土 現代語訳
長塚節(ながつかたかし)・1987年
AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-08-03)
「土」
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「土」
について
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に就て
漱石
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漱石
「土」
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「土」
が「東京朝日」
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が「東京朝日」
に連載されたのは一昨年のことである。
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に連載されたのは一昨年の事である。
そうして、その責任者は私であった。
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さうして其責任者は余であつた。
ところが不幸にも私は「土」
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所が不幸にも余は「土」
の完結を見ないうちに病気にかかって、新聞を手にする自由を失ったきり、また「土」
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の完結を見ないうちに病氣に罹つて、新聞を手にする自由を失つたぎり、又「土」
の作者を思い出す機会を持たなかった。
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の作者を思ひ出す機會を有たなかつた。
当初五、六十回の予定であった「土」
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當初五六十囘の豫定であつた「土」
は、いつのまにか意外な長編に育っていた。
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は、同時に意外の長篇として發達してゐた。
途中で話の糸口を忘れた私は、もう一度それを取り上げて、でたらめな区切りから改めて読み出す勇気を奮い起こしにくかったので、つい、それきり放り出したようなものの、腹の中ではひそかに作者の根気と精力に驚いていた。
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途中で話の緒口を忘れた余は、再びそれを取り上げて、矢鱈な區切から改めて讀み出す勇氣を鼓舞しにくかつたので、つい夫限に打ち遣つたやうなものゝ、腹のなかでは私かに作者の根氣と精力に驚ろいてゐた。
「土」
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「土」
はたしか百五、六十回に至ってようやく結末に達したのである。
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は何でも百五六十囘に至つて漸く結末に達したのである。
冷淡な世間と多忙な私は、その後長らく「土」
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冷淡な世間と多忙な余は其後久しく「土」
のことを忘れていた。
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の事を忘れてゐた。
ところが、ある時、この間亡くなった池辺君に会って、偶然話が小説に及んだ折、池辺君は、なぜ「土」
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所がある時此間亡くなつた池邊君に會つて偶然話頭が小説に及んだ折、池邊君は何故「土」
は出版にならないのだろうと言って、だいぶ長塚君の作をほめていた。
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は出版にならないのだらうと云つて、大分長塚君の作を褒めてゐた。
池辺君はその当時「朝日」
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池邊君は其當時「朝日」
の主筆だったので、「土」
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の主筆だつたので「土」
は初めから終わりまで目を通したのである。
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は始から仕舞迄眼を通したのである。
そのうえ池辺君は、自分で文学を知らないと言いながら、その実、誠実な批評眼を持って「土」
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其上池邊君は自分で文學を知らないと云ひながら、其實摯實な批評眼をもつて「土」
を根気よく読み通したのである。
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を根氣よく讀み通したのである。
私は、出版界の不景気のために「土」
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余は出版界の不景氣のために「土」
の単行本が出る時機がまだ来ないのだろうと答えておいた。
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の單行本が出る時機がまだ來ないのだらうと答へて置いた。
その時、心の中では、ずいぶん「土」
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其時心のうちでは、隨分「土」
に比べるとつまらないものも世に出される今日だから、できるならいつか書物にまとめておいたら作者のためによかろうと思ったが、不親切な私は、その日が過ぎるとまた「土」
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に比べると詰らないものも公けにされる今日だから、出來るなら何時か書物に纏めて置いたら作者の爲に好からうと思つたが、不親切な余は其日が過ぎると、又「土」
のことをまるで忘れてしまった。
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の事を丸で忘れて仕舞つた。
すると、この春になって長塚君が突然訪ねて来て、ようやく本屋が「土」
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すると此春になつて長塚君が突然尋ねて來て、漸く本屋が「土」
を引き受けることになったから、序文を書いてくれまいかという依頼である。
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を引受ける事になつたから、序を書いて呉れまいかといふ依頼である。
私はその時、自分の小説を毎日一回ずつ書いていたので、「土」
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余は其時自分の小説を毎日一囘づゝ書いてゐたので、「土」
を読み返す暇がなかった。
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を讀み返す暇がなかつた。
やむをえず、自分の仕事が済むまで待ってくれと答えた。
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已を得ず自分の仕事が濟む迄待つてくれと答へた。
すると長塚君は、池辺君の序文もほしいから、ついでに紹介してもらいたいと言うので、私はすぐ承知した。
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すると長塚君は池邊君の序も欲しいから序でに紹介して貰ひたいと云ふので、余はすぐ承知した。
私の名刺を持って「土」
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余の名刺を持つて「土」
の作者が池辺君の玄関に立ったのは、池辺君のお母さんが亡くなってちょうど三十五日にあたる日とかで、長塚君はただ立ったまま用件だけを頼んで帰ったそうであるが、それから三日して肝心の池辺君も突然亡くなってしまったから、同君の序文はとうとう手に入らなかったのである。
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の作者が池邊君の玄關に立つたのは、池邊君の母堂が死んで丁度三十五日に相當する日とかで、長塚君はたゞ立ちながら用事丈を頼んで歸つたさうであるが、それから三日して肝心の池邊君も突然亡くなつて仕舞つたから、同君の序はとう/\手に入らなかつたのである。
私は「彼岸過迄」
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余は「彼岸過迄」
を片づけるやいなや、前の約束を守って「土」
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を片付けるや否や前約を踏んで「土」
の校正刷りを読み出した。
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の校正刷を讀み出した。
思ったよりも長編なので、前後半日と丸一日をつぶしてようやく読み終えて考えてみると、なかなか骨の折れた作品である。
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思つたよりも長篇なので、前後半日と中一日を丸潰しにして漸く業を卒へて考へて見ると、中々骨の折れた作物である。
私はもともと安っぽい人間であるから、たいていの人のものを見るとすぐ感心したがる癖があるが、この「土」
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余は元來が安價な人間であるから、大抵の人のものを見ると、すぐ感心したがる癖があるが、此「土」
においてもまったくそうであった。
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に於ても全くさうであつた。
まず何よりも先に、これはとうてい私に書けるものではないと思った。
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先づ何よりも先に、是は到底余に書けるものでないと思つた。
次に、今の文壇で長塚君を除いたらだれが書けるだろうと、あれこれ捜してみた。
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次に今の文壇で長塚君を除いたら誰が書けるだらうと物色して見た。
すると、やはりだれにも書けそうにないという結論に達した。
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すると矢張誰にも書けさうにないといふ結論に達した。
もっとも、だれにも書けないと言うのは、文章を操る技量の点や、人間を生き生きと動かす天賦の力を指すのではない。
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尤も誰にも書けないと云ふのは、文を遣る技倆の點や、人間を活躍させる天賦の力を指すのではない。
もし、それだけの意味でだれも長塚君に及ばないと言うなら、一方ではほかの作家を侮辱した言葉にもなり、また一方では長塚君を担ぎすぎる策略とも取れて、どちらにしても作者の迷惑になるばかりである。
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もし夫れ丈の意味で誰も長塚君に及ばないといふなら、一方では他の作家を侮辱した言葉にもなり、又一方では長塚君を擔ぎ過ぎる策略とも取れて、何方にしても作者の迷惑になる計である。
私がだれも及ばないと言うのは、作品の中に書いてある事件なり自然なりが、まだ長塚君以外の人の研究に上っていないという意味なのである。
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余の誰も及ばないといふのは、作物中に書いてある事件なり天然なりが、まだ長塚君以外の人の研究に上つてゐないといふ意味なのである。
「土」
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「土」
の中に出て来る人物は、もっとも貧しい百姓である。
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の中に出て來る人物は、最も貧しい百姓である。
教育もなければ品格もなく、ただ土の上に生み付けられて、土とともに育ったうじ虫同様に哀れな百姓の生活である。
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教育もなければ品格もなければ、たゞ土の上に生み付けられて、土と共に生長した蛆同樣に憐れな百姓の生活である。
先祖以来、茨城の結城郡に住まいを移した地方の豪族として、多数の小作人を使う長塚君は、彼らの、けものに近い、恐ろしいほど疲れきった生活のありさまを、一から十まで誠実にこの「土」
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先祖以來茨城の結城郡に居を移した地方の豪族として、多數の小作人を使用する長塚君は、彼等の獸類に近き、恐るべく困憊を極めた生活状態を、一から十迄誠實に此「土」
の中に収め尽くしたのである。
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の中に收め盡したのである。
彼らの、下品で、浅はかで、迷信が強く、無邪気で、ずるく、無欲で、強欲で、ほとんど私たち(今の文壇の作家をことごとく含む)の想像にさえ上りにくいところを、ありありと目に映るように描いたのが「土」
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彼等の下卑で、淺薄で、迷信が強くて、無邪氣で、狡猾で、無欲で、強欲で、殆んど余等(今の文壇の作家を悉く含む)の想像にさへ上りがたい所を、あり/\と眼に映るやうに描寫したのが「土」
である。
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である。
そうして「土」
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さうして「土」
は、長塚君以外にだれも手をつけられない、苦しい百姓生活の、もっともけものに近い部分を、細かにまっすぐ書いたものであるから、だれも及ばないと言うのである。
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は長塚君以外に何人も手を著けられ得ない、苦しい百姓生活の、最も獸類に接近した部分を、精細に直叙したものであるから、誰も及ばないと云ふのである。
人の営みを離れた自然についても、同じ批評をどんな読者も容易にうなずかなければ済まないほど、作者は鬼怒川沿岸の景色や、空や、春や、秋や、雪や風を綿密に研究している。
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人事を離れた天然に就いても、前同樣の批評を如何な讀者も容易に肯はなければ濟まぬ程、作者は鬼怒川沿岸の景色や、空や、春や、秋や、雪や風を綿密に研究してゐる。
畑のもの、あぜに立つはんの木、蛙の声、鳥の音、かりにも彼の郷土に存在する自然なら、ほんの一点一画の細かさに至るまで、ことごとくその地方の特色を備えて描写の筆に上っている。
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畠のもの、畔に立つ榛の木、蛙の聲、鳥の音、苟くも彼の郷土に存在する自然なら、一點一畫の微に至る迄悉く其地方の特色を具へて叙述の筆に上つてゐる。
だから、どこにどう出て来ても必ず独特である。
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だから何處に何う出て來ても必ず獨特である。
その独特な点を、ふつうの作家の手になった自然描写の平凡さと比べて、私はだれも及ばないと言うのである。
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其獨特な點を、普通の作家の手に成つた自然の描寫の平凡なのに比べて、余は誰も及ばないといふのである。
私は彼の独特さに敬服しながら、それがあまりに細かすぎて、話の筋をしばしば殺してしまう失敗を嘆いたくらい、彼は精緻な自然の観察者である。
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余は彼の獨特なのに敬服しながら、そのあまりに精細過ぎて、話の筋を往々にして殺して仕舞ふ失敗を歎じた位、彼は精緻な自然の觀察者である。
作品としての「土」
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作としての「土」
は、むしろ苦しい読みものである。
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は、寧ろ苦しい讀みものである。
けっして、おもしろいから読めとは言いにくい。
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決して面白いから讀めとは云ひ惡い。
第一に、作中の人物の使う言葉が、私たちにはあまり縁の遠い方言からできあがっている。
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第一に作中の人物の使ふ言葉が余等には餘り縁の遠い方言から成り立つてゐる。
第二に、構えが大きいわりに、年代が前後数年にわたるわりに、周りへ平たく広がりたがる話が、筋をくっきりと描いて深まりながら前へ進んで行かない。
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第二に結構が大きい割に、年代が前後數年にわたる割に、周圍に平たく發達したがる話が、筋をくつきりと描いて深くなりつゝ前へ進んで行かない。
だから全体として、読者に加速度のつく興味を与えない。
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だから全體として讀者に加速度の興味を與へない。
だから、事件が入り組み絡み合ってもつれながら読者をぐいぐい引き込んで行くというよりも、その地方の年中行事を怠りなく丹念に淡々と述べて行くうちに、作者のこしらえた人物が途切れ途切れに動き出すと言ったほうが適当になってくる。
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だから事件が錯綜纏綿して縺れながら讀者をぐい/\引込んで行くよりも、其地方の年中行事を怠りなく丹念に平叙して行くうちに、作者の拵らへた人物が斷續的に活躍すると云つた方が適當になつて來る。
そこに、いささか人を引きつける力を失う恐れが潜んでいるという意味でも読みづらい。
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其所に聊か人を魅する牽引力を失ふ恐が潛んでゐるといふ意味でも讀みづらい。
しかし、これらは単に表面的な意味で読みづらいのであって、私のいわゆる読みづらいという本当の意味は、作中の人物の心なり行いなりが、ただ圧迫と不安と苦痛を読者に与えるだけで、少しも、神の作ってくれた幸福な人間であるという刺激と慰めを与えてくれないからである。
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然し是等は單に皮相の意味に於て讀みづらいので、余の所謂讀みづらいといふ本意は、篇中の人物の心なり行なりが、たゞ壓迫と不安と苦痛を讀者に與へる丈で、毫も神の作つてくれた幸福な人間であるといふ刺戟と安慰を與へ得ないからである。
悲劇は恐ろしいに違いない。
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悲劇は恐しいに違ない。
けれども、ふつうの悲劇のうちには悲しい以外に何かの償いがあるので、読者は涙という犠牲を喜ぶのである。
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けれども普通の悲劇のうちには悲しい以外に何かの償ひがあるので、讀者は涙の犧牲を喜こぶのである。
が、「土」
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が、「土」
に至っては、涙さえ出せない苦しさである。
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に至つては涙さへ出されない苦しさである。
雨の降らない代わりに一生照りもしない天気と同じ苦痛である。
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雨の降らない代りに生涯照りつこない天氣と同じ苦痛である。
ただ土の下へ心が沈むだけで、人情から言っても道義心から言っても、ほとんどこの圧迫の埋め合わせとして何一つ与えられていない。
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たゞ土の下へ心が沈む丈で、人情から云つても道義心から云つても、殆んど此壓迫の賠償として何物も與へられてゐない。
ただ土を掘り下げて暗い中へ落ちて行くだけである。
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たゞ土を掘り下げて暗い中へ落ちて行く丈である。
「土」
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「土」
を読む者は、きっと自分も泥の中を引きずられるような気がするだろう。
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を讀むものは、屹度自分も泥の中を引き摺られるやうな氣がするだらう。
私もそういう感じがした。
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余もさう云ふ感じがした。
ある者は、なぜ長塚君はこんな読みづらいものを書いたのだと疑うかもしれない。
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或者は何故長塚君はこんな讀みづらいものを書いたのだと疑がふかも知れない。
そんな人に対して私はただ一言、こういう生活をしている人間が、我々と同時代に、しかも帝都をそう遠く離れていない田舎に住んでいるという悲惨な事実を、ぎゅっと一度は胸の底に抱きしめてみたら、あなたがたのこれから先の人生観の上に、またあなたがたの日常の行動の上に、何かの参考として役に立ちはしないかと聞きたい。
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そんな人に對して余はたゞ一言、斯樣な生活をして居る人間が、我々と同時代に、しかも帝都を去る程遠からぬ田舍に住んで居るといふ悲慘な事實を、ひしと一度は胸の底に抱き締めて見たら、公等の是から先の人生觀の上に、又公等の日常の行動の上に、何かの參考として利益を與へはしまいかと聞きたい。
私はとくに、歓楽に憧れる若い男や若い女が、読み苦しいのを我慢して、この「土」
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余はとくに歡樂に憧憬する若い男や若い女が、讀み苦しいのを我慢して、此「土」
を読む勇気を奮い起こすことを希望するのである。
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を讀む勇氣を鼓舞する事を希望するのである。
私の娘が年頃になって、音楽会がどうの、帝国座がどうのと言い立てる時分になったら、私はぜひこの「土」
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余の娘が年頃になつて、音樂會がどうだの、帝國座がどうだのと云ひ募る時分になつたら、余は是非此「土」
を読ませたいと思っている。
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を讀ましたいと思つて居る。
娘はきっといやだと言うに違いない。
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娘は屹度厭だといふに違ない。
もっと興味を感じる恋愛小説と取り替えてくれと言うに違いない。
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より多くの興味を感ずる戀愛小説と取り換へて呉れといふに違ない。
けれども私はその時、娘に向かって、おもしろいから読めと言うのではない。
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けれども余は其時娘に向つて、面白いから讀めといふのではない。
苦しいから読めと言うのだと告げたいと思っている。
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苦しいから讀めといふのだと告げたいと思つて居る。
参考のためだから、世間を知るためだから、知って自分の人格の上に暗い恐ろしい影を映すためだから、我慢して読めと忠告したいと思っている。
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參考の爲だから、世間を知る爲だから、知つて己れの人格の上に暗い恐ろしい影を反射させる爲だから我慢して讀めと忠告したいと思つて居る。
何も考えずに暖かく育った若い女(男でも同じである)の起こす悟りを求める心や宗教心は、みなこの暗い影の奥から差してくるのだと、私は固く信じているからである。
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何も考へずに暖かく生長した若い女(男でも同じである)の起す菩提心や宗教心は、皆此暗い影の奧から射して來るのだと余は固く信じて居るからである。
長塚君の書き方は、どこまでも落ち着いている。
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長塚君の書き方は何處迄も沈着である。
その人物はみなありのままである。
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其人物は皆有の儘である。
話の筋はまったく自然である。
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話の筋は全く自然である。
私が「土」
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余が「土」
を「朝日」
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を「朝日」
に載せ始めた時、北のほうのSという人が、わざわざ手紙を私のもとに寄せて、長塚君が旅行して彼と会った折の議論を報せてきたことがある。
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に載せ始めた時、北の方のSといふ人がわざ/″\書を余のもとに寄せて、長塚君が旅行して彼と面會した折の議論を報じた事がある。
長塚君は、私が「朝日」
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長塚君は余の「朝日」
に書いた「満韓ところどころ」
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に書いた「滿韓ところ/″\」
というものをSの所で一回読んで、漱石という男は人をばかにしていると言って大いに憤慨したそうである。
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といふものをSの所で一囘讀んで、漱石といふ男は人を馬鹿にして居るといつて大いに憤慨したさうである。
漱石に限らず、そもそも「朝日」
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漱石に限らず一體「朝日」
新聞の記者の書きぶりはみな人をばかにしていると言ってののしったそうである。
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新聞の記者の書き振りは皆人を馬鹿にして居ると云つて罵つたさうである。
なるほど、まじめで円熟した、ほとんど厳粛という言葉で形容してしかるべき「土」
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成程眞面目に老成した、殆んど嚴肅といふ文字を以て形容して然るべき「土」
を書いた長塚君としては、もっともなことである。
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を書いた、長塚君としては尤もの事である。
「満韓ところどころ」
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「滿韓所々」
などが君の気に障ったのは、それもそのはずだと思う。
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抔が君の氣色を害したのは左もあるべきだと思ふ。
しかし、君から軽薄の疑いを受けた私にも、まじめな「土」
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然し君から輕佻の疑を受けた余にも、眞面目な「土」
を読む目はあるのである。
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を讀む眼はあるのである。
だから、この序文を書くのである。
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だから此序を書くのである。
長塚君はたまたま「満韓ところどころ」
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長塚君はたまたま「滿韓ところ/″\」
の一回を見て私の浮薄さに腹を立てたのだろうが、同じ私の手になったほかのものに偶然目を触れたら、あるいは反対の感じを起こすかもしれない。
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の一囘を見て余の浮薄を憤つたのだらうが、同じ余の手になつた外のものに偶然眼を觸れたら、或は反對の感を起すかも知れない。
もし私が徹頭徹尾「満韓ところどころ」
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もし余が徹頭徹尾「滿韓ところ/″\」
の中で長塚君の気に入らない一回のような調子で終始するのなら、とうてい長塚君の「土」
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のうちで、長塚君の氣に入らない一囘を以て終始するならば、到底長塚君の「土」
のためにこれほど言葉を費やすことはできない理屈だからである。
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の爲に是程言辭を費やす事は出來ない理窟だからである。
長塚君は不幸にして喉頭結核にかかり、この間まで東京で入院生活をしていたが、今は養生かたがた旅行の途中にある。
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長塚君は不幸にして喉頭結核にかゝつて、此間迄東京で入院生活をして居たが、今は養生旁旅行の途にある。
先だって、かねて紹介しておいた福岡大学の久保博士からの手紙に、長塚君が診察を頼みに見えたとあるから、今ごろは九州にいるだろう。
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先達てかねて紹介して置いた福岡大學の久保博士からの來書に、長塚君が診察を依頼に見えたとあるから、今頃は九州に居るだらう。
私は出版の時機に遅れないで、病中の君のために、「土」
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余は出版の時機に後れないで、病中の君の爲に、「土」
についてこれだけのことを言い得たのを喜ぶのである。
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に就いて是丈の事を云ひ得たのを喜こぶのである。
私がかつて「土」
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余がかつて「土」
を「朝日」
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を「朝日」
に載せ出した時、ある文士が、我々は「土」
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に載せ出した時、ある文士が、我々は「土」
などを読む義務はないと言ったと、わざわざ私に知らせてきた者があった。
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などを讀む義務はないと云つたと、わざ/\余に報知して來たものがあつた。
その時私は、この文士は何のために罪もない「土」
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其時余は此文士は何の爲に罪もない「土」
の作者を侮辱するのだろうと思って、苦々しい不愉快を感じた。
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の作家を侮辱するのだらうと思つて苦々しい不愉快を感じた。
理屈から言って、読まねばならない義務のある小説というものは、その小説の校正者か、内務省の検閲官以外にそうあろうはずがない。
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理窟から云つて、讀まねばならない義務のある小説といふものは、其小説の校正者か、内務省の檢閲官以外にさうあらう筈がない。
わざわざ断らなくても、いやならいやで黙って読まずにいればそれまでである。
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わざ/\斷わらんでも厭なら厭で默つて讀まずに居れば夫迄である。
もしまた、名の知れない人の書いたものだから読む義務はないと言うなら、その人はただ名前だけで小説を読む、内容などには頓着しない門外漢と同じである。
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もし又名の知れない人の書いたものだから讀む義務はないと云ふなら、其人は唯名前丈で小説を讀む、内容などには頓着しない、門外漢と一般である。
文士ならば同業の人に対して、たとえ無名の人にせよ、もう少しの同情と尊敬があってしかるべきだと思う。
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文士ならば同業の人に對して、たとひ無名氏にせよ、今少しの同情と尊敬があつて然るべきだと思ふ。
私は「土」
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余は「土」
の作者が病気だから、この場合にはなおさらそう言いたいのである。
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の作者が病氣だから、此場合には猶ほ更らさう云ひたいのである。
(明治四十五年五月)
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(明治四十五年五月)
一
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一
激しい西風が、目に見えない大きな塊をごうっと打ちつけては、またごうっと打ちつけて、みなやせこけた落葉樹の林を一日いじめ通した。
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烈しい西風が目に見えぬ大きな塊をごうつと打ちつけては又ごうつと打ちつけて皆痩こけた落葉木の林を一日苛め通した。
木の枝は時々ひゅうひゅうと悲痛な音を立てて泣いた。
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木の枝は時々ひう/\と悲痛の響を立てゝ泣いた。
短い冬の日はもう落ちかけて、黄色い光を放ちながら瞬いた。
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短い冬の日はもう落ちかけて黄色な光を放射しつゝ目叩いた。
そうして西風は、どうかするとぱったりやんでしまったかと思うほど静かになった。
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さうして西風はどうかするとぱつたり止んで終つたかと思ふ程靜かになつた。
泥をちぎって投げたような雲が、不規則に林の上へじっとくっついていて、空はまだ騒がしいことを示している。
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泥を拗切つて投げたやうな雲が不規則に林の上に凝然とひつゝいて居て空はまだ騷がしいことを示して居る。
それで時々は、思い出したように木の枝がざわざわと鳴る。
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それで時々は思ひ出したやうに木の枝がざわ/″\と鳴る。
世間が急に心細くなった。
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世間が俄に心ぼそくなつた。
お品はまた天秤棒を下ろした。
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お品は復た天秤を卸した。
お品は竹の短い天秤棒の先へ、木の枝でこしらえた小さな鉤をぶら下げて、それで手桶の柄を引っ掛けていた。
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お品は竹の短い天秤の先へ木の枝で拵へた小さな鍵の手をぶらさげてそれで手桶の柄を引つ懸けて居た。
お品は百姓仕事の合間には、村から豆腐を仕入れて出ては二つ三つの村を歩いてくるのがいつものことである。
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お品は百姓の隙間には村から豆腐を仕入れて出ては二三ヶ村を歩いて來るのが例である。
手桶で持ち出すだけのことだから元手も要らない代わりにもうけも薄いのだが、それでも百姓ばかりしているよりも、日ごとに目に見えた小遣い銭が取れるので、もうしばらくそうしていた。
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手桶で持ち出すだけのことだから資本も要ない代には儲も薄いのであるが、それでも百姓ばかりして居るよりも日毎に目に見えた小遣錢が取れるのでもう暫くさうして居た。
手桶一つ分の豆腐では、いつもの所をぐるりと回れば必ずなくなった。
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手桶一提の豆腐ではいつもの處をぐるりと廻れば屹度なくなつた。
帰りには豆腐のくずでいくらか白くなった水を捨てて、天秤棒は軽くなるのである。
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還りには豆腐の壞れで幾らか白くなつた水を棄てゝ天秤は輕くなるのである。
お品はいつでも、日のあるうちに、夜なべで縄になう藁へ水を掛けておいたり、落ち葉をかき集めてみたり、あちらこちらと手を動かすことをやめなかった。
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お品は何時でも日のあるうちに夜なべに繩に綯ふ藁へ水を掛けて置いたり、落葉を攫つて見たりそこらこゝらと手を動かすことを止めなかつた。
生まれつき丈夫なので、お品は仕事を苦しいと思ったことはなかった。
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天性が丈夫なのでお品は仕事を苦しいと思つたことはなかつた。
それがこの日は自分でもひどくいやであったが、冬至が来るからこんにゃくの仕入れをしなくてはならないと言って、無理に出たのであった。
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それが此日は自分でも酷く厭であつたが、冬至が來るから蒟蒻の仕入をしなくちや成らないといつて無理に出たのであつた。
冬至というと、にわか商人がぞくぞくと出てくるので、急いで一度歩かないと、そのにわか商人に先を越されてしまう。お品はどうしてもじっとしてはいられなかった。
原文を見る
冬至といふと俄商人がぞく/\と出來るので急いで一遍歩かないと、其俄商人に先を越されて畢ふのでお品はどうしても凝然としては居られなかつた。
こんにゃくは村にはないので、仕入れをするには田んぼを越えたり林を通ったりして遠くへ行かねばならない。
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蒟蒻は村には無いので、仕入をするのには田圃を越えたり林を通つたりして遠くへ行かねばならぬ。
それでお品は、その途中で商売をしようと思って、この日も豆腐をかついで出た。
原文を見る
それでお品は其途中で商をしようと思つて此の日も豆腐を擔いで出た。
あいにく夜から冷えきっていた空には激しい西風が立って、それに逆らって行くお品は、自分でひどく足元のふらつくのを感じた。
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生憎夜から冴え切つて居た空には烈しい西風が立つて、それに逆つて行くお品は自分で酷く足下のふらつくのを感じた。
ぞくぞくと体が冷えた。
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ぞく/\と身體が冷えた。
そうして豆腐を出すたびに水へ手を差し込むのが、震えるように身にしみた。
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さうして豆腐を出す度に水へ手を刺込むのが慄へるやうに身に染みた。
かさかさに乾いた手が、水へつけるたびに赤くなった。
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かさ/\に乾燥いた手が水へつける度に赤くなつた。
あかぎれがぴりぴりと痛んだ。
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皹がぴり/\と痛んだ。
懇意なあちこちで、お品は落ち葉をひとくべ焚いてもらっては手をかざして、やっと暖まった。
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懇意なそここゝでお品は落葉を一燻べ焚いて貰つては手を翳して漸と暖まつた。
こんにゃくを仕入れて出た時は、そんなこんなで暇を取っていつになく遅かった。
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蒟蒻を仕入れて出た時はそんなこんなで暇をとつて何時になく遲かつた。
お品は林をいくつも過ぎて自分の村へ急いだが、疲れもしたけれど、けだるいような心持ちがして、幾度か道端へ荷を下ろしては休みながら来たのである。
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お品は林を幾つも過ぎて自分の村へ急いだが、疲れもしたけれど懶いやうな心持がして幾度か路傍へ荷を卸しては休みつゝ來たのである。
お品は手桶の柄へ横たえた竹の天秤棒へ身を投げかけて、どかりと膝を折った。
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お品は手桶の柄へ横たへた竹の天秤へ身を投げ懸けてどかりと膝を折つた。
ぐったりなったお品は、それでなくても見苦しい姿が、さらに締まりなく乱れた。
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ぐつたり成つたお品はそれでなくても不見目な姿が更に檢束なく亂れた。
西風の名残がお品の後ろから吹いた。
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西風の餘波がお品の後から吹いた。
そうして西風は、後ろで結んだ汚い手拭いの端をめくって、油の切れたほこりだらけの赤い髪の毛をしごき上げるようにして、その垢だらけの首筋をむき出しにさせている。
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さうして西風は後で括つた穢い手拭の端を捲つて、油の切れた埃だらけの赤い髮の毛を扱きあげるやうにして其垢だらけの首筋を剥出にさせて居る。
それとともに林の雑木はまだ持ち前の騒ぎをやめないで、道端のこずえがずっと取り巻いてお品の上からそれをのぞこうとすると、後ろからも後ろからも林のこずえが一斉に首を出す。
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夫と共に林の雜木はまだ持前の騷ぎを止めないで、路傍の梢がずつと繞つてお品の上からそれを覗かうとすると、後からも/\林の梢が一齊に首を出す。
そうしてしばらくすると、また一斉に後ろへぐっと戻って、体を横に揺らしながら、笑いささやくようにざわざわと鳴る。
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さうして暫くしては又一齊に後へぐつと戻つて身體を横に動搖ながら笑ひ私語くやうにざわ/\と鳴る。
お品は体に変わったことが起こったのを意識するとともに、恐怖心を抱きはじめた。
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お品は身體に變態を來したことを意識すると共に恐怖心を懷きはじめた。
三、四日どうもなかったから大丈夫だとは思ってみても、こうしてじっとしていると遠くのほうへ滅入ってしまうような心持ちがして、ふだんからいくらかのぼせやすくもあるのだが、そう思うと耳が鳴るようで、世間がかえって静かになってしまったように思われた。
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三四日どうもなかつたから大丈夫だとは思つて見ても、恁う凝然として居ると遠くの方へ滅入つて畢ふ樣な心持がして、不斷から幾らか逆上性でもあるのだがさう思ふと耳が鳴るやうで世間が却て靜かに成つて畢つたやうに思はれた。
ふと気がついた時、お品はてきぱきと天秤棒をかついだ。
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不圖氣が付いた時お品ははき/\として天秤を擔いだ。
林が尽きて田んぼが見え出した。
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林が竭きて田圃が見え出した。
田んぼを越せば村で、自分の家は田んぼの取っつきである。
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田圃を越せば村で、自分の家は田圃のとりつきである。
青い煙がすっと上っている。
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青い煙がすつと騰つて居る。
お品は二人の子供を思って心が躍った。
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お品は二人の子供を思つて心が跳つた。
林の外れから田んぼへ下りる所はわずかに十メートルほどであるが、傾斜の険しい坂で、それが雨のあるたびにそこらの水を集めて田んぼへ落とす口になっているので、自然に土がえぐられて深いくぼみができている。
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林の外れから田圃へおりる處は僅かに五六間であるが、勾配の峻しい坂でそれが雨のある度にそこらの水を聚めて田圃へ落す口に成つて居るので自然に土が抉られて深い窪が形られて居る。
お品は天秤棒を斜めに横へ向けて、右の手を前の手桶の柄へ、左の手を後ろの手桶の柄へ掛けて、注意しながら下りた。
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お品は天秤を斜に横へ向けて、右の手を前の手桶の柄へ左の手を後の手桶の柄へ掛けて注意しつゝおりた。
それでも、ほとんど手桶いっぱいになりそうなこんにゃくの重さは、少しふらつく足をあやうく保たせた。
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それでも殆んど手桶一杯に成り相な蒟蒻の重量は少しふらつく足を危く保たしめた。
やっと人がすれ違えるだけの狭い田んぼ道を、お品はそろそろと運んで行く。
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やつと人の行き違ふだけの狹い田圃をお品はそろ/\と運んで行く。
お品は白茶けるほど古くなった股引へ、それでも先のほうだけ継ぎ足した足袋をはいている。
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お品は白茶けた程古く成つた股引へそれでも先の方だけ繼ぎ足した足袋を穿いて居る。
大きな藁草履は固めたように霜解けの泥がくっついていて、それがぼたぼたと足の運びをさらに鈍くしている。
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大きな藁草履は固めたやうに霜解の泥がくつゝいて、それがぼた/\と足の運びを更に鈍くして居る。
狭く連なっている田を縦に用水の堀がある。
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狹く連つて居る田を竪に用水の堀がある。
二、三株、比較的大きなはんの木が立っている所に、わずか一枚板の橋が斜めに架けてある。
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二三株比較的大きな榛の木の立つて居る處に僅一枚板の橋が斜に架けてある。
お品は橋のたもとでちょっと立ち止まった。
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お品は橋の袂で一寸立ち止つた。
そうして近づいた自分の家を見た。
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さうして近づいた自分の家を見た。
村は台地にあるので、お品の家の後ろはすぐ斜めに田んぼへずり落ちそうな林である。
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村落は臺地に在るのでお品の家の後は直に斜に田圃へずり落ち相な林である。
楢や雑木の間に短い竹が交じっている。
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楢や雜木の間に短い竹が交つて居る。
いいかげん大きくなった楢の木はみな葉が落ち尽くしているので、その小枝を透してへこんだ棟が見える。
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いゝ加減大きくなつた楢の木は皆葉が落ち盡して居るので、其小枝を透して凹んだ棟が見える。
白い羽の鶏が五、六羽、がりがりと爪で土をかき払ってはくちばしでそこをつつき、またがりがりと土をかき払っては、余念もなく夕方の餌を求めながら、田んぼから林へ帰りつつある。
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白い羽の鷄が五六羽、がり/\と爪で土を掻つ掃いては嘴でそこを啄いて又がり/\と土を掻つ掃いては餘念もなく夕方の飼料を求めつゝ田圃から林へ還りつゝある。
お品は非常な注意をもって斜めの橋を渡った。
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お品は非常な注意を以て斜な橋を渡つた。
四足目にはもう田んぼの土に立った。
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四足目にはもう田圃の土に立つた。
その時は日はとうに沈んで、見渡すかぎり、田から林から、世間はただ黄褐色に光って、そうしてまだ明るかった。
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其時は日は疾に沒して見渡す限り、田から林から世間は只黄褐色に光つてさうしてまだ明るかつた。
お品は田んぼから上がる前に天秤棒を下ろして左へ曲がった。
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お品は田圃からあがる前に天秤を卸して左へ曲つた。
自分の家の林と田との間には、人の足跡だけの小道がつけてある。
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自分の家の林と田との間には人の足趾だけの小徑がつけてある。
お品は、その小道と林との境を区切っているぐみの木のそばに立った。
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お品は其小徑と林との境界を劃つて居る牛胡頽子の側に立た。
鶏の爪の跡が、そこの新しい土をかき散らしてあった。
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鷄の爪の趾が其處の新らしい土を掻き散らしてあつた。
お品は土を手で集めて、草履の底でそくそくとならした。
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お品は土を手で聚めて草履の底でそく/\とならした。
お品の姿が庭に見えた時には、西風は忘れたようにやんでいて、庭先の栗の木にぶっ掛けた大根の干からびた葉も動かなかった。
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お品の姿が庭に見えた時には西風は忘れたやうに止んで居て、庭先の栗の木にぶつ懸けた大根の乾びた葉も動かなかつた。
白い鶏はお品の足元へちょろちょろと駆けて来て、何かほしそうにけろっと見上げた。
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白い鷄はお品の足もとへちよろ/\と駈けて來て何か欲し相にけろつと見上た。
お品はいつものように鶏などへ構ってはいられなかった。
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お品は平常のやうに鷄抔へ構つては居られなかつた。
お品は戸口に天秤棒を下ろして、突然
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お品は戸口に天秤を卸して突然
「おつう」
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「おつう」
と呼んだ。
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と喚んだ。
「おっかあか」
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「おつかあか」
と、すぐにおつぎの返事が威勢よく聞こえた。
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と直におつぎの返辭が威勢よく聞えた。
それと同時に、かまどの火がひらひらと赤くお品の目に映った。
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それと同時に竈の火がひら/\と赤くお品の目に映つた。
朝から雨戸は開けないので、内は薄暗くなっている。
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朝から雨戸は開けないので内はうす闇くなつて居る。
外の光を見ていたお品の目には、すぐにはおつぎの姿も見えなかったのである。
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外の光を見て居たお品の目には直ぐにはおつぎの姿も見えなかつたのである。
戸口からでは、おつぎの体はかまどの火を覆っていた。
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戸口からではおつぎの身體は竈の火を掩うて居た。
返事をするとともに体をひねったので、その赤い火が見えたのである。
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返辭すると共に身體を捩つたので其赤い火が見えたのである。
おつぎの背にいた与吉は、お品の声を聞きつけると
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おつぎの脊に居た與吉はお品の聲を聞きつけると
「まんまんま」
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「まん/\ま」
と両手を出して下りようとする。
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と兩手を出して下りようとする。
お品は、おつぎが帯を解いている間に、壁際の麦藁俵のそばへこんにゃくの手桶を二つ並べた。
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お品はおつぎが帶を解いてる間に壁際の麥藁俵の側へ蒟蒻の手桶を二つ並べた。
与吉はおふくろの懐に抱かれて、ろくに出もしない乳房を探った。
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與吉はお袋の懷に抱かれて碌に出もしない乳房を探つた。
お品はかまどの前へ腰を掛けた。
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お品は竈の前へ腰を掛けた。
白い鶏は、掛けはしごの代わりに掛けてある荒縄でぐるぐる巻きにした竹の幹へ、めいめいに爪を引っ掛けて、両方の羽を広げて体の平均を保ちながら、慌てたようにねぐらへ上がった。
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白い鷄は掛梯子の代に掛けてある荒繩でぐる/\捲にした竹の幹へ各自に爪を引つ掛けて兩方の羽を擴げて身體の平均を保ちながら慌てたやうに塒へあがつた。
そうして青い煙の中に、じっとして目を閉じている。
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さうして青い煙の中に凝然として目を閉ぢて居る。
お品は家に帰っていくらか暖まったが、それでも一日冷えたせいか、ぞくぞくするのが止まなかった。
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お品は家に歸つて幾らか暖まつたがそれでも一日冷えた所爲かぞく/\するのが止まなかつた。
そうして、後で近所で風呂をもらってゆっくり暖まったら、心持ちも治るだろうと思った。
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さうして後に近所で風呂を貰つてゆつくり暖まつたら心持も癒るだらうと思つた。
かまどには小さな鍋が掛かっている。
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竈には小さな鍋が懸つて居る。
汁はふたを浮かすようにして、ぐらぐらと煮立っている。
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汁は葢を漂はすやうにしてぐら/\と煮立つて居る。
外もいつかとっぷり暗くなった。
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外もいつかとつぷり闇くなつた。
おつぎはかまどの下から火のついているそだを一つ取って、手ランプをつけて上がり框の柱へ掛けた。
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おつぎは竈の下から火のついてる麁朶を一つとつて手ランプを點けて上り框の柱へ懸けた。
お品は、おつぎがひとえへ半纏を引っ掛けたままであるのを見た。
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お品はおつぎが單衣へ半纏を引つ掛けた儘であるのを見た。
ふだんならそんなことはないのだが、自分がひどくぞくぞくして心持ちが悪いので、つい気になって
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平常ならそんなことはないのだが自分が酷くぞく/\として心持が惡いのでつい氣になつて
「おつう、そんな格好でお前は寒くないか」
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「おつう、そんな姿で汝や寒かねえか」
と聞いた。
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と聞いた。
それから手拭いの下から見えるおつぎのあどけない顔を、じっと見た。
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それから手拭の下から見えるおつぎのあどけない顏を凝然と見た。
「寒かないよ」
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「寒かあんめえな」
おつぎは事もなげに言った。
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おつぎは事もなげにいつた。
与吉は懐の中でしきりにせがんでいる。
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與吉は懷の中で頻りにせがんで居る。
お品はいつものようでなく何も買って来なかったので、ふと困った。
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お品は平常のやうでなく何も買つて來なかつたので、ふと困つた。
「おつう、そこらに砂糖はなかったっけかね」
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「おつう、そこらに砂糖はなかつたつけゝえ」
お品は言った。
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お品はいつた。
おつぎは黙って草履を脱ぎ捨てて座敷へ駆け上がり、戸棚から小さな古い新聞紙の袋を探し出して、自分の手のひらへ少し砂糖をつまみ出して
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おつぎは默つて草履を脱棄てゝ座敷へ駈けあがつて、戸棚から小さな古い新聞紙の袋を探し出して、自分の手の平へ少し砂糖をつまみ出して
「そらそら」
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「そら/\」
と言いながら、手を出して待っている与吉へやった。
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といひながら、手を出して待つて居る與吉へ遺つた。
おつぎは砂糖のついた自分の手をなめた。
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おつぎは砂糖の附いた自分の手を嘗めた。
与吉は、その砂糖をおふくろの懐へこぼしながら、危なそうにつまんでは口へ入れる。
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與吉は其砂糖をお袋の懷へこぼしながら危な相につまんでは口へ入れる。
砂糖が尽きた時、与吉はそのべとついた手をおふくろの口のあたりへ出した。
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砂糖が竭きた時與吉は其べとついた手をお袋の口のあたりへ出した。
お品は与吉の両手をつかまえてなめてやった。
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お品は與吉の兩手を攫へて舐つてやつた。
お品は鍋のふたを取って、そだの炎をかざしながら
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お品は鍋の蓋をとつて麁朶の焔を翳しながら
「こりゃ芋か何だい」
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「こりや芋か何でえ」
と聞いた。
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と聞いた。
「うん、少し芋を足して温め返したんだ」
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「うむ、少し芋足して暖め返したんだ」
「ご飯は冷たくないかい」
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「おまんまは冷たかねえけ」
「それから雑炊でもこしらえようと思ってたのよ」
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「それから雜炊でも拵えべと思つてたのよ」
お品は熱い物なら体が暖まるだろうと思いながら、自分はひどくけだるいので、何でもおつぎにさせていた。
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お品は熱い物なら身體が暖まるだらうと思ひながら、自分は酷く懶いので何でもおつぎにさせて居た。
おつぎは、粘り気のない麦の勝ったぽろぽろな飯を鍋へ入れた。
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おつぎは粘り氣のない麥の勝つたぽろ/\な飯を鍋へ入れた。
お品はそだをひとくべ突っ込んだ。
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お品は麁朶を一燻べ突つ込んだ。
おつぎは鍋を下ろして茶釜を掛けた。
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おつぎは鍋を卸して茶釜を懸けた。
ほうっと白く湯気の立つ鍋の中を、お玉杓子で二、三度かき立てて、おつぎはまたふたをした。
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ほうつと白く蒸氣の立つ鍋の中をお玉杓子で二三度掻き立てゝおつぎは又葢をした。
おつぎは戸棚から膳を出して上がり框へ置いた。
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おつぎは戸棚から膳を出して上り框へ置いた。
柱につけてある手ランプの光が届かないので、おつぎは手探りでしている。
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柱に點けてある手ランプの光が屆かぬのでおつぎは手探りでして居る。
お品は左手に抱いた与吉の口へ、箸の先で少しずつ含ませながら雑炊を食べた。
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お品は左手に抱いた與吉の口へ箸の先で少しづゝ含ませながら雜炊をたべた。
お品は芋を三つ四つ箸へ立てて与吉へ持たせた。
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お品は芋を三つ四つ箸へ立てゝ與吉へ持たせた。
与吉は芋を口へ持っていって、すぐに熱いと言って泣いた。
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與吉は芋を口へ持つていつて直ぐに熱いというて泣いた。
お品は与吉のほおをふうふうと吹いて、それから芋を自分の口でかんでやった。
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お品は與吉の頻をふう/\と吹いてそれから芋を自分の口で噛んでやつた。
お品の茶碗はこうして冷えた。
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お品の茶碗は恁うして冷えた。
おつぎは冷たくなった時、鍋のと換えてやった。
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おつぎは冷たくなつた時鍋のと換てやつた。
お品は欲しくもない雑炊を三杯まで食べた。
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お品は欲しくもない雜炊を三杯までたべた。
いくらか腹の中の暖かくなったのを感じた。
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幾らか腹の中の暖かくなつたのを感じた。
そうしてようやく水離れのした茶釜の湯を汲んで飲んだ。
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さうして漸く水離れのした茶釜の湯を汲んで飮んだ。
おつぎは庭先の井戸端へ出て、鍋へ一杯つるべの水をあけた。
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おつぎは庭先の井戸端へ出て鍋へ一杯釣瓶の水をあけた。
おつぎが戻った時
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おつぎが戻つた時
「おつう、今夜でなくてもいいよ」
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「おつう、今夜でなくつてもえゝや」
とお品は言った。
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とお品はいつた。
おつぎは黙って俵のそばの手桶へ手を掛けて
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おつぎは默つて俵の側の手桶へ手を掛けて
「これにも水を入れておかなくちゃならないだろうね」
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「此へも水入て置かなくつちやなんめえな」
「そうすればいいが、大変だろうよ」
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「さうすればえゝが大變だらえゝぞ」
お品が言い切らないうちに、おつぎは庭へ出た。
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お品がいひ切らぬうちにおつぎは庭へ出た。
すぐに洗った鍋と手桶を持って、暗い庭先からぼんやり戸口へ姿を見せた。
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直ぐに洗つた鍋と手桶を持つて暗い庭先からぼんやり戸口へ姿を見せた。
敷居へちょっと手桶を置いて、お品と顔を見合わせた。
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閾へ一寸手桶を置いてお品と顏を見合せた。
手桶の水は半分で、両方のこんにゃくへ水が乗った。
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手桶の水は半分で兩方の蒟蒻へ水が乘つた。
お品は三人連れで東隣へ風呂をもらいに行った。
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お品は三人連で東隣へ風呂を貰ひに行つた。
東隣というのは大きな一構えで、こんもりと茂った森に包まれている。
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東隣といふのは大きな一構で蔚然たる森に包まれて居る。
外は闇である。
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外は闇である。
隣の森の杉が、ざっくりと冴えた空へ突っ込んでいる。
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隣の森の杉がぞつくりと冴えた空へ突つ込んで居る。
お品の家は以前から、この森のために日がよほど南へ回ってからでなければ庭へ光の差すことはなかった。
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お品の家は以前から此の森の爲めに日が餘程南へ廻つてからでなければ庭へ光の射すことはなかつた。
お品の家族は、どこまでも日陰者であった。
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お品の家族は何處までも日蔭者であつた。
それが後になってから、方々に陸地測量部の三角測量台が建てられて、その上に小さな旗がひらひらとひるがえるようになってから、その森が見通しの邪魔になるというので、三、四本だけ伐らせられた。
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それが後に成つてから方方に陸地測量部の三角測量臺が建てられて其上に小さな旗がひら/\と閃くやうに成つてから其森が見通しに障るといふので三四本丈伐らせられた。
杉の大木は西へ倒したので、どしんとそこらを恐ろしく揺るがして、お品の庭へ横たわった。
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杉の大木は西へ倒したのでづしんとそこらを恐ろしく搖がしてお品の庭へ横たはつた。
枝はくじけて、その先が庭の土をえぐった。
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枝は挫けて其先が庭の土をさくつた。
それでも隣では、その木の始末をつける時にそこらへ散らばった小枝やその他の屑物はお品の家へ与えたので、思いがけない薪ができたのと、もう一つはいくらでも東が空いたのとで、隣では自分の腕を斬られたようだと惜しんだにもかかわらず、お品の家ではひそかに喜んだのであった。
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それでも隣では其木の始末をつける時にそこらへ散らばつた小枝や其他の屑物はお品の家へ與へたので思ひ掛けない薪が出來たのと、も一つは幾らでも東が隙いたのとで、隣では自分の腕を斬られたやうだと惜しんだにも拘らずお品の家では竊に悦んだのであつた。
それからというもの、どんな格好にも日が朝から差すようになった。
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それからといふものはどんな姿にも日が朝から射すやうになつた。
それでもさすがに森はあたりを威圧して、夜になるとことにそびえ立って、小さなお品の家は地べたへ踏みつけられたように見えた。
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それでも有繋に森はあたりを威壓して夜になると殊に聳然として小さなお品の家は地べたへ蹂つけられたやうに見えた。
お品は闇の中へ消えた。
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お品は闇の中へ消えた。
そうして隣の戸口に現れた。
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さうして隣の戸口に現はれた。
隣の雇い人は夜なべの縄をなっていた。
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隣の雇人は夜なべの繩を綯つて居た。
板の間の端へあぐらをかいて、足で押さえた縄の端へ藁を継ぎ足し継ぎ足ししては、ちょりちょりと額の上まで揉み上げては、右の手を尻へ回してくっと縄を後ろへしごく。
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板の間の端へ胡坐を掻いて足で抑へた繩の端へ藁を繼ぎ足し/\してちより/\と額の上まで揉み擧ては右の手を臀へ廻してくつと繩を後へ扱く。
縄はそのたびに土間へ落ちる。
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繩は其度に土間へ落ちる。
お品は板の間に小さくなっていた。
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お品は板の間に小さくなつて居た。
やがて藁が尽きると、雇い人はめいめいにその縄を足から手へ引っ掛けて、素早く数を数えては土間から手繰り上げながら、つながったまま一房ずつにくくった。
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軈て藁が竭きると傭人は各自に其繩を足から手へ引つ掛けて迅速に數を計つては土間から手繰り上げながら、繼がつた儘一房づゝに括つた。
やがて彼らは板の間の藁屑を土間へ掃き下ろして、それから交代に風呂へ入った。
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やがて彼等は板の間の藁屑を土間へ掃きおろしてそれから交代に風呂へ這入つた。
お品はそれを見ながら、黙って待っていた。
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お品はそれを見ながら默つて待つて居た。
お品はここへ来るとこういう遠慮をしなければならないので、少しは遠くても風呂は外へもらいに行くのであったが、その晩はどこにも風呂が立たなかった。
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お品は此處へ來ると恁ういふ遠慮をしなければならぬので、少しは遠くても風呂は外へ貰ひに行くのであつたが其晩はどこにも風呂が立たなかつた。
お品は二、三軒あちらこちらと歩いてみてから、隣の門をくぐったのであった。
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お品は二三軒そつちこつちと歩いて見てから隣の門を潜つたのであつた。
雇い人は大釜の下にぽっぽと火を焚いて当たっている。
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傭人は大釜の下にぽつぽと火を焚いてあたつて居る。
風呂から出ても、彼らはゆだったような赤いももを出して火のそばへ寄った。
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風呂から出ても彼等は茹つたやうな赤い腿を出して火の側へ寄つた。
「どうだね、ひとくべ当たったらよかろう、今すぐに空くから」
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「どうだね、一燻べあたつたらようがせう、今直に明くから」
と雇い人が言ってくれても、お品は尻から冷えるのを我慢して、じっと辛抱していた。
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と傭人がいつてくれてもお品は臀から冷えるのを我慢して凝然と辛棒して居た。
懐で眠った与吉を騒がすまいとしては、足がしびれるので、幾度か体をもじもじ動かした。
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懷で眠つた與吉を騷がすまいとしては足の痺れるので幾度か身體をもぢ/\動かした。
ようやく風呂の空いた時は、お品は待ち遠しかったので、前後の考えもなく急いで着物を取った。
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漸く風呂の明いた時はお品は待遠であつたので前後の考もなく急いで衣物をとつた。
与吉は幸いにぐったりとなって、おふくろの懐から離れるのも知らないので、おつぎが小さな手で抱いた。
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與吉は幸ひにぐつたりと成つてお袋の懷から離れるのも知らないのでおつぎが小さな手で抱いた。
お品はだんだんと体が暖まるにつれて、はじめて生き返ったようにうっとりとした。
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お品は段々と身體が暖まるに連れて始めて蘇生つたやうに恍惚とした。
いつまでも沈んでいたいような心持ちがした。
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いつまでも沈んで居たいやうな心持がした。
与吉が泣きはしないかと気づいた時、ろくに洗いもしないで出てしまった。
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與吉が泣きはせぬかと心付いた時碌に洗ひもしないで出て畢つた。
それでも顔がつやつやとして、髪の生え際が拭いても拭いても汗ばんだ。
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それでも顏がつや/\として髮の生際が拭つても/\汗ばんだ。
そうして、しみじみと快かった。
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さうしてしみ/″\と快かつた。
お品は着物を引っ掛けると、すぐと与吉を内懐へ入れた。
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お品は衣物を引つ掛けると直ぐと與吉を内懷へ入れた。
お品の後へは下女が入ったので、おつぎはその間待たねばならなかった。
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お品の後へは下女が這入つたので、おつぎは其間待たねばならなかつた。
おつぎが出た時は、お品の体は冷めかけていた。
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おつぎが出た時はお品の身體は冷め掛けて居た。
お品は、自分が後で入ればよかったのにと後悔した。
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お品は自分が後ではいればよかつたのにと後悔した。
お品が自分の股引と足袋とをおつぎに提げさせて帰った時に、月はひそかに隣の森の輪郭をはっきりとさせて、その森の隙間がことに明るく光っていた。
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お品が自分の股引と足袋とをおつぎに提げさせて歸つた時に月は竊に隣の森の輪郭をはつきりとさせて其森の隙間が殊に明るく光つて居た。
世間がしみじみと冷えていた。
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世間がしみ/″\と冷えて居た。
お品は薄い垢じみた布団へくるまると、体がまたぞくぞくとして、膝がしらが凍ったようになっていたのを知った。
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お品は薄い垢じみた蒲團へくるまると、身體が又ぞく/\として膝かしらが氷つたやうに成つて居たのを知つた。
二
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二
次の朝、お品は、まだ戸の隙間から薄明かりの差したばかりに目が覚めた。
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次の朝お品はまだ戸の隙間から薄ら明りの射したばかりに眼が覺めた。
枕を持ち上げて見たが、頭の芯がしくしくと痛むようで、いつになく重かった。
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枕を擡げて見たが頭の心がしく/\と痛むやうでいつになく重かつた。
狭い家の内に、羽ばたく鶏の声がけたたましく耳の底へ響いた。
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狹い家の内に羽叩く鷄の聲がけたゝましく耳の底へ響いた。
おつぎはまだすやすやと眠っている。
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おつぎはまだすや/\として眠つて居る。
戸の隙間がまぶたを開いたように明るくなった時、鶏がまた甲高く鳴いた。
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戸の隙間が瞼を開いたやうに明るくなつた時鷄が復た甲走つて鳴いた。
お品は、おつぎを今朝はゆっくりさせてやろうと思っていた。
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お品はおつぎを今朝は緩くりさせてやらうと思つて居た。
それでもおつぎは、鶏がまた鳴いた時、むっくり起きた。
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それでもおつぎは鷄が又鳴いた時むつくり起きた。
いつもと違ってあまりひっそりしているので、驚いたようにあたりを見た。
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いつもと違つて餘りひつそりして居るので驚いたやうにあたりを見た。
そうして、おふくろがまだ自分のそばに布団へくるまっているのを見た。
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さうしてお袋がまだ自分の傍に蒲團へくるまつてるのを見た。
「おつう、急がなくてもいいぞ。おれは今朝少し具合が悪いから、ゆっくりするからな」
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「おつう、せかねえでもえゝぞ、俺ら今朝少し工合が惡いから緩くりすつかんなよ」
お品は言った。
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お品はいつた。
おつぎはしばらくもじもじしながら帯を締めて、大戸を一枚がらがらと開けて、目をこすりながら庭へ出た。
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おつぎは暫くもぢ/\しながら帶を締て大戸を一枚がら/\と開けて目をこすりながら庭へ出た。
井戸端の桶には芋が少しばかり水に浸してあって、その水にはガラス板くらいの氷が張っている。
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井戸端の桶には芋が少しばかり水に浸してあつて、其水には氷がガラス板位に閉ぢて居る。
おつぎは、鍋をいつも磨いている砥石のかけらで氷をたたいてみた。
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おつぎは鍋をいつも磨いて居る砥石の破片で氷を叩いて見た。
おつぎは大戸を開け放しておいたので、朝の寒さが入ってきたのに気がついて
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おつぎは大戸を開け放して置いたので朝の寒さが侵入したのに氣がついて
「おっかあ、寒くなかったか、おれ知らないでいた」
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「おつかあ、寒かなかつたか、俺ら知らねえで居た」
と言いながら、大戸をがらがらと閉めた。
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いひながら大戸をがら/\と閉めた。
暗くなった家の内には、かまどの火だけが勢いよく赤く立った。
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闇くなつた家の内には竈の火のみが勢ひよく赤く立つた。
おつぎは
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おつぎは
「ああ冷たい」
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「おゝ冷てえ」
と言いながら、かまどの口からめくれて出る炎へ手をかざして
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といひながら竈の口から捲れて出る燄へ手を翳して
「今朝は芋の水が凍ったんだよ」
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「今朝は芋の水氷つたんだよ」
と、おふくろのほうを向いて言った。
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とお袋の方を向いていつた。
「うん、霜も降りたようだな」
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「うむ、霜も降つたやうだな」
お品は力なく言った。
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お品は力なくいつた。
戸口を後にして、お品はかまどの火がべろべろと燃え上がるのを見た。
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戸口を後にしてお品は竈の火のべろ/\と燃え上るのを見た。
「どこでも真っ白だよ」
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「何處でも眞白だよ」
おつぎは竹の火箸で落ち葉をかき立てながら言った。
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おつぎは竹の火箸で落葉を掻き立てながらいつた。
「夜明けにひどく冷え冷えしたっけからな」
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「夜明にひどく冷々したつけかんな」
お品は言って、ちょっと首を持ち上げながら
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お品はいつて一寸首を擡げながら
「おれは今朝は食べたくないからな、お前は構わないでできたら食べたほうがいいぞ」
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「俺ら今朝はたべたかねえかんな、汝構あねえで出來たらたべた方がえゝぞ」
お品は言った。
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お品はいつた。
また凍った飯で雑炊が煮られた。
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又氷つた飯で雜炊が煮られた。
「おっかあ、少しでもやらないか」
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「おつかあ、ちつとでもやらねえか」
おつぎは茶碗をおふくろの枕元へ出した。
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おつぎは茶碗をお袋の枕元へ出した。
雑炊の焦げついたような匂いがぷんと鼻を突いた時、お品は箸を取ってみようかと思ってうつぶせになってみたが、すぐに胸が悪くなってしまった。
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雜炊の焦げついたやうな臭ひがぷんと鼻を衝いた時お品は箸を執つて見ようかと思つて俯伏しになつて見たが、直に壓になつて畢つた。
お品が動いたので、懐の与吉は泣き出した。
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お品が動いたので懷の與吉は泣き出した。
お品はうつぶせのまま乳房を含ませた。
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お品は俯伏した儘乳房を含ませた。
そうしてまた芋の串をこしらえて持たせた。
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さうして又芋の串を拵へて持たせた。
お品が表の大戸を開けさせた時は、日がきらきらと東隣の森越しに庭へ差しかけて、きっかりと日陰を区切って、解け残った霜が白く見えていた。
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お品が表の大戸を開けさせた時は日がきら/\と東隣の森越しに庭へ射し掛けてきつかりと日蔭を限つて解け殘つた霜が白く見えて居た。
庭先の栗の木の枯れ葉からも、枝へ掛けた大根の葉からも、霜が解けてしずくがまだぽたりぽたりと垂れている。
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庭先の栗の木の枯葉からも、枝へ掛けた大根の葉からも霜が解けて雫がまだぽたり/\と垂れて居る。
庭へ敷いてある庭ぶたの藁も、ただぐっしょりと湿っている。
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庭へ敷いてある庭葢の藁も只ぐつしりと濕つて居る。
冬になると霜柱が立つので、庭へはみんな藁屑だのそば殻だのがいっぱいに敷かれる。
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冬になると霜柱が立つので庭へはみんな藁屑だの蕎麥幹だのが一杯に敷かれる。
それが庭ぶたである。
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それが庭葢である。
霜柱が庭から先の桑畑に、ぐらりぐらりと倒れつつある。
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霜柱が庭から先の桑畑にぐらり/\と倒れつゝある。
お品は布団の中でもめっきり暖かくなったことを感じた。
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お品は蒲團の中でも滅切暖かく成つたことを感じた。
時々枕を持ち上げて戸口から外を見る。
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時々枕を擡げて戸口から外を見る。
そうしては、麦藁俵のそばに置いたこんにゃくの手桶を、どうかすると無意識に見つめる。
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さうしては麥藁俵の側に置いた蒟蒻の手桶をどうかすると無意識に見つめる。
横になっている目からは東隣の森のこずえが妙に変わって見えるので、じっと見つめては目が疲れるようになるので、またこんにゃくの手桶へ目を移したりした。
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横に成つて居る目からは東隣の森の梢が妙に變つて見えるので凝然と見つめては目が疲れるやうに成るので又蒟蒻の手桶へ目を移したりした。
お品は、どうかして少しでもこんにゃくを減らしておきたいと思った。
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お品はどうかして少しでも蒟蒻を減らして置きたいと思つた。
お品は、そのうちに起きられるだろうと考えながら、時々うとうとになる。
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お品は其内に起きられるだらうと考へつゝ時々うと/\と成る。
「切り干しでも切ったものかな」
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「切干でも切つたもんだかな」
おつぎが庭から大きな声で言った時、お品はふと枕を持ち上げた。
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おつぎが庭から大きな聲でいつた時お品はふと枕を擡げた。
それでおつぎの声は、意味も分からずにかすかに耳に入った。
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それでおつぎの聲は意味も解らずに微かに耳に入つた。
しばらくたってから、お品は庭でおつぎがざあと水を汲んでは、また間を置いてざあと水を汲んでいるのを聞いた。
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暫くたつてからお品は庭でおつぎがざあと水を汲んでは又間を隔てゝざあと水を汲んで居るのを聞いた。
おつぎは大根を洗った。
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おつぎは大根を洗つた。
おつぎは庭ぶたの上にむしろを敷いて、暖かい日光を浴びながら切り干しを切りはじめた。
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おつぎは庭葢の上に筵を敷いて暖かい日光に浴しながら切干を切りはじめた。
大根を横に幾つかに切って、さらにそれを縦に割って短冊形に刻む。
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大根を横に幾つかに切つて、更にそれを竪に割つて短册形に刻む。
おつぎは飯台へ渡したまな板の上へとんとんと包丁を落としては、その包丁で白く刻まれた大根を飯台の中へしごき落とす。
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おつぎは飯臺へ渡した爼板の上へとん/\と庖丁を落しては其庖丁で白く刻まれた大根を飯臺の中へ扱き落す。
お品は切り干しを刻む音を聞いた時、さっきのは大根を洗っていたのだなと思った。
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お品は切干を刻む音を聞いた時先刻のは大根を洗つて居たのだなと思つた。
お品は、この二、三日、もう切り干しも切らなければならないと自分が口にして言っていたことを思い出して、おつぎがよく気を利かせたと心で喜んだ。
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お品は二三日此來もう切干も切らなければならないと自分が口について云つて居たことを思ひ出して、おつぎが能く機轉を利かしたと心で悦んだ。
包丁の音が雨戸の外に近く聞こえる。
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庖丁の音が雨戸の外に近く聞える。
お品が体を半分布団からずり出してみたら、手拭いで髪を包んで少し前かがみになっているおつぎの後ろ姿が見えた。
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お品は身體を半分蒲團からずり出して見たら、手拭で髮を包んで少し前屈みになつて居るおつぎの後姿が見えた。
「大根は分かったのか」
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「大根は分つたのか」
お品は聞いた。
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お品は聞いた。
「分かってるよ」
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「分つてるよ」
おつぎは包丁の手を止めて、横を向いて返事した。
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おつぎは庖丁の手を止めて横を向て返辭した。
お品はまた布団へくるまった。
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お品は又蒲團へくるまつた。
そうしてまだ下手な包丁の音を聞いた。
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さうしてまだ下手な庖丁の音を聞いた。
お品の懐にいた与吉は、退屈してせがみ出した。
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お品の懷に居た與吉は退屈してせがみ出した。
おつぎはそれを聞いて
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おつぎは夫を聞いて
「そうら、姉んとこへでも来てみろ」
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「そうら、姊が處へでも來て見ろ」
と言いながら、忙しくぽっとひとくべ落ち葉を燃して、着物をあぶって与吉へ着せた。
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といひながら忙しくぽつと一燻べ落葉を燃して衣物を灸つて與吉へ着せた。
「よきは利口だから姉んとこにいるんだぞ」
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「よきは利口だから姊が處に居るんだぞ」
お品は言った。
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お品はいつた。
おつぎは自分のむしろの上へ抱いて行った。
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おつぎは自分の筵の上へ抱いて行つた。
おつぎの手は落ち葉のほこりで汚れていた。
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おつぎの手は落葉の埃で汚れて居た。
再び包丁を持った時、大根には指の跡がついた。
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再び庖丁を持つた時大根には指の趾がついた。
おつぎはその手を半纏で拭いた。
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おつぎは其手を半纏で拭つた。
与吉はそばで刻まれた大根へ手を出す。
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與吉は側で刻まれた大根へ手を出す。
「危ないよ、さあこれでも持ってろ」
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「危險よ、さあ此でも持つて居ろ」
おつぎは切りかけの大根をやった。
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おつぎは切り掛けの大根をやつた。
与吉はすぐにそれをかじった。
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與吉は直にそれを噛ぢつた。
「辛くてしようがないだろうな、よきは」
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「辛くて仕やうあんめえなよきは」
おつぎは甘やかすように言った。
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おつぎは甘やかすやうにいつた。
お品にはそれがよく聞こえて、二人がどんなことをしているのかが分かった。
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お品にはそれが能く聞えて二人がどんなことをして居るのかゞ分つた。
お品の耳には続いて
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お品の耳には續いて
「ぽうんとしたか、そらそっちへ行っちゃった」
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「ぽうんとしたか、そらそつちへ行つちやつた」
という声がしたかと思うと
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といふ聲がしたかと思ふと
「今度はぽうんとするんじゃないからな」
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「こんだはぽうんとすんぢやねえかんな」
という声や、それからまた
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といふ聲やそれから又
「それ持ち出すんじゃない、聞かないとこれで切ってやるぞ、血が出るぞ、ああ痛い」
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「それ持ち出すんぢやねえ、聽かねえと此で切つてやんぞ、赤まんまが出るぞおゝ痛え」
などと、おつぎの言うのが聞こえた。
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抔とおつぎのいふのが聞えた。
そのたびに包丁の音が止む。
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其度に庖丁の音が止む。
お品には、与吉がいたずらをしたり、おつぎが痛いと言って指をくわえてみせれば与吉も自分の手を口へ当てているのが、目に見えるようである。
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お品には與吉が惡戯をしたり、おつぎが痛いといつて指を啣へて見せれば與吉も自分の手を口へ當て居るのが目に見えるやうである。
お品はおつぎをふだんからやかましくしていたので、よその子よりも割合に動けると思っているけれど、与吉とふざけたりしているのを見ると、まだ子供だということが念頭に浮かぶ。
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お品はおつぎを平常から八釜敷して居たので餘所の子よりも割合に動けると思つて居るけれど、與吉と巫山戯たりして居るのを見るとまだ子供だといふことが念頭に浮ぶ。
自分が勘次と知り合ったのは十六の秋である。
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自分が勘次と相知つたのは十六の秋である。
おつぎはこうして大人らしくなるであろうかと、いつになくそんなことを思った。
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おつぎは恁うして大人らしく成るであらうかと何時になくそんなことを思つた。
おつぎは十五であった。
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おつぎは十五であつた。
昼飯もお品は欲しくなかった。
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午餐もお品は欲しくなかつた。
自分でも今日は商売に出られないと諦めた。
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自分でも今日は商に出られないと諦めた。
明日になったらばと思っていた。
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明日に成つたらばと思つて居た。
しかしそれは空頼みであった。
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然しそれは空頼であつた。
お品は依然として枕を離れられない。
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お品は依然として枕を離れられない。
さすがに不安の念が先に立った。
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有繋に不安の念が先に立つた。
お品は、つい近ごろ行った勘次のことがしきりに思い出されて、こっちであれほど働いて行ったのに、きっと休みもしないで銭取りをしているのだろうと思うと、寒くてもシャツ一つになって、後にはそのシャツの端が抜け出してよく臍が出ることや、夜になるとよく骨がみりみりするようだと言ったことが目の前にあるようで、なんだか会いたくてたまらないような心持ちがするのであった。
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お品はつい近頃行つた勘次の事が頻りに思ひ出されて、こつちであれ程働いて行つたのに屹度休みもしないで錢取をして居るのだらうと思ふと、寒くてもシヤツ一つになつて、後には其シヤツの端が拔け出して能く臍が出ることや、夜になると能く骨がみり/\する樣だといつたことが目の前にあるやうで何だか逢ひたくて堪らぬやうな心持がするのであつた。
勘次は利根川の掘削工事へ行っていた。
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勘次は利根川の開鑿工事へ行つて居た。
秋のころから土方が勧誘に来て、だいぶ甘い話をされたので、この近くの村からも五、六人が募集に応じた。
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秋の頃から土方が勸誘に來て大分甘い噺をされたので此の近村からも五六人募集に應じた。
勘次は工事がどんなことかもよく知らなかったが、一日の手間が五十銭以上にもなるというので、それがその季節としては法外な値段なのに惚れ込んでしまったのである。
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勘次は工事がどんなことかも能く知らなかつたが一日の手間が五十錢以上にもなるといふので、それが其季節としては法外な値段なのに惚れ込んで畢つたのである。
工事の場所は霞ヶ浦に近い低地で、洪水がいったん岸の草を沈めると、湖は広がって川と一つになり、ただ白々と氾濫するのを、人の手で築かれた堤防がわずかに湖と川とを区別しているあたりである。
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工事の場所は霞ヶ浦に近い低地で、洪水が一旦岸の草を沒すと湖水は擴大して川と一つに只白々と氾濫するのを、人工で築かれた堤防が僅に湖水と川とを區別するあたりである。
勘次は自分の土地と比べて、茫々としたあたりの様子に呑まれた。
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勘次は自分の土地と比較して茫々たるあたりの容子に呑まれた。
そうして人夫たちに権柄ずくでこき使われた。
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さうして工夫等に權柄にこき使はれた。
勘次はいよいよ雇われて行くとなった時、取り入れを急いだ。
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勘次は愈傭はれて行くとなつた時收穫を急いだ。
冬至が近づくころには、田は言うまでもなく、畑の芋でも大根でもそれぞれ始末しなくてはならない。
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冬至が近づく頃には田はいふまでもなく畑の芋でも大根でもそれぞれ始末しなくてはならぬ。
勘次は、お品が起きてかまどの火をつけるうちには、庭ぶたへもみのむしろを干したり、それから一人で磨臼をひいたりして、それから大根も干したり土へ埋けたりして、暗いうちから暗くなるまで働いた。
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勘次はお品が起きて竈の火を點けるうちには庭葢へ籾の筵を干したりそれから獨りで磨臼を挽いたりして、それから大根も干したり土へ活けたりして闇いから闇いまで働いた。
それでも、もみが少しと畑が少し残ったのを、お品がどうにかすると言ったので出て行ったのである。
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それでも籾が少しと畑が少し殘つたのをお品がどうにかするといつたので出て行つたのである。
工事の場所へは八十キロもあった。
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工事の箇所へは廿里もあつた。
勘次は、行けばすぐに銭になると思ったので、ようやく一円ばかりの財布を懐にした。
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勘次は行けば直に錢になると思つたので漸く一圓ばかりの財布を懷にした。
弁当をうんと背負ったので、目的地へ着くまでは渡し銭のほかには一銭も要らなかった。
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辨當をうんと背負つたので目的地へつくまでは渡錢の外には一錢も要らなかつた。
勘次は夜着いて、その次の日には疲れた体で仕事に出た。
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勘次は夜ついて其次の日には疲れた身體で仕事に出た。
彼は半日でも無駄な飯を食うことを恐れた。
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彼は半日でも無駄な飯を喰ふことを恐れた。
しかしその次の日は、過激な労働から、俗にそら手といって手の筋が痛んだので、二、三日仕事に出られなかった。
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然し其の次の日は過激な勞働から俗にそら手というて手の筋が痛んだので二三日仕事に出られなかつた。
それから六、七日たって激しい西風が吹いた。
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それから六七日たつて烈しい西風が吹いた。
勘次は薄い布団へくるまって、日のうちから冷えていた足が暖まらなかった。
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勘次は薄い蒲團へくるまつて日の中から冷えてた足が暖らなかつた。
うとうととぐっすり眠ることもできないで、寝返りを打って長い夜をようやく明かした。
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うと/\と熟睡することも出來ないで輾轉して長い夜を漸く明した。
その次の日、彼はこわばったように感じる手を動かして、冷たいシャベルの柄を取って泥にくるまっていた。
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其の次の日彼は硬ばつたやうに感ずる手を動かして冷たいシヤブルの柄を執つて泥にくるまつて居た。
そうしている所へ、村の近所の者がひょっこり訪ねて来たので、彼は狐にでも化かされたようにただ驚いた。
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さうして居る處へ村の近所のものがひよつこり尋ねて來たので彼は狐にでも魅まれたやうに只驚いた。
近所の者は、大勢がただ泥のようになって動いているので、どれがどうとも見分けがつかなくて困ったと言って、勘次に会えたことを繰り返してただ喜んだ。
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近所の者は大勢が只泥のやうになつて動いて居るのでどれがどうとも識別がつかないで困つたといつて、勘次に逢うたことを反覆して只悦んだ。
途中へ一晩泊まったというようなことを言って、勘次が気ぜわしく聞くまでは用件を言わなかった。
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途中へ一晩泊つたといふやうなことをいつて勘次が心忙しく聞く迄は理由をいはなかつた。
勘次はようやく、お品に頼まれて来たのだということを知った。
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勘次は漸くお品に頼まれて來たのだといふことを知つた。
勘次は、お品が病気にかかったのだというのを聞いて、万一かという懸念がぎくりと胸にこたえた。
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勘次はお品が病氣に罹つたのだといふのを聞いて萬一かといふ懸念がぎつくり胸にこたへた。
そうして繰り返して、どんな塩梅だと聞いた。
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さうして反覆してどんな鹽梅だと聞いた。
話の様子ではそれほどでもないのかと思ってもみたが、それでも勘次は、口を利くにも唾が喉からぐっと突き返してくるようで落ち着けなかった。
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噺の容子ではそれ程でもないのかと思つても見たが、それでも勘次は口を利くにも唾が喉からぐつと突つ返して來るやうで落付かれなかつた。
その日の夜中に彼らは立った。
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其の日の夜中に彼等は立つた。
勘次は自分も急ぐし、使いを疲れた足で歩かせることもできないので、霞ヶ浦を汽船で土浦の町へ出た。
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勘次は自分も急ぐし使を疲れた足で歩かせることも出來ないので霞ヶ浦を汽船で土浦の町へ出た。
夜は汽船で明けたが、どうしたのか途中で故障ができたので、土浦へ着いたのは予定の時間よりはるかに遅れていた。
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夜は汽船で明けたがどうしたのか途中で故障が出來たので土浦へ着いたのは豫定の時間よりは遙に後れて居た。
土浦の町で勘次は鰯を一包み買って、手拭いでくくってぶら下げた。
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土浦の町で勘次は鰯を一包み買つて手拭で括つてぶらさげた。
土浦から彼は、疲れた足を後に捨てて、自分は力のかぎり歩いた。
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土浦から彼は疲れた足を後に捨てゝ自分は力の限り歩いた。
それでも村へ入った時はすれ違う人がぼんやり分かるくらいで、自分の戸口に立った時は、薄暗い手ランプが柱に掛かってくすぶっていた。
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それでも村へはひつた時は行き違ふ人がぼんやり分る位で自分の戸口に立つた時は薄暗い手ランプが柱に懸つて燻ぶつて居た。
勘次は、ひっそりとした家の中に、すぐに布団へくるまっているお品の姿を見た。
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勘次はひつそりとした家のなかに直に蒲團へくるまつて居るお品の姿を見た。
それから、お品の足をさすっているおつぎに目を移した。
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それからお品の足を揣つて居るおつぎに目を移した。
勘次は大戸をがらりと開けて敷居をまたいだ時、何も言わずにただ
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勘次は大戸をがらりと開けて閾を跨いだ時何もいはずに只
「どうしたい」
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「どうしてえ」
と言うのが先であった。
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といふのが先であつた。
お品は勘次の声を聞いて、思わず枕を動かして
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お品は勘次の聲を聞いて思はず枕を動かして
「勘次さんか」
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「勘次さんか」
と言って、さらに
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といつて更に
「南のおとっつあんは行き違いにでもならなかっただろうかね」
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「南のおとつゝあは行き違にでもならなかつたんべかな」
と言った。
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といつた。
「行き会ったよ。そんだが、お前どんな塩梅なんだい」
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「行逢つたよ。そんだがお前どんな鹽梅なんでえ」
「おれはそれほどでないと思っていたが、三、四日横になったきりでなあ。それでも今日あたりはちっとはいいようだから、この分じゃすぐに吹き返すかとも思ってるのよ」
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「俺らそれ程でねえと思つて居たが三四日横に成つた切でなあ、それでも今日等はちつたあえゝやうだから此分ぢや直に吹つ返すかとも思つてんのよ」
「それじゃよかった。おれはただでも歩いてもよかったが、南のこと、また歩かせちゃ済まないから、いっしょに土浦まで汽船で乗りつけたんだが、南は草臥れたもんだから、おれが先へ出たんだがな。南もあの分じゃ今夜もなかなか容易じゃあるまいよ。それに汽船がまた遅れちまってな」
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「そんぢやよかつた、俺ら只ぢや歩いてもよかつたが、南こと又歩かせちや濟まねえから同志に土浦まで汽船で乘つ着けたんだが、南は草臥れたもんだから俺ら先へ出たんだがな、南もあの分ぢや今夜もなか/\容易ぢやあんめえよ、それに汽舩が又後れつちやつてな」
勘次は言いながらわらじを取った。
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勘次はいひながら草鞋をとつた。
手拭いの端へくくって来た鰯の包みをかさりとお品の枕元へ投げて、首へつけていた風呂敷包みをどさりと置いて、勘次は庭へ出て足を洗った。
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手拭の端へ括つて來た鰯の包みをかさりとお品の枕元へ投げて、首へつけて居た風呂敷包をどさりと置いて勘次は庭へ出て足を洗つた。
勘次はお品の枕元へ座を占めた。
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勘次はお品の枕元へ座を占めた。
「そんなに悪くなくてそれでもよかった。おれはどうしたかと思ってな」
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「そんなに惡くなくつちやそれでもよかつた、俺らどうしたかと思つてな」
勘次は改めてまた言った。
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勘次は改めて又いつた。
「お品、ご飯は食べたか」
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「お品おまんまは喰べてか」
勘次はつけ足した。
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勘次はつけ足した。
「さっき、おつうに米のお粥を炊いてもらって、それでもやっとかっ込んだところだよ」
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「先刻おつうに米のお粥炊いて貰つてそれでもやつと掻つ込んだところだよ」
「それじゃどうした、途中で見つけて来たんだから、一匹やってみないか」
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「それぢやどうした、途中で見付けて來たんだから一疋やつて見ねえか」
勘次は手ランプをお品の枕元へ持って来て、鰯の包みを解いた。
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勘次は手ランプをお品の枕元へ持つて來て鰯の包を解いた。
鰯は手ランプの光できらきらと青く見えた。
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鰯は手ランプの光できら/\と青く見えた。
「ほんによなあ」
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「ほんによなあ」
お品はうつぶせになってこう言った。
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お品は俯伏しになつて恁ういつた。
「おつう、そこへ火でも吹きつけてみないか」
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「おつう、其處へ火でも吹つたけて見ねえか」
勘次は言った。
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勘次はいつた。
「勘次さん、そら大変だったな。おれはそんなには要らなかったな」
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「勘次さんそら大變だつけな、俺らそんなにや要らなかつたな」
「今だから、いつまでももつよ。そうしてお前も力をつけろな」
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「今だから何時までも保つよ、さうしてお前も力つけろな」
「汽船に乗って来たって、よっぽど費用も掛かったんだろうな」
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「汽船に乘つて來たつて餘つ程費用も掛つたんべな」
「そうよ、二人で六十銭ばかりだが、これはおれが出したのよ。南に出させるわけにも行かないからな」
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「さうよ、二人で六十錢ばかりだが此は俺出したのよ、南に出させる譯にも行かねえかんな」
「それじゃ稼いだ銭、それだけ棒に振っちまったな」
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「それぢや稼えだ錢それだけ立投にしつちやつたな」
「そんでも財布にはまだあるよ。七日ばかり働いて、それでも二円は残ったからな。そんでまた行くはずで、前借りを少ししてきたんだ。こっちのほうから行ってる連中が保証してくれてな」
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「そんでも財布にやまあだ有るよ、七日ばかり働えてそれでも二兩は殘つたかんな、そんで又行く筈で前借少しして來たんだ、こつちの方から行つてる連中が保證してくれてな」
勘次は誇り顔に言った。
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勘次は誇り顏にいつた。
「おれは今日みたいだといいが、ひどく会いたくなってなあ」
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「俺ら今日見てえだらえゝが、酷く行逢ひたくなつてなあ」
お品はうつぶせた額を枕につけた。
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お品は俯伏した額を枕につけた。
「どうせここらの始末もしないで行ったんだから、一遍は途中で帰ってみなくちゃならないのだから、同じことだよ」
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「どうせ此處らの始末もしねえで行つたんだから、一遍は途中で歸つて見なくつちや成らねえのがだから同じ事だよ」
勘次はお品をのぞき込むようにして言った。
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勘次はお品を覗き込やうにしていつた。
「それでも俵にはしておいたな」
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「それでも俵にしちや置いたな」
勘次は壁際の麦藁俵を見て言った。
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勘次は壁際の麥藁俵を見ていつた。
お品はまだうつぶせたままである。
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お品はまだ俯伏した儘である。
「あっちにいちゃ銭は要らないな。煙草一服吸うわけじゃなし、十五日目が晦日で、それまでは勘定なしで、その間は米でも薪でもみんな通帳で借りておくくらいなんだから、十五日目にならなくちゃ財布も膨れないが、また百でも出ることはないからな」
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「あつちに居ちや錢は要らねえな、煙草一服吸ふべえぢやなし、十五日目が晦日でそれまでは勘定なしで其間は米でも薪でもみんな通帳で借りて置く位なんだから、十五日目に成らなくつちや財布も膨れねえが、又百でも出つこはねえかんな」
勘次はさらに出先のことをお品へ聞かせた。
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勘次は更に出先のことをお品へ聞かせた。
「米ばかり炊いても毎日一升ずつは要るくらいだから、骨もずいぶん折れるが、出しさえすりゃ二貫と三貫は残せるから、帰るまでにはおれもどうにかなると思ってるのよ。そうすりゃ塩鮭くらいは買うこともできるからな」
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「米ばかり炊えても毎日一升づゝは要る位だから骨も隨分折れんが出せえすりや二貫と三貫は殘せつから、歸るまでにや俺もどうにか成ると思つてんのよ、さうすりや鹽鮭位は買あことも出來らな」
「それじゃよかった。土方なんて、ろくな奴らはいないっていうから、どうしたかと思ってな」
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「そんぢやよかつた、土方なんちや碌な奴等は居ねえつていふからどうしたかと思つてな」
お品は首を持ち上げた。
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お品は首を擡げた。
「そんな奴らと付き合った日には限りはないが、隅のほうに縮こまってりゃ何とも言わないな」
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「そんな奴等と交際した日にや限はねえが、隅の方にちゞまつてりや何ともゆはねえな」
勘次がついている間に、おつぎは枯れそだを折って火鉢へ火を起こした。
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勘次がついて居る間におつぎは枯粗朶を折て火鉢へ火を起した。
勘次は火箸を渡して鰯を三つばかり乗せた。
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勘次は火箸を渡して鰯を三つばかり乘せた。
鰯の油がじりじりと垂れて、青い炎が立った。
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鰯の油がぢり/\と垂れて青い焔が立つた。
鰯の匂いが薄い煙とともに部屋の中に満ちた。
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鰯の臭が薄い煙と共に室内に滿ちた。
そうして、その匂いがお品の食欲を促した。
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さうして其臭がお品の食慾を促した。
お品はうつぶせたなりで、煙臭くなった鰯を食べた。
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お品は俯伏したなりで煙臭くなつた鰯を喰べた。
「どうした、塩辛くはあるまい」
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「どうした鹽辛かあ有んめえ」
「さすがにうまいな」
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「有繋佳味えな」
「これでも、ここらの商人は持って来ないぞ」
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「此でもこゝらの商人は持つちや來ねえぞ」
勘次は一心に見ながら言った。
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勘次は一心に見ながらいつた。
お品は二匹へ手をつけて箸を置きながら、懐で眠っている与吉をのぞいて
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お品は二匹へ手をつけて箸を置きながら懷で眠つて居る與吉を覗いて
「起きていたら大騒ぎだろう」
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「起きて居たら大騷ぎだんべ」
と言った。
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といつた。
「もっと食べろな」
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「いまつとたべろな」
勘次は言った。
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勘次はいつた。
「たくさんだよ、おつうにもやってくれよな」
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「澤山だよ、おつうげもやつてくろうな」
「おれも飯でも食おうかね」
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「俺も飯でも食はうかえ」
勘次は風呂敷包みから弁当の残りを出して、冷たいままぶすぶすとかじった。
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勘次は風呂敷包から辨當の殘を出して冷たい儘ぷす/\と噛つた。
「おうい、お茶は冷たくなったっけかな」
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「おうつ、お茶は冷めたくなつたつけかな」
お品は言った。
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お品はいつた。
「要らないぞ、仕事に出りゃ毎日こうだ」
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「要ねえぞ仕事に出りや毎日かうだ」
勘次は梅干しを少しずつなめ減らした。
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勘次は梅干を少しづゝ嘗め減らした。
弁当が尽きてから、勘次は鰯をおつぎへ挟んでやった。
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辨當が盡きてから勘次は鰯をおつぎへ挾んでやつた。
そうして自分でも一口食べた。
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さうして自分でも一口たべた。
「こりゃうまいことはうまいが、あんまり脂っこくて、おれのには胸が悪くなるようだな」
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「此りや佳味えこたあ佳味えが餘りあまくつて俺がにや胸が惡くなるやうだな」
勘次は冷めた湯を幾杯か傾けた。
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勘次は冷めた湯を幾杯か傾けた。
勘次は風呂敷から袋を出してお品の枕元へ置いて
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勘次は風呂敷から袋を出してお品の枕元へ置いて
「米はこれだけ残ったから持って来たんだ。あっちにいればいいが、幾日でも空けると炊かれちまっても仕方がないからな。そんじゃ、こりゃおつうにやっておくんだ」
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「米これだけ殘つたから持つて來たんだ、あつちに居ればえゝが幾日でも明けると炊かれつちやつても仕やうねえかんな、そんぢや此りやおつうげやつて置くんだ」
勘次は米の小さな袋をおつぎへ渡した。
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勘次は米の小さな袋をおつぎへ渡した。
「袋なんぞ、また何だと思ったよ」
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「袋なんぞ又何だと思つたよ」
お品は軽く言った。
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お品は輕くいつた。
「それでも薪は持って来るわけにも行かないから、置いて来ちまった」
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「それでも薪は持つて來る譯にも行かねえから置いて來つちやつた」
勘次は自ら嘲るように、目から口へかけて冷たい笑いが動いた。
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勘次は自ら嘲るやうに目から口へ掛けて冷たい笑が動いた。
「お品、足でもさすってやろうじゃないか」
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「お品、足でもさすつてやんべぢやねえか」
勘次はお品の裾のほうへ行った。
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勘次はお品の裾の方へ行つた。
「いいよ勘次さん。おれは今日は日のうちから心持ちがいいんだから。さっきもおつぎがさすってやろうなんて言うもんだから、少しもやってくれるなって言ったところだよ。この分じゃ二、三日も過ぎたら、勘次さんはまた行けるだろうよ」
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「えゝよ勘次さん、俺ら今日は日のうちから心持えゝんだから、先刻もおつうが揣つてやんべなんていふもんだから少しもやつてくろつて云つた處だよ、こんぢや二三日も過ぎたら勘次さんは又行けべえよ」
お品は快さそうに言った。
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お品は快よげにいつた。
「今夜はひどく心持ちがいいんだよ。いいよ、本当だよ勘次さん、お前草臥れただろうな」
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「今夜はひどく心持えゝんだよ、えゝよ本當だよ勘次さん、お前草臥たんべえな」
さらにお品は威勢がついて言った。
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更にお品は威勢がついていつた。
夜は更けた。
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夜は深けた。
外の闇は凍ったかと思うように、ただしんとした。
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外の闇は氷つたかと思ふやうに只しんとした。
こんにゃくの水にも、紙のような氷が張った。
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蒟蒻の水にも紙の如き氷が閉ぢた。
三
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三
次の朝、霜は白く庭ぶたの藁に降りた。
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次の朝霜は白く庭葢の藁におりた。
切り干しのむしろは三枚ばかりその庭ぶたの上に敷いたままで、切り干しには氷を粉にしたような霜が凝っていて、東の森の隙間から差し透す朝日にきらきらと光った。
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切干の筵は三枚ばかり其庭葢の上に敷いた儘で、切干には氷を粉末にしたやうな霜が凝つて居て、東の森の隙間から射し透す朝日にきら/\と光つた。
白い切り干しは、蒸さずに干したのであった。
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白い切干は蒸さずに干したのであつた。
切り干しは、雨が降らなければ、ほこりだらけになろうがごみが交じろうが、昼も夜もむしろは敷き放しである。
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切干は雨が降らねば埃だらけに成らうが芥が交らうが晝も夜も筵は敷き放しである。
勘次は霜柱の立った小道を南へ行った。
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勘次は霜柱の立てる小徑を南へ行つた。
昨夜遅かったことやら何やら話をして手間取った。
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昨夜遲かつたことやら何やら噺をして暇どつた。
庭先から続く小さな桑畑の向こうに家が見えるので、ふだんそれを勘次の家でもただ南とだけ言っている。
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庭先から續く小さな桑畑の向に家が見えるので、平生それを勘次の家でも唯南とのみいつて居る。
彼がこもつくこをかついで帰って来た時は、日なたの霜が少し解けて粘ついていた。
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彼が薦つくこを擔いで歸つて來た時は日向の霜が少し解けて粘ついて居た。
お品は、勘次がちょっとの間いなくなったのでひどく寂しかった。
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お品は勘次が一寸の間居なく成つたので酷く寂しかつた。
この朝になってからもお品の容態がいいので、勘次はほっと安心した。
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此の朝になつてからもお品の容態がいゝので勘次はほつと安心した。
そうして、斜めに遠くから差す冬の日を浴びながら、庭ぶたの上にむしろを敷いて俵を編みはじめた。
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さうして斜に遠くから射す冬の日を浴びながら庭葢の上に筵を敷いて俵を編みはじめた。
こもつくこは両端に足が付いている。
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薦つくこは兩端に足が附いて居る。
ちょうど荷鞍の骨のような簡単な道具である。
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丁度荷鞍の骨のやうな簡單な道具である。
その足から足へ渡した棒へ藁を一つかみずつ当てては、八人坊主をあっちへこっちへ打ち違えながら縄を締めつつ編むのである。
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其足から足へ渡した棒へ藁を一掴みづゝ當てゝは八人坊主をあつちへこつちへ打つ違ひながら繩を締めつゝ編むのである。
八人坊主というのは、その縄を巻いた、いわば小さな錘である。八つあるので八人坊主と言っている。
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八人坊主といふのは其繩を捲いたいはゞ小さな錘である、八つあるので八人坊主といつて居る。
小作米を入れる藁俵を四、五俵分作らねばならないことが、稼ぎに出る時から彼には気掛かりであった。
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小作米を入れる藁俵を四五俵分作らねば成らぬことが稼ぎに出る時から彼には心掛りであつた。
すぐった藁も縄も別に取っておきながら、ただ忙しくて放り出して出て行ったのである。
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すぐつた藁も繩も別に取つて置きながら只忙しくて放棄つて出て行つたのである。
お品は、毎日閉め切っていた表の雨戸を一枚だけ開けさせた。
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お品は毎日閉め切つて居た表の雨戸を一枚だけ開けさせた。
からりとした青い空が見えて、日が自分のいる布団の近くまで伸びてきた。
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からりとした蒼い空が見えて日が自分の居る蒲團に近くまで偃つた。
お品はこれまでは、明るい外を見ようと思うにはあまりに心がふさいでいた。
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お品は此れまでは明るい外を見ようと思ふには餘りに心が鬱して居た。
お品は庭先の栗の木から垂れた大根が、褐色に干からびているのを見た。
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お品は庭先の栗の木から垂れた大根が褐色に干て居るのを見た。
おつぎも勘次の横へむしろを敷いて、また大根を切っている。
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おつぎも勘次の横へ筵を敷いて又大根を切つて居る。
その包丁のとんとんと鳴る間に、忙しく八人坊主を動かしてはさらさらと藁をしごく音が、かすかに交じって聞こえる。
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其庖丁のとん/\と鳴る間に忙しく八人坊主を動かしてはさらさらと藁を扱く音が微かに交つて聞える。
お品は二人の姿を前にして、ひどく心強く感じた。
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お品は二人の姿を前にして酷く心強く感じた。
その日は、栗の木に掛けた大根の動かないほど穏やかな日であった。
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其の日は栗の木に懸けた大根の動かぬ程穩かな日であつた。
お品はこの分で行けば、一枚紙をはがすように快くなることと確信した。
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お品は此の分で行けば一枚紙を剥がすやうに快よくなることゝ確信した。
勘次は藁俵を編み終えて、そうして端を縛った小さな藁の束を丸く開いて、それを足の底に踏んで、かかとを中心に手と足とをコンパスのようにしてぐるぐると回りながら、丸い俵ぼっちを作った。
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勘次は藁俵を編み了へて、さうして端を縛つた小さな藁の束を丸く開いて、それを足の底に踏んで踵を中心に手と足とを筆規のやうにしてぐる/\と廻りながら丸い俵ぼつちを作つた。
勘次は、お品がどうにか始末をしておいた麦藁俵を開けて、仕上げたばかりの藁俵へ米を量り込んだ。
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勘次はお品がどうにか始末をして置いた麥藁俵を明けて仕上げた計りの藁俵へ米を量り込んだ。
米には赤い粒もあったが、もみが少し交じっていて、それが目に立った。
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米には赤い粒もあつたが籾が少し交つて居てそれが目に立つた。
「もみが少し高かったな」
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「籾が少したかゝつたな」
勘次はふとそう言った。
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勘次はふとさういつた。
「そうだったっけかな。それでもおれは唐箕は強く立てたつもりなんだがなあ。今年は赤もたくさんだが、磨臼の切れ方もどういうもんだか悪いんだよ」
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「さうだつけかな、それでも俺ら唐箕は強く立てた積なんだがなよ、今年は赤も夥多だが磨臼の切れ方もどういふもんだか惡いんだよ」
と、お品は少し身を動かして言い訳するように言った。
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とお品は少し身を動かして分疏するやうにいつた。
「もっとも、これくらいじゃ旦那も大目に見てくれるだろうから心配はあるまいがなあ」
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「尤も此位ぢや旦那も大目に見てくれべえから心配はあんめえがなよ」
勘次はすぐにお品の病気に気づいて、こう言った。
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勘次は直にお品の病氣に心付いて恁ういつた。
壁際には、藁の器用な俵が規則正しく積み換えられた。
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壁際には藁の器用な俵が規則正しく積み換られた。
お品はそれを一心に見た。
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お品はそれを一心に見た。
それもお品を快くする一つであった。
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それもお品を快よくする一つであつた。
勘次は俵のそばの手桶のふたを取って
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勘次は俵の側な手桶の蓋をとつて
「こりゃこんにゃくだな」
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「此りや蒟蒻だな」
と言った。
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といつた。
「おれはそれを仕入れたっきり、起きられないんだよ」
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「俺らそれ仕入たつきり起られねえんだよ」
お品は枕を手で動かして言った。
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お品は枕を手で動かしていつた。
勘次はまたふたをした。
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勘次は又葢をした。
静かな空をじりじりと移って行く日が傾いたかと思うと、一散に落ちはじめた。
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靜かな空をぢり/\と移つて行く日が傾いたかと思ふと一散に落ちはじめた。
冬の日はもう短い頂点に達しているのである。
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冬の日はもう短い頂點に達して居るのである。
勘次はまだ日があるからと言って、鍬をかついで麦畑へ出た。
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勘次はまだ日が有るからといつて鍬を擔いで麥畑へ出た。
しかしいくらも耕さないうちに日は落ちて、にわかに冷たくなった世間は暗澹としてきた。
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然し幾らも耕さぬうちに日は落ちて俄かに冷たく成つた世間は暗澹として來た。
お品は勘次を出して、ひどくやるせないような心持ちになって、雨戸を引かせて暗いほうへ向いて目を閉じた。
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お品は勘次を出して酷く遣瀬ないやうな心持になつて、雨戸を引せて闇い方へ向て目を閉ぢた。
冬至はもう間が二日しかなくなった。
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冬至はもう間が二日しか無くなつた。
朝のうちに勘次はこんにゃくのふたを取ってみて
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朝の内に勘次は蒟蒻の葢をとつて見て
「どうしたもんだかな、おれでもかついで歩こうかな。こうしておいたんじゃ仕方がないからな」
原文を見る
「どうしたもんだかな、俺でも擔いて歩つてんべかな、恁して置いたんぢや仕やうねえかんな」
お品へ相談してみた。
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お品へ相談して見た。
「そうよなあ。それよりか、おれはどっちかといったら、大根でも漬けてもらいたいな。毎日栗の木を見ていて、干しすぎやしないかと思って心配してるんだからよ」
原文を見る
「さうよな、それよりか俺らどつちかつちつたら大根でも漬て貰へてえな、毎日栗の木見て居て干過ぎやしめえかと思つて心配してんだからよ」
お品は訴えるように言って、そうしてさらに
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お品は訴へるやうにいつてさうして更に
「自分が丈夫でさえありゃ、とっくにやっちまったんだが」
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「自分で丈夫でせえありや疾くにやつちまつたんだが」
と小声で言った。
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と小聲でいつた。
お品はどうも勘次を出すのがいやであった。
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お品はどうも勘次を出すのが厭であつた。
しかし、なんだかそうはっきりとも言えないので、こう言ったのであった。
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然し何だかさう明白地にもいはれないので恁ういつたのであつた。
「勘次さん、塩を見てくれないか。おれは大丈夫あると思ってたっけがなあ。それからこっちの桶の糠がいいんだよ。そっちのには房州砂が交じってるんだから」
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「勘次さん鹽見てくんねえか、俺ら大丈夫有ると思つてたつけがなよ、それからこつちの桶の糠がえゝんだよ、そつちのがにや房州砂交つてんだから」
お品は言った。
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お品はいつた。
「おうい」
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「おうい」
勘次は言って、
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勘次はいつて、
「房州砂でも何でも構うまい。どうせ糠を食うんじゃあるまいし。それにこっちのはちっと凝り固まってら」
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「房州砂でも何でも構あめえ、どうで糠喰ふんぢやあんめえし、それにこつちなちつと凝結つてら」
「勘次さん、そんでも入れるなよ。毒だっていうんだから。おれ、せっかく別にしてたんだから」
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「勘次さんそんでも入えんなよ、毒だつちんだから、俺折角別にしてたんだから」
お品は少し身を起こしかけて言った。
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お品は少し身を起し掛けていつた。
「そうか、そんじゃそうしよう」
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「さうかそんぢやさうすべよ」
それから塩を改めて見て
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それから鹽を改めて見て
「どうしてこれだけで使い切れるもんかい」
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「どうして此れだけ使へ切れるもんけえ」
と勘次は言った。
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と勘次はいつた。
お品は、勘次がはしごを掛けて一つ一つに大根を外すのも、小糠をむしろへ量るのも、白い塩を小糠へ混ぜるのも、満足げに見ていた。
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お品は勘次が梯子を掛けて一つ/\に大根を外すのも小糠を筵へ量るのも白い鹽を小糠へ交ぜるのも滿足氣に見て居た。
お品は勘次を外へやるのがいやなので、そうは言わずに、時々おつぎに足をさすらせた。
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お品は勘次を外へ遣るのが厭なのでさうはいはずに時々おつぎに足をさすらせた。
そうすると勘次は
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さうすると勘次は
「どうした、いくらか悪いのか」
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「どうした幾らか惡いのか」
と、自分も一心に布団の裾へ手を掛ける。
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と自分も一心に蒲團の裾へ手を掛ける。
勘次は庭から外へは出られなかった。
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勘次は庭から外へは出られなかつた。
それでも冬至が明日と迫った日に、勘次はこんにゃくを持って出た。
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それでも冬至が明日と迫つた日に勘次は蒟蒻を持つて出た。
お品もそれは止めなかった。
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お品もそれは止めなかつた。
もう幾人か歩いた後なので、思うようにはさばけなかったが、それでも勘次はお品に引かれて、まだ残っているこんにゃくをかついで帰って来てしまった。
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もう幾人か歩いた後なので、思ふやうには捌けなかつたがそれでも勘次はお品にひかされて、まだ殘つて居る蒟蒻を擔いで歸つて來て畢つた。
「こんにゃくはお品のもんだから、銭はみんなお前にやっておこう」
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「蒟蒻はお品がもんだから、錢はみんなおめえげ遣つて置くべ」
勘次は銅貨をじゃらじゃらとお品の枕元へ空けた。
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勘次は銅貨をぢやら/\とお品の枕元へ明けた。
お品は銅貨を一つ一つ勘定した。
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お品は銅貨を一つ/\勘定した。
そうして元手を引いてもいくらかの余りがあったので
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さうして資本を引いても幾らかの剩餘があつたので
「勘次さん、思いのほかだったな。まだあとよっぽどあるだろうか」
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「勘次さん思ひの外だつけな、まあだあと餘程あんべえか」
と言った。
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といつた。
「いくらでもないな。もうこれだけじゃ、また出るほどのこともあるまいよ」
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「幾らでもねえな、はあ此丈ぢや又出る程のこつてもあんめえよ」
勘次は言った。
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勘次はいつた。
お品は自分の手で銭を布団の下へ入れた。
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お品は自分の手で錢を蒲團の下へ入れた。
その日、お品は勘次を出して情けないような心持ちがしていたのであるが、思ったよりは商売をして来てくれたので、一日の不足がまったく取り返された。
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其の日お品は勘次を出して情ないやうな心持がして居たのであるが、思つたよりは商をして來て呉れたので一日の不足が全く恢復された。
そうして
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さうして
「菜は畑へ置きっ放しだったろうな」
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「菜は畑へ置きつ放しだつけべな」
勘次が言った時、お品も驚いたように
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勘次がいつた時お品も驚いたやうに
「ほんにそうだったなあ、まあ、遅れちまったっけなあ。おれは忘れてたっけが、大丈夫だろうかなあ」
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「ほんにさうだつけなまあ、後れつちやつたつけなあ、俺ら忘れてたつけが大丈夫だんべかなあ」
と言った。
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といつた。
「そんじゃおれは、今からでも引ける丈引こう」
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「そんぢや俺ら今つからでも曳ける丈曳くべ」
勘次はおつぎを連れて出た。
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勘次はおつぎを連れて出た。
冬至になるまで畑の菜を打ち捨てておく者は、村には一人もないのであった。
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冬至になるまで畑の菜を打棄つて置くものは村には一人もないのであつた。
勘次は荷車を借りて、たそがれまでに二車引いた。
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勘次は荷車を借りて黄昏までに二車挽いた。
青菜の下葉は、もうよくよく黄色に枯れていた。
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青菜の下葉はもうよく/\黄色に枯れて居た。
お品は二人を出し、薄暗くなった家にぼんやりしていても、畑の取り入れを思案して、寂しい不足を感じはしなかった。
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お品は二人を出し薄暗くなつた家にぼつさりして居ても畑の收穫を思案して寂しい不足を感じはしなかつた。
夏の忙しい、そうして野菜の乏しい時には、彼らの唯一の副食物が塩をかむような漬物に限られているので、大根でも青菜でも比較的余計な蓄えをすることが、彼らには重大な条件の一つになっているのである。
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夏季の忙しいさうして野菜の缺乏した時には彼等の唯一の副食物が鹽を噛むやうな漬物に限られて居るので、大根でも青菜でも比較的餘計な蓄へをすることが彼等には重大な條件の一つに成つてるのである。
冬至の日も静かであった。
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冬至の日も靜かであつた。
このごろになってから、ここばかりは忘れたかと思うように西風が止んでいる。
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此の頃になつてから此處ばかりは忘れたかと思ふやうに西風が止んで居る。
昼のひとしきりは、冷たい空気を透して日が暖かに差しかけた。
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晝の一しきりは冷たい空氣を透して日が暖かに射し掛けた。
お品は朝から心持ちが晴れ晴れして、日が昇るにつれて布団へ起き直ってみたが、体が力のないながらに妙に軽くなったことを感じた。
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お品は朝から心持が晴々して日が昇るに連れて蒲團へ起き直つて見たが、身體が力の無いながらに妙に輕く成つたことを感じた。
自分の布団のそばまで差し込む日に誘い出されたように、雨戸の敷居際まで出て、与吉を抱いては倒してみたり、くすぐってみたりして騒がした。
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自分の蒲團の側まで射し込む日に誘ひ出されたやうに、雨戸の閾際まで出て與吉を抱いては倒して見たり、擽つて見たりして騷がした。
勘次はおつぎを相手に、井戸端で青菜の始末をしている。
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勘次はおつぎを相手に井戸端で青菜の始末をして居る。
根を切って桶で洗った青菜は、地べたへ横たえたはしごの上に、一枚外して行って載せたその戸板へ積まれた。
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根を切つて桶で洗つた青菜は、地べたへ横へた梯子の上に一枚外して行つて載せた其戸板へ積まれた。
菜が洗い終わった時、枯れ葉の多いようなのはみな釜でゆでて、後ろの林の楢の幹へ縄を渡して干し菜に掛けた。
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菜が洗ひ畢つた時枯葉の多いやうなのは皆釜で茹でゝ後の林の楢の幹へ繩を渡して干菜に掛けた。
自分たちの昼飯のおかずにも一釜ゆでた。
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自分等の晝餐の菜にも一釜茹でた。
お品は、わずかな日数を横になっていたばかりに目が衰えたものか、日がやや眩しいのを感じながら、その日の光を全身に浴びて、二人のするのを見ていた。
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お品は僅な日數を横に成つて居たばかりに目が衰へたものか日の稍眩いのを感じつゝ其の日の光を全身に浴びながら二人のするのを見て居た。
そうして、ゆで菜の一皿が、いくらか渇きを覚えたせいか、非常にうまく感じた。
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さうして茹菜の一皿が幾らか渇を覺えた所爲か非常に佳味く感じた。
青菜の水が切れたので、勘次は桶へ塩を振っては青菜を足でぎりぎりと踏みつけ、また塩を振っては踏みつける。
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青菜の水が切れたので勘次は桶へ鹽を振つては青菜を足でぎり/\と蹂みつけて又鹽を振つては蹂みつける。
お品は塩の加減やら何やら、さっきからしきりに口を出している。
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お品は鹽の加減やら何やら先刻から頻りに口を出して居る。
勘次はお品の言うとおりに運んでいる。
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勘次はお品のいふ通りに運んで居る。
お品は起きていても別に疲れもしないので、そっと草履をはいて後ろの戸口から出て、楢の木へ引っ張った干し菜を見た。
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お品は起きて居ても別に疲れもしないのでそつと草履を穿いて後の戸口から出て楢の木へ引つ張つた干菜を見た。
それから林を斜めに田の端へ下りて、また、ぐみの木のそばに立って、そこをそっと踏み固めた。
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それから林を斜に田の端へおりて又牛胡頽子の側に立つて其處をそつと踏み固めた。
それからしばらく周りを見て立っていた。
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それから暫く周圍を見て立つて居た。
お品は庭先から呼ぶ勘次の大きな声を聞いた。
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お品は庭先から喚ぶ勘次の大きな聲を聞いた。
竹や木の幹に手を掛けながら斜めに林を登って、後ろの戸口から家へ戻った時、さらに叫んだ勘次の声を聞くとともに、天秤棒をかついだままぼんやり立っている商人の姿を庭ぶたの上に見た。
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竹や木の幹に手を掛けながら斜めに林をのぼつて後の戸口から家へもどつた時更に叫んだ勘次の聲を聞くと共に、天秤を擔いだ儘ぼんやり立つて居る商人の姿を庭葢の上に見た。
「お品、卵がほしいとよ」
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「お品卵欲しいと」
勘次は次の桶の青菜に塩を振りかけながら言った。
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勘次は次の桶の青菜に鹽を振り掛けながらいつた。
「いくらかあったっけな」
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「幾らか有つたつけな」
お品は戸棚の引き出しから、白い皮の卵を二十ばかり出した。
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お品は戸棚の抽斗から白い皮の卵を廿ばかり出した。
「おつう、四、五日見ないでいたっけが、ねぐらにもいくらかあったろう。上がってみないか」
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「おつう、四五日見ねえで居たつけが塒にも幾らか有つたつけべ、あがつて見ねえか」
おつぎに言いつけた。
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おつぎに吩附けた。
おつぎが米俵へ登って、その上に低く吊った竹かごのねぐらをのぞいた時、雌鶏が一羽けたたましく飛び出して、後ろの楢の木の中へ鳴き込んだ。
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おつぎは米俵へ登つて其上に低く釣つた竹籃の塒を覗いた時、牝雞が一羽けたゝましく飛び出して後の楢の木の中へ鳴き込んだ。
ほかの鶏もひとしきりともにやかましく鳴いた。
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他の鷄も一しきり共に喧しく鳴いた。
おつぎは手を伸ばしては、卵を一つ一つに取って袂へ入れた。
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おつぎは手を延ばしては卵を一つ/\に取つて袂へ入れた。
おつぎは袂をぶらぶらさせて、危なそうに米俵を降りた。
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おつぎは袂をぶら/\させて危相に米俵を降りた。
そこにも卵は六つばかりあった。
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其處にも卵は六つばかりあつた。
商人は下ろした四角なぼてざるから、真鍮の皿と鉤が吊された秤を出した。
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商人は卸した四角なぼて笊から眞鍮の皿と鍵が吊された秤を出した。
「相場はいくらだね」
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「掛は幾らだね」
お品は聞いた。
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お品は聞いた。
「十一半さ。近ごろどうも安くてな」
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「十一半さ、近頃どうも安くつてな」
商人は言いながら浅い目ざるへ卵を入れて、萌葱の紐の手掛けを持って秤の棹を目八分にして、そうして分銅の糸をぎっと押さえたまま銀色の目を数えた。
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商人はいひながら淺い目笊へ卵を入れて萠黄の紐のたどりを持つて秤の棹を目八分にして、さうして分銅の絲をぎつと抑へた儘銀色の目を數へた。
おもちゃのような小さなそろばんを出して、商人は
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玩具のやうな小さな十露盤を出して商人は
「みんなで四百二十三匁二分だからな、それ」
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「皆掛が四百廿三匁二分だからなそれ」
秤の目をお品に見せて、そろばんの玉をはじいた。
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秤の目をお品に見せて十露盤の玉を彈いた。
「風袋を引くと四百八匁二分か。どうした、いくつだ、二十六かな。そうすると一つが」
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「風袋を引くと四百八匁二分か、どうした幾つだ廿六かな、さうすると一つが」
商人の言い終わらないうちに、お品は
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商人のいひ畢らぬうちにお品は
「いくらなんだい、この風袋は」
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「幾らなんでえ、此の風袋は」
と聞いた。
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と聞いた。
「十五匁だな」
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「十五匁だな」
「たいがい十匁じゃないかい」
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「大概十匁ぢやねえけえ」
「そんなら見なさい、それ、十五匁だろう。おれのは他人のよりも大きいんだからな」
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「そんだら見さつせえそれ、十五匁だんべ、俺がな他人のがよりや大けえんだかんな」
商人は目ざるの目を掛けて見せて
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商人は目笊の目を掛けて見せて
「はて、一つ十五匁七分ずつだ。粒は小さいほうだな」
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「はて、一つ十五匁七分づゝだ、粒は小せえ方だな」
商人はゆっくりそろばんの玉をはじいて
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商人はゆつくり十露盤の玉を彈いて
「四十六銭八厘六毛三朱となるんだが、こりゃ八厘としてもらってな」
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「四十六錢八厘六毛三朱と成るんだが、此りや八厘として貰つてな」
と、商人は財布から自分の手へ銭を空けた。
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と商人は財布から自分の手へ錢を明けた。
「お品、お前自分でも食ったらよくないかい。いくつでも取っておけな」
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「お品おめえ自分でも喰つたらよかねえけ、幾つでも取つて置けな」
勘次は塩だらけにした手を止めて、遠くから怒鳴った。
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勘次は鹽だらけにした手を止めて遠くから呶鳴つた。
「この銭でほかの物を買って食ったほうがいいから、これだけはやることにしようよ。せっかく勘定もしたもんだからよ。おれは大層よくなったんだから大丈夫だよ」
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「此の錢で外の物買つて喰つた方がえゝから此れ丈は遣るとすべえよ、折角勘定もしたもんだからよ、俺ら大層よくなつたんだから大丈夫だよ」
お品は言った。
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お品はいつた。
「そんなこと言わないで、いくつでも取っておけよ。治り際が気をつけないといけないもんだから」
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「そんなこといはねえで幾つでも取つて置けよ、癒り際が氣を附けねえぢやえかねえもんだから」
勘次は漬け菜の手を放して、軒下へ来た。
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勘次は漬菜の手を放して檐下へ來た。
手も足もゆでたように赤くなっている。
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手も足も茹でたやうに赤くなつて居る。
「それじゃ、ちっとも残したものかな」
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「それぢやちつとも殘したものかな」
お品は小さいのを二つ取った。
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お品は小さなのを二つ取つた。
「そんなのじゃないのを取れな」
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「そんなんぢやねえのとれな」
勘次は大きいのを選んで三つ取った。
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勘次は大きなのを選んで三つとつた。
卵の皮には手の塩が少しついた。
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卵の皮には手の鹽が少し附いた。
「そんじゃ、それを掛けてみよう」
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「そんぢやそれ掛けてんべ」
商人は今度は真鍮の皿へ卵を乗せて
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商人は今度は眞鍮の皿へ卵を乘せて
「こっちなんぞじゃ、後いくらでもできらあな」
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「こつちなんぞぢや、後幾らでも出來らあな」
と言いながら手掛けを持った。
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といひながらたどりを持つた。
卵が少し動くと、秤の棹がぐらぐらと落ち着かない。
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卵が少し動くと秤の棹がぐら/\と落付かない。
「ごまかしちゃいやだぞ」
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「誤魔化しちや厭だぞ」
お品は寂しく笑いながら言った。
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お品は寂しく笑ひながらいつた。
「どうしてお前、この秤なんざあ検査したばかりだもの。一分でもこのとおり跳ねたり垂れたりして、どうしてとんだ話だ」
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「どうしておめえ、此の秤なんざあ檢査したばかりだもの一分でも此の通り跳ねたり垂れたりして、どうして飛んだ噺だ」
商人は分銅の手を押さえて、また目を読んだ。
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商人は分銅の手を抑へて又目を讀んだ。
「五十匁一分だな。そうすると一つ十六匁七分ずつだ。大きいからな」
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「五十匁一分だな、さうすつと一つ十六匁七分づゝだ、大けえからな」
「塩がくっついてるから、塩の目方もあるぞ」
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「鹽がくつゝいてつから鹽の目方もあんぞ」
勘次はそばから言って笑った。
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勘次は側からいつて笑つた。
商人は平然としている。
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商人は平然として居る。
「五銭五厘六毛いくらっていうんだ。そうすると、さっきのはいくらの勘定だったっけな」
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「五錢五厘六毛幾らつていふんだ、さうすつと先刻のは幾らの勘定だつけな」
「四十六銭八厘いくらとか言ったっけな」
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「四十六錢八厘幾らとか言たつけな」
お品はすぐに言った。
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お品は直にいつた。
「それじゃ差し引き四十一銭三厘と端か。こっちのおっかさんは自分でも商売してるから、記憶がいいなあ」
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「それぢや差引四十一錢三厘小端か、こつちのおつかさま自分でも商してつから記憶がえゝやな」
商人はそろばんを持って
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商人は十露盤を持つて
「どうしたい、塩梅でも悪いようだが、風邪でも引いたんじゃあるまい」
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「どうしたえ、鹽梅でも惡いやうだが風邪でも引いたんぢやあんめえ」
と言った。
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といつた。
「うん、少し悪くて仕方がないのよ」
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「うむ、少し惡くつて仕やうねえのよ」
お品は言って
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お品はいつて
「端はいくらになるんだい」
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「小端は幾らになんでえ」
とさらに聞いた。
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と更に聞いた。
「勘定にはならないなあ、どうも。近ごろは仕方がないよ。文久銭だの青銭だのっていうのがさっぱり出なくなっちまってな。それからどこへ行ってもこうしておくんだ」
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「勘定にや成んねえなどうも、近頃は仕やうねえよ文久錢だの青錢だのつちうのが薩張出なくなつちやつてな、それから何處へ行つても恁して置くんだ」
商人がぼてざるからマッチを出そうとすると
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商人がぼて笊から燐寸を出さうとすると
「またマッチじゃあるまい」
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「又燐寸ぢやあんめえ」
お品は微笑した。
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お品は微笑した。
「細かい勘定には近ごろマッチと決めておくんだが、どこの商人もそうのようだな」
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「こまけえ勘定にや近頃燐寸と極めて置くんだが、何處の商人もさうのやうだな」
商人は卵をざるへ入れながら言い続けた。
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商人は卵を笊へ入れながらいひ續けた。
「ひどく安くなっちまったな。寒くなっちゃ保存がいいのに、かえって安いっていうんだから、まるで反対になっちまったんだな」
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「酷く安くなつちやつたな、寒く成つちや保存がえゝのに却て安いつちうんだから丸で反對になつちやつたんだな」
勘次は青菜を桶へ並べながら言った。
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勘次は青菜を桶へ並べつゝいつた。
「上海のが入ってきちゃ、ぐっと値が下がっちまってな。あっちじゃどれほど安いもんだかよ。品が少ない時に安くなるっていうんだから、商人ももうからない」
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「上海がへえつちやぐつと値が下つちやつてな、あつちぢやどれ程安いもんだかよ、品が少ねえ時に安くなるつちうんだから商人も儲からねえ」
天秤棒をかついで、彼はまたさらに
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天秤を擔いで彼は又更に
「相場が下げ気味の時にはうっかりすると損物だからな。なんでも百姓して穀物を積んでおく者が一等だよ。卵拾いもなあ、赤痢でもはやって来てな、看護婦だの巡査だの役場員だのっていう奴らが、病人の口でもひねってみっしり食ってでもくれなくちゃ、商人はだめだよ」
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「相場が下げ氣味の時にやうつかりすつと損物だかんな、なんでも百姓して穀積んで置く者が一等だよ、卵拾ひもなあ、赤痢でも流行つて來てな、看護婦だの巡査だの役場員だのつちう奴等病人の口でもひねつてみつしり喰つてゞも呉んなくつちや商人は駄目だよ」
商人は行きがけに
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商人は行き掛けて
「また溜めておいておくんなせえ」
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「また溜めて置いておくんなせえ」
今度は少し丁寧に言い捨てて去った。
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今度は少し叮寧にいひ捨てゝ去つた。
お品は銭を布団の下の巾着へ入れた。
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お品は錢を蒲團の下の巾着へ入れた。
そうして枠棚からまるめ箱を下ろして、三つの白い卵を入れた。
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さうして籰棚からまるめ箱を卸して三つの白い卵を入れた。
以前はこの土地でも綿が採れたので、夜なべには女がみな竹枠で糸を引いた。
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以前は此の土地でも綿が採れたので、夜なべには女が皆竹籰で絲を引いた。
綿打ち弓でびんびんとほぐした綿は、箸のような棒を芯にして、ろうそくくらいの大きさにくるくると丸める。
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綿打弓でびんびんとほかした綿は箸のやうな棒を心にして蝋燭位の大きさにくる/\と丸める。
それがまるめである。
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それがまるめである。
このまるめから、不器用な百姓の手が自在に糸を引いた。
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此のまるめから不器用な百姓の手が自在に絲を引いた。
このごろでは綿がすっかり採れなくなったので、まるめ箱もすすけたままにまれに保存されているのも、糸屑や布の切れ端が入れてあるくらいに過ぎないのである。
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此の頃では綿がすつかり採れなくなつたので、まるめ箱も煤けた儘稀に保存されて居るのも絲屑や布の切端が入れてある位に過ぎないのである。
お品はそれから、膨れた巾着のために跳ね上げられた布団の端を手で押さえた。
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お品はそれから膨れた巾着の爲めに跳ねあげられた蒲團の端を手で抑へた。
それからまた横になった。
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それから又横になつた。
さっきから疲れたような心持ちになっていたが、横になると体が溶けるようにぐったりして、かすかに快かった。
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先刻から疲勞したやうな心持に成つて居たが横になると身體が溶けるやうにぐつたりして微かに快よかつた。
その晩、一年中の臓腑の砂払いだという冬至のこんにゃくを、みなで食べた。
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其の晩一年中の臟腑の砂拂だといふ冬至の蒟蒻を皆で喰べた。
お品は、この分では明日からでも起きられるように思っていた。
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お品は喰の日は明日からでも起きられるやうに思つて居た。
そうして勘次は、仕事のらちが明いたのでまた利根川へ行かれることと、心に期していた。
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さうして勘次は仕事の埓が明いたので又利根川へ行かれることゝ心に期して居た。
四
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四
お品の容態は、その夜から激変した。
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お品の容態は其の夜から激變した。
勘次がようやく眠りに落ちた時、お品は
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勘次が漸く眠に落ちた時お品は
「口が開けなくなって仕方がないよう」
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「口が開けなく成つて仕やうねえよう」
と情けない声で言った。
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と情ない聲でいつた。
お品はあごが釘付けにされたようになって、唾を飲むにも喉が狭められたように感じた。
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お品は顎が釘附にされたやうに成つて、唾を飮むにも喉が狹められたやうに感じた。
それで、自分にもどうすることもできないのに驚いた。
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それで自分にもどうすることも出來ないのに驚いた。
勘次もびっくりして起きた。
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勘次も吃驚して起きた。
「どうしたんだよ、大層悪いのか。朝までしっかりしてろよ」
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「どうしたんだよ大層惡いのか、朝までしつかりしてろよ」
と力をつけてみたが、自分でもどうしていいのか分からないので、ただはらはらしながら夜を明かした。
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と力をつけて見たが、自分でもどうしていゝのか解らないので只はら/\しながら夜を明した。
勘次はただお品が心配になるので、近所の者を頼んで取りあえず医者へ走らせた。
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勘次は只お品が心配になるので、近所の者を頼んで取り敢ず醫者へ走らせた。
そうして自分は枕元へくっついていた。
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さうして自分は枕元へくつゝいて居た。
彼らは容易なことで医者を呼ぶのではなかった。
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彼等は容易なことで醫者を聘ぶのではなかつた。
しかし、そのもっとも恐れを抱くべき金銭の問題がその心を抑えるには、勘次はあまりに慌てて、かつ驚いていた。
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然し其最も恐れを懷くべき金錢の問題が其心を抑制するには勘次は餘りに慌てゝ且驚いて居た。
医者は鬼怒川を越えて東にいる。
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醫者は鬼怒川を越えて東に居る。
勘次は、草臥れやしないかと言ってはお品の足をさすった。
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勘次は草臥れやしないかといつてはお品の足をさすつた。
それでもお品の大儀そうな様子が、彼の臆した心にびりびりと響いて、とても午後まではじっとしていることができなくなった。
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それでもお品の大儀相な容子が彼の臆した心にびり/\と響いて、迚も午後までは凝然として居ることが出來なくなつた。
近所の女房が見に来てくれたのを幸いに、自分も後から走って行った。
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近所の女房が見に來て呉れたのを幸ひに自分も後から走つて行つた。
鬼怒川の渡し船で、さっきの使いと行き違いになった。
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鬼怒川の渡の船で先刻の使ひと行違に成つた。
船から言葉が交わされた。
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船から詞が交換された。
勘次は、医者といっしょに帰るからそう言ってお品に安心させてくれと言って、医者の門をたたいた。
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勘次は醫者と一緒に歸るからさういつてお品に安心させて呉れといつて醫者の門を叩いた。
医者は、ちょうどそっちへ行くついでもあったからと悠長である。
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醫者は丁度そつちへ行く序も有つたからと悠長である。
きっと行ってはくれるにしても、その後についていくのでなくては勘次には不安でたまらないのである。そうして彼は、ぼんやりと玄関にうずくまって待っていることが、せめてもの気休めであった。
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屹度行つては呉れるにしても其の後に跟いて行くのでなくては勘次には不安で堪らないのである、さうして彼はぽつさりと玄關に踞つて待つて居ることがせめてもの氣安めであつた。
医者は小さな手鞄を一つ持って、古い帽子をちょこんとかぶって出た。
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醫者は小さな手鞄を一つ持つて古い帽子をちよつぽり載いて出た。
手鞄は勘次が大事そうに持った。
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手鞄は勘次が大事相に持つた。
医者は特別の出来事がなければ人力車には乗らないので、いつも朴歯の日和下駄で短い体をぽくぽくと運んで行く。
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醫者は特別の出來事がなければ俥には乘らないので、いつも朴齒の日和下駄で短い體躯をぽく/\と運んで行く。
それで車賃だけでもいくら助かるか知れないというので、貧乏な百姓からよく呼ばれているのであった。
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それで車錢だけでも幾ら助かるか知れないといふので貧乏な百姓から能く聘れて居るのであつた。
勘次は道々お品の容態を語って、医者の判断を促してみた。
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勘次は途次お品の容態を語つて醫者の判斷を促して見た。
医者は一応見なければ分からないと言って、やかましい勘次に返事しなかった。
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醫者は一應見なければ分らぬといつて五月蠅い勘次に返辭しなかつた。
お品の病んだ体に手を掛けると、医者はさすがに首をかしげた。
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お品の病體に手を掛けると醫者は有繋に首を傾けた。
それが破傷風の徴候であることを知って、恐怖心を抱いた。
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それが破傷風の徴候であることを知つて恐怖心を懷いた。
そうして、自分は注射器を持たないからと言って辞退してしまった。
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さうして自分は注射器を持たないからといつて辭退して畢つた。
勘次はまた慌てて、ほかの医者へ駆けつけた。
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勘次は又慌てゝ他の醫者へ駈けつけた。
その医者は鉛筆で手帳の端へちょっと書きつけて、それではすぐにこれを薬屋で買って来るのだと言った。
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其の醫者は鉛筆で手帖の端へ一寸書きつけて、それでは直に此を藥舖で買つて來るのだといつた。
それから、自分の家へこれを出せば渡してくれる者があるからと、これも手帳の端を裂いた。
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それから自分の家へ此を出せば渡して呉れるものがあるからと此も手帖の端を裂いた。
勘次はまた川を越えて走った。
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勘次は又川を越えて走つた。
薬屋では、瓶へ入れた薬を二包み渡してくれた。
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藥舖では罎へ入れた藥を二包渡して呉れた。
一瓶が七十五銭ずつだと言われて、勘次は懐が急にげっそりと減った心持ちがした。
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一罎が七十五錢づゝだといはれて、勘次は懷が急にげつそりと減つた心持がした。
彼はとんぼ返りに帰って来た。
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彼は蜻蛉返りに歸つて來た。
医者の家からは注射器を渡してくれた。
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醫者の家からは注射器を渡してくれた。
ほかの患家を診て、医者は夕刻に来た。
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他の病家を診て醫者は夕刻に來た。
医者はお品のももを湿したガーゼで拭いて、ぎっと肉をつまみ上げて針をぷつりと刺した。
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醫者はお品の大腿部を濕したガーゼで拭つてぎつと肉を抓み上げて針をぷつりと刺した。
しばらくして針を抜いて、指の先で針の跡を押さえて、そこへ絆創膏を貼った。
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暫くして針を拔いて指の先で針の趾を抑へて其處へ絆創膏を貼つた。
それがすべて、薄暗い手ランプの光で行われた。
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それが凡て薄闇い手ランプの光で行はれた。
勘次に手ランプを近づけさせて、医者はやっと注射を終えた。
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勘次に手ランプを近づけさせて醫者はやつと注射を畢つた。
翌日の午前に来て、医者はまた注射をして、たいていこれでよかろうと言って去った。
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翌日の午前に來て醫者は復注射をして大抵此れでよからうといつて去つた。
しかしお品の容態は、依然として回復の徴候がないのみでなく、次第に大儀そうに見えはじめた。
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然しお品の容態は依然として恢復の徴候がないのみでなく次第に大儀相に見えはじめた。
お品はその夕刻から、にわかに痙攣が起こった。
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お品は其の夕刻から俄かに痙攣が起つた。
体がびりびりと揺れながら、手も足も引き締められるように後ろへ反った。
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身體がびり/\と撼ぎながら手も足も引き緊められるやうに後へ反つた。
痙攣は時々起こった。
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痙攣は時々發作した。
そのたびごとに、病人は見ていられないほど苦しむ。
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其度毎に病人は見て居られない程苦惱する。
顔が妙にゆがんで、口が無理に横へ引きつられるように見える。
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顏が妙に蹙んで口が無理に横へ引き吊られるやうに見える。
勘次は、たった一人のおつぎを相手に、手の出しようもなかった。
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勘次はたつた一人のおつぎを相手に手の出しやうもなかつた。
そうして、しらしら明けというと、すぐにまた医者へ駆けつけた。
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さうしてしら/\明けといふと直に又醫者へ駈けつけた。
医者は、また薬屋へ行って来いと言った。
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醫者は復藥舖へ行つて來いといつた。
勘次はまた飛んで行った。
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勘次は又飛んで行つた。
しかし、その二号の血清はどこにも品切れであった。
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然し其の二號の血清は何處にも品切であつた。
それは、ある期間を過ぎれば効き目がなくなるので、余計な仕入れもしないのだと薬屋では言った。
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それは或期間を經過すれば効力が無くなるので餘計な仕入もしないのだと藥舖ではいつた。
それに値段が高いものだからというのであった。
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それに値段が不廉ものだからといふのであつた。
勘次はそれでも、いくらくらいするものかと思って聞いたら、一瓶が三円だと言った。
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勘次はそれでも幾ら位するものかと思つて聞いたら一罎が三圓だといつた。
勘次は、たとえ品物があったところで、自分の今の力ではとうていそれは求められなかったかもしれないと、今さらのように驚いて懐へ手を入れてみた。
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勘次は例令品物が有つた處で、自分の現在の力では到底それは求められなかつたかも知れぬと今更のやうに喫驚して懷へ手を入れて見た。
医者はさらに勘次を薬屋へ走らせた。
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醫者は更に勘次を藥舖へ走らせた。
勘次は、ただ医者の言うがままに息せき切って駆けて歩く間が、きっとどうにか防ぎをつけてくれるだろうという頼みもあるので、わずかに自分の心を慰め得る唯一の機会であった。
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勘次は只醫者のいふが儘に息せき切つて駈けて歩く間が、屹度どうにか防ぎをつけてくれるだらうとの恃もあるので僅に自分の心を慰め得る唯一の機會であつた。
医者は一号の倍の量を注射した。
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醫者は一號の倍量を注射した。
しかしそれは無駄であった。
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然しそれは徒勞であつた。
病人の発作は間が短くなった。
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病人の發作は間が短くなつた。
病人はそのたびに呼吸に圧迫を感じた。
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病人は其度に呼吸に壓迫を感じた。
近所の者も三、四人で、苦しむ枕元にいて、みな憂いに包まれた。
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近所の者も三四人で苦惱する枕元に居て皆憂愁に包まれた。
お品は突然
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お品は突然
「野田へは知らせてくれまいか」
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「野田へは知らせてくれめえか」
と聞いた。
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と聞いた。
勘次も近所の者も、卯平へ知らせることも忘れて、ただ苦しむ病人を前に控えて困っているのみであった。
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勘次も近所の者も卯平へ知らせることも忘れて只苦惱する病人を前に控へて困つて居るのみであつた。
「明日はきっと来るように言ってやったよ」
原文を見る
「明日は屹度來るやうにいつて遣つたよ」
勘次はお品の耳へ口を当てて言った。
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勘次はお品の耳へ口を當ていつた。
今さらのように近所の者が頼まれて、夜通しにでも行くということになった。
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今更のやうに近所の者が頼まれて夜通しにも行くといふことに成つた。
次の日の昼過ぎに、卯平は使いとともに、のっそりとその長大な体を表の戸口に運ばせた。
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次の日の午餐過に卯平は使と共にのつそりと其の長大な躯幹を表の戸口に運ばせた。
彼は敷居をまたぐとともに、その時はもう、ただ痛い痛いと言って泣き訴えている病人の声を聞いた。
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彼は閾を跨ぐと共に、其時はもう只痛い/\というて泣訴して居る病人の聲を聞いた。
「どこが痛いんだ、少しさすらせてみるか」
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「何處が痛いんだ、少しさすらせて見つか」
勘次が聞いても
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勘次が聞いても
「背中が仕方がないんだよ」
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「背中が仕やうがねえんだよ」
と病人は言うのみである。
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と病人はいふのみである。
「お品さん、おとっつあんが来たよ、しっかりしろよ」
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「お品さん、おとつゝあ來たよ、確乎しろよ」
と近所の女房が言った。
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と近所の女房がいつた。
それを聞いて、お品はしばらく静かになった。
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それを聞いてお品は暫時靜かに成つた。
「品、どうしたい、大儀いのか」
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「品どうしたえ、大儀えのか」
口数の少ない卯平は、これだけ言った。
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寡言な卯平は此だけいつた。
「おとっつあん、待ってたよ。おれは仕方がないよ」
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「おとつゝあ待つてたよ、俺ら仕やうねえよ」
お品は情けなさそうに言った。
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お品は情なさ相にいつた。
「うん、困ったなあ」
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「うむ、困つたなあ」
卯平は深い皺をゆがめて言った。
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卯平は深い皺を蹙めていつた。
そうして後は一言も言わない。
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さうして後は一言もいはない。
お品の病状は、だんだん険悪に陥った。
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お品の病状は段々險惡に陷つた。
医者はモルヒネの注射をして、わずかに眠りの状態を保たせて、その苦痛から逃れさせようとした。
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醫者はモルヒネの注射をして僅に睡眠の状態を保たせて其の苦痛から遁れさせようとした。
それでもしばらくすると病人はまた意識を回復して、びりびりと体を震わせて、太い縄でぐっと吊されたかと思うように後ろへ反って、その激烈な痙攣に苦しめられた。
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それでも暫くすると病人は復た意識を恢復して、びり/\と身體を撼はせて、太い繩でぐつと吊されたかと思ふやうに後へ反つて、其劇烈な痙攣に苦しめられた。
「先生さん、わたしはこれでもどうしたものでしょうね」
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「先生さん、わたしや此れでもどうしたものでがせうね」
お品は突然に聞いた。
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お品は突然に聞いた。
医者はただ口髭をひねって黙っていた。
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醫者は只口髭を捻つて默つて居た。
「どうでしょうね、先生さん」
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「どうでせうね先生さん」
勘次も聞いた。
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勘次も聞いた。
「まあ大丈夫だろうって、病人へだけは言っていたらいいでしょう」
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「まあ大丈夫だらうつて病人へだけはいつて居たらいゝでせう」
医者はささやいた。
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醫者は耳語いた。
「お品、大丈夫だとよ。それから我慢してしっかりしてろとよ」
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「お品、大丈夫だとよ、夫から我慢して確乎してろとよ」
勘次は病人の耳で怒鳴った。
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勘次は病人の耳で呶鳴つた。
「そんでも、おれは明日の日まではとても持たないと思うよ。本当におれは大儀いなあ」
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「そんでも俺ら明日の日まではとつても持たねえと思ふよ。本當に俺ら大儀いゝなあ」
お品は切なそうに言った。
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お品は切な相にいつた。
歯の間をようやく漏れる声は、悲しい響きを伝えて、しかも意識ははっきりしていることを示した。
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齒の間を漸くに洩れる聲は悲しい響を傳へて然かも意識は明瞭であることを示した。
医者はついに、限度いっぱいのモルヒネを注射して去った。
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醫者は遂に極量のモルヒネを注射して去つた。
夜になって、痙攣は絶え間なく起こった。
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夜になつて痙攣は間斷なく發作した。
熱は非常に上がった。
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熱度は非常に昂進した。
液体の一滴も取ることができないにもかかわらず、乱れた髪の毛ごとに伝って落ちるかと思うように、汗が玉をなして垂れた。
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液體の一滴をも攝取することが出來ないにも拘らず、亂れた髮の毛毎に傳ひて落るかと思ふやうに汗が玉をなして垂れた。
布団を湿す汗の匂いが鼻を突いた。
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蒲團を濕す汗の臭が鼻を衝いた。
「勘次さん、ここにいてくれよ」
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「勘次さん此處に居てくろうよ」
お品は苦しい中にも、ひたすら勘次を慕った。
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お品は苦しい内にも只管勘次を慕つた。
「おうよ、ここにいたよ。どこへも行きやしないよ」
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「おうよ、こゝに居たよ、何處へも行やしねえよ」
勘次はそのたびに耳へ口を当てて言った。
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勘次は其度に耳へ口を當ていつた。
「勘次さん」
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「勘次さん」
お品はまた呼んだ。
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お品は又喚んた。
「どうしたよ」
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「怎的したよ」
勘次が言ったのはお品に通じなかったのか
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勘次のいつたのはお品に通じなかつたのか
「おとっつあん、おれはとってもなあ」
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「おとつゝあ、俺らとつてもなあ」
とお品は少し間を置いて、そうして勘次の手を取った。
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とお品は少時間を措いて、さうして勘次の手を執つた。
「おつう、お前はなあ、よきもなあ」
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「おつう汝はなあ、よきもなあ」
と言って、また発作の苦しみに陥った。
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といつて又發作の苦惱に陷つた。
「勘次さん、おれが死んだらなあ、棺桶へ入れてくれよ……」
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「勘次さん、俺死んだらなあ、棺桶へ入れてくろうよ……」
勘次が聞こうとすると、しばらく間を置いて
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勘次は聞かうとすると暫く間を隔てて
「後ろの田のあぜになあ、ぐみの木のとこでなあ」
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「後の田の畔になあ、牛胡頽子のとこでなあ」
お品は切れ切れに言った。
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お品は切れ/″\にいつた。
勘次はほぼその意味を理解した。
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勘次は略其の意を了解した。
お品はそれから激烈な発作に遮られて、もう言わなかった。
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お品はそれから劇烈な發作に遮ぎられてもういはなかつた。
突然
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突然
「風呂敷、風呂敷」
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「風呂敷、/\」
と理由の分からないうわごとを言って、意識はまったく不明になった。
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と理由の解らぬ囈語をいつて、意識は全く不明に成つた。
ついには、異常な力が加わったかと思うように、お品の足は布団を蹴って、体が激しく動いた。
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遂には異常な力が加はつたかと思ふやうにお品の足は蒲團を蹴て身體が激動した。
枕元にいた人々はめいめいに、苦しむお品の足を押さえた。
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枕元に居た人々は各自に苦しむお品の足を抑へた。
こうして人々は、刻々に死の運命に迫られて行くお品の病んだ体を押さえつけた。
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恁うして人々は刻々に死の運命に逼られて行くお品の病體を壓迫した。
お品の発作が止まった時は、かすかなその呼吸も止まった。
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お品の發作が止んだ時は微かな其の呼吸も止つた。
夜はしんとしていた。
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夜は森として居た。
雨戸がかすかに動いて、落ち葉の庭を走るのもさらさらと聞かれた。
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雨戸が微かに動いて落葉の庭を走るのもさら/\と聞かれた。
お品の体は足のほうから冷たくなった。
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お品の身體は足の方から冷たくなつた。
お品が死んだということを意識した時に、勘次もおつぎも、みなこらえた思いが一時に激発した。
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お品が死んだといふことを意識した時に勘次もおつぎもみんな怺へた情が一時に激發した。
そうして遠慮をする余裕を持たない彼らは、声を放って泣いた。
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さうして遠慮をする餘裕を有たない彼等は聲を放つて泣いた。
枕元の者はみなともに泣いた。
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枕元のものは皆共に泣いた。
与吉は独り、死んだお品のそばに熟睡していた。
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與吉は獨り死んだお品の側に熟睡して居た。
卯平は取りあえず、お品の手を胸で合わせてやった。
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卯平は取り取ずお品の手を胸で合せてやつた。
そうして、機の道具の一つである杼を布団へ乗せた。
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さうして機の道具の一つである杼を蒲團へ乘せた。
猫が死人を越えて渡ると化けると言って、杼は猫よけであった。
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猫が死人を越えて渡ると化けるといつて杼は猫の防禦であつた。
杼を乗せておけば猫は渡らないと信じられているのである。
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杼を乘せて置けば猫は渡らないと信ぜられて居るのである。
夜はますます更けて、冷えきっていた。
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夜は益深けて冷え切つて居た。
家の中には一塊の炭火も蓄えてはなかった。
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家の内には一塊の煨も貯へてはなかつた。
枕元にいた近所の人々は、勘次とおつぎの泣き止むまでは体を動かすこともできないで、じっと冷たい手を懐に暖めていた。
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枕元に居た近所の人々は勘次とおつぎの泣き止むまでは身體を動かすことも出來ないで凝然と冷たい手を懷に暖めて居た。
おつぎはようやくかまどへ落ち葉をくべて茶を沸かした。みなただぼんやりとして茶をすすった。
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おつぎは漸く竈へ落葉を燻べて茶を沸した、みんな只ぽつさりとして茶を啜つた。
「勘次も、早く知らせやがればいいのに」
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「勘次もかせえて知らせやがればえゝのに」
卯平がぶすりと呟く声は低く、しかもみなの耳の底に響いた。
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卯平がぶすりと呟く聲は低くしかもみんなの耳の底に響いた。
卯平はその日の未明に使いの来るまでは、お品の病気はちっとも知らずにいた。
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卯平は其の日の未明に使の來るまではお品の病氣はちつとも知らずに居た。
驚いて来てみれば、もうこんな始末である。
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驚いて來て見ればもうこんな始末である。
卯平も泣いた。
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卯平も泣いた。
彼は煙管をかんでは、ただ舌打ちをして唾を飲んだ。
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彼は煙管を噛んでは只舌皷を打つて唾を嚥んだ。
勘次はただ泣いていた。
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勘次は只泣いて居た。
彼はお品の発病から、どれほど苦心してその身を労したか知れない。
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彼はお品の發病からどれ程苦心して其身を勞したか知れぬ。
お品の病気を案じるほか、彼の心には何もなかった。
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お品の病氣を案ずる外彼の心には何もなかつた。
その当時には、卯平に不平を言われようというような懸念は、少しも頭に起こらなかったのである。
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其當時には卯平に不平をいはれやうといふやうな懸念は寸毫も頭に起らなかつたのである。
お品の死は、卯平をもひどく落胆させた。
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お品の死は卯平をも痛く落膽せしめた。
卯平は七十一の老人であった。
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卯平は七十一の老爺であつた。
一昨年の秋から、卯平は野田の醤油蔵へ火の番に雇われた。
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一昨年の秋から卯平は野田の醤油藏へ火の番に傭はれた。
卯平は、お品が三つの時に、死んだおふくろの所へ入り婿になったのである。
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卯平はお品が三つの時に、死んだお袋の處へ入夫になつたのである。
五つの時から甘えたので、お品は卯平になついていた。
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五つの時から甘へたのでお品は卯平に懷いて居た。
おふくろの生きているうちは卯平もまだ壮健であったが、おふくろが亡くなって卯平の皺が深く刻まれてからは、以前からよくなかった勘次との間がだんだん隔たって、お品もそれには困った。
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お袋の生きて居るうちは卯平もまだ壯であつたが、お袋が亡くなつて卯平の皺が深く刻まれてからは以前から善くなかつた勘次との間が段々隔つて、お品もそれには困つた。
とうとう、村の紹介業をしている者の勧めに任せて、卯平が言うままに奉公に出したのであった。
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到頭村の紹介業をして居る者の勸めに任て卯平がいふ儘に奉公に出したのであつた。
病人の枕元にいた近所の者は、一杯の茶をすすって、村の親戚へ知らせに出るものもあった。
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病人の枕元に居た近所の者は一杯の茶を啜つて村の姻戚へ知らせに出るものもあつた。
それから葬式のことについて相談をした。
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それから葬式のことに就いて相談をした。
葬式はほんの親戚と近所とだけで、明日のうちに済ますということに決めた。
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葬式はほんの姻戚と近所とだけで明日の内に濟すといふことに極めた。
夜が明けると、近所の人々は寺へ行ったり葬具を買いに行ったり、他村の親戚への知らせに行ったりして、家には近所の女房が二、三人、義理を言いに来ていた。
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夜があけると近所の人々は寺へ行つたり無常道具を買ひに行つたり、他村の姻戚への知らせに行つたりして家には近所の女房が二三人義理をいひに來て居た。
親戚といっても、お品のためには待たなくてはならないという者はないので、勘次はおつぎとともにむしろをめくって、そこへたらいを据えてお品の死体を清めてやった。
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姻戚といつてもお品の爲めには待たなくては成らぬといふものはないので勘次はおつぎと共に筵を捲つて、其處へ盥を据ゑてお品の死體を淨めて遣つた。
激烈な病苦のために、その力ない死体はげっそりとひどいやつれようをしていた。
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劇烈な病苦の爲めに其力ない死體はげつそりと酷い窶れやうをして居た。
卯平はただぼんやりとして、それを見ていた。
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卯平は只ぽつさりとしてそれを見て居た。
死体はまた、その汚い夜具へ横たえられた。
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死體は復其の穢い夜具へ横へられた。
たらいの汚れたぬるま湯は、すのこの上から土に注がれた。
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盥の汚れた微温湯は簀の子の上から土に注がれた。
そうして、そのぬれたすのこには、めくったむしろがまた敷かれた。
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さうして其の沾れた簀の子には捲くつた筵が又敷かれた。
朝から雨戸は開け放たれて、歩けばぎしぎしと鳴るすのこの上のむしろは草箒で掃かれた。
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朝から雨戸は開け放たれて歩けばぎし/\と鳴る簀の子の上の筵は草箒で掃かれた。
そうして東隣から借りて来たござが五、六枚敷かれた。
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さうして東隣から借りて來た蓙が五六枚敷かれた。
それから土地の習慣で、勘次は清めてやったお品の死体は一切を近所の手に任せた。
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それから土地の習慣で勘次は淨めてやつたお品の死體は一切を近所の手に任せた。
近所の女房らは、一反の晒し木綿を半分切って、それで形ばかりの短い経帷子と、死に顔を隠す頭巾と、ふんごみとを縫って、それを着せた。
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近所の女房等は一反の晒木綿を半分切てそれで形ばかりの短い經帷子と死相を隱す頭巾とふんごみとを縫つてそれを着せた。
ふんごみは、ただ三角にして足袋の代わりに爪先へはかせるのであった。
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ふんごみは只三角にして足袋の代に爪先へ穿かせるのであつた。
脚絆は切れのまま、麻で足へくくりつけた。
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脚絆は切の儘麻で足へ括り附けた。
これもその木綿で縫った頭陀袋を首から掛けさせて、三途の川の渡し銭だという六文の銭を入れてやった。
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此れも其の木綿で縫つた頭陀袋を首から懸けさせて三途の川の渡錢だといふ六文の錢を入れてやつた。
髪は麻で結んで、白櫛を挿してやった。
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髮は麻で結んで白櫛を揷して遣つた。
お品の硬くなった体は、曲げて立て膝にして棺桶へ入れられた。
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お品の硬着した身體は曲げて立膝にして棺桶へ入れられた。
首がふたに触れるので、骨のくじけるまで押さえつけられて、すくみが掛けられた。
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首が葢に觸るので骨の挫けるまで抑へつけられてすくみが掛けられた。
すくみというのは、縮めたままの形が保たれるように、死体の下から荒縄を回しておいて、首筋の所でぎっしりとくくることである。
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すくみといふのは蹙めた儘の形が保たれるやうに死體の下から荒繩を廻して置いて首筋の處でぎつしりと括ることである。
粗末な松板でこしらえた出来合いの棺桶は、みりみりと鳴った。
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麁末な松板で拵へた出來合の棺桶はみり/\と鳴つた。
こういう無残な扱いは、どうしても他人の手に任せられねばならなかった。
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恁ういふ無残な扱はどうしても他人の手に任せられねばならなかつた。
板のままばらばらになっている棺台は、買って来てから近所の手で釘付けにされた。
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板の儘ばら/\に成つて居る棺臺は買つて來てから近所の手で釘付にされた。
そこには、浅い箱を逆さにしたようなものができた。
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其處には淺い箱の倒にしたものが出來た。
その棺台の上には、死体を入れた棺桶が載せられた。
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其の棺臺の上には死體を入れた棺桶が載せられた。
勘次はその朝未明に、そっと家の後ろの楢の木の間を田の端へ下りて、境木のぐみの木のそばを注意して見た。
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勘次は其朝未明にそつと家の後の楢の木の間を田の端へおりて境木の牛胡頽子の傍を注意して見た。
唐鍬か何かで動かした土の跡が目についた。
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唐鍬か何かで動かした土の跡が目に附いた。
勘次は手にして行った草刈り鎌で、そくそくと土をつつくようにして掘った。
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勘次は手にして行つた草刈鎌でそく/\と土をつゝくやうにして掘つた。
そうして、その柔らかになった土を手でさらった。
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さうして其軟かに成つた土を手で浚つた。
ぼろの包みが出た。
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襤褸の包が出た。
彼はそこに、小さな一塊の肉を見つけたのである。
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彼は其處に小さな一塊肉を發見したのである。
勘次はそれを大事に懐へ入れた。
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勘次はそれを大事に懷へ入れた。
悪事の発覚でも恐れるような様子で、彼は周りを見回した。
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惡事の發覺でも恐れるやうな容子で彼は周圍を見廻した。
彼はさらに古い油紙で包んで片づけておいて、お品の死体が棺桶に入れられた時、彼はそっとお品の懐に抱かせた。
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彼は更に古い油紙で包んで片付けて置いて、お品の死體が棺桶に入れられた時彼はそつとお品の懷に抱かせた。
お品のやせきった手が、勘次のするままにそれをしっかりと抱き締めて、その骨ばかりの頬が、ぴったりと擦りつけられた。
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お品の痩せ切つた手が勘次のする儘にそれを確乎と抱き締めて、其の骨ばかりの頬が、ぴつたりと擦りつけられた。
葬式の日は赤口という日であった。
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葬式の日は赤口といふ日であつた。
勘次は近所と親戚とのほかには一飯も出さなかったが、それでも村の者はみな二銭ずつ持って弔みに来た。
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勘次は近所と姻戚との外には一飯も出さなかつたがそれでも村のものは皆二錢づゝ持つて弔みに來た。
そうして、さっさと帰って行った。
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さうしてさつさと歸つて行つた。
遠く離れた寺からは、住職と小坊主とが、色のさめた萌葱の法被を着た供を一人連れて、挟み箱をかつがせて歩いて来た。
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遠く離れた寺からは住職と小坊主とが、褪めた萠黄の法被を着た供一人連れて挾箱を擔がせて歩いて來た。
小坊主はすぐに棺桶のふたを取って、白い木綿をめくって、やつれた頬へかみそりをちょっと当てた。
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小坊主は直に棺桶の葢をとつて白い木綿を捲くつて窶れた頬へ剃刀を一寸當てた。
この形式的な顔剃りが済んでから、ふたは釘で打ちつけられた。
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此の形式的の顏剃が濟んでから葢は釘で打ち附けられた。
荒縄が十文字に掛けられた。
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荒繩が十文字に掛けられた。
晒し木綿の残った半反で、それがぐるぐると巻かれた。
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晒木綿の残つた半反でそれがぐる/\と捲かれた。
桶にはさらに天蓋が載せられた。
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桶には更に天葢が載せられた。
天蓋といっても、両端がわらびのように巻いた狭い松板を二枚十字に合わせたまでのものに過ぎない、簡単なものである。
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天葢というても兩端が蕨のやうに捲れた狹い松板を二枚十字に合せたまでのものに過ない簡單なものである。
すすけた壁には、これも古ぼけた赤い曼荼羅の大幅が、飾りのように掛けられた。
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煤けた壁には此れも古ぼけた赤い曼荼羅の大幅が飾のやうに掛けられた。
棺はわずかな人で葬られた。
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棺は僅な人で葬られた。
それでも白提灯が二張りかざされた。
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それでも白提灯が二張翳された。
裂き竹を格子の目に編んで、いいかげんの大きさになるとぐるりと四方を一つにまとめてくくった花籠も、二つかざされた。
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裂き竹を格子の目に編んでいゝ加減の大きさに成るとぐるりと四方を一つに纏めて括つた花籠も二つ翳された。
いずれも青竹の柄がつけられた。
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孰れも青竹の柄が附けられた。
その籠へは、髭のように裂き竹を立てて、その裂き竹には赤や黄や青やその他の色紙で刻んだ花を飾った。
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其の籠へは髭のやうに裂き竹を立てゝ其の裂き竹には赤や黄や青や其の他の色紙で刻んだ花を飾つた。
その花籠はまた、底へ紙を敷いて死んだ者の年齢の数だけ小銭を入れて、それをかざした人が時々ざらざらと振っては、籠の目からその小銭を振り落とした。
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其の花籠は又底へ紙を敷いて死んだものゝ年齡の數だけ小錢を入れて、それを翳した人が時々ざら/\と振つては籠の目から其の小錢を振り落した。
村の子供が争ってそれを拾った。
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村の小供が爭つてそれを拾つた。
提灯と花籠は先に立った。
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提灯と花籠は先に立つた。
後ろからは村の念仏衆が、赤い胴の太鼓を首へ掛けて、だらりだらりとだらけた叩きようをしながら、いっせいに声を上げてついて行った。
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後からは村の念佛衆が赤い胴の太皷を首へ懸けてだらりだらりとだらけた叩きやうをしながら一同に聲を擧て跟いて行つた。
棺は小道を避けて大道を行った。
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柩は小徑を避けて大道を行つた。
村の者は自分の門からそれをのぞいた。
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村の者は自分の門からそれを覗いた。
棺桶は据わりが悪いせいか、途中で止まずぐらりぐらりと揺れた。
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棺桶は据りが惡い所爲か途中で止まずぐらり/\と動搖した。
勘次はそれでも羽織袴で位牌を持った。
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勘次はそれでも羽織袴で位牌を持つた。
それはみな借りたので、羽織の紐には紙縒りがつけてあった。
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それは皆借りたので羽織の紐には紙撚がつけてあつた。
墓の穴は、焼けたような赤土が四方へうずたかくかき上げられてあった。
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墓の穴は燒けた樣な赤土が四方へ堆く掻き上げられてあつた。
そこには、これまで隙間のないほど穴が掘られて、多くの人が埋められたので、手の骨や足の骨がいつものように掘り出されて投げられてあった。
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其處には從來隙間のない程穴が掘られて、幾多の人が埋められたので手の骨や足の骨がいつものやうに掘り出されて投げられてあつた。
法被を着た寺の供が、棺桶を巻いた半反の白木綿を取って挟み箱に入れた。
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法被を着た寺の供が棺桶を卷いた半反の白木綿をとつて挾箱に入た。
やがて棺桶は荒縄で下げて、その赤い土の底に踏みつけられた。
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軈て棺桶は荒繩でさげて其の赤い土の底に踏みつけられた。
粗末な棺台は少しうずたかくなった土の上に置かれて、二つの白張り提灯と二つの花籠とがそのそばに立てられた。
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麁末な棺臺は少し堆く成つた土の上に置かれて、二つの白張提灯と二つの花籠とが其傍に立てられた。
お品は生まれてこのかた、土を踏まない日はないと言っていいくらいであった。
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お品は生來土を踏まない日はないといつていゝ位であつた。
そうしてそれは、凍てつく冬の季節を除いてはたいてい、直接に足の底が土についていた。
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さうしてそれは凍てる冬の季節を除いては大抵は直接に足の底が土について居た。
お品はこうして冷たい屍になってからも、その足の底は棺桶の板一枚を隔てただけで、さらに永久に土と接しているのであった。
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お品は恁して冷たい屍に成つてからも其の足の底は棺桶の板一枚を隔てただけで更に永久に土と相接して居るのであつた。
小さな葬式ながら、棺が出た後は、つむじ風が埃を吹き払ったようにからりとしていた。
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小さな葬式ながら柩が出た後は旋風が埃を吹つ拂つた樣にからりとして居た。
手伝いに来ていた女房らは、それでなくても膳立てをする客が少なくて暇であったから、めっきり手持ち無沙汰になった。
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手傳に來て居た女房等はそれでなくても膳立をする客が少くて暇であつたから滅切手持がなくなつた。
それでも立ちながら椀と箸とを持って、口を動かしている者もあった。
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それでも立ちながら椀と箸とを持つて口を動かして居るものもあつた。
膳部は決まったとおり、皿も平椀も壺椀もつけられた。
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膳部は極つた通り皿も平も壺もつけられた。
それでも切り昆布とひじきと油揚げと豆腐とのほかは、百姓の手で作ったものばかりで料理された。
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それでも切昆布と鹿尾菜と油揚と豆腐との外は百姓の手で作つたものばかりで料理された。
皿には、細かく刻んで塩でもんだ大根と人参とのなますが、ちょこんと乗せられた。
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皿には細かく刻んで鹽で揉んだ大根と人參との膾がちよつぽりと乘せられた。
そういう残り物と冷たくなった豆腐汁とをつついても、麦の交じらない飯がその口にはこの上もないごちそうなので、女房らは、その丈夫で、しかも広がった胃の容れるかぎりは、口がこれをむさぼって止まないのである。
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さういふ残物と冷たく成つた豆腐汁とをつゝいても麥の交らぬ飯が其の口には此の上もない滋味なので、女房等は其の強健で且擴大された胃の容れる限りは口が之を貪つて止まないのである。
彼女らは裏戸の陰に集まって雑談にふけった。
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彼等は裏戸の陰に聚まつて雜談に耽つた。
「どうしたっけまあ、ひどく棺桶がぐらぐらしたんじゃなかったっけかい」
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「どうしたつけまあ、酷く棺桶ぐら/\したんぢやなかつたつけゝえ」
「そのはずだろうな。後が心配で仕方がない仏はああいうふうに動くんだっていうぞ、お前」
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「其筈だんべな、後が心配で仕やうねえ佛はあゝえに動くんだつちぞおめえ」
「勘次さんのことが欲しくて、後へ残して行くのがつらいんだろうよ」
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「勘次さんこと欲しくつて後へ残してくのが辛えんだごつさら」
「そんだがよ、あんまり欲しがられると、しまいには迎えに来て連れて行かれるとよ」
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「そんだがよ、餘り欲しがられつと遂にや迎に來て連れ行かれつとよ」
「ああいやだ、おれは」
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「おゝ厭だ俺ら」
「連れてってくれと言ったって、お前らのことなんか迎えに来る者もあるまいな」
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「連れてつてくろつちつたつておめえ等こた迎に來るものもあんめえな」
口々にこんなことが遠慮もなく繰り返された。
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口々に恁んなことが遠慮もなく反覆された。
間がしばらく途切れた時
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間が少時途切れた時
「お品さんも惜しい命をなあ」
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「お品さんも可惜命をなあ」
と一人が思い出したように言った。
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と一人が思ひ出したやうにいつた。
「本当だ。他人のやらないことでもありゃしまいし」
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「本當だ他人のやらねえこつてもありやしめえし」
ほかの女房が相づちを打った。
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他の女房が相槌を打つた。
「風邪を引いたなんてか。今度の風邪は強いから起きられないなんて、しらばっくれてな」
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「風邪引いたなんてか、今度の風邪は強えから起きらんねえなんて、しらばつくれてな」
「死ぬ者貧乏なんだよ」
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「死ぬ者貧乏なんだよ」
「そんだが、お品さんは自分のばかりじゃないっていうんじゃないかい」
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「そんだがお品さんは自分のがばかりぢやねえつちんぢやねえけ」
「そうだとよ。大きな声じゃ言えないが、五十銭とか八十銭とか取って、他人のも行ったんだとよ」
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「さうだとよ、大けえ聲ぢやゆはんねえが、五十錢とか八十錢とか取つて他人のがも行つたんだとよ」
「八十銭ずつも取っちゃお前、女の手じゃたいしたもんだがな。今度は自分で死んじまうなんて、やりきれないこったなあ」
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「八十錢づゝも取つちやおめえ、女の手ぢやたえしたもんだがな、今度自分で死んちまあなんて、行んねえこつたなあ」
「罪を作った罰じゃないか」
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「罪作つた罰ぢやねえか」
遠慮もなく、それからそれへと移るのである。
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遠慮もなくそれからそれと移のである。
「そんなこと言って、今出た仏のことをお前ら、取っつかれるから見ろよ」
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「そんなことゆつて、今出た佛のことをおめえ等、とつゝかれつから見ろよ」
ほかの一人の女房が言った時、話がしばらく途切れて静まった。
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他の一人の女房がいつた時噺が暫時途切れて靜まつた。
一人の女房が皿の大根を手でつまんで口へ入れた。
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一人の女房が皿の大根を手で撮んで口へ入れた。
「そういう所を他人に見られたらどうしたもんだい」
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「さうえ處他人に見られたらどうしたもんだえ」
そばから言われて
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側からいはれて
「見てやあしまいな」
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「見てやあしめえな」
と、その女房は裏戸の口から庭のほうを見た。
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と其女房は裏戸の口から庭の方を見た。
そうして
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さうして
「おれみたいな婆はどうせこれから嫁にでも行くあてがあるじゃなし、構わないことは構わないがな」
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「俺ら見てえな婆はどうで此れから娶にでも行くあてがあんぢやなし、構あねえこたあ構あねえがな」
と言って笑った。
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といつて笑つた。
一同どっと笑い声を発した。
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一同どつと笑聲を發した。
棺を送った人々が離れ離れに帰って来るまでは、雑談がそれからそれへと止まなかった。
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柩を送つた人々が離れ/″\に歸つて來るまでは雜談がそれからそれと止まなかつた。
ふだん何の慰めを与えられる機会をも持っていないで、しかも聞きたがり、知りたがり、話したがる彼女らは、三人とさえ集まれば、膨らんだガスが袋の破れ目を求めて逃げ去るように、ついには前後の分別もなくその舌を動かすのである。
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平日何等の慰藉を與へらるゝ機會をも有して居ないで、然も聞きたがり、知りたがり、噺たがる彼等は三人とさへ聚れば膨脹した瓦斯が袋の破綻を求めて遁げ去る如く、遂には前後の分別もなく其舌を動かすのである。
たまたま引き出しから出した垢のつかない半纏を着て、髪にはどんな格好にも櫛を入れて、そうして弔みを済ますまでは、彼女らはふだんにないしおらしい様子を保つのである。
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偶抽斗から出した垢の附かぬ半纏を被て、髮にはどんな姿にも櫛を入れて、さうして弔みを濟すまでは彼等は平常にないしほらしい容子を保つのである。
それは、改まって不慣れな義理を述べねばならないという懸念が、わずかながら彼女らの心を支配しているからである。
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それは改まつて不馴な義理を述べねばならぬといふ懸念が、僅ながら彼等の心を支配して居るからである。
しかし土間へ下りて、たすきが掛けられて、膳や椀を洗ったり拭いたり、その手を忙しく動かすようになれば、彼女らの心はそれに引かれて、その聞きたがり、知りたがり、話したがる性情の自然に帰るのである。
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然し土間へおりて、襷が掛けられて、膳や椀を洗つたり拭いたり其手を忙しく動かすやうに成れば、彼等の心はそれに曳かされて其の聞きたがり、知りたがり、噺したがる性情の自然に歸るのである。
たとえ他人のためには悲しい日でも、その一日だけは自分の生活から離れて何人かの人々といっしょに集まることが、彼女らにはむしろ愉快な一日でなければならない。
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假令他人の爲には悲しい日でも其の一日だけは自己の生活から離れて若干の人々と一緒に集合することが彼等には寧ろ愉快な一日でなければならぬ。
絶え間なく消耗して行く肉体の欠損を補うために取る食料は、一椀といえどもことごとく自分の惨憺たる労力の一部を割いているのである。
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間斷なく消耗して行く肉體の缺損を補給するために攝取する食料は一椀と雖も悉く自己の慘憺たる勞力の一部を割いて居るのである。
しかし他人を悼む一日は、そこに自分のためには何の損失もなくて、十分に口腹の欲を満足させることができる。
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然し他人を悼む一日は其處に自己のためには何等の損失もなくて十分に口腹の慾を滿足せしめることが出來る。
他人の悲しみはどれほど痛切でも、それは自分の当面の問題ではない。
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他人の悲哀はどれ程痛切でもそれは自己當面の問題ではない。
このようにして、彼女らの集まる所には常に笑い声を絶たないのである。
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如斯にして彼等の聚る處には常に笑聲を絶たないのである。
お品もこういう仲間の一人であった。
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お品も恁ういふ伴侶の一人であつた。
それが今日は、その笑い声を後にして冷たい土に帰したのである。
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それが今日は其の笑聲を後にして冷たい土に歸したのである。
五
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五
お品は自分の手で自分の身を殺したのである。
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お品は自分の手で自分の身を殺したのである。
お品は十九の暮れにおつぎを産んでから、その次の年にもまた身ごもった。
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お品は十九の暮におつぎを産んでから其次の年にも亦姙娠した。
その時は彼らは窮迫の極みに達していたので、その胎児は死んだおふくろの手で七か月目に堕ろしてしまった。
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其の時は彼等は窮迫の極度に達して居たので其の胎兒は死んだお袋の手で七月目に墮胎して畢つた。
それはまだ秋の暑いころであった。
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それはまだ秋の暑い頃であつた。
丈夫なお品は、四、五日たつと林の中で草刈りをしていた。
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強健なお品は四五日經つと林の中で草刈をして居た。
それでも無理をしたために、その後大患いはなかったが、回復するまではしばらくぶらぶらしていた。
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それでも無理をした爲に其後大煩ひはなかつたが恢復するまでには暫くぶら/\して居た。
それからというものは、どういうものかお品は身ごもらなかった。
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それからといふものはどういふものかお品は姙娠しなかつた。
おつぎが十三の時、与吉が生まれた。
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おつぎが十三の時與吉が生れた。
この時は勘次もお品も腹の子を大切にした。
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此の時は勘次もお品も腹の子を大切にした。
女の子が十三というともう役に立つので、与吉を育てながら夫婦は十分に働くことができた。
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女の子が十三といふともう役に立つので、與吉を育てながら夫婦は十分に働くことが出來た。
与吉が三つになったので、おつぎはよそへ奉公に出すことに、夫婦の間では決められた。
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與吉が三つに成つたのでおつぎは他へ奉公に出すことに夫婦の間には決定された。
そのころ十五の女の子では、一年の給金はせいぜい十円くらいのものであった。
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其の頃十五の女の子では一年の給金は精々十圓位のものであつた。
それでも、それだけの収入のほかに食料の減ることが、貧乏な所帯には非常な影響なのである。
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それでもそれ丈の收入の外に食料の減ずることが貧乏な世帶には非常な影響なのである。
それが、稲の穂先の垂れるころから、お品は思案の首をかしげるようになった。
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それが稻の穗首の垂れる頃からお品は思案の首を傾げるやうになつた。
体の様子が変になったことに気づいたからである。
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身體の容子が變に成つたことを心付いたからである。
十年余りも身ごもらなかった腹は、与吉が宿ってから癖がついたものと見えて、また身ごもったのである。
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十年餘も保たなかつた腹は與吉が止つてから癖が附いたものと見えて又姙娠したのである。
お品も勘次も、それには当惑した。
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お品も勘次もそれには當惑した。
おつぎを奉公に出してしまえば、二人の子を抱いてお品はこれまでのように働くことができない。わずかな稼ぎでも、それが止まることは彼らの生活のためには非常な打撃でなければならない。
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おつぎを奉公に出して畢へば、二人の子を抱いてお品は從來のやうに働くことが出來ない、僅な稼でもそれが停止されることは彼等の生活の爲には非常な打撃でなければならぬ。
そのうちに稲を刈ったり、もみを干したり、忙しい取り入れの季節が来て、冴えた空の下に夫婦は毎日埃を浴びていた。
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其の内に稻を刈つたり、籾を干したり忙しい收穫の季節が來て、冴えた空の下に夫婦は毎日埃を浴びて居た。
さすがに罪なような心持ちもするので、夫婦はただ困ってその日を過ごしていた。
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有繋に罪なやうな心持もするので夫婦は只困つて其の日を過して居た。
それも、夜になって疲れた体を横にし、ぐっすり眠りに落ちるまでのわずかな時間、彼らは互いに決しがたい思案を交換するのであった。
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それも夜に成つて疲れた身體を横にし甘睡に陷るまでの少時間彼等は互に決し難い思案を交換するのであつた。
これまでも夫婦の間は、どちらが主であるか分からないほど、勘次には決断の力が欠けていた。
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從來も夫婦の間は孰れが本位であるか分らぬ程勘次には決斷の力が缺乏して居た。
「どうでもお前の腹だから、好きにしたほうがいいよな」
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「どうでもおめえの腹だから好きにした方がえゝやな」
勘次はこう言うのである。
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勘次は恁ういふのである。
しかしそれは、どうでもいいという言い放ちではなくて、すべてがお品に対して命令をするには、勘次の心はあまりに憚っていたのである。
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然しそれは怎的でもいゝといふ云ひ擲りではなくて、凡てがお品に對して命令をするには勘次の心は餘り憚つて居たのである。
「そんでも、おれのにも困るだろうな」
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「そんでも、俺がにも困んべな」
お品は投げかけるように言うのである。
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お品は投げ掛けるやうにいふのである。
勘次は、お品がこうするつもりだときっぱり言ってしまえば、けっして反対をするのではない。
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勘次はお品が恁うする積だときつぱりいつて畢へば決して反對をするのではない。
といって、お品は自分の判断だけで決行するには、あまりに大事であったのである。
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といつてお品は獨斷で決行するのには餘り大事であつたのである。
そうして、それは決められる機会もなくて、夫婦は依然として農事に忙殺されていた。
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さうしてそれは決定される機會もなくて夫婦は依然として農事に忙殺されて居た。
その間に空を渡る木枯らしが、にわかに悲しい便りをもたらした。
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其の間に空を渡る凩が俄に哀しい音信を齎した。
欅のこずえは、どうせもうこれまでだというように、慌ただしくその赤くなった枯れ葉を地上に投げつけた。
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欅の梢は、どうでもう此れまでだといふやうに慌しく其の赭く成つた枯葉を地上に投げつけた。
その捨て去られた軽い小さな落ち葉は、自分を引き止めてくれる陰を求めて転々と走っては、干した藁の間でも、もみのむしろでも、どこでもその身を託した。
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其の棄て去られた輕い小さな落葉は、自分を引き止めて呉れる蔭を求めて轉々と走つては干した藁の間でも籾の筵でも何處でも其の身を託した。
周りはすべてがただ騒がしく、かつ混雑した。
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周圍は凡てが只騷がしく且つ混雜した。
そのうちに勘次は、秋から募集のあった掘削工事へ、人に任せて行ったのである。
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其の内に勘次は秋から募集のあつた開鑿工事へ人に任せて行つたのである。
「ただこうしてぐずぐずしていても仕方があるまいな」
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「只かうしてぐづ/\して居ても仕やうあんめえな」
お品はその時も、勘次の判断を促してみた。
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お品は其の時も勘次の判斷を促して見た。
「おれもそう言われても困るから、お前の好きにしてくれよ」
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「俺もさうゆはれても困つから、おめえ好きにしてくろうよ」
勘次はただこう言った。
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勘次は只恁ういつた。
勘次が去ってから、お品はその混雑した、しかも寂しい世間に交じって、やるせないような心持ちがして、とうとう罪を決行してしまった。
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勘次が去つてからお品は其混雜した然も寂しい世間に交つて遣瀬のないやうな心持がして到頭罪惡を決行して畢つた。
お品の腹は四か月であった。
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お品の腹は四月であつた。
そのころの腹がいちばん危険だと言われているとおり、お品はそれが原因で倒れたのである。
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其の頃の腹が一番危險だといはれて居る如くお品はそれが原因で斃れたのである。
胎児は四か月いっぱいこもったので、男女がはっきりと区別されていた。
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胎兒は四月一杯籠つたので兩性が明かに區別されて居た。
小さい股の間には、飯粒ほどの突起があった。
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小さい股の間には飯粒程の突起があつた。
お品はさすがに、惜しいはかない心持ちがした。
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お品は有繋に惜しい果敢ない心持がした。
第一に、事の発覚を恐れた。
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第一に事の發覺を畏れた。
それで、いったんはよく世間の女のするように床の下に埋めたのを、お品はさらに田の端のぐみの木のそばに、ぼろへくるんで埋めたのである。
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それで一旦は能く世間の女のするやうに床の下に埋めたのをお品は更に田の端の牛胡頽子の側に襤褸へくるんで埋めたのである。
お品は体の回復するまでじっとして布団にくるまっていれば、あるいはよかったかもしれない。
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お品は身體の恢復するまで凝然として蒲團にくるまつて居れば或はよかつたかも知れぬ。
十幾年前には一切を死んだおふくろが処理してくれたのであったが、今度は勘次もいないしで、お品は暮らしの心配もしなくてはいられなかった。
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十幾年前には一切を死んだお袋が處理してくれたのであつたが、今度は勘次も居ないしでお品は生計の心配もしなくては居られなかつた。
一つには、それを世間に隠そうという考えから、知らない様子を装うために、無理にでもその身を動かしたのであった。
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一つにはそれを世間に隱蔽しようといふ念慮から知らぬ容子を粧ふ爲に強ひても其の身を動かしたのであつた。
しかしながら、その身を殺した黴菌はどうして入り込んだのであろうか。
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然しながら其の身を殺した黴菌がどうして侵入したであつたらうか。
お品は卵膜を破る手当てに他人の手を煩わさなかった。
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お品は卵膜を破る手術に他人を煩はさなかつた。
そうして、その差し入れたほおずきの根が、感じないほどに軽い傷を粘膜に与えて、そこに黴菌を植えつけたのであろうか、それとも毎日煙のように浴びせかけた埃から来たのであろうか、それを明らかにすることは不可能でなければならない。
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さうして其揷入した酸漿の根が知覺のないまでに輕微な創傷を粘膜に與へて其處に黴菌を移植したのであつたらうか、それとも毎日煙の如く浴せ掛けた埃から來たのであつたらうか、それを明らめることは不可能でなければならぬ。
しかしいずれにしても、病毒は土がもたらしたのでなければならなかった。
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然し孰れにしても病毒は土が齎したのでなければならなかつた。
葬式の次の日は、また近所の人が来た。
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葬式の次の日は又近所の人が來た。
勘次はその借りた羽織と袴を着て、村じゅうへ義理に回った。
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勘次は其の借りた羽織と袴を着て村中へ義理に廻つた。
土瓶へ入れた水を持って墓参りに行って、それから膳椀もみな返して、近所の人々も帰った後、勘次はぽつんとして、古い机の上に置かれた白木の位牌に対して、たまらなく寂しい哀れっぽい心持ちになった。
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土瓶へ入れた水を持つて墓參りに行つて、それから膳椀も皆返して近所の人々も歸つた後勘次は㷀然として古い机の上に置かれた白木の位牌に對して堪らなく寂しい哀れつぽい心持になつた。
二、三日の間は、片口やすり鉢に入れた葬式の時の残り物を食べて、一家はただぼんやりとして暮らした。
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二三日の間は片口や摺鉢に入れた葬式の時の残物を喰べて一家は只ばんやりとして暮した。
雨戸はいつものように引いたままで陰気であった。
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雨戸はいつものやうに引いた儘で陰氣であつた。
卯平を加えて四人は、お互いがただ冷ややかであった。
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卯平を加へて四人はお互が只冷かであつた。
卯平はその薄暗い家の中に、ただ煙草を吹かしては大きな真鍮の煙管で火鉢を叩いていた。
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卯平は其の薄暗い家の中に只煙草を吹かしては大きな眞鍮の煙管で火鉢を叩いて居た。
卯平と勘次とは、その間ろくに口も利かなかった。
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卯平と勘次とは其の間碌に口も利なかつた。
勘次は、自分の体と自分の心とが別々になったような心持ちで、自分が自分をどうすることもできなかった。
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勘次は自分の身體と自分の心とが別々に成つたやうな心持で自分が自分をどうする事も出來なかつた。
それでも小作米のことは、その念頭から消え去ることはなかった。
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それでも小作米のことは其の念頭から沒し去ることはなかつた。
貧乏な小作人の常として、彼らはいつでも恐怖心に襲われている。
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貧乏な小作人の常として彼等は何時でも恐怖心に襲はれて居る。
ことに、その地主を憚ることは並大抵ではない。
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殊に其の地主を憚ることは尋常ではない。
そうして自分の作ってきた土地は、死んでもかじりついていたいほどそれを惜しむのである。
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さうして自分の作り來つた土地は死んでも噛り附いて居たい程それを惜むのである。
彼らが最初に踏んだ土の強大な引力は、永久に彼らを遠く放さない。
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彼等の最初に踏んだ土の強大な牽引力は永久に彼等を遠く放たない。
彼らはとうてい、その土に苦しみ通さねばならない運命を持っているのである。
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彼等は到底其の土に苦しみ通さねばならぬ運命を持つて居るのである。
勘次は、お品の葬式が済むとすぐに新しい俵へ入れた小作米を地主へ運んで行かねばならないと、それが心を苦しめていた。
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勘次はお品の葬式が濟むと直に新しい俵へ入れた小作米を地主へ運んで行かねば成らぬとそれが心を苦しめて居た。
しかしその時は、その新しい俵の一つは輪になった縄から抜けて、米は叩いてもいくらも出なかった。
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然し其の時は其の新しい俵の一つは輪に成つた繩から拔けて、米は叩いても幾らも出なかつた。
勘次は次の年には、ほとんど自分一人の手で農事に励まなくてはならない。
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勘次は次の年には殆ど自分一人の手で農事を勵まなくてはならぬ。
例年のように忙しい季節に日雇いに行くこともできまいし、それにはおふくろに捨てられた二人の子供もあることだし、今から穀物の用意もしなくてはならないと思うと、自分の身上から一俵の米を減らしてはとうてい立ち行けないことを深く思案して、彼は眠らないこともあった。
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例年のやうに忙しい季節に日傭に行くことも出來まいし、それにはお袋に捨てられた二人の子供も有ることだし、今から穀の用意もしなくては成らぬと思ふと自分の身上から一俵の米を減じては到底立ち行けぬことを深く思案して彼は眠らないこともあつた。
しかしほかに方法もないので、彼は地主へ哀願して、小作米の半分を次の秋まで貸してもらった。
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然し他に方法もないので彼は地主へ哀訴して小作米の半分を次の秋まで貸して貰つた。
地主は東隣の元の主人であったので、それも承知された。
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地主は東隣の舊主人であつたのでそれも承諾された。
彼はさらに、そのわずかな米の一部を割いて銭に換えねばならないほど、懐が窮していたのである。
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彼は更に其の僅な米の一部を割いて錢に換へねばならぬ程懷が窮して居たのである。
勘次はそれから、また利根川の工事へ行かねばならないと思っていた。
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勘次はそれから復た利根川の工事へ行かねばならないと思つて居た。
それは彼が、わずかの間に見た放浪者の恐ろしさを思って、たとえどうしてもその頭を欺いて、そのわずかな前借りの金を踏み倒すほどの料簡が起こせなかったのである。
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それは彼が僅の間に見た放浪者の怖ろしさを思つて、假令どうしても其統領を欺いて其の僅少な前借の金を踏み倒す程の料簡が起されなかつたのである。
そのうちに親方から葉書が来た。
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其の内に張元から葉書が來た。
彼はひたすら恐れた。
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彼は只管恐怖した。
しかし二人の子を見捨てて行くことができないので、どうしていいか判断もつかなかった。
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然し二人の子を見棄てゝ行くことが出來ないので、どうしていゝか判斷もつかなかつた。
そうするうちに、お品の七日も過ぎた。
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さうする内にお品の七日も過ぎた。
彼は苦しみ悩んだ。
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彼は煩悶した。
ただ一つ、卯平が野田へ行くのをしばらく延ばしてもらって、自分はその間に少しでも小遣い銭を稼いで来たいと思った。
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唯一つ卯平が野田へ行くのを暫く猶豫して貰つて自分は其の間に少しでも小遣錢を稼いで來たいと思つた。
しかしそれも直接には言い出せないので、例の桑畑一枚隔てた南へ頼んだ。
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然しそれも直接には云ひ出せないので、例の桑畑一枚隔てた南へ頼んだ。
数日来、彼は卯平がその大きな体を火鉢のそばに据えて、煙管をかんではむっつりとしているのを見ると、何となく憚って、なるべくその視線を避けるように遠ざかっていることを余儀なくされるのであった。
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數日來彼は卯平が其の大きな體躯を火鉢の側に据ゑて煙管を噛んではむつゝりとして居るのを見ると、何となく憚つて成るべく其の視線を避けるやうに遠ざかつて居ることを餘儀なくされるのであつた。
勘次とお品は相思の間柄であった。
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勘次とお品は相思の間柄であつた。
勘次が東隣の主人に雇われたのは十七の冬で、十九の暮れにお品の婿になってからも、依然として主人の許に勤めていた。
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勘次が東隣の主人に傭はれたのは十七の冬で十九の暮にお品の婿に成つてからも依然として主人の許に勤めて居た。
彼はその当時、お品の家へは隣づきあいということでよく出入りした。
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彼は其當時お品の家へは隣づかりといふので能く出入つた。
一つには、形づくってきたお品の姿を見たいせいでもあった。
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一つには形づくつて來たお品の姿を見たい所爲でもあつた。
彼は秋の大豆打ちという日の晩などには、唐箕へ掛けたり俵に作ったりする間に、二升や三升の大豆はひそかに隠しておいて、お品の家へ持って行った。
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彼は秋の大豆打といふ日の晩などには、唐箕へ掛けたり俵に作つたりする間に二升や三升の大豆は竊に隱して置いてお品の家へ持つて行つた。
そうして炒り豆をかじっては、夜更けまで話をすることもあった。
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さうして豆熬を噛つては夜更まで噺をすることもあつた。
お品の家からは、近所に風呂の立たない時はよく来た。
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お品の家からは近所に風呂の立たぬ時は能く來た。
忙しい仕事には雇われても来た。
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忙しい仕事には傭はれても來た。
そういう間に、彼らの関係が成り立ったのである。
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さういふ間に彼等の關係が成立つたのである。
それはお品が十六の秋である。
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それはお品が十六の秋である。
それから足かけ三年たった。
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それから足掛三年經つた。
勘次には、主人の家が愉快でよく働くことができた。
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勘次には主人の家が愉快に能く働くことが出來た。
彼の体はむしろ小柄であるが、そのきりっと締まった筋肉が、だんだん仕事を上手にした。
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彼の體躯は寧ろ矮小であるが、其きりつと緊つた筋肉が段々仕事を上手にした。
たとえどんな物が彼らの間を隔てようとしても、彼らが近づく機会を見いだしたことは、鬱蒼として遮っている密林のこずえを透して、どこからか日が地上に光を投げているようなものであった。
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假令どんな物が彼等の間を隔てようとしても彼等が相近づく機會を見出したことは鬱蒼として遮つて居る密樹の梢を透してどこからか日が地上に光を投げて居るやうなものであつた。
彼らの心は、ただ明るかったのである。
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彼等の心は唯明るかつたのである。
お品は十九の春に身ごもった。
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お品は十九の春に懷胎した。
自分でもそれはしばらく知らずにいた。
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自分でもそれは暫く知らずに居た。
季節がだんだん暖かくなって、仕事にはひとえでなければならないころになったので、女同士の目は隠しおおせないようになった。
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季節が段々ぽかついて、仕事には單衣でなければならぬ頃に成つたので女同士の目は隱しおほせないやうに成つた。
おふくろはお品をまだ子供のように思って、うかつにもそれに気づかなかった。
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お袋はお品をまだ子供のやうに思つて迂濶にそれを心付かなかつた。
本当にそうだと思った時は、お品は間もなく肩で息するようになった。
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本當にさうだと思つた時はお品は間もなく肩で息するやうに成つた。
そうして、体がもう捨てておけない状態になったので、両方の親戚の者でごたごたと協議が起こった。
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さうして身體がもう棄てゝ置けない場合に成つたので兩方の姻戚の者でごた/\と協議が起つた。
勘次もお品も、その時互いに慕い合う心がにかわのように強かった。
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勘次もお品も其時互に相慕ふ心が鰾膠の如く強かつた。
彼らはいたずら者に水をさされて慌てた機会に、ある夜逃げ出してしまった。
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彼等は惡戲者に水をさゝれて慌てた機會に或夜遁げ出して畢つた。
それは、このままでは二人はとても添わされない様子だから、どうしても一つになろうというのならば、どこかへ二人で身を隠すのである。
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それは、此の儘では二人は迚ても添はされぬ容子だからどうしても一つに成らうといふのならば何處へか二人で身を隱すのである。
そうして、いよいよとなればおれがどうにでもそこは始末をつけてやるから、何でもぐずぐずしていちゃだめだと、お品の心をそそのかしたのであった。
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さうして愈となれば俺がどうにでも其處は始末をつけて遣るから、何でも愚圖/\して居ちや駄目だとお品の心を教唆つたのであつた。
お品から一心に勘次へ迫った。
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お品から一心に勘次へ迫つた。
勘次はそのころから、お品の言うなりになるのであった。
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勘次は其の頃からお品のいふなりに成るのであつた。
二人は遠くは行けないので、隣村の知り合いへ身を投じた。
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二人は遠くは行けないので、隣村の知合へ身を投じた。
両方の親戚が騒ぎ出した。
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兩方の姻戚が騷ぎ出した。
こういう同士へのこんないたずらは、どこでもよく繰り返されるのであった。
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恁ういふ同志へのこんな惡戲は何處でも能く反覆されるのであつた。
そうして成功したいたずら者は
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さうして成功した惡戲者は
「仕事は何でも雌鶏でなくちゃうまく行かないよ」
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「仕事は何でも牝鷄でなくつちや甘く行かねえよ」
と言っては陰で笑うのである。
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といつては陰で笑ふのである。
「外聞をさらしやがって」
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「外聞曝しやがつて」
と卯平は怒ったが、それがために事は容易に運ばれた。
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と卯平は怒つたがそれが爲に事は容易に運ばれた。
勘次は婿になったのである。
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勘次は婿に成つたのである。
簡単な式が行われた。
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簡單な式が行はれた。
にわかに仲人と定められた者が一人で、勘次を連れて行った。
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俄に媒妁人と定められたものが一人で勘次を連れて行つた。
卯平はむっつりとしてそれを受けた。
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卯平はむつゝりとしてそれを受けた。
ふだん行きつけた家なので、勘次はきまり悪そうに座った。
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平生行きつけた家なので勘次は極り惡相に坐つた。
お品はふだん着のままたすき掛けで、大儀そうな体を動かしていて、勘次のそばへは座らなかった。
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お品は不斷衣の儘襷掛で大儀相な體躯を動かして居て勘次の側へは坐らなかつた。
仲人がただ酒を飲んで騒いだだけであった。
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媒妁人が只酒を飮んで騷いだ丈であつた。
お品は間もなく女の子を産んだ。
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お品は間もなく女の子を産んだ。
それがおつぎであった。
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それがおつぎであつた。
季節は暮れの押し詰まった忙しい時であった。
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季節は暮の押し詰つた忙しい時であつた。
おふくろはお品が好いているので、勘次を不足な婿と思ってはいなかった。
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お袋はお品が好いて居るので、勘次を不足な婿と思つては居なかつた。
勘次はその暮れもまた主人へ身を任せるはずで前借りした給金を、お品の家へ注ぎ込んだので、おふくろはかえって喜んでいた。
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勘次は其暮も亦主人へ身を任せる筈で前借した給金を、お品の家へ注ぎ込んだのでお袋は却て悦んで居た。
卯平はただ、勘次が虫が好かなかった。
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卯平は唯勘次を蟲が好なかつた。
自分はその大きな体でぐいぐいと仕事をしつけたのに、勘次が小さな体でちょこちょこと駆け歩いたり、ただ言いつけばかり聞いていて、自分の機転というものがいっこうになかったりするので、ひどく歯がゆく思っていた。
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自分は其大きな體躯でぐい/\と仕事をしつけたのに勘次が小さな體躯でちよこ/\と駈け歩いたり、ただ吩咐ばかり聞いて居るので自分の機轉といふものが一向なかつたりするので酷く齒痒く思つて居た。
しかし自分は入り婿という関係もあるし、それに生まれつきの無口なので、親戚の間の協議にも彼は
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然し自分は入夫といふ關係もあるしそれに生來の寡言なので姻戚の間の協議にも彼は
「どうでもわしはよござんすからいい塩梅に決めておくんなせえ」
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「どうでもわしはようがすからえゝ鹽梅に極めておくんなせえ」
とだけ言うのであった。
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とのみいふのであつた。
勘次は百姓のもっとも忙しいそのころの五月に病気になった。
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勘次は百姓の尤も忙しい其の頃の五月に病氣に成つた。
彼はくつわへつけた竹竿の端を取って馬を操りながら、毎日泥だらけになって田の代掻きをした。
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彼は轡へ附けた竹竿の端を執つて馬を馭しながら、毎日泥だらけになつて田の代掻をした。
どうかすると、そんな季節に東南風が吹いて、震えるほど冷えることがある。
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どうかするとそんな季節に東南風が吹いて慄へる程冷えることがある。
勘次はその冷えが障ったのであろうか、心持ちが悪いと言って田から戻って来ると、それっきり枕も上がらないようになった。
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勘次は其の冷えが障つたのであつたらうか心持が惡いというて田から戻つて來るとそれつ切り枕も上らぬやうになつた。
よく馬の病気に飲ませる赤玉という薬を幾粒か飲んで、彼は布団へくるまっていた。
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能く馬の病氣に飮ませる赤玉といふ藥を幾粒か嚥んで彼は蒲團へくるまつて居た。
彼はどうにか病気をしのげるものなら、卯平のそばへは行きたくなかった。
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彼はどうにか病氣の凌ぎがつけば卯平の側へは行きたくなかつた。
それと一つには、我慢して仕事に出ればろくには働けなくても一日の勤めを果たしたことになるけれども、まるで休んでしまえばその日だけの割り当て勘定が給金から差し引かれなければならないので、彼はそれを恐れた。
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それと一つには我慢して仕事に出れば碌には働けなくても一日の勤めを果したことに成るけれども、丸で休んで畢へば其の日だけの割當勘定が給金から差引かれなければ成らぬので彼はそれを畏れた。
しかし病気は、馬に飲ませる薬の赤玉ではすぐには治らなかった。
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然し病氣は馬に飮ませる藥の赤玉では直には癒らなかつた。
それで彼はお品の厄介になるつもりで、次の朝早く朋輩の背に運ばれた。
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それで彼はお品の厄介に成る積で、次の朝早く朋輩の背に運ばれた。
卯平は渋りきった顔で迎えた。
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卯平は澁り切つた顏で迎へた。
お品が布団を敷いてやったので、勘次はそれへごろりとうつぶせになって、その額を交差した手に埋めた。
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お品が蒲團を敷いて遣つたので勘次はそれへごろりと俯伏しになつて其の額を交叉した手に埋めた。
家の者はみな田へ出なければならなかった。
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家の者は皆田へ出なければならなかつた。
病人に構っていることは仕事が許さなかった。
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病人に構つて居ることは仕事が許さなかつた。
おふくろは出る時に表の大戸も閉めながら
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お袋は出る時に表の大戸も閉てながら
「腹が減ったらここにあるぞ」
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「腹減つたら此處にあんぞ」
と言って、ばたりと飯台のふたをした。
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といつてばたりと飯臺の蓋をした。
後で勘次が布団からずり出して見たら、麦ばかりのぽろぽろした飯であった。
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後で勘次は蒲團からずり出して見たら、麥ばかりのぽろ/\した飯であつた。
その時分、お品の家ではそういう食料で命をつないでいたのである。
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其の時分お品の家ではさういふ食料で生命を繋いで居たのである。
勘次は奉公にばかり出ていたので、それほど粗末な物を口にしたことはない。
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勘次は奉公にばかり出て居たのでそれ程麁末な物を口にしたことはない。
それで、どうしても手を出そうという心が起こらなかった。
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それでどうしても手を出さうといふ心が起らなかつた。
昼飯に家の者は田から戻って、その飯を食べた。
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午餐に家の者は田から戻つて其の飯を喰べた。
ちっとはどうだとおふくろに勧められても、勘次はただうつぶせになっていた。
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ちつとはどうだとお袋に勸められても勘次は唯俯伏に成つて居た。
「この野郎、こんな忙しい時に転がり込みやがって、くたばるつもりでもあるだろう」
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「此の野郎こんな忙しい時に轉がり込みやがつてくたばる積でもあんべえ」
と、卯平はふだんになくこんなことを言った。
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と卯平は平生になく恁んなことをいつた。
勘次は後で独り泣いた。
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勘次は後で獨り泣いた。
彼はお品がこっそり布団の下へ入れてくれた煎餅をかじったりして、二、三日ごろごろしていた。
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彼はお品がこつそり蒲團の下へ入て呉れた煎餅を噛つたりして二三日ごろ/\して居た。
そのころは駄菓子屋もめったになかったので、これだけのことがお品にはよほどの心づくしであったのである。
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其の頃は駄菓子店も滅多に無かつたので此れ丈のことがお品には餘程の心竭しであつたのである。
勘次はどうも卯平がいやで、かつ恐ろしくて仕方がないので、少し体が回復しかけると、みなが田へ出た後でそっと抜けて、村の中の親戚の所へ行って板蔵の二階へ隠れて寝ていた。
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勘次はどうも卯平が厭で且つ怖ろしくつて仕やうがないので少し身體が恢復しかけると皆が田へ出た後でそつと拔けて村の中の姻戚の處へ行つて板藏の二階へ隱れて寢て居た。
夜になったらどうして知ったか、お品はおつぎを背負って鶏を一羽持って来た。
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夜になつたらどうして知つたかお品はおつぎを背負つて鷄を一羽持つて來た。
「勘次さん、悪く思わないでくれよ。おれは悪くするつもりはないが、仕方がないからよ」
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「勘次さん惡く思はねえでくろうよ、俺惡くする積はねえが、仕やうねえからよ」
と、お品は訴えるように言うのであった。
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とお品は訴へるやうにいふのであつた。
お品は毎晩のように来て、板蔵のさるを内から下ろして泊まって行った。
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お品は毎晩のやうに來て板藏のさるを内から卸して泊つて行つた。
それでも勘次は卯平のそばがいやなので、戻らないというつもりでほかの村へさまよい出た。
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それでも勘次は卯平の側が厭なので戻らないといふ積で他の村落へ漂泊した。
また土地へ帰って来ると、畑にいても田にいてもお品が迫って来るので、彼は農具を捨てて逃げることさえあった。
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復土地へ歸つて來ると、畑に居ても田に居てもお品が迫つて來るので、彼は農具を棄てゝ遁げることさへあつた。
それがどうしたものか、いつの間にやらひどく自分からお品のそばへ行きたくなってしまって、他人からかえってからかわれるようになったのである。
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それが如何したものか何時の間にやら酷く自分からお品の側へ行きたく成つて畢つて、他人から却て揶揄はれるやうに成つたのである。
勘次が奉公の年季を勤め上げて帰ったとなった時、卯平とは一つ家でかまどを別にすることになった。
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勘次は奉公の年季を勤めあげて歸つたと成つた時、卯平とは一つ家で竈を別にすることに成つた。
夫婦と乳飲み子と三人の所帯で、彼らは卯平から殻そばが一斗五升と麦が一斗と、後にも先にもたったこれだけが分けられた。
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夫婦と乳呑兒と三人の所帶で彼等は卯平から殼蕎麥が一斗五升と麥が一斗と、後にも先にもたつた此れ丈が分けられた。
正月のうどんも打てなかった。
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正月の饂飩も打てなかつた。
さすがにおふくろは小麦粉を隠してお品へやった。
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有繋にお袋は小麥粉を隱してお品へ遣つた。
それでも勘次は、恐ろしい卯平と一つかまどであるよりも、かえって本望であった。
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それでも勘次は怖ろしい卯平と一つ竈であるよりも却て本意であつた。
おふくろが死んでから、老いた卯平は勘次と一つにならなければならなかった。
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お袋が死んでから老いた卯平は勘次と一つに成らなければならなかつた。
その時はもう勘次が主であった。
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其時はもう勘次が主であつた。
そうして、とうに自分の住んでいる土地までが自分のものではなかった。
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さうして疾に自分の住んで居る土地までが自分の所有ではなかつた。
それは借金の始末をつけるために人が立って、東隣へ格外な値で持たせたのである。
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それは借錢の極りをつける爲に人が立つて東隣へ格外な値で持たせたのである。
それほど彼の家は窮していた。
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それ程彼の家は窮して居た。
勘次には、卯平は恐ろしいよりも、その時ではむしろいやな老人になっていた。
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勘次には卯平は畏ろしいよりも其時では寧ろ厭な老爺に成つて居た。
二人はめったに口も利かない。
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二人は滅多に口も利かぬ。
それを見ていなければならないお品の苦心は、容易なものではなかったのである。
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それを見て居なければ成らぬお品の苦心は容易なものではなかつたのである。
勘次に頼まれて南の亭主が話をした時、卯平はどうしたものかと案じたほどでもなく、「子供らが困るというなら、どうでもするさ。しないでどうするもんか」
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勘次に頼まれて南の亭主が話をした時に卯平はどうしたものかと案じた程でもなく「子奴等が困るといへばどうでも仕ざらによ、仕ねえでどうするもんか」
と、煙管を手に持って、その癖の舌打ちをしながら言った。
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と煙管を手に持つて其の癖の舌皷を打ちながらいつた。
南にいて案じながら挨拶を待っていた勘次は、勢いづいて
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南に居て案じながら挨拶を待つて居た勘次は勢ひづいて
「そんじゃ、おとっつあん、おれは行って来るから」
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「そんぢや、おとつゝあ俺行つ來つから」
と言った。
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といつた。
この時ばかりは穏やかな挨拶が交わされた。
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此の時ばかりは穩かな挨拶が交換された。
勘次がいなくなってから、卯平はむっつりした顔に微笑を浮かべては、与吉を抱いて泣かれることもあった。
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勘次が居なく成つてから卯平はむつゝりした顏に微笑を浮かべては與吉を抱いて泣かれることもあつた。
与吉は夜にわかに泣き出して止まないことがある。
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與吉は夜俄に泣き出して止まぬことがある。
お品が死ぬまでかぶっていた布団の中に、おつぎは与吉を抱いてくるまるのであった。
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お品が死ぬまで被て居た蒲團の中におつぎは與吉を抱いてくるまるのであつた。
与吉が夜泣きをする時、卯平は枕元のマッチをすって煙草へ火を移しては、燃えさしを手ランプへつけて
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與吉が夜泣きをする時卯平は枕元の燐寸をすつて煙草へ火を移しては燃えさしを手ランプへ點けて
「おっかあが見えるんだかも知れない。そうら明るくなった。お前は姉に抱かさってるんだ。怖いことがあるもんか」
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「おつかあが見えんだかも知んねえ、さうら明るく成つた。汝りや姊に抱かさつてんだ。可怖ことあるもんか」
卯平は重い調子で言うのである。
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卯平は重い調子でいふのである。
与吉は壁のどこともなく見ては、火のついたように身を震わせて泣いて、ひしとおつぎへ抱きつく。
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與吉は壁の何處ともなく見ては火の附いたやうに身を慄はして泣いて犇とおつぎへ抱きつく。
おつぎは与吉を膝へ抱いて、泣き止むまでは両手で覆っている。
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おつぎは與吉を膝へ抱いて泣き止むまでは兩手で掩うて居る。
それが泣き出したら毎夜のようなので、おつぎは玉砂糖を布団の下へ入れておいて、泣く時にはなめさせた。
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それが泣き出したら毎夜のやうなのでおつぎは、玉砂糖を蒲團の下へ入れて置いて泣く時には甞めさせた。
それでも泣き募った時は、口へ入れた砂糖を吐き出しては、いよいよ激しく泣くのである。
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それでも泣き募つた時は口へ入れた砂糖を吐き出しては愈烈しく泣くのである。
おつぎは焦れて、邪険に与吉を揺さぶることもあった。
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おつぎは焦れて邪險に與吉をゆさぶることもあつた。
それで与吉はついには、砂糖を口にしながらすやすやと眠る。
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それで與吉は遂には砂糖を口にしながらすや/\と眠る。
卯平は与吉が静かになるまでは、横になったままおつぎのほうを向いて、薄暗い手ランプにその目を光らせている。
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卯平は與吉が靜かに成るまでは横に成つた儘おつぎの方を向いて薄闇い手ランプに其の目を光らせて居る。
与吉はおつぎに抱かれる時、いつもよくおつぎの乳房をいじるのであった。
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與吉はおつぎに抱かれる時いつも能くおつぎの乳房を弄るのであつた。
うるさがって邪険に叱ってみても、与吉は甘えて笑っている。
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五月蠅がつて邪險に叱つて見ても與吉は甘えて笑つて居る。
それでも泣く時に、お品のしたように懐を開けて乳房を含ませてみても、その小さな乳房は間違っても吸わなかった。
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それでも泣く時にお品のしたやうに懷を開けて乳房を含ませて見ても其の小さな乳房は間違つても吸はなかつた。
砂糖をつけてみても欺けなかった。
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砂糖を附けて見ても欺けなかつた。
おつぎは与吉が腹を減らして泣く時には、米を水に浸しておいてすり鉢ですって、それをくつくつと煮て砂糖を入れてなめさせた。
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おつぎは與吉が腹を減らして泣く時には米を水に浸して置いて摺鉢ですつて、それをくつ/\と煮て砂糖を入て嘗めさせた。
与吉は一箸なめては舌鼓を打って、その小さな白い歯を出して、頭を後ろへくっつけるほど身を反らして、おつぎの顔をじっと見ては、甘えた声を立てて笑うのである。
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與吉は一箸嘗めては舌鼓を打つて其小さな白い齒を出して、頭を後へひつゝける程身を反らしておつぎの顏を凝然と見ては甘えた聲を立て笑ふのである。
与吉はそれがほしくなれば、小さな手ですすけた枠棚を指した。
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與吉はそれが欲くなれば小さな手で煤けた籰棚を指した。
そこには、彼の好む砂糖の小さな袋が載せてあるのであった。
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其處には彼の好む砂糖の小さな袋が載せてあるのであつた。
おつぎは勘次が言いつけて行ったとおり、桶へ入れてある米と麦とを混ぜたのを飯に炊いて、芋と大根の汁をこしらえるほか、どうという仕事もなかった。
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おつぎは勘次が吩咐けて行つた通り桶へ入れてある米と麥との交ぜたのを飯に炊いて、芋と大根の汁を拵へる外どうといふ仕事もなかつた。
その間には与吉を背負って林の中を歩いて、竹の竿で作った鉤で枯れ枝を採っては、そだを束ねるのが務めであった。
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其の間には與吉を背負つて林の中を歩いて竹の竿で作つた鍵の手で枯枝を採つては麁朶を束ねるのが務であつた。
おつぎは麦藁でたにしのような形にねじれた籠を作って、それを与吉へ持たせた。
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おつぎは麥藁で田螺のやうな形に捻れた籠を作つてそれを與吉へ持たせた。
卯平はぶらりと出て行っては、帰りには駄菓子を少し袂へ入れて来る。
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卯平はぶらりと出て行つては歸りには駄菓子を少し袂へ入れて來る。
そうして卯平は、菓子を持った右の手を左の袖口から出して与吉へ見せる。与吉はふらふらとようやく歩いて行っては、突き当たりそうに卯平へつかまって袂を探す。
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さうして卯平は菓子を持つた右の手を左の袖口から出して與吉へ見せる、與吉はふら/\と漸く歩いて行つては、衝き當り相に卯平へ捉つて袂を探す。
そうすると、菓子を持った手がさらに卯平の左の袂から出る。
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さうすると菓子を持つた手が更に卯平の左の袂から出る。
与吉は危なそうに卯平の体を伝いながら、左へ回って行く。
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與吉は危な相に卯平の身體を傳ひつゝ左へ廻つて行く。
そうすると、卯平の手が与吉の頭の上に乗って、菓子が頭へ落とされる。
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さうすると卯平の手が與吉の頭の上に乘つて菓子が頭へ落される。
与吉が頭へ手をやる時に、菓子は足元へぽたりと落ちる。
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與吉が頭へ手をやる時に菓子は足下へぽたりと落ちる。
与吉は慌てて菓子を拾っては、声を立てて笑うのである。
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與吉は慌てゝ菓子を拾つては聲を立てゝ笑ふのである。
菓子は、いつまでも減らないように砂糖で固めた黒い鉄砲玉がよく与えられた。
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菓子は何時までも減らないやうに砂糖で固めた黒い鐵砲玉が能く與へられた。
頭から落ちてころころと鉄砲玉が遠く転がって行くのを、倒れながら追いかけて行く与吉を見て、卯平のむっつりとした顔が溶けるのである。
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頭から落ちてころ/\と鐵砲玉が遠く轉がつて行くのを、倒れながら逐ひ掛けて行く與吉を見て卯平のむつゝりとした顏が溶けるのである。
与吉はつまずいて倒れても、その時はけっして泣くことがない。
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與吉は躓いて倒れても其時は決して泣くことがない。
鉄砲玉は麦藁の籠へも入れられた。
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鐵砲玉は麥藁の籠へも入れられた。
与吉はそれを大事そうに持っては時々のぞきながら、おつぎが炊事をする間、おとなしくして座っているのであった。
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與吉はそれを大事相に持つては時ゝ《とき/″\》覗きながら、おつぎが炊事の間を大人しくして坐つて居るのであつた。
六
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六
春は空から、そうして土からかすかに動く。
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春は空からさうして土から微に動く。
毎日のように西から埃を巻いて来る疾風が、どうかするとはたと止んで、空の際にはふわふわとした綿のような白い雲が、ほっかりと暖かい日光を浴びようとしてわずかに立ち上ったというように、動きもしないでじっとしていることがある。
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毎日のやうに西から埃を捲いて來る疾風がどうかするとはたと止つて、空際にはふわ/\とした綿のやうな白い雲がほつかりと暖かい日光を浴びようとして僅に立ち騰つたといふやうに、動きもしないで凝然として居ることがある。
水に近い湿った土が暖かい日光を思うぞんぶんに吸って、その勢いづいた土のかすかな刺激を根に感じさせるので、田んぼのはんの木の地味なつぼみは、目に立たない間に少しずつ伸びてひらひらと動きやすくなる。
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水に近い濕つた土が暖かい日光を思ふ一杯に吸うて其勢ひづいた土の微かな刺戟を根に感ぜしめるので、田圃の榛の木の地味な蕾は目に立たぬ間に少しづゝ延びてひら/\と動き易くなる。
その刺激から、蛙はまだ冬ごもりの状態にありながら、まれにはあっちでもこっちでもくくくくと鳴き出すことがある。
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其の刺戟から蛙はまだ蟄居の状態に在りながら、稀にはそつちでもこつちでもくゝ/\と鳴き出すことがある。
空から差す日の光はそろそろと熱を増して、土はそれをいくらでも吸って止まない。
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空から射す日の光はそろ/\と熱度を増して、土はそれを幾らでも吸うて止まぬ。
土はすべてをだんだんと刺激して、堀のあたりには蘆やとだしばやその他の草が、空と映り合ってすっとその首をもたげる。
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土は凡てを段々と刺戟して堀の邊には蘆やとだしばや其の他の草が空と相映じてすつきりと其の首を擡げる。
柔らかさに満たされた空気をさらに鈍くするように、はんの木の花はひらひらと止まず動きながら、すすのような花粉をまき散らしている。
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軟かさに滿たされた空氣を更に鈍くするやうに、榛の木の花はひら/\と止まず動きながら煤のやうな花粉を撒き散らして居る。
蛙は仮死の状態から離れて、柔らかな草の上に手を突いては、驚いたような様子をして空を仰いでみる。
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蛙は假死の状態から離れて軟かな草の上に手を突いては、驚いたやうな容子をして空を仰いで見る。
そうして彼らは、慌てたように声を放って、その長い眠りから生き返ったことを空に向かって告げる。
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さうして彼等は慌てたやうに聲を放つて其長い睡眠から復活したことを空に向つて告げる。
それで遠くで聞く時は、彼らの騒がしい声はただ空にのみ響いて快げである。
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それで遠く聞く時は彼等の騷がしい聲は只空にのみ響いて快げである。
彼らはさらに、春の来たことをいっさいの生き物に向かって促す。
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彼等は更に春の到つたことを一切の生物に向つて促す。
草や木が気づいて、その活力を存分に発揮するのを見ないうちは、鳴くことを止めまいと努める。
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草や木が心づいて其の活力を存分に發揮するのを見ないうちは鳴くことを止めまいと努める。
田んぼのはんの木は、とうに花を捨てて、自分が先に若葉の姿になってみせる。
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田圃の榛の木は疾に花を捨てゝ自分が先に嫩葉の姿に成つて見せる。
黄色みを含んだ若葉が、爽やかで、かつ朗らかな朝日を浴びて快い光を保ちながら、青い空の下に、まだためらっている周りの林を見る。
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黄色味を含んだ嫩葉が爽かで且つ朗かな朝日を浴びて快い光を保ちながら蒼い空の下に、まだ猶豫うて居る周圍の林を見る。
岬のような形に伸びている水田を抱えて、周りの林はようやくその本性のままに勝手に、白っぽいのや赤っぽいのや、黄色っぽいのや、さまざまに茂って、それが気がついた時には急いで一つの深い緑になるのである。
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岬のやうな形に偃うて居る水田を抱へて周圍の林は漸く其の本性のまに/\勝手に白つぽいのや赤つぽいのや、黄色つぽいのや種々に茂つて、それが氣が付いた時に急いで一つの深い緑に成るのである。
雑木林のそこらここらに散らばっている開墾地の麦もすっと首を出して、そら豆の花もかわいらしい黒い瞳を集めて、恥ずかしそうに葉の間からこっそりと四方をのぞく。
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雜木林の其處ら此處らに散在して居る開墾地の麥もすつと首を出して、蠶豆の花も可憐な黒い瞳を聚めて羞かし相に葉の間からこつそりと四方を覗く。
雑木林の間には、またすすきの硬い葉が空を刺そうとして立つ。
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雜木林の間には又芒の硬直な葉が空を刺さうとして立つ。
その麦やすすきの下に住まいを求める雲雀が、時々空を占めて、春が更けたと呼びかける。
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其麥や芒の下に居を求める雲雀が時々空を占めて春が深けたと喚びかける。
そうすると、自分の同族の声のみが空を支配しているべきはずだと思っている蛙は、そのさえずる声を押し消そうとして、互いの体を飛び越え飛び越え鳴き立てるので、勢いの少ない雲雀はすっと下りて、麦やすすきの根に潜んでしまう。
原文を見る
さうすると其同族の聲のみが空間を支配して居可き筈だと思つて居る蛙は、其囀る聲を壓し去らうとして互の身體を飛び越え飛び越え鳴き立てるので小勢な雲雀はすつとおりて麥や芒の根に潜んで畢ふ。
そうしては、蛙の鳴かない日中にのみ、これを仰げば眩しさに堪えられないように、その身をはるかに煌めく日の光の中に沈めて、その小さな喉のちぎれるまでは激しく鳴らそうとするのである。
原文を見る
さうしては蛙の鳴かぬ日中にのみ、之を仰げば眩ゆさに堪へぬやうに其の身を遙に煌めく日の光の中に沒して其小さな咽の拗切れるまでは劇しく鳴らさうとするのである。
蛙はいよいよますます鳴き誇って、樫の木のような大きな常緑樹の古い葉をも、一時にからりと落とさせなければ止まないとする。
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蛙は愈益鳴き矜つて樫の木のやうな大きな常緑木の古葉をも一時にからりと落させねば止まないとする。
この時、すべての樹木や、それから冬の間はぐったりと地についていたすべての雑草が、爪立ちしてただ空へ空へと暖かな光を求めて止まない。
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此の時凡ての樹木やそれから冬季の間にはぐつたりと地に附いて居た凡ての雜草が爪立して只空へ/\と暖かな光を求めて止まぬ。
土がそれをじっと引き止めて放さない。
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土がそれを凝然と曳きとめて放さない。
それで一切の草木は土と直角の角度を保っている。冬の間は土と平行することを好んでいた人も、鉄の針が磁石に吸われるように土に直立して、めいめいに手に農具を取る。
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それで一切の草木は土と直角の度を保つて居る、冬季の間は土と平行することを好んで居た人も鐵の針が磁石に吸はれる如く土に直立して各自に手に農具を執る。
紺の股引を藁でくくって、みな田を耕しはじめる。
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紺の股引を藁で括つて皆田を耕し始める。
水がほしいと人が思う時、蛙は一斉に裂けるかと思うほど喉の袋をふくらませて、身を震わせながら、ことさらに鳴き立てる。
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水が欲しいと人が思ふ時蛙は一齊に裂けるかと思ふ程喉の袋を膨脹させて身を撼がしながら殊更に鳴き立てる。
白い絹糸のような雨は、水が田に満ちるまでは注いでまた注ぐ。
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白い絓絲のやうな雨は水が田に滿つるまでは注いで又注ぐ。
鳴くべき時に鳴くためにのみ生まれて来た蛙は、刈り株を引っ返し引っ返し働いている人々の周りから足元から迫って、素早くその手を動かせ動かせと促して止まない。
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鳴くべき時に鳴く爲にのみ生れて來た蛙は苅株を引つ返し/\働いて居る人々の周圍から足下から逼つて敏捷に其の手を動かせ/\と促して止まぬ。
蛙がぴったりと声を呑む時には、日中の暖かさに人もぐったりとなって、田んぼの短い草にごろりと横になる。
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蛙がぴつたりと聲を呑む時には日中の暖かさに人もぐつたりと成つて田圃の短い草にごろりと横に成る。
さらに蛙は、ひっそりと静かな夜になると、いかに自分の声が遠く、かつはるかに響くかを誇るもののように、力を極めて鳴く。
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更に蛙はひつそりと靜かな夜になると如何に自分の聲が遠く且遙に響くかを矜るものゝ如く力を極めて鳴く。
雨戸を閉じる時、蛙の声はめっきり遠く隔たって、それがぐったりと疲れた耳をくすぐって、百姓のすべてを安らかな眠りに誘うのである。
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雨戸を閉づる時蛙の聲は滅切遠く隔つてそれがぐつたりと疲れた耳を擽つて百姓の凡てを安らかな眠りに誘ふのである。
熟睡することによって、百姓はみな短い時間に肉体の消耗を回復する。
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熟睡することによつて百姓は皆短い時間に肉體の消耗を恢復する。
彼らが雨戸の隙間から差す夜明けの白い光に驚いて布団を蹴って外に出ると、今さらのように耳に迫る蛙の声にその目覚めを促されて、井戸端の冷たい水にまったく朝の元気を呼び返すのである。
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彼等が雨戸の隙間から射す夜明の白い光に驚いて蒲團を蹴つて外に出ると、今更のやうに耳に迫る蛙の聲に其の覺醒を促されて、井戸端の冷たい水に全く朝の元氣を喚び返すのである。
草木は、遠くはるかに響けと鳴くその声に揺られながら、夜の間に生長する。
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草木は遠く遙に響けと鳴く其の聲に撼られつゝ夜の間に生長する。
櫟や楢やその他の雑木は、蛙が鳴けば鳴くほど、そうしてそれが鳴き止む季節までは、いくらでも茂ることを続けようとする。
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櫟や楢や其他の雜木は蛙が鳴けば鳴く程さうしてそれが鳴き止む季節までは幾らでも繁茂することを繼續しようとする。
そこには毛虫やその他の情けない損害があるにしても、しとしととしばしばこずえを打つ雨が、空の青さを移したかと思うように力強い深い緑が地上を覆って、爽やかな涼しい陰を作るのである。
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其處には毛蟲や其の他の淺猿しい損害が或は有るにしても、しと/\と屡梢を打つ雨が空の蒼さを移したかと思ふやうに力強い深い緑が地上を掩うて爽かな冷しい陰を作るのである。
鬼怒川の西岸の一部の地にも、こうして春は来て、かつ移って行った。
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鬼怒川の西岸一部の地にも恁うして春は來り且推移した。
憂いのある者もない者も等しく農具を取って、それぞれその持ち場についた。
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憂ひあるものも無いものも等しく耒耟を執つて各其の處に就いた。
勘次もその一人である。
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勘次も其の一人である。
勘次は春の間に、お品の四十九日も過ごした。
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勘次は春の間にお品の四十九日も過した。
白木の位牌に心ばかりの手向けをしただけで、一銭でも彼は無駄遣いを恐れた。
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白木の位牌に心ばかりの手向をしただけで一錢でも彼は冗費を怖れた。
彼が再び利根川の工事へ行った時は、冬はようやく険悪な空を彼らの頭上に表した。
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彼が再び利根川の工事へ行つた時は冬は漸く險惡な空を彼等の頭上に表はした。
みぞれや雪や雨が、時として彼らの労働に恐るべき障害を与えて、彼らを一日その寒い部屋に閉じ込めた。
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霙や雪や雨が時として彼等の勞働に怖るべき障害を與へて彼等を一日其寒い部屋に閉ぢ込めた。
一日の工賃は、非常な節約をしても、次の日に仕事に出なければ一銭も自分の手には残らなくなる。
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一日の工賃は非常な節約をしても次の日に仕事に出なければ一錢も自分の手には残らなくなる。
それは食料と薪との高い供給を仰がねばならないからである。
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それは食料と薪との不廉な供給を仰がねばならぬからである。
勘次は、お品の発病から葬式までには、彼にしては過大な費用を要した。
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勘次はお品の發病から葬式までには彼にしては過大な費用を要した。
それでも葬具やその他の雑費には、二銭ずつでも村のすべてが持って来た香典と、お品の布団の下に入れてあった蓄えとで、どうにかすることができた。
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それでも葬具や其の他の雜費には二錢づつでも村の凡てが持つて來た香奠と、お品の蒲團の下に入てあつた蓄とでどうにかすることが出來た。
それでも医者への謝礼やその他で、彼自身の懐はげっそりと減ってしまった。
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それでも醫者への謝儀や其の他で彼自身の懷中はげつそりと減つて畢つた。
そうして小作米を売った苦しい懐から、それでも彼は自分のいない間の手当てに五十銭を託して行った。
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さうして小作米を賣つた苦しい懷からそれでも彼は自分の居ない間の手當に五十錢を託して行つた。
それも卯平へ直接ではなくて、南へ頼んで卯平へ渡してもらった。
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それも卯平へ直接ではなくて南へ頼んで卯平へ渡して貰つた。
勘次が行ってから、その銭を出された時、卯平は
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勘次が行つてから其の錢を出された時卯平は
「そう疑ぐるなら、わしは預かりますまい」
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「さう疑ぐるならわしは預かりますめえ」
と言って拒んだ。
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といつて拒絶した。
「まあ、そんなこと言わないで、せっかくのことに。勘次さんも悪い料簡でしたんでもないだろうから」
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「まあ其麽ことゆはねえで折角のことに、勘次さんも惡い料簡でしたんでもなかんべえから」
となだめても、とうとう卯平は聞かなかった。
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と宥めても到頭卯平は聽かなかつた。
勘次はどうにか稼ぎ出して帰りたいと思って一生懸命になったが、それはわずかに命をつなぎ得たに過ぎないのであった。
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勘次はどうにか稼ぎ出して歸りたいと思つて一生懸命になつたがそれは僅に生命を繋ぎ得たに過ないのであつた。
近所の村から行った者は、しのぎきれないで夜逃げしてしまった者もあった。
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近所の村落から行つたものは凌ぎ切れないで夜遁して畢つたものもあつた。
それでも勘次は、わずかに持って出た財布の銭を減らさなかったというだけのことに繋ぎ止めた。
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それでも勘次は僅に持つて出た財布の錢を減らさなかつたといふ丈のことに繋ぎ止めた。
「おとっつあん、いてくれたなあ」
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「おとつゝあ居て呉れたなあ」
と媚びるように言って自分の家の敷居をまたいだ時は、足に感覚のないほどに彼は草臥れて、夜は暗くなっていた。
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と媚びるやうにいつて自分の家の閾を跨いだ時は足に知覺のない程に彼は草臥れて夜は闇くなつて居た。
さすがに二人の子は喜んで、与吉は勘次の手にすがった。
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有繋に二人の子は悦んで與吉は勘次の手に縋つた。
卯平がしたように、鉄砲玉が勘次の手から出ることと思ったらしかった。
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卯平がしたやうに鐵砲玉が勘次の手から出ることゝ思つたらしかつた。
勘次は苦しい懐から、何も買っては来なかった。
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勘次は苦しい懷から何も買つては來なかつた。
彼はどんなにしても、無邪気な子のために小さな菓子の一袋も持って来なかったことを心に悔いた。
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彼は什麽にしても無邪氣な子の爲に小さな菓子の一袋も持つて來なかつたことを心に悔いた。
「まんま」
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「まんま」
と言って、小さな与吉は勘次に求めた。
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というて小さな與吉は勘次に求めた。
「そんじゃ、爺さんの砂糖でもなめろ」
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「そんぢや爺が砂糖でも嘗めろ」
と、おつぎは与吉を抱いて枠棚の袋を取った。
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とおつぎは與吉を抱て籰棚の袋をとつた。
無口な卯平は、ちょっと見向いたきりで、帰ったかとも言わない。
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寡言な卯平は一寸見向いたきりで歸つたかともいはない。
勘次が草臥れた様子をしているのがわざとらしいように見えるので、卯平は苦い顔をして、火の消えた煙管をぎっとかみしめては、思い出したように雁首を火鉢へ叩きつけた。
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勘次が草臥れた容子をして居るのが態とらしいやうに見えるので卯平は苦い顏をして、火の消えた煙管をぎつと噛みしめては思ひ出したやうに雁首を火鉢へ叩き付けた。
吸い殻がくっついているので、彼は力いっぱいに叩きつけた。
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吸穀がひつゝいてるので彼は力一杯に叩きつけた。
勘次には、それが当てつけにでもされるように心に響いた。
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勘次にはそれが當てつけにでもされるやうに心に響いた。
「おつぎ、みんなでもなめさせろ。そうしてお前もなめっちまえ。おとっつあんが稼いで来たから、お前らもこれからよかろう」
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「おつぎみんなでも嘗めさせろ、さうして汝も嘗めつちめえ、おとつゝあ稼えで來たから汝等も此れからよかんべえ」
卯平は言った。
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卯平はいつた。
勘次はようやく帰った、その矢先にこういうことで、自分の家でもひどく落ち着かない、こそばゆくてならない心持ちがするので、彼は足も洗わずに、近所へ義理も果たすからと言って出て行った。
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勘次は漸く歸つた其の箭先にかういふことで自分の家でも酷く落付かない、こそつぱくて成らない心持がするので彼は足も洗はずに近所へ義理も足すからといつて出て行つた。
「明日だっていいのに」
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「明日だつてえゝのに」
卯平は後で呟いた。
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卯平は後で呟いた。
彼はぶすりぶすりと口は利くのであったが、それでもさっきからのようにひねくれ曲がったことは、これまでは言ったことはなかった。
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彼はぶすり/\と口は利くのであつたがそれでも先刻からのやうにひねくれ曲つたことは此れまではいつたことはなかつた。
彼は死んだお品のことを思って、二人の子が哀れになって、勘次のいない間の面倒を見る気になった。
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彼は死んだお品のことを思つて二人の子が憐れになつて勘次の居ない間の面倒を見る氣に成つた。
彼はわずかな菓子の袋から小さな与吉に慕われてみると、さすがに憎い心持ちも起こらなかった。
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彼は僅な菓子の袋から小さな與吉に慕はれて見ると有繋に憎い心持も起らなかつた。
その間、彼は何も不足に思ってはいなかった。
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其の間彼は何にも不足に思つては居なかつた。
それを勘次が帰ってみると、生まれつき好きでない勘次へ、たちまちに二人の子はなびいてしまった。
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それを勘次が歸つて見ると性來好きでない勘次へ忽ちに二人の子は靡いて畢つた。
彼はこれまでの心づくしを勘次に奪われたようで、ふっと不快な感じを起こしたのである。
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彼は此までの心竭しを勘次に奪はれたやうで、ふつと不快な感じを起したのである。
それも、どんなかたちにでも勘次が義理を述べればそれでもまだよかったが、勘次は妙に気が引けて、それが喉まで出ても押さえつけられたようで、声に出すことができなかったのである。
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それもどんな姿にも勘次が義理を述ればそれでもまだよかつたが、勘次は妙に身がひけてそれが喉まで出ても抑へつけられたやうで聲に發することが出來なかつたのである。
懐の寂しい勘次が、そうして気が引けるのを、卯平にはかえってよそよそしくされるような感じを与えた。
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懷のさむしい勘次はさうして身がひけるのを卯平には却て餘所/\しくされるやうな感じを與へた。
勘次は卯平にも子供にも済まないような気がしたので、近所へ義理を果たすと言って出て、菓子の一袋を懐へ入れて来た。
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勘次は卯平にも子供にも濟ぬやうな氣がしたので近所へ義理を足すというて出て菓子の一袋を懷へ入れて來た。
その時、与吉はもう眠っていた。
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其の時與吉はもう眠つて居た。
卯平は、変なことをすると思って見ていた。
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卯平は變なことをすると思つて見て居た。
そうしてまたさらに、自分がひどく隔てられるように思った。
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さうして又更に自分が酷く隔てられるやうに思つた。
彼は五十銭の銭のことを思い出して、忌々しくなった。
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彼は五十錢の錢のことを思ひ出して忌々敷なつた。
「勘次ら、懐はいいだろう」
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「勘次等懷はよかつぺ」
卯平はぶつりと聞いた。
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卯平はぶつゝりと聞いた。
「おとっつあん、おれはいい所なもんじゃない。やっとのことで逃げるようにして来たんだ。あんな所へなんざあ、けっして行くもんじゃない。とてもだめなことだ。おれも懲りちまったよ」
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「おとつゝあ、俺らえゝ所なもんぢやねえ、やつとのことで逃げるやうにして來たんだ、あんな所へなんざあ決して行くもんぢやねえ、とつても駄目なこつた、俺も懲りつちやつたよ」
勘次は慌てて言った。
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勘次は慌てゝいつた。
彼は会う人ごとに必ず、よかろうよかろうと言われるのを非常に恐れていた。
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彼は逢ふ人毎に必ずよからう/\といはれるのを非常に怖れて居た。
「うん、そうかなあ」
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「うむ、さうかなあ」
卯平は気のないように言った。
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卯平は氣のないやうにいつた。
「どうせおれは余計者だ。いやしないからいいや。いくら持てたって構やしない」
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「どうで俺ら餘計者だ、居やしねえからえゝや、幾ら持てたつて構やしねえ」
彼はさらに独り言を言った。
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彼は更に獨語いた。
勘次は青くなった。
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勘次は蒼くなつた。
卯平は、勘次がきっと銭を隠しているのだと思ったのである。
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卯平は勘次が屹度錢を隱して居るのだと思つたのである。
彼はそんなこんなが不快に堪えないので、次の日、野田へ立ってしまった。
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彼はそんなこんなが不快に堪へないので次の日野田へ立つて畢つた。
野田で卯平の役目といえば、夜になって大きな蔵々の間を拍子木を叩いて歩くだけで、老人の体にもそれは格別の辛抱ではなかった。
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野田で卯平の役目といへば夜になつて大きな藏々の間を拍子木叩いて歩く丈で老人の體にもそれは格別の辛抱ではなかつた。
昼は昼寝が許されてあるので、その時間を割いて、器用な彼には内職の小遣い取りも少しはできた。
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晝は午睡が許されてあるので其の時間を割いて器用な彼には内職の小遣取も少しは出來た。
好きな煙草とコップ酒に渇することはなかった。
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好きな煙草とコツプ酒に渇することはなかつた。
暑い時にはさっぱりした浴衣を引っ掛けていることもできた。
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暑い時にはさつぱりした浴衣を引つ掛けて居ることも出來た。
そこは彼には住みづらい所でもなかった。
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其處は彼には住み辛い處でもなかつた。
ただ凍てのひどい冬の夜などには、以前からの持病である疝気で、どうかすると腰がきりきりと痛むこともあったが、その時だけは、勘次とまずくなければお品のそばでおとっつあんと言われていたい心持ちもするのであった。
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只凍ての酷い冬の夜などには以前からの持病である疝氣でどうかすると腰がきや/\と痛むこともあつたが、其の時丈は勘次とまづくなければお品の側でおとつゝあといはれて居たい心持もするのであつた。
生まれつき子を持ったことのない彼は、お品一人が頼りであった。
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生來子を持つたことのない彼はお品一人が手頼であつた。
お品に死なれて、彼はまったく孤立した。
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お品に死なれて彼は全く孤立した。
そうして老後は、とうてい勘次の手に託さねばならないことになってしまったのである。
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さうして老後は到底勘次の手に託さねばならぬことに成つて畢つたのである。
それでも見苦しい貧相な勘次は、依然として彼には虫が好かなかった。
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それでも不見目な貧相な勘次は依然として彼には蟲が好かなかつた。
彼は野田へ行けば比較的に不自由のない生活がして行かれるので、お前らの厄介にならなくてもおれはまだ立って行かれると、こうして哀愁に覆われた心の一方には、老人のひがみと愚痴とが起こったのであった。
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彼は野田へ行けば比較的に不自由のない生活がして行かれるので汝等が厄介には成らねえでも俺はまだ立て行かれると、恁うして哀愁に掩はれた心の一方には老人の僻みと愚癡とが起つたのであつた。
卯平は心に涙を呑んだ。
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卯平は心に涙を呑んだ。
勘次はしょんぼりとしていた。
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勘次は悄然として居た。
与吉が泣くたびに、彼は困った。
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與吉が泣く度に彼は困つた。
そうして毎日お品のことを思い出しては、天秤棒で手桶をかついだ姿が庭にも戸口にも、時としては座敷にも見えることがあった。
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さうして毎日お品のことを思ひ出しては、天秤で手桶を擔いだ姿が庭にも戸口にも時としては座敷にも見えることがあつた。
そばにいるような気がして、思わず振り返ることもあるのであった。
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側に居るやうな氣がして思はず顧みることもあるのであつた。
彼はお品を思い出すと与吉を抱いては、「なあ、おっかあはいないんだぞ。おっかあの乳房はほしがれないんだぞ」
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彼はお品を思ひ出すと與吉を抱いては「なあ、おつかあは居ねえんだぞ、おつかあが乳房欲しがんねえんだぞ」
と始終言って聞かせた。
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と始終いつて聞かせた。
お品がいないとことさらに言うのは、それは一つには彼自身の諦めのためでもあったのである。
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お品が居ないと殊更にいふのはそれは一つには彼自身の斷念の爲でもあつたのである。
お品は豆腐をかついでいる時は、よくビールの空き瓶を手桶へくくって行った。
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お品は豆腐を擔いで居る時は能く麥酒の明罎を手桶へ括つて行つた。
それで帰りの手桶が軽くなった時は、勘次の好きな酒がこぼこぼと瓶の中で鳴っていた。
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それで歸りの手桶が輕くなつた時は勘次の好きな酒がこぼ/\と罎の中で鳴つて居た。
お品は酒屋へ豆腐を置いては、その銭だけ酒を入れてもらうので、豆腐のもうけだけ安い酒を買って、勘次を喜ばせるのであった。
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お品は酒店へ豆腐を置いては其錢だけ酒を入れて貰ふので豆腐の儲けだけ廉い酒を買つて勘次を悦ばせるのであつた。
それはお品の死ぬ年のことだけである。
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それはお品の死ぬ年のことだけである。
お品が、ようやく商売を覚えたと言っていたのは、まだその夏のころからである。
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お品は漸く商を覺えたといつて居たのはまだ其の夏の頃からである。
初めはきまりが悪くて、他人の敷居をまたぐのをためらっていた。
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初めは極りが惡くて他人の閾を跨ぐのを逡巡して居た。
それくらいだから変な赤い顔もして、余計に不愛想にも見えるのであったが、後には相応に時候の挨拶も言えるようになったと、お品はよく勘次へ語ったのである。
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其の位だから變な赤い顏もして餘計に不愛想にも見えるのであつたが、後には相應に時候の挨拶もいへるやうに成つたとお品は能く勘次へ語つたのである。
勘次は思い出に堪えられなくなっては、お品の墓に泣いた。
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勘次は追憶に堪へなくなつてはお品の墓塋に泣いた。
彼は、紙が雨に溶けてだらりと崩れた白張り提灯を、恨めしそうに見るのであった。
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彼は紙が雨に溶けてだらりとこけた白張提灯を恨めし相に見るのであつた。
勘次はうなだれた首をもたげて、三人の口を糊するために日雇いに出た。
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勘次は悄れた首を擡げて三人の口を糊するために日傭に出た。
彼はよく隣の主人に使ってもらった。
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彼は能く隣の主人に使つて貰つた。
米はきっと彼が搗かせられた。
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米は屹度彼が搗かせられた。
上手な彼は減らさないで、そうして白く搗いた。
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上手な彼は減らさないでさうして白く搗いた。
彼は時としては、主人のうっかりしている間に蔵から余計な米を量り出して、そっと隠しておいて、夜自分の家に持って来ることがあった。
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彼は時としては主人のうつかりして居る間に藏から餘計な米を量り出して、そつと隱して置いて夜自分の家に持つて來ることがあつた。
それもわずか二升か三升に過ぎない。
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それも僅か二升か三升に過ぎない。
それくらいでは、主人の注意を引くには足りなかった。
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其の位では主人の注意を惹くには足らなかつた。
そうして、その米は窮迫した彼の台所をしばらく潤すのである。
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さうして其の米は窮迫した彼の厨を少時濕すのである。
ある時、彼はまた主人の米をそっとかすめて、股引へ入れて目につかないように薪の積んだ間へ押し込んでおいた。
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或る時彼れは復た主人の米をそつと掠めて股引へ入れて目につかぬやうに薪の積んだ間へ押し込んで置いた。
雇い人がそれを見つけて、ひそかに主人のおかみさんに告げた。
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傭人がそれを發見して竊に主人の内儀さんに告げた。
おかみさんは、わずかなことだから捨てておいてやれと言ったが、しかし雇い人は、一つにはいたずらから米を空けて、その代わりに一杯に土を入れておいた。
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内儀さんは僅かなことだから棄てゝ置いて遣れといつたが然し傭人は一つには惡戯から米を明けて其の代に一杯に土を入れて置いた。
勘次は発覚したことを恐れ、かつ恥じて、次の日には来なかった。
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勘次は發覺したことを怖れ且つ恥ぢて次の日には來なかつた。
それから数日の間は、主人の家に姿を見せなかった。
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それから數日間は主人の家に姿を見せなかつた。
おかみさんは雇い人のいたずらを聞いて、むしろ憐れになって、またこちらから仕事を言いつけてやった。
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内儀さんは傭人の惡戯を聞いて寧ろ憐になつて又こちらから仕事を吩咐けてやつた。
さらに袋へ米と挽き割り麦とを混ぜたのを入れて、それから、これは雇い人にも炊いてやれないのだから、お前がよければ持って行って、秋にでもなったら糯粟を少しでも返せと、二、三斗入った粳粟の俵とを一つにやった。
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更に袋へ米と挽割麥とを交ぜたのを入れて、それから此れは傭人にも炊いてやれないのだからお前がよければ持つて行つて秋にでもなつたら糯粟の少しも返せと二三斗入つた粳粟の俵とを一つに遣つた。
勘次は主人のために一所懸命働いた。
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勘次は主人の爲に一所懸命働いた。
その以前からも、彼はただ隣の主人から見捨てられないようにと、心には思っているのであった。
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其の以前からも彼は只隣の主人から見棄てられないやうと心には思つて居るのであつた。
しかし非常な労働は、雇い人の仲間には嫌われた。
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然し非常な勞働は傭人の仲間には忌まれた。
それは、雇い人も彼にならって自分もその労力を惜しむことができないからである。
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それは傭人も彼に倣つて自分も其の勞力を偸むことが出來ないからである。
そうするうちに、世間はまた春が移って、雨が忙しく田畑へ水を供給した。
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さうする内に世間は復春が移つて雨が忙しく田畑へ水を供給した。
勘次は自分の後ろの田へ出て、刈り株を引っ返しては耕した。
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勘次は自分の後の田へ出て刈株を引つ返しては耕した。
おつぎも万能鍬を持って勘次の後についた。
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おつぎも萬能を持つて勘次の後に跟いた。
勘次は、お品の手が減っただけはおつぎを使って、どうにかこれまで作った土地は始末をつけようと思った。
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勘次はお品の手が減つた丈はおつぎを使つてどうにか從來作つた土地は始末をつけようと思つた。
ことに田はすぐ後ろなので、どんなにしても手放すまいとした。
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殊に田は直後なので什麽にしても手放すまいとした。
いったん地主へ返してしまったら、再び自分がほしくなっても容易に手に入れることができないのを恐れたからである。
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一且地主へ還して畢つたら再び自分が欲しくなつても容易に手に入れることが出來ないのを怖れたからである。
今におつぎを一人前に仕込んでみると、勘次は心に思っている。
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今におつぎを一人前に仕込んで見ると勘次は心に思つて居る。
勘次は万能鍬をぶつりと打ち込んでは、ぐっと大きな土の塊を引き返す。
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勘次は萬能をぶつりと打ち込んではぐつと大きな土の塊を引返す。
おつぎはやっと小さな塊を起こす。
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おつぎは漸く小さな塊を起す。
勘次の手は速やかに動いて、ずんずんと先へ進む。
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勘次の手は速かに運動してずん/\と先へ進む。
おつぎはだんだん遅れて、小さな塊を浅く起こして進んで行く。
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おつぎは段々後れて小さな塊を淺く起して進んで行く。
そうすると
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さうすると
「そんなに怖がってびくびくやるんじゃない、こうするんだ」
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「そんなに可怖びつくりやんぢやねえかうすんだ」
勘次はじれったそうに、おつぎの万能鍬を取って打ち込んで見せる。
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勘次は遲緩し相におつぎの萬能をとつて打ち込んで見せる。
「そんでも、おとっつあん、おれのにはそういうふうにはできないんだもの」
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「そんでもおとつゝあ、俺がにやさういにや出來ねえんだもの」
「そんな料簡だからお前らはだめだ。本当にやってみるつもりでやってみろ」
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「そんな料簡だから汝等駄目だ、本當にやつて見る積でやつて見ろ」
おつぎは勘次に遅れながら、手の力の及ぶかぎり働いた。
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おつぎは勘次に後れつゝ手の力の及ぶ限り働いた。
与吉は田んぼの堀のあたりにむしろを敷いて、そこに置いてある。
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與吉は田圃の堀の邊に筵を敷いて其處に置いてある。
「じっとしていろ、動くんじゃないぞ。動くとぽかんと堀の中さ落っこちるからな。そうら蛙がぽかんと落っこちた。動くなあ、ここに棒があった。そうら、これでも持ってろ。泣くんじゃないぞ。姉はこの田の中にいるんだからな。泣くとおとっつあんにあっぷって怒られるからな」
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「えんとして居ろ、動くんぢやねえぞ動くとぽかあんと堀の中さ落こちつかんな、そうら蛙ぽかあんと落こつた。動くなあ、此處に棒あつた、そうら此でも持つてろ、泣くんぢやねえぞ、姉は此の田ン中に居んだかんな、泣くとおとつゝあにあつぷつて怒られつかんな」
おつぎは頬をすりつけて、よく言い含めた。
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おつぎは頬を擦りつけて能くいひ含めた。
与吉は土だらけの短い棒で、岸の土を叩いている。
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與吉は土だらけの短い棒で岸の土を叩いて居る。
そうして時々後ろを向いては姉の姿を見て、安心して棒でぴたぴたと叩いている。
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さうして時々後を向いては姉の姿を見て安心して棒でぴた/\と叩いて居る。
棒の先が水を打つので、与吉は喜んだ。
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棒の先が水を打つので與吉は悦んだ。
それもしばらくの間に飽きた。
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それも少時の間に飽いた。
おつぎは、与吉がまた見た時には、田の向こうの端に行っていた。
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おつぎは與吉がまた見た時には田の向の端に行つて居た。
「姉よう」
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「姉よう」
と与吉は呼んだ。
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と與吉は喚んだ。
おつぎは返事しなかった。
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おつぎは返辭しなかつた。
与吉はまた呼んだ。
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與吉は又喚んだ。
そうして泣き出した。
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さうして泣き出した。
おつぎが立って行こうとすると
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おつぎは立つて行かうとすると
「構わないで置け。耕してあっちへ行ってからにしろ」
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「構あねえで置け、耕つてあつちへ行つてからにしろ」
勘次はせっかちに厳しく、おつぎを止めた。
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勘次は性急に嚴しくおつぎを止めた。
おつぎは仕方なく、泣くのも構わずに耕した。
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おつぎは仕方なく泣くのも構はずに耕した。
勘次は先へ先へと耕して、堀のそばまで来た。
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勘次は先へ/\と耕して堀の側まで來た。
「泣くな。今、姉が後から来らあ」
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「泣くな、今姉が後から來らあ」
勘次はこう言って、与吉に一目くれたのみで、一心にその手を動かしている。
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勘次はかういつて、與吉に一瞥を與へたのみで一心に其の手を動かして居る。
与吉は、おつぎがようやく近づいた時、ひとしきりまた泣いた。
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與吉はおつぎが漸く近づいた時一しきり又泣いた。
「よきはどうしたんだ」
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「よきはどうしたんだ」
おつぎは岸へ上がって、泥だらけの足で草の上に膝を突いた。
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おつぎは岸へ上つて泥だらけの足で草の上に膝を突た。
与吉は笑い交じりに泣いて、両手を出して抱かれようとする。
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與吉は笑交りに泣いて兩手を出して抱かれようとする。
「姉は泥だらけで仕方があるまいな。汚れてもいいのか、よきは」
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「姉は泥だらけで仕やうあんめえな、汚れてもえゝのかよきは」
と言いながら、おつぎは与吉を抱いた。
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いひながらおつぎは與吉を抱いた。
「どうした、蛙のやつはいないか。この棒でばたばたと叩いてやれ。そうしたら痛いようって蛙のやつが泣くだろうな。泣くな蛙だよう、よきは泣かないようってなあ」
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「どうした、蛙奴居ねえか、此の棒でばた/″\と叩いてやれ、さうしたら痛えようつて蛙奴が泣くべえな、泣くな蛙だよう、よきは泣かねえようつてなあ」
おつぎは与吉を抱いたまま、勘次のほうを見て
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おつぎは與吉を抱いた儘勘次の方を見て
「おとっつあん、あっちへ行っちゃった。姉も行かなくちゃならない。おとっつあんに怒られるからな。またじっとしていろ」
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「おとつゝあ、あつちへ行つちやつた、姉も行かなくつちやなんねえ、おとつゝあに怒られつかんな、又えんとして居ろ」
おつぎはそっと与吉をむしろへ下ろした。
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おつぎはそつと與吉を筵へ卸した。
「早くやれ、何してるんだ。いいかげんにしろ」
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「かせえてやれ、何してんだ、えゝ加減にしろ」
勘次は後ろを向いて怒鳴った。
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勘次は後を向いて呶鳴つた。
「それ見ろな、怒られるから。そら、ここにいいものがあった」
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「それ見ろな怒られつから、そら此處にえゝものが有つた」
おつぎは田んぼにあるははこぐさの花をむしって、むしろへ載せてやった。
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おつぎは田圃にある鼠麹草の花を挘つて筵へ載て遣つた。
そうしてまた、危ないようにそうっと田へ下りた。
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さうして又危いやうにそうつと田へおりた。
与吉はただ、ははこぐさの花をいじっていた。
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與吉は只鼠麹草の花を弄つて居た。
堀は雨の後の水を集めて、さらさらと岸を浸して行く。
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堀は雨の後の水を聚めてさら/\と岸を浸して行く。
青く茂って傾いている川柳の枝が一つ水につき、流れ去る力に軽く動かされている。
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青く茂つて傾いて居る川楊の枝が一つ水について、流れ去る力に輕く動かされて居る。
水はわずかに触れているその枝のために、下流へ放射線状を描いている。
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水は僅に觸れて居る其枝の爲に下流へ放射線状を描いて居る。
蘆のようで、しかも極めて細いかわいらしいとだしばが、びりびりと震わされながら岸の水に立っている。
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蘆のやうで然も極めて細い可憐なとだしばがびり/\と撼がされながら岸の水に立つて居る。
おたまじゃくしが水の勢いにこらえられないようにしては、にわかに水に浸されて銀のように光っている岸の草の中に隠れようとする。
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お玉杓子が水の勢ひに怺へられぬやうにしては、俄に水に浸されて銀のやうに光つて居る岸の草の中に隱れやうとする。
そうしてはまた、すべての幼いものに特有で、じっとしていられなくて、かわいらしい尾をひらひらと動かしながら、力に余る水の勢いにぐっと持ち去られながら泳いでいる。
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さうしては又凡ての幼いものゝ特有で凝然として居られなくて可憐な尾をひら/\と動かしながら、力に餘る水の勢にぐつと持ち去られつゝ泳いで居る。
与吉はははこぐさの花を水へ投げた。
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與吉は鼠麹草の花を水へ投げた。
花が上流に向いて落ちると、ぐるりと下流へ押し向けられて、ずんずんと運ばれて行く。
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花が上流に向いて落ちると、ぐるりと下流へ押し向けられてずんずんと運ばれて行く。
岸の草の中にいた蛙は、ひょうきんにその花へ飛びついて、それからぐっと後ろの足で水をかいて向こうの岸へ着いて、ふわりと浮いたまま大きな目を見開いてこちらを見る。
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岸の草の中に居た蛙は剽輕に其花へ飛び付いて、それからぐつと後の足で水を掻いて向の岸へ着いてふわりと浮いた儘大きな目を睜つてこちらを見る。
ははこぐさの花がみな投げ尽くされて、与吉はまたおつぎを呼んだ。
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鼠麹草の花が皆投げ竭されて與吉は又おつぎを喚んだ。
「おうい」
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「おうい」
と、おつぎの情のこもった声が遠くから言った。
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とおつぎの情を含んだ聲が遠くからいつた。
おつぎの返事を聞いては、与吉は口癖のように姉よと呼ぶ。
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おつぎの返辭を聞いては與吉は口癖のやうに姉よと喚ぶ。
そのたびごとに、おつぎは忙しい手を動かしながら、それに応じるのである。
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其度毎におつぎは忙しい手を動かしながらそれに應ずるのである。
正午にはまだ間があるうちに、昼飯の支度を急いで、おつぎは田んぼから茶を沸かしに上がる。
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正午にはまだ間があるうちに午餐の支度を急いでおつぎは田圃から茶を沸しにのぼる。
与吉は喜んで、おつぎの背にかじりついた。
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與吉は悦んでおつぎの背に噛りついた。
勘次は後で独り耕した。
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勘次は後で獨り耕した。
青い煙が楢の木から立って、やがて
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青い煙が楢の木から立つて軈て
「沸いたぞう」
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「沸いたぞう」
と、おつぎの声で呼ばれるまでは、勘次は忙しいその手を止めなかった。
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とおつぎの聲で喚ばれるまでは勘次は忙しい其の手を止めなかつた。
昼飯過ぎから、おつぎは縫い針へ糸を通して竿へつけて、与吉に持たせた。
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午餐過からおつぎは縫針へ絲を透して竿へ附けて與吉に持たせた。
与吉はほかの子供のするように、その針を上げてみてはまた水へ投げて、おとなしくしている。
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與吉は外の子供のするやうに其の針を擧げて見ては又水へ投げて大人しくして居る。
しばらく時間がたつと、また姉ようと呼ぶ。
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暫く時間が經つと又姉ようと喚ぶ。
おつぎが堀の近くへ耕して来た時に見ると、与吉の竿は糸が取れていた。
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おつぎは堀の近くへ耕して來た時に見ると與吉の竿は絲がとれて居た。
おつぎは岸へ上がった。
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おつぎは岸へ上つた。
「どうしたんだい、よきは」
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「どうしたんでえ、よきは」
おつぎが見ると、針が向こうの岸から出た低い川柳の枝にまつわって、糸の端が水について下流へ向いている。
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おつぎは見ると針が向の岸から出た低い川楊の枝に纏つて絲の端が水について下流へ向いて居る。
おつぎは二百メートルばかり上流の板橋を渡って行って、ようやくのことで枝を曲げてその針を取った。
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おつぎは二町ばかり上流の板橋を渡つて行つて、漸くのことで枝を曲げて其針をとつた。
そうしてまた、与吉の棒へつけてやった。
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さうして又與吉の棒へ附けてやつた。
「もう引っ掛けるんじゃないぞ、大変だからな」
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「はあ引つ懸けんぢやねえぞ大變だかんな」
おつぎはきわめて軽く叱って、また田へ下りた。
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おつぎは極めて輕く叱つて又田へおりた。
勘次はまた怒鳴った。
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勘次は又呶鳴つた。
「そんでも、よきは糸を切っちまったんだもの」
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「そんでもよきは絲切つちまつたんだもの」
おつぎは危ぶむようにして、控えめに声を立てて言った。
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おつぎは危ぶむやうにして控へ目に聲を立てゝいつた。
おつぎは黙って、その手を動かしている。
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おつぎは默つて其の手を動かして居る。
与吉は返事がなくても、懐かしそうに姉ようと幾度も呼びかけた。
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與吉は返辭がなくても懷かし相に姉ようと數次喚び掛けた。
おつぎの姿が遠くなれば、むしろへ口のつくほどかがんで、声のかぎり呼んだ。
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おつぎの姿が遠くなれば筵へ口のつく程屈んで聲を限りに喚んだ。
その晩、勘次は二人を連れて近所へ風呂をもらいに行った。
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其の晩勘次は二人を連れて近所へ風呂を貰ひに行つた。
おつぎはそこへ集まった近所の女房に自分の手を見せて
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おつぎは其處へ聚つた近所の女房に自分の手を見せて
「おれ、こんなに豆ができちまったんだよ」
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「俺らこんなに肉刺出つちやつたんだよ」
と呟いた。
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と呟いた。
「ほんによな、痛いだろうな、そりゃ。そんでも、おっかあがいないから働かなくちゃならないな」
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「ほんによな、痛かつぺえなそりや、そんでもおつかあが居ねえから働かなくつちやなんねえな」
女房は慰めるように言った。
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女房は慰めるやうにいつた。
「おっかあのないものはいやだな」
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「おつかあのねえものは厭だな」
おつぎは言って、勘次を見るとすぐに首をうつむけた。
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おつぎはいつて勘次を見ると直に首を俛た。
勘次はそばで、じっとそれを聞いていた。
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勘次は側で凝然とそれを聞いて居た。
「おつうらだって今にいいこともあるだろうな。そんだが、おっかあがなくっちゃ、着物がほしくてもこればかりは仕方がないのよな」
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「おつう等だつて今に善えこともあらな、そんだがおつかゞ無くつちや衣物欲しくつても此ばかりは仕やうがねえのよな」
女房は言った。
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女房はいつた。
勘次は、そんなことは言わずにいてくれればいいのにと思いながら、むずかしい顔をして黙っていた。
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勘次は其麽ことは云はずに居て呉れゝばいゝのにと思ひながら六か敷い顏をして默つて居た。
「この豆はとがめないだろうか」
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「此の肉刺はとがめめえか」
おつぎは手のひらのところどころにできた豆を見て、心配そうに言った。
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おつぎは手の平の處々に出た肉刺を見て心配相にいつた。
「何でとがめるもんか」
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「何でとがめるもんか」
勘次は、抑えていた何かが激発したように、すぐに打ち消した。
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勘次は抑制した或物が激發したやうに直に打消した。
勘次は家に戻ると、飯台の底にくっついている飯の中から米粒ばかり拾い出して、それを煙草の吸い殻と練り合わせた。
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勘次は家に戻ると飯臺の底にくつゝいて居る飯の中から米粒ばかり拾ひ出してそれを煙草の吸殼と煉合せた。
そうして、針の先でおつぎの、湯から出たばかりで柔らかくなった手の豆をついて汁を出して、そこへそれを貼ってやった。
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さうして針の先でおつぎの湯から出たばかりで軟かく成つた手の肉刺をついて汁液を出して其處へそれを貼つて遣つた。
「しくしくするな」
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「しく/\すんな」
おつぎは貼った所を見て言った。
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おつぎは貼つた箇所を見ていつた。
「汁を出したばかりにはちっと痛いとも。その代わりすぐ治るから」
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「液汁出したばかりにやちつた痛えとも、その代すぐ癒つから」
勘次はおつぎをじっと見て、それからもう鼾をかいている与吉を見た。
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勘次はおつぎを凝然と見てそれからもう鼾をかいて居る與吉を見た。
「豆なんぞできたらできたって、おとっつあんに言うもんだ。他人になんぞ見せたり何かするもんじゃない。お前らは何にも知らないから仕方がない。田を耕す始まりには、おとっつあんらみたいな手だってこういうふうに出るんだか見ろ。それ、痛いのを我慢し我慢しやりさえすりゃ固まっちまうんだ」
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「肉刺なんぞ出たらば出たつておとつゝあげいふもんだ、他人のげなんぞ見せたりなにつかするもんぢやねえ、汝等なんにも知らねえから仕やうねえ、田耕え始まりにやおとつゝあ等見てえな手だつてかうえに出んだか見ろ。それ痛えの我慢しい/\行りせえすりや固まつちあんだ」
勘次は自分の手をおつぎへ示した。
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勘次は自分の手をおつぎへ示した。
「おっかあがなくなって困るな。お前ばかりじゃないんだから」
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「おつかゞ無くなつて困んな汝ばかしぢやねえんだから」
勘次はしばらく間を置いて、ぽつんと言った。
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勘次は暫く間を置てぽつさりとしていつた。
「身上のためだから、お前も我慢するもんだ。見ろ、お前らどころじゃない。武州のほうへなんぞやられて、泣き抜いてる者さえあらあ」
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「身上の爲だから汝も我慢するもんだ、見ろ汝等處ぢやねえ、武州の方へなんぞ遣られて泣き拔いてるものせえあら」
と、彼はまたやっとのことで言った。
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と彼は又辛うじていつた。
おとなしく黙っていたおつぎは
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大人しく默つて居たおつぎは
「武州っていうのはどっちのほうだろう」
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「武州ツちやどつちの方だんべ」
と、むしろあどけなく聞いた。
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寧ろあどけなく聞いた。
「あっちのほうよ。お前の足じゃ一日には歩けない所だ」
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「あつちの方よ、汝が足ぢや一日にや歩けねえ處だ」
勘次は雨戸のほうを向いて西南を示した。
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勘次は雨戸の方を向いて西南を示した。
「遠いんだな。そこへ行ったらどうするんだろう」
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「遠いんだな、其處へ行つたらどうすんだんべ」
「機織りする者もあれば、百姓する者もあるのよ」
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「機織するものもあれば百姓するものもあんのよ」
「機を教われるならよかろうな」
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「機教れぢやよかんべな」
「何でいいことがあるもんか。家へなんざあめったに来られやしないんだぞ。そんで朝から晩までみっしり使われて、それどころじゃない、病気になったってよっぽどでなくちゃ葉書もよこさせやしない」
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「何でえゝことあるもんか、家へなんざあ滅多に來られやしねえんだぞ、そんで朝から晩迄みつしら使あれて、それ處ぢやねえ病氣に成つたつて餘程でなくつちや葉書もよこさせやしねえ」
「そんじゃ、そういう所へ行っちゃひどいな。逃げて来ることもできないんだろうか」
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「そんぢや、さうえ處へ行つちやひでえな、逃げて來ることも出來ねえんだんべか」
「すぐ捕まえられちまうから、そんなに逃げられるかい」
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「直ぐ捉めえられつちあからそんなに遁げられつかえ」
「巡査に捕まるんだろうか」
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「巡査に捉まんだんべか」
「そんなもんか。巡査でなくたって、逃げ出せばすぐ捕まえるように人が番してるのよ。なあ、そんでもなくっちゃ、遠くの者ばかり頼んでおくんだもの、仕方があるもんか」
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「さうなもんか、巡査でなくつたつて遁げ出せば直ぐ捉めえるやうに人が番してんのよ、なあ、そんでもなくつちや遠くの者ばかり頼んで置くんだもの仕やうあるもんか」
「そんでも、いやだって言ったらどうするんだろう」
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「そんでも厭だつちつたらどうすんだんべ」
「いやだなんて言ったくらい、ひどいとも。立て替え金をしなくちゃならないから」
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「厭だなんていつた位ひでえとも立金しなくつちやなんねえから」
「どういうふうにするんだろう、それは」
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「どういにすんだんべそら」
「それはなあ、いくら勤めたって途中でいやだからなんて出ちまえば、借りただけの給金はみんな取り返されるのよ。なあ、それから泣く泣くもいなくちゃならないのよ」
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「そらなあ、幾ら勤めたつて途中で厭だからなんて出つちめえば、借りた丈の給金はみんな取つくる返えされんのよ、なあ、それから泣き/\も居なくつちやなんねえのよ」
「そんじゃ、おれはそういう所へ行かなくてよかったっけな」
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「そんぢや俺らさうえ處へ行かねえでよかつたつけな」
おつぎは熱心に言った。
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おつぎは熱心にいつた。
「そんだから、お前らのことはやりゃしない。お前のことを奉公にやれば、その銭でおれの借金もなくなるし、よきのことだって軽業師の所へでも出しちまえば、それこそ楽になっちまうんだが、おっかあがなくっちゃつらいって後で泣かれるのがいやだから、おれは土をかじってもそんな料簡は出さないんだ」
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「そんだから汝等こた遣りやしねえ。汝こと奉公にやれば其の錢で俺ら借金も無くなるし、よきことだつて輕業師げでも出しつちめえばそれこそ樂になつちあんだが、おつかゞ無くつちや辛えつて後で泣かれんの厭だから俺ら土噛つてもそんな料簡は出さねんだ」
「おとっつあん、奉公すれば借金がなくなるんだろうか」
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「おとつゝあ、奉公すれば借金なくなんだんべか」
「おっかあさえいれば、お前のことも奉公に出して、おとっつあんらもいい銭をつかまえるんだが、おっかあがなくなって、おとっつあんだって困ってるんだ。それからお前だって、奉公に行ったつもりで辛抱するもんだ。なあ、おれはお前らにみじめを見せたいことはありゃしないんだから」
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「おつかせえ居れば汝ことも奉公に出して、おとつゝあ等もえゝ錢捉めえんだが、おつかゞ無くなつておとつゝあだつて困つてんだ、それから汝だつて奉公に行つた積で辛抱するもんだ、なあ、俺ら汝等げみじめ見せてえこたあ有りやしねんだから」
勘次はしみじみと繰り返した。
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勘次はしみ/″\と反覆した。
勘次は、おつぎに体に不相応な仕事をさせていることを知っている。
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勘次はおつぎに身體不相應な仕事をさせて居ることを知つて居る。
それで自分が朝は必ず先に起きて、かまどの下へ火をつける。
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それで自分が朝は屹度先へ起きて竈の下へ火を點ける。
その時、疲れた少女はまだぐったりと正体もなく枕から転げている。
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其の時疲れた少女はまだぐつたりと正體もなく枕からこけて居る。
白い湯気が釜のふたから勢いよく漏れて、やがて火が引かれてから、おつぎは起こされる。
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白い蒸氣が釜の蓋から勢ひよく洩れてやがて火が引かれてからおつぎは起される。
帯を締めたまま横になったおつぎは、容易に開かない目をこすって井戸端へ行く。
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帯を締た儘横になつたおつぎは容易に開かない目をこすつて井戸端へ行く。
ぼうぼうとほどけた髪へ櫛を入れて、冷たい水へ手を入れた時、おつぎはようやく生き返ったようになる。
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蓬々と解けた髮へ櫛を入れて冷たい水へ手を入れた時おつぎは漸く蘇生つたやうになる。
それでも目はまだ赤くて、動きがふらふらとけだるそうである。
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それでも目はまだ赤くて態度がふら/\と懶相である。
「さあ、飯ができたぞ」
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「さあ、飯出來たぞ」
勘次は釜から茶碗へ飯を移す。
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勘次は釜から茶碗へ飯を移す。
そうして自分で農具を取っておつぎへ持たせて、それからさっさと連れ出すのである。
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さうして自分で農具を執つておつぎへ持たせてそれからさつさと連れ出すのである。
もみ種がぽっちりと水を突き上げて芽を出すと、ようやく強くなった日光に、緑深くなった若葉がぐったりとする。
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籾種がぽつちりと水を突き上げて萌え出すと漸く強くなつた日光に緑深くなつた嫩葉がぐつたりとする。
柔らかな風が涼しく吹いて、松の花粉が埃のように湿った土を覆って、小麦の穂にもびっしりとかびのような花がついた。
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軟かな風が凉しく吹いて松の花粉が埃のやうに濕つた土を掩うて、小麥の穗にもびつしりと黴のやうな花が附いた。
百姓はみな、自分の手足に不足を感じるほど忙しくなる。
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百姓は皆自分の手足に不足を感ずる程忙しくなる。
勘次はひたすら、ただ仕事の手遅れになるのを恐れた。
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勘次は一意只仕事の手後れになるのを怖れた。
草臥れても疲れても、彼は毎日未明に起きて、夜までその手足を動かして止まない。
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草臥れても疲れても彼は毎日未明に起きて夜まで其の手足を動かして止まぬ。
おつぎもその後についてゆき、草臥れた体を引きずられた。
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おつぎも其の後に跟いて草臥れた身體を引きずられた。
晩飯の支度に与吉を背負って先に帰るのが、おつぎにはせめてもの骨休めであった。
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晩餐の支度に與吉を負うて先へ歸るのがおつぎにはせめてもの骨休めであつた。
勘次は麦の間へ大豆をまいた。
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勘次は麥の間へ大豆を蒔いた。
うね間へ浅く堀のようなくぼみをこしらえて、そこへぽろぽろと種を落として行く。
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畦間へ淺く堀のやうな凹みを拵へてそこへぽろ/\と種を落して行く。
勘次はぐいぐいとうね間を掘って行く。
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勘次はぐい/\と畦間を掘つて行く。
後からおつぎが種を落とした。
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後からおつぎが種を落した。
おつぎのまだ小さな体は、麦の出そろった白い穂から、わずかにそのかぶった手拭いと肩とが現れている。
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おつぎのまだ短い身體は麥の出揃つた白い穗から僅に其の被つた手拭と肩とが表はれて居る。
与吉は道のそばのこもの上に、おとなしくしている。
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與吉は道の側の薦の上に大人しくして居る。
おつぎの白い手拭いがだんだん麦の穂に隠れると、与吉は姉ようと呼ぶ。
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おつぎの白い手拭が段々麥の穗に隱れると與吉は姉ようと喚ぶ。
おつぎはおういと返事をする。
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おつぎはおういと返辭をする。
おつぎの声が聞こえると、与吉はじっとしている。
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おつぎの聲が聞えると與吉は凝然として居る。
勘次はうね間を作り上げて、それから自分も忙しく大豆を落としはじめた。
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勘次は畦間を作りあげてそれから自分も忙しく大豆を落し初めた。
勘次は、まだるっこいおつぎの手元を見て、そのうねをひょいとのぞいた。
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勘次は間懶つこいおつぎの手もとを見て其の畝をひよつと覗いた。
種と種との間隔が不ぞろいで、四粒も五粒も一つに落ちている所があった。
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種と種との間隔が不平均で四粒も五粒も一つに落ちてる處があつた。
「このざまはどうしたんだ。こんなことで暮らしができるか」
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「此のざまはどうしたんだ、こんなこつて生計が出來つか」
と怒鳴りながら、彼は突然おつぎを殴った。
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と呶鳴りながら彼は突然おつぎを擲つた。
おつぎは麦の茎とともに倒れた。
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おつぎは麥の幹と共に倒れた。
おつぎは倒れたまま、しくしくと泣いた。
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おつぎは倒れた儘しく/\と泣いた。
「たいがい分かりそうなもんじゃないか。こんなざまじゃ種ばかり要って仕方がありゃしない」
原文を見る
「大概解り相なもんぢやねえか、こんなざまぢや種ばかし要つて仕やうありやしねえ」
勘次は後を呟いた。
原文を見る
勘次は後を呟いた。
隣の畑に、これも大豆をまいていた百姓は駆けて来た。
原文を見る
隣の畑に此も大豆を蒔いて居た百姓は駈けて來た。
「勘次さん、どうしたもんだいまあ、そんな荒っぽいことして」
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「勘次さんどうしたもんだいまあ、其麽荒つぺえことして」
と勘次を押さえた。
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と勘次を抑へた。
「おつぎ、泣かないでさあ起きて仕事しろ。おとっつあんにはおれが謝ってやるからなあ。与吉が泣いてら。さあ行って見なさい」
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「おつぎ泣かねえでさあ起きて仕事しろ、おとつゝあげは俺謝罪つてやつかんなあ、與吉が泣てら、さあ行つて見さつせ」
百姓はさらにおつぎをなだめた。
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百姓は更におつぎを賺した。
与吉はおつぎの姿が見えないので、しきりに呼んだ。
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與吉はおつぎの姿が見えないので頻りに喚んだ。
それでもおつぎの声は聞こえないので、火のついたように泣き出したのである。
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それでもおつぎの聲は聞えないので火の點いたやうに泣き出したのである。
おつぎはすすり泣きしながら、与吉を抱いた。
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おつぎは啜り泣きしながら與吉を抱いた。
「おふくろもないのに、お前いいかげんにしろよ。かわいそうじゃないか。そんなことして、お前いくつだと思うんだ。そう自分の気のように出来るもんじゃない。仏の障りにもなるだろうじゃないか」
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「お袋もねえのにおめえいゝ加減にしろよ、可哀想ぢやねえか、そんなことしておめえ幾つだと思ふんだ、さう自分の氣のやうに出來るもんぢやねえ、佛の障にも成んべぢやねえか」
隣の畑の百姓は言った。
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隣畑の百姓はいつた。
勘次は黙ってしまって、何とも言わなかった。
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勘次は默つて畢つて何ともいはなかつた。
与吉はおつぎに抱かれたので、おつぎの目がまだ濡れているうちに泣き止んだ。
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與吉はおつぎに抱かれたので、おつぎの目がまだ濕うて居るうちに泣き止だ。
勘次はその日の夕方、おつぎが晩飯の支度に立った時、自分もいっしょに家へ戻った。
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勘次は其の日の夕方おつぎが晩餐の支度に立つた時自分も一つに家へ戻つた。
彼は膝がしらで四つんばいに歩きながら座敷へ上がって、財布を懐へねじ込んでふいと出た。
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彼は膝がしらで四つ偃に歩きながら座敷へあがつて財布を懷へ捩ぢ込んでふいと出た。
彼は風呂敷包みを持って帰った。
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彼は風呂敷包を持つて歸つた。
彼が戸口に立った時は、家の中は真っ暗で、ちょっとは物の見分けもつかなかった。
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彼が戸口に立つた時は家の内は眞闇で一寸は物の見分もつかなかつた。
草臥れきった体で、彼はその夜も二人を連れて、自分のものではないその茂った小さな桑畑を越えて、南の風呂へ行った。
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草臥れ切つた身體で彼は其夜も二人を連れて、自分の所有ではない其茂つた小さな桑畑を越えて南の風呂へ行つた。
そこにはいつものように、風呂をもらいに女房らが集まっていた。
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其處にはいつものやうに風呂を貰ひに女房等が聚つて居た。
「よくなあ、おつうはよきの面倒を見るな。女の子はこうだからいいのさな、すぐ役に立つからな」
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「能くなあ、おつうはよきこと面倒見んな、女の子は斯うだからいゝのさな、直ぐ役に立つかんな」
女房の一人が言った。
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女房の一人がいつた。
「おつぎはどうしたんだい、今夜ひどく威勢が悪いな」
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「おつぎはどうしたんでえ、今夜ひどく威勢惡いな」
ほかの女房が言った。
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他の女房がいつた。
「さっき、おれにぶん殴られたからでもあるだろう」
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「先刻俺に打つとばされたかんでもあんべえ」
勘次は苦笑しながら言った。
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勘次は苦笑しながらいつた。
「何でだろうな、まあ。お前、そんなにしないで面倒を見てやりなさいよ。これがお前、女の子でもなくて見なさい、こんな小さいのを抱えて仕方があるもんじゃないな」
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「何でだつぺなまあ、おめえそんなに仕ねえで面倒見てやらつせえよ、此れがおめえ女つ子でもなくつて見さつせえ、こんな小えの抱えて仕やうあるもんぢやねえな」
「そうだともよ。これはおつうでもなくっちゃ育たなかったかも知れないぞ。それこそ因果を見なくちゃならないや。なあ、おつう」
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「さうだともよ、こらおつうでも無くつちや育たなかつたかも知んねえぞ、それこそ因果見なくつちやなんねえや、なあおつう」
女房らは言った。
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女房等はいつた。
「おれのところ、ちっともこれは離れないんだよ。仕方がないようだよ、本当に」
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「俺がとこちつともこら離んねえんだよ仕やうねえやうだよ本當に」
おつぎは、もうだんだん手に余ってきた与吉を膝にして言った。
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おつぎはもう段々手に餘つて來た與吉を膝にしていつた。
「今じゃ、まるっきりおっかあのような気がしてるんだな、きっと」
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「今ぢや、まるつきしおつかのやうな氣がしてんだな、屹度」
女房らはまた与吉を見て言った。
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女房らはまた與吉を見ていつた。
勘次はそばで、ただ目をしばたたいた。
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勘次は側で只目を屡叩いた。
家へ戻ってから、勘次は
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家へ戻つてから勘次は
「おつう、手ランプを持って来てみな。お前に見せるものがあるんだから」
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「おつう、手ランプ持つて來て見せえ、汝げ見せるものあんだから」
おつぎは出る時に吹き消したブリキの手ランプをつけて、まだ様子がてきぱきとしなかった。
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おつぎは出る時に吹消たブリキの手ランプを點けて、まだ容子がはき/\としなかつた。
勘次はさっきの風呂敷包みを解いた。
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勘次は先刻の風呂敷包を解いた。
小さく畳んだ弁慶縞のひとえが出た。
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小さく疊んだ辨慶縞の單衣が出た。
「お前にこれをやろうと思って持って来たんだ。これでもなよ、おっかあが地糸で織ったんだぞ。今じゃ糸なんぞ引く者はいないが、おっかあらは毎晩のように引いたもんだ。紺もなあ、ようく染まってるから丈夫だぞ。おっかあはいくらも引っ掛けないでしまったから、まだまるっきり新しいようだ、見ろ。どうした、手ランプをもっとこっちへ出してみなまあ」
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「汝げ此遣んべと思つて持つて來たんだ。此んでもなよ、おつかゞ地絲で織つたんだぞ、今ぢや絲なんぞ引くものなあねえが、おつか等毎晩のやうに引いたもんだ、紺もなあ能うく染まつてつから丈夫だぞ、おつかは幾らも引つ掛ねえつちやつたから、まあだまるつきり新しいやうだ見ろ、どうした手ランプまつとこつちへ出して見せえまあ」
勘次はひとえを少し開いて、鼻へ当てて匂いをかいでみた。
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勘次は單衣を少し開いて鼻へ當て臭を嗅いで見た。
「ちっとはかび臭くなったようだが、そんでもこれくらいじゃ一日干せば匂いは直るから」
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「ちつたあ黴臭くなつたやうだが、そんでも此位ぢや一日干せば臭えな直つから」
勘次は言い訳でもするように言った。
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勘次は分疏でもするやうにいつた。
おつぎは左手に持ち換えた手ランプをかざして、ひとえをいじっては、風呂上がりのつやつやした顔に微笑を含んだ。
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おつぎは左手に持ち換た手ランプを翳して單衣を弄つては浴後のつやゝかな顏に微笑を含んだ。
勘次はおつぎの顔ばかり見ていた。
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勘次はおつぎの顏ばかり見て居た。
そうして、その機嫌が回復しかけたのを見て
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さうして其の機嫌が恢復しかけたのを見て
「どうした、それでもお前は気に入ったか。おっかあの物はみんなお前のもんだからな。おれは、お前らのだとなりゃいくら困ったって、もうけっして質になんざ置かないから、大事にしてお前がようくしまっておけ」
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「どうした、それでも汝りや氣につたか、おつかゞ物はみんな汝がもんだかんな、俺ら汝ツ等がだとなりや幾ら困つたつて、はあ決して質になんざ置かねえから、大事にして汝能うく藏つて置いたえ」
と、彼は満足らしく見えた。
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と彼は滿足らしく見えた。
おつぎは手ランプを置いて、勘次がしたように鼻へ当てて匂いをかいでみたり、左の手だけを袖へ通してみたりした。
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おつぎは手ランプを置いて勘次がしたやうに鼻へ當てゝ臭を嗅いで見たり、左の手だけを袖へ透して見たりした。
「おれのには、これじゃ引きずるようじゃあるまいか」
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「俺がにや此んぢや引きじるやうぢやあんめえか」
おつぎはそれから、手で吊るしてみたりした。
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おつぎはそれから手で釣るして見たりした。
「しまっておいて、おれはもっと大きくなってから着ようかな」
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「藏つて置いて、俺らいまつと大く成つてから着べかな」
「どうでもお前のもんだから、お前の好きにしろな」
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「どうでも汝がもんだから汝が好きにしろな」
勘次は、おつぎの手が動くにつれて目を移した。
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勘次はおつぎの手が動くに從つて目を移した。
手ランプのぼうっと立つ油煙が、ほぐれた髪へなびきかかるのも知らずに、おつぎはあっちこっちへひとえをいじっていた。
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手ランプのぼうと立つ油煙がほぐれた髮へ靡き掛るのも知らずにおつぎはそつちこつちへ單衣を弄つて居た。
「お前、うっかりして、そうれ燃えっちまうぞ」
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「汝うつかりして、そうれ燃えつちまあぞ」
勘次は油煙がまた傾いた時、慌てておつぎの髪へ手を当てて言った。
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勘次は油煙が復た傾いた時慌てゝおつぎの髮へ手を當てゝいつた。
七
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七
勘次の田畑は、晩秋の取り入れがみじめなものであった。
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勘次の田畑は晩秋の收穫がみじめなものであつた。
それは気候が悪いのでもなく、また土地が悪いのでもない。
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それは氣候が惡いのでもなく、又土地が惡いのでもない。
耕す時期を逃していることと、肥料の乏しさとで、いくら焦っても、とうてい満足な結果が得られないのである。
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耕耘の時期を逸して居るのと、肥料の缺乏とで幾ら焦慮つても到底滿足な結果が得られないのである。
貧乏な百姓はいつでも土にくっついて食料を得ることにばかり腐心しているにもかかわらず、その作物が俵になれば、すでに大部分は彼らのものではない。
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貧乏な百姓はいつでも土にくつゝいて食料を獲ることにばかり腐心して居るにも拘はらず、其の作物が俵になれば既に大部分は彼等の所有ではない。
そのものであり得るのは、作物が根をもって田や畑の土に立っている間のみである。
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其の所有であり得るのは作物が根を以て田や畑の土に立つて居る間のみである。
小作料を払ってしまえば、すでに手をつけられた短い冬を凌ぐだけのことが、ともすればようやくのことである。
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小作料を拂つて畢へば既に手をつけられた短い冬季を凌ぐ丈けのことがともすれば漸くのことである。
彼らは自分の田畑が忙しい時にも、その日に追われる食料を求めるために、比較的収入のいい日雇いに行く。
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彼等は自分で田畑が忙しい時にも其の日に追れる食料を求る爲に比較的收入のいゝ日傭に行く。
百姓といえば、どんなに愚かでも、すべての作物を耕作する季節を知らないことはない。
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百姓といへば什麽に愚昧でも凡ての作物を耕作する季節を知らないことはない。
村の端から端までみな同じ仕事にかかりきっているのだから、その季節をたとえ自分が忘れたとしても、まったく忘れ去ることのできるものではない。
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村落の端から端まで皆同一の仕事に屈託して居るのだから其の季節を假令自分が忘れたとしても全く忘れ去ることの出來るものではない。
しかし、もう季節だと知ってみても、その日その日の食料を求めるために労力を割くのと、肥料の工夫がつかなかったりするのとで、作物の生育から言えば三日を争うような時でも、思いながら手が出ないのである。
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然しもう季節だと知つて見ても其の日/\の食料を求める爲めに勞力を割くのと、肥料の工夫がつかなかつたりするのとで作物の生育からいへば三日を爭ふやうな時でも思ひながら手が出ないのである。
以前のように、自然の肥料を得ることが今ではできなくなってしまった。
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以前のやうに天然の肥料を獲ることが今では出來なくなつて畢つた。
どこの林でも、落ち葉をかくことや青草を刈ることが、みな銭に余裕のある者の手に帰してしまった。
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何處の林でも落葉を掻くことや青草を刈ることが皆錢に餘裕のあるものゝ手に歸して畢つた。
それとともに、林は封鎖されたような姿になっている。
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それと共に林は封鎖されたやうな姿に成つて居る。
冬ごとに熊手の爪の及ぶかぎりかいて行くので、草もしたがって短くなって、腰を没するような所はめったにない。
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冬毎に熊手の爪の及ぶ限り掻いて行くので、草も隨つて短くなつて腰を沒するやうな處は滅多にない。
その草もさらに土から刈って行くので、次第に土がやせて行く。
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其の草も更に土から刈つて行くので次第に土が痩せて行く。
だから空手では、どこへ行っても盗まないかぎりは、存分に柔らかな草を刈ることはできない。
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だから空手では何處へ行つても竊取せざる限は存分に軟かな草を刈ることは出來ない。
貧乏な百姓は、落ち葉でも青草でも、他人の熊手や鎌を入れ去った後に求める。
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貧乏な百姓は落葉でも青草でも、他人の熊手や鎌を入れ去つた後に求める。
そうして、やせて行く土をさらに骨までかじるようなことをしているのである。
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さうして瘠せて行く土を更に骨まで噛むやうなことをして居るのである。
一般には、落ち葉や青草の不足を感じるとともに、便利な各種の人造肥料が供給される。
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一般には落葉や青草の缺乏を感ずると共に便利な各種の人造肥料が供給される。
しかしそれも、依然として金銭にいくらでも余裕のある人にのみ便利なのであって、貧乏な百姓には、牛や馬が馬止めの棒で遮られたような形でなければならない。
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然しそれも依然として金錢に幾らでも餘裕のある人にのみ便利なのであつて、貧乏な百姓には牛や馬が馬塞棒で遮られたやうな形でなければならぬ。
そうかといって、それらの肥料なしには、とうてい一般に定められている小作料を支払うだけの収穫は得られないので、惨憺たる工夫が彼らの心を行き来する。
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さうかといつて其れ等の肥料なしには到底一般に定められてある小作料を支拂ふ丈の收穫は得られないので慘憺たる工夫が彼等の心を往來する。
そうしてまた、食料を求めるために労力をほかに割くことによって、作物のうね間を耕すことも雑草を除くことも、一切が手遅れになる。
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さうして又食料を求める爲に勞力を他に割くことによつて、作物の畦間を耕すことも雜草を除くことも一切が手後れに成る。
季節が暑くなれば、雨があって三日も見ないうちには、雑草は驚くべき速さで伸びる。
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季節が暑くなれば雨があつて三日も見ないうちには雜草は驚くべき迅速な發育を遂げる。
それが著しく作物の勢いを妨げる。
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それが著しく作物の勢力を阻害する。
それだけ収穫の減少をきたさねばならないはずである。
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それだけ收穫の減少を來さねばならぬ筈である。
要するに、勤勉な彼らは、実る以前においてすでに、青々とした作物の活力をそいで食っているのである。
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要するに勤勉な彼等は成熟の以前に於て既に青々たる作物の活力を殺いで食つて居るのである。
取り入れの季節がまったく終わりを告げると、彼らは草木の枯れ落ちるとともに、しおれてしまわねばならない。
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收穫の季節が全く終りを告げると彼等は草木の凋落と共に萎靡して畢はねばならぬ。
草木が眠りに落ち去る少なくとも五、六十日の間は、彼らはまれに冬起こしといって、麦のうね間を耕すことや、林の間に落ち葉や薪を求めることがあるに過ぎない。
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草木の眠りに落ち去る少くとも五六十日の間は、彼等は稀に冬懇というて麥の畦間を耕すことや林の間に落葉や薪を求めることがあるに過ぎぬ。
自分の食料に換わるだけの銭を得ることが、その期間の仕事においては見いだされないのである。
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自分の食料に換る丈の錢を獲ることが其の期間の仕事に於ては見出されないのである。
蛇や蛙やその他の虫類が仮死の状態にある間に、彼らは目前に迫っている未来の苦しみを招くために、過去の苦しかった記念であるその乏しい米や麦を、日ごとに消耗して行くのである。
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蛇や蛙や其の他の蟲類が假死の状態に在る間に彼等は目前に逼つて居る未來の苦しみを招く爲に、過去の苦しかつた記念である其の缺乏した米や麥を日毎に消耗して行くのである。
彼らは手に内職を持っていない。
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彼等は手に内職を持つて居らぬ。
自分の使うためにのみは、むしろも草履ももっこもわらじもその他のものも藁で作ることを知っているけれども、たいていは刈り遅れになった藁では立派な製作は得られないのである。
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自分の使用すべき爲にのみは筵も草履も畚も草鞋も其の他のものも藁で作ることを知つて居れども、大抵は刈り後れになつた藁では立派な製作は得られないのである。
それであるのに、彼らは肥料の不足を訴えながら、その藁屑や粟殻やその他のものが庭に散らばっていても、容易にそれを始末しようとしない。
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それであるのに彼等は肥料の缺乏を訴へつゝ其の藁屑や粟幹や其の他のものが庭に散らばつて居ても容易にそれを始末しようとしない。
他人の注意を受けても、それでも改めることをしない。
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他人の注意を受けてもそれでも改めることをしない。
彼らは苦しい時に苦しむこと以外に、何も知ることがないのである。
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彼等は苦しい時に苦しむことより外に何にも知ることがないのである。
勘次も彼らの仲間である。
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勘次も彼等の仲間である。
しかしながら、彼は境遇の異常な刺激から、少しの間もその身を安んじさせる余裕を持たなかった。
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然しながら彼は境遇の異常な刺戟から寸時も其の身を安住せしむる餘裕を有たなかつた。
彼もほかの貧乏な百姓のするように、冬の季節になれば薪を採って壁に積んでおくことをした。
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彼も他の貧乏な百姓のするやうに冬の季節になれば薪を採つて壁に積んで置くことをした。
彼は最近になってから、隣の主人が林を改良するために雑木林をいったん開墾して畑にするということになったので、その一部を担当した。
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彼は近來に成つてから隣の主人が林を改良する爲に雜木林を一旦開墾して畑にするといふことに成つたので其の一部を擔當した。
彼は小さな体である。
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彼は小さな身體である。
しかし彼は、重い唐鍬を振りかざして、一鍬ごとにぶつりと土を取っては、後ろへそっと投げながら進む。
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然し彼は重量ある唐鍬を振り翳して一鍬毎にぶつりと土をとつては後へそつと投げつゝ進む。
彼はその開墾の仕事が上手で、かつ好きである。
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彼は其開墾の仕事が上手で且つ好きである。
そのきりっと締まった体は小さいにしても、それが各部の均衡を保って、唐鍬を取るときには彼と唐鍬とはただ一体である。
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其のきりつと緊つた身體は小さいにしてもそれが各部の平均を保つて唐鍬を執るときには彼と唐鍬とは唯一體である。
唐鍬の広い刃先が木の根に切り込む時には、彼の体も一つにぐさりとその根を切って通るかと思うようである。
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唐鍬の廣い刄先が木の根に切り込む時には彼の身體も一つにぐざりと其の根を切つて透るかと思ふやうである。
土を切り起こすことの上手なのは、彼の生まれつきである。
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土を切り起すことの上手なのは彼の天性である。
それで彼は、遠く利根川の工事へも行ったのであった。
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それで彼は遠く利根川の工事へも行つたのであつた。
彼は自分の腕を頼みにしている。
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彼は自分の伎倆を恃んで居る。
彼は以前からも、少しずつ開墾の仕事をした。
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彼は以前からも少しづつ開墾の仕事をした。
その賃銭によって、その土地を深くも浅くも、速くも遅くも仕上げることを知っていた。
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其の賃錢によつて其の土地を深くも淺くも速くも遲くも仕上げることを知つて居た。
竹林を開墾した時、彼は根の閉じたまま一坪の大きさを、ただ四つの塊に掘り起こしたことがある。
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竹林を開墾した時彼は根の閉ぢた儘一坪の大きさを只四つの塊に掘り起したことがある。
それでも、そのころまではそういう仕事がいくらもなかったので、その賃銭は、仕事を始める時にその研ぎ減らした唐鍬の刃先を打たせる鍛冶の手間と、異常な労働のために費やすその食料を除いてはいくらもなかったのである。
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それでも其の頃まではさういふ仕事が幾らも無かつたので、其の賃錢は仕事を始める時其の研ぎ減らした唐鍬の刄先を打たせる鍛冶の手間と、異常な勞働の爲に費す其の食料を除いては幾らもなかつたのである。
彼は主人の開墾地が、春いっぱいの仕事には十分であることを喜んだ。
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彼は主人の開墾地が春一杯の仕事には十分であることを悦んだ。
銭のほかに、彼は米と麦との報酬を受けることにした。
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錢の外に彼は米と麥との報酬を受けることにした。
おつぎは別に仕事といってはなかったが、彼はおつぎを一人では家に置かなかった。
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おつぎは別に仕事といつてはなかつたが彼はおつぎを一人では家に置かなかつた。
与吉を連れて、おつぎは開墾地へ行っていた。
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與吉を連れておつぎは開墾地へ行つて居た。
勘次がその鍛えた筋力を奮っている間に、おつぎはそこらの林から雀枝を採って、小さなそだを作っている。
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勘次が其の鍛錬した筋力を奮つて居る間におつぎはそこらの林から雀枝を採つて小さな麁朶を作つて居る。
小さな枝は、土地では雀枝と言われている。
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小さな枝は土地では雀枝といはれて居る。
枯れた雀枝を採ることは、どこの林でも持ち主がやかましく言わなかった。
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枯た雀枝を採ることは何處の林でも持主が八釜敷いはなかつた。
勘次は雨でも降らなければ、毎日必ず唐鍬をかついで出た。
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勘次は雨でも降らねば毎日必ず唐鍬を擔いで出た。
ある日、彼は木の株へ唐鍬を強く打ち込んで、ぐっとこじ上げようとした時、鍛えのいい刃と白樫の柄とは強かったのでどうもなかったが、鉄のくさびで柄の先を締めた、その唐鍬の四角な穴の所がにわかに緩んだ。
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或日彼は木の株へ唐鍬を強く打込んでぐつとこじ扛げようとした時鍛へのいゝ刃と白橿の柄とは強かつたのでどうもなかつたが、鐵の楔で柄の先を締めた其の唐鍬の四角な穴の處が俄に緩んだ。
そこは、ひつと言われている。
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其處はひつといはれて居る。
ひつに大きなひびが入ったのである。
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ひつに大きな罅が入つたのである。
柄がやがてがたがたに動いた。
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柄がやがてがた/\に動いた。
「ええ、べらぼう。一日の手間を鍛冶屋へ打ち込んじまわなくちゃならない」
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「えゝ、箆棒、一日の手間鍛冶屋へ打つ込んちあなくつちやなんねえ」
彼は呟いた。
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彼は呟いた。
次の朝、彼は未明に鍛冶へ走った。
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次の朝彼は未明に鍛冶へ走つた。
「わしは行って来ますから、これらのことを見ていておくんなせえ」
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「わし行つて來あんすから、此等こと見てゝおくんなせえ」
おつぎと与吉とを南の女房へ頼んだ。
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おつぎと與吉とを南の女房へ頼んだ。
「ほかへは行くんじゃないぞ。いいか、よきは泣かさないようにしてるんだぞ」
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「他へは行くんぢやねえぞ、えゝか、よきは泣かさねえやうにしてんだぞ」
彼はおつぎへも言って出た。
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彼はおつぎへもいつて出た。
おつぎは、そんな注意を人前でされることが、もう恥ずかしくいやな心持ちがするようになっていた。
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おつぎは其麽注意を人前でされることがもう耻かしく厭な心持がするやうに成て居た。
勘次は鬼怒川の渡しを越えて土手を伝って、柄のない唐鍬を持って行った。
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勘次は鬼怒川の渡を越えて土手を傳ひて、柄のない唐鍬を持つて行つた。
鍛冶はその時仕事がつかえていたが、それでもこういう職業に欠くべからざる道具というと、どこでもそういう例で、速やかにこしらえてくれた。
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鍛冶は其の時仕事が支へて居たが、それでも恁ういふ職業に缺くべからざる道具といふと何處でもさういふ例の速に拵へてくれた。
「ずいぶん荒いことをしたと見えるっけな。おれも近ごろになって、これくらいな唐鍬をめったに打ったことはないよ」
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「隨分荒えことしたと見えつけな、俺らも近頃になつて此の位えな唐鍬滅多打つたこたあねえよ、」
鍛冶はその赤く熱した唐鍬をしばらく槌で叩いて、それから地中へ据えた桶の、泥を溶いたような水へじゅうと浸して、さらにまた小さな槌でちんちんと叩いて
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鍛冶は赤く熱した其の唐鍬を暫く槌で叩いて、それから土中へ据ゑた桶の泥を溶いたやうな水へぢうと浸して、更に又小さな槌でちん/\と叩いて
「今度こそ大丈夫だ。前にはどうしてひびなんぞ入ったっけかい」
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「こんだこさ大丈夫だ、先にやどうして罅なんぞいつたけかよ」
鍛冶は汗の額を勘次に向けて
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鍛冶は汗の額を勘次に向けて
「柄がへし折れないうちは動きっこないから」
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「柄が折つちよれねえうちは動きつこねえから」
と言って、また
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といつて又
「体の割にしちゃ図抜けてるな」
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「身體の割にしちや圖無えな」
と、鍛冶は微笑した。
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と鍛冶は微笑した。
鉄の匂いのする唐鍬を提げて、勘次はまた土手を走った。
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鐵の臭のする唐鍬を提げて勘次は復土手を走つた。
その日も西風が、枯れ木の林から麦畑から、そうして鬼怒川を渡って吹いた。
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其の日も西風が枯木の林から麥畑からさうして鬼怒川を渡つて吹いた。
鬼怒川の水は白い波が立って、遠くからはそれが粟立った肌のように、ただこそばゆく見えた。
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鬼怒川の水は白い波が立つて、遠くからはそれが粟を生じた肌のやうに只こそばゆく見えた。
西風は川に吹き落ちる時、西岸の篠をざわざわと揺るがす。
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西風は川に吹き落ちる時西岸の篠をざわ/\と撼がす。
さらに東岸の土手を伝って吹き上げる時、土手の短い枯れ芝の葉を一葉ずつ激しくなびかせた。
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更に東岸の土手を傳うて吹き上げる時、土手の短い枯芝の葉を一葉づゝ烈しく靡けた。
その枯れ芝の間に、どうしたものか気まぐれなたんぽぽの黄色い頭がぽつぽつと見える。
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其の枯芝の間にどうしたものか氣まぐれな蒲公英の黄色な頭がぽつ/\と見える。
どうかすると土手は静かで暖かなことがあるので、つい騙されて、たんぽぽがまだ遠い春をじれったそうに首を出してみては、また寒くなったのに驚いて縮こまったような姿である。
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どうかすると土手は靜かで暖かなことがあるので、遂騙されて蒲公英がまだ遠い春を遲緩しげに首を出して見ては、また寒く成つたのに驚いて蹙まつたやうな姿である。
勘次は唐鍬を持って、また自分の活力を取り戻し得たように、それからまた一日仕事を怠れば身内がみりみりして、何だか知らないがその仕事に催促されてならないような心持ちがした。
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勘次は唐鍬を持つて復た自分の活力を恢復し得たやうに、それから又一日仕事を怠れば身内がみり/\して何だか知らぬが其の仕事に催促されて成らぬやうな心持がした。
鬼怒川の水は落ちて、こちらの土手から連なっている大きな洲が、その流れを西岸の篠の下まで縮めている。
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鬼怒川の水は落ちて此方の土手から連つて居る大きな洲が其の流れを西岸の篠の下まで蹙めて居る。
広く、かつ遠い洲には、ただ西風がわずかに乾いた砂をさらさらと掃くようにして吹いている。
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廣く且遠い洲には只西風が僅に乾いた砂をさら/\と掃くやうにして吹いて居る。
それで、白く乾いた洲はただからりと清潔に見える。
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それで白く乾燥した洲は只からりと清潔に見える。
そういう間に、どうしたものかこれも気まぐれな人が、遠くはその砂から生えたように見えて、ちらほらと散らばって少しずつ動いている。
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さういふ間にどうしたものか此れも氣まぐれな人が、遠くは其の砂から生えたやうに見えてちらほらと散らばつて少しづゝ動いて居る。
勘次は土手から下りて見た。
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勘次は土手からおりて見た。
動いている人々は万能鍬でその砂を掘っているのであった。
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動いて居る人々は萬能で其の砂を掘つて居るのであつた。
西風が乾かしてはさらさらと掃いていても、洲にはなおいくらか波の跡がついている。
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西風が乾かしてはさらさらと掃いて居ても洲には猶幾らか波の趾がついて居る。
その砂の中からは短い木片が出る。
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其砂の中からは短い木片が出る。
十センチから二十センチくらいな、まれには三十センチくらいなものも掘り起こされる。
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二三寸から五六寸位な稀には一尺位なものも掘り起される。
みな研ぎ減らしたような木片ばかりである。
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皆研ぎ減したやうな木片のみである。
人々は冷たくなった手を口へ当てて、白い暖かい息を吹きかけながら、一心に先へ先へと掘り起こしながら行く。
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人々は冷たく成つた手を口へ當てゝ白い暖かい息を吹つ掛けながら一心に先へ先へと掘り起しつゝ行く。
「どうするんだね」
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「どうするんだね」
勘次は一人のそばへ立って聞いた。
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勘次は一人の側へ立つて聞いた。
ひょいと首をもたげたのは婆さんであった。
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ひよつと首を擡げたのは婆さんであつた。
婆さんは腰を伸ばして、強い西風によろける足を踏みしめて
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婆さんは腰をのして強い西風によろける足を踏しめて
「これを干しておいて燃すのさ」
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「此れ干して置いて燃すのさ」
と、汚い白髪と手拭いとを吹かれながら、目をしかめて言った。
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と穢い白髮と手拭とを吹かれながら目を蹙めていつた。
「どうしても、こうなっちゃべろべろ燃えてあっけないだろうね」
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「どうしても斯う成つちやべろ/\燃えて飽氣なかんべえね」
勘次は聞いた。
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勘次は聞いた。
「赤い灰になってな、火も弱いのさ。そんでも、そだを買うよりはいいからな。松ぞだだといったって、こっちのほうへ来ちゃ、生で三十五把だの何だのって、小さいくせにな。おれのような婆でも十把くらいは背負えるんだもの。近ごろじゃ燃す物がいちばん不自由で仕方がないのさな」
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「赤え灰に成つてな、火も弱えのさ、そんでも麁朶買あよりやえゝかんな、松麁朶だちつたつてこつちの方へ來ちや生で卅五把だの何だのつて、ちつちえ癖にな、俺らやうな婆でも十把位は背負へんだもの、近頃ぢや燃す物が一番不自由で仕やうねえのさな」
婆さんは言った。
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婆さんはいつた。
「松ぞだで三十五把じゃ相場はそうでもないが、商人が丸め直すんだから小さくもなるはずだな」
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「松麁朶で卅五把ぢや相場はさうでもねえが、商人がまるき直すんだから小さくもなる筈だな」
勘次は首をかしげて言った。
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勘次は首を傾けていつた。
「そうなんだろうよなあ。そりゃそうと、お前さんはどこだね」
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「さうだごつさらよなあ、そりやさうとおめえさん何處だね」
万能鍬を杖にして、婆さんは言った。
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萬能を杖にして婆さんはいつた。
「おれは川向こうさ」
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「俺ら川向さ」
「そんじゃ燃す木はある所だね」
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「そんぢや燃す木は有つ處だね」
婆さんはさらに勘次の唐鍬を見て
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婆さんは更に勘次の唐鍬を見て
「たいした唐鍬だが、よっぽどするんだろうな」
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「たいした唐鍬だが餘つ程すんだつぺな」
「そうさ、今打たせちゃ三十匁掛けはきっとだな」
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「さうさ今打たせちや三十掛は屹度だな」
「三十匁掛けっていくらするんだろう。目方もしっかりあるだろうな」
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「三十掛ツちや幾らするごつさら、目方もしつかり掛んべな」
「一貫目もないがな」
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「一貫目もねえがな」
勘次は自慢らしく、婆さんへ唐鍬を持たせた。
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勘次は自慢らしく婆さんへ唐鍬を持たせた。
「おおいや、おれのにゃ持ち上がらないようだ。お前さん自分で使うのかいまあ。何だろうよ、こんな道具は」
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「おういや、俺らがにや引つたゝねえやうだ、おめえさん自分で使あのけまあ、何したごつさらよ此んな道具なあ」
「毎日木の根っこを起こしてたんだが、唐鍬のひつが痛んじまったから、直しに来たところさ」
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「毎日木根つ子起してたんだが、唐鍬のひつ痛つちやつたから直し來た處さ」
「そんじゃ、お前さんは燃す物には不自由なしでいいな」
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「そんぢやおめえさん燃す物にや不自由なしでえゝな」
婆さんは羨ましそうに言った。
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婆さんは羨まし相にいつた。
そうして、小さな木片を入れるために持って来た麻の汚い袋を、草刈り籠から出した。
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さうして小さな木片を入る爲に持て來た麻の穢い袋を草刈籠から出した。
わずかに鬼怒川の水を隔てて、西は林が連なっている。
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僅に鬼怒川の水を隔てゝ西は林が連つて居る。
村も田も畑も、その林に包まれている。
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村落も田も畑も其の林に包まれて居る。
東はただ低い水田と畑とで、村がその間に点在している。
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東は只低い水田と畑とで村落が其の間に點在して居る。
そこに、家を囲んでわずかな木立があるばかりである。
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其處に家を圍んで僅かな木立が有るばかりである。
したがって、薪の不足から豆殻や藁のようなものもみな燃料として取っておかれていることは、勘次もよく知っていた。
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隨つて薪の缺乏から豆幹や藁のやうなものも皆燃料として保存されて居ることは勘次も能く知つて居た。
しかし、その薪の不足から、自然にこういう砂の中に洪水がもたらした木片の埋まっているのを知って、これを求めているのだということは、彼は初めて見て初めて知った。
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然し其の薪の缺乏から自然にかういふ砂の中に洪水が齎した木片の埋まつて居るのを知つて之を求めて居るのだといふことは彼は始めて見て始めて知つた。
彼はめったに川を越えて出ることはなかったのである。
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彼は滅多に川を越えて出ることはなかつたのである。
勘次は自分の壁際には、薪がいっぱいに積まれてある。
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勘次は自分の壁際には薪が一杯に積まれてある。
そのうえ開墾の仕事に携わって、何といっても薪はだんだん増えて行くばかりである。
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其上に開墾の仕事に携はつて何といつても薪は段々殖えて行くばかりである。
さらに、その開墾に第一の要件である道具が、今は完全になって自分の手に提げられてある。
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更に其の開墾に第一の要件である道具が今は完全して自分の手に提げられてある。
彼は、こういう辛苦をしてまでもわずかな木片を求めている人々の前に、誇りを感じた。
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彼は恁ういふ辛苦をしてまでも些少な木片を求めて居る人々の前に矜を感じた。
彼は自分の境遇がどんなであるかは思わなかった。
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彼は自分の境遇が什麽であるかは思はなかつた。
またこういう人々の哀れなことも、思いやる暇がなかった。
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又恁ういふ人々の憐れなことも想ひやる暇がなかつた。
そうして彼は、自分の腕前が愉快になった。
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さうして彼は自分の技倆が愉快になつた。
彼は再び土手から見下ろした。
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彼は再び土手から見おろした。
万能鍬を持っているのはみな女で、十三、四の子も交じっているのであった。
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萬能を持つて居るのは皆女で十三四の子も交つて居るのであつた。
人々の掘り起こした跡は、畑の土をみみずが持ち上げたような形に、湿った砂がうねうねと連なっているのが彼の目に映った。
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人々の掘り起した趾は畑の土を蚯蚓が擡げたやうな形に、濕つた砂のうね/\と連つて居るのが彼の目に映つた。
彼は家に帰るとともに、唐鍬の柄をつけた。
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彼は家に歸ると共に唐鍬の柄を付た。
なたの峰で鉄のくさびを打ち込んで、そうして柄を取って動かしてみた。
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鉈の刀背で鐵の楔を打ち込んでさうして柄を執つて動かして見た。
次の朝から、もう勘次の姿は林に見いだされた。
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次の朝からもう勘次の姿は林に見出された。
主人から与えられた穀物は、彼の一家を暖めた。
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主人から與へられた穀物は彼の一家を暖めた。
彼は近ごろにない心の余裕を感じた。
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彼は近來にない心の餘裕を感じた。
しかし、そういうわずかな、彼に幸いした事柄でも、いくらか他人の嫉妬を招いた。
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然しさういふ僅な彼に幸ひした事柄でも幾らか他人の嫉妬を招いた。
ほかの百姓にも、もがいている者はいくらもある。
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他の百姓にも悶躁いて居る者は幾らもある。
そういう仲間の間には、わずかに五円の金銭でも、それが懐に入ったとなればすぐに世間の目に立つ。
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さういふ伴侶の間には僅に五圓の金錢でもそれは懷に入つたとなれば直に世間の目に立つ。
彼らはいくらずつでも自分のためになることを見いだそうということのほかに、目を険しくして周りに注意しているのである。
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彼等は幾らづゝでも自分の爲になることを見出さうといふことの外に、目を峙てゝ周圍に注意して居るのである。
彼らは、他人が自分と同等以下に苦しんでいると思っている間は、互いに苦しんでいることに一種の安心を感じるのである。
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彼等は他人が自分と同等以下に苦んで居ると思つて居る間は相互に苦んで居ることに一種の安心を感ずるのである。
しかし、その一人でも懐のいいのが目につけば、自分は後へ捨てられたような、ひどく切ないような妙な心持ちになって、そこに嫉妬の念が起こるのである。
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然し其の一人でも懷のいゝのが目につけば自分は後へ捨てられたやうな酷く切ないやうな妙な心持になつて、そこに嫉妬の念が起るのである。
それだから彼らは、他人のつまずきを見ると、そのひがんだ心の中にひそかに痛快を感じざるを得ないのである。
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それだから彼等は他の蹉跌を見ると其僻んだ心の中に竊に痛快を感ぜざるを得ないのである。
勘次の家には、薪が山のように積まれてある。
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勘次の家には薪が山のやうに積まれてある。
それが彼らの仲間の注目を引いた。
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それが彼等の伴侶の注目を惹いた。
それとはなしに、幾度か彼の主人に告げられた。
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それとはなしに數次彼の主人に告げられた。
開墾地で木を焚いた、その灰をも家に運んだということまで主人の耳に入った。
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開墾地で木を焚いた其灰をも家に運んだといふことまで主人の耳に入つた。
勘次は開墾の手間賃を比較的余計に与えられる代わりには、櫟の根は一つも運ばないはずであった。
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勘次は開墾の手間賃を比較的餘計に與へられる代りには櫟の根は一つも運ばない筈であつた。
彼らの仲間は、そういうことをも知っていた。
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彼等の伴侶はさういふことをも知つて居た。
昼飯の後や、手の冷たくなった時などには、彼はそこらの木を集めて燃やす。
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晝餐の後や手の冷たく成つた時などには彼はそこらの木を聚めて燃やす。
木の根がくすぶって、いつでも青い煙が少しずつ立っている。
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木の根が燻ぶつていつでも青い煙が少しづゝ立つて居る。
彼はその煙にだんだん遠ざかりながら、唐鍬を打ち込んでいる。
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彼は其煙に段々遠ざかりつゝ唐鍬を打ち込んで居る。
毎日、火は別の所で焚かれた。
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毎日火は別な處で焚かれた。
彼は必ずその灰をかき払って去ったのである。
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彼は屹度其の灰を掻つ掃いで去つたのである。
しかし壁際に積んだ木の根は、そこには不正なものが交じっているにしても、大部分は彼の非常な労苦から得たものである。
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然し壁際に積んだ木の根はそこには不正なものが交つて居るにしても、大部分は彼の非常な勞苦から獲たものである。
彼は林の持ち主に請うて掘ったのである。
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彼は林の持主に請うて掘つたのである。
それでも、あまりに人の口がやかましいので、主人はただいくらかでも将来の戒めをしようと思った。
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それでも餘りに人の口が八釜敷ので主人は只幾分でも將來の警めをしようと思つた。
その以前から勘次は、秋になれば掛け稲を盗むとかいう陰口を利かれて、巡査の手帳にも載っているのだというようなことが言われていたのであった。
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其の以前から勘次は秋になれば掛稻を盜むとかいふ蔭口を利かれて巡査の手帖にも載つて居るのだといふやうなことがいはれて居たのであつた。
主人はそれでも、ひそかに人を使って、木の根を運んだかどうかということを聞かせてみた。
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主人はそれでも竊に人を以て木の根を運んだかどうかといふことを聞かせて見た。
彼が気づいて詫びるならば、それなりにしてやろうと思ったからである。
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彼が心づいて謝罪するならばそれなりにして遣らうと思つたからである。
彼は主人の心を知るすべはなかった。
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彼は主人の心を知る由はなかつた。
「どこでも見たほうがようがす。わしはけっして運んだ覚えなんざないから」
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「何處でも見た方がようがす、わしは決して運んだ覺えなんざねえから」
彼は恐ろしい権幕できっぱり断った。
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彼は恐ろしい權幕できつぱり斷つた。
主人は村の駐在所の巡査へ耳打ちをした。
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主人は村の駐在所の巡査へ耳打ちをした。
巡査はある日、ぶらっと勘次の家へ行った。
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巡査は或日ぶらつと勘次の家へ行つた。
その日は朝から雨なので、勘次は仕事にも出られず、火鉢へ少しずつ木の根をくべて当たっていた。
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其の日は朝から雨なので勘次は仕事にも出られず、火鉢へ少しづゝ木の根を燻べてあたつて居た。
「雨で困ったな。勘次はだいぶ勉強するそうだな」
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「雨で困つたな、勘次は大分勉強する相だな」
巡査は帯剣の鞘をつかんで言った。
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巡査は帶劍の鞘を掴んでいつた。
「へえ」
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「へえ」
勘次は急に膝を立て直した。
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勘次は急に膝を立て直した。
表の戸口へひょっこり現れた巡査の、外套の頭巾を深くかぶっている顔が、勘次にはただ恐ろしく見えた。
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表の戸口へひよつこり現れた巡査の、外套の頭巾を深く被つて居る顏が勘次には只恐ろしく見えた。
そうして、その声が刺を含んで響いた。
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さうして其の聲が刺を含んで響いた。
巡査はぶらりと家の横手へ行って、壁際の木の根を見た。
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巡査はぶらりと家の横手へ行つて壁際の木の根を見た。
勘次は巡査の後からついて行った。
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勘次は巡査の後から跟いて行つた。
「だいぶあるな。これはまた、わしの来るまで動かしちゃならないからな」
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「大分有るな、此れは又わしの來るまで動かしちやならないからな」
巡査は言った。
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巡査はいつた。
勘次は青くなった。
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勘次は蒼くなつた。
「これらはわしがもらって掘ったんでがすから、どことどこって穴っこまでちゃんと分かってるんでがすから」
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「此らわしが貰つて掘つたんでがすから何處と何處つて穴つ子までちやんと分つてんでがすから」
彼は慌てて言った。
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彼は慌てゝいつた。
「そんなことはどうでもいいんだ。動かすなと言ったら動かさなけりゃいいんだ」
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「そんなことはどうでもいゝんだ、動かすなといつたら動かさなけりやいゝんだ」
巡査は息で霧のように少し濡れた口髭をひねりながら
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巡査は呼吸で霧のやうに少し霑れた口髭を撚りながら
「櫟の根がだいぶあるようだな」
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「櫟の根が大分あるやうだな」
と言い捨てて去った。
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といひ棄てゝ去つた。
勘次は雨に打たれながら、放心したように庭に立っている。
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勘次は雨に打たれつゝ喪心したやうに庭に立つて居る。
戸口の陰に隠れて聞いていたおつぎは、巡査の去った後、ようやく姿を現した。
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戸口の蔭に隱れて聞いて居たおつぎは巡査の去つた後漸く姿を表はした。
「おとっつあん」
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「おとつゝあ」
と小声で呼んだ。
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と小聲で喚んだ。
「そんだから、おれは持って来るなって言ったのに」
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「そんだから俺ら持つて來んなつてゆつたのに」
さらに小声でおつぎは言った。
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更に小聲でおつぎはいつた。
「おとっつあん、どうしたもんだろうな」
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「おとつゝあ、どうしたもんだべな」
おつぎは聞いた。
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おつぎは聞いた。
「おれは旦那に見放されちゃ、とても助からないだろう」
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「俺ら旦那に見放されちや、迚も助かれめえ」
勘次はようやくこれだけ言った。
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勘次は漸く此れだけいつた。
「おとっつあん、それじゃ旦那に謝ったらどうしたもんだろう」
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「おとつゝあ、それぢや旦那げ謝罪つたらどうしたもんだんべ」
「そんなこと言ったって、聞くか聞かないか分かるもんか」
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「そんなことゆつたつて、聽くか聽かねえか分るもんか」
「南のおとっつあんにでも頼んでみたらどうしたもんだろう」
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「南のおとつゝあげでも頼んで見たらどうしたもんだんべ」
「お前らが頼まなくたっていいから」
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「汝等頼まなくつたつてえゝから」
「そんじゃ、おとっつあん、櫟の根っこさえなけりゃいいんだろうか」
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「そんぢやおとつゝあ、櫟の根つ子せえなけりやえゝんだんべか」
「そんだって、お前は駐在所に見られちまったもの、仕方があるもんか」
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「そんだつて汝は駐在所に見られつちやつたもの仕やうあるもんか」
勘次はそれでも、ほかに分別もないので、仕方なしに桑畑を越えて南へ詫びを頼みに行った。
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勘次はそれでも他に分別もないので仕方なしに桑畑を越て南へ詑を頼みに行つた。
彼は古い菅笠をちょっと頭へかざして、首を縮めて行った。
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彼は古い菅笠を一寸頭へ翳して首を蹙めて行つた。
主人の挨拶は、とにかく明日のことにするからと言っただけだという返事である。
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主人の挨拶は兎に角明日のことにするからといつた丈だといふ返辭である。
勘次はげっそりとして家へ帰ると、布団をかぶってしまった。
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勘次はげつそりとして家へ歸ると蒲團を被つて畢つた。
おつぎは自分も毎日行っていたので、開墾地から運んだ櫟の根はみな知っている。
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おつぎは自分も毎日行つて居たので開墾地から運んだ櫟の根は皆知つて居る。
おつぎは、その櫟の根を独りでひそかに引き出した。
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おつぎは其の櫟の根を獨りで竊に引き出した。
そうしてたそがれ時に、おつぎはそれを草刈り籠へ入れて、後ろの竹藪の中の古井戸へ投げ落とした。
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さうして黄昏時におつぎはそれを草刈籠へ入れて後の竹藪の中の古井戸へ投げ落した。
古井戸は暗く、かつ深い。
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古井戸は暗くして且深い。
おつぎは冷たい雨に濡れて、そうして少し縮れた髪が乱れてくったりと頬について、足には朽ちた竹の葉がくっついている。
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おつぎは冷たい雨に沾れてさうして少し縮れた髮が亂れてくつたりと頬に附いて足には朽ちた竹の葉がくつゝいて居る。
「おとっつあん」
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「おとつゝあ」
おつぎは勘次を呼び起こした。
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おつぎは勘次を喚び起した。
「おれは櫟の根っこをうっちゃったぞ」
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「俺ら櫟根つ子うつちやつたぞ」
おつぎはさらに声を殺して言った。
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おつぎは更に聲を殺していつた。
勘次はひょっこり起きて、何も言わずにおつぎの顔をじっと見つめた。
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勘次はひよつこり起きて何もいはずにおつぎの顏を凝然と見つめた。
暗い家の中には、ようやく手ランプがともされた。
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暗い家の中には漸く手ランプが點された。
勘次もおつぎも、ただその目が光って見えた。
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勘次もおつぎも唯其の目が光つて見えた。
次の日、巡査は隣の雇い人を連れて来て壁際の木の根を調べさせたが、櫟の根は案外に少なかった。
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次の日巡査は隣の傭人を連れて來て壁際の木の根を檢べさせたが櫟の根は案外に少かつた。
それでも、おつぎの手では捨てきれなかったのである。
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それでもおつぎの手では棄て切れなかつたのである。
「こりゃ櫟がもっとあったはずじゃないか。勘次はどうかしやしないか」
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「此りや櫟がもつと有つた筈ぢやないか勘次はどうかしやしないか」
巡査はこう言ってあたりを見たが、勘次の小さな建物のどこにもそれは見つからなかった。
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巡査は恁ういつてあたりを見たが勘次の小さな建物の何處にもそれは發見されなかつた。
そうは言っても実際、巡査の目には櫟とほかの雑木とをはっきり見分けることができなかったのである。
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さういつても實際に巡査の目には櫟と他の雜木とを明瞭に識別し得なかつたのである。
「勘次、それじゃこれを持ってついて来るんだ」
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「勘次、それぢや此れを持つて跟いて來るんだ」
巡査は言った。
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巡査はいつた。
勘次は震えた。
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勘次は顫へた。
「草刈り籠でも何でもいい、これを入れて後からついて」
原文を見る
「草刈籠でも何でもいゝ、此れを入れて後から跟いて」
「へえ、どこまで持って行くんでしょう」
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「へえ、何處まで持つて行くんでがせう」
勘次はためらっている。
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勘次は逡巡して居る。
「どこまででもいいんだ」
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「何處までゝもいゝんだ」
巡査は怒鳴って、ぴしゃりと横手で勘次の頬を叩いた。
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巡査は呶鳴つてぴしやりと横手で勘次の頬を叩いた。
勘次は草刈り籠を背負って、巡査の後についてゆき、主人の家の裏庭へ導かれた。
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勘次は草刈籠を脊負つて巡査の後に跟いて主人の家の裏庭へ導かれた。
巡査が縁側の座布団へ腰を掛けた時、勘次は籠を背負ったまま首をうなだれて立った。
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巡査が縁側の坐蒲團へ腰を掛けた時勘次は籠を脊負つた儘首を俛れて立つた。
それはあまりに見え透いた仕事なので、さすがに分別盛りの主人は出なかった。
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それは餘りに見え透いた仕事なので有繋に分別盛の主人は出なかつた。
おかみさんが出た。
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内儀さんが出た。
勘次はますますしおれた。
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勘次は益萎れた。
「勘次、お前まあそれを置いて、ここへ掛けてみたらどうだね」
原文を見る
「勘次、お前まあそれを置いて此處へ掛けて見たらどうだね」
おかみさんは言った。
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内儀さんはいつた。
勘次はそれでも、ただ立っている。
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勘次はそれでも只立つて居る。
「品物はこれだけなんでしたでしょうか」
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「品物は此だけなんでしたらうか」
おかみさんは巡査に聞いた。
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内儀さんは巡査に聞いた。
「これくらいのものらしいようでしたな。案外少なかったんですな」
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「此の位のものらしいやうでしたな、案外少かつたんですな」
巡査は手帳を繰り返しながら言った。
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巡査は手帖を反覆しながらいつた。
「そうでございますか」
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「さうでございますか」
おかみさんは巡査に会釈して、そうして
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内儀さんは巡査に會釋してさうして
「どうしたね勘次、こうして連れて来られてもいい心持ちはすまいね」
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「どうしたね勘次、恁うして連れて來られてもいゝ心持はすまいね」
と言った。
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といつた。
藁草履をはいた勘次の爪先に、涙がぽつりと落ちた。
原文を見る
藁草履を穿いた勘次の爪先に涙がぽつりと落ちた。
「こんなことでお前、世間が騒がしくて仕方がないのでね、私の所でも本当に困ってしまうんだよ」
原文を見る
「こんなことでお前世間が騷がしくて仕やうがないのでね、私の處でも本當に困つて畢ふんだよ」
おかみさんは巡査をちょっと見て、そうして
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内儀さんは巡査を一寸見てさうして
「これからきっとやらないなら、今日の所だけは大目に見ていただいて、警察へ連れて行かれないように伺ってみてあげるがね、どうしたもんだね」
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「此れから屹度やらないなら今日の處だけは大目に見て戴いて警察へ連れて行かれないやうに伺つて見てあげるがね、どうしたもんだね」
と勘次へ言った。
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と勘次へいつた。
「どうかもう、けっしてやりませんから、へえ、おかみさん、どうぞ」
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「何卒はあ、決してやりませんから、へえお内儀さんどうぞ」
勘次は草刈り籠を背負って前かがみになった体を、幾度かかがめて言った。
原文を見る
勘次は草刈籠を脊負うて前屈になつた身體を幾度か屈めていつた。
涙がまたぼろぼろと着物の裾から跳ねて、ぽつぽつと庭の土に点を打った。
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涙が又ぼろ/\と衣の裾から跳ねてほつ/\と庭の土に點じた。
「いかがなもんでございましょうね、これは」
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「如何なもんでござんせうね此れは」
おかみさんは微笑を含んで、巡査に向かって言った。
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内儀さんは微笑を含んで巡査に向つていつた。
「そうですなあ」
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「さうですなあ」
巡査は首をかしげて言って、さらに帯剣の鞘を膝へ取って
原文を見る
巡査は首を傾けていつて更に帶劍の鞘を膝へとつて
「どうだ勘次、以来慎めるか。この次にこんなことがあったら枯れ枝一つでも赦さないからな。今日はまあこれで帰れ。その櫟の根はここへ置いて行くんだぞ」
原文を見る
「どうだ勘次、以來愼めるか、此の次にこんなことが有つたら枯枝一つでも赦さないからな、今日はまあ此れで歸れ、其の櫟の根は此處へ置いて行くんだぞ」
勘次は草刈り籠を下ろそうとした。
原文を見る
勘次は草刈籠を卸さうとした。
「そんなものをこの庭へ置けというんじゃないんだ。置く所は知ってるんだろう。分からない奴だな。それ、うっかりしないで足元を気をつけるんだ」
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「そんなもの此の庭へ置けといふんぢやないんだ、置く處は知つてるんだろう、解らない奴だな、それうつかりしないで足下を氣をつけるんだ」
巡査は叱った。
原文を見る
巡査は叱つた。
勘次はそっと土を踏んで庭を出た。
原文を見る
勘次はそつと土を踏んで庭を出た。
門の外には、おつぎが与吉を連れてすすり泣いている。
原文を見る
門の外にはおつぎが與吉を連れて歔欷して居る。
与吉はおつぎの泣くのを見て、自分も声を放つ。
原文を見る
與吉はおつぎの泣くのを見て自分も聲を放つ。
おつぎは声の漏れないように、袂でそれを覆っている。
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おつぎは聲の洩れぬやうに袂でそれを掩うて居る。
「よき、泣かないで帰れ」
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「よき泣かねえで歸えれ」
勘次は与吉の手を取った。
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勘次は與吉の手を執つた。
三人は黙って歩いた。
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三人は默つて歩いた。
雇い人らは笑って、勘次の様子を見ていた。
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傭人等は笑つて勘次の容子を見て居た。
「おとっつあん、どうしたっけ」
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「おとつゝあ、どうしたつけ」
おつぎは家に帰るとともに聞いた。
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おつぎは家に歸ると共に聞いた。
「そんでもまあ大丈夫になった。櫟の根っこがなくて助かった」
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「そんでもまあ大丈夫になつた、櫟根つ子なくつて助かつた」
勘次はげっそりと力なく言った。
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勘次はげつそりと力なくいつた。
「おれは昨日は重たくてひどかったっけぞ。そのせいか今日は肩が痛いや」
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「俺ら昨日は重たくつて酷かつたつけぞ、其の所爲か今日は肩痛えや」
おつぎは喜ばしげに言った。
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おつぎは悦ばしげにいつた。
「おれがここでいなくなっちゃ、お前らも大変だったな」
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「俺こゝで居なくなつちや汝等も大變だつけな」
勘次はしばらく間を置いて、ぽつりとして言った。
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勘次は間を暫く措いてぽさ/\としていつた。
このことがあってからも、勘次の姿はすぐに唐鍬を持って林の中に見いだされた。
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此の事があつてからも勘次の姿は直に唐鍬持つて林の中に見出された。
五、六日たって、勘次は針立てと針箱とを買って来た。
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五六日經つて勘次は針立と針箱とを買つて來た。
「おつう、お前もこれからお針に行けるからな。そら、これを持って行くんだ。おっかあが持ってた古いのなんざあ外聞が悪くていやだなんて言うから、これでもおとっつあんらはひどい銭で買って来たんだぞ。それから、いいの悪いのって膨れたり何かするんじゃないぞ、なあ」
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「おつう、汝も此れからお針にいけつかんな、そら此れ持つて行ぐんだ、おつかゞ持つてた古いのなんざあ外聞惡くつて厭だなんていふから、此んでもおとつゝあ等酷え錢で買つて來たんだぞ、それから善えだの惡いだのつて膨れたり何つかすんぢやねえぞ、なあ」
勘次はまた
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勘次は又
「よき、お前はおとっつあんのそばにいるんだぞ。いいか、姉はこれからお前の着物をこしらえるのでお針に行くんだからな。聞かないとひどいぞ」
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「よき汝はおとつゝあが側に居るんだぞ、えゝか、姊は此から汝が衣物拵えんでお針に行くんだかんな、聽かねえと酷えぞ」
と、与吉を抱いてよく言い含めた。
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と與吉を抱いて能くいひ含めた。
おつぎはそれから、村の中へ近所の娘とともに通った。
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おつぎはそれから村内へ近所の娘と共に通つた。
おつぎは与吉の小さなひとえを仕上げた時、その風呂敷包みを抱えていそいそと帰って来た。
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おつぎは與吉の小さな單衣を仕上げた時其の風呂敷包を抱へていそ/\と歸つて來た。
おつぎは針を持つようになってから、てきぱきとして、にわかにませて来たように見えた。
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おつぎは針持つやうに成つてからはき/\として俄にませて來たやうに見えた。
おつぎはもう十六である。
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おつぎはもう十六である。
辛苦の間にあるだけに、去年からではどれほど大人びて勘次の助けになるか知れない。
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辛苦の間に在る丈に去年からでは何れ程大人びて勘次の助に成るか知れない。
ことに秋のころになってからは、めっきり機転も利くようになって、死んだお品に似て来たと他人には言われるのであるが、毎日いっしょにいる自分にも、そう言えば体の格好までどうやらそう見えて来たと、勘次も心で思った。
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殊に秋の頃に成つてからは滅切機轉も利くやうになつて、死んだお品に似て來たと他人にはいはれるのであるが、毎日一つに居る自分にもさういへば身體の恰好までどうやらさう見えて來たと勘次も心で思つた。
おつぎは今が遊びたい盛りに入ったのであるが、勘次からは一日でもたった一人で放されたことがない。
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おつぎは今が遊びたい盛りに這入つたのであるが、勘次からは一日でも唯一人で放されたことがない。
村の休日には近所の女房に連れられて出てみることもあるが、必ず与吉がくっついているのと、自分は炊事の間を欠かすことができないのとで、昼飯でも晩飯でも他人より早く帰って来なければならない。
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村の休日には近所の女房に連れられて出て見ることもあるが、屹度與吉がくつゝいて居るのと、自分は炊事の間を缺かすことが出來ないのとで晝餐でも晩餐でも他人より早く歸つて來なければならない。
「おれはいっそ、物日なんざないほうがいい。そうでさえなけりゃ、出たいと思わないから」
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「俺らいつそもの日なんざ無え方がえゝ、さうでせえなけりや出てえた思はねえから」
おつぎはつくづく呟くことがあった。
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おつぎは熟呟くことがあつた。
「どうにかおれだってするから」
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「どうにか俺らだつて成つから」
おつぎの呟くのを聞いて、勘次はさすがに心が切なくなる。
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おつぎの呟くのを聞いて勘次は有繋に心が切なくなる。
それで言いようがなくては、こうぶすりと言ってしまうのであった。
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それで云ひやうが無くては恁うぶすりと云つて畢ふのであつた。
与吉は四つになった。
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與吉は四つに成つた。
いたずらも知って来て、それだけおつぎの手は省かれた。
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惡戯も知つて來てそれ丈おつぎの手は省かれた。
それでも与吉の着物は、おつぎの手には始末ができないので、近所の女房へ頼んではどうにかしてもらった。
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それでも與吉の衣物はおつぎの手には始末が出來ないので、近所の女房へ頼んではどうにかして貰つた。
お品が生きていれば、そんな心配はまだ十六のおつぎがするのではない。
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お品が生きて居ればそんな心配はまだ十六のおつぎがするのではない。
おつぎはさらに、自分の着物に困った。
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おつぎは更に自分の衣物に困つた。
短くなるばかりではなく、ほころびにさえおつぎは当惑するのである。
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短くなるばかりではなく綻びにさへおつぎは當惑するのである。
「お針ができなくちゃ仕方がないなあ」
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「お針出來なくつちや仕樣ねえなあ」
おつぎはいつでも嘆息するのであった。
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おつぎは何時でも嘆息するのであつた。
「お針にでも何でも、やれる時にはやるから。奉公にでも行ってみろ、いくつになったってろくなことができるもんか。十六くらいじゃ貧乏人はまだ行けないったって、仕方があるもんか。そうお前みたいに、やせ虱がたかったようにしきりなしに言うもんじゃない」
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「お針にでも何でも遣れる時にや遣つから、奉公にでも行つて見ろ、幾つに成つたつて碌なこと出來るもんか、十六位ぢや貧乏人はまあだ行けねえたつて仕やうがあるもんか、さう汝見てえに痩虱たかつたやうにしつきりなし云ふもんぢやねえ」
「おとっつあんは、そんだって奉公にでも行ってる者には家でこしらえてやるんだろうな」
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「おとつゝあはそんだつて奉公にでも行つてるものげは家で拵えてやんだんべな」
「そんだって何だって、やれる時でなくちゃやれないから」
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「そんだつてなんだつて遣れつ時でなくつちや遣れねえから」
十六ではまだ針を持たなくてもいいというのは、それは無理ではない。
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十六ではまだ針を持たなくつてもいゝといふのはそれは無理ではない。
しかし勘次の家で、おつぎがいっこうに針を知らないことは不便であった。
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然し勘次の家でおつぎの一向針を知らぬことは不便であつた。
勘次もそれを知らないのではないが、今のところ自分にはその余裕がないので、おつぎがそう言うたびに彼の心は堪えられず苦しむので、わざと邪険に言ってしまうのであった。
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勘次もそれを知らないのではないが、今の處自分には其の餘裕がないのでおつぎがさういふ度に彼の心は堪へず苦しむので態と邪慳にいつて畢ふのであつた。
その冬になってからも、おつぎは十六だというまにすぐ十七になってしまうと呟いたのであった。
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其の冬になつてからもおつぎは十六だといふ内に直十七になつて畢ふと呟いたのであつた。
「春にでもなったらやれるかも知れないから」
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「春にでもなつたらやれつかも知んねえから」
と、勘次はそのたびに言っていた。
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と勘次は其の度にいつて居た。
おつぎは、とうてい当てにはならないと心に諦めていたのであった。
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おつぎは到底當にはならぬと心に斷念めて居たのであつた。
それだけおつぎの満足は深かった。
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それだけおつぎの滿足は深かつた。
ある晩、どうして記憶をよみがえらせたか、おつぎはふいと言った。
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或晩どうして記憶を復活させたかおつぎはふいといつた。
「井戸へ落とした櫟の根っこは、はしごを掛けても取れないだろうか」
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「井戸へ落した櫟根つ子は梯子掛けても取れめえか」
「なぜそんなことを言うんだ」
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「何故そんなこといふんだ」
勘次は驚いて目を見開いた。
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勘次は驚いて目を睜つた。
「そんでも惜しいもんだからよ」
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「そんでも可惜もんだからよ」
「お前が自分ではしごを掛けて入るのか」
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「汝自分で梯子掛けて這入んのか」
「おれは怖いからいやだがな」
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「俺ら可怖から厭だがな」
「そんなこと言うもんじゃない。また引っ張られたらどうする。その時はお前でも行くのか」
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「そんなこといふもんぢやねえ、又拘引れたらどうする、そん時は汝でも行くのか」
勘次はこう言って苦笑した。
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勘次は恁ういつて苦笑した。
その晩はそれっきり、二人の間に話はなかった。
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其晩は其れつ切り二人の間に噺はなかつた。
八
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八
与吉が五つの春になった。
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與吉が五つの春に成つた。
ずんずんと育って行く彼の体は、おつぎの手に重さが過ぎている。
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ずん/\と生長して行く彼の身體はおつぎの手に重量が過ぎて居る。
しがみついていた筍の皮が自然にその幹から離れるように、与吉はだんだんおつぎの手から離れるようになった。
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しがみ附いて居た筍の皮が自然に其の幹から離れるやうに、與吉は段々おつぎの手から除かれるやうに成つた。
それでも、筍の皮が竹の幹にまつわっては横たわっているように、与吉がおつぎを慕うことに変わりはなかった。
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それでも筍の皮が竹の幹に纏つては横たはつて居るやうに、與吉がおつぎを懷しがることに變りはなかつた。
与吉は近所の子供とよく田んぼへ出た。
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與吉は近所の子供と能く田圃へ出た。
暖かい日には、彼はひとえに換えて、袂を後ろでぎっと縛ったり、尻をぐるっとはしょったりしてもらう間も待ち遠しくて跳ねている。
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暖かい日には彼は單衣に換て、袂を後でぎつと縛つたり尻をぐるつと端折つたりして貰ふ間も待遠で跳ねて居る。
「堀のそばへは行くんじゃないぞ。着物を汚すと聞かないぞ」
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「堀の側へは行ぐんぢやねえぞ、衣物汚すと聽かねえぞ」
おつぎが言うのを耳へも入れないで、小ざるを手にして走って行く。
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おつぎがいふのを耳へも入れないで小笊を手にして走つて行く。
田んぼのはんの木は、だらけた花が落ちて、若葉にはまだ少し間があるので、手持ち無沙汰そうに立っている季節である。
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田圃の榛の木はだらけた花が落ちて嫩葉にはまだ少し暇があるので手持なさ相に立つて居る季節である。
田はわずかに湿りを含んで、足の底に暖かみを感じる。
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田は僅に濕ひを含んで足の底に暖味を感ずる。
耕す人はまだ下り立たない。
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耕す人はまだ下り立たぬ。
白っぽく乾いた刈り株の間には、注意して見ればところどころにきわめて小さな穴がある。
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白つぽく乾いた刈株の間には注意して見れば處々に極めて小さな穴がある。
子供らは、その穴を探して歩くのである。
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子供等は其の穴を探して歩くのである。
彼らは小さな手を粘る土に差し込んでは、両手の力をこめて引っ返す。
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彼等は小さな手を粘る土に揷込んでは兩手の力を籠めて引つ返す。
そこにはどじょうがちょろちょろと跳ね返りながら、その身を慌ただしく動かしている。
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其處には鰌がちよろ/\と跳返りつゝ其身を慌しく動かして居る。
そうすると彼らは、いずれも声を立てて騒ぎながら、その小さな泥だらけの手で捕まえようとしては逃げられながら、ようやくのことでざるへ入れる。
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さうすると彼等は孰も聲を立てゝ騷ぎながら、其の小さな泥だらけの手で捉へようとしては遁げられつゝ漸くのことで笊へ入れる。
どじょうは、そのこそばゆいざるの中でしばらくその身を動かしては落ち着く。
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鰌は其のこそつぱい笊の中で暫く其の身を動かしては落付く。
ほかのどじょうがまた入れられる時、さっきのどじょうがいっしょに騒いでは落ち着く。
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他の鰌が又入れられる時先刻の鰌が一つに騷いでは落付く。
彼らはこうして、その小さな穴を求めて田から田へ移って歩く。
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彼等は斯うして其小さな穴を求めて田から田へ移つて歩く。
土地では、それを目掘りと言っている。
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土地ではそれを目掘りというて居る。
与吉には、いくら泥になってもどじょうは捕れなかった。
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與吉には幾ら泥になつても鰌は捕れなかつた。
仲間の大きな子は、それでも一匹ずつくらいは与吉のざるにも入れてやるのであった。
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仲間の大きな子はそれでも一匹位づつ與吉の笊にも入れて遣るのであつた。
それで彼は、遅れながらもほかの子供についてゆかずにはいられなかったのである。
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それで彼は後れながらも他の子供に跟いて歩かずには居られなかつたのである。
堀には、動かない水が空を映してたたえている所がある。
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堀には動かない水が空を映して湛へて居る處がある。
そうかと思えば、あるいは水は一滴もなくて、泥の上を筋のように流れた砂の跡がちらちらと春の日をわずかに反射している所がある。
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さうかと思へば或は水は一滴もなくて泥の上を筋のやうに流れた砂の趾がちら/\と春の日を僅に反射して居る處がある。
子供らはまばらな枯れ蘆のあたりから下りて、そこにも目掘りを試みる。
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子供等は疎らな枯蘆の邊からおりて其處にも目掘りを試みる。
大きな子供は大事なざるをそっと持って下りる。
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大きな子供は大事な笊をそつと持ておりる。
小さな子供は堀へ下りながら、ざるを傾けてどじょうをこぼすことがある。
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小さな子供は堀へおりながら笊を傾けて鰌を滾すことがある。
大きな子供はそれっと言って、いたずらにそれを捕まえようとする。
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大きな子供はそれつといつて惡戯に其を捕うとする。
子供らは順々にみな、それにならおうとする。
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子供等は順次に皆それに傚はうとする。
そうすると小さな子供は、ただ火のついたように泣く。
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さうすると小さな小供は唯火の點いたやうに泣く。
それと同時にどじょうが小さな子供のざるに返されて、子供はそのどじょうをのぞくとともに、その泣く声がはたと止まってしまうのである。
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それと同時に鰌が小さな子供の笊に返されて子供は其鰌を覗くと共に其の泣く聲がはたと止つて畢ふのである。
堀の粘ついた泥は、うっかりすると小さな足を吸いつけて放さない。
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堀の粘ついた泥はうつかりすると小さな足を吸ひ附けて放さない。
そうすると、みんなが逃げるように岸へ上がって、指を出してその先を曲げながら騒ぐ。
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さうするとみんなが遁げるやうに岸へ上つて指を出して其の先を屈曲させながら騷ぐ。
小さな子供はざるを手にしたまま、目には手も当てずに声を放って泣く。
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小さな子供は笊を手にした儘目には手も當ずに聲を放つて泣く。
与吉はこうしてよく泣かされた。
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與吉は恁うして能く泣かされた。
彼には少しも父兄の力がかぶさっていない。
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彼には寸毫も父兄の力が被つて居ない。
聞き分けのない子供の間にも、家族の力は非常な勢いを示している。
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頑是ない子供の間にも家族の力は非常な勢ひを示して居る。
その家族が一般から侮りの目をもって見られているように、子供の間にもまた、小さい与吉は侮られていた。
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其家族が一般から輕侮の眼を以て見られて居るやうに、子供の間にも亦小さい與吉は侮られて居た。
それでも与吉は、帰りには小ざるの底にどじょうがあるので喜んでいた。
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それでも與吉は歸りには小笊の底に鰌があるので悦んで居た。
泣いたその時はしおれても、彼はすぐに機嫌が直って、そのわずかな獲物のざるを誇っておつぎのそばに来る時は、いつもの甘えた与吉である。
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泣いた當座は萎れても彼は直に機嫌が出て、其僅な獲物の笊を誇つておつぎの側に來る時は何時もの甘えた與吉である。
彼はどこへでもべたりと座るので、尻を丸出しにまくってやっても着物は泥だらけにした。
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彼は何處へでもべたりと坐るので臀を丸出しに褰げてやつても衣物は泥だらけにした。
それで叱られても、泥の乾いたその尻を叩かれても、おつぎにされるのは彼にはちっとも恐ろしくなかった。
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それで叱られても泥の乾いた其臀を叩かれても、おつぎにされるのは彼にはちつとも怖ろしくなかつた。
彼は小言は耳へも入れないで、「姉よう、見ろよう」
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彼は小言は耳へも入れないで「姊よう見ろよう」
と小ざるを傾けては、ちょこちょこと跳ねるようにして小刻みに足を動かしながら、おつぎの褒める言葉を促して止まない。
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と小笊を枉げてはちよこ/\と跳ねるやうにして小刻みに足を動かしながらおつぎの譽める詞を促して止まない。
彼はあまりに喜んで騒いで、ひょっとすると危ない手元でどじょうを庭へ落とすことがある。
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彼は餘りに悦んで騷いでひよつとすると危い手もとで鰌を庭へ落す事がある。
どじょうは乾いた庭の土にまみれて、苦しそうに動く。
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鰌は乾いた庭の土にまぶれて苦しさうに動く。
与吉が押さえようとする時、鶏がひょいと来てくちばしでつついて、駆けて行ってしまう。
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與吉が抑へようとする時鷄がひよつと來て嘴で啄いて駈けて行つて畢ふ。
ほかの鶏がそれを追いかける。
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他の鷄がそれを追ひ掛ける。
与吉はそうすると、またひとしきり泣くのである。
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與吉はさうすると又一しきり泣くのである。
「お前があんまりうっかりしてるからだわ」
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「汝あんまりうつかりしてつかんだわ」
おつぎは笑いながら、立っている与吉の頭を抱いて、それから手水だらいへ水を汲んで、どじょうを入れてやる。
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おつぎは笑ひながら、立つてる與吉の頭を抱いてそれから手水盥へ水を汲んで鰌を入れて遣る。
与吉は水へ手を入れては、どじょうの騒ぐのを見てすぐに声を立てて笑う。
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與吉は水へ手を入れては鰌の騷ぐのを見て直に聲を立てて笑ふ。
おつぎはそうしておいて、泥だらけの手足を洗ってやる。
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おつぎはさうして置いて泥だらけの手足を洗つてやる。
与吉は時々どじょうを持って来た。
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與吉は時々鰌を持つて來た。
おつぎは着物が泥になるのを叱りながら、それでも威勢よく田んぼへ出してやった。
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おつぎは衣物の泥になるのを叱りながらそれでも威勢よく田圃へ出してやつた。
そのたびに、ほかの子供らの後から
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其の度に他の子供等の後から
「泣かさないで、よきのことも連れて行ってくれよな」
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「泣かさねえでよきことも連れでつてくろうな」
というおつぎの声が追いかけるのであった。
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といふおつぎの聲が追ひ掛けるのであつた。
わずかなどじょうは味噌汁へ入れて、箸で骨をしごいて与吉へやった。
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僅な鰌は味噌汁へ入れて箸で骨を扱いて與吉へやつた。
自分では骨と頭とをしばらく口へ含んで、それから捨てた。
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自分では骨と頭とを暫く口へ含んでそれから捨てた。
田がそろそろと耕されるようになった。
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田がそろ/\と耕されるやうに成た。
子供らはまた、一つ一つの塊に耕された田を渡って、その塊の上を滑りながら越えながら、きわめて小さいくわいのような、ゑぐの根を取った。
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子供等は又一つ/\の塊に耕された田を渡つて、其塊の上を辷りながら越えながら、極めて小さい慈姑のやうなゑぐの根をとつた。
それは土地では訛って、ゑごと呼ばれている。
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それは土地では訛つてゑごと喚ばれて居る。
そこらの田にはゑぐが多いので、秋のころになると、茂った稲の陰に小さな白い花が咲く。
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そこらの田にはゑぐが多いので秋の頃に成ると茂つた稻の陰に小さな白い花が咲く。
与吉もほかの子供のするように、小ざるを持って出た。
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與吉も他の子供のするやうに小笊を持て出た。
どじょうとは違って、これは彼の手にもわずかずつは採ることができた。
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鰌とは違つて此れは彼の手にも僅づゝは採ることが出來た。
少しずつ採っては、毎日のように蓄えた。
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少しづゝ採ては毎日のやうに蓄へた。
おつぎは茶を沸かすたびに、それを灰の中へ投げ込んで焼いてやる。
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おつぎは茶を沸す度にそれを灰の中へ投げ込んで燒いてやる。
火をいじることが危ないので、与吉は独りでかまどへ手をつけることは禁じられている。
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火を弄ることが危いので與吉は獨りで竈へ手をつけることは禁ぜられて居る。
灰の中へ入れたばかりで、与吉は
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灰の中へ入れたばかりで與吉は
「ようよう」
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「よう/\」
と言っておつぎに迫る。
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といつておつぎに迫る。
与吉は焼ける間がじれったいのである。
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與吉は燒ける間が遲緩しいのである。
「そんなに焼けないだろうな。そんじゃ姉は構わないぞ」
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「そんなに燒けめえな、そんぢや姊は構あねえぞ」
と、おつぎはゑぐをかき出してやる。
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とおつぎはゑぐを掻き出して遣る。
与吉は口へ入れても、まだがりがりで、かつ苦いので吐き出してしまう。
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與吉は口へ入れてもまだがり/\で且苦いので吐き出して畢ふ。
「そうら見ろ、大きな格好をして言うことを聞かないから」
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「そうら見ろ、大けえ姿していふこと聽かねえから」
おつぎは怒ったような様子をして見せる。
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おつぎは怒つたやうな容子をして見せる。
「姉よ、よう」
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「姊よ、よう」
と、与吉はまたねだる。
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と與吉は又強請む。
その時はもう、皮に皺が寄って焼けたゑぐが与吉の手に載せられる。
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其の時はもう皮に皴が寄つて燒けたゑぐが與吉の手に載せられる。
「お前、熱いぞ」
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「汝熱えぞ」
とおつぎが言えば、与吉は手を引いて、ゑぐは土間へ落ちる。
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とおつぎがいへば與吉は手を引いてゑぐは土間へ落ちる。
それをまた手に載せてやると、与吉はおつぎがするようにふうふうと灰を吹く。
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それを又手に載せてやると與吉はおつぎがするやうにふう/\と灰を吹く。
与吉はもっともっととおつぎにせがんで、勘次に怒鳴られてはやめるのである。
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與吉は後も後もとおつぎにせがんで、勘次に呶鳴られては止めるのである。
蓄えられたゑぐが小ざるに一杯になった時、おつぎは小ざるを手に持って
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蓄へられたゑぐが小笊に一杯に成つた時おつぎは小笊を手に持つて
「よきにこれを煮てやろうか。砂糖でも入れたらうまいだろうな」
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「よきげ此煮てやつぺか、砂糖でも入たら佳味かつぺな」
と、独り言のように言った。
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獨語のやうにいつた。
「煮てくれようよう」
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「煮てくろうよう」
与吉はそれを聞いてまたせがんで、おつぎへ飛びついて、かぶっている手拭いを引っ張った。
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與吉はそれを聞いて又せがんでおつぎへ飛びついて、被つて居る手拭を引つ張つた。
おつぎは
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おつぎは
「ああ痛いまあ」
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「おゝ痛えまあ」
と顔をしかめて、引かれるままに首を傾けて言った。
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と顏を蹙めて引かれる儘に首を傾けていつた。
乱れた髪の三筋四筋が、手拭いとともに強く引かれたのである。
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亂れた髮の三筋四筋が手拭と共に強く引かれたのである。
「そんなものは塩ででもゆでてやれ」
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「其麽もの鹽でゞも茹てやれ」
勘次はにわかに怒鳴った。
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勘次は俄に呶鳴つた。
「砂糖だなんて、黙ってれば知らないでいるもの。泣かれたらどうするんだ。砂糖だの醤油だのって、そんなことしたっくらい、なんぼ損だか知れやしない。おとっつあんらはそんな銭なんざ一銭だって持ってないから、塩だって容易なもんじゃないや。そんな余計なものは何になるもんじゃない」
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「砂糖だなんて、默つてれば知らねえでるもの、泣かれたらどうすんだ、砂糖だの醤油だのつてそんなことしたつ位なんぼ損だか知れやしねえ、おとつゝあ等そんな錢なんざ一錢だつて持つてねえから、鹽だつて容易なもんぢやねえや、そんな餘計なもの何になるもんぢやねえ」
勘次は繰り返して叱った。
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勘次は反覆して叱つた。
与吉はおつぎの陰へ回って抱きついた。
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與吉はおつぎの陰へ廻つて抱きついた。
「どうしたもんだろうなまあ。じきに怒るんだから」
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「どうしたもんだんべまあ、ぢつき怒んだから」
おつぎは小言を聞いて呟いた。
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おつぎは小言を聞いて呟いた。
「そんだって、おとっつあんらはそんなところじゃないから」
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「そんだつて、おとつゝあ等そんな處ぢやねえから」
勘次はがっかり声を落として言った。
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勘次はがつかり聲を落していつた。
そうして黙り込んだ。
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さうして沈默した。
おつぎも、お品が死んでから苦しい生活の間に二度春を迎えた。
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おつぎもお品が死んでから苦しい生活の間に二たび春を迎へた。
おつぎは余儀なくされながら、生活の圧迫に対する抵抗力を早めた。
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おつぎは餘儀なくされつゝ生活の壓迫に對する抵抗力を促進した。
よその女の子のようなのどかな春は知られないで、おつぎは体の上にも著しい変化を遂げた。
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餘所の女の子のやうに長閑な春は知られないでおつぎは生理上にも著るしい變化を遂げた。
お品が死んだ時、おつぎはまだ落ち葉をくべるとては、竹の火箸の先をすぐに燃やしてしまうほど下手な子であった。
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お品が死んだ時はおつぎはまだ落葉を燻べるとては竹の火箸の先を直ぐに燃やして畢ふ程下手な子であつた。
それが横にも縦にも大きくなって、肌もつやつやと見えて、髪も長くなった。
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それが横にも竪にも大きくなつて、肌膚もつやゝかに見えて髮も長くなつた。
おつぎの家の後ろの、崖のようになった所からは、村の者がよく黄色な粘土を採った。
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おつぎの家の後の崖のやうに成つた處からは村のものが能く黄色な粘土を採つた。
髪が粘るようになると、おつぎはその粘土をこすりつけて、肌脱ぎになったまま黄色く染まった頭を井戸のそばで洗うのである。
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髮が黏るやうになるとおつぎは其の粘土をこすりつけて、肌ぬぎになつた儘黄色く染まつた頭を井戸の側で洗ふのである。
そうして、そのふっさりとした髪は、二度梳く所は三度梳くようになった。
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さうして其のふつさりとした髮は二度梳く處は三度梳くやうに成つた。
おつぎはまた、髪へつける胡麻の油を元結で縛った小さな瓶へ入れて、大事にしまっておくのである。
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おつぎは又髮へつける胡麻の油を元結で縛つた小さな罎へ入れて大事に藏つて置くのである。
短い期間ではあるが、針を持つようになってからは赤いたすきもくけた。
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短い期間ではあるが針持つやうになつてからは赤い襷も絎けた。
半纏も洗濯した。
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半纏も洗濯した。
どうにか自分の手で仕上げた、身丈に足りる着物を着て、おつぎはにわかに大人びたようになった。
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どうにか自分の手で仕上げた身丈に足りる衣物を着ておつぎは俄に大人びたやうに成つた。
田や畑に出る時には、まだ糊の抜けない半纏へ赤いたすきを肩から掛けて、勘次の後についてゆく。
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田や畑に出る時にはまだ糊のぬけない半纏へ赤い襷を肩から掛けて勘次の後に跟いて行く。
おつぎは仕事にかかる時には、その半纏は取って木の枝へ掛ける。
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おつぎは仕事にかゝる時には其の半纏はとつて木の枝へ懸ける。
おつぎの姿は、ようやく村の注目に値した。
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おつぎの姿は漸く村の注目に値した。
春の野を飾って黄色な布を覆ったような菜の花も、春らしい雨がちらちらと降って、霜に焼けたような葉がめっきりと青みを加えて来たころは、その開いた葉の中心にはほんのわずかな突起を見いだす。
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春の野を飾つて黄色な布を掩うたやうな菜の花も、春らしい雨がちら/\と降つて霜に燒けたやうな葉が滅切と青みを加へて來た頃は其開いた葉の心部には只僅な突起を見出す。
しかしそこには、つぼみがはっきりと形をなしているのである。
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然しそこには蕾が明かに形を成して居るのである。
空からは暖かい日光が招いて、土からは長い手がずんずんと差し上げてはさらに長く差し上げるので、その派手な花が麦や小麦の穂にも埋もれることなく、広い野を占めるのである。
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空からは暖かい日光が招いて土からは長い手がずん/\とさし扛げては更に長くさし扛げるので其の派手な花が麥や小麥の穗にも沒却されることなく廣い野を占めるのである。
おつぎも、その中心に見えるつぼみであった。
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おつぎも其の心部に見える蕾であつた。
しかしそのつぼみは、差し上げられないのみでなく、押さえる手の強い力が加えられてある。
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然し其蕾はさし扛げられないのみではなく壓へる手の強い力が加へられてある。
勘次は少しの間もおつぎを自分のそばから放すまいとしている。
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勘次は寸時もおつぎを自分の側から放すまいとして居る。
したがって、空の日光が招くように女の心を促すはずの村の青年との間には、おつぎは何の関係も結ばれなかった。
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隨つて空の日光が招くやうに女の心を促すべき村の青年との間にはおつぎは何の關係も繋がれなかつた。
おつぎが十七という年齢を聞いて、いずれも今さらのようにその注意を引き起こしたのである。
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おつぎが十七といふ年齡を聞いて孰れも今更のやうに其の注意を惹起したのである。
冬の季節に埃を巻いて来る西風は、まずどこよりもおつぎの家の雨戸を、今日も来たぞと叩く。
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冬の季節に埃を捲いて來る西風は先づ何處よりもおつぎの家の雨戸を今日も來たぞと叩く。
それは村の西の端にあるからである。
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それは村の西端に在るからである。
位置がそういう追いやられたような形になっている上に、生活の状態から自然に、ある程度までは注意の目から逸れて、日陰にいるのと等しいものがあったのである。
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位置がさういふ逐ひやられたやうな形に成つて居る上に、生活の状態から自然に或程度までは注意の目から逸れて日陰に居ると等しいものがあつたのである。
勘次の監督の手は、つぼみの成長を止める冷ややかな空気で、そうしてこれをうかがう者を防ぎ止める堅固な垣である。
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勘次の監督の手は蕾の成長を止める冷かな空氣で、さうして之を覗ふものを防遏する堅固な牆壁である。
しかし春の季節を地上の草木が知った時、どれほど白く霜が結んでも草木の活力は動いて止まないように、おつぎの心は外から加える監督の手をもって奪い去ることはできない。
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然し春の季節を地上の草木が知つた時、どれ程白く霜が結んでも草木の活力は動いて止まぬ如く、おつぎの心は外部から加へる監督の手を以て奪ひ去ることは出來ない。
おつぎは勘次の後についてゆき、畑へ行き来する途中で、紺の仕事着に身を固めた村の青年に会う時には、さすがに心は引かされた。
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おつぎは勘次の後へ跟いて畑へ往來する途上で紺の仕事衣に身を堅めた村の青年に逢ふ時には有繋に心は惹かされた。
肩にした鍬の柄へ、おつぎは両手を掛けている。
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肩にした鍬の柄へおつぎは兩手を掛けて居る。
その握った手に頬をもたせるようにして、おつぎはいくらか首を傾けながら、手拭いの下から黒い瞳で青年を見るのであった。
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其握つた手に頬を持たせるやうにして、おつぎは幾らか首を傾けつゝ手拭の下から黒い瞳で青年を見るのであつた。
勘次は、後からついて来るおつぎの様子まで知ることはできなかった。
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勘次は後から跟いて來るおつぎの態度まで知ることは出來なかつた。
おつぎは幾度もそうして村の青年を見た。
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おつぎは數次さうして村の青年を見た。
しかし一言も交わす機会を持たなかった。
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然し一語も交換する機會を有たなかつた。
おつぎはどうということもなく、むしろほとんど無意識に行き交う青年を見るのであったが、手拭いの下に光る暖かい二つの瞳には情がこもっていることが、青年らの目にも微妙に感じ取られた。
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おつぎはどうといふこともなく寧ろ殆ど無意識に行き交ふ青年を見るのであつたが、手拭の下に光る暖かい二つの瞳には情を含んで居ることが青年等の目にも微妙に感應した。
こうして、おつぎもいつか口の端に上ったのである。
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恁うしておつぎもいつか口の端に上つたのである。
それでも、とうてい青年がおつぎと接するのは、勘次の監督の下に白昼往来で一目見て行き違う、その瞬間に限られていた。
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それでも到底青年がおつぎと相接するのは勘次の監督の下に白晝往來で一瞥して行き違ふ其瞬間に限られて居た。
それゆえ、一般の娘のようではなく、おつぎの心にも男に対する恐れの幕を無理に引き払われる機会が、かつて一度も与えられなかった。
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それ故一般の子女のやうではなくおつぎの心にも男に對する恐怖の幕を無理に引拂はれる機會が嘗て一度も與へられなかつた。
おつぎは往来を行くとては、手拭いのかぶりようにも心を配るただの女である。
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おつぎは往來を行くとては手拭の被りやうにも心を配る只の女である。
それが家に帰れば、すぐに苦しい所帯の人にならねばならない。
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それが家に歸れば直に苦しい所帶の人に成らねばならぬ。
そこにおつぎの心は、別人のように異常に引き締められるのであった。
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そこにおつぎの心は別人の如く異常に引き緊められるのであつた。
また爽やかな初夏が来て、百姓は忙しくなった。
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復爽かな初夏が來て百姓は忙しくなつた。
おつぎは、死んだお品が地機に掛けたのだという弁慶縞のひとえを着て出るようになった。
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おつぎは死んだお品が地機に掛けたのだといふ辨慶縞の單衣を着て出るやうに成つた。
針を持つようになった時、おつぎはこれも自分の手で仕上げたのであった。
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針を持つやうに成つた時おつぎは此も自分の手で仕上たのであつた。
それはそばで見ていては危なそうな手元で、幾度か針の運びようを間違えてほどいたこともあったが、ついには体にしっくり合うようになっていた。
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夫は傍で見て居ては危な相な手もとで幾度か針の運びやうを間違つて解いたこともあつたが、遂には身體にしつくり合ふやうに成つて居た。
死んだお品は、おつぎが生まれたばかりですぐにかまどを別にして、みすぼらしい暮らしをしたので、当時は晴れ着であったそのひとえに身を包んでみる機会もなく、空しくしまったままになっていたのである。
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死んだお品はおつぎが生れたばかりに直に竈を別にして、不見目な生計をしたので當時は晴の衣物であつた其の單衣に身を包んで見る機會もなく空しく藏つた儘になつて居たのである。
それに、そのころは紺が七日からもたたなければ沸かないような藍瓶で染められたので、今のふつうの反物のように、水で落ちないかと思えば日に褪せるというのではなく、勘次が言ったように洗濯してもかえって冴えるようなので、それに生地もしっかりと丈夫なものであった。
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それに其の頃は紺が七日からも經たねば沸ないやうな藍瓶で染られたので、今の普通の反物のやうな水で落ちないかと思へば日に褪めるといふのではなく、勘次がいつたやうに洗濯しても却て冴えるやうなので、それに地質もしつかりと丈夫なものであつた。
おつぎが洗いざらしの袷を捨てて、弁慶縞のひとえで出るようになってからは、ひときわ人の注目を引いた。
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おつぎが洗ひ曝しの袷を棄てゝ辨慶縞の單衣で出るやうに成つてからは一際人の注目を惹いた。
例の赤いたすきが後ろで交差して、袖を短くしごき上げる。
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例の赤い襷が後で交叉して袖を短く扱あげる。
そのしごき上げられた肩は、着物の皺で少し張って、体をしっかりとさせて見せる。
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其扱きあげられた肩は衣物の皴で少し張つて身體を確乎とさせて見せる。
現れた腕には、紺の手甲が着けられてある。
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現れた腕には紺の手刺が穿たれてある。
ようやく暑い日をいとって、おつぎは白い菅笠をかぶった。
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漸く暑い日を厭うておつぎは白い菅笠を戴いた。
白い菅笠は雨にさらされればそれで破れてしまうので、夏のはじめには必ずどこでも新しいのに換えられるのである。
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白い菅笠は雨に曝されゝばそれで破れて畢ふので、夏のはじめには屹度何處でも新しいのに換られるのである。
おつぎは勘次に引かれて、麦のうね間を耕した。
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おつぎは勘次に引かれて麥の畦間を耕した。
鍬を入れるのが手遅れになった麦は、穂が白く出ている。
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鍬を入れるのが手後れになつた麥は穗が白く出て居る。
時々立って、鍬についた土を足の底でしごき下ろすおつぎの姿が、さやさやとかすかな音を立てて動く白い穂の上に見える。
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時々立つて鍬に附いた土を足の底で扱きおろすおつぎの姿がさや/\と微かな響を立てゝ動く白い穗の上に見える。
よそをちょっと見るたびに、大きな菅笠がぐるりと動く。
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餘所を一寸見る度に大きな菅笠がぐるりと動く。
菅笠は日を避けるのみではなく、女のためには風情ある飾りである。
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菅笠は日を避けるのみではなく女の爲には風情ある飾である。
髪には白い手拭いをかぶって、笠の竹骨がその髪を押さえる時に、そこには小さな比較的厚い布団が置かれてある。
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髮には白い手拭を被つて笠の竹骨が其の髮を抑へる時に其處には小さな比較的厚い蒲團が置かれてある。
そういう間隔を保って、菅笠は前かがみに高く据えられるのである。
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さういふ間隔を保つて菅笠は前屈みに高く据ゑられるのである。
女らはみな、わずかな休憩時間にも汗を拭うには笠を取って地上に置く。
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女等は皆少時の休憩時間にも汗を拭ふには笠をとつて地上に置く。
一つには紐の汚れるのをいとって、必ず逆さにして裏を見せるのである。
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一つには紐の汚れるのを厭うて屹度倒にして裏を見せるのである。
そうして、厚い笠布団の赤い切れが丸く、白い笠の中央に黒いくけ紐と調和を保つのである。
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さうして厚い笠蒲團の赤い切が丸く白い笠の中央に黒い絎紐と調和を保つのである。
おつぎの笠布団は、赤や黄や青の小さな切れを集めて縫ったのであった。
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おつぎの笠蒲團は赤や黄や青の小さな切を聚めて縫つたのであつた。
しかし、おつぎの帯だけは古かった。
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然しおつぎの帶だけは古かつた。
よその女の子はたいてい、きれいな赤い帯を締めて、ぐるりとまくり上げた着物の裾は帯の結び目の下へ入れて、ひたすら後ろ姿を気にするのである。
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餘所の女の子は大抵は綺麗な赤い帶を締めて、ぐるりと褰げた衣物の裾は帶の結び目の下へ入れて只管に後姿を氣にするのである。
いっぱいに青く茂った桑畑などに、白い大きな菅笠と赤い帯との後ろ姿が、ことには空から投げる強い日光に反射して、その赤い帯が燃えるように見えたり、菅笠がさらに大きく白く光ったりする時には、さすがに人の目を引かねばならない。
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一杯に青く茂つた桑畑抔に白い大きな菅笠と赤い帶との後姿が、殊には空から投げる強い日光に反映して其の赤い帶が燃えるやうに見えたり、菅笠が更に大きく白く光つたりする時には有繋に人の目を惹かねばならぬ。
彼女らの姿はこうして遠く隔てて見るべきものであるが、しかしながらその近づいた時でも、跳ね上げられた笠の後ろには、両頬へ垂れて、そうしてその黒いくけ紐で締められた手拭いの隙間から少し乱れた髪がのぞいていて、そこにも一種の風情が見いだされねばならない。
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彼等の姿は斯くして遠く隔てゝ見るべきものであるが然しながら其の近づいた時でも、跳ねあげられた笠の後には兩頬へ垂れてさうして其の黒い絎紐で締められた手拭の隙間から少し亂れた髮が覗いて居て其處にも一種の風情が發見されねばならぬ。
雨を含んだ雲が時々遮るとはいえ、暑い日のもとに黄色く熟した麦が刈られた時、畑はからりとなって、境木に植えられてある卯木のびっしりとついた白い花が、そこにもここにも目に立って、にわかに広々としたことを感じるとともに、遮るものがなくなるだけ、目に入る女の姿が増えるのである。
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雨を含んだ雲が時々遮るとはいへ、暑い日のもとに黄熟した麥が刈られた時畑はからりと成つて境木に植られてある卯木のびつしりと附いた白い花が其處にも此處にも目に立つて、俄に濶々としたことを感ずると共に支へるものが無くなる丈目に入る女の姿が殖えるのである。
彼女らはわずかな休憩にも、必ず刈り倒した麦を尻に敷いて、その白い卯木の下に少しでも日を避ける。
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彼等は少時の休憩にも必ず刈り倒した麥を臀に敷いて其の白い卯木の下に僅でも日を避ける。
とうてい彼女らの白い菅笠と赤い帯とは、広い野を飾る大輪の花でなければならない。
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到底彼等の白い菅笠と赤い帶とは廣い野を飾る大輪の花でなければならぬ。
その一つの要件が、おつぎには欠けていた。
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其の一つの要件がおつぎには缺けて居た。
暑い気候は百姓のすべてを、その狭苦しい住まいから遠く野に誘って、互いにその青春のつやつやした面影に憧れさせるのに、そうして刺の生えた野茨さえ白い衣を飾って、快くひたひたと抱き合っては互いにうなずきながら尽きない思いをささやいているのに、おつぎはかつて青年との間に一言を交わすことさえ、その権利を押さえられていた。
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暑い氣候は百姓の凡てを其狹苦い住居から遠く野に誘うて、相互に其青春のつやゝかな俤に憧憬しめるのに、さうして刺の生えた野茨さへ白い衣を飾つて快よいひた/\と抱き合ては互に首肯きながら竭きない思を私語いて居るのに、おつぎは嘗て青年との間に一語を交へることさへ其權能を抑へられて居た。
いずれにしても、おつぎの心にはさすがにかすかな不足を感じるのであった。
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孰れにしてもおつぎの心には有繋に微かな不足を感ずるのであつた。
勘次は洗いざらしの襦袢をふんどし一つの裸へ引っ掛けて、船頭がかぶるような藺草の編み笠へ麻の紐をつけている。
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勘次は洗ひ曝しの襦袢を褌一つの裸へ引つ掛て、船頭が被るやうな藺草の編笠へ麻の紐を附けて居る。
勘次に導かれて、おつぎは仕事が著しく上手になった。
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勘次に導かれておつぎは仕事が著るしく上手になつた。
おつぎが畑へ行き来する時は、村の女房らはよく言った。
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おつぎが畑へ往來する時は村の女房等は能くいつた。
「何とまあ、おっかさんに似て来たことかな。歩きつきまでそっくりだ」
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「何ちう、おつかさまに似て來たこつたかな、歩きつきまでそつくりだ」
「そばかすがぽちぽちしてる所までなあ」
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「雀斑がぽち/\してつ處までなあ」
お品には、目と鼻のあたりにそばかすが少しあったのである。
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お品には目と鼻のあたりに雀斑が少しあつたのである。
おつぎにもそれがそのままで、にっこりする時にはそれがかえって色気をつくらせた。
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おつぎにも其れがその儘で嫣然とする時にはそれが却て科をつくらせた。
「勘次さん、わけのないもんだな。まだこの間だと思ってたのにな。嫁にやってもいいくらいじゃないかい。お品さんもお前、これくらいの時じゃなかったっけかい」
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「勘次さん譯のねえもんだな、まあだ此間だと思つてたのにな、嫁にやつてもえゝ位ぢやねえけえ、お品さんもおめえ此位の時ぢやなかつたつけかよ」
女房らはまた、からかい半分にこういうことも言った。
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女房等は又揶揄半分に恁ういふこともいつた。
おつぎは、勘次がそう言われる時いつも赤い顔をして、よそを向いてしまうのである。
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おつぎは勘次がさういはれる時何時も赤い顏をして餘所を向いて畢ふのである。
勘次はお品のことを言われるたびに、おつぎの体をそう思ってはつくづくと見るたびに、お品の記憶が呼び返されて、一種の堪えがたい刺激を感じざるを得ない。
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勘次はお品のことをいはれる度に、おつぎの身體をさう思つては熟々と見る度に、お品の記憶が喚返されて一種の堪へ難い刺戟を感ぜざるを得ない。
それと同時に、女房がほしいという切ない思いを湧かすのである。
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それと同時に女房が欲しいといふ切ない念慮を湧かすのである。
遠慮のない女房らにお品の話をされるのは、いたずらに哀愁を催すに過ぎないのであるが、また一方には話をしてみてもらいたいような心持ちもしてならないことがあった。
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遠慮の無い女房等にお品の噺をされるのは徒らに哀愁を催すに過ぎないのであるが、又一方には噺をして見て貰ひたいやうな心持もしてならぬことがあつた。
「勘次さん、どうしたい、いい塩梅のがあるんだが、後を持ってもよくないかい」
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「勘次さんどうしたい、えゝ鹽梅のが有んだが後持つてもよかねえかえ」
と、彼に女房を世話しようという者は、お品が死んでから間もなくいくらもあった。
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と彼に女房を周旋しようといふ者はお品が死んでから間もなく幾らもあつた。
勘次はただお品にのみ焦がれていたのであるが、だんだん日数がたって不自由を感じるとともに、耳をそばだててそういう話を聞くようになった。
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勘次は只お品にのみ焦れて居たのであるが、段々日數が經つて不自由を感ずると共に耳を聳てゝさういふ噺を聞くやうに成つた。
しかし、そんな話をして聞かせる人々は、勘次のひどい貧乏なのと、二人の子があるのとで、とうてい後妻は居つけないという見越しが先に立って、心底から世話をしようというのではない。
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然し其麽噺をして聞かせる人々は勘次の酷い貧乏なのと、二人の子が有るのとで到底後妻は居つかれないといふ見越が先に立つて、心底から周旋を仕ようといふのではない。
ただ暇を惜しがる勘次が、どこへでも鍬や鎌を捨てて釣り込まれるので、つい、いたずらにじらしてみるのである。
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唯暇を惜しがる勘次が何處へでも鍬や鎌を棄てゝ釣込まれるので遂惡戯にじらして見るのである。
ことに、おつぎが大きくなればなるほど、その働きが目に立てば立つほど、後妻には居づらい所だと人は思った。
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殊におつぎが大きくなればなる程、其の働きが目に立てば立つ程後妻には居憎い處だと人は思つた。
貧乏所帯へ後妻にでもなろうという者には、実際ろくな者はないというのが一般の断定であった。
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貧乏世帶へ後妻にでもならうといふものには實際碌な者は無いといふのが一般の斷案であつた。
他人はただ彼の心をいらだたせた。
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他人は只彼の心を苛立たせた。
そうして彼の並外れた態度が、かえっていたずら好きの心を挑発するのみであった。
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さうして彼の尋常外れた態度が、却て惡戯好きの心を挑發するのみであつた。
「ままよう、ままようでえ、ままあな、ら、ぬう」
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「まゝよう、まゝようでえ、まゝあな、ら、ぬう」
勘次が小声で唄って行くのが、どうかすると人の耳にも響くようになった。
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勘次は小聲で唄うて行くのがどうかすると人の耳にも響くやうに成つた。
そのころは勘次の庭の栗のこずえも、それに繁殖して残酷に葉を食い荒らす栗毛虫のような毒々しい花がようやく白くなって、どこの村にもふっさりとした青葉のこずえから、栗の木が比較的に多いことを示して、その白い花が目についた。
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其の頃は勘次の庭の栗の梢も、それへ繁殖して残酷に葉を喰ひ荒す栗毛蟲のやうな毒々しい花が漸く白く成つて、何處の村落にもふつさりとした青葉の梢から栗の木が比較的に多いことを示して其の白い花が目についた。
村を埋めているこずえから、ふわふわと湯気が立ち上ろうという形に、栗の花はいっぱいである。
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村落を埋めて居る梢からふわ/\と蒸氣が立ち騰らうといふ形に栗の花は一杯である。
空は降らないながらに低い雲がわだかまって、時々、目に鮮やかで、かつ黒ずんだ青葉の上に、かっと黄色い明るい光を投げる。
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空は降らないながらに低い雲が蟠つて、時々目に鮮かで且黒ずんだ青葉の上にかつと黄色な明るい光を投げる。
どこということなく湿っぽく、頭を押さえるように重苦しい感じがする。
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何處となく濕つぽく頭を抑へるやうに重苦しい感じがする。
ことごとく畑へ走った村の中には、まれにそういう青葉の間に鯉のぼりがばさばさとひるがえってはぐたりとなって、それが朝から長い日を一日、そうしてその家族が、日は沈んだにしてもいつになくまだ明るいうちに湯を浴びて、女までが裂いた菖蒲を髪に巻いて、忙しい日と日の間をそれでも晴れ着の姿になる、端午の日の来るのをけだるげに待っている。
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悉く畑へ走つた村落の内には稀にさういふ青葉の間に鯉幟がばさ/\と飜つてはぐたりと成つて、それが朝から永い日を一日、さうして其の家族が日は沒したにしても何時になくまだ明るい内に浴みをして女までが裂いた菖蒲を髮に卷いて、忙しい日と日の間をそれでも晴衣の姿になる端午の日の來るのを懶げに待つて居る。
そういう青葉の村から村を、女の飴屋が太鼓を叩いて歩いた。
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さういふ青葉の村落から村落を女の飴屋が太皷を叩いて歩いた。
空き家ばかりの村を、雨が降らなければ女は端から端へと唄って歩く。
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明屋ばかりの村落を雨が降らねば女は端から端と唄うて歩く。
勘次が唄ったのは、その女の唄である。
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勘次が唄うたのは其の女の唄である。
女は声を高く唄っては、また声を低くしてその句を繰り返す。
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女は聲を高く唄うては又聲を低くして其の句を反覆する。
その唄う所は、毎日ただこの一句に限られていた。
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其の唄ふ處は毎日唯此の一句に限られて居た。
女は年増で、一人の子を背負っている。
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女は年増で一人の子を負うて居る。
鬼怒川を行き来する高瀬舟の船頭がかぶる編み笠をかぶって、洗いざらしのひとえを、裾は左の小褄を取って帯へ挟んだだけで、飴は箱へ入れて肩から掛けてある。
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鬼怒川を徃復する高瀬船の船頭が被る編笠を戴いて、洗ひ曝しの單衣を裾は左の小褄をとつて帶へ挾んだ丈で、飴は箱へ入れて肩から掛けてある。
暗い日は、笠の編み目を透して女の顔に細い強い線を描く。
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暮い日は笠の編目を透して女の顏に細い強い線を描く。
女の顔はやつれていた。
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女の顏は窶れて居た。
子はおおかた眠っていた。
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子は概ね眠つて居た。
耳元で鳴る太鼓のやかましい音と、おふくろの唄う声とが、いつとはなしに誘ったのであったかもしれない。
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耳もとで鳴る太皷の喧しい音とお袋の唄ふ聲とがいつとはなしに誘つたのであつたかも知れぬ。
首はむしろ逆さに垂れて、額がいつでも暑い日に照らされて汗ばんでいた。
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首は寧ろ倒に垂れて額がいつでも暑い日に照られて汗ばんで居た。
百姓はみな、このみすぼらしい女を顧みなかった。
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百姓は皆此の見窄しい女を顧みなかつた。
村から村へ野を渡る時、女の姿は人目を引くべき要点が一つも備わっていなかった。
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村落から村落へ野を渡る時女の姿は人目を惹くべき要點が一つも備はつて居なかつた。
しかしいつの間にか、人が遠くから見るようになった。
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然しいつの間にか人が遠くより見るやうに成つた。
行き違う女房らは、額に照らされて眠っている子を見て、痛々しいと思うのであった。
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行き違ふ女房等は額に照られて眠つて居る子を見て痛々敷と思ふのであつた。
女は唄わなくても太鼓の音が村の子を遠くから誘うのに、気の乗らない唄いようをして、ただその一句を繰り返すのである。
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女は唄はなくても太皷の音が村落の子を遠くから誘ふのに氣の乘らぬ唄ひやうをして只其の一句を反覆のである。
女は背中の子が眠っているのを喜んで、その子がどんな格好であるかは気づかない。
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女は背中の子が眠つて居るのを悦んで其の子が什麽姿であるかは心付かない。
ただ小さな銅貨を持って走って来る村の子を待ちながら、誘いながら歩くのである。
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只小さな銅貨を持つて走つて來る村落の子を待ちつゝ誘ひつゝ歩くのである。
女がどこから出てどう行くのかということも、忙しくただ田畑で働いている百姓の間には知られなかった。
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女は何處から出てどう行くといふことも忙しく只田畑に勞働して居る百姓の間には知られなかつた。
毎日そうして歩いていた女が、知りたがり聞きたがる女房らの間で、めいめいに口やかましい陰の噂をたくましくされると間もなく、ある日村外れの青葉の中へ太鼓の音と唄の声とが遠くかすかに消え去ったきり、やがて梅雨がおびただしく、かつ毒々しいその栗の花の腐るまではと降り出したので、その女の汚らしいやつれた姿は再び見られなかった。
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毎日さうして歩いて居た女が知りたがり聞きたがる女房等の間に、各自に口喧しい陰占を逞しくされると間もなく、或日村外れの青葉の中へ太皷の音と唄の聲とが遠く微かに沒し去つた切り、軈て梅雨が夥しく且つ毒々しい其の栗の花の腐るまではと降り出したので其の女の穢げな窶れた姿は再び見られなかつた。
勘次は耳の底に響いたその句を、独り感に堪えたように唄っては行くのである。
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勘次は耳の底に響いた其の句を獨り感に堪へたやうに唄うては行くのである。
彼は自分の声が高いと思った時、他人に聞かれることを恥じるように、突然あたりを見ることがあった。
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彼は自分の聲が高いと思つた時他人に聞かれることを恥づるやうに突然あたりを見ることがあつた。
曲がり角でひょいと会う時、それが口軽な女房であれば、二、三歩やり過ごしては
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曲り角でひよつと逢ふ時それが口輕な女房であれば二三歩行り過しては
「どうしたい、勘次さん、あの女に焦がれたんじゃあるまい。もっとも年ごろは持って来いだから、連れ子の一人くらいは我慢もできらあな。そんだが、あれっきり来なくなっちまって困ったな」
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「どうしたえ、勘次さん彼女げ焦れたんぢやあんめえ、尤も年頃は持つゝけだから連つ子の一人位は我慢も出來らあな、そんだがあれつ切り來なくなつちやつて困つたな」
と遠慮もなくからかっては、少し隔たるとわざと声を立ててその句を唄ったりする。
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と遠慮もなく揶揄うては、少し隔たると態と聲を立てゝ其の句を唄つたりする。
そうすると勘次は、家に帰るまで一句も唄わない。
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さうすると勘次は家に歸るまで一句も唄はない。
しかし彼は、しばらくそれを唄うことを止めなかった。
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然し彼は暫くそれを唄ふことを止めなかつた。
彼はただ、女房がほしいほしいとのみ思った。
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彼は只女房が欲い/\とのみ思つた。
九
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九
勘次は依然として、苦しい生活の外に一歩も逃れ去ることができないでいる。
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勘次は依然として苦しい生活の外に一歩も遁れ去ることが出來ないで居る。
お品が死んだ時、理由を言って借りた小作米の滞りも、まだ一粒も返してない。
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お品が死んだ時理由をいうて借りた小作米の滯りもまだ一粒も返してない。
大暑の日が井戸の水まで減らして炒りつけるころは、それまでに幾度か勘次の穀桶は空になるのである。
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大暑の日が井戸の水まで減らして炒りつける頃はそれまでに幾度か勘次の穀桶は空に成るのである。
彼は一般の百姓がすることはしなくてはならないので、ことには副食物として必要なので、茄子や南瓜や胡瓜や、そういう物も一通りは作った。
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彼は一般の百姓がすることは仕なくては成らないので、殊には副食物として必要なので茄子や南瓜や胡瓜やさういふ物も一通りは作つた。
彼は村外れの櫟林のそばにいたので、自分の家の近くにはそういう物を作る畑が一枚もなかった。
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彼は村外れの櫟林の側に居たので自分の家の近くにはさういふ物を作る畑が一枚もなかつた。
それでも胡瓜だけは垣根の内側へ一列に植えて、後ろの林に交じった短い竹を伐って支柱に立てた。
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それでも胡瓜だけは垣根の内側へ一列に植ゑて後の林に交つた短い竹を伐つて手に立てた。
竹の立っている林は彼のものではないけれど、彼はこうして必要のたびごとに、しいては隠さない盗みを敢えてするのである。
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竹の立つてる林は彼の所有ではないけれど、彼は恁うして必要の度毎に強ひては隱さない盜みを敢てするのである。
南瓜も庭の隅へ、粟殻で囲った厠のそばへ植えた。
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南瓜も庭の隅へ粟幹で圍うた厠の側へ植ゑた。
それから庭の栗の木へも絡ませた。
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それから庭の栗の木へも絡ませた。
茄子だけは遠い畑の、麦のうね間へ植えた。
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茄子だけは遠い畑の麥の畦間へ植ゑた。
彼はさつまいものほかには、とうていそういうすべての苗を仕立てることができないので、また立派な苗を買いに行くだけの余裕もないので、様子から見れば近くの村ではあるが、どことも確かには知れない天秤商人からそれを求めた。
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彼は甘藷の外には到底さういふ凡ての苗を仕立てることが出來ないので、又立派な苗を買ひに行く丈の餘裕もないので、容子から見れば近村ではあるが何處とも確乎とは知れない天秤商人からそれを求めた。
天秤商人の持って来るのは、たいてい屑ばかりである。
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天秤商人の持つて來るのは大抵屑ばかりである。
それでも勘次は安いのを喜んだ。
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それでも勘次は廉いのを悦んだ。
彼はそのわずかな銭を幾度か勘定して渡した。
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彼は其の僅な錢を幾度か勘定して渡した。
麦が刈られて、その束が両端を切りそいだ竹の棒へ通して畑の外へかつぎ出された時、跡には陸稲や大豆がひょろひょろと青ばんだ畑に、勘次の茄子は短いうねが五うねばかりになって立っていた。
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麥が刈られて其の束が兩端を切つ殺いだ竹の棒へ透して畑の外へ擔ぎ出された時、趾には陸稻や大豆がひよろ/\と青ばんだ畑に勘次の茄子は短い畝が五畝ばかりになつて立つて居た。
下葉は黄色くなっていたが、それでも麦がしばらく日を覆ったので、みな根づいて育ちかけていた。
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下葉は黄色くなつて居たがそれでも麥が暫く日を掩うたので皆根づいて生長しかけて居た。
たとえやせさせないまでも、肥やして行くことをしない畑の土に、茄子はしなびて、それでところどころに一つずつ花を持っていた。
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假令痩せさせないまでも肥して行くことをしない畑の土に茄子は干稻びてそれで處々に一つ宛花を持つて居た。
勘次は朝のまだ涼しい、葉に湿りのある間に、かまどの灰を持って行ってその葉に掛けてやるだけの手間は尽くしたのである。
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勘次は朝のまだ凉しい、葉に濕りのある間に竈の灰を持つて行つて其の葉に掛けて遣る丈の手數は竭したのである。
それで、いくらでも活発に動き回るうりはむしは防がれた。
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それで幾らでも活溌に運動する瓜葉蟲は防がれた。
それは羽が赤いので、赤蠅と土地では言っている。
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それは羽が赤いので赤蠅と土地ではいつて居る。
木の灰では、油虫の湧くのはどうもできなかった。
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木の灰では油蟲の湧くのはどうも出來なかつた。
それからまた、根切り虫が残酷に堅い茎を根元からぷつりとかみ倒して、植えた数が減るにもかかわらず、彼は遠く畑に出て、土に潜んでいるその憎むべき害虫を探し出して、その丈夫な体をひしぎ潰してやるだけの余裕を、体にも心にも持っていない。
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それから又根切蟲が残酷に堅い莖を根もとからぷきりと噛み倒して植た數の減るにも拘らず、彼は遠く畑に出て土に潜伏して居る其憎むべき害蟲を探し出して其丈夫な體をひしぎ潰して遣る丈の餘裕を身體にも心にも持つて居ない。
垣根の胡瓜は、季節の南風が吹いて、朝の靄がしっとりと乾いた庭の土を湿して下りると、何をひがんでか葉の陰に下がる瓜が、しぼんだ花の取れないうちに尻が曲がって、たちまちに蔓も葉もがらがらに枯れてしまったのであった。
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垣根の胡瓜は季節の南が吹いて、朝の靄がしつとりと乾いた庭の土を濕しておりると何を僻んでか葉の陰に下る瓜が、萎んだ花のとれぬうちに尻が曲つて忽ちに蔓も葉もがら/\に枯て畢つたのであつた。
ただ南瓜だけは、その特有の大きな葉をずんずんと広げて、蔓の先がたちまちに厠の低いひさしから垂れた。
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只南瓜だけは其の特有の大きな葉をずん/\と擴げて蔓の先が忽ちに厠の低い廂から垂れた。
ことに栗の木に絡んだのは、白昼の忘れるほど長い間、雨戸は閉じたままで、たとえ油蝉が炒りつけるようにそこらの木ごとにしがみついて声のかぎり鳴いたにしたところで、すべてが暑さに疲れたようで、むしろきわめてひっそりとした庭をのぞいては、葉の陰ながら、だんだんに日に焼けながら太りながら、尻のへそをむき出してどっしりと枝から垂れ下がった。
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殊に栗の木に絡んだのは白晝の忘れる程長い間雨戸は閉ぢた儘で、假令油蝉が炒りつけるやうに其處らの木毎にしがみ附いて聲を限りに鳴いたにした處で、凡てが暑さに疲れたやうで寧ろ極めて閑寂な庭を覗いては、葉の陰ながら段々に日に燒けつゝ太りつゝ臀の臍を剥き出してどつしりと枝から垂れ下つた。
それがわずかに庭に威勢をつけている。
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それが僅に庭に威勢をつけて居る。
一般にそうではあるが、ことに勘次の手に作られた野菜は、すべてその実りが遅れた。
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一般にさうではあるが殊に勘次の手に作られた蔬菜は凡て其の成熟が後れた。
それで、その野菜が包丁にかかるまでは、口にこそばゆい干し菜や切り干しや、それも不足を告げれば、これでも彼らのはかない蓄えの心をもっとも発揮した菜や大根の塩辛い漬物の桶にのみ、その副食物を求めるのである。
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それで其の蔬菜が庖丁にかゝる間は口にこそつぱい干菜や切干やそれも缺乏を告げれば、此れでも彼等の果敢ない貯蓄心を最も發揮した菜や大根の鹽辛い漬物の桶にのみ其の副食物を求めるのである。
彼らは労働から来る空腹を意識する時は、ちょっとも動くことのできないほど、にわかに疲れを感じることさえある。
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彼等は勞働から來る空腹を意識する時は一寸も動くことの出來ない程俄に疲勞を感ずることさへある。
どんな粗末な物でも、彼らの口には問題ではない。
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什麽麁末な物でも彼等の口には問題ではない。
彼らは味わうのではなくて、要するに喉の穴を埋めるのである。
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彼等は味ふのではなくて要するに咽喉の孔を埋めるのである。
冷たい水を注いで、そのぽろぽろな麦飯をかき込む時、彼らの一人もかみしめる者はない。
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冷水を注いで其のぼろ/\な麥飯を掻き込む時彼等の一人でも咀嚼するものはない。
彼らはただ、多量に飲み下すことによってその精力を回復し、満足するのである。
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彼等は只多量に嚥下することによつて其の精力を恢復し滿足するのである。
牛や馬でも、地上に柔らかな草の茂る季節が来れば、自然に干し草や藁を嫌うようになる。
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牛や馬でも地上に軟かな草の繁茂する季節が來れば自然に乾草や藁を厭ふやうになる。
それが、貧しい生活の人々のみはこうして甘んじていることを余儀なくされているのである。
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それが貧しい生活の人人のみは恁うして甘んじて居ることを餘儀なくされつゝあるのである。
しかし、いずれも汗をかくのに伴って渇いた口に、爽やかな野菜の味を欲しない者はない。
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然し孰れも發汗に伴うて渇した口に爽かな蔬菜の味を欲しないものはない。
貧しさに悩んで、そうしてその野菜の不足を感じている者は、勘次のみではない。
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貧苦に惱んでさうして其の蔬菜の缺乏を感じて居るものは勘次のみではない。
そういう仲間の、ことに女は、人目の少ないたそがれの小道につやつやした青物を見ると、つい、した料簡からそれをちぎって前垂れに隠して来ることがある。
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さういふ伴侶の殊に女は人目の少い黄昏の小徑につやゝかな青物を見ると遂した料簡からそれを拗切つて前垂に隱して來ることがある。
畑の作り主が、その損失以外にそれを惜しむ心から陰で勢い激しく怒ろうとも、それは顧みる暇を持たない。
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畑の作主が其損失以外にそれを惜む心から蔭で勢ひ激しく怒らうともそれは顧みる暇を有たない。
勘次のやせた茄子畑も、そうして襲われた。
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勘次の痩せた茄子畑もさうして襲はれた。
その茎を痛めても構わないちぎりようを見て、失望と憤りの情とを自然に味わわざるを得なかった。
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其の莖を痛めても構はぬ拗切りやうを見て失望と憤懣の情とを自然に經驗せざるを得なかつた。
しかしながら彼は、つくづくと忌々しいその心持ちを知り尽くしていながら、自分もまた他人の隙に乗じることを敢えてするのであった。
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然しながら彼はつく/″\と忌々敷い其心持に熟して居ながら自分も亦他の虚に乘ずることを敢てするのであつた。
一つには、どうせ他人にも盗られるのだからという自暴自棄の理屈が、心のうちにこしらえられるのである。
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一つにはどうで他人にも盜られるのだからといふ自暴自棄の理窟が心のうちに捏造されるのである。
一つには、良心のとがめをよそにして、そうしてまたそれがどこまでも見つけられないものであるならば、他人の物を盗ることは、口腹の欲を満足させるには容易で、かつ手軽な手段でなければならないはずである。
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一つには良心の苛責を餘所にしてさうして又それが何處までも發見せられないものであるならば他人の物を盜ることは口腹の慾を滿足せしむるには容易で且輕便な手段でなければならぬ筈である。
こういう理由で、比較的余裕のある百姓よりも貧乏な百姓は、十分早く、しかも幾度もその新鮮な野菜を味わうのである。
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恁ういふ理由で比較的餘裕のある百姓よりも貧乏な百姓は十分早く然かも數次其の新鮮な蔬菜を味ふのである。
たまたま市場に遠く、馬の背で運ぶ者は、その実りの時期を早めたつやつやしたものがいくらあっても、自分の口には入れない。
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偶市場に遠く馬の脊で運ぶ者は其の成熟の期を早めたつやゝかな數が幾ら有つても自分の口には入れない。
少しずつでも、ほかの必要品を求めるために銭に換えようとするのである。
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少しづゝでも他の必要品を求める爲に錢に換へようとするのである。
季節が熟さなければ収穫の多量を望むことができないので、彼らが食料として畑へ手をつけるのは、すべてが存分の生育を遂げた後でなければならない。
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季節が熟さねば收穫の多量を望むことが出來ないので、彼等が食料として畑へ手をつけるのは凡てが存分の生育を遂げた後でなければならぬ。
そこが、互いに盗む者をして乗じさせる機会である。
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其處が相互に盜むものをして乘ぜしめる機會である。
与吉は、よく貧乏な仲間の子がうまそうに青物をかじっているのを見て、おつぎにねだることがあった。
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與吉は能く貧乏な伴侶の子が佳味相に青物を噛つて居るのを見ておつぎに強請むことがあつた。
勘次の家では、どうかすると朝になって大きな南瓜が土間に転がっていることがある。
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勘次の家ではどうかすると朝に成つて大きな南瓜が土間に轉がつて居ることがある。
それで庭の南瓜は一つも減っていない。
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それで庭の南瓜は一つも減つて居ない。
「これはどうしたんだい、おとっつあん」
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「こらどうしたんでえおとつゝあ」
与吉は喜んで、危なそうに抱いては聞く。
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與吉は悦んで危な相に抱いては聞く。
「いじるんじゃない」
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「弄んぢやねえ」
勘次はただ恐ろしい目をして、叱るように押さえる。
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勘次は只恐ろしい目をして叱るやうに抑へる。
勘次は、まだ肌の白く、かつ薄赤みを帯びた人形の手足のようなさつまいもを飯へ炊き込むことがあった。
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勘次はまだ肌の白く且薄赤味を帶びた人形の手足のやうな甘藷を飯へ炊き込むことがあつた。
「うまいな」
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「佳味えな」
とおつぎが言った時
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とおつぎがいつた時
「〆粕で作るからよ」
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「〆粕で作つからよ」
勘次は言った。
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勘次はいつた。
「旦那じゃ、〆粕ばかり使うんだろうか」
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「旦那ぢや、〆粕許り使あんだつぺか」
おつぎは自分の知らない高い肥料のことについて聞いた。
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おつぎは自分の知らぬ不廉な肥料のことに就いて聞いた。
勘次は気がついて
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勘次は氣がついて
「さつまいもを食ったなんて言うんじゃないぞ」
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「甘藷喰たなんていふんぢやねえぞ」
と与吉を戒めた。
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與吉を警めた。
勘次は、彼の大豆畑の近くに隣の主人のさつまいも畑と、それからその途中に南瓜畑があったので、ほかの畑の物よりも自然にそれを盗った。
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勘次は彼の大豆畑の近くに隣の主人の甘藷畑とそれから其の途中に南瓜畑があつたので、他の畑のものよりも自然にそれを盜つた。
少しずつ盗った。
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少しづつ盜つた。
南瓜は昼間見ておいて、夜になるとそっと蔓を引いて在りかを探すのである。
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南瓜は晝間見て置いて夜になるとそつと蔓を曳いて所在を探すのである。
さつまいもは、土をかき払って探し掘りにするのは気が急きすぎるので、ぐっと引き抜く。
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甘藷は土を掻つ掃いて探し掘りにするのは心が忙し過ぎるのでぐつと引き拔く。
彼は日中さつまいも畑のそばを過ぎては、自分の荒らした跡を見て心にひどいとは思うのであるが、それを埋めておくには心がとがめた。
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彼は日中甘藷畑の側を過ぎては自分の荒した趾を見て心に酷いとは思ふのであるがそれを埋て置くには心が咎めた。
こういう仲間は、千菜荒らしという名称のもとに呼ばれた。
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恁ういふ伴侶は千菜荒しといふ名稱の下に喚ばれた。
与吉は独りで村を遊んで歩いた。
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與吉は獨で村を遊んで歩いた。
秋が更けて、さつまいもが蒸されるようになった。
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秋が深けて甘藷が蒸されるやうに成つた。
与吉はよくそういう所へ行っては、ほしそうな顔をして黙って見ているので、どこでも熱いさつまいもが与えられるのであった。
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與吉は能くさういふ處へ行つては欲し相な顏をして默つて見て居るので何處でも熱い甘藷が與へられるのであつた。
ある時、彼は
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或時彼は
「おれは家でさつまいもを食ったなんて言わないんだ」
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「俺らあ家で甘藷くつたなんてゆはねえんだ」
と、さつまいもを手に持っておずおずと言った。
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甘藷を手に持つて怖づ/\いつた。
彼はただ嬉しかったのである。
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彼は只嬉しかつたのである。
「なぜ言わないんだ」
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「何故ゆはねえんだ」
与えた人は聞いた。
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與へた人は聞いた。
「なぜでもだ」
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「何故でもだ」
「そんじゃいい、そのさつまいもは取り返しちまうから」
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「そんぢやえゝ、其甘藷取つ返しつちまあから」
と驚かされて
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と驚かされて
「そんでも、おれの家のおとっつあんが、さつまいもを食ったなんて言うんじゃないぞって言ったんだ」
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「そんでも俺家のおとつゝあ甘藷喰つたなんてゆふんぢやねえぞつて云つたんだ」
与吉は媚びるような様子で言った。
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與吉は媚びるやうな容子でいつた。
「よきらの家のさつまいもはうまいか」
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「よきら家の甘藷うめえか」
「旦那のはうまいって言ったんだ」
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「旦那のがはうめえつて云つたんだ」
「おとっつあんが言ったのか、姉が言ったのか」
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「おとつゝあ云たのか姊云たのか」
「姉じゃない、おとっつあんだ」
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「姊ぢやねえ、おとつゝあだ」
「おとっつあんは家でさつまいもを食って、旦那のはうまいって言ったのか」
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「おとつゝあは家で甘藷くつて旦那のがうめえつちつたのか」
「そうなんだわ」
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「さうなんだわ」
無心な与吉は、誘い出されるままに言ってしまった。
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無心な與吉は誘ひ出されるまゝにいつて畢つた。
しかし互いに畑を荒らしては、やせた骨身をかじり合っているような彼らの間に、こんなことがなければ、ことさらに勘次ばかりが注目されるのではなかったのである。
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然し相互に畑を荒しては、痩せた骨身を噛り合うて居るやうな彼等の間にこんなことが無ければ殊更に勘次ばかりが注目されるのではなかつたのである。
一〇
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一〇
秋も、朝は冷ややかになった。
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秋も朝は冷かに成つた。
稲の穂は、北が吹けば南へ向いたり、南が吹けば北へ向いたりして、その重たそうな首を止まず動かしては、さらさらと寂しく笑いはじめた。
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稻の穗は北が吹けば南へ向いたり、南が吹けば北へ向いたりして其の重相な首を止まず動かしてはさら/\と寂しく笑ひはじめた。
強い秋の雨が一夜ざあざあと降った。
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強い秋の雨が一夜ざあ/\と降つた。
次の日には、空は少しの塵も止めないといったように凄いほど晴れて、山もめっきり近くなっていた。
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次の日には空は些の微粒物も止めないといつたやうに凄い程晴れて、山も滅切り近く成つて居た。
しっとりと落ち着いた空気を透して、日光が妙に肌へ揉み込むように暖かで、かつ暑かった。
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しつとりと落付いた空氣を透して、日光が妙に肌膚へ揉み込むやうに暖かで且つ暑かつた。
春のような日に騙されて、雲雀は、そっけない三角形の種が膨れながら、まだいっぱいに白い蕎麦畑や、それから陸稲畑の上にさえずった。
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春のやうな日に騙されて雲雀は、そつけない三稜形の種が膨れつゝまだ一杯に白い蕎麥畑やそれから陸稻畑の上に囀つた。
それでも、いくらか羽の動きが鈍くなっているのか、春のようではなく低くさまよって、しわがれた喉を鳴らしている。
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それでも幾らか羽の運動が鈍く成つて居るのか春のやうではなく低く徘徊うて皺嗄れた喉を鳴らして居る。
周りの台地からは、土瓶のふたを取ってつるべをごっと傾けたように、雨水がいっぱいに田に集まって、稲の穂先が少し浸った。
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周圍の臺地からは土瓶の蓋をとつて釣瓶をごつと傾けたやうに雨水が一杯に田に聚つて稻の穗首が少し浸つた。
田んぼも堀も一つになった水は、土瓶の口から吐き出すように、徐々に低い田へと落ちる。
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田圃も堀も一つに成つた水は土瓶の口から吐き出すやうに徐に低い田へと落る。
村の子供らは「三平ぴいつくぴいつく」
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村落の子供等は「三平ぴいつく/\」
と雲雀の鳴き声を真似しながら、小ざるを持ったり叉手網を持ったりして、じゃぶじゃぶと快い田んぼの水を渡って歩いた。
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と雲雀の鳴聲を眞似しながら、小笊を持つたり叉手を持つたりしてぢやぶ/\と快よい田圃の水を渉つて歩いた。
そこにはまた、これも春のような日に騙されて、とうに鳴かなくなっていた蛙がふわりと浮いては、こそばゆい稲の穂につかまりながら、げらげらと鳴いた。
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其處には又此れも春のやうな日に騙されて、疾から鳴かなく成つて居た蛙がふわりと浮いてはこそつぱい稻の穗に捉りながらげら/\と鳴いた。
いっぱいにふさがっている稲の穂の下を、そろそろとはいながら水が低くなった時、秋の日は落ちかけた。
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一杯に塞がつて居る稻の穗の下をそろ/\と偃ひながら水が低く成つた時秋の日は落ち掛けた。
そうして、いつでもその本能を突き動かす機会があれば鳴くのだと言って待っているその蛙も、ひっそりとした。
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さうして什麽時でも其の本能を衝動る機會があれば鳴くのだといつて待つて居る其の蛙もひつそりとした。
大雨の後の畑へは、百姓はたいてい控えめにして出なかった。
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大雨の後の畑へは百姓は大抵控へ目にして出なかつた。
勘次はたそがれ近くなってから、独りで草刈り籠を背負って出た。
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勘次は黄昏近くなつてから獨で草刈籠を背負つて出た。
彼はいつもの道へは出ないで、後ろの田んぼから林へ、それから遠く回り道して畑地へ出た。
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彼は何時もの道へは出ないで後の田圃から林へ、それから遠く迂廻して畑地へ出た。
日はまだほんのりと明るかったので、勘次はあっちこっちと空の草刈り籠を背負ったまま歩いた。
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日はまだほんのりと明るかつたので勘次はそつちこつちと空な草刈籠を背負つた儘歩いた。
彼はそれでも良心のとがめに対して、編み笠でその顔を隔てた。
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彼は其れでも良心の苛責に對して編笠で其の顏を隔てた。
日がとっぷりと暮れた時、彼は道端へ草刈り籠を下ろした。
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日がとつぷりと暮れた時彼は道端へ草刈籠を卸した。
そこには、畑の周りに一うねずつに作ったとうもろこしが丈高く突っ立っている。
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其處には畑の周圍に一畝づつに作つた蜀黍が丈高く突つ立つて居る。
草刈り籠がすっと地上に転がる時、とうもろこしの大きな葉へ触れてがさりと鳴った。
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草刈籠がすつと地上にこける時蜀黍の大な葉へ觸れてがさりと鳴つた。
さらにその葉は、どこにも感じない微風に揺れて、自分だけが怖がったように騒いでいる。
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更に其葉は何處にも感じない微風に動搖して自分のみが怖たやうに騷いで居る。
穂は、何を騒ぐのかといぶかるように、少し伏し目に見下ろしている。
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穗は何を騷ぐのかと訝るやうに少し俯目に見おろして居る。
勘次は菜切り包丁を取り出して、その高いとうもろこしの幹をぐっと曲げては、穂首に近く斜めに切った。
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勘次は菜切庖丁を取出して、其高い蜀黍の幹をぐつと曲ては穗首に近く斜に伐つた。
穂は勘次の手に止まって、幹は急に跳ね返った。
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穗は勘次の手に止つて幹は急に跳ね返つた。
そうして震えた。
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さうして戰慄した。
勘次は重くなった草刈り籠を背負って、今度は野の道を一散に自分の家へ帰った。
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勘次は重く成つた草刈籠を背負つて今度は野らの道を一散に自分の家へ歸つた。
次の朝、勘次は軒端へ横に竹を渡して、ゆっさりとするその穂を縛って打ち違いに掛けた。
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次の朝勘次は軒端へ横に竹を渡して、ゆつさりとする其の穗を縛つて打つ違ひに掛けた。
南へ低くなった日が、それをのぞくように差しかけた。
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南へ低くなつた日が其れを覗くやうに射し掛けた。
その日は、いずれも言い合わせたように畑へ出た。
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其の日は孰れもいひ合せたやうに畑へ出た。
一日照ったので、畑はたいていぱさぱさに乾いている。
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一日照つたので畑は大抵ぱさ/\に乾いて居る。
とうもろこしの穂を切りに出た村の一人は、自分の畑がざっくりと荒らされているのを見つけて驚いた。
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蜀黍の穗を伐りに出た村の一人は自分の畑がぞつくりと荒されて居るのを發見して驚いた。
彼は畑へ来たなり、穂は一本も切らないでそのまま駐在所へ駆けつけた。
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彼は畑へ來たなり穗は一本も伐らないで其の儘駐在所へ驅けつけた。
巡査はそれでも、すぐに官服を着て被害者といっしょに現場へ来て見て、切られた穂の数を改めて手帳へ書き止めた。
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巡査はそれでも直ぐに官服を着て被害者と一緒に現場へ來て見て伐られた穗の數を改めて手帖へ止めた。
被害者が駐在所へ駆けつける間に、畑の遠くに離れ離れに散らばっている百姓らは、ことごとくそれを知った。
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被害者が駐在所へ驅けつける間に、畑の遠くに離れ/″\に散らばつて居る百姓等は悉く其れを知つた。
被害者は道々大声を出して怒鳴って行ったからである。
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被害者は途次大聲を出して呶鳴つて行つたからである。
何でも昨夜遅く野から帰る者があったというが、それではそれに相違ないだろうということが伝えられた。
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なんでも昨夜遲く野らから歸るものが有つたといふがそれぢや其れに相違ないだらうといふことが傳へられた。
勘次も畑へ出ていて、騒ぎになりはじめたのを知った。
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勘次も畑へ出て居て騷ぎに成りはじめたのを知つた。
彼はすぐに飛んで帰って、ことごとくとうもろこしの穂を外して、そっと近くの林へ隠して、むしろを二枚ばかりかぶせた。
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彼は直に飛んで歸つて悉く蜀黍の穗を外して、そつと近くの林へ隱して筵を二枚ばかり掩うた。
「癖になるから、みっしり懲りさせたほうがいい。おれのほうは畑がやかましくて本当に仕方がない」
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「癖になつから、みつしら懲りらかした方がえゝ、俺方は畑が五月蠅くつて本當に仕やうねえ」
「見せしめに行く時には、こっぴどくやらなくちゃいけないよ」
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「見せしめに行つ時にや、こつぴどく行んなくつちやえかねえよ」
「村の中をようく見さえすりゃすぐに分かるさ。とうもろこしなんぞ、どこへ隠せるもんじゃない」
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「村落の内ようく見せえすりや直に分らな、蜀黍なんぞ何處へ隱せるもんぢやねえ」
などと、近い畑同士は怒鳴り合った。
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抔と近い畑同士は呶鳴り合つた。
その声は被害者の耳にも入って、むかむかと激したその心に勢いをつけた。
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其の聲は被害者の耳にも這入つてむか/\と激した其の心に勢ひを附けた。
「数が分かったら、もう後へ手をつけてもいい」
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「數が分つたらもう後へ手を附けてもえゝ」
巡査は畑を去った。
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巡査は畑を去つた。
「わしも行ってみましょう。自分の畑のは一目見りゃ分かりますから」
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「わしも行つて見あんせう、自分の畑のがは一目見りや分りあんすから」
こう言って、被害者はとうもろこしの穂を二、三本持って村へ戻った。
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恁ういつて被害者は蜀黍の穗を二三本持つて村落へ戻つた。
巡査はそこらここらと二、三軒見て歩いて、勘次の庭へ立った。
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巡査は其處ら此處らと二三軒見て歩いて勘次の庭へ立つた。
それは、勘次は二、三の者とともに巡査の注意人物であったからである。
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それは勘次は二三の者と共に巡査の注意人物であつたからである。
しかし彼の貧しい建物のどこにも、隠される余地を見つけることができなかった。
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然し彼の貧しい建物の何處にも隱匿される餘地を發見することが出來なかつた。
その時は、勘次がよそへ運んだ後なのである。
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其の時は勘次が餘所へ運んだ後なのである。
巡査は軒に渡した竹の棒を見て
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巡査は檐に渡した竹の棒を見て
「こりゃどうするんだい」
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「此りやどうするんだい」
と聞いた。
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と聞いた。
被害者はさっきから雨だれの水で土のくぼんだあたりを見ていたが
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被害者は先刻から雨垂の水で土の窪んだあたりを見て居たが
「はてな」
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「はてな」
と首をかしげて
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と首を傾けて
「とうもろこしの粒が落ちてありますぞ。そうするとここへ引っ掛けたのを、また、どこかへか持って行っちまったな」
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「蜀黍粒落つてあんすぞ、さうすつと此處へ引つ懸けたの又何處へか持つてつちやつたな」
被害者は言った。
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被害者はいつた。
巡査はうなずいた。
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巡査は首肯いた。
「この粒でがすから、わしのに相違ありません。あいつらのは、こんなにできっこないんですから。それ、証拠には、きっと自分の畑のは一つ穂でも切っちゃないから見なさい。わしのはこれでも〆粕を入れて作ったんでがすから」
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「此の粒でがすから、わしがに相違ありあんせん、彼等がな此んなに出來つこねえんですから、それ證據にや屹度自分の畑のがな一つ穗でも伐つちやねえから見さつせ、わしが此んでも〆粕入えて作つたんでがすから」
被害者は熱心に言った。
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被害者は熱心にいつた。
勘次はその時、不安な様子でぽつんと自分の庭に立った。
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勘次は其時不安な態度でぽつさりと自分の庭に立つた。
彼はすでに、巡査が軒下に立っているのを見てぞっとした。
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彼は既に巡査の檐下に立つてるのを見て悚然とした。
「勘次、この竹はどうしたんだな」
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「勘次、此の竹はどうしたんだな」
巡査は横目に勘次を見て言った。
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巡査は横目に勘次を見ていつた。
「わし、これらは、とうもろこしを切って引っ掛けようと思ったんでがす」
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「わし此らあ、蜀黍伐つて引つ懸けべと思つたんでがす」
「うん、この粒のこぼれたのはどうしたんだ。とうもろこしなんだろう、これは」
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「うむ、此の粒の零れたのはどうしたんだ、蜀黍なんだらう此れは」
「へえ、なに、わしが一つかみ引きしごいて来てみたのを、うっちゃったんでがした」
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「へえ、なに、わしが一攫み引つ扱いて來て見たの打棄つたんでがした」
勘次はこう言って青くなった。
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勘次は恁ういつて蒼く成つた。
巡査はさらに、被害者に勘次の畑を案内させた。
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巡査は更に被害者に勘次の畑を案内させた。
しょんぼりとして後についてくる勘次を、要らないからと巡査は邪険に叱って追いやった。
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悄然として後に跟いて來る勘次を要はないからと巡査は邪慳に叱つて逐ひやつた。
勘次の畑のとうもろこしは、被害者が言ったように、情けないようなみすぼらしい穂がさらりと立って、それでもその恐怖心に駆られたというように、特有な一種の騒がしい響きを立てつつあった。
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勘次の畑の蜀黍は被害者がいつたやうに、情ないやうな見窄らしい穗がさらりと立つてそれでも其の恐怖心に驅られたといふやうに特有な一種の騷がしい響を立てつゝあつた。
穂は一つも切ってはなかった。
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穗は一つも伐つてはなかつた。
「これだから、わしは言ったんでがす。ねえ、それ、この粒でがすからね」
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「此れだからわし云つたんでがす、ねえそれ、此の粒でがすかんね」
被害者は威勢が出た。
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被害者は威勢が出た。
「稲の束をかつぐんだって、わしらは口へ出しちゃ言わないが、ちゃんと知ってるんでがすから。そう言っちゃ何だが、そんなことするのは、決まったようなもんですからね」
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「稻つ束擔ぐんだつて、わし等口へ出しちや云はねえが、ちやんと知つてんでがすから、さう云つちや何だが其麽ことするもなあ、極つたやうなもんですかんね」
被害者はさらに、手柄でもしたように言った。
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被害者は更に手柄でもしたやうにいつた。
「もう分かったから、それじゃ自分の仕事をするがいい。後でわしが申報書をこしらえて来てやるから、それへ印形を捺せば、それで手続きは済むんだからな」
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「もう解つたから、それぢや自分の仕事をするがいい、後にわしが申報書を拵へて來て遣るから、それへ印形を捺せばそれで手續は濟むんだからな」
巡査はそう言って、そうして被害者が
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巡査はさういつてさうして被害者が
「そんじゃ、わしはとうもろこしを隠しておく所を見つけ出しますから。きっとあるに決まってるんだから」
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「そんぢや、わし蜀黍隱して置く處見出あんすから、屹度有んに極つてんだから」
と言う声を後にして、畑の小道をうねりながら行った。
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といふ聲を後にして畑の小徑をうねりつゝ行つた。
「今度こそは、捕まっちゃ一杯に食らうんだろう」
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「今度こさあ、捕縛つちや一杯に引つ喰らあんだんべ」
畑同士は痛快に感じながら、口々にこういうことを言った。
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畑同士は痛快に感じつゝ口々に恁ういふことをいつた。
「おつう、おれはとても今度はだめだよ」
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「おつう俺らとつても今度駄目だよ」
勘次は、はかない自分の心持ちを、唯一の家族であるおつぎの身へ投げかけるように、しおれきって言った。
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勘次は果敢ない自分の心持を唯一の家族であるおつぎの身體へ投げ掛けるやうに萎れ切つていつた。
勘次は心の底から恐れたのである。
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勘次は衷心から恐怖したのである。
それほどならば、なぜ彼はとうもろこしの穂を切ることを敢えてしたのであろうか。
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其れ程ならば何故彼は蜀黍の穗を伐ることを敢てしたのであつたらうか。
彼はこれまでも、畑の物を盗ったのは一度や二度ではない。
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彼は此れまでも畑の物を盜つたのは一度や二度ではない。
それはわずかであったが、彼は盗りたくなった時、機会さえあればいつでも盗りつつあったのである。
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其れは些少であつたが彼は盜りたくなつた時機會さへあれば何時でも盜りつゝあつたのである。
彼は身を殺そうとまで、その弱い意志が少しのことにも彼を苦しめる時、彼を突き動かして盗み心がむかむかと首をもたげつつあったのである。
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彼は身を殺さうとまで其の薄弱な意思が少しのことにも彼を苦しめる時、彼を衝動つて盜性がむか/\と首を擡げつゝあつたのである。
勘次はもう、仕事をするどころではない。
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勘次はもう仕事をする處ではない。
彼はとうてい少しの間もその家にいられなくなって、隣の彼の主人にすがろうとした。
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彼は到底寸時も其の家に堪へられなく成つて、隣の彼の主人に縋らうとした。
その敷居を越すことが、彼にはどれほどつらかったか知れない。
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其の閾を越すことが彼にはどれ程辛かつたか知れぬ。
主人は留守であった。
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主人は不在であつた。
「おかみさん、わしはまた間違いをしまして、どうもこれ、おかみさんの所へは敷居が高くて何でがすが、わしがいなくでもなっちゃ、子供らは仕方がありませんから、助かれるもんならわしももう……」
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「お内儀さん、わしも又間違しあんしてどうも此れお内儀さん處へは閾が高くつて何でがすが、わし居なくでも成つちや子奴等仕やうがあせんから、助かれるもんならわしもはあ……」
と、彼はぐったり首をうなだれた。
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と彼はぐつたり首を俛れた。
主人のおかみさんは、勘次がとうもろこしを切ったことはもう知っていた。
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主人の内儀さんは勘次が蜀黍を伐つたことはもう知つて居た。
まだ癖が止まないかと、一度は腹を立ててもみたり呆れもしたりしたが、しかしどこといって庇ってくれる者がないので、こうして来るのだと、目の前にそのしおれた姿を見ると、さすがに憐れになって叱るどころではなかった。
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まだ癖が止まないかと一度は腹を立ても見たり惘れもしたりしたが、然し何處といつて庇護つてくれるものが無いので恁うして來るのだと、目前に其萎れた姿を見ると有繋に憐に成つて叱る處ではなかつた。
それではどうか心配してみてやろうと言われて、勘次は顔が生き返ったようになった。
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それではどうか心配して見てやらうといはれて勘次は顏が蘇生つたやうに成つた。
彼は何でも、主人が力を尽くしてくれれば成し遂げられると思っているのである。
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彼は何でも主人が盡力して呉れゝば成就すると思つて居るのである。
それでも自分の家にはいられないので、どうか隠してくれと、彼は土蔵へ入れてもらった。
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それでも自分の家には居られないので、どうか隱してくれと彼は土藏へ入れて貰つた。
勘次はそこでも不安に堪えられないので、そこにしばらく使わずにしまってある四尺桶へ、こっそりと潜っていた。
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勘次は其處でも不安に堪へないので其處に暫く使はずに藏つてある四尺桶へこつそりと潜つて居た。
巡査は午後に申報書の印を取りに来て、勘次の家へ行ってみた。
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巡査は午後に申報書の印を取りに來て勘次の家へ行つて見た。
勘次はどこへ行ったと巡査に聞かれて、おつぎはただ知らないと言った。
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勘次は何處へ行つたと巡査に聞かれておつぎは只知らないといつた。
そうして巡査の後ろ姿が垣根を出た時、ひそかに泣いた。
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さうして巡査の後姿が垣根を出た時竊に泣いた。
被害者はとうとう隠した箇所を見つけて、巡査を案内した。
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被害者は到頭隱匿した箇處を發見して巡査を導いた。
雑木林の茂った間の、もう硬くなった草の中へ、とうもろこしの穂は縛ったままどさりと置いてあったのである。
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雜木林の繁茂した間の、もう硬く成つた草の中へ蜀黍の穗は縛つた儘どさりと置いてあつたのである。
そこにはもうそっけなくなったおみなえしの茎がけろりと立って、枝まで折られた栗が、低いながらにこずえのほうにだけはわずかにはじけている。
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其處にはもうそつけなくなつた女郎花の莖がけろりと立つて、枝まで折られた栗が低いながらに梢の方にだけは僅に笑んで居る。
その小さな柴栗が偶然落ちてさえ驚いて騒ぐだろうと思うように、か細いこおろぎがあっちこっちでかすかに鳴いている。
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其の小さな芝栗が偶然落ちてさへ驚いて騷ぐだらうと思ふやうに薄弱な蟋蟀がそつちこつちで微かに鳴いて居る。
ちょっと他人の目には触れない場所であった。
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一寸他人の目には觸れぬ場所であつた。
穂を覆ったそのむしろが、勘次の仕業であることを確かに証拠立てていた。
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穗を掩うた其の筵が勘次の所業であることを的確に證據立てゝ居た。
主人のおかみさんは、一応被害者へ話をつけてみた。
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主人の内儀さんは一應被害者へ噺をつけて見た。
被害者の家族は律義者で、みな激しきっている。
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被害者の家族は律義者で皆激し切つて居る。
七十ばかりになる被害者の老人が、ことに頑固に主張した。
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七十ばかりに成る被害者の老人が殊に頑固に主張した。
「泥棒なんぞする奴は、わしは大嫌いでがすから。わしらの畑の茄子を引きむしったんだって、ちゃんと知っちゃいるんでがすから。いや、まったくでがす。おかみさんの所のさつまいもも盗りましたとも。ぐうずら蔓を引っこ抜いてうっちゃって、いや本当でがす。わしゃ嘘なんざあ言うのは嫌でがすから。それどころじゃがありません、おかみさん。夜切って来て、朝っぱらになったらもう引っ掛けたに相違ないというんでがすから。なに、わしもむしろを打ちかけた所を見ました。むしろで分かるからだめでがす。いや、まったくひどい野郎でがす、どうも」
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「泥棒なんぞする奴あ、わし大嫌でがすから、わし等畑の茄子引ん挘つたんだつてちやんと知つちや居んでがすから、いや全くでがす、お内儀さん處の甘藷も盜りあんしたとも、ぐうづら蔓引つこ拔いて打棄つて、いや本當でがす、わしや嘘なんざあいふな嫌でがすから、其れ處ぢやがあせんお内儀さん、夜伐つて來て、朝つぱらに成つたらはあ引つ懸けたに相違ねえつちんでがすから、なにわしも筵打つ掛けた處見あんした、筵で分るから駄目でがす、いや全く酷え野郎でがすどうも」
おかみさんはそれは予期していた。
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内儀さんは其れは豫期して居た。
「そりゃそうさね。この前も私の所で救ってやったのに、それにまたこうなんだから。まあ病気さね、これも。困ったもんだが、しかしあれを懲役にやってみたところで、子供らが泣くばかりだからね。それにまあ本当を言えば、一つ村にこうしているんだから、先方が困りきっているうちに勘弁してやったとなると、一生先方は気が引けている道理だが、それが一杯の罪にでも落としてみると、先方では帳消しにでもなったようなつもりでいまいものでもなし。そうすると、敵を一人こしらえておくようなものだしね。他人に叩かれたのでは眠れるが、叩いたのでは眠れないとさえ言うんだから、何でも後腹の病まないほうがいいようだが、どうだね」
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「そりやさうさね、此の前も私の處で救つて遣つたのにそれに復たかうなんだから、まあ病氣さね此も、困つたもんだが然しあれを懲役に遣つて見た處で子供等が泣くばかりだからね、それにまあ本當いへば一つ村落に斯うして居るんだから先が困り切つてる内に勘辨して遣つたと成ると一生先は身がひけて居る道理だがそれが一杯の罪にでも落して見ると、先では帳消しにでも成つたやうな積で居まいものでもなし、さうすると敵一人拵へて置くやうなものだしね、他人に叩かれたのでは眠れるが、叩いたのでは眠れないとさへいふんだから、何でも後腹の病めない方が善いやうだがどうだね」
「そんでも、おかみさん、わしゃ卯平のことをみじめを見せてるのが、他人のことでも忌々しいんでさ。わしゃ血気のころから卯平とは相棒で仕事もしたんでがすが、卯平はもう何でも、あれが女房らを育てる時分のことなんぞ思っちゃ、粗末にはできないんでがすからね。それ、おかみさん、卯平はいくつになりますね。わしらだったらなあに、ああいう野郎なんざあ、槍ででも何でも突き刺しちまうんでがすがね」
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「そんでもお内儀さん、わしや卯平ことみじめ見せてんのが他人のこつても忌々敷んでさ、わしや血氣の頃から卯平たあ棒組で仕事もしたんでがすが、卯平はあんでもあれが嚊等育つ時分の事なんぞ思つちや疎末にや成んねえんでがすかんね、それお内儀さん卯平は幾つに成りあんすね、わし等だらなあに、あゝた野郎なんざあ槍でゝも何でも突つ刺しつちあんでがすがね」
老人は憤りに堪えないように、固めた拳を膝がしらへ当てて言った。
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老人は憤慨に堪へぬやうに固めた拳を膝がしらへ當てゝいつた。
「もっともさね、そりゃ。それだが、腹の立つ時分は憎い奴だと思っても、後悔する時がないとも言えないしね。少しのことで二代も三代も仲直りができないような実例が、いくらも世間にはあるもんだからね」
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「尤もさねそりや、それだが腹の立つ時分は憎い奴だと思つても後悔する時が無いともいひないしね、少しのことで二代も三代も仲直りが出來ないやうな實例が幾らも世間には有るもんだからね」
おかみさんは繰り返して言った。
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内儀さんは反覆していつた。
しかし容易に彼らの心は落ち着かない。
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然し容易に彼等の心は落居ない。
しばらく話は途切れていた。
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暫く噺は途切て居た。
「遠くのほうへやったなんて言ったっけが、おりせはまた孫ができたそうだね。今度のは男だって、それでもよかったねえ」
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「遠くの方へ遣つたなんていつたつけがおりせは又孫が出來た相だね、今度のは男だつてそれでも善かつたねえ」
おかみさんは、そばにいた老母へ向いて突然こう言いかけた。
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内儀さんは側に居た老母へ向いて突然恁ういひ掛けた。
そうしておかみさんは、冷たくなっていた茶碗を手にした。
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さうして内儀さんは冷たく成つて居た茶碗を手にした。
それを見て被害者の女房は土間へ駆け下りて、かまどの口へ火をつけてふうふうと火吹き竹を吹いた。
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其れを見て被害者の女房は土間へ駈けおりて竈の口へ火を點けてふう/\と火吹竹を吹いた。
「はい、そうでござりますよ。おかみさんの厄介になりましたっけが、あれも今じゃ大層いい塩梅でございましてね。四人目でやっと、それでも男でがすよ。おかみさんに言われた時にはわしらももうしぶっていたんでがしたが、身上もあの時からはよくなるしね。兄弟の中で今じゃ、りせが一番だって言ってるところなのさ。おかみさんがあれなら大丈夫だからって言ってくれましたっけが、婿も心根がよくてね。爺婆にって、わしらにこういう物をよこしましたよ」
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「はあいさうでござりますよ、お内儀さんの厄介に成りあんしたつけが、あれも今ぢや大層えゝ鹽梅でがしてない、四人目漸とそんでも男でがすよ、お内儀さんに云あれた時にやわし等もはあ澁れえて居たんでがしたが、身上もあん時かんぢやよくなるしね、兄弟中で今ぢやりせが一番だつて云つてつ處なのせ、お内儀さんあれなら大丈夫だからつて云て呉れあんしたつけが婿も心底が善くつてね、爺婆げつて、わし等げ斯うた物遣しあんしたよ」
老母は待ち構えてでもいたように、小風呂敷の包みを解いて、手織りのように見える粗末な反物を出して、手柄そうに見せた。
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老母は待ち構へてゞも居たやうに小風呂敷の包を解いて手織のやうに見える疎末な反物を出して手柄相に見せた。
おかみさんは仕方ないという様子で、反物へ手を掛けて
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内儀さんは仕方ないといふ容子で反物へ手を掛けて
「それでも孫抱きには行ったかね」
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「それでも孫抱きには行つたかね」
「ほんに、わしゃ今日あたり、おかみさんの所へ行こうと思っていたら、何ということか、こんな騒ぎでもう行くこともできないで、わしゃ昨日帰って来たところなのさ、おかみさん」
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「ほんに、わしや今日らお内儀さん處さ行くべと思つて居たら、何ちこつたか恁んな騷ぎではあ行くも出來ねえで、わしや昨日歸つて來た處なのせえ、お内儀さん」
老母はいくらでも勢いづいてしゃべろうとする。
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老母は幾らでも勢ひづいて饒舌らうとする。
熱い茶がようやく、おかみさんの前に汲まれた。
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熱い茶が漸く内儀さんの前に汲まれた。
被害者は老父と座敷の隅で、さっきからこそこそと話をしている。
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被害者は老父と座敷の隅で先刻からこそ/\と噺をして居る。
そうしてさらに、老母を呼んだ。
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さうして更に老母を喚んだ。
「うん、そうだともよ」
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「うむ、さうだともよ」
という老母の声がすると、みな座に直って
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といふ老母の聲がすると皆坐に直つて
「それじゃ、おかみさん、さっきのをおかみさんのいいように行ってみておくんなせえ」
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「それぢや、お内儀さん、先刻のがなお内儀さんえゝやうに行つて見ておくんなせえ」
被害者は言った。
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被害者はいつた。
「わしゃ一徹者だから、おかみさん、悪く思わないでおくんなせえ」
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「わしや、一剋者だからお内儀さん惡く思はねえでおくんなせえ」
老父も言った。
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老父もいつた。
「どうぞねえ、おかみさん」
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「どうぞねえお内儀さん」
老母も言った。
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老母もいつた。
おかみさんはそれからまたしばらく雑談をして、みなで笑って帰った。
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内儀さんはそれから又暫く雜談をして皆で笑つて歸つた。
腹にあるだけのことを言わせてしまえば、彼らはそれだけ心が晴れ晴れとして勢いがだんだん鈍ってくるので、その間は機嫌も取ってみて、そうして決まりきった理屈も繰り返して聞かせているうちには、ころりと落ちてしまうという、その呼吸をおかみさんはよく知っているのである。
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腹に在るだけのことをいはして畢へば彼等はそれだけ心が晴々として勢が段々鈍つて來るので、其間は機嫌もとつて見て、さうして極り切つた理窟も反覆して聞かせて居るうちにはころりと落ちて畢ふといふ其の呼吸を内儀さんは能く知つて居るのである。
その夜、おつぎはおかみさんに呼ばれて隣へ泊まった。
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其の夜おつぎは内儀さんに喚ばれて隣へ泊つた。
おかみさんは、おつぎと与吉をただ二人その家に置くには忍びなかったのである。
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内儀さんはおつぎと與吉を只二人其の家に置くには忍びなかつたのである。
夜になってから、勘次は土蔵から出されて雇い人のそばに一夜を明かした。
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夜になつてから勘次は土藏から出されて傭人の側に一夜を明した。
彼は未明にまた土蔵へ隠れた。
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彼は未明に復土藏へ隱れた。
おかみさんは雇い人の口を堅く戒めて、外へ漏れないようにと苦心をした。
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内儀さんは傭人の口を堅く警めて外へ洩れないやうと苦心をした。
その日も巡査は勘次の家のあたりをうろついたが、それでもその東隣の門を叩いて詮索するまでには至らなかった。
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其の日も巡査は勘次の家のあたりを徘徊したがそれでも其の東隣の門を叩いて穿鑿するまでには至らなかつた。
おかみさんは、どうにかしても救ってやりたいと思い出したら、そこに障害が起これば、かえってそれを破ろうといろいろに工夫も凝らしてみるのであった。
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内儀さんは什麽にしても救つて遣りたいと思ひ出したら其處に障害が起れば却てそれを破らうと種々に工夫も凝して見るのであつた。
それで被害者のほうの話も決まったのだから、この上は警察の手加減に待つよりほかに道はないのであるが、留守であった主人はその日も帰らない。
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それで被害者の方の噺も極つたのだから此の上は警察の手加減に俟つより外に道は無いのであるが、不在であつた主人は其の日も歸らない。
勘次はひたすらに、主人の力によってのみ救われるものと念じている。
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勘次は只管に主人の力に倚つてのみ救はれるものと念じて居る。
おかみさんも主人を待ちあぐんでいる。
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内儀さんも主人を待ちあぐんで居る。
そうしてまた夜が来た。
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さうして復夜が來た。
おかみさんはもう、じっとしてはいられない。
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内儀さんはもう凝然としては居られない。
それでおつぎを連れて、提灯をつけてひそかに土蔵の二階へ上った。
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それでおつぎを連れて、提灯を點けて竊に土藏の二階へ昇つた。
「おとっつあん」
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「おとつゝあ」
おつぎは声を殺しながら、力を入れて言った。
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おつぎは聲を殺しながら力を入れていつた。
勘次は返事がない。
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勘次は返辭がない。
おつぎはさらに幾度か呼んで、それからおかみさんが呼んだ時、汚れた体を桶の中から現した。
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おつぎは更に幾度か喚んでそれからお内儀さんが喚んだ時汚れた身體を桶の中から現はした。
「旦那がまだ帰らないのでね、警察のほうの話ができないで困っているんだが、どうだねお前、警察へ出ても盗らないと言いきれるかね。そうすりゃ私が始末をしてやるがね」
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「旦那がまだ歸らないのでね、警察の方の噺が出來ないで困つて居るんだが、どうだねお前警察へ出ても盜らないといひ切れるかね、さうすりや私が始末をして遣るがね」
おかみさんは言って聞かせた。
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内儀さんはいつて聞かせた。
「へえ」
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「へえ」
勘次はただ首をうなだれている。
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勘次は只首を俛れて居る。
「どうだね」
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「どうだね」
おかみさんは繰り返した。
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内儀さんは反覆した。
「わしのには、とても持ちきれません」
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「わしがにや、とつても持ち切れあんせん」
勘次はしおれて震えている。
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勘次は萎れて顫へて居る。
「おとっつあんは何て言うんだろうな」
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「おとつゝあは何ちんだんべな」
おつぎは歯がゆそうに言って、ひと声さらに
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おつぎは齒痒相にいつて一聲更に
「おとっつあん」
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「おとつゝあ」
と力を入れて
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と力を入れて
「盗らないって言えよ、おとっつあん」
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「盜らねえつて云へよ、おとつゝあ」
おつぎは熱心に勘次を見た。
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おつぎは熱心に勘次を見た。
「そんでもおれは、あそこへ出ちゃ、とても白状しないわけには行かないよ」
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「そんでも俺、あすこへ出ちや、とつても白状しねえ譯にや行かねえよ」
「そんな料簡でなく、私は自分のを切ったんですと言えば、それでいいように始末してやるんだから」
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「そんな料簡でなく私は自分のが伐つたんですつていへば、そんでいゝやうに始末してやるだから」
おかみさんが力をつけてみても、勘次はただ首をうなだれている。
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内儀さんが力を附けて見ても勘次は只首を俛れて居る。
「そう言いさえすりゃいいっていうのになあ、おとっつあんは」
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「さう云へせえすりやえゝつちのになあ、おとつゝあは」
おつぎは落胆したように言った。
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おつぎは落膽したやうにいつた。
おかみさんとおつぎは、こうして熟睡した体を立たせようと苦心するほどの、無駄な力を尽くしたのであった。
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内儀さんとおつぎは恁うして熟睡した身體を直立せしめやうと苦心する程の徒な力を盡したのであつた。
雇い人もすっかり眠りに落ちたと思うころ、おかみさんとおつぎとの黒い姿が、ひそかに裏の竹藪に動いた。
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傭人もすつかり眠りに落ちたと思ふ頃内儀さんとおつぎとの黒い姿が竊に裏の竹藪に動いた。
落ちている竹の枝が足の下でぽちぽちと折れて鳴った。
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落ちて居る竹の枝が足の下にぽち/\と折れて鳴つた。
北西のほうの垣根のそばへ来た時、おかみさんは垣根の土についた所を力任せにぼりぼりと破った。
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乾の方の垣根の側へ來た時に内儀さんは、垣根の土に附いた處を力任せにぼり/\と破つた。
おつぎも両手を掛けて破った。
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おつぎも兩手を掛けて破つた。
幾年となしに隙間が生じれば小笹を継ぎ足し継ぎ足ししつつあった竹の垣根は、土の所がどすどすに朽ちているので、すぐに大きな穴が開いた。
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幾年となしに隙間を生ずれば小笹を繼ぎ足し/\しつゝあつた竹の垣根は、土の處がどす/\に朽ちて居るので直に大きな穴が明いた。
おつぎはそこから潜って出た。
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おつぎは其處から潜つて出た。
突然ぱたぱたとけたたましい羽音が、すぐ頭の上で騒いだ。
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突然ぱた/\とけたゝましい羽音が直頭の上で騷いだ。
竹のこずえに止まっていた鳩が、にわかに驚いて遠く逃げたのである。
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竹の梢に泊つて居た鳩が俄に驚いて遠く逃げたのである。
「寂しくはないかい」
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「さむしかないかい」
おかみさんは垣根越しに聞いた。
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内儀さんは垣根越しに聞いた。
「大丈夫ですよ、おかみさん」
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「大丈夫ですよ、お内儀さん」
おつぎは少し歩きかけて言った。
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おつぎは少し歩き掛けていつた。
「おや、もうそっちのほうへ行ったのかい。それじゃあそこを叩くんだよ」
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「おやもうそつちの方へ行つたのかい、それぢや彼處を叩くんだよ」
おかみさんは言って別れた。
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内儀さんはいつて分れた。
おつぎはすぐに、自分の裏の戸口に立った。
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おつぎは直に自分の裏戸口に立つた。
そっと開けて入ってみると、自分の家ながら、おつぎはひやりとした。
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そつと開けて這入つて見ると、自分の家ながらおつぎはひやりとした。
ねぐらの鶏は暗い中でじっとしていながら、くくうと細い長い妙な声を出した。
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塒の鷄は闇い中で凝然として居ながらくゝうと細い長い妙な聲を出した。
鼠が二、三匹がたがたと騒いで、何かで押さえつけられたかと思うように、ちゅうちゅうと苦しげな声を立てて鳴いた。
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鼠が二三匹がた/\と騷いで、何かで壓へつけられたかと思ふやうにちう/\と苦しげな聲を立て鳴いた。
おつぎは手探りに、壁際の草刈り鎌を取った。
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おつぎは手探りに壁際の草刈鎌を執つた。
またそっと戸を閉めて出る時、首筋の髪の毛をこそばゆい手で一つかみにされるように感じた。
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又そつと戸を閉てゝ出る時頸筋の髮の毛をこそつぱい手で一攫みにされるやうに感じた。
おつぎは外の壁際の草刈り籠を背負った。
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おつぎは外の壁際の草刈籠を脊負つた。
どうしたはずみであったか、これも壁際に立てかけた竹箒が倒れて、柄がかちっと草刈り籠を打った。
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どうした機會であつたか此も壁際に立て掛けた竹箒が倒れて柄がかちつと草刈籠を打つた。
おつぎはひょいと振り返った。
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おつぎはひよつと顧みた。
夜は闇である。
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夜は闇である。
凄く冴えた空へざっくりと立った隣の森のこずえにくっついて、天の川が低く西へ傾きながら流れている。
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凄く冴えた空へぞつくりと立つた隣の森の梢にくつゝいて天の川が低く西へ傾きつゝ流れて居る。
しばらくして、おつぎは自分たちの手で作ったとうもろこしのそばに立った。
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暫くしておつぎは自分等の手で作つた蜀黍の側に立つた。
やせたとうもろこしは眠ったかと思うようにしっとりとしていては、やがてざわざわと鳴った。
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痩せた蜀黍は眠つたかと思ふやうにしつとりとして居ては、軈てざわ/\と鳴つた。
おつぎは草刈り鎌でざくりざくりと、その穂を切った。
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おつぎは草刈鎌でざくり/\と其の穗を伐つた。
そうして、ぎっと押し込んで重くなった草刈り籠を背負った。
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さうしてぎつと押し込んで重く成つた草刈籠を脊負つた。
そこらの畑には、土が目を開いたようにところどころぽつりぽつりと、秋そばの花が白く見えている。
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其處らの畑には土が眼を開いたやうに處々ぽつり/\と秋蕎麥の花が白く見えて居る。
おつぎは足速に、台地の畑からとうもろこしの葉のざわつく小道を低地の畑へ下りて、ようやくのことで鬼怒川の土手へ出た。
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おつぎは足速に臺地の畑から蜀黍の葉のざわつく小徑を低地の畑へおりて漸くのことで鬼怒川の土手へ出た。
おつぎは四つんばいになって、芝につかまりながら登った。
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おつぎは四つ偃に成つて芝に捉りながら登つた。
その時おつぎの心には、斜めに土手の中腹へつけられた小道を見いだしているほどの余裕がなかったのである。
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其の時おつぎの心には斜に土手の中腹へつけられた小徑を見出して居る程の餘裕がなかつたのである。
土手の内側は水際から篠がいっぱいに茂って、夜目にはそれがごっそりと自分を押しつけて見える。
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土手の内側は水際から篠が一杯に繁茂して夜目にはそれがごつしやりと自分を壓して見える。
篠の間から水がしらしらと見えて、篠の根を洗って行く水の響きがちろちろと耳に近く聞こえる。
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篠の間から水がしら/\と見えて、篠の根を洗つて行く水の響がちろ/\と耳に近く聞える。
おつぎは汀へ下りようと思って篠を分けてみると、そこは崖になっていて、爪先から落ちた小さな土の塊がぽちぽちと水に鳴った。
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おつぎは汀へおりようと思つて篠を分けて見ると其處は崖に成つて居て爪先から落ちた小さな土の塊がぽち/\と水に鳴つた。
おつぎはさらに篠を分けて下りようとすると、そこも崖で、目の前にひょっこりと高瀬舟の帆柱が闇を突いて立っている。
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おつぎは更に篠を分けておりようとすると、其處も崖で目の前にひよつこりと高瀬船の帆柱が闇を衝いて立て居る。
水に近く、こそこそと人の話し声が聞こえる。
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水に近くこそ/\と人の噺聲が聞える。
たそがれにようやくそこへつながった高瀬舟が、そこらで食料を求め歩いて遅く晩飯を済まして、まだ眠らずにいたのであったろう。
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黄昏に漸く其處へ繋つた高瀬船が、其處らで食料を求め歩いて遲く晩餐を濟してまだ眠らずに居たのであつたらう。
それは高瀬舟の船頭夫婦が、足りても足りなくても自分の家族の唯一の住まいである、その舳に造られた箱のような狭い船室の中で話している声であった。
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それは高瀬船の船頭夫婦が、足りても足りなくても自分の家族の唯一の住居である其の舳に造られた箱のやうな狹いせえじの中で噺して居る聲であつた。
乳飲み子の泣く声も交じって聞こえた。
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乳呑兒の泣く聲も交つて聞えた。
おつぎは後へ退いた。
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おつぎは後へ退去つた。
おつぎはほとんど無意識に、土手を南へ走った。
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おつぎは殆んど無意識に土手を南へ走つた。
ところどころ誰かが道芝の葉を縛り合わせておいたので、おつぎは幾度かそれへ爪先を引っ掛けてつまずいた。
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處々誰かゞ道芝の葉を縛り合せて置いたので、おつぎは幾度かそれへ爪先を引つ掛けて蹶いた。
土手の篠はだんだんまばらになって、水がいっぱいに見えて来た。
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土手の篠は段々に疎らに成つて水が一杯に見えて來た。
鬼怒川の水は土手よりはるかに低く、闇の底にしらしらと薄く光っている。
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鬼怒川の水は土手より遙に低く闇の底にしら/\と薄く光つて居る。
夜の手は対岸の松林の影をその水に投げて、川幅はわずかに半分に縮められて見える。
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夜の手は對岸の松林の陰翳を其の水に投げて、川幅は僅に半分に蹙められて見える。
こおろぎはそこらあたりいっぱいに鳴きしきって、その集まった声は空にまで響こうとしては沈みながら沈みながら、それがゆったりと大きな波のように、自然に高くなり低くなりしている。
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蟋蟀は其處らあたり一杯に鳴きしきつて、其の聚つた聲は空にまで響かうとしては沈みつゝ/\、それがゆつたりと大きな波動の如く自然に抑揚を成しつゝある。
おつぎはとうとう渡し場まで来た。
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おつぎは到頭渡船場まで來た。
おつぎはそれから水際へ下りようとすると、水を渡って静かに、しかも近く人の声がして、時々じゃぶっという響きが水に起こる。
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おつぎはそれから水際へおりようとすると水を渡つて靜かに然も近く人の聲がして、時々しやぶつといふ響が水に起る。
不審に思ってためらっていると、突然目の前に、対岸の松林の影から白く光っている水の上へ舳が出て、舟が現れた。
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不審に思つて躊躇して居ると突然目の前に對岸の松林の陰翳から白く光つて居る水の上へ舳が出て船が現はれた。
渡し舟が深夜に人を乗せたので、じゃぶっという響きは、舟棹が水をかき切るたびに鳴ったのである。
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渡し船が深夜に人を乘せたのでしやぶつといふ響は舟棹が水を掻つ切る度に鳴つたのである。
おつぎはまた土手へ戻って、大きな川柳のそばに身を避けた。
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おつぎは又土手へ戻つて大きな川柳の傍に身を避けた。
二言三言を交わして、人は去ったようである。
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二三語を交換して人は去つたやうである。
船頭は暗い小屋の戸をがらっと開けて、またがらっと閉じた。
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船頭は闇い小屋の戸をがらつと開けて又がらつと閉ぢた。
おつぎはしばらく待っていて、それからそくそくと舟をつないだあたりへ下りた。
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おつぎは暫く待つて居てそれからそく/\と船を繋いだあたりへ下りた。
おつぎはすぐそばでかさかさと何かが動くのを聞くとともに、ぶうぶうと豚らしい鳴き声のするのを聞いた。
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おつぎは直ぐ側でかさ/\と何かが動くのを聞くと共に、ゐい/\と豚らしい鳴聲のするのを聞いた。
「行くのかあ」
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「行くのかあ」
と、まだ眠らなかった船頭は突然、特有の大声で怒鳴った。
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とまだ眠らなかつた船頭は突然特有の大聲で呶鳴つた。
おつぎは驚いて、また一散に土手を走った。
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おつぎは驚いて又一散に土手を走つた。
船頭はがらっと戸を開けて、人の走ったような響きがはっきりと耳に感じたので、はるかに暗い土手を透して見て、ぶつぶつ言いながら、彼はさらに豚小屋に近づいてマッチをさっとすってみて、「油断ならない」
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船頭はがらつと戸を開けて、人の走つたやうな響きが明かに耳に感じたので、遙に闇い土手を透して見てぶつ/\いひながら彼は更に豚小屋に近づいて燐寸をさつと擦つて見て「油斷なんねえ」
と呟いて、また戸を閉じた。
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と呟いて又戸を閉ぢた。
彼は内職に飼った豚が近ごろ子を生んだので、他人が狙いはしないかと心配しつつあったのである。
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彼は内職に飼つた豚が近頃子を生んだので他人が覘はせぬかと懸念しつゝあつたのである。
おつぎは、どこでも構わないと土手の篠を分けて、一つ一つにとうもろこしの穂を力のかぎり水に投げた。
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おつぎは何處でも構はぬと土手の篠を分けて一つ/\に蜀黍の穗を力の限り水に投じた。
おつぎは空の草刈り籠を背負って急いで帰った。
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おつぎは空な草刈籠を脊負つて急いで歸つた。
おつぎがことことと叩いた時、おかみさんはすぐに戸を開けて
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おつぎがこと/\と叩いた時内儀さんは直に戸を開けて
「どうしたい、大変遅かったね」
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「どうしたい、大變遲かつたね」
と聞いた。
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と聞いた。
「おかみさん、言うとおりにしましたよ」
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「お内儀さんいふ通にしあんしたよ」
「そのとうもろこしはどこへやったい」
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「其の蜀黍は何處へ遣つたい」
「わたしはどうしていいか知らないから、川へ持って行ってうっちゃりました」
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「わたしやどうしてえゝか知んねえから川へ持つて行つて打棄りあんした」
「そうかい、よく行って来たね。まあお上がり」
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「さうかい、能く行つて來たね、まあ上りな」
おかみさんはランプを自分の頭の上に上げて、じっと首を低くしておつぎの様子を見た。
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内儀さんはランプを自分の頭の上に上げて凝然と首を低くしておつぎの容子を見た。
「どうしたんだえ、おつぎはまあ、その着物は」
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「どうしたんだえ、おつぎはまあ、其の衣物は」
「本当にまあ」
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「本當にまあ」
おつぎは初めて気づいたようで
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おつぎは始めて心付いたやうで
「さっき土手へ行く時、堀っこの所へ滑ったんですが、その時こんなに汚したんでしょうよ」
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「先刻土手さ行く時、堀つ子ん處へ辷つたんですが、其ん時かうえに汚したんでせうよ」
と、おつぎは泥になった腰のあたりへ手を当てた。
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とおつぎは泥に成つた腰のあたりへ手を當てた。
「おかみさん、わたしはとんだことをしました」
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「お内儀さん、わたしや飛んだことを仕あんした」
おつぎはまた言った。
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おつぎは又いつた。
「どうしたんだえ」
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「どうしたんだえ」
「わたしは鎌をどこへやっちまったか、分からなくしちまったんでさ」
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「わたしや、鎌何處へ遣つちやつたか分んなく仕つちやつたんでさ」
「今夜持って行ったのかえ」
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「今夜持つてつたのかえ」
「そうなんでさ。わたしはとうもろこしをうっちゃる時まであると思ってたら、見えないんでさ。わたしらの家のおとっつあんは、道具といったらひどく怒るんですから」
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「さうなんでさ、わたしや蜀黍打棄つ時まで有つと思つてたら見えねえんでさ、私等家のおとつつあは道具つちと酷く怒んですから」
「草刈り鎌の一挺や二挺、お前どうするもんじゃない。あっちへ回って足でも洗ってさあ」
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「草刈鎌の一挺や二挺お前どうするもんぢやない、あつちへ廻つて足でも洗つてさあ」
おかみさんの口元には、かすかな笑いが浮かんだ。
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内儀さんの口もとには微かな笑ひが浮んだ。
次の日にようやく主人は帰った。
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次の日に漸く主人は歸つた。
巡査へ話をしてみたが、その時はもう被害者からの申報書が分署へ出されてあったので、さらに分署長へ頼み込んでみた。
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巡査へ噺をして見たが其の時はもう被害者からの申報書が分署へ提出されてあつたので更に分署長へ懇請して見た。
そうして、被害者から事実が違っていたという意味の取り消しを出せば、それでいいということにまで運びがついた。
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さうして被害者から事實が相違したといふ意味の取消を出せばそれで善いといふことにまで運びがついた。
微罪ということで、その筋の手加減ができたのである。
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微罪といふので其筋の手加減が出來たのである。
おかみさんはまた被害者の家へ行って、それだけの筋道を聞かせたが、どうしても今度はうんと言わない。
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内儀さんは復た被害者の家へ行つて其れ丈の筋道を聞かせたが、どうしても今度はうんといはない。
「どうも、わしらは分署へなんぞ出るのは、なんぼにもいやでがすからね。きっと怒られるんでがすから、もう」
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「どうもわし等分署へなんぞ出んな、なんぼにも厭でがすかんね、屹度怒られんでがすからはあ」
とのみ言うのである。
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とのみいふのである。
「そうだがね、ここまで話がついているんだから、こっちでそれだけのことをしてくれなくちゃ、これまでのことが水の泡なんだからね」
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「さうだがね、此處まで噺がついて居るんだから此方でそれだけのことは仕て呉れなくつちや此れまでのことが水の泡なんだからね」
と道理を聞かせても
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と道理を聞かせても
「盗られた上にこうして暇をつぶして、おまけに分署へ出て怒られたり何かするんじゃ、こんなつまらないことはめったにありませんからね。それに書付だって、どうしていいんだか分からないし」
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「盜らつた上に恁うして暇潰して、おまけに分署へ出て怒られたり何つかすんぢや、こんな詰んねえこたあ滅多ありあんせんかんね、それに書付だつてどうしてえゝんだか分んねえし」
彼はただ、いかめしく見える警察官が恐ろしくて、どうしても足が進まないのである。
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彼は只嚴めしく見える警察官が恐ろしくてどうしても足が進まないのである。
「そりゃ書付なんぞは、旦那が書いてやるから心配にはならないがね」
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「そりや書付なんぞは、旦那が書いて遣るから心配にや成らないがね」
おかみさんはようやく、近所の者を一人ついて行かせるようにしてやるということにしたので、被害者も思い切って出ることになった。
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内儀さんは漸く近所の者を一人跟いてくやうにして遣るといふことにしたので被害者も思ひ切つて出ることに成つた。
彼らが帰った時は、反対に威勢がよかった。
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彼等が歸つた時は反對に威勢がよかつた。
「どうしたっけね」
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「どうしたつけね」
と聞かれて
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聞かれて
「髭のこう生えた部長さんだっていう怖い人でがしたがね。盗まれたなんて届けをしていて、そうして警察へ余計な手間を掛けて不埒な奴だなんて怒鳴られた時には、どうしようかと思って。そんじゃ、その書付を持って帰りますと言おうかと思いましたっけ。そうしたらしばらく書付を見てたっけが、これは誰が書いたと聞くから、わしらのほうの旦那でがすと言ったら、そうか、そんじゃよしよし帰れなんて言うもんだから、ほっと息をつきました。おこりが落ちたようでさあ、もう。そんだから、わしらはなんぼにもああいう所へは出るのはいやで」
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「髭のかう生えた部長さんだつていふ可怖え人でがしたがね、盜まつたなんて屆けしてゝさうして警察へ餘計な手間掛けて不埓な奴だなんて呶鳴らつた時にやどうすべかと思つて、そんぢや其の書付持つて歸りますべつて云ふべかと思ひあんしたつけ、さうしたら暫く書付見てたつけが此は誰れが書いたつて聞くから、わし等方の旦那でがすつて云つたら、さうかそんぢやよし/\歸れなんていふもんだからほつと息つきあんした、瘧落ちたやうでさあはあ、そんだからわし等なんぼにもあゝい處へは出んな厭で」
彼はしばらく間を置いて
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彼は少時間を措いて
「そんだが、旦那はたいしたもんでがすね。旦那が書いたんだと言ったらなあ」
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「そんだが、旦那はたいしたもんでがすね、旦那書いたんだつて云つたらなあ」
と、彼はさらについて行った近所の者を振り返って言った。
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と彼は更に跟いて行つた近所の者を顧みていつた。
事件はこのようにして、一見妙な、しかももっともふつうな方法をたどって終わりが告げられた。
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事件は如此にして一見妙な然も最も普通な方法を踏んで終局が告げられた。
被害者の損害に対する賠償は、わずかであるとはいいながら、一時主人の手から出て、それが被害者に渡された。
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被害者の損害に對する賠償は僅であるとはいひながら一時主人の手から出てそれが被害者に渡された。
「わしもこれからは、けっして他人の物は塵っ葉一本でも盗りませんから、どうぞ」
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「わしも此れからは決して他人の物は塵つ葉一本でも盜りませんからどうぞ」
と、勘次はさすがに泣いた。
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と勘次は有繋に泣いた。
彼はまだ、お品が死んだ年の小作米の滞りも払ってはないし、その上、卯平から譲られた借財の残りもちっとも始末がついていないのに、また今度の間違いからわずかながら新たな負担が加わったのである。
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彼はまだお品が死んだ年の小作米の滯りも拂つてはないし、加之卯平から譲られた借財の残りもちつとも極りがついて無いのに又今度の間違から僅ながら新な負擔が加はつたのである。
彼の懸命の労働は、以前に倍して著しく人の目に立った。
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彼が懸命の勞働は舊に倍して著るしく人の目に立つた。
ある日、主人のおかみさんは、ふとした機会があって勘次に話をした。
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或日主人の内儀さんは偶然とした機會があつて勘次に噺をした。
「あれでなかなか、おつぎにも驚いたもんだね」
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「あれでなか/\おつぎにも驚いたもんだね」
おかみさんは言った。
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内儀さんはいつた。
「もう、どうかしましたんでしょうか、おかみさん」
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「はあどうか仕あんしたんべか、お内儀さん」
勘次は怪訝な様子をして、かつつらいいやなことでも言い出されるかと案じるように、おずおずと言った。
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勘次は怪訝な容子をして且辛い厭なことでもいひ出されるかと案ずるやうに怖づ/\いつた。
「どうしたっていうんじゃないが、この間の晩のことを知ってるかね」
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「どうしたつていふんぢやないが、此の間の晩のことを知つてるかね」
「何でしょうね、おかみさん」
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「何でがせうね、お内儀さん」
「夜中にあのとうもろこしを切らせたことだがね。実はあの時はね、警察のほうが間に合わなければ、お前に盗らないとどこまでも言わせておいて、そうして旦那が帰ってからのことと思ったもんだから。それにはお前が白状してしまっても困るし、自分の畑がそっくりしていてもまずいからね。それも今になっちゃ、何もそんなことしなくてもよかったようなものだが、その時は私もどうかしてと思ってね。それだが、おつぎが度胸のあるのには私も驚いたよ」
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「夜中にあの蜀黍伐らせたことだがね、實はあの時はね、警察の方が間に合はなければお前に盜らないと何處までもいはして置いて、さうして旦那が歸つてからのことと思つたもんだから、それにやお前が白状して畢つても困るし、自分の畑がそつくりして居ても不味いからね、それも今に成つちや何もそんなこと仕なくつても善かつたやうなものだが、其の時は私もどうかしてと思つてね、それだがおつぎが度胸のあるのぢや私も喫驚したよ」
おかみさんは言った。
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内儀さんはいつた。
「へえ、わしもおつうに聞きました。鎌が一挺見えないもんだからどうしたと言ったら、おかみさんが言うから切ったんだなんて。そんでも鎌は笹の中にありましたっけや」
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「へえわしもおつうに聞きあんした、鎌一挺見えねえもんだからどうしたつちつたら、お内儀さんいふから伐つたんだなんて、そんでも鎌は笹ん中に有りあんしたつけや」
「そうかい。どんな鎌だか、おつぎは心配していたからね」
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「さうかい、どんな鎌だかおつぎは心配して居たからね」
「なあに、もう、減っちまった鎌だから惜しくはないんですがね」
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「なあにはあ、減つちやつた鎌だから惜しかあねえんですがね」
「おつぎのことは、そんなことでは無闇に怒らないようにしなよ。面倒を見てね」
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「おつぎのことはそんなことでは無闇に怒らないやうにしなよ、面倒見てね」
「それから、わしもおかみさん、こうして独りで辛抱してるんでがすが、わしらの女房も死ぬ時には子供らのことは心配したんでがすからね。それからわしも、おつうが行きたいと言うもんだからお針にもやりますしね。たすきなんぞもほしいほしいと言うもんだから、わしらみたいな貧乏人には余計なもんではありますが、赤いのを買ってやったんでがす。こういうことをして、おかみさんの所へも小作の借りも持って来ないで済まないんですが、女房のひとえ物も質に入れてたのを出してやったんでがすがね。畑へなんぞ出るのにはあまり過ぎ物なんだが、それ一枚きりだから、わしも構わないで見てるのさ。そんだがおかみさん、不思議と汚しませんからね」
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「それからわしもお内儀さん、恁うして獨で辛抱してんでがすが、わし等嚊も死ぬ時にや子奴等こたあ心配したんでがすかんね、夫からわしもおつうが行きてえつちもんだからお針にも遣りあんすしね、襷なんぞも欲い/\つちもんだからわし等見てえな貧乏人にや餘計なもんぢやありあんすが赤えの買つて遣つたんでがさ、此さうだことしてお内儀さん處へも小作の借も持つて來ねえで濟まねえんですが、嚊が單衣物も質に入えてたの出して遣つたんでがすがね、畑へなんぞ出んのにや餘り過ぎ物なんだが、それ一枚切りだからわしも構あねえで見てんのせ、そんだがお内儀さん奇態に汚しあんせんかんね」
勘次は最後の一言に力を入れて言った。
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勘次は最後の一語に力を入れていつた。
「そうだよ、そうしてやれば励みが違うからね」
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「さうだよ、さうして遣れば勵みが違ふからね」
おかみさんは言って、また
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内儀さんはいつて又
「おつぎもよく働けるようになったね。それだが、この間のような所を見ると、死んだお品が乗り移ったかと思うようさね」
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「おつぎも能く働けるやうに成つたね、それだが此の間のやうな處を見ると死んだお品が乘り移つたかと思ふやうさね」
「わしももう、あれのことには驚いたことがあるんでがすがね」
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「わしもはあ、あれがこたあ魂消てつことあんでがすがね」
「そう言っちゃ何だが、お品もずいぶんお前では気をもんで苦労したこともあるからね」
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「さういつちや何だがお品も隨分お前ぢや意地燒いて苦勞したことも有るからね」
「へえ、わしはもう怖くて仕方がないんですから。わしが出られない所へは女房ばかり出て出てしたんでがすから」
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「へえ、わしやはあ可怖くつて仕やうねえんですから、わし出らんねえ處へは嚊ばかり出え/\仕たんでがすから」
「そうだったねえ」
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「さうだつけねえ」
おかみさんは微笑して
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内儀さんは微笑して
「おつぎは心持ちまでおふくろのほうだね。お前の姉だが、おつたはああいう性質なのに、一つ腹から出ても違うもんだね」
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「おつぎは心持までお袋の方だね、お前の姊だがおつたはあゝいふ性質なのに一つ腹から出ても違ふもんだね」
「わしらの姉はおかみさん、ろくでなしですからね」
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「わし等姊はお内儀さん、碌でなしですかんね」
彼は恥じて、そうして自分を庇うように、その姉というのを卑下して、ひがんだような苦笑を敢えてした。
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彼は恥ぢてさうして自分を庇護ふやうに其の姊といふのを卑下して僻んだやうな苦笑を敢てした。
「おつたは今どこにいるね」
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「おつたは今何處に居るね」
「下のほうにいますがね。わしは行き来なしでさ。同胞だとは思わないからと、わしが断ったんでがすから。わしらの女房が死んだ時だって来もしないんですからね。おかみさん、そういう者はありますまいね」
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「下の方に居あんすがね、わしは往來なしでさ、同胞だたあ思はねえからつてわし斷つたんでがすから、わし等嚊死んだ時だつて來もしねえんですかんね、お内儀さんさうえ者あ有りあんすめえね」
「そうだったっけかね」
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「さうだつけかね」
「わしは姉には、とうとう小作に持って行こうと思ってたのを一俵ぺてんに掛けられたことがあるんですから。自分のを始末すればすぐ返すからと持って行って、それっきりなんでさ。わしらの女房が生きてるころなもんだから、女房がとろっぴ催促に行き行きしたんだが、なくちゃやられないからと喧嘩を吹っかけるっていうんだから、女房も忌々しがっていたが、先方が不法なんだからだめでさね。それどころじゃない、盲になった自分の餓鬼の銭さえ騙して叩くんだから」
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「わしや、姊にや到頭小作に持つてくべと思つてたの一俵ぺてんに掛けられたことあんですから、自分のが始末すれば直返すからつて持つて行つてそれつ切りなんでさ、わし等嚊生きてる頃なもんだから、嚊とろつぴ催促に行き/\したんだが、無くつちや遣らんねえからつて喧嘩吹つ掛るつちんだから嚊も忌々敷がつて居たが先が不法なんだから駄目でさね、それ處ぢやねえ、盲目に成つた自分の餓鬼の錢せえ騙して叩くんだから」
「盲というのはどうしたんだね、それは」
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「盲目といふのはどうしたんだねそれは」
「野田へ醤油屋奉公に行っていて、あまり飯を食い過ぎたのが原因で目へ出たなんて言うんですが、二十くらいで潰れちまったんでさ。そうしたら、それをうっちゃって夜逃げみたいにさ、まるで。自分の村にだっていられなくなったんでがすから」
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「野田へ醤油屋奉公に行つてゝ餘り飯食ひ過ぎたの原因で眼へ出たなんていふんですが、廿位で潰れつちやつたんでさ、さうしたらそれ打棄つて夜遁げ見てえせまるで、自分の村落にだつて居らんなく成つたんでがすから」
「そういうことがねえ、よくできたもんだね。自分の本当の子をねえ、まあ。おつたはひどいということは聞いてはいたがねえ」
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「さういふことがねえ、能く出來たもんだね、自分の本當の子をねえまあ、おつたは酷いといふことは聞いちや居たがねえ」
おかみさんは驚いた様子で言った。
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内儀さんは驚いた容子でいつた。
「そんだが、おかみさん、その盲が不思議で、麦搗きでも米搗きでも畑を耕すのでも、何でも百姓仕事はやるんでさ。薄明かりには見えるんだなんて言うんだが、そんでも不思議なのさ、どうも。そんで、ごく堅い者だから他人にも面倒を見られて、それくらいだから銭も持ってるんでさ。そうしたらどこで聞いたか来て騙して連れて行ってね。ええ、わしらの姉さえ、おかみさん」
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「そんだがお内儀さん其盲目奇態で、麥搗でも米搗でも畑耕でも何でも百姓仕事は行んでさ、薄ら明りにや見えんだなんていふんだがそんでも奇態なのせどうも、そんで極く堅てえもんだから他人にも面倒見られて其の位だから錢も持つてんでさ、さうしたら何處で聞いたか來て騙して連れてつてね、えゝわしら等姊せお内儀さん」
彼は目をつり上げた。
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彼は目を峙てた。
「盲もさすがにおふくろだから、不自由になっちゃ他人の所なんぞよりはいいと思ったんでしょうね。そうしたらおかみさん、盲が銭を叩いちまったらまたうっちゃって。聞いてみちゃひどい話なのさ、本当に。その時には盲もわしの所へ泣きついて来て、わしももう、二十過ぎにもなっていくらなんだって騙されるなんて、盲のことも忌々しいようでがしたが、わしもその時は女房に死なれた当座なもんだから、そう薄情なこともできないと思って。そんでも一晩泊めて、わしも困ってはいたが、穀物もちっとはやったのさ。わしはおかみさん、女房を殺してからというものは、乞食にだって手づかみで物を出したことはないんでがすからね。そら、おつうにももう断っておくんでがすから。わしはおかみさん、それだけは心掛けてるんでがすよ」
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「盲目も有繋お袋だから畸形に成つちや他人の處なんぞよりやえゝと思つたんでがせうね、さうしたらお内儀さん盲目が錢叩いつちやつたら又打棄つて、聞いて見ちや酷でえ噺なのせ本當に、そん時にや盲目もわしが處へ泣きついて來て、わしもはあ、二十先にも成つて幾らなんだつて騙さつるなんて盲目ことも忌々敷やうでがしたが、わしも其ん時や嚊に死なれた當座なもんだからさう薄情なことも出來ねえと思つて、そんでも一晩泊めて、わしも困つちや居たが穀もちつたあ遣つたのせ、わしやお内儀さん嚊おつ殺してからつちものは乞食げだつて手攫みで物出したこたあねえんでがすかんね、そらおつうげもはあ斷つて置くんでがすから、わしやお内儀さん其れ丈は心掛てんでがすよ」
勘次は、おかみさんの心の裡に潜んでいる何物かを求めるような態度で言った。
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勘次は内儀さんの心裡に伏在して居る何物かを求めるやうな態度でいつた。
「そうだともさね。そういう心掛けでいさえすりゃ、けっして間違いはないからね」
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「さうだともさね、さういふ心掛で居さへすりや決して間違はないからね」
おかみさんは言って、さらにさっきからの話にいくらか釣り込まれているようで
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内儀さんはいつて更に以前からの噺に幾らか釣り込まれて居るやうで
「そりゃそうと、その盲はどうしたね」
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「そりやさうと其盲目はどうしたね」
「村にいますさ。どこと言ったって行き場所はないんですから。なあに、独りでさえありゃ、かえって懐はいいんでがすから」
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「村落に居あんさ、何處つちつたつて行き場所はねえんですから、なあに獨りでせえありや却つて懷はえゝんでがすから」
「それはまあ、おつたはそうとしても、それがさ、彦次はどうしたんだね。私もおつたのことはしばらく前に見たっきりだが」
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「それはまあ、おつたはさうとしても、それがさ、彦次はどうしたんだね、私もおつたのことは暫く前に見たつ切だが」
「おかみさん、夫婦揃ってなくっちゃやれるもんじゃありませんぞ。親父だっておかみさん、自分の女の子を女郎に売って百五十円とか言いましたっけが、その帰りに軍鶏喧嘩に引っ掛かって七十円も奪られて来たっていうんでがすから、話にはならないですよ。そっから、わしは姉ら夫婦のことは大嫌いなんでさあ」
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「お内儀さん、夫婦揃つてなくつちや行れるもんぢやありあんせんぞ、親爺だつてお内儀さん自分の女つ子女郎に賣つて百五十兩とかだつていひあんしたつけがそれ歸りに軍鷄喧嘩へ引つ掛つて、七十兩も奪られて來たつちんでがすから噺にや成んねえですよ、そつからわしや姊等夫婦のこたあ大嫌なんでさあ」
「本当とは思えないようなことだね」
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「本當とは思へないやうなことだね」
「おかみさん、本当ですともね。わしは嘘なんざおかみさんに言いませんから」
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「お内儀さん本當ですともね、わしあ嘘なんざお内儀げいひあんせんから」
「そりゃ本当には相違ないだろうがね」
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「そりや本當にや相違ないだらうがね」
「そんだが、おかみさん、その女の子もすぐ逃げて来ちまいましたね。今じゃ何とか言って、いやなら構わないそうでがすね」
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「そんだがお内儀さん、其女つ子も直遁げて來つちめえあんしたね、今ぢや何とか云つて厭だら構あねえ相でがすね」
「私もそんなことは知らないが、新聞で騒ぎはあったようだったね」
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「私もそんなことは知らないが、新聞で騷ぎはあつたやうだつけね」
おかみさんは、どこかそういう話には気が乗らないようで
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内儀さんは何處かさういふ噺には氣が乘ぬやうで
「おつたも見たところじゃ体裁がよくてね」
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「おつたも見た處ぢや體裁がよくてね」
「そうなんでさ。うまいもんだから、わしもとうとう米一俵損させられちまって」
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「さうなんでさ、うまいもんだからわしも到頭米一俵損させられちやつて」
勘次はそれを言うたびに、惜しそうな様子が見えるのである。
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勘次はそれをいふ度に惜し相な容子が見えるのである。
「そう言っちゃお前の姉のことを悪くばかり言うようだが、舅が鬼怒川へ落ちて死んだなんて大騒ぎしたことがあったっけねえ」
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「さういつちやお前の姊のこと惡くばかりいふやうだが、舅が鬼怒川へ落ちて死んだなんて大騷ぎしたことが有つたつけねえ」
「そうでさ。よっぽどになりますがね。ありゃ鬼怒川へ蚤を叩くと言って行って、それっきりになっちまったのさ」
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「さうでさ、餘つ程に成りあんすがね、ありや鬼怒川へ蚤叩くつて行つてそれつ切りに成つちやつたのせ」
「彦次は実の子なんだね」
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「彦次は實子なんだね」
「ええ、しばらく目が不自由で、別に小さく作って隠居してたんですが、蚤はいた様子なんでがすね。一度なんざあ畑のそばで叩いたら、そこらを通った人がみんなぞよぞよとはい上がられてひどい目に遭ったっていうんですから。そんで、そこらで叩いちゃ仕方がないからなんて言われたんでしょうね。それから何でも、ござを持って鬼怒川へ行くつもりになったんでがすね。鬼怒川まではさすがによっぽどありますさね。足元が本当じゃないから、ずぶりとのめっちまったもんでさ。本当にあっけない話で。それ、おかみさん、わしらの姉は、他人が死骸を見つけて大騒ぎして知らせに来たら、すぐもう死人の着物から始末して掛かったっていうんですから」
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「えゝ、暫く目が不自由で別に小さく作つて隱居してたんですが、蚤は居た容子なんでがすね、一度なんざあ畑の側で叩えたら其處ら通つた人みんなぞよ/\偃ひ上られて酷でえ目に逢つたちんですから、そんで其處らで叩えちや仕やうねえからなんて云はれたんでがせうね、それから何でも蓙持つて鬼怒川さ行く積に成つたんでがすね、鬼怒川までは有繋餘つ程ありあんさね、足もとが本當ぢやねえからずんぶらのめつちやつたもんでさ、本當に飽氣ねえ噺で、それお内儀さんわし等姊は他人が死骸見付けて大騷ぎして知らせに來たら、直はあ死人の衣物から始末して掛つたつちんですから」
「自分で取ってしまうつもりなんだね」
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「自分で取つて畢ふ積なんだね」
「兄弟らに分けてなんざあやらないつもりなんでさね」
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「兄弟等げ分けてなんざあ遣んねえ積なんでさね」
「着物だっていくらもないんだろうがね。それにまあ、どうして川へなんて、そんな遠くへござばかり持ってね。行くうちにはいた蚤もみんな飛んでしまうだろうがね。まあそういうのも巡り合わせだね」
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「衣物だつて幾らも無いんだらうがね、それにまあどうして川へなんて其麽遠くへ蓙ばかり持つてね、行くうちにや居た蚤もみんな飛んで了ふだらうがね、まあさういのも運り合せだね」
「もう耄碌してたんでがすから。あんまり耄碌しちゃ嫌がられますからね」
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「はあ耄碌してたんでがすから、餘まり耄碌しちや厭がられあんすかんね」
「嫌がられるって、お前そんなものじゃないよ。舅だもの、婿だの娘だのというものは、余計に気をつけなくちゃならないものなんだね」
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「厭がられるつてお前そんなものぢやないよ、舅だもの、婿だの娘だのといふものは餘計氣をつけなくちや成らないものなんだね」
おかみさんはたしなめるように言った。
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内儀さんは窘める樣にいつた。
「そりゃそうですがね、おかみさん」
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「そりやさうですがね、お内儀さん」
勘次は何だか隠しごとでも暴かれたように慌てて言って、そうして苦笑した。
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勘次は何だが隱事でも發かれたやうに慌てゝいつてさうして苦笑した。
「おつたは本当に舅にはよくしなかったそうだな。自分らのほうの餡には砂糖を入れても、舅のほうへは砂糖を入れなかったなんて、しばらく前に聞いたっけが」
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「おつたは本當に舅は善くしなかつた相だな、自分等の方の饀へは砂糖を入れても舅の方へは砂糖を入れなかつたなんて暫く前に聞いたつけが」
おかみさんは独りで低い声で言った。
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内儀さんは獨で低聲にいつた。
「どうでしたかね、それは」
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「どうでがしたかねそれは」
勘次はさっきの様子とは違って、にわかに庇いでもするような態度で言った。
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勘次は先刻の容子とは違つて、俄に庇護ひでもするやうな態度でいつた。
「そんなにしなくたって、いくらも生きやしない老人のことをな」
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「そんなに仕なくつたつて幾らも生きやしない老人のことをな」
おかみさんはつくづくとまた言った。
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内儀さんは熟と復いつた。
勘次は余計にしおれた。
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勘次は餘計に萎れた。
「勘次も、銭は自分の手から湧かすようにして辛抱してりゃ、つらいことばかりはないから。何でも人間は子供次第だよ。後で厄介にならなくちゃならないんだから、子供の面倒を見ないのは間違いだよ」
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「勘次も錢は自分の手から湧すやうにして辛抱してりや辛いことばかり無いから、何でも人間は子供次第だよ、後で厄介に成らなくちや成らないんだから子供の面倒は見ないな間違だよ」
おかみさんは励ますように、そうしてしんみりと言った。
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内儀さんは勵すやうにさうしてしんみりといつた。
しばらく話が途切れた時、勘次は突然
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暫く噺が途切れた時勘次は突然
「おかみさん、変なことを聞くようでがすが、帯にする布切れはどのくらいあったらいいもんでしょうね」
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「お内儀さん變なこと聞くやうでがすが帶にする布片はどの位有つたらえゝもんでがせうね」
と聞いた。
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と聞いた。
「おつぎにでも締めさせるのかい」
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「おつぎにでも締めさせるのかい」
「へえ、今のが古くていやだなんてねだられて、いつでもわしは怒るんでがすが。おかみさんの所へも不義理ばかりして、そんな所じゃないと言って聞かせても、みんな赤いのを締めてるもんだから、ほしくて仕方がないんでさ」
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「へえ、今のが古くつて厭だなんて強請れんで、何時でもわし怒んでがすが、お内儀さん處へも不義理ばかりしてそんな處ぢやねえつて云つて聞かせても、みんな赤えの締めてるもんだから欲しくつて仕やうねえんでさ」
「そうだね、帯はまあ一丈っていうんだが、そこらの子の締めるのはどんなものだかさね」
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「さうだね、帶はまあ一丈つていふんだが、其處らの子の締めるのは什麽ものだかさね」
「わしらのおつうは、それ、四尺もあればいいっていうんですがね。それだから、わしはおかみさんにでも聞かないじゃ分からないと思って」
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「わしらおつうはそれ四尺もあればえゝつちんですがね、それだからわしお内儀さんにでも聞かねえぢや分んねえと思つて」
「そうさ、なるほど。外へ出る所だけあればいいんだから、それには四尺もあったらたくさんだね。こうこっちばかりつければね」
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「さうさ成程、外へ出る處だけ有れば善いんだから、それにや四尺もあつたら澤山だね、斯うこつちばかり附ければね」
おかみさんは自分の帯へ手を当ててみて言った。
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内儀さんは自分の帶へ手を當てゝ見ていつた。
「それおかみさん、両方へつけるんだって、こういうふうに縛って中へたぐめた端っこが赤くなくちゃみっともないってね。そんな所はどうでもよかろうと思うんだが、もっともそこは一尺でいいなんて言うんでさ」
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「それお内儀さん、兩方へ附けんだつて恁ういに縛つて中へたぐめた端つ子が赤くなくつちや見つともねえつてね、そんな處どうでもよかんべと思ふんだが、尤も其處は一尺でえゝなんて云んでさ」
「なるほどね。私らは今までそういうことには気がつかなかったが、結び目も仕事するんだからそんなに大きくなくたって構わないし、四尺五寸もあればまるで新しいように見えるんだね」
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「成程ね、私等今までさういふことにや氣が附かなかつたが、結び目も仕事するんだから其麽に大きくなくつたつて構はないし、四尺五寸もあれば丸で新しいやうに見えるんだね」
「そんで、おかみさん、どのくらいしたもんでしょうね、銭は。たんと出るんじゃもう仕方がないが」
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「そんでお内儀さん、どの位したもんでがせうね錢は、たんと出んぢやはあ仕やうねえが」
勘次は危ぶむように言った。
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勘次は危むやうにいつた。
「いくらもしないね、それだけじゃ」
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「幾らもしないね、其れ丈ぢや」
「そんでも、おおよそまあどのくらいしたもんでしょうね」
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「そんでも大凡まあどの位したもんでがせうね」
勘次はまた繰り返して促した。
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勘次は又反覆して促した。
「唐縮緬も近ごろじゃ安くなったから、一尺十二、三銭くらいのものかね。上等で十四、五銭しかしないだろうね」
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「唐縮緬も近頃ぢや廉くなつたから一尺十二三錢位のものかね、上等で十四五錢しかしないだらうね」
「そうでがすか。わしはまた大変出るんだとばかり思ってました」
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「さうでがすか、わしやまた大變出んだとばかし思つてあんした」
「それも反物になってるのを切らせてそうだよ。それからもっと安くもできるのさ。村の店なんぞじゃ銭ばかり取って、虱が潜りそうなのでね」
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「それも反物に成つてるのを切らしてさうだよ、それからもつと廉くも出來るのさ、村の店なんぞぢや錢ばかりとつて虱が潜り相なのでね」
おかみさんは微笑した。
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内儀さんは微笑した。
「そういう短いのは端布で買うに限るのさ。いくらにもつかないもんだよ。私が近ごろ出るついでもあるから、買って来てやってもいいよ」
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「さういふ短いのは端布片で買ふに限るのさ、幾らにもつかないもんだよ、私が近頃出る序もあるから買つて來て遣つても善いよ」
「そうですか。そんじゃおかみさん、どうかそうしておくんなせえ。おかみさんに見てもらいさえすりゃ大丈夫でがすから。なあに、赤くさえありゃどんなんでも構わないんでがすがね」
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「さうですか、そんぢやお内儀さんどうかさうしておくんなせえ、お内儀さんに見て貰えせえすりや大丈夫でがすから、なあに赤くせえありや什麽んでも構あねえんでがすがね」
「一日お前が日雇いに来さえすりゃそれだけは出てしまうから、ほしいというものならこしらえてやるがいいよ。そりゃほしいはずさ、おつぎも明ければ十八になるんだったね」
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「一日お前が日傭に來さへすりやそれ丈は出て畢ふから、欲しいといふものなら拵へて遣るが善いよ、そりや欲しい筈さおつぎも明ければ十八に成るんだつけね」
おかみさんは同情して言った。
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内儀さんは同情していつた。
「わしに怒られるもんだから、陰でぐずぐず言って困るんでさ」
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「わしに怒らつるもんだから蔭でぐず/\云つて困んでさ」
勘次はさらに
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勘次は更に
「そんじゃまあよかった。わしらはそんなことはちっとも分からないから、それでもうおかみさんに聞いてみようと思ってたのさ」
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「そんぢやまあ善かつた、わし等そんなこたあちつとも分んねえから、夫からはあお内儀さんに聞いてんべと思つてたのせ」
と言って、どことなくそわそわと喜ばしさを抑えられないもののようである。
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といつて何處となくそわ/\と悦ばしさを禁じ得ないものゝ如くである。
「女の子はこれで飾りだから、他人にも見られるからね」
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「女の子は此れで飾だから他人にも見られるからね」
おかみさんは懇ろに言った。
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内儀さんは懇にいつた。
「わしらは自分じゃどんなぼろだって構わないが、これで女の子にはねえ。わしもこれで、おかみさんに聞くまでには心配しましたよ」
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「わし等自分ぢや什麽襤褸だつて構あねえが此れで女つ子にやねえ、わしもこんでお内儀さんに聞く迄にや心配しあんしたよ」
勘次は、わずかな帯のことが大きな事件の解決でも与えられたように、心の底から勢いづいて、おかみさんの前に感謝した。
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勘次は僅な帶のことが大きな事件の解決でも與へられたやうに心の底から勢ひづいて内儀さんの前に感謝した。
一一
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一一
勘次はきわめて狭い周りを持っている。
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勘次は極めて狹い周圍を有して居る。
しかし彼のやせた小さな体は、その狭い周りと反発しているような関係が、自然に成り立っている。
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然し彼の痩せた小さな體躯は、其の狹い周圍と反撥して居るやうな關係が自然に成立つて居る。
彼はけっして他人と争いを起こした例もなく、むしろきわめて穏やかな態度を保っている。
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彼は決して他人と爭鬪を惹き起した例もなく、寧ろ極めて平穩な態度を保つて居る。
ただ彼らのような貧しい暮らしの者は、互いに疑いと嫉妬との目をつり上げている。
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唯彼等のやうな貧しい生活の者は相互に猜忌と嫉妬との目を峙てゝ居る。
勘次は異常な労働によって報酬を得ようとする一方で、一銭といえども容易にその懐を減らすまいとのみ心掛けている。
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勘次は異常な勞働によつて報酬を得ようとする一方に一錢と雖も容易に其の懷を減じまいとのみ心懸けて居る。
彼らのような低い階級の間でも、互いの付き合いを少しでも壊さないようにするには、そこには必ず、それに対して金銭の若干が犠牲にされねばならない。
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彼等のやうな低い階級の間でも相互の交誼を少しでも破らないやうにするのには、其處には必ず其に對して金錢の若干が犧牲に供されねばならぬ。
絶対にその犠牲を惜しむ者は、他人の憎しみを買うに至らないまでも、互いの間は疎遠にならねばならない。
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絶對に其犧牲を惜むものは他の憎惡を買ふに至らないまでも、相互の間は疎略にならねばならぬ。
しかしそんなことは、勘次を苦しめてその卑しい心の何かを引き戻す力を持っていないのみでなく、ほとんど何の響きも彼の心に伝えるものではない。
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然し其麽ことは勘次を苦めて其のさもしい心の或物を挽囘させる力を有して居ないのみでなく、殆んど何の響をも彼の心に傳ふるものではない。
彼はただ、その日その日の暮らしが自分の心にいくらでも余裕を与えてくれればとのみ焦っているのである。
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彼は只其の日/\の生活が自分の心に幾らでも餘裕を與へて呉れればとのみ焦慮つて居るのである。
彼の心を満足させる程度は、たとえば目の前にある低い竹の垣根を壊して、一歩足をその中に踏み入れるだけのことに過ぎないのである。
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彼の心を滿足せしめる程度は、譬へば目前に在る低い竹の垣根を破壤して一歩足を其域内に趾つけるだけのことに過ぎないのである。
しかも竹の垣根は朽ちている。
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然も竹の垣根は朽ちて居る。
朽ちた低い竹の垣根は、その強い手の力をもって壊すのに何の造作もないはずであるが、手の先を触れさせることさえできないでいるのである。
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朽ちた低い竹の垣根は其の強い手の筋力を以て破壤するに何の造作もない筈であるが、手の先端を觸れしめることさへ出來ないで居るのである。
彼は長い時間、氷雪の間を渡った後、一杯の冷たいつるべの水を注ぐことによって、快い暖かさをその赤くなった足に感じるように、わずかな何かが彼の顔面のひがんだ筋を伸ばすのに十分であるのに、彼はその冷水の一杯さえ空しく求めつつあったのである。
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彼は長い時間氷雪の間を渉つた後、一杯の冷たい釣瓶の水を注ぐことによつて快よい暖氣を其の赤く成つた足に感ずる樣に、僅少な或物が彼の顏面の僻んだ筋を伸るに十分であるのに、彼は其の冷水の一杯をさへ空しく求めつゝあつたのである。
自然にできあがっている階級の違いを持っている者、または長い間彼の暮らしの内情を知り尽くしている者からは、彼は同情の目をもって見られているけれども、こせこせとしたその態度と、疑い深そうなその顔つきとは、そこに憎むべき何物も存在していないにしても、とうてい彼らの仲間のすべてと溶け合うべき理由のものではない。
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自然に形られて居る階級の相違を有して居る者又は長い間彼の生活の内情を知悉して居る者からは彼は同情の眼を以て視られて居るけれども、こせ/\とした其の態度と、狐疑して居るやうな其容貌とは其處に敢て憎惡すべき何物も存在して居ないにしても到底彼等の伴侶の凡てと融和さるべき所以のものではない。
彼は彼らの仲間にあっては、幾度か言いふらされているとおり、水に落とした菜種油の一滴である。
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彼は彼等の伴侶に在つては、幾度かいひふらされて居る如く水に落した菜種油の一滴である。
水が動く時、油は従って動かねばならない。
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水が動く時油は隨つて動かねば成らぬ。
水が傾く時、油はまた傾かねばならない。
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水が傾く時油は亦傾かねば成らぬ。
しかし水が静けさを保つ時、油はさらに恐れたように一か所に凝り固まる。
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併し水が平靜の度を保つ時油は更に怖れたやうに一所に凝集する。
両者の間には何もその性質を変えさせるべき働きが起こるでもなく、それは水が油をのけ者にするのか、油が水を弾くのか、ついに溶け合う機会がないのである。
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兩者の間には何等其の性質を變化せしむべき作用の起るでもなく、其れは水が油を疎外するのか、油が水を反撥するのか遂に溶け合ふ機會が無いのである。
これをかき乱す他の力が加えられなければ、両者はただ静かである。
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之を攪亂する他の力が加へられねば兩者は唯平靜である。
村の空気が静かであるように、勘次と他のすべてとの間もきわめて静かで、それで相容れないのである。
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村落の空氣が平靜である如く、勘次と他の凡てとの間も極めて平靜でそれで相容ないのである。
勘次はその菜種油のように、櫟林と接しながら村の西の端に片寄っていて、親子三人がただ凝り固まったような状態を保って落ち着いているのである。
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勘次は其の菜種油のやうに櫟林と相接しつゝ村落の西端に僻在して親子三人が只凝結したやうな状態を保つて落付て居るのである。
偶然に起こった彼の恥知らずな行いが、にわかに村の耳目を驚かせても、とにもかくにも一家を処理して行かねばならないすべての者は、彼らに共通な聞きたがり知りたがる性情に駆られながらも、むしろ地味で移り気な心が、際限もなく一つを追うには、年齢があまりに彼らを冷静な方向に傾かせている。
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偶然に起つた彼の破廉耻な行爲が俄に村落の耳目を聳動しても、兎にも角にも一家を處理して行かねばならぬ凡ての者は、彼等に共通な聞きたがり知りたがる性情に驅られつゝも、寧ろ地味で移氣な心が際限もなく一つを逐ふには年齡が餘に彼等を冷靜な方向に傾かしめて居る。
それでなくても、その知りたがり聞きたがる性情を刺激すべきことは、些細であるとはいいながら次々に彼らの耳に聞こえるので、勘次のみが問題ではなくなるのである。
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それでなくても其の知りたがり聞きたがる性情を刺戟すべきことは些細であるとはいひながら相尋で彼等の耳に聞えるので勘次のみが問題では無くなるのである。
しかしながら、若い衆と呼ばれる青年の一部は、勘次の家に絶えず注目を怠らない。
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然しながら若い衆と稱する青年の一部は勘次の家に不斷の注目を怠らない。
それは、おつぎの姿を忘れ去ることができないからである。
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其れはおつぎの姿を忘れ去ることが出來ないからである。
かりそめにも血の巡りが彼らの体に止まらないかぎりは、いったん心に映った女の姿を、めいめいの胸から消し去ることは不可能でなければならない。
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苟且にも血液の循環が彼等の肉體に停止されない限りは、一旦心に映つた女の容姿を各自の胸から消滅させることは不可能でなければならぬ。
しかし彼らは、一方に持っている矛盾した恥じらいの念に抑えられて、燃えるような心からひそかに、はかない目の光を主として夜に向かって注ぐのである。
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然し彼等は一方に有して居る矛盾した羞耻の念に制せられて燃えるやうな心情から竊に果敢ない目の光を主として夜に向つて注ぐのである。
夜は彼らの世界である。
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夜は彼等の世界である。
熟練な漁師は、大海の波に任せて舷から縄につないだ壺を沈める。
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熟練な漁師は大洋の波に任せて舷から繩に繼いだ壺を沈める。
その縄をたぐって、沈めた赤い素焼きの壺が再び舷に引きつけられる時、そこにはじっとして蛸が足の吸盤で内側に吸いついている。
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其の繩を探つて沈めた赤い土燒の壺が再び舷に引きつけられる時、其處には凝然として蛸が足の疣を以て内側に吸ひついて居る。
こうして漁師は、鋭い目をもって獲物を外さない道を、波の間に極めているのである。
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恁うして漁師は烱眼を以て獲物を過たぬ道を波の間に窮めて居るのである。
わずかな村の中で、毎日すべての目に見慣れている女の居場所を狙うことは、蛸壺を沈めるような、そんな、むしろあてどもないものではない。
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僅な村落の内で毎日凡ての目に熟して居る女の所在を覘ふことは、蛸壺を沈めるやうな其麽寧ろあてどもないものではない。
木の葉が陰を落としてくれない冬の夜には、狙って歩く彼らは自分の恥じらいの心を、頭からどてらで覆っている。
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木の葉が陰翳を落として呉れぬ冬の夜には覘うて歩く彼等は自分の羞耻心を頭から褞袍で被うて居る。
短い夜のころでも、朝の眠たさがてきめんに自分を苦しめるにもかかわらず、うそうそと歩いてみなければ、臭い古ぼけた蚊帳の中に諦めてその身を横たえることができないのである。
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短い夜の頃でも、朝の眠たさが覿面に自分を窘めるにも拘はらずうそ/\と歩いて見ねば臭い古ぼけた蚊帳の中に諦めて其身を横たへることが出來ないのである。
彼らが女の居場所を狙うのは、きわめて容易なもののようではありながら、蛸壺が少しの妨げもなく沈められるようではなく、父母の目が闇の夜にさえ光を放って、女を彼らから遮ろうとしている。
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彼等が女の所在を覘ふのは極めて容易なものの樣ではありながら蛸壺が少しの妨げもなく沈められる樣ではなく、父母の目が闇の夜にさへ光を放つて女を彼等から遮斷しようとして居る。
彼らはそれで、目の光の及ぶ範囲内には自分の身を現さないで、目的を遂げようと苦心する。
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彼等はそれで目の光の及ぶ範圍内には自分の身を表はさないで目的を遂げようと苦心する。
たとえてみれば、彼らは狭いとはいいながら跳んでは越せない堀を隔てて、しかも茂った野茨や川柳に身を沈めながら、女の柔らかい手を取ろうとするのである。
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譬て見れば彼等は狹いとはいひながら跳ては越せぬ堀を隔てゝ、然かも繁茂した野茨や川楊に身を沒しつゝ女の軟かい手を執らうとするのである。
それはとうてい、触れ合うことさえ不可能である。
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其れは到底相觸れることさへ不可能である。
焦れて堀を飛び越えようとしては、野茨の刺に肌を傷つけたり、泥に着物を汚したり、苦い失敗の味をなめねばならない。
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焦燥つて堀を飛び越えようとしては野茨の刺に肌膚を傷けたり、泥に衣物を汚したり苦い失敗の味を嘗めねばならぬ。
それゆえ彼らは、目立たないうちに巧みな手段を施そうとして、そこに工夫が凝らされるのである。
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其れ故彼等は隱約の間に巧妙な手段を施さうとして其處に工夫が凝されるのである。
すでに漁師の手に命を握られている蛸は、力を極めて壺の内側に張りつけば、どんなに強い手の力が袋のようなその頭を持って引こうとも、蛇が体の一部を穴に差し入れたように、ちぎれるまでも離れない。
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既に漁師の手に生命を握られて居る蛸は力を極めて壺の内側に緊着すれば什麽強い手の力が袋のやうな其の頭を持つて曳かうとも、蛇が身體の一部を穴に揷入したやうに拗切るまでも離れない。
刃物で突き刺しても同じである。
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刄物を以て突つ刺しても同一である。
蛸壺の底には必ず小さな穴が開けられてある。
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蛸壺の底には必ず小さな穴が穿たれてある。
尻からふっと息を吹きかけると、蛸は驚いてするりと壺から逃げる。
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臀からふつと息を吹つ掛けると蛸は驚いてすると壺から逃げる。
それでもなお騙されない時は、小さな穴から熱湯をぽっちりと尻に注げば、蛸は必ず慌てて漁師の前に躍り出る。
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それでも猶旦騙されぬ時は小さな穴から熱湯をぽつちりと臀に注げば蛸は必ず慌てゝ漁師の前に跳り出す。
熱い一滴によって、容易に蛸は騙されるのである。
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熱い一滴によつて容易に蛸は騙されるのである。
たとえ見張りの目から逃れて女に近づいたとしても、打ち込んだ女の情が強ければ、蛸壺の蛸が騙されるようにころりと落とす工夫のつくまでは、男は忍耐と、むしろ危険とを併せて凌がねばならない。
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假令監視の目から逭れて女に接近したとしても、打ち込んだ女の情が強ければ蛸壺の蛸が騙される樣にころりと落す工夫のつくまでは男は忍耐と寧ろ危險とを併せて凌がねば成らぬ。
そうしてわずかに触れ合った男女が心から引き合う時、互いに他のすべてに対して恐れの念を抱きはじめるのである。
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さうして纔に相接した兩性が心から相曳く時相互に他の凡てに對して恐怖の念を懷きはじめるのである。
空が夕日の消えて行く光を西の底深く閉ざしてしまって、薄い宵が地を低く覆って夜が来た時、女は井戸端で愉快に唄いながら、一種の調子を持った手の動かしようをして米を研ぐ。
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空が夕日の消え行く光を西の底深く鎖して畢つて、薄い宵が地を低く掩うて夜が到つた時女は井戸端で愉快に唄ひながら一種の調子を持つた手の動かし樣をして米を研ぐ。
女は研ぎ桶と唄との二つの音が入り交じりつつある間にも、木陰にたたずむ男の気配を悟るほど、耳の神経が高ぶっている。
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女は研桶と唄との二つの聲が錯綜しつゝある間にも木陰に佇む男のけはひを悟る程耳の神經が興奮して居る。
それが涼しい夏の夜で、女が男を待つ時には、毎日汗に汚れやすい、そうしてその飾りでなければならない手拭いの洗濯に手間取るのである。
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其れが凉しい夏の夜で女が男を待つ時には毎日汗に汚れ易いさうして其の飾りでなければ成らぬ手拭の洗濯に暇どるのである。
庭の木陰に身を避けて、しんみりと互いの胸を繰り返す時、茂った柿や栗の木は彼らの唯一の味方で、月夜でさえ深い陰が安全に彼らを包む。
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庭の木陰に身を避けてしんみりと互の胸を反覆す時繁茂した柹や栗の木は彼等が唯一の味方で月夜でさへ深い陰翳が安全に彼等を包む。
空に冴えた月は、放り出してある手水だらいをのぞいては冷ややかに笑っている。
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空に冴えた月は放棄してある手水盥を覗いては冷かに笑うて居る。
彼らがあまりに手間取っていれば、月はこっそりと首を傾けて、木の葉の間からのぞいてみる。
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彼等が餘りに暇どつて居れば月はこつそりと首を傾けて木の葉の間から覗いて見る。
それでもなお彼らがぐずぐずしていれば、彼らを庇っている木が柿の木であれば、こずえからまだ青い実を投げて、その瞬間、驚きやすい彼らが欺かれて、彼らの仲間のいたずらであるかを疑っては慌てて周りを見る時、茂った大きな葉が涼しい風にさやさやと微笑する。
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其れでも猶彼等が屈託して居れば、彼等を庇護して居る木が柹の木であれば梢からまだ青い實を投げて、其の瞬間驚き易い彼等が欺かれて、彼等の伴侶の惡戯であるかを疑うては慌てゝ周圍を見る時、繁茂した大きな葉が凉しい風にさや/\と微笑する。
彼らはこうして、家の中から声を立てて激しく呼ばれるまでは、恐れ恐れも際限のない話にふけるのである。
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彼等はかうして家の内から聲を立てゝ劇しく呼ばれるまでは怖れ/\も際限のない噺に耽るのである。
彼らがそういう苦心の間に、次の日の体の疲れを犠牲にしてまでも、わずかな時間を向かい合っていながら、互いの顔も見ることができないで、低く殺した声にのみ満足するほかに、彼らは林の中に放たれた時、思い思われるすべてがひたすらに甘い味をむさぼるのである。
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彼等がさういふ苦辛の間に次の日の身體の疲れを犧牲にしてまでも僅な時間を相對して居ながら互の顏も見ることが出來ないで低く殺した聲にのみ滿足する外に、彼等は林の中に放たれた時想ひ想はぬ凡てが只管に甘い味を貪るのである。
林は彼らの天地である。
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林は彼等の天地である。
落ち葉をかくとて熊手を入れる時、彼らは連れ立って自在にさまようことが黙って許されてある。
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落葉を掻くとて熊手を入れる時彼等は相伴うて自在に徜徉ふことが默託されてある。
しかし熊手の爪が速やかに木陰の土に跡をつける、その動きさえ、一度は一度と短い日を刻んで行くような冬の季節は、あまりに冷たく彼らの心を引き締めている。
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然し熊手の爪が速かに木陰の土に趾つける其の運動さへ一度は一度と短い日を刻んで行く樣な冬の季節は餘りに冷たく彼等の心を引き緊めて居る。
至る所、畑のとうもろこしが葉の間からもさもさと赤い毛を吹いて、その大きな葉がざわざわと人の心を騒がすようになると、男女の群れが長雨の後の茂った林の下草に、研ぎすました草刈り鎌の刃を入れる。
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到る處畑の玉蜀黍が葉の間からもさ/\と赤い毛を吹いて、其の大きな葉がざわ/\と人の心を騷がす樣に成ると、男女の群が霖雨の後の繁茂した林の下草に研ぎすました草刈鎌の刄を入れる。
初めは朝早くに馬のまぐさの一籠を刈るに過ぎないけれど、焼けるような日のもとに畑もようやく片がついて、村のすべてがみな草刈りに心を注ぐようになれば、若い同士が誘い合っては、遠く林の小道を分けて行く。
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初は朝まだきに馬の秣の一籠を刈るに過ないけれど、燬くやうな日のもとに畑も漸く極がついて村落の凡てが皆草刈に心を注ぐ樣に成れば、若い同志が相誘うては遠く林の小徑を分て行く。
そうして自分の天地に、その羽をいっぱいに広げる。
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さうして自分の天地に其羽を一杯に擴げる。
どこを見てもただ深い緑に閉ざされた林の中に、彼らは唄う声によって互いの居場所を知ったり知らせたりする。
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何處を見ても只深い緑に鎖された林の中に彼等は唄ふ聲に依つて互の所在を知つたり知らせたりする。
彼らのしおらしい者はそれでも、午前の何時間かを懸命に働いて、父なる者の小言を聞かないまでに厩のそばに草を積んでは、午後の何時間かを勝手に費やそうとする。
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彼等のしをらしい者はそれでも午前の幾時間を懸命に働いて父なるものゝ小言を聞かぬまでに厩の傍に草を積んでは、午後の幾時間を勝手に費さうとする。
一度でもしめやかに語り合った男女が出会えば、彼らは一切を忘れて、それでもさすがに人目だけはいとって、小道から一歩木の間に身を避ける。
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一度でもしめやかに語り合うた兩性が邂逅へば彼等は一切を忘れて、それでも有繋に人目をのみは厭うて小徑から一歩木の間に身を避ける。
茂った青草が、そばを行く人にも知られないように、かがんだ彼らをいくらでも覆い隠す。
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繁茂した青草が側行く人にも知られぬ樣に屈んだ彼等を幾らでも掩ひ隱す。
彼らは決まった何の話も持っていないのに、快く冷たい土に座って、ついには手にした鎌の刃先で少しずつ土をほじくりながら、女は白い手拭いの端を微かに動かしては、うつむきながら微笑しながら、際限もなくそこにじっとしていようとする。
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彼等は極つた何の噺も持つて居ないのに快よく冷たい土に坐つて、遂には手にした鎌の刄先で少しづゝ土をほじくりつゝ女は白い手拭の端を微動させては俯伏しなから微笑しながら際限もなく其處に凝然として居ようとする。
炒りつけるような油蝉の声が彼らの心を揺るがしては、鼻のつまったようなみんみん蝉の声が、その心を溶かそうとする。
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熬りつける樣な油蝉の聲が彼等の心を撼がしては鼻のつまつたやうなみん/\蝉の聲が其の心を溶かさうとする。
藪蚊が彼らの日に焼けた赤い足へ針を刺して、尻がたわらぐみのように血を吸って膨れても、彼らはちくりと刺激を与えられた時に慌ててはたと叩くのみで、蚊が逃げようとも知らない顔である。
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藪蚊が彼等の日に燒けた赤い足へ針を刺して、臀がたはら胡頽子の樣に血を吸うて膨れても、彼等はちくりと刺戟を與へられた時に慌てゝはたと叩くのみで蚊が逃げようとも知らぬ顏である。
暑い日が、草いきれで汗びっしりになっている彼らの体に、時刻が過ぎたと枝の間から強い光を投げかけて促すまでは、まれにはしびれた足を投げ出して、聞きも聞かせもしなくていい話を繰り返してのみいるのである。
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暑い日が草いきれで汗びつしりに成つて居る彼等の身體に時刻が過ぎたと枝の間から強い光を投掛けて促す迄は、稀には痺れた足を投出して聞きも聞かせもしなくて善い噺を反覆してのみ居るのである。
彼らはこうして時間を空しく費やしては、遠く近く蜩の声が一斉に忙しくめいめいの耳を騒がして、大きな紗で覆ったかと思うように薄い陰が世間を包むと、彼らは慌ててみな家路につく。
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彼等は恁うして時間を空しく費しては遠く近く蜩の聲が一齊に忙しく各自の耳を騷がして、大きな紗で掩うたかと思ふ樣に薄い陰翳が世間を包むと彼等は慌てゝ皆家路に就く。
どうかしてあまりに遅れると、空の草刈り籠を逆さに背負って、歩けばざわざわと鳴るように、大きな籠の目へ楢や雑木の枝を差して、たそがれの庭に身を運んで、刈り積んだ青草の近くに籠を下ろす。
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どうかして餘りに後れると空な草刈籠を倒に脊負つて、歩けばざわ/\と鳴る樣に、大きな籠の目へ楢や雜木の枝を揷して黄昏の庭に身を運んで刈積んだ青草に近く籠を卸す。
父なる者は、蚊柱の立つ厩のそばで、ぶるぶるとたてがみを震わせながら、ぱさりぱさりと尾で尻のあたりを叩いている馬に、まぐさを与えている。
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父なるものは蚊柱の立てる厩の側でぶる/\と鬣を撼がしながら、ぱさり/\と尾で臀の邊を叩いて居る馬に秣を與へて居る。
母なる者は、青い煙に満ちたかまどの前に立ってはすそをからげながら、明かりをつける余裕もなく、我が子をぶつぶつと待っている。
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母なるものは青い烟に滿た竈の前に立つては裾りつゝ、燈火を點ける餘裕もなく我が子をぶつ/\と待つて居る。
こうして忙しさに、楢や雑木の枝で欺いた手段が見つけられないのである。
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恁うして忙しさに楢や雜木の枝で欺いた手段が發見されないのである。
やましい女は、黙って何よりもまず空の手桶を持って井戸端へ駆けて行っては、ざあと水を汲んで、それから汁の実でも切れてなければ、慌ただしくとんとんと包丁の音を立てて、少しずつでも母なる者の小言から逃れようとする。
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うしろめたい女は默つて何よりも先づ空な手桶を持つて井戸端へ驅けて行つてはざあと水を汲んでそれから汁の身でも切れてなければ慌しくとん/\と庖丁の響を立てゝ、少しづゝでも母なるものゝ小言から遁れようとする。
狭い庭の垣根に、黄色い蝶がいくつも止まってしきりに羽を動かしているように、一つ一つにひらりひらりと開いては、夜目にもほっかりと匂っている月見草は、自分たちの夜が来たと、駆け歩いている女に対して懐かしそうに目を見開くのである。
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狹い庭の垣根に黄色な蝶が幾つも止つて頻りに羽を動かして居るやうに一つ/\にひらり/\と開いては夜目にもほつかりと匂うて居る月見草は自分等の夜が來たと、駈け歩いて居る女に對して懷し相に目を睜るのである。
彼らのある者は、さらに夜の眠りにつく前に、戸口に近く蚊帳の裾にくるまっては、ひそかに雨戸の外に訪れる男を待とうとさえするのである。
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彼等の或者は更に夜の眠りに就く前に戸口に近く蚊帳の裾にくるまつては竊に雨戸の外に訪るゝ男を待たうとさへするのである。
男は雨戸を開けて忍ぶ時、月が冴えていてさえためらわない。
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男は雨戸を開けて忍ぶ時月が冴え居てさへ躊躇せぬ。
彼はそれでも、畳の上に差し込む光をいとって、ひさしの近くにむしろを吊る。
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彼はそれでも疊の上に射し込む光を厭うて廂に近く筵を吊る。
ゆがんだ戸がぎしぎしと鳴るのに、それが彼らの西瓜や瓜の畑を襲うころであれば、道端の草むらからくつわむしを捕って行って、雨戸の隙間から放つ。
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歪んだ戸がぎし/\と鳴るのにそれが彼等の西瓜や瓜の畑を襲ふ頃であれば道端の草村から轡蟲を捕つて行つて雨戸の隙間から放つ。
くつわむしは暗い中へ放たれれば、すぐに声を揃えて鳴く。
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轡蟲は闇いなかへ放たれゝば、直に聲を揃へて鳴く。
土地でそれが一般にがしゃがしゃという名を与えられているだけ、やかましく、ただがしゃがしゃと鳴く。
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土地で其れが一般にがしや/\といふ名稱を與へられて居るだけ喧しく只がしや/\と鳴く。
がしゃがしゃが鳴き出せば、彼らは安心して雨戸をこじるのである。
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がしや/\が鳴き出せば彼等は安んじて雨戸をこじるのである。
それからまた、箱を転がしたような、隔ての障子さえない小さな家で、女が男を導くとて、どうしても父母の枕元を過ぎねばならない時は、踏めばぎしぎしと鳴る床板に二人の足音を憚って、女は闇に男を背負うのである。
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それから又箱を轉したやうな、隔ての障子さへ無い小さな家で女が男を導くとて、如何しても父母の枕元を過ぎねば成らぬ時は、踏めばぎし/\と鳴る床板に二人の足音を憚つて女は闇に男を脊負ふのである。
そこには、たとえ重さが加えられても、それは巧みに疲れて眠い父母の耳を欺くのである。
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其處には假令重量が加へられても、それは巧に疲れて眠い父母の耳を欺くのである。
一般の娘の境遇はこのようであって、まれにはひどく叱られることもあって、その時のみはしおれても、明日はたちまち以前に戻って、その性情のままに進んで顧みない。
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一般の子女の境涯は如此にして稀には痛く叱られることもあつて其時のみは萎れても明日は忽ち以前に還つて其性情の儘に進んで顧みぬ。
おつぎは、そんな仲間と一日でもいっしょにその身を放されたことがないのである。
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おつぎは其麽伴侶と一日でも一つに其身を放たれたことがないのである。
勘次がどんなにやかましくおつぎを押さえても、おつぎがそれで抑えられても、勘次は村の若者がおつぎに思いを掛けることに歯止めをかける、少しの力をも持っていない。
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勘次が什麽に八釜敷おつぎを抑へてもおつぎがそれで制せられても、勘次は村の若者がおつぎに想を懸けることに掣肘を加へる些の力をも有して居らぬ。
すべての村の若者が女を狙おうとする時はずいぶん執念深く、それはちょうど、追えばたちまち逃げる鶏が、どうかして狭く戸口を開けてある穀倉に好む餌を見つけて入ろうとする時、その狭い戸口が身を入れるに足りなければ、いたずらに首を差し込んでは足掻いて足掻いて、そうしてほかへ行ってしまうようなものである。
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凡ての村落の若者が女を覘はうとする時は隨分執念く其れは丁度、追へば忽ちに遁げる鷄がどうかして狹く戸口を開いてある穀倉に好む餌料を見出して這入らうとする時に其の狹い戸口が身を入るゝに足りなければ徒らに首を揷し込んでは足掻いて/\さうして他へ行つて畢ふ。
それが一度で諦めればそれまでであるけれど、二度三度戸口に立って足掻きはじめれば、去っては来り、去っては来り、首筋の皮が擦りむけて戸口におびただしく血の跡をつけても、執念深く餌を求めて止まないような形でなければならない。
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其れが一度で斷念すれば其れ迄であるけれど、二度三度戸口に立つて足掻き始めれば、去つては來り、去つては來り、首筋の皮が擦り剥けて戸口に夥か血の趾を印しても執念く餌料を求めて止まぬやうな形でなければならぬ。
めいめいの心に、おつぎをどれほど深く思おうとも、それはめいめいが持つ権利に属している。
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各自の心におつぎを何れ程深く思はうともそれは各自が有する權能に屬して居る。
しかしながら、おつぎへ加えようとするその手を極端に防ごうとすることも、勘次が持つ権利である。
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然しながらおつぎへ加へようとする其手を極端に防遏しようとすることも勘次が有する權能である。
互いにその権利を越えて他人の領分を侵す時、そこには必ずもめごとが伴われるはずでなければならない。
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相互に其の權能を越えて他の領域を冒す時其處には必ず葛藤が伴はれる筈でなければ成らぬ。
若者は寄り集まれば、みな不平の情を語り合って、勝手に勘次を邪魔なこそばゆい者にしていた。
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若者は相聚まれば皆不平の情を語り合うて、勝手に勘次を邪魔なこそつぱい者にして居た。
そのくせ彼らはみな、互いに自分独りのみがおつぎを得ようとして、及ばない手を伸ばしているのである。
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其癖彼等は皆互に自分獨りのみがおつぎを獲ようとして及ばぬ手を延ばして居るのである。
万一目的が遂げられたことがあったとしても、それはただ一人に限られていて、その他の幾人かは空しく、しかもきわめて軽い不快と嫉妬とから、口々にその一人に向かって嫌味を言って止まねばならない。
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萬一目的が遂げられたことが有つたとしても其れは只一人に限られて居て、爾餘の幾人は空しく然も極めて輕い不快と嫉妬とから口々に其一人に向つて厭味をいうて止まねば成らぬ。
しかしながら、ついにその一人が彼らの間に見いだされなかった。
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然しながら遂に其一人が彼等の間に發見されなかつた。
彼らの怨みがすべて勘次の一身に集まった。
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彼等の怨恨が凡て勘次の一身に聚つた。
それでも、あっさりした彼らの怨みは、三人以上が集まって口を開けば必ず笑い声を絶やさないほどのものであった。
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それでも淡白な彼等の怨恨は三人以上が聚つて口を開けば必ず笑聲を絶たぬ程のものであつた。
怨みというよりも、じれったさであった。
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怨恨といふよりも焦燥つたさであつた。
おつぎの身には、こうして事件を引き起こすべき機会が与えられなかった。
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おつぎの身體には恁うして事件を惹き起すべき機會が與へられなかつた。
それでも、ただ一人おつぎと手を取って語ることにまで近づき得た者があった。
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それでも只一人おつぎと手を執つて語ることにまで近づき得たものがあつた。
勘次はどれほど厳重にしても、おつぎが厠に通う時間をさえ、狭い庭の夜の中へ放つことを拒むことはできなかった。
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勘次はどれ程嚴重にしてもおつぎが厠に通ふ時間をさへ狹い庭の夜の中へ放つことを拒むことは出來なかつた。
執念深い一人が、偶然そういう機会を見つけた。
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執念深い一人が偶然さういふ機會を發見した。
彼は、まだ恥じらいと恐れとが全身を支配しているおつぎを捕まえて、ただじっと動かさないまでには、幾度か手を換えて苦心した。
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彼は、まだ羞恥と恐怖とが全身を支配して居るおつぎを捕へて只凝然と動かさないまでには幾度か手を換て苦心した。
勘次が戸の内から呼んでも、厠のそばで返事をするおつぎの声は、最初の間は疑いを抱かせるまでには至らなかった。
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勘次が戸の内から呼んでも厠の側で返辭をするおつぎの聲は最初の間は疑念を懷かせるまでには至らなかつた。
それでも、彼らが心に深く互いの情を刻むまで、疑いの目を見開いている勘次を欺きおおせることはできなかった。
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其れでも彼等が心に深く互の情を刻むまで猜忌の目を睜つて居る勘次を欺きおほせることは出來なかつた。
ある晩、勘次はがらっと戸を開けて出た。
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或晩勘次はがらつと戸を開けて出た。
激しく開けた戸が、やや朽ちかけた敷居の溝を外れようとして、ぎっしりと固まった。
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劇しく開けた戸が稍朽ち掛けた閾の溝を外れようとしてぎつしりと固着した。
彼はいらだって戸を叩いて溝に戻すと、そのまま飛び出した。
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彼は苛立つて戸を叩いて溝に復すと其の儘飛び出した。
彼はすぐ自分の近くに、手拭いをかぶったおつぎの姿が徐々に動いて来るのを見た。
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彼は直自分に近く手拭被つたおつぎの姿が徐ろに動いて來るのを見た。
それと同時に、ひそかに落ちて行く草履の音が勘次の耳に響いた。
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其と同時に竊に落ち行く草履の音が勘次の耳に響いた。
彼はそれを耳に感じる瞬間、右の手が壁際の木の根に掛かって、木の根は彼の力いっぱいに木陰の闇へ投げられた。
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彼は其を耳に感ずる瞬間右の手が壁際の木の根に掛つて、木の根は彼の力一杯に木陰の闇に投ぜられた。
木の根はどさりと遠く落ちて、庭の土をえぐって、余勢が幾度かもんどりを打った。
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木の根はどさりと遠く落ちて庭の土をさくつて餘勢が幾度かもんどりを打つた。
勘次は続いて投げた。
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勘次は續いて擲つた。
曲者はすでに逃げ落ちたけれど、彼の不意の襲撃に慌てて、節くれ立った柿の根につまずいて倒れた。
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曲者は既に遁げ落ちたけれど彼の不意の襲撃に慌てゝ節くれ立つた柹の根に蹶いて倒れた。
彼は次の日、足を引きずらねば歩けないほど足首の関節に痛みを感じたのであった。
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彼は次の日足を引ずらねば歩けぬ程足首の關節に疼痛を感じたのであつた。
勘次は、ぽつんと立っているおつぎを突きのめすように戸口へ送って、がらりと戸を閉じて掛け金を掛けた。
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勘次はぽつさりと立つて居るおつぎを突きのめす樣に戸口に送つてがらりと戸を閉ぢて掛金を掛けた。
その夜はまだ、めいめいが一つ加わった年齢の数だけの炒り豆をかじって鬼を追った夜から、いくらも隔たらないので、塩鰯の頭とともに戸口に挿した柊の葉も、いっこうに乾いた様子の見えないほどのことであった。
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其夜はまだ各が一つ加はつた年齡の數程の熬豆を噛つて鬼をやらうた夜から、幾らも隔たらないので、鹽鰮の頭と共に戸口に揷した柊の葉も一向に乾いた容子の見えない程のことであつた。
おつぎは十八といっても、その年齢に達したというばかりで、こんな場合を巧みに繕うという料簡さえ、かりそめにも持っていないほど、一面においては濁りのないかわいらしい少女であった。
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おつぎは十八というても其の年齡に達したといふばかりで、恁んな場合を巧に繕らふといふ料簡さへ苟且にも持つて居ない程一面に於ては濁のない可憐な少女であつた。
おつぎはしおれて、ただぽつんと立っている。
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おつぎは萎れて只ぽつさりと立つて居る。
勘次の目は、薄暗い手ランプに光った。
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勘次の目は薄闇い手ランプに光つた。
「おつう」
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「おつう」
とひと声怒鳴って、感情の激した勘次は、とっさに次の言葉が出せなかった。
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と一聲呶鳴つて情の激した勘次は咄嗟に次の語が出せなかつた。
「何してけつかったんだ」
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「何してけつかつたんだ」
勘次はおつぎを睨みつけた。
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勘次はおつぎを睨みつけた。
おつぎはうつむいて黙っている。
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おつぎは俯向いて默つて居る。
「さあ言ってみろ。嘘を言ったって知ってるぞ、おい」
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「さあ云つて見ろ、嘘云つたつて知つてつゝお」
勘次はなおも激しく問いただした。
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勘次は猶も激しく訊ねた。
「お前はいつでも何と言った。おとっつあんにはけっして心配を掛けないからと言ったんじゃないか。そんでもお前は心配を掛けないのか。掛けないというんなら言ってみろ」
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「汝りや何時でも何ちつた、おとつゝあげは決して心配掛けねえからつて云つたんぢやねえか、そんでも汝りや心配掛けねえのか、掛けねえつちんだら云つて見ろ」
彼は忌々しそうに、かつ刃で心を突き通される苦しさを堪えたかと思うような様子で、わくわくする胸から声を絞って言った。
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彼は忌々敷相に且つ刄を以て心部を突き通される苦しさを忍んだかと思ふやうな容子でわく/\する胸から聲を絞つていつた。
彼はしばらく間を置いてはまた、かんでかんでかみしめてもかみ切れない何かに対するようなじれったさと、期待していた何かをにわかに奪い去られたような絶望とが入り混じり、もつれ合った自暴自棄の態度をもって、おつぎを責めた。
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彼は暫く間を措いては又、噛んで/\噛締めても噛み切れぬ或物に對するやうな焦燥つたさと、期待して居た或物を俄に奪ひ去られた樣な絶望とが混淆し紛糾した自暴自棄の態度を以ておつぎを責めた。
彼の振る舞いは、ほとんど発作的であった。
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彼の擧動は殆ど發作的であつた。
おつぎの声を殺して泣く声は、隙間だらけな戸の外に絶え絶えに漏れた。
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おつぎの聲を殺して泣く聲は隙間だらけな戸の外に絶え/″\に漏れた。
これまでとても、おつぎはたとえ異性を慕う心がようやく育って来たとはいいながら、ひそかにその手を取られた時は、後ではむしろ悔いるまでも、恥じらいと恐れと、それから勘次を憚ることから生じる抑えの念とが、慌ててその手を振りほどかせるのであった。
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從來とてもおつぎは假令異性を慕ふ性情が漸く發達して來たとはいひながら、竊に其手を執られた時は、後では寧ろ悔いるまでも羞恥と恐怖とそれから勘次を憚ることから由つて來る抑制の念とが慌てゝ其の手を振り挘らせるのであつた。
それがだんだん、いやでない誘惑の手に乗って、甘い味をわずかに感じる程度まで近づいた刹那、一切が壊し去られたのである。
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其れが段々厭でない誘惑の手に乘つて甘い味を僅に感ずる程度まで近づいた刹那一切が破壞し去られたのである。
おつぎは以前に戻って、恐れの手に深くその身を沈めねばならなくなった。
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おつぎは以前に還つて恐怖の手に深く其の身を沒却せねばならなく成つた。
深い罪を含んでいないその夜の事件は、それで済んだ。
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深い罪惡を包藏して居ない其の夜の事件はそれで濟んだ。
勘次は依然として、おつぎにはただ一つしかない大樹の陰であった。
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勘次は依然おつぎには只一つしか無い大樹の陰であつた。
しかし勘次自身には、どんな種類の物でも、今の彼の心に与え得る満足の程度は、失ったお品を思い出すことから受ける哀愁の十分の一にも及ばない。
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然し勘次自身には如何な種類の物でも現在彼の心に與へ得る滿足の程度は、失うたお品を追憶することから享ける哀愁の十分の一にも及ばない。
彼はもはや、それ以上、彼の心の裡に残っている何かをまで奪い去られることには堪えられないのである。
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彼は最早それ以上彼の心裏に残存して居る或る物をまで奪ひ去られることには堪へないのである。
彼はわずかに三人の家族が、油のように水に弾かれても、のけ者にされても、ただ凝り固まっていることにのみ、たとえ慰められないまでも不安を感じることなしに、その日その日と刻んで暮らして行くことができるのである。
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彼は僅に三人の家族が油の如く水に彈かれても疎外されても只凝結して居ることにのみ、假令慰藉されないまでも不安を感ずることなしに其の日/\と刻んで暮して行くことが出來るのである。
彼は一度でも、おつぎが自分を離れたことを見つけ、あるいは意識しては、一種の嫉妬を感じずにはいられなかった。
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彼は一度でもおつぎが自分を離れたことを發見し或は意識しては一種の嫉妬を感ぜずには居られなかつた。
彼はそうして、悲痛の感に責め苛まれた。
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彼はさうして悲痛の感に責め訶まれた。
村の若者は、彼のためには敵である。
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村落の若者は彼の爲には仇敵である。
それと同時に、若者のためには彼は蝮の毒牙のようなものでなければならない。
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それと同時に若者の爲には彼は蝮蛇の毒牙の如きものでなければ成らぬ。
それでありながら、少しの威厳も勢力もない彼は、すべての若者から彼をいらだたせるいたずらをもって報いられた。
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其れでありながら些の威嚴も勢力もない彼は凡ての若者から彼を苛立たしめる惡戯を以て報いられた。
青草の中に身を沈めている毒蛇に、直接手を触れようとする者は一人もないけれど、遠くから土くれを投げたり、棒の先でつついたり、いたずらに怒る牙を振るわせることは、彼らの好んでするところであった。
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青草の中に身を沒して居る毒蛇に直接手を觸れようとするものは一人もないけれど、遠くから土塊を擲つたり、棒の先でつゝいたり徒らに怒る牙を振はせることは彼等の好んでする處であつた。
勘次の削ったようなやせた顔が、いつでもひがんで、そうして怒りやすいのを、彼らは嘲りの目をもって遠くからのぞくのである。
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勘次の削つたやうな痩せた顏が何時でも僻んでさうして怒り易いのを彼等は嘲笑の眼を以て遠くから覗くのである。
彼らは夜、垣根のそばに立って指を口にくわえてぴゅうぴゅうと激しく鳴らしてみたり、戸口の近くにひそかに下駄の歯の跡をつけておいたり、勘次が眠りに落ちようとするころ、作り声を使っておつぎを呼んだりした。
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彼等は夜垣根の側に立つて指を口に啣へてぴゆう/\と劇しく鳴らして見たり、戸口に近く竊に下駄の齒の趾を附けて置いたり、勘次が眠に落ちようとする頃假聲を使つておつぎを喚んだりした。
勘次はそのたびに心がいらだったけれど、霧でもつかむような、誰の仕業とも分からないいたずらを、どうすることもできなかった。
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勘次は其の度に心が苛立つたけれど、霧でも捉む樣な、誰の所爲とも判明しない惡戯をどうすることも出來なかつた。
しかし、表に現れた影響のないいたずらは、長く続かなかった。
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然し表面に現れた影響の無い惡戯は永く持續しなかつた。
春は冬に遠くして、また冬と隣り合っている。
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春は冬に遠くして又冬と相隣して居る。
季節の移り変わりを繰り返しながら、月日は容赦なく移った。
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季節の變化を反覆しつゝ月日は容赦なく推移した。
一二
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一二
冬は低く地をはって沈んだ。
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冬は低く地を偃うて沈んだ。
旧暦の暮れが近くなって、婚礼の多く行われる季節が来た。
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舊暦の暮が近く成つて婚姻の多く行はれる季節が來た。
町の建具師の店先に据えられた箪笥や長持ちから、粗末な金具が光るのを見るようになった。
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町の建具師の店先に据ゑられた簟笥や長持から疎末な金具が光るのを見るやうに成つた。
おつぎが通った針の師匠の家でも、嫁が決まった。
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おつぎが通うた針の師匠の家でも嫁が極つた。
その当日になると、針子はいずれも、しまっておいた半纏へ赤いたすきを掛けて、そこらの掃除やら、芋や大根を洗うことやら、朝から大騒ぎをして笑いながら手伝いをした。
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其の當日に成ると針子は孰れも藏つて置いた半纏へ赤い襷を掛けて、其處らの掃除やら、芋や大根を洗ふことやら朝から大騷ぎをして笑ひながら手傳をした。
おつぎも行って、みなといっしょに働いた。
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おつぎも行つて皆と一緒に働いた。
おつぎは赤糸大名の半纏で、萌葱のたすきを掛けていた。
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おつぎは赤絲大名の半纏で萌黄の襷を掛けて居た。
針子らは毎年、春がようやく暖かくなって百姓の仕事が忙しくなると、次の冬まで暇を取るとて、一日みなで鍬を持って畑の仕事の手伝いに行く。
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針子等は毎年春が漸く暖かく成つて百姓の仕事が忙しくなると又の冬まで暇をとるとて一日皆で鍬を持つて畑の仕事の手傳に行く。
広くもない畑へ残らずが一度に鍬を入れるので、めいめいが互いに邪魔になりながら、人数の半分は始終鍬の柄を杖に突いては立って、遠くへ目を配りながら笑いさざめく。
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廣くもない畑へ残らずが一度に鍬を入れるので各が互に邪魔に成りつゝ人數の半は始終鍬の柄を杖に突いては立つて遠くへ目を配りつゝ笑ひさゞめく。
彼女らの白い手拭いが集まって、はるかに人の目を引くほか、師匠の家に格別の利益もなく、彼女ら自分たちのみが一日を楽しく暮らし得るのである。
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彼等の白い手拭が聚つて遙に人の目を惹く外師匠の家に格別の利益もなく彼等自分等のみが一日を樂く暮し得るのである。
それだから彼女らは、婚礼の当日にも仕事の割合にしてはあまりに大人数に過ぎるので、一つ仕事に集まっては、屈託ない様子をしてしゃべるのであった。
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其れだから彼等は婚姻の當日にも仕事の割合にしては餘りに多人數に過ぎるので、一つ仕事に集つては屈託ない容子をして饒舌るのであつた。
「どういう嫁さんだろうな」
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「どうえ嫁樣だんべな」
「いい女だろうな」
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「善え女だんべえな」
「早く来ればいいな、おれは見たいな」
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「早く來ればえゝな、俺ら見てえな」
彼女らはそういうことすら口々に繰り返しながら、ひそひそとささやいた。
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彼等はさういふことをすら口々に反覆しつゝ密々と耳語いた。
「白粉をつけて来るんだな」
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「白粉附けて來んだな」
いちばん年の少ない子が言った。
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一番年の少い子がいつた。
「どうしたもんだい、白粉をつけるんだろうかとまあ」
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「どうしたもんだえ、白粉附けんだんべかとまあ」
年かさが笑った。
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年嵩が笑つた。
「水白粉を持って来るんだか知れないぞ」
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「水白粉持つて來んだか知んねえぞ」
「ただの水みたいな白粉もあるんだって言ったっけぞ」
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「只の水見てえな白粉も有んだつて云つけぞ」
彼女らはそういう罪のない詮索から、それから
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彼等はさういふ罪のない穿鑿からそれから
「おれはお給仕に出なくちゃならないか知れないが、恥ずかしくていやだな」
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「俺らお給仕に出なくつちや成んねえか知んねえが、耻かしくつて厭だな」
「嫁さんはもっと恥ずかしいだろうな」
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「嫁樣まつと耻かしかつぺな」
「そんだが、おれは嫁さんの着物がどんななんだか見たいもんだな」
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「そんだが俺ら嫁樣の衣物どういんだか見てえもんだな」
と、半分は望むような、半分は気遣うような互いの心を語るのであった。
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半分は望むやうな半分は氣遺ふやうな互の心を語るのであつた。
夜になって、板の間の娘らが座敷のほうへ引かれたころ、勝手口に村の若者が五、六人立った。
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夜に成つて板の間の娘等が座敷の方へ引かれた頃勝手口に村落の若者が五六人立つた。
彼らは婚礼の夜には必ず決まった、例のうどんをもらいに来たのである。
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彼等は婚姻の夜には屹度極つた例の饂飩を貰ひに來たのである。
昼の間に用意されたうどんが、彼らに与えられた。
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晝の間に用意された饂飩が彼等に與へられた。
彼らの手には、うどんの大きなざると二升樽と、それから醤油の入れ物であるビール瓶とが提げられた。
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彼等の手には饂飩の大きな笊と二升樽とそれから醤油の容器である麥酒罎とが提げられた。
垣根の外へ出た時、彼らは作り声を出してどっと囃し立てて、また囃した。
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垣根の外へ出た時彼等は假聲を出してどつと囃し立てゝ又囃した。
彼らは道々も騒ぐことをやめないで、とうとう村の念仏堂へ引き取った。
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彼等は途次も騷ぐことを止めないで到頭村落の念佛寮へ引とつた。
そこには、これもどてらをかぶった彼らの仲間が、囲炉裏へそだをくべて暖まりながら待っていた。
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其處には此も褞袍を被つた彼等の伴侶が圍爐裏へ麁朶を燻べて暖まりながら待つて居た。
念仏衆の使っている鍋や土瓶や茶碗が、ただごたごたと投げ出されてあった。
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念佛衆の使つて居る鍋や土瓶や茶碗が只ごた/\と投げ出されてあつた。
台つきの手ランプは、近所から借りて来たのであった。
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臺つきの手ランプは近所から借りて來たのであつた。
そだの炎が、手ランプに光を添えていた。
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麁朶の焔が手ランプに光を添へて居た。
婚礼の席上では、酒の後には長く続くようにという縁起を祝って、一つには膳部の簡単なのとで、うどんをふるまうのである。
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婚姻の席上では酒の後には長く繼がる樣といふ縁起を祝うて、一つには膳部の簡單なのとで饂飩を饗すのである。
蕎麦は短く切れるとて、どこでも嫌った。
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蕎麥は短く切れるとて何處でも厭うた。
どんな婚礼でも、それを若い衆がもらいに行く。
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どんな婚姻でもそれを若い衆が貰ひに行く。
貧乏な所帯であれば、彼らはいくら少なくても不足を言わない。
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貧乏な所帶であれば彼等は幾ら少量でも不足をいはぬ。
しかし、多少の財産を持っていると彼らが認めている家でそれを惜しめば、彼らは不平を訴えて止まない。
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然し多少の財産を有して居ると彼等が認めて居る家でそれを惜めば彼等は不平を訴へて止まぬ。
どうかすると、暗い木陰に潜んでいて、嫁の車が近づいた時、突然その車をひっくり返してやれというような、脅しめいた暴言をすら吐くことがある。
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どうかすると闇い木陰に潜伏して居て嫁の車が近づいた時突然、其の車を顛覆させてやれといふやうな威嚇的の暴言をすら吐くことがある。
しかしこれまで、そんなことはめったになく、格別に認めるべき弊害が伴うのでもないのであった。
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然し從來其麽ことは滅多になく、別段に認むべき弊害が伴ふのでもないのであつた。
それでふつう、どの家でも彼らが満足を買い得る分量を、前もって用意しているのである。
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それで普通どの家でも彼等が滿足を買ひ得る分量を前以て用意して居るのである。
彼らは、そういう夜にどてらをかぶって他人の裏戸口に立たねばならない必要な条件を、一つも持っていない。
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彼等はさういふ夜に褞袍を被つて他人の裏戸口に立たねば成らぬ必要な條件を一つも有つて居ない。
ただ彼らのすべては、藁を打って縄をなうべき夜の務めを捨てて、公然といっしょに集まる機会を見いだすことを求めている。
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只彼等の凡ては藁を打つて繩を綯ふべき夜の務めを捨て公然一所に集合する機會を見出すことを求めて居る。
集まることが、すぐに彼らに楽しみを与えるからである。
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集合することが直に彼等に娯樂を與へるからである。
男女が、しかも他人の手を借りて一つになる婚礼の事実を思い浮かべることから、彼らの心が微妙に刺激される。
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兩性が然も他人の手を藉りて一つに成る婚姻の事實を聯想することから彼等の心が微妙に刺戟される。
彼らのすべては、ことごとく異性を知り、また知ろうとしている。
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彼等の凡ては悉く異性を知り又知らんとして居る。
彼らは他人の目を盗むのには幾多の障害があり、それはそのために慕い合う思いがむしろかえって盛んに、かつ長続きすることすらありながら、当事者である彼らにはうるさいその障害をこっそりと払いのけねばならないじれったさが止まないのに、周りのすべてが杯を挙げてくれる、その夜の当人同士を思い浮かべる時、彼らは淡い嫉妬を沸かさねばならない。
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彼等は他人の目を偸むのには幾多の支障、それは其の爲に相慕ふ念慮が寧ろ却て熾に且つ永續することすら有りながら、當事者たる彼等には五月繩い其の支障をこつそりと拂ひ退けねば成らぬ焦燥つたい感が止まないのに、周圍の凡てが杯を擧げてくれる其の夜の當人同士を念頭に浮べる時彼等は淡い嫉妬を沸かさねば成らぬ。
それで彼らの心には、食ってやれ、飲んでやれ、そうしてやらねば腹が癒えないという思いが、期せずして一致するのである。
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それで彼等の心には喰つてやれ、飮んでやれ、さうして遣らねば腹が癒えぬといふ觀念が期せずして一致するのである。
ざるで運んだうどんが、大人数の彼らにとうてい十分の満足を与え得るものではない。
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笊で運んだ饂飩が多人數の彼等に到底十分の滿足を與へ得るものではない。
しかし彼らは、そんなことに頓着を持たない。
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然し彼等は其麽ことに頓着を持たぬ。
酒がすすけた土瓶で沸かされた。
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酒が煤けた土瓶で沸かされた。
彼らはめいめいに茶碗へ注いで、ぐいと飲んだ。
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彼等は各自に茶碗へ注いでぐいと飮んだ。
そこには燗の加減も何もなかった。
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其處には燗の加減も何も無かつた。
めいめいの喉がそれを求めるのではなくて、一種の習わしが彼らにそれを強いるのである。
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各自の喉がそれを要求するのではなくて一種の因襲が彼等にそれを強ひるのである。
彼らはじりじりと喉が焦げるように感じても、苦い顔をしかめながら飲んでみる者さえある。
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彼等はじり/\と喉が焦げる樣に感じても苦い顏を蹙めつゝ飮んで見る者さへある。
比較的少ない酒が、注ぐたびに手にするたびにむしろの上にこぼれても、彼らは惜しまない。
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比較的少量な酒が注ぐ度に手にする度に筵の上に滾れても彼等は惜まない。
彼らはそれから、茶碗も箸もべたりとむしろの上へ置いて、単純に水へ醤油を差した汁に浸して、騒々しくうどんをすすった。
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彼等はそれから茶碗も箸もべたりと筵の上へ置いて、單純に水へ醤油を注した液汁に浸して騷々敷饂飩を啜つた。
彼らはふだんでもそうであるのに、酒のためにいくらか興奮しているので、めいめいの口からさらに聞くに堪えない雑言が吐き出された。
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彼等は平生でもさうであるのに酒の爲に幾分でも興奮して居るので、各自の口から更に聞くに堪へぬ雜言が吐き出された。
不作法な言葉に慣れきっている彼らは、どうしたら互いに感動を与え得るかと苦心しつつあったかと思うような卑猥な一句が、唐突に誰か一人の口から出ると、ほかの一人がまたそれに応じた。
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不作法な言辭に麻痺して居る彼等はどうしたら相互に感動を與へ得るかと苦心しつゝあつたかと思ふ樣な卑猥な一句が唐突に或一人の口から出ると他の一人が又それに應じた。
彼らの間には、異分子を交えていない。
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彼等の間には異分子を交へて居らぬ。
彼らは時によっては恐れて控えめにしながら、体が縮んだようになっているほど、物に臆する習慣がある。
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彼等は時によつては怖れて控目にしつゝ身體が萎縮んだやうに成つて居る程物に臆する習慣がある。
しかしこうして仲間のみが集まれば、ほとんど別人である。
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然し恁うして儕輩のみが聚まれば殆んど別人である。
うどんが尽きて、茶碗が乱雑に投げ出された時、夜の遅いことに無頓着な彼らは、それからしばらく止めどもなく雑談にふけった。
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饂飩が竭きて茶碗が亂雜に投げ出された時夜の遲いことに無頓着な彼等はそれから暫く止めどもなく雜談に耽つた。
彼らはついに、自分の村に野合の夫婦が幾組あるかということをさえ数え出した。
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彼等は遂に自分の村落に野合の夫婦が幾組あるかといふことをさへ數へ出した。
そっちからもこっちからも、それが数えられた。
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そつちからもこつらからも其れが數へられた。
左手の指が二度曲げて二度起こされても、尽くせなかった。
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左手の指が二度曲げて二度起されても盡せなかつた。
もちろん、しまいには連れ合いの欠けたものまで指を折って数えられた。
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勿論畢には配偶の缺けたものまで僂指された。
それらの夫婦の間に生まれた者も、幾人か彼らの間に交じっていた。
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其れ等の夫婦の間に生れた者も幾人か彼等の間に介在して居た。
さすがにその幾人かは、自分の父母が呼ばれるので、苦い笑いをかみ殺して控えている。
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有繋に其の幾人は自分の父母が喚ばれるので苦い笑を噛んで控へて居る。
そうすると、ほかの者はそれを面白がって、がやがやと囃し立てた。
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さうすると他の者はそれを興あることにがや/\と囃し立てた。
話が少しだれた時
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噺が少しだれた時
「勘次さんらみたいなのはな、ありゃ勘定には入らないもんだろうか」
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「勘次さん等見てえなゝ、ありや勘定にやへえんねえもんだんべか」
と怒鳴った者があった。
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と呶鳴つたものがあつた。
この唐突な発言で、しばらく静まっていた彼らはにわかに威勢が出て、手を叩いた。
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此の唐突な發言で暫く靜止して居た彼等は俄に威勢が出て拍手した。
「勘次さんに聞いてみろ」
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「勘次さんに聞いて見ろ」
という声が隅のほうから出た。
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といふ聲が隅の方から出た。
「そんなこと言ったっくらい、ぶん殴られらあ、べらぼう臭え」
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「其麽こと云つたつ位、打ん擲らつら篦棒臭え」
打ち消す声が聞こえた。
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打ち消す聲が聞えた。
「そんじゃ、おつぎに聞いてみろ」
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「そんぢや、おつぎに聞いて見ろ」
「足でもへし折られるぞ」
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「足でも打折られんなえ」
「薪ざっぽう振られてか」
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「薪雜棒ふられてか」
笑い声が入り交じって、堂の中はいっそう騒がしくなった。
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笑聲が雜然として寮の内は一層騷がしく成つた。
「今日あたりも見ろ、角の店で自棄酒を飲んで怒ってたっけぞ」
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「今日らも見ろ、角の店で自棄酒飮んで怒つてたつけぞ」
一人が自慢らしく、新しい事実を提供した。
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一人が自慢らしく新な事實を提供した。
「どうしてよ」
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「どうしてよ」
一同が耳をそばだてた。
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一同が耳を峙てた。
「おつぎのことをお針っ子らといっしょに手伝いにやったのを知ってるだろうな」
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「おつぎことお針つ子等と一緒に手傳に遣つたの知つてべな」
「知ってらあな、そら」
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「知つてらなそら」
「そんでよ、手伝いにやっていても、もう、日暮れになったら、あっかもっかしてじっとしちゃいられないんだ。そんでぐずぐず言ってるのが面白いから、おれは聞いてたのさ。ちょうどいい塩梅に、おれは草履を買いに行って出くわしてな」
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「そんでよ、手傳に遣つてゝも、はあ、日暮に成つたら、あつかもつかして凝然としちや居らんねえんだ、そんで愚圖/\云つてんの面白えから俺ら聞いてたな、丁度えゝ鹽梅に俺草履買ひに行つて出つかせてな」
「毎日暮れじゃないかい、徳利をおっ立ててるのは」
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「毎日暮ぢやねえけ徳利おつ立てゝんな」
「そうなんだ。近ごろ唐鍬を使って骨が折れるからと言って、仕事が終わっちゃ一合くらい引っ掛けてすぐ行っちまうんだと言ったっけが、それが今日は早くから来てたんだって言うのさ。店のおとっつあんに聞いたのさ、おれは」
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「さうなんだ、近頃唐鍬使え骨折つからつて仕事畢つちや一合位引つ掛けて直ぐ行つちやあんだつちけが、それ今日は早くから來てたんだつちきや、店のおとつゝあに聞いたな俺ら」
話し手は、自分がまず興に入ったようにまた言った。
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噺手は自分が先づ興に入つた樣に又いつた。
「おれは今日、うまい所を聞いちまったな」
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「俺ら今日うめえ處聞いつちやつたな」
「何て言ったっけ」
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「何だつて云つけ」
「ひどいあまだ、夕飯も何も仕方がありゃしないなんてな、独りでぐずぐず言ってな。そんで与吉のことを何遍も迎えにやってな。そうすると、あの与吉の野郎がまた、今すぐにうどんをごちそうしてよこすとう、なんてのたくりのたくり帰って来るんだ。そうすると、また、だめだお前は、もう一度行って来う、すぐ来うって言うんだぞ、なんて怒ったみたいになあ。おれは可笑しくて仕方がなかったっけぞ」
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「酷でえ阿魔だ、夕飯も何も仕やうありやしねえなんてな、獨りでぐうづ/″\云つてな、そんで與吉こと何遍も迎に遣つてな、さうすつとあの與吉の野郎また、今直に饂飩饗つてよこすとう、なんてのたくり/\歸つて來んだ、さうすつと又駄目だ汝りや復た行つて來う、直に來うつて云ふんだぞなんて怒つた見てえになあ、俺ら可笑しくつて仕樣無かつたつけぞ」
話し手は左右を向きながら言った。
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噺手は左右を向きつゝいつた。
みなまた手を叩いて囃し立てた。
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皆復た拍子して囃し立てた。
「そんじゃすぐよこしただろう」
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「そんぢや直ぐよこしたつぺ」
「うん、途中で行き会ったんだろう。すぐ来たっけや」
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「うむ、途中で行逢つたんだんべ、直ぐ來たつきや」
「あっちだって、それくらい知ってらあな」
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「あつちだつて其の位知つてらな」
「おつぎは店へ寄ったっけか」
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「おつぎは店へよつたつけか」
二人が一度に言った。
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二人が一度にいつた。
「寄らないや。そうしたら、おつう、なんておとっつあんが呼ばれたんだ。たいした声してな。そんでもおつうは行っちまうのよ。そうしたらまた、おつう、なんて怒鳴ってな、勘定するのにも慌てて銭を落っことしたり何かして、後から駆けて行ったんだ。五合も飲んだだろうって言ったっけな。怖い目つきをしちまってな。そんだが、おつぎは聞かないぞ、なかなか。つっつっと行っちまってな」
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「寄んねえや、さうしたらおつう、なんておとつゝあ喚ばつたんだ、たいした聲してな、そんでもおつうは行つちまあのよ、さうしたら又、おつうなんて呶鳴つてな、勘定すんのにも慌くつて錢落つことしたり何かして後から駈けてつたんだ、五合も飮んだつぺつちけな、可怖え目つきしつちやつてな、そんだがおつぎは聽かねえぞなか/\、つツ/\と行つちやつてな」
話し手はしばらく口を閉ざした。
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噺手は暫時口を鎖した。
「今日は若い衆らが行くと思って、もう、夜まで置けないんだな」
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「今日は若え衆等行くと思つてはあ、夜まで置けねえんだな」
「決まってらあな」
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「極つてらあな」
「そんだって、べらぼう。若い衆らだって、そういうことばかりするもんじゃない。つまらない」
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「そんだつて箆棒、若え衆等だつてさうだことばかりするものぢやねえ、詰んねえ」
憤慨してこう言う者も
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憤慨してかういふものも
「外聞が悪いも何にも知らないんだな」
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「外聞惡いも何にも知んねえんだな」
嘲りの意味ではあるが、どことなく沈んで、またこう言う者もあった。
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嘲笑の意味ではあるが何處となく沈んで又斯ういふ者も有つた。
「おつぎはそんだが、頭髪をてかてか光らせた所らはよくなっちまったっけぞ」
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「おつぎはそんだが頭髮てか/\光らかせた處ら善く成つちやつたつけぞ」
にわかに思い出したように、さっきの話し手が言った。
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俄に思ひ出した樣に先刻の噺手がいつた。
「そんで、おとっつあんは余計に仕方がなくなっちまったんだろう」
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「そんで、おとつゝあ餘計仕やう無くなつちやつたんだんべえ」
尻へ釘を差して台に乗っている手ランプの油煙が、あっちへこっちへなびく光の下に、茶碗を箸で叩きながら、またわあっと騒ぎ出した。
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臀へ釘を揷して臺に乘つて居る手ランプの油煙がそつちへこつちへ靡く光の下に茶碗を箸で叩きながら又わあつと騷ぎ出した。
勘次は今、開墾の仕事のために、春までには主人の手から三、四十円の金を与えられるようにまでなった。
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勘次は今開墾の仕事の爲に春までには主人の手から三四十圓の金を與へられる樣にまで成つた。
大部分は借財の古い穴へ埋めても、彼は懐に窮屈を感じない程度に進んだ。
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大部分は借財の舊い穴へ埋めても彼は懷に窮屈を感じない程度に進んだ。
一円の銭が絶えず財布にあり得るならば、彼らは嘆くところはないのである。
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一圓の錢が絶えず財布に在り得るならば彼等は嘆く處は無いのである。
彼はただ、主人に頼ってさえいればいいと思っている。
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彼は只主人に倚つて居さへすれば善いと思つて居る。
こういう遠慮のない陰口を利かれるまでには、苦しい間の三、四年を過ごして来たのである。
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恁ういふ遠慮のない蔭口を利かれるまでには苦しい間の三四年を過して來たのである。
彼の暮らしは、ほっかりと夜明けの光を見たのであった。
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彼の生活はほつかりと夜明の光を見たのであつた。
おつぎはこの時、二十の声を聞いていたのである。
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おつぎは此時廿の聲を聞いて居たのである。
一三
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一三
初秋の風が吊りっ放しの蚊帳の裾をさらさらと吹いて、とうにとうもろこしがかまどの灰の中でぱりぱりと威勢よく燃える麦藁の火に焼かれて、その殻があっちにもこっちにも捨てられる。
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初秋の風が吊放しの蚊帳の裾をさら/\と吹いて、疾から玉蜀黍が竈の灰の中でぱり/\と威勢よく燃える麥藁の火に燒かれて、其の殼がそつちにもこつちにも捨てられる。
畑の仕事がしばらく片がついて、百姓の家には盆が来た。
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畑の仕事が暫時極りがついて百姓の家には盆が來た。
その日も昼過ぎまで仕事をしていた勘次は、それでも慌ただしく庭へ箒を入れて、目に立つ草は鎌の刃先でかき切った。
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其の日も晝過迄仕事をして居た勘次はそれでも慌しく庭へ箒を入れて目に立つ草は鎌の刄先で掻つ切つた。
戸も障子もないすすけきった仏壇は、おつぎを使って仏具やその他の掃除をして、さいの目に刻んだ茄子を盛った芋の葉と、寂しいみそはぎの短い小さな花束とを供えた。
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戸も障子もない煤け切つた佛壇はおつぎを使つて佛器や其他の掃除をして、賽の目に刻んだ茄子を盛つた芋の葉と、寂しいみそ萩の短い小さな花束とを供へた。
みそはぎのそばには、茶碗へいっぱいに水がたたえられた。
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みそ萩の側には茶碗へ一杯に水が沒まれた。
夕方近くなってから、三人は雨戸を閉めて、火のない提灯を持って田んぼを越えて墓地へ行った。
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夕方近く成つてから三人は雨戸を締て、火のない提灯を持つて田圃を越えて墓地へ行つた。
お品の塔婆の前に、それからそこらいっぱいの墓石の前に線香を少しずつ手向けて、火をつけてほっかりと赤くなった提灯を提げて戻った。
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お品の塔婆の前にそれから其處ら一杯の卵塔の前に線香を少しづゝ手向けて、火を點けてほつかりと赤く成つた提灯を提げて戻つた。
冥途から来た仏がその火に宿ったしるしだと言って、必ず提灯が墓地からつけられるのである。
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冥途から來た佛が其の火に宿つたしるしだといつて必ず提灯が墓地から點けられるのである。
おつぎは勘次の懐がいくらか暖かになったので、安物ではあるが、中形の浴衣地もこしらえてもらった。
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おつぎは勘次の懷が幾らか暖かに成つたので、廉物ではあるが中形の浴衣地も拵へて貰つた。
おつぎはもう十九の秋であった。
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おつぎはもう十九の秋であつた。
おつぎはその浴衣地を着て、お品の墓へ行ったのである。
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おつぎは其の浴衣地を着てお品の墓へ行つたのである。
髪は昼のうちに、近所の娘同士が汗染みた襦袢一つの姿で、互いに結い合ったのである。
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髮は晝の内に近所の娘同士が汗染みた襦袢一つの姿で互に結ひ合うたのである。
おつぎは浴衣地へ赤い帯を締めた。
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おつぎは浴衣地へ赤い帶を締めた。
勘次は紺の筒袖のひとえで、日に焼けた足が短い裾から出ていた。
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勘次は紺の筒袖の單衣で日に燒た足が短い裾から出て居た。
おつぎの装いはそばでは粗末であっても、ところどころちらりちらりと白い穂先がのぞいて、たいていはまだ冴え冴えとして、ただ一枚の青畳を敷いたような田んぼの間を、くっきりと際立って目に立つのであった。
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おつぎの裝ひは側では疎末であつても、處々ちらり/\と白い穗先が覗いて大抵はまだ冴え/″\として只一枚の青疊を敷いた樣な田圃の間をくつきりと際立つて目に立つのであつた。
三人が田んぼを行き来してからしばらくたって、村の中からは、どこの家からも提灯を持って、田んぼの道を老人と子供とがぞろぞろ通った。
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三人が田甫を往復してから暫く經つて村落の内からは何處の家からも提灯持て田甫の道を老人と子供とがぞろ/″\通つた。
勘次は提灯の火を、仏壇の灯明皿へ移した。
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勘次は提灯の火を佛壇の燈明皿へ移した。
すすけきった仏壇の菜種油の明かりは、遠い国からでも光って来るように、ぽっちりとかすかに見えた。
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煤け切つた佛壇の菜種油の明りは遠い國からでも光つて來るやうにぽつちりと微かに見えた。
おふくろのよりもまず、白木のままのお品の位牌に、心からの線香の煙がなびいた。
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お袋のよりも先づ白木の儘のお品の位牌に心からの線香の煙が靡いた。
勘次もおつぎも、みそはぎの小さな花束の先を茶碗の水に浸して、その水をはらりと芋の葉へ盛った茄子へ振りかけた。
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勘次もおつぎもみそ萩の小さな花束の先を茶碗の水に浸して其の水をはらりと芋の葉へ盛つた茄子へ振り掛けた。
勘次は雨戸をいっぱいに開けた。
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勘次は雨戸を一杯に開けた。
おつぎは浴衣を取って襦袢一つになって、ざるに水を切っておいたもち米をかまどで蒸しはじめた。
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おつぎは浴衣をとつて襦袢一つに成つて、笊に水を切つて置いた糯米を竈で蒸し始めた。
勘次は裸で臼や杵を洗って軒端に据えた。
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勘次は裸で臼や杵を洗うて檐端に据ゑた。
彼らはそういう仕事があるので、墓へ行くにも人よりも先立って非常に急いだのであったが、それでも米が蒸せるまでには、家の中は薄暗くなっていた。
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彼等はさういふ仕事があるので墓へ行くにも人よりも先立つて非常に急いだのであつたが、それでも米が蒸せるまでには家の内は薄闇く成つて居た。
日のまだ落ちないうちから庭をのぞいていた月が白く、やがてそれがやや黄色みを帯びて来て、庭の茂った柿の木や栗の木にほっかりと陰を投げた。
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日のまだ落ちない内から庭を覗いて居た月が白く、軈てそれが稍黄色味を帶びて來て庭の茂つた柿の木や栗の木にほつかりと陰翳を投げた。
おつぎが忙しくどさりと臼へ落とした蒸し米から、ぼうっと白い湯気が立った。
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おつぎが忙しくどさりと臼へ落したふかしからぼうつと白い蒸氣が立つた。
その湯気の中に、月が一瞬間目をしかめて、すぐつやつやした姿になった。
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其の蒸氣の中に月が一瞬間目を蹙めて直につやゝかな姿に成つた。
おつぎは熱い蒸し米を蒸籠から杓子で臼へしごき落としながら、そばに立っている与吉へ少しやった。
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おつぎは熱いふかしを蒸籠から杓子で臼へ扱き落しながら側に立つて居る與吉へ少し遣つた。
程よく蒸したその蒸し米を、与吉はうまそうに食べた。
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程よく蒸した其ふかしを與吉は甘相にたべた。
おつぎも指についたのを、前歯でかむようにして口へ入れた。
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おつぎも指に附いたのを前齒で噛むやうにして口へ入れた。
湯気の立つ臼を、勘次はしばらく杵の先でこねた。
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蒸氣の立つ臼を勘次は暫く杵の先で捏ねた。
杵の先が粘って離れなくなる。
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杵の先が粘つて離れなく成る。
おつぎは米研ぎ桶へ水を汲んで、それへ浮かべた杓子で杵の先をしごき落として、臼の中を丸い形に直す。
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おつぎは米研桶へ水を汲んでそれへ浮べた杓子で杵の先を扱落して臼の中を丸い形に直す。
そうすると勘次は、力を極めて臼の中央を打つ。
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さうすると勘次は力を極めて臼の中央を打つ。
それが幾度も繰り返された。
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それが幾度も反覆された。
庭の木立の陰が濃くなって、月の光はきらきらと臼から反射した。
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庭の木立の陰翳が濃く成つて月の光はきら/\と臼から反射した。
蒸し暑い中にも、すべてが水のような月の光を浴びて、涼しい微風が土に触れて渡った。
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蒸暑い中にも凡てが水の樣な月の光を浴びて凉しい微風が土に觸れて渡つた。
おつぎは臼から餅をちぎって、茗荷の葉に乗せて一つ一つ膳へ並べた。
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おつぎは臼から餅を拗切つて茗荷の葉に乘せて一つ/\膳へ並べた。
少し丸みを欠いた十三日の月が、白くその一つ一つの茗荷の葉の上に光った。
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少し丸みを缺いた十三日の月が白く其の一つ/\の茗荷の葉の上に光つた。
冷水を打ったような柿の葉がゆらゆらと動いて、後ろの林の竹のこずえもさらさらと鳴った。
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冷水を打つた樣な柹の葉がゆら/\と動いて後の林の竹の梢もさら/\と鳴つた。
それでも忙しいおつぎは、汗を流しながらまず茗荷の餅を仏壇に供えた。
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それでも忙しいおつぎは汗を流しながら先づ茗荷の餅を佛壇に供へた。
それから別にちぎった餅が、きな粉とともに手ランプの下に置かれた。
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それから別に拗切つた餅が豆粉と共に手ランプの下に置かれた。
与吉はすぐに座敷へ座って待った。
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與吉は直に座敷へ坐つて待つた。
晩飯が終わると、踊り子を誘う太鼓の音が、ようやく沈みかけた夜の気を騒がせて聞こえはじめた。
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晩餐が畢ると踊子を誘ふ太鼓の音が漸く沈み掛けた夜氣を騷がして聞え始めた。
軒に立った蚊柱が崩れて、やがて座敷を襲った。
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檐に立つた蚊柱が崩れて軈て座敷を襲うた。
勘次は麦藁を一つかみ軒端へ投げて、刈った青草をそれへ打ちかけて、マッチの火をつけて、そうして押さえつけた。
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勘次は麥藁を一捉み軒端へ投げて、刈つた青草をそれへ打つ掛けて、燐寸の火を點けてさうして抑へつけた。
ぷすぷすとくすぶる煙が、蚊を遠く散らせる。
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ぷす/\と燻る煙が蚊を遠く散亂せしめる。
ぽっと炎が立って燃え上がれば、水を打った。
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ぽつと焔が立つて燃えあがれば水を打つた。
彼らは目鼻にしみる青い煙の中に、裸のままじっとしている。
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彼等は目鼻にしみる青い煙の中に裸體の儘凝然として居る。
煙がよそへ逸れれば、箕であおいで家の中へ向かわせた。
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煙が餘所へ逸れゝば箕で煽つて家の内へ向はせた。
おつぎは勝手の始末をして、それから井戸端で、だらだらと垂れる汗を水で拭いた。
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おつぎは勝手の始末をしてそれから井戸端で、だら/\と垂れる汗を水で拭つた。
手拭いを浸すたびに、小さな手水だらいの水に月がまったくその影を失って、しばらくすると手水だらいの周りから集まるように、だんだんと月の形がまとまって見えて来る。
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手拭を浸す度に小さな手水盥の水に月が全く其の影を失つて暫くすると手水盥の周圍から聚る樣に段々と月の形が纏まつて見えて來る。
踊り子を誘う太鼓の音が、自分の村のはすぐ垣根の外のように、遠い村のは茂っている林の向こうに、空に響いて聞こえる。
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踊子を誘ふ太鼓の音が自分の村落のは直垣根の外の樣に、遠い村落のは繁茂して居る林の彼方に空に響いて聞える。
それが井戸端に立っているおつぎの心を誘った。
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それが井戸端に立つて居るおつぎの心を誘導つた。
同い年の子はみな踊りに行くのである。
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同年輩の子は皆踊に行くのである。
おつぎにはいくらかそれが羨ましく、ぼうっとして太鼓に聞き惚れていた。
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おつぎには幾分それが羨ましくぼうつとして太鼓に聞き惚れて居た。
柔らかな月の光に、おつぎの肌は白く見えていた。
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軟かな月の光におつぎの肌膚は白く見えて居た。
おつぎは耳に響く太鼓の音を聞きながら、まだもつれない髪を、少し首を傾けながら両方の親指の股で代わる代わる、髱を軽く後ろへしごいた。
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おつぎは耳に響く太鼓の音を聞きながら、まだ縺れぬ髮を少し首を傾けつゝ兩方の拇指の股で代り代りに髱を輕く後へ扱いた。
おつぎは汗を拭いて、さっぱりとした体へまた浴衣を着た。
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おつぎは汗を拭つてさつぱりとした身體へ復た浴衣を着た。
「おとっつあん、あの太鼓はどこだろう」
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「おとつゝあ、あの太鼓は何處だんべ」
おつぎは帯の端を気にして、後ろへ手を回しながら聞いた。
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おつぎは帶の端を氣にして後へ手を廻しながら聞いた。
「どれ、あの遠くのがか。分かるもんか、どこだか」
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「どれ、あの遠くのがゝ、分るもんか何處だか」
勘次は、燃えた所だけがっくりと減った蚊いぶしの青草に目を注ぎながら、気乗りのしないように言った。
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勘次は燃えた處だけがつくりと減つた蚊燻しの青草に目を注ぎながら氣乘のしない樣にいつた。
「おれらのほうへはまだ、よその村から来るころじゃあるまいな」
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「俺ら方へはまあだ、他村から來る頃ぢやあんめえな」
「おとっつあんらに分かるもんかよ、そんなこと」
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「おとつゝあ等がにや分るもんかよ、そんなこと」
「そんでも、よその村から来るんだって言ったっけぞ。支度して来るんだって、おれは今日、髪を結ってて聞いたんだぞ」
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「そんでも、他村から來んだつて云つけぞ、支度して來んだつて俺ら今日頭髮結つてゝ聞いたんだぞ」
「そういう者はな、そういう者よ」
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「さうえ者な、さうえ者よ」
「おれは行ってみよう。よきも行ってみろな、姉といっしょに」
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「俺ら行つてんべ、よきも行つて見ろなあ、姉と一緒に」
おつぎは独り言を言った。
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おつぎは獨語した。
「お前らのことばかりやれるかい」
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「汝ツ等ことばかし遣れつかえ」
勘次は突然怒鳴った。
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勘次は突然呶鳴つた。
「そんでも、南のおっかさんが、行きたけりゃ連れて行くって言ったんだぞ」
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「そんでも、南のおつかさん行きたけりや連れてくつちつたんだぞ」
「べらぼう、そんなことされるかい。踊りなんざあ後幾日だってあらあ。今夜あたりから行かないったっていいから。他人に言われるともう、それに乗ってあおられあおられ出たがるんだから」
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「箆棒、そんなことされつかえ、踊なんざあ後幾日だつてあらあ、今夜らつから行かねえつたつてえゝから、他人に云はれつとはあ、其れに乘つてあふり/\出たがんだから」
勘次は頭ごなしに叱りつけた。
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勘次は一概に叱りつけた。
おつぎは締めかけた帯を解いて、そばへ投げ捨てた。
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おつぎは締め掛けた帶を解いて傍へ投げ棄てた。
次の日の晩飯には、例年のごとくうどんが打たれた。
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次の日の晩餐には例年の如く饂飩が打たれた。
小麦粉を、少し塩を入れた水でこねて、それを玉にして、むしろの間へ入れて足で踏んで、棒へ巻いては薄く延ばして、さらに幾つかに畳んで、そくそくと包丁で断った。
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小麥粉を少し鹽を入れた水で捏ねて、それを玉にして、筵の間へ入れて足で蹂んで、棒へ卷いては薄く延ばして、更に幾つかに疊んでそく/\と庖丁で斷つた。
うどんの切れ端はみな、ちょっと一か所をつまんで三角形にこしらえて、膳へ並べて仏壇へ供えた。
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饂飩の切り端は皆一寸一箇所を撮んで三角形に拵へて膳へ並べて佛壇へ供へた。
その切れ端は、その翌朝めいめいが自分の田畑をぐるりと回っては、豆や稲の穂やその他の作物を仏へ供えるのであるが、仏もその朝、野回りに出るのだというので、その仏の笠に供えるのだというのである。
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其の切り端は其の翌朝各自が自分の田畑をぐるりと廻つては菽や稻の穗や其の他の作物を佛へ供へるのであるが、佛も其の朝野廻りに出るのだといふので其佛の笠に供へるのだといふのである。
踊り子を誘う太鼓の音は、夜を待ちかねて鳴り出した。
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踊子を誘ふ太鼓の音は夜を待ち兼ねて鳴り出した。
勘次はその夜、蚊いぶしの支度もしないで、紺のひとえへぐるぐると無造作に三尺帯を巻いて、雨戸をがらがらと閉めはじめた。
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勘次は其の夜蚊燻しの支度もしないで紺の單衣へぐる/\と無造作に三尺帶を卷いて、雨戸をがら/\と閉て始めた。
そうして
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さうして
「おつう、支度してみろ。おれが連れて行くから」
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「おつう支度して見ろ、俺連れてんから」
勘次はせっかちに、おつぎを促し立てた。
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勘次は性急におつぎを促し立てた。
大戸の鍵を外から掛けて三人が庭に立った時、月は雲の影を遠ざかって、静かに柿の木の上に懸かっていた。
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大戸の鍵を外から掛けて三人が庭に立つた時月は雲翳を遠ざかつて靜かに柹の木の上に懸つて居た。
毎年決まった踊りの場所は、村の社の大きな樅の木陰である。
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毎年極つた踊の場所は村の社の大きな樅の木陰である。
勘次ら三人が行った時は、踊り子はもうだいぶ集まっていた。
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勘次等三人が行つた時は踊子はもう大分集つて居た。
一足森に入れば、激しく叩く太鼓の音が、その急いで遠くへ響き去るのを周りから遮り止めようとして、入り交じって茂っている幹や小枝に打ち当たってもつれているように、森いっぱいに鳴り響いて、上へ上へと恐ろしく人々の心を誘った。
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一足森に入れば劇しく叩く太鼓の音が、その急いで遠くへ響き去るのを周圍から遮り止めようとして錯雜して茂つて居る幹や小枝に打當つて紛糾つて居るやうに、森一杯に鳴り響いて上へ/\と恐ろしく人々の心を誘導つた。
男女が入り交じって、太鼓を中央に輪を描いている。
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男女が入り交つて太鼓を中央に輪を描いて居る。
それが一定の間隔を置いては、一同が袋の口の紐を引いたように輪が縮まって、ぱらりぱらりと手拍子を取って、また以前のように広がる。
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それが一定の間隔を措いては一同が袋の口の紐を引いた樣に輪が蹙まつて、ぱらり/\と手拍子をとつて、復以前のやうに擴がる。
そうしては、その踊りの手を繰り返しながら、徐々に太鼓の周りを回る。
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さうしては其の踊の手を反覆しつゝ徐ろに太鼓の周圍を廻る。
女は袖を長く見せるために手拭いを折って両方の袂の先へ縫いつけて、それからしごき帯をたすきにして結んだ長い端を、後ろへだらりと垂れている。
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女は袖を長く見せる爲に手拭を折つて兩方の袂の先へ縫つけて、それから扱帶を襷にして結んだ長い端を後へだらりと垂れて居る。
しごき帯は、踊りの手を描くたびごとに、袂とともにゆらりゆらりと揺れる。
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扱帶は踊の手を描く度毎に袂と共にゆらり/\と搖れる。
男は少し乱暴に、女の体にこすりつきながら踊る。
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男は少し亂暴に女の身體にこすりつきながら踊る。
女はうるさい時には一時踊りの手を止めて相手を叱ったり叩いたり、しかもその持ち前のつつましさを保って拍子を合わせながら、大勢の間にもまれながら、同じ線を繰り返しながら踊る。
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女は五月繩い時には一時踊の手を止めて對手を叱つたり叩いたり、然も其特性のつゝましさを保つて拍子を合せ乍ら多勢の間に揉まれつゝ同一線を反覆しつゝ踊る。
次第に人数が増えて、大きな輪の内側にさらに小さな輪が描かれた。
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漸次に人勢が殖えて大きな輪の内側に更に小な輪が描かれた。
太鼓が怠ければ
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太鼓が倦怠れば
「太鼓がおろそかじゃ踊りもおろかだ」
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「太鼓が疎かぢや踊もおろかだ」
と口々に促し促し、代わる代わる唄の声を張り上げて踊る。
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と口々に促し促し交互に唄の聲を張り揚げて踊る。
太鼓の手は疲れれば、さらに人が交代して、撥も折れよと鳴らす。
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太鼓の手は疲れゝば更に人が交代して撥も折れよと鳴らす。
踊り子はみな、いっぱいに飾った笠をかぶっている。
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踊子は皆一杯に裝飾した笠を戴いて居る。
飾りといっても、夜目に鮮やかなように、饅頭やその他の物を包む白いへぎ皮をおびただしくくくりつけておくのである。
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裝飾といつても夜目に鮮やかな樣に、饅頭や其の他の物を包む白いへぎ皮を夥しく括り附けて置くのである。
それが月光を遮っている樅の木陰に著しく目に立って、身を動かすたびに一斉にがさがさと鳴りながら、波のように動いて彼らの姿を引き立てている。
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其れが月光を遮つて居る樅の木陰に著るしく目に立つて、身を動かす度に一齊にがさがさと鳴りながら波の如く動いて彼等の風姿を添へて居る。
彼らが幾夜も踊って不用になった時には、それが彼らの歩いた道の傍らに埃にまみれながら、至る所に投げ捨てられて散らばっているのを見るのである。
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彼等が幾夜も踊つて不用に歸した時には、それが彼等の歩いた路の傍に埃に塗れながら到る處に抛棄せられて散亂して居るのを見るのである。
その踊りの周りには、ようやく村の見物が集まった。
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其の踊の周圍には漸く村落の見物が聚つた。
混雑した群衆と少し離れて、村のにわか商人がむしろを敷いて、駄菓子や梨やまくわ瓜や西瓜を並べている。
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混雜して群集と少し離れて村落の俄商人が筵を敷いて駄菓子や梨や甜瓜や西瓜を並べて居る。
油煙がぼうっと上がるカンテラの光が、そういうすべてを涼しく見せている。
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油煙がぼうつと騰るカンテラの光がさういふ凡てを凉しく見せて居る。
ことに断ち割った西瓜の赤い切れは、小さな店の第一の飾りである。
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殊に斷ち割つた西瓜の赤い切は小さな店の第一の飾りである。
踊り子の渇いた喉には、自分たちが立てる埃の掛かるのも構わず、ひたすらそれをうまく感じるのである。
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踊子の渇した喉には自分等が立てる埃の掛るのも頓着なく只管それを佳味く感ずるのである。
それが少女であれば、少なくとも三、四人が群れて、飾られた花笠深く顔が覆われているのに、それでもなお知られることを恥じらって、ようやく手の及ぶ程度にカンテラの光の範囲から遠ざかろうとしながら、西瓜の一切れずつを求める。
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それが少女であれば少くとも三四人が群れて飾られた花笠深く顏が掩はれて居るのにそれでも猶且知られることを恥らうて漸く手の及ぶ程度にカンテラの光の範圍から遠ざからうとしつゝ西瓜の一片づつを求める。
にわか商人は、カンテラの明かりと木陰の薄い闇との間に立った、その姿がはっきりと見極めがたいので、しきりに目をしかめながら、求められるままにむしろの端に立って西瓜を出してやる。
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俄商人はカンテラの光明と木陰の薄い闇との間に立つた其の姿が明瞭と見極め難いので、頻りに目を蹙めつゝ求められる儘に筵の端に立つて西瓜を出して遣る。
踊り子はそれを手にして、慌ただしく木陰に隠れる。
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踊子は其れを手にして慌しく木陰に隱れる。
そこには必ず、めいめいの口から発する笑い声が聞かれるのである。
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其處には必ず各の口から發する笑聲が聞かれるのである。
カンテラの光のためにかえって視界を狭められた商人は、木陰の闇から見れば滑稽なほど、絶えずその目をしかめながら、外の闇を透して騒がしい群衆を見ている。
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カンテラの光の爲に却て眼界を狹められた商人は木陰の闇から見れば滑稽な程絶えず其の眼を蹙めつゝ外の闇を透して騷がしい群集を見て居る。
勘次は与吉の求めるままに西瓜の一切れを与えて、自分は商人の狭いむしろの端へ腰を下ろした。
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勘次は與吉の求める儘に西瓜の一片を與へて自分は商人の狹い筵の端へ腰を卸した。
おつぎはしばらく店のそばに立っていたが、明るい光をいとって、やがて樅の木の下に与吉とともに身を避けた。
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おつぎは暫く店の側に立つて居たが、明るい光を厭うて軈て樅の木の下に與吉と共に身を避けた。
勘次はにわかに目をそばだてるようにして、木陰の闇を見た。
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勘次は俄に眼を聳かすやうにして木陰の闇を見た。
彼はそこにおつぎの浴衣姿がじっとしているのを見て、むしろから離れることはしなかった。
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彼は其處におつぎの浴衣姿が凝然として居るのを見て筵から離れることは仕なかつた。
「おつぎさん、よく来たっけな」
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「おつぎさん能く來たつけな」
列を離れた踊り子が、汗の胸を少し開いて、袂でしきりにあおぎながら、樅の木のそばに立って言いかけた。
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列を離れた踊子が汗の胸を少し開いて、袂で頻りに煽ぎながら樅の木の側に立つていひ掛けた。
「ああ暑いやまあ、むせ返るようだ」
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「おゝ暑いやまあ、咽つ返る樣だ」
と、袂の端で汗を拭きながら
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と、袂の端で汗を拭きながら
「おつぎさん、踊らないか」
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「おつぎさん、踊んねえか」
と、ほかの一人が言った。
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と他の一人がいつた。
「おれはいやだよ、おとっつあんがいるから」
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「俺ら厭だよ、おとつゝあ居つから」
おつぎは小声で言った。
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おつぎは小聲でいつた。
誘った踊り子は、目をしかめている勘次の様子を見て、自分が睨みつけられているように感じたので、ほかへこそこそと身を避けた。
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誘うた踊子は目を蹙めて居る勘次の容子を見て自分が睨みつけられて居る樣に感じたので、他へ孤鼠々々と身を避けた。
女同士の目には、姿を変えた踊り子がみな一目で分かるのであった。
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女同士の眼には姿を變じた踊子が皆一見して了解されるのであつた。
踊りを見ながら輪の周りに立っている村の女らは、手と手を突き合って勘次の様子を見ては、くすくすとひそかに冷笑を浴びせかけるのであった。
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踊を見ながら輪の周圍に立つて居る村落の女等は手と手を突き合うて勘次の容子を見てはくすくすと竊に冷笑を浴せ掛けるのであつた。
カンテラの光は、樅の木陰のどこからでもはっきりと勘次の様子を目に立たせるように、ぼうぼうと油煙を立てながら、周りの目とうなずき合って、赤い舌をべろべろと吐きながら揺らめいた。
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カンテラの光は樅の木陰の何處からでも明瞭と勘次の容子を目に立たせる樣にぼう/\と油煙を立てながら、周圍の眼と首肯き合うて赤い舌をべろべろと吐きつゝゆらめいた
おつぎの姿が五、六人立った中に見えなくなった時、勘次は商人のむしろを立って、すっと樅の木のそばへ行った。
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おつぎの姿が五六人立つた中に見えなく成つた時勘次は商人の筵を立つてすつと樅の木の側へ行つた。
おつぎは一、二歩位置を変えただけであったので、彼はすぐにおつぎの白い姿と接して立った。
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おつぎは一二歩位置を變へた丈であつたので、彼は直におつぎの白い姿と相接して立つた。
女同士は勘次の姿を見て、少し身を避けた。
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女同士は勘次の姿を見て少し身を避けた。
五、六本そびえ立った樅の木は、引きしごいたようなこずえが寄り合って、さっきから明るい光をいとう踊り子を覆っていっぱいに陰を投げていたのであるが、じっとした静かな月がいくらか首を傾けたと思ったら、樅のこずえの間から少しのぞいて、踊り子が形づくっている輪の一端をかっと明るくした。
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五六本屹立した樅の木は引つ扱いた樣な梢が相倚つて、先刻から明かるい光を厭ふ踊子を掩うて一杯に陰翳を投げて居たのであるが、凝然とした靜かな月が幾らか首を傾けたと思つたら樅の梢の間から少し覗いて、踊子が形づくつて居る輪の一端をかつと明かるくした。
彼らのかぶっている飾りがその光に触れれば、ことごとく目を射るようにはっきりと白く見え出した。
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彼等の戴いて居る裝飾が其光に觸れゝば悉く目を射るやうにはつきりと白く見え出した。
ほとんど疲れということを感じないのであろうかと怪しまれる彼らは、ますます興に乗じて、少し乱雑になりかけた。
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殆んど疲勞といふことを感じないであらうかと怪しまれる彼等は益々興に乘じて少し亂雜に成り掛けた。
白いシャツの上に浴衣を肩までまくって、尻をからげて草鞋をはいた幾人かが列から離れたと思ったら、そこらに立って見物している女らに向かって、津波のように襲った。
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白いシヤツの上に浴衣を肩まで捲くつて、臀を褰げて草鞋を穿た幾人が列から離れたと思つたら、其處らに立つて見物して居る女等に向つて海嘯の如く襲うた。
女同士はわあとただ笑い声を発して、めいめいに相手を突いたり叩いたりして、乱れながら騒いだ。
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女同士はわあと只笑ひ聲を發して各自に對手を突いたり叩いたりして亂れつゝ騷いだ。
突然一人が、おつぎの髪へひょいと手を掛けた。
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突然一人がおつぎの髮へひよつと手を掛けた。
「これはまあ、どうしたもんだ」
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「此らまあ、どうしたもんだ」
おつぎが驚いて叫んだ時、相手はおつぎの櫛を奪って、混雑した群衆の中へ身を沈めた。
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おつぎが驚いて叫んだ時、對手はおつぎの櫛を奪つて混雜した群集の中へ身を沒した。
おつぎは髪へいたずらされたことを嫌って、思わず手を当ててみて、櫛のなくなったのを知った。
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おつぎは髮へ惡戯されたことを嫌つて思はず手を當て見て櫛の無くなつたのを知つた。
「他人の櫛をまあ」
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「他人の櫛まあ」
おつぎはそれを追おうとして、覚えず足を踏み出すと、一歩運んだ勘次の手が、むずとおつぎの首筋をつかまえた。
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おつぎは其れを追はうとして覺えず足を蹂み出すと、一歩運んだ勘次の手がむづとおつぎの首筋を捉へた。
彼は同時に、おつぎの小鬢を横に打った。
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彼は同時におつぎの小鬢を横に打つた。
おつぎが慌てて後ろを向こうとする時、再び激しく打った手がおつぎの鼻に当たった。
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おつぎが慌てゝ後を向かうとする時、復び劇しく打つた手がおつぎの鼻に當つた。
おつぎは両手で鼻を押さえて縮まった。
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おつぎは兩手で鼻を抑へて縮まつた。
女同士は樅の木陰に身をすくめて、手の出しようもなかった。
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女同士は樅の木陰に身を峙めて手の出し樣もなかつた。
一つには、ふだんからおつぎに対する勘次の態度を知っていて、そこに一種の恐れを感じていたからでもあった。
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一つには平生からおつぎに對する勘次の態度を知つて居て其處に一種の恐怖を感じて居たからでもあつた。
「どうしてお前は、櫛なんぞ取られたんだ」
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「どうして汝りや、櫛なんぞ取らつたんだ」
勘次はからびた喉から絞り出すような声で問いつめた。
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勘次はからびた喉から絞り出す樣な聲で詰問した。
「こら、このあま奴、しらばくれやがって、どうしたんだよ」
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「こうれ、此阿魔奴、しらばくれやがつて、どうしたんだよ」
勘次はかがんだままのおつぎをぐいと突いた。
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勘次は屈んだ儘のおつぎをぐいと突いた。
おつぎは転がりそうにして、ようやく土へ手を突いた。
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おつぎは轉がり相にして漸く土へ手を突いた。
「何するんだな、おとっつあん」
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「何爲んだな、おとつゝあ」
おつぎは慌てて顔をねじ向けて、少し泣き声で、むしろ鋭く言った。
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おつぎは慌てゝ顏を捩ぢ向けて少し泣き聲で寧ろ鋭くいつた。
「何するんだとう。ずうずうしいあまだ。櫛をどうして取られたんだか言ってみろというんだ。これでも分からないのか。言ってみろよ」
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「何爲んだとう、づう/\しい阿魔だ、櫛何故して取らつたんだか云つて見ろつちんだ、此んでも分んねえのか、云つて見ろよ」
勘次はしばらく間を置いて、またかっと忌々しくなったように
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勘次は暫く間を措いて、又かつと忌々敷なつたやうに
「言ってみろというのに、言ってみろよ」
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「云つて見ろつちのに、云つて見ろよ」
と繰り返して、おつぎを責めた。
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と反覆しておつぎを責めた。
「どうしてと言ったって、おれには分からないよ」
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「どうしてつちつたつて、俺らがにや分んねえよ」
おつぎは恨めしそうに、しかしながら周りを憚るようにして小声で言った。
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おつぎは恨めし相に然しながら周圍に憚る樣にして小聲でいつた。
袂は顔を覆ったままである。
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袂は顏を掩うた儘である。
「分からないとう。何にも知らない者で他人の櫛なんぞ取るか」
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「分んねえとう、何にも知らねえ者で他人の櫛なんぞ取つか」
勘次は苦しい息を吐くようにして
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勘次は苦しい息を吐くやうにして
「そんならお前は」
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「そんだら汝りや」
と、歯でぎっとかみ殺したような声で言った。
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と齒でぎつと噛み殺した樣な聲でいつた。
しばらくじっと見ていた彼は、おつぎを蹴った。
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暫時凝然と見て居た彼はおつぎを蹴つた。
おつぎは前へのめった。
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おつぎは前へのめつた。
しかし、おつぎは泣かなかった。
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然しおつぎは泣かなかつた。
「ああ痛いまあ」
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「おゝ痛てえまあ」
群衆の中から作り声で言った。
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群集の中から假聲でいつた。
踊りの列はさっきから崩れて、垣のように勘次とおつぎの周りに集まったのである。
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踊の列は先刻から崩れて堵の如く勘次とおつぎの周圍に集まつたのである。
おつぎはこの声を聞くとともに、乱れかけた着物の合わせ目を繕った。
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おつぎは此聲を聞くと共に亂れ掛けた衣物の合せ目を繕うた。
「櫛を取ったのはここにいたよう」
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「櫛とつたな此處に居たよう」
と、これも喉の底からかすれて出るような声が、群衆の中から発せられた。
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と此れも喉の底からかすれて出るやうな聲が群集の中から發せられた。
「持ってたら、やっちまえ」
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「持つてたら、やつちめえ」
「いやだよう、おとっつあんにぶん殴られるから。おとっつあん勘弁してくれよう」
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「厭だよう、おとつゝあに打ん擲られつから、おとつゝあ勘辨してくろよう」
と、すすり泣くような作り声がさらに聞こえた。
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と歔欷くやうな假聲が更に聞えた。
呆然として見ていたすべてがどよめいた。
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惘然として見て居た凡てがどよめいた。
「おとっつあん、明かりをつけようかあ」
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「おとつゝあ明り點けべえかあ」
と、群衆の後ろから怒鳴るとともに、すべてがまたどっと笑った。
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と群集の後から呶鳴ると共に凡てが復たどつと笑つた。
おつぎはむっくり起きて、さっさと行きかけた。
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おつぎはむつくり起きてさつさと行き掛けた。
「お前、どこへ行くんだ。こら」
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「汝何處さ行くんだ。こうれ」
勘次はつかまえようとしたが、おつぎは身をよじってさっさと行く。
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勘次は引つ捉まうとしたがおつぎは身を捩つてさつさと行く。
勘次は慌てて草履の爪先がつまずきながら、おつぎの後についた。
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勘次は慌てゝ草履の爪先が蹶きつゝおつぎの後に跟いた。
「おつう」
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「おつう」
彼は心もとなげに呼んだ。
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彼は心もとなげに喚んだ。
与吉はどうしたわけとも分からないので、さっきからただ泣いていた。
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與吉はどうした理由とも分らないので先刻から只泣いて居た。
太鼓が止んで、踊りはまったく乱れてしまった。
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太鼓が止んで踊は全く亂れて畢つた。
それでなくても彼らは、ひとしきり踊れば田んぼを越えて三々五々と、男は女を伴って、畑の小道から林を過ぎて、村から村へと太鼓の音を尋ねて行くのである。
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それでなくても彼等は一しきり踊れば田圃を越えて三々五々と男は女を伴うて、畑の小徑から林を過ぎて村落から村落へと太鼓の音を尋ねて行くのである。
勘次の後から、彼らはぞろぞろとついて行った。
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勘次の後から彼等はぞろ/\と跟いて行つた。
ある者は足速に駆け抜けては
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或者は足速に駈け拔けては
「焼き餅焼くとて手を焼いて、その手でお釈迦の団子をこねた」
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「燒餅燒くとて手を燒いてえ、其の手でお釋迦の團子捏ねたあ」
と当てつけに唄って、ずんずん行ってしまう。
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と當てつけに唄うてずん/\行つて畢ふ。
後ろの群衆はそれに応じて、指をくわえてぴゅうぴゅうと鳴らしながら、勘次の心をいらだたせた。
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後の群集はそれに應じて指を啣へてぴう/\と鳴らしながら勘次の心を苛立たせた。
勘次はどれほどそれが激した心に忌々しくても、それをたしなめて叱ってやる何の手がかりも持っていない。
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勘次は何れ程それが激した心に忌々敷くても其れを窘めて叱つて遣る何の手がかりも有つて居らぬ。
三人はただ黙って歩いた。
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三人は只默つて歩いた。
社の森の外は、白い月夜である。
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社の森の外は白い月夜である。
勘次が村外れの家に帰った時は、踊り子はみな自分の向かう所に赴いて、三人のみが静かに更けて行く庭にぽつんと立ったのであった。
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勘次が村落外れの家に歸つた時は踊子は皆自分の嚮ふ處に赴いて三人のみが靜に深け行く庭にぽつさりと立つたのであつた。
各所の太鼓の音が、面白いのはかえってこれからだというように、沈んだ夜を透して一直線に響いて来る。
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各所の太鼓の音が興味は却て此れからだといふ樣に沈んだ夜を透して一直線に響いて來る。
唄の声は遠く近く聞こえる。
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唄の聲は遠く近く聞える。
夜はまったく、踊る者の領分に帰した。
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夜は全く踊るものゝ領域に歸した。
彼らは、とうもろこしの葉がざわざわと妙に心を騒がせて、花粉の匂いがさらに心の何かを突き動かす畑の間を行くとては、踊って唄って渇いた喉に、そこに瓜が作ってあるのを知れば、ひそかに瓜や西瓜を盗んで、道端の草の中に打ち割った皮を投げ捨てて行くのである。
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彼等は玉蜀黍の葉がざわ/\と妙に心を騷がせて、花粉の臭ひが更に心の或物を衝動る畑の間を行くとては、踊つて唄うて渇した喉に其處に瓜が作つてあるのを知れば竊に瓜や西瓜を盗んで路傍の草の中に打ち割つた皮を投げ棄てゝ行くのである。
彼らの間のいたずら好きな五、六人が、夜が更けてからそっと勘次の庭へ立ってみた。
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彼等の間に惡戯の好きな五六人が夜が深けてからそつと勘次の庭へ立つて見た。
その時はただ自分たちの影がやや長く庭の土に映って、月は隙間だらけの古ぼけた雨戸を、ほのかに白く見せていた。
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其の時は只自分等の陰翳が稍長く庭の土に映じて、月は隙間だらけの古ぼけた雨戸をほのかに白く見せて居た。
周りは泣き止んだ後のように、あまりに寂しかった。
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周圍は泣き止んだ後のやうに餘りに寂しかつた。
五、六人はただぽつんと帰ってしまった。
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五六人は只ぽつさりと歸つて畢つた。
おつぎは次の朝、櫛を探しに出た。
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おつぎは次の朝櫛を探しに出た。
同じ年ごろの間には、誰のいたずらであるかがその場ですべての耳に知れ渡っていた。
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同じ年輩の間には誰の惡戯であるかが其の場で凡ての耳に知れ渡つて居た。
「櫛なんざ持っていないぞ、もう。それよりは、帰って柿の木の二股でも見たほうがいいと」
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「櫛なんざ持つてゐねえぞはあ、それよりやあ、歸つて柹の木のざく股でも見た方がえゝと」
仲間の一人がおつぎへ言った。
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朋輩の一人がおつぎへいつた。
おつぎは、自分の庭の柿の木の幹が二股になった所に、櫛がそっと載せてあるのを見つけた。
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おつぎは自分の庭の柹木の幹が二股に成つた處に櫛がそつと載せてあるのを發見した。
櫛は鼈甲まがいのゴムの櫛であった。
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櫛は鼈甲模擬のゴムの櫛であつた。
歯が二枚ばかり欠けていた。
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齒が二枚ばかり缺けて居た。
おつぎは傷んだ所をじっと見て、すぐに髪へ挿した。
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おつぎは損所を凝然と見て直に髮へ揷した。
櫛の事件はそれっきりで終わった。
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櫛の事件は其れつ切で畢つた。
勘次は何かにつけては、おつう、おつうと懐かしげに呼んで、一家は人の目に立つほどきわめて睦まじかった。
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勘次は何かにつけてはおつう/\と懷かしげに喚んで一家は人の目に立つ程極めて睦ましかつた。
しかし、こういう事件は村のすべての口を長く塞ぐことはできなかった。
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然しかういふ事件は村落の凡ての口を久しく防ぐことは出來なかつた。
ことに女房らの間には
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殊に女房等の間には
「勘次さんもどうしたっていうんだろう。おれは怖いようだったぞ」
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「勘次さんもどうしたつちんだんべ、俺ら可怖えやうだつけぞ」
「本当によ、まるっきり狂気のようだものなあ」
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「本當によ、丸つきり狂氣のやうだものなあ」
という驚きの声が、至る所に繰り返された。
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といふ驚異の聲が到る處に反覆された。
「ただとは思えないよ。勘次さんも、ああいうふうにしないでもよかろうと思うのになあ」
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「唯たあ思へねえよ、勘次さんもあゝいに仕ねえでもよかんべと思ふのになあ」
嘆きの声を発しては、めいめいの心に潜んでいる何かを、口にははっきりと言うことを憚るように、目と目を見合わせて互いに笑っては、わずかに
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嘆聲を發しては各自の心に伏在して居る或物を口には明白地に云ふことを憚る樣に眼と眼を見合せて互に笑うては僅に
「いやだいやだ」
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「厭だ/\」
という、底に一種の意味を含んだ一言を投げ捨てて別れるのである。
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といふ底に一種の意味を含んだ一語を投げ棄てゝ別れるのである。
ことには村の若者の間へは、少しも遠慮のない想像に伴う陰口をたくましくさせる、格好の材料を提供したのであった。
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殊には村落の若者の間へは寸毫も遠慮の無い想像に伴ふ陰口を逞しくせしめる好箇の材料を提供したのであつた。
一四
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一四
夏が巡って来た。
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夏が循環した。
暑い日の刺激が、驚くべき活動力を百姓の手足に与える。
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暑い日の刺戟が驚くべき活動力を百姓の手足に與へる。
百姓は馬や荷車を駆って、刈り倒した麦をせっせと運ぶ。
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百姓は馬や荷車を駈つて刈り倒した麥をせつせと運ぶ。
長い日はわずかな日数のうちに、目に果てしない畑をからりとさせて、しばらくすると天候は限りない変化の手をいっぱいに広げて、黄色に熟する梅の小枝を苦しめているあぶらむしも滅びてしまうほどの長雨が、呆れもしないで降り続く。
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永い日は僅な日數の内に目に渺々たる畑をからりとさせて、暫くすると天候は極りない變化の手を一杯に擴げて、黄色に熟する梅の小枝を苦めて居る蚜蟲も滅亡して畢ふ程の霖雨が惘れもしないで降り續く。
そうすると、麦を刈った跡の豆や陸稲が、渇いた口へ冷たい水を得たように勢いづいて、四、五日のうちに青い葉で畑の土が隙間なく覆われる。
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さうすると麥を刈つた跟の菽や陸穗が渇した口へ冷たい水を獲た樣に勢づいて、四五日の内に青い葉を以て畑の土が寸隙もなく掩はれる。
雨は踏み固めてある百姓の庭の土にも、たねつけばなやきつねのぼたんの黄色い小粒な花を持たせて、棟にさえ長い短い草を生えさせる。
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雨は蹂み固めてある百姓の庭の土にも蔊菜や石龍芮の黄色い小粒な花を持たせて、棟にさへ長い短い草を生ぜしめる。
自然の意志は、ひたすら地上の至る所に柔らかな青い葉で覆い隠そうとのみ力を注いでいるのである。
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自然の意志は只管に地上の到る處に軟かな青い葉を以て掩ひ隱さうとのみ力を注いで居るのである。
その意志に逆らってためらっているのは、百姓の手で丁寧にこねられた水田のみである。
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其の意志に逆らうて猶豫うて居るのは百姓の手で丁寧に捏ねられた水田のみである。
夏がようやく更けると、自然はその心を焦らせて、長雨が低い田に水を満たさせて、堀にも茂った草を沈めて岸を越えさせる。
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夏が漸く深けると自然は其の心を焦燥らせて、霖雨が低い田に水を滿たしめて、堀にも茂つた草を沒して岸を越えしめる。
稲で田の空き地を埋めることが一日でも速ければ、それだけ余計な報酬を晩秋の収穫において与えるからと教えて、自然は百姓の体力の及ぶかぎり活動させる。
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稻草を以て田の空地を埋めることが一日でも速かなればそれだけ餘計な報酬を晩秋の收穫に於て與へるからと教へて自然は百姓の體力の及ぶ限り活動せしめる。
そうすると百姓は、田のようにどろどろと往来の土をもこねて、馬とともに泥にまみれながら、田植えにのみかかりきる。
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さうすると百姓は田のやうにどろ/\と往來の土をも捏ねて馬と共に泥に塗れながら田植にのみ屈託する。
彼らは雨を藁の蓑に避けて、左手に持った苗を少しずつ取っては、後ずさりに深い泥から股引の足を引き抜き引き抜き、植えて退く。
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彼等は雨を藁の蓑に避けて左手に持つた苗を少しづつ取つて後退りに深い泥から股引の足を引き拔き引き拔き植ゑ退く。
こうして広々とした水田は、一日泥に浸ったままでも愉快そうに唄う声があっちからもこっちからも響くとともに、だんだんに淡い緑が覆って、多忙で、かつ活発な夏の自然は、先に植えられた田から次第に深い緑を染めて行く。
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恁うして宏濶な水田は、一日泥に浸つた儘でも愉快相に唄ふ聲がそつちからもこつちからも響くと共に、段々に淺い緑が掩うて、多忙で且活溌な夏の自然は先に植ゑられた田から漸次に深い緑を染めて行く。
田がすべて植え終わった時には、あぜにも短い草が生えていて、土の黒い部分がどこにも見えなくなる。
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田が凡て植ゑ畢つた時には畦畔にも短い草が生えて居て土の黒い部分が何處にも見えなく成る。
自然ははじめて自分の満足を得たように、からりと快い空を拭って、暑い日の光を投げかける。
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自然は始めて自己の滿足を得た樣にからりと快よい空を拭うて暑い日の光を投げ掛ける。
青田のあぜにはところどころにかんぞうが開いて、田の草をかくとては、村の少女が赤い帯を暑い日に燃やさない日でも、しぼんでは開いて、朱の杯のように点々と耕地を彩るのである。
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青田の畦畔には處々に萱草が開いて、田の草を掻くとては村落の少女が赤い帶を暑い日に燃やさない日でも、萎んでは開いて朱杯の如く點々と耕地を彩るのである。
百姓は忙しい田植えが終われば、どこの家でも秋の収穫を待つ準備がすっかり施されたので、めいめいの労をねぎらうために、相当なもてなしが行われるのである。
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百姓は忙しい田植が畢れば何處の家でも秋の收穫を待つ準備が全く施されたので、各自の勞を劬ふ爲に相當な饗應が行はれるのである。
それが早苗饗である。
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其が早苗振である。
勘次とおつぎは、南の早苗饗の日に雇われて行っていた。
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勘次とおつぎは南の早苗振の日に傭はれて行つて居た。
勘次の家から南へ行く小道を挟んだ桑畑は、刈り取ってから草の生えたくらいに枝が立ちはじめていた。
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勘次の家から南へ行く小徑を挾んだ桑畑は刈取つてから草の生えた位に枝が立ち始めて居た。
桑の間にはじゃがいもが茂って、花を持っていた。
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桑の間には馬鈴薯が茂つて花を持つて居た。
南の家では少しばかり養蚕をしたので、百姓の仕事がすべて手遅れになったのであった。
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南の家では少しばかり養蠶をしたので百姓の仕事が凡て手後れに成つたのであつた。
村のたいていが田植えを終えかけたので、慌てて大勢の手を雇った。
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村落の大抵が田植を畢り掛けたので慌てゝ大勢の手を傭うた。
その日は晴れて心持ちがよかったのと、一同が非常な奮発をしたのとで、仕事は日の高いうちに済んだ。
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其の日は晴れて心持がよかつたのと、一同が非常な奮發をしたのとで仕事は日の高い内に濟んだ。
南の女房は仕事の見極めがついたので、おつぎを連れて、その晩のおかずの用意をするために、一足先に田から帰った。
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南の女房は仕事の見極めがついたのでおつぎを連れて、其晩の惣菜の用意をする爲に一足先へ田から歸つた。
女房は忙しい思いをしながら、麦を炒って香煎も篩っておいた。
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女房は忙しい思ひをしながら麥を熬つて香煎も篩つて置いた。
田植えの一同は、股引をはいたまま泥の足をずっと堀の水に立てて、股引の紺地がはっきりとなるまで、両手でごしごしとしごいた。
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田植の同勢は股引穿いた儘泥の足をずつと堀の水に立てゝ、股引の紺地がはつきりと成るまで兩手でごし/\と扱いた。
溶けた泥が煙のように水を濁らせて、ずんずんと流される。
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溶けた泥が煙の如く水を濁らしてずん/\と流される。
そうしてから、その股引を脱いでざぶざぶと洗う者もあった。
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さうしてから其の股引を脱いでざぶ/\と洗ふ者も有つた。
彼らが帰って、家の中は急にがやがやとにぎやかになった。
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彼等が歸つて家の内は急にがや/\と賑かに成つた。
裏の戸口の柿の木の下に据えられた風呂には、牛が舌を出して鼻をなめずっているような炎が、煙とともにべろべろと立って、くすぶりながら燃えている。
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裏戸口の柹の木の下に据ゑられた風呂には牛が舌を出して鼻を舐めづつて居る樣な焔が煙と共にべろ/\と立つて燻りつゝ燃えて居る。
雇われて来た女房らの一人がふたを取ってがらがらとかき回して、それからまた火吹き竹でふうふうと吹いた。
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傭はれて來た女房等の一人が蓋をとつてがら/\と掻き廻して、それから復た火吹竹でふう/\と吹いた。
炎の赤い舌がべろべろと長く立った。
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焔の赤い舌がべろ/\と長く立つた。
再びふたを取った時には、掃除の足らない風呂桶の中には、前夜の垢がいっぱいに浮いていた。
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再び蓋をとつた時には掃除の足らぬ風呂桶のなかには前夜の垢が一杯に浮いて居た。
そんなことには構わずに、田植えの一同はずんずんと入った。
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其麽ことには關はずに田植の同勢はずん/\と這入つた。
彼らはほとんど、ただ手拭いでぼちゃぼちゃと体をこすって出た。
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彼等は殆んど只手拭でぼちや/\と身體をこすつて出た。
足の爪先に詰まった泥を落とすことさえしなかった。
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足の爪先に詰まつた泥を落すことさへ仕なかつた。
「くすぶってるのをそっちへ押し出さなくちゃ仕方がないや」
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「燻つてえのそつちへおん出さなくつちや仕やうねえや」
風呂から出たまま拭いもしない足に下駄をはいて、裸の尻を他人に向けて立った一人が、後ろを振り返って言った。
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風呂から出た儘拭ひもせぬ足に下駄を穿いて裸の臀を他人に向けて立つた一人が後を顧みていつた。
「なあに構わない」
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「なあに管あねえ」
後から目をしかめながら、一人が首筋まで沈んだ。
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後から目を蹙めながら一人が首筋まで沈んだ。
それから風呂桶へ腰を掛けて、ごしごしと洗いながら
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それから風呂桶へ腰を掛けてごし/\と洗ひながら
「こりゃくすぶってる」
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「此りや燻つてえ」
と、また沈んだままごしごしと垢を落としていたが
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と復沈んだ儘ごし/\と垢を落して居たが
「ああいい所だ。よう、おつぎ、ちょっとここまで来てくれないか」
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「あゝ善え處だ、よう、おつぎ、少と此處まで來てくんねえか」
と言った。
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といつた。
彼は百姓の間には、馬を引いて歩く村の博労であった。
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彼は百姓の間には馬を曳いて歩く村落の博勞であつた。
「どうしたもんだろう。兼さんら自分で入るのに、くすぶってるなら押し出してから入ったらよかろうな。それにどうしたもんだ、一同いて、水汲みに来た者なんぞ使わなくたっていいだろうな」
原文を見る
「どうしたもんだんべ、兼さん等自分で這入んのに燻つたけりや、おん出してからへえつたら善かんべなあ、それに怎的したもんだ一同居て、水汲みに來たものなんぞ使あねえたつてよかんべなあ」
おつぎは軽くたしなめるように言って、二つの手桶をそっと置いて、くすぶっている薪を出してやった。
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おつぎは輕く窘める樣にいつて二つの手桶をそつと置いて、燻つて居る薪を出して遣つた。
「おつぎにかき出してもらうんでなくちゃいやだというから、おれは構わないんだな。そうでなけりゃいくらでも出してやるさ、よ」
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「おつぎに掻ん出して貰あんでなくつちや厭だつちから俺ら管あねえんだな、そんでなけりや幾らでも出して遣らざらによ」
そばからすぐに言った。
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側から直にいつた。
「くすぶってるのがなくなったら、ひどく晴れ晴れして、入っているようでなくなった。おれはばかな目に遭っちまったよ」
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「燻つてえの無く成つたら酷く晴々してへえつてる樣ぢやなくなつた。俺ら莫迦な目に逢つちやつたえ」
兼博労は、がぶりと風呂の音をさせて立ちながら言った。
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兼博勞はがぶりと風呂の音をさせて立ながらいつた。
「どうしたもんだ、他人のことを使って小憎らしいこと。そんなこと言うと、押しつけてやるから」
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「どうしたもんだ、他人のこと使つて小憎らしいこと、そんなこと云ふとおつけて遣つから」
おつぎはくすぶった薪を、兼博労の近くへ出した。
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おつぎは燻つた薪を兼博勞の近くへ出した。
兼博労は慌てて
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兼博勞は慌てゝ
「謝った、謝った」
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「謝罪つた/\」
と、ずっと身を引いた。
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とずつと身を引いた。
おつぎが手桶のそばへ戻ったら
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おつぎが手桶の側へ戻つたら
「ああ、おつぎ、おつぎ、ちょっと待っててくれよ。おれがいい物を出すから」
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「ああ、おつぎ/\少と待つてゝくろえ、俺れえゝ物出すから」
兼博労は口早に呼びかけた。
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兼博勞は口速に喚び掛けた。
「ああいやなこった、要らないよ」
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「おゝ厭なこつた、要らねえよ」
おつぎは少し身をかがめて手桶の柄をつかんで、そのまま身を伸ばすと、手桶の底が十センチほど地を離れた。
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おつぎは少し身を屈めて手桶の柄を攫んで其の儘身を延すと手桶の底が三寸ばかり地を離れた。
「ええ、これを出そうというのに」
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「えゝ、此れ出すべつちのに」
兼博労は後ろから投げた。
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兼博勞は後から投げた。
それはこずえから風呂の中へ落ちた、へたのない青い柿であった。
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それは梢から風呂の中へ落ちた蔕のない青い柹であつた。
柿は手桶の水へぽたりと落ちて、水のとばっちりが少しおつぎの足へ掛かった。
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柹は手桶の水へぽたりと落ちて、水のとばちりが少しおつぎの足へ掛つた。
「憎らしいことまあ、いたずらばかりして」
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「憎らしいことまあ、惡戯ばかし仕て」
おつぎはにっこりとして後ろを見た。
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おつぎは嫣然として後を見た。
「後ろを見さえすりゃ、それでいいんだ」
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「後見せえすりやそんでえゝんだ」
と、風呂のそばにいた一人が言った。
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と風呂の側に居た一人がいつた。
「おれはそのそばかすを見さえすりゃ気が済んでるんだよ」
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「俺ら其の雀班見せえすりや氣が濟んでんだよ」
兼博労は後について言った。
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兼博勞は後に跟いていつた。
「どれほどすれっからしなんだろうな、兼さんは。他人のことを本当に」
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「何程すれつからしなんだんべ兼さんは、他人のこと本當に」
と、おつぎは手桶を置いて、水に浮かんだ青い柿を兼博労へ投げた。
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とおつぎは手桶を置いて水に泛んだ青い柹を兼博勞へ投げた。
「兼さん、すっかり惚れられちまった」
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「兼さんすつかり惚られつちやつた」
と、風呂桶の傍らから言った。
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と風呂桶の傍からいつた。
おつぎは顔を赤くして、慌ただしく手桶を持って逃げた。
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おつぎは顏を赧くして慌しく手桶を持つて遁げた。
いっぱいに汲んだ手桶の水が、少し波立ってこぼれた。
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一杯に汲んだ手桶の水が少し波立つて滾れた。
風呂桶の傍らでは、四十五十になる百姓もいて、一同が愉快そうにどよめいた。
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風呂桶の傍では四十五十に成る百姓も居て一同が愉快相にどよめいた。
おつぎが手桶を持った時、勘次は裏戸の垣根口にひょっこりと出た。
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おつぎが手桶を持つた時勘次は裏戸の垣根口にひよつこりと出た。
彼は着物を換えに桑畑の小道を越えて、自分の家へ行ったのであった。
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彼は衣物を換へに桑畑の小徑を越えて自分の家へ行つたのであつた。
彼は風呂のそばの騒ぎをちらと耳にして、それからおつぎの後ろ姿を目にしたので、怪訝な様子をして庭に入って来た。
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彼は風呂の側の騷ぎをちらと耳にしてそれからおつぎの後姿を目にしたので怪訝な容子をして庭にはひつて來た。
一同は打ち合わせたように黙ってしまった。
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一同は打合せた樣に默して畢つた。
落ちかけた日がしばらく竹藪を透して湿った土に差しかけて、それから井戸を囲んだ井桁に臨んで、陰気に茂ったくちなしの花を際立って白くした。
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落ち掛けた日が少時竹藪を透して濕つた土に射し掛けて、それから井戸を圍んだ井桁に蒞んで陰氣に茂つた山梔子の花を際立つて白くした。
しばらくして、青い煙の満ちた家の中には、心も切らないランプが吊るされて、板の間には一同ぞろっとあぐらをかいて、丸い座がつくられた。
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暫くして青い煙の滿ちた家の内には心も切らぬランプが釣るされて、板の間には一同ぞろつと胡坐を掻いて丸い坐が形づくられた。
これも雇われて来た若い女房らは、かまどの前に立って、家の女房とおつぎとに手を貸していた。
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此も傭はれて來た若い女房等は竈の前に立つて内の女房とおつぎとに手を藉して居た。
徳利が三、四本、膳の前に運ばれた。
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徳利が三四本膳の前に運ばれた。
「おかげでどうも捗りました。どうぞゆっくりやっておくんなせえ」
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「お蔭でどうも捗行きあんした。どうぞゆつくり行つておくんなせえ」
亭主は改まって挨拶した。
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亭主は改まつて挨拶した。
「はい」
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「はい」
と一同がお辞儀をした。
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と一同が時儀をした。
めいめいの膳の隅へ一つずつ渡された茶飲み茶碗へ酒が注がれようとした時
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各自の膳の隅へ一つ宛渡された茶呑茶碗へ酒が注がれようとした時
「あれ、待っててくれないか」
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「あれ待つてゝくんねえか」
と、家の女房が慌てて言った。
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と内の女房が慌てゝいつた。
「おとっつあん、お竈さまを忘れたっけだろうな」
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「おとつゝあん、お竈樣忘れたつけべな」
女房はかまどから飯の釜を下ろして、布巾を手にしたまま言った。
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女房は竈から飯の釜を卸して布巾を手にした儘いつた。
「そうだったな、ほんに」
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「さうだつけな、ほんに」
亭主はいきなり一本の徳利を手にして、土間へ下りた。
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亭主はいきなり一本の徳利を手にして土間へおりた。
かまどの上のすすけた小さな神棚へは、田から提げて来た一把の苗が載せてあった。
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竈の上の煤けた小さな神棚へは田から提げて來た一把の苗が載せてあつた。
彼はその苗束へ、徳利から少し酒を注いだ。
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彼は其苗束へ徳利から少し酒を注いだ。
「酒はそっちのほうへたんと掛けないでもらいたいな」
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「酒そつちの方へたんと掛けねえで貰れえてえな」
兼博労はけろりとした様子をして冗談を言った。
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兼博勞はけろりとした容子をして戯談をいつた。
「酒を飲む者は、そんなに惜しいもんだろうか」
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「酒飮む者な、さうだに惜しいもんだんべか」
おつぎはこっそり言った。
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おつぎはこつそりいつた。
「そんだって、酒っていうのは人の口へ入るようにできてるんだから。それ、証拠にはおれの口へ入りゃすぐ利くから見ろよ」
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「そんだつて酒つちや人の口さ入える樣に出來てんだから、それ證據にや俺らが口さ入えりやすぐ利くから見ろえ」
兼博労は言った。
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兼博勞はいつた。
亭主はまた、苗束へ香煎を少し振りかけた。
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亭主は又苗束へ香煎を少し振り掛けた。
それは稲の花になぞらえたので、稲の花がいっぱいに開くようにとの縁起であった。
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それは稻の花に模擬つたので、稻の花が一杯に開く樣との縁起であつた。
兼博労はそれを見て、急に土間へ下りて行った。
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兼博勞は其れを見て急に土間へ下りて行つた。
「どれ、お前ら、うどん粉をちょっと持って来てみな。ひとつまみでいいんだ。おおい、持って来うな。おつぎでもいいや、よう」
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「どうれ、おめえ等饂飩粉少と持つて來て見せえ、一ツ爪尻でえゝんだ、おゝえ持つて來うな、おつぎでもえゝや、よう」
と兼博労は促した。
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と兼博勞は促した。
「どうしたもんだ、大威張りして」
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「どうしたもんだ、大威張して」
おつぎは呟きながら、家の女房に聞いて小麦粉をひとつまみ出してやった。
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おつぎは呟きながら内の女房に聞いて小麥粉を一捉み出して遣つた。
「そうら、これを掛けて。これが晩稲の花だ」
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「さうら此れ掛けて、此れが晩稻の花だ」
兼博労は手にした小麦粉を、ことごとく掛けてしまった。
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兼博勞は手にした小麥粉を悉く掛けて畢つた。
苗束は少し白くなった。
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苗束は少し白く成つた。
「どこにもそんなふうに掛ける者はあるまいな」
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「何處にもさういに掛けるもな有んめえな」
女房の一人が見ていて言った。
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女房の一人が見て居ていつた。
「おれは晩稲を作るんだから。役場の奴らが作っちゃならないなんて言ったって、おれのみたいな、うっかりすると乳のあたりまで入るような深田の冷える所じゃ、どうしたって晩稲でなくちゃ穫れるもんじゃないな。それからおれは、役場で役人が講釈するから、深田じゃこうだと話したら、はっきり悪いとは言わないんだから。それからおれは、糞をつかんで見ない奴じゃだめだというんだ」
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「俺ら晩稻作んだから、役場の奴等作つちやなんねえなんちつたつて、俺ら見てえな、うつかりすつと乳ツ岸までへえるやうな深ん坊の冷えつ處ぢやどうしたつて晩稻でなくつちや穫れるもんぢやねえな、それから俺れ役場で役人が講釋すつから深ん坊ぢや斯うだつち噺したら、はつきり惡りいたあ云はねえんだから、夫から俺れ糞攫んで見ねえ奴ぢや駄目だつちんだ」
彼は笑いながら独りしゃべった。
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彼は笑ひながら獨り饒舌つた。
「根性がねじれてるからだあ、晩稲は作るなというのに」
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「根性捩れてつからだあ、晩稻は作んなつちのに」
女房の一人がまた言った。
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女房の一人が又いつた。
「おれか。いやどうも、ねじれてるにも何にも」
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「俺れか、いやどうも捩れてんにもなんにも」
兼博労は言って
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兼博勞はいつて
「そうれ見ろよ、稲へ白い花が咲いたぞ。白坊主の花だ、こりゃ」
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「そうれ見ろえ、稻へ白え花が咲えたぞ、白坊主の花だこりや」
彼は手についた粉をよく叩いた。
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彼は手に附いた粉を能く叩いた。
「いやだよ、白坊主っていう稲はあるまいな」
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「厭だよ、白坊主ツち稻はあんめえな」
女房がまた言った。
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女房が又いつた。
「そんでも、おれは勘次さんに聞いたぞ」
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「そんでも俺ら勘次さんに聞いたぞ」
彼は少し首をすくめながら、声を低めて言った。
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彼は少し首をすくめながら聲を低めていつた。
袂で口を押さえて、女房らは笑いを殺した。
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袂で口を抑へて女房等は笑を殺した。
兼博労はわざと笑いを飲んで、再び板の間にあぐらをかいた。
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兼博勞は態と笑を嚥んで再び板の間に胡坐を掻いた。
勘次は小さな時分から侮られて、よく泣かされた。
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勘次は小さな時分から侮られて能く泣かされた。
彼は恐ろしい泣き虫であった。
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彼は恐ろしい泣蟲であつた。
彼はいつの間にか、燗鍋というあだ名をつけられた。
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彼は何時の間にか燗鍋といふ綽名を附けられた。
彼は心にいくらそれを嫌ったか知れない。
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彼は心に幾ら其れを嫌つたか知れない。
三十を越えて四十になっても、彼は鍋というのがひどくいやであった。
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卅越えて四十に成つても彼は鍋といふのが酷く厭であつた。
村ではそれを知らない者はない。
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村落ではそれを知らぬ者はない。
ある時、いたずら好きな兼博労が、勘次の刈っている稲を、これは何だいと聞いた。
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或時惡戯好な兼博勞が勘次の刈て居る稻を、此は何だえと聞いた。
わざと聞いたのであった。
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態と聞いたのであつた。
それは鍋割れとも、それから芒が白いので白芒とも言うのであったが、勘次は
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其れは鍋割れとも、それから芒が白いので白芒とも云ふのであつたが勘次は
「これは白坊主」
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「此は白坊主」
とそっけなく言った。
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とそつけなくいつた。
彼は鍋というのがいやで、そう言ったのである。
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彼は鍋といふのが厭でさういつたのである。
兼博労は、うまく何かをつかまえたように得意になって、村じゅうへ響かせた。
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兼博勞はうまく或物を攫へた樣に得意に成つて村落中へ響かせた。
口の悪い百姓らは、勘次がおつぎを連れて田へ出ているのを見て
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口の惡い百姓等は勘次がおつぎを連れて田へ出て居るのを見て
「白坊主ら、夫婦して耕してら」
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「白坊主等夫婦して耕つてら」
などと放言することすらあるのであった。
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抔と放言することすらあるのであつた。
茶碗には一杯ずつ酒が注がれた。
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茶碗には一杯づつ酒が注がれた。
一同はしおらしく茶碗を口に当てた。
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一同はしをらしく茶碗を口に當てた。
「こんな物でよけりゃ、たくさんやっておくんなせえ。まだ後にもありますから」
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「恁んな物でよけりや、夥多やつておくんなせえ、まあだ後にも有りやんすから」
家の女房は、塩で煮たかと思うような白っぽいじゃがいもの大きな皿を膳へ乗せて、二か所へ置いた。
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内の女房は鹽で煮たかと思ふ樣な白つぽい馬鈴薯の大きな皿を膳へ乘せて二處へ置いた。
たちまち一杯を干して、酌み交わしが始まった。
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忽ち一杯を干して獻酬が始まつた。
注がれる者は茶碗の手を上げて、相手が持つ徳利の口へ手を掛けて、酒のこぼれるのを防いだ。
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注がれるものは茶碗の手を擧げて相手が持てる徳利の口へ手を掛けて酒の滾れるのを防いだ。
酒が始まってから、みなが妙にもったいぶって居ずまいを改めた。
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酒が始まつてから皆が妙に鹿爪らしく居ずまひを改めた。
「さあ、どうかずんずん干しておくんなせえね」
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「さあ、何卒ずん/\干しておくんなせえね」
亭主は促した。
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亭主は促した。
「はい」
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「はい」
挨拶がまた口々に出た。
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挨拶が又口々に出た。
このごろでは高い酒は容易に席上へは運ばれなくなっていたので、したがって他人の買ったのでもみな控えめにするようになっていた。
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此の頃では不廉な酒は容易に席上へは運ばれなく成つて居たので隨つて他人の買つたのでも皆控へ目にする樣に成つて居た。
南では養蚕の結果がよかったのと、少しばかり余った桑が意外な相場で売れたのとで、一円ばかりの酒を奮発したのであった。
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南では養蠶の結果が好かつたのと少しばかり餘つた桑が意外な相場で飛んだのとで、一圓ばかりの酒を奮發したのであつた。
その晩の料理に使う醤油が要るので、両方を兼ねて亭主は昼飯休みの時刻に天秤棒をかついで鬼怒川を渡った。
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其の晩の料理に使ふ醤油が要るので兩方を兼ねて亭主は晝餐休みの時刻に天秤擔いで鬼怒川を渡つた。
村の店では買わずに直接酒蔵へ行ったので、酒は白鳥徳利の肩まで届いていた。
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村落の店では買はずに直接酒藏へ行つたので酒は白鳥徳利の肩まで屆いて居た。
めいめいのふだん渇いている口には酒は非常にうまく感じるとともに、その麻痺させる力に対する抵抗力が衰えているので、徳利が一本ずつ倒されて次の徳利に手が掛かったと思うころ、板の間では一同のたしなみが乱れて威勢が出た。
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各自の平生渇して居る口には酒は非常に佳味く感ずると共に、其の痲痺する力に對する抵抗力が衰へて居るので徳利が一本づつ倒されて次の徳利に手が掛つたと思ふ頃板の間では一同のたしなみが亂れて威勢が出た。
「お前、そんなに自分の所ばかり置かないで干せな」
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「おめえ、さういに自分の處えばかし置かねえで干せな」
と、弱い者の所へ杯を集めて、困るのを見ようとさえするようになった。
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と弱い者の處へ杯を聚めて困るのを見ようとさへする樣に成つた。
勘次は独りそばの徳利を引きつけて何杯か傾けて、他人よりも先に小鬢の筋が膨れていた。
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勘次は獨り側なる徳利を引きつけて幾抔か傾けて他人よりも先に小鬢の筋が膨れて居た。
「おれは、鉋の持たない大工だ。鑿一方というんだから」
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「俺ら、鉋の持たねえ大工だ、鑿一方つちんだから」
と言って、勘次は相手もないのにわざとらしい笑いようをして、女房らのいるほうを見た。
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といつて勘次は相手もないのに態とらしい笑ひやうをして女房等の居る方を見た。
彼はうなだれそうになる首を起こして、幾度も見ることを繰り返した。
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彼は俛れ相に成る首を起して數々見ることを反覆した。
おつぎは後ろのほうへ隠れていた。
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おつぎは後の方へ隱れて居た。
勘次は箸を一本持って、危ない物にでも触るように平椀のじゃがいもをその先へ刺しては、いっぱいに口を開いて頬張った。
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勘次は箸を一本持つて危險い物にでも觸るやうに平椀の馬鈴薯を其先へ刺しては一杯に口を開いて頬張つた。
平椀には牛蒡とじゃがいもとがうずたかく盛られて、油揚げが一枚載せてある。
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平椀には牛蒡と馬鈴薯とが堆く盛られて油揚が一枚載せてある。
「べらぼうに大きくなったっけな、このじゃがいもはなあ」
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「箆棒に大かく成つたつけな、此の馬鈴薯はなあ」
一人が言った。
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一人がいつた。
「これでも桑の間へ作ったんだが、思いのほかだったのさ」
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「此んでも桑の間さ作つたんだが、思ひの外だつけのさ」
亭主は自慢らしく、それでもわざと声を落として言った。
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亭主は自慢らしくそれでも態と聲を落していつた。
「桑の間でこうできるかな。そりゃそうと、どこへ作ったんだいまあ」
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「桑の間でかう出來つかな、そりやさうと何處さ作つたんでえまあ」
「裏の垣根の外さ。土は硬くて赤っぽいが、掃き溜めをみっしり掘り込んでおいた所だから、それが出たと見えるのさ。思いのほか土地は嫌わないもんだよ。こんなもんでも作っちゃ桑には悪かろうが」
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「裏の垣根外さ、土はかたで赤つぽうろくだが、掃溜みつしら掘つ込んで置いた處だから、其れが出たと見えんのさ、思ひの外土地は嫌あねえもんだよ、此んなもんでも作つちや桑にや惡かんべが」
「大丈夫だとも。じゃがいもが大きくなるようじゃ、その肥料は桑も吸うから。いや、桑の根っこの遠くへ踏み出すんじゃ驚いたもんだから。目もありもしないのに、肥料のほうへ真っ直ぐにずうっと来るからな」
原文を見る
「大丈夫だとも、馬鈴薯が大かく成る樣ぢや其肥料は桑も吸ふから、いや桑の根つ子の遠くへ踏ん出すんぢや魂消たもんだから、目も有りもしねえのに肥料の方へ眞直にずうつと來つかんな」
「これでどのくらい増えるものだと思ったら、一株で一升くらいずつも起こせるよ」
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「此れでどの位殖えるものだと思つたら一ツ株で一升位づゝも起せるよ」
亭主が言えば
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亭主がいへば
「うん、そうかな。そうすると割のいいもんだな」
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「うむ、さうかな、さうすつと割の善えもんだな」
めいめいにそう言っていると
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各自にさういつて居ると
「よく牛蒡はもたせたっけな」
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「能く牛蒡は保たせたつけな」
と言う者があった。
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といふものがあつた。
「なあに、踏み固める所へ埋けさえしておけば大丈夫なものさ。おれの家じゃ田植えまではあるように、庭へ埋めておくのよ」
原文を見る
「なあに、踏ん固める處へ活けてせえ置けば大丈夫なものさ、俺ら家や田植迄は有るやうに庭へ埋めて置くのよ」
亭主は自分も椀の牛蒡を挟んで言った。
原文を見る
亭主は自分も椀の牛蒡を挾んでいつた。
「そうだが、おれの家なんぞじゃ、それまでにはなくなっちまうから、一度もそんなふうに埋けておいたことはないな」
原文を見る
「さうだが、俺ら家なんぞぢや、それまでにや無く成つちまあから一度でもさういに活けて置いたことあねえな」
と一人が言えば
原文を見る
と一人がいへば
「おれなんざ、腹にしまっておくから、盗られっこなしだ」
原文を見る
「俺らなんざ、腹さ藏つて置くから盜られつこなしだ」
兼博労は口を出した。
原文を見る
兼博勞は口を出した。
「牛蒡もうっかりして縄で縛って埋けちゃ、そこから腐りが入ってひどいもんだな。藁はよっぽど嫌いだと見えるのさな」
原文を見る
「牛蒡もうつかりして繩で縛つて活けちや、其處から腐れがへえつて酷えもんだな、藁は餘つ程嫌えだと見えんのさな」
勘次は横合いから言った。
原文を見る
勘次は横合からいつた。
「どうしたかよ」
原文を見る
「どうしたかよ」
疑いの声が発せられた。
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疑ひの聲が發せられた。
「どうしたかなもんじゃない。おれの家でやったことがあるんだもの」
原文を見る
「どうしたかなもんぢやねえ、俺ら家で行つたこと有んだもの」
彼は相手に押されたように声を低めて
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彼は相手に壓せられた樣に聲を低めて
「なあ、おつう、そうだな」
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「なあおつう、さうだな」
と、体を横に向けて言った。
原文を見る
と身體を横に向けていつた。
板の間と土間との境に立っている柱の陰に、ランプの光から身を避けるようにして一座の酌み交わしを見ていた女房らの手が、にわかにおつぎの尻をつついて
原文を見る
板の間と土間との界に立つて居る柱の陰にランプの光から身を避けるやうにして一座の獻酬を見て居た女房等の手が俄におつぎの臀をつゝいて
「おつうと、それ、返事するもんだ」
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「おつうとそれ、返辭するもんだ」
と小声で言って、かすかに笑った。
原文を見る
小聲でいつて微に笑つた。
勘次は怪訝な様子をして、柱の陰をじっと見て目をしかめた。
原文を見る
勘次は怪訝な容子をして柱の陰を凝然と見て目を蹙めた。
「おつぎはいるよ、お前、そんなに見なくても」
原文を見る
「おつぎは居るよおめえ、さういに見ねえでも」
柱の陰から言って、ささやいた。
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柱の陰からいつて私語いた。
勘次は板の間の端の近くにいたのであるが、膳を越えて体をぐっと前へ伸ばしては、徳利を動かして空になったのは女房らへ渡して、どことなしに心を配るようにそわそわとしている。
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勘次は板の間の端に近く居たのであるが膳を越えて身體をぐつと前へ延ばしては徳利を動かして空に成つたのは女房等へ渡して何處となしに心を配る樣にそわ/\として居る。
「はてな、懐へ入れたはずだったが」
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「はてな、懷え入えた筈だつけが」
と兼博労は懐から周りを探して、そばへ落ちた小さな紙包みを手にして
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と兼博勞は懷から周圍を探して側へ落ちた小さな紙包を手にして
「こら、うまい物を見ろよまあ」
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「こうれ、うめえ物見ろえまあ」
と言って開けてみると、三センチばかりのかまきりが斧をもたげて、ちょろちょろと歩き出した。
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といつて開けて見ると一寸ばかりの蟷螂が斧を擡げてちよろちよろと歩き出した。
「へへえ、この畜生め、これでも怒ってらあ」
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「へゝえ、此ん畜生奴こんでも怒つてらあ」
兼博労はちょいとかまきりをつついてみて、独り面白がって笑った。
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兼博勞はちよいと蟷螂をつゝいて見て獨り興がつて笑つた。
「どうしたもんだろう、大きな格好をして」
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「どうしたもんだんべ大けえ姿して」
と、女房はみな笑った。
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と女房は皆笑つた。
「あれ、おれは知ってら」
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「あれ俺ら知つてら」
おつぎの傍らにいた与吉は、兼博労のそばへ行って
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おつぎの傍に居た與吉は兼博勞の側へ行つて
「烏のきんたまから出るんだぞ、これは」
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「鴉のきんたまから出んだぞこら」
と言った。
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といつた。
「お前らは知りもしないで」
原文を見る
「汝ツ等知りもしねえで」
勘次は与吉を甘やかすようにして言った。
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勘次は與吉を甘やかす樣にしていつた。
「そんだって、おれは見た。笹っ葉の枝にくっついてた所から出たんだ」
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「そんだつて俺ら見た、笹つ葉の枝にくつゝいてた處から出たんだ」
与吉はかまきりをいじりながら言った。
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與吉は蟷螂を弄りながらいつた。
「勘次さん、だめだよ。学校へやっちゃ半年とは言えないから。下手をすると今の子供らには、やり込められちまうから。おとっつあん、これを知ってるかなんて言われたって、困るなあ、どうもなあ」
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「勘次さん駄目だよ、學校へ遣つちや半年たあ云はんねえから、下手んすつと今の子奴等にや遣り込められつちやからおとつゝあ此れ知つてつかなんちあれたつて、困らなどうもなあ」
そばから言ったので、勘次はさすがににっこりとした。
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側からいつたので勘次は有繋に嫣然とした。
白鳥徳利の口が底よりも低くなった時、一座の間には馬の話が出た。
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白鳥徳利の口が底よりも低く成つた時一座の間には馬の噺が出た。
馬という奴はあの体で、酒の二杯も口へ入れてやるとたちまちどろんとして、暴れ馬でも静かになる、博労は以前はそうして悪い馬をはめ込んだものである。
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馬といふ奴はあの身體で酒の二杯も口へ入てやると忽ちにどろんとして駻馬でも靜に成る、博勞は以前はさうして惡い馬を嵌め込んだものである。
今でもそんなことで油断はならぬ、村が貧乏したから荷車ばかり増えて馬が減ってしまったが、荷車の検査に行ってみて驚いたなどということや、朝鮮牛がだいぶ輸入されたが、犬ころのような体で割合に安いからどうしたものだかなどということが、際限もなくがやがやと大声で怒鳴り合われた。
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現在でもそんなことで油斷は成らぬ、村落が貧乏したから荷車ばかり殖えて馬が減つて畢つたが荷車の檢査に行つて見て驚いた抔といふことや、朝鮮牛が大分輸入されたが狗ころの樣な身體で割合に不廉いからどうしたものだか抔といふことが際限もなくがや/\と大聲で呶鳴り合うた。
「博労なんていう奴らは、泥棒根性がなくちゃできない商売だな。嘘っぱちを打ち抜いて、兼らお前は、おれのことさえはめ込むつもりしやがって」
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「博勞なんちい奴等は泥棒根性無くつちや出來ね商賣だな、嘘らつぽう打んぬいて、兼等汝りや、俺れことせえおつ嵌める積しやがつて」
兼博労の向かい側から冗談らしい調子で言うと
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兼博勞の向側から戯談らしい調子でいふと
「べらぼう、はめ込むもんじゃない。それ、いやなら銭を出せよ、銭。なあ、銭を出さないつもりでいるのが泥棒より太いんだな。西のおとっつあんらはためらってばかりだから、駄目で」
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「箆棒、おつ嵌めんなもんぢやねえ、それ厭だら錢出せよ錢、なあ、錢出さねえ積すんのが泥棒より太えんだな、西のおとつゝあ等躊躇逡巡だから、かたで」
「そんだから見ろよ、博労で蔵を建てた奴はありゃしない。罰が当たってるから」
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「そんだから見ろえ、博勞で藏建てた奴あ有りやしねえ、罰たかつてつから」
「どうした、そんだがこの間の白はよかっただろう。あれと交換しろな。ああ西のおとっつあん、白じゃ徴発はされないぞ」
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「どうした、そんだが此間の白は善かつたんべ、彼れさ打てな、あゝ西のおとつゝあ、白ぢや徴發はさんねえぞ」
「いいから、それよりか、そんなに安いことを言わないで、なあ、米一俵で交換しようじゃないか」
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「えゝから、それよりか、そんなに不廉えこと云はねえで、なあ、米一俵打つべえぢやねえか」
「無駄だよ、それじゃ。何でも六銭の横ござを乗せて引いて来たんだぞ。血統証まであるんだぞ。ああ、その手はないぞ」
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「徒勞だよそんぢや、あんでも六錢の横薦乘つけて曳いて來たんだぞ、血統證まで有んぞ、あゝ、彼の手はねえぞ」
「何だいお前がまた、牡馬と牝馬だけの血統証だろう。そんなものは何になるもんじゃない。おれが知らないと思って。おれは白河の市で聞いてらあ」
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「何んでえ汝がまた、牡馬と牝馬だけの血統證だんべ、そんなもの何に成るもんぢやねえ、俺れ知らねえと思つて、俺ら白河の市で聞いてらあ」
「博労がうまく練れないようだな。ようし、そんじゃおれが一つ交換してやろう」
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「博勞うまく練れねえ樣だな、ようしそんぢや俺れ一つ打つてやんべ」
二人が冗談交じりに激しく悪口を言っていると、ふとそばからこう言った。
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二人が戯談交りに劇しく惡口を云つて居るとふと側から凭ういつた。
「そんじゃ、それを干せな。兼さんもそれ」
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「そんぢや、それ干せな、兼さんもそれ」
彼は二人の茶碗を自分の手で交換させて、それを両方へ渡して酒を注いだ。
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彼は二人の茶碗を自分の手で交換させて、それを兩方へ渡して酒を注いだ。
「どうだい、博労がうまく交換できただろう。どっちもえこひいきなしという所だ」
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「どうだえ、博勞うまく打てたんべ、どつちも依怙贔負なしつち處だ」
相手は得意になって言った。
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相手は得意に成つて云つた。
「こっちのおとっつあん、いくつだったっけな。ちょっと白くなったな」
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「こつちのおとつゝあ、幾つだつけな、少つと白く成つたな」
突然一人が怒鳴った。
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突然一人が呶鳴つた。
「そうよな」
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「さうよな」
亭主は髪に手を当てて言った時
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亭主は頭髮に手を當てゝいつた時
「お前、おれの家のおとっつあんもどうしてかひどく白くなったんだが、これで年齢はそんなに取っちゃいないんだぞ」
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「おめえ、俺ら家のおとつゝあもどうしてか酷く白く成つたんだが、斯んで年齡はさういにとつちや居ねえんだぞ」
そこへ小さな子を抱いて座った家の女房が、微笑しながら言った。
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其處へ小さな子を抱いて坐つた内の女房が微笑しながらいつた。
「おれと同い年だよ」
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「俺れと同年齡だよ」
独りぼっちになっていた勘次は、横から口を挟んだ。
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獨りぼつちに成つて居た勘次は横から口を挾んだ。
「どうだかよ」
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「どうだかよ」
「なあに、どうだかなもんじゃない」
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「なあに、どうだかなもんぢやねえ」
勘次は口をとがらせて言った。
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勘次は口を角のやうにしていつた。
「本当にそうなんだよ、お前」
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「本當にさうなんだよおめえ」
女房はそばから言った。
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女房は側からいつた。
「そんじゃ勘次さん、お前いくつだい」
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「そんぢや勘次さんおめえ幾つでえ」
相手は乗り気になって聞いた。
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相手は乘地になつて聞いた。
「そうよ、おれはこっちのおとっつあんと同い年だったっけな」
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「さうよ、俺らこつちのおとつゝあと同年齡だつけな」
彼は自分の思いつきではなくて、どこかで聞いた記憶をそのまま繰り返して、そうして冗談を敢えてした。
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彼は自身の創意ではなくて何處かで聞いた記憶を其の儘反覆してさうして戯談を敢てした。
「ええ、べらぼうな」
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「えゝ箆棒な」
と相手は言ってしまった。
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と相手はいつて畢つた。
家の女房は両方の髪をつくづくと見て
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内の女房は兩方の頭髮を熟と見て
「そんだが勘次さんは本当に若いな。おれの家のおとっつあんらとは、たいした違いだな」
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「そんだが勘次さんは本當に若けえな。俺ら家のおとつゝあ等たあ、たえした違えだな」
と言った。
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といつた。
「勘次さんらはまだ十七だな」
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「勘次さん等まあだ十七だな」
兼博労はすぐ後についで言った。
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兼博勞は直に後を跟いていつた。
女房らはまた、ひそかに袂で口を覆った。
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女房等は復た竊に袂で口を掩うた。
兼博労が振り返った時、女房らは割った松明の先を突っかけては、香煎を口へ含んで面倒になめていたのであった。
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兼博勞が顧みた時女房等は割つた燭奴の先を突つ掛けては香煎を口へ含んで面倒に嘗めて居たのであつた。
「香煎をなめるのには、笑っちゃいけないと言ったっけぞ、お前ら」
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「香煎嘗めんのにや、笑つちやいかねえつちけぞ、おめえ等」
兼博労は言った。
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兼博勞はいつた。
さっきから笑う癖のついていた女房らは、いっぺんにぷっと吹き出して、粉がそこらに散った。
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先刻から笑ふ癖のついてた女房等は一時にぷつと吹出して粉が其處らに散つた。
乾いている粉のためにむせて、女房らはしきりに咳をした。
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乾燥して居る粉の爲に咽せて女房等は頻りに咳をした。
彼女らは駆け下りて手桶の水をがぶりと飲んで、ようやく胸を落ち着けた。
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彼等は驅けおりて手桶の水をがぶりと飮んで漸く胸を落附けた。
「ああ、ひどい目に遭った。粉が鼻のほうへ入って、鼻がつんつんして仕方がありゃしないや。本当に兼さんは人が悪いや。なんぼ憎らしいか知れやしない。そこらに薪ざっぽうでもあれば、ぶっ飛ばしてやりたいようだ」
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「おゝ、酷え目に逢つた。粉鼻の方さへえつて鼻つん/\して仕やうありやしねえや、本當に兼さんは人が惡りいや、なんぼ憎らしいか知れやしねえ、其處らに薪雜棒でも有れば打つ飛ばして遣りてえ樣だ」
涙の目を拭って、恨めしげに女房らは言うのであった。
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涙の目を拭つて恨めしげに女房等は云ふのであつた。
「そんだから、おれは笑っちゃいけないと言ったんだな。それを聞かないから」
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「そんだから俺れ、笑つちやえかねえつて云つたんだな、それ聽かねえから」
兼博労はわざと平然として言った。こうしてがみがみ言う声が入り交じった時
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兼博勞は態と平然として云つた、恁うしてがみ/\いふ聲が錯雜つた時
「博労さんが一つやっつけるかな」
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「博勞さん一つやつゝけつかな」
兼博労はひと声ことに大きく怒鳴ったと思ったら、茶碗の酒を一口にぐっと干して、両手に茶碗を伏せて、板の間にぱかぱかぱかぱかと蹄をまねて拍子を取った音を立てながら
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兼博勞は一聲殊に大きく呶鳴つたと思つたら茶碗の酒を一口にぐつと干して兩手に茶碗を伏せて、板の間にぱか/\ぱか/\と蹄に傚うて拍子取つた響を立てながら
「三春から白河のほうへ、これでも横ござを乗せたのをつないで引いて来る所だからな。よく聞いてみな。この手には行かないぞ」
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「三春から白河の方へこんでも横薦乘つけたの繋いで曳いて來つ處らえゝかんな、能く聞いて見せえ、此の手にや行かねえぞ」
彼はその自慢の後から
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彼は其の自慢の下から
「どうどうどうよ、ほうい、ほいとう」
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「どう/\どうよ、ほうい、ほいとう」
と、馬への掛け声をもっともらしくした。
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と馬への掛聲を尤もらしくした。
茶碗の拍子につれて、一同はぴったり静かになった。
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茶碗の拍子に連れて一同はぴつたり靜かに成つた。
「はあええええ」
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「はあえゝえゝえゝ」
と、ぼうっと太い声で唄い出して
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とぼうと太い聲で唄ひ出して
「枯れ芝あにいいいいええ、はあえ、止まるうえ、蝶々のおおおおえ、はあ、ありゃ気があああああえ、え、はあ知れえぬうよおうう」
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「枯芝あえにいゝゝゝゝえゝ、はあえ、止るうえ、てふ/\のおゝゝゝゝえ、はあ、ありや氣があゝゝゝゝえ、え、はあ知れえゝぬうよおうゝゝ」
と、彼は目をつぶって少し上向きに首を傾けて、いっぱいの声を絞って、きわめてゆったりと、そうして句の続きを
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と彼は眼を瞑つて少し上向に首を傾けて一杯の聲を絞つて極めて悠長にさうして句の續きを
「ええ傍にええ、菜種えのおおおおえ、ええ花があえ、あああえるううううええ、ほういほい」
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「えゝ傍にえゝ、菜種えのおゝゝゝゝえ、えゝ花があえ、あゝえるうゝゝゝゝえゝ、ほういほい」
と唄い終わった時、顔がことさらに赤くなって、汗が吊りランプに光って見えた。
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と唄ひ畢つた時顏が殊更に赤く成つて汗が吊るしランプに光つて見えた。
彼は手でぐるりと拭いた。
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彼は手でぐるりと拭つた。
「べらぼうにまだるっこい唄だな。この夜の短いのに、眠たくなっちまうな」
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「箆棒に迂遠つけえ唄だな、此の夜の短けえのに眠つたく成つちやあな」
そばから悪口を吐いた。
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側から惡口を吐いた。
「いいから、西のおとっつあん、耳くそをほじくって聞いてろよ」
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「えゝから西のおとつゝあ、耳糞ほじくつて聞いてろえ」
兼博労は言って
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兼博勞はいつて
「はあええええ、ええ朝のううええ、はあ出掛えにいいいいええ」
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「はあえゝえゝ、えゝ朝のうゝゝえゝえ、はあ出掛えにいゝゝゝゝえ」
と、また唄い出した。
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と又唄ひ出した。
「朝の出掛けにどの山見ても、雲の掛からぬ山はない」
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「朝の出掛にどの山見ても雲の掛らぬ山はない」
と唄って、茶碗を動かしては
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と唄つて茶碗を動かしては
「ぱかぱかぱかぱかとなあ、こう。二十三坂を越えて引く所だぜ。畜生、あばれるなよ」
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「ぱか/\ぱか/\となあ斯う、廿三坂越えて引く處だぜ、畜生あばさけんなえ」
と、彼はさらに
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と彼は更に
「ひいいん」
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「ひゝいん」
と馬の鳴き声をして、それから
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と馬の啼き聲をしてそれから
「二十三坂か。白河のこっちだ。しまいの坂がべらぼうに長くてな」
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「廿三坂か、白河のこつちだ、畢の坂が箆棒に長くつてな」
と言って、また
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といつて又
「はあええええ」
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「はあえゝえゝえゝ」
と、いかにも気の乗ったらしく
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と左も氣の乘つたらしく
「奥の博労さん、どこで夜が明けた、二十三坂七つ目で」
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「奧の博勞さん何處で夜が明けた、廿三坂七つ目で」
と愉快な声で唄った。
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と愉快な聲で唄つた。
「夜引きをする時には、人間も眠たくなりゃ馬も眠たくなってな。石坂だから畜生らがくたりくたりともう、なんぼにも歩かないな。その時には、おうい一つどうだねやっつけちまおうというところでなあ。博労らがぞろぞろつながって来るんだから、峰のほうでも谷底のほうでも一度に大変だあ。そうすると駒っこらがひいんなんてあばれて、ぱかぱかぱかぱかと、こう運びが違って来らあな。みなおっかあにばかり食っついてたのを引き離して来るんだから、足が不揃いだな、どうしても。それに坂が急だというと逆さのつむじを立てるようだから、畜生はなんぼにも足が出ないな。そいつへ合わせて唄うんだから、ゆっくり行かなくちゃならないな」
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「夜引すつ時にや人間も眠つたく成りや馬も眠つたく成つてな、石坂だから畜生等がくたり/\はあ、なんぼにも歩かねえな、そん時にや、おうい一つどうだね遣つゝけちやあと許でなあ、博勞等ぞろ/\繼つて來んだから、峯の方でも谷底の方でも一度に大變だあ、さうすつと駒つ子奴等ひゝんなんてあばさけてぱか/\ぱか/\と斯う運びが違つて來らな、皆おつかげばかし喰つ附いてたの引つ放して來んだから足が不揃ひだなどうしても、それに坂が急だつちと倒旋毛おつ立てる樣だから畜生なんぼにも足が出ねえな、其奴へ合せて唄あんだからゆつくり行んなくつちやなんねえな」
兼博労は帯を解いて裸になって、着物を後ろへ投げた。
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兼博勞は帶を解いて裸に成つて衣物を後へ投た。
帯は一重で、左の腰骨の所でだらりと結んであった。
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帶は一重で左の腰骨の處でだらりと結んであつた。
両方の端が赤い切れで縁を取ってある。
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兩方の端が赤い切で縁をとつてある。
粗い棒縞の染め抜きで、それは馬の飾りの鉢巻に用いる布切れであった。
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粗い棒縞の染拔でそれは馬の飾りの鉢卷に用ひる布片であつた。
「ここらの馬だって見ろよ。博労節を門先でやったくらい、厩の中で畜生は体をゆさぶって大騒ぎだな」
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「此處らの馬だつて見ろえ、博勞節門ツ先でやつたつ位厩ん中で畜生身體ゆさぶつて大騷ぎだな」
彼は独りで酒席をにぎわした。
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彼は獨りで酒席を賑した。
彼はそうして、土のような汗と埃とで染まった手拭いで、首筋から体いっぱいに拭いた。
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彼はさうして土のやうな汗と埃とで染まつた手拭で首筋から身體一杯に拭つた。
それから
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それから
「ああ痒い」
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「おゝ痒い」
と、ぴしゃりと手で蚊を叩いた。
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とぴしやり手で蚊を叩いた。
彼の唄につれて、めいめいがさらに唄った。
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彼の唄に連て各自が更に唄つた。
みな箸で茶碗を叩いて拍子を合わせた。
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皆箸で茶碗を叩いて拍子を合せた。
そういう騒ぎになってから、酒は減らなかった。
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さういふ騷ぎに成つてから酒は減らなかつた。
勘次は独りで唄うこともなく、絶えず何かを探すような目で土間のあたりをきょろきょろと見ていたが
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勘次は獨りで唄ふこともなく絶えず何物かを探すやうな目で土間のあたりをきよろ/\と見て居たが
「おつう」
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「おつう」
と唐突に呼んだ。
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と唐突に喚んだ。
彼は勢いよく呼んでみて、自分で拍子抜けしたようにしていたが
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彼は勢ひよく喚んで見て自分で拍子拔した樣にして居たが
「これへじゃがいもでもくれないか」
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「此れさ馬鈴薯でもくんねえか」
と、椀をずうっと出した。
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と椀をづうつと出した。
「どうしたもんだ、おとっつあんは。お平の盛り換えをする者もあるまいな。じゃがいもは前にいくらでもあるのに」
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「どうしたもんだおとつゝあは、お平の盛換えするもな有んめえな、馬鈴薯は前に幾らでも有んのに」
おつぎはさらにたしなめるように
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おつぎは更に窘めるやうに
「おとっつあんは酔ったって、そんなに取り乱さなけりゃよかろうな」
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「おとつゝあは酩酊つたつてそんなに顛倒なけりやよかつぺなあ」
と独り呟いた。
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と獨り呟いた。
「言ってみたのよ」
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「云つて見たのよ」
勘次はわざと笑って、椀を膳へ置いた。
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勘次は態と笑つて椀を膳へ置いた。
「おかみさんらもこっちへ来うな、一杯やれな」
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「おつか樣等もこつちへ來うな、一杯やれな」
彼はさらに、板の間の隅のほうにいる女房らに言った。
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彼は更に板の間の隅の方に居る女房等にいつた。
「ほんに、仲間入りしたらよかろう」
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「ほんに仲間入したらよかつぺ」
家の女房も言った。
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内の女房もいつた。
若い女房らは仲間にはならなかった。
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若い女房等は仲間には成らなかつた。
そうしてただ笑っていた。
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さうして唯笑つて居た。
唄い騒ぐ声にすべてが心を奪われていると
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唄ひ騷ぐ聲に凡てが心を奪られて居ると
「お前は梅をかじったんだろう。学校の先生に姉が言いつけてやるから。腹が痛くたって我慢してるもんだ」
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「汝りや梅噛つたんべ、學校の先生げ姊訴けてやつから、腹痛くつたつて我慢してるもんだ」
おつぎは眠い目をこすりながらしくしく泣いている与吉を横にして、背中を叩いてはさすりながら言った。
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おつぎは眠い眼をこすりながらしく/\泣いて居る與吉を横にして背中を叩いては撫りながらいつた。
「どうしたんだ、腹が痛いのか。毒消しでも飲ませてみるか。おれももう、梅だの李だのが熟しちゃびやびやするんだよ。出て行くんだから、言ったって聞かないしなあ」
原文を見る
「どうしたんだあ、腹痛えのか毒消しでも呑ませて見つか、俺らもはあ、梅だの李だの成熟ちやびや/\すんだよ、出て行んだから云つたつて聽かねえしなあ」
家の女房は、すやすやと眠った膝の子の蚊を追いながら言った。
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内の女房はすや/\と眠つた膝の子の蚊を追ひながらいつた。
「お前は梅なんぞかじって。おとっつあんが腹をえぐり抜いてやるから待ってろ」
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「汝れ梅なんぞ噛じつて、おとつゝあ腹抉り拔いてやつから待つてろ」
勘次は、とうにもつれていた舌で言った。
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勘次は疾から澁つて居た舌でいつた。
「そんなこと言わなくたって、泣いてるのに何だろうな、おとっつあん」
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「そんなこと云はねえつたつて泣いてんのに何だつぺな、おとつゝあ」
おつぎは勘次を叱った。
原文を見る
おつぎは勘次を叱つた。
勘次は口をつぐんで、箸の先へじゃがいもを刺した。
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勘次は口を嵌んで箸の先へ馬鈴薯を刺した。
与吉はまぶたが緩んで、いつか軽い鼾をかいた。
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與吉は瞼が弛んでいつか輕い鼾を掻いた。
「さあ、ご飯だよ」
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「さあ、お飯だえ」
唄も騒ぎも止んで、一同の口からにわかに催促が出た。
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唄も騷ぎも止んで一同の口から俄に催促が出た。
女房らはみなで給仕をした。
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女房等は皆で給仕をした。
家の女房は
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内の女房は
「おつぎも体がみっしりして来たなあ。女も二十となっちゃ役に立つなあ」
原文を見る
「おつぎも身體みつしりして來たなあ、女も廿と成つちや役に立つなあ」
と、おつぎを見て言った。
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とおつぎを見ていつた。
勘次は茶碗から少し飯粒をこぼしては、危ない手つきで箸を持ったまま、指の先でつまんで口へ持って行った。
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勘次は茶碗から少し飯粒を零しては危險い手つきで箸を持つた儘指の先で抓んで口へ持つて行つた。
「おとっつあん、そんなにこぼしちゃだめだな」
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「おとつゝあ、さういに零しちや駄目だな」
おつぎは勘次の茶碗へ手を添えた。
原文を見る
おつぎは勘次の茶碗へ手を添へた。
「勘次さん」
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「勘次さん」
と、家の女房は呼びかけた。
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と内の女房は喚び掛けた。
勘次が目をしかめて見た時
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勘次が目を蹙めて見た時
「勘次さん、もうおつぎのことは出してもよくないかい」
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「勘次さん、はあおつぎこたあ出しても善かねえけえ」
女房は言った。
原文を見る
女房はいつた。
「嫁になんざ出せないよ。今のところ、おれが困るから」
原文を見る
「嫁になんざ出せねえよ、今ん處俺れ困つから」
勘次はそっけなく言った。
原文を見る
勘次はそつけなくいつた。
「不自由な所があれば出して、自分でも引っ込むのよ」
原文を見る
「不自由な處ありや出して、自分でも引つ込むのよ」
兼博労は遠慮なく言った。
原文を見る
兼博勞は遠慮なくいつた。
「おれはそんな話は聞かない。もらいたけりゃいくらでもあらあ」
原文を見る
「俺らそんな噺や聽かねえ、貰ひたけりや幾らでも有らあ」
勘次は退けた。
原文を見る
勘次は斥けた。
「そんだってお前、あっちこっち口を掛けておかないじゃ、すぐ年ばかり取らせちまって仕方がないぞ。おれも一人出したが、お前、容易じゃないよ。ああだこうだ言われないうちだぞ、お前」
原文を見る
「そんだつておめえ、そつちこつち口掛けて置かねえぢや、直年齡ばかしとらせつちやつて仕やうねえぞ、俺らも一人出したがおめえ容易ぢやねえよ、さうだかうだ云はれねえ内だぞおめえ」
女房は言った。
原文を見る
女房はいつた。
「いいよ、三十まで独りじゃ置かないから。これには今に婿を取るんだから」
原文を見る
「えゝよ卅まで獨りぢや置かねえから此れげはいまに聟とんだから」
勘次は喧嘩でもするような様子で、こわばった舌で言った。
原文を見る
勘次は喧嘩でもする樣な容子で硬ばつた舌でいつた。
女房は黙って、口のあたりに冷ややかな笑いを含んで、膝をそっと動かして、ぐっすり眠りこけた自分の子を見た。
原文を見る
女房は默つて口の邊に冷かな笑を含んで膝をそつと動かしてぐつすり眠りこけた自分の子を見た。
「どうしたい、ままよままよでもやらないか、勘次さん。ままにならぬとお鉢を投げりゃ、そこらあたりは飯だらけだあ。あまりむずかしいことを言うなよ」
原文を見る
「どうしたえ、儘よ/\でもやんねえか勘次さん。まゝにならぬとお鉢を投げりや其處らあたりは飯だらけだあ、過多に六かしいこと云ふなえ」
兼博労は米の飯をかっ込みながら言った。
原文を見る
兼博勞は米の飯を掻つ込みながらいつた。
腹をいっぱいに膨らませた一座は
原文を見る
腹を一杯に膨らませた一座は
「どうもごちそうさまでした」
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「どうも御馳走樣でがした」
と義理を述べて、土間の下駄をがらがらかき探して、がやがや騒ぎながら帰りかけた。
原文を見る
と義理を述べて土間の下駄をがら/\掻き探つてがや/\騷ぎながら歸り掛けた。
「おつう、よきのことを起こせ」
原文を見る
「おつう、よきこと起せ」
勘次はそう言って、自分もいっしょによろけながら立った。
原文を見る
勘次はさういつて自分も一つに蹣跚けながら立つた。
おつぎは与吉の体を激しく動かしたが、熟睡してしまったので、容易に目を開かなかった。
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おつぎは與吉の身體を劇しく動かしたが熟睡して畢つたので容易に目を開かなかつた。
与吉は草履をはくにも、おつぎの心をいらだたせた。
原文を見る
與吉は草履を穿くにもおつぎの心を苛立たせた。
「おつう」
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「おつう」
と激しく呼ぶ勘次の声が、裏の垣根の外から聞こえた。
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と劇しく喚ぶ勘次の聲が裏の垣根の外から聞えた。
そうするとまた
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さうすると又
「何してけつかるんだ」
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「何してけつかんだ」
と、勘次は裏の戸口から一同を驚かして怒鳴った。
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と勘次は裏戸口から一同を驚かして呶鳴つた。
「勘次さん、与吉のことを起こしてたところなんだよ」
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「勘次さん與吉こと起してた處なんだよ」
家の女房は言い訳をしてやった。
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内の女房は分疏してやつた。
「お前はいつでもそうだ、ぐずぐずしてやがって」
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「汝りや何時でもさうだ、ぐづ/\してやがつて」
勘次はなおも怒って言った。
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勘次は猶も憤つていつた。
「待ってればいいんだな、おとっつあん。洗い物までもしないのに、どうしたもんだ」
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「待つてれば善えんだなおとつゝあ、洗ひまでも仕ねえのにどうしたもんだ」
酒席の跡を見て、おつぎは呟いた。
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酒席の趾を見ておつぎは呟いた。
「構わないで帰れよ。おとっつあんは酔ってるんだから」
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「管あねえで歸れよ、おとつゝあ酩酊つてんだから」
女房はおつぎの意を汲んでやった。
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女房はおつぎの意を汲んでやつた。
後では、乱雑に散らかした道具の始末をしながら、女房らは言った。
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後では亂雜に散らかした道具の始末をしながら女房等はいつた。
「勘次さんの心持ちも分からないな」
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「勘次さんが心持も分んねえな」
「いくら女房の焼き餅を焼くものでも、ああいうのはないな」
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「幾ら嚊の嫉妬燒くもんでも、あゝえもなあねえな」
「ああいうのが何かの生まれ変わりだというのでもあるだろうな。怖いようだよ、本当にな」
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「あゝえのが何かの生れ變りつちんでも有んべな、可怖えやうだよ本當にな」
「近ごろそれに、あれじゃないかい。あれほどほしがったのに、後妻をもらおうとは言わないんじゃないかい」
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「近頃それに何ぢやねえけえ、あら程欲しがつたのに後妻貰あべえたあ、云はねえんぢやねえけえ」
いずれの心にも、口には言わなくても分かっている何かを、少しずつ現そうとして、さすがにためらうようにして話し合った。
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孰れの心にも口にはいはなくて了解されて居る或物を少しづつ現さうとして有繋に躊躇する樣にして噺合うた。
勘次ら三人が出て垣根の外へ行ったと思うころ、椀を拭いていた一人が慌ただしく立って外へ出た。
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勘次等三人が出て垣根の外へ行つたと思ふ頃、椀を拭いて居た一人が慌だしく立つて外へ出た。
しばらくして帰って来ると、いきなり
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暫くして歸つて來るといきなり
「どうしたものだ、お前は。他人の後なんぞつけて行って。罪だから見ろよ」
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「どうしたものだおめえは、他人の後なんぞ尾行けて行つて、罪だから見ろよ」
一人が言った。
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一人がいつた。
「そうじゃないよ。あんまりお前、他人のことを、おれだって」
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「さうぢやねえよ、有撃おめえ、他人のこと俺だつて」
と言い訳をした。
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分疏した。
「そんじゃ何に行ったんだ」
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「そんぢや何に行つたんだ」
「小便をしたくなったからよ」
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「小便垂つたく成つたからよ」
やがて抑えきれない笑いが顔に浮かんで
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軈て抑へ切れぬ笑ひが顏に浮かんで
「そんだからあんまり飲むなというんだ、なんておつぎに怒られ怒られ行くんだわ」
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「そんだから過多に飮むなつちんだ、なんておつぎに怒られ/\行んけわ」
と言った。
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といつた。
「そうれお前、罪だよ」
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「そうれおめえ、罪だよ」
遠慮もなく、みなどっと笑った。
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遠慮もなく皆どつと笑つた。
夜は更けていた。
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夜は深けて居た。
きろきろきろきろと、風船玉を擦り合わせるような蛙の声が入り交じって聞こえていた。
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きろ/\きろ/\と風船玉を擦り合せる樣な蛙の聲が錯雜して聞えて居た。
一五
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十五
霜がひそかに地を覆った。
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霜が竊に地を掩うた。
晩秋の冴えた空気は、地上のすべてを乾かす。
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晩秋の冴えた空氣は地上の凡てを乾燥せしめる。
思いのままに枝葉を広げた独活の実へ目白が集まって鳴くのが愉快らしくもあるが、何となく忙しげであって、それもわずかの間に、どこでも草木の葉が硬くなったり傷ついたりして、一切がただがさがさと入り交じってしまった。
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思ひの儘に枝葉を擴げた獨活の實へ目白の聚つて鳴くのが愉快らしくもあれど、何となく忙しげであつて、それも少時の間に何處でも草木の葉が硬ばつたり傷ついたりして一切が只がさ/\と混雜して畢つた。
そういう所へ季節の冬はいやでも行き渡らねばならないのであるが、それでも暖かい日があったり、冷たい日があったりして、冬はひたすらためらいながら地上に沈もうとした。
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さういふ處へ季節の冬は厭でも行き渡らねばならないのであるがそれでも暖かい日があつたり、冷たい日があつたりして冬は只管躊躇しつゝ地上に沈まうとした。
そうして霜を一度はわせてみた。
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さうして霜を一度偃はせて見た。
すべての草木はさらに慌てた。
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凡ての草木は更に慌てた。
地味な常緑樹を除いたほかはみな、次の春の用意のできるまでは、凄い姿になってまでも、じっとしがみついている。
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地味な常磐木を除いた外に皆次の春の用意の出來るまでは凄い姿に成つてまでも凝然としがみついて居る。
冬はまた霜をはわせてみた。
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冬は復た霜を偃はせて見た。
恐ろしく潔癖な霜は、そのみすぼらしい草木の葉を地上に踏みにじった。
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恐ろしく潔癖な霜は其の見窄らしい草木の葉を地上に躪りつけた。
人間の手を借りたものは、田でも畑でも、人間の手を借りて至る所をからりとさせる。
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人間の手を藉りたものは田でも畑でも人間の手を藉りて到處をからりとさせる。
その時、畑には刷毛の先でかすったように、麦や小麦でほのかに青みを保っている。
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其の時畑には刷毛の先でかすつた樣に麥や小麥で仄に青味を保つて居る。
それから冬はまた、百姓をして、寂しい外からもっぱら内に力を注がせる。
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それから冬は又百姓をして寂しい外から專ら内に力を致させる。
百姓らは忙しく藁で俵を編んで米を入れて、春以来の報酬を目の前に積んで楽しむのである。
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百姓等は忙しく藁で俵を編んで米を入れて春以來の報酬を目前に積んで娯ぶのである。
彼らの間には、こういう時に、そうして冬が本当にまだ彼らの上に泣いてみせないうちに、相前後してどこの村にも「まち」
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彼等の間には恁ういふ時に、さうして冬が本當にまだ彼等の上に泣いて見せない内に相前後して何處の村落にも「まち」
が来るのである。
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が來るのである。
それは村ごとに建てられてある社の祭りのことである。
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其れは村落毎に建てられてある社の祭のことである。
貧乏な勘次の村でも、以前からの慣例で、村に相応した方法をもって祭りが行われた。
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貧乏な勘次の村落でも以前からの慣例で村落に相應した方法を以て祭が行はれた。
当日は白い狩衣の神官が独りで、氏子の総代というのが四、五人、きまり悪そうな様子で後についてゆき、馬場先を進んで行った。
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當日は白い狩衣の神官が獨で氏子の總代といふのが四五人、極りの惡相な容子で後へ跟て馬場先を進んで行つた。
一人は農具の箕を持っている。
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一人は農具の箕を持つて居る。
総代らはそれでも羽織袴の姿であるが、一人も満足に袴の紐を結んだのはない。
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總代等はそれでも羽織袴の姿であるが一人でも滿足に袴の紐を結んだのはない。
さらにその後から、鏡を抜いた四斗樽を馬の荷縄にくくって、太い棒でかついでついて行った。
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更に其の後から鏡を拔いた四斗樽を馬の荷繩に括つて太い棒で擔いで跟いた。
四斗樽には、濁ったような甘酒がだぶだぶと動いている。
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四斗樽には濁つたやうな甘酒がだぶ/\と動いて居る。
神官の白い指貫の袴には、泥の跳ねた跡も見えて、ずいぶん汚れていた。
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神官の白い指貫の袴には泥の跳ねた趾も見えて隨分汚れて居た。
神官は、埃だらけな板の間へようやくござを敷いた狭い拝殿へ座って、榊の小さな枝をいじって、それから卓の供え物を格好よくしている間に、総代らは箕へ入れて行った注連縄を樅の木から樅の木へ引っ張って、末社の飾りをした。
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神官は埃だらけな板の間へ漸く蓙を敷いた狹い拜殿へ坐つて榊の小さな枝をいぢつて、それから卓の供物を恰好よくして居る間に總代等は箕へ入れて行つた注連繩を樅の木から樅の木へ引つ張つて末社の飾をした。
村の者はだんだんに、器量相応な晴れ着を着て神社の前に集まった。
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村落の者は段々に器量相當な晴衣を着て神社の前に聚つた。
目に立つのはやはり女の子で、粗末な手織り木綿であっても、メリンスの帯と前垂れとが彼女らを十分に飾っている。
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目に立つのは猶且女の子で、疎末な手織木綿であつてもメリンスの帶と前垂とが彼等を十分に粧うて居る。
十くらいの子でも、それから二十になる者でも、みな前垂れを掛けている。
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十位の子でもそれから廿に成るものでも皆前垂を掛けて居る。
前垂れがなければ、彼女らの姿は寂しくなってしまわねばならない。
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前垂がなければ彼等の姿は索寞として畢はねば成らぬ。
彼女らは足に合わない不格好な、皺の寄った白い足袋をはいている。
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彼等は足に合はぬ不恰好な皺の寄つた白い足袋を穿いて居る。
遠い国の山から切り出すのだという、まがいの重い台へゴム製の表を打った下駄を突っかけている者もある。
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遠國の山から切り出すのだといふ模擬の重い臺へゴム製の表を打つた下駄を突つ掛けて居るものもある。
彼女らはその年齢に応じて三人五人と互いに手を引きながら、垣根のそばや辻の角に立っていては、思い出した時にそこらここらと移って歩くのである。
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彼等は其の年齡に應じて三人五人と互に手を曳きながら垣根の側や辻の角に立つて居ては思ひ出した時に其處ら此處らと移つて歩くのである。
彼女らはただ仲間とともに立っていること以外に、「まち」
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彼等は只朋輩と共に立つて居ることより外に「まち」
といっても別に目的もなければ、楽しみもないのである。
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というても別に目的もなければ娯樂もないのである。
それで彼女らは、少しでも変わった出来事を見逃すことを敢えてしないのである。
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其れで彼等は少しでも異つた出來事を見逃すことを敢てしないのである。
神官は、小さな筑波蜜柑だの駄菓子だの鯣だのを少しばかりずつ供えた卓の前に座って、祝詞を上げた。
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神官は小さな筑波蜜柑だの駄菓子だの鯣だのを少しばかりづつ供へた卓の前に坐つて祝詞を上げた。
それは大きな厚い紙へ書いたので、それをさらに紙へ包んだのであった。
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其れは大きな厚い紙へ書いたので、それを更に紙へ包んだのであつた。
包み紙は幾度か懐へ出し入れしたと見えて、ひどく擦れて汚れている。
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包紙は幾度か懷へ出し入れしたと見えて痛く擦れて汚れて居る。
祝詞はきわめて短い文であった。
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祝詞は極めて短文であつた。
神官はそれをきわめてゆったりと声を張り上げて読んだが、それでもいくらも時間が要らなかった。
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神官はそれを極めて悠長に聲を張り上げて讀んだがそれでも幾らも時間が要らなかつた。
それが一枚あればどこの神社へ行っても役に立てているものと見えて、短い文中に読み上げるべき神社の名は書いてなくて、何郡何村何神社という文字で埋めてある。
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それが一枚あれば何處の神社へ行つても役に立てゝ居るものと見えて短い文中に讀上ぐべき神社の名は書いてなくて何郡何村何神社といふ文字で埋めてある。
神官はそこに読み至ると、当日の神社をただ口の先で言うのである。
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神官は其處に讀み至ると當日の神社を只口の先でいふのである。
さすがに彼は、間違うことなしに読み退けた。
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有繋に彼は間違ふことなしに讀み退けた。
神官が卓の横手へ座を換えて、ちょっと笏で指図をすると、氏子の総代らが順々に榊の小枝の玉串を持って卓の前に出て、その玉串を捧げて拍手した。
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神官が卓の横手へ座を換て一寸笏で指圖をすると氏子の總代等が順次に榊の小枝の玉串を持つて卓の前に出て其の玉串を捧げて拍手した。
彼らはただおずおずして、拍手も鳴らなかった。
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彼等は只怖づ/\して拍手も鳴らなかつた。
立ちながら袴の裾を踏んでよろけては、驚いた様子をして周りを見る者もあった。
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立ちながら袴の裾を踏んで蹌踉けては驚いた容子をして周圍を見るのもあつた。
こういう作法をも、見物のすべてはいかにも熱心らしい態度で、拝殿に迫って見ていた。
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恁ういふ作法をも見物の凡ては左も熱心らしい態度で拜殿に迫つて見て居た。
おつぎも与吉の手を取って、群衆に交じって立っていた。
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おつぎも與吉の手を執つて群集に交つて立つて居た。
勘次もそこにいたのであるが、しかし彼はずっと後ろの樅の木陰にぽつんとしていたのであった。
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勘次も其處に在つたのであるが然し彼はずつと後の樅の木陰にぽつさりとして居たのであつた。
簡単ながら一日の式が終わった時、四斗樽の甘酒が柄杓で汲み出して、周りに立っている人々に与えられた。
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簡單乍ら一日の式が畢つた時四斗樽の甘酒が柄杓で汲出して周圍に立つて居る人々に與へられた。
主として子供らが先を争って、その大きな茶碗を換えた。
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主として子供等が先を爭うて其大きな茶碗を換へた。
彼らはむしろ自分の家で造ったもののほうがうまいにもかかわらず、大勢とともに騒ぐのが愉快なので、水ばかりのような甘酒を幾杯も傾けるのである。
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彼等は寧ろ自分の家で造つたものゝ方が佳味いにも拘らず大勢と共に騷ぐのが愉快なので、水許りのやうな甘酒を幾杯も傾けるのである。
当日からでは数日前に当番の者が村じゅうを歩いて、二合ずつでも三合ずつでも白米をもらって、夜になれば当番の者らは集まった白米で晩飯の飯を十分に炊いて、その他はことごとく甘酒に仕込む。
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當日からでは數日前に當番の者が村落中を歩いて二合づゝでも三合づゝでも白米を貰つて、夜になれば當番の者等は集つた白米で晩餐の飯を十分に焚いて其他は悉く甘酒に造り込む。
甘酒は時間が短いのと麹が少ないのとで、熱い湯で仕込むのが常である。
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甘酒は時間が短いのと麹が少いのとで熱い湯で造り込むのが例である。
それだからたちまちに甘くなるけれども、またたちまちに酸味を帯びて来る。
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それだから忽ちに甘く成るけれども亦忽ちに酸味を帶びて來る。
彼らは当日の前夜に口見だと言って、近隣の者らが寄ってたかって、鍋で幾杯となく沸かしては飲むので、おびただしく減らしてしまって、それへいっぱいに水を差しておくのである。
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彼等は當日の前夜に口見だといつて近隣の者等が寄つてたかつて、鍋で幾杯となく沸しては飮むので夥か減らして畢つて、それへ一杯に水を注して置くのである。
子供らの間に交じって、与吉も互いの体をかき分けるようにして飲んだ。
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子供等の間に交つて與吉も互の身體を掻き分ける樣にして飮んだ。
村の者が飲んでいる後から、木陰にたたずんでいた乞食がぞろぞろと来て、曲げ物の小鉢を出して求めた。
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村落の者が飮んでる後から木陰に佇んで居た乞食がぞろ/\と來て曲物の小鉢を出して要求した。
「よき、それ、いいかげんにするもんだよ、お前は」
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「よき、それえゝ加減にするもんだよ汝りや」
おつぎは、まだ茶碗を放さない与吉の手を引いた。
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おつぎはまだ茶碗を放さない與吉の手を曳いた。
「待ってろお前ら、そんなに触り出さないで、小汚い」
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「待つてろ汝ツ等、さうだにさはり出ねえで、小穢え」
「こいつら、お前らにやりはぐったことはありゃしない。それにそんなに騒ぎやがって。うるさい奴らだ、待ってるもんだ」
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「此奴等、汝ツ等げ呉れはぐつたこた有りやしねえ、それにさうだに騷ぎやがつて、五月繩え奴等だ待つてるもんだ」
「そうれ、お前らへ注いでやるのに、そんな小鉢なんぞ桶の上へ突き出させちゃかなわないな。それ、だらだら垂れるじゃないか。柄杓をそっちへ押し出してやるもんだ」
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「そうれお前等注えで遣んのにそんな小鉢なんぞ桶の上さ突出させちや畢へねえな、それだらだら垂ツらあ、柄杓そつちへおん出して行るもんだ」
下駄をはいて立った氏子の総代らが、乞食を叱ったり当番に注意したりした。
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下駄を穿いて立つた氏子の總代等が乞食を叱つたり當番に注意したりした。
神官らが石の鳥居を出て行った後は、しばらくして人も散って、鳥居の傍らには大きな文字を表した白木綿の幟が高く突っ立って、ばさばさと鳴っていた。
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神官等が石の華表を出て行つた後は暫くして人も散つて、華表の傍には大きな文字を表はした白木綿の幟旗が高く突つ立つてばさ/\と鳴つて居た。
散らばった人々は、そのくせそこにぽつんと、ここにぽつんと固まって立っているのであった。
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散亂した人々は其の癖の其處にぼつゝり此處にぼつゝりと固まつて立つてるのであつた。
しばらくして短い日が傾いた。
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暫くして短い日が傾いた。
社の森を包んで、時雨の雲が東の空いっぱいに広がった。
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社の森を包んで時雨の雲が東の空一杯に擴がつた。
濃い鼠色の雲は凄く人に迫って来るようで、しかもくっきりと森を浮かした。
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濃厚な鼠色の雲は凄く人に迫つて來るやうで、然もくつきりと森を浮かした。
かっと横に差しかかる日の光が、その凄い雲の色をやや和らげて、ビロードのような滑らかな感じを与えた。
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かつと横に射し掛る日の光が其の凄い雲の色を稍和げて天鵞絨のやうな滑かな感じを與へた。
さらにくすんだ赤い欅のこずえにも微妙な色彩を発揮させて、ことにその間に交じった楓の大樹は、これも冴えないこずえに日は全力を注いで、驚くべき荘厳で、かつ鮮やかな光を放射させた。
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更にくすんだ赭い欅の梢にも微妙な色彩を發揮せしめて、殊に其の間に交つた槭の大樹は此も冴えない梢に日は全力を傾注して驚くべき莊嚴で且つ鮮麗な光を放射せしめた。
時雨の雲に映る楓のこずえは、はっきりと浮き上がっていながら、ビロードの地に深くしみ込んでいるようにも見えた。
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時雨の雲に映ずる槭の梢は確然と浮き上つて居ながら天鵞絨の地に深く浸み込んで居る樣にも見えた。
その前に空を支えて立った二条の白い柱は、幟であった。
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其の前に空を支へて立つた二條の白い柱は幟旗であつた。
幟は止まずばたばたとひるがえった。
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幟旗は止まずばた/\と飜つた。
さらににわかにごうっと立った風に、森のこずえの葉は散乱して、鮮やかな光を保ちながら空中に閃いた。
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更に俄にごつと立つた風に森の梢の葉は散亂して鮮かな光を保ちながら空中に閃いた。
数分の後、世間はたちまちに暗澹たる光に包まれて、時雨がざあっと来た。
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數分時の後世間は忽ちに暗澹たる光に包まれて時雨がざあと來た。
村のどこにも、晴れ着の姿を見なくなった。
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村落の何處にも晴衣の姿を見なく成つた。
おつぎは与吉を連れて、とうに帰っていたのであった。
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おつぎは與吉を連れて疾くに歸つて居たのであつた。
夜になって雨がやんだ。
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夜に成つて雨が歇んだ。
村の者はだんだんに、瞽女の泊まった小店の近くへ集まって、戸口の近くに立った。
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村落の者は段々に瞽女の泊つた小店の近くへ集まつて戸口に近く立つた。
戸はことごとく開け放って、障子も外してある。
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戸は悉く開放つて障子も外してある。
瞽女はめいめいに晩飯を求めて去った後であった。
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瞽女は各自に晩餐を求めて去つた後であつた。
瞽女は村から村の「まち」
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瞽女は村落から村落の「まち」
を渡って歩いて、毎年泊めてもらう宿について、それから村じゅうを戸ごとに唄って歩く間に、ところどころで一人分ずつの晩飯のごちそうを承諾してもらっておく。
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を渡つて歩いて毎年泊めて貰ふ宿に就てそれから村落中を戸毎に唄うて歩く間に、處々で一人分づゝの晩餐の馳走を承諾して貰つて置く。
それで彼女らは、夜の時刻が来ると、目明きの手引きがだんだんとその家々に配って歩く。
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それで彼等は夜の時刻が來ると、目明の手曳がだんだんと其の家々に配つて歩く。
そうしてはまた、手引きがそれを集めて打ち連れて帰って来る。
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さうしては復た手曳がそれを集めて打ち連れて歸つて來る。
目の不自由な彼女らは、ようやくのことで自分の求める家に着いても、板の間の端などにぽつんとして膳の運ばれるのを待っているので、一同の腹が満たされて再び杖にすがるまでには、面倒な時間を要するのである。
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目の不自由な彼等は漸くのことで自分の求める家に就いても板の間の端などにぽつさりとして膳の運ばれるのを待つて居るので一同の腹が滿たされて再び杖に縋るまでには面倒な時間を要するのである。
小店の座敷には、瞽女の大きな荷物と袋へ入れた三味線とが置いてあって、寂しく見えていた。
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小店の座敷には瞽女の大きな荷物と袋へ入れた三味線とが置いてあつて淋しく見えて居た。
ただ一人の巫女が、彼女らに特有の態度を保って正座を張って、そのいつでも放さない荷物を前へ置いて、しゃんと座っているのであった。
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只一人の巫女が彼等に特有の態度を保つて正座を張つて、其の何時でも放さない荷物を前へ置いてしやんと坐つて居るのであつた。
表には村の者がようやく増えて、土間から座敷へ上がる者もあった。
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表には村落の者が漸く殖えて土間から座敷へ上る者もあつた。
彼らはわけもなしに、ただ騒ぎはじめた。
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彼等は理由もなしに只騷ぎはじめた。
彼らは沼辺の葦のように、集まれば互いにただざわざわと騒ぐのである。
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彼等は沼邊の葦のやうに集れば互に只ざわ/\と騷ぐのである。
巫女はかなりの婆さんであったので、白粉をつけた瞽女らに向かってからかうような言葉は、彼らの間には発せられなかった。
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巫女はかなりの婆さんであつたので、白粉つけた瞽女等に向つて揶揄ふ樣な言辭は彼等の間には發せられなかつた。
「どうだい、口寄せを一つやってみないかい」
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「どうしたえ、口寄一つやつて見ねえかえ」
大勢の中から切り出した者があった。
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大勢の中から切り出したものがあつた。
葦の葉先が微風にもなびかされるように、この一言のためにみなぞよぞよとまた騒いだ。
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葦の葉末が微風にも靡けられる樣に此一語の爲に皆ぞよ/\と復騷いだ。
群衆の中には、おつぎも交じっていた。
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群集の中にはおつぎも交つて居た。
若い衆らはさっきからそれに注目していたが
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若い衆等は先刻からそれに注目して居たが
「どうした、あいつのことを寄せてみようじゃないか」
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「どうした、彼奴等こと寄せてんべぢやねえか」
「おつぎのことを出してみようじゃないか」
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「おつぎこと出してんべぢやねえか」
彼らはひそひそとひそかに申し合わせた。
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彼等はひそ/\と竊に喋し合せた。
「寄せてみようとよ」
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「寄せてんべえと」
群衆の後ろのほうから怒鳴った。
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群集の後の方から呶鳴つた。
「そんじゃこっちへ出なさいな」
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「そんぢや此方へ出さつせえな」
店の女房は言った。
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店の女房はいつた。
群衆は一時に威勢がついて、巫女の膝の近くまでぎっしりと座敷を塞いだ。
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群集は一時に威勢がついて巫女の膝近くまでぎつしりと座敷を塞いだ。
勘次もおつぎも、座敷に窮屈な居ずまいをしていた。
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勘次もおつぎも座敷に窮屈な居ずまひをして居た。
店の女房は、少し剥げた塗り盆へ水をいっぱいに汲んだ飯茶碗を載せて
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店の女房は少し剥げた塗盆へ水を一杯に汲んだ飯茶碗を載せて
「ちょっとお前ら、退いてくれないか」
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「ちつとおめえ等退つてくんねえか」
と言いながら、人々の間を足探りに歩いて、巫女の婆さんの前へ置いた。
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といひながら人々の間を足探りに歩いて巫女の婆さんの前へ置いた。
「そんじゃ誰だろう、寄せるのは」
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「そんぢや誰だんべ、寄せんな」
女房は立ったまま一同を見回して、にっこりとして言った。
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女房は立つた儘一同を見廻して嫣然としていつた。
それでもしばらくは、すべてが口をつぐんでいた。
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それでも暫くは凡てが口を緘んで居た。
巫女の婆さんは、箱を包んだ荷物をそのまま自分の膝へ引きつけて待っている。
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巫女の婆さんは箱を包んだ荷物を其儘自分の膝へ引きつけて待つて居る。
「おれがやろう、そんじゃ」
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「俺れやんべ、そんぢや」
若い衆の一人が婆さんの前へ出て
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若い衆の一人が婆さんの前へ出て
「おれは生き口を寄せてみたいんだが、いくらだろう、一口は」
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「俺ら生口寄せて見てえんだが、幾らだんべ一口は」
「五銭ずつでさ」
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「五錢づゝでさ」
巫女の婆さんは落ち着いて言った。
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巫女の婆さんは落付いていつた。
「これはただ黙っていていいんだったっけかな」
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「此ら只默つてゝえゝんだつけかな」
と言うと
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といふと
「いいんだよ、それで。自分の思ってたのが出て来るんだから」
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「えゝんだよそんで、自分の思つてたの出て來んだから」
「紙縒りをこしらえて水をかき回せばいいんだよ」
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「かんぜん撚拵えて水掻ん廻せば、えゝんだよ」
そばから、巫女の婆さんの言うのも待たずに口を出した。
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側から巫女の婆さんのいふのも待たずに口を出した。
「三度でいいんだったっけかな」
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「三度でえゝんだつけかな」
婆さんの前へ座った一人は後ろのほうを向いて言って、彼は不器用な紙縒りをこしらえて、その先を茶碗の水へ浸して三度丁寧にかき回して、そのまま紙縒りを水に浸しておいた。
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婆さんの前へ坐つた一人は後の方を向いていつて彼は不器用な紙捻を拵へて其の先を茶碗の水へ浸して三度丁寧に掻き廻して其の儘紙捻を水に浸して置いた。
「見ろよ、近ごろさっぱり来てくれないが、おれのことがいやにでもなったんじゃないかなんて出るから」
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「見ろよ、近頃薩張來てくんねえが、俺れこと厭にでも成つたんぢやねえかなんて出つから」
と、店の女房は冗談を交えた。
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と店の女房は戯談を交へた。
巫女はしばらく手を合わせて口の中で何か念じていたが、風呂敷包みのまま箱へ両肘を突いて、だんだんに諸国の神々の名を呼んで、一座に集めるという意味を、熟練した言い方で調子を取って言った。
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巫女は暫く手を合せて口の中で何か念じて居たが風呂敷包の儘箱へ兩肘を突いて段々に諸國の神々の名を喚んで、一座に聚めるといふ意味を熟練したいひ方で調子をとつていつた。
がやがやと騒いでいた家の内も外も、ともにひっそりとなった。
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がや/\と騷いで居た家の内外は共にひつそりと成つた。
「よしきりが土用へ入ったみたいに、ぴったりしちまったな」
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「行々子土用へ入えつた見てえに、ぴつたりしつちやつたな」
と怒鳴った者があった。
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と呶鳴つたものがあつた。
ようやく静まった群衆は、しばらくどよめいた。
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漸く靜まつた群集は少時どよめいた。
しかしすぐにまた静まった。
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然し直に復た靜まつた。
「白紙頼り水頼り、紙縒り頼りにい……」
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「白紙手頼り水手頼り、紙捻手頼りにい……」
と、巫女の婆さんの声は、前歯が少し欠けているために句切りがやや不明であるが、それでも滞ることなくずんずんと句を追って行った。
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と巫女の婆さんの聲は前齒が少し缺けて居る爲に句切が稍不明であるがそれでも澁滯することなくずん/\と句を逐うて行つた。
斜めに茶碗の水に立った紙縒りが、だんだんに水を吸って、うなずいたようにくたりとなった。
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斜に茶碗の水に立つた紙捻がだん/\に水を吸うて點頭いた樣にくたりと成つた。
「どうせよ一つにはなれぬ身を、別れたいとは思えども……」
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「どうせよ一つにや成れぬ身を、別れたいとは思へども……」
と一同の耳に響いた時、「出た、出た」
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と一同の耳に響いた時「出た/\」
と、静まっていた群衆の中から声が発せられた。
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と靜まつて居た群集の中から聲が發せられた。
巫女の婆さんは突いている肘を少し動かして、乗り気になった。
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巫女の婆さんは突て居る肘を少し動かして乘地に成つた。
「おれが我が身と言ったとて、自由自在になるならば、今日の巫女も要るまいにい……」
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「俺れが我が身というたとて、自由自儘に成るならば、今日の巫女も要るまいにい……」
婆さんは同じような句を繰り返した。
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婆さんは同じやうな句を反覆した。
「出たところで、もっとしゃべらせろよ」
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「出た處でまつと饒舌らせろえ」
と、一人がさらに紙縒りを持って水をかき回した。
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と一人が更に紙捻を持つて水を掻き廻した。
「紙縒りがくたくたして言うことを聞かないや」
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「かんぜん捻くた/\して云ふこと聽かねえや」
と言いながら、彼は手を止めた。
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いひながら彼は手を止めた。
「おれが心はこうなれど、怒るまいぞえ見捨てまい、互いに顔も合わせたら、言葉も掛けてくださろう……」
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「俺れがよ心はこうなれど、怒るまえぞえ見棄てまえ、互に顏も合せたら、言辭も掛けてくだされよう……」
巫女は時々調子を張り上げて言った。
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巫女は時々調子を張り上げていつた。
「そうだそうだ、そうでなくちゃおとっつあんが泣くぞ」
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「さうださうだ、そんでなくつちやおとつゝあ泣くぞ」
群衆の後ろから怒鳴った。
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群集の後から呶鳴つた。
群衆はしばらくまたどよめいたが、一句でも巫女の言うことを聞き外すまいとして静まった。
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群集は少時復たどよめいたが一句でも巫女のいふことを聞き外すまいとして靜まつた。
巫女の婆さんの姿勢が箱を離れて以前に戻った時、押さえつけられたようになっていたすべてが、にわかにがやがやと騒ぎ出した。
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巫女の婆さんの姿勢が箱を離れて以前に復した時抑壓されたやうに成つて居た凡てが俄にがや/\と騷ぎ出した。
彼らは絶えず勘次とおつぎとに対して冷笑を浴びせかけているのであったが、しかしそれを知らない二人は、ただじっとしていた。
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彼等は絶えず勘次とおつぎとに對して冷笑を浴せ拂けてゐるのであつたが、然しそれを知らぬ二人は只凝然として居た。
すべてが騒ぐ間にあって、そうしている二人の様子は、わざとらしく見えるまで際立っていた。
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凡てが騷ぐ間に在つてさうして居る二人の容子は態とらしく見えるまで際立つて居た。
巫女の唱えたことだけでは、いたずらな若い衆の意図も知らない二人には、自分たちが言われていることとは気づくはずがなかったのである。
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巫女の唱へたことだけでは惡戯な若い衆の意志も知らない二人には自分等がいはれて居ることゝは心づく筈がなかつたのである。
群衆の後ろのほうからのにわかな騒ぎが、内側に及んだ。
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群集の後の方からの俄な騷ぎが内側に及んだ。
晩飯を済まして、瞽女が手を引き連れて来たところなのである。
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晩餐を濟まして瞽女が手を曳き連れて來た處なのである。
それを若い衆がからかい半分に、道を開いてやろうとしては、やるまいとして騒いだのであった。
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それを若い衆が揶揄半分に道を開いてやらうとしては遣るまいとして騷いだのであつた。
瞽女は危なそうにして、ようやく座敷へ上がった時
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瞽女は危險相にして漸く座敷へ上つた時
「目も見えないのに、そんなに押し回すなよ」
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「目も見えねえのにさうだに押廻すなえ」
瞽女の後についてゆき、座敷の端まで割り込んで来た近所の爺さんが言った。
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瞽女の後に跟いて座敷の端まで割込んで來た近所の爺さんさんがいつた。
若い衆らはただ
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若い衆等は只
「ほういほうい」
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「ほうい/\」
と作り声で囃した。
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と假聲で囃した。
爺さんは勘次がそばにいたのを見つけて
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爺さんは勘次が側に居たのを見つけて
「なあ、勘次さん、これで若い者のほうがいいからな」
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「なあ、勘次さん、こんで若えものゝ處がえゝかんな」
と言いかけた。
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といひ掛けた。
外では再び囃し立てて騒いだ。
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外では再び囃し立てゝ騷いだ。
白い手拭いを、髷の後ろが少し現れた瞽女かぶりにしている瞽女が増えたので、座敷はにわかに生きたようになった。
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白い手拭を髷の後が少し現はれた瞽女被りにして居る瞽女が殖えたので座敷は俄に生たやうに成つた。
瞽女は一つに固まって、なるべくランプの明るい光を避けようとしている。
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瞽女は一つに固まつて成るべくランプの明るい光を避けようとして居る。
その態度を心憎く思う若い衆が
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其の態度を心憎く思ふ若い衆が
「おれはその手拭いをかぶってこっちを向いてる姐さんのことを寄せてみたいもんだな」
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「俺ら其の手拭被つてこつち向いてる姐樣こと寄せて見てえもんだな」
と、立ち塞がった陰から瞽女の一人へからかって言った者がある。
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立ち塞がつた陰から瞽女の一人へ揶揄つていつたものがある。
「何とか言うか、寄せてみな」
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「何んちいか寄せて見せえ」
さっきの爺さんは言った。
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先刻の爺さんはいつた。
彼の顔にはあばたを深く印している。
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彼の顏には痘痕を深く印して居る。
「どうした、寄せてみるのか。そんなら、おれが紙縒りをこしらえてやろうかい」
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「どうした寄せて見んのか、そんだら俺れかんぜん捻拵えてやつかれえ」
爺さんがさらに言った時、返事がなかった。
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爺さんが更にいつた時返辭がなかつた。
「ええ、情けない奴らだな」
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「えゝ、情ねえ奴等だな」
爺さんはひねりかけた紙を捨てた。
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爺さんは捻り掛た紙を棄てた。
店先の駄菓子を入れた店台を、がたがたと動かす者があった。
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店先の駄菓子を入れた店臺をがた/\と動かす者があつた。
「菓子なんぞまた盗っちまわないぞ。うん、そっちのほうの酒樽の所にも立ってて、飲み口でも引っこ抜かないでもらおうぞ、みんな」
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「菓子なんぞまた盜つちや畢へねえぞ、うむ、そつちの方の酒樽ん處にも立つてゝ飮み口でも引つこ拔かねえで貰あべえぞ、みんな」
と、あばたの爺さんは独り乗り気になって言うのであった。
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と痘痕の爺さんは獨り乘地に成つていふのであつた。
「そうじゃないんだよ。店台が自分で歩き出しはじめたから、おれが押さえたところなんだよ」
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「さうぢやねえんだよ、店臺自分で歩き出し始まつたから俺れ抑めえた處なんだよ」
「いいから、ガラスでもぶち欠かないようにしろよ。こっちのおかみさんに怒られるから」
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「えゝからガラスでもおつ缺かねえやうにしろえ、此方のおつかさまに怒られつから」
「そんでも店台は四つ足へ何かはいてら。土鍋に片口に皿だ。どれもどれもよく欠けてらあ」
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「そんでも店臺は四つ足へ何か穿いてら、土鍋に片口に皿だ、どれも/\能く打つ缺けてらあ」
「どこらか歩いて来たと見えて、足が埃だらけだと」
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「何處らか歩いて來たと見えて足埃だらけだと」
二、三人の声で冗談を返した。
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二三人の聲で戯談を返した。
家の内と外のむっとした空気が、ますますざわついた。
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家の内外のむつとした空氣が益ざわついた。
店台へは、暑いころには蟻の襲うのをいとって、四つの足へ皿や丼の類をはかせて、始終水をたたえておくことを怠らないのであった。
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店臺へは暑い頃には蟻の襲ふのを厭うて四つの足へ皿や丼の類を穿かせて始終水を湛へて置くことを怠らないのであつた。
「どれ、誰も寄せないなら、おれでも寄せてみようかい」
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「どうれ、誰も寄せねえけりや俺れでも寄せてんべかえ」
後ろのほうから一人進んで来た者があった。
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後の方から一人進んで來たものがあつた。
「ただじゃだめだぞ」
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「只ぢや駄目だぞ」
あばたの爺さんは、すぐに要らないことを言った。
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痘痕の爺さんは直ぐに要らぬことをいつた。
「そんじゃ困ったなあ。お前、どうした、婆さんのことを死に口でも寄せてみないか」
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「そんぢや困つたなあ、おめえどうした婆さまこと死口でも寄せて見ねえか」
「おれはいやだよ。待ってるから早く来てくれなんて言われた日には、縁起でもないから」
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「俺ら厭だよ、待つてつから早く來てくろなんて云はれた日にや縁起でもねえから」
爺さんは爪で頭をかいた。
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爺さんは爪で頭を掻いた。
「ひどくお前、近ごろぼさぼさしちまってるんだな。ああいう婆でも焦がれてるせいじゃあるまい。髪まで抜けたようだな」
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「酷くおめえ近頃ぽさ/\しつちやつてんだな、あゝだ婆でも焦れてる所爲ぢやあんめえ、頭髮まで拔た樣だな」
ひょうきんな相手は、爺さんの頭へ手を掛けてゆさゆさと動かした。
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剽輕な相手は爺さんの頭へ手を掛てゆさ/\と動かした。
乗り気になっていた爺さんは、少し白い膜で覆われたような目を見開いて、やや辟易した。
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乘地に成つて居た爺さんは少し白い膜を以て掩はれた樣な眼を睜つて稍辟易した。
「大豆打ちにひっくり返ったみたいに、顔じゅう穴だらけにしてなあ」
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「大豆打にかつ轉がつた見てえに面中穴だらけにしてなあ」
ひょうきんな相手は、ますます悪口をたくましくした。
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剽輕な相手は益惡口を逞しくした。
群衆は、ひと声の終わるごとに笑いどよめいた。
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群衆は一聲の畢る毎に笑ひどよめいた。
「べらぼう、そんな柔らかい顔で風の吹く所を歩けるもんじゃない」
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「篦棒、さうだ軟けえ面で風吹く處歩けるもんぢやねえ」
爺さんはむきになって言った。
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爺さんはむきに成つていつた。
「どうした、赤い手拭いをかぶらせられただろう」
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「どうした赤え手拭被らせらつたんべえ」
「おれはそんな手拭いなんざあ、かぶったことはないよ」
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「俺らさうだ手拭なんざあ被つたこたねえよ」
「そんでも疱瘡神は赤い手拭いが好きだというそうだな」
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「そんでも疱瘡神は赤え手拭好きだつちげな」
「そんだって、おれはかぶらないよ」
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「そんだつて俺ら被んねえよ」
あばたの爺さんは、すっかりしおれてしまった。
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痘痕の爺さんはすつかり悄れて畢つた。
群衆はみな腹を抱えた。
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群集は皆腹を抱へた。
「どれ、おれは帰って牛蒡でもこしらえよう。明日、天秤棒をかついで出る支障にならあ」
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「どうれ、俺ら歸つて牛蒡でも拵えべえ、明日天秤棒檐いで出る支障にならあ」
ひょうきんな相手は、思い出したように言った。
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剽輕な相手は思ひ出したやうにいつた。
「どうせ、お前らのように紺屋の弟子みたいな手足の者は、牛蒡でもかついで歩くのにはちょうどよかろう」
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「どうせ、おめえ等やうに紺屋の弟子見てえな手足の者な牛蒡でも檐いで歩くのにや丁度よかんべ」
復讐でもし得たような様子で、爺さんは言った。
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復讎でも仕得たやうな容子で爺さんはいつた。
「元手の二円二分くらいで、これで餓鬼らまでには四、五人も命をつないで行くのには、赤い手拭いでもかぶってるような放心した料簡じゃいられないからな」
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「資本の二兩二分位でこんで餓鬼奴等までにや四五人も命繋いで行くのにや赤え手拭でも被つてる樣な放心した料簡ぢや居らんねえかんな」
彼はまた爺さんの頭へ手を掛けて言って、ついと行ってしまった。
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彼は復た爺さんの頭へ手を掛けていつてついと行つて畢つた。
後では、波が岩に打ちつけるようにしばらく騒いだ。
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後では波が巖に打ちつける樣に暫らく騷いだ。
若い女はみな十分笑って、またあばたの爺さんをつくづくと見ては思い出して、袂で口を覆った。
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若い女は皆十分笑つて、又痘痕の爺さんを熟々と見ては思ひ出して袂で口を掩うた。
とうとうきまり悪そうにして、爺さんも去ってしまった。
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到頭極り惡相にして爺さんも去つて畢つた。
「この箱の中には何が入ってるんだ。人形だって本当かね」
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「此の箱ん中にや何だね入えつてんなあ、人形坊だつて本當かね」
前のほうにいた若い衆が、巫女の荷物へ手を掛けて言った。
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前の方に居た若い衆が巫女の荷物へ手を掛ていつた。
「なあに、今じゃ幣束だとよ」
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「なあに今ぢや幣束だとよ」
と、ほかの者が言った。
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と他の者がいつた。
「これは見せられないんでさ。これを見られると、どれほど寄せてみても当たらなくなっちまってね。自分がいない間に見られても、きっと知れるんでさ」
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「此ら見せらんねえんでさ、此れ見られつと何程寄せて見ても當んなくなつちやつてね、自分で居ねえ間に見らつても屹度知れんでさ」
婆さんは、風呂敷をめくりかけた若い衆の手をそっと払って言った。
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婆さんは風呂敷を捲り掛た若い衆の手をそつと拂つていつた。
そうすると
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さうすると
「見せられないよ、それが種だから」
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「見せらんねえよ、其れが種だから」
と怒鳴った者があった。
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呶鳴つたものがあつた。
そういう騒ぎをしている間に、幾度かもじもじと体を動かしていた勘次は、思い切って婆さんの前へ進んだ。
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さういふ騷ぎをして居る間に幾度かもぢ/\と身體を動かして居た勘次は思ひ切つて婆さんの前へ進んだ。
「わしに一つ寄せてみておくんなせえ。死に口でがす」
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「わしげ一つ寄せて見ておくんなせえ、死口でがさ」
「そんじゃ、笹っ葉を折って来ておくんなせえ」
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「そんぢや笹つ葉折つちよつて來ておくんなせえ」
巫女の婆さんは言った。
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巫女の婆さんはいつた。
「こっちで折ってやろう」
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「此方で折つちよつて遣んべ」
と勘次が立ちかけた時、後ろのほうで怒鳴った。
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と勘次が立ち掛た時後の方で呶鳴つた。
しばらくして、小さな竹の葉が手から手へ伝えられて、茶碗の水の中に置かれた。
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暫くして小さな竹の葉が手から手へ傳へられて茶碗の水の中に置かれた。
一同は再び静まった。
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一同は再び靜まつた。
勘次は竹の葉で茶碗の水を三度かき回して、そっと手を放した。
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勘次は竹の葉を以て茶碗の水を三度掻き廻してそつと手を放した。
ランプの光に、竹の葉は水から出た部分は青く、水に沈んだ部分は水銀のように白く光った。
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ランプの光に竹の葉は水から出た部分は青く、水に沒した部分は水銀のやうに白く光つた。
巫女の婆さんは、さっきと同じく箱へ肘を突いて
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巫女の婆さんは先刻と同じく箱へ肱を突いて
「よく呼び出してくれたぞよう……」
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「能く喚び出してくれたぞよう……」
と、決まったような句を繰り返しながら、まだ十分の意味をなさないのに、勘次はきちんと座った膝へ両手を棒のように突いて、ぐったりと頭をうなだれた。
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と極つたやうな句を反覆しつゝまだ十分の意味を成さないのに勘次は整然と坐つた膝へ兩手を棒のやうに突いてぐつたりと頭を俛れた。
おつぎもしおらしくうつむいた。
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おつぎもしをらしく俯向いた。
島田に結ったおつぎの髪が、明るいランプに光った。
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島田に結うたおつぎの頭髮が明かるいランプに光つた。
おつぎは特に勘次に許されて、未明に鬼怒川の渡しを越えて、仲間同士とともに髪結いの所へ行ったのであった。
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おつぎは特に勘次に許されて未明に鬼怒川の渡を越えて朋輩同志と共に髮結の許へ行つたのであつた。
髷には油がよく乗っていて、上手に掛けた金房が少しざらりと揺れた。
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髷には油が能く乘つて居て上手掛けた金房が少しざらりとして動搖いた。
巫女が次第に句を追って行くうちに
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巫女が漸次に句を逐うて行くうちに
「姿隠れて出てみれば、何も知るまいと思うだろうが、おれはその身の所へは、日々毎日ついてるぞ。雨は降らねど箕になり、笠になりてよ……」
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「姿隱れて出て見れば、何知るまいと思だろが、俺れは其の身の處へは、日日毎日ついてるぞ、雨は降らねど箕に成り、笠に成りてよ……」
と、巫女の声は前歯の少し欠けたにもかかわらず、一つには一同がひっそりとして咳払いもしないゆえであろうが、きわめてはっきりと聞き取られた。
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と巫女の聲は前齒の少し缺けたにも拘らず、一つには一同がひつそりとして咳拂をもせぬ故であらうが極めて明瞭に聞きとられた。
「一度ならず、二度三度、不思議を起こさせて知らせたに……」
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「一度ならず、二度三度、不思議打たせて知らせたに……」
婆さんの声が次いで響いた。
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婆さんの聲が次で響いた。
勘次もおつぎも、ただじっとしているのみである。
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勘次もおつぎも只凝然として居るのみである。
「おれが達者でいるならば……」
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「俺れが達者で居るならば……」
という句が読まれたと思うと、やがて
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といふ句が讀まれたと思ふと軈て
「くれるよほどの心なら、ほんに苦労でも大儀でも、つぼみの花を散らさずに、どうか咲かせてくだされよう……」
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「呉れるよ程の心なら、ほんに苦勞でも大儀でも、蕾の花を散らさずに、どうか咲かせてくだされよう……」
熟練した声の調子が、そうでなくても興味を持っている一同の耳に、しみじみと響いた。
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熟練した聲の調子が、さうでなくても興味を持つて居る一同の耳にしみじみと響いた。
「烏の鳴かない日はあれど、草葉の陰で……」
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「鴉の鳴かない日はあれど、草葉の陰で……」
婆さんが自分の声に乗って来た時、勘次はぼろぼろと涙をこぼした。
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婆さんが自分の聲に乘つて來た時勘次はぼろ/\と涙を零した。
おつぎもそっと涙を拭いた。
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おつぎもそつと涙を拭つた。
「ほんの仮の座のことなれば、これにておれは帰るぞよう……」
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「ほんの假座のことなれば、此れにて俺れは歸るぞよう……」
それからまた
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それから又
「烏の鳴きがそうでなくもう……」
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「鴉の鳴きがそでなくもう……」
と繰り返しながら、巫女の婆さんの声は軽く引いて、そっと抜いたように止んだ。
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と反覆しつゝ巫女の婆さんの聲は輕く引いてそつと拔いたやうに止んだ。
「おれは済まない」
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「俺れ濟まねえ」
勘次はぽつんと言って、また涙を横に拭いた。
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勘次はぽつさりといつて又涙を横に拭つた。
「本当に出たんだよ。怖いようだな」
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「本當に出たんだよ、可怖えやうだな」
そこにいた若い女房は、しみじみと言った。
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其處に居た若い女房はしみ/″\といつた。
それから続いて、ほかの二、三人が身の上やら生き口やらを寄せた。
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それから續いて他の二三人が身の上やら生口やらを寄せた。
そうして座敷の隅にいた瞽女が代わって、三味線の袋をすっとしごき下ろした時、巫女は荷物の箱を背負って、自分の泊まった宿へ帰って行った。
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さうして座敷の隅に居た瞽女が代つて三味線の袋をすつと扱きおろした時巫女は荷物の箱を脊負つて自分の泊つた宿へ歸つて行つた。
三味線の撥が一度弦に触れると、しんみりとした座敷が急に勢いづいて、ランプの光がにわかに明るいようになった。
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三味線の撥が一度絃に觸れるとしんみりとした座敷が急に勢ひづいてランプの光が俄に明るいやうに成つた。
勘次はそれを聞くに堪えられないで、彼はその夜にかぎって、自分で与吉の手を引いて自分の家へと、闇の中へ身を沈めた。
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勘次はそれを聞くに堪へないで、彼は其の夜に限つて自分で與吉の手を曳いて自分の家へと闇の中へ身を沒した。
若い衆は三人の後ろ姿を見て
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若い衆は三人の後姿を見て
「こおろぎじゃないが、口を鳴らさないじゃいられないな」
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「蛬ぢやねえが、口鳴らさねえぢや居らんねえな」
と言った。
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といつた。
「そんだが、今夜はしみじみ泣いたんじゃないかい。何でもお品さんのことはどれほど惜しいか知れないのだからな」
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「そんだが、今夜はしみ/″\泣いたんぢやねえけ、あんでもお品さんこた何程惜しいか知んねえのがだかんな」
「今だってその話をするといくらでもしてるんだからな」
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「今だつて其噺すつと幾らでもしてんだかんな」
「そんだがよ、さっきみたいに泣いてるのに、悪口なんぞ言うのは罪だよなあ」
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「そんだがよ、先刻見てえに泣いてんのに惡口なんぞいふな罪だよなあ」
と、若い女房らはそれでもしんみりと言った。
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と若い女房等はそれでもしんみりといつた。
その夜からしばらくの間、勘次は以前とは違って、おつぎを独りで放して出すことがあるようになった。
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其の夜から暫くの間勘次は以前とは異つておつぎを獨り放して出すことが有る樣に成つた。
そうかと思っているうちに、村じゅうがまた、勘次のおつぎに対する態度がまったく以前に戻ったことを認めずにはいられなくなった。
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さうかと思つて居る内に村落中が復た勘次のおつぎに對する態度の全く以前に還つたことを認めずには居られなくなつた。
村の目は、勢い嫉妬と疑いと、それから新しく起こった事件に対するような興味とをもって、勘次の上に注がれねばならなかった。
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村落の目は勢ひ嫉妬と猜忌とそれから新に起つた事件に對するやうな興味とを以て勘次の上に注がれねばならなかつた。
一六
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十六
勘次はほとんど事あるごとに冷笑の目をもって見られているのであったが、しかしそれがいやな感情を彼に与えるよりも、彼は彼の懐にいくらかの余裕が生じて来たことが、すべての不満を償ってなお余りあることであった。
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勘次は殆んど事毎に冷笑の眼を以て見られて居るのであつたが然しそれが厭な感情を彼に與へるよりも、彼は彼の懷に幾分の餘裕を生じて來たことが凡ての不滿を償うて猶餘あることであつた。
お品がまだ生きているころ、隣の主人のおかみさんに向かって
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お品がまだ生きて居る頃隣の主人の内儀さんに向つて
「おかみさんらは何にも心配なんざなくて、晴れ晴れとしているんでございましょうね」
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「お内儀さん等何にも心配なんざ無くつて晴々として居んでござんせうね」
とお品はつくづくと言ったことがある。
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お品はつく/″\といつたことがある。
「なぜそんなことを言うんだい」
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「何故そんなこといふんだい」
おかみさんは怪しんで聞いたら
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内儀さんは怪しんで聞いたら
「そんでも、おかみさんらは食べる心配なんざちっともないんだから。わたしはそうだと思ってさ」
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「そんでもお内儀さん等喰べる心配なんざちつともねえんだから、わたしやさうだと思つてせえ」
お品は言った。
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お品はいつた。
おかみさんは、なるほどそういう心持ちでいるのかと、それからいろいろと身分相応な苦労の止まないことを話して聞かせると
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内儀さんは成程さういふ心持で居るのかと、それから種々と身分相應な苦勞の止まぬことを噺て聞かせると
「そうでございましょうかね、おかみさん。わたしらはまた、明けても暮れてもない足りないの心配ばかりしてるんだから、そういうことのない人は心配なんてないんだとばかり思ってたんでございますよ。ねえ本当に」
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「さうでござんせうかねお内儀さん、わたし等また明けても暮れても無え足んねえの心配ばかしゝてんだから、さういことねえ人は心配なんちやねえんだとばかし思つてたんでござんすよ、ねえ本當に」
お品は感に堪えたように言ったのであった。
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お品は感に堪へたやうにいつたのであつた。
お品がそれほど苦労した米穀の問題が、その死後四、五年間の惨憺たる境遇から、ようやく解決が告げられようとしたのである。
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お品がそれ程苦勞した米穀の問題が其の死後四五年間の惨憺たる境遇から漸く解決が告げられようとしたのである。
彼は毎年冬から、まだ草木の芽の出ない春までのうちに、彼らにしては驚くべき巨額の四、五十円を稼ぎ得るのであった。
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彼は毎年冬からまだ草木の萌え出さぬ春までの内に彼等にしては驚くべき巨額の四五十圓を贏ち得るのであつた。
それは古い傷の穴に投じられるにしても、彼は土間の鶏のねぐらの下に、三人が安心しているだけの食料を求めておくことができるようになった。
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其れは古い創痍の穴に投ぜられるにしても彼は土間の鷄の塒の下に三人が安心して居るだけの食料を求めて置くことが出來る樣に成つた。
おつぎは二十の声を聞いて、与吉は学校へ出るようになった。
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おつぎは二十の聲を聞いて與吉は學校へ出る樣に成つた。
彼は絶えず何かを探すような、しかも隠した心の裡の何かを知られまいというような、見苦しい顔つきを村の中にさらす必要が、ようやく減って来た。
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彼は絶えず或物を探すやうな然も隱蔽した心裏の或物を知られまいといふやうな、不見目な容貌を村落の内に曝す必要が漸く減じて來た。
彼はだんだん、彼らの仲間に向かって、以前のようにこせこせといたずらに遠慮した態度がなくなった。
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彼は段々彼等の伴侶に向つて以前の如くこせ/\と徒らに遠慮した態度がなくなつた。
彼は村のすべてに向かって払った恐れの念を、ことごとく東隣の家族にのみ捧げてしまった。
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彼は村落の凡てに向つて拂つた恐怖の念を悉く東隣の家族にのみ捧げて畢つた。
その間、彼と卯平とはただ一度会ったのみである。
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其の間彼と卯平とは只一回逢つたのみである。
卯平は、お品が三年目の盆にふいと来て、ふいと立ったのである。
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卯平はお品が三年目の盆にふいと來てふいと立つたのである。
卯平は八十に近くなっていながら、恐ろしく頑丈な体で、髪は白く、かつ少なくなったが、肌には潤いがあった。
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卯平は八十に近く成つて居ながら恐ろしい岩疊な身體が髮は白く且少く成つたが肌膚には潤澤があつた。
卯平は夜は火の番をしても、暑い日には庭の草むしりをしたり、ほかの蔵々への使いに行ったり、いくらかの忙しさを感じても、使いに行けば必ず茶菓子を包まれたり、手拭いをもらったり、それから主人からは給料以外の賞与があったりするので、少し倹約すれば懐には小銭を蓄えておくこともできるのであったが、彼はよくコップ酒を傾けたので、彼の懐はけっして余裕を残してはいなかった。
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卯平は夜は火の番をしても暑い日には庭の草挘をしたり、他の藏々への使ひに行つたり、幾分の忙しさを感じても、使ひに行けば屹度茶菓子を包まれたり、手拭を貰つたり、それから主人からは給料以外の賞與があつたりするので少し堅固にすれば、懷には小錢を蓄へて置くことも出來るのであつたが彼は能くコツプ酒を傾けたので彼の懷は決して餘裕を存しては居なかつた。
野田は郷里からは比較的近いので、醤油蔵がだんだん発達して行くにつれて、雇われて行く若者が増えて来た。
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野田は郷里からは比較的近いので醤油藏が段々發達して行くに連れて傭はれて行く壯丁が殖えて來た。
郷里では雇い人の給料が急に上がって来たほど、どの村からも若者が行った。
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郷里では傭人の給料が暴騰して來た程どの村落からも壯丁が行つた。
それがしきりに交代されるので、卯平は一度しか郷里の土を踏まなくても、いろいろの変化を耳にした。
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其れが頻りに交代されるので、卯平は一度しか郷里の土を踏まなくても種々の變化を耳にした。
彼はいちばん、おつぎのことが念頭に浮かぶ。
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彼は一番おつぎのことが念頭に浮ぶ。
十七の秋に見たおつぎの姿が、お品によくも似ていたことを思い出しては、他人の噂も聞いてみて、時々は会ってもみたい心持ちがした。
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十七の秋に見たおつぎの姿がお品に能くも似て居たことを思ひ出しては、他人の噂も聞いて見て時々は逢つても見たい心持がした。
しかしお品が死んだ時、野田への立ち際がよくなかったことを彼自身の心にも悔いるところがあったので、しいていやな勘次へ挨拶をして、一時なりとも肩身を狭くせねばならないのをいとって、つい億劫になるのであった。
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然しお品が死んだ時野田への立ち際がよくなかつたことを彼自身の心にも悔ゆる處があつたので強ひて厭な勘次へ挨拶をして一時なりとも肩身を狹くせねばならないのを厭うて遂憶劫に成るのであつた。
年を重ねるにしたがって短く感じる月日が、そういう間に巡って、くすんで見えることの多い江戸川の水を行き来する通運丸の、牛が吼えるような汽笛も身にしみて、冬の寒さがひどくなると、以前からの癖で腰に痛みを感じることがあった。
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年齡を積むに從つて短く感ずる月日がさういふ間に循環して、くすんで見えることの多い江戸川の水を往復する通運丸の牛が吼えるやうな汽笛も身に沁みて、冬の寒さが酷くなると以前からの癖で腰に疼痛を感ずることがあつた。
蔵の雇い人のために抱えてある医者に見てもらっても、老いの病だから薬を飲んでみたところで、そう効き目が見えるのではないが、それでも飲みたけりゃ飲むがいいと言うのみで、別段身にしみて言ってくれるのでもない。
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藏の傭人の爲に抱へてある醫者に見て貰つても、老病だから藥を飮んで見た處で、さう效驗が見えるのではないがそれでも、飮みたけりや飮むが善いといふのみで別段身に沁みていつてくれるのでもない。
卯平はいくら飲んでも自分の懐が痛まないのだからと思ってみても、医者の言うとおりどうもてきぱきとしないので、昼間はなるべく布団にくるまるようにしていた。
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卯平は幾ら飮んでも自分の懷が痛まないのだからと思つて見ても醫者のいふ通りどうもはき/\としないので晝間は成るべく蒲團にくるまる樣にして居た。
卯平は年末の出替わりの季節になれば、その持病を苦にして、奉公もどうしたものかと悲観することもあるが、我慢をすれば凌げるので、つい居据わりになっているうちに、いつでも春の季節に戻って、郊外に果てしなく植えられた桃の花がいっぱいに赤くなると、その木陰の麦が青く地を覆って、江戸川の水を遡る高瀬舟の白帆も暖かく見えて、大きな蔵々の建物が空になるほど一切の雇い人が桃畑に一日の愉快を尽くすようになれば、病気もけろりと忘れるのが常であった。
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卯平は年末の出代の季節になれば其の持病を苦にして、奉公もどうしたものかと悲觀することもあるが、我慢をすれば凌げるので遂居据りに成つて居るうちに何時でも春の季節に還つて、郊外に際涯もなく植られた桃の花が一杯に赤くなると其の木陰の麥が青く地を掩うて、江戸川の水を溯る高瀬船の白帆も暖く見えて、大きな藏々の建物が空しく成る程一切の傭人が桃畑に一日の愉快を竭すやうになれば病氣もけそりと忘れるのが例であつた。
きれい好きな彼は、命じられるまでもなく、庭にぽっちりでも草が見えればむしらずにはいられない。
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清潔好な彼は命令されるまでもなく、庭にぽつちりでも草が見えれば挘らずには居られない。
狭苦しいにしても、きちんとした雇い人部屋の周りの土に箒目を入れて、水でも打ってみたり、そこらで作る朝顔の苗をもらって、どんなかたちにでも鉢へ植えてみたりしていると、奉公がつらくも思わないのであった。
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狹苦しいにしてもきちんとした傭人部屋の周圍の土に箒目を入れて水でも打つて見たり、其處らで作る朝顏の苗を貰つてどんな姿にも鉢へ植て見たりして居ると奉公が辛くも思はないのであつた。
それも二、三年の間で、ふつうの人間ならばもうとうてい役にも立たない年齢に達しているので、たとえ彼の境遇が安楽を許さないためにこうして気持ちの上で健康が保たれているのだとしても、彼の老いた体は日ごとに、空腹から来る疲れを癒すために食料を取る、わずかな満足が、そのたびごとに先の見えている彼を引っ張って、その行くべき所に導いているのである。
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それも二三年の間で普通の人間ならばもう到底役にも立たぬ年齡に達して居るので、假令彼の境遇が安佚を許さない爲に恁うして精神的に健康が保たれて居るのだとしても、彼の老躯は日毎に空腹から來る疲勞を醫する爲に食料を攝取する僅な滿足が其の度毎に目先の知れてる彼を拉して其の行く可き處に導いて居るのである。
また冬が来た時、彼は今までの腰の痛みと違った一種の病を生じたように感じた。
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復た冬が來た時、彼は今までの腰の痛みと違つた一種の疾患を生じたやうに感じた。
医者は依然としてリューマチなのだと言って、寒い夜に火の番をして歩くのは絶対に悪いと言うのであった。
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醫者は依然僂痲質斯なのだといつて、寒い夜に火の番をして歩くのは絶對に惡いといふのであつた。
それでも彼は、我慢のできるだけ務めた。
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それでも彼は我慢の出來るだけ務めた。
出替わりの季節が来た時、彼はまたしきりに迷ったが、どうもそこを立ってしまうのが惜しい心持ちもするし、ためらってまた居据わりになった。
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出代の季節が來た時彼はまた頻りに惑うたが、どうも其處を立つて畢ふのが惜しい心持もするし、逡巡して復た居据りになつた。
郷里から来た者に聞いて、彼は勘次が次第に順境に向かいつつあることを知った。
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郷里から來たものに聞いて彼は勘次が次第に順境に赴きつゝあることを知つた。
彼は心がまた揺れて、脆くなった心がひどく哀れっぽく情けなくなった。
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彼は心が復た動搖して脆く成つた心が酷く哀つぽく情なくなつた。
しかし長い間機嫌を損ね合った勘次の許へ帰るのには、彼は空手ではならないということを深く思った。
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然し長い間機嫌を損ね合うた勘次の許へ歸るのには彼は空手ではならぬといふことを深く念とした。
彼はそれからというもの、なるべくコップ酒も控えて懐を暖めようとした。
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彼は夫からといふもの成るべくコツプ酒も節制して懷を暖めようとした。
これまで彼が遠く奉公に出ていて、いくらでも慰めの道を見つけていたのは、割合に暖かな懐をほとんど費やしつつあったからである。
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從來彼が遠く奉公に出て居て幾らでも慰藉の途を發見して居たのは割合に暖かな懷を殆んど費しつゝあつたからである。
それで彼は今そう気がついてみても、体の養生をしなくてはならないということが一方にあるので、それが思うようにはいかなかった。
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それで彼は今さう氣がついて見ても身體の養生をしなくてはならぬといふことが一方に有るのでそれが思ふ程にはいかなかつた。
そういう心配が、また春も暖かになって病気を忘れると、帰ることもそのままに消えてしまうのである。
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さういふ心配が又春も暖かに成つて病氣を忘れると歸ることも其の儘に消滅して畢ふのである。
しかしどう我慢をしてみても、後幾年も勤まらないということを、周りの人も見ているのである。
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然しどう我慢をして見ても後幾年も勤まらないといふことを周圍の人も見て居るのである。
ことに長い間野田へ身上を持って、近所の蔵の親方をしているのが郷里の近くから出たので、自然知り合いであったが、それが卯平に引退を勧めた。
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殊に永い間野田へ身上を持つて近所の藏の親方をして居るのが郷里の近くから出たので自然知合であつたが、それが卯平に引退を勸めた。
彼は故郷へ幾年目かで行くついでもあるし、幸い勘次のことは村にいるうちに知っていたから、相談をして来てやろうと言った。
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彼は故郷へ幾年目かで行く序もあるし、幸ひ勘次のことは村落に居る内に知つて居たから相談をして來てやらうといつた。
卯平は近ごろめっきり窪んだ茶色の目をしかめるようにしながら、かすかな笑いを浮かべた。
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卯平は近頃滅切窪んだ茶色の眼を蹙めるやうにしながら微かな笑を浮べた。
親方が勘次へ話をした時
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親方が勘次へ噺をした時
「わしは、なあに、家の者だから面倒を見ないとは言わないね」
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「わしや、なあに、家のもんだから面倒見ねえた云はねえね」
勘次は油の乗らない態度で言った。
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勘次は油の乘らぬ態度でいつた。
「勘次さん、近ごろ具合がいいという話だが」
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「勘次さん近頃工合がえゝといふ噺だが」
親方も義理一遍のように言うと
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親方も義理一遍のやうにいふと
「具合がいいということもないが、これでも命懸けで働いてるんだから、他人のには大きな銭になるようにも見えるだろうが、おれにはこれで爺さんの代の借金が抜けないでいるんだから、それさえなけりゃ泣かないでも済むんだよ。そんだが、それでばかり身動きが取れないな」
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「工合えゝつちこともねえが、此んでも命懸けで働えてんだから、他人のがにや大けえ錢になるやうにも見えべが、俺らにこんで爺樣が代の借金拔けねえで居んだからそれせえなけりや泣かねえでも畢へんだよ、そんだがそれでばかり動き取れねえな」
「そんじゃ、その時には勘次さんもいい理由だね」
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「そんぢや、其の時にや勘次さんも善い理由だね」
「そりゃそうだが」
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「そりやさうだが」
勘次はどことなく調子を変えて言った。
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勘次は何處となく拍子を變へていつた。
「勘次さんら、それでも穀物はなかなかある様子だね」
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「勘次さん等それでも穀類はなか/\有る容子だね」
突っ込んで聞くと
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突込んで聞くと
「それくらいなくちゃ仕方がないもの。おれはここへ来た当座には、病気の時でもからきし挽き割り麦ばかりの飯なんぞ押し出されて、おれはずいぶんつらい目に遭ったんだよ。これでそういうことは忘れられないもんだからな」
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「其の位なくつちや仕やうねえもの、俺ら此處へ來た當座にや病氣ん時でもからつき挽割麥ばかしの飯なんぞおん出されて、俺ら隨分辛え目に逢つたんだよ、こんでさうえこた、忘らんねえもんだかんな」
勘次はとうとう、要領を得ない返事をするのみであった。
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勘次は到頭要領を得ない返辭をするのみであつた。
蔵の親方は、勘次がどういう料簡であるということは、卯平へは言わなかった。
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藏の親方は勘次がどういふ料簡であるといふことは卯平へはいはなかつた。
たとえどうしたところで勘次の許へ帰らねばならないことに決まっているのだから、それには戸板へ乗せてやるような病気の起こるまで奉公させておくよりも、丈夫なうちに暇を取らせて還してしまえば、あるいは勘次との間も思ったほどのこともないだろうと、程よいことに卯平へ話した。
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假令どうした處で勘次の許へ歸らねばならぬことに極つて居るのだから、それには戸板へ乘せてやる樣な病氣の起るまで奉公させて置くよりも、丈夫なうちに暇を取らせて還して畢へば、或は勘次との間も思つた程のこともないだらうと、程よいことに卯平へ噺した。
卯平はもとより親方から、家の様子や、おつぎの大人になったことや、隣近所のことも一つ一つ聞かされた。
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卯平は固より親方から家の容子やおつぎの成人したことや、隣近所のことも逐一聞かされた。
卯平は窪んだ茶色の目に、暖かな光をたたえた。
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卯平は窪んだ茶色の眼に暖かな光を湛へた。
卯平は短い時間であったが、気がついてから心掛けたので、財布にはいくらかの蓄えもあった。
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卯平は短い時間であつたが氣がついてから心掛けたので財布には幾らかの蓄へもあつた。
わずかな着物であるが、それでもすすけたように色のさめた風呂敷に大きな包みが二つできた。
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僅な衣物であるがそれでも煤けたやうに褪めた風呂敷に大きな包が二つ出來た。
一つの、要らないほうは、運河から鬼怒川へ通う高瀬舟へ頼んで、自分の村の河岸へ揚げてもらうことにして、彼は煙草の一服をも忘れないように身につけた。
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一つの不用の分は運河から鬼怒川へ通ふ高瀬船へ頼んで自分の村落の河岸へ揚げて貰ふことにして、彼は煙草の一服をも忘れない樣に身につけた。
彼は股引にわらじをはいて、その大風呂敷を背負って立った。
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彼は股引に草鞋を穿いて其の大風呂敷を脊負つて立つた。
ビールの空き瓶二本へいっぱいの醤油を、すげ縄でくくって提げた。
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麥酒の明罎二本へ一杯の醤油を莎草繩で括つて提げた。
それから彼はまた、煎餅を一袋買った。
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それから彼は又煎餅を一袋買つた。
醤油と米とがいいので、うまい煎餅であった。
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醤油と米とが善いので佳味い煎餅であつた。
彼は三つの時に別れて、五つの秋にちょっと見た与吉が、もう八つか九つになっていると、こう数えてみて、土産が買いたくなったのである。
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彼は三つの時に別れて五つの秋に一寸見た與吉がもう八つか九つに成つて居ると恁う數へて見て土産が買ひたく成つたのである。
煎餅の袋は、毎日使っていた手拭いでくくって、荷締めの紐へ縛りつけた。
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煎餅の袋は毎日使つて居た手拭で括つて荷締めの紐へ縛りつけた。
彼は冬になってまた起こりかけたリューマチを恐れて、きわめてそろそろと歩を運んだ。
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彼は冬になつてまた起りかけた僂痲質斯を恐れて極めてそろ/\と歩を運んだ。
利根川を渡ってからは、枯れ木の林が寂しく続きながら彼を呑んだ。
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利根川を渡つてからは枯木の林は索寞として連續しつゝ彼を呑んだ。
彼はところどころへのっそりと腰を下ろして、好きな煙草をふかした。
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彼は處々へのつそりと腰を卸して好きな煙草をふかした。
荷物を道端へ下ろす時、彼は必ず縛りつけた手拭いの包みへ手を掛けて、新聞紙の袋のがさがさと鳴るのを聞いて安心した。
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荷物を路傍へ卸す時彼は屹度縛りつけた手拭の包へ手を掛けて新聞紙の袋のがさ/\と鳴るのを聞いて安心した。
枯れ木の林は、立ち上る煙草の煙が根の切れたまますっと急いで枝に絡んで消えるのも隠さずに、がらんとしている。
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枯木の林は立ち騰る煙草の煙が根の切れた儘すつと急いで枝に絡んで消散するのも隱さずに空洞として居る。
卯平がじっとしていると、あおじが忍び忍びに乾いた落ち葉を踏んで彼の近くまで来ては、すいと枝へ飛んだ。
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卯平が凝然として居ると萵雀が忍び/\に乾いた落葉を踏んで彼の近くまで來てはすいと枝へ飛んだ。
彼は周りには一切心を引かれることもなく、袂のマッチへ火をつけてはまたマッチを袂へ入れて、そうしてからげっそりと落ちた両頬の肉が、さらにぴっちりと歯茎に吸いついてしまうまでゆっくりと煙草を吸って、煙管をすっと抜いてからまた歯茎へ空気を吸って、煙と一つに飲んでしまったかと思うようにごくりと唾を飲んで、それから煙を吐き出すのである。
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彼は周圍には一切心を惹かされることもなく袂の燐寸へ火を點けては又燐寸を袂へ入て、さうしてからげつそりと落ちた兩頬の肉が更にぴつちりと齒齦に吸ついて畢ふまで徐りと煙草を吸うて、煙管をすつと拔いてから又齒齦へ空氣を吸うて煙と一つに飮んで畢つたかと思ふやうにごくりと唾を嚥んで、それから煙を吐き出すのである。
彼は周りが寂しいとも何とも思わなかった。
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彼は周圍が寂しいとも何とも思はなかつた。
しかし彼自身は、見るからに乾いて憐れげであった。
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然し彼自身は見るから枯燥して憐れげであつた。
彼は少しきりきりと痛む腰を伸ばして、荷物を背負って立った。
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彼は少しきや/\と痛む腰を延して荷物を脊負つて立つた。
捨てたマッチの燃えさしが道端の枯れ草に火をつけて、あざ笑うような火がべろべろと広がっても、見向こうともしないほど彼はけだるげである。
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捨てた燐寸の燃えさしが道端の枯草に火を點けて愚弄するやうな火がべろ/\と擴がつても、見向かうともせぬ程彼は懶げである。
野田からは四十キロに足らない平地の道を、鬼怒川に沿った自分の村まで来るのに、冬の短い日が雑木林のこずえに彼を待たなかった。
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野田からは十里に足らぬ平地の道を鬼怒川に沿うた自分の村落まで來るのに、冬の短い日が雜木林の梢に彼を待たなかつた。
彼は自分の家に着いた時は、醤油を提げた手が痛いほど冷えていた。
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彼は自分の家に着いた時は醤油を提げた手が痛い程冷えて居た。
彼はやっとのことで戸口に立った。
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彼は漸のことで戸口に立つた。
勘次を呼ぼうとしてみたら、中はひっそりと暗い。
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勘次を喚ばうとして見たら内はひつそりと闇い。
戸口に手を当ててみたら、鍵が掛けてあった。
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戸口に手を當てゝ見たら鍵が掛てあつた。
「いたかい」
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「居たかえ」
それでも卯平は怒鳴ってみたが、返事がない。
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それでも卯平は呶鳴つて見たが返辭がない。
卯平は口の中で呟いて、裏の戸口へ回ってみたら、そこは内から掛け金が掛かっている。
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卯平は口の内で呟いて裏戸口へ廻つて見たら其處は内から掛金が掛つて居る。
彼はそれでも煙管を出して、戸の隙間から掛け金をぐっと突いたら、栓を差してなかったのですぐに外れた。
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彼はそれでも煙管を出して戸の隙間から掛金をぐつと突いたら栓を揷てなかつたので直に外れた。
彼は暗い敷居をまたいで、袂のマッチをすっとつけた。
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彼は闇い閾を跨いで袂の燐寸をすつと點けた。
幾年いなくても勝手を知っているので、彼は柱へ掛けてある手ランプをつけて、取りあえず手足を暖めるために、そだをぽちぽちと折って火鉢へくべた。
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幾年居なくても勝手を知つて居るので彼は柱へ懸てある手ランプを點けて、取り敢ず手足を暖める爲に麁朶をぽち/\と折つて火鉢へ燻べた。
すすけた薬缶を五徳へ掛けて、それから彼はわらじを取った。
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煤けた藥罐を五徳へ掛てそれから彼は草鞋をとつた。
乾いた道を歩いて来たので、いくらも汚れない足の底を二、三度ずつ手でこすって、座敷へ上がった。
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乾いた道を歩いて來たので幾らも汚れない足の底を二三度づゝ手でこすつて座敷へ上つた。
勘次は南の風呂へ行っていた。
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勘次は南の風呂へ行つて居た。
彼は昼はわずかの暇をも惜しんで働くので、一つにはそれが夜なべの仕事に励み得ないほどの疲れを覚えさせているのでもあるが、少し懐が窮屈でなくなってからは、長い夜の休みの時間にはめったに縄をなうこともなく、風呂に行ってはよく話をしながら出がらしの茶をすすった。
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彼は晝は寸暇をも惜んで勞働をするので一つには其れが夜なべの仕事を勵み得ない程の疲勞を覺えしめて居るのでもあるが、少し懷が窮屈でなくなつてからは長い夜の休憇時間には滅多に繩を綯ふこともなく風呂に行つては能く噺をしながら出殼の茶を啜つた。
その夜、与吉は南の女房から、薄荷の入った駄菓子を二つばかりもらった。
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其夜與吉は南の女房から薄荷の入つた駄菓子を二つばかり貰つた。
裏の垣根から桑畑を越えて歩きながら、与吉は菓子をなめた。
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裏の垣根から桑畑を越えて歩きながら與吉は菓子を舐つた。
「どれ、おれにもちょっと出してみないか」
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「どれ、俺げもちつと出て見ねえか」
おつぎは与吉の手から少し欠いて、自分の口へ入れた。
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おつぎは與吉の手から少し缺いて自分の口へ入れた。
「姉は大きく欠いちゃいやだぞう」
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「姊は大かくおつ缺えちや厭だぞう」
与吉は心配して言うと
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與吉は懸念していふと
「ああ薄荷だ、これは。口の中がすうすうすらあ。おとっつあんにもやってみろ」
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「おゝ薄荷だこら、口ん中すう/\すら、おとつゝあげも遣つて見ろ」
おつぎはまた菓子へ手を掛けようとすると
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おつぎは又た菓子へ手を掛けようとすると
「いいから、よきになめさせろ」
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「えゝから、よきげ嘗めさせろ」
勘次はおつぎを制した。
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勘次はおつぎを制した。
三人は他人の目が開いていない闇夜の小道を、こうして自分の庭へ戻った。
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三人は他人の目が開いてない闇夜の小徑を恁うして自分の庭へ戻つた。
「どうしたんだろう、おとっつあん」
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「どうしたんだんべ、おとつゝあ」
おつぎは戸の隙間から差す明かりを見て、にわかに立ち止まって言った。
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おつぎは戸の隙間から射す明りを見て俄に立ち止つていつた。
勘次はすくんだようになって黙った。
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勘次は竦んだやうに成つて默つた。
おつぎは戸の隙間からのぞいて
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おつぎは戸の隙間から覗いて
「爺さんみたいだな、おとっつあん」
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「爺見てえだな、おとつゝあ」
と小声で告げた。
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と小聲で告げた。
それから勘次ものぞいて、鍵を外して入った。
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それから勘次も覗いて、鍵を外して這入つた。
与吉は見知らない爺さんがいるので、恥ずかしがっておつぎの後ろへ隠れた。
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與吉は見識らぬ爺さんが居るので羞かんでおつぎの後へ隱れた。
「爺さんだ」
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「爺だ」
と、おつぎは叫んで卯平のそばへ寄った。
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とおつぎは叫んで卯平の側へ寄つた。
「爺さんは今日来たのか」
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「爺は今日來たのか」
おつぎの挨拶に続いて
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おつぎの挨拶に續いて
「おとっつあん、遅かったな」
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「おとつゝあ遲かつたな」
勘次も言った。
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勘次もいつた。
「出だすのもそんなに早くはなかったっけが、しばらく歩きつけないせいか、なんぼにも足が出ないで、こんなに遅くなるつもりもなかったっけが」
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「出だすのもそんなに早かなかつたつけが、暫く歩きつけねえ所爲かなんぼにも足が出ねえで、かういに遲くなる積もなかつたつけが」
卯平は重い口で言った。
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卯平は重い口でいつた。
「よっぽど待っていたか、爺さんは」
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「餘つ程待つてゝか爺は」
おつぎは、そだを折り足しながら言った。
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おつぎは麁朶を折り足しながらいつた。
「火を吹きつけたばかりよ」
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「火吹つたけたばかりよ」
卯平は、その窪んだ茶色の目をしかめるようにして
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卯平は其の窪んだ茶色の眼を蹙めるるやうにして
「おつうも大きくなったな。途中でなんぞ行き会っちゃ分からないな。そんだが、お前はさすがにおれのことは忘れなかったっけな」
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「おつうも大かくなつたな、途中でなんぞ行逢つちや分んねえな、そんだが汝りや有繋俺れこた忘れなかつたつけな」
「忘れまいな、爺さんは」
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「忘れめえな爺は」
おつぎは卯平に対して、こそばゆい一皮が間を隔てているような感じがしていながら、そのくせ甘えたような舌で言って、ちゅうちゅうと鳴り出した薬缶へ手を掛けた。
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おつぎは卯平に對してこそつぱい一皮が間を隔てゝ居るやうな感じがして居ながら、其の癖の甘えた樣な舌でいつてちう/\と鳴り出した藥罐へ手を掛けた。
卯平は、おつぎの挨拶を今さらのごとくしみじみと嬉しく感じた。
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卯平はおつぎの挨拶を今更の如くしみ/″\と嬉しく感じた。
卯平は、お品が死んで三年目の盆に来た時、不器用な様子の彼がどうして思いついたか、おつぎへ花簪を一つ買って来た。
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卯平はお品が死んで三年目の盆に來た時不器用な容子の彼がどうして思ひついたかおつぎへ花簪を一つ買つて來た。
十七のおつぎが、どれほどそれを喜んだか知れなかった。
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十七のおつぎがどれ程それを喜んだか知れなかつた。
おつぎはけっしてそれを忘れなかった。
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おつぎは決してそれを忘れなかつた。
「爺さんにお茶を入れよう」
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「爺げお茶入えべえ」
おつぎは立って茶碗を洗った。
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おつぎは立つて茶碗を洗つた。
卯平は濃霧に塞がれた森の中へ踏み込むような、一種の不安を感じながら来たのであったが、彼はおつぎの仕打ちに心が晴れ晴れした。
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卯平は濃霧に塞がれた森の中へ踏込むやうな一種の不安を感じつゝ來たのであつたが、彼はおつぎの仕打に心が晴々した。
卯平は、まだ菓子をなめながら隠れるようにしている与吉を見て
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卯平は、まだ菓子を舐りながら隱れるやうにして居る與吉を見て
「おれのことを忘れただろう、これは。大きくなったと思って来たっけが、本当に分からないほど大きくなったな」
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「俺れこと忘れたんべ此ら、大かく成つたと思つて來たつけが本當に分んねえ程大かく成つたな」
口数の少ない卯平が、この夜はいろいろにしゃべった。
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寡言な卯平が此の夜は種々に饒舌つた。
「これでも学校へ行くんだもの」
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「此んでも學校へ行くんだもの」
おつぎは茶を入れながら言った。
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おつぎは茶を入れながらいつた。
「そうら」
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「さうら」
と、卯平は荷物へ縛りつけた煎餅の包みを、与吉へ投げ出してやった。
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と卯平は荷物へ縛りつけた煎餅の包を與吉へ投げ出してやつた。
「おつう、手拭いを解いてみないか。野田でも一番うまいんだから」
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「おつう、手拭解えて見ねえか、野田でも一番うめえんだから」
卯平は言ったが、おつぎの手が手間取るので、自分で手拭いを解いて勘次の前へ出して、彼はさらに一枚を取って与吉へやった。
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卯平はいつたがおつぎの手が暇どれるので自分で手拭を解いて勘次の前へ出して、彼は更に一枚をとつて與吉へ遣つた。
「よき、それをもらうもんだ。爺さんがくれるというのに」
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「よき、それ貰あもんだ。爺呉れるつちのに」
おつぎは茶碗を卯平と勘次との前へ据えながら言った。
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おつぎは茶碗を卯平と勘次との前へ据ゑつゝいつた。
「こっちへ上がってもらうもんだ」
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「こつちへ上つて貰あもんだ」
勘次も言った。
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勘次もいつた。
土間に立っていた与吉は、そっと草履を脱いで、危なそうに手を出して取った。
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土間に立つて居た與吉はそつと草履を脱いで危險相に手を出して取た。
そうしてすぐに、盗むようにかじった。
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さうして直ぐに偸むやうに噛んだ。
「遠くのほうのだぞ。お前、うまかろう」
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「遠くの方のがんだぞ、汝うまかんべ」
おつぎは自分も一枚をかじりながら言った。
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おつぎは自分も一枚を噛り乍らいつた。
「うまくないや、そんなに」
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「うまかねえやそんなに」
与吉はおつぎの袂へ隠れるようにして言った。
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與吉はおつぎの袂へ隱れるやうにしていつた。
甘味の強い菓子をかんだ口に、そうして醤油の味を区別するまで育った舌を持たない与吉は、卯平が遠くからもたらしたと聞かされたほどには感じなかったのである。
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甘味の強い菓子を噛んだ口に、さうして醤油の味を區別するまで發達した舌を持たない與吉は卯平が遠く齎したと聞かせられた程には感じなかつたのである。
「そんなこと言うもんじゃない。そんなら姉によこしちまえ」
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「其麽こといふもんぢやねえ、そんだら姊げよこしつちめえ」
おつぎは小さな声で言って、尻目に掛けた。
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おつぎは小さな聲でいつて尻目に掛けた。
与吉はそう言われながら、手にしただけはぽりぽりとかじった。
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與吉はさういひ乍ら手にした丈はぽり/\と噛んだ。
乾いた響きが、三人の口に鳴った。
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乾燥した響が三人の口に鳴つた。
卯平は幾杯も、ただ茶をすすった。
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卯平は幾杯も只茶を啜つた。
丈夫だといっても、彼は歯がげっそりと落ちて、柔らかな物でなければかめなくなっていた。
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壯健だといつても彼は齒がげつそりと落ちて軟かな物でなければ噛めなくなつて居た。
卯平はまた、おつぎへ醤油の瓶を出して
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卯平は又おつぎへ醤油の罎を出して
「おれが持って来ればなんぼでもわけないんだが、荷物があるもんだから、これっきりしか持っては来られなかった。これでもおれは、蔵じゃこの上はないんだ。炊事はお前がするんだろうから、お前がそっちへしまっておけな」
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「俺れ持つて來ればなんぼでも譯ねえんだが荷物があるもんだから、此れつ切しか持つちや來ねえつちやつた、此んでも俺ら藏ぢや此上はねえんだ、炊事は汝すんだんべから、汝そつちへ藏つて置けな」
「大変だったな、爺さん。荷物があるのになあ。これだけじゃしばらくあるだろうよ」
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「大變だつけな爺、荷物あんのになあ、此れだけぢや暫らくあんべよ」
おつぎは瓶を柱のそばへ置いた。
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おつぎは罎を柱の傍へ置いた。
「荷物はそうでもないが、体が利かないでな、どうも」
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「荷物はさうでもねえが、身體利かねえでな、どうも」
卯平は煙管をかんだ。
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卯平は煙管を噛んだ。
「爺さんはどうしただろう。ご飯を食べたんだろうか」
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「爺はどうしたつぺ、お飯たべたんべか」
おつぎは、敢えて言いかけるという態度でもなく、勘次に向かって言った。
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おつぎは敢ていひ掛けるといふ態度でもなく勘次に向つていつた。
「おれはどっちでもいいや」
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「おらどつちでもえゝや」
卯平は少し遠慮を交えて言った。
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卯平は少し遠慮を交へていつた。
「どっちでもいいって、腹が減っちゃ仕方があるまいな」
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「どつちでもえゝつて腹減つちやしやうあんめえな」
おつぎは茶碗と箸とを棚から下ろした。
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おつぎは茶碗と箸とを棚から卸した。
「菜っ葉の漬けたのはどうしただろう」
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「菜つ葉の漬たなどうしたんべ」
おつぎは振り返って聞いた。
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おつぎは顧みて聞いた。
「おれは要らないや。歯が悪くなっちまってかめないから」
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「俺ら要らねえや、齒悪くなつちやつて噛まんねえから」
「そんじゃ細かく刻んだらどうしただろう」
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「そんぢや細かく刻んだらどうしたんべ」
おつぎはとんとんと包丁を使った。
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おつぎはとん/\と庖丁を使つた。
「お汁がまあ、ちっとも実なんざないや。よき、お前がみんな芋をすくっちまったな」
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「お汁まあ、ちつとも身なんざねえや、よき汝みんな芋すくつちやつたな」
おつぎは鍋ぶたを取って言った。
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おつぎは鍋葢をとつていつた。
「お汁も何も要らないから、一杯かっ込もう」
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「お汁も何も要らねえから一杯掻つ込んべ」
卯平はじれったそうに言った。
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卯平は遲緩し相にいつた。
「そんじゃ、この醤油を掛けてみような」
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「そんぢや此醤油掛けてんべな」
おつぎは卯平の前に膳を据えて、瓶の醤油を菜漬けへ掛けた。
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おつぎは卯平の前に膳を据ゑて罎の醤油を菜漬へ掛けた。
「それ、底のほうへ回ってこぼれらあな」
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「それ、底の方へ廻つて零れらな」
勘次はさっきから、怒ったような恥ずかしがったような、なんだか落ち着きの悪い手持ち無沙汰な顔をして、かえって自分をじっと見もしない卯平の目から外れるように、よそを見てはまたちらと卯平を見つつあったが、この時おつぎの手元へ口を挟んだ。
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勘次は先刻から、怒つたやうな羞かんだやうな、何だか落付の惡い手持のない顏をして、却て自分をば凝然と見もせぬ卯平の目から外れるやうに、餘所を見ては又ちらと卯平を見つゝあつたが此時おつぎの手許へ嘴を容れた。
その時、醤油がごっと出て菜漬けが漂うばかりになった。
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其の時醤油がごつと出て菜漬が漂ふばかりに成つた。
「そうれ見ろ」
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「そうれ見ろ」
勘次はそっけなく言った。
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勘次はそつけなくいつた。
おつぎが瓶を再び柱のそばへ置くと
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おつぎが罎を再び柱の傍へ置くと、
「まだそこでひっくり返しちゃ大変だぞ。戸棚へでも入れておけ」
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「まだ其處で引つくるけえしちや大變だぞ、戸棚へでも入えて置け」
勘次はまた注意した。
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勘次は復た注意した。
卯平は薬缶の湯を注いで、三杯を食べた。
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卯平は藥罐の湯を注いで三杯を喫した。
わずかに醤油の味のみが、数年来の彼の舌にうまさを失わなかったが、挽き割り麦の勝った粗い飯は、歯茎がとうていそれをかみ砕けないので、こそばゆいまま飲み下した。
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僅に醤油の味のみが數年來の彼の舌に好味たるを失はなかつたが、挽割麥の勝つた粗剛い飯は齒齦が到底それを咀嚼し能はぬのでこそつぱい儘に嚥み下した。
おつぎが膳を引こうとすると
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おつぎが膳を引かうとすると
「その醤油はうっちゃらないで、大事にしておけ」
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「其の醤油は打棄らねえで大事にして置け」
勘次は小皿の数滴を惜しんだ。
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勘次は小皿の數滴を惜んだ。
「そんなこと言わなくたって、うっちゃる者もあるまいな」
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「其麽こと云はねえつたつて打棄るもなあんめえな」
おつぎは、干渉が過ぎた勘次の注意がいやだと思うよりも、たまたま会った卯平のそばで言われるのがきまりが悪いので、喉の底で呟いた。
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おつぎは干渉に過ぎた勘次の注意が厭だと思ふよりも、偶逢つた卯平の側でいはれるのが極りが惡いので喉の底で呟いた。
「姉、もう一枚くれないか」
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「姊今一枚くんねえか」
与吉は流し元に手を動かしているおつぎへ、きわめて小さな声で求めた。
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與吉は流し元に手を動かして居るおつぎへ極めて小さな聲で請求した。
「お前は、そっからうまくないなんて言うもんじゃない。すぐほしくなるくせに」
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「汝りや、そつから佳味かねえなんていふもんぢやねえ、直ぐ欲しくなる癖に」
おつぎはこっそり叱った。
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おつぎはこつそり叱つた。
「そうら、お前に買って来たんだ。ほしけりゃいくらでも持って行け」
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「そうら汝げ買つて來たんだ、欲しけりや幾らでも持つてけ」
卯平は不器用な言い方をしながら、煎餅を取ってやった。
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卯平は不器用ないひ方をしながら煎餅をとつて遣つた。
与吉はそれでも、窪んだ目をしかめている卯平がまだこそばゆくて、指の先で下唇を口の中へ押し込むようにしながら、額越しに卯平を見た。
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與吉はそれでも窪んだ目を蹙めて居る卯平がまだこそつぱくて指の先で下唇を口の中へ押し込むやうにしながら額越しに卯平を見た。
一七
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十七
次の朝、与吉はまだみなの膳の据えられないうちから、学校へ行くとては騒いだ。
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次の朝與吉はまだ皆の膳の据ゑられぬうちから學校へ行くとては騷いだ。
村の生徒らは登校の早いことを教師からただ一言でも褒められてみたいので、慌てなくてもいいのに、汁も煮立たないうちからねだるのである。
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村落の生徒等は登校の早いことを教師から只一言でも褒められて見たいので、慌てなくても善いのに汁も煮立たぬうちから強請むのである。
与吉はこれで、毎朝おつぎからうるさがられていた。
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與吉は此れで毎朝おつぎから五月蝿がられて居た。
与吉は風呂敷包みを背負って、おつぎに弁当を包んでもらいながら
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與吉は風呂敷包を脊負つておつぎに辨當を包んで貰ひながら
「煎餅をくれないか」
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「煎餅くんねえか」
と求めた。
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と要求した。
「まだそんなこと。そんだからお前には見せられないというんだ。爺さんに怒られるから見ろ」
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「まださうだこと、そんだから汝げは見せらんねえつちんだ、爺に怒られつから見ろ」
おつぎは叱って振り返らなかった。
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おつぎは叱つて顧みなかつた。
勘次はその時、外の壁際に積んだ木の根をぱかりぱかりと割っていた。
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勘次は其の時外の壁際に積んだ木の根をぱかり/\と割つて居た。
卯平は一日歩いた疲れがひどく出たようでもあるし、また自分の村へ帰ったので心がゆったりとしたようでもあるし、それにこの数年来は火の番の癖で朝はゆっくりとしているのが常であったので、彼はその時、布団の中にじっと目を開いておつぎの働いているのを見ていたが
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卯平は一日歩いた草臥が酷く出たやうでもあるし、又自分の村落へ歸つたので心が悠長とした樣でもあるし、それに此の數年來は火の番の癖で朝はゆつくりとして居るのが例であつたので、彼は其の時蒲團の中に凝然と目を開いておつぎの働いて居るのを見て居たが
「ほしいというんなら出してやれ」
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「欲しいつちんだら出して遣れえ」
と彼は言った。
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彼はいつた。
おつぎは戸棚から煎餅を一枚出して、与吉へ渡した。
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おつぎは戸棚から煎餅を一枚出して與吉へ渡した。
与吉はすっと奪うようにして取った。
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與吉はすつと奪ふ樣にして取つた。
「しらばっくれて」
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「しらばつくれて」
おつぎは、斜めに背負った本の上から与吉をぱたと叩いた。
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おつぎは斜に脊負つた書藉の上から與吉をぱたと叩いた。
与吉は霜の白く覆った庭を、小さな下駄でからからと鳴らしながら、逃げるように駆けて行った。
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與吉は霜の白く掩た庭を小さな下駄でから/\と鳴らしながら遁げるやうに駈けて行つた。
卯平は窪んだ目をしかめて、一種の暖かな表情を示して与吉の後ろ姿を見た。
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卯平は窪んだ目を蹙めて一種の暖かな表情を示して與吉の後姿を見た。
勘次は割った薪を草刈り籠へ入れて、かまどの前へ置いて朝飯の膳に向かって、一杯を盛った。
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勘次は割つた薪を草刈籠へ入れて竈の前へ置いて朝餉の膳に向つて、一碗を盛つた。
おつぎは気がついたように
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おつぎは氣がついた樣に
「爺さんのことを起こそうか」
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「爺こと起すべか」
と言って、勘次が返事しないうちに
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といつて勘次が返辭せぬ内に
「爺さん、ご飯ができたよ」
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「爺、お飯出來たよ」
と卯平を呼んだ。
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卯平を喚んだ。
「先にやってくれよ」
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「先やつてくろえ」
卯平はそう言って、しばらくたってから布団を出て井戸端へ行った。
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卯平はさういつて暫く經つてから蒲團を出て井戸端へ行つた。
卯平は幾年目かで、冷たい水で顔を洗った。
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卯平は幾年目かで冷たい水で顏を洗つた。
彼は近ごろにない早起きをしたので、霜の白い庭に立って、こわばった足の爪先が痛くなるほど冷たいのを感じた。
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彼は近來にない晨起きをしたので、霜の白い庭に立つて硬ばつた足の爪先が痛くなる程冷たいのを感じた。
火鉢のそばへ座っても煙草の火もないので、彼は自分でかまどの下の燃えさしを灰のまま取った。
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火鉢の側へ坐つても煙草の火もないので彼は自分で竈の下の燃えさしを灰の儘とつた。
おつぎは勘次が煙草を吸わないので、ちょっと煙草の火を取ることにまでは気づかなかった。
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おつぎは勘次が煙草を吸はないので一寸煙草の火をとることにまでは心附かなかつた。
野田では始終かんかんと堅炭を熾して、湯はいくらでも沸いて、夜でも部屋の中に火の気の去ることはないのである。
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野田では始終かん/\と堅炭を熾して湯は幾らでも沸つて夜でも室内に火氣の去ることはないのである。
卯平は遅れて箸を取ったが、飯は暖かいというだけで、大釜で炊いたように程よい柔らかさを保ってはいないし、汁もその舌にひどくこそばゆく、かつまずかった。
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卯平は後れて箸を執つたが、飯は暖かいといふ迄で大釜で炊いた樣に程よい軟かさを保つては居ないし、汁も其の舌に酷くこそつぱく且不味かつた。
彼は味噌には、分量を増すために醤油粕がかき混ぜてあることを知った。
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彼は味噌には分量を増す爲に醤油粕が掻き交ぜてあることを知つた。
勘次は鍬を取って立った。
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勘次は鍬を執つて立つた。
彼は毎日唐鍬を持って出ていたのであったが、この日はおつぎを連れて麦畑の冬起こしに出るのであった。
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彼は毎日唐鍬を持つて出て居るのであつたが此の日はおつぎを連れて麥畑の冬墾に出るのであつた。
卯平は独り、ぽつんと残された。
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卯平は獨で㷀然と残された。
丈夫な建物に箒を入れて清潔に住んで来た彼は、天井もない屋根裏からすすが垂れて、そうして雨戸を開けてない薄暗い家の中にじっとしていては、妙に心が滅入った。
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丈夫な建物に箒を入れて清潔に住んで來た彼は天井もない屋根裏から煤が垂れてさうして雨戸を開けてない薄闇い家の内に凝然としては妙に心が滅入つた。
毎日朝から尻切れ襦袢一つで、熱湯の桶を右の手で肩に支えては駆け歩く、威勢のいい若者の間に交じって唄の声を聞いていたのに、一つには疲れも出たためでもあるが、わずか一日の隔たりで、彼はにわかに年を取ったほどげっそりとやつれたような心持ちになった。
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毎日朝から尻切襦袢一つで熱湯の桶を右の手で肩に支へては駈け歩く威勢の善い壯丁の間に交つて唄の聲を聞て居たのに、一つには草臥も出た爲でもあるが僅一日の隔で彼は俄に年齡をとつた程げつそりと窶れたやうな心持に成つた。
みなの夜具は、ただ壁際に端をめくったまま突きつけてある。
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皆の夜具は只壁際に端を捲くつた儘で突きつけてある。
卯平はそこをじっと見た。
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卯平は其處を凝然と見た。
箱枕のくくりは紙で包んでないばかりでなく、生地の縞目も分からないほど汚く脂に染まっている。
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箱枕の括りは紙で包んでないばかりでなく、切地の縞目も分らぬ程汚なく脂肪に染つて居る。
土間の壁際に吊った竹かごのねぐらには、鶏の糞がいっぱいに溜まったと見えて、異臭が鼻を突いた。
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土間の壁際に吊つた竹籃の塒には鷄の糞が一杯に溜つたと見えて異臭が鼻を衝いた。
卯平は生まれつきがきれい好きであったが、百姓の暮らしをして、それに非常な貧乏からどうしても汚い物の間に起き伏しせねばならないので、彼も野田へ行くまではそれをも別段苦にはしなかったのであるが、たとえ幾年でも清潔な住まいをした彼は、生まれつきを助長して一種の習慣を養った。
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卯平は天性が清潔好であつたが、百姓の生活をして、それに非常な貧乏から什麽にしても穢ない物の間に起臥せねばならぬので彼も野田へ行くまではそれをも別段苦にはしなかつたのであるが、假令幾年でも清潔な住ひをした彼は天性を助長して一種の習慣を養つた。
彼が家に帰ったのは、お品が死んだ時でも、それから三年目の盆の時でも、家はがらんと清潔になっていて、それほど汚い感じは与えられなかった。
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彼が家に歸つたのはお品が死んだ時でも、それから三年目の盆の時でも家は空洞と清潔に成つて居てそれほど汚穢い感じは與へられなかつた。
彼は今、盛んな暑い日を仰いだ目を放って、にわかに物陰を探そうとする者のように、ひどく勝手が違ったのである。
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彼は今熾な暑い日を仰いだ目を放つて俄に物陰を探さうとするものゝやうに酷く勝手が違つたのである。
彼はしばらく好きな煙草にかかりきっていたが、ようやく日が暖かくなりかけたので、まれに生き残っている昔の仲間や近所への義理かたがた、顔を出すつもりで外へ出た。
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彼は暫く好な煙草に屈託して居たが漸く日が暖く成り掛けたので、稀に生存して居る往年の朋輩や近所への義理かた/″\顏を出す積で外へ出た。
勘次とおつぎとが昼飯に帰って来た時、卯平はいなかった。
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勘次とおつぎとが晝餐に歸つて來た時に卯平は居なかつた。
彼は夜になって、のっそりと戸口に立った。
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彼は夜に成つてのつそりと戸口に立つた。
勘次が庭へ出ようとして大戸をがらりと開けた時、卯平とぶつかりそうになった。
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勘次が庭へ出ようとして大戸をがらりと開けた時卯平と衝突り相に成つた。
勘次は足元にずるずると横たわった蛇を見つけた刹那のごとく、ぞっとして退いた。
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勘次は足もとにずる/\と横はつた蛇を見つけた刹那の如く悚然として退去つた。
卯平は欠けた歯茎で煙管を横にかんでは、唇をぎっと締めると、口がすすきで裂いたように見えた。
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卯平は缺けた齒齦で煙管を横に噛んでは脣をぎつと締めると口が芒で裂いた樣に見えた。
老いてから余計にのっそりした卯平の体は、それでも以前のがっしりした骨格がそびえて、そばにいる勘次を異様に圧した。
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老衰してから餘計にのつそりした卯平の身體は、それでも以前のがつしりした骨格が聳えて側に居る勘次を異樣に壓した。
卯平は五、六日の間、毎日ただぶらぶらと出ては、たそがれ近くか、そうでなければ夜になって帰った。
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卯平は五六日の間毎日唯ぶら/\と出ては黄昏近くかそれでなければ夜に成つて歸つた。
勘次は毎日、唐鍬を持って林へ出た。
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勘次は毎日唐鍬持つて林へ出た。
おつぎは半纏を引っ掛けて、針の師匠へ通った。
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おつぎは半纏を引掛けて針の師匠へ通つた。
おつぎはもう幾年という長い間のことではあるが、それでも決まった月日を続けて針仕事に励む余裕がなく、ようやく手についたかと思うと途中を切ったり止めたりするので、思うような上達はなかった。
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おつぎはもう幾年といふ永い間のことではあるが、それでも極つた月日を繼續して針仕事を勵む餘裕がなく漸く手についたかと思ふと途中を切つたり止めたりするので思ふ樣な上達はなかつた。
おつぎは暇を盗んでは、一生懸命で針を取った。
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おつぎは暇を偸んでは一生懸命で針を執つた。
卯平がのっそりとして箸を持つのは、毎朝こせこせと忙しい勘次がわらじをはいて出ようとする時である。
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卯平がのつそりとして箸を持つのは毎朝こせ/\と忙しい勘次が草鞋を穿て出ようとする時である。
おつぎは卯平のために火鉢へ炭火を埋けてやったり、お鉢をそばへ供えたりするので、いくらか時間が遅れる。
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おつぎは卯平の爲に火鉢へ煨を活けてやつたり、お鉢を側へ供へたりするので幾らか時間が後れる。
そうすると勘次は、かついだ唐鍬をどさりと置いたり、敷居を出たり入ったり、ただもじもじとしていては、口に出せない何かを包むような恐ろしい権幕でおつぎを見る。勘次はそれでも満足しないで、おつぎの姿が戸口を出るまでは庭に立っていることもある。
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さうすると勘次は擔いだ唐鍬をどさりと置いたり、閾を出たり這入つたり、唯忸怩として居ては、口に出せない或物を包むやうな恐ろしい權幕でおつぎを見る、勘次はそれでも慊らないでおつぎの姿が戸口を出るまでは庭に立つて居ることもある。
勘次は毎朝出て行く方面が違っているにもかかわらず、同時に立って行くのを見なければ心が済まないのであった。
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勘次は毎朝出て行く方面が異つて居るにも拘らず、同時に立つて行くのを見なければ心が濟まないのであつた。
毎朝そうするので
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毎朝さうするので
「おとっつあんは行けな。爺さんのことを見てやらなくちゃなるまいな」
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「おとつゝあは行けな、爺こと見てやんなくつちや成んめえな」
おつぎはひそかに勘次をたしなめて言うことがある。
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おつぎは竊に勘次を窘めていふことがある。
勘次は恐ろしい権幕でじっと立ったまま、おつぎを睨んで、そうして卯平をちらと一目見ては、卯平の目を憚るようにして、さっさと唐鍬をかついで出て行く。
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勘次は恐ろしい權幕で凝然と立つた儘おつぎを睨んでさうして卯平をちらと一瞥しては、卯平の目を憚る樣にしてさつさと唐鍬を擔いで出て行く。
卯平は自分のためにおつぎが遅くなる時には
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卯平は自分の爲におつぎが遲く成る時には
「おれは自分でやるから、お前は構わないで行けよ」
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「俺ら自分でやつから汝りや構あねえで行けよ」
と、おつぎを促し立てた。
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おつぎを促し立てた。
卯平は当座のうちはそこらここらへ行っては、自分からは求めないでも、しばらく会わなかった間柄で、短い日の落ちるのも知らずに話をしては、百姓相応なまずいごちそうになるのであったが、だんだん互いに珍しくなくなってからは、彼はあまり外へも出ないで、ぽつんとして好きな煙草にのみかかりきった。
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卯平は當座の内は其處ら此處らへ行つては自分からは求めないでも、暫く遭はなかつた間柄で、短い日の落ちるのも知らずに噺をしては百姓相當な不味い馳走に成るのであつたが、段々互に珍らしくなくなつてからは彼は餘り外へも出ないで㷀然として好きな煙草にのみ屈託した。
彼は昼飯というと、ことに冷たい粗い飯をいとって、箸を取るのがつらいようでもあった。
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彼は晝飯といふと殊に冷たい粗剛い飯を厭うて箸を執るのが辛いやうでもあつた。
それで彼は時々村の店へ行って、豆腐の一丁くらいで腹を塞いだ。
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其れで彼は時々村落の店へ行つて豆腐の一丁位に腹を塞げた。
皿の豆腐を隅から箸でちぎってみては、あまりに冷たいので、腰の痛みを思い出して小さな鍋を借りて温めた。
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皿の豆腐を隅から箸で拗切つて見ては餘りに冷いので、腰の痛みを思ひ出して小さな鍋を借りて暖めた。
そうしてはつい一杯の酒がほしくなって、そこでむっつりと時間を潰した。
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さうしては遂一杯の酒が欲くなつて其處でむつゝりと時間を潰した。
豆腐は彼の歯茎に、もっとも適した食べ物であった。
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豆腐は彼の齒齦に最も適當した食料であつた。
卯平は体が悪くなってからわずかの間でも覚悟をしたので、いくらでも財布には蓄えができていた。
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卯平は身體が惡く成つてから僅の間でも覺悟をしたので幾らでも財布には蓄へが出來て居た。
彼はどれほど節約しても、ついにじりじりと減って行くのみである財布にすがって、すすきで裂いたように閉じたその口に、何でもかみ殺しているのだという様子をして、その日その日と刻んで過ごした。
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彼は何程節約しても遂にじり/\と減て行くのみである財布に縋つて、芒で裂いた樣に閉ぢた其の口に何でも噛み殺して居るのだといふ容子をして其日々々と刻んで過した。
彼は一日じっとして、冷たい火鉢の前にあぐらをかいていることもあった。
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彼は一日凝然として冷たい火鉢の前に胡坐を掻いて居ることもあつた
与吉は学校から帰って、ひっそりとした家にただ卯平がむっつりとしているのを見ると、威勢よく駆けて来たのもしょげて、風呂敷包みの本をばたりと座敷へ投げて、庭へ出てしまう。
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與吉は學校から歸つてひつそりとした家に只卯平がむつゝりとして居るのを見ると威勢よく駈けて來たのも悄げて風呂敷包の書籍をばたりと座敷へ投げて庭へ出て畢ふ。
卯平は
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卯平は
「よき、待ってろ、そら」
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「よき、待つてろ、そら」
と、財布から面倒に五厘の銅貨を拾い出して投げてやる。
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と財布から面倒に五厘の銅貨を拾ひ出して投てやる。
与吉は戸の陰にいては、もじもじして容易に取らないで、しかもほしそうにむしろの上の銅貨を見る。
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與吉は戸の陰に居ては忸怩して容易に取らないで然も欲し相に筵の上の銅貨を見る。
卯平はそうすると、またのっそりとけだるげに体を戸口まで動かして、与吉の手に渡してやる。
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卯平はさうすると又のつそりと懶げに身體を戸口まで動かして與吉の手に渡してやる。
与吉は一散に駆けて、菓子を求めに行く。
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與吉は一散に駈けて菓子を求めに行く。
卯平の窪んだ茶色の目が、後で独りしかめたようになるのである。
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卯平の窪んだ茶色の眼が後で獨蹙んだやうに成るのである。
卯平が村の店にけだるい体を据えて煙草を吹かしている所へ、与吉が行き合わせることがあっても、遠くのほうから卯平を見ていて、近づきもしないが去ろうともしないでいる。
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卯平が村落の店に懶い身體を据ゑて煙草を吹かして居る處へ與吉は行合せることがあつても遠くの方から卯平を見て居て、近づきもしないが去らうともしないで居る。
卯平は必ずガラス戸を立てて、店台から自分で菓子を取ってやる。
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卯平は屹度ガラス戸を立て店臺から自分で菓子をとつてやる。
それでも与吉は、菓子をかじりながらそばへは寄ろうともしなかった。
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それでも與吉は菓子を噛ぢりながら側へは寄らうともしなかつた。
「与吉らはたいしたもんだな、始終もらって」
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「與吉らたえしたもんだな、始終もらつてな」
店の女房が言うのを聞くのは、与吉よりもむしろ卯平が心に満足を感じるのであった。
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店の女房がいふのを聞くのは與吉よりも寧ろ卯平が心に滿足を感ずるのであつた。
しかし与吉はこうしてだんだん卯平に近づいて、学校から帰ったといっては
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然し與吉は恁うして段々卯平に近づいて學校から歸つたといつては
「爺さん」
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「爺」
と言って戸口に立つようになった。
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といつて戸口に立つやうに成つた。
ついには彼は
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遂には彼は
「爺さん、くれないか」
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「爺くんねえか」
と、上がり框に胸をもたせて、ばたばたと下駄で土間を叩きながら、卯平に銭を請うようになった。
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と上り框に胸を持たせて、ばた/\と下駄で土間を叩きながら卯平に錢を請ふやうに成つた。
それでも彼は、銭とははっきりとは言わない。
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それでも彼は錢とは明白地にはいはない。
「お前は、何をくれというんだい」
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「汝りや、何くろつちんでえ」
むっつりした卯平がわざとこう聞くと
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むつゝりした卯平が態とかう聞くと
「くれないか、買うんだから」
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「呉んねえか、買あんだから」
与吉はまたぼんやりと、しかも熱心に求める。
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與吉は又ぼんやりと然も熱心に要求する。
その態度を卯平は、ただ快く思うのであった。
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其態度を卯平は只快よく思ふのであつた。
与吉がなつくまでには、日数がたった。
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與吉が懷くまでには日數が經つた。
卯平は勘次との間は予期していたごとく冷ややかではあったが、ちょうど落ち着かない藁屑を足でかき払っては鶏がとうとうその巣を作るように、彼は互いにこそばゆい勘次のそばに、いくらかずつでも身も心も落ち着かねばならなく余儀なくされた。
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卯平は勘次との間は豫期して居た如く冷がではあつたが、丁度落付かない藁屑を足で掻つ拂いては鷄が到頭其の巣を作るやうに、彼は互にこそつぱい勘次の側に幾分づゝでも身も心も落付ねばならなく餘儀なくされた。
そうして彼は、自分の定まった家そのものはたとえどうであろうとも、心の一部には遠慮から離れた余裕が生じて来て、彼はわずかに五、六日と思ううちに三十日以上を過ごしてしまったのであった。
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さうして彼は自分の定まつた家其の物は假令どうであらうとも、心の一部には遠慮から離れた餘裕が生じて來て彼は僅に五六日と思ふ内に卅日以上を經過して畢つたのであつた。
その間、彼はただの一度でも柔らかな飯を快く飲み下したことがない。労働者の多くむさぼらねばならない丈夫な胃は、とうてい柔らかな物に堪え得るところではない。
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其の間彼は只の一度でも軟かな飯を快よく嚥み下したことがない、勞働者の多く貪らねばならぬ強健なる胃は到底軟な物に堪へ得る處ではない。
歯に硬く感じる物でなければ、食事から食事までの間を保ち得ないほど、たちまちに空腹を感じてしまうからである。
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齒に硬く感ずる物でなければ食事から食事までの間を保ち能はぬ程忽ちに空腹を感じて畢ふからである。
したがって、いずれの家庭にあっても、老いた者と若い者との間には、この点の折り合いが難しい。
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隨つて孰れの家庭に在つても老者と壯者との間には此の點の調和が難事である。
しかし卯平は、老いた身をようやくのことで投げかけた心の底にわだかまった遠慮と、生まれつきの無口とで、自分から求めることは少しもなかった。
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然し卯平は老衰の身を漸くのことで投げ掛けた心の底に蟠つた遠慮と性來の寡言とで、自分から要求することは寸毫もなかつた。
彼はただ空腹を凌ぐために、日ごとにまずい口をしいて動かしつつあるのである。
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彼は只空腹を凌ぐ爲に日毎に不味い口を強ひて動かしつゝあるのである。
粗末な食べ物は、小さい時からおつぎの目にも口にもなじんでいるので、そこには何も気がつかなかった。
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疎惡な食料は少時からおつぎの目にも口にも熟して居るので、其處には何の心も附かなかつた。
まずそうな様子をして箸を取るのは、卯平がすべての場合を通じての状態なので、おつぎの目には格別の注意を起こさせるべききっかけが一つもつかまえられなかった。
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不味相な容子をして箸を執るのは卯平が凡ての場合を通じての状態なので、おつぎの目には格別の注意を起さしむべき動機が一つも捉へられなかつた。
こうしておつぎは卯平に向かって、彼がいくらかずつでも余計に満足し得る程度にまで心を尽くすことが、善意をもってしても、むしろ冷淡であるかのように見えねばならなかった。
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恁うしておつぎは卯平に向つて彼が幾分づゝでも餘計に滿足し得る程度にまで心を竭すことが、善意を以てしても寧ろ冷淡であるが如く見えねばならなかつた。
しかし卯平は、けっして心の底からおつぎを憎まなかった。
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然し卯平は決して衷心からおつぎを憎まなかつた。
卯平は時々外へ出ては豆腐を食べて、自分の膳の箸を取らないことはあるのであったが、それでも勘次は、三人のみが家族であった時よりも穀物の減る量が増えて来たことを、たちまちに目に止めた。
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卯平は時々外へ出ては豆腐を喫して自分の膳の箸を執らぬことはあるのであつたが、それでも勘次は三人のみが家族であつた時よりも穀物の減少する量が殖えて來たことを忽ちに目に止めた。
どれほど大きな体でも、卯平は八十に近い老いた者である。
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何れ程大きな身體でも卯平は八十に近い老衰者である。
一日の食べ物がどれほど要るか、それは知れたものである。
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一日の食料がどれ程要るかそれは知れたものである。
それでも勘次は、これまでよりも余計に費やさねばならない穀物について、その卑しい心がとうてい騒がされねばならなかった。
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それでも勘次は從來よりも餘計に費やさねばならぬ穀物に就いて彼の淺猿しい心が到底騷がされねばならなかつた。
勘次は卯平のいない時には、それとはなく独りぶつぶつと呟くことがあった。
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勘次は卯平の居ぬ時にはそれとはなく獨りぶつ/\と呟くことがあつた。
与吉はそれを聞いていた。
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與吉はそれを聞いて居た。
彼は、火鉢の前にじっとしていては座敷へ上がる鶏をしいしいと追いながら、むっつりとしている卯平に小さな銅貨をもらっては、それを口へ入れたり座敷へ落としたりしながら、卯平へいろいろなことをしゃべって聞かせた。
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彼は、火鉢の前に凝然として居ては座敷へ上る鷄をしい/\と逐ひつつむつゝりとして居る卯平に小さな銅貨を貰つては、それを口へ入れたり座敷へ落したりしながら卯平へ種々なことを饒舌つて聞かせた。
「爺さん」
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「爺」
と呼びかけて、彼はある日こう言った。
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と喚び掛けて彼は或る日斯ういつた。
「爺さんが来てから米がしっかり減って仕方がないって言ったぞう」
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「爺來てから米しつかり減つてしやうねえつて云つたぞう」
「うん」
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「うむ」
卯平は口にくわえた煙管を徐々に手に取って
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卯平は口に銜へた煙管を徐ろに手に取つて
「おとっつあんでもあるだろう」
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「おとつゝあでもあんべ」
卯平はげっそりと言った。
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卯平はげつそりといつた。
「おとっつあんが、何遍も言ったんだわ」
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「おとつゝあ、何遍も云つたんだわ」
卯平はまた煙管をかんで、手が少し震えた。
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卯平は又煙管を噛んで手が少し顫へた。
「言うだろうさ」
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「云はざらに」
と卯平は、じっと目をしかめながら、少し壊れた壁の一方を睨めながら言った。
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と卯平は凝然と目を蹙めつゝ少し壤れた壁の一方を睨めつゝいつた。
霜解けの庭をかき立てていた鶏が、くるりと指を巻いては足を上げて、驚いたように周りを見て、また足を踏みつけ踏みつけのっそり歩いて、戸口の敷居へしばらく乗って、ずっと伸ばした首を少し傾けて卯平を見て、ついと座敷へ上がった。
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霜解の庭を掻き立てゝ居た鷄がくるりと指を捲いては足を擧げて驚いた樣に周圍を見て、又足を踏みつけ/\のつそり歩いて戸口の閾へ暫く乘つてずつと延ばした首を少し傾けて卯平を見てついと座敷へ立つた。
卯平はいきなり煙管を叩きつけた。
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卯平はいきなり煙管を叩きつけた。
鶏は慌てて座敷のむしろへ泥を落として、敷居の外に脚を突き出したまましばらく転がっていたが、ついにはよろけよろけ鳴き騒ぎながら、遠く逃げた。
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鷄は慌てゝ座敷の筵へ泥を落して閾の外に脚を突き出した儘暫く轉がつて居たが、遂には蹌跟け/\鳴き騷ぎつゝ遠く遁た。
白い毛が抜けて、そこらじゅうにおびただしく散らばった。
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白い毛が拔けて其處ら中に夥しく散亂した。
煙管は鶏からさらに強く戸口の敷居を打って、庭の土に止まった。
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煙管は鷄から更に強く戸口の閾を打つて庭の土に止つた。
「爺さん、取ってやろうか」
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「爺とつてやんべか」
しばらくして、与吉は卯平の顔をのぞくようにして言った。
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暫くして與吉は卯平の顏を覗くやうにしていつた。
「よこせ」
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「よこせ」
卯平はしばらくたってから、むっつりとして舌を鳴らしながら言った。
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卯平は暫く經つてからむつゝりとして舌を鳴らしながらいつた。
「さあ」
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「さあ」
与吉の出した煙管を、卯平は拭きもせずに口へくわえた。
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與吉の出した煙管を卯平は拭きもせずに口へ銜へた。
しばらくしてから、卯平は苦い顔をしてじゅりじゅりと、こそばゆい口の泥をぴょっと吐き出して、それから口を着物でこすった。
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暫くしてから卯平は苦い顏をしてぢより/\とこそつぱい口の泥をぴよつと吐き出してそれから口を衣物でこすつた。
彼はまた煙草を吸いつけようとして、羅宇にひびが入ったのを知った。
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彼は又煙草を吸ひつけようとしては羅宇に罅が入つたのを知つた。
彼はくたくたになった紙を袂から探り出して、それを唾で濡らして、きわめて面倒にぐるぐるとそのひびを巻いた。
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彼はくた/\に成つた紙を袂から探り出してそれを睡で濡らして極めて面倒にぐる/\と其の罅を捲いた。
卯平はそれからふいと出て、夜まで帰らなかった。
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卯平はそれからふいと出て夜まで歸らなかつた。
勘次は鶏の抜け毛を見て、いたちが出たのではないかという心配を抱いて、そこらじゅうを隈なく見た。
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勘次は鷄の拔毛を見て鼬が出たのではないかといふ懸念を懷いて其處ら中を隈なく見た。
鶏はほかの鶏がことごとくねぐらについても帰らなかった。
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鷄は他の鷄が悉く塒に就いても歸らなかつた。
いたちは一羽殺せば必ずまた他を襲うので、勘次は少なからずその心を騒がしたのであった。
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鼬は一羽殺せば必ず復他を襲ふので勘次は少からず其の心を騷がしたのであつた。
「爺さんがぶっ飛ばしたんだわ」
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「爺打つとばしたんだわ」
与吉は勘次へ言った。
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與吉は勘次へいつた。
「どうしてだ」
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「どうしてだ」
勘次は驚いた目を見開いて、慌てて聞いた。
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勘次は驚いた眼を睜つて慌てゝ聞いた。
「座敷へ上がったら、煙管をぶつけたんだ。そんでおれが煙管を取ってやったんだ」
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「座敷へ上つたら煙管打つゝけたんだ。そんで俺れ煙管とつてやつたんだ」
勘次は餌をまいて、鶏を集めてみた。
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勘次は餌料を撒いて鷄を聚めて見た。
いったんねぐらについた鶏が、餌を見てはみなかごからばさばさと飛び下りて、こっこっと鳴きながら爪でかき払いかき払い、争ってついばんだ。
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一旦塒に就いた鷄が餌料を見てはみんな籃からばさ/\と飛びおりてこツこツと鳴きながら爪で掻つ拂き/\爭うて啄いた。
勘次はついに、鶏の数が足りていないことを確かめざるを得なかった。
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勘次は遂に鷄の數の不足して居ることを確めざるを得なかつた。
卯平は例のごとく豆腐でコップ酒を傾けて来て、晩飯を欲しなかった。
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卯平は例の如く豆腐でコツプ酒を傾けて來て晩餐を欲しなかつた。
彼の皺深く刻んだ頬に、ほんのりと赤みを帯びていた。
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彼の皺深く刻んだ頬にほんのりと赤味を帶びて居た。
彼は火鉢の前にあぐらをかいたまま、一言も言わない。
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彼は火鉢の前に胡坐を掻いた儘一言もいはない。
おつぎが甘えた舌で言っても、返事もしなかった。
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おつぎが甘えた舌でいつても返辭もしなかつた。
勘次も卯平のそばを退いて、ただ恐ろしくひがんだ様子をしていた。
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勘次も卯平の側を退去つて只恐ろしく僻んだ容子をして居た。
おつぎもついに言わなかった。
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おつぎも遂にいはなかつた。
与吉はただ、ぐっすりと眠っていた。
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與吉は只ぐつすりと眠つて居た。
恐れのあまり物陰にじっと潜んでいた鶏は、次の朝ようやくほかの鶏の群れに交じって歩いたけれど、いくらかまだ足を引きずっていた。
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驚怖の餘り物陰に凝然と潜伏して居た鷄は次の朝漸く他の鷄の群に交つて歩いたけれど幾らかまだ跛足曳いて居た。
勘次はわざと卯平へ見せつけるように、その夜ねぐらについた時、その鶏をかごに伏せて、戸口の庭ぶたの上に三日も四日も置いたのであった。
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勘次は態と卯平へ見せつける樣に其の夜塒に就いた時其の鷄を籠に伏せて、戸口の庭葢の上に三日も四日も置いたのであつた。
卯平は巻きつけた紙へ煙脂のしみた煙管をじゅうじゅうと鳴らしながら、むずかしい顔がしばらく解けなかった。
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卯平は捲きつけた紙へ煙脂の浸みた煙管をぢう/\と鳴らしながら難かしい顏が暫く解けなかつた。
卯平はきれい好きなので、むっつりとしながら独りでいる時には、草箒で土間の軒の下を掃いては、鶏が足の爪でかき乱した庭ぶたの周りをも掃きつけておいた。
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卯平は清潔好なのでむつゝりとしながら獨で居る時には草箒で土間の軒の下を掃いては鷄が足の爪で掻き亂した庭葢の周圍をも掃きつけて置いた。
彼は座敷の中も掃除をして、毎朝布団をきちんと始末するように、無口な口からおつぎに言いつけた。
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彼は座敷の内も掃除をして毎朝蒲團を整然と始末する樣に寡言な口からおつぎに吩咐けた。
清潔になることは勘次も悪いこととは思わなかったが、いくらもない家財道具へ少しでも手を掛けられるのが、懐でも探られるように、勘次には何となく不安の念が起こされるのであった。
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清潔に成ることは勘次も惡いことには思はなかつたが、幾らもない家財道具へ少しでも手を掛けられるのが懷でも探られる樣に勘次には何となく不安の念が起されるのであつた。
勘次の目には、卯平がよく村の店に行くのは贅沢な老人であるように、ひがんで見えるところもあった。
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勘次の目には卯平が能く村落の店に行くのは贅澤な老人である樣に僻んで見える廉もあつた。
ただそうしている間に旧暦の年末が近づいて、どこの家でも小麦や蕎麦の粉を挽いた。
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只さうして居る間に舊暦の年末が近づいて何處の家でも小麥や蕎麥の粉を挽いた。
卯平は時々は、東隣の門をもくぐった。
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卯平は時々は東隣の門をも潜つた。
主人夫婦は、丈夫だといってもやつれた卯平を見ると憐れになって
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主人夫婦は丈夫だといつても窶れた卯平を見ると憐れになつて
「体はどうしたね」
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「身體はどうしたえ」
とよく聞いた。
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と能く聞いた。
「ええ、今の分じゃ、そんなに悪いということもないが」
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「えゝ、今分ぢや、さうだに惡りいつちこともねえが」
と、卯平はいつも煮えきらない言い方をして、それを聞かれることをさすがに心の内で喜んで、窪んだ目をしかめるようにした。
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と卯平はいつも煮え切らぬいひ方をして、其れを聞かれることを有繋に心の内に悦んで窪んだ目を蹙める樣にした。
「それでも勘次はよくするかえ」
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「それでも勘次は能くするかえ」
おかみさんが聞けば
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内儀さんが聞けば
「ありゃもう、以前からああ言うんだから」
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「ありや、はあ、以前つからあゝゆんだから」
卯平はぶすりと言うのである。
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卯平はぶすりといふのである。
「おつぎはどうだね」
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「おつぎはどうだえ」
「ありゃあそれ、勘次とは違うから。何と言ってもさすがに、赤ん坊の時からのだから」
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「ありやあそれ、勘次たあ違あから、何ちつても有繋赤ん坊ん時つからのがだから」
「粉挽きはたんとした様子かえ、それでも」
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「節挽はたんとした容子かえそれでも」
「ええ、おつうのことを連れて行って、南で挽くのは挽いたようだが、桶へ入れたままでふたをしたきりしまっておくから、わしはどれくらいあるもんだか見もしないが」
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「えゝ、おつうこと連れてつて、南で挽くなあ挽いたやうだが、桶さ入えた儘で蓋したつ切藏つて置くから、わしやどのつ位あるもんだか見もしねえが」
「勘次は柔らかい物でも少しはこしらえてくれるかね」
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「勘次は軟かい物でも少しは拵えてくれるかね」
「ええ、毎日いっしょに食べちゃいるんだが、なあに、歯さえ丈夫なら粗くたって構いやしないが」
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「えゝ、毎日同士にたべちや居んだがなあに齒せえ丈夫なら粗剛つたつて管やしねえが」
「それじゃ蕎麦粉でも少しやろうかね。蕎麦がきでもこしらえて食べたほうがいいよ。蕎麦に打っちゃ冷えるが、蕎麦がきは暖まるというからね」
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「それぢや蕎麥粉でも少し遣らうかね蕎麥掻でも拵へてたべた方が善いよ、蕎麥に打つちや冷えるが蕎麥掻は暖まるといふからね」
おかみさんは木綿で作った袋へ蕎麦粉を二升ばかり入れて
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内儀さんは木綿で作つた袋へ蕎麥粉を二升ばかり入れて
「勘次も泣きだから、それでも今に暮らしもだんだんよくなるだろうから、そうすりゃ悪くばかりもすまいよ。どうも昔から性が合わないんだからね。まあ年を取ったら仕方がないから我慢しているんだよ。あまりひどけりゃ他人がともども見ちゃいないから。それだが勘次も、さすがにそれほどでもないんだろうしね」
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「勘次も泣きだから、それでも今に生計もだん/\善くなんだらうから、さうすりや惡くばかりもすまいよ、どうも昔から合性が惡いんだからね、まあ年齡とつたら仕方がないから我慢して居るんだよ、餘り酷けりや他人が共々見ちや居ないから、それだが勘次も有繋それ程でもないんだらうしね」
おかみさんは慰めて言った。
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内儀さんは慰めていつた。
卯平は蕎麦粉を大事にして、勘次が開墾に出た後で、薬缶の湯を沸かしては蕎麦がきをこしらえて食べた。
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卯平は蕎麥粉を大事にして、勘次が開墾に出た後で藥罐の湯を沸しては蕎麥掻を拵へてたべた。
そのころは、彼の提げて来た二瓶の醤油はもうなくなっていた。
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其の頃は彼の提げて來た二罎の醤油はもう無くなつて居た。
彼はその減って行くのを、さらに惜しいとは思わなかったが、しかし彼は、自分がいるうちは容易に瓶の分量が減らないのに、一日よそへ行っていた日はめっきりと少なくなっているのを、ある時ふと見つけて、少し不快に、かつ変に思いつつあった。
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彼は其の減つて行くのを更に惜いとは思はなかつたが、然し彼は自分が居る内は容易に罎の分量が減らないのに、一日餘處へ行つて居た日は滅切と少くなつて居るのを或時ふと發見して少し不快に且變に思ひつゝあつた。
縄でくくった別の瓶の底のほうに、醤油が少しあった。
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繩で括つた別の罎の底の方に醤油が少しあつた。
卯平はそれでもそれを見つけて、ようやく蕎麦がきの味を補った。
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卯平はそれでも其れを見つけて漸く蕎麥掻の味を補つた。
瓶の底になった醤油は一番の醤油粕で仕込んだ安物で、塩の辛い味が舌を刺激するばかりでなく、苦味さえ加わっている。
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罎の底になつた醤油は一番の醤油粕で造り込んだ安物で、鹽の辛い味が舌を刺戟するばかりでなく、苦味さへ加はつて居る。
彼らはふだんそういう醤油でもめったに使わないので、多量に求める時でも十銭を越えないのである。
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彼等は平生さういふ醤油でも滅多に用ゐないので多量に求める時でも十錢を越えないのである。
以前の卯平であれば、そういう味がふつうで、かつうまく感じるはずなのであるが、数年来うまい醤油を惜し気もなく使って来た口には、恐ろしいまずさを感じずにはいられなかった。
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以前の卯平であればさういふ味が普通で且佳味く感ずる筈なのであるが、數年來佳味い醤油を惜氣もなく使用して來た口には恐ろしい不味さを感ぜずには居られなかつた。
それでも蕎麦がきは、体が暖まるようで快かった。
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それでも蕎麥掻は身體が暖まる樣で快かつた。
彼は食べた後の茶碗へ沸いた湯を注いで、箸で茶碗の内側を落として、そのまま棚へ置いた。
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彼はたべた後の茶碗へ沸つた湯を注いで箸で茶碗の内側を落して其の儘棚へ置いた。
そうしては彼は、毎日の仕事のように外へ出た。
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さうしては彼は毎日の仕事のやうに外へ出た。
勘次は一日の仕事を終えて帰って来ては、目ざとく卯平の茶碗を見て不審に思って、桶のふたを取ってみた。
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勘次は一日の仕事を畢へて歸つて來ては目敏く卯平の茶碗を見て不審に思つて桶の蓋をとつて見た。
ついに彼は、卯平の袋を見つけた。
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遂に彼は卯平の袋を發見した。
「おつう、お前がこの蕎麦粉を出してやったのか」
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「おつう、汝此の蕎麥つ粉出して遣つたのか」
勘次はおつぎに聞いた。
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勘次はおつぎに聞いた。
「おれが出すまいな」
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「俺ら出すめえな」
おつぎは何も分からない様子で言った。
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おつぎは何も解せぬ容子でいつた。
「蕎麦がきなんぞにしたって詰まりやしない。ろくにありもしない粉だ」
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「蕎麥ツ掻なんぞにしたつて詰りやしねえ、碌に有りもしねえ粉だ」
彼は呟いた。
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彼は呟いた。
それから彼はまた
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それから彼は又
「これももう、ありゃしない」
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「此れも、はあ、有りやしねえ」
と、醤油の瓶を透して、それから振ってみて言った。
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醤油の罎を透して其から振つて見ていつた。
「おとっつあん、それにはないんだぞ」
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「おとつゝあ、それにやねえのがんだぞ」
おつぎは打ち消した。
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おつぎは打ち消した。
「いいから、これっきりじゃきかないんだから」
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「えゝから、此れつ切ぢやきかねえのがんだから」
勘次はおつぎを怒鳴りつけた。
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勘次はおつぎを呶鳴りつけた。
彼はさらに袋の蕎麦粉を桶へ空けてしまって、なおぶつぶつしていた。
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彼は更に袋の蕎麥粉を桶へ明けて畢つて猶ぶつ/\して居た。
手ランプが薄暗くともされた時、卯平はのっそり帰って来た。
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手ランプが薄闇く點された時卯平はのつそり歸つて來た。
彼は膳に向かおうともしないが、火鉢の前にどさりと座ったまま、例のわだかまりのありそうな様子をしては、右手の人差し指を掛けてぎっと握った煙管を横にかんでいた。
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彼は膳に向はうともしないが火鉢の前にどさりと坐つた儘、例の蟠りの有相な容子をしては右手の人さし指を掛けてぎつと握つた煙管を横に噛んで居た。
「おつう、お前、もっとここへ火を取ってくれないか」
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「おつう、汝まつと此處さ火とつてくんねえか」
卯平はそれだけ言って、依然として火もない煙管をかんだ。
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卯平はそれだけいつて依然として火もない煙管を噛んだ。
おつぎはそだを折って、薬缶の下を燃やしてやった。
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おつぎは麁朶を折つて藥罐の下を燃やしてやつた。
薬缶が鳴り出した時、卯平はけだるそうな体をゆっさりと起こして、そこらをしきりに探しはじめた。
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藥罐が鳴り出した時卯平は懶さ相な身體をゆつさりと起して其處らを頻りに探しはじめた。
「何だい、爺さん」
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「何でえ爺」
おつぎはすぐに聞いた。
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おつぎは直に聞いた。
「うん、袋よ」
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「うむ、袋よ」
卯平はきわめて簡単に言った。
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卯平は極めて簡單にいつた。
「これだろう爺さん、蕎麦粉の入ってたのは。おれはどうしたんだか知らないから、桶の中へ空けておいたっけや。そんじゃ爺さんのだったっけなあ、そら。どうして袋へなんぞ入れてたんだい、爺さんは」
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「此れだんべ爺、蕎麥つ粉へえつてたのな、俺らどうしたんだか知んねえから桶ん中さ明けて置いたつきや、そんぢや爺がんだつけなあそら、どうして袋さなんぞ入えてたんでえ爺は」
おつぎは事もなげに言った。
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おつぎは事もなげにいつた。
「蕎麦がきでもしたらよかろうと、おかみさんが出したっけのよ」
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「蕎麥ツ掻でもしたらよかつぺつてお内儀さん出したつけのよ」
卯平はもとの位置に座って言った。
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卯平は舊の位置に坐つていつた。
「そうかあ。そんじゃ悪かったっけな、爺さん。そんじゃおれが今入れてやるからな」
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「さうかあ、そんぢや惡かつたつけな爺そんぢや俺れ今入えてやつかんなよ」
おつぎは、勘次が寝る壁際の桶から、さっきのよりははるかに多い量を袋へ入れてやった。
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おつぎは勘次が寢る壁際の桶から先刻のよりは遙かに多量を袋へ入れてやつた。
そうしておつぎは、勘次を尻目で見た。
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さうしておつぎは勘次を尻目で見た。
卯平はまた蕎麦がきをこしらえた。
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卯平は復た蕎麥掻を拵へた。
「おれが注いでやろうか、爺さん」
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「俺れ注いでやつべか爺」
火鉢のそばにいた与吉は、薬缶へ手を掛けた。
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火鉢の側に居た與吉は藥罐へ手を掛けた。
卯平は与吉のするがままに任せた。
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卯平は與吉のするが儘に任せた。
卯平は比較的ゆったりと、茶碗を箸でかき混ぜた。
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卯平は比較的悠長に茶碗を箸で掻き交ぜた。
「できたかあ」
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「出來たかあ」
与吉は卯平の腕へ小さな手を掛けて、のぞくようにして言った。
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與吉は卯平の腕へ小さな手を掛けて覗く樣にしていつた。
「よき、何だいお前は、ご飯を食ったばかりで」
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「よき、何でえ汝りや、お飯くつたばかしで」
おつぎは与吉を叱った。
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おつぎは與吉を叱つた。
「お前も食え」
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「汝も喰へ」
卯平は蕎麦がきを分けてやった。
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卯平は蕎麥掻を分けてやつた。
彼はそうして、さらに後の一杯を食べて、その茶碗へ湯を汲んで飲んだ。
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彼はさうして更に後の一杯を喫して其茶碗へ湯を汲んで飮んだ。
薬缶は軽くなった。
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藥罐は輕くなつた。
勘次は冷たい手を火にもかざさないで、ことさらに遠く卯平のそばを離れて、しかめたひどい顔に恐れの相を表して、ただじっと黙っていた。
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勘次は冷たい手を火にも翳さないで殊更に遠く卯平の側を離れて蹙めた酷い顏に恐怖の相を表はして唯凝然と默つて居た。
冷たい三人は、夜の温度がしんしんと下がりつつあるのを感じた。
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冷たい三人は夜の温度のしん/\と降下しつゝあるのを感じた。
一八
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一八
卯平は久しぶりで故郷に年を迎えた。
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卯平は久振で故郷に歳を迎へた。
彼らの家の門松は、ただ短い松の枝と竹の枝とを小さな杭に縛りつけて、垣根の入口に立てたのみである。
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彼等の家の門松は只短い松の枝と竹の枝とを小さな杙に縛り付けて垣根の入口に立てたのみである。
神棚へは、藁で太くなった海老の形を横に飾って、そこにも松の短い枝をつけた。
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神棚へは藁で太く綯つた蝦の形を横に飾つて其處にも松の短い枝をつけた。
藁の海老は卯平が作った。
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藁の蝦は卯平が造つた。
彼はむっつりとしながらも、柔らかに藁を打って熱心に手を動かした。
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彼はむつゝりとしながらも軟かに藁を打つて熱心に手を動かした。
それで年男の役で、飾りは勘次にさせた。
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それで歳男の役で飾は勘次にさせた。
すすけきった棚に、新しい藁の海老が生き生きとして見えた。
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煤け切つた棚に新しい藁の蝦が活々として見えた。
三が日は与吉も汚い着物を捨てて、おつぎも近所で髪を結って、炊事の時でもよそ行きの半纏にたすきを掛けて働いた。
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三ヶ日は與吉も穢い衣物を棄てゝ、おつぎも近所で髮を結うて炊事の時でも餘所行の半纏に襷を掛けて働いた。
勘次は三が日さえ、まったく安楽をむさぼってはいなかった。
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勘次は三ヶ日さへ全然安佚を貪つては居なかつた。
彼は唐鍬をかついで、必ず開墾地へ出たのである。
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彼は唐鍬を擔いで必ず開墾地へ出たのである。
彼は次第に懐の具合がよくなりかけたので、今ではその勢いづいた唐鍬の一打ちは一打ちと自分の蓄えを積んで行くわけなので、彼は余念もなくきわめて愉快に仕事に従っているようになったのである。
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彼は次第に懷の工合が善く成り掛けたので、今では其の勢ひづいた唐鍬の一打は一打と自分の蓄へを積んで行く理由なので、彼は餘念もなく極めて愉快に仕事に從つて居るやうに成つたのである。
年の初めというので、さすがに彼の家でも相応に餅やうどんや蕎麦が、その日その日の例によって供えられた。
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歳の首といふので有繋に彼の家でも相當に餅や饂飩や蕎麥が其の日/\の例に依て供へられた。
柔らかな餅が、卯平の歯茎にはいちばん適していた。
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軟かな餅が卯平の齒齦には一番適當して居た。
ことに陸稲の餅は粘りが弱いので、少し煮ればすぐくたくたに溶けようとする。
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殊に陸稻の餅は足が弱いので、少し煮れば直ぐくた/\に溶けようとする。
卯平にはかえってそれがいいので、彼はそうしてくれるおつぎを、どこまでも嬉しく思った。
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卯平には却てそれが善いので、彼はさうして呉れるおつぎを何處までも嬉しく思つた。
彼はただ一つでもいいから、始終汁の中で必ずくつくつと煮てほしかった。
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彼は只一つでも善いから始終汁の中で必ずくつ/\と煮て欲しかつた。
しかしそれは一同で祝う時のみで、それさえ卯平がただ独りゆっくりと味わうには、焙烙に乗せる分量があまりに足りなかった。
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然しそれは一同で祝ふ時のみで、それさへ卯平が只獨ゆつくりと味ふには焙烙に乘せる分量が餘りに足らなかつた。
餅は四角に包丁を入れると、すぐに勘次は自分の枕元の桶へしまって、無断にはおつぎにさえ出すことを許さないのであった。
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餅は四角に庖丁を入れると直ぐに勘次は自分の枕元の桶へ藏つて無斷にはおつぎにさへ出すことを許容さないのであつた。
勘次はたとえどんなことがあっても、面と向かって卯平に一言でも呟いたことがないのみでなく、ひたすら何かを隠そうとするような恐れの状態を現していながら、陰では爪の垢ほどのことを目に止めては、独りでぶつぶつとしていた。
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勘次は假令什麽ことがあつても面り卯平に向つて一言でも呟いたことがないのみでなく、只管或物を隱蔽しようとするやうな恐怖の状態を現して居ながら、陰では爪の垢程のことを目に止て獨でぶつ/\として居た。
勘次はただ一度、おつぎが自分の留守に卯平のためにその餅のわずかを焼いてやったのすら見つけて、おつぎを叱った。
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勘次は只一度おつぎが自分の留守に卯平の爲に其の餅の僅を燒いてやつたのをすら發見しておつぎを叱つた。
「そんだって、おとっつあん、よきがほしいと言うから出して、おれと焼いたんだ。食べたくなっちゃ仕方があるまいな」
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「そんだつておとつゝあは、よき欲しいつちから出して俺れと燒いたんだあ、食へたくなつちやしやうあんめえな」
おつぎは甘えた舌で、言葉は荒く勘次をたしなめた。
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おつぎは甘えた舌で言辭は荒く勘次を窘めた。
勘次はそれ以上を越えて、再びおつぎを叱ることはよくしなかった。
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勘次は其の以上を越して再びおつぎを叱ることは能くしなかつた。
わずかな餅はそういうことでいくらも減らないのに時間がたって、寒い空気のために陸稲の特色を現して、切り口からたちまちにひび割れになって硬く乾いた。
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僅な餅はさういふことで幾らも減らないのに時間が經つて、寒冷な空氣の爲に陸稻の特色を現して切口から忽ちに罅割れになつて堅く乾燥した。
だんだん焼いて膨れても、外側は歯茎を痛めるほどこわばって来た。
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だん/\燒いて膨れても外側は齒齦を痛める程硬ばつて來た。
卯平はその一つさえ満足に飲み下そうとするには、むしろ粗いぽろぽろな飯よりも容易でなかった。
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卯平は其の一つさへ滿足に嚥み下さうとするには寧ろ粗剛いぼろ/\な飯よりも容易でなかつた。
そうなってからは、勘次は尽きるまでよく焼いた。
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さうなつてからは勘次は竭きるまで能く燒いた。
卯平はむっつりとして、額に深く刻んだ大きな皺をむずかしそうに動かしては、硬い餅をなめた。
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卯平はむつゝりとして額に深く刻んだ大きな皺を六ヶ敷相に動かしては堅い餅を舐つた。
卯平の膳には、冷たくなった餅が必ず残された。
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卯平の膳には冷たく成つた餅が屹度残された。
腹を減らして学校から帰って来る与吉が、いつでもそれをかじるのであった。
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腹を減らして學校から歸つて來る與吉が何時でもそれを噛るのであつた。
勘次はまた、蕎麦を打ったことがあった。
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勘次は又蕎麥を打つたことがあつた。
彼はとろろあおいの粉をつなぎにして打った。
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彼は黄蜀葵の粉を繼ぎにして打つた。
彼はまた、おつぎへ注意をして、よくはゆでさせなかった。
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彼は又おつぎへ注意をして能くは茹でさせなかつた。
手桶の冷たい水でさらした蕎麦は、杉箸のように太いのに、とろろあおいの特色の硬さと滑らかさとで、椀から躍り出しそうになるのであった。
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手桶の冷たい水で曝した蕎麥は杉箸のやうに太いのに、黄蜀葵の特色の硬さと滑らかさとで椀から跳り出し相に成るのであつた。
とろろあおいはよく畑の周りに作られて、短い茎には暑い日に大きな黄色い花を開く。
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黄蜀葵は能く畑の周圍に作られて短い莖には暑い日に大きな黄色い花を開く。
その根を乾かして粉にして入れれば、蕎麦の分量がめっきり増えるというので、腹いっぱいになる程度において、ひたすら食べ物の少ないことのみを望んでいる勘次は、毎年作って必ずそれを用いつつあった。
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其の根を乾燥して粉にして入れゝば蕎麥の分量が滅切殖えるといふので、滿腹する程度に於ては只管食料の少量なることのみを望んで居る勘次は毎年作つて屹度それを用ひつゝあつた。
卯平の歯茎には、蕎麦が滑ってかめなかった。
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卯平の齒齦には蕎麥が辷つて噛めなかつた。
「爺さんにはうまくあるまい。おとっつあんはもっと丁寧に打てばいいのに、粗忽だから」
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「爺がにや佳味かあんめえ、おとつゝあはまつと丁寧に打てばえゝのに疎忽敷から」
おつぎは、どうかすると椀から落ちそうになる蕎麦をすすりながら、卯平の手元を見て言った。
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おつぎはどうかすると椀から落ち相になる蕎麥を啜りながら卯平の手もとを見ていつた。
「どうせおれは、うまくたってそんなに減るほどでも食うわけじゃなし、構いやしないが」
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「どうせ俺らあ、佳味えつたつてさうだに減る程でも食ふべぢやなし、管やしねえが」
卯平は皮肉らしい口調で言った。
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卯平は皮肉らしい口調でいつた。
勘次はただ黙って、むしゃむしゃとまずそうにかんだ。
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勘次は只默つてむしや/\と不味相に噛んだ。
こうしている間に春の彼岸が来て、日なたの垣根には耳菜草やその他の雑草が勢いよく出しはじめて、桑畑のうね間には冬を越したなずなが線香のような薹をもたげて、その先に砕け米に似た花を集めた。
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恁うして居る間に春の彼岸が來て日南の垣根には耳菜草や其他の雜草が勢よく出だして桑畑の畦間には冬を越した薺が線香の樣な薹を擡げて、其の先に粉米に似た花を聚めた。
そっけない杉の木までが、どこから枝であるやらはっきりとは区別もつかないような、しかも焼けたかと思うほど赤くなっている葉先に、ざらりとつぼみがついてこっそりと咲いてしまった。
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そつけない杉の木までが何處から枝であるやら明瞭とは區別もつかぬ樣な然も燒けたかと思ふ程赤く成つて居る葉先にざらりと蕾が附いてこつそりと咲いて畢つた。
寂しい中にも、春らしい空気がすべての物を揺るがした。
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淋しい内にも春らしい空氣が凡ての物を撼かした。
日はまだ南を低く渡りながら、暖かい光を投げる。
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日はまだ南を低く渡りながら暖かい光を投げる。
たまたま夜の雨がやんで、ふうわりと柔らかな空が青く割れて、やや昇ったその暖かな日が斜めに差しかけると、枯れた桑畑から、青い麦畑から、すべてから、湿った布を火にかざしたように凝った水蒸気が、見渡すかぎり白くほかほかと立ち上って、低く一帯に地を覆うことがあった。
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偶夜の雨が歇んでふうわりと軟かな空が蒼く割れて稍昇つた其暖かな日が斜に射し掛けると、枯れた桑畑から、青い麥畑から、凡てから濕つた布を火に翳したやうに凝つた水蒸氣が見渡す限り白くほか/\と立ち騰つて低く一帶に地を掩ふことがあつた。
卯平は村に帰ってから、昔の仲間の間へ再び加わって、念仏衆の一人になった。
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卯平は村落に歸つてから往年の伴侶の間へ再び加つて念佛衆の一人になつた。
家にあっては孫の守をしたりして、どうしても独り離れたようになっているめいめいが、のんきに、そうして放埒なことを言い合って騒ぐので、念仏堂はただ愉快な場所であった。
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家に在つては孫の守をしたりしてどうしても獨離れた樣に成つて居る各自が暢氣にさうして放埓なことを云ひ合うて騷ぐので念佛寮は只愉快な場所であつた。
彼岸へかけては、ことに毎日愉快であった。
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彼岸へ掛けては殊に毎日愉快であつた。
どこの家からもそれ相応に、仏へと言って供えるごちそうに飽いて、卯平ははじめて満足した口を拭うことができたのであった。
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何處の家からもそれ相應に佛へというて供へる馳走に飽いて卯平は始めて滿足した口を拭ふことが出來たのであつた。
卯平はだんだん時候が暖かくなるにつれて、体ものんびりとして、案じていた病気の悩みも少しずつ薄らいだ。
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卯平は段々時候が暖かく成るに連れて身體ものんびりとして案じて居た病氣の惱みも少しづつ薄らいだ。
彼は手元のすべてが不自由だらけな生活に戻って来たとはいうものの、衰えた体を自分から毎夜苛めるように引き立てている奉公の務めをしていた当時と比べて、むしろ相反した気ままな日々が、自然に心にも体にも急激な休養を与えたので、彼は自分ながら一時はげっそりと衰えたようにも思われて、けだるさに堪えられないようになったが、それでもその休養のためにいくらかずつでも持病の苦しみが減ったので、そういう理由を知らない彼は、この分では二、三年はまだ野田にいたほうがましであったと、後悔の念が湧くこともあった。
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彼は手もとの凡てが不自由だらけな生活に還つて來たとはいふものゝ衰へた身體を自分から毎夜苛める樣に引き立てゝ居る奉公の務めをして居た當時と比べて、寧ろ相反した放縱な日頃が自然に精神にも肉體にも急激な休養を與へたので彼は自分ながら一時はげつそりと衰へた樣にも思はれて、懶さに堪へぬ樣に成つたがそれでも其の休養の爲に幾らづゝでも持病の苦しみを減じたので、さういふ理由を知らない彼は、此の分では二三年はまだ野田に居た方が増しであつたと後悔の念が湧くこともあつた。
季節は、雨に湿った土へまれにかっと暑い日の光が投げられて、日の帰った後の空が丈夫な百姓の肌にさえぞくぞくと空気の冷ややかさを感じさせて、さらにじめじめと霧のような雨が斜めに降りかけては、柔らかに首をもたげはじめた麦の穂の芒に細かな水の玉を宿して、白い穂先をさらに白くして、世間がただ湿っぽくなったかと思うと、またかっと日の光が差して、がらんと明るくなって、畑にはしどろに倒れかけたえんどうの花も、心よげに首をもたげて微笑する。
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季節は雨に濕つた土へ稀にかつと暑い日の光が投げられて、日歸りの空が強健な百姓の肌膚にさへぞく/\と空氣の冷かさを感ぜしめて、更にじめ/\と霧のやうな雨が斜に降り掛けては軟かに首を擡げはじめた麥の穗の芒に微細な水球を宿して白い穗先を更に白くして世間が只濕つぽく成つたかと思ふと、又かつと日の光が射して、空洞と明るく成つて畑にはしどろに倒れ掛た豌豆の花も心よげに首を擡げて微笑する。
そうすると、畑を包む遠い近い林には、若葉の隙間からわずかな日の光が、また柔らかな、そうしてやや深い草の上にぽつりぽつりと明るくのぞき込んで、松の木からはみんみん蝉のような松蝉の声が、くすぐったいほど人の鼓膜に軽く響いて、すべての心を突き動かす。
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さうすると畑を包む遠い近い林には嫩葉の隙間から少い日の光がまた軟かなさうして稍深い草の上にぽつり/\と明るく覗き込で、松の木からはみんみん蝉の樣な松蝉の聲が擽つたい程人の鼓膜に輕く響いて凡ての心を衝動する。
卯平も、ほかの百姓に誘われたように、ただその身をじっとさせてのみはいられなかった。
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卯平も他の百姓に誘はれたやうに只其身を凝然とさせてのみは居られなかつた。
他人に倍して忙しい勘次が、だんだんに減りつつある俵の中身を苦にして、ひどい目つきをしながら戸口を出入りするのを、卯平は見るのがいやで、かつつらかった。
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他人に倍して忙しい勘次がだん/\に減りつゝある俵の内容を苦にして酷い目をしつゝ戸口を出入するのを卯平は見るのが厭で且辛かつた。
それで彼は、そこらここらと他人の仕事を求めて歩いたのであった。
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それで彼は其處ら此處らと他人の仕事を求めて歩いたのであつた。
卯平は見るからに不器用な様子をしていて、恐ろしく手先の業の器用な生まれつきであった。
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卯平は見るから不器用な容子をして居て、恐ろしく手先の業の器用な性來であつた。
それで彼は仕事に出るとなってからは、方々へ雇われてよく俵を編んだ。
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それで彼は仕事に出ると成つてからは方々へ傭はれて能く俵を編んだ。
麦俵も、それから堆肥を入れて運ぶ肥俵も編んだ。
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麥俵もそれから堆肥を入れて運ぶ肥俵も編んだ。
ゆっくりと、しかも絶え間なく手を動かしては、時々好きな煙草を吸って、少し口を開いたまま煙管の吸い口をこけた頬に当て、深い考えにでも悩んだように、ただじっとしている。
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ゆつくりと然も暇なく手を動かしては時々好な煙草を吸うて少し口を開いた儘煙管の吸口をこけた頬に當て深い考へにでも惱んだ樣に只凝然として居る。
煙は口から少しずつ漏れて、鼻を伝って上る。
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煙は口から少しづゝ漏れて鼻を傳ひて騰る。
彼は煙が上るたびに窪んだ黄色い目をしかめるようにして、気づいたように吸い殻を手のひらに吹くのである。
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彼は煙が騰る度に窪んだ黄色な目を蹙めるやうにして、心づいた樣に吸殼を手の平に吹くのである。
彼はこうしてきわめてゆったりと手を動かすようでありながら、それでも雇われた先でその日の食い扶持はしてもらうので、相応な銭を得つつあるのであった。
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彼はかうして極めて悠長に手を動かす樣でありながら、それでも傭はれた先で其の日の扶持はして貰ふので、相應な錢を獲つゝあるのであつた。
卯平は夏になれば、どこでも忙しい麦扱きや陸稲の草取りに雇われた。
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卯平は夏になれば何處でも忙しい麥扱や陸稻の草取に傭はれた。
彼は自分の村を離れて、五日も六日も泊まっていて帰らないことがある。
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彼は自分の村落を離れて五日も六日も泊つて居て歸らぬことがある。
卯平には、先から先と歩いていることが、かえって幸いであった。
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卯平には先から先と歩いて居ることが却て幸ひであつた。
彼は鬼怒川の高瀬舟の船頭の着物かと思うような、よくもよくも継ぎだらけな、それも自分の手で繕って清潔に洗いざらした仕事着を裾長に着て、手拭いをかぶって、暑い庭に小麦を叩いているのを、そこここに見ることがある。
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彼は鬼怒川の高瀬船の船頭の衣物かと思ふ樣な能くも/\繼ぎだらけな、それも自分の手で膳つて清潔に洗ひ曝した仕事衣を裾長に着て、手拭を被つて暑い庭に小麥を叩いて居るのを其處此處に見ることがある。
横に転がした臼を前に据えて、小麦をつかんでは穂先をその臼の腹に叩きつけると、種がぽろぽろと向こうへ落ちる。
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横に轉がした臼を前に据ゑて小麥を攫んでは穗先を其の臼の腹に叩きつけると種がぼろ/\と向へ落ちる。
のっそりとしてゆったりした卯平は、若いころに慣れた仕事の呼吸で、大きな手が肩から打ち下ろす時、まだ相応にはかどるのであった。
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のつそりとして悠長な卯平は壯時に熟して居た仕事の呼吸で大きな手が肩から打ち下す時、まだ相當に捗どるのであつた。
彼はこうしてぐるぐると雇われて歩きながら、きれいな花が咲いているのを見ると、種をもらったり根分けをしてもらったりして、庭先の栗の木のそばや井戸端の近くに植えた。
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彼は恁うしてぐる/\と傭はれて歩きながら綺麗な花が咲いて居るのを見ると種を貰つたり根分けをして貰つたりして庭先の栗の木の側や井戸端に近く植ゑた。
彼は忙しい仕事が終わりになった時、すなわち稲刈りから稲扱きから、そうしてもみすりも済んで、彼が得意の俵編みもなくなって、世間がげっそりと寂しく沈んだ時に、彼は急に勘次と別の住まいがしたくなった。
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彼は忙しい仕事が畢になつた時即ち稻刈から稻扱からさうして籾すりも濟んで彼が得意の俵編みもなくなつて、世間がげつそりと寂しく沈んだ時に彼は急に勘次と別な住まひが仕たくなつた。
彼は少しばかり余してあった蓄えから、虫食いでも何でも柱になる木やら粟殻やらを求めて、家の横手へ小さな、二間四方くらいな掘っ立て小屋を建てる計画をした。
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彼は少しばかり餘してあつた蓄へから蝕でも何でも柱になる木やら粟幹やらを求めて、家の横手へ小さな二間四方位な掘立小屋を建てる計畫をした。
彼は寒い西風をいとって、ほとんど勘次の家と接して東脇へ建てようとした。
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彼は寒い西風を厭うて殆ど勘次の家と相接して東脇へ建ようとした。
勘次はもとより自分の懐が目に見えて減るのでもなし、それについてはけっして陰で呟くことはなかった。
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勘次は固より自分の懷が目に見えて減るのでもなし、それに就ては決して陰で呟くことはなかつた。
簡単な普請には大工が少し鑿を使っただけで、その他は近所の人々が手伝ったので、仕事はただ一日で終わった。
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簡單な普請には大工が少し鑿を使つた丈で其他は近所の人々が手傳つたので仕事は只一日で畢つた。
長いかさばった粟殻で手薄く葺いた屋根は、これも職人の手を借りなかった。
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長い嵩張つた粟幹で手薄く葺いた屋根は此れも職人の手を借らなかつた。
必要な縄は、卯平が丈夫になっておいた。
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必要な繩は卯平が丈夫に綯つて置いた。
それから壁を塗るのには、間を置いて二、三日かかった。
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それから壁を塗るのには間を措いて二三日かゝつた。
勘次もさすがに労力を惜しまなかった。
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勘次も有繋に勞力を惜まなかつた。
彼は粟殻が葺き上げられた次の日から、二、三日近所の馬を借りて、田の傍らの畑から土を運んだ。
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彼は粟幹が葺き上げられた次ぎの日から二三日近所の馬を借りて田の傍の畑から土を運搬けた。
畑にはその時、麦が青く生えていたが、それでも持ち主は、畑が減るだけ田の面積が増すわけなのと、土の分量も格別のことでないのとで、切り取ることを拒まなかった。
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畑には其の時麥が青く生えて居たが、それでも持主は畑が減るだけ田の面積が増す理由なのと、土の分量も格別の事でないのとで切り取ることを否まなかつた。
庭へ下ろした土には、ちらりちらりと青い麦の柔らかな葉が交じっていた。
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庭へ卸した土にはちらり/\と青い麥の軟かな葉が交つて居た。
勘次は夕方になって馬を返しながら、一日の餌として、おつぎに煮させた麦をざるへ入れて、それから刻んだ藁も添えてやった。
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勘次は夕方に成つて馬を返しながら、一日の餌料としておつぎに煮させた麥を笊へ入れて、それから刻んだ藁も添へてやつた。
勘次はそのついでに、余計な藁を切った。
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勘次は其の序に餘計な藁を切つた。
土は終わりの日の夕方に、周りに土手のような輪をこしらえて、そこに水を打ってはぐちゃぐちゃと足でこねながら、刻んだ藁をまいては踏み込んで、そうして一晩置いた。
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土は畢の日の夕方に周圍に土手のやうな輪を拵へて其處に水を打つてはぐちや/\と足で溲ねながら刻んだ藁を撒いては踏み込んでさうして一晩置いた。
そういう間に卯平は、なたで篠を幾つかに裂いて、柱と柱との間へ壁の下地に細かな格子目を編んでいた。
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さういふ間に卯平は鉈で篠を幾つかに裂いて柱と柱との間へ壁の下地に細かな格子目を編んで居た。
篠は東隣の主人に請うて、真竹に交じったのを後ろの林から伐ったのである。
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篠は東隣の主人から請うて苦竹に交つたのを後の林から伐つたのである。
次の日、土はよく水を引いていて、程よくこねられた。
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次の日土は能く水を引いて居て程よく溲ねられた。
勘次はおつぎにその泥をたらいへ運ばせておいて、不器用な手元で塗った。
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勘次はおつぎに其の泥を盥へ運ばせて置いて不器用な手もとで塗つた。
卯平はなおも、篠で編み残した箇所をこしらえていた。
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卯平は猶も篠で編み残した箇所を拵へて居た。
塗りたての壁は、狭苦しい小屋の内側を湿っぽく、かつ暗くした。
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塗りたての壁は狹苦しい小屋の内側を濕つぽく且闇くした。
壁の土のだんだんに乾くのが待ち遠しくて、卯平は毎日床の上のむしろに座って火を焚いた。
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壁の土の段々に乾くのが待遠で卯平は毎日床の上の筵に坐つて火を焚た。
彼は近ごろになってから毎日のように林を歩いては、そだを背負って来て、折っては焚き折っては焚きしていた。
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彼は近頃に成つてから毎日の樣に林を歩いては麁朶を脊負つて來て折つては焚き折つては焚きして居た。
壁を塗る時に格子目から内側へめくれ出た泥の一つ一つが、だんだんに白っぽく乾いて明るくなった時、勘次はまた内側から塗って、めくれて出た一つ一つを一帯に隠した。
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壁を塗る時格子目から内側へ捲くれ出た泥の一つ/\がだん/\に白つぽく乾いて明るく成つた時勘次は又内側から塗つて捲れて出た一つ/\を一帶に隱した。
卯平は掘っ立て小屋を建てるとなったら、勘次がこれまでになく油が乗ったように威勢よく仕事をしてくれるのを、何となく嬉しく思ってみたが、それでも仕事をしながらしみじみ口を利くのでもなければ、毎日膳を並べると必ずひがんだような顔をされるので、卯平は一日も早く別になってみたい心から、さらに塗った壁のために再び暗くなった小屋の明るくなるのが、じれったさに堪えられないのであった。
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卯平は掘立小屋を建てるとなつたら勘次が此れ迄になく油が乘つた樣に威勢よく仕事をしてくれるのを何となく嬉しく思つて見たが、夫でも仕事をしながらしみ/″\口を利くのでもなければ、毎日膳を竝べると屹度僻んだやうな顏をされるので、卯平は一日も速く別に成つて見たい心から更に塗つた壁の爲に再び闇くなつた小屋の明るく成るのが遲緩しさに堪へぬのであつた。
卯平は狭いながらにどうにか土間もこしらえて、そこへは自在鉤を一つ吊して、蔓のある鉄瓶を掛けたり小鍋を掛けたりすることができるようにした。
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卯平は狹いながらにどうにか土間も拵へて其處へは自在鍵を一つ吊して蔓のある鐵瓶を懸たり小鍋を掛けたりすることが出來る樣にした。
彼は勘次からいくらかずつの米や麦を分けさせて、別居した当座は自分の手で煮炊きをした。
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彼は勘次から幾らかづゝの米や麥を分けさせて別居した當座は自分の手で煮焚をした。
それがかえって気楽で、そうして少しずつは彼の舌にうまく感じる程度の物を求めて来ることができた。
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それが却て氣藥でさうして少しづゝは彼の舌に佳味く感ずる程度の物を求めて來ることが出來た。
しかしそうしていても、寒さが非常に厳しい時は、彼はただ狭苦しい小屋の中でそだを少しずつ折ってくべるよりも、比較的広いかまどの前で、横に転がした大かごからがさがさと木の葉をかき出して、ぼうぼうと炎を立てて暖まりたい心持ちがするのであった。
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然しさうして居ても寒さが非常に嚴しい時は彼は只狹苦しい小屋の中に麁朶を少しづつ折り燻べるよりも比較的廣い竈の前で横に轉がした大籠からがさ/\と木の葉を掻き出してぼう/\と焔を立てゝ暖まりたい心持がするのであつた。
それで彼は勘次の留守には、かまどの前でゆったりと木の葉を焚いて、顔や手足の皮が焼けたように赤くなるまで当たった。
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それで彼は勘次の留守には竈の前で悠長に木の葉を焚いて顏や手足の皮の燒けた樣に赤くなるまであたつた。
勘次は時々、持ち込んだそだや木の葉がわけもなく減っていることを知って、不快な感じを抱いてはこっそりと呟きながら、おつぎに当たるのであった。
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勘次は時々持ち込んだ麁朶や木の葉が理由もなく減つて居ることを知つて不快な感を懷いてはこつそりと呟きつゝおつぎに當るのであつた。
卯平はしばらく隠居に落ち着いてからは、一銭ずつでも懐をこしらえねばならないという決心から促されて、毎日煙管を横にくわえては、ゆったりとではあるが、しかも絶え間なく縄をちよりちよりとなったり、それから草鞋を作ったりした。
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卯平は暫く隱居に落付いてからは一錢づゝでも懷を拵らへねばならぬといふ決心から促されて、毎日煙管を横に銜へては悠長ではあるが、然も間斷なく繩をちより/\と綯つたり、それから草鞋を作つたりした。
彼は原料の藁を勘次に求めずに、五銭か十銭くらいずつ懐の銭を出して、よく選んだ藁をそこここで買って、穂先の所を持っては肩から打ちかけて、がさがさと背負って来るのである。
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彼は原料の藁を勘次に要求せずに五錢か十錢位づゝ懷錢を出して能く選つた藁を其處此處で買つて、穗先の處を持ては肩から打つ掛けてがさ/\と背負つて來るのである。
藁の小さな決まった束は、一把はたいてい一銭ずつであった。
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藁の小さな極つた束が一把は大抵一錢づゝであつた。
その一把の藁が、縄にすれば二房半くらいで、草鞋にすれば五足は仕上がるのであった。
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其の一把の藁が繩にすれば二房半位で、草鞋にすれば五足は仕上るのであつた。
それで彼の一日の仕事は、縄ならば二十房の大束が一把、草鞋ならば五足というところなので、一房の縄が七銭五毛で、一足の草鞋が一銭五厘という相場だから、どっちにしても一日熱心に手を動かせば、彼は六、七銭のもうけを得るのである。
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それで彼の一日の仕事は繩ならば二十房の大束が一把、草鞋ならば五足といふ處なので、一房の繩が七錢五毛で一足の草鞋が一錢五厘といふ相場だからどつちにしても一日熱心に手を動かせば彼は六七錢の儲を獲るのである。
卯平が求める副食物は、一日わずかに二銭もあれば十分なので、彼は毎日藁を使っていれば四、五銭ずつの余りを得るわけではあるが、品物を商いに出る日を別にしても、気が乗らないと言っては朝からごろりと転がっていることもあるので、平均してみると一日がいくらにもならないのであった。
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卯平が求める副食物は一日僅に二錢もあれば十分なので彼は毎日藁を使つて居れば四五錢づつの剰餘を得る理由ではあるが、品物を商ひに出る日を別にしても氣が乘らないといつては朝からごろりと轉がつて居ることもあるので平均して見ると一日が幾らにも成らないのであつた。
しかしそれだけでさえ、卯平は始終財布の銭が出入りするのを心強く思うのであった。
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然し其れ丈でさへ卯平は始終財布の錢の出入するのを心丈夫に思ふのであつた。
勘次はむっつりとした卯平の戸口をのぞいたこともないが、卯平がすぐに来ても来なくても、飯のできた時に呼びに行くのはおつぎであった。
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勘次はむつゝりとした卯平の戸口を覗いたこともないが、卯平が直に來ても來なくても飯の出來た時に喚びに行くのはおつぎであつた。
卯平は熱心に藁仕事をする時は、自分で炊事をするのは時間がひどく惜しくもなったり、面倒にもなったり、ただ独りのみでぽつんとしていると情けなくもなったりするので、ふだんは再び一同といっしょに箸を取ることにしたのである。
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卯平は熱心に藁仕事をする時は自分で炊事をするのは時間が酷く惜しくも成つたり、面倒にも成つたり、唯獨のみで㷀然として居ると情なくもなつたりするので、平生は再び一同と一緒に箸を執ることにしたのである。
彼はおつぎがてきぱきと一言でも言ってくれるたびに、そのひがもうとする心がどれほど和らげられるか知れないのである。
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彼はおつぎがはき/\と一言でもいうて呉れる毎に其の僻まうとする心がどれ程和げられるか知れないのである。
彼は草鞋を作るとて、四筋の縦縄に柔らかな藁をうねうねと通しては、その縄の間に指を入れてぎっと前へ引き締める、かすかな動きの間にも、彼は勘次に対して口にも振る舞いにも出せない忌々しさが、心の底に勃々と首をもたげはじめることもあるのであったが、おつぎの言葉はいつでも、その火を消し止める一杯の水なのであった。
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彼は草鞋を作るとて四筋の竪繩に軟かな藁をうね/\と透しては其の繩の間に指を入れてぎつと前へ引き緊める微かな運動の間にも彼は勘次に對して口にも擧動にも出せぬ忌々敷さが心の底に勃々と首を擡げ始めることもあるのであつたが、おつぎの言辭はいつでも其の火を消し止める一杯の水なのであつた。
おつぎは、どうかすると目のあたりにあるそばかすが一種の色気をつくって、甘えたような口の利き方をするのであった。
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おつぎはどうかすると目の邊に在る雀斑が一種の嬌態を作つて甘えたやうな口の利方をするのであつた。
おつぎは勘次のいない時は、雌鶏がけたたましく鳴いて出れば、すぐにねぐらをのぞいて暖かい卵の一つを採って、卯平のむしろへ転がしてやることもあった。
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おつぎは勘次の居ない時は牝鷄が消魂しく鳴いて出れば直ぐに塒を覗いて暖かい卵の一つを採つて卯平の筵へ轉がしてやることもあつた。
おつぎは勘次の素早い目を欺くには、これだけの深い注意を払わなければならなかった。
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おつぎは勘次の敏捷な目を欺くには此だけの深い注意を拂はなければならなかつた。
それもまれなことで、数は必ず一つに限られていた。
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それも稀なことで數は必ず一つに限られて居た。
しかし卯平は、そのわずかな厚意に対して窪んだ茶色の目をしかめるようにして、洗いもしない殻の両端に小さな穴を開けてすするのであった。
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然し卯平は其の僅少な厚意に對して窪んだ茶色の眼を蹙める樣にして、洗ひもせぬ殼の兩端に小さな穴を穿つて啜るのであつた。
彼はおつぎの意中をよく分かっているので、その吸い殻はけっして目につく所へは捨てないで、細かく押し揉んで、外へ出るついでに他人の垣根の中などへ放り捨てた。
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彼はおつぎの意中を能く解して居るので其の吸殼は決して目につく處へは棄てないで細かに押し揉んで外へ出る序に他人の垣根の中などへ放棄つた。
それからもう一つ、ひがもうとする彼の心を爽やかにするのは与吉であった。
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それからも一つ僻まうとする彼の心を爽かにするのは與吉であつた。
とうに甘えきっている与吉は、卯平の戸口に立ち塞がっては銭を請うた。
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疾から甘え切つて居る與吉は卯平の戸口に立ち塞がつては錢を請うた。
狭い戸口は、与吉の小さな体でさえ、卯平の藁をいじっている手元を薄暗くした。
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狹い戸口は與吉の小さな身體でさへ卯平の藁をいぢつて居る手もとを薄闇くした。
卯平は藁屑と一つに投げ出してある胴乱から、五厘の銅貨を出してやるのが常であるが、与吉は自分で銭を出そうとして、胴乱の大きな金具が容易に開かないので、怒って投げ出してみたり、卯平へすがったりした。
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卯平は藁屑と一つに投出してある胴亂から五厘の銅貨を出してやるのが例であるが、與吉は自分で錢を出さうとして胴亂の大きな金具が容易に開かないので怒つて投げ出して見たり、卯平へ縋つたりした。
卯平はわざと与吉に倒されて、転がることもあった。
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卯平は態と與吉に倒されて轉がることもあつた。
勘次は与吉が卯平から銭をもらうことを知ってから、ただでさえめったにくれたことのない彼は、けっして一度も与えることがなかった。
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勘次は與吉が卯平から錢を貰ふことを知つてから只さへ滅多にくれたことのない彼は決して一度も與へることがなかつた。
卯平はそれを知ってさえ、与吉に求められることが、かえって彼のためにはどれほどの慰めであるか知れないのであった。
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卯平はそれを知つてさへ與吉に要求されることが却て彼の爲にはどれ程の慰藉であるか知れないのであつた。
卯平は惨めな隠居に移るまでには、野田から持って来た少しばかりの蓄えは、いくらも財布に残ってはいなかった。
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卯平は悲慘な隱居に移るまでには野田から持つて來た少し許りの蓄へは幾らも財布に残つては居なかつた。
彼はにわかに思い出したように一日熱心に仕事にかかりきってみたり、また勘次に対する自棄から酒も飲んでみたりした。
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彼は俄に思ひ出した樣に一日熱心に仕事に屈託して見たり、又勘次に對する自棄から酒も飮んで見たりした。
酒といっても知れた分量であるが、それでも藁一筋ずつを刻んで行く仕事のもうけにのみ頼る彼の懐を悲しくした。
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酒といつても知れた分量であるが、それでも藁一筋づつを刻んで行く仕事の儲にのみ手頼る彼の懷を悲しくした。
卯平はそんなはかない仕事でも、彼の体が滞りなく、また勘次との間が和らいでいるならば、彼は好きなコップ酒の一杯を傾けるついでに、酒を瓶に買って勘次に与えることさえ不自由を感じもしなければ、惜しむこともないのであった。
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卯平は其麽果敢ない仕事でも、彼の身體が滯りなく又勘次との間が融和されて居るならば彼は好きなコツプ酒の一杯を傾ける序に、酒を壜に買て勘次に與へることさへ不自由を感じもしなければ、惜しむこともないのであつた。
勘次も疲れた日の夕方には、唐鍬を村の店の軒下へ下ろして一杯を傾けて来るのであるが、かつて自分の家に運んだこともなければ、臭い息を吐く間は卯平へ顔を合わせたこともなかった。
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勘次も疲勞した日の夕方には唐鍬を村落の店の軒下へ卸して一杯を傾けて來るのであるが、嘗て自分の家に運んだこともなければ臭い息を吐く間は卯平へ顏を合せたこともなかつた。
卯平は腰の痛みに悩まされて、余計にかさかさと乾びてこわばっている手を動かしにくくなると、彼は一塊の炭火もない火鉢を枕元に置いて、じっと布団をかぶったままである。
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卯平は腰の疼痛に惱まされて、餘計にかさ/\と乾びて硬ばつて居る手を動かし難くなると彼は一塊の煨もない火鉢を枕元に置いて凝然と蒲團を被つた儘である。
彼はそうでなくても、かつててきぱきと口を利いたこともなく、ことさら勘次に対しては皺びた顔の筋肉をさらにしかめているので、こうしてじっとしていることをも、勘次はリューマチが悩ませているのだとは知らないで、むしろ老人にありがちな倦怠に伴う眠りをむさぼっているのだろうくらいに見るのであった。
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彼はさうでなくても嘗てはき/\と口を利いたこともなく、殊更勘次に對しては皺びた顏の筋肉を更に蹙めて居るので、恁うして凝然として居ることをも勘次は僂麻質斯が惱まして居るのだとは知らないで、寧ろ老人に通有な倦怠に伴ふ睡眠を貪つて居るのだらう位に見るのであつた。
枕元の火鉢は、戸口からでは彼の薄い白髪の頭を覆っていた。
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枕元の火鉢は戸口からでは彼の薄い白髮の頭を掩うて居た。
彼はそうかと思うと、起きて一心に草鞋を作ることがある。
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彼はさうかと思ふと起きて一心に草鞋を作ることがある。
彼の仕事は老いて面倒なようであるが、その生まれつきの器用は失われなかった。
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彼の仕事は老衰して面倒な樣であるが、其の天性の器用は失はれなかつた。
彼は五足ずつを一つに束ねた草鞋と、それから縄が一荷物になると、大風呂敷で背負って出た。
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彼は五足づつを一つに束ねた草鞋とそれから繩が一荷物に成ると大風呂敷で脊負つて出た。
それはたいてい暖かな日に限られていたのであったが、その時は彼の大きな体はきりりと帯を締めて、股引の上に高く尻をはしょって、まだ頼もしげにがっしりとして見えるのであった。
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それは大抵暖かな日に限られて居るのであつたが、其時は彼の大きな躯幹はきりゝと帶を締めて、股引の上に高く尻を端折つてまだ頼母しげにがつしりとして見えるのであつた。
卯平はこうして仕事をしてみたり寝てみたり、それから自分で小鍋立てをするかと思えば、家族三人とともに膳へ向かったり、そばから見ている勘次には、気の知れない爺さんであった。
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卯平は斯うして仕事をして見たり寐て見たり、それから自分で小鍋立をするかと思へば家族三人と共に膳へ向つたり、側から見て居る勘次には氣が知れぬ爺さんであつた。
卯平は時々塩鮭の一切れを古新聞紙の端へ包んで来ては、火鉢へ鉄の火箸を渡して、少しくすぶるそだの火で焼いた。
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卯平は時々鹽鮭の一切を古新聞紙の端へ包んで來ては火鉢へ鐵の火箸を渡して、少し燻る麁朶の火に燒いた。
彼は危ない手元で、間違って落としては灰にくるまっても、口でふうふうと吹いて手でばたばたと叩くのみで、洗うこともしなかった。
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彼は危險い手もとで間違つて落しては灰にくるまつても口でふう/\と吹いて手でばた/\と叩くのみで洗ふこともしなかつた。
じりじりと白く火箸へ焼きついた塩が、長く火箸に臭いを止めた。
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じり/\と白く火箸へ燒け附いた鹽が長く火箸に臭氣を止めた。
勘次は小屋で卯平が塩鮭を焼く匂いをかいでは、一種の刺激を感じるとともに、卯平を妬むような不快の念が、どうかするとつい起こった。
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勘次は小屋で卯平が鹽鮭を燒く臭を嗅いでは一種の刺戟を感ずると共に卯平を嫉むやうな不快の念がどうかすると遂起つた。
それだが卯平はまた、独りでむっつりと布団にくるまっている時は、父子三人の話がよく聞こえた。
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それだが卯平は又獨でむつゝりと蒲團にくるまつて居る時は父子三人の噺が能く聞えた。
彼は自分がいっしょにいる時は互いに隔てがありそうでいて、自分が離れるとにわかに睦まじそうに笑いさざめくもののように、彼は久しい前から思っていた。
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彼は自分が一緒に居る時は互に隔てが有相で居て、自分が離れると俄に陸まじ相に笑語くものゝ樣に彼は久しい前から思つて居た。
それを聞くと彼は一種の嫉妬を伴ったいやな心持ちになって、布団を深くかぶってみても何となく耳について、おつぎのちょっと甘えたような声や与吉の無遠慮な無邪気な声を聞くと、一方にはまた彼らの家族と一つになりたいような心持ちも起こるし、彼はじっと目を閉じているので頭の中が余計にもつれて、いろいろな状態がはっきりと目先にちらついて、しみじみと悲しいようになってみたりして、なおさらにリューマチの痛みがじりじりと自分の体を引き締めてしまうようにも感じられた。
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其を聞くと彼は一種の嫉妬を伴うた厭な心持に成つて、蒲團を深く被つて見ても何となく耳について、おつぎの一寸甘えた樣な聲や與吉の無遠慮な無邪氣な聲を聞くと一方には又彼等の家族と一つに成りたいやうな心持も起るし、彼は凝然と眼を閉ぢて居るので頭の中が餘計に紛糾かつて、種々な状態が明瞭と目先にちらついてしみ/″\と悲しい樣に成つて見たりして猶更に僂麻質斯の疼痛がぢり/\と自分の身體を引緊めて畢ふ樣にも感ぜられた。
彼はそういう時、おつぎでも与吉でも
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彼はさういふ時おつぎでも與吉でも
「爺さんよう」
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「爺よう」
と呼んでくれれば、ふいとけだるい首をもたげて、明るい白昼の光を見ることによって、何とも知れない嬉しさに涙がいっぱいにあふれることもあるのであった。
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と喚んでくれゝばふいと懶い首を擡げて明るい白晝の光を見ることによつて何とも知れぬ嬉しさに涙が一杯に漲ることもあるのであつた。
おつぎはやかましく勘次に使われて、昼の間はわずかの暇もなかった。
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おつぎは八釜敷勘次に使はれて晝の間は寸暇もなかつた。
夜がひっそりとするころは、おつぎはよく卯平の小屋へ来て、悩んでいる腰を揉んでやった。
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夜がひつそりとする頃はおつぎは能く卯平の小屋へ來て惱んで居る腰を揉んでやつた。
おつぎは卯平をいたわるには、いくら勘次がやかましくても、いちいち断りを言っては出なかった。
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おつぎは卯平を勦るには幾ら勘次が八釜敷ても一々斷りをいうては出なかつた。
勘次は、おつぎがしばらくでもいなくなると、たとえ卯平のそばにいるとは知っても
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勘次はおつぎが暫時でも居なくなると假令卯平の側に居るとは知つても
「おつう」
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「おつう」
と例のように激しく怒鳴ってみるのである。
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と例のやうに激しく呶鳴つて見るのである。
「ここにいたよ。そんなに呼ばれなくたっていいから。何だか、おとっつあんは」
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「此處に居たよ、そんなに喚ばらなくつたつてえゝから、何だかおとつゝあは」
おつぎの勘次を叱る声は柔らかで、そうしてはっきりと勘次の耳に響いた。
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おつぎの勘次を叱る聲は軟かでさうして明瞭に勘次の耳に響いた。
勘次は手ランプの光にただ目がひどく光るのみで、一言もなく息をひそめてしまうのである。
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勘次は手ランプの光に只目が酷く光るのみで一言もなく屏息して畢ふのである。
彼はまたしばらくして大戸をがらりと勢いよく開けて出ては、また少し隙間を残して大戸を引いて、ちょうど中へ戻ったと見せて、ほとんど壁に接した卯平の戸口の近くに立ってみるのである。
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彼は又暫くして大戸をがらりと勢ひよく開けて出ては又少し隙間を残して大戸を引いて丁度内へ還つたと見せて、殆んど壁に接した卯平の戸口に近く立つて見るのである。
手ランプもつけない卯平の狭い小屋の空気は、黒くしょんぼりとして死んだようである。
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手ランプも點けぬ卯平の狹い小屋の空氣は黒く悄然として死んだ樣である。
勘次は抜き足して戻っては、できるだけ静かに戸を閉じる。
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勘次は拔き足して戻つては出來るだけ靜に戸を閉ぢる。
非常に不平な顔つきをしていても、勘次はおつぎが帰るとすぐに機嫌が直って
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非常に不平な相形をして居ても勘次はおつぎが歸ると直に機嫌が直つて
「お前はそんなに夜更かしするもんじゃない」
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「汝りやそんなに夜更しするもんぢやねえ」
と、いたわるようなたしなめるような調子で言ってみるのである。
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と勦はるやうな窘めるやうな調子ていつて見るのである。
そうすると
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さうすると、
「明日の障りにでもなりゃしまいし、構うこともあるまいな、おとっつあんは」
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「明日の障りにでも成りやしめえし管あこたあんめえな、おとつゝあは」
と言って、おつぎは勘次を押さえつけてしまうのである。
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といつておつぎは勘次を壓しつけて畢ふのである。
卯平は、おつぎが看病に来る時はたいてい
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卯平はおつぎが看病に來る時は大抵
「お前はいいよ」
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「汝りやえゝよ」
と言うのが常である。
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といふのが例である。
彼は勘次に遠慮をするのではなくて、おつぎがぶつぶつ言われるのを心配するのであった。
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彼は勘次に遠慮をするのではなくて、おつぎがぶつ/\いはれるのを懸念するのであつた。
それでも卯平は、心ひそかにおつぎを待ちつつあった。
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それでも卯平は心竊におつぎを待ちつゝあつた。
彼が悩まされたリューマチは、病気の性質として彼の頑丈な体からその命を奪い去るまでに力をたくましくすることはなく、起こったり和らいだりして、彼が帰ってから二度目の冬も一日一日と短い日を刻んで行った。
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彼が惱まされた僂麻質斯は病氣の性質として彼の頑丈な身體から其の生命を奪ひ去るまでに力を逞しくすることはなく、起つたり和いだりして彼が歸つてから二度目の冬も一日々々と短い日を刻んで行つた。
狭苦しい掘っ立て小屋は、彼が最初に思い込んだほど、彼のために幸いな所ではなかった。
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狹苦しい掘立小屋は彼が當初に思ひ込んだ程彼の爲に幸な處ではなかつた。
一九
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一九
「ああ暑い暑い、何と暑いことかな」
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「おゝ暑え/\、なんち暑えこつたかな」
おつたは前駒の下駄を引きずって
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おつたは前駒の下駄を引き擦つて
「おやおやまあ、よくこうまあ、どこにも草っ葉一つなくて、見ても晴れ晴れとするようだ」
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「おや/\まあ能く斯うなあ、何處にも草だら一つなくつて、見ても晴々とする樣だ」
と、わざとらしいように言って庭に立った。
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と態とらしい樣にいつて庭に立つた。
そうしてから
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さうしてから
「たんと穫れるだろうな、これじゃ。茎ばかりでもたいした出来だな」
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「たんと穫れべえなこんぢや、幹ばかしでもたえした出來だな」
と言って、勘次の近くに歩を運んだ。
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といつて勘次に近く歩を運んだ。
勘次は庭先の栗の木の陰へ二つの臼を横に転がして、おつぎと二人で夏蕎麦を打っていた。
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勘次は庭先の栗の木の陰へ二つの臼を横に轉がしておつぎと二人で夏蕎麥を打つて居た。
夏蕎麦は小麦でも打つように、一つつかんでは肩から背負うようにして臼の腹へ叩きつけると、三角形の種がまだ少し青い葉とともに落ちて、ほとんど直射する日光を遮っている栗の木の陰から遠ざかって、はるかに先のほうまで転がって行く。
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夏蕎麥は小麥でも打つ樣に一つ攫んでは肩から背負ふやうにして臼の腹へ叩きつけると三稜形の種子がまだ少し青い葉と共に落ちて殆ど直射する日光を遮つて居る栗の木の陰から遠ざかつて遙に先の方まで轉がつて行く。
小麦と違って湿っぽい夏蕎麦は、茎がくたくたとして、幾度も叩きつけなければなかなか落ちない。
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小麥と違つて濕つぽい夏蕎麥は幹がくた/\として幾度も叩きつけねばなか/\落ちない。
それでも種は不揃いに熟しているので、まだ青いのはどうしてもしがみついている。
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それでも種子は不規則な成熟をして居るので、まだ青いのはどうしてもしがみ附いて居る。
二人は藁で縛った大きな束を解いては、粘った物でも引き剥がすようにつかみ取って、熱心に忙しく臼の腹へ叩きつけた。
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二人は藁で縛つた大きな束を解いては粘つた物でも引き剥す樣に攫み取つて熱心に忙しく臼の腹へ叩きつけた。
庭は卯平が始終草をむしって掃除してあるのに、蕎麦を打つ前にいったん丁寧に箒が渡ったので、見るからに清潔になっていたのである。
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庭は卯平が始終草を挘つて掃除してあるのに、蕎麥を打つ前に一旦丁寧に箒が渡つたので見るから清潔に成つて居たのである。
勘次は暑いので、紺の襦袢も腰のあたりへだらりと落として、焦げたような肌をさらけ出している。
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勘次は暑いので紺の襦袢も腰のあたりへだらりとこかして、焦たやうな肌膚をさらけ出して居る。
彼はさらに栗の木の茂った葉の間から、針の先で突くようにぽちりぽちりと漏れて差す光を避けて、いつものごとく藺草の編み笠をかぶって、麻の紐をあごでぎっと結んである。
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彼は更に栗の木の茂つた葉の間から針の先で突くやうにぽちり/\と洩れて射す光を避けて例もの如く藺草の編笠を被つて、麻の紐を顎でぎつと結んである。
毎日必ず汗でぐっしょりと湿るので、その強い繊維の力が脆くなって、秋の冷たい季節までにはどうしても中途で一度は換えねばならないと勘次が自慢している紐は、埃が加わって汚れていた。
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毎日必ず汗でぐつしりと濕るので、其の強靱な纎維の力が脆く成つて、秋の冷たい季節までにはどうしても中途で一度は換へねばならぬと勘次が自慢して居る紐は埃が加はつて汚れて居た。
勘次はおつたの姿をちらりと垣根の入口に見た時、不快な目をしかめて、知らない様子を装いながら、ひたすら蕎麦の茎に力を注いだのであった。
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勘次はおつたの姿をちらりと垣根の入口に見た時不快な目を蹙めて知らぬ容子を粧ひながら只管蕎麥の幹に力を注いだのであつた。
おつたはやや褐色にさめた毛繻子の洋傘を肩に打ちかけたまま、そこらにこぼれた蕎麦の種を踏まないように注意しながら、勘次の横手へ立ち止まった。
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おつたは稍褐色に腿めた毛繻子の洋傘を肩に打つ掛けた儘其處らに零れた蕎麥の種子を蹂まぬ樣に注意しつゝ勘次の横手へ立ち止つた。
おつたは幾年か以前の仕立てと見える、めったにない大柄の鳴海絞りの浴衣を片肌脱ぎにして、左の袖口がだらりと膝の下まで垂れている。
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おつたは幾年か以前の仕立と見える滅多にない大形の鳴海絞りの浴衣を片肌脱にして左の袖口がだらりと膝の下まで垂れて居る。
裾は片隅をはしょって、外から帯へ挟んだ。
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裾は片隅を端折つて外から帶へ挾んだ。
勘次はどこまでも知らない様子を保つことはできなかった。
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勘次は何處までも知らぬ容子を保つことは出來なかつた。
彼はおつたのわざとらしい声も聞かず、また近くに立ったその姿を目に映さないわけには行かなかった。
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彼はおつたの態とらしい聲も聞かず、又近く立つた其の姿を眼に映さない譯には行かなかつた。
彼は蕎麦をつかむのを止めて、おつたのほうを向いた。
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彼は蕎麥を攫むのを止めておつたの方を向いた。
彼はしかめていた顔に、少しきまりの悪そうな一種の表情を浮かべた。
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彼は蹙めて居た顏に少し極りの惡相な一種の表情を浮べた。
「何だい、姉さんら」
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「何でえ姊等」
勘次は無意識にそう言った。
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勘次は無意識にさういつた。
彼の胸のあたりに湧き出る汗は、わずかに曲がりながら幾筋かの流れる道を作っている。
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彼の胸のあたりに湧き出る汗は、僅に曲折をなしつゝ幾筋かの流るゝ途を作つて居る。
そこには蕎麦の茎から知られないほどずつ立つ埃がついて湿っている。
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其處には蕎麥の幹から知られぬ程づつ立つ埃が付いて濕つて居る。
じりじりと汗腺から絞れ出る汗が、その跡をつけられた流れの道を絶たないで、そこだけ蕎麦の埃を洗い去っている。
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ぢり/\と汗腺から搾れ出る汗が其の趾つけられた流れの途を絶たないで其處だけ蕎麥の埃を洗ひ去つて居る。
彼はおつたの前に、その暑そうな身を向けた。
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彼はおつたの前に其の暑相な身を向けた。
「どうしたということもないがなあ。おれはこっちのほうを通ったもんだから、ちょっと踏み込んでみたところさ」
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「どうしたつちこともねえがなよ、俺らこつちの方通つたもんだから一寸踏ん掛つて見た處さ」
おつたは何かわけのありそうな口ぶりで軽く言った。
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おつたは何か理由の有相な口吻で輕くいつた。
「おれはしばらくこっちへも来なかったっけが、これはおつぎじゃあるまいか。大層いい娘になっちまったなあ。もっとももう、こういう手合いはちょっと見ないでいちゃ分からなくなるな、すぐだからな。その割にしちゃ、おれみたいなのは年は取らないものさな」
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「俺ら暫くこつちへも來なかつたつけが、此らおつぎぢやあんめえか、大層えゝ娘に成つちやつたなあ、尤もはあ恁うい手合はちつと見ねえでちや分んなく成んな直だかんな、其の割にしちや俺ら見てえなもな年齡はとんねえものさな」
おつたは立ったまま独り言のように、そうして少し張り合いのないように、何か話の糸口でも求めたいという様子で、栗の木のこずえからだらりと垂れている南瓜の尻を見上げながら言った。
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おつたは立つた儘獨語の樣に、さうして少し張合のない樣に、何か噺の端緒でも求めたいといふ容子で栗の木の梢からだらりと垂てる南瓜の臀を見上げながらいつた。
おつぎはこの時、菅笠の端へちょっと手を掛けて、おつたへ腰を屈めた。
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おつぎは此の時菅笠の端へ一寸手を掛けておつたへ腰を屈めた。
おつぎは白い襦袢の襟をのぞかせて、ひとえの胸をきちんと合わせて、そうしてたすきと手甲とで身を固めて、暑いのにもかかわらず、女のたしなみを失わなかった。
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おつぎは白い襦袢の襟を覗かせて、單衣の胸をきちんと合せて、さうして襷と手刺とで身を堅めて、暑いのにも拘らず女の節制を失はなかつた。
おつぎは蕎麦の手を放して、小走りに駆けて行った。
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おつぎは蕎麥の手を放して小走りに驅けて行つた。
菅笠を取って、だらりとかぶった手拭いを外した時、少し乱れた髪がぐっしょりと汗に濡れて、げっそりと衰えたもののように覚えた。
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菅笠をとつてだらりと被つた手拭を外した時少し亂れた髮がぐつしやりと汗に濡れてげつそりと衰へたものゝ樣に覺えた。
おつたは開いたままの洋傘を栗の木のそばへ仰向けに置いて、黙って井戸端へ行って、手水だらいに一杯の水を汲んだ。
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おつたは開いた儘の洋傘を栗の木の側へ仰向に置いて默つて井戸端へ行つて手水盥に一杯の水を汲んだ。
「冷たくて本当に晴れ晴れといい水じゃないか。おれのほうの井戸みたいに柄杓で汲み出すようなんじゃ、ぼかぼかぬるまっこくて」
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「冷たくつて本當に晴々とえゝ水ぢやねえか、俺ら方の井戸見てえに柄杓で汲み出すやうなんぢや、ぼか/\ぬるまつたくつて」
おつたはまた独り言を言った。
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おつたは復た獨語をいつた。
勘次はそばを去ったおつたを捨てて、しかも気の乗らないようにまた蕎麦を臼へ打ちつけはじめた。
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勘次は側を去つたおつたを棄てゝ、然も氣の乘らぬ樣に又蕎麥を臼へ打ちつけ始めた。
おつたは汗のしみた手拭いをしきりにごしごしと揉み出して、首筋のあたりから一帯に幾度となく拭いて、手水だらいの水を換えた。
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おつたは汗沁みた手拭を頻りにごし/\と揉み出して首筋のあたりから一帶に幾度となく拭つて手水盥の水を換へた。
しばらくして、家のひさしからは青い煙が這って、だんだんに薄い煙が後から後から暑い日に消えて行った。
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暫くして家の廂からは青い煙が偃つてだん/\に薄い煙が後から/\と暑い日に消散した。
「おとっつあん、お茶が沸いたぞ」
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「おとつゝあ、お茶沸いたぞ」
おつぎは戸口へ出て、小声で勘次へ告げた。
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おつぎは戸口へ出て小聲で勘次へ告げた。
「うん」
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「うむ」
勘次は喉の底で言って
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勘次は喉の底でいつて
「姉さん、お茶が沸いたとう」
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「姊、お茶沸いたとう」
彼はまたぶすりと言って、蕎麦の手を止めなかった。
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彼は又ぶすりといつて蕎麥の手を止めなかつた。
「お茶をお上がんなさいね」
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「お茶おあがんなせえね」
おつぎは勘次の後について、少し声高に言った。
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おつぎは勘次の尾に跟いて少し聲高にいつた。
おつたはぎりっと絞った手拭いを開いて、ばたばたと叩いた。
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おつたはぎりつと絞つた手拭を開いてばた/\と叩いた。
井戸端にぼさぼさと茂りながら、日中の暑さにぐったりと葉がしおれている鳳仙花の、やっとすがっている花が手拭いの端に触れて、ぽろっと落ちた。
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井戸端にぼつさりと茂りながら日中の暑さにぐつたりと葉が萎れて居る鳳仙花の、やつと縋つて居る花が手拭の端に觸れてぼろつと落ちた。
そばには背の高い向日葵が、むしろ毒々しいほどいっぱいに開いて、周りに誇っている。
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側には長大な向日葵が寧ろ毒々しい程一杯に開いて周圍に誇つて居る。
おいらん草の花がもさもさと茂ったまま、向日葵のそばに列をなしている。
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草夾竹桃の花がもさ/\と茂つた儘向日葵の側に列をなして居る
「よくまあこんなに作ったっけな。おれももう、好きは好きだが、自分じゃあっちだこっちだで作れないもんだ。これをまあ、朝っぱらの涼しいうちに見たら、どれほどいいことかよ」
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「能くまあかういに作つたつけな、俺らもはあ、好きは好きだが自分ぢやそつちだこつちだで作れねえもんだ、此れまあ朝つぱら凉しい内に見たらどら程えゝこつたかよ」
おつたは湿った手拭いを幾つかに折って手につかんだまま、栗の木のそばに置いた洋傘をすぼめて、ゆっくりと家へ入った。
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おつたは濕つた手拭を幾つかに折つて手に攫んだ儘、栗の木の側に置いた洋傘を窄めてゆつくりと家へ這入つた。
おつぎは茶を沸かす火のために汗がさらに湧いたのを手拭いで拭いて、それから乱れた髪に櫛を入れて、さらに丁寧に手拭いをかぶって、そうしておつたを呼んだのであった。
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おつぎは茶を沸す火の爲に汗が更に湧いたのを手拭でふいて、それから亂れた髮に櫛を入て更に丁寧に手拭を被つてさうしておつたを喚んだのであつた。
おつたはどこか落ち着かない様子で、洋傘も外の壁際に立てかけて敷居をまたいだ。
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おつたは何處か落付かぬ容子で洋傘も外の壁際に立て掛て閾を跨いだ。
「お暑うございますね、どうも」
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「お暑うござんすねどうも」
おつぎはたすきを取ってお辞儀を述べながら、おつたへ茶をすすめた。
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おつぎは襷をとつて時儀を述べながらおつたへ茶を侑めた。
三人はしばらく黙っていた。
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三人は暫く沈默して居た。
東隣の庭からは、大勢が揃ってからさおで麦を打っている響きが、森を透して、それからどろりどろりと地を揺すって聞こえた。
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東隣の庭からは大勢が揃つて連枷で麥を打つて居る響が、森を透して夫からどろり/\と地を搖つて聞えた。
自分たちが立てる響きに誘われて騒ぐ、彼らの決まった囃しの声が「ほういほうい」
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自分等が立てる響に誘はれて騷ぐ彼等の極つた囃の聲が「ほうい/\」
と一人の口から、そうしてだんだんとめいめいの口から一斉にほとばしって、愉快そうに聞こえた。
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と一人の口からさうして段々と各自の口から一齊に迸つて愉快相に聞えた。
三人の耳は同じく誘われたように、一種の調子を持った隣の庭の響きに耳を傾けながら、沈黙の時間を続けた。
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三人の耳は同じく誘はれた樣に一種の調子を持つた隣の庭の響に耳を傾けつゝ沈默の時間を繼續した。
おつたは茶柱の立った茶碗の中を見て、それからちょっとにっこりしてみたり、庭のほうを見たりしていた。
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おつたは茶柱の立つた茶碗の中を見てそれから一寸嫣然として見たり、庭の方を見たりして居た。
おつたが庭を見ると、勘次は幾年も会わなかった姉の様子を、さすがにしみじみと見るのであった。
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おつたが庭を見ると勘次は幾年も遭はなかつた姊の容子を有繋にしみ/″\と見るのであつた。
おつたは五十をいくつも越えている。
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おつたは五十を幾つも越えて居る。
小柄な、少しくりくりと丸みを持った顔は、年ほどには見えないにしても、ようやく深い皺が刻んでいるのに、髪は恐ろしくつやつやとしている。
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小柄な少しくり/\と丸みを持つた顏は、年齡程には見えないにしても漸く深い皺が刻んで居るのに、髮は恐ろしくつや/\として居る。
おつたは髪を染めていた。
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おつたは髮を染めて居た。
しかし薬の力は、肌を透してその下にまで及ぼすことはできなかった。
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然し藥の力は肌膚を透して其の下にまで及ぼすことは出來なかつた。
髪は染めてからしばらくたったと見えて、一帯に肌についたわずかの部分が、髪のすべてをそっくり突き上げたように、ほのかに白く見えていた。
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髮は染めてから暫く經つたと見えて一帶に肌膚についた僅の部分が髮の凡てをそつくり突き扛げた樣に仄かに白く見えて居た。
勘次はただ音を立てながら、容易に冷めない熱い茶碗をすすった。
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勘次は只響を立てながら容易に冷めぬ熱い茶碗を啜つた。
おつぎも、幾年か会わない伯母の人なつっこいような、わけの分からないような様子を盗み見た。
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おつぎも幾年か逢はぬ伯母の人なづこい樣で理由の分らぬ樣な容子を偸み視た。
「夏蕎麦でも穫れるのは、こういう塩梅じゃ粒も大きいようだな」
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「夏蕎麥でもとれんなかうい鹽梅ぢや粒も大え樣だな」
おつたは庭を見たまま、また第一に目に触れる蕎麦について言った。
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おつたは庭を見た儘復た第一に目に觸れる蕎麥に就ていつた。
こちらへ向いている二つの臼の腹が、まだ先の柔らかな夏蕎麦の茎で薄青く染まったのが見えている。
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此方へ向いて居る二つの臼の腹が、まだ先の軟かな夏蕎麥の莖で薄青く染まつたのが見えて居る。
「馬鹿に降ってばかりいたせいか、茎ばかり伸びちまって。そんだが穫れないほうでもあるまいが、夏蕎麦が穫れるようじゃ世の中はよくないというから、こんなものはどうでもいいようなもんだが」
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「馬鹿に降つてばかし居た所爲か幹ばかし延びつちやつて、そんだがとれねえ方でもあんめえが、夏蕎麥とれる樣ぢや世柄よくねえつちから、恁んなもなどうでもえゝやうなもんだが」
勘次の言い方はこそばゆかった。
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勘次のいひ方はこそつぱかつた。
庭の油蝉が、暑くなれば暑くなるほどひどくじりじりと炒りつけるのみで、ひっそりとした村の端に、たまたま会った姉弟はこうして、ただよそよそしく向かい合った。
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庭の油蝉が暑くなれば暑くなる程酷くぢり/\と熬りつけるのみで、閑寂な村落の端に偶遭うた姊弟はかうして只餘所々々しく相對した。
「本当に、おれはさっきからそう思ってるんだが、立派な花じゃないかな」
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「本當に俺ら先刻からさう思つてんだが立派な花ぢやねえかな」
おつたは庭先の草花に、また話をついだ。
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おつたは庭先の草花に復た噺を繼いだ。
「うん、そんだが、ろくにありもしない肥料ばかり使われて」
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「うむ、そんだが碌に有りもしねえ肥料ばかし使あれて」
「お前が植えたんじゃないのか」
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「おめえ植ゑたんぢやねえのか」
「なあに、爺さんがあっちこっちから持って来て植えたのよ。去年はそんでも、そこらへとうもろこしくらい作れたっけが、これ、邪魔だとも言えないしなあ」
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「なあに爺樣そつちこつちから持つて來て植ゑたてたのよ、去年はそんでも其處らへ玉蜀黍位作れたつけが、此れ、邪魔だとも云はんねえしなあ」
「おれはしばらく来ないから知らなかったっけが、そんでも野田から引っ込んでか」
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「俺ら暫く來ねえから知らなかつたつけが、そんでも野田から引つこんでか」
「うん、もう二年にならあ」
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「うむ、はあ二年に成らえ」
「よっぽどの年だろうが、丈夫かい、それでも」
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「餘つ程の年齡だつぺが丈夫けえそんでも」
「丈夫なことは、驚くほど丈夫だが、何でも自分が好きなら働く様子で、そこらをほっつき歩いちゃ小遣い銭くらいは取ってるんだな、塩梅しだいが」
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「丈夫なこたあ、魂消る程丈夫だが何でも自分の好きなら働く容子で、其處らほうつき歩いちや小遣錢位はとつてんだな鹽梅しきが」
「そんじゃ忙しい時にはちっとは手伝ってもらえてよかろうな」
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「そんぢや忙しい時にやちつたあ手傳つて貰へてよかんべな」
「何だ、一つ手伝うなんてありゃしまいし。それからもう、こっちも頼みもしないが」
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「なんだら一つ手傳あなんちや有りやしめえし、それからはあ、此方も頼んもしねえが」
「もっともそう言えば、若いころでもおれが知ってからは、仕事は上手でやるとなればみっしりやるようだったっけが、好きじゃない塩梅だったっけのさな」
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「尤もさういへば壯の頃でも俺らあ知つてからは仕事は上手で行ると出しちやみつしら行る樣だつけが、好きぢやねえ鹽梅だつけのさな」
「それどころじゃないや。おれといっしょにいるのさえいやなんだろうが、別々になっちまったな。つまらない、余計な銭なんぞ遣って。おれだって大きな手間を打ち込んだな。なあに、おれは爺さんさえちっとその気で行ってくれさえすりゃ、いくらでも面倒を見るというんだが、どういう料簡のもんだか、おれには分からないが」
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「其れ處ぢやねえや、俺らと一緒に居んのせえ厭なんだんべが、別々に成つちやつたな、つまんねえ、餘計な錢なんぞ遣つて、俺らだつて大えこと手間打つこんだな、なあに俺ら爺樣せえちつと其積で行つて呉れせえすりや、幾らでも面倒見るつちつてんだが、如何いふ料簡のもんだか俺らがにや分んねえが」
「そんじゃ、このそばの小屋じゃあるまい。おれはさっき見た時は、肥料小屋だとばかり思ってたな。本当に、こういう所へ酔狂な話よな。何でも世を渡しちゃ誰でも同じこと、跡取りの気味を悪くしないようにやらなくちゃかなわないよ。そんだが、それも性分でなあ、他人からじゃ仕方がないものよ」
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「そんぢや、此の側な小屋ぢやあんめえ、俺ら先刻見た時や肥料小屋だとばかし思つてたな、本當にかうだ處へ醉狂な噺よな、なんでも世を渡しちや誰でも同じこと相續人の氣味惡くしねえ樣にやんなくつちや畢へねえよ、そんだがそれも性分でなあ、他からぢやしやうねえものよ」
「おれだって、これで一人増えちゃ増えただけ、麦米の心配からしてかからなくちゃならないんだから、そのつもりでいてくれなくちゃ。これで心持ちじゃあんまり面白くないからな。毎日苦虫を噛み潰したような面つきばかりされたんじゃ、いやになっちまうぞ、本当に」
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「俺らだつてこんで一人殖えちや殖えた丈に麥米の心配からして掛んなくつちやなんねえんだから、其の積で居てくんなくつちや、此んで心持ぢや餘り面白かねえかんな、毎日苦蟲喰つ潰したやうな面つきばかしされたんぢや厭んなつちまあぞ、本當に」
「そりゃそうにも何にもよ。他人でさえ、これで柔らかい言葉でも掛けられると、後じゃほしくなるような物でも出す料簡にもなるもんだからなあ」
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「そりやさうにも何にもよ、他人でせえこんで軟けえ言辭でも掛けられつと、後ぢや欲しく成るやうな物でも出す料簡にもなるもんだかんなあ」
おつたはこう言いながら、さっきから鶏のねぐらの下にある二俵の俵へ目を注いでいた。
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おつたは斯ういひながら先刻から雞の塒の下に在る二俵の俵へ目を注いで居た。
「そんだがお前も、たいした働きだと見えるな。こんなに俵までちゃんとして。たいがいの百姓じゃお前、この手には行かないぞ。おれはお世辞を言うわけじゃないが」
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「そんだがおめえもたえした働きだと見えんな、かうえに俵までちやんとして、大概な百姓ぢやおめえ此手にや行かねえぞ、俺ら世辭いふわけぢやねえが」
勘次はようやく話に釣り込まれたように、この時微笑を漏らして
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勘次は漸く噺に吊り込まれた樣に此の時微笑を洩らして
「おれも今になってからじゃこれ、話するようなもんだが、ひとしきりは泣いたからな、本当に。これでもこれくらいにするにはやっとこさだぞ」
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「俺らも今んなつてからぢやこれ、噺するやうなもんだが一しきりや泣いたかんな本當に、こんでも此の位にすんにやゝつとこせえだぞ」
と言った。
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といつた。
「おつぎも働けそうだな、きりきりとして。さっきおれが蕎麦を打ってるのを見ていても、心持ちがいいようだったっけよ。仕事は何でも身なりのいいもんでなくちゃなあ。これもお前が仕込んだせいだろうが」
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「おつぎも働け相だな、きり/\としてなあ、先刻俺ら蕎麥打つてんの見てゝも心持えゝ樣だつけよ、仕事はなんでも身拵えのえゝもんでなくつちやなあ、此れもおめえが仕込の所爲だんべが」
おつたはそう言って、また
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おつたはさういつて又
「そりゃそうと、おっかさんにそのままだなあ」
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「そりやさうとおつかさまに其儘だなあ」
と、そばにいたおつぎに目を移した。
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と側に居たおつぎに目を移した。
おつぎはそれを聞くとともに、身を避けるように手桶を持って庭へ出た。
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おつぎはそれを聞くと共に身を避ける樣に手桶を持つて庭へ出た。
「おれもこれで、女房に死なれた当座には、これも役に立たないから泣き抜いたよ」
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「俺らもこんで嚊に死なれた當座にや此れも役に立たねえから泣きぬいたよ」
勘次はにわかにしんみりとして言った。
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勘次は俄にしんみりとしていつた。
おつたはお品のことが勘次の口から出た時、かすかに苦笑して
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おつたはお品のことが勘次の口から出た時微かに苦笑して
「ほんに、おれはあの時には来られなかったっけが、遠くのほうへ行ってたもんだから。お前にはもう、悪く思われるだろうとは思ってたのよ」
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「ほんに、俺ら彼ん時にや來ねえつちやつたつけが、遠くの方へ行つてたもんだから、おめえにやはあ惡く思はれべえたあ思つてたのよ」
おつたはようやくのことで、しかも表面は事もなげに言ってしまった。
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おつたは漸くのことで然も表面は事もなげにいつて畢つた。
「おれはさっきから見てるんだが、道具はよく大事にすると見えて、鎌なんぞでも光ってることな。それによく、こう三日月みたいな形に減らせたもんだな。研ぎ方もよっぽど気をつけなくちゃ、こうはできないな。道具もこうすりゃいつまでも使えて安いものさな」
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「俺ら先刻から見てんだが道具は能く大事にすつと見えて鎌なんぞでも光つてつことなあ、それに能くかう三日月姿に減らせたもんだな、研ぎ方も餘つ程氣をつけなくつちやかうは出來ねえな、道具も斯うすりや何時までゝも使へて廉えものさな」
おつたは少し慌てたように、しかもなるべく落ち着こうと努めながら話を外した。
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おつたは少し慌てた樣に然も成るべく落附かうと勉めつゝ噺を外した。
「唐鍬もたいしたもんじゃないかな」
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「唐鍬もたえしたもんぢやねえかな」
おつたはわざと唐鍬のそばに立った。
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おつたは態と唐鍬の側に立つた。
「うん、そんでもおれのみたいなのは、めったに持ってる者もないからな」
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「うむ、そんでも俺らが見てえなゝ、滅多持つてるもなねえかんな」
「どうするんだい、こんな大きいの。引き立てるばかりでも大変なようじゃないかい」
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「どうすんでえこんな大えの、引つ立てるばかしでも大變なやうぢやねえけ」
「そんだって姉さん、これを見ろな」
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「そんだつて姊は此れ見ろな」
勘次は手のひらをおつたの前へ出した。
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勘次は掌をおつたの前へ出した。
百姓にしては比較的小さな手は、腫れたかと思うほどぽつりと膨れて、どれほど樫の柄をつかんでも、けっして豆を生じるはずの手でないことをはっきりと示している。
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百姓にしては比較的小さな手は腫れたかと思ふ程ぽつりと膨れて、どれ程樫の柄を攫んでも決して肉刺を生ずべき手でないことを明かに示して居る。
「これだから、知らない者は、おれが手をかざしてると、どうしたんだいなんて聞くから、おれはこんなに腫れちまって痛くて仕方がないんだなんて、そうっと出して見せると、なるほどこりゃ痛かろうなんて驚くらあな。唐鍬なんざ銭を出しさえすりゃいくらでもあるが、この手のひらはないぞ。二年三年唐鍬を持ったんじゃ、こうはならないからな。おれのは唐鍬の柄へすっかりくっついちまったんだから。これで毎年四、五反歩くらいは開墾するんだから」
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「此んだから知らねえもな俺れ手懷してつと、如何したんでえなんて聞くから俺らかういに腫つちやつて痛くつてしやうねえんだなんて、そろうつと出して見せつと、成る程こりや痛かんべえなんて魂消らあな、唐鍬なんざ錢出しせえすりや幾らでも有んが、此の手つ平はねえぞ、二年三年唐鍬持つたんぢや恁うは成んねえかんな、俺らがな唐鍬の柄さすつかりくつゝいちやつたんだから、こんで毎年四五反歩位は打開墾すんだから」
勘次はしかめた顔の筋が緩んだようになって、おつたの前に誇った。
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勘次は蹙めた顏の筋がゆるんだ樣になつておつたの前に誇つた。
「旦那の山林を開墾しちゃうまいのよ。場所によっちゃ陸稲も作れるし。おれはこれでも三、四反歩ずつは作ってるんだが、今年はいい塩梅の降りだから大丈夫だとは思ってるのよ。どういうもんだか、以前は陸稲というともう、穫れないようなもんだったっけがな」
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「旦那の山林開墾しちやうめえのよ、場所によつちや陸稻も作れるし、俺らこんでも三四反歩づつは作つてんだが、今年はえゝ鹽梅な降りだから大丈夫だたあ思つてんのよ、どうえもんだか以前は陸稻つちとはあ、とれねえ樣なもんだつけがな」
「そんなに作っちゃ、大層なもんじゃないかな」
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「其麽に作つちや大層なもんぢやねえかな」
おつたは驚いたように言った。
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おつたは驚いたやうにいつた。
「陸稲も地が新しいうちはできるもんだわ。穂の出た割には量は取れないが、そんでも開墾したばかりには草は出ないから手間が要らないしな。それに肥料というのはなんぼもしないんだから。もっとも三年も作っちゃその手には行かないが、その時はもとの山林になるんだから、怖いことも何にもないのよ」
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「陸稻も地が珍らしい内は出來るもんだわ、穗の出た割にや分は拔けねえが、そんでも開墾したばかしにや草は出ねえから手間が要らねえしな、それに肥料つちやなんぼもしねえんだから、尤も三年も作つちや其の手にや行かねえが、其ん時や以前の山林になんだから可怖えこともなんにもねえのよ」
「よっぽど穫れるだろうな、三、四反歩も作っちゃなあ」
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「餘つ程とれべえな、三四反歩も作つちやなあ」
「これで穂の出際に雨でもいい塩梅なら、反で四俵なんざどうしても穫れると思ってるのよ」
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「こんで穗の出際に雨でもえゝ鹽梅なら、反で四俵なんざどうしてもとれべと思つてんのよ」
「陸稲とも言えないもんだな。以前と違って今の時世じゃそうだから、これで場所によっちゃ、百姓にもたいした起き転びがあるのよなあ。おれのほうみたいに洪水で持って行かれてばかりいる所もあるのに、山林の中で米が穫れるなんて」
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「陸稻とも云はんねえもんだな、以前と違つて今の時世ぢやさうだからこんで場所によつちや、百姓にもたえした起き轉びがあるのよなあ、俺ら方見てえに洪水で持つてかれてばかし居つ處も有んのに山林んなかで米とれるなんて」
「そうよ、ここらは洪水の心配はそんなにしないでもいい所だからな」
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「さうよ、此處らは洪水の心配はさうだにしねえでもえゝ處だかんな」
勘次は、これまでその間がどうであったにしても、偶然会ったおつたに対してだんだん話しているうちには、同じ乳房にすがった骨肉の関係が、彼の卑しい心の底を開いて、それを隠すにはあまりに彼を無防備にさせたのであった。
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勘次は從來其の間がどうであつたにしても偶然逢つたおつたに對してだん/\噺して居るうちには同じ乳房に縋つた骨肉の關係が彼の淺猿しい心の底を披瀝いてそれを陰蔽するのには餘りに彼を放心とさせたのであつた。
「おつう、あのらっきょうでも出してみな。土用前に採ってすぐ漬けたんだから、もうよかろう」
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「おつう、彼の薤でも出して見せえ、土用前に採つて直ぐ漬たんだから、はあよかんべえ」
勘次は快くおつぎに命じた。
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勘次は快よくおつぎに命じた。
おつぎは古い醤油樽から白漬けのらっきょうを片口へ出して、おつたのそばへすすめた。
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おつぎは古い醤油樽から白漬の薤を片口へ出しておつたの側へ侑めた。
勘次は一つつまんでかりかりとかじった。
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勘次は一つ撮んでかり/\と噛つた。
少し丸みがかった頬に絶えず微笑を含んで、勘次の言うことを聞いていたおつたは、何かさらに言おうとしてちょっとためらっている様子が見えた。
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少し丸みがかつた頬に絶ず微笑を含んで勘次のいふことを聞いて居たおつたは何か更にいはうとして一寸躊躇しつゝある容子が見えた。
勘次もおつぎも、それは知らなかった。
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勘次もおつぎもそれは知らなかつた。
おつたは、いっぱいに注いである茶碗へまた茶を注ごうとして、にわかにやめた。
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おつたは一杯に注いである茶碗へ又茶を注がうとして俄に止めた。
おつたは茶碗をぐっと飲み干した。
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おつたは茶碗をぐつと嚥み干した。
「これで同胞のいい話を聞くのは悪くないもんだよ。さすがに自分ばかりよくて、他の同胞には構わないというものもないからな」
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「こんで同胞のえゝ噺聞くな惡かねえもんだよ、有繋自分ばかしよくつて他の同胞にや管あねえつちいものもねえかんな」
と言って、庭の便所へ立って、それから再び上がり框に腰を下ろした。
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といつて庭の便所へ立つてそれから再び上り框に腰を卸した。
「おれはお前にちっと相談に乗ってもらいたいと思うことがあって来たんだったがなあ」
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「俺らおめえにちつと相談に乘つて貰えてえと思ふこと有つて來たんだつけがなよ」
おつたはわざと改まった様子でなく言いかけた。
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おつたは態と改まつた容子でなくいひ掛けた。
「何だろう」
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「何だんべ」
勘次はふっと彼のふだんに戻ろうとして、例の不安らしい目を見開いておつたを見た。
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勘次はふつと彼の平生に還らうとして例の不安らしい目を睜つておつたを見た。
「なあに、たいしたことじゃないが、盲の野郎に嫁を世話されるもんだから、どうしたもんだろうかと思ってよ」
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「なあにたえしたこつちやねえが、盲目の野郎げ嫁世話されるもんだからどうしたもんだんべかと思つてよ」
「姉さんがもらいたけりゃ、他人には構うことはあるまいな」
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「姊貰へたけりや他人にや管あこたあ有んめえな」
勘次は、おつたがゆっくりと言うのが終わらないのに、そっけなく言った。
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勘次はおつたがゆつくりといふのが畢らぬのにそつけなくいつた。
「そう言っちまえばそうだがなあ。そんだって、同胞に一言の話もないなんて後で文句を言われても、黙ってちゃお前、口が開けまいな。そんだから、おれはお前に耳打ちしておこうと思ったんだな」
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「さう云つちめえばさうだがなよ、そんだつて同胞に一噺もねえなんて後で文句云はれても、默つてちやおめえ口が開けめえな、そんだから俺らおめえげ耳打して置くべと思つたんだな」
「おれは何も不服を言う筋合いはないな」
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「俺ら何も不服いふ席はねえな」
勘次は少し安心したらしく、こう軽く言い退けた。
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勘次は少し安心したらしく、恁う輕くいひ退けた。
「そんならいいがなあ。あれももう二十七になるんだから、おれもこれでまあ心配はしてたんだが、自分でもそれ、ない足りないの心配が絶えないもんだから、思ってはいても手が出ないのよ。自分の子供のことを、お前、まったくどうなっても構わないとは思えないよ、これで」
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「そんだらえゝがなよ、彼れもはあ廿七に成んだから俺らもこんでまあ心配はしてたんだが、自分でもそれ無え足んねえの心配が絶えねえもんだから、思つちや居ても手が出ねえのよ、自分の餓鬼のことおめえ全然どうなつても管あねえたあ思へねえよこんで」
勘次は足の先で土間の土を擦りながら、黙っておつたの言うのを聞いた。
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勘次は足の先で土間の土を擦りながら默つておつたのいふのを聞いた。
「あれもそれ、中途で盲になったんだから、それまでに働いて体はできてるし、お前も知ってるとおり、あれでいて仕事もできるしするもんだから、ありがたいことに、不具でも嫁を世話しようという者もあるようなわけさなあ。何でも人間は働き次第だよ。お前だって、働くというのでばかり他人にはよく言われてるじゃないかい。そんで、おれもその女は見たが、女はそれ、器量は悪いがな。そんだって盲だもの、目鼻立ちを見るわけじゃなし、心根さえよけりゃいいと思って」
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「彼もそれ中途で盲目に成つたんだから、それまでに働いて身體は成熟てるしおめえも知つてる通りあんで居て仕事も出來るしするもんだから、難有えことに不具でも嫁世話すべつちいものもあるやうな譯さなあ、何でも人間は働き次第だよ、おめえだつて働くんでばかり他人にや好く云はれてべえぢやねえけえ、そんで俺れも其の女は見たが、女はそれ惡りいがな、そんだつて盲目だもの目鼻立見べえぢやなし、心底せえよけりやえゝと思つてな」
おつたはしきりに、勘次の心の底からの同意を得ようとした。
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おつたは頻りに勘次の衷心からの同意を得ようとした。
「そりゃよかろうな、そんじゃ」
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「そりやよかんべなそんぢや」
勘次はただ簡単にそう言った。
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勘次は只簡單にさういつた。
「そんで嫁を持たせるにしても、せっかくこっちにいて働いてるんだから、おれは自分の所へは連れて行くわけには行かないと思ってな。何と言ってもそれ、知ってる所でなくちゃ、盲だから面倒を見てくれるという人もあるまいしなあ。それからおれは、そこのところも心配していたんだが、ちょうどこの村にいい塩梅に貸してもいいという家があるというもんだから、ついでだと思って見て来たが、ここからじゃあっちのほうの、それ、知ってるだろう、仕切って貸すというんだから、おれはそこへ入れたいと思って。おそるおそる聞いてみたんだが、借りるのには保証人がなくちゃだめだというから、近くではあるし、お前に保証に立ってもらいたいと思ってな」
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「そんで娵持たせるにしても折角こつちに居て働いてんだから俺ら自分の處へは連れて行く譯にや行かねえと思つてな何ちつてもそれ、知てつ處でなくつちや盲目だから面倒見てくれるつち人もあんめえしなあ、それから俺ら其處んとこも心配して居たんだが、丁度此村落にえゝ鹽梅貸してもえゝつち家有るつちもんだから、序だと思つて見て來たが、此處からぢやあつちの方のそれ知つてべえ仕切つて貸すつちんだから、俺ら其處さ入れてえと思つて、おそこそ聞いて見たんだが借りんのにや保證人無くつちや駄目だつちから、近くぢやあるしおめえに保證に立つて貰えてえと思つてな」
「いやだよ、おれはそんなこと」
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「厭だよ俺らそんなこと」
勘次は慌てたように言った。
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勘次は慌てたやうにいつた。
「そんじゃ仕方がないな。どうしてだろうな、また。せっかくあれの身も固まるんだから、そうしてくれればいいんだがな」
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「そんぢや仕やうねえな、どうしてだんべなまた、折角彼が身も堅まんだからさうして呉れゝばえゝんだがな」
おつたはがっかり投げかけた態度で言った。
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おつたはがつかり投げ掛けた態度でいつた。
「べらぼう、家賃でも滞った日には、おれが弁償しなくちゃなるまいし。それこそおれの身上なんざ潰れても間に合いやしない。いやにも何にも」
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「箆棒、家賃でも滯つた日にや、俺れ辨償はなくつちや成りやすめえし、それこさあ俺らが身上なんざ潰れても間にやえやしねえ、厭だにもなんにも」
「そんなこと言ったってお前、あれだって独りででもいるんじゃなし、持つ物を持って働くのに、三十銭や五十銭の家賃の払えないこともあるまいな。それも何なら、お前、一月でも二月でも様子を見て、その時見込みがなけりゃ身を抜いても構いやしないな」
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「そんなこと云つたつておめえ、彼だつて獨でゝも居んぢやなし持つもの持つて働くのに三十錢や五十錢の家賃の拂へねえことも有んめえな、それも何ならおめえ一月でも二月でも見試して、そん時見込なけりや身拔しても管えやしねえな」
「そんでもいやだよ。おれはそういう話じゃ聞きたくもない」
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「そんでも厭だよ、俺らさうい噺ぢや聞きたくもねえ」
勘次はそっけなく言って、すいと庭へ立って、また夏蕎麦へ手を掛けた。
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勘次は素氣なくいつてすいと庭へ立つて復た夏蕎麥へ手を掛けた。
「ひどく忙しいこったな」
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「酷く忙しいこつたな」
おつたは口を引き締めて、勘次の後ろ姿を見た。
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おつたは口を引き締めて勘次の後姿を見た。
「忙しいとも。田の草もまだかいちゃいないんだ。土用になってからだって、いくらも照りやしまいし。降ってばかりいるから見ろ、あれ、隣の旦那らだって今ごろ麦を打ってる騒ぎだあ。百姓はこのごろの時節に余計な暇なんざないから」
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「忙しいとも田の草もまあだ掻きやしねえんだ、土用になつてからだつて幾らも照りやしめえし、降つてばかし居つから見ろうあれ、隣の旦那等だつて今頃麥打つてる騷ぎだあ、百姓は此の頃の時節に餘計な暇なんざねえから」
勘次は呟くように言った。
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勘次は呟くやうにいつた。
隣の庭では、さっきよりもさらに勢いがついたように、からさおの響きが囃しの声を伴いながら、森を漏れて聞こえた。
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隣の庭では先刻よりも更に勢がついた樣に連枷の響が囃の聲を伴ひつゝ森を洩れて聞えた。
「うん、たいした挨拶だな。おれはまた、姉弟というのはそんなもんじゃあるまいと思ってたんだったな」
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「うむ、たえした挨拶だな、俺らまた姊弟つちやさうえもんぢやあんめえと思つてたんだつけな」
おつたは少しむっとした様子を見せた。
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おつたは少し勃然とした容子を見せた。
「姉さんらが言うことを聞いたっくらい、どんなことをされるか分からないから」
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「姊等が云ふこと聽いたつ位どんなことされつか分んねえから」
勘次は自棄に蕎麦の茎を打ちつけ打ちつけしながら言った。
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勘次は自棄に蕎麥の幹を打ちつけ/\しつゝいつた。
彼はそうして、一目もおつたを見なかった。
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彼は而して一目もおつたを見なかつた。
「どんなことをするって、おれは泥棒はしないぞ、勘次」
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「什麽ことするつて俺ら泥棒はしねえぞ、勘次」
その切れた目尻に一種の凄みを持っておつたが立った時、卯平はのっそりと戸口に大きな体を運ばせた。
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其の切れた目尻に一種の凄味を持つておつたが立つた時、卯平はのつそりと戸口に大きな躯幹を運ばせた。
卯平はおつたを見て、例のごとく窪んだ茶色の目をしかめるようにした。
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卯平はおつたを見て例の如く窪んだ茶色の目を蹙める樣にした。
「おや、こっちのおとっつあん、しばらくでしたねどうも。ご機嫌よろしゅうございますね」
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「おやこつちのおとつゝあん、暫くでがしたねどうも、御機嫌よろしがすね」
おつたは、そらぞらしいほど打って変わった調子で言った。
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おつたはそら/″\しい程打つて變つた調子でいつた。
「まあこっちへでも来なさいね」
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「まあこつちへでも來さつせえね」
卯平は隠居へおつたを導いた。
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卯平は隱居へおつたを導いた。
「おれは今、外から帰って来たばかりだが、何でしょうね」
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「俺らいま外から歸つて來たばかしだが、何でがすね」
卯平はぶすりと聞いた。
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卯平はぶすりと聞いた。
「ほんにもう、他人には聞かせたくもないこったがねえ。わしもそれ、盲の野郎が一人いるんだが、これが三十近くにもなるものをねえ。ただ打ち捨てても置けないから嫁を取らせようと思って、いい塩梅のがそれ、口が掛かったもんだから、勘次にも一言話そうと思って来たところなのさ。わしもこれで、義理は欠くのはいやだからね」
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「ほんにはあ、他人にや聞かせたくもねえこつたがねえ、わしもそれ盲目の野郎が一人あんだが、これ三十近くにもなるものをねえ、只打棄つても置けねえから嫁とらせべと思つて、えゝ鹽梅のがそれ口掛つたもんだから勘次げも一噺すべと思つて來た處なのさ、わしもこんで義理は缺くの厭だかんね」
「そうしたら、この村にいい塩梅の家があるもんだから、借りて身上を持たせようと思って、保証に立ってくれと言ったところが、たいした挨拶なのさ。三十銭か五十銭の家賃をねえ。不憫だろうじゃないかねえ、不具の甥のことをねえ。保証に立ったくらいで身上が潰れるという挨拶なのさ。ねえこれ、年を取っちゃこっちのおとっつあん、先も短いのに、心根のいいものでなくちゃ、万一の時が心配だからねえ。後の者の厄介になりたいというのは、みな同じだろうじゃないか。ねえ、こっちのおとっつあん、そうでしょう。そんでそれ、嫁というのが心根のいい女だというんだから、わしもほしいのさ、本当の話がねえ。そう言っちゃ我欲のようだが、同じものなら柔らかい言葉でも掛けてくれる嫁でなくちゃねえ。そうじゃあるまいかね」
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「さうしたら此の村落にえゝ鹽梅の家あるもんだから借りて身上持たせべと思つて保證に立つてくろつちつた處がたえした挨拶なのさ、三十錢か五十錢の家賃をねえ、不便だんべぢやねえかねえ不具の甥つ子のことをねえ、保證に立つた位身上潰れるつち挨拶なのさ、ねえこれ、年齡とつちやこつちのおとつゝあん先も短けえのに心底のえゝものでなくつちや、萬一の時が心配だからねえ、後の者の厄介に成りてえつちな皆おんなじだんべぢやねえか、ねえこつちのおとつゝあんさうでがせう、そんでそれ娵つちのが心底のえゝ女だつちんだからわしも欲しいのさ本當の噺がねえ、さう云つちや我慾の樣だがおんなじもんなら軟けえ言辭でも掛けてくれる嫁でなくつちやねえ、さうぢやあんめえかね」
おつたは狭い戸口に立ったまま、洋傘の先で土へ穴を開けながら、勘次のほうをじろっと見ながらいきり立って言った。
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おつたは狹い戸口に立つた儘洋傘の先で土へ穴を穿ちながら勘次の方をぢろつと見つゝいきり立つていつた。
「そりゃもう、そうだが」
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「そりや、はあ、さうだが」
ただこれだけ言って、無口な卯平は自分の意を得たというように、始終窪んだ目をしかめて、手からは煙管を放さなかった。
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只此だけいつて寡言な卯平は自分の意を得たといふ樣に始終窪んだ目を蹙めて手からは煙管を放さなかつた。
勘次は庭から盗むように見ては、卯平がおつたへ威勢をつけているように思った。
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勘次は庭から偸むやうに視ては卯平がおつたへ威勢をつけて居るやうに思つた。
彼は解いて打って、さらに藁でくくった蕎麦の束を、どさりと遠くへ投げつけた。
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彼は解いて打つて更に藁で括つた蕎麥の束をどさりと遠くへ擲つた。
葉がさらにぐったりとしおれた鳳仙花の枝が、すかりと裂けて先が地についた。
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葉が更にぐつたりと萎れた鳳仙花の枝がすかりと裂て先が地についた。
「姉さんら、大層なことを言ったって、老人の面倒を見たとは言えまい」
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「姊等、大層なこと云つたつて、老人の面倒見たゝ云へめえ」
勘次はぶつぶつと独り言を言った。
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勘次はぶつ/\と獨語した。
おつたの耳にも、かすかにそれが聞こえた。
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おつたの耳にも微かにそれが聞えた。
おつたはきっと見た。
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おつたは屹と見た。
「おとっつあん、黙ってるもんだ」
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「おとつゝあ默つてるもんだ」
おつぎは軽く勘次を制して
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おつぎは輕く勘次を制して
「お昼だぞ、もう」
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「お晝餐だぞはあ」
と、おつぎはさらに勘次へ注意した。
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とおつぎは更に勘次へ注意した。
「そんじゃ、こっちのおとっつあん、お騒がせしました。わしは帰りましょうもう。一刻もいちゃ邪魔でしょうから。こっちのおとっつあんも、邪魔にならないほうがようございますよねえ」
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「そんぢやこつちのおとつゝあん、お八釜敷がした、わしや歸りませうはあ、一刻も居ちや邪魔でがせうから、こつちのおとつゝあんも邪魔に成んねえ方がようがすよねえ」
おつたは洋傘を開いて
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おつたは洋傘を開いて
「傍目でも知れましょうねえ。たとえどうでも俵まで持ってられて、弁償と言ってみたところで三十銭か五十銭のことだろうじゃないかね。できるもできないもあるもんじゃない」
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「岡目でも知れまさあねえ、假令どうでも俵まで持つてられて、辨償つて見た處で三十錢か五十錢のことだんべぢやねえか、出來るも出來ねえもあるもんぢやねえ」
と、おつたは忌々しさにその口を止めなかった。
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とおつたは忌々敷さに其の口を止めなかつた。
「お昼はどうでしょうね」
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「お晝餐はどうでがすね」
おつぎはそれでも、おずおずとおつたへ言った。
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おつぎはそれでも怖づ/\おつたへいつた。
「おれはもう要らないともね」
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「俺ら、はあ要らねえともね」
おつたは蕎麦の種のいっぱいに散らかった庭を、遠慮もなく一直線に下駄の跡をつけた。
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おつたは蕎麥の種子の一杯に散らけた庭を遠慮もなく一直線に不駄の跡をつけた。
「勘次ら、親子仲よくてよかろう。世間の聞こえも立派だあ。身内の者は、おかげで肩身が広くていいや」
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「勘次等、親子仲よくつてよかんべ、世間の聞えも立派だあ、親身のもなあ、お蔭で肩身が廣くつてえゝや」
おつたは庭の出口からちょっと振り返って言った。
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おつたは庭の出口から一寸顧みていつた。
そうしてさっさと行ってしまった。
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さうしてさつさと行つて畢つた。
隣の庭の麦打ちの連中は、静かになったこちらの庭をあざけるように騒いでは、また騒ぐのが聞こえた。
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隣の庭の麥打の連中は、靜かになつたこちらの庭を嘲るやうに騷いでは又騷ぐのが聞えた。
勘次はただ力を込めて蕎麦の茎を打って、ついに一言も口に出さなかった。
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勘次は只力を極めて蕎麥の幹を打つて遂に一言も吐かなかつた。
おつぎは、垣根の上に浮かんだおつたの洋傘が見えなくなるまで、しばらくぽつねんとして庭に立った。
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おつぎは垣根の上に浮んだおつたの洋傘が見えなくなるまで暫くぽつさりとして庭に立た。
卯平は煙管を噛んだまま、じっとして黙っていた。
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卯平は煙管を噛んだ儘凝然として默つて居た。
卯平はしばらくして、鳳仙花の折れたのを見つけて井戸端へ立った。
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卯平は暫くして鳳仙花の折れたのを見つけて井戸端へ立つた。
彼はいきなり蕎麦の茎の束を大きな足で蹴った。
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彼はいきなり蕎麥幹の束を大きな足で蹴つた。
彼はさらに短い竹の棒を持って行って、きっと力を込めて地に突き通した。
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彼は更に短い竹の棒を持つて行つてきつと力を極めて地に突き透した。
垂れた鳳仙花の枝は、竹の杖に縛りつけようとして手を触れたら、ぽろりと茎から離れてしまった。
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垂れた鳳仙花の枝は竹の杖に縛りつけようとして手を觸れたらぽろりと莖から離れて畢つた。
卯平は忌々しそうに投げ捨てた。
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卯平は忌々敷相に打棄つた。
卯平がのっそりと大きな体を立てたそばに、向日葵はことごとく日に背いて、昂然として立っている。
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卯平がのつそりと大きな躯幹を立てた傍に向日葵は悉く日に背いて昂然として立つて居る。
向日葵は、蕾が非常に膨れて黄色になってから卯平が植えたのであった。
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向日葵は蕾が非常に膨れて黄色に成つてから卯平が植ゑたのであつた。
その時はもう蕾はどうしても日の言うことを聞いて動かないので、暑い、そうして乾燥の激しい日がそれを憎んで、硬い下葉をがさがさに枯らした。
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其の時はもう蕾はどうしても日のいふこと聽いて動かないので、暑いさうして乾燥の烈しい日がそれを憎んで硬い下葉をがさ/\に枯らした。
それでも強い茎はすっと立って、たいがいはがっかりと暑さに打たれている草木の間に、誇ったように見えた。
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それでも強い莖はすつと立つて、大抵はがつかりと暑さに打たれて居る草木の間に誇つたやうに見えた。
そのいっぱいに開いた皿のような花が、庭先からいつでも冷ややかな三人をあざけるもののように見えるのであった。
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其の一杯に開いた皿の樣な花が庭先からいつでも冷かな三人を嘲るものゝやうに見えるのであつた。
竹の棒はぎっと突き通したまま、いつまでも空しく鳳仙花のそばに立っていた。
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竹の棒はぎつと突き透した儘いつまでも空しく鳳仙花の傍に立つて居た。
二〇
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二〇
秋だ。
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秋だ。
どのこずえも、茂る力がその極度に達して、そこに凋落の面影がかすかに浮かんだ。
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孰れの梢も繁茂する力が其の極度に達して其處に凋落の俤が微かに浮んだ。
毎日透き通った空をじりじりときしりながら、高熱を放射しつつあった日も、あまりに長い昼の時間に飽きようとして、空から、そうして地上のすべてがようやく変調を呈した。
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毎日透徹した空をぢり/\と軋りながら高熱を放射しつゝあつた日も餘りに長い晝の時間に倦まうとして、空からさうして地上の凡てが漸く變調を呈した。
心もとなげな雲がむらむらと南から駆け走って、そのたびごとににわか雨をざあと斜めに注ぐ。
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心もとなげな雲が簇々と南から駈け走つて、其度毎に驟雨をざあと斜に注ぐ。
雨は畑の乾いた土にまみれて、やがてしぶきを作物の下葉に蹴って、さらに濁った水が白い泡を乗せながら低いほうを求めて去った。
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雨は畑の乾いた土にまぶれて、軈て飛沫を作物の下葉に蹴つて、更に濁水が白い泡を乘せつゝ低きを求めて去つた。
それもわずかに桑の木へ絡んだ昼顔の花にいっぱいの量を注いでは、慌てて走り去って、からりと熱した空が拭われることもあるのであるが、にわか雨は後から後からと駆けて来るので、夜明けの白まないうちから麦を搗いて庭いっぱいに筵を干した百姓を、どうかするとうるさく苛めた。
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それも僅に桑の木へ絡んだ晝顏の花に一杯の量を注いでは慌てゝ疾驅しつゝからりと熱した空が拭はれることも有るのであるが、驟雨は後から後からと驅つて來るので曉の白まぬうちから麥を搗いて庭一杯に筵を干た百姓をどうかすると五月蠅く苛めた。
土地で言うその「降っ掛け」は、一日で止まなければ、三日とか五日とか、必ず奇数の日で終わった。
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土地でいふ其の降つ掛けは一日で止まねば三日とか五日とか必ず奇數の日で畢つた。
降っ掛けが来てから、瓜畑はことごとく蔓も葉もにわかにがらがらに枯れて、悲惨になってしまった。
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降つ掛けが來てから瓜畑は悉く蔓も葉も俄にがら/\に枯れて悲慘に成つて畢つた。
きわめてそっと、しかも騒がしそうに動く雲が、高く低く反対の方向に交差しつつあるのを見るとともに、干からびかけた草木の葉が触れ合い打ち合っては、だんだんと破れながら、ざわざわと悲しげな響きを立てて鳴った。
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極めてそつと然も騷がし相に動く雲が高く低く反對の方向に交叉しつゝあるのを見ると共に、枯燥しかけた草木の葉が相觸れ相打つてはだん/\と破れつゝざわ/\と悲しげな響を立てゝ鳴つた。
すごいほど冴えた夜の空は、忙しげな雲が月を呑んですぐに後へ吐き出し吐き出し走った。
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凄い程冴えた夜の空は忙しげな雲が月を呑んで直に後へ吐き出し/\走つた。
月は反対に逃げながら走った。
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月は反對に遁げつゝ走つた。
秋風だ。
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秋風だ。
櫟も楢も雑木もすべてが節制を失って、ことごとく裏葉も肌も隠す隙がなく、ざあっと吹かれてただ騒いだ。
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櫟や楢や雜木や凡てが節制を失つて悉く裏葉も肌膚も隱す隙がなくざあつと吹かれて只騷いだ。
夜は寂しさに、すべてのこずえが互いにささやきながら、余計に騒いだ。
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夜は寂しさに凡ての梢が相耳語きつゝ餘計に騷いだ。
まだ暑い空気を冷たくしながら、豪雨がさらに幾日か草木の葉を苛めては、降って降って、また降った。
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まだ暑い空氣を冷たくしつゝ豪雨が更に幾日か草木の葉を苛めては降つて/\又降つた。
例年のごとき季節の洪水が、残酷に河川の沿岸をなめた。
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例年の如き季節の洪水が残酷に河川の沿岸を舐つた。
洪水の去った後は、ちょうど過激な精神の疲労からにわかに老衰した者のように、半死の状態を呈した草木は皆白髪に変じて、その力ない葉先を秋風に吹きなびかされた。
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洪水の去つた後は、丁度過激な精神の疲勞から俄に老衰した者の如く、半死の状態を呈した草木は皆白髮に變じて其の力ない葉先を秋風に吹き靡かされた。
鬼怒川の土手に茂った篠の根にまつわっている短い露草も、葉から茎から泥にまみれていながら、なお生命を保ちつつ、日ごとに憐れげな花をつけた。
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鬼怒川の土手に繁茂した篠の根に纏はつて居る短い鴨跖草も葉から莖から泥に塗れて居ながら尚生命を保ちつゝ日毎に憐れげな花をつけた。
こおろぎが滅入るようにその陰に鳴いた。
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蛼が滅入る樣に其の蔭に鳴いた。
空をはるかに飛んだ椋鳥の群れが幾つかに分かれて、地上に低く騒いでは、こずえを求めてぎいぎいと鳴きながら落ち着かなかった。
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空を遙に飛んだ椋鳥の群が幾つかに分れて、地上に低く騷いでは梢を求めてぎい/\と鳴きつゝ落付かなかつた。
いたる所、荒れた藪の端や土手の痩せた篠のこずえに乗りかかって、これを噛めば歯がこぼれると言われている毒な仙人草が、その手をいくらでも伸ばして思い切ってわだかまった蔓が白い花をいっぱいにつけて、そうして生き生きとしたものは自分だけであることを誇るもののごとく、秋風に吹かれながら白い布のようにふわふわと動いた。
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到る處荒れた藪の端や土手の瘠せた篠の梢に乘り掛つて、之を噛めば齒がこぼれるといはれて居る毒な仙人草が其の手を幾らでも延して思ひ切つて蟠つた蔓が白い花を一杯につけて、さうして活々としたものは自分のみであることを誇るものゝ如く、秋風に吹かれつゝ白い布の樣にふは/\と動いた。
勘次の村は台地であるのと、鬼怒川の土手が篠の密生した根の力でわずかながら崩れる土を引き止めたので、損害が軽く済んだ。
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勘次の村落は臺地であるのと鬼怒川の土手が篠の密生した根の力を以て僅ながら崩壤する土を引き止めたので損害が輕く濟んだ。
それでも幾日か降り続いた雨が水を蓄えて、低い畑はしばらく乾くことがなかった。
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それでも幾日か降り續いた雨が水を蓄へて低い畑は暫く乾くことがなかつた。
田もその水のために浸かった箇所が少なくなかった。
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田も其の水の爲に浸つた箇所が少くなかつた。
勘次は昼となく夜となく田畑を歩いて、ひたすら心を悩ましたが、ようやく自分の田畑の作物がわずかな損害で済んだことを確かめた時は、彼は激甚な被害地の状況を伝え聞いて、自分がむしろ幸いであったことをひそかに喜んだ。
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勘次は日となく夜となく田畑を歩いて只管心を惱ましたが、漸く自分の田畑の作物が僅な損害に畢つたことを慥めた時は彼は激甚な被害地の状况を傳聞して自分の寧ろ幸であつたことを竊に悦んだ。
彼が大豆を引いて庭に運んだころは、まだ暑い日が落ち着いて、いがの割れ始めた栗の木のこずえから庭をじりじりと照らしていた。
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彼が大豆を引いて庭に運んだ頃はまだ暑い日が落付いて毬の割れ始めた栗の木の梢から庭をぢり/\と照して居た。
根が幾日もぐっしょりと水に浸かっていた大豆は、黄色味の勝った褐色の莢も茎も、泥で汚れたように黒ずんでいた。
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根が幾日もぐつしりと水に浸つてた大豆は黄色味の勝つた褐色の莢も幹も泥で汚れた樣に黒ずんで居た。
大豆を引いたのは、それでもまれな晴天であったので、「いい返し」
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大豆を引いたのはそれでも稀な晴天であつたので「いひ返し」
に来るはずになっていた南の女房を頼んだ。
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に來る筈に成つて居た南の女房を頼んだ。
彼らは互いの便宜上、手間の交換をするのであるが、彼らはそれを「いいどり」
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彼等は相互の便宜上手間の交換をするのであるが、彼等はそれを「いひどり」
と言っている。
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というて居る。
それで、その借りた手間を返すのが「いい返し」である。
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それで其の借りた手間を返すのがいひがへしである。
大豆は庭に運ぶとともに、ひとつかみにしては根を上にして先を丸く開いて、互いの茎が支柱になるようにして、庭いっぱいに立てて干した。
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大豆は庭に運ぶと共に一攫みにしては根を上にして先を丸く開いて互の幹が支柱に成るやうにして庭一杯に立てゝ干した。
煙草を一服吸うだけの時間に、熟しきった大豆はようやくぱちぱちと軽い快い響きを立てながら爆ぜ始めた。
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煙草を一服吸ふだけの時間に、成熟しきつた大豆は漸くぱち/\と輕い快い響を立てつゝ爆ぜ始めた。
大豆はことごとく庭の土に倒された。
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大豆は悉く庭の土に倒された。
三人はからさおを取って、端からだんだんと茎を打った。
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三人は連枷を執つて端からだん/\と幹を打つた。
おつぎと南の女房とは並んで、勘次に向かって交互に打ち下ろすからさおが、どさりどさりと庭の土を打つと、こわばった大豆の茎はしゃりしゃりと乾いた軽い響きを交えて、くすんだ汚い莢が白く割れて、薄青いつやつやした豆の粒が威勢よく跳ね出して、みんな茎の下に潜り込んでしまう。
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おつぎと南の女房とは相竝んで勘次に對して交互に打ち卸す連枷がどさり/\と庭の土を打つと硬ばつた大豆の幹はしやりゝ/\と乾燥した輕い響を交へてくすんだ穢い莢が白く割れて薄青いつやゝかな豆の粒が威勢よく跳ね出してみんな幹の下に潜り込んで畢ふ。
三人が一度大豆の茎を踏んで渡ったら、茎がぐっと落ち着いた。
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三人が一遍大豆の幹を踏んで渡つたら幹がぐつと落付いた。
おつぎは昼飯の支度の茶を沸かした。
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おつぎは晝餐の支度の茶を沸した。
三人は食事の後の口を鳴らしながら戸口に出て、それから栗の木の陰にしばらくうずくまったまま休んでいた。
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三人は食事の後の口を鳴らしながら戸口に出てそれから栗の木の陰に暫く蹲まつた儘憩うて居た。
「おやおやまあ、こっちのほうはいいこったなあ、大豆でもこんなに穫れて」
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「おや/\まあ、こつちの方はえゝこつたなあ、大豆でもかうだにとれて」
おつたは小柄な体を割合に大股に運んで、妙な足拍子を取りながら入って来た。
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おつたは小柄な身體を割合に大股に運んで妙な足拍手を取りつゝ這入つて來た。
勘次はちらと見て、栗の木の幹を後ろにしたままうつむいてしまった。
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勘次はちらと見て栗の木の幹を後にした儘俯向いて畢つた。
おつたはさらに気にしないような態度で、ずっと戸口へ行って、斜めに肩へ掛けた風呂敷包みを下ろした。
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おつたは更に介意ないやうな態度でずつと戸口へ行つて、斜に肩へ掛けた風呂敷包をおろした。
「ああ重たかった」
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「おゝ重たかつた」
と、少し汗ばんだ額を手拭いで拭きながら、洋傘を仰向けに戸口へ置いて、洋傘の中へその風呂敷包みを置いた。
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と少し汗ばんだ額を手拭でふきながら洋傘を仰向に戸口へ置いて、洋傘の中へ其の風呂敷包を置いた。
南の女房はおつたを見て立った。
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南の女房はおつたを見て立つた。
「おやまあ、しばらくでしたね」
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「おやまあ、暫らくでがしたね」
と、おつたは先にお世辞を言った。
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とおつたは、先に世辭をいうた。
「そう言えばまあ、あっちのほうはひどい洪水だという話だったっけが、どうでございましたね」
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「さういへばまあ、あつちの方は酷え洪水だつち噺だつけがどうでござんしたね」
女房は手拭いを取って言った。
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女房は手拭をとつていつた。
「話の外でさどうも。あれこれもう、三十日近くにもなるだろうが、まだ片づけで、どっちから手をつけていいか分からないんでさどうも。わしらのほうみたいに洪水ばかり出たんじゃ、いるのもいやになっちまうようなのさ、本当に。そう言っても、こっちのほうはようございますね」
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「噺の外でがさどうも、彼此れはあ、小卅日にも成んべが、まあだかたでどつちから手つけてえゝか分んねえんでがさどうもはあ、わし等方見てえに洪水ばかし出たんぢや、居んのも厭んなつちまあやうなのせ本當に、さう云つてもこつちの方はようがすね」
おつたは相手を見つけて力を得たように言った。
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おつたは相手を見つけて力を得たやうにいつた。
「これでもまさか。この村だって随分かぶった所もあるんだから、まったく何ともないということもないがねえ」
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「此んでもまさか、此の村落だつて隨分かぶつた處も有んだから全然なんともねえつちこともねえがねえ」
南の女房は声を低くして言った。
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南の女房は聲を低くしていつた。
「そんでも、ここらじゃいる所には差し支えないんだから、何と言っても諦めはようございますね。わしらのほうなんぞじゃ、土手へ筵囲いをしてやっとこさ凌いだ者がなんぼあったかさ。土手にいても、雨さえなけりゃいいが、降られちゃひどいという話でしたよ。そんでもまあ、わしらは家にいられるのはいられたんだからまあ、同じにもようございましたのさ。そんでも床の上へ四斗樽をこう逆さまにして置いて、その上へ板を渡してやっとまあ暮らし通しましたがね、煮炊きするのもやっとこさで。隣近所はあったって行ったり来たりするんじゃなし、どれほど心細いか分からないもんですよ。もっともこれ、死ぬ者さえあるんだから、こうしていられるのはありがたいようなもんではあるが。そんでも四斗樽の太い箍のところへもぐった時は、夜、横になってみたって、すぐ耳のそばでさらさらっとこう水が動いてるんだから、うっかり眠ったらそっくり持って行かれるかどうだか分からないと思ってね、ぽつりとももう言えないでいたのさ。
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「そんでも此處らぢや居る處にや支障ねえんだからなんちつても諦めはようがさね、わし等方なんぞぢや、土手へ筵圍ひしてやつとこせ凌いだものなんぼ有つたかせ、土手に居ても雨せえなけりやえゝが、降られちや酷えつち噺でがしたよ、そんでもまあわし等、家に居られんな居られたんだからまあ同じにもようがしたのせ、そんでも床の上へ四斗樽かう倒にして置えてね、其上へ板渡してやつとまあ居通しあんしたがね、煮燒すんのもやつとこせで、隣近所は有つたつて往つたり來たりすんぢやなし、何程心細えか分んねえもんですよ、尤もこれ、死ぬ者せえあんだから斯うして居られんな難有え樣なもんぢやあるが、そんでも四斗樽の太え箍ん處むぐつた時や、夜横に成つて見たつて直耳の側でさら/\つとかう水が動いてんだから、放心眠つたらそつくり持つてかれつかどうだか分んねえと思つてね、ぼつちりともはあ云はんねえで居たのせえ、
それから板の端のところからそうっと手を出してみると、宵の口にはそうでもないのが、ひやっと手の先がすぐ水へ触った時にはぞっとするようでしたよ。それからもう、舟は枕元へ繋いでたんだが、本当に枕元なのさ。みんなして固まって、狭いといったって窮屈だって、やっといるだけなんだから、天井へは頭を打ちつけそうで、命でも何でも縮められるような思いでさ。そんでもまあ、とうとう逃げもしないでいられたんだから、家でも持って行かれた者からじゃ運がいいのさ。まあ昼間は何と言っても方々見えていいが、夜がなんぼにも薄気味悪くてねえ」
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それから板の端ん處からそろつと手出して見つと宵の口にやさうでもねえのがひやつと手の先が直ぐ水へ觸つた時にや悚然とする樣でがしたよ、それからはあ船は枕元へ繋いでたんだが、本當に枕元なのせえ、みんなして凝つて狹えつたつて窮屈だつてやつと居る丈なんだから、天井へは頭打つゝかり相で生命でも何でも蹙めらつる樣なおもひでさ、そんでもまあ到頭遁げもしねえで居らつたんだから、家でも持つてかれたものからぢや運がえゝのせえ、まあ晝間はなんちつても方々見えてえゝが、夜がなんぼにも小凄くつてねえ」
おつたは、自分の恐ろしかった経験を聞いてくれるのを喜ぶように語り続けるのであった。
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おつたは自分の怖ろしかつた經驗を聞いてくれるのを悦ぶやうに語り續けるのであつた。
「そんでまあ、それもいいが、蛙だの蛇だのが来てね。蛙は何だが、蛇がなんぼにもいやで、もう棒で引っ掛けて遠くのほうへ放り投げてみても、執念深いというのか、またぞよぞよ泳いで来て。それも夜がねえ、万一のことがあっちゃと思うもんだから明かりを点けてたんだが、そのせいか余計に来るようで。薄暗い明かりだから、じきそばへ来てからでなくちゃ分からないし、首をもたげてるのを見ちゃ、本当にいやでねえ」
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「そんでまあ、それもえゝが蛙だの蛇だのが來てね、蛙はなんだが蛇がなんぼにも厭ではあ、棒で引つ掛けて遠くの方へ打ん投げて見ても、執念深えつちのか又ぞよ/\泳いで來て、それも夜がねえ萬一のことが有つちやと思ふもんだから明り點けてたんだが其の所爲か餘計に來る樣で、薄つ闇え明りだからぢつき側へ來てからでなくつちや分んねえし、首擡げてんの見ちや本當に厭でねえ」
おつたは、いくら言っても尽きない当時をありありと思い浮かべさせようとする様子で言った。
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おつたは幾らいつても竭きない當時を髣髴せしめようとする容子でいつた。
栗の木の陰にいた勘次は、だんだんといくらかずつでも洪水の話に興味を感じても来たし、それから、たとえどうであっても訪ねて来た姉に挨拶もしないのは他人の手前が許さないので、ようやく立って
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栗の木の陰に居た勘次はだん/\と幾らづゝでも洪水の噺に興味を感じても來たし、それから假令どうでも尋ねて來た姊に挨拶もせぬのは他人の手前が許容さないので漸く立つて
「姉さんらも随分ひどい目に遭ったんだな」
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「姊等も隨分ひでえ目に遭たんだな」
彼は言いながら、家の中へおつたを導いた。
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彼はいひながら家の内へおつたを導いた。
大豆の埃をいとって雨戸は閉め切ってあったので、大戸をいっぱいに開けても、内は少し暗く、かつ暑かった。
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大豆の埃を厭うて雨戸は閉め切つてあつたので、大戸を一杯に開けても内は少し闇く且暑かつた。
おつぎは先ごろのように、すぐに竈を焚いて柄杓で二、三杯の水を茶釜へ差した。
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おつぎは先頃の樣に直に竈を焚いて柄杓で二三杯の水を茶釜へ注した。
「何と言っても、こんなに豆が穫れるなんて、お前らのほうはいいのよなあ。おれのほうじゃ土手の近くで手のある者はな、田の畦豆を引っこ抜いて土手の中腹へ干してはみたようだが、まだ何と言っても莢が本当に膨れないんだから、ほんの豆の形をしたというくらいなもんだろうな。そりゃそうと、この豆はいい豆だな。甘そうでなあ」
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「なんちつても、かうえ豆とれるなんておめえ等方はえゝのよなあ、俺ら方ぢや土手の近くで手の有るもなあ、田の畦豆引つこ拔えて土手の中ツ腹へ干しちや見た樣だが、まあだなんちつても莢が本當に膨れねえんだから、ほんの豆の形したつち位なもんだべな、そりやさうと此の豆はえゝ豆だな、甘相でなあ」
おつたは敷居をまたいで、手先の豆を少しつかんでみて言った。
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おつたは閾を跨いで手先の豆を少し攫んで見ていつた。
それからおつたは、洋傘といっしょに置いたさっきの風呂敷包みを持ち込んで、そうしてまた尻を据えた。
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それからおつたは洋傘と一つに置いた先刻の風呂敷包を持ち込んでさうして又臀を据ゑた。
「水の中にいちゃ、仕事するにも仕事はなしさなあ。それからみんな棒の先へ鉤をくっつけて魚釣りをしたのよ。庭でいくらでも鮒が釣れるというんだから、知らない者が見ちゃ、ひどく困らない奴らだと思うくらいなもんだろうのさ」
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「水ん中に居ちや仕事するにも仕事はなしさなあ、それからみんな棒の先へ鈎くつゝけて魚釣りしたのよ、庭で幾らでも鮒釣れるつちんだから知らねえものが見ちや酷く困んねえ奴等だと思ふ位なもんだんべのさ」
おつたは一杯の茶をすすって喉を湿した。
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おつたは一杯の茶を啜つて喉を濕した。
おつぎも南の女房も、目を据えて黙って聞いていた。
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おつぎも南の女房も眼を据ゑて默つて聞いて居た。
勘次は難しい顔をしていながらも、熱心に聞いた。
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勘次は六ヶ敷顏をして居ながらも熱心に聞いた。
「後がひどくてな。縁の下でも何でも泥がいっぱいで、それはまあ掻き出せばいいんだが、床板が白かびになっちまって、これがまだなかなか乾かないから、畳なんざいつ敷き込めるもんだか分からないのさ。そんでまた、田でも畑でもかぶった所は水が乾いてから腐ってるもんだから、その臭いことがまた話にはならないや。おれは作物ばかり困るんだと思ったら、畑の桐の木でも樫の木でも、今になってからぼろぼろ葉っぱが落っこちちまって、怖いもんだよ」
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「後が酷くつてな、縁の下でも何でも泥が一杯で、そえつあゝ掻ん出せばえゝんだが床板が白つ黴に成つちやつて此れがまだなか/\干ねえから疊なんざ何時敷つ込めるもんだか分んねえのさ、そんでまた田でも畑でも引つ被つた處は水干てから腐つてるもんだから其の臭えことが又噺にやなんねえや、俺ら作物ばかし困んだと思つたら、畑の桐の木でも樫の木でも今ん成つてからぼろ/\葉々が落こつちやつて可怖えもんだよ」
おつたは言いながら風呂敷を解いた。
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おつたはいひながら風呂敷を解いた。
やまと煮と書いた牛肉の缶詰が三本と、菓子でもあるかと思う小さな紙包みの、固めた食塩の四つ五つとが出た。
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やまと煮と書いた牛肉の鑵詰が三本と菓子でもあるかと思ふ小さな紙包の堅めた食鹽の四つ五つとが出た。
「これはな、そんでもありがたいことに、水浸しになった家へは役場から一軒ごとに下げ渡しになったんだよ。おれはまた、こっちの家なんぞじゃどういう塩梅だと思って、しばらく外へも出たことがないもんだから出ても見たいし、こういう物を自分ばかりで口を開けちまうのも何だと思って持って来てみたのよ。おれは一つ手をつけてみたが、どれほどいい味のもんだか知らないや」
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「此れなあ、そんでも難有えことに、水浸に成つた家さは役場から一軒毎に下げ渡しになつたんだよ、俺らまたこつちの家なんぞぢやどうえ鹽梅だと思つて暫く外へも出たことねえもんだから出ても見てえし、かうえ物自分でばかし口開けつちやあのも何だと思つて持て來て見たのよ、俺ら一つ手つけて見たが何程えゝ味のもんだか知んねえや」
おつたは空になったかなり大きな風呂敷を、幾つかに折った。
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おつたは空になつたかなり大きな風呂敷を幾つかに折つた。
「おおいや、たいしたもんだね。これは塩だろうかまあ。見たいったって見られるもんじゃないよ。こういう物はねえ。よくまあ持って来て、勘次さんら大変だ」
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「おゝえや、たえしたもんだね、此れ鹽だんべけまあ、見てえたつて見らつるもんぢやねえよ、かうえ物あねえ、能くまあ持つて來て勘次さん此ら大變だ」
南の女房は食塩の一つを手にして見ながら、羨ましげに言った。
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南の女房は食鹽の一箇を手にして見ながら羨ましげにいつた。
おつぎも珍しそうにして、南の女房の手をのぞいた。
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おつぎも珍らし相にして南の女房の手を覗いた。
勘次も白い食塩を爪の先で少し取って口へ入れた。
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勘次も白い食鹽を爪の先で少しとつて口へ入た。
「塩辛いや、まさか」
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「鹽辛えやまさか」
彼はにっこりとしながら
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彼は嫣然とし乍ら
「おつう、これはしまっておけ、そんじゃ」
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「おつう、此れ藏つて置け、そんぢや」
と言って、さらに
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といつて更に
「姉さんらもひどかろう、野良は」
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「姊等も酷かんべ野らは」
と、彼はおつたの染めていた髪が、交じった白髪をほんのりと見せるまでに薬がさめて汚くなったのを見ながら言った。
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と彼はおつたの染めつゝあつた髮が、交つた白髮をほんのりと見せるまでに藥の褪めて穢なく成つたのを見つゝいつた。
「米でも何でも一粒も穫れやしないのよ」
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「米でも何でも一粒もとれやしねえのよ」
おつたはぽつりとしたように言った。
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おつたはぽさりとした樣にいつた。
「汁の実なんざ、そんでもどうにかできるのか」
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「汁の身なんざそんでも、どうにか出來んのか」
「どうしてよお前。青いものは土手の草ばかりだって言ってるくらいだもの。今日が今日困ってるんだな」
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「どうしてよおめえ、青えもな土手の草ばかしだつて云つてる位だもの、今日が今日困つてんだな」
「そんじゃ、姉さんに茄子か南瓜でもやろうかなあ」
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「そんぢや、姊げ茄子か南瓜でもやんべかなあ」
勘次は同情が少し動いたように言った。
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勘次は同情が小し動いたやうにいつた。
「おや、そんじゃ、おれの家でも葱の少しも上げましょう」
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「おやそんぢや俺ら家でも葱の少しもあげあんせう」
南の女房は言って、桑畑の小道を小走りに駆けて行った。
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南の女房はいつて桑畑の小徑を小走りに駈けて行つた。
「おとっつあん、それも何だが、そんなに持てやしまいし、米でも少しやったらよかろうな。どうせ少し経つと陸稲が刈れるんだもの」
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「おとつゝあ、それもなんだが、さうえに持てやしめえし、米でも少しやつたらよかんべな、どうせ少し經つと陸稻刈れんだもの」
おつぎは口を添えた。
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おつぎは口を添へた。
「うん、そうだなあ」
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「うむさうだなあ」
と、勘次は南京米の袋へ米を五升ばかり、もう痩せている俵から量り出した。
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と勘次は南京米の袋へ米を五升ばかり、もう痩せて居る俵から量り出した。
「挽き割り麦もやったらよかろうな」
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「挽割麥もやつたらよかんべな」
おつぎはまた言った。
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おつぎは又いつた。
「これへ混ぜていいかい」
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「此れさ交ぜてえゝけ」
勘次はおつたを顧みて言った。
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勘次はおつたを顧みていつた。
「うん、いっしょにしてくれ」
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「うむ、一緒にしてくろ」
と、おつたは柔らかに言った。
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とおつたは軟かにいつた。
勘次は二つを半々に混ぜて、それからまた大きな南瓜を三つばかり土間へ並べた。
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勘次は二つを等半に交ぜてそれから又大きな南瓜を三つばかり土間へ竝べた。
「そんじゃ大層厄介を掛けて済まないな。そんじゃおれは米ばかり背負って行って、明日でもまた南瓜は取りに来るとしようよ。そんじゃこれ、米は大変だから、おれの風呂敷じゃちっと小さいんだが、大きいのがあれば貸してくれないか」
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「そんぢや大層厄介掛けて濟まねえな、そんぢや俺ら米ばかし脊負つてつて明日でも又南瓜はとりに來るとすべえよ、そんぢや此ら、米大變だから俺れが風呂敷ぢやちつと小つちえんだが大かえの有れば貸してくんねえか」
おつたはおつぎへ言いかけた。
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おつたはおつぎへいひ掛けた。
「おれの家にはないが、爺さんがな、あったっけな、おとっつあん」
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「俺ら家にやねえが、爺がな有つたつけな、おとつゝあ」
そう言って、おつぎは小走りに卯平の小屋へ行った。
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さういつておつぎは小走りに卯平の小屋へ行つた。
さっきまで見えなかった卯平が、どこから帰って来たか、むっつりとして独りで煙管を噛んでいた。
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先刻まで見えなかつた卯平が何處から歸つて來たかむつゝりとして獨で煙管を噛で居た。
「爺さん、いたんだな。おれ、いなけりゃ黙って借りて行こうと思ったんだったが、明日まで伯母さんが大きな風呂敷が要るというから、貸してくれないか。米を背負って行くんだから」
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「爺居たんだな、俺居ねえけりや默つて借りてくべと思つたんだつけが、明日まで伯母さん大かえ風呂敷要るつちから貸してくんねえか、米脊負つて行くんだから」
おつぎは唐突に言った。
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おつぎは突然にいつた。
「うん」
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「うむ」
と、卯平は不器用に風呂敷を出して、そうしておつぎの後からおつたのそばへのっそりと来て立った。
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と卯平は不器用に風呂敷を出してさうしておつぎの後からおつたの側へのつそりと來て立つた。
「これはまあ、勘次らにも済まないと言ってるところさ。わしらも洪水でねえ」
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「此れまあ、勘次等にも濟まねえつちつてつ處さ、わし等も洪水でねえ」
おつたは風呂敷で南京米の袋をきりっと包んだ。
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おつたは風呂敷で南京米の袋をきりつと包んだ。
「そんじゃこの南瓜もおれがもらっていいんだな。馬鹿に大きい南瓜じゃないかな。明日まで置いてくれな」
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「そんぢや此の南瓜も俺れ貰つてえゝんだな、馬鹿に大けえ南瓜ぢやねえかな、明日まで置いてくろうな」
おつたが始終笑顔を作っている所へ、南の女房が葱を一束、藁でくるんだのを抱えて来た。
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おつたは始終笑顏を作つて居る處へ南の女房は葱を一束藁でくるんだのを抱へて來た。
「どうも済みませんね、これは」
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「どうも濟みませんねこら」
おつたは勘次を見て
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おつたは勘次を見て
「どうしたもんだ、たいした葱じゃないか。本当に済まないな。そんじゃこれも明日まで取っておいてくれな」
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「どうしたもんだ、たえした葱ぢやねえか、本當に濟まねえな、そんぢや此れも明日までとつて置いてくろうな」
と、さらにまた尻を据えて一杯の茶をすすった。
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と更に又臀を据ゑて一杯の茶を啜つた。
「おやっ、この栗はもう笑んでるんだな」
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「おやツ、此の栗は笑んでんだなはあ」
庭先の栗のこずえに初めて目をつけたように、おつたは言った。
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庭先の栗の梢に始めて目をつけた樣におつたはいつた。
「この間からなんでさ。ちっとばかりだが、落ちたのがありまさ」
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「此間からなんでさ、ちつとばかしだが落ちたの有りあんさ」
おつぎは小笊の底の粒栗を出して
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おつぎは小笊の底の粒栗を出して
「あっちになけりゃ持って行ったらようございましょう。大豆も、これ、打った所なら持って行くといいんでしたがね」
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「あつちになけりや持つてつたらようござんせう、大豆もこれ打つた處なら持つてくとえゝんでがしたがね」
おつぎは快く言った。
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おつぎは快くいつた。
「そうだな、そんじゃもらって行くかな」
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「さうだな、そんぢや貰つて行くかな」
おつたは手拭いの両端へ栗をくくった。
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おつたは手拭の兩端へ栗を括つた。
「こっちのおとっつあん、これはわしが役場から下がったのを持って来てみたんだが、一つ分けてもらったらようございましょう。めったにない味のもんだから」
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「こつちのおとつゝあん、此れわし役場から下つたの持つて來て見たんだが一つ分けて貰つたらようがせう、滅多ねえ味のもんだから」
おつぎがさっきしまうことを勘次に促されても、おつたの手前を憚るようにしてそのままにしておいた牛肉の缶詰の一つを、おつたは卯平へやった。
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おつぎが先刻藏ふことを勘次に促されてもおつたの手前を憚つた樣にして其の儘にして置いた牛肉の鑵詰の一つをおつたは卯平へやつた。
卯平は窪んだ目をしかめるようにした。
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卯平は窪んだ目を蹙めるやうにした。
勘次は、油断した自分の懐の物を奪われたほどの驚きと不快との目で、卯平とおつたとを見た。
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勘次は放心した自分の懷の物を奪はれた程の驚愕と不快との目を以て卯平とおつたとを見た。
おつたは重そうな風呂敷包みをうんと背負って、胸の結び目へ両手を掛けて、包みの据わりを良くするために二、三度揺すった。
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おつたは重相な風呂敷包をうんと脊負つて胸の結び目へ兩手を掛けて包の据りを好くする爲に二三度搖つた。
「そんじゃ明日またお目にかかりましょう」
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「そんぢや明日またお目にかゝりあんせう」
おつたは一同へ挨拶して
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おつたは一同へ挨拶して
「これはよかった、本当にまあ」
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「此りやよかつた、本當にまあ」
聞こえよがしに独り言を言いながら、おつたは庭から垣根を出た。
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聞えよがしに獨語しながらおつたは庭から垣根を出た。
勘次は、自分のそばに牛缶を手にして立った卯平を改めてさらに不快な目でじっと見つめながら、彼の心の内には惜しかったという思いが、何ということもなしにただふいと湧いたのであった。
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勘次は自分の側に牛鑵を手にして立つた卯平を改めて更に不快な目を以て凝視しながら、彼の心の裡には惜しかつたといふ念慮が何といふことはなしに只ふいと湧いたのであつた。
「袋は明日持って来てくれなくちゃかなわないぞ」
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「袋は明日持つて來てくんなくつちや畢へねえぞ」
と、勘次はおつたの後から追いかけるようにして言った。
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と勘次はおつたの後から追ひ掛けるやうにしていつた。
おつたは垣根に沿って、後ろの林のそばから田圃へ出た。
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おつたは垣根に添うて後の林の側から田圃へ出た。
道端の竹のこずえには、どこまでも這っていっぱいに乗りかからねば止むまいとする毒な仙人草が、くっきりと白く誇っている。
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道端の竹の梢には何處までも偃うて一杯に乘り掛らねば止むまいとする毒なせんにん草がくつきりと白く誇つて居る。
小さな体でありながら少し鋭いくちばしを持ったばかりに、はかない雀や頬白の前でだけ威力をたくましくする鵙が、小さな勝利者の声を放って、きいきいと際どくどこかの木のてっぺんで鳴いていた。
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小さな身體でありながら少し鋭い嘴を持つたばかりに、果敢ない雀や頬白の前にのみ威力を逞しくする鵙が小さな勝利者の聲を放つてきい/\と際どく何處かの木の天邊で鳴いて居た。
その夜、勘次の家には、突然一同を驚かせた事件が起こった。
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其の夜勘次の家には突然一同を驚愕せしめた事件が起つた。
それは事もなく済んで、そうしてあまりに滑稽な要素を交えていた。
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それは事もなく濟んでさうして餘りに滑稽な分子を交へて居た。
与吉はその日の夕方、紙へ包んだ食塩を一つ盗んだ。
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與吉は其の日の夕方、紙へ包んだ食鹽を一つ盜んだ。
彼は、これまで見たことのない綺麗な菓子を発見したと思って心が躍った。
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彼は從來見たことのない綺麗な菓子を發見したと思つて心が躍つた。
それでも彼はその半分を割って、いきなり飲み下した。
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それでも彼は其の半分を割つていきなり嚥み下した。
彼は喉がじりじりと焦げつくほど、非常な苦しみを感じた。
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彼は喉がぢり/\と焦げつく程非常な苦惱を感じた。
勘次もおつぎも、ただ慌てた。
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勘次もおつぎも只慌てた。
勘次はその原因を知って
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勘次は其の原因を知つて
「お前は馬鹿だな、本当に。何て馬鹿だろうなあ」
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「汝りや馬鹿だな本當に、何ち馬鹿だんべなあ」
と叱ってみるだけであった。
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と叱つて見るだけであつた。
勘次があまりに叱るので
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勘次が餘りに叱るので
「そんなに怒ったって治るまいな、おとっつあんは」
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「そんなに怒つたつて癒るめえな、おとつゝあは」
と、ついにはおつぎが勘次を叱った。
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と遂にはおつぎが勘次を叱つた。
与吉はただ苦しんで、胸をかきむしるようにしながら転がって泣いた。
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與吉は只苦しんで胸を掻き挘る樣にしつゝ顛がつて泣いた。
卯平は騒ぎを聞いて、のっそりと来た。
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卯平は騷ぎを聞いてのつそりと來た。
「水を飲ませてみろ」
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「水飮ませて見ろ」
彼は慌てるということを知らない者のごとく、一言言った。
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彼は慌てるといふことを知らぬものゝ如く一言いつた。
おつぎはすぐに柄杓で水を汲んだ。
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おつぎは直に柄杓で水を汲んだ。
与吉はいくらでも柄にすがって飲んだ。
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與吉は幾らでも柄に縋つて飮んだ。
「鶏が納豆を食ったって、死なないうちに水を飲ませりゃ何ともないんだもの。水を飲ませりゃ、そんなに騒ぐには当たらない」
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「雞納豆くつたつて死なねえ内に水飮ませりや何ともねんだもの、水飮ませりやそんなに騷ぐにやあたらねえ」
卯平は言って、自分でもまた飲ませた。
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卯平はいつて自分でも又飮ませた。
与吉の枕元で、三人は夜通し眠らなかった。
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與吉の枕元に三人は徹宵眠らなかつた。
恐ろしく多量の水を飲んだ与吉は、ついにすやすやと眠った。
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恐ろしく多量の水を飮んだ與吉は遂にすや/\と眠つた。
そうして翌朝、けろりと治って駆け出したのであった。
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さうして翌朝けそ/\と癒つて驅け出したのであつた。
次の日、おつたはまた来た。
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次の日おつたは復來た。
おつたは、自分が無意識に種を蒔いた昨夜の騒ぎを知っているはずがないので、昨日のごとく威勢がよかった。
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おつたは自分が無意識に種を蒔いた昨夜の騷ぎを知つてる筈がないので、昨日の如く威勢がよかつた。
勘次は睡眠の不足から、さらに余計に不快そうに目をしかめた。
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勘次は睡眠の不足から更に餘計に不快の目を蹙めた。
自分の風呂敷へ、軒の下に並べてある三つの南瓜を包もうとして、おつたは
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自分の風呂敷へ軒の下に竝べてある三つの南瓜を包まうとしておつたは
「おれの南瓜はこれだったっけかな」
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「俺れが南瓜は此れだつけかな」
と、不審そうに言った。
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と不審相にいつた。
「それだろうな」
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「それだんべな」
勘次はようやくこれだけ言った。
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勘次は漸くこれだけいつた。
卑しい彼は、おつたへやった南瓜を取り替えておいたのであった。
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淺猿しい彼はおつたへやつた南瓜を換へて置いたのであつた。
「どうしたっけ、昨日の豆は。そんでもたんと穫れた割合だったっけが」
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「どうしたつけ、昨日の豆はそんでもたんと收穫れた割合だつけが」
おつたが謎のように言っても、勘次はいっこうにはきはきと言わなかった。
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おつたが謎のやうにいつても勘次は更にはき/\といはなかつた。
おつたも不快な様子をしながら、南瓜と葱とを背負って、別に口を利くでもなく、ただ卯平と二言三言言って、もうどうでもいいという態度で出て行った。
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おつたも不快な容子をしながら南瓜と葱とを脊負つて別に口を利くでもなく、只卯平と二言三言いつてもうどうでも好いといふ態度で出て行つた。
勘次はつくづくと、中間のひどく痩せてくびれた俵を見た。
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勘次はつく/″\と中間の痛く痩せて括れた俵を見た。
財貨によって物質的な満足を自分の暖かな懐に感じた時、すべてはこれを失うまいとする恐怖から絶えずその心を騒がせているように、無尽蔵な自然の懐から財貨が百姓の手に必ず一度与えられる秋の季節になれば、その財貨を保った田や畑の穂先が、これを妬む一部の自然現象に対して常に戦慄しながら、かつ泣いた。
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財貨によつて物質的の滿足を自分の暖かな懷に感じた時凡ては此れを失ふまいとする恐怖から絶えず其心を騷がせつゝあるやうに、無盡藏な自然の懷から財貨が百姓の手に必ず一度與へられる秋の季節に成れば、其の財貨を保つた田や畑の穗先が之を嫉む一部の自然現象に對して常に戰慄しつゝ且泣いた。
二百十日から二十日の間にわたっての暴風は懸念したほどのことはなく、ただ秋の空は難しそうに低くなって、棒のような雲へ煙のような雲がぽつりぽつりとまとわっている日が続いて、二、三日昼から夜へかけて、ぼかぼかと暖かい空っ風が思い切り吹いた。
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二百十日から廿日の間に渡つての暴風は懸念した程のことはなく、只秋の空は六かし相に低く成つて棒のやうな雲へ煙の樣な雲がぽつり/\と纏つて居る日が續いて二三日晝から夜へ掛けてぼか/\と暖かい空つ風が思ひ切り吹いた。
小松や櫟の林に交じって、これに触れれば人の肌に血を見せるほどの硬い意地の悪い葉を持った芒までが、そうしなければ目にも立たないのに、わざわざ薄赤い柔らかな穂先を高く差し上げて、人一倍に騒いだ。
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小松や櫟の林に交つて、之に觸れゝば人の肌膚に血を見せる程の硬い意地の惡い葉を持つた芒までが、さうしなければ目にも立たないのに態々と薄赤い軟かな穗先を高くさし扛げて、他一倍に騷いだ。
しばらくして、秋はまぶしいほど冴えた空を見せた。
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暫くして秋は眩い程冴えた空を見せた。
畑には、昼が余計に明るいほど黄褐色に熟した陸稲がいっぱいにうなずいた。
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畑には晝が餘計に明るい程黄褐色に成熟した陸稻が一杯に首肯いた。
蕎麦は、爽やかでかつ細く強い秋雨がしとしとと洗って、秋風がそれを乾かした。
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蕎麥は爽かで且つ細く強い秋雨がしと/\と洗つて秋風がそれを乾かした。
洗っては干し干し、しばしばそれが繰り返されて、だんだんに薄青く、そうして闇の夜をさえ明るくするほど純白に曝された。
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洗つては乾し/\屡それが反覆されてだん/\に薄青く、さうして闇の夜をさへ明くする程純白に曝された。
台地の畑は黄と白が相交じって、地勢のままになだらかに起伏して、鬼怒川の土手に近く向こうへ低く傾いている。
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臺地の畑は黄白相交つて地勢の儘になだらかに起伏して鬼怒川の土手に近く向方へ低くこけて居る。
そういう畑の周囲に立っている蜀黍は、強い茎がすっくりと穂を支えて、それがまばらな垣根のように連なって、畑から畑をつないでは幾十度の屈折をなしながら、だんだんに短くなって、これも鬼怒川の土手に近く尽きる。
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さういふ畑の周圍に立て居る蜀黍は強い莖がすつくりと穗を支て、それが疎らな垣根のやうに連つて畑から畑を繼いでは幾十度の屈折をなしつゝ段々に短くなつて此れも鬼怒川の土手に近く竭きる。
土手の篠の高さに見える蜀黍は、南風を受けて、差し上げた手のごとき形をなしては先から先へと動いて、その手が遡る白帆を静かに上流へ押し進めている。
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土手の篠の高さに見える蜀黍は南風を受けて、さし扛げた手の如き形をなしては先から先へと動いて、其の手が溯る白帆を靜かに上流へ押し進めて居る。
そうしてはまた、そのまばらな垣根は、長い短いによって遠くの林のこずえや、冴えた山々の頂をなでている。
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さうしては又其の疎らな垣根は長い短いによつて遠くの林の梢や冴えた山々の頂を撫でゝ居る。
爽やかな秋は、こうしてからりと展開した。
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爽かな秋は斯くしてからりと展開した。
しかし勘次の作った陸稲は、こういう畑ではなく、こずえの荒れた雑木林の間だけであった。
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然し勘次の作つた陸稻はかういふ畑ではなく、梢の荒んだ雜木林の間のみであつた。
彼の開墾地へは、周囲に隠れる場所があるせいか、村のどこにもにわかにその声を聞かなくなった雀が、群れをなして日ごとに襲った。
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彼の開墾地へは周圍に隱れる場所が有る所爲か、村落の何處にも俄に其聲を聞かなくなつた雀が群をなして日毎に襲うた。
彼はそれでも根よく、白いガス糸を縦横に畑の上に引っ張って、ひらひらと燭奴を吊って威してみた。
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彼はそれでも根よく白い瓦斯絲を縱横に畑の上に引つ張つてひら/\と燭奴を吊つて威して見た。
それでもずるい雀のために、籾がまだ固まらないで甘い液汁のような状態をなしているうちから、小さなくちばしで噛んで、おびただしく籾殻がこぼされた。
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それでも狡獪な雀の爲に籾のまだ堅まらないで甘い液汁の如き状態をなして居る内から小さな嘴で噛んで夥かに籾殼が滾された。
彼は空っ風が障ったとは思っていても、長い茎を刈り倒した時はそれでも熱心で、かつ愉快であったが、しかし乾燥して米にした時には、彼は夏のころの予想と非常な相違であることを確かめて落胆せざるを得なかった。
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彼は空つ風が障つたとは思つて居ても、長い幹を刈り倒した時はそれでも熱心で且愉快であつたが、然し乾燥して米にした時には彼は夏の頃の豫想と非常な相違であることを確めて落膽せざるを得なかつた。
彼の卑しい心が、わずかな米や麦を姉であるおつたに騙し取られたかと思い出しては、しばらくの間、忌々しさに堪えられなかった。
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彼の淺猿しい心が僅な米や麥を姊なるものゝおつたに騙して取られたかと思ひ出しては暫くの間忌々敷さに堪へなかつた。
彼は勢い何かに当たり散らそうとするのに、おつぎと与吉とに対してはあまりに深い親しみを持っていた。
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彼は勢ひ何かに當り散らさうとするのにおつぎと與吉とに對しては餘りに深い親しみを有つて居た。
こうして彼の卯平に対する憎悪の念が、彼の心へ錐を穿って、さらに釘ではっきりと打ちつけられたのであった。
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斯うして彼の卯平に對する憎惡の念が彼の心へ錐を穿つて更に釘を以て確然と打ちつけられたのであつた。
二一
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二一
勘次が走って鬼怒川の岸に立った時は、霧がいっぱいに降りて、水は彼の足元から二、三間先が見えるのみであった。
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勘次が走つて鬼怒川の岸に立つた時は霧が一杯に降りて、水は彼の足許から二三間先が見えるのみであつた。
岸には舟が繋いでなかった。
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岸には船が繋いでなかつた。
彼は焦って、いつものように大声を出して、対岸へ行ったはずの舟を呼んだ。
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彼は焦慮つて例するやうに大聲出して對岸へ行つた筈の船を喚んだ。
「おうい」
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「おうえ」
と応じる声が、水を渡って強く、しかも近く聞こえた。
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と應ずる聲が水を渉つて強く然かも近く聞えた。
勘次はその声に圧されて黙った。
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勘次は其の聲に壓せられて默つた。
すぐに舳先が薄く霧の中から見えた。
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直ぐに舳が薄く霧の中から見えた。
勘次は、ほとんどむせるような霧に包まれて舟に立った。
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勘次は殆んど咽ぶやうな霧に包まれて船に立つた。
所々さらさらとかすかに響きを伝えて、舟の底がつかえようとする。
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處々さら/\と微かに響を傳ひて船の底が支へられようとする。
初秋の洪水以来、河の中央には大きな洲が積もったので、舟はその周囲を這って、遠く曲線を描かねばならない。
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初秋の洪水以來河の中央には大きな洲が堆積されたので、船は其の周圍を偃うて遠く彎曲を描かねば成らぬ。
勘次は目を覆われたようで心細い霧の中に、そんなことで著しく延びた水路をたどっていながら、悠然として鈍い棹の立て方をするのに心を焦らせて
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勘次は目を掩はれたやうで心細い霧の中に、其麽ことで著しく延長された水路を辿つて居ながら、悠然として鈍い棹の立てやうをするのに心を焦慮らせて
「どうしたろう、入っちゃ越せまいか」
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「どうしたんべ、入つちや越せめえか」
船頭のほうを向いて彼は言った。
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船頭の方を向いて彼はいつた。
「ぶくぶくやりたけりゃ入ったほうがいいや」
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「ぶく/\やりたけりや入つた方がえゝや」
船頭はそっけなく言って、おもむろに棹を立てる。
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船頭はそつけなくいつて徐ろに棹を立てる。
舟底が触れて、立っている体がぐらりと後ろへ倒れそうになった。
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船底が觸つて立つて居る身體がぐらりと後へ倒れ相に成つた。
勘次は、船頭がわざと自分を突きのめしたもののように感じて、ひどく頼りない心持ちがした。
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勘次は船頭が態と自分を突きのめしたものゝやうに感じて酷く手頼ない心持がした。
彼はじっと屈んで、船頭の操るままに任せた。
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彼は凝然と屈んで船頭の操る儘に任せた。
中央の大きな洲から続く浅瀬につかえて、舟は例の所へは着けられなくなっている。
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中央の大きな洲から續く淺瀬に支へられて船は例の處へは着けられなく成つて居る。
ただ一人の乗客である勘次は、船頭の勝手な所へ下ろされたように思った。
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只一人の乘客である勘次は船頭の勝手な處へおろされたやうに思つた。
川柳が痩せて、赤い実を隠したくこの枝がぽつねんと垂れて、大きな蓼の葉が黄色くなっている岸へ、舟はがさりと舳先を突っ込んだのである。
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河楊が痩せて、赤い實を隱した枸杞の枝がぽつさりと垂れて、大きな蓼の葉が黄色くなつて居る岸へ船はがさりと舳を突つ込んだのである。
それでもそこには、もう幾度か舟がつけられたと見えて、足跡らしいのが階段のように形づけられてある。
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それでも其處にはもう幾度か船がつけられたと見えて足趾らしいのが階段のやうに形づけられてある。
勘次は川柳の枝に手を掛けて、他人の足跡を踏んだ。
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勘次は河楊の枝に手を掛けて他人の足趾を踏んだ。
枝や葉がざらざらと彼の蓙に触れて鳴った。
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枝や葉がざら/\と彼の蓙に觸れて鳴つた。
彼は三足目に岸に立った。
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彼は三足目に岸に立つた。
岸は畑で、洪水がもたらした灰に似ている泥がいっぱいに乾いて、大きな亀裂を生じている。
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岸は畑で、洪水が齎した灰に似てる泥が一杯に乾いて大きな龜裂を生じて居る。
周囲の蜀黍が穂を伐られたまま、少し遠くはぼんやりとして、これも霧の中にしょんぼりと立っている。
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周圍の蜀黍が穗を伐られた儘、少し遠くはぼんやりとして此れも霧の中に悄然と立つて居る。
勘次が振り返った時、彼を捨てた舟は沈んだ霧に隔てられて見えなかった。
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勘次が顧つた時、彼を打棄つた船は沈んだ霧に隔てられて見えなかつた。
彼は蜀黍の茎に沿って、足跡に従って、はるかに土手の往来へ出た。
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彼は蜀黍の幹に添うて足趾に從つて遙に土手の往來へ出た。
霧がいっぺんに晴れた。
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霧が一遍に晴れた。
彼は何かに騙された後のように、がらんとした周囲をぐるりと見回さないわけにはいかなかった。
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彼は何かに騙された後のやうに空洞とした周圍をぐるりと見廻さない譯にはいかなかつた。
彼は沿岸の洪水後の変化に、驚きの目を見開いた。
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彼は沿岸の洪水後の變化に驚愕の目を睜つた。
偶然、彼は、にわかに透明になった空気の中から駆けて来て網膜の底にひっついたもののように、ぽっちりと一つ目についたものがある。
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偶然彼は俄に透明に成つた空氣の中から驅つて來て網膜の底にひつゝいたものゝやうにぽつちりと一つ目についたものがある。
それは遠い上流に繋がっている小さな舟であった。
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それは遠い上流に繋つて居る小さな船であつた。
そこには数本の竹竿が立てられてあるのも、同時に彼の目に入った。
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其處には數本の竹竿が立てられてあるのも同時に彼の目に入つた。
彼はすぐに、それが鮭捕り舟であることを知った。
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彼は直ぐにそれが鮭捕船であることを知つた。
漁夫は鮭が深夜に網に掛かるのを待ちながら、たとえ連夜にわたってそれが空しくとも、ぽっちりとさえ眠ることなく、また獲物が鋭く水を切って進んで来るのを彼らの敏捷な目が闇夜にも必ず逸することなく、接近した一瞬、彼らは水中に躍って機敏に網で獲物を巻くのである。
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漁夫は鮭が深夜に網に懸るのを待ちつゝ、假令連夜に渡つてそれが空しからうともぽつちりとさへ眠ることなく、又獲物が鋭く水を切つて進んで來るのを彼等の敏捷な目が闇夜にも必ず逸することなく、接近した一刹那彼等は水中に躍つて機敏に網を以て獲物を卷くのである。
彼らは夜が明けると、銀のごとく光っている獲物が一尾でも舟にあれば、それを青竹の葉に包んで威勢よく担いで出る。
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彼等は夜が明けると銀の如く光つて居る獲物が一尾でも船に在ればそれを青竹の葉に包んで威勢よく擔いで出る。
そうでなければ、賢い鮭が淀みに隠れて動かない白昼の間だけ、ぐったりと疲れた体にわずかに一睡を盗むにすぎないので、朝の明るく白い水にさえ、じっとその目を放たないのである。
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さもなければ怜悧な鮭が澱みに隱れて動かぬ白晝の間のみぐつたりと疲れた身體に僅に一睡を偸むに過ぎないので、朝の明るく白い水にさへ凝然と其の目を放たないのである。
いずれにしても、小さな舟は今、冷たい朝の静けさを保っているのである。
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孰れにしても小さな船は今冷たい朝の靜けさを保て居るのである。
ただはるかに隔たった村の木立のこずえから昇る炊煙が、冴えた冷たい空に吸い込まれているだけで、その小さな舟が中心点をなして、勘次の目には一つも動く物を見なかった。
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只遙に隔つた村落の木立の梢から騰る炊煙が冴えた冷たい空に吸ひこまれて居るのみで、其の小さな船が中心點をなして勘次の目には一つも動く物を見なかつた。
彼はしばらくまたじっとして、上流の小舟を見ていた。
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彼は暫く又凝然として上流の小船を見て居た。
彼は気がついた時、土手を一散に北へ急いだ。
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彼は氣がついた時土手を一散に北へ急いだ。
土手はやがて水田に沿って、うねうねと遠く走っている。
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土手は軈て水田に添うてうね/\と遠く走つて居る。
土手の道幅が狭くなった。
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土手の道幅が狹くなつた。
それは、刈られてぐっしょりと湿っている稲が、土手の芝の上いっぱいに干されてあったからである。
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それは刈られてぐつしやりと濕つて居る稻が土手の芝の上一杯に干されてあつたからである。
稲は、ぽつぽつと群がっている野茨の株を除いて、ことごとく広げられてある。
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稻はぼつ/\と簇つて居る野茨の株を除いて悉く擴げられてある。
野茨の葉はもう落ちてしまって、小さな枝の先には赤いつやつやした実が一つずつかざされている。
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野茨の葉はもう落ちて畢つて、小さな枝の先には赤いつやゝかな實が一つづゝ翳されて居る。
草刈りの鎌を逃れて、しっかりとその株の根にすがった嫁菜の花が、刺の立った枝に寄りかかりながら、しっとりと朝の湿りを帯びている。
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草刈の鎌を遁れて確乎と其株の根に縋つた嫁菜の花が刺立つた枝に倚り掛りながらしつとりと朝の濕ひを帶て居る。
濡れた稲の匂いが勘次の鼻を突いた。
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濡れた稻の臭が勘次の鼻を衝いた。
いなごがぱらぱらと足の響きにつれて、稲を渡って逃げた。
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螽がぱら/\と足の響に連れて稻を渉つて遁た。
彼はその干された稲の穂先をつかんで、籾の幾粒かを手にしごいてみた。
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彼は其干された稻の穗先を攫んで籾の幾粒かを手に扱いて見た。
彼はさらにその籾粒を歯で噛んでみた。
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彼は更に其籾粒を齒で噛んで見た。
彼はそれからまた一散に走った。
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彼は夫から又一散に走つた。
彼は少しの間に、ひどく手間取ったように感じた。
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彼は少しの間に酷く暇どつたやうに感じた。
足には脚絆と草鞋とを履いて、背には蓙を背負っている。
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足には脚絆と草鞋とを穿て背には蓙を負うて居る。
蓙は絶えず彼の背後にがさがさと鳴って、その耳を騒がせた。
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蓙は終えず彼の背後にがさ/\と鳴つて其の耳を騷がした。
彼はついに土手から折れて、東へ東へと走った。
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彼は遂に土手から折れて東へ/\と走つた。
村がぽつりぽつりと木立を作っているほかには、一帯にただ連続している水田を貫いて、道ははるかに遠く、ひっついたような台地の林を望んで一直線である。
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村落がぽつり/\と木立を形つて居る外には一帶に只連續して居る水田を貫いて道は遙に遠く、ひつゝいたやうな臺地の林を望んで一直線である。
彼はかつてそこを歩いたことはあった。
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彼は嘗て其處を歩いたことはあつた。
しかし彼が知っているのは、幾つも曲がりくねっていた当時である。
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然し彼の知つてるのは幾屈曲をなして居た當時である。
彼はいつの間にか極端に人工的な整理を施された耕地に、驚きの目を見開いた。
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彼は何時の間にか極端に人工的の整理を施された耕地に驚愕の目を睜つた。
彼は溝が整然としているのに見とれてしまった。
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彼は溝渠の井然として居るのに見惚れて畢つた。
日はようやく朝を離れて、空に居座った。
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日は漸く朝を離れて空に居据つた。
すべての物が明るい光を添えた。
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凡ての物が明るい光を添へた。
しかしながら、周囲のどこにも生き生きした緑は絶えて目に映らなかった。
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然しながら周圍の何處にも活々した緑は絶えて目に映らなかつた。
まだいくらも刈られていない田は、黄褐色の明るい光を反射して、所々の畑に作る桑も、霜に遭うまではとこずえの小さな柔らかな葉の四、五枚が潤いを持っているだけである。
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まだ幾らも刈られてない田は、黄褐色の明るい光を反射して、處々の畑に仕る桑も、霜に逢ふまではと梢の小さな軟かな葉の四五枚が潤ひを有つて居るのみである。
ぽつぽつと群がった村の木立は、どれもことごとく赤茶けたくすんだ葉で覆われている。
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ぽつ/\と簇つた村落の木立の孰れも悉く赭いくすんだ葉を以て掩はれて居る。
そうして低く接している木立との間に、はっきりと強い線を描いて、空は憎いほど冴えている。
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さうして低く相接して居る木立との間に截然と強い線を描いて空は憎い程冴て居る。
そうだ。
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さうだ。
すべての植物が持っている葉緑素は、すっかり空が持っているのだ。
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凡ての植物が有つて居る緑素は悉皆空が持つて居るのだ。
春になると空はそれを雨に溶かして撒いてやるのだ。
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春になると空はそれを雨に溶解して撒いてやるのだ。
だから湿った枝はどれでも青く彩られねばならないはずである。
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それだから濕うた枝はどれでも青く彩られねばならぬ筈である。
だから、幾度百姓の手が耕そうとも、その土を乾かして濡らさない工夫を立てない限りは、思わぬ所にぽつりぽつりと草の葉が青く出て、雨が降れば降るほど、どこでもいっぱいにその草の葉が濃くなって行かねばならないはずである。
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それだから幾度百姓の手が耕さうとも其の土を乾燥して濡らさぬ工夫を立ない限りは、思はぬ處にぽつり/\と草の葉が青く出て、雨が降れば降る程何處でも一杯に其の草の葉が濃く成つて行かねばならぬ筈である。
それを晩秋の空がすっかり持ち去るので、めっきりと冴える反対に、草木はすべてが乾燥したりくすんだりしてしまうに違いないのである。
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それを晩秋の空が悉皆持ち去るので滅切と冴える反對に草木は凡てが乾燥したりくすんだりして畢ふのに相違ないのである。
明るい日はまったく昼になった。
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明るい日は全く晝に成つた。
所々の島のような畑の縁から田へ這いかかっている料理菊の黄色い花が、とりわけ一番強く日光を反射して、近いよりは遠いほど快く鮮やかに見えている。
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處々の島のやうな畑の縁から田へ偃ひ掛つて居る料理菊の黄な花が就中一番強く日光を反射して近いよりは遠い程快よく鮮かに見えて居る。
勘次は始終手拭いで巻いた右手の肘を抱えるようにして、伏し目に歩いた。
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勘次は始終手拭を以て捲いた右手の肘を抱へるやうにして伏目に歩いた。
道に沿った狭い堀の浅い水に、彼の目が放たれた。
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道に添うて狹い堀の淺い水に彼の目が放たれた。
がらがらに荒れた狼把草やえぐが、ぽつぽつと水に浸かっている。
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がら/\に荒んだ狼把草やゑぐがぽつ/\と水に浸つて居る。
青い空は浅い水の底から、はるかに深く遠く光った。
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蒼い空は淺い水の底から遙かに深く遠く光つた。
そうして、どこからか迷い出して落ち着く場所を見出しかねて困っているような白い雲が映って、勘次が走れば走るほど先へ先へと移った。
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さうして何處からか迷ひ出して落付く場所を見出し兼ねて困つて居るやうな白い雲が映つて、勘次が走れば走る程先へ/\と移つた。
勘次はそれをじっと見つめて行くと、何だか頭がぐらぐらするように感じられた。
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勘次はそれを凝視めて行くと何だか頭腦がぐら/\するやうに感ぜられた。
彼は昨夜は眠らなかった。
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彼は昨夜は眠らなかつた。
彼の、自分独りで噛み殺していなければならない忌々しさが、頭を刺激した。
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彼の自分獨で噛み殺して居ねばならぬ忌々敷さが頭腦を刺戟した。
彼はひたすら、肘の傷を実際よりも幾倍もはるかに重く他人には見せたいという、一種の分からない心持ちを持っていた。
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彼は只管肘の瘡痍の實際よりも幾倍遙に重く他人には見せたい一種の解らぬ心持を有つて居た。
寸暇をも惜しんだ彼の心は、これまでになく、自分の損失を顧みる余裕を持たないほど惑乱し、濁っていた。
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寸暇をも惜んだ彼の心は從來になく、自分の損失を顧みる餘裕を有たぬ程惑亂し溷濁して居た。
白昼の日は横頬に暑いほどに射しかけたが、周囲は依然冷たかった。
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白晝の日は横頬に暑い程に射し掛けたが周圍は依然冷たかつた。
堀の浅い水には、これも冷たげにじっと身を沈めた蛙が、黙って彼を見ていた。
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堀の淺い水には此れも冷たげに凝然と身を沈めた蛙が默つて彼を見て居た。
遠い田圃を、彼は前後にただ一人の通行人であった。
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遠い田圃を彼は前後に只一人の行人であつた。
はるかにぽつりぽつりと見える稲刈りの百姓は、孤独な彼の目から隠れようとするように、すっかりずっと低く身を屈めている。
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遙にぽつり/\と見える稻刈の百姓は㷀然とした彼の目から隱れようとする樣に悉皆ずつと低く身を屈めて居る。
明るい光に満ちた田圃を、その惑乱し濁った心を抱いて寂しく歩数を積んで行く彼は、ガラスの器の水を日にかざして発見した一点の塵であった。
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明るい光に滿ちた田圃を其の惑亂し溷濁した心を懷いて寂しく歩數を積んで行く彼は、玻璃器の水を日に翳して發見した一點の塵芥であつた。
勘次は田圃が尽きた時、村を過ぎて台地へ出た。
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勘次は田圃が竭きた時村落を過ぎて臺地へ出た。
村の垣根には稲を掛けている人々があった。
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村落の垣根には稻を掛けて居る人々があつた。
道行く人を見たがる癖の彼らは、皆忙しげな勘次を見た。
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道行く人を見たがる癖の彼等は皆忙しげな勘次を見た。
勘次は他人が自分を見ることを知った時、肘をまた丁寧に抱いた。
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勘次は他人が自分を見ることを知つた時肘を復た叮嚀に抱いた。
台地には林の間に、陰気な畑が開墾されてあった。
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臺地には林の間に陰氣な畑が開墾されてあつた。
彼は開墾地の土質と作物とを、非常な注意で見た。
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彼は開墾地の土質と作物とを非常な注意で見た。
また村があって、広い畑が展開した。
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又村落があつて廣い畑が展開した。
畑は陸稲を刈ったままの所がいくらもあった。
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畑は陸稻を刈つた儘の處が幾らもあつた。
彼は陸稲の刈り株を丁寧に草鞋の先で踏んでみた。
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彼は陸稻の刈株を叮嚀に草鞋の先で蹂んで見た。
百姓がちらほらと動いて、麦を蒔くべき土が清潔に耕されつつある。
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百姓がちらほらと動いて麥を蒔くべき土が清潔に耕されつゝある。
畑の黒い土は、彼らの技巧を発揮して丁寧に耕されれば、日がまだそれを乾かさないうちは、ただ清潔で快い感じを見る人の心に与えるのである。
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畑の黒い土は彼等の技巧を發揮して叮嚀に耕されゝば日がまだそれを乾さない内は只清潔で快よい感じを見る人の心に與へるのである。
そういう村を包んで、そこにも雑木林が一帯に赤茶けている。
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さういふ村落を包んで其處にも雜木林が一帶に赭くなつて居る。
他に先立って際どく燃えるようになった白膠木の葉が、黒い土と遠く映じ合っている。
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他に先立つて際どく燃えるやうになつた白膠木の葉が黒い土と遠く相映じて居る。
勘次は、自分の麦を蒔くべき畑の用意がまだ十分でないことを思った。
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勘次は自分の麥を蒔くべき畑の用意がまだ十分でないことを思つた。
彼は前年、寒さが急に襲った時、種を蒔く日がわずかに二日の違いで後れた麦が、意外に収穫の減った苦い経験を忘れ去ることができなかった。
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彼は前年寒さが急に襲うた時、種蒔く日が僅に二日の相違で後れた麥の意外に收穫の減少した苦い經驗を忘れ去ることが出來なかつた。
彼は標準として教えられたその日を外すことなく、麦は蒔かねばならないものと覚悟をしているのである。
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彼は標準として教へられた其の日を外すことなく麥は蒔かねばならぬものと覺悟をして居るのである。
それとともに、一日でもこうして時間を空費する自分の傷について、彼は深く悲しんだ。
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それと共に一日でも斯うして時間を空費する自分の瘡痍に就いて彼は深く悲しんだ。
しかしそれでいながら、彼は悲痛から来る憤懣の情が、ただその傷を誰にも実際以上に重く見せもし、見られもしたいというはかない思いを湧かせること以外に、何物をも持たなかった。
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然しそれで居ながら彼は悲痛から來る憤懣の情が、只其瘡痍を何人にも實際以上に重く見せもし見られもしたい果敢ない念慮を湧かしむることより外に何物をも有たなかつた。
彼はほとんど絶対に、同情と慰めとに渇していたのである。
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彼は殆んど絶對に同情と慰藉とに渇して居たのである。
畑の黒い土には、ぽつぽつと大根の葉が茂っている。
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畑の黒い土にはぽつ/\と大根の葉が繁つて居る。
周囲に冴えた青い物は、大根の葉だけである。
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周圍に冴えた青い物は大根の葉のみである。
大根の葉は、いったん地上の緑を奪って透き通った空が、その濃厚な緑を沈殿させて地上に置いた結晶体でなければならない。
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大根の葉は、一旦地上の緑を奪うて透徹した空が其の濃厚な緑を沈澱させて地上に置いた結晶體でなければならぬ。
晩秋の気配は、ひたすらに沈もうとばかりしている。
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晩秋の氣は只管に沈まうとのみして居る。
生殖作用を終えたすべての作物の穂先は、すっかりもううなだれている。
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生殖作用を畢つた凡ての作物の穗先は悉皆もう俛首れて居る。
虫の声も地に染み入ろうとしている。
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蟲の聲も地に沁み入らうとして居る。
独り爽やかな緑を与えられた大根の葉も、いくら成長しても強く引き締める晩秋の気を受けて、地にひっつくようにしてようやく斜めに広がるのみで、少しでも高く立ち昇ることを許されていない。
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獨り爽かな緑を與へられた大根の葉も、幾ら成長しても強く引き締める晩秋の氣を受けて地にひつゝくやうにして漸と斜に廣がるのみで、毫でも高く立ち昇ることを許容されて居らぬ。
こうして畑の土は、ただ冷たく凍るのを待っているのである。
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恁うして畑の土は只冷たく凍るのを待つて居るのである。
勘次はようやく整骨医の門に達した。
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勘次は漸く整骨醫の門に達した。
整骨医の家は、がら竹の垣根に珊瑚樹の大木が覆いかぶさって、陰気に見えていた。
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整骨醫の家はがら竹の垣根に珊瑚樹の大木が掩ひかぶさつて陰氣に見えて居た。
戸板を三角形に合わせて駕籠のようにこしらえたものが、垣根の内に置かれてあった。
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戸板を三角形に合せて駕籠のやうに拵へたのが垣根の内に置かれてあつた。
誰か重い怪我人が運ばれたのだと勘次はすぐに悟って、そうして何だかぞっとした。
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誰か重い怪我人が運ばれたのだと勘次は直ぐに悟つてさうして何だか悚然とした。
彼は仰々しい自分の身なりに恥じて、ためらいながら案内を請うた。
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彼は業々しい自分の扮裝に恥ぢて躊躇しつゝ案内を請うた。
ぽつねんとして玄関に待っているのは、すっかり怪我人ばかりである。
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ぽつさりとして玄關に待つて居るのは悉皆怪我人ばかりである。
首から白い布切れを吊って、これも白く包帯した手を持たせた者もあった。
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首から白い布片を吊つて此れも白く繃帶した手を持たせたものもあつた。
そこに青い顔をしてぐったりと横たわっている者もあった。
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其處に蒼い顏をしてぐつたりと横はつて居るものもあつた。
勘次は怪我人の後ろに隠れるようにして自分の番になるのを待ちながら、周りが何となく薬臭くて恐ろしいような感じにとらわれた。
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勘次は怪我人の後に隱れるやうにして自分の番になるのを待ちながら周邊が何となく藥臭くて恐ろしいやうな感じに囚はれた。
医者は一人の患部を柔らかく揉んでやっていたが、勘次をちらと見た。
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醫者は一人の患部を軟かに柔んでやつて居たが勘次をちらと見た。
勘次は何だか睨まれたように感じた。
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勘次は何だか睨まれたやうに感じた。
医者はまな板のような板の上に黄褐色な粉薬を少し出して、白い糊と練り合わせて、瓶の酒のような液体でそれを緩めて、それから長い鋏で白紙を刻んで、真鍮の箆でその薬を紙へ塗りつけて患部へ貼ってやった。
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醫者は爼板のやうな板の上に黄褐色な粉藥を少し出して、白い糊と煉り合せて、罎の酒のやうな液體でそれを緩めてそれから長い鋏で白紙を刻んで、眞鍮の箆で其藥を紙へ塗抹つて患部へ貼つてやつた。
怪我人らは、ただじっとして医者の熟練した手元を見つめた。
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怪我人等は只凝然として醫者の熟練した手もとを凝視した。
勘次は他人の後ろから爪立ちをした。
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勘次は他人の後から爪立をした。
二、三人小さな治療が済んで、十二、三の男の子が仕事着のままの二十四、五の百姓に負われて、医者の前に据えられた。
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二三人小さな療治が濟んで十二三の男の子が仕事衣の儘な二十四五の百姓に負はれて醫者の前に据ゑられた。
医者は縁側の明るみへ座蒲団を敷いて出た。
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醫者は縁側の明るみへ座蒲團を敷いて出た。
怪我人は医者の前へ出ると、恐怖に襲われたようににわかにむせび泣いた。
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怪我人は醫者の前へ出ると恐怖に襲はれたやうに俄に鳴咽した。
医者は横に膨れた大きな体で、ゆったりと胡坐をかいたまま、怪我人の左の手をまくって見た。
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醫者は横に膨れた大な身體でゆつたりと胡坐をかいた儘怪我人の左の手を捲つて見た。
怪我人の二の腕が折れて、ぶらりと垂れていた。
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怪我人の上膊が挫折してぶらりと垂れて居た。
医者は怪我人の患部に手を触れてみて
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醫者は怪我人の患部に手を觸れて見て
「お前、そっちを持って」
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「お前そつち持つて」
と、簡単に顎で百姓へ指図した。
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と簡單に顎で百姓へ指圖した。
百姓はおずおず怪我人の後ろへ回って、青い顔をして抱いた。
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百姓は怖づ/\怪我人の後へ廻つて蒼い顏をして抱いた。
「いいか、ぎっと抱いてるんだぞ」
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「えゝか、ぎつと抱いてるんだぞ」
医者は足を怪我人の腹に当てて、両手に折れた手を持って引こうとした。
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醫者は足を怪我人の腹部に當てゝ兩手に挫折した手を持つて曳かうとした。
怪我人は恐ろしさに、わっと声を放って泣いた。
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怪我人は恐ろしさにわつと聲を放つて泣いた。
医者は手を止めた。
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醫者は手を止めた。
「お前は兄貴だな。そんじゃいい、無駄だ」
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「お前兄貴だな、そんぢやえゝ、徒勞だ」
と、抱いた手を放させた。
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と抱いた手を放たしめた。
百姓は骨肉のいたわりが、泣き叫ぶ子をぎっと力を込めて引かせない。
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百姓は骨肉の勦りが泣き號ぶ子をぎつと力を籠めて曳かせない。
そんな思い切った手段に加わることはできないのであった。
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そんな思ひきつた手段に加はることは出來ないのであつた。
百姓は泣けば泣くほど手を緩めた。
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百姓は泣けば泣く程手を緩めた。
医者はそれで無駄だと言った。
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醫者はそれで徒勞だといつた。
百姓はただ青い顔をして、ぼうっとしているだけであった。
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百姓は只蒼い顏をしてぼつとして居るのみであつた。
医者はさらに家族に命じて、近所の若者を呼びにやった。
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醫者は更に家族に命じて近所の壯者を喚びにやつた。
「木から落ちたな」
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「木から落つたな」
医者は百姓に聞いた。
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醫者は百姓に聞いた。
「ええ、わしはもう、どうしていいもんだか分からないから、畑を耕してたまま着物も着ないで、こうして負って来たんだが」
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「えゝ、わしやはあ、どうしてえゝもんだか分んねえから畑耕つてた儘衣物も着ねえで斯うして負つて來たんだが」
と百姓は言って、それから
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と百姓はいつて、それから
「わしは柿の木へ登るのを見てたんだったが、落ちたから駆けて行って見たら、目を引きつけちまって。そんでもしばらく経ったら泣き出したんで、わしが抱き起こして手へ触ったら、痛い痛いと言うから、まくって見たら、こうぶらんとなったっきりで、わしももう、驚いちまって」
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「わし柹の木さ登んな見てたんだつけが、落つたから驅けてつて見たら、目引つゝけつちやつて、そんでも暫く經つたら泣き出したんでわし抱き起して手へ觸つたら、痛てえ/\つちから捲つて見たら、斯うぶらんと成つたつ切でわしもはあ、魂消つちやつて」
百姓はひたすらに慌てて言った。
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百姓は只管に慌てゝいつた。
「本当に、ここへ来ていちゃ、毎日のように木から落ちたという怪我人が来るんだよまあ。椎の木から落ちたの、栗の木から落ちたのって。子供の怪我はたいがいそうなんだから、男の子を持っちゃ心配さね。そんだがこれ、怪我というのは間違いだから、わしらも下駄を履きながらひょいっと転んだだけで手首が折れたんだなんて」
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「本當に此處へ來て居ちや毎日のやうに木から落つたつち怪我人が來んだよまあ、椎の木から落つたの栗の木から落つたのつて、子供の怪我は大概さうなんだから、男つ子持つちや心配さねえ、そんだがこれ、怪我つちや過だから、わし等も下駄穿きながらひよえつと轉がつた丈で手つ首折れたんだなんて」
と、そばにいた婆さんが言った。
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と側に居た婆さんがいつた。
「うちのも毎日のように柿の木へ登ってて、木登りは上手なんだから。それも雨でも降ったばかりならつるつるして足が引っ掛からないもんだが、雨は降らないし、そんなことはないはずなんだが、つかまってた枝の所に蛇がいたとかって、慌てて下りようと思ったというんだから。いつでももう、枝なんざがさがさやって、てっぺんのほうで怒鳴ったりなにかしてたんだったが、かさっというのがひどく変な音だと思って見るうちには、落ちるのは早いもんで。困ったことができたのさ」
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「わし等がも毎日のやうに柹の木さ登つてゝ木登りは上手なんだから、それも雨でも降つたばかしならつる/\して足引つ掛んねえもんだが雨は降んねえし、そんなこたねえ筈なんだが、攫つてた枝ん處に蛇居たとかつて慌くつておりべと思つたつちんだから、いつでもはあ枝なんざがさがさやつて天邊の方で呶鳴つたりなにつかしてたんだつけが、かさあつちのが酷く變な音だと思つて見る内にや落んな早えゝもんで、困つたこと出來たのせ」
百姓は調子に乗って言い続けた。
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百姓は乘地になつていひ續けた。
勘次は恐怖の目を見開いて耳を傾けた。
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勘次は恐怖の目を睜つて耳を傾けた。
「柿の木へ蛇が上がるようじゃ、雨でもまた降らなけりゃいいが。百姓には大事な所なんだからまあ、ちっと続けさせたいもんだが」
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「柹の木さ蛇があがるやうぢや雨でもまた降らなけりやえゝが、百姓にや大事な處なんだからまあ、ちつと續けさせてえもんだが」
そばからまた一人の怪我人が口を添えた。
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側から又一人の怪我人が口を添へた。
勘次はまたその話を聞きながら、定まりない天候の変化を案じた。
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勘次は又其の噺を聞きながら定まりない天候の變化を案じた。
やがて近所の若者が来て、以前のごとく怪我人を抱いた。
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軈て近所の壯者が來て以前の如く怪我人を懷いた。
医者はさっきのようにして、怪我人の恐怖した顔を見ながら、口を締めてぎっとその手を引いた。
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醫者は先刻のやうにして怪我人の恐怖した顏を見ながら口を締めてぎつと其の手を曳いた。
怪我人の手はぼきっと恐ろしい音を立てた。
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怪我人の手はぼぎつと恐ろしい音を立た。
怪我人はただ泣き叫んだ。
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怪我人は只泣き號んだ。
「よしよし、治っちゃった」
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「よし/\癒つちやつた」
医者は手を放って、太い柔らかそうな指の腹でしばらく揉むようにして、それから薬を塗った紙をいっぱいに貼って、燭奴のような薄い木の板を当てて、ぐるりと包帯を施した。
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醫者は手を放つて、太い軟らか相な指の腹で暫く揉むやうにしてそれから藥を塗つた紙を一杯に貼つて燭奴のやうな薄い木の板を當てゝぐるりと繃帶を施した。
「どれくらいで治ったもんでございましょうね、先生さん」
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「どのつ位で癒つたもんでござんせうね、先生さん」
百姓は心配そうに聞いた。
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百姓は懸念らしく聞いた。
「そうすぐには治らないな」
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「さう直ぐにや癒らねえな」
医者は無愛想に言った。
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醫者は無愛想にいつた。
百姓は依然として青い顔をしながら、怪我人を背負って帰って行った。
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百姓は依然として蒼い顏をしながら怪我人を脊負つて歸つて行つた。
それから二、三人の治療が済んで、勘次の番になった。
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それから二三人の療治が濟んで勘次の番に成つた。
「こりゃ大層大事にしてあるな」
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「此りや大層大事にしてあるな」
医者は汚い手拭いを取って、勘次の肘を見た。
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醫者は穢い手拭をとつて勘次の肘を見た。
鉄の火箸で打った跡が、指のごとくほのかに膨れていた。
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鐵の火箸で打つた趾が指の如くほのかに膨れて居た。
「どうしたんだいこれは、夫婦喧嘩でもしたか」
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「どうしたんだえ此ら、夫婦喧嘩でもしたか」
医者は毎日百姓を相手にして砕けて付き合う習慣がついているので、どっしりと大きな体からこういう冗談も出るのであった。
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醫者は毎日百姓を相手にして碎けて交際ふ習慣がついて居るので、どつしりと大きな身體からかういふ戯談も出るのであつた。
「なあに、わしはもう、女房に死なれてから七、八年にもなるんでございますから」
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「なあにわしやはあ、嚊に死なれてから七八年にもなんでがすから」
勘次は少し苦笑して言った。
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勘次は少し苦笑していつた。
「そうか、そんじゃ誰に打たれたい。まだ若いんだから、そんでもどこかへこしらえたかい」
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「さうか、そんぢや誰に打たれたえ、まあだ壯だからそんでも何處へか拵えたかえ」
軽い傷をあまりに大袈裟に包んだ勘次の様子を、心から冷笑することを禁じなかった医者は、こうからかいながら口髭をひねった。
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輕微な瘡痍を餘りに大袈裟に包んだ勘次の容子を心から冷笑することを禁じなかつた醫者はかう揶揄ひながら口髭を捻つた。
「先生さん、冗談を言って。なあに、わしは爺さんに打たれたんでさ」
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「先生さん戯談いつて、なあにわしや爺樣に打たれたんでさ」
勘次はひたすらに、医者の前で追及の圧迫から逃れようとするように言った。
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勘次は只管に醫者の前に追求の壓迫から遁れようとするやうにいつた。
医者はそれからはもう黙って薬を貼って、形ばかりの包帯をした。
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醫者はそれからはもう默つて藥を貼つて形ばかりの繃帶をした。
「先生さん、わしはまだ来なくちゃなりますまいか」
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「先生さん、わしやまあだ來なくつちやなりあんすめえか」
勘次は心配そうな目で聞いた。
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勘次は懸念らしい目を以て聞いた。
「この薬をやるから、自分で貼ったほうがいい。これで治るから」
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「此の藥をやるから、自分で貼つた方がえゝ、此れで癒るから」
と、医者は一袋の薬を与えた。
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と醫者は一袋の藥を與へた。
勘次は一度整骨医の門をくぐってからは、世間にはこんなに怪我人の数があるものだろうかと、絶えず驚きと恐怖との念に圧されていたが、珊瑚樹の茂った木陰から竹の垣根を往来へ出た時、彼は身も心もにわかに軽くなったことを感じた。
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勘次は一度整骨醫の門を潜つてからは、世間には這麽に怪我人の數が有るものだらうかと絶えず驚愕と恐怖との念に壓せられて居たが、珊瑚樹の繁茂した木蔭から竹の垣根を往來へ出た時彼は身も心も俄に輕くなつたことを感じた。
彼は小さな怪我人から連想して、これも毎日庭の木を狙っている与吉を心配し出した。
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彼は小さな怪我人から聯想して此れも毎日庭の木を覘つて居る與吉を憂へ出した。
彼は脚力の及ぶ限り帰り道を急いだ。
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彼は脚力の及ぶ限り歸途を急いだ。
彼は行く行く、午前に見てしばらく忘れていた百姓の活動を再び目の前に見せつけられて、隠れていた憤懣の情がまたむらむらと首をもたげた。
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彼は行く/\午前に見て暫く忘れて居た百姓の活動を再び目前に見せ付られて隱れて居た憤懣の情が復た勃々と首を擡げた。
彼は自分の傷が軽いと医者から宣告された時は何となく安心されたのであったが、しかしまた次第に道のりを運びながら、いろいろな雑念が湧くにつれて、失望と不満足を心に抱きはじめた。
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彼は自分の瘡痍が輕く醫者から宣告された時は何となく安心されたのであつたが、然し又漸次道程を運びつゝ種々な雜念が湧くに連れて、失望と不滿足を心に懷きはじめた。
彼が家に帰った後、傷を重く見せかけようとするのには、医者の診断が寸毫も彼に味方していなかったからである。
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彼は家に歸つた後瘡痍を重く見せ掛けようとするのには醫者の診斷が寸毫も彼に味方して居なかつたからである。
彼が家に帰ったのは、日が西に連なった雑木林の上に傾こうとしたころであった。
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彼の家に歸つたのは日が西に連つた雜木林の上に傾かうとした頃であつた。
彼はただそのままに、自分の怪我とその事実とを覆っておくのが名残惜しい心持ちがした。
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彼は只其儘に自分の怪我と其事實とを掩うて置くのが残り惜い心持がした。
それで彼はその足ですぐに南の家へ行った。
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それで彼は其の足で直に南の家へ行つた。
脚絆と草鞋とで身を固めた勘次の様子を不審に思った南の亭主へ、勘次は突然訴えるように言った。
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脚絆と草鞋とで身を堅めた勘次の容子を不審に思つた南の亭主へ勘次は突然訴へるやうにいつた。
「おれは爺さんに鉄火箸で打っ飛ばされて、骨接ぎへ行って来たところだが、忙しい所へひどい目に遭っちまった」
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「俺ら、爺樣に鐵火箸で打つ飛ばさつて、骨接へ行つて來た處だが、忙し處酷え目に逢つちやつた」
勘次はそれでも口が渋って、思うようには言えなかった。
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勘次はそれでも口が澁つて思ふ樣にいへなかつた。
南の亭主は、わざわざ来て話をされては、捨てて顧みないこともできなかった。
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南の亭主は態々來て噺をされては棄てゝ顧みぬことも出來なかつた。
「どうしたっていうんだいまあ、勘次さん」
原文を見る
「どうしたつちんでえまあ、勘次さん」
いくらかわざとらしく驚いたように聞いた。
原文を見る
幾らか態とらしく驚いたやうに聞いた。
「昨日の日暮れに、おれが野良から帰って来たら、爺さんが鶏に餌を撒いてやってるから見たら、米を混ぜておいた食い稲のほうを掻き出して撒いてるじゃないかい。それでおれも、それをやったんじゃかなわないと言ったんだな。鶏にやるのはそっちに別にしてあるんだから、撒いてやるならそっちのにしてくれと言ったのよ。鶏になんざもったいないな。そうしたらいきなり鉄火箸でおれのことを打っ飛ばして、お前はおれに食わせるのさえ惜しいくらいだから、鶏にやってさえそんなことを言いやがるんだろうなんて。おれもうっかりしてたもんだから逃げる間もなくて、これ、こんなに怪我をしちまったな。今、種蒔きの忙しい所へ打ち込んで、いつまでも治らないようでも仕方がないから、朝稼ぎに骨接ぎへ行ったんだが、遠いのに、それに行ってみると怪我人が来ていて、ちょっとやそっとじゃないもんだから、随分急いだつもりだったっけが、こんなに遅くなっちまって。何と言っても日は短くなったからな。そう言っても、怪我人ってあるもんだな」
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「昨日の日暮に俺れ野らから歸つて來たら爺樣雞げ餌料撒えてやつてつから見たら、米交ぜて置いた食稻の方掻ん出して撤いてんぢやねえけ、夫から俺らもそれ遣つたんぢや畢ねつちつたな、雞げやんなそつちに別にして有んだから撒いてやんだらそつちのがにして呉ろつちつたのよ、雞げなんざ勿體ねえな、さうしたらいきなり鐵火箸で俺れこと打つ飛ばして、汝りや俺げ食はせんのせえ惜いつ位だから雞げやつてせえ其麽こと云へやがんだんべなんて、麽ら放心してたもんだから逃げ間にやあねえで、此れかうえに怪我しつちやつたな、今蒔物の忙しい處へ打つ込んで、何處までも癒んねえやうでもしやうねえから朝つ稼ぎに骨接へ行つたんだが、遠いのにそれに行つて見つと怪我人が來て居てちよつくらぢやねえもんだから、隨分急えだ積だつけがこんなに遲くなつちやつて、何ちつても日は短くなつたかんな、さう云つても怪我人ちや有るもんだな、」
勘次はようやくそうして、詳しく事の顛末を打ち明けた。
原文を見る
勘次は漸くさうして仔細に事の顛末を打ち明けた。
「そんだが、怪我は大変なことはないのか」
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「そんだが怪我は大變なこたねえのか」
南の亭主は、それも義理だというように聞いた。
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南の亭主はそれも義理だといふやうに聞いた。
「うん」
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「うむ」
と、勘次は言い淀んだ。
原文を見る
と勘次はいひ淀んだ。
南の亭主は、その理由を悟ることができないのみでなく、その言い淀んだことを不審に思う心さえ起こさないほど、うっかりと聞いていた。
原文を見る
南の亭主は其の理由を覺ることは出來ないのみでなく、其のいひ澱んだことを不審に思ふ心さへ起さぬ程放心と聞いて居た。
「そんで爺さんはどうしたっていうんだい」
原文を見る
「そんで爺樣はどうしたつちんでえ」
南の亭主は、それから先を聞いた。
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南の亭主はそれから先を聞いた。
「おれは朝っぱらから出かけちまって、まだ行き合いもしないから、どうするっていうんだか分からないが、どうせ甘い顔つきもしちゃいまいな。これで怪我なんぞさせて、いい心持ちじゃあるまいな。そうじゃないかい」
原文を見る
「俺ら朝つぱら出掛つちやつてまあだ行逢えもしねえから、どうするつちんだか分んねえが、どうせ甘え面付もしちや居らんめえな、此んで怪我なんぞさせてえゝ心持ぢやあんめえな、さうぢやねえけ」
勘次はだんだん勢いがついて言った。
原文を見る
勘次はだん/\勢ひがついていつた。
「そんじゃ話はどういう形にでもしておかなくちゃ仕方があるまいな。おれがまあ話はしてみるから。どっちがどうのこうのと言ったって仕方がないし、まさかお前、手を出したのは爺さんだと言ったって、親のことを謝れということも言えないから、何気なしのことにして押しつけようじゃないか、なあ」
原文を見る
「そんぢや噺はどうゆ姿にもして置かなくつちやしやうあんめえな、俺れまあ噺はして見つから、どつちがどうのかうのつちつたつて仕やうねえし、まさかおめえ手越したな爺樣だつちつたつて、親のこと謝罪れつちことも云はんねえから何氣なしのことにして押つゝけべぢやねえか、なあ」
南の亭主はそう言って、卯平の狭い戸口に立っていた。
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南の亭主はさういつて卯平の狹い戸口に立つて居た。
「こっちのおとっつあん、わしもこれ、変な話だが、勘次さんに頼まれたような形でまあ来たんだがね。昨日の日暮れとかにそれ、あれこれあったということだったっけが、勘次さんもそんなに悪い心持ちで言ったんでもない塩梅だし、まあ手をついて謝らせるの何のということでなく、これはその場限りとして仲良くやってもらいたいんだが、どうしたもんだろうね。腹を立たせるのはこれは悪いかも知れないが、親子となっていてこれ、ちっとのことで後で考えてみちゃつまらないもんだから。なあ、こっちのおとっつあん」
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「こつちのおとつゝあん、わしも此れ變な噺だが勘次さんに頼まれたやうな形でまあ來たんだがね、昨日の日暮とかにそれ、そつちこつち仕たつちことだつけが、勘次さんもそんなに惡りい心持で云つたんでもねえ鹽梅だし、まあ手ついて謝罪らせんの何だのつちことでなく、此ら其の場限りとして仲善くやつて貰えてえんだがどうしたもんだんべね、腹立たせんなこら惡りいかも知んねえが、親子と成つてゝ此れ、ちつとのことで後で考へて見ちやつまんねえもんだから、なあこつちのおとつゝあん」
仲裁者は柔らかに、そうしてしかもいやとは言われないように打ち解けて突っ込んだ。
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仲裁者は軟かにさうして然も厭といはれぬやうに打ち解けて突つ込んだ。
「なあに、おれはどうもこうもないんだが、あの野郎めはもう、何じゃない、おれのことが邪魔なんだから。おれはおれだと思ってるから構やしないが、おれに食わせる物が惜しくて仕方がないんだから。おれが家の物を一粒でも減らさないように外に行ってりゃいいんだろうが。おれがそれから、おれのことがそんなにいやなら、自分でどこへでも失せたほうがいい。いやなら後から来た者が出ろという気なんだから」
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「なあに俺らあどうもかうもねえんだが、彼の野郎奴はあ、何ぢやねえ、俺れこと邪魔なんだから、俺らあ俺れだと思つてつから管やしねえが、俺れげ食はせる物惜しくつて仕やうねえんだから、俺れ家の物一粒でも減らさねえやうに外に行つてりやえゝんだんべが、俺れえそれから、俺れことさうだに厭なんだら自分で何處さでもけつかつた方がえゝ、厭だら後から來た者出ろつち氣なんだから」
卯平はくわえた煙管を少し震える手に持って、途切れながらようやくこれだけ言った。
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卯平は銜へた煙管を少し顫へる手に持つて途切れながら漸く此れだけいつた。
「そりゃ、こっちのおとっつあん、そうだがな。さっきも言うとおり腹も立とうが、親子となってみりゃこれ、いいこともあるもんだからなあ。そう言わないでそれ、わしに任せて承知しなさいね」
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「そりちこつちのおとつゝあんさうだがな、先刻もいふ通り腹も立つべえが親子となつて見りや此れ、えゝことも有るもんだからなあ、さう云はねえでそれ、わしげ任せて不承しさつせえね」
南の亭主はただ繰り返して言った。
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南の亭主は只反覆していつた。
「こういうことはこれ、黙ってりゃ隣近所でも分からないもんだが、勘次らはもういい加減長く味噌さえなくしておくんだから、一杓子もありやしないんだ。去年の暮れには味噌を搗くというんで、おれが働いた銭で塩まで買ったんだな。おれも硬い物は噛めないから、味噌がなくちゃ仕方がないな。おれは若いころから味噌は好きで、味噌がなくちゃなんぼにも体に力がつかなくて困り困りしたんだから。麦麹は塩まで切ってあるんだから、豆さえ煮ればすぐなのに。それが今になったって搗くわけじゃなし、何でもおれが死ねばいいくらいにして待ってるんだろうが。これ、味噌なんざ搗いたからってそうすぐに手をつけられるもんじゃなし、おれは明日が日にも死ぬかどうだか分かりやしないが、そんでも自分の見てる所で搗きさえすりゃ、明日死ぬにしたって心持ちはいいから」
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「斯うだこた此れ、默つてりや隣近所でも分んねえもんだが勘次等えゝ暫く味噌せえ無くして置くんだから、一杓子も有りやしねえんだ。去年の暮にや味噌搗くつちんで俺ら働えた錢で鹽迄買つたんだな、俺れも硬え物な噛めねえから味噌なくつちや仕やうねえな、俺ら壯の頃つから味噌は好きで味噌なくつちやなんぼにも身體に力つかねえで困り/\したんだから、麥麹は鹽まで切つて有んだから豆せえ煮りや直なのに、それ今んなつたつて搗くべぢやなし、なんでも俺れ死ねばえゝ位にして待つてんだんべが、此れ、味噌なんざ搗いたからつてさう直ぐに手つけらつるもんぢやなし、俺ら明日が日にも死ぬかどうだか分りやしねえが、そんでも自分の見てつ處で搗きせえすりや明日死ぬにしたつて心持やえゝから」
卯平は独り呟くようにして、それから
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卯平は獨り呟くやうにしてそれから
「あの時搗きさえすりゃ、今ごろは食えば食えるのに」
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「あん時搗せえすりや今頃ら食へば食へんのに」
と、彼はその癖の舌を鳴らした。
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と彼は其癖の舌を鳴らした。
「おれは少し忌々しいから打っ飛ばしてやったに」
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「俺れ小忌々敷から打つ飛ばしてやつたに」
卯平はしばらく置いて、また少し声に力を入れて言った。
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卯平は暫く措いて又少し聲に力を入れていつた。
「そうかね。おれはそんなことは知らなかったっけが。そういうことは、いくら懇意だ近所だと言ったって、いちいち他人の飯台まで蓋を取っちゃ見られないから、おれも知らないでいたな。そんじゃそりゃまあ、味噌でも何でもそういう理由じゃ、こっちのおとっつあんの好きなように搗かせることにしてな。大豆はそれ、穫れたしするから、やるつもりにさえなれば訳のない話だな。そうして、こっちのおとっつあん、胸を撫でなさい。おれは悪いことは言わないから。なあ、こっちのおとっつあん、あっちだこっちだやっちゃ、誰よりも子供らが可哀想だから。それに、同じもんじゃ東の旦那らの耳へは入れたくないから、そうしなさいよなあ」
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「さうかね、俺らそんなこた知らなかつたつけが、さうえこた幾ら懇意だ近所だつちつたつて一々他人の飯臺まで蓋とつちや見られねえから俺らも知らねえでたな、そんぢやそらまあ、味噌でも何でもさうえ理由ぢやこつちのおとつゝあん好きなやうに搗かせることにしてな、大豆はそれとつたしすつから行る積にせえなりや譯ねえ噺だな、さうしてこつちのおとつゝあん胸撫でさつせえ、俺れ惡りいこた云はねえから、なあこつちのおとつゝあん、そつちだこつちだやつちや誰よりも子奴等可哀想だから、それに同じもんぢや東の旦那等が耳へは入れたくねえから、さうしさつせえよなあ」
南の亭主はそう言って、心ではだんだんに尻込みするのであった。
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南の亭主はさういつて心では段々に臀ごみするのであつた。
卯平は再び煙管を口にして沈黙した。
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卯平は再び煙管を口にして沈默した。
南の亭主は、勘次を卯平の狭い戸口に導いた。
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南の亭主は勘次を卯平の狹い戸口に導いた。
勘次はふだんならば、自分の心からけっして形式的な和睦を望まなかったはずである。
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勘次は平常ならば自分の心から決して形式的な和睦を希望しなかつた筈である。
彼は反目しているだけならば、久しく慣れていた。
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彼は反目して居るだけならば久しく馴れて居た。
しかし彼は、これまでかつてなかった卯平の行為に初めて恐怖心を抱いたのであった。
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然し彼は從來嘗てなかつた卯平の行爲に始めて恐怖心を懷いたのであつた。
「そんじゃね、おとっつあん、お互いにこう根に持たないことにしてね。勘次さん、お前も忙しくて手をつけないでいたかも知れないが、麹も塩まで切ってあるというんだから、後は豆を煮るだけのことだし、味噌は搗くことにしてな。こういい塩梅にしてくれなさいね。さっきも言うとおり、あっちだこっちだないようにしなくちゃね、こっちのおとっつあん」
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「そんぢやねえおとつゝあん、お互に斯う根に持たねえことにしてね、勘次さんおめえも忙しくつて手つけねえでたかも知んねえが、麹も鹽まで切つて有るつちんだから、後は豆煑るだけのことだし、味噌は搗くことにしてな、斯うえゝ鹽梅にしてくれさつせえね、先刻もいふ通りそつちだこつちだねえやうにしなくちやねえ、こつちのおとつゝあん」
南の亭主は二人を見比べるようにして言った。
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南の亭主は二人を見較べるやうにしていつた。
勘次は卯平の前へ出ては、ただ首をうなだれた。
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勘次は卯平の前へ出ては只首を俛れた。
卯平はじっと横を向いて、勘次をちらりとも見なかった。
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卯平は凝然と横を向いて勘次をちらりとも見なかつた。
彼はこれまでとは様子がいくらか違っていた。
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彼は從來とは容子が幾分違つて居た。
彼はその癖の舌を鳴らしていたが
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彼は其の癖の舌を鳴らして居たが
「畜生め」
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「畜生奴」
と、ただ一言言った。
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と只一言いつた。
そうしてまたしばらく間を置いて
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さうして又暫く間を措いて
「畜生と言われるのが口惜しけりゃ、口惜しいと言ってみたほうがいい。元はと言えば、てめえが手出しをするのが悪いんだから」
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「畜生つちはれんの口惜しけりや、口惜しいちつて見た方がえゝ、原因はつちへば己奴が手出しすんのが惡りいんだから」
と低く、しかも鋭く彼は呟いて、芒で裂いたように口をぎっと閉じてしまった。
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と低く然も鋭く彼は呟いて、芒で裂いたやうに口をぎつと閉ぢて畢つた。
勘次は刈られた草のごとくしょんぼりとした。
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勘次は刈られた草の如く悄然とした。
「こっちのおとっつあん、そんじゃ仕方がないよ。さっきもおれがそっちから承知してくれと固く言ったんだったな。そんじゃおれも困るから、そこはお互いにこう、物は言わないことにしてやってくれなくちゃなあ」
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「こつちのおとつゝあん、そんぢや仕やうねえよ、先刻も俺れそつから不承してくろうつて堅しく云つたんだつけな、そんぢや俺れも困つから其處はお互にかう物は云はねえことにしてやつてくんなくつちやなあ」
と南の亭主は、いったん橋渡しをすれば後は再びどうなろうとも、それはまたその時だという心から、そこはいい加減に繕って逃げるように帰った。
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と南の亭主は一旦橋渡しをすれば後は再びどうならうともそれは又其の時だといふ心から其處は加い加減に繕うて遁るやうに歸つた。
彼はどちらからも依頼された仲裁人ではなかった。
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彼はどちらからも依頼された仲裁人ではなかつた。
彼らは次第に家族の間の、ことに夫婦の争いに深入りして、かえって双方から恨まれるような損な立場にはまった経験があるので、壊れた茶碗をそっと合わせるだけの手数で、巧みに身を引く方法と機会とを知っていた。
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彼等は漸次家族の間の殊に夫婦の爭ひに深入して却て雙方から恨まれるやうな損な立場に嵌つた經驗があるので、壞れた茶碗をそつと合せるだけの手數で巧に身を引く方法と機會とを知つて居た。
黄昏が彼にその機会を与えた。
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黄昏が彼に其の機會を與へた。
勘次は彼の軽い傷を、たとえ表面だけでもいいから思い切って重く見て、そうして彼に同情の言葉を惜しまない者を求めたが、彼には少しでもその顛末を聞いてくれるべき者は、医者と南の亭主とよりほかはなかった。
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勘次は彼の輕微な瘡痍を假令表面だけでも好いから思ひ切つて重く見てさうして彼に同情の言葉を惜まないものを求めたが、彼には些少でも其顛末を聞いてくれべきものは醫者と南の亭主とより外はなかつた。
しかしあまりによく傷そのものの性質を見分けた医者は、彼にそのはかない心を訴える余裕を与えずに、彼を頭から圧するようにからかった。
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然し餘りに能く瘡痍其物の性質を識別した醫者は、彼に其果敢ない心を訴へる餘裕を與へずに彼を頭から壓る樣に揶揄うた。
彼はそこに何物をも得ないで、逃げるように珊瑚樹の木陰を出た。
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彼は其處に何物をも得ないで遁るやうに珊瑚樹の木蔭を出た。
南の亭主も、ことさらに彼に同情して慰めの言葉を惜しまないほどその心が動かされなかったのみでなく、彼はむしろ仲裁者の地位に立たねばならないことにいくらかの迷惑を感じた。
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南の亭主も殊更に彼に同情して慰藉の言辭を惜まぬ程其心が動かされなかつたのみでなく、彼は寧ろ仲裁者の地位に立たねば成らぬことに幾分の迷惑を感じた。
勘次はけっして仲裁を依頼しなかった。
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勘次は決して仲裁を依頼しなかつた。
彼はただ、自分の調子に乗って話をしてくれることに満足を求めようとしたのみであった。
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彼は只自分の調子に乘つて噺をしてくれることに滿足を求めようとしたのみであつた。
しかしそれはことごとく徒労であった。
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然しそれは悉く徒勞であつた。
勘次は羞恥と恐怖と憤懣との情を沸かしたが、それでも薄弱な彼は、それをひがんだ目に表して、会う人ごとに同情してくれと強いるかのごとく見えるのみであった。
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勘次は羞恥と恐怖と憤懣との情を沸したが夫でも薄弱な彼は、それを僻んだ目に表現して逢ふ人毎に同情してくれと強ふるが如く見えるのみであつた。
百姓のすべては、彼の心を推測するほど鋭敏な目を持っていなかった。
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百姓の凡ては彼の心を推測する程鋭敏な目を有つて居なかつた。
彼は自棄にわざと包帯の手を抱いて、数日間ぶらぶらと遊んでいた。
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彼は自棄に態と繃帶の手を抱いて數日間ぶら/\と遊んで居た。
忙しい麦蒔きの季節が迫って、百姓はことごとく畑へ出ているので、昼間は彼の相手になる者がなかったのみでなく、今に働かずにはいられないからと陰で冷笑を浴びせているのであった。
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忙しい麥蒔の季節が迫つて百姓は悉く畑へ出て居るので晝間は彼の相手になるものがなかつたのみでなく、今に働かずには居られぬからと陰で冷笑を浴びせて居るのであつた。
この季節を空しく費やすことが一日でも非常な損失であるという、分かりやすい利害の計算から、彼はとうとう打ち負かされて、また一所懸命に労働に従事した。
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此の季節を空しく費すことが一日でも非常な損失であるといふ見易い利害の打算から彼は到頭打ち負されて復一所懸命に勞働に從事した。
彼はもう卯平と一言も口を利かなくなった。
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彼はもう卯平と一言も口を利かなくなつた。
無口なむっつりとした卯平は、もとより勘次を顧みようともしなかった。
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寡言なむつゝりとした卯平は固より勘次を顧みようともしなかつた。
おつぎはそれを心に苦しんで見たが、それは到底及ばないことであった。
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おつぎはそれを心に苦しんで見たがそれは到底及ばぬことであつた。
村の内には、卯平との衝突がぱっとまた広まった。
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村落の内には卯平との衝突がぱつと又傳播された。
しかしそれは、分別ある壮年の間でのみ解釈され記憶された。
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然しそれは分別ある壯年の間にのみ解釋し記憶された。
その事件の内容は、勘次のおつぎに対する行為を猜疑と嫉妬との目で臆測をたくましくするようには、興味を彼らに与えなかった。
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其の事件の内容は勘次のおつぎに對する行爲を猜忌と嫉妬との目を以て臆測を逞しくするやうに興味を彼等に與へなかつた。
誰も自分から彼らの間に嘴を挟もうとはしない。
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誰も自分から彼等の間に嘴を容れようとはしない。
遠い以前からもつれて来た互いの感情に根ざした事件が、どんなに些細なことであろうとも、けっして快く解決されるはずでないことを知っている人々は、いくら愚かでも自ら好んでその難局に当たろうとはしないのであった。
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遠い以前から紛糾けて來た互の感情に根ざした事件がどんな些少なことであらうとも、決して快よく解決される筈でないことを知つて居る人々は幾ら愚でも自ら好んで其の難局に當らうとはしないのであつた。
二二
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二二
夜明けの光はまだ行き渡らない。
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拂曉の光はまだ行き渡らぬ。
薄い蒲団にくるまっている百姓らの肌には寒気がしみじみと透って、眠りに落ちていながら、すべてが顎を覆うまでは無意識に蒲団の端を引いて、もじもじと動くころであった。
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薄い蒲團にくるまつて居る百姓等の肌膚には寒冷の氣がしみ/″\と透つて、睡眠に落ちて居ながら、凡てが顎を掩ふまでは無意識に蒲團の端を引いてもぢ/\と動く頃であつた。
かんかんと凍って鳴る鉦の音が、沈んだ村の空気に響き渡った。
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かん/\と凍つて鳴る鉦の音が沈んだ村落の空氣に響き渡つた。
希望と楽しみとにそそのかされて待っていた老人らは皆、その左の手に提げて撞木で叩いている鉦の響きを、後れるな急げ急げと耳に聞いた。
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希望と娯樂とに唆かされて待つて居た老人等は悉皆、其の左の手に提げて撞木で叩いて居る鉦の響を後れるな急げ/\と耳に聞いた。
老人はどこの家からも一斉に念仏寮を指して集まった。
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老人は何處の家からも一齊に念佛寮を指して集つた。
彼らはいずれも、まだぐっすりと眠っている家族の者にはそっと支度をして、動けないほど褞袍を重ねて節度なく紐を締めて、表の戸を開けるとひやりとする明け方近い外気に白い息を吹きながら、大きな塊が転がって行くようにその姿を運んだ。
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彼等は孰れも、まだぐつすりと眠つて居る家族の者には竊と支度をして、動けぬ程褞袍を襲ねて節制なく紐を締めて、表の戸を開けるとひやりとする曉近い外氣に白い息を吹きながら、大きな塊が轉がつて行くやうに其の姿を運んだ。
彼らは外の壁際からそだの一把を持って行く者もあった。
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彼等は外の壁際から麁朶の一把を持つて行く者も有つた。
旧暦の二月の半ばになると、例年のごとく念仏の集まりがあるのである。
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舊暦の二月の半に成ると例年の如く念佛の集りが有るのである。
彼らはそれが日輪に対する報謝を意味しているので、お天念仏と言っている。
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彼等はそれが日輪に對する報謝を意味して居るのでお天念佛というて居る。
彼らの口から、そうして村の一般から訛って「おで念仏」
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彼等の口からさうして村落の一般から訛つて「おで念佛」
と呼ばれた。
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と喚ばれた。
先駆けの光が各自の顔をほの明るくして、日が地平線上にその輪郭の一端を現そうとする時間を誤らずに、彼らは揃って念仏を唱えるはずなので、まだすべてが夜の眠りから離れないうちに、皆ことごとく口をすすいで待っていなければならないのである。
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先驅の光が各自の顏を微明るくして日が地平線上に其の輪郭の一端を現はさうとする時間を誤らずに彼等は揃つて念佛を唱へる筈なので、まだ凡てが夜の眠から離れぬ内に皆悉口を嗽いで待つて居ねばならぬのである。
念仏衆の内には、選ばれて法願と呼ばれている二人ばかりの爺さんが、難しくもない万事の世話をした。
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念佛衆の内には選ばれて法願と喚ばれて居る二人ばかりの爺さんが、難かしくもない萬事の世話をした。
法願は凍りそうな手に鉦を提げて、ちらほらと大きな塊のような姿が動いて来るまでは、力の限り辻に立ってかんかんと叩くのである。
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法願は凍り相な手に鉦を提げてちらほらと大な塊のやうな姿が動いて來るまでは力の限り辻に立つてかん/\と叩くのである。
念仏寮の雨戸はがらんと開け放たれて、ことさらに身にしみる寒さに、囲炉裏にはそだの火が炎を立てた。
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念佛寮の雨戸は空洞と開け放たれて、殊更に身に沁む寒さに圍爐裏には麁朶の火が焔を立てた。
蔓のある煤けた鉄瓶が自在鉤から低く垂れて、炎を尻で抑えた。
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蔓のある煤けた鐵瓶が自在鍵から低く垂れて焔を臀で抑へた。
ぐるりと囲んだ老人の不格好な姿を、火ははっきりと見せた。
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ぐるりと圍んだ老人の不恰好な姿を火は明瞭と見せた。
やがて二番鶏が遠く近く鳴いて、時間が来た。
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軈て二番雞が遠く近く鳴いて時間が來た。
法願は敷居のそばに太鼓を据えて、その後ろへだんだんと一同が座って、一斉に声を合わせた。
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法願は閾の側に太鼓を据ゑて、其の後へ段々と一同が坐つて一齊に聲を合せた。
横に据えた太鼓を両手に持った二本の撥が、両方から交互に打って、悠長な鈍い響きを立てた。
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横に据ゑた太鼓を兩手に持つた二本の撥が兩方から交互に打つて悠長な鈍い響を立てた。
撥に合わせる一同の声は、しなびて痩せた喉から出る濁った声であった。
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撥に合せる一同の聲は皺びて痩せた喉から出る濁つた聲であつた。
雑然としたその声が、波のごとく沈んでまた起こった。
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雜然たる其の聲が波の如く沈んで復た起つた。
太鼓の撥は強く打ち軽く打ち、さらに赤く塗った胴をそっと打って、そうしてまただらりだらりと強く軽く打つことを繰り返した。
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太鼓の撥は強く打ち輕く打ち、更に赤く塗つた胴をそつと打つて、さうして又だらり/\と強く輕く打つことを反覆した。
念仏が終わるまでには、だんだんと遠い近い木立の輪郭がくっきりとして、青い蜜柑の皮が日に当たった部分から少しずつ彩られて行くように、東の空が薄く黄色に染まって、だんだんにそれが濃くなって、そうして寒さのうちにもほっかりと暖かみを持ったように明るくなった。
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念佛が畢るまでには段々と遠い近い木立の輪郭がくつきりとして青い蜜柑の皮が日に當つた部分から少しづゝ彩られて行くやうに東の空が薄く黄色に染つて段々にそれが濃く成つて、さうして寒冷なうちにもほつかりと暖味を持つたやうに明るく成つた。
念仏の濁った声も明るく響いた。
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念佛の濁つた聲も明るく響いた。
地上を覆った霜がめっきりと白く見えて、寮の庭に立てられた天棚の飾りの赤や青の紙がはっきりとして来た。
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地上を掩うた霜が滅切と白く見えて寮の庭に立てられた天棚の粧飾の赤や青の紙が明瞭として來た。
中心に一本の青竹が立てられて、その先端は青と赤と黄との重ねた色紙で包んである。
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中心に一本の青竹が立てられて其の先端は青と赤と黄との襲ねた色紙で包んである。
その周囲には、これも四本の青竹が立てられて、それには縄が張ってある。
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其の周圍には此れも四本の青竹が立てられてそれには繩が張つてある。
縄には注連のように刻んだ、その赤や青や黄の紙がいっぱいにひらひらと吊られてある。
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繩には注連のやうに刻んだ其の赤や青や黄の紙が一杯にひら/\と吊られてある。
彼らは昨日のうちに一切の飾りをして、鶏の鳴くのを待ったのである。
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彼等は昨日の内に一切の粧飾をして雞の鳴くのを待つたのである。
その天棚は、以前は立派な木の柱を、ちょうど小さな家の棟上げでもしたような形に組まれたのであった。
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其天棚は以前は立派な木の柱を丁度小さな家の棟上げでもしたやうな形に組まれたのであつた。
今ではそれがなくなったというのは、一度この地を襲った暴風のために、厚い草葺きの念仏寮はごしゃりと潰された。
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現今ではそれが無く成つたといふのは、一度此の地を襲うた暴風の爲に、厚い草葺の念佛寮はごつしやりと潰された。
その時は多くの民家がなおかつ非常な惨害を被って、村のすべては自分の凌ぎがやっとのことであったので、ほとんど無用である寮の再建を顧みる者はなかった。
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其の時は幾多の民家が猶且非常な慘害を蒙つて、村落の凡ては自分の凌ぎが漸とのことであつたので、殆んど無用である寮の再建を顧みるものはなかつた。
そうしている間に、他人の林に鉈を入れなければ薪が得られない貧乏な百姓らが、こそこそと寮の木材を引いた。
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さういふ間に他人の林に鉈を入れねば薪が獲られぬ貧乏な百姓等がこそ/\と寮の木材を引いた。
やっとのことで今の寮が以前の幾分の一の大きさに再建されるまでには、その棚も無残な鋸の歯に掛かっていたのである。
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漸とのことで現今の寮が以前の幾分の一の大きさに再建されるまでには其の棚も無残な鋸の齒に掛つて居たのである。
それでも、老人らは念仏の復活したことに十分の感謝と満足とを持った。
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それでも、老人等は念佛の復活したことに十分の感謝と滿足とを有つた。
彼らはそこに、老後における無上の楽しみと慰めとを見出しつつあるのである。
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彼等はそこに老後に於ける無上の娯樂と慰藉とを發見しつゝあるのである。
太鼓が撥とともにぽつりと置かれて、すっかり窮屈な囲炉裏の辺りに集まった。
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太鼓が撥と共にぽつさりと置かれて悉皆窮屈な圍爐裏の邊に聚つた。
寮の内も明るくなって、立ち昇る炎の光がやや消されて来た。
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寮の内も明るく成つて立ち騰る焔の光が稍消されて來た。
近所の百姓が雨戸を開ける音が、性急にがたぴしと聞こえた。
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近所の百姓の雨戸を開ける音が性急にがたぴしと聞えた。
庭へ下りた鶏が、あくびでもするように体を反らしながら、うっかりしていてまだ鳴き足りなかったという様子をして、喉の痛いほど鳴くのが聞こえた。
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庭へおりた雞が欠伸でもするやうに身體を反らしながら、放心して居てまだ鳴き足らなかつたといふ容子をして喉の痛い程鳴くのが聞えた。
どこの家にも、青い煙がひさしを這って昇った。
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何處の家にも青い煙が廂を偃うて騰つた。
老人らはひとまず自分の家に帰った。
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老人等は一先自分の家に歸つた。
卯平も、隣の森の影がいっぱいに覆っている狭い庭に立った時は、勘次はおつぎを連れて開墾地へ出た後であった。
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卯平も隣の森の陰翳が一杯に掩うて居る狹い庭に立つた時は、勘次はおつぎを連れて開墾地へ出た後であつた。
卯平は庭に立ったまま、空っぽになって、そうして雨戸が閉ざしてある勘次の家をじっと見た。
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卯平は庭に立つた儘、空虚になつてさうして雨戸が閉してある勘次の家を凝然と見た。
家はやつれている。
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家は窶れて居る。
しかしながら、たとえどうであっても話し声が聞こえて青い煙が立っていれば、わずかでも血が巡っているもののように生きて見えるのであるが、静まり返って人気のなくなった時は、荒れつつあるその建物のどこにも生命が保たれているとは見られないほど悲しげであった。
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然しながら假令どうでも噺聲が聞えて青い煙が立つて居れば、僅でも血が循環つて居るものゝやうに活きて見えるのであるが、靜寂と人氣のなくなつた時は頽廢しつゝある其建物の何處にも生命が保たれて居るとは見られぬ程悲しげであつた。
卯平が薄暗い庭の霜に下駄の跡をつけて出てから間もなく、勘次は布団を蹴って竈に火を点けた。
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卯平が薄闇い庭の霜に下駄の趾をつけて出てから間もなく勘次は褥を蹴つて竈に火を點た。
それからおつぎが朝飯の膳を据えるまでには、勘次はきりりと仕事着に着替えて、寒さに少し震えていた。
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それからおつぎが朝餐の膳を据ゑる迄には勘次はきりゝと仕事衣に換て寒さに少し顫へて居た。
おつぎも箸を取る時は、股引の端を藁でくくっておいた。
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おつぎも箸を執る時は股引の端を藁で括つて置いた。
勘次は、開墾の土地が年々遠くへ進んで行って、今では例年の面積では広すぎていたことに気づいたので、彼は少しの油断もできなくなった。
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勘次は開墾の土地が年々遠くへ進んで行つて、現在では例年の面積では廣過て居たことを心づいたので、彼は少しの油斷も出來なくなつた。
彼は毎日のようにおつぎを連れて、唐鍬で切り起こした土の塊を万能の背で叩いてはほぐし、平坦にならさせつつあったのである。
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彼は毎日のやうにおつぎを連て、唐鍬で切り起した土の塊を萬能の背で叩いては解して平坦にならさせつゝあつたのである。
卯平はまず勘次の戸口に近づいた。
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卯平は先づ勘次の戸口に近づいた。
表の大戸には錠が下ろしてあった。
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表の大戸には錠がおろしてあつた。
鍵はもとより勘次の腰を離れないことを知って、卯平は手も掛けてみなかった。
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鍵は固より勘次の腰を離れないことを知つて卯平は手も掛けて見なかつた。
彼はまた裏戸の口へ行ってみたが、掛け金には栓を差したと見えて動かなかった。
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彼は又裏戸の口へ行つて見たが、掛金には栓を揷したと見えて動かなかつた。
卯平はそれから懐手をしたまま、その癖の舌を鳴らしながら、悠長に自分の狭い戸口に立った。
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卯平はそれから懷手をした儘其の癖の舌を鳴らしながら悠長に自分の狹い戸口に立つた。
内はただ陰気で、出る時に端をまくった夜具も冷たくなっていた。
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内は只陰氣で出る時に端を捲つた夜具も冷たく成つて居た。
彼はようやく火鉢にそだをくすべた。
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彼は漸く火鉢に麁朶を燻た。
彼はそばに重箱と小鍋とが置かれてあるのを見た。
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彼は側に重箱と小鍋とが置かれてあるのを見た。
蓋を取ったら、重箱には飯があった。
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蓋をとつたら重箱には飯があつた。
蓋の裏には少し湿りを持っていた。
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蓋の裏には少し濕ひを持つて居た。
その朝、おつぎは知らずに呼んだのであったが、卯平はいなかった。
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其の朝おつぎは知らずに喚んだのであつたが、卯平は居なかつた。
それでおつぎは出る時、飯と汁とを卯平の小屋へ置いて行ったのである。
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それでおつぎは出る時飯と汁とを卯平の小屋へ置いて行つたのである。
卯平はともかく、おつぎに呼ばれて毎朝暖かい飯と熱い汁とに腹をこしらえつつあったのである。
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卯平は兎に角おつぎに喚ばれて毎朝暖かい飯と熱い汁とに腹を拵へつゝあつたのである。
彼はその朝は褞袍を着ても、夜のまだ明けないうちからの騒ぎなので、体が冷えていた。
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彼は其の朝は褞袍を着ても夜のまだ明けない内からの騷ぎなので身體が冷えて居た。
それで彼は、家に帰ったならば汁はどうでも、飯台の中はまだ十分に暖かさを保っているだろうという希望を抱いて、戸の開かないことにまでは思い至らなかった。
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夫で彼は家に歸つたならば汁はどうでも、飯臺の中はまだ十分に暖氣を保つて居るだらうといふ希望を懷いて、戸の開かないことにまでは思ひ至らなかつた。
重箱はもう冷えてしまった。
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重箱はもう冷えて畢つた。
彼は仕方なしに小鍋を火鉢へ掛けた。
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彼は仕方なしに小鍋を火鉢へ掛けた。
彼はかすかに白い湯気が鍋から立ち始めた時、お玉杓子で掻き立てて吸ってみたが、なおかつ冷たかった。
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彼は微かに白い水蒸氣が鍋から立ち始めた時お玉杓子で掻き立てゝ吸つて見たが猶且冷たかつた。
彼はまた火鉢へそだを足して、重箱の飯を鍋へ入れた。
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彼は復た火鉢へ麁朶を足して重箱の飯を鍋へ入れた。
火鉢の割合には大きな鍋に頬が触るばかりにして、ふうふうと火を吹いた。
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火鉢の割合には大きな鍋に頬が觸るばかりにしてふう/\と火を吹いた。
鍋がぐずぐずと濁った音を立てている間、彼はしなびた大きな手を火にかざしながら、目をしかめていた。
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鍋のぐず/\と濁つた聲を立てゝ居る間彼は皺びた大きな手を火に翳しながら目を蹙めて居た。
彼はじっと遠くへ自分の心を放ったようにぼうっとしていては、また思い出したようにそだをぽちぽちと折ってくべた。
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彼は凝然と遠くへ自分の心を放つたやうにぽうつとして居ては復思ひ出したやうに麁朶をぽち/\と折つて燻べた。
彼は例年になく体のやつれが見えた。
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彼は例年になく身體の窶れが見えた。
かさかさと乾いた肌が、一般の老衰者に共通な哀れさを見せているばかりでなく、その大きな体は肉が落ちてげっそりと肩がこけた。
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かさ/\と乾燥した肌膚が一般の老衰者に通有な哀れさを見せて居るばかりでなく、其大きな身體は肉が落てげつそりと肩がこけた。
彼は体のやつれを自分でも知った。
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彼は身體の窶れを自分でも知つた。
彼はこの一年の間に、持病のリューマチが執念く骨のどこかを蝕みつつあるように感じた。
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彼は此一年の間に持病の僂麻質斯が執念く骨の何處かを蝕みつゝあるやうに感じた。
暑い季節になれば必ずその勢いを潜めた持病が、彼を忘れて去らなかった。
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暑い季節になれば必ず其の勢ひを潜めた持病が彼を忘れて去らなかつた。
鍋の中は少しぷんと焦げつく臭いがした。
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鍋の中は少しぷんと焦つく臭がした。
彼はお玉杓子で掻き立てた。
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彼はお玉杓子で掻き立てた。
鍋の底は手を動かすごとに、じりじりと鳴った。
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鍋の底は手を動かす毎にぢり/\と鳴つた。
彼はわずかに、熱い雑炊が食道を通過して胃に落ち着く時、ほかりと感じた。
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彼は僅に熱い雜炊が食道を通過して胃に落ちつく時ほかりと感じた。
そうして箸を置いた後、ようやく体に快い暖かさの加わったことを知った。
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さうして箸を措いた後漸く身體に快よい暖氣の加はつたことを知つた。
少量の水を注いだ鉄瓶の沸くのを、彼はまたじっと待った。
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少量の水を注だ鐵瓶の沸くのを彼は復凝然として待つた。
彼はさっきから、どうかすると手元を探るようにして煙草入れを膝にした。
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彼は先刻からどうかすると手もとを探るやうにして煙草入を膝にした。
煙草入れは空であった。
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煙草入は虚空であつた。
彼は自分の体力がめっきりと減って、仕事をするのに手が利かなくなって、小遣い銭の不足を感じた時、自棄になった心から、断然その噛むほど好きな煙草をやめようとした。
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彼は自分の體力が滅切と減て仕事をするのに手が利かなくなつて、小遣錢の不足を感じた時、自棄に成つた心から斷然其噛む程好な煙草を廢さうとした。
彼は悲惨な自分を自分が苛めてやるような心持ちを、一方には持った。
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彼は悲慘な自分を自分が苛めてやるやうな心持を一方には有つた。
一方にはまた、無知な彼らの仲間がよくするように、彼は持病の平癒を仏に祈ったのでもあった。
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一方には又無智な彼等の伴侶が能くするやうに彼は持病の平癒を佛に祈つたのでもあつた。
それが明日からという日に、彼はその残った煙草をほとんど一日吸い続けた。
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それが明日からといふ日に彼は其残つた煙草を殆ど一日喫ひ續けた。
煙草入れの叺を逆さまにして、爪先でぱたぱたと弾いて、少しの粉でさえ余さなかった。
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煙草入の叺を倒にして爪先でぱた/\と彈いて少しの粉でさへ餘さなかつた。
その後、手についた癖が何かにつけては煙管をつかませるので、やめたことを彼は心に悔いることもあった。
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其後手についた癖が何かにつけては煙管を掴ませるので、止めたことを彼は心に悔いることもあつた。
しかし彼はまたすぐに、仏に対しての誓いを破ることに非常な恐怖を抱いた。
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然し彼は又直に佛に對しての誓約を破ることに非常な恐怖を懷いた。
彼はどうしても諦めねばならない心の苦しみを紛らすために、蕗の葉や桑の葉を干して煙管の火皿につめてみたが、どれでも煙草のようにしっとりとした一種の潤いが火の足を引き止めるような力はなくて、一度吸えばすぐに灰になって、ヤニで塞がろうとしている羅宇の隙間を透して煙が口に満ちる時は、つんとしたいやな刺激を鼻に感じるのであった。
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彼はどうしても斷念せねばならぬ心の苦しみを紛らす爲に蕗の葉や桑の葉を干して煙管の火皿につめて見たが、どれでも煙草のやうにしつとりとした一種の潤ひが火の足を引止めるやうな力はなくて一度吸へば直に灰になつて、煙脂で塞がらうとして居る羅宇の空隙を透して煙が口に滿ちる時はつんとした厭な刺戟を鼻に感ずるのであつた。
葡萄の葉を他人に勧められてみたが、これも到底彼の好みを欺くことはできなかった。
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葡萄の葉を他人に勸められて見たが、此れも到底彼の嗜好を欺くことは出來なかつた。
彼は煙管を手にすることが欲を忘れ得る方法でないことを知って、彼はちょうど他人に対するある憤懣の情から、当てつけに自分の愛児をおびただしく打ち据える者のように、羅宇を踏み潰した。
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彼は煙管を手にすることが慾念を忘れ得る方法でないことを知つて、彼は丁度他人に對する或憤懣の情から當てつけに自分の愛兒を夥かに打ち据ゑる者のやうに羅宇を踏み潰した。
しかしそれを誰も見てはいなかった。
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然しそれを誰も見ては居なかつた。
それでも彼は、空っぽな煙草入れを放すに忍びない心持ちがした。
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それでも彼は空虚な煙草入を放すに忍びない心持がした。
彼はわずかな小遣い銭を入れて、始終腰につけた。
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彼は僅な小遣錢を入れて始終腰につけた。
これも空っぽになってはくたくたとして力のない革の筒には、潰れたままの煙管を差していた。
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此れも空虚に成つてはくた/\として力のない革の筒には潰れた儘の煙管を揷して居た。
彼はしばらくそうしていたが、どうかしては忘れて、癖づけられた手先が不用な煙草入れを探らせるのであった。
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彼は暫くさうして居たがどうかしては忘れて癖づけられた手先が不用な煙草入を探らせるのであつた。
日はようやく庭の霜を溶かして射しかけた。
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日は漸く庭の霜を溶して射し掛けた。
彼は不快な朝に目をしかめて、またぽつねんと念仏寮へやつれた身を運んだ。
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彼は不快な朝を目に蹙めた復たぽつさりと念佛寮へ窶れた身を運んだ。
彼は田圃のそばへ下りて小道を行った。
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彼は田圃の側へおりて小徑を行つた。
道筋には所々、離れ離れな家の隙間に小さな麦畑があった。
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道筋には處々離れ離れな家の隙間に小さな麥畑があつた。
麦畑の畝は、たいがい東西に形づけられてあった。
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麥畑の畝は大抵東西に形づけられてあつた。
遠くから南へ回ろうとしている日は、思いのほかに暖かい光で一帯に霜を溶かしたので、どこでも水を打ったような湿りを持っていた。
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遠くから南へ廻らうとして居る日は思ひの外に暖かい光で一帶に霜を溶かしたので、何處でも水を打つたやうな濕ひを持つて居た。
しかし薄い日の光は、畑の畝が形づくっている長い小山の頂点を越えて、いくらもその力を及ぼさなかった。
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然し薄い日の光は畑の畝が形づくつて居る長い小山の頂點を越えて幾らも其の力を及ぼさなかつた。
どの畝でも、その陰は依然として白かった。
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どの畝でも其陰は依然として白かつた。
卯平は田圃に沿って北側の道を歩いたので、彼の目にはことごとく夜明けのごとき白い冷たい霜で覆われている畑ばかりが映った。
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卯平は田圃に從いて北側の道を歩いたので彼の目には悉く夜明の如き白い冷たい霜を以て掩はれて居る畑のみが映つた。
午後から村のどの家からも、風呂敷包みの飯つぎや重箱が寮へ運ばれた。
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午後から村落のどの家からも風呂敷包の飯つぎや重箱が寮へ運ばれた。
老人らは皆それを、埃だらけな仏壇の前に供えた。
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老人等は皆夫を埃だらけな佛壇の前に供へた。
汚い風呂敷包みが小山のごとく積まれた時、念仏の太鼓がまた鳴った。
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穢い風呂敷包が小山の如く積まれた時念佛の太鼓が復鳴つた。
それから庭に集まった子供らの前に、その飯つぎや重箱の供物が分け与えられた。
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それから庭に聚つた子供等の前に其の飯つぎや重箱の供物が分與された。
念仏衆はそれからさらに酒を飲んで、各自に重箱や飯つぎを箸でつついて、近ごろにない口腹の欲を満たした。
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念佛衆はそれから更に酒を飮んで各自に重箱や飯つぎを箸でつゝいて近頃にない口腹の慾を充たしめた。
独り卯平は杯を手にしなかった。
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獨卯平は杯を手にしなかつた。
彼は他の老人に先立って、自分の家の重箱を持ってぽさぽさと帰った。
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彼は他の老人に先立つて自分の家の重箱を持つてぽさ/\と歸つた。
たいがいの家では米の菱餅を出すのが習わしであるが、勘次にはそういう暇がないので、おつぎはわずかに小豆飯を炊いて重箱を持って行ったのであった。
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大抵の家では米の菱餅を出すのが常例であるが勘次にはさういふ暇がないのでおつぎは僅に小豆飯を炊て重箱を持て行つたのであつた。
すべての老人がほとんど狂うばかりに騒ぐ二日のその一日が、卯平には不快で、そうして無意味に費やされた。
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凡ての老人が殆ど狂するばかりに騷ぐ二日の其一日が卯平には不快でさうして無意味に費された。
彼は夜になってから
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彼は夜になつてから
「爺さん、今朝のご飯は冷たくなったっけろう。おれが忘れて呼びに行ったのがよ。そうしたら爺さんはとっくにいなかったんだもの。そんでもさっきはがやがや大勢いるようだったっけが、あっちじゃ甘い物があって、爺さんらは取っ返し取ったんだろうなあ」
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「爺、今朝のお飯冷たく成つたつけべ俺ら忘れて喚ばりに行つたのがよ、さうしたら爺は疾に居ねえのがんだもの、そんでも先刻はがや/\一杯居るやうだつけがあつちぢや甘え物あつて爺等とつ返しとつたんべなあ」
と、おつぎが少し甘えたように言ったことを、彼はさすがに憎いとは思って聞かなかった。
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とおつぎが少し甘えたやうにいつたことを彼は有繋に憎いと思つては聞かなかつた。
二三
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二三
念仏は次の日も同じように繰り返された。
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念佛は次の日も同一に反覆された。
午後になって、村のどの家からもまた風呂敷包みが運ばれた。
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午後になつて村落のどの家からも復た風呂敷包が運ばれた。
子供らは学校から帰って、風呂敷包みを背負ったのも、乳飲み子を帯でくくったのも、たいがいは寮の庭へ集まった。
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子供等は學校から歸つて風呂數包を脊負つたのも、乳呑兒を帶で括つたのも大抵は寮の庭へ集つた。
「さあ、そんじゃまた、みんな上がれ」
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「さあそんぢや又、みんな上れ」
と婆さんらが言うと、敷居際に迫って待っていた子供らは争って席を取った。
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と婆さん等がいふと閾際に迫つて待つて居た子供等は爭うて席をとつた。
彼らは今日も狭い寮の内側にぎっしりと膝をすぼめて座った。
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彼等は今日も狹い寮の内側にぎつしりと膝を窄めて坐つた。
四、五人の婆さんらは、仏壇の前に積まれてあった風呂敷包みを解きながら、ひそひそとささやいた。
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四五人の婆さん等は佛壇の前に積まれてあつた風呂敷包を解きながらひそ/″\と耳語いた。
「これは何だと思ったら、鮨だよ」
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「此りや何だと思つたら、鮨だよ」
と一人の婆さんが言えば
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と一人の婆さんがいへば
「そんじゃ、そっちへ別にしておけよ、お前」
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「そんぢや、そつちへ別にして置けよおめえ」
「そんじゃ、こっちのも別にしておこうよ、なあ」
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「そんぢやこつちのがも別にして置くべよ、なあ」
婆さんらはすこぶる慌てたように手元忙しく、三つ四つの風呂敷包みをそっと仏壇へ隠した。
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婆さん等は頗る慌てたやうに手もと忙しく三つ四つの風呂敷包をそつと佛壇へ隱した。
そうしているうちに、他の婆さんらは
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さうして居る内に他の婆さん等は
「みんな、おとなしくしなくちゃ、くれないぞ」
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「みんな、おとなしく仕なくつちや、呉んねえぞ」
「そんなに洟を垂らしてる者にはやらないことにしようよ」
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「さうだに洟垂らしてるものげはやんねえことにすべえ」
口々にからかった。
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口々に揶揄つた。
子供らは一斉に洟をすすって、そうして着物で横に拭った。
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子供等は一齊に洟を啜つてさうして衣物で横に拭つた。
白い紙が一枚ずつ、子供らの前に広げられた。
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白い紙が一枚づつ子供等の前に擴げられた。
「子供らのことを言って、手洟なんぞかんだ手じゃ引かないでくれよ。お前らももったいないから」
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「子奴等こと云つて、手洟なんぞかんだ手ぢや引かねえで呉ろえ、おめえ等も勿體ねえから」
婆さんらが飯つぎを左の手に抱えて立った時、こう囲炉裏のそばから怒鳴った。
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婆さん等が飯つぎを左の手に抱へて立つた時、かう圍爐裏の側から呶鳴つた。
彼は小柄な爺さんで、ちょっと婆さんらを顧みて微笑しながら言ったのである。
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彼は小柄な爺さんで一寸婆さん等を顧みて微笑しながらいつたのである。
彼は喉へ二重にした数珠を巻いていた。
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彼は喉へ二重にした珠數を卷いて居た。
彼の声は恐ろしく大きかった。
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彼の聲は恐ろしく大きかつた。
婆さんらは
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婆さん等は
「はいはい、そんじゃ手でも洗いましょうよ」
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「はい/\、そんぢや手でも洗ひますべよ」
と言ったり
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といつたり
「おれはお前、手洟はかまないよ」
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「俺らおめえ、手洟はかまねえよ」
と言ったり、がらがらと騒ぎながら、笑いささやきつつ、濡れた手を前掛けで拭いて再び飯つぎを抱えた。
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といつたりがら/\と騷ぎながら、笑ひ私語きつゝ、濡れた手を前掛で拭いて再び飯つぎを抱へた。
婆さんらは箸の先で少しずつ、飯つぎの物を突っ掛けてその広げられた紙へ置きながら、端からぐるりと回って行く。
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婆さん等は箸の先で少しづつ、飯つぎの物を突つ掛けて其の擴げられた紙へ置きつゝ、端からぐるりと廻つて行く。
紙は子供らの数のほかにも敷かれてあった。
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紙は子供等の數の外にも敷かれてあつた。
それは、空になった飯つぎを返す時にその中へ入れてやるためであった。
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それは空虚になつた飯つぎを返す時に其の中へ入れてやる爲であつた。
飯つぎには、たいがい菱餅と小豆飯とが入れられてあった。
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飯つぎには大抵菱餅と小豆飯とが入れられてあつた。
小豆飯はどれもこれも米がよく搗けていないのでくすんで、そうして腹の裂けた小豆が粉を吐いて、余計に粘り気のないぼろぼろな飯になっていた。
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小豆飯はどれも/\米が能く搗けてないのでくすんでさうして腹の裂けた小豆が粉を吐いて餘計に粘氣のないぼろ/\な飯になつて居た。
それでも飯つぎが違うごとに、小豆飯の赤さがいくらかずつ変わっていた。
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それでも飯つぎの異る毎に小豆飯の赤さが幾らかづつ變つて居た。
子供らは、違った小豆飯が一箸一箸と増えて行くのが嬉しくて、外へ転がったのは慌てて手で取って紙へ載せた。
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子供等は變つた小豆飯が一箸々々と殖えて行くのが嬉しくて、外へ轉がつたのは慌てゝ手でとつて紙へ載せた。
小豆飯は昨日と違ったことはなかったが、菱餅は昨日のように米のではなくて、どれでも粟ばかりであった。
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小豆飯は昨日に異つたことはなかつたが、菱餅は昨日のやうに米のではなくてどれでも粟ばかりであつた。
子供らは大小違った粟の菱餅が、一つはまた一つと紙の上に量を増して積まれるのを楽しげにして、自分の紙から、両方の隣の紙から、遠くのほうから、それから一つ一つに屈んで箸を動かしている婆さんらの忙しい手元に目を奪われるのであった。
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子供等は大小異つた粟の菱餅が一つは一つと紙の上に分量を増して積まれるのを樂しげにして、自分の紙から兩方の隣の紙から遠くの方から、それから一つ/\に屈んで箸を動かして居る婆さん等の忙しい手もとに目を奪られるのであつた。
婆さんらはそわそわとしながら、狭いので互いにぶつかっては騒ぎながら、自分の家にいる時のような節度が少しも保たれていなかった。
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婆さん等はそは/\としつゝ狹いので互に衝突つては騷ぎながら、自分の家に居る時のやうな節制が少しも保たれて居なかつた。
「さあ、お前らこれっきりだ」
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「さあ、汝つ等此れつきりだ」
婆さんらが空になった最後の飯つぎの底を叩いて腰を伸ばした時、子供らは危なそうな手でようやく紙を包んで、がたがたと先を争って立った。
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婆さん等が空虚になつた最後の飯つぎの底を叩いて腰を伸ばした時、子供等は危な相な手で漸く紙を包んで、がた/\と先を爭うて立つた。
下駄を遠くへ跳ね飛ばされたり、転んだり、紙包みの餅を落としたりして泣く声が入り交じった。
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下駄を遠くへ跳ね飛ばされたり、轉つたり、紙包の餅を落したりして泣く聲が相交つた。
彼らは庭へ下りてから、おもむろにその紙を開いて小豆飯を手でつまんで食べた。
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彼等は庭へおりてから徐ろに其の紙を開いて小豆飯を手で抓んで喫べた。
紙にくっついた小豆飯を、彼らは歯でかじるようにして取った。
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紙にくつゝいた小豆飯を彼等は齒で噛るやうにしてとつた。
破れた紙を捨てて、菱餅を懐へ入れる者もあった。
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破れた紙を棄てゝ菱餅を懷へ入れるものもあつた。
庭にはあっちにもこっちにも、捨てられた紙が白く乱れて散らばっていた。
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庭にはそつちにもこつちにも棄てられた紙が白く亂れて散らばつて居た。
老人らは囲炉裏に絶えず薪をくべながら、酒を燗し始めた。
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老人等は圍爐裏に絶えず薪を燻べながら酒を沸し始めた。
村のどの家からか、今日も念仏衆へと言って供えられた二升樽を囲炉裏のそばへ引きつけて、尻の煤けた土瓶へごぼごぼと注いで自在鉤へ掛けた。
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村落のどの家からか今日も念佛衆へというて供へられた二升樽を圍爐裏の側へ引きつけて、臀の煤けた土瓶へごぼ/\と注いで自在鍵へ掛けた。
外があまりに寒いからというので、念仏が済んでから誰かが雨戸を二、三枚引いたので、寮の内は薄暗くなっていた。
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外が餘りに寒いからといふので念佛が濟んでから誰かゞ雨戸を二三枚引いたので寮の内は薄闇くなつて居た。
仏壇の前には、婆さんが三、四人でひそひそと額を集めている。
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佛壇の前には婆さんが三四人でひそ/″\と額を鳩めて居る。
「この婆さんら、そっちのほうで盗み食いしてないで、うまい物があったらこっちへ持って来い」
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「此の婆奴等、そつちの方で偸嘴してねえで、佳味え物有つたら此方へ持つて來う」
さっきの、首へ数珠を巻いた小柄な爺さんが怒鳴った。
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先刻の首へ珠數を卷いた小柄な爺さんが呶鳴つた。
「盗んだというわけじゃないが、蓋を取って見たところなんだよ」
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「盜んだつち譯ぢやねえが、蓋とつて見た處なんだよ」
そう言って婆さんらは、風呂敷の四隅をつかんで囲炉裏のそばへ持って来た。
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さういつて婆さん等は風呂敷の四隅を掴んで圍爐裏の側へ持つて來た。
飯つぎには、干瓢を帯にした稲荷鮨が少し白い腹を見せて、そっくりと積まれてあった。
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飯つぎには干瓢を帶にした稻荷鮨が少し白い腹を見せてそつくりと積まれてあつた。
鮨は少し減っていた。
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鮨は少し減つて居た。
「独りでせしめちゃかなわないからね」
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「獨でせしめちやえかねえから」
爺さんは冗談らしく言った。
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爺さんは戲談らしくいつた。
「独りじゃあるまいな。こうやって三人も四人もいたんだものなあ」
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「獨ぢやあんめえな、かうやつて三人も四人も居たんだものなあ」
「そうだとも。これくらいおれらにくれたって、本当にすりゃいいんだよ。なあ、おれらなんざ、上がった酒だってそんなに飲むわけじゃなし」
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「さうだとも、此の位俺らげよこしたつて本當にすりやえゝんだよ、なあ、俺らなんざ上つた酒だつてさうだに飮むべぢやなし」
婆さんらは言い返すように言った。
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婆さん等は抗辯するやうにいつた。
みんなが一つ一つと鮨をつまんだ。
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悉皆が一つ/\と鮨を撮んだ。
「そりゃそうと、酒はどうしたい」
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「そりやさうと、酒どうしたえ」
小柄な爺さんは、ひょいと自在鉤のまま土瓶を手元へ引きつけて、底へ手を当ててみた。
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小柄な爺さんはひよつと自在鍵の儘土瓶を手もとへ引つけて、底へ手を當てゝ見た。
「うっかりしてて、これは煮立っちまうところだったっけ」
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「放心してゝ此ら煑立ツちやあ處だつけ」
と急いで土瓶を外して
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と急いで土瓶を外して
「おれはそんなに鮨なんざ自分じゃ一つでもほしくないんだから。そんな物で腹をふくらませたっくらい、酒がからっきり甘くなくなっちまうから」
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「俺らさうだ鮨なんざ自分ぢや一つでも欲しかねえんだから、さうだ物で滿腹くしたつ位酒からツき甘くなくしつちやあから、」
爺さんは土瓶を畳の上へ置いて言った。
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爺さんは土瓶を疊の上へ置いていつた。
みんながずらりと座を作った。
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悉皆がずらりと座を作つた。
茶飲み茶碗が一つ一つに置かれて、どこからか供えられた芋や牛蒡や人参やその他の野菜の煮しめが、重箱のまま置かれた。
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茶呑茶碗が一つ/\に置かれて、何處からか供へられた芋や牛蒡や人參や其の他の野菜の煮〆が重箱の儘置かれた。
そこには膳も台も何もなかった。
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其處には膳も臺も何もなかつた。
土瓶の酒が徳利へ移されて、土瓶は再び自在鉤へ吊された。
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土瓶の酒が徳利へ移されて土瓶は再び自在鍵へ吊された。
二度目の酒が茶碗へ注がれた時
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二度目の酒が茶碗へ注がれた時
「これはだめだ、焦げ臭くなっちまった。酒を燗するのにはかなわない、どうも気をつけなくちゃ。酒と茶はちっとでも臭みが移るんだから」
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「此ら駄目だ、焦臭くしツちやつた、酒沸すのにや畢へねえどうも氣をつけなくつちや、酒と茶はちつとでも臭味移らさんだから」
小柄な爺さんは茶碗を口へ当てて、いかにも憤慨に堪えない者のように言った。
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小柄な爺さんは茶碗を口へ當てゝ左も憤慨に堪へぬものゝやうにいつた。
「なあに、土瓶だって二度目のを少しにしないで、さっきのより余計なくらい注ぎさえすりゃ大丈夫なんだが。それ、そうでないと周りがそれ、焦げるから」
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「なあに、土瓶だつて二度目のが少しに仕ねえで、先刻のがより餘計なツ位注ぎせえすりや大丈夫なんだが、それさうでねえと周圍がそれ焦びつから」
と、そばからすぐに口が出た。
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と側から直ぐに口が出た。
「そんじゃ、今度はたくさん入れような。おれはろくに飲みもしないで怒られちゃつまらないな」
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「そんぢや、今度澤山入えびやな、俺ら碌に飮んもしねえで、怒られちやつまんねえな」
土瓶を手にした婆さんは笑いながら言った。
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土瓶を手にした婆さんは笑ひながらいつた。
「本当にすりゃ、一遍ごとに土瓶の中を水ですすがなくちゃだめなんだがな」
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「本當にすりや、一遍毎に土瓶の中水でゆすがなくつちや駄目なんだがな」
「そっちから、もう、鉄瓶の中へ徳利を押し込めばいいんだな。そうすりゃどうもこうもないんだな」
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「そつから、はあ、鐵瓶の中さ徳利おしこめばえゝんだな、さうすりやどうだもかうだもねえんだな」
「せっかく甘い酒を台なしにして、惜しいもんだな。これはこれで、よっぽどいい酒だぞ」
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「折角甘え酒臺なしにして可惜物だな、此らこんで餘程えゝ酒だぞ」
などという声が雑然として聞こえた。
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抔といふ聲が雜然として聞えた。
「鉄瓶じゃ徳利が一本ずつしか入らないから、面倒臭かろうと思ってよ」
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「鐵瓶ぢや徳利一本づつしかへえんねえから面倒臭かんべと思つてよ」
と婆さんは言いながら、いったん沸いた鉄瓶を掛けた。
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と婆さんはいひながら、一旦沸つた鐵瓶を懸けた。
樽が空になって、みんな飲む者は酔ってがやがやとただ騒いだ。
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樽が空虚になつて悉皆飮む者は銘酊つてがや/\と只騷いだ。
卯平は囲炉裏のそばを離れずに、むっつりとして杯を取らない婆さんらと火に当たりながら、煙管を持たない所在なさに、そだの先を折ってその癖の舌を鳴らしながら、歯茎をつついていた。
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卯平は圍爐裏の側を離れずにむつゝりとして杯をとらぬ婆さん等と火にあたりながら、煙管を持たぬ所在なさに麁朶の先を折つて其癖の舌を鳴らしつゝ齒齦をつゝいて居た。
彼はみんなが騒いでいる間に、自分の腹に足りるだけの鮨や惣菜やらを箸に挟んで、杯へは手を触れようとしなかった。
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彼は悉皆が騷いで居る間に自分の腹に足りるだけの鮨や惚菜やらを箸に挾んで杯へは手を觸れようとしなかつた。
老人らは自分の騒ぐほうにばかり心を奪われて、卯平のことはそっちのけにしたままであった。
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老人等は自分の騷ぐ方にばかり心を奪はれて卯平のことはそつちのけにした儘であつた。
卯平はそれでも、いろいろな百姓料理の塩辛い重箱へ箸をつけて、近ごろになく快かった。
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卯平はそれでも種々な百姓料理の鹽辛い重箱へ箸をつけて近頃になく快よかつた。
彼は腹にいっぱいになるまでには、欠けた歯茎で噛んで飲み下して、さらに次の箸が口まで来る、その悠長な手の運動が待ち遠しくて、口の中の粘膜からは自然に薄い水のような唾液の湧いて出るのを抑えることができないほどであった。
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彼は腹に一杯になる迄には、缺けた齒齦で噛んで嚥下して、更に次の箸が口まで來る其の悠長な手の運動が待遠で口腔の粘膜からは自然に薄い水のやうな唾液の湧いて出るのを抑へることが出來ない程であつた。
威勢よくなった老人らは、赤い胴の太鼓を首筋から胸へ吊って、だらりだらりと叩いて先に立つと、足元も手元も節度がなくなったすべてが後から後からと、ことに婆さんらは騒ぎながらついて出る。
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威勢よく成つた老人等は赤い胴の太鼓を首筋から胸へ吊つて、だらり/\と叩いて先に立つと足もと手もと節制なくなつた凡てが後から/\と、殊に婆さん等は騷ぎながら跟て出る。
軒端から青竹の棚に沿って敷いてある筵を渡って、おもむろに回る。
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軒端から青竹の棚に添うて敷いてある筵を渡つて徐に廻る。
彼らはそれをお山回りというのである。
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彼等はそれをお山廻りといふのである。
互いによろけながら、踊りとも何ともつかない剽軽な手足の動かし方をして、蓄えておいた一年中の笑いを一度に吐き出したかと思うほどの声を放って、止めどもなくどよめいた。
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相互に踉蹌けながら踊とも何ともつかぬ剽輕な手足の動かしやうをして、蓄へて置いた一年中の笑を一時に吐き出したかと思ふ程の聲を放つて止めどもなくどよめいた。
ついには列が乱れて、互いにぶつかっては足を踏んだり踏まれたりして、一人が倒れれば後から後からと折り重なって、ひとしきり同じ所に止まってはがやがやと騒いだ。
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遂には列が亂れて互に衝突しては足を踏んだり踏まれたりして、一人が倒れゝば後から/\と折重つて一しきり同じ處に止まつてはがや/\と騷いだ。
彼らはほとんど冷え切ろうとしつつある肉体のいずれの部分かに、失われようとしてぽっちりとその面影を止めていた青春の血液の一滴がにわかに沸いて、彼らの全体を支配し、かつ活動させたかと思うように、干からびつつある彼らの顔にはどれでも華やかな紅が差している。
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彼等は殆ど冷却しようとしつゝある肉體の孰れの部分かに失はれんとしてほつちりと其俤を止めて居た青春の血液の一滴が俄に沸いて彼等の全體を支配し且活動せしめたかと思ふやうに、枯燥しつゝある彼等の顏にはどれでも華やかな紅を潮して居る。
彼らはまったく節度を失っている。
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彼等は全く節制を失つて居る。
彼らはふだん家族に交わって、その老衰の身がどうしても自然に若い者の間に疎外されつつ、各自はむしろ無意識でありながら、しかもうっくつして怠い月日を過ごしつつある時に、例年の定めである念仏の日は、そういうすべてを放つ自由の境地である。
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彼等は平生家族に交つて、其老衰の身がどうしても自然に壯者の間に疎外されつゝ、各自は寧ろ無意識でありながら然も鬱屈して懶い月日を過しつゝある時に、例年の定めである念佛の日はさういふ凡てを放つ自由境である。
彼らはそこに少しの遠慮をも持っていない。
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彼等は其處に些の遠慮をも有つて居らぬ。
彼らは冬の間を長い夜の眠りに飽きながら、寒さに苛められていた苦しさを、もう空のどこかにその勢いを潜めてためらっているはずの春に先立って、一度に取り返そうとする者のごとく、騒いで騒いでまた騒ぐのである。
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彼等は冬季の間を長い夜の眠りに飽きつゝ寒さに苛められて居た苦しさを、もう空の何處にか其の勢ひを潜めて躊躇して居る筈の春に先立つて一度に取返さうとするものゝ如く騷いで/\又騷ぐのである。
酒がそこに火を点じた。
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酒が其處に火を點じた。
庭の四本の青竹に張った縄の、赤や青や黄の刻んだ注連がひらひらと動きながら、老人らと一つになってささやくように見えた。
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庭の四本の青竹に長つた繩の赤や青や黄の刻んだ注連がひら/\と動きながら老人等と一つに私語くやうに見えた。
日は陽気な庭へいっぱいに暖かな光を投げた。
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日は陽氣な庭へ一杯に暖かな光を投た。
庭には子供らや村の者がぞろりと立って、この騒ぎを笑って見ていた。
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庭には子供等や村落の者がぞろつと立て此騷ぎを笑つて見て居た。
その辺りには、難しそうなものは一つも見られなかった。
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其邊には難かし相なものは一つも見られなかつた。
彼らを包んだ柔らかな空気が、春の徴候でなければならなかった。
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彼等を包んだ軟かな空氣が春の徴候でなければならなかつた。
しかしながら、卯平はただ独りその群れに加わらなかった。
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然しながら卯平は只獨り其群に加はらなかつた。
老人らの勢いがごうっと庭に移った時、寮の内はその騒ぎの声がいっぱいに襲い来て、やかましいにもかかわらず寂しかった。
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老人等の勢ひがごつと庭に移つた時寮の内は其の騷ぎの聲が一杯に襲ひ來て喧しいにも拘らず寂しかつた。
囲炉裏の火も灰が白く覆って、めっきりと衰えた。
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圍爐裏の火も灰が白く掩うて滅切と衰へた。
卯平はじっと腕を組んだまま目をしかめて、燃え尽きた薪をすら突き出そうとしなかった。
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卯平は凝然と腕を拱いた儘眼を蹙めて燃え退いた薪をすら突き出さうとしなかつた。
彼には、庭の節度のない騒ぎの声がその耳を支配するよりも、遠くかつはるかな闇に何物かを探そうとしつつあるように、ただぼんやりとしているのであった。
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彼には庭の節制のない騷ぎの聲が其の耳を支配するよりも遠く且遙な闇に何物をか搜さうとしつゝあるやうに只惘然として居るのであつた。
与吉は紙包みの小豆飯を食べ尽くして、しばらく庭の騒ぎを見ていたが、寮の内に独りぽつねんとしている卯平を見つけて、囲炉裏に近く迫った。
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與吉は紙包みの小豆飯を盡して暫らく庭の騷ぎを見て居たが寮の内に㷀然として居る卯平を見出して圍爐裏に近く迫つた。
「爺さん、くれないか」
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「爺くんねえか」
と彼は、またいつものように卯平に甘えた。
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と彼は又何時ものやうに卯平に甘えた。
卯平はその声を聞いても、しばらく屈んだままでいた。
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卯平は其聲を聞いても暫く蹙んだ儘で居た。
立春の日を過ぎてから、かえって黄昏のはかない薄い光の空に吹き落ちるはずの西風が何を怒ってか吹いて吹いて吹きまくって、夜にわたっても幾日か止まないほどのまれな現象に伴って、鬼怒川の浅瀬が氷に閉ざされて、やがて氷の塊が流れたという噂が立ったことがあった。
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立春の日を過ぎてから、却て黄昏の果敢ない薄い光の空に吹き落ちる筈の西風が何を憤つてか吹いて/\吹き捲つて、夜に渡つても幾日か止まぬ程な稀有な現象に伴うて、鬼怒川の淺瀬が氷に閉されて、軈て氷の塊が流れたといふ噂が立つたことがあつた。
卯平はそれとともに、その乾いた肌が余計に荒れて、寒気が骨に徹したかと思うと、にわかに手の自由を失って来たように自覚した。
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卯平はそれと共に其の乾燥した肌膚が餘計に荒れて寒冷の氣が骨に徹したかと思ふと俄に手の自由を失つて來たやうに自覺した。
彼は縄を綯うにも草鞋を作るにも、それがある凝り固まった塊がすべての筋肉の働きを妨げているようで、各部にうずく痛みをさえ感じるのであった。
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彼は繩を綯ふにも草鞋を作るにも、其が或凝塊が凡ての筋肉の作用を阻害して居るやうで各部に疼痛をさへ感ずるのであつた。
器用な彼の手先が、彼自身の物ではなくなった。
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器用な彼の手先が彼自身の物ではなくなつた。
彼は与吉が狭い戸口に立つごとに、心から迎える以前の卯平ではなくなっていた。
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彼は與吉が狹い戸口に立つ毎に心から迎へる以前の卯平ではなくなつて居た。
それでも彼は与吉を愛していた。
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それでも彼は與吉を愛して居た。
「明日にしろ」
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「明日にしろ」
と彼は簡単に拒絶して、そうしてそれっきり言わないことがあるようになった。
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と彼は簡單に拒絶してさうしてそれつきりいはないことが有るやうになつた。
与吉はしばしばそう言われてしょんぼりしているのを、卯平は見つめて余計に目をしかめつつあるのであった。
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與吉は屡さういはれて悄然として居るのを、卯平は凝視めて餘計に目を蹙めつゝあるのであつた。
そういうことが幾度か幾日か繰り返された後、卯平は与吉へ一銭の銅貨を与えた。
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さういふことが幾度か幾日か反覆された後卯平は與吉へ一錢の銅貨を與へた。
これまでの倍になっているのと、ほとんどまた拒絶されるのではないかという不安を抱きつつある与吉は、いつでもそれに非常な満足を表した。
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從來に倍して居るのと殆ど復拒絶されるのではないかといふ懸念を懷きつゝある與吉は何時でも其に非常な滿足を表はした。
その様子を見る卯平は、勢い心が動かされた。
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其容子を見る卯平は勢ひ心が動かされた。
自分が老衰者であることを知った時、諦めのないすべては、ややもすれば互いに余命のいくらもないはかなさを語り合って、それが冗談を言って笑いさざめく時にさえ絶えず繰り返されて、各自が痛切に感じる程度の違いはあるにしても、死の問題に苦しめられているのは事実である。
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自分の老衰者であることを知つた時諦めのない凡ては、動もすれば互に餘命の幾何もない果敢なさを語り合うて、それが戲談いうて笑語く時にさへ絶えず反覆されて、各自が痛切に感ずる程度の相違はあるにしても、死の問題に苦しめられて居るのは事實である。
卯平の心にも、同じく死の観念が止まず行き来した。
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卯平の心にも同じく死の觀念が止まず往來した。
彼はその手先の自由を失った時、自棄の心から彼の風呂敷包みを解いた。
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彼は其手先の自由を失うた時自棄の心から彼の風呂敷包を解いた。
野田にいたころ、主人や、または主人の用での出先からもらった幾筋の手拭いを継ぎ合わせてこしらえた浴衣を出した。
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野田に居た頃主人や又は主人の用での出先から貰つた幾筋の手拭を繼ぎ合せて拵へた浴衣を出した。
清潔好きな彼には、派手な手拭いの模様が当時の誇りの一つであった。
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清潔好な彼には派手な手拭の模樣が當時矜の一つであつた。
彼はもう、自分の心を苛めてやるような心持ちで、目ぼしい物を次第に質入れした。
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彼はもう自分の心を苛めてやるやうな心持で目欲しい物を漸次に質入した。
彼は目の前に、氷が閉じては毎日暖かい日の光に溶かされるのを見ていた。
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彼は眼前に氷が閉ぢては毎日暖い日の光に溶解されるのを見て居た。
彼にはそれが、ただそういう現象としてのみ目に映った。
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彼にはそれが只さういふ現象としてのみ眼に映つた。
彼は、自由を失ったその手先が、暖かい春の日が積もって次第に和らげられるであろうという、かすかな希望をさえ起こさないほど、身も心もひがんで、そうして苦しんだ。
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彼は自由を失うた其手先が暖い春の日が積つて漸次に和らげられるであらうといふ微かな希望をさへ起さぬ程身も心も僻んでさうして苦しんだ。
彼の風呂敷包みから得つつあった金銭は些少のものであったが、それは時として、彼のこわばった舌に適した食べ物のあるものを求めるほかに、一部分は与吉の小さな手に落とされるのであった。
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彼の風呂敷包から獲つゝあつた金錢は些少のものであつたが、それは時として彼の硬ばつた舌に適した食料の或物を求める外に一部分は與吉の小さな手に落されるのであつた。
はかない煙草入れの叺の中を、心配するように彼は幾度も覗いた。
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果敢ない煙草入の叺の中を懸念するやうに彼は數次覗いた。
陰鬱な狭い小屋の中で覗く叺の底は暗かった。
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陰鬱な狹い小屋の中で覗く叺の底は闇かつた。
わずかに交じった小さな白い銀貨が、見るたびに彼の心にいくらかの光を与えた。
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僅かに交つた小さな白い銀貨が見る度に彼の心に幾らかの光を與へた。
彼がどんなに惜しんでも、叺の中の減って行くのを防ぐことはできない。
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彼が什麽に惜んでも叺の中の減つて行くのを防ぐことは出來ない。
しかも無口な彼は、いたずらに自分独りが噛みしめて、絶えずただやつれながら沈鬱の状態を持続した。
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然も寡言な彼は徒らに自分獨が噛みしめて、絶えず只憔悴しつゝ沈鬱の状態を持續した。
彼はその状態を保って、念仏寮の囲炉裏にどっかりと怠い体を据えていた。
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彼は其状態を保つて念佛寮の圍爐裏にどつかと懶い身體を据ゑて居た。
庭の騒ぎは止んで、疾風の襲ったごとく寮の内はまた雑然として、卯平を囲んだ沈鬱な空気をかき乱した。
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庭の騷ぎは止んで疾風の襲うた如く寮の内は復雜然として卯平を圍んだ沈鬱な空氣を攪亂した。
やがて老人らが互いの懐銭を出し合った二升樽が運ばれて、酒がまた燗された。
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軈て老人等が互の懷錢を出し合うた二升樽が運ばれて酒が又沸された。
酒の座は囲炉裏に近く作られた。
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酒の座は圍爐裏に近く形られた。
その時まだ与吉は去らなかった。
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其の時まだ與吉は去らなかつた。
卯平は黙って五厘の銅貨を投げた。
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卯平は默つて五厘の銅貨を投げた。
そばにいた一人の老人がそれを拾おうとして見せると、与吉は両方の手を掛けて、それから身で覆った。
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側に居た一人の老人がそれを拾はうとして見せると與吉は兩方の手を掛てそれから身を以て俺うた。
彼はそれを固くつかんで
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彼はそれを堅く掴んで
「爺さん、もう一つくれないか」
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「爺、いま一つくんねえか」
と、さらにねだった。
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と更に強請んだ。
彼は五厘の銅貨を大事にした。
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彼は五厘の銅貨を大事にした。
しかし彼はしばらく一銭の銅貨に慣れていたので、心にわずかな不足を感じたのであった。
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然し彼は暫く一錢の銅貨に訓れて居たので心に僅な不足を感じたのであつた。
卯平は口を閉ざしている。
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卯平は口を緘んで居る。
「お前は、そんなことを言うんじゃない。さっきあんなに何か貰って要るもんか。もっとほしいなんて言えば、おれが腹を掻き裂いて小豆飯を掻き出してやるから。お前は口ばかり動かしてるから見ろ、それ、鴉に灸を据えられてらあ」
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「汝りや、さうだこと云ふんぢやねえ、先刻あゝだに何か貰つて要るもんか、まつと欲しいなんちへば俺れ腹掻裂えて小豆飯掻出してやつから、汝りや口ばかし動かしてつから見ろうそれ、鴉に灸据ゑらツてら」
と、さっきの首へ数珠を巻いた爺さんががみがみと言った。
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と先刻の首へ數珠を卷いた爺さんががみ/\といつた。
与吉は恥じたようにして、五厘の銅貨で唇をこすりながら立っていた。
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與吉は羞んだやうにして五厘の銅貨で脣をこすりながら立つて居た。
彼の口の両端には、鴉の灸と言われている瘡ができて、泥でもくっつけたようになっていた。
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彼の口の兩端には鴉の灸といはれて居る瘡が出來て泥でもくつゝけたやうになつて居た。
「お前は銭がほしけりゃ、おとっつあんに貰え」
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「汝りや錢欲しけりやおとつゝあに貰へ」
爺さんはまた怒鳴った。
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爺さんは又呶鳴つた。
「そんだってだめだあ、おとっつあんらはくれやしまいし」
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「そんだつて駄目だあ、おとつゝあ等呉れやしめえし」
与吉はやっと言った。
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與吉は漸といつた。
「おとっつあんは耳が遠いから聞こえないんだ。おとっつあん、くれと、おれみたいに怒鳴ってみろ。そうでなけりゃ耳を引っ張ってやれ」
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「おとつゝあ聾だから聞えねんだ、おとつゝあ呉ろうつと俺れ見てえに呶鳴つて見ろ、そんでなけれ耳引張てやれ」
「そんだっていやだあ、おれは。おとっつあんに打っ飛ばされるから」
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「そんだつて厭だあ俺ら、おとつゝあに打つ飛ばされつから」
「いいから行けもう。お前らみたいな子供らがごやごや来ちゃ、うるさくて仕方がないから」
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「えゝから行けはあ、汝等見てえな餓鬼奴等ごや/\來ちや五月蠅くつて仕やうねえから」
与吉はすごすごと立った。
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與吉は悄々と立つた。
「そうら」
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「さうら」
と、卯平は後から五厘の銅貨を庭へ投げてやった。
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と卯平は後から五厘の銅貨を庭へ投げてやつた。
そうしている間に、二度目の酒にあずからない婆さんらは、表の雨戸をさらに二、三枚引いて、余計に薄暗くなった仏壇の前に固まった。
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さうして居る間に二度目の酒に與らぬ婆さん等は表の雨戸を更に二三枚引て餘計に薄闇く成つた佛壇の前に凝集つた。
いつの間にか念仏衆以外の村の女房も加わって、十人ばかりになった。
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何時の間にか念佛衆以外の村落の女房も加はつて十人ばかりに成つた。
彼らは外からの人目を雨戸に避けて、その唯一の楽しみとされてある宝引きをしようというのであった。
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彼等は外からの人目を雨戸に避けて其の唯一の娯樂とされてある寶引をしようといふのであつた。
畳には八本の紺の宝引き糸がざらりと投げ出された。
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疊には八本の紺の寶引絲がざらりと投げ出された。
彼らはそれを糸と呼んでいるけれども、機を織って切り放した最後の糸の端を、縄のように綯った綱である。
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彼等はそれを絲と喚んで居るけれども、機を織つて切り放した最後の絲の端を繩のやうに綯つた綱である。
婆さんらは丸い座を作って、めいめいの前へ二銭ずつの銭を置いた。
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婆さん等は圓い座を作つて銘々の前へ二錢づつの錢を置いた。
親になった一人が八本の綱の元をつかんで、一度ぎっと指へ絡んでばらりと投げ出すと、みんなが一つずつつかんで、これもその端を指へぎりっと絡んで一度に引くと、七本の綱が空しくすっと倒れる。
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親に成つた一人が八本の綱の本を掴んで一度ぎつと指へ絡んでばらりと投げ出すと、悉皆が一つづゝ掴んで此れも其の端を指へぎりつと絡んで一度に引くと七本の綱が空しくすつとこける。
ただ一本の綱の尻には、彼らの言う「どっぺ」
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只一本の綱の臀には彼等のいふ「どツぺ」
が付いていて、それがどさりと畳を打って一人の手元へ引かれる。
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が附いて居てそれがどさりと疊を打つて一人の手もとへ引かれる。
どっぺは、一厘銭を三寸ばかりの厚さに穴を通してぎっとくくった錘である。
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どつぺは一厘錢を三寸ばかりの厚さに穴を透してぎつと括つた錘である。
一厘銭は、黄銅の地色がぴかぴかと光るまで擦られてあった。
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一厘錢は黄銅の地色がぴか/\と光るまで摩擦されてあつた。
どっぺを引いた者がさらに親になって、一度ごとにどっぺは解いて他の綱へつける。
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どつぺを引いたのが更に親になつて一度毎にどつぺは解いて他の綱へつける。
そうすると婆さんらは思案しながら、しかも速やかに綱の一つをつまんでは放したり、また つまんだり、きわめて忙しげにその手を動かす。
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さうすると婆さん等は思案しつゝ然も速かに綱の一つを抓んでは放したり又抓んだり極めて忙しげに其の手を動かす。
彼らはちょうどくじを引くように、きっと一つは当たるはずのどっぺを、みんなが心当てにつかんで引くのである。
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彼等は丁度䰗を引くやうに屹度一つは當る筈のどつぺを悉皆が心あてに掴んで引くのである。
一度ごとに失望と満足とが、みんなの顔にそれからそれと移って行く。
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一度毎に失望と滿足とが悉皆の顏にそれからそれと移つて行く。
綱をぎっと束ねて引かせる手元や、一つずつに思案しながら、しかもつかんだら威勢よくすいと引く手元は、彼らのこわばった手でありながら、熟練して、そうして敏捷に動く。
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綱をぎつと束ねて引かせる手もとや、一つづゝに思案しながら然も掴んだら威勢よくすいと引く手もとは彼等が硬ばつた手でありながら熟練してさうして敏捷に運動する。
綱の周囲からみんなが形づくっている輪が縮まるようにして、一つつかんではまたその輪が広がるようにしながら引く様子は、大勢が一つの紐を打っているような形にも見えた。
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綱の周圍から悉皆の形づくつて居る輪が縮まるやうにして、一つ掴んでは又其の輪が擴がるやうにしつゝ引く容子は大勢が一つの紐を打つて居るやうな形にも見えた。
彼らは忙しく手を動かしているとともに、声を殺してひそひそと、しかも力を入れて笑いささやいた。
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彼等は忙しく手を動かして居ると共に聲を殺してひそ/\と然かも力を入れて笑語いた。
彼らは外に聞こえるのを憚らないならば、興味に乗じて大胆に騒ぐはずでなければならない。
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彼等は戸外の聞えを憚らぬならば興味に乘じて放膽に騷ぐ筈でなければならぬ。
各自の前にある銭は、どっぺを引き当てた者の手に一つずつ引き去られて、誰の前にもまったくなくなった時、また新たに置かれるのである。
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各自の前に在る錢はどつぺを引き當てた者の手に一つづゝ引き去られて誰の前にも全くなくなつた時又更に置かれるのである。
彼らはそれに熱中して、まったく他を忘れている。
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彼等はそれに熱中して全く他を忘れて居る。
宝引きにも酒にも加わらない老人らは、棚の周りを回ってからは帰った者もあって、寮にはいくらか人数も減っていたが、囲炉裏の辺りは酔いが加わって、宝引きの群れに行かない婆さんらは、酒の好きな、どれも威勢のいい者ばかりであった。
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寶引にも酒にも加はらぬ老人等は棚の周圍を廻つてからは歸つたものも有つて寮には幾らか人數も減つて居たが、圍爐裏の邊は醉が加はつて寶引の群に行かぬ婆さん等は酒の好きな孰れも威勢のいゝものばかりであつた。
「なあお前、これでおれも若い時には面白いのだったんだよなあ」
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「なあおめえ、こんで俺らも若けえ時にや面白えのがんだよなあ」
と、爺さんの肩へもたれかかる者もあった。
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と爺さんの肩へ靠れ掛るものもあつた。
「べらぼう、以前のことなんぞ、外聞が悪い。おれなんざこれで随分無鉄砲なことはしたが、これで女には迷わなかったっけから」
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「篦棒、以前のことなんぞ、外聞惡りい、俺らなんざこんで隨分無鐵砲なこたあしたが、こんで女にや煎れねえつちやつたから」
と、首に数珠を巻いた爺さんがそばでそれを見ていて怒鳴った。
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と首に珠數を卷いた爺さんが側でそれを見て居て呶鳴つた。
「お前、怒らなくてもいいやな。酒の座敷じゃそれくらいのことは仕方があるまいな」
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「おめえ、怒んなくつてもえゝやな、酒の座敷ぢや其つ位なこた仕方あんめえな」
と叱られた婆さんは、右の手を上から左の手のひらへ打ちつけて、大声を立てて笑いながら
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と叱られた婆さんは右の手を上から左の手の平へ打ちつけて、大聲を立てゝ笑ひながら
「どうしたんだいまあ、一杯やりなさいね」
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「どうしたんでえまあ一杯やらつせえね」
と、婆さんはさらに卯平へ茶碗を突きつけた。
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と婆さんは更に卯平へ茶碗を突きつけた。
卯平は一杯をも口へ含まないのに、さっきからただじっとして、騒ぎを聞くでもなく聞かないでもない様子をして、胡坐をかいていた。
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卯平は一杯をも口へ銜まぬのに先刻から只凝然として、騷ぎを聞くでもなく聞かぬでもない容子をして胡坐をかいて居た。
二度目の酒はいくらか腹に余計であった老人らは、もう卯平を見逃してはおかなかったのである。
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二度目の酒は幾らか腹に餘計であつた老人等はもう卯平を見遁しては置かなかつたのである。
「おれはしばらくやらないから」
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「俺ら暫くやんねえから」
卯平はそっけなく言って、その癖の舌を鳴らした。
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卯平はそつけなくいつて其の癖の舌を鳴らした。
「何でまた飲まないんだ。そんなにしんねりむっつりしてないで、ちっとは威勢をつけてみるもんだ。そうれ」
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「何でまた飮まねえんだ、さうだにしんねりむつゝりしてねえで、ちつた威勢つけて見るもんだ、そうれ」
と、さっきからの爺さんは茶碗を突きつけた。
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と先刻からの爺さんは茶碗を突きつけた。
卯平はまた舌を鳴らして、唾をぐっと飲んだ。
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卯平は復た舌を鳴らして、唾をぐつと嚥んだ。
「おれはもう、しばらくやらないから。煙草は体の具合が悪いから断ったんだから何だが、酒はこれ、銭は稼げないし、ちっとでも飲めばまた飲みたくなるから、やめちまったな。酒ももう、以前と違って一杯いくらというんだから、銭を食うようで」
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「俺らはあ、暫くやんねえから、煙草は身體の工合惡りいから斷つたんだから何だが、酒は此れ錢は稼げねえし、ちつとでも飮めば又飮みたくなつから廢めつちやつたな、酒もはあ以前た違つて一杯幾らつちんだから錢くんのむやうで」
彼はぶすりとして、しかも力のない声を投げかけるようにして言った。
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彼はぶすりとして然も力のない聲を投げ掛けるやうにしていつた。
「そんなことを言わないで、そら来たとこう手を突き出すもんだ。だるくて仕方がない、これらがな」
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「さうだこと云あねえで、そら來たつとかう手つんだすもんだ、倦怠くつて仕やうねえ此等がな」
さっきの爺さんは、また一杯をぐっと干して怒鳴った。
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先刻の爺さんは又一杯をぐつと干して呶鳴つた。
「そうだよ、飲みなさいよお前。めでたい酒だから。威勢をつければお前、体の具合だってちっとくらいなら治っちまうよ」
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「さうだよ、飮まつせえよおめえ、めでゝえ酒だから、威勢つければおめえ身體の工合だつてちつと位なら癒つちやあよ」
婆さんらはまた勧めた。
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婆さん等は又侑めた。
「この人も勘次どんにはよくされないんだってさ。困ったもんさな。そんだってお前、そんなものは仕方がないから、そんなにくよくよしないほうがいいよ」
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「此の人も勘次どんにや善くさんねえごつさら、困つたもんさな、そんだつておめえさうえもな仕やうねえから、さうえにくよくよしねえ方がえゝよ」
他の婆さんも言った。
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他の婆さんもいつた。
「体の具合が悪いなんて、そんな料簡だから卯平らは仕方がない。これらはリューマチだなんて。リューマチなんて病気は腹の虫から出るんだから、なあに訳はないんだよ。蛇でこうしごき下ろすんだ。いいか、おれがこすってやるから。いや本当だよ、おれのなんざあ」
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「身體の工合惡りいなんて、さうだ料簡だから卯平等仕やうねえ、此等ようまづだなんて、ようまづなんち病氣は腹の蟲から出んだから、なあに譯あねえだよ、蛇でかう扱きおろすんだ、えゝか、俺れこすつてやつから、いや本當だよ俺らがなんざあ」
小柄な爺さんは、非常な勢いで言った。
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小柄な爺さんは非常な勢ひでいつた。
首の数珠は、彼の声が喉をふくらませるので、そのたびごとに少しずつ動いた。
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首の珠數は彼の聲が喉を膨脹させるので其度毎に少しづゝ動いた。
「おれは蛇は嫌いだから」
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「俺ら蛇は嫌えだから」
卯平は苦しそうに言った。
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卯平は苦し相にいつた。
「蛇が嫌いだと。そんな大きな体をして、だらしのないことを言うない。おれなんざ蛇でも毛虫でも怖いなんてことはないんだから。こう、いいか、こうだぞ」
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「蛇嫌えだと、さうだ大え姿してあばさけたこといふなえ、俺らなんざ蛇でも毛蟲でも可怖えなんちやねえだから、かうえゝか、斯うだぞ」
と言いながら爺さんは後ろ向きに立って、十分に酔った足を大股に踏んで、肌を脱いだ両方の手をぎっと握って、手拭いで背中をこするような形をして見せた。
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といひながら爺さんは後向に立つて、十分に酩酊つた足を大股に踏んで、肌を脱いだ兩方の手をぎつと握つて、手拭で背中を擦るやうな形をして見せた。
「おれはリューマチじゃ八、九年も悩んだんだが、蛇でこすればいいというから、これはうまいことを聞いたと思ってな。大きな青大将がぶらんと柿の木からぶら下がったから、竹竿で掻き落とそうと思ったら、おれの家の婆さんらが構うなと言ったっけが、いいからお前らは黙って見てろ、なんて。それからおれがぐうっと頭をふん掴まえて、こうおれの背中をこすったな。大きな青大将だから、畜生、縮んで曲がった時は引っ掛かってなかなか動かないんだ。それからうんと引き伸ばしちゃこすったな。そうしたら、こう塊がごりごりと崩れるのが分かったっけな。そうしたらなあにけろりよ」
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「俺らようまづぢや八九年も惱んだんだが、蛇でこすればえゝつちから、此ら甘えこと聞たと思つてな、大え青大將ぶらんと柹の木からぶらさがつたから竹竿で掻き落すべと思つたら、俺ら家の婆奴等構あななんて云つけが、えゝから汝等默つて見てろ、なんてそれから俺ぐうつと頭ふん掴めえて、斯う俺れ背中こすつたな、大え青大將だから畜生縮つて屈曲した時や引つ掛つて仲々動かねえだ、それからうゝんと引き伸しちやこすつたな、さうしたら斯う塊ごりつ/\とこけんの知れたつけな、さうしたらなあにけろりよ」
彼は一同へ向けた背中へ手を回して
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彼は一同へ向けた背中へ手を廻して
「この辺のところに塊があったのだが、それっきりどこかへ行っちまったな。それからおれはもう、リューマチなんざ訳はないと言ってるんだ」
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「此處らんとこに塊有たのがだが、それつきり何處さか行つちやつたな、それから俺れはあ、ようまづなんざ譯あねえつちつてんだ」
彼の手先が背骨の近くに触れた。
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彼の手先が脊椎に近く觸れた。
「おおいやまあ、大きな灸の跡じゃないかい」
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「おゝえやまあ、大え灸の痕ぢやねえけえ」
と、一人の婆さんが驚いて言った。
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と一人の婆さんが驚いていつた。
「おれのはこれで三百挺を一遍に火をつけたんだから。おれはむしゃくしゃなことが大好きなのだから。いや本当だよ。おれはこれで腹に疫病がくっついた時だって、とうとう寝なかったっけからな。今じゃ教わってるから、子供らまで赤い病だなんて知ってるが、おれが若いころは何でも疫病と覚えてたのだから。なあ卯平、これらもその時やったから知ってらな。おれは一日に十六度手水場へ行ったのが一等だったっけが。なあに、病気なんぞには負けられるもんかというんだから。その時には村中ずっともう、みんなごろごろしてて、おればかり薬箱を持って医者の送り迎えをしたな。隣近所一軒ごと役には立たないんだから。いや本当だよ。おれは十五日下痢して治ったが、おれは強かったからな。いや強いとも、まったく。なあにってんで、おれは毎日酒をぴんぴん飲んだな。酒を飲んじゃ悪いなんて、医者なんてのはだめだな、ずっと。檳榔樹とか何とかだなんてちっとばかりずつ、削った薬なんぞだるくて仕方がないから、当薬を煎じ出して、毎日おれは片口で五杯ずつも飲んだな。五合くらい入っただろうが、おれは息をつかずだ。なあに、息をついちゃ苦くて仕方がないんだよ」
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「俺らがな此んで三百挺一遍に火點けたんだから、俺らがむしやらなこと大好のがんだから、いや本當だよ、俺ら恁んで腹疫病くつゝいた時だつて到頭寢ねえつちやつたかんな、今ぢや教つてつから餓鬼奴等まで赤れえ病だなんて知つてんが、俺ら壯の頃あ何でも疫病と覺えてたのがんだから、なあ卯平、此ツ等もそん時やつたから知つてらな、俺ら一日に十六度手水場へ行つたの一等だつけが、なあに病氣なんぞにや負けらツるもんかつちんだから、其ん時にや村落中かたではあ、みんなごろ/\してんで俺ればかり藥箱持つて醫者の送迎えしたな、隣近所一軒毎役にや立たねえだから、いや本當だよ、俺ら十五日下痢つて癒つたが俺ら強かつたかんな、いや強えとも全く、なあにツちんで俺れ毎日酒ぴん飮んだな、酒飮んぢや惡いなんて醫者なんちや駄目だなかたで、檳榔樹とか何とかだなんてちつとばかしづゝ、削つた藥なんぞ倦怠くつて仕やうねえから、當藥煎じ出して氣日俺れ片口で五杯づゝも飮んだな、五合位へえつけべが、俺ら呼吸つかずだ、なあに呼吸ついちや苦くつて仕やうねえだよ」
と、彼は汚い手拭いで顔の汗を一度拭いた。
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と彼は穢い手拭で顏の汗を一度ふいた。
彼は七十を越えても、髪はまだいくらも白くなかった。
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彼は七十を越えても髮はまだ幾らも白くなかつた。
彼は石の塊を投げ出したような硬い体に力を入れて、独り威勢づいた。
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彼は石の塊を投げ出したやうな堅い身體に力を入れて獨り威勢づいた。
「おれはそれから、五百匁くらいな軍鶏の雑種を一羽引っ縊って、一遍に食っちまったな。そうしたら熱が出た」
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「俺らそれから五百匁位な軍鷄雜種一羽引つ縊つて一遍に食つちまつたな、さうしたら熱出た」
彼はにわかに声を低くしたが、さらに以前に戻って
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彼は俄に聲を低くしたが、更に以前に還つて
「熱は出たが、それでおれはぐっと体に力をつけちまったな。そのせいだな、十五日で治ったな。そんだからおれはすぐに麦の八斗はずんずん搗けたな。おれはこれで体格はちっちゃいが強かったな。おれのは無垢に強いのだから。いや本当だよ。卯平らも仕事じゃ強かったが、そりゃ強いとも。そんだがこれらは根性がやくざだから、疫病がくっついて大儀で仕方がないなんて。それからおれが、しっかりしろと言えば、どうも下痢しちゃ力が抜けて仕方がない、うんうんなんて唸って。そんだがあの時には女房は可哀想なことをしたな。世間の奴らが、卯平は女房に祟られるだろうなんて言うから、心配するなっておれが言ったんだな。そんだがこれらは根性がないから。おれは心配するのは大嫌いだ。それ、心配しないで一杯引っ掛けろというんだ」
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「熱は出たがそれで俺れぐつと身體にや力つけつちやつたな、其の所爲だな十五日で癒つたな、そんだから俺ら直ぐに麥の八斗はずん/\搗けたな、俺らこんで體格はちつちえが強かつたな、俺らがな無垢に強えのがだから、いや本當だよ、卯平等も仕事ぢや強かつたが、そりや強えとも、そんだが此ら根性やくざだから、疫病くつゝいて太儀くつて仕やうねえなんて、それから俺れ、確乎しろツちへばどうも下痢つちや力拔けて仕やうねえ、うん/\なんて唸つて、そんだがあん時にや嚊は可哀相なことしたな世間の奴等卯平は嚊に崇れべえなんちから心配すんなつて俺れ云つたんだな、そんだが此ら根性ねえから、俺ら心配するもな大嫌だ、それ、心配しねえで一杯引つ掛けろつちんだ」
爺さんはいくらでも調子に乗ってまくしかけた。
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爺さんは幾らでも乘地になつてまくしかけた。
「そうだよお前、酒の座敷でむっつりしてるものがあるもんじゃない」
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「さうだよおめえ、酒の座敷でむつゝりしてるもな有るもんぢやねえ」
「婆さんの手だってお前、酒じゃ酔うから、やってみなさいよ」
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「婆さまの手だつておめえ酒ぢや酩酊あからやつて見さつせえよ」
婆さんらはそばから交互に杯を勧めた。
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婆さん等は側から交互に杯を侑めた。
彼らは情けなげな卯平を慰めようとするよりも、独りむっつりとしている彼を仲間に引き込もうというのと、変わっている彼の様子に対してからかってもみたいからとであった。
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彼等は情なげな卯平を慰めようとするよりも、獨むつゝりとして居る彼を伴侶に引つ込まうといふのと、變つて居る彼の容子に對して揶揄つても見たいからとであつた。
「おれは銭を出しもしないで、他人の酒なんぞ」
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「俺ら錢出しもしねえで、他人の酒なんぞ」
卯平は口が粘って舌がこわばったように言った。
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卯平は口が粘つて舌が硬ばつたやうにいつた。
「お前が構うもんじゃないな、そんなこと」
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「おめえ管あもんぢやねえな、其麽こと」
婆さんらはまた言った。
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婆さん等は又いつた。
「酒代が足りなけりゃ、こっちのほうに寺銭ができてるよ、お前ら」
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「酒代足んなけりや、こつちの方に寺錢出來てるよおめえ等」
宝引きの仲間がこちらを顧みて言った。
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寶引の仲間がこちらを顧みていつた。
「要らないとも、そんな銭なんざ。おれは博打なんざ何でも嫌いだから」
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「要らねえともそんな錢なんざ、俺ら博奕なんざ何でも嫌えだから」
小柄な爺さんはすぐに怒鳴った。
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小柄な爺さんは直に呶鳴つた。
「おれはもう、銭もありもしないで」
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「俺らはあ錢も有りもしねえで」
卯平は他人の騒ぎに釣り込まれようとするよりも、自分の心の内のあるものをやっとのことで吐き出そうとするように呟いた。
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卯平は他人の騷ぎに釣り込まれようとするよりも、自分の心裏の或物を漸とのこと吐き出さうとするやうに呟いた。
「またそんなことだから仕方がない。勘次らは懐具合がいいというんだから、要るなら何でも、てめえよこせとこう言うんだ。構わないから奪い取ってやれ。おれだったらそうだ。いや本当だとも。婿なんぞに威張られてるなんてことがあるもんか。卯平らは根性が弱いから仕方がない」
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「又さうだこつたから仕やうねえ、勘次等懷工合えゝつちんだから、要らば何でも、汝れよこせつと斯ういふんだ。管あねえから奪取つてやれ、俺らだらさうだ、いや本當だとも、聟なんぞに威張られてるなんちこと有るもんか、卯平等根性薄弱だから仕やうねえ」
小柄な爺さんは、髪をいっぱいに汗で濡らした。
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小柄な爺さんは髮を一杯に汗で濕した。
「威張られる理由じゃないが、おれはおれでやろうと思ってるんだから」
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「威張らツる理由ぢやねえが、俺ら俺れでやんべと思つてんだから」
卯平は自分をかばうように言った。
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卯平は自分を庇護するやうにいつた。
「婿なんぞ、承知するもんじゃない。あんな泥棒野郎、おれは嫌いだ。畑でも田でも油断ならないから」
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「聟なんぞ、承知するもんぢやねえ、あゝだ泥棒野郎、俺ら嫌えだ、畑でも田でも油斷なんねえから」
「そんだが、今じゃ懐がちっとはいいせいか、盗るのは盗らないよ」
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「そんだが、今ぢや懷ちつたえゝ所爲か盜るな盜んねえよ」
「なあにおれは、蜀黍を伐った時には勘弁するまいと思ったんだったが、お内儀さんに来られたから我慢したんだ。おれが卯平だったら槍で突き刺してやるんだ。いや、おれには本当にやられるとも。おれは家族の奴らになんざ、ぐずぐずは言わせないんだ。おれの家じゃ元日には暗いうちに起きて、蓑を着て、囲炉裏端で芋を焼いて食う縁起なんだが、おれの家の奴らが、外聞が悪いからいやだなんて吐かしやがるから、おれが、何だとうお前ら、いやだと言うんならいやだって今一遍言ってみろ、おれの目玉の黒いうちはそうはいかないぞというんだから。いや本当に、おれは聞かないんだから」
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「なあに俺れ、蜀黍伐つた時にや勘辨しめえと思つたんだつけがお内儀さんに來らツたから我慢したんだ、俺れ卯平だら槍で突つ刺してやんだ、いや俺れにや本當に行られつとも、俺ら家族の奴等げなんざぐづ/\は云あせねえだ、俺ら家ぢや元日にや闇えに起きて、蓑着て、圍爐裏端で芋燒えてくふ縁起なんだが、俺ら家の奴等外聞惡いから厭だなんて吐かしやがつから、俺れ、何だとう汝ツ等、厭だつちんだら厭だつて今一遍云つて見ろ、俺れ目玉の黒え内やさうはえがねえぞつちんだから、いや本當に俺ら聽かねえだから」
彼は髪が余計に湿りを増して、みんなの耳の底に徹るほど怒鳴って見せた。
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彼は髮が餘計に濕ひを増して悉皆の耳の底に徹る程呶鳴つて見せた。
「お前みたいにそうは行かないよ、他人は」
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「おめえ見てえにさうは行かねえよ、他人は」
卯平はぽつりと言った。
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卯平はぽさりといつた。
「本当にお前みたいなものはないよ。若い時から毎晩酔っちゃ、後夜が鶏でも構わない、馬を曳いて帰っちゃ戸の割れるほど叩いて、そうしちゃ馬の裾湯が沸いてないって言っちゃ、家族の者を追い出してなあ。百姓はお前、夜中まで眠らないで待ってはいられないな。そんだがお前も、跡取りがよくできて仕合わせだよなあ」
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「本當におめえ見てえなもなねえよ、若けえ時から毎晩酩酊つちや後夜が鷄でも構あねえ馬曳て歸つちや戸の割れる程叩いて、さうしちや馬の裾湯沸えてねえつて云つちや家族の者こと追ひ出してなあ、百姓はおめえ夜中まで眠んねえで待つちや居らんねえな、そんだがおめえも相續人善く出來て仕合だよなあ」
そばにいてさっきから聞いていた婆さんの一人が言った。
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側に居て先刻から聞いて居た婆さんの一人がいつた。
その身なりは、他の老人らとは違っていた。
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其の服裝は他の老人等とは異つて居た。
「おれには打ち出されるとも。これでおれは力は強かったからな。仕事じゃ卯平も強かったが、こんな大きな体格をして、相撲じゃおれにはずっとぺたぺただ。おれはあっという間に投げつけちまうんだから。ああ、おれは腕ばかりじゃない。それくらいだから歯も強いんだよ。おれは麦打ちの時、唐箕を立ててて半夏桃をもらったのを、ひょいと口へ入れたっきり、種までがりがり噛んじまったな。奇態だよ、そんだが桃を噛ってると鼻の中へ埃が入らないからな。おれの歯じゃ誰でも驚くんだから。真鍮の煙管なんざ、くわえてぎりぎりっとこう手のひらでぶん回すと、ぽろっと噛み切れちまうのだから。そんだから今でも、こうれ、このとおりだ」
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「俺れにや打ち出されつとも、此んで俺ら力は強かつたかんな、仕事ぢや卯平も強かつたが、かうだ大え體格して相撲ぢや俺れにやかたでぺた/\だ。俺らやあつち内にや打ん投げつちやあだから、あゝ、俺ら腕ばかしぢやねえ、そらつ位だから齒も強えだよ、俺ら麥打ん時唐箕立てゝちや半夏桃貰つたの、ひよえつと口さ入えたつきり、核までがり/\噛つちやつたな、奇態だよそんだが桃噛つてつと鼻ん中さ埃へえんねえかんな、俺れが齒ぢや誰れでも魂消んだから眞鍮の煙管なんざ、銜えてぎり/\つとかう手ツ平でぶん廻すとぽろうつと噛み切れちやあのがんだから、そんだから今でも、かうれ、此の通りだ」
爺さんはぎりぎりと歯を噛み合わせて見せた。
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爺さんはぎり/\と齒を噛み合せて見せた。
「おれはそれから、喧嘩じゃ負けたことはないんだよ。野郎、何だというときには、張り倒すか、引っ転がすかだな。ごろりと転がった所を爪先と踵を持って、こうぐるぐる引き回すと、どうだ、大きな野郎でも起きられないんだよ。もうおかしくて仕方がないな。いいか、こう、こうやるんだよ。ああ、おれは本当に強いのだよ。それ、卯平らはだめだな。後ろのほうにばかり隠れててからっきり」
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「俺らそれから、喧嘩ぢや負けたこたねえだよ、野郎何だつち内にや打つ張るか、掻つ轉すかだな、ごろり轉がつた處爪先と踵持つてかうぐる/\引ん廻すとどうだ大え野郎でも起きらんねえだよ、から笑止しくつて仕やうねえな、えゝか、斯う、かうやんだよ、あゝ、俺ら本當に強えのがんだよ、それ卯平等駄目だな後の方にばかし隱れてゝからつき」
と、爺さんは少し座を下がって、両手で喧嘩の相手を苛めるような様子をして見せた。
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と爺さんは少し座を退つて兩手を以て喧嘩の相手を苛めるやうな容子をして見せた。
「そんだがおれは旦那に言われてから、家族の奴らのことも怒らないもう。おれはうまい所を見られちまったな。いや、言われちゃもったいのうございます。本当にもったいないんだよ、お婆さん」
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「そんだが俺れ旦那に云あれてから、家族の奴等ことも怒んねえはあ、俺れうめえ處見られつちやつたな、いや云あれちや勿體ながす、本當に勿體ねえだよ、お婆さん」
爺さんは首をうなだれて、めっきり静かになって言った。
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爺さんは首を俛て滅切靜かになつていつた。
そうして彼は茶碗の酒をだらだらとこぼしながら、一口に飲んだ。
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さうして彼は茶碗の酒をだら/\と零しながらに一口に嚥んだ。
この時、外から女房が一人忙しく来た。
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此の時外から女房が一人忙しく來た。
女房は仏壇の前へ行って
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女房は佛壇の前へ行つて
「駐在所が来たよ」
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「駐在所來たよ」
みんなの中へ首を突き入れるようにして、そっと語った。
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悉皆の中へ首を突き入れるやうにして竊と語つた。
みんなはしきりに勝ち負けにばかり心を奪われていた。
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悉皆は頻りに輸臝にのみ心を奪はれて居た。
彼らの顔はにこにことしたり、または しばらくどっぺをつかまない者は、難しくなった目をしかめたり、口をむぐむぐと動かしたりして、自分はいっこうにそれを知らないのであった。
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彼等の顏はにこ/\としたり又は暫くどつぺを掴まぬものは難かしくなつた目を蹙めたり口をむぐ/\と動かしたりして自分は一向それを知らないのであつた。
彼らの各自が持っているさまざまな隠れた性情が、薄暗い部屋の内にこっそりと思い切って表れていた。
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彼等の各自が持つて居る種々な隱れた性情が薄闇い室の内にこつそりと思ひ切つて表現されて居た。
女房の言葉は、みんなの顔をただ驚きの表情で覆わせた。
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女房の言辭は悉皆の顏を唯驚愕の表情を以て掩はしめた。
一度に女房を見た彼らには、その時までささやき合った面影がちっともなかった。
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一度に女房を見た彼等には其の時まで私語き合うた俤がちつともなかつた。
彼らは慌てて宝引き糸も懐へ隠して、知らない様子を装って囲炉裏のそばへ集まった。
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彼等は慌てゝ寶引絲も懷へ隱して知らぬ容子を粧うて圍爐裏の側へ集つた。
「こっちのほうはひどく威勢がいいから、おれらも仲間入りさせてもらいたいもんだ」
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「こつちの方酷く威勢えゝから俺らも仲間入させてもらえてもんだ」
宝引きの婆さんらは言った。
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寶引の婆さん等はいつた。
「この婆さんらは、寄れば触れば博打なんぞする気にばかりなって」
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「此の婆等寄れば觸れば博奕なんぞする氣にばかし成つて」
爺さんは依然として悪口を止めなかった。
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爺さんは依然として惡口を止めなかつた。
「こんな婆さんらだって、そんなに荷厄介にしないでくれよ。これでおれの家じゃまだおれがいなくちゃ闇だよお前、嫁があの仕掛けだもの」
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「かうだ婆等だつてさうだに荷厄介にしねえでくろよ、こんで俺ら家ぢやまあだ俺れなくつちや闇だよおめえ、嫁があの仕掛だもの」
婆さんはさらに
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婆さんは更に
「おれの仲間も寺銭で後を買うから、独りでむっつりしてないで一つやりなさいね」
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「俺らあ仲間も寺錢で後買あから、獨でむつゝりしてねえで一つやらつせえね」
と、卯平へ杯を勧めた。
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と卯平へ杯を侑めた。
一同の威勢が次第に卯平の心を引き立てて、とうとう彼の大きな手に茶碗を取らせた。
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一同の威勢が漸次に卯平の心を惹き立てゝ到頭彼の大きな手に茶碗を執らせた。
婆さんらの袂が触れて、軽くなっていた徳利が倒された。
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婆さん等の袂が觸れて輕く成つてた徳利が倒された。
婆さんらは慌てて手拭いで拭こうとした。
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婆さん等は慌てゝ手拭でふかうとした。
小柄な爺さんは突然畳へ口をつけて、すうすうと息もつかずに酒をすすって、それから強い咳をして、ざらざらになった口の埃を手拭いでこすった。
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小柄な爺さんは突然疊へ口をつけてすう/\と呼吸もつかずに酒を啜つてそれから強い咳をして、ざら/\に成つた口の埃を手拭でこすつた。
「婆さんらがもったいないことをするから仕方がない。いやもったいないとも、米の油だからこれで。それ、証拠には酒を飲んだ翌日じゃ、顔を洗う時つるつるするところが奇態だな。何でも人間は油が吹き出すようなら体は大丈夫だから。卯平、そうれ一杯飲め」
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「婆等勿體ねえことすつから仕やうねえ、いや勿體ねえとも米の油だからこんで、それ證據にや酒飮んだ明日ぢや面洗あ時つる/\すつ處奇態だな、何でも人間は油吹き出すやうだら身體は大丈夫だから、卯平そうれ一杯飮め」
爺さんは、また口を手拭いでこすりながら言った。
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爺さんは又口を手拭でこすりつゝいつた。
「畜生だからあんな野郎は。畜生と同じだから」
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「畜生だからあゝだ野郎は、畜生とおんなじだから」
爺さんは、小さな頭の湿りをまたすっと手拭いで拭いた。
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爺さんは小さな頭の濕ひを又すつと手拭でふいた。
「そんなにお前、畜生だなんて。手元も見もしないで」
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「其麽におめえ、畜生だなんて、手もとも見もしねえで」
と、さっきの身なりのいい婆さんがたしなめるように言った。
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と先刻の服裝の好い婆さんが窘めるやうにいつた。
「いやっ、お婆さん、手元を見ないったって、そうに決まってるんだから。いや本当だよ。おれは嘘を言うのは嫌いだから。そんだがあの阿魔もずうずうしい阿魔だ。この間なんざ、おっかさんのことは思い出さないかと言ったら、思い出さないなんて吐かしやがって」
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「いやツ、お婆さん、手もと見ねえつたつてさうに極つてんだから、いや本當だよ。俺ら嘘いふな嫌えだから、そんだがあの阿魔もづう/\しい阿魔だ、此間なんざおつかこた思ひ出さねえかつちつたら、思ひ出さねえなんて吐かしやがつて」
爺さんはまた調子に乗った。
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爺さんは又乘地に成つた。
「ありゃあそれ、おれには分かるんだよ。随分辛い目に遭ったから、お袋のことを思わないことはないが、みんなでからかいからかいしたから、それでそんなことを言うようになったんだな。さすがにあれだって困ってはいるんだから。何と言ったって、あれには罪はないよ」
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「ありやあそれ、俺れがにやえゝんだよ、隨分辛え目に逢つたから、お袋こと思あねえこたねえが、悉皆揶揄え/\したからそんでさうだこといふやうん成つたんだな、有繋あれだつて困つちや居んだから、何ちつたつてあれにや罪あねえよ」
最後の一句をすっと低く言って、彼はようやく茶碗の底を干した。
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最後の一句をすつと低くいつて彼は漸く茶碗の底を干した。
「勘次も辛かったろうが、おれもお品に死なれた時には泣いたよ。あれのことは三つの時から育てたんだから」
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「勘次も辛かつたんべが、俺らも品に死なつた時にや泣えたよ、あれこた三つの時ツから育ツたんだから」
卯平はまた情けなげな舌が、もうこわばってしまった。
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卯平は又情なげな舌がもう硬ばつて畢つた。
「ほんにお前も、お品さんに死なれたのが不運だったっけのさな。そんだがお前、長生きしただけいいんだよ」
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「ほんにおめえもお品さんに死ならつたのが不運だつけのさな、そんだがおめえ長命したゞけええんだよ」
婆さんらは口々に慰めながら言った。
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婆さん等は口々に慰めつゝいつた。
「手足も利かなくなっちまって、銭は取れずもう。野田でこしらえた単衣物もなくしちまったな。どうせこれ、来年の夏まで生きていられるかどうだか分かりやしまいし、構わないな」
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「手足も利かなくなつちやつて錢はとれずはあ、野田で拵えた單衣物もなくしつちやつたな、どうせ此れ、來年の夏まで生きてられつか何うだか分りやすめえし、管あねえな」
卯平は口の中で独り呟くように、ぶすりと言った。
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卯平は口獨りで呟やくやうにぶすりといつた。
彼はほとんど、その舌が味を感じないであろうと思うように、ただ茶碗の酒を傾けるのみであった。
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彼は殆んど其の舌が味を感ぜぬであらうと思ふやうに只茶碗の酒を傾けるのみであつた。
「そんだが娘も年ごろが来てるのに、やるとか取るとかしないじゃ可哀想だよなあ」
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「そんだが娘も年頃來てんのに遣るとかとるとかしねえぢや可哀相だよなあ」
婆さんらの口は、それからそれと尽きなかった。
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婆さん等の口はそれからそれと竭きなかつた。
酒に勢いをつけられた婆さんらは、何かの詮索をしなければ気が済まないのであった。
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酒に勢ひつけられた婆さん等は何かの穿鑿をせねば氣が濟まないのであつた。
「どうするこったか、自分の子供でもありやしまいし、おれには分からないな」
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「どうするこつたか自分の子供でもありやすめえし、俺らがにや分んねえな」
卯平は、どこまでも乾いた言い方である。
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卯平は何處までも乾たいひやうである。
「そんだがよ、話してやるといいんだな。出すと決まりゃ、いくらでも口はあらあな」
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「そんだがよ、噺してやつとえゝんだな、出すと極りや幾らでも口は有らな」
「無駄だよお前、誰が言うことだって聞く苦労はないんだから」
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「徒勞だよおめえ、誰がいふことだつて聽く苦勞はねえんだから」
婆さんらは互いに勝手なことを、がやがやと語り続けた。
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婆さん等は互に勝手なことをがや/\と語り續けた。
「そんじゃ隣の旦那にでもよく話してもらったら、聞くかも知れないぞ。それよりほかはないぞ、お前」
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「そんぢや隣の旦那にでもようく噺してもらつたら聽くかも知んねえぞ、それより外あねえぞおめえ」
婆さんの一人が卯平に向かって言った。
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婆さんの一人が卯平に向つていつた。
「そうすりゃもう、お互いにいい塩梅で疵もつかないんだから。おれもそうは思ってはいるんだが、これ、言うのもおかしなもんで」
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「さうすりやはあ、お互にえゝ鹽梅で疵もつかねえんだから、俺れもさうは思つちや居んだが、此れ、いふのもをかしなもんで」
卯平の頬にはやや紅が差して、彼は婆さんに言われたことが嬉しそうに見えるのであった。
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卯平の頬には稍紅を潮して彼は婆さんにいはれたことが嬉し相に見えるのであつた。
「なあに、そうもこうもあるもんか。いいから、そんな奴らは打っ飛ばしてやれ」
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「なあに、さうだもかうだも有るもんか、えゝから、さうだ奴等打つ飛ばしてやれ」
しばらく黙っていたさっきの爺さんは、小柄な体を固めてまた怒鳴った。
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暫く默つて居た先刻の爺さんは小柄な身體を堅めて又呶鳴つた。
「うん、なあに、おれもそれから去年の秋は火箸で打っ飛ばしてやったな」
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「うむ、なあに俺れもそれから去年の秋は火箸で打つ飛ばしてやつたな」
卯平はこう言って、彼にしては著しく元気を回復していた。
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卯平は斯ういつて彼にしては著るしく元氣を恢復して居た。
「そうだとも。銭でも何でもくれなけりゃ、よこせと言えばいいんだ。銭がないなんて言えば、米でも麦でも奪い取ってやれ」
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「さうだとも、錢でも何でも呉んなけりや、よこせつちばえゝんだ、錢ねえなんちへば米でも麥でも奪取つてやれ」
爺さんは周りへ唾を飛ばした。
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爺さんは周圍へ唾を飛ばした。
「それでもおれは、打っ飛ばしてから、質の流れだなんて味噌を一樽買ったな。麩味噌でうまくはないが、今じゃそんでも汁は吸えることは吸えるのよ」
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「それでも俺れ打つ飛ばしてから質の流れだなんち味噌一樽買つたな、麩味噌で佳味かねえが今ぢやそんでもお汁は吸へるこた吸へんのよ」
卯平は、自分の手柄でも語るような言い方であった。
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卯平は自分の手柄でも語るやうないひ方であつた。
「食い物を惜しがるなんて、業つくばりもないもんじゃないか。本当に罰当たりだから。おれだったら生かしちゃおかない。いや、まったくだよ。親に食わせるのが惜しいなんて野郎は、突き刺したって申し開きが立つとも。おれだったら立派に立てて見せらあな。卯平、しっかりしろ。おれだったら勘次らくらいのは、またうんという目に遭わせらあな。いや本当に、おれに掛かっちゃひどいからな、これで」
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「食料措しがるなんち業つくばりもねえもんぢやねえか、本當に罰つたかりだから、俺らだら生かしちや置かねえ、いや全くだよ、親のげ食あせんの惜いなんち野郎は突つ刺したつて申し開き立つとも、俺らだら立派に立てゝ見せらな、卯平確乎しろ、俺らだら勘次等位なゝ又うんち目に逢あせらな、いや本當に俺れに掛つちや酷えかんなこんで」
爺さんは激しく、そうして例の自慢を言い続けた。
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爺さんは激しくさうして例の自慢をいひ續けた。
「そんなことを言ったってお前、以前から他人のことを切ったこともない癖に」
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「さうだこと云つたつておめえ、以前から他人のこと切つたこともねえ癖に」
そばから身なりのいい婆さんがけなして言った。
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側から服裝の好い婆さんが貶していつた。
「そんだが、この年になって懲役に行くのはいやよ、おれも」
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「そんだが、此の年齡になつて懲役に行ぐな厭よ俺れも」
爺さんはずっと垂れた頭を手で抑えて笑いこけた。
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爺さんはずつと垂れた頭を手で抑へて笑ひこけた。
婆さんらもどっと笑った。
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婆さん等もどつと哄笑いた。
「勘次らは、その時からおれとは口も利かないや」
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「勘次等、そん時から俺れた口も利かねえや」
卯平は他人には頓着なしにこう言って、その舌を鳴らして唾を飲んだ。
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卯平は他人には頓着なしにかういつて其の舌を鳴らして唾を嚥んだ。
「口を利かない。そんなら口を両方へふん裂いてやれ。さあ利くか利かないかと、こうだ」
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「口利かねえ、そんだら口兩方へふん裂えてやれ、さあ利くか利かねえかと斯うだ」
小柄な爺さんは自分の口を両手の指でぐっと広げて言った。囲炉裏の辺りは、しばらく騒ぎが止まなかった。
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小柄な爺さんは自分の口を兩手の指でぐつと擴げていつた、圍爐裏の邊は暫く騷ぎが止まなかつた。
卯平の心も、たとえ一時的でも周囲の刺激からいくらかの力を添えられて、ある勢いを回復したのであった。
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卯平の心も假令一時的でも周圍の刺戟から幾分の力を添られて或勢ひを恢復したのであつた。
「しっかりしろえ、いいから」
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「確乎しろえ、えゝから」
小柄な爺さんは、別れる時また怒鳴った。
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小柄な爺さんは別れる時復呶鳴つた。
卯平の足元は、やや力づいて見えていた。
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卯平の足もとは稍力づいて見えて居た。
卯平は念仏寮から帰って来た時、どかりと火鉢の前に座った。
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卯平は念佛寮から歸つて來た時どかりと火鉢の前に坐つた。
彼は勢いづけられていた。
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彼は勢ひづけられて居た。
勘次は例のごとく遠ざかった。
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勘次は例の如く遠ざかつた。
「おつう、米と挽き割り麦を出せ」
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「おつう、米と挽割麥出せ」
卯平は座に就くと、突然こう言った。
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卯平は座に就くと突然かういつた。
「たくさん出せ」
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「夥多出せ」
間を置いてまた言った。
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間を措いて又いつた。
「何するんだい、爺さんは」
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「何すんでえ、爺は」
おつぎはそれを軽く受けて、こう言った。
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おつぎはそれを輕く受て斯ういつた。
卯平は目をしかめた。
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卯平は目を蹙めた。
彼は闇夜にずんずんと運んだ足が、急に窪みを踏んでがくりと調子が狂ったような様子であった。
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彼は闇夜にずんずんと運んだ足が急に窪みを踏んでがくりと調子が狂つたやうな容子であつた。
「明日、要るなら出してやろうな。爺さんらはどうせ夜なんぞ要りやしまいしなあ」
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「明日、要れば出してやんびやな、爺等どうせ夜なんぞ要りやすめえしなあ」
おつぎはまた、なだめるように言った。
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おつぎは又賺すやうにいつた。
卯平はもう、繰り返して言わなかった。
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卯平はもう反覆していはなかつた。
彼はただその癖の舌を鳴らして、ごくりと唾を飲むのみであった。
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彼は只其癖の舌を鳴らしてごくりと唾を嚥むのみであつた。
次の朝になって酒気がことごとく彼の体から発散し尽くしたら、彼はふだんの卯平であった。
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次の朝に成つて酒氣が悉く彼の身體から發散し盡したら彼は平生の卯平であつた。
二四
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二四
卯平はけっして悪人ではなかった。
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卯平は決して惡人ではなかつた。
彼は生まれつき厳めしく大きな体であったけれど、そのしかめたような目には不断にどこか柔らかな光を持っているようで、思い切ってしなければならない事件に出遭っても、二度や三度はためらうのが、どうかと言えば彼の癖の一つであった。
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彼は性來嚴疊で大きな身體であつたけれど、其の蹙めたやうな目には不斷に何處か軟かな光を有つて居るやうで、思ひ切つてせねば成らぬ事件に出逢うても二度や三度は逡巡するのがどうかといへば彼の癖の一つであつた。
ぶすりとしてそっけない様子でも、表面に現れたよりも暖かで、女に脆いところさえあるのであった。
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ぶすりと膠ない容子でも表面に現れたよりも暖かで、女に脆い處さへあるのであつた。
彼が働き盛りのころに他人の目についたのは、自分自身の仕事にはあまり精を出さないように見えることであった。
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彼が盛年の頃に他人の目についたのは、自分自身の仕事には餘り精を出さないやうに見えることであつた。
たいがいのことではいっこうに騒がないような彼の様子が、外からではそうらしくも見えるのであった。
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大概のことでは一向に騷がぬやうな彼の容子が外からではさうらしくも見えるのであつた。
もう一つは、身なりをけっして崩さないことであった。
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も一つは服裝を決して崩さぬことであつた。
彼は他人に雇われていながら、草刈りにでも出る時は、手拭いと紺の単衣と三尺帯とを風呂敷に包んで馬の荷鞍にくくった。
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彼は他人に傭はれて居ながら、草刈にでも出る時は手拭と紺の單衣と三尺帶とを風呂敷に包んで馬の荷鞍に括つた。
そのころは、草といってはすっかり薙ぎ倒して、そだでも縛るように中央を束ねて馬に積むのであった。
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其頃は草というては悉皆薙倒して麁朶でも縛るやうに中央を束ねて馬に積むのであつた。
雑木林の間に馬を繋いだままで、彼は着物を改めて当てもなくぶらつくのが好きであった。
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雜木林の間に馬を繋いだ儘で彼は衣物を改めてあてどもなくぶらつくのが好きであつた。
それでも彼の強健な鍛えられた腕は、定められた一人分の仕事を果たすのは、日がやや傾いてからでも、あながち難しいことではないのであった。
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それでも彼の強健な鍛練された腕は定められた一人分の仕事を果すのは日が稍傾いてからでも強ち難事ではないのであつた。
この二つのほかには、別段これといって数えるほど他人の記憶にも残っていなかった。
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此の二つの外には別段此れというて數へる程他人の記憶にも残つて居なかつた。
それでも彼の大きな体と生まれつきの器用とは、主人をして比較的余計な給料を惜しませなかった。
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それでも彼の大きな躰躯と性來の器用とは主人をして比較的餘計な給料を惜ませなかつた。
彼はその奉公して得た給料を自分の身に費やして、そのころでは他所目には疑われる年ごろの、三十近くまで独身の生活を続けた。
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彼は其の奉公して獲た給料を自分の身に費して其の頃では餘所目には疑はれる年頃の卅近くまで獨身の生活を繼續した。
その間に彼は梅毒を病んだ。
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其間に彼は黴毒を病んだ。
一時はぶらぶらと怠そうな青い顔もしていたが、病気はしばらくして忘れたように、その強健な体のどこかに潜んでしまった。
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一時はぶら/\と懶相な蒼い顏もして居たが、病氣は暫くして忘れたやうに其の強健な身體の何處にか潜伏して畢つた。
彼はもちろんそれを、治ったことと思っていた。
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彼は勿論それを癒つたことゝ思つて居た。
そのうちに彼は嫁を取って、小さな所帯を持って稼ぐことになった。
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其の内に彼は娶をとつて小さな世帶を持つて稼ぐことになつた。
嫁は間もなく身ごもったが、胎児は死んで、そうして腐って出た。
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娶は間もなく懷姙したが胎兒は死んでさうして腐敗して出た。
自分も他人も瘡っ子だと言った。
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自分も他人も瘡ツ子だといつた。
二、三人生まれたが、どれも育たなかった。
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二三人生れたがどれも發育しなかつた。
それでも幼児の死ぬのは瘡っ子だからというだけで、病毒の惨害を知るはずもなく、したがって恐れるはずもなかった。
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それでも幼兒の死ぬのは瘡ツ子だからといふのみで病毒の慘害を知る筈もなく隨つて怖れる筈もなかつた。
お品の母は非常に貧乏な寡婦で、足が立つか立たないかのお品を懐にして、悲惨な生活をしていた。
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お品の母は非常な貧乏な寡婦で、足が立つか立たぬのお品を懷にして悲慘な生活をして居た。
それを卯平は心から哀れみの情で見ていた。
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それを卯平は心から哀憐の情を以て見て居た。
お品の母は百姓としては格別の働きを持たなかったから、寡婦として独立して行くには非常な困難でなければならないだけ、体のどこかに柔らかな様子があって、清潔好きな卯平の心を引いた。
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お品の母は百姓としては格別の働きを有たなかつたから、寡婦として獨立して行くには非常な困難でなければ成らぬだけ身體の何處にか軟かな容子があつて、清潔好な卯平の心を惹いた。
どこか人懐こいところがあって、ひたすらに他人の同情に渇していたお品の母の、何物かを求めるような態度が、ようやく二人を近づけた。
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何處か人懷こい處があつて只管に他人の同情に渇して居たお品の母の何物をか求めるやうな態度が漸く二人を近づけた。
そのころ彼の女房は、長い間病気に悩まされていた。
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其の頃彼の女房は長い間病氣に惱まされて居た。
病気はついに回復しなかった。
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病氣は遂に恢復しなかつた。
女房はある年また身ごもって、臨月が近くなったら、どうしたものか数日のうちに腹が膨れて、一夜のうちにもそれがずんずんと目に見える。
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女房は或年復た姙娠して臨月が近くなつたら、どうしたものか數日の中に腹部が膨脹して一夜の内にもそれがずん/\と目に見える。
女房は横になることもその苦痛に堪えられないで、積んだ蒲団に寄りかかって、わずかに切ない息をついていた。
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女房は横臥することも其の苦痛に堪へないで、積んだ蒲團に倚り掛つて僅に切ない呼吸をついて居た。
胎児を浮かべた水が余計に溜まったのである。
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胎兒を泛かしめた水が餘計に溜つたのである。
そのころは医者の手でさえ、それをどうすることもできなかった。
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其の頃は醫者の手でさへそれをどうすることも出來なかつた。
その上、彼は医者を呼ぶことが億劫で、大事な命ということを考えることさえ、心に暇を持たなかった。
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加之彼は醫者を聘ぶことが億劫で、大事な生命といふことを考へることさへ心に暇を持たなかつた。
幸いにも、卵膜を膨らませた液体が自分から逃げ去る道を求めて、その包囲を破った。
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僥倖にも卵膜を膨脹させた液體が自分から逃げ去る途を求めて其の包圍を破つた。
数升の液体がほとばしって、驚いて横たえた身を蒲団の上に浮かそうとした。
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數升の液體が迸つて、驚いて横へた身を蒲團の上に浮かさうとした。
それとともに、安住の場所を失った胎児は自然に母体を離れて出なければならなかった。
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それと共に安住の場所を失うた胎兒は自然に母體を離れて出ねばならなかつた。
胎児はもちろん死んで、そうして手を出した。
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胎兒は勿論死んでさうして手を出した。
その時、女房は非常に疲れきっていたが、我慢をするからと言ったばかりに、卯平はぐっと力を入れて引き出した。
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其の時女房は非常に疲憊して居たが、我慢をするからといつたばかりに卯平はぐつと力を入れて引き出した。
彼の悪意を持たない手がこのように残酷に働かされたのは、夫婦の間ではわずかでも他人の手を借りることに、金銭上の恐怖を抱かせられたからであった。
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彼の惡意を有たぬ手が斯の如く残酷に働かされたのは、夫婦の間には僅でも他人の手を藉ることに金錢上の恐怖を懷かしめられたからであつた。
女房はそれでも死ななかった。
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女房はそれでも死なゝかつた。
しかし、ほとんど想像もされなかった痛みが満身に染み渡った。
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然し殆んど想像されなかつた疼痛が滿身に沁み渡つた。
やがて非常な発熱が伴った。
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軈て非常な發熱が伴つた。
それからというものは、三年も臥せったままで、季節が暖かになればまれには蒲団からずり出して、わずかに杖にすがっては、柔らかな春の日をさえ刺激に堪えないようにまぶしがっていた。
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それからといふものは三年も臥つた儘で季節が暖かに成れば稀には蒲團からずり出して僅に杖に縋つては軟かな春の日をさへ刺戟に堪へぬやうに眩しがつて居た。
お品の母との関係が、余計な告げ口から女房の耳に入った。
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お品の母との關係が餘計な告口から女房の耳に入つた。
そのころ暑さに向かっていたせいでもあったが、女房はそれを苦にし始めてから、がっかりとやつれたように見えた。
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其の頃暑さに向いて居た所爲でもあつたが女房はそれを苦にし始めてからがつかりと窶れたやうに見えた。
女房が死んだ時は、卯平は枕元にいなかった。
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女房が死んだ時は卯平は枕元に居なかつた。
村には赤痢が発生した。
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村落には赤痢が發生した。
予防の注意も何もない彼らは、互いに葬儀に呼び合って少しの心配もなしに飲み食いをしたので、病気は非常な勢いで広まったのであった。
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豫防の注意も何もない彼等は互に葬儀に喚び合うて少しの懸念もなしに飮食をしたので病氣は非常な勢ひで蔓延したのであつた。
卯平も患者の一人で、そうしてお品の家で悩んでいた。
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卯平も患者の一人でさうしてお品の家に惱んで居た。
お品の母の親切な看病から、彼は救われた。
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お品の母の懇切な介抱から彼は救はれた。
彼はどうしても、瀕死の女房のそばに病んだ体を運ぶことができなかった。
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彼はどうしても瀕死の女房の傍に病躯を運ぶことが出來なかつた。
そのやつれた目が憂えるのを、彼は見るに忍びなかったからである。
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其の窶れた目の憂へるのを彼は見るに忍びなかつたからである。
彼のそういう心持ちは、長い月日の病苦にさいなまれてひがんだ女房の心に通じる理由がなかった。
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彼のさういふ意志は長い月日の病苦に嘖まれて僻んだ女房の心に通ずる理由がなかつた。
そうして女房は、激烈な神経痛を訴えながら死んだ。
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さうして女房は激烈な神經痛を訴へつゝ死んだ。
卯平はさすがに泣いた。
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卯平は有繋に泣いた。
葬式は親戚と近所とで営んだが、卯平もやっと杖にすがって行った。
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葬式は姻戚と近所とで營んだが、卯平も漸と杖に縋つて行つた。
その秋の盆には、赤痢の騒ぎも沈んで、新しい仏の数が増えていた。
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其の秋の盆には赤痢の騷ぎも沈んで新しい佛の數が殖えて居た。
墓地には、掘り上げた赤い土の小さな塚が、幾つも粗末な棺台を載せていた。
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墓地には掘り上げた赤い土の小さな塚が幾つも疎末な棺臺を載せて居た。
たいがいは赤痢にかかってようやく体に力がついたばかりの人々が、例年のごとく草刈り鎌を持って、六日の日の夕刻に墓薙ぎと言って出た。
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大抵は赤痢に罹つて漸く身體に力がついたばかりの人々が例年の如く草刈鎌を持つて六日の日の夕刻に墓薙というて出た。
墓の辺りは、生えるに任せた草が刈り払われて、見るからに清潔になった。
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墓の邊は生るに任せた草が刈拂はれて見るから清潔に成つた。
中央に青竹の線香立てが杭のように立てられて、石碑の前には一つずつ、青竹の簀の子のような小さな棚が作られた。
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中央に青竹の線香立が杙のやうに立てられて、石碑の前には一つづゝ青竹の簀の子のやうな小さな棚が作られた。
卯平も墓薙ぎの群れに加わった。
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卯平も墓薙の群に加はつた。
彼のまだ力ない手に持った鎌の刃先が、女房の棺台の下を覗いてからりと渡った時、彼はぞっとして手を引いた。
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彼のまだ力ない手に持つた鎌の刄先が女房の棺臺の下を覗いてからりと渡つた時彼は悚然として手を引いた。
蛇が体の後ろ半分を彼の足元に現して、白い腹を見せた。
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蛇が身體の後半を彼の足もとに現して白い腹を見せた。
鎌の刃先が蛇を切ったのである。
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鎌の刄先が蛇を切つたのである。
蛇はしばらくじっとしていて、きわめておもむろに棺台の下に隠れた。
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蛇は暫く凝然として居て極めて徐ろに棺臺の下に隱れた。
卯平の顔は、黄昏の光に青かった。
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卯平の顏は黄昏の光に蒼かつた。
彼はそれから、外出することもまれになった。
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彼はそれから他出することも稀になつた。
回復しかけた病後の疲れが、夜は粘るような汗を出させた。
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恢復しかけた病後の疲勞が夜は粘るやうな汗を分泌させた。
それから八日目に、村の者が仏を迎えに提灯を持って行った時は、刈り払われた草が、暑いといっても秋らしくなった日に、その生殖作用を急ごうとして、そそり立つように首をもたげていた。
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それから八日目に村落の者が佛を迎へに提灯持つて行つた時は刈り拂はれた草が暑いといつても秋らしくなつた日に其の生殖作用を急がうとして聳然と首を擡げて居た。
村の人々は好奇心に駆られて、おずおずと棺台をそっと上げてみた。
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村落の人々は好奇心に驅られて怖づ/\も棺臺をそつと揚げて見た。
蛇は依然として、だらりと横たわったままであった。
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蛇は依然としてだらりと横たはつた儘であつた。
人々は見開いた目を見合わせた。
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人々は睜つた目を見合せた。
村の者が去った後には、小さな青竹の線香立てから、そこらの石碑の前から、じりじりと身を焼いて行く火に苦しんで悶えるように、煙はうねりながら立ち昇って、寂しい黄昏の光の中をさまよった。
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村落の者が去つた後には小さな青竹の線香立からそこらの石碑の前からぢり/\と身を燒いて行く火に苦んで悶えるやうに煙はうねりながら立ち騰つて寂寥たる黄昏の光の中に彷徨うた。
それからまた四日目に、仏を送って村の者は黄昏の墓地に落ち合った。
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それから又四日目に佛を送つて村落の者は黄昏の墓地に落ち合うた。
蛇はなおかつ、棺台の陰を去らなかった。
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蛇は猶且棺臺の陰を去らなかつた。
蛇は自由に這うには、あまりに傷が大きかった。
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蛇は自由に匍匐ふには餘りに瘡痍が大きかつた。
反り返った唇のように膨れた肉は、埃にまみれて黒く変じていた。
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反り返つた唇のやうに膨れた肉は埃に塗れて黒く變じて居た。
棺台を透かして人がこれを覗けば、恐怖を抱いて少しずつのたくるのであった。
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棺臺を透かして人が之を覗へば恐怖を懷いて少しづゝのたくるのであつた。
女房が出たのだと言って、村の者は減らず口を叩いた。
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女房が出たのだといつて村落の者は減らず口を叩いた。
しばらくして、お品の母の耳へも蛇の噂が伝わった。
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暫くしてお品の母の耳へも蛇の噂が傳はつた。
それからというもの、お品の母は一夜でも卯平を自分の家から放さない。
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それからといふものお品の母は一夜でも卯平を自分の家から放さない。
三つになっていたお品が卯平を慕って、しっかりとその家に引き留めたのは、それから間もないことである。
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三つに成つて居たお品が卯平を慕うて確乎と其の家に引き留めたのはそれから間もないことである。
蛇の話は、いつの間にか消えてなくなった。
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蛇の噺は何時の間にか消滅した。
それは、みんなが互いに心に記憶を繰り返して快しとするほど、彼らを憎んではいなかったからである。
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それは悉皆が互に心に記憶を反覆して快よしとする程彼等を憎んでは居なかつたからである。
その後、長い歳月を経てお品の母が死んだ時、以前の話を見たり聞いたりしていた者の間でのみ、わずかに記憶が呼び返された。
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其後長い歳月を經てお品の母が死んだ時以前の噺を見たり聞いたりして居た者の間にのみ僅に記憶が喚び返された。
お品の母は、腰に病気を持っていた。
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お品の母は腰に病氣を持つて居た。
卯平は、自分の手から作った罪というものは、ほとんど見られなかった。
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卯平は自分の手から作つた罪といふものは殆んど見られなかつた。
ただ彼は、働き盛りのころは他の雇い人らとともに、よく猫を殺して食べていた。
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唯彼は盛年の頃は他の傭人等と共に能く猫を殺して喫べてた。
もっともそのころは、猫でも犬でも飼い主を離れて鶏を狙うのがさまよっていた。
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尤も其頃は猫でも犬でも飼主を離れて雞を狙ふのが彷徨いた。
彼らは罠を掛けてそれを待った。
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彼等は罠を掛けてそれを待つた。
しかし、たいがいの家々では鶏でさえ家の内では煮るのを許さないので、後ろの庭へ竹で三本の脚を作って、それへ鍋の蔓を掛けたほどであったから、猫を殺すことが恐ろしい罪悪のように見られたのであった。
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然し大抵の家々では雞でさへ家の内では煮るのを許容さないので、後の庭へ竹で三本の脚を作つてそれへ鍋蔓を掛けた程であつたから、猫を殺すことが恐ろしい罪惡のやうに見られたのであつた。
猫は辛い塩鮭を与えれば腰が利かない病気にかかると一般に言われているので、卯平が腰を悩んでいるのを、まれには猫の祟りだと冗談に言う者もあった。
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猫は辛い鹽鮭を與へれば腰が利かない病氣に罹ると一般にいはれて居るので卯平が腰を惱んで居るのを稀には猫の祟だと戯談にいふものもあつた。
それでも、そういう噂は広がらなかった。
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それでもさういふ噂は擴がらなかつた。
彼は憎悪と嫉妬とを、村の誰からも買わなかった。
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彼は憎惡と嫉妬とを村落の誰からも買はなかつた。
憎悪も嫉妬もない、そこにわざと悪評を生み出すほど、百姓は邪心を持っていなかった。
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憎惡も嫉妬もない其處に故意と惡評を生み出す程百姓は邪心を有つて居なかつた。
村の西の端に離れて住んでいる彼には、興味を持って見させる一つの条件も備わっていなかった。
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村落の西端に僻在して居る彼には興味を以て見させる一つの條件も具へて居なかつた。
ただむっつりとして、他人に訴えることも求めることもない彼は、一切村との交渉がなかった。
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只むつゝりとして他人に訴へることも求めることもない彼は一切村落との交渉がなかつた。
彼一身のあるなしは、少しも村のためには重みを持たなかった。
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彼の一身の有無は少しも村落の爲には輕重する處がなかつた。
二五
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二五
初冬のこずえに慌ただしく渡って、それからしばらく騒いだまま、その後はぱたりと忘れていて、まれに思い出したように枯木の枝を泣かせた西風が、雑木林のこずえに白く連なっている西の遠い山々の彼方に横たわっていたのが、にわかに自分の威力をたくましくすべき冬の季節が自分を捨てて去ったのに気がついて、吹くだけ吹かなければ止められないその特性を発揮して、毎日その特有な力が軽い土を空に巻いた。
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初冬の梢に慌しく渡つてそれから暫く騷いだ儘其の後は礑と忘れて居て稀に思ひ出したやうに枯木の枝を泣かせた西風が、雜木林の梢に白く連つて居る西の遠い山々の彼方に横臥て居たのが俄に自分の威力を逞しくすべき冬の季節が自分を棄てゝ去つたのに氣がついて、吹くだけ吹かねば止められない其の特性を發揮して毎日其の特有な力が輕鬆な土を空に捲いた。
その日も、夜明けから空があまりにからりとして、鈍い柔らかな光を持たなかった。
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其の日も拂曉から空が餘りにからりとして鈍い軟かな光を有たなかつた。
毎日吹きまくる疾風が、その遠い西山の氷雪を含んで、細かに地上を覆って撒き散らしたかと思うように、霜が白く凝っていた。
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毎日吹き捲くる疾風が其の遠い西山の氷雪を含んで微細に地上を掩うて撒布したかと思ふやうに霜が白く凝つて居た。
勘次はふだんのごとく、おつぎを連れて開墾地へ出た。
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勘次は平生の如くおつぎを連れて開墾地へ出た。
おつぎは半纏を後ろへふわりと掛けたまま手も通さないで、肩へは襷を斜めに掛けて、万能を担いでいた。
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おつぎは半纏を後へふはりと掛けた儘手も通さないで、肩へは襷を斜に掛けて萬能を擔いで居た。
白い手拭いと、それから手拭いの外に少し覗いた後れ毛が、歩くたびにふらふらと動くのも、しみじみと冷たそうであった。
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白い手拭とそれから手拭の外に少し覗いた後れ毛の歩く度にふら/\と動くのもしみ/″\と冷た相であつた。
草木および地上の霜にまばたきしながら、横に、そうして斜めに射しかける日に、遠い西の山々の雪がひとしきり光った。
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草木及び地上の霜に瞬きしながら横にさうして斜に射し掛ける日に遠い西の山々の雪が一頻光つた。
すべてを通じて褐色の光で包まれた。
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凡てを通じて褐色の光で包まれた。
その遠く連なった山々の頂には、ぽつりぽつりと大小の群れ雲が凝ったままに掻き乱されて、しばらく動かなかった。
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其の遠く連つた山々の頂巓にはぽつり/\と大小の簇雲が凝つた儘に掻き亂されて暫く動かなかつた。
ついにはそれが一つになって山々の所在を暗まして、その末端が油煙のごとく空に向かって消えつつあるように見え始めた。
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遂にはそれが一つに成つて山々の所在を暗まして、其の末端が油煙の如く空に向つて消散しつゝあるやうに見え始めた。
そこには毎日必ずやかましい足音が人の鼓膜を騒がせつつある、その巨人の群れが、その目からは悲惨な地上のすべてを苛めて爪先に蹴飛ばそうとして、山々の彼方から出発したのだ。
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其處には毎日必ず喧嚚な跫音が人の鼓膜を騷がしつゝある其の巨人の群集が、其の目からは悲慘な地上の凡てを苛めて爪先に蹴飛ばさうとして、山々の彼方から出立したのだ。
その驚くべき素早い脚が空間を一直線に、そうしてわずかな障害物であるはずのこずえのすべてを押しつけ押しつけ、林を越えて疾駆して来るのは、今もうすぐである。
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其の驚くべき迅速な脚が空間を一直線に、さうして僅な障害物であるべき梢の凡てを壓しつけ壓しつけ林を越えて疾驅して來るのは今もう直である。
竹を伐って束ねたように寸分の隙もなく群がっている、その爪先に蹴られては、怖えに怖えた草木は皆声を放って泣くのである。
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竹を伐つて束ねたやうに寸隙もなく簇がつて居る其の爪先に蹴られては怖えに怖えた草木は皆聲を放つて泣くのである。
そうして、もう泣かねばならない時間が迫っている。
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さうしてもう泣かねば成らぬ時間が迫つて居る。
勘次が霜の白い自分の庭を往来へ出ると、不格好な櫟の林が、彼の行くべき方に従って道に沿って連なっている。
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勘次は霜白い自分の庭を往來へ出ると無器用な櫟の林が彼の行くべき方に從つて道に沿うて連つて居る。
彼の破れて、毎日打ちつける疾風のために傾けられた笹の垣根には、狭い往来を越えて櫟の落ち葉が、熊手で掻いたように集まって、かつ連なっている。
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彼の破れて、毎日打ちつける疾風の爲めに傾むけられた笹の垣根には、狹い往來を越えて櫟の落葉が熊手で掻いたやうに聚つて且つ連つて居る。
およそ櫟の木ほど頑健な木は、他にあるまい。
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凡そ櫟の木程頑健な木は他に有るまい。
乾いた冬枯れの草や落ち葉に煙草の吸い殻が誤って火を点じて、それが盛んに林を焼き払っても、渋の強い、表面が山葵おろしのような櫟の皮は、黒い火傷を幹いっぱいに止めても、他の針葉樹に見るようではなく、春の雨が幾度も柔らかに湿せば、ついにはこそばゆい皮のどこからか白っぽい芽を吹いて、粗く硬い厚い皮の囲みから逃れて爽やかな呼吸をし始めたことを喜ぶように、ずんずんと伸びて、ついには伐っても伐っても、なおかつずんずんと骨立って幹がさらに形づくられるほど、旺盛な活力を回復するのである。
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乾燥した冬枯の草や落葉に煙草の吸殼が誤つて火を點じて、それが熾に林を燒き拂うても澁の強い、表面が山葵おろしのやうな櫟の皮は、黒い火傷を幹一杯に止めても、他の針葉樹に見るやうではなく、春の雨が數次軟かに濕せば遂にはこそつぱい皮の何處からか白つぽい芽を吹いて、粗剛な厚い皮の圍みから遁れて爽快な呼吸を仕始めたことを悦ぶやうにずん/\と伸長して、遂には伐つても/\、猶且ずん/\と骨立つて幹が更に形づくられる程旺盛な活力を恢復するのである。
彼らはそういう特性を持っていながら、理解し難いほど臆病である。
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彼等はさういふ特性を有つて居ながら了解し難い程臆病である。
黄色な光が快く鮮やかに満ちている晩秋の、水のような淡い霜がひそかに降りる以前から、その葉はことごとくくるくるとその周囲が捲れ始めて、他の雑木はその葉をからりと落として、そのこずえよりもはるかに低く垂れている西の空の明るい入り日を透して見せるように疎らになるのに、しっかりとしがみついて離れない。
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黄色な光が快よく鮮かに滿ちて居る晩秋の水のやうな淡い霜が竊におりる以前から其の葉は悉くくる/\と其の周圍が捲れ始めて、他の雜木は其の葉をからりと落して其の梢よりも遙に低く垂れて居る西の空の明るい入日を透して見せるやうに疎に成るのに、確乎としがみついて離れない。
彼らはようやく樹の姿を形づくるとともに、鋸の歯が残酷に渡って、少しでも余裕を与えられないのである。
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彼等は漸く樹相を形づくると共に鋸の齒が残酷に渡つて少しでも餘裕を與へられないのである。
それで彼らの間には、自然にただ恐怖する性質のみが育ったのであるかも知れない。
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それで彼等の間には自然に只恐怖する性質のみが助長されたのであるかも知れない。
だから、すでに薪に伐るべき時期を過ぎて、大木の姿を備えて、どんぐりがその浅い皿に載せられるようになれば、枯れ葉は潔く散り敷いて、からりと爽やかに樹の姿を見せるのである。
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それだから既に薪に伐るべき時期を過して、大木の相を具へて團栗が其の淺い皿に載せられるやうに成れば、枯葉は潔く散り敷いてからりと爽かに樹相を見せるのである。
ちょうどそれは、子孫の繁殖と自己の防御との必要をまったく忘れさせられた梨の接ぎ木が、大きな刺を幹にも枝にも持たなくなったように、恐怖が彼らを去ったのである。
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丁度それは子孫の繁殖と自己の防禦との必要を全く忘れさせられた梨の接木が、大きな刺を幹にも枝にも持たなく成つたやうに、恐怖が彼等を去つたのである。
しかしながら、林の櫟はいくら遠く根を伸ばして素早い生長を遂げようとしても、冷ややかな秋が冬を地上に導くのである。
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然しながら林の櫟は幾ら遠く根を伸して迅速な生長を遂げようとしても、冷かな秋が冬を地上に導くのである。
彼らはその冬の季節において生命を保って行くのには、すべての働きを止めて引き締めなければならない。
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彼等は其の冬の季節に於て生命を保つて行くのには凡ての機能を停止して引き緊らねば成らぬ。
そうでなければ、彼らは氷雪のために枯れ死なねばならない。
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それでなければ彼等は氷雪の爲に枯死せねばならぬ。
その季節に、彼らの最後の運命である薪や炭に伐られるように、一番適した組織に変化することを余儀なくされるのである。
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其季節に彼等の最後の運命である薪や炭に伐られるやうに一番適當した組織に變化することを餘儀なくされるのである。
彼らはそれから、その貴重な呼吸器であった枯れ葉を、一枚でも枝から放すまいとし、また離れまいとしている。
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彼等はそれから其の貴重な呼吸器であつた枯葉を一枚でも枝から放すまいとし又離れまいとして居る。
育つ働きが止められるとともに、粘り着く力を失うはずの葉柄が、しっかりと保たれてある。
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生育の機能が停止されると共に粘着力を失ふべき筈の葉柄が確乎と保たれてある。
そこで乾いた枯れ葉は、少しのことにさえ寄り合ってさやさやと、互いに恐怖をささやくのである。
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そこで乾燥した枯葉は少しのことにさへ相倚つてさや/\と互に恐怖を耳語くのである。
しかし、樹木が吸収して得た物質の一部を地および空気に還そうとして、すべての葉をこずえから奪って、いたる所を広々と、かつ簡単にすることを好む冬の目には、櫟の枯れ葉は入り組み、濁って見えねばならない。
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然し樹木が吸收して獲た物質の一部を地及び空氣に還元せしめようとして凡ての葉を梢から奪つて、到る處空濶で且簡單にすることを好む冬の目には、櫟の枯葉は錯雜し、溷濁して見えねばならぬ。
それで、巨人を載せた西風がその爪先にそれを蹴飛ばそうとしても、恐ろしく執念深い枯れ葉は泣いて、そうしてその力を保とうとする。
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それで巨人を載せた西風が其爪先にそれを蹴飛ばさうとしても、恐ろしく執念深い枯葉は泣いてさうして其の力を保たうとする。
たまたま力が足りないで吹き散らされたのは、そういう時に非常に便利なように捲いてあるので、どんな陰でもその身を託する場所を求めてころころと転がって行っては、自分の仲間が一つに寄り合い抱き合って、微風にさえ絶えず響きを立てて震えつつあるのである。
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偶力が足りないで吹き散らされたのは、さういふ時に非常に便利なやうに捲いてあるので、どんな陰でも其の身を託する場所を求めてころ/\と轉がつて行つては、自分の伴侶が一つに相倚り相抱いて微風にさへ絶えず響を立てゝ戰慄しつゝあるのである。
勘次はこういう櫟の木を植えて林を造るべき土地の開墾をするために、もう幾年という間雇われて、その力を尽くした。
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勘次は斯ういふ櫟の木を植ゑて林を造るべき土地の開墾をする爲にもう幾年といふ間雇はれて其の力を竭した。
彼はようやく林の姿を形づくって来た櫟林に沿って、田圃を越えて走った。
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彼は漸く林相を形づくつて來た櫟林に沿うて田圃を越えて走つた。
田圃の鴫が何に驚いたかきいと鳴いて、刈り株をかすめるようにして慌てて飛んで行った。
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田圃の鴫が何に驚いたかきゝと鳴いて、刈株を掠めるやうにして慌てゝ飛で行た。
そうして後は、白く閉ざした氷が時々ぴりぴりと鳴ってしゃりしゃりと壊れるのみで、ただ静かであった。
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さうして後は白く閉した氷が時々ぴり/\と鳴てしやり/\と壞れるのみで只靜かであつた。
田圃を透して林の間から見えるその遠い山々の雲は、やや薄くなって空を濁していた。
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田圃を透して林の間から見える其遠い山々の雲は稍薄くなつて空を濁して居た。
やがて雑木林の枝先が少し動いたと思ったら、ごうっという響きが勘次の耳に鳴った。
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軈て雜木林の枝頭が少し動いたと思つたらごうつといふ響が勘次の耳に鳴つた。
巨人の脚が迫ったのである。
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巨人の脚が逼つたのである。
彼はむっと、思わず息が詰まった。
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彼はむつと思はず呼吸が切迫した。
毎日吹き渡る西風は、乾きつつあるすべての物をさらに乾かさなければ止まない。
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毎日吹き渡る西風は乾燥しつゝある凡ての物を更に乾燥させねば止まない。
雨がまれにしんみりと降っても、西風は朝から一日、青い常緑樹の葉をも泥の中へねじ切って撒き散らすほど吹き募れば、それだけで土はもうほとんど乾かされるのである。
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雨が稀にしんみりと降つても西風は朝から一日青い常緑木の葉をも泥の中へ拗切つて撒布らす程吹き募れば、それだけで土はもう殆んど乾かされるのである。
土が保つべき水分がそれほど蒸発し尽くしても、その吹き渡る間は、西風はけっして空に一滴の雨さえ催させない。
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土が保有すべき水分がそれ程蒸發し盡しても其の吹き渡る間は西風は決して空に一滴の雨さへ催させぬ。
それでもさすがに深く水を蓄えている土は、垢のごとき表皮のみを掻き払って行く疾風のためには容易にその力を失わないで、夜が更ければいくらでも空気中に保たれた水分を細かに結晶させて、いっぱいに白く引きつける。
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それでも有繋に深く水を藏して居る土は垢の如き表皮のみを掻き拂つて行く疾風の爲には容易に其の力を失はないで、夜が更ければ幾らでも空氣中に保たれた水分を微細に結晶させて一杯に白く引きつける。
土が夜通しそういう働きを営んだばかりに、日は夜明けの空から横に、そうして斜めにその霜を溶かして、西風はすぐにそれを乾かして、残酷に表土の埃を空中に吹きまくる。
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土が徹宵さういふ作用を營んだばかりに、日は拂曉の空から横にさうして斜に其の霜を解かして、西風は直にそれを乾かして残酷に表土の埃を空中に吹き捲くる。
その力が激しいほど夜明けの霜が白く、それが白いほど、乱れて飛ぶ鴉のごとき群れ雲を遠い西山の頂に伴って、疾風は駆けるのである。
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其の力が烈しい程拂曉の霜が白く、其れが白い程亂れて飛ぶ鴉の如き簇雲を遠い西山の頂巓に伴うて疾風は驅るのである。
両方が疲れきって勢いを消耗する季節の変化を見るまでは、その争いは止むことがない。
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兩方が疲憊して勢を消耗する季節の變化を見るまでは其の爭ひは止むことがない。
その日も、埃が天を焦がして立った。
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其の日も埃が天を焦して立つた。
その埃は黄褐色で、霧のごとく地上のすべてを覆い、かつ包んだ。
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其の埃は黄褐色で霧の如く地上の凡てを掩ひ且つ包んだ。
雑木林は一斉に斜めに傾こうとして、こずえは曲線を描いた。
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雜木林は一齊に斜に傾かうとして梢は彎曲を描いた。
樹木は皆互いに泣いてささやきながら、いくらか日の明るさをも妨げているその濃霧から逃れようとするように、絶え間なく騒いだ。
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樹木は皆互に泣いて囁きながら、幾らか日の明るさをも妨げて居る其の濃霧から遁れようとするやうに間斷なく騷いだ。
霧は悲惨なすべての物を互いに知らせまいとして吹き立ち吹き立ち、数十間の距離においては、その物の形をもはっきりと示さない。
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霧は悲慘な凡ての物を互に知らせまいとして吹き立ち/\數十間の距離に於ては其の物體の形状をも明かに示さない。
雑木林の樹木は、開墾地の周囲にも入り乱れた。
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雜木林の樹木は開墾地の周圍にも混亂した。
しかし勘次が目を放っているのは、足の爪先二、三尺の、今唐鍬で伐り去ってはるかに後ろへ引いて、そっと捨てた跡の一点である。
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然し勘次が目を放つて居るのは足の爪先二三尺の、今唐鍬を以て伐去つて遙に後へ引いてそつと棄てた趾の一點である。
埃は、土にいくらでも湿りを持った彼の足元からは立たなかった。
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埃は土に幾らでも濕ひを持つた彼の足もとからは立たなかつた。
おつぎは、勘次が起こした塊を一つ一つに万能の背で叩いて、さらりとほぐして平らにならしている。
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おつぎは勘次が起した塊を一つ/\に萬能の脊で叩いてさらりと解して平にならして居る。
軽い土から固まっていた塊は、ほぐせばすぐに吹き払われた。
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輕鬆な土から凝集つて居た塊は解せば直に吹き拂はれた。
おつぎは、正面に埃を受けるのには、遠く吹きつける土砂が頬を走って不快であった。
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おつぎは當面に埃を受けるのには遠く吹きつける土砂が頬を走つて不快であつた。
手拭いの端をまくって、浴びせる埃のために髪の毛の荒れるのをひどく嫌った。
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手拭の端を捲くつて沿びせる埃の爲に髮の毛の荒れるのを酷く嫌つた。
それでも、その手元はおろそかではなかった。
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それでも其手もとは疎略ではなかつた。
勘次は矢立のごとき硬い体を伸ばし曲げして、一歩一歩と運んだ。
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勘次は矢立の如き硬直な身體を伸長し屈曲させて一歩/\と運んだ。
彼は周囲に無数な樹木の泣いてささやくのを、耳に入れなかった。
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彼は周圍に無數な樹木の泣いて囁くのを耳に入れなかつた。
その上、彼は自分の耳に鳴るのさえ気づかないほど、懸命に唐鍬を打った。
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加之彼は自分の耳朶に鳴るさへ心づかぬ程懸命に唐鍬を打つた。
彼は満身に汗していた。
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彼は滿身に汗して居た。
卯平は、暇を惜しがる勘次が唐鍬を取って出た時、朝飯の後の口をうるさく鳴らしながら、火鉢の前にどっかりと座っていた。
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卯平は暇を惜しがる勘次が唐鍬を執て出た時朝餉の後の口を五月蠅く鳴らしながら火鉢の前にどつかりと坐つて居た。
破れた草葺きの家を揺さぶって、西風がごうっと打ちつけて来た時には、火鉢の埋み火はまだ白く灰の皮をかぶって暖かかった。
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破れた草葺の家をゆさぶつて西風がごうつと打ちつけて來た時には火鉢の煨はまだ白く灰の皮を被つて暖かゝつた。
天井もない屋根裏から、煤がかすかにさらさらと散って、時々ぽつりと固まったままに落ちた。
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天井もない屋根裏から煤が微かにさら/\と散つて、時々ぽつりと凝集つた儘に落ちた。
高い木が遮り立って、そのこずえに青い空を見せている庭へすら、疾風の驚くべき周到な手が袋の口を解いて逆さまにしたように、埃が満ちてさらさらと沈んだ。
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喬木が遮り立つて其の梢に蒼い空を見せて居る庭へすら疾風の驚くべき周到な手が袋の口を解いて倒にしたやうに埃が滿ちてさら/\と沈んだ。
一日そうして止めどもなく駆けて行く巨人の爪先には、この平坦な田や畑や山林の間に挟まっている各村の茅屋は、ことごとく落ち葉を持ち上げて出た茸のような、小さな悲惨な物でなければならなかった。
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一日さうして止め處もなく駈つて行く巨人の爪先には此の平坦な田や畑や山林の間に介在して居る各村落の茅屋は悉く落葉を擡げて出た茸のやうな小さな悲慘な物でなければならなかつた。
各自の真上を中心点にして空に弧を描いた、その輪郭の外の横に、それから斜めに見える広く、かつ遠い空は、黄褐色な霧のごとき埃のために、ただ炎に焼かれたようである。
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各自の直上を中心點にして空に弧を描いた其の輪郭外の横にそれから斜に見える廣く且つ遠い空は黄褐色な霧の如き埃の爲に只熖に燒かれたやうである。
卯平は自分の小屋に身をすぼめた。
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卯平は自分の小屋に身を窄めた。
しばらく彼の火鉢から立って、狭い壁から壁にぶつかってさまよい出た薄い煙が、疾風のためにすぐにごうっと蹴散らされてしまった。
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暫く彼の火鉢から立つて、狹い壁から壁に衡突つて彷徨ひ出た薄い煙が疾風の爲に直ぐにごうつと蹴散らされて畢つた。
狭い小屋の内は、それからまた沈んだ。
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狹い小屋の内はそれから復た沈んだ。
卯平は少し開いた戸口から、その小さくしかめた目で外を見た。
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卯平は少し開いた戸口から其の小さく蹙めた目で外を見た。
狭い庭の先に、紙縒りを植えたような桑畑の乾ききった軽い土が、黄褐色な霧の中へ吹き立って行くのが見える。
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狹い庭の先に紙捻を植ゑたやうな桑畑の乾燥しきつた輕鬆な土が黄褐色な霧の中へ吹つ立つて行くのが見える。
そうして南の家は、きわめてぼんやりとしてその形が現れて、また隠れた。
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さうして南の家は極めてぼんやりとして其の形態が現はれて又隱れた。
栗の木のそばに木の枝を杭に打ってこしらえた鍵の手へ引っ掛けた撥ね釣瓶が、ごうっと吹くごとにぐらりぐらりと動いて、釣瓶が外れそうにしては外れまいとして、争って騒いでいる。
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栗の木の側に木の枝を杙に打つて拵へた鍵の手へ引つ掛けた桔槹が、ごうつと吹く毎にぐらり/\と動いて釣瓶が外れ相にしては外れまいとして爭うて騷いで居る。
卯平は、彼のぼんやりした心がそこへ繋がれたように、釣瓶を見つめた。
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卯平は彼ぼんやりした心が其處へ繋がれたやうに釣瓶を凝視した。
彼はしばらくしてから庭に立った。
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彼は暫くしてから庭に立つた。
彼はその癖の舌を鳴らしながら、釣瓶へ手を掛けた。
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彼は其癖の舌を鳴らしながら釣瓶へ手を掛けた。
釣瓶の底には、わずかに残った水に埃が浸されて沈んでいた。
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釣瓶の底には僅に保たれた水に埃が浸されて沈んで居た。
外側は青い苔のままに乾いていた。
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外側は青い苔の儘に乾燥して居た。
彼は鍵の手の杭を両手に持って、その大きな体の重さを加えて、縦に押さえてみた。
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彼は鍵の手の杙を兩手に持つて其大きな身體の重量を加へて竪に壓へて見た。
小さな杭は、毎日水のために柔らかにされている土へ、ぐっと深く入った。
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小さな杙は毎日水の爲に軟かにされて居る土へぐつと深くはひつた。
鍵の手は深く釣瓶の内側を覗いていたので、さっきよりもしっかりと釣瓶を引き止めた。
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鍵の手は深く釣瓶の内側を覗いて居たので先刻よりも確乎と釣瓶を引き止めた。
彼はそれから狭い戸口をぴたりと閉ざして、干からびた手足を汚い蒲団に包んで、ごろりと横になった。
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彼はそれから狹い戸口をぴたりと閉して枯燥した手足を穢い蒲團に包んでごろりと横に成つた。
昼飯に勘次が戻って、また口の中の粗い飯粒を噛みながら走った後へ、与吉は鼻緒の緩んだ下駄をからからと引きずって、学校から帰って来た。
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午餐に勘次が戻つて、復口中の粗剛い飯粒を噛みながら走つた後へ與吉は鼻緒の緩んだ下駄をから/\と引きずつて學校から歸つて來た。
足袋も履かない足の甲が、鮫の皮のようにばりばりとあかぎれだらけになっている。
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足袋も穿かぬ足の甲が鮫の皮のやうにばり/\と皹だらけに成つて居る。
彼はまだ冷め切らない茶釜の湯を汲んで、しきりに飯を掻き込んだ。
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彼はまだ冷め切らぬ茶釜の湯を汲んで頻りに飯を掻込んだ。
粘膜のように赤く湿りを持った二つの道筋を伝って冷たく垂れた洟を、彼はすすりながら、箸を横に持ち換えて汁椀の塩辛い干し納豆をつまんで口へ入れたり、茶碗の中へ撒いたりして、幾杯かの飯を盛った。
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粘膜のやうに赤く濕ひを持つた二つの道筋を傳ひて冷たく垂れた洟を彼は啜りながら、箸を横に持ち換へて汁椀の鹽辛い干納豆を抓んで口へ入れたり茶碗の中へ撒いたりして幾杯かの飯を盛つた。
飯粒は茶碗から彼の胸を伝って、土間へぼろぼろと落ちた。
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飯粒は茶碗から彼の胸を傳ひて土間へぼろ/\と落ちた。
彼は土間に立ったままで食べていた。
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彼は土間に立つた儘喫べて居た。
彼は飯粒の少し底に残った茶碗を膳の上に転がして、ばたりと飯台の蓋をした。
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彼は飯粒の少し底に残つた茶碗を膳の上に轉がしてばたりと飯臺の蓋をした。
卯平は横になったままで、おつぎが呼んだ時に来なかった。
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卯平は横臥した儘でおつぎが喚んだ時に來なかつた。
おつぎが再び声を掛けて開墾地へ出てからも、彼はしばらく怠い体を蒲団から起こさなかった。
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おつぎが再び聲を掛けて開墾地へ出てからも彼は暫く懶い身體を蒲團から起さなかつた。
彼がふと思い出したように狭い戸口を開けて、明るい外の埃に目をしかめて出て行った時、与吉は慌ただしく飯台の蓋をしたところであった。
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彼がふと思ひ出したやうに狹い戸口を開けて明るい外の埃に目を蹙めて出て行つた時與吉は慌しく飯臺の蓋をした處であつた。
「お前は、今日はどうしてそんなに早いんだい」
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「汝りや、今日はどうしてさうえに早えんでえ」
卯平は太い低い声で聞いた。
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卯平は太い低い聲で聞いた。
「ああ」
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「あゝ」
と、与吉は唇を反らして洟をすすりながら
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と與吉は脣を反らして洟を啜りながら
「先生がそんでも、明日は日曜だからこれっきりで帰ってもいいと言ったんだ」
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「先生そんでも、明日は日曜だから此れつ切で歸つてもえゝつちつたんだ」
「昼飯は食ったか」
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「午餐くつたか」
卯平はのっそりと飯台のそばに近づいた。
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卯平はのつそりと飯臺の側に近づいた。
「お前は、爺さんが、膳へこんなにこぼして」
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「汝りや、爺が膳さかうだに滾して」
と、彼はさっきよりも低い声で
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と彼は先刻よりも低い聲で
「おとっつあんに見られたら怒られるから」
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「おとつゝあに見らつたら怒られつから」
こう言って、また
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斯ういつて又
「お前らのおとっつあんは怒りん坊だから」
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「汝ツ等おとつゝあは怒りつ坊だから」
と、沈んで呟くように言った。
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と沈んで呟くやうにいつた。
彼は膳の上に散っている飯粒を一つ一つにつまんで、それから干し納豆は、これも一つ一つに汁椀の中へ入れた。
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彼は膳の上に散つて居る飯粒を一つ/\に撮んで、それから干納豆は此れも一つ/\に汁椀の中へ入れた。
汁椀は手に取って、椀の腹を左の手に軽く打ちつけるようにして、納豆を平らにした。
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汁椀は手に取つて、椀の腹を左の手に輕く打ちつけるやうにして納豆を平にした。
おつぎは昼飯から開墾地へ出る時、菜にする干し納豆を汁椀へ入れて、彼のために膳を据えて行ったのである。
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おつぎは午餐から開墾地へ出る時、菜にする干納豆を汁椀へ入て彼の爲に膳を据ゑて行つたのである。
与吉は遠慮もなく、その膳に向かったのである。
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與吉は遠慮もなく其の膳に向つたのである。
卯平は飯台の蓋を開けて見たが、暖かみがないので彼はためらった。
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卯平は飯臺の蓋を開けて見たが暖味がないので彼は躊躇した。
茶釜の蓋を取ってみたが、蓋の裏からはだらだらと滴りが垂れて、わずかに湯気が立った。
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茶釜の蓋をとつて見たが、蓋の裏からはだら/\と滴りが垂れて僅かに水蒸氣が立つた。
茶釜は冷めていたのである。
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茶釜は冷めて居たのである。
それほどに空腹を感じない彼は、箸を取るのがいやになった。
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それ程に空腹を感ぜぬ彼は箸を執るのが厭になつた。
彼は体が非常に冷えていることを知った。
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彼は身體が非常に冷えて居ることを知つた。
それに右の手が肩の辺りでこわばったようで、動かし方によってはきゃきゃと痛みを覚えた。
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それに右の手が肩のあたりで硬ばつたやうで動かしやうによつてはきや/\と疼痛を覺えた。
彼は病気がそこに集まったのではないかと思った。
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彼は病氣が其處に聚つたのではないかと思つた。
それが睡眠中の体の置き方で一時の変調をきたしたのだかどうだか分からないにもかかわらず、彼はただ病気ゆえだと決めてしまった。
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それが睡眠中の身體の置きやうで一時の變調を來したのだかどうだか分らないにも拘はらず、彼は唯病氣故だと極めて畢つた。
決めたというよりも、彼のはかないひがんだ心には、そう判断するよりほか何もなかったのである。
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極めたといふよりも彼の果敢ない僻んだ心にはさう判斷するより外何もなかつたのである。
彼の心は、ひたすら自分を悲惨な方面に解釈していれば、それで済んでいるのであった。
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彼の心は只管自分を悲慘な方面に解釋して居ればそれで濟んで居るのであつた。
彼のやつれた体から、その手がひどく自由を失ったように感じられた。
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彼の窶れた身體から其の手が酷く自由を失つたやうに感ぜられた。
手は軽く痺れたようになっていた。
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手は輕く痺れたやうになつて居た。
彼は冷えた体に暖かさを求めて、茶釜を掛けた竈の前に怠い体を据えてうずくまった。
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彼は冷えた身體に暖氣を欲して、茶釜を掛けた竈の前に懶い身體を据ゑて蹲裾つた。
彼はさらに、熱い茶の一杯が飲みたかったのである。
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彼は更らに熱い茶の一杯が飮みたかつたのである。
彼は竈の底にしっとりと落ち着いた灰に近づいて、手をかざしてみた。
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彼は竈の底にしつとりと落ちついた灰に接近して手を翳して見た。
まだ柔らかに白い灰は、かすかに暖かかった。
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まだ軟かに白い灰は微に暖かゝつた。
彼はそれから大籠の落ち葉をつかみ出して、茶釜の下に突っ込んだ。
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彼はそれから大籠の落葉を攫み出して茶釜の下に突込んだ。
与吉もそばから小さな手でつかんで投げた。
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與吉も側から小さな手で攫んで投げた。
卯平の足元には、灰を覆って落ち葉が散乱した。
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卯平の足もとには灰を掩うて落葉が散亂した。
落ち葉は卯平の着物にも止まった。
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落葉は卯平の衣物にも止つた。
卯平は竹の火箸の先で落ち葉を少し透かすようにして灰を掻き立ててみても、火はもうぽっちりともなかったのである。
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卯平は竹の火箸の光で落葉を少し透すやうにして灰を掻き立てゝ見ても火はもうぽつちりともなかつたのである。
彼はそれからマッチを探してみたが、どこにも見出されなかった。
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彼はそれから燐寸を深して見たが何處にも見出されなかつた。
彼は自分のマッチを探しに、狭い戸口へ与吉をやろうとした。
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彼は自分の燐寸を探しに狹い戸口へ與吉をやらうとした。
与吉は甘えて拒んだ。
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與吉は甘えて否んだ。
彼はどうしても、怠い体を運ばねばならなかった。
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彼はどうしても懶い身體を運ばねばならなかつた。
卯平の手元は、よほど狂っていた。
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卯平の手もとは餘程狂つて居た。
彼はすっとマッチを擦ったが、その火は手が落ち葉に届くまでには、かすかな煙を立てて消えた。
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彼はすつと燐寸を擦つたが其の火は手が落葉に達するまでには微かな煙を立てゝ消えた。
マッチはそうして五、六本捨てられた。
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燐寸はさうして五六本棄てられた。
与吉はその不自由な手からマッチを奪うようにして、火を点けてみた。
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與吉は其の不自由な手から燐寸を奪ふやうにして火を點けて見た。
卯平は与吉のするままにして、丸太の端を切り放した腰掛けに体を据えて、そのやつれた柔らかな目をしかめていた。
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卯平は與吉のする儘にして、丸太の端を切り放した腰掛に身體を据ゑて其の窶れた軟かな目を蹙めて居た。
慌てた与吉の手は、その軸木の先からいたずらに毛のような煙を立てるのみであった。
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慌てた與吉の手は其の軸木の先から徒らに毛のやうな煙を立てるのみであつた。
彼は焦れて、卯平の足元の灰へマッチの箱を投げた。
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彼は焦躁れて卯平の足もとの灰へ燐寸の箱を投げた。
箱はからりと鳴った。
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箱はからりと鳴つた。
箱の底は、もう見えていたのである。
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箱の底はもう見えて居たのである。
卯平は目をしかめたままマッチを取って、またすっと擦って、ゆっくりと軸木を逆さまにして、その白い軸木を包んで燃え昇ろうとする小さな火を、干からびた大きな手で包んで、大事そうに覗いた。
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卯平は目を蹙めた儘燐寸をとつて復すつと擦つて、ゆつくりと軸木を倒にして其の白い軸木を包んで燃え昇らうとする小さな火を枯燥した大きな手で包んで、大事相に覗いた。
それがまた二、三度繰り返された。
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それが復二三度反覆された。
手の内側がぼんやりとして、それからだんだんに明るくなって、火はようやく保たれた。
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手の内側がぼんやりとしてそれから段々に明るく成つて火は漸く保たれた。
茶釜の底に触れるばかりに突っ込まれた落ち葉には、こうして火が点けられた。
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茶釜の底に觸れるばかりに突込まれた落葉には斯うして火が點けられた。
落ち葉には灰際から、その外側を伝って火がべろべろと渡った。
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落葉には灰際から其の外側を傳ひて火がべろ/\と渡つた。
卯平は不自由な手の火箸で、落ち葉を透かした。
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卯平は不自由な手の火箸で落葉を透した。
火は素早くその生命を回復した。
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火は迅速に其の生命を恢復した。
彼らのためにふだんほとんど半分以上を無駄に使われている炎が、竈の口から捲れて立った。
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彼等の爲に平生殆んど半以上を無駄に使はれて居る焔が竈の口から捲れて立つた。
しかしその余計に漏れて出る炎が、彼の自由を失って凍ろうとしている手を暖めた。
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然し其の餘計に洩れて出る焔が彼の自由を失うて凍らうとして居る手を暖めた。
彼は横に転がした大籠からかさかさと掻き出しては、燃えやすい落ち葉を絶え間なく足した。
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彼は横に轉がした大籠からかさ/\と掻き出しては燃え易い落葉を間斷なく足した。
与吉は卯平のそばから、斜めに手を出していた。
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與吉は卯平の側から斜に手を出して居た。
卯平は与吉の小さな足の甲へ、そっと手を触れてみた。
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卯平は與吉の小さな足の甲へそつと手を觸れて見た。
手も足も、どちらもざらざらとこそばゆかった。
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手も足も孰もざら/\とこそつぱかつた。
与吉は斜めに身を置くのが少し窮屈であったのと、小言がなければただ悪戯をしてみたいのとで、そばの竈の口へ別に自分で落ち葉の火を点けた。
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與吉は斜に身を置くのが少し窮屈であつたのと、叱言がなければ唯惡戲をして見たいのとで側な竈の口へ別に自分で落葉の火を點けた。
針金のような火をちらりと持った落ち葉の一ひら一ひらが、煙とともに軽く昇った。
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針金のやうな火をちらりと持つた落葉の一ひら/\が煙と共に輕く騰つた。
落ち葉はすぐに白い灰に変わって、さらに幾つかに分かれて、与吉の髪から卯平の白髪に散った。
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落葉は直ぐに白い灰に化つて更に幾つかに分れて與吉の頭髮から卯平の白髮に散つた。
煙の中には、その白い灰が後から後から立っては落ちた。
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煙の中には其の白い灰が後から/\と立て落ちた。
与吉はいつも、彼らの仲間とともに道端の枯れ芝に火を点じて、それが黒い跡を残してめろめろと燃え広がるのを見るのが、愉快でならなかった。
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與吉はいつも彼等の伴侶と共に路傍の枯芝に火を點じて、それが黒い趾を残してめろめろと燃え擴がるのを見るのが愉快でならなかつた。
彼はまた、火が野茨の株に燃え移って、そこに茂った茅萱を焼いて炎が一条の柱を立てると、喜びと驚きとの入り交じった声を放って痛快に叫びながら、ついにはそこに恐怖が加われば、棒で叩いたり土塊を投げつけたり、または自分らの着物を取ってばさりばさりと叩いたりして、その火を消すことに力めるのであった。
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彼は又火が野茨の株に燃え移つて、其處に茂つた茅萱を燒いて焔が一條の柱を立てると、喜悦と驚愕との錯雜した聲を放つて痛快に叫びながら、遂には其處に恐怖が加はれば棒で叩いたり土塊を擲つたり、又は自分等の衣物をとつてぱさり/\と叩いたりして其火を消すことに力めるのであつた。
素早く、かつ壮快な変化を目の前に見せる火が、彼らの悪戯好きな心をどれほど誘ったか知れない。
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迅速で且壯快な變化を目前に見せる火が彼等の惡戲好な心をどれ程誘導つたか知れない。
彼は落ち葉をつかんでは竈の口に投じて、ぼうぼうと燃え上がる炎に手をかざした。
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彼は落葉を攫んでは竈の口に投じてぼうぼうと燃えあがる焔に手を翳した。
茶釜がちゅうちゅうと少し響きを立てて鳴り出した時、卯平は干からびたように感じていた喉を潤そうとして、怠い尻を少し起こして、膳の上の茶碗へ手を伸ばした。
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茶釜がちう/\と少し響を立てゝ鳴り出した時卯平は乾びたやうに感じて居た喉を濕さうとして懶い臀を少し起して膳の上の茶碗へ手を伸した。
自由を欠いていた手が、爪先で持った茶碗をころりと落とさせた。
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自由を缺いて居た手が、爪先で持つた茶碗をころりと落させた。
茶碗の底に冷たくなっていた少しの水が、土間へぽっちりと落ちてはねた。
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茶碗の底に冷たく成つて居た少しの水が土間へぽつちりと落ちてはねた。
飯粒がともに散らばった。
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飯粒が共に散らばつた。
彼はまた悠長に茶碗を取って、汚れた部分を手でこすって、さらに茶釜の熱湯を注いで、足元の灰へ傾けた。
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彼は又悠長に茶碗をとつて汚れた部分を手でこすつて、更に茶釜の熱湯を注いで足もとの灰へ傾けた。
蓋を取ったので、ほうほうと威勢よく立っている湯気が、ちらちらと白く立って落ちる灰を吸った。
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蓋をとつたのでほう/\と威勢よく立つて居る水蒸氣がちら/\と白く立つて落ちる灰を吸うた。
彼はようやくにして柄杓の手を放って、再び茶釜の蓋をした時、にわかにぼうっと立った炎の音を聞いた。
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彼は漸くにして柄杓の手を放つて再び茶釜の蓋をした時俄にぼうつと立つた焔の聲を聞いた。
彼が思わず後ろを見た時、与吉の驚きから発せられた泣き声が耳を打った。
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彼が思はず後を見た時與吉の驚愕から發せられた泣き聲が耳を打つた。
盛んな火の柱が、近く目を覆って立っていた。
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熾な火の柱が近く目を掩うて立つて居た。
彼はまたすぐに、激しい熱を顔いっぱいに感じた。
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彼は又直に激しい熱度を顏一杯に感じた。
火は、どうしたはずみか、横に転がした大籠の落ち葉に移っていたのである。
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火はどうした機會か横に轉がした大籠の落葉に移つて居たのである。
与吉は初め、野外の悪戯に用いた手段でその火を叩いて消そうとし、また掻き出そうとした。
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與吉は初め野外の惡戲に用ゐた手段を以て其の火を叩いて消さうとし又掻き出さうとした。
乾いた落ち葉は素早く火を誘って彼の横頬をなめて、彼は思わず声を放ったのである。
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乾燥した落葉は迅速に火を誘導して彼の横頬を舐つて、彼は思はず聲を放つたのである。
卯平は慌てて再び茶碗を落とした。
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卯平は慌てて再び茶碗を落した。
彼は突然、与吉をそばに掻き退けた。
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彼は突然與吉を傍に掻き退けた。
彼はそうして無意識に、火になった落ち葉を掻き出そうとして、自由を失った手の鈍い動きが、その火を消すのに何の効き目もなかった。
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彼はさうして無意識に火に成つた落葉を掻き出さうとして、自由を失うた手の鈍い運動が其の火を消すに何の功果もなかつた。
彼は炎のままに、軽い落ち葉の籠を庭へ投げればよかったのである。
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彼は焔の儘に輕い落葉の籠を庭へ投げればよかつたのである。
疾風は必ずその落ち葉を散乱させて、火は遠く燃えながら走るにしても、切れ切れの落ち葉は広い区域にことごとくその面影をも止めないで、消えてしまわねばならないのであった。
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疾風は必ず其の落葉を散亂せしめて、火は遠く燃えながら走るにしても、片々たる落葉は廣い區域に悉く其の俤をも止めないで消滅して畢はねば成らぬのであつた。
しかしながら、慌てた卯平の手は、このように簡単で、かつ最良である方法を取る暇がなかった。
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然しながら慌てた卯平の手は此の如き簡單で且最良である方法を執る暇がなかつた。
火はまた怒って、彼の頬をなめ、彼の手を焼いた。
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火は復怒つて彼の頬を舐り彼の手を燒いた。
彼の目はくらんだ。
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彼の目は昏んだ。
一時に激した落ち葉の火は、それが長く続かなくても、老衰した卯平の心を奪うには余りあった。
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一時に激した落葉の火はそれが久しく持續されなくても老衰した卯平の心を奪ふには餘りあつた。
卯平の視力が再び回復した時には、火はすでに天井の梁に積んだ藁束の、乱れて覗いている穂先を伝って昇った。
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卯平の視力が再び恢復した時には火は既に天井の梁に積んだ藁束の、亂れて覗いて居る穗先を傳ひて昇つた。
火は乾いた藁束の周囲をなめて、さらにその炎が薄暗い家の内から逃れようとして、屋根裏を這った。
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火は乾燥した藁束の周圍を舐つて、更に其焔が薄闇い家の内から遁れようとして屋根裏を偃うた。
それが素早い火の力の、瞬間の活動であった。
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それが迅速な火の力の瞬間の活動であつた。
なめた火はさらにこれを噛んで、ずたずたに崩れた藁束はその火を保ったまま、すでにその勢いを沈めた落ち葉の上にばらばらと乱れ落ちて、そこにまた火勢が回復された。
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舐つた火は更に此れを噛んでずた/\に崩壞した藁束は其の火を保つた儘既に其の勢ひを沈めた落葉の上にばら/\と亂れ落て其處に復た火勢が恢復された。
ぼんやりとして我を失っていた卯平は、藁の火を浴びた。
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惘然として自失して居た卯平は藁の火を浴びた。
彼は慌てて戸口へ逃げ出した時、火はすでに赤い天井を造っていた。
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彼は慌てゝ戸口へ遁げ出した時火は既に赤い天井を造つて居た。
煙は四方から軒を伝って、むくむくと走っていた。
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煙は四方から檐を傳ひてむく/\と奔つて居た。
蛇の舌のごとくべろべろと、炎が吐き出された。
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蛇の舌の如くべろ/\と焔が吐き出された。
吹き募っている疾風は、すぐにその赤い舌を吹きねじ切ろうとした。
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吹き募つて居る疾風は直ぐに其赤い舌を吹き拗切らうとした。
後から後から勢いを加えて吐き出す煙や炎は、穂のごとく押しなびかされた。
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後から/\と勢力を加へて吐き出す煙や焔は穗の如く壓し靡かされた。
火は瞬く間に、所々落ち窪んでやつれた屋根をまったく包んでしまった。
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火は瞬間に處々落ち窪んで窶れた屋根を全く包んで畢つた。
卯平は数分前に予期しなかったこの変事を意識した時、ほとんど気を失って庭に倒れた。
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卯平は數分時の前に豫期しなかつた此の變事を意識した時殆んど喪心して庭に倒れた。
土塊のごとく動かない彼の体からは、憐れにかすかな煙が立って、地を這って消えた。
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土塊の如く動かぬ彼の身體からは憐に微かな煙が立つて地を偃うて消えた。
藁の火を浴びた時、その火がぼろぼろな彼の着物を焦がしたのである。
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藁の火を沿びた時其の火が襤褸な彼の衣物を焦したのである。
しかしその火は、灸のごとき跡をぽつぽつと止めたのみで、着物の芯までは深く噛まなかった。
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然し其の火は灸の如き跡をぽつ/\と止めたのみで衣物の心部は深く噛まなかつた。
埃は彼を越えて走った。
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埃は彼を越えて走つた。
与吉は火傷の痛みを訴えて、独り悲しく泣いた。
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與吉は火傷の疼痛を訴へて獨悲しく泣いた。
疾風はその威力を遮って包んだ炎を掻き退けようとして、その余力が屋根の葺き草を吹きまくった。
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疾風は其の威力を遮つて包んだ焔を掻き退けようとして其餘力が屋根の葺草を吹き捲つた。
火はすぐにその隙間に噛み入って、ますますそこに力をたくましくした。
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火は直に其の空隙に噛み入つて益其處に力を逞しくした。
そそり立って空に奔り昇ろうとする炎を横に押しつけ押しつけ、疾風はついに塊のごとき火の粉をつかんで投げた。
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聳然と空に奔騰しようとする焔を横に壓しつけ/\疾風は遂に塊の如き火の子を攫んで投げた。
その礫は、ゆらりゆらりとのみ動いている東隣の森の木がふわりと受けて遮った。
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其の礫はゆらり/\とのみ動いて居る東隣の森の木がふはりと受けて遮斷した。
ただ一部、三角測量台の見通しに障るために切り払われた隙間が、それを導いた。
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只一部、三角測量臺の見通しに障る爲に切り拂はれた空隙がそれを導いた。
火の粉は、東隣の主人の屋根の一角にどさりと止まった。
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火の子は東隣の主人の屋根の一角にどさりと止つた。
勘次の家を包んだ火は、屋根裏の煤竹を一時に爆ぜさせて、小銃のごとき響きを立てた。
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勘次の家を包んだ火は屋根裏の煤竹を一時に爆破させて小銃の如き響を立てた。
その響きは近所の耳を驚かせた。
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其の響は近所の耳を驚かした。
その人々が駆けつけた時は、棟はどさりと落ちて、疾風の力を凌いで空中はるかに炎を揚げた。
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其の人々が驅けつけた時は棟はどさりと落ちて、疾風の力を凌いで空中遙に焔を揚げた。
その時はすでに、東隣の主人の家を火がべろべろとなめつつあったのである。
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其の時は既に東隣の主人の家を火がべろ/\と甞めつゝあつたのである。
村の者が万能や鳶口を持って集まった時は、火はすさまじい勢いを持っていた。
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村落の者が萬能や鳶口を持つて集まつた時は火は凄まじい勢ひを持つて居た。
それでも大きな建物を焼き尽くすには時間を要した。
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それでも大きな建物を燒盡するには時間を要した。
その間に村の者は手当たり次第に家財を持って、それを安全な場所に移した。
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其の間に村落の者は手當り次第に家財を持つて其れを安全の地位に移した。
その点において、白昼の動作は素早く、かつ容易であった。
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其の點に於て白晝の動作は敏活で且つ容易であつた。
家財道具が門の外に運ばれた時、火勢はすでにすべての物が近づくことを許さなかった。
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家財道具が門の外に運ばれた時火勢は既に凡ての物の近づくことを許容さなかつた。
家を囲んで、東にも杉の高木が立っていた。
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家を圍んで東にも杉の喬木が立つて居た。
森のこずえの上にはるかに立ち昇ろうとして、次第にその勢いを加える炎を、疾風はぐるりと包んだ高木のこずえからごうっと押しつけ押しつけ吹き落ちた。
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森の梢の上に遙に立ち騰らうとして次第に其の勢ひを加へる焔を、疾風はぐるりと包んだ喬木の梢からごうつと壓しつけ壓しつけ吹き落ちた。
炎は斜めに、そうして傾きながら、群集の耳には疾風の響きを奪って、轟々と鳴り続いた。
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焔は斜にさうして傾きつゝ、群集の耳には疾風の響を奪つて轟々と鳴り續いた。
吹き落とす疾風に抵抗してその力をたくましくしようとする炎は、深く木材の芯にまでしっかりと爪を引っ掛けた。
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吹き落す疾風に抵抗して其の力を逞しくしようとする焔は深く木材の心部にまで確乎と爪を引つ掛けた。
そうしてその炎は、近くそびえた杉のこずえから枝へかけて爪先で引っ掻いた。
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さうして其の焔は近く聳えた杉の梢から枝へ掛けて爪先で引つ掻いた。
そのたびに杉は針葉樹の特色を現して、樹脂の多い葉がばりばりとすさまじく鳴って焼けた。
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其の度に杉は針葉樹の特色を現して樹脂多い葉がばり/\と凄じく鳴つて燒けた。
屋根裏の竹が爆ぜた。
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屋根裏の竹が爆破した。
消防の群集は、ほとんど皮膚を焼かれるような熱さを恐れて、だんだん遠ざかった。
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消防の群集は殆んど皮膚を燒かれるやうな熱さを怖れて段々遠ざかつた。
小さなポンプは、その盛んな炎の前にただ一条の細い短い曲がった白い線を描くのみで、何の効き目も見えなかった。
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小さな喞筒は其熾な焔の前に只一條の細い短い彎曲した白い線を描くのみで何の功果も見えなかつた。
他の村の人々が聞き伝えて田圃や林を越えて、その間に各自の体力を消耗しつつ駆けつけるまでには、大きな棟は熱い火を四方に煽って落ちた。
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他の村落の人々が聞き傳へて田圃や林を越えて、其の間に各自の體力を消耗しつゝ驅けつけるまでには大きな棟は熱火を四方に煽つて落ちた。
疾風の力がこれを押しつけて、周囲の高木のこずえが他と隔てて、白昼の力がその光を奪おうとしているので、空に立って見えるのは遠いようで、かつ近いようで、一種の凄惨な気を含んだ煙である。
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疾風の力が此れを壓しつけて、周圍の喬木の梢が他と隔てゝ白晝の力が其の光を奪はうとして居るので、空に立つて見えるのは遠いやうで且つ近いやうで一種の凄慘な氣を含んだ煙である。
それでも高木のこずえの上に、火は圧迫に苦しんでいるようにまれに立ち昇っては、また押しつけられた。
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それでも喬木の梢の上に火は壓迫に苦んで居るやうに稀に立ち騰つては又壓つけられた。
無駄であるポンプへ群集は水を汲むのに、近所のあらゆる井戸は皆釣瓶が届かなくなった。
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徒勞である喞筒へ群集は水を汲むのに近所の有ゆる井戸は皆釣瓶が屆かなくなつた。
群集はただごうごうとして、乱れた響きの中に騒ぎを極めた。
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群集は唯囂々として混亂した響の中に騷擾を極めた。
火の力はこのようにして、周囲の村をも一つに吸収した。
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火の力は此の如くにして周圍の村落をも一つに吸收した。
しかしながら、その群集は勘次の庭を顧みようとはしなかった。
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然しながら、其の群集は勘次の庭を顧みようとはしなかつた。
黄褐色の霧で四方を塞がれながら、ひたすらにその唐鍬を打っていた勘次は、田圃を渡って林を越えて遠く行っていた。
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黄褐色の霧を以て四圍を塞がれつゝ只管に其の唐鍬を打つて居た勘次は田圃を渡つて林を越えて遠く行つて居た。
彼はこの凶事を知る理由がなかった。
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彼は此の凶事を知る理由がなかつた。
開墾地に近い小道を走って行く人の慌ただしい様子を見咎めて、彼は初めてその火を知った。
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開墾地に近い小徑を走つて行く人の慌しい容子を見咎めて彼は始めて其火を知つた。
それが東隣の主人の家に起こったことを聞かされて、彼はおつぎを促して立った。
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それが東隣の主人の家に起つたことを聞かされて彼はおつぎを促して立つた。
彼は疾駆しようとして、そのしっかりと身を据えた位置から一歩を踏み出した時、じゃりっとその爪先を打って財布が落ちた。
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彼は疾驅しようとして、其の確乎と身を据ゑた位置から一歩を踏み出した時、じやりつと其爪先を打つて財布が落ちた。
彼が顧みた時、財布は二、三歩後ろに見つかった。
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彼が顧みた時財布は二三歩後に發見された。
彼は簡単な三尺帯を解いて、ぎりっとそこに大きな塊のような結び目を作って、その財布を包んだ。
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彼は簡單な三尺帶を解いて、ぎりつと其處に大きな塊のやうな結び目を作つて其の財布を包んだ。
彼はほとんどその脚力の及ぶ限り走った。
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彼は殆ど其の脚力の及ぶ限り走つた。
彼はおつぎが後に続かないことを気にかける暇もなかった。
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彼はおつぎが後に續かぬことを顧慮する暇もなかつた。
彼はその主人を思ったのである。
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彼は其の主人を懷つたのである。
勘次は後ろの田圃へ出た時、霧のごとき埃を隔てて主人の家の森から昇る盛んな煙を見て、今さらのごとく恐れた。
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勘次は後の田圃へ出た時霧の如き埃を隔てゝ主人の家の森から騰る熾な煙を見て今更の如く恐怖した。
彼はまたふと、自分の後ろの林に少し見えていた自分の家の棟が見えないのに、その心を騒がせた。
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彼は又ふと自分の後の林に少し見えて居た自分の家の棟が見えないのに其心を騷がせた。
少しもその力を落とさない疾風は、雑木に交じった竹のこずえを低く、そうしてさらに低く吹きなびけているけれど、棟はどうしても見えなかった。
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毫も其の力を落さぬ疾風は雜木に交つた竹の梢を低くさうして更に低く吹靡けて居れど棟はどうしても見えなかつた。
彼はまた煙が糸のごとく、しかもすさまじく自分の林の辺りから立っては押しつけられるのを見た。
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彼は又煙が絲の如く然も凄じく自分の林の邊から立ては壓しつけられるのを見た。
彼が自分の庭に立った時は、古い煤だらけの粗末な建物は焼き尽くされて、主要の木材がわずかに炎を吐いて立っている。
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彼が自分の庭に立つた時は、古い煤だらけの疎末な建築は燒盡して主要の木材が僅に焔を吐いて立つて居る。
火はなお執念く木材の芯を噛んでいる。
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火は尚ほ執念く木材の心部を噛んで居る。
何物をも吹き払わなければ止むまいとする疾風は、赤い埋み火を包む白い灰を、寸時の猶予をも与えないで吹きまくった。
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何物をも吹き拂はねば止むまいとする疾風は、赤い煨を包む白い灰を寸時の猶豫をも與へないで吹き捲つた。
芯を噛まれつつある木材は、赤い歯を食いしばったような無数のひび割れが、火と煙とを吐いていた。
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心部を噛まれつゝある木材は赤い齒を喰ひしばつたやうな無數の罅が火と煙とを吐いて居た。
勘次はほとんどぼんやりとして、この急激な変化を見た。
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勘次は殆んど惘然として此の急激な變化を見た。
彼は足元がよろけるほど、疾風の手に突かれた。
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彼は足もとが踉蹌る程疾風の手に突かれた。
彼は庭に立って泣いている与吉を見た。
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彼は庭に立つて泣いて居る與吉を見た。
与吉の横頬に印した火傷が、彼の惑乱した心を騒がせた。
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與吉の横頬に印した火傷が彼の惑亂した心を騷がせた。
勘次はまた、そのそばに目を閉じて後ろ向きになっている卯平を見た。
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勘次は又其の側に目を瞑つて後向に成つて居る卯平を見た。
卯平は、いつの間に誰がそうしたのか、筵の上に横たえられてあった。
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卯平は何時の間に誰がさうしたのか筵の上に横たへられてあつた。
彼は少ない白髪を薙ぎ払って焼いた火傷の辺りを、手で覆っていた。
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彼は少い白髮を薙ぎ拂つて燒いた火傷のあたりを手で掩うて居た。
「お前はどうしたんだ」
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「汝りやどうしたんだ」
勘次は忙しく聞いた。
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勘次は忙しく聞いた。
「木の葉へ火がくっついたんだ」
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「木の葉へ火くつゝえたんだ」
与吉はむせび入りながら言った。
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與吉は咽び入りながらいつた。
「お前でも悪戯したんじゃないか」
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「汝でも惡戲したんぢやねえか」
勘次はもどかしげに激しく追及した。
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勘次は遲緩しげに烈しく追求した。
「おれは爺さんと火に当たってたんだ。そうしたらくっついたんだ」
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「俺ら爺と火あたつてたんだ、さうしたらくつゝかつたんだ」
そう言って、与吉はにわかに声を放って泣いた。
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さういつて與吉は俄に聲を放つて泣いた。
彼は何のためにそう悲しくなったのか、むしろ幼い彼自身には分からなかった。
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彼は何の爲にさう悲しくなつたのか寧ろ頑是ない彼自身には分らなかつた。
彼はただ涙がこみあげて、止めどもなく悲しく、そうしてしみじみと泣き続けた。
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彼は只涙がこみあげて止め處もなく悲しくさうしてしみ/″\と泣き續けた。
勘次はそれを聞いた瞬間、肩の唐鍬を転がしてぶつりと土を打った。
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勘次はそれを聞いた瞬間肩の唐鍬を轉がしてぶつりと土を打つた。
唐鍬の刃先は、卯平の頭に近く筵の一端をかすめて、深く土に立った。
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唐鍬の刄先は卯平の頭に近く筵の一端を掠つて深く土に立つた。
彼はそれから、焼き尽くされていっぱいの埋み火になった自分の家に近く駆け寄った。
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彼はそれから燒盡して一杯の煨になつた自分の家に近く駈け寄つた。
彼は火の恐ろしい熱さを感じて、しばらくためらって立った。
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彼は火の恐ろしい熱度を感じて少時躊躇して立つた。
後ろの林の、ややうなだれた竹の外側がぐるりと焼かれて変色していたのが、彼の目に映じた。
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後の林の稍俛首れた竹の外側がぐるりと燒かれて變色して居たのが彼の目に映じた。
それとともに彼は、隣の森の中の群集がごうごうと騒ぐのを耳にして、自分が今何のために疾走して来たかに気づいた。
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それと共に彼は隣の森の中の群集の囂々と騷ぐのを耳にして自分が今何の爲に疾走して來たかを心づいた。
しかし彼はもう、その群集の間に交じって主人の災難に赴く心は起こらなかった。
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然し彼はもう其の群集の間に交つて主人の災厄に赴く心は起らなかつた。
彼はその群集の声を聞いて、自ら意識しない圧迫を感じた。
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彼は其の群集の聲を聞いて、自ら意識しない壓迫を感じた。
彼はひどく、自分の哀れっぽい悲惨な姿を泣きたくなった。
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彼は酷く自分の哀つぽい悲慘な姿を泣きたくなつた。
彼は疾走した後の異常な疲れを感じた。
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彼は疾走した後の異常な疲勞を感じた。
彼は自分の焼け跡を掻き立てようとするのに、鳶口も万能も皆その火の中に包まれてしまっていた。
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彼は自分の燒趾を掻き立てようとするのに鳶口も萬能も皆其火の中に包まれて畢つて居た。
彼は素手であった。
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彼は空手であつた。
唐鍬を取って、彼は再び熱い火のそばに立った。
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唐鍬を執つて彼は再び熱い火の側に立つた。
熱さに堪えられない火のそばを、彼は飛び退いてまた立った。
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熱さに堪へぬ火の側を彼は飛び退つて又立つた。
彼はその刃先の鈍くなるのを思う暇もなく唐鍬で、まだ立っている木材を引っ掛けて倒そうとした。
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彼は其の刃先の鈍く成るのを思ふ暇もなく唐鍬で、また立つて居る木材を引つ掛けて倒さうとした。
おつぎは後れて、ようやく垣根の入口に立った。
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おつぎは後れて漸く垣根の入口に立つた。
おつぎはもう、自分の家がないことを知った。
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おつぎはもう自分の家が無いことを知つた。
貧しい生活の間から数年来ようやく蓄えた衣類の数点が、すでにその一片をも止めていないことを知って、そうして心に悲しんだ。
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貧窮な生活の間から數年來漸く蓄へた衣類の數點が既に其の一片をも止めないことを知つてさうして心に悲しんだ。
汗がびっしりと髪の生え際を浸して、疲れきった体を、おつぎはしばらくぼんやりと庭に立てた。
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汗がびつしりと髮の生際を浸して疲憊した身體をおつぎは少時惘然と庭に立てた。
おつぎはそれからまた、泣いている与吉と、死骸のごとく横たわっている卯平とを見た。
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おつぎはそれから又泣いて居る與吉と死骸の如く横はつて居る卯平とを見た。
おつぎは万能を置いて、与吉の火傷した頭をそっと抱いた。
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おつぎは萬能を置いて與吉の火傷した頭部をそつと抱いた。
与吉はまた涙がこみあげて、むせびながらしみじみと悲しげに泣いた。
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與吉は復涙がこみあげて咽びながらしみ/″\と悲しげに泣いた。
その声は、聞く者をただ泣きたくさせた。
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其の聲は聞くものを只泣きたくさせた。
疲れたおつぎの目には、ふっと涙が浮かんだ。
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疲れたおつぎの目にはふつと涙が泛んだ。
おつぎはまた、手で抑えた卯平の頭に疑いの目を注いで、二人の悲しむべき記念に思い至った。
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おつぎは又手で抑へた卯平の頭部に疑ひの目を注いで、二人の悲しむべき記念におもひ至つた。
おつぎは、その原因を追及して聞こうとはしなかった。
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おつぎは其の原因を追求して聞かうとはしなかつた。
おつぎはしみじみと与吉を心にいたわって、さらに「爺さん」
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おつぎはしみ/″\と與吉を心に勦つて更に、「爺」
と、卯平の筵に近づいてそっと膝をついた。
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と卯平の蓆に近づいてそつと膝をついた。
ふだんのおつぎは、勘次との間を繋ごうとする苦心からの甘えた言葉が、卯平の心に投じるのであった。
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平生のおつぎは勘次との間を繋がうとする苦心からの甘えた言辭が卯平の心に投ずるのであつた。
今、おつぎの心の内には何の理屈もなかった。
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現在おつぎの心裏には何の理窟もなかつた。
ただしみじみと悲しい、いたわしい心からの言葉が、自然にその口から出るのであった。
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只しみ/″\と悲しい痛はしい心からの言辭が自然に其の口から出るのであつた。
おつぎは、まだ燃えている火を忘れたように卯平を越えて覗いた。
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おつぎは未だ燃えてる火を忘れたやうに卯平を越えて覗いた。
卯平はおつぎの声が耳に入ったので、後ろを向こうとしてわずかに目を開いた。
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卯平はおつぎの聲が耳に入つたので後を向かうとして僅に目を開いた。
地をかすめて走りつつある埃が彼の頬を打って、彼の横たえた体を越えた。
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地を掠つて走りつゝある埃が彼の頬を打つて彼の横たへた身體を越えた。
彼はすぐに以前のごとく目を閉じた。
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彼は直に以前の如く目を閉ぢた。
「爺さんも火傷したのか」
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「爺も火傷したのか」
おつぎは静かに言って、卯平の手をそっと退けて、左の横頬に印した火傷を見た。
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おつぎは靜にいつて卯平の手をそつと退けて左の横頬に印した火傷を見た。
「痛いか。そんでもたいしたこともないから、心配するなよ」
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「痛てえか、そんでもたえしたこともねえから心配すんなよ」
おつぎは、火に薙ぎ払われた汚い卯平の白髪へ、そっと手を当てた。
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おつぎは火に薙ぎ拂はれた穢い卯平の白髮へそつと手を當た。
卯平はおつぎのするままに任せて、少し口を動かすようであったが、またごうっと吹きつける疾風に妨げられた。
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卯平はおつぎのする儘に任せて少し口を動かすやうであつたが、又ごつと吹きつける疾風に妨げられた。
おつぎは隣の庭の騒ぎを聞いた。
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おつぎは隣の庭の騷擾を聞いた。
しかもそのさまざまな叫びが入り交じって聞こえる声が、自分の心の芯からあるものを引っつかんで行くようで、自然にそれへ耳を澄ますと、何だかやるせないようなはかなさを感じて涙が落ちた。
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然も其種々な叫びの錯雜して聞える聲が自分の心部から或物を引つ攫んで行くやうで、自然にそれへ耳を澄すと何だか遣る瀬のないやうな果敢なさを感じて涙が落ちた。
涙は卯平の白髪に滴った。
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涙は卯平の白髮に滴つた。
おつぎが気づいた時、勘次はいたずらに、そうして発作的に汗を垂らして動いているのを見た。
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おつぎが心づいた時勘次は徒らにさうして發作的に汗を垂らして動いて居るのを見た。
おつぎの心もきっと、まだ燃えつつある火に移った。
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おつぎの心も屹として未だ燃えつゝある火に移つた。
おつぎはにわかに自分の万能を取って、勘次の手につかませた。
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おつぎは俄に自分の萬能を執つて勘次の手に攫ませた。
勘次は初めて気づいて、熱した唐鍬を冷まそうとして井戸端へ走った。
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勘次は始めて心づいて、熱した唐鍬を冷さうとして井戸端へ走つた。
鍵の手を離れた釣瓶は、高く空中に浮かんでゆっくりと大きく動いていた。
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鍵の手を離れた釣瓶は高く空中に浮んでゆつくりと大きく動いて居た。
彼は流し尻にずぶりと唐鍬を投じて、また万能を取った。
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彼は流し尻にずぶりと唐鍬を投じて又萬能を執つた。
一日吹いた疾風がぱたりとその力を落としたら、日が西の空の土手のような雲の端に近く据わって、次第に沈みつつまたたいた。
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一日吹いた疾風が礑と其の力を落したら、日が西の空の土手のやうな雲の端に近く据つて漸次に沒却しつゝ瞬いた。
その一瞬、強烈な光が横に東の森の高木を錆びた橙色に染めて、さらにその光は隙間を遠くずっと手を伸ばした。
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其の一瞬時強烈な光が横に東の森の喬木を錆た橙色に染めて、更に其の光は隙間を遠くずつと手を伸した。
冷たく、かつ薄暗くなるに従って、焼け跡の火が周囲を明るくした。
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冷たく且薄闇く成るに從つて燒趾の火が周圍を明るくした。
隣の火はほんのりと空をぼかした。
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隣の火はほんのりと空をぼかした。
隣の庭には、自分の村から他の村から、手桶や飯台へ入れた握り飯が数多く運ばれた。
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隣の庭には自分の村落から他の村落から手桶や飯臺へ入れた握り飯が數多く運ばれた。
消防に力を尽くした群集は、白い握り飯を貪った。
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消防に力を竭した群集は白い握飯を貪つた。
群集はさらに、時分を見計らってはぐらぐらと柱を突き倒そうとした。
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群集は更に時分を見計らつてはぐら/\と柱を突き倒さうとした。
丈夫な柱は、まだ火勢が辺りを遠ざけて、しっかりと立っていた。
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丈夫な柱はまだ火勢があたりを遠ざけて確乎と立つて居た。
他の村の人々は、次第に帰り去った。
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他の村落の人々は漸次に歸り去つた。
自分の村の人々は、交代に残って盛んな火の番をした。
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自村の人々は交代に残つて熾な火の番をした。
帰り行く人々がそのついでに勘次の庭に挨拶に立ったのみで、南の家から笊へ入れた握り飯が来ただけであった。
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歸り行く人々が其の序に勘次の庭に挨拶に立つたのみで、南の家から笊へ入れた握飯が來た丈であつた。
彼はそれでも、そのおかげで空腹を逃れた。
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彼はそれでも其の爲に空腹を遁れた。
隣の主人からは、しばらくしてその集まった握り飯の手桶を二つ三つ持たせてよこした。
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隣の主人からは暫くして其の集つた握り飯の手桶を二つ三つ持たせてよこした。
夜になってから、近所の者の手で卯平は念仏寮へ運ばれた。
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夜に成つてから近所の者の手で卯平は念佛寮へ運ばれた。
勘次は卯平を乗せた荷車を曳いた。
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勘次は卯平を乘せた荷車を曳いた。
彼はそれから隣の主人へ挨拶に出たが、自分の喉の底で物を言って逃げるように帰った。
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彼はそれから隣の主人へ挨拶に出たが、自分の喉の底で物をいうて逃げるやうに歸つた。
彼はその夜は、三人が凍った空をいただいて、焼け跡の火の気を頼りに明かした。
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彼は其の夜は三人が凍つた空を戴いて燒趾の火氣を手頼りに明かした。
卯平を横たえた筵は、誰も取りには来なかった。
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卯平を横へた筵は誰も取りには來なかつた。
筵は三人に席を与えた。
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筵は三人に席を與へた。
勘次は失火について、与吉から要領を得なかった。
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勘次は失火に就いて與吉から要領を得なかつた。
しかしながら、彼の悲憤に堪えない心がさいなもうとするには、与吉の泣いて止まない火傷がそれを抑えつけた。
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然しながら彼の悲憤に堪へぬ心が嘖まうとするには與吉の泣いて止まぬ火傷がそれを抑へつけた。
勘次は疲れた。
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勘次は疲れた。
二六
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二六
夜が更けるに従って、霜は三人の周囲に密着して凝ろうとしながら、火の力をすら押しつけた。
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夜が深けるに隨つて霜は三人の周圍に密接して凝らうとしつゝ火の力をすら壓しつけた。
彼らは冷めて行く火に、だんだんと筵を近づけた。
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彼等は冷めて行く火に段々と筵を近づけた。
勘次もおつぎも、薄い仕事着にしんしんと凍る霜の冷たさと、じりじりと焦がすような火の熱さとを同時に感じた。
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勘次もおつぎも薄い仕事衣にしん/\と凍る霜の冷たさと、ぢり/\と焦すやうな火の熱さとを同時に感じた。
与吉は火傷へ、夜の冷たさが染みた。
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與吉は火傷へ夜の冷たさが沁みた。
そうかといって火に当たろうとするのには、なおかつ火傷の痛みを加えるだけであった。
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さうかといつて火に當らうとするのには猶且火傷の疼痛を加へるだけであつた。
彼は思い出したように泣いては、また泣いた。
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彼は思出したやうに泣いては又泣いた。
ついには泣き疲れて、しくしくとただ声を呑んだ。
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遂には泣き疲れてしく/\と只聲を呑んだ。
それがかえって、勘次とおつぎの心を掻き乱した。
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それが却て勘次とおつぎの心を掻き亂した。
疲れた二人はうとうととしながら、とうとう眠ることができなかった。
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疲れた二人はうと/\としながら到頭眠ることが出來なかつた。
焼け跡に横たわった梁や柱から、まだかすかな煙を立てながら、次の日は明けた。
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燒趾に横はつた梁や柱からまだ微かな煙を立てつゝ次の日は明けた。
勘次はおつぎを相手に、灰を掻き集めることに一日を費やした。
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勘次はおつぎを相手に灰燼を掻き集めることに一日を費した。
手桶の冷たい握り飯が、頼りない三人の口を糊した。
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手桶の冷たい握飯が手頼ない三人の口を糊した。
勘次は炭のようになった痩せた柱や梁を、垣根のそばに積んだ。
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勘次は炭のやうに成つた痩せた柱や梁を垣根の側に積んだ。
彼はその新しい手桶へ水を汲んで、まだ火のありそうな梁や柱へばしゃりとその水を掛けた。
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彼は其の新しい手桶へ水を汲んでまだ火の有り相な梁や柱へばしやりと其の水を掛けた。
彼は灰を掻き集めて、所々円錐形の小山を作った。
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彼は灰を掻き集めて處々圓錘形の小山を作つた。
彼は灰の中から鍋や釜や鉄瓶やその他の器物を、だんだんと万能の先から掻き出した。
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彼は灰燼の中から鍋や釜や鐵瓶や其の他の器物をだん/\と萬能の先から掻き出した。
鉄製の器物はその形を保っていても、すっかり幾年も使わずに捨ててあったもののように変わっていた。
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鐵製の器物は其の形を保つて居ても悉皆幾年も使はずに捨てあつたものゝやうに變つて居た。
彼はそれをそっと大事にそばへ集めた。
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彼はそれをそつと大事に傍へ聚めた。
茶碗や皿や、すべての陶磁器は熱い火に割れてしまって、一つでも役に立つものはなかった。
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茶碗や皿や凡ての陶磁器は熱火に割ねて畢つて一つでも役に立つものはなかつた。
勘次が赤く焼けた土を草鞋の底でだんだんに掻き払おうとした時、黒く焦げたようなある物が草鞋の先に掛かった。
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勘次は赤く燒けた土を草鞋の底で段々に掻つ拂かうとした時、黒く焦げたやうな或物が草鞋の先に掛つた。
焼けて変色した銅貨の少し固まったようになったのが、足に触れてぞろりと離れた。
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燒けて變色した銅貨の少し凝つたやうになつたのが足に觸れてぞろりと離れた。
彼は周囲にひょいと目を放った。
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彼は周圍にひよつと目を放つた。
彼の目に入るものは、これも一心に灰の始末をしているおつぎのほかにはなかった。
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彼の目に入るものは此も一心に灰の始末をして居るおつぎの外にはなかつた。
彼は銅貨をそっと竹の林のそばへ持って行った。
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彼は銅貨を竊と竹の林の側へ持つて行つた。
彼はぎりっと縛った三尺帯を解いて、財布をくくった結び目に歯を掛けて、ようやくその財布を取り出した。
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彼はぎりつと縛つた三尺帶を解いて、財布を括つた結び目に齒を掛けて漸く其財布を取り出した。
焼けた銅貨を彼は財布へ投げ込んで、またぎりっと腰へくくった。
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燒けた銅貨を彼は財布へ投げ込んで復たぎりつと腰へ括つた。
彼はそうして再び、きょろきょろと周囲を見た。
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彼はさうして再びきよろ/\と周圍を見た。
勘次は幾つかの小山を形づくった灰へ、藁や粟の茎でしっかりと蓋をした。
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勘次は幾つかの小山を形づくつた灰へ藁や粟幹でしつかと蓋をした。
彼はそれを田や畑へ持ち出そうとしたので、雨に打たせない工夫である。
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彼はそれを田や畑へ持ち出さうとしたので、雨に打たせぬ工夫である。
その藁や粟の茎は、近所の手から与えられた。
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其の藁や粟幹は近所の手から與へられた。
彼は住居を失った二日目に、初めて近隣の交わりを知った。
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彼は住居を失つた第二日目に始めて近隣の交誼を知つた。
南の女房は、古い薬缶と茶碗とを持って来てくれた。
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南の女房は古い藥鑵と茶碗とを持つて來てくれた。
勘次はふだん何とも思わなかったこれらの器物に、しみじみと便利を感じた。
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勘次は平生何とも思はなかつた此れ等の器物にしみ/″\と便利を感じた。
彼は薬缶のまだ熱い湯を茶碗に注いで、彼らの身を落ち着けるただ一枚の筵の端に憩うた。
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彼は藥鑵のまだ熱い湯を茶碗に注いで彼等の身を落ちつける唯一枚の筵の端に憩うた。
にわかにがらんとした焼け跡を限って立っている後ろの林の竹は、外側がぐるりと枯れて、焦げた枝が青い枝を覆って、幹は火の近かった部分は油を吹いて、きらきらと滑らかに変わっていた。
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俄に空洞とした燒趾を限つて立つて居る後の林の竹は外側がぐるりと枯れて、焦げた枝が青い枝を掩うて幹は火の近かつた部分は油を吹いてきら/\と滑かに變つて居た。
東隣の主人の庭には、この日も村の者が大勢集まって、大きな焼け跡の始末に忙殺された。
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東隣の主人の庭には此の日も村落の者が大勢集まつて大きな燒趾の始末に忙殺された。
それで、その人々は勘次の庭に手を貸そうとはしなかった。
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それで其人々は勘次の庭に手を藉さうとはしなかつた。
彼らは隣の主人に対して、ふだんの恩に報いようとするよりも、将来を恐れている。
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彼等は隣の主人に對して平素に報いようとするよりも將來を怖れて居る。
彼らは皆ひとしく、静かに落ち着いた白昼の庭に立つことが、その家族の目に触れやすいことを知っているのである。
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彼等は皆齊しく靜かに落ついた白晝の庭に立ことが其の家族の目に觸れ易いことを知つて居るのである。
勘次は疲れた体を、その日も余念なく働かせた。
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勘次は疲れた身體を其の日も餘念なく使役した。
その夜は、三人が空をいただいて狭い筵に明かすのには、わずかでもその体を暖める火は消えていたのである。
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其の夜は三人が空を戴いて狹い筵に明すのには、僅でも其身體を暖める火は消滅して居たのである。
三人はその夜、南の家に導かれた。
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三人は其夜南の家に導かれた。
勘次もおつぎも、汗と灰と埃とに汚れた体を風呂に洗い落とした。
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勘次もおつぎも汗と灰と埃とに汚れた身體を風呂に洗ひ落した。
快かったその風呂が、気詰まりな他人の家に彼らをぐっすりと熟睡させて、二日間の疲れを忘れさせようとした。
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快よかつた其風呂が氣盡しな他人の家に彼等をぐつすりと熟睡させて二日間の疲勞を忘れさせようとした。
与吉の横頬は、皮膚がわずかに水疱を生じて膨れていた。
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與吉の横頬は皮膚が僅に水疱を生じて膨れて居た。
彼はその日の機嫌が悪かった。
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彼は其の日の機嫌が惡かつた。
南の女房は、その水疱に髪へつける胡麻の油を塗ってやった。
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南の女房は其の水疱に頭髮へつける胡麻の油を塗つてやつた。
勘次は焼け木杭を地に建てて、彼にとって第一の必要である仮の住まいを造った。
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勘次は燒木杙を地に建てゝ彼に第一の要件たる假の住居を造つた。
近所から集めた粟の茎のわずかな材料が、葺き草であった。
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近所から聚めた粟幹の僅少な材料が葺草であつた。
それはやっと雨が漏るか漏らないかだけの、薄い葺き方であった。
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それは漸と雨の洩るか洩らないだけの薄い葺方であつた。
もとより壁を塗る暇はない。
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固より壁を塗る暇はない。
あちらこちらの林の間に刈り残された萱や篠を刈って来て、乏しい藁と混ぜて、垣根でも結うようにそれを内外から裂いた竹を当てて、ぎっと締めた。
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そこらこゝらの林の間に刈り残された萱や篠を刈つて來て、乏しい藁と交ぜて垣根でも結ふやうにそれを内外から裂いた竹を當てゝぎつと締めた。
彼は南の家から借りた鋸で、大小の焼け木杭を挽き切った。
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彼は南の家から借りた鋸で大小の燒木杙を挽切つた。
ついに彼は後ろから焼けた竹を伐って来て、簀の子のように横たえて低い床を造った。
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遂に彼は後から燒けた竹を伐つて來て簀の子のやうに横へて低い床を造つた。
竹を伐った鉈も、彼の持ち物ではなかった。
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竹を伐つた鉈も彼の所有ではなかつた。
彼の、熱い火に焼かれて独りで冷めた鉈も鎌も、すべての刃物はもう役には立たなかった。
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彼の熱火に燒かれて獨で冷めた鉈も鎌も凡ての刄物はもう役には立たなかつた。
彼の手に完全に保たれたものは、彼が自分の手を頼みにしている唐鍬のみである。
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彼の手に完全に保たれたものは彼が自分の手を恃んで居る唐鍬のみである。
彼はこの壁もない小屋を造るために、二日ばかりの間は少しも他を顧みる暇がないほど、心が忙しかった。
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彼は此の壁もない小屋を造る爲に二日ばかりの間は毫も他を顧みる暇がなかつた程心が忙しかつた。
彼の悲惨な狭い小屋には、薬缶と茶碗と、それから火事の夕方に隣の主人がよこした新しい手桶とのみで、夜に身を横たえるのに一枚の蒲団もなかった。
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彼の悲慘な狹い小屋には藥鑵と茶碗とそれから火事の夕方に隣の主人がよこした新しい手桶とのみで、夜の身を横へるのに一枚の蒲團もなかつた。
砥石を掛けて磨かなければ使えない鍋や釜は、彼のさらに狭い土間に、いたずらに場所を塞いでいた。
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砥石を掛けて磨かねば使用に堪へぬ鍋や釜は彼の更に狹い土間に徒らに場所を塞げて居た。
その土間にはまだ簡単な囲炉裏さえなくて、彼は火を焚くのに三本脚の竹を立てて、それへ薬缶を掛けた。
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其の土間にはまだ簡單な圍爐裏さへなくて、彼は火を焚くのに三本脚の竹を立てゝそれへ藥鑵を掛けた。
おつぎは、ただ勘次の仕事を助けていた。
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おつぎは只勘次の仕事を幇けて居た。
しかしその間にも、念仏寮へ運ばれた卯平を忘れてはいなかった。
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然し其の間にも念佛寮へ運ばれた卯平を忘れては居なかつた。
おつぎは火事の次の日に、勘次へは黙って念仏寮を覗いてみた。
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おつぎは火事の次の日に勘次へは默つて念佛寮を覗いて見た。
おつぎは卯平へ目に見えた心尽くしをするのに、何の方法も見出し得なかった。
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おつぎは卯平へ目に見えた心盡をするのに何の方法も見出し得なかつた。
おつぎの懐には一銭もないのである。
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おつぎの懷には一錢もないのである。
おつぎは手桶の底の凍った握り飯を、焼け跡の炭に火を起こして狐色に焼いて、それを二つ三つ前垂れにくるんで行ってみた。
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おつぎは手桶の底の凍つた握飯を燒趾の炭に火を起して狐色に燒いてそれを二つ三つ前垂にくるんで行つて見た。
おつぎはこっそりと覗くようにして見た。
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おつぎはこつそりと覗くやうにして見た。
卯平は、誰がそうしてくれたか、ただ一人で蒲団にゆっくりとくるまっていた。
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卯平は誰がさうしてくれたか唯一人で蒲團にゆつくりとくるまつて居た。
枕元には小さな鍋と膳とが置かれて、膳には茶碗が伏せてある。
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枕元には小さな鍋と膳とが置かれて、膳には茶碗が伏せてある。
汁椀も、これも小皿を覆って伏せてある。
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汁椀は此れも小皿を掩うて伏せてある。
卯平はやつれた青い顔をこちらへ向けていた。
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卯平は窶れた蒼い顏をこちらへ向けて居た。
彼は眠っていた。
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彼は眠つて居た。
おつぎは、すやすやと聞こえる息にじっと耳を澄ました。
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おつぎはすや/\と聞える呼吸に凝然と耳を澄した。
おつぎはそれから、枕元の鍋の蓋を取ってみた。
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おつぎはそれから枕元の鍋蓋をとつて見た。
鍋の底には、白いどろりとした米の粥があった。
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鍋の底には白いどろりとした米の粥があつた。
汁椀を取ってみたら、小皿には醤が少し載せてあった。
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汁椀をとつて見たら小皿には醤が少し乘せてあつた。
卯平は冷めた白粥へ、まだ一口も箸をつけた様子がない。
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卯平は冷めた白粥へまだ一口も箸をつけた容子がない。
おつぎは焼いた握り飯を一つ枕元にそっと置いて、逃げるように帰って来た。
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おつぎは燒いた握飯を一つ枕元にそつと置いて遁げるやうに歸つて來た。
老人の鋭い目が、とうとう開かなかった。
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老人の敏い目が到頭開かなかつた。
卯平は疲れた心が静まって、ようやく熟睡したところなのであった。
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卯平は疲れた心が靜まつて漸く熟睡した處なのであつた。
掘っ立て小屋ができてから、勘次はそれでも近所で鍋や釜やその他の日用品を少しはもらったり借りたりして使った。
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掘立小屋が出來てから勘次はそれでも近所で鍋や釜や其の他の日用品を少しは貰つたり借りたりして使つた。
おつぎはその間、一心に焼けた鍋釜を砥石でこすった。
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おつぎは其の間一心に燒けた鍋釜を砥石でこすつた。
竹の床へ敷く筵が三、四枚、これも近所で古いのを一枚くらいずつくれた。
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竹の床へ數く筵が三四枚、此も近所で古いのを一枚位づつ呉れた。
そうしてからようやく、蒲団が運ばれた。
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さうしてから漸く蒲團が運ばれた。
それは彼がぎっしりと腰にくくった財布の力であった。
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それは彼がぎつしりと腰に括つた財布の力であつた。
米や麦や味噌が、それでどうにか工面ができた。
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米や麥や味噌がそれでどうにか工夫が出來た。
彼はこうして、命を繋ぐ方法がやっと立った。
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彼は斯うして命を繼ぐ方法が漸と立つた。
二、三日過ぎて、与吉の火傷は水疱が破れて、死んだ皮膚の下が少しただれかけた。
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二三日過ぎて與吉の火傷は水疱が破れて死んだ皮膚の下が少し糜爛し掛けた。
勘次は心から、ようやくその傷をいたわった。
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勘次は心から漸く其の瘡痍を勦つた。
彼はふだんになく、それを放っておけば一生の畸形になりはしないかという憂いをすら抱いた。
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彼は平生になくそれを放任つて置けば生涯の畸形に成りはしないかといふ憂をすら懷いた。
そうして彼は鬼怒川を越えて、医者の所に与吉を連れて走った。
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さうして彼は鬼怒川を越えて醫者の許に與吉を連れて走つた。
医者は微笑を含んだまま、白いどろりとした薬を陶製の板の上で練って、それをこってりとガーゼに塗って、火傷を覆ってべたりと貼って、ぐるぐると白い包帯を施した。
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醫者は微笑を含んだ儘白いどろりとした藥を陶製の板の上で練つて、それをこつてりとガーゼに塗つて、火傷を掩うてべたりと貼てぐる/\と白い繃帶を施した。
手先の火傷は横頬のような痛みも傷もなかったが、医者はそこにもざっと包帯をした。
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手先の火傷は横頬のやうな疼痛も瘡痍もなかつたが醫者は其處にもざつと繃帶をした。
与吉は目ばかり出して、大袈裟な姿になって帰って来た。
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與吉は目ばかり出して大袈裟な姿に成つて歸つて來た。
与吉は包帯をしてから、痛みも取れた。
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與吉は繃帶をしてから疼痛もとれた。
包帯はまた、直接他の物との摩擦を防いで、彼に快く村の内をさまよわせた。
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繃帶は又直接他の物との摩擦を防いで、彼に快よく村落の内を彷徨はせた。
包帯が乾いていれば五、六日は捨てておいてもいいが、液が染み出すようならば明日にもすぐに来るようにと医者は言ったのであるが、液は幸いにぱっちりと点を打ったのみで、別段広がりもしなかった。
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繃帶が乾いて居れば五六日は棄てゝ置いても好いが、液汁が浸み出すやうならば明日にも直に來るやうにと醫者はいつたのであるが、液汁は幸ひにぱつちりと點を打つたのみで別段擴がりもしなかつた。
おつぎは焼け跡の始末の忙しい間にも、時々卯平を見た。
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おつぎは燒趾の始末の忙しい間にも時々卯平を見た。
しかし卯平を慰めるのに一銭の蓄えもないおつぎは、なおかつ何の方法も手段も見出し得なかったのである。
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然し卯平を慰めるに一錢の蓄へもないおつぎは猶且何の方法も手段も見出し得なかつたのである。
おつぎは、勘次がようやくにして求めたわずかな米をそっと前垂れに隠して持って行った。
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おつぎは勘次が漸くにして求めた僅な米を竊と前垂に隱して持つて行つた。
米には挽き割り麦が混じっている。
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米には挽割麥が交つて居る。
おつぎはけっして卯平を満足させ得ることとは思わなかったが、彼が食べてみようと言えば、粥にでも炊いてやろうと思ったのである。
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おつぎは決して卯平を滿足させ得ることとは思はなかつたが、彼が喫べて見ようといへば粥にでも炊いてやらうと思つたのである。
しかし、おつぎが恥じながら、それでもやむを得ず隠して持って行った米の必要はなかった。
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然しおつぎが恥ぢつゝそれでも餘儀なく隱して持つて行つた米の必要はなかつた。
念仏の仲間が交互に少しずつの食べ物を持って来てくれるのを、卯平はきっと余していた。
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念佛の伴侶が交互に少しづゝの食料を持つて來てくれるのを卯平は屹度餘して居た。
「爺さん、そんでもちっとは塩梅がよくなったようだが、痛くはないかい」
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「爺、そんでもちつた鹽梅よくなつたやうだが、痛かねえけえ」
おつぎは毎度のように繰り返して聞いた。
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おつぎは毎度のやうに反覆して聞いた。
言葉は柔らかで、そうして潤んでいた。
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言辭は軟かでさうして潤んで居た。
卯平の火傷へも、油が塗られてあった。
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卯平の火傷へも油が塗られてあつた。
水疱はいつか破れてただれた患部を、油は見るからにいとわしく、かつ汚くしていた。
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水疱はいつか破れて糜爛した患部を、油は見るから厭はしく且つ穢くして居た。
死んだ細胞の下から鮮やかに赤く見え始めた肉芽は、外部の刺激に対して少しの抵抗力も持っていない細胞の集まりである。
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死んだ細胞の下から鮮かに赤く見え始めた肉芽は外部の刺戟に對して少しの抵抗力も持つて居ない細胞の集りである。
朝夕の冷たさすら、その過敏な神経を刺激した。
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朝夕の冷たさすら其の過敏な神經を刺戟した。
卯平はいつでも、右の横頬を上にしているほかはなかった。
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卯平は何時でも右の横頬を上にして居る外はなかつた。
「そんなにかからなくても治るだろうなあ」
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「さうだにかゝんなくつても癒んべなあ」
おつぎは、油が汚くした火傷をじっと見ていると自然に目がしかめられて、むしろ自分の傷の経過でも聞くように、卯平の枕へ口をつけて言った。
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おつぎは、油が穢くした火傷を凝然と見て居ると自然に目が蹙められて、寧ろ自分の瘡痍の經過でも聞くやうに卯平の枕へ口をつけていつた。
「うん」
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「うむ」
という卯平の低く響く声が、けっしてその言葉のような簡単な意味のものではなかった。
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と卯平の低く響く聲が決して其の言辭のやうな簡單な意味のものではなかつた。
「そんでもどうにか家もこしらえたから、爺さんのことも連れて行くよなあ」
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「そんでもどうにか家も拵えたから、爺ことも連れてくべよなあ」
おつぎの声は次第に潤んで低くなった。
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おつぎの聲は漸次に潤んで低くなつた。
卯平はそれでも、おつぎの声を聞くと目を閉じたまま、ほとんどはっきりとは見られないようなかすかな笑いが浮かぶのであった。
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卯平はそれでもおつぎの聲を聞くと目を瞑つた儘、殆ど明瞭とは見られぬやうな微かな笑ひが泛ぶのであつた。
「どういうのを建てた」
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「どうえの建てゝえ」
卯平はさすがに聞きたかった。
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卯平は有繋に聞きたかつた。
「どういうのって爺さんは、焼けた柱を掘っ立てたのよ。そんだから壁も塗らないのよ」
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「どうえのつて爺は、燒けた柱掘立てたのよ、そんだから壁も塗んねえのよ」
「そんじゃ、藁か萱で塞いだんでもあろう」
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「そんぢや、藁か萱でおツ塞えたんでもあんびや」
「うん、そうだあ。そんだから触るとがさがさするんだよ」
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「うむ、さうだあ、そんだから觸つとがさ/\すんだよ」
こう言って、おつぎの声は少しはっきりとして来た。
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斯ういつておつぎの聲は少し明瞭として來た。
おつぎは恥じらいを含んだ様子を作った。
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おつぎは羞を含んだ容子を作つた。
卯平は悲惨な焼け小屋を思うと、自分が与吉とともにしくじったことが自分を苦しめて、ひどく辛かった。
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卯平は悲慘な燒小屋を思ふと、自分が與吉と共に失錯つたことが自分を苦めて酷く辛かつた。
彼はにわかに目をしかめた。
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彼は俄に目を蹙めた。
「痛いのか」
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「痛えのか」
おつぎは目ざとくそれを見て、心もとなげに言った。
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おつぎは目敏くそれを見て心もとなげにいつた。
おつぎはやつれて沈んだ卯平のそばにいると、つい自分も沈んでしまって、ただじっとすくんだようになっているよりほかはなかった。
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おつぎは窶れて沈んだ卯平の側に居ると、遂自分も沈んで畢つて只凝然と悚んだやうに成つて居るより外はなかつた。
それでも、おつぎは長い時間をそうして空しく費やすことは許されなかった。
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それでもおつぎは長い時間をさうして空しく費すことは許容されなかつた。
「また来るからな」
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「又來つかんな」
と、おつぎは沈んだ声で言って出て行くのを、後で卯平の目尻からは涙が少し漏れて、その小さな玉がしばらくやつれた皺に引っ掛かって、そうしてほろりと枕に落ちるのであった。
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とおつぎは沈んだ聲でいつて出て行くのを、後で卯平の眥からは涙が少し洩れて、其の小さな玉が暫く窶れた皺に引掛つてさうしてほろりと枕に落ちるのであつた。
勘次は一度も念仏寮を顧みなかった。
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勘次は一度も念佛寮を顧みなかつた。
五、六日過ぎて、与吉はまた医者へ連れられた。
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五六日過ぎて與吉は復た醫者へ連れられた。
医者は汚くなった包帯を解いて、どろりとした白い薬をまた陶製の板で練って貼った。
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醫者は穢く成つた繃帶を解いてどろりとした白い藥を復た陶製の板で練つて貼つた。
先ごろのよりも濃くして貼ったから、もうこれで遠い道のりをわざわざ来なくても、これを時々貼ってやれば自然に乾いてしまうだろうと、その白い薬と、それからガーゼとを袋へ入れてくれた。
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先頃のよりも濃くして貼つたからもう此れで遠い道程を態々來なくても此れを時々貼つてやれば自然に乾いて畢ふだらうと、其の白い藥とそれからガーゼとを袋へ入れてくれた。
与吉はにわかに勢いづいた。
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與吉は俄に勢ひづいた。
彼は時々、卯平のそばへも行った。
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彼は時々卯平の側へも行つた。
卯平は横になった目に与吉の包帯を見て、その心を痛めた。
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卯平は横臥した目に與吉の繃帶を見て其の心を痛めた。
ある日与吉が行った時、先ごろ念仏の時に卯平へ酒を勧めた小柄な爺さんが、枕元にいた。
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或日與吉が行つた時、先頃念佛の時に卯平へ酒を侑めた小柄な爺さんが枕元に居た。
「お前、そんなに力を落とすなよ。これくらいの火傷なんぞどうするもんじゃない。おれが治してやるから。どうした、あの時からじゃ痛くはあるまい。あのまじないで火を鎮めさえすりゃ奇態だから」
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「おめえ、さうだに力落すなよ、此らつ位な火傷なんぞどうするもんぢやねえ、俺れ癒してやつから、どうした彼ん時からぢや痛かあんめえ、彼の禁厭で火しめしせえすりや奇態だから」
そう言って爺さんは、仏壇の隅に置いた燈明皿を出して、その油を火傷へ塗った。
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さういつて爺さんは佛壇の隅に置いた燈明皿を出して其の油を火傷へ塗つた。
卯平はそのするままに任せて動かなかった。
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卯平は其の爲る儘に任せて動かなかつた。
「力を落としちゃだめだから。おれなんざこんな所じゃない。こっちの腕、馬に噛まれた時には、自分で見ちゃいられないって言われたっけが。そんでもおれは自分で手拭いの端をこう歯でくわえて、ぎいっと縛って、そうしておれは馬を曳いて来たな。汗は豆粒くらいのがぼろぼろ垂れたっけが、そんでもとうとう我慢しちまった。何でも力を落としさえしなけりゃ、治るのはすぐだから。年を取っちゃ治りが面倒だの何のって、そんなことはないから」
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「力落しちや駄目だから、俺らなんざこんな處ぢやねえ、こつちな腕、馬に咬つた時にや、自分で見ちやえかねえつて云はつたつけが、そんでも俺れ自分で手拭の端斯う齒で咥えてぎいゝつと縛つて、さうして俺ら馬曳いて來たな、汗は豆粒位なのぼろ/\垂れつけがそんでも到頭我慢しつちやつた、何でも力落しせえしなけりや癒んな直だから、年寄つちや癒りが面倒だの何だのつてそんなこたあねえから」
爺さんはひたすら卯平の元気を引き立てようとした。
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爺さんは只管卯平の元氣を引立てようとした。
「おれはそんだが、そんな怪我をしても馬は憎くはないのよ。馬に迷うのが癖で、ひひんと騒いだところへ、おれが手を横へ出して抑えたもんだから、畜生、見境もなく噛んだんだからなあ」
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「俺らそんだが、さうえ怪我しても馬は憎かねえのよ、馬に煎れんのが癖でひゝんと騷いだ處俺れ手横さ出して抑えたもんだから畜生見界もなく噛ツたんだからなあ」
と、彼は酒を飲んではいなかったので声は低かったが、それでも次第に勢いを加えていた。
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と彼は酒を飮んでは居なかつたので聲は低かつたが、それでも漸々に勢ひを加へて居た。
「おれは白い薬を貼ったんだぞ」
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「俺ら白え藥貼つたんだぞ」
与吉はさっきから油を塗った卯平の傷に目を注いでいて、こう突然に言った。
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與吉は先刻から油を塗つた卯平の瘡痍に目を注いで居てかう突然にいつた。
「なあに、そんな物なんざ貼らなくたって、お前らのよりはこっちのほうが早く治るから」
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「なあに、さうだ物なんざ貼んねえツたつて汝ツ等がよりやこつちの方が早く癒つから」
小柄な爺さんは、しばらく手元へ置いた油の皿を再び仏壇の隅へしまった。
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小柄な爺さんは暫く手もとへ置いた油の皿を再び佛壇の隅へ藏つた。
「そんでも、おれのことはもう、来なくても治るからいいと言って薬をよこしたんだぞ」
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「そんでも俺れこたはあ、來なくつても癒つからえゝつて藥よこしたんだぞ」
与吉は少し間を隔てて、おずおずと言った。
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與吉は少し間を隔てゝ怖づ/\いつた。
「治るもんかい、お前らが」
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「癒るもんかえ、汝等が」
小柄な爺さんはからかうようにして怒鳴った。
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小柄な爺さんは揶揄ふやうにして呶鳴つた。
「治らあい。そんだって痛くはない、おれらは」
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「癒らあえ、そんだつて痛かねえ俺ツ等」
与吉は驚いたように言った。
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與吉は驚いたやうにいつた。
「その白い薬というのをよこしたのか」
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「其の白え藥だツちのよこしたのか」
卯平はかすかな声で聞いた。
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卯平は微かな聲で聞いた。
「そうなんだわ」
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「さうなんだわ」
「お前は、それ、姉さんにでも貼ってもらうのか」
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「汝りや、それ姊にでも貼つてもらあのか」
「おれは貼らない」
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「俺ら貼んねえ」
「そんじゃ薬はどうしたんだい、お前は」
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「そんぢや藥はどうしたんでえ、汝りやあ」
「おとっつあんが持ってるんだから、おれは知らない」
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「おとつゝあ持つてんだから俺ら知んねえ」
与吉は上がり框に胸をもたせて、下駄の爪先で土間の土を叩きながら、卯平とこうして数語を交わした時
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與吉は上り框に胸を持たせて下駄の爪先で土間の土を叩きながら卯平と斯うして數語を交換した時
「いいから、そんな薬なんぞのことを構い立てするない。これで治るから」
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「えゝからそんな藥なんぞのこと構えたてんなえ、此れで癒つから」
と、小柄な爺さんはそばから打ち消した。
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と小柄な爺さんは傍から打ち消した。
「乞食野郎め。お前らの親父は見やがれ、お前のことは医者へ連れて行く銭を持ちやがって、ここへは一度でも来やがらない畜生だから、見ろ。それくらいだから罰が当たって丸焼けになっちまうんだ」
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「乞食野郎奴、汝ツ等が親爺は見やがれ、汝こた醫者さ連れてく錢持つてけつかつて、此處さは一度でも來やがんねえ畜生だから、見ろう。其のツ位だから罰當つて丸燒に成つちやあんだ」
と、爺さんはさらに独り憤った語勢で言った。
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と爺さんは更に獨憤つた語勢を以ていつた。
「おとっつあんは、爺さんに焼かれたって言ってるんだあ」
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「おとつゝあは爺に燒かつたツちツてんだあ」
与吉は勢いに圧されて恥じるようにしながら、やっと言った。
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與吉は勢ひに壓せられて羞むやうにしながら漸といつた。
「お前らの親父めが言ったのか」
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「汝等親爺奴云つたのか」
爺さんはさらに
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爺さんは更に
「お前は何と言った、それで」
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「汝りや何ちつたそんで」
と怒鳴った。
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と呶鳴つた。
与吉はしょげて、しばらく黙った。
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與吉は悄れて暫く沈默した。
「おれは火に当たってたら木の葉にくっついたんだって言ったんだあ」
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「俺ら火あたつてたら木の葉さくつゝえたんだつて云つたんだあ」
「そう言われても仕方がないよ」
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「さう云はつても仕方ねえよ」
与吉が言い終わらないうちに、卯平は言葉を挟んだ。
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與吉のいひ畢らぬ内に卯平は言辭を挾んだ。
「べらぼう、燃やしたくて燃やすものがあるもんか」
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「箆棒、つん燃したくつて、つん燃すもの有るもんか」
爺さんは少し激して
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爺さんは少し激して
「過ちだもの、後で何と言ったって仕方があるもんじゃない」
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「過失だもの後で何ちつたつて仕やうあるもんぢやねえ」
と、独りで力んだ。
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と獨で力んだ。
「そんでも気の毒で来られまいって言ったあ」
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「そんでも氣の毒で來らんめえつて云つたあ」
与吉はぽつりと言った。
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與吉はぽさりといつた。
やや大きくなった彼は、怒鳴る爺さんの前に恐怖を抱いたが、また抑えられることにかすかな反抗心を持っていた。
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稍大きく成つた彼は呶鳴る爺さんの前に恐怖を懷いたが又壓へられることに微かな反抗力を持つて居た。
「爺さんのことを来られまいって言ったのか。姉さんも言ったのかあ」
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「爺こと來らんめえつて云つたのか、姊も云つたのかあ」
「姉さんは言わない。姉さんが爺さんの所へ行くというと、おとっつあんが怒るんだ。そうしたら姉さんに怒られたんだあ」
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「姊は云はねえ、姊爺が處さ行ぐつちとおとつゝあ怒んだ、さうしたら姊に怒らつたんだあ」
与吉は、自分の心に少しの隔てをも持っていない卯平の前に、知っていることを誇るように言った。
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與吉は自分の心に少しの隔てをも有して居らぬ卯平の前に知つてることを矜るやうにいつた。
「お前のことは怒らないのか」
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「汝こた怒んねえのか」
小柄な爺さんは、与吉の隠さない言葉に少し力んだ勢いが抜けたようになって、こう言った。
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小柄な爺さんは與吉の隱さぬ言辭に少し力んだ勢ひが拔けたやうになつて斯ういつた。
「おれのことは怒らない。おれは怒ったっくらい逃げちまうから」
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「俺れこた怒んねえ、俺ら怒つたつ位遁げつちやあから」
与吉の言うのを聞いて、爺さんの憤りは和らげられた。
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與吉のいふのを聞いて爺さんの憤りは和げられた。
卯平は青い顔をして、じっと閉じた目をしかめて聞いていた。
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卯平は蒼い顏をして凝然と瞑つた目を蹙めて聞いて居た。
囲炉裏には、そだの一枝もくべてなかった。
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圍爐裏には麁朶の一枝も燻べてなかつた。
三人はしばらくぽつねんとした。
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三人は暫くぽさりとした。
「爺さん、くれないか」
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「爺くんねえか」
与吉は危ぶむように言った。
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與吉は危むやうにいつた。
「お前は何がほしいというんだ」
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「汝りや何欲しいつちんだ」
小柄な爺さんは、底力のある声を低くして言った。
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小柄な爺さんは底力の有る聲を低くしていつた。
「おれは一銭もないから」
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「俺ら一錢もねえから」
と、卯平はこそばゆいある物が喉へつかえたように、ごくりと唾を飲んだ。
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と卯平はこそつぱい或物が喉へ支へたやうにごつくりと唾を嚥んだ。
彼の目の皺が、余計にぎっと締まった。
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彼の目の皺が餘計にぎつと緊つた。
「おれはまだ、ちっとはあったんだったが、煙草入れといっしょに焼けちまったから」
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「俺らまあだ、ちつた有つたんだつけが、煙草入と同志に燒えつちやつたから」
彼はぽつりと投げ出して言った。
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彼はぽさりと投げ出していつた。
「煙草入れは焼けたって、銭だったら灰を掻き払えばあるはずだ。ほかに盗る奴があるまいし」
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「煙草入は燒けたつて錢だら灰掻掃けば有る筈だ、外に盜る奴ざ有りやすめえし」
小柄な爺さんの目は光った。
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小柄な爺さんの目は光つた。
「なあに分からないよ。おつうらが毎日来ていてもその話はないんだから。おれはどうせ治るか何だか分かりやしまいし、要らないな」
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「なあに分んねえよ、おつう等毎日來てゝも其の噺やねえんだから、俺らどうせ癒つか何だか分りやすめえし、要らねえな」
「なあに、おれが聞いてみなくちゃならない。出すも出さないもあるもんか」
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「なあに、俺れ聞いて見なくつちやなんねえ、出すも出さねえも有るもんか」
小柄な爺さんは呟いて
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小柄な爺さんは呟いて
「行けもう。お前は大きな体をして、くれの何のって」
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「行けはあ、汝りや大けえ姿して、呉ろうの何だのつて」
と、与吉を怒鳴りつけた。
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と與吉を呶鳴りつけた。
与吉はすごすごと出て行った。
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與吉は悄々と出て行つた。
卯平は少し目を開いて、与吉の後ろ姿を見た。
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卯平は少し目を開いて與吉の後姿を見た。
涙が止めどもなく出た。
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涙が止めどもなく出た。
彼はそれを拭おうともしなかった。
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彼はそれを拭はうともしなかつた。
二七
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二七
その夜、気温が著しく下がった。
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其の夜温度が著るしく下降した。
季節は彼岸も過ぎて四月に入っているのであるが、寒さは地に凝りついたように離れなかった。
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季節は彼岸も過ぎて四月に入つて居るのであるが、寒さは地に凝りついたやうに離れなかつた。
夜半に卯平はのっそりと起きて、囲炉裏にそだをくべた。
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夜半に卯平はのつそりと起きて圍爐裏に麁朶を燻べた。
ちろちろと鉄瓶の尻から燃え昇る火は、周囲の闇に包まれながら、やつれた卯平の顔にほの明るい光を添えた。
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ちろちろと鐵瓶の尻から燃えのぼる火は周圍の闇に包まれながら窶れた卯平の顏にほの明るい光を添へた。
彼は勢いない炎の前に目を閉じたまま、ただ沈鬱の状態を保った。
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彼は勢ひない焔の前に目を瞑つた儘只沈鬱の状態を保つた。
彼はほとんど動かないようにして、捨てておけばすっと深く沈んでしまったように冷めて行く火へ、ぽちりぽちりとそだを足していた。
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彼は殆んど動かぬやうにして棄てゝ置けばすつと深く沈んで畢つたやうに冷めて行く火へぽちり/\と麁朶を足して居た。
彼はしばらく我を失ったようにしていて、そだの火が周囲の闇に押しつけられようとしてわずかにその勢いを保った時、彼はすっと立ち上がった。
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彼は暫く自失したやうにして居て麁朶の火が周圍の闇に壓しつけられようとして僅に其の勢ひを保つた時彼はすつと立ち上つた。
彼のただれた横頬は、もう火の消えようとしている薄明かりにぼんやりとした。
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彼の糜爛した横頬はもう火の氓びようとして居る薄明りにぼんやりとした。
火はげっそりと落ちて、彼の姿が消え入ろうとした。
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火はげつそりと落ちて彼の姿が消え入らうとした。
彼は戸を開けて、よろけながら出た。
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彼は戸を開けて踉蹌けながら出た。
寒い風が冷たい刃を浴びせた。
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寒い風が冷たい刄を浴びせた。
卯平はぞっとした。
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卯平は悚然とした。
勘次ら三人は、その夜も固まって薄い蒲団にくるまった。
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勘次等三人は其の夜も凝集つて薄い蒲團にくるまつた。
勘次は足に非常な冷たさを感じて、うとうととしていた眠りから醒めた。
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勘次は足に非常な冷たさを感じて、うと/\として居た眠から醒めた。
手足を伸ばせばくくりつけた萱や篠の葉に触れて、かさかさと鳴るほど狭い室内を、寒さは束ねた松葉の先でつつくように、夜通しその隙間を狙って止まなかった。
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手足を伸せば括りつけた萱や篠の葉に觸れてかさ/\と鳴る程狹い室内を、寒さは束ねた松葉の先でつゝくやうに徹宵其隙間を狙つて止まなかつた。
勘次は目が冴えてしまった。
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勘次は目が冴えて畢つた。
彼は北に枕していた。
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彼は北に枕して居た。
後ろの林が性急に騒いでは、また静まって、そうしてざわざわと鳴った。
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後の林が性急に騷いでは又靜まつてさうしてざわ/\と鳴つた。
北風が立ったのだ。
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北風が立つたのだ。
低い粟の茎の屋根から、そのくくりつけた萱や篠の葉には、冴えた耳にやっと聞き取れるような、さらさらとかすかに何かを打ちつけるような響きが止まない。
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低い粟幹の屋根から其括りつけた萱や篠の葉には冴えた耳に漸と聞とれるやうなさら/\と微かに何かを打ちつけるやうな響が止まない。
次第にその響きが消えて、隙間を求めて入り込む寒さの度合いが加わった。
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漸次に其の響を消滅して、隙間を求めて侵入する寒さの度が加はつた。
どこかで凍った土へ響くような鶏の声が甲高く聞こえると、夜は軒の隙間から明るくなった。
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何處かで凍てた土へ響くやうな雞の聲が疳走つて聞えると夜は檐の隙間から明るくなつた。
勘次はおつぎを起こした。
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勘次はおつぎを起した。
彼は夜が明ければ、蒲団に固くなっているよりも火に当たったほうがはるかによかった。
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彼は夜が明ければ蒲團に堅くなつて居るよりも火にあたつた方が遙によかつた。
彼は明けるのを待ち遠しくしていた。
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彼は明けるのを待遠にして居た。
おつぎは外へ出ようとした。
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おつぎは外へ出ようとした。
外は意外に積もりかけた雪が白かった。
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外は意外に積り掛けた雪が白かつた。
さらに積もりつつある大粒な雪が、北から斜めに空間を掻き乱して飛んでいる。
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更に積りつゝある大粒な雪が北から斜に空間を掻亂して飛んで居る。
おつぎはしばらく立ちすくんだ。
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おつぎは少時立ち悚んだ。
大粒な雪を投げながら吹き落ちる北風が、ごうっと寒さを煽った。
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大粒な雪を投げつゝ吹き落ちる北風がごつと寒さを煽つた。
勘次は狭い土間に掻き集めてあった落ち葉やそだに火を点けた。
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勘次は狹い土間に掻き集めてあつた落葉や麁朶に火を點けた。
煙は低い軒を這って、ぐるぐると空間が回転するように見えながら、飛び散る忙しい雪のために逃げ行く道を妨げられたように、低くさまよって行く。
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烟は低い檐を偃つて、ぐる/\と空間が廻轉するやうに見えつゝ飛び散る忙しい雪の爲に遁げ行く道を妨げられたやうに低く彷徨うて行く。
おつぎは外側に置いた手桶を取った。
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おつぎは外側に置いた手桶を執つた。
北風の吹きつける雪は、一つの手桶を半分白くしていた。
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北風の吹きつける雪は一つの手桶を半分白くして居た。
おつぎが低い軒の下を一歩踏み出したら、北風は待っていたというように、その乱れた髪の毛を吹きまくって、大粒な雪が争って首筋へ群がり落ちて、瞬く間に消えた。
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おつぎは低い檐の下を一歩踏み出したら、北風は待つて居たといふやうに、其の亂れた髮の毛を吹き捲つて、大粒な雪が爭つて首筋へ群り落て瞬間に消えた。
そうしてまた、着物の上に軽く柔らかに止まった。
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さうして又衣物の上に輕く軟かに止つた。
おつぎは、釣瓶の竹竿が北から打ちつける雪のために、縦に一条の白い線を描きつつあるのを見た。
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おつぎは釣瓶の竹竿が北から打つける雪の爲に竪に一條の白い線を描きつゝあるのを見た。
ちらちらと目をくらますような雪の中に、樹木はことごとく純白な柱を立て、釣瓶の縁は白い丸い輪を描いている。
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ちら/\と目を昏すやうな雪の中に樹木は悉皆純白な柱を立て、釣瓶の縁は白い丸い輪を描いて居る。
おつぎが竹竿へ手を掛けると、軽い柔らかな雪はさらりと崩れて落ちた。
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おつぎは竹竿へ手を掛けると輕い軟かな雪はさらりと轉けて落ちた。
おつぎが一杯を汲んでひょいと振り返った時、後ろの竹の林が強い北風に首筋を押しつけられては、雪をつかんでぱあっと投げつけられながら、力の限り争おうとして苦しんでいるのを見た。
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おつぎは一杯を汲んでひよつと顧つた時後の竹の林が強い北風に首筋を壓しつけては雪を攫んでぱあつと投げつけられながら力の限は爭はうとして苦悶いて居るのを見た。
おつぎは見るなと吹きつける北風を正面に受けて、息がむっと詰まるように感じて、ふと横手を向いた。
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おつぎは見るなと吹きつける北風を當面に受けて呼吸がむつとつまるやうに感じてふと横手を向いた。
少し離れた柿の木の下に、おつぎは吸いつけられたように疑いの目を見開いた。
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少し離れた柹の木の下におつぎは吸ひつけられたやうに疑ひの目を睜つた。
おつぎは釣瓶を放して、少し柿の木の下に近づいた。
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おつぎは釣瓶を放して少し柹の木の下に近づいた。
「おとっつあん」
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「おとつゝあ」
と、おつぎは底の粘る草履を捨てて、激しく呼んで駆け込んだ。
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とおつぎは底の粘る草履を捨てゝ激しく呼んで驅け込んだ。
「大変だよ、おとっつあん」
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「大變だよ、おとつゝあ」
と、今度は少し声を殺すようにして勘次を促した。
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と今度は少し聲を殺すやうにして勘次を促した。
勘次は怪訝な鋭い目でおつぎを見た。
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勘次は怪訝な鋭い目を以ておつぎを見た。
「よう、おとっつあん」
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「よう、おとつゝあ」
おつぎの節度を失った慌ただしさが、勘次を庭に走らせた。
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おつぎの節制を失つた慌しさが勘次を庭に走らせた。
勘次は震えた。
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勘次は戰慄した。
柿の木の下には、冷たい卯平が横たわっていたのである。
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柹の木の下には冷たい卯平が横たはつて居たのである。
その大きな体は少し柿の木にもたれかかりながら、胸から脚へまだらに雪を浴びていた。
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其大きな體躯は少し柹の木に倚り掛りながら、胸から脚部へ斑に雪を浴びて居た。
荒縄が彼の手を離れて、横に体を越えていた。
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荒繩が彼の手を轉けて横に體躯を超えて居た。
「爺さん」
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「爺」
と、おつぎはその耳に口を当てて怒鳴った。
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とおつぎは其の耳に口を當てゝ呶鳴つた。
冷たい卯平は、ぐったりとうなだれたままである。
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冷たい卯平はぐつたりと俛首れた儘である。
少し傾げた彼の横頬にただれた火傷が、勘次をぞっとさせた。
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少し傾げた彼の横頬に糜爛した火傷が勘次を悚然とさせた。
勘次は夜に荷車で運んだ後、卯平を見るのは初めてであった
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勘次は夜荷車で運んだ後卯平を見るのは始めてゞあつた
「おとっつあんは、どうしたっていうんだろうな」
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「おとつゝあは、どうしたつちんだんべな」
おつぎは勘次を叱って、卯平の体を起こしながら、白く掛かった雪を手で払った。
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おつぎは勘次を叱つて、卯平の身體を起しながら白く掛つた雪を手で拂つた。
勘次はおずおずと手を貸した。
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勘次は怖づ/\手を藉した。
卯平の力ない体は、ようやく二人の手で運ばれた。
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卯平の力ない身體は漸く二人の手で運ばれた。
勘次は簀の子の上の筵に横たえて、気を失ったようにぼんやりとして立った。
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勘次は簀の子の上の筵に横へて、喪心したやうに惘然として立つた。
彼はまた、卯平のただれた火傷を見た。
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彼は復た卯平の糜爛した火傷を見た。
彼は何を思ったか、忙しく雪を蹴立てて、桑畑の間を過ぎて南の家に走った。
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彼は何を思つたか忙しく雪を蹴立てゝ、桑畑の間を過ぎて南の家に走つた。
いったん開けてまたそっと閉ざした表の戸口から、突然に
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一旦開けて又そつと閉した表の戸口から突然に
「起きてないか」
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「起きめえか」
と、彼は激しく怒鳴った。
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と彼は激しく呶鳴つた。
彼は褞袍を着て竈の前に火を焚いている女房を見た。
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彼は褞袍を着て竈の前に火を焚いて居る女房を見た。
「何だい」
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「何でえ」
と、亭主の驚いて言う声が近く聞こえた。
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と亭主の驚いていふ聲が近く聞えた。
勘次も驚いて、上がり框の蒲団から首をもたげた亭主を見た。
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勘次も驚いて上り框の蒲團から首を擡げた亭主を見た。
「大変なことができたよ、おれの家の」
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「大變なこと出來たよ、俺ら家の」
と、勘次はこそばゆい喉からようやくそれだけを吐き出した。
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と勘次はこそつぱい喉から漸くそれだけを吐き出した。
「来てくれないか」
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「來てくんねえか」
と、彼は簡単にそう言って、思い出したようにまた雪を蹴って走った。
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と彼は簡單にさういつて、思ひ出したやうに又雪を蹴つて走つた。
慌てた彼は、敷居もまたがなかった。
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慌てた彼は閾も跨なかつた。
南の家の亭主は、勘次の様子を見てただごとでないことを知った。
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南の家の亭主は勘次の容子を見て尋常でないことを知つた。
しかしながら彼は、きわめてはっきりしない事件に赴くには、すぐに起こる多少の懸念が、吹きまくる雪に逆らって、蓑も笠も持たずに走って行くほど慌てさせるわけには行かなかった。
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然しながら彼は極めて不判明な事件に赴くには、直に起る多少の懸念が吹き捲る雪に逆つて、蓑も笠も持たずに走つて行く程慌てさせる譯には行かなかつた。
彼は土間に転がった下駄を探した。
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彼は土間に轉がつた下駄を探した。
非常な勢いで積もろうとする雪は、庭から庭を繋ぐ桑畑の間に下駄の運びを鈍くした。
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非常な勢ひで積らうとする雪は、庭から庭を繼ぐ桑畑の間に下駄の運びを鈍くした。
彼が勘次の小屋を覗いた時は、低く、かつ狭い入口を自分の体が塞いで、内を薄暗くした。
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彼が勘次の小屋を覗いた時は低く且狹い入口を自分の身體が塞いで内を薄闇くした。
外の白い雪を見た彼の目が、しばらくくらんだ。
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外の白い雪を見た彼の目が暫く昏んだ。
彼はただ、勘次が与吉を叱る声を耳のそばで聞いた。
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彼は只勘次が與吉を叱る聲を耳の傍で聞いた。
勘次が帰った時、卯平は横たえたままであった。
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勘次が歸つた時卯平は横へた儘であつた。
浅く掛かっていた雪が溶けて、卯平の褞袍が少し濡れていた。
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淺く掛つて居た雪が溶けて卯平の褞袍が少し濡れて居た。
彼はまた、ただれた火傷を見るとともに、卯平の懐へ手を入れているおつぎを見た。
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彼は復た糜爛した火傷を見ると共に、卯平の懷へ手を入れて居るおつぎを見た。
「おとっつあん、暖かいんだよ」
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「おとつゝあ、暖えんだよ」
おつぎは言って、また
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おつぎはいつて又
「息をついてるんだよ」
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「呼吸つえてんだよ」
他を憚る者のように、低く声を殺して言った。
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他を憚るものゝやうに低く聲を殺していつた。
勘次は勢いづいた。
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勘次は勢ひづいた。
彼は突然、与吉を起こした。
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彼は突然與吉を起した。
蒲団をまくって与吉の腕を引いた。
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蒲團を捲つて與吉の腕を引いた。
与吉は例にない厳しい扱いに驚いて、まだ眠い目を見開いた。
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與吉は例にない苛酷な扱ひに驚いてまだ眠い目を睜つた。
「急いで、それ、着物」
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「急えて、それ、衣物」
と、勘次はただおろおろしている与吉を叱りつけた。
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と勘次は只おろ/\して居る與吉を叱りつけた。
「そんじゃまあよかった。何にしても蒲団へ寝かせたほうがいいな。暖まりさえすりゃ、だんだんよくなるだろうから」
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「そんぢやまあよかつた。何しても蒲團へ寢かせた方がえゝな、暖まりせえすりや段々よくなつぺから」
南の亭主は、数分前から二人を心の底から狼狽させた事件の簡単な説明を聞いた時、言った。
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南の亭主は數分時の前から二人を衷心より狼狽せしめた事件の簡單な説明を聞いた時いつた。
「着物が濡れたようだな。脱がせたらよかろう。それにひどく汚れちまったな」
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「衣物濡れたやうだな、脱せたらよかつぺ、それに酷く汚れつちやつたな」
亭主は言って、まくった蒲団へ手を当ててみた。
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亭主はいつて捲つた蒲團へ手を當て見た。
「これは暖かくていい塩梅だ。冷やしちゃいけない」
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「此ら暖くつてえゝ鹽梅だ、冷させちやえかねえ」
彼は掛け蒲団をとっぷりとかぶせた。
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彼は掛蒲團をとつぷり蓋した。
「そうだな、着物は焙る間は仕方がないな。そんじゃ褞袍でもおれの家から持って来るといいな。この蒲団だけじゃ暖まれまい、これは」
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「さうだな衣物は焙る間仕やうねえなそんぢや褞袍でも俺ら家から持つて來つとえゝな、此の蒲團だけぢや暖まれめえこら」
彼は少し権威を持った態度で言った。
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彼は少し權威を有つた態度でいつた。
狭い小屋の焚き火は消えていた。
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狹い小屋の焚火は消えて居た。
怪訝な様子をして遠ざかっていた与吉が、落ち葉を足してしばらくくすぶらせた。
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怪訝な容子をして遠ざかつて居た與吉が落葉を足して暫く燻ぶらした。
「お前はまた、それ、おつうを見てやれ」
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「汝また、それ、おつう見てやれ」
勘次は与吉に注意の言葉を残して、駆け出して行った。
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勘次は與吉に注意の言葉を殘して驅け出して行つた。
「蒲団も持てるなら持って来たほうがいいな」
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「蒲團も持てらば持つて來た方がえゝな」
南の亭主の声は、だんだんに大粒になって飛んでいる雪の乱れの中に消え行く勘次の後から追いかけた。
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南の亭主の聲は段々に大粒に成つて飛んで居る雪の亂れの中に消え行く勘次の後から追ひ掛けた。
勘次は二人を加えて勢いづけられた手を素早く動かして、まだ暖まっている蒲団へそっと卯平を横たえた。
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勘次は二人を加へて勢ひづけられた手を敏活に動かして、まだ暖まつて居る蒲團へそつと卯平を横へた。
卯平の冷たい体には、落ち葉の火でおつぎが焙った褞袍と、それから余計な蒲団とが覆われた。
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卯平の冷たい身體には、落葉の火でおつぎが焙つた褞袍と夫から餘計な蒲團とが蔽はれた。
卯平のかすかな息が、だんだんと回復して来る。
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卯平の微かな呼吸が段々と恢復して來る。
勘次はどんどんと落ち葉やそだを焚いた。
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勘次はどん/\と落葉や麁朶を焚いた。
彼はその時、雪の林に燃料を探すことの難しさを気にかける暇さえ持たなかったのである。
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彼は其の時雪の林に燃料を探すことの困難なことを顧慮する遑さへ有たなかつたのである。
午後になって、この例年にない雪も止んだ。
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午後になつて此の例年にない雪も歇んだ。
空が、いかにもがっかりしたようにぼんやりした。
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空が左もがつかりしたやうにぼんやりした。
おつぎが騒いだ心も静まって、また水を汲みに出た時、釣瓶の底は重くなって、抑えた鍵の手から外れようとしていた。
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おつぎが騷いだ心も靜まつて又水を汲みに出た時、釣瓶の底は重く成つて抑へた鍵の手から外れようとして居た。
後ろの竹の林はべったりとうなだれた。
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後の竹の林はべつたりと俛首れた。
冬のようにさらさらと潔い落ち方はしないで、湿りを持った雪は竹のこずえをぎっとつかんで放すまいとしている。
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冬のやうにさら/\と潔い落やうはしないで、濕ひを持つた雪は竹の梢をぎつと攫んで放すまいとして居る。
竹は苦しい息をするように、小さな枝が一つずつぴらりぴらりと動いて、その圧迫から逃れようと努めつつある。
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竹は苦しい呼吸をするやうに小さな枝が一つづゝぴらり/\と動いて其の壓迫から遁れようと力めつゝある。
北から見れば白い柱であった樹木の幹も、ことごとく以前の姿になろうとして、ずんずんと雪を転がした。
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北から見れば白い柱であつた樹木の幹も悉皆以前の姿に成らうとしてずん/\と雪を轉がした。
庭から先の桑畑は、ただいっぱいに白い。
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庭から先の桑畑は唯一杯に白い。
地上数寸の深さに、雪は積もっていた。
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地上數寸の深さに雪は積つて居た。
桑畑の端のほうに薹の立った菜種の、少し黄色く膨れた蕾は、すっくとその雪から伸び上がっている。
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桑畑の端の方に薹に立つた菜種の少し黄色く膨れた蕾は聳然と其雪から伸び上つて居る。
そこらには枯れた蓬も、ぽつりぽつりと白い褥に上体をもたげた。
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其處らには枯れた蓬もぽつり/\と白い褥に上體を擡げた。
頬白か何かが、菜種の花や枯れ蓬の陰の浅い雪に短い脛を立ててみたいのか、桑の枝をしなやかに蹴って活発に飛び下りた。
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頬白か何かゞ菜種の花や枯蓬の陰の淺い雪に短い臑を立てゝ見たいのか桑の枝をしなやかに蹴つて活溌に飛びおりた。
そうしてまた枝に移った。
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さうして又枝に移つた。
後ろの田圃では、水はけの悪い田には降っているうちから雪は溶けつつあったので、畦がことさらに白い線を描いて目立った。
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後の田圃では、水こけの惡い田には降つてる内から雪は溶けつゝあつたので、畦畔が殊更に白い線を描いて目に立た。
そこにも堀の辺りの、赤い実の錆びた野茨の枝に縦になったり横になったりして、ずんずんと消え行く雪を喜ぶように、頬白がちょんちょんと渡った。
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其處にも堀の邊の赤い實の錆びた野茨の枝に堅に成つたり横に成つたりして、ずん/\と消え行く雪を悦ぶやうに頬白がちよん/\と渡つた。
夕方には、田圃の白い線も途切れ途切れになった。
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夕方には田圃の白い線も途切れ/\に成つた。
どのこずえも白い物を止めないで、疲れたように濡れていた。
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何處の梢も白い物を止めないで疲れたやうに濡て居た。
雪はことごとく土に落ち着いてしまった。
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雪は悉く土に落ついて畢つた。
その落ち着いた雪を突き上げて、どこの屋根でも白い大きな塊のように見えた。
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其落ついた雪を突き扛げて何處の屋根でも白い大きな塊のやうに見えた。
枯木の間には、ことさらそれがはっきりと目立った。
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枯木の間には殊更それが明瞭と目に立つた。
黄昏の煙が青く割れた空へ吸われて、静かな日は暮れた。
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黄昏の煙が蒼く割れた空へ吸はれて靜かな日は暮れた。
卯平はすやすやと息を回復したままで、口は利かない。
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卯平はすや/\と呼吸を恢復した儘で口は利かない。
ぴしゃぴしゃとしぶきの泥を蹴りながら、粟の茎の軒からも雪の解けて滴る勢いのいい雨垂れが止まないで、夜になった。
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ぴしや/\と飛沫の泥を蹴りつゝ粟幹の檐からも雪の解けて滴る勢ひのいゝ雨垂が止まないで夜に成つた。
その夜、南の女房は蒲団を二枚肩に掛けて持って来た。
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其の夜南の女房は蒲團を二枚肩に掛けて持つて來た。
一つには義理が済まないというので、卯平の様子を見に来たのである。
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一つには義理が濟まぬといふので卯平の容子を見に來たのである。
それは二度目であった。
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其れは二度目であつた。
手ランプもない暗い小屋の内にしばらく語って女房が去った後、与吉は卯平の裾へ潜らせた。
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手ランプもない闇い小屋の内に暫く語つて女房が去つた後、與吉は卯平の裾へ潜らせた。
おつぎはその一枚の蒲団を掛けて、卯平に添って身を横たえた。
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おつぎは其の一枚の蒲團を掛けて卯平に添うて身を横たへた。
勘次は土間へ筵を敷いて、他の一枚の蒲団をかぶって、くるくると身を屈めた。
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勘次は土間へ筵を敷いて他の一枚の蒲團を被つてくる/\と身を屈めた。
彼は足を伸ばしたまま上体をもたげて、一度暗い床の上を見た。
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彼は足を伸ばした儘上體を擡げて一度闇い床の上を見た。
ぴしゃぴしゃと落ちる滴が、しばらく彼の耳の底を打った。
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ぴしや/\と落ちる涓滴が暫く彼の耳の底を打つた。
次の日は、朝からきらきらと照った。
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次の日は朝からきら/\と照つた。
暖かい日光は、勘次の土間まで這った。
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暖かい日光は勘次の土間まで偃つた。
地上はすべて、柔らかな熱で蒸された。
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地上は凡て軟かな熱度を以て蒸された。
物陰に一夜保ってゆっくりした雪が、慌てて溶けた。
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物陰に一夜保つてゆつくりした雪が慌てゝ溶けた。
土がしっとりとして落ち着けられた。
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土がしつとりとして落ちつけられた。
卯平は目を開いた。
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卯平は目を開いた。
彼は不審そうに辺りを見た。
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彼は不審相にあたりを見た。
執念く土にひっついていた冬が、蒸されるような暖かさに居たたまらなくなって慌てて逃げ去った後へ、一遍に来た春の光の中に、彼は意識を回復した。
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執念く土にひつゝいて居た冬が、蒸されるやうな暖かさに居たゝまらなく成つて倉皇と遁げ去つた後へ一遍に來た春の光の中に彼は意識を恢復した。
彼は寒さが骨に徹するその夜のことをはっきりと頭に浮かべて判断するのには、気候の変化があまりに急激であった。
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彼は寒さが骨に徹する其の夜のことを明瞭に頭に泛べて判斷するのには氣候の變化が餘りに急激であつた。
彼はその間、人事不省の幾時間を過ごした。
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彼は其の間人事不省の幾時間を經過した。
彼は与吉の無意識な告げ口から、ひどく悲しくはかなくなって、後で独り泣いた。
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彼は與吉の無意識な告口から酷く悲しく果敢なくなつて後で獨で泣いた。
怒りの情を燃やすのには、彼はあまりに疲れていた。
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憤怒の情を燃すのには彼は餘に彼れて居た。
しかし自分でもその時、自分の身に変事の起ころうとすることは少しも予期していなかった。
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然し自分でも其の時、自分の身に變事の起らうとすることは毫も豫期して居なかつた。
彼は囲炉裏のそばで、夜のむしろ冷たい火に当たりながら、ふと気が変わって、ついと庭へ出た。
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彼は圍爐裏の側で、夜の寧ろ冷い火にあたりながらふと氣が變つてついと庭へ出た。
彼は何かが足にまとわったのを知った。
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彼は何かゞ足に纏つたのを知つた。
手に取ってみたら、それは荒縄であった。
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手に取つて見たらそれは荒繩であつた。
彼はそれからどうしたのか、はっきりと描いてみようとするには、頭があまりにぼんやりと疲れていた。
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彼はそれからどうしたのか明瞭に描いて見ようとするには頭腦が餘りにぼんやりと疲れて居た。
彼は勘次の庭に立った。
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彼は勘次の庭に立つた。
彼は荒縄が手にあったことに気づいた時、柿の木の低い枝にそれを引っ掛けようとして投げた。
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彼は荒繩が手に在つたことを心づいた時、柹の木の低い枝にそれを引掛けようとして投げた。
彼の不自由な手は、暗い夜にその目的を遂げさせなかった。
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彼の不自由な手は暗夜に其の目的を遂げさせなかつた。
彼は幾度投げても無駄であった。
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彼は幾度投げても徒勞であつた。
身を切るような北風が田圃を渡って、それを隔てようとする後ろの林をごうっと押さえては吹き落ちて、彼の手の動きをまったく鈍くしてしまった。
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身を切るやうな北風が田圃を渡つて、それを隔てようとする後の林をごうつと壓へては吹き落ちて、彼の手の運動を全く鈍くして畢つた。
やがて後ろの林のこずえから、斜めに雪が吹き下ろして来た。
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軈て後の林の梢から斜に雪が吹きおろして來た。
卯平はしばらくためらって、柿の木の根にその疲れた身を寄せた。
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卯平は少時躊躇して柹の木の根に其の疲れた身を倚せた。
しばらくして彼は、雪が冷たく自分の懐に溶けて不愉快に流れるのを知った。
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暫くして彼は雪が冷たく自分の懷に溶て不愉快に流れるのを知つた。
彼はそれから体が固まるように思いながら、疎らな白髪が梳られるのをも、かすかに感じた。
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彼はそれから身體が固まるやうに思ひながら、疎い白髮の梳られるのをも、微に感覺を有した。
鶏の声が耳に遠く聞こえて消えて行くのを知った。
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雞の聲が耳に遠く聞えて消滅するのを知つた。
彼はついにうとうとしてしまった。
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彼は遂にうと/\と成つて畢つた。
さらに数十分間そのままに忘れられていたならば、彼はその時自分が望んだように、冷たい骸から蘇らなかったかも知れなかった。
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更に數十分間其の儘に忘られて居たならば彼は其の時自分が欲したやうに冷たい骸から蘇生らなかつたかも知れなかつた。
勘次の冴えた目が、隙間から射す白い雪の光に欺かれて、おつぎを水汲みに出した。
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勘次の冴えた目が隙間から射す白い雪の光に欺かれておつぎを水汲みに出した。
そうして卯平は救われたのである。
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さうして卯平は救はれたのである。
「爺さん、どうした。心持ちは悪くないか、もう」
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「爺どうした、心持惡かねえか、はあ」
と、おつぎは卯平が周囲を見た時、耳へ口を当てて言った。
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とおつぎは卯平が周圍を見た時耳へ口を當てゝいつた。
「動かないでろ、爺さん。食べたい物でもないか」
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「動かねえでろ爺、喰べてえ物でもねえか」
おつぎはまた柔らかに言った。
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おつぎは復た軟かにいつた。
卯平はただうなずいた。
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卯平は只點頭いた。
「おとっつあん、そんでもちっとはしっかりしたか」
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「おとつゝあ、そんでもちつた確乎してか」
勘次はその後について聞いた。
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勘次は其の尾に跟いて聞いた。
ほっと息をついたような様子は、勘次の心の底からの喜びであった。
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ほつと息をついたやうな容子は勘次の衷心からの悦びであつた。
「おとっつあん、火傷は痛いかいまだ」
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「おとつゝあ、火傷は痛えけまあだ」
勘次はすぐに後の言葉を続けた。
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勘次は直に後の言辭を續けた。
「枕はつけられないな」
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「枕はおつゝけらんねえな」
卯平は柔らかな目をしかめるようにした。
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卯平は軟かな目を蹙めるやうにした。
勘次はふいと駆け出して、しばらく経って帰って来た時には、手に白い晒し木綿と、古新聞紙の切れ端に包んだのを持っていた。
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勘次はふいと駈け出して暫く經つて歸つて來た時には手に白い曝木綿の古新聞紙の切端に包んだのを持つて居た。
彼はそれを四つに裂いて、医者がしたように白い練り薬を腿の上でガーゼへ塗って、卯平の横頬へ貼って、晒し木綿でぐるぐると巻いた。
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彼はそれを四つに裂いて、醫者がしたやうに白い練藥を腿の上でガーゼへ塗つて、卯平の横頬へ貼つた曝木綿でぐる/\と卷いた。
彼は与吉にさえ白い薬を惜しんで、医者からもらったまましまっておいたのであった。
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彼は與吉にさへ白い藥を惜しんで醫者から貰つた儘藏つて置いたのであつた。
卯平はじっとして、勘次のするままに任せた。
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卯平は凝然として勘次の爲る儘に任せた。
不器用な、少し動けば崩れそうな包帯であったが、それでも勘次の目には心丈夫であった。
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不器用な少し動けば轉け相な繃帶であつたが夫でも勘次の目には心丈夫であつた。
彼は自分の恐怖を誘った傷が白い快い布で覆い隠されたのと、自分のなすべき仕事を果たし得たように感じられるのとで、心がにわかに軽くすがすがしくなった。
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彼は自分の恐怖を誘うた瘡痍が白い快よい布を以て掩ひ隱されたのと、自分の爲べき仕事を果し得たやうに感ぜられるのとで心が俄に輕くすが/\しくなつた。
卯平も、どうなることかはっきりとは分からないながら、心の内では喜んだ。
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卯平もどうなることか確とは分らぬながら心の内では悦んだ。
勘次はまた、どこかへ出た。
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勘次は又何處へか出た。
彼はただ心がそわそわとして、容易には落ち着かなかった。
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彼は只心がそは/\として容易くは落つかなかつた。
柔らかな春の光は情を含んだ目をまばたきしながら、彼の狭い小屋を細やかに萱や篠の隙間から覗いて、卯平の裾にも這った。
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軟かな春の光は情を含んだ目を瞬きしながら彼の狹い小屋をこまやかに萱や篠の隙間から覗いて卯平の裾にも偃つた。
卯平はしばらく目を閉じたままでいたが、またぱっちりと目を開いた。
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卯平は暫く目を瞑つた儘で居たが復たぱつちりと目を開いた。
そばにはおつぎが座っていた。
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側にはおつぎが坐つて居た。
「おつう」
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「おつう」
と、卯平は低い声で呼んだ。
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と卯平は低い聲で喚んだ。
「何だい」
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「何でえ」
おつぎはまた耳へ口を当てた。
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おつぎは又耳へ口を當てた。
卯平は右の手を出して蒲団の上へ伸ばして
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卯平は右の手を出して蒲團の上へ伸して
「熱ぼったいから一枚取ってくれないか」
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「熱ぼつてえから一枚とつてくんねえか」
力ない、すがるような声で言った。
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力ない縋るやうな聲でいつた。
「本当に暖かくなったんだよなあ。お日様までひどくまぶしくなったようなんだよ」
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「本當に暖く成つたんだよなあ日輪まで酷く眩ぽくなつたやうなんだよ」
おつぎは例の少し甘えるような口ぶりで、一枚の掛け蒲団を取った。
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おつぎは例の少し甘えるやうな口吻で一枚の掛蒲團をとつた。
「この蒲団は板っ端みたいなんだよなあ。これを取ったほうが爺さんは軽くなってよかろうな、ほんに。そう言っても、暖かくなるというのはいいもんだよ。おれは昨日らみたいじゃどうしようと思ったっけ」
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「此の蒲團は板ツ端見てえなんだよなあ、此れとつた方が爺は輕く成つてよかつぺなほんに、さう云つても暖くなるつちやえゝもんだよ、俺ら作日等見てえぢやどうすべと思つたつきや」
おつぎは掛け蒲団を四つにして、卯平の裾へ置いた。
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おつぎは掛蒲團を四つにして卯平の裾へ置いた。
「彼岸を過ぎてこんなことというのは、おれが覚えてからだってめったにはないこったから、これから暖かくなるばかりだな。麦も一日ごとに腰が引き立つな」
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「彼岸過ぎて斯うだことつちや俺ら覺えてからだつで滅多にやねえこつたから此れから暖く成るばかしだな、麥も一日毎に腰引つ立たな」
卯平はやや快さそうに言った。
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卯平は稍快よげにいつた。
「おれの家の麦は今のところじゃ村でも悪くないんだぞ。おれはそんだが、先のころは畑を耕すのはいやだったっけな、本当に。おとっつあんには、深く耕せ、深く耕さないじゃ肥料をしたって役には立たないからなんて怒られてなあ」
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「俺ら家の麥は今ん處ぢや村落でも惡かねえんだぞ、俺らそんだが先の頃ら畑耕あな厭だつけな本當に、おとつゝあにや深く耕へ、深く耕あねえぢや肥料したつて役にや立たねえからなんて怒られてなあ」
「うん、畑は深くなくちゃ穫れないものよ、それは。おれは若いころには、この間のように浅く耕すもんだとは思わなかったのだから。今じゃもう、みんな利口になってるから、おれには分からないが」
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「うむ、畑や深くなくつちや收穫んねえものよそら、俺らあ壯の頃にや此間のやうに淺く耕あもんだた思あねえのがんだから、現在ぢやはあ、悉皆利口んなつてつから俺らがにや分んねえが」
「深く耕しちゃ、逆さの旋毛を立てるみたいで、やりつけないじゃなんぼ大儀いかよなあ。そんだがおれは今じゃ、お前のほうがおれより深いくらいだなんて、おとっつあんには言われるのよ」
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「深く耕つちや逆旋毛立てる見てえで行りつけねえぢやなんぼ大儀えかよなあ、そんだが俺ら今ぢや、汝の方が俺れより深えつ位だなんておとつゝあにや云はれんのよ」
「大儀いにもよ、それは。そんでもお前はよくやるな。以前は女に三年作らせちゃ畑はできなくなると言ったくらいだ」
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「大儀えにもよそら、そんでも汝りや能くやんな、以前は女に三年作らせちや畑は出來なくなるつちつた位だ」
「そっちから、おれはいくらも耕さないんだよ、このごろは。そんでもそんなに大儀いとは思わなくなったがな、おれも」
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「そつから俺ら幾らも耕えねえんだよ此の頃らそんでもさうだに大儀えた思はなくなつたがな俺らも」
おつぎが言うのを卯平はまた柔らかに目をしかめるようにして聞きながら、軽くなった掛け蒲団を足の先で裾のほうへ寄せて、少し身動きをした。
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おつぎがいふのを卯平は又軟かに目を蹙めるやうにして聞きながら、輕く成つた掛蒲團を足の先で裾の方へこかして少し身動きをした。
おつぎはその時ちらと出した卯平の手を、初めて気がついたように
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おつぎは其の時ちらと出した卯平の手を始めて氣がついたやうに
「爺さんは手も痛くしてるんだったな。そんじゃさっき、薬を貼ってもらうとこだったっけな」
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「爺は手も痛くしてんだつけな、そんぢや先刻藥貼つて貰あとこだつけな」
おつぎは卯平の手先を手にして見た。
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おつぎは卯平の手先を手にして見た。
「こっちはそれほどはひどくないや、そんでもなあ」
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「こつちはそれ程だひどかねえやそんでもなあ」
おつぎは安心したように、そっと手を放した。
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おつぎは安心したやうにそつと手を放した。
勘次は忙しげな様子をして帰った。
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勘次は忙しげな容子をして歸つた。
彼は蒲団を二、三枚畳んだまま、帯で背負って来た。
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彼は蒲團を二三枚疊んだ儘帶で脊負つて來た。
「どうだい、おとっつあん、昨夜はそんでも寒くはなかったっけかい」
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「どうしてえおとつゝあ、昨夜はそんでも寒かなかつたつけゝえ」
彼は荷物を卯平の裾のほうへ下ろして、胸で結んだ帯を解きながら言った。
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彼は荷物を卯平の裾の方へ卸して胸で結んだ帶を解きながらいつた。
「熱ぼったいって、今蒲団を一枚取ったところなんだよ」
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「熱ぼつてえつて今蒲團一枚とつた處なんだよ」
おつぎは横合いから言った。
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おつぎは横合からいつた。
「うん、そうだ。この蒲団は返さなくちゃならないから」
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「うむ、さうだ、此の蒲團は返さなくつちやなんねえから」
勘次は独り言を言って
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勘次は獨語して
「どうした、おとっつあん、薬を貼ってちっとはよくないかい」
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「どうしたおとつゝあ、藥貼つてちつたよかねえけ」
彼はまた白い晒し木綿を見て言った。
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彼は復白い曝木綿を見ていつた。
「うん、そうだ、枕がつけられるようになったからいいことはいいに」
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「うむ、枕おつゝかるやうに成つたからえゝこたえゝに」
卯平の言うのを聞いて、勘次はいくらか誇りを持ってまた白い木綿を見た。
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卯平のいふのを聞て勘次は幾らか矜を以て又白い木綿を見た。
「おとっつあん、食べたい物でもないかい。おれは明日、川向こうへ行って来ようと思うんだ」
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「おとつゝあ、喫べてえ物でもねえけえ、俺ら明日川向さ行つて來べと思ふんだ」
勘次はまだいくらか心にわだかまりがあるというよりも、こそばゆいところが取れきらないようで、しかも努めて機嫌を取るような様子であった。
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勘次はまだ幾らか心に蟠りがあるといふよりも、こそつぱい處が取れ切らないやうで然も力めて機嫌をとるやうな容子であつた。
「うん」
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「うむ」
と卯平は言って、唾をぐっと飲んだ。
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と卯平はいつて唾をぐつと嚥んだ。
「格別もう、食べたいという物もないが」
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「格別はあ、喫べてえつち物もねえが」
彼の目にはまた改めて、柔らかな光が宿った。
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彼の目には又改めて軟かな光を有つた。
「そんじゃおとっつあん、水飴でも買って来てやったらよかろうな。与吉に隠しておけば何でもあるまいな」
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「そんぢやおとつゝあ水飴でも買つて來てやつたらよかつぺな、與吉げ隱して置けば何でも有んめえな」
おつぎはさらに卯平を顧みて
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おつぎは更に卯平を顧みて
「なあ爺さん、そのほうがよかろう」
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「なあ爺、其の方がよかつぺ」
と言いかけた。
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といひ掛けた。
卯平は、そのしかめるような目でかすかにうなずいた。
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卯平は其の蹙めるやうな目で微かに點頭いた。
「おとっつあん、どうせ茶漬け茶碗も要るから、茶碗を買って、それへ水飴を入れて縄で縛って来よう。そうするといいや」
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「おとつゝあ、どうせ茶漬茶碗も要つから茶碗買つてそれさ水飴入えて繩で縛つて來う、さうすつとえゝや」
「そうでも何でもしようよな」
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「さうでも何でもすびやな」
「それに、明日行ったらまた薬をもらって来よう。爺さんの手にも貼ってやらなくちゃ仕方がないぞ」
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「それに、明日行つたら又藥貰つて來う、爺が手さも貼つてやんなくつちや仕やうねえぞ」
「おれは言われないでも、薬は気がついてたのよ」
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「俺ら云はんねえでも藥は氣ついてたのよ」
勘次は、おつぎの言うのを迎えて聞いた。
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勘次はおつぎのいふのを迎へて聞いた。
彼の三尺帯には、その時もぎっとくくった塊があった。
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彼の三尺帶には其の時もぎつと括つた塊があつた。
その財布のわずかな蓄えは、この数日間にどれほど彼を救ったか知れなかった。
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其財布の僅な蓄へは此數日間にどれ程彼を救つたか知れなかつた。
彼はまだいくらかの日用品を求める余力を持っていた。
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彼はまだ幾らかの日用品を求める餘力を有して居た。
彼は開墾の賃金を手にすることができればという望みが、十分にあった。
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彼は開墾の賃錢を手にすることが出來ればといふ望みが十分にあつた。
ただ彼は今、その幾部分でも要求することが、自分の火が焼いたその主人の家に対して、とても口にするだけの勇気が起こされなかったのである。
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只彼は目下其の幾部分でも要求することが、自分の火が燒いた其の主人の家に對して迚も口にするだけの勇氣が起されなかつたのである。
二八
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二八
勘次は昼過ぎになって、また外に出た。
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勘次は午餐過になつて復た外に出た。
もつれた心を持って、彼は少しうなだれつつ歩いた。
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紛糾かつた心を持つて彼は少し俛首れつつ歩いた。
暖かな光は、畑の土を所々さらりと乾かし始めた。
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暖かな光は畑の土の處々さらりと乾かし始めた。
ことさらがっかりしたようにしおたれた櫟の枯れ葉も、からからになった。
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殊更がつかりしたやうにしをたれた櫟の枯葉もからからに成つた。
すべての樹木は勢いづいていた。
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凡ての樹木は勢づいて居た。
村の所々には、まだ少し舌を出しかけたような白い辛夷が、にわかにぽっと開いて、青い空にほかほかと浮かんで、竹のこずえを抜け出していた。
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村落の處々にはまだ少し舌を出し掛けたやうな白い辛夷が、俄にぽつと開いて蒼い空にほか/\と泛んで竹の梢を拔け出して居た。
ただ蒿雀は冬も春もわきまえないように、暖かい日なたから陰気な竹の林を求めて低い小枝を渡って、下手な鳴き方をして、そうしてなおかつ日なたへ出て土をぴょんぴょんと跳ねた。
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只蒿雀は冬も春も辨へぬやうに、暖かい日南から隱氣な竹の林を求めて低い小枝を渡つて下手な鳴きやうをして、さうして猶且日南へ出て土をぴよん/\と跳ねた。
すべての心は、暖かな光の中に溶けてしまわねばならなかった。
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凡ての心は暖かな光の中に融けて畢はねばならなかつた。
勘次は依然としてうなだれたまま、ついに隣の主人の門をくぐった。
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勘次は依然として俛首れた儘遂に隣の主人の門を潜つた。
焼け跡は礎を残して、清潔に掻き払われてあった。
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燒趾は礎を止めて清潔に掻き拂はれてあつた。
中央の大きかった建物を失って、庭は高木に囲まれている。
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中央の大きかつた建物を失つて庭は喬木に圍まれて居る。
赤茶けて焼けた杉の木を控えて、からりとした庭は、赤土の崖の底に沈んだように見える。
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赭く燒けた杉の木を控へてからりとした庭は、赤土の斷崖の底に沈んだやうに見える。
青い空を限って立った高木のこずえが、さらに高く感じられた。
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蒼い空を限つて立つた喬木の梢が更に高く感ぜられた。
勘次は恐ろしい異常な感じに圧された。
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勘次は怕ろしい異常な感じに壓せられた。
隣の主人の家族は、長屋門の一部に畳を敷いて仮の住まいを形づくっていた。
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隣の主人の家族は長屋門の一部に疊を敷いて假の住居を形づくつて居た。
主人夫婦は、勘次の目からはさすがに災難の後の乱れた様子が少しも見出されなかった。
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主人夫婦は勘次の目からは有繋に災厄の後の亂れた容子が少しも發見されなかつた。
主人夫婦の曇らない顔が、ひたすら恐怖にとらわれた勘次の首をもたげさせた。
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主人夫婦の曇らぬ顏が只管恐怖に囚へられた勘次の首を擡げしめた。
ことに内儀さんの迎えて聞く態度が、彼が言いたかった幾部分をようやくに打ち明けさせた。
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殊に内儀さんの迎へて聞く態度が、彼のいひたかつた幾部分を漸くに打ち明けしめた。
「お内儀さん、これは運の悪い者は仕方がありませんね」
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「お内儀さん、こら運の惡い者な仕やうありあんせんね」
彼は憐れに声を投げかけた。
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彼は憐れに聲を投げ掛けた。
彼の災難の後に、しみじみとこういうことを聞いてくれる者は、内儀さんのほかにはまだなかったのである。
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彼の災厄の後にしみ/″\と斯ういふことを聞いてくれる者は内儀さんの外にはまだなかつたのである。
「そんだがこれ、お内儀さんらの家からなんぞ見た日には爪の垢だから、わしらなんざ辛いも悲しいもない話なんだが」
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「そんだが此れお内儀さん等家からなんぞ見た日にや爪の垢だからわし等なんざ辛えも悲しいもねえ噺なんだが」
彼は自分の不運を訴えるのに、自分一身のことよりほかは何物もその心に行き来してはいなかった。
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彼は自分の不運を訴へるのに、自分一身のことより外は何物も其の心に往來しては居なかつた。
彼はふと、自分の火が焼いたことを思った時、ひどく自分のことばかりを言ってしまったのが、済まないような心持ちがしてならなかった。
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彼はふと自分の火が燒いたことを思つた時、酷く自分のことのみをいつて畢つたのが濟まないやうな心持がしてならなかつた。
「まあ惜しいと言えば紙一枚でも何だが、これ、家はすぐにも建てれば建つんだが、樹が惜しいことをしたって言ってるのさ。それだが、これもそんなことを言ったって仕方がないがね」
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「まあ惜しいといへば紙一枚でも何だが、これ、家は直ぐにも建てれば建つんだが、樹が惜しいことをしたつて云つてるのさ、それだが此れもそんなことを云つたつて仕方がないがね」
内儀さんは、そそり立ってはいるが到底枯れ死ぬべき運命を持っている高木の数本を、端近に見上げて言った。
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内儀さんは聳然と立ては居るが到底枯死すべき運命を持つて居る喬木の數本を端近に見上ていつた。
遠く落ちかけた日が、はっきりとそのこずえに光った。
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遠く落ち掛けた日が劃然と其の梢に光つた。
勘次の顔は青くなって、ぐったりと頭を垂れた。
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勘次の顏は蒼くなつてぐつたりと頭を垂れた。
彼はしばらく沈黙を保った。
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彼は暫く沈默を保つた。
「どうしたね。私も気のつかないことをしていたが、お前も丸焼けで仕方があるまいが、少しは銭でも持って行くかね」
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「どうしたね、私も氣のつかないことをして居たが、お前も丸燒で仕やうあるまいが少しは錢でも持つて行くかね」
内儀さんは、勘次の心を推し量ったように言った。
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内儀さんは勘次の心を推察したやうにいつた。
「へえ」
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「へえ」
勘次の首はさらにうなだれた。
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勘次の首は更に俛れた。
彼の目は潤んだ。
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彼の目は潤んだ。
「わしももう、そうならなんぼ助かるかも知れませんが、お内儀さんの所へそう言って来るわけにも行かないで」
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「わしもはあ、そんならなんぼ助るかも知れあんせんが、お内儀さん處ささう云つて來る譯にも行がねえで」
と、勘次は乱れた髪へ手を当てて、媚びるような様子をして言った。
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と勘次は亂れた頭髮へ手を當てゝ媚びるやうな容子をしていつた。
「それだが、お前にやるくらいならどうにかなるから、心配しなくてもいいよ」
原文を見る
「それだがお前にやる位ならどうにか成るから心配しなくつても好いよ」
「わしもこれ、罰が当たったんでしょう。そう思うよりほかありませんから」
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「わしも此れ、罰當つたんでがせう、さう思ふより外有りあんせんから」
勘次はしばらく間を置いて
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勘次は暫く間を措いて
「わしも女房に因果を見せて、罪を作ったのが悪いんでしょう」
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「わしも嚊こと因果見せて罪作つたの惡りいんでがせう」
彼の声は沈んだ。
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彼の聲は沈んだ。
「お内儀さん、わしはどんな形にか家も建てなくちゃならないから、その時は家族の始末もつけようと思ってるんですが、お内儀さん、またわしのことを面倒見ておくんなさい。わしのところの野郎もそのうちもう大きくなって来るから、学校もあとちっとにして、百姓をみっしり仕込もうと思ってるんでございますがね」
原文を見る
「お内儀さん、わしどんな形にか家も建てなくつちやなんねえから、そん時や家族の極りもつけべと思つてんですが、お内儀さん又わしこと面倒見ておくんなせえ、わし等野郎も其内はあ大く成つて來つから學校もあとちつとにして百姓みつしら仕込むべと思つてんでがすがね」
「そうかえ」
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「さうかえ」
内儀さんは慰めるように言った。
原文を見る
内儀さんは慰めるやうにいつた。
「お内儀さん、親不孝だなんてのは、親が警察へでも願って出なけりゃ、巡査ばかりじゃどうすることもできないもんでございましょうかね」
原文を見る
「お内儀さん親不孝だなんちな、親が警察へでも願つて出なけりや巡査ばかしぢやどうすることも出來ねえもんでござんせうかね」
勘次はさっきからの話の内にも、何だか後ろから物に襲われるような様子が止まなかったが、ついにこう言った。
原文を見る
勘次は先刻からの噺の内にも何だか後から物に襲はれるやうな容子が止まなかつたが遂に斯ういつた。
「そうさね。巡査だって、むやみにどうかするということもないんだろうと思うようだがね」
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「さうさね、巡査だつて無闇にどうかするといふこともないんだらうと思ふやうだがね」
内儀さんは意外な面持ちで言った。
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内儀さんは意外な面持でいつた。
「これからもう、わしも爺さんのことを面倒見ようと思うんでございますがね。今からでもお内儀さん、間に合わないことはありますまいね」
原文を見る
「此れからはあ、わしも爺樣こと面倒見べと思ふんでがすがね、今ツからでもお内儀さん間合ねえこたありあんすめえね」
「そうだよ。老人なんていうものは少しの加減なんだから、まあ心配させないようにしたほうがいいよ。そう言っちゃ何だが、後いくらも生きるんじゃなしねえ」
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「さうだよ、老人なんていふものは少しの加減なんだから、まあ心配させないやうにした方が好いよ、さういつちや何だが後幾らも生きるんぢやなしねえ」
「へえ、そうでございますよ。昨日らから、ちっと柔らかい言葉を掛けると嬉しがってるんですから。それからわしは、野郎にもらって来た火傷の薬も貼ってやったんでさ。薬が足りなくなっちまったから、医者さまへ行って来ようと思ったっけが、今日は午後でいないだろうと思うから明日にしようと思って止めたのさ。明日行ったら水飴でも買って来てやれなんて、おつうも言うもんでございますからね」
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「へえさうでがすよ、昨日等ツからちつと柔え言辭掛けつとうるしがつて居んですから、それからわし野郎げ貰つて來た火傷の藥も貼つてやつたんでさ、藥足んなく成つちやつたから醫者樣さ行つて來べと思つたつけが、今日は午後で居めえと思ふから明日にすべと思つて止めたのせ、明日行つたら水飴でも買つて來てやれなんておつうも云ふもんでがすからね」
「火傷したなんて聞いたっけが、それでも家へ連れて来てかね」
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「火傷したなんて聞いたつけがそれでも家へ連れて來てかね」
「へえ」
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「へえ」
勘次は、その明け方のことをどうしてか内儀さんがまだ知らないらしいのでほっと息をついたが、また自分から恥じて、簡単に曖昧にこう言った。
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勘次は其の佛曉のことをどうしてか内儀さんがまだ知らぬらしいのでほつと息をついたが又自分から恥ぢて、簡單に瞹昧に斯ういつた。
「お内儀さん、こうちっとでもよくない銭が入っちゃ、末始終はどうしてもいいことはありますまいね」
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「お内儀さん、こうちつとでもよくねえ錢へえつちや末始終はどうしてもえゝこたありあんすめえね」
勘次はさらにまた、ひどく心配そうな様子をして突然に聞いた。
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勘次は更にまた酷く懸念らしい容子をして突然に聞いた。
「そうさねえ」
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「さうさねえ」
内儀さんは、勘次の心持ちがはっきりとは分からないので、気の乗らないように言った。
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内儀さんは勘次の心持が明瞭とは分らないので氣の乘らぬやうにいつた。
「そんだがお内儀さん、そういう銭は自分のために役に立てさえしなけりゃ、どうしても違いましょうね」
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「そんだがお内儀さんさうえ錢は自分のげ役に立てせえしなけりやどうしても違えあんすべえね」
勘次は内儀さんに分かっても分からなくても、そんなことを考える余裕がなかった。
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勘次は内儀さんに分つても分らなくても、そんなことを考へる餘裕がなかつた。
彼はただ自分の心配だけを、底から蓋から打ち傾けてしまわねば堪えられなかったのである。
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彼は只自分の心配だけを底から蓋から打ち傾けて畢はねば堪へられなかつたのである。
「そうだが、それもどういう筋の銭だか分からないが、そりゃ使っちゃいけないんだろうさね」
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「さうだが、それもどういふ筋の錢だか分らないがそりや使つちやいかないんだらうさね」
「そんじゃお内儀さん、他人の銭をなくしたのなんぞ見つけても知らない様子なんぞして、後でやるのは盗ったみたいで変な時は、何かで落とした分だけの物でもやれば、それでも違いましょうね」
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「そんぢやお内儀さん他人の錢なくしたのなんぞ發見けても知らねえ容子なんぞして、後で遣んな盜つた見てえで變な時や、何でかで落ことした丈の物でもやればそれでも違えあんすべね」
勘次は少し、自分の言うことの中身を打ち明けるように言った。
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勘次は少し自分のいふことの内容を打ち明けるやうにいつた。
「黙っていればそれっきりなんだが」
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「默つて居ればそれつ切なんだが」
彼は独り喉の底で言った。
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彼は獨喉の底でいつた。
「そりゃそんなことしないで、見つけた物なら、そのまま返すのが本当だよ」
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「そりやそんなことしないで發見けた物なら其儘返すのが本當だよ」
内儀さんは声は低かったが、きっぱりと言った。
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内儀さんは聲は低かつたがきつぱりいつた。
勘次の惑った心の底には、それがびりっと強く響いた。
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勘次の惑うた心の底にはそれがびりゝと強く響いた。
「そんじゃお内儀さん、それを返して、またそのほかにも何とかしたら、冥利の悪いようなこともありますまいな」
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「そんぢやお内儀さんそれ返して又其の外にも何とかしたら冥利の惡りいやうなことも有りあんすめえな」
彼は情けなげな目で内儀さんをちらりと見て言った。
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彼は情なげな目で内儀さんをちらりと見ていつた。
「そんなことはしなくたって、何もよさそうなもんだね」
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「そんなこた仕なくつたつて何もよかりさうなもんだね」
内儀さんは、勘次のあまりに心配そうな様子にとっくから気づいたことがあった。
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内儀さんは勘次の餘りに懸念らしい容子に疾から心づいたことがあつた。
内儀さんは、しばらく聞かなかった彼の盗み癖に思い至った。
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内儀さんは暫く聞かなかつた彼の盜癖に思ひ至つた。
しかし彼が自分からひどく悔いつつあるらしいのを心に確かめて、強いては追及しようという思いも起こし得なかった。
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然し彼が自分から甚だしく悔いつゝあるらしいのを心に確めて強ひては追求しようといふ念慮も起し得なかつた。
勘次はただ不憫に見えた。
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勘次は只不便に見えた。
内儀さんはふと思い出して、少しばかりの銀貨を勘次のそばへ並べて
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内儀さんはふと思ひ出して少しばかりの銀貨を勘次の側へ竝べて
「そりゃそうと、お前も家族の始末をつけるつもりだっていうんだが、まあどうするつもりなんだね」
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「そりやさうと、お前も家族の極りをつける積だつていふんだが、まあどうする積なんだね」
と静かに聞いた。
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と靜に聞いた。
「そうでございますね」
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「さうでござんすね」
勘次はぐったりとうなだれて、言葉の尻が聞き取れないほどであった。
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勘次はぐつたりと俛首れて言辭の尻が聞きとれぬ程であつた。
深い憂いが、顔の皺に強く刻んだ。
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深い憂が顏面の皺に強く刻んだ。
「わしもこれ……」
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「わしも此れ……」
と彼はかすかに言ったのみで、沈黙を続けた。
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と彼は微かにいつたのみで沈默を續けた。
彼は内儀さんの前に、どうしても述べなければならないことに、その心が惑乱した。
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彼は内儀さんの前にどうしても述なければならないことに其心が惑亂した。
彼はぼうっとして、目がくらもうとした。
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彼はぽうつとして目が昏まうとした。
遠く呼ぶようで、しかも近い声のために彼が我に返った時
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遠く喚ぶやうで然も近い聲の爲に彼が我に返つた時
「それじゃお前、まあこの銭をしまったらどうだね」
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「それぢやお前、まあ此錢を藏つたらどうだね」
と、内儀さんが促したのであった。
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と内儀さんが促したのであつた。
心の底から困ったような彼に向かって、内儀さんはもう追及する力を持たなかった。
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衷心から困つたやうな彼に向つて内儀さんはもう追求する力を有なかつた。
「誠にどうも、お内儀さん」
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「誠にどうもお内儀さん」
彼は財布を帯から解いて出した時、ひどく減ってしまったように感じて、その財布を外からちょっと見て首を傾げた。
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彼は財布を帶から解いて出した時酷く減つて畢つたやうに感じて、其の財布を外から一寸見て首を傾けた。
彼はまた財布の底の銭をつかみ出してみた。
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彼は又財布の底の錢を攫み出して見た。
焼け跡の灰から出て青銅のように変わった銅貨は、ぽつぽつと焼けた皮を残して、鮮やかな地肌が剥けていた。
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燒趾の灰から出て青銅のやうに變つた銅貨はぽつ/\と燒けた皮を殘して鮮かな地質が剥けて居た。
彼はそれを目に近づけて、しばらくじっと見入った。
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彼はそれを目に近づけて暫く凝然と見入つた。
彼は気づいた時、にわかに恐れたように内儀さんを顧みて、じゃらりとその銭を財布の底へ落とした。
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彼は心づいた時俄に怖れたやうに内儀さんを顧つてじやらりと其の錢を財布の底へ落した。
(完)
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(完)