛肉ぎうにく鑵詰くわんづめが三ぼん菓子くわしでもあるかとおもちひさな紙包かみづゝみかためた食鹽しよくえんの四つ五つとがた。

「これはな、そんでもありがたいことに、水浸しになった家へは役場から一軒ごとに下げ渡しになったんだよ。おれはまた、こっちの家なんぞじゃどういう塩梅だと思って、しばらく外へも出たことがないもんだから出ても見たいし、こういう物を自分ばかりで口を開けちまうのも何だと思って持って来てみたのよ。おれは一つ手をつけてみたが、どれほどいい味のもんだか知らないや」

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れなあ、そんでも難有ありがてえことに、水浸みづびたしつたいへさは役場やくばから一軒毎えつけんごめらわたしになつたんだよ、らまたこつちのうちなんぞぢやどうえ鹽梅あんべえだとおもつてしばらほかへもたことねえもんだからてもてえし、かうえもの自分じぶんでばかしくちけつちやあのもなんだとおもつてもつたのよ、ひとてえつけてたが何程なんぼえゝあぢのもんだかんねえや」

おつたは空になったかなり大きな風呂敷を、幾つかに折った。

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おつたはからになつたかなりおほきな風呂敷ふろしきいくつかにつた。

「おおいや、たいしたもんだね。これは塩だろうかまあ。見たいったって見られるもんじゃないよ。こういう物はねえ。よくまあ持って来て、勘次さんら大変だ」

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「おゝえや、たえしたもんだね、しほだんべけまあ、てえたつてらつるもんぢやねえよ、かうえものあねえ、くまあつて勘次かんじさん大變たいへんだ」

南の女房は食塩の一つを手にして見ながら、羨ましげに言った。

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みなみ女房にようばう食鹽しよくえんの一にしてながらうらやましげにいつた。

おつぎも珍しそうにして、南の女房の手をのぞいた。

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おつぎもめづらしさうにしてみなみ女房にようばうのぞいた。

勘次も白い食塩を爪の先で少し取って口へ入れた。

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勘次かんじしろ食鹽しよくえんつめさきすこしとつてくちいれた。

「塩辛いや、まさか」

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鹽辛しよつぺえやまさか」

彼はにっこりとしながら

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かれ嫣然につこりとしなが

「おつう、これはしまっておけ、そんじゃ」

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「おつう、しまつてけ、そんぢや」

と言って、さらに

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といつてさら

「姉さんらもひどかろう、野良は」

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姊等あねらひどかんべらは」

と、彼はおつたの染めていた髪が、交じった白髪をほんのりと見せるまでに薬がさめて汚くなったのを見ながら言った。

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かれはおつたのめつゝあつたかみが、まじつた白髮しらがをほんのりとせるまでにくすりめてきたなくなつつたのをつゝいつた。

「米でも何でも一粒も穫れやしないのよ」

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こめでもなんでも一粒ひとつぶもとれやしねえのよ」

おつたはぽつりとしたように言った。

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おつたはぽさりとしたやうにいつた。

「汁の実なんざ、そんでもどうにかできるのか」

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しんなんざそんでも、どうにか出來できんのか」

「どうしてよお前。青いものは土手の草ばかりだって言ってるくらいだもの。今日が今日困ってるんだな」

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「どうしてよおめえ、あをえもな土手どてくさばかしだつてつてるくれえだもの、今日けふ今日けふこまつてんだな」

「そんじゃ、姉さんに茄子か南瓜でもやろうかなあ」

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「そんぢや、あね茄子なす南瓜たうなすでもやんべかなあ」

勘次は同情が少し動いたように言った。

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勘次かんじ同情どうじやうすこうごいたやうにいつた。

「おや、そんじゃ、おれの家でも葱の少しも上げましょう」

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「おやそんぢやでもねぎすこしもあげあんせう」

南の女房は言って、桑畑の小道を小走りに駆けて行った。

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みなみ女房にようばうはいつて桑畑くはばたけ小徑こみち小走こばしりにけてつた。

「おとっつあん、それも何だが、そんなに持てやしまいし、米でも少しやったらよかろうな。どうせ少し経つと陸稲が刈れるんだもの」

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「おとつゝあ、それもなんだが、さうえにてやしめえし、こめでもすこしやつたらよかんべな、どうせすこつと陸稻をかぼれんだもの」

おつぎは口を添えた。

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おつぎはくちへた。

「うん、そうだなあ」

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「うむさうだなあ」

と、勘次は南京米の袋へ米を五升ばかり、もう痩せている俵から量り出した。

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勘次かんじ南京米ナンキンまいふくろこめを五しようばかり、もうせてたわらからはかした。

「挽き割り麦もやったらよかろうな」

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挽割麥ひきわりもやつたらよかんべな」

おつぎはまた言った。

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おつぎはまたいつた。

「これへ混ぜていいかい」

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れさぜてえゝけ」

勘次はおつたを顧みて言った。

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勘次かんじはおつたをかへりみていつた。

「うん、いっしょにしてくれ」

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「うむ、一しよにしてくろ」

と、おつたは柔らかに言った。

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とおつたはやはらかにいつた。

勘次は二つを半々に混ぜて、それからまた大きな南瓜を三つばかり土間へ並べた。

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勘次かんじふたつを等半とうはんぜてそれからまたおほきな南瓜たうなすつばかり土間どまならべた。

「そんじゃ大層厄介を掛けて済まないな。そんじゃおれは米ばかり背負って行って、明日でもまた南瓜は取りに来るとしようよ。そんじゃこれ、米は大変だから、おれの風呂敷じゃちっと小さいんだが、大きいのがあれば貸してくれないか」

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「そんぢや大層たえそ厄介やつけえけてまねえな、そんぢやこめばかし脊負しよつてつて明日あしたでもまた南瓜たうなすはとりにるとすべえよ、そんぢやら、こめ大變たいへんだかられが風呂敷ふろしきぢやちつとつちえんだがかえのればしてくんねえか」

おつたはおつぎへ言いかけた。

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おつたはおつぎへいひけた。

「おれの家にはないが、爺さんがな、あったっけな、おとっつあん」

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にやねえが、ぢいがなつたつけな、おとつゝあ」

そう言って、おつぎは小走りに卯平の小屋へ行った。

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さういつておつぎは小走こばしりに卯平うへい小屋こやつた。

さっきまで見えなかった卯平が、どこから帰って来たか、むっつりとして独りで煙管を噛んでいた。

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先刻さつきまでえなかつた卯平うへい何處どこからかへつてたかむつゝりとしてひとり煙管きせるかんた。

「爺さん、いたんだな。おれ、いなけりゃ黙って借りて行こうと思ったんだったが、明日まで伯母さんが大きな風呂敷が要るというから、貸してくれないか。米を背負って行くんだから」

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ぢいたんだな、おらねえけりやだまつてりてくべとおもつたんだつけが、明日あしたまで伯母をばさんかえ風呂敷ふろしきるつちからしてくんねえか、こめ脊負しよつてくんだから」

おつぎは唐突に言った。

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おつぎは突然だしぬけにいつた。

「うん」

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「うむ」

と、卯平は不器用に風呂敷を出して、そうしておつぎの後からおつたのそばへのっそりと来て立った。

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卯平うへい不器用ぶきよう風呂敷ふろしきしてさうしておつぎのうしろからおつたのそばへのつそりとつた。

「これはまあ、勘次らにも済まないと言ってるところさ。わしらも洪水でねえ」

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れまあ、勘次等かんじらにもまねえつちつてつところさ、わし洪水みづでねえ」

おつたは風呂敷で南京米の袋をきりっと包んだ。

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おつたは風呂敷ふろしき南京米なんきんまいふくろをきりつとつゝんだ。

「そんじゃこの南瓜もおれがもらっていいんだな。馬鹿に大きい南瓜じゃないかな。明日まで置いてくれな」

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「そんぢや南瓜たうなすもらつてえゝんだな、馬鹿ばかけえ南瓜たうなすぢやねえかな、明日あしたまでいてくろうな」

おつたが始終笑顔を作っている所へ、南の女房が葱を一束、藁でくるんだのを抱えて来た。

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おつたは始終しよつちう笑顏えがほつくつてところみなみ女房にようばうねぎ一束ひとたばわらでくるんだのをかゝへてた。

「どうも済みませんね、これは」

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「どうもみませんねこら」

おつたは勘次を見て

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おつたは勘次かんじ

「どうしたもんだ、たいした葱じゃないか。本当に済まないな。そんじゃこれも明日まで取っておいてくれな」

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「どうしたもんだ、たえしたねぎぢやねえか、本當ほんたうまねえな、そんぢやれも明日あしたまでとつていてくろうな」

と、さらにまた尻を据えて一杯の茶をすすった。

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さらまたしりゑて一ぱいちやすゝつた。

「おやっ、この栗はもう笑んでるんだな」

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「おやツ、くりんでんだなはあ」

庭先の栗のこずえに初めて目をつけたように、おつたは言った。

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庭先にはさきくりこずゑはじめてをつけたやうにおつたはいつた。

「この間からなんでさ。ちっとばかりだが、落ちたのがありまさ」

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此間こねえだからなんでさ、ちつとばかしだがちたのりあんさ」

おつぎは小笊の底の粒栗を出して

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おつぎは小笊こざるそこ粒栗つぶぐりして

「あっちになけりゃ持って行ったらようございましょう。大豆も、これ、打った所なら持って行くといいんでしたがね」

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「あつちになけりやつてつたらようござんせう、大豆でえづもこれつたところならつてくとえゝんでがしたがね」

おつぎは快く言った。

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おつぎはこゝろよくいつた。

「そうだな、そんじゃもらって行くかな」

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「さうだな、そんぢやもらつてくかな」

おつたは手拭いの両端へ栗をくくった。

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おつたは手拭てぬぐひ兩端りやうはしくりくゝつた。

「こっちのおとっつあん、これはわしが役場から下がったのを持って来てみたんだが、一つ分けてもらったらようございましょう。めったにない味のもんだから」

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「こつちのおとつゝあん、れわし役場やくばからさがつたのつてたんだが一つけてもらつたらようがせう、滅多めつたねえあぢのもんだから」

おつぎがさっきしまうことを勘次に促されても、おつたの手前を憚るようにしてそのままにしておいた牛肉の缶詰の一つを、おつたは卯平へやった。

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おつぎが先刻さつきしまふことを勘次かんじうながされてもおつたの手前てまへはゞかつたやうにしてまゝにしていた牛肉ぎうにく鑵詰くわんづめの一つをおつたは卯平うへいへやつた。

卯平は窪んだ目をしかめるようにした。

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卯平うへいくぼんだしかめるやうにした。

勘次は、油断した自分の懐の物を奪われたほどの驚きと不快との目で、卯平とおつたとを見た。

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勘次かんじ放心うつかりした自分じぶんふところものうばはれたほど驚愕きやうがく不快ふくわいとのもつ卯平うへいとおつたとをた。

おつたは重そうな風呂敷包みをうんと背負って、胸の結び目へ両手を掛けて、包みの据わりを良くするために二、三度揺すった。

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おつたは重相おもさう風呂敷包ふろしきづゝみをうんと脊負しよつてむねむす兩手りやうてけてつゝみすわりをくするために二三ゆすつた。

「そんじゃ明日またお目にかかりましょう」

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「そんぢや明日あしたまたおにかゝりあんせう」

おつたは一同へ挨拶して

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おつたは一どう挨拶あいさつして

「これはよかった、本当にまあ」

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りやよかつた、本當ほんたうにまあ」

聞こえよがしに独り言を言いながら、おつたは庭から垣根を出た。

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きこえよがしに獨語どくごしながらおつたはにはから垣根かきねた。

勘次は、自分のそばに牛缶を手にして立った卯平を改めてさらに不快な目でじっと見つめながら、彼の心の内には惜しかったという思いが、何ということもなしにただふいと湧いたのであった。

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勘次かんじ自分じぶんそば牛鑵ぎうくわんにしてつた卯平うへいあらためてさら不快ふくわいもつ凝視ぎようししながら、かれこゝろうちにはしかつたといふ念慮ねんりよなんといふことはなしにたゞふいといたのであつた。

「袋は明日持って来てくれなくちゃかなわないぞ」

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ふくろ明日あしたつててくんなくつちやへねえぞ」

と、勘次はおつたの後から追いかけるようにして言った。

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勘次かんじはおつたのあとからけるやうにしていつた。

おつたは垣根に沿って、後ろの林のそばから田圃へ出た。

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おつたは垣根かきねうてうしろはやしそばから田圃たんぼた。

道端の竹のこずえには、どこまでも這っていっぱいに乗りかからねば止むまいとする毒な仙人草が、くっきりと白く誇っている。

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道端みちばたたけこずゑには何處どこまでもうて一ぱいかゝらねばむまいとするどくなせんにんさうがくつきりとしろほこつてる。

小さな体でありながら少し鋭いくちばしを持ったばかりに、はかない雀や頬白の前でだけ威力をたくましくする鵙が、小さな勝利者の声を放って、きいきいと際どくどこかの木のてっぺんで鳴いていた。

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ちひさな身體からだでありながらすこするどくちばしつたばかりに、果敢はかないすゞめ頬白ほゝじろまへにのみ威力ゐりよくたくましくするもずちひさな勝利者しようりしやこゑはなつてきい/\ときはどく何處どこかの天邊てつぺんいてた。

その夜、勘次の家には、突然一同を驚かせた事件が起こった。

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勘次かんじいへには突然とつぜんどう驚愕きやうがくせしめた事件じけんおこつた。

それは事もなく済んで、そうしてあまりに滑稽な要素を交えていた。

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それはこともなくんでさうしてあまりに滑稽こつけい分子ぶんしまじへてた。

与吉はその日の夕方、紙へ包んだ食塩を一つ盗んだ。

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與吉よきち夕方ゆふがたかみつゝんだ食鹽しよくえんひとぬすんだ。

彼は、これまで見たことのない綺麗な菓子を発見したと思って心が躍った。

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かれ從來じうらいたことのない綺麗きれい菓子くわし發見はつけんしたとおもつてこゝろをどつた。

それでも彼はその半分を割って、いきなり飲み下した。

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それでもかれ半分はんぶんつていきなりくだした。

彼は喉がじりじりと焦げつくほど、非常な苦しみを感じた。

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かれのどがぢり/\とげつくほど非常ひじやう苦惱くなうかんじた。

勘次もおつぎも、ただ慌てた。

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勘次かんじもおつぎもたゞあわてた。

勘次はその原因を知って

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勘次かんじ原因げんいんつて

「お前は馬鹿だな、本当に。何て馬鹿だろうなあ」

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りや馬鹿ばかだな本當ほんたうに、なん馬鹿ばかだんべなあ」

と叱ってみるだけであった。

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しかつてるだけであつた。

勘次があまりに叱るので

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勘次かんじあまりにしかるので

「そんなに怒ったって治るまいな、おとっつあんは」

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「そんなにおこつたつてなほるめえな、おとつゝあは」

と、ついにはおつぎが勘次を叱った。

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つひにはおつぎが勘次かんじしかつた。

与吉はただ苦しんで、胸をかきむしるようにしながら転がって泣いた。

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與吉よきちたゞくるしんでむねむしやうにしつゝころがつていた。

卯平は騒ぎを聞いて、のっそりと来た。

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卯平うへいさわぎをいてのつそりとた。

「水を飲ませてみろ」

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みづませてろ」

彼は慌てるということを知らない者のごとく、一言言った。

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かれあわてるといふことをらぬものゝごとく一ごんいつた。

おつぎはすぐに柄杓で水を汲んだ。

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おつぎはすぐ柄杓ひしやくみづんだ。

与吉はいくらでも柄にすがって飲んだ。

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與吉よきちいくらでもすがつてんだ。

「鶏が納豆を食ったって、死なないうちに水を飲ませりゃ何ともないんだもの。水を飲ませりゃ、そんなに騒ぐには当たらない」

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にはとり納豆なつとうくつたつてなねえうちみづませりやなんともねんだもの、みづませりやそんなにさわぐにやあたらねえ」

卯平は言って、自分でもまた飲ませた。

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卯平うへいはいつて自分じぶんでもまたませた。

与吉の枕元で、三人は夜通し眠らなかった。

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與吉よきち枕元まくらもとに三にん徹宵よつぴてねむらなかつた。

恐ろしく多量の水を飲んだ与吉は、ついにすやすやと眠った。

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おそろしく多量たりやうみづんだ與吉よきちつひにすや/\とねむつた。

そうして翌朝、けろりと治って駆け出したのであった。

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さうして翌朝よくあさけそ/\となほつてしたのであつた。

次の日、おつたはまた来た。

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つぎおつたはまたた。

おつたは、自分が無意識に種を蒔いた昨夜の騒ぎを知っているはずがないので、昨日のごとく威勢がよかった。

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おつたは自分じぶん無意識むいしきたねいた昨夜さくやさわぎをつてるはずがないので、昨日きのふごと威勢ゐせいがよかつた。

勘次は睡眠の不足から、さらに余計に不快そうに目をしかめた。

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勘次かんじ睡眠すゐみん不足ふそくからさら餘計よけい不快ふくわいしかめた。

自分の風呂敷へ、軒の下に並べてある三つの南瓜を包もうとして、おつたは

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自分じぶん風呂敷ふろしきのきしたならべてある三つの南瓜たうなすつゝまうとしておつたは

「おれの南瓜はこれだったっけかな」

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れが南瓜たうなすれだつけかな」

と、不審そうに言った。

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不審相ふしんさうにいつた。

「それだろうな」

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「それだんべな」

勘次はようやくこれだけ言った。

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勘次かんじやうやくこれだけいつた。

卑しい彼は、おつたへやった南瓜を取り替えておいたのであった。

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淺猿さもしいかれはおつたへやつた南瓜たうなすへていたのであつた。

「どうしたっけ、昨日の豆は。そんでもたんと穫れた割合だったっけが」

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「どうしたつけ、昨日きのふまめはそんでもたんと收穫れた割合わりえゝだつけが」

おつたが謎のように言っても、勘次はいっこうにはきはきと言わなかった。

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おつたがなぞのやうにいつても勘次かんじさらにはき/\といはなかつた。

おつたも不快な様子をしながら、南瓜と葱とを背負って、別に口を利くでもなく、ただ卯平と二言三言言って、もうどうでもいいという態度で出て行った。

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おつたも不快ふくわい容子ようすをしながら南瓜たうなすねぎとを脊負しよつてべつくちくでもなく、たゞ卯平うへい二言ふたこと三言みこといつてもうどうでもいといふ態度たいどつた。

勘次はつくづくと、中間のひどく痩せてくびれた俵を見た。

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勘次かんじはつく/″\と中間ちうかんいたせてくびれたたわらた。

財貨によって物質的な満足を自分の暖かな懐に感じた時、すべてはこれを失うまいとする恐怖から絶えずその心を騒がせているように、無尽蔵な自然の懐から財貨が百姓の手に必ず一度与えられる秋の季節になれば、その財貨を保った田や畑の穂先が、これを妬む一部の自然現象に対して常に戦慄しながら、かつ泣いた。

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財貨ざいくわによつて物質的ぶつしつてき滿足まんぞく自分じぶんあたゝかなふところかんじたときすべてはれをうしなふまいとする恐怖きようふからえずそのこゝろさわがせつゝあるやうに、無盡藏むじんざう自然しぜんふところから財貨ざいくわ百姓ひやくしやうかならず一あたへられるあき季節きせつれば、財貨ざいくわたもつたはたけ穗先ほさきこれねたむ一自然現象しぜんげんしやうたいしてつね戰慄せんりつしつゝかついた。

二百十日から二十日の間にわたっての暴風は懸念したほどのことはなく、ただ秋の空は難しそうに低くなって、棒のような雲へ煙のような雲がぽつりぽつりとまとわっている日が続いて、二、三日昼から夜へかけて、ぼかぼかと暖かい空っ風が思い切り吹いた。

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二百十から廿あひだわたつての暴風ばうふう懸念けねんしたほどのことはなく、たゞあきそらは六かしさうひくつてぼうのやうなくもけぶりやうくもがぽつり/\とまつはつてつゞいて二三にちひるからよるけてぼか/\とあたゝかいからかぜおもいた。

小松や櫟の林に交じって、これに触れれば人の肌に血を見せるほどの硬い意地の悪い葉を持った芒までが、そうしなければ目にも立たないのに、わざわざ薄赤い柔らかな穂先を高く差し上げて、人一倍に騒いだ。

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小松こまつくぬぎはやしまじつて、これれゝばひと肌膚はだへせるほどこは意地いぢわるつたすゝきまでが、さうしなければにもたないのに態々わざ/\薄赤うすあかやはらかな穗先ほさきたかくさしげて、ひとばいさわいだ。

しばらくして、秋はまぶしいほど冴えた空を見せた。

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しばらくしてあきまぶしほどえたそらせた。

畑には、昼が余計に明るいほど黄褐色に熟した陸稲がいっぱいにうなずいた。

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はたけにはひる餘計よけいあかるいほど黄褐色くわうかつしよく成熟せいじゆくした陸稻をかぼが一ぱい首肯うなづいた。

蕎麦は、爽やかでかつ細く強い秋雨がしとしとと洗って、秋風がそれを乾かした。

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蕎麥そばさわやかでほそつよ秋雨あきさめがしと/\とあらつて秋風あきかぜがそれをかわかした。

洗っては干し干し、しばしばそれが繰り返されて、だんだんに薄青く、そうして闇の夜をさえ明るくするほど純白に曝された。

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あらつてはかわかし/\しば/\それが反覆はんぷくされてだん/\に薄青うすあをく、さうしてやみをさへあかるくするほど純白じゆんぱくさらされた。

台地の畑は黄と白が相交じって、地勢のままになだらかに起伏して、鬼怒川の土手に近く向こうへ低く傾いている。

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臺地だいちはたけ黄白くわうはくあひまじつて地勢ちせいまゝになだらかに起伏きふくして鬼怒川きぬがは土手どてちか向方むかうひくくこけてる。

そういう畑の周囲に立っている蜀黍は、強い茎がすっくりと穂を支えて、それがまばらな垣根のように連なって、畑から畑をつないでは幾十度の屈折をなしながら、だんだんに短くなって、これも鬼怒川の土手に近く尽きる。

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さういふはたけ周圍まはりたつ蜀黍もろこしつよくきがすつくりとさゝへて、それがまばらな垣根かきねのやうにつらなつてはたけからはたけつないではいく屈折くつせつをなしつゝ段々だん/\みぢかくなつてれも鬼怒川きぬがは土手どてちかきる。

土手の篠の高さに見える蜀黍は、南風を受けて、差し上げた手のごとき形をなしては先から先へと動いて、その手が遡る白帆を静かに上流へ押し進めている。

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土手どてしのたかさにえる蜀黍もろこし南風なんぷうけて、さしげたごとかたちをなしてはさきからさきへとうごいて、さかのぼ白帆しらほしづかに上流じやうりうすゝめてる。

そうしてはまた、そのまばらな垣根は、長い短いによって遠くの林のこずえや、冴えた山々の頂をなでている。

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さうしてはまたまばらな垣根かきねながみじかいによつてとほくのはやしこずゑえた山々やま/\いたゞきでゝる。

爽やかな秋は、こうしてからりと展開した。

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さわやかなあきくしてからりと展開てんかいした。

しかし勘次の作った陸稲は、こういう畑ではなく、こずえの荒れた雑木林の間だけであった。

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しか勘次かんじつくつた陸稻をかぼはかういふはたけではなく、こずゑすさんだ雜木林ざふきばやしあひだのみであつた。

彼の開墾地へは、周囲に隠れる場所があるせいか、村のどこにもにわかにその声を聞かなくなった雀が、群れをなして日ごとに襲った。

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開墾地かいこんちへは周圍しうゐかくれる場所ばしよ所爲せゐか、村落むら何處どこにもにはかそのこゑかなくなつたすゞめぐんをなして日毎ひごとおそうた。

彼はそれでも根よく、白いガス糸を縦横に畑の上に引っ張って、ひらひらと燭奴を吊って威してみた。

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かれはそれでもこんよくしろ瓦斯絲ガスいと縱横じゆうわうはたけうへつてひら/\と燭奴つけぎつておどしてた。

それでもずるい雀のために、籾がまだ固まらないで甘い液汁のような状態をなしているうちから、小さなくちばしで噛んで、おびただしく籾殻がこぼされた。

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それでも狡獪かうくわいすゞめためもみのまだかたまらないであま液汁しるごと状態じやうたいをなしてうちからちひさなくちばしんでしたゝかに籾殼もみがらこぼされた。

彼は空っ風が障ったとは思っていても、長い茎を刈り倒した時はそれでも熱心で、かつ愉快であったが、しかし乾燥して米にした時には、彼は夏のころの予想と非常な相違であることを確かめて落胆せざるを得なかった。

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かれからかぜさはつたとはおもつてても、ながからたふしたときはそれでも熱心ねつしんかつ愉快ゆくわいであつたが、しか乾燥かんさうしてこめにしたときにはかれなつころ豫想よさう非常ひじやう相違さうゐであることをたしかめて落膽らくたんせざるをなかつた。

彼の卑しい心が、わずかな米や麦を姉であるおつたに騙し取られたかと思い出しては、しばらくの間、忌々しさに堪えられなかった。

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かれ淺猿さもしいこゝろわづかこめむぎあねなるものゝおつたにだましてられたかとおもしてはしばらくのあひだ忌々敷いま/\しさにへなかつた。

彼は勢い何かに当たり散らそうとするのに、おつぎと与吉とに対してはあまりに深い親しみを持っていた。

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かれいきほなにかにあたらさうとするのにおつぎと與吉よきちとにたいしてはあまりにふかしたしみをつてた。

こうして彼の卯平に対する憎悪の念が、彼の心へ錐を穿って、さらに釘ではっきりと打ちつけられたのであった。

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うしてかれ卯平うへいたいする憎惡ぞうをねんかれこゝろきり穿うがつてさらくぎもつ確然しつかちつけられたのであつた。

二一

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二一

勘次が走って鬼怒川の岸に立った時は、霧がいっぱいに降りて、水は彼の足元から二、三間先が見えるのみであった。

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勘次かんじはしつて鬼怒川きぬがはきしつたとききりが一ぱいりて、みづかれ足許あしもとから二三げんさきえるのみであつた。

岸には舟が繋いでなかった。

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きしにはふねつないでなかつた。

彼は焦って、いつものように大声を出して、対岸へ行ったはずの舟を呼んだ。

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かれ焦慮あせつていつもするやうに大聲おほごゑして對岸むかうつたはずふねんだ。

「おうい」

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「おうえ」

と応じる声が、水を渡って強く、しかも近く聞こえた。

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おうずるこゑみづわたつてつよかもちかきこえた。

勘次はその声に圧されて黙った。

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勘次かんじこゑあつせられてだまつた。

すぐに舳先が薄く霧の中から見えた。

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ぐにへさきうすきりなかからえた。

勘次は、ほとんどむせるような霧に包まれて舟に立った。

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勘次かんじほとんどむせぶやうなきりつゝまれてふねつた。

所々さらさらとかすかに響きを伝えて、舟の底がつかえようとする。

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處々ところ/″\さら/\とかすかにひゞきつたひてふねそこさゝへられようとする。

初秋の洪水以来、河の中央には大きな洲が積もったので、舟はその周囲を這って、遠く曲線を描かねばならない。

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初秋しよしう洪水こうずゐ以來いらいかは中央ちうあうにはおほきな堆積たいせきされたので、ふね周圍しうゐうてとほ彎曲わんきよくゑがかねばらぬ。

勘次は目を覆われたようで心細い霧の中に、そんなことで著しく延びた水路をたどっていながら、悠然として鈍い棹の立て方をするのに心を焦らせて

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勘次かんじおほはれたやうで心細こゝろぼそきりなかに、其麽そんなことでいちじるしく延長えんちやうされた水路すゐろ辿たどつてながら、悠然ゆつくりとしてにぶさをてやうをするのにこゝろ焦慮あせらせて

「どうしたろう、入っちゃ越せまいか」

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「どうしたんべ、へえつちやせめえか」

船頭のほうを向いて彼は言った。

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船頭せんどうはういてかれはいつた。

「ぶくぶくやりたけりゃ入ったほうがいいや」

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「ぶく/\やりたけりやへえつたはうがえゝや」

船頭はそっけなく言って、おもむろに棹を立てる。

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船頭せんどうはそつけなくいつておもむろにさをてる。

舟底が触れて、立っている体がぐらりと後ろへ倒れそうになった。

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船底ふなぞこさはつてつて身體からだがぐらりとうしろたふさうつた。

勘次は、船頭がわざと自分を突きのめしたもののように感じて、ひどく頼りない心持ちがした。

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勘次かんじ船頭せんどうわざ自分じぶんきのめしたものゝやうにかんじてひど手頼たよりない心持こゝろもちがした。

彼はじっと屈んで、船頭の操るままに任せた。

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かれ凝然ぢつかゞんで船頭せんどうあやつまゝまかせた。

中央の大きな洲から続く浅瀬につかえて、舟は例の所へは着けられなくなっている。

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中央ちうあうおほきなからつゞ淺瀬あさせさゝへられてふねいつもところへはけられなくつてる。

ただ一人の乗客である勘次は、船頭の勝手な所へ下ろされたように思った。

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たゞ一人ひとり乘客じようかくである勘次かんじ船頭せんどう勝手かつてところへおろされたやうにおもつた。

川柳が痩せて、赤い実を隠したくこの枝がぽつねんと垂れて、大きな蓼の葉が黄色くなっている岸へ、舟はがさりと舳先を突っ込んだのである。

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河楊かはやなぎせて、あかかくした枸杞くこえだがぽつさりとれて、おほきなたで黄色きいろくなつてきしふねはがさりとへさきんだのである。

それでもそこには、もう幾度か舟がつけられたと見えて、足跡らしいのが階段のように形づけられてある。

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それでも其處そこにはもう幾度いくたびふねがつけられたとえて足趾あしあとらしいのが階段かいだんのやうにかたちづけられてある。

勘次は川柳の枝に手を掛けて、他人の足跡を踏んだ。

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勘次かんじ河楊かはやなぎえだけて他人ひと足趾あしあとんだ。

枝や葉がざらざらと彼の蓙に触れて鳴った。

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えだがざら/\とかれござれてつた。

彼は三足目に岸に立った。

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かれ三足目みあしめきしつた。

岸は畑で、洪水がもたらした灰に似ている泥がいっぱいに乾いて、大きな亀裂を生じている。

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きしはたけで、洪水こうずゐもたらしたはひてるえごみが一ぱいかわいておほきな龜裂きれつしやうじてる。

周囲の蜀黍が穂を伐られたまま、少し遠くはぼんやりとして、これも霧の中にしょんぼりと立っている。

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周圍しうゐ蜀黍もろこしられたまゝすことほくはぼんやりとしてれもきりなか悄然ぽつさりつてる。

勘次が振り返った時、彼を捨てた舟は沈んだ霧に隔てられて見えなかった。

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勘次かんじふりかへつたときかれ打棄うつちやつたふねしづんだきりへだてられてえなかつた。

彼は蜀黍の茎に沿って、足跡に従って、はるかに土手の往来へ出た。

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かれ蜀黍もろこしからうて足趾あしあとしたがつてはるか土手どて往來わうらいた。

霧がいっぺんに晴れた。

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きりが一ぺんれた。

彼は何かに騙された後のように、がらんとした周囲をぐるりと見回さないわけにはいかなかった。

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かれなにかにだまされたあとのやうに空洞からりとした周圍しうゐをぐるりと見廻みまはさないわけにはいかなかつた。

彼は沿岸の洪水後の変化に、驚きの目を見開いた。

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かれ沿岸えんがん洪水後こうずゐじ變化へんくわ驚愕おどろきみはつた。

偶然、彼は、にわかに透明になった空気の中から駆けて来て網膜の底にひっついたもののように、ぽっちりと一つ目についたものがある。

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偶然ひよつとかれにはか透明とうめいつた空氣くうきなかからかけつて網膜まうまくそこにひつゝいたものゝやうにぽつちりと一つについたものがある。

それは遠い上流に繋がっている小さな舟であった。

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それはとほ上流じやうりうかゝつてちひさなふねであつた。

そこには数本の竹竿が立てられてあるのも、同時に彼の目に入った。

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其處そこには數本すうほん竹竿たけざをてられてあるのも同時どうじかれつた。

彼はすぐに、それが鮭捕り舟であることを知った。

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かれぐにそれが鮭捕船さけとりぶねであることをつた。

漁夫は鮭が深夜に網に掛かるのを待ちながら、たとえ連夜にわたってそれが空しくとも、ぽっちりとさえ眠ることなく、また獲物が鋭く水を切って進んで来るのを彼らの敏捷な目が闇夜にも必ず逸することなく、接近した一瞬、彼らは水中に躍って機敏に網で獲物を巻くのである。

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漁夫ぎよふさけ深夜しんやあみかゝるのをちつゝ、假令たとひ連夜れんやわたつてそれがむなしからうともぽつちりとさへねむることなく、また獲物えものするどみづつてすゝんでるのを彼等かれら敏捷びんせふ闇夜あんやにもかならいつすることなく、接近せつきんした一刹那せつな彼等かれら水中すゐちうをどつて機敏きびんあみもつ獲物えものくのである。

彼らは夜が明けると、銀のごとく光っている獲物が一尾でも舟にあれば、それを青竹の葉に包んで威勢よく担いで出る。

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彼等かれらけるとぎんごとひかつて獲物えものが一でもふねればそれを青竹あをだけつゝんで威勢ゐせいよくかついでる。

そうでなければ、賢い鮭が淀みに隠れて動かない白昼の間だけ、ぐったりと疲れた体にわずかに一睡を盗むにすぎないので、朝の明るく白い水にさえ、じっとその目を放たないのである。

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さもなければ怜悧りこうさけよどみにかくれてうごかぬ白晝ひるあひだのみぐつたりとつかれた身體からだわづかに一すいぬすむにぎないので、あさあかるくしろみづにさへ凝然ぢつはなたないのである。

いずれにしても、小さな舟は今、冷たい朝の静けさを保っているのである。

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いづれにしてもちひさなふねいまつめたいあさしづけさをたもつるのである。

ただはるかに隔たった村の木立のこずえから昇る炊煙が、冴えた冷たい空に吸い込まれているだけで、その小さな舟が中心点をなして、勘次の目には一つも動く物を見なかった。

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たゞはるかへだつた村落むら木立こだちこずゑからのぼ炊煙すゐえんえたつめたいそらひこまれてるのみで、ちひさなふね中心點ちうしんてんをなして勘次かんじには一つもうごものなかつた。

彼はしばらくまたじっとして、上流の小舟を見ていた。

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かれしばらまた凝然ぢつとして上流じやうりう小船こぶねた。

彼は気がついた時、土手を一散に北へ急いだ。

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かれがついたとき土手どてを一さんきたいそいだ。

土手はやがて水田に沿って、うねうねと遠く走っている。

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土手どてやが水田すゐでんうてうね/\ととほはしつてる。

土手の道幅が狭くなった。

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土手どて道幅みちはゞせまくなつた。

それは、刈られてぐっしょりと湿っている稲が、土手の芝の上いっぱいに干されてあったからである。

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それはられてぐつしやりとしめつていね土手どてしばうへぱいされてあつたからである。

稲は、ぽつぽつと群がっている野茨の株を除いて、ことごとく広げられてある。

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いねはぼつ/\とむらがつて野茨のばらかぶのぞいてこと/″\ひろげられてある。

野茨の葉はもう落ちてしまって、小さな枝の先には赤いつやつやした実が一つずつかざされている。

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野茨のばらはもうちてしまつて、ちひさなえださきにはあかいつやゝかなが一つづゝかざされてる。

草刈りの鎌を逃れて、しっかりとその株の根にすがった嫁菜の花が、刺の立った枝に寄りかかりながら、しっとりと朝の湿りを帯びている。

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草刈くさかりかまのがれて確乎しつかそのかぶすがつた嫁菜よめなはな刺立とげだつたえだかゝりながらしつとりとあさうるほひをおびる。

濡れた稲の匂いが勘次の鼻を突いた。

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れたいねにほひ勘次かんじはないた。

いなごがぱらぱらと足の響きにつれて、稲を渡って逃げた。

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いなごがぱら/\とあしひゞきれていねわたつてにげた。

彼はその干された稲の穂先をつかんで、籾の幾粒かを手にしごいてみた。

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かれそのされたいね穗先ほさきつかんでもみ幾粒いくつぶかをしごいてた。

彼はさらにその籾粒を歯で噛んでみた。

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かれさらその籾粒もみつぶんでた。

彼はそれからまた一散に走った。

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かれそれからまたさんはしつた。

彼は少しの間に、ひどく手間取ったように感じた。

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かれすこしのひどひまどつたやうにかんじた。

足には脚絆と草鞋とを履いて、背には蓙を背負っている。

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あしには脚絆きやはん草鞋わらぢとを穿はいにはござうてる。

蓙は絶えず彼の背後にがさがさと鳴って、その耳を騒がせた。

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ござえずかれ背後はいごにがさ/\とつてみゝさわがした。

彼はついに土手から折れて、東へ東へと走った。

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かれつひ土手どてかられてひがしへ/\とはしつた。

村がぽつりぽつりと木立を作っているほかには、一帯にただ連続している水田を貫いて、道ははるかに遠く、ひっついたような台地の林を望んで一直線である。

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村落むらがぽつり/\と木立こだちかたどつてほかには一たいたゞ連續れんぞくして水田すゐでんつらぬいてみちはるかとほく、ひつゝいたやうな臺地だいちはやしのぞんで一直線ちよくせんである。

彼はかつてそこを歩いたことはあった。

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かれかつ其處そこあるいたことはあつた。

しかし彼が知っているのは、幾つも曲がりくねっていた当時である。

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しかかれつてるのは幾屈曲いくくつきよくをなして當時たうじである。

彼はいつの間にか極端に人工的な整理を施された耕地に、驚きの目を見開いた。

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かれ何時いつにか極端きよくたん人工的じんこうてき整理せいりほどこされた耕地かうち驚愕おどろきみはつた。

彼は溝が整然としているのに見とれてしまった。

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かれ溝渠こうきよ井然せいぜんとしてるのに見惚みとれてしまつた。

日はようやく朝を離れて、空に居座った。

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やうやあさはなれてそら居据ゐすわつた。

すべての物が明るい光を添えた。

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すべてのものあかるいひかりへた。

しかしながら、周囲のどこにも生き生きした緑は絶えて目に映らなかった。

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しかしながら周圍しうゐ何處いづこにも活々いき/\したみどりえてうつらなかつた。

まだいくらも刈られていない田は、黄褐色の明るい光を反射して、所々の畑に作る桑も、霜に遭うまではとこずえの小さな柔らかな葉の四、五枚が潤いを持っているだけである。

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まだいくらもられてないは、黄褐色くわうかつしよくあかるいひかり反射はんしやして、處々しよ/\はたけくはも、しもふまではとこずゑちひさなやはらかなの四五まいうるほひをつてるのみである。

ぽつぽつと群がった村の木立は、どれもことごとく赤茶けたくすんだ葉で覆われている。

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ぽつ/\とむらがつた村落むら木立こだちいづれもこと/″\あかいくすんだもつおほはれてる。

そうして低く接している木立との間に、はっきりと強い線を描いて、空は憎いほど冴えている。

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さうしてひくあひせつして木立こだちとのあひだ截然くつきりつよせんゑがいてそらにくほどさえる。

そうだ。

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さうだ。

すべての植物が持っている葉緑素は、すっかり空が持っているのだ。

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すべての植物しよくぶつつて緑素りよくそ悉皆みんなそらつてるのだ。

春になると空はそれを雨に溶かして撒いてやるのだ。

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はるになるとそらはそれをあめ溶解ようかいしていてやるのだ。

だから湿った枝はどれでも青く彩られねばならないはずである。

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それだからうるほうたえだはどれでもあをいろどられねばならぬはずである。

だから、幾度百姓の手が耕そうとも、その土を乾かして濡らさない工夫を立てない限りは、思わぬ所にぽつりぽつりと草の葉が青く出て、雨が降れば降るほど、どこでもいっぱいにその草の葉が濃くなって行かねばならないはずである。

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それだから幾度いくたび百姓ひやくしやうたがやさうともつち乾燥かんさうしてらさぬ工夫くふうたてないかぎりは、おもはぬところにぽつり/\とくさあをて、あめればほど何處どこでも一ぱいくさつてかねばならぬはずである。

それを晩秋の空がすっかり持ち去るので、めっきりと冴える反対に、草木はすべてが乾燥したりくすんだりしてしまうに違いないのである。

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それを晩秋ばんしうそら悉皆みんなるので滅切めつきりえる反對はんたい草木くさきすべてが乾燥かんさうしたりくすんだりしてしまふのに相違さうゐないのである。

明るい日はまったく昼になった。

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あかるいまつたひるつた。

所々の島のような畑の縁から田へ這いかかっている料理菊の黄色い花が、とりわけ一番強く日光を反射して、近いよりは遠いほど快く鮮やかに見えている。

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處々ところ/″\しまのやうなはたけへりからかゝつて料理菊れうりぎくはな就中なかでもばんつよ日光につくわう反射はんしやしてちかいよりはとほほどこゝろよくあざやかにえてる。

勘次は始終手拭いで巻いた右手の肘を抱えるようにして、伏し目に歩いた。

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勘次かんじ始終しよつちう手拭てぬぐひもついた右手めてひぢかゝへるやうにして伏目ふしめあるいた。

道に沿った狭い堀の浅い水に、彼の目が放たれた。

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みちうてせまほりあさみづかれはなたれた。

がらがらに荒れた狼把草やえぐが、ぽつぽつと水に浸かっている。

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がら/\にすさんだ狼把草たうこぎやゑぐがぽつ/\とみづひたつてる。

青い空は浅い水の底から、はるかに深く遠く光った。

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あをそらあさみづそこからはるかにふかとほひかつた。

そうして、どこからか迷い出して落ち着く場所を見出しかねて困っているような白い雲が映って、勘次が走れば走るほど先へ先へと移った。

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さうして何處どこからかまよして落付おちつ場所ばしよ見出みいだねてこまつてるやうなしろくもうつつて、勘次かんじはしればはしほどさきへ/\とうつつた。

勘次はそれをじっと見つめて行くと、何だか頭がぐらぐらするように感じられた。

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勘次かんじはそれを凝視みつめてくとなんだか頭腦あたまがぐら/\するやうにかんぜられた。

彼は昨夜は眠らなかった。

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かれ昨夜ゆふべねむらなかつた。

彼の、自分独りで噛み殺していなければならない忌々しさが、頭を刺激した。

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かれ自分じぶんひとりころしてねばならぬ忌々敷いま/\しさが頭腦あたま刺戟しげきした。

彼はひたすら、肘の傷を実際よりも幾倍もはるかに重く他人には見せたいという、一種の分からない心持ちを持っていた。

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かれ只管ひたすらひぢ瘡痍きず實際じつさいよりも幾倍いくばいはるかおも他人ひとにはせたい一しゆわからぬ心持こゝろもちつてた。

寸暇をも惜しんだ彼の心は、これまでになく、自分の損失を顧みる余裕を持たないほど惑乱し、濁っていた。

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寸暇すんかをもをしんだかれこゝろ從來これまでになく、自分じぶん損失そんしつかへりみる餘裕よゆうたぬほど惑亂わくらん溷濁こんだくしてた。

白昼の日は横頬に暑いほどに射しかけたが、周囲は依然冷たかった。

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白晝ひる横頬よこほゝあつほどけたが周圍あたり依然やつぱりつめたかつた。

堀の浅い水には、これも冷たげにじっと身を沈めた蛙が、黙って彼を見ていた。

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ほりあさみづにはれもつめたげに凝然ぢつしづめたかへるだまつてかれた。

遠い田圃を、彼は前後にただ一人の通行人であった。

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とほ田圃たんぼかれ前後ぜんごたゞ一人ひとり行人かうじんであつた。

はるかにぽつりぽつりと見える稲刈りの百姓は、孤独な彼の目から隠れようとするように、すっかりずっと低く身を屈めている。

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はるかにぽつり/\とえる稻刈いねかり百姓ひやくしやう㷀然ぽつさりとしたかれからかくれようとするやう悉皆みんなずつとひくかゞめてる。

明るい光に満ちた田圃を、その惑乱し濁った心を抱いて寂しく歩数を積んで行く彼は、ガラスの器の水を日にかざして発見した一点の塵であった。

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あかるいひかり滿ちた田圃たんぼ惑亂わくらん溷濁こんだくしたこゝろいだいてさびしく歩數あゆみんでかれは、玻璃器はりきみづかざして發見はつけんした一てん塵芥ごみであつた。

勘次は田圃が尽きた時、村を過ぎて台地へ出た。

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勘次かんじ田圃たんぼきたとき村落むらぎて臺地だいちた。

村の垣根には稲を掛けている人々があった。

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村落むら垣根かきねにはいねけて人々ひとびとがあつた。

道行く人を見たがる癖の彼らは、皆忙しげな勘次を見た。

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みちひとたがるくせ彼等かれらみないそがしげな勘次かんじた。

勘次は他人が自分を見ることを知った時、肘をまた丁寧に抱いた。

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勘次かんじ他人ひと自分じぶんることをつたときひぢ叮嚀ていねいいた。

台地には林の間に、陰気な畑が開墾されてあった。

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臺地だいちにははやしあひだ陰氣いんきはたけ開墾かいこんされてあつた。

彼は開墾地の土質と作物とを、非常な注意で見た。

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かれ開墾地かいこんち土質どしつ作物さくもつとを非常ひじやう注意ちういた。

また村があって、広い畑が展開した。

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また村落むらがあつてひろはたけ展開てんかいした。

畑は陸稲を刈ったままの所がいくらもあった。

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はたけ陸稻をかぼつたまゝところいくらもあつた。

彼は陸稲の刈り株を丁寧に草鞋の先で踏んでみた。

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かれ陸稻をかぼ刈株かりかぶ叮嚀ていねい草鞋わらぢさきんでた。

百姓がちらほらと動いて、麦を蒔くべき土が清潔に耕されつつある。

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百姓ひやくしやうがちらほらとうごいてむぎくべきつち清潔せいけつたがやされつゝある。

畑の黒い土は、彼らの技巧を発揮して丁寧に耕されれば、日がまだそれを乾かさないうちは、ただ清潔で快い感じを見る人の心に与えるのである。

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はたけくろつち彼等かれら技巧ぎかう發揮はつきして叮嚀ていねいたがやされゝばがまだそれをさないうちたゞ清潔せいけつこゝろよいかんじをひとこゝろあたへるのである。

そういう村を包んで、そこにも雑木林が一帯に赤茶けている。

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さういふ村落むらつゝんで其處そこにも雜木林ざふきばやしが一たいあかくなつてる。

他に先立って際どく燃えるようになった白膠木の葉が、黒い土と遠く映じ合っている。

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先立さきだつてきはどくえるやうになつた白膠木ぬるでくろつちとほあひえいじてる。

勘次は、自分の麦を蒔くべき畑の用意がまだ十分でないことを思った。

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勘次かんじ自分じぶんむぎくべきはたけ用意よういがまだ十ぶんでないことをおもつた。

彼は前年、寒さが急に襲った時、種を蒔く日がわずかに二日の違いで後れた麦が、意外に収穫の減った苦い経験を忘れ去ることができなかった。

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かれ前年ぜんねんさむさがきふおそうたときたねわづか二日ふつか相違さうゐおくれたむぎ意外いぐわい收穫しうくわく減少げんせうしたにが經驗けいけんわすることが出來できなかつた。

彼は標準として教えられたその日を外すことなく、麦は蒔かねばならないものと覚悟をしているのである。

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かれ標準へうじゆんとしてをしへられたはづすことなくむぎかねばならぬものと覺悟かくごをしてるのである。

それとともに、一日でもこうして時間を空費する自分の傷について、彼は深く悲しんだ。

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それとともに一にちでもうして時間じかん空費くうひする自分じぶん瘡痍きずいてかれふかかなしんだ。

しかしそれでいながら、彼は悲痛から来る憤懣の情が、ただその傷を誰にも実際以上に重く見せもし、見られもしたいというはかない思いを湧かせること以外に、何物をも持たなかった。

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しかしそれでながらかれ悲痛ひつうから憤懣ふんまんじやうが、たゞその瘡痍きず何人なんぴとにも實際じつさい以上いじやうおもせもしられもしたい果敢はかない念慮ねんりよかしむることよりほか何物なにものをもたなかつた。

彼はほとんど絶対に、同情と慰めとに渇していたのである。

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かれほとんど絶對ぜつたい同情どうじやう慰藉ゐしやとにかつしてたのである。

畑の黒い土には、ぽつぽつと大根の葉が茂っている。

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はたけくろつちにはぽつ/\と大根だいこんしげつてる。

周囲に冴えた青い物は、大根の葉だけである。

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周圍しうゐえたあをもの大根だいこんのみである。

大根の葉は、いったん地上の緑を奪って透き通った空が、その濃厚な緑を沈殿させて地上に置いた結晶体でなければならない。

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大根だいこんは、一たん地上ちじやうみどりうばうて透徹とうてつしたそら濃厚のうこうみどり沈澱ちんでんさせて地上ちじやういた結晶體けつしやうたいでなければならぬ。

晩秋の気配は、ひたすらに沈もうとばかりしている。

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晩秋ばんしう只管ひたすらしづまうとのみしてる。

生殖作用を終えたすべての作物の穂先は、すっかりもううなだれている。

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生殖作用せいしよくさようをはつたすべての作物さくもつ穗先ほさき悉皆みんなもう俛首うなだれてる。

虫の声も地に染み入ろうとしている。

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むしこゑらうとしてる。

独り爽やかな緑を与えられた大根の葉も、いくら成長しても強く引き締める晩秋の気を受けて、地にひっつくようにしてようやく斜めに広がるのみで、少しでも高く立ち昇ることを許されていない。

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ひとさわやかなみどりあたへられた大根だいこんも、いく成長せいちやうしてもつよめる晩秋ばんしうけてにひつゝくやうにしてやつなゝめひろがるのみで、すこしでもたかのぼることを許容ゆるされてらぬ。

こうして畑の土は、ただ冷たく凍るのを待っているのである。

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うしてはたけつちたゞつめたくこほるのをつてるのである。

勘次はようやく整骨医の門に達した。

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勘次かんじやうや整骨醫せいこついもんたつした。

整骨医の家は、がら竹の垣根に珊瑚樹の大木が覆いかぶさって、陰気に見えていた。

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整骨醫せいこついいへはがらたけ垣根かきね珊瑚樹さんごじゆ大木たいぼくおほひかぶさつて陰氣いんきえてた。

戸板を三角形に合わせて駕籠のようにこしらえたものが、垣根の内に置かれてあった。

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戸板といたを三角形かくけいあはせて駕籠かごのやうにこしらへたのが垣根かきねうちかれてあつた。

誰か重い怪我人が運ばれたのだと勘次はすぐに悟って、そうして何だかぞっとした。

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たれおも怪我人けがにんはこばれたのだと勘次かんじぐにさとつてさうしてなんだか悚然ぞつとした。

彼は仰々しい自分の身なりに恥じて、ためらいながら案内を請うた。

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かれ業々げふ/\しい自分じぶん扮裝いでたちぢて躊躇ちうちよしつゝ案内あんないうた。

ぽつねんとして玄関に待っているのは、すっかり怪我人ばかりである。

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ぽつさりとして玄關げんくわんつてるのは悉皆みんな怪我人けがにんばかりである。

首から白い布切れを吊って、これも白く包帯した手を持たせた者もあった。

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くびからしろ布片きれつてれもしろ繃帶ほうたいしたたせたものもあつた。

そこに青い顔をしてぐったりと横たわっている者もあった。

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其處そこあをかほをしてぐつたりとよこたはつてるものもあつた。

勘次は怪我人の後ろに隠れるようにして自分の番になるのを待ちながら、周りが何となく薬臭くて恐ろしいような感じにとらわれた。

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勘次かんじ怪我人けがにんうしろかくれるやうにして自分じぶんばんになるのをちながら周邊あたりなんとなく藥臭くすりくさくておそろしいやうなかんじにとらはれた。

医者は一人の患部を柔らかく揉んでやっていたが、勘次をちらと見た。

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醫者いしや一人ひとり患部くわんぶやはらかにんでやつてたが勘次かんじをちらとた。

勘次は何だか睨まれたように感じた。

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勘次かんじなんだかにらまれたやうにかんじた。

医者はまな板のような板の上に黄褐色な粉薬を少し出して、白い糊と練り合わせて、瓶の酒のような液体でそれを緩めて、それから長い鋏で白紙を刻んで、真鍮の箆でその薬を紙へ塗りつけて患部へ貼ってやった。

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醫者いしや爼板まないたのやうないたうへ黄褐色くわうかつしよく粉藥こぐすりすこして、しろのりあはせて、びんさけのやうな液體えきたいでそれをゆるめてそれからながはさみ白紙はくしきざんで、眞鍮しんちうへらそのくすりかみ塗抹つて患部くわんぶつてやつた。

怪我人らは、ただじっとして医者の熟練した手元を見つめた。

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怪我人等けがにんらたゞ凝然ぢつとして醫者いしや熟練じゆくれんしたもとを凝視ぎようしした。

勘次は他人の後ろから爪立ちをした。

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勘次かんじ他人ひとうしろから爪立つまだてをした。

二、三人小さな治療が済んで、十二、三の男の子が仕事着のままの二十四、五の百姓に負われて、医者の前に据えられた。

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二三にんちひさな療治れうぢんで十二三のをとこ仕事衣しごとぎまゝな二十四五の百姓ひやくしやうはれて醫者いしやまへゑられた。

医者は縁側の明るみへ座蒲団を敷いて出た。

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醫者いしや縁側えんがはあかるみへ座蒲團ざぶとんいてた。

怪我人は医者の前へ出ると、恐怖に襲われたようににわかにむせび泣いた。

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怪我人けがにん醫者いしやまへると恐怖きようふおそはれたやうににはか鳴咽をえつした。

医者は横に膨れた大きな体で、ゆったりと胡坐をかいたまま、怪我人の左の手をまくって見た。

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醫者いしやよこふくれたおほき身體からだでゆつたりと胡坐あぐらをかいたまゝ怪我人けがにんひだりまくつてた。

怪我人の二の腕が折れて、ぶらりと垂れていた。

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怪我人けがにん上膊じやうはく挫折ざせつしてぶらりとれてた。

医者は怪我人の患部に手を触れてみて

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醫者いしや怪我人けがにん患部くわんぶれて

「お前、そっちを持って」

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「おまへそつちつて」

と、簡単に顎で百姓へ指図した。

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簡單かんたんあご百姓ひやくしやう指圖さしづした。

百姓はおずおず怪我人の後ろへ回って、青い顔をして抱いた。

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百姓ひやくしやうづ/\怪我人けがにんうしろまはつてあをかほをしていた。

「いいか、ぎっと抱いてるんだぞ」

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「えゝか、ぎつといてるんだぞ」

医者は足を怪我人の腹に当てて、両手に折れた手を持って引こうとした。

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醫者いしやあし怪我人けがにん腹部ふくぶてゝ兩手りやうて挫折ざせつしたつてかうとした。

怪我人は恐ろしさに、わっと声を放って泣いた。

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怪我人けがにんおそろしさにわつとこゑはなつていた。

医者は手を止めた。

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醫者いしやめた。

「お前は兄貴だな。そんじゃいい、無駄だ」

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「おまへ兄貴あにきだな、そんぢやえゝ、徒勞むだだ」

と、抱いた手を放させた。

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いたはなたしめた。

百姓は骨肉のいたわりが、泣き叫ぶ子をぎっと力を込めて引かせない。

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百姓ひやくしやう骨肉こつにくいたはりがさけをぎつとちからめてかせない。

そんな思い切った手段に加わることはできないのであった。

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そんなおもひきつた手段しゆだんくははることは出來できないのであつた。

百姓は泣けば泣くほど手を緩めた。

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百姓ひやくしやうけばほどゆるめた。

医者はそれで無駄だと言った。

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醫者いしやはそれで徒勞むだだといつた。

百姓はただ青い顔をして、ぼうっとしているだけであった。

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百姓ひやくしやうたゞあをかほをしてぼつとしてるのみであつた。

医者はさらに家族に命じて、近所の若者を呼びにやった。

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醫者いしやさら家族かぞくめいじて近所きんじよ壯者わかものびにやつた。

「木から落ちたな」

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からおつこつたな」

医者は百姓に聞いた。

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醫者いしや百姓ひやくしやういた。

「ええ、わしはもう、どうしていいもんだか分からないから、畑を耕してたまま着物も着ないで、こうして負って来たんだが」

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「えゝ、わしやはあ、どうしてえゝもんだかわかんねえからはたけうなつてたまゝ衣物きものねえでうしておぶつてたんだが」

と百姓は言って、それから

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百姓ひやくしやうはいつて、それから

「わしは柿の木へ登るのを見てたんだったが、落ちたから駆けて行って見たら、目を引きつけちまって。そんでもしばらく経ったら泣き出したんで、わしが抱き起こして手へ触ったら、痛い痛いと言うから、まくって見たら、こうぶらんとなったっきりで、わしももう、驚いちまって」

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「わしかきのぼんなてたんだつけが、おつこつたからけてつてたら、めえつゝけつちやつて、そんでもしばらつたらしたんでわしおこしてさはつたら、てえ/\つちからまくつてたら、うぶらんとつたつきりでわしもはあ、魂消たまげつちやつて」

百姓はひたすらに慌てて言った。

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百姓ひやくしやう只管ひたすらあわてゝいつた。

「本当に、ここへ来ていちゃ、毎日のように木から落ちたという怪我人が来るんだよまあ。椎の木から落ちたの、栗の木から落ちたのって。子供の怪我はたいがいそうなんだから、男の子を持っちゃ心配さね。そんだがこれ、怪我というのは間違いだから、わしらも下駄を履きながらひょいっと転んだだけで手首が折れたんだなんて」

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本當ほんたう此處こゝちや毎日まいんちのやうにからおつこつたつち怪我人けがにんんだよまあ、しひからおつこつたのくりからおつこつたのつて、子供こども怪我けが大概てえげえさうなんだから、をとこつちや心配しんぺえさねえ、そんだがこれ、怪我けがつちやえゝまちだから、わし下駄げた穿きながらひよえつところがつただけくびをつちよれたんだなんて」

と、そばにいた婆さんが言った。

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そばばあさんがいつた。

「うちのも毎日のように柿の木へ登ってて、木登りは上手なんだから。それも雨でも降ったばかりならつるつるして足が引っ掛からないもんだが、雨は降らないし、そんなことはないはずなんだが、つかまってた枝の所に蛇がいたとかって、慌てて下りようと思ったというんだから。いつでももう、枝なんざがさがさやって、てっぺんのほうで怒鳴ったりなにかしてたんだったが、かさっというのがひどく変な音だと思って見るうちには、落ちるのは早いもんで。困ったことができたのさ」

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「わしがも毎日まいんちのやうにかきのぼつてゝ木登きのぼりは上手じやうずなんだから、それもあめでもつたばかしならつる/\してあしかゝんねえもんだがあめんねえし、そんなこたねえはずなんだが、つかまつてたえだとこへびたとかつてあわくつておりべとおもつたつちんだから、いつでもはあえだなんざがさがさやつて天邊てつぺんはう呶鳴どなつたりなにつかしてたんだつけが、かさあつちのがひどへんおとだとおもつてうちにやおつこちんなえゝもんで、こまつたこと出來できたのせ」

百姓は調子に乗って言い続けた。

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百姓ひやくしやう乘地のりぢになつていひつゞけた。

勘次は恐怖の目を見開いて耳を傾けた。

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勘次かんじ恐怖きようふみはつてみゝかたむけた。

「柿の木へ蛇が上がるようじゃ、雨でもまた降らなけりゃいいが。百姓には大事な所なんだからまあ、ちっと続けさせたいもんだが」

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かきへびがあがるやうぢやあめでもまたらなけりやえゝが、百姓ひやくしやうにや大事でえじところなんだからまあ、ちつとつゞけさせてえもんだが」

そばからまた一人の怪我人が口を添えた。

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そばからまた一人ひとり怪我人けがにんくちへた。

勘次はまたその話を聞きながら、定まりない天候の変化を案じた。

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勘次かんじまたはなしきながらさだまりない天候てんこう變化へんくわあんじた。

やがて近所の若者が来て、以前のごとく怪我人を抱いた。

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やが近所きんじよ壯者わかもの以前いぜんごと怪我人けがにんいた。

医者はさっきのようにして、怪我人の恐怖した顔を見ながら、口を締めてぎっとその手を引いた。

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醫者いしや先刻さつきのやうにして怪我けが人の恐怖きようふしたかほながらくちめてぎつといた。

怪我人の手はぼきっと恐ろしい音を立てた。

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怪我人けがにんはぼぎつとおそろしいおとたてた。

怪我人はただ泣き叫んだ。

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怪我人けがにんたゞさけんだ。

「よしよし、治っちゃった」

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「よし/\なほつちやつた」

医者は手を放って、太い柔らかそうな指の腹でしばらく揉むようにして、それから薬を塗った紙をいっぱいに貼って、燭奴のような薄い木の板を当てて、ぐるりと包帯を施した。

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醫者いしやはなつて、ふとやはらかさうゆびはらしばらむやうにしてそれからくすりつたかみを一ぱいつて燭奴つけぎのやうなうすいたてゝぐるりと繃帶ほうたいほどこした。

「どれくらいで治ったもんでございましょうね、先生さん」

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「どのつくれえなほつたもんでござんせうね、先生せんせいさん」

百姓は心配そうに聞いた。

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百姓ひやくしやう懸念けねんらしくいた。

「そうすぐには治らないな」

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「さうぐにやなほらねえな」

医者は無愛想に言った。

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醫者いしや無愛想ぶあいそにいつた。

百姓は依然として青い顔をしながら、怪我人を背負って帰って行った。

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百姓ひやくしやう依然いぜんとしてあをかほをしながら怪我人けがにん脊負しよつてかへつてつた。

それから二、三人の治療が済んで、勘次の番になった。

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それから二三にん療治れうぢんで勘次かんじばんつた。

「こりゃ大層大事にしてあるな」

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りや大層たいそう大事だいじにしてあるな」

医者は汚い手拭いを取って、勘次の肘を見た。

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醫者いしやきたな手拭てぬぐひをとつて勘次かんじひぢた。

鉄の火箸で打った跡が、指のごとくほのかに膨れていた。

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てつ火箸ひばしつたあとゆびごとくほのかにふくれてた。

「どうしたんだいこれは、夫婦喧嘩でもしたか」

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「どうしたんだえら、夫婦喧嘩ふうふげんくわでもしたか」

医者は毎日百姓を相手にして砕けて付き合う習慣がついているので、どっしりと大きな体からこういう冗談も出るのであった。

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醫者いしや毎日まいにち百姓ひやくしやう相手あひてにしてくだけて交際つきあ習慣しふくわんがついてるので、どつしりとおほきな身體からだからかういふ戯談じようだんるのであつた。

「なあに、わしはもう、女房に死なれてから七、八年にもなるんでございますから」

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「なあにわしやはあ、かゝあなれてから七八ねんにもなんでがすから」

勘次は少し苦笑して言った。

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勘次かんじすこ苦笑くせうしていつた。

「そうか、そんじゃ誰に打たれたい。まだ若いんだから、そんでもどこかへこしらえたかい」

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「さうか、そんぢやだれたれたえ、まあださかりだからそんでも何處どこへかこしらえたかえ」

軽い傷をあまりに大袈裟に包んだ勘次の様子を、心から冷笑することを禁じなかった医者は、こうからかいながら口髭をひねった。

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輕微けいび瘡痍きずあまりに大袈裟おほげさつゝんだ勘次かんじ容子ようすこゝろから冷笑れいせうすることをきんじなかつた醫者いしやはかう揶揄からかひながら口髭くちひげひねつた。

「先生さん、冗談を言って。なあに、わしは爺さんに打たれたんでさ」

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先生せんせいさん戯談じやうだんいつて、なあにわしや爺樣ぢいさまたれたんでさ」

勘次はひたすらに、医者の前で追及の圧迫から逃れようとするように言った。

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勘次かんじ只管ひたすら醫者いしやまへ追求つゐきう壓迫あつぱくからのがれようとするやうにいつた。

医者はそれからはもう黙って薬を貼って、形ばかりの包帯をした。

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醫者いしやはそれからはもうだまつてくすりつてかたばかりの繃帶ほうたいをした。

「先生さん、わしはまだ来なくちゃなりますまいか」

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先生せんせいさん、わしやまあだなくつちやなりあんすめえか」

勘次は心配そうな目で聞いた。

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勘次かんじ懸念けねんらしいもついた。

「この薬をやるから、自分で貼ったほうがいい。これで治るから」

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くすりをやるから、自分じぶんつたはうがえゝ、れでなほるから」

と、医者は一袋の薬を与えた。

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醫者いしや一袋ひとふくろくすりあたへた。

勘次は一度整骨医の門をくぐってからは、世間にはこんなに怪我人の数があるものだろうかと、絶えず驚きと恐怖との念に圧されていたが、珊瑚樹の茂った木陰から竹の垣根を往来へ出た時、彼は身も心もにわかに軽くなったことを感じた。

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勘次かんじは一整骨醫せいこついもんくゞつてからは、世間せけんには這麽こんな怪我人けがにんかずるものだらうかとえず驚愕おどろき恐怖おそれとのねんあつせられてたが、珊瑚樹さんごじゆ繁茂はんもした木蔭こかげからたけ垣根かきね往來わうらいときかれこゝろにはかかるくなつたことをかんじた。

彼は小さな怪我人から連想して、これも毎日庭の木を狙っている与吉を心配し出した。

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かれちひさな怪我人けがにんから聯想れんさうしてれも毎日まいにちにはねらつて與吉よきちうれした。

彼は脚力の及ぶ限り帰り道を急いだ。

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かれ脚力きやくりよくおよかぎ歸途きといそいだ。

彼は行く行く、午前に見てしばらく忘れていた百姓の活動を再び目の前に見せつけられて、隠れていた憤懣の情がまたむらむらと首をもたげた。

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かれく/\午前ごぜんしばらわすれて百姓ひやくしやう活動くわつどうふたゝ目前もくぜんつけられてかくれて憤懣ふんまんじやう勃々むか/\くびもたげた。

彼は自分の傷が軽いと医者から宣告された時は何となく安心されたのであったが、しかしまた次第に道のりを運びながら、いろいろな雑念が湧くにつれて、失望と不満足を心に抱きはじめた。

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かれ自分じぶん瘡痍きずかる醫者いしやから宣告せんこくされたときなんとなく安心あんしんされたのであつたが、しかまた漸次だんだん道程みちのりはこびつゝ種々いろいろ雜念ざふねんくにれて、失望しつばう不滿足ふまんぞくこゝろいだきはじめた。

彼が家に帰った後、傷を重く見せかけようとするのには、医者の診断が寸毫も彼に味方していなかったからである。

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かれいへかへつたのち瘡痍きずおもけようとするのには醫者いしや診斷しんだん寸毫すんがうかれ味方みかたしてなかつたからである。

彼が家に帰ったのは、日が西に連なった雑木林の上に傾こうとしたころであった。

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かれいへかへつたのは西にしつらなつた雜木林ざふきばやしうへかたむかうとしたころであつた。

彼はただそのままに、自分の怪我とその事実とを覆っておくのが名残惜しい心持ちがした。

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かれたゞそのまゝ自分じぶん怪我けがその事實じじつとをおほうてくのがのこをし心持こゝろもちがした。

それで彼はその足ですぐに南の家へ行った。

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それでかれあしすぐみなみいへつた。

脚絆と草鞋とで身を固めた勘次の様子を不審に思った南の亭主へ、勘次は突然訴えるように言った。

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脚絆きやはん草鞋わらぢとでかためた勘次かんじ容子ようす不審ふしんおもつたみなみ亭主ていしゆ勘次かんじ突然とつぜんうつたへるやうにいつた。

「おれは爺さんに鉄火箸で打っ飛ばされて、骨接ぎへ行って来たところだが、忙しい所へひどい目に遭っちまった」

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ら、爺樣ぢいさま鐵火箸かなひばしばさつて、骨接ほねつぎつてとこだが、いそがところひでつちやつた」

勘次はそれでも口が渋って、思うようには言えなかった。

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勘次かんじはそれでもくちしぶつておもやうにいへなかつた。

南の亭主は、わざわざ来て話をされては、捨てて顧みないこともできなかった。

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みなみ亭主ていしゆ態々わざ/\はなしをされてはてゝかへりみぬことも出來できなかつた。

「どうしたっていうんだいまあ、勘次さん」

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「どうしたつちんでえまあ、勘次かんじさん」

いくらかわざとらしく驚いたように聞いた。

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いくらかわざとらしくおどろいたやうにいた。

「昨日の日暮れに、おれが野良から帰って来たら、爺さんが鶏に餌を撒いてやってるから見たら、米を混ぜておいた食い稲のほうを掻き出して撒いてるじゃないかい。それでおれも、それをやったんじゃかなわないと言ったんだな。鶏にやるのはそっちに別にしてあるんだから、撒いてやるならそっちのにしてくれと言ったのよ。鶏になんざもったいないな。そうしたらいきなり鉄火箸でおれのことを打っ飛ばして、お前はおれに食わせるのさえ惜しいくらいだから、鶏にやってさえそんなことを言いやがるんだろうなんて。おれもうっかりしてたもんだから逃げる間もなくて、これ、こんなに怪我をしちまったな。今、種蒔きの忙しい所へ打ち込んで、いつまでも治らないようでも仕方がないから、朝稼ぎに骨接ぎへ行ったんだが、遠いのに、それに行ってみると怪我人が来ていて、ちょっとやそっとじゃないもんだから、随分急いだつもりだったっけが、こんなに遅くなっちまって。何と言っても日は短くなったからな。そう言っても、怪我人ってあるもんだな」

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昨日きのふ日暮ひぐれらからけえつてたら爺樣ぢさまにはとり餌料ゑさえてやつてつからたら、こめぜていた食稻けしねほうしていてんぢやねえけ、それかららもそれつたんぢやをへねつちつたな、にはとりげやんなそつちにべつにしてんだからいてやんだらそつちのがにしてろつちつたのよ、にはとりげなんざ勿體もつていねえな、さうしたらいきなり鐵火箸かなひばしれことばして、りやおれはせんのせえをしいつくれえだからにはとりげやつてせえ其麽そんなことへやがんだんべなんて、放心うつかりしてたもんだからにやあねえで、れかうえに怪我けがしつちやつたな、いま蒔物まきものいそがしいところんで、何處どこまでもなほんねえやうでもしやうねえからあさかせぎに骨接ほねつぎつたんだが、とほいのにそれにつてつと怪我人けがにんてちよつくらぢやねえもんだから、隨分ずいぶんえそえだつもりだつけがこんなにおそくなつちやつて、なんちつてもみじかくなつたかんな、さうつても怪我人けがにんちやるもんだな、」

勘次はようやくそうして、詳しく事の顛末を打ち明けた。

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勘次かんじやうやくさうして仔細しさいこと顛末てんまつけた。

「そんだが、怪我は大変なことはないのか」

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「そんだが怪我けが大變たいへんなこたねえのか」

南の亭主は、それも義理だというように聞いた。

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みなみ亭主ていしゆはそれも義理ぎりだといふやうにいた。

「うん」

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「うむ」

と、勘次は言い淀んだ。

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勘次かんじはいひよどんだ。

南の亭主は、その理由を悟ることができないのみでなく、その言い淀んだことを不審に思う心さえ起こさないほど、うっかりと聞いていた。

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みなみ亭主ていしゆ理由わけさとることは出來できないのみでなく、のいひよどんだことを不審ふしんおもこゝろさへおこさぬほど放心うつかりいてた。

「そんで爺さんはどうしたっていうんだい」

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「そんで爺樣ぢさまはどうしたつちんでえ」

南の亭主は、それから先を聞いた。

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みなみ亭主ていしゆはそれからさきいた。

「おれは朝っぱらから出かけちまって、まだ行き合いもしないから、どうするっていうんだか分からないが、どうせ甘い顔つきもしちゃいまいな。これで怪我なんぞさせて、いい心持ちじゃあるまいな。そうじゃないかい」

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あさつぱら出掛でかけつちやつてまあだ行逢えきやえもしねえから、どうするつちんだかわかんねえが、どうせうめ面付つらつきもしちやらんめえな、んで怪我けがなんぞさせてえゝ心持こゝろもちぢやあんめえな、さうぢやねえけ」

勘次はだんだん勢いがついて言った。

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勘次かんじはだん/\いきほひがついていつた。

「そんじゃ話はどういう形にでもしておかなくちゃ仕方があるまいな。おれがまあ話はしてみるから。どっちがどうのこうのと言ったって仕方がないし、まさかお前、手を出したのは爺さんだと言ったって、親のことを謝れということも言えないから、何気なしのことにして押しつけようじゃないか、なあ」

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「そんぢやはなしはどうゆ姿なりにもしてかなくつちやしやうあんめえな、れまあはなしはしてつから、どつちがどうのかうのつちつたつてやうねえし、まさかおめえ手越てごししたな爺樣ぢさまだつちつたつて、おやのこと謝罪あやまれつちこともはんねえから何氣なにげなしのことにしてつゝけべぢやねえか、なあ」

南の亭主はそう言って、卯平の狭い戸口に立っていた。

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みなみ亭主ていしゆはさういつて卯平うへいせま戸口とぐちつてた。

「こっちのおとっつあん、わしもこれ、変な話だが、勘次さんに頼まれたような形でまあ来たんだがね。昨日の日暮れとかにそれ、あれこれあったということだったっけが、勘次さんもそんなに悪い心持ちで言ったんでもない塩梅だし、まあ手をついて謝らせるの何のということでなく、これはその場限りとして仲良くやってもらいたいんだが、どうしたもんだろうね。腹を立たせるのはこれは悪いかも知れないが、親子となっていてこれ、ちっとのことで後で考えてみちゃつまらないもんだから。なあ、こっちのおとっつあん」

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「こつちのおとつゝあん、わしもへんはなしだが勘次かんじさんにたのまれたやうなかたちでまあたんだがね、昨日きのふ日暮ひくれとかにそれ、そつちこつちたつちことだつけが、勘次かんじさんもそんなにりい心持こゝろもちつたんでもねえ鹽梅あんべえだし、まあてえついて謝罪あやまらせんのなんだのつちことでなく、かぎりとして仲善なかよくやつてもれえてえんだがどうしたもんだんべね、はらあたせんなこらりいかもんねえが、親子おやこつてゝれ、ちつとのことであとかんげへてちやつまんねえもんだから、なあこつちのおとつゝあん」

仲裁者は柔らかに、そうしてしかもいやとは言われないように打ち解けて突っ込んだ。

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仲裁者ちうさいしややはらかにさうしてしかいやといはれぬやうにけてんだ。

「なあに、おれはどうもこうもないんだが、あの野郎めはもう、何じゃない、おれのことが邪魔なんだから。おれはおれだと思ってるから構やしないが、おれに食わせる物が惜しくて仕方がないんだから。おれが家の物を一粒でも減らさないように外に行ってりゃいいんだろうが。おれがそれから、おれのことがそんなにいやなら、自分でどこへでも失せたほうがいい。いやなら後から来た者が出ろという気なんだから」

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「なあにらあどうもかうもねえんだが、野郎奴やらうめはあ、なんぢやねえ、れこと邪魔じやまなんだから、らあれだとおもつてつからかまやしねえが、れげはせるものしくつてやうねえんだから、うちもの一粒ひとつぶでもらさねえやうにほかつてりやえゝんだんべが、れえそれから、れことさうだになんだら自分じぶん何處どこさでもけつかつたはうがえゝ、だらあとからものろつちなんだから」

卯平はくわえた煙管を少し震える手に持って、途切れながらようやくこれだけ言った。

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卯平うへいくはへた煙管きせるすこふるへるつて途切とぎれながらやうやれだけいつた。

「そりゃ、こっちのおとっつあん、そうだがな。さっきも言うとおり腹も立とうが、親子となってみりゃこれ、いいこともあるもんだからなあ。そう言わないでそれ、わしに任せて承知しなさいね」

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「そりちこつちのおとつゝあんさうだがな、先刻さつきもいふとほはらつべえが親子おやことなつてりやれ、えゝこともるもんだからなあ、さうはねえでそれ、わしげまかせて不承ふしようしさつせえね」

南の亭主はただ繰り返して言った。

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みなみ亭主ていしゆたゞ反覆くりかへしていつた。

「こういうことはこれ、黙ってりゃ隣近所でも分からないもんだが、勘次らはもういい加減長く味噌さえなくしておくんだから、一杓子もありやしないんだ。去年の暮れには味噌を搗くというんで、おれが働いた銭で塩まで買ったんだな。おれも硬い物は噛めないから、味噌がなくちゃ仕方がないな。おれは若いころから味噌は好きで、味噌がなくちゃなんぼにも体に力がつかなくて困り困りしたんだから。麦麹は塩まで切ってあるんだから、豆さえ煮ればすぐなのに。それが今になったって搗くわけじゃなし、何でもおれが死ねばいいくらいにして待ってるんだろうが。これ、味噌なんざ搗いたからってそうすぐに手をつけられるもんじゃなし、おれは明日が日にも死ぬかどうだか分かりやしないが、そんでも自分の見てる所で搗きさえすりゃ、明日死ぬにしたって心持ちはいいから」

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うだこたれ、だまつてりや隣近所となりきんじよでもわかんねえもんだが勘次等かんじらえゝしばら味噌みそせえくしてくんだから、一杓子ひとつちやくしりやしねえんだ。去年きよねんくれにや味噌みそくつちんではたれえたぜねしほまでつたんだな、れもこえめねえから味噌みそなくつちややうねえな、さかりころつから味噌みそきで味噌みそなくつちやなんぼにも身體からだちからつかねえでこまり/\したんだから、麥麹むぎつかうぢしほまでつてんだからまめせえりやぢきなのに、それいまんなつたつてくべぢやなし、なんでもねばえゝぐれえにしてつてんだんべが、れ、味噌みそなんざいたからつてさうぐにてえつけらつるもんぢやなし、明日あすにもぬかどうだかわかりやしねえが、そんでも自分じぶんてつところきせえすりや明日あしたぬにしたつて心持こゝろもちやえゝから」

卯平は独り呟くようにして、それから

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卯平うへいひとつぶやくやうにしてそれから

「あの時搗きさえすりゃ、今ごろは食えば食えるのに」

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「あんときつきせえすりや今頃いまごへばへんのに」

と、彼はその癖の舌を鳴らした。

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かれそのくせしたらした。

「おれは少し忌々しいから打っ飛ばしてやったに」

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小忌々敷こえめえましいからばしてやつたに」

卯平はしばらく置いて、また少し声に力を入れて言った。

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卯平うへいしばらいてまたすここゑちかられていつた。

「そうかね。おれはそんなことは知らなかったっけが。そういうことは、いくら懇意だ近所だと言ったって、いちいち他人の飯台まで蓋を取っちゃ見られないから、おれも知らないでいたな。そんじゃそりゃまあ、味噌でも何でもそういう理由じゃ、こっちのおとっつあんの好きなように搗かせることにしてな。大豆はそれ、穫れたしするから、やるつもりにさえなれば訳のない話だな。そうして、こっちのおとっつあん、胸を撫でなさい。おれは悪いことは言わないから。なあ、こっちのおとっつあん、あっちだこっちだやっちゃ、誰よりも子供らが可哀想だから。それに、同じもんじゃ東の旦那らの耳へは入れたくないから、そうしなさいよなあ」

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「さうかね、らそんなこたらなかつたつけが、さうえこたいく懇意こんい近所きんじよだつちつたつて一々いち/\他人ひと飯臺はんだいまでふたとつちやられねえかららもらねえでたな、そんぢやそらまあ、味噌みそでもなんでもさうえ理由わけぢやこつちのおとつゝあんきなやうにかせることにしてな、大豆でえづはそれとつたしすつからつもりにせえなりやわけねえはなしだな、さうしてこつちのおとつゝあんむねでさつせえ、りいこたはねえから、なあこつちのおとつゝあん、そつちだこつちだやつちやだれよりも子奴等こめら可哀想かあいさうだから、それにおなじもんぢやひがし旦那等だんならみゝへはれたくねえから、さうしさつせえよなあ」

南の亭主はそう言って、心ではだんだんに尻込みするのであった。

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みなみ亭主ていしゆはさういつてこゝろでは段々だん/\しりごみするのであつた。

卯平は再び煙管を口にして沈黙した。

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卯平うへいふたゝ煙管きせるくちにして沈默ちんもくした。

南の亭主は、勘次を卯平の狭い戸口に導いた。

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みなみ亭主ていしゆ勘次かんじ卯平うへいせま戸口とぐちみちびいた。

勘次はふだんならば、自分の心からけっして形式的な和睦を望まなかったはずである。

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勘次かんじ平常いつもならば自分じぶんこゝろからけつして形式的けいしきてき和睦わぼく希望きばうしなかつたはずである。

彼は反目しているだけならば、久しく慣れていた。

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かれ反目はんもくしてるだけならばひさしくれてた。

しかし彼は、これまでかつてなかった卯平の行為に初めて恐怖心を抱いたのであった。

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しかかれ從來じゆうらいかつてなかつた卯平うへい行爲かうゐはじめて恐怖心きようふしんいだいたのであつた。

「そんじゃね、おとっつあん、お互いにこう根に持たないことにしてね。勘次さん、お前も忙しくて手をつけないでいたかも知れないが、麹も塩まで切ってあるというんだから、後は豆を煮るだけのことだし、味噌は搗くことにしてな。こういい塩梅にしてくれなさいね。さっきも言うとおり、あっちだこっちだないようにしなくちゃね、こっちのおとっつあん」

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「そんぢやねえおとつゝあん、おたげえたねえことにしてね、勘次かんじさんおめえもいそがしくつててえつけねえでたかもんねえが、かうぢしほまでつてるつちんだから、あとまめるだけのことだし、味噌みそくことにしてな、うえゝ鹽梅あんべえにしてくれさつせえね、先刻さつきもいふとほりそつちだこつちだねえやうにしなくちやねえ、こつちのおとつゝあん」

南の亭主は二人を見比べるようにして言った。

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みなみ亭主ていしゆ二人ふたり見較みくらべるやうにしていつた。

勘次は卯平の前へ出ては、ただ首をうなだれた。

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勘次かんじ卯平うへいまへてはたゞくびうなだれた。

卯平はじっと横を向いて、勘次をちらりとも見なかった。

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卯平うへい凝然ぢつよこいて勘次かんじをちらりともなかつた。

彼はこれまでとは様子がいくらか違っていた。

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かれ從來これまでとは容子ようす幾分いくぶんちがつてた。

彼はその癖の舌を鳴らしていたが

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かれくせしたらしてたが

「畜生め」

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畜生奴ちきしやうめ

と、ただ一言言った。

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たゞ一言ひとこといつた。

そうしてまたしばらく間を置いて

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さうしてまたしばらあひだいて

「畜生と言われるのが口惜しけりゃ、口惜しいと言ってみたほうがいい。元はと言えば、てめえが手出しをするのが悪いんだから」

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畜生ちきしやうつちはれんの口惜くやしけりや、口惜くやしいちつてはうがえゝ、原因もとはつちへば己奴うの手出てだしすんのがりいんだから」

と低く、しかも鋭く彼は呟いて、芒で裂いたように口をぎっと閉じてしまった。

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ひくしかするどかれつぶやいて、すゝきいたやうにくちをぎつとぢてしまつた。

勘次は刈られた草のごとくしょんぼりとした。

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勘次かんじられたくさごと悄然せうぜんとした。

「こっちのおとっつあん、そんじゃ仕方がないよ。さっきもおれがそっちから承知してくれと固く言ったんだったな。そんじゃおれも困るから、そこはお互いにこう、物は言わないことにしてやってくれなくちゃなあ」

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「こつちのおとつゝあん、そんぢややうねえよ、先刻さつきれそつから不承ふしようしてくろうつてかたしくつたんだつけな、そんぢやれもこまつから其處そこはおたげえにかうものはねえことにしてやつてくんなくつちやなあ」

と南の亭主は、いったん橋渡しをすれば後は再びどうなろうとも、それはまたその時だという心から、そこはいい加減に繕って逃げるように帰った。

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みなみ亭主ていしゆは一たん橋渡はしわたしをすればあとふたゝびどうならうともそれはまたときだといふこゝろから其處そこ加減かげんつくろうてにげるやうにかへつた。

彼はどちらからも依頼された仲裁人ではなかった。

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かれはどちらからも依頼いらいされた仲裁人ちうさいにんではなかつた。

彼らは次第に家族の間の、ことに夫婦の争いに深入りして、かえって双方から恨まれるような損な立場にはまった経験があるので、壊れた茶碗をそっと合わせるだけの手数で、巧みに身を引く方法と機会とを知っていた。

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彼等かれら漸次しば/\家族かぞくあひだこと夫婦ふうふあらそひに深入ふかいりしてかへつ雙方さうはうからうらまれるやうなそん立場たちばはまつた經驗けいけんがあるので、こはれた茶碗ちやわんをそつとあはせるだけの手數てすうたくみ方法はうはふ機會きくわいとをつてた。

黄昏が彼にその機会を与えた。

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黄昏たそがれかれ機會きくわいあたへた。

勘次は彼の軽い傷を、たとえ表面だけでもいいから思い切って重く見て、そうして彼に同情の言葉を惜しまない者を求めたが、彼には少しでもその顛末を聞いてくれるべき者は、医者と南の亭主とよりほかはなかった。

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勘次かんじかれ輕微けいび瘡痍きず假令たとひ表面へうめんだけでもいからおもつておもてさうしてかれ同情どうじやう言葉ことばをしまないものをもとめたが、かれには些少すこしでもその顛末てんまついてくれべきものは醫者いしやみなみ亭主ていしゆとよりほかはなかつた。

しかしあまりによく傷そのものの性質を見分けた医者は、彼にそのはかない心を訴える余裕を与えずに、彼を頭から圧するようにからかった。

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しかあまりに瘡痍きずそのもの性質せいしつ識別しきべつした醫者いしやは、かれその果敢はかないこゝろうつたへる餘裕よゆうあたへずにかれあたまからおさへやう揶揄からかうた。

彼はそこに何物をも得ないで、逃げるように珊瑚樹の木陰を出た。

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かれ其處そこ何物なにものをもないでにげるやうに珊瑚樹さんごじゆ木蔭こかげた。

南の亭主も、ことさらに彼に同情して慰めの言葉を惜しまないほどその心が動かされなかったのみでなく、彼はむしろ仲裁者の地位に立たねばならないことにいくらかの迷惑を感じた。

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みなみ亭主ていしゆ殊更ことさらかれ同情どうじやうして慰藉ゐしや言辭ことばをしまぬほどそのこゝろうごかされなかつたのみでなく、かれむし仲裁者ちうさいしや地位ちゐたねばらぬことに幾分いくぶん迷惑めいわくかんじた。

勘次はけっして仲裁を依頼しなかった。

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勘次かんじけつして仲裁ちうさい依頼いらいしなかつた。

彼はただ、自分の調子に乗って話をしてくれることに満足を求めようとしたのみであった。

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かれたゞ自分じぶん調子てうしつてはなしをしてくれることに滿足まんぞくもとめようとしたのみであつた。

しかしそれはことごとく徒労であった。

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しかしそれはこと/″\徒勞むだであつた。

勘次は羞恥と恐怖と憤懣との情を沸かしたが、それでも薄弱な彼は、それをひがんだ目に表して、会う人ごとに同情してくれと強いるかのごとく見えるのみであった。

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勘次かんじ羞恥しうち恐怖きようふ憤懣ふんまんとのじやうわかしたがそれでも薄弱はくじやくかれは、それをひがんだ表現へうげんしてひとごと同情どうじやうしてくれとふるがごとえるのみであつた。

百姓のすべては、彼の心を推測するほど鋭敏な目を持っていなかった。

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百姓ひやくしやうすべてはかれこゝろ推測すゐそくするほど鋭敏えいびんつてなかつた。

彼は自棄にわざと包帯の手を抱いて、数日間ぶらぶらと遊んでいた。

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かれ自棄やけわざ繃帶ほうたいいて數日間すうじつかんぶら/\とあそんでた。

忙しい麦蒔きの季節が迫って、百姓はことごとく畑へ出ているので、昼間は彼の相手になる者がなかったのみでなく、今に働かずにはいられないからと陰で冷笑を浴びせているのであった。

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いそがしい麥蒔むぎまき季節きせつせまつて百姓ひやくしやうこと/″\はたけるので晝間ひるまかれ相手あひてになるものがなかつたのみでなく、いまはたらかずにはられぬからとかげ冷笑れいせうびせてるのであつた。

この季節を空しく費やすことが一日でも非常な損失であるという、分かりやすい利害の計算から、彼はとうとう打ち負かされて、また一所懸命に労働に従事した。

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季節きせつむねしくつひやすことが一にちでも非常ひじやう損失そんしつであるといふ見易みやす利害りがい打算ださんからかれ到頭たうとうまかされてまた所懸命しよけんめい勞働らうどう從事じうじした。

彼はもう卯平と一言も口を利かなくなった。

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かれはもう卯平うへい一言ひとことくちかなくなつた。

無口なむっつりとした卯平は、もとより勘次を顧みようともしなかった。

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寡言むくちなむつゝりとした卯平うへいもとより勘次かんじかへりみようともしなかつた。

おつぎはそれを心に苦しんで見たが、それは到底及ばないことであった。

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おつぎはそれをこゝろくるしんでたがそれは到底たうていおよばぬことであつた。

村の内には、卯平との衝突がぱっとまた広まった。

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村落むらうちには卯平うへいとの衝突しようとつがぱつとまた傳播でんぱされた。

しかしそれは、分別ある壮年の間でのみ解釈され記憶された。

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しかしそれは分別ふんべつある壯年さうねんあひだにのみ解釋かいしやく記憶きおくされた。

その事件の内容は、勘次のおつぎに対する行為を猜疑と嫉妬との目で臆測をたくましくするようには、興味を彼らに与えなかった。

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事件じけん内容ないよう勘次かんじのおつぎにたいする行爲かうゐ猜忌さいぎ嫉妬しつととのもつ臆測おくそくたくましくするやうに興味きようみ彼等かれらあたへなかつた。

誰も自分から彼らの間に嘴を挟もうとはしない。

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だれ自分じぶんから彼等かれらあひだくちばしれようとはしない。

遠い以前からもつれて来た互いの感情に根ざした事件が、どんなに些細なことであろうとも、けっして快く解決されるはずでないことを知っている人々は、いくら愚かでも自ら好んでその難局に当たろうとはしないのであった。

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とほ以前いぜんから紛糾こゞらけてたがひ感情かんじやうざした事件じけんがどんな些少させうなことであらうとも、けつしてこゝろよく解決かいけつされるはずでないことをつて人々ひとびといくおろかでもみづかこのんで難局なんきよくあたらうとはしないのであつた。

二二

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二二

夜明けの光はまだ行き渡らない。

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拂曉よあけひかりはまだわたらぬ。

薄い蒲団にくるまっている百姓らの肌には寒気がしみじみと透って、眠りに落ちていながら、すべてが顎を覆うまでは無意識に蒲団の端を引いて、もじもじと動くころであった。

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うす蒲團ふとんにくるまつて百姓等ひやくしやうら肌膚はだには寒冷かんれいがしみ/″\ととほつて、睡眠ねむりちてながら、すべてがあごおほふまでは無意識むいしき蒲團ふとんはしいてもぢ/\とうごころであつた。

かんかんと凍って鳴る鉦の音が、沈んだ村の空気に響き渡った。

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かん/\とこほつてかねしづんだ村落むら空氣くうきひゞわたつた。

希望と楽しみとにそそのかされて待っていた老人らは皆、その左の手に提げて撞木で叩いている鉦の響きを、後れるな急げ急げと耳に聞いた。

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希望きばう娯樂ごらくとにそゝのかされてつて老人等としよりら悉皆みんなひだりげて撞木しゆもくたゝいてかねひびきおくれるないそげ/\とみゝいた。

老人はどこの家からも一斉に念仏寮を指して集まった。

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老人としより何處どこうちからも一もい念佛寮ねんぶつれうしてあつまつた。

彼らはいずれも、まだぐっすりと眠っている家族の者にはそっと支度をして、動けないほど褞袍を重ねて節度なく紐を締めて、表の戸を開けるとひやりとする明け方近い外気に白い息を吹きながら、大きな塊が転がって行くようにその姿を運んだ。

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彼等かれらいづれも、まだぐつすりとねむつて家族かぞくものにはそつ支度したくをして、うごけぬほど褞袍どてらかさねて節制だらしなくひもめて、おもてけるとひやりとするあけちか外氣ぐわいきしろいききながら、おほきなかたまりころがつてくやうに姿すがたはこんだ。

彼らは外の壁際からそだの一把を持って行く者もあった。

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彼等かれらそと壁際かべぎはから麁朶そだの一つてものつた。

旧暦の二月の半ばになると、例年のごとく念仏の集まりがあるのである。

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舊暦きうれきの二ぐわつなかばると例年れいねんごと念佛ねんぶつあつまりがるのである。

彼らはそれが日輪に対する報謝を意味しているので、お天念仏と言っている。

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彼等かれらはそれが日輪にちりんたいする報謝はうしや意味いみしてるのでお天念佛てんねんぶつというてる。

彼らの口から、そうして村の一般から訛って「おで念仏」

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彼等かれらくちからさうして村落むらの一ぱんからなまつて「おで念佛ねんぶつ

と呼ばれた。

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ばれた。

先駆けの光が各自の顔をほの明るくして、日が地平線上にその輪郭の一端を現そうとする時間を誤らずに、彼らは揃って念仏を唱えるはずなので、まだすべてが夜の眠りから離れないうちに、皆ことごとく口をすすいで待っていなければならないのである。

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先驅さきがけひかり各自てんでかほ微明ほのあかるくして地平線上ちへいせんじやう輪郭りんくわくの一たんあらはさうとする時間じかんあやまらずに彼等かれらそろつて念佛ねんぶつとなへるはずなので、まだすべてがねむりからはなれぬうち皆悉みんなくちすゝいでつてねばならぬのである。

念仏衆の内には、選ばれて法願と呼ばれている二人ばかりの爺さんが、難しくもない万事の世話をした。

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念佛衆ねんぶつしううちにはえらばれて法願ほふぐわんばれて二人ふたりばかりのぢいさんが、むづかしくもない萬事ばんじ世話せわをした。

法願は凍りそうな手に鉦を提げて、ちらほらと大きな塊のような姿が動いて来るまでは、力の限り辻に立ってかんかんと叩くのである。

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法願ほうぐわんこほさうかねげてちらほらとおほきかたまりのやうな姿すがたうごいてるまではちからかぎつじつてかん/\とたゝくのである。

念仏寮の雨戸はがらんと開け放たれて、ことさらに身にしみる寒さに、囲炉裏にはそだの火が炎を立てた。

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念佛寮ねんぶつれう雨戸あまど空洞からりはなたれて、殊更ことさらさむさに圍爐裏ゐろりには麁朶そだほのほてた。

蔓のある煤けた鉄瓶が自在鉤から低く垂れて、炎を尻で抑えた。

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つるのあるすゝけた鐵瓶てつびん自在鍵じざいかぎからひくれてほのほしりおさへた。

ぐるりと囲んだ老人の不格好な姿を、火ははっきりと見せた。

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ぐるりとかこんだ老人としより不恰好ぶかくかう姿すがた明瞭はつきりせた。

やがて二番鶏が遠く近く鳴いて、時間が来た。

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やがて二ばんどりとほちかいて時間じかんた。

法願は敷居のそばに太鼓を据えて、その後ろへだんだんと一同が座って、一斉に声を合わせた。

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法願ほふぐわんしきゐそば太鼓たいこゑて、うしろ段々だん/\と一どうすわつて一せいこゑあはせた。

横に据えた太鼓を両手に持った二本の撥が、両方から交互に打って、悠長な鈍い響きを立てた。

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よこゑた太鼓たいこ兩手りやうてつた二ほんばち兩方りやうはうから交互かうごつて悠長いうちやうにぶひゞきてた。

撥に合わせる一同の声は、しなびて痩せた喉から出る濁った声であった。

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ばちあはせる一どうこゑしなびてせたのどからにごつたこゑであつた。

雑然としたその声が、波のごとく沈んでまた起こった。

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雜然ざつぜんたるこゑなみごとしづんでおこつた。

太鼓の撥は強く打ち軽く打ち、さらに赤く塗った胴をそっと打って、そうしてまただらりだらりと強く軽く打つことを繰り返した。

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太鼓たいこばちつよかるち、さらあかつたどうをそつとつて、さうしてまただらり/\とつよかるつことを反覆はんぷくした。

念仏が終わるまでには、だんだんと遠い近い木立の輪郭がくっきりとして、青い蜜柑の皮が日に当たった部分から少しずつ彩られて行くように、東の空が薄く黄色に染まって、だんだんにそれが濃くなって、そうして寒さのうちにもほっかりと暖かみを持ったように明るくなった。

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念佛ねんぶつをはるまでには段々だん/\とほちか木立こだち輪郭りんくわくがくつきりとしてあを蜜柑みかんかはあたつた部分ぶぶんからすこしづゝいろどられてくやうにひがしそらうす黄色きいろそまつて段々だん/\にそれがつて、さうして寒冷ひやゝかなうちにもほつかりと暖味あたゝかみつたやうにあかるくつた。

念仏の濁った声も明るく響いた。

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念佛ねんぶつにごつたこゑあかるくひゞいた。

地上を覆った霜がめっきりと白く見えて、寮の庭に立てられた天棚の飾りの赤や青の紙がはっきりとして来た。

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地上ちじやうおほうたしも滅切めつきりしろえてれうにはてられた天棚てんだな粧飾かざりあかあをかみ明瞭はつきりとしてた。

中心に一本の青竹が立てられて、その先端は青と赤と黄との重ねた色紙で包んである。

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中心ちうしんに一ぽん青竹あをだけてられて先端せんたんあをあかとのかさねた色紙いろがみつゝんである。

その周囲には、これも四本の青竹が立てられて、それには縄が張ってある。

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周圍しうゐにはれも四ほん青竹あをだけてられてそれにはなはつてある。

縄には注連のように刻んだ、その赤や青や黄の紙がいっぱいにひらひらと吊られてある。

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なはには注連しめのやうにきざんだあかあをかみが一ぱいにひら/\とられてある。

彼らは昨日のうちに一切の飾りをして、鶏の鳴くのを待ったのである。

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彼等かれら昨日きのふうちに一さい粧飾かざりをしてにはとりくのをつたのである。

その天棚は、以前は立派な木の柱を、ちょうど小さな家の棟上げでもしたような形に組まれたのであった。

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その天棚てんだな以前もと立派りつぱはしら丁度ちやうどちひさないへ棟上むねあげでもしたやうなかたちまれたのであつた。

今ではそれがなくなったというのは、一度この地を襲った暴風のために、厚い草葺きの念仏寮はごしゃりと潰された。

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現今いまではそれがつたといふのは、一おそうた暴風ばうふうために、あつ草葺くさぶき念佛寮ねんぶつれうはごつしやりとつぶされた。

その時は多くの民家がなおかつ非常な惨害を被って、村のすべては自分の凌ぎがやっとのことであったので、ほとんど無用である寮の再建を顧みる者はなかった。

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とき幾多いくた民家みんか猶且やつぱり非常ひじやう慘害さんがいかうむつて、村落むらすべては自分じぶんしのぎがやつとのことであつたので、ほとんど無用むようであるれう再建さいこんかへりみるものはなかつた。

そうしている間に、他人の林に鉈を入れなければ薪が得られない貧乏な百姓らが、こそこそと寮の木材を引いた。

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さういふあひだ他人たにんはやしなたれねばたきゞられぬ貧乏びんばふ百姓等ひやくしやうらがこそ/\とれう木材もくざいいた。

やっとのことで今の寮が以前の幾分の一の大きさに再建されるまでには、その棚も無残な鋸の歯に掛かっていたのである。

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やつとのことで現今いまれう以前いぜん幾分いくぶんの一のおほきさに再建さいこんされるまでにはたな無残むざんのこぎりかゝつてたのである。

それでも、老人らは念仏の復活したことに十分の感謝と満足とを持った。

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それでも、老人等としよりら念佛ねんぶつ復活ふくくわつしたことに十ぶん感謝かんしや滿足まんぞくとをつた。

彼らはそこに、老後における無上の楽しみと慰めとを見出しつつあるのである。

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彼等かれらはそこに老後らうごける無上むじやう娯樂ごらく慰藉ゐしやとを發見はつけんしつゝあるのである。

太鼓が撥とともにぽつりと置かれて、すっかり窮屈な囲炉裏の辺りに集まった。

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太鼓たいこばちともにぽつさりとかれて悉皆みんな窮屈きうくつ圍爐裏ゐろりあたりあつまつた。

寮の内も明るくなって、立ち昇る炎の光がやや消されて来た。

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れううちあかるくつてのぼほのほひかりやゝされてた。

近所の百姓が雨戸を開ける音が、性急にがたぴしと聞こえた。

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近所きんじよ百姓ひやくしやう雨戸あまどけるおと性急せいきふにがたぴしときこえた。

庭へ下りた鶏が、あくびでもするように体を反らしながら、うっかりしていてまだ鳴き足りなかったという様子をして、喉の痛いほど鳴くのが聞こえた。

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にはへおりたにはとり欠伸あくびでもするやうに身體からだらしながら、放心うつかりしててまだらなかつたといふ容子ようすをしてのどいたほどくのがきこえた。

どこの家にも、青い煙がひさしを這って昇った。

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何處どこいへにもあをけぶりひさしうてのぼつた。

老人らはひとまず自分の家に帰った。

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老人等としよりら一先ひとまづ自分じぶんいへかへつた。

卯平も、隣の森の影がいっぱいに覆っている狭い庭に立った時は、勘次はおつぎを連れて開墾地へ出た後であった。

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卯平うへいとなりもり陰翳かげが一ぱいおほうてせまにはつたときは、勘次かんじはおつぎをれて開墾地かいこんちあとであつた。

卯平は庭に立ったまま、空っぽになって、そうして雨戸が閉ざしてある勘次の家をじっと見た。

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卯平うへいにはつたまゝ空虚からになつてさうして雨戸あまどとざしてある勘次かんじいへ凝然ぢつた。

家はやつれている。

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いへやつれてる。

しかしながら、たとえどうであっても話し声が聞こえて青い煙が立っていれば、わずかでも血が巡っているもののように生きて見えるのであるが、静まり返って人気のなくなった時は、荒れつつあるその建物のどこにも生命が保たれているとは見られないほど悲しげであった。

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しかしながら假令たとひどうでも噺聲はなしごゑきこえてあをけぶりつてれば、わづかでも循環めぐつてるものゝやうにきてえるのであるが、靜寂ひつそり人氣ひとけのなくなつたとき頽廢たいはいしつゝあるその建物たてもの何處どこにも生命いのちたもたれてるとはられぬほどかなしげであつた。

卯平が薄暗い庭の霜に下駄の跡をつけて出てから間もなく、勘次は布団を蹴って竈に火を点けた。

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卯平うへい薄闇うすぐらにはしも下駄げたあとをつけててからもなく勘次かんじしとねつてかまどつけた。

それからおつぎが朝飯の膳を据えるまでには、勘次はきりりと仕事着に着替えて、寒さに少し震えていた。

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それからおつぎが朝餐あさげぜんゑるまでには勘次かんじはきりゝと仕事衣しごとぎかへさむさにすこふるへてた。

おつぎも箸を取る時は、股引の端を藁でくくっておいた。

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おつぎもはしとき股引もゝひきはしわらくゝつていた。

勘次は、開墾の土地が年々遠くへ進んで行って、今では例年の面積では広すぎていたことに気づいたので、彼は少しの油断もできなくなった。

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勘次かんじ開墾かいこん土地とち年々ねんねんとほくへすゝんでつて、現在いまでは例年いつも面積めんせきでは廣過ひろすぎたことをこゝろづいたので、かれすこしの油斷ゆだん出來できなくなつた。

彼は毎日のようにおつぎを連れて、唐鍬で切り起こした土の塊を万能の背で叩いてはほぐし、平坦にならさせつつあったのである。

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かれ毎日まいにちのやうにおつぎをつれて、唐鍬たうぐはおこしたつちかたまり萬能まんのうたゝいてはほぐして平坦たひらにならさせつゝあつたのである。

卯平はまず勘次の戸口に近づいた。

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卯平うへい勘次かんじ戸口とぐちちかづいた。

表の大戸には錠が下ろしてあった。

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おもて大戸おほどにはぢやうがおろしてあつた。

鍵はもとより勘次の腰を離れないことを知って、卯平は手も掛けてみなかった。

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かぎもとより勘次かんじこしはなれないことをつて卯平うへいけてなかつた。

彼はまた裏戸の口へ行ってみたが、掛け金には栓を差したと見えて動かなかった。

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かれまた裏戸うらどくちつてたが、掛金かけがねにはせんしたとえてうごかなかつた。

卯平はそれから懐手をしたまま、その癖の舌を鳴らしながら、悠長に自分の狭い戸口に立った。

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卯平うへいはそれから懷手ふところでをしたまゝくせしたらしながら悠長いうちやう自分じぶんせま戸口とぐちつた。

内はただ陰気で、出る時に端をまくった夜具も冷たくなっていた。

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うちたゞ陰氣いんきときはしまくつた夜具やぐつめたくつてた。

彼はようやく火鉢にそだをくすべた。

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かれやうや火鉢ひばち麁朶そだくべた。

彼はそばに重箱と小鍋とが置かれてあるのを見た。

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かれそば重箱ぢゆうばこ小鍋こなべとがかれてあるのをた。

蓋を取ったら、重箱には飯があった。

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ふたをとつたら重箱ぢゆうばこにはめしがあつた。

蓋の裏には少し湿りを持っていた。

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ふたうらにはすこうるほひをつてた。

その朝、おつぎは知らずに呼んだのであったが、卯平はいなかった。

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あさおつぎはらずにんだのであつたが、卯平うへいなかつた。

それでおつぎは出る時、飯と汁とを卯平の小屋へ置いて行ったのである。

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それでおつぎはときめししるとを卯平うへい小屋こやいてつたのである。

卯平はともかく、おつぎに呼ばれて毎朝暖かい飯と熱い汁とに腹をこしらえつつあったのである。

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卯平うへいかくおつぎにばれて毎朝まいあさあたゝかいめしあつしるとにはらこしらへつゝあつたのである。

彼はその朝は褞袍を着ても、夜のまだ明けないうちからの騒ぎなので、体が冷えていた。

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かれあさ褞袍どてらてものまだけないうちからのさわぎなので身體からだえてた。

それで彼は、家に帰ったならば汁はどうでも、飯台の中はまだ十分に暖かさを保っているだろうという希望を抱いて、戸の開かないことにまでは思い至らなかった。

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それかれうちかへつたならばしるはどうでも、飯臺はんだいなかはまだ十ぶん暖氣だんきたもつてるだらうといふ希望きばういだいて、かないことにまではおもいたらなかつた。

重箱はもう冷えてしまった。

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重箱ぢゆうばこはもうえてしまつた。

彼は仕方なしに小鍋を火鉢へ掛けた。

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かれ仕方しかたなしに小鍋こなべ火鉢ひばちけた。

彼はかすかに白い湯気が鍋から立ち始めた時、お玉杓子で掻き立てて吸ってみたが、なおかつ冷たかった。

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かれかすかにしろ水蒸氣ゆげなべからはじめたとき玉杓子たまじやくしてゝつてたが猶且やつぱりつめたかつた。

彼はまた火鉢へそだを足して、重箱の飯を鍋へ入れた。

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かれ火鉢ひばち麁朶そだして重箱ぢゆうばこめしなべれた。

火鉢の割合には大きな鍋に頬が触るばかりにして、ふうふうと火を吹いた。

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火鉢ひばち割合わりあひにはおほきななべほゝさはるばかりにしてふう/\といた。

鍋がぐずぐずと濁った音を立てている間、彼はしなびた大きな手を火にかざしながら、目をしかめていた。

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なべのぐず/\とにごつたこゑてゝあひだかれしなびたおほきなかざしながらしかめてた。

彼はじっと遠くへ自分の心を放ったようにぼうっとしていては、また思い出したようにそだをぽちぽちと折ってくべた。

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かれ凝然ぢつとほくへ自分じぶんこゝろはなつたやうにぽうつとしててはまたおもしたやうに麁朶そだをぽち/\とつてべた。

彼は例年になく体のやつれが見えた。

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かれ例年いつになく身體からだやつれがえた。

かさかさと乾いた肌が、一般の老衰者に共通な哀れさを見せているばかりでなく、その大きな体は肉が落ちてげっそりと肩がこけた。

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かさ/\と乾燥かんさうした肌膚はだへが一ぱん老衰者らうすゐしや通有つういうあはれさをせてるばかりでなく、そのおほきな身體からだにくおちてげつそりとかたがこけた。

彼は体のやつれを自分でも知った。

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かれ身體からだやつれを自分じぶんでもつた。

彼はこの一年の間に、持病のリューマチが執念く骨のどこかを蝕みつつあるように感じた。

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かれこのねんあひだ持病ぢびやう僂麻質斯レウマチス執念しふねほね何處どこかをみつゝあるやうにかんじた。

暑い季節になれば必ずその勢いを潜めた持病が、彼を忘れて去らなかった。

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あつ季節きせつになればかならいきほひをひそめた持病ぢびやうかれわすれてらなかつた。

鍋の中は少しぷんと焦げつく臭いがした。

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なべなかすこしぷんとこげつくにほひがした。

彼はお玉杓子で掻き立てた。

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かれはお玉杓子たまじやくしてた。

鍋の底は手を動かすごとに、じりじりと鳴った。

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なべそこうごかすごとにぢり/\とつた。

彼はわずかに、熱い雑炊が食道を通過して胃に落ち着く時、ほかりと感じた。

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かれわづかあつ雜炊ざふすゐ食道しよくだう通過つうくわしてちつくときほかりとかんじた。

そうして箸を置いた後、ようやく体に快い暖かさの加わったことを知った。

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さうしてはしいたのちやうや身體からだこゝろよい暖氣だんきくははつたことをつた。

少量の水を注いだ鉄瓶の沸くのを、彼はまたじっと待った。

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少量せうりやうみづつい鐵瓶てつびんくのをかれまた凝然ぢつとしてつた。

彼はさっきから、どうかすると手元を探るようにして煙草入れを膝にした。

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かれ先刻さつきからどうかするともとをさぐるやうにして煙草入たばこいれひざにした。

煙草入れは空であった。

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煙草入たばこいれ虚空からであつた。

彼は自分の体力がめっきりと減って、仕事をするのに手が利かなくなって、小遣い銭の不足を感じた時、自棄になった心から、断然その噛むほど好きな煙草をやめようとした。

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かれ自分じぶん體力たいりよく滅切めつきりへつ仕事しごとをするのにかなくなつて、小遣錢こづかひせん不足ふそくかんじたとき自棄やけつたこゝろから斷然だんぜんそのほどすき煙草たばこさうとした。

彼は悲惨な自分を自分が苛めてやるような心持ちを、一方には持った。

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かれ悲慘みじめ自分じぶん自分じぶんいぢめてやるやうな心持こゝろもちを一ぱうにはつた。

一方にはまた、無知な彼らの仲間がよくするように、彼は持病の平癒を仏に祈ったのでもあった。

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ぱうにはまた無智むち彼等かれら伴侶なかまくするやうにかれ持病ぢびやう平癒へいゆほとけいのつたのでもあつた。

それが明日からという日に、彼はその残った煙草をほとんど一日吸い続けた。

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それが明日あすからといふかれそののこつた煙草たばこほとんど一にちつゞけた。

煙草入れの叺を逆さまにして、爪先でぱたぱたと弾いて、少しの粉でさえ余さなかった。

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煙草入たばこいれかますさかさにして爪先つまさきでぱた/\とはじいてすこしのでさへあまさなかつた。

その後、手についた癖が何かにつけては煙管をつかませるので、やめたことを彼は心に悔いることもあった。

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そののちについたくせなにかにつけては煙管きせるつかませるので、めたことをかれこゝろいることもあつた。

しかし彼はまたすぐに、仏に対しての誓いを破ることに非常な恐怖を抱いた。

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しかかれまたすぐほとけたいしての誓約せいやくやぶることに非常ひじやう恐怖きようふいだいた。

彼はどうしても諦めねばならない心の苦しみを紛らすために、蕗の葉や桑の葉を干して煙管の火皿につめてみたが、どれでも煙草のようにしっとりとした一種の潤いが火の足を引き止めるような力はなくて、一度吸えばすぐに灰になって、ヤニで塞がろうとしている羅宇の隙間を透して煙が口に満ちる時は、つんとしたいやな刺激を鼻に感じるのであった。

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かれはどうしても斷念だんねんせねばならぬこゝろくるしみをまぎらすためふきくはして煙管きせる火皿ひざらにつめてたが、どれでも煙草たばこのやうにしつとりとした一しゆうるほひがあし引止ひきとめるやうなちからはなくて一へばすぐはひになつて、煙脂やにふさがらうとして羅宇らう空隙くうげきとほしてけぶりくち滿ちるときはつんとしたいや刺戟しげきはなかんずるのであつた。

葡萄の葉を他人に勧められてみたが、これも到底彼の好みを欺くことはできなかった。

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葡萄ぶだう他人ひとすゝめられてたが、れも到底たうていかれ嗜好しかうあざむくことは出來できなかつた。

彼は煙管を手にすることが欲を忘れ得る方法でないことを知って、彼はちょうど他人に対するある憤懣の情から、当てつけに自分の愛児をおびただしく打ち据える者のように、羅宇を踏み潰した。

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かれ煙管きせるにすることが慾念よくねんわす方法はうはふでないことをつて、かれ丁度ちやうど他人たにんたいするある憤懣ふんまんじやうからてつけに自分じぶん愛兒あいじしたゝかにゑるもののやうに羅宇らうつぶした。

しかしそれを誰も見てはいなかった。

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しかしそれをたれてはなかつた。

それでも彼は、空っぽな煙草入れを放すに忍びない心持ちがした。

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それでもかれ空虚から煙草入たばこいれはなすにしのびない心持こゝろもちがした。

彼はわずかな小遣い銭を入れて、始終腰につけた。

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かれわづか小遣錢こづかひせんれて始終しじうこしにつけた。

これも空っぽになってはくたくたとして力のない革の筒には、潰れたままの煙管を差していた。

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れも空虚からつてはくた/\としてちからのないかはつゝにはつぶれたまゝ煙管きせるしてた。

彼はしばらくそうしていたが、どうかしては忘れて、癖づけられた手先が不用な煙草入れを探らせるのであった。

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かれしばらくさうしてたがどうかしてはわすれてくせづけられた手先てさき不用ふよう煙草入たばこいれさぐらせるのであつた。

日はようやく庭の霜を溶かして射しかけた。

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やうやにはしもとかしてけた。

彼は不快な朝に目をしかめて、またぽつねんと念仏寮へやつれた身を運んだ。

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かれ不快ふくわいあさしかめたたぽつさりと念佛寮ねんぶつれうやつれたはこんだ。

彼は田圃のそばへ下りて小道を行った。

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かれ田圃たんぼそばへおりて小徑こみちつた。

道筋には所々、離れ離れな家の隙間に小さな麦畑があった。

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道筋みちすぢには處々ところ/″\はなばなれないへ隙間すきまちひさな麥畑むぎばたけがあつた。

麦畑の畝は、たいがい東西に形づけられてあった。

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麥畑むぎばたけうね大抵たいてい東西とうざいかたちづけられてあつた。

遠くから南へ回ろうとしている日は、思いのほかに暖かい光で一帯に霜を溶かしたので、どこでも水を打ったような湿りを持っていた。

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とほくからみなみまはらうとしておもひのほかあたゝかいひかりで一たいしもかしたので、何處どこでもみづつたやうなうるほひをつてた。

しかし薄い日の光は、畑の畝が形づくっている長い小山の頂点を越えて、いくらもその力を及ぼさなかった。

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しかうすひかりはたけうねかたちづくつてなが小山こやま頂點ちやうてんえていくらもちからおよぼさなかつた。

どの畝でも、その陰は依然として白かった。

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どのうねでもそのかげ依然いぜんとしてしろかつた。

卯平は田圃に沿って北側の道を歩いたので、彼の目にはことごとく夜明けのごとき白い冷たい霜で覆われている畑ばかりが映った。

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卯平うへい田圃たんぼいて北側きたがはみちあるいたのでかれにはこと/″\夜明よあけごとしろつめたいしももつおほはれてはたけのみがうつつた。

午後から村のどの家からも、風呂敷包みの飯つぎや重箱が寮へ運ばれた。

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午後ごごから村落むらのどのいへからも風呂敷包ふろしきづゝみめしつぎや重箱ぢゆうばこれうはこばれた。

老人らは皆それを、埃だらけな仏壇の前に供えた。

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老人等としよりらみなそれほこりだらけな佛壇ぶつだんまへそなへた。

汚い風呂敷包みが小山のごとく積まれた時、念仏の太鼓がまた鳴った。

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きたな風呂敷包ふろしきづゝみ小山こやまごとまれたとき念佛ねんぶつ太鼓たいこまたつた。

それから庭に集まった子供らの前に、その飯つぎや重箱の供物が分け与えられた。

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それからにはあつまつた子供等こどもらまへめしつぎや重箱ぢゆうばこ供物くもつ分與ぶんよされた。

念仏衆はそれからさらに酒を飲んで、各自に重箱や飯つぎを箸でつついて、近ごろにない口腹の欲を満たした。

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念佛衆ねんぶつしゆうはそれからさらさけんで各自てんで重箱ぢゆうばこめしつぎをはしでつゝいて近頃ちかごろにない口腹こうふくよくたしめた。

独り卯平は杯を手にしなかった。

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ひとり卯平うへいさかづきにしなかつた。

彼は他の老人に先立って、自分の家の重箱を持ってぽさぽさと帰った。

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かれ老人としより先立さきだつて自分じぶんうち重箱ぢゆうばこつてぽさ/\とかへつた。

たいがいの家では米の菱餅を出すのが習わしであるが、勘次にはそういう暇がないので、おつぎはわずかに小豆飯を炊いて重箱を持って行ったのであった。

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大抵たいていうちではこめ菱餅ひしもちすのが常例じやうれいであるが勘次かんじにはさういふひまがないのでおつぎはわづか小豆飯あづきめしたい重箱ぢゆうばこもつつたのであつた。

すべての老人がほとんど狂うばかりに騒ぐ二日のその一日が、卯平には不快で、そうして無意味に費やされた。

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すべての老人としよりほとんきやうするばかりにさわ二日ふつかそのにち卯平うへいには不快ふくわいでさうして無意味むいみつひやされた。

彼は夜になってから

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かれになつてから

「爺さん、今朝のご飯は冷たくなったっけろう。おれが忘れて呼びに行ったのがよ。そうしたら爺さんはとっくにいなかったんだもの。そんでもさっきはがやがや大勢いるようだったっけが、あっちじゃ甘い物があって、爺さんらは取っ返し取ったんだろうなあ」

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ぢい今朝けさのおまんまつめたくつたつけべわすれてばりにつたのがよ、さうしたらぢいとつくねえのがんだもの、そんでも先刻さつきはがや/\一ぺえるやうだつけがあつちぢやうめものあつて爺等ぢいらとつけえしとつたんべなあ」

と、おつぎが少し甘えたように言ったことを、彼はさすがに憎いとは思って聞かなかった。

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とおつぎがすこあまえたやうにいつたことをかれ有繋さすがにくいとおもつてはかなかつた。

二三

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二三

念仏は次の日も同じように繰り返された。

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念佛ねんぶつつぎ同一どういつ反覆はんぷくされた。

午後になって、村のどの家からもまた風呂敷包みが運ばれた。

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午後ごごになつて村落むらのどのいへからも風呂敷包ふろしきづゝみはこばれた。

子供らは学校から帰って、風呂敷包みを背負ったのも、乳飲み子を帯でくくったのも、たいがいは寮の庭へ集まった。

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子供等こどもら學校がくかうからかへつて風呂數包ふろしきづゝみ脊負しよつたのも、乳呑兒ちのみごおびくゝつたのも大抵たいていれうにはあつまつた。

「さあ、そんじゃまた、みんな上がれ」

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「さあそんぢやまた、みんなあがれ」

と婆さんらが言うと、敷居際に迫って待っていた子供らは争って席を取った。

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ばあさんがいふと閾際しきゐぎはせまつてつて子供等こどもらあらそうてせきをとつた。

彼らは今日も狭い寮の内側にぎっしりと膝をすぼめて座った。

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彼等かれら今日けふせまれう内側うちがはにぎつしりとひざすぼめてすわつた。

四、五人の婆さんらは、仏壇の前に積まれてあった風呂敷包みを解きながら、ひそひそとささやいた。

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四五にんばあさん佛壇ぶつだんまへまれてあつた風呂敷包ふろしきづゝみきながらひそ/″\と耳語さゝやいた。

「これは何だと思ったら、鮨だよ」

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りやなんだとおもつたら、すしだよ」

と一人の婆さんが言えば

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一人ひとりばあさんがいへば

「そんじゃ、そっちへ別にしておけよ、お前」

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「そんぢや、そつちへべつにしてけよおめえ」

「そんじゃ、こっちのも別にしておこうよ、なあ」

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「そんぢやこつちのがもべつにしてくべよ、なあ」

婆さんらはすこぶる慌てたように手元忙しく、三つ四つの風呂敷包みをそっと仏壇へ隠した。

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ばあさんすこぶあわてたやうにもとせはしく三つ四つの風呂敷包ふろしきづゝみをそつと佛壇ぶつだんかくした。

そうしているうちに、他の婆さんらは

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さうしてうちほかばあさん

「みんな、おとなしくしなくちゃ、くれないぞ」

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「みんな、おとなしくなくつちや、んねえぞ」

「そんなに洟を垂らしてる者にはやらないことにしようよ」

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「さうだにはならしてるものげはやんねえことにすべえ」

口々にからかった。

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口々くち/″\揶揄からかつた。

子供らは一斉に洟をすすって、そうして着物で横に拭った。

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子供等こどもらは一せいはなすゝつてさうして衣物きものよこぬぐつた。

白い紙が一枚ずつ、子供らの前に広げられた。

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しろかみが一まいづつ子供等こどもらまへひろげられた。

「子供らのことを言って、手洟なんぞかんだ手じゃ引かないでくれよ。お前らももったいないから」

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子奴等こめらことつて、手洟てばななんぞかんだぢやかねえでろえ、おめえ勿體もつてえねえから」

婆さんらが飯つぎを左の手に抱えて立った時、こう囲炉裏のそばから怒鳴った。

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ばあさんめしつぎをひだりかゝへてつたとき、かう圍爐裏ゐろりそばから呶鳴どなつた。

彼は小柄な爺さんで、ちょっと婆さんらを顧みて微笑しながら言ったのである。

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かれ小柄こがらぢいさんで一寸ちよつとばあさんかへりみて微笑びせうしながらいつたのである。

彼は喉へ二重にした数珠を巻いていた。

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かれのどへ二ぢゆうにした珠數じゆずいてた。

彼の声は恐ろしく大きかった。

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かれこゑおそろしくおほきかつた。

婆さんらは

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ばあさん

「はいはい、そんじゃ手でも洗いましょうよ」

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「はい/\、そんぢやでもあらひますべよ」

と言ったり

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といつたり

「おれはお前、手洟はかまないよ」

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らおめえ、手洟てばなはかまねえよ」

と言ったり、がらがらと騒ぎながら、笑いささやきつつ、濡れた手を前掛けで拭いて再び飯つぎを抱えた。

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といつたりがら/\とさわぎながら、わら私語さゝやきつゝ、れた前掛まへかけいてふたゝめしつぎをかゝへた。

婆さんらは箸の先で少しずつ、飯つぎの物を突っ掛けてその広げられた紙へ置きながら、端からぐるりと回って行く。

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ばあさんはしさきすこしづつ、めしつぎのものけてひろげられたかみきつゝ、はしからぐるりとまはつてく。

紙は子供らの数のほかにも敷かれてあった。

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かみ子供等こどもらかずほかにもかれてあつた。

それは、空になった飯つぎを返す時にその中へ入れてやるためであった。

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それは空虚からになつためしつぎをかへときなかれてやるためであつた。

飯つぎには、たいがい菱餅と小豆飯とが入れられてあった。

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めしつぎには大抵たいてい菱餅ひしもち小豆飯あづきめしとがれられてあつた。

小豆飯はどれもこれも米がよく搗けていないのでくすんで、そうして腹の裂けた小豆が粉を吐いて、余計に粘り気のないぼろぼろな飯になっていた。

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小豆飯あづきめしはどれも/\こめけてないのでくすんでさうしてはらけた小豆あづきいて餘計よけい粘氣ねばりけのないぼろ/\なめしになつてた。

それでも飯つぎが違うごとに、小豆飯の赤さがいくらかずつ変わっていた。

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それでもめしつぎのことなごと小豆飯あづきめしあかさがいくらかづつかはつてた。

子供らは、違った小豆飯が一箸一箸と増えて行くのが嬉しくて、外へ転がったのは慌てて手で取って紙へ載せた。

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子供等こどもらかはつた小豆飯あづきめし一箸々々ひとはし/\えてくのがうれしくて、そところがつたのはあわてゝでとつてかみせた。

小豆飯は昨日と違ったことはなかったが、菱餅は昨日のように米のではなくて、どれでも粟ばかりであった。

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小豆飯あづきめし昨日きのふことなつたことはなかつたが、菱餅ひしもち昨日きのふのやうにこめのではなくてどれでもあはばかりであつた。

子供らは大小違った粟の菱餅が、一つはまた一つと紙の上に量を増して積まれるのを楽しげにして、自分の紙から、両方の隣の紙から、遠くのほうから、それから一つ一つに屈んで箸を動かしている婆さんらの忙しい手元に目を奪われるのであった。

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子供等こどもら大小だいせうことなつたあは菱餅ひしもちが一つは一つとかみうへ分量ぶんりやうしてまれるのをたのしげにして、自分じぶんかみから兩方りやうはうとなりかみからとほくのはうから、それから一つ/\にかゞんではしうごかしてばあさんせはしいもとにられるのであつた。

婆さんらはそわそわとしながら、狭いので互いにぶつかっては騒ぎながら、自分の家にいる時のような節度が少しも保たれていなかった。

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ばあさんはそは/\としつゝせまいのでたがひ衝突つきあたつてはさわぎながら、自分じぶんいへときのやうな節制たしなみすこしもたもたれてなかつた。

「さあ、お前らこれっきりだ」

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「さあ、れつきりだ」

婆さんらが空になった最後の飯つぎの底を叩いて腰を伸ばした時、子供らは危なそうな手でようやく紙を包んで、がたがたと先を争って立った。

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ばあさん空虚からになつた最後さいごめしつぎのそこたゝいてこしばしたとき子供等こどもらあぶさうやうやかみつゝんで、がた/\とさきあらそうてつた。

下駄を遠くへ跳ね飛ばされたり、転んだり、紙包みの餅を落としたりして泣く声が入り交じった。

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下駄げたとほくへばされたり、ころがつたり、紙包かみづゝみもちおとしたりしてこゑあひまじつた。

彼らは庭へ下りてから、おもむろにその紙を開いて小豆飯を手でつまんで食べた。

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彼等かれらにはへおりてからおもむろにかみひらいて小豆飯あづきめしつまんでべた。

紙にくっついた小豆飯を、彼らは歯でかじるようにして取った。

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かみにくつゝいた小豆飯あづきめし彼等かれらかじるやうにしてとつた。

破れた紙を捨てて、菱餅を懐へ入れる者もあった。

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やぶれたかみてゝ菱餅ひしもちふところれるものもあつた。

庭にはあっちにもこっちにも、捨てられた紙が白く乱れて散らばっていた。

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にはにはそつちにもこつちにもてられたかみしろみだれてらばつてた。

老人らは囲炉裏に絶えず薪をくべながら、酒を燗し始めた。

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老人等としよりら圍爐裏ゐろりえずたきぎべながらさけわかはじめた。

村のどの家からか、今日も念仏衆へと言って供えられた二升樽を囲炉裏のそばへ引きつけて、尻の煤けた土瓶へごぼごぼと注いで自在鉤へ掛けた。

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村落むらのどのうちからか今日けふ念佛衆ねんぶつしうへというてそなへられた二升樽しようだる圍爐裏ゐろりそばきつけて、しりすゝけた土瓶どびんへごぼ/\といで自在鍵じざいかぎけた。

外があまりに寒いからというので、念仏が済んでから誰かが雨戸を二、三枚引いたので、寮の内は薄暗くなっていた。

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そとあまりにさむいからといふので念佛ねんぶつんでからたれかゞ雨戸あまどを二三まいいたのでれううち薄闇うすぐらくなつてた。

仏壇の前には、婆さんが三、四人でひそひそと額を集めている。

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佛壇ぶつだんまへにはばあさんが三四にんでひそ/″\とひたひあつめてる。

「この婆さんら、そっちのほうで盗み食いしてないで、うまい物があったらこっちへ持って来い」

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婆奴等ばゝあめら、そつちのはう偸嘴ぬすみぐひしてねえで、佳味うめものつたら此方こつちつてう」

さっきの、首へ数珠を巻いた小柄な爺さんが怒鳴った。

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先刻さつきくび珠數じゆずいた小柄こがらぢいさんが呶鳴どなつた。

「盗んだというわけじゃないが、蓋を取って見たところなんだよ」

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ぬすんだつちわけぢやねえが、ふたとつてところなんだよ」

そう言って婆さんらは、風呂敷の四隅をつかんで囲炉裏のそばへ持って来た。

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さういつてばあさん風呂敷ふろしき四隅よすみつかんで圍爐裏ゐろりそばつてた。

飯つぎには、干瓢を帯にした稲荷鮨が少し白い腹を見せて、そっくりと積まれてあった。

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めしつぎには干瓢かんぺうおびにした稻荷鮨いなりずしすこしろはらせてそつくりとまれてあつた。

鮨は少し減っていた。

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すしすこつてた。

「独りでせしめちゃかなわないからね」

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ひとりでせしめちやえかねえから」

爺さんは冗談らしく言った。

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ぢいさんは戲談じようだんらしくいつた。

「独りじゃあるまいな。こうやって三人も四人もいたんだものなあ」

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ひとりぢやあんめえな、かうやつて三にん四人よつたりたんだものなあ」

「そうだとも。これくらいおれらにくれたって、本当にすりゃいいんだよ。なあ、おれらなんざ、上がった酒だってそんなに飲むわけじゃなし」

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「さうだとも、くれえらげよこしたつて本當ほんたうにすりやえゝんだよ、なあ、らなんざあがつたさけだつてさうだにむべぢやなし」

婆さんらは言い返すように言った。

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ばあさん抗辯かうべんするやうにいつた。

みんなが一つ一つと鮨をつまんだ。

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悉皆みんなひとつ/\とすしつまんだ。

「そりゃそうと、酒はどうしたい」

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「そりやさうと、さけどうしたえ」

小柄な爺さんは、ひょいと自在鉤のまま土瓶を手元へ引きつけて、底へ手を当ててみた。

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小柄こがらぢいさんはひよつと自在鍵じざいかぎまゝ土瓶どびんもとへひきつけて、そこてゝた。

「うっかりしてて、これは煮立っちまうところだったっけ」

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放心うつかりしてゝ煑立にたツちやあとこだつけ」

と急いで土瓶を外して

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いそいで土瓶どびんはづして

「おれはそんなに鮨なんざ自分じゃ一つでもほしくないんだから。そんな物で腹をふくらませたっくらい、酒がからっきり甘くなくなっちまうから」

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らさうだすしなんざ自分じぶんぢやひとつでもしかねえんだから、さうだもの滿腹はらくちくしたつくれえさけからツきうまくなくしつちやあから、」

爺さんは土瓶を畳の上へ置いて言った。

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ぢいさんは土瓶どびんたゝみうへいていつた。

みんながずらりと座を作った。

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悉皆みんながずらりとつくつた。

茶飲み茶碗が一つ一つに置かれて、どこからか供えられた芋や牛蒡や人参やその他の野菜の煮しめが、重箱のまま置かれた。

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茶呑茶碗ちやのみぢやわんひとつ/\にかれて、何處どこからかそなへられたいも牛蒡ごばう人參にんじん野菜やさい煮〆にしめ重箱ぢゆうばこまゝかれた。

そこには膳も台も何もなかった。

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其處そこにはぜんだいなにもなかつた。

土瓶の酒が徳利へ移されて、土瓶は再び自在鉤へ吊された。

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土瓶どびんさけ徳利とくりうつされて土瓶どびんふたゝ自在鍵じざいかぎつるされた。

二度目の酒が茶碗へ注がれた時

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度目どめさけ茶碗ちやわんがれたとき

「これはだめだ、焦げ臭くなっちまった。酒を燗するのにはかなわない、どうも気をつけなくちゃ。酒と茶はちっとでも臭みが移るんだから」

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駄目だめだ、焦臭こげくさくしツちやつた、さけわかすのにやへねえどうもをつけなくつちや、さけちやはちつとでも臭味くさみうつらさんだから」

小柄な爺さんは茶碗を口へ当てて、いかにも憤慨に堪えない者のように言った。

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小柄こがらぢいさんは茶碗ちやわんくちてゝ憤慨ふんがいへぬものゝやうにいつた。

「なあに、土瓶だって二度目のを少しにしないで、さっきのより余計なくらい注ぎさえすりゃ大丈夫なんだが。それ、そうでないと周りがそれ、焦げるから」

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「なあに、土瓶どびんだつて二度目どめのがすこしにねえで、先刻さつきのがより餘計よけいなツくれえぎせえすりや大丈夫だいぢようぶなんだが、それさうでねえと周圍まありがそれびつから」

と、そばからすぐに口が出た。

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そばからぐにくちた。

「そんじゃ、今度はたくさん入れような。おれはろくに飲みもしないで怒られちゃつまらないな」

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「そんぢや、今度こんだ澤山しつかりえびやな、ろくんもしねえで、おこられちやつまんねえな」

土瓶を手にした婆さんは笑いながら言った。

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土瓶どびんにしたばあさんはわらひながらいつた。

「本当にすりゃ、一遍ごとに土瓶の中を水ですすがなくちゃだめなんだがな」

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本當ほんたうにすりや、一ぺんごと土瓶どびんなかみづでゆすがなくつちや駄目だめなんだがな」

「そっちから、もう、鉄瓶の中へ徳利を押し込めばいいんだな。そうすりゃどうもこうもないんだな」

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「そつから、はあ、鐵瓶てつびんなか徳利とつくりおしこめばえゝんだな、さうすりやどうだもかうだもねえんだな」

「せっかく甘い酒を台なしにして、惜しいもんだな。これはこれで、よっぽどいい酒だぞ」

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折角せつかくうめさけでえなしにして可惜物あつたらもんだな、らこんで餘程よつぽどえゝさけだぞ」

などという声が雑然として聞こえた。

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などといふこゑ雜然ざつぜんとしてきこえた。

「鉄瓶じゃ徳利が一本ずつしか入らないから、面倒臭かろうと思ってよ」

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鐵瓶てつびんぢや徳利とつくりぽんづつしかへえんねえから面倒臭めんだうくさかんべとおもつてよ」

と婆さんは言いながら、いったん沸いた鉄瓶を掛けた。

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ばあさんはいひながら、一たんたぎつた鐵瓶てつびんけた。

樽が空になって、みんな飲む者は酔ってがやがやとただ騒いだ。

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たる空虚からになつて悉皆みんなもの銘酊よつぱらつてがや/\とたゞさわいだ。

卯平は囲炉裏のそばを離れずに、むっつりとして杯を取らない婆さんらと火に当たりながら、煙管を持たない所在なさに、そだの先を折ってその癖の舌を鳴らしながら、歯茎をつついていた。

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卯平うへい圍爐裏ゐろりそばはなれずにむつゝりとしてさかづきをとらぬばあさんにあたりながら、煙管きせるたぬ所在しよざいなさに麁朶そださきつてそのくせしたらしつゝ齒齦はぐきをつゝいてた。

彼はみんなが騒いでいる間に、自分の腹に足りるだけの鮨や惣菜やらを箸に挟んで、杯へは手を触れようとしなかった。

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かれ悉皆みんなさわいで自分じぶんはらりるだけのすし惚菜そうざいやらをはしはさんでさかづきへはれようとしなかつた。

老人らは自分の騒ぐほうにばかり心を奪われて、卯平のことはそっちのけにしたままであった。

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老人等としよりら自分じぶんさわはうにばかりこゝろうばはれて卯平うへいのことはそつちのけにしたまゝであつた。

卯平はそれでも、いろいろな百姓料理の塩辛い重箱へ箸をつけて、近ごろになく快かった。

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卯平うへいはそれでも種々いろいろ百姓料理ひやくしやうれうり鹽辛しほから重箱ぢゆうばこはしをつけて近頃ちかごろになくこゝろよかつた。

彼は腹にいっぱいになるまでには、欠けた歯茎で噛んで飲み下して、さらに次の箸が口まで来る、その悠長な手の運動が待ち遠しくて、口の中の粘膜からは自然に薄い水のような唾液の湧いて出るのを抑えることができないほどであった。

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かれはらに一ぱいになるまでには、けた齒齦はぐきんで嚥下のみくだして、さらつぎはしくちまで悠長いうちやう運動うんどう待遠まちどほ口腔こうかう粘膜ねんまくからは自然しぜんうすみづのやうな唾液つばいてるのをおさへることが出來できないほどであつた。

威勢よくなった老人らは、赤い胴の太鼓を首筋から胸へ吊って、だらりだらりと叩いて先に立つと、足元も手元も節度がなくなったすべてが後から後からと、ことに婆さんらは騒ぎながらついて出る。

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威勢ゐせいよくつた老人等としよりらあかどう太鼓たいこ首筋くびすぢからむねつて、だらり/\とたゝいてさきつとあしもともと節制だらしなくなつたすべてがあとから/\と、ことばあさんさわぎながらついる。

軒端から青竹の棚に沿って敷いてある筵を渡って、おもむろに回る。

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軒端のきばから青竹あをだけたなうていてあるむしろわたつておもむろまはる。

彼らはそれをお山回りというのである。

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彼等かれらはそれをお山廻やままはりといふのである。

互いによろけながら、踊りとも何ともつかない剽軽な手足の動かし方をして、蓄えておいた一年中の笑いを一度に吐き出したかと思うほどの声を放って、止めどもなくどよめいた。

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相互さうご踉蹌よろけながらをどりともなんともつかぬ剽輕へうきん手足てあしうごかしやうをして、たくはへていた一年中ねんぢうわらひを一したかとおもほどこゑはなつてめどもなくどよめいた。

ついには列が乱れて、互いにぶつかっては足を踏んだり踏まれたりして、一人が倒れれば後から後からと折り重なって、ひとしきり同じ所に止まってはがやがやと騒いだ。

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つひにはれつみだれてたがひ衝突しようとつしてはあしんだりまれたりして、一人ひとりたふれゝばあとから/\と折重をりかさなつてひとしきりおなところまつてはがや/\とさわいだ。

彼らはほとんど冷え切ろうとしつつある肉体のいずれの部分かに、失われようとしてぽっちりとその面影を止めていた青春の血液の一滴がにわかに沸いて、彼らの全体を支配し、かつ活動させたかと思うように、干からびつつある彼らの顔にはどれでも華やかな紅が差している。

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彼等かれらほとん冷却れいきやくしようとしつゝある肉體にくたいいづれの部分ぶぶんかにうしなはれんとしてほつちりとそのおもかげめて青春せいしゆん血液けつえきの一てきにはかいて彼等かれら全體ぜんたい支配しはいかつ活動くわつどうせしめたかとおもふやうに、枯燥こさうしつゝある彼等かれらかほにはどれでもはなやかなべにしてる。

彼らはまったく節度を失っている。

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彼等かれらまつた節制たしなみうしなつてる。

彼らはふだん家族に交わって、その老衰の身がどうしても自然に若い者の間に疎外されつつ、各自はむしろ無意識でありながら、しかもうっくつして怠い月日を過ごしつつある時に、例年の定めである念仏の日は、そういうすべてを放つ自由の境地である。

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彼等かれら平生へいぜい家族かぞくまじつて、その老衰らうすゐがどうしても自然しぜん壯者さうしやあひだ疎外そぐわいされつゝ、各自かくじむし無意識むいしきでありながらしか鬱屈うつくつしてものう月日つきひすごしつゝあるときに、例年れいねんさだめである念佛ねんぶつはさういふすべてをはな自由境じいうきやうである。

彼らはそこに少しの遠慮をも持っていない。

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彼等かれら其處そこすこし遠慮ゑんりよをもつてらぬ。

彼らは冬の間を長い夜の眠りに飽きながら、寒さに苛められていた苦しさを、もう空のどこかにその勢いを潜めてためらっているはずの春に先立って、一度に取り返そうとする者のごとく、騒いで騒いでまた騒ぐのである。

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彼等かれら冬季とうきあひだながねむりにきつゝさむさにいぢめられてくるしさを、もうそら何處どこにかいきほひをひそめて躊躇ちうちよしてはずはる先立さきだつて一取返とりかへさうとするものゝごとさわいで/\またさわぐのである。

酒がそこに火を点じた。

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さけ其處そこてんじた。

庭の四本の青竹に張った縄の、赤や青や黄の刻んだ注連がひらひらと動きながら、老人らと一つになってささやくように見えた。

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にはの四ほん青竹あをだけつたなはあかあをきざんだ注連しめがひら/\とうごきながら老人等としよりらひとつに私語さゝやくやうにえた。

日は陽気な庭へいっぱいに暖かな光を投げた。

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陽氣やうきにはへ一ぱいあたゝかなひかりなげた。

庭には子供らや村の者がぞろりと立って、この騒ぎを笑って見ていた。

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にはには子供等こどもら村落むらものがぞろつとたつこのさわぎをわらつてた。

その辺りには、難しそうなものは一つも見られなかった。

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そのへんにはむづかしさうなものはひとつもられなかつた。

彼らを包んだ柔らかな空気が、春の徴候でなければならなかった。

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彼等かれらつゝんだやはらかな空氣くうきはる徴候きざしでなければならなかつた。

しかしながら、卯平はただ独りその群れに加わらなかった。

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しかしながら卯平うへいたゞひとそのむれくははらなかつた。

老人らの勢いがごうっと庭に移った時、寮の内はその騒ぎの声がいっぱいに襲い来て、やかましいにもかかわらず寂しかった。

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老人等としよりらいきほひがごつとにはうつつたときれううちさわぎのこゑが一ぱいおそやかましいにもかゝはらずさびしかつた。

囲炉裏の火も灰が白く覆って、めっきりと衰えた。

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圍爐裏ゐろりはひしろおほうて滅切めつきりおとろへた。

卯平はじっと腕を組んだまま目をしかめて、燃え尽きた薪をすら突き出そうとしなかった。

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卯平うへい凝然ぢつうでこまねいたまゝしかめて退いたまきをすらさうとしなかつた。

彼には、庭の節度のない騒ぎの声がその耳を支配するよりも、遠くかつはるかな闇に何物かを探そうとしつつあるように、ただぼんやりとしているのであった。

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かれにはには節制だらしのないさわぎのこゑみゝ支配しはいするよりもとほかつはるかやみ何物なにものをかさがさうとしつゝあるやうにたゞ惘然ばうぜんとしてるのであつた。

与吉は紙包みの小豆飯を食べ尽くして、しばらく庭の騒ぎを見ていたが、寮の内に独りぽつねんとしている卯平を見つけて、囲炉裏に近く迫った。

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與吉よきち紙包かみづゝみの小豆飯あづきめしつくしてしばらくにはさわぎをたがれううち㷀然ぽつさりとして卯平うへい見出みいだして圍爐裏ゐろりちかせまつた。

「爺さん、くれないか」

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ぢいくんねえか」

と彼は、またいつものように卯平に甘えた。

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かれまた何時いつものやうに卯平うへいあまえた。

卯平はその声を聞いても、しばらく屈んだままでいた。

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卯平うへいそのこゑいてもしばらしがんだまゝた。

立春の日を過ぎてから、かえって黄昏のはかない薄い光の空に吹き落ちるはずの西風が何を怒ってか吹いて吹いて吹きまくって、夜にわたっても幾日か止まないほどのまれな現象に伴って、鬼怒川の浅瀬が氷に閉ざされて、やがて氷の塊が流れたという噂が立ったことがあった。

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立春りつしゆんぎてから、かへつ黄昏たそがれ果敢はかないうすひかりそらちるはず西風にしかぜなにいかつてかいて/\まくつて、わたつても幾日いくにちまぬほど稀有けう現象げんしやうともなうて、鬼怒川きぬがは淺瀬あさせこほりとざされて、やがこほりかたまりながれたといふうはさつたことがあつた。

卯平はそれとともに、その乾いた肌が余計に荒れて、寒気が骨に徹したかと思うと、にわかに手の自由を失って来たように自覚した。

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卯平うへいはそれととも乾燥かんさうした肌膚はだ餘計よけいれて寒冷かんれいほねてつしたかとおもふとにはか自由じいううしなつてたやうに自覺じかくした。

彼は縄を綯うにも草鞋を作るにも、それがある凝り固まった塊がすべての筋肉の働きを妨げているようで、各部にうずく痛みをさえ感じるのであった。

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かれなはふにも草鞋わらぢつくるにも、それある凝塊しこりすべての筋肉きんにく作用さよう阻害そがいしてるやうで各部かくぶ疼痛とうつうをさへかんずるのであつた。

器用な彼の手先が、彼自身の物ではなくなった。

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器用きようかれ手先てさき彼自身かれじしんものではなくなつた。

彼は与吉が狭い戸口に立つごとに、心から迎える以前の卯平ではなくなっていた。

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かれ與吉よきちせま戸口とぐちごとこゝろからむかへる以前いぜん卯平うへいではなくなつてた。

それでも彼は与吉を愛していた。

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それでもかれ與吉よきちあいしてた。

「明日にしろ」

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明日あしたにしろ」

と彼は簡単に拒絶して、そうしてそれっきり言わないことがあるようになった。

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かれ簡單かんたん拒絶きよぜつしてさうしてそれつきりいはないことがるやうになつた。

与吉はしばしばそう言われてしょんぼりしているのを、卯平は見つめて余計に目をしかめつつあるのであった。

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與吉よきちしば/\さういはれて悄然せうぜんとしてるのを、卯平うへい凝視みつめて餘計よけいしかめつゝあるのであつた。

そういうことが幾度か幾日か繰り返された後、卯平は与吉へ一銭の銅貨を与えた。

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さういふことが幾度いくたび幾日いくにち反覆くりかへされたのち卯平うへい與吉よきちへ一せん銅貨どうくわあたへた。

これまでの倍になっているのと、ほとんどまた拒絶されるのではないかという不安を抱きつつある与吉は、いつでもそれに非常な満足を表した。

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從來これまでばいしてるのとほとんまた拒絶きよぜつされるのではないかといふ懸念けねんいだきつゝある與吉よきち何時いつでもそれ非常ひじやう滿足まんぞくあらはした。

その様子を見る卯平は、勢い心が動かされた。

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その容子ようす卯平うへいいきほこゝろうごかされた。

自分が老衰者であることを知った時、諦めのないすべては、ややもすれば互いに余命のいくらもないはかなさを語り合って、それが冗談を言って笑いさざめく時にさえ絶えず繰り返されて、各自が痛切に感じる程度の違いはあるにしても、死の問題に苦しめられているのは事実である。

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自分じぶん老衰者らうすゐしやであることをつたときあきらめのないすべては、もすればたがひ餘命よめい幾何いくばくもない果敢はかなさをかたうて、それが戲談じようだんいうて笑語さゞめときにさへえず反覆くりかへされて、各自かくじ痛切つうせつかんずる程度ていど相違さうゐはあるにしても、問題もんだいくるしめられてるのは事實じじつである。

卯平の心にも、同じく死の観念が止まず行き来した。

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卯平うへいこゝろにもおなじく觀念くわんねんまず往來わうらいした。

彼はその手先の自由を失った時、自棄の心から彼の風呂敷包みを解いた。

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かれその手先てさき自由じいううしなうたとき自棄やけこゝろからかれ風呂敷包ふろしきづゝみいた。

野田にいたころ、主人や、または主人の用での出先からもらった幾筋の手拭いを継ぎ合わせてこしらえた浴衣を出した。

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野田のだころ主人しゆじんまた主人しゆじんようでの出先でさきからもらつた幾筋いくすぢ手拭てぬぐひあはせてこしらへた浴衣ゆかたした。

清潔好きな彼には、派手な手拭いの模様が当時の誇りの一つであった。

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清潔好きれいずきかれには派手はで手拭てぬぐひ模樣もやう當時たうじほこりひとつであつた。

彼はもう、自分の心を苛めてやるような心持ちで、目ぼしい物を次第に質入れした。

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かれはもう自分じぶんこゝろいぢめてやるやうな心持こゝろもち目欲めぼしいもの漸次だん/\質入しちいれした。

彼は目の前に、氷が閉じては毎日暖かい日の光に溶かされるのを見ていた。

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かれ眼前がんぜんこほりぢては毎日まいにちあたゝかひかり溶解ようかいされるのをた。

彼にはそれが、ただそういう現象としてのみ目に映った。

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かれにはそれがたゞさういふ現象げんしやうとしてのみうつつた。

彼は、自由を失ったその手先が、暖かい春の日が積もって次第に和らげられるであろうという、かすかな希望をさえ起こさないほど、身も心もひがんで、そうして苦しんだ。

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かれ自由じいううしなうたその手先てさきあたゝかはるつもつて漸次だん/\やはらげられるであらうといふかすかな希望のぞみをさへおこさぬほどこゝろひがんでさうしてくるしんだ。

彼の風呂敷包みから得つつあった金銭は些少のものであったが、それは時として、彼のこわばった舌に適した食べ物のあるものを求めるほかに、一部分は与吉の小さな手に落とされるのであった。

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かれ風呂敷包ふろしきづゝみからつゝあつた金錢きんせん些少すこしのものであつたが、それはときとしてかれこはばつたしたてきした食料しよくれうあるものもとめるほかに一部分ぶぶん與吉よきちちひさなおとされるのであつた。

はかない煙草入れの叺の中を、心配するように彼は幾度も覗いた。

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果敢はかない煙草入たばこいれかますなか懸念けねんするやうにかれ數次しばしばのぞいた。

陰鬱な狭い小屋の中で覗く叺の底は暗かった。

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陰鬱いんうつせま小屋こやなかのぞかますそこくらかつた。

わずかに交じった小さな白い銀貨が、見るたびに彼の心にいくらかの光を与えた。

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わづかにまじつたちひさなしろ銀貨ぎんくわたびかれこゝろいくらかのひかりあたへた。

彼がどんなに惜しんでも、叺の中の減って行くのを防ぐことはできない。

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かれ什麽どんなをしんでもかますなかつてくのをふせぐことは出來できない。

しかも無口な彼は、いたずらに自分独りが噛みしめて、絶えずただやつれながら沈鬱の状態を持続した。

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しか寡言むくちかれいたづらに自分じぶんひとりみしめて、えずたゞ憔悴せうすゐしつゝ沈鬱ちんうつ状態じやうたい持續ぢぞくした。

彼はその状態を保って、念仏寮の囲炉裏にどっかりと怠い体を据えていた。

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かれその状態じやうたいたもつて念佛寮ねんぶつれう圍爐裏ゐろりにどつかとものう身體からだゑてた。

庭の騒ぎは止んで、疾風の襲ったごとく寮の内はまた雑然として、卯平を囲んだ沈鬱な空気をかき乱した。

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にはさわぎはんで疾風しつぷうおそうたごとれううちまた雜然ざつぜんとして卯平うへいかこんだ沈鬱ちんうつ空氣くうき攪亂かくらんした。

やがて老人らが互いの懐銭を出し合った二升樽が運ばれて、酒がまた燗された。

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やが老人等としよりらたがひ懷錢ふところせんうた二升樽しやうだるはこばれてさけまたわかされた。

酒の座は囲炉裏に近く作られた。

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さけ圍爐裏ゐろりちかかたちづくられた。

その時まだ与吉は去らなかった。

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ときまだ與吉よきちらなかつた。

卯平は黙って五厘の銅貨を投げた。

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卯平うへいだまつて五りん銅貨どうくわげた。

そばにいた一人の老人がそれを拾おうとして見せると、与吉は両方の手を掛けて、それから身で覆った。

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そば一人ひとり老人としよりがそれをひろはうとしてせると與吉よきち兩方りやうはうかけてそれからもつおほうた。

彼はそれを固くつかんで

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かれはそれをかたつかんで

「爺さん、もう一つくれないか」

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ぢい、いまひとつくんねえか」

と、さらにねだった。

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さら強請せがんだ。

彼は五厘の銅貨を大事にした。

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かれは五りん銅貨どうくわ大事だいじにした。

しかし彼はしばらく一銭の銅貨に慣れていたので、心にわずかな不足を感じたのであった。

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しかかれしばらく一せん銅貨どうくわれてたのでこゝろわづか不足ふそくかんじたのであつた。

卯平は口を閉ざしている。

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卯平うへいくちつぐんでる。

「お前は、そんなことを言うんじゃない。さっきあんなに何か貰って要るもんか。もっとほしいなんて言えば、おれが腹を掻き裂いて小豆飯を掻き出してやるから。お前は口ばかり動かしてるから見ろ、それ、鴉に灸を据えられてらあ」

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りや、さうだことふんぢやねえ、先刻さつきあゝだになにつもらつてるもんか、まつとしいなんちへばはら掻裂かつツえて小豆飯あづきめし掻出かんだしてやつから、りやくちばかしいごかしてつからろうそれ、からすきうゑらツてら」

と、さっきの首へ数珠を巻いた爺さんががみがみと言った。

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先刻さつきくび數珠ずゝいたぢいさんががみ/\といつた。

与吉は恥じたようにして、五厘の銅貨で唇をこすりながら立っていた。

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與吉よきちはにかんだやうにして五りん銅貨どうくわくちびるをこすりながらつてた。

彼の口の両端には、鴉の灸と言われている瘡ができて、泥でもくっつけたようになっていた。

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かれくち兩端りやうはしにはからすきうといはれてかさ出來できどろでもくつゝけたやうになつてた。

「お前は銭がほしけりゃ、おとっつあんに貰え」

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りやぜねしけりやおとつゝあにもらへ」

爺さんはまた怒鳴った。

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ぢいさんはまた呶鳴どなつた。

「そんだってだめだあ、おとっつあんらはくれやしまいし」

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「そんだつて駄目だめだあ、おとつゝあれやしめえし」

与吉はやっと言った。

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與吉よきちやつといつた。

「おとっつあんは耳が遠いから聞こえないんだ。おとっつあん、くれと、おれみたいに怒鳴ってみろ。そうでなけりゃ耳を引っ張ってやれ」

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「おとつゝあつんぼだからきけえねんだ、おとつゝあろうつとてえに呶鳴どなつてろ、そんでなけれみゝ引張ひツぱつてやれ」

「そんだっていやだあ、おれは。おとっつあんに打っ飛ばされるから」

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「そんだつてだあら、おとつゝあにばされつから」

「いいから行けもう。お前らみたいな子供らがごやごや来ちゃ、うるさくて仕方がないから」

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「えゝからけはあ、汝等わつらてえな餓鬼奴等がきめらごや/\ちや五月蠅うるさくつてやうねえから」

与吉はすごすごと立った。

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與吉よきち悄々しを/\つた。

「そうら」

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「さうら」

と、卯平は後から五厘の銅貨を庭へ投げてやった。

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卯平うへいあとから五りん銅貨どうくわにはげてやつた。

そうしている間に、二度目の酒にあずからない婆さんらは、表の雨戸をさらに二、三枚引いて、余計に薄暗くなった仏壇の前に固まった。

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さうしてに二度目どめさけあづからぬばあさんおもて雨戸あまどさらに二三まいひい餘計よけい薄闇うすぐらつた佛壇ぶつだんまへ凝集こゞつた。

いつの間にか念仏衆以外の村の女房も加わって、十人ばかりになった。

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何時いつにか念佛衆ねんぶつしゆう以外いぐわい村落むら女房にようばうくははつて十にんばかりにつた。

彼らは外からの人目を雨戸に避けて、その唯一の楽しみとされてある宝引きをしようというのであった。

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彼等かれらそとからの人目ひとめ雨戸あまどけて唯一ゆゐいつ娯樂ごらくとされてある寶引はうびきをしようといふのであつた。

畳には八本の紺の宝引き糸がざらりと投げ出された。

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たゝみには八ほんこん寶引絲はうびきいとがざらりとされた。

彼らはそれを糸と呼んでいるけれども、機を織って切り放した最後の糸の端を、縄のように綯った綱である。

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彼等かれらはそれをいとんでるけれども、はたつてはなした最後さいごいとはしなはのやうにつたつなである。

婆さんらは丸い座を作って、めいめいの前へ二銭ずつの銭を置いた。

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ばあさんまるつくつて銘々めい/\まへへ二せんづつのぜにいた。

親になった一人が八本の綱の元をつかんで、一度ぎっと指へ絡んでばらりと投げ出すと、みんなが一つずつつかんで、これもその端を指へぎりっと絡んで一度に引くと、七本の綱が空しくすっと倒れる。

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おやつた一人ひとりが八ほんつなもとつかんで一ぎつとゆびからんでばらりとすと、悉皆みんなひとつづゝつかんでれもはしゆびへぎりつとからんで一くと七ほんつなむなしくすつとこける。

ただ一本の綱の尻には、彼らの言う「どっぺ」

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たゞぽんつなしりには彼等かれらのいふ「どツぺ」

が付いていて、それがどさりと畳を打って一人の手元へ引かれる。

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いててそれがどさりとたゝみつて一人ひとりもとへかれる。

どっぺは、一厘銭を三寸ばかりの厚さに穴を通してぎっとくくった錘である。

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どつぺは一厘錢りんせんを三ずんばかりのあつさにあなとほしてぎつとくゝつたおもりである。

一厘銭は、黄銅の地色がぴかぴかと光るまで擦られてあった。

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厘錢りんせん黄銅くわうどう地色ぢいろがぴか/\とひかるまで摩擦まさつされてあつた。

どっぺを引いた者がさらに親になって、一度ごとにどっぺは解いて他の綱へつける。

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どつぺをいたのがさらおやになつて一ごとにどつぺはいてつなへつける。

そうすると婆さんらは思案しながら、しかも速やかに綱の一つをつまんでは放したり、また つまんだり、きわめて忙しげにその手を動かす。

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さうするとばあさん思案しあんしつゝしかすみやかにつなひとつをつまんでははなしたりまたつまんだりきはめていそがしげにうごかす。

彼らはちょうどくじを引くように、きっと一つは当たるはずのどっぺを、みんなが心当てにつかんで引くのである。

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彼等かれら丁度ちやうどくじくやうに屹度きつとひとつはあたはずのどつぺを悉皆みんなこゝろあてにつかんでくのである。

一度ごとに失望と満足とが、みんなの顔にそれからそれと移って行く。

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ごと失望しつばう滿足まんぞくとが悉皆みんなかほにそれからそれとうつつてく。

綱をぎっと束ねて引かせる手元や、一つずつに思案しながら、しかもつかんだら威勢よくすいと引く手元は、彼らのこわばった手でありながら、熟練して、そうして敏捷に動く。

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つなをぎつとつかねてかせるもとや、ひとつづゝに思案しあんしながらしかつかんだら威勢ゐせいよくすいともとは彼等かれらこはばつたでありながら熟練じゆくれんしてさうして敏捷びんせふ運動うんどうする。

綱の周囲からみんなが形づくっている輪が縮まるようにして、一つつかんではまたその輪が広がるようにしながら引く様子は、大勢が一つの紐を打っているような形にも見えた。

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つな周圍しうゐから悉皆みんなかたちづくつてちゞまるやうにして、ひとつかんではまたひろがるやうにしつゝ容子ようす大勢おほぜいひとつのひもつてるやうなかたちにもえた。

彼らは忙しく手を動かしているとともに、声を殺してひそひそと、しかも力を入れて笑いささやいた。

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彼等かれらいそがしくうごかしてるとともこゑころしてひそ/\とかもちかられて笑語さゞめいた。

彼らは外に聞こえるのを憚らないならば、興味に乗じて大胆に騒ぐはずでなければならない。

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彼等かれら戸外こぐわいきこえをはばからぬならば興味きようみじようじて放膽はうたんさわはずでなければならぬ。

各自の前にある銭は、どっぺを引き当てた者の手に一つずつ引き去られて、誰の前にもまったくなくなった時、また新たに置かれるのである。

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各自かくじまへぜにはどつぺをてたものひとつづゝられてたれまへにもまつたくなくなつたときまたさらかれるのである。

彼らはそれに熱中して、まったく他を忘れている。

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彼等かれらはそれに熱中ねつちうしてまつたわすれてる。

宝引きにも酒にも加わらない老人らは、棚の周りを回ってからは帰った者もあって、寮にはいくらか人数も減っていたが、囲炉裏の辺りは酔いが加わって、宝引きの群れに行かない婆さんらは、酒の好きな、どれも威勢のいい者ばかりであった。

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寶引はうびきにもさけにもくははらぬ老人等としよりらたな周圍しうゐまはつてからはかへつたものもつてれうにはいくらか人數にんずつてたが、圍爐裏ゐろりほとりゑひくははつて寶引はうびきむれかぬばあさんさけきなれも威勢ゐせいのいゝものばかりであつた。

「なあお前、これでおれも若い時には面白いのだったんだよなあ」

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「なあおめえ、こんでらもけえときにや面白おもしろえのがんだよなあ」

と、爺さんの肩へもたれかかる者もあった。

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ぢいさんのかたもたかゝるものもあつた。

「べらぼう、以前のことなんぞ、外聞が悪い。おれなんざこれで随分無鉄砲なことはしたが、これで女には迷わなかったっけから」

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篦棒べらぼう以前めえかたのことなんぞ、外聞げえぶんりい、らなんざこんで隨分ずゐぶん無鐵砲がしよきなこたあしたが、こんでをんなにやれねえつちやつたから」

と、首に数珠を巻いた爺さんがそばでそれを見ていて怒鳴った。

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くび珠數じゆずいたぢいさんがそばでそれを呶鳴どなつた。

「お前、怒らなくてもいいやな。酒の座敷じゃそれくらいのことは仕方があるまいな」

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「おめえ、おこんなくつてもえゝやな、さけ座敷ざしきぢやそれくれえなこた仕方しかたあんめえな」

と叱られた婆さんは、右の手を上から左の手のひらへ打ちつけて、大声を立てて笑いながら

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しかられたばあさんはみぎうへからひだりひらちつけて、大聲おほごゑてゝわらひながら

「どうしたんだいまあ、一杯やりなさいね」

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「どうしたんでえまあ一ぺえやらつせえね」

と、婆さんはさらに卯平へ茶碗を突きつけた。

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ばあさんはさら卯平うへい茶碗ちやわんきつけた。

卯平は一杯をも口へ含まないのに、さっきからただじっとして、騒ぎを聞くでもなく聞かないでもない様子をして、胡坐をかいていた。

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卯平うへいは一ぱいをもくちふくまぬのに先刻さつきからたゞ凝然ぢつとして、さわぎをくでもなくかぬでもない容子ようすをして胡坐あぐらをかいてた。

二度目の酒はいくらか腹に余計であった老人らは、もう卯平を見逃してはおかなかったのである。

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度目どめさけいくらかはら餘計よけいであつた老人等としよりらはもう卯平うへい見遁みのがしてはかなかつたのである。

「おれはしばらくやらないから」

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しばらくやんねえから」

卯平はそっけなく言って、その癖の舌を鳴らした。

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卯平うへいはそつけなくいつてくせしたらした。

「何でまた飲まないんだ。そんなにしんねりむっつりしてないで、ちっとは威勢をつけてみるもんだ。そうれ」

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なんでまたまねえんだ、さうだにしんねりむつゝりしてねえで、ちつた威勢えせいつけてるもんだ、そうれ」

と、さっきからの爺さんは茶碗を突きつけた。

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先刻さつきからのぢいさんは茶碗ちやわんきつけた。

卯平はまた舌を鳴らして、唾をぐっと飲んだ。

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卯平うへいしたらして、つばをぐつとんだ。

「おれはもう、しばらくやらないから。煙草は体の具合が悪いから断ったんだから何だが、酒はこれ、銭は稼げないし、ちっとでも飲めばまた飲みたくなるから、やめちまったな。酒ももう、以前と違って一杯いくらというんだから、銭を食うようで」

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らはあ、しばらくやんねえから、煙草たばこ身體からだ工合ぐえゝりいからつたんだからなんだが、さけぜねかせげねえし、ちつとでもめばまたみたくなつからめつちやつたな、さけもはあ以前めえかたちがつて一ぺえいくらつちんだからぜねくんのむやうで」

彼はぶすりとして、しかも力のない声を投げかけるようにして言った。

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かれはぶすりとしてしかちからのないこゑけるやうにしていつた。

「そんなことを言わないで、そら来たとこう手を突き出すもんだ。だるくて仕方がない、これらがな」

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「さうだことあねえで、そらたつとかうてえつんだすもんだ、倦怠まだるつこくつてやうねえ此等こツらがな」

さっきの爺さんは、また一杯をぐっと干して怒鳴った。

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先刻さつきぢいさんはまたぱいをぐつとして呶鳴どなつた。

「そうだよ、飲みなさいよお前。めでたい酒だから。威勢をつければお前、体の具合だってちっとくらいなら治っちまうよ」

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「さうだよ、まつせえよおめえ、めでゝえさけだから、威勢えせえつければおめえ身體からだ工合ぐえゝだつてちつとぐれえならなほつちやあよ」

婆さんらはまた勧めた。

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ばあさんまたすゝめた。

「この人も勘次どんにはよくされないんだってさ。困ったもんさな。そんだってお前、そんなものは仕方がないから、そんなにくよくよしないほうがいいよ」

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ひと勘次かんじどんにやくさんねえごつさら、こまつたもんさな、そんだつておめえさうえもなやうねえから、さうえにくよくよしねえはうがえゝよ」

他の婆さんも言った。

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ばあさんもいつた。

「体の具合が悪いなんて、そんな料簡だから卯平らは仕方がない。これらはリューマチだなんて。リューマチなんて病気は腹の虫から出るんだから、なあに訳はないんだよ。蛇でこうしごき下ろすんだ。いいか、おれがこすってやるから。いや本当だよ、おれのなんざあ」

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身體からだ工合ぐえゝりいなんて、さうだ料簡れうけんだから卯平等うへいらやうねえ、此等こツらようまづだなんて、ようまづなんち病氣びやうきはらむしからんだから、なあにわきあねえだよ、へびでかうきおろすんだ、えゝか、れこすつてやつから、いや本當ほんたうだよらがなんざあ」

小柄な爺さんは、非常な勢いで言った。

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小柄こがらぢいさんは非常ひじやういきほひでいつた。

首の数珠は、彼の声が喉をふくらませるので、そのたびごとに少しずつ動いた。

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くび珠數じゆずかれこゑのど膨脹ばうちやうさせるのでそのたびごとすこしづゝうごいた。

「おれは蛇は嫌いだから」

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へびきれえだから」

卯平は苦しそうに言った。

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卯平うへいくるさうにいつた。

「蛇が嫌いだと。そんな大きな体をして、だらしのないことを言うない。おれなんざ蛇でも毛虫でも怖いなんてことはないんだから。こう、いいか、こうだぞ」

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へびきれえだと、さうだえけ姿なりしてあばさけたこといふなえ、らなんざへびでも毛蟲けむしでも可怖おつかねえなんちやねえだから、かうえゝか、うだぞ」

と言いながら爺さんは後ろ向きに立って、十分に酔った足を大股に踏んで、肌を脱いだ両方の手をぎっと握って、手拭いで背中をこするような形をして見せた。

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といひながらぢいさんは後向うしろむきつて、十ぶん酩酊よつぱらつたあし大股おほまたんで、はだいだ兩方りやうはうをぎつとにぎつて、手拭てぬぐひ背中せなかこするやうなかたちをしてせた。

「おれはリューマチじゃ八、九年も悩んだんだが、蛇でこすればいいというから、これはうまいことを聞いたと思ってな。大きな青大将がぶらんと柿の木からぶら下がったから、竹竿で掻き落とそうと思ったら、おれの家の婆さんらが構うなと言ったっけが、いいからお前らは黙って見てろ、なんて。それからおれがぐうっと頭をふん掴まえて、こうおれの背中をこすったな。大きな青大将だから、畜生、縮んで曲がった時は引っ掛かってなかなか動かないんだ。それからうんと引き伸ばしちゃこすったな。そうしたら、こう塊がごりごりと崩れるのが分かったっけな。そうしたらなあにけろりよ」

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らようまづぢや八九ねんなやんだんだが、へびでこすればえゝつちから、うめえこときいたとおもつてな、えけ青大將あをだいしやうぶらんとかきからぶらさがつたから竹竿たけざをおとすべとおもつたら、婆奴等ばゝめらかまあななんてつけが、えゝから汝等わツらだまつててろ、なんてそれからおれぐうつとあたまふんづかめえて、背中せなかこすつたな、えけ青大將あをだいしやうだから畜生ちきしやうちゞまつて屈曲えんぢぐんぢしたときかゝつて仲々なかなかいごかねえだ、それからうゝんとのばしちやこすつたな、さうしたらかたまりごりつ/\とこけんのれたつけな、さうしたらなあにけろりよ」

彼は一同へ向けた背中へ手を回して

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かれは一どうけた背中せなかまはして

「この辺のところに塊があったのだが、それっきりどこかへ行っちまったな。それからおれはもう、リューマチなんざ訳はないと言ってるんだ」

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此處こゝらんとこにかたまりあつたのがだが、それつきり何處どこさかつちやつたな、それかられはあ、ようまづなんざわきあねえつちつてんだ」

彼の手先が背骨の近くに触れた。

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かれ手先てさき脊椎せきずゐちかれた。

「おおいやまあ、大きな灸の跡じゃないかい」

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「おゝえやまあ、えけきうあとぢやねえけえ」

と、一人の婆さんが驚いて言った。

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一人ひとりばあさんがおどろいていつた。

「おれのはこれで三百挺を一遍に火をつけたんだから。おれはむしゃくしゃなことが大好きなのだから。いや本当だよ。おれはこれで腹に疫病がくっついた時だって、とうとう寝なかったっけからな。今じゃ教わってるから、子供らまで赤い病だなんて知ってるが、おれが若いころは何でも疫病と覚えてたのだから。なあ卯平、これらもその時やったから知ってらな。おれは一日に十六度手水場へ行ったのが一等だったっけが。なあに、病気なんぞには負けられるもんかというんだから。その時には村中ずっともう、みんなごろごろしてて、おればかり薬箱を持って医者の送り迎えをしたな。隣近所一軒ごと役には立たないんだから。いや本当だよ。おれは十五日下痢して治ったが、おれは強かったからな。いや強いとも、まったく。なあにってんで、おれは毎日酒をぴんぴん飲んだな。酒を飲んじゃ悪いなんて、医者なんてのはだめだな、ずっと。檳榔樹とか何とかだなんてちっとばかりずつ、削った薬なんぞだるくて仕方がないから、当薬を煎じ出して、毎日おれは片口で五杯ずつも飲んだな。五合くらい入っただろうが、おれは息をつかずだ。なあに、息をついちゃ苦くて仕方がないんだよ」

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らがなんで三百ちやうぺんひいけたんだから、らがむしやらなこと大好だえすきのがんだから、いや本當ほんたうだよ、んで腹疫病はらやくびやうくつゝいたときだつて到頭たうとうねえつちやつたかんな、いまぢやをさつてつから餓鬼奴等がきめらまでせきれえびやうだなんてつてんが、さかりころなんでも疫病やくびやうおべえてたのがんだから、なあ卯平うへいもそんときやつたからつてらな、一日いちんちに十六手水場てうづばつたの一とうだつけが、なあに病氣びやうきなんぞにやけらツるもんかつちんだから、ときにや村落中むらぢうかたではあ、みんなごろ/\してんでればかり藥箱くすりばこつて醫者いしや送迎おくりむけえしたな、隣近所となりきんじよ一軒毎えつけんごめらやくにやたねえだから、いや本當ほんたうだよ、ら十五んち下痢くだつてなほつたがつよかつたかんな、いやつええともまつたく、なあにツちんで毎日まいんちさけぴんんだな、さけんぢやわりいなんて醫者いしやなんちや駄目だめだなかたで、檳榔樹びんらうじゆとかなんとかだなんてちつとばかしづゝ、けづつたくすりなんぞ倦怠まだるつこくつてやうねえから、當藥たうやくせんして氣日まいんち片口かたくちで五へえづゝもんだな、五がふぐれえへえつけべが、呼吸えきつかずだ、なあに呼吸えきついちやにがくつてやうねえだよ」

と、彼は汚い手拭いで顔の汗を一度拭いた。

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かれきたな手拭てぬぐひかほあせを一ふいた。

彼は七十を越えても、髪はまだいくらも白くなかった。

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かれは七十をえてもかみはまだいくらもしろくなかつた。

彼は石の塊を投げ出したような硬い体に力を入れて、独り威勢づいた。

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かれいしかたまりしたやうなかた身體からだちかられてひと威勢ゐぜいづいた。

「おれはそれから、五百匁くらいな軍鶏の雑種を一羽引っ縊って、一遍に食っちまったな。そうしたら熱が出た」

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らそれから五百匁ひやくめぐれえ軍鷄雜種しやもおとしくゝつて一ぺんつちまつたな、さうしたらねつた」

彼はにわかに声を低くしたが、さらに以前に戻って

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かれにはかこゑひくくしたが、さら以前いぜんかへつて

「熱は出たが、それでおれはぐっと体に力をつけちまったな。そのせいだな、十五日で治ったな。そんだからおれはすぐに麦の八斗はずんずん搗けたな。おれはこれで体格はちっちゃいが強かったな。おれのは無垢に強いのだから。いや本当だよ。卯平らも仕事じゃ強かったが、そりゃ強いとも。そんだがこれらは根性がやくざだから、疫病がくっついて大儀で仕方がないなんて。それからおれが、しっかりしろと言えば、どうも下痢しちゃ力が抜けて仕方がない、うんうんなんて唸って。そんだがあの時には女房は可哀想なことをしたな。世間の奴らが、卯平は女房に祟られるだろうなんて言うから、心配するなっておれが言ったんだな。そんだがこれらは根性がないから。おれは心配するのは大嫌いだ。それ、心配しないで一杯引っ掛けろというんだ」

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ねつたがそれでれぐつと身體からだにやちからつけつちやつたな、所爲せゐだな十五んちなほつたな、そんだからぐにむぎの八はずん/\けたな、らこんで體格なりはちつちえがつをかつたな、らがな無垢むくつええのがだから、いや本當ほんたうだよ、卯平等うへいら仕事しごとぢやつをかつたが、そりやつええとも、そんだが根性こんじやうやくざだから、疫病やくびやうくつゝいて太儀こはくつてやうねえなんて、それかられ、確乎しつかりしろツちへばどうも下痢くだつちやちからけてやうねえ、うん/\なんてうなつて、そんだがあんときにやかゝあ可哀相かはいさうなことしたな世間せけん奴等やつら卯平うへいかゝあとつつかれべえなんちから心配しんぺえすんなつてつたんだな、そんだが根性こんじやうねえから、心配しんぺえするもな大嫌だえきれえだ、それ、心配しんぺえしねえで一ぺえけろつちんだ」

爺さんはいくらでも調子に乗ってまくしかけた。

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ぢいさんはいくらでも乘地のりぢになつてまくしかけた。

「そうだよお前、酒の座敷でむっつりしてるものがあるもんじゃない」

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「さうだよおめえ、さけ座敷ざしきでむつゝりしてるもなるもんぢやねえ」

「婆さんの手だってお前、酒じゃ酔うから、やってみなさいよ」

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ばあさまのだつておめえさけぢや酩酊よつぱらあからやつてさつせえよ」

婆さんらはそばから交互に杯を勧めた。

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ばあさんそばから交互たがひさかづきすゝめた。

彼らは情けなげな卯平を慰めようとするよりも、独りむっつりとしている彼を仲間に引き込もうというのと、変わっている彼の様子に対してからかってもみたいからとであった。

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彼等かれらなさけなげな卯平うへいなぐさめようとするよりも、ひとりむつゝりとしてかれ伴侶なかままうといふのと、かはつてかれ容子ようすたいして揶揄からかつてもたいからとであつた。

「おれは銭を出しもしないで、他人の酒なんぞ」

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ぜねしもしねえで、他人ひとさけなんぞ」

卯平は口が粘って舌がこわばったように言った。

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卯平うへいくちねばつてしたこはばつたやうにいつた。

「お前が構うもんじゃないな、そんなこと」

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「おめえかまあもんぢやねえな、其麽そんなこと」

婆さんらはまた言った。

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ばあさんまたいつた。

「酒代が足りなけりゃ、こっちのほうに寺銭ができてるよ、お前ら」

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酒代さかでんなけりや、こつちのはう寺錢てらせん出來できてるよおめえ

宝引きの仲間がこちらを顧みて言った。

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寶引はうびき仲間なかまがこちらをかへりみていつた。

「要らないとも、そんな銭なんざ。おれは博打なんざ何でも嫌いだから」

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らねえともそんなぜねなんざ、博奕ばくちなんざなんでもきれえだから」

小柄な爺さんはすぐに怒鳴った。

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小柄こがらぢいさんはすぐ呶鳴どなつた。

「おれはもう、銭もありもしないで」

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らはあぜねりもしねえで」

卯平は他人の騒ぎに釣り込まれようとするよりも、自分の心の内のあるものをやっとのことで吐き出そうとするように呟いた。

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卯平うへい他人ひとさわぎにまれようとするよりも、自分じぶん心裏しんりあるものやつとのことさうとするやうにつぶやいた。

「またそんなことだから仕方がない。勘次らは懐具合がいいというんだから、要るなら何でも、てめえよこせとこう言うんだ。構わないから奪い取ってやれ。おれだったらそうだ。いや本当だとも。婿なんぞに威張られてるなんてことがあるもんか。卯平らは根性が弱いから仕方がない」

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またさうだこつたからやうねえ、勘次等かんじら懷工合ふところぐえゝえゝつちんだから、らばなんでも、れよこせつとういふんだ。かまあねえから奪取ふんだくつてやれ、らだらさうだ、いや本當ほんたうだとも、むこなんぞに威張えばられてるなんちことるもんか、卯平等うへいら根性こんじよう薄弱やくざだからやうねえ」

小柄な爺さんは、髪をいっぱいに汗で濡らした。

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小柄こがらぢいさんはかみを一ぱいあせうるほした。

「威張られる理由じゃないが、おれはおれでやろうと思ってるんだから」

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威張えばらツる理由わけぢやねえが、れでやんべとおもつてんだから」

卯平は自分をかばうように言った。

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卯平うへい自分じぶん庇護ひごするやうにいつた。

「婿なんぞ、承知するもんじゃない。あんな泥棒野郎、おれは嫌いだ。畑でも田でも油断ならないから」

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むこなんぞ、承知しようちするもんぢやねえ、あゝだ泥棒野郎どろぼうやらうきれえだ、はたけでもでも油斷ゆだんなんねえから」

「そんだが、今じゃ懐がちっとはいいせいか、盗るのは盗らないよ」

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「そんだが、いまぢやふところちつたえゝ所爲せえるなんねえよ」

「なあにおれは、蜀黍を伐った時には勘弁するまいと思ったんだったが、お内儀さんに来られたから我慢したんだ。おれが卯平だったら槍で突き刺してやるんだ。いや、おれには本当にやられるとも。おれは家族の奴らになんざ、ぐずぐずは言わせないんだ。おれの家じゃ元日には暗いうちに起きて、蓑を着て、囲炉裏端で芋を焼いて食う縁起なんだが、おれの家の奴らが、外聞が悪いからいやだなんて吐かしやがるから、おれが、何だとうお前ら、いやだと言うんならいやだって今一遍言ってみろ、おれの目玉の黒いうちはそうはいかないぞというんだから。いや本当に、おれは聞かないんだから」

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「なあにれ、蜀黍もろこしつたときにや勘辨かんべんしめえとおもつたんだつけがお内儀かみさんにらツたから我慢がまんしたんだ、卯平うへいだらやりしてやんだ、いやれにや本當ほんたうられつとも、家族うち奴等やつらげなんざぐづ/\はあせねえだ、ぢや元日ぐわんじつにやくれえにきて、みのて、圍爐裏端ゐろりばたいもえてくふ縁起えんぎなんだが、奴等やつら外聞げえぶんわりいからだなんてかしやがつから、れ、なんだとうだつちんだらだつていまぺんつてろ、目玉めだまくれうちやさうはえがねえぞつちんだから、いや本當ほんたうかねえだから」

彼は髪が余計に湿りを増して、みんなの耳の底に徹るほど怒鳴って見せた。

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かれかみ餘計よけいうるほひをして悉皆みんなみゝそことほほど呶鳴どなつてせた。

「お前みたいにそうは行かないよ、他人は」

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「おめえてえにさうはかねえよ、他人たにんは」

卯平はぽつりと言った。

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卯平うへいはぽさりといつた。

「本当にお前みたいなものはないよ。若い時から毎晩酔っちゃ、後夜が鶏でも構わない、馬を曳いて帰っちゃ戸の割れるほど叩いて、そうしちゃ馬の裾湯が沸いてないって言っちゃ、家族の者を追い出してなあ。百姓はお前、夜中まで眠らないで待ってはいられないな。そんだがお前も、跡取りがよくできて仕合わせだよなあ」

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本當ほんたうにおめえてえなもなねえよ、けえときから毎晩まいばん酩酊よつぱらつちや後夜ごやとりでもかまあねえうまひいけえつちやれるほどたゝいて、さうしちやうま裾湯すそゆえてねえつてつちや家族うちものことしてなあ、百姓ひやくしやうはおめえ夜中よなかまでねむんねえでつちやらんねえな、そんだがおめえも相續人さうぞくにん出來でき仕合しあはせだよなあ」

そばにいてさっきから聞いていた婆さんの一人が言った。

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そば先刻さつきからいてばあさんの一人ひとりがいつた。

その身なりは、他の老人らとは違っていた。

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服裝なり老人等としよりらとはちがつてた。

「おれには打ち出されるとも。これでおれは力は強かったからな。仕事じゃ卯平も強かったが、こんな大きな体格をして、相撲じゃおれにはずっとぺたぺただ。おれはあっという間に投げつけちまうんだから。ああ、おれは腕ばかりじゃない。それくらいだから歯も強いんだよ。おれは麦打ちの時、唐箕を立ててて半夏桃をもらったのを、ひょいと口へ入れたっきり、種までがりがり噛んじまったな。奇態だよ、そんだが桃を噛ってると鼻の中へ埃が入らないからな。おれの歯じゃ誰でも驚くんだから。真鍮の煙管なんざ、くわえてぎりぎりっとこう手のひらでぶん回すと、ぽろっと噛み切れちまうのだから。そんだから今でも、こうれ、このとおりだ」

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れにやされつとも、んでちからつをかつたかんな、仕事しごとぢや卯平うへいつをかつたが、かうだえけ體格なりして相撲すまふぢやれにやかたでぺた/\だ。らやあつちうちにやげつちやあだから、あゝ、うでばかしぢやねえ、そらつくれえだからつええだよ、麥打むぎぶちとき唐箕たうみてゝちや半夏桃はんげもゝもらつたの、ひよえつとくちえたつきり、たねまでがり/\かぢつちやつたな、奇態きたいだよそんだがもゝかぢつてつとはななかほこりへえんねえかんな、れがぢやれでも魂消たまげんだから眞鍮しんちう煙管きせるなんざ、くうええてぎり/\つとかうぴらでぶんまあすとぽろうつとれちやあのがんだから、そんだからいまでも、かうれ、とほりだ」

爺さんはぎりぎりと歯を噛み合わせて見せた。

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ぢいさんはぎり/\とあはせてせた。

「おれはそれから、喧嘩じゃ負けたことはないんだよ。野郎、何だというときには、張り倒すか、引っ転がすかだな。ごろりと転がった所を爪先と踵を持って、こうぐるぐる引き回すと、どうだ、大きな野郎でも起きられないんだよ。もうおかしくて仕方がないな。いいか、こう、こうやるんだよ。ああ、おれは本当に強いのだよ。それ、卯平らはだめだな。後ろのほうにばかり隠れててからっきり」

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らそれから、喧嘩けんくわぢやけたこたねえだよ、野郎やらうなんだつちうちにやるか、ころがすかだな、ごろりころがつたところ爪先つまさきくびすつてかうぐる/\まあすとどうだえけ野郎やらうでもきらんねえだよ、から笑止をかしくつてやうねえな、えゝか、う、かうやんだよ、あゝ、本當ほんたうつええのがんだよ、それ卯平等うへいら駄目だめだなうしろはうにばかしかくれてゝからつき」

と、爺さんは少し座を下がって、両手で喧嘩の相手を苛めるような様子をして見せた。

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ぢいさんはすこ退さがつて兩手りやうてもつ喧嘩けんくわ相手あひていぢめるやうな容子ようすをしてせた。

「そんだがおれは旦那に言われてから、家族の奴らのことも怒らないもう。おれはうまい所を見られちまったな。いや、言われちゃもったいのうございます。本当にもったいないんだよ、お婆さん」

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「そんだが旦那だんなあれてから、家族うち奴等やつらこともおこんねえはあ、れうめえとこられつちやつたな、いやあれちや勿體もつてえながす、本當ほんたう勿體もつてえねえだよ、おばあさん」

爺さんは首をうなだれて、めっきり静かになって言った。

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ぢいさんはくびたれ滅切めつきりしづかになつていつた。

そうして彼は茶碗の酒をだらだらとこぼしながら、一口に飲んだ。

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さうしてかれ茶碗ちやわんさけをだら/\とこぼしながらに一口ひとくちんだ。

この時、外から女房が一人忙しく来た。

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ときそとから女房にようばう一人ひとりせはしくた。

女房は仏壇の前へ行って

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女房にようばう佛壇ぶつだんまへつて

「駐在所が来たよ」

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駐在所ちうざいしよたよ」

みんなの中へ首を突き入れるようにして、そっと語った。

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悉皆みんななかくびれるやうにしてそつかたつた。

みんなはしきりに勝ち負けにばかり心を奪われていた。

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悉皆みんなしきりに輸臝かちまけにのみこゝろうばはれてた。

彼らの顔はにこにことしたり、または しばらくどっぺをつかまない者は、難しくなった目をしかめたり、口をむぐむぐと動かしたりして、自分はいっこうにそれを知らないのであった。

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彼等かれらかほはにこ/\としたりまたしばらくどつぺをつかまぬものはむづかしくなつたしがめたりくちをむぐ/\とうごかしたりして自分じぶんは一かうそれをらないのであつた。

彼らの各自が持っているさまざまな隠れた性情が、薄暗い部屋の内にこっそりと思い切って表れていた。

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彼等かれら各自めい/\つて種々いろ/\かくれた性情せいじやう薄闇うすぐらしつうちにこつそりとおもつて表現へうげんされてた。

女房の言葉は、みんなの顔をただ驚きの表情で覆わせた。

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女房はようばう言辭ことば悉皆みんなかほたゞ驚愕おどろき表情へうじやうもつおほはしめた。

一度に女房を見た彼らには、その時までささやき合った面影がちっともなかった。

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女房にようばう彼等かれらにはときまで私語さゞめうたおもかげがちつともなかつた。

彼らは慌てて宝引き糸も懐へ隠して、知らない様子を装って囲炉裏のそばへ集まった。

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彼等かれらあわてゝ寶引絲はうびきいとふところかくしてらぬ容子ようすよそほうて圍爐裏ゐろりそばあつまつた。

「こっちのほうはひどく威勢がいいから、おれらも仲間入りさせてもらいたいもんだ」

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「こつちのはうひど威勢えせいえゝかららも仲間入なかまいりさせてもらえてもんだ」

宝引きの婆さんらは言った。

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寶引はうびきばあさんはいつた。

「この婆さんらは、寄れば触れば博打なんぞする気にばかりなって」

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婆等ばゝあらればさあれば博奕ばくちなんぞするにばかしつて」

爺さんは依然として悪口を止めなかった。

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ぢいさんは依然いぜんとして惡口わるくちめなかつた。

「こんな婆さんらだって、そんなに荷厄介にしないでくれよ。これでおれの家じゃまだおれがいなくちゃ闇だよお前、嫁があの仕掛けだもの」

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「かうだ婆等ばゞあらだつてさうだに荷厄介にやつけえにしねえでくろよ、こんでぢやまあだれなくつちやくらやみだよおめえ、よめがあの仕掛しかけだもの」

婆さんはさらに

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ばあさんはさら

「おれの仲間も寺銭で後を買うから、独りでむっつりしてないで一つやりなさいね」

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らあ仲間なかま寺錢てらせんあとあから、ひとりでむつゝりしてねえでひとつやらつせえね」

と、卯平へ杯を勧めた。

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卯平うへいさかづきすゝめた。

一同の威勢が次第に卯平の心を引き立てて、とうとう彼の大きな手に茶碗を取らせた。

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どう威勢ゐせい漸次しだい卯平うへいこゝろてゝ到頭たうとうかれおほきな茶碗ちやわんらせた。

婆さんらの袂が触れて、軽くなっていた徳利が倒された。

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ばあさんたもとれてかるつてた徳利とくりたふされた。

婆さんらは慌てて手拭いで拭こうとした。

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ばあさんあわてゝ手拭てぬぐひでふかうとした。

小柄な爺さんは突然畳へ口をつけて、すうすうと息もつかずに酒をすすって、それから強い咳をして、ざらざらになった口の埃を手拭いでこすった。

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小柄こがらぢいさんは突然いきなりたゝみくちをつけてすう/\と呼吸いきもつかずにさけすゝつてそれからつよせきをして、ざら/\につたくちほこり手拭てぬぐひでこすつた。

「婆さんらがもったいないことをするから仕方がない。いやもったいないとも、米の油だからこれで。それ、証拠には酒を飲んだ翌日じゃ、顔を洗う時つるつるするところが奇態だな。何でも人間は油が吹き出すようなら体は大丈夫だから。卯平、そうれ一杯飲め」

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婆等ばゝあら勿體もつてえねえことすつからやうねえ、いや勿體もつてえねえともこめあぶらだからこんで、それ證據しようこにやさけんだ明日あしたぢやつらあらときつる/\すつとこ奇態きてえだな、なんでも人間にんげんあぶらすやうだら身體からだ大丈夫だえぢやうぶだから、卯平うへいそうれ一ぺえめ」

爺さんは、また口を手拭いでこすりながら言った。

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ぢいさんはまたくち手拭てぬぐひでこすりつゝいつた。

「畜生だからあんな野郎は。畜生と同じだから」

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畜生ちきしやうだからあゝだ野郎やらうは、畜生ちきしやうとおんなじだから」

爺さんは、小さな頭の湿りをまたすっと手拭いで拭いた。

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ぢいさんはちひさなあたまうるほひをまたすつと手拭てぬぐひでふいた。

「そんなにお前、畜生だなんて。手元も見もしないで」

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其麽そんなにおめえ、畜生ちきしやうだなんて、もとももしねえで」

と、さっきの身なりのいい婆さんがたしなめるように言った。

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先刻さつき服裝みなりばあさんがたしなめるやうにいつた。

「いやっ、お婆さん、手元を見ないったって、そうに決まってるんだから。いや本当だよ。おれは嘘を言うのは嫌いだから。そんだがあの阿魔もずうずうしい阿魔だ。この間なんざ、おっかさんのことは思い出さないかと言ったら、思い出さないなんて吐かしやがって」

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「いやツ、おばあさん、もとねえつたつてさうにきまつてんだから、いや本當ほんたうだよ。ちくいふなきれえだから、そんだがあの阿魔あまもづう/\しい阿魔あまだ、此間こねえだなんざおつかこたおもさねえかつちつたら、おもさねえなんてかしやがつて」

爺さんはまた調子に乗った。

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ぢいさんはまた乘地のりぢつた。

「ありゃあそれ、おれには分かるんだよ。随分辛い目に遭ったから、お袋のことを思わないことはないが、みんなでからかいからかいしたから、それでそんなことを言うようになったんだな。さすがにあれだって困ってはいるんだから。何と言ったって、あれには罪はないよ」

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「ありやあそれ、れがにやえゝんだよ、隨分ずゐぶんつれつたから、おふくろことあねえこたねえが、悉皆みんな揶揄からけえ/\したからそんでさうだこといふやうんつたんだな、有繋まさかあれだつてこまつちやんだから、なんちつたつてあれにやつみやあねえよ」

最後の一句をすっと低く言って、彼はようやく茶碗の底を干した。

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最後さいごの一をすつとひくくいつてかれやうや茶碗ちやわんそこした。

「勘次も辛かったろうが、おれもお品に死なれた時には泣いたよ。あれのことは三つの時から育てたんだから」

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勘次かんじつらかつたんべが、らもしななつたときにやえたよ、あれこたみつつのときツからそだツたんだから」

卯平はまた情けなげな舌が、もうこわばってしまった。

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卯平うへいまたなさけなげなしたがもうこはばつてしまつた。

「ほんにお前も、お品さんに死なれたのが不運だったっけのさな。そんだがお前、長生きしただけいいんだよ」

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「ほんにおめえもおしなさんになくならつたのが不運くされだつけのさな、そんだがおめえ長命ながいきしたゞけええんだよ」

婆さんらは口々に慰めながら言った。

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ばあさん口々くちぐちなぐさめつゝいつた。

「手足も利かなくなっちまって、銭は取れずもう。野田でこしらえた単衣物もなくしちまったな。どうせこれ、来年の夏まで生きていられるかどうだか分かりやしまいし、構わないな」

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手足てあしかなくなつちやつてぜねはとれずはあ、野田のだこせえた單衣物ひてえものもなくしつちやつたな、どうせれ、來年らいねんなつまできてられつかうだかわかりやすめえし、かまあねえな」

卯平は口の中で独り呟くように、ぶすりと言った。

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卯平うへいたゞひとりでつぶやくやうにぶすりといつた。

彼はほとんど、その舌が味を感じないであろうと思うように、ただ茶碗の酒を傾けるのみであった。

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かれほとんどしたあぢかんぜぬであらうとおもふやうにたゞ茶碗ちやわんさけかたむけるのみであつた。

「そんだが娘も年ごろが来てるのに、やるとか取るとかしないじゃ可哀想だよなあ」

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「そんだがむすめ年頃としごろてんのにるとかとるとかしねえぢや可哀相かあいさうだよなあ」

婆さんらの口は、それからそれと尽きなかった。

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ばあさんくちはそれからそれときなかつた。

酒に勢いをつけられた婆さんらは、何かの詮索をしなければ気が済まないのであった。

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さけいきほひつけられたばあさんなにかの穿鑿せんさくをせねばまないのであつた。

「どうするこったか、自分の子供でもありやしまいし、おれには分からないな」

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「どうするこつたか自分じぶん子供こどもでもありやすめえし、らがにやわかんねえな」

卯平は、どこまでも乾いた言い方である。

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卯平うへい何處どこまでもからびたいひやうである。

「そんだがよ、話してやるといいんだな。出すと決まりゃ、いくらでも口はあらあな」

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「そんだがよ、はなしてやつとえゝんだな、すときまりやいくらでもくちらな」

「無駄だよお前、誰が言うことだって聞く苦労はないんだから」

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徒勞むだだよおめえ、だれがいふことだつて苦勞くらうはねえんだから」

婆さんらは互いに勝手なことを、がやがやと語り続けた。

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ばあさんたがひ勝手かつてなことをがや/\とかたつゞけた。

「そんじゃ隣の旦那にでもよく話してもらったら、聞くかも知れないぞ。それよりほかはないぞ、お前」

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「そんぢやとなり旦那だんなにでもようくはなしてもらつたらくかもんねえぞ、それよりほかあねえぞおめえ」

婆さんの一人が卯平に向かって言った。

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ばあさんの一人ひとり卯平うへいむかつていつた。

「そうすりゃもう、お互いにいい塩梅で疵もつかないんだから。おれもそうは思ってはいるんだが、これ、言うのもおかしなもんで」

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「さうすりやはあ、おたげえにえゝ鹽梅あんべえきずもつかねえんだから、れもさうはおもつちやんだが、れ、いふのもをかしなもんで」

卯平の頬にはやや紅が差して、彼は婆さんに言われたことが嬉しそうに見えるのであった。

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卯平うへいほゝにはやゝべにしてかればあさんにいはれたことがうれさうえるのであつた。

「なあに、そうもこうもあるもんか。いいから、そんな奴らは打っ飛ばしてやれ」

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「なあに、さうだもかうだもるもんか、えゝから、さうだ奴等やつらばしてやれ」

しばらく黙っていたさっきの爺さんは、小柄な体を固めてまた怒鳴った。

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しばらだまつて先刻さつきぢいさんは小柄こがら身體からだかためてまた呶鳴どなつた。

「うん、なあに、おれもそれから去年の秋は火箸で打っ飛ばしてやったな」

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「うむ、なあにれもそれから去年きよねんあき火箸ひばしばしてやつたな」

卯平はこう言って、彼にしては著しく元気を回復していた。

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卯平うへいういつてかれにしてはいちじるしく元氣げんき恢復くわいふくしてた。

「そうだとも。銭でも何でもくれなけりゃ、よこせと言えばいいんだ。銭がないなんて言えば、米でも麦でも奪い取ってやれ」

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「さうだとも、ぜねでもなんでもんなけりや、よこせつちばえゝんだ、ぜねねえなんちへばこめでもむぎでも奪取ふんだくつてやれ」

爺さんは周りへ唾を飛ばした。

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ぢいさんは周圍あたりつばばした。

「それでもおれは、打っ飛ばしてから、質の流れだなんて味噌を一樽買ったな。麩味噌でうまくはないが、今じゃそんでも汁は吸えることは吸えるのよ」

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「それでもばしてからしちながれだなんち味噌みそたるつたな、麩味噌ふすまみそ佳味うまかねえがいまぢやそんでもおつけへるこたへんのよ」

卯平は、自分の手柄でも語るような言い方であった。

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卯平うへい自分じぶん手柄てがらでもかたるやうないひかたであつた。

「食い物を惜しがるなんて、業つくばりもないもんじゃないか。本当に罰当たりだから。おれだったら生かしちゃおかない。いや、まったくだよ。親に食わせるのが惜しいなんて野郎は、突き刺したって申し開きが立つとも。おれだったら立派に立てて見せらあな。卯平、しっかりしろ。おれだったら勘次らくらいのは、またうんという目に遭わせらあな。いや本当に、おれに掛かっちゃひどいからな、これで」

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食料くひものしがるなんちごふつくばりもねえもんぢやねえか、本當ほんたうばちつたかりだから、らだらかしちやかねえ、いやまつたくだよ、おやのげあせんのをしいなんち野郎やらうしたつてまをひらつとも、らだら立派りつぱてゝせらな、卯平うへい確乎しつかりしろ、らだら勘次等かんじらぐれえなゝまたうんちあせらな、いや本當ほんたうれにかゝつちやひでえかんなこんで」

爺さんは激しく、そうして例の自慢を言い続けた。

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ぢいさんははげしくさうしてれい自慢じまんをいひつゞけた。

「そんなことを言ったってお前、以前から他人のことを切ったこともない癖に」

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「さうだことつたつておめえ、以前めえかたから他人ひとのことつたこともねえくせに」

そばから身なりのいい婆さんがけなして言った。

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そばから服裝みなりばあさんがくさしていつた。

「そんだが、この年になって懲役に行くのはいやよ、おれも」

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「そんだが、年齡としになつて懲役ちようえきぐなれも」

爺さんはずっと垂れた頭を手で抑えて笑いこけた。

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ぢいさんはずつとれたあたまおさへてわらひこけた。

婆さんらもどっと笑った。

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ばあさんもどつと哄笑どよめいた。

「勘次らは、その時からおれとは口も利かないや」

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勘次等かんじら、そんときかられたくちかねえや」

卯平は他人には頓着なしにこう言って、その舌を鳴らして唾を飲んだ。

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卯平うへい他人ひとには頓着とんぢやくなしにかういつてしたらしてつばんだ。

「口を利かない。そんなら口を両方へふん裂いてやれ。さあ利くか利かないかと、こうだ」

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くちかねえ、そんだらくち兩方りやうはうへふんえてやれ、さあくかかねえかとうだ」

小柄な爺さんは自分の口を両手の指でぐっと広げて言った。囲炉裏の辺りは、しばらく騒ぎが止まなかった。

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小柄こがらぢいさんは自分じぶんくち兩手りやうてゆびでぐつとひろげていつた、圍爐裏ゐろりあたりしばらさわぎがまなかつた。

卯平の心も、たとえ一時的でも周囲の刺激からいくらかの力を添えられて、ある勢いを回復したのであった。

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卯平うへいこゝろ假令たとひ時的じてきでも周圍しうゐ刺戟しげきから幾分いくぶんちからそへられてあるいきほひを恢復くわいふくしたのであつた。

「しっかりしろえ、いいから」

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確乎しつかりしろえ、えゝから」

小柄な爺さんは、別れる時また怒鳴った。

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小柄こがらぢいさんはわかれるときまた呶鳴どなつた。

卯平の足元は、やや力づいて見えていた。

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卯平うへいあしもとはやゝちからづいてえてた。

卯平は念仏寮から帰って来た時、どかりと火鉢の前に座った。

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卯平うへい念佛寮ねんぶつれうからかへつてときどかりと火鉢ひばちまへすわつた。

彼は勢いづけられていた。

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かれいきほひづけられてた。

勘次は例のごとく遠ざかった。

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勘次かんじれいごととほざかつた。

「おつう、米と挽き割り麦を出せ」

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「おつう、こめ挽割麥ひきわりせ」

卯平は座に就くと、突然こう言った。

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卯平うへいくと突然とつぜんかういつた。

「たくさん出せ」

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夥多みつしらせ」

間を置いてまた言った。

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あひだいてまたいつた。

「何するんだい、爺さんは」

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なにすんでえ、ぢいは」

おつぎはそれを軽く受けて、こう言った。

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おつぎはそれをかるうけういつた。

卯平は目をしかめた。

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卯平うへいしがめた。

彼は闇夜にずんずんと運んだ足が、急に窪みを踏んでがくりと調子が狂ったような様子であった。

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かれ闇夜あんやにずんずんとはこんだあしきふくぼみをんでがくりと調子てうしくるつたやうな容子ようすであつた。

「明日、要るなら出してやろうな。爺さんらはどうせ夜なんぞ要りやしまいしなあ」

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明日あしたればしてやんびやな、爺等ぢいらどうせよるなんぞりやすめえしなあ」

おつぎはまた、なだめるように言った。

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おつぎはまたすかすやうにいつた。

卯平はもう、繰り返して言わなかった。

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卯平うへいはもう反覆くりかへしていはなかつた。

彼はただその癖の舌を鳴らして、ごくりと唾を飲むのみであった。

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かれたゞそのくせしたらしてごくりとつばむのみであつた。

次の朝になって酒気がことごとく彼の体から発散し尽くしたら、彼はふだんの卯平であった。

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つぎあさつて酒氣しゆきこと/″\かれ身體からだから發散はつさんつくしたらかれ平生へいぜい卯平うへいであつた。

二四

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二四

卯平はけっして悪人ではなかった。

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卯平うへいけつして惡人あくにんではなかつた。

彼は生まれつき厳めしく大きな体であったけれど、そのしかめたような目には不断にどこか柔らかな光を持っているようで、思い切ってしなければならない事件に出遭っても、二度や三度はためらうのが、どうかと言えば彼の癖の一つであった。

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かれ性來せいらい嚴疊がんでふおほきな身體からだであつたけれど、しかめたやうなには不斷ふだん何處どこやはらかなひかりつてるやうで、おもつてせねばらぬ事件じけん出逢であうても二や三逡巡しりごみするのがどうかといへばかれくせの一つであつた。

ぶすりとしてそっけない様子でも、表面に現れたよりも暖かで、女に脆いところさえあるのであった。

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ぶすりとにべない容子ようすでも表面へうめんあらはれたよりもあたゝかで、をんなもろところさへあるのであつた。

彼が働き盛りのころに他人の目についたのは、自分自身の仕事にはあまり精を出さないように見えることであった。

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かれ盛年さかりころ他人たにんについたのは、自分自身じぶんじしん仕事しごとにはあませいさないやうにえることであつた。

たいがいのことではいっこうに騒がないような彼の様子が、外からではそうらしくも見えるのであった。

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大概たいがいのことでは一かうさわがぬやうなかれ容子ようすほかからではさうらしくもえるのであつた。

もう一つは、身なりをけっして崩さないことであった。

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も一つは服裝ふくさうけつしてくずさぬことであつた。

彼は他人に雇われていながら、草刈りにでも出る時は、手拭いと紺の単衣と三尺帯とを風呂敷に包んで馬の荷鞍にくくった。

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かれ他人たにんやとはれてながら、草刈くさかりにでもとき手拭てぬぐひこん單衣ひとへものと三尺帶じやくおびとを風呂敷ふろしきつゝんでうま荷鞍にぐらくゝつた。

そのころは、草といってはすっかり薙ぎ倒して、そだでも縛るように中央を束ねて馬に積むのであった。

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そのころくさというては悉皆みんな薙倒なぎたふして麁朶そだでもしばるやうに中央ちうあうつかねてうまむのであつた。

雑木林の間に馬を繋いだままで、彼は着物を改めて当てもなくぶらつくのが好きであった。

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雜木林ざふきばやしあひだうまつないだまゝかれ衣物きものあらためてあてどもなくぶらつくのがきであつた。

それでも彼の強健な鍛えられた腕は、定められた一人分の仕事を果たすのは、日がやや傾いてからでも、あながち難しいことではないのであった。

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それでもかれ強健きやうけん鍛練たんれんされたうでさだめられた一人分にんぶん仕事しごとはたすのはやゝかたぶいてからでもあなが難事なんじではないのであつた。

この二つのほかには、別段これといって数えるほど他人の記憶にも残っていなかった。

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の二つのほかには別段べつだんれというてかぞへるほど他人たにん記憶きおくにものこつてなかつた。

それでも彼の大きな体と生まれつきの器用とは、主人をして比較的余計な給料を惜しませなかった。

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それでもかれおほきな躰躯からだ性來せいらい器用きようとは主人しゆじんをして比較的ひかくてき餘計よけい給料きふれうをしませなかつた。

彼はその奉公して得た給料を自分の身に費やして、そのころでは他所目には疑われる年ごろの、三十近くまで独身の生活を続けた。

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かれ奉公ほうこうして給料きふれう自分じぶんつひやしてころでは餘所目よそめにはうたがはれる年頃としごろの卅ぢかくまで獨身どくしん生活せいくわつ繼續けいぞくした。

その間に彼は梅毒を病んだ。

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そのあひだかれ黴毒ばいどくんだ。

一時はぶらぶらと怠そうな青い顔もしていたが、病気はしばらくして忘れたように、その強健な体のどこかに潜んでしまった。

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はぶら/\と懶相だるさうあをかほもしてたが、病氣びやうきしばらくしてわすれたやうに強健きやうけん身體からだ何處どこにか潜伏せんぷくしてしまつた。

彼はもちろんそれを、治ったことと思っていた。

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かれ勿論もちろんそれをなほつたことゝおもつてた。

そのうちに彼は嫁を取って、小さな所帯を持って稼ぐことになった。

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うちかれよめをとつてちひさな世帶しよたいつてかせぐことになつた。

嫁は間もなく身ごもったが、胎児は死んで、そうして腐って出た。

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よめもなく懷姙くわいにんしたが胎兒たいじんでさうして腐敗ふはいしてた。

自分も他人も瘡っ子だと言った。

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自分じぶん他人ひとかさだといつた。

二、三人生まれたが、どれも育たなかった。

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二三にんうまれたがどれも發育はついくしなかつた。

それでも幼児の死ぬのは瘡っ子だからというだけで、病毒の惨害を知るはずもなく、したがって恐れるはずもなかった。

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それでも幼兒えうじぬのはかさだからといふのみで病毒びやうどく慘害さんがいはずもなくしたがつておそれるはずもなかつた。

お品の母は非常に貧乏な寡婦で、足が立つか立たないかのお品を懐にして、悲惨な生活をしていた。

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しなはゝ非常ひじやう貧乏びんばふ寡婦ごけで、あしつかたぬのおしなふところにして悲慘みじめ生活せいくわつをしてた。

それを卯平は心から哀れみの情で見ていた。

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それを卯平うへいこゝろから哀憐あはれみじやうもつた。

お品の母は百姓としては格別の働きを持たなかったから、寡婦として独立して行くには非常な困難でなければならないだけ、体のどこかに柔らかな様子があって、清潔好きな卯平の心を引いた。

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しなはゝ百姓ひやくしやうとしては格別かくべつはたらきをたなかつたから、寡婦ごけとして獨立どくりつしてくには非常ひじやう困難こんなんでなければらぬだけ身體からだ何處どこにかやはらかな容子ようすがあつて、清潔好きれいずき卯平うへいこゝろいた。

どこか人懐こいところがあって、ひたすらに他人の同情に渇していたお品の母の、何物かを求めるような態度が、ようやく二人を近づけた。

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何處どこ人懷ひとなつこいところがあつて只管ひたすら他人たにん同情どうじやうかつしてたおしなはゝ何物なにものをかもとめるやうな態度たいどやうや二人ふたりちかづけた。

そのころ彼の女房は、長い間病気に悩まされていた。

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ころかれ女房にようばうながあひだ病氣びやうきなやまされてた。

病気はついに回復しなかった。

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病氣びやうきつひ恢復くわいふくしなかつた。

女房はある年また身ごもって、臨月が近くなったら、どうしたものか数日のうちに腹が膨れて、一夜のうちにもそれがずんずんと目に見える。

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女房にようばうあるとし姙娠にんしんして臨月りんげつちかくなつたら、どうしたものか數日すうじつうち腹部ふくぶ膨脹ばうちやうして一うちにもそれがずん/\とえる。

女房は横になることもその苦痛に堪えられないで、積んだ蒲団に寄りかかって、わずかに切ない息をついていた。

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女房にようばう横臥わうぐわすることも苦痛くつうへないで、んだ蒲團ふとんかゝつてわづかせつない呼吸いきをついてた。

胎児を浮かべた水が余計に溜まったのである。

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胎兒たいじかしめたみづ餘計よけいたまつたのである。

そのころは医者の手でさえ、それをどうすることもできなかった。

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ころ醫者いしやでさへそれをどうすることも出來できなかつた。

その上、彼は医者を呼ぶことが億劫で、大事な命ということを考えることさえ、心に暇を持たなかった。

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加之それのみでなくかれ醫者いしやぶことが億劫おつくふで、大事だいじ生命いのちといふことをかんがへることさへこゝろいとまたなかつた。

幸いにも、卵膜を膨らませた液体が自分から逃げ去る道を求めて、その包囲を破った。

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僥倖げうかうにも卵膜らんまく膨脹ばうちやうさせた液體みづ自分じぶんからみちもとめて包圍はうゐやぶつた。

数升の液体がほとばしって、驚いて横たえた身を蒲団の上に浮かそうとした。

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數升すうしよう液體みづほとばしつて、おどろいてよこたへた蒲團ふとんうへかさうとした。

それとともに、安住の場所を失った胎児は自然に母体を離れて出なければならなかった。

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それととも安住あんぢう場所ばしようしなうた胎兒たいじ自然しぜん母體ぼたいはなれてねばならなかつた。

胎児はもちろん死んで、そうして手を出した。

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胎兒たいじ勿論もちろんんでさうしてした。

その時、女房は非常に疲れきっていたが、我慢をするからと言ったばかりに、卯平はぐっと力を入れて引き出した。

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とき女房にようばう非常ひじやう疲憊ひはいしてたが、我慢がまんをするからといつたばかりに卯平うへいはぐつとちかられてした。

彼の悪意を持たない手がこのように残酷に働かされたのは、夫婦の間ではわずかでも他人の手を借りることに、金銭上の恐怖を抱かせられたからであった。

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かれ惡意あくいたぬかくごと残酷ざんこくはたらかされたのは、夫婦ふうふあひだにはわづかでも他人たにんることに金錢上きんせんじやう恐怖おそれいだかしめられたからであつた。

女房はそれでも死ななかった。

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女房にようばうはそれでもなゝかつた。

しかし、ほとんど想像もされなかった痛みが満身に染み渡った。

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しかほとんど想像さうざうされなかつた疼痛とうつう滿身まんしんわたつた。

やがて非常な発熱が伴った。

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やが非常ひじやう發熱はつねつともなつた。

それからというものは、三年も臥せったままで、季節が暖かになればまれには蒲団からずり出して、わずかに杖にすがっては、柔らかな春の日をさえ刺激に堪えないようにまぶしがっていた。

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それからといふものは三ねんふせつたまゝ季節きせつあたゝかにればまれには蒲團ふとんからずりしてわづかつゑすがつてはやはらかなはるをさへ刺戟しげきへぬやうにまぶしがつてた。

お品の母との関係が、余計な告げ口から女房の耳に入った。

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しなはゝとの關係くわんけい餘計よけい告口つげぐちから女房にようばうみゝはひつた。

そのころ暑さに向かっていたせいでもあったが、女房はそれを苦にし始めてから、がっかりとやつれたように見えた。

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ころあつさにいて所爲せゐでもあつたが女房にようばうはそれをにしはじめてからがつかりとやつれたやうにえた。

女房が死んだ時は、卯平は枕元にいなかった。

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女房にようばうんだとき卯平うへい枕元まくらもとなかつた。

村には赤痢が発生した。

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村落むらには赤痢せきり發生はつせいした。

予防の注意も何もない彼らは、互いに葬儀に呼び合って少しの心配もなしに飲み食いをしたので、病気は非常な勢いで広まったのであった。

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豫防よばう注意ちういなにもない彼等かれらたがひ葬儀さうぎうてすこしの懸念けねんもなしに飮食いんしよくをしたので病氣びやうき非常ひじやういきほひで蔓延まんえんしたのであつた。

卯平も患者の一人で、そうしてお品の家で悩んでいた。

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卯平うへい患者くわんじやの一にんでさうしておしないへなやんでた。

お品の母の親切な看病から、彼は救われた。

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しなはゝ懇切こんせつ介抱かいはうからかれすくはれた。

彼はどうしても、瀕死の女房のそばに病んだ体を運ぶことができなかった。

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かれはどうしても瀕死ひんし女房にようばうかたはら病躯びやうくはこぶことが出來できなかつた。

そのやつれた目が憂えるのを、彼は見るに忍びなかったからである。

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やつれたうれへるのをかれるにしのびなかつたからである。

彼のそういう心持ちは、長い月日の病苦にさいなまれてひがんだ女房の心に通じる理由がなかった。

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かれのさういふ意志いしなが月日つきひ病苦びやうくさいなまれてひがんだ女房にようばうこゝろつうずる理由わけがなかつた。

そうして女房は、激烈な神経痛を訴えながら死んだ。

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さうして女房にようばう激烈げきれつ神經痛しんけいつううつたへつゝんだ。

卯平はさすがに泣いた。

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卯平うへい有繋さすがいた。

葬式は親戚と近所とで営んだが、卯平もやっと杖にすがって行った。

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葬式さうしき姻戚みより近所きんじよとでいとなんだが、卯平うへいやつつゑすがつてつた。

その秋の盆には、赤痢の騒ぎも沈んで、新しい仏の数が増えていた。

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あきぼんには赤痢せきりさわぎもしづんであたらしいほとけかずえてた。

墓地には、掘り上げた赤い土の小さな塚が、幾つも粗末な棺台を載せていた。

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墓地ぼちにはげたあかつちちひさなつかいくつも疎末そまつ棺臺くわんだいせてた。

たいがいは赤痢にかかってようやく体に力がついたばかりの人々が、例年のごとく草刈り鎌を持って、六日の日の夕刻に墓薙ぎと言って出た。

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大抵たいてい赤痢せきりかゝつてやうや身體からだちからがついたばかりの人々ひと/″\例年れいねんごと草刈鎌くさかりがまつて六夕刻ゆふこく墓薙はかなぎというてた。

墓の辺りは、生えるに任せた草が刈り払われて、見るからに清潔になった。

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はかほとりはえるにまかせたくさ刈拂かりはらはれてるから清潔せいけつつた。

中央に青竹の線香立てが杭のように立てられて、石碑の前には一つずつ、青竹の簀の子のような小さな棚が作られた。

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中央ちうあう青竹あをだけ線香立せんかうたてくひのやうにてられて、石碑せきひまへにはひとつづゝ青竹あをだけのやうなちひさなたなつくられた。

卯平も墓薙ぎの群れに加わった。

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卯平うへい墓薙はかなぎむれくははつた。

彼のまだ力ない手に持った鎌の刃先が、女房の棺台の下を覗いてからりと渡った時、彼はぞっとして手を引いた。

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かれのまだちからないつたかま刄先はさき女房にようばう棺臺くわんだいしたのぞいてからりとわたつたときかれ悚然ぞつとしていた。

蛇が体の後ろ半分を彼の足元に現して、白い腹を見せた。

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へび身體からだ後半こうはんかれあしもとにあらはしてしろはらせた。

鎌の刃先が蛇を切ったのである。

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かま刄先はさきへびつたのである。

蛇はしばらくじっとしていて、きわめておもむろに棺台の下に隠れた。

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へびしばら凝然ぢつとしてきはめておもむろに棺臺くわんだいしたかくれた。

卯平の顔は、黄昏の光に青かった。

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卯平うへいかほ黄昏たそがれひかりあをかつた。

彼はそれから、外出することもまれになった。

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かれはそれから他出たしゆつすることもまれになつた。

回復しかけた病後の疲れが、夜は粘るような汗を出させた。

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恢復くわいふくしかけた病後びやうご疲勞ひらうよるねばるやうなあせ分泌ぶんぴさせた。

それから八日目に、村の者が仏を迎えに提灯を持って行った時は、刈り払われた草が、暑いといっても秋らしくなった日に、その生殖作用を急ごうとして、そそり立つように首をもたげていた。

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それから八日目かめ村落むらものほとけむかへに提灯ちやうちんつてつたときはらはれたくさあついといつてもあきらしくなつた生殖作用せいしよくさよういそがうとして聳然すつくりくびもたげてた。

村の人々は好奇心に駆られて、おずおずと棺台をそっと上げてみた。

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村落むら人々ひとびと好奇心かうきしんられてづ/\も棺臺くわんだいをそつとげてた。

蛇は依然として、だらりと横たわったままであった。

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へび依然いぜんとしてだらりとよこたはつたまゝであつた。

人々は見開いた目を見合わせた。

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人々ひとびとみはつた見合みあはせた。

村の者が去った後には、小さな青竹の線香立てから、そこらの石碑の前から、じりじりと身を焼いて行く火に苦しんで悶えるように、煙はうねりながら立ち昇って、寂しい黄昏の光の中をさまよった。

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村落むらものつたあとにはちひさな青竹あをだけ線香立せんかうたてからそこらの石碑せきひまへからぢり/\といてくるしんでもだえるやうにけぶりはうねりながらのぼつて寂寥せきれうたる黄昏たそがれひかりなか彷徨さまようた。

それからまた四日目に、仏を送って村の者は黄昏の墓地に落ち合った。

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それからまた日目かめほとけおくつて村落むらもの黄昏たそがれ墓地ぼちうた。

蛇はなおかつ、棺台の陰を去らなかった。

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へび猶且やつぱり棺臺くわんだいかげらなかつた。

蛇は自由に這うには、あまりに傷が大きかった。

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へび自由じいう匍匐はらばふにはあまりに瘡痍きずおほきかつた。

反り返った唇のように膨れた肉は、埃にまみれて黒く変じていた。

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かへつたくちびるのやうにふくれたにくほこりまみれてくろへんじてた。

棺台を透かして人がこれを覗けば、恐怖を抱いて少しずつのたくるのであった。

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棺臺くわんだいかしてひとこれうかゞへば恐怖おそれいだいてすこしづゝのたくるのであつた。

女房が出たのだと言って、村の者は減らず口を叩いた。

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女房にようばうたのだといつて村落むらものらずぐちたゝいた。

しばらくして、お品の母の耳へも蛇の噂が伝わった。

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しばらくしておしなはゝみゝへもへびうはさつたはつた。

それからというもの、お品の母は一夜でも卯平を自分の家から放さない。

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それからといふものおしなはゝは一でも卯平うへい自分じぶんうちからはなさない。

三つになっていたお品が卯平を慕って、しっかりとその家に引き留めたのは、それから間もないことである。

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みつつにつてたおしな卯平うへいしたうて確乎しつかうちめたのはそれからもないことである。

蛇の話は、いつの間にか消えてなくなった。

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へびはなし何時いつにか消滅せうめつした。

それは、みんなが互いに心に記憶を繰り返して快しとするほど、彼らを憎んではいなかったからである。

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それは悉皆みんなたがひこゝろ記憶きおく反覆くりかへしてこゝろよしとするほど彼等かれらにくんではなかつたからである。

その後、長い歳月を経てお品の母が死んだ時、以前の話を見たり聞いたりしていた者の間でのみ、わずかに記憶が呼び返された。

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そののちなが歳月としつきておしなはゝんだとき以前いぜんはなしたりいたりしてものあひだにのみわづか記憶きおくかへされた。

お品の母は、腰に病気を持っていた。

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しなはゝこし病氣びやうきつてた。

卯平は、自分の手から作った罪というものは、ほとんど見られなかった。

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卯平うへい自分じぶんからつくつたつみといふものはほとんどられなかつた。

ただ彼は、働き盛りのころは他の雇い人らとともに、よく猫を殺して食べていた。

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たゞかれ盛年さかりころ傭人等やとひにんらともねこころしてべてた。

もっともそのころは、猫でも犬でも飼い主を離れて鶏を狙うのがさまよっていた。

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もつとそのころねこでもいぬでも飼主かひぬしはなれてにはとりねらふのが彷徨うろついた。

彼らは罠を掛けてそれを待った。

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彼等かれらわなけてそれをつた。

しかし、たいがいの家々では鶏でさえ家の内では煮るのを許さないので、後ろの庭へ竹で三本の脚を作って、それへ鍋の蔓を掛けたほどであったから、猫を殺すことが恐ろしい罪悪のように見られたのであった。

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しか大抵たいてい家々いへ/\ではにはとりでさへいへうちではるのを許容ゆるさないので、うしろにはたけで三ぼんあしつくつてそれへ鍋蔓なべつるけたほどであつたから、ねこころすことがおそろしい罪惡ざいあくのやうにられたのであつた。

猫は辛い塩鮭を与えれば腰が利かない病気にかかると一般に言われているので、卯平が腰を悩んでいるのを、まれには猫の祟りだと冗談に言う者もあった。

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ねこから鹽鮭しほざけあたへればこしかない病氣びやうきかゝると一ぱんにいはれてるので卯平うへいこしなやんでるのをまれにはねこたゝりだと戯談じようだんにいふものもあつた。

それでも、そういう噂は広がらなかった。

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それでもさういふうはさひろがらなかつた。

彼は憎悪と嫉妬とを、村の誰からも買わなかった。

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かれ憎惡ぞうを嫉妬しつととを村落むらたれからもはなかつた。

憎悪も嫉妬もない、そこにわざと悪評を生み出すほど、百姓は邪心を持っていなかった。

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憎惡ぞうを嫉妬しつともない其處そこ故意わざ惡評あくひやうほど百姓ひやくしやう邪心じやしんつてなかつた。

村の西の端に離れて住んでいる彼には、興味を持って見させる一つの条件も備わっていなかった。

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村落むら西端せいたん僻在へきざいしてかれには興味きようみもつさせるひとつの條件でうけんそなへてなかつた。

ただむっつりとして、他人に訴えることも求めることもない彼は、一切村との交渉がなかった。

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たゞむつゝりとして他人たにんうつたへることももとめることもないかれは一さい村落むらとの交渉かうせふがなかつた。

彼一身のあるなしは、少しも村のためには重みを持たなかった。

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かれの一しん有無うむすこしも村落むらためには輕重けいちようするところがなかつた。

二五

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二五

初冬のこずえに慌ただしく渡って、それからしばらく騒いだまま、その後はぱたりと忘れていて、まれに思い出したように枯木の枝を泣かせた西風が、雑木林のこずえに白く連なっている西の遠い山々の彼方に横たわっていたのが、にわかに自分の威力をたくましくすべき冬の季節が自分を捨てて去ったのに気がついて、吹くだけ吹かなければ止められないその特性を発揮して、毎日その特有な力が軽い土を空に巻いた。

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初冬しよとうこずゑあわたゞしくわたつてそれからしばらさわいだまゝのちはたわすれてまれおもしたやうに枯木かれきえだかせた西風にしかぜが、雜木林ざふきばやしこずゑしろつらなつて西にしとほ山々やま/\彼方かなた横臥たのがにはか自分じぶん威力ゐりよくたくましくすべきふゆ季節きせつ自分じぶんてゝつたのにがついて、くだけかねばめられない特性とくせい發揮はつきして毎日まいにち特有もちまへちから輕鬆けいしようつちそらいた。

その日も、夜明けから空があまりにからりとして、鈍い柔らかな光を持たなかった。

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拂曉あけがたからそらあまりにからりとしてにぶやはらかなひかりたなかつた。

毎日吹きまくる疾風が、その遠い西山の氷雪を含んで、細かに地上を覆って撒き散らしたかと思うように、霜が白く凝っていた。

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毎日まいにちくる疾風しつぷうとほ西山せいざん氷雪ひようせつふくんで微細びさい地上ちじやうおほうて撒布さんぷしたかとおもふやうにしもしろつてた。

勘次はふだんのごとく、おつぎを連れて開墾地へ出た。

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勘次かんじ平生いつもごとくおつぎをれて開墾地かいこんちた。

おつぎは半纏を後ろへふわりと掛けたまま手も通さないで、肩へは襷を斜めに掛けて、万能を担いでいた。

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おつぎは半纏はんてんうしろへふはりとけたまゝとほさないで、かたへはたすきなゝめけて萬能まんのうかついでた。

白い手拭いと、それから手拭いの外に少し覗いた後れ毛が、歩くたびにふらふらと動くのも、しみじみと冷たそうであった。

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しろ手拭てぬぐひとそれから手拭てぬぐひそとすこのぞいたおくあるたびにふら/\とうごくのもしみ/″\とつめさうであつた。

草木および地上の霜にまばたきしながら、横に、そうして斜めに射しかける日に、遠い西の山々の雪がひとしきり光った。

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草木さうもくおよ地上ちじやうしもまばたきしながらよこにさうしてなゝめけるとほ西にし山々やま/\ゆき一頻ひとしきりひかつた。

すべてを通じて褐色の光で包まれた。

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すべてをつうじて褐色かつしよくひかりつゝまれた。

その遠く連なった山々の頂には、ぽつりぽつりと大小の群れ雲が凝ったままに掻き乱されて、しばらく動かなかった。

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とほつらなつた山々やま/\頂巓いたゞきにはぽつり/\と大小だいせう簇雲むらくもつたまゝみだされてしばらうごかなかつた。

ついにはそれが一つになって山々の所在を暗まして、その末端が油煙のごとく空に向かって消えつつあるように見え始めた。

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つひにはそれが一つにつて山々やま/\所在しよざいくらまして、末端まつたん油煙ゆえんごとそらむかつて消散せうさんしつゝあるやうにはじめた。

そこには毎日必ずやかましい足音が人の鼓膜を騒がせつつある、その巨人の群れが、その目からは悲惨な地上のすべてを苛めて爪先に蹴飛ばそうとして、山々の彼方から出発したのだ。

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其處そこには毎日まいにちかなら喧嚚けんがう跫音あしおとひと鼓膜こまくさわがしつゝある巨人きよじん群集ぐんじゆが、からは悲慘みじめ地上ちじやうすべてをいぢめて爪先つまさき蹴飛けとばさうとして、山々やま/\彼方かなたから出立しゆつたつしたのだ。

その驚くべき素早い脚が空間を一直線に、そうしてわずかな障害物であるはずのこずえのすべてを押しつけ押しつけ、林を越えて疾駆して来るのは、今もうすぐである。

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おどろくべき迅速じんそくあし空間くうかんを一直線ちよくせんに、さうしてわづか障害物しやうがいぶつであるべきこずゑすべてをしつけしつけはやしえて疾驅しつくしてるのはいまもうすぐである。

竹を伐って束ねたように寸分の隙もなく群がっている、その爪先に蹴られては、怖えに怖えた草木は皆声を放って泣くのである。

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たけつてつかねたやうに寸隙すんげきもなくむらがつて爪先つまさきられてはおびえにおびえた草木さうもくみなこゑはなつてくのである。

そうして、もう泣かねばならない時間が迫っている。

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さうしてもうかねばらぬ時間じかんせまつてる。

勘次が霜の白い自分の庭を往来へ出ると、不格好な櫟の林が、彼の行くべき方に従って道に沿って連なっている。

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勘次かんじしもしろ自分じぶんには往來わうらいると無器用ぶきようくぬぎはやしかれくべきかたしたがつてみち沿うてつらなつてる。

彼の破れて、毎日打ちつける疾風のために傾けられた笹の垣根には、狭い往来を越えて櫟の落ち葉が、熊手で掻いたように集まって、かつ連なっている。

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やぶれて、毎日まいにちちつける疾風しつぷうめにかたむけられたさゝ垣根かきねには、せま往來わうらいえてくぬぎ落葉おちば熊手くまでいたやうにあつまつてつらなつてる。

およそ櫟の木ほど頑健な木は、他にあるまい。

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およくぬぎほど頑健ぐわんけんるまい。

乾いた冬枯れの草や落ち葉に煙草の吸い殻が誤って火を点じて、それが盛んに林を焼き払っても、渋の強い、表面が山葵おろしのような櫟の皮は、黒い火傷を幹いっぱいに止めても、他の針葉樹に見るようではなく、春の雨が幾度も柔らかに湿せば、ついにはこそばゆい皮のどこからか白っぽい芽を吹いて、粗く硬い厚い皮の囲みから逃れて爽やかな呼吸をし始めたことを喜ぶように、ずんずんと伸びて、ついには伐っても伐っても、なおかつずんずんと骨立って幹がさらに形づくられるほど、旺盛な活力を回復するのである。

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乾燥かんさうした冬枯ふゆがれくさ落葉おちば煙草たばこ吸殼すひがらあやまつててんじて、それがさかんはやしはらうてもしぶつよい、表面へうめん山葵わさびおろしのやうなくぬぎかはは、くろ火傷やけどみきぱいとゞめても、針葉樹しんえふじゆるやうではなく、はるあめ數次しば/\やはらかにうるほせばつひにはこそつぱいかは何處どこからかしろつぽいいて、粗剛そがうあつかはかこみからのがれて爽快さうくわい呼吸こきふ仕始しはじめたことをよろこぶやうにずん/\と伸長しんちやうして、つひにはつても/\、猶且やつぱりずん/\と骨立ほねだつてみきさらかたちづくられるほど旺盛わうせい活力くわつりよく恢復くわいふくするのである。

彼らはそういう特性を持っていながら、理解し難いほど臆病である。

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彼等かれらはさういふ特性とくせいつてながら了解れうかいがたほど臆病おくびやうである。

黄色な光が快く鮮やかに満ちている晩秋の、水のような淡い霜がひそかに降りる以前から、その葉はことごとくくるくるとその周囲が捲れ始めて、他の雑木はその葉をからりと落として、そのこずえよりもはるかに低く垂れている西の空の明るい入り日を透して見せるように疎らになるのに、しっかりとしがみついて離れない。

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黄色きいろひかりこゝろよくあざやかに滿ちて晩秋ばんしうみづのやうなあはしもひそかにおりる以前いぜんからこと/″\くくる/\と周圍しうゐまくはじめて、雜木ざふきをからりとおとしてこずゑよりもはるかひくれて西にしそらあかるい入日いりひすかしてせるやうにまばらるのに、確乎しつかとしがみついてはなれない。

彼らはようやく樹の姿を形づくるとともに、鋸の歯が残酷に渡って、少しでも余裕を与えられないのである。

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彼等かれらやうや樹相じゆさうかたちづくるととものこぎり残酷ざんこくわたつてすこしでも餘裕よゆうあたへられないのである。

それで彼らの間には、自然にただ恐怖する性質のみが育ったのであるかも知れない。

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それで彼等かれらあひだには自然しぜんたゞ恐怖きようふする性質せいしつのみが助長じよちやうされたのであるかもれない。

だから、すでに薪に伐るべき時期を過ぎて、大木の姿を備えて、どんぐりがその浅い皿に載せられるようになれば、枯れ葉は潔く散り敷いて、からりと爽やかに樹の姿を見せるのである。

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それだからすでたきぎるべき時期じきすごして、大木たいぼくさうそなへて團栗どんぐりあささらせられるやうにれば、枯葉かれはいさぎよいてからりとさわやかに樹相じゆさうせるのである。

ちょうどそれは、子孫の繁殖と自己の防御との必要をまったく忘れさせられた梨の接ぎ木が、大きな刺を幹にも枝にも持たなくなったように、恐怖が彼らを去ったのである。

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丁度ちやうどそれは子孫しそん繁殖はんしよく自己じこ防禦ばうぎよとの必要ひつえうまつたわすれさせられたなし接木つぎきが、おほきなとげみきにもえだにもたなくつたやうに、恐怖おそれ彼等かれらつたのである。

しかしながら、林の櫟はいくら遠く根を伸ばして素早い生長を遂げようとしても、冷ややかな秋が冬を地上に導くのである。

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しかしながらはやしくぬぎいくとほのばして迅速じんそく生長せいちやうげようとしても、ひやゝかなあきふゆ地上ちじやうみちびくのである。

彼らはその冬の季節において生命を保って行くのには、すべての働きを止めて引き締めなければならない。

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彼等かれらふゆ季節きせつおい生命せいめいたもつてくのにはすべての機能きのう停止ていししてしまらねばらぬ。

そうでなければ、彼らは氷雪のために枯れ死なねばならない。

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それでなければ彼等かれら氷雪ひようせつため枯死こしせねばならぬ。

その季節に、彼らの最後の運命である薪や炭に伐られるように、一番適した組織に変化することを余儀なくされるのである。

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その季節きせつ彼等かれら最後さいご運命うんめいであるまきすみられるやうに一ばん適當てきたうした組織そしき變化へんくわすることを餘儀よぎなくされるのである。

彼らはそれから、その貴重な呼吸器であった枯れ葉を、一枚でも枝から放すまいとし、また離れまいとしている。

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彼等かれらはそれから貴重きちよう呼吸器こきふきであつた枯葉かれはを一まいでもえだからはなすまいとしまたはなれまいとしてる。

育つ働きが止められるとともに、粘り着く力を失うはずの葉柄が、しっかりと保たれてある。

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生育せいいく機能きのう停止ていしされるととも粘着力ねんちやくりよくうしなふべきはず葉柄えふへい確乎しつかりたもたれてある。

そこで乾いた枯れ葉は、少しのことにさえ寄り合ってさやさやと、互いに恐怖をささやくのである。

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そこで乾燥かんさうした枯葉かれはすこしのことにさへあひつてさや/\とたがひ恐怖きやうふ耳語さゝやくのである。

しかし、樹木が吸収して得た物質の一部を地および空気に還そうとして、すべての葉をこずえから奪って、いたる所を広々と、かつ簡単にすることを好む冬の目には、櫟の枯れ葉は入り組み、濁って見えねばならない。

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しか樹木じゆもく吸收きふしうして物質ぶつしつの一つちおよ空氣くうき還元くわんげんせしめようとしてすべてのこずゑからうばつて、いたところ空濶くうくわつかつ簡單かんたんにすることをこのふゆには、くぬぎ枯葉かれは錯雜さくざつし、溷濁こんだくしてえねばならぬ。

それで、巨人を載せた西風がその爪先にそれを蹴飛ばそうとしても、恐ろしく執念深い枯れ葉は泣いて、そうしてその力を保とうとする。

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それで巨人きよじんせた西風にしかぜその爪先つまさきにそれを蹴飛けとばさうとしても、おそろしく執念深しふねんぶか枯葉かれはいてさうしてちからたもたうとする。

たまたま力が足りないで吹き散らされたのは、そういう時に非常に便利なように捲いてあるので、どんな陰でもその身を託する場所を求めてころころと転がって行っては、自分の仲間が一つに寄り合い抱き合って、微風にさえ絶えず響きを立てて震えつつあるのである。

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たまたまちからりないでらされたのは、さういふとき非常ひじやう便利べんりなやうにいてあるので、どんなかげでもたくする場所ばしよもとめてころ/\ところがつてつては、自分じぶん伴侶なかまが一つにあひあひいだいて微風びふうにさへえずひゞきてゝ戰慄せんりつしつゝあるのである。

勘次はこういう櫟の木を植えて林を造るべき土地の開墾をするために、もう幾年という間雇われて、その力を尽くした。

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勘次かんじういふくぬぎゑてはやしつくるべき土地とち開墾かいこんをするためにもう幾年いくねんといふあひだやとはれてちからつくした。

彼はようやく林の姿を形づくって来た櫟林に沿って、田圃を越えて走った。

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かれやうや林相りんさうかたちづくつて櫟林くぬぎばやし沿うて田圃たんぼえてはしつた。

田圃の鴫が何に驚いたかきいと鳴いて、刈り株をかすめるようにして慌てて飛んで行った。

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田圃たんぼしぎなにおどろいたかきゝといて、刈株かりかぶかすめるやうにしてあわてゝとんいつた。

そうして後は、白く閉ざした氷が時々ぴりぴりと鳴ってしゃりしゃりと壊れるのみで、ただ静かであった。

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さうしてのちしろとざしたこほり時々ときどきぴり/\となつてしやり/\とこはれるのみでたゞしづかであつた。

田圃を透して林の間から見えるその遠い山々の雲は、やや薄くなって空を濁していた。

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田圃たんぼとほしてはやしあひだからえるそのとほ山々やま/\くもやゝうすくなつてそらにごしてた。

やがて雑木林の枝先が少し動いたと思ったら、ごうっという響きが勘次の耳に鳴った。

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やが雜木林ざふきばやし枝頭えださきすこうごいたとおもつたらごうつといふひゞき勘次かんじみゝつた。

巨人の脚が迫ったのである。

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巨人きよじんあしせまつたのである。

彼はむっと、思わず息が詰まった。

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かれはむつとおもはず呼吸こきふ切迫せつぱくした。

毎日吹き渡る西風は、乾きつつあるすべての物をさらに乾かさなければ止まない。

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毎日まいにちわた西風にしかぜ乾燥かんさうしつゝあるすべてのものさら乾燥かんさうさせねばまない。

雨がまれにしんみりと降っても、西風は朝から一日、青い常緑樹の葉をも泥の中へねじ切って撒き散らすほど吹き募れば、それだけで土はもうほとんど乾かされるのである。

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あめまれにしんみりとつても西風にしかぜあさから一にちあを常緑木ときはぎをもどろなか拗切ちぎつて撒布まきちらすほどつのれば、それだけでつちはもうほとんどかわかされるのである。

土が保つべき水分がそれほど蒸発し尽くしても、その吹き渡る間は、西風はけっして空に一滴の雨さえ催させない。

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つち保有ほいうすべき水分すゐぶんがそれほど蒸發じようはつつくしてもわたあひだ西風にしかぜけつしてそらに一てきあめさへもよほさせぬ。

それでもさすがに深く水を蓄えている土は、垢のごとき表皮のみを掻き払って行く疾風のためには容易にその力を失わないで、夜が更ければいくらでも空気中に保たれた水分を細かに結晶させて、いっぱいに白く引きつける。

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それでも有繋さすがふかみづざうしてつちあかごと表皮へうひのみをはらつて疾風しつぷうためには容易よういちからうしなはないで、ければいくらでも空氣中くうきちうたもたれた水分すゐぶん微細びさい結晶けつしやうさせて一ぱいしろきつける。

土が夜通しそういう働きを営んだばかりに、日は夜明けの空から横に、そうして斜めにその霜を溶かして、西風はすぐにそれを乾かして、残酷に表土の埃を空中に吹きまくる。

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つち徹宵よつぴてさういふ作用さよういとなんだばかりに、拂曉あけがたそらからよこにさうしてなゝめしもかして、西風にしかぜたゞちにそれをかわかして残酷ざんこく表土へうどほこり空中くうちうくる。

その力が激しいほど夜明けの霜が白く、それが白いほど、乱れて飛ぶ鴉のごとき群れ雲を遠い西山の頂に伴って、疾風は駆けるのである。

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ちからはげしいほど拂曉ふつげうしもしろく、れがしろほどみだれてからすごと簇雲むらくもとほ西山せいざん頂巓いたゞきともなうて疾風しつぷうかけるのである。

両方が疲れきって勢いを消耗する季節の変化を見るまでは、その争いは止むことがない。

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兩方りやうはう疲憊ひはいしていきほひ消耗せうまうする季節きせつ變化へんくわるまではあらそひはむことがない。

その日も、埃が天を焦がして立った。

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ほこりてんこがしてつた。

その埃は黄褐色で、霧のごとく地上のすべてを覆い、かつ包んだ。

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ほこり黄褐色くわうかつしよくきりごと地上ちじやうすべてをおほつゝんだ。

雑木林は一斉に斜めに傾こうとして、こずえは曲線を描いた。

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雜木林ざふきばやしは一せいなゝめかたぶかうとしてこずゑ彎曲わんきよくゑがいた。

樹木は皆互いに泣いてささやきながら、いくらか日の明るさをも妨げているその濃霧から逃れようとするように、絶え間なく騒いだ。

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樹木じゆもくみなたがひいてさゝやきながら、いくらかあかるさをもさまたげて濃霧のうむからのがれようとするやうに間斷かんだんなくさわいだ。

霧は悲惨なすべての物を互いに知らせまいとして吹き立ち吹き立ち、数十間の距離においては、その物の形をもはっきりと示さない。

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きり悲慘みじめすべてのものたがひらせまいとしてち/\すうけん距離きよりおいては物體ぶつたい形状けいじやうをもあきらかにしめさない。

雑木林の樹木は、開墾地の周囲にも入り乱れた。

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雜木林ざふきばやし樹木じゆもく開墾地かいこんち周圍しうゐにも混亂こんらんした。

しかし勘次が目を放っているのは、足の爪先二、三尺の、今唐鍬で伐り去ってはるかに後ろへ引いて、そっと捨てた跡の一点である。

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しか勘次かんじはなつてるのはあし爪先つまさき二三じやくの、いま唐鍬たうぐはもつ伐去きりさつてはるかうしろいてそつとてたあとの一てんである。

埃は、土にいくらでも湿りを持った彼の足元からは立たなかった。

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ほこりつちいくらでもうるほひをつたかれあしもとからはたなかつた。

おつぎは、勘次が起こした塊を一つ一つに万能の背で叩いて、さらりとほぐして平らにならしている。

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おつぎは勘次かんじおこしたかたまりを一つ/\に萬能まんのうたゝいてさらりとほぐしてたひらにならしてる。

軽い土から固まっていた塊は、ほぐせばすぐに吹き払われた。

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輕鬆けいしようつちから凝集こゞつてかたまりほぐせばすぐはらはれた。

おつぎは、正面に埃を受けるのには、遠く吹きつける土砂が頬を走って不快であった。

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おつぎは當面まともほこりけるのにはとほきつける土砂どしやほゝはしつて不快ふくわいであつた。

手拭いの端をまくって、浴びせる埃のために髪の毛の荒れるのをひどく嫌った。

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手拭てぬぐひはしくつて沿びせるほこりためかみれるのをひどきらつた。

それでも、その手元はおろそかではなかった。

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それでもそのもとは疎略そりやくではなかつた。

勘次は矢立のごとき硬い体を伸ばし曲げして、一歩一歩と運んだ。

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勘次かんじ矢立やたてごと硬直かうちよく身體からだ伸長しんちやう屈曲くつきよくさせて一/\とはこんだ。

彼は周囲に無数な樹木の泣いてささやくのを、耳に入れなかった。

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かれ周圍しうゐ無數むすう樹木じゆもくいてさゝやくのをみゝれなかつた。

その上、彼は自分の耳に鳴るのさえ気づかないほど、懸命に唐鍬を打った。

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加之それのみでなくかれ自分じぶん耳朶みゝたぶらるさへこゝろづかぬほど懸命けんめい唐鍬たうぐはつた。

彼は満身に汗していた。

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かれ滿身まんしんあせしてた。

卯平は、暇を惜しがる勘次が唐鍬を取って出た時、朝飯の後の口をうるさく鳴らしながら、火鉢の前にどっかりと座っていた。

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卯平うへいひましがる勘次かんじ唐鍬たうぐはとつとき朝餉あさげあとくち五月蠅うるさらしながら火鉢ひばちまへにどつかりとすわつてた。

破れた草葺きの家を揺さぶって、西風がごうっと打ちつけて来た時には、火鉢の埋み火はまだ白く灰の皮をかぶって暖かかった。

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やぶれた草葺くさぶきいへをゆさぶつて西風にしかぜがごうつとちつけてときには火鉢ひばちおきはまだしろはひかはかぶつてあたゝかゝつた。

天井もない屋根裏から、煤がかすかにさらさらと散って、時々ぽつりと固まったままに落ちた。

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天井てんじやうもない屋根裏やねうらからすゝかすかにさら/\とつて、時々ときどきぽつりと凝集こゞつたまゝちた。

高い木が遮り立って、そのこずえに青い空を見せている庭へすら、疾風の驚くべき周到な手が袋の口を解いて逆さまにしたように、埃が満ちてさらさらと沈んだ。

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喬木けうぼくさへぎつてこずゑあをそらせてにはへすら疾風しつぷうおどろくべき周到しうたうふくろくちいてさかさにしたやうにほこり滿ちてさら/\としづんだ。

一日そうして止めどもなく駆けて行く巨人の爪先には、この平坦な田や畑や山林の間に挟まっている各村の茅屋は、ことごとく落ち葉を持ち上げて出た茸のような、小さな悲惨な物でなければならなかった。

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にちさうしてもなくつて巨人きよじん爪先つまさきには平坦へいたんはた山林さんりんあひだ介在かいざいしてかく村落そんらく茅屋あばらやこと/″\落葉おちばもたげてきのこのやうなちひさな悲慘みじめものでなければならなかつた。

各自の真上を中心点にして空に弧を描いた、その輪郭の外の横に、それから斜めに見える広く、かつ遠い空は、黄褐色な霧のごとき埃のために、ただ炎に焼かれたようである。

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各自かくじ直上ちよくじやう中心點ちうしんてんにしてそらゑがいた輪郭外りんくわくぐわいよこにそれからなゝめえるひろとほそら黄褐色くわうかつしよくきりごとほこりためたゞほのほかれたやうである。

卯平は自分の小屋に身をすぼめた。

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卯平うへい自分じぶん小屋こやすぼめた。

しばらく彼の火鉢から立って、狭い壁から壁にぶつかってさまよい出た薄い煙が、疾風のためにすぐにごうっと蹴散らされてしまった。

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しばら火鉢ひばちからつて、せまかべからかべ衡突ぶつかつて彷徨さまようすけぶり疾風しつぷうためぐにごうつと蹴散けちらされてしまつた。

狭い小屋の内は、それからまた沈んだ。

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せま小屋こやうちはそれからしづんだ。

卯平は少し開いた戸口から、その小さくしかめた目で外を見た。

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卯平うへいすこひらいた戸口とぐちからちひさくしがめたそとた。

狭い庭の先に、紙縒りを植えたような桑畑の乾ききった軽い土が、黄褐色な霧の中へ吹き立って行くのが見える。

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せまにはさき紙捻こよりゑたやうな桑畑くはばたけ乾燥かんさうしきつた輕鬆けいしようつち黄褐色くわうかつしよくきりなかつてくのがえる。

そうして南の家は、きわめてぼんやりとしてその形が現れて、また隠れた。

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さうしてみなみうちきはめてぼんやりとして形態けいたいあらはれてまたかくれた。

栗の木のそばに木の枝を杭に打ってこしらえた鍵の手へ引っ掛けた撥ね釣瓶が、ごうっと吹くごとにぐらりぐらりと動いて、釣瓶が外れそうにしては外れまいとして、争って騒いでいる。

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くりそばえだくひつてこしらへたかぎけた桔槹はねつるべが、ごうつとごとにぐらり/\とうごいて釣瓶つるべはづさうにしてははづれまいとしてあらそうてさわいでる。

卯平は、彼のぼんやりした心がそこへ繋がれたように、釣瓶を見つめた。

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卯平うへいかのぼんやりしたこゝろ其處そこつながれたやうに釣瓶つるべ凝視ぎようしした。

彼はしばらくしてから庭に立った。

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かれしばらくしてからにはつた。

彼はその癖の舌を鳴らしながら、釣瓶へ手を掛けた。

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かれそのくせしたらしながら釣瓶つるべけた。

釣瓶の底には、わずかに残った水に埃が浸されて沈んでいた。

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釣瓶つるべそこにはわづかたもたれたみづほこりひたされてしづんでた。

外側は青い苔のままに乾いていた。

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外側そとがはあをこけまゝ乾燥かんさうしてた。

彼は鍵の手の杭を両手に持って、その大きな体の重さを加えて、縦に押さえてみた。

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かれかぎくひ兩手りやうてつてそのおほきな身體からだ重量ぢうりやうくはへてたておさへてた。

小さな杭は、毎日水のために柔らかにされている土へ、ぐっと深く入った。

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ちひさなくひ毎日まいにちみづためやはらかにされてつちへぐつとふかくはひつた。

鍵の手は深く釣瓶の内側を覗いていたので、さっきよりもしっかりと釣瓶を引き止めた。

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かぎふか釣瓶つるべ内側うちがはのぞいてたので先刻さつきよりも確乎しつか釣瓶つるべめた。

彼はそれから狭い戸口をぴたりと閉ざして、干からびた手足を汚い蒲団に包んで、ごろりと横になった。

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かれはそれからせま戸口とぐちをぴたりととざして枯燥こさうした手足てあしきたな蒲團ふとんつゝんでごろりとよこつた。

昼飯に勘次が戻って、また口の中の粗い飯粒を噛みながら走った後へ、与吉は鼻緒の緩んだ下駄をからからと引きずって、学校から帰って来た。

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午餐ひる勘次かんじもどつて、また口中こうちう粗剛こは飯粒めしつぶみながらはしつたあと與吉よきち鼻緒はなをゆるんだ下駄げたをから/\ときずつて學校がくかうからかへつてた。

足袋も履かない足の甲が、鮫の皮のようにばりばりとあかぎれだらけになっている。

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足袋たび穿かぬあしかふさめかはのやうにばり/\とひゞだらけにつてる。

彼はまだ冷め切らない茶釜の湯を汲んで、しきりに飯を掻き込んだ。

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かれはまだらぬ茶釜ちやがまんでしきりにめし掻込かつこんだ。

粘膜のように赤く湿りを持った二つの道筋を伝って冷たく垂れた洟を、彼はすすりながら、箸を横に持ち換えて汁椀の塩辛い干し納豆をつまんで口へ入れたり、茶碗の中へ撒いたりして、幾杯かの飯を盛った。

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粘膜ねんまくのやうにあかうるほひをつた二つの道筋みちすぢつたひてつめたくれたはなかれすゝりながら、はしよこへて汁椀しるわん鹽辛しほから干納豆ほしなつとうつまんでくちれたり茶碗ちやわんなかいたりして幾杯いくはいかのめしつた。

飯粒は茶碗から彼の胸を伝って、土間へぼろぼろと落ちた。

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飯粒めしつぶ茶碗ちやわんからかれむねつたひて土間どまへぼろ/\とちた。

彼は土間に立ったままで食べていた。

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かれ土間どまつたまゝべてた。

彼は飯粒の少し底に残った茶碗を膳の上に転がして、ばたりと飯台の蓋をした。

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かれ飯粒めしつぶすこそこのこつた茶碗ちやわんぜんうへころがしてばたりと飯臺はんだいふたをした。

卯平は横になったままで、おつぎが呼んだ時に来なかった。

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卯平うへい横臥わうぐわしたまゝでおつぎがんだときなかつた。

おつぎが再び声を掛けて開墾地へ出てからも、彼はしばらく怠い体を蒲団から起こさなかった。

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おつぎがふたゝこゑけて開墾地かいこんちてからもかれしばらものう身體からだ蒲團ふとんからおこさなかつた。

彼がふと思い出したように狭い戸口を開けて、明るい外の埃に目をしかめて出て行った時、与吉は慌ただしく飯台の蓋をしたところであった。

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かれがふとおもしたやうにせま戸口とぐちけてあかるいそとほこりしがめてつたとき與吉よきちあわたゞしく飯臺はんだいふたをしたところであつた。

「お前は、今日はどうしてそんなに早いんだい」

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りや、今日けふはどうしてさうえにはええんでえ」

卯平は太い低い声で聞いた。

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卯平うへいふとひくこゑいた。

「ああ」

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「あゝ」

と、与吉は唇を反らして洟をすすりながら

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與吉よきちくちびるらしてはなすゝりながら

「先生がそんでも、明日は日曜だからこれっきりで帰ってもいいと言ったんだ」

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先生せんせいそんでも、明日あした日曜にちえうだかられつきりけえつてもえゝつちつたんだ」

「昼飯は食ったか」

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午餐おまんまくつたか」

卯平はのっそりと飯台のそばに近づいた。

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卯平うへいはのつそりと飯臺はんだいそばちかづいた。

「お前は、爺さんが、膳へこんなにこぼして」

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りや、ぢいぜんさかうだにこぼして」

と、彼はさっきよりも低い声で

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かれ先刻さつきよりもひくこゑ

「おとっつあんに見られたら怒られるから」

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「おとつゝあにらつたらおこられつから」

こう言って、また

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ういつてまた

「お前らのおとっつあんは怒りん坊だから」

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おとつゝあはおこりつだから」

と、沈んで呟くように言った。

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しづんでつぶやくやうにいつた。

彼は膳の上に散っている飯粒を一つ一つにつまんで、それから干し納豆は、これも一つ一つに汁椀の中へ入れた。

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かれぜんうへつて飯粒めしつぶを一つ/\につまんで、それから干納豆ほしなつとうれも一つ/\に汁椀しるわんなかれた。

汁椀は手に取って、椀の腹を左の手に軽く打ちつけるようにして、納豆を平らにした。

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汁椀しるわんつて、わんはらひだりかるちつけるやうにして納豆なつとうたひらにした。

おつぎは昼飯から開墾地へ出る時、菜にする干し納豆を汁椀へ入れて、彼のために膳を据えて行ったのである。

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おつぎは午餐ひるから開墾地かいこんちときさいにする干納豆ほしなつとう汁椀しるわんいれかれためぜんゑてつたのである。

与吉は遠慮もなく、その膳に向かったのである。

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與吉よきち遠慮ゑんりよもなくぜんむかつたのである。

卯平は飯台の蓋を開けて見たが、暖かみがないので彼はためらった。

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卯平うへい飯臺はんだいふたけてたが暖味あたゝかみがないのでかれ躊躇ちうちよした。

茶釜の蓋を取ってみたが、蓋の裏からはだらだらと滴りが垂れて、わずかに湯気が立った。

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茶釜ちやがまふたをとつてたが、ふたうらからはだら/\としたゝりがれてわづかに水蒸氣ゆげつた。

茶釜は冷めていたのである。

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茶釜ちやがまめてたのである。

それほどに空腹を感じない彼は、箸を取るのがいやになった。

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それほど空腹くうふくかんぜぬかれはしるのがいやになつた。

彼は体が非常に冷えていることを知った。

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かれ身體からだ非常ひじやうえてることをつた。

それに右の手が肩の辺りでこわばったようで、動かし方によってはきゃきゃと痛みを覚えた。

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それにみぎかたのあたりでこはばつたやうでうごかしやうによつてはきや/\と疼痛いたみおぼえた。

彼は病気がそこに集まったのではないかと思った。

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かれ病氣びやうき其處そこあつまつたのではないかとおもつた。

それが睡眠中の体の置き方で一時の変調をきたしたのだかどうだか分からないにもかかわらず、彼はただ病気ゆえだと決めてしまった。

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それが睡眠中すゐみんちう身體からだきやうで一變調へんてうきたしたのだかどうだかわからないにもかゝはらず、かれたゞ病氣びやうきゆゑだとめてしまつた。

決めたというよりも、彼のはかないひがんだ心には、そう判断するよりほか何もなかったのである。

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めたといふよりもかれ果敢はかないひがんだこゝろにはさう判斷はんだんするよりほかなにもなかつたのである。

彼の心は、ひたすら自分を悲惨な方面に解釈していれば、それで済んでいるのであった。

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かれこゝろ只管ひたすら自分じぶん悲慘みじめ方面はうめん解釋かいしやくしてればそれでんでるのであつた。

彼のやつれた体から、その手がひどく自由を失ったように感じられた。

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かれやつれた身體からだからひど自由じいううしなつたやうにかんぜられた。

手は軽く痺れたようになっていた。

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かるしびれたやうになつてた。

彼は冷えた体に暖かさを求めて、茶釜を掛けた竈の前に怠い体を据えてうずくまった。

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かれえた身體からだ暖氣だんきほつして、茶釜ちやがまけたかまどまへだる身體からだゑて蹲裾うづくまつた。

彼はさらに、熱い茶の一杯が飲みたかったのである。

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かれらにあつちやの一ぱいみたかつたのである。

彼は竈の底にしっとりと落ち着いた灰に近づいて、手をかざしてみた。

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かれかまどそこにしつとりとちついたはひ接近せつきんしてかざしてた。

まだ柔らかに白い灰は、かすかに暖かかった。

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まだやはらかにしろはひかすかあたたかゝつた。

彼はそれから大籠の落ち葉をつかみ出して、茶釜の下に突っ込んだ。

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かれはそれから大籠おほかご落葉おちばつかして茶釜ちやがました突込つゝこんだ。

与吉もそばから小さな手でつかんで投げた。

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與吉よきちそばからちひさなつかんでげた。

卯平の足元には、灰を覆って落ち葉が散乱した。

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卯平うへいあしもとにははひおほうて落葉おちば散亂さんらんした。

落ち葉は卯平の着物にも止まった。

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落葉おちば卯平うへい衣物きものにもとまつた。

卯平は竹の火箸の先で落ち葉を少し透かすようにして灰を掻き立ててみても、火はもうぽっちりともなかったのである。

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卯平うへいたけ火箸ひばしさき落葉おちばすこすかすやうにしてはひてゝてもはもうぽつちりともなかつたのである。

彼はそれからマッチを探してみたが、どこにも見出されなかった。

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かれはそれから燐寸マツチさがしてたが何處どこにも見出みいだされなかつた。

彼は自分のマッチを探しに、狭い戸口へ与吉をやろうとした。

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かれ自分じぶん燐寸マツチさがしにせま戸口とぐち與吉よきちをやらうとした。

与吉は甘えて拒んだ。

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與吉よきちあまえていなんだ。

彼はどうしても、怠い体を運ばねばならなかった。

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かれはどうしてもだる身體からだはこばねばならなかつた。

卯平の手元は、よほど狂っていた。

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卯平うへいもとは餘程よほどくるつてた。

彼はすっとマッチを擦ったが、その火は手が落ち葉に届くまでには、かすかな煙を立てて消えた。

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かれはすつと燐寸マツチつたが落葉おちばたつするまでにはかすかなけぶりてゝえた。

マッチはそうして五、六本捨てられた。

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燐寸マツチはさうして五六ぽんてられた。

与吉はその不自由な手からマッチを奪うようにして、火を点けてみた。

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與吉よきち不自由ふじいうから燐寸マツチうばふやうにしてけてた。

卯平は与吉のするままにして、丸太の端を切り放した腰掛けに体を据えて、そのやつれた柔らかな目をしかめていた。

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卯平うへい與吉よきちのするまゝにして、丸太まるたはしはなした腰掛こしかけ身體からだゑてやつれたやはらかなしかめてた。

慌てた与吉の手は、その軸木の先からいたずらに毛のような煙を立てるのみであった。

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あわてた與吉よきち軸木ぢくぎさきからいたづらにのやうなけぶりてるのみであつた。

彼は焦れて、卯平の足元の灰へマッチの箱を投げた。

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かれ焦躁れて卯平うへいあしもとのはひ燐寸マツチはこげた。

箱はからりと鳴った。

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はこはからりとつた。

箱の底は、もう見えていたのである。

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はこそこはもうえてたのである。

卯平は目をしかめたままマッチを取って、またすっと擦って、ゆっくりと軸木を逆さまにして、その白い軸木を包んで燃え昇ろうとする小さな火を、干からびた大きな手で包んで、大事そうに覗いた。

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卯平うへいしかめたまゝ燐寸マツチをとつてまたすつとつて、ゆつくりと軸木ぢくぎさかさにしてしろ軸木ぢくぎつゝんでのぼらうとするちひさな枯燥こさうしたおほきなつゝんで、大事相だいじさうのぞいた。

それがまた二、三度繰り返された。

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それがまた二三反覆くりかへされた。

手の内側がぼんやりとして、それからだんだんに明るくなって、火はようやく保たれた。

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内側うちがはがぼんやりとしてそれから段々だん/\あかるくつてやうやたもたれた。

茶釜の底に触れるばかりに突っ込まれた落ち葉には、こうして火が点けられた。

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茶釜ちやがまそこれるばかりに突込つゝこまれた落葉おちばにはうしてけられた。

落ち葉には灰際から、その外側を伝って火がべろべろと渡った。

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落葉おちばには灰際はひぎはから外側そとがはつたひてがべろ/\とわたつた。

卯平は不自由な手の火箸で、落ち葉を透かした。

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卯平うへい不自由ふじいう火箸ひばし落葉おちばすかした。

火は素早くその生命を回復した。

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迅速じんそく生命せいめい恢復くわいふくした。

彼らのためにふだんほとんど半分以上を無駄に使われている炎が、竈の口から捲れて立った。

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彼等かれらため平生へいぜいほとんどなかば以上いじやう無駄むだ使つかはれてほのほかまどくちからまくれてつた。

しかしその余計に漏れて出る炎が、彼の自由を失って凍ろうとしている手を暖めた。

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しか餘計よけいれていづほのほかれ自由じいううしなうてこほらうとしてあたゝめた。

彼は横に転がした大籠からかさかさと掻き出しては、燃えやすい落ち葉を絶え間なく足した。

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かれよこころがした大籠おほかごからかさ/\としてはやす落葉おちば間斷かんだんなくした。

与吉は卯平のそばから、斜めに手を出していた。

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與吉よきち卯平うへいそばからなゝめしてた。

卯平は与吉の小さな足の甲へ、そっと手を触れてみた。

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卯平うへい與吉よきちちひさなあしかふへそつとれてた。

手も足も、どちらもざらざらとこそばゆかった。

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あしどつちもざら/\とこそつぱかつた。

与吉は斜めに身を置くのが少し窮屈であったのと、小言がなければただ悪戯をしてみたいのとで、そばの竈の口へ別に自分で落ち葉の火を点けた。

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與吉よきちなゝめくのがすこ窮屈きうくつであつたのと、叱言こごとがなければたゞ惡戲いたづらをしてたいのとでそばかまどくちべつ自分じぶん落葉おちばけた。

針金のような火をちらりと持った落ち葉の一ひら一ひらが、煙とともに軽く昇った。

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針金はりがねのやうなをちらりとつた落葉おちばひとひら/\がけぶりともかるのぼつた。

落ち葉はすぐに白い灰に変わって、さらに幾つかに分かれて、与吉の髪から卯平の白髪に散った。

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落葉おちばぐにしろはひつてさらいくつかにわかれて與吉よきち頭髮かみから卯平うへい白髮かみつた。

煙の中には、その白い灰が後から後から立っては落ちた。

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けぶりなかにはしろはひあとから/\とたつちた。

与吉はいつも、彼らの仲間とともに道端の枯れ芝に火を点じて、それが黒い跡を残してめろめろと燃え広がるのを見るのが、愉快でならなかった。

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與吉よきちはいつも彼等かれら伴侶なかまとも路傍みちばた枯芝かれしばてんじて、それがくろあとのこしてめろめろとひろがるのをるのが愉快ゆくわいでならなかつた。

彼はまた、火が野茨の株に燃え移って、そこに茂った茅萱を焼いて炎が一条の柱を立てると、喜びと驚きとの入り交じった声を放って痛快に叫びながら、ついにはそこに恐怖が加われば、棒で叩いたり土塊を投げつけたり、または自分らの着物を取ってばさりばさりと叩いたりして、その火を消すことに力めるのであった。

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かれまた野茨のいばらかぶうつつて、其處そこしげつた茅萱ちがやいてほのほが一でうはしらてると、喜悦よろこび驚愕おどろきとの錯雜さくざつしたこゑはなつて痛快つうくわいさけびながら、つひには其處そこ恐怖おそれくははればぼうたゝいたり土塊つちくれはふつたり、また自分等じぶんら衣物きものをとつてぱさり/\とたゝいたりしてそのすことにつとめるのであつた。

素早く、かつ壮快な変化を目の前に見せる火が、彼らの悪戯好きな心をどれほど誘ったか知れない。

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迅速じんそくかつ壯快さうくわい變化へんくわ目前もくぜんせる彼等かれら惡戲好いたづらずきこゝろをどれほど誘導そゝつたかれない。

彼は落ち葉をつかんでは竈の口に投じて、ぼうぼうと燃え上がる炎に手をかざした。

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かれ落葉おちばつかんではかまどくちとうじてぼうぼうとえあがるほのほかざした。

茶釜がちゅうちゅうと少し響きを立てて鳴り出した時、卯平は干からびたように感じていた喉を潤そうとして、怠い尻を少し起こして、膳の上の茶碗へ手を伸ばした。

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茶釜ちやがまがちう/\とすこひゞきてゝしたとき卯平うへいひからびたやうにかんじてのどうるほさうとしてだるしりすこおこしてぜんうへ茶碗ちやわんのばした。

自由を欠いていた手が、爪先で持った茶碗をころりと落とさせた。

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自由じいういてが、爪先つまさきつた茶碗ちやわんをころりとおとさせた。

茶碗の底に冷たくなっていた少しの水が、土間へぽっちりと落ちてはねた。

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茶碗ちやわんそこつめたくつてすこしのみづ土間どまへぽつちりとちてはねた。

飯粒がともに散らばった。

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飯粒めしつぶともらばつた。

彼はまた悠長に茶碗を取って、汚れた部分を手でこすって、さらに茶釜の熱湯を注いで、足元の灰へ傾けた。

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かれまた悠長いうちやう茶碗ちやわんをとつてよごれた部分ぶゞんでこすつて、さら茶釜ちやがま熱湯ねつたうそゝいであしもとのはひけた。

蓋を取ったので、ほうほうと威勢よく立っている湯気が、ちらちらと白く立って落ちる灰を吸った。

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ふたをとつたのでほう/\と威勢ゐせいよくつて水蒸氣ゆげがちら/\としろつてちるはひうた。

彼はようやくにして柄杓の手を放って、再び茶釜の蓋をした時、にわかにぼうっと立った炎の音を聞いた。

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かれやうやくにして柄杓ひしやくはなつてふたゝ茶釜ちやがまふたをしたときにはかにぼうつとつたほのほこゑいた。

彼が思わず後ろを見た時、与吉の驚きから発せられた泣き声が耳を打った。

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かれおもはずうしろとき與吉よきち驚愕きやうがくからはつせられたごゑみゝつた。

盛んな火の柱が、近く目を覆って立っていた。

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さかんはしらちかおほうてつてた。

彼はまたすぐに、激しい熱を顔いっぱいに感じた。

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かれまたすぐはげしい熱度ねつどかほぱいかんじた。

火は、どうしたはずみか、横に転がした大籠の落ち葉に移っていたのである。

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はどうした機會はずみよこころがした大籠おほかご落葉おちばうつつてたのである。

与吉は初め、野外の悪戯に用いた手段でその火を叩いて消そうとし、また掻き出そうとした。

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與吉よきちはじ野外やぐわい惡戲あくぎもちゐた手段しゆだんもつたゝいてさうとしまたさうとした。

乾いた落ち葉は素早く火を誘って彼の横頬をなめて、彼は思わず声を放ったのである。

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乾燥かんさうした落葉おちば迅速じんそく誘導いうだうしてかれ横頬よこほゝねぶつて、かれおもはずこゑはなつたのである。

卯平は慌てて再び茶碗を落とした。

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卯平うへいあわててふたゝ茶碗ちやわんおとした。

彼は突然、与吉をそばに掻き退けた。

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かれ突然いきなり與吉よきちかたはら退けた。

彼はそうして無意識に、火になった落ち葉を掻き出そうとして、自由を失った手の鈍い動きが、その火を消すのに何の効き目もなかった。

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かれはさうして無意識むいしきつた落葉おちばさうとして、自由じいううしなうたのろ運動うんどうすになん功果こうくわもなかつた。

彼は炎のままに、軽い落ち葉の籠を庭へ投げればよかったのである。

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かれほのほまゝかる落葉おちばかごにはげればよかつたのである。

疾風は必ずその落ち葉を散乱させて、火は遠く燃えながら走るにしても、切れ切れの落ち葉は広い区域にことごとくその面影をも止めないで、消えてしまわねばならないのであった。

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疾風しつぷうかなら落葉おちば散亂さんらんせしめて、とほえながらはしるにしても、片々へんぺんたる落葉おちばひろ區域くゐきことごとおもかげをもとゞめないで消滅せうめつしてしまはねばらぬのであつた。

しかしながら、慌てた卯平の手は、このように簡単で、かつ最良である方法を取る暇がなかった。

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しかしながらあわてた卯平うへいかくごと簡單かんたんかつ最良さいりやうである方法はうはふひまがなかつた。

火はまた怒って、彼の頬をなめ、彼の手を焼いた。

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またいかつてかれほゝねぶかれいた。

彼の目はくらんだ。

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かれくらんだ。

一時に激した落ち葉の火は、それが長く続かなくても、老衰した卯平の心を奪うには余りあった。

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げきした落葉おちばはそれがひさしく持續ぢぞくされなくても老衰らうすゐした卯平うへいこゝろうばふにはあまりあつた。

卯平の視力が再び回復した時には、火はすでに天井の梁に積んだ藁束の、乱れて覗いている穂先を伝って昇った。

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卯平うへい視力しりよくふたゝ恢復くわいふくしたときにはすで天井てんじやうはりんだ藁束わらたばの、みだれてのぞいて穗先ほさきつたひてのぼつた。

火は乾いた藁束の周囲をなめて、さらにその炎が薄暗い家の内から逃れようとして、屋根裏を這った。

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乾燥かんさうした藁束わらたば周圍しうゐねぶつて、さらそのほのほ薄闇うすぐらいへうちからのがれようとして屋根裏やねうらうた。

それが素早い火の力の、瞬間の活動であった。

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それが迅速じんそくちから瞬間しゆんかん活動くわつどうであつた。

なめた火はさらにこれを噛んで、ずたずたに崩れた藁束はその火を保ったまま、すでにその勢いを沈めた落ち葉の上にばらばらと乱れ落ちて、そこにまた火勢が回復された。

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ねぶつたさられをんでずた/\に崩壞ほうくわいした藁束わらたばたもつたまゝすでいきほひをしづめた落葉おちばうへにばら/\とみだおち其處そこ火勢くわせい恢復くわいふくされた。

ぼんやりとして我を失っていた卯平は、藁の火を浴びた。

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惘然ばうぜんとして自失じしつして卯平うへいわらびた。

彼は慌てて戸口へ逃げ出した時、火はすでに赤い天井を造っていた。

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かれあわてゝ戸口とぐちしたときすであか天井てんじやうつくつてた。

煙は四方から軒を伝って、むくむくと走っていた。

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けぶりは四はうからのきつたひてむく/\とはしつてた。

蛇の舌のごとくべろべろと、炎が吐き出された。

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へびしたごとくべろ/\とほのほされた。

吹き募っている疾風は、すぐにその赤い舌を吹きねじ切ろうとした。

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つのつて疾風しつぷうぐにそのあかした拗切ちぎらうとした。

後から後から勢いを加えて吐き出す煙や炎は、穂のごとく押しなびかされた。

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あとから/\と勢力せいりよくくはへてけぶりほのほごとなびかされた。

火は瞬く間に、所々落ち窪んでやつれた屋根をまったく包んでしまった。

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瞬間しゆんかん處々ところ/″\くぼんでやつれた屋根やねまつたつゝんでしまつた。

卯平は数分前に予期しなかったこの変事を意識した時、ほとんど気を失って庭に倒れた。

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卯平うへい數分時すうふんじまへ豫期よきしなかつた變事へんじ意識いしきしたときほとんど喪心さうしんしてにはたふれた。

土塊のごとく動かない彼の体からは、憐れにかすかな煙が立って、地を這って消えた。

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土塊どくわいごとうごかぬかれ身體からだからはあはれかすかなけぶりつてうてえた。

藁の火を浴びた時、その火がぼろぼろな彼の着物を焦がしたのである。

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わら沿びたとき襤褸ぼろかれ衣物きものこがしたのである。

しかしその火は、灸のごとき跡をぽつぽつと止めたのみで、着物の芯までは深く噛まなかった。

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しかきうごとあとをぽつ/\ととゞめたのみで衣物きもの心部しんぶふかまなかつた。

埃は彼を越えて走った。

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ほこりかれえてはしつた。

与吉は火傷の痛みを訴えて、独り悲しく泣いた。

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與吉よきち火傷やけど疼痛とうつううつたへてひとりかなしくいた。

疾風はその威力を遮って包んだ炎を掻き退けようとして、その余力が屋根の葺き草を吹きまくった。

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疾風しつぷう威力ゐりよくさへぎつてつゝんだほのほ退けようとしてその餘力よりよく屋根やね葺草ふきぐさまくつた。

火はすぐにその隙間に噛み入って、ますますそこに力をたくましくした。

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たゞち空隙くうげきつてます/\其處そこちからたくましくした。

そそり立って空に奔り昇ろうとする炎を横に押しつけ押しつけ、疾風はついに塊のごとき火の粉をつかんで投げた。

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聳然すつくりそら奔騰ほんたうしようとするほのほよこしつけ/\疾風しつぷうつひかたまりごとつかんでげた。

その礫は、ゆらりゆらりとのみ動いている東隣の森の木がふわりと受けて遮った。

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つぶてはゆらり/\とのみうごいて東隣ひがしどなりもりがふはりとけて遮斷しやだんした。

ただ一部、三角測量台の見通しに障るために切り払われた隙間が、それを導いた。

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たゞ、三角測量臺かくそくりやうだい見通みとほしにさはためはらはれた空隙すきがそれをみちびいた。

火の粉は、東隣の主人の屋根の一角にどさりと止まった。

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東隣ひがしどなり主人しゆじん屋根やねの一かくにどさりととまつた。

勘次の家を包んだ火は、屋根裏の煤竹を一時に爆ぜさせて、小銃のごとき響きを立てた。

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勘次かんじいへつゝんだ屋根裏やねうら煤竹すゝたけを一爆破ばくはさせて小銃せうじうごとひゞきてた。

その響きは近所の耳を驚かせた。

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ひゞき近所きんじよみゝおどろかした。

その人々が駆けつけた時は、棟はどさりと落ちて、疾風の力を凌いで空中はるかに炎を揚げた。

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人々ひと/″\けつけたときむねはどさりとちて、疾風しつぷうちからしのいで空中くうちうはるかほのほげた。

その時はすでに、東隣の主人の家を火がべろべろとなめつつあったのである。

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ときすで東隣ひがしどなり主人しゆじんいへがべろ/\とめつゝあつたのである。

村の者が万能や鳶口を持って集まった時は、火はすさまじい勢いを持っていた。

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村落むらもの萬能まんのう鳶口とびぐちつてあつまつたときすさまじいいきほひをつてた。

それでも大きな建物を焼き尽くすには時間を要した。

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それでもおほきな建物たてもの燒盡せうじんするには時間じかんえうした。

その間に村の者は手当たり次第に家財を持って、それを安全な場所に移した。

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あひだ村落むらもの手當てあた次第しだい家財かざいつてれを安全あんぜん地位ちゐうつした。

その点において、白昼の動作は素早く、かつ容易であった。

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てんおい白晝はくちう動作どうさ敏活びんくわつ容易よういであつた。

家財道具が門の外に運ばれた時、火勢はすでにすべての物が近づくことを許さなかった。

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家財道具かざいだうぐもんそとはこばれたとき火勢くわせいすですべてのものちかづくことを許容ゆるさなかつた。

家を囲んで、東にも杉の高木が立っていた。

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いへかこんでひがしにもすぎ喬木けうぼくつてた。

森のこずえの上にはるかに立ち昇ろうとして、次第にその勢いを加える炎を、疾風はぐるりと包んだ高木のこずえからごうっと押しつけ押しつけ吹き落ちた。

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もりこずゑうへはるかのぼらうとして次第しだいいきほひをくはへるほのほを、疾風しつぷうはぐるりとつゝんだ喬木けうぼくこずゑからごうつとしつけしつけちた。

炎は斜めに、そうして傾きながら、群集の耳には疾風の響きを奪って、轟々と鳴り続いた。

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ほのほなゝめにさうしてかたむきつゝ、群集ぐんしふみゝには疾風しつぷうひゞきうばつて轟々ぐわう/\つづいた。

吹き落とす疾風に抵抗してその力をたくましくしようとする炎は、深く木材の芯にまでしっかりと爪を引っ掛けた。

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おと疾風しつぷう抵抗ていこうしてちからたくましくしようとするほのほふか木材もくざい心部しんぶにまで確乎しつかつめけた。

そうしてその炎は、近くそびえた杉のこずえから枝へかけて爪先で引っ掻いた。

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さうしてほのほちかそびえたすぎこずゑからえだけて爪先つまさきいた。

そのたびに杉は針葉樹の特色を現して、樹脂の多い葉がばりばりとすさまじく鳴って焼けた。

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たびすぎ針葉樹しんえふじゆ特色とくしよくあらはして樹脂やにおほがばり/\とすさまじくつてけた。

屋根裏の竹が爆ぜた。

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屋根裏やねうらたけ爆破ばくはした。

消防の群集は、ほとんど皮膚を焼かれるような熱さを恐れて、だんだん遠ざかった。

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消防せうばう群集ぐんしふほとんど皮膚ひふかれるやうなあつさをおそれて段々だん/\とほざかつた。

小さなポンプは、その盛んな炎の前にただ一条の細い短い曲がった白い線を描くのみで、何の効き目も見えなかった。

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ちひさな喞筒ポンプそのさかんほのほまへただでうほそみじか彎曲わんきよくしたしろせんゑがくのみでなん功果こうくわえなかつた。

他の村の人々が聞き伝えて田圃や林を越えて、その間に各自の体力を消耗しつつ駆けつけるまでには、大きな棟は熱い火を四方に煽って落ちた。

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村落むら人々ひと/″\つたへて田圃たんぼはやしえて、あひだ各自かくじ體力たいりよく消耗せうまうしつゝけつけるまでにはおほきなむね熱火ねつくわを四はうあふつてちた。

疾風の力がこれを押しつけて、周囲の高木のこずえが他と隔てて、白昼の力がその光を奪おうとしているので、空に立って見えるのは遠いようで、かつ近いようで、一種の凄惨な気を含んだ煙である。

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疾風しつぷうちかられをしつけて、周圍しうゐ喬木けうぼくこずゑへだてゝ白晝はくちうちからひかりうばはうとしてるので、そらつてえるのはとほいやうでちかいやうで一しゆ凄慘せいさんふくんだけぶりである。

それでも高木のこずえの上に、火は圧迫に苦しんでいるようにまれに立ち昇っては、また押しつけられた。

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それでも喬木けうぼくこずゑうへ壓迫あつぱくくるしんでるやうにまれのぼつてはまたおしつけられた。

無駄であるポンプへ群集は水を汲むのに、近所のあらゆる井戸は皆釣瓶が届かなくなった。

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徒勞むだである喞筒ポンプ群集ぐんしふみづむのに近所きんじよあらゆる井戸ゐどみな釣瓶つるべとゞかなくなつた。

群集はただごうごうとして、乱れた響きの中に騒ぎを極めた。

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群集ぐんしふたゞ囂々がう/\として混亂こんらんしたひゞきなか騷擾さうぜうきはめた。

火の力はこのようにして、周囲の村をも一つに吸収した。

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ちからかくごとくにして周圍しうゐ村落そんらくをも一つに吸收きふしうした。

しかしながら、その群集は勘次の庭を顧みようとはしなかった。

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しかしながら、群集ぐんしふ勘次かんじにはかへりみようとはしなかつた。

黄褐色の霧で四方を塞がれながら、ひたすらにその唐鍬を打っていた勘次は、田圃を渡って林を越えて遠く行っていた。

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黄褐色くわうかつしよくきりもつて四ふさがれつゝ只管ひたすら唐鍬たうぐはつて勘次かんじ田圃たんぼわたつてはやしえてとほつてた。

彼はこの凶事を知る理由がなかった。

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かれ凶事きようじ理由わけがなかつた。

開墾地に近い小道を走って行く人の慌ただしい様子を見咎めて、彼は初めてその火を知った。

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開墾地かいこんちちか小徑こみちはしつてひとあわたゞしい容子ようす見咎みとがめてかれはじめてそのつた。

それが東隣の主人の家に起こったことを聞かされて、彼はおつぎを促して立った。

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それが東隣ひがしどなり主人しゆじんいへおこつたことをかされてかれはおつぎをうながしてつた。

彼は疾駆しようとして、そのしっかりと身を据えた位置から一歩を踏み出した時、じゃりっとその爪先を打って財布が落ちた。

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かれ疾驅しつくしようとして、確乎しつかゑた位置ゐちから一したとき、じやりつとその爪先つまさきつて財布さいふちた。

彼が顧みた時、財布は二、三歩後ろに見つかった。

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かれかへりみたとき財布さいふは二三うしろ發見はつけんされた。

彼は簡単な三尺帯を解いて、ぎりっとそこに大きな塊のような結び目を作って、その財布を包んだ。

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かれ簡單かんたんな三尺帶じやくおびいて、ぎりつと其處そこおほきなかたまりのやうなむすつくつて財布さいふつゝんだ。

彼はほとんどその脚力の及ぶ限り走った。

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かれほとん脚力きやくりよくおよかぎはしつた。

彼はおつぎが後に続かないことを気にかける暇もなかった。

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かれはおつぎがうしろつゞかぬことを顧慮こりよするいとまもなかつた。

彼はその主人を思ったのである。

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かれ主人しゆじんおもつたのである。

勘次は後ろの田圃へ出た時、霧のごとき埃を隔てて主人の家の森から昇る盛んな煙を見て、今さらのごとく恐れた。

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勘次かんじうしろ田圃たんぼとききりごとほこりへだてゝ主人しゆじんいへもりからのぼさかんけぶり今更いまさらごと恐怖きようふした。

彼はまたふと、自分の後ろの林に少し見えていた自分の家の棟が見えないのに、その心を騒がせた。

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かれまたふと自分じぶんうしろはやしすこえて自分じぶんいへむねえないのにそのこゝろさわがせた。

少しもその力を落とさない疾風は、雑木に交じった竹のこずえを低く、そうしてさらに低く吹きなびけているけれど、棟はどうしても見えなかった。

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がうちからおとさぬ疾風しつぷう雜木ざふきまじつたたけこずゑひくくさうしてさらひく吹靡ふきなびけてれどむねはどうしてもえなかつた。

彼はまた煙が糸のごとく、しかもすさまじく自分の林の辺りから立っては押しつけられるのを見た。

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かれまたけぶりいとごとしかすさまじく自分じぶんはやしあたりからたつてはしつけられるのをた。

彼が自分の庭に立った時は、古い煤だらけの粗末な建物は焼き尽くされて、主要の木材がわずかに炎を吐いて立っている。

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かれ自分じぶんにはつたときは、ふるすゝだらけの疎末そまつ建築けんちく燒盡やきつくして主要しゆえう木材もくざいわづかほのほいてつてる。

火はなお執念く木材の芯を噛んでいる。

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執念しふね木材もくざい心部しんぶんでる。

何物をも吹き払わなければ止むまいとする疾風は、赤い埋み火を包む白い灰を、寸時の猶予をも与えないで吹きまくった。

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何物なにものをもはらはねばむまいとする疾風しつぷうは、あかおきつゝしろはひ寸時すんじ猶豫いうよをもあたへないでまくつた。

芯を噛まれつつある木材は、赤い歯を食いしばったような無数のひび割れが、火と煙とを吐いていた。

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心部しんぶまれつゝある木材もくざいあかひしばつたやうな無數むすうひゞけぶりとをいてた。

勘次はほとんどぼんやりとして、この急激な変化を見た。

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勘次かんじほとんど惘然ばうぜんとして急激きふげき變化へんくわた。

彼は足元がよろけるほど、疾風の手に突かれた。

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かれあしもとが踉蹌よろけほど疾風しつぷうかれた。

彼は庭に立って泣いている与吉を見た。

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かれにはつていて與吉よきちた。

与吉の横頬に印した火傷が、彼の惑乱した心を騒がせた。

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與吉よきち横頬よこほゝいんした火傷やけどかれ惑亂わくらんしたこゝろさわがせた。

勘次はまた、そのそばに目を閉じて後ろ向きになっている卯平を見た。

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勘次かんじまたそばつぶつて後向うしろむきつて卯平うへいた。

卯平は、いつの間に誰がそうしたのか、筵の上に横たえられてあった。

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卯平うへい何時いつたれがさうしたのかむしろうへよこたへられてあつた。

彼は少ない白髪を薙ぎ払って焼いた火傷の辺りを、手で覆っていた。

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かれすくな白髮しらがはらつていた火傷やけどのあたりをうてた。

「お前はどうしたんだ」

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りやどうしたんだ」

勘次は忙しく聞いた。

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勘次かんじせわしくいた。

「木の葉へ火がくっついたんだ」

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ひいくつゝえたんだ」

与吉はむせび入りながら言った。

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與吉よきちむせりながらいつた。

「お前でも悪戯したんじゃないか」

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われでも惡戲いたづらしたんぢやねえか」

勘次はもどかしげに激しく追及した。

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勘次かんじ遲緩もどかしげにはげしく追求つゐきうした。

「おれは爺さんと火に当たってたんだ。そうしたらくっついたんだ」

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ぢいひいあたつてたんだ、さうしたらくつゝかつたんだ」

そう言って、与吉はにわかに声を放って泣いた。

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さういつて與吉よきちにはかこゑはなつていた。

彼は何のためにそう悲しくなったのか、むしろ幼い彼自身には分からなかった。

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かれなんためにさうかなしくなつたのかむし頑是ぐわんぜない彼自身かれじしんにはわからなかつた。

彼はただ涙がこみあげて、止めどもなく悲しく、そうしてしみじみと泣き続けた。

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かれたゞなみだがこみあげてもなくかなしくさうしてしみ/″\とつゞけた。

勘次はそれを聞いた瞬間、肩の唐鍬を転がしてぶつりと土を打った。

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勘次かんじはそれをいた瞬間しゆんかんかた唐鍬たうぐはころがしてぶつりとつちつた。

唐鍬の刃先は、卯平の頭に近く筵の一端をかすめて、深く土に立った。

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唐鍬たうぐは刄先はさき卯平うへいあたまちかむしろの一たんかすつてふかつちつた。

彼はそれから、焼き尽くされていっぱいの埋み火になった自分の家に近く駆け寄った。

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かれはそれから燒盡やきつくして一ぱいおきになつた自分じぶんうちちかつた。

彼は火の恐ろしい熱さを感じて、しばらくためらって立った。

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かれおそろしい熱度ねつどかんじて少時しばし躊躇ちうちよしてつた。

後ろの林の、ややうなだれた竹の外側がぐるりと焼かれて変色していたのが、彼の目に映じた。

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うしろはやしやゝ俛首うなだれたたけ外側そとがはがぐるりとかれて變色へんしよくしてたのがかれえいじた。

それとともに彼は、隣の森の中の群集がごうごうと騒ぐのを耳にして、自分が今何のために疾走して来たかに気づいた。

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それとともかれとなりもりなか群集ぐんしふ囂々がう/\さわぐのをみゝにして自分じぶんいまなんため疾走しつそうしてたかをこゝろづいた。

しかし彼はもう、その群集の間に交じって主人の災難に赴く心は起こらなかった。

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しかかれはもう群集ぐんしふあひだまじつて主人しゆじん災厄さいやくおもむこゝろおこらなかつた。

彼はその群集の声を聞いて、自ら意識しない圧迫を感じた。

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かれ群集ぐんしふこゑいて、みづか意識いしきしない壓迫あつぱくかんじた。

彼はひどく、自分の哀れっぽい悲惨な姿を泣きたくなった。

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かれひど自分じぶんあはれつぽい悲慘みじめ姿すがたきたくなつた。

彼は疾走した後の異常な疲れを感じた。

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かれ疾走しつそうしたあと異常いじやう疲勞ひらうかんじた。

彼は自分の焼け跡を掻き立てようとするのに、鳶口も万能も皆その火の中に包まれてしまっていた。

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かれ自分じぶん燒趾やけあとてようとするのに鳶口とびぐち萬能まんのうみなそのなかつゝまれてしまつてた。

彼は素手であった。

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かれ空手からてであつた。

唐鍬を取って、彼は再び熱い火のそばに立った。

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唐鍬たうぐはつてかれふたゝあつそばつた。

熱さに堪えられない火のそばを、彼は飛び退いてまた立った。

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あつさにへぬそばかれ退すさつてまたつた。

彼はその刃先の鈍くなるのを思う暇もなく唐鍬で、まだ立っている木材を引っ掛けて倒そうとした。

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かれ刃先はさきにぶるのをおもいとまもなく唐鍬たうぐはで、またつて木材もくざいけてたふさうとした。

おつぎは後れて、ようやく垣根の入口に立った。

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おつぎはおくれてやうや垣根かきね入口いりくちつた。

おつぎはもう、自分の家がないことを知った。

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おつぎはもう自分じぶんうちいことをつた。

貧しい生活の間から数年来ようやく蓄えた衣類の数点が、すでにその一片をも止めていないことを知って、そうして心に悲しんだ。

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貧窮ひんきう生活せいくわつあひだから數年來すうねんらいやうやたくはへた衣類いるゐ數點すうてんすでの一ぺんをもとゞめないことをつてさうしてこゝろかなしんだ。

汗がびっしりと髪の生え際を浸して、疲れきった体を、おつぎはしばらくぼんやりと庭に立てた。

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あせがびつしりとかみ生際はえぎはひたして疲憊ひはいした身體からだをおつぎは少時しばし惘然ぼんやりにはてた。

おつぎはそれからまた、泣いている与吉と、死骸のごとく横たわっている卯平とを見た。

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おつぎはそれからまたいて與吉よきち死骸しがいごとよこたはつて卯平うへいとをた。

おつぎは万能を置いて、与吉の火傷した頭をそっと抱いた。

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おつぎは萬能まんのういて與吉よきち火傷やけどした頭部とうぶをそつといだいた。

与吉はまた涙がこみあげて、むせびながらしみじみと悲しげに泣いた。

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與吉よきちまたなみだがこみあげてむせびながらしみ/″\とかなしげにいた。

その声は、聞く者をただ泣きたくさせた。

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こゑくものをたゞきたくさせた。

疲れたおつぎの目には、ふっと涙が浮かんだ。

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つかれたおつぎのにはふつとなみだうかんだ。

おつぎはまた、手で抑えた卯平の頭に疑いの目を注いで、二人の悲しむべき記念に思い至った。

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おつぎはまたおさへた卯平うへい頭部とうぶうたがひのそゝいで、二にんかなしむべき記念かたみにおもひいたつた。

おつぎは、その原因を追及して聞こうとはしなかった。

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おつぎは原因げんいん追求つゐきうしてかうとはしなかつた。

おつぎはしみじみと与吉を心にいたわって、さらに「爺さん」

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おつぎはしみ/″\と與吉よきちこゝろいたはつてさらに、「ぢい

と、卯平の筵に近づいてそっと膝をついた。

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卯平うへいむしろちかづいてそつとひざをついた。

ふだんのおつぎは、勘次との間を繋ごうとする苦心からの甘えた言葉が、卯平の心に投じるのであった。

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平生いつものおつぎは勘次かんじとのあひだつながうとする苦心くしんからのあまえた言辭ことば卯平うへいこゝろとうずるのであつた。

今、おつぎの心の内には何の理屈もなかった。

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現在いまおつぎの心裏しんりにはなん理窟りくつもなかつた。

ただしみじみと悲しい、いたわしい心からの言葉が、自然にその口から出るのであった。

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たゞしみ/″\とかなしいいたはしいこゝろからの言辭ことば自然しぜんくちからるのであつた。

おつぎは、まだ燃えている火を忘れたように卯平を越えて覗いた。

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おつぎはえてるわすれたやうに卯平うへいえてのぞいた。

卯平はおつぎの声が耳に入ったので、後ろを向こうとしてわずかに目を開いた。

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卯平うへいはおつぎのこゑみゝはひつたのでうしろかうとしてわづかいた。

地をかすめて走りつつある埃が彼の頬を打って、彼の横たえた体を越えた。

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かすつてはしりつゝあるほこりかれほゝつてかれよこたへた身體からだえた。

彼はすぐに以前のごとく目を閉じた。

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かれすぐ以前もとごとぢた。

「爺さんも火傷したのか」

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ぢい火傷やけどしたのか」

おつぎは静かに言って、卯平の手をそっと退けて、左の横頬に印した火傷を見た。

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おつぎはしづかにいつて卯平うへいをそつと退けてひだり横頬よこほゝいんした火傷やけどた。

「痛いか。そんでもたいしたこともないから、心配するなよ」

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てえか、そんでもたえしたこともねえから心配しんぺえすんなよ」

おつぎは、火に薙ぎ払われた汚い卯平の白髪へ、そっと手を当てた。

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おつぎははらはれたきたな卯平うへい白髮しらがへそつとあてた。

卯平はおつぎのするままに任せて、少し口を動かすようであったが、またごうっと吹きつける疾風に妨げられた。

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卯平うへいはおつぎのするまゝまかせてすこくちうごかすやうであつたが、またごつときつける疾風しつぷうさまたげられた。

おつぎは隣の庭の騒ぎを聞いた。

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おつぎはとなりには騷擾さうぜういた。

しかもそのさまざまな叫びが入り交じって聞こえる声が、自分の心の芯からあるものを引っつかんで行くようで、自然にそれへ耳を澄ますと、何だかやるせないようなはかなさを感じて涙が落ちた。

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しかその種々いろ/\さけびの錯雜さくざつしてきこえるこゑ自分じぶん心部むねからあるものつかんでくやうで、自然しぜんにそれへみゝすますとなんだかのないやうな果敢はかなさをかんじてなみだちた。

涙は卯平の白髪に滴った。

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なみだ卯平うへい白髮しらがしたゝつた。

おつぎが気づいた時、勘次はいたずらに、そうして発作的に汗を垂らして動いているのを見た。

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おつぎがこゝろづいたとき勘次かんじいたづらにさうして發作的ほつさてきあせらしてうごいてるのをた。

おつぎの心もきっと、まだ燃えつつある火に移った。

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おつぎのこゝろきつとしてえつゝあるうつつた。

おつぎはにわかに自分の万能を取って、勘次の手につかませた。

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おつぎはにはか自分じぶん萬能まんのうつて勘次かんじつかませた。

勘次は初めて気づいて、熱した唐鍬を冷まそうとして井戸端へ走った。

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勘次かんじはじめてこゝろづいて、ねつした唐鍬たうぐはひやさうとして井戸端ゐどばたはしつた。

鍵の手を離れた釣瓶は、高く空中に浮かんでゆっくりと大きく動いていた。

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かぎはなれた釣瓶つるべたか空中くうちううかんでゆつくりとおほきくうごいてた。

彼は流し尻にずぶりと唐鍬を投じて、また万能を取った。

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かれながじりにずぶりと唐鍬たうぐはとうじてまた萬能まんのうつた。

一日吹いた疾風がぱたりとその力を落としたら、日が西の空の土手のような雲の端に近く据わって、次第に沈みつつまたたいた。

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にちいた疾風しつぷうはたちからおとしたら、西にしそら土手どてのやうなくもはしちかすわつて漸次だん/\沒却ぼつきやくしつゝまたゝいた。

その一瞬、強烈な光が横に東の森の高木を錆びた橙色に染めて、さらにその光は隙間を遠くずっと手を伸ばした。

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の一瞬時しゆんじ強烈きやうれつひかりよこひがしもり喬木けうぼくさび橙色だい/″\いろめて、さらひかり隙間すきまとほくずつとのばした。

冷たく、かつ薄暗くなるに従って、焼け跡の火が周囲を明るくした。

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つめたくかつ薄闇うすぐらるにしたがつて燒趾やけあと周圍しうゐあかるくした。

隣の火はほんのりと空をぼかした。

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となりはほんのりとそらをぼかした。

隣の庭には、自分の村から他の村から、手桶や飯台へ入れた握り飯が数多く運ばれた。

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となりにはには自分じぶん村落むらから村落むらから手桶てをけ飯臺はんだいれたにぎめし數多かずおほはこばれた。

消防に力を尽くした群集は、白い握り飯を貪った。

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消防せうばうちからつくした群集ぐんしふしろ握飯にぎりめしむさぼつた。

群集はさらに、時分を見計らってはぐらぐらと柱を突き倒そうとした。

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群集ぐんしふさら時分じぶん見計みはからつてはぐら/\とはしらたふさうとした。

丈夫な柱は、まだ火勢が辺りを遠ざけて、しっかりと立っていた。

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丈夫ちやうぶはしらはまだ火勢くわせいがあたりをとほざけて確乎しつかつてた。

他の村の人々は、次第に帰り去った。

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村落むら人々ひと/″\漸次だんだんかへつた。

自分の村の人々は、交代に残って盛んな火の番をした。

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自村むら人々ひと/″\交代かうたいのこつてさかんばんをした。

帰り行く人々がそのついでに勘次の庭に挨拶に立ったのみで、南の家から笊へ入れた握り飯が来ただけであった。

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かへ人々ひと/″\ついで勘次かんじには挨拶あいさつつたのみで、みなみいへからざるれた握飯にぎりめしだけであつた。

彼はそれでも、そのおかげで空腹を逃れた。

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かれはそれでもため空腹くうふくのがれた。

隣の主人からは、しばらくしてその集まった握り飯の手桶を二つ三つ持たせてよこした。

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となり主人しゆじんからはしばらくしてあつまつたにぎめし手桶てをけを二つ三つたせてよこした。

夜になってから、近所の者の手で卯平は念仏寮へ運ばれた。

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つてから近所きんじよもの卯平うへい念佛寮ねんぶつれうはこばれた。

勘次は卯平を乗せた荷車を曳いた。

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勘次かんじ卯平うへいせた荷車にぐるまいた。

彼はそれから隣の主人へ挨拶に出たが、自分の喉の底で物を言って逃げるように帰った。

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かれはそれからとなり主人しゆじん挨拶あいさつたが、自分じぶんのどそこものをいうてげるやうにかへつた。

彼はその夜は、三人が凍った空をいただいて、焼け跡の火の気を頼りに明かした。

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かれは三にんこほつたそらいたゞいて燒趾やけあと火氣くわき手頼たよりにかした。

卯平を横たえた筵は、誰も取りには来なかった。

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卯平うへいよこたへたむしろたれりにはなかつた。

筵は三人に席を与えた。

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むしろは三にんせきあたへた。

勘次は失火について、与吉から要領を得なかった。

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勘次かんじ失火しつくわいて與吉よきちから要領えうりやうなかつた。

しかしながら、彼の悲憤に堪えない心がさいなもうとするには、与吉の泣いて止まない火傷がそれを抑えつけた。

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しかしながらかれ悲憤ひふんへぬこゝろさいなまうとするには與吉よきちいてまぬ火傷やけどがそれをおさへつけた。

勘次は疲れた。

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勘次かんじつかれた。

二六

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二六

夜が更けるに従って、霜は三人の周囲に密着して凝ろうとしながら、火の力をすら押しつけた。

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けるにしたがつてしもは三にん周圍しうゐ密接みつせつしてらうとしつゝちからをすらしつけた。

彼らは冷めて行く火に、だんだんと筵を近づけた。

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彼等かれらめて段々だん/\むしろちかづけた。

勘次もおつぎも、薄い仕事着にしんしんと凍る霜の冷たさと、じりじりと焦がすような火の熱さとを同時に感じた。

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勘次かんじもおつぎもうす仕事衣しごとぎにしん/\とこほしもつめたさと、ぢり/\とこがすやうなあつさとを同時どうじかんじた。

与吉は火傷へ、夜の冷たさが染みた。

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與吉よきち火傷やけどつめたさがみた。

そうかといって火に当たろうとするのには、なおかつ火傷の痛みを加えるだけであった。

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さうかといつてあたらうとするのには猶且やつぱり火傷やけど疼痛いたみくはへるだけであつた。

彼は思い出したように泣いては、また泣いた。

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かれ思出おもひだしたやうにいてはまたいた。

ついには泣き疲れて、しくしくとただ声を呑んだ。

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つひにはつかれてしく/\とたゞこゑんだ。

それがかえって、勘次とおつぎの心を掻き乱した。

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それがかへつ勘次かんじとおつぎのこゝろみだした。

疲れた二人はうとうととしながら、とうとう眠ることができなかった。

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つかれた二人ふたりはうと/\としながら到頭たうとうねむることが出來できなかつた。

焼け跡に横たわった梁や柱から、まだかすかな煙を立てながら、次の日は明けた。

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燒趾やけあとよこたはつたはりはしらからまだかすかなけぶりてつゝつぎけた。

勘次はおつぎを相手に、灰を掻き集めることに一日を費やした。

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勘次かんじはおつぎを相手あひて灰燼くわいじんあつめることに一にちつひやした。

手桶の冷たい握り飯が、頼りない三人の口を糊した。

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手桶てをけつめたい握飯にぎりめし手頼たよりない三にんくちした。

勘次は炭のようになった痩せた柱や梁を、垣根のそばに積んだ。

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勘次かんじすみのやうにつたせたはしらはり垣根かきねそばんだ。

彼はその新しい手桶へ水を汲んで、まだ火のありそうな梁や柱へばしゃりとその水を掛けた。

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かれあたらしい手桶てをけみづんでまださうはりはしらへばしやりとみづけた。

彼は灰を掻き集めて、所々円錐形の小山を作った。

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かれはひあつめて處々ところどころ圓錘形ゑんすゐけい小山こやまつくつた。

彼は灰の中から鍋や釜や鉄瓶やその他の器物を、だんだんと万能の先から掻き出した。

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かれ灰燼くわいじんなかからなべかま鐵瓶てつびん器物きぶつをだん/\と萬能まんのうさきからした。

鉄製の器物はその形を保っていても、すっかり幾年も使わずに捨ててあったもののように変わっていた。

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鐵製てつせい器物きぶつかたちたもつてても悉皆みんな幾年いくねん使つかはずにすててあつたものゝやうにかはつてた。

彼はそれをそっと大事にそばへ集めた。

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かれはそれをそつと大事だいじそばあつめた。

茶碗や皿や、すべての陶磁器は熱い火に割れてしまって、一つでも役に立つものはなかった。

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茶碗ちやわんさらすべての陶磁器たうじき熱火ねつくわねてしまつて一つでもやくつものはなかつた。

勘次が赤く焼けた土を草鞋の底でだんだんに掻き払おうとした時、黒く焦げたようなある物が草鞋の先に掛かった。

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勘次かんじあかけたつち草鞋わらぢそこ段々だん/\かうとしたときくろげたやうなあるもの草鞋わらぢさきかゝつた。

焼けて変色した銅貨の少し固まったようになったのが、足に触れてぞろりと離れた。

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けて變色へんしよくした銅貨どうくわすここゞつたやうになつたのがあしれてぞろりとはなれた。

彼は周囲にひょいと目を放った。

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かれ周圍しうゐにひよつとはなつた。

彼の目に入るものは、これも一心に灰の始末をしているおつぎのほかにはなかった。

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かれるものはこれも一しんはひ始末しまつをしてるおつぎのほかにはなかつた。

彼は銅貨をそっと竹の林のそばへ持って行った。

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かれ銅貨どうくわそつたけはやしそばつてつた。

彼はぎりっと縛った三尺帯を解いて、財布をくくった結び目に歯を掛けて、ようやくその財布を取り出した。

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かれはぎりつとしばつた三尺帶じやくおびいて、財布さいふくゝつたむすけてやうやその財布さいふした。

焼けた銅貨を彼は財布へ投げ込んで、またぎりっと腰へくくった。

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けた銅貨どうくわかれ財布さいふんでたぎりつとこしくゝつた。

彼はそうして再び、きょろきょろと周囲を見た。

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かれはさうしてふたゝびきよろ/\と周圍ぐるりた。

勘次は幾つかの小山を形づくった灰へ、藁や粟の茎でしっかりと蓋をした。

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勘次かんじいくつかの小山こやまかたちづくつたはひわら粟幹あはがらでしつかとふたをした。

彼はそれを田や畑へ持ち出そうとしたので、雨に打たせない工夫である。

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かれはそれをはたさうとしたので、あめたせぬ工夫くふうである。

その藁や粟の茎は、近所の手から与えられた。

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わら粟幹あはがら近所きんじよからあたへられた。

彼は住居を失った二日目に、初めて近隣の交わりを知った。

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かれ住居すまゐうしなつただい日目かめはじめて近隣きんりん交誼かうぎつた。

南の女房は、古い薬缶と茶碗とを持って来てくれた。

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みなみ女房にようばうふる藥鑵やくわん茶碗ちやわんとをつててくれた。

勘次はふだん何とも思わなかったこれらの器物に、しみじみと便利を感じた。

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勘次かんじ平生へいぜいなんともおもはなかつた器物きぶつにしみ/″\と便利べんりかんじた。

彼は薬缶のまだ熱い湯を茶碗に注いで、彼らの身を落ち着けるただ一枚の筵の端に憩うた。

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かれ藥鑵やくわんのまだあつ茶碗ちやわんいで彼等かれらちつけるたゞまいむしろはしいこうた。

にわかにがらんとした焼け跡を限って立っている後ろの林の竹は、外側がぐるりと枯れて、焦げた枝が青い枝を覆って、幹は火の近かった部分は油を吹いて、きらきらと滑らかに変わっていた。

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にはか空洞からりとした燒趾やけあとかぎつてつてうしろはやしたけ外側そとがはがぐるりとれて、げたえだあをえだおほうてみきちかかつた部分ぶゞんあぶらいてきら/\となめらかにかはつてた。

東隣の主人の庭には、この日も村の者が大勢集まって、大きな焼け跡の始末に忙殺された。

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東隣ひがしどなり主人しゆじんにはには村落むらもの大勢おほぜいあつまつておほきな燒趾やけあと始末しまつ忙殺ばうさつされた。

それで、その人々は勘次の庭に手を貸そうとはしなかった。

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それでその人々ひと/″\勘次かんじにはさうとはしなかつた。

彼らは隣の主人に対して、ふだんの恩に報いようとするよりも、将来を恐れている。

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彼等かれらとなり主人しゆじんたいして平素へいそむくいようとするよりも將來しやうらいおそれてる。

彼らは皆ひとしく、静かに落ち着いた白昼の庭に立つことが、その家族の目に触れやすいことを知っているのである。

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彼等かれらみなひとしくしづかにおちついた白晝はくちうにはたつことが家族かぞくやすいことをつてるのである。

勘次は疲れた体を、その日も余念なく働かせた。

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勘次かんじつかれた身體からだ餘念よねんなく使役しえきした。

その夜は、三人が空をいただいて狭い筵に明かすのには、わずかでもその体を暖める火は消えていたのである。

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は三にんそらいたゞいてせまむしろあかすのには、わづかでもその身體からだあたゝめる消滅せうめつしてたのである。

三人はその夜、南の家に導かれた。

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にんそのみなみいへみちびかれた。

勘次もおつぎも、汗と灰と埃とに汚れた体を風呂に洗い落とした。

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勘次かんじもおつぎもあせはひほこりとによごれた身體からだ風呂ふろあらおとした。

快かったその風呂が、気詰まりな他人の家に彼らをぐっすりと熟睡させて、二日間の疲れを忘れさせようとした。

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こゝろよかつたその風呂ふろ氣盡きづくしな他人たにんいへ彼等かれらをぐつすりと熟睡じゆくすゐさせて二日間かかん疲勞ひらうわすれさせようとした。

与吉の横頬は、皮膚がわずかに水疱を生じて膨れていた。

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與吉よきち横頬よこほゝ皮膚ひふわづか水疱すゐはうしやうじてふくれてた。

彼はその日の機嫌が悪かった。

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かれ機嫌きげんわるかつた。

南の女房は、その水疱に髪へつける胡麻の油を塗ってやった。

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みなみ女房にようばう水疱すゐはう頭髮あたまへつける胡麻ごまあぶらつてやつた。

勘次は焼け木杭を地に建てて、彼にとって第一の必要である仮の住まいを造った。

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勘次かんじ燒木杙やけぼつくひてゝかれだい一の要件えうけんたるかり住居すまゐつくつた。

近所から集めた粟の茎のわずかな材料が、葺き草であった。

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近所きんじよからあつめた粟幹あはがら僅少きんせう材料ざいれう葺草ふきぐさであつた。

それはやっと雨が漏るか漏らないかだけの、薄い葺き方であった。

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それはやつあめるからないだけのうす葺方ふきかたであつた。

もとより壁を塗る暇はない。

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もとよりかべひまはない。

あちらこちらの林の間に刈り残された萱や篠を刈って来て、乏しい藁と混ぜて、垣根でも結うようにそれを内外から裂いた竹を当てて、ぎっと締めた。

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そこらこゝらのはやしあひだのこされたかやしのつてて、とぼしいわらぜて垣根かきねでもふやうにそれを内外うちそとからいたたけてゝぎつとめた。

彼は南の家から借りた鋸で、大小の焼け木杭を挽き切った。

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かれみなみいへからりたのこぎり大小だいせう燒木杙やけぼつくひ挽切ひつきつた。

ついに彼は後ろから焼けた竹を伐って来て、簀の子のように横たえて低い床を造った。

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しまひかれうしろからけたたけつてのやうによこたへてひくゆかつくつた。

竹を伐った鉈も、彼の持ち物ではなかった。

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たけつたなたかれ所有ものではなかつた。

彼の、熱い火に焼かれて独りで冷めた鉈も鎌も、すべての刃物はもう役には立たなかった。

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かれ熱火ねつくわかれてひとりめたなたかますべての刄物はものはもうやくにはたなかつた。

彼の手に完全に保たれたものは、彼が自分の手を頼みにしている唐鍬のみである。

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かれ完全くわんぜんたもたれたものはかれ自分じぶんたのんで唐鍬たうぐはのみである。

彼はこの壁もない小屋を造るために、二日ばかりの間は少しも他を顧みる暇がないほど、心が忙しかった。

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かれかべもない小屋こやつくために二ばかりのあひだすこしかへりみるいとまがなかつたほどこゝろいそがしかつた。

彼の悲惨な狭い小屋には、薬缶と茶碗と、それから火事の夕方に隣の主人がよこした新しい手桶とのみで、夜に身を横たえるのに一枚の蒲団もなかった。

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かれ悲慘みじめせま小屋こやには藥鑵やくわん茶碗ちやわんとそれから火事くわじ夕方ゆふがたとなり主人しゆじんがよこしたあたらしい手桶てをけとのみで、よるよこたへるのに一まい蒲團ふとんもなかつた。

砥石を掛けて磨かなければ使えない鍋や釜は、彼のさらに狭い土間に、いたずらに場所を塞いでいた。

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砥石といしけてみがかねば使用しようへぬなべかまかれさらせま土間どまいたづらに場所ばしよふさげてた。

その土間にはまだ簡単な囲炉裏さえなくて、彼は火を焚くのに三本脚の竹を立てて、それへ薬缶を掛けた。

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土間どまにはまだ簡單かんたん圍爐裏ゐろりさへなくて、かれくのに三本脚ぼんあしたけてゝそれへ藥鑵やくわんけた。

おつぎは、ただ勘次の仕事を助けていた。

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おつぎはたゞ勘次かんじ仕事しごとたすけてた。

しかしその間にも、念仏寮へ運ばれた卯平を忘れてはいなかった。

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しかあひだにも念佛寮ねんぶつれうはこばれた卯平うへいわすれてはなかつた。

おつぎは火事の次の日に、勘次へは黙って念仏寮を覗いてみた。

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おつぎは火事くわじつぎ勘次かんじへはだまつて念佛寮ねんぶつれうのぞいてた。

おつぎは卯平へ目に見えた心尽くしをするのに、何の方法も見出し得なかった。

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おつぎは卯平うへいえた心盡こゝろづくしをするのになん方法はうはふ見出みいだなかつた。

おつぎの懐には一銭もないのである。

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おつぎのふところには一せんもないのである。

おつぎは手桶の底の凍った握り飯を、焼け跡の炭に火を起こして狐色に焼いて、それを二つ三つ前垂れにくるんで行ってみた。

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おつぎは手桶てをけそここほつた握飯にぎりめし燒趾やけあとすみおこして狐色きつねいろいてそれを二つ三つ前垂まへだれにくるんでつてた。

おつぎはこっそりと覗くようにして見た。

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おつぎはこつそりとのぞくやうにしてた。

卯平は、誰がそうしてくれたか、ただ一人で蒲団にゆっくりとくるまっていた。

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卯平うへいたれがさうしてくれたかたゞ一人ひとり蒲團ふとんにゆつくりとくるまつてた。

枕元には小さな鍋と膳とが置かれて、膳には茶碗が伏せてある。

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枕元まくらもとにはちひさななべぜんとがかれて、ぜんには茶碗ちやわんせてある。

汁椀も、これも小皿を覆って伏せてある。

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汁椀しるわんれも小皿こざらおほうてせてある。

卯平はやつれた青い顔をこちらへ向けていた。

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卯平うへいやつれたあをかほをこちらへけてた。

彼は眠っていた。

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かれねむつてた。

おつぎは、すやすやと聞こえる息にじっと耳を澄ました。

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おつぎはすや/\ときこえる呼吸いき凝然ぢつみゝすました。

おつぎはそれから、枕元の鍋の蓋を取ってみた。

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おつぎはそれから枕元まくらもと鍋蓋なべぶたをとつてた。

鍋の底には、白いどろりとした米の粥があった。

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なべそこにはしろいどろりとしたこめかゆがあつた。

汁椀を取ってみたら、小皿には醤が少し載せてあった。

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汁椀しるわんをとつてたら小皿こざらにはひしほすこせてあつた。

卯平は冷めた白粥へ、まだ一口も箸をつけた様子がない。

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卯平うへいめた白粥しろがゆへまだ一口ひとくちはしをつけた容子ようすがない。

おつぎは焼いた握り飯を一つ枕元にそっと置いて、逃げるように帰って来た。

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おつぎはいた握飯にぎりめしを一つ枕元まくらもとにそつといてげるやうにかへつてた。

老人の鋭い目が、とうとう開かなかった。

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老人としよりさと到頭たうとうひらかなかつた。

卯平は疲れた心が静まって、ようやく熟睡したところなのであった。

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卯平うへいつかれたこゝろしづまつてやうや熟睡じゆくすゐしたところなのであつた。

掘っ立て小屋ができてから、勘次はそれでも近所で鍋や釜やその他の日用品を少しはもらったり借りたりして使った。

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掘立小屋ほつたてごや出來できてから勘次かんじはそれでも近所きんじよなべかま日用品にちようひんすこしはもらつたりりたりして使つかつた。

おつぎはその間、一心に焼けた鍋釜を砥石でこすった。

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おつぎはあひだしんけた鍋釜なべかま砥石といしでこすつた。

竹の床へ敷く筵が三、四枚、これも近所で古いのを一枚くらいずつくれた。

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たけとこむしろが三四まいこれ近所きんじよふるいのを一まいぐらゐづつれた。

そうしてからようやく、蒲団が運ばれた。

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さうしてからやうや蒲團ふとんはこばれた。

それは彼がぎっしりと腰にくくった財布の力であった。

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それはかれがぎつしりとこしくゝつた財布さいふちからであつた。

米や麦や味噌が、それでどうにか工面ができた。

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こめむぎ味噌みそがそれでどうにか工夫くふう出來できた。

彼はこうして、命を繋ぐ方法がやっと立った。

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かれうしていのちつな方法はうはふやつつた。

二、三日過ぎて、与吉の火傷は水疱が破れて、死んだ皮膚の下が少しただれかけた。

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二三にちぎて與吉よきち火傷やけど水疱すゐはうやぶれてんだ皮膚ひふしたすこ糜爛びらんけた。

勘次は心から、ようやくその傷をいたわった。

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勘次かんじこゝろからやうや瘡痍きずいたはつた。

彼はふだんになく、それを放っておけば一生の畸形になりはしないかという憂いをすら抱いた。

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かれ平生いつもになくそれを放任うつちやつてけば生涯しやうがい畸形かたわりはしないかといふうれひをすらいだいた。

そうして彼は鬼怒川を越えて、医者の所に与吉を連れて走った。

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さうしてかれ鬼怒川きぬがはえて醫者いしやもと與吉よきちれてはしつた。

医者は微笑を含んだまま、白いどろりとした薬を陶製の板の上で練って、それをこってりとガーゼに塗って、火傷を覆ってべたりと貼って、ぐるぐると白い包帯を施した。

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醫者いしや微笑びせうふくんだまゝしろいどろりとしたくすり陶製たうせいいたうへつて、それをこつてりとガーゼにつて、火傷やけどおほうてべたりとはつてぐる/\としろ繃帶ほうたいほどこした。

手先の火傷は横頬のような痛みも傷もなかったが、医者はそこにもざっと包帯をした。

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手先てさき火傷やけど横頬よこほゝのやうな疼痛いたみ瘡痍きずもなかつたが醫者いしや其處そこにもざつと繃帶ほうたいをした。

与吉は目ばかり出して、大袈裟な姿になって帰って来た。

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與吉よきちばかりして大袈裟おほげさ姿すがたつてかへつてた。

与吉は包帯をしてから、痛みも取れた。

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與吉よきち繃帶ほうたいをしてから疼痛いたみもとれた。

包帯はまた、直接他の物との摩擦を防いで、彼に快く村の内をさまよわせた。

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繃帶ほうたいまた直接ちよくせつものとの摩擦まさつふせいで、かれこゝろよく村落むらうち彷徨さまよはせた。

包帯が乾いていれば五、六日は捨てておいてもいいが、液が染み出すようならば明日にもすぐに来るようにと医者は言ったのであるが、液は幸いにぱっちりと点を打ったのみで、別段広がりもしなかった。

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繃帶ほうたいかわいてれば五六にちてゝいてもいが、液汁みづすやうならば明日あすにもすぐるやうにと醫者いしやはいつたのであるが、液汁みづさいはひにぱつちりとてんつたのみで別段べつだんひろがりもしなかつた。

おつぎは焼け跡の始末の忙しい間にも、時々卯平を見た。

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おつぎは燒趾やけあと始末しまつせはしいあひだにも時々とき/″\卯平うへいた。

しかし卯平を慰めるのに一銭の蓄えもないおつぎは、なおかつ何の方法も手段も見出し得なかったのである。

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しか卯平うへいなぐさめるに一せんたくはへもないおつぎは猶且やつぱりなん方法はうはふ手段しゆだん見出みいだなかつたのである。

おつぎは、勘次がようやくにして求めたわずかな米をそっと前垂れに隠して持って行った。

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おつぎは勘次かんじやうやくにしてもとめたわづかこめそつ前垂まへだれかくしてつてつた。

米には挽き割り麦が混じっている。

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こめには挽割麥ひきわりまじつてる。

おつぎはけっして卯平を満足させ得ることとは思わなかったが、彼が食べてみようと言えば、粥にでも炊いてやろうと思ったのである。

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おつぎはけつして卯平うへい滿足まんぞくさせることとはおもはなかつたが、かれべてようといへばかゆにでもいてやらうとおもつたのである。

しかし、おつぎが恥じながら、それでもやむを得ず隠して持って行った米の必要はなかった。

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しかしおつぎがぢつゝそれでも餘儀よぎなくかくしてつてつたこめ必要ひつえうはなかつた。

念仏の仲間が交互に少しずつの食べ物を持って来てくれるのを、卯平はきっと余していた。

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念佛ねんぶつ伴侶なかま交互かはりがはりすこしづゝの食料しよくれうつててくれるのを卯平うへい屹度きつとあましてた。

「爺さん、そんでもちっとは塩梅がよくなったようだが、痛くはないかい」

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ぢい、そんでもちつた鹽梅あんべえよくなつたやうだが、いたかねえけえ」

おつぎは毎度のように繰り返して聞いた。

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おつぎは毎度いつものやうに反覆くりかへしていた。

言葉は柔らかで、そうして潤んでいた。

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言辭ことばやはらかでさうしてうるんでた。

卯平の火傷へも、油が塗られてあった。

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卯平うへい火傷やけどへもあぶらられてあつた。

水疱はいつか破れてただれた患部を、油は見るからにいとわしく、かつ汚くしていた。

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水疱すゐはうはいつかやぶれて糜爛びらんした患部くわんぶを、あぶらるからいとはしくきたなくしてた。

死んだ細胞の下から鮮やかに赤く見え始めた肉芽は、外部の刺激に対して少しの抵抗力も持っていない細胞の集まりである。

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んだ細胞さいぼうしたからあざやかにあかはじめた肉芽にくげ外部ぐわいぶ刺戟しげきたいしてすこしの抵抗力ていかうりよくつてない細胞さいぼうあつまりである。

朝夕の冷たさすら、その過敏な神経を刺激した。

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朝夕あさゆふつめたさすら過敏くわびん神經しんけい刺戟しげきした。

卯平はいつでも、右の横頬を上にしているほかはなかった。

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卯平うへい何時いつでもみぎ横頬よこほゝうへにしてほかはなかつた。

「そんなにかからなくても治るだろうなあ」

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「さうだにかゝんなくつてもなほんべなあ」

おつぎは、油が汚くした火傷をじっと見ていると自然に目がしかめられて、むしろ自分の傷の経過でも聞くように、卯平の枕へ口をつけて言った。

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おつぎは、あぶらきたなくした火傷やけど凝然ぢつると自然しぜんしがめられて、むし自分じぶん瘡痍きず經過けいくわでもくやうに卯平うへいまくらくちをつけていつた。

「うん」

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「うむ」

という卯平の低く響く声が、けっしてその言葉のような簡単な意味のものではなかった。

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卯平うへいひくひゞこゑけつして言辭ことばのやうな簡單かんたん意味いみのものではなかつた。

「そんでもどうにか家もこしらえたから、爺さんのことも連れて行くよなあ」

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「そんでもどうにかうちこせえたから、ぢいこともれてくべよなあ」

おつぎの声は次第に潤んで低くなった。

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おつぎのこゑ漸次ぜんじうるんでひくくなつた。

卯平はそれでも、おつぎの声を聞くと目を閉じたまま、ほとんどはっきりとは見られないようなかすかな笑いが浮かぶのであった。

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卯平うへいはそれでもおつぎのこゑくとつぶつたまゝほとん明瞭はつきりとはられぬやうなかすかなわらひがうかぶのであつた。

「どういうのを建てた」

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「どうえのてゝえ」

卯平はさすがに聞きたかった。

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卯平うへい有繋さすがきたかつた。

「どういうのって爺さんは、焼けた柱を掘っ立てたのよ。そんだから壁も塗らないのよ」

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「どうえのつてぢいは、けたはしら掘立ほつたてたのよ、そんだからかべんねえのよ」

「そんじゃ、藁か萱で塞いだんでもあろう」

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「そんぢや、わらかやでおツぷてえたんでもあんびや」

「うん、そうだあ。そんだから触るとがさがさするんだよ」

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「うむ、さうだあ、そんだからさあつとがさ/\すんだよ」

こう言って、おつぎの声は少しはっきりとして来た。

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ういつておつぎのこゑすこ明瞭はつきりとしてた。

おつぎは恥じらいを含んだ様子を作った。

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おつぎははぢふくんだ容子ようすつくつた。

卯平は悲惨な焼け小屋を思うと、自分が与吉とともにしくじったことが自分を苦しめて、ひどく辛かった。

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卯平うへい悲慘みじめ燒小屋やけごやおもふと、自分じぶん與吉よきちとも失錯しくじつたことが自分じぶんくるしめてひどつらかつた。

彼はにわかに目をしかめた。

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かれにはかしかめた。

「痛いのか」

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いてえのか」

おつぎは目ざとくそれを見て、心もとなげに言った。

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おつぎは目敏めざとくそれをこゝろもとなげにいつた。

おつぎはやつれて沈んだ卯平のそばにいると、つい自分も沈んでしまって、ただじっとすくんだようになっているよりほかはなかった。

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おつぎはやつれてしづんだ卯平うへいそばると、つひ自分じぶんしづんでしまつてたゞ凝然ぢつすくんだやうにつてるよりほかはなかつた。

それでも、おつぎは長い時間をそうして空しく費やすことは許されなかった。

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それでもおつぎはなが時間じかんをさうしてむなしくつひやすことは許容ゆるされなかつた。

「また来るからな」

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またつかんな」

と、おつぎは沈んだ声で言って出て行くのを、後で卯平の目尻からは涙が少し漏れて、その小さな玉がしばらくやつれた皺に引っ掛かって、そうしてほろりと枕に落ちるのであった。

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とおつぎはしづんだこゑでいつてくのを、あと卯平うへいめじりからはなみだすこれて、ちひさなたましばらやつれたしわ引掛ひつかゝつてさうしてほろりとまくらちるのであつた。

勘次は一度も念仏寮を顧みなかった。

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勘次かんじは一念佛寮ねんぶつれうかへりみなかつた。

五、六日過ぎて、与吉はまた医者へ連れられた。

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五六にちぎて與吉よきち醫者いしやれられた。

医者は汚くなった包帯を解いて、どろりとした白い薬をまた陶製の板で練って貼った。

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醫者いしやきたなつた繃帶ほうたいいてどろりとしたしろくすり陶製たうせいいたつてつた。

先ごろのよりも濃くして貼ったから、もうこれで遠い道のりをわざわざ来なくても、これを時々貼ってやれば自然に乾いてしまうだろうと、その白い薬と、それからガーゼとを袋へ入れてくれた。

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先頃さきごろのよりもくしてつたからもうれでとほ道程みちのり態々わざ/\なくてもれを時々とき/″\つてやれば自然しぜんかわいてしまふだらうと、しろくすりとそれからガーゼとをふくろれてくれた。

与吉はにわかに勢いづいた。

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與吉よきちにはかいきほひづいた。

彼は時々、卯平のそばへも行った。

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かれ時々とき/″\卯平うへいそばへもつた。

卯平は横になった目に与吉の包帯を見て、その心を痛めた。

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卯平うへい横臥わうぐわした與吉よきち繃帶ほうたいこゝろいためた。

ある日与吉が行った時、先ごろ念仏の時に卯平へ酒を勧めた小柄な爺さんが、枕元にいた。

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ある與吉よきちつたとき先頃さきごろ念佛ねんぶつとき卯平うへいさけすゝめた小柄こがらぢいさんが枕元まくらもとた。

「お前、そんなに力を落とすなよ。これくらいの火傷なんぞどうするもんじゃない。おれが治してやるから。どうした、あの時からじゃ痛くはあるまい。あのまじないで火を鎮めさえすりゃ奇態だから」

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「おめえ、さうだにちからおとすなよ、らつくれえ火傷やけどなんぞどうするもんぢやねえ、なほしてやつから、どうしたときからぢやいたかあんめえ、禁厭まじねえしめしせえすりや奇態きてえだから」

そう言って爺さんは、仏壇の隅に置いた燈明皿を出して、その油を火傷へ塗った。

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さういつてぢいさんは佛壇ぶつだんすみいた燈明皿とうみやうざらしてあぶら火傷やけどつた。

卯平はそのするままに任せて動かなかった。

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卯平うへいまゝまかせてうごかなかつた。

「力を落としちゃだめだから。おれなんざこんな所じゃない。こっちの腕、馬に噛まれた時には、自分で見ちゃいられないって言われたっけが。そんでもおれは自分で手拭いの端をこう歯でくわえて、ぎいっと縛って、そうしておれは馬を曳いて来たな。汗は豆粒くらいのがぼろぼろ垂れたっけが、そんでもとうとう我慢しちまった。何でも力を落としさえしなけりゃ、治るのはすぐだから。年を取っちゃ治りが面倒だの何のって、そんなことはないから」

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ちからおとしちや駄目だめだから、らなんざこんなところぢやねえ、こつちなうでうまかまつたときにや、自分じぶんちやえかねえつてはつたつけが、そんでも自分じぶん手拭てねげはしくええてぎいゝつとしばつて、さうしてうまいてたな、あせ豆粒まめつぶぐれえなのぼろ/\れつけがそんでも到頭たうとう我慢がまんしつちやつた、なんでもちからおとしせえしなけりやなほんなすぐだから、としつちやなほりが面倒めんだうだのなんだのつてそんなこたあねえから」

爺さんはひたすら卯平の元気を引き立てようとした。

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ぢいさんは只管ひたすら卯平うへい元氣げんき引立ひきたてようとした。

「おれはそんだが、そんな怪我をしても馬は憎くはないのよ。馬に迷うのが癖で、ひひんと騒いだところへ、おれが手を横へ出して抑えたもんだから、畜生、見境もなく噛んだんだからなあ」

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らそんだが、さうえ怪我けがしてもうまにくかねえのよ、うまれんのがくせでひゝんとさわいだところてえよこしておさえたもんだから畜生ちきしやう見界みさけえもなくかぢツたんだからなあ」

と、彼は酒を飲んではいなかったので声は低かったが、それでも次第に勢いを加えていた。

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かれさけんではなかつたのでこゑひくかつたが、それでも漸々だん/\いきほひをくはへてた。

「おれは白い薬を貼ったんだぞ」

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しれくすりつたんだぞ」

与吉はさっきから油を塗った卯平の傷に目を注いでいて、こう突然に言った。

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與吉よきち先刻さつきからあぶらつた卯平うへい瘡痍きずそゝいでてかう突然とつぜんにいつた。

「なあに、そんな物なんざ貼らなくたって、お前らのよりはこっちのほうが早く治るから」

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「なあに、さうだもんなんざんねえツたつてがよりやこつちのはうはやなほつから」

小柄な爺さんは、しばらく手元へ置いた油の皿を再び仏壇の隅へしまった。

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小柄こがらぢいさんはしばらもとへいたあぶらさらふたゝ佛壇ぶつだんすみしまつた。

「そんでも、おれのことはもう、来なくても治るからいいと言って薬をよこしたんだぞ」

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「そんでもれこたはあ、なくつてもなほつからえゝつてくすりよこしたんだぞ」

与吉は少し間を隔てて、おずおずと言った。

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與吉よきちすこあひだへだてゝづ/\いつた。

「治るもんかい、お前らが」

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なほるもんかえ、汝等わツらが」

小柄な爺さんはからかうようにして怒鳴った。

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小柄こがらぢいさんは揶揄からかふやうにして呶鳴どなつた。

「治らあい。そんだって痛くはない、おれらは」

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なほらあえ、そんだつていたかねえ

与吉は驚いたように言った。

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與吉よきちおどろいたやうにいつた。

「その白い薬というのをよこしたのか」

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しれくすりだツちのよこしたのか」

卯平はかすかな声で聞いた。

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卯平うへいかすかなこゑいた。

「そうなんだわ」

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「さうなんだわ」

「お前は、それ、姉さんにでも貼ってもらうのか」

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りや、それねえにでもつてもらあのか」

「おれは貼らない」

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んねえ」

「そんじゃ薬はどうしたんだい、お前は」

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「そんぢやくすりはどうしたんでえ、りやあ」

「おとっつあんが持ってるんだから、おれは知らない」

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「おとつゝあつてんだからんねえ」

与吉は上がり框に胸をもたせて、下駄の爪先で土間の土を叩きながら、卯平とこうして数語を交わした時

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與吉よきちあががまちむねたせて下駄げた爪先つまさき土間どまつちたゝきながら卯平うへいうして數語すうご交換かうくわんしたとき

「いいから、そんな薬なんぞのことを構い立てするない。これで治るから」

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「えゝからそんなくすりなんぞのことかめえたてんなえ、れでなほつから」

と、小柄な爺さんはそばから打ち消した。

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小柄こがらぢいさんはそばからした。

「乞食野郎め。お前らの親父は見やがれ、お前のことは医者へ連れて行く銭を持ちやがって、ここへは一度でも来やがらない畜生だから、見ろ。それくらいだから罰が当たって丸焼けになっちまうんだ」

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乞食野郎奴こちきやらうめ親爺おやぢやがれ、われこた醫者いしやれてくぜにつてけつかつて、此處ここさは一でもやがんねえ畜生ちきしやうだから、ろう。のツくれえだからばちあたつて丸燒まるやけつちやあんだ」

と、爺さんはさらに独り憤った語勢で言った。

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ぢいさんはさらひとりいきどほつた語勢ごせいもつていつた。

「おとっつあんは、爺さんに焼かれたって言ってるんだあ」

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「おとつゝあはぢいかつたツちツてんだあ」

与吉は勢いに圧されて恥じるようにしながら、やっと言った。

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與吉よきちいきほひにあつせられてはにかむやうにしながらやつといつた。

「お前らの親父めが言ったのか」

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汝等わツら親爺奴おやぢめつたのか」

爺さんはさらに

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ぢいさんはさら

「お前は何と言った、それで」

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りやなんちつたそんで」

と怒鳴った。

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呶鳴どなつた。

与吉はしょげて、しばらく黙った。

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與吉よきちしをれてしばら沈默ちんもくした。

「おれは火に当たってたら木の葉にくっついたんだって言ったんだあ」

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ひいあたつてたらさくつゝえたんだつてつたんだあ」

「そう言われても仕方がないよ」

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「さうはつても仕方しかたねえよ」

与吉が言い終わらないうちに、卯平は言葉を挟んだ。

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與吉よきちのいひをはらぬうち卯平うへい言辭ことばはさんだ。

「べらぼう、燃やしたくて燃やすものがあるもんか」

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箆棒べらぼう、つんしたくつて、つんすものるもんか」

爺さんは少し激して

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ぢいさんはすこげきして

「過ちだもの、後で何と言ったって仕方があるもんじゃない」

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過失えゝまちだものあとなんちつたつてやうあるもんぢやねえ」

と、独りで力んだ。

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ひとりりきんだ。

「そんでも気の毒で来られまいって言ったあ」

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「そんでもどくらんめえつてつたあ」

与吉はぽつりと言った。

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與吉よきちはぽさりといつた。

やや大きくなった彼は、怒鳴る爺さんの前に恐怖を抱いたが、また抑えられることにかすかな反抗心を持っていた。

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やゝおほきくつたかれ呶鳴どなぢいさんのまへ恐怖おそれいだいたがまたおさへられることにかすかな反抗力はんかうりよくつてた。

「爺さんのことを来られまいって言ったのか。姉さんも言ったのかあ」

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ぢいことらんめえつてつたのか、ねえつたのかあ」

「姉さんは言わない。姉さんが爺さんの所へ行くというと、おとっつあんが怒るんだ。そうしたら姉さんに怒られたんだあ」

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ねえはねえ、ねえぢいとこぐつちとおとつゝあおこんだ、さうしたらねえおこらつたんだあ」

与吉は、自分の心に少しの隔てをも持っていない卯平の前に、知っていることを誇るように言った。

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與吉よきち自分じぶんこゝろすこしのへだてをもいうしてらぬ卯平うへいまへつてることをほこるやうにいつた。

「お前のことは怒らないのか」

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われこたおこんねえのか」

小柄な爺さんは、与吉の隠さない言葉に少し力んだ勢いが抜けたようになって、こう言った。

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小柄こがらぢいさんは與吉よきちかくさぬ言辭ことばすこりきんだいきほひがけたやうになつてういつた。

「おれのことは怒らない。おれは怒ったっくらい逃げちまうから」

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れこたおこんねえ、おこつたつくれえげつちやあから」

与吉の言うのを聞いて、爺さんの憤りは和らげられた。

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與吉よきちのいふのをいてぢいさんのいかりはやはらげられた。

卯平は青い顔をして、じっと閉じた目をしかめて聞いていた。

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卯平うへいあをかほをして凝然ぢつつぶつたしがめていてた。

囲炉裏には、そだの一枝もくべてなかった。

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圍爐裏ゐろりには麁朶そだの一えだべてなかつた。

三人はしばらくぽつねんとした。

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にんしばらくぽさりとした。

「爺さん、くれないか」

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ぢいくんねえか」

与吉は危ぶむように言った。

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與吉よきちあやぶむやうにいつた。

「お前は何がほしいというんだ」

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りやなにしいつちんだ」

小柄な爺さんは、底力のある声を低くして言った。

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小柄こがらぢいさんは底力そこぢからこゑひくくしていつた。

「おれは一銭もないから」

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一錢ひやくもねえから」

と、卯平はこそばゆいある物が喉へつかえたように、ごくりと唾を飲んだ。

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卯平うへいはこそつぱいあるもののどつかへたやうにごつくりとつばんだ。

彼の目の皺が、余計にぎっと締まった。

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かれしわ餘計よけいにぎつとしまつた。

「おれはまだ、ちっとはあったんだったが、煙草入れといっしょに焼けちまったから」

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らまあだ、ちつたつたんだつけが、煙草入たぶこれ同志どうしえつちやつたから」

彼はぽつりと投げ出して言った。

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かれはぽさりとしていつた。

「煙草入れは焼けたって、銭だったら灰を掻き払えばあるはずだ。ほかに盗る奴があるまいし」

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煙草入たぶこれけたつてぜねだらへえ掻掃かつぱけばはずだ、ほかりやすめえし」

小柄な爺さんの目は光った。

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小柄こがらぢいさんのひかつた。

「なあに分からないよ。おつうらが毎日来ていてもその話はないんだから。おれはどうせ治るか何だか分かりやしまいし、要らないな」

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「なあにわかんねえよ、おつう毎日まいんちてゝもはなしやねえんだから、らどうせなほつかなんだかわかりやすめえし、らねえな」

「なあに、おれが聞いてみなくちゃならない。出すも出さないもあるもんか」

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「なあに、いてなくつちやなんねえ、すもさねえもるもんか」

小柄な爺さんは呟いて

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小柄こがらぢいさんはつぶやいて

「行けもう。お前は大きな体をして、くれの何のって」

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けはあ、りやけえ姿なりして、ろうのなんだのつて」

と、与吉を怒鳴りつけた。

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與吉よきち呶鳴どなりつけた。

与吉はすごすごと出て行った。

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與吉よきち悄々すご/\つた。

卯平は少し目を開いて、与吉の後ろ姿を見た。

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卯平うへいすこひらいて與吉よきち後姿うしろすがたた。

涙が止めどもなく出た。

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なみだめどもなくた。

彼はそれを拭おうともしなかった。

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かれはそれをぬぐはうともしなかつた。

二七

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二七

その夜、気温が著しく下がった。

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温度をんどいちじるしく下降かかうした。

季節は彼岸も過ぎて四月に入っているのであるが、寒さは地に凝りついたように離れなかった。

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季節きせつ彼岸ひがんぎて四ぐわつはひつてるのであるが、さむさはりついたやうにはなれなかつた。

夜半に卯平はのっそりと起きて、囲炉裏にそだをくべた。

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夜半やはん卯平うへいはのつそりときて圍爐裏ゐろり麁朶そだべた。

ちろちろと鉄瓶の尻から燃え昇る火は、周囲の闇に包まれながら、やつれた卯平の顔にほの明るい光を添えた。

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ちろちろと鐵瓶てつびんしりからえのぼる周圍しうゐやみつゝまれながらやつれた卯平うへいかほにほのあかるいひかりへた。

彼は勢いない炎の前に目を閉じたまま、ただ沈鬱の状態を保った。

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かれいきほひないほのほまへつぶつたまゝたゞ沈鬱ちんうつ状態じやうたいたもつた。

彼はほとんど動かないようにして、捨てておけばすっと深く沈んでしまったように冷めて行く火へ、ぽちりぽちりとそだを足していた。

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かれほとんどうごかぬやうにしててゝけばすつとふかしづんでしまつたやうにめてへぽちり/\と麁朶そだしてた。

彼はしばらく我を失ったようにしていて、そだの火が周囲の闇に押しつけられようとしてわずかにその勢いを保った時、彼はすっと立ち上がった。

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かれしばら自失じしつしたやうにして麁朶そだ周圍しうゐやみしつけられようとしてわづかいきほひをたもつたときかれはすつとあがつた。

彼のただれた横頬は、もう火の消えようとしている薄明かりにぼんやりとした。

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かれ糜爛びらんした横頬よこほゝはもうほろびようとして薄明うすあかりにぼんやりとした。

火はげっそりと落ちて、彼の姿が消え入ろうとした。

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はげつそりとちてかれ姿すがたらうとした。

彼は戸を開けて、よろけながら出た。

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かれけて踉蹌よろけながらた。

寒い風が冷たい刃を浴びせた。

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さむかぜつめたいやいばびせた。

卯平はぞっとした。

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卯平うへい悚然ぞつとした。

勘次ら三人は、その夜も固まって薄い蒲団にくるまった。

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勘次等かんじらにん凝集こごつてうす蒲團ふとんにくるまつた。

勘次は足に非常な冷たさを感じて、うとうととしていた眠りから醒めた。

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勘次かんじあし非常ひじやうつめたさをかんじて、うと/\としてねむりからめた。

手足を伸ばせばくくりつけた萱や篠の葉に触れて、かさかさと鳴るほど狭い室内を、寒さは束ねた松葉の先でつつくように、夜通しその隙間を狙って止まなかった。

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手足てあしのばせばくゝりつけたかやしのれてかさ/\とほどせま室内しつないを、さむさはたばねた松葉まつばさきでつゝくやうに徹宵よつぴてその隙間すきまねらつてまなかつた。

勘次は目が冴えてしまった。

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勘次かんじえてしまつた。

彼は北に枕していた。

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かれきたまくらしてた。

後ろの林が性急に騒いでは、また静まって、そうしてざわざわと鳴った。

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うしろはやし性急せいきふさわいではまたしづまつてさうしてざわ/\とつた。

北風が立ったのだ。

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北風きたかぜつたのだ。

低い粟の茎の屋根から、そのくくりつけた萱や篠の葉には、冴えた耳にやっと聞き取れるような、さらさらとかすかに何かを打ちつけるような響きが止まない。

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ひく粟幹あはがら屋根やねからそのくゝりつけたかやしのにはえたみゝやつきゝとれるやうなさら/\とかすかになにかをちつけるやうなひゞきまない。

次第にその響きが消えて、隙間を求めて入り込む寒さの度合いが加わった。

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漸次だん/\ひゞき消滅せうめつして、隙間すきまもとめて侵入しんにふするさむさのくははつた。

どこかで凍った土へ響くような鶏の声が甲高く聞こえると、夜は軒の隙間から明るくなった。

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何處どこかでこほつてたつちひゞくやうなにはとりこゑ疳走かんばしつてきこえるとよるのき隙間すきまからあかるくなつた。

勘次はおつぎを起こした。

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勘次かんじはおつぎをおこした。

彼は夜が明ければ、蒲団に固くなっているよりも火に当たったほうがはるかによかった。

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かれければ蒲團ふとんかたくなつてるよりもにあたつたはうはるかによかつた。

彼は明けるのを待ち遠しくしていた。

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かれけるのを待遠まちどほにしてた。

おつぎは外へ出ようとした。

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おつぎはそとようとした。

外は意外に積もりかけた雪が白かった。

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そと意外いぐわいつもけたゆきしろかつた。

さらに積もりつつある大粒な雪が、北から斜めに空間を掻き乱して飛んでいる。

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さらつもりつゝある大粒おほつぶゆききたからなゝめ空間くうかん掻亂かきみだしてんでる。

おつぎはしばらく立ちすくんだ。

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おつぎは少時しばしすくんだ。

大粒な雪を投げながら吹き落ちる北風が、ごうっと寒さを煽った。

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大粒おほつぶゆきげつゝちる北風きたかぜがごつとさむさをあふつた。

勘次は狭い土間に掻き集めてあった落ち葉やそだに火を点けた。

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勘次かんじせま土間どまあつめてあつた落葉おちば麁朶そだけた。

煙は低い軒を這って、ぐるぐると空間が回転するように見えながら、飛び散る忙しい雪のために逃げ行く道を妨げられたように、低くさまよって行く。

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けぶりひくのきつて、ぐる/\と空間くうかん廻轉くわいてんするやうにえつゝせはしいゆきためみちさまたげられたやうにひく彷徨さまようてく。

おつぎは外側に置いた手桶を取った。

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おつぎは外側そとがはいた手桶てをけつた。

北風の吹きつける雪は、一つの手桶を半分白くしていた。

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北風きたかぜきつけるゆきひとつの手桶てをけ半分はんぶんしろくしてた。

おつぎが低い軒の下を一歩踏み出したら、北風は待っていたというように、その乱れた髪の毛を吹きまくって、大粒な雪が争って首筋へ群がり落ちて、瞬く間に消えた。

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おつぎはひくのきしたを一したら、北風きたかぜつてたといふやうに、みだれたかみまくつて、大粒おほつぶゆきあらそつて首筋くびすぢむらがおち瞬間しゆんかんえた。

そうしてまた、着物の上に軽く柔らかに止まった。

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さうしてまた衣物きものうへかるやはらかにとまつた。

おつぎは、釣瓶の竹竿が北から打ちつける雪のために、縦に一条の白い線を描きつつあるのを見た。

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おつぎは釣瓶つるべ竹竿たけざをきたからうちつけるゆきためたて一條ひとすぢしろせんゑがきつゝあるのをた。

ちらちらと目をくらますような雪の中に、樹木はことごとく純白な柱を立て、釣瓶の縁は白い丸い輪を描いている。

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ちら/\とくらますやうなゆきなか樹木じゆもく悉皆みんな純白じゆんぱくはしらたてて、釣瓶つるべふちしろまるゑがいてる。

おつぎが竹竿へ手を掛けると、軽い柔らかな雪はさらりと崩れて落ちた。

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おつぎは竹竿たけざをけるとかるやはらかなゆきはさらりとけてちた。

おつぎが一杯を汲んでひょいと振り返った時、後ろの竹の林が強い北風に首筋を押しつけられては、雪をつかんでぱあっと投げつけられながら、力の限り争おうとして苦しんでいるのを見た。

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おつぎは一ぱいんでひよつとふりかへつたときうしろたけはやしつよ北風きたかぜ首筋くびすぢしつけてはゆきつかんでぱあつとげつけられながらちからかぎりあらそはうとして苦悶もがいてるのをた。

おつぎは見るなと吹きつける北風を正面に受けて、息がむっと詰まるように感じて、ふと横手を向いた。

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おつぎはるなときつける北風きたかぜ當面まともけて呼吸いきがむつとつまるやうにかんじてふと横手よこていた。

少し離れた柿の木の下に、おつぎは吸いつけられたように疑いの目を見開いた。

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すこはなれたかきしたにおつぎはひつけられたやうにうたがひのみはつた。

おつぎは釣瓶を放して、少し柿の木の下に近づいた。

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おつぎは釣瓶つるべはなしてすこかきしたちかづいた。

「おとっつあん」

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「おとつゝあ」

と、おつぎは底の粘る草履を捨てて、激しく呼んで駆け込んだ。

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とおつぎはそこねば草履ざうりてゝはげしくんでんだ。

「大変だよ、おとっつあん」

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大變たえへんだよ、おとつゝあ」

と、今度は少し声を殺すようにして勘次を促した。

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今度こんどすここゑころすやうにして勘次かんじうながした。

勘次は怪訝な鋭い目でおつぎを見た。

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勘次かんじ怪訝けげんするどもつておつぎをた。

「よう、おとっつあん」

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「よう、おとつゝあ」

おつぎの節度を失った慌ただしさが、勘次を庭に走らせた。

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おつぎの節制たしなみうしなつたあわたゞしさが勘次かんじにははしらせた。

勘次は震えた。

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勘次かんじ戰慄せんりつした。

柿の木の下には、冷たい卯平が横たわっていたのである。

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かきしたにはつめたい卯平うへいよこたはつてたのである。

その大きな体は少し柿の木にもたれかかりながら、胸から脚へまだらに雪を浴びていた。

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そのおほきな體躯からだすこかきかゝりながら、むねから脚部きやくぶまだらゆきびてた。

荒縄が彼の手を離れて、横に体を越えていた。

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荒繩あらなはかれけてよこ體躯からだえてた。

「爺さん」

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ぢい

と、おつぎはその耳に口を当てて怒鳴った。

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とおつぎはみゝくちてゝ呶鳴どなつた。

冷たい卯平は、ぐったりとうなだれたままである。

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つめたい卯平うへいはぐつたりと俛首うなだれたまゝである。

少し傾げた彼の横頬にただれた火傷が、勘次をぞっとさせた。

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すこかしげたかれ横頬よこほゝ糜爛びらんした火傷やけど勘次かんじ悚然ぞつとさせた。

勘次は夜に荷車で運んだ後、卯平を見るのは初めてであった

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勘次かんじよる荷車にぐるまはこんだのち卯平うへいるのははじめてゞあつた

「おとっつあんは、どうしたっていうんだろうな」

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「おとつゝあは、どうしたつちんだんべな」

おつぎは勘次を叱って、卯平の体を起こしながら、白く掛かった雪を手で払った。

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おつぎは勘次かんじしかつて、卯平うへい身體からだおこしながらしろかゝつたゆきはらつた。

勘次はおずおずと手を貸した。

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勘次かんじづ/\した。

卯平の力ない体は、ようやく二人の手で運ばれた。

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卯平うへいちからない身體からだやうや二人ふたりはこばれた。

勘次は簀の子の上の筵に横たえて、気を失ったようにぼんやりとして立った。

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勘次かんじうへむしろよこたへて、喪心さうしんしたやうに惘然ばうぜんとしてつた。

彼はまた、卯平のただれた火傷を見た。

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かれ卯平うへい糜爛びらんした火傷やけどた。

彼は何を思ったか、忙しく雪を蹴立てて、桑畑の間を過ぎて南の家に走った。

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かれなにおもつたかいそがしくゆき蹴立けたてゝ、桑畑くはばたけあひだぎてみなみいへはしつた。

いったん開けてまたそっと閉ざした表の戸口から、突然に

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たんけてまたそつととざしたおもて戸口とぐちから突然とつぜん

「起きてないか」

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きめえか」

と、彼は激しく怒鳴った。

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かれはげしく呶鳴どなつた。

彼は褞袍を着て竈の前に火を焚いている女房を見た。

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かれ褞袍どてらかまどまへいて女房にようばうた。

「何だい」

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なんでえ」

と、亭主の驚いて言う声が近く聞こえた。

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亭主ていしゆおどろいていふこゑちかきこえた。

勘次も驚いて、上がり框の蒲団から首をもたげた亭主を見た。

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勘次かんじおどろいてあががまち蒲團ふとんからくびもたげた亭主ていしゆた。

「大変なことができたよ、おれの家の」

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大變たえへんなこと出來できたよ、の」

と、勘次はこそばゆい喉からようやくそれだけを吐き出した。

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勘次かんじはこそつぱいのどからやうやくそれだけをした。

「来てくれないか」

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てくんねえか」

と、彼は簡単にそう言って、思い出したようにまた雪を蹴って走った。

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かれ簡單かんたんにさういつて、おもしたやうにまたゆきつてはしつた。

慌てた彼は、敷居もまたがなかった。

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あわてたかれしきゐまたがなかつた。

南の家の亭主は、勘次の様子を見てただごとでないことを知った。

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みなみいへ亭主ていしゆ勘次かんじ容子ようす尋常じんじやうでないことをつた。

しかしながら彼は、きわめてはっきりしない事件に赴くには、すぐに起こる多少の懸念が、吹きまくる雪に逆らって、蓑も笠も持たずに走って行くほど慌てさせるわけには行かなかった。

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しかしながらかれきはめて不判明ふはんめい事件じけんおもむくには、たゞちおこ多少たせう懸念けねんまくゆきさからつて、みのかさたずにはしつてほどあわてさせるわけにはかなかつた。

彼は土間に転がった下駄を探した。

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かれ土間どまころがつた下駄げたさがした。

非常な勢いで積もろうとする雪は、庭から庭を繋ぐ桑畑の間に下駄の運びを鈍くした。

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非常ひじやういきほひでつもらうとするゆきは、にはからには桑畑くはばたけあひだ下駄げたはこびをにぶくした。

彼が勘次の小屋を覗いた時は、低く、かつ狭い入口を自分の体が塞いで、内を薄暗くした。

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かれ勘次かんじ小屋こやのぞいたときひくかつせま入口いりぐち自分じぶん身體からだふさいでうち薄闇うすぐらくした。

外の白い雪を見た彼の目が、しばらくくらんだ。

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そとしろゆきかれしばらくらんだ。

彼はただ、勘次が与吉を叱る声を耳のそばで聞いた。

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かれたゞ勘次かんじ與吉よきちしかこゑみゝそばいた。

勘次が帰った時、卯平は横たえたままであった。

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勘次かんじかへつたとき卯平うへいよこたへたまゝであつた。

浅く掛かっていた雪が溶けて、卯平の褞袍が少し濡れていた。

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あさかゝつてゆきけて卯平うへい褞袍どてらすこれてた。

彼はまた、ただれた火傷を見るとともに、卯平の懐へ手を入れているおつぎを見た。

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かれ糜爛びらんした火傷やけどるとともに、卯平うへいふところれてるおつぎをた。

「おとっつあん、暖かいんだよ」

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「おとつゝあ、ぬくてえんだよ」

おつぎは言って、また

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おつぎはいつてまた

「息をついてるんだよ」

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呼吸いきつえてんだよ」

他を憚る者のように、低く声を殺して言った。

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はゞかるものゝやうにひくこゑころしていつた。

勘次は勢いづいた。

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勘次かんじいきほひづいた。

彼は突然、与吉を起こした。

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かれ突然とつぜん與吉よきちおこした。

蒲団をまくって与吉の腕を引いた。

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蒲團ふとんまくつて與吉よきちうでいた。

与吉は例にない厳しい扱いに驚いて、まだ眠い目を見開いた。

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與吉よきちいつもにない苛酷かこくあつかひにおどろいてまだねむみはつた。

「急いで、それ、着物」

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かせえて、それ、衣物きもの

と、勘次はただおろおろしている与吉を叱りつけた。

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勘次かんじたゞおろ/\して與吉よきちしかりつけた。

「そんじゃまあよかった。何にしても蒲団へ寝かせたほうがいいな。暖まりさえすりゃ、だんだんよくなるだろうから」

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「そんぢやまあよかつた。なにしても蒲團ふとんかせたはうがえゝな、ぬくとまりせえすりや段々だん/\よくなつぺから」

南の亭主は、数分前から二人を心の底から狼狽させた事件の簡単な説明を聞いた時、言った。

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みなみ亭主ていしゆ數分時すうふんじまへから二人ふたり衷心ちうしんより狼狽らうばいせしめた事件じけん簡單かんたん説明せつめいいたときいつた。

「着物が濡れたようだな。脱がせたらよかろう。それにひどく汚れちまったな」

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衣物きものれたやうだな、ぬがせたらよかつぺ、それにひどよごれつちやつたな」

亭主は言って、まくった蒲団へ手を当ててみた。

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亭主ていしゆはいつてまくつた蒲團ふとんあてた。

「これは暖かくていい塩梅だ。冷やしちゃいけない」

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ぬくとくつてえゝ鹽梅あんべえだ、ひえさせちやえかねえ」

彼は掛け蒲団をとっぷりとかぶせた。

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かれ掛蒲團かけぶとんをとつぷりふたした。

「そうだな、着物は焙る間は仕方がないな。そんじゃ褞袍でもおれの家から持って来るといいな。この蒲団だけじゃ暖まれまい、これは」

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「さうだな衣物きものあぶえゝだやうねえなそんぢや褞袍どてらでもからつてつとえゝな、蒲團ふとんだけぢやぬくとまれめえこら」

彼は少し権威を持った態度で言った。

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かれすこ權威けんゐつた態度たいどでいつた。

狭い小屋の焚き火は消えていた。

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せま小屋こや焚火たきびえてた。

怪訝な様子をして遠ざかっていた与吉が、落ち葉を足してしばらくくすぶらせた。

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怪訝けゞん容子ようすをしてとほざかつて與吉よきち落葉おちばしてしばらくすぶらした。

「お前はまた、それ、おつうを見てやれ」

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われまた、それ、おつうてやれ」

勘次は与吉に注意の言葉を残して、駆け出して行った。

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勘次かんじ與吉よきち注意ちうい言葉ことばのこしてしてつた。

「蒲団も持てるなら持って来たほうがいいな」

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蒲團ふとんてらばつてはうがえゝな」

南の亭主の声は、だんだんに大粒になって飛んでいる雪の乱れの中に消え行く勘次の後から追いかけた。

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みなみ亭主ていしゆこゑ段々だん/\大粒おほつぶつてんでゆきみだれのなか勘次かんじあとからけた。

勘次は二人を加えて勢いづけられた手を素早く動かして、まだ暖まっている蒲団へそっと卯平を横たえた。

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勘次かんじ二人ふたりくはへていきほひづけられた敏活びんくわつうごかして、まだあたゝまつて蒲團ふとんへそつと卯平うへいよこたへた。

卯平の冷たい体には、落ち葉の火でおつぎが焙った褞袍と、それから余計な蒲団とが覆われた。

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卯平うへいつめたい身體からだには、落葉おちばでおつぎがあぶつた褞袍どてらそれから餘計よけい蒲團ふとんとがおほはれた。

卯平のかすかな息が、だんだんと回復して来る。

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卯平うへいかすかな呼吸いき段々だん/\恢復くわいふくしてる。

勘次はどんどんと落ち葉やそだを焚いた。

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勘次かんじはどん/\と落葉おちば麁朶そだいた。

彼はその時、雪の林に燃料を探すことの難しさを気にかける暇さえ持たなかったのである。

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かれときゆきはやし燃料ねんれうさがすことの困難こんなんなことを顧慮こりよするいとまさへたなかつたのである。

午後になって、この例年にない雪も止んだ。

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午後ごゝになつて例年れいねんにないゆきんだ。

空が、いかにもがっかりしたようにぼんやりした。

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そらもがつかりしたやうにぼんやりした。

おつぎが騒いだ心も静まって、また水を汲みに出た時、釣瓶の底は重くなって、抑えた鍵の手から外れようとしていた。

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おつぎがさわいだこゝろしづまつてまたみづみにとき釣瓶つるべそこおもつておさへたかぎからはづれようとしてた。

後ろの竹の林はべったりとうなだれた。

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うしろたけはやしはべつたりと俛首うなだれた。

冬のようにさらさらと潔い落ち方はしないで、湿りを持った雪は竹のこずえをぎっとつかんで放すまいとしている。

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ふゆのやうにさら/\といさぎよおちやうはしないで、うるほひをつたゆきたけこずゑをぎつとつかんではなすまいとしてる。

竹は苦しい息をするように、小さな枝が一つずつぴらりぴらりと動いて、その圧迫から逃れようと努めつつある。

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たけくるしい呼吸いきをするやうにちひさなえだひとつづゝぴらり/\とうごいて壓迫あつぱくからのがれようとつとめつゝある。

北から見れば白い柱であった樹木の幹も、ことごとく以前の姿になろうとして、ずんずんと雪を転がした。

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きたからればしろはしらであつた樹木じゆもくみき悉皆みんな以前いぜん姿すがたらうとしてずん/\とゆきころがした。

庭から先の桑畑は、ただいっぱいに白い。

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にはからさき桑畑くはばたたゞぱいしろい。

地上数寸の深さに、雪は積もっていた。

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地上ちじやう數寸すすんふかさにゆきつもつてた。

桑畑の端のほうに薹の立った菜種の、少し黄色く膨れた蕾は、すっくとその雪から伸び上がっている。

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桑畑くはばたはしはうとうつた菜種なたねすこ黄色きいろふくれたつぼみ聳然すつくりそのゆきからあがつてる。

そこらには枯れた蓬も、ぽつりぽつりと白い褥に上体をもたげた。

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其處そこらにはれたよもぎもぽつり/\としろしとね上體じやうたいもたげた。

頬白か何かが、菜種の花や枯れ蓬の陰の浅い雪に短い脛を立ててみたいのか、桑の枝をしなやかに蹴って活発に飛び下りた。

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頬白ほゝじろなにかゞ菜種なたねはな枯蓬かれよもぎかげあさゆきみじかすねてゝたいのかくはえだをしなやかにつて活溌くわつぱつびおりた。

そうしてまた枝に移った。

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さうしてまたえだうつつた。

後ろの田圃では、水はけの悪い田には降っているうちから雪は溶けつつあったので、畦がことさらに白い線を描いて目立った。

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うしろ田圃たんぼでは、みづこけのわるにはつてるうちからゆきけつゝあつたので、畦畔くろ殊更ことさらしろせんゑがいてたつた。

そこにも堀の辺りの、赤い実の錆びた野茨の枝に縦になったり横になったりして、ずんずんと消え行く雪を喜ぶように、頬白がちょんちょんと渡った。

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其處そこにもほりほとりあかびた野茨のばらえだたてつたりよこつたりして、ずん/\とゆきよろこぶやうに頬白ほゝじろがちよん/\とわたつた。

夕方には、田圃の白い線も途切れ途切れになった。

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夕方ゆふがたには田圃たんぼしろせん途切とぎれ/\につた。

どのこずえも白い物を止めないで、疲れたように濡れていた。

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何處どここずゑしろものとゞめないでつかれたやうにぬれた。

雪はことごとく土に落ち着いてしまった。

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ゆきこと/″\つちおちついてしまつた。

その落ち着いた雪を突き上げて、どこの屋根でも白い大きな塊のように見えた。

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そのおちついたゆきげて何處どこ屋根やねでもしろおほきなかたまりのやうにえた。

枯木の間には、ことさらそれがはっきりと目立った。

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枯木かれきあひだには殊更ことさらそれが明瞭はつきりつた。

黄昏の煙が青く割れた空へ吸われて、静かな日は暮れた。

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黄昏たそがれけぶりあをれたそらはれてしづかなれた。

卯平はすやすやと息を回復したままで、口は利かない。

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卯平うへいはすや/\と呼吸こきふ恢復くわいふくしたまゝくちかない。

ぴしゃぴしゃとしぶきの泥を蹴りながら、粟の茎の軒からも雪の解けて滴る勢いのいい雨垂れが止まないで、夜になった。

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ぴしや/\と飛沫しぶきどろりつゝ粟幹あはがらのきからもゆきけてしたゝいきほひのいゝ雨垂あまだれまないでよるつた。

その夜、南の女房は蒲団を二枚肩に掛けて持って来た。

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みなみ女房にようばう蒲團ふとんを二まいかたけてつてた。

一つには義理が済まないというので、卯平の様子を見に来たのである。

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ひとつには義理ぎりまぬといふので卯平うへい容子ようすたのである。

それは二度目であった。

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れは二度目どめであつた。

手ランプもない暗い小屋の内にしばらく語って女房が去った後、与吉は卯平の裾へ潜らせた。

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ランプもないくら小屋こやうちしばらかたつて女房にようばうつたのち與吉よきち卯平うへいすそもぐらせた。

おつぎはその一枚の蒲団を掛けて、卯平に添って身を横たえた。

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おつぎはの一まい蒲團ふとんけて卯平うへいうてよこたへた。

勘次は土間へ筵を敷いて、他の一枚の蒲団をかぶって、くるくると身を屈めた。

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勘次かんじ土間どまむしろいての一まい蒲團ふとんかぶつてくる/\とかゞめた。

彼は足を伸ばしたまま上体をもたげて、一度暗い床の上を見た。

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かれあしばしたまゝ上體じやうたいもたげて一くらゆかうへた。

ぴしゃぴしゃと落ちる滴が、しばらく彼の耳の底を打った。

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ぴしや/\とちる涓滴したゝりしばらかれみゝそこつた。

次の日は、朝からきらきらと照った。

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つぎあさからきら/\とつた。

暖かい日光は、勘次の土間まで這った。

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あたゝかい日光につくわう勘次かんじ土間どままでつた。

地上はすべて、柔らかな熱で蒸された。

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地上ちじやうすべやはらかな熱度ねつどもつされた。

物陰に一夜保ってゆっくりした雪が、慌てて溶けた。

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物陰ものかげに一たもつてゆつくりしたゆきあわてゝけた。

土がしっとりとして落ち着けられた。

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つちがしつとりとしてちつけられた。

卯平は目を開いた。

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卯平うへいひらいた。

彼は不審そうに辺りを見た。

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かれ不審相ふしんさうにあたりをた。

執念く土にひっついていた冬が、蒸されるような暖かさに居たたまらなくなって慌てて逃げ去った後へ、一遍に来た春の光の中に、彼は意識を回復した。

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執念しふねつちにひつゝいてふゆが、されるやうなあたゝかさにたゝまらなくつて倉皇そゝくさつたあとへ一ぺんはるひかりなかかれ意識いしき恢復くわいふくした。

彼は寒さが骨に徹するその夜のことをはっきりと頭に浮かべて判断するのには、気候の変化があまりに急激であった。

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かれさむさがほねてつするのことを明瞭めいれうあたまうかべて判斷はんだんするのには氣候きこう變化へんくわあまりに急激きふげきであつた。

彼はその間、人事不省の幾時間を過ごした。

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かれあひだ人事不省じんじふせい幾時間いくじかん經過けいくわした。

彼は与吉の無意識な告げ口から、ひどく悲しくはかなくなって、後で独り泣いた。

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かれ與吉よきち無意識むいしき告口つげぐちからひどかなしく果敢はかなくなつてあとひとりいた。

怒りの情を燃やすのには、彼はあまりに疲れていた。

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憤怒ふんぬじやうもやすのにはかれあまりつかれてた。

しかし自分でもその時、自分の身に変事の起ころうとすることは少しも予期していなかった。

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しか自分じぶんでもとき自分じぶん變事へんじおこらうとすることはすこし豫期よきしてなかつた。

彼は囲炉裏のそばで、夜のむしろ冷たい火に当たりながら、ふと気が変わって、ついと庭へ出た。

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かれ圍爐裏ゐろりそばで、よるむしつめたにあたりながらふとかはつてついとにはた。

彼は何かが足にまとわったのを知った。

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かれなにかゞあしまつはつたのをつた。

手に取ってみたら、それは荒縄であった。

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つてたらそれは荒繩あらなはであつた。

彼はそれからどうしたのか、はっきりと描いてみようとするには、頭があまりにぼんやりと疲れていた。

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かれはそれからどうしたのか明瞭めいれうゑがいてようとするには頭腦づなうあまりにぼんやりとつかれてた。

彼は勘次の庭に立った。

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かれ勘次かんじにはつた。

彼は荒縄が手にあったことに気づいた時、柿の木の低い枝にそれを引っ掛けようとして投げた。

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かれ荒繩あらなはつたことをこゝろづいたときかきひくえだにそれを引掛ひつかけようとしてげた。

彼の不自由な手は、暗い夜にその目的を遂げさせなかった。

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かれ不自由ふじいう暗夜あんや目的もくてきげさせなかつた。

彼は幾度投げても無駄であった。

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かれ幾度いくたびげても徒勞むだであつた。

身を切るような北風が田圃を渡って、それを隔てようとする後ろの林をごうっと押さえては吹き落ちて、彼の手の動きをまったく鈍くしてしまった。

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るやうな北風きたかぜ田圃たんぼわたつて、それをへだてようとするうしろはやしをごうつとおさへてはちて、かれ運動うんどうまつたにぶくしてしまつた。

やがて後ろの林のこずえから、斜めに雪が吹き下ろして来た。

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やがうしろはやしこずゑからなゝめゆききおろしてた。

卯平はしばらくためらって、柿の木の根にその疲れた身を寄せた。

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卯平うへい少時しばらく躊躇ちうちよしてかきつかれたせた。

しばらくして彼は、雪が冷たく自分の懐に溶けて不愉快に流れるのを知った。

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しばらくしてかれゆきつめたく自分じぶんふところとけ不愉快ふゆくわいながれるのをつた。

彼はそれから体が固まるように思いながら、疎らな白髪が梳られるのをも、かすかに感じた。

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かれはそれから身體からだかたまるやうにおもひながら、あら白髮しらがくしけづられるのをも、かすか感覺かんかくいうした。

鶏の声が耳に遠く聞こえて消えて行くのを知った。

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にはとりこゑみゝとほきこえて消滅せうめつするのをつた。

彼はついにうとうとしてしまった。

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かれつひにうと/\とつてしまつた。

さらに数十分間そのままに忘れられていたならば、彼はその時自分が望んだように、冷たい骸から蘇らなかったかも知れなかった。

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さらすう分間ぷんかんまゝわすられてたならばかれとき自分じぶんほつしたやうにつめたいむくろから蘇生よみがへらなかつたかもれなかつた。

勘次の冴えた目が、隙間から射す白い雪の光に欺かれて、おつぎを水汲みに出した。

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勘次かんじえた隙間すきまからしろゆきひかりあざむかれておつぎを水汲みづくみにした。

そうして卯平は救われたのである。

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さうして卯平うへいすくはれたのである。

「爺さん、どうした。心持ちは悪くないか、もう」

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ぢいどうした、心持こゝろもちわるかねえか、はあ」

と、おつぎは卯平が周囲を見た時、耳へ口を当てて言った。

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とおつぎは卯平うへい周圍あたりときみゝくちてゝいつた。

「動かないでろ、爺さん。食べたい物でもないか」

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いごかねえでろぢいべてえものでもねえか」

おつぎはまた柔らかに言った。

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おつぎはやはらかにいつた。

卯平はただうなずいた。

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卯平うへいたゞ點頭うなづいた。

「おとっつあん、そんでもちっとはしっかりしたか」

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「おとつゝあ、そんでもちつた確乎しつかりしてか」

勘次はその後について聞いた。

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勘次かんじいていた。

ほっと息をついたような様子は、勘次の心の底からの喜びであった。

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ほつといきをついたやうな容子ようす勘次かんじ衷心ちうしんからのよろこびであつた。

「おとっつあん、火傷は痛いかいまだ」

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「おとつゝあ、火傷やけどえてえけまあだ」

勘次はすぐに後の言葉を続けた。

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勘次かんじすぐあと言辭ことばつゞけた。

「枕はつけられないな」

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まくらはおつゝけらんねえな」

卯平は柔らかな目をしかめるようにした。

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卯平うへいやはらかなしがめるやうにした。

勘次はふいと駆け出して、しばらく経って帰って来た時には、手に白い晒し木綿と、古新聞紙の切れ端に包んだのを持っていた。

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勘次かんじはふいとしてしばらつてかへつてときにはしろ曝木綿さらしもめん古新聞紙ふるしんぶんがみ切端きれはしつゝんだのをつてた。

彼はそれを四つに裂いて、医者がしたように白い練り薬を腿の上でガーゼへ塗って、卯平の横頬へ貼って、晒し木綿でぐるぐると巻いた。

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かれはそれを四つにいて、醫者いしやがしたやうにしろ練藥ねりぐすりもゝうへでガーゼへつて、卯平うへい横頬よこほゝつた曝木綿さらしもめんでぐる/\といた。

彼は与吉にさえ白い薬を惜しんで、医者からもらったまましまっておいたのであった。

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かれ與吉よきちにさへしろくすりしんで醫者いしやからもらつたまゝしまつていたのであつた。

卯平はじっとして、勘次のするままに任せた。

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卯平うへい凝然ぢつとして勘次かんじまゝまかせた。

不器用な、少し動けば崩れそうな包帯であったが、それでも勘次の目には心丈夫であった。

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不器用ぶきようすこうごけばさう繃帶ほうたいであつたがそれでも勘次かんじには心丈夫こゝろじやうぶであつた。

彼は自分の恐怖を誘った傷が白い快い布で覆い隠されたのと、自分のなすべき仕事を果たし得たように感じられるのとで、心がにわかに軽くすがすがしくなった。

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かれ自分じぶん恐怖おそれさそうた瘡痍きずしろこゝろよいぬのもつおほかくされたのと、自分じぶんべき仕事しごとはたたやうにかんぜられるのとでこゝろにはかかるくすが/\しくなつた。

卯平も、どうなることかはっきりとは分からないながら、心の内では喜んだ。

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卯平うへいもどうなることかしかとはわからぬながらこゝろうちではよろこんだ。

勘次はまた、どこかへ出た。

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勘次かんじまた何處どこへかた。

彼はただ心がそわそわとして、容易には落ち着かなかった。

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かれたゞこゝろがそは/\として容易たやすくはおちつかなかつた。

柔らかな春の光は情を含んだ目をまばたきしながら、彼の狭い小屋を細やかに萱や篠の隙間から覗いて、卯平の裾にも這った。

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やはらかなはるひかりなさけふくんだまたゝきしながらかれせま小屋こやをこまやかにかやしの隙間すきまからのぞいて卯平うへいすそにもつた。

卯平はしばらく目を閉じたままでいたが、またぱっちりと目を開いた。

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卯平うへいしばらつぶつたまゝたがたぱつちりといた。

そばにはおつぎが座っていた。

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そばにはおつぎがすわつてた。

「おつう」

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「おつう」

と、卯平は低い声で呼んだ。

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卯平うへいひくこゑんだ。

「何だい」

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なんでえ」

おつぎはまた耳へ口を当てた。

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おつぎはまたみゝくちてた。

卯平は右の手を出して蒲団の上へ伸ばして

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卯平うへいみぎして蒲團ふとんうへのばして

「熱ぼったいから一枚取ってくれないか」

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あつぼつてえから一めえとつてくんねえか」

力ない、すがるような声で言った。

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ちからないすがるやうなこゑでいつた。

「本当に暖かくなったんだよなあ。お日様までひどくまぶしくなったようなんだよ」

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本當ほんたうぬくとつたんだよなあ日輪おてんとさままでひどまちつぽくなつたやうなんだよ」

おつぎは例の少し甘えるような口ぶりで、一枚の掛け蒲団を取った。

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おつぎはれいすこあまえるやうな口吻くちつきで一まい掛蒲團かけぶとんをとつた。

「この蒲団は板っ端みたいなんだよなあ。これを取ったほうが爺さんは軽くなってよかろうな、ほんに。そう言っても、暖かくなるというのはいいもんだよ。おれは昨日らみたいじゃどうしようと思ったっけ」

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蒲團ふとんいたぱちてえなんだよなあ、れとつたはうぢいかるつてよかつぺなほんに、さうつてもぬくとくなるつちやえゝもんだよ、作日等きのふらてえぢやどうすべとおもつたつきや」

おつぎは掛け蒲団を四つにして、卯平の裾へ置いた。

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おつぎは掛蒲團かけぶとんつにして卯平うへいすそいた。

「彼岸を過ぎてこんなことというのは、おれが覚えてからだってめったにはないこったから、これから暖かくなるばかりだな。麦も一日ごとに腰が引き立つな」

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彼岸ひがんぎてうだことつちやおべえてからだつで滅多めつたにやねえこつたかられからぬくとるばかしだな、むぎ一日毎いちんちごめらこしたな」

卯平はやや快さそうに言った。

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卯平うへいやゝこゝろよげにいつた。

「おれの家の麦は今のところじゃ村でも悪くないんだぞ。おれはそんだが、先のころは畑を耕すのはいやだったっけな、本当に。おとっつあんには、深く耕せ、深く耕さないじゃ肥料をしたって役には立たないからなんて怒られてなあ」

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むぎいまところぢや村落むらでもわるかねえんだぞ、らそんだがせんはたけうなあなだつけな本當ほんたうに、おとつゝあにやふかうなへ、ふかうなあねえぢや肥料こやししたつてやくにやたねえからなんておこられてなあ」

「うん、畑は深くなくちゃ穫れないものよ、それは。おれは若いころには、この間のように浅く耕すもんだとは思わなかったのだから。今じゃもう、みんな利口になってるから、おれには分からないが」

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「うむ、はたきふかくなくつちや收穫んねえものよそら、らあさかりころにや此間こねえだのやうにあさうなあもんだたあねえのがんだから、現在いまぢやはあ、悉皆みんな利口りこうんなつてつかららがにやわかんねえが」

「深く耕しちゃ、逆さの旋毛を立てるみたいで、やりつけないじゃなんぼ大儀いかよなあ。そんだがおれは今じゃ、お前のほうがおれより深いくらいだなんて、おとっつあんには言われるのよ」

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ふかうなつちや逆旋毛さかさつむじてるてえでりつけねえぢやなんぼ大儀こええかよなあ、そんだがいまぢや、われはうれよりふけえつくれえだなんておとつゝあにやはれんのよ」

「大儀いにもよ、それは。そんでもお前はよくやるな。以前は女に三年作らせちゃ畑はできなくなると言ったくらいだ」

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大儀こええにもよそら、そんでもりやくやんな、以前めえかたをんなに三ねんつくらせちやはたけ出來できなくなるつちつたくれえだ」

「そっちから、おれはいくらも耕さないんだよ、このごろは。そんでもそんなに大儀いとは思わなくなったがな、おれも」

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「そつからいくらもうなえねえんだよらそんでもさうだに大儀こええたおもはなくなつたがならも」

おつぎが言うのを卯平はまた柔らかに目をしかめるようにして聞きながら、軽くなった掛け蒲団を足の先で裾のほうへ寄せて、少し身動きをした。

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おつぎがいふのを卯平うへいまたやはらかにしがめるやうにしてきながら、かるつた掛蒲團かけぶとんあしさきすそはうへこかしてすこ身動みうごきをした。

おつぎはその時ちらと出した卯平の手を、初めて気がついたように

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おつぎはときちらとした卯平うへいはじめてがついたやうに

「爺さんは手も痛くしてるんだったな。そんじゃさっき、薬を貼ってもらうとこだったっけな」

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ぢいえたくしてんだつけな、そんぢや先刻さつきくすりつてもらあとこだつけな」

おつぎは卯平の手先を手にして見た。

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おつぎは卯平うへい手先てさきにしてた。

「こっちはそれほどはひどくないや、そんでもなあ」

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「こつちはそれだひどかねえやそんでもなあ」

おつぎは安心したように、そっと手を放した。

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おつぎは安心あんしんしたやうにそつとはなした。

勘次は忙しげな様子をして帰った。

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勘次かんじいそがしげな容子ようすをしてかへつた。

彼は蒲団を二、三枚畳んだまま、帯で背負って来た。

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かれ蒲團ふとんを二三まいたゝんだまゝおび脊負しよつてた。

「どうだい、おとっつあん、昨夜はそんでも寒くはなかったっけかい」

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「どうしてえおとつゝあ、昨夜ゆんべはそんでもさむかなかつたつけゝえ」

彼は荷物を卯平の裾のほうへ下ろして、胸で結んだ帯を解きながら言った。

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かれ荷物にもつ卯平うへいすそはうおろしてむねむすんだおびきながらいつた。

「熱ぼったいって、今蒲団を一枚取ったところなんだよ」

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あつぼつてえつていま蒲團ふとんめえとつたところなんだよ」

おつぎは横合いから言った。

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おつぎは横合よこあひからいつた。

「うん、そうだ。この蒲団は返さなくちゃならないから」

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「うむ、さうだ、蒲團ふとんけえさなくつちやなんねえから」

勘次は独り言を言って

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勘次かんじ獨語どくごして

「どうした、おとっつあん、薬を貼ってちっとはよくないかい」

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「どうしたおとつゝあ、くすりつてちつたよかねえけ」

彼はまた白い晒し木綿を見て言った。

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かれまたしろ曝木綿さらしもめんていつた。

「うん、そうだ、枕がつけられるようになったからいいことはいいに」

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「うむ、まくらおつゝかるやうにつたからえゝこたえゝに」

卯平の言うのを聞いて、勘次はいくらか誇りを持ってまた白い木綿を見た。

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卯平うへいのいふのをきい勘次かんじいくらかほこりもつまたしろ木綿もめんた。

「おとっつあん、食べたい物でもないかい。おれは明日、川向こうへ行って来ようと思うんだ」

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「おとつゝあ、べてえものでもねえけえ、明日あした川向かはむかうつてべとおもふんだ」

勘次はまだいくらか心にわだかまりがあるというよりも、こそばゆいところが取れきらないようで、しかも努めて機嫌を取るような様子であった。

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勘次かんじはまだいくらかこゝろわだかまりがあるといふよりも、こそつぱいところらないやうでしかつとめて機嫌きげんをとるやうな容子ようすであつた。

「うん」

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「うむ」

と卯平は言って、唾をぐっと飲んだ。

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卯平うへいはいつてつばきをぐつとんだ。

「格別もう、食べたいという物もないが」

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格別かくべつはあ、べてえつちものもねえが」

彼の目にはまた改めて、柔らかな光が宿った。

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かれにはまたあらためてやはらかなひかりつた。

「そんじゃおとっつあん、水飴でも買って来てやったらよかろうな。与吉に隠しておけば何でもあるまいな」

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「そんぢやおとつゝあ水飴みづあめでもつててやつたらよかつぺな、與吉よきかくしてけばなんでもんめえな」

おつぎはさらに卯平を顧みて

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おつぎはさら卯平うへいかへりみて

「なあ爺さん、そのほうがよかろう」

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「なあぢゝはうがよかつぺ」

と言いかけた。

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といひけた。

卯平は、そのしかめるような目でかすかにうなずいた。

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卯平うへいしがめるやうなかすかに點頭うなづいた。

「おとっつあん、どうせ茶漬け茶碗も要るから、茶碗を買って、それへ水飴を入れて縄で縛って来よう。そうするといいや」

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「おとつゝあ、どうせ茶漬茶碗ちやづけぢやわんつから茶碗ちやわんつてそれさ水飴みづあめえてなはしばつてう、さうすつとえゝや」

「そうでも何でもしようよな」

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「さうでもなんでもすびやな」

「それに、明日行ったらまた薬をもらって来よう。爺さんの手にも貼ってやらなくちゃ仕方がないぞ」

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「それに、明日あしたつたらまたくすりもらつてう、ぢいさもつてやんなくつちややうねえぞ」

「おれは言われないでも、薬は気がついてたのよ」

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はんねえでもくすりきいついてたのよ」

勘次は、おつぎの言うのを迎えて聞いた。

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勘次かんじはおつぎのいふのをむかへていた。

彼の三尺帯には、その時もぎっとくくった塊があった。

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かれの三尺帶じやくおびにはときもぎつとくゝつたかたまりがあつた。

その財布のわずかな蓄えは、この数日間にどれほど彼を救ったか知れなかった。

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その財布さいふわづかたくはへはこの數日間すじつかんにどれほどかれすくつたかれなかつた。

彼はまだいくらかの日用品を求める余力を持っていた。

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かれはまだいくらかの日用品にちようひんもとめる餘力よりよくいうしてた。

彼は開墾の賃金を手にすることができればという望みが、十分にあった。

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かれ開墾かいこん賃錢ちんせんにすることが出來できればといふのぞみが十ぶんにあつた。

ただ彼は今、その幾部分でも要求することが、自分の火が焼いたその主人の家に対して、とても口にするだけの勇気が起こされなかったのである。

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たゞかれ目下いま幾部分いくぶぶんでも要求えうきうすることが、自分じぶんいた主人しゆじんうちたいしてとてくちにするだけの勇氣ゆうきおこされなかつたのである。

二八

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二八

勘次は昼過ぎになって、また外に出た。

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勘次かんじ午餐過ひるすぎになつてそとた。

もつれた心を持って、彼は少しうなだれつつ歩いた。

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紛糾こぐらかつたこゝろつてかれすこ俛首うなだれつつあるいた。

暖かな光は、畑の土を所々さらりと乾かし始めた。

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あたゝかなひかりはたけつち處々ところ/″\さらりとかわかしはじめた。

ことさらがっかりしたようにしおたれた櫟の枯れ葉も、からからになった。

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殊更ことさらがつかりしたやうにしをたれたくぬぎ枯葉かれはもからからにつた。

すべての樹木は勢いづいていた。

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すべての樹木じゆもくいきほひづいてた。

村の所々には、まだ少し舌を出しかけたような白い辛夷が、にわかにぽっと開いて、青い空にほかほかと浮かんで、竹のこずえを抜け出していた。

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村落むら處々ところ/″\にはまだすこしたけたやうなしろ辛夷こぶしが、にはかにぽつとひらいてあをそらにほか/\とうかんでたけこずゑしてた。

ただ蒿雀は冬も春もわきまえないように、暖かい日なたから陰気な竹の林を求めて低い小枝を渡って、下手な鳴き方をして、そうしてなおかつ日なたへ出て土をぴょんぴょんと跳ねた。

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たゞ蒿雀あをじふゆはるわきまへぬやうに、あたゝかい日南ひなたから隱氣いんきたけはやしもとめてひく小枝こえだわたつて下手へたきやうをして、さうして猶且やつぱり日南ひなたつちをぴよん/\とねた。

すべての心は、暖かな光の中に溶けてしまわねばならなかった。

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すべてのこゝろあたゝかなひかりなかけてしまはねばならなかつた。

勘次は依然としてうなだれたまま、ついに隣の主人の門をくぐった。

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勘次かんじ依然いぜんとして俛首うなだれたまゝつひとなり主人しゆじんもんくゞつた。

焼け跡は礎を残して、清潔に掻き払われてあった。

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燒趾やけあといしずゑとゞめて清潔きれいはらはれてあつた。

中央の大きかった建物を失って、庭は高木に囲まれている。

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中央ちうあうおほきかつた建物たてものうしなつてには喬木けうぼくかこまれてる。

赤茶けて焼けた杉の木を控えて、からりとした庭は、赤土の崖の底に沈んだように見える。

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あかけたすぎひかへてからりとしたにはは、赤土あかつち斷崖だんがいそこしづんだやうにえる。

青い空を限って立った高木のこずえが、さらに高く感じられた。

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あをそらかぎつてつた喬木けうぼくこずゑさらたかかんぜられた。

勘次は恐ろしい異常な感じに圧された。

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勘次かんじおそろしい異常いじやうかんじにあつせられた。

隣の主人の家族は、長屋門の一部に畳を敷いて仮の住まいを形づくっていた。

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となり主人しゆじん家族かぞく長屋門ながやもんの一たゝみいてかり住居すまゐかたちづくつてた。

主人夫婦は、勘次の目からはさすがに災難の後の乱れた様子が少しも見出されなかった。

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主人夫婦しゆじんふうふ勘次かんじからは有繋さすが災厄さいやくあとみだれた容子ようすすこしも發見はつけんされなかつた。

主人夫婦の曇らない顔が、ひたすら恐怖にとらわれた勘次の首をもたげさせた。

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主人夫婦しゆじんふうふくもらぬかほ只管ひたすら恐怖きようふとらへられた勘次かんじくびもたげしめた。

ことに内儀さんの迎えて聞く態度が、彼が言いたかった幾部分をようやくに打ち明けさせた。

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こと内儀かみさんのむかへて態度たいどが、かれのいひたかつた幾部分いくぶぶんやうやくにけしめた。

「お内儀さん、これは運の悪い者は仕方がありませんね」

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「お内儀かみさん、こらうんわりやうありあんせんね」

彼は憐れに声を投げかけた。

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かれあはれにこゑけた。

彼の災難の後に、しみじみとこういうことを聞いてくれる者は、内儀さんのほかにはまだなかったのである。

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かれ災厄さいやくのちにしみ/″\とういふことをいてくれるもの内儀かみさんのほかにはまだなかつたのである。

「そんだがこれ、お内儀さんらの家からなんぞ見た日には爪の垢だから、わしらなんざ辛いも悲しいもない話なんだが」

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「そんだがれお内儀かみさんらあからなんぞにやつめあかだからわしなんざつれえもかなしいもねえはなしなんだが」

彼は自分の不運を訴えるのに、自分一身のことよりほかは何物もその心に行き来してはいなかった。

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かれ自分じぶん不運ふうんうつたへるのに、自分じぶんしんのことよりほか何物なにものこゝろ往來わうらいしてはなかつた。

彼はふと、自分の火が焼いたことを思った時、ひどく自分のことばかりを言ってしまったのが、済まないような心持ちがしてならなかった。

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かれはふと自分じぶんいたことをおもつたときひど自分じぶんのことのみをいつてしまつたのがまないやうな心持こゝろもちがしてならなかつた。

「まあ惜しいと言えば紙一枚でも何だが、これ、家はすぐにも建てれば建つんだが、樹が惜しいことをしたって言ってるのさ。それだが、これもそんなことを言ったって仕方がないがね」

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「まあしいといへばかみまいでもなんだが、これ、うちぐにもてればつんだが、しいことをしたつてつてるのさ、それだがれもそんなことをつたつて仕方しかたがないがね」

内儀さんは、そそり立ってはいるが到底枯れ死ぬべき運命を持っている高木の数本を、端近に見上げて言った。

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内儀かみさんは聳然すつくりたつてはるが到底たうてい枯死こしすべき運命うんめいつて喬木けうぼく數本すうほん端近はしぢか見上みあげていつた。

遠く落ちかけた日が、はっきりとそのこずえに光った。

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とほけた劃然かつきりこずゑひかつた。

勘次の顔は青くなって、ぐったりと頭を垂れた。

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勘次かんじかほあをくなつてぐつたりとあたまれた。

彼はしばらく沈黙を保った。

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かれしばら沈默ちんもくたもつた。

「どうしたね。私も気のつかないことをしていたが、お前も丸焼けで仕方があるまいが、少しは銭でも持って行くかね」

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「どうしたね、わたしのつかないことをしてたが、おまへ丸燒まるやけやうあるまいがすこしはぜにでもつてくかね」

内儀さんは、勘次の心を推し量ったように言った。

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内儀かみさんは勘次かんじこゝろ推察すゐさつしたやうにいつた。

「へえ」

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「へえ」

勘次の首はさらにうなだれた。

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勘次かんじくびさらうなだれた。

彼の目は潤んだ。

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かれうるんだ。

「わしももう、そうならなんぼ助かるかも知れませんが、お内儀さんの所へそう言って来るわけにも行かないで」

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「わしもはあ、そんならなんぼたすかるかもれあんせんが、お内儀かみさんとこささうつてわけにもがねえで」

と、勘次は乱れた髪へ手を当てて、媚びるような様子をして言った。

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勘次かんじみだれた頭髮かみてゝびるやうな容子ようすをしていつた。

「それだが、お前にやるくらいならどうにかなるから、心配しなくてもいいよ」

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「それだがおまへにやるくらゐならどうにかるから心配しんぱいしなくつてもいよ」

「わしもこれ、罰が当たったんでしょう。そう思うよりほかありませんから」

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「わしもれ、ばちあたつたんでがせう、さうおもふよりほかりあんせんから」

勘次はしばらく間を置いて

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勘次かんじしばらあひだいて

「わしも女房に因果を見せて、罪を作ったのが悪いんでしょう」

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「わしもかゝあこと因果いんぐわせてつみつくつたのりいんでがせう」

彼の声は沈んだ。

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かれこゑしづんだ。

「お内儀さん、わしはどんな形にか家も建てなくちゃならないから、その時は家族の始末もつけようと思ってるんですが、お内儀さん、またわしのことを面倒見ておくんなさい。わしのところの野郎もそのうちもう大きくなって来るから、学校もあとちっとにして、百姓をみっしり仕込もうと思ってるんでございますがね」

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「お内儀かみさん、わしどんななりにかうちてなくつちやなんねえから、そんとき家族うちきまりもつけべとおもつてんですが、お内儀かみさんまたわしこと面倒めんだうておくんなせえ、わし野郎やらうそのうちはあえかつてつから學校がくかうもあとちつとにして百姓ひやくしやうみつしら仕込しこむべとおもつてんでがすがね」

「そうかえ」

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「さうかえ」

内儀さんは慰めるように言った。

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内儀かみさんはなぐさめるやうにいつた。

「お内儀さん、親不孝だなんてのは、親が警察へでも願って出なけりゃ、巡査ばかりじゃどうすることもできないもんでございましょうかね」

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「お内儀かみさん親不孝おやふかうだなんちな、おや警察けいさつへでもねがつてなけりや巡査じゆんさばかしぢやどうすることも出來できねえもんでござんせうかね」

勘次はさっきからの話の内にも、何だか後ろから物に襲われるような様子が止まなかったが、ついにこう言った。

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勘次かんじ先刻さつきからのはなしうちにもなんだかうしろからものおそはれるやうな容子ようすまなかつたがつひういつた。

「そうさね。巡査だって、むやみにどうかするということもないんだろうと思うようだがね」

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「さうさね、巡査じゆんさだつて無闇むやみにどうかするといふこともないんだらうとおもふやうだがね」

内儀さんは意外な面持ちで言った。

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内儀かみさんは意外いぐわい面持おももちでいつた。

「これからもう、わしも爺さんのことを面倒見ようと思うんでございますがね。今からでもお内儀さん、間に合わないことはありますまいね」

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れからはあ、わしも爺樣ぢいさまこと面倒めんだうべとおもふんでがすがね、いまツからでもお内儀かみさん間合まにやあねえこたありあんすめえね」

「そうだよ。老人なんていうものは少しの加減なんだから、まあ心配させないようにしたほうがいいよ。そう言っちゃ何だが、後いくらも生きるんじゃなしねえ」

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「さうだよ、老人としよりなんていふものはすこしの加減かげんなんだから、まあ心配しんぱいさせないやうにしたはういよ、さういつちやなんだがあといくらもきるんぢやなしねえ」

「へえ、そうでございますよ。昨日らから、ちっと柔らかい言葉を掛けると嬉しがってるんですから。それからわしは、野郎にもらって来た火傷の薬も貼ってやったんでさ。薬が足りなくなっちまったから、医者さまへ行って来ようと思ったっけが、今日は午後でいないだろうと思うから明日にしようと思って止めたのさ。明日行ったら水飴でも買って来てやれなんて、おつうも言うもんでございますからね」

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「へえさうでがすよ、昨日等きのふらツからちつとやつけ言辭ことばけつとうるしがつてんですから、それからわし野郎やらうもらつて火傷やけどくすりつてやつたんでさ、くすりんなくつちやつたから醫者樣いしやさまつてべとおもつたつけが、今日けふ午後ひるすぎめえとおもふから明日あしたにすべとおもつてめたのせ、明日あしたつたら水飴みづあめでもつててやれなんておつうもふもんでがすからね」

「火傷したなんて聞いたっけが、それでも家へ連れて来てかね」

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火傷やけどしたなんていたつけがそれでもうちれててかね」

「へえ」

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「へえ」

勘次は、その明け方のことをどうしてか内儀さんがまだ知らないらしいのでほっと息をついたが、また自分から恥じて、簡単に曖昧にこう言った。

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勘次かんじ佛曉あけがたのことをどうしてか内儀かみさんがまだらぬらしいのでほつといきをついたがまた自分じぶんからぢて、簡單かんたん瞹昧あいまいういつた。

「お内儀さん、こうちっとでもよくない銭が入っちゃ、末始終はどうしてもいいことはありますまいね」

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「お内儀かみさん、こうちつとでもよくねえぜにへえつちや末始終すゑしじうはどうしてもえゝこたありあんすめえね」

勘次はさらにまた、ひどく心配そうな様子をして突然に聞いた。

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勘次かんじさらにまたひど懸念けねんらしい容子ようすをして突然とつぜんいた。

「そうさねえ」

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「さうさねえ」

内儀さんは、勘次の心持ちがはっきりとは分からないので、気の乗らないように言った。

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内儀かみさんは勘次かんじ心持こゝろもち明瞭はつきりとはわからないのでらぬやうにいつた。

「そんだがお内儀さん、そういう銭は自分のために役に立てさえしなけりゃ、どうしても違いましょうね」

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「そんだがお内儀かみさんさうえぜに自分じぶんのげやくてせえしなけりやどうしてもちげえあんすべえね」

勘次は内儀さんに分かっても分からなくても、そんなことを考える余裕がなかった。

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勘次かんじ内儀かみさんにわかつてもわからなくても、そんなことをかんがへる餘裕よゆうがなかつた。

彼はただ自分の心配だけを、底から蓋から打ち傾けてしまわねば堪えられなかったのである。

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かれたゞ自分じぶん心配しんぱいだけをそこからふたからけてしまはねばへられなかつたのである。

「そうだが、それもどういう筋の銭だか分からないが、そりゃ使っちゃいけないんだろうさね」

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「さうだが、それもどういふすぢぜにだかわからないがそりや使つかつちやいかないんだらうさね」

「そんじゃお内儀さん、他人の銭をなくしたのなんぞ見つけても知らない様子なんぞして、後でやるのは盗ったみたいで変な時は、何かで落とした分だけの物でもやれば、それでも違いましょうね」

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「そんぢやお内儀かみさん他人ひとぜになくしたのなんぞ發見めつけてもらねえ容子ふりなんぞして、あとんなつたてえでをかしときや、なんでかでおつことしただけものでもやればそれでもちげえあんすべね」

勘次は少し、自分の言うことの中身を打ち明けるように言った。

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勘次かんじすこ自分じぶんのいふことの内容ないようけるやうにいつた。

「黙っていればそれっきりなんだが」

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だまつてればそれつきりなんだが」

彼は独り喉の底で言った。

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かれひとりのどそこでいつた。

「そりゃそんなことしないで、見つけた物なら、そのまま返すのが本当だよ」

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「そりやそんなことしないで發見みつけたものなら其儘そつくりかへすのが本當ほんたうだよ」

内儀さんは声は低かったが、きっぱりと言った。

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内儀かみさんはこゑひくかつたがきつぱりいつた。

勘次の惑った心の底には、それがびりっと強く響いた。

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勘次かんじまどうたこゝろそこにはそれがびりゝとつよひゞいた。

「そんじゃお内儀さん、それを返して、またそのほかにも何とかしたら、冥利の悪いようなこともありますまいな」

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「そんぢやお内儀かみさんそれけえしてまたほかにもなんとかしたら冥利みやうりりいやうなこともりあんすめえな」

彼は情けなげな目で内儀さんをちらりと見て言った。

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かれなさけなげな内儀かみさんをちらりとていつた。

「そんなことはしなくたって、何もよさそうなもんだね」

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「そんなこたなくつたつてなにもよかりさうなもんだね」

内儀さんは、勘次のあまりに心配そうな様子にとっくから気づいたことがあった。

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内儀かみさんは勘次かんじあまりに懸念けねんらしい容子ようすとうからこゝろづいたことがあつた。

内儀さんは、しばらく聞かなかった彼の盗み癖に思い至った。

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内儀かみさんはしばらかなかつたかれ盜癖たうへきおもいたつた。

しかし彼が自分からひどく悔いつつあるらしいのを心に確かめて、強いては追及しようという思いも起こし得なかった。

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しかかれ自分じぶんからはなはだしくいつゝあるらしいのをこゝろたしかめてひては追求つゐきうしようといふ念慮ねんりよおこなかつた。

勘次はただ不憫に見えた。

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勘次かんじたゞ不便ふびんえた。

内儀さんはふと思い出して、少しばかりの銀貨を勘次のそばへ並べて

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内儀かみさんはふとおもしてすこしばかりの銀貨ぎんくわ勘次かんじそばならべて

「そりゃそうと、お前も家族の始末をつけるつもりだっていうんだが、まあどうするつもりなんだね」

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「そりやさうと、おまへ家族うちきまりをつけるつもりだつていふんだが、まあどうするつもりなんだね」

と静かに聞いた。

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しづかいた。

「そうでございますね」

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「さうでござんすね」

勘次はぐったりとうなだれて、言葉の尻が聞き取れないほどであった。

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勘次かんじはぐつたりと俛首うなだれて言辭ことばしりきとれぬほどであつた。

深い憂いが、顔の皺に強く刻んだ。

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ふかうれひ顏面かほしわつよきざんだ。

「わしもこれ……」

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「わしもれ……」

と彼はかすかに言ったのみで、沈黙を続けた。

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かれかすかにいつたのみで沈默ちんもくつゞけた。

彼は内儀さんの前に、どうしても述べなければならないことに、その心が惑乱した。

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かれ内儀かみさんのまへにどうしてものべなければならないことにそのこゝろ惑亂わくらんした。

彼はぼうっとして、目がくらもうとした。

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かれはぽうつとしてくらまうとした。

遠く呼ぶようで、しかも近い声のために彼が我に返った時

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とほぶやうでしかちかこゑためかれわれかへつたとき

「それじゃお前、まあこの銭をしまったらどうだね」

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「それぢやおまへ、まあこのぜにしまつたらどうだね」

と、内儀さんが促したのであった。

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内儀かみさんがうながしたのであつた。

心の底から困ったような彼に向かって、内儀さんはもう追及する力を持たなかった。

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衷心ちうしんからこまつたやうなかれむかつて内儀かみさんはもう追求つゐきうするちからもたなかつた。

「誠にどうも、お内儀さん」

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まことにどうもお内儀かみさん」

彼は財布を帯から解いて出した時、ひどく減ってしまったように感じて、その財布を外からちょっと見て首を傾げた。

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かれ財布さいふおびからいてしたときひどつてしまつたやうにかんじて、財布さいふそとから一寸ちよつとくびかたぶけた。

彼はまた財布の底の銭をつかみ出してみた。

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かれまた財布さいふそこぜにつかしてた。

焼け跡の灰から出て青銅のように変わった銅貨は、ぽつぽつと焼けた皮を残して、鮮やかな地肌が剥けていた。

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燒趾やけあとはひから青銅せいどうのやうにかはつた銅貨どうくわはぽつ/\とけたかはのこしてあざやかな地質ぢしつけてた。

彼はそれを目に近づけて、しばらくじっと見入った。

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かれはそれをちかづけてしばら凝然ぢつ見入みいつた。

彼は気づいた時、にわかに恐れたように内儀さんを顧みて、じゃらりとその銭を財布の底へ落とした。

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かれこゝろづいたときにはかおそれたやうに内儀かみさんをふりかへつてじやらりとぜに財布さいふそこおとした。

(完)

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